TITLE : 中国怪奇物語〈妖怪編〉 講談社電子文庫 中国怪奇物語〈妖怪編〉  駒田信二 著 目次  花嫁人形  呪(のろ)いの人形  僧侶と小猿  湖の中の古い鏡  美貌の下女   柏 (このてがしわ)の森  いたずら書きの顔  青い顔の大男  白百合(しらゆり)の精  黄英(こうえい)  白衣の美女  妻の羽衣  竹青(ちくせい)  青衣の美女  斉(せい)の曹氏  空園の中の美女  小人の群れ  玄陰池(げんいんち)  泥土の食事  黄(こう)家の母親  小舟の女  狙(ねら)われた尼僧  宋家の母親  黄衣の婦人  酒虫(しゆちゆう)  疫鬼(えきき)  一目五(いちもくご)先生  大青小青(だいせいしようせい)  刀労鬼(とうろうき)  山都(さんと)  国(かこく)  鬼弾(きだん)  山(さんそう)  山〓(さんしよう) (一)  山〓(さんしよう) (二)  炙(あぶ)り肉の怪  鏡のような眼  琵琶(びわ)ならわたしも  凶宅  山中の怪  駅舎の怪  人面瘡  茶店の嫁  靴を食う妖怪  雌黄(しおう)  驢馬に乗った女  泥濘(でいねい)十里  女の首  死骸の頭  人間の皮  青ずくめの女  湖畔に住む娘  渭南(いなん)で会った女  金の鈴  ちぎれた腕  朱都事(しゆとじ)の怪我  尻尾(しつぽ)を巻く  和尚と将軍  伸びてくる腕  喪中の人  孝子(こうし)の悲しみ  三つの頭蓋骨  陰口をきらう妖怪  女たちの名簿  藍田山(らんでんざん)の屋敷  空を飛ぶ籠(かご)  任(じん)氏伝  あとがき 中国怪奇物語 妖怪編   花嫁人形  盧賛善(ろさんぜん)(賛善は官名。東宮侍従官)の家に陶製の花嫁人形があった。何年も前に手に入れた可愛い人形で、盧は愛蔵していたが、あるとき妻が、冗談に、 「ずいぶんお気に入りのようですわね。お妾(めかけ)さんになさるといいわ」  といった。ところが、それからというもの、盧は魂が抜けた人のようになってしまった。妻があやしんで、 「いったい、どうなさったのです」  ときくと、盧は、 「毎晩、女が寝床へはいってくるのだ」  といった。 「まさか、あの花嫁人形のお妾さんではないでしょうね」 「そういえば、似ているような気がする」 「もしかしたら、あの人形がたたりをしているのかもしれませんわ」  夫婦は相談したあげく、人形を寺へ寄進して、供養(くよう)をしてもらうことにした。  その後は盧賛善の寝台に女がはいってくることはなくなり、それとともに盧は元気をとりもどしていった。  そのころ、寺では不思議なことがおこった。ある朝、小僧が本堂の掃除をしていたところ、一人の可愛い女があらわれたのである。小僧がおどろいて、 「どなたですか」  ときくと、女は、 「わたしは盧賛善さまのお妾なの。奥さまがやきもちをやいて、ここへ追い出されてきたのよ」  といった。  寺からの知らせがあって、盧賛善は小僧に会い、くわしくそのときの様子をきいてみると、小僧が見た女の衣裳は花嫁人形のそれと全く同じだった。そこで和尚(おしよう)に人形を出してもらい、叩きこわしてみたところ、心臓にあたるところに鶏の卵ほどの大きさの血のかたまりがあった。 唐『広異記』    呪(のろ)いの人形  武功(ぶこう)の蘇丕(そひ)は、天宝年間に楚丘(そきゆう)の県令になった人である。蘇丕の娘は李(り)という家に嫁(とつ)いだが、李は以前から女中とねんごろになっていたので、夫人と女中との仲はうまくいかなかった。殊に女中は夫人を憎み、妖術使いにたのんで夫人を呪う術をおこない、呪いの札(ふだ)を塵捨場(ごみすてば)に埋め、さらに晴着(はれぎ)を着せた高さ一尺あまりの女の人形を七つ、東側の土塀の穴の中に納めて泥で塗り込めておいた。これらの呪いは誰にも気づかれなかった。  それから数年たって李が死んだ。つづいて女中も死んでしまった。蘇丕の娘は未亡人として一人で暮らしていたが、四、五年たったとき、晴着姿の人形どもが屋敷の中を歩きまわるようになった。未亡人はそれにおびえて病気になり、人形のあらわれるたびに悶絶して、日々に病状が重くなっていったが、誰にもその原因がわからなかった。  未亡人の実家の蘇家では、道士にたのんで不祥をはらう術を何度も行なったが、なんの効果もなかった。そこで数十人の者を屋敷の内外に配置して、人形どもがあらわれたら捕えさせることにした。そしてようやく一つだけ捕えることができたが、調べてみると顔も体もすべて人間と同じに作られていて、絶えずぴくぴくと動いており、刀で斬ってみたところ、血が流れ落ちるのだった。そこで柴を積みあげてその上に置き、火をつけたところ、仲間の人形がやって来て、空中に浮んだり地上に立ったりしながら泣き叫んだ。焼いてしまうと、屋敷の中には人間を焼いたときのような臭いがたちこめた。翌日になると、仲間の人形どもが喪服を着てあらわれ、大声で泣き叫んだ。それが七日間つづいた。  それから半年のあいだに、五つの人形を捕えて焼きはらってしまったが、一つだけは一度捕えたのに逃げられてしまった。あとを追って行くと、塵捨場の中へもぐり込んでしまったので、蘇家で百人あまりの者をたのんで掘り返させたところ、七、八尺の深さまで掘ったとき、桃の板で作った呪いの札が出てきた。その札には朱で、 「李家の婢、蘇家より来(きた)りし嫁を呪うため、人形七つを作って東の土塀の中の龕(がん)に置く。九年後に効力あるべし」  と書いてあった。  そこで土塀をうちこわしてみたところ、残りの一つの人形が見つかったので、これも焼きはらってしまった。その後、未亡人の身には何事もおこらなかった。 唐『広異記』    僧侶と小猿  ある日、長安の町に、ぼろぼろの僧衣をまとった男があらわれた。彼は一匹の小猿をつれていて、それを人に売ろうとしているのだった。 「この小猿には人間の言葉がわかる。走り使いをさせることもできる」  僧侶はそういったが、誰もみなまやかしだろうと思い、買おうとする者はいなかった。それでも僧侶は、毎日町にあらわれて、その小猿の買い手をさがし歩いた。  〓国(かくこく)夫人(楊貴妃の姉)はその噂をきくと、人をやってその僧侶を屋敷に呼び寄せた。僧侶が小猿をつれて来ると、夫人は会いに出て、猿を売ろうとするわけをたずねた。すると僧侶は答えた。 「拙僧は長安に出てまいります前、二十余年間、西蜀(せいしよく)の山中に住んでおりました。あるとき猿の群れが草庵の前を通り過ぎ、この小猿を置きざりにして行きましたので、哀れに思って育てておりましたところ、半年もたたぬうちにこの小猿は拙僧の心のうちを察し、拙僧の言葉を解し、拙僧の言いつけに従うようになりました。その後、故(ゆえ)あって長安に出てまいりましたが、事志(ことこころざし)とちがい、衣食にも窮するありさまで、身辺の物をことごとく売りつくし、残るのはこの小猿一匹。これを売って西蜀へ帰る旅銀にしたいと考えました次第。この小猿もよく拙僧の窮状を察してくれております」  夫人がそれをきいて、 「それでは、お金をさしあげますから、その猿を置いて行きなさい。わたしが飼うことにします」  というと、僧侶は感謝し、猿を置いて立ち去って行った。  小猿は夫人を恩人と思っているらしく、朝から晩まで夫人のそばにつき従い、なんでも夫人のいうとおりにしたので、夫人もたいへんこれを可愛がった。  小猿を買い取ってから半年ほどたったとき、楊貴妃から夫人に霊芝(れいし)(万年茸(まんねんだけ)。当時、瑞草とされた)が贈られてきた。夫人が小猿を呼んで、その霊芝を見せたところ、小猿はたちまち地にうち伏し、一人の少年に姿を変えたのである。十四、五歳の美貌の少年だった。夫人がおどろきあやしんで詰問すると、少年は事の次第を語った。 「わたしは姓を袁(えん)と申します。わたしを夫人にお売りしたあの僧侶は、もと蜀山(しよくざん)に住んでおりました。その蜀山へ、わたしは父のおともをして薬草を採(と)りに行き、三年ほど林の中で暮らしておりました。その間、父はわたしに薬草を食べさせていましたが、三年たったとき、おそらくその薬草のせいでしょう、わたしは猿に変身してしまったのです。父は気味わるがって、わたしを捨てて行ってしまいました。あの僧侶に引きとられたのはそのときでございます。その後、あの僧侶はわたしをつれて長安に出、衣食に窮してわたしを夫人にお売りしたというわけです。いままでわたしは口をきくことができませんでしたが、心の中ではすべてのことをおぼえております。夫人にご恩を受けるようになりましてからは、なんとかして自分の気持をお伝えしたいと思いながら、口をきくことができませんので、夜になるといつもそれが悲しくて泣いておりました。いま思いがけなくも霊芝のおかげで人間の躰(からだ)にもどることができ、心の中を語ることができて、こんなにうれしいことはございません。ただ、夫人がこのことをどうお思いになるか、それのわからないことが不安でございます」  この世にはめずらしいこともあればあるものだと夫人は思い、少年に錦の着物を着せてそばにいさせることにした。しかし少年の来歴については、近侍の者にかたく秘密を守るよう言いつけたので、世間では誰もこのことを知らなかった。  それから三年たつと、少年の容貌はますます美しくなり、楊貴妃もときどき夫人を訪ねてきては、少年とともに時をすごすようになった。夫人はそこで、楊貴妃に取りあげられることをおそれ、少年に一部屋を与えて侍女をつけ、外へは出させぬようにした。  少年は美味佳肴よりも薬草を食べることを好んだ。蜀の山中で薬草に慣れてしまったからだろうと夫人は思い、いつも侍女に命じて薬草を食べさせていたが、そのうちに侍女も薬草を好むようになっていった。そして、ある日、少年とその侍女は、突然、猿に変身してしまったのである。夫人は怪異を感じ、侍臣に命じてすかさず射殺させた。見ればそれは猿でもなく少年でもなく、木偶人形(でくにんぎよう)だった。 唐『大唐奇事』    湖の中の古い鏡  唐の貞元年間のことである。蘇州の太湖で十数人の漁師が、網で魚をとっていたところ、魚はいっこうにかからず、小さな鏡がかかってきた。漁師たちはそれを湖の中へ放り込み、場所を変えてまた網を投げたが、やはり魚はかからず、かかってくるのは同じ鏡だった。なんどやってみても鏡だけがかかってくる。  一人の漁師がその鏡を覗(のぞ)いてみると、鏡の中には自分の骸骨(がいこつ)と五臓(ぞう)六腑(ぷ)が映っていた。男はそれを見たとたん、へどを吐いて気を失ってしまった。別の漁師があやしんで鏡を覗くと、やはり自分の骸骨と五臓六腑が映っていて、これまたへどを吐いて気を失ってしまった。最後に残った一人は、覗かずに湖の中へ投げてしまった。  気を失った漁師たちはみな、蘇生してからもふるえつづけ、翌日はもう湖へ出ようとはしなかった。鏡を覗かなかった一人だけが、また舟を出して網を投げると、普段の何倍かの数の魚がかかったばかりか、それまで病気がちだった躰(からだ)が、めきめきと丈夫になっていった。  不思議に思って古老にきいてみると、 「むかしからこの湖にはそういう鏡があって、何百年かに一度あらわれるという言い伝えがあるのだが、さてはほんとうだったのか」  といった。だが、その鏡が何であるかはついにわからなかった。 唐『原化記』    美貌の下女  南陽の張不疑(ちようふぎ)は道教の信者で、常日頃(つねひごろ)、一人の道士と往き来していたが、その道士が長い旅に出ることになったので、家に招いて送別の小宴を開いた。そのとき道士は張不疑にいった。 「じつは、あなたは災厄にかかりやすいたちなのです。わたしがこの町にいるあいだは免れることができたのですが、いなくなってからのことが心配でなりません。わたしが戻って来るまでは十分に気をつけてください。第一に、この家で母上といっしょにお暮らしになるのはよろしくありません。それから、母上のためにしろ、あなたご自身のためにしろ、下男や下女をお買い求めになってはいけません。この二つのことをお守りになれば、まず災厄から身を護(まも)ることができるでしょう」  張不疑はそのことを母親の盧(ろ)氏に話した。盧氏も道教を信仰していたので、そのことを聞くと、ある道観(どうかん)の一室を借りてそこで暮らすことにした。張不疑は家にいた下女を母親につけて身のまわりの世話をさせ、毎朝その道観へご機嫌うかがいに行った。  数ヵ月たったとき、周旋屋が盧氏にたのまれたといって張不疑をたずねてきた。その周旋屋はいま盧氏の世話をしている下女をつれて来た男だった。 「崔(さい)氏というひどく貧乏している後家(ごけ)さんがいましてね、娘さんが五人いて、四人は身売りして妓女になっているのですが、いちばん下の金〓(きんこう)という娘さんだけは家に残っているのです。なかなかの器量よしな上に、賢(かしこ)くてよく気のきく娘さんなので、崔氏は可愛くて手ばなせなかったのですが、もうどうしようもなくなり、このままでは二人とも餓え死するよりほかないありさまなので、わたしのところへ話を持って来たのですが、どうでしょうか。お母さまもわたしに、すすめてみてくれといっておいでです」  周旋屋はそういうのだった。張不疑は道士がいい残して行ったことがちょっと気になりはしたが、下女を母親の方へやってしまってから日ましに不自由さが身にしみていたので、それに母親もすすめていると聞いたので、 「とにかく、いちどその娘に会ってみよう」  といった。すると周旋屋はすぐその娘をつれて来た。張不疑は一目見て娘が気に入り、その場で周旋屋の言い値の十五万銭を払って娘を買い受けた。  金〓はただ美貌であるばかりではなく、立居振舞(たちいふるまい)、すべて申しぶんがなく、よく気がきいてこまめに働き、何ごともいわれるよりも先にしてしまうというありさまだったので、張不疑は可愛くてならず、ゆくゆくは妻にしようとまで考えるようになった。  ちょうどそのころ、道士が旅から帰ってきて張不疑の家に立ち寄った。道士は彼を見るなり顔をくもらせて嘆息した。張不疑がわけをきくと、道士は、 「あなたに災厄がふりかかっているのです。もうどうすることもできないでしょう。あなただけではなく、母上ももうこの災厄から免れることはできますまい」  といった。張不疑は、まさかあの金〓を買い受けたからではあるまいと思いながら、 「お別れしてから、お教えどおり母とは別れて暮らしておりますし……」  といった。だが道士は首を振りながら、 「なぜかはわかりませんが、もうわたしには施す術(すべ)もありません。もしかしたら誰かを家に引き入れでもなさったのでは……。そうでなければこんなになられるはずはないのだが……」  というのだった。 「これまでいた下女を母の方へまわしましたので、家に働き手がなくなり、それでさきごろ母のすすめで下女を一人買い受けましたが、よく働いてくれる申しぶんのない女で……」 「その女に会わせてくださいませんか」 「はい。会ってみてください。決してあやしい女ではありません」  張不疑はそういって奥へ金〓を呼びに行ったが、金〓は出て来たがらなかった。いくらいっても、どうしても出て来ようとはしないのである。張不疑がはじめて声を荒くして、 「わたしのいうことをきかぬなんて」  と叱りつけると、金〓はようやく彼のあとにかくれるようにして出て来た。道士は女を一目見るなり、指を突きつけて、 「やっぱり、これだったのか」  といった。すると金〓は、これまで張不疑の一度も聞いたことのない鋭い声で、 「何をおっしゃるのです!」  と道士に向かっていった、 「わたしにもしあやまちがあるのなら、鞭(むち)で打ってくださっても不服はいいません。わたしをもし要(い)らないとおっしゃるのでしたら、放り出してくださっても文句はいいません。ところがそうではなくて、わたしに指を突きつけて、やっぱりこれだったとは、何という失礼なことをおっしゃるのです。何だってあなたは、他人の家のことにいらぬ口出しをするのです」  ところが道士は金〓にはとりあわず、張不疑に向かって、 「手ばなすのは惜しいですかな」  ときいた。張不疑はしばらく考えてから、 「あなたのおっしゃるとおりにします」  と答えた。すると金〓は黙って家から出て行った。道士はそのあとについて行き、張不疑も道士のあとについて行った。  町はずれの山の麓まで行くと、金〓は立ちどまった。すると道士は近寄って行って、錫杖(しやくじよう)で金〓の頭を打った。鈍い音がして金〓は倒れた。張不疑が駆け寄って行って見ると、それは明器(めいき)(死者といっしょに埋める土器)の土人形で、背中に金〓と書いてあった。  道士は張不疑に人を集めさせ、その場を掘らせた。五、六尺も掘ると、古い棺が見えた。棺の傍には五つ六つの明器が置いてあったが、それらはみな道士が殺した金〓に似ていた。棺の前には十万銭がきちんと置いてあった。あとの五万銭は周旋屋の取りぶんだったのだろうと思うと、張不疑はそのときはじめて涙がこみあがってくるのを覚えた。  それからは張不疑は気が抜けてしまったようになって、数ヵ月たつと死んでしまった。母親の盧氏も、息子が死んでから十日ほどたったとき、亡くなってしまったという。 唐『博異志』『霊怪集』    柏 (このてがしわ)の森  洛陽に盧涵(ろかん)という学者がいて、万安山(まんあんざん)の北に荘園を持っていた。開成(かいせい)年間のある年の夏、麦が実(みの)り果物も熟したので、一人で小馬に乗ってその荘園へ出かけて行った。  二里ほど行ったところに大きな柏の森があったが、その傍に新しい家が建っていて、茶店を出しているのが見えた。ちょうど日も暮れかけてきたので、盧涵はそこに立ち寄って馬を休ませることにした。茶店には髷(まげ)を左右に結(ゆ)いあげた色っぽい女がいた。 「あなたのお家ですか」  と盧涵がきくと、女は、 「はい。わたくしは耿(こう)将軍さまの墓守りをしている侍女です。家には父も兄もおりません」  といった。盧涵はそこで気をゆるめて四方山(よもやま)話をしだしたが、女は如才なく受け答えをした。話しぶりも巧みであり、気持もさっぱりしているようであった。ときどき盧涵に向ける眼(まな)ざしが色っぽく、物腰もなまめかしい。そのうちに女は、 「家で作ったお酒が少しあるのですけれど、二、三杯召しあがってくださいますか」  といった。盧涵が、 「いただきましょう」  というと、女は奥の部屋から古い銅の酒壺を持って来て、いっしょに飲んだ。そのさまはいかにも楽しそうであったが、やがて酔いがまわってきたのか、席をたたいて拍子をとりながら歌を口ずさみだした。  その歌は、意味はよくわからなかったが、物がなしい調子で、盧涵は酒の席にはふさわしくないような気がした。そのうちに酒がなくなると、女は、 「もう少し、おかわりを持ってまいりましょう」  といい、手燭を持ち酒壺をさげて奥の部屋へはいって行った。盧涵が足音を忍ばせて近寄り、そっとのぞいて見ると、その部屋には大きな黒蛇がぶら下げてあって、女が刀を突き刺すと血が壺の中へしたたり落ち、それが酒に変るのだった。盧涵はそれを見て身ぶるいをし、さては妖怪だったのかと気づいてあわてて戸口から飛び出し、馬の手綱をほどくなり飛び乗って逃げだした。すると女の声が追ってきた。 「今夜はあなたを一晩お泊めしなければならないのです。戻って来てください」  盧涵はその声をふりはらうようにして逃げた。すると、つづいて女の叫ぶ声が聞こえてきた。 「方大(ほうだい)! すぐに追いかけてあの人をつかまえておくれ」 「承知しました」  という大声とともに柏の森の中から大男があらわれ、盧涵を追いかけてきた。どしんどしんという足音がたちまちのうちに迫ってくるのだった。ふり向いて見ると、その大男は大きな枯木のような姿をしていた。  盧涵は馬に鞭をあてつづけて必死の思いで逃げた。やがて小さな柏の森にさしかかった。するとその森の中から大きな真っ白な怪物があらわれて、追って来る大男にどなるような声でいうのだった。 「今夜のうちにあいつをつかまえなくてはならんぞ。もしつかまえそこなったら、あしたの朝、おまえがひどい目にあうんだぞ」  盧涵はそれを聞いてますますふるえあがった。  ようやく荘園の入口に着いたときには、もう真夜中になっていた。荘園は門をとざして、中はひっそりと静まりかえっていた。門をたたいて作男(さくおとこ)を呼びおこす暇はない。盧涵は馬を乗りすてて、門の前に置いてある数台の空車(からぐるま)の一つの下にもぐり込んだ。そしてそっと眼を上げると、大男が地面をゆるがせながら駆けつけて来るのが見えた。荘園には高い塀がめぐらしてあったが、大男には腰のあたりまでしかなかった。大男は矛(ほこ)を持って荘園の中をのぞき込んでいたが、やがてその矛を中へ突き入れた。大男が引きもどしたその矛の先には子供が突き刺されていた。子供は手足をばたつかせていたが、声はたてなかった。盧涵がおそろしさのあまり気を失いそうになるのを、ようやく堪えていると、大男は子供を突き刺した矛をかついで戻って行った。その足音が遠ざかってから、盧涵は車の下から這い出して、門をたたいた。しばらくすると、 「誰だ、こんな真夜中に」  という作男の声が門の内側から聞こえた。 「わたしだ。盧涵だ。早くあけてくれ」  というと、作男はあわてて門をあけるなり、せき込んで、 「どうなさったのですか、旦那さま」  とたずねたが、盧涵は、 「わからん、夢を見ているのかも知れん」  としかいわなかった。  盧涵はその夜、まんじりともしなかったが、明け方になって、作男とその妻が声をあげて泣きだしたので、起きて行ってみると、三歳になる男の子が寝たままでつめたくなっていて、いくらさすってもあたためても生きかえらないという。  夜があけてから盧涵は、小作人を十人あまりつれ、刀や弓矢を持たせて、大きな柏の森の傍の茶店へ行ってみた。ところがそこは新しい家ではなく、逃亡した小作人がもと住んでいた小さな廃屋(はいおく)で、人影一つ見えなかった。そこで森の中をさがしてみると、高さ二尺あまりの大きな明器(めいき)の侍女がころがっており、その傍には大きな黒蛇がいたが、刀で刺された跡が二つあって、すでに死んでいた。また、その森の東の方には大きな方相(ほうそう)(葬式のときに墓地を守るために造る張子の人形で、矛を持っている)の骨組みだけがあった。そこで明器の侍女はたたきこわし、黒蛇と方相の骨組みとは焼いてしまった。  小さな柏の森の方をさがすと、人間の白骨があった。昨夜、大男に呼びかけた真っ白な怪物は、それらしかった。その白骨は斧でたたいたがこわれないので、堀の中へ投げ込んでしまった。  盧涵には痛風の持病があったが、黒蛇の酒を飲んだためか、このことがあってからはすっかりなおってしまった。 唐『伝奇』    いたずら書きの顔  蒙陰(もういん)の劉生(りゆうせい)が、あるとき、従弟(いとこ)の家にとまったところ、従弟が、 「じつはこの家にはこのごろ妖怪があらわれるのだ。いつ出てくるかわからないし、どこにひそんでいるのかもわからないが、暗闇で出会うと人を突きとばすのだ」  といった。劉生は猟が好きで、いつも鉄砲を持ち歩いていたので、その話をきくと、 「もしあらわれたら、これでやっつけてやるよ」  と、笑いながら鉄砲を示した。  その夜、劉生は書斎の一間で寝ることになった。明りをともして一人で坐っていると、隣の部屋から何者かがはいって来た。五体は人間に似ているが、その顔はまことに奇妙で、眼と眉とのあいだがずいぶん離れているのに、鼻と口とはほとんど一つにくっついており、しかもひどく曲っていて、顔の輪郭も不恰好にゆがんでいるのだった。劉生が鉄砲をかまえると、その妖怪はあわてて逃げだし、扉のかげにかくれた。そして、ときどきこちらを覗(のぞ)くのだった。  劉生が鉄砲をおろすと、妖怪はすぐ姿をあらわし、かまえるとまた扉のかげへかくれる。それをくりかえしているうちに、妖怪は手をふり舌を出して、からかうようなしぐさをしだしたので、劉生はすかさず一発射(う)った。だが、弾(たま)は妖怪にはあたらず、扉にあたって、妖怪はかくれた。劉生が鉄砲をかまえて待っていると、やがてまたあらわれたので射ったところ、こんどは弾が命中したらしく、屋根瓦がくずれ落ちるような音をたてて妖怪は倒れた。近寄って見ると、そこにはこわれた甕(かめ)の破片が散らばっていた。  従弟も出てきてしらべてみたところ、妖怪の正体はこの家に古くからある甕だった。奇妙な顔をしていたのは、子供が甕の面(おもて)に人間の顔をいたずら書きしたからであった。いたずら書きとはいえ人間の顔をそなえたために、甕が変異をあらわすようになったのであろうか。 清『閲微草堂筆記』    青い顔の大男  臨湍(りんたん)寺の僧智通(ちとう)が、ある夜、法華経を読んでいると、何者かが堂のまわりをぐるぐるまわりながら、 「智通、智通」  と呼んでいるようであった。その声は夜があけるまでつづいた。智通は返事をせずにひたすら読経しつづけたが、その夜から同じ声が毎晩きこえ、しかもその声はだんだん大きくなって堂の中にまでひびいてくるので、 「何者だ、そうぞうしいぞ。用があるならはいってまいれ」  とどなると、声がやみ、黒い衣服をまとって青い顔をした身のたけ六尺あまりの大男がはいってきた。大男は大きな眼を見張り、大きな口をあけたまま、声を出さずにぶるぶるふるえている。そこで智通は、 「寒いのか。寒ければ、そこの火にあたるがよい」  と炉(ろ)を指さして、また読経をつづけた。  しばらくすると、妖怪は火に酔ったらしく、眼を閉じ口を開けて、炉のそばでいびきをかきはじめた。智通はそれを見ると、香をすくう匙(さじ)で炉の中の赤くなった灰をすくって、妖怪の口の中へいれた。と、妖怪は大声をあげて飛び起き、あわてて外へ逃げて行ったが、山門のあたりでつまずいて倒れる音がしたきり、あとは静かになった。  夜が明けてから智通が外へ出て見ると、昨夜妖怪が倒れたところに、青い木の皮が一片落ちていた。智通はそれを拾って、寺のうしろの山へ登って行った。  山の奥に大きな青桐の木があった。その木の根もとのくぼんだところに、皮のはげたらしい新しい跡があったので、持ってきた木の皮をあてて見ると、ぴったりと合った。幹には深さ六、七寸の洞(うつろ)があって、その中ではまだ赤い灰がくすぶっていた。  智通がその青桐を焚いてしまったところ、もう妖怪はあらわれなくなった。 唐『酉陽雑俎』    白百合(しらゆり)の精  〓(えん)州の徂徠(そらい)山に光化寺という寺がある。この寺の一室を借りて、読書に専心している書生がいた。  夏のある日、疲れた眼をやすませようと、廊下へ出て壁画を眺めていると、どこからともなく、白衣に身をつつんだ美人があらわれた。年のころは十五、六。書生は今までにこれほど美しい娘を見たことはなかった。 「どこからおいでになったのです」  ときくと、娘は笑いながら、 「この山のふもとに家がございます」  といった。書生はほれぼれと娘を見つめ、部屋へ誘い込んで、ちぎりを結んだ。そのあとで娘はいった。 「田舎娘とお見捨てにならず、これからもお情けをかけてくださいませ。今日はこれで帰らなければなりませんけれど、近いうちにまたまいります」  書生は何とかして引きとめようとしたが、娘はどうしても今日は帰らなければならないといって、きかない。そこで書生は、日ごろ大切にしている白玉(はくぎよく)の指輪を娘にわたして、 「これをあげる。これを見たらわたしのことを思って、早くまたきておくれ」  といい、娘を送って行った。すると娘は、 「家の者が迎えに出ているかもしれませんので、ここでもうお帰りになってください」  といってことわった。書生は娘と別れるとすぐ山門の上へのぼり、柱のかげに身をかくして見ていると、娘の姿は百歩ばかり行ったところで、かき消えるように見えなくなってしまった。  書生はその場所をおぼえておいて、すぐそこへ行ってみたが、小さい木や草が繁っている原っぱで、かくれるような場所などないのに、娘はどこへ行ってしまったのか、わからなかった。やがて日が暮れてきたので帰ろうとして、ふと見ると、一本の百合が眼についた。綺麗(きれい)な白い花をつけている。書生がその根を掘りおこしてみると、根は両手ではさまなければ持てないほどもあって、普通の百合の根よりも何倍か大きかった。  寺へ帰ってから書生は、その大きな球根の皮を一枚ずつはがしてみた。百枚ちかくもある皮をすっかりはがしたとき、娘にわたした白玉の指輪が出た。書生はびっくりし、百合の根を掘りおこしたことを後悔したが、皮をみなはいでしまった今となっては、もうどうすることもできない。書生は後悔のあまり病気になり、十日たつと死んでしまった。 唐『集異記』    黄英(こうえい)  馬子才(ばしさい)は順天(じゆんてん)の人であった。世間には菊好(ず)きの人も多いが、子才の菊好きは並みはずれていて、よい品種のものがあると聞くとどんなに遠いところであろうと出かけて行って、必ず買って来るのだった。  ある日、金陵から来て子才の家に泊まっていた客が、自分の従兄弟(いとこ)のところに、北方にはない品種の菊が二、三種あるといった。子才はそれを聞くと大よろこびをして、さっそく旅仕度をととのえ、その人について金陵まで行った。その人がいろいろ骨を折ってくれたので、二芽(ふため)ほど手に入れることができ、それを宝物(たからもの)のように大切につつんで持ち帰ったが、その帰途、驢馬に乗って幌(ほろ)馬車のあとについて行く一人の青年に出会った。さっぱりした風采の青年だった。近づいて行って言葉をかわすと、青年は陶(とう)という姓だといった。その話しぶりはなかなか上品で、子才に、 「どんな用で金陵にいらっしゃったのですか」  とたずねた。子才がわけを話すと、青年は、 「どのような品種のものでも、うまく栽培することはむずかしいものですね」  といった。そして菊作りの方法をいろいろと語りあった。子才はうれしくなって、 「どこへいらっしゃるところなのです?」  ときいた。すると、青年は、 「姉が金陵をいやがるものですから、北方へ行って家をさがそうと思って……」  と答えた。子才はますますうれしくなって、いった。 「わたしの家は順天にあります。貧乏ですが、お泊めするぐらいのことはできますよ。あばら家でもかまわなければ、わたしのところへいらっしゃいませんか。家をさがす手間がはぶけますよ」  すると陶は幌馬車の横へ行って、馬車の中の姉に相談をした。女は簾(すだれ)をかかげながら陶と話しあっていたが、見れば二十歳(はたち)ぐらいの絶世の美人である。女は陶に、 「家は狭くてもかまわないけど、庭は広い方がいいわ」  といった。子才はそれを聞くと、 「庭は広いです」  と陶に代って答え、姉弟をつれていっしょに家に帰った。  子才の家の南の荒れた庭の中に三部屋ほどの小さなあばら家があったが、陶はよろこんでそこに住み、毎日北の庭に出て来て子才のために菊作りの手助けをした。枯れた菊があると、陶は根から引き抜いて植えなおしたが、彼がそうすると菊はみな息を吹き返すのだった。だが姉弟の暮らしは貧しく、毎日子才の家でいっしょに飲み食いをしていて、家では煮炊きもしていないようであった。子才の妻の呂(りよ)氏も陶の姉には好意を持っていて、何かと面倒をみてやっていた。陶の姉は黄英(こうえい)という名で、話好きだったので、いつも呂氏の部屋へ行っては、いっしょに縫いものをしたり糸紡(つむ)ぎをしたりしていた。  ある日、陶は子才にいった。 「お宅もあまり豊かではないのに、わたしたちは毎日お宅で食べさせていただいていて、ご迷惑をおかけしております。いつまでもこうしているわけにはいきませんので、これからは菊を売って暮らしをたてていこうと思います」  子才はもともと純真な人だったので、陶のその言葉を聞くとひどく卑(いや)しんで、 「わたしは今まであなたのことを、風流な高雅な人だから貧(ひん)に安んじているのだと思っていたが、そうではなかったのですね。そんなことをいうのは、高潔な菊を卑俗に落とすことであって、菊を辱(はずかし)めることじゃありませんか」  といった。すると陶は笑っていった。 「自分で働いて食べて行くことは貪(むさぼ)るということではないし、花を売って商売をすることは卑俗なことではありません。人はかりそめにも富を求めるべきではありませんが、しかし無理に貧を求めることもないでしょう」  子才が黙っていると、陶は立ちあがって帰って行った。  それからは、陶は子才が捨てた枝切れや苗をみんな拾って行くようになった。子才のところへ来て飲み食いをすることもしなくなったが、しかし子才が招けばことわらずにやって来た。  やがて菊の花が咲く時節になった。子才は陶の家の前がまるで市場のようにさわがしいのに気づき、不思議に思ってのぞきに行った。すると、町の人々が花を買いに集って来て、車に載せたり肩にかついだりして帰って行く者がひっきりなしにつづいているのだった。しかもその花はどれもみな変った品種で、まだ見たこともないようなものばかりだった。子才は陶の貪欲な商売の仕方をいやらしく思い、絶交をしようとも考えた。しかし彼が珍しい品種の菊を持っていることをうらやましくも思ったので、ついに訪ねて行ってみた。すると陶が出て来て、手をとって中へ引き入れた。見れば、もとの半畝ほどの荒れた庭はすっかり菊畑になっていて、陶が住んでいる小さな家の建っているところ以外には空地もない。菊畑の、根から抜きとったあとには折った別の枝が挿してあり、まだ咲ききらずに畑に残してある菊は美しく珍しいものばかりだった。しかしよく見ると、どれもみな自分が前に抜き捨てたものだった。  陶は部屋へはいり、酒の用意をして出て来て、菊畑のかたわらに席を設けながらいった。 「わたしは暮らしに困って、清貧を守れというあなたの忠告を守ることができませんでしたが、さいわい毎日菊が売れていくらか蓄えもできましたので、一杯飲んでいただくぐらいのことはできるようになりました」  しばらくすると、部屋の中から、 「三郎さん」  と呼ぶ声がした。陶は返事をして中へはいって行った。やがて見事な料理が並べられた。手のこんだおいしいものばかりだった。そこで子才はたずねた。 「お姉さんはどうして、まだ結婚なさらないのです?」 「まだその時期が来ないのです」 「では、いつごろ?」 「四十三ヵ月たってからです」 「それはどういうことです?」  子才がきいても陶は笑って、答えなかった。  子才は心ゆくばかり飲んで、別れた。  その翌日、子才がまた訪ねて行ってみると、昨日挿したばかりの枝がもう一尺ほども伸びているので、不思議に思って、そのやりかたを教えてもらいたいとたのんだ。すると陶は、 「これは言葉で教えられることではありません。それに、あなたは暮らしのために菊を作っていらっしゃるわけではないのですから、こんなことは必要のないことでしょう」  というのだった。  それから四、五日して、客足が少しさびれると、陶は菊をむしろで包み、何台かの車に載せて、どこかへ行ってしまった。そのまま帰って来なかったが、翌年の春も半ばになったころ、南方の珍しい品種の菊をたくさん車に積んで、帰って来た。そして市中で花屋を開き、十日でそれを売りつくすと、また家に帰って来て菊作りをはじめた。去年陶の菊を買った人たちに聞いてみると、根は残っていても年を越すとつまらない花しか咲かないので、また陶から買い求めるのだという。そんなふうで陶はますます富み、一年目には家を増築し、二年目には立派な家に改築するという具合に、勝手に普請(ふしん)をして家主の子才には何の相談もしなかった。こうして以前の菊畑はだんだんと建物になってしまったので、陶は屋敷の外に一区画の田を買いとり、そのまわりに土手を築いて、その中に菊をいちめんに植えた。  秋になると、陶はまた花を車に積んで出て行ったが、そのまま、翌年の春が過ぎても帰って来なかった。その陶の留守中に子才の妻の呂氏が病気で死んだ。子才は黄英に心を動かし、人づてにその気持をつたえたところ、黄英は頬笑んで、いやでもなさそうだったというが、陶が帰って来るのを待ってきめるよりほかなかった。  ところが、一年あまりたっても陶は帰って来なかった。黄英は下男を使って菊作りにはげんだ。そのやりかたは陶と全く同じで、儲けるにつれて商売の手をひろげ、やがては村はずれに二千畝の良田を買い、家屋敷はますます立派になっていった。  ある日、突然子才のところへ広東から客が来て、陶の手紙をとどけた。開けてみると、姉を子才の妻にもらってほしいというたのみだった。その手紙を書いた日を繰(く)ってみると、妻の呂氏が死んだ日だったし、いつか菊畑のかたわらで酒を飲んだときのことを思い出してみると、ちょうどそれから四十三ヵ月にあたっているので、子才は不思議でならなかった。  子才はその手紙を黄英に見せて、結納(ゆいのう)はどうしたらよいかときいてみた。すると黄英は、結納などいらないとことわった。そして、子才の住居がせまくるしいので、入り婿のようなかたちで子才を新しく建てた南の屋敷に住まわせようとしたが、子才は承知せず、日を選んで嫁取りの式をあげた。  黄英は子才のところへ嫁入りしたが、その住居の壁に扉をつくって南の屋敷に通じるようにし、毎日そこから南の屋敷へ行って召使たちを監督した。子才は妻の家が金持ちであるのを気にし、いつも黄英にいって南の屋敷のものと北の屋敷のものとを区別する帳簿をつくらせ、家財道具がごちゃまぜになることを警戒した。しかし黄英は必要なものがあるとみんな南の屋敷から持って来るので、半年もたたないうちに、子才の家の中の品物はすっかり陶家のものになってしまった。子才はそれが眼につくとすぐ人をやって一つ一つ陶家へ返させて、もう持って来てはいけないと黄英を戒めたが、十日もたたないうちにまた陶家のものが入りまじってしまうのだった。そこでまた返させる。そんなことが何度もくりかえされるので、子才はわずらわしくてならなかったが、黄英は笑いながら、 「偏屈(へんくつ)屋さん、気をつかいすぎるんじゃありません?」  というのだった。子才は恥じて、もうあまり考えないことにし、一切を黄英のするままにまかせてしまった。  やがて黄英は大工や左官を呼び、資材をとりそろえて、大がかりな普請をはじめたが、子才はもうとめだてすることもできず、数ヵ月たつと立派な棟が建ち並び、北の屋敷と南の屋敷とは一つづきになって、境界もわからなくなってしまった。そして黄英は子才のいうままに、門を閉めて菊の商売はやめてしまったが、暮らしはますます豪勢になって代々の旧家にも劣らぬほどであった。しかし子才はどうしても気持が落ちつかないので、 「わたしは三十年来、貧乏暮らしを楽しんで来たのに、おまえのために苦労をするよ。今はこうやってどうやらこの世に命をつないでいるものの、ただ女房のおかげで食っているだけのことで、男として面目ない話だ。人は誰でも金持ちになりたいと願うらしいが、わたしは今、貧乏になりたいよ」  といった。すると黄英は、 「わたしは欲張りをしているのではありません。ただ、少しはお金持ちになっておかないと、世間の人が、菊を愛する者は陶淵明(とうえんめい)のむかしから貧乏神にとりつかれているとあざけりますから、わが家の淵明さんのためにわるくちふさぎをしているだけなのですよ。でも、貧乏人が金持ちになるのはむずかしいことだけど、金持ちが貧乏人になるのはわけもないことです。わたしが持って来たお金は、あなたの好きなようにお使いになってください。わたしはちっとも惜しがったりなんかしませんから」  というのだった。 「だが、人の金を使うなんてことは、やっぱり羞(は)ずかしいことだ」  と子才がいうと、黄英は、 「あなたは金持ちになりたくないとおっしゃるし、わたしはわたしで貧乏ではいられないのです。仕方がないから住居を別にして、清いものは清いままに、濁ったものは濁ったままに、別々に暮らせば、それはそれでかまわないでしょう?」  といった。そして黄英は庭の中に茅葺(かやぶ)きの家を建てて子才をそこに住まわせ、きれいな下女を選んでかしずかせたので、子才も一時は落ちついたが、幾日かたつと、黄英のことが気になってならない。ところが、呼びにやっても黄英が来ないので、仕方なく自分の方から行っているうちに、とうとう一晩おきに行くのがあたりまえのことになってしまった。すると黄英は笑いながら、 「あちらの家で食事をし、こちらの家で寝るなんてことは、心の清らかな人のすることじゃありませんわね」  というのだった。子才も笑いだしたが、返答に困り、とうとう別居をやめて、はじめのとおりいっしょに暮らすようになった。  あるとき子才は用事があって金陵へ旅行した。ちょうど菊の季節だった。ある朝、花屋へ行ってみると、店の中には菊の鉢がいちめんに並べてあったが、どの花もみな見事な出来映えであった。眺めているうちにふと気がついた。陶の作ったものに似ているのである。しばらくして店の主人が出て来たのを見ると、やっぱり陶であった。すっかりよろこんで、久々にその後のことなどを語りあい、とうとうその家に泊まってしまったが、翌日になって子才がいっしょに帰ろうというと、 「金陵はわたしの故郷ですから、ここで結婚しようと思っているんです。いくらか蓄えもできましたから、ご面倒でしょうが姉に渡してくださいませんか。年末になったらわたしもちょっと寄らせていただきますから」  といって、陶は順天へ行こうとはしない。だが子才は承知せず、どうしてもいっしょに帰ろうといい張り、 「家はさいわい豊かになり、何もしなくても結構暮らして行けるので、これ以上商売をすることもなかろう」  といって、店に坐り込み、下男に勝手に値をつけさせて菊を安売りさせ、四、五日ですっかり売ってしまうと、陶をせきたてて荷物をとりまとめさせ、舟を傭(やと)って北へ向かった。  家に帰ってみると、黄英はもう部屋をとりかたづけ、寝台や夜具の用意もちゃんとしてあって、まるで弟が帰って来ることをあらかじめ知っていたかのようであった。  陶は帰って来てからしばらくすると、人夫を使って四阿(あずまや)や庭の手入れをさせたが、そのあとは毎日のように子才と碁を打ったり酒を飲んだりするだけで、ほかの者とはつき合いをしなかった。黄英は結婚の相手をさがそうとしたが、陶がその気はないというので、下女を二人つけて夜伽(よとぎ)をさせた。  三、四年たって、その下女の一人とのあいだに女の子が生まれた。  陶はもともと酒豪だったが、誰も彼が酔いつぶれたのを見たことはなかった。子才の友人の曽(そう)という男も酒量は誰にも負けないほどだったが、あるときその曽が訪ねて来たので、子才は彼に陶と飲みくらべをさせた。二人は大いに飲みあって意気投合し、互いに知り合ったことの晩(おそ)きを嘆(たん)ずる、というふうだった。朝から飲みはじめて夜中まで飲みつづけ、二人とも百本ぐらいずつ飲んだあげく、曽は泥酔してその場で寝入ってしまった。陶は立ちあがって、家に帰って寝ようとし、門を出たが、菊畑に足を踏み込むなりどっとその場に倒れ、着物を脱ぎ捨てたかと思うと、そのまま一本の菊になってしまった。高さは人の丈(たけ)ほどで、拳よりも大きい十個あまりの花がついている菊だった。子才はそれを見て気絶せんばかりにおどろき、黄英に知らせた。黄英は大急ぎで駆けつけると、その菊を引き抜いて地面に置き、 「なんだってこんなになるまで酔ったのです」  といいながら着物をかけてやり、子才には、 「さあ、いっしょに帰りましょう。見ていてはいけません」  といった。  夜が明けてから子才が行って見ると、陶は菊畑に寝ていた。子才ははじめて、陶姉弟が菊の精であったことを悟り、ますます二人を敬愛した。  陶は酔いつぶれて本性をあらわしてからは、ますます飲みっぷりが放埒(ほうらつ)になり、いつも自分の方から手紙を出して曽を招き、いわゆる莫逆(ばくぎやく)の友になった。  花朝(かちよう)の日(陰暦二月十五日。百花の誕生日といわれる)、曽は二人の下男に薬のはいった白酒を一甕(かめ)かつがせて陶を訪ねて来た。それを二人で飲み乾(ほ)そうというのである。だが甕の酒が空(から)になりそうになっても二人はまださほど酔いもしなかったので、子才がこっそり別の酒を一瓶つぎ足しておいてやると、二人はそれをも飲みつくしてしまった。曽は酔いつぶれてしまって、下男に背負われて帰って行ったが、陶は地面に寝てしまって、また菊になった。子才はもう見なれているのでさほどおどろかず、黄英がやったようにその菊を引き抜いて地面に置き、その傍に立ったまま、どう変化していくのか見守っていた。ところが、しばらくすると葉がだんだん凋(しぼ)んでいくので、心配でならず、はじめて黄英に知らせた。黄英はそれを聞くと、おどろいて、 「弟を殺してしまったのね!」  といい、急いで駆けつけて行ったが、そのときにはもう根もすっかり枯れていた。黄英は消え入らんばかりに悲しみ、その茎のところを摘みとって鉢に埋め、自分の部屋に運んで行って、毎日、水をそそいだ。子才は死ぬほど後悔するとともに、曽のことを怨んだが、数日たってから曽が酔いつぶれたままで死んでしまったということを聞いた。  黄英が埋めた鉢の中の茎は、だんだん芽を出して伸び、九月には花をつけた。短い茎の白い花で、嗅いでみると酒の匂いがしたので「陶酔」という名をつけたが、酒をそそいでやると勢いがよくなって茂った。  陶と下女とのあいだに生まれた一人娘は、成人して立派な家柄の旧家に嫁(とつ)いだ。  黄英は老後まで何の変りもなく平安に暮らした。 清『聊斎志異』    白衣の美女  雪の降りしきっている夕暮れだった。銭塘(せんとう)の杜(と)という男が舟を漕いで行くと、岸に、白衣を着た一人の若い女の姿が見えたので、 「雪が降るのにお困りでしょう。どこへ行くのですか。この舟で送ってあげましょう」  と声をかけると、女は、 「ついそこまでなのですけど、乗せていただけますか」  という。杜は舟を岸につけて女を乗せてやった。まぢかで見ると、この世の者とは思われないほどの美女である。杜が身ぶるいをしながら、思わず、 「お綺麗(きれい)ですねえ」  というと、女は、 「ご冗談を……」  といったが、しばらくすると、突然、一羽の白鷺になって雪の中を飛び去って行った。杜はそのとき、全身の血の抜けていくような思いをした。  家へ帰った杜はそのまま寝つき、二、三日で死んでしまった。 六朝『捜神後記』    妻の羽衣  豫章(よしよう)の新喩(しんゆ)県のある男が、ある日、田圃(たんぼ)へ行くと、羽衣を着た六、七人の女が楽しそうに踊りまわっていた。不思議に思い、草むらの中にかくれて見ていると、やがて一人の女が羽衣をぬいだので、男は駆けだして行ってその羽衣を奪い取った。  ほかの女たちはみなおどろいて逃げて行ったが、羽衣を奪われた女だけは逃げることができず、はずかしそうにしてうずくまっているのだった。なかなか綺麗(きれい)な女なので、男はつれ帰って妻にした。  夫婦は仲むつまじく暮らし、数年のあいだに三人の娘が生まれた。娘たちが大きくなったとき、母親はそっと三人にきいた。 「おまえたち、この家のどこかで羽衣を見たことがないかい?」 「知らないわ。羽衣ってなに?」 「鳥の羽で作った衣裳だよ。お母さんが娘のとき大事にしていた衣裳なのだけど、お父さんがどこかへかくしてしまったのよ。お母さんにたのまれたといわずに、どこにしまってあるのか、お父さんからききだしてほしいのだけど」  その後、娘が父親に、 「お父さん、羽衣ってもの知っている?」  ときくと、父親はしばらく考えていたが、 「ああ、そういえば、むかしお母さんが着ていたな。あれなら、小屋の積(つ)み藁(わら)の奥にあるはずだ。だがおまえたち、あれをどうするつもりだね」 「いいえ、ただきいてみただけなの」  母親は娘の口から羽衣のありかをきくと、それを取り出して来て身につけ、夫に、 「長いあいだお世話になりました」  といい、茫然としている夫を置いてそのまま飛び去って行った。  男ははじめて妻が鳥だったことを知っておどろいたが、毎日、もういちど帰って来ておくれ、と祈っていると、幾日かたって、妻はまた飛んで来た。 「おお、よく帰って来てくれた」  と男がいうと、妻は首をふって、 「帰って来たのではありません。娘たちをつれに来たのです。あなたといつまでもいっしょに暮らしたいのですけれど、そういうわけにはいきませんので……」  といい、三人の娘とともに、また飛び去って行った。 六朝『捜神記』    竹青(ちくせい)  魚客(ぎよかく)は湖南の人だったが、どこの県の生まれかはわかっていない。  家が貧しく、役人になる試験に落ちて郷里へ帰って来る途中で、路銀(ろぎん)がすっかりなくなってしまった。だからといって乞食をすることも恥かしくてできず、腹が減って歩くこともできなかったので、漢江の近くの呉王廟(ごおうびよう)で休もうと思い、神前に祈ってから廊下で横になった。  すると一人の男があらわれて、彼を呉王の前へつれて行き、ひざまずいていった。 「黒衣隊(こくいたい)の兵隊が一人欠員のままですので、この者を補欠として入れてはいかがでしょうか」 「よろしい」  呉王はそういって、さっそく黒衣を彼に与えた。彼がそれを着ると、たちまち身は一羽の烏に化していて、翼を羽ばたいて飛びたち、烏たちが群れ集っているのを見ると、いっしょになって飛んで行き、あちこちの舟の帆柱にわかれてとまったりした。舟の上の人たちがあらそって肉を投げ上げてくれると、烏たちは空中に群がり、嘴(くちばし)で受けとめて食べた。彼もそれを真似ているうちに、たちまち腹がいっぱいになったので、森の梢に飛び帰って行って休み、すこぶる満足を覚えた。  それから二、三日すると、呉王は彼に妻がいないことを憐れみ、竹青(ちくせい)という名の雌を娶(めと)らせてくれた。夫婦は愛しあって暮らした。彼は食べ物をあさりに行くとき、すっかり慣れてしまって、あまり要心をしなくなっていたが、竹青はいつもそれを諫(いさ)めた。しかし彼はいっこうにきかなかった。  ある日、船で通りかかった兵士が弾(はじきゆみ)で彼をうって胸に命中させたが、竹青がどうにか彼をくわえてつれ帰ってくれたので、つかまらずにすんだ。烏たちは仲間がうたれたことを怒って、みんなで羽ばたきをして波をあおった。そのため荒波がおこって、船はことごとく転覆してしまった。竹青は自分で餌をとって来て彼に食べさせたが、彼の傷は重く、その日のうちに死んでしまった。  ふと、夢から醒(さ)めたと思ったとき、彼はまだ呉王廟の中に寝ていたのである。それより前、村の人たちは魚客が倒れているのを見つけたが、どこの誰なのかわからない。躰(からだ)を撫でてみるとまだ温みが残っていたので、ときどき誰かが様子を見に来ていたのだった。いま正気にかえった彼から身の上のことを聞いた村人たちは、みんなで路銀を出しあって、彼を郷里へ帰らせてやった。  それから三年たったとき、彼はまたそこを通りかかった。彼は呉王廟に参詣し、烏たちを呼び集めて、用意して来た餌を食べさせてやりながら、 「この中にもし竹青がいたら、あとに残ってくれるように」  と祈った。だが烏たちは餌を食べ終ると、みんな飛んで行ってしまった。  その後、魚客は試験に及第して帰って来る途中、また呉王廟に参詣して羊や豚を供え、用意して来たたくさんの餌を烏たちに振舞ってやりながら、前と同じように祈ったのである。  その夜は、洞庭湖の岸に船をつないで一泊することにした。あかりをともして船室に坐っていると、突然、机の前に鳥のようなものが舞い下りて来たが、よく見るとそれは二十歳くらいの美しい女で、にっこり笑いながら、 「あれからずっとお変りございませんか」  といった。彼がおどろいて、 「どなたですか」  ときくと、女は、 「あなたは、竹青をお忘れになったのですか」  といった。 「おお、あなたが竹青か。どこから来たの?」 「わたしはいま漢江の神女になっていますので、めったに故郷に帰って来ることはありません。でも、前に使者の烏が二度も来て、あなたのお情けのある言葉を伝えてくれましたので、どうしてもお会いしたくなって来てしまいました」  彼は竹青がそういうのを聞くと、ますますよろこび、感動して、まるで長らく別れていた夫婦が久しぶりで再会したときと同じように、うれしさとなつかしさに躰のふるえてくるのを覚えた。  彼は竹青を江南の郷里へつれて帰りたかったが、竹青はいっしょに西の漢陽へ行きたいといい、なかなか相談がまとまらなかった。その夜はいっしょに寝たが、魚客が心地よい疲れを覚えながらまどろんで、ふと眼をさますと、竹青はもう起きていた。見まわすとそこは立派な部屋で、大きなともし火が煌々(こうこう)とかがやいていて、船の中とはすっかり様子がちがっている。魚客はおどろいて起きあがり、 「いったい、ここはどこなのだ」  とたずねた。すると竹青が笑いながら、 「漢陽です。わたしの家はあなたの家ですもの、江南へお帰りになることはありませんわ」  というのだった。やがて夜があけると、幾人もの召使いの女や老女たちが酒や料理を運んで来た。竹青は召使いの女にいいつけて、広い寝台の上に低い机を置かせ、夫婦さしむかいで酒を酌(く)んだ。魚客は酒を飲みながら、自分が乗っていた船のことを思い、 「わたしの従者は?」  ときいた。すると竹青は、 「船にいますわ。ご心配なく」  といった。 「船頭は? 待っていてくれるだろうか」 「ええ、わたしがちゃんとたのんでおきますから、ご安心ください」  と竹青はいうのだった。  それからは二人は昼も夜も酒を酌みながら語り暮らし、魚客は楽しくて帰ることも忘れていた。  一方、従者と船頭は、夢から醒めると船がいつのまにか漢陽に来ていたので、びっくりした。従者は主人をさがしまわったが、どこへ行ってしまったのか、何の消息もつかめなかった。船頭は洞庭湖へ帰ろうと思ったが、船の纜(ともづな)がかたく結ばれていてどうしてもほどけず、それに誰が運び入れたのか船には豊富に食糧が積み込まれていたので、従者といっしょに船に残って気楽に飲み食いをしていた。  二ヵ月あまりたったとき、魚客は急に家へ帰りたくなってきて、竹青にいった。 「このままずっとここにいると、家族と縁が切れてしまう。それに、あなたとわたしはまぎれもない夫婦なのに、あなたがわたしの家を知らないのはおかしいじゃないか。ねえ、いっしょに家へ行ってみないか」  すると竹青はいった。 「そういってくださるのはうれしいけど、わたしは行けないのです。たとえ行ってみたところで、あなたのお家には奥さんがいらっしゃるでしょう? わたしをつれて行ってどうなさるおつもりなの? それよりもわたしをここに置いておいて、ここをあなたの別宅になさった方がいいのじゃないかしら」 「だが、ここはあまり遠すぎて、いちど家へ帰ると、しょっちゅう来るというわけにはいかないからねえ」 「いいえ、来られます」  竹青はそういって、黒衣をとり出して来た。 「これはあなたが前に着ていらっしゃった黒衣です。わたしに会いたいとお思いになったとき、これをお着(つ)けになれば、いつでもすぐにここへ来られます。おいでになったらわたしがまた脱がせてあげますから」  それから竹青は、珍しい料理を数々並べて、魚客のために送別の宴を張った。魚客は心地よく酔って寝たが、眼が醒めたときにはもとの船の中にいた。あたりを見まわすと、そこは初めに船をつないだ洞庭湖の岸で、船頭も従者もすべていた。彼らは魚客を見るとびっくりして、 「どこへ行っていたのですか」  ときいたが、彼自身茫然としていて、一人でおどろいているばかりだった。枕もとに風呂敷包みが一つあるので調べて見ると、竹青がくれた新しい着物や靴下や靴で、ほかに黒衣もたたんで入れてあった。また、綺麗(きれい)な刺繍(ししゆう)の袋が腰のところに結びつけてあったので開けてみると、金貨がいっぱいはいっていた。彼はそのまま船で南に向かい、岸に着くと船頭にたくさんお礼をやって別れ、郷里に帰った。  家に帰ってから五、六ヵ月たつと、漢江のことが思い出されてどうしようもないので、こっそり黒衣をとり出して着てみた。すると両脇に翼が生えて、たちまち空へ舞いあがり、二時(ふたとき)ばかりするともう漢江の上に来ていた。輪を描くように空をまわりながら下を見ると、一つの島に、立派な二階建てのつづいている屋敷が見えたので、そこへ下りて行った。女中が彼の姿を見つけて、 「旦那さまがおいでになりました」  と呼ぶと、まもなく竹青が出て来て、召使いたちに彼の黒衣を脱がせるよういいつけた。そのとき彼は急に羽根がみんな抜け落ちたような気がした。竹青は手をとって彼を屋敷の中へつれて行くと、 「ちょうどよいところへ来てくださいました。わたし、今日(きよう)明日(あ す)にも子供が生まれますのよ」  といった。魚客が冗談に、 「赤ちゃんを生むの? それとも卵を生むの?」  ときくと、竹青は、 「わたしはもう神女になっているのですから、皮膚も骨格も硬くて、むかしとはちがうはずです」  といった。数日すると竹青は果して赤ん坊を生んだ。胎衣(え な)が厚くつつんでいて、まるで大きな卵のようだが、それを破ると赤ん坊が出て来た。男の子だったので、魚客はよろこんで、漢産(かんさん)と名づけた。三日たつと、漢江の神女たちが着物や食べ物や珍しい物を持ってお祝いに来たが、神女たちはみな綺麗で、三十歳を越えている女はいないように見えた。彼女たちは竹青の部屋へはいると、寝台をのぞき込み、拇指(おやゆび)で赤ん坊の鼻を撫でて「長寿」といった。彼女たちが帰ったあとで、魚客が、 「あの人たちはどういう人なの」  ときくと、竹青は、 「みんなわたしの朋輩です。いちばん後から来た白い綾織りの衣裳の人は『漢皋(かんこう)で佩玉(はいぎよく)を解いて仙人の鄭交甫(ていこうほ)に与えた』という昔話の仙女です」  といった。  五、六ヵ月たつと、竹青は船を用意して魚客を送り帰したが、その船には帆も楫(かじ)もなく、ひとりでにすいすいと動いた。陸に着くと、ちゃんと馬がつないであったので、魚客はそれに乗って家に帰った。  それからは、魚客は絶えず竹青のところへ往き来していたが、数年たつと漢産はますます可愛くなって来たので、魚客はまたとない宝のように大事にした。本妻の和(か)氏は自分に子供のないことを苦にしていて、いつも漢産を一目(ひとめ)見たいといっていたので、魚客がそのことを竹青にいうと、竹青は、 「わたしがつれて行けばいいのですけど、わたしは漢江から離れることができませんので、あなたがつれて行ってください。でも、三月(みつき)たったら必ずまた、つれ帰ってくださいね」  といい、支度をととのえて魚客に漢産を本宅へつれて行かせた。ところが、和氏は漢産をほんとうの自分の子供以上に可愛がり、三月はおろか、十月(とつき)あまりたっても帰したがらなかった。するとある日、漢産は急病で死んでしまった。和氏は竹青にすまないといい、自分も死なんばかりに歎き悲しんだ。魚客はそのことを知らせに漢江へ行ったが、竹青の家へはいると漢産がいるではないか。魚客がびっくりしながらも、よろこんで、 「これはいったい、どうしたことだ」  というと、竹青は笑って、 「あなたが約束を破って、いつまでもこの子を返してくださらないものだから、会いたくてならなくなって呼び返したのです」  といった。魚客がわけを話すと、竹青は、 「わたしにもう一人子供が生まれたら、漢産は返してあげてもいいわ」  といった。  それから一年あまりたって、竹青は男の子と女の子の双生児(ふたご)を生んだ。魚客は男の子を漢生(かんせい)、女の子を玉佩(ぎよくはい)と名づけた。そして漢産を本宅につれ帰ったが、年に何度も往き来するのは不便なので、一家をあげて漢陽に引越した。  漢産は十二歳のとき秀才の試験に及第した。竹青は、人間世界には漢産の妻にふさわしい美しい相手がいないからといって、漢産をいったん手もとに呼びもどし、妻を娶らせてから、また本宅へ返した。漢産の妻は扈娘(こじよう)といって、やはり神女の生んだ娘だった。  後に和氏が死んだとき、漢生も玉佩も葬儀に参列して、子としての礼をつくした。葬儀が終ってからも漢生はそのまま家に残ったが、魚客は玉佩をつれて家を出たきり、どこへ行ってしまったのか、もう戻っては来なかった。 清『聊斎志異』    青衣の美女  東晋の孝武帝のとき、徐〓(じよばく)は中書侍郎になり、役所で宿直するようになったが、それからまもなく、下僚たちのあいだに、けしからぬ噂が伝えられた。徐〓が一人で寝ているはずの部屋から、夜更けになると女の声がきこえてくるというのである。  徐〓の身を案じた古い門下生の一人が、ある夜その部屋の窓の下にかくれて様子をうかがっていると、夜が更けてきたころ、果して女のすすり上げるような声が聞こえて来た。その声はまもなくやんだが、やがて空が月の光でほのかに明るくなった途端、窓のわずかな隙間から何かが飛び出して来て、庭さきに置いてある鉄の鼎(かなえ)の中へはいって行った。すぐ鼎の傍へ行って調べてみたが、鼎に植えてある菖蒲の根かたに大きな青い蝗(いなご)がいるほかには、何も見あたらなかった。門下生はその蝗をつまみあげ、左右の翅(はね)をむしり取って、また菖蒲の根かたにとまらせておいた。  翌日、その門下生は徐〓にありのままのことを話した。すると徐〓は、 「女は来る。どこの娘か知らぬが、この近くの者らしい。いずれ話をつけて側妻(そばめ)にしようと思っている」  といった。  ところが、その夜、女は来ず、徐〓の夢枕にあらわれて泣きながらいった。 「あなたの門下生のために往来の道を絶たれてしまいました。すぐお近くにいるのですけれど、山や河に隔てられているのも同然で、もうお会いすることができなくなってしまいました」  夜があけてから徐〓は門下生を呼んで、夢の話をし、 「まさかとは思うが、女はおまえが翅をむしり取ったという蝗の化身(けしん)だったのかもしれぬ」  といった。 「わたしが宿直をしはじめたころのことだ。月が明るい夜だった。寝つかれないので窓をあけて庭を見たら、青い衣裳の美女が立っていたのだ。そうだ、菖蒲の植えてある鼎の傍だった。手招きしたら部屋にはいって来たのだ。それから女は毎晩来るようになった。可愛い女で、わたしはすっかり溺れ込んでしまったのだが……」  門下生はその夜ひそかに庭へ出てみた。彼が翅をむしり取った大きな蝗は、彼がとまらせた菖蒲の根かたに、まだそのままとまっていた。彼はつまみあげて踏みつぶそうとしたが、いったん伸ばした手を引っ込めて、そのままにしておいた。 唐『続異記』    斉(せい)の曹氏  山西の平陽に張景という人がいた。  弓の名手として知られ、郡の部隊の副将をしていた。  張景には十六、七になる妙齢の娘がいた。やさしく、かしこい娘だったので、張景夫婦はことのほか可愛がり、もう年ごろだというのに嫁にもやらず、自分たちの部屋の隣りの部屋に寝起きさせていた。  ある夜のこと、娘がその部屋で寝ていると、戸をきしませて一人の男がはいって来た。白い着物を着た、肥った男だった。男は寝台に近づいて来て、立ちどまった。泥棒だろうか、と娘は思い、びくびくしながらじっとしていると、男はさらに近寄って来て、娘に笑いかけた。娘はますますおそろしくなったが、黙っていては何をされるかわからないと思い、 「あなたは泥棒でしょう。それとも何かの妖怪なの」  といった。すると男は笑いながら、 「泥棒だなんて、とんでもない。妖怪というのもひどすぎますなあ。わたしは斉(注)の曹氏の息子で、伊達(だ て)者(もの)として少しは知られている男ですが、お嬢さんはご存じないようですなあ。あなたがいくらわたしをいやだとおっしゃっても、わたしは今夜ここに泊めていただくことにしましたから、そのつもりでいてください」  といった。そして掛蒲団の中へもぐり込んで来て、娘と並んで寝た。娘はいやらしい男だと思ったが、別にいたずらをする気配もないので、背を向けて寝たままじっとしていた。結局男は何もせず、明け方になると帰って行った。  翌晩になると、男はまたやって来た。昨夜と同じように並んで寝るだけで、何もせず、そして明け方になると帰って行った。  娘は夜があけてから、このことを父親に話した。すると張景は、 「それは何かの妖怪にちがいない」  といい、錐(きり)の頭に糸を結びつけ、尖(さき)をぴかぴかに磨(と)いで娘にわたし、 「これを寝台のどこかにかくしておいて、今夜またそいつがやって来たら、隙を見てこれで刺しなさい」  といった。  その夜、男はまたやって来た。娘は男を油断させるために、 「曹さんといったわね、どうして毎晩やって来るの」  と話しかけた。すると男は、 「お嬢さんが好きだからですよ」  といった。 「好きって、いっしょに寝ることなの」 「そうですよ。お嬢さんも好きでしょう」 「何もしないならね」 「何もしませんよ。お嬢さんがそれが好きなら」  男はそういって、これまでと同じように娘の横に寝て、 「たのしい、たのしい」  といっていたが、やがてそのまま眠ってしまった。娘は男が眠入(ねい)った隙をねらい、そっと錐を取り出して、男の項(うなじ)に突き刺した。男は「ぎゃっ」と叫んで飛び起き、項に錐が刺さったままで逃げて行った。  翌朝、張景は下男に糸のあとをつけさせた。下男が糸をたどって行くと、糸の先は、家から数十歩のところにある大木の下の穴の中にはいっていた。そこでその穴を掘ってみると、深さ三、四尺のところに、一尺あまりもある大きな〓〓(ねきりむし)がうずくまっており、その頸(くび)のあたりには錐が刺さっていた。  張景はその〓〓を下男に殺させたが、それきり娘の部屋に白い着物を着た男はあらわれなくなった。 唐『宣室志』  (注)「斉の曹氏」は斉曹(せいそう)。〓〓(せいそう)(ねきりむし)なので「斉の曹氏」と名乗ったのである。   空園の中の美女  元和二年のことである。塩鉄使(塩と鉄の生産販売を管理する官)の李遜(りそん)の甥にあたる隴西(ろうせい)の李黄(りこう)に、任官の内命があった。そこで李黄は家族をつれて長安へ行き、辞令が出るのを待つことにしたが、なかなか出ない。ある日、暇つぶしに下男をつれて馬で東市(とうし)へ行ってみたところ、一台の牛車がとまっていて、車の中から五、六人の下女が買い物をしているのが眼についた。近づいて行って中をのぞくと、白衣をまとった若い女がいた。この世の人とは思われぬほどの美女である。李黄は思わず下女の一人に声をかけた。 「どこの、どなたなのです」  するとその下女がいった。 「袁(えん)家のお嬢さまです。李(り)家へ嫁がれたのですが、旦那さまが亡くなられて喪(も)に服しておいででした。ところが、ようやく喪が明けましたので、ここへ衣裳を買いにいらっしゃったのです」 「衣裳を買いに? 再婚なさるおつもりで?」  李黄がそういうと、下女は笑って、 「さあ、どうでしょうか」  といった。李黄はそこで、金を出して錦や綾絹などを買い、「これを奥さんに」といって女中に渡した。 「奥さまがどうおっしゃいますか」  女中はそういって白衣の女のところへそれを持って行ったが、しばらくすると戻って来て、 「奥さまのお言伝(ことづ)てです。衣裳の代金は一時拝借させていただきます。どうかこの車のあとについて荘厳寺(しようごんじ)の傍のわたくしの家までおいでくださいませ。お金はそこでお返しいたしますから——。そういうお言伝てでございました」  といった。もう日暮れどきだったが、李黄はよろこんで、牛車のあとについて行った。  女の家に着いたときには、すっかり日が暮れていた。牛車が中門をはいると、女が車から下りた。すると下女たちが幕をひろげ、女をその中にかくして奥へはいって行った。李黄が馬から下りると、下女が腰掛けを持って来て掛けさせ、 「お金が出るまで、今夜ここでずっとお待ちくださいますか。今夜でなくてもよろしいのでしたら、このあたりのお知りあいのところにお泊りになって、明朝おいでくださっても結構でございます」  というのだった。李黄がむっとして、 「お金を返すからついて来るようにといわれたので、ついて来たんです。このあたりに知りあいなんかありません。ずいぶんおかしなことをおっしゃるのですね」  というと、下女はいったん奥へはいって行ったが、すぐまた戻って来て、 「お知りあいがないのでしたら、こちらにお泊りくださいませ。ただ、ゆきとどきませんけれどおとがめくださいませんように」  といって、李黄を奥へ案内した。  奥へはいって行くと、中庭に青い衣裳の老女が立っていて、 「あの子の伯母(お ば)でございます」  と挨拶して、席をすすめた。しばらくすると女が出て来た。裳(もすそ)は輝くばかりに白く、肌も白く、きめこまかく、物腰はしとやかに言葉つきは奥ゆかしく、さながら仙女のようであった。その美しさに李黄が茫然としていると、女は挨拶をすませて、さっと引き返して行った。すると老女が席についていった。 「あの子は羞(は)ずかしいのでございましょう。ところで、いろいろな品を買っていただきまして、まことにありがとうございました。わたくしどもで先日来(せんじつらい)買い求めました品のうち、今日の品にかなうものは一つもございません。でも、それだけに気がかりでならないのです、お借りいたしました金額のことが——」 「いや、お金のことなど、どうか、ご心配くださいませんように。あの程度の物では美しいおかたのお召し物には不足だったと思っているのですから」  李黄がそういうと、青衣の老女は、 「あの子を、そんなにお気に入ってくださったのですか」  といい、そして、 「ふつつかな娘で、あなたのような立派なおかたにふさわしいとは思いませんけれど、それにわたくしども貧乏暮らしで三万銭ほどの借金もあるのですけれど、それでもお気に入ってくださるのでしたら、どうかおそばに置いてやってくださいませ」  と辞を低くしていうのだった。李黄はよろこんで承知し、その老女に拝礼し、「さて、三万銭だが……」と考えた。そのとき、ここからさほど遠くないところに叔父(お じ)の李遜が両替屋を持っていることを思い出し、下男を呼んで三万銭を借りて来るようにいいつけた。  下男が金を借りて戻って来ると、老女はおしいただくようにしてその金を奥へ持って行った。  しばらくすると西側の部屋の扉があけられた。そこには食事の用意がととのえられていた。老女が李黄を案内して席につかせると間もなく、白衣の女がはいって来て、伯母にうながされるままに李黄の向い側の席についた。数人の下女が食事の世話をし、食事が終ると酒宴になり、ほどよく酔いがまわるころお開きになって、李黄と女は伯母に導かれて別の部屋へ引きとった。その部屋で李黄は女と歓(かん)を尽し、未だかつて覚えたことのないほどの深い陶酔を味わった。  それから三日間、李黄は心ゆくばかり楽しんだが、四日目になると伯母が、 「いちどおうちへお帰りになった方がよいでしょう。あまりおうちをおあけになると、奥さまもご心配でしょうし、叔父さまもご機嫌をそこなわれるかもしれませんから。こちらへは、お通いになればよろしいのですから。でも、あまり間遠(まどお)になってあの子をさびしがらせるようなことのないようにしてやってくださいませ」  といいだした。李黄も辞令のことが気になっていたので、いちど家へ帰ってみる決心をし、女に別れを告げて馬に乗った。そのとき下男は李黄の躰(からだ)に妙ななまぐさい臭いをかいだが、口には出さずに馬のあとについて家へ帰った。  李黄は家へ帰ったとたん、躰がだるくなり、しかも目まいがしだしたので、寝てしまった。すると妻の鄭(てい)氏が寝台の傍に来て、 「どこへ行っていらっしゃったのですか。あなたの任地がもう決ったというのに——。昨日、お役所から呼び出しがあって、あなたをさがしたのですけど見つからないものですから、わたしの二番目の兄が代りにお役所へ行って辞令をもらってまいりました」  といったが、李黄は躰がだるくてならず、口をきく力もなく、ただようやく、 「すまなかった」  といっただけだった。そこへ妻の兄がやって来て、 「いったい、どこへ行っていたんだ」  と責めた。李黄はだんだん気が遠くなって行くのを感じながら、口の中で「すまん、すまん」と繰り返していたが、しばらくすると妻にむかって、 「もうだめだ」  といった。そのとき妻は李黄の着ている掛蒲団が風船のしぼむように沈んで行くのを見て、あわててめくった。すると、李黄の躰は水のように溶けてしまっていて、首から上が残っているだけであった。  家の者がおどろいて、いっしょに行った下男を呼んで聞きただしたところ、下男はくわしく事の次第を話した。そこで袁家があったという場所をさがしあててみたところ、そこは空園で建物も何もなく、さいかちの木が一本繁っているだけであった。そのさいかちの木の根もとに一万五千銭が置いてあり、高い枝の上にも同じく一万五千銭が置いてあった。近くの人たちに聞いてみると、 「あの木の下にはときどき大きな白蛇があらわれます。あの庭にはずっと誰も住んではおりません」  ということであった。女が姓を袁(えん)といったのは、空園(くうえん)(園という字のまわりを空(くう)にすると袁になる)に住んでいることから、そういったのであろう。 唐『博異志』    小人の群れ  唐の太和年間の末ごろの話である。  松滋(しようじ)県のある士人が、勉強をするために親戚の別荘を借りて一人で住むことになった。その別荘へ移った夜、二更(十時)ごろまであかりをともして机に向かっていると、 「せっかくおいでくださったのに、主人がおらず、お淋しいことでしょうな」  という声が聞こえて来た。見まわすと、五分(ぶ)ほどの背丈の小人が、葛布(くずふ)織りの頭巾をかぶり、杖をついて戸口に立っていた。  士人は胆(きも)のすわった人だったので、相手にならずに書物を読みだした。すると小人は腰かけにのぼって来て、 「返事もしないとは、何という礼儀知らずだ」  とどなった。その声は蒼蝿(あおばえ)がぶんぶんうなるような、かなり大きな声だった。士人がなおも知らぬふりをしていると、小人は机の上にあがって来て書物をのぞき込み、なおも悪態(あくたい)を吐(つ)きながら、硯(すずり)を書物の上へ載せてしまったので、さすがに士人も我慢ができなくなり、筆でその小人を床(ゆか)の上へはじき落した。すると小人は叫び声をあげながら、戸口から飛び出して行った。  しばらくすると、四、五人の小人の女がはいって来た。背丈はさきほどの小人よりも高くて一寸(すん)くらいあった。その女たちも大きな声で叫んだ。 「大旦那さまはあんたが一人で勉強しているのをごらんになって、若旦那さまをご挨拶におよこしになり、学問の蘊奥(うんのう)についてあんたと議論させようとなさったんだよ。それなのにあんたは、意地を張って気違いじみたまねをし、若旦那さまに怪我をさせたりして! さあ、大旦那さまのところへご挨拶に行きなさい」  その女たちにつづいて、ぞろぞろと蟻のように大勢の女がはいって来た。士人は呆然となって、まるで夢でも見ているような気がした。女たちはぞろぞろと士人の躰(からだ)にのぼりだし、やがて手や足に噛みつきだした。刃物で突き刺されるような痛さだった。 「あんたが大旦那さまのところへご挨拶に行かないというのなら、あんたの眼にも噛みついてやるから」  と、士人の肩にのぼっている女が叫んだ。同時に女たちは総がかりで士人の顔に這いあがろうとした。士人はあわてて、 「行く。挨拶に行く」  といった。すると女たちはまたぞろぞろと士人の躰から下り、中の一人が、 「それじゃ、ついておいで」  と叫んだ。士人は女たちを踏みつぶさないように俯向いて気をくばりながら、あとについて戸口を出た。  家の東側まで行くと、前方に門が一つ見えた。構えは小さいながら、節度使の軍門のような立派な門であった。士人が、 「いったい何の妖怪だ。小人のくせに人間をしのごうとして……」  とつぶやくと、またぞろぞろと女たちが躰にはいあがって来て、噛みつきだした。呆然としているうちに、士人はその小さな門の中につれ込まれていた。  見れば、いかめしい冠をかぶった一人の小人の男が殿上に坐っており、階下には何千という小人の護衛兵が立っているのだった。背丈はみんな一寸あまりだった。殿上の小人が大声で士人を叱りつけた。 「わしは、おまえが一人ぼっちでいるのを可哀そうに思って倅(せがれ)を行かせたのに、なにゆえ傷など負わせたのだ。罪は腰斬りの刑に価するぞ」  士人が眼を下におろすと、数十人の小人が刀をふりかざしながら迫って来るところだったので、おそろしくなって謝った。 「わたしは愚かにも、あなたさまがどういうお方なのか存じ上げておりません。はじめにわたしの机の上にあがっていたずらをなさったのが、あなたさまのお子さまだということも、存じ上げなかったものですから、つい払いのけてお怪我を負わし、申しわけのないことをいたしました。わざとしたことではございませんので、どうか命ばかりはお助けくださいませ」  すると殿上の小人は、 「うん、やっと後悔をしたようだな。もうよい。そやつを外へ引きずり出せ」  といった。その声と同時に大勢の小人が士人に群がって来て、おし倒した。  士人が気がついたときには、すでに小さな門の外にいた。小人はもうどこにもいなかった。手や足の噛まれたあとがちくちくと痛んだ。書斎へもどってみると、もう夜明け前で、燃え残りのとぼしびの火が光を失って赤く見えた。  朝になってから士人は昨夜歩いた道をたどってみた。すると東壁の古びた階段の下に、栗の実ぐらいの小さな穴があいていた。のぞき込むと守宮(やもり)が何匹もいた。士人はさっそく人夫を傭(やと)ってその穴を掘らせてみた。すると、穴の深さは五、六丈もあって、その中には何千という数の守宮がうごめいていた。いちばん大きいのは一尺あまりもある赤い色の守宮だった。それが「大旦那」だったようである。士人は枯草を穴の中に入れて焼いてしまったが、それきりで、その後はなんの変異もおこらなかった。 唐『酉陽雑俎』    玄陰池(げんいんち)  太原の商人に石憲(せきけん)という人がいた。  唐の長慶二年の夏、北方へ商いに行って、雁門関(がんもんかん)を越えたが、日盛りの暑気にあてられて眼がくらみ、道ばたの大樹の下に倒れ込んでしまった。  しばらくすると、一人の僧が通りかかって、声をかけてきた。 「暑さにやられなさったか」  その僧は褐色の衣(ころも)を着ていて、顔も姿もどこか異様に見えたが、親しそうに話した。 「わたしは五台山の南に庵(いおり)を構えておりますが、そのあたりは森も深く、水も清く、俗塵を離れた静かなところです。わたしはそこへ帰るのですが、あなたもいっしょにおいでになりませんか。そのままでは暑さにあたってどうなるかわかりませんよ」  僧は石憲の荷物を背負って、「さあ」とうながした。石憲がついて行くと、やがて森が見えた。森の中へはいって行くと大きな池があって、大勢の僧が泳ぎまわっていた。 「この池は玄陰池といって、わたしたちはここで水浴をして暑さをしのいでいるのです」  僧はそういって石憲を池のほとりの平たい石の上に掛けさせた。泳いでいる僧たちを見ているうちに、石憲は突然、背筋のつめたくなってくるような恐怖をおぼえた。どの僧の顔もみな同じで、眼鼻だちが少しもちがっていないことに気づいたからだった。  そのとき、案内してきた僧が石憲にいった。 「おききください。僧たちがこれからいっせいに梵音(ぼんおん)を唱えますから」  たちまち池の中の僧たちが声をそろえて何やら唱えだした。その声は次第に高くなって、思わず「うるさい!」と叫びそうになるほどだった。叫ぶかわりに両手で耳をおおうと、一人の僧が水の中から手をさし出して、石憲を池の中へ引きずり込んだ。池の水は氷のようにつめたく、石憲は身ぶるいをして岸へ這いあがろうとしたが、どうしても這いあがれないのだった。  もがいていると、 「どうしたんだね、こんなところで」  という声がきこえてきた。眼をあけて見ると、道ばたに二、三人の人が立っていて、自分を見おろしているのだった。そこは、もとの大樹の下だったのである。もう日が暮れかけていた。着物は水の中から出てきたばかりのように、ずぶ濡れになっていて、寒気(さむけ)がしてならなかった。  その夜は近くの村人の家に泊めてもらった。翌日になると気分もよくなっていたので、旅をつづけることにした。山添いの路を進んで行くと、蛙の鳴く声がそうぞうしく聞こえてきた。石憲はその鳴き声があの池の中の僧たちの梵音に似ているように思われてならなかったので、記憶をたどりながら西の方へ山路をたどって行くと、やがて深い森があり、森の中には大きな池があった。そしてその池にはたくさんの蛙が泳いでいた。 「坊主はこいつらだったのか」  そう思いながらさがすと、その蛙の群れの中には一匹の大きな褐色の蛙もいた。 唐『宣室志』    泥土の食事  穎川(えいせん)に〓元佐(とうげんさ)という人がいた。呉(ご)に遊学していたが、山川(さんせん)をめぐり歩くことが好きで、景色のよいところがあると聞くと必ず出かけて行った。  ある日、長城(ちようじよう)で役人をしている旧知を訪ねて行き、酒を飲んで帰る途中、姑蘇(こそ)へ行くつもりだったのだが、どこで道をまちがえてしまったのか、けわしい山路に踏み込んでしまっていた。行けども行けども人家はなく、路の両側には蓬(よもぎ)が生い繁っているだけであった。やがて日が暮れかかってきたころ、ふと前方を見ると、燈火らしいあかりが見えた。どうやら人家のようであった。ほっとした気持で、そこまで行ってみると、粗末な小屋があって、中には二十歳(はたち)くらいの娘が一人、しょんぼりと坐っていた。〓元佐が戸口に立って声をかけると、娘がふり向いた。 「あやしい者ではありません」  と彼はいった、 「友人に会いに長城へ行った帰り、道をまちがえてしまったのです。日が暮れてしまって困っております。このまま夜道を行けば、ますます道を踏みちがえてしまいそうですし、わるい獣に襲われるかもしれませんし、心細くてなりません。もし一夜の宿をお貸しいただくことができれば、ありがたいのですが……」 「それはお困りでございましょう」  と娘はいった、 「でも、あいにく父が不在なので、どうしたらよいかわかりません。わたし一人のところへ、男の人をお泊めするのは……。それはそれとして、ごらんのような貧しい暮らしで、寝具もございませんので、とてもご満足いただけるようなことはできません。もしそれでもよろしければ……」 「夜露をしのがせていただくだけで結構なのです」  といって、さらにたのむと、娘は、 「それならどうぞおはいりください」  といった。  娘はいそいそと、小屋の地面を踏み均(な)らし、その上にやわらかい草を敷いて席をしつらえると、〓元佐をそこへ坐らせて、食事の用意をし、 「粗末なもので、お口にあわないかもしれませんが」  といった。〓元佐は腹をすかしていたので、みな食べてしまい、 「とてもおいしかった。満腹しました」  といった。食事がすむと、娘は寄り添ってきて、いっしょに寝た。〓元佐はたのしい思いをし、疲れでぐっすりと眠った。  翌朝、眼をさました〓元佐は、自分が田圃の真中に寝ていることに気づいた。あわてて起きあがると、腰のあたりに大きな枡(ます)ほどもある田螺(たにし)がころがっているのだった。昨夜食べたのは何だったのだろう、と思ったとき吐き気をもよおした。嘔吐したのは大量の泥土だった。すると昨夜たのしい思いをしたのは? 大きな田螺はただそこにころがっているだけであった。  〓元佐はそれ以来、山川を遊歴することをふっつりとやめ、仏道に帰依(きえ)するようになったという。 唐『集異記』    黄(こう)家の母親  後漢の霊帝のときのことである。江夏(こうか)の黄(こう)という人の母親が盥(たらい)の中で行水をしていたが、坐り込んだままでいつまでたっても立ちあがらないので下女が不審に思っているうちに、海亀に変ってしまった。  下女はおどろいて黄に知らせに走ったが、海亀はその間に盥から這い出して、近くに流れている川の淵へもぐり込んでしまった。  その後、海亀はときどき淵から頭を出して黄家の方を覗(のぞ)くことがあったが、その頭には行水をしていたときにつけていた簪(こうがい)と銀の釵(かんざし)がそのままついていた。  黄の家ではそれからは、代々海亀の肉を食べないようになったという。 六朝『捜神記』    小舟の女  〓陽(けいよう)の張福という人が、船を雇って家へ帰る途中、日暮れになって、ふと外を見ると、美しい女が自分で小舟に棹(さお)さしながら近づいてくるので、船をとめさせて、 「娘さん、何か用かね」  と声をかけた。すると女は、 「日が暮れると虎が出ますので、夜道はおそろしくて歩けません。それで舟で……」  といった。そこで張福が、 「どこへ行くのだね。どこの娘さんだね。軽はずみなまねをして。雨が降っているのに、笠もないじゃないか。こっちの船へはいって雨宿りをしなさい」  というと、女は、 「助かりますわ」  といって舟を寄せ、張福の船に乗り移った。張福が女の乗っていた舟を自分の船につなぐのを待ちかねるようにして、女は張福にしなだれかかってきた。張福は一瞬あきれたが、すぐ、 「そうか、そうだったのか」  といい、互いにふざけながらいっしょに寝た。  真夜中ごろ、雨があがり月が出た。張福が寒さをおぼえて眼をさまし、女は、と見ると、そこにいるのは女ではなくて大きな亀だった。びっくりして起きあがり、おさえつけようとしたが、亀はそれよりも早く川の中へとび込んでしまった。船につないでおいたはずの小舟は、舟ではなくて長さ一丈あまりの枯木だった。 六朝『捜神記』    狙(ねら)われた尼僧  李宗(りそう)が楚州の長官だったときのことである。  一人の若い尼僧が町を歩いていたが、急に地面にぺったりと坐り込んだまま、動かなくなってしまった。尼僧はそのまま、幾日も茫然と坐りつづけていて、食べ物や飲み物を与えようとする者がいても見向きもしなかった。  李宗はそのことを聞くと、部下の者をやって無理やりに尼僧の躰(からだ)を地面から引きはがさせた。尼僧の坐っていた下は、べっとりと濡れていた。試みにその下を掘って見ると、大きな亀があらわれた。  李宗はその亀を川へ放してやった。尼僧はその後、何のかわったところもなかった。ただ、地面に坐り込んでいた数日間のことは、何もおぼえていなかった。 宋『稽神録』    宋家の母親  魏(ぎ)の黄初(こうしよ)年間のことである。清河(せいが)の宋士宗(そうしそう)という人の母親が、夏のある日、行水をするから誰も来ないようにといって浴室へはいって行ったきり、長いあいだ出て来なかった。家の者が不審に思って壁の隙間から覗(のぞ)いてみると、母親の姿は見えなかった。そこで戸をあけて中へはいってみると、桶の中に大きな鼈(すつぽん)がいた。その鼈の頭には銀の釵(かんざし)が載っていたが、それは母親が浴室へはいるときにつけていたものだった。  家族の者は声をあげて泣いたが、どうする術(すべ)もない。鼈は桶の中から出たそうに足を動かしていたが、家の者はどうしてやればよいのか判断のつかぬまま、そのままにして置いた。すると四、五日たったとき、鼈は桶から出て家の外へ這い出した。家の者が捕えようとすると、鼈は足を速めて逃げ、川の中へはいって行ってしまった。  数日たってから鼈は家に帰ってきて、人間だったときと同じように家の中を歩きまわっていたが、声をかけても答えず、しばらくするとまた川へ戻って行った。  近所の人々は宋士宗に、母親の葬儀を行なって喪(も)に服した方がよいとすすめたが、彼は、母は姿こそ変ってしまったが死んでしまったわけではないからといって、とうとう葬儀を行なわなかったという。 六朝『捜神記』    黄衣の婦人  唐の柳宗元(りゆうそうげん)が、京官(けいかん)から永州の司馬(しば)(刺史の補佐官で武官)に左遷されたときのことである。  途中、荊門を通って駅舎に泊ったところ、その夜、黄衣の婦人があらわれて再拝し、泣きながら訴えた。 「わたくしは楚水(そすい)のほとりに住んでいる者でございますが、思わぬわざわいに逢いまして命旦夕(たんせき)に迫っております。これを救ってくださることのできる方(かた)は、あなたさまのほかにはございません。もしお救いくださるならば、長くご恩を感謝するばかりではなく、あなたさまのご運をひるがえして、宰相にでも将軍にでもご出世のできるようにいたします。どうかお力添えくださいますよう」  柳宗元は何の気もなしに承知したが、眼をさましてから考えてみたところ、何の心あたりもないので、そのままでまた眠ってしまった。するとまた黄衣の婦人があらわれて、同じことをくりかえし、しばらくして消えて行った。  翌日の夜あけごろ、土地の役人が来て、荊州の刺史が朝食にご招待したいゆえおいでいただきたいと伝えた。柳宗元はさっそく馬車の用意をいいつけたが、まだ東の空が白んできたばかりだったので、もう一休みしようと思ってまどろんでいると、またもや黄衣の婦人があらわれて、 「わたくしの命はいよいよ危くなってまいりました。差し迫っているこの危険をお察しくださいませ。もう半時(はんとき)の猶予(ゆうよ)もなりません。どうか早くお救いくださいませ。お願いでございます」  というのだった。その顔は惨然(さんぜん)として、いかにも危難が身に迫っているように見えた。婦人が再拝して消えて行ったとき、柳宗元は眼をさました。  これは何かあるのにちがいない、と柳宗元は考えた。あるいは役人たちのなかに自分に助けを求めている者がいるのかもしれぬ。あるいは今朝の饗宴のために鳥か獣か魚かが殺されることになっていて、救いを求めているのかもしれぬ。柳宗元はそう思い、すぐ仕度をして馬車で饗宴の席にかけつけた。そして主人の刺史に黄衣の婦人の話をしたところ、刺史も不思議に思い、 「とにかく膳部の役人を呼んで、きいてみましょう」  といった。  膳部の役人は「黄衣の婦人」ときくと、 「黄衣といえば、昨日、大きな黄魚(こうぎよ)(石(いし)首魚(も ち)の類)が漁師の網にかかりましたので、それを料理してお客さまに差し上げようと思いまして……」  といいだした。柳宗元がはっとして、 「その魚はまだ活(い)かしてあるのですか」  ときくと、役人は、 「いえ、たったいまその首を切りおとしたところです」  といった。 「おそらくそれが黄衣の婦人だ」  と柳宗元はいい、その魚を河へ投げ込ませたが、首を切られた魚が生き返るはずはなかった。  その夜、柳宗元の夢枕に黄衣の婦人はまたあらわれたが、見れば婦人には胴体があるだけで首がなく、従ってものもいわず、しばらくすると消えて行った。  黄衣の婦人のせいかどうか、柳宗元は宰相にも将軍にもなれず、柳州の刺史を以て終った。 唐『宣室志』    酒虫(しゆちゆう)  山東の長山(ちようざん)の劉(りゆう)は、でっぷりと肥った大酒飲みだった。相手なしに一人で飲んでも、いつも一甕(かめ)の酒を飲みつくしてしまうのである。県城の近くに三百畝(せ)もの美田を持っていて、家はたいそう豊かだったので、飲む金に困るというようなことは全くなかったのである。  ある日、一人の喇嘛(ラマ)僧がやって来て、劉に、 「あなたの躰(からだ)には奇病がある」  といった。 「いや、病気なんかない」  と劉がいい返すと、喇嘛僧はいった。 「あなたは、いくら酒を飲んでも酔わないでしょう」 「そうだ。酔わぬ」 「そうでしょう。それが奇病なのです。躰の中に酒虫というものがいるのです」  劉はおどろいて、きいた。 「そいつを退治してくれるというのか」 「おやすいことです」 「どんな薬を飲んだら退治できるんです?」 「薬など飲まなくてよいのです」  喇嘛僧はそういい、劉を日向(ひなた)に俯向(うつむ)けに寝かせて手足をしばり、口から五寸ほど下のところに美酒を入れた壺を置いた。  しばらくすると劉は咽(のど)がかわいて来て、壺の中の酒が飲みたくてならなくなった。酒の匂いが鼻を刺して我慢ができないのだが、飲めないのである。身もだえしているうちに、咽が急にむずがゆくなって来たかと思うと、何かがぬるぬるとこみあがってきて、げっと壺の中へ吐いた。 「もうよろしい」  喇嘛僧はそういって劉の縛(いまし)めを解いた。劉が壺の中をのぞいて見ると、長さ三寸ばかりの赤い肉のようなものが、金魚が泳いでいるように酒の中を泳ぎまわっていた。その肉のようなものには、眼も口もみんなついているのだった。こんなものが躰の中にはいっていたのか、と劉はおどろき、喇嘛僧に礼をいって、 「いくらお払いすればよいでしょう」  ときくと、喇嘛僧は手を振って、 「お金はいりません。ただ、その虫をいただきたい」  といった。 「こんな気味のわるいものを、どうするのですか」  と劉がきくと、僧は、 「これは酒の精でな、甕にきれいな水をはって、この虫を入れてかきまわすと、水が美酒になりますのじゃ」  といった。劉がためしにやらせてみたところ、果して水は酒に変っていた。  劉はその後、まるで仇のように酒を憎むようになった。酒をやめてからは、でっぷり肥っていた劉の躰はだんだん痩せていったが、同時に、家もだんだん貧しくなっていって、やがては飲み食いにも事(こと)欠くようになってしまったという。 清『聊斎志異』    疫鬼(えきき)  南宋の紹興(しようこう)三十一年のことである。湖州の呉一因(ごいちいん)という漁夫が、魚を捕りに出て、新城の水柵(すいさく)の近くに舟をつないでいた。  岸の上には民家があったが、夜が更けてからその民家の前で話し声がした。暗くて姿は見えなかったが、声は舟の中まで聞こえてきた。 「おれたち、ずいぶん長いあいだこの家で遊んでいたから、そろそろほかのところへ移ろうじゃないか。ちょうどそこに舟があるから、あれに乗って行ったらどうだろう」 「あれは漁師で岩乗(がんじよう)だし、それによその土地の人間だから具合がわるいよ。あしたまで待てば東南の方から、あの舟よりも大きい舟が来ることになっている。その舟には紅(あか)い食器が二組と、五つ六つの酒壺が載せてあるはずだから、それに乗り込んで行こう。その家はここの家の親戚で、かなり金持らしいから、遊び甲斐(がい)があるにちがいない」 「そうだな。それじゃ、そうすることにしよう」  話し声はそれきりでやんだ。呉はあれこれと考えてみたが、何の話かわからなかった。  しかし気になってならないので、夜があけると舟からあがり、岸の民家へ行って、きいてみた。 「ゆうべ、真夜中ごろ、お宅の前で四、五人の者があやしげな話をしているのを聞いたのですが、気にかかってならないものですから……」 「どんな話ですか」  とその家の老人がきき返した。 「お宅にずいぶん長いあいだいたから、ほかの家へ移ろうというような話でした」  呉がそういうと、その家の老人はしばらく考えてから、 「じつは倅(せがれ)が一と月ほど前に疫病にかかって、一時は命もあぶなかったのですが、二、三日前から急によくなってきて、きのうはもう起きることができるほどになりました。もしかしたら、あなたがお聞きになったという話し声は、その病気の声かも……」  呉はそれを聞いてはじめて、ゆうべの声が疫鬼(えきき)たちの声だったということをさとった。  そこで水柵を越えて舟を漕ぎのぼり、東南四、五里さきの岸まで行って、ゆうべの疫鬼たちがいっていたような舟が来るかどうか待ち受けていると、やがて一艘(そう)の舟がくだって来たので、呼びとめてたずねた。 「妙なことをおききしますが、その舟には紅い食器が二組と酒壺が五つ六つないでしょうか」  するとその舟の人はひどくおどろいて、 「どうしてそれをご存じなのです」  といった。  呉がわけを話すと、舟の人はいよいよおどろき、 「ありがとうございました。あなたが知らせてくださらなかったら、この舟に疫鬼を乗せて帰ることになったのだと思うと、ぞっとします。あの水柵の近くの家はわたしの娘婿の家で、婿は長いあいだ疫病にとりつかれていたのですが、このごろ少しよくなったときいて、これから様子を見に行くところだったのです。婿はもともと丈夫なたちで、それで命が助かったのですが、わたしの家の者はみな弱くて、もし疫鬼にとりつかれたらえらい目にあうところでした」  といい、舟に積んでいた酒や肉を、お礼にといって呉の舟へ積みかえて、早々に舟を漕ぎもどして行った。 宋『異聞総録』    一目五(いちもくご)先生  浙江(せつこう)地方に一目五先生と呼ばれている五匹づれの妖怪がいる。五匹のうち四匹には目がない。一匹だけが目を一つ持っていて、ほかの四匹はその目にたよってものを見るので、一目五先生というのである。  一目五先生は疫病が流行する年になるとあらわれる。五匹はいつもつながって歩き、人が眠っているところを見すまして、鼻でにおいをかぐ。一匹にかがれるとその人は病気になり、二匹、三匹、四匹と、かぐ数が多くなるにつれて病気は重くなり、五匹全部にかがれるとその人は死んでしまうのである。  四匹は一目先生のあとについてふらふらと歩き、勝手な行動はせずに、すべて一目先生の号令に従う。  銭(せん)某という人が浙江の旅籠(はたご)に泊ったとき、この一目五先生の行動をつぶさに見た。旅籠には大勢の客が泊っていたが、みんな眠ってしまって銭某だけが眠らずにいたとき、あかりが急に小さくしぼむのと同時に一目五先生が姿をあらわしたのである。  一匹が一人の客のにおいをかごうとすると、一目先生が、 「その男は善人だ。かいではいかん」  といった。別の一匹が別の客のにおいをかごうとすると、また一目先生がいった。 「それは福分(ふくぶん)のある男だ。かいではいかん」  ほかの一匹がほかの客のにおいをかごうとすると、また一目先生がいった。 「その男は悪人だ。かいではいかん」 「では先生、どれを食べましょうか」  四匹がそうきくと、先生は眠っている客のうちの二人を指さして、 「あれとあれがよい。あの二人は善いこともせず悪いこともせず、福も禄もない。食われるのを待っているようなものだ」  四匹の妖怪は目がないにもかかわらず、一目先生が指さした客の方へふらふらと歩み寄って行った。四匹が一人の客にむらがってにおいをかぎはじめると、一目先生も加わってかいだ。銭某が見ていると、客の鼻息が少しずつ弱くなっていくのにつれて、五匹の妖怪の腹が少しずつふくれあがっていくのだった。 清『子不語』    大青小青(だいせいしようせい)  廬江(ろこう)郡の耽(たん)県と樅陽(しようよう)県との境(さかい)一帯の山野には、大青小青というものが住んでいて、ときどき、かれらの泣き声が聞こえてくる。かれらは多いときには数十人も集まり、そのなかには大人も子供も男も女もいて、ちょうど葬式のときのような悲しそうな泣き声をあげる。  かれらの泣き声が聞こえてくると、近くの人々はその声の方へ走って行ってみるのだが、かれらの姿が見えることは滅多にない。だが、泣き声のしたあたりの家には、必ず不幸がおこるのである。泣き声が大きいときにはたいてい大家(たいけ)に不幸がおこり、小さいときには小さな家におこることが多いという。 六朝『捜神記』    刀労鬼(とうろうき)  臨川(りんせん)郡の山々には、刀労鬼というものが出没する。あらわれるのは必ず風雨の激しいときで、うなり声のような音をたてて人間に何かを吹きかける。それがあたると間もなく皮膚が腫れあがり、ひどい痛みに襲われる。  刀労鬼には雄(おす)と雌(めす)がいて、毒のまわりは雄の方が速い。雄に襲われたときは半日、雌に襲われたときは一晩で全身に毒がまわってしまう。だから、この地方の山にはいる人は、いつでもすぐ手当てができるように用意していなければならない。手当てが少しでも遅れると、襲われた人は死んでしまうのである。 六朝『捜神記』    山都(さんと)  廬江(ろこう)郡の高い山の中には、山都というものが住んでいる。顔かたちは人間に似ているが、身の丈(たけ)は四、五丈(じよう)もあり、男も女も裸で、何もまとっていない。いつも薄暗いところにいて、人間の姿を見るとすぐ逃げてしまう。魑魅魍魎(ちみもうりよう)のたぐいである。 六朝『捜神記』    国(かこく)  蜀(しよく)の西南の山中に、魑魅(ちみ)の一種らしい怪物が棲(す)んでいる。土地の人々はそれを国(かこく)と呼んでいるが、また馬化(ばか)ともいい、〓猿(かくえん)ともいう。身のたけは五尺くらい。形は猿に似ていて、人間のように歩き、また、よく走る。  この怪物は山林の繁みの中に身をひそめていて、山道を通る婦女を狙う。殊に、好んで美女を奪うのである。この地方の人々は、この怪物を防ぐために、山道を通るときには長い綱を持ち、みながそれにつかまって離れないようにして歩くのだが、それでもこの怪物は、いつのまにか一人あるいは二人の女をさらっていくのである。  かれらは人間の男と女のにおいをよくかぎわけて、決して男を取らない。女を取ると深山へつれて行って妻にするのだが、子を生まない女にはいつまでたっても帰ることをゆるさないので、十年もたつと、そういう女は形も心も自然にかれらに同化してしまって、再び里へ帰ろうとはしなくなる。  子を生んだ女は、その子といっしょに里へ帰らせるが、もしその子を育てないとその母は必ず死ぬので、みなおそれて養育をするが、子は成長すると普通の人間とかわらない人間になる。怪物の子であるそれらの人間は、楊(よう)という姓を名乗る。今日、蜀の西南地方に住んでいる人で楊という姓の者は、たいていこの怪物の子孫だといわれている。 六朝『捜神記』    鬼弾(きだん)  鬼弾は魍魎(もうりよう)の一種である。  永昌(えいしよう)郡不韋(ふい)県(雲南省)に、禁水(きんすい)と呼ばれている川がある。川には毒気があるので、十一月と十二月は渡ってもよいが、正月から十月までのあいだは渡ってはいけないとされている。もし強(し)いて渡れば病気になって死んでしまうという。  それは、毒気の水の中に悪いものがいて、形は見えないが、人の声に似た叫び声をあげ、水中から何かを吹きつけてくるからである。それが木にあたると木は折れるし、人にあたると肌が破れる。土地の人たちはこれを鬼弾と呼んでいる。  そこで、永昌郡では、管下に罪人が出ると、その者をこの川へつれて行って護岸工事をさせるのだが、みなこの鬼弾に何かを吹きつけられて肌が破れ、病気になって、十日もたたないうちに死んでしまうという。 六朝『捜神記』    山(さんそう)  山は魑魅(ちみ)の一種らしい。  南朝の宋の元嘉(げんか)年間のはじめのことである。富陽の王という男が、蟹(かに)を取るために川の中へ簗(やな)を仕掛けておいて翌朝見に行くと、長さ二尺くらいの棒切れがひっかかっていた。そのために簗が破れて、蟹は一匹もかかっていなかったのである。  そこで棒切れを岸へ放り捨て、簗の破れをつくろって帰ったが、翌朝行って見ると、例の棒切れがまたひっかかっていて、簗は破れていた。 「おかしいぞ。もしかするとこの棒切れは魑魅のたぐいかもしれぬ。いっそのこと焚いてしまおう」  王はそう思い、蟹を入れる籠(かご)の中へおし込んで、肩にひっかけて帰ってきた。すると、籠の中でがさがさという音がした。  ふりかえって見ると、棒切れはいつのまにか怪物に変っていた。顔は人間のようであり、躰(からだ)は猿に似、足は一本きりである。怪物は籠の中から王にいった。 「わたしは蟹が何よりの好物なので、あなたが仕掛けた簗を破ってみんな食ってしまいました。どうか、ご勘弁ください。もしわたしをゆるしてくださったら、きっとあなたのために大きな蟹が取れるようにしてあげます。わたしは山の神なのです」 「ゆるしてやるわけにはいかん」  と王はどなりつけた。 「おまえは、一度ならず二度まで、おれの商売道具の簗を破った。神だろうが何だろうが、そんなやつをゆるしてやることができるか。罪の報いと思って観念しろ」  怪物はしきりにゆるしを請うたが、王がどうしてもきかないとわかると、 「それでは、せめてあなたの名だけでもきかしてください」  といった。 「名をきいて、どうしようというのだ」 「ただ、ききたいだけです。教えてください」 「いやだ!」  王は怪物がいくらたのんでも承知しなかった。やがて王の家に近づくと、怪物は悲しげにいった。 「あなたはゆるしてもくださらず、名を教えてもくださらない。もう、どうすることもできません」  王は家へ帰るとすぐ、その怪物を籠ごと火の中へ投げ込んで焚いてしまった。  土地の人々は、このたぐいの怪物を山と呼んでいる。山は人の姓名を知ると、その人を傷つけることができると言い伝えられている。怪物が王の名をきこうとしたのも、王を傷つけて逃がれようとしてであったらしい。 六朝『捜神後記』    山〓(さんしよう) (一)  魑魅(ちみ)の一種に、山〓というのがいる。一本足で、踵がうしろ前についており、手足の指は三本ずつ。牡(おす)は山公(さんこう)といって、人間に会えば必ず銭をくれといい、牝(めす)は山姑(さんこ)といって、人間に会えば必ず紅(べに)・白粉(おしろい)をほしがる。この山〓は、嶺南(広東・広西省)の山にはどこにでもいて、大木の枝の上に巣をつくり、木でかこいをつくって食料をたくわえている。  唐の天宝(てんぽう)年間、北方から嶺南の山中へ行った旅人がいた。夜は虎に襲われる危険があるので、木の上で夜を明かそうと思ってよじのぼって行くと、上の方に牝の山〓がいた。旅人が木からすべり下りて再拝し、 「山姑さま、何なりと仰せのとおりにいたします」  というと、山姑は木の上から、 「何を持っているかね」  ときいた。旅人が紅と白粉を出すと、山姑は下りてきて、大よろこびをして受け取り、 「今夜はこの木の下でゆっくりおやすみ。何も心配することはないよ」  といい、また木の上の巣へもどって行った。  真夜中になると、旅人の寝ている木の下へ、二匹の虎が近づいてきた。旅人がぶるぶるふるえていると、山姑が木から下りてきて、手で虎を撫でながらいった。 「斑子(ぶ ち)よ、これはわたしのお客さんだから、あっちへ行っておしまい」  すると二匹の虎は立ち去って行った。  翌日、旅人が別れを告げると、山姑はていねいに挨拶をして旅人を送った。 唐『広異記』    山〓(さんしよう) (二)  天宝(てんぽう)の末年、劉薦(りゆうせん)という人が嶺南判官になった。ある日、部下を三、四人つれて山を歩いていると、不意に山〓があらわれたので、おどろいて、思わず、 「化物(ばけもの)!」  と叫んだ。すると山〓は怒って、 「おい、劉判官! おれは勝手に遊んでいるだけで、何もおまえに迷惑をかけたわけでもないのに、よくもおれを化物呼ばわりしたな」  というなり、木にのぼって枝の上に立ちあがり、 「斑子(ぶ ち)よ」  と呼んだ。すると、どこからか虎があらわれて一声吼(ほ)えた。山〓はその虎に、 「そいつを捕えよ」  といって、劉薦を指さした。劉薦は肝をつぶし、馬に鞭(むち)をあてて逃げだしたが、虎はたちまち追いつき、劉薦を地面にたたき落して前肢(まえあし)でおさえつけた。すると山〓はせせら笑って、 「おい、劉判官。これでもまだおれをばかにするか」  という。劉薦は生きた心地もない。部下の者が平伏して命乞いをすると、山〓はしばらくして、 「わる気があっていったことではなさそうだ。斑子、もうよい。行かせてやれ」  といった。すると虎は劉薦を放した。劉薦は恐怖のあまり半ば気絶していて、部下に助けられてようやく家に帰ったが、そのまま熱病にでもかかったようになって寝込んでしまい、数日間は起きあがることもできなかった。  その後、劉薦は人に会うごとに、山〓を怒らせてはならぬといって、この話をした。 唐『広異記』    炙(あぶ)り肉の怪  宋の文帝のとき、王徽之(おうきし)は交州の刺史を拝命して赴任する途中、宿に客が訪ねてきたので、酒と炙り肉をとりよせた。  ところが、その肉がかたく、いくら切ろうとしても切れないので、王徽之は腹を立てて床(ゆか)へ投げ捨てた。すると肉はたちまち王徽之自身の首に変った。 「この妖怪め!」  と剣を抜いて斬りつけようとすると、首は空中へ浮かびあがって、消えてしまった。  それきりでなにごともなかったが、王徽之は任地の交州に着くと間もなく死んでしまった。 六朝『異苑』    鏡のような眼  魏(ぎ)の黄初(こうしよ)年間のことである。ある人が馬に乗って頓邱(とんきゆう)の郊外を通りかかると、道のまんなかに妖しいものがころがっていた。兎のような形で、両眼は鏡のように光り、馬の前をとんだりはねたりして、進ませないのである。その人がおどろいて馬から落ちると、妖怪はおどりかかってきて、その人をおさえつけた。おそろしさのあまり、その人は気を失ってしまった。  だいぶんたってから正気にもどったが、そのときにはもう妖怪の姿はなかった。また馬に乗ってしばらく行くと、一人の男に追いついた。どこへ行くのかときいてみたところ、行き先が同じなので、ほっとして、 「ああ、よかった。いっしょに行きましょう」  といい、さっきの妖怪の話をした。するとその男は、 「わたしも道づれができて、よろこんでおります。夜のひとり道は気味のわるいものですからね。だが、あなたは馬で足が早いから、先に行ってください。わたしはあとからついて行きますから」  といった。しばらく行くと、男がきいた。 「あなたが見た妖怪というのは、どんな形をしていたんです?」 「形は兎のようで、二つの眼が鏡のように光っていて……」 「それじゃ、ちょっとふりかえって見てください」  その人がうしろからついてくる男をふりかえると、それはさっきの妖怪だった。あっとおどろいたとたん、妖怪は馬の上へ飛びあがったので、その人はまた馬からころげ落ちて気を失ってしまった。  その人の家族が、馬だけがもどってきたので不審に思い、さがしに行ったところ、道端に倒れているのを見つけた。家につれ帰ったが、その人はなかなか息をふきかえさず、一晩たってようやく正気にもどって、その妖怪のことを話したという。 六朝『捜神記』    琵琶(びわ)ならわたしも  呉(ご)の赤烏(せきう)三年のことである。句章(こうしよう)の百姓の楊度(ようたく)という者が、馬車で餘姚(よちよう)へ出かけたが、途中で日が暮れてきた。  馬をいそがせて行くと、道端に琵琶をかかえた少年が立っていて、馬車をとめた。乗せてほしいというので乗せてやったところ、少年はお礼にといって、琵琶を数十曲弾いてきかせた。楊度がいい気持になってきいていると、曲が終ったとたん、少年はたちまち悪鬼のような顔に変り、眼を怒(いか)らせ舌を吐いて楊度をおどし、姿を消してしまった。  楊度は生きた心地もなく、馬車をとばして三、四町行くと、こんどは道端に一人の老人がいて、さきの少年と同じように、車に乗せてくれといった。これも妖怪かもしれないと思い、楊度がためらっていると、老人は、 「あやしい者ではありません。疲れて、もう歩けないのです。どうか乗せてください」  といった。楊度は、いかにも老い疲れたようなその顔を見てあわれに思い、乗せてやった。老人はしきりに礼をいって、わたしは王戒という者ですと、自ら名乗(なの)った。楊度が、 「じつは、さっき妖怪に出会って胆(きも)を冷やしたものですから、あなたまで疑って……」  というと、老人はいかにもおどろいたように、 「えっ? 妖怪ですって?」  といった。そして、 「どんな顔をしていました? なにをしたんですか?」  ときいた。 「妖怪とは知らずに乗せてやったところ、琵琶を弾きました。そして……」 「琵琶なら、わたしも弾きますよ」  そういったとたん、老人の顔は前の妖怪とそっくり同じ顔に変ってしまった。楊度はあっと叫んで、気を失ってしまった。 六朝『捜神記』    凶 宅  襄城(じようじよう)の李頤(りい)は、後に湘東(しようとう)の太守になった人であるが、幼いときから全くの孤児であった。  李頤の父は少しも怪異を信じない人で、住めば必ず死ぬといい伝えられている凶宅があると聞き、買って移り住んだ。だが、何年も平穏無事だったばかりか、子孫も栄え、官位も昇って郡の太守に任命された。  そこで任地へ行くために家を引きはらうことになり、親類縁者を招いて別れの宴を開いた。彼はその席上でいった。 「世の中に吉凶などというものは、もともとないのだ。この家にしても、むかしから凶宅といわれていたのだが、多年住んでいたけれども何ごともおこらなかったばかりか、家はますます繁昌して、わたしは栄転することにさえなった。怪異などというものがこの世にあるはずはないのだ。この家は凶宅どころか、吉宅だったともいえよう。わたしたちが引きはらったあと、みなさんの中でここに住みたい人があったら勝手にお住みなさい。いらざる疑いを抱(いだ)くのはおろかなことだ」  そういってから、彼は便所へ行った。すると、便所の壁の中から蓆(むしろ)を巻いたような奇妙な形のものがあらわれた。五尺ほどの長さの、真っ白なものだった。彼は引き返して刀を持って行き、それを真っ二つに切った。するとそれは二つに分かれて二人の人間に変った。そこで横に切り払うと、こんどは四人の人間に変った。その四人は刀を奪い取って彼を斬り殺し、宴席へ乱入して家族の者をも片っぱしから斬り殺した。こうして李姓の者は一人残らず殺されてしまったが、他の姓の者はみな無事だったのである。  李頤はこのとき、まだ一人歩きのできない幼児で、宴席にはいなかった。家の中に変事がおこったのを知った乳母が李頤を抱きかかえ、裏門から逃げて他家にかくれたために李頤は難をのがれることができたのであった。 六朝『捜神後記』    山中の怪  南朝の宋の元嘉(げんか)元年のことである。南康県の区敬之(おうけいし)という者が息子と二人で小舟に乗って漁に出、県城から川をさかのぼって小さな谷川の奥深くまで行った。そのあたりは人跡未踏の山の中であった。日が暮れて来たので岸へあがり、小屋掛けをして泊った。  ところが敬之は夜中に急に気分がわるくなり、息子がろくに看病をする間(ま)もないうちに死んでしまったのである。息子はどうする術(すべ)もなく、とにかく夜が明けるまでと、焚火(たきび)をしながら遺体の番をしていた。すると、遠くの方から泣き声が聞こえてきた。しばらくすると、 「おじさんよう」  と呼ぶ声も聞こえてきた。息子がびっくりしてあたりを見まわすと、その声の主(ぬし)はもう傍まで来ていた。それは人間の姿をしてはいるものの、背が高く、髪の毛は乱れたままで足もとまで垂れさがっていて、目も鼻も口もわからない怪物であった。怪物はその見えない口から声を出して息子の名を呼び、そして悔(くや)みをいった。息子は恐ろしくてならず、あるだけの薪をくべて火の勢いを強くした。すると怪物は、 「わざわざお悔みに来てやったのに、いったい何がこわくてそんなに火を燃やすのだね」  といいながら、死体の枕もとに坐り込んで、また泣きだした。息子が焚火のあかりで怪物の様子をうかがっていると、やがて怪物は泣きながら、髪の毛で覆われたその顔を死体の顔へ覆いかぶせた。同時に死体の顔が裂けて骨があらわれた。息子は恐怖にうちふるえながらも怪物に打ちかかろうとしたが、躰(からだ)が動かないのだった。そのうちに父の死体は骨がつながっているだけになって、皮も肉もすっかりなくなっていた。  この怪物が何であるかは、いまだにわからない。区敬之の息子が帰って来たことから見ると、この怪物は生きている人間に対しては何もすることができないようである。 六朝『述異記』    駅舎の怪  孟不疑(もうふぎ)という挙人(きよじん)がいた。昭義(しようぎ)の地を旅していて、ある駅舎に泊ったときのことである。  夕方、駅舎にはいって、足をすすごうとしていると、〓青(しせい)の張(ちよう)という役人が大勢の供をつれて乗り込んできた。孟不疑は張を高官と見て挨拶をしたが、張は酒気を帯びた顔をちょっと向けただけで、無視して挨拶を返しもしない。孟不疑は腹がたってならなかったが、抗(あらが)うこともできず、そのまま割りあてられた部屋へはいって休んだ。  張の部屋は孟不疑の部屋の隣りだった。張は酔った勢いで、しきりに威張り散らしている。大声で駅舎の役人を呼びつけ、 「焼餅(シヤオピン)を持って来い!」  などとどなっているのだった。横暴なやつだ、と孟不疑はいよいよ不快をつのらせながら、そっとのぞいて見ると、しばらくして駅舎の下男が焼餅を盛った大きな皿を運んで来た。ところが、その皿の下に、影のような黒いものが皿といっしょに動いているのが見えた。その黒いものは豚のような形だったが、燈火の下まで来ると消えてしまった。張はそれに気づいていない様子だったが、孟不疑はその黒いものが消えた瞬間、にわかに恐怖をおぼえた。  その恐怖のために孟不疑はなかなか眠ることができなかったが、隣りの部屋からは高鼾(たかいびき)が聞こえて来た。供の者はみな遠くの部屋へ引きとっていて、その部屋には張が一人で寝ていたのである。高鼾はつづいていた。孟不疑は三更(十二時)ごろまで眠れずにいたが、やがて疲れてうとうとしたかと思ったとき、ただならぬ物音が聞こえてきて眼をさました。そっと隣りの部屋をのぞいて見ると、張が黒衣の男と取組(とつく)みあいをしているのだった。取組んだままで倒れてころげまわったり、離れて殴りあったり、馬乗りになって殴りつけたり、殴られたり、張と黒衣の男と、どちらがどちらともわからぬほどの激しい格闘がつづいているのだった。息を殺して成りゆきを見守っていると、やがて張がざんばら髪で諸肌(もろはだ)ぬぎのまま、どたりと寝台の上へ倒れ込んだ。いかにも疲れ切った様子だったが、しばらくするとまた高鼾をかいて張は眠ってしまった。黒衣の男はいつどこへ行ってしまったのか、いくらのぞき込んでも姿が見えなかった。  夜が明けそめるころになっても孟不疑は眠ることができなかった。と、隣りの部屋でごとごとと音がした。気になってならず、またのぞいて見ると、張が髪を梳(くしけ)ずり衣服をととのえているところだった。それがすむと張は、戸口のところへ行って大声で、 「誰かおらんか」  と呼んだ。すると駅舎の下男がやって来て、 「もう、お立ちで? お食事は?」  ときいた。張はそれには答えずに、 「隣りの部屋の人は、孟とかいったな」  といい、 「もう起きているようだ。昨夜は酔っていて失礼したので、おわびをしたいのだが……」  というのだった。 「お呼びしましょうか」 「うん、わしがこちらでいっしょに食事をしたいといっていると伝えてくれ。そして、すぐ食事を二人ぶん持って来てくれ」  孟不疑はそれを聞きながら、昨夜のあの騒ぎは何だったのだろう、と考えなおした。眠らなかったはずだが、実(じつ)はずっと眠っていて、あれは夢だったのだろうか、とも思った。  下男が呼びに来たので、張の部屋へはいって行くと、張はていねいに挨拶をした。 「昨夜は酔っておりましたので、同宿のご挨拶もせず、はなはだ失礼いたしました。おそらく無礼(ぶれい)なやつと内心お咎(とが)めになったことと思いますが、おゆるしください」  食事が運ばれてくると、張は親しげにいっしょに箸(はし)をとりながら、 「まだ、ほかにもおわびしなければならないことがあります。夜中には、甚だお恥かしいところをごらんに入れました。騒がしくておやすみになれなかったのではないでしょうか。もしそうでしたら、おゆるしください。それに、あのことはどうかご内分にしてくださいますよう」  というのだった。 「内分にしろとおっしゃるのなら他言はいたしませんが、あれはいったい何だったのですか」 「あの黒衣の男ですか。あれは妖怪なのです。この駅舎にはときどきあらわれるのですが、昨夜打ちのめしてやりましたので、今後はもうあらわれることはないでしょう。わたしが酔っておりましたのも、実は妖怪に隙(すき)を見せて引き寄せるためだったのです。はたして妖怪はわたしを組(くみ)しやすしと見てあらわれました。ご内分にとお願いしましたのは、世間を騒がせたくないからです。……ところで、すぐお立ちですか」 「そのつもりです」 「わたしも間もなく立ちますが、わたしにはおかまいなく、どうぞ先にお立ちください」  別れるとき張は、靴の中から金の延べ板を一枚取り出して孟不疑に手渡し、 「昨夜のあのことは、くれぐれもご内分に……」  と念をおした。  孟不疑はどうも解(げ)せないところがあって気持がすっきりしなかったが、張に別れて駅舎を立った。まだ明け切らない道を歩いて行くと、四、五里ほど行ったところで役人たちが立ち騒いでいるのに出会った。 「何かあったのですか」  ときくと、 「人殺しですよ。この先の駅舎で、〓青の張という評事(ひようじ)が殺されたのです」  という。おどろいてさらにくわしくきくと、およそ次のようなことがわかった。  孟不疑が駅舎を出たあと、張の供の者たちは出発の用意をととのえ、馬を引いて行って張を乗せ、その前後を護って出発した。しばらく行ってから供の一人が、馬だけが歩いていて馬上には張がいないことに気づき、大騒ぎになった。供の者たちが急いで駅舎へ引返して見ると、張が泊っていた部屋の寝台の上に骸骨(がいこつ)が横たわっていた。骨には全く肉がついておらず、寝台の上にもどこにも血は流れていなかった。ただ寝台の下に靴が一足ころがっていたが、それが張評事のはいていた靴だったので、骸骨が張の遺骨であることがわかったという。  茫然としている孟不疑にむかって、役人の一人がひそかにいった。 「あの駅舎には、ときどきこんなことがおこるのですよ。泊った者が、朝になると骨だけになってしまっているということが——。その妖怪の正体は、いまだにわからないのです」 唐『酉陽雑俎』    人面瘡  数十年前のことである。江東のある商人の左の腕に、不思議な腫(は)れものが出来た。  その腫れものは人間の顔にそっくりで、目鼻もあれば口もあった。しかし腕には何の痛みもなかった。あるとき、たわむれにその腫れものの口へ酒を垂らし込んでみたところ、いくらでも吸い込み、やがて腫れものの顔は酔ったように赤くなってしまった。食べ物をやると、何でもみな食べた。だが、やがて二の腕が腹のようにふくらんでくると、腫れものは口をつぐんだ。それ以来、何も食べさせずにいると腕がしびれて動かなくなった。  その商人は、道士に見せたり医者に見せたりしたが、誰もみな気味わるがって首をふるだけで、手のほどこしようがなかった。ある道士は、何かの妖怪が毛穴からはいり込んで住みついてしまったのだろうといい、妖魔退散の祈祷(きとう)をしたが、何のききめもなかった。たまたま、名医のほまれ高い医者が、 「金石草木のたぐいを片っぱしから食べさせてみるがよい」  といった。そこで毎日四、五種類ずつ、さまざまな物を食べさせてみたが、どんな物でもみな食べてしまうのだった。ところが、ある日、貝母(ばいも)という草を食べさせてみたところ、その腫れものは眉をしかめ口を閉じて、どうしても食べようとしなかった。そこでその商人は、葦(あし)の管(くだ)を腫れものの口へねじ込んで貝母のしぼり汁をそそぎ込んだところ、数日たつと腫れものの顔はくしゃくしゃにつぶれてしまって、目鼻もわからないただのかさぶたになってしまった。そのかさぶたを引きはがしてみたところ、腕には何のあともなかったという。 唐『酉陽雑俎』    茶店の嫁  貞観年間のことである。王申(おうしん)という人が、望苑(ぼうえん)駅の西の道端の楡(にれ)の林の中に小屋を建てて、茶店を開いていた。  王申には十三になる息子がいたが、ある日、その息子が、 「若い娘さんが、道端で水を欲しがっているよ」  というので、王申は店へ呼び入れさせた。見れば女はまだ十五、六で、碧色の衣裳を着、白い頭巾をつけている。王申がその白い頭巾を見てわけをきこうとすると、女は自分から、 「わたしはここから十里あまり南の者ですが、夫に死なれて子供はなく、もう喪(も)明けの祭りもすませましたので、これから馬嵬(ばかい)へ行って、親戚の厄介になるつもりです」  といった。なかなか可愛い顔をして、言葉つきもはきはきしているので、王申はひきとめて食事を出してやり、 「やがてもう日が暮れるから、今夜はここに泊まって、あしたの朝出かけたらどうです」  とすすめると、女はよろこんでそれに従った。王申の妻が、女を自分の部屋へつれて行ってもてなしながら、 「わたしにも、あなたのような娘がいるといいのだけど……」  というと、女は笑って、 「針仕事でもありましたら、させてくださいません?」  といった。そこで、ちょっとした繕(つくろ)いものを出すと、女は器用な針さばきでたちまちのうちに綺麗(きれい)に繕ってしまったので、王申の妻は女が一層気に入ってしまい、冗談半分に、 「あなた、うちの息子のお嫁さんになってくれないかしら」  というと、女は顔を赤らめて、 「よるべのない身ですから、お勝手仕事ぐらいならよろこんでさせていただきます」  といった。  妻からそのことをきいた王申は、女に念をおした上で、自分で町へ行って晴れ着を借り、祝い酒を買ってきて、その夜さっそく嫁とりの式をした。  式がすんで、息子と女は部屋へ引きとって行ったが、夜中になって王申の妻は、 「ああ、食べつくされてしまう!」  という息子の苦しそうな声をきいたような気がした。おどろいて王申をゆすぶりおこし、そのことを話したが、王申が、 「あいつ、いい嫁さんをもらって、うれし泣きをしているんだよ」  というので、また眠ってしまったが、こんどは王申が同じ声をきき、 「あれはうれし泣きじゃない。ただごとではなさそうな声だ」  というので、夫婦で息子の部屋の前へ行って気配をうかがった。ところが、何の物音もしない。声をかけたが返事もない。扉をあけようとしたが、鍵がかかっているらしく、どうしても開かないので、いよいよあやしんで叩きこわしにかかった。すると扉が裂けてわずかに隙間ができた途端、円い眼をして乱杙歯(らんぐいば)をむき出した藍色(あいいろ)の怪物が部屋の中から飛び出し、二人を突き飛ばして逃げて行った。  部屋の中へはいって、あかりで寝台の上を照らして見ると、息子は頭の骨と髪の毛だけを残してすっかり食いつくされていた。 唐『酉陽雑俎』    靴を食う妖怪  楚丘(そきゆう)県の主簿に、王無有(おうむゆう)という人がいた。妻は美人で、無有は気に入っていたが、ひどいやきもち焼きだった。  あるとき、無有は病気で寝ていたが、便所へ行きたくなり、一人では心もとなかったので女中についてこさせようとしたところ、妻はやきもちを焼いて、 「便所ぐらい、一人でいらっしゃい」  といった。無有が一人で行くと、便所には一人の男が向うむきにしゃがんでいた。色の黒い、立派な体格の男だった。無有は人夫だろうと思って、別に怪しみもしなかった。と、その男がこちらをふり向いた。眼はくぼみ、鼻は高くとがり、口は虎のように大きく、鳥のような鋭い爪の手をのばして、 「おまえさんの靴をくれ」  といった。無有がおどろいて立ちすくんでいると、その妖怪はいきなり無有の片方の靴をひったくって口へ入れ、むしゃむしゃと噛みだした。噛むと靴から血が流れて、まるで肉を食っているように見えた。妖怪はたちまち靴を食いつくしてしまった。  無有は逃げもどって妻にそのことを話し、 「おまえが、わたしを一人で行かせたからだ」  と怨んだ。妻は信じなかったが、無有が真剣な顔をしていうので、いっしょに便所へ行って見ることにした。  無有が便所にはいると、さっきの妖怪がまたあらわれ、手をのばして無有の残っていた片方の靴をひったくるなり、血をしたたらせながら食いつくしてしまった。妻はおそろしくなり、無有を抱きかかえるようにして、いっしょに逃げ帰った。  その後、無有は小康を得て、裏庭へ出てみた。するとまた、あの便所にいた妖怪があらわれて、 「返してやるぞ」  といって、靴を足もとへ投げてよこした。見れば靴は、少しも傷んではいなかった。  無有はいよいよおそろしくなり、巫女(み こ)を呼んで厄払いをしてもらった。するとまた妖怪があらわれて、巫女にいった。 「王主簿の寿命は、もうじき尽きる。あと百日じゃ。早く郷里へ帰らぬと、異郷の地で死ぬことになるぞ」  そこで無有は郷里へ帰ったが、妖怪のいったとおり、百日目に死んだ。 唐『紀聞』    雌黄(しおう)  少保(しようほ)の馬亮公(ばりようこう)がまだ若かったときのことである。  ある夜、燈下で書物を読んでいると、窓から、不意に扇(おうぎ)のような大きな掌が、ぬっと出てきた。馬亮公が知らぬ顔をして書物を読みつづけていると、いつの間にかその掌は引っ込んでしまっていた。  その大きな掌は翌日の夜、また出てきた。馬亮公が筆に雌黄(注)の水をひたして、その掌に大きく自分の書き判を書くと、窓の外では掌を引っ込めることができなくなったらしく、大声で、 「早く洗いおとしてくれ。さもないと、おまえのためにならんぞ」  と叫ぶのがきこえた。馬亮公はかまわずにそのまま寝てしまったが、外ではしきりに、 「洗ってくれ、洗ってくれ」  と叫びつづけている。それでもなおかまわずにいると、外の声は明け方になるにつれてだんだん弱ってきて、ついには哀願しだした。 「あなたはいまに出身なさるお方なので、ちょっといたずらをして、あなたの度胸をためしてみただけなのです。わたしをこんな目にあわせるのは、ひどすぎはしませんか。もう、いいかげんにゆるしてください。お願いします」  馬亮公はもう十分にこらしめたと思い、その掌に書いた字を水で洗いおとしてやった。すると掌は次第に縮んで消えていった。  その掌がいったとおり、馬亮公は後に出身して少保の高官にのぼった。 宋『異聞総録』  (注)「雌黄」は硫黄と砒素との混合した黄土で、薬用にしたり顔料(えのぐ)にしたりした。黄紙に字を書いた時代、誤写したときには「雌黄」で塗りつぶして、その上に改めて書いた。言論を改変することを「口中雌黄(こうちゆうのしおう)」というのはこのためである。   驢馬に乗った女  天津(てんしん)の挙人の某が、清明節(陽暦四月五日前後の節句)のとき、四、五人の友人といっしょに馬で郊外へ遊びに出かけた。軽薄な連中で、柳の木の下を若い女が驢馬に乗って行くのを見かけると、女に連れがないのをよいことに、追いかけて行ってからかったりふざけたりした。だが、女は一言も相手にならず、驢馬に鞭(むち)をあてて逃げだした。  ところが、二、三人の者が追いつくと、女は驢馬から下り、笑顔で応じながら、ふざけあいだしたのである。  某はそれを見て、「ものになりそうだぞ」といい、三、四人の仲間といっしょに馬を走らせてそこへ行き、声をかけようとして女を見ると、なんとそれは自分の妻だった。 「ばか! 何をしに来たんだ」  とどなると、妻は、 「遊びに来たのよ。あなたもでしょう?」  といい、それきり夫を無視し、その友人たちと軽口をたたいて、ふざけあっている。某がかっとなって殴りつけようとすると、妻はひらりと驢馬にとび乗って、 「他人の妻だとふざけ、自分の妻だと怒るのね」  といった。見ればそれは妻ではなく、もう別人の姿に変っていた。茫然としている某に、女は鞭をつきつけていいつづけた。 「聖賢の書物を読んでいながら、なにもわかっていないのね。書物を読むのは試験に合格するためだけで、することはあさましいことばかり。少しは恥を知りなさい」  そういい捨てると、驢馬の首を転じて行ってしまった。某は死人のように顔色が土気色になり、そこに立ちすくんだまま動くこともできなかった。仲間たちもみな同じだった。  それがなんという妖怪だったのかは、ついにわからなかった。 清『閲微草堂筆記』    泥濘(でいねい)十里  交河(こうが)のある村に、女好きな若者がいた。道で隣村のある女房に行きあったので、立ちどまってじっと見つめていると、にっこり笑ったので、口説(くど)こうとしたが、うしろからその女の家の者がついてきたので、あきらめて家に帰った。  それから幾日かたったとき、また道でその女に出会った。こんどは女は牛に乗っていて、ふり向いて笑顔を見せたので、若者は大いによろこび、牛のあとをつけて行った。長雨のあとで水溜りがあちこちにあったが、牛はじゃぶじゃぶと足ばやにその中を歩いて行くので、若者はなかなか追いつけず、再三水溜りに足を取られてころんだりしながら、ようやく女の家の門口まで行ったときには、躰(からだ)じゅうがずぶ濡れになっていた。  門口で女が牛から下りると、その姿が不意に変った。眼をこらして見ると、意外にもそれは老人だった。おどろき怪(あや)しんでいる若者に、老人は、 「そこでなにをしているんだね」  といった、 「躰じゅう泥だらけになって、どうしたんだね」  若者は返事のしようがなく、 「路に迷ってしまいまして」  というなり、あたふたとその家の前から逃げ帰った。  翌日、若者の家の前の柳の老木の皮が三尺あまり削られていて、そこに墨痕(ぼつこん)あざやかに次のように大書してあるのを若者は見た。 「ひそかに貞婦をうかがいし罰として、泥濘を十里歩かしむるものなり」  若者はそれを読んではじめて、妖怪に愚弄されたことをさとった。 清『閲微草堂筆記』    女の首  杭(こう)郡の周(しゆう)という人が、友人の陳(ちん)某といっしょに揚州府(ようしゆうふ)に遊び、ある豪族の屋敷に泊った。  初秋で、まだ残暑がきびしく、寝苦しい夜がつづいたので、主人にその旨をいうと、学舎ならあいているから移ってもよいということであった。  学舎は屋敷の西園にあって、山を背にし池に面していたので、そこへ移ってからは安眠することができた。  ある夜、二人は月光に誘われて西園を散歩し、二更(十時)ごろ学舎に戻って寝た。すると、まどろみかけたころ、外に靴の音がして、 春の花散りて空しく 秋の月そぞろに寂し 眺むれば巫山(ふざん)遥かに 哀れ身は朽ちはてつ  と歌うのが聞こえてきた。周は、主人が散歩しているのだろうかと思ったが、声がちがうように思われた。着物をひっかけてのぞいて見ると、月光の下に一人の美女がたたずんでいた。周が声をひそめて、 「世間でいう鬼魅(きみ)ではなかろうか」  というと、陳が、 「あんな美女なら、妖怪だってかまわないよ」  といい、周がとめるのもきかずに声をかけた。 「そこにいる美しいお嬢さん、はいって来て話をしませんか」  すると女が答えた。 「女のわたしにはいって来いとおっしゃるのですか。あなたは外へ出られませんの?」  陳は後(しり)ごみする周を引っぱって、戸をあけて外へ出た。ところが、女はもういなくなっていた。 「どこへ行ったのです」  と呼ぶと、 「こちらよ」  という声が返ってきたが、姿は見えない。 「どこです」 「こちらよ」  声を追って行くと、林の中にいるようである。林へはいって行ってさがすと、柳の木の枝に女の首がさかさまにかかっているのが見えた。二人はそれを見たとたん「あっ!」と声をあげて、ほとんど気を失いそうになった。そのとき、どさっという音がして、女の首が地面に落ちた。同時に首はぴょんぴょんと跳ねながら二人を追って来た。二人は必死の思いで逃げ、ようやく部屋へころがり込んでふり向くと、首はすぐ近くまで迫って来ていた。急いで戸を締め、かんぬきをかけると、どすん、どすんという鈍い音がして、そのたびに戸がゆれ動いた。首が戸にぶつかっている音のようであった。二人が力をふりしぼって戸を押しつけていると、こんどはがりがりという音をたてて首は戸をかじりはじめた。その音は戸を押しつけている二人の手にひびいた。  そのとき、不意に鶏が晨(とき)をつくった。すると戸をかじる音がやんだ。二人が隙間からのぞいて見ると、首がぴょんぴょんと跳ねながら戻って行くのが見えた。首は林の方へは行かず、まっすぐに跳ねて行って、そのまま池の中へ跳び込んでしまったらしく、どぶんという水音が聞こえてきた。  長い夜があけた。二人は池へも林へも行って見ようとはせず、急いで学舎からもとの部屋へ移ったが、二人ともその日から五、六十日間、瘧病(おこり)の発作になやまされつづけた。 清『子不語』    死骸の頭  于七(うしち)の乱(注)のとき、官軍の剿滅(そうめつ)ぶりは残虐をきわめた。人を見ればみさかいなく、麻を断つようにたたき殺したという。  棲霞(せいか)県の李化竜(りかりゆう)は難を避けて山から逃げる道で、夜、官軍の大軍に出会い、かくれるところもないまま、死骸の群れのあいだに身を伏せて死体のふりをし、官軍をやりすごした。  官軍が通りすぎてしまっても、なおしばらくは起きあがれずにいると、前後左右の、頭のない死骸や腕のない死骸がつぎつぎに起きあがって林のように立ち並び、その中の、首を斬られながらも断ち斬られずにその首が肩の下にぶらさがっている死骸が、口の中で、 「脳味噌取りが来た、どうしよう」  とつぶやくのが聞こえた。すると、ほかの死骸もみな口々に、 「どうしよう、どうしよう」  とつぶやき、そして起きあがったときと同じように、またつぎつぎに倒れて、あとはしんと静まりかえってしまった。李化竜がおそろしさに身をふるわせながら、躰(からだ)をおこして逃れようとしたとき、何者かが近寄って来る足音がした。そっと眼を上げて見ると、それは、顔は獣で躰は人間の妖怪だった。妖怪はかがみこんで死骸の頭を噛み割っては、その脳味噌をすすっているのだった。  李化竜は生きた心地もないまま、咄嗟(とつさ)に傍の死体の腹の下へ頭をもぐりこませた。妖怪は間もなく傍に来て、足で李化竜の肩のあたりをはね上げた。だが、それでも頭が出て来ないと、こんどは、おおいかぶさっている死体をおしのけた。李化竜はそのとき、椀(わん)ほどの大きさの石をさぐりあててそれを握り、妖怪が頭にかじりつこうとしてかがみこんだとき、大声でわめきながら起きあがって無我夢中で妖怪に打ちかかった。そのとき手に持っていた石がちょうど妖怪の口にあたったのである。妖怪は梟(ふくろう)のような声をあげ、口をおおいながら逃げて行った。  逃げながら妖怪は血のかたまりを吐いた。その血の中には歯が二本まじっていた。先がとがり、中ほどが彎曲している長さ四寸(すん)あまりの歯だった。李化竜はそれを持ち帰って人々に見せたが、その妖怪がどういう妖怪であるかは誰にもわからなかったという。 清『聊斎志異』  (注)于七の乱は、清初に頻発した漢民族の排満興漢の乱の一つで、順治十八年(一六六一)、山東省棲霞県の于小喜(うしようき)が〓嵎(きよぐう)山に拠っておこした反乱だが、この乱は、清軍の剿滅ぶりの残虐だったことを以て特に知られる。   人間の皮  太原の王という書生が、朝早く散歩に出たところ、まだ人通りのない道を、包みをかかえた娘が一人で歩いて行くのを見かけた。纏足(てんそく)で、いかにも歩きにくそうな足どりなので、王はすぐ追いついてしまった。見れば十五、六歳の美人である。 「こんな時刻に、どうして一人で歩いているのです? 何かわけが……」  と声をかけると、女は、 「行きずりの女に、なぜそんなことをおたずねになるのです? わたしのなやみを解いてくださるわけでもないでしょうに」  といった。 「なんですか、そのなやみというのは。わたしにできることなら、お力になりますよ」  王がそういうと、女は顔をくもらせて、 「親がお金に困って、去年わたしを金持の家へお妾(めかけ)に売ったのです。ところが奥さんがひどい嫉妬(やきもち)やきで、朝から晩までわたしはどなられどおし、叩(たた)かれどおしで、もうどうにも辛抱ができなくなって逃げ出して来たのですけど……」  といって涙ぐんだ。 「どこへ逃げるつもりなのです? ご両親のところへ?」 「親のところへ行ったら、すぐつかまってしまいますわ。逃げて行くところがあれば、なにも、なやんだりするわけはないじゃありませんか」 「いかにもそうだ。あなたが逃げたことがわかったら、その家ではすぐ追手を出してさがしまわるでしょう。わたしの家へいらっしゃいませんか。かくまってあげましょう。家はすぐそこなのです」  王がそういうと、女はぱっと明るい顔になって、 「まあ、うれしい。まさかここで、あなたのような親切な方に出会えるなんて……。夢じゃないんでしょうね」  といった。  王は女の包みを持ち、女の足にあわせてゆっくり歩いて、奥庭にある書院へつれて行った。女はそこに誰もいないのを見て、 「ご家族はいらっしゃらないの?」  ときいた。 「ここは書院だから、家族の者は来ない。追手もまさかここにあなたがいるとは思うまい」 「そうね、ここなら安心だわ。もしわたしを不憫(ふびん)に思ってお世話してくださるのでしたら、内証にして、世間の人にはいわないでくださいね」 「いいとも、そうしよう」  と王がいうと、女は「うれしいわ」といい、むしろ女の方から誘うようにして二人はいっしょに寝た。女は王を驚喜させた。雨がやみ雲がおさまって王が女をほめると、女は「あなたのせいだわ」といった。  翌日、王は妻の陳(ちん)氏に女のことを話した。すると陳氏は、 「どこの家にいた人なのでしょう」  ときき返した。 「それはいわないのだ。金持の家だとしか」 「なぜいわないのでしょう。もし王族とか大官とかのお妾さんだったら、あなたが盗んだということになって大事(おおごと)になるかもしれません。折りを見てお出しになった方がいいのではないかしら」  陳氏はそういって出すようにすすめたが、王はきかなかった。  十日ほどたったとき、王は町で一人の道士に出会った。道士は王を見るとはっと驚いた様子で、 「何があったのですか」  ときいた。 「え? 別に何も」  と王が答えると、道士は、 「いや。あなたの躰(からだ)には邪気がまつわりついている。何もなかったはずはない」  と断言した。王が腹をたてて、 「何もないといっているのに、なぜそんなことをいうんです」  といい返すと、道士は頭を振りながら立ち去ったが、歩きながらつぶやく声が王の耳に聞こえてきた。 「すっかりまどわされている。命が旦夕(たんせき)に迫っているというのに、悟らぬ者がおるとは!」  王はちょっと女を疑ってみたが、ばかな、そんなはずがあるものか、と思い返した。たぶんあの道士のやつは、厄払いをしてやろうとか何とかいって金をせしめようとしているのだ——。そんなことを思いながら家に帰り、書院の方へまわって行くと、門が内側から閉っていて、はいれない。不審に思い、垣根を乗り越えてはいって行くと、部屋の入口も内側から閉っていた。いよいよ不審に思い、窓の隙間から中をのぞいて見ると、鋸(のこぎり)のような歯をむき出しにした青い顔の妖怪が、寝台の上に人間の皮らしいものを広げ、絵筆で人間の女の姿かたちを描いているのだった。やがて描きおわると、妖怪は着物をはたくようにしてその皮をはたき、すっぽりと躰にかぶった。するとたちまち妖怪はあの女になり変ってしまったのである。  王は恐怖のあまり足が萎(な)えてしまい、這(は)って垣根の外へ出た。門の外で一息ついて気をとりなおし、町へあの道士をさがしに行った。あちこちをたずねまわった末、ようやく城外の野原で見かけたので、かけ寄って行ってその前にひざまずき、叩頭(こうとう)して、 「お助けください!」  と叫んだ。すると道士は、 「よろしい。追い払ってあげよう。だが、あいつも可哀そうなやつでな、わしはあいつの命まで奪ってしまうことは可哀そうで出来ぬのだよ」  といい、持っていた払子(ほつす)を王に渡して、 「これを寝室の戸に掛けておくがよい。そうすればあいつを追い払うことができるよ」  というなり、さっさと立ち去って行った。  王は払子を抱くようにして家に帰ったが、書院へはいる勇気はない。そこでおもやの寝室で寝ることにして、その戸口に払子を掛けておいた。  初更(しよこう)(八時)ごろ、門の外に物音がきこえた。王は自分でのぞく勇気がないので、妻の陳氏に、 「あの女かもしれぬ。そっと見てくれ」  とたのんだ。陳氏は戸を少しあけて、隙間からのぞき、 「やっぱり、あの女です」  といい、戸をぴったりと閉めた。やがて女の足音がきこえてきて、戸の前で立ちどまった。同時に歯ぎしりする音が鋭く聞こえて来た。つづいて、 「道士め、わたしをはいらせまいというのか」  という声が聞こえ、立ち去って行く足音がした。ところが、王がほっとしたのも束(つか)の間で、また足音が聞こえて来た。 「負けるものか。払子でわたしをおどしているつもりだろうが、もう、こわくはないぞ。せっかく口に入れたものを、おめおめと吐き出すようなわたしじゃないことを見せてくれよう」  そう叫ぶなり、女は払子を引きちぎって戸に投げつけた。同時に女は戸を蹴破って寝室の中へ飛び込んで来て、王の寝台にあがり、王があっと叫ぶよりも早く、王の腹を引き裂いて心臓をつかみ出し、立ちすくんでいる陳氏には眼もくれずに出て行ってしまった。  女が出て行ってから陳氏は我に返り、声を張りあげて、 「誰か来て!」  と叫んだ。下女がはいって来て蝋燭の光で照らして見ると、王はすでに死んでいた。腹から流れ出た血であたり一面は血の海になっている。陳氏は驚きと悲しみで、息もつまり、茫然としてただ涙を流しているだけであった。  やがて夜があけて来た。陳氏は王の弟の二郎(じろう)に知らせて、 「とにかく道士を呼んで来てください。もしかしたら、何とかしてくれるかもしれないから」  とたのんだ。  二郎につれられて来た道士は、部屋の中を見まわし、 「わしはあいつを不憫に思っていたのに、あいつめ、よくもこんなひどいことをしやがったな」  といい、しばらく四方をかぎまわるようにしてから、 「うん、あいつめ、まだこの近くにひそんでいやがる」  とつぶやき、陳氏に向って、 「奥さん、南の棟はどなたの住まいですか」  ときいた。 「わたしが住んでおりますが……」  と二郎がいうと、道士は、 「あいつはいま、あなたのところにおりますぞ」  といった。 「わたしのところに? 兄を殺した女がですか」 「そうです。誰か見知らぬ者があなたのところに来たはずですが……」 「さあ、わたしは朝早く青帝廟(せいていびよう)へお詣りに行っていて、帰ってきたところを嫂(あね)に呼びとめられてこのことを知ったわけで、まだ家へは帰っていないのです。すぐ帰って聞いてみましょう」  二郎はそういって走り出て行ったが、しばらくするともどって来て、 「おりました。今朝、わたしが家を出たあと、一人の老婆がやって来て、手伝いに雇ってほしいといったので、家内が引きとめておいたということです。まだ家におります」  といった。すると道士は、 「そうでしょう。そいつが妖怪なんです」  といい、おもやと南棟とのあいだの中庭へ行って、木剣を握りしめながら、 「妖怪め、わしの払子を返せ!」  と大声で呼ばわった。すると老婆が家の中で顔色を変えておろおろしだし、よろけながら中庭へ出て来た。道士が木剣で打つと、老婆はあっけなく倒れ、同時に人間の皮がガバッと剥がれて青い顔の妖怪に変り、地面をころげまわりながら豚のような声をあげて啼いた。道士が木剣でその首を打つと、妖怪の躰はたちまち濃い煙に変り、まるいかたまりになって地面を這いまわった。道士はそれを見つめながら袋から瓢箪を取り出し、口の栓(せん)を抜いて煙の中に置いた。すると、煙はするするとその口に吸い込まれていって、たちまちなくなってしまった。道士は瓢箪の口にまた栓をして、袋の中へ入れた。  人間の皮は地面に広がっているままだった。見れば、顔も手足も、胴も陰部も、すべて人間にそっくりであった。道士はそれを拾い上げて巻いた。巻くときには掛軸を巻くような音がした。道士はそれも袋の中へ入れると、 「これでもう、妖怪はあらわれません。では、これで……」  といって立ち去ろうとした。 「お待ちください」  陳氏が道士の袖にすがりつき、その前にうずくまって叩頭しながら、 「夫を生き返らせてくださいませ。何とでもして生き返らせてくださいませ。わたしの命にかえてでも生き返らせてくださいませ。道士さまにはそれがおできになるはずでございます。お願い申し上げます。どうかおききとどけくださいませ」  と泣いて訴えた。  道士はしばらく黙って考えているようだったが、やがて口を開いた。 「わしはまだまだ術が浅くて、死人を生き返らせることはできませんのじゃ。だが、ご主人がやつめに殺されなさったのは、わしの払子(ほつす)がやつめを防ぎとめることができなかったからともいえよう。それは奥さん、あなたが戸を薄目にあけたからでもあるのですぞ。そんなことはいまさらいったところで、どうにもならぬことだがな。とにかくわしには死人を生き返らせることはできぬのじゃ。じゃが、あなたのまごころにはわしも心を動かされた。わしのかわりに、よい人を教えてあげましょう。その人なら死人を生き返らせることもできるはずじゃ。行ってたのんでみなさるがよい。きっと何とかしてくれるでしょう」 「それは、どこのどういうお方なのでございますか」 「町に、きたない乞食がいる。どぶ泥の中で寝ていることがあるが、見かけたことはありませんかな。その乞食をたずねて行って、心からたのんでみなさるがよい。たとえその乞食がどんなことをいっても、どんなことをしても、奥さんをはずかしめるようなことがあっても、奥さん、怒ったり逆らったりしてはいけませんぞ」  二郎がその乞食のことは知っているといった。  陳氏は道士を門まで見送ると、すぐ二郎といっしょに町へ、その乞食に会いに出かけた。乞食は町で、何やらわけのわからない歌をうたったり、わあわあわめきちらしたりして、人々の顰蹙(ひんしゆく)を買っていた。泥のこびりついた顔で、洟汁(はなじる)を三尺も垂らしているので、誰も近寄らない。しかし陳氏はその乞食の前に膝をつき、膝で歩いて、 「お願い申し上げます」  といいながら進んで行った。すると乞食は笑っていった。 「おお、別嬪(べつぴん)の奥さん、どうしたんだね、おまえさんはこのおれに惚(ほ)れたんかね。いっしょに寝たいのかね」  陳氏が殺された夫を生き返らせてほしいといって、事の次第を話すと、乞食はいよいよ笑って、 「ばかなことをいいなさるな。亭主のかわりなんかいくらでもいる。生き返らせてどうするんだね。その亭主はほかの者より立派な持ちものを持っていて、それが恋しくてならんとでもいうのかね」  陳氏が首を振り、涙を流し、頭を地面に叩きつけてなおもたのむと、それまでは笑っていた乞食が急に怒りだして、 「いいかげんにしろ。死んだ人間を生き返らせるなんて、そんなことのできるやつなんかこの世にいるはずがなかろう。おまえはおれを乞食だと思って、ばかにしているのか。おれは閻魔(えんま)大王じゃない。ばかにするな」  と、どなりつけ、杖で陳氏を打った。陳氏は痛さをこらえて、杖を避けようともせず、なおも「お願いいたします、お願いいたします」とたのみつづける。人々が集まってきて、垣のようにとり巻いた。その中で乞食は、掌の上にいっぱいに痰を吐き、ひざまずいている陳氏の口さきへ掌を突き出して、 「これを嘗(な)めろ!」  といった。陳氏は吐き気がこみあがってくるのを我慢しながら、道士がいったことを思い返し、その痰を嘗めはじめた。痰をのどの中へ呑み込むと、それは何かのかたまりのようになり、つるつるとすべって行って胸のあたりでとまった。乞食は声をたてて笑い、 「別嬪さん、よほどおれが好きとみえるな。ここでいっしょに寝てやろうか。さあ、寝たけりゃここで裸になりな」  というのだった。さすがに陳氏がためらっていると、乞食は「ふん」と鼻を鳴らし、 「あばよ」  といって歩きだした。陳氏があわてて追って行くと、乞食はふり返りもせずにさっさと廟の中へはいって行った。陳氏は追いすがってなおもたのもうとしたが、どこへ行ってしまったのか見あたらない。廟の中をあちこちさがしまわったが、とうとう見つからず、陳氏は自らを恥じたり道士を怨んだりしながら二郎につれられて家に帰った。  きたない乞食の前にひれ伏して、その痰まで食べてしまった。いったい、わたしは何というあさましい、はずかしいことをしてしまったのだろう。あそこまであさましさ、はずかしさをさらした以上、乞食が裸になれといったとき、人垣の中で裸になったらよかったのかもしれない……。もう死んでしまおう、と陳氏は思った。  だが、その前にしなければならないことがある。夫の死骸を放りだしたままで死ぬわけにはいかない。  陳氏はまたそう思い返し、夫の死骸の血をぬぐって棺におさめようとした。下女たちは立ちすくんだまま、離れて見守っているだけで、手伝おうともしない。陳氏は妖怪が引きずり出した腸(はらわた)を手で夫の腹の中へおさめながら、わあわあと声をあげて泣いた。あまり泣いたためにむせ返り、吐き気をもよおした。それでも泣きつづけていると、胸から何かかたまったものがつきあげて来て、顔をそむける暇もなく、腸(はらわた)をおさめたばかりの夫の死骸の腹の上へ吐き出してしまった。  見ればそれは人間の心臓だった。それは夫の死骸の腹の裂け目へぬるぬるとはいって行った。そして腹の中でぴくぴくと動きだしたのである。動きだすと同時に、煙のように熱気がそこから立ちのぼった。陳氏は急いで両手で腹の皮をとじあわせ、そして力いっぱい腹を抱きかかえた。少しでも力をゆるめると、熱気が皮をとじあわせた隙間からもれ出るのだった。そこで下女に絹切れを持って来させ、手伝わせて腹にそれを巻きつけた。  もしかしたら生き返るかもしれない、と陳氏は思った。そう思いながら手で死骸を撫でつづけていると、だんだん温かくなって来た。夜中になると死骸は息をしだし、そして夜あけごろになると、とうとう生き返ったのである。  そのとき陳氏ははじめて、乞食が掌の上に吐いた痰が、夫を生き返らせた心臓だったのだということに気づいた。  生き返った王は、 「うつらうつら夢を見ていたよ。だが、どうしたのかな、何だか胸がちくちく痛むんだ」  といった。陳氏がそっと腹に巻いた絹切れをほどいて腹の裂けたところを見ると、何のあともなく、ただ銅銭くらいの大きさの瘡蓋(かさぶた)ができているだけだった。  四、五日すると、その瘡蓋も消えてしまった。 清『聊斎志異』    青ずくめの女  呉(ご)郡の無錫(むしやく)に大きな湖がある。湖をめぐる長い堤を監視する役人は、丁初(ていしよ)という人だったが、ある雨の降る日の夕方、堤を見まわっていると、一人の女があとから追ってきて、 「もし、もし、お待ちください」  といった。上衣も下衣も青く、雨をよけて青い笠をかざしている。丁初は、いったんは立ちどまったが、こんな雨の日の夕暮れ、こんなさびしいところを、女一人が歩いているのはおかしい、おそらく妖怪だろう、と思ったので、そのまま足を速めて歩きだした。と、女も足を速めて、 「お待ちください、お待ちください」  と呼びながら追ってくる。丁初は気味がわるくなって、駈けだした。すると女も駈けだしたが、やがて追いつけないとあきらめたらしく、にわかに身をひるがえして湖の中へ飛び込んでしまった。  女は大きな青い獺(かわうそ)で、衣服や笠に見えたのは蓮(はす)の青い葉だった。 六朝『捜神記』    湖畔に住む娘  河南郡の楊醜奴(ようしゆうど)という者が、舟で章安湖(しようあんこ)へ行き、蒲(がま)を取っていたところ、日暮れどきになって、靄(もや)の中から一人の娘が舟を漕ぎ寄せて来た。身なりは粗末だが、顔だちは美しい女だった。舟には蓴菜(じゆんさい)をいれた桶が幾つか積んであった。 「たくさん取れたね」  と醜奴がいうと、娘はうなずいて、 「これから帰るの。家は湖のほとりなの」  といい、西の方を指さして、 「よかったら、少し休んでいかない?」  といった。醜奴は、日が暮れて来てこれから家へ帰るのも面倒だなと思っていたときだったので、 「それじゃ、ちょっと厄介(やつかい)になろうか」  といい、いっしょに舟を岸につけて娘の家へ行き、食器を借りて食事をした。娘が出してくれた皿の中には、魚の乾物や生野菜などがはいっていた。  食事のあと、二人はどちらからともなくふざけあいはじめた。醜奴が歌で娘の気を引いてみると、娘も歌でそれに応じた。 われは住むみずうみの西 たそがれて靄たちこむる そのなかによき人を見て いかんせん胸のときめき  それから明りを消して二人はいっしょに寝床へはいり、雲雨(うんう)の情を交したが、そのあとで醜奴は、なまぐさい臭いが鼻をつき、娘の手の指もひどく短いことに気づいて、もしかしたら娘は人間ではないのかも知れぬと思った。すると相手は醜奴の胸の中を感じ取ったらしく、あわてて起きあがって外へ走り出し、獺(かわうそ)の姿になって湖へ飛び込んでしまった。 六朝『甄異(しんい)伝』    渭南(いなん)で会った女  舞陽(ぶよう)の陳巌(ちんがん)という人が東呉(とうご)に仮寓していた。これはその陳巌の話である。  景竜(けいりゆう)の末年、陳巌は官吏に登用されて都へ上(のぼ)ったが、渭南(長安の東)まで行ったとき、一人の女に出会った。女は白衣を着ていた。道端にたたずんで、袂(たもと)で口をおおいながらしくしくと泣いているのだった。なかなかの美女である。見過しかねて声をかけ、わけをたずねると、女は涙ながらに語った。 「わたしは楚(そ)の生れで、姓は侯(こう)と申します。家は弋陽(よくよう)県にあって、父は高潔の士として湘楚の間に知られておりましたが、山林に隠棲して、富貴栄達を望みませんでした。わたしも女ながら世俗がきらいで、どこか仙人の住むようなところへ行って静かに暮らしたいと思っておりました。ところがちょうどそのころ、沛国(はいこく)の劉(りゆう)という人が弋陽県の役人になって来て、父と深い交わりを結ぶようになりました。父はその劉という人の人柄にほれこみ、とうとうわたしを劉家へ嫁(とつ)がせてしまったのでございます。わたしは劉家に嫁いでからもう十年になりますが、その間ずっと、せいいっぱい努めてきたつもりです。ところが、去年の春、夫は真源県へ転任してから病気がちになり、一年もたたないうちにお役を退(ひ)いて渭水のほとりに仮寓することになったのですが、そのとき、わたしというものがありながら、濮上(ぼくじよう)の盧(ろ)氏の娘を娶(めと)って家に入れてしまったのです。わたしとしてはそれだけでもくやしくてなりませんのに、その女はひどく意地わるで、乱暴で、がみがみとどなりどおしで、わたしにはとてもいっしょに住むことができませんので、追い出されるようなかたちで逃げ出して来たのでございます。わたしはもともと神仙にあこがれ、雲や霞を踏みわけて山間に隠棲するのが望みだったのですから、木の実を常食として一生を終るのも厭(いと)うところではございません。いまはもう、劉家へ戻りたいなどとは思わないのですが、ただ、あの女のことを思うとくやしくてならず、また、さしあたってどこへも行くところがないので、あれやこれやを思って泣いていたのでございます」  陳巌は律儀(りちぎ)一方な男だったので、女のいうことをすっかり信じてしまい、行く先がなくては困るだろうと同情して、ひとまず都までつれて行くことにした。ところが、旅をかさねていくうちに、女に誘い込まれてつい夫婦のような関係になってしまい、都に着いて永崇里(えいすうり)に居を定めてからは、そのままずるずると同棲していた。  女は初めのうちは殊勝に振舞っていたが、日がたつにつれてだんだん粗暴になり、何か気に入らないことがあると狂ったように怒りだし、時にはつかみかかってくるようにさえなったので、陳巌はすっかり厭気(いやけ)がさし、軽はずみに女を引き入れたことを後悔したが、いまさらどうすることもできず、なるべく気にさわらないよう努めていた。  ある日、陳巌が外出すると、女は門を閉じて錠をおろし、夫の衣類を全部中庭に持ち出して、ずたずたに引き裂いてしまい、夕刻になって夫が帰って来ても門を閉じたままで入れさせないのだった。  陳巌が門をたたき破って中へはいって見ると、中庭に引き裂かれた衣類が散乱している。さすがの陳巌もかっとなって女にどなりつけた。 「この気違い女め、もう我慢がならん。出て行け!」  すると女は陳巌に飛びかかって来て、こんどは着ている衣服を引破ったり、顔を爪で引掻いたり、腕に噛みついたりし、陳巌が傷だらけになって地面に血がしたたり落ちてもお構いなく、いつまでもわあわあわめきながら引き裂き引掻きつづけるのだった。  その騒動を聞きつけて、近所の者や通りがかった者が門口に集って来たが、その中に〓居士(かくこじ)という人がいて、 「あの女は人間ではない。山に棲む獣(けもの)にちがいない」  といった。〓居士は妖怪変化を見破って邪(じや)を払い魔(ま)を降(くだ)す術に長じている人であった。  〓居士の言葉を陳巌に教えた者があったので、陳巌は半信半疑ながらさっそく〓居士に調伏をたのんだ。  〓居士の姿を見ると、女はにわかにおびえて身をすくませた。その前で〓居士が、墨で書いたお符(ふだ)を空にむかって投げると、女は「ぎゃっ」と叫んで逃げ出し、屋根の上に飛びあがった。すると〓居士は、こんどは朱で書いたお符を取り出して女をめがけて投げつけた。同時に女はまた「ぎゃっ」と叫び、屋根からころがり落ち、地面に躰(からだ)をたたきつけて死んだ。その死体は猿に変っていた。  その後はなんの祟(たた)りもなかったが、陳巌は女が猿だったということがどうにも納得がいかず、渭南へ行って劉という家があるかどうか、さがしてみた。たずねまわっているうちに、渭水の岸に劉という人が住んでいるということがわかったので、訪ねて行って事の次第を話し、何か心あたりはないかときくと、その劉という人はこんなことを話した。 「わたしは弋陽で役人をしていたことがあります。弋陽というところは猿がたくさんいて、わたしも家で一匹飼って、可愛がっておりました。弋陽には十年近くいて、真源へ転任になったのですが、健康がすぐれないので役人をやめ、ここへ隠棲したというわけです。ああ、猿でしたね。猿は真源へもつれて行き、ここへもつれて来たのですが、ここへ来てから間もなく濮上から訪ねて来た友人が黒い犬を持って来てくれたのです。それでいっしょに飼っていたのですが、文字どおり犬猿の仲で、その黒犬と猿は仲がわるく、ある日、猿は犬に噛みつかれ、そのままどこかへ逃げて行ってしまったのですが……、まさかあの猿が……。祟るのならわたしに祟るか、犬に祟るか……。そうそう、犬は、猿が逃げて行ってしまってから、これもどこかへ行ってしまいました」 唐『宣室志』    金の鈴  晋のとき、呉(ご)郡に王という士人がいた。  船で呉郡へ帰る途中、曲阿県まで行くと日が暮れてしまったので、大きな堤防の下に船を着けて夜泊(よどま)りすることにした。そのとき王は、堤防の上に十七、八の娘がいるのを見かけたので、声をかけ、船の中に呼び入れて一夜をともにした。  夜が明けてから王は、自分の腕から金の鈴をはずして、傍に寝ている娘の腕につけてやった。そして供の者に、娘を家まで送りとどけるようにいいつけた。  供の者は娘についてその家まで行った。娘はある農家の前まで行くと、 「ここです。どうもありがとうございました」  といって駆け込んで行った。供の者がそのあとからはいって行って、昨夜、娘を船に泊めたわけをその家の主人に話すと、主人は怪訝(けげん)な顔をして、 「家をおまちがえになったのじゃありませんか。うちには娘はおりませんけど……」  といった。供の者が、 「いえ、確かにたったいまこの家へ……」  といいながら、何気(なにげ)なく表の豚の檻(おり)の方へ眼を向けると、そこに、前脚に金の鈴をつけた雌の豚がいた。 六朝『捜神記』    ちぎれた腕  陳(ちん)郡の謝鯤(しやこん)は、病気のため官職をやめて豫章(よしよう)に引きこもっていたが、やがてすっかり元気になったので、気晴らしの旅に出て、ある夜、一軒の空家(あきや)にとまった。  その家には妖怪が出て、しばしば人を殺したことがあると言い伝えられていたが、謝鯤は平気で眠っていた。と、明け方近くなって、窓の外に黄衣を着た男があらわれて呼んだ。 「おい、幼輿(ようよ)、戸をあけてくれ」  幼輿というのは謝鯤の字(あざな)である。こいつが妖怪か、と彼は思ったが、おそれずに言い返した。 「戸をあけるのは面倒だ。用があるなら窓から手を出せ」  すると相手は窓から長い腕を突っ込んできたので、謝鯤はその腕をつかみ、力まかせにぐいぐいと引きずり込もうとした。外では引き込まれまいとして、逆に謝鯤を引きずり出そうと力をこめているようだった。互いに引っぱりあいをしているうちに、相手の腕がちぎれて謝鯤の手に残った。妖怪はそのまま立ち去ったらしい。夜が明けてから見ると、その腕は鹿の前脚だった。  窓の外には点々と血のあとがついていた。謝鯤がそのあとをたどって行くと、果して一頭の大きな鹿が森の中に倒れていた。  それ以来、その家には再び妖怪はあらわれなかった。 六朝『捜神記』    朱都事(しゆとじ)の怪我  松陽の村人が一人で山にはいって薪(たきぎ)をとっていたところ、夕暮れになって、突然、二匹の虎があらわれた。男はあわてて逃げ、木にのぼって難を避けた。二匹の虎はかわるがわる飛びついてきた。さほど高い木ではなかったが、男がのぼっている枝まではとどかなかった。虎はどうしてもとどかないとわかると、 「朱都事(注)に来てもらうことにしよう。彼ならうまくやってくれる」  と、人間の言葉でいった。そして一匹は木の下に残り、一匹はどこかへ走って行ってしまった。  しばらくすると、もう一匹の虎があらわれた。細い躰(からだ)つきをした、飛びあがることのうまそうな虎だった。その虎は飛びあがるたびに、その前足の爪を男の着物にひっかけた。男はそのとき、薪を切る山刀を腰にさしていることを思いだし、次に虎が飛びかかってくる時をねらって、必死の思いで山刀を振りおろした。山刀は虎の前足の爪を斬り落した。虎は大きな声で吼(ほ)え、ほかの二匹の虎といっしょにどこかへ逃げて行ってしまった。  しかし男は木から下りることができなかった。やがて夜があけてきて、ようやく下りることができたが、家にたどりつく途中、村人に出会い、わけをきかれたので、昨夜のことを逐一(ちくいち)話したところ、村人は怪訝(けげん)な顔をして、 「なに、朱都事?」  ときき返した、 「確かに朱都事といったのか。県城の東に朱都事という人が住んでいるが、もしかしたらその人かもしれんぞ。足の爪を斬り落したといったな、様子を見に行こうじゃないか」  そこで村人数人を呼び集め、いっしょに朱都事の家へ行って、 「ちょっとおききしたいことがあって、朱都事さんにお会いしたいのですが……」  というと、応対に出た息子が、 「父はゆうべ外出したとき、手に怪我をして、ひどく痛むといって寝ておりますので……」  といった。  村人たちはそれをきいて、朱都事こそゆうべの虎にちがいないと判断し、そのことを県令に訴えた。県令は村人たちの訴えをきくと、下役人に命じ、朱都事の家を包囲して火をつけさせた。火が燃えだすと朱都事はむくむくと起きあがり、虎の姿になって駆けだし、人垣を突き破って逃げて行った。  下役人たちは朱都事の妻子たちを火の中から救い出したが、妻子たちは虎が朱都事になりかわっていたことをはじめて知り、みなおどろきのあまり気を失ってしまった。虎は逃げて行ったきり、その行方はわからずじまいだった。 唐『広異記』  (注)「朱都事」の「都事」は官名で、尚書省の属官。退官して郷里に隠棲していても、その最終官名(あるいは最高官名)で呼ばれるのが旧時のならわしであった。   尻尾(しつぽ)を巻く  唐の開元(かいげん)年間のことである。ある娘が、深山に庵(いおり)を結んでいる男につれ去られて、無理やりにその妻にされた。  男は妻を大事にした。二年たったときのこと、ある日、二人の客が酒をたずさえてやってきた。男は妻に、 「あの二人は変り者だから、おまえは顔を出さぬ方がよい。おれたちだけで勝手に飲むから、部屋を覗(のぞ)いたりしないようにな」  といい、一室で酒盛りをはじめた。三人は大騒ぎをして酒を飲んでいる様子だったが、やがて静かになった。酔って寝てしまったようである。妻は夫が顔を出してはいかんといったのを不審に思い、我慢ができなくなって、そっと覗いてみた。  その部屋には三匹の虎が横たわっていた。妻ははじめて夫が虎だったことに気づき、大いにおどろいたが、さわいではかえって危いと思い、自分の部屋へもどって、眠っているふりをしていると、夫がはいってきて、 「おまえ、覗きはしなかったろうな」  といった。 「つい眠ってしまいまして……」  と妻がいうと、夫は、 「うん、それならよい。二人はもう帰って行ったよ」  といった。その後、妻は何も知らないふりをしてすごしながら、おりを見て夫にたのんだ。 「わたし、ここへきてからもう二年あまりになりますけど、いちども実家(さ と)へ帰ったことがありません。いちど帰って、両親を安心させたいのですけど……」 「うん、もう二年あまりにもなるか。親が子を思い、子が親を思うのは人情だろうからな」  夫はそういって、肉や酒を手(て)土産(みやげ)に、妻を実家へ送って行った。実家の近くに、かなり大きな川があった。妻はさきに渡ってしまって、夫が渡ろうとして裾をからげるのを見ると、向う岸から大声で、 「あら、あなた、どうして尻尾(しつぽ)なんか生やしているの」  と叫んだ。すると夫は急にうろたえだし、虎の姿に変って、川を渡らずにそのまま駆けもどって行った。その後は二度と姿をあらわさなかった。 唐『広異記』    和尚と将軍  唐の長慶年間、馬拯(ばじよう)という無官の士がいた。淡白な、物静かな性格の人で、山水をめぐり歩くことを好み、どんな谷にでも分け入り、どんな山にでもよじ登っていった。  湘中(しようちゆう)に滞在していたときのことである。ある日、衡山(こうざん)の祝融峰(しゆくゆうほう)へ登って伏虎(ふくこ)和尚の禅寺(ぜんじ)に参詣した。道場はおごそかに清められていて、仏前にはよい香りの果物などが幾つもの銀の皿に盛ってあった。そこに一人の老僧がいた。眉毛が雪のように白く、朴訥(ぼくとつ)そうな、がっしりした体格の人であった。その老僧は馬拯が参詣したことを大変よろこんだ。いやよろこんだのは、馬拯が参詣したからではなく、参詣した馬拯が下男をつれていたからであった。 「下男のかたを、ちょっとお貸しくださいませんでしょうか」  と老僧は馬拯にいった、 「この下の町の市場へ、塩と牛酪(ぎゆうらく)を少々買いに行ってもらいたいのですけど」  馬拯は承知した。下男が渡された金を持って出て行くと、しばらくして老僧もどこかへ行ってしまった。  それから間もなく、一人の男が山を登ってきた。何かにおびえているような様子だった。男は道場に馬拯がいるのを見ると、走り寄って来て、 「いま、ここへ来る途中、虎が人間を食っているのを見ました。どこの誰か知らないが、可哀そうに」  といった。馬拯が真偽を疑っていると、男は、自分は馬沼(ばしよう)山人といって、あやしい者ではないといった。 「あなたを疑っているわけではないのです。ただ、突然お話をきいたものですから」  馬拯がそういって、虎に食われた人の身なりや年恰好(としかつこう)などをきいてみると、どうやら自分の下男らしいのである。いよいよおどろいて、身の置きどころもない思いでただうろたえていると、馬沼山人はさらに、 「遠くから見ていたのですが、虎はその人を食ってしまうと、毛皮をぬいで袈裟(けさ)に着がえ、老僧の姿になってしまったんです」  といった。ちょうどそのとき、山を登って来る老僧の姿が見えた。すると馬沼山人は、 「あれです。あれがさっきの虎にちがいありません」  といった。 「いや、あの老僧は……」  と馬拯がいったとき、老僧は道場にあがってきて、 「このおかたは?」  と馬沼山人をちらりと見ていった。 「このかたがここへ見えて……」  と馬拯は思い切っていった、 「山の中腹で、わたしの下男が虎に食われているところを見たとおっしゃるのですが、どうしたらよいでしょう」  すると老僧はむっとした様子で、 「愚僧の住むこの霊域には、山には虎も狼もおらず、草むらには毒虫もおらず、路には蛇もおらず、林には梟(ふくろう)もおりません。その人はでたらめをいってあなたをおどしているのです。信用してはなりません」  といったが、そういう老僧の口もとを見ると、まだなまなましい血がついているのだった。  間もなく日が暮れてきて、馬拯と馬沼山人は寺の食堂(じきどう)に泊ったが、おそろしくてならず、入口の戸をかたく締め、あかあかと燈火をつけて、寝ずに外の気配をうかがっていた。すると夜がふけわたったころ、激しく戸に体当りをする音がした。音は三度、四度とつづいたが、厚くて岩乗(がんじよう)だったためこわされずにすんだ。二人が食堂に祭られている賓頭盧(びんずる)尊者の土像の前で、香を焚(た)いて無事を祈願しながらうちふるえていると、やがて土像が詩を口ずさんだ。 寅人(いんじん)は溺れん欄中(らんちゆう)の水に 午子(ごし)は艮畔(こんはん)の金(きん)を分けよ 特進(とくしん)に重弩(ちようど)を張らせなば 必ず将軍の心(しん)を破るべし  二人はその詩をおぼえ込んで、謎解きをした。 「寅(いん)とは虎のことだ。寅人というのはあの老僧のことにちがいない。欄(らん)はてすり。欄中の水というと、井戸のことだろう。午子は吾子(ごし)で、賓頭盧さまが二人のことをそうお呼びかけになったのだ。艮畔の金というのは、艮のそばの金。つまり銀だ。銀というのは、おそらく道場の仏前のあの銀の皿のことだろう」  そこまでは解けたが、あとの二句はどうしても解けなかった。  やがて夜があけると、戸をたたく音がして、 「起きて来て、粥(かゆ)を食べなされ」  という声がきこえてきた。あの老僧の声だった。二人は思い切って戸をあけた。老僧は笑って、 「よく眠れましたかな」  といった。二人は粥を食べたが、何ごともおこらなかった。そのあとで二人は相談した。 「あの老僧がいる限り、山を下りることはできないだろう。下りれば山路で襲われて、食われてしまうにちがいない。賓頭盧さまは、虎は井戸の中で溺れるとお告げになった。それを信じよう」  道場の傍に井戸があった。二人はそこへ行って中をのぞいた。山の上だから深い井戸である。たとえ神通力を持っている者でも、落ちたら這いあがることはできないであろう。馬拯はその井戸の傍で大声で喚いた。 「井戸の中に人がいる。わたしの下男らしい」  すると老僧がやって来て、 「なに、なに」  といいながら、枠(わく)に手をかけて中をのぞいた。そのとき二人は左右から老僧の足をすくい上げて、井戸の中へ突き落した。老僧は虎に姿を変え、まっさかさまに井戸の底へ落ちて行った。 二人は虎が底へ落ちたのを見とどけると、大きな石を投げ込んで重(おも)しにした。そのあと、二人はほっとして顔を見合わせ、 「銀の皿を分けよというお告げだったな」  といって道場へ行き、供え物の盛ってある銀の皿を取って同じ数に分けた。そして食堂へ行って賓頭盧尊者の土像を拝んでから、山をくだった。  夕暮れ近くなったとき、二人は猟師に呼びとめられた。猟師は路ばたに弩(いしゆみ)のわなを仕掛け、木の上に棚を作ってそこで見張っていたのだったが、二人に、 「そこのわなに、さわらんようにしなされよ」  といった。そして、 「ここから麓までは、まだだいぶんありますぜ。それに虎どもがあばれまわっている最中だから、この棚へのぼっておいでなされ」  というのだった。二人は虎があばれまわっていると聞いておどろき、急いで木をよじのぼって棚にあがった。  しばらくすると、四、五十人もの群れが近づいて来た。僧侶もおれば道士もおり、男もおれば女もいた。何やら歌をうたっている者もおれば、踊っている者もいた。一同はわなのところまで来ると、ぴたりととまった。その中の一人がいった。 「今朝、わしらの和尚さんが二人の悪党に殺されなさったばかりだというのに、こんどはまた、わしらの将軍さまを殺そうというやつがあらわれて、ここへわなを仕掛けやがったぞ」  そしてみんなで仕掛けをはずし、また歌ったり踊ったりしながら行ってしまった。 「あの連中は何なのです」  と二人がきくと、猟師は、 「ちくしょう、仕掛けをはずして行きやがった。あれは〓鬼(ちようき)といって、虎に食われた人間の亡霊なんですよ。虎に食われたくせに、虎のために露払いの役をつとめているやつらなんです」  といった。 「あんた、お名前は?」  と馬拯がきくと、猟師は、 「名前をいうほどの者じゃないが、苗字は牛(ぎゆう)、名は進(しん)といいます」  といった。二人は同時に、 「ありがとう。それでわかった」  と大声をあげた。 「それで解けた。賓頭盧さまのお告げの特進(とくしん)というのは、特は牡牛(おうし)で、この牛進さんのことだったのだ。重弩(ちようど)は牛進さんの仕掛けの強い弩(いしゆみ)のことだし、将軍というのは、さっき〓鬼たちがいっていた虎のことなんだ。心(しん)を破るというのは、弩の矢が虎の心臓に突き刺さるということだろう」  そこで二人は牛進に、もういちど弩に矢を仕掛けなおすようにすすめた。牛進が仕掛けなおして棚にもどって来ると間もなく、一頭の大きな虎が飛び出して来て吼(ほ)えたが、その前足がわなに触れたとたん、弩の矢が心臓に命中して、虎はどたりと倒れた。  すると間もなく〓鬼たちがあわてて駆けもどって来て、みんなで死んだ虎をとりかこみ、口ぐちに、 「いったい、どこのどいつがわしたちの将軍さまを殺したんだ」  といい、何人かは死体の上に身を伏せて号哭(ごうこく)しだした。  馬拯と馬沼山人はそれを見て、大声で〓鬼たちにいった。 「ばかな亡霊どもだ。おまえたちは虎に食い殺されたんだぞ。虎はおまえたちの仇じゃないか。おれたちは、仇を討ってやったんだぞ。それなのにおまえたちはありがたいとも思わず、悲しんで泣いているとは何ということだ。亡霊でありながら、そんなにものわかりがわるいとは、あきれたやつらだ」  すると〓鬼たちは泣くのをやめて、ひっそりと静まってしまった。しばらくすると〓鬼の中の一人がいった。 「わしたちの和尚さまや、わしたちの将軍さまが、虎だったとは知りませんでした。あなたがたのおっしゃることをきいて、はじめて眼がさめました。よく見れば、ここに殺されているのは確かに虎です」  そしてこんどはみんなで虎の死体を蹴りつけ、木の上の三人に礼をいって立ち去って行った。  夜があけてから、二人は銀の皿を牛進に分け与えて山を下りた。 唐『伝奇』    伸びてくる腕  唐の天宝年間のことである。長安の延寿里に王薫(おうくん)という人がいた。ある夜、数人の友人が王薫の家で、それぞれ食べ物を持ち寄って会食をしていたところ、突然、燈火の陰から大きな腕が伸びてきた。色の黒い、毛むくじゃらの腕である。一同がぎょっとして身を引くと、燈火の陰から声がきこえてきた。 「せっかくのお集りのところ、お邪魔をして申しわけありません。少しで結構ですから、この手の上に肉を載せてくださいませんか」  王薫はおそろしさのあまり、わけもわからぬまま、いわれたとおり肉をその手の上に載せた。すると腕はすっと引っ込んでしまった。  王薫たちがみな茫然としていると、また燈火の陰から腕が伸びてきて、 「さきほどはありがとうございました。すっかり頂戴してしまいましたので、もう少しこの手の上に肉を載せてくださいませんでしょうか」  といった。王薫がいわれたとおりにすると、腕はまた引っ込んでしまった。 「妖怪にちがいない」  と王薫がいった。 「こんどあらわれたら、あの腕を斬り落としてやろう」  しばらくすると、また燈火の陰から腕が伸びてきた。 「さきほどは……」  という声がしたとき、王薫が刀を抜いて斬りつけると、どさっという音がして腕が落ち、同時に何者かがあわてふためいて逃げて行く気配がした。  燈火を寄せ集めて調べてみると、窓際に驢馬の前肢(まえあし)が一本ころがっていて、あたりは血まみれになっていた。夜があけてから、王薫が血のあとをたどって行くと、村はずれの民家の前で消えていたので、その家の主人にわけを話してきいてみると、主人はびっくりして、 「そうでしたか。うちでは驢馬を一頭飼っているのですが、今朝見ましたところ、前肢が一本なくなっているので、どうしたわけだろうと不審でならなかったところです。飼いだしてからもう二十年になる老いぼれの驢馬なんですが……」  といった。  その家では早速、その驢馬を殺してしまった。 唐『宣室志』    喪中の人  北平(北京)に田〓(でんえん)という人がいた。母を亡くし、墓地の傍に建てた小屋に一人で寝起きして喪(も)に服していたときのことである。  ある夜、家に帰って来て、無言で妻に性交をいどんだ。妻が訝(いぶか)って、 「いけません。それだけはおやめください。そうでないとわたしがあなたに喪を破らせたことになります」  といったが、〓はきかずに無理やりに妻をうしろから犯してしまった。  それから二、三日して、〓はこんどは昼間家にもどって来た。妻が先夜の強暴な行為のことを思って、 「いけません」  といい、外へ逃げようとすると、〓は、 「何をいう。入用の物を取りに来ただけなのに」  といった。そこで妻が先夜のことをいって詰(なじ)ると、〓は怪訝(けげん)な顔をして、 「わたしは喪に服している身だ。夜中に来てそんなことをするものか」  といい返した。妻は〓が先夜のことを悔いてごまかしているのだと思ったが、〓はそのとき、妻に妖怪がとりついたのだということに気づいたのである。  その夜、〓は墓地の傍の小屋で、あかりを消し、喪服をぬいで寝て、眠ったふりをしていた。すると真夜中に、白い獣のようなものがはいって来て喪服を口にくわえた、と思うと同時に、〓とそっくりの姿をしたものが喪服を着て出て行った。  〓がそっとあとをつけて行くと、妖怪は〓の家の前で消えた。〓がしばらく様子をうかがってから家へはいって行くと、寝室から妻のしのび泣く声がきこえてきた。のぞいて見ると、妻がうしろから妖怪に犯されながら声をあげているのだった。  〓は飛び込んで行くなり、棍棒で妖怪をなぐり殺した。妻のうしろに斃(たお)れたのは一匹の大きな白犬だった。妻はそれを見ると恥かしさのあまり寝室から逃げだし、自ら首をくくって死んでしまった。 六朝『捜神記』    孝子(こうし)の悲しみ  淮陰(わいいん)に李義(りぎ)という人がいた。幼いときに父親を失い、母親の手一つで育てられたため、大変な母親思いで、その孝行ぶりは孝子として名高い呉(ご)の孟宗(もうそう)や晋の王祥(おうしよう)でさえ及ばぬほどであった。  孝子だっただけに、母親が死んだときの悲しみは深かった。泣き叫んで気を失い、正気にもどるとまた泣き叫んで気を失うというありさまだった。棺に納めて祭壇の前に安置し、その前で「お母さん、生き返ってください」と祈りつづけて、なかなか埋葬もしなかったが、親戚の者にいいふくめられて、一ヵ月あまりもたってからようやく葬儀をとり行なった。  ところが、埋葬を終って泣きながら家に帰ってみると、母親は生きていたときと少しもちがわない様子で部屋に坐っていたのである。そればかりか、立ちあがって李義の方に歩み寄り、その手を取って泣きながらいうのだった。 「わたしは生き返ったのだよ。おまえがわたしを葬ってくれたあとで、わたしは生き返ってそっと家に帰ってきたのだが、おまえにはこのわたしの姿が見えるかい」 「見えますとも、お母さん。わたしの祈りが天に通じたのですね」  李義も涙をながしてよろこび、それからは、これまでにも益して孝養をつくすことにつとめた。母親は李義に感謝しながらいった。 「わたしのためによくつくしてくれて、いつも、ありがたいと思っているよ。ただ、一つだけおまえに守ってもらいたいことがあるのです。それは、わたしを葬ったときのお棺は、そっとそのままにしておいてほしいということです。もしあけたりすると、わたしはまた死んでしまわなければならなくなるからね」 「わかっております。お母さんが生き返ってくださったのに、どうしてお棺をあけてみたりなんかするものですか」  李義はそういって、母親の言いつけを守った。  それから三年たったときのことである。李義は夢の中で、母親が門口に立ったまま泣きながら訴えているのを聞いた。 「わたしはおまえの母親として、ずいぶん苦労しておまえを育てあげたはずだよ。それなのに、わたしが死んでから三年にもなるというのにただの一度もお祭りひとつしてくれず、わたしがわざわざやってきても、犬に番をさせて門から一歩もはいらせないようにするとは、どういうことなんです。おまえがどうしてもお祭りをしてくれないのなら、わたしはおまえの不孝を天帝さまに訴えますよ」  母親は泣きながらそれだけいうと、立ち去って行った。李義は起きあがってあとを追ったが、いくら走っても躰(からだ)が前に進まず、追いつくことができないのだった。  眼がさめてから李義は、あの夢はいったいどういうことなのかと考えつづけて、まんじりともせず夜をあかした。朝になっても、夢のことが気になってならないのだった。考え込んでいると、母親が、 「おまえ、今日はどうしたのです」  といった。 「いつもとちがって、浮かぬ顔をしておいでだね。わたしがいつまでもあの世へ行かないので、孝行することがいやになってきたのではなかろうね」 「いいえ、そんなことがあるはずはありません」  李義はそういって、昨夜の夢のことを話した。すると母親は笑って、 「夢のことなんか気にするのはおかしいよ。そんなこと、忘れてしまいなさい」  といった。  それから数日たったとき、李義はまた夢で母親を見た。母親は門の前で泣きながら、胸をたたいてくやしそうにこういった。 「おまえは、わたしの子じゃないか。それなのに、どうしてこんなひどい親不孝をするのです。わたしを葬ったまま、いちどもお詣りに来ず、犬を大事にしているなんて。もしわたしが天帝さまに訴えたら、おまえは天罰を受けるにきまっているけど、不孝者とはいえおまえはわたしの子だから、天帝さまに訴える前にもういちどだけ忠告しに来たのですよ」  それだけいうと引き返して行った。李義はまたあとを追ったが、前のときと同じでいくら走っても躰が前に進まず、追いつくことができないのだった。  李義はそこで、夜のあけるのを待ちかねて母親を葬った墓へ行き、供え物をして祈った。 「お母さんをここへ葬ったことは確かです。葬った以上、お母さんの霊をお祭りすることは、子として当然しなければならないことです。ところがお母さんは、わたしがお母さんをここに葬った日に、また生き返って家にもどって来てくださいました。そのためにお墓の方のお祭りはせずに、家でお母さんに孝養(こうよう)をつくしているのです。それなのに夢の中でお母さんにお叱(しか)りを受けると、わたしはどうしたらよいのかわからなくなってしまいます。夢の中のお母さんがほんとうなのか、家におられるお母さんがほんとうなのか、わたしには何が何だかわからなくなってしまいます。夢の中のお母さんのおっしゃるとおりにすれば、家におられるお母さんのお気持をそこねることになりますし、家におられるお母さんのおっしゃるとおりにすれば、夢の中のお母さんのお叱りを受けることになります。子としてどうしたらよいのか、わたしはわからなくなってしまいます。ただ、わたしが親不孝でないということは天帝さまにはおわかりいただけると思うのですけれど」  李義が墓から家に帰ると、母親が出迎え、 「夢にまどわされて、空(から)のお墓へ行くなんて、そんなことをしてはいけません」  といった。 「わたしはいちど死んでからまた生き返り、それからはおまえと二人でずっと仲よく暮らしてきたではありませんか。それなのに、夢に心をまどわされ、家にわたしがちゃんといるにもかかわらず、空のお墓へ行ってお供え物をしたりなんかして、そんなことをされてはわたしはまた死んでいくよりほかにしようがないじゃありませんか」  そういうなり、崩れるように倒れて、そのまま息絶えてしまった。李義は何日間も号泣しつづけたが、とにかく埋葬しなければならぬと思い、その準備のために気をとりなおして墓へ行き、空のはずの棺をあけてみると、母親の死体はちゃんと中におさまっていた。いったいこれはどうしたことだ、自分はまた夢を見ているのではないかと、家に駆けもどってみると、家の中にも母親の死体は出かけたときのままで横たわっていた。いよいよおどろきうろたえ、 「お母さん……」  と声をかけたとたん、死体は一匹の黒い老犬に姿を変え、ぱっと外へ飛び出したままどこへ行ったのかわからなくなってしまった。 唐『大唐奇事』    三つの頭蓋骨  山西の竜門に謝中条(しやちゆうじよう)という小役人がいた。  軽薄で、しかも好色な男だった。三十歳をすぎてから妻をなくし、しきりに後添いをさがしていたが、まだ幼い三人の子供がいるせいもあって誰も来手(きて)のないまま、婆やを雇って子供たちの世話をさせ、自分は勝手に遊び歩いていた。  ある日、山道を歩いていると、うしろから女がやって来た。足をとめて待っていると、近づいて来たのは二十歳くらいの可愛い顔の女だったので、謝は、これは意外にいい玉だとほくそ笑み、 「ねえさん、山道の一人歩きはこわいだろう」  と声をかけてみた。だが、女は黙って小走りに通りすぎて行った。謝はあとを追って、 「ねえさんのそのかわいい足では、山道は難儀だろう」  といったが、やはり女は振り向きもしない。謝はあたりに誰もいないのをさいわい、いきなり女の手をつかみ、草むらの中へ引っぱって行った。すると女は怒って、 「卑怯(ひきよう)な男ね。こんなところで乱暴するなんて。あんたはいったい何者なの」  と叫んだが、謝がかまわずにおし倒して下衣を引きおろそうとすると、女は、 「いうことをきくから、手をゆるめてちょうだい。やさしい人をさがしていたのに、あんたのような乱暴な男に出会うなんて……」  といった。 「ほんとうに、いうことをきくか」  謝が下衣を握ったままいうと、女はうなずき、自分で下衣をぬいでそれを下に敷き、謝に躰(からだ)をまかせた。  雨がやみ雲がおさまってから、謝が女に、 「おまえのように具合のよいのは、おれは、はじめてだ。ほんとうだよ」  というと、女は、 「わたしも、はじめてだったわ」  といった。そして謝に、名や住所をきいた。謝がありていに答えてから、 「おまえは?」  ときき返すと、 「あたしの苗字(みようじ)は黎(れい)。運がわるくて早く後家になった上、姑(しゆうとめ)もなくなってしまって、まったくの一人ぼっちなの。ほかに頼る人もいないので、いつもおっかさんの家へ行くの。今日もその帰りなのよ」  といった。 「そうか、後家か。若い後家さんだな。おれもやもめなんだ。どうだ、いっしょにならないか」 「あんた、子供がいるのでしょう?」 「いる。三人もいるんだ。いやか?」 「あたしには継母(ままはは)はつとまらないわ。いくら世話をしても、世間の人は継母だからどうのこうのといいふらすにきまってるんだから。あたし、それがいやなのよ」 「やっぱり、だめか」 「だめということはないけど……。あんたに肌を許してしまったんだし、あんたは具合がよかったといってくれたし、あたしもとてもよかったし、だから、いっしょになりたいとは思うけど……」 「だが、子供がいるからいやだというんだろう」 「あたし、これでも子供は好きなの。大好きなのよ。食べてしまいたくなるほど好きなのだけど……。いまその三人の子供たち、誰が面倒を見てるの?」 「婆やを雇って、世話をさせている」 「その婆やをやめさせてくれない? やめさせたら、あたし、あんたの家へ行く。世間には知られないように、こっそり行くわ。やもめと後家だもの、それでいいでしょう。世間には内証の夫婦でいいじゃない? 子供は、あたし、可愛がって面倒を見るわ」 「ほんとうか。それはありがたい」  二人はもういちど抱きあって、互いに歓(よろこ)びをつくしあった。  翌日、謝は婆やに暇を出した。その夜、女は衣類をいれた袋だけを持って、こっそりと謝の家に来た。  謝は女のことを、役所の同僚たちにもかくしていた。同僚たちは、いつも遊び歩いていた謝が、役所がひけるとまっすぐ家へ帰ってしまって、色町にも賭場にも姿を見せなくなったことを不思議に思ったが、わけをきかれると謝は、 「婆やがいなくなったので、子供たちの面倒を見なければならんのだ」  と答えて、女のことはかくしとおした。  女は家事のきりもりもうまく、子供たちの面倒もよく見た。謝は夢中になって女を可愛がり、いつも門を閉めたままにして、客があっても家の中へは入れなかった。  一と月たったとき、謝は役所の用で隣村へ行くことになった。家を出るとき謝は、 「きょうはいつもより帰りがおそくなる。人が来ても門をあけるなよ」  と女にいった。  夕方、謝は帰って来たが、いくら門を叩いても女はあけに来なかった。おれだということがわからんのか、と謝はぶつぶついいながら、やっと門をこじあけたが、家の中はひっそりと静まり返っていて子供たちの声もしない。寝てしまったのかと思い、寝室の戸をあけたとたん、大きな狼が一匹、戸に突きあたらんばかりの勢いで飛び出して来て、謝の躰をかすめて走り去って行った。謝は息もつまるほど驚き、ようやく足を中へ運び入れるようにして寝室へはいって見ると、子供たちの姿はなく、血まみれになった寝台の上に、誰とも見わけのつかない三つの小さな頭蓋骨がころがっているだけだった。 清『聊斎志異』    陰口をきらう妖怪  三国の呉(ご)のとき、嘉興(かこう)の県城の西に倪彦思(げいげんし)という人が住んでいたが、あるとき、その家に妖怪がはいって来た。姿は見えないが、人間と同じように話もすれば、飲み食いもするのである。  召使のなかに彦思の陰口(かげぐち)をいう者があると、妖怪はすぐききつけて、 「彦思にいいつけるぞ」  というので、陰口をきく者は一人もいなくなり、召使たちは妖怪が住みつく前よりも忠実に働くようになった。  ところが、しばらくすると妖怪は、彦思の妾(めかけ)の部屋で、寝台のすぐそばから声をかけてきた。 「いい女だな。この女をおれにゆずってくれぬか」  彦思はおびえ、夜があけると早速、道士を呼んで妖怪を追い出す祈祷をしてもらうことにした。そして祭壇を設け、接待の酒肴を並べて待っていると、間もなく道士が来たが、道士が酒肴に手をつけようとしたとたん、妖怪は便所から糞尿を持って来て、その上へばらまいた。  道士はそこで太鼓を打ち鳴らして神々を呼びおろそうとした。すると妖怪は溲瓶(しびん)を持って来て祭壇の上へあがり、角笛のように吹き鳴らして太鼓の音をうち消してしまった。  道士は茫然としていたが、ふと背中が冷たくなったのを感じておどろいて立ちあがり、着物をぬいでみたところ、溲瓶がはいっていたのである。道士はおそれて、すごすごと帰って行った。  その後しばらくの間、妖怪はただ勝手に飲み食いをするだけで、たたりをすることはなかったが、ある夜、彦思が寝物語に女房に、 「あの妖怪には困ったものだ。いまもおれたちがこうしているところを、あいつはどこからか見ているかもしれない」  といったところ、妖怪の声が梁(はり)の上からきこえてきた。 「おまえは女房におれの陰口をきいたな。よし、この家の梁を挽(ひ)き切ってやる」  その声とともにゴシゴシという音がしだした。彦思は梁を切られたら大変だと思い、あかりをつけて見ようとしたが、つけたとたん、妖怪は火を吹き消してしまった。梁を挽く音は激しくなる一方だった。彦思は家が崩れぬ前にと、家中の者をみな起して外へ出し、もういちどあかりをつけて見たところ、妖怪はこんどは吹き消さず、梁はもとのままであった。そのとき妖怪は大声で笑いながらいった。 「どうだ、これでもまだおれの陰口をきくか」  郡の典農(てんのう)(農業の監督官)が彦思の家に住みついた妖怪の噂を聞いて、 「その妖怪は狐にちがいない」  といった。すると妖怪はすぐ典農の家へ行って、 「おまえは役所の穀物を何百石(こく)かごまかして、あちこちにかくしている。役人の身でありながらそんなきたないことをしていて、このおれのことをとやかくいう資格があるか。お上(かみ)へ知らせておまえの悪事をあばいてやるぞ」  とどなった。典農はちぢみあがって、 「もう何もいわない。盗んだ穀物は返すから、ゆるしてくれ」  とあやまった。  妖怪はそれから三年間、彦思の家や典農の家や、ほかにも陰口をきいた者の家へ行って勝手に飲み食いをしていたが、誰もみなおそれて妖怪のことを口にしなくなってしまうと、いつの間にかいなくなってしまった。どこへ行ってしまったのかは誰も知らない。 六朝『捜神記』    女たちの名簿  呉(ご)郡の顧旃(こせん)が猟に出て、ある小高い丘の上で休んでいると、近くで人の声がきこえた。 「ああ、今年はなかなか思いどおりにいかんわい」  といっているのである。顧旃はあたりを見まわしたが、誰もいない。あやしんで、あたりをさがしまわったところ、丘の上の古い塚の横に穴があいていたので、そっとのぞいて見た。と、穴の奥に一匹の古狐が坐っていて、一冊の帳面を見ながらつぶやいているのだった。  顧旃はさっそく猟犬を放って狐を咬み殺させ、狐が見ていた帳面をしらべてみたところ、ずらりと女の名が書き並べてあって、中には朱で鉤(かぎ)じるしのつけてある名前もあった。女の名は数百人を越えていて、その中には顧旃の娘の名もあったが、鉤じるしはついていなかった。鉤じるしがついているのは、狐が犯してしまった相手で、「思いどおりにいかんわい」といっていたのは、思いどおりに鉤じるしをつけるわけにはいかないのを嘆いていたものらしい。 六朝『捜神後記』    藍田山(らんでんざん)の屋敷  長安の町はずれに、〓規(さんき)という人が住んでいた。もともと家は豊かでなかったが、火事にあって家財道具一切をなくしてしまってからは、六人ものまだ幼い子供たちをかかえて、どうにも暮らしていくことができなくなってしまった。  焼跡に建てた、親子八人がようやくはいれる掘立小屋(ほつたてごや)の中で、〓規の妻は、 「わたし、身売りをします。そうでもしなければ、みんなが頭を並べて餓(う)え死(じに)してしまうよりほかありません。わたしが身売りをすれば、そのお金で、あなたや子供たちはなんとか暮らしていけるでしょう」  といいだした。 「おまえを身売りして、その金でおれや子供たちが生きていくなんて……」  〓規がそういうと、妻は、 「そうでもしなければ、どうしようもないじゃありませんか。身売りすればわたしも、わたしを買ってくれた人の家で生きていけるし、生きてさえおれば、そのうちにまた会えるようになれるかもしれないし……」  というのだった。  翌日、〓規が掘立小屋の外でぼんやりしていると、一人の老人が通りかかって声をかけてきて、 「ひどい目におあいになりましたね」  といった。〓規がわけを話して、妻が身売りをしようという気になっているというと、老人はしきりに同情したあげく、 「どうでしょう、わたしに奥さんを引き取らせてくださらんか。銭十万をさしあげますから」  といった。〓規が答えかねていると、老人は、 「奥さんとも相談してみてください。奥さんはどちらに……」  と、小屋の中をのぞき込むふりをした。 「町へ出かけております。自分で身売りさきをさがしに」  〓規がそういうと、老人は、 「お気の毒に。よい買い手があればよいのだが……。わたしはあしたもういちどお訪ねしますから、奥さんがお帰りになったら、よく相談しておきめください。わたしはあやしい者ではありません。屋敷は藍田山(らんでんざん)の麓にあって、そのあたり一帯はみなわたしの土地です」  といって帰って行った。  やがて妻が戻ってきたので老人のことを話すと、妻は、 「わたしのような者を銭十万で買ってくれる人は、ほかにはありません。あした、そのご老人が見えたら、買ってもらうことにします」  といった。  翌日、老人は銭十万を持ってきた。〓規の妻を見ると老人はよろこんで、 「わたしの思ったとおりの人だ。やさしそうないい奥さんだ」  といい、〓規の返事もきかないうちに、 「もし子供さんたちがお母さんに会いたいといったら、いつでも藍田山の麓の屋敷へ、いっしょに訪ねてきてください。この人はわたしがお引き取りした以上、お返しするわけにはいかないけれど」  といって銭十万を置き、〓規の妻をつれて行ってしまった。〓規と子供たちはただ茫然と見送っていた。  それから一年もたたぬうちに、〓規はまたもとどおりの無一文になってしまった。二年目には、冬に、餓えと寒さで三人の子供が死んでしまい、その翌年には、夏、餓えと暑さでまた三人の子供が死んでしまった。〓規は長安の町で乞食をしていたが、ある日、老人の言葉を思い出して、藍田山の麓へ行ってみた。そこには貴人の屋敷かと思われるほどの宏壮な屋敷があった。門の前で茫然としていると、門番が、 「こら、何をしている」  とどなりつけた。〓規がすっかり気後(きおく)れしてしまって何もいえずにいると、中から老人が出てきて、 「おお、よくおいでなさった」  といい、招き入れて、きらびやかな一室に案内し、酒食を用意した上、妻を呼んで会わせてくれた。  〓規が妻に、子供たちがみな死んでしまったことを話すと、妻は号泣しながら狂ったように部屋の中を駆けまわり、柱に頭を打ちつけて倒れてしまった。老人はおどろいて駆け寄り、妻を抱きおこして見て、 「死んでいる!」  と叫ぶなり、おそろしい顔をして〓規に飛びかかってきた。〓規は殺気を感じて逃げだし、門を出てから、追ってくる気配がないのでふり返って見ると、さきほどまであった屋敷はあとかたもなく、大きな塚があるだけだった。不審に思って塚のまわりの、門のあったあたりを眺めると、そこに女の人らしい姿の倒れているのが見えた。おそるおそる近寄ってみると、それは妻の死体だった。その死体の傍に洞穴があった。〓規が石を拾ってその中へ投げ込むと、何かが飛び出してきて〓規の足もとをかすめ、逃げて行った。急いで眼で追うと、それは一匹の大きな狐だった。〓規はそのときはじめて、自分の妻が古狐に買い取られたのだということを悟った。 唐『奇事記』    空を飛ぶ籠(かご)  江南の下〓(かひ)に、徐安(じよあん)という猟師がいた。その妻の王氏は評判の美人だったが、徐安は女色よりも狩猟を好み、ほとんど妻をかまうことがなかった。  開元五年の秋のことである。徐安は海州(かいしゆう)の方へ狩猟の旅に出ていて、王氏がひとりで留守番をしていたところ、ある日、逞(たくま)しい体格をした美青年が通りかかって、王氏に流し目をしながら、 「あなたのような美しいかたが、ほんとうの歓(よろこ)びも知らずに一生をおすごしになるなんて……」  と話しかけて来た。王氏はそういわれて躰(からだ)が熱くなり、顔を赤らめながらその青年に受けこたえをしているうちに、とうとう躰をゆるしてしまった。それは夫とのときには味わったことのない、はじめて覚えた深い歓びであった。その余韻は青年が立ち去ってからもなかなか消えなかった。  それからは、青年は足しげく訪ねて来るようになった。王氏はそのつど、いそいそとして迎え入れ、歓(かん)を尽した。  やがて徐安は旅から帰って来て、妻の態度のよそよそしいことに気づいた。わけをきいてみたが、妻は首をふるだけで何もいわない。躰の具合でもわるいのかときくと、うなずくだけで、徐安を近づけさせない。いったいどうしたのだろうかとあやしみ、それとなく気をくばっていると、冬至の日の夕方、妻は化粧をして部屋に引きこもったまま出て来なかった。徐安が気づかぬふりをしていると、妻は夜がふけて来たころどこかへ行ってしまったらしく、部屋の中にはいなくなっていた。ところが夜明けごろになると、また部屋に戻っているのである。部屋は戸口以外には出入りするところがない。いったいどこから出入りするのだろうかと考えてみたが、徐安にはどうしてもわからなかった。  その後、徐安はひそかに様子をうかがいつづけているうちに、妻が部屋の隅に置いてある古い籠(かご)に乗るのを見た。これはおかしいぞと思って眼をこらしていると、その籠はふわりと浮きあがり、空気のように窓を突き抜けて外へ出るなり、どこかへ飛んで行ってしまったのである。そして夜あけになるとまた戻ってきた。そのときはじめて徐安は、妻に妖怪がついていることを知ったのである。  そこで徐安は、翌日、日が暮れるとすぐに妻を別の部屋へ閉じ込めておいて、女の姿をし、ふところに短剣をしのばせて妻の部屋へはいり、古い籠に乗って待っていた。すると、夜がふけて来たころ突然籠はふわりと浮きあがり、窓から出てまっしぐらに空を飛んで、間もなく山の中に下りた。そこには幔幕(まんまく)が張りめぐらしてあって、酒肴(しゆこう)が並べたててある前に三人の青年が待っていた。三人は徐安の籠が着くとすぐ歩み寄って来て、 「王さん、よく来てくださいました。今夜もたっぷりたのしみあいましょう」  とやさしい声でいった。その一瞬、徐安は短剣を握って打ちかかり、三人の青年をその場で殺してしまった。そして再び籠に乗ってみたが、籠はもう飛びたたなかったので、夜があけるのをそのまま待つことにした。  夜があけてから見ると、昨夜殺した三人の青年はみな年を経た狐だった。徐安は山を下り、半日歩いて家に帰ったが、その晩から妻はもう化粧をしなくなった。徐安は妻に狐のことは何もいわなかったが、その後、それとなく聞いてみたところ、妻は狐と交わっていたあいだのことは何も記憶にないようであった。 唐『集異記』    任(じん)氏伝  任氏というのは、女の姿をした妖怪である。  韋使君(いしくん)(使君は刺史に対する尊称。韋は後に刺史になったので、こう呼んだ)という人がいた。名は崟(ぎん)といい、信安(しんあん)王の〓(い)の娘の子にあたる。若いときから豪放な性格で、酒好きであった。  この崟の従妹(いとこ)の婿に、鄭六(ていろく)という者がいた。少年のときから武芸を習い、やはり酒と女が好きだったが、崟とはちがって貧乏なために家を構えることができず、妻の親類の家に寄寓していた。崟とは気が合って、二人はいつも連れだって遊びまわっていた。  天宝九年六月のことである。崟は白馬に乗り、鄭は驢馬に乗って、いっしょに遊びに出かけ、新昌里(しんしようり)で酒を飲もうということになって、宣平門(せんぺいもん)の南まで行ったが、そのとき鄭は、 「ちょっと用事を思い出したので、さきに行ってくれ」  といいだした。崟が、 「どうしたんだ、飲みに行こうといいながら」  というと、鄭は、 「いや、すまん。あとから行くから、君はさきに行って飲んでいてくれ」  という。 「それじゃ、飲み屋で待っているからな」  崟はそういって別れ、白馬を東の方へ向けた。  鄭は驢馬で南へ向かったが、昇平里(しようへいり)の北門をはいったところで、三人の女連れを追い越した。ふり返って見ると、まんなかの白衣を着た女がすばらしい美人だった。鄭は一目惚れをし、驢馬の手綱を引いたり緩(ゆる)めたりして、後になったり先になったりしながら何度も声をかけようとした。だが咎(とが)められてはまずいと思ってためらっていると、やがて白衣の女もときどき流し目を送ってくるようになったので、誘いに乗ってきそうな気がして声をかけた。 「あなたのような美しい方が、乗り物もなしに歩いていらっしゃるなんて、どうしてですか」  すると、白衣の女は鄭を見上げて笑いながら、 「乗り物があっても貸そうとおっしゃる方がいないんですもの、歩いて行くよりほかないでしょう?」  といった。そこで鄭は、 「こんな粗末な乗り物を美人におすすめしては、かえって失礼だと思って遠慮していたのですが、かまわなければお使いください。わたしは歩いてお供をしますから」  といい、女と顔を見合わせて笑った。  鄭が驢馬から下りると、白衣の女は、 「あら、ほんとうに貸してくださいますの。それでは、ご好意にあまえて」  といい、二人の侍女にたすけられて驢馬に乗った。二人の侍女も鄭に対してうちとけたそぶりを見せだし、次第にちょっとした冗談までいうようになった。  楽遊園(らくゆうえん)のあたりまで行ったときには、もう日が暮れていた。ふと気がつくと、土塀をめぐらした大きな屋敷の前まで来ていた。白衣の女はその屋敷の門のところでふり返って、 「ちょっとここでお待ちくださいね」  と鄭にいい、驢馬からおりて、二人の侍女のうちの一人をつれて中へはいって行った。残った侍女が鄭に、名前や住所をたずねたので、鄭は正直に答えてから、 「ところで、あのお方は?」  ときくと、侍女は、 「あら、ご存じなかったのですか。姓は任(じん)、二十番目のお嬢さんです」  といった。しばらくすると中から、 「どうぞ、おはいりになってください」  という声が聞こえてきた。鄭は驢馬を門につなぎ、中へはいって行った。すると三十歳あまりの女が出迎えて、 「姉でございます。ようこそおいでくださいました」  といった。  案内されて行った奥の部屋には、あかあかと燈火がともされていて、酒食の用意がしてあった。姉は鄭を席につかせて、酒をすすめた。三、四杯飲んだとき、任氏が化粧をなおしてあらわれ、姉にかわって鄭をもてなし、いかにも楽しそうに自らも杯をかさねた。鄭は陶然として、仙境にいるような思いだった。任氏の美しさは、この世の人とは思われないほどだった。茫然としている鄭に任氏は身を寄せて来て、ささやいた。 「もう夜も更けてきましたわ。あちらへ行って、やすみません?」  任氏は鄭の手を取って立ちあがらせ、隣室へつれて行った。そこは寝室だった。任氏は燈火を吹き消し、鄭の着物をぬがせると、自分もぬいだ。玉のような裸身が、夜目(よめ)にも浮きあがって見えた。任氏はくつくつ笑いながらその裸身を鄭にぶっつけるようにして、いっしょに寝台の上に倒れ込んだ。  雲となり雨となり、鄭は未(いま)だかつて覚えたことのない深い歓(よろこ)びを味わいつづけた。それを口にすると、任氏も声をふるわせて、 「うれしい! わたしもですわ」  といった。  やがて夜が白んで来ると、任氏は、 「もう起きなければ……」  といい、寝台からすべり下りて着物をまといながら、 「あなたもお起きになって、早くお帰りになってください。わたしたち姉妹は教坊(きようぼう)(玄宗が宮中に設けた歌舞の教習所)の南坊につとめておりますので、朝早く出かけなければなりませんの。ゆっくりしてはおられませんのよ」  といった。鄭は名残(なごり)惜しかったが、後日(ごじつ)を約束して帰ることにした。任氏は鄭を門のところまで見送った。  鄭は驢馬に乗って引き返したが、まだ城門は開いていなかった。門の脇に西域人の餅屋があって、燈火をつけて炉(ろ)の火をおこしはじめたところだった。鄭は驢馬から下りて店さきの椅子に腰をおろし、開門の太鼓の鳴るのを待ちながら、店の主人に話しかけた。 「この道をまっすぐに行って、東へ曲ったところに、土塀をめぐらした屋敷があるだろう? あれは誰のお屋敷だね」  すると主人は、 「塀といっても、くずれ放題でしょう。中には屋敷なんかありませんよ。あそこは空地です」  といった。 「空地だって? おれはいま行って来たんだぜ。立派な屋敷だったよ」 「そんな、ばかな……」 「ばかなとは何だ。現におれは……」 「ああ、わかりましたよ。あの荒れた空地には狐が一匹棲(す)みついていて、男を化(ば)かして連れ込むんですよ。これまでそんなことが三、四度あったんです。さては旦那もやられましたな」  鄭はそういわれて、うろたえだし、 「いや、おれはただ通りかかっただけだが、門もあって、立派な屋敷のように見えたが……」  といってごまかした。  夜が明けてから鄭が舞い戻って行って見ると、主人のいったとおり、土塀はほとんどくずれ落ちていて、中は荒地と廃園で、屋敷など跡形もなかった。だが、鄭の脳裡には昨夜のなまめかしい任氏の姿態があった。何とかしてもういちど会いたいものだと念じながら、鄭はうつけ者のようになって家へ帰って行った。  家に帰ると間もなく、崟が訪ねて来て、 「昨夜はどうしたんだ。新昌里の飲み屋でおれに待ちぼうけをくわせやがって」  といった。 「いや、すまん、すまん。どうしても行けなくなってしまったもんだから」  鄭はひたすらあやまって、任氏のことは口に出さなかった。  それから十日あまりたったとき、鄭は長安の西市(せいし)の衣裳屋の店先で任氏の姿を見かけた。二人の侍女もいっしょだった。あわてて呼びかけると、任氏は身をひるがえして人ごみの中へ逃げ込んだ。鄭が人ごみを縫ってようやく追いつくと、任氏はくるりと背を向け、大きな扇で背中をかくしながら、 「もうご存じのくせに、どうして追って来られるのです?」  といった。 「知っていたって、かまわないだろう」 「でも、恥かしいのよ。会わせる顔もないくらい」 「こんなに思いつめているのに、わたしを見捨てようというのか」 「そうではありません。ただ、あなたに嫌われるのがこわいのです」 「嫌うなんて、そんなことがあるものか。誓うよ」  鄭がそういうと任氏はようやく扇をはずして、ふり向いた。その輝くばかりのあでやかさは、先日の夜と少しも変らなかった。任氏はその顔をほころばせながらいった。 「この世にわたしのような者は幾人もいるのです。みなさんがそれにお気づきにならないだけですの。わたしだけをわるく思わないでくださいね」 「さっき誓ったじゃないか。わるく思ったりなんかするものか。わたしは、あなたといっしょに暮らしたいんだよ」 「わたしたちの仲間が人から嫌われるのは、人をだまして害をするからなのです。でも、わたしはそんなことはしません。もしあなたがわたしを信じてくださるなら、わたしは一生おそばで仕えさせていただきたいと思っております」 「それは願ったり叶ったりだ。そうと決ったら、どこで、どうしていっしょに暮らそうか」  鄭がそういうと、任氏ははじめから決めていたかのように、すらすらといった。 「ここから東へ行ったところに、大きな木が屋根ごしに枝を張っている家があります。まわりも閑静ですから、あの家を借りて住みましょうよ。このあいだ宣平門の南で、白い馬に乗って東の方へいらっしゃった貴公子は、あなたの奥さまのご親戚でしょう? あの方のお家にはいま家具があまっているようですから、貸していただけるでしょうし……」  そのとき崟の伯父や叔父たちは地方に赴任していたので、崟の家には三軒ぶんの家具が保管してあったのである。  鄭が任氏にいわれて崟の家へ行き、家具を貸してもらいたいとたのむと、崟はあやしんで、 「何に使うんだ」  ときき返した。鄭はきかれるのを待っていたとばかりに、胸を反(そ)らせるようにしていった。 「もちろん、家に使うんだ。絶世の美人を手に入れたもんでね。家は借りたんだが、家具にまでは手がまわらないので、君の家のを使わしてもらいたいと思ってね」  すると崟は笑いだした。 「絶世の美人だって? 君がねえ……。まあ、いいさ。人は好きずきだからね。いつか君のその美人にお目にかからせてもらいたいものだね。家具は君がいるだけ選んでくれ。お祝いがわりに下男に運ばせよう」  崟は鄭が選んだ寝台や帷帳(とばり)や家具を、下男にいいつけて車に積ませ、 「ほんとうに女がいるのかどうか、いたらどんな女か見てくるんだぞ」  と耳うちした。  鄭のあとについて車で道具を運んで行った下男は、しばらくすると空(から)の車をひいて戻って来た。 「いたか」  と崟がきくと、下男はいかにも納得のいかないような顔をして、 「いました……」  と答えた。 「どんな女だった」 「それが、こんなに美しい人がこの世にいるのだろうかと疑いたくなるほどの、美しい人でした」 「大袈裟(おおげさ)なことをいうな。おまえ、その女に鼻薬(はなぐすり)でも嗅(か)がされてきたんじゃないか」  崟はそういいながらも、親戚のなかで美人だといわれている女の名を挙げて、 「どっちが美人だ」  ときいた。下男はためらわずに、 「くらべものになりません」  という。評判の美妓の名を挙げても、下男の答えは同じだった。 「それなら、呉王(ごおう)の六番目の姫とは、どっちが綺麗(きれい)だ」  最後に崟は、仙女のようにあでやかだという噂のある従妹の名を出したが、下男はやはり、 「くらべものになりません」  といった。 「そうか。鄭は絶世の美人だといったが、ほんとうにそうだったのか。それにしてもあの風采のあがらない鄭が、そんな美人を手に入れるなんて、この眼で見なければ信じられん」  崟はそういって、さっそく身仕度をととのえ、口紅をさして(注。当時は男でも正装のときには口紅をさした)、鄭の借りた家へ行ってみた。  鄭の家へはいって行くと、童僕が箒(ほうき)で庭を掃いていて、 「ご主人はさきほどお出かけになりました」  といった。かまわずにはいって行こうとすると、下女が出て来て、 「奥さまもお留守でございます」  という。部屋の中をのぞき込むと、赤い裳(もすそ)が扉の間から出ているのが見えた。崟が下女をおしのけてはいって行くと、女が扉のかげにかくれていた。  まことに、下男がいったとおりの美女だった。こんなに美しい人がこの世にいるのだろうかと疑いたくなるほどの、美しさだったのである。崟は気も狂わんばかりになり、いきなり抱きかかえて奥の部屋へ行き、寝台の上へおし倒したが、女は抵抗しつづけた。それでも崟は力まかせにおさえつけて、あくまでも犯そうとした。女はどうにも抵抗しきれなくなり、崟の手がとどきそうになると、 「いうことをききますから、そんなにおさえつけないで」  といった。ところが崟が力をゆるめると、女はまた抵抗しだした。そんなことを二、三度くりかえすうちに、女は力が尽きてしまったのか、ぐったりとしてもう抵抗しなくなり、青ざめた顔をして怨(うら)めしそうに崟を見つめた。 「いうことをきいてくれるのか」  と崟がいうと、女は首を横に振って、 「どうしてもとおっしゃるのなら、わたし、舌を噛み切って死にます」  というのだった。 「なぜそんなにわたしを嫌うのだ」 「好きとか嫌いとかいうことではありません。鄭さんがお気の毒だからです」 「どうして鄭が気の毒なんだ」 「あなたはお金持ちで、好きなことは何でもできるご身分でしょう? あちらこちらで綺麗な人を思いのままになさっていて、わたしみたいな者はいくらでもおありなのでしょう? ところが鄭さんは貧乏で、深い仲といえばわたしだけなのですよ。ありあまっているのに、足りない人のものを取ろうなんて、あんまりじゃありませんか。それでは鄭さんがお気の毒ですわ。鄭さんは貧乏なために、食べることから着ることまで、あなたの世話になっておられます。だからといってあなたは鄭さんに対して、どんな勝手なことをしてもいいというわけではないでしょう」  崟はもともと侠気(おとこぎ)のある人だったので、女の言葉を聞くと手を放した。女は起きあがって衣裳をととのえながら、 「すみません。わたし、生意気なことをいって」  といった。 「いや、わたしがわるかった。あなたを見たとたん、わけがわからなくなってしまったのだ」  崟はそういってわびた。  間もなく鄭が帰って来ると、任氏は、 「家の様子を見に来てくださいましたの」  と崟のことをいった。鄭は何も疑わず、 「おかげで部屋らしくなったよ。家具は大事に使わせてもらうからな」  と、うれしそうにいった。 「うん。すばらしいじゃないか」  と崟がいうと、鄭はますますうれしそうに、 「この人のことか」  と任氏を見ていった。 「この人はすばらしいどころじゃないぞ。もっと上だ。わたしがすばらしいといったのは、この人のために君が下女や童僕までやりくりしたことだよ」 「いや、この人がつれて来たんだよ。わたしにそんな算段ができるわけはなかろう」 「そうか。そうだろうな。これから君たち二人のためにお祝いをしよう」  崟はそういって、紙に一筆したため、童僕を手招きして、 「これをわたしの家へとどけてくれ」  といった。  やがて崟の家から酒や料理がとどけられ、三人は夜が更(ふ)けるまで楽しく語りあった。  それからというもの、崟は任氏の塩酢(えんそ)の世話をすべてするようになった。任氏もときどき崟の家へ立ち寄るようになり、次第に狎(な)れ親しんでいって、ざれごとをいったりするようにもなったけれども、道をふみはずすことだけはしなかった。  任氏は崟が自分を可愛がってくれていることがわかると、つらくなって、こういいだした。 「あなたにはずいぶん甘えさせていただいて、ほんとうにありがたいと思っております。でも、わたしにはお礼のしようがありません。鄭さんを裏切るわけにはいきませんから——。わたしにできることといえば、わたしの代りにお気に召す人をとりもつことしかありません。わたしは陝西(せんせい)の者で、秦城(しんじよう)で育ちました。家は楽師でしたから、従姉妹(いとこ)や親戚の女には人の囲い者になっている者もたくさんおります。それで長安の下町のことは何でも心得ていますから、もし下町の綺麗な人で、お気に召しながら思いどおりにならないような人でもありましたら、おとりもちいたします。せめてそんなことでご恩返しをすることしか、わたしにはできないのです」 「それはありがたい。ひとつ、あなたにたのもうかな」  と崟はいった。ちょうど、町の衣裳屋の女房で張(ちよう)十五娘(じよう)という女が、綺麗な肌をした美人で、思いをかけていたところだったので、任氏にその女を知っているかとたずねると、 「あの人はわたしの従妹ですから、おとりもちするのはわけありません」  といった。果して十日あまりたつと、任氏はその女を崟にとりもって話をまとめたが、崟は五、六ヵ月たつとその女が鼻について来て、別れてしまった。すると任氏は、 「町の人はおとりもちしやすくて、とりもち甲斐(がい)がありません。もし箱入り娘で、どうにも手をつけるきっかけがないというような人がありましたら、おっしゃってみてください。腕をふるって何とかいたしますから」  といった。そこで崟が、 「昨日は寒食(かんじき)(清明節の二日前。この日は火を絶って、煮炊きしないものを食べる)で、二、三人の友達と千福寺へ行ったところ、ちょうど〓緬(ちようめん)将軍が本堂で音楽を奉納していたが、その中に笙(しよう)の上手な娘がいてね。年は十五、六で、すばらしく色気のある女だった。うっとりと眺めていたんだが、あの女を知っているかね」  というと、任氏はうなずいて、 「あの女は将軍のお手がついている女中ですが、あの子の母親はわたしの従姉ですから、何とかしてみましょう」  といった。  任氏はそれから〓(ちよう)家に出入りするようになった。一と月あまりたって崟が催促をすると、任氏は、 「進物にする絹を二反くださいませんか」  といった。崟は上等の絹を二反、任氏に渡した。それから二日たったとき、崟が任氏と食事をしていると、〓緬が、召使に黒い馬を引かせて任氏を迎えによこした。任氏は下女から、〓家から迎えの者が来たと聞くと、崟にむかって笑いながら、 「うまくいったようですわ」  といった。  任氏はまず、〓緬将軍が籠愛しているあの女中を病気にかからせたのだった。女中には鍼(はり)も薬も、少しも効(き)かなかった。将軍も女中の母親も心配のあまり、巫女(み こ)を呼んで占ってもらおうとした。そこで任氏はそっと巫女に賄賂(まいない)を贈って、自分の家を教えこみ、そこへ移れば方角がよいといわせるように仕向けたのである。  巫女は〓家に呼ばれると、病人を見ていった。 「この家にいてはよくありません。ここから東南の方角に、大きな木が屋根ごしに枝を張っている家があるはずです。そこへお移りになれば生気をとりもどすことができます」  将軍と女中の母親が巫女のいった家を調べてみたところ、それは任氏の家だった。そこで将軍は任氏に、部屋を貸してほしいとたのんだ。そのとき任氏は、わざと、 「狭いので、お貸しするわけにはまいりません」  とことわったのである。何度たのまれてもそういいつづけた。  〓家から迎えの者が来たのはそのあとだったのである。そのとき任氏は、はじめて承知した。  〓家では女中の身のまわりの物を車に積み、その母親をつき添わせて女中を任氏の家に送って来た。女中は任氏の家に着くと、たちまち病気はなおってしまった。  それから二、三日たったとき、任氏はそっと崟を手引きして女と通じさせたのである。崟と女とはそれから二た月ほど逢う瀬を楽しみあったが、やがて女が孕(みごも)ったらしいことがわかると、母親はあわてだし、急いで女を〓家へつれ帰ってしまった。  それ以後、崟はもうその女と会うことはできなくなってしまったが、任氏が、 「もういちど何とかしましょうか」  というと、 「いや、もう堪能(たんのう)させてもらったよ」  といった。  その後、任氏は鄭にこんなことをいいだした。 「お金を五、六千都合してくださったら、あなたにうんとお金もうけをさせてあげることができるのですけど……」 「よし。なんとかしよう」  鄭があちこちから借り集めて六千の銭をととのえると、任氏は、 「そのお金で馬を買ってください。ただし、股に疵(きず)がある馬です」  といった。鄭が困って、 「どこへ行ってさがせばいいんだね」  というと、任氏は、 「いまから市(いち)へいらっしゃれば、手にはいるでしょう。股に疵のある馬を売っている人がいるはずですから」  といった。鄭が市に行ってみると、果して股に疵のある馬を引いて買い手をさがしている男がいた。鄭はその馬を買って帰った。人々はそれを見て、 「あんな疵ものを買って、どうするつもりなんだろう」  と笑いあった。  それからしばらくすると、任氏は鄭に、 「さあ、市へ行って馬をお売りなさい。三万銭くらいにはなるはずですから」  といった。そこで鄭は売りに行った。すると、二万銭で買おうという者があらわれたが、鄭は売らなかった。それを見ていた人々は、 「あんな疵ものを、二万銭も出して買おうとする者の気も知れないが、売り惜しみする者の気も知れぬ」  と噂しあったが、鄭は、 「三万でなければ売らぬ」  といい張って、そのまま馬に乗って帰った。すると買手はあとを追って来て、だんだんと値を上げ、とうとう二万五千まで出そうといった。鄭はそれでも売らずに、 「三万でなければ売らぬ」  と繰り返したが、物見高い連中が集ってきてがやがやいうので、結局二万五千で手放してしまった。三万にはならなかったが、それでも二万銭ちかくはもうけたのだった。  後、鄭は任氏にはいわずに、ひそかに買い手の素性(すじよう)をさぐってみたところ、昭応(しようおう)県の小役人だということがわかった。彼が官馬の予備馬として飼育している馬のうち、股に疵のある一頭が三年前に死んだが、彼は飼料(かいば)代をもうけるために帳簿から消さずにおいた。ところが最近、県の官馬の係りが官馬を補充するために馬の評価をするとき、帳簿を見ただけでその馬に六万銭の値をつけたのである。だから鄭から股に疵のある馬を買った小役人は、三万五千をもうけたのだった。それにしても任氏になぜそんなことがわかったのか、鄭は不思議でならなかった。  任氏はまたあるとき、崟に着物をねだった。 「いいとも、綾絹を買ってあげよう。あなたにふさわしいような上等のを」  と崟がいうと、任氏は首を振って、 「既製品を買ってください。その方が好きなのです」  といった。崟はそこで張大という商人を呼んで、任氏に好きな着物を選ばせた。張大は任氏を一目(ひとめ)見るなり、びっくりした様子で崟に耳うちをした。 「この方はきっと、皇族か貴族のお姫さまでしょう? おかくしになってもわかります。おそらく旦那が盗み出していらっしゃったのでしょう。でも、俗世間になじむことのできるようなお方ではありませんから、早くお帰しになって禍(わざわい)を引きおこさないようになさった方がよろしいでしょう」  任氏の美しさは、張大がそういったほど、見る人の眼をおどろかせたのである。こうして任氏は仕立てた着物を買い、自分で針を持とうとはしなかったが、崟にはそれがなぜだかわからなかった。  それから一年あまりたったとき、鄭は武官に採用され、槐里(かいり)府の果毅尉(かきい)(地方に置かれた朝廷直属の部隊の隊長)に任ぜられて、しばらく金城県に駐屯することになった。鄭はそのとき任氏をつれて行こうとしたが、任氏は行きたがらず、 「一と月ぐらいお供をしたところで、別に楽しくもありませんわ。暮らしの費用だけ見はからって置いていってくだされば、身をつつしんでお帰りを待っております」  というのだった。鄭には任氏がなぜ行きたがらないのかわからない。だが、いえばいうほど任氏がいやがるので、崟に助言してくれるように頼んだ。ところが、崟がすすめても任氏は首を横にふるばかりだった。そこで崟が、行きたがらないわけを問いつめると、任氏はしばらくためらった末、 「ある巫女が、今年は西の方へ行ってはいけないというのです。それで行きたくないのです」  といった。鄭はそれを聞くと、むしろほっとして、 「なんだ、そんなことだったのか」  と笑った。崟も、 「あなたのようなかしこい人が、そんな迷信に惑わされるなんて」  といって、同行するようにすすめた。すると任氏は、 「もし巫女のいったことが当(あた)ったら、わたしは死んでしまうのですよ。それでも行けとおっしゃるのですか」  といった。 「そんなことがあるものか。わたしがしっかり護って行くから。わたしを信じてくれよ」  鄭がそういって、またしきりに頼むと、任氏は、 「そんなにおっしゃるのなら」  といって、とうとう同行することを承知した。  崟は任氏に自分の馬を貸してやり、長安の西の臨皐(りんこう)駅まで見送りに行って、別れた。  長安をたってから三日目に、鄭の一行は馬嵬(ばかい)にさしかかった。任氏は馬に乗って先に立ち、鄭は驢馬でそのあとにつき、女中は別の、これも崟の貸してくれた馬に乗ってそのあとについていた。ところがそのとき、西門の猟場役人が洛川(らくせん)で猟犬の訓練をしていた。一行はそれに出会ったのである。鄭は草むらの中から黒犬が飛び出して来るのを見た。同時に任氏が馬からころげ落ち、狐の正体にかえって南の方へ駆けて行くのが見えた。黒犬がそれを追いかけている。鄭はあわててそのあとを追ったが、驢馬の足では追いつけず、一里ほど行ったところで狐は犬に飛びかかられ、噛み殺されてしまった。  鄭は泣く泣く猟場役人に頼んで狐の死骸を買い取り、その場に埋めてやって、木を削って目じるしをつけた。任氏が乗っていた馬のところへ引き返してみると、馬はそこで草を食っていたが、任氏が着ていた衣裳は全部鞍の上に残っており、靴や靴下も鐙(あぶみ)にひっかかっていて、髪かざりだけが地面に落ちていた。女中もどこへ消えてしまったのか、馬だけが残っていた。  十日あまりたって、鄭は長安に帰って来た。崟がよろこんで出迎え、 「任さんは無事かね」  ときくと、鄭は涙を流して、 「死んでしまったよ」  といった。崟がおどろいて、 「なんでだ」  ときくと、鄭は声をあげて泣きながら、 「犬に食い殺されたのだ」  といった。 「いくら犬が強くても、人間を食い殺せるわけはなかろう」 「いや、あれは人間ではなかったのだ」 「ばかなことをいうな。人間でなければ、なんだったというんだ」  そこで鄭ははじめて崟に、一部始終を話した。翌日、崟は馬車を用意し、鄭といっしょに馬嵬へ行き、塚を掘りおこして遺骸を見、あらためて鄭重に葬ってから家に帰った。これまでの任氏とのことをいちいち思い返してみたが、ただ着物を自分で縫おうとしなかったことだけが普通の人間とは少しちがっていただけであって、その他の点では、ちがったところはなにもなかった。たぐいまれな美貌だったということのほかには——。  その後、鄭は総監使(宮中の下役人を監督する官)に任ぜられ、家も豊かになって、馬を十数頭も飼う身分になった。そして、六十五歳で死んだ。  大暦年間、私は山東の鍾陵(しようりよう)に住んでいて、崟と親しくつきあったことがある。崟は私に何度もこの話をしてくれたので、かなり細かいことまで知ったのである。その後、崟は殿中侍御史(じぎよし)に任ぜられ、隴州(ろうしゆう)の刺史を兼ねて、任地で死んだ。  ああ、異類(動物)の心にも人間の心と少しも変わらないものが備わっているのである。暴力に遭っても節操を守りとおし、夫のいいつけに従って命を投げ出すとは、人間の女性でも及ばぬところであろう。惜しむらくは、鄭が教養の深い男でなかったために、ただ任氏の容色に心を奪われて、その情愛の深さを究めようとはしなかったことである。もし彼が教養の深い男だったならば、物の変化の道理を究め、神と人との関係を察し、それを美しい文章としてあらわし、情愛の奥妙(おうみよう)を世に伝えて、ただその容色を愛(め)でるだけにはとどまらなかったであろう。まことに残念なことである。  建中二年、私は左拾遺(さしゆうい)の官から、金吾(きんご)将軍の裴冀(はいき)、京兆少尹(けいちようしよういん)の孫成(そんせい)、戸部郎中(こぶろうちゆう)の崔需(さいじゆ)、右拾遺(ゆうしゆうい)の陸淳(りくじゆん)らといっしょに東南の地へ流されることになり、陝西(せんせい)から浙江(せつこう)へ行く間(かん)、水陸の旅をともにしたが、そのとき前(さき)の拾遺の朱放(しゆほう)も旅に出ていて、私たちといっしょになった。そして穎水(えいすい)から淮河(わいが)へと流れのままに船を進めながら、夜昼となく酒盛りをして互いに珍らしい話を語りあったが、同行の人々は私の語る任氏の話にみな深く感動し、私にその物語を書き伝えるようすすめてやまなかったので、ここにその不思議を書きとめたのである。沈既済(しんきせい)これをしるす。 唐、沈既済『任氏伝』    あとがき 駒田信二    この妖怪編は、幽霊編、神仙編につぐ第三編である。説話の原初のかたちである素朴なもの(いわゆる志怪(しかい))を集めることに努めて、意識的に物語性をめざしたもの(いわゆる伝奇)はなるべく避けたが、その点は他の二編の場合と同様である。伝奇的なものには、すでにその原型が志怪にあることが多いからである。(志怪と伝奇との別については、幽霊編のあとがきを参照されたい。)  魯迅はその『中国小説史略』の第五章「六朝の鬼神志怪の書」の「上」の冒頭で次のように述べている。  中国にはもともと巫(ふ)を信ずる風があった。秦・漢の時代には神仙の説がさかんに行なわれたが、漢の末になるとまた巫の風もいよいよさかんになって、霊鬼に関する説話が多く伝えられた。折から小乗仏教がはいって来て、仏教的な霊異談もひろまった。これらが一つになって鬼神霊異の説話をあおり立てたため、晋から隋にかけて多くの志怪の書があらわれるに至ったのである。それらには仏教や道教の徒によって書かれたものと、文人の手になったものとの二つがあるが、文人の作は仏・道両家のそれのように自らの教えを神聖ならしめようという意図はなく、ただそのころ世に行なわれていた奇談や逸話を集録したというだけのものである。意識的に小説を書こうとめざしたものでもない。幽と明との世界はもとより同じではないが、当時の人々にとっては、人も鬼(幽霊)も、ともに実際に存在するものであった。従って怪異を叙述することと、世間の常事を記載することとのあいだには、もともと真妄の別はないと考えられていたのである。  真妄の別がないために、幽霊もわが国の幽霊のようにおそろしい形相(ぎようそう)であらわれるということはなく、この世の人間と少しもかわらないばかりか、絶世の美女であることが多いのである。神仙も、いわゆる神々(こうごう)しい姿や霞を食っているような清らかな姿であらわれることはなく、俗人と少しもちがわないばかりか、その外見は俗人よりもさらに卑俗であったり醜悪であったりする場合が多いのである。同じように妖怪の場合にも、魑魅魍魎(ちみもうりよう)のたぐいは別として、それがあらわれるときには人間と少しもかわらないばかりか、美女であったり可憐(かれん)な娘だったりすることが多いのである。「美貌の下女」「白百合の精」「白衣の美女」「青衣の美女」「空園の中の美女」「小舟の女」「青ずくめの女」「湖畔に住む娘」「金の鈴」「任氏伝」の女など、すべてそうである。これらの女はその本性は人間以外の動植物あるいは無生物でありながら、人間の姿をしてあらわれて人間と交渉を持つという点で妖怪に数えたのだが、格別それが人間にたたりをしたり危害を加えたりしない場合は、あるいは妖怪と呼ぶことはふさわしくないことかもしれない。しかし中国の妖怪説話にはそのような妖怪が多いのである。それは「怪異を叙述することと、世間の常事を記載することとのあいだには、もともと真妄の別はない」ということから生れたものなのであろう。  もっとも、同じように可憐な娘あるいは美貌の女としてあらわれて来ても、「茶店の嫁」や「三つの頭蓋骨」のような、人間を食うおそろしい妖怪もいるし、「鏡のような眼」「琵琶ならわたしも」「山中の怪」「駅舎の怪」「靴を食う妖怪」「死骸の頭」のような、いかにも妖怪らしい説話もある。  この妖怪編の中にも「美貌の下女」や「陰口をきらう妖怪」のように道士が登場する説話もあるが、道士の登場する説話の多くは神仙編の方に収めた。  たとえば「二人の父親」(神仙編、二六三ページ)がそうである。この話は、道士を主にすれば神仙譚になり、狸を主にすれば妖怪譚となる。仙人や道士の登場する説話には、妖怪譚に数えてもよいものが少なくはないのである。  また、次のような説話もある。  江西軍の小吏の宋(そう)某が、星子(せいし)へ木材の買い出しに行ったときのことである。川岸に大勢の人が集ってがやがやさわいでいるので、傍へ行って見ると、漁師が大きな鼈(すつぽん)をつかまえたところだった。  宋某が鼈を見ると、鼈は哀願するような様子をして宋某を見上げているようであった。宋某は鼈をあわれに思い、一千銭を払ってそれを漁師から買い取り、川の中へ放してやった。  それから数年後、宋某が船を竜沙(りゆうさ)に停泊させたところ、下男ふうの男があらわれて、 「元長史さまがお召しでございます」  といった。宋某はそういわれても、元長史という人がどこの長史(太守の副官)か見当もつかず、ためらっていた。するとその下男ふうの男はまた、 「元長史さまがお召しでございます」  といった。不審に思いながらもついて行くと、やがてある役所に着いた。すると立派な身なりの役人が迎えに出て奥へ案内し、宋某に席をすすめてから、 「わたしを覚えておいでですか」  ときいた。宋某はいくら考えてみても見覚えがない。口をもぐもぐさせて答えかねていると、相手は、 「では、いつぞや星子で大きな鼈を川に放したことは覚えておいでですか」  といった。宋某が思い出して、 「はい、覚えております」  というと、 「あのときの鼈がわたしなのですよ」  と相手はいった。 「あのときは、ふとしたことから罪を犯して、天帝の命令で鼈にされていたのです。漁師につかまえられたとき、もしあなたが情けをかけてくださらなかったら、わたしの命はもうとっくになくなっているところです。今はおかげでこうして九江の長史になっておりますが、お呼びしたのは、あのときのご恩返しをしたいと思ったからです。あなたの息子さんは水に溺(おぼ)れて死ぬ運命になっていて、ほら、この名簿にもちゃんと名が載っております。あと四、五日すると、鳴山神(めいざんしん)が廬山使者(ろざんししや)のところへ拝謁(はいえつ)に出かけますが、そのときに暴風雨がおこります。息子さんはそのとき水に溺れて死ぬことになっているのです。だが、さいわいもう一人、同姓同名の男がいて、これも溺死する運命と決められています。もっともその時期はあなたの息子さんよりも一年さきになっていますが、わたしはあなたへのご恩返しに、その男を息子さんの代りにしようと思うのです。息子さんをさっそく上陸させて、どこか安全なところへ避難させなさるように。さもないと溺死をまぬがれることはできませんぞ」  宋某は厚く礼を述べてその役所を出た。するといつのまにか、船を停めた竜沙にもどっているのだった。  それから数日して、はたして風水害がおこり、多くの人々が死んだが、宋某の息子は安全な場所へ避難していたために無事であった。 宋『稽神録』   これは神の話であろうか、鼈の恩返しの話であろうか。鼈の恩返しの話と見れば、あるいは妖怪の説話の中に入れてもよいかもしれない。だが、この種の説話はこの妖怪編には取らなかった。  明らかに妖怪譚といってよい説話もある。だが、見方によってはそうではない説話もあって、取捨にまどうものが多く、その種のものはなるべくここには取らないようにした。  だが、例えば「酒虫」のように妖怪譚とはいえないものも、ここには収めた。芥川龍之介の「酒虫」がこれに拠(よ)ったものであるために、ついでにという気持で収めたのである。  その原型が志怪にあるものとはいえ、伝奇も何編かは取った。「黄英」「竹青」「人間の皮」「渭南で会った女」「任氏伝」などである。これらのうち「黄英」は太宰治の「清貧譚」の、「竹青」は同じく太宰治の「竹青」の原作である。「人間の皮」は別として、「黄英」は菊であり、「竹青」は烏であり、「渭南で会った女」は猿であり、「任氏伝」は狐である。それが人間の姿をして人間世界の中に混(まじ)っているから妖怪なのだが、魯迅の言葉を借りていうならば、人間と他の動植物との世界はもともと同じではないのだが、それが人間の世界の中で真妄の別なく語られているところに、これらの説話の持つ悲しさがあるとはいえないであろうか。 中国怪奇物語(ちゅうごくかいきものがたり)〈妖怪編(ようかいへん)〉 電子文庫パブリ版 駒田信二(こまだしんじ) 著 (C) Setsu Komada 2000 二〇〇〇年一二月八日発行(デコ) 発行者 中沢義彦 発行所 株式会社 講談社     東京都文京区音羽二‐一二‐二一     〒112-8001     e-mail: paburi@kodansha.co.jp 製 作 大日本印刷株式会社 *本電子書籍は、購入者個人の閲覧の目的のためのみ、ファイルのダウンロードが許諾されています。複製・転送・譲渡は、禁止します。