TITLE : 中国怪奇物語〈神仙編〉 講談社電子文庫 中国怪奇物語〈神仙編〉  駒田信二 著 目次  一口の水  分身の術  石を食う男  虎になる呪文  貸した刀  山上の酒盛り  天台山の神女  桃源境  山中の老人  李の神木  〓神廟  荒地の神  邯鄲夢の枕  絵の中へはいる男  瓶の中  黄金の蝶  ものぐさ坊主  鳥獣どもの歎願  鯉  なます  張三の麦藁帽子  張老の嫁  雁門山の仙女  寿命  眉間の傷  槐の瘤代  成弼金  空飛ぶ娘  一本の筆  水を汲む女  竹の束  驢馬と旅人  神になった男  壺公と費長房  李八百と唐公〓  魏伯陽と虞生  仙人の婿  三つの運  杜子春  茶店の娘  黄金の碗  蘇仙の桃  道士の試験  石亀の眼  三つの予言  浴室の尼僧  金牛岡  金鶏洞  戴侯祠  火事の予告  廬山の神  神の愛人  如願  孤石廟  織女  白水の素女  白い田螺  崑崙奴の術者  石婆神  土地神の加護  華岳の三美人  制蛇の術  淮陽の宿  処女神の横恋慕  紫姑神  嫁の神さま  鬼神の荒縄  桶を作る老人  夢を生かす男  神に殺された男  梨と道士  奇門の法  あかずの間  二人の父親  黒い鶴  板橋の三娘子  張天師と黒魚  あとがき 中国怪奇物語 神仙編   一口の水  河南の壺(こ)山(ざん)に、樊(はん)英(えい)という道士が隠棲していた。  あるとき、突風が西南のほうから吹いてくるのを見ると樊英は弟子にむかって、 「成(せい)都(と)の町が火事だな。ひどく燃えているようだ。消してやろう」  といい、口に水をふくんで、西南のほうへ吹きかけた。  弟子はその日と時間とを覚えておいた。その後、四(し)川(せん)からきた人があったので、弟子は、その日時を口にして、 「成都に火事がありませんでしたか」  ときいた。するとその人はおどろいて、 「あなたも、だいぶん修行を積みなさったと見える。よく見とおせましたな。たしかにその日のそのころ、大火事がありました。火の勢いが強くて、町じゅうにひろがりそうな気配でしたが、そのうちに東北のほうに真黒な雲がわきおこったかと思うと、たちまち大雨が降りだして、さしもの火も消えてしまいました」  といった。 六朝『捜神記』    分身の術  左(さ)慈(じ)は廬(ろ)江(こう)の人である。若いときから神通力があった。  あるとき曹(そう)公(こう)の家の宴会に招かれていったが、曹公が、 「今日は山海の珍味をとりそろえた。ないのは松(しよう)江(こう)の鱸(すずき)のなますだけだ」  というと、左慈は、 「松江の鱸くらいなら、わけなく手にはいります」  といった。曹公がききとがめて、 「それなら、すぐ取りよせてみよ」  というと、左慈は大きな銅盤に水をみたし、竹竿に糸と鉤(はり)をつけて、盤の中へ垂らした。そしてまもなく一匹の鱸を釣り上げた。曹公も列席の者もみなおどろいておのれの眼を疑ったが、それはまぎれもなく、三尺あまりの大きさの、ぴちぴちとした鱸であった。 「一匹ではみんなにゆきわたらぬ。もう一匹あるとよいのだが……」  と曹公がいうと、左慈はまた糸を垂れて、前と同じ大きさの鱸を釣り上げた。  曹公は自分でなますを作りながら、 「これに、蜀(しよく)の生(しよう)薑(が)があるとよいのだがな」  といった。すると左慈は、 「それも、すぐ手にはいります」  という。曹公は左慈がこの土地の生薑でごまかすのではないかと思って、 「鱸を盤の中から釣り上げたように、そのあたりの地面から掘り出すのか」  といった。左慈は笑って、 「いいえ、蜀へいって買ってまいります」  という。 「そんなことができるわけはない。蜀へ往復するには急いでも一年はかかるのに」 「それは、普通の者ならということでございましょう」 「ふむ。それで、お前が買いにいくというのか」 「いいえ、使いの者をやります」 「それなら、使いの者にことづてをたのむ。わたしの部下がいま蜀へ錦を買いにいっているから、その部下に会って、もう二反(たん)買い足すようにいいつけてくれとな」 「承知いたしました」  左慈はその旨をいいふくめて使いの者を出した。その者は出ていったと思うとすぐ帰ってきて、生薑をさし出し、そして、 「蜀で錦を売る店をさがしましたところ、閣下の部下の方にお会いすることができましたので、お言葉どおりに、もう二反買い足すようにと伝えておきました」  といった。  それから一年あまりたったとき、錦を買いにいった曹公の部下が蜀から帰ってきたが、はたして、はじめにいいつけたよりも二反多く買ってきた。わけをたずねると、 「一年あまり前、錦を売る店で出会った人が、閣下のおいいつけだといって、二反多く買うようにといいましたので」  と、そのときの様子を話した。  曹公は左慈の神通力をおそれだした。その後、曹公が百人あまりの部下をつれて郊外へ遊(ゆ)山(さん)に出かけたとき、左慈は一壺の酒と一切れの肉を持ってついてゆき、自分で酒をついでまわり、肉をすすめて、百人の部下たちみんなを堪(たん)能(のう)させた。曹公はそれを見てあやしみ、部下を町の酒屋へやって調べさせたところ、どこの酒屋でもみな、昨夜のうちに、店にあった酒と肉がすっかりなくなっていたという。  曹公はますます左慈をおそれるようになり、おりを見て左慈を殺してしまおうと考えた。だが、なかなかその機会がない。あるとき左慈を家に招き、いきなり逮捕しようとしたところ、左慈はぱっと壁の中に逃げこんで、そのまま姿を消してしまった。そこで銭一千の懸賞をかけて左慈をさがさせた。  その後、ある人が町の人ごみの中で左慈を見つけ、捕えようとしたところ、町じゅうの人がみな左慈と同じ姿になってしまって、どれが本物か見わけがつかなくなってしまった。  その後また、陽城山のあたりで左慈を見かけたという知らせがあったので、曹公が部下に追いかけさせたところ、左慈は羊の群の中へ逃げこんで、見分けられなくなってしまった。曹公はそこで部下に、羊の群にむかってこういわせた。 「曹公はあなたを殺そうと思っておられるのではない。あなたの術を試そうとされただけだ。あなたの術がいかにすぐれたものであるかはもうよくわかったから、どうか姿をあらわされたい」  すると羊の群の中の一頭の年とった牡羊が、前足を折り曲げて人間のように立ちあがりながら、 「なにをあくせくなさる」  といった。曹公の部下たちはそれを見ると、 「あの羊だ!」  と、われがちにその羊を目がけて駆け寄ろうとしたところ、数百頭の羊がみなその羊と同じ羊になり、同じ恰(かつ)好(こう)をして、 「なにをあくせくなさる」  といった。曹公の部下たちはどの羊を捕えたらよいのかわからなくなって、むなしく引き返したという。 『老子』にこういう言葉がある。 「吾(われ)に大いなる患(うれい)ある所以(ゆえん)のものは、吾に身あるが為なり。吾に身なきに及べば、吾に何の患かあらん」  老子のような人たちは、自分の肉体をなくすることができたのであろう。左慈もそれに近かったのではなかろうか。 六朝『捜神記』    石を食う男  焦(しよう)先(せん)は、河東の人である。  齢は百七十歳で、白い石を常食とし、それを人にも分け与えていた。煮て、芋(いも)のようにして食べるのだった。  彼は毎日、山へ分け入って薪を取り、それを人に施していた。村外れの家からはじめて、ひとまわりして山へもどって行くのである。背負っている薪を黙って人の家の門口に置き、黙って立ち去る。人に出会うと、地面に敷物を敷いて坐らせ、食べ物を出してすすめる。そうするだけで誰とも口をきかない。幾年もそれをくりかえしていた。  魏の文帝が帝位についたころ、焦先は黄河のほとりに小屋を建てて、そこに独りで暮していた。椅子や寝台などはつくらず、草を敷いて土の上にじかに坐り、じかに寝ていた。体は垢(あか)にまみれて、まるで泥をかぶったようであった。数日に一度しか物を食べず、歩くにも道を行かず、女とはつきあわず、着物がぼろぼろになれば薪を売って古着を買い、夏も冬も単衣(ひとえ)一枚ですごした。  太守の董(とう)経(けい)がわざわざ訪ねて行ったが、やはり口をきこうとはしなかった。しかし董経はかえって、ますます焦先を尊敬するようになったという。  その後、野(の)火(び)のために小屋を焼かれたことがあった。人が行って見ると、焦先は小屋の中に坐ったままで動こうともしなかった。火が小屋を焼きつくしてしまうと、おもむろに立ちあがったが、着物はすこしも焼けていなかったという。  焼け跡に焦先は再び小屋を建てた。  ある日、大雪が降って人家が多く倒壊した。焦先の小屋も雪におしつぶされてしまった。人が行って見たが、焦先の姿は見えなかった。おそらく凍死してしまったのだろうと思って、つぶれた小屋をめくるようにして死体をさがすと、焦先は雪の中で熟睡していた。顔は赤く火(ほ)照(て)って、ぐうぐうと鼾(いびき)をかき、まるで夏の暑いさかりに酒に酔って寝ているようなありさまだった。  人々は彼の非凡さを知り、弟子になって道を学びたいと願う者がたくさんいた。だが焦先は首を振って、 「道など知らん」  というだけだった。  彼は時には老け、時には若返り、そして二百歳を越えたとき、この世から姿を消してどこへ行ったのかわからなくなってしまった。彼に道を学びたいと思った人も、ついに一言もきき出すことができなかったのである。 六朝『神仙伝』    虎になる呪文  尋(じん)陽(よう)の周(しゆう)家に一人の下僕がいた。  ある日、彼は妻と妹をつれて薪を取りに出かけたが、やがて山の奥深くへはいっていったとき、突然二人にいった。 「おまえたち、早くその木の上へのぼれ。でないと危いぞ」  二人がわけのわからぬまま、あわてて木にのぼると、彼はかたわらの藪(やぶ)の中へはいっていった。しばらくするとその藪の中から、一匹の黄色い斑のある大きな虎がおどり出てきて、すさまじいうなり声をあげながら木のまわりを馳けまわった。二人が生きた心地もなく木の上でふるえていると、やがて虎は藪の中へもどってゆき、かわって彼が出てきた。 「虎はどうしました?」  と女たちがふるえ声できくと、彼は、 「もう下りてきてもよい。あの虎は、じつはおれなのだ。だが、このことは決して人に話してはならぬぞ」  といった。  主家へ帰ってからは、男のそぶりには何のかわったところもなかった。口どめされた妻と妹はしばらくは秘密をまもっていたが、ある日、妹がふと兄の不思議を仲間の下女にもらした。噂はすぐひろまって、周家の主人の耳にはいった。主人はまさかと思ったが、とにかくしらべてみようと思い、ある日、慰労を口実にして下僕に酒をふるまった。酒には酔いを強める薬がいれてあった。  男が酔いつぶれてしまうと、主人はその着物を剥いで身体中をくまなくしらべた。だが、何のかわったところもなかった。さらに髪を解いてみると、髻(もとどり)の中から一枚の紙切れが出てきた。それには一匹の虎の絵が描いてあり、虎のまわりに呪(じゆ)文(もん)らしいものが書かれていた。主人は男の酔いがさめるのを待って詰(きつ)問(もん)した。男は知らぬふりをしていたが、虎を描いた紙切れを示されると、かくしきれず事情をあかした。  尋陽の北の山中に異人が住んでいる。彼は人を変じて虎にする術を心得ていて、どんな人間でも、毛の色から爪(つめ)、牙(きば)にいたるまで、ほんとうの虎とすこしもかわらない虎に化してしまう。下僕は先年その山中へ米を売りにいって異人にあい、布や酒や鶏(とり)を贈って呪文を書いた紙切れをもらってきたのだといった。 六朝『捜神後記』    貸した刀  銭(せん)塘(とう)に杜(と)子(し)恭(きよう)という人がいた。  隣家の某が商用で旅に出ることになり、杜子恭に瓜(うり)を割(さ)く刀を貸していたことを思いだして返してもらいにいくと、杜子恭はすっかり恐縮して、 「うっかりしていて失礼しました。すぐお返しします」  といったが、そういうだけで、いっこうに返そうとはしない。これから旅に出るのだからと隣人が催促しても、 「すぐお返しします」  とくりかえすだけである。あるいは、なくしてしまったのかもしれぬ、と隣人は思い、あきらめて旅に出た。  やがてその人の船が嘉(か)興(こう)までいくと、一匹の大きな魚が船の中へ飛びこんできた。不思議に思ってその腹を割いてみると、杜子恭に貸してあった刀が出てきた。 六朝『捜神後記』    山上の酒盛り  陽(よう)羨(せん)に許(きよ)彦(げん)という人がいた。  ある日、雌雄二羽の鷲(が)鳥(ちよう)をいれた籠(かご)を背負って、家を出た。山ひとつ越えた隣りの町の綏(すい)安(あん)にいる友人のところへ、とどけにいくのである。山道にさしかかると、 「もしもし、お願いがあるのですが……」  という声がきこえた。びっくりして見まわすと、道端の草むらの中に、十七、八歳の書生が横たわっていた。 「脚(あし)を痛めて困っております。まことに恐縮ですが、山の上までその籠の中にいれていっていただけないでしょうか」  許彦は書生が冗談をいっているのだと思った。 「脚が痛いのはお気の毒ですが、ごらんのようにこの籠には鵞鳥が二羽はいっております。無理でしょうなあ」 「もしその籠の中へはいれたら、山の上まで運んでくださいますか」 「よろしいとも。もし、はいれたら……」  許彦は笑いながらそういったが、その言葉の終らぬうちに、もう書生は籠の中へはいっていた。籠が大きくなったわけではなく、書生が小さくなったわけでもないのに、籠の中に書生は二羽の鷲鳥と並んで坐っており、鷲鳥も別にさわぎもしない。許彦は籠を背負って歩きだしたが、すこしも重さを感じなかった。  やがて山の上まできて、許彦が籠をおろすと、書生は籠から出てきて、 「ありがとうございました。お疲れだったでしょう。お礼にちょっとばかりご馳走をしたいと思うのですが……」  といった。山の上には茶店があるわけでもない。書生は荷物も何も持ってはいない。 「それは結構ですな。どんなご馳走でしょう」  許彦が笑いながらそういうと、書生はふーっと息を吐いて、口の中から大きな銅の箱を出した。箱の中には酒と肴(さかな)がはいっていた。肴はみな山海の珍味で、酒も肴も許彦にははじめてのすばらしい風味だった。  しばらく酒をくみかわしてから、書生は許彦にいった。 「じつは、女をつれてきているのですが、ちょっとここへ呼んでもよろしいでしょうか」 「どうぞ」  と許彦がいうと、書生はまたふーっと息を吐いて、口の中から十五、六歳の女を出した。綺麗な衣裳を着た、なかなか美しい女だった。女はいっしょに酒を飲んだ。  しばらくすると、書生は酔って横になり、眠ってしまった。すると女は許彦にいった。 「わたし、この書生と結婚はしていますが、じつは、ほかに好きな人がいるのです。その人をつれてきているのですけど、書生が眠ってしまいましたので、ちょっとここへ呼びたいと思います。どうか内証にしておいてくださいね」 「いいですよ」  と許彦がいうと、女はふーっと息を吐いて、口の中から二十三、四歳の男を出した。なかなかかしこそうな、如(じよ)才(さい)のない男で、許彦にきちんと挨拶をした。  そのうちに書生が寝返りをうって眼をさましそうになった。許彦が、どうなることかとはらはらしていると、女はまた、ふーっと息を吐き、口の中から錦の衝(つい)立(たて)を出して、それで書生をさえぎった。すると書生が手をのばして、女をその衝立のむこうへ引っぱりこんで、いっしょに寝てしまった。  二人が寝てしまうと、男が許彦にいった。 「あの女は、情(じよう)はあるのですが、まごころがありません。わたしはこっそりほかの女をつれてきているのですが、ちょっとここで逢いますから、どうか内証にしておいてください」 「いいですよ」  と許彦がいうと、男はふーっと息を吐いて、口の中から二十歳くらいの女を出し、いっしょに酒を飲んで、長いあいだざれあっていた。  やがて衝立のむこうで、書生の身動きする気配がした。すると男は、 「あの二人はもう眼をさましたようです」  といった。そして、自分の出した女をまた口の中へ吸いこんでしまった。  すると間もなく、書生と寝ていた女が出てきて、許彦に、 「もう書生が起きそうですわ」  といい、さきほどの男を吸いこんでしまい、つづいて衝立も吸いこんでしまって、許彦と向きあって坐り、酒をすすめた。  そこへ書生が起きてきて、許彦にいった。 「ちょっと眠るだけのつもりでしたが、ずいぶん長くなってしまいました。おもてなしするはずの客人をほったらかしにしておいて、なんとも申しわけございません。もう日も暮れてきましたから、これでお別れいたしましょう」  そして、女を吸いこんでしまい、箱もいろいろな器もみな吸いこんでしまったが、ただひとつ、直径二尺あまりの銅の盆だけを残して、 「なんのお礼もできませんが、記念としてこれをさしあげましょう」  といった。  許彦が一礼して顔を上げて見ると、どこへいってしまったのか、すでに書生の姿は消えていた。ただ、手に銅の盆が残っているだけであった。 六朝『続斉諧記』    天台山の神女  劉(りゆう)晨(しん)と阮(げん)肇(ちよう)は、ともに〓(せん)県の人である。  あるとき二人は天(てん)台(だい)山(さん)へ薬にする殻(こく)皮(ひ)を取りにいったが、道に迷って帰れなくなり、十三日間も歩きまわって、身体は疲れ腹は減り、そのまま死んでしまいそうな羽目になった。  そのときふと山頂を見上げると、一本の桃の木があって、実がたくさん成っているのが見えた。ところが切り立った岩や深い谷に遮られて、上る道がない。二人は残った力をふりしぼり、藤や葛(かずら)にすがりついて岩をよじ上り、谷へ下り、また谷をよじ上りして、ようやく山頂にたどりつき、いくつかの桃の実をむさぼり食(くら)った。と、飢えがおさまって元気がみなぎってきたので、また山を下りていったところ、きれいな流れの谷川があった。そのほとりで一休みしながら、口をすすいだり顔や手足を洗ったりしていると、上流から蕪(かぶ)の葉が流れてきた。新鮮な色の葉である。しばらくすると、こんどは碗が流れてきた。碗には胡麻飯の粒がついている。 「これは人家から遠くない証拠だ。いってみよう」  と、流れの中へはいって半道あまりさかのぼっていくと、やがて深い谷へはいった。なおも進んでいくと、谷川のほとりに二人の女が立っていた。二人ともたとえようもなく美しい。女たちは、二人が蕪の葉と碗を持ってあらわれたのを見ると、頬笑みながら、 「劉さんと阮さんが、さっき流されていったのを取ってきてくださったわ」  といった。  劉晨と阮肇はその女たちに見おぼえがなかったが、二人から姓を呼ばれたので、ふと昔なじみだったような気もして、曖(あい)昧(まい)に笑いながら挨拶をした。すると女たちは、 「どうしてこんなに遅かったのです?」  といい、さきに立って自分たちの家へ案内していった。その家は銅の瓦(かわら)で屋根をふき、広い部屋の南と東の壁ぎわにそれぞれ大きな寝台がそなえてあって、どちらにも赤い絹の帳(とばり)を垂らし、帳の四隅には鈴をかけ、上の方には金糸と銀糸が織りまぜてある。そして寝台の脇にはそれぞれ十人ずつの侍女がひかえていた。その侍女に向って女たちは、 「劉さんと阮さんは山や谷を越えていらっしゃったので、さきほど玉(ぎよく)の実をおあがりになったけれど、まだおなかをすかしていらっしゃるでしょう。早くお食事をさしあげなさい」  といいつけた。と、侍女たちはすぐ、胡麻飯と山羊の乾(ほし)肉(にく)と牛の肉を運んできた。みな味はことのほかおいしかった。食事がすむと酒になった。  そのとき、二、三十人の女たちがうちつれて、にぎやかにはいってきた。みな手に手に桃の実をいくつか持ち、笑いながら、 「あなたがたのお婿さんがいらっしゃったので、みんなでお祝いにきました」  といった。酒がたけなわになると音楽がはじまり、酒宴はいっそうにぎやかになった。劉晨と阮肇は夢見心地の中で、期待と不安に胸をおどらせていたが、やがて日が暮れてくると、酒宴はおひらきになり、二、三十人の女たちは口々にお祝いの言葉を残して、またにぎやかに、うちつれて帰っていった。  侍女たちも引きさがってしまうと、二人の女はそれぞれ東と南の寝台へ劉晨と阮肇をいざない、いっしょに寝た。そして男女一組ずつ、それぞれ、歓びをつくしあったが、劉晨にも阮肇にもそれは夢ともうつつともつかぬ、いまだ味わったことのない歓びであった。  十日たったとき、二人が帰らせてくれというと、二人の女は、 「あなたがたがここへおいでになったのは、前世からの福運に導かれてなのです。それなのにどうして帰りたいなどとおっしゃるのですか」  といって、引きとめた。  引きとめられるまま、二人は一年ほどそこに滞在したが、その間(かん)、気候も草木の様子も、いつも春で、さまざまな花が咲きさまざまな鳥が鳴いていた。  一年たつと、二人はまた故郷のことを思いだして、帰らせてくれとたのんだ。すると二人の女は、こんどは、 「罪(ざい)業(ごう)に引きずられていらっしゃるのね。どう仕様もありませんわ」  といい、前にきた二、三十人の女たちを招いて送別の宴を開いてから、いっしょに二人を見送り、帰る道を指さして教えてくれた。  二人が山を出て故郷へ帰ると、村の様子はすっかり変っており、顔を知っている人は一人もいない。もとの自分の家へはいっていってきいてみると、当主は何代目かの子孫で、先祖で天台山へはいったまま帰らなかった者がいるということを親から伝えきいているといった。  二人はしばらくそれぞれのもとの家に住んでいたが、まもなく二人とも、ふと家を出たまま帰らず、どこへいったのかわからなくなってしまったという。 六朝『幽明録』    桃源境  晋(しん)の太(たい)元(げん)年間のことである。武(ぶ)陵(りよう)に住む漁師が舟で谷川をのぼっていくうちに、どこまできたのかわからなくなってしまった。ふと気がつくと、両岸いちめんに桃の林がひろがっていたのである。  桃は今を盛りと咲きみだれていた。ほかの木は一本もなく、桃林はどこまでもつづいているようであった。漁師は不思議に思いながら、なおも川をさかのぼっていった。  川の水源のところで桃林は尽きていたが、その前面には山があって、山腹に小さな洞穴があいており、その奥から光がもれていた。漁師は舟を捨てて岸へあがり、洞穴の中へはいってみた。はじめのうちは、人ひとりがようやくくぐり抜けられるぐらいの狭い穴だったが、数十歩すすむと、ぱっと目さきが広くなった。  人家があり、畑があり、池もあり、桑(くわ)や竹が茂っており、縦横に道が通じていて、鶏や犬の鳴く声もきこえていた。人々の服装は、男も女も、異国人のようであったが、老人も子供たちも、みな楽しそうに働いたり遊んだりしていた。  その人たちは漁師の姿を見るとびっくりして、どこからきたのかとたずねた。漁師がありのままを話すと、一軒の家へつれていって、酒を出し、鶏を料理してもてなした。  漁師のことを伝えきいた村の人たちは、みんな物めずらしそうにその家にやってきて、いろいろと漁師にたずねた。村の人たちのいうところによると、彼らの先祖は秦(しん)末の乱を避け、妻子をひきつれてこの秘境にきたまま、外界との交渉がなく、子々孫々ここで平和に暮しているという。彼らは秦が滅んだことも知らない。漢が興(おこ)ったことも知らない。その漢が衰えて、魏(ぎ)となり晋となったことも知らない。漁師が自分の知っている限りのことを話すと、彼らはみな世の変りようにおどろいた。  漁師はあちこちの家に招かれて、数日間をこの村ですごしたが、別れを告げて帰ろうとすると、村人の一人がいった。 「ここのことは、外(そと)の人にはいわないでください」  洞穴から出ると、水源のところに舟がもとのままにあったので、漁師はそれに乗って川をくだった。途中、ところどころに目じるしをつけておき、武陵に帰ると太(たい)守(しゆ)に事の次第をつたえた。太守はさっそく部下を派遣し、漁師を案内役にして探索をさせたが、漁師がつけた目じるしは既にどこにもなくなっていた。以来、桃源境を訪ねあてた者は誰もいない。 六朝『捜神後記』    山中の老人  むかし、ある人が馬に乗って山道を行くと、はるか向うの洞窟の前に人のいるのが見えた。そこで、近くまで行って馬を下り、道のないところを踏み分けて洞窟にたどりついてみると、二人の老人が双(すご)六(ろく)をして遊んでいた。声をかけたが、老人たちは返事もしない。人がきたことなど、まるで気にもかけていない様子だった。  そこで、鞭(むち)を杖(つえ)にして見ていたが、双六の勝負はなかなかつかない。  ふと気がついてみると、いつのまにか鞭が腐ってばらばらになっているのだった。老人たちは相変らず双六をやっている。引き返してみると、木につないでおいた馬は骸(がい)骨(こつ)になっていて、鞍(くら)も朽ちはててしまっている。  夢でも見ているのではないかと思いながら、山道を歩いて家に帰ってみると、自分の家なのに知っている者は一人もいない。その人はひとしきり慟(どう)哭(こく)し、そして息が絶えてしまったという。 六朝『異苑』    李の神木  河南の南(なん)頓(とん)県に、張(ちよう)助(じよ)という百姓がいた。  ある日、畑で働いているとき、李(すもも)の種を見つけた。どうしてこんなところに李の種が落ちているのだろう、と不審に思い、手に取って見たが格別かわった種でもない。誰かが投げ捨てたのだろうと思ってまた捨てたが、やはり気になった。ふとふり向くと、道端の古い桑の木の根もとに洞(うろ)があって、中に土がたまっていたので、また種を拾ってそこへ埋め、水をかけておいた。  翌年、人々は桑の木の洞から李が生えているのを見て不思議に思い、つぎからつぎへと噂(うわさ)しあった。張助はそれをきいて、なんの不思議があるものか、おれが植えたんだ、と思ったが、黙っていた。  李の木はだんだん大きくなった。ある日、目の痛む男がその木かげで休みながら、 「李(り)君(くん)よ、おれの目の痛みをなおしてくれたら、お礼に豚を一匹あげるよ」  といったところ、急に目の痛みがやわらぎ、数日たつとすっかりなおってしまった。その男が李の木に豚を供えたことから、噂が広がって、遠くの村からも願(がん)をかけにくる者があり、願いごとのかなった人が祠(ほこら)を立てたり、供物の台を設けたりして、李の木の下にはいつも大勢の人があつまり、道端には物売りが並ぶありさまであった。  張助はそれを見てばかばかしくてならなかった。ある日、大勢の人々があつまっているところへいって、 「この木はおれが植えたんだ。神木なんかじゃない」  といってまわったが、誰も相手にしない。張助がなおもいいたてていると、一人の男がおしとめて、 「そんなことをいうと神罰があたるぞ。ほら、もうあたっているじゃないか」  と、張助の顔を指さした。張助の口のわきには数日前から疔(ちよう)ができていて、痛くてならなかったのである。 「これが神木なら、おれのこの疔もなおせるはずだ」  と張助がいうと、その男は、 「願をかけたらな」  といった。そこで張助はみんなのするように李の木の前にぬかずいて、 「この疔をなおしてくださったら、お礼に酒一升さしあげます」  といってみた。と、急に疔の痛みがやわらいだ。張助は半信半疑で家へ帰ったが、二、三日たつと疔がすっかりなおってしまったので、びっくりして、酒一升を供えたという。 六朝『捜神記』    〓神廟  会(かい)稽(けい)郡の石(せき)亭(てい)〓(たい)に、大きな楓(かえで)の木があった。中は洞(うろ)になっていて、雨が降るたびに水がいっぱいたまった。  あるとき、一人の行商人が生きた〓(うなぎ)の荷をかついでここを通りかかり、一匹を洞の中へ放してみた。鰻ははじめは死んだように水面に浮いていたが、やがて元気になって泳ぎだし、つかまえようとすると底へもぐっていってしまってつかめなかった。行商人はあきらめて行ってしまった。  その後、村人が楓の木の洞の中に〓がいるのを見つけて不思議に思った。〓は木の中に生れるものではない、これは神さまの化(け)身(しん)にちがいない、といいだして、村人たちは木の傍に家を建て、犠(いけ)牲(にえ)をささげて祭りをし、〓(せん)神(しん)廟(びよう)と呼ぶようになった。  廟を建ててからは、祈願をこめると幸運がさずかり、不敬なふるまいをする者があると災難がくだるようになった。  それから何年かたったとき、さきの行商人がまたこの道を通りかかり、〓神廟という廟が建っているのを見てあっけにとられ、洞の中からうまい具合に〓をすくい上げて、持って行ってしまった。  村人たちはそのことを知らなかった。いくら祈っても霊(れい)験(げん)がなくなってしまったことを知っただけである。そして、おそらくは〓神さまに対して何者かが不(ふ)埒(らち)なことをしたため、神さまは怒って姿をくらましてしまわれたのだろうと歎きあった。 六朝『異苑』    荒地の神  豫(よ)章(しよう)の盧(ろ)松(しよう)村に、羅(ら)根(こん)生(せい)という百姓がいた。  村はずれの荒地を開墾して畑を作り、瓜(うり)を植えた。開墾してはじめてわかったのだが、荒地の隅に小さな祠があった。  瓜が蔓(つる)をのばしはじめたころ、根生が畑へいって見ると、祠の横に真新しい木の板が立ててあって、墨でこう書いてあった。 「ここは神の遊ぶところである。人間の立ち入るべき地ではない。瓜畑を速かに撤去せよ」  根生はそれを見ると、祠の前にぬかずいて祈った。 「無札な疑いではございましょうが、あるいは村の誰かが、この開墾した土地に目をつけ、神託にかこつけてわたしからこの土地を奪おうとしているのではないかとも思われます。そうではなくて、まことに神さまの思(おぼ)し召しでございますならば、あらためて朱(しゆ)でお書きなおしになって、お示しくださいますように」  翌朝、根生が畑へいって見ると、祠の横の木の板は昨日のままだったが、文字だけは全部朱色にかわっていた。  根生は祠の前にぬかずき、無礼をわびて立ち去った。 六朝『述異記』    邯鄲夢の枕  邯(かん)鄲(たん)の城外の、街道沿いのまずしい旅籠(はたご)屋(や)の店さきに、一人の道士が休んでいた。  道士は名を呂(りよ)翁(おう)といった。頭巾をぬぎ、帯をゆるめ、荷物の袋にもたれかかって休んでいると、村の若者が通りかかった。  若者は呂翁を見ると、自分も一休みしようと思い、店の中へはいって呂翁と並んで腰をおろした。  若者は名を盧(ろ)生(せい)といった。盧生は呂翁が気にいったと見え、なんの屈託もなくあれこれと話しかけていたが、しばらくすると、ふとため息をつき、 「あたら男に生れながら、こんなまずしいくらしをしているとはなあ」  と、自分のみすぼらしい身なりをふりかえっていった。 「見たところ、丈夫な身体(からだ)にめぐまれているようだし、さっきまでは楽しそうに話をしていたのに、急になにを言い出すんだね」  と呂翁がいうと、盧生は、 「なにが楽しいものか。こんな貧乏ぐらしが」  といった。 「働いても食えないのかねえ」 「食えるには食えるさ」 「その上、丈夫な身体にめぐまれていて、なんの不足があるのだね」 「男と生れたからには、功を建て名を揚げ、出(い)でては将(しよう)となり入りては相(しよう)となり、世に時めいて家門を繁栄させてこそ、満足といえるのですよ。わたしはそのつもりで、学問もし諸芸も習ったが、事(こと)志(こころざし)とはちがって、いい年になりながらいまだに田畑であくせく働いている始末だ。愚痴も出ますよ」  そういったとき、盧生は眼がくらんできて、呂翁の顔が遠くへかすんでいくような気がした。  このとき、宿の主人はちょうど黍(きび)餅(もち)を蒸しているところだった。 「どうしたんじゃな」  と呂翁がきいた。盧生が、 「なんだか急に眠たくなってきて……」  というと、呂翁は荷物の袋の中から青磁の枕を取り出して、 「眠たくなったのなら、さあ眠るがよい。わしの枕を貸してあげよう」  といった。両端に穴のあいている枕だった。盧生がそれに頭をのせると、ひやりとして心地よかった。穴を覗(のぞ)いてみると、だんだん明るくなり大きくなってきた。身体ごともぐりこんでいくと、家があったので、その中へはいっていった。  それから数ヵ月後、盧生は清河の名家崔(さい)氏に見こまれて、その娘を嫁にもらった。娘は美しく、それに莫大な財産があったので、盧生はにわかに金持になり、豪華なくらしをするようになった。  幸運というものは、一度つかめばその幸運がさらに幸運を招くのか、盧生は翌年、進士の試験に合格し、それからはとんとん拍子に出世をしていった。はじめは県(けん)尉(い)として陝(せん)西(せい)の渭(い)南(なん)へ赴任したが、まもなく抜(ばつ)擢(てき)されて監(かん)察(さつ)御(ぎよ)史(し)になり、さらに起(き)居(きよ)舎(しや)人(じん)になって詔勅をあつかう身になった。三年後には、陝西の同州へ刺(し)史(し)(州知事)として転出し、さらに河南の陝州の刺史に移った。盧生は土木工事を好み、陝州の西から八十里にわたる運河を開いて、交通機関のないところに船を通わせるようにしたので、土地の人々は感謝して碑(いしぶみ)を建て、その功績をたたえた。その後、河南道採(さい)訪(ほう)使(し)に昇進し、再び都へ召し帰されて、こんどは京(けい)兆(ちよう)尹(いん)に任ぜられた。  その年、西北の辺境へ吐(と)蕃(ばん)が大挙して侵入し、節度使を殺して大いに地を奪った。盧生は特に選ばれて河西節度使になり、吐蕃の軍勢を大いに破って、敵の首を斬ること七千、九百里のさきまで領土を広め、三つの大城を築いて要地をかため、辺境の地を安からしめた。そのため辺境の人々は居延山に碑を建て彼の功績をたたえた。  都へ凱(がい)旋(せん)すると論功行賞がおこなわれて厚い恩賞を受け、まもなく吏(り)部(ぶ)侍(じ)郎(ろう)に任ぜられ、さらに戸(こ)部(ぶ)尚(しよう)書(しよ)兼御(ぎよ)史(し)大(たい)夫(ふ)に昇進したが、その清廉で重厚な人柄のために上下の人望が高まるにつれて、おのれの地位を奪われることをおそれた時の宰相にうとまれて、広東の端州の刺史に左遷された。  盧生は身の不運をなげき、鬱々としてたのしまなかったが、三年たつと、彼をうとんじた宰相が失脚したため、呼びもどされて天子の侍従になり、まもなく同(どう)中(ちゆう)書(しよ)門(もん)下(か)平(へい)章(しよう)事(じ)に任ぜられた。ついに宰相の職にのぼったのである。以来、天下の大政をとること十年、よく天子を補佐して善政をおこない、名宰相とうたわれた。  ところが、そのためにかえって同僚のねたみを買い、「辺境の将軍たちと結んで、謀(む)叛(ほん)をたくらんでいる」と密告されて、にわかに身があやうくなった。盧生を糾明せよとの勅令がくだって、役人が彼を逮捕に向ったことを知ると、彼は泣いて妻にいった。 「わしは道をあやまった。山東には家もあり、田も五反ばかりあって、飢えや寒さをしのぐには十分だったのに、なにを好んでわざわざ役人になどなったのだろう。こんなことになるくらいなら、ぼろを着て百姓をしていた方がどんなによかったかとくやんでも、いまとなってはもうどうにもならん」  そういって、刀を抜いて自殺しようとしたが、妻に止められて死ぬことができず、捕吏にとらえられて獄に投ぜられた。そのとき同罪に問われた者はみな死罪になったが、彼だけは、権力のあった宦(かん)官(がん)がかばってくれたために罪一等を減ぜられて越南の地へ流された。  それから数年、盧生は無実の罪でこのまま越南の地に果てるのかと、世をはかなみつづけたが、五年たったとき、天子は彼の無実であったことを知って、中(ちゆう)書(しよ)令(れい)として復帰させた上、燕(えん)国(こく)公(こう)の爵位をたまわった。はからずも彼はまた、位(くらい)人臣をきわめる身に返り咲いたのである。  以来また十年、彼は宰相として世に時めいた。彼には息子が五人いたが、みな高位高官にのぼり、それぞれ天下の豪族の娘を娶(めと)って、孫も十人を越え、一門は大いに栄えた。  彼は豪(ごう)奢(しや)な生活を送って、奥には幾人もの美女をかこっていたが、寄る年波には勝てず、やがて八十を越えると、筋骨すべて衰えて起居もままならず、もはや死を待つばかりの身になった。  その間、彼はなんども天子に辞職を願い出たが許可されなかった。衰弱がひどくなると、見舞いの勅使が引きもきらず、名医が派遣され、高価な薬が下(か)賜(し)されたが、衰弱は日ましにはげしくなっていくばかりであった。彼はもはや死をまぬがれることができぬとさとると、上奏文を書いて天子に大恩を謝した。すると天子は詔勅をくだして彼の屋敷に勅使を遣わされたが、その日の夕刻、彼はついに息を引きとった。  そのとき盧生は、あーっと大きなのびをして眼をさました。見ればわが身は旅籠屋の店さきに寝そべっていて、かたわらには呂翁が坐っている。  宿の主人の蒸していた黍餅はまだ蒸しあがっておらず、すべてはもとのままである。  盧生はあわてて起きあがっていった。 「なんだ、夢だったのか!」  すると呂翁が笑いながらいった。 「なにをあわてているのだね。人生の苦楽というものははかないものさ」  盧生はしばらくぼんやりしていたが、やがて立ちあがって呂翁に礼をいった。 「ありがとうございました。名誉と恥辱、困窮と栄達、成功と失敗、死と生、それらの道理をすべてさとることができました。先生はわたくしに、わたくしのつまらぬ欲望を捨てるようにおさとしくださいましたのですね。ありがとうございました。ご教訓は深く心にしみとおりました」  そして丁寧にお辞儀をして、店を出ていった。遠ざかっていく盧生の姿は、いかにもすがすがしく見えた。呂翁はうなずきながら枕を袋の中にしまうと、その袋によりかかってうつらうつらと眠りだした。 唐『枕中記』    絵の中へはいる男  開州の軍将の冉(ぜん)従(じゆう)長(ちよう)は、財を軽んじて賢能の士を重んじるふうがあったので、その門には多くの人材が集った。  その中に〓(ねい)采(さい)という画家がいて、あるとき、竹林の七賢人の絵をかいた。なかなか見事な出来栄えで、主人の冉従長をはじめ、みなが感嘆して眺めていると、客の中に柳(りゆう)城(じよう)という秀才がいて、 「形はよくできているが、心が表現されているとはいえませんな」  といった。冉従長がそれをききとがめて、 「なに、心があらわれていないといわれるか」  というと、柳城はうなずいて、 「左様。なんならわたしがこの絵をなおしてみましょうか。そうすれば、わたしのいうところもわかっていただけるかと思います」  といい、〓采に向って、 「かまいませんか」  といった。 「おもしろい。なおして、その心とやらいうものがあらわれるものなら、それを見せてもらいましょう」  〓采がそういって絵筆をさし出すと、柳城は手をふって、 「いや、筆はいりません。わたしはこの絵に筆を加えずに、しかも一層の精彩を添えてごらんにいれます」  という。冉従長があきれて、 「なにをいわれる! あなたがいかに多才な人であろうと、筆を加えずにこの絵に精彩を添えるなどということが、できるわけはない」  というと、柳城は悠然として、 「いや、できます」  と言い放った。 「ふむ、おもしろい。気合でもかけてなおそうというのですか」 「いいえ、わたしはこの絵の中へはいっていって、なおします」  すると、日ごろ柳城となにかにつけて競(きそ)いあい、いがみあっている郭(かく)萱(せん)という秀才が口を出して、 「おい、子供だましのようなことをいうものじゃないぞ。絵の中へはいっていくなんてことが、できるわけはないじゃないか。筆でなおすことができないもんだから、言い逃れをしてごまかそうとしている!」  といった。 「言い逃れやごまかしではない。わたしにはできるのだ」  と柳城はいう。 「できるわけがない」 「できるのだ」 「いや、できるわけがない」 「それでは賭(かけ)をしよう」  と柳城がいった。 「よろしい。銭五千を賭けよう」 「おもしろい。わたしもできぬという方に賭けよう」  と冉従長もいった。  すると柳城は立ちあがって、絵の掛けてある壁の方へ歩み寄った。しばらく彼はその前に立っていたが、客たちが見まもる中で、やがて絵に向って身を躍(おど)らせた。と、忽(たちま)ちその姿はどこかへかき消えてしまったのである。  みなはおどろいて、部屋の内外をさがしまわったが、柳城の姿はどこにも見えなかった。しばらくすると、絵の中から柳城の声だけがきこえてきた。 「おい、郭君。なにをうろうろしているのだ。これでもまだわたしが言い逃れをいっているというのか」  一同はいよいよおどろいて絵を覗(のぞ)きこんだが、絵にはなんの別状もないようであった。 「どこへ姿をかくしたんだ。絵の中にも姿は見えぬじゃないか。それでは絵の中へはいっているという証拠がないじゃないか」  と郭萱が叫んだ。その声につられて、みんなは口々にさわがしく喋りだした。するとまた、絵の中から声がきこえてきた。 「うるさいな。そんなにがやがやいわれると、落ちついて絵をなおすこともできぬじゃないか」 「それが言い逃れだ」  と郭萱が言い返すと、 「なんとでもいうがよい。いまにわかるから」  という柳城の声がきこえ、しばらくすると絵の中から柳城が躍り出てきた。 「あまりさわがしいので、それに、みなさんの方でも待ちどおしいだろうと思いましたので、ただ、あれだけをなおしてきました」  柳城はそういって、七賢人のうちの阮(げん)籍(せき)の絵を指さした。見れば、確かに阮籍の絵だけがもととはちがっていた。阮籍は〓采がかいた姿とはちがって、嘯(うそぶ)くように天を仰いでいたのである。 「いかがですか」  と柳城は〓采に向っていった。 「なるほど……」  〓采はしばらくのあいだ、なおされた阮籍の絵に見入っていたが、やがて口をついでいった。 「……あのようにすれば、確かに心まであらわされる。なるほど。わたしの未熟だったことが、これでよくわかりました。ほかの六人についてもお教えください」 「いいえ、それには及びません。もうわたしがお教えしなくても、あなたは十分に会(え)得(とく)なさったはずです」  柳城が冉従長と郭萱から銭五千の賭(かけ)金(きん)を受け取らなかったことは、いうまでもない。  それから数日後、開州の町にこの噂がひろまると、柳城は冉従長が再三引きとめてもきかず、その門を辞去した。  その後は柳城のゆくえを知る者はなかった。 唐『酉陽雑俎』    瓶の中  揚州の町かどに、ある日、一人の乞食風(ふう)体(てい)の男があらわれた。名を胡(こ)媚(び)児(じ)というだけで、どこからきた者ともわからなかったが、不思議な術で人々を驚歎させていた。  彼は透きとおった玻(は)璃(り)の瓶(びん)を持っていた。瓶の口は葦(あし)の管(くだ)ほどの太さだったが、彼は、 「この口は細いが、なんでもはいる」  といった。見物人の一人が一枚の銭をとりだして、 「この銭がはいるかね」  というと、彼はうなずいて、 「はいる」  と答えた。男が銭を瓶の口に近づけると、銭はすいこまれるように男の手をはなれて、瓶の底にかすかに澄んだ音が鳴った。人々が顔を寄せて見ると、銭は瓶の底に豆粒くらいの大きさで光っていたが、次第に小さくなってやがて芥(け)子(し)粒ほどになり、そして消えていった。  こんどは別な男が、一度に数枚の銭を瓶の口に近づけた。かすかな音が鳴り、人々が顔を寄せて見ると、銭は瓶の底に幾粒かの小さな点になって光っていたが、やがてみな消えていった。十枚入れても、二十枚いれても、すべて同じだった。  こうして胡媚児は一日に数百の銭をもうけ、不思議な瓶の噂はたちまち揚州の町じゅうにひろがった。  その日も人々は、胡媚児のまわりに集って瓶の不思議を見ていた。と、そこへ、数十輛の馬車を宰領した役人がやってきた。馬車には役人が租税として徴集してきた穀(こく)物(もつ)が満載されていた。役人は馬車をとめてしばらく胡媚児の術を眺めていたが、やがて人垣をかきわけて進み出て声をかけた。 「おい、その瓶には銭しかはいらんのか」 「いや、なんでもはいります」 「なんでもはいる? 確かになんでもはいるか」 「はい、なんでもはいります」 「よし、それでは、おれが宰領してきたあの馬車もはいるというのだな」 「はい、はいります」 「よし、いれてみろ」  人々が固(かた)唾(ず)をのんで見まもるなかで、胡媚児は馬車にむかって瓶の口をかたむけた。と、数十輛の車輛は、馭者もろともつぎつぎに瓶のなかへすいこまれてゆき、胡媚児が瓶をおこしたときには、馬車は一列になって瓶の底をぐるぐるとまわっていた。馬の蹄(ひづめ)の音、車のきしむ音が、まるで天上の楽(がく)の音(ね)のような妙(たえ)なる旋律をかなでて人々を恍惚たらしめた。  馬車の行列は円をえがきながら瓶の底をまわっていたが、やがて渦を巻くように、次第にその先頭から消えていった。すっかり消えてしまったとき、人々はほっと溜(ため)息(いき)をついて感歎の声をあげた。役人もようやく我にかえっていった。 「見事だ。すばらしい術だ。つい、道草をくってしまったが、あまりおそくなると上役にとがめられる。では車を返してもらおうか」 「返りません」  と胡媚児は冷やかにいった。 「冗談をいわずに、さあ、返してくれ。急ぐのだ」  役人がいくらいっても、胡媚児は、 「返りません」  とくりかえすだけである。  役人はようやく事の重大さに気づき、顔色をかえて、勢いするどく胡媚児に迫って叫んだ。 「えい、返せといったら返さんか。急ぐのだ。ぐずぐずしていると斬るぞ!」  だが胡媚児は平然として、 「返りません」  とくりかえすだけである。役人はかっとなって、剣を抜いた。白刃が胡媚児の頭上にきらめいたとき、すでに胡媚児はみずから瓶のなかへ飛びこんでいた。  役人はあわててその瓶をつかみ、ふりあげざま地面にたたきつけた。瓶の割れる鋭い音がし、玻璃の破片があたりに飛び散ったが、馬車も胡媚児もどこへ消えてしまったのか、影も形もなかった。 唐『幻異志』    黄金の蝶  穆(ぼく)宗(そう)のとき、飛竜隊の衛士に韓(かん)志(し)和(わ)という人がいた。もとは倭(わ)国の人である。  木(き)彫(ぼり)のわざにすぐれていて、鸞(らん)や鶴(つる)、〓(からす)や鵲(かささぎ)などを彫ったが、水を飲んだり鳴いたりして、すこしもほんものとちがわなかった。鳥の腹の中には関(から)捩(くり)が仕掛けてあって、それを動かすと、羽ばたいて百尺ほど舞いあがり空を飛行して、百尺か二百尺の向うへ降りた。  また、猫も彫ったが、それは自在にかけまわって、雀や鼠をとらえた。  飛竜隊の隊長は不思議なわざだと思い、そのことを穆宗に奏上した。穆宗は韓志和を召し出し、彼の作った細工物を一つ一つ見たが、見るたびにおどろいて、 「見事だ、めずらしいわざだ」  とほめた。そして全部見てしまうと、 「ほかに、もっと人のおどろくようなものは作れないか」  ときいた。韓志和はしばらく考えてから、 「それでは、見(けん)竜(りゆう)の台というものを作ってご覧にいれましょう」  と答えた。  何日かして、その台が出来あがった。高さ二尺ほどの台で一見普通の踏(ふみ)台(だい)とかわったところはなかった。 「これが見竜の台か」  と穆宗は不審な顔できいた。 「さようでございます。このままでは竜は見えませんが、台の上へあがれば見えるという仕掛けになっております」 「わたしにあがって見よというのだな」  穆宗がそういって台の上へあがったとたん、おどりかかるようにして一匹の竜があらわれた。それは人の背丈に倍するほどの大きさで、鱗(うろこ)も鬣(たてがみ)も、爪も角も、すべてそなわり、雲を得て天に舞いのぼる勢いを見せて、到底作りものとは思えない。穆宗は胆をつぶし、あわてて台から飛び下りて、 「もうよい。運び去れ!」  といったが、台から下りると同時に竜の姿は消えて、そこにあるのは、もとどおりの格別かわったところもない踏台であった。  韓志和は、興ざめた顔色の穆宗の前に、平伏していった。 「はからずも陛下をおどろかせ奉り、罪万(ばん)死(し)にあたります。なにとぞ、ほかのわざによって陛下の御目と御耳を楽しませ奉り、幾分なりとも罪のつぐないをすることをおゆるしくださいますよう」 「わたしは、竜をおそれたわけではない。不意にあらわれたのでびっくりしただけだ。ところで、こんどはどんなものを見せようというのか」 「小さなものでございます」  韓志和はそういって、懐(ふところ)から桐の小箱を取り出した。五寸四方くらいの箱で、蓋(ふた)をあけると、中には赤い小さな虫がいっぱいはいっていた。 「それは何だ」 「蠅(はえ)取(とり)蜘(ぐ)蛛(も)という虫でございます」 「ほんとうの虫か」 「細工物でございます」 「なぜ赤い色をしているのだ」 「丹(たん)砂(しや)で飼っているからでございます。黄金の粉で飼えば黄金色に、真珠の粉で飼えば真珠色になります」 「その虫で何をして見せるのか」 「五列に並べて、舞いを舞わせてご覧にいれます。つきましては、楽(がく)府(ふ)の方々に涼(りよう)州(しゆう)の曲を演奏していただきとうございます。この虫は涼州の曲を最も好みますので」  穆宗が楽府の者を召し寄せているあいだに、虫はぞろぞろと箱からはい出して、五列に並び、演奏のはじまるのを待っている様子であった。  やがて演奏がはじまると、虫は曲にあわせて踊りだした。踊りながら五つの列は一糸も乱れずに前進したり、後退したり、あるいは横へ進んだり、交錯して斜(ななめ)の列に形をかえたかと思うと輪になってぐるぐるまわったりして、まるで織物のような美しい模様を描いたが、その踊りはぴったりと曲にあっていた。歌詞がはいるところへくると、虫はいっせいに蠅の鳴くような声をたてて合唱したが、その声もぴったりと曲にあっていた。  曲が終ったときには、虫ははじめの五列になっていて、いっせいに穆宗に礼をし、そして一列ずつ順序正しく箱の中へもどっていった。 「見事だ。すばらしいわざだ」  と穆宗は感歎した。 「蠅取蜘蛛という名のとおり、蠅をとらえることもできます」  韓志和はそういって一匹の虫を掌の上に載せた。数歩はなれたところにいる蠅を指して、 「あれを取れ!」  というと、人の肩にとまっている蠅であろうと空中を飛んでいる蠅であろうと、虫は、ちょうど鷹が雀をとらえるように、韓志和の掌の上から跳(と)びかかっていって逃がすことなくとらえ、そしてまた彼の掌の上にもどってきた。  穆宗はますます感歎して、褒美としてさまざまな銀器などを韓志和に与えたが、彼はそれらをみな、惜しげもなく、町の貧しい人々に恵んでやった。 「韓志和は東海の蓬(ほう)莱(らい)山からきた仙人にちがいない」  そんな噂がたちだしたのは、そのころからである。噂が高くなると韓志和は飛竜隊から姿を消してしまった。町の人々もそれからは彼の姿を見た者はないという。  穆宗は宮殿の前に幾株もの牡(ぼ)丹(たん)を植えていた。それは千輪の牡丹といって、一枝に千輪の花が咲いた。大輪の紅(くれない)の花で、咲くと宮殿をおおうほどの芳香を放った。  その花の咲きそめたころから、毎夜、何万ともしれぬ小さな蝶が飛んできて花にとまった。蝶はみな黄金色と真珠色で、光りかがやいて宮殿の前は真昼のような明るさになったが、朝になるとみなどこかへいってしまった。  宮女たちは夜になると、あらそって蝶をとらえようとしたが、手をのばしても蝶は逃げようともせず、わけなくとらえることができた。とらえた蝶を彼女らは糸でゆわえて、胸に飾ったり髪に飾ったりした。それはきらきらと光りかがやいて美しかったが、夜があけると光りがうすれた。手にとってよく見ると、黄金色の蝶は黄金の、真珠色の蝶は真珠の、ほんとうの蝶にそっくりの細工物であった。化粧箱の中へしまっておくと、夜になるとまたきらきらと光りかがやいて飛び立とうとするのであった。  穆宗は宮殿の前に網を張らせ、何百羽もの蝶をとらえて宮殿の中へ放ち、宮女たちがそれを追いかけるのを見て楽しんだ。毎夜そんなことをしているうちに、ついに蝶は牡丹の花に集ってこなくなった。穆宗も宮女たちも、もう取りつくしてしまったのだと思ったが、そうではなかった。  蝶は町の方へ飛んでいったのである。町へ飛んでいった蝶は、どんな花にでもとまったが、殊に貧しい人たちが植えている名もない花に多く群がった。とらえた蝶の細工物は高価に売れた。  ある日、穆宗は黄金で作った置物を取り出しに宝物庫へはいった。と、その置物はこなごなにくだかれていた。ほかの黄金や真珠の箱をあけて見ると、どれもみなくだかれている。よく見ると、それらの黄金や真珠の破片の中には、半ば蝶の形になっているものが幾つもあった。  穆宗ははじめて、あの蝶が、このごろ姿を消してしまった飛竜隊の韓志和のしわざであることをさとった。さっそく宝物庫の中を隅々までさがさせたが、韓志和の姿はなかった。さらに宮殿の中もさがし、町も、裏町の陋(ろう)屋(おく)や打捨てられた小屋まで、あますところなく探索させたが、どこにも韓志和の姿はなかった。  その後、不思議な蝶は飛ばなくなった。 唐『杜陽雑編』    ものぐさ坊主  衡(こう)山(ざん)の上の衡(こう)岳(がく)寺(じ)に、嬾(らん)残(ざん)という雑役僧がいた。  寺にきてから二十年になるが、嬾(ものぐ)さなたちで、いちども自分の食事を作ったことがなく、いつも寺僧たちの食べ残しをかき集めて食べていたので、嬾残という名がついたのである。彼は人にどのように見られようといっこうに気にすることなく、昼は寺の雑役をし夜は牛小屋に寝泊りして、淡々と日を送っていた。  嬾残が寺にきてから二十年すぎた春のことである。住持の遠(とお)縁(えん)の者だという儒者ふうの男が、読書に専念するためといって寺の一室に住みついた。時の権力者に憎まれて、しばらく身を隠しにきた李(り)泌(ひつ)であった。  李泌は嬾残を見て、ただ者ではないと思い、ある日、嬾残が薪(まき)を運んでいるところを呼びとめていった。 「お見受けしたところ、あなたはただの雑役僧ではないようだが……」 「それで、どうだというのだね。薪運びを手伝ってやろうというのでもあるまい。仕事の邪魔をしないでくれ。邪魔をするから人に憎まれるのだ」  李泌はそれをきいてはっと思った。いよいよ、これはただ者ではないという確信を深めた。嬾残は李泌を相手にせず、そのまま行ってしまった。  ある夜更け、李泌は牛小屋から経文をとなえる声のきこえてくるのに気づいて、耳をすました。しばらくきいていて、ぱっと跳(は)ね起き、 「やっぱり、そうだったのか」  とつぶやくと、急いで牛小屋へ行った。  嬾残は土間に腰をおろして、乾(ほ)した牛糞を燃やしていた。李泌がうやうやしく拝礼して、 「なにをしておいでです」  ときくと、嬾残はふりむきもせずに、 「芋(いも)を焼いているのだ」  といった。 「お見とおしのようですが、わたしは李泌と申します。どうか、人(じん)間(かん)のわずらわしさから逃れる道をお教えくださいますよう」  李泌がそういうと、嬾残は火を吹きおこしながら、 「なにを寝(ね)惚(ぼ)けているのだね。お前さんはよほど人の邪魔をすることの好きな人と見えるな。いまは夜中だ。さっさと帰って寝なされ」  といって、やはり相手になろうとしない。 「さきほど、経文をとなえておいででしたが……」 「それがどうしたというのだね。芋がなかなか焼けぬので、退屈しのぎにとなえていただけだ」 「わたしは、音(おん)色(しよく)をききわける術を、いくらか心得ております。あのお声には俗人にはない清澄な響きがありました。そして、はじめのうちはもの悲しく、次第にかわっていって、後には、よろこびの音色になりました。あなたは天上からこの人(じん)間(かん)に流されてきた仙人で、近いうちにまた天上へおもどりになる方(かた)でしょう」 「わしを謫(たく)仙(せん)だというのか。お前さんがそう思うのなら、そうだろう。ただの雑役僧だと思う人にとっては、わしはただの雑役僧だ」 「わかりました」 「なにがわかったのだね。まだ寝惚けているようだな。さあ、この芋でも食べて、はっきり眼をさますがよい」  嬾残は牛糞をかきわけて、中から芋を一つ拾い出し、半分に割って、 「そこへ腰をおろすがよい」  と自分の前の席を指さし、李泌が一礼して腰をおろすと、半分の芋を手渡した。  李泌がおしいただいて、その芋を食べてしまうと、嬾残はいった。 「もう、人(じん)間(かん)のわずらわしさから逃れようなどとは考えないことだな。お前さんはその芋を食べたことによって、十年間、宰相になる運を授かったのだ。お前さんにとっては、人(じん)間(かん)を逃れることよりもその方が、ほんとうは望ましいことだろうと思ってな。さあ、もうなにもいわずに帰りなさい。わしは睡(ねむ)たくなってきた」  そういって牛糞の焚(たき)火(び)のそばに、そのままごろりと横になってしまった。李泌は立ちあがってまた拝礼し、そして自分の部屋へ帰っていった。  それから一(ひと)月(つき)ほどたった夜、にわかに風がおこり雷が鳴り雨が降って、一つの峰がくずれ、大石が本堂へのぼる石段をふさいでしまった。寺では十頭の牛に綱をつけてその大石を引かせ、数十人の者が掛け声をかけて石を押したが、何度やってみても、大石はびくとも動かない。そのとき、 「わしが動かしてみようか」  といった者がいた。 「なんだ、嬾残か。気でも狂ったのか」  と寺僧たちが笑うと、嬾残は、 「それじゃ、やめよう。そのほうがわしも疲れずにすむ」  といった。寺僧たちはどっと笑った。  李泌がそれを見て、大声で寺僧たちにいった。 「みなさん、やらせてみたらどうですか。あるいは動くかもしれないし、動かないかもしれない。動けばよし、動かなければ動かないで、それでよいではありませんか」  長老の一人が、李泌の顔を見てうなずき、嬾残を呼びもどした。  嬾残は東側の谷を指さして、 「そっちの谷へころがすから、そこの者は、みんな退(の)いてくれ。牛もだ」  といい、みんなが退いてしまうのを待って、大石に片足をかけた。しばらくすると、微かに石がゆれだした。そのゆれかたがだんだん大きくなってゆく。  寺僧たちがみな自分の眼を疑った瞬間、大石はごろごろと音をたててころがりだし、百雷のとどろくような音を残して東の谷へ消えていった。  寺僧たちはみな茫然としていたが、しばらくして我にかえり、長老を先頭に列を作って並んで、嬾残に対して合掌をした。 「ちがう、ちがう。やめてくれ」  嬾残はあわてて、手をふっていった。 「わしのせいじゃないんだ。ちょうど石がころがり落ちる時期になっていただけなんだよ。たのむからやめてくれ」  その翌日、山門の外に、にわかに虎や豹(ひよう)が群をなしてあらわれ、いまにも跳びこんできそうな勢いを見せて、しきりに咆(ほう)哮(こう)した。寺僧たちはみな生きた心地もなく、念仏をとなえたり、かくれ場所をさがしたりして、寺は、大さわぎになった。  長老が一同を制していった。 「見苦しいぞ。嬾残はどこへいった。あの大石でさえ動かしたのだ。嬾残にたのんだら追いはらってくれるかもしれぬ。嬾残をさがせ」  と、ちょうどそこへ嬾残がやってきて、 「それじゃ、わしが追いはらってみましょう」  といい、そのままさっさと一人で、山門の方へ歩いていった。  嬾残の姿が山門の外に消えると、寺僧たちは一塊りになって、おそるおそる山門のところまでいってみた。と、一匹の虎が嬾残をくわえ、ほかの虎や豹はみなその虎のあとについて、谷の方へ馳けていくのが見えた。  嬾残がどうなったか、誰も知らない。  李泌はその後、宰相になり、十年間その職をつとめた。 唐『甘沢謡』    鳥獣どもの歎願  晋(しん)州の刺史(州知事)に、蕭(しよう)志(し)忠(ちゆう)という人がいた。心のやさしい人であった。  恒例によって大(おお)晦日(みそか)に狩猟をするつもりで、その準備をすすめていた。  大晦日の前日、薪(たきぎ)取(と)りの張(ちよう)三(さん)という男が霍(かく)山(ざん)で木を伐っていたところ、急に瘧(おこり)の発作が出て、帰ることができなくなった。やがて日が暮れてきたので、岩穴の中で夜をあかすことにして、薪の束にもたれ、うつらうつらしていると、真夜中ごろ、岩穴の外に人の足音のような、草を踏みわける音がきこえてきた。そっと這い出してのぞいて見たが、まっくらで何も見えない。  しばらくすると、月が出て、崖の上に突っ立っている身のたけ一丈あまりの大男を照らし出した。眼はいなずまのように光り、鼻筋には三本の角(つの)が生え、身には豹の皮をまとっている。  その大男が谷に向って長い叫び声をあげると、あちこちから虎、豹、犀(さい)、鹿、猪、狐、雉(きじ)、雁などがぞくぞくと集ってきて、その男をとりまき、百歩ほどはなれたところにずらりと並んだ。  すると、大男はその鳥獣どもにいいわたした。 「北(ほく)帝(てい)の命令をつたえる。明日の大晦日に蕭刺史が恒例の狩猟をされるゆえ、お前たちのうち、何匹かは矢にあたり、何匹かは槍に刺され、何匹かは網にかかり、何匹かは棒に打たれ、何匹かは猟犬に噛まれ、何匹かは鷹に襲われて、それぞれ死刑になることにきまったぞ」  鳥獣どもはみなぶるぶるふるえながら、平伏してきいていたが、北帝の使者の言葉がおわると、老いた虎と老いた大鹿が進み出ていった。 「蕭刺史は慈悲ぶかいお方です。狩猟をなさるのは、わたくしどもをあやめようとしてなさるのではなく、季節の行事としてなさるのです。それゆえ、明日もし何かすこしでもさしさわりがあれば、狩猟はおとりやめになると思います。使者さま、なんとかしてわたくしどもをお助けくださいませ」 「北帝の命令をつたえるのがわしの任務だ。いま命令はつたえた。よってわしの任務は終った。あとはお前たちで、助かる方法を考えるがよい」 「その方法をお教えくださいませ」 「東の谷に含(がん)質(しつ)という謫(たく)仙(せん)が住んでいる。含質どのは智謀にたけたお方だ。お願いしてみよう」  使者はそういって東の方へ歩きだした。鳥獣どもはよろこびの声をあげ、みなそのあとについていく。張三はもう瘧もおさまっていたので、岩穴から出て、そっと一同のあとをつけていった。  東の谷に着くと、破れた草庵の中に虎の身体をした人が寝ていた。使者を見るとその人は起きあがっていった。 「鳥獣どもに大晦日の死刑をいいわたしに見えたのか。それにしても、一同を引きつれて、この含質になんのご用ですかな」  使者がわけを話すと、含質は、 「そのとおり、蕭刺史は心のやさしい人だから、明日もし風をおこし雪を降らせたら、部下の難儀を思って狩猟をとりやめるだろう。だから、巽(そん)二(じ)にたのんで風をおこさせ、滕(とう)六(ろく)にたのんで雪を降らせたらよい。巽二は酒か好きだから、よい酒をおくり、滕六は女好きだから、よい女をおくってたのめば、きいてくれるだろう」 「そううかがっても、わたしにも鳥獣どもにもどうすることもできません」 「わしにしてくれというのか。よろしい。酒は絳(こう)州(しゆう)に盧(ろ)司(し)戸(こ)という酒づくりの名手がいる。女は河東の県尉の崔(さい)知(ち)之(し)の三番目の妹が、顔も姿も美しく、気だてもよく、色気もあってよい。わしの友達に妖術にたけた狐が二匹いるから、取ってこさせることにしよう」  鳥獣たちはよろこびの声をあげながら、草庵の前で輪を作って踊りまわった。含質はそれを見ながら使者にいった。 「わしは下界に流されてから、今日で三十六万四千九百八十九日になる。あと十一日たったら、天上へもどれる。下界も住みなれると、名残り惜しい気もしないことはないな」  しばらくすると、一匹の狐が背中に女を乗せてあらわれた。年は十五、六。たもとでしきりに目がしらをぬぐっていたが、そのしぐさがかえってなまめかしくさえ見える、美しく可(か)憐(れん)な娘であった。 「わたしの方からお願いしたこととはいえ、女を見たら可哀そうになってきました」  と使者がいうと、含質は笑って、 「これはこれは、北帝の使者とも思われぬことをおっしゃる。なに、あの娘はいまはかなしんでいるが滕六のところへゆけば、これまでよりもずっとしあわせになるのだ」  といった。  そこへまた、別の狐があらわれた。背中に酒を二壺乗せていたが、すばらしい芳香がただよってきて、たぐいまれな美酒であることがわかった。  使者が角の生えたその鼻をうごめかしながら生(なま)唾(つば)を呑むと、含質は笑って、 「明日、風をおこさなくてもよいのなら、飲んでよろしいぞ」  といった。  含質は美女と酒の壺を、それぞれ袋の中へいれ、朱筆で呪文を書き、口に水をふくんでぷっと吹きかけた。と、二つの袋はふわふわと空へ浮きあがり、たちまち見えなくなってしまった。  張三は見つけられては大変と思い、いったん岩穴のところへもどってから、山を下りて家に帰った。  その日、夜明けとともに風が吹き、雪が降りだした。それは次第にはげしくなって、一日じゅう吹きつづけ、降りつづけた。  そして、蕭刺史は恒例の狩猟をとりやめた。 唐『玄怪録』    鯉  蜀(しよく)州の青城県に、薛(せつ)偉(い)という主簿がいた。県(けん)丞(じよう)の鄒(すう)滂(ぼう)、県(けん)尉(い)の雷(らい)済(せい)・裴(はい)寮(りよう)といっしょに任命されたのであった。  薛偉は主簿に任命された年の秋、病気になった。病気は重く、七日目には息もたえだえになって、死んでしまったように見えた。いくら呼んでも答えなかったが、胸のあたりにかすかにぬくもりが残っていたので、家族の者は棺へ納めるには忍びず、薛偉のまわりをとりかこんで容態を見まもっていた。  十日すぎ、十五日すぎても、容態はかわらなかったが、二十日すぎたとき、薛偉は突然、長いうなり声をあげて起きあがった。そして家族の者に、 「わたしはいったい、何日間気を失っていたのだね」  とたずねた。 「二十日間です」  というと、薛偉は、 「ほかの役人たちの様子を見てきてくれ。いま、なますを食べているかどうか——。もしなますを食べていたら、こう言ってくれ。わしはもう生き返った、大変めずらしい話があるから、みんな箸(はし)を置いて聞きにきてくれとな」  という。  下男が走っていって役人たちの様子を見ると、はたしてなますを食べようとしているところであった。そこで主人の言葉を伝えると、みんなは食べるのをやめて下男についてきた。薛偉は一同を見て、 「みなさんは、戸籍係の小使の張(ちよう)弼(ひつ)にいいつけて魚を買いにいかせたでしょう」  という。 「そのとおりだが、どうしてそれを……」  と、一同がいぶかると、薛偉はまた下男に張弼を呼んでこさせて、張弼にいった。 「漁師の趙(ちよう)幹(かん)は大きい鯉をかくしておいて、小さいのをお前に売ろうとしたな。お前はそれに気づいて、趙幹が葦のあいだへかくしておいた鯉を見つけ出し、それを持って帰ったな。お前が役所へもどったとき、戸籍係の下役人と治安係の下役人が碁を打っていたな。奥へはいっていくと、鄒県丞と雷県尉が博奕(ばくち)をしていて、裴県尉は桃を食べていたな。趙幹が大きい鯉をかくしていたとお前が話すと、裴県尉は怒って趙幹を鞭で打てといいつけたな。お前が鯉を料理人の王士良にわたすと、やつはよろこんで鯉を殺したな。そうだろう」  張弼はいちいちうなずいた。一同が、 「どうしてそれを知っているのか」  とたずねると、 「さっき王士良が殺した鯉は、このわたしなのだ」  といった。一同はびっくりして、口々に、 「いったいそれはどういうことなのだ。くわしく話してくれ」  といった。薛偉は話しだした。  病気になったとき、はじめは高い熱が出てどうにも我慢ができぬほど苦しかった。そのうちに、ふと気が遠くなったと思うと、病気のことは忘れてしまい、熱をさましに涼しいところへゆきたくなって、杖をついて出かけた。夢の中のことだということには全く気がつかなかった。町を出るととてもうれしくて、籠の中の鳥か檻(おり)の中のけものが逃げ出したときの気持も、この自分のうれしさには及ぶまいと思われるほどだった。  それから山奥へはいっていったが、山道を登るにつれてだんだん暑くなってきたので、谷へ下りていって谷川のほとりをぶらぶらしていた。川を見ると、深く澄みきっていて、美しい秋の色をたたえ、さざ波ひとつ立たず、鏡のように大空とつながっている。見ているうちにふと泳ぎたくなって、着物を岸にぬぎすてて飛びこんだ。子供のときにはよく泳いだが、大人になってからは水遊びをしたことはない。いま存分に泳ぐことができて、日頃の願いのかなえられた思いで、うれしくてならなかった。そして、 「人間は魚のように早く泳ぐことはできない。魚の姿になってすいすいと泳げたらどんなによかろう」  とつぶやいていると、一匹の魚が近寄ってきて、 「その気になれば、なれないことはありませんよ。ほんとうの魚になることだって、そうむずかしいことではありません。まして、魚の姿になりたいというくらいのことなら、わけなくかなえられますよ。わたしがとりはからってあげましょう」  といった。そして、すいとどこかへいってしまった。  しばらくすると、魚の頭をした、身のたけ数尺もある人が、鯨に乗って先頭に立ち、数十匹の魚をうしろに従えてあらわれた。その人はわたしにむかって、川の神の河(か)伯(はく)の詔書をおごそかに読みあげた。 「俗界に住むことと水中に遊ぶこととは、浮(ふ)沈(ちん)その道を異(こと)にする。水中に遊ぶことを好む者でなければ、水の世界の楽しさはわからぬはずである。薛主簿は、心は深い淵に浮ぶことを好み、身は障害のない境地に遊ぶことを望んでいる。はてしない水のひろがりを楽しみ、清らかな川の流れに憂いを晴らし、絶壁のようにけわしい俗界の情をきらって、幻の世を捨てたいと思っている。よってその願いをかなえることにする。しばらくのあいだ魚の姿にするのであって、ただちに身を魚に化するのではないから、かりに東の淵の赤い鯉の姿をあたえる。ああ、大波をおこす力をたのんで船をくつがえすようなことをすれば、冥(めい)界(かい)よりの罰を受け、釣針に目をくらまされて餌をむさぼるようなことをすれば、人間界よりの害を受けるであろう。身をあやまって同類を恥かしめることのないよう気をつけて、楽しく暮すがよい」  魚の頭をした大男は河伯の詔書を読みおわると、鯨に乗って引き返していった。わたしは呆然と見送っていたが、ふとわが身をふりかえってみると、わたしの身体はすっかり赤い鯉になりかわっていたのであった。  それからはわたしは悠々と泳ぎまわることができ、ゆこうと思うところへはどこへでもすぐゆくことができた。波の上であろうと淵の底であろうと、思いのままにならぬところは一つもない。三江五湖の遠いところまで、鰭(ひれ)をうごかして隈(くま)なく泳ぎまわった。ただ、住居は東の淵ときめられていたので、日暮れになればそこへ帰っていった。  そのうちにだんだん腹がすいてきたので、食べ物をさがしたが見つからない。そこで一艘の舟のあとについていったところ、餌のついた釣針が目の前におりてきた。それは趙幹がおろした釣針だったのである。ひどく腹のすいているわたしには、その餌はうまそうに見えた。釣りあげられてはいかんと気にしながら、ついわたしは口を近づけた。だが、 「おれは人間だ。しばらくのあいだだけ魚の姿になっているだけだ。腹がすいているからといって、釣針を呑むなんてことができるものか」  と思いなおし、餌を見捨ててそこを離れた。ところが腹はますますすいてくる。そこでわたしはまた考えた。 「おれは役人だ。たわむれに魚の姿になっているだけだ。釣針を呑んだところで、趙幹がおれを殺すはずはない。きっとおれを役所へ送り帰してくれるだろう」  そして、その釣針に食いついてしまったのである。すると趙幹は糸をたぐって、わたしを水の中から釣りあげた。趙幹がわたしの身体をつかもうとしたとき、わたしは何度も、 「趙幹、おれだよ、おれだよ」  と呼んだが、やつは耳にもとめずにわたしをつかまえ、わたしの腮(えら)に縄(なわ)をさし通して、葦のあいだへかくしてしまったのである。しばらくすると張弼がやってきて、 「裴県尉さまが鯉をお買い上げになる。大きいやつをくれ」  といった。趙幹がいつわって、 「大きい鯉はまだ釣れませんので。小さいのなら、あわせて十斤あまりありますが」  というと、張弼は、 「大きいのを買ってこいというおいいつけだ。小さいのでは役に立たん」  といい、葦のあいだからわたしをさがし出し、腮に通した縄を持ってわたしをぶら下げた。そこでわたしは張弼にいった。 「おい、わしはお前の役所の主簿だ。魚に姿をかえて川を泳いでいたんだよ。なんでお前はわしに挨拶もせんのか」  何度いっても張弼は耳もかさず、わたしをぶら下げて歩きだした。わたしはわめきつづけたが、張弼は知らぬ顔をして役所の門へはいっていく。門のところでは下役人が碁を打っていた。わたしはその下役人たちにも呼びかけたが、誰も返事をせずに、 「いやあ、これはでっかい鯉だ。三、四斤はあろうな」  といって笑っている。奥の部屋へいくと、鄒県丞と雷県尉が博奕(ばくち)をしており、裴県尉は桃を食べているところだった。張弼がわたしを見せると、三人とも大きな鯉だといってよろこび、すぐ料理人にいいつけてなますにさせてくれといった。張弼が趙幹のことをいうと、裴県尉は怒って、趙幹を鞭(むち)で打つようにいいつけた。  そのときわたしは、あなたがた三人に呼びかけたのだ。 「わたしはあなたがたと同役なのに、あなたがたはわたしを殺そうというのか。ああ、これがいっしょに任命された同役のすることか。なんというなさけないことだ」  わたしはそういって、声をあげて泣いたが、あなたがたは知らん顔をして、 「早く料理人に殺させろ」  と張弼をせかせた。 「なんということだ。助けようとしないばかりか、早く殺せとせかせるとは!」  大声で泣いているわたしをぶら下げて、張弼は台所へゆき、わたしを料理人の王士良に渡した。王士良はちょうど庖丁をといでいるところだったが、わたしを見ると、 「これはよいなますができるぞ」  と、よろこんでわたしを俎(まな)板(いた)の上に横たえた。そのときわたしはまた叫んだのだ。 「王士良よ。お前はわしがいつも料理をいいつけている料理人じゃないか。なんだって主人のわしを殺すのだ。早くわしを助けて、これは薛主簿だと同役にいってくれ。たのむ!」  だが王士良は何もきこえないような顔をして、わたしの首を俎板におしつけ、ぐさりと庖丁をあてた。その俎板の上でわたしの首が落ちたと思った瞬間、この部屋でわたしは正気にかえったのだ。  一同はこの話をきいて、不思議なこともあるものだと思った。趙幹が鯉を釣りあげたとき、張弼がそれをぶら下げてきたとき、下役人が門のところで碁を打っていたとき、三人が奥の部屋にいたとき、王士良が俎板の上にそれをのせたとき、誰もが鯉の口がぱくぱくと動くのは見たが、声はきこえなかったのである。  一同はみな、それ以来、なますを口にしなかったという。 唐『続玄怪録』    なます  万年県(長安)の捕盗役人に、李公という人がいた。  ある年の春、数人の友達を街西の官亭に招いて、なますの料理を注文した。すると、招きもしないのに一人の道士がやってきて席に坐り、平然としている。李公が咎(とが)めて、 「お前さんはなんだね」  というと、道士は、 「道士だよ」  といった。 「道士はわかっている。ここへ何をしにきたのかときいているのだ」 「あてにきたのだ」 「何をあてにきたのだ」 「お前さんたちの食べ物をあてにきたのだ」 「それじゃ、わたしたちが何を食べるかあててみるがよい」 「なますだ」 「ふん、さっき注文したのをきいていたのだろう」 「捕盗役人だけあって、疑い深い人だな。疑うなら、もう一つあててやろう。お前さんたちの中に、一人だけなますを食べられない人がいる」 「誰が食べられないのだ」  李公がそういうと道士は李公の鼻さきに指をつきつけて、 「お前さんだよ」  といった。李公は腹を立てて、 「わしは主人役としてなますを注文したのだ。そのわしが、なますを食べられんという法があるか。お前さんのいうことがもしあたったら、銭五百文を進ぜよう。だが、あたらなかったら、ただではおかんぞ。よいか、このわしの友達みんなが証人だ」 「よいとも」  と、道士は平然としてうなずいた。  しばらくするとなますが運ばれてきた。一同が箸を持ったとき一人の男があわただしくかけこんできて、 「京(けい)兆(ちよう)尹(いん)さまの急ぎのお召しです」  といった。李公は道士に、 「まだお前さんが勝ったというわけじゃないぞ。用がすんだらすぐもどってくるから、お茶でも飲んで待っていてもらおう」  と言い残して、馬で役所へかけつけていった。役所ではちょうど裁判が開かれるところであった。李公はおそくなるかもしれぬと思い、使いを官亭へ出して、さきに食べていてくれ、ただなますがなくなるといけないから料理人にいって二皿だけとっておかせてくれ、道士は待たせておくように、と伝えさせた。  裁判は思ったより早くすみ、李公はまた馬をとばして官亭へ帰った。客たちはもう食事をすませていて、二皿のなますだけが残っていた。李公は席につくと、箸を取りあげ、道士の顔を見て笑いながら、 「お前さんの負けだな」  といった。ところが道士は顔色一つかえずに、 「わしのいうことにまちがいはない」  という。李公は腹を立てて、 「なにかうまいことをいって、口さきでごまかそうというのか。なますはちゃんとここにある。わしはこれを食う。明らかにお前さんの負けではないか。さあ、見ておれ、いま口へいれるからな」  といったが、その言葉のまだおわらぬうちに、どっという響きを立てて天井の壁がくずれ落ち、食器はみじんにくだけなますは泥まみれになってしまった。  土けむりがおさまったとき、李公が無念の思いで道士の方を見ると、いつのまにか道士はいなくなっていた。 唐『逸史』    張三の麦藁帽子  唐の開(かい)元(げん)年間、二人の士(し)人(じん)が泰(たい)山(ざん)にこもって仙道の修行をはじめた。一人は李(り)といい、一人は張(ちよう)といった。だが、時がたつにつれて李の志はくじけていった。張はそれを察して李にいった。 「君は王室の一族だ(唐の天子は李姓)。世を避けるよりも、世に出て王室の一翼となることの方が、君にはふさわしいかもしれぬ。君は君、私は私だ。なにも私に遠慮することはないよ」 「いっしょに志を立てながら、面目ない次第だが……」  李はそういい、別れを告げて山を下りて行った。  天(てん)宝(ぽう)の末年、李は大(だい)理(り)丞(じよう)(司法をつかさどる大(だい)理(り)寺の次官)にまで出世したが、安(あん)禄(ろく)山(ざん)の乱がおこったため、家族をつれて南へ逃げ、湖北の襄(じよう)陽(よう)に仮の住居をさだめた。  その後、公務で揚(よう)州(しゆう)へ行った帰途、思いがけなく、泰山で別れたきりだった張に出会った。張は垢(あか)じみた着物をまとい、腑抜けたような顔をしている。李は気の毒に思っていった。 「これからいっしょに宿をとって、うまい物でも食べながら、語り合おうじゃないか」  すると張は笑っていった。 「ありがとう。だが、うまい物なら、私がいま世話になっている家にもある。宿で食べるには及ばんよ。ちょっと寄ってくれないか」  しきりにすすめるので、ふり切るわけにもいかず、李は張について行った。行ってみて李はおどろいた。その構えも、召使たちの数も、身なりも、まるで王侯の邸宅のようであった。 「これはいったい、どういうことだ。夢でも見ているのではなかろうか」  と李がいうと、張は、 「これしきのことにおどろいていると、召使たちにも笑われるぞ」  といった。  見たこともないような料理が、つぎつぎに運ばれてきた。いわゆる山海の珍味ばかりだった。食事がすむと、さまざまな演芸が行われた。音楽を演奏している女たちの中の、箏(こと)をひいている女を見て、李は自分の妻によく似ていると思った。どうしてもその女の方へ眼が向くのだった。 「あの女が気に入ったのか」  と張がたずねた。 「いや、そういうわけではないが、私の妻に似ているものだから、どうも気になってならないのだ」  と答えると、張は笑いながら、 「世の中には似た者もいるさ」  といった。  やがて演芸が終ったとき、張は箏をひいていた女を呼び寄せ、その腰紐に小さな林(りん)檎(ご)を結びつけて、 「もう帰ってよい」  といった。それから李に向って、 「ところで、君は、希望を達成するためにいま金がいるだろう? いくらあったらいいんだね」  ときいた。 「三百貫あれば、うまくいくはずなんだが……」  と李がいうと、張は古びた麦(むぎ)藁(わら)帽子を持ってきて、 「薬屋街(がい)に王老という人がいる。これを持って王老の家へ行き、張三がこれで三百貫の銭をもらってこいといった、というがよい。そうすれば三百貫くれるはずだ」  といってその帽子を渡し、 「それじゃ、これで別れよう」  と、李を門の外まで見送った。  翌日、李は薬屋街へ行く前に、もういちど張の邸宅へ行ってみた。ところが屋敷は荒れはてていて、人が住んでいる気(け)配(はい)はなかった。近くの家できいてみると、 「あそこは劉(りゆう)道(どう)玄(げん)さんの屋敷ですが、十年あまり前からずっと空(あき)家(や)になっています」  ということだった。 「昨日きたのは確かにここだったはずだが……」  と李は不審に思いながら、引き返して薬屋街へ行き、王老という薬屋をさがしてみたところ、その店はちゃんとあった。帽子を見せて張にいわれたとおりにいうと、王老は娘を呼んで、 「これ、張さんのかな」  ときいた。娘が手に取って見て、 「確かに張さんのだわ。この前、修理してあげたときの緑色の糸がついているから」  といった。李が、 「張三という人はどこに住んでいるんです?」  ときくと、王老は、 「さあ、どこかな。山の中だろうな。山の中の松の根に生える茯(ぶく)苓(りよう)を、この五十年来とどけてくれる大事なお人だから。あの人は茯苓の代金を、自分がいるだけしか持っていかないんですよ。だから二千貫あまりの代金を店であずかっているんです」  といいながら、李に三百貫の銭を渡した。  李は銭を受け取ってから、もういちど昨日の張の屋敷へ行ってみたが、やはり無人の空家だったので、あきらめて襄陽に帰った。  家へ帰るなり李は妻に張のことを話したが、話しているうちに妻の腰紐に小さな林檎が結びつけてあることに気づいた。おどろいて、わけをたずねると、妻は、 「昨夜、夢の中で、五、六人の人がきて、張仙人さまが箏をひく女をお召しだからといって、私を大きなお屋敷へつれて行ったのです。そのお屋敷で筝をひきました。そしたら帰りに張仙人さまが腰紐にこれを結びつけてくださったのです」  といった。それをきいてはじめて李は、張がすでに仙人になっていたことを悟ったのだった。 唐『広異記』    張老の嫁  揚州の六合県に、張(ちよう)老(ろう)という独(ひと)りぐらしの百姓の老人がいた。  近所に韋(い)恕(じよ)という人の家があった。韋恕は揚州府の役人だったが、その任期が満ちて帰ってきた。韋恕には年頃の娘がいたので、村の仲人婆を呼んで、よい婿(むこ)をさがしてくれとたのんだ。  張老はそれをきくと、韋家の門前へいって仲人婆が出てくるのを待ちうけ、無理やりに自分の家へつれていって、酒をふるまった。そして、酒がまわったところでいいだした。 「韋さんの家には娘さんがいて、よい婿をさがしているということだが、ほんとうかね」 「ほんとうだよ」  と婆がいうと、張老は身を乗りだして、 「その娘さんをわしに世話してくれないかね」  といった。 「誰の嫁に?」  と婆がきくと、張老は真(ま)顔(がお)で、 「わしの嫁にだよ。わしは年は取っているが、くらしには不自由はない。なんとか縁談をまとめてほしいのだ。まとまったらお礼は十分にするよ」  仲人婆はあきれて、 「おまえさん、正気かね。老いぼれの百姓じじいが、お役人の若い娘さんをもらえるとでも思っているのかね」  と、さんざん悪態をついて帰っていった。  ところが、張老は翌日もまた、仲人婆を家に呼んでたのんだ。 「どうして身のほどがわからないのかねえ」  と仲人婆はますますあきれていった。 「お役人の娘さんが、百姓のじいさんのところへ嫁にくるはずがないじゃないか。あの家はたしかに貧乏だけど、家には家、人には人の釣りあいというものがあるよ。おまえさんでは釣りあわないじゃないか。おまえさんに酒を一杯ふるまわれたからといって、韋さんに大恥をかかされては、わたしはやりきれんよ」 「そこを我(が)慢(まん)して、ひとこと話してみてもらえないかねえ。ことわられたら、縁がなかったと思ってあきらめるよ」  張老はそういってきかない。仲人婆は酒を飲まされた手前、仕方なく、韋恕にどなられるのを覚悟で話してみた。果して韋恕は腹をたてて、 「おまえは、わしが貧乏だからといって馬鹿にするのだな。役人の家が、娘を百姓のじじいになどやれるか。いったい、そんな大それたことをいいだした百姓じじいは、どんなやつだ。いや、百姓じじいをとがめるにはあたらぬ。なんの分別もないやつだろうから。それをとりつぐおまえのほうが、けしからん」  仲人婆は恐縮して、 「おっしゃるとおりでございます。百姓じじいに無理やりにたのまれまして、おとりつぎしなければならない羽目になってしまいましたので……」 「その百姓じじいにいってやれ。きょうのうちに五百貫の銭を持ってきたらききとどけてやるとな」 「そんな大金が用意できるはずはありません」 「それだからいっているのだ」  仲人婆が張老の家へいってその話をすると、張老はそれであきらめるとは思いのほか、 「銭五百貫か。承知した」  といって、仲人婆をびっくりさせた。 「おまえさん、そんな大金がどこにあるのだね」 「金なんてものは、あるところにはあるものさ」 「おまえさん、どこかから盗んでこようとでもいうのかね」 「まさか」 「まさかねえ」  仲人婆はそういって笑いながら帰っていったが、それからまもなく、張老は銭五百貫の結(ゆい)納(のう)を車に積んで、韋恕の家へとどけた。韋恕はおどろき、親(しん)戚(せき)の者を呼び集めて相談をした。 「あのじいさんは百姓をしているだけなのに、どうしてこんな大金が出せたのだろう。ないにちがいないと思っていったのに、すぐさま銭がとどいたとあっては、どうしたらよかろう」  まず、娘の意向をきいてみようということになって、親戚の代表の者が娘にたずねてみたところ、娘はおどろく様子もなく、悲しむ様子もなく、 「それも運命でしょう」  といった。そこで、ついに張老のところへ嫁にやることにきまった。  張老は韋恕の娘を娶(めと)ってからも、これまでと同じように肥桶をかつぎ、畑を耕し、野菜を売り歩いた。妻も自分で炊事をし、洗濯をして、すこしも恥かしそうな様子もない。親戚の者はみないやな顔をしていたが、やめさせるわけにもいかないのだった。 「あれでは、親戚の恥さらしだ」  親戚の者はそういって韋恕にすすめた。 「娘を見捨ててしまったのなら、いっそのこと遠い土地へ追いはらってしまったらどうかね」  そういわれた韋恕は、ある日、酒席を設けて娘と張老を招き、酔いがまわったところで、それとなく親戚の者たちのいったことをにおわせた。すると張老は、 「わたしは、お嬢さんをいただいたら、すぐこの土地をはなれるつもりだったのですが、父上がお心残りではないかと思って、ここにとどまっていたのです。しかし、もう大分たちましたから、出ていってもよいでしょう。わたしは王(おう)屋(おく)山の麓に小さな家を持っておりますので、明朝、そちらへ帰ります」  といった。そして翌朝、日の出のころ、韋恕に別れの挨(あい)拶(さつ)をしにきて、 「年がたって、もしわたしたちのことをなつかしく思ってくださることがあれば、兄上に天(てん)壇(だん)山の南までお訪ねくださいますよう」  といい残し、妻を驢(ろ)馬(ば)にのせて、笠をかぶらせ、自分は杖をついてあとにつき、そのまま立ち去っていった。  数年たって、韋恕は娘の顔が見たくなった。どんなくらしをしているのだろうと思い、まず息子の義方に様子を見にいかせることにした。  義方が天壇山の麓までいくと、一人の崑(こん)崙(ろん)奴(ど)(黒人の奴隷)が牛をつかって田を耕していたので、 「このあたりに張老という人の家はないかね」  ときくと、崑崙奴はうやうやしく一礼して、 「これはこれは、韋家の若旦那さまでございますか。お待ちしておりました。お屋敷はすぐ近くでございます。ご案内いたします」  といい、さきにたって東の方へ歩きだした。  山を越えると、麓には清らかな川が流れていた。また山を越え、川を渡り、十数回もそれをくりかえして進んでいくにつれて、景色は次第に俗界とはちがっていった。やがて急な下り坂にさしかかると、川の北側に朱塗りの屋敷が見えた。楼閣が建ち並び、花をつけた木が生い茂って、五彩の霧がたちこめるなかを、鳳(ほう)凰(おう)や鶴や孔(く)雀(じやく)が飛びかい、管絃のひびきがきこえてきた。崑崙奴は指さして、 「あれが張家の荘園でございます」  といった。義方は思いのほかのことに茫然としながら、やがて荘園の門までいくと、紫衣を着た門番がいて、ていねいに挨拶をして奥へ案内した。家具調度の見事なこと、いままでに見たことのないものばかりである。ますます茫然としていると、珠(たま)の鳴る音がして三人の腰元があらわれ、 「韋家の若旦那さま、いらっしゃいませ」  と挨拶をした。それにつづいて十数人の腰元が出てきた。みな絶世の美人である。腰元たちが左右に並ぶと、戸口に、赤い絹の衣裳をまとい、朱塗りの靴をはき、遠(えん)遊(ゆう)の冠(かんむり)をいただいた貴人があらわれて、しずしずとはいってきた。若々しい容貌の美丈夫であったが、よく見ればそれが張老だった。義方がなにかいおうとして口をもぐもぐさせていると、張老がいった。 「人の世は苦労が多く、火の中にいるようなものです。身中を涼しくしきらぬうちに、憂いの焔が、また燃えあがってきて、すこしも休まる時がありません。兄上も久しく人の世に住んでおられて、ご苦労の多いことでしょう。妻はいま髪をなおしておりますので、しばらくお待ちください」  そして義方を席につかせると、まもなく、一人の腰元がきて、 「奥さまのお髪(ぐし)なおしがすみました」  といった。すると張老は立ちあがって、義方を別の建物へ案内した。その建物は、梁(はり)は沈香、扉には玳(たい)瑁(まい)を貼り、窓には碧玉をちりばめ、階(きざはし)には真珠が敷きつめてあった。義方の妹は天女と見まごうばかり、兄にひととおりの挨拶を述べると、父母の安否をたずねただけで、あとは冷やかな態度に見えた。  まもなく食事が出たが、そのかぐわしく美味なこと、なににもたとえようがない。食事がおわると、腰元が義方を別の間へ案内して泊らせた。  翌日の朝、義方が張老と対坐していると、腰元がきてなにか張老に耳うちした。張老はうなずいてから、義方にむかっていった。 「わたしの妹が蓬(ほう)莱(らい)山へ遊びにいきたいといいますので、妻といっしょについてゆきます。日が暮れないうちにもどってきますから、しばらくここでお待ちくださいますよう」  張老が出ていくとまもなく、庭に五彩の雲がわきあがり、鳳凰が飛びたち、管絃の調べがおこるなかを、張老とその妹とその妻とがそれぞれ鳳(おおとり)に乗り、十数人の、鶴に乗った侍女や従者たちをしたがえて、次第に高くのぼったと見るうちに、東をさして飛んでいった。  あとに残った義方が、若い腰元にまめまめしく世話されているうちに、やがて日暮れどきになると、また笙(しよう)や笛の音がきこえてきて、張老たちが帰ってきた。張老と妻は庭へおりると、義方にいった。 「おひとりで淋しかったでしょう。しかしここは、神仙の住むところで、俗人のこられるところではないのです。兄上は宿命があってここまでこられたのですが、いつまでも逗留していただくわけにはいきません。明日はお別れいたしましょう」  翌日、義方が出発するとき、妹は出てきて別れの挨拶をしたが、ただ、父母によろしくというだけであった。張老は義方に黄金二十両を贈り、さらに籐(とう)で編んだ古い帽子を一つわたして、 「もし、手もとが不(ふ)如(によ)意(い)におなりのときには、揚州の北市で薬を売っている王老のところへいって、これをお見せください。そうすれば一千万の銭をくれますから」  といった。そして前の崑崙奴に天壇山まで見送らせた。  義方は金を背負い、籐の古帽子を持って家に帰ると、家族の者に一部始終を話した。家族の者はそれをきくと、張老は神仙だったのかとおどろく者もあれば、いやあれは妖術つかいだとおそれる者もあった。  それから数年たったとき、韋家では金をつかいはたしてしまって、くらしがたたなくなった。そこで王老をさがして金をもらいにいこうということになったが、 「一千万もの銭を受けとるのに、帽子がしるしだなんてでたらめだよ」  という者もあったが、なにしろ貧乏のどん底だったので、 「金がもらえなくても、もともとだ。とにかくいってみることだ」  と家族にせきたてられて、義方は旅に出た。  揚州に着き、北市へいってさがすと、王老が薬を売っている店はすぐわかった。義方が帽子を見せて、 「張老から、こちらで一千万の銭を受けとるようにいわれてきたのですが」  というと、王老は、 「どれどれ、お見せ」  と、その帽子を受けとって調べだした。すると、奥から若い娘が出てきて、 「わたしが見ましょう。この前、張老さまがおいでになったとき、わたし、てっぺんの破れたところを紅色でつくろってあげたから、見ればすぐわかります」  といった。王老が帽子を娘にわたすと、娘は見て、 「確かに張老さまのものです」  といった。王老はすぐ、銭一千万を車に積んで、義方に、 「車ごと持っていくがいい」  といった。  韋家の人たちは義方が車をひいて帰ったときはじめて、張老はほんとうに神仙だったことをさとった。  その後、家族の者はまた娘のことを案じて、もういちど義方を天壇山の南の麓へいかせた。ところが、いって見ると、ただ山や川が幾重にもいりくんでいるばかりで、どこにも道らしい道がない。ときたまゆきあう樵夫(きこり)にきいてみても、張老などという名はきいたこともないし、ここからさきには家なんかない、という。義方は仕方なく帰った。家族の者は、仙界と俗界とは交通が絶えているのだから二度と会える機会はないのだとあきらめ、こんどは揚州の北市へ王老をさがしにやらせたが、王老もどこかへ立ち去っていた。  それからまた数年たって、義方が揚州の町へ出かけて北市を歩いていると、張老の屋敷に仕えていた崑崙奴がひょっこりあらわれて、 「おや、韋家の若旦那さまじゃありませんか。お宅のみなさんにはお変りないようで結構なことでございます」  といった。 「どうしてわかるのです」  と義方がききかえすと、 「お嬢さまはお里へお帰りになることはできませんが、いつもみなさんのおそばにおいでになるのと同じことで、お宅のなかの出来事は大小残らずみんなわかっているのです」  といい、 「じつは、若旦那さまがこんど揚州にお見えになることもわかっていましたので、お嬢さまのおいいつけで、出てきたのです。これを若旦那さまにおわたしするように、といわれまして」  と、ふところから十斤の黄金をとり出してわたし、 「主人もいま、こちらへきております」  といった。 「え? 張老さんが! ぜひお目にかかりたい。どこにおられるのです」  と義方がいうと、 「そこの居酒屋で、王老さまと飲んでいらっしゃいます」  という。 「王老さんもか。一目お会いして、お礼を申しあげたいのだが、会わせてくださらんか」 「承知いたしました。しばらくここで、お待ちになっていてください。わたしが居酒屋へいって、お知らせしてきますから」  崑崙奴はそういって店のなかへはいっていった。義方は腰をおろして待っていたが、崑崙奴はなかなか出てこない。やがて日が暮れてきたが、しかし、崑崙奴は出てこなかった。  義方はしびれを切らし、思い切って居酒屋へはいってみた。と、なかは客がいっぱいたてこんでいたが、張老の姿も王老の姿も見えず、崑崙奴も見あたらない。  これはいったいどうしたことだろうと思い、さきほど崑崙奴にわたされた黄金をとり出して、そっと調べてみると、それはまごうかたなくほんものの黄金であった。義方は驚歎しながら家に帰ったが、張老たちの消息はそれきりわからなくなってしまった。 唐『続玄怪録』    雁門山の仙女  唐の開(かい)元(げん)年間、五台山に旅の僧が大勢こもっていたことがあった。代州の都督は、僧たちが衆をたのんで不穏なことをするのではないかとおそれ、寺を持たない僧はすべて五台山から放(ほう)逐(ちく)することにした。  そのとき、旅の僧たちは多く谷間へ逃げこんだが、中に法(ほう)朗(ろう)という僧がいて、皆と別れて一人雁(がん)門(もん)山(さん)の奥深くへ分け入った。  すると谷の奥に、人が出入できるほどの洞窟があった。法朗は乾(ほし)糧(いい)をたくさん持っていたのでしばらくここにかくれていようと思い、その洞窟の中へはいっていった。  数百歩進むと、進むにつれて洞窟は次第に広くなり、やがて平地に出た。そこには清らかな川が流れていた。川を渡って向う岸へ上ると、そこは日と月が明るくかがやいている平野であった。  平野を二里ほど進むと森があり、森の中には草ぶきの家があって、女が幾人か住んでいた。みな、わずかに草の葉を身につけているだけの若い女で、そろって美しく艶(つや)やかであった。女たちは法朗の姿を見るとびっくりして、 「お前は、なにものなのです」  ときいた。法朗が、 「わしは人間だが……」  というと、女たちは笑いだして、 「そんな奇妙な恰(かつ)好(こう)をした人間があるものですか」  という。 「お前たちこそ、その姿はなんだ。女のくせに裸同然の恰好をして。わしはそんな姿を見てもまどわされはしないぞ。仏につかえる身だからな。仏につかえる者はみな、髪を落として法衣を着る。七戒をまもるためじゃ」  と法朗はいったが、女たちはみな怪(け)訝(げん)な顔をして、 「なんのことかわかりません。仏などということは、きいたこともありません」  という。法朗がさらに仏教の趣旨を話すと、女たちはすこしはわけがわかったらしく、 「それはなかなかよいことです」  といった。 「ところでお前さんたちはなにもので、ここはなんというところですか」  と法朗がきくと、女たちは、 「わたしたちは秦(しん)のもので、蒙(もう)恬(てん)将軍につれ出されて万里の長城を築いていたのです。将軍は男たちだけでは足りず、娘たちもかり出して使いましたが、わたしたちは労苦に堪えられなくなって、ここまで逃げてきて、かくれたのです。ところが食べものがなく、このあたりの草の根を食べていたところ、それがみな仙草で、おかげでわたしたちは不老不死の身になることができました。ここへきてからどれくらい歳月がたったかもわかりませんし、外へ出ていったこともありません」  という。秦というと、一千年近く前の世である。  女たちは法朗を引きとめ、仙草の根を食べさせてくれたが、それは口あたりがわるくて、食べられたものではなかった。  法朗は四十日あまりそこに滞在したが、乾糧がなくなってしまったので、外へ出て食べものをさがしてくるといって、洞窟を出た。それから代州へゆき、食糧をととのえてからもういちど雁門山の谷(たに)間(あい)に分け入ったが、道に迷い、いくらさがしても洞窟のありかはわからなかったという。 唐『広異記』    寿命  長安に柳(りゆう)少(しよう)遊(ゆう)という道士がいた。占いの名手としてその名のきこえていた人である。  ある日、上等の絹を持った客が訪ねてきたので、少遊が客間に通して来意をたずねると、その客は、 「自分の寿命を知りたいのです」  といった。 「知ってどうなさるのです? 寿命はわたしは占いたくありません。寿命を知るということは、占うほうも占われるほうも気持のよいものではありませんから」  少遊はそういってことわったが、客はどうしても占ってくれという。 「占う以上は卦(け)に出たとおりにいうよりほかありませんが、かまいませんか」 「かまいません」  少遊は卦を立てて、そのまま黙っていた。 「どうなのです、おっしゃってください」  と客はうながした。  少遊は悲しげに溜息をついていった。 「わるい卦が出ました……」 「はっきりと、何時(い つ)と教えてください」  と客はさらにうながした。 「この卦にあらわれた限りでは、申しにくいことですが、あなたの寿命は今日の夕方に尽きることになっております」 「そうですか。いたしかたありません」  客はそういったものの、さすがに蒼白な顔になって、そのまま黙りこんでしまった。少遊も同じく蒼白な顔になって、黙りこんでいた。  しばらくすると客が、 「水を飲ませていただけないでしょうか」  といった。少遊ははっとして、 「お客さまに水をさしあげてくれ」  と呼んだ。  少遊の身のまわりの世話をしている少年が水を持っていくと、客間には少遊が二人いて、どちらが客かわからない。戸惑っていると、一人の少遊がもう一人の少遊を指さして、 「これがお客さまだ」  といった。  少年が水を渡すと客は一口だけ飲み、挨拶をして立ちあがった。少年は門まで見送っていったが、門を出てしばらくいったところで客の姿はかき消すように見えなくなってしまった。同時にどこからか悲しげな泣き声がきこえてきた。  少年は客間へもどって、まだじっと座り込んでいる少遊に、 「旦那さまはあのかたをご存じなのですか」  とたずね、今見たことを、ありのままに話した。すると少遊は、 「そうか。あれはわたしの魂だったのか」  といい、客の置いていった絹を、少年にしらべさせたところ、それは霊前に供える紙で作った絹であった。少遊はうなずいて、 「魂がからだを見捨てていった以上、わたしの寿命も間もなく尽きる」  と歎いたが、やがて夕方になると果して死んでしまった。 唐『広異記』    眉間の傷  陝西の杜(と)陵(りよう)に韋(い)固(ご)という人がいた。  幼いときに両親を亡くして、兄弟もなく、早く嫁をもらいたいと思って方々へ口をかけていたが、ときおり縁談はあるにはあったけれども、いつもまとまらなかった。  ある年、旅に出て、河南の宋城の南の村に泊っていたところ、もと清河郡の役人だった潘(はん)〓(ぼう)という者の娘をすすめる人があって、もしその気があるなら明日の朝早く、村の西の竜興寺という寺の門前で会おうといった。  その人は名をいわなかったが、いかにも信用のおけそうな人だったし、韋固は嫁がほしくてならないところでもあったので、翌日、早起きして、まだ傾いた月の光がさしている中を竜興寺へと出かけていった。いってみると門の石段に一人の老人が腰をおろし、袋に寄りかかって、月あかりで本を読んでいた。韋固が傍へいっても、老人はふり向きもせずに読みつづけている。のぞき込んでみたが韋固には読めない文字ばかりだったので、 「もし、ご老人。それはなんの本ですか」  とたずねた。 「わたしは子供のころから学問をして、どんな字でも知らない字はないつもりです。西国の梵(ぼん)字(じ)だって読めるのですが、その本の字だけはまだ見たことがありません」  すると老人は笑いながら、 「それはそうだろうよ。これは人間世界の字ではないから」  といった。 「それじゃ、どこの字なのです」 「天上界の字だよ」 「ご老人はどうして天上界の字が読めるのです?」 「天上界の者だからさ」 「すると、ご老人は人間じゃないのですか。天上界の者がどうしてこんなところにいるのですか」 「わたしたちはみな人間を管理しているのだ。管理するためには下界へおりてきて人間どもの様子を見なければならんだろう。わたしたちの仲間は下界のあっちこっちに大勢いるよ。ただ人間どもには、それが天上界の者だとはわからんだけさ。お前さんだって、わたしがこれを読んでいなければ不審には思わなかったはずだ」 「あなたは人間界のなにを管理していらっしゃるのですか」 「わたしの管理しているのは人間どもの結婚のことさ」  韋固はそれをきくと、よろこんでたずねた。 「わたしは杜陵の韋固という者です。幼いときに両親をなくしまして、早く嫁をもらって後継ぎをつくりたいと思い、この十年間ずっと嫁をさがしてきたのですがうまくいきません。じつは、今日、ある人とここで会って、潘〓という者の娘との縁談を進める手はずになっているのですが、こんどはうまくいくでしょうか」 「まだまだ、まとまらんね。お前さんの嫁になる人はいま三つだからな。その人が十七になったらお前さんといっしょになるはずだよ」 「…………」 「疑っているようだな」 「ところで、あなたが寄りかかっていらっしゃるその袋の中には、なにがはいっているのですか」 「赤い縄(なわ)だよ。これで夫婦の足をつなぎあわせるのだ。人間の眼には見えないが、これでつなぎあわせておくと、たとえ仇(かたき)同士であろうと、身分に隔てがあろうと、どんな離れたところに住んでいようと、いったんつないだ以上はかならず結婚することになっているのだ。お前さんの足ももう先方につないであるよ。だから、いくらほかの娘をさがしたところでむだというものだ」 「それでは、わたしの相手は今どこにいるのですか。なにをしている家の娘です?」 「この村の北に住んでいる野菜売りの、陳(ちん)という婆さんの娘だよ」 「会うことができるでしょうか」 「婆さんはいつもその子を抱いて、市場で野菜を売っているよ。わたしについて来ればその場で教えてあげよう」  夜は明けたが約束した人はやって来ない。 「いつまで待つつもりなのじゃ」  老人はそういうと、読んでいた書物を閉じ、袋をかついで歩きだした。韋固はなおしばらく、約束した人を待っていたが、来そうにもないので、老人のあとを追いかけて村の北の青物市場へいった。  老人の姿はすぐ見つかった。韋固がその傍へいくと、老人は指をさして、 「あれがお前さんの女房になる娘だよ」  といった。老人の指さす先には、片目のつぶれたみすぼらしい婆さんが、二、三歳の女の子を抱いていた。 「あれがわたしの?」  と、韋固が半ばあきれ半ば腹をたてていうと、老人はうなずいて、 「そうだよ」  といった。 「あれがわたしの女房になる、ときまっているのでしたら……」 「なんだね」 「今のうちに殺してしまったほうがましです」 「そんなことができるものかね。あの娘は天から禄(ろく)を授かることになっているのだよ。いずれ、お前さんの力によってあの娘は領地をもらうことになるのだ。なんで殺せるものかね」  韋固がふり向くと、老人はもういなかった。市場中をさがしてみたが、どこにもいない。韋固はぶつぶつとつぶやいた。 「おれのようなれっきとした家柄の者は、嫁をもらうにも釣りあった家からでなければならん。もしそういう相手がなければ、妓(ぎ)女(じよ)の中から顔もよく頭もよいのをさがして身請けをし、本妻にするという手もある。あんなうすぎたない婆の子なんぞと結婚できるか。それにしてもあのじいさんは何者だろう。もしあれがほんとうに天上界の者で、人間の結婚の係りをしているのだとすると、放ってはおけぬ。やっぱり、今のうちにあの娘を殺してしまったほうが安心というものだ」  韋固はひとまず宿へ帰り、つれていた下男にわけを話し、 「もしその娘を殺してくれたら、一万貫の銭をやる」  とそそのかすと、下男は、 「承知しました」  といった。韋固はとぎすました匕(ひ)首(しゆ)を下男に渡した。  翌日、下男は、その匕首を袖の中にかくして青物市場へゆき、人混みの中で、片目の婆さんの抱いている子を突き刺した。市場は大騒ぎになった。下男は何食わぬ顔をしてそっと市場を抜け出し、宿へ帰った。  韋固も何食わぬ顔をして下男といっしょに宿をたち、もはや追手の来るおそれのないところまでいくと、はじめてほっとして、 「うまく刺せたか」  ときいた。 「はい。心臓を突き刺すつもりでしたが、婆さんがたおれかかったものですから、逸(そ)れて眉(み)間(けん)に刺さりました」 「眉間か。それなら大丈夫だろう」  韋固はそういって、銭一万貫を下男にやった。  その後、韋固にはなんども縁談があったが、いつもまとまらなかった。  それから十四年たった。韋固は亡父の功労によって役人に採用され、河南の相州の参軍になっていた。州の長官の王(おう)泰(たい)は韋固を抜(ばつ)擢(てき)して戸籍係りにし、さらに裁判をあつかわせてみたところ、てきぱきと処理して上下の評判もよいので、見込んで自分の娘を嫁にやった。娘は年のころ十六、七。美しく、しかもやさしい女であった。  韋固はすこぶる満足であった。  妻はいつも眉間に造花をつけていた。風呂へはいるときも、夜寝るときも、いちどもそれをはずしたことがない。韋固はそれを、妻の好みだろうと思って格別あやしみもしなかったが、一年あまりたったとき、ふと、むかし下男に野菜売りの婆さんの子を殺させたとき匕首が眉間に突き刺さったということを思い出して、まさかと思いながら妻に造花のわけを問いただした。すると妻は泣きながらいった。 「わたしは王長官の姪(めい)で、実の娘ではありません。王長官はわたしの母方の叔父なのです。わたしの父は潘〓といって、清河郡の役人をしておりましたが、わたしが生れてから間もなく亡くなりました。母も兄もつぎつぎに亡くなり、家屋敷も人手に渡って、残ったのは宋城の南にある荘園だけでしたので、乳母の陳氏といっしょにそこへ移って住み、近くの村の青物市場で野菜を売って暮しを立てていたのです。乳母の陳氏はやさしい人で、わたしが小さいのを憐れんで片時もわたしを離したことがありませんでした。ところが三つのとき、陳氏に抱かれて市場へゆきましたところ、何者かが飛びかかって来て、わたしの眉間を刺したのです。さいわい傷は浅くてなにごともありませんでしたが、その跡が残っておりますので、こうして造花でかくしているのでございます。七、八年前、叔父が廬(ろ)竜(りよう)の属官になりましたとき、わたしをさがし出して養女にしてくれましたので、おかげで、あなたのところへ嫁ぐことができました。早く申し上げなければと思いながら、つい言いそびれて今までかくしておりました。どうぞおゆるしくださいますよう」  韋固はそれをきくと、妻の手を取って、 「お前になんの咎(とが)があるものか」  といい、 「その陳氏という乳母は片目だったろう」  ときいた。 「どうしてご存じなのです?」 「お前を人に刺させたのは、じつはこのおれだったのだ」 「そんなはずはありません。わたしが気にしないようにとそうおっしゃってくださるお気持はありがたいのですが……」 「いや、ほんとうなのだ」  といって、韋固は妻にくわしくわけを話した。妻はおどろいたが、 「これでおあいこですわね」  といい、 「わたしたち、どうしても結ばれる運命になっていたのですわ」  といって、ますます韋固を慕うようになった。  夫婦は仲むつまじく暮し、やがて二人のあいだには男の子が生れた。韋固は次第に昇進して後には山西の雁(がん)門(もん)の太守になり、妻も太原郡太夫人の爵(しやく)位(い)を授けられた。  宋城の県知事はこのことを伝え聞いて、その城外の南の村を定婚店と名づけた。その名は今も残っている。 唐『続玄怪録』    槐の瘤代  洛陽に張大という人がいた。代々役人の家柄で、張大も役人になるつもりで学問をしていたけれども、学問よりも彫刻の方が好きで、それに熱中していた。  あるとき、隣りの町へいく途中、山道で大きな槐(えんじゆ)の木を見かけた。根もとに、五、六斗入りの水(みず)甕(がめ)ほどもある大きな瘤(こぶ)が四つついている。張大はそれを取りたいと思ったが、一人ではどうにもならないので、帰ってから人夫を雇って切り取らせようと心にきめた。しかし、誰かが先に取ってしまわないとは限らない。思案した末、荷物の中から紙を二、三枚取り出し、細く割(さ)いて紙(し)銭(せん)を作って、瘤に掛けた。こうしておけば村の人々は神木だと思って瘤を取らないだろう、と考えたのである。  それから数ヵ月たって帰途につくとき、張大は槐の木の瘤を取るために斧(おの)や鋸(のこぎり)などを買いととのえ、人夫を数人雇っていっしょに帰った。やがて山道へ入り、槐の木のところまで来て見ると、槐にはたくさん紙銭が掛けてあって、前には焼香する台までできている。張大はそれを見て笑いながら、 「村のやつら、うまく引っかかりよったわい」  といい、人夫たちにわけを話して、さっそく瘤を取りにかからせた。人夫たちが斧や鋸を取りあげたとたん、 「切ってはならぬ!」  という声がきこえ、紫の着物をまとった神が姿をあらわして、 「この木が神木であることがわからぬか」  といった。張大は進み出て、 「それは神さまのお考えちがいです。どうかおききください」  と、瘤が欲しい一心でいいたてた。すると神は、 「神が考えちがいをするわけはないが、いいたいことがあるならいってみるがよい」  といった。 「はい。わたくしは前にここを通りまして、槐の木の瘤を見つけて取りたいと思ったのですが、その用意をしておりませんので、人に取られないようにと考えて、かりに紙銭を作って瘤に掛けておいたのです」 「そのとおりだ」 「それですから、この槐の木は、神木でも何でもないのです」 「ところが、今は神木なのだ」 「どうしてでございますか」 「そなたが紙銭を掛けたために、村人が神木だといいだして祈願をこめるようになったので、神界でもそのままにしておくわけにはいかなくなり、わしがその祭りを受ける職務を命ぜられてこの木をあずかることになったのだ。従って今では神木であるぞ。それでもなお切ろうとするならば、そなたにも人夫にも災難が降りかかるぞ」 「木を伐り倒してしまおうというのではありません。瘤が欲しいのです」 「なぜそんなに瘤を欲しがるのだ」 「彫刻をして台を作りたいのです」 「台を作ってどうするのだ」 「人に売ります」 「それなら、台ができたことにして、わしが買い取ろう。いくら欲しいか」 「百貫文いただきとうございます」 「百貫文か。ちょうど奉納の絹が百疋ある。ここから半里いったところに、崩れた塚がある。絹はその中にいれてあるから、それを持っていくがよい。もし見つからぬときや、不満があるときは、またここで会おう」  そういって、神は姿を消した。張大がいわれたとおりに行ってみると、はたして崩れた塚があり、中に絹がはいっていた。数はちょうど百疋あった。 唐『原化記』    成弼金  隋(ずい)の末ごろ、一人の道士が太白山にこもって、丹(たん)砂(しや)を錬って仙薬を作りあげ、道術を会得して数十年間も山の中に住んでいた。  成(せい)弼(ひつ)という者がそばに仕えて雑用をしていたが、道士は十年あまりも生活をともにしながら、いっこうに成弼に道術を教えようとはしなかった。やがて成弼は家に不幸があったので、道士に別れて帰ろうとした。すると道士は、 「そなたは十年あまりもわたしに仕えてくれたので、お礼にこの仙薬を十粒進ぜよう。一粒を赤銅十斤に合わせれば、上質の黄金になる。これだけあれば葬儀の費用と、あとのくらしにはこと欠くまい」  といって仙薬十粒を渡した。  成弼は家に帰ってから、道士のいったとおりにして黄金を作った。それは上質の金で、葬儀の費用に十分間(ま)にあったばかりか、生涯くらしていけるだけの額になった。  ところが、葬儀をすませると成弼はよからぬ心をおこし、また太白山に登って道士に会い、 「もっと仙薬をください」  とたのんだ。すると道士は、 「わしは仙薬を惜しむのではない。お前には仙薬は身をほろぼすもとになる。だからやらぬ」  といって承知しない。成弼はかくし持ってきた刀を突きつけておどしたが、道士は泰然としていて、承知しない。成弼は怒って道士の両手を斬(き)り落としたが、道士はやはり泰然としていて、承知しない。さらに、両足を斬ったが同じであった。成弼はますます怒って、ついに首を斬り落とし、そして着物を剥いで調べてみたところ、肘(ひじ)のうしろに赤い袋が結びつけてあって、そこに仙薬が入れてあった。  成弼が仙薬を懐にしまって山を下りていくと、不意に自分を呼ぶ道士の声がきこえた。驚いてふりかえると道士は、 「お前があんなことまでやるとは思わなかった。お前には仙薬を使うだけの徳はないのだ。必ず神罰を受けて、わしにしたのと同じ目にあわされるぞ」  といって、姿を消した。  成弼はたくさんの仙薬を手に入れたので、黄金をたくさん作って豊かにくらすようになった。すると不正をはたらいていると密告した者があって、役人に逮捕されたが、成弼は錬金術を会得しているからであって、不正によって得た金ではないといい張った。  それが天子の耳にはいり、成弼は都へ召し出されて、勅命によって黄金を作らされた。天子は、その黄金を見てよろこび、成弼に官爵を授けて黄金を作る係に任命した。成弼は数万斤の黄金を作ったが、やがて仙薬がなくなってしまった。そこで、術が尽きてしまったので家に帰りたいと願い出た。  すると天子は、錬金の処方を申し立てるよう命じた。成弼がじつはかくかくの次第で知らないと報告すると、天子は成弼がかくしているものと思い、刀でおどした。しかし成弼が知らないというと、天子は怒って武官にその両手を斬らせた。それでもいわないので、両脚を斬らせた。しかしいわない。天子はますます怒って、ついに成弼の首を斬らせた。道士がいったとおりになったのである。  このとき成弼が作った黄金は、成弼金あるいは大唐金といわれ、類のない上質の金として、今日この金を持っている者は宝物として珍重している。 唐『広異記』    空飛ぶ娘  広州に、母親と二人暮しの何(か)二(じ)娘(じよう)という娘がいた。年は二十(はたち)。清楚な美人だったので方々から縁談があったが、何二娘はことわりつづけていた。  親子は絹の鞋(くつ)をつくって暮しをたてていた。女二人でつくる鞋の数はたかが知れていたが、出来がよいという評判で、数がすくないだけに余計に珍重されて、高く売れた。よい鞋だという評判がたちだしたのは、何二娘が母親といっしょにつくるようになってからだった。二人で向いあって鞋をつくりながら、母親はよく何二娘に、 「お前は天から授かった子だよ」  といった。  そのいわれは、こうである。母親がまだ娘のときだった。一人で山へ薪を取りにいったところ、あやまって谷底へころがり落ち、そのまま長いあいだ気をうしなっていた。不思議にかすり傷一つなかった。さらに不思議なことには、気がついたとき、自分の横に赤ん坊が寝ていたのである。可愛い赤ん坊だったし、見捨てて帰るわけにもいかなかったので、拾ってきて育てた。それが何二娘だというのである。  誰もその話を信じなかった。父(てて)なし子を生んだことが恥かしくてつくり話をしているのだ、と思われているようであった。何二娘もはじめはそう思っていたが、なんども聞かされているうちに、次第に信じるようになっていった。  ある日、何二娘は母親にいった。 「わたしが天から授かった子だということ、ほんとうだったのね。わたし、空を飛べるということがわかったのです」 「二十にもなって、お前、なにを言ってるのだね。天から授かった子というのは、たとえ話だよ」 「いいえ。ほんとうに、わたし、空を飛べるのです。飛べるとわかったら、遠くへ行ってみたくなって、どうしようもないの。ねえ、行ってもいいでしょう?」 「毎日、鞋ばかりつくっていて、気がくさくさするのだろう。どこかへ行ってみたくなるのも無理はないけど、お前が行ってしまったら、わたしは一人で暮していかなければならないじゃないか」 「遠いところへお嫁にいったと思えばいいでしょう」 「わたしに、一人で鞋をつくって、一人で暮していけというのかね?」 「鞋なんかもう、つくらなくていいわ。わたし、ときどき帰って来て、お母さんがちゃんと暮していけるようにするから」  母親はまさかと思っていたが、翌日になると、何二娘はいなくなっていた。  何二娘は空を飛んで、羅(ら)浮(ふ)山へ行ったのだった。以来、山頂の寺に住み込んで、飲食は一切せず、毎日寺の人々のために山中の木の実を取って来てお斎(とき)をつくったり、寄せ集めのぼろ布で鞋をつくったりしていた。  寺の人々は不思議に思ってたずねた。 「あなたは、どこで食事をしているのです?」 「山の中で」 「木の実などを食べているのですか」 「いいえ、山の気を吸っております」 「お斎の木の実などを、あなたはどこから持ってくるのですか」 「山の中から」  ある日、何二娘が楊(よう)梅(ばい)の実をたくさん持って来たので、またたずねた。 「これはどこにあったのです?」 「循(じゆん)州(しゆう)の山に」  循州は羅浮山の北にある町で、南海からは四百里もへだたっている。その循州の山寺に幾抱えもある楊梅の大木があった。何二娘はその実を取って来たのだった。 「わずかのあいだに、循州へ行ってまた帰って来ることができるはずはありません」 「それなら、ほかの山かもしれません」  その後、循州の山寺の僧が羅浮山に来て言った。 「先ごろ、仙女がわたくしどもの寺に舞いおりて、楊梅の実を取ってゆきました。たいへんな吉祥です」  顔かたちをきいてみると、何二娘にまちがいなかった。そのときはじめて寺の人々は、何二娘が仙人であることをさとった。  仙人であることを知られると、何二娘は寺には住まなくなった。しかし、ときどき珍しい木の実などを寺の人々にとどけることはあった。  何二娘の噂が都につたわると、天子は勅使を広州へつかわしてさがさせた。勅使はなかなか何二娘をさがし出せなかったが、やがて、何二娘が月に一度は母親をたずねるということを知って、さがさずに待つことにした。 「天子さまが、お前に会いたいとおっしゃっているのです。わたしのためにもお勅使について都へ行っておくれ」  母親は勅使の前で何二娘にそう言い、そして、耳もとに口を寄せて言い足した。 「お前は空へ飛びあがることができるのだから。いやなことがあったら、そうすればいいのだから」  何二娘は笑って、うなずいた。  こうして何二娘は勅使といっしょに都へ上った。ところが、その途中、勅使は何二娘の美貌に心を惹かれて、ふと、このような女と……、と思った。その途端に何二娘が言った。 「あなたのようなみだらな方と、ごいっしょすることはできません! 天子さまにこうおっしゃい、——わたくしがみだらな心をおこしましたために、何二娘は来ませんでしたと」  そういうなり、ぱっと空へ飛びあがって、たちまちその姿は見えなくなってしまった。  その後、何二娘はどこへ行ったかわからない。母親のところへは毎月とどけものがあったが、俗界に姿をあらわすことは、ついになかった。 唐『広異記』    一本の筆  西州の臨(りん)功(こう)に、韋(い)子(し)威(い)という人がいた。西州採訪使の韋行式の甥(おい)で、年はまだ二十前だったが、頭がよく人がらもよく、いつも道術の書に読みふけって、神仙にあこがれていた。  韋行式の配下で雑役をしている兵卒に、丁(てい)約(やく)という者がいた。まじめな働き者で、子威のためにもよく尽くしてくれたので、子威も、なにかと目をかけてやっていた。  ところが、ある日、丁約が急に、 「よそへ行こうと思います」  といいだした。子威が、 「どうしたのだ。なにかまずいことでもあったのか。もしそうなら、わたしがなんとかしてあげよう。いったい、どうしたのだ」  ときくと、 「いいえ、なにもまずいことをしたわけではありません。ただ、どうしても行かなければなりませんので」  という。子威がさらに、 「軍籍にある者が勝手によその地へ行くことのできないことぐらいは、お前も知っているだろう。たとえうまく抜け出しても、必ず捕えられて厳罰になるぞ」  というと、 「いいえ、わたしにはそういう心配はございません。わたしは、じつは俗界の者ではなく、ただ、まだ俗界のきずなに身が引きとめられているだけの者ですから——。二年間おそばに勤めさせていただきましたお礼に、これをさし上げたいと思います。これは不死の薬ほどの効能を持つものではありませんが、人の定められた寿命の限りのうちでは効能のある薬です」  といい、粟(あわ)粒(つぶ)ほどの薬を一つ、子威にさし出した。子威は茫然とそれを受けとりながら、 「お前が、いや、あなたが……、ほんとうに、仙人なのか。わたしのあこがれている仙人だったのですか」  といった。すると丁約はうなずいて、 「あなたが道術への志があつく、人の目のとどかぬところでもよく身をつつしんでおられることは知っております。あなたもいずれは俗界からぬけ出られるでしょう。しかしそれは、まだ二塵(じん)さきのことです」 「二塵というのは、なんのことです?」 「儒家では世、仏家では劫(ごう)、道家では塵といいます。では、五十年後に都の近くでお会いすることになりますが、それまで、どうぞ道心堅固になさいますよう」  そういうと、一礼して出て行った。  子威は夢を見ているような思いだった。丁約が出ていってから、はっと夢からさめたような気がし、急いで外へ出て見たが、もう丁約の姿はなかった。  その後、子威は科挙に合格し、役人になって各地の県令を歴任した。やがて七十歳になり、髪もひげも鶴の羽のように真白になったが、まだ身体は元気だった。ある日、都へ帰る途中、驪(り)山(ざん)の麓の宿に泊ったところ、しばらくすると表にそうぞうしい声がきこえるので宿の者にわけをきくと、逆賊どもが都へ護送されて行くところだという。表へ出て見ると、首(くび)枷(かせ)をはめられて後ろ手に縛(しば)られた数人の者が、武装した兵士たちに護られて行くところだったが、その中に丁約がいた。五十年前とすこしもかわらず、髪は黒く歯は白く、若者のようだったが、まぎれもなく丁約だった。  子威がおどろいていると、丁約の方でも子威を見つけて、笑いながら声をかけてきた。 「臨功で別れたときのことを、覚えておいでですか。あっというまに五十年がたちましたな。ここでお会いすることになっていたのですよ。次の宿場まで送ってくださいませんか」  子威が護送の兵士たちのあとについて行くと、一行は次の滋(じ)水(すい)の宿場でとまり、罪人たちは首枷をはめられたまま一部屋へおしこめられた。食事を支給する小さい穴が一つあいているだけの牢部屋である。  子威がその穴からのぞいて見ると、丁約は笑って、わけなく首枷をはずし、その小さい穴から抜け出して来て、 「酒でも飲みましょう」  といった。  町の酒(しゆ)楼(ろう)にはいって、向いあって席についてから、二人はあらためて挨拶をかわした。そのあとで子威が、 「あなたには先見の明がおありのはずなのに、どうして謀(む)叛(ほん)に荷(か)担(たん)して捕えられるようなことをなさったのですか」  ときくと、丁約は、 「これも、まだこの身が俗界のきずなに引きとめられているからですよ。五十年前に兵卒をしていたのも、これも、同じことなのです」 「このまま、またお逃げになるのですか」 「いいえ、また牢部屋へもどります」 「それでは、都で死刑を受けるおつもりですか」 「道術には、尸(し)解(かい)・兵解・水解・火解などの、俗界から逃れる方法があります。尸解というのは死んだと見せかけて、埋葬されてから棺をぬけ出すもの、兵解はわざと殺され、水解は水死したと見せかけ、火解は焼死したと見せかけるものです。わたしもようやく、兵解によってこのたび俗界を離脱することができそうです。つきましては、一つお願いがございます」 「なになりと……」 「筆を一本頂戴したいのです」 「お安いご用です」  子威はそういって、書物をいれた袋の中から筆を一本取り出して丁約に渡した。 「これをなににお使いになるのです?」 「いずれ、おわかりになります。わたしが殺されるとき、よくご覧ください」 「明朝、刑場でとくと拝見させていただきます」 「いや、今日の夕方から大雨が降りますから、明日は死刑の執行はとりやめになります。雨は二日間降りつづけてやみますが、そのあと朝廷にちょっとした事故がおこりますから、執行は十九日になります。その日、刑場へ別れに来てください」  子威は丁約といっしょに滋水の宿場へもどった。牢部屋の前まで行くと、丁約は、 「では、十九日をお忘れなく」  といって、また穴から牢の中へはいっていった。  子威は驪山へ引きかえした。はたして夕方から大雨が降りだして、道は脛(すね)までも入ってしまうほどのぬかるみになった。雨は二日たってやんだが、皇族の家に不幸があって三日間政務が停止された。その次の日が丁約のいった死刑執行の日であった。  その日、子威は朝早くから刑場へ行って待っていた。昼ごろ、罪人の市中引きまわしの命令が出て、丁約たちは町を引きまわされた末、刑場へ送られてきた。  丁約は群集の中にすばやく子威を見つけて目くばせをしてから、二、三回うなずいて見せた。子威もうなずきかえした。やがて刑の執行がはじまった。丁約の番になったとき、丁約はまた子威に目くばせをした。  子威はまばたきもせずに、丁約を見つめていた。刑吏が丁約の首に大刀を振りおろしたとき、子威ははっきりと見た。筆の穂と柄とがぱっと二つに分れたのを。  しばらくすると、丁約が子威の傍に来て、 「先日の酒楼へ行ってお別れの杯をかわしましょう」  といった。  酒楼で酒を酌みかわしながら、丁約は子威にいった。 「筆をありがとうございました。あれが見えたということは、あなたの修行がかなり進んでいるしるしです。しかし、やはりまだ二塵、修行なさらないといけません。二塵を経たら、崑(こん)崙(ろん)山の石室の中でお会いできましょう」  酒楼を出ると、丁約は西の方へ歩きだした。子威は見送っていたが、数歩行ったかと思うとその姿は消えてしまった。 唐『広異記』    水を汲む女  鼎(てい)州の開(かい)元(げん)寺(じ)にはいつもたくさんの客が寄寓していた。ある年の夏、数人の客が寺の門前で涼(すず)んでいると、そこにある井戸へ一人の女が水を汲みにきた。なかなか美しい女だった。  客の一人に、いささか術を心得ている者がいて、たわむれに術をかけると、女の水(みず)桶(おけ)がぴたりと動かなくなってしまった。すると女は、その美しい顔をくもらせて、 「おからかいになっては、いけません」  といった。男がそしらぬ顔をして、術を解(と)かずにいると、 「およしなさい!」  と女はいった。その声には、美しい女の口から出たとは思えぬほどの、鋭いひびきがあった。男はちょっとたじろいだが、相手が女なので、たかをくくってなおも術を解かずにいた。 「仕方がありません」  女はそういうと、やにわに荷(にな)い棒を地に投げた。と、棒はたちまち蛇になった。男はそれを見ると、懐から粉をかためたようなものを取り出して地面に二十あまりの輪をかき、そのまんなかに立った。蛇は男の方へ進んでいったが、輪のところまでいくとそれを越えることができず、いたずらにそのまわりをまわるだけであった。  すると女は、口に水をふくんで蛇に吹きかけた。たちまち蛇は数倍の大きさになり、男にむかって鎌首をもたげた。 「いたずらはもう、おやめなさい」  と女はそのときいった。しかし男は平然と輪のまんなかにつっ立ったまま、こたえなかった。蛇は外側の輪を越え、なんなく十五、六番目の輪まで進んだ。 「まだやめませんか」  男が黙っていると、女はまた口に水をふくんで吹きかけた。蛇はこんどは椽(たるき)ほどもある大蛇になって、するするとまんなかの輪まで進んだ。 「まだやめないのですね」  女はその美しい顔に妖しい笑いをうかべていった。男は今となってはあとへ引くこともできず、 「やめぬ」  といいかえした。と、蛇はたちまち男の脚に巻きつき、みるみるうちに頭の上まで巻き上っていった。男の苦痛のうめき声がきこえた。——今に骨をくだかれて死んでしまうのであろう。見ていた客たちはおどろき、あわてた。 「助けてやってくれ!」  と一人が叫んだ。すると女は、その男をふりかえって笑った。 「あわてることはありません。こらしめただけです」  女が手をのばすと、大蛇はたちまち小さな蛇になって男の首のあたりをはいまわった。女はそれをつまみ取って、地面へ捨てた。蛇は地面へ落ちると、たちまちもとの荷い棒になった。  見守っていた人々はみな大きく息を吐いて、あらためてその美しい女を見た。女は、蒼白になってふるえている術をかけた男にむかっていった。 「あなたはまだ未熟なくせに、どうしてあんないたずらをするのです。術はいたずらをするためのものではありません。わたしだからよかったものの、ほかの術者にあんないたずらをしたら、きっと殺されてしまいますよ。これからは、つつしみなさい。きょうのことはゆるしてあげます」  男は深く頭を垂れてあやまった。女はなにごともなかったように、例の荷い棒で水桶をかついで立ち去っていった。男はそのあとを追っていって、女の弟子になったという。 宋『夷堅志』    竹の束  献(けん)県一帯を横行する盗賊の首領に、斉(せい)大(だい)という者がいた。  あるとき彼は、配下の者をひきつれてさる豪族の家へおしいり、自分は屋根の上へあがって捕吏のくるのを見張っていた。その家には美貌の娘がいた。盗賊たちはその娘を見つけると、みなで犯そうとしたが、相手は娘ながらなかなか手(て)強(ごわ)く、どうしても応じさせることができないので、ついに盗賊たちは娘を縛りあげてしまった。娘は喚(わめ)き叫んでなおも抵抗した。その声をきいて屋根から下りてきた斉大は、そのありさまを見ると剣を抜いてどなった。 「やめろ! おれたちはこの家の、ありあまった不正の金を頂戴にきただけだ。そのようなことをするやつらには、このおれが相手になってやる!」  そのすさまじい気勢におされて、盗賊たちは手を引き、娘はさいわいにけがされずにすんだ。  その後、斉大はまた配下をひきつれて別の豪族の家へおしいったが、あらかじめ備えていた捕吏のわなにかかって包囲され、一味の者はみな捕えられた。ところが、蟻の逃れるすきまもないほどの包囲陣を張ったはずなのに、首領の斉大だけは、どこへ消えてしまったのか、ついにうちとることができなかった。  役所へひかれていった盗賊たちは、きびしい取調べを受けた。どの盗賊も斉大のゆくえを知っている者はなかったが、数人の者は、捕吏がおしよせてきたときに、斉大はたしかに秣(まぐさ)桶(おけ)のかげにかくれるのを見たといった。捕吏たちは逮捕のとき家じゅうをくまなくさがし、もちろん秣桶のあたりもしらべたのだが、たしかそこには古い竹の束がころがっていただけであった。しかし、念のためにもういちどそこへいってみると、すでに竹の束はなくなっていた。  役人は盗賊の一人々々についてくわしく調べてみたが、斉大自身は術者ではなかったもようである。とすれば斉大を救った術者は誰だったのであろうか。おそわれた豪族の家の召使たちまでも一人々々調べてみたが、ついにわからずじまいだったという。 清『閲微草堂筆記』    驢馬と旅人  洛陽の水(すい)陸(りく)庵(あん)に大(たい)楽(がく)上人という僧侶がいた。金持であった。  その隣りに周(しゆう)という下役人が住んでいた。周は貧乏だった。役所の給料では食っていけないので、自分が徴収する租税の一部をいつもつかいこみ、徴収期限がくると上人から借金をして穴埋めをしていた。  その金がつもりつもって、七両近くになっていた。上人は周に返済する力がないことを承知していたので、一度も催促したことがなかったし、また周の不正を役所へ告げようともしなかった。周は上人に感謝していて、顔をあわせるたびに必ずこういった。 「わたしにはご恩に報いる力がありません。だが、死んだら驢(ろ)馬(ば)になって必ずご恩返しをいたします」  上人の周に貸した金額がちょうど七両に達したある夜、誰かが水陸庵の門をはげしく叩いた。上人が起き出して行くと、門の外から声がした。 「お隣りの周です。ご恩返しにまいりました」  上人が門をあけると、外には誰もいなかった。誰かがいたずらをしたのだろうか、夜中に人さわがせな、と上人は思った。  その夜、水陸庵で飼っている驢馬が子を産んだ。  翌朝、上人が周のところへ行ってみると、周は死んでいた。昨夜門を叩いたのは、周の魂が別れを告げにきたのだったろうか、と上人は思った。  驢馬の子は、上人を見るとしきりに頭を振って、足で前掻きをした。周は死んだら驢馬になってご恩返しをするといっていたが、同じ時刻に周が死に驢馬が生れたことは、何かの因縁というものだろう、と上人は思った。  上人は驢馬の子を自分の乗用馬にした。  それから一年たったとき、山西の旅人が水陸庵に泊った。その旅人は驢馬を見て、是非ともゆずってほしいといった。 「わけがあって、これはおゆずりするわけにはいきません」  上人がそういうと、旅人は、 「それでは、貸していただけませんか。次の県城まで行って一晩泊りますが、すぐお返しにまいります。よろしいでしょう」  というのだった。  上人が承知すると、旅人は鞍(くら)にまたがり、手(た)綱(づな)を取って笑いながらいった。 「和(お)尚(しよう)さんをだましたのです。この驢馬が気に入りました。返すといいましたが、返さないかもしれませんよ。金を和尚さんの机の上に置いておきました。あとで受け取ってください」  そして、ふり向きもせずに驢馬を走らせて行った。上人はどうすることもできず、ぶつぶついいながら部屋へもどった。そして机の上をみると、周に貸した金と同額の七両がそこに置いてあった。 清『子不語』    神になった男  蒋(しよう)子(し)文(ぶん)は広陵の人である。酒好きで、女好き、その上、軽率で、なにをしでかすかわからぬという男であったが、日ごろから、 「おれは生きているうちは大官になれぬが、おれには神骨がそなわっているから、死んだら神になるはずだ」  といっていた。  建康で刑獄の官をしていたとき、賊を追いかけて鐘山の麓までいったところ、賊はふりかえりざま斬りつけて子文の額に傷を負わせた。従者がいそいで手当てをしたが、子文はまもなく死んでしまった。  それから数年たったとき、かつて子文の部下だった男が、道で子文に出会った。白馬にまたがり、白扇を持ち、生前と同じように従者をつれている。おどろいて逃げだすと、子文が追いかけてきて声をかけた。 「おれはここの土地神になって、世の人々に福をさずけてやろうと思っているのだ。お前は土地の人々にふれまわって、おれのために祠(ほこら)を建てさせろ。さもないと、ただではおかぬぞ」  その年の夏、この地方に悪疫が流行した。人々は子文のたたりだとおそれたが、朝廷で認められていない神を祭れば刑罰を受けることになるので、祭るわけにはいかなかった。しかし、ひそかに家の中に子文を祭るものも出てきた。すると子文は、こんどは巫女に乗りうつっていった。 「わしのために祠を建てよ。さもないと人々の耳の中へ虫をとびこませて禍(わざわい)をおこしてやるぞ」  はたして、あぶのような小さい虫が人々の耳の中へとびこみ、とびこまれた者は一人残らず死んでしまって、医者もどうすることもできない。人々はいよいよ子文のたたりをおそれ、ひそかに祭る者の数はさらにふえたが、朝廷ではなおも祠を建てることをゆるさなかった。すると子文はまた巫女に乗りうつっていった。 「祠を建てぬのなら、こんどは大火事をおこしてやるぞ」  はたして、その年には火事が続発し、その数は一日に数十ヵ所にものぼる始末。やがて火はついに宮殿にまで及んだ。 「亡魂は落ちつく場所さえあればたたりをしなくなるものです。早く亡魂をなだめ鎮めた方がよいでしょう」  そう進言する者があって、朝廷では子文を中都侯に封じて鐘山に廟を建てた上、鐘山を蒋山と改称した。すると、災害はぴたりとやんだ。  以来人々は子文を蒋侯神と呼んで、大切に祭るようになった。廟は今も建康の東北の蒋山にあって、人々に尊崇されている。 六朝『捜神記』    壺公と費長房  壺(こ)公(こう)は、その姓も名も知られていない。だが、いま世に行われている召(しよう)軍(ぐん)符(ふ)とか召(しよう)鬼(き)神(しん)符(ぷ)とか治(ち)病(びよう)玉(ぎよく)府(ふ)符(ふ)とかの秘法は、すべてこの人によってはじめられたというので、壺(こ)公(こう)符(ふ)と総称されている。  あるとき壺公は汝(じよ)南(なん)へ行って薬屋を開いたが、彼が仙人だということは誰も知らなかった。彼の売る薬は安く、しかも、どんな病気でも必ずなおるのだった。彼は薬を買った者に対して、その薬を飲むと何を吐き出すかを教え、いつ病気がなおるかを示したが、すべてそのとおりになった。  そのために彼の薬はよく売れて、毎日、数万銭の収入があったが、彼はそれを町の貧乏な人たちに施して、手もとにはほんの四、五十銭残しておくだけだった。  彼が住んでいる家の天井には、壺が一つ吊り下げてあった。日が暮れると彼はその壺の中へ飛び込んでしまうのだったが、誰もそのことは知らなかった。費(ひ)長(ちよう)房(ぼう)という一人の町役人のほかは——。  役所の二階から、偶然それを見た費長房は、薬売りが凡人ではないことを知ったのである。それ以来、長房は毎日壺公の店の前を掃除したり、食べ物をとどけたりした。壺公は受け取りながら、挨拶もしない。だが長房はせっせとそれをつづけた。長いあいだつづけながら、しかも何も要求しようとはしなかったのである。  壺公は長房のまごころを認めたのであろうか、ある日、はじめて長房に口をきいた。 「日が暮れて、人通りがなくなったころ、またおいで」  長房がその時刻に行ってみると、壺公は、 「わたしが壺の中へ飛び込むのを見たら、あなたも真似をしてみなさい。そうすれば、あなたもわけなくはいれるはずだ」  といった。長房がいわれたとおりにしてみると、いつのまにか壺の中にはいっていた。  はいって見ると、それはもはや壺ではなく、そこは仙宮の世界だった。高い宮殿や楼(ろう)門(もん)がそそり立ち、二階造りの長い廊下などがあり、壺公の左右には数十人もの侍者がひかえているのだった。茫然としている長房に向って壺公がいった。 「お察しのとおり、わたしは仙人です。むかしは天界の役人だったのだが、役目怠慢のお咎(とが)めを受けて人間界へ流されているのです。あなたは見込みのある人だ、だからこそわたしにめぐり会うことができたのでしょう」  長房は席からすべり下りて叩(こう)頭(とう)しながらたのんだ。 「凡俗の身でございますが、せいいっぱいお仕(つか)えいたしたいと思います。どうかよろしくご指導くださいますよう」  その後、壺公は役所の二階へ長房をたずねて行って、こういった。 「酒が少しあるから、ここでいっしょに飲みましょう。酒壺は下に置いてある」  長房は部下の者をやって運ばせようとしたが、小さな酒壺なのに持ち上げることができない。数十人かかっても動かすこともできないのだった。長房がそのことをいうと、壺公は自分で下へ降りて行き、指一本でぶら下げてきて、長房といっしょに飲んだ。拳(こぶし)ほどの大きさの酒壺だったが、日暮れまで飲み、部下の者にもふるまったが、酒はなくならなかった。飲みながら壺公はいった。 「わたしは旅に出るつもりだが、あなたはどうします? いっしょに行く気はないかな」 「いいえ。お供をさせていただければ、こんなしあわせはございません。ただ、家族の者には知られないように立ちたいと思うのですが、何かよい方法はございませんでしょうか」 「ある」  壺公はそういって、どこから取り出したのか、青竹の杖を一本、長房に渡し、 「これを持って家に帰り、病気だといってこれを寝台の上に置いて、そのままもどってくればよろしい」  といった。  長房はいわれたとおりにして、役所の二階にもどってきた。  長房がもどってきたあと、家族の者が見ると、長房は寝台の上ですでに死んでいた。家族の者は泣きながらその死体を葬った。  壺公といっしょに旅に出た長房は、夢うつつのうちに、どこともわからない場所に着いていた。ふと気がつくと、虎の群の中に入れられていたのである。虎は牙(きば)を鳴らし、口をあけて長房に噛みつこうとした。だが長房はおそれなかった。  すると、こんどは石室の中にとじ込められた。頭の上には広さ数丈の四角い石が茅(かや)の縄で吊り下げてあった。見上げていると無数の蛇が集ってきて縄を噛みだした。縄はいまにも切れそうに見えた。だが長房は平然としていた。  しばらくすると壺公があらわれ、長房の背をなでながらいった。 「うん、見込みがあるぞ」  そしてこんどは糞を食べさせようとした。見れば長さ一寸ほどの蛆(うじ)虫(むし)がわき出していて、ひどい悪臭を放っている。長房が手を出しかね、目をつぶり息をつめていると、壺公は嘆息をもらしていった。 「まだ俗(ぞく)気(け)が残っている。仙人になることはもうあきらめた方がよい。わたしも、あきらめよう。そのかわりに、あなたに神術をさずける。あなたは数百歳の長寿を保つことができるだろう」  そして護符のことを記した一巻の書物を与えて、 「これを持っておれば、鬼神たちを臣従させることができる。病(やまい)になやんでいる者や災(わざわい)にくるしんでいる者があれば、鬼神たちを呼ぶがよい。その鬼神たちによってあなたは、病をいやし災を除くことができる」  といい、さらに一本の竹の杖を渡して、 「これに乗れば俗界へ帰れる。では、元気でな」  といった。長房は否(いや)も応(おう)もなかった。その竹の杖にまたがって別れを告げたが、夢からさめたような気がしたときには、もう家に帰り着いていた。  家族の者たちは亡霊だと思ったが、長房がこれまでのことをくわしく話すのをきいて墓をあばいてみた。すると棺の中には青竹の杖が一本はいっているだけだったので、ようやく長房のいうことを信じた。  長房は壺公のもとから乗ってきた竹の杖を、汝南の郊外の葛(かつ)陂(ぴ)の沼へ投げ入れた。そこには竜神がいるといわれていたからである。杖は沼に浮かぶと青い竜に変って沈んでいった。  また、長房は壺公について家を出てから家にもどるまでを、ほんの一日だと思っていたが、家族の者にきいてみると、一年もたっていたのだった。  長房は家にもどってからは、護符を用いて人の病をなおしたり災をしずめたりした。人と同席しているときにも、ときどき怒ったり叱ったりする所作をするので、わけをきくと、 「妖怪を叱っているのです」  といった。  そのころ汝南には妖怪が出没していたのである。一年に何度かあらわれるのだが、そのときには太守のように騎馬の従者をつれて、行列をつくってきた。ちょうど長房が用事で府の役所へ行っているとき、妖怪があらわれた。妖怪は長房がいることに気づくと、役所の中へはいらずに後(しり)込(ご)みをしながら、機会をうかがっている。長房はそれを見ると大声で、 「あの妖怪どもをただちに召し取れ」  と叫んだ。鬼神たちを呼んだのである。  すると妖怪は車から下りて地面に平伏し、頭をすりつけながら命乞いをした。長房が、 「正体をあらわせ」  とどなると、妖怪は大亀になった。車輪のような形で、首の長さが一丈あまりもある大亀だった。長房は妖怪を再び人間の姿にもどらせた上、鬼神に一枚の護符を渡して、これを葛陂の神のもとへ送るよう命じた。妖怪は涙を流しながら立ち去ったが、あとで人を見にやらせたところ、その妖怪は護符を沼のほとりに置いたまま、木に長い首を巻きつけて死んでいたという。  その後、長房は東海へ行った。東海にはそのとき三年にわたって旱(かん)害(がい)がつづいたからである。長房は鬼神を呼んでいった。 「東(とう)海(かい)神(しん)君(くん)を赦(しや)免(めん)してやれ」  三年前、東海神君が葛陂にきて葛(かつ)陂(ぴ)君(くん)の夫人を犯したことがあった。長房はそのとき鬼神に東海神君を捕えさせたが、罪状が明瞭でないまま監禁しつづけていたのだった。鬼神が東海神君を赦免すると同時に大雨が降りだして、東海地方は長い旱害から救われた。  長房の神術は大地をつなぐ綱を縮めることもできた。従って千里の彼方のものでも眼の前に引き寄せて見ることができるのだった。術を解くと、大地はまたひろがってもとへもどったのである。 六朝『神仙伝』    李八百と唐公〓  李(り)八(はつ)百(ぴやく)は蜀の人である。名はわからないが、何世代にもわたって姿をあらわしていたので、当時の人々がその年齢を八百歳とかぞえ、八百と呼ぶようになったのである。  彼は山林に隠れていたり、町へ姿をあらわしたりしていたが、あるとき、漢(かん)中(ちゆう)の唐(とう)公(こう)〓(ぼう)が道術を学ぼうと志(こころざ)しながら良師にめぐりあえずにいることを知って、教えてやりたいと思った。  そして、まず試してみようとして、公〓の家へ行き、住み込みの下男になったのである。公〓はそのことには気がつかなかったが、新入りの下男がほかの下男たちとはちがってよく働き、よく機転がきくという点にはすぐ気づいて、特別に目をかけていた。  そこで八百は、おりを見て仮(け)病(びよう)をつかい、今にも死にそうに苦しんで見せた。すると公〓はすぐ医者を呼び薬をととのえて、何十万という銭を惜しみなく使い、ひたすら治療につとめた。  八百は次には悪性の腫(はれ)物(もの)を全身につくり、膿(うみ)を流して悪臭を発散させた。誰も、とても手がつけられないありさまだった。公〓はそれを見ると涙を流していった。 「おまえはわが家の下男になって、長年のあいだよくつとめてくれた。それなのにこんな悪疾にとりつかれて、医者も薬も何の役にも立たないとは。いったいどうしたらよいのか」  すると八百はいった。 「わたしのこの腫物は医者や薬ではなおらないのです。ただ、人になめてもらったら、いくらかはよくなるのですが……」  公〓はそれをきくと、さっそく三人の下女を呼んでなめさせた。下女がなめてやると、八百はまたいった。 「下女になめてもらったのでは、よくなりません。旦那さまがなめてくださったら、きっとなおるでしょう」  そこで公〓がなめてやると、八百はまたいった。 「旦那さまになめてもらっても、やっぱり、よくなりません。奥さんになめてもらったらなおるかもしれません」  公〓が妻を呼んでなめさせると、八百はまたいった。 「これで腫物はなおりそうです。この上は三十石(こく)の上等の酒をいただいて、その中で体を洗えばすっかりよくなると思います」  公〓はすぐ上等の酒を用意して、大きな器(うつわ)の中へそそぎ入れた。すると八百は起きあがってその中で体を洗った。と、腫物はたちまち消え、肌はつやつやとして、何のあとかたも残らなかった。  八百はそのときいった。 「もう気がついただろうが、わたしは仙人なのです。あなたに道術を学ぶ志があることを知って試錬を与えてみたのですが、十分にその資質のあることがわかりました。俗界からぬけ出る秘法をさずけましょう」  そして公〓とその妻と下女三人に、自分が体を洗った酒で体を洗わせた。するとたちまちみな若返って顔の色も美しくなった。そのあとで八百は公〓に、神(しん)丹(たん)を煉(ね)る秘法を記した「丹経」一巻を与えた。神丹とは、これを飲めば神仙になれるという薬である。  公〓は後、華山の雲台峰にこもって神丹を煉り、薬ができあがると、それを飲んで仙人になった。 六朝『神仙伝』    魏伯陽と虞生  魏(ぎ)伯(はく)陽(よう)は呉の人である。名家の生れであったが、道術を好んで家を捨て、三人の弟子とともに山にこもって神(しん)丹(たん)を煉った。  ようやく神丹が煉りあがると、伯陽はそれを三人の弟子に示していった。 「まず、犬に試してみよう。犬がこれを飲んで空を飛べば、人も飲んでよろしい。だが、もし犬が死ねば、人も、飲めば死ぬだろう」  そこで犬に飲ませてみたところ、犬はたちまち死んでしまった。すると伯陽はいった。 「心を込めて煉ったはずだが、犬が死んだところを見ると、まだ神明のお心に適(かな)わなかったのであろうか。飲めば犬と同じようになるが、さて、どうしたものであろう」 「先生は、どうなさいますか」  と弟子の一人がたずねた。 「無論、わたしは飲む。世を捨て家を捨てて山にはいったのだ。目ざす仙道が得られないからといって、おめおめと帰っていけるか。死のうと生きようと、わたしは飲む」  伯陽はそういって神丹を口にいれたが、いれたとたん、死んでしまった。  弟子たちは顔を見あわせて、 「不老長寿を得ようと思って神丹を煉ったのに、それを飲んで死ぬなんて……」  と後(しり)込(ご)みをしたが、一人だけは、 「先生は非凡なお方だった。これを飲んで死なれたのは、深いお考えがあってのことだろう。わたしは先生に従う」  といって神丹を飲み、やはりその場で死んでしまった。  残った二人の弟子は、 「せっかく煉った神丹で死んでしまうとは。死んでしまっては仙道も何もない。これを飲まなければ、あと何十年かは生きられるわけだ」  といいあい、伯陽と死んだ弟子との棺を買いに山を下りて行った。  その二人が行ってしまうと、伯陽はすぐに起きあがり、自分の飲んだ神丹を、死んだ弟子の口と犬の口とにいれた。すると弟子も犬も生き返った。  この弟子は虞(ぐ)生(せい)という人であった。虞生は師の伯陽とともに、犬をつれて仙界へはいって行った。その途中、山へはいってきた樵夫(きこり)にことづけて、虞生は郷里の人々に対する別れの挨拶を書いた。山を下りた二人の弟子はそれを見て、大いに悔んだという。 六朝『神仙伝』    仙人の婿  張(ちよう)卓(たく)は蜀(しよく)の人である。長安に出て学問をしていたが、進士の試験に及第したので、両親に知らせに蜀へ帰ろうとした。しかし、驢(ろ)馬(ば)を一頭持っているだけだったので、荷物をその背に積み、自分は驢馬を追いながら歩いていった。  長安から斜(や)谷(こく)を通り、何日か歩いて洋州(陝西省)の近くまできたとき、急に驢馬が馳け出して草深い竹藪の中へはいってしまい、いくらさがしても見つからない。日は暮れてくるし、あたりには人家もなく、野宿をするには虎や狼の心配があるので、急いで歩いて広い街道へ出て、歩きながら人家をさがしていると、やがて大きな屋敷が見えた。  宿をたのもうと思っていってみると、きこりの風をした子供が一人、屋敷の中から出てきた。呼びとめてわけを話すと、子供は引き返していって、まもなく、一人の男をつれてきた。朱の冠をかぶり、高い靴をはいて、杖をついている。卓が挨拶をすると、 「あなたは俗界の人のようだが、どうしてここへ参られた」  ときく。卓がわけを話すと、仙人は、 「おお、あなただったか」  といい、部屋の中へ案内して、まず水を一杯飲まされた。清らかなよい香りの水で、飲むとにわかに身体が軽くなり、元気がついたような気がした。やがて料理が出された。食べおわると風呂にはいらされ、新しい着物に着かえさせられた。 「あなたは今夜、わたしの娘と婚礼をあげることになっている。まだ俗(ぞく)気(け)がぬけていないが、しばらくここに滞在すれば大丈夫だろう」  と仙人はいった。卓はそれを格別、不思議なことにも、唐突なことにも思わなかった。その夜、卓と仙人の娘との婚礼の式があげられた。  しばらく滞在しているうちに、卓は家へ帰りたくなった。すると仙人は、朱色の護符を二枚と黒色の護符を二枚くれて、 「黒色の一枚は頭にのせると人の家へはいるときに姿をかくすことができる。もう一枚は、左の臂(ひじ)に付けると千里以内の物は手をのばして取ることができる。朱色の一枚は手(て)強(ごわ)い相手に出会ったとき、舌の上にのせて口をあけて見せればよいし、もう一枚は左の足に付けると土地を縮め、また不意の難儀を防ぐことができる。だが、この護符をよいことにして、勝手なふるまいをしてはならぬぞ」  と教えた。  卓はその後、長安の大きな屋敷で、ふとその四枚の護符を使ってみたくなり、姿を消して中へはいってみたところ、美しい娘がいたので抱きかかえて外へ出た。  卓が外で様子をうかがっていると、まもなく屋敷中は大さわぎになった。卓はすぐ娘を返すつもりだったが、大勢の者がたちさわいで、返す隙がない。娘をおいて逃げようとすると、羅(ら)公(こう)遠(えん)、葉(しよう)法(ほう)善(ぜん)という二人の道士がやってきて、卓の姿を見破った。屋敷の者はどっと卓に襲いかかってきたが、卓が臂をあげると、壁ができたようでどうしても近づくことができない。  羅、葉の二道士はそれを見ると、 「あの方は太(たい)乙(いつ)真(しん)君(くん)のお使者のようです。令嬢さえ取りもどすことができればよいから、危害を加えてはなりません」  と屋敷の主人にいった。卓はそれをきくと、そっと娘を主人の方へおしやった。  羅、葉の二道士は、護衛の兵士をつれて卓を送ってきたが、途中までいくと、仙人が杖をついて待っていて、 「勝手なふるまいをしてはならぬといったのに」  といって笑った。  羅、葉の二道士と護衛の兵士はまだついてきたが、やがて仙人が杖の先で地面に線を引くと、それが広い川になった。たちまち川には大波がおこり、見る見る川幅が広がって半里にもなった。すると仙人についてきていた卓の妻が霞のうちかけを、その川にむかって投げかけた。と、たちまち中空に橋がかかった。  二人の道士は感嘆しながらそれを見ていた。橋がかかると仙人が先頭に立ち、卓がそのあとにつづき、妻がそのあとに従って、三人は橋をわたっていったが、その橋は三人のわたったあとの部分からつぎつぎに消えていった。そのあとには青い山が四方をとざし、切り立った崖が幾重にも重なって、どうするすべもない。  二人の道士が仙人たち三人の見えなくなってしまった姿にむかって礼拝すると、護衛の兵士たちもみなひざまずいて拝み、やがて引返した。  天子はそのことをきくと、すぐその山へ勅使をさしむけて、祭りをさせた。以来、その山は隔仙山と呼ばれるようになった。その山は洋州の西方七、八里のところに今もある。  張卓に何の徳があって仙人になれたのか、それはわからない。 唐『会昌解頤録』    三つの運  洛陽に盧(ろ)杞(し)という人がいた。  後に宰相になった人だが、まだ若くて貧乏ぐらしをしていたときのことである。そのころ盧杞が借りていた小屋の隣りに、麻(ま)氏という婆さんが、ひとりで住んでいた。  あるとき盧杞は病気になって一月あまりも寝こんだが、その間この婆さんは毎日盧杞の小屋にきて、薬を前じたり粥(かゆ)を作ってくれたりした。  病気がなおってから、ある日の夕暮、盧杞が外から帰ってくると、麻婆さんの小屋の前に、黄金の飾りのついた牛車がとまっていた。盧杞がびっくりして、そっと小屋の中をのぞいてみると、十四、五歳の、仙女にちがいないと思われるほどの美しい女が、婆さんと話しあっていた。  盧杞は不思議でならなかったが、声をかけるわけにもいかず、自分の小屋へ帰って様子をうかがっていると、まもなく女の帰っていく気配がした。  翌日、盧杞は麻婆さんにたずねてみた。 「もしかしたら、わたしはまだ病気がなおっておらずに、熱にうかされて夢を見たのかもしれませんが、昨夜、お婆さんのところへお客さんが見えなかったですか」  すると婆さんは笑って、 「ああ、知っていなさったのか」  といった。 「それじゃ、夢ではなかったのですね。まるで仙女のような美しい人でしたが……」  盧杞がそういうと、婆さんは、 「あの人と結婚する気はありませんかね。もしその気があるなら、話してみますよ」  という。盧杞が、 「わたしは貧乏人で、家柄も低いし、とてもそんなことは望めません」  というと、婆さんは、 「なに、そんなことはかまいませんよ。どうやら気がおありのようですね。話してみましょう」  という。  その夜、婆さんは盧杞の小屋にやってきていった。 「話がつきましたよ、三日間精(しよう)進(じん)潔(けつ)斎(さい)してください。それがすんだら町の東の荒れ寺で会いましょう。そのときお引きあわせします」  三日たって、約束の時刻にいってみると、その寺は人が住まないようになってから久しくなるらしく、古木や雑草が鬱(うつ)葱(そう)と生い繁っていて、どこをどう踏み分けてゆけばよいのかもわからない。  戸惑っていると、にわかに雷が鳴り、稲妻が光り、雨が降り風が吹きだしたと見るまに、忽(こつ)然(ぜん)として楼台があらわれた。黄金づくりの御殿には珠玉を綴ったとばりが下げられ、荒れはてていた境内は花咲く庭園にかわった。と、そこへ妙(たえ)なる楽(がく)の音(ね)がきこえてきて、空からきらびやかな牛車が降りてきた。乗っているのは、麻婆さんの小屋の中で見たあの女である。女は牛車から降り、盧杞に挨拶をして、いった。 「わたしは天女なのです。天帝さまのおいいつけで、下界にくだって夫を求めていたのですが、あなたに仙人の相がおありなのを見て、麻婆さんにわたしの気持を伝えてもらいました。どうか、あと七日間、潔斎してくださいませ。そのあとでまたお目にかかりましょう」  そして、麻婆さんを呼んで、二粒の仙薬を渡した。また黒雲が垂れこめてきて雷が鳴り、あたりはもとどおり古木や雑草の生い繁った荒れ寺に返って、天女の姿はもうなかった。  麻婆さんは盧杞をつれて家に帰ると、天女のいったとおりに七日間の潔斎をさせてから、二粒の仙薬を渡して、 「地面を掘って、種を蒔(ま)くようにこれを蒔きなさい」  といった。  盧杞がそのとおりにして土をかぶせると、同時に芽が出、蔓が伸び、花が咲き、実を結んだが、その実は見る見るうちに大きくなって、二石(こく)入りの甕(かめ)ほどの大きさの瓢(ひよう)箪(たん)になった。瓢箪は二つあった。  麻婆さんは刀で瓢箪をくりぬき、盧杞に桐(とう)油(ゆ)びきの着物を三枚ずつ用意させると、一つの瓢箪の中へ盧杞をはいらせてから、自分ももう一つの瓢箪の中へはいった。  二人がそれぞれ瓢箪の中へはいってしまうと、風がおこり雷が鳴って、瓢箪は空へ舞いあがった。耳にきこえてくるのは波のような音ばかりである。しばらくすると盧杞は寒くなってきた。と、婆さんの、 「桐油びきの着物を一枚着なさい」  という声がきこえてきた。盧杞はそうしたが、時がたつにつれてますます寒くなるばかりで、まるで雪か氷の中にとじこめられているような思いであった。と、婆さんの声がきこえてきた。 「あとの二枚も着なさい」  いわれたとおりにすると、暖かくなってきた。しばらくすると、 「もう、洛陽から八万里ほど離れました」  という婆さんの声がきこえてきた。暖かくなってきて、盧杞がうつらうつらしていると、やがて瓢箪がとまった。 「出なさい」  と婆さんがいった。出て見ると、水晶の塀(へい)にかこまれて、黄金づくりの宮殿や楼台が見えた。宮殿は甲冑をまとって戈(ほこ)を横たえた数百人の兵士によって守られていた。兵士たちは二人を見ると路をあけて、宮門へ通した。麻婆さんはさきに立って中へはいり、中央の宮殿で盧杞を天女にひきあわせた。天女の左右には百人の侍女が並んでいる。天女は盧杞を席につかせ、酒を出してもてなした。麻婆さんは警固の兵士たちの列までさがって、そこに控えた。  そのとき、天女が盧杞にいった。 「あなたには三つの運があります。そのうちの一つをお選びください。一つは、いつまでもこの宮殿に住んで、天にひとしい寿(じゆ)をたもつことです。一つは、地上の仙人になって、普段は俗界に住み、ときどきここに来られる身分になることです。一つは、俗人になって中国の宰相となることです。どれをお選びになりますか」 「いつまでもここに住んで、天にひとしい寿をたもつことこそ、至上の念願でございます」  盧杞がそう答えると、天女はよろこんでいった。 「ここは水晶宮です。わたしは太陰夫人といって、仙界では高い格式を持つ身です。あなたはこれで、白日昇天して俗人から仙人になったわけですが、いったん心を決めた以上、あとで心がわりのするようなことはないでしょうね」  盧杞はこのまま俗界と離れてしまうのかと思うと、ふと淋しい気もしたが、 「決してそのようなことは……」  といった。太陰夫人はうなずいて、 「それでは天帝に申し上げることにいたします」  といい、侍女に青い紙を持ってこさせて、上奏文を書いた。  しばらくすると、東北の方角から声がきこえてきた。 「天帝のお使者が見えました」  その声がきこえると、太陰夫人と侍女たちはいっせいに下座へ移った。盧杞もそのとおりにした。まもなく、朱衣をまとった使者があらわれ、宮殿の正面に立って天帝の言葉を伝えた。 「盧杞よ。太陰夫人の報告によれば、そなたは永久に水晶宮に住みたいとのことであるが、しかと左様か」  盧杞はそのとき、さきに太陰夫人に念をおされたときよりも、さらに淋しい思いに襲われて、答えることができなかった。 「早くお答えなさい」  と太陰夫人のうながす声をきくと、いっそう答えられなくなって、黙ったまま頭を垂れていた。太陰夫人はそれを見ると、侍女を奥の間へ走らせて、鮫(こう)〓(しよう)を五疋持ってこさせ、それを天帝の使者に贈って、 「しばらく、ご猶(ゆう)予(よ)をお願いします」  といった。鮫〓というのは、南海に住む人魚が海の底で織った絹である。使者はそれを受け取ると、しばらく休んでから、またたずねた。 「盧杞よ。心は決ったか。そなたは水晶宮に住みたいか、地上の仙人になりたいか、それとも俗界で宰相になりたいか。こんどこそはっきりと答えねばならぬぞ」  盧杞はそのとき大声でいった。 「俗界の宰相!」  朱衣の使者はそれをきくと、そのまま身をひるがえして出ていった。太陰夫人は顔色をかえて、 「これは麻婆の失態だ。早くこの者を俗界へつれもどしなさい」  といい、兵士たちに盧杞をもとの瓢箪の中へおしこめさせた。  また波のような音がきこえだしたと思うと、いつのまにか盧杞はもとの小屋に帰ってきた。くずれかけた壁も、塵のたまった寝台も、もとのままであった。時刻は真夜中で、外へ出てさがしてみたが、瓢箪も麻婆さんも、どこにも見あたらなかった。  盧杞は後に宰相になったが、陰険であったため人に恨まれて失脚し、配所で死んだ。 唐『逸史』    杜子春  杜(と)子(し)春(しゆん)は、北(ほく)周(しゆう)から隋(ずい)にかけての人である。若いときからじだらくで、家業をかえりみようともせず、勝手気ままに酒を飲んで遊びまわっていたので、すっかり財産をなくしてしまった。そこで親戚や友人の家にたよっていったが、どこでもまじめに働こうともしないので、誰からも見捨てられてしまった。  ある冬の日、破れた着物を着、腹をすかして、長安の町を歩いていた。日が暮れてきたが、まだ飯にもありつけず、どこへゆくあてもなくさまよいつづけて、やがて東(とう)市(し)の西門のあたりまでいったが、もはや飢えと寒さにたえられなくなって、天を仰いで溜(ため)息(いき)をついた。  すると、一人の老人が杖をつきながらやってきて、 「なにをなげいておられるのじゃ」  とたずねた。子春がいまの自分の気持を話し、そして顔をまっかにして親戚の者の冷淡さをいきどおると、老人は、 「いくらくらいあったら暮していけるかね」  とたずねた。 「四、五万あれば暮せます」  と子春がいうと、老人は、 「それくらいではだめだ。もっといるだろう」  という。 「それでは、十万」 「いや、まだまだ」 「百万」 「まだまだ」 「三百万」 「よかろう」  老人はそういって、袖(そで)の中から銭をひとさし取り出し、 「とりあえずこれだけあげよう。今日はもうおそいから、明日の正午、西(せい)市(し)の波(ペル)斯(シヤ)人の屋敷で待っている。おくれないようにな」  といった。  翌日、約束の時間に子春がいくと、老人ははたして銭三百万をくれて、名もいわずに立ち去っていった。  子春は大金を手にいれると、また遊び心がきざしてきて、これだけあればいくら遊んでも、一生涯、二度と放浪をすることはあるまいと思った。そこで、よい馬に乗り、よい着物を着、飲み友達を集め、楽師や歌うたいや舞姫を呼んで、妓(ぎ)楼(ろう)で遊びにふけり、仕事をしようなどとはいっこうに思わない。  二、三年のうちに金がだんだんなくなってくると、着物や車や馬を、高いのを売って安いのにかえ、さらには馬をやめて驢馬にし、驢馬もやめて歩くことにして、たちまちのうちにもとどおりの一文なしになってしまった。こうしてどうにも暮してゆけなくなってしまい、また東市の西門で溜息をついていると、あの老人がやってきて、子春の手を握り、 「またこんな姿になったとは、不思議なことじゃ。もういちど助けてあげようと思うが、いくらあったらよいかな」  子春ははずかしくて返事もできない。老人はしきりにいえというが、子春ははじるばかりである。すると老人は、 「明日の正午、この前に約束したところへおいでなされ」  といった。  翌日、子春がはじをしのんでいってみると、老人は銭一千万をくれた。  子春はまだ金を手にいれない前は、発憤して、その金をもとにして今後は仕事にはげもう、そうすれば石(せき)季(き)倫(りん)や猗(い)頓(とん)のような大金持も小憎っ子のようなものだ、と考えた。ところが大金を手にいれてしまうと、その気持がひっくりかえって前とおなじように勝手気ままに遊び暮したので、三、四年もたたぬうちに、前以上の貧乏になってしまった。  そのとき、また老人にもとの場所で出会った。子春ははずかしくてならず、顔をかくして逃げ出そうとしたが、老人はその裾(すそ)をつかんで引きとめ、 「なんとも暮し方のへたな人だ」  といい、銭三千万をくれて、 「これでもなおらなければ、お前さんの貧乏性(しよう)はもう救いようがない」  といった。子春は思った。 「おれはじだらくに遊びまわってばかりいて、財産を使いはたし、親戚の金持もかまってくれる者がないというのに、この老人だけが三度も大金をめぐんでくれた。なにをして恩がえしをしたらよかろう」  そこで、老人にむかっていった。 「わたしは頂戴したこの金で、世間への義理をはたします。一族の中で身寄りのない寡(か)婦(ふ)や孤児も暮していけるようにしてやって、人(じん)倫(りん)の道を全うすることができましょう。これもご老人の深いおなさけのたまものです。世間への義理をはたしおえましたなら、あとは何なりとご老人のおっしゃるとおりにいたします」  すると老人は、 「それはありがたい。それじゃ、仕事をすませたら、来年の中元(七月十五日)、華(か)山(ざん)の麓の太(たい)上(じよう)老(ろう)君(くん)(老子)の二本檜(ひのき)の下で会うことにしよう」  といった。  子春は、一族の中で身寄りのない寡婦や孤児たちの大半が淮(わい)南(なん)の地に住んでいたので、揚(よう)州(しゆう)へいって良田を数十町歩買い、町の中に屋敷を造ってその要所要所に百間(ま)あまりの家を建て、寡婦や孤児たちを全部屋敷の中に分居させた。また甥(おい)や姪(めい)たちで結婚のできない者には結婚させてやり、墓地のない者には墓地を造ってやり、恩を受けた者には恩を返し、あだを受けた者にはあだを返した。  いっさいの事がおわって、約束の日に約束の場所へいってみると、老人は二本檜の木(こ)陰(かげ)で歌をうたっていた。老人につれられて華山の雲(うん)台(だい)峰(ほう)に登っていくと、五、六里分け入ったところに一軒の家があった。たいへん清らかで、世の常の人の住居とはちがった。上には美しい雲がたなびき、鶴が舞っている。奥には正堂があって、その中に、仙薬を煉る炉があった。その高さは九尺あまり、紫の焔がきらめいて窓を照らしている。九人の玉女が炉のまわりに立っており、青竜と白虎が前後に分れて控えていた。  もう日は暮れようとしていた。老人はこれまで着ていた俗人の着物ではなく、黄色い冠をかむり赤い上衣を着て道士の服装をしていて、手に白い石のような丸薬を三粒と酒を一杯持ち、それを子春に渡して、すぐ飲むようにといった。子春が飲みおわると道士は虎の皮を部屋の西側に敷いて、そこへ東向きに子春を坐らせて、戒(いまし)めた。 「絶対に物をいってはならぬ。尊神、悪鬼、夜叉、猛獣、地獄があらわれ、また、そなたの親族が縛りあげられてさまざまな苦しみを受けるが、すべて真実ではない。ただ、動かず物をいわず、心を安んじて恐れずにおりさえすれば、なんの苦しみもないのだ。一心にわしのいったことを守るのだぞ」  それだけいうと、道士は立ち去っていった。  子春が庭を見ると、そこには水をいっぱいいれた大きな甕(かめ)が一つあるだけであった。道士が立ち去ってしまうと、旗や戈(ほこ)や甲(よろい)が見え、何千何万という騎馬が谷をうずめてやってきて、雄たけびの声が天地をゆるがした。その中の大将軍と称する者は、身のたけ一丈あまり、人も馬も金の甲を着ていて目もくらむばかりである。護衛の兵は数百人、みな剣を抜き弓を張っていて、まっすぐに正堂の前までやってくるなり、大声でどなった。 「お前は何者だ。大将軍を避けようともせぬとは……」  護衛の兵たちは剣をかざして進み、子春にせまり寄って、姓名をたずねた。また、何をしているのかとたずねた。だが子春は何も答えない。たずねた兵たちは大いに怒って斬りかかり、先を争って矢を射かけた。その響きは雷のようであったが、子春があくまでも知らぬふりをしていると、将軍と称する者は激怒しながら去っていった。  すると今度は、猛虎、毒竜、〓(さん)猊(げい)、獅子、蝮(まむし)、蠍(さそり)などが何万となく、ほえたけり、つかみかかろうとしながらやってきて、先を争って子春に食いつこうとしたり、頭の上を跳び越えたりした。しかし子春が顔色一つかえずにいると、まもなく退散していった。  すると大雨が降りだし、雷が鳴り稲妻が光って天地も暗く、火の輪が子春の左右を走り稲妻が子春の前後をつんざいて、眼をあけることもできない。たちまち庭には水が一丈あまりの高さになり、稲妻がきらめき雷がとどろいて、山も川も打ちくだかんばかりの勢いで、どうしようもない。一瞬のうちに、波は膝もとまでおし寄せてきたが、子春が端坐したまま見むきもしないでいると、やがて水は引いていった。  と、さきほどの将軍がまたやってきた。牛の頭をした獄卒や奇怪な顔をした鬼神を引きつれ、湯の煮えたぎる大(おお)〓(がま)を子春の前に据えると、槍や叉(さすまた)で四方をとりかこんで、一人が将軍の命令を伝えた。 「姓名をいいさえすれば、ゆるしてやろう。もしいわなければ、叉で胸を突き刺して〓(かま)の中へ放り込むぞ」  だが、子春はやはり知らぬふりをしていた。  すると将軍は子春の妻をとらえてきて、階段の下に引き据え、指さしながら、 「姓名をいえば、ゆるしてやる」  という。しかし子春はなおも知らぬふりをしていた。  たちまち子春の妻は鞭打たれて血を流し、射られたり斬られたり、煮られたり焼かれたりして、堪えきれぬ責苦を受けた。妻は泣きわめきながらいった。 「わたしはふつつか者で、あなたにはふさわしくない妻かもしれませんが、さいわいにあなたのもとへ嫁いで、もう十年あまりもお仕えしてきました。その妻がいま鬼神にとらえられて、堪えられない責苦を受けているのです。あなたに平伏して命乞いをしてくださいとお願いするわけではありません。ただ、あなたがひとこと物をいってくださりさえすればわたしの命は助かるのです。誰も人情のない人はいないでしょうに、あなたはどうして、ただのひとこというだけのことを惜しまれるのですか」  妻は庭に涙の雨を降らせて、たのんだり罵ったりしたが、子春はついに見むきもしなかった。すると将軍は、 「わしがお前の妻を殺すことができぬとでも思っているのか」  といい、刀を持ってこさせて、妻の足を一寸刻みに切っていく。妻はいよいよはげしく泣きわめいたが、子春はあくまでも見むきもしなかった。すると将軍は、 「こやつは妖術を身につけておるゆえ、いつまでもこの世に生かしておくわけにはいかん」  といい、護衛の兵に命じて、子春を斬り殺させた。  斬り殺されてから、子春の魂はとらえられて、閻魔王の前へつれていかれた。閻魔王は、 「これが雲台峰の妖民か。早く牢屋へ放りこめ」  といった。それからは、赤く焼けた銅の柱を抱かされたり、鉄の杖で打たれたり、臼で搗(つ)かれたり、ひき臼でひかれたり、火の坑(あな)へ投げ込まれたり、煮え湯の〓(かま)へ入れられたり、刀の山へ登らされたり、剣の林へ追い込まれたりして、ありとあらゆる責苦にあわされたが、道士のいったことを思うと堪えしのぶことができそうだったので、ついにうめき声一つも立てなかった。  獄卒が責苦のおわったことを報告すると、閻魔王は、 「この者は陰(いん)の気を受けた賊であるから、男にするわけにはいかない。女にするがよかろう」  といった。  子春はこうして、女として、宋州単(ぜん)父(ほ)県の懸丞、王勤の家に生れかわったが、生れつき病気がちで、鍼(はり)や灸(きゆう)、医者や薬と、苦しみの絶える日はなかった。その上、火の中へ落ちたりしたこともあって、さまざまな苦しみを受けたが、どうしても声が出ない。  やがて成長して絶世の美人になったが、声を出さないので家の者はみな唖(おし)だと思い、親しい親戚の者はあれこれとからかったりしたが、なんといわれても、口をきくことができない。  同郷の進士に廬(ろ)珪(けい)という人がいたが、子春が美人だという評判をきいて気にいり、仲人を立てて、結婚を申しこんできた。子春の家では、唖だからといってことわったが、廬が、 「妻として賢ければ十分で、物はいわなくてもかまいません。むしろ、おしゃべりな女のいましめになりましょう」  といったので、承諾をした。  廬はしきたりどおり結納をおさめ、子春を迎えて妻とし、数年間仲むつまじく暮して、男の子が一人生れた。その子はやがて二歳になったが、たいへん聡明であった。廬は子供を抱いて子春に話しかけた。だが、子春は返事をしない。あれこれと気を引いてみても、ついにひとこともいわない。廬はかっとなっていった。 「むかし賈(か)大夫の妻は、自分の美貌を鼻にかけ、夫をばかにして物をいったこともなかったが、それでも夫が雉(きじ)を射とめたのを見てはじめて笑い、それからは物をいうようになったのだ。おれは身分は賈大夫には及ばないとはいえ、文芸にかけては雉を射とめるくらいの手並みはあるのだ。それでもおまえは物を言わぬ。男たるものが妻にばかにされるようでは、子供を持ったところで何の役に立つものか」  そういうなり、子供の両足を持ち、頭を石の上にたたきつけた。たちまち頭はくだけて、血が数歩のさきまで飛び散った。そのとき子春は心の中に愛の気持が生れ、たちまち道士との約束を忘れて、思わず、 「あっ!」  と声をあげた。  その「あっ!」という声がまだおわらぬうちに、子春の身体はもとの場所に坐っていた。道士もその前にいた。ようやく夜の明けそめるころであった。見れば紫色の焔が屋根を突き抜け、大火が部屋を四方からとりかこんで、建物がみな焼けている。道士は溜息をついて、 「この貧乏書生め、わしをこんな目にあわせよって!」  といい、子春の髪の毛をつかんで水甕の中へ投げ込んだ。  まもなく火は消えた。道士は子春の前へ歩み寄って、 「おまえの心は、喜、怒、哀、懼(く)、悪(お)、欲の六つは忘れることができた。忘れきれなかったのは、愛だけだった。さきほどおまえが、あっという声を立てなかったら、わしの仙薬は出来あがり、おまえも仙人になることができたのになあ。まったく、仙人の才は得難いものじゃわい。わしの仙薬はまた煉りなおすことにしよう。だが、おまえの身はやはり俗界においておくよりほかない。まあ、元気でやりな」  といい、道を指さして、子春を帰らせた。子春が道士のとめるのもきかずに焼け跡へ上ってみると、炉はすっかりこわれていて、真中に臂(ひじ)ほどの太さの、長さ数尺の鉄の柱が立っていた。道士は着物をぬいで、刀でその柱を削りはじめた。  子春は家へ帰ってからも、道士に誓った約束を忘れたことをはずかしく思い、もういちど努力をして過ちをつぐなおうと思い、雲台峰へ登っていってみたが、人の通る道はどこにもなく、無念に思いながら引き返した。 唐『続玄怪録』    茶店の娘  栄華をほこる洛陽の都の片隅に、粗末な卓と長椅子を置いただけの、ささやかな茶店があった。柱はかたむき、壁はところどころくずれ落ちていて、めったに客もなかった。  主人の石(せき)夫婦は、長いあいだの貧苦に疲れはてたようで、もう商売にはげむ気もおこらないといったような風体で、終日ぼんやりと坐っていた。  夫婦のあいだには独り子の娘がいた。まだ十二、三歳だったが、なかなかの美人で、それに性格が明るく、ときどき店に出ては巧(たく)まざる愛(あい)嬌(きよう)をふりまいていた。  ある日、一人の乞(こ)食(じき)が杖にすがって店へはいってきて、いった。 「おお、可愛い娘さんだ。お茶を一杯くれんかな」  長椅子に腰をおろすと、乞食は苦しそうに肩で息をした。顔は垢(あか)にまみれ、着物はぼろぼろである。  娘は茶をいれて乞食に渡しながら、 「おじさん、身体(からだ)の具合がわるいの?」  ときいた。 「いやなに、疲れているだけだ」  と乞食はいい、うまそうに、ゆっくりとお茶を飲んで、 「ありがとう、娘さん。これで、だいぶん元気が出てきたよ」 「もう一杯あげましょうか」 「いや、娘さん。飲みたいのはやまやまだが、わたしには一杯がせいぜいなのだ。なにしろ、もらいがすくないのでなあ」 「あら、そんなつもりでいったのじゃないわ。お金はいらないわ。貧乏なのはお互いさまですもの」  乞食の眼がキラリと光った。 「わしをきたないとは思わんのかね」 「きたないとは思うけれど、貧乏なのだから仕方がないわ。うちもこんなに、きたないもの」  乞食は笑いながら、 「そうだな、それは、きたないよりは、きれいな方がよいな。わしもそう思うよ。それではお言葉にあまえて、もう一杯もらおうか」  といった。娘はこころよく、もう一杯いれてやった。  その日から、乞食は毎日、娘が店に出ているときを見はからってやってきた。娘はいつもやさしく迎えて、上等のお茶を飲ませてやった。  そんなことが一ヵ月あまりもつづいたある日、父親が店に出てきて、乞食が金をはらわずに帰っていくのを見つけてしまった。 「あの乞食は、ときどきくるのかね」 「ええ、毎日くるわ」 「お前はいつもただで飲ませてやっているのか」 「もらいが多かった日は、お金を置いていくこともあるわ」 「置いていくこともある? このごろは上等のお茶が減っているのに売り上げがふえていないので、どうしたんだろうと思っていたんだが、そのせいだったんだな。ばかな! うちは人にめぐんでやるような身分じゃないんだぞ。それに、あんなきたない乞食に出入りされては、ただでさえ客のすくない店に、誰もこなくなってしまうじゃないか。こんどきたら追っぱらってしまえ!」  しかし、その後も乞食に対する娘の態度は、すこしもかわらなかった。また父親が見つけて怒ると、娘は、 「だって、可哀そうなんだもの」  といった。何度目かには父親は娘を殴(なぐ)った。しかし、乞食に対する娘の態度は、すこしもかわらなかった。  ある日、乞食は娘にいった。 「きのうは、わしが帰ってから、お父さんに殴られて泣いていたな。なぜ泣いたんだね。殴られてかなしかったから? 痛かったから?」  娘は首を横にふった。 「わしを可哀そうに思ってかね」  娘がうなずくと、乞食は、 「そうか。このきたない乞食を毎日いたわってくれてありがとう。娘さん、お前さんはほんとうに心のやさしい人だ。……ところで、お前さんは、このわしの飲みかけのお茶を飲みほすことができるかね?」  といいながら、手にした茶碗を差し出した。娘はその茶碗を受け取ると、ちょっとためらい、乞食が口をつけていたところからすこしお茶をこぼした。すると、そのこぼれたお茶から何ともいえない芳香が店いっぱいにたちこめた。娘は不思議に思い、知らぬうちに残りのお茶を全部飲んでいた。乞食はそれを見ると、これまでのよぼよぼとした姿勢をシャンと正していった。 「これ、娘さん、わしはただの人間ではない。呂(りよ)翁(おう)という仙人なのだ。お前さんには仙人になれる資質があると見て、乞食の姿をしてお前さんに近づいてみたのだが、やはりわしの見込みちがいだった。わしの飲みかけのお茶を全部飲まなかったのが、そのしるしだ。だが、半分は飲んだ。それだけでお前さんには福がある。望むところをいってみるがよい。かならずかなえてやろう。お前さんは富貴を望むか、それとも長寿を望むか?」  娘は貧しい茶店の子で、富貴というものがどういうものかわからなかった。そこで、 「長寿を望みます」  といった。 「うん、それがよかろう」  乞食は大きくうなずいて、店を出て行った。娘の両親が芳香に気づいて店に出てきたときには、もう乞食の姿はなかった。  乞食はそれきり姿を見せなかったが、芳香はいつまでも残り、噂がひろまって店は急に繁昌しだした。  その後、娘は成人し、その美貌とやさしい心を見込まれて、さる大官の家に嫁ぎ、幸福な日々をおくったが、夫の死後、呉の燕王の孫娘の乳母になり、百二十歳の長寿をたもったということである。 宋『夷堅志』    黄金の碗  豫(よ)章(しよう)にかなり大きな旅籠(はたご)屋(や)があった。主人の梅(ばい)という人はなかなかの善人で、よく旅人の世話をし、困っている者があれば助け、かなしんでいる者があればなぐさめ、僧侶や道士が泊ったときは、一文(もん)の宿銭もとらなかった。  よくこの家に泊りにくる道士があった。いつもぼろをまとっている、風采のあがらない道士だったが、梅はほかの道士や僧侶とすこしの差別もせず、手あつくもてなしていた。  ある日、その道士が梅にいった。 「わしはあした、一席設けなければならんのだが、ついては新しい碗を二十ほど貸してくださらんか」 「おやすいご用でございます。うちにあるいちばんよい碗をお出しいたしましょう」 「それはありがたい。あしたのその席に、ご主人もおいでくださらんか。わしの住居は、天(てん)宝(ぽう)洞(どう)の前で陳(ちん)師(し)といっておききになればすぐわかる」 「ありがとうございます。おうかがいさせていただきます」  梅がそういうと、道士は碗を持って帰っていった。  翌日、梅は天宝洞の前まで行き、村人にたずねたが、陳師の家といっても、誰も知らなかった。長いあいだきき歩いたがわからず、あきらめて帰ろうとしたとき、山の麓にひとすじの小道を見つけた。  たいへん清らかな道である。それをたどって行くと、はたして一軒の家があった。近づくと一人の少年が出てきたので、きいてみると、その家が陳師の住居であった。  なかへはいると、いつもはぼろを着て風采のあがらない道士が、華やかな衣冠をつけて迎え、梅を席につかせて、少年に食事の支度を命じた。  しばらくすると料理が出されたが、見ればそれは人間の赤ん坊をそのまま蒸(む)したものであった。梅はおそろしくなって、ぶるぶるとふるえがとまらなかった。勿論、手をつけることなどできない。  またしばらくすると、つぎの料理が出されたが、こんどは犬の子をそのまま蒸したものであった。梅はやはりふるえているだけで、手を出すことはできなかった。  すると道士は溜息をついて、 「いかんなあ」  といった。そして、少年に、 「きのうわしの借りてきた碗を、お返ししなさい」  といった。少年が持ってきた碗を見ると、二十の碗はすべて黄金にかわっていた。  道士は梅にいった。 「これをあなたに返します。お持ちかえりください。あなたは善人ではあるが、仙人となることはできない。いま出した料理は、はじめのは千年を経た人(にん)参(じん)で、あとのは枸(く)杞(こ)です。あなたがふるえてそれに手を出さなかったのは、あなたの宿命なのです」  そして、 「それではお元気で」  といって、梅を送り帰した。  その後、道士はもう梅の店に姿を見せなくなった。 宋『稽神録』    蘇仙の桃  湖南の〓(ちん)州の貧しい家に、母親と二人暮しの蘇(そ)女(じよ)という娘がいた。  ある日、河へ行き、河の中の平たい石の上にしゃがんで洗濯をしていると、緑色のつやつやした藻が一本、流れてきた。ふと心を惹(ひ)かれて眺めていると、藻は蘇女の前でとまり、やがて石のまわりをぐるぐるまわりだした。  蘇女はそれを見ているうちに胸がときめき、恍(こう)惚(こつ)とした気分になってきて、しばらく忘我の境をさまよっていたが、やがて我にかえったとき、はっきりと腹に子が宿るのを覚えた。  家へ帰って母親にそのことを話したが、母親は信じなかった。しかし、蘇女の腹は次第にふくれてきて、十ヵ月たつと男の子が生れた。  母親は、蘇女が夫もいないのに子を生んだことを恥じて、その子を捨てようとしたが、蘇女は子をはなさず、櫃(ひつ)の中へ入れて育てた。  やがて子供は七つになった。蘇女は子供が父なし子と言われることをあわれんで、外へは出さず、ずっと家の中で育てて、誰にも会わせなかった。  ある日、子供が蘇女にいった。 「お母さん、わたしももうだいぶん大きくなりましたし、いつまでもここにいることはできませんので、もうお別れしたいと思います」  蘇女がびっくりして、 「別れるなんて。世間も何も知らないお前が、いったい、どこへ行くつもりなの」  というと、子供は、 「わたしは人間ではないのです。だから、天へ上るか、山へはいるか、どちらかになるでしょう」  という。蘇女は泣きながら、 「やっぱりお前は神仙の子だったのね。出て行ったら、もう帰って来てはくれないの?」  ときくと、 「いいえ、きっとお迎えに来ます。わたしが出て行ったあとで、もし入用なものがあったら、わたしの育てられていた櫃をあけてみてください。必要なものは何でもあるはずですから」  といい、三拝の礼をしてから、 「それでは、お元気で」  と言うなり、さっさと出て行ってしまった。蘇女はあわてて後を追ったが、外へ出るともう子供の姿は見えなくなっていた。  蘇女がこのことを母親に話すと、母親はしきりに不思議がったあげく、子供がいなくなってしまったのならと、嫁に行くことをすすめた。しかし蘇女はきかずに、操(みさお)をまもりとおした。そのかわりに、暮しは窮(くる)しくなっていく一方であった。  ある日、ついに米もなくなった。蘇女は空を仰いで嘆くばかりで、どうすることもできない。蘇女は美貌だったので、縁談はいくつもあった。母親は蘇女に、嫁に行きさえすれば楽に暮せるのにと、しきりに愚痴をいった。そのとき蘇女はふと、子供が出て行くときに言ったことを思い出して、櫃をあけてみた。と、果してそこには米がはいっていた。それからは、なんでも欲しいものがあるときは、櫃をあけると必ずはいっていたので、それを使って暮した。  三年たつと蘇女の母親は病気で死んだ。葬儀に必要なもの一切、みな櫃の中にはいっていて、蘇女はそれを使って母親を葬った。  それから三十年間、蘇女はひとり暮しをつづけたが、一度も家から出たことはなかった。  ある日、隣家の女房が蘇女の家へ火種をもらいに行った。そのとき、部屋にひとり坐っている蘇女の姿が、なにか影うすく見えたので、女房は、 「身体(からだ)の具合でもわるいのじゃありませんか」  ときいてみた。すると蘇女は、 「いいえ。とてもさわやかな気持です」  といった。女房は火種をもらって帰ったが、蘇女のことが気になったので、しばらくしてから外へ出てみると、五色の雲が天(てん)蓋(がい)のように立ちこめて蘇女の家をつつんでいるのが見えた。よく見ると、その五色の雲の真中に、きらびやかな衣裳をまとった仙女のような姿があったが、それが蘇女だった。  それを見たのは隣家の女房だけではなかった。近所の人々がみな表へ出てそれを見ているうちに、五色の雲は蘇女の家から離れ、しばらくのあいだ、別れを惜しむように人々の上を旋回していたが、やがて次第に高く上って行って、ついに人々の視界から消えてしまったのである。  近所の人々は不審に思い、蘇女の家へ行って、部屋をのぞいて見た。と、蘇女は着飾って坐っていたが、すでに息絶えていた。  人々が寄り合って、蘇女には身寄りがないのでみんなで葬儀をしようと相談していると、不意に、立派な風采をした若者がはいってきて、 「みなさん、母がたいへんお世話になりました。ありがとうございました」  と礼をいった。人々は前から、蘇女には男の子があったことをうすうす知っていたので、その若者を疑う者はなく、あとを任せてそれぞれ家に帰った。  若者は蘇女の葬儀をすませると、墓地に桃の木を二本植え、人々に別れを告げて立ち去っていったが、歩くにつれて足もとから雲が湧きおこり、たちまちのうちにその姿は見えなくなってしまった。  蘇女の墓地の桃の木には、翌年から花が咲き、大きな実がたくさん成った。その実は甘くて、かんばしい香りがした。  土地の人々はそれを蘇仙の桃と呼び、毎年、蘇女を祭ってからその実を分けあうのを常とした。その風習は今もつづけられているという。 清『聊斎志異』    道士の試験  山東の即(そく)墨(ぼく)にある労(ろう)山(ざん)は、道士たちがいう洞(どう)天(てん)(神仙の住む地)の一つである。即墨に近い莱(らい)郡(ぐん)の李(り)という書生が、この山にこもって書を読み耽(ふけ)っていたが、緑の峰々に月が沈むときや、檜(ひのき)の古(こ)木(ぼく)に雲がかかるときなど、必ず塵(ちり)の世を抜け出したいという思いが胸の底にわきおこってくるのだった。  ある日、一人の道士が李の住(すま)居(い)に立ち寄った。しばらく話をして道士が立ち去ろうとするとき、李はぱっと立ちあがっていった。 「お話をうかがっているうちに、この世が電光石火のようなものであること、人の一生もただ一日ほどの短いものであることが、よくわかりました。これからは世を捨て家を捨て、わが身をも捨てて、先生について修行させていただきたいと存じます」  すると道士は、 「仙道は玄妙深遠で、容易に到達することのできるものではありません。そのようなお言葉は、早計ではないでしょうか」  といった。だが、李がしきりに懇願すると、道士は笑いながらいった。 「初一念はいくらかたくても、後悔するようなことがおこらないとはいえませんぞ。わたしの草庵は山の南側で、ここから数十里のところにあります。明朝、おいでください。弟子にするかどうかは、そのとき決めることにしましょう」  李はよろこんで承知し、翌朝、まだ夜の明けきらぬうちから出かけた。途中、腹が減ってきたので、岩の上に腰をおろして餅を食べていると、前方の深い林の中から人の嘆息するような声がきこえてきた。はっとして立ちあがると、林の中から裸の人影があらわれた。全身に六、七寸の長い黄色い毛が生え、二つの目は人を射すくめるような光を放っている。李は、これは仙人にちがいないと思い、一礼をしていった。 「さいわい仙人さまにお会いすることができました。どうか一言でも、仙道についておきかせくださいますよう」  するとその人は意外なことをいいだしたのである。 「わしは北宋のときの書生だ。むかし世を逃れ家を捨ててここへきたのだが、わしの願いは、白雲に乗り、白い鶴(つる)にまたがって蓬(ほう)莱(らい)の島まで飛んで行き、尽きぬ楽しみを極めることにあった。ところがどうだ、蓬莱の島も、天帝の宮殿も、仙人の都も、どこにあるものやらさっぱりわからぬ。ただ空しく鳥や獣といっしょに住み、木や石を友として、意味もなく生きているだけのことだ。故郷をたずねてみても、様子はすっかり変ってしまっていて、誰もとりあってはくれぬ。ただ老いぼれたこの身一つが残っているだけだ。思えば、おろかな道を選んだものだ。岩壁の下に住みながらそう思うたびに、返らぬ後悔をくりかえしているという始末だ。どうやら貴公も、わしが若かったときと同じ迷いの道に踏み込もうとしているようだな」  そういうと林の中へはいって行ってしまった。李はしばらくのあいだ物悲しい思いに沈んでいた。山奥に分け入ったのは誤りだったのかという思いがしきりにわきおこってくるのだった。だが道士と約束をしてしまったのだから、とにかく会うだけは会わなければならないと思いなおして、重たい足をひきずって行くと、一里も行かないところに道士が出迎えにきていて、 「やっぱりあなたは、世俗の心が絶ち切れませんな。もう、草庵までおいでいただくには及びません」  といった。  李ははっとした。林の中から出てきたあの老人は、道士の化(け)身(しん)だったのである。李は一言もなかった。羞(はず)かしさにうなだれていると、道士は笑いながらいった。 「世俗の人の中では、あなたの心は格別に清らかです。だが、わたしの弟子にすることはできません。そのかわりに、病を避けて寿命を延ばす術をここでさずけてあげましょう」  そしてその術を口づたえに教えて、李が納得したと見ると、 「それだけ覚えておけば十分です」  というなり、もうその姿は見えなくなっていた。  その後、李は郷試に合格して、県学の教官になったが、八十歳を越えても若者のように丈夫で身が軽かった。道士から習った術のおかげだったのであろう。 清『秋燈叢話』    石亀の眼  和州の歴陽県は、陥没して湖になってしまった町である。  むかしこの町に、小さな茶店を開いてほそぼそと暮している老婆がいた。ある日、その店の前を貧しい身なりの書生ふうの男が通りかかった。どこからきたのか、長旅をしてきたらしく、ひどく疲れている様子なので、老婆はあわれに思い、呼びとめて休ませてやった上、疲れがなおるからといって上等の茶をいれてすすめた。  書生はなんども礼をいい、うまそうに茶を飲みおわると、 「おかげさまで、だいぶん元気が出てきたようです。お礼に、誰も知らないことをお教えしましょう」  といった。 「この県の城門の礎石に、石亀が刻んであるでしょう? あの石亀の眼から血がでたら、この町は陥没して湖になってしまいます。お気をつけなさるように」  それからというもの、老婆は毎朝、城門へ石亀の眼をのぞきにいった。  門番の役人がそれをあやしみ、ある日、老婆にわけをたずねた。老婆が書生からきいたことを話すと、役人は笑いだして、 「お婆さんはそれを信じて、毎朝、石亀を見にくるのかね。ご苦労なことだ」  といった。  その夜、役人はいたずらをして、石亀の眼に朱を塗っておいた。翌朝、いつものように石亀の眼をのぞきにきた老婆は、それを見るなり、 「町が沈んでしまうぞ。みんな早く逃げろ」  と叫びながら、町の北の山へ逃げていったが、役人をはじめ誰もみな信じなかった。  そして、町は陥没してしまったのである。 六朝『述異記』    三つの予言  成(せい)都(と)に費(ひ)孝(こう)先(せん)という人がいた。軌(き)革(かく)の術にすぐれていて、世の人々に名を知られていた。軌革の術というのは絵を使って人の運命を予言する術である。  あるとき、王(おう)旻(びん)という人が商用で成都へいった。商用はとどこおりなくすませたものの、ふと前途に不安を覚えて、費孝先に占ってもらった。すると費孝先は、 「止れといわれても止るな。洗えといわれても洗うな。一石(こく)の籾(もみ)を搗(つ)いて三斗の米がとれ、明に会えば助かり、暗に会えば死ぬ」  といい、この言葉を忘れないようにと念をおした。  王旻はそれを心にとめて郷里へ出発したが、途中で大雨にあった。そこである家の軒下に雨宿りをしたが、そこは通りがかりの人でいっぱいになっていた。そのとき王旻は、 「止れといわれても止るな、というのは、あるいはこのことかもしれない」  と思い、大雨の中を歩きだした。すると、いくらもいかぬうちにその家が倒れ、軒下に雨宿りをしていた人々はみなその下敷きになってしまった。  王旻の妻は、夫の留守中、隣家の康(こう)という男と密通しているうちに、身も心も離れなくなり、夫が帰ってきたら殺して康と夫婦になろうとたくらんでいた。  王旻が帰ると、妻はひそかに康とうちあわせをして、夜中に夫を風呂へいれることにした。  日が暮れると、妻は王旻に、 「お風呂をわかしたから、身体を洗ってさっぱりしなさいよ」  といった。王旻はそのとき、 「洗えといわれても洗うな、というのは、このことかもしれない」  と思い、風呂へははいるまいと心をきめた。妻ははじめはやさしい声ですすめていたが、いくらいっても王旻がきかないので、とうとう怒りだし、がみがみどなりたてながら自分だけ風呂へはいった。  王旻は旅の疲れで、何も知らずにぐっすり眠ってしまった。翌朝、眼をさました王旻は、妻のいないことに気づいてあちこちさがしまわったところ、妻は風呂で頭を割られて死んでいた。  疑いは王旻にかかった。王旻は逮捕されて取調べを受けたが、無実であるということのあかしを立てることができない。拷問にかけられて自白を迫られると、王旻は泣きながらいった。 「あかしの立てようがないのですから、死罪にするとおっしゃるのなら、あきらめて死ぬよりほかありませんが、わたしは無実でございます。費孝先さまの予言が、三つのうち一つしかあたらなかったとは! いや、あたったのかもしれません、暗に会えば死ぬ、とおっしゃったのだから」  郡の役人が王旻のいったことを太守に伝えると、太守は刑の執行を待つようにといって、王旻を呼んでたずねた。 「費孝先の三つの予言というのは、どういうことか」  王旻がわけを話すと、太守は、 「そなたは一つしかあたらなかったというが、三つとも見事にあたっているぞ」  といい、 「そなたの隣家の者は何という名だ」  とたずねた。 「康七郎と申します」  と王旻がいうと、太守は、 「そなたの妻を殺したのは、その男にちがいない」  といい、郡の役人に、康を捕えてきて拷問にかけよと命じた。康ははじめは否認しつづけていたが、拷問にかけられると堪えられずに、一切を白状した。康の家から血痕のついた棍(こん)棒(ぼう)も見つけ出された。康は王旻の妻を、王旻と思いあやまって棍棒で殴り殺したのであった。  太守は郡の役人からの報告を受けると、王旻をなぐさめながらいった。 「洗えといわれても洗うな、というのもあたっていたのだ。もしそなたがあのとき風呂へはいったら、康に殴り殺されたのだからな」 「康の仕(し)業(わざ)だということが、どうしておわかりになったのですか」  部下の者がそうたずねると、太守は笑いながら、 「わしの手柄ではない。費孝先の予言に教えられたのだ。一石の籾を搗いて三斗の米がとれる、と費孝先はいったのだ。まだ、わからぬか。一石の籾から三斗の米を引いたら、あとに何が残る? 糠(ぬか)が七斗残るのだ。糠(こう)七、つまり康七郎ではないか」  王旻はこうして無実の罪を晴らされた。まさに費孝先のいったとおり、暗に会えば死ぬところを明(明察)に会って助けられたのである。 六朝『捜神記』    浴室の尼僧  晋(しん)の大司馬(軍政長官)の桓(かん)温(おん)の晩年のことである。  ある日、一人の尼僧が訪ねてきた。会ってみると尋常の尼僧ではなかったので、桓温は鄭(てい)重(ちよう)にあつかい、邸内に住わせた。  やがて桓温は、その尼僧の行動にただ一つ不審な点があることに気づいた。それは、入浴の時間が極めて長いということであった。そこである日桓温は、尼僧が浴室へはいるとすぐ、あとをつけて行って覗(のぞ)いてみた。  尼僧は裸になって浴室へはいると、鋭利な刀を逆手に持って、まず自分の腹を裂き、臓腑をつかみ出した。さらに自分の首を切り落し、手足を切り落したのである。  桓温がおどろいて部屋に逃げ帰ると、しばらくして尼僧がはいってきて、 「ごらんになりましたね」  といった。その姿はもとどおりであった。  桓温がうなずくと、尼僧は、 「何をごらんになりましたか。一つ一つお話しになってください」  といった。  桓温が自分の見たままを話すと、尼僧はいった。 「そのとおりです。もしお上(かみ)を凌(しの)ごうとする者があれば、みな、あなたがごらんになったようなありさまになるのです」  ちょうどそのとき、桓温は帝位を奪うことをたくらんでいて、着々とその準備をすすめていたのだったが、尼僧の言葉をきいて、にわかにその気持がくじけた。以来、桓温は行動をつつしみ、臣節を守りとおした。  その後、尼僧は桓温のもとを立ち去った。尼僧が何者であったのか、どこへ行ってしまったのかは、ついにわからなかったという。 六朝『捜神後記』    金牛岡  長沙の西南、湘(しよう)江(こう)のほとりに、金(きん)牛(ぎゆう)岡(こう)という岡がある。  あるときその対岸へ赤牛をひいた百姓がやってきて、漁師に呼びかけた。 「たんまりお礼をするから、川を渡してくれんかね」 「舟が小さいから、牛は無理だよ」  と漁師がいうと、百姓は、 「おとなしい牛で、あばれたりはしないから大丈夫だ」  といい、牛といっしょに舟に乗り移ってしまった。  牛はあばれなかったが、川の中ほどまでいくと、舟の中へぽたぽたと糞をした。すると百姓は笑いながら、 「これがお礼だよ」  といった。漁師はむっとして、 「畜生とはいえ、仕様のないやつだ」  と、ぶつぶついいながら、橈(かい)でその糞をはねあげて川の中へ捨てたが、半分ほど捨てたとき、それが黄金であることに気づいた。  漁師は不思議なことに思い、対岸へ渡してからそっと百姓のあとをつけていった。すると百姓も牛も、岡の中へもぐっていってしまった。漁師はいそいで穴を掘ってみたが、いくら掘っても、どこへいってしまったのかついにわからなかったという。  そのとき漁師が掘った穴のあとは、今も金牛岡に残っている。 六朝『湘中記』    金鶏洞  南康郡〓(う)都(と)県は、貢(こう)水(すい)に沿って西へ突き出している県城であるが、県城から三里ほど下流の崖に、石室のような形をした洞穴があって、夢(む)口(こう)と名づけられていた。  むかし、この洞穴の中から純金のような色をした神(しん)鶏(けい)が出てきて、羽ばたきをしながら飛びまわり、よくとおる声で長く鳴いたという。そこで人々はこの洞穴のことを金鶏洞とも呼ぶようになった。金鶏は人に姿を見られると、洞穴の中へ飛び込んでしまうという。  ある人が近くの山中で畑を耕していたところ、金鶏が出てきて遊んでいるのが見えた。すると、背の高い一人の男があらわれて、弾丸を石弓につがえて金鶏を射った。金鶏はそれを見ると洞穴の中へ飛び込んだ。同時に弾丸は洞穴の真上に中(あた)り、直径六尺ほどの石が落ちてきて洞穴をふさいでしまった。以来、夢口はふさがれたままである。隙(すき)間(ま)はあいているけれども、狭くて誰もはいることはできない。  その後、ある人が下流から船で県城へ帰る途中、金鶏洞まであと数里というところにきたとき、全身に黄色い着物をまとった男に呼びとめられた。男は黄色い瓜(うり)をいれた籠を二つかついでいた。  乗せてやると男は、何か食べ物がほしいといった。船のあるじが料理と酒を出してやると、男は遠慮なく食べ且(か)つ飲んだ。  男が食べ終ったとき、船はちょうど金鶏洞のある崖の下にさしかかった。 「ここでおろしてくれ」  と男がいった。 「その瓜を一つもらおうか」  船のあるじがそういうと、男は、 「ああ、船賃か。船賃ならこれで十分だ」  といって、皿の上へ唾(つば)をはきかけ、さっさと岸へあがり、金鶏洞の中へはいって行った。  船のあるじは唾をはかれたときにはひどく腹をたてたが、男が洞穴の中へはいって行ったのを見て、はじめて神通力を持っている人だと悟り、あらためて男が唾をはきかけた皿を見た。すると、皿の上の唾はすべて黄金に変っていた。 六朝『述異記』    戴侯祠  豫(よ)章(しよう)に、戴(たい)という娘がいた。心のやさしい娘であったが、長いあいだ病(わずら)っていて、いっこうによくならない。  ある日、陽(ひ)を浴びに表へ出たとき、山の麓で人形のような形をした小石を見つけたので、拾いあげて語りかけた。 「石さん、あなたは人間のような形をしているけど、もしかしたら神さまじゃないの。もし神さまなら、わたしの病気をなおしてください。そしたら大事にお祭りしてあげるわ」  娘はその石を持って帰り、その夜、枕もとに置いて寝た。すると夜中に一人の男があらわれていった。 「わたしは神だ。お前の病気をなおしてやるぞ」  翌朝から娘の病気は次第に快方に向い、数日後にはすっかり元気になった。娘はそこで山の麓に祠(ほこら)を立ててその石を祭り、自ら巫(み)女(こ)になって仕えた。  その祠は、戴(たい)侯(こう)祠(し)と呼ばれて、今も人々にあがめられている。 六朝『捜神記』    火事の予告  東海郡〓(く)県に、麋(び)竺(じく)という人がいた。先祖代々みな貨殖の才にたけ、巨万の富を築きあげていた。  あるとき、洛陽までいった帰り道、家まであと数十里というあたりで、道端に美しい女がたたずんでいるのを見かけた。麋竺が車をとめると、女は近寄ってきて、 「乗せていただけませんか?」  といった。麋竺は、 「そのつもりで車をとめたのです」  といい、女を乗せたが、二十里あまりゆくと、女は、 「ここでおろしてください」  といった。別れぎわに女は、 「あなたがよい方だということがわかりましたので、お礼にお話ししましょう。わたしは天帝の使者で、これから東海の麋竺という金持の家を焼きにいくところなのです」  といった。 「麋竺というのはわたしです。なんとかおゆるしくださいませんでしょうか」  とたのむと、女のいうには、 「天帝のご命令ゆえ焼かないわけにはまいりませんが、あなたはよいお方ですから、こうしましょう。あなたは大急ぎで家へお帰りなさい。わたしはゆっくりゆきますから。正午にはあなたの家は必ず焼けます」  麋竺は車をとばして家へ帰るなり、家族の者に身のまわりのものだけを持たせて、外へ避難させた。  正午になると、はたして大火事がおこった。家財道具はすべて家とともに灰になってしまったが、家族の者はみな無事であった。 六朝『捜神記』    廬山の神  呉郡の太守に、張(ちよう)璞(はく)という人がいた。  召還を受けて都へ帰る途中、廬(ろ)山(ざん)を通りかかった。そのとき張璞の娘は女中といっしょに山の中の廟(びよう)を見にいったが、女中が神像を見て、 「お嬢さん、ごらんなさい。立派な神さまですわ。お嬢さんのお婿(むこ)さんになさいませ」  というのをきいて、 「そうねえ」  とうなずいた。  その夜、張璞の妻の夢枕に廬山の神があらわれ、 「ふつつかな息子ですが、お嬢さんが婿にお選びくださって、ありがたく思っております。これはほんの心ばかりの品ですが、どうかお納めくださいますよう」  といって、結(ゆい)納(のう)の品をさし出した。  張璞の妻は眼をさましてから、不思議に思って、家族の者に何か心あたりはないかとたずねた。すると昨日娘といっしょに廟へいった女中が、神像のことを話した。妻はおそろしくなり、夫をせきたててすぐに船を出させた。  ところが、川の中ほどまで進むと、船はまるで浅瀬に乗り上げてしまったように、全く動かなくなってしまった。いっしょに船に乗っていた人々は廬山の神のたたりだといっておそれ、それぞれ自分の持物を川へ投げいれて無事を祈ったが、やはり船は全く動かない。そのうちに乗客の一人が、 「太守さまのお嬢さんを川へ投げこむより仕様があるまい」  といったところ、急に船は動きだした。すると人々は口々に張璞にいった。 「神さまの思し召しはこれではっきりしました。お嬢さん一人の命を救おうとして、太守さまは、ご自分の一門はおろか、なんのかかわりもないわたしたちの命までが失われてしまうのを、よくも坐視しておられますね」  張璞はそれをきくと、 「わしは、娘が川へ投げこまれるのを見てはおれん」  といい、船室へ引きこもってしまった。  張璞の妻はそのとき、張璞の兄の忘れ形見の娘を身代りに立て、水面にむしろを敷いてその上に娘をのせた。すると船は進みだした。  張璞はそのあとでそのことを知ると、 「わしは世間の人たちにあわせる顔がない」  といい、自分の娘をさらに川へ投げこませた。やがて船が向う岸へ着くと、川へ沈んでしまったはずの二人の娘の姿が対岸に見え、そのそばには一人の役人の身なりをした者が立っていて、こういうのがきこえてきた。 「わたしは廬山の神の秘書です。張璞どの、廬山の神はあなたの義理にあついお心に敬服なさって、二人の娘御をそっくりお返しすることになさいました。ここへおつれしましたから、あとでお引きとりにおいでください」  そういうと、その姿はかき消えてしまった。船はまた引き返して二人の娘を乗せたが、そのとき娘たちの語ったところによると、川の底に美しい宮殿が見え、大勢の役人たちがいるのが見えたが、水の中にいるという感じはすこしもしなかったという。 六朝『捜神記』    神の愛人  会(かい)稽(けい)郡〓(ぼう)県の東の村に、呉(ご)望(ぼう)子(し)という娘がいた。年は十六で、なかなか愛らしい女であった。  近くの村に、太鼓をたたき舞いを舞って神おろしをする人がいた。あるとき、望子は招かれて、その人の家へ出かけていった。  望子が川の堤防ぞいに歩いてゆくと、川に一艘(そう)の舟があらわれた。舟には、見るからに身分の高そうな、人品いやしからぬ人が乗っていた。その人は従者に命じて、望子に声をかけさせた。 「もし、お嬢さん、どこへいらっしゃるのですか」 「川下の、神おろしをする人のところへ、招かれていくところでございます」  望子がそういうと、その人は、 「わたしもちょうど、その人のところへいくところです。この舟に乗っていっしょにいきましょう」  と誘った。 「ご好意はありがとうございますが、わたくしは歩いてまいります」  望子がそういってことわると、突然、舟も人も見えなくなってしまった。  やがて望子が神おろしをする人の家に着き、祭壇に拝礼して顔を上げると、そこに、さきほど舟に乗っていた人がいかめしく坐っているではないか。望子ははっとした。それは蒋侯の神像だったのである。蒋侯は望子に向って、 「遅かったではないか」  といい、蜜(み)柑(かん)を二つ投げてよこした。果物を投げるのは、その人に対する愛のしるしである。望子はその蜜柑を受け取った。  それからというもの、望子の家には蒋侯がしばしば姿をあらわし、二人はこまやかな愛情を結んだ。以来、望子が心の中でなにか欲しいと思うと、必ずそれが空から降ってくるようになった。桃を食べたいと思うと、新鮮なおいしい桃が降ってきたし、鯉(こい)を食べたいと思うと、ぴちぴちした鯉が降ってきた。また、望子の身体(からだ)からはえもいわれぬ芳香がただよい、数里さきまでもそれが香(かお)った。その上、望子には予言の能力がそなわって、なに一つあたらぬことはなかったので、人々はみな望子をあがめ尊ぶようになった。  ところが、それから二年たったとき、望子はふと他の男に心を動かした。と、それきり蒋侯はあらわれなくなり、望子の予言の能力もなくなってしまった。 六朝『捜神記』    如願  廬(ろ)陵(りよう)に、欧(おう)明(めい)という行商人がいた。  商用でよく彭(ほう)沢(たく)湖(こ)を渡ったが、そのたびに舟の積荷の中から幾品かの物をとりだし、 「これはご挨拶のしるしです」  といって、湖の中へ投げこんだ。  あるとき、いつものようにそうしたところ、突然、湖の中に広い道が開け、その上に砂ぼこりが舞いあがったと見ると、数人の役人が馬車を走らせてきて、 「青(せい)洪(こう)君(くん)よりお迎えにさしつかわされた者です。どうぞお乗りください」  という。欧明が舟から馬車に乗り移ると、馬車はまた走りだし、まもなく役所らしい建物の前に着いた。門のところには大勢の兵隊が並んでいる。 「あなたを出迎えているのです。こわがることはありません」  役人はそういって欧明を馬車から降し、奥へ案内しながら、 「青洪君はあなたがいつも礼儀正しく敬意を表されるのに感心なさって、あなたをお召しになったのです。きっとたくさんご褒(ほう)美(び)をくださると思いますが、あなたはお受けにならない方がよいでしょう。そうすれば青洪君は、望みのものをいえといわれます。そのときあなたは『如願』をくださいとお願いしなさい」  と教えてくれた。如願とは、願いごとがかなうという意味である。  欧明は青洪君に拝(はい)謁(えつ)したとき、役人に教えられたとおりにして、 「如願をくださいますよう」  といった。すると青洪君はうなずいて、 「如願!」  と呼んだ。と、侍女たちの中から一人の美しい少女が進み出てきた。青洪はその少女に、 「そなた、欧明について俗界へゆけ」  といった。  如願というのは、青洪君の侍女の名だったのである。  欧明は如願をつれ帰って妻にしたが、以来願いごとはなんでもかない、数年のうちに廬陵第一の富豪になったという。 六朝『捜神記』    孤石廟  宮(きゆう)亭(てい)湖(こ)のほとりに、孤(こ)石(せき)廟(びよう)という廟がある。  あるとき一人の行商人が建康へゆく途中、その廟の前を通りかかると、二人の美しい少女があらわれて、 「わたしたちに、都(みやこ)で、糸で編んだ鞋(くつ)を買ってきてくださいません? お礼は十分にしますから」  といった。  行商人は建康に着くと、上等の糸で編んだ鞋を二足買い、綺麗な箱も買ってそれを入れた。そのとき、自分のために買った小刀もその箱の中へ入れておいた。  建康からの帰途、行商人は鞋を入れた箱を廟に供え、香を焚(た)いて、 「お申しつけの物を買ってまいりました」  といったが、二人の美しい少女はあらわれなかった。  行商人はそれから舟に乗って川の中ほどまできたとき、廟に供えた箱から小刀を取り出すのを忘れたことに気づいた。美しい少女があらわれなかったのは小刀のせいかもしれぬ、と思っていると、突然一匹の鯉(こい)が舟の中へ跳びこんできた。その鯉の腹を割(さ)いてみると、忘れてきた小刀が出てきた。  以来行商人は何をあきなってもみな売り切れ、数年のうちに大金持になったという。 六朝『捜神記』    織女  千(せん)乗(じよう)に、董(とう)永(えい)という人がいた。  子供のころ母を亡くし、父と二人で畑仕事をしていたが、いつも父を小さい車に乗せて、いたわっていた。やがてその父も亡くなったが、貧乏で葬式をする金もない。そこで自分の身を売って奴隷になり、その金で葬式をしようとした。董永を買った主人はそのことを知ると、その孝行に感じ、一万貫の銭を与えて家へ帰らせた。  董永は家へ帰って三年の喪(も)をすませると、奴隷のつとめをはたそうとして、また主人の家へ出かけた。すると、途中で出会った女が、 「どうか、あなたの妻にしてください」  というので、いっしょに主人の家へつれていった。主人は董永を見ると、 「あの銭はあなたにあげたのです。働いて返してもらうつもりではないのです」  といったが、董永は、 「あなたさまのおかげで、父の葬儀をすることができたのです。ぜひともご恩返しをさせてください」  という。主人が、 「奥さんには何ができますか」  とたずねると、女は、 「機(はた)織(お)りができます」  と答えた。すると主人は、 「それでは、奥さんに百疋(ぴき)の絹を織っていただきましょう。それで十分です」  といった。  女はその日から機を織りはじめたが、十日で百疋の絹を織りあげてしまった。  仕事が終って主人の家を出ると、女は董永にいった。 「じつは、わたしは天上の織(しよく)女(じよ)なのです。あなたの孝行をめでて、天帝さまが、あなたのお手伝いをして、あの親切なご主人へのご恩返しを早くさせてあげるようにと、わたしを下界へおつかわしになったのです。どうか、お元気で。きっとよい奥さまをおもらいになるでしょう」  いいおわると、織女はそのまま空へ舞いあがってゆき、見る見るその姿は雲の中に消えていった。 六朝『捜神記』    白水の素女  建州の侯(こう)官(かん)県に、謝(しや)端(たん)という人がいた。  幼いときに両親を亡くし、親戚もなかったので、ずっと隣家の人に養われてきたが、十七、八歳のとき、独り立ちをした。隣家の人たちは嫁をもらってやろうとしたが、なかなかふさわしい女が見つからなかった。  謝端は朝は早く起きて畑仕事に精を出し、夜は夜で手仕事をして、昼も夜も休まずに働いた。真(ま)面(じ)目(め)な性格で、道にはずれたことを行ったためしはなかった。  ある日、彼は村はずれの川で、三升入りの壺ぐらいもある大きな田(た)螺(にし)を見つけた。珍しかったので持ち帰り、甕(かめ)の中に飼っておいた。  それから十日あまりたったとき、謝端が畑から帰って見ると、夕食の支度がしてあって、火も燃やしてあり、湯もわいていた。彼は隣家の小母さんがしておいてくれたのだろうと思った。  そんなことが四、五日もつづいたので、謝端は隣家へ行って、小母さんに礼をいった。ところが小母さんは、 「わたしは、一度もそんなことをしたおぼえはありませんよ。それなのに、お礼なんかいわれては困りますよ」  といった。謝端は小母さんがわざと知らぬふりをしたのだと思った。  その後も、謝端が畑仕事から帰ってくると、いつも夕食の支度がしてあるのだった。謝端はまた隣家へ行き、くわしくわけを話して、礼をいった。すると小母さんは笑いながら、 「あんた、自分でこっそり嫁さんをもらってきて、家の中にかくして炊事をさせながら、そんなことをいってごまかしているんじゃないの」  といった。  謝端はわけがわからなかった。いつも夕食の支度をしておいてくれるのが、もし小母さんでないとすると、いったい誰なのだろう——。  翌日、謝端は、一番鶏(どり)が鳴いたとき畑仕事の用意をして家を出、あたりが明るくなったころ引き返してきて、生(いけ)垣(がき)のかげから家の中をのぞいてみた。すると、甕(かめ)の中から若い女が出てきて、かまどの前へ行き、火をおこしはじめた。彼はそっと家の中へはいり、甕の中をのぞいてみた。中には田螺の殻(から)が残っているだけだった。そこで、かまどの方へ行って、女に声をかけた。 「娘さん、あなたは何者なんです? どうしてわたしのために炊事をしてくださるんですか」  女はあわてて甕の中へもどろうとしたが、謝端が立ちふさがっているのでもどれない。そこで、あきらめたような身ぶりをして、いいだした。 「わたしは天の川に住んでいる白(はく)水(すい)の素(そ)女(じよ)です。天帝さまは、あなたが幼いときから孤児でありながら、真面目に行いをつつしんでいらっしゃるのをごらんになって、わたしを下界へおつかわしになり、あなたのために炊事をするようにお命じになったのです。十年のうちにあなたを金持にし、お嫁さんも迎えさせた上で、わたしは天へ帰ることになっていたのですが、あなたにわたしの姿を見られてしまった以上は、もうここにはおられません。まもなくわたしは天へ帰りますが、今後あなたの生活はいくらかはよくなっていくはずです。これまでどおり畑仕事に精を出し、柴(しば)刈(か)りや魚取りをして生計をたてていってください。甕の中のその殻は置いていきます。それに穀物を入れておけば、減ることはないはずです」  謝端は、のぞき見をしたことをわびて、とどまってくれるようにとたのんだが、女はどうしてもきかなかった。そのとき、にわかに風雨がおこった。すると女はその風雨の中に吸い込まれるように姿を消してしまった。  謝端は女のために祭壇をつくって、節季ごとに祭りをおこなった。  その後、謝端は金持にはならなかったが、生活は次第に楽になり、嫁ももらった。その嫁の内助で謝端は学問をし、仕官をして県令にまで出世した。  いま、侯官の道端に設けられている素女廟は、この神女を祭ったものである。 六朝『捜神後記』    白い田螺  常州の義興県の小役人に、呉(ご)堪(かん)という人がいた。  両親に早く死にわかれて兄弟もなく、まだ妻をめとる余裕もなくて、ひとり暮しをしていた。家は荊(けい)渓(けい)のほとりにあったが、呉堪はこの川の清らかな流れが好きで、柵(しがらみ)を作って川がよごれないようにし、役所から帰ってくると、いつもその柵にたまっている木ぎれや芥(あくた)を取りのぞいて、川をきれいにすることを日課にしていた。  ある日、呉堪は川の掃除をしていて、白い田(た)螺(にし)を見つけた。めずらしいと思い、拾って家に帰り、きれいな壺の底に砂を敷き石を置き、水をいれて、その中で飼っておいた。  その翌日から呉堪が役所から帰ってくると、いつも家には夕食の支度ができていた。これまでにも隣家の小母さんが、ひとり暮しを気の毒に思って、ときどき世話をしてくれていたので、こんども小母さんの好意だろうと思っていたが、あまり幾日もつづくので不審に思い、お礼かたがた小母さんにたずねた。 「いつも夕食の支度をしておいてくださって、ありがとうございます。ところで小母さんは、どうして毎日、あんな面倒をみてくださるのです?」  すると小母さんは笑いながら、 「なにをいってるんだね」  といった。 「あんたがいくらかくしても、わたしにはちゃんとわかっているんだから」 「それは、どういうことです?」 「あんたはどこからかきれいなお嫁さんをもらってきて、家事をやらせてるじゃないか。なぜかくしているのだね」 「そんなことはありません。かくしてなんかいません」 「それならきくが、あんたが役所へ出かけたあと、いつも、きれいな顔の、きれいな着物を着た若い女の人が出てきて、あれこれと家事をやっているけど、あれは誰だというのだね」  呉堪は小母さんにそういわれて、そのきれいな女というのは、あるいは白い田螺の化身かもしれぬと思った。  そこで翌日、役所へいくふりをして出かけ、しばらくしてそっともどってきて家の外からのぞいていると、部屋から若いきれいな女が出てきて台所へはいり、炊事をしはじめた。  呉堪が裏口からとびこんでいくと、女はすこしもさわがず、呉堪にていねいに礼をして、 「わたしは天界から、あなたのお嫁になるようにと遣(つか)わされた者です。天の神さまはあなたが川を大切になさることも、低いお役目をまじめにつとめておられることも、貧しくてお嫁をもらうことができないことも、みんなご存じです。それでわたしに、お嫁にいくようにおいいつけになったのです。どうかお疑いにならずに、わたしをあなたのお嫁にしてくださいませ」  呉堪はうれしくてならず、 「わたしのような者でよかったら……」  といった。すると女は美しい顔をほころばせて、 「そんなに卑(ひ)下(げ)なさるものではありません。天の神さまのお心を動かしたほどの立派なお方ですのに。でも、そこがあなたのよいところなのでしょう」  といった。  呉堪はさっそく女をつれて隣家の小母さんのところへゆき、わけを話したが、小母さんは信ぜず、また笑いながら、 「なにをいってるんだね」  といった。 「かくしきれなくなって、そんなごまかしをいっている! なににしてもおめでたいことだ。仲よくおやり」  そしてその夜、祝いの酒をとどけてくれた。二人はその酒で床(とこ)杯(さかずき)を交し、夫婦になって仲むつまじく暮したが、呉堪の美しい妻のことはたちまち近隣の噂になって、町中にひろまっていった。おそらく呉堪の妻と肩を並べることのできるような美女はこの県にはいないだろうという噂だった。  ところで、このときの義興県の知事は凶暴な人で、呉堪が美しい妻をもらったという噂をきくと、小役人のくせにしゃらくさい! と思い、なんとかして呉堪を罪におとしいれて、その妻を自分のものにしようと思案をめぐらした。ところが呉堪はお役目大事につとめていて、いくらあらさがしをしようとしても見つけられない。思案にあまった知事は、ある日、呉堪を呼びつけてこういった。 「今日の午後、蝦(が)蟆(ま)の毛と鬼の腕が必要なのだ。おまえは事務に練達しているからたのむのだが、この二つの品をいそいで手に入れてきてほしい。もし手に入らぬときは軽い罪ではすまぬぞ」  呉堪はかしこまって外へ出たが、そんなものが手に入るはずはない。悄然として家へ帰ると、妻が、 「いったい、どうなさったのです」  とたずねた。呉堪がわけを話して、 「なぜか知らないが、知事は難題をふっかけてわたしを罪におとしいれようとしておられるようだ」  というと、妻は、 「それは、わたしのせいです。知事はあなたを罪におとしいれておいて、わたしを横取りしようとたくらんでおられるのです」 「うん、おそらくそうだろう。おまえと別れるのはつらいが、横取りされるよりはましだ。おまえはまた白い田螺になって、天へもどっていってくれ。わたしも白い田螺になって、おまえといっしょに天へいけたらなあ……」  呉堪がそういって涙を流すと、妻は、 「ご安心なさいませ」  といった。 「蝦蟆の毛と鬼の腕ですね。ほかの物ならともかく、その二つならわたしが手に入れることができます。しばらく待っていてください、すぐに取ってきますから」  そういって妻は出かけていったが、しばらくするともどってきて、その二つの物を呉堪にわたした。  呉堪がそれを持って役所へゆき、知事にさし出すと、知事はその二つの物を調べて、不興げに、 「よし。退(さが)っておれ」  といった。  翌日、知事はまた呉堪を呼びつけて、いいつけた。 「昨日はご苦労だった。今日はどうしても蝸(か)斗(と)が一つ必要なのだ。おまえは事務に練達しているから特にたのむのだが、早く手に入れてきてくれ。もし手に入らぬときは死罪はまぬかれないぞ」  呉堪は家へかけもどって、また妻に相談をした。すると妻は、 「ご安心なさいませ、蝸斗ならすぐ手に入ります。しばらく待っていてください」  といって出ていったが、しばらくすると一匹の獣を引いてもどってきた。それは犬に似ていた。妻が、 「これが蝸斗です」  というので、 「いったい、これにどんな力があるのかね」  ときくと、妻は、 「これは火を食べるという珍しい獣です。火を食べると、火の糞をたくさんします。早く役所へ送りとどけて、あなたはすぐ帰ってきてください。かならず、すぐ帰ってきてくださいね」  といった。  呉堪はさっそくその獣を役所へ引いていって、知事にさし出した。知事はそれを見て、 「これが蝸斗か。これはただの犬ではないか」  と怒った。呉堪が、 「犬に似てはおりますが、犬ではなくて蝸斗でございます」  というと知事はますます怒って、 「どこが犬とちがう」  という。 「蝸斗は火を食べます」 「うん。そういうことはきいたことがある。これが火を食べたらよし、食べなかったらおまえを死罪にするぞ」  知事はそういって炭を持ってこさせ、火をおこして、その獣に食べさせた。蝸斗が火を食べだすと、知事は呉堪に、 「よし。退っておれ」  といった。呉堪は妻がいったことを思いだして、いそいで家へ帰った。  呉堪が家に帰ったころ、役所では蝸斗が糞をしだした。それはみな火であった。知事は怒って、 「呉堪を呼べ! こんな獣がなんの役に立つか」  といい、下役人に火を消して糞の掃除をするように命じたが、下役人の持った箒(ほうき)が糞に触れたとたん、ぱっと焔があがって、火が建物に燃え移り、一瞬のうちにあたりは焔と煙につつまれて、知事もその家族もその中で焼け死んでしまった。  それからは荊渓のほとりの家にも、どこにも、呉堪とその妻の姿は見られなくなった。  この火事があってから義興県の県城の位置はもとの県城の西へ移った。今の県城がそれである。 唐『原化記』    崑崙奴の術者  長安に、崔(さい)晨(しん)という侍従武官がいた。  崔晨の父は高官で、劉という元老と親しかった。ある日、崔晨は父の使いで劉元老の病気を見舞いにいった。  劉元老の病室には、三人の女がかしずいていて、金の壺にいれた桜桃をむいては牛乳をかけ、それを元老に食べさせていたが、元老は崔晨が父の口上を述べるのをきいて大変気にいったらしく、三人のうちの赤い衣裳の女に、 「おまえ、その若者に匙(さじ)で桜桃を食べさせてやれ」  といった。崔晨ははずかしくて、手をふってことわったが、元老はきかず、 「わしの好意が受けられんというのかね」  という。崔晨は仕方なく、口をあけて匙の桜桃を受けたが、はずかしくてならなかった。  やがていとまを告げると、元老はその赤い衣裳の女に、崔晨を門まで見送らせた。門で別れるとき女は指を三本立て、掌(てのひら)を三度ひるがえし、それから胸にかけていた小さな鏡を指さして、 「おぼえていてね」  といった。  崔晨はそれからその女を忘れることができず、毎日ぼんやりと考えこんでいて、食事も忘れるほどであった。崔晨の下男に磨(ま)勒(ろく)という崑(こん)崙(ろん)奴(ど)(黒人の奴僕)がいたが、主人がふさぎこんでいるのを見て、 「なにをくよくよしていらっしゃいます。おっしゃってください」  といった。崔晨が、 「おまえにいったところで、どうなることでもない」  というと、磨勒は、 「おっしゃってくだされば、どんなことでもやりとげてごらんにいれます」  という。崔晨は磨勒の口ぶりがいかにも自信ありげなのを見て、わけを話すと、 「そんなことですか。なにもむずかしいことはありません。指を三本立てたのは元老さまのお屋敷には歌姫の部屋が十あって自分の部屋はその中の三番目だということ、掌を三度ひるがえしたのは、全部で指が十五本、つまり十五日ということです。胸にかけた鏡を指したのは、十五夜には月が鏡のように丸くなりますから、その夜、若旦那に来てほしいということですよ」 「そうか、それでわかった。なんとかわたしの思いをとげる工夫はないか」  崔晨がよろこんでそういうと、磨勒は笑いながら、 「今夜がちょうど十五夜です。あそこへ忍びこむためには身軽でなければなりませんから、濃い青い絹を二疋ください。それで若旦那に身軽な服を作ってあげましょう。それから、あのお屋敷には猛犬がいて歌姫たちの部屋の番をしておりますから、まず、その犬を殺してしまわなければなりません。あの犬を殺せる者は、わたしのほかにはいないでしょう。日がくれたらさっそく殺してきます」  といった。そして日がくれると鉄の棒を持って出かけていったが、しばらくたつと帰ってきて、 「犬はもう殺しておきました。あとは、わけはありません」  といい、真夜中になると、崔晨に青い着物を着せ、背に負って十重の垣根を乗り越え、歌姫たちのいる棟へはいっていった。  赤い衣裳の女の部屋は、はたして三番目であった。扉をとざさず、ともしびをつけたまま、寝ずに誰かを待っている様子であった。  磨勒にうながされて崔晨がはいってゆくと、女は身体中でよろこびの色をあらわし、崔晨の手をにぎっていった。 「口でいって人にきかれるとまずいので、手でお話をしたのです。よくわかってくださいました。それにしても、ここまではいってこられたとは、よほどの術をお持ちなのですね」  崔晨が磨勒のことを話すと、女は、 「その人はどこにおいでです?」 「おもてで番をしております」 「大丈夫ですから、お呼びください」  崔晨が磨勒を呼びいれると、女は磨勒に礼をいって、金の壺から酒を汲んですすめ、それから身の上話をした。 「わたしの家は、もとは金持で、北方に住んでおりましたが、劉元老が将軍になって北方へこられたとき、むりに妾にされてしまったのです。自殺することもできず、いたずらに生きながらえて、顔には紅おしろいぬっていても心は沈むばかりで、ここはわたしにとって牢獄でございます。あなたのご家来がそのような術をお持ちなら、わたしをこの牢獄から救い出して、あなたの婢(はした)女(め)にでもしてください」 「よろしい。あなたを救い出しましょう」  といったのは磨勒であった。  磨勒は崔晨と女をいっしょに背負い、十重の垣根を飛びこえて無事に家に帰った。  女はその後二年間、崔晨の家にかくれていたが、花見どきについ気をゆるして曲(きよく)江(こう)のほとりへ出かけ、元老の家の者に見つけられてしまった。部下からそのことをきいた元老は、さっそく崔晨を呼んで詰問をした。崔晨がかくしきれずに事の次第を語ると、元老は、 「よし。女はその方にくれてやる。だが、崑崙奴の術者はゆるしておくわけにはいかん」  といい、ただちに五十人の兵士に崔晨の家をかこませたが、磨勒は垣根の上を鷹か隼(はやぶさ)のように飛びまわって、兵士たちが雨のように矢をそそいでも一つもあたらず、あっというまに姿を消してしまった。  それから十年あまりたったとき、崔家の者が洛陽の町で薬を売っている磨勒を見かけたが、声をかけると裏町のほうへ姿を消してしまった。顔はむかしのままの若さだったという。 唐『伝奇』    石婆神  華州に皇(こう)甫(ほ)弘(こう)という人がいた。  妻を亡くして鰥夫(やもめ)暮しをしていたが、念願がかなって州から進(しん)士(し)受験の推薦をもらうことができ、都へ上る準備をしていたところ、たまたま酒席で刺史の銭(せん)徽(き)の機嫌をそこねて、追放されてしまった。  そこで友人をたよって陝(せん)州に行き、あらためて推薦書をもらって都へ出かけたが、潼(どう)関(かん)を越えたところで、銭徽が試験官に任命されて華州から上京したということをきいた。  皇甫弘は、がっかりした。銭徽が試験官ではとても及第はできないと見切りをつけ、そのまま引き返したが、ある夜、小さな村の旅籠(はたご)屋(や)に泊ったところ、夢に亡妻の乳(う)母(ば)だった老婆があらわれて、 「旦那さま、どうして試験をあきらめてお引っ返しになるのです」  ときいた。皇甫弘が試験官に憎まれて州から追放されたいきさつを話すと、乳母は、 「おあきらめになることはありません。石(せき)婆(ば)神(しん)さまにお願いしてごらんなさいませ」  といった。 「石婆神?」  ときき返すと、乳母は、 「ご案内いたします」  といって、皇甫弘を村はずれの草原へつれて行った。そこに小さな小屋があった。小屋の中に、こわれかけたような石像が立っていた。 「うちのお嬢さまのお婿(むこ)さまでございます。試験を受けようとなさっているのですが、石婆さまのごらんになったところでは、お受かりになるでしょうか」  乳母は石像を拝みながらそういい、皇甫弘にも拝むようにすすめた。皇甫弘が拝むと石像は、 「受かる」  といった。すると乳母は皇甫弘に、 「石婆さまが受かるとおっしゃるのですから、必ずお受かりになります。あとでお礼参りをお忘れになりませんように」  といい、村の木戸まで送ってきたが、皇甫弘はそこではっと夢からさめた。  目をさましてから皇甫弘は考えた。 「はっきりした夢だったから、もしかしたらそのとおりになるかもしれない」  そこで夜明けを待ってまた引き返し、都にたどりついて試験を受けた。  試験官の銭徽は皇甫弘が陝州の推薦書で受験にきたのを知って一層腹を立て、ひどい目にあわせてやろうと考えていたが、詩文の試験が終ったあとでまた考えなおした。 「どう見ても答案はよくできている。おれがあいつを憎んでいることは誰もが知っているので、ここで落してしまうのはまずいだろう。及第さえしなければそれでよいのだから、ここはひとまず通しておこう」  そして次の経書の試験のときには、皇甫弘の答案は見ずに、合格者を決めてしまった。ところが、いざ合格者名簿を書こうとしたとき、どうしたことか銭徽は急に落ちつかない気持になってきて、合格者の一人をほかの者ととりかえたいと考えた。——もっとすぐれた答案があったはずだ、皇甫弘さえ及第させなければそれでよいのだから、もういちどほかの者の答案を調べて、すぐれたのと入れ替えよう、と思ったのである。ところが、いざ答案を調べなおしてみると、どれも決めかねるものばかりだった。繰りかえして読んでいるうちに、とうとう夜が明けてきた。そこで息子を呼んで、 「どれでもよいから、よさそうな答案を一つ取り出してみてくれ」  といった。  息子がさし出した答案をあけて見ると、なんとそれは皇甫弘のものだったのである。 「もう一つ、別のを」  といおうとして、銭徽は口をつぐんだ。 「おそらくこれは天の定めなのだろう」  そう思いなおし、皇甫弘を合格者の中へ入れて発表した。  皇甫弘は合格者の発表を見てから陝州へ帰る途中、夢で亡妻の乳母だった老婆に会った村に立ち寄って、 「この村のはずれに、石婆神という石像があるでしょうか」  と村人にたずねた。すると村人たちは笑いながら、 「石婆神だって? おかしな石の婆さんならありますよ。村の北の原っぱの牛飼いの子供たちがいたずらをして、大きな石に人間のような形を刻んで石の婆さんと呼んでいるのが」  といって道を教えてくれた。  皇甫弘は酒(しゆ)肴(こう)をととのえて行ってみた。小さな小屋も、こわれかかったような石像も、夢で見たのと同じだった。皇甫弘が拝んでいると、村人たちが物珍しそうに集ってきて、わけをきいた。  いま石婆神は立派な廟の中に安置されていて、村人たちだけではなく、周辺の町や村の人々からも厚く尊崇されている。 唐『逸史』    土地神の加護  豫章郡に楊(よう)溥(ふ)という人がいた。  豫章郡の諸県はみなよい材木の産地である。それを伐採して広陵郡まで運んでゆくと、買い取った値の数倍で売れる。  あるとき、楊溥は数人の人夫をつれて、よい材木をさがしに、林の中へはいった。冬の夕方で、雪が舞いはじめてきたが、山奥なので宿を借りるところもない。洞窟でもあればよいがとさがしまわったが、それもない。  そのとき、道案内人が倒れた大木を見つけて、 「ここを借りることにしましょう。五、六人ははいれます」  といった。大木の中は空(うつ)ろになっていて、道案内人のいうとおり五、六人ははいれそうである。楊溥たちはその空洞の底に毛(もう)氈(せん)を敷いて、みんな身を寄せあって寝た。ところが案内人は中へはいらず、地面にひざまずいて再拝し、祈りをささげた。 「土地の神さま、今夜はここに宿をとらせていただきます。どうかわたくしども一同をお守りくださいますよう」  それを三度くりかえしてから、はじめて中へはいって寝た。  夜がふけると、雪はますますはげしくなってきた。そのとき、不意に人の呼ぶ声がきこえた。 「張礼どの」  すると、みんなの寝ている木の上で誰かが返事をした。 「おお、なに用だ」 「今夜は北の村で嫁入りがある。酒も肴(さかな)もたくさんある。いっしょにいこうじゃないか」 「いや、ここに客がいるのだ。夜明けまで守ってやらねばならん。わしがいってしまうと、黒のやつが害をするのでな」 「こんな寒い雪の夜だ。ちょっと一走り飲みにいってもよかろう」 「いや、守ってくれとたのまれた以上、飲みにいっては筋が立たん。眼をはなすと黒があばれるだろうからな」  それきり声はきこえなくなった。  夜があけてから一同が毛氈を片づけると、その下に黒い大きな蝮(まむし)がいた。頭は瓶ほどもあり、長さは三尺あまり、それがとぐろを巻いたままじっとしている。人々ははじめてびっくりした。 唐『紀聞』    華岳の三美人  趙郡に李(り)〓(しよく)という人がいた。後、官途につき、東(とう)陽(よう)の県知事にまで進んだ人である。  あるとき華(か)岳(がく)廟(びよう)に参詣して、三夫人の像を祭った神殿を見物していると、突然女神たちが生きた人間に変って李〓をさし招いた。  李〓がおどろきあやしみながら神殿へのぼっていくと、三人の女神は李〓をとりかこみながら、おし入れるようにして神殿の奥へつれていった。そこは七宝で飾った寝室であった。茫然としている李〓を女神たちは寝台の上へおしあげて、 「あなたのような人のおいでになるのを、お待ちしていたのです」  といい、馨(かぐ)わしい酒をすすめてから、李〓を誘ってかわるがわる交わりを結び、さまざまな姿態でそれぞれ歓楽のかぎりをつくした。  李〓も嘗(かつ)て覚えたことのない陶酔にひたったが、やがて倦(う)み疲れると、三人の女神はまた酒をすすめて自らも飲んだり、ともに休んだりして、疲れがおさまったと見るとまた交わりはじめ、歓楽は三日間つづいた。  休んで酒を飲んでいるとき、李〓は、おそるおそるたずねた。 「おたずねしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか」  すると女神たちはやさしく笑いながら、口々に、 「このような仲になって、いまさらなにを遠慮していらっしゃるのです」  という。 「それではおたずねいたしますが、神さまの身でありながら、どうしてわたしのような者をお誘いになったのでしょうか」  すると一人の女神が、 「あなたがご立派だからですわ」  といい、ほかの二人と顔を見合わせて、 「ねえ、やっぱり思ったとおりでしたわね」  といって、くっくっと笑いあった。李〓はわけがわからず、なおもきいたが、女神たちは明らかにはいわなかったけれども、立派というのは李〓の一物が壮大で堅硬なことをいっているらしかった。 「いつまで、わたしをここにおひきとめになるのですか」  ときくと、女神たちは急に顔をくもらせて、 「お名残り惜しくてならないのですが、十二日にはどうしても帰っていただかなければならないのです。十三日にはわたしたちの主(あるじ)の華岳の神が帰ってまいりますので」  という。 「華岳の神さまはどこへいっていらっしゃるのですか」 「毎年七月七日から十二日までは、天帝さまのもとへ伺(し)候(こう)することになっていて、いまは天上へいっております。その留守のあいだでなければ、あなたに会うことはできないのです」 「わたしに華岳の神さまの罰がくだるようなことはないでしょうか」 「ご安心なさい。わたしたち三人がお護りしますから」  三人の女神は、いちばん年長なのを王(おう)娘(じよう)娘(じよう)、そのつぎを杜(と)娘娘、いちばん若いのを蕭(しよう)娘娘といい、顔は競い咲く花のように美しく、笑うとえくぼがあらわれ、肌はなめらけく、四肢はしなやかに、吐く息は香気を放ち、流す汗は甘露のしたたるようであった。  いよいよ別れるとき、三人の女神はみな涙ぐみながら、 「一年たたなければ会えないと思うと、かなしくてなりません。来年の今頃になったら、お迎えを出しますから、かならず来てくださいね」  といい、はじめのときと同じように三人で李〓をとりかこむようにしながら、神殿の上り口まで見送った。  李〓が神殿を下りてふりかえると、三人の女神の姿はなく、神殿の像は像としてそのままあった。  それから七年間というもの、毎年七月の七日か八日になると、李〓は急に息が絶えた。三、四日たつと蘇生したが、なお病人のように寝たままで起きあがれず、十日ほどたたなければもとの状態にはもどらなかった。じつは、息が絶えたままの形で横たわっているのは李〓の魂で、そのとき肉体は華岳の女神たちのもとへいっているのであった。蘇生するのは肉体が華岳からもどってきたからだが、その肉体は三、四日間かわるがわる女神たちと交わりを結びつづけてきたため、もとの身体にもどるのに十日ほどもかかるのであった。  七年目のとき、肉体が華岳からもどってきて、まだ元気を回復することができずに李〓が寝たままでいると、たまたま表を通りかかった道士が足をとめて、 「この家には邪気がたちこめている!」  といった。家の者がそれをきいて道士を呼び入れ、李〓の毎年の病気の容態を話すと、道士はうなずいて、 「その邪気を封じて進ぜよう」  といい、一枚の護符を書いて渡した。  翌年の七月七日、華岳の女神たちはまた使いをよこして李〓を招いた。李〓は使者について神殿へいったが、李〓のそれは綿のように力がなく、どうしても交わりを結ぶことができなかった。女神たちはあせり、李〓はかなしくてならない。そのときふと思い出して、 「去年、家の者が道士から護符をもらいましたが、そのせいではないでしょうか」  というと、王娘娘と杜娘娘が、 「きっとそのせいです。早く家へ帰ってその護符を焼いてしまいなさい」  といった。すると蕭娘娘が、 「もしかしたら、その道士というのは主の華岳の神かもしれないわ。みだりに護符を焼いてしまったりしたら、どんなひどい目に遇うかわかりません」  といい、そして涙ぐみながら、 「この人をこのまま帰してあげましょう。その方がわたくしたちのためにも、この人のためにも無難でしょう」  といった。二人の女神は悄然としてうなずき、三人で李〓を神殿の上り口まで見送った。  別れるとき李〓が、 「わたしはこれからどうなるのでしょうか。どうすればよいのでしょうか」  ときくと、蕭娘娘が、 「わたしたちのことは忘れて学問をしてください。そうすれば進士の試験に合格して、知事にまで昇進します」  といったが、果してそのとおりになった。 唐『広異記』    制蛇の術  唐の宝(ほう)暦(れき)年間、〓(とう)甲(こう)という人がいて、茅(ぼう)山(ざん)の道士峭(しよう)巌(がん)に師事していた。峭巌は道術を会(え)得(とく)していて、お札(ふだ)を書いて鬼神を呼びよせたり、仙薬を使って小石や瓦(かわら)を黄金に変えたりすることができた。  〓甲は誠心誠意、峭巌に仕えた。どんな苦しみも苦しみとせず、夜もろくに眠らず昼も腰をおろす暇もなく、ひたすら修行につとめた。峭巌はその熱意に動かされて、仙薬の作り方を伝授したが、〓甲にはどうしても作れなかった。鬼神を招くお札の書き方も伝授したが、やはり、〓甲のお札には効力がなかった。そこで峭巌は、 「お前はこの二つの術を会得する福分を天から授けられていないのだろう。これ以上、無理に勉強してはいけない。その代りに、天地の蛇を思いのままにする術を教えてやろう。この術が使えるのは、世界中でわし一人しかいないのだ」  といって、その術を伝授した。〓甲はその術だけは会得することができた。  制蛇の術を会得した〓甲は、峭巌にゆるされて郷里へ帰った。途中、烏(う)江(こう)まで来たとき、会(かい)稽(けい)の県令が毒蛇に足を噛(か)まれて苦しんでいるということを聞いた。痛みがはげしく、うめき声は町中にきこえるほどで、多くの術者を招いたけれども誰もなおすことができないという。そこで〓甲は治療しに行ったが、まずお札を書いて胸にあてがったところ、はげしい痛みがぴたりととまった。知事が礼をいうと〓甲は、 「まだそれだけでは十分ではありません。足を噛んだその蛇を呼びつけて、毒を回収させなければなりません。そうしないと、足を切断しなければならなくなります。しかしその蛇はもう遠くへ逃げていっていると思いますので、十里以内にいる蛇を全部ここへ集めて、その中からさがし出すことにしましょう」  といい、桑畑の中に広さ四丈四方の壇を築いて、周囲を赤土と白土で塗りかためた。そして篆(てん)書(しよ)でお札を書き、なにやら口の中でつぶやくと、やがて続々と蛇が集ってきた。蛇は〓甲の指さすままに動き、みな壇の上へのぼっていってつぎつぎに積み重なった。その高さは一丈あまり、蛇の数は何万匹とも知れぬほどであった。  すこし遅れて四匹の大蛇がやって来た。いずれも水汲み桶(おけ)ほどの太さで、長さは三丈、この四匹が、積み重なっている蛇の上にとぐろを巻いた。そのとき、壇の周辺百歩以内にある草木の葉は、夏のさかりだというのに、ことごとく黄色くなって落ちてしまった。  〓甲ははだしになって蛇の山の頂上へよじのぼると、青い篠(しの)竹(たけ)で四匹の大蛇の頭を叩きながら、 「その方ども、頭(かしら)としてこの地域の蛇を監督する身でありながら、なぜ人間に害をあたえるようなことをさせたか。県令どのを噛んだ蛇がどの蛇かを調べ、その蛇だけを残して他のものはみな立ち去れ」  といった。そして下へおりると、しばらくして蛇の山はどっと崩れ、大蛇を先頭にして蛇どもは四方へ散っていった。壇の上には、土色の一尺あまりの小蛇が一匹だけ残っていた。  〓甲は役人に県令をつれてくるようにいった。役人が県令を椅子ごとかつぎ出してくると、〓甲は壇の上の蛇を呼び、県令の足を指さして、 「毒を回収せよ」  と命じた。蛇は身を伸ばしたり縮めたりして、渋っていたが、〓甲がもう一度大声で命じると、観念したように県令の傷口に口をあてて毒を吸いはじめた。  そのとき県令は、脳の中に針を突き刺されるような激痛を覚え、また噛まれてこのまま死んでしまうのではないかという不安に襲われたが、すぐ爽快な気分にもどった。しばらくすると蛇は口をはなし、のたうちまわって苦しがっているようだったが、まもなく皮が裂けて水のように溶けてしまい、背骨だけが地面に残った。  県令は〓甲に礼をいい、たくさんの謝礼を贈った。  そのころ、揚州に畢(ひつ)という人がいた。家に千匹もの蛇を飼い、毎日市場へいって蛇に芸をさせていたが、やがて大金持になり、大きな屋敷を建てた。その人の死後、息子は屋敷を処分しようとしたが、蛇がたくさん棲みついているのでどうにもならない。そこで大金を出して〓甲を招いた。〓甲が出かけていって、お札を一枚書いてわたすと、蛇はみな墻(しよう)壁(へき)の外へ出ていってしまった。そこではじめて屋敷を売ることができたという。  その後、〓甲は江西の浮(ふ)梁(りよう)県へいった。ちょうど晩春のころで、茶摘みの時期だった。この地方の茶畑には昔から毒蛇がたくさんいたので、茶を摘んでいて蛇に噛まれ、命を失なった人の数はかぞえきれないくらいであった。土地の人々は〓甲がいくと、不思議な術を持っているという噂をきいていたので、金を集めあって、毒蛇を絶滅してほしいと頼んだ。  〓甲は承知して、茶畑のほとりに、広さ四丈四方の壇を築き、その上へあがって蛇の王を呼びつけた。  すると一匹の大蛇があらわれた。太さは人間の股ほどで、長さは一丈あまり、輝くほどの錦の模様の蛇で、後に一万匹の毒蛇を従えていた。 「高さくらべをする」  と〓甲は大蛇にいった。大蛇がうなずくと〓甲はさらに、 「負けた方が滅びるのだぞ」  といった。大蛇はまたうなずいて壇の上へはいあがった。  〓甲の背の高さは五尺あまり。大蛇は一丈あまり。大蛇が頭をもたげたらゆうに〓甲の頭を越えるのではないかと、人々ははらはらしながら見守っていた。  壇上へはいあがった大蛇は、次第に立ちあがって頭を三、四尺の高さまで持ち上げた。四尺から五尺。〓甲の頭よりも上に出ようとして、大蛇は錦の模様の肌から脂(あぶら)汗(あせ)を流しながら頭を持ち上げようと努めたが、ようやく〓甲の肩の近くまでは上げるものの、そこまで上げると疲れてきて、どたりと頭を落してしまった。何度くりかえしても同じであった。 「もう一度だけだぞ。これが最後だ」  〓甲がそういうと、大蛇はまた頭を持ち上げだしたが、ようやく〓甲の首のあたりまで上げたとき、力つきてどたりと頭を落してしまった。遠くから見守っていた人々は、そのとき、器から水が溢(あふ)れ出るように、四丈四方の壇のまわりから水が溢れ流れるのを見た。力つきた大蛇は溶けて水になってしまったのである。その水を浴びた壇の下の一万匹の毒蛇も、そのときみな死んでしまった。もし大蛇の頭が〓甲の頭よりも高く出たら、〓甲が水になっていたのである。それ以後、浮梁県の茶畑には一匹の毒蛇もいなくなった。  〓甲はその後、茅山へもどり、山にこもって再び道術の修行に努めた。今もまだ生きていて、ときどき俗界へ蛇の毒を除きにくるという。 唐『伝奇』    淮陽の宿  両(りよう)淮(わい)地方に戦乱がおこって、ようやくしずまった頃のことである。  戦火を避けて江南に渡っていた人々は、おいおい郷里へ帰りはじめたが、そのなかに、山陽地方の二人の士(し)人(じん)がいた。二人は淮(わい)陽(よう)を通ったが、ようやく日が暮れかけてきたので、北門外の宿屋に泊ろうとした。すると宿の主人が丁(てい)寧(ねい)に二人にいった。 「わたくしどもは、お客さんをお泊めするのが商売でございますから、お一人でもよけいに泊っていただきたいのはやまやまでございますが、あなたがたのような正(せい)直(ちよく)なおかたには、ほんとうのことを申し上げねばなりません。長いあいだ戦乱がつづいて家はすっかり荒れておりますし、それに、このあたりはまだぶっそうで、しきりに盗賊どもが徘徊しておりますゆえ、お泊りいただいても、かえってご迷惑をおかけすることになると思います。ここから十里ばかりさきに、呂(りよ)という家がございますが、そのあたりは閑静なところで、荒らされてもおらず、盗賊をふせぐ用意もできておりますので、そこへお泊りになるのがよろしかろうと思います。さいわい、わたくしの家には馬がいますから、それに下僕をつけてお送りいたしましょう」  宿の主人の言葉は誠意にみちていた。二人は感謝して、すなおに主人の好意に従うことにした。 「また淮陽をお通りになることがありましたら、ぜひおたちよりください。もう日が暮れてきてぶっそうですが、この下僕たちがついておれば大丈夫でございます」  主人は屈強な下僕二人にそれぞれ逞(たくま)しい馬を曳(ひ)かせて、二人の客を送らせた。  途中、何のこともなく、まだ夜のふけぬうちに二人は無事に呂家へ着いた。出迎えた呂家の者は、おどろいていった。 「淮陽からの道には、日が暮れるとあやしい者が出ますのに、よくもまあご無事で」  二人が淮陽の宿の主人のことを話して馬から下りようとすると、馬も下僕も、突っ立ったままで動かない。どうしたことかとあやしみながら飛び下り、呂家の者の持ってきた明りで照らして見ると、そこには馬も下僕もおらず、二脚の木の腰掛けと、二本の枯れた太い竹があるだけだった。  呂家の者は腰掛けも竹もうちくだいて焼いたが、何のあやしいこともおこらなかった。  それから数ヵ月後、二人はまた淮陽を通り、北門外の宿へ行って見たが、そこは空屋で誰も住んでいなかった。近所の人々にきいてみると、その家は何年も前からずっと空屋だといった。彼らを呂家へ送った主人が何者であったかは、ついにわからない。あるいは、二人が正直な士人であることを知った術者が、彼らを護ったのかも知れない。 宋『異聞総録』    処女神の横恋慕  会(かい)稽(けい)に、梅(ばい)姑(こ)廟(びよう)という廟がある。  梅姑神はもと馬(ば)という家の娘で、夫になる人がきまっていたが、まだ嫁(とつ)がないうちにその人に先だたれたため、他家へは嫁がぬと心に誓って操(みさお)を立てとおし、十何年間ひたすら死んだ人を慕いつづけたあげく、三十歳で死んでしまったのだった。身うちの人たちがその心をあわれんで建てたのが梅姑廟だといわれている。  それから何百年かたったとき、上(じよう)虞(ぐ)の金(きん)という書生が郷試を受けに行く途中、梅姑廟の前を通りかかった。彼はふとそこで足をとめて試験のことを考えた。そして行きつもどりつ、長いあいだ思いに耽っていた。  その夜、金の夢枕に梅姑神の侍女があらわれていった。 「梅姑神さまのおいいつけで、お迎えにあがりました」  金が侍女のあとについて廟へはいって行くと、梅姑神が出迎えて、頬笑みながらいった。 「あんなに思いをかけてくださって、うれしくてなりません。長いあいだ守りとおしてきた操を、あなたにささげたいと思ってお招きいたしました」  金がうなずくと、梅姑神は急にはじらいを見せて、 「でも、いったんおもどりになってくださいませ。まだお席の用意ができておりませんので。ちゃんとととのいましたら、あらためてお迎えにあがりますから」  というのだった。  そこで目がさめたのである。金には妻があったが、彼はそのとき惜しいことをしたと思った。  その夜、土地の人々は夢の中で梅姑神にいわれた。 「わたしはこのたび上虞の金生員を婿に迎えることにしました。わたしの左側に金生員の像をつくってください」  翌朝、村人たちは夢の話をしあったが、誰もがみな同じ夢を見たことがわかって、男神の像をつくることにきめた。だが、馬の一族の者は、梅姑神の操をけがすことになるといって反対した。するとその日のうちに、馬の一族の者はみな病気になったので、おそれて、村人たちといっしょに男神をつくり、梅姑神の左側にその像を立てた。  その像ができあがったとき、金は妻に、 「梅姑神が迎えにみえた」  といい、衣冠をつけて死んだ。  金の妻は夫を葬った後、梅姑廟へ行き、梅姑神の像を指さして罵った上、さらに祭壇にのぼって何度も頬を打ったという。  今、梅姑神の左側の男神の像は、金(きん)姑(こ)夫(ふ)と呼ばれている。姑夫とはおじさんという意である。 清『聊斎志異』    紫姑神  江南では紫(し)姑(こ)神(しん)という神が信仰されている。  むかしからの言い伝えによると、この神はもとある家の妾(めかけ)だったが、本妻に嫉妬されて便所や豚小屋のきたない仕事ばかりさせられていたため、思いあまって、正月の十五日に自ら首をくくって死んでしまったのだという。  だから世間の人々はその命日にこの神の像を作って祭り、夜中に便所や豚小屋のあたりへ行って神おろしをする。  そのときの呪(じゆ)文(もん)は、まず、 「子(し)胥(しよ)は留守」  というのだが、これは夫の名である。次に、 「曹(そう)姑(こ)も里帰り」  という。これは本妻の名である。そして最後に、 「紫姑さん、遊びにいらっしゃい」  と呼ぶ。  神像を持っている人の手が重たくなってきたら、神がくだってきたしるしである。そこで酒や肴(さかな)をそなえると、神像の顔は明りに照らされてきらきらとかがやきだし、やがて踊りだしてとまらなくなる。そのとき、いろいろなことについてうかがいをたてたり、農事や養蚕について予言をしてもらったりするのである。  この神は、ものをあてることがうまいのである。また、機嫌のよいときはさかんに踊るが、機嫌がわるいときは仰向けに寝てしまって何をきいても答えない。  平(へい)昌(しよう)の孟(もう)という人はこの神を信じなかったが、あるとき自分で神像を作ってみたところ、像はひとりでに飛びあがって屋根を突き抜けたきり、どこへ行ったのかわからなくなってしまったという。 六朝『異苑』    嫁の神さま  淮(わい)南(なん)郡全(ぜん)椒(しよう)県の謝(しや)家に、丁氏という嫁がいた。もとは丹陽郡の丁家の娘であったが、十六歳のときに謝家へ嫁入りしてきたのである。  丁氏は美貌で心やさしく、しかもよく働いたので、よい嫁だという評判が高かったが、嫁入りしてきた翌年の九月九日、首を吊(つ)って死んでしまった。姑(しゆうとめ)がきびしい人で、毎日仕事の量をきめて働かせ、きめただけの仕事ができないと容赦なく笞(むち)でたたいたので、心身ともに疲れはてて自ら死を選んだのであった。  丁氏が死ぬと、その神霊があらわれて、あちこちの巫(み)女(こ)に乗りうつり、つぎのような神託をくだした。 「絶えず働かされている家々の嫁が哀れでならぬ。今後、嫁を酷使する姑には神罰をくだすことにする。殊に九月九日は嫁の安息の日とさだめる。その日は一日中、嫁に仕事をさせてはならぬ」  はじめ人々は半信半疑であったが、その後、嫁をこき使う姑で、災難にあったり病気になったりする者が江南の各地に続出するに及んで、ようやく信じるようになった。  ある日、全椒県の牛(ぎゆう)渚(しよ)の渡し場に、縹(はなだ)色の着物を着て黒い笠で顔をかくした女が、同じ姿をした供(とも)の女を一人つれてあらわれた。ちょうど渡し場では、二人の男が舟に乗って魚をとっていたが、女が呼びとめて、 「南の岸へ渡してくださいませんか」  というと、舟を近づけてきて、 「乗りなよ。乗っておれたちの女房になってくれたら、渡してやるぜ」  といった。すると女はきびしい声で、 「お前さんたち、家には女房がいるというのに、なんということを!」  と咎めたが、男たちはいっこうに動(どう)ぜず、 「それはそれ、これはこれじゃないか。さあ、乗りな」  と誘う。女は、 「お前さんたちは善い人だと思っていたが、そんな男だったのだね。そんな男は泥の中へもぐって死んでしまうがよい」  というなり、男のさし出した手を引っぱって、舟から葦(あし)の茂みの中へ引きずりこんでしまった。  しばらくすると、一人の老人が葦を積んだ舟を漕(こ)いでその渡し場を通りかかった。女がまた呼びとめて、 「南の岸へ渡してくださいませんか」  というと、老人は、 「この舟には覆(おお)いがないのでな。女の人が覆いのない舟へ乗るわけにはいかんじゃろう」  という。 「かまいませんから乗せてください」  と女がたのむと、老人は積んである葦を片寄せて席をつくり、坐りよいようにして二人の女を乗せた。  舟が南の岸へ着くと、女は老人に礼をいった。 「おじいさん、ありがとう。わたしは神なのです。人間ではありません。自分で渡ることもできたのですが、世の人々に知らせてやりたいと思って、わざと渡してもらったのです。葦を片寄せて乗せてくださったおじいさんのお志は、たいへんありがたく思います。いずれお礼をいたします。これから引き返してゆくと、わるい人にはわたしの罰があり、よい人にはわたしの恵みがあるということがわかるでしょう」 「なにをおっしゃっているのかよくわからんが、きたない舟で気持がわるかったでしょう。それじゃ、これで」  老人は、おかしな女だと思いながら引き返していったところ、もとの渡し場のあたりまでいくと、二人の男の溺れ死体が浮いているのが見えた。さらに進んでいくと、何千匹という魚が水の上をはねていて、風に吹かれて岸へとびあがっていくのが見えた。老人は葦を捨ててその魚を拾い集め、舟いっぱいに積んで家へ帰った。  女は神になった丁氏だったのである。丁氏はそのとき丹陽へ帰っていったのだった。  以来、江南の人々は丁氏を丁(てい)姑(こ)神(しん)と呼んであがめ、九月九日は仕事をせず、嫁の安息日にするようになった。江南の家々では、今でも丁姑神を祭っている。 六朝『捜神記』    鬼神の荒縄  長安に劉(りゆう)根(こん)という人がいた。  若いころから嵩(すう)山(ざん)に入って修行していたが、やがて神人にめぐりあって仙術を学び、ついにその秘訣を会(え)得(とく)して、思いのままに鬼神をつかうことができるようになった。  劉根は嵩山をくだって長安へもどり、市井に韜(とう)晦(かい)しながらひそかに世人の厄災を救っていたが、その後、穎(えい)川(せん)へいったところ、はしなくも捕吏に捕えられて獄につながれた。  穎川の太守は史(し)祈(き)といって、劉根を、妖法をおこなって衆をまどわす者とみなし、捕えて殺そうとしたのである。  史祈は劉根を獄から引きださせて、おごそかにいいわたした。 「その方は鬼神をつかうなどと大言して良民をまどわしているが、まことに不(ふ)埒(らち)。よって、死罪を申しわたす。不服ならば、いまここで鬼神をつかって見せるがよい」  すると劉根は平然としていった。 「鬼神をつかうことなど、いともたやすいことです。お望みとあらば、眼前でごらんにいれましょう。つきましては、筆を一本お貸しください」 「この期(ご)におよんで、まだたぶらかしをしようとするのか」 「たぶらかしかどうかは、ごらんになればわかりましょう。まず筆をお貸しください」  史祈がにがい顔をして小役人に筆をわたさせると、劉根は紙になにやら御(ご)符(ふ)のようなものを書いた。と、さっと一陣の風がふきおこり、同時に役所の門前に人々のざわめく声がきこえてきたかと思うと、数人の鬼神が二人の囚人を縛ってあらわれた。鬼神は眼を怒らして史祈をにらみつけていった。 「おろかな役人め! この二人の囚人が誰か、よく見るがよい。おまえの両親がこのような縄目のはずかしめを受けているのも、おまえのせいだぞ。神仙の道を疑うばかりか、かしこくも真(しん)人(じん)さまを捕えて死罪にしようなどとは、なんということだ」  史祈が見ると、荒縄で縛られているのは、まごうことなく、先年死んだ自分の父と母であった。両親は劉根にむかって叩(こう)頭(とう)して、 「真人さま、息子が無(ぶ)礼(れい)をはたらきまして、なんとも申しわけございません」  といい、さらに息子を叱っていった。 「おまえは、なんという恥知らずだ。先祖に対して光栄をあたえることができないばかりか、かえって神仙に対して無礼をかさね、生みの親にまでこのような難儀をかけるとは。改心して早くおゆるしを請うがよい」 「改心いたします」  と史祈はぶるぶるふるえながらいった。 「改心いたしますゆえ、鬼神さま、なにとぞおゆるしくださいませ」  すると鬼神がまた眼を怒らしてどなりつけた。 「ばかものめが! わたしたちにゆるしを請うてなにになる。そちらの真人さまに謝罪をするのだ」  史祈はあわてふためき、劉根にむかって叩頭していった。 「真人さま、まことにご無礼をいたしました。その罪は万(ばん)死(し)にあたります」 「そうだ。おまえのいうとおりだ。その罪万死にあたると思うなら、いますぐわたしたちがおまえをつれて帰ろう」  鬼神がそういっておどかすと、史祈はいよいよあわて、ますますふるえて、 「鬼神さま、真人さま、どうかおゆるしくださいませ。今後はかならず身をつつしみ、心をいれかえて、決してこのようなことのないようにいたしますから、今回のことはなにとぞおゆるしくださいませ」 「いや、つれて帰る!」  と鬼神がなおもおどかすのを、劉根が手で制して、 「もうよい。そなたたちは控えていなさい」  といい、史祈にむかって笑いながら、 「太守どの。これで眼がさめたかな。これからは、権力をかさに着て無(む)辜(こ)の良民を苦しめたり罰したりするようなことのないようにな」  といった。 「ははっ!」  といって史祈は平伏したが、おそるおそる顔をあげてみたときには、すでに、劉根の姿も鬼神たちの姿も両親の姿も、なにもなく、ただ、両親が縛られていた荒縄が落ちているだけであった。  その後、劉根の姿を見かけた者は誰もなかった。また嵩山へもどっていったという噂であった。 六朝『捜神記』    桶を作る老人  長安に韋(い)行(こう)規(き)という人がいた。弓矢を取っては並ぶ者なしと自負する血気の若者であった。  あるとき西方へ旅し、夕暮れ、ある宿場に着いたが、彼は宿をとらなかった。しばらく行くと一人の老人が呼びとめた。老人は家の前で桶(おけ)を作っていた。 「もう日が沈みますよ。夜道はおやめになったほうがよいでしょう。このあたりには賊が出ますでのう」  と老人はいった。 「なんの賊などおそれよう」  と韋行規はいいかえした、 「わしには弓がある。わしの弓に敵(かな)う者はいない」  彼はそういって馬を進めた。日が沈み、次第に夜がふけてきたが、なにごともおこらなかった。——賊もわが弓矢におそれをなしたと見える。韋行規がそう思いながらなおも進んでいくと、やがて真夜中と思われるころ、道端の草むらの中から一人の男があらわれた。韋行規はそしらぬふりをして進んでいった。男はあとをつけてくる様子である。  頃あいを見て韋行規は突然一(いつ)喝(かつ)した。 「何者だ!」  だが、男は一言もいわず、そのまま韋行規のあとをつけてくる。韋行規は怒って弓をひきしぼり、ふりかえりざま、男の胸もとめがけて矢を放(はな)った。確かな手ごたえがあって矢は男の胸に命中したはずだったが、しかし男はそのままついてくる。  韋行規はつづけて二の矢を放った。それも確かな手ごたえがあった。三の矢、四の矢、いずれもみな男の胸に命中したはずなのに、男はすこしもひるまず、依然としてついてくる。手持ちの矢を全部射(い)つくしたが、なおも男はついてくる。韋行規はおそろしくなって馬を走らせた。ところが、いくら馬を走らせても、ふりむいて見るといつも男はすぐうしろについているのだった。  なおも夢中で馬を走らせ、しばらくしてまたおそるおそるふりむいてみると、男はもういなくなっていた。ほっと一息ついたとたん、にわかにはげしい風が吹きおこり、同時に天が裂けたかと思うばかりのすさまじい稲妻と雷鳴が眼をくらませ耳を聾(ろう)した。韋行規はころがり落ちるように馬を下り、道端の大木の下へ逃げこんだ。  空中にはまるで鞠(まり)撃(う)ちの杖(つえ)の飛びちがうように稲妻が光って、その光は韋行規の身につきささり、雷鳴は韋行規の身をゆすぶるほどのはげしさであった。雷は次第に下の方へおりてきて、大木の上で光りとどろいた。と、木の葉が散るように何かがばらばらと落ちてきた。それは板切れだった。板切れは雨のように落ちてきて、みるみる韋行規の足をうずめ、膝をうずめ、腰をうずめ、胸をうずめるまでに積(つも)った。韋行規は板切れの中にうずまったまま逃げることもできず、天にむかってしきりに歎願した。 「どうかお助けください。もう弓矢におごるようなことはいたしません。お助けください」  彼はひたすら天を拝みつづけた。拝むこと数十回、ようやく雷鳴は遠ざかり、風もやんだ。身動きもできなかった板切れの中からも、身を抜くことができた。ほっとしてあたりを見まわすと、大木の幹は裂け、枝は折れ、乗ってきた馬の姿はどこにも見えなかった。  もう道を進む気力もなく、韋行規はもときた道をひきかえした。くるときは馬だったが、こんどは徒歩なので、ようやくもとの宿場の見えるところまでもどったときには、すでに夜も明けていた。  宿場のはずれでは、昨日と同じように老人が桶を作っていた。韋行規はその老人が尋常の人ではないと見て、その前へいって丁(てい)寧(ねい)にお辞儀をしていった。 「昨日はせっかくおとめくださいましたのに、高慢なことを申しまして失礼いたしました。おおせのとおり、さんざんな目にあいました」  老人は桶を作る手をやすめて韋行規を見、笑いながらいった。 「弓矢を恃(たの)むのはおよしになることですな。まあ、こちらへおいでなさい」  老人は立ちあがって、韋行規を家のうしろへつれていった。そこには、韋行規の馬がつないであった。 「これはあんたの馬だから、お返しします。さあ乗っていきなさるがよい。わしはただ、ちょっとあんたをためしてみただけです。そうそう、もう一つお見せしたいものがある」  老人が韋行規をつれていった小屋には、桶を作る板切れが積まれていた。それは昨夜、天から降りかかってきて韋行規の身をうずめた板切れだった。そして、さらに韋行規がおどろいたことには、その板切れの幾枚かに彼が昨夜射た矢がささっていたのである。 唐『酉陽雑俎』    夢を生かす男  洛陽に劉(りゆう)という男がいた。仕官もせずにぶらぶら暮していたが、どこか尋常の人とはちがった風格をもっていた。  張(ちよう)易(えき)という人がこの劉と知りあって、したしくゆききしていたが、ある日、劉が張易を訪ねてきていった。 「町の男に銀を売ったのですが、ろくに代金もはらわないのです。いっしょにいって催促をしてくれませんか」  張易が承知して劉といっしょにその町の男のところへいってみると、男はかえって、さかねじを食わせて劉を罵(ののし)った。 「あれはにせ銀だったよ。さきにはらった代金だけでも、はらいすぎたくらいだ」 「では、もらった代金は返すから、銀を返してくれ」 「あんなものは、とっくに処分してしまったよ。にせ銀をもっていても仕様がないからな。おれに大損をかけた上、まだずうずうしく金(かね)をゆすろうというのか」  男は劉を、いかさま師とかゆすりとかいって、さんざんにあくたいをついた。劉が不正なことなどするはずのないことを知っている張易は、すっかり腹を立てて、 「おまえこそ、いかさま師ではないか」  と罵ったが、劉は「まあまあ」といってかえって張易をなだめ、そのまま男の家を出た。帰途、劉は張易にいった。 「あの男は愚か者で、ものの道理をわきまえませんから、わたしがすこし、こらしめてやります。そうしないとあの男は土地の神霊の怒りにふれて、かえって重い罰を受けるでしょうから。こらしめてやるのが、あの男を救う道です」 「どんなふうに?」  とたずねると、劉は笑ってこたえなかった。  その夜、劉は張易の家に泊った。張易が気づかれぬようにして劉の様子をうかがっていると、劉は明りを消してからこっそり起きだし、自分の寝台の前で炭火をおこしはじめた。火がおこると、何か薬のようなものを取り出して、火の中へくべた。それがすむと、劉は寝てしまった。  張易がなおも様子をうかがっていると、やがて一人の男があらわれて、消えかけた炭火を吹きだした。頬をふくらませ、唇をまるくとがらせて、しきりに吹いている。よく見るとその男は、あの銀をごまかした男だった。男はいつまでも、休みなく火を吹きつづけていたが、夜明けごろになると、その姿はいつのまにか消えていた。  朝になって見ると、劉の寝台の前には昨夜の炭火のあとは、あとかたもなかった。張易は昨夜のことは夢だったのかと疑い、劉にたずねてみることもはばかられて黙っていた。劉はいつもとかわったところもなく、朝食をともにしてよもやま話をし、帰っていった。  張易は、火を吹く男のことが夢ともうつつともつかぬまま、気になってならなかったので、それから十日あまりたったある日、例の男を訪ねてみた。すると男は、ひどくやつれた顔をして出てきていった。 「どうも不思議な目にあいました。このあいだ劉さんにあくたいをついた晩でした、夢で誰かがわたしをつれ出しにきて、どことも知れぬところへ引っぱってゆかれ、そこで夜どおし炭火を吹かせられたのです。一息も休むことができず、しまいには息が切れてしまって、死ぬほどの苦しさでした。朝になると夢がさめましたが、ひどく息切れがして胸が苦しく、それに火を吹きつづけたせいか、唇がすっかり腫(は)れあがって、ものを食うこともできず、喋(しやべ)ることもできず、十日あまり苦しみつづけました。わるいことをした報いだと思います。これからは心をいれかえて、まともに暮そうと覚悟をきめました」  張易は男のいうことをきいて、さては自分が見たのはうつつであったのかとおどろいた。しかし、男は夢の中でそんな目にあったのだから、かならずしもうつつとはいえぬ、と思うと、いよいよ不思議でならなかった。  劉はこういう不思議な術をおこなったので、河(か)南(なん)の尹(いん)の張(ちよう)全(ぜん)義(ぎ)という人に尊敬されて、よくその家に出入りしていた。  あるとき張全義は天子の宴に招かれて陪食した。食事のさなかに天子はふと、魚のなますを食べたいといいだした。それをきいた張全義は劉のことを思っていった。 「すぐ、ととのえることができます」 「すぐ? 魚をとりよせるのに暇(ひま)がかかるぞ」  と天子はいった。 「さほど暇はかかりません。わたくしの知っております劉という者に申しつけますならば、すぐにととのえることができると思います」  そこで、劉が呼びよせられた。 「庭に小さい穴を掘っていただきたい」  と劉はいった。穴ができると、 「水をみたしていただきたい」  といった。水がみたされると、 「どんな竿でもよい、釣竿をいただきたい」  といった。釣竿がわたされると、劉は天子の見ている前で、しばらく釣糸を垂れていた。と、五、六匹の魚がつぎつぎに釣りあげられた。人々の感歎するなかで天子はにがい顔をしていたが、突然大声で叫んだ。 「なますはいらぬ。そやつは妖術を以て人をまどわすおおそれたやつだ。ただちにふん縛って獄へ投げこんでしまえ!」  劉はすぐ人々にとりおさえられ、鞭(むち)うたれること二十杖。手(て)枷(かせ)、首枷をはめて獄へいれられてしまった。  明朝殺してしまえという天子の命令だった。蟻のはい出るすきまもないほどの厳重な警戒であったが、劉はその夜のうちにかき消えるように姿をくらましてしまった。  その後、劉のゆくえを知る者は誰もなかった。 宋『稽神録』    神に殺された男  建州に呉という武将がいた。呉は出陣を前にして、あらたに鋳造した鋭利な剣を持って、梨(り)山(ざん)廟(びよう)に参詣した。  建州の梨山廟は、唐の懿(い)宗(そう)のとき侍(じ)御(ぎよ)史(し)だった李(り)頻(ひん)を祭った廟である。李頻は百官の違法を摘発するというその職務を、極めて厳正に遂行した。相手がいかに大官であろうと、いやしくも法をまげておもねるというようなことは微(み)塵(じん)もしなかった。そのため大官たちに憎まれ、建州の刺史に左遷されて、再び都に召喚されることのないまま、この地で死んだ。死んだ夜、建州の人々の多くが、李頻が白馬にまたがって梨山にはいって行くのを見た。そこで廟を建てることになったのだという。  さて、梨山廟に参詣した呉は、神に祈願した。 「どうか、この剣で十人の敵を斬り殺すことができますように……」  その夜、神のお告げがあった。 「人を殺すなどという悪い願いを、神にかけるものではない。しかし、わたしはおまえを救ってやろう。おまえが敵に斬り殺されることのないようにしてやろう」  呉はよろこんで出陣した。だが、呉の軍は大敗し、呉の左右をまもっていた者たちも散りぢりになってしまった。逃げる呉を大勢の敵が剣をふりかざしながら追いかけてきた。もはや逃げとおすことはできないと覚悟した呉は、足をとめて敵をふり向きざま、その鋭利な剣で自(みずか)ら首を刎(は)ねて死んだ。 宋『稽神録』    梨と道士  田舎(いなか)の男が、車に梨を積んで、町へ売りにきた。梨は芳(かんば)しくてうまかったので、よく売れた。売れると、男はだんだん価を高くしていった。  そのとき、破れ頭(ず)巾(きん)をかぶった、みすぼらしい身なりの道士が車の前にやってきて、 「わしに一つくれぬか」  と手をさし出した。 「きたない坊主だな。商売の邪魔だ。あっちへいってくれ」  と梨売りはいったが、道士は去らなかった。いくらいっても動かないので、梨売りはすっかり腹をたててしまい、 「この乞食坊主めが!」  と、口ぎたなく道士を罵(ののし)った。それでも道士は、 「梨は何百とあるではないか。その中からたった一つくらいくれたって、お前さんにはたいして損にはなるまいに、なぜそんなに怒るのだね」  といって立ち去らない。 「小さいのを一つやって、帰らせたらいいじゃないか」  と見ていた者がすすめたが、梨売りはきかず、道士もまた去ろうとはしない。二人がいつまでも、「くれ」「やらぬ」、「くれ」「やらぬ」と押問答をつづけているので、車のまわりは物見高い人々でいっぱいになった。  車はある店の前にとまっていた。店の者は大勢の人が集ってきてうるさくてならないので、梨を一つ買って道士に与えた。  道士は一礼してそれを受けとると、人々に向っていった。 「わしたちは物惜しみをしません。わしにはうまい梨がたくさんあります。いまからみなさんに分けてあげましょう」 「あるのなら人にもらわずに、なぜ自分のを食わないのかね」  と一人がいうと、道士は、 「さきほど頂戴した梨を種にして、これから実(みの)らせるのです」  といって、もらった梨をむしゃむしゃと食い、種を残すと、かついでいた鋤(すき)をおろして地面に穴を掘り、種をいれて土をかぶせた。そして、 「どなたか、これにかける湯をくださらんか」  といって、人々を見まわした。物好きな男が露店から熱い湯をもらってきて道士にわたすと、道士はそれを、種を埋めたところへそそぎかけた。  と、見る見るそこから芽が出てきて、だんだん大きくなり、枝葉が繁り、花が咲き、実を結んだ。大きな芳しい梨がいっぱいになったのである。道士はそれをちぎって、大勢の見物人の一人一人に一つずつ分けてやった。道士は梨をみんなちぎってしまうと、鋤で木を伐りはじめた。しばらく鋤をふるっているうちに木が倒れると、道士は枝葉のついたままそれを肩にかつぎ、そのまま行ってしまった。  梨売りは、道士が種を植えはじめたときから、人々といっしょに眼をまるくして見ていて、商売の方はすっかり忘れていたが、道士が行ってしまってから我にかえって車を見ると、梨はすっかりなくなっていた。道士が人々に分けてやった梨は、みな彼の梨だったのである。しらべてみると、車のかじ棒がなくなっている、切り取ったあとがなまなましかった。  梨売りはカッとなって、急いで道士を追いかけていったが、道士の姿は見えず、曲りかどの垣のところに、かじ棒が捨ててあった。道士が伐り倒した梨の木というのは、このかじ棒だったのである。  道士のゆくえはついにわからなかった。 清『聊斎志異』    奇門の法  徳州に宋(そう)清(せい)遠(えん)という人がいた。  ちかごろ知りあって、意気投合した友人がいたが、ある日、その友人を訪ねていったところ、話がはずんで、いつのまにか夜になってしまった。友人はしきりに泊っていくようにすすめて、 「今夜はよい月夜だから、一つおもしろい芝居をお目にかけましょう」  という。 「どんな芝居ですか」  ときくと、友人は笑って、 「いまにわかります。さて、準備をしましょうか」  といい、堂の下の庭に橙(だいだい)の実を十個あまりころがしてから、宋を堂の上に招いて、 「飲みながらここで見物しましょう」  と、酒をすすめた。  夜のふけるにつれて、月はますます明るくなってきた。と、一人の男が垣を越えて庭へしのびこんできた。友人は無言で、目くばせをする。  見ていると、しのびこんできた男は橙に出あうごとに、つまずき、よろめき、越えにくそうにして、やっとのことで一つ一つ越えていったが、全部を越えてしまうと、こんどはまた逆に進み、逆に進んで全部を越えてしまうと、つぎにはまた曲って進み、行ったり来たり、百回も二百回もそんなことをくりかえしていたが、しだいに疲れてきて、ふらふらになり、ついにはもう動けなくなって倒れてしまった。 「どうです? おもしろい独り芝居でしょう」  と友人はいった。やがて夜が明けてくると、友人は倒れている男を堂の上につれてきて、 「気つけ薬だ」  といって酒を一杯飲ませてから、 「おまえは、なにをしにやってきたのだ?」  ときいた。男はおそれいって答えた。 「わたくしは泥棒でございます。お宅の庭へしのびこみましたところ、幾重にも垣がつくられていまして、越えても越えてもはてしがございませんので、引き返そうとしましたが、帰りみちにもたくさん垣があって、いくら越えても外へ出られず、とうとうくたくたになって倒れてしまったのでございます。わるい心をおこした罰です。どうかお気のすむまで打つなり蹴るなりしてくださいませ」 「そうか。なにも取ったわけではないのだから、よろしい、もう帰りなさい」  友人はそういって、笑いながら男をゆるしてやった。それから宋にむかっていった。 「昨夜はあの男がやってくることがわかっていたものですから、あなたのおなぐさめにと思って、たわむれに術をかけてやったのです」 「あれはどういう術ですか」  と宋がきくと、 「奇門の法というものです。うかつにおぼえると、かえってわざわいをまねきますが、あなたは高潔な方(かた)ですからその心配はございません。もしお望みならこの法を伝授いたしますが、いかがでしょう」 「せっかくのお言葉ですけれど、わたしのような凡(ぼん)庸(よう)な者は、知らないほうが身のためと思いますので……」  宋がそういって辞退すると、友人は嘆息して、 「学ぶことを願う者には伝うべからず、伝うべき者は学ぶことを願わず。ああ、この術もついに絶えるでありましょう」  といった。  その後、友人は旅に出るといって宋に別れを告げにきたが、そのまま再び徳州にはもどってこず、誰もその行方を知る者はないという。 清『閲微草堂筆記』    あかずの間  平陽の知事に朱(しゆ)鑠(れき)という人がいた。  はなはだ残忍な性格で、罪人を苦しめるために特に重い首(くび)枷(かせ)をつくったり、太い棒をつかったりした。殊に女を苦しめることをよろこび、妓女などがひかれてくると、一糸もまとわぬ丸裸にして、容(よう)赦(しや)なく打ちすえては、その苦しみのたうつさまを見てたのしんだ。罪の軽重にはかかわりなく、容貌の美しい者ほど刑罰を重くして、黒髪を剃(そ)ってくりくり坊主にしたり、はなはだしきにいたっては小刀で鼻の穴をえぐったりした。  このような残忍なことをしながら、彼は、自分は美人を見ても心をうごかすことのない鉄石心を持つ者だと人に誇っていた。特に女に対して残酷なことをするのは、美人の美をうしなわしめてしまえば美貌にまよう者はなくなり、従って世の道楽者もなくなるからだなどといった。  やがて朱鑠は平陽の任期が満ちて、山東へ転任することになり、家族をつれて任地におもむく途中、荏(じん)平(へい)というところの宿に旅装を解いた。そのときのことである。宿に、扉を釘(くぎ)づけにした一棟があるのを見て、主人にそのわけをたずねると、以前そこにはしばしば妖(あや)しいことがおこったので、長いあいだあけずにいるとのことであった。朱鑠はそれをきくと、あざ笑っていった。 「それはおもしろい。なにごとがおこるか、おれが泊ってみよう」 「およしになったほうがよろしゅうございましょう。もしものことがあったら、とりかえしがつきません」  主人がそういってとめると、朱鑠は怒って、 「ぐずぐずいわずにあけろ。妖怪など、おれはこわくない。おれの威名をきけば、おそらく妖怪も逃げてしまうであろうが、もし出てくれば、なおおもしろい。たちどころにおれが退治してやる」  といった。 「いいえ、およしになってくださいませ」  主人がおなじことをいってひきとめると、朱鑠はいよいよ怒って、 「きさま、このおれをあなどる気か……」  とどなった。 「いいえ、さようなことはございません。ただ、おとめしているだけでございます」 「なぜとめる。とめることが、おれをあなどっていることだ」 「いいえ、知事さまの平陽県での威名はわたくしどももよく承知しております。おそれこそすれ、どうしてあなどったりなどいたしましょう」  そういう主人の顔は、かすかに笑いをうかべているように見えた。朱鑠はそれを見(み)咎(とが)めて、いきなり主人を打(ぶ)った。主人の顔は、打たれながらもなお、笑いをうかべているように見えた。  朱鑠の家族の者もしきりにやめさせようとしたが、朱鑠はどうしてもきかず、とうとう主人にその家の扉をあけさせ、妻子たちは別の部屋へ泊らせて、自分ひとり、剣を握り燭(しよく)をたずさえて中へはいっていった。  宵のうちはなにごともなかった。妖怪もおそれをなしたと見える、と朱鑠は横になった。しかし気をくばって眠らずに待っていると、夜もようやくふけたころ扉をたたく音がきこえた。  黙って気配をうかがっていると、扉をあけてはいってきたのは、白い鬚(ひげ)を垂れ、赤い冠をかぶった老人だった。朱鑠が剣をにぎりなおして身構えると、老人はうやうやしく一礼をしていった。 「わたしは決して妖しいものではありません。この地方の土地の神です。あなたのように剛勇の方がこの地をお通りになったことは、妖怪どもの殲(せん)滅(めつ)される時期がきたものと、よろこびにたえず、それゆえご挨拶にまいったしだいです」  朱鑠は半信半疑で、剣を構えたままじっと老人を見つめていた。あるいはこれが妖怪かもしれぬ、もし妖しいふるまいにおよんだら、たちどころに斬り伏せてしまおうと心をくばっていた。すると老人はいった。 「あなたのような方が、神と妖怪とをお見わけにならないはずはないと思います。つきましては、土地の神として、お願いしたいことがありますが、きいてくださいますでしょうか」 「いってみられよ」  と朱鑠はいった。 「おそらく、やがて妖怪どもが続々とあらわれると思います。かれらは一目見ればすぐそれとわかりますゆえ、姿が見えたらただちにその剣で片っぱしから斬り殺してください。猶(ゆう)予(よ)なさいませんように。わたしもおよばずながら、かげでご助力させていただきます」 「よろしい。承知しました」  と朱鑠は大きくうなずいた。 「あなたのご勇武のほどは、よく承知しておりますが、なんといっても相手は妖怪のこと、おぬかりのないように願います」 「ご念にはおよびません」 「それでは、お願い申します」  老人は一礼して帰っていった。  朱鑠は剣をにぎって待ちかまえていたが、いくら待っても妖怪はあらわれなかった。やがて、ようやく夜の白みかけてきたころである。なにやらひそひそとささやく声がきこえ、扉をおしあけて、青い顔のもの、白い顔のもの、大きなもの小さなものらが、つぎつぎにしのびこんできた。朱鑠は無言でおどりかかってゆき、あの老人のいったとおりに、片っぱしからかれらを斬りたおした。さして手(て)強(ごわ)い相手もなく、みなを斬り伏せてしまうと、なおも扉のほうにむかって身構えていたが、もはやあとにつづくものはなかった。 「残らず妖怪どもを退治したぞ!」  朱鑠はあふれるような満足感をおぼえて、宿じゅうにひびくような大声でそう叫びつづけた。  すでに夜はあけそめていた。主人をはじめ宿の者らがその声をきいて、かけつけてきた。部屋のなかには果して幾つもの死体が血を流して横たわっていた。それを見た人々は、いっせいにみな「あっ!」とおどろきの声をあげた。得意げに突っ立っている朱鑠の前で、人々はあまりのおそろしさに、しばらくは言葉も出なかった。「おお」「おお」というばかりである。 「うん。さして、手強い相手でもなかったぞ!」  といって、朱鑠は誇らしげに昨夜からの顛(てん)末(まつ)を話した。 「いや、あなたはたいへんなことをなさいました」  と、そのときはじめて主人がいった。その顔はやはり、かすかに笑っているように見えた。 「知事さま、よくごらんなさいませ」  そこにたおれている死体は、朱鑠の妻や妾や、息子や娘たち、それに下男や下女たちだったのである。主人にいわれてはじめてそれを知った朱鑠は、どっと床(ゆか)にたおれ、肺腑をえぐるような声をあげて嘆(なげ)いた。そして、主人を指さして、 「きさま、おれをたぶらかしやがって!」  と叫んだかと思うと、そのまま息絶えてしまった。  朱鑠の家族たちは、夜の白みかけたころ、主人の安否を気づかってみんなでのぞきにきたのだった。  宿の主人が術者だったのかどうかはわからない。朱鑠のかずかずの残忍な行為の報いが本人はもとより家族にまで及んだものであろうとして、宿の主人は格別の咎(とが)めを受けることもなくすんだという。 清『子不語』    二人の父親  呉(ご)興(こう)郡のある農家に、二人の息子がいた。  ある日、息子たちが畑で仕事をしていると、父親がやって来て、 「この怠(なま)け者めが!」  とどなりつけ、二人をさんざんに殴った。  息子たちには父親の仕打ちがどうにも納(なつ)得(とく)できなかった。しかし仕事をつづけ、昼になって家に帰ってから、母親に不満をぶちまけた。母親がそれをきいて、 「おまえさん、なんで息子たちをひどい目にあわせたんだね、理(り)不(ふ)尽(じん)な」  となじると、父親は、 「なんだって? おれが畑へ行って息子たちを殴ったって? なにをいってるんだ。おれはずっと家にいたじゃないか」  という。 「そういえば、おまえさんはずっと小屋で仕事をしていたようだが……」 「そうだろう。おれは畑へは行かなかった。おれが、働いている息子たちを殴ったりするなんて、そんなことがあるはずはないじゃないか。もしかしたら、息子たちを殴ったのは、なにかの化(ばけ)物(もの)のしわざかもしれん」  父親はそういってしばらく考え込んでいたが、やがて息子たちに向って、 「そうにちがいない。おまえたち、もういちど畑へ行って、もしそいつがあらわれたら叩き殺してしまえ」  といいつけた。  息子たちはそこで、また畑へ行ってみたが、あたりはひっそりとして、なんの物影も見えない。二人は腰をおろして待っていたが、いつまでたっても化物はあらわれそうにもなかった。 「腹が減ってきたな。もう帰ろうか」  と二人が立ちあがったときである、うしろから、 「化物はあらわれなかったか」  という父親の声がきこえた。息子たちはふり返りざま、 「とうとうあらわれたな、化物め!」  と襲いかかり、二人して鍬(くわ)で叩き殺して、畑の隅に埋めてしまった。  一方、母親は、畑へ行った息子たちがなかなか帰ってこないので、夫に、 「おまえさん、息子たちの様子を見に行っておくれ」  といった。すると夫は、 「それじゃ、見に行ってくるか」  といって出て行ったが、それからかなりたったのに、その夫も帰ってこない。心配になって表へ出て見ると、向うから夫が帰ってきて、にこにこしながら、 「そっと見ていたら、息子たち、うまく化物を叩き殺したよ。もう安心だ」  といった。しばらくすると息子たちも帰ってきて、一家四人「よかった、よかった」といいあいながら昼飯を食べた。  それから五年間、一家には何事もおこらなかった。  五年たったとき、一人の旅の道士がその家の前に足をとめて、 「この家には妖気が立ちこめている」  といった。長男が出て行ってわけをきくと、道士は、 「あんたが父親だと思い込んでいるのは、あれは人間ではないぞ」  といった。長男が家へもどってそのことを告げると、父親は怒って身体をぶるぶるとふるわせながら、 「なにを道士めが! はやく叩き殺してしまえ」  といったが、そのとき道士が家の中へはいってきて、 「こやつ!」  と一喝すると、たちまち父親の姿は一匹の古狸に変って、床下へ逃げ込んだ。息子たちはそれを捕えて、その場で打ち殺した。そのとき母親は気が狂ってしまった。息子たちはあらためて父親の葬儀をし、喪にも服したが、知らなかったからとはいえ父親殺しの大罪を犯したことのおそろしさに耐えかねて、長男はついに自殺してしまい、次男も悶々としたあげく病気になって死んでしまった。 六朝『捜神記』    黒い鶴  尚書省の戸(こ)部(ぶ)の役人に、張(ちよう)検(けん)という人がいた。  その妻は評判の美人であったが、化(ばけ)物(もの)にとりつかれて病気になった。ところが、その化物の正体がなんであるかわからず、そのため病気はいっこうによくならなかった。  張検の家では良馬を一頭飼っていたが、まぐさは普通の馬の二倍も食べるのに、痩(や)せていくばかりであった。張検は不思議に思って、隣りに住んでいる西域人にたずねてみた。  すると西域人は笑いながら、 「馬というものは、一日に百里走れば疲れます。それなのに、千里以上も走らせては、痩せるのがあたりまえでしょう」  という。張検はいよいよ不審に思って、 「家ではわたしのほかに馬に乗る者はおりませんし、人に貸したこともありません。千里も走らせるはずはないのですが……」 「やはり、ご存じなかったのですか」  と西域人はいった。 「あなたがお役所で宿直をなさるたびに、奥さんが夜中に外出されるのですよ。もし、うそだとお思いになるなら、宿直の夜、帰ってきてごらんになればわかります」  そのつぎの宿直の夜、張検は西域人にいわれたとおり、こっそり帰ってきて、庭の隅にかくれて、様子をうかがっていた。  すると、夜がふけたころ、妻がきれいに化粧をして出てきて女中を呼び、馬に鞍(くら)を置かせて、それにまたがった。女中は箒(ほうき)に乗ってそのあとにつづき、二人は次第に空へ舞いあがっていって、やがて姿が見えなくなってしまった。  張検はしばらく茫然としていたが、気をとりなおして妻の部屋へいってみると、寝台はもぬけのからであった。  翌日、張検は西域人の家へいって、 「あなたのおっしゃったとおりでした。妻の身体に化物が乗り移っているのです。どうしたらよいでしょう」  といった。すると西域人は、 「あわてることはありません。つぎの宿直の夜、もういちどよく様子をごらんになったほうがよいでしょう」  という。  つぎの宿直の夜も同じだった。その夜、張検は妻が女中といっしょに飛び立っていってから部屋の帳(とばり)のかげに身をひそめて、帰ってくるのを待っていた。するとまもなく、妻は帰ってきたが、部屋の中へはいるなり、 「おかしい! 生きた人間のにおいがするようだが……」  といい、女中に箒に火をつけさせ、あかりの代りにし、部屋中を隈なく照らして、さがさせた。張検はあわてて、部屋の隅に置いてあった大(おお)甕(がめ)の中へ身をかくした。  しばらくすると、妻はまた馬に乗って出かけようとしたが、女中はいましがた箒に火をつけてしまったので乗る物がない。 「どうしましょう」  というと、妻は、 「部屋の隅に大甕があったでしょう。あれに乗りなさい」  といった。張検はそれをきいて、いそいで甕から出ようとしたが、そのひまもなく、女中がやってきて、甕にまたがった。甕はどんどん空へ舞いあがっていくようだが、張検は生きたここちもなく、眼をあけることもできなかった。  しばらくすると甕がとまって、女中が下りていった。張検がそっと首を出して見ると、そこは山の頂上の林の中で、すこしはなれたところに幔(まん)幕(まく)が張ってあり、そこで数人の男女がそれぞれ一組ずつになって仲むつまじく酒をくみかわしたり、ふざけあったりしていた。  四、五時間たって、ようやく酒宴がおわると、張検の妻は馬にまたがり、女中はふらふらした足どりで甕のほうにやってくる。張検はいそいで首を引っこめたが、女中は気がついたらしく、 「おや、甕の中に誰かはいっているみたい……」  といい、傍へくるなり、いきなり甕を横倒しにした。とっさに張検は甕から出て灌木の繁みのかげにかくれたが、女中はそのあとで甕の中をのぞいて、 「なんだ、誰もいやしない。酔っぱらったせいかな」  とつぶやいて、そのまま甕にまたがると、甕は女中を乗せてふわふわと浮きあがり、夜の闇の中へ消えていった。  張検は夜があけるまで、繁みのかげに身をひそめていた。夜があけてから見まわすと、あたりには人かげはなく、昨夜幔幕が張ってあったあたりに、焚火のあとがくすぶっているだけであった。  張検は道をさがしながら、七、八里も山をくだって、ようやく麓に着いた。途中、いちども人に出会わなかった。麓の村で、ここはどこかときくと、〓(ろう)州(しゆう)(四川省)だという。長安からは数百里もはなれたところである。  張検は物乞いをしながら旅をつづけ、さんざん苦労した末、ひと月あまりかかってようやく家に帰った。妻はその姿を見て、 「ずいぶん長いこと留守になさって、いったいどこへいっておいででしたの」  といった。 「役所の秘密の用事で北の方へいっていたのだよ。それより、おまえ、病気はどうだ」  と張検がきくと、妻は、 「だいぶんよくなりました」  といった。張検にはそれが、化物にとりつかれている妻か、そうではない妻か、見わけがつかなかった。  張検はまた西域人をたずねて、こんどのことを話し、これからどうしたらよかろうと相談をすると、西域人は、 「化物はもう怪異を出しつくしたようですな。こんど飛び立ったときをねらって術をつかってからめ取り、火で焼いてしまいましょう。わたしにおまかせください」  といった。つぎの宿直の夜、張検の妻はまた馬に乗って空へ飛び立った。西域人はそれを見るといそいで庭に焚火をし、空にむかってふーっと息を吐いた。すると空から、 「助けて!」  と叫び声がきこえ、やがて黒い鶴がまっさかさまに落ちてきて、焚火の中で焼け死んでしまった。  張検があわてて、 「妻は?」  というと、西域人は、 「これでもう、奥さんの病気はなおりました」  といった。張検がいそいで妻の部屋へいってみると、妻は身体中に汗をかいていて、張検を見るとほっとしたように、 「わたし、こわい夢を見ていた」  といった。  唐『広異記』   板橋の三娘子  〓(べん)州(しゆう)の西の板(はん)橋(きよう)店(てん)という村に、街道沿いに一軒の旅籠(はたご)屋(や)があった。宿のあるじは三(さん)娘(じよう)子(し)という女で、どこからきた人か、誰も知らなかった。三十歳あまりの独(ひと)り者(もの)で、身内の者もなく、使用人もおらず、一人で客のもてなしをしていた。  小さな宿だが、なかなか豊からしく、裏の厩(うまや)には驢(ろ)馬(ば)をたくさん飼っていた。その驢馬を、車馬のない旅人には安く売ったり貸したりしてやるので、三娘子の評判はよく、そのため街道を通る旅人は多くこの宿で休んだり、あるいは泊ったりして、かなり繁昌していた。  あるとき、許州の趙(ちよう)季(き)和(わ)という人が洛(らく)陽(よう)へ行く途中、この宿に泊った。先客が五、六人いて、いちばん奥の寝台しかあいていなかった。そこは壁をへだてて、あるじの三娘子の部屋に隣りあっていた。  三娘子は愛想よく客をもてなし、夜中になると皆に酒をすすめた。客はよろこんで飲んだが、季和はもともと酒の飲めないたちだったので、仲間に加わらずに一人でいた。やがて皆が酔って寝てしまうと、三娘子も自分の部屋へはいっていった。しばらくするとその部屋の明りも消えて、家のなかは静まりかえった。  客は皆、酔い疲れてぐっすり眠ってしまったが、季和は眼がさえてなかなか眠れず、しきりに寝返りをうっていた。しばらくすると、ふと、三娘子の部屋で何かカサコソと音のするのがきこえた。それが耳について、季和はいよいよ眠れない。何をやっているのだろうと思うと、ますます眼がさえてくる。気になってならない。起きあがって壁の隙間からのぞいてみた。  すると、ちょうど三娘子が何か箱のような物をとりだして、蝋(ろう)燭(そく)の火に照らしているところであった。何だろう、といぶかりながら眺めていると、三娘子は箱のなかから小さな物をとり出した。よく見るとそれは、玩具(おもちや)のような鋤(すき)と、牛と、人形だった。いずれも六、七寸くらいの大きさの、木で造ったものだった。  三娘子はそれをかまどの前に並べ、口に水をふくんでプッと吹きかけた。すると先(ま)ず人形が動きだした。人形は牛に鋤をつけ、牛を追ってかまどの前のわずかな地面を行ったり来たりしながら耕しはじめたのである。  季和は夢を見ているのではなかろうかと疑い、眼をこすって見なおしたが、夢ではなかった。しかもそれどころか、さらに不思議なことがおこった、三娘子が袋から蕎(そ)麦(ば)の種をとり出して人形に渡すと、人形はそれを耕した地面に蒔いたのである。と、見る見るうちにそれは芽を出し、伸びて葉を繁らせ、花を咲かせ、実を結んだ。人形がそれを刈り取ると、三娘子は箱のなかから碾(ひき)臼(うす)を出して渡した。人形が碾臼をひいて七、八升の蕎麦粉を作ると、三娘子はまた箱のなかから搗(つき)臼(うす)と杵(きね)を出して渡す。人形が粉をついて麺を作ると、三娘子は牛も鋤も人形も碾臼も搗臼も杵も、皆もとの箱のなかへしまい、麺で焼(シヤオ)餅(ピン)をこしらえはじめた。  焼餅がいくつかできあがると、もう夜が白んできて、客が起きだした。すると三娘子は、その焼餅を食卓に出して、朝食の代りにどうぞ、とすすめた。季和は昨夜のことを知っているので気味わるく思い、急ぐふりをして、皆を残して外へ出た。  季和はいちど外へ出てから、誰も見ていないのを確かめると、またもどっていって家の横手からこっそりと部屋のなかをのぞいてみた。客たちは皆、食卓をかこんで焼餅を食べていたが、食べおわると同時に皆、足で地面を蹴って嘶(いなな)きだした。彼らは皆、驢馬になってしまったのである。すると三娘子は、それらの驢馬を家の裏の厩へ曳いて行ってしまった。そして、旅人たちの荷物は皆、奥へしまいこんでしまったのである。  季和はそれを見て身ぶるいした。無気味な思いで自分の身体を眺めまわした。何も異常はなさそうである。ホッと安(あん)堵(ど)し、足音をしのばせてその家を離れた。しかし不安でもあった。自分では何の異常もないと思っていても、他人から見れば驢馬になっているのかも知れない。しばらく行くと、旅人にゆき会ったので、季和は声をかけてみた。 「あの、洛陽へ行くのはこの道を行けばよいのでしょうか」 「そうですよ」  と旅人は何のあやしむ様子もなく答えた。ああ、よかった、助かったのだ、と季和は思った。それにしても、不思議なこともあるものだ、と思いかえしたが、そのことは自分の胸にひめたまま誰にも話さなかった。  それからひと月あまり後、季和は洛陽での用事をすませての帰途、また板橋店を通った。こんどは彼は心に期するところがあって、ある用意をしてきた。この前に見たのと同じ形、同じ色の、蕎麦粉の焼餅を作ってきたのである。それを持って季和は、さりげなく三娘子の宿へはいって行った、三娘子はいつものように愛想よく迎えた。どう見ても普通の女である。この女があのようなおそろしい不思議を行うとはどうしても思えないような。  その夜は、ほかに泊り客はなかった。三娘子はことのほか親切に季和をもてなした。彼は気どられぬように、つとめて気軽に相手になった。やがて夜がふけると三娘子はいった。 「もう休ませてもらいますが、ほかに何かご用はございませんか」 「いや、どうもありがとう」  と季和はいった。 「何もありません。お休みなさい。……ああ、そうそう、あしたは朝早く出かけますから、そのとき何か軽い食べものを出していただけるとありがたいのですが」 「はい、承知しました。それではごゆっくりお休みください」  三娘子はそういって自分の部屋へはいって行った。季和が眠ったふりをして気配をうかがっていると、やがて先夜とおなじカサコソという音がしはじめた。そっとのぞいてみると、箱のなかから木の牛や人形をとり出し、すべて先夜とおなじことがくりかえされて、やがて焼餅ができあがった。  夜があけると、三娘子はその焼餅を出して、 「さあ、どうぞ召しあがってください」  と愛想よくすすめた。季和がどうやってごまかそうかと迷っていると、ちょうど都合よく三娘子は、さらに何かを取りに奥へはいっていった。その隙に彼は急いで、自分の持ってきた焼餅と皿の上の餅をすりかえた。  再び三娘子が出てきたとき、季和は皿の上から、とりかえた焼餅をとってうまそうに食べて見せた。三娘子はかたわらで茶をついでもてなした。焼餅を食べおわって、さて出かけようというとき、季和は三娘子にいった。 「お世話になりました。なかなかおいしい焼餅でした。じつはわたしも焼餅を持っているのですが、こんなにおいしくはありませんけど、一つ、いかがですか」  季和がとり出したのは、勿(もち)論(ろん)さきにすりかえておいた三娘子の焼餅であった。 「どうぞ」  とすすめると、三娘子は礼をいってそれを食べた。そして戸口まで季和を見送りに出たが、そこでトンと地を蹴って嘶(いなな)くと同時に、そのまま驢馬に変じてしまった。季和はその驢馬を自分の乗馬にした。ついでに、あの木の牛や人形をいれた箱も取ってきたが、使い方を知らないので、どうにも仕様がなかった。  三娘子の変じた驢馬はなかなか強健であった。季和はそれに乗って方々を旅したが、一度もつまずくようなことはなく、ゆうに日に百里を行くことができた。  それから四年たったときのこと、季和はその驢馬に乗って函(かん)谷(こく)関(かん)を越え、華(か)岳(がく)廟(びよう)の東方五、六里のところを通った。すると道端に一人の老人がいて、手をたたいて笑いながらいった。 「おう、板橋の三娘子よ。そんな姿になりはてたか」  そして老人は季和にむかっていった。 「あなたにかかってはかなわない。その女もずいふん働かされたようですな。その女にも罪はあるが、もうこのへんでゆるしてやってくださらぬか」  驢馬をただちに三娘子と見破った老人を、季和はただものではないと思い、急いで飛びおりて一礼した。すると老人は、両手を驢馬の口にかけて、二つに引き裂いた。と、そこから宿屋にいたときのままの姿の三娘子が飛び出してきた。  出てきた三娘子はしきりに老人に拝礼をし、そのまま走り去って見る見るその姿は小さくなっていった。茫然とそれを見送っていた季和が、ふと気づいて、老人は? と見まわすと、すでに老人の姿はどこにもなかった。 唐『河東記』    張天師と黒魚  帰(き)安(あん)県に劉という知事がいた。赴(ふ)任(にん)してから半年ほどたったある夜、妻と寝ていると、しきりに門をたたく音がきこえた。  劉知事は自分で起きていったが、しばらくするともどってきた。妻が、 「誰でしたの」  ときくと、知事は、 「風で門ががたがた鳴っていただけだ。人がきたのではなかったよ」  といって、そのまま寝てしまった。妻もそれきり、なにも気にかけなかった。  その後、帰安県はよく治った。知事は善政をほどこし、訴(そ)訟(しよう)をさばくことあたかも神のごとく公正であったので、県民はみな知事の徳をたたえた。  それから数年後、道士の張天師がこの県を通った。ところが、劉知事は引きこもったまま出迎えようともしない。妻や部下の者がいくらすすめても、知事は気分がわるいといって、きかなかった。  張天師は県役所にくると、役人たちに、 「このごろ、この県に妖(あや)しいことはおこらぬか」  とたずねた。 「いいえ、なにごともおこらず、人々はみな泰平をたのしんでおります。知事は徳の高い人ですが、おりあしく病気のためお出迎えもできず、失礼しております」  役人がそういうと、張天師は眉をひそめ首をふって、 「いやいや、この県には妖気がある。知事の妻を呼んでくれぬか。しらべてみればわかるであろう」  という。やがて知事の妻が出てきて挨拶をすると、張天師はたずねた。 「数年前の風の夜、門をたたく音がしたことを覚えているか」  知事の妻はしばらく考えてから、 「はい、覚えております」  と答えた。 「そのときお前の夫が起きていったことも、覚えているな」 「はい、覚えております」 「そうか。やはりそうだったか。いまのお前の夫は、ほんとうの夫ではない。人間でもない。あれは年をへた黒(こく)魚(ぎよ)の精なのだ。お前の夫はあの夜起きていったとき、黒魚に食われてしまったのだ。もどってきたのは夫ではなくて、黒魚の精だったのだ」  天師の言葉にいつわりのあろうはずはない。知事の妻は天師にとりすがって泣き、 「おそろしいことでございます。どうか夫のために仇(あだ)を報いてくださいませ」  とたのんだ。  張天師はうなずき、壇にのぼって法をおこなった。しばらくすると、長さ数丈もある巨大な黒魚が壇の前にあらわれ、天師に向ってひれ伏す恰(かつ)好(こう)をしてうずくまった。 「お前の罪は死にあたる」  と、天師はおごそかに言いわたした。 「だが、知事になりすましていたあいだは悪事をおこなわず、よく県民を安からしめたゆえ、罪一等を減じて死をゆるし、甕(かめ)の中に封じこめておく」  天師は役人に命じて大きな甕を持ってこさせ、法をおこなうと、黒魚はたちまち甕の中へおどりこんだ。天師は神符で甕の口を封じて、それを県役所の地下に埋めさせた。  埋めるとき、甕の中からしきりに黒魚の哀願する声がきこえた。すると天師はまたおごそかに言いわたした。 「いまはゆるしてやるわけにいかぬ。わしが再びこの地を通るときを待て。そのときに放してやろう」  人々の知る限りでは、その後、張天師は再び帰安県を通らなかった。 清『子不語』    あとがき 駒田信二    和歌山県の新宮市に、徳川頼(より)宣(のぶ)(一六〇二—一六七一。家康の子。紀伊徳川家の祖)が建てたと伝えられている徐(じよ)福(ふく)の墓があって、碑面には「秦徐福之墓」の五字が刻まれている。熊野地方の伝説によれば、秦の始皇帝のとき、徐福は不老不死の仙薬を求めるという名目で、童男童女五百人をつれ、五穀の種や農耕の具をたずさえて日本に渡来し、熊野浦に上陸してこの地に永住し、農耕に従いながら童男童女を養育した。その子孫は後に熊野の長(おさ)になった、という。  徐福は、徐(じよ)市(ふつ)、徐(じよ)〓(ふつ)とも書かれる。 『史記』の「秦始皇本紀」の二十八年(西紀前二一九)の項に、次のような記述がある。  始皇帝はこの年、東方の郡県を巡遊し、〓(えき)山、泰(たい)山、梁(りよう)父(ほ)山、成(せい)山(栄(えい)成(せい)山)、之(し)罘(ふ)山、琅(ろう)邪(や)山(いずれも山東省)などに登り、それぞれの山で天地を祭り、秦の功(く)徳(どく)をたたえた文を刻んだ碑を建てた。琅邪山では、その風光をたのしんで三ヵ月滞在し、三万戸の民を山麓に移住させ、十二年間賦税を免除することにして、琅邪台を造らせ、例によって秦の功徳をたたえた碑を建てたが、そのとき方士の徐(じよ)市(ふつ)らが上書して、 「海中に三つの神山があります。その名は蓬(ほう)莱(らい)、方(ほう)丈(じよう)、瀛(えい)州(しゆう)といって、そこには仙人が住んでおります。われわれは斎(さい)戒(かい)して身をきよめ、けがれのない童男童女とともに仙人を求めに行きたいと存じます」  といった。始皇帝はそこで徐市をつかわし、童男童女数千人をおくって、海に出て仙人を求めさせた。  また、おなじく「秦始皇本紀」の三十七年(西紀前二一○)の項には、次のような記述がある。  始皇帝はこの年の十一月、巡遊に出たが、その帰途、琅邪へ行ったとき、徐市らが、海に出て仙薬を求めたが数年たっても入手することができず、要した費用は莫大だったため、譴(けん)責(せき)されることをおそれて、いつわって上書した。 「蓬莱島の仙薬は入手することができます。しかし、いつも大(おお)鮫魚(ざ め)に苦しめられて島まで行くことができないのです。どうか弓の名手をつれて行かせてください。大鮫魚があらわれましたら弩(いしゆみ)を連発して射とめます」  始皇帝はそこで、海に舟を浮かべる者らに大魚を捕える道具を用意させて、みずから連発の弩を持ち、大魚があらわれるのを待って射とめようとした。このようにして琅邪から北進して栄成山まで行ったが、大魚はあらわれなかった。なおも進んで之罘まで行ったとき、大魚があらわれたので、射って一魚を殺した。そこから海に沿って平(へい)原(げん)津(しん)(山東省)へ行ったとき、始皇帝は病(やまい)にかかって死んだ。 「秦始皇本紀」には徐市のその後のことは何も記されていないが、おなじく『史記』の「淮(わい)南(なん)衡(こう)山(ざん)列伝」には、伍(ご)被(ひ)が淮南王の謀(む)反(ほん)をとどめようとしていった言葉のなかに、秦の悪政を列挙して、次のように述べているのが見える。  ……また、方士の徐福に命じて、海上に出て神異の物を求めさせました。徐福は帰ってきて、いつわっていいました。 「私は海中で大神に会いましたか、大神が汝は西皇の使者かとたずねましたので、そうですと答えますと、汝は何を求めているのかとききました。そこで私が、願わくは延年長寿の薬をいただきたいと申しますと、大神は、汝が事(つか)えている秦王の礼物が薄いから、その薬は見せてはやるが取ってはならぬ、といって私を東南の蓬莱山へつれて行き、霊(れい)芝(し)の生えている宮殿を見せました。そこには使者がおりましたが、銅色竜形をしていて、全身から発する光が天上をまで照らしておりました。私が再拝して、どのような物を献上すればよろしいのでしょうかとたずねますと、海神は、良家の童男童女と、もろもろの工作品とを献上すれば、薬を得ることができるであろうといいました」  始皇帝はそれをきくと大いによろこんで、良家の童男童女三千人をつかわすことにし、これに五穀の種を持たせ、もろもろの工人をつけて出発させました。徐福は平原と広沢とを手に入れ、その地にとどまって王となり、再び帰ってはきませんでした。……  さらに『三国志』の「呉志」の「孫(そん)権(けん)伝」には、次のような記述がある。  黄竜二年(西紀二三〇)春正月、将軍衛温と諸葛直とに命じて、武装した兵士一万人をひきいて海を渡って夷(い)州および亶(せん)州を探求せしめた。亶州は海中にあるといわれてきたが、長老たちは次のようにいっている。 「秦の始皇帝は方士の徐福をして童男童女数千人をつれて海を渡り、蓬莱山や仙薬を求めさせた。ところが、徐福はその州にとどまって帰らず、代々そこに住みついて、その家族は数万戸にもなった。そればかりではなく、そこの民は時に会(かい)稽(けい)(浙江省)にきて交易をした。また、会稽東県の民は海に出て暴風にあい、流れて亶州に住む者もあった。その地は頗(すこぶ)る遠隔であるため、ついに帰ることができなかったのである。ただ夷州についた数千人は帰ることができた」と。  徐福が日本に渡来したという話は、中国のこれらの史書の記述にもとづいたものであろうが、これによって徐福渡来説を肯定することが早計であるのと同様に、否定し去ることもまた早計であろう。        * 「秦徐福之墓」という碑があるということは事実である。もとはただの石だったのであろうが、「秦徐福之墓」と刻まれたときには、すでにただの石ではなくなってしまっているのである。「戴(たい)侯(こう)祠(し)」や「石(せき)婆(ば)神(しん)」などはそういう説話である。「李(すもも)の神木」や「〓(せん)神(しん)廟(びよう)」や「槐(えんじゆ)の瘤(こぶ)代(だい)」などもそのたぐいの説話である。城門の礎石の石亀の眼から血がでたらこの町は陥没して湖になってしまう、ということを茶店の老婆は貧しい書生からきいた。門番の役人がいたずらをして石亀の眼に朱を塗ったところ、大水が出て町は陥没してしまったという「石亀の眼」も、それに類する。「秦徐福之墓」は秦の徐福の墓としてそっとしておく方がよいのである。  始皇帝は徐福に仙人を求めさせ、不老不死の薬を手に入れようとした。だが、他のすべてのことは望みどおりになった始皇帝にも、それは不可能なことだった。ところが「仙人の婿(むこ)」の張卓は、望みもしないのに、仙人の娘の婿になって仙界へ行ってしまったし、「張老の嫁」の韋(い)恕(じよ)の娘は、百姓の老人の求めるままに、これも運命だろうと思ってその妻になったところ、相手は仙人であった。だが、この二つの話の張卓も韋恕の娘も、少しもしあわせになったとは見えない。不可思議なことが語られているだけである。しかしまた「茶店の娘」のように、乞食の老人にやさしくしたことが、ほどほどに報われて読者を安堵させるような話もある。  ここに集めた七十七篇の短篇は、仙人、道士(方士)、天神、天女、さまざまな神、異人、術者などの、人(じん)為(い)を絶した術の話である。それらは、仙術、道術、神術、妖術、奇術など、それぞれの言葉の持つ意味においては区別することができるであろうが、それらが説話のなかにあらわれた形を見れば、術そのものについての明確な区別はない。なぜならば、それらの術はすべて人為を絶したものであるために、術そのものを明らかにすることは不可能なのであって、ただその結果が語られているだけだからである。つまり、すべて不可思議な術なのである。それらはわれわれの常識を超えた奇抜な、変幻自在な想像力が生み出したものといえよう。        *  七十七篇の説話は、一篇(「杜子春」)を除いてはみな忠実な翻訳ではなく、原話を私の文体で語りなおしたものである。奇抜な原話の世界へ現代の読者を案内するためには、そうした方がよいと考えたからであって、語りなおしたとはいえ、原話の筋をゆがめたり変えたり、つけ加えたりはしていない。 「杜子春」だけを忠実に翻訳したのは、芥川龍之介の「杜子春」とくらべる読者のあることを思って、というよりもむしろ、くらべてほしいと思ったからである。くらべてみれば両者の思考の根本的なちがいが明らかになるはずである。同じことは「山上の酒盛り」を西鶴の『諸国咄』のなかの一篇「残るものとて金の鍋」と、「鯉」を上田秋成の『雨月物語』のなかの一篇「夢応の鯉魚」とくらべることによっても明らかであろう。その他この七十七篇の説話のなかには、わが国に伝わって日本化している説話がかなりある。読者がどこかで読んだことがあると思われる説話はたいていそうだが、それと原話とのちがいをくらべてみれば、中国的発想あるいは思考の特質がうかがえるはずである。日本化している説話の多くは、芥川が杜子春を救いあげることによって話を結んでいるのと軌を一にするけれども、中国の原話では多くの場合、突き放している。日本化されたものよりも原話の方が、多くの場合、きびしく現(リ)実(ア)的(ル)なのである。最後に収めた「張天師と黒魚」の結末の、「人々の知る限りでは、その後、張天師は再び帰安県を通らなかった」という一行にも、そのきびしさはうかがわれよう。 「神になった男」と「神の愛人」の蒋侯神の話や、「華岳の三美人」「処女神の横恋慕」「紫(し)姑(こ)神(しん)」「嫁の神さま」「神に殺された男」などの人間くさい神の話にも、神と人間とを同じ高さに見る中国的思考がうかがわれよう。  七十七篇のうち六(りく)朝(ちよう)の説話は『捜神記』『捜神後記』『神仙伝』『述異記』『続斉諧記』『異苑』『湘中記』『幽明録』の八書から三十三篇、唐の説話は『広異記』『玄怪録』『続玄怪録』『原化記』『河東記』『枕中記』『酉陽雑俎』『杜陽雑編』『会昌解頤録』『甘沢謡』『伝奇』『紀聞』『逸史』『幻異志』の十四書から二十九篇、宋の説話は『夷堅志』『稽神録』『異聞総録』の三書から六篇、清の説話は『子不語』『秋燈叢話』『聊斎志異』『閲微草堂筆記』の四書から九篇を取った。明の説話を取らなかったのは「志怪」の系統のものに見るべきものがないからである。中国のそういう小説の流れについては、この文庫の、同じく『中国怪奇物語 幽霊編』の「あとがき」を参照されたい。 中国怪奇物語(ちゅうごくかいきものがたり)〈神仙編(しんせんへん)〉 電子文庫パブリ版 駒田信二(こまだしんじ) 著 (C) Setsu Komada 2000 二〇〇〇年一〇月一三日発行(デコ) 発行者 中沢義彦 発行所 株式会社 講談社     東京都文京区音羽二‐一二‐二一     〒112-8001     e-mail: paburi@kodansha.co.jp 製 作 大日本印刷株式会社 *本電子書籍は、購入者個人の閲覧の目的のためのみ、ファイルのダウンロードが許諾されています。複製・転送・譲渡は、禁止します。