TITLE : 中国怪奇物語〈幽霊編〉 講談社電子文庫 中国怪奇物語〈幽霊編〉  駒田信二 著 目次  金の枕  赤い上着  二つの塚  一夜の契り  墓の中での契り  生き返った娘  二世をかけた恋  夜だけの妻  汝陽(じよよう)の宿  死女の傷  夫人の墓  州長官の娘  桃とにんにく  生きそこねた死骸  生き返った死骸  賄賂(わいろ)の腕輪  恋女房  妻の機転  倹約のすすめ  幽明の境を越えた愛  形見の絹二疋(ひき)  泣き明かした女  亡父の贈り物  鏡を買う娘  呉〓(ごぜい)の亡霊  行商人の妻と役人の妾  逃げてきた遺骸  孕(みごも)った娘  餅を買う女  腋(わき)の下の腫(は)れもの  娘の魂  二人の倩娘(せんじよう)   冥土(めいど)の使者  冥土(めいど)の縁  北台の使者  冥府(めいふ)で会ったやさしい娘  子供の命  冥府(めいふ)の小役人  亡霊たちの饗宴  不正合格をした李俊(りしゆん)  悪少年の死  張鬼子  もう一人の自分  泥があたった仕返し  なりたての亡霊  嫉妬する亡妻  妻の怨み  押し出された魂  開善寺縁起  ぬれぎぬの怨み  継子いじめの末路  先妻の凶刃  執念の復讐  車の中の貴婦人  県令の死後の実力  二つの遺骸  川に住む亡霊  陳府君(ちんふくん)の廟  陸判官  床下の女  夭死(ようし)した女  人を追う骸骨(がいこつ)  上元(じようげん)の夜の女  美男の罪  泰山の知事  塚をあばく賊  流れついた棺  改葬費用の鏡  髑髏(どくろ)のお礼  宝玉の帯  兄がほしがった駿馬(しゆんめ)  金銀の一味を斬罪  荀季和(じゆんきわ)の霊の運命  嵩山(すうざん)の仙人  二つの餅(もち)  叩き売られた亡霊  亡霊退治  恥じる亡霊  谷底の亡霊たち  瘧(おこり)をなおす法  亡霊の国  あとがき 中国怪奇物語 幽霊編   金の枕  隴西(ろうせい)に辛道度(しんどうど)という若者がいた。他郷へ遊学して銭に窮し、腹をすかしながら雍(よう)州の町へあと一里ばかりのところまで来たとき、ふと顔を上げると、大きな邸宅があって、門に侍女らしい女のたたずんでいるのが見えた。  頼めば何か食べ物をめぐんでくれるかもしれないと思い、門前へ行ってわけを話すと、侍女は、 「ここは秦女(しんじよ)様のお屋敷でございます。しばらくお待ちくださいませ」  と言って内へはいっていったが、まもなくもどって来て、 「お通しするようにとのことでございます」  と、さきに立って彼を女主人のいる部屋へ案内した。  女は若く美しい人だった。辛道度が挨拶(あいさつ)をすると、 「急なことで、格別のおもてなしもできませんが……」  と言って、すぐ侍女に食事を出させた。  辛道度が食べ終るのを待って、女が言った。 「わたしは秦(しん)の閔(びん)王の娘ですが、曹(そう)の国へ嫁いでまいりましたところ、不幸にもまだ式をあげないうちに夫に別れてしまい、それから二十三年間、ずっとここでさびしく暮しております。今日ははからずもあなたにお目にかかることができて、こんなうれしいことはありません。どうかわたしと夫婦になってください。三晩だけでよろしいのですから、お願いします」  辛道度は女のいうままに契(ちぎ)りを結び、三日三晩をその邸宅ですごした。四日目の朝、女はかなしげに辛道度に言った。 「もっと長く楽しみたいのですが、三晩を越すと禍(わざわ)いがおこりますので、これでもうお別れしなければなりません。お別れしてしまえば、わたしのまごころをお見せすることができなくなると思うと、かなしくてなりません。せめてものしるしに、これをさし上げますから、どうかお受けとりくださいませ」  女は金の枕を形見として辛道度に贈ると、涙ながらに別れを告げ、侍女に彼を門の外まで送らせた。  門を出てから辛道度がふりかえると、そこには邸宅はなく、一つの墓があるばかりで、あたりはぼうぼうと草のおい茂っている原であった。だが、懐(ふところ)をさぐってみると、女にもらった金の枕だけはちゃんとあった。  彼はその枕を売って食べ物にかえた。たまたま秦の王妃がその枕を市で見つけ、調べてみると辛道度が売ったことがわかったので、さがし出して、どこで手にいれたのかとたずねた。  辛道度がわけを話すのを王妃は涙を流しながらきいていたが、なお信じられず、雍州郊外の娘の墓をあばいてみた。棺をあけてみると、葬るときに入れてやった物はみなあったが、ただ金の枕だけがなかった。さらに娘のからだを調べてみると、情交したしるしが歴然と残っていた。  王妃ははじめて辛道度の話したことがほんとうであることを知り、彼こそまことのわが女婿(むすめむこ)であるとして、辛道度に〓馬都尉(ふばとい)の官をさずけ、金帛(きんぱく)車馬を下賜(かし)して隴西へ帰らせた。  〓馬とはもともと副馬(そえうま)のことであるが、このことがあってから人々は女婿(じよせい)のことを〓馬というようになった。今では天子の女婿のことを〓馬と呼んでいる。 六朝『捜神記』    赤い上着  漢のころ、談生(だんせい)という書生がいた。四十になっても、いまだに官途につくことができず、貧乏で妻を娶(めと)ることもできない。  ある夜、悶々としていると、どこからともなく一人の女がやって来て、 「わたし、あなたの妻になりますわ」  と言った。年のころは十五、六。その容貌(ようぼう)も衣装も、この世の人とは思われぬほどの美しさであった。 「夢をみているのではなかろうか」  と談生が言うと、女は、 「夢ではありません。ただ、お約束していただきたいことがあります。夫婦になって三年たつまでは、わたしをあかりで照らさないでほしいのです。それさえお守りくださるなら、よろこんであなたの妻になります」  と言った。 「守るとも」  と談生が言うと、女はうなずいて彼に身をまかせた。  こうして二人は夫婦になり、一年たって男の子が生れた。さらに一年たってその子が二つになったとき、談生は三年たつまではという約束を守りとおすことができなくなり、ある夜、妻がよく眠っているのを見すまして、そっとあかりで照らしてみた。  と、妻は腰から上は美しい肌をしていたが、脚はひからびた白骨だった。あっとおどろくと同時に、妻が眼をさまして、 「どうして約束を守ってくださいませんでしたの。もうすこしでわたしは生き返ることができましたのに。あと一年の我慢ができずに、わたしを照らしておしまいになって! これでもう、お別れしなければならなくなりました」  と言った。談生は涙を流しながらあやまったが、いまとなってはもうどうすることもできない。 「なんとおっしゃっても、わたしたちの縁はもう切れてしまったのです。わたしにもあなたにも、どうにもなりません。これでお別れしなければなりませんけれど、わたしがいなくなれば、あなたはまた、もとのように貧乏になられましょう。そうなると、わたしの生んだ子のゆくすえが気がかりでなりません。これをお贈りしますから、これで暮しを立てて、わたしの子をちゃんと育ててください」  女はそう言って、赤い上着を談生に手渡してから、 「あなたの形見に、これをいただいて行きます」  と、談生の着物の裾(すそ)を裂き、それを持ってどこへとも知れず立ち去って行った。  その後、談生が暮しに困って、その赤い上着を町へ売りに行くと、〓陽(すいよう)王の家臣がそれを銭一千万貫で買いとった。王はその上着を見ると、おどろいて、 「これは娘の棺に入れてやった上着だ」  と言った。 「どこで買って来たのだ。娘の墓をあばいたやつがいるにちがいない」  こうして談生は捕えられて、きびしく調べられた。談生がわけを話しても王は信じることができず、娘の墓へ行ってみた。  墓はもとのままで、どこにもあばいた跡はなかった。念のために掘りかえして、棺をあけてみると、赤い上着だけがなくなっていて、しかも談生が話したとおり、娘の死骸はその手に彼の着物の裾の切れ端を握っていた。  王はさらに娘が生んだという子をつれて来させてみたところ、その子の顔は娘にそっくりだった。王ははじめて談生の話したことがほんとうだったことを知り、彼を女婿(じよせい)と認めたうえ、厚く贈り物を与え、さらに上奏して子供に郎中(ろうちゆう)の官を授けた。 六朝『捜神記』    二つの塚  漢のとき、浙江(せつこう)の諸曁(しよき)県の小役人に呉詳(ごしよう)という者がいた。上役にこきつかわれてばかりいて、世をはかなみ、山奥へでも逃亡しようと思って、あてもなく歩いていくうちに、谷川のほとりへ出た。  もう、日は暮れかかっていた。今日はこのあたりに野宿でもしようかと思っていると、一人の女がやってきた。卑(いや)しからぬ身なりをした、若い美しい娘である。呉詳が、 「このあたりのおかたですか」  と声をかけると、娘は、 「宿がなくてお困りのようですわね。わたしの家はこの近くで、一人住居(ずまい)ですし、すこし離れたところに、やもめのおばさんが一人住んでいるだけで、ほかには隣家もありません。よかったらお泊りください」  と言った。呉詳はそれをきくと大よろこびをして、 「ありがとうございます。おかげで野宿をしなくてすみます」  と言い、娘のあとについて行った。  しばらく行くと、娘の家についた。みすぼらしい家だった。娘は呉詳に食事を出してくれた。  夜が更(ふ)けかけたころ、外で娘を呼ぶ声がした。 「張お嬢さん……」 「はい」  と娘が答えると、 「あら、お客様のようですわね。またまいります」  と言って、外の人は帰っていったようだった。呉詳が娘に、 「誰ですか。わたしがおじゃましていて、わるかったようですね」  と言うと、娘は、 「いいえ、かまいませんの。さきほどお話しした、近所に住んでいるやもめのおばさんですわ」  と言った。  その夜、呉詳は娘といっしょに寝た。どちらから求めるともなく、二人は情を交(かわ)した。娘はなかなか愛情こまやかであった。  翌朝、娘は記念にといって紫のハンカチをくれた。呉詳も葛(かずら)で織った布を返し、離れがたい気持を残しながら別れた。  昨夜の交情を思い返しながら、呉詳は昨日娘と出会った谷川のところまで引き返して行ったが、見れば川は一夜のうちに増水して、歩いては渡れないほどの深さになっていた。呉詳は流れを見つめながら、 「困った……」  と思ったが、 「そうだ、かえってこれはよい口実になる」  と思い、引き返して、娘の家へもどって行った。ところが、道をまちがえたわけではないのに、そこには家はなく、ただ一つの塚があるだけだった。あたりを見まわすと、すこし離れたところに、もう一つ小さい塚があった。 六朝『捜神後記』    一夜の契り  江蘇(こうそ)の曲阿(きよくあ)に、秦樹(しんじゆ)という人がいた。  あるとき都へ行った帰り、家まであと数里のところまで来たとき、日が暮れて道に迷ってしまった。 「どこかに人家はないものだろうか」  と、立ちどまってあたりを見まわしていると、かなり離れたところに一つ、あかりが見えた。そのあかりをたよりに道をたどって行くと、山の麓に一軒の家があった。一間(ひとま)きりの小さい家である。 「道に迷った旅の者ですが、宿をお貸しいただけないでしょうか。決して怪(あや)しい者ではございません」  と声をかけると、一人の女があかりを手に出てきて、 「若い女の一人暮しですので、旅のお方をお泊めするわけにはまいりません。どうかあしからず」  と言って、引っ込みかけた。秦樹があわてて呼びとめて、 「夜道を歩こうにも、この暗闇ではどうにもなりません。軒下でもけっこうですから、お貸しいただけるとありがたいのですが」  と言うと、女はあかりで照らして秦樹の風体(ふうてい)を見定めながら、 「書生さんですか」  ときいた。秦樹がうなずくと、女は安心したらしく、 「軒下にお泊りでは、かえってわたしが落ちつけませんから、むさくるしいところですが、どうぞおはいりになってください」  と言った。秦樹はほっとして、 「ありがとうございます。それではおことばにあまえて……」  と、部屋の中へはいったものの、一間きりの家の中で女と顔をつきあわせていては、気楽にからだを休めるわけにもいかない。もしこの女に夫があって、こうしているところへもどってきたりでもしたら、女がいくら弁解しても夫は誤解するだろうなどと思い、 「あの、ほかにどなたか……」  と、口ごもりながらたずねると、女は笑って、 「まあ、何を勘ちがいしていらっしゃいますの。いやですわ、わたしはまだ、一人ですわ」  と言い、 「もらいものですけど、よろしかったら召しあがってください。何も遠慮なさることはございません。どうぞお気楽に」  と、うちとけた態度で料理などを出してすすめた。秦樹は女が自分を誘っているのを感じて、 「お一人とのことですが、わたしも一人者です。夜道に迷ってお泊めいただいたのも縁があってのことでしょう。わたしと結婚してくださいませんか」  と言った。すると女ははにかみながら、 「わたしのような女でもよろしければ、わたしはよろこんで」  と言った。  二人はいっしょに床の中へはいって、情を交(かわ)した。  翌朝、秦樹が女の手を取って、 「一度家へ帰って、必ず迎えにくるからね」  と言うと、女は泣きながら、 「もうこれきりお会いできないような気がして、かなしくてなりません。でも、たとえ一夜かぎりの契りだったとしても、わたし、あなたのようなかたのお情けを受けることができて、しあわせですわ」  と言い、一対(いつつい)の指輪を秦樹の着物のひもに結びつけて、門口まで送り出した。  しばらく行ってから秦樹がふりかえって見ると、昨夜泊った家はなく、そこは大きな墓だった。  家に帰ってから見ると、女がくれた指輪もなくなっていた。だが、着物のひもの結び目だけは女が結んだままであった。 六朝『異苑』    墓の中での契り  呉王の夫差(ふさ)に玉(ぎよく)という名の娘がいた。年は十八で、才色兼備の女であった。玉は韓重(かんじゆう)という少年に思いを寄せ、ひそかに手紙をやりとりして、行くすえは結婚しようと約束していた。韓重は十九歳。道術を学ぼうと志していた。  まもなく韓重は斉(せい)・魯(ろ)の間(かん)へ道術を学びに出かけたが、その前に両親に、玉との結婚について呉王の内諾を得ておいてくれるようにたのんだ。  ところが、呉王はその申しいれをきくと、 「あんないやしい身分の者のところへなぞ、姫をやれるか」  と怒って、どうしても承知しない。そのため玉はふさぎ病にかかり、日々に病状が重くなって、そのまま死んでしまった。呉王は玉の遺骸を都の郊外の北山(ほくざん)の麓に葬った。  三年たって、韓重は帰ってきた。そしてはじめて玉の死んだことをきくと、声をあげて泣き、供物(くもつ)をとりそろえて玉の墓へとむらいに出かけた。墓の前で祈っていると、玉の亡霊が姿をあらわし、韓重の顔を見るなり涙を流して言った。 「三年前、あなたはご出発のとき、ご両親にたのんで父のもとに結婚の申しいれをしてくださいましたので、わたしは願いがかなえられるものとよろこんでおりましたところ、父がどうしても承知してくれませず、わたしはかなしみのあまり、あなたのお帰りを待つこともできずにこのようなことになってしまいました」  と言い、韓重の手を取って墓の中へ誘い、 「せめて二、三日だけでも、身も心もあなたの妻にならせてください」  と懇願した。韓重が、 「死者と生者とは世界がちがうものなのに、夫婦の契りを結んだりしては、お互いに天のとがめを受けなければならないでしょう。あなたのお気持はうれしいが、お受けするわけにはいきません」  と言うと、玉は、 「死者と生者とが世界のちがうことは、わたしも承知しております。しかし、わたしがあなたを思う心は、自分を死なせてしまったほど深く限りないのです。わたしはこの真心で、二、三日は死者と生者との世界をつなげることができます。もし、いまこのままお別れしてしまったら、もう永久にお目にかかれなくなるかもしれません。あなたは、わたしが亡霊だからこわがっていらっしゃるのですか? わたしが真心をささげようというのに、どうして信じてくださらないのです?」  と、また涙を流しながら言った。  韓重はそのことばに感動して、墓の中へついて行った。すると玉はいかにもうれしそうに、いっしょに酒をくみかわし、いっしょに寝て歓(よろこ)びを尽くし、三日三晩、妻としてのつとめを残りなくはたしたうえ、四日目に、美しい珠(たま)を一つ韓重に贈って、 「思う人と三日三晩をその妻としてすごすことができて、もう思い残すことはございません。どうかおからだに気をつけて、お元気にお暮しください。いまはもう父を怨んでもおりません。もしわたくしの家へおいでになりましたら、父と母によろしくお伝えください」  と言った。韓重は玉に送られて墓を出ると、その足で王宮へ行って、玉のことを伝えた。呉王は侍臣からそれをきくと、また怒って、 「姫はもう三年も前に死んでしまったのに、韓重はありもしないことを言いふらして、姫の霊魂を冒涜(ぼうとく)しおる! おそらく姫の墓をあばいて金銀珠玉を盗み出し、怪談に仕立ててごまかそうとしているのだ。すぐ韓重を召し取ってまいれ!」  と言いつけた。韓重は逃げてまた玉の墓へ行き、このことを訴えた。するとまた玉の亡霊が姿をあらわして、 「ご心配なさいますな。わたしがこれから家へ帰って、父にほんとうのことを申しますから」  と言った。  そのときすでに、玉の亡霊は呉王の前に姿をあらわしていた。王がびっくりして、 「どうしておまえは生きかえったのだ」  ときくと、玉は父の前にひざまずいて言った。 「三年前、韓重がわたしに結婚を申し込んできましたとき、父上はおゆるしくださいませんでした。わたしはその前から韓重と結婚の約束をしておりましたので、わたしは信義も守れず貞節も失わなければならないことになりますので、われとわが身をほろぼしてしまったのでございます。このたび、韓重が遠方から帰ってまいりまして、わたしが三年前に死んでしまったときき、供物をとりそろえて、わたしの墓へとむらいにきてくれました。わたしは韓重の、わたしが亡きあともなおわたしを思ってくれる心に感激して、墓の中で夫婦の契りを結びました。それによってわたしは、信義を守ることもできましたし、貞節をささげることもできて、もう何も思い残すことはございません。三日三晩、わたしは韓重に妻として仕え、そして別れるときに珠を贈ったのでございます。あの珠はけっして韓重が墓をあばいて盗んだものではありません。わたしが韓重と夫婦の契りを結んだしるしなのです。どうか韓重をとがめないでくださいませ」  王妃がこのことをききつけ、出てきて玉を抱きしめた。と、玉の姿は煙のようにかき消えて何もなかった。 六朝『録異記』    生き返った娘  江西の吉州に、劉(りゆう)という属官がいた。男の子はなく、女の子ばかり三人いたが、三人とも絶世の美人で、劉はたいへんかわいがっていた。ところが長女は十二歳のとき、ふとした病がもとで死んでしまった。  劉は同僚の兵曹参軍(へいそうさんぐん)の高広(こうこう)と仲がよかった。ある年、二人とも任期が満了したので、それぞれ船を雇って、いっしょに都へ帰ることにし、劉は娘の棺を船にのせて出発した。  途中、豫章(よしよう)に停泊したところ、夜のうちに氷に航路をふさがれてしまって船は進めなくなってしまった。劉の船と高の船は並べてつなぎとめられていたので、両家の人々は互いにゆききをして無聊(ぶりよう)をなぐさめあっていた。  高広には、容姿端麗で頭もよい、二十歳(はたち)過ぎの息子がいた。ある夜、船室で一人読書をしていると、夜もすっかり更(ふ)けたころ、十四、五歳の美しい少女がことわりもなしにはいってきて、 「劉家の下女でございます。あかりが消えてしまいましたので、火をお借りしたいと思ってまいりました」  と言った。見ればかわいい女なので、高の息子は心をひかれて、 「火をあげるから、ここへおいで」  と自分を指さした。と、下女はうれしそうにそばに寄ってきた。 「劉家にあなたのような美人がいるとは知らなかった。ねえ、いいだろう?」  と抱き寄せようとすると、下女はするりと身をよけて、 「わたしのような者を……」  と言った。 「いや、あなたはとてもかわいいよ」  と高が言うと、下女は、 「うちには世に二人とないほどの美しいお嬢様がいらっしゃいますわ。わたし、じつは、お嬢様を若旦那(だんな)様におとりもちしようと思ってまいりましたの」 「言いのがれに、そんなことを言うのだろう」 「いいえ、ほんとうでございます。もし若旦那様にそのお気持があれば、わたし、ここへお嬢様をお連れしてまいりますわ」  高の息子は、下女がお嬢様と言っているのは劉家の次女だろうか三女だろうかと思い、どちらでもよい、と飛び立たんばかりによろこんで、 「いつ、連れてきてくれる?」  ときいた。 「今夜すぐというわけにはいきませんから、あしたの夜の、いまごろでは?」 「いいとも。きっとだぞ」 「はい、かならず。お嬢様もどんなにかおよろこびでございましょう」  下女はかたく約束して帰って行った。  翌日の夜更けになると、下女は昨夜と同じように高の息子の船室へはいってきて、 「うまくいきましたわ。しばらくお待ちになっていてくださいませ」  と言い、すぐまたもどって行った。  高の息子は待ちきれない思いで、小おどりしながら船室の外へ出て、劉家の船の方をうかがっていた。このとき、空には一点の雲もなく、月は冴(さ)えわたって、昼をあざむくようなあかるさだった。  しばらくすると、劉家の船から、さきほどの下女に手をとられて一人の娘が出てくるのが見えた。娘は下女を先に立てて、次第に近づいてくる。近づくにつれて、芳香がただよい、娘のからだからは光が輝き出ているように見えた。高の息子はこらえきれなくなって、進み寄って娘を抱きしめた。と、娘も高の胸にからだをあずけて、なまめかしく身もだえをした。  二人はそのまま船室の中へはいり、心ゆくまで情を交(かわ)した。  その夜から娘は夜ごと通ってきて、二人は蜜のように情を交しつづけたが、一月あまりたったとき、娘は急に、 「あなた、どんなことがあってもわたしをお捨てにならないでね」  と言いだした。 「こんなに愛しあっているのに、どうしてそんなことを言うの? わたしがあなたを捨てるわけがないじゃないか」 「でも、ほんとうのことを言うと、あなたはきっといやな顔をなさいますわ」 「あなたが何を言おうと、それがあなたのことであるかぎり、わたしはいやな顔はしないよ」 「そう、それでは言いますけど、わたしは劉家の亡くなった娘ですの。三日後に生き返る定めになっているのですが、あなたには一月も前から身をおまかせしていますので、もしわたしがおいやでなければ、わたしのことを家の者に知らせていただきたいのです」  高はおどろきながらも、よろこんで、 「幽明境(さかい)を異(こと)にしながら契りを結ぶなんて、古今にもめったにないことなのに、あなたとわたしがそうだったとは、なんというめずらしいことだろう。それに、あなたが生き返って、これからは末長く夫婦になれるとは、こんなすばらしいことはない。お家の人にはどう言えばよいの?」 「三日後に生き返りますから、そのときに棺のふたをあけて霜や露がかかるようにし、薄い粥(かゆ)を飲ませてほしい、とお伝えになってください。そうすればわたしは、もとのからだにもどりますから」  高が承知すると、娘はよろこんで帰って行った。  翌朝、高は父親に一部始終をうちあけた。父親は半信半疑のていだったが、 「とにかく劉家の船へ行って話してくるがよい」  と言った。高の息子はさっそく出かけて行って劉夫妻に事の次第を伝えたが、夫妻は信じてくれず、ことに夫人はひどく腹をたてて、 「うちの長女は、いまはもう骨ばかりになっているのですよ。それなのにそんな話をこしらえて、死んだ者を傷つけるとは、ひどいじゃありませんか」  と言い、高の息子がいくら言っても、どうしてもほんとうにしない。 「わたしはどんなにののしられようと蔑(さげす)まれようとかまいません。とにかくお嬢様の願いだけはきいてあげてください」  高の息子は泣いてたのみつづけた。  その夜、劉夫妻はそれぞれ娘の夢を見た。娘は夫妻の枕もとに立って、 「わたしは生き返ることに定められているのです。あの人と契りを結びましたのも天の定めで、父上も母上もきっとよろこんでおゆるしくださると思っておりましたのに、どうしてお怒りになるのですか。わたしが生き返ることがそんなにおいやなのですか」  と言った。目がさめてから夫婦は話しあって同じ夢を見たことを知り、どうやら、これはほんとうのことらしいと気づいた。夢にあらわれた娘の姿も衣装(いしよう)も、高の息子が話したとおりだったからである。  そこで高の息子の言ったとおりにし、当日になると両家の者が立ちあって棺のふたをあけた。見れば娘は白骨になってはおらず、生きていたときと同じような顔色をしていて、さわってみると、次第にからだが温(あたた)かくなってくるようであった。一同はおどろき且(か)つよろこびながら、川岸に幕を張りめぐらして、その中へ棺をかつぎいれ、夜は顔をさらして霜や露を受けさせ、昼は粥を口にそそぎ込んで、看護しつづけた。  と、二、三日すると娘が息をしだした。一同が見守っていると、次第に目をあけ、その日の夕暮れには、ものが言えるようになり、四、五日たつと起きあがり、歩きだして、まもなくすっかり、もとどおりのからだになった。  高の息子が劉に下女のことをたずねると、 「あの下女は娘よりも前に死にました。棺はやはり船の中に置いてあります」  と言った。娘は生き返ってから、下女の棺の前で、涙を流して別れを告げた。  高・劉両家は黄道吉日を選んで、その地で二人の婚礼の式をあげた。二人は仲むつまじく暮し、数人の男の子が二人のあいだに生れた。  このことがあってから、豫章のその土地は礼会村(れいかいそん)と呼ばれるようになった。 唐『広異記』    二世をかけた恋  睦(ぼく)州の刺史(しし)(州知事)李伯成(りはくせい)に、元平(げんぺい)という息子がいた。  大暦五年のことである。元平は東陽の寺院の一室を借りて勉強していたが、一年ほどたったある日の夕暮れ、読書に疲れた眼をあげて、ふと窓の外を見ると、赤い薄絹の衣装(いしよう)をまとった美しい娘が一人、青い着物の下女を連れて通りかかった。茫然と見とれているうちに、娘は下女を外に残して、一人で僧坊へはいって行った。元平ははっと我にかえり、急いで部屋を出て、下女のそばへ駆け寄るなり、 「いま、この僧坊へはいって行かれたのはどなたです? どこのお嬢さんで、なんというお名前です?」  ときいた。すると下女は怒って、 「あなたこそ、どなたです?」  ときき返した。元平が、 「わたしはこの寺院で部屋を借りて勉強している者で、李元平といいます」  と言うと、下女は、 「お知りあいでもないのに、いきなりお嬢様に近づこうとなさるなど、身分のあるおかたのなさることとは思われません」  と言ったきり、元平が何を言ってもとりあわなかった。  しばらくすると、さきほどの娘が僧坊から出てきたが、元平の顔を見るなり、いかにもうれしそうな顔をして、 「いま僧坊へ行って、あなたのお部屋をきいてきたところですの」  と言った。元平が不審な顔をして、 「どうして、わたしの……」  ときくと、娘は、 「ここへわたしが来ましたのは、あなたにお目にかかって、以前のことをお話ししたかったからなのです。わたしはこの世の者ではありませんが、あなたはこわくはありませんか」  と言う。元平はほれぼれと娘を見つめながら、 「何がこわいものですか。なんでもお話しください。わたしにご用がおありとか。あなたのためならどんなことでもよろこんでいたします」 「以前のことというのは、こういうことなのです。わたしの父は、むかし江州の刺史をしておりました。あなたの前世は江州の門番で、わたしの父の役所に勤めていらっしゃったのです。あなたは身分は賤(いや)しく貧しい暮しをしていらっしゃいましたが、ほれぼれするような美男でした。わたしは因縁がありましたために、あなたと人目をしのぶ仲になりました。ところが二人が契りを結んでから百日ほどたちますと、あなたは霍乱(かくらん)になって亡くなられたのです。わたしがどんなに悲しんだかは、申しあげるまでもないことです。でも、人目をしのぶ仲でしたし、身分がちがいますので、あなたの霊前で泣くわけにもいきませず、どんなにつらい思いをしましたことか。それで、日ごろ信仰している千手(せんじゆ)観音様に願をかけて、来世では二人とも同じ家柄の家に生れ、こんどこそほんとうの夫婦になりたいと祈りました。そして、朱筆であなたの左の股(また)にしるしをつけたのです。……信じられないようなお顔をしていらっしゃいますが、ちょっとしらべてみてください。もし、あなたの左の股に朱のしるしがあれば、わたしの言うことにまちがいのないことがおわかりでしょう」  元平が下衣をまくり上げて左の股を見ると、娘の言ったとおり、朱色の小さなあざがあった。  元平はよろこんで娘を自分の部屋へ引きいれ、泊らせた。二人の心はすぐ一つに結ばれ、どちらがさきに求めるともなく、二人は情を交(かわ)して、夜明け近くまでたのしみあった。  夜が明けると、娘は元平から離れて、悲しそうな顔で、 「これでもう、しばらくはお会いすることができません。生れかわる時が近づいてきましたので、もうここにいるわけにはいかないのです。ほんとうにお名残(な ご)り惜しゅうございますけれど……」  といって涙をこぼしたが、しばらくすると涙をふいて、 「これから申しますことをお忘れなく。こんど生れかわるわたしの父は、いまは県令をしていますが、わたしが十六歳になったときには節度使(せつどし)に昇進しているはずです。そのときになったら、縁談を進めてください。それまではどうか結婚をしないで、待っていてくださいね。もっとも、運命がもうきまっておりますから、あなたがどんなにほかの人と結婚したいと思っても、できませんけれど……」  娘はそう言うと、別れを告げて去って行った。 唐『広異記』    夜だけの妻  元和年間のことである。  陝西(せんせい)の同州で科挙の予備試験のおこなわれる年で、城内の旅舎はどこも満員であった。王勝(おうしよう)、蓋夷(がいい)の二人は旅舎には泊れず、ようやくのことで、州の功曹参軍(こうそうさんぐん)の王〓(おうしよ)という人の家の一室を借り、試験の期日を待っていた。  二人が部屋を借りるとまもなく、ほかの部屋もみな受験者でふさがってしまったが、正面の広い部屋だけは、細い縄で扉をとざしたままになっていた。  二人が不審に思って窓のすきまからのぞいてみると、部屋の中には粗末な蒲団をかけた寝台が一つと、破れた籠(かご)が一つころがっているだけで、ほかには何もなかった。 「あの部屋には誰がいるのです?」  と隣室の人にきいてみると、 「処士の竇玉(とうぎよく)、字(あざな)は三郎という人が借りているはずです」  と言う。二人は自分たちの借りている部屋が狭いので、竇玉の部屋へ同居させてもらいたいと考えた。  夕暮れになって、竇玉が驢馬(ろば)に乗って帰ってきた。酒のにおいをぷんぷんさせている。二人は進み寄って言った。 「お願いしたいことがあるのですが……」 「何ですか。わたしはあまり人とかかわりあいたくないのですが……」  と竇玉は無愛想に言った。 「わたしたちは州の予備試験を受けにきた者ですが、旅舎はどこもみなふさがっているものですから、ここで部屋を借りました」 「そうらしいですな。それで?」 「借りた部屋が狭くて困っているのです。あなたは受験者でもないようですし、奥様連れでもないようですので、お願いする次第ですが、試験がすむまで、しばらく同室させていただけたら、と思いまして」 「おことわりします。さっきも言ったとおり、わたしは人とかかわりあいたくないのです」  と竇玉はやはり無愛想に言った。 「昼間はたいていお出かけのようですし……。せめて昼間だけでも部屋をお貸しいただけないでしょうか」 「くどい人だな。いやだと言っているのに」  と竇玉は横柄に言った。  その夜、二人はおそくまで書物を読んでいたが、夜もふけてきたので寝ようとしたとき、ふと、どこからかあやしい香気のただよってくるのを感じた。 「なんだろう?」  二人は顔を見合せて同時にそう言い、部屋を出て香気のただよってくるほうへ、足を向けた。どうやら香気は竇玉の部屋からのようである。そっと近づいて行くと、ひそひそとした笑い声や話し声がきこえてくる。女の声のようであった。  窓のすきまからのぞいて見ると、部屋の中は昼間見たときとはうってかわって、四面に薄絹の帷(とばり)をめぐらし、中央の机にはかずかずの美しい皿に山海の珍味が盛られ、年のころ十八、九の世にもまれな美女が一人、竇玉とさしむかいで酒をくみかわしており、かたわらには数人の侍女らしい少女が、なにかと二人の世話をしているのだった。 「夢を見ているわけじゃあるまいな」  と王勝がささやくと、蓋夷も、 「夢ではあるまい。いや、夢かもしれん。中へはいってみよう」  と言った。扉を押すと、わけなくあいた。二人がはいって行くと、女は立ちあがって寝台の帷の向こうへかくれた。つづいて数人の侍女たちもみな帷のかげへかくれて、口々に、 「なんという無礼(ぶれい)な人たちでしょう、他人の部屋へいきなりおし入ってきて」  と言いあっている。  竇玉は青ざめた顔をして、一人じっと机の前に坐っていたが、やがて、 「何をしにきたのです」  ときいた。 「香のかおりにさそわれて、つい、ふらふらときてしまったのです。夢ではないかと思って……夢なら覚めるはずだが……」 「お二人とも、夢を見ているのですよ。それとも寝ぼけているのか……。さあ、これでも飲んで、目を覚ましてお帰りなさい」  竇玉は二人に茶をついで出した。かおりのよい茶だった。二人が飲むと竇玉は、 「さあ、お帰りなさい」  とうながした。  二人が部屋を出て、ふりかえると、扉のしまる音がして、 「礼儀知らずの、あきれた人たちですわね」  と言う女の声がきこえた。 「どうしてあんな人たちと同じ家にいらっしゃるのです? 昔の人が隣を選んで住んだというのは、やはりほんとうに賢明なことなのですわ」 「わたしの家ではないから、ほかの客のことまで口出しすることはできないのだよ」  と言うのは竇玉の声だった。 「科挙の予備試験を受けにきた受験者でね、おそくまで書物を読んでいたと見える。今夜のようなことは二度とあるまいと思うが、いやだというのならほかの家へ引っ越してもよい。さあ、もう機嫌をなおしてくれ」  あとはまた、楽しそうな笑い声になった。  夜があけてから、王勝と蓋夷は竇玉の部屋の前へ行って中の様子をうかがった。ひっそりと静まりかえっていて、話し声も物音もきこえない。窓のすきまから中をのぞいて見ると、昨日の昼間見たのと同じで、寝台があるだけだった。その寝台には竇玉が粗末な蒲団をかぶって寝ていたが、しばらくすると、目をこすりながら起きあがった。二人が窓ぎわからはなれると、まもなく竇玉が扉をあけて出てきたが、二人を見ても知らぬ顔をしている。 「昨夜はどうも……」  と王勝が声をかけると、竇玉は、 「なんですか」  と無愛想に言った。 「美人とお楽しみのところを……」 「なんのお話ですか。おかしなことをおっしゃる……」 「おかしいのはあなたです。あなたは昼間は一人暮しの処士で、夜中になると身分ある家の女と会っておられる。妖術(ようじゆつ)でも使わなければ、あんな美女が呼べるわけはない。ほんとうのことを話してくださらなければ、あなたを妖術使いとしてお役所へ訴えますぞ」  すると竇玉は、はじめて困ったような顔をして言った。 「わけを話しましょう。まあ、部屋へお入りください」  二人は部屋の中へはいったが、机もなければ、掛ける椅子もない。 「昨夜は立派な椅子があったはずだが……」  と王勝が言うと、竇玉は、 「机も、酒肴(しゆこう)もな……。これからそのわけをお話ししようというのです。掛けたければそこへどうぞ」  と二人を寝台の縁に掛けさせ、自分はその前をゆっくりと歩きまわりながら、話しだした。  いまから五年前のことだ。わたしは山西の太原に向って旅をつづけていたが、ある日、冷泉から孝義へ行く途中で日が暮れ、夜道を歩いているうちに道に迷ってしまった。ちょうど大きな荘園があったので、門をたたくと、下男らしい男が門をあけてくれたので、 「旅の者だが、孝義へ行こうとして道をまちがえたらしい。一夜の宿をお願いしたいのだが……」  と言うと、その男は、 「しばらくお待ちください。ご主人にきいてまいりますから」  と言い、もう一人の下男らしい男に何か耳うちした。耳うちされた男はうなずいて、奥へはいって行った。 「ずいぶん大きな荘園のようだが、ご主人はどなたです」  ときくと、はじめの男は、 「汾(ふん)州の崔司馬(さいしば)さまです。ご存じですか」  と言った。 「崔司馬? いや、知らぬ」  わたしはそう言ったが、きいたことのある名のような気もした。そのとき、奥へ知らせに行った男がもどってきて、 「どうぞ、おはいりください」  と言って、さきに立って案内した。  崔司馬は五十歳すぎの、堂々たる容姿の人だった。緋(ひ)の長衣を着て、桃色の衣装を着た二人の侍女にかしずかれている。わたしが名を言うと、崔司馬は父や父の兄弟の名もたずね、さらに親戚のこともきいてから、自分の一族のことも話したが、きいているうちに、わたしの母が崔司馬の姉にあたることがわかった。つまり崔司馬はわたしの母方の叔父(お じ)だったのだ。そういえばわたしも、子供のころから母方に崔という叔父があるときいていたような気がしたが、官職についているとは知らなかった。 「まことに奇遇だ」  と崔司馬は言い、侍女の一人に、 「奥方に伝えてくれ。奥方の甥(おい)がきたとな。右衛将軍をつとめた七郎兄の子で、わしの甥にあたる三郎がきたとな。わしの甥は奥方の甥だ。奥方は三郎の叔母だ。わしたちは遠い土地で役人暮しをしていて、親戚ともすっかり疎遠になっている。旅のついででもなければ、顔をあわせるおりもない。すぐ会ってやってくれとな」  と言った。  侍女はかしこまって出て行ったが、まもなくもどってきて、 「奥方様が、三郎さまを広間へお連れするようにとのことでございます」  と告げた。崔司馬は侍女に、 「広間か。用意はできているのか」  ときき、返事を待たずに立ちあがって、 「さあ、三郎、行こう。そなたの叔母が用意をして待っている」  と言った。  広間の調度や飾りは王侯の住居かと思われるほど贅(ぜい)をつくしていた。中央の食卓には山海の珍味をことごとく集めたかと思われるほどの料理が並べてあった。崔司馬が用意と言ったのは、この宴席のことらしかった。それにしてもわずかなあいだに、これだけの用意ができるのは人間わざとは思えない。わたしは、崔司馬夫妻をよりも、むしろ自分を疑った。夢を見ているのではないかと思ったのだ。  叔母という人も緋の衣装をまとっていた。若々しく美しい人で、やさしくほほえみながら、 「三郎さんですか。お会いできてうれしゅうございます。親戚のかたにはどなたにも久しくお目にかかっておりませんので、さびしくてならなかったところです」  と、いかにもうれしそうに言った。  酒宴がはじまると崔司馬がわたしにたずねた。 「太原へ行くつもりだそうだが、何をしに行くのだ」 「家塾の教師にでもなろうと思いまして。太原でなら、そういう職も得やすいとききましたので」  わたしがそう言うと、崔司馬はまたきいた。 「家塾の教師になどなって、どうしようというのだね」 「科挙を受ける費用をかせぐためです」 「そうか。七郎兄は清廉(せいれん)な武人で、なんのたくわえも残さなかったと見えるな。そなたが家塾の教師をしなければならぬほど困っているとは知らなかった。そなた、妻子はいるのか」 「放浪の身で、まだ妻はございません」 「それならどうだろう……」  崔司馬は奥方のほうをふり向いて言った。 「うちの娘を三郎にめあわせたら」 「わたしも、いま、そう考えていたところなのです。もし三郎さんさえ承知してくだされば、こんな良縁はないと思います」  崔司馬は大きくうなずき、わたしの方をふりかえって、 「親の口から言うのもなんだが、器量よしで気立てのやさしい娘なのだが、このあたりにはふさわしい相手がいなくてな。そなたがもらってくれれば、そなたももう他人にたよって衣食の道を求めるようなことをしなくてもすむし、どうだ、もらってくれるか」 「ありがとうございます。不服のあろうはずはございません」  わたしは立ちあがって、そう言った。そのときわたしは、崔司馬夫妻の申し出を唐突だとも不思議だとも思わなかった。わたしがそう答えたことをもふくめて、はじめからそう定められていたことのような気がして、少しも疑わなかったのだ。 「おお、承知してくださいましたか。娘もどんなによろこぶことでしょう。わたしもこれで安心です」  奥方はうれしそうにそう言い、 「今夜は日がらもよろしいし、作法どおりの宴席もととのっていることですし、親戚のあいだの縁結びゆえ大げさに客を呼ぶ必要もありませんから、婚礼の支度ができ次第、ここで今夜のうちに式をあげてしまいましょう。ねえ、お婿さん、それでよろしいでしょう?」 「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」  わたしは礼を言ってまた席についた。食事がすむと、わたしは西の別棟へ案内された。 「花嫁さまのお支度ができますまで、しばらくここでお休みくださいませ」  と侍女が言った。しばらくすると、 「ご入浴の用意ができましたので、どうぞ」  と浴室へ案内された。入浴をすませると、新しい着物や頭巾(ずきん)が用意してあって、それを着せられた。またしばらくすると、三人の介添え役がはいってきて挨拶をした。三人ともりっぱな風貌をしていた。三人はこの州の役人だといって、それぞれ名を名乗った。  外には新郎新婦の輿(こし)が用意されていた。わたしは輿に乗り、介添え役につきそわれ、あかりを持った行列に先導されて荘園の中を一回りして、中門から奥の棟へ行き、そこで花嫁を迎えた。花嫁はこの世の人とも思われぬほど美しく、わたしはしばらく茫然と見とれていたほどだ。花嫁を輿に乗せると、また荘園の中を一回りして、南門からはいってはじめの広間へあがった。広間にはすでに帷が張りめぐらしてあって、婚礼の用意がととのっていた。そこでわたしはあらためて、崔司馬夫妻に父母に対する礼をおこない、式はとどこおりなくおわった。  式がおわると、わたしたちは新婚部屋へさがって床杯をかわし、そして床入りをした。雨がやみ雲がおさまると、新妻がいった。 「ここは人間の住む世界ではありません。汾州と言いましても、人間の世の汾州ではなくて、冥土(めいど)の汾州なのです。介添え役をした三人も、冥府の役人です。わたしはあなたと夫婦になる前世の因縁がありましたので、こうしていっしょになれたのですけれど、でも、人間と亡霊とは住む世界がちがいますので、あなたはいつまでもここにおいでになってはいけません。すぐにおたちになったほうがよろしゅうございます」 「いやだ。おまえはわたしの心をためそうとして、そんなことを言うのだろう」  わたしがそう言うと、妻は静かに首をふって、 「お願いです。わたしの言うとおりにしてください。あなたのわたしに対するお心がわかればこそ、言っているのです。夜のあけないうちに早くおたちになってください」 「住む世界がちがうものなら、なぜこうして夫婦になれたのだ。夫婦になる前世の因縁があったのなら、なぜ一夜かぎりで別れなければならないのだ」 「わたしはあなたに身も心もささげましたので、住む世界がちがうことは、二人のあいだのさまたげにはなりません。ただ、あなたは生きている人間ですから、ここに長居をしていてはいけないのです。さあ、早くおたちになってください。明日からは、夜だけ、わたしがあなたのおそばへ行きますから。これからは、あなたが持っていらっしゃる箱に、いつも百疋(ぴき)の絹があるようにしておきます。お使いになったら、また入れておきます。あなたはこれからいらっしゃる土地で、どこでもかまいませんから静かな部屋をさがして、お一人でお住いになってください。昼間はおそばへは行けませんが、夜ならいつでも、あなたがわたしのことを思ってくだされば、わたしはあなたのお心に応じてすぐおそばへ行きます。お疑いにならないでください」 「わかった。おまえの言うとおりにしよう。ご両親にお別れを言いたいが……」 「広間でお待ちしているはずです」  妻はそう言い、起きて衣装をつけ、わたしにも着せると、さきに立って広間へ行った。広間には果して崔司馬夫妻が待っていた。わたしが別れを告げると、崔司馬は、 「よく娘の言うことをきいてくれたな。そなたはわたしたちの思ったとおり、よい婿だ」  と言い、そして、 「住む世界はちがうが、心にはなんのちがいもない。娘がそなたの妻になったのは、宿世(すくせ)の縁というものだ。人間でないからといって、疑ったりつれなくしたりしないでほしい。このことは他人には語らないほうがよいが、やむを得ないときには言ってもさしつかえはない。わたしたち夫婦はこれきりもうそなたに会わないが、そなたが娘を裏切らないかぎり、ずっとそなたをまもりつづけるだろう。では、これで別れよう。元気でな」  そう言って、崔司馬はわたしの箱に絹百疋を入れてくれた。  それからというもの、夜になって妻のことを思えば妻は必ず姿をあらわすのだ。昨夜あなたがたが見たのがその妻だ。侍女たちも妻が連れてきたのだし、帷や机や食器や料理なども、すべて妻が持ってきたものだ。こういう生活がもう五年もつづいている。  竇玉は話しおわると、部屋の隅にころがっている籠をあけて見せた。籠には確かに百疋の絹がはいっていた。竇玉はその絹の中から三十疋ずつを王勝と蓋夷とに贈って、 「できれば秘密にしておいてもらいたい。疑う者がいて、なんのかのと詮索(せんさく)されるとうるさいのでな」  と言った。二人は秘密にすることを約束した。  その夜も二人は夜おそくまで書物を読んでいた。だが、昨夜のような香気はただよってこなかった。翌朝、二人が竇玉の部屋をのぞいて見ると、寝台が一つあるきりで、あの粗末な蒲団も破れた籠もなくなっていた。それきり竇玉はどこへ行ったかわからない。 唐『玄怪録』    汝陽(じよよう)の宿  汝南(じよなん)郡汝陽(じよよう)県の西門の近くに、公設の旅舎があった。この宿の二階は、昼間はなにごともないが、夜、泊る者があると怪異があらわれて人の精気をぬいてしまうと言い伝えられていて、誰も二階に泊る者はなかった。  ある日の夕暮れ、汝南郡の属官の鄭奇(ていき)という人が、汝陽の宿まであと一里たらずのところへさしかかったとき、道に一人の女が立っていて、 「もし、お役人様」  と呼びかけた。鄭奇があやしんで足をとめると、女は、 「日が暮れてきて、女一人では心細うございます。道づれになってくださいませんか」  と言った。見れば別段あやしいところもなさそうなので、承知して、 「どこまで行くのです」  ときくと、女は追いすがるようにして肩を並べながら、 「急用で南頓(なんとん)まで行かなければならないのですが、汝陽へ着いたらもう日が暮れてしまいますから……」  と言う。なかなか美しい女だ、これはものにできるかもしれない、と鄭奇が心を動かしながら、 「わたしは汝陽の公設の旅舎に泊るつもりだが」  と言うと、女はその心を見すかしたように、 「ずうずうしい女とお思いかもしれませんが、お役人様といっしょならわたしも安心して泊れます。わたしを妻ということにして、西門の旅舎にお連れくださいませんでしょうか」 「それはどういうことです」 「女一人ですと、あやしんで泊めてくれないかもしれませんし、心細うもございますし、それに公設の旅舎なら路銀の方もたすかりますし……」 「よろしい。あなたさえよければそうしましょう」  やがて旅舎に着くと、鄭奇は係りの者に官姓名を告げて、 「二階があいているようだな」  と言った。 「あいておりますが、二階は……」  と係りの者がわけを話すと、 「なにをばかなことを言う。たとえ怪異があらわれたとしても、わたしはそんなものはこわくない」  と言い、女を連れて二階へあがって行った。  その夜、鄭奇は女と歓(かん)を尽くし、翌朝、 「怪異などあらわれなかったぞ」  と言って、一人で宿をたった。 「奥様は?」  と係りの者がきくと、 「まだ眠っている。目がさめるまで寝させておいてやってくれ」  と言い残してたって行った。  係りの者はその後、日が高くなっても女が起きてこないので、そっと二階へあがって、部屋をのぞいてみた。と、女は寝台の上で死んでいたのである。  あわてて旅舎の係長に知らせると、係長もびっくりし、太鼓を鳴らして各旅舎にいる役人たちを呼び集めた。  まもなく、その女は汝陽県の西北一里あまりの村の呉家の嫁であることがわかった。呉家から奇妙な届けが役所に出ていたので、もしやというわけで呉家の者を呼んで死体を見せたところ、嫁にまちがいないと言ったので、わかったのだった。  届けというのは、呉家の嫁は家で病死したのだが、昨夜、棺に納めようとしたところ、急にあかりが消えたので、あかりを持って行ったところ、死体がなくなっていた、というのである。女はまだ二十五、六歳だったが、数年前に夫に死別し、以来よく舅姑に仕えながら女手一つで一家をささえていて、近所でも評判の貞女だったという。  鄭奇は汝陽の宿を出てからしばらくすると急に気分がわるくなってきて、からだじゅうの精気がぬけていくような気がしたが、ようやくの思いで南頓県までたどりついたときにはもう一歩も動けなくなり、そのまま死んでしまった。 六朝『捜神記』    死女の傷  後漢のとき、河南の潁川(えいせん)の鍾〓(しようよう)は朝廷に仕えていたが、ある日から急に、朝賀に出席しなくなり、遅れて朝廷へ出てきても、終日ただ茫然としていて、まるで腑(ふ)抜けのようであった。そんな日が幾日もつづいた。  同僚の者が、気が狂ったのではないかとあやしみ、わけをたずねると、 「朝は、いくら起きようとしても、からだに力がはいらなくて、どうしても起きられないのだよ」  と言う。同僚がさらに、 「昼間だっておかしいぞ。まるで夢でもみているように、ぼんやりとしているじゃないか。顔色もわるく、からだも痩せてきたし……。なにかわけがあるのだろう。かくさずに言ってくれ」  と言うと、鍾〓は、 「じつは、夜になると毎晩、どこからか女がやってくるのだ。この世に二人とないようなすばらしい美人で、情を交(かわ)して明け方になると帰っていく」  と言う。同僚は、さては、と思いあたり、 「それは亡霊にちがいない。亡霊と交っていると、次第にからだが衰えていって、ついには死ぬというではないか。いまのうちなら、まだ、もとのからだにもどることができるだろう。今夜その女がきたら、思い切って刺してしまった方がよい。刺したところで、もともと死人だ。どうということはないのだから」  とすすめた。  その夜も女はやってきた。ところが、家へはいってはこずに、戸の外に立ちどまってためらっている様子である。鍾〓が、 「どうしたのだ」  と言うと、女はかなしげな声で、 「あなたは、わたしを刺すおつもりですね」  と言う。 「どうしてそんなことを言うのだ。おかしいではないか」  と言い返すと、女はそのまま黙っていたが、やがて戸をあけてはいってきた。鍾〓はうしろめたい思いもし、情を交してきた女としてかわいそうにも思ったが、思い切って匕首(ひしゆ)を突きつけた。だが、手がしぶって匕首は胸にはあたらず、股を刺した。女はうずくまり、裲襠(うちかけ)の裾から綿を引き抜くと、それで傷口をおさえて逃げて行った。  夜があけてから、鍾〓が女の足跡をたどって行ってみると、それは大きな塚の前で消えていた。そこで塚を掘ってみると、棺の中にあの美しい女が寝ていた。顔はまるで生きているようで、白い練絹の上衣に、刺繍(ししゆう)をほどこした赤い裲襠を着ていたが、股のところを調べて見ると、昨夜の傷口のところに、裲襠から引き抜いた綿がおしあててあった。  その日からもう女はこなくなって、鍾〓のからだは次第にもとどおりになっていった。 六朝『捜神記』    夫人の墓  長白山の西に、夫人の墓というのがある。誰(だれ)の墓であるかわからない。  魏(ぎ)の孝昭帝のとき、広く天下の俊才を集めたことがあった。清河の崔羅什(さいらじゆう)という青年はまだ弱冠ながら才名が高く、召されて都へ行くことになったが、その途中、この墓のほとりを通った。と、たちまち朱門白壁の楼台が眼の前にあらわれ、中から一人の侍女らしい女が出てきて、 「お嬢さまがあなたにお目にかかりたいとのことでございます」  と言った。崔が馬を下りてついて行くと、二重の門を通りぬけたところに、また一人の女が待っていて案内をしようとした。崔が一応辞退すると、女は、 「お嬢さまは侍中の呉質さまの娘御(むすめご)で、平陵の劉府君(りゆうふくん)の奥さまでございますが、府君がさきにお亡くなりになりましたので、さびしく暮しておいでです。どうかおなぐさめしてあげてくださいませ」  と言い、強(し)いて崔を誘い入れた。  あるじの女は部屋の戸口に立って崔を迎えた。この世の人とは思われぬほど美しく、しかも詩文の才能もゆたかで、崔はすっかり心を奪われてしまったが、このような人がこんなところに住んでいるのはおかしい、おそらくただの人ではあるまい、と思った。そこで、 「ご主人が劉とおっしゃるということは先刻うかがいましたが、お名前はなんとおっしゃるのですか」  ときくと、女は、 「夫は、名は瑶(よう)、字(あざな)は仲璋(ちゆうしよう)と申しました。罪を得て遠方へ流されましたきり、もどってまいりませず、毎日、さびしく暮しております」  と言った。崔は女の美しさに心をひかれ、そのさびしさをあわれんで契りを結び、なおしばらく話をしてから暇(いとま)を告げると、女は、 「十年たちましたら、必ずまたお目にかかりましょう」  と言い、玉の指輪を崔にくれた。崔は約束のしるしとして玳瑁(たいまい)のかんざしを女に贈った。  侍女に送られて門を出、馬に乗ってしばらくいってからふりかえると、楼台はあとかたもなく消えていて、そこには大きな塚が横たわっているだけであった。  その後、崔は僧をたのんで女のために供養をしてもらい、指輪は布施として僧に与えた。  天統(てんとう)の末年、崔は官命によって黄河の堤の修築の監督をしていたが、その工事中、部下の者に昔話をして、涙を流しながら、 「今年は約束の十年目にあたるのだが、どうしたらよかろう」  と言った。部下はどう答えてよいかわからなかった。やがて工事はとどこおりなくすんだ。ある日、崔は自分の家で杏(あんず)の実を食べようとしたが、にわかにまたはげしく女を思い出して、 「奥さん、もしわたしに約束をたがえさせたくなかったら、この杏の実を食べさせないでください」  と言った。と、崔は一つの杏の実を食べ尽くさないうちに、にわかに倒れて死んでしまった。 唐『酉陽雑爼』    州長官の娘  唐の文宗(ぶんそう)の太和四年のことである。  監州の防禦史曾孝安(そうこうあん)の孫に、季衡(きこう)という若者がいた。祖父の官邸の西の離れに一人で住んでいたが、ある日、前の防禦史のときからいる官邸の下男が、季衡にこんなことを話した。 「この離れは、ずっと前に王という州長官の娘さんが住んでいたところです。その娘さんは絶世の美人だったそうですが、どういうわけだったのか、ある日急に亡くなったということです。いまでもその娘さんの亡霊が昼間からあらわれることがありますから、気をつけてくださいませ」  季衡は女好きな若者だったので、絶世の美女ときくと、なんとかしてその亡霊に会いたいものだと思い、香を焚(た)き身を清めて、しきりに、あらわれるのを心待ちにしていた。すると、ある日の夕暮れ、一人の少女がやってきて、ていねいに挨拶(あいさつ)をして言った。 「王家のお嬢さまのお使いでまいりました。あなたさまにお目にかかりたいとのことでございます」  そう言うと、ふっと姿が消えてしまったが、しばらくすると馥郁(ふくいく)たる香りがただよってきた。季衡が身なりをととのえて待っていると、やがてさきほどの少女が、一人の女の手をひいてやってきた。まるで天女と見まがうばかりの美しい女である。季衡が挨拶をして名をたずねると、女は、姓は王で字(あざな)は麗貞(れいてい)と言い、父がこの州の長官をしていたときこの部屋で死んだと言って、 「あなたの愛情が冥界(めいかい)までつたわってまいりましたので、幽明境(さかい)を異(こと)にしながら、ぜひともお会いしたくなって出てまいりました。どうぞお情けをおかけくださいませ」  と言う。季衡はよろこんで女を寝室にひきいれ、情を交(かわ)した。歓(かん)を尽して別れるとき、女は季衡の手を握って、 「明日のいまごろ、またまいります。けっしてほかの人にはお話しにならないでください」  と言い、侍女といっしょに姿を消してしまった。  その日から六十日あまりのあいだ、女は毎日夕方になるとやってきて、季衡と交情をかさねた。季衡はうれしくてならず、ある日、麗貞に口どめをされていたことも忘れて、祖父の配下の将校にこのことを話した。その将校はおどろいて、真偽をたしかめようと思い、 「今晩その女がきたら、壁をたたいて合図をしてください。この目でたしかめないことには信じられませんから」  と言った。その晩も女はきたが、季衡は壁をたたいて知らせることはしなかった。しかしその晩、女はいつもとはちがって元気がなかった。情を交しても、これまでのようにはよろこばないので、 「どうしたの?」  とたずねると、女はすすり泣きながら、 「どうして約束を破って、ほかの人に話しておしまいになりましたの? もう、これきりで、あなたにお会いすることはできなくなってしまいました」  と言う。季衡は将校に話したことを悔(く)いたが、いまとなっては及ばず、答える言葉もなかった。すると女は、 「あなたがわるいのではありません。わたしの運命が尽きたのですわ」  と言い、帯につけていた金糸で編んだ小箱を取り、それに翠玉(すいぎよく)のかんざしを添えて季衡に渡して、 「これからは、これをわたしだと思ってながめてください。これを見るたびにわたしを思い出してくださいね」  季衡も手文庫の中から金の如意(によい)の形をした飾り物を出して女に贈った。 「格別珍しいものでもないが、如意という名に心をひかれてお贈りします。いつまでもこれを持っていてください」 「あと六十年たたなければ、お会いすることはできませんわ」  女はそう言って泣きながら、侍女といっしょに帰って行った。  季衡はそれからは、寝てもさめても女を思いつづけて、日ましに痩(や)せ衰えていったが、知りあいの道士にわけを話し、法術をほどこしてもらって薬を飲んだところ、次第によくなり、数ヵ月たって、やっともとどおりのからだになった。 唐『才鬼記』    桃とにんにく  安徽(あんき)の〓(しよう)郡の夏侯文規(かこうぶんき)という人は、都に住んでいて死んだが、それから一年たったとき、〓郡の家に帰ってきた。  そのとき文規は、子牛に引かせた車に乗り、数十人の小人の供を連れてきて、 「わしはいま、北海郡の太守をしているのだ」  と言った。  家族の者が料理を作って出すと、あっというまにみな食べてしまったが、文規が帰って行ってしまってから見ると、器にはもとどおり料理が残っているのだった。  はじめて文規が帰ってきたとき、家族の者はみな声をあげて泣いたが、文規は、 「泣くな、泣くな。これからは月に一度は帰ってくるから」  と言った。果してそれからは、三、四十日目ごとに帰ってきて、半日ほど家族の者と話しては帰って行くようになった。  文規についてくる小人の供の者は、みな赤い着物を着ていたが、家に着くとみなどこかへ行ってしまって、帰るときになるとまた姿をあらわした。  家族の者たちは慣れるにつれて、文規が帰ってきても亡霊とは思わないようになった。文規には三つになる孫がいたが、あるとき、文規が抱いてみたいと言うので家の者が抱きわたすと、たちまち孫は悶(もだ)えだして気を失ってしまった。幼くて、亡霊の放つ妖気に抵抗できなかったのである。すると文規は、 「やはり、赤ん坊はだめか。早く水を持ってこい」  と言った。家の者が水を持ってくると、文規はそれを口にふくんで孫に吹きかけた。と、孫はすぐ息をふきかえした。  またあるとき、文規は庭の桃の木をながめて、 「この桃はずっと前にわしが植えたのだが、よい実がなるようになったな」  と言った。妻が、 「亡霊は桃をおそれると世間ではいっておりますけど、あれはうそなのですか」  ときくと、 「この桃はこわくない。東南に枝が伸びて太陽のほうを向いている桃がおそろしいのだ。そのほかの桃は別にこわくはない」  と言った。 「にんにくは?」  ときくと、文規は、 「うん、あれはこわい。わしがくるときには、あれは見えないところへかくしておいてくれ」  と言った。事実、文規は、庭の隅ににんにくの皮が落ちていてもすぐ見つけて、顔をそむけ、 「おい、あれを拾って、わしの眼につかぬところへ捨ててくれ」  と言った。  文規の様子から見ると、亡霊というものはにんにくをきらい、東南に枝の伸びた桃をおそれるもののようである。 六朝『甄異伝』    生きそこねた死骸  晋のとき、武都(ぶと)の太守だった李仲文(りちゆうぶん)は、在任中、十八歳になる娘を亡くして、武都の北郊の山に葬った。  その後、李仲文は転任して、張世之(ちょうせいし)という人が太守になった。張世之の息子の子長(しちよう)は、そのとき二十歳だったが、父について武都へ行き、官邸の厩(うまや)の一室に寝起きしていた。  ある夜、子長の夢枕に一人の娘の亡霊があらわれた。十七、八歳の絶世の美人であった。亡霊は子長に向って、 「わたしは前任の太守の李仲文の娘でございます」  と言った。そして、 「二年前に若死にいたしましたが、こんど生き返ることになりました。あなたを好きになりましたので、ここへ出てまいったのでございます」  と言い、しばらく時をすごしてから帰って行った。  それから五、六日間、娘の亡霊は毎晩、子長の夢枕にあらわれたが、その後は、昼間から姿をあらわすようになった。娘は香を焚(た)きしめたかぐわしい着物を着て、子長に寄りそってきて、 「あなたを好きでたまりません。どうか夫婦になってください」  と言った。子長もその美貌に心を動かされて、ついに夫婦の契りを結んだが、娘は処女(おとめ)で、そのあとに、そのしるしの血が着物ににじんでいた。  その後、李仲文は武都の北郊の山へ、娘の墓の様子を見に、下女をよこした。下女は墓を見たあと、張世之の官邸へ立ち寄って挨拶をしたが、そのときたまたま厩の一室の子長の寝台の下に、死んだ娘の靴とそっくり同じ靴が片方だけあるのを見つけた。  手に取って見ると、まぎれもなく死んだ娘のものである。下女はそれがわかると、わっと泣きだし、子長が墓をあばいたのにちがいないと思い、その靴を持ち帰って主人の李仲文に見せた。  李仲文はそれを見てびっくりし、使者を張世之のもとへつかわして、 「ご令息はどういうわけで、亡き娘の靴を手にいれられたのか」  と詰問した。  そこで張世之は、子長を呼んで問いただした。子長ははじめて、娘とのこれまでのいきさつを話した。張世之はきいて怪しいこととは思ったが、息子がうそを言っているとは見えなかったので、そのままを李仲文の使者につたえた。  使者から話をきいて李仲文も怪しいことと思った。そこで、両家の立ち会いのもとに娘の墓を掘って棺をあけて見たところ、すでに骸骨(がいこつ)になっているはずの娘の死体には豊かに肉がついていて生者のようであった。顔も生きていたときと変っていなかった。足を調べて見ると、右足には靴をはいていたが、左足にはなかった。  両家の人々は涙ながらに、片方の靴を娘にはかせてやってから、もとどおりに棺をしめて、墓をうずめたうえ、盛大な供養をした。  だが、そのとき、娘はほんとうに死んでしまったのである。その夜、娘の亡霊はまた子長の夢枕にあらわれて、さめざめと泣きながら言った。 「あなたをお慕いしてせっかく生き返ることができましたのに、靴を片方あなたの寝台の下に落してきたために、また肉が腐りだして、もう二度と生き返ることはできなくなってしまいました。かえすがえすも無念でなりません。あしたからはもう、あなたの前に姿をあらわすこともできなくなりますが、どうかお元気にお暮しくださいますように」  そう言うと、娘は泣きながら闇の中に消えて行ってしまった。娘が言ったとおり、娘の亡霊はそれを最後に、再びあらわれることはなかった。 六朝『捜神後記』    生き返った死骸  晋のとき、東平の馮孝将(ふうこうしよう)が、広州の太守になって赴任した。息子の馬子(ばし)も父について広州へ行き、官邸の厩の一室に一人で寝起きしていた。  すると、ある夜、夢枕に十八、九の娘があらわれて、 「わたしは前任の太守の、北海の徐玄方(じよげんほう)の娘でございます。不幸にして若死にをいたしまして、死んでからもう四年になります。わたしは妖怪にとり殺されたのですが、冥府のお役人が帳簿をお調べになったところ、わたしの寿命は八十余歳ということになっておりましたので、お役人はわたしに生き返ることをゆるしてくださいました。ところが、生き返るにはあなたのお力添えがなければいけないのです。わたしはあなたのお力によって生き返り、そして、あなたの妻になることになっております。どうかわたしの願いをおききいれになって、わたしを生き返らせてくださいませ」 「よろしい。わたしにできることならお力添えしましょう」  馬子がそう言うと、娘はよろこんで、さっそく、この世に姿をあらわす日をとりきめた。  約束の日になって、馬子が、娘がどういうふうに姿をあらわすのかと心待ちにしていると、寝台の前の、ちょうど地面と同じ高さの土間から、髪の毛が出てきた。馬子はまさか娘がそんなところからあらわれるとは思わなかったので、下男を呼んで髪の毛を掃(は)き捨てさせようとしたところ、掃けば掃くほど髪の毛は多くなってきた。馬子はそこで、夢枕にあらわれた娘の亡霊が姿をあらわすといったのは、あるいはこのことかもしれないと思い、下男たちを遠ざけて、一人で見守っていると、次第に頭があらわれ、額が見えだし、眼があらわれ鼻があらわれ口があらわれて、顔が見え、肩、腕、胸、胴、腰、脚とつぎつぎに全身があらわれてきた。だが、土が盛りあがったわけでもなく、穴が掘れたわけでもなかった。出てきた娘は、夢枕にあらわれた娘の亡霊と寸分ちがわなかった。  馬子は娘を寝台の上に坐らせて向いあい、いろいろと話をきいたりしたりしたが、娘の言うことはみな、この世の人からはきけないめずらしいことばかりだった。  その夜、娘は馬子といっしょに寝た。だが、馬子が娘を抱こうとすると何の手ごたえもなく、馬子の腕は空(むな)しくもがくような格好になるだけだった。馬子がいぶかると、娘は、 「そっとしておいてください。わたしはまだ魂だけで、実体はないのです」  と言った。 「それでは、いつになったら実体ができるの」  ときくと、娘は、 「いのちのよみがえる日になれば、できます。まだその日がこないのです」  と言った。  娘はそのままずっと、馬子といっしょに厩の一室に住んでいた。娘の姿は馬子には見えたが、ほかの者には見えなかった。ただ、声だけはほかの者にもきこえた。下男たちは馬子の部屋から女の声がきこえてくるので、あやしんでのぞいて見たが、何の姿も見えないので、馬子は気が狂って女の声をまねているのではないかと思った。だが馬子と話してみると、別に狂っているとは見えないので、ふざけているのだろうと思うようになった。  娘はいのちのよみがえる日が近づくと、馬子に、墓から自分の死骸を掘り出して介抱する方法をくわしく教え、 「では、くれぐれもわたしが言ったとおりにしてくださいませ」  と言い残して、部屋から出ていった。  馬子は娘に言われたとおりに準備をし、娘がよみがえると言った日になると、赤羽の雄鶏(おんどり)を一羽、黍飯(きびめし)を一碗、清酒を一升、娘の葬られている墓の前に供え、祭りをしてから、棺を掘り出した。  棺をあけて見ると、娘の死骸は生きている者と同じように肉がついていた。そろそろと抱え出し、毛氈(もうせん)を張りめぐらした帳(とばり)の中へ横たえて、さわってみると、胸のあたりにだけわずかに温(ぬくも)りがあった。口からもかすかに息が漏れていた。  馬子は四人の下女を付きそわせて介抱させ、娘の魂が言ったとおりに、毎日、黒い羊の乳を両方の眼にそそぎかけているうちに、やがて娘は少しずつ口を開いて動かすようになり、やがて粥(かゆ)を飲みこむこともできるようになった。さらに介抱をつづけているうちに、ものを言うこともできるようになり、二百日たつと起きあがって杖にすがりながら歩くことができるようになり、一年後には全く普通の娘と変らなくなった。顔の色も、肌のつやも、気力も、すべて世間の娘と同じだった。  そこで、馮家では使いを出して北海の徐家へ、くわしくいきさつを知らせた。徐家ではおどろき、かつよろこび、一族の者がみな馮家へかけつけて娘に会った。  馮家では吉日を選んで結納を交し、娘を嫁に迎えて、馬子と夫婦にした。  夫婦は仲むつまじく暮し、二人のあいだにはやがて二男一女が生れた。長男は元慶といって、懐帝の永嘉初年に秘書郎中(ひしよろうちゆう)になり、次男は敬度といって、太傅掾(たいふえん)になり、娘は済南の劉子彦(りゆうしげん)のもとへ嫁いだという。 六朝『捜神後記』    賄賂(わいろ)の腕輪  湖北の襄陽(じようよう)の李除(りじよ)が疫病にかかって死んだ。その妻が通夜をしていると、真夜中に、死体がむっくり起きあがって、妻が腕にはめている腕輪を、せかせかと抜き取ろうとした。  妻もいっしょになって腕輪をはずし、それを夫の手に握らせてやると、死体はまた倒れてしまった。  妻はずっと死体を見守っていたが、夜明けごろになると、死体の胸のあたりに温(ぬくも)りが生じ、やがて息をふきかえした。  李除は生き返ってから、つぎのような話をした。 「冥府の役人に引っぱられていったが、たくさん仲間がいた。その中の一人が役人に賄賂をやって逃がしてもらったのを見て、わしも金の腕輪をやるから逃がしてくれとたのむと、それでは取ってこいといって帰らしてくれたので、家へ帰るなり急いでおまえから腕輪を取って、役人にとどけにいったのだ。役人は腕輪を受け取ると、わしを放免してくれた。わしは役人が腕輪を持って帰っていくのを見たよ」  それから数日たったとき、妻はその腕輪が着物の中に返されているのを見た。妻は受け取ると夫のいのちがあぶないと思い、まじないをしてもらって土の中へ埋めた。 六朝『捜神後記』    恋女房  〓崇(ゆしゆう)という人が、江州の川で溺(おぼ)れ死んだ。  ところが、魂はその日のうちに家に帰ってきて姿をあらわし、生前とすこしも変らずに妻のそばにいるのだった。  はじめのうち妻はこわがって、毎日かわるがわる姪(めい)たちを呼んでそばにいてもらったが、亡霊はそれをいやがって、しきりに妻に、 「おれはおまえと二人だけでいたいのだ。あの子らを帰らしてくれ」  と言った。姪たちには亡霊の姿は見えなかったが、声だけはきこえるので、気味わるがって次第にこなくなった。  〓家は貧乏だったので、妻は毎日、畑仕事や機織りをして休む暇もなく働いた。だが、女一人の働きはたかがしれていて、暮しは苦しくなっていくばかりだった。亡霊は妻のあとをついてまわりながら、 「おれが死んでしまったばかりに、かわいそうに。蓄(たくわ)えを残してやることもできずにすまんことをした」  と言ったが、姪たちが手伝いにくると、 「また、じゃまをしにきた!」  と言い、畑仕事を手伝えば鍬(くわ)を、機織りを手伝えば筬(おさ)を、不意に空へ舞いあがらせたり地面へたたきつけたりした。そのため姪たちはこわがって、ついに誰もこなくなってしまった。 「親切で手伝いにきてくれるのに、どうしてあんなことをなさるのです」  と妻がうらむと、亡霊は、 「あの子らがおれを疑ったり、きらったりするからだ」  と言った。  〓崇には三つになる男の子がいたが、ある日、その子が母親におやつをねだった。母親が、 「我慢しておくれ。おやつを買ってあげるだけの金がないのだよ」  と言うと、それをきいていた亡霊は悲しそうな様子をして、 「わしがわるいのだ」  と言い、にわかに姿を消してしまったが、しばらくすると、どこからか二百貫の銭を持ってきて、 「これでおやつを買ってやってくれ」  と言って、さし出した。  こうして四、五年たつうちに、家はますます貧乏になり、その日の暮しも立たないありさまになった。すると亡霊は、 「おまえがこんなに難儀するのを見ているのはつらい。いっそのこと、こっちの世界へ呼んでやろうか」  と言った。妻が、 「そうしてください」  とたのむと、亡霊は、 「よし、よし。こっちの世界でいっしょに楽しく暮そう。おれはさきに行って、おまえを迎える用意をしておくよ」  と言って姿を消したが、それからまもなく妻は病気になって死んだ。そのとき息子は八歳になっていたが、母親が死んだ翌日、親戚の中で最も金持ちの、子のない夫婦が引きとりにきて、 「ゆうべ、この家の夫婦の亡霊があらわれて、くれぐれも息子をよろしくとたのまれたのだ」  と言った。 六朝『幽明録』    妻の機転  浙江(せつこう)の会稽(かいけい)に、厳猛(げんもう)という人がいた。  相思相愛の妻がいたが、山へ薪(まき)を取りに行ったとき、虎に食い殺されてしまった。  それから一年たったとき、厳猛が藪(やぶ)の中を歩いていると、不意に死んだ妻の亡霊があらわれて、 「あなたは今日は外へ出てはいけなかったのです。でも、出てしまった以上、仕方がありません。なんとかしてわたしが助けてあげましょう」  と言った。しばらくすると一匹の虎がおどり出てきて、厳猛におそいかかろうとした。と、妻は厳猛の前に立ちはだかり、虎に向って腕をさし出した。  虎は身構えをしたまま、じっと妻の指さきを見ていた。妻はゆっくりと指さきを右から左へ、左から右へと動かしていたが、やがて、一所を指さした。その指さすさきには、一人の胡人(こじん)が戟(ほこ)をかついで通って行くのが見えた。虎はまっしぐらにその胡人におそいかかって行った。 「さあ、あなた、いまのうちに逃げて」  その声といっしょに妻の姿はなくなっていた。厳猛は必死に逃げて、虎に食い殺されずにすんだのである。  虎に食われた者の亡霊は、みな〓鬼(ちようき)というものになって虎に仕え、虎が人を食うための手引きをさせられるという。厳猛の妻はそれを逆用して夫を助けたのであった。 六朝『異苑』    倹約のすすめ  宋の後廃帝(こうはいてい)の元徽(げんき)年間のことである。  湖北の江陵に朱泰(しゆたい)という者がいた。病気になって死んでしまったが、まだ棺へ納めないうちに亡霊になって姿をあらわし、自分の死体のそばに坐って、母親をなぐさめたり、はげましたりした。その姿は家族の者にはみな見えた。  朱泰は自分の葬儀をできるだけつましくするように、あれこれと家族の者に指図(さしず)をしながら、母親に言った。 「このごろは家の暮しが苦しいのに、わたしが死んでしまって、お母さんのお世話をすることができず、申しわけありません。この際、すこしでも倹約をすることを心がけなければなりません。わたしの葬儀に金をかけるようなことはしないでください」 六朝『述異記』(祖冲之)    幽明の境を越えた愛  河南の汝南(じよなん)に周義(しゆうぎ)という者がいた。妻を迎えてからまもなく、兄が江西の豫章郡艾(がい)県の県令になったので、妻を連れて、兄とともに艾県へ行った。  ところが、途中で病気になった。艾県まであと十里というところまで行ったとき、病状が重くなったので、兄は家族の者をそこに残し、一刻も早く治療させるために周義だけを連れて道をいそいだ。しかし運わるく、艾県へ着いた翌日、周義は死んでしまった。  あとから着いた周義の妻が泣く泣く遺骸に対面すると、死体はかすかに手を上げた。妻が遺骸の乱れた髪に櫛(くし)を入れてやると、死体は手をのばして妻のかんざしを抜き取った。  納棺がすみ、妻が部屋に引きとって休んでいると、周義の亡霊が姿をあらわして、 「いっしょに寝てもよいか」  と言った。妻がうなずくと床の中へはいってきて、 「おまえといっしょに暮した期間は短かったが、お互いにどんなに深く愛しあったことか。短かっただけに、愛しあっていただけに、わたしにはいっそう未練が残るのだ」  と言い、生きていたときと同じように情を交した。そのあとで妻が、 「あなたとわたしは、いまは幽明境(さかい)を異(こと)にしていますのに、それを越えて、このようなことをしてもよいのでしょうか」  と言うと、周義の亡霊は、 「わたしを迷わせたのは兄だ。兄がわたしとおまえを別々にしてしまったので、わたしは臨終のときにおまえに別れを告げることもできなかった。それでわたしは、おまえがやっときてくれたとき、手を上げて別れの挨拶をし、それからおまえのかんざしを記念に抜き取って冥界へ旅立とうと思ったのだが、兄たちががやがやとさわぎたてたので、生きている人間の気が襲いかかってきて旅立つこともできなかったのだ」  と言い、それからも毎晩あらわれて、生きていたときと同じように妻といっしょに寝つづけた。 六朝『述異記』(祖冲之)    形見の絹二疋(ひき)  山東の青州に、崔基(さいき)という人が住んでいた。同じ町の朱という家に美貌の娘がいたが、崔基はこの娘に惚(ほ)れこみ、いずれ妾(めかけ)にすると約束してひそかに家に呼びいれ、情交を重ねていた。  ある夜、崔基は門をたたく音に目をさました。いそいで出て行って見ると、娘が頬を涙でぬらして立っていた。 「この真夜中に、どうしたのだ」  ときくと、娘は泣きながら、 「わたし、いま、急病で死んでしまいました。あなたにかわいがっていただきましたのに、もう永久にお会いすることができなくなるのかと思うと、かなしくてなりません」  と言い、懐(ふところ)から二疋(ひき)の絹を取り出して、 「この絹は、あなたに着物を縫ってあげようと思って織っておいたのですが、もう縫えなくなってしまいました。形見にこれをさし上げます」  と言った。  崔基はその絹をもらい、かわりに八尺の錦を贈った。娘はそれを受け取ると、また泣きながら、 「これで永のお別れです」  と言い、ぱっと姿を消してしまった。  翌日、崔基は娘の家へ行って、 「昨夜、お嬢さんに何か変ったことはありませんでしたか」  とたずねた。すると娘の父親はおどろいて、 「どうしてご存じなのですか」  と言い、涙を流しながら、 「昨夜急病になって、医者を呼びに行くひまもないうちに死んでしまいました」  と言った。崔基が、 「妙なことをおたずねしますが、お宅では絹がなくなってはいませんか」  とたずねると、父親はまたおどろいて、 「どうして、そんなことまでご存じなのですか」  と言い、涙をぬぐいながら、 「昨夜娘が亡くなったあと、家内が経帷子(きようかたびら)を縫ってやろうとして、以前娘が自分で織った絹の残りが二疋ありましたので、箱の中から出したのですが、ちょっと脇見をしているうちに、なくなってしまいました」  と言った。崔が、 「その箱の中に、もしかしたら、錦が八尺はいっているかもしれません。調べてみてください」  と言うと、父親は箱をあけてみて、 「ある! いったい、これはどうしたことだ? 夢をみているのではあるまいか」  とつぶやいた。  崔基がそこで、昨夜のことをくわしく話すと、母親も出てきて、 「そんなにあなたを慕っていたとは知りませんでした。かわいそうに……」  と言って泣いた。  崔基はその後、娘の両親に嫁の親として仕えた。 六朝『述異記』(祖冲之)    泣き明かした女  安徽(あんき)の廬江(ろこう)の郊外に、馮媼(ふうおう)という百姓の老婆がいた。夫には先立たれて、子供もなく、貧乏だったので、村の人々から馬鹿にされて、誰も相手にする者がいなかった。  唐の憲宗の元和四年、この地方一帯が大饑饉(ききん)にみまわれたときのことである。馮媼は食糧を求めて舒(じよ)州へ行こうとした。その途中、ある牧場へさしかかったとき、日が暮れてきたうえに風が吹きだし、雨さえ降ってきたので、桑の木陰に身を寄せて途方にくれていたところ、ふと見ると、山の裾(すそ)に一軒の家があって、ともしびが漏れている。馮媼はよろこんで、一夜の宿をたのもうと、その家の前まで駆けて行った。  と、表に一人の女が立っていた。年は二十歳あまりで、きれいな衣装を身につけ、三つくらいの子供を抱いて、戸口によりかかったまま悲しそうに泣いているのである。  声をかけても返事をしない。そこで家の中へはいって見ると、寝台の上に老人とその妻らしい婦人とが坐っていて、戸口の若い女に向って、何やらがみがみと叱りつけていたところらしかった。だが、馮媼がはいってきたのを見ると二人は黙ってしまい、何もいわずに部屋から出て行ってしまった。  それを見ると若い女は泣くのをやめて家の中へはいってきた。そして食事の支度をし、寝床をととのえて、 「さあ、これを召しあがって、ゆっくりお休みになってください」  と言った。馮媼が礼を言って、 「さっきはどうして泣いていらっしゃったのですか」  ときくと、若い女はまた泣きだして、 「この子の父親はわたしの夫なのですけど、あした、ほかの女を嫁に迎えようとしているのです」  と言う。 「それは無体な。さっきここにおられたご老人たちはどなたなのです。何やらあなたにがみがみ言っておられたようですが……」 「あれはわたしの舅(しゆうと)と姑(しゆうとめ)なのです。夫の両親でございます。あした息子がほかの嫁を迎えるというので、舅と姑はわたしの化粧道具や裁縫道具、それから一家の主婦のあずかる先祖を祭るための家伝来の祭具を、わたしから取りあげて新しい嫁に渡そうとしているのです。わたしがどうしても手ばなそうとしませんので、あんなにがみがみとわたしを叱りつけていたのです」 「あなたが手ばなそうとなさらないのは、あたりまえですよ。ところで、あなたのご主人というのは、どういう人なのです?」 「わたしは准陰(わいいん)県の知事の梁倩(りようせん)という者の娘です。夫のもとに嫁いできてから、もう七年になります。男の子を二人と、女の子を一人もうけましたが、男の子は二人ともいま父親のところにおります。わたしがいま抱いているのは女の子です。夫は董江(とうこう)という名で、このさきの村に住んでおります。〓(さん)県の副知事をしていて、家は大金持ちなのです」  若い女はそう言ったきり、あとはただ泣きつづけていた。馮媼は夫婦が別居しているについては何か深いわけがあってのことだろうと思い、格別不審にも思わなかったし、それに、飢えと寒さに長いあいだ悩まされていたところだったので、久しぶりにおいしい食事にありつき、やわらかい寝床を与えられたので、まもなく眠ってしまった。女は夜明けまで泣きつづけていたようである。馮媼は一晩じゅう、ずっと夢うつつのなかでその声をきいていた。  夜が明けると馮媼は若い女に別れを告げ、その家を出て旅をつづけた。やがて桐城県に着くと、県城の東にりっぱな屋敷があって、幕を張りめぐらし、婚礼の引き出物や子羊や雁(がん)が並べてあって、人々が大勢つめかけていた。村の人に、 「おめでたですかね」  ときくと、 「今夜、このお屋敷で婚礼があるのだよ」  と言う。 「花婿さんは何というお人です?」  ときいてみると、 「〓県の副知事の董江様だよ」 「董江様には奥様もお子さんもおありのはずなのに、どうしてまたお嫁さんをお迎えになるのです?」  馮媼がそうきいてみると、村人は、 「董江様の奥様とお嬢様は、亡くなられたのだよ。それで後添(のちぞ)いをお迎えになるのさ」  と言う。馮媼が不審に思いながら、 「そんなはずはないよ。わたしは昨夜、雨に降られて董江様の奥様のお宅へ泊めていただいたのだもの」  と言うと、村人たちは馮媼に、その家はどこだとたずねた。牧場の近くの山の裾だと言うと、 「そこなら、前の奥様とお嬢様の墓地だ。董江様のご両親の墓地もそこにある」  と村人は言った。馮媼が昨夜見た二人の老人の顔かたちを話すと、まちがいなく董江の亡くなった両親だと村人は言った。董江はもともと舒州の人だったので、村人たちはその両親のことも知っていたのである。  村人の一人が董江にこのことを告げると、董江は不快な顔をして、 「あやしいことを言いふらして人をまどわせる婆(ばばあ)だ」  と言い、部下に言いつけて馮媼を村から追い出させた。そしてその夜、予定どおりに婚礼の式をあげた。  しかし、馮媼の話したことは村人たちの口から口へと伝えられた。それをきいて嘆声を漏らさない者はなかったという。  元和六年五月、私は江南従事として公務で都へ上った帰りに漢水の南に泊り、たまたま、渤海(ぼつかい)の高鉞(こうえつ)、天水の趙〓(ちようさん)、河南の宇文鼎(うぶんてい)の三人に落ちあい、夜の宿のつれづれにそれぞれ見聞した不思議な話を語りあったことがあった。この話はそのとき高鉞がきかせてくれた話である。ここに記録しておく次第である。 唐『廬江馮媼伝』    亡父の贈り物  則天武后のとき、宮廷の祭祀をつかさどる太常寺(たいじようじ)の長官に、楊元英(ようげんえい)という人がいた。  元英は開元年間に亡くなったが、それから二十年たったある日のこと、元英の息子が洛陽の鍛冶屋(かじや)町の磨師(とぎし)の家へ立ち寄ったところ、父の墓の中へおさめたのと同じ剣があるのを見て不思議に思い、 「あの剣は、どこで手にいれたのです」  ときいてみた。すると磨師は、 「名前はおっしゃいませんでしたが、いかにも身分のあるような風采(ふうさい)のおかたが、修理してくれと言って持っておいでになったのです。あしたの昼ごろ、取りに見えることになっております」  と言った。息子はそれをきいて、父の亡霊が持ってきたのだろうと思ったが、あるいは何者かが父の墓をあばいて盗みだしたのかもしれぬと疑い、翌日弟とともにまた磨師の家へ行って部屋の中から様子をうかがっていた。  すると、昼ごろ、剣を受け取りにきたのは、やはり父であった。衣服は生前のままで、白馬に乗り、数人の供の者をつれていた。兄弟は磨師の家を出ると、道端で頭を下げ、涙にむせびながら父の帰りを見送ろうとして待っていた。  元英は剣を受け取って帰る途中、道端に二人の息子の姿を見つけると、馬からおりて二人を物かげに呼びいれ、あれこれと家のことについて指示を与えてから、 「ところで、おまえたちの母は元気か」  ときいた。 「父上のお墓に合葬してから、もう十五年になります」  と言うと、 「そうだったか。わしは少しも知らなかった。冥府でもわしは役職についているので、なにかといそがしくてな。十五年も前にあれも冥土にきたのか」  と言って何度も嘆息した。そして、 「さあ、もう別れなければならぬ。わしは公用があって、いつまでもおまえたちに会ってはおれぬのだ。明日ここでもう一度会おう。そのとき、おまえたちの苦労をねぎらって、いくらか贈り物をするから、必ず明日の今ごろここへ来るように」  と言い、馬に乗って去って行った。  翌日、息子たちが約束の時刻に約束の場所へ行くと、元英も姿をあらわし、銭三百貫を手渡して、 「これでおまえたちのほしいものを買うがよい。この銭は数日間のうちに必ず使いはたしてしまうのだぞ」  と言い、 「これでもう、おまえたちと会うことはなかろう。家のことをちゃんとやるのだぞ」  と言い残して去って行った。息子たちが泣きながらあとを追うと、元英は馬をとめて、 「物わかりのわるいやつだな。生者と死者とは住む世界がちがうのだ。父と子の関係は百年も続くものではない」  と言って、馬に鞭(むち)をあてた。息子たちはそう言われても、なおあきらめきれず、あとを追って馬を走らせた。都の東北の門の上東門を出たとき、父の姿が北〓(ほくぼう)山へはいって行くのがはるかに見えた。しかし、数十歩進むと、その姿はぱっと消えてしまった。  それから数日のうちに、息子たちは都のあちこちの店でいろいろな物を買い込み、三百貫を全部使ってしまった。三日たったとき、都の商人たちはみな、売り上げ金の中に紙銭(しせん)(霊前で焼く銭をかたどった紙)がまじっているのを見つけて、不思議なことだと言いあったという。 唐『広異記』    鏡を買う娘  天宝年間のことである。韋栗(いりつ)という人が江西の新淦(しんかん)県の県丞(けんじよう)に任命された。韋栗には十歳あまりになる娘があった。  都から赴任して行く途中、揚州を通ったとき、娘が鏡を買ってほしいと言いだした。漆塗りに金泥(きんでい)で花の模様を描いた裏のついている鏡がよいと言う。 「いまは鏡など買いに行く暇はない。任地へ着いて落着いたら買ってやろう」  韋栗はそう言ったが、任地へ着くと何かといそがしく、鏡のことはすっかり忘れていた。一年あまりたって、娘は病気で死んでしまった。  やがて任期が満ち、韋栗は娘の棺を船にのせて都へ帰ることになったが、その途中、揚州に着いて船を運河の岸につないだ。  そのときのことである。揚州の市場へ、下女を一人連れて鏡を買いにきた娘があった。市場の商人たちは、娘がきれいな身なりをしていて、容貌も美しいのに目をつけ、競って鏡を売ろうとした。その中に二十歳あまりの、色の白い美男子の商人がいた。娘はその若者に五貫の銭を渡した。若者は、漆塗りに金泥で花の模様を描いた裏のついた、さしわたし一尺あまりの鏡をさし出した。すると別の商人が横から、 「お嬢さん、それよりもよい鏡がありますよ。値段は三貫にしておきます」  と言った。若者はそれをきくと、受け取った銭の中から二貫だけ返して、 「わたしも三貫におまけします」  と言った。娘はしばらく迷っていたが、若者に心をひかれた様子で、彼のほうの鏡を受け取って帰って行った。  その若者は娘をものにしたいと思った。そこで下男に、娘のあとをつけて行って住居を見とどけてくるように言いつけた。まもなく下男がもどってきて、 「娘は運河の岸につないである船の中へはいって行きました」  と言った。若者はそのとき、娘から受け取った銭が三貫の紙銭(しせん)に変っていることに気づいた。  若者はその紙銭を持って韋栗の船へ行き、 「さきほどお嬢様に鏡をお買い上げいただいたのですが、あとで見ますと、いただいた銭が紙銭に変っていました」  と言った。すると韋栗は、 「わしには娘はおらん。一人いたが数年前に亡くしたよ。そなた、船をまちがえたのではないか」 「いいえ、確かにこの船へおはいりになりました」 「鏡を買ったと言ったな……」  韋栗はふと思いあたって、 「その娘というのはどんな姿をしていた?」  若者が娘の着ていた衣装や顔かたちをくわしく話すと、韋栗もその妻も眼に涙をうかべながら、 「確かにわたしたちの娘だ」  と言い、若者を連れて船の中を隈(くま)なくさがした。だが、娘の姿はどこにも見えなかった。ところが娘の棺の置いてある船室へはいって見ると、韋栗の妻が九貫の紙銭を作って娘の棺の前の机に供えておいたのが、六貫しかなかった。韋栗の妻は何度も数えてみて、若者に、 「鏡はいくらでお売りになりましたか」  ときいた。 「三貫です」 「そうでしたか。不思議なことに、紙銭も三貫だけ減っております」  棺をあけて見ると、鏡はその中にはいっていた。 「その鏡です」  と若者は言った。そして、 「じつはわたしはお嬢さんのお美しさに心をひかれて、あとをつけてきたのですが、あのお嬢さんが亡霊だったとは……」  と言い、娘の供養(くよう)にといって十貫の銭を贈って帰って行った。 唐『広異記』    呉〓(ごぜい)の亡霊  元和年間のことである。江西の饒(じよう)州の刺史(しし)(州知事)に斉推(せいすい)という人がいた。  斉推は娘を隴西(ろうせい)の李(り)という者のところへ嫁がせたが、一年ほどたったとき、李は試験を受けに都へ行くことになった。そのとき妻は妊娠していたので、李は妻を斉夫婦にあずけて行った。  李の妻は父母とともに官邸で暮していたが、やがて臨月になって、裏の東側にある一棟へ移った。すると、その夜の夢枕に、いかめしい身なりをした一人の男があらわれ、眼を怒らせ剣を握りしめながら、 「この家は、そなたのような汚れた者のおるところではない。すみやかにほかへ移れ。さもなければひどい目にあわせるぞ」  と言った。李の妻はおそれて、翌日、そのことを父親に話したが、父親は気の強い人だったので、 「気にするな。わたしはこの地の長官だ。わたしの娘であるおまえに、亡霊ごときが何をすることができよう」  と言って、とりあわなかった。  それきり何ごともなかったが、数日たって李の妻が出産をすると、先日の夢枕にあらわれた男がまたあらわれ、寝台に寝たままの李の妻をさんざんなぐりつけた。そのため李の妻は、耳からも目や鼻からも血を出して、死んでしまった。  両親は娘の横死(おうし)をなげきかなしみ、あのとき部屋をかえてやればよかったと後悔したが、もはやどうするすべもない。すぐ使いの者を都へ出して李に知らせ、李が帰ってきたら李家の墓地へ改葬することにして、ひとまずその柩を西北の郊外の野に埋葬した。  一方、李は都で試験を受けたが落第し、家へ帰ろうとしているとき妻が死んだという知らせをきいて、すぐに出発した。饒州までの道のりは遠い。ようやく饒州の近くまできたときは、妻が死んでからもう半年もたっていた。  妻が亡霊に殺されたということは使いの者からきかされていたので、李は恨みも深く、なんとかして仇を討ちたいと思いつめていた。ようやく饒州の郊外まできたのは日暮れどきだったが、ふと見ると、野の中に一人の女が立っている。その姿も着ているものも百姓女らしくないので、李ははっとして馬をとめ、じっと見つめたが、女の姿は木や草の茂みに見えかくれして、はっきりとはわからなかった。馬から降りて近づいて行って見ると、まさしく妻であった。二人は顔を見あわせて涙にかきくれた。しばらくすると妻が言った。 「ねえ、あなた、泣くのはもうおやめになってください。うまくいけば、わたし、生き返れるかもしれないのです。それであなたのお帰りをここで待ちかねておりましたの。うちの父は気が強くて、鬼神(きしん)を信じようとはしませんし、わたしは女の身で、自分から訴え出ることはできませんし、あなたにお願いしようと思って、ずっとお待ちしていたのですけど、半年もたってしまいましたので、もしかしたら、もうまにあわないかもしれませんけれど……」 「どうすればよいのだね」  と李がたずねると、妻は言った。 「ここから西へ、まっすぐ半里あまりいったところに〓亭(はてい)村という村があります。そこに田(でん)というお年寄りが住んでいて、村の子供たちに読み書きを教えていらっしゃいますが、そのかたは、ほんとうは九華洞(きゆうかどう)の仙人なのです。でも、誰もそうとは知りません。そのかたのところへ行って、真心をこめてたのんでくださったら、あるいは、うまくいくかもしれないのですけど……」  そこで李はすぐ〓亭村へ行き、田先生の家をさがして老人を見ると、ひざまずきながら進み寄って、再拝して言った。 「下界の賤しい俗人が、おそれ多くも大仙様に拝謁(はいえつ)させていただきます」  老人は李を見ると、迷惑そうにその拝礼をやめさせながら、 「何をおっしゃる! いまにもこの世にいとまを告げようとしている、この老いぼれに向って……」  と言った。李がいつまでも平伏していると、老人はしきりに手をふって、 「なんでそんなことを……」  と言った。だが、李は日暮れから夜中まで、ずっとそうしつづけていた。  夜がふけてきたとき、ついに老人は言いだした。 「あなたがそれほど熱心にたのむのなら、わしもかくしだてはすまい」  李はそれをきくとほっとして、涙を流しながら妻が横死したいきさつを話した。すると老人は、 「そのことは、わしも前から知っておった」  と言った。 「それで訴えを待っていたのだが、半年たってもなお訴えがなかったので、いまでは屋敷がこわれてしまって、修理してもまにあわんのだ。わしがさきほどからあなたのたのみを受けつけなかったのは、どうしたらよいか思案がつかなかったからだ。だが、それほど熱心にたのむのなら、一つ、あなたのために手を尽くしてみるとしよう」  そして立ちあがると北の方へ出て行き、百歩あまり進んで桑林の中で立ちどまった。  老人はそこで長く叫び声をあげた。と、たちまちそこに大きな役所らしい建物があらわれた。  建物のまわりには、侍従たちがおごそかに立ち並んでいる。田先生は役所の正面の席に、紫の上衣をまとって机に肘をついて腰をかけ、左右には獄卒(ごくそつ)たちが居並んでいた。 「地上神をお召しじゃ」  という声が地ひびきのようにつたわった。と、まもなく、十幾つかの隊伍がそれぞれ百騎あまりを一隊として、さきになりあとになりして馳(は)せつけてくるのが見えた。各隊の統率者はみな身のたけ一丈あまり、いかめしい顔つきをしている。彼らは門の外に並んで服装をととのえながら、 「このたびは、いったい何ごとがおこったのかな」  と言いあっている。  しばらくすると取次ぎの役人が、 「地上界の廬山の神、江涜(こうとく)の神、彭蠡(ほうれい)の神の到着でございます」  と言うと、田先生の、 「みな、通せ……」  と言う声がきこえた。神々が役所の中へはいると、田先生は言った。 「さきごろこの州の刺史の娘が、出産のおり横暴な亡霊によって殺された。まことに非道きわまる事件だが、その方どもは知っておるか」  神々はいっせいに平伏して、 「知っております」  と言った。 「知っておるならば、何ゆえ恨みを晴らしてやらぬのだ」 「訴訟には告訴するものが必要でございます。この事件については誰も訴え出ませんので、摘発のしようがございません」 「犯人の姓名を知っているか」  すると一人が言った。 「前漢の〓(は)県の王、呉〓(ごぜい)でございます。いまの刺史の官邸はむかし呉〓が住んでいたところなのでございます。呉〓はいまでも豪雄を誇り、土地を占拠いたしまして、たびたび暴虐なふるまいをいたしますが、人間にはそれをどうすることもできないのでございます」 「よし、ただちに呉〓を捕えてまいれ」  まもなく呉〓縛られたまま連行されてきた。田先生は尋問したが、呉〓は罪を認めない。 「李の妻を連れてまいれ」  と田先生が言うと、まもなく妻が連行されてきて、呉〓対決がはじまった。呉〓言い負かされると、 「この女は産後の衰弱のため、わたしを見て恐怖のあまり息が絶えたのでございます。故意に殺したのではございません」  と言いのがれをした。 「刀を使おうと棒を使おうと、手で打とうと恐怖を与えてであろうと、殺したことにかわりはない」  田先生はそう言って、 「この者を天上界の役所へ護送せよ」  と命令し、さらに、 「李の妻の寿命は本来あと何年あるか、すぐに調べよ」  と言いつけた。まもなく役人の報告があって、 「本来はあと三十二年の寿命がありまして、四男三女を産むことになっております」  と言った。田先生はそこで役人たちに言った。 「李の妻はまだ三十二年も寿命があるはずなのに、不当にも呉〓に殺されたのだ。生き返らせてやらなければならないが、どうすればよいか」  すると一人の年取った役人が進み出て言った。 「東晋のとき、河南の〓(ぎよう)に非業の死をとげた者がおりましたが、ちょうどこの女と同じ事例でございました。そのとき前任の長官であらせられた葛真君(かつしんくん)様は、魂に形を与えて肉体とされ、人間界へ帰されました。その者は飲食も嗜好(しこう)も遊楽もいっさいのことが常の人間とかわりませんでしたが、ただ寿命が尽きて死んだとき、あとに死体が残らなかったのでございます」  田先生はたずねた。 「魂に形を与えるというのは、どのようにすることか」  すると年取った役人が答えた。 「生きている人間には三魂(さんこん)と七魄(しちはく)がございまして、死ねばばらばらになってしまいます。それらの魂魄を一つに寄せ集め、続玄膠(ぞくげんこう)を塗った上で、大王様がじきじき送り出して人間界へお帰しになれば、もとのからだと同じになるはずでございます」  田先生はそれをきくと、李の妻に向って言った。 「そのように処置してよいか?」 「ありがたいしあわせでございます」  李の妻がそう言うと、たちまち役人たちが李の妻に似た七、八人の女を連れてきた。そしてその女たちを李の妻におしつけ、一人が器にいれた飴(あめ)のような薬を李の妻のからだに塗りつけた。そのとき李の妻は、まるで体が天空から落ちてゆくような気がして、まもなく意識をなくしてしまったという。  夜があけると、昨夜の情景はすっかり消え失せて、田先生と李の夫婦の三人だけが、桑林の中に立っていた。  田先生は李に向って言った。 「できるだけの手を尽くしてみた。うまくいってよかったな。すぐ連れて行って、身うちの人々に会わせなさい。ただ、生き返ったとだけ言うのだぞ。ほかのことは話してはならぬぞ。さあ、これでお別れしよう」  李は言われるままに妻を連れて、饒州の城内に帰った。家族の人々はおどろいて、はじめは亡霊かと疑ったが、やがてほんとうに生きていることがわかると、またひとしきりおどろき、そしてよろこびあった。  その後、李の妻は四男三女を産んだ。親戚の者のなかにはうすうす事情を知っている者がいて、 「なにもかわったところはないが、ただ身のこなしが軽くて早いところが、普通の人とはちがう」  と話しあったという。 唐『玄怪録』  (注)呉〓は漢初の豪傑。〓県の出身。漢の高祖に従って戦功をたて、長沙王に封ぜられた。葛真君は東晋の人。神仙の術を会得して仙人になったと言い伝えられている。   行商人の妻と役人の妾  唐の太宗を輔佐した功臣の一人に、唐倹(とうけん)という人がいる。  その唐倹の若いころの話である。あるとき、呉楚(ごそ)の地方へ行こうとして、驢馬(ろば)に乗って洛陽のあたりを通ったが、途中でひどくのどがかわくのを覚えた。ちょうど道端に小屋があって、二十(はたち)あまりの女が一人、窓ぎわで縫いものをしていたので、 「娘さん、すまんがお湯を一杯くださらんか。のどがかわいてならんので」  と言った。すると女は、 「はい。しばらくお待ちください」  と言って立ちあがり、小走りに隣りの家へはいって行った。家の中から、 「おばさん、お湯を一杯くださいな。通りがかりのお役人さんがのどがかわいたとおっしゃるので」  と言う声がきこえ、まもなく女が碗を持って出てきて、 「中へはいって休んでいただくとよいのですが、ごらんのとおりの、一部屋きりのあばらやで……」  と言って、碗をさし出した。  唐倹が部屋の中をのぞき込むと、ほんとうにあばらやで、台所もなければかまどもない。不審に思って、 「このお湯は……」  と言うと、女は、 「はい。隣りからもらってきたのです。うちでは火を使いませんので」  と言う。 「どうして火を使わないのです?」 「貧乏で、炊事もできません。隣り近所から食べものをもらってやっと暮しております」  女はそう言いながら、また縫いものをはじめた。 「一人で暮していらっしゃるのですか」 「わたしは娘ではございません。薛良(せつりよう)という貧乏な行商人の妻なのです。夫といっしょになってからもう十年あまりになるのですが、まだ一度も夫の両親の家へ帰っておりません。明日の朝、両親の家からお迎えがきますので、せめてこれを手土産(て みやげ)にと思って、急いで縫っているのです」  女が縫っているのは靴下だった。 「結婚してから十年あまりになるとおっしゃったが……」  二十あまりにしか見えないが、すると、ほんとうの年は三十前後なのだろうか。身なりはみすぼらしいが、よく見ればなかなかの美人だ。唐倹はそう思って、心をひかれた。 「はい。十年とすこしになります」 「そうは見えない。ご主人はずっとお帰りにならないのですか」 「はい。旅に出てからもう五年になります」  女は靴下を縫う手を休めずにそう言った。 「五年も……。こんなに美しい奥さんを一人にしておいて……。おさびしいでしょう」  唐倹はそれとなく女の気をひいてみたが、女はそれに気づくと、黙って首を横にふって、せっせと縫いものをつづけた。唐倹は恥じ入って、銭二緡(ふたさし)を置き、礼を言って驢馬に乗った。  それから十里ほど行ったところで、唐倹は洛陽の旅舎に必要な書類の一部を置き忘れてきたことに気づき、取りにもどろうとして道をひき返した。翌朝、洛陽の近くまで行ったとき、葬式の行列に出会ったので、誰の葬式かとたずねると、 「行商人の薛良の柩(ひつぎ)です」  と言う。昨日の女の夫と同じ名なので、びっくりして、どこまで運ぶのかときくと、 「わたしは薛良の兄ですが、弟は結婚してから五年目に妻を亡くして、その遺骸を洛陽の城外に仮埋葬したのです。それから五年たって、こんどは弟が旅で死にましたので、郷里の先祖の墓地へ埋葬しに行く途中なのですが、十年前に仮埋葬した弟の妻の柩を掘り出していっしょに運び、先祖の墓地へ弟とともに葬ってやろうと思って、これからそこへ行くところなのです。墓はすぐこの近くです」  唐倹は不思議に思いながら行列について行った。行列は昨日唐倹が湯をもらったところでとまった。そこには昨日の小屋も、隣家もなく、ただ幾つかの塚があるだけだった。  やがて墓が掘りかえされた。唐倹がのぞいて見ると、掘り出された柩の上には銭が二緡(ふたさし)と、新しい靴下が二足、置いてあって、一足には父上様、一足には母上様と書いた紙が添えられていた。  唐倹は悲しい気持におそわれながら、不思議なことと感じ入った。  洛陽の旅舎で、置き忘れた書類を取ってから、唐倹は東へ東へと旅をつづけ、ある日、揚州の禅智寺の近くの旅舎に泊った。  唐倹はそのとき奇妙な光景を見た。禅智寺の裏山の墓地で、二人の役人風の男がそれぞれ数人の人夫を連れ、すこしはなれたところで、めいめい墓を掘りかえしているのである。おそらく棺が朽(く)ちたので取りかえようとしているのだろうと思ってながめていると、やがて、棺を掘り出した人夫たちが、両方とも、朽ちた棺を指さしながら顔を見あわせ、口々に何か言いながらどっと笑いだしたのである。そして、一方の墓を掘らせた役人風の男は茫然と棺をながめ、一方の役人風の男は鍬で棺をたたき割りながら何やら大声でどなりつけているのだった。  唐倹はいったい何ごとがおこったのだろうとあやしみ、そばへ行って人夫にきいてみた。 「いったいどうしたのです? 墓を掘りかえして笑ったり、どなったり……」 「いや、なに、一年ほど前からおかしなうわさがありましてね」  と一人の人夫が言った。 「こちらの韋(い)家の墓と、むこうの裴(はい)家の墓から、毎晩、男と女の亡霊が出てきて逢引(あいびき)をし、どちらかの墓から雲雨の声がきこえてくるといううわさなんですよ。このあたりの人たちには亡霊の姿を見たと言う人や、雲雨の声をきいたと言う人がたくさんおりましてね、うわさが大きくなるばかりなので両家で掘りかえしてみたというわけですよ」  そこへ、さきほど茫然としていた人がやってきて、唐倹に一礼して言った。 「わたしは前(さき)の太湖の県令で、韋璋(いしよう)と申します。あなたはどなたで?」  唐倹が名を言うと、その人は言った。 「さきほど人夫からおききになったとおりです。いま掘りかえしたのはわたしの息子の柩で、ここに埋めてからもう十年になります。人夫たちが笑ったのは、息子の靴が片方なく、かわりに女の靴が片方はいっていたからなのです。恥かしいことですが、やはりうわさのとおりでした。向こうの墓にいるのは裴冀(はいき)といって、前の江都の県尉(けんい)(県の属官)です。掘りかえしたのは彼の妾(めかけ)の遺骸です。日ごろ寵愛していた妾ですが、彼が着任してから二年目に亡くなり、ここへ葬ってから一年になります。彼はうわさを信じなかったのですが、このたび任期が満ちて帰ることになり、捨てて行くに忍びず、棺を洛陽まで持ち帰るつもりで掘りかえしたのですが、あけてみたところ、靴が片方なくて、かわりに男の靴が片方はいっているのを見て、かっとなって棺をたたき割っていたのです。そこをあなたに見られたというわけでして……。うわさのとおり、彼の妾はここへ葬られて以来、わたしの息子とどういうきっかけでか不義をはたらくようになり、絶えずゆききしているうちに、うっかり靴を片方とりちがえてしまったものと見えます」  唐倹はその話をきいて、しみじみと考えた。行商人の妻は死んでから五年になるのに、なお夫の父母につかえようという心を持ちつづけていた。ところが、役人の妾は死ぬとすぐ、亡霊になってほかの男の亡霊と通じあっていたのだ。この分では生きていたときもどうだったか知れたものではない。役人たるもの、そんな女へのかりそめの愛に溺れて、妻をおろそかにしてよいものであろうかと。 唐『続玄怪録』    逃げてきた遺骸  長安の平康(へいこう)坊に、馬震(ばしん)という人が住んでいた。故郷は陝西(せんせい)の扶風(ふふう)であった。  ある日の真昼どき、門をたたく音がするので出て行って見ると、驢馬(ろば)をひいた少年がいて、 「早くお代をくださいよ」  と言った。 「なんの代だね」  ときくと、少年は、 「驢馬のにきまっているじゃありませんか」  と言う。馬震がわけのわからぬまま、少年の顔を見返していると、少年は大声で、 「さっき、東市(とうし)からここまで女の人を乗せてきたんですよ。ここで降りて、この家へはいって行ったのに、知らぬふりをしてわずかな代金をごまかそうとするのですか」  と言った。うそをいっているようには見えない。不審に思いながらも、馬震は少年の言うだけの銭をやって帰らせた。  二、三日たったとき、また真昼どき、門をたたく音がした。出て行って見ると、先日の少年ではなかったが、やはり驢馬をひいた男がいて、同じことを言った。その後も同じことが、三度、四度とおこったので、馬震はあるいは何かの怪異のしわざではないかと思い、門の両脇に下男をひそませて、毎日様子をうかがわせていた。  と、ある日の真昼どき、見張りの下男があわただしく馬震を呼んで、 「いま、東の方から、女が驢馬に乗ってやってきます!」  と言った。すぐ出て行って、門のすきまからのぞいていると、女はだんだん近づいてきた。ようやく顔のわかるところまできたとき、馬震は思わず、 「あっ!」  と叫んだ。女は確かに馬震の母だったのである。死んでからもう十一年にもなり、南山に葬ったのだが、顔も着ているものも葬ったときのままであった。  母が驢馬から降りたとき、馬震は大声をあげて門から走り出た。と、母はびっくりしたように一瞬立ちどまったが、すぐ、馬震の横をすりぬけるようにして門の中へかけ込み、目かくしの塀のまわりを逃げまわった。つかまえられそうになると、こんどは、身をひるがえして裏の馬小屋のほうへ逃げて行った。追って行くと、母は馬小屋を通りぬけ、そのうしろの土塀に身を貼りつけるようにして立ちすくんで、いくら呼んでも、出てこようとしない。  馬震がそばへ寄り、袖を引っぱると、着物だけがすっぽりと抜けて馬震の手に残り、母はばたりと倒れた。倒れた姿は、白骨だった。骸骨は一片も欠けずにそろっている。よく見ると、赤い糸のような血管が骨と骨とのあいだを通っていた。  馬震は声をあげて泣きながら、骸骨を抱きおこして着物を着せ、柩(ひつぎ)を買って納めると、奥の部屋に安置し、香花を供えて祭礼をとりおこなった。翌日、南山の墓地へ行って調べたところ、墓はもとのままだったが、掘りおこして見ると柩の中は空(から)だった。  死後十一年もたってから、急に南山の墓地に安住できない何ごとかがおこったのであろうか。それにしても、家に帰ってきながら逃げまわったのはなぜだろうか。馬震にはなんの見当もつかなかった。亡霊は夜あらわれることが多いときいているのに、母にかぎっていつも真昼どきにやってきたことも解せなかった。あるいは故郷の地に改葬してもらいたくなって出てきたのかもしれぬとも考えられたが、その機会もないまま、同じ洛陽の郊外に見晴らしのよい地をさがして改葬したところ、母は再びあらわれることはなかった。 唐『続玄怪録』    孕(みごも)った娘  浙江(せつこう)の余杭(よこう)県のある寺に、さる大家(たいけ)の娘の柩(ひつぎ)があずけられていた。  娘は夕暮れになるとあらわれてきて、僧と酒を飲んだり、歌を歌ったりしていたが、やがてなれるにつれて、僧といっしょに寝て、明け方、帰って行くようになった。  そのようなことが二年間つづくうちに、町の人々がうわさをしだし、うわさは娘の父親の耳にもはいった。父親はまさかと思ったが、とにかく娘の死骸(しがい)を焼いてしまおうと心に決めた。そうすれば、うわさも消えるだろうと思ったからだった。  するとその夜、娘の亡霊が母親の夢枕(まくら)にあらわれて、泣きながら訴えた。 「わたしはまだ男の肌(はだ)も知らないうちに死んでしまいましたが、不思議な縁であのお坊さまと結ばれて、女のよろこびを知るようになりました。それがみだらなことであることも、ご両親の名をけがすことであることもわかっておりながら、やめることができずにおりますうちに、とうとうおなかに子どもを宿してしまったのです。そのおなかの子を産みおとさないことには、わたしは未来永劫(えいごう)、身の置きどころがなくなってしまいます。どうか、あと三日だけ、おゆるしください。それからなら、わたしをお焼きになろうとどうなさろうと少しもかまいません」  母親が目をさまして、夫にこのことを話すと、夫は怒って、 「娘は死んでいるのだぞ。死者のくせに坊主とたわむれて子を宿すとは、なんという恥さらしだ。焼いてしまわないでどうする!」  とどなった。その夜、娘の亡霊はまた母親の夢枕にあらわれて、泣きながら昨夜と同じことをたのんだ。翌朝、母親がまたそれを夫に話すと、夫は、 「いや。いまからすぐ焼いてしまおう」  と言い、葬儀屋を呼んで寺から柩を引き取り、北郊の山麓(さんろく)で、薪(まき)を積んで柩を焼いてしまったが、そのとき、死体の腹は大きくふくらんでいて、しばらく見ているうちに腹が裂け、中に赤ん坊がいるのが見えたという。 宋『夷堅志』    餅を買う女  安徽(あんき)の宣城は、兵乱があってから住民は四方へ離散してしまってさびれ、城外も蕭条(しようじよう)たる草原になっていた。  そのころのことである。城外の村の農夫の妻が妊娠したまま死んだ。夫はその遺骸(いがい)を村の古廟(こびよう)のうしろに葬ったが、その後、廟の近くに住んでいる人々は、夜になると草むらの中にともしびが見えかくれするのを、しばしば見るようになった。ときには赤ん坊の泣き声に似た声がきこえてくることもあるという。  宣城の城門の近くに餅(もち)屋があったが、毎日、日暮れどきになって店を閉めようとするころになると、赤ん坊を抱いた女が餅を買いにきた。毎日欠かさず、きまった時刻にやってくるので、餅屋は不審に思うようになり、あるとき、そっと女のあとをつけて行ってみた。すると女の姿は古廟のあたりで見えなくなってしまった。  餅屋はいよいよ不審に思い、翌日女がきたとき何気ないふうに話しかけながら、すきを見て女の裾(すそ)に赤い長い糸を縫いつけておき、女が帰ってから、またそっとそのあとをつけて行った。女はつけられていることをさとったらしく、いつのまにか姿を消していたが、その翌日、姿の見えなくなった古廟のまわりをさがしてみたところ、裏の草むらの中に糸が落ちているのを見つけた。あたりを見まわすと、糸の落ちていたすぐ近くに、新しい塚があった。餅屋は廟の近くの民家へ行って、だれの塚かたずね、女の夫の家へ行ってわけを話した。  夫はおどろき、近所の人々にたのんで、いっしょに塚へ行ってもらった。見れば塚はどこにもくずれたところはなかったが、掘りかえして棺をあけてみると、中に赤ん坊が生きていた。女の顔色もまだ生きているように見えたが、もちろん、生きてはおらず、妊娠していた胎児が死後に産み出されたものとわかった。  夫の家では、あらためて妻を火葬にし、その赤ん坊を養い育てたという。 宋『夷堅志』    腋(わき)の下の腫(は)れもの  河南の平輿(へいよ)の南、凾頭村(かんとうそん)に、鶉(うずら)取りを業(なりわい)としている張老という者がいた。  張老夫婦には、年をとってからできた一人の息子がいるだけだったが、その子が、十四になったとき病死した。夫婦は老後の頼りを失った悲しさに、わが子といっしょに死んでしまいたいと思うほどなげいた。そして死体を埋葬するに忍びず、瓦(かわら)を積んで塚をつくり、その中に棺を納めて、 「わしの子はきっと生き返ってくる」  と言った。それを見てあわれむ者もあれば、笑う者もあったが、夫婦は他人になんと言われようと、何も耳にははいらなかった。  死後三日目に、夫婦が塚の前にうずくまって泣いていると、中からかすかに呻(うな)るような声がきこえてきた。 「やっぱり生き返ってくれた!」  夫婦は大急ぎで瓦をくずし、棺の蓋(ふた)をあけて息子の口のところへ手をやってみると、かすかに息をしている。おどりあがらんばかりによろこび、二人で棺をかついで家へ帰り、息子を寝台の上に横たえてやると、まもなく息子は起きあがって、 「お湯を飲みたい」  と言った。湯をやると、また、 「粥(かゆ)を食べたい」  と言った。粥をやると、息子はもう元気になって、生き返った次第を話しだした。 「冥府(めいふ)へ連れて行かれたとき、わたしは王に訴えたのです。父母が老年で、わたしがいなくては困ります。父母に余生をつつがなく送らせて、葬儀万端をすませるまで、どうかわたしをお助けください。そう願い出たところ、王もかわいそうに思ってくれたらしく、それではおまえの孝心を愛(め)でて帰してやることにしよう。帰ったならば父親に話して、今後は鶉取りの商売をやめるように言え。もしやめなければ、おまえをまた呼びもどす。やめたら、おまえの寿命を両親の死後までのばしてやろう。王はそう言ってわたしを帰してくれました」  張老はそれをきくと、 「やめるとも。たったいまから、殺生(せつしよう)はやめる!」  と言った。そしてすぐ、網や罠(わな)のたぐいをことごとく焼いてしまい、翌日、息子を連れて仏寺へ参詣(さんけい)した。  その寺に呂(りよ)という僧がいた。年は四十あまりで、人柄も行儀も正しそうな僧であった。彼は都に近い寺で綱主(こうす)になったこともあるという。その僧を見て、張老の息子が言った。 「あなたも、生き返っておいでになったのですか」 「何をおっしゃるのです」  と僧は怪訝(けげん)な顔で言った。 「わたしは死んだ覚えはありません。どうしてそんなことをおっしゃるのですか」 「でも、確かに冥府であなたを見た覚えがあります。まちがいはないはずです」 「冥府で? あなたは、亡霊なのですか?」 「いまはちがいます。いちど冥府へ行ったのですが、生き返らせてもらったのです。冥府から帰るときに、わたしはあなたを見ました」 「…………」 「あなたは宮殿の角の銅の柱につながれて、鉄の縄(なわ)で足を縛られていました。獄卒が行ったり来たりして、鉄の棒であなたの腋(わき)の下を突くと、血がだらだらと流れました。わたしが帰るとき獄卒に、あの和尚(おしよう)さんはいったい、なんの罪で責苦(せめく)を受けているのですかとききましたら、経文をはぶいて読んだ罪だと教えてくれました……」 「そうでしたか」  と僧は蒼白(そうはく)な顔をして言った。 「おっしゃるとおりです。わたしは毎日、夜になると、冥府へ呼び出されて、責苦を受けていたのでしょう。自分ではそうとは思いませんでしたが、夜になると腋を鉄の棒で突かれるような苦しさを覚えますが、それが、あなたが冥府でごらんになったわたしだったのでしょう」  僧は三年前から腋の下に腫(は)れものができて苦しんでいたのだった。そんなことを知るはずのない張老の息子にそれを言いあてられたのである。 「ありがとうございました。よくお教えくださいました」  と僧は心から礼を言った。腋の下の腫れものが、経文をとばし読みした罰だということを彼ははじめて知ったのだった。  その後、僧は一室にこもって、毎日おこたらず経を読みつづけた。だが罰はなお三年つづき、四年目になってから腫れものはようやく癒(い)えた。 元『続夷堅志』    娘の魂  河北の鉅鹿(きよろく)郡に〓阿(ほうあ)という人がいた。なかなかの美男子であった。  〓阿には妻がいたが、ある日、同じ町に住む石(せき)という家の娘が〓阿の姿を垣間(かいま)見て、ひどく心をひかれてしまった。  娘はまもなく、〓阿の家にやってきて、 「どうか、ご主人にお会わせください」  とたのんだ。  〓阿の妻は嫉妬ぶかい女だったので、娘が夫を訪ねてきたときくと、下女に言いつけて娘を縛(しば)らせ、そのまま石の家へ送りとどけた。ところが、何とも不思議なことに、その途中で、娘の姿は煙のようにかき消えてしまったのである。  下女が石の家へ行ってそのことを話すと、娘の父親は怒って、 「うちの娘はそんなはしたない娘ではない。おまえは何のうらみがあって、そんな、ありもしないことを言って娘を傷つけようとするのだ。娘は今日はずっとうちにいて、一度も外へ出たことはないのに」  と言い、下女を追いかえした。  それ以後、〓阿の妻はいつも気をつけて夫の様子をうかがっていた。すると、ある晩、娘が夫の書斎へはいって行くところを見つけたので、そっとあとをつけて行き、いきなり押し倒して縛りあげ、自分で石の家へ連れて行った。  娘の父親は、縛られている娘を見るとびっくりして、 「わたしはいま奥から出てきたのだが、娘は母親といっしょに奥で刺繍(ししゆう)をしていた。それなのに、どうしてここに縛られているのだろう」  と言い、下女にいいつけて、娘を奥から呼んでこさせた。娘が出てくると、縛られていた娘の姿はかき消すように見えなくなってしまった。  石も〓阿の妻も、おのれの眼を疑い、しばらくのあいだはただ茫然とたたずんでいた。やがて石が、ようやく口を開いた。 「これは、何か怪しいことがあるにちがいありません。あとでよく調べてみますから、今夜のところはどうかおひきとりください」  〓阿の妻も、しきりに首をかしげながら帰って行った。  そのあとで石は、そっと妻を呼んで言った。 「どうも、怪しいものが娘にとりついているとしか考えようがない。おまえ、いつも娘のそばにいて、何か気がついたことはないか」 「そういえば、このごろ、いくら呼んでも返事をしなかったり、刺繍の手をとめたまま、じっとしていたりすることがあります。何か考えごとでもしているのだろうと思って、格別気にとめずにおりましたが……」 「それが怪しい。わしがきくと角(かど)が立ってまずいかもしれないから、おまえから娘にわけをきいてみてくれ」  そこで母親が娘に問いただすと、娘は、 「いつでしたか〓阿さまの家の前を通ったとき、庭に〓阿さまが出ていらっしゃるのをお見かけしたことがございました。それ以来、心がぼんやりして、夢うつつのうちに〓阿さまのところへ行っていることがよくあります。はっと気がつくと、やっぱり家にいるのですけど……」  石は妻から娘の言ったことをきくと、 「そうか。娘は〓阿を見て魂を奪われてしまったのだろう。おまえが呼んでも返事をしなかったり、刺繍の手をやめてぼんやりしたりしているときには、娘の魂がからだから離れて〓阿のところへ行っているときにちがいない。わしにはどうしようもない。娘を〓阿と添わしてやればよいのだが、〓阿には妻がいるし、妾(めかけ)にしてもらうにしても、あの妻は嫉妬ぶかい女だから承知してくれるはずはないし……」  その後も娘は、放心したようにじっとしていることがしばしばあった。  石は妻からそのことをきくと、 「そのときにはそっとしておいてやれ。わしたちが娘にしてやれることはそれしかない」  と言った。  それから二、三年たったとき、〓阿の妻はふとしたことから重い病気にかかった。〓阿は医者よ薬よと、できるだけのことをして介抱したが、その甲斐(かい)もなく、まもなく死んでしまった。  〓阿は一年間喪(も)に服してから、石家へ結納(ゆいのう)の品を贈って、娘を妻に迎えた。それからは何ごともなく、夫婦は仲むつまじく暮したという。 六朝『幽明録』    二人の倩娘(せんじよう)   則天武后の天授三年、河北の清河(せいか)の張鎰(ちよういつ)という人が、湖南の衡州へ地方官として赴任して行った。張鎰はもの静かな性質で、友人もすくなかった。男の子はなく、娘が二人いたが、長女は早く亡くなって、いまは末娘の倩娘一人きりである。倩娘はつつましやかな娘であったが、しかもおのずからあでやかさのにじみ出てくるような、絶世の美人であった。  張鎰の甥(おい)に、王宙(おうちゆう)という若者がいた。子供のときから頭がよく、美男でもあったので、張鎰はかわいがって、よく冗談に「大きくなったら倩娘を嫁にやろう。似合いの夫婦になるぞ」と言っていた。  その後、二人は成人して、寝てもさめても慕いあうほどの仲になった。だが、張鎰はそのことを知らず、たまたま幕客の中で官吏に採用された者から求婚があったので婚約をきめてしまった。  倩娘はそのことをきくと、すっかりふさぎ込んでしまった。王宙も内心ふかく張鎰を怨みに思い、都へ行って職につきたいからという口実で、張鎰の家を出ることにした。張鎰はわけを知らず、しきりに引きとめたが、王宙がどうしてもきかないので、仕方なく、十分に旅費をやって送り出した。王宙は怨みを胸の中にかくし、別れを告げて船に乗った。  その日の夕方、船は二、三里離れた山麓の村の入江に泊った。真夜中になっても王宙は倩娘を思いつづけて眠れずにいると、岸を大急ぎで走ってくる足音がきこえた。この真夜中に、と不審に思い、聞き耳をたてていると、足音は船のところでとまった。のぞいて見ると、なんとそれは倩娘ではないか。倩娘ははだしのまま王宙を追いかけてきたのだった。  王宙は気も狂わんばかりによろこび、倩娘の手を取って、 「どうしてきたの? わたしに会いにきてくれたの?」  ときいた。すると倩娘は泣きながら、 「あなたがどんなにわたしのことを思っていてくださるか、よくわかりました。わたしもずっとあなたをお慕いしておりました。ところが両親はわたしたちのこの気持を踏みにじってしまいました。それでもあなたのお心に変りのないことがわかりましたので、死んでもいっしょになりたいと思って家をぬけ出してきたのです」  と言った。王宙は思いがけず望みがかなって、小躍りせんばかりによろこび、倩娘を抱きしめた。その夜、二人は自然にはじめての契りを結んだ。  船は数ヵ月たって蜀(しよく)に着いた。二人は蜀で暮した。  そのまま五年の歳月が流れ、二人のあいだには子供が二人生れた。張鎰との音信はずっと絶たれたままだったが、倩娘は父母のことを思い出してよく涙を流した。 「親子四人、こうして楽しく暮しているのに、何が悲しくて泣いたりするのか」  と王宙がいぶかると、倩娘は、 「あなたと添いとげるために家を出てきましたが、あれから五年、肉親の情はずっとへだてられたままです。同じ天地のもとに生きていながら、わたし一人がこうして楽しく暮していることを思うと、親に対して申しわけのない気がしてきて……」  と言う。王宙は倩娘の両親を思う気持をあわれに思って、 「わたしもいまでは二人の子の親だ。親の子を思う気持はわかるよ。一度家へ帰って、ご両親に不孝をおわびしよう」  と言った。  王宙と倩娘は旅の支度をととのえ、二人の子供を連れて衡州へと旅立った。道中は格別のこともなく、やがて衡州に着くと、王宙は妻子を船の中に残して、まず一人で張鎰の家へ行き、これまでのことを話して不孝をわびた。すると張鎰は、 「何をいっているのだ」  と言った。 「倩娘はおまえが家を出て行ったときから病気になって、もう五、六年間ずっと部屋で寝たきりだ。でたらめを言うのもほどほどにしろ」 「伯父様こそ、なぜそのようなでたらめをおっしゃるのです。倩娘も二人の子供も船の中で待っております」 「なに? 船の中にいる? 現に倩娘は部屋で寝ているのに……」  張鎰はあやしんで、すぐ使いの者を船へやって調べさせた。ところが船の中にいたのは、まごうことなく倩娘であった。倩娘は晴れやかな顔で、使いの者に向って、 「お父様もお母様もお元気ですか」  ときいた。  使いの者は不思議でならず、急いで駆けもどって、このことを張鎰に知らせた。張鎰がなおも信じかねていると、下女が駆け込んできて、 「お嬢様が急にお起きになりました」  と知らせた。張鎰夫婦がおどろいて部屋へ行ってみると、倩娘がいかにもうれしそうな表情で化粧をしている。声をかけても返事をせず、やがて着物を着かえると、ほほえみながら表の間のほうへ出て行った。張鎰夫婦があとについて行くと、ちょうど向こうからも、二人の子供をつれた倩娘がやってくるところだった。二人の倩娘は互いに歩み寄って、ぴったりと一つに合わさり、着物までが一つに重なってしまった。  まことに奇怪ともなんとも言いようのないことだったので、張家ではこのことを秘密にしておいた。わずかに親戚の中に聞き知った者が幾人かいただけであった。  それから四十余年たって王宙と倩娘は亡くなり、二人の息子はともに孝子として役人に採用され、一人は県丞(けんじよう)(県の副官)になり一人は県尉(けんい)になった。  私は若いころこの話をきいたことがあったが、話の筋にはいろいろちがいがあったので、作り話だろうと思っていた。  その後、代宗の大暦年間の末、山東の莱蕪(らいぶ)県知事をしていた張仲(ちゆうせん)という人に出会ったところ、王宙と倩娘との話をくわしく語ってくれた。張鎰は張仲の父かたの叔父にあたるので、彼は話をよく知っていたのである。ここに、張仲からきいたままの話を記録しておく次第である。 唐『離魂記』    冥土(めいど)の使者  湖北の尋陽(じんよう)の軍司令官の施続(しぞく)は、すこぶる弁舌の立つ人であった。類は友を呼ぶというのか、その食客の李(り)某という者が、これまた議論好きで、いつも人を言い負かしては得意になっていた。  この李某は、日ごろ、亡霊などというものは実在しない、実在すると思うのは生きている人間の心のまどいにすぎないと言っていたが、誰もそれを言い負かすことのできる者はいなかった。  あるとき、黒い着物に白い袷(あわせ)を重ね着した見知らぬ客が、施続の役所へたずねてきた。李某が話し相手になっていたが、客はなかなかの議論好きで、やがて話は亡霊のことになった。一日じゅう議論しあったあげく、ついに李某が客を言い負かすと、客は、 「あなたは弁舌はたくみだが、弁舌は弁舌、事実は事実だ。論より証拠、このわたしはじつは亡霊で、冥府(めいふ)の使者なのだ。このわたしがここにいるのに、まだあなたは亡霊は実在しないというのですか」  と言った。 「冥府の使者というと?」  と、李某がにわかに恐怖をおぼえてきき返すと、 「そうです。じつはわたしは、あなたを引き取りに遣(つか)わされてきたのです。期限は明日の朝食のときまでということになっています」 「ほんとうにあなたは亡霊で、冥府の使者なのですか。わたしを言い負かそうとして、嘘をいっているのでは……」 「信じなければ信じないでよろしい。明朝になればわかることだから」 「信じます。なんとかして、わたしの命を助けてください」  李某が必死になって命乞いをすると、客は、 「あなたと一日じゅう話しあったので、情が移ったというのか、できれば助けてあげたいとは思うが、使者の任務は果さなければなりません。そうだ、この役所に誰かあなたに似た人はいませんか。もしいたら、その人をあなたの身代りに連れて行きましょう」  と言った。 「軍司令官の幕下の都督(ととく)がわたしと似ています」 「それでは、わたしをその都督のところへ案内してください」  李某はぶるぶるふるえながら、客を都督のところへ連れて行った。都督は机を前に昂然(こうぜん)と坐っていたが、李某を見ると、 「なんの用だ。なにをそわそわしている」  ときいた。 「客をお連れしました」  と李某が言うと、都督は、 「どこへ? 誰もおらんではないか」  と言った。客は都督と向き合って坐っていたが、都督にはその姿が見えないようであった。と、客はどこに持っていたのか、一尺あまりもある鉄の鑿(のみ)を取り出して都督の頭の上に据え、槌(つち)をふりあげて打ちつけた。すると都督は、 「すこし頭痛がするようだ」  と言ったが、客が槌をふりおろすにつれて、 「痛い! 頭が割れるように痛い」  とわめきだし、そのまま死んでしまった。  李某はおそろしさのあまり気を失ってしまったが、しばらくして正気にかえると、いまのことはみな夢ではなかろうかと思った。だが、都督は椅子によりかかったまま死んでいて、冥府の使者の姿はもうどこにも見えなかった。 六朝『捜神記』    冥土(めいど)の縁  漢の献帝(けんてい)の建安年間のことである。河南の南陽に、姓は賈(か)、名は偶(ぐう)、字(あざな)は文合(ぶんごう)という者がいたが、にわかに病気になって死んだ。  そのとき一人の役人がやってきて、文合を泰山(たいざん)へ連れて行った。すると泰山の司命(しめい)が帳簿を調べて、 「この者はちがうぞ」  と役人に言った。 「これは南陽の文合で、まだまだ寿命がある。わたしは某郡の文合をつれてまいれといったのに、まちがえるとは! 早くこの者を帰してやれ」  文合は司命に礼を言って帰ったが、もう日が暮れていたので、城壁の外の木の下で野宿をすることにした。しばらくすると、若い娘が近づいてきて、 「ごめんくださいませ」  と言った。見れば良家の娘のようなので、文合はあやしんでたずねた。 「ご身分のある方のようですが、どうして夜中に、たった一人でこんなところへ? お名前はなんとおっしゃるのです?」  すると娘は、しとやかに、しかしはっきりした口調で答えた。 「私は三河(さんが)の者で、父は現在、南の弋陽(よくよう)県の知事をしております。さきほど泰山へ召されてきたのでございますが、人ちがいとわかって、いま帰していただくことができました。瓜田(かでん)に履(くつ)を納(い)れず李下(りか)に冠(かんむり)を正さずという教えは心得ておりますが、あなた様のご様子を拝見しましたところ、よこしまなことをなさるおかたとは思われませんので、一人で野宿するよりもあなた様のお傍(そば)の方が無事と考え、その木の下でいっしょに休ませていただきたいと思ってまいった次第でございます」 「そうでしたか。わたしもついさきほど、人ちがいとわかって帰してもらってきたところです。一人よりも、二人の方が気が晴れます。どうせこのようなところでは眠れないでしょうから、一晩、語りあかしましょう」  からだをくっつけあって寒さをふせぎながら、なにかと話しあっているうちに、文合はたまらなくその娘が好きになってきて、 「こんなところで、こうしてお会いできたのは、深い縁があってのことでしょう。どうかここで、契りを結ばせてください」  と言った。すると娘は、 「あなたがそのようなことをおっしゃるとは思いませんでした。女の徳は貞節であり、女の名誉は潔白ということだと心得ております。どうして身をけがすようなことができましょう」 「あなたはわたしをおきらいなのですか」 「きらいとか好きとかいうことではありません。あなたはわたしを、結婚もしないのにそのようなことをする女とお思いなのですか」 「おゆるしくだされば結婚をしたいと思っております」 「こんなところでそんなことをおっしゃっても、どうすることもできません。父のことはさきほどお話しいたしました。帰ってから父にお申し出になってください」 「そうすれば結婚してくださいますか」 「父がゆるしてくれさえすれば」 「ありがとうございます」  こうしてその夜はなにごともなく、朝になると二人は名残りを惜しみながら別れて、それぞれの家へ向った。  ところで、文合の家では、文合の死体を棺に納めて二日間安置したのち、三日目になっていよいよ埋葬することになった。そのとき文合の顔を見ると、死んだときよりも血色がよくなっているので不思議に思い、胸のあたりをさぐってみると、いくらか温(あたた)かく、かすかながら動悸(どうき)をうっている。家の者はよろこぶやらあわてるやら。急いで医者を呼びにいっているまに、文合はまもなく生き返ったのである。  文合は家の者に死後のことを話したが、誰も信じなかった。 「おまえは死んだのではなく、息をとめて眠っていたのだよ。二日間おまえはここで棺にはいっていたんだよ。亡霊じゃあるまいし、おまえがちゃんとここにいながら、泰山へ行ったり女に会ったりできるわけはないじゃないか」  文合は誰も信じてくれないので、弋陽県へ出かけて行って知事に面会を申しいれた。だが門番は、文合がいくらわけを話しても真に受けず、どうしても通してくれない。ちょうどそこを通りかかった一人の役人が、文合があまりに真剣に話しているのを見て、あるいはほんとうかもしれぬと思い、知事に、 「南陽の者で、お嬢様が生き返られたことを知っている者が、閣下にお目にかかりたいと言っております」  とつたえた。そこで知事は文合を通すように言った。  知事は文合の言うことを不審に思ったが、奥へはいって娘にきいてみると、文合のいったこととすべてが同じだった。 「その人はわたしをもらいにきたのですか。もしそうなら、父上さえおゆるしくだされば、わたしはその人のところへ行きます」  と娘は言った。知事は不思議なこともあるものだとおどろき、さっそく使いを出して文合の両親を招いて話しあい、両家の縁組をその場できめた。 六朝『捜神記』    北台の使者  南斉の明帝の建武二年のことである。張〓(ちようかい)という百姓が野良から家へ帰ってくると、道端に一人の男が寝ていたので、 「どうしたのです。どこか具合でもわるいのですか」  ときくと、 「足が痛んで、歩けないのだ。家は湖南なので、家の者を呼んできてもらうわけにもいかんし」  と言う。張〓は気の毒に思い、車に積んであった荷をみんな道端へおろして、男を乗せてやった。  ところが男は、家へ連れて行ってやっても、ありがとうとも言わず、 「ほんとうは足は痛くなんかないんだ。ちょっとあんたを試(ため)してみたんだよ」  と言った。張〓が腹を立てて、 「なんだって! おまえさんはいったい何者なんだ、おれをからかったりして」  と言うと、男は、 「じつはわたしは亡霊なんです。北台(閻魔の庁)から使いをおおせつかって、あなたを捕えにきたのですが、お見受けしたところ、あなたは情け深い人のようなので、捕えるのはお気の毒に思い、足が痛いふりをして、ほんとうに情け深いかどうか試してみたのです。もしあのとき、あなたがわたしを見捨てて行ったら、わたしはすぐあなたを捕えたのですが、車の荷をおろしてまでわたしを乗せてくださったので、捕えにくくなってしまいました。しかしわたしも北台から命令を受けてきた以上、あなたを捕えないわけにはいかないし、どうしたものかと迷っているところなんです」  張〓はびっくりして亡霊を引きとめ、さっそく肉や酒を供えて、 「なんとかお助けくださいませんでしょうか」  と涙を流しながらたのんだ。すると亡霊は張〓の饗応を受けて、 「お助けしましょう。この村にあなたと同じ名の人がいるでしょう」 「はい。よそから流れてきたならず者で、黄〓(こうかい)というのがおりますが、あれとわたしとをおまちがえで……」 「いや、わたしはまちがえたわけではありません。だが、北台の書記がまちがえたのかもしれません。いますぐあなたは、その黄〓という男の家へ行ってください。わたしもついて行ってみますから」  張〓がそこで黄〓の家へ行くと、出てきた黄〓を見て亡霊は、 「うん、あれなら捕えてよかろう」  と言った。 「なんだね」  と黄〓が言うと、亡霊は赤い槍で黄〓の頭をたたき、その手を引き寄せるなり、別の手に握った短剣でその胸を突き刺した。張〓にはそれが見えたが、黄〓は全く気がつかないようであった。 「なんだ、誰もいないのか。酔いがまわったとみえる」  黄〓はそう言って家の中へはいっていった。すると亡霊は張〓に向って言った。 「あなたは情け深いうえに、立身出世をする相がおありです。いま捕えるのは惜しいと思って、おきてを曲げてお助けしたわけです。このことは人に漏らしてはなりませんぞ」  張〓たちが去ってからまもなく、黄〓は急に胸が痛みだして、その日の夜半に死んでしまった。  張〓は七十歳の寿命を保ち、光禄大夫(こうろくたいふ)にまで出世した。 六朝『甄異伝』    冥府(めいふ)で会ったやさしい娘  宋の孝武帝の孝建年間のことである。河南の潁川(えいせん)に〓(ゆ)という者がいたが、病気にかかっていったん死んだものの、一日たったとき、にわかに息を吹きかえして、つぎのような話をした。  息が絶えたとき、黒い服を着た二人の男がやってきて〓を縛りあげ、 「さっさと歩け」  と言って追いたてた。しばらく行くと、城門の高くそびえ立った大きな建物が見えた。二人の男は〓を連れてその城門の中へはいって行った。中には〓と同じようにして連れられてきた大勢の者がいた。  城の中の役所らしい建物の中には、身分の高そうな人が南向きに坐っていて、数百人の護衛がいた。みんなはその人を府君(ふくん)と呼んでいた。府君は右手に筆を、左手に帳簿を持ち、自分の前に連れてこられた者を一人一人点検していたが、やがて〓の番になると、 「この者はまだ寿命が尽きてはおらぬぞ。すぐ送りかえしてやれ」  と言った。すると府君のそばから一人の役人がおりてきて、〓を城門のところまで連れ出し、城門の役人に、 「この者を、人をつけて送りかえしてやってくれ」  と言った。ところが城門の役人は、 「許可を申請して書類をいただかないことには、送りかえすわけにはまいりません」  と言った。〓を連れてきた役人は、 「府君が送りかえせとおっしゃったのだ。書類などいらぬ」  と言ったが、城門の役人は、 「しかし、規則は規則ですから」  と言って従おうとしない。  するとそこへ、一人の娘がやってきた。十五、六歳の、身なりのよい美しい娘であった。娘は〓のそばへきて耳うちをした。 「うまい具合にお帰りになれるというのに、こんなところで引きとめられていらっしゃるのね。城門の役人は袖の下がほしいものだから、あんなことを言っているのですわ。なにかおやりになれば帰してくれますから、そうなさいませ」 「それが、わたしはさっき縛られてきたばかりで、なにも持っていないのです」  と〓が言うと、娘は左の腕にはめていた黄金の腕輪を三つはずして、 「これを役人におやりなさいませ」  と言う。 「ご親切に、ありがとうございます。あなたのお名前をおきかせください」  と〓が言うと、娘は、 「わたしは、姓は張(ちよう)と言います。家は茅渚(ぼうしよ)にあります。昨日、霍乱(かくらん)のために死んでこちらへきたばかりです。あなたは運よくお帰りになれますけど、わたしはもう帰ることはできませんの」 「あなたのご親切は忘れません。わたしは死ぬ前に、家の者に棺を買うために五千貫の金を残してきましたから、もし生きかえれましたら、その金をお家へおとどけしてお礼をいたします」 「いいえ、わたしはただ、あなたのご災難を見て見ぬふりをしていることができなかっただけですの。この腕輪はわたしの物ですから、家へお返しくださるには及びません」 「それでは、ありがたくちょうだいさせていただきます」  〓が娘からもらった腕輪を城門の役人にさし出すと、役人はそれを受け取り、許可の申請をすることもなく、黒い服を着た男に〓を送りとどけるように言いつけた。〓が娘に別れを告げると、娘はため息をつきながら涙をこぼした。  〓は息を吹きかえしてから、何日かして元気をとりもどすと、茅渚へ出かけて行って張という家をさがした。たずねまわって、ようやくさがしあてたところ、はたしてその家では近ごろ霍乱で娘を亡くしたということであった。 六朝『述異記』(祖冲之)    子供の命  唐の開元年間の末のことである。洛陽の安宜坊(あんぎぼう)に一人の書生が住んでいた。  ある夜、部屋の戸を閉めて書物を読んでいると、戸のすき間から、何者かがぬっと顔を出した。 「誰だ! 無礼(ぶれい)な!」  とどなると、相手は、 「わたしは亡霊なのです。ちょっとおつきあいを願いたいのですが……」  と言った。 「亡霊のおつきあいなどいやだ。さっさと消えてくれ」  と書生が言うと、亡霊は、 「お願いです。生きている人といっしょでなければ、わたしの役目が果せないのです。それほど手間はとらせませんから、どうぞ外へ出てください」  とたのんだ。  書生が外へ出ると、亡霊は地面に十の字を書き、さきに立って歩きだした。書生がついて行くと、やがて安宜坊を通りぬけて、寺の前へ出た。書生は、 「寺へ参って行こう。素通りしてはいけないよ」  と言ったが、亡霊は、 「いや、わたしについてきてくださればよいのです。参っている暇はありません」  と言い、素通りして定鼎(ていてい)門の方へ歩いて行った。定鼎門は洛陽の西南の門である。門は閉まっていた。すると亡霊は書生を背負い、門のわずかなすきまを通りぬけて城外へ出た。  さらに進んで五橋(ごきよう)まで行くと、道端に一軒の家があって、天窓からあかりが漏れていた。すると亡霊はまた書生を背負い、天窓のそばまでとびあがった。天窓から下をのぞくと、一人の女が病気らしい子供の前で泣いていて、そのそばには夫らしい男がごろ寝をしているのが見えた。  亡霊はまた書生を背負い、天窓を通りぬけて部屋の中へおりた。女には亡霊の姿も書生の姿も見えないようであった。亡霊はあかりのそばへ寄り、両手であかりを覆(おお)った。部屋の中が暗くなると、女はぎょっと表情をひきつらせて、寝ている夫をゆり起した。 「あなた、坊やは死にそうなのですよ。よくもぐうぐう眠っていられますわね。いま、何かいやなものが来て、あかりを暗くしたから、眠いでしょうけど起きて、あかりを明るくしてちょうだい」  夫は起きて、油をつぎ足した。  亡霊は女をよけるようにして子供を見守っていたが、しばらくすると、布の袋を出して、不意に子供をその中へ入れた。子供は袋の中でまだ動いていたが、亡霊はそのまま袋をかつぎ、書生を背負って、いったん天窓の上へとびあがってから、地面へおりた。  こうしてまた定鼎門を通りぬけ、安宜坊の書生の家までもどると、亡霊はていねいに礼を言って、 「わたしは冥府の命令で、子供の魂をあの世へ連れて行く役目をしているのです。ただ、その役目を果すためには生きている人を連れていなければなりませんので、あなたにこんなお手数をかけたわけです。どうぞおゆるしください」  そう言うなり亡霊はどこかへ行ってしまった。  書生が亡霊について歩いていたとき、亡霊は立ちどまるたびに地面に十字を書いていた。翌日、書生は弟を連れて昨夜歩いたあとを調べてみた。と、亡霊の書いた十字はみなそのまま残っていた。さらに城門を出て五橋へ行き、昨夜の家をたずねてみると、やはり子供は死んでいた。 唐『広異記』    冥府(めいふ)の小役人  天宝年間のことである。御史台の役人に張(ちよう)某という者がいて、役所の命令で淮南(わいなん)地方へ裁判事情の調査に出かけた。  淮河を渡ろうとして船を出しかけていたときである。黄色い上着を着た男が渡し場へ駆けつけてきて、 「急用があるのだ、船をとめてくれ」  と叫んだ。張がそれをきいて船を出すのをやめさせると、男は乗り込んできた。船頭が、 「急用というのはなんだね」  ときくと、男は、 「いや、なに。この船に乗せてもらって川を渡りたかっただけだ」  と言った。 「なんだと! 川を渡りたいだけのことでお役人の船をとめさせるとは、なにごとだ。降りろ!」  船頭が怒ってなぐりかかろうとすると、張は、 「なぐってはならぬ。渡し船とまちがえたのだろう。庶民を一人乗せてやったところで、どうということもない。なぐれば逆に、おまえがこの土地の役人からとがめを受けるぞ」  と言い、 「腹をすかしているようだ。何か食べさせてやるがよい」  と、部下の者に言いつけて食事をさせた。男はよろこんで張の好意を受けた。  船が向こう岸に着くと、男は張に礼を言って別れて行った。ところが、つぎの宿場へ行ってみると、宿舎の入り口に、またその男がいた。張は、これは訴訟沙汰(そしようざた)の泣き落しにきたのにちがいない、と思い、不愉快になって、 「さきほど船に乗せてやった者ではないか。なぜまた、ここへ来たのだ。さっさと立ち去るがよい」  と言った。すると男は、 「じつは、わたしは人間ではありません。あなたにお話ししたいことがあるのですが、部下の人たちにきかれるとまずいので……」  と言った。張が男を一室に案内して人ばらいをすると、男は、 「もうお察しのことと思いますが、わたしは冥府(めいふ)の命令であなたの命を取りにきた亡霊なのです」  と言いだした。 「あなたは淮河で溺れ死ぬことになっていたのです。わたしはそういう命令を受けてきたのですが、あなたがさきほど親切にしてくださったので、その恩に感じて一日だけ猶予(ゆうよ)することにいたしました」 「せめて、家へ帰って家族の者に遺言をするまで待っていただけないでしょうか」 「一日以上は命令にそむくことはできないのです。わたしはたまたまあなたの命を取る使者を仰せつかって人間世界へやってまいりましたが、冥土での本来の職分は、人間世界でいうと村役人のようなもので、自分の考えで事をきめることはできないのです」  張が男のそばへ寄ってたのみ込もうとすると、男は手をふって、 「いけません。人間と亡霊とでは住む世界がちがいますから、近づいてはなりません。あまり近づくと、あなたの命がなくなりますよ」  と言った。張は仕方なく、離れたところにひざまずいて拝礼した。すると男は、 「一日のうちに続命経(ぞくめいきよう)を一千回読みあげることができれば、寿命をのばすことができるはずですよ」  と言い、そのまま外へ出て行ったが、門のところまで行くと、また引き返してきて、 「続命経というのをご存じですか」  ときいた。張は一度もきいたことがない名なので、 「それはなんでしょうか」  とたずねると、男は、 「人間世界でいう金剛経のことですよ」  と言う。 「今日はもう日が暮れましたのに、金剛経を一千回も、どうしてとなえることができましょう」 「他人にとなえてもらえば、できないことはないでしょう」  男はそういって出て行った。そこで張はあちこちに手配をし、宿舎の人や土地の人たち数十人を集めて、いっしょに金剛経をとなえはじめた。翌日の日暮れまでとなえつづけてようやく一千回を読みあげると、男がまたやってきて、 「お役人、もうあなたの命は助かりましたぞ。ただ、ちょっと冥府へ出頭するだけは、していただかなければなりません」  と言った。  そこに居あわせた数十人の人々は、そのとき、張が黄色い着物を着た男といっしょに宿舎を出て行くのを見た。  男は張を冥府の長官の前に連れて行くと、 「この者は、続命経を一千回、数のとおり読みあげまして、寿命をのばしていただく資格を得た者でございます」  と言った。長官はすぐ部下の者に命じて調べさせた。まもなく部下の者が復命して、 「たしかに一千回でございます」  と言うと、長官はうなずいて、 「では、さらに十年の寿命を得るであろう。この者を放免して生き返らせよ」  と言った。  男は張を連れて冥府の門を出ると、 「人間世界へあなたを拘引(こういん)に行ったまま、復命するのがおくれましたので、さきほど笞(むち)で打たれましたよ」  と言い、肌ぬぎになって傷あとを張に見せながら、 「いくらかお手当をいただきたいものですな」  と言った。 「わたしは貧乏な役人で、しかも旅先のことですから、あまり多くの持ちあわせはありませんが……」 「いや、二百貫でけっこうです」 「紙銭(しせん)でよろしければ、五百貫さしあげましょう」 「ご好意はありがとうございますが、わたしはもともと福分(ふくぶん)の薄いたちで、そんなに多額の金をいただくわけにはいかないのです。二百貫でけっこうです」 「いまはわたしも冥土にいる身で、ここには何も持っておりません。宿舎へもどらないことには、金の工面(くめん)はつきませんが、どうしたらよろしいでしょう」 「なに、あなたが心の中で念じて、あなたの奥さんに支払うようにお言いつけになればよろしいのです。そうすれば、わたしが自分で受け取ってきます」  張が一心に念じはじめると、男は、 「それでは、受け取りに行ってきます」  と言って姿を消したが、しばらくするともどってきて、 「あなたの奥さんはくださるつもりなのですが、乳母どのが承知しないのです。乳母どのにも念じてください」  と言って、また出かけて行った。  張がまた一心に乳母を念じていると、まもなく男がもどってきて、 「受け取ってきました」  と言った。その声をきいたとたん、張は意識が朦朧(もうろう)としてきて、深い穴の中へ落ち込んで行くような感じがしたと思うと、そのまま生き返った。  後に張は休暇をもらって家へ帰り、以上の話をしたところ、妻はおどろいて、 「あなたがおっしゃる日の夜、わたしはあなたの夢を見ました。夢の中であなたはもう亡くなっていて、紙銭を二百貫ほしいといわれました。目がさめてからすぐ、紙銭を買うなり作るなりしようと思ったのですが、乳母が、夢の中のことなど信用できません、と言って反対しましたのでやめました。するとその夜、こんどは乳母が同じ夢を見たのです。そこで紙銭を二百貫買ってお墓へ供えに行きました」  と言った。  張はそれから十年後に死んだ。 唐『広異記』    亡霊たちの饗宴  開元年間のことである。洛陽県令の楊〓(ようちよう)が公用で外出したところ、その帰り道に、道端の槐(えんじゆ)の木陰に易者風の男が平然と腰をかけているのを見かけた。  県令のお通りだというのに、道をよけようともしない。警護の兵士がどなりつけてよけさせようとしたが、腰をかけたまま動かないのである。  楊〓は下役人に命じて役所へ連行させ、じきじき訊問した。 「そなたはただものではあるまい。名を言え」 「ただの易者です。名はありますが、名乗るほどの者ではありません」 「なぜ、道をよけなかったのか」 「あなたはあと二日間の県令なのに、そう威張ることはないでしょう」 「あと二日間の県令とはどういう意味じゃ。何かのとがめを受けて左遷でもされると言うのか」 「いいえ、二日後にはあなたの寿命が尽きるということです」 「なぜ、そなたにそれがわかる?」  楊〓があわててたずねると、易者は自分の見立てをくわしく語ったが、易に明るくない楊〓にはその意味がわからなかった。だが、易者の口ぶりはいかにも確信にみちているように見えた。楊〓の部下の中に易にくわしい者がいた。楊〓が不安なまなざしでその部下をふりかえると、部下は身を乗り出して易者に言った。 「それほどの見立てのできるおかたなら、あなたはきっと、厄(やく)払いの法も知っておいででしょう。どうすればこのわざわいからのがれることができるか、それをお教えください」  楊〓もひざまずいて再拝し、 「どうかお教えください」  と懇願した。すると易者は、 「それでは、あなた自身の行動によって、あなたを守る法をやってみましょう。だが、助かるかどうかはわかりませんよ」  と言い、楊〓を東の中庭の亭(あずまや)へ連れて行き、髪をふり乱させ、はだしのままで、土塀に向って立たせておいて、自分は机に向って護符を書きつづけた。  やがて真夜中をすぎたころになると、易者は筆を置いて楊〓に呼びかけた。 「冥府の使者はすぐ近くまで来ていたのですが、どうやら帰って行ったようです。今夜はひとまず助かりました。もうよろしいから、さあ、こちらへ来てお休みなさい」  楊〓がほっとして、立ち疲れたからだを椅子におろして休むと、易者は、 「まだ、どうなるかわかりませんよ」  と言い、 「明日は三十枚の紙で紙銭(しせん)を作り、餅(もち)をたくさんこしらえ、酒を一壺用意して、西南の定鼎(ていてい)門外の桑林の中でお待ちなさい。通りかかる者があったら、引きとめて酒を飲ませるのです。黒い皮衣(かわごろも)を着て、右肩を肌ぬぎにしているのが、あなたを迎えにきた冥府の使者です。もしその亡霊が足をとめて、餅を食い酒を飲めば、あなたの命は助かります。だが、足をとめなかったら、どうしようもないわけです。そのときは、近くに小屋がありますから、身なりを変えて、その小屋へ行ってお待ちなさい。そして亡霊が通りかかったらまた引きとめて、何がほしいかをたずねるのです。わたしの法はそこまでで、そのときも亡霊が足をとめなかったら、もうあきらめるよりほかありません」  翌日、楊〓は易者に言われたように紙銭と餅と酒を用意し、数人の部下を連れて定鼎門外の桑林の中で待っていたが、日が西に傾くころになっても黒い皮衣の男は通らなかった。楊〓は気が気でなく、いらいらしていたが、やがて日がすっかり暮れてしまったとき、目ざす相手がやってくるのが見えた。楊〓がすぐ部下をやって招待させると、黒い皮衣の男はよろこんで立ち寄り、出されるものをつぎつぎに飲み食いした。そこで楊〓が進み出て挨拶をし、 「どうかわたしの命をお助けください」  とたのむと、その男は、 「楊〓どのですな」  と言った。 「昨夜はどこにかくれておいでなさった。何度もお宅へうかがったのですが、とうとうお目にかかれませんでしたよ。おそらく東の中庭にかくれて、善神に守護されているのだろうと思いましたので、遠慮して近寄らなかったのです。だが、あなたに対する冥府の召喚はまだつづいております。どうにも仕方のないことですから、おあきらめください」  楊〓は再拝して助けを乞い、何千回もそれをくりかえした。そのうえ、紙銭を路用にと言って差し出すと、その冥府の使者は、 「たいそうな贈り物をちょうだいして、ありがとうございます」  と言い、しばらく何やら思案している様子だったが、 「それでは、明日もう一度、役所の同僚たちといっしょに来て相談してみることにしましょう。向こうの小屋にごちそうを用意して待っていてください」  と言うなり、姿を消してしまった。  翌日、楊〓はその桑林の小屋に宴席の用意をし、山海の珍味をそろえて待っていた。と、日が暮れてから、昨夜の亡霊が数十人の仲間を連れて姿をあらわし、ことのほか楽しそうに飲み食いをしだした。 「こんなにもてなしを受けたのだ。楊県令の一件については、できるだけのことをしてやろうじゃないか」  亡霊たちが飲み食いしながらそう言っているのがきこえた。しばらくすると、昨夜の亡霊が楊〓に向って言った。 「お宅の筋向いに楊錫(ようしやく)という人が住んでおりますな。あの人もなかなか才能のある人物のようなので、あなたの身代りに、あの人を連れて行くことにしました。玉扁(へん)を消して、金扁に書きかえてつれて行けば、役所でも気がつかないでしょう。あなたはこれからお宅へ帰って、明け方の時を知らせる太鼓が鳴りだしたら、楊錫どのの家の門前へ行って中の様子をうかがいなさい。そのときもし泣き声がきこえてきたら、あなたの命は助かったのです」  亡霊たちは飲み食いをしたあげく、上機嫌になってつぎつぎに姿を消して行った。  楊〓は家に帰ると、いわれた時刻に楊錫の家の門前へ行ってみた。と、黒い皮衣の使者が木にのぼって楊錫の家へはいり込もうとしているところだった。ところが、犬に吠えられて、はいり込めずにうろうろしている。楊?が、いったいこれはどうなることだろうと、はらはらしながら見ていると、やがて使者は土塀のくずれ目を見つけて、そこからもぐり込んで行った。  しばらくすると、楊錫の家の中から家族たちの泣き声がきこえてきた。こうして楊〓は命が助かったのであった。 唐『広異記』    不正合格をした李俊(りしゆん)  後に岳州の刺史(しし)になった李俊(りしゆん)が、官途につく前の話である。  李俊は志をたててから三十年、何度進士の試験を受けても合格しなかった。貞元二年の試験のとき、李俊は、昔の知人で今は国子監(こくしかん)の長官になっている包佶(ほうきつ)が礼部の試験係の役人と親しいことを知って、包佶にたのみ込んで合格の運動をしてもらった。  合格者発表の一日前には、合格者の名簿を宰相のもとへとどけるのが慣例になっていた。その日の夜明け前、李俊は不安でじっとしていることができず、包佶の家へ様子をききに行こうとして家を出たが、町の木戸がまだ開かなかったので、木戸の外に馬をとめて、開くのを待っていた。  木戸のそばには団子屋があって、ほかほかと湯気のたっている団子を売っていた。李俊が何気(なにげ)なくその店さきをながめると、どこかの役所から文書を持ってきたらしい小役人風の男が一人、店の脇に腰をおろしていたが、その顔には団子を食べたそうな気持がありありとあらわれていた。  李俊は馬から降りてそのそばへ行き、 「わしも買う。おまえさんも買ったらよかろう」  と言った。するとその小役人風の男は、 「あいにく、財布が空(から)なもんで……」  と言った。 「なんだ、そうだったのか。安いものだ、わしが買ってあげよう」  李俊はそう言って十個買い、一つ頬張って残りをその男にやった。男はよろこんで、むしゃむしゃと、たちまちのうちに九つを食べてしまった。  遠くから夜どおしで歩いてきて、よほど腹をすかしていたのだろう、と李俊は思った。  やがて夜があけて、木戸が開き、待っていた人たちはどっと通り抜けて行った。李俊がそのあとから馬で行くと、さきほどの男がついてきて、 「ちょっとお話があります。しばらくお待ちくださいませんか」  と言った。李俊がふりむいて、 「なんの用だね」  と言うと、男は、 「あなたは受験生ではありませんか」  ときいた。李俊は内心おどろきながら、 「そうだが……」  と言って馬から下り、 「それで、話というのは?」  ときくと、男は、 「往来ではどうも……」  と言った。ちょうど店をあけたばかりの茶店があったので、李俊は店の前に馬をつなぎ、男を誘って中へはいった。男は自分から壁ぎわの目立たない席へ行き、腰をおろすと、声をひそめて、 「じつはわたしは、人間ではないのです。亡霊で、冥土でちょっとした役をつとめております。その役が、あなたに関係のある役で……」 「わたしに関係のある……?」 「そうです。進士の合格者名簿を伝達する役なのです。ここにその名簿があります。あなたが合格しているかどうか、ご自分で調べてごらんなさい」  李俊は名簿を受け取って、二度三度と調べてみたが、自分の名は載っていなかった。 「ないようですな」  と男は言った。李俊はうなずき、涙を流しながら言った。 「受験のために二十年ものあいだ、たゆまず学問をしました。都へ上って試験を受けるようになってからも、もう十年になります。何度受けても合格しませんでしたが、答案が不出来だったからというよりも、運がなかったのです。こんどの試験も答案はよくできたつもりです。そのうえ、友人の国子監の長官にたのんで合格の運動をしてもらったのですが、それなのにやはり、いま見ればわたしの名はありません。わたしは生涯合格できないような運命なのでしょうか」 「あなたにきまっている運勢では、合格は一年さきということになっているのです。一年さきに合格すれば、あなたは将来、高い地位につくことができます。しかし、どうしても今年合格したいのでしたら、それもできないことではありません。ただし、今年合格すれば、天から授かった地位の半分は減らされてしまいますし、出世にもいろいろ障害が多くて、せいぜい刺史にしかなれません。それでもよければ、わたしがお手助けしましょう」 「それでけっこうです。わたしは合格することができさえすれば、それで満足なのです。将来格別高い地位につきたいとは思っておりません。刺史になれるなら十分です。どうか今年合格させてください。だが、もう合格者名簿ができあがっているのに、そんなことができるのでしょうか」 「冥土の係りの役人にいくらか金をやってくださるならば、いまここで、名簿の中からあなたと同姓の人を選び出して、その名のところだけを消し、あなたの名を書きこませてあげますが、いかがです」 「いくら差しあげればよいのですか」 「紙銭(しせん)で三万貫です。わたしは団子をいただいたご恩に感じて、このように打ちあけた話をしているのでして、決してわたしがその金をちょうだいしようというわけではありません。その金は冥土の文書係に渡すのです」 「紙銭三万貫をどのようにしてお渡しすればよいのですか」 「直接お渡しくださることはないのです。明日の正午、焼いてくださればけっこうです」 「必ずそういたします」  李俊がそう言うと、男は筆を渡して、 「これで、ご自分で名前を書きこみなさい」  と言った。李俊が筆を持って名簿を順に見ていくと、李夷簡(りいかん)という名があった。李夷簡は唐の帝室の一族で、後に宰相になった人である。李俊がその名を消そうとすると、男はあわてて、 「その人はいけません。その人は運勢が強いので、手をつけてはいけません」  と言った。そのつぎに李温という名があった。李俊が、 「これは?」  ときくと、男は、 「それならかまいません」  と言った。李俊はそこで「温」という名を消して「俊」と書き入れた。すると男は名簿を受けとって箱の中へしまい、 「必ず明日の正午、紙銭三万貫を焼いてくださいよ」  と念をおし、 「ではこれで」  と言って茶店を出て行ったが、戸口を出るなりその姿は消えてしまった。  李俊はそれから包佶の家へ行った。包佶はまだ起きたばかりだったらしく、長いあいだ李俊を客間に待たせたあげく、不機嫌な顔をして出てきて言った。 「疑い深い男だな、君は……。係りの役人とわたしとは親しい仲だ。ちゃんとたのんであるから、君はまちがいなく首席合格だよ。わたしを信用できぬというのかね、君は……」 「そうではないのですが、今日は合格者名簿の提出される日だと思うと、気が気でなく、お叱りを覚悟で参上しました次第で……」 「うん、その気持はわからぬではないが……」  包佶はそう言ったが、李俊の早朝からの訪問にかなり腹をたてているようだった。  李俊は包佶の家を出てから、物かげにかくれて包佶が国子監へ行くのを待ちうけ、そっとあとをつけて行った。途中、包佶は礼部の役人が合格者名簿を持って中書省へ行くのに出会った。 「これはよいところで出会った。お訪ねしようと思っていたところだ」  包佶は馬をとめてそう言い、 「この前お願いしたことは、うまくやってくださったでしょうな」  ときいた。すると礼部の役人は恐縮して、 「それが、まことに申しわけのないことで、いくらおわびしても足りないのですが、おえらいかたから幾人も合格させるように強制されまして、どうにもご希望にそえませんでしたので……」  と言った。 「なに? なんと言われる? 希望にそえなかったと? あなたはちゃんと承知したはずだぞ」  包佶は馬から降りて礼部の役人に詰め寄り、顔を真っ赤にして言った。 「季布(きふ)の一諾(いちだく)という言葉をご存じか! 季布が天下に名声を得たのは、一度引き受けたことはあくまでもやりぬいたからですぞ! しかるに君は、引き受けておきながら裏切って、わたしに恥をかかせるとは! わたしは、わたしの不運な友人に対してうそをついたことになる。君はわたしを裏切ったばかりか、わたしにうそつきの名をかぶせたのだ! わたしの地位を閑職だと見て、あなどったのか! 君を見そこなったよ。これまでのおつきあいも、今日限りだ!」  包佶は怒りに体をふるわせてそう言うと、馬に乗ろうとした。礼部の役人はあわてて追いすがって、 「待ってください」  と言った。 「おえらいかたから幾人もの受験者をぜひにと言われて、どうしても李俊の名を残せなかったのです。しかし、これまでたいへんお世話になったあなたに絶交を申しわたされては、わたしの一身のことなど、もう、かまってはおられません。それほどのお怒りを受けるくらいなら、いっそのこと、おえらいかたの咎(とが)めを受けることにします。よろしい。名簿をごらんになって、一人の名を消して李俊の名を入れてください」  礼部の役人は包佶を脇道に引きいれて、名簿を見せた。包佶は李という姓をさがして、 「これは」  ときいた。すると役人は、 「これは困ります。この李夷簡というのは宰相からお話のあった人物で、これだけは消すわけにはいきません」  と言い、そのつぎにある李温の名を指さして、 「これなら、しかたがありません」  と言って温の字を消して「俊」と書き入れた。  李俊は物かげからそれを見とどけて、そっと引きかえした。  翌日、合格者の発表を見に行くと、李夷簡のつぎに李俊と書かれていて、李俊ははじめてほっとした。  その日の正午は、ほかの合格者たちといっしょに各方面への挨拶(あいさつ)まわりをさせられていたため、李俊は、正午に紙銭三万貫を焼くという亡霊との約束を果すことができなかった。日暮れにようやく解放されて家へ帰る途中、李俊はその亡霊に出会ったが、亡霊は泣きながら李俊に背中を出して見せて、 「あなたが約束を果してくれなかったために、わたしは棒でたたかれて、こんなひどい目にあわされました」  と言った。李俊がわけを話して、 「約束を破るつもりではなかったのです。どうしても果せなかったのです。いまからでは、もうおそいでしょうか」  と言ってわびると、亡霊は、 「あなたが故意に約束を破ったのではないことはわかっていましたので、文書係の役人はこの件を問題にして調査すると言ってきかなかったのですが、わたしが別のほうから手をまわして握りつぶしてもらいました。それで、その別のほうの役人に、握りつぶし料をやってもらいたいのです」 「いくら差し上げればよいのですか」 「紙銭二万貫です。文書係の分の三万貫と合わせて、五万貫を、明日の正午、焼いてください。明日はどんな事情があっても、必ず約束を果してくださいよ。そうしないと、あなたの合格は取り消されます」 「必ず、心を込めて紙銭五万貫を焼きます。それにしてもあなたのその背中の傷は……」 「紙銭を焼いてくだされば、あとかたもなくなおります」  亡霊はそう言って姿を消した。  翌日の正午、李俊は紙銭五万貫を焼いた。亡霊はそれきり姿をあらわさなかった。  だが李俊は亡霊のいったとおり、官途についてからはいろいろな障害にあい、あらぬ嫌疑(けんぎ)で取り調べを受けたり左遷されたりして順調には出世できなかった。後にようやく岳州の刺史になったが、いくらもたたぬうちに死んでしまった。  人間の栄達も困窮も、すべて冥界の定めによるといわれるが、それは決してうそではないのである。 唐『続玄怪録』    悪少年の死  唐の憲宗(けんそう)の元和年間のことである。  都の東市(とうし)に李和子(りわし)という悪少年がいた。父親は努眼(どがん)といって、これまたあまり評判のよくない男だった。ことに和子は残忍な性質で、常に犬や猫を盗み取って食い、町の人々からおそれられ、きらわれていた。  ある日、和子が鷹(たか)を臂(ひじ)にとまらせて往来に立っていると、紫の服を着た男が二人近づいてきて、 「あなたは李努眼の息子さんの、和子という人ではありませんか」  とたずねた。 「そうだが、それがどうしたというんだ」  和子がそういうと、二人は、 「人目につかないところでお話ししましょう」  と言い、さきに立って人通りのない脇(わき)道へはいって行った。ついて行くと、二人は和子を物かげへ呼んで、 「わたしたちは冥府の使者です」  と言った。和子が笑って、 「なんだと? 人間ではないというのか。なんでそんなうそを言う! おれが亡霊をおそれるとでも思っているのか」  と言うと、一人が、 「うそではない。あなたがおそれようと、おそれまいと、わたしたちは亡霊なのだ。冥府の命令で、あなたを連れにきたのだ」  と言い、ふところから一枚の書状を取り出して見せた。それには、故(ゆえ)なく彼に殺された犬猫四百六十頭の訴えによって、その罪を断ずる、という意味のことが書かれていた。和子はにわかにおどろきおそれ、臂の鷹を放して、その場にひざまずいて哀願した。 「わたしは死を覚悟しました。しかし、ちょっとのあいだ猶予(ゆうよ)してくださって、酒を一杯だけ飲ましていただけませんでしょうか」 「この世の別れに飲みたいと言うのか」 「はい。そしてあなたがたにも、さしあげたいと思います」 「酒を飲むあいだだけだぞ」  二人がゆるしてくれたので、和子はそのあたりの居酒屋へ案内したが、二人は鼻をおおってはいろうとしない。  和子はそこで、杜(と)という料亭(りようてい)へ二人を連れて行った。二階へあがって席についたが、二人の姿はほかの者には見えないらしく、店の者はあやしんで、 「お客さん、どうなさったのです?」  とたずねた。和子が、 「なにがどうしたと言うのだ!」  とどなると、二人はこわい顔をして和子をにらんだ。和子は店の者に、 「なんでもない。とにかく酒を九杯持ってきてくれ」  と言った。 「九杯もおひとりで?」 「つべこべいわずに持ってこい!」  和子がまたどなると、二人はまた和子をにらんだ。  和子は三杯を自分の前に置き、六杯を二人の前に置いて、 「さあ、めしあがってください」  といった。二人は、しきりに「うまい、うまい」といって飲んだ。 「お気に召(め)しましたら、いくらでも飲んでください」  と言い、和子はさらに六杯注文した。二人はまた「うまい、うまい」といって飲んだ。 「ところで……」  と、和子はおそるおそる言いだした。 「なんとかして助けていただく方便はないものでしょうか……」  すると二人は顔を見あわせ、うなずきあって、一人が言った。 「われわれも一酔(いつすい)の恩を受けたのだから、なんとかとりはからうことにしましょう。しばらくここで待っていてください」  二人の姿はぱっと消えたが、すぐまたあらわれて、 「係りの役人にたのんでみたところ、四十万の金をはらってくだされば、三年だけ命をのばすということでしたが、どうです」 「ありがとうございます。家へ帰って家財道具をみんな売りはらえば、四十万にはなると思います。命にはかえられませんから、そういたしますが、その金をどのようにしてお渡しすればよろしいのでしょう」 「明日の正午にはらっていただきたいのです」 「そのときに、取りにきてくださるのですか」 「いや、われわれは亡霊だから人間の銭はなんの役にもたちません。明日の正午に、四十万の紙銭を焼いてくださればよいのです。必ず約束をたがえないように。もしたがえたら、あなたをすぐ冥府へ連れて行きます」 「必ずおっしゃるとおりにいたします」  和子が約束をすると、二人は、 「それでは」  と言って、姿を消した。二人がすわっていた前には十二の碗(わん)が残っていたが、どの碗にも酒がいっぱいはいっていた。和子が不思議に思って飲んでみると、それは水のように味がなく、しかも歯にしみるほど冷たかった。  和子はいそいで家へ帰り、衣類や道具を売りはらって、その金で四十万の紙銭を買った。  翌日の正午、和子は酒を供えて、その四十万の紙銭を焼いた。すると昨日の二人があらわれて、 「よろしい。これであなたは三年だけ命をのばしてもらえます」  と言って、また姿を消してしまった。  和子はそれから三日たったとき死んだ。  霊界の三年というのは、人間界の三日だったのである。 唐『酉陽雑爼』    張鬼子  江西の洪(こう)州に張(ちよう)という州学正(しゆうがくせい)(州学の先生)がいた。元来、刻薄(こくはく)な性格だったが、年を取るにつれてますます激しくなり、学生が休暇を願い出ても容易に許さない。学官が五日の休暇を与えると張はそれを三日に減らし、三日の休暇を与えると一日に減らす。万事がみなそんなふうだったので、学生たちの恨みの的(まと)になっていた。  この張学正と同姓の張という学生がいた。顔色がわるく、風貌(ふうぼう)がどことなく亡霊のようだというので学生たちから張鬼子(きし)と渾名(あだな)されていた。  ある日、数人の学生たちが、張鬼子を亡霊に仕立てて、意地のわるい張学正をおどしてやろうではないかと相談しあった。 「だが、彼はまじめな男だから、そんないたずらには賛成しないだろう」  と言う者もいたが、話してみると張鬼子は、意外にも、 「よろしい。引き受けた」  と言ったばかりか、新しい提案をさえした。 「あの先生のことだ。亡霊のまねをして見せたぐらいではおどろくまい。だから、ただの亡霊ではなく、冥府(めいふ)の役人のふりをして、あの世への拘引状(こういんじよう)を突きつけたらどうだろう」 「それは妙案だ。だが、冥府の拘引状をだれが書く? 一目見てにせものとわかるようなものでは、かえってまずいだろうし……」 「いや、おれは一度ほんものを見たことがある。思いだして書こう」  張鬼子はそう言い、明礬(みようばん)を溶かした水を筆にふくませて、紙に何やら細かい字を書きつけると、 「これでよいはずだ」  と言った。  その日、日が暮れてから、張学正が学生たちの夜学の監督をしていると、それまでどこにひそんでいたのか、不意に張学正のうしろに張鬼子があらわれた。 「さすがに鬼子と渾名されるだけのことはある。うまく扮装(ふんそう)してきたな。亡霊にそっくりだ」  学生たちはみなそう思った。だが、ふりかえって張鬼子を見た張学正は、すこしもおどろかず、張鬼子にどなりつけた。 「なんだ、そのざまは! 学生たちにたのまれてわしをおどすつもりだろうが、そんなまねごとでこのわしをおどせると思うのか」  すると張鬼子はにやりと笑って、 「いや、おどしでもなければ、まねごとでもない」  と言った。 「おれは冥府の使者だ。おまえを迎えにきたのだよ。うそだと思うなら、この冥府の拘引状を見るがよい」  学生たちとの打ちあわせどおり、張鬼子は例の拘引状を張学正に突きつけた。張学正はそれを手に取って読みはじめたが、まだ読みおわらぬうちに、その場に倒れてしまった。  すると張鬼子は学生たちにむかって言った。 「みなさん、みなさんはわたしを冗談に張鬼子と呼んでおられたが、実はわたしはほんとうの亡霊なのです。二十年前に冥府の命を受けて張学正を捕えにきたのですが、途中、川を渡るときに拘引状をおとしてしまったので役目をはたすことができず、むなしく帰ればどんな厳罰を受けるかもわからないので、なんとかして使命をはたそうと二十年間ここにふみとどまっていたのですが、こんどみなさんのおかげで、うそをまことにして、無事に使命をはたすことができました。ありがとうございました」  張鬼子は一礼すると、そのまま姿を消してしまった。学生たちはおどろいて、みなしばらくのあいだ茫然(ぼうぜん)としていた。張学正は倒れたまま、ついに息をふきかえさなかった。 宋『異聞総録』    もう一人の自分  ある夫婦がいた。  夫婦はいっしょに寝ていたが、夜があけたので、妻がさきに起きて外へ出て行った。しばらくたってから、夫も起きて部屋を出て行った。  まもなく、妻が外から部屋へもどって見ると、夫はまだ蒲団の中で眠っている。 「もう起そうかしら」  と思っていると、下男がはいってきて、 「旦那さんが奥さんに、鏡を持ってくるようにと言っておられます」  と言った。妻は下男が自分をからかっているのだと思い、 「おまえ、何を言ってるの」  と、寝台の上を指さした。下男は下男で、 「奥さん、おからかいになってはいけません」  と言ったが、寝台の傍へ行ってのぞいて見ると、まさしく主人なので、あっとおどろき、 「これはいったいどういうわけなのでしょう。わたしはたったいま、確かに外で旦那さんにそう言いつかってきましたのに」  と言った。妻はそれをきくと、 「ほんとう? もしほんとうなら、おかしいわね」  と言い、外へ出て行って見た。すると、そこに夫がいて、 「鏡を持ってきてくれたのか」  と言った。妻が不審に思ってわけを話すと、夫はびっくりして、すぐ妻といっしょに部屋へ行って寝台を見た。と、蒲団の中には自分がすやすやと眠っているではないか! それは、自分と寸分ちがわぬ姿かたちをしていて、どこも変ったところはない。夫は、 「これは自分の魂にちがいない」  と思い、揺り起さずに、夫婦でそっと寝台を撫でつづけていた。すると、眠っている自分は少しずつ蒲団の中へ沈みこんで行って、やがて消えて行ってしまった。  そのあと、夫婦はしきりにおそろしがったが、まもなく夫は急に病気になり、頭が狂ったまま死ぬまでなおらなかった。 六朝『捜神後記』    泥があたった仕返し  安西参軍の夏侯綜(かこうそう)は、格別かわったところのある人ではなかったが、その眼だけは特別で、常人の眼には映らない亡霊の姿が、いつも見えた。彼の言うところによると、亡霊は人間と同じ姿で、人間と同じように馬に乗ったり歩いたりしていて、どこにでもいるということであった。  ある日、夏侯綜は友人といっしょに馬車に乗っていたが、道端で遊んでいる子供を指さして、 「あの子はひどい病気にかかるかもしれん」  と言った。  友人はそのとき格別気にかけなかったが、その子供はそれからまもなく、得体(えたい)のしれない病気にかかって、いのちも危うくなった。  子供の母親は、夏侯綜の友人から、彼が子供の病気を予言したということをきき、さっそく夏侯綜を訪ねて行ってわけをたずねた。すると夏侯綜は、 「あのとき、あなたの息子は道端で泥投げをしていて遊んでいたが、投げた泥のかたまりが亡霊の足にあたったのだ。わたしはそれを見て、亡霊が仕返しにあなたの息子を病気にするだろうと思って、そう言ったのだったが、やはり亡霊は仕返しをしましたか。なに、案じなさることはない。酒や飯を亡霊にそなえてやれば、すぐなおりますよ」  と言った。  母親がそのとおりにしたところ、子供の病気はけろりとなおってしまったという。 六朝『捜神後記』    なりたての亡霊  死んで、いま亡霊になったばかりの男がいた。疲れきっているうえに、腹も減っていて、痩せおとろえた姿でふらふらと歩いていると、偶然、生きていたときの友達に出会った。その友達は死んでから二十年になるのだが、よく太っていて、いかにも丈夫そうに見えた。 「なんでそんなみすぼらしい恰好(かつこう)をしているのだ」  ときくので、 「疲れているうえに、腹が減っていて、歩くのもやっとという始末なのだ。君はうまいこと暮しているようだが、どうしたら食えるのか教えてくれ」  と言うと、友達の亡霊は、 「わけはないよ。人間にたたりさえすればいいのだ。そうすれば人間はこわがって、食べものをくれるよ」  と教えてくれた。  腹の減った亡霊は友達に別れて、大きな村へはいって行った。村の東に一軒の家があった。その家の者は仏教を信仰していて、精進を守っていた。腹の減った亡霊がその家へはいって行くと、西の部屋にひき臼(うす)があったので、亡霊はその臼をひきだした。 「亡霊が臼をひいているところを見れば、おそれて食べものをくれるにちがいない」  そう思ったからだった。ところがその家の主人はすこしもおそれずに、息子たちに言った。 「見ろ、仏様がうちの貧乏をおあわれみになって、亡霊に臼をひかせてくださっている。ありがたいことじゃ。さあ、おまえたち、麦を持って行って亡霊にひいてもらえ」  亡霊は夕方までかかって何石かの麦をひいた。 「これだけひけば、あとで食べものをくれるだろう」  そう思ってひいたのだが、すっかりひいてしまっても何もくれず、亡霊は疲れはててその家を出た。  するとまた友達の亡霊に出会ったので、 「なんでおれをだました!」  と怒ると、友達は、 「だましたわけではない。もう一度やってみろよ。きっと食べものにありつけるから」  と言った。そこで翌日は村の西の一軒の家へはいって行った。その家の者は道教を信仰していた。門の脇に足で踏む臼が置いてあったので、亡霊はその上へあがって踏みだした。するとその家の主人が気づいて、 「昨日は亡霊が東の家へ手助けに行ったときいたが、今日はまた、わしのところへ手伝いにきてくれたぞ。さあ、麦を持って行ってやれ」  と言って麦を運ばせたうえ、下女に箕(み)でふるわせた。亡霊は夕方まで働いたが、その家でもやはり何もくれず、疲れはてて帰った。  また友達の亡霊に出会ったので、 「君はおれに何のうらみがあってだますのだ。二日間も人間の手伝いをしたのに、一杯の飯にもありつけなかったぞ」  と怒ると、友達の亡霊は、 「それは君の運がわるかったのだ。昨日の家は仏教の信者で、今日の家は道教の信者だったろう。信仰している人間の気持をおびえさせることはむずかしいよ。こんどは普通の家へ行ってみるがいい。きっと食べものにありつけるから」  と言った。  そこで、翌日また別の家へ行ってみた。その家は門口に竹竿(たけざお)が立ててあった。門をはいって行くと、数人の娘たちが窓ぎわでいっしょに食事をしていた。庭へはいって行くと白犬がいたので、それを抱き上げると、家の人たちがさわぎだして、 「あれ! 犬が空を歩いてる!」  と叫んだ。亡霊が姿をあらわさずに犬を抱き上げたので、そう見えたのである。  家の人たちは、こんな不思議は今までに一度も見たことがないといって、巫女(みこ)を呼んで占ってもらった。すると巫女は、 「これは、宿なしの亡霊が食を求めているのです。何もしないとたたりを受けます。さっそく肉と酒と飯を庭さきへ並べて供養をしなければなりません。供養すれば亡霊はかならず帰って行くでしょう」  と言った。  その家では巫女の言うとおりにした。そのため亡霊は腹いっぱい食べることができた。  それ以後、亡霊はいつもたたりをするようになったが、これは友達の亡霊に教えられたからである。 六朝『幽明録』    嫉妬する亡妻  呂順(りよじゆん)という男がいた。妻が病死したので、妻の従妹(いとこ)を後妻に迎えた。  その後、呂順は自分の死後のことを考え、北山(ほくざん)に三人分の墓を築きにかかったが、墓は土を盛り上げてできあがりかけると、そのたびにくずれてしまって、何度やりなおしても完成しなかった。  ある日、呂順が家で一人昼寝をしていると、先妻の亡霊があらわれて、 「あなたは従妹をかわいがって、わたしのことはもうすっかり忘れてしまったのね」  といい、床の中へはいってきて情交を求めた。そのからだは氷のように冷たかった。呂順が、 「おまえのことを忘れたわけではないが、死者と生者とのあいだにはへだてがあるのだ。生者の世界へまよい出てきて、そんなことをしてはいけないよ」  と言うと、亡霊はしぶしぶ帰って行った。  その後、亡霊は従妹の前に姿をあらわして、怒った様子をして言った。 「世間に男はいくらでもいるのに、あんたはどうして、従姉のわたしの夫を取ってしまったの? 従妹に夫を取られたと思うと、わたしはあの世でもおちおちしてはいられないよ。お墓をくずしたのも、このわたしのしたことなのさ」  それからまもなく、呂順夫婦は病気になって、いっしょに死んでしまった。 六朝『幽明録』    妻の怨み  浙江(せつこう)の呉興(ごこう)に、袁乞(えんきつ)という人がいた。  相思相愛の妻がいたが、ふとした病がもとで不帰の客になってしまった。妻は臨終のとき、袁乞の手を握って、 「あなた、わたしが死んだら誰かと再婚なさるわね」  と言った。袁乞が妻の手を握り返して、 「何を言うか。わたしには、おまえのほかに愛する者はいないよ。再婚などするものか」  と答えると、妻は、 「ありがとう、あなた」  と言って死んだ。  妻の喪(も)があけると、袁乞は再婚した。すると、昼間、死んだ妻の亡霊があらわれて、 「あなたはわたしが死ぬとき、再婚をしないと約束なさったのに、どうしてその約束を破ったのです!」  と言い、いきなり袁乞の一物(いちもつ)を刀で刺した。傷は命にかかわるほどのものではなかったが、一物はそれきり一生使いものにならなかった。 六朝『異苑』    押し出された魂  南斉の武帝のとき、尚書省の書記に馬道猷(ばどうゆう)という人がいた。  ある日、役所で事務をとっていると、突然、大勢の亡霊が目の前にあらわれた。だが亡霊の姿は馬道猷にだけに見えて、ほかの者には見えない。 「ほら、そこにも、ここにもいるではないか」  と馬道猷が指さして言うと、同僚たちは、 「亡霊など、どこにも見えはしないじゃないか。気のせいだよ。熱でもあるのではないか。帰って養生(ようじよう)したほうがよいぞ」  とすすめた。  やがて二人の亡霊が、それぞれ馬道猷の左右の耳の中へはいってきた。 「おれをどうしようというのだ」  と馬道猷が言うと、二人の亡霊は、 「魂を押し出すのだ」  と言って左右から押し合った。 「それ出た!」  と亡霊が言ったとき、馬道猷はからだから魂が抜け出るのを感じた。はっと思った瞬間、魂が足もとに落ちたので、馬道猷はそれを指さしながら同僚たちに、 「亡霊がおれの耳の中へはいって、おれの魂を押し出してしまった。見ろ、これが魂だ」  と言ったが、同僚たちは口ぐちに、 「何もありゃしないじゃないか」  という。 「君たちには、これが見えないのか」 「見えないよ。魂というのは、いったいどんな形をしてるのだ」 「ちょうど蝦蟇(がま)のような形だ」  馬道猷はそう言ってから、 「おれはもう助かるまい。魂はからだを離れてしまったし、亡霊はいまもまだ耳の中にいるのだ」  と嘆いた。同僚たちが馬道猷の耳の中を見ると、すっかり腫(は)れあがっていた。 「やはり家へ帰って養生したほうがよい」  と、同僚たちは馬道猷を家へ帰らせたが、彼はその翌日死んでしまった。 六朝『述異記』(祖冲之)    開善寺縁起  洛陽の準財里(じゆんざいり)に、開善寺という寺がある。この寺は、もと韋英(いえい)という者の屋敷だったのである。  韋英は若くして死んだが、妻の梁(りよう)氏は夫が死ぬと喪(も)にも服さずに再婚し、向子集(しようししゆう)という者を夫に迎えて、もとの家に住んでいた。  すると、二人が結婚してから数日たったある日の昼、韋英の亡霊が馬に乗り数人の従者を連れてやってきて、庭さきで大声でどなった。 「梁氏よ、おまえはわたしのことを忘れてしまったのか」  向子集はおそろしさのあまり、弓を引きしぼり、韋英の胸を目がけて矢を放った。矢はねらいたがわず胸にあたって、韋英は倒れたが、倒れると同時に、その姿は桃の木で作った人形にかわってしまった。韋英が乗っていた馬は、茅(かや)を束ねた馬になり、従者たちは蒲(がま)の穂(ほ)で作った人形にかわった。  梁氏はすっかり怖気(おじけ)づき、その屋敷を寄進して寺にしたのである。 六朝『洛陽伽藍記』    ぬれぎぬの怨み  宋の元嘉年間のことである。江蘇(こうそ)の秣陵(まつりよう)県で、李竜(りりよう)という者の一味が強盗をはたらいた。  時の秣陵県の知事陶継之(とうけいし)は、部下をあちこちに派遣して内密に捜索させ、ついに李竜一味をことごとく逮捕した。ところがこのとき強盗どもは、宮中の楽師の一人を一味だと自供して、まきぞえにしてしまったのである。  この楽師は、犯行のあった夜は、仲間の楽師たちといっしょに、ある人の家へ演奏に行き、その家に泊っていて、強盗たちとは何のかかわりもなかったのである。だが、陶継之はくわしく調べもせずに、勝手に自供の調書を作りあげて、上申してしまったのだった。  そのあとで陶継之は、その楽師の泊った家の主人や、そのときの来客たちの証言で、無実だったことに気づいたが、すでに報告書を出してしまったので、自分の手落ちになることをおそれて、知らぬふりをしていた。  そのため楽師は、強盗の一味十人といっしょに、郡の城門で斬罪に処せられてしまった。  楽師は死刑になる前、陶継之を怨んで、 「わたしは身分こそいやしいが、若いころから善行を心がけていて、間違いを犯したことはない。強盗をしたなどというのは、まったくのぬれぎぬだ。陶知事もいまではそのことをご存じのはずだが、それなのにむざむざと殺されるとは! もし亡霊というものがないなら仕方がないが、あれば必ず亡霊になって陶知事に怨みを晴らしてやるぞ」  と言い、琵琶(びわ)をひき、歌をうたってから死についた。見物の人々は彼が無実であることを知っていたので、みな涙を流して彼のために悲しんだという。  それから一月あまりたったとき、楽師は陶継之の夢枕にあらわれ、 「無実の罪で殺されてしまって、くやしくてならぬ。そなたのことを天帝に訴えたところ、今日、わたしの訴えの正しいことが認められて、そなたに対するお裁きがくだったから、そなたを連れにきたのだ」  と言うなり、陶継之の口の中へとび込んで、腹の中まではいって行った。  陶継之ははっと思って目をさましたが、ばったりと倒れたまま、てんかんのような発作(ほつさ)をおこして苦しみつづけた。しばらくたってから正気にもどったが、ときどき、また発作におそわれた。発作がおこると、からだがねじれ曲がって、頭が背中につくほどになった。こうして四日間、苦しみつづけたあげく、死んでしまった。  陶継之が死んでからは、陶一家は暮しに困るようになり、二人の息子も困窮の中で若死にしてしまった。あとには孫が一人残ったが、その孫は道端で乞食をしていたという。 六朝『還冤志』    継子いじめの末路  江蘇(こうそ)の東海県に徐(じよ)という者がいて、妻に先立たれたので、陳(ちん)氏という後妻を迎えた。  先妻とのあいだに鉄臼(てつきゆう)という十歳になる息子がいたが、陳氏にはこの鉄臼がじゃまでならない。一年たって自分にも子供ができると、陳氏は鉄臼を亡きものにしてしまおうと思い、自分の子に鉄杵(てつしよ)という名をつけて、 「おまえがもし鉄臼を殺してしまわなければ、わたしの子ではない!」  と祈った。相手が鉄の臼(うす)なら、こちらは鉄の杵(きね)で搗(つ)きつぶしてやろうという思いで、鉄杵という名をつけたのだった。  鉄杵が生れてからは、陳氏は鉄臼を些細(ささい)なことを理由にして打ったりたたいたり、折檻(せつかん)を加えたりした。腹を減らしていても食べ物をやらず、寒さにふるえていても着るものをやらない。徐はたよりない男だったうえに、留守のことが多かったので、陳氏は思いのままに鉄臼をいじめることができた。  こうして鉄臼は、残忍な陳氏に五年間、責めさいなまれたあげく、ついに杖でたたき殺されてしまった。年は十六であった。  鉄臼が死んでから十日あまりたったとき、突然その亡霊が家に帰ってきて、陳氏の寝室の棟木(むなぎ)の上にのぼって言った。 「わたしは鉄臼だ。なんの罪もないわたしを、よくもむごい目にあわせて殺したな! わたしの母親が天帝に怨みを訴えたところ、天の役所からおゆるしが出たので、あなたに怨みを晴らしにきたのだ。鉄杵を病気にかからせて、わたしが受けた苦しみと同じ苦しみを味わわせてやる。鉄杵を冥府へ連れて行くのは一月あとときまっているから、それまでわたしはここで待っているぞ」  家の者には亡霊の姿は見えなかったが、その声ははっきりときこえた。それは生きていたときと少しもかわらない声だった。  それ以来、鉄臼の亡霊は棟木の上に住むようになった。陳氏がひざまずいて、いくらあやまっても、亡霊は、 「責め殺しておきながら、あやまったらそれですむと思うのか!」  と言い、陳氏が供え物をしても、 「飢え死にさせておきながら、いまさら食べ物を供えて何になる!」  と言って、ゆるそうとはしない。ある夜、陳氏が、 「ああ、どうしたらよいのだろう。執念ぶかい亡霊だ」  とつぶやくと、とたんに棟木の上から声がして、 「執念ぶかいと? 五年間もわたしを苦しめつづけたうえ、たたき殺しておいて、よくもそんなことが言えたものだ! この棟木をひき切って頭の上へ落してやるぞ」  と言うと同時に、ごしごしと鋸(のこぎり)をひく音がきこえて、木くずが落ちてきたが、しばらくすると、家がぐらぐらと揺れて棟木が落ちかかってきた。家の者は肝(きも)をつぶして外へ逃げだしたが、あかりをつけて照らして見ると、棟木はもとのままで何の異状もなかった。  鉄杵は鉄臼の亡霊があらわれた日から病気になり、からだじゅうが痛み、腹がふくれて絶えず吐きけをもよおして苦しんでいたが、鉄臼の亡霊はその鉄杵に向って、 「おまえは、わたしが飢えているときも腹いっぱい食べ、わたしが凍えているときも暖かい着物を着、わたしがおまえの母親に折檻されているときも黙って見ていたが、それで気持がよかったのか! わたしの苦しさがどんなものだったか知らせるために、おまえを家ごと焼き殺してやろう」  と言った。鉄杵が、 「助けて……」  と言うと同時に、その寝台から火の手があがり、炎と煙がすさまじい勢いで吹きだした。陳氏が炎の中から鉄杵を抱きあげて外へ逃げだすと、火はぱっと消えてしまって、家の内外には何の異状もなかった。  鉄杵の病気は日ましに悪化して、顔や手足は骸骨のようになりながら腹だけが大きくふくれ、しきりに飢えを訴えたり寒さを訴えたりしだした。鉄臼の亡霊は棟木の上から陳氏に言った。 「さあ、よく見なさい。あなたがどうやってわたしを殺したか」  その声のするたびに、鉄杵のからだを杖で打つ音がきこえて、青い痣(あざ)ができた。 「鉄杵を打たずに、わたしを打って!」  と陳氏が哀願すると、亡霊は、 「鉄杵を打たなければ、わたしがあなたから受けた苦しみが、どんなものだったかをあなたに知らせることはできない」  と言った。  鉄臼の亡霊があらわれてから一月あまりたったとき、また棟木の上から陳氏を呼ぶ声がきこえた。 「鉄杵を冥府へ連れていく期日がきました。あなたがわたしを殺したようにして、鉄杵を連れて行きますから、よく見ていなさい」  陳氏が泣いて、 「鉄杵を殺すのなら、わたしもいっしょに殺してください」  とたのむと、亡霊は、 「あなたを殺してしまったら、わたしがあなたから受けた苦しみが、どんなものだったかをあなたに知らせることができない。あなたは生き残って、わたしの苦しみとわたしの母親のかなしみが、どんなに深いものだったかを思い知らなければならない。それが天の役所のお裁きです」  と言い、同時にはげしく杖で打つ音がきこえて、鉄杵は死んでしまった。 六朝『還冤志』    先妻の凶刃  晋の永嘉年間のことである。  ある日、禁門の将の張禹(ちようう)が旅に出て、広い沼地を通っていると、にわかに空が暗くなって、雨が降りだしてきた。そのとき前方に、門のあけてある屋敷が見えたので、中へはいってみると、一人の下女が出てきて、 「どなたでございますか」  とたずねた。張禹が、 「旅の途中で日が暮れ、雨にあいましたので、一夜の宿をお願いしたいと思いまして」  と言うと、下女は、 「しばらくお待ちください」  と言って奥へはいって行ったが、まもなくまた出てきて、 「どうぞおはいりください」  と言った。  屋敷の中へはいって行くと、三十歳くらいの人品いやしからぬ女が帳(とばり)の向こうに腰をかけていて、そのこちら側には二十人ばかりの下女が控(ひか)えていた。みなきらきらとした衣装を身につけている。  張禹が女に挨拶をすると、女は、 「何かお入り用のものがございましたら、お申しつけくださいませ」  と言った。 「食べ物は持っておりますから、お茶をいただきたいのですが」  と張禹が言うと、女は下女に言いつけて湯わかしを持ってこさせた。火にかけるとまもなく湯の煮えたぎる音がしたが、音だけで、中は水であった。すると女が言った。 「ここは墓で、わたしは亡霊なのです。墓の中では湯をわかすこともできなくて、せっかくおいで願いましたのに申しわけございません」  そして、すすり泣きながら、身の上を話した。 「わたしは山東の任城県の孫(そん)という家の娘でございます。父が河北の中山の太守をしておりましたとき、わたしは同じ河北の頓丘(とんきゆう)の李(り)という家へ嫁ぎ、息子と娘を一人ずつもうけました。ところが、わたしが死にますと、夫は、わたしの使っておりました承貴(しようき)という下女をかわいがるようになりました。それはまだよいのですが、承貴はわたしの子供をじゃまにして、頭といわず顔といわず打ったり、たたいたりして折檻をしどおしなのです。息子は十一、娘は七つになるのですが、ろくに食べ物も与えられず、このままではいまに死んでしまうでしょう。わたしは下女に裏切られたことがくやしくてならず、殺してやりたいと思うのですが、亡霊の精気は弱いものでございまして、どなたかのお力を借りないことには、それができません。あなたにここへおいで願ったのは、お力を借りたいと思ったからです。もし、わたしの願いをきいてくださいましたならば、十分にお礼はいたします。どうかおききいれくださいますよう」 「あなたのお話をうかがって、心から同情はいたしますが、人を殺すということは容易ならぬことです。ほかのことならともかく、それだけはお申しつけに従いかねます」  張禹がそう言うと、女は、 「あなたにその下女を殺してくださいとお願いするわけではございません。ただ、わたしがあなたに申しあげましたことを、あなたのお口から夫にお話しいただきたいのです。夫はその承貴という女をかわいがっておりますから、きっと厄除(やくよ)けのまじないをしたいと言うはずです。そのときあなたは、まじないの術を知っているとおっしゃってくださいませ。夫はそれをきいたら、承貴にあなたのおっしゃるとおりにして祈らせるにちがいありません。承貴が祈っているときでしたら、わたしは承貴のそばへ行って怨みを晴らすことができるのです」  張禹は承知して、夜が明けてから墓を出ると、まっすぐに頓丘の李家へ行って、女が言ったとおりのことを伝えた。すると李はおどろいてそのことを承貴に話し、承貴もこわがって、張禹に厄除けのまじないを教えてほしいとたのんだ。  と、そのとき張禹の眼には、孫氏が家の中にはいってくるのが見えた。孫氏のあとには、それぞれ刀を持った二十人ばかりの下女がつき従っている。孫氏がそばに近寄って、承貴の胸に刀を突き刺すのを、張禹ははっきりと見た。と、そのとたんに承貴はばったりと倒れ、そのまま死んでしまった。見れば承貴の体には傷あとも何もなく、孫氏と下女たちの姿も、たちまちかき消えてしまった。  その後、張禹は再びあの沼地を通った。するとまた孫氏の亡霊があらわれて、お礼のしるしにと言って五色の絹を五十疋(ぴき)、張禹に贈った。 六朝『志怪』    執念の復讐  晋のときのことである。浙江(せつこう)の富陽県の知事をしていた王範(おうはん)の妾(めかけ)に、桃英(とうえい)という美人がいたが、すこぶる浮気なたちで、王範の部下の丁豊(ていほう)、史華期(しかき)の二人と密通していた。  王範が出張して家をあけたとき、家中(かちゆう)の取締役の孫元弼(そんげんひつ)が、丁豊の部屋の中で佩玉(はいぎよく)のふれあう音をきき、不審に思ってのぞいて見ると、寝台の上で丁豊と桃英がもつれあっているのだった。孫元弼が扉をたたくと、桃英はあわてて寝台からすべりおり、着物をなおし髪をなでつけ、靴をはいて奥へ逃げて行った。  その後、孫元弼は、史華期が桃英の身につけている麝香(じやこう)を持っているのを見つけたこともあった。  孫元弼はそのことを王範には告げず、ひそかに二人に不義をやめるよう忠告しただけだったが、二人は孫元弼が主人に言いつけるにちがいないとおそれ、逆に孫元弼が桃英と不義をはたらいていると訴えた。  王範が桃英に問いつめると、桃英は泣きながら、 「旦那(だんな)様のお留守のとき、不意に孫元弼に襲いかかられ、おどろきのあまり気を失っているあいだに犯されました」  と言った。孫元弼は、 「丁豊も史華期も桃英と密通していて、その現場をわたしにおさえられているために、逆にわたしを罪におとしいれて自分たちの罪をかくそうとしているのです」  と言ったが、王範はかえって孫元弼をあやしみ、 「それはおまえ自身のことだろう。もしおまえの言うとおりだったら、なぜさきにわしに訴えぬ。さあ、いさぎよく白状しろ」  と言って鞭(むち)で打った。丁豊と史華期はそれを見てせせら笑いながら、 「ちゃんと証人がおります」  と言って、陳超(ちんちよう)という者を連れてきた。二人からたのまれていた陳超は、 「知事さまがお留守のとき、孫元弼が桃英の口を手でふさいで部屋の中へ連れ込むのをこの目で見ました」  と証言した。王範はそれをきくと、 「よくもおれに恥をかかせたな!」  と怒って孫元弼を死罪にしてしまった。  丁豊と史華期はその後も、王範の目を盗んで桃英と密通していた。  やがて王範は任期が満ち、桃英を連れて都の建業へ帰って行った。丁豊と史華期も王範について行った。  もともと王範の部下ではなかった陳超は富陽県に残っていたが、次第に暮しが立たなくなってきたため、王範をたよって都へ行くことにした。その途中、赤亭山の麓にさしかかったとき、夕立にあった。日も暮れてきて行きなやんでいると、不意に何者かがあらわれて陳超を小脇にかかえ、荒れた沼地へ引きずって行った。そのとき稲妻が光って、その者の顔を照らした。それは真っ黒な顔の、眼は白眼(しろめ)ばかりの亡霊だった。 「わたしは孫元弼だ」  と亡霊は言った。 「おまえはいつわりの証言をして、王範にわたしを殺させた。天帝に訴えたところ、わたしの言いぶんをおききとどけくださったので、わたしはずっとここで、おまえの来るのを待っていたのだ。ようやくおまえに会うことができて、うれしいよ」  陳超は額から血の出るほど頭を地に打ちつけて、 「おゆるしください、おゆるしください」  と哀願した。 「丁豊と史華期に金を握らされて、心ならずもうそを言いました。どうか、おゆるしください」 「丁豊と史華期はもう冥府へ連れて行った。二人はいま冥府で責め苦を受けているところだ。あとは、おまえと王範と桃英だが、わたしに直接手をくだしたのは王範だから、あいつからさきにとり殺してやる。そのつぎは桃英だ。おまえはいちばんあとで殺すことになっている」  陳超は狂ったように地に頭を打ちつけてあやまりつづけたが、やがて夜が白んでくると、亡霊の姿は見えなくなってしまった。  陳超が建業に着き、王範の屋敷を訪ねて、 「丁豊どのに会いたい」  と言うと、丁豊は数日前に血を吐いて「助けてくれ、助けてくれ」と言いながら死んだということだった。 「史華期どのは?」  ときくと、同じ日に同じようにして死んだという。そのとき陳超は、孫元弼の亡霊が外からはいってくるのを見た。亡霊は陳超に、 「おまえはあとまわしだ」  と言って、王範の寝室へはいって行った。  その夜、王範はひどくうなされて、しきりに「ゆるしてくれ、ゆるしてくれ」とわめいた。家の者がいくら声をかけても、体をゆすぶっても、王範は目をさまさず、うなされ、わめきつづけている。陳超がわけを話すと、家の者は亡霊除けのまじないに黒牛を引いてきて王範の上に顔を出させ、また、桃の木で作った人形に葦(あし)の索(なわ)を持たせて飾ったところ、明けがた近くなって王範はいくらか正気にかえったが、すぐまた、「ゆるしてくれ、ゆるしてくれ」とわめきだし、十日あまりうなされつづけて死んでしまった。  妾の桃英も陰部が痛んで苦しみつづけたあげく、そこから血を流して「助けて、助けて」とうめきながら死んでしまった。  陳超は長干寺(ちようかんじ)へ逃げ込み、名を可規(かき)とあらためて、ひたすら孫元弼の冥福を祈りつづけた。それから五年たった後の三月三日の節句に、陳超はもう孫元弼の亡霊は出ないと安心し、曲水(きよくすい)の宴に出て酒に酔い、 「もう亡霊も怖(こわ)くないわい」  と言って下を向いたところ、水の中に孫元弼の亡霊があらわれて、 「おまえを冥府へ連れていく期日がきたぞ」  と言うなり、したたかに手で陳超の鼻柱をなぐりつけた。と、鼻からおびただしい血が流れだしてとまらず、数日後に、ついに死んでしまった。 唐『冥報記』    車の中の貴婦人  開元年間のことである。薛矜(せつきよう)という人が長安県の県尉(けんい)(県の属官)になり、宮市(きゆうし)の管理を担当した。宮市というのは宮苑内に開かれる市場のことであって、東西の二つの市場があった。  薛矜は一日おきに東西の市場を見まわっていたが、ある日、東の市場の前にきれいな車が一台とめてあるのを見た。車には婦人が乗っていて、顔は見えないが雪のように白い手が見えた。薛矜はその美しさに心をひかれ、部下の者に銀細工の小箱をその車のところへ持って行かせた。すると婦人は侍女にその値をきかせた。部下の者が、 「これは長安の県尉の薛様の物です。もし車の中からおたずねがあったら、そのまま差しあげるようにと申しつけられております」  と言うと、車の中の婦人はいかにもうれしそうに、 「ありがとうございます。県尉様によろしくお伝えくださいますよう。わたしは金光(きんこう)門外に住んでおります。よろしかったら、いつでもどうぞお越しくださいませ」  と言った。  薛矜は部下に車のあとをつけて行かせて、その家を見とどけさせると、翌日、さっそく訪ねて行った。と、婦人の屋敷の門外にはおびただしい数の乗馬がつないであった。案内を乞うのをためらっていると、来客はつぎつぎに帰って行った。そこで部下の者に名刺をとどけさせると、まもなく昨日の侍女が出てきて薛矜を表の広間へ案内し、 「奥様のお支度がすみますまで、しばらくお待ちくださいませ」  と言った。広間には四方にあかあかと灯火がついていたが、なんとなく薄暗いように思われた。薛矜は灯火のそばへ寄ってみて、火がすこしも熱くないのを感じ、内心不思議に思った。  と、また侍女がはいってきて、 「お支度がすみましたので、どうぞ」  と言い、薛矜を奥の部屋へ案内して行った。部屋の帳(とばり)はすべて黒い布であった。奥に灯火が一つ見えたが、その火は暗くかすかで、近づいてきそうになってはまた遠ざかって行く。薛矜は、これは人間の住居ではないと気づいたが、あの美しい貴婦人がたとえ亡霊だとしても、会いたいと申しいれたのだから、一目会ってから帰ろうと思った。 「こちらでございます」  と言う侍女の声がきこえて、奥の黒い帳があけられた。そこが婦人の寝室だった。婦人はあの雪のように白い手を膝(ひざ)に置いて坐っていたが、頭から薄絹をかぶっていて顔は見えない。薛矜はそばへ寄ってその薄絹を引っぱったが、はずれない。 「どうしてお顔を見せてくださいません?」  と言っても、婦人は答えず、ただ雪のように白い手を膝に置いて坐っているだけであった。  力を込めて引きはずして見ると、それは真っ黒で、どこが目とも鼻ともわからぬ、長さ一尺ばかりの大きな顔であった。あっとおどろくと、その顔は犬の吠えるような声で何やら、ことばにならぬ声をわめいた。薛矜はそのまま気を失ってしまった。  薛矜の部下は門の外で長いあいだ待っていたが、日が暮れかけてきても主人がもどってこないので、門の中へはいって見た。と、門の中にはただ棺を安置する殯宮(ひんきゆう)があるだけで、ほかには何もなかった。主人がいるとすればこの殯宮の中しかないと思い、入り口をさがしたが、どこにも入り口はない。あわてて殯宮の壁をたたくと、壁がくずれて、中に主人の倒れているのが見えた。  薛矜はすでに息がなかったが、胸のあたりにかすかに温(ぬくも)りが残っていたので、部下は金光門外の旅舎へかつぎ込んだ。医者は安静にしておくよりほか手はないと言った。薛矜はそれから一月あまり後に、ようやく息をふきかえしたのだった。 唐『広異記』    県令の死後の実力  陝西(せんせい)の岐陽(きよう)県令の李覇(りは)は、厳格で気象が荒く、人情味のない人で、県丞(けんじよう)や県尉(けんい)以下、県の役人たちは一人残らずひどい目にあわされたが、本人は剛直と清廉潔白(せいれんけつぱく)とを信条としていて、一文(もん)の賄賂(わいろ)を取ったこともなく、一片の不正の利を得たこともなかったので、家族の者は李覇が任官する前の貧乏暮しから抜け出すことができずにいた。  李覇は家族の苦しみをよそに、その清貧をむしろ誇りにしていたが、赴任してから一年後、急病で死んでしまった。  納棺をすませると、県の役人たちはそれきり、もう一人も来なくなった。李覇の妻は棺をなでて泣きながら言った。 「あなたは一文も残してくださらなかったし、部下の人たちもみなあなたに怨みを持っていて香典をくださる人は一人もありません。あなたの葬儀をどうしてやればよいのですか」  すると棺の中から李覇の声がきこえてきた。 「おまえ、そう心配することはない。これから姿をあらわして、わしが自分で始末をつけるから」  その日の午後、李覇は役所に姿をあらわして、 「役人どもをみんな呼び集めろ」  と命令した。役人たちはびっくりしてみんな馳(は)せ集り、李覇の怒った顔を見上げて、ぶるぶるふるえだした。李覇は一同を見まわして、 「県丞と主簿と県尉はどうした?」  と言った。誰も答える者がない。 「早々に呼んでまいれ!」  しばらくして三人がいっしょにやってくると、李覇は大声でどなりつけた。 「そなたたちがこれほど薄情な人間だったとは! そなたたちがいかに生前のわたしをきらっていたとしても、死者に対してはそれ相当の礼をすべきではないか。もはやわたしには何の力もないと思って、そうしたのか。そなたたちには死者であるわたしを殺す力はないが、わたしには、そなたたちを殺す力があるのだぞ」  言い終ったとたん、三人はばったり倒れて、息が絶えてしまった。  知らせを受けた三人の家族の者が駆けつけてきた。いっせいにひざまずいて、 「なにとぞ命をお助けくださいますよう」  と口々に命乞いをすると、李覇は、 「作法どおりに香典を出しさえすれば、生き返らせてやろう」  と言った。 「命にはかえられません。いかほどでも仰せのとおりに差し出します」 「いや、多くは望まぬ。絹五束でよい」  三人の家からそれぞれ絹五束がとどけられると、同時に三人は息を吹きかえした。  三人が家族の者に介抱されながら引きさがってしまうと、李覇は、こんどは二人の秘書官に向って言った。 「わたしは日ごろ、おまえたちには目をかけてやったのに、どうしてほかの者らと同じように薄情なことをしたのだ! おまえたちだけを殺してもあきたりない。まずおまえたち二人の家の馬をみんな殺して、わたしの力のほどを見せてやろう」  まもなく両家では、持ち馬数百頭が一時に倒れて今にも死にそうになった。両家の者が駆けつけてそのことを二人の秘書官に知らせると、二人は、 「良馬五頭ずつを差し出しますゆえ、おゆるしくださいませ」  と哀願した。すると李覇は、 「そんなにはいらん。子馬一頭ずつでよい」  と言った。両家が子馬一頭ずつを贈ると、持ち馬はみなもとどおり元気になった。  李覇はそれから、ほかの役人たちに向って言った。 「わたしは日ごろ、清廉を旨として贈り物を受けたことはなかったが、もう死んでしまったのだから、諸君は贈り物をしても贈賄ではなく、わたしは贈り物を受けても収賄ではない。わたしの家は一文のたくわえもなく、わたしの葬儀も出せないのだ。どうか諸君、わずかな志でよい、わたしの葬儀のために恵んでもらいたい」  役人たちはそこで、絹五疋ずつを香典とすることに話をきめた。  こうして役人の全員からそれぞれ香典をもらうと、李覇はさらに、車を提供する者、馬を出す者、葬儀の行列の世話をする者など、それぞれ役割をきめ、もし違反する者があれば必ず殺すと厳命して、日が暮れてしまったころ、ようやく解散した。  中一日おいて、後(あと)始末もすっかりすんだので、遺族の者は葬儀の行列を出した。行列が進み出してから、一同は、行列の中央の棺をのせた車の前を李覇が馬に乗って進んでいるのを見た。途中、何度か行列をとめて祭祀をおこなった。そのたびに李覇は馬からおりて供え物を受け、食べ終るとまた馬に乗って出発した。こうして十里あまり進んで郊外へ出てしまうと、李覇の姿は消えた。  その夜、一行は旅舎に泊ったが、遺族の者が哭礼(こくれい)をささげようとすると、棺の中から李覇の声がして、 「わたしはここで休んでいる。おまえたちも疲れているだろうから、泣くには及ばん」  と言った。李覇の家は都にあったので、岐陽からは千余里の道のりがある。その長旅のみちみち、旅舎に泊るごとに李覇はいつも、泣くには及ばんと言いつけた。  ある夜、李覇は棺の中から息子の名を呼んで言った。 「今夜は眠ってはならぬぞ。一行の中の良馬を盗みにくる者がある。よく気をつけているように」  しかし遺族の者は長旅の疲れで、つい眠ってしまった。するとその夜、はたして馬が一頭いなくなってしまった。夜があけてから息子がそのことを李覇に報告すると、 「用心するようにと言っておいたのに、みんな眠ってしまうとは! だが、疲れているだろうから無理もない。馬はとりもどせるようになっている。この旅舎の東側に、南のほうへ行く道がある。その道をずっと行くと林があって、馬はいまそこにつないである。すぐに取りもどしに行くがよい」  息子が言われたとおりにその道を行ってみると、はたして林があり、馬はそこにつないであった。  一行が都に着くと、この不思議をききつけて親類縁者が続々と弔問(ちようもん)にきた。朝から晩までひっきりなしにやってくる客に対して、李覇はいちいち棺の中から応対した。うわさがひろまるにつれて、縁もゆかりもない者までやってくるので、遺族の者は応接にいとまのないほどのいそがしさであった。すると棺の中から李覇が息子に言った。 「みんながやってくるのは、わたしの正体を見たいからだ。広間にわたしの座を作っておいてくれ。みんなに顔を見せてやるから」  家族の者は言われたとおりに広間に李覇の座を設けた。弔問の人々が広間の前の庭に集って待っていると、しばらくして、 「さあ、簾(すだれ)を上げよ」  と言う李覇の声がきこえた。家族の者が簾を巻き上げると李覇の姿があらわれたが、その姿を見て人々は腰をぬかさんばかりにおどろいた。首が甕(かめ)のように太く長く、眼は赤くとび出して人々をにらみつけているのである。人々がおどろきさわぐと、首は少しずつ胴の中へ引っ込んで行った。  李覇はかたわらの息子に向って、 「生者と死者とは住む世界がちがうものなのだ。この家はわたしの長くおるべき場所ではない。早く郊外の地に埋葬してくれ」  と言った。それと同時に姿が消え、それきり棺の中からの声もきこえなくなってしまった。 唐『広異記』    二つの遺骸  唐の徳宗(とくそう)の貞元初年のことである。  河南の少尹(しよういん)の李則(りそく)という人が死んだ。すると、家人がまだ納棺もしないうちに、朱衣を着た人がきて、名刺をさし出し、みずから蘇郎中(そろうちゆう)と名乗って、弔意を述べた。  蘇郎中は部屋へはいって李則の遺骸(いがい)に対面すると、長いあいだ慟哭(どうこく)していたが、やがてにわかに李則の遺骸が起きあがって蘇郎中につかみかかった。蘇郎中も負けじと格闘しだした。  家人はそれを見ておどろき、みな部屋から逃げだした。二人の格闘する声は外にまできこえて、いつやむとも知れずつづいたが、やがて日が暮れてくると、急にやんだ。  家人がおそるおそる部屋へはいってみると、李則の遺骸と並んで蘇郎中も死んでいた。家人はそばへ寄って、さらにおどろいた。二つの遺骸の一つを蘇郎中だと思ったのは、それが朱衣を着ていたからであった。そのほかは、体躯(たいく)も容貌(ようぼう)も鬚髯(しゆぜん)も、すべて、寸分ちがわなかったのである。  李家では一族の者がみな集って話しあったが、わけがわからず、結局、二つの遺骸はともに李則であると見て、同じ棺に納めて葬った。  その後は何事もおこらなかった。 唐『才鬼記』    川に住む亡霊  川のほとりには、よく〓鬼(ちようき)が住んでいる。  〓鬼というのは非業(ひごう)の最期をとげた者の亡霊だが、虎に食われた者の亡霊であることが多いという。  〓鬼はときどき川の中から人の名を呼ぶが、返事をすると必ず溺(おぼ)れ死んでしまう。これは〓鬼が人を誘うのである。  李戴仁(りたいじん)という人が、あるとき湖北の枝江(しこう)県の入江に船をつないで、船中で一泊したことがあった。月の美しい夜だったが、水にくだける月影をながめていると、にわかに水の中から一人の老婆と一人の男が出てきて、あたりを見まわし、戴仁に気づくと「あっ」と声をあげて、 「あそこに生きている人間がいる!」  と言い、あわてて水の上を走って行ったが、まるで平地を走るようなぐあいに走って岸へ着くと、そのまま姿を消してしまった。  また、やはり湖北の、当陽(とうよう)県令の蘇〓(そぜい)が、江陵(こうりよう)に住んでいたときのことである。ある夜、家へ帰る途中、月あかりの中に髪をふり乱した美人の姿を見つけた。裾(すそ)のあたりが水にぬれているようなので、蘇〓が、 「おまえ、川の〓鬼じゃないか」  とからかうと、女は怒って、 「よくもわたしを亡霊だと言ったわね!」  といい、いきなりとびかかってきた。蘇〓はおどろいて逃げたが、女はどこまでも追いかけてくる。やがて夜警に出会ったのでほっとして立ちどまり、うしろを見ると、女は身をひるがえしていま来た道をもどって行ったが、しばらくすると、ふっとその姿が消えてしまったという。 宋『北夢瑣言』    陳府君(ちんふくん)の廟  福建の建陽県の録事に、陳勲(ちんくん)という人がいた。剛直で、好ききらいがはげしく、人づきあいがわるかったので、県の役人たち十人が共謀して彼を無実の罪におとしいれたが、誰(だれ)も弁護してくれる者がなく、ついに死刑にされてしまった。  その翌年のことである。陳勲の妻は夫の命日に僧を呼んで追善供養をしたが、夫が無実だということを知っていたので口惜(く や)しくてならず、霊前で嘆息しながらつぶやいた。 「あなたは生前はずいぶん剛直なおかたでした。非業の最期をおとげになってからもう一年にもなりますのに、どうして何もなさらないのですか。あなたの霊魂はなぜ静まりかえったままで、あなたを殺した人たちを見のがしていらっしゃるのですか」  すると、その夜の妻の夢枕に陳勲が姿をあらわして言った。 「わしは殺されたとは全く知らなかったのだ。さっきおまえの言うことをきいて、はじめて気がついた次第だ。そういうわけなら、わしは十人のやつらに敵討(かたきう)ちをしなければならん。だが、いきなり役所へ乗り込んで行くわけにはいかんので、明日になったら、おまえ、県の役所へわしの無実を訴えに行ってくれ。わしはそのあとについて行って、必ず敵を討つから」  翌日、妻が言われたとおりに役所へ訴えに行こうとして家を出ると、表に陳勲が剣をつきながら立っているのが見えた。 「いまから行きます」  と妻が言うと、陳勲はうなずいて、あとについてきた。その姿は妻にしか見えないようであった。  やがて役所の前まで行くと、敵の役人の一人が橋の上に立っていて、 「何をしにきたのだ」  と詰(なじ)った。妻が答えようとするよりも早く、陳勲が駆け寄って行って剣でその役人をたたいた。と、役人はそのまま倒れて死んでしまった。  役所の門をはいると、陳勲はまっすぐに広間へはいって行って、つぎつぎに役人をたたいた。その剣にあたった者はみな死んでしまったが、それはすべて陳勲に無実の罪を着せた仲間であった。  こうして十人のうちの八人までが殺された。あとの二人は臨川(りんせん)まで逃げて行ったが、陳勲は追って行ってこれも殺してしまった。  陳勲の家は蓋竹(がいちく)という村にあったが、村人たちはいつも陳勲の亡霊を見かけた。そこで祠(やしろ)を建てて祭り、陳府君(ちんふくん)の廟(びよう)と名づけたところ、亡霊はその後は姿をあらわさなくなった。廟はいまもあって、霊験(れいげん)あらたかな神として尊崇されている。 宋『稽神録』    陸判官  建康(けんこう)に仲のよい二人組の楽士(がくし)がいた。  ある日、日が暮れてから二人で町へ出かけたところ、大家(たいけ)の下男らしい男に呼びとめられた。 「あなたがた、これからどこへおいでです」 「別に、あてはありません」  二人が言うと、下男はよろこんで、 「それは、ちょうどよいところでお会いしました。実はわたしは陸判官さまの家の者ですが、今夜急に宴会を開かれることになりましたので……」 「楽士をさがしにきたとおっしゃるのですね」 「はい。お願いできるでしょうか」 「それがわたしどもの商売です。承知いたしました」  二人の楽士が下男のあとについて行くと、町の北門を出たところに、大きな邸宅があった。  さっそく宴席へ案内された。美しく飾りたてた部屋で、机の上にはさまざまな料理が並べられていた。来客は十人あまり。みんな楽しそうに談笑しながら、酒を飲んでいた。  二人が楽を奏していると、やがて主人らしい人が立ちあがって、 「さあ、もう食事にしましょう。飲み足りないかたは、酒もまだたくさんありますから、ご自由にお飲みください」  といった。二人はそのとき、自分たちもここで一休みしてもよいのだろうと思い、一曲が終ったときに演奏をやめた。すると、さきほどの下男がやってきて、 「宴会はまだ終ったわけではありません。つづけてください」  といった。来客たちはまた楽しそうに談笑しながら飲んだり食ったりしだし、楽士二人はまた楽を奏しはじめたが、宴会はいつ果てるともなくつづき、楽士たちはいつまでも演奏しつづけなければならなかった。  疲れてやめようとすると、すぐ例の下男がやってきて同じことを言った。 「宴会はまだ終らない。つづけてください」  夜はしだいにふけ、二人は疲れとともに空腹を覚えてきたが、だれも休めとは言わず、だれも食事をさせようとはしない。  やがて夜が白みかけるころになると、主人らしい人がまた立ちあがって、 「今夜はまことに楽しい会でした。もう夜があけますから、これでお開きにしましょう」  と言った。客たちがみな立ちあがり、がやがや言いながら散って行くのを見て、二人の楽士はその場にうずくまったが、もうすっかり疲れ切っていて、そのまま横になると正体もなく眠り込んでしまった。  二人の楽士が目をさましたときには、すでに日が高くのぼっていた。まぶしい目をこすりながら見まわすと、そこは大きな邸宅のなかではなく、草むらのなかであった。そして、二人が寝ていたかたわらには、大きな塚があった。  二人はそのときはじめて、昨夜の人々がみな亡霊だったことに気づいた。主人らしい人も、十人あまりの客も、そしてあの下男も。  北門外の村人にきいてみると、その塚はむかしから陸判官の塚と言い伝えられているが、いつの時代のどういう人であるかはわからない、ということであった。 宋『稽神録』    床下の女  宋(そう)の高宗の紹興(しようこう)三十二年のことである。  劉子昂(りゆうしこう)という人が安徽(あんき)の和州の太守に任ぜられて、妻子を連れずに任地へ行き、官舎で独身生活をしているうちに、一人の美貌(びぼう)の女と親しくなった。女は毎夜、劉の寝室に忍び込んできて、二人は歓を尽くした。  数ヵ月たったとき、劉が天慶観(てんきようかん)に参詣(さんけい)すると、老道士が不審な顔をしてたずねた。 「ひどくお体が衰えて、妖気(ようき)がただよっておりますが、何か心当りはございませんか」 「別になんの心当りもありませんが、もし体が衰えているとすれば、それは妾(めかけ)のためかもしれませんが」 「それでわかりました。その女はまことの人間ではありますまい。このままでは、あなたの命があぶない」 「まさか……」 「神符を二枚さしあげますから、夜になったら戸の外へお貼(は)りなさい」 「…………」 「疑っておいでですな。もしその女がまことの人間なら、神符をおそれることはありません。とにかく、やってごらんなさい」  劉は神符をもらって帰り、それを戸の外に貼って寝た。すると夜中になって、戸の外から女の怨(うら)みののしる声がきこえた。 「いままで夫婦のように暮してきたのに、このつれない仕打ちはなんということです。わたしにくるなとおっしゃるのなら、もうきません。二度とわたしのことを思ってくださいませんように」  そう言い捨てて立ち去る気配がしたので、劉はまたにわかに未練を覚え、急いで戸をあけて神符を剥(は)ぎ取り、女を呼び入れた。  それから数日たったとき、天慶観の老道士が役所へたずねてきて、劉を一目見るなり顔をくもらせて言った。 「あなたはいよいよあぶない。どうしてわたしの言ったことをおききにならなかったのですか。これでは、女の正体をお目にかけるよりほかないようですな」  老道士は人夫を集めて、数十荷(か)の水を床(ゆか)の下に流させた。と、一ヵ所だけ水がすぐ乾いてしまうところがあった。道士が人夫にそこを掘らせると、女の死骸(しがい)があらわれた。女は毎夜忍んでくるときのままの姿で棺の中に横たわっていた。劉は大いにおどろいた。だが、時すでにおそく、劉はそれから十日を過ぎずして死んでしまった。 宋『夷堅志』    夭死(ようし)した女  銭符(せんふ)は字(あざな)を合夫といって、紹興(しようこう)十三年に浙江(せつこう)の台州の補佐官になった。  そのときのことである。裁判のために寧海(ねいかい)県へ出向いて、七月二十六日、妙相寺(みようそうじ)に宿をとった。机にもたれながら、たいくつしのぎに字を書いていると、筆を引っぱる者がある。びっくりしてふりむいたが、だれもいなかった。眠気(ねむけ)がさしてきて、筆を引っぱられたような気がしたのかもしれぬ。銭符はそう思って、格別気にもせずに寝た。  その夜、ふと目をさますと、寝台のそばにだれかが立っているようであった。目をこらして見ると、薄い人影が見えた。銭符は従卒を呼びおこし、あかりをつけさせて見た。薄い人影は、あかりをつけない前と同じ濃さで寝台のそばに立っていた。銭符は指さして、 「ほら、そこに人影が見える」  と言ったが、従卒は、 「何も見えません。気のせいでございましょう」  と言った。すると、その人影は消えてしまった。気のせいかもしれぬ。銭符はそう思ってまた寝た。そのまま、その夜は格別のこともなかった。  ところが、翌晩もその人影はあらわれて、寝台のそばに立った。銭符はもう従卒をおこさず、その人影に向ってたずねた。 「亡霊か妖怪(ようかい)か。もし亡霊なら、そこの衝立(ついたて)をたたいてみよ」  すると、とんとんと衝立をたたく音がした。銭符はその音をきくとおそろしくなり、二本の大蝋燭(ろうそく)をあかあかとともした。と、すぐ大きな蛾(が)が飛んできて、火をたたき消してしまった。人影は寝台の横の腰掛けにすわり、むこうを向いたまま、じっとしている。  よく見ると、しだいにその影は濃くなってきて、女のようであった。円い冠をつけ、淡い青色の上衣を着、明るい黄色の裳(もすそ)を垂れている。全体の形は小さく、いつまでも身動きをしなかった。  銭符はそのとき道士から呪文を習ったことを思い出し、口のなかで何度も天蓬呪(てんほうじゆ)をとなえた。すると、まもなく人影は消えた。同時に外で、宿直の部下たちのがやがやとさわぐ声がきこえてきた。  銭符が出て行ってみると、部下の者は口々に、 「女が奥から飛び出してきたのですが、風のような早さで、寝ているみんなの顔を踏みながらどこかへ行ってしまいました」  と言った。 「どこへ行った」 「それがわからないものですから、さがしているところです」 「どんな衣装の女だった」  ときくと、だれもはっきりと覚えている者はいなかったが、ある者は円い冠をつけていたようだと言い、ある者は淡い青色の上衣を着ていたと言い、ある者は裳は明るい黄色だったと言った。 「みんなでさがしても見つからないのなら、どこかへ行ってしまったろう。さわがずにもう寝るがよい」  銭符はそう言って部屋へもどり、また寝台へあがって寝た。疲れていたせいか、まもなく眠ってしまった。すると夢の中に、さっきの女がまたあらわれ、ためらいもせずに衣装をぬいで寝台へあがってくるなり、銭符の左の肩を枕(まくら)にして寝た。その体は氷のようにつめたかった。銭符はぞっとしたが、呪文をとなえるいとまもなく、女が言った。 「わたしは蒋(しよう)通判の娘です。お産のためにまだ若い身そらでこの寝台の上で死んでしまいました。それ以来、男の人の肌(はだ)が恋しくて……」  そう言いながら、しきりに銭符の体をまさぐり、いどみかかってきた。銭符は必死になって防ぎつづけたが、女はどうしてもはなれない。女がついに銭符におおいかぶさって、ぴったりと体をつけてきたとき、銭符は悲鳴をあげて目をさました。  翌日、この寺に仮寓(かぐう)している郭(かく)元章という人にたずねてみたところ、くわしくその女のことを話してくれたが、それは銭符が見た亡霊とぴったりと一致した。銭符の泊った部屋は女が産室にしていた部屋で、寝台はそのときの寝台ではなかったが、置いてある場所は女が死んだ場所だったという。  これは筆者が銭符からきいた話である。 宋『夷堅志』    人を追う骸骨(がいこつ)  宋(そう)の紹興(しようこう)二十四年六月のことである。  江西の彭沢(ほうたく)県の役人の沈持要(しんじよう)という人が、官命で臨江(りんこう)へ行く途中、湖口県から十里ほどはなれたところにある化成寺という寺に泊った。  以下は、そのとき沈持要が寺の住職からきいた実話である。  昨年のことである。一人の客人が仏殿の隣りの棺の置いてある部屋に泊った。ほかに空(あ)いている部屋がなかったからである。  夜中に客人は、棺のなかから光が漏れ出るのを見て不審に思い、じっと見ていると、その光のなかに人の影が動いた。客人はおどろいたが、いざというときには隣りの仏殿へ逃げ込めばよいと思い、寝台の帳(とばり)をかかげて様子をうかがうと、棺のなかの亡霊も、ふたをおしあけてこちらをうかがう様子をした。  客人はおそろしくなり、仏殿へ逃げようとして、寝台からそっと片足をおろした。すると亡霊も棺のなかから片足を出した。ぎょっとして足を引っ込めると、亡霊も足を引っ込ませた。客人がまたそっと足をおろすと、亡霊もまた足を出す。同じことを何度もくりかえしているうちに、客人はもうおそろしくてたまらなくなり、思い切って寝台から飛び降りて逃げだした。すると亡霊も棺から飛び出して追ってくる。客人は仏殿へ逃げ込みながら、大声で救いを求めた。亡霊はすぐうしろまで追い迫ってきた。  客人は魂も身にそわず、脚もなえてしまって、ころげまわりながら逃げつづけたが、ついに力が尽きて柱の下で動けなくなってしまった。と、亡霊はぱっと飛びかかってきたが、そのとき客人は、がちゃん! という音がしたことを覚えているほかは、あとは何も覚えていない。  客人の救いを求める声をきいて僧侶たちが仏殿へ駆けつけて行って見ると、柱の下に客人が半死半生で倒れていて、そのそばには、ばらばらにくずれた骸骨が散らばっていた。  その後、その死人の家から棺を引き取りにきたが、死骸がくだけているのを見ると、寺の者が棺をあばいたのに相違ないと言い、ついに訴訟沙汰(ざた)にまでなったが、そのときの客人の証言で寺は事なきを得た。 宋『夷堅志』    上元(じようげん)の夜の女  宋(そう)の徽宗(きそう)の宣和(せんな)年間のことである。  都に住んでいたさる士人(しじん)が、上元(節日の一。陰暦一月十五日)の夜、町へ灯籠(とうろう)見物に出かけた。二美楼の近くまで行ったところ、大勢の見物人で、さきへ進むことができない。しばらく足をとめていると、すぐ近くに、何かさがしものでもしているようにうろうろしている、美しい女の姿が目についた。 「どうしたのです」  と声をかけると、女ははじめは警戒するような目で士人を見て黙っていたが、たちまちぱっと安堵(あんど)の色を浮べて、 「わたし、みんなといっしょに灯籠見物にきたのですけど、人ごみのなかで連れの人たちにはぐれてしまって……。ひとりでは家へ帰ることができませんの」  と言った。 「お家はどこです」  ときくと、 「遠くですの」  という。 「遠くのどこです。よければ送って行ってあげましょう」 「それが、どこだかわからないのです」 「わからない? 冗談でしょう?」 「いいえ、ほんとうです。それにわたし、家へは帰りたくありませんの」 「それじゃ、わたしの家にきませんか」  士人が誘ってみると、女はうなずいて、 「もしお宅へ連れていってくださるなら、助かりますわ。こんなところでうろうろしていると、わるい者にかどわかされて、どこかへ売りとばされてしまうのではないかと、さきほどから、わたし、気が気でなかったのです」 「わたしがわるい者でないということが、どうしてわかります?」 「それは、わかりますわ。はじめはちょっと疑いましたけど……」  士人は女の手を引いて、家に帰った。その夜から女は士人の妾(めかけ)になった。士人は女がすっかり気にいってかわいがっていたが、それから半年たっても女をたずねてくる者もなかったので、もう人前に出してもよかろうと思い、ある日、仲のよい友達を招いて酒盛りをしたときに、その女に酌(しやく)をさせた。  するとその翌日、昨夜の客の一人がこっそりたずねてきて言った。 「昨夜の女はどうした?」 「どうしたのだね。奥にいるよ」 「あの女をどこから手に入れたのだね」 「周旋屋(しゆうせんや)から買ったのだ」 「いや、そうではなかろう。ほんとうのことを言ってくれ」 「なぜそんなことを言うのだ」 「実は昨夜、酒を飲みながらあの女を見ていると、ともしびのうしろを通るたびに必ず顔色が変るのだ。あれはたぶん人間ではあるまい。気をつけたほうがいいぞ」 「ばかなことをいうな! 半年もいっしょに暮しているのだが、何も変ったことはない。変ったことがないばかりか、この世にまれなくらい夜のすばらしい女だ」 「ほんとうに周旋屋から買ったのか。どこのなんという周旋屋だ」 「実は上元の夜、町で拾ってきたのだ」 「そうだろうと思っていた。葆真宮(ほうしんきゆう)の王文卿(おうぶんけい)法師に会ってみるがよい。もしあの女が、君の言うとおり、ただ、夜がすばらしいだけの女なら、それはそれでよかろう。会ってみても君に損はないじゃないか」  士人はそう言われて心がぐらつき、葆真宮へ行ってみた。王文卿法師は士人を一目見るなり、おどろいた様子で、 「妖気(ようき)が濃くたちこめている。もう手のほどこしようもないほどになりかけている。そなたにとりついているのは亡霊ではなくて、離魂というものだ」  と言い、その場に居合せた客の一人一人を指さして、 「みなさんにも、いずれ証人になってもらわなければなりません。いまからたのんでおきますぞ」  士人がかくさずに、はじめて会った上元の夜のことから、閨房(けいぼう)のことまで、いっさいを話すと、法師は、 「その女が日ごろ、いちばんだいじにしている物は?」  ときいた。士人が考えていると、 「いつも身につけている物が何かあろう。早く思いだしなさい」  とせかした。 「小さい銭箱を腰に下げております。たいへん精巧なつくりの箱ですが、腰に下げたまま、人に見せようとはしません」  法師はうなずいて、すぐ朱筆で二枚の護符を書き、士人に渡して言った。 「家へ帰って、その女が眠っているあいだに、一枚を頭の上へ置き、一枚を箱のなかへ入れなさい」  士人が家へ帰ると、女は顔色を変え声を荒だてて士人に言った。 「あなたのところへきてから、もう半年にもなりますのに、まだわたしを疑って、道士に護符を書かせるなんて! そんな護符なんかすぐ焼き捨ててください!」  士人がとぼけて、 「護符なんて持っていないよ。おまえはどうしてそんなことを言うのだ」  と言うと、女はいっそう青ざめた顔をして、 「かくしても、わかります」 「どうしてわかるのだ」 「下男にききました。一枚はわたしの頭の上へ置き、一枚はわたしの箱のなかに入れるのだと。さあ、かくさずに早く焼き捨ててください」  女はそう言うと、泣きながら奥の部屋へ駆けこんで行った。  士人が下男にきいてみると、 「護符ってなんですか」  とききかえした。うそを言っているとは見えない。 「今朝からずっと奥さまにはお会いしておりません」  とも言った。これまで半信半疑だった士人は、そのときはじめてほんとうに女を疑うようになった。  その夜、女は士人を寄せつけなかった。 「まだ護符を持っているのね。それを焼き捨ててしまわなければ、わたし、いやです」  と言い、夜がふけても自分の部屋にこもったきり、あかりをつけていつまでも針仕事をしていた。そして、そのまま朝まで寝なかった。  士人は女が眠らなかったのでどうすることもできず、夜があけると葆真宮へ行って、事の次第を告げた。すると法師はよろこんで、 「それでよいのじゃ」  と言った。 「あの女は一晩だけは眠らずにおられるが、今夜はいくら自分で眠るまいとしても眠らずにはおられないのだ。眠ったら、わしが昨日言ったようにすればよい」  その夜、女はしばらく起きていたが、まもなくぐっすり眠り込んでしまった。そこで士人は教えられたとおりに護符を置いた。  夜があけてから女の部屋へ行って見ると、女はいなくなっていた。寝台の上をさがしてみたが護符もなくなっていた。  それから二日たったとき、王文卿法師は役人に逮捕されて牢(ろう)へおし込められた。それはつぎのような訴えがあったからだった。  ある家の娘が三年間ずっと病気で寝ていたが、一昨日、ついに死んだ。ところが、その娘は臨終のとき、不意に大声で、 「葆真宮の王法師がわたしを殺す!」  と叫び、そして息を引き取ったという。家の者がその遺骸を納棺するときに調べてみると、頭の上と腰につけた銭箱のなかとに、王法師の書いた護符があった。そこで役所へ訴えて、 「王法師は妖術(ようじゆつ)によってうちの娘をとり殺しました」  と申したてたのであった。  王法師は役所でありのままを述べた。そこで、士人と、士人が葆真宮へいったとき居あわせた客たちが証人として呼び出された。その証言によって法師は罪をのがれることができたのである。  王文卿法師は建昌(けんしよう)の人である。  この話は、筆者が林亮功からきいた実話である。林亮功は、この話の士人と親しくつきあっていたことがあった。 宋『夷堅志』    美男の罪  〓京(べんけい)に陳叔文(ちんしゆくぶん)という人がいた。  科挙(かきよ)の試験に及第して、江蘇(こうそ)の宜興(ぎこう)県の主簿に任命されたが、長いあいだ試験勉強をしているうちに家はすっかり貧乏になってしまい、いまは数日間の生活費もないありさまだったので、任地へ行くことができなかった。  叔文は顔も姿も人並みすぐれた好男子だったので、妓女(ぎじよ)たちのあいだに人気があった。しかしそれも、まだ遊興する金があったころまでのことで、なくなってしまうと、だれもみな相手にしなくなった。そのなかで、崔蘭英(さいらんえい)という女だけはちがった。 「あなたはいまにきっと出世をなさるから、お金はそのときでいいわ」  と言い、いつ行ってもこころよく迎えてくれた。  任官はしたものの旅費の工面(くめん)がつかず、くさくさしていた叔文は、蘭英のことを思いだし、あの女にたのめば旅費ぐらいは用立ててくれるかもしれないと思って出かけた。  蘭英はいつものようにこころよく迎えて、 「どうなさったの、浮かぬ顔をして」  ときいた。叔文がわけを話すと、蘭英は、 「旅費ぐらいならご用立てしますわ」  と言い、そしてためらいながら、 「わたし、以前から、千貫以上お金がたまったらこの商売をやめて、だれかの奥さんになりたいと思っておりましたの。もしあなたに奥さんがなければ、わたし、よろこんであなたの任地へおともするのですけど……」 「ほんとうか」  と叔文は言った。 「わしはまだ妻帯していない。もしおまえが妻になってくれるというのなら、願ったりかなったりだ」 「ほんとうに? うれしい!」  と蘭英は涙を浮かべながらよろこんだ。そして二人はその場で結婚の約束をした。  叔文はその夜は蘭英の家ですごし、翌朝、家へ帰ると、妻に嘘(うそ)を言った。 「赴任の期日も迫ってきたが、金がないのでいっしょに旅立つことはできそうにもない。昨夜ようやく一人ぶんの旅費だけは工面したから、ひとまず、わしは単身で赴任することにするよ。むこうへ着いたら、おまえの生活費は欠かさず送るから、しばらく一人で暮していてくれ」  妻は納得(なつとく)した。  さて、叔文は蘭英を連れて船に乗り、〓水(べんすい)を東へくだって任地へ着いた。二人は仲むつまじく暮した。叔文は蘭英には内証で、月々の生活費を妻に送っていた。  三年の任期がおわって、二人は都へ帰ることになった。船は〓水をさかのぼって進んだが、都へ近づくにつれて叔文の気持は重たくなる一方だった。 「蘭英の荷物の中には千貫以上の金がはいっているはずだ。あの女はおれに妻があることを知らない。妻のほうも、あの女のことを知らない。どちらも相手を知らないわけだが、都へ帰って二人が顔をあわせたら、どうなることだろう。二人とも承知しないばかりか、訴訟をおこすにちがいない。そうすればおれの前途はめちゃめちゃだ」  なんとかうまくおさめる方法はないものかと考えつづけたが、いくら考えても方法はない。そのあげく叔文は、蘭英を殺してしまおう、と思った。そうすれば、なんのあとくされもなくなる。そうするよりほかに手はない。  そこで、ある夜蘭英といっしょに酒を飲み、したたかに酔わせておいて、夜がふけてから川の中へ突き落とした。さらに、蘭英が連れていた女中も突き落とし、そして大声で泣きわめいてみせた。 「妻が足を踏みはずして川へ落ちた! 女中も妻を引き上げようとして、いっしょに落ちてしまった! すぐ船をとめて、二人をさがしてくれ!」  ちょうど闇夜(やみよ)だったし、それに〓水の流れは矢のように早かった。船頭は急いで船を岸につけ、岸づたいに走ってさがしたが、どこにも二人の姿は見えなかった。  叔文は都へ帰ると、妻に言った。 「わたしたちは、前はひどい貧乏だったが、おまえが都で待っていてくれたおかげで、三年のあいだに二、三千貫の金がたまった。もう、おまえにさびしい思いはさせたくない。役人暮しはやめて、この金をもとでに商売をはじめよう」  そこで倉を建てて、質屋をはじめた。店は繁盛し、一年もたたぬうちに見ちがえるほどの豊かな暮しになった。  やがて冬至(とうじ)になった。冬至の日には〓京では着飾って寺へ参るのがしきたりになっていた。叔文は妻といっしょに相国寺へ参詣(さんけい)したが、寺の前まで行ったとき、人ごみの中から二人の女があとをつけてくるのに気づいた。ふりかえって見ると、それは死んだはずの蘭英と女中によく似ていた。  女はそっと叔文に手招きをした。叔文は用事にかこつけて妻をさきにやり、蘭英について行った。ついて行くと蘭英は相国寺の廻廊の下の石に腰をかけた。叔文がそばへ行って、 「おまえ、無事だったのか」  というと、蘭英は、 「ええ。女中と二人で抱きあったまま一里か二里のあいだ、浮きつ沈みつ流されていくうちに、木にひっかかってとまりましたので、声をあげて救いを求め、助けられたのです」  といった。叔文はどぎまぎしながら言った。 「そうだったのか。あのときおまえはひどく酔っていた。船べりに立って酔いをさましているうちに、足を踏みはずして川へ落ちたのだ。女中もおまえを助けようとして落ちてしまったんだよ」 「前のことはもう何もおっしゃらないでください。きけば口惜(く や)しくなるばかりです。でも、わたしは助かったのですから、あなたを恨みには思いません。わたしはいま魚巷城(ぎよこうじよう)の近くに住んでおりますの。明日、わたしをたずねてきてくださいな。もしきてくださらなかったら、わたし、あなたをお上に訴えますから。そうすれば、都じゅうの人々が大さわぎをするほどの大事件になるかもしれませんわ」 「行くとも。魚巷城の近くのどのあたりだ」 「女中が迎えに出ますから、すぐわかりますわ」  その日、叔文は家に帰ってからも心配でならず、近くで子どもを集めて読み書きを教えている王震臣(おうしんしん)という友人をたずねて、ありのままを話し、どうしたらよかろうかと相談をした。 「行かなかったら、女はきっと訴えるでしょう。そうすればあなたの不利なことは火を見るよりも明らかです。行って心から謝罪し、女の気のすむようにつぐないをするよりほかないでしょう」  王震臣はそう言った。  翌日、叔文はさまざまな料理や酒を買い込み、家の者に気づかれないように、よその町の小僧を雇って荷をかつがせ、いっしょに魚巷城へ出かけた。  魚巷城の近くまで行くと、女中が門前に出迎えている大きな屋敷があった。叔文は小僧を外に待たせて、女中のあとについて門のなかへはいって行った。  そのまま、日が暮れてきても叔文はその屋敷から出てこなかった。料理をいれた荷をかついできた小僧が門の外でいらいらしていると、近所の人があやしんで声をかけた。 「おまえ、そこで何をしているのだね。主人にでも叱られて、帰るに帰れないのか」 「いいえ、わたしはある人のお供をしてきたのです。その人はここで待っているようにと言って、このお屋敷のなかへはいって行ったのですが、まだ出てこないので、仕方なしに待っているのです」  小僧がそう言うと、近所の人は、 「なんだと? その家はずっと前から空き家だぞ」  と言い、あかりをつけて小僧といっしょになかへはいってみた。と、一部屋に叔文があおむけになって倒れていた。近寄って見ると、死んでいた。不思議なことに、両手をうしろへまわして組みあわせている。その形は死刑を執行された者の姿勢とそっくりであった。  近所の人はすぐ役所へとどけた。役人が調べたが傷害のあとはどこにもなかった。小僧の供述から、どうやら死人は質屋の陳叔文らしいとわかり、妻を呼んで検分させると、たしかに夫だと言った。  役人は不可解な事件だと思ったが、頓死(とんし)したとしか考えようがないので、妻に死体を引き取って葬るように命じ、みな首をかしげながら引きあげて行った。 宋『青瑣高議』    泰山の知事  蒋済(しようさい)が近衛軍の司令長官をしていたときのことである。その妻の夢枕に、死んだ息子の亡霊があらわれて、涙を流しながら言った。 「死者の世界は生者の世界とはちがって、わたしは生きていたときこそ名家の子弟でしたが、冥土では泰山(たいざん)の役所の小使いにされ、毎日こき使われてこんなに痩せ細ってしまいました。そのつらさは口では言いあらわせないほどです。それでお願いがあるのですが、太廟の西の村に孫阿(そんあ)という人が住んでおりますから、その人のところへ行って、わたしをもっと楽な役目に転任させてくれるようにたのんでおいてもらいたいのです。その人は近ぢか、泰山の知事としてこちらへくることになっておりますので……」  声をかけようとしたとたんに、母親は目をさました。部屋の中を見まわしたが、息子の姿はもう、どこにも見えなかった。夫を起して夢の話をしたが、夫はとりあってくれない。  ところが、息子の亡霊は翌晩もまた母親の夢枕にあらわれて、 「わたしはいま、新任の知事を迎えにきていて、太廟に泊っております。暇をぬすんで家へ帰ってきたのですが、新任の知事は明日の昼、出発されることになっておりますので、明日になるとなにかといそがしくて、もう帰ってはこられません。どうかもう一度父上におっしゃってください。必ず孫阿さんにわたしのことをたのんでおいてくださるようにと」  と言い、孫阿の住居とその人相をくわしく話した。  夜があけてから、母親はまた夫に訴えた。 「ゆうべもまた息子が夢枕にあらわれました。あなたは夢などあてにならないとおっしゃいますが、だまされたつもりで、その孫阿という人をさがしてみてください。もしそういう人がいたら、わたしの夢枕にあらわれたのは、わたしが息子を思うあまりに見た夢ではなくて、息子の亡霊がたのみにきたのだということがおわかりになりましょう」  そこで蒋済は部下の者を太廟の西の村へやって、孫阿という者の家をさがさせた。と、果して孫阿という者がいて、その人相もそっくりであるという。ただ、孫阿は病気ではなくて、元気に働いているということだった。  蒋済は部下の者の報告をきくと、涙を流しながら、 「夢などあてにならぬと思っていたが、そうすると妻の夢枕にあらわれたのはやはり息子の亡霊だったのか。あやうく息子のたのみを裏切るところだった。その男が元気で働いているというのは腑(ふ)に落ちないが、元気でいるのならすぐ呼んできてくれ。とにかく息子のたのみだけは伝えておいてやりたいから」  と、すぐまた部下に孫阿を迎えにやらせた。  孫阿は近衛軍の司令長官からじきじきのたのみがあるときいて、不審な顔をしながらやってきた。蒋済が会って、妻の夢の話をすると、今日の昼ごろ死ぬときいても少しも恐れる様子はなく、 「それは、ほんとうでございますか」  ときき返した。 「気の毒だが、息子の亡霊はそう言ったのだ」  蒋済がそう言うと、孫阿は、 「いいえ。わたしがおたずねしておりますのは、泰山の知事になるということでございます」 「息子の亡霊はそう言ったのだ」 「そうですか。もしそうなら、わたしも満足でございます。それで、坊っちゃんはどういう官職をお望みなのですか」 「楽な職務なら何でもよいと言っていたから、どうか、そうしてやってください」 「承知しました」 「よろしくお願いします。ところで、あなたは息子の亡霊の言うとおりなら今日の昼に死ぬというのに、少しもこわがってはおられない。ほんとうに、こわくもかなしくもないのですか」 「わたしは貧しい家に生れて、この世では立身することができませんでしたが、せいいっぱい生きてきました。人間はいつかは死ぬものです。この世の生命はわずかですが、死後の世界は永遠ですから、かなしいとは思いません」 「そういうお心がけだからこそ、泰山の知事になられるのでしょう。わたしもこれからは心をいれかえようと思います」  孫阿が帰ってから、蒋済は妻が見た夢のとおりになるかどうかを早く知りたいと思い、役所の門から太廟までのあいだに、十歩ごとに一人ずつ兵隊を立たせて、孫阿の様子をいちいち伝えさせた。  すると十時ごろ、孫阿の胸が痛みだしたという報告がはいり、正午になると孫阿が死んだという知らせがきた。  それから一月ほどたったとき、母親の夢枕にまた息子の亡霊があらわれて、 「おかげで、もう転任させてもらいまして、いまは書記になっております。父上によろしくお伝えください」  と言った。前には痩せ細っていたその姿が、こんどは元気そうで、柔和な表情をしていたという。 六朝『列異伝』    塚をあばく賊  山東の東莞(とうかん)に承倹(しようけん)という人が住んでいたが、病気で亡くなり、北郊の山の麓(ふもと)に葬られた。  それから十年たったある夜、東莞の県令の夢枕に承倹の亡霊があらわれて訴えた。 「わたしは本県に住んでいて死にました承倹という者でございます。いま泥棒におし入られて困っております。県令さま、どうかすぐお助けください」  県令はさっそく、百人の捕(と)り手を召集し、馬に乗って北郊の承倹の塚へ急いだ。  もう夜が明けようとするころだったが、にわかに濃い霧が立ちこめてきて、顔をつきあわせても相手が見えないほどだった。ただ、塚の中からは、ばりばりという棺をこわす音がきこえていた。  塚の上では二人の男が霧の中を見すかしていたが、暗いので捕り手の近づくのが見えなかった。  県令は塚の近くまで行くと、百人の捕り手に、いっせいに塚の中の賊におそいかからせた。捕り手は喚声をあげて進み、塚の中にいた三人の賊を捕えた。  塚の上にいた二人は、濃い霧の中へ逃げていってしまった。  夜が明けてから見ると、棺はまだ全部はこわされていなかったので、県令は職人を呼んで修理させたうえ、もとのように埋めさせた。  その夜、県令の夢枕にまた承倹の亡霊があらわれて言った。 「お助けくださいまして、まことにありがとうございました。二人は逃げましたが、わたしはよく人相を覚えておきましたので、申しあげます。一人は顔に、豆の葉のような形の青い痣(あざ)があります。もう一人は、前歯が二本欠けております。それを目じるしに捜索なされば、かならず捕えられると思います」  翌日、県令は逃げた二人の特徴を捕り手に知らせた。捕り手はまもなく二人を捕えてきた。 六朝『捜神後記』    流れついた棺  荊(けい)州の刺史の殷仲堪(いんちゆうかん)が、まだ官途につかずに江蘇(こうそ)の丹徒(たんと)に住んでいたときのことである。  ある夜、夢に一人の男があらわれて、しきりに懇願した。 「わたしは浙江(せつこう)の上虞(じようぐ)の者ですが、死んで長江の岸に埋葬されたものですから、棺が水に浮いて流れだし、これまでずっとあてもなく長江をさまよっておりました。明日はご当地の川岸に流れつくはずでございますが、あなたは情け深いおかたとききましたので、お願いにまいりました。どうかわたしの棺を引き上げて、高いところへ埋めてくださいませ。そうしてくだされば、あなたのご恩恵は枯骨にまで及ぶというものでございます」  翌日、殷仲堪は従者を連れて川岸へ行って見た。と、果して一つの棺が川上から流れてきて、彼のたたずんでいる岸に着いた。  従者に引き上げさせて棺を調べてみると、昨夜夢にあらわれた亡霊の本籍地と姓名が書きつけてあった。そこで、丘の上へ運んで埋めたうえ、酒食を供えて祭ってやった。  その夜、殷仲堪はまた、昨夜の亡霊が礼を言いにきた夢をみた。 六朝『捜神後記』    改葬費用の鏡  晋のとき、顔従(がんじゆう)という人が家を新築した。  と、ある夜、顔従の夢枕に一人の男があらわれて、 「あんたはひどい人だ。わしの住いをぶちこわしたりなんかして」  と怒った。  翌日、顔従が寝室の床下を掘ってみると、一つの棺が出てきた。そこで供養の支度をして、 「ほかによい場所をさがしてお移ししますから、どうかお怒りなく」  と言い、さっそく近所を歩きまわって墓地にふさわしい場所をさがしたところ、近くの丘の麓(ふもと)に格好(かつこう)のところが見つかった。  その日の昼すぎ、一人の男が訪ねてきて、ぜひとも顔従に会いたいと言った。部屋へ通すとその男は、 「わたしは朱護(しゆご)という者です。もう四十年間ここに住んでいて、さびしい思いをしておりましたが、このたびは日当りのよいところへ住いをお移しくださいます由、なんともお礼の申しあげようもありません。つきましては、いろいろとご出費をおかけすることになると思いますので、どうかこれをお売りになって、費用の一部にあててくださいますように」  と言う。顔従ははじめ何のことかわからなかったが、男の顔を見ると、昨夜夢枕にあらわれた亡霊とそっくりなので、 「ああ、あなたは昨夜の……」  と言うと、男は、 「いやいや、昨夜は怒ったりなどしまして、失礼をいたしました」  と言い、棺の中の箱から黄金の鏡を三つ取り出して顔従の前に置くと、そのまま姿を消してしまった。  顔従はその鏡を売って金にかえ、りっぱな墓を築いて盛大な祭りをしたが、金はそれでも余った。 六朝『異苑』    髑髏(どくろ)のお礼  河南の陳留(ちんりゆう)の周家に、興進(こうしん)という下女がいた。  ある日、山へ薪(まき)を取りに行ったが、疲れて一休みしているうちに、眠ってしまった。と、夢の中に一人の女があらわれて、 「わたしはあなたの頭のすぐそばにいるのですが、目の中にとげが刺さって困っております。お手数ですが抜いてくださいませんか。お礼は十分いたしますから」  と言った。  目をさまして見ると、古い塚にもたれて眠っていたのだった。立ちあがって、自分がもたれていたところをふりかえると、ちょうど頭を置いていたあたりに穴があいていた。のぞいてみると古びた棺が見え、中から髑髏(どくろ)が一つころがり出てきた。見れば髑髏の目の中に草が生えている。  興進は夢の中の女のことばを思い出して、その草を抜き取ったうえ、髑髏を棺の中へ納めて、塚の穴を石でふさいでおいた。  山からの帰り道、興進は一対の黄金の指輪を拾った。周家に帰ってから主人にこのことを話すと、主人は、 「不思議なこともあるものだ。塚の女の亡霊が、おまえの心のやさしいのを見込んでたのんだのだろう。よくやった。その指輪は亡霊のお礼にちがいない。もらっておきなさい」  と言い、しきりに感嘆した。 六朝『述異記』(任〓)    宝玉の帯  〓州(えんしゆう)の長官の夏侯祖欣(かこうそきん)が在任中に亡くなったため、沈僧栄(しんそうえい)が後任に選ばれて赴任した。  すると、ある夜、祖欣の亡霊があらわれて、 「その帯はなかなかよい帯だな。わしにくれぬか」  と言った。寝台のそばに、宝玉を飾った帯が掛けてあるのを見て、そう言ったのだった。 「よろこんで差し上げましょう」  と僧栄が言うと、祖欣は、 「亡霊は持っていくことはできぬと思って、安心してそう言っているのだろう」  と言う。 「いいえ、ほんとうに差し上げます」 「よろしい。ほんとうにわしにくれるつもりなら、この場でその帯を焼いてみせてくれ」  そこで僧栄は火をつけて帯を焼いた。そして、 「これでよろしいでしょうか」  と祖欣を見上げると、すでに祖欣の腰にはその帯がしめられていた。 六朝『述異記』(祖冲之)    兄がほしがった駿馬(しゆんめ)  江蘇(こうそ)の彭城(ほうじよう)に畢衆宝(ひつしゆうほう)という人がいた。  駿足の鹿毛(か げ)の馬を何物にもかえがたいほど大事にしていて、外へ出るときはいつもその馬に乗り、家にいるときは、まめまめしくその世話をしていた。  宋の大明六年のある夜、衆宝の夢枕に亡くなった兄があらわれて、 「わたしはこんど戦争に行くことになったが、よい馬が手にはいらなくて困っている。おまえの鹿毛をわたしにゆずってくれないか」  と言った。衆宝は、愛馬を手ばなすことは悲しかったが、兄のたのみを拒むわけにもいかず、 「おゆずりします」  と言った。そのとき、目がさめた。  ちょうど客がきていて、同じ部屋で寝ていたが、客も目をさまして、 「夢を見ておられたようですな。なにやらしきりに言っておいででしたよ」  と言った。そこで衆宝が夢の話をして、 「兄にゆずることにしましたよ」  と言ったところ、言い終ったとたんに、厩のほうから、馬が倒れたような音がひびいてきた。さっそく下男を呼んで見に行かせたところ、はたして馬が倒れていた。まるで卒中のような状態で、わずかに息をしているだけだという。衆宝は起きて厩へ行ってみた。 「やはり、兄が冥界へ連れて行ったのか」  と思ったが、見捨てておくには忍びず、あれこれと手を尽して介抱をした。しかし、その甲斐(かい)もなく、夜明け近くなったころ、愛馬は死んでしまった。  衆宝は部屋へもどってまた寝たが、しばらくすると、兄の亡霊がまたあらわれて、 「さきほどは馬をゆずってくれと言ったが、おまえの介抱ぶりを見ているうちに、もらうのが気の毒になってきた。おまえがあんなに馬を大事にしているとは知らなかったのだ。あの馬はおまえに返して、わたしは別の馬をさがすことにするよ」  と言った。  衆宝はまた起きて厩へ行き、じっと馬を見守っていた。と、夜明けごろになって馬は生きかえった。朝の飼い葉をやるときには、もう、もとどおり元気になっていた。 六朝『述異記』(祖冲之)    金銀の一味を斬罪  陝西(せんせい)の商郷(しようきよう)の郊外で、旅人が一人の男に呼びとめられた。 「もしもし、どちらへいらっしゃるのですか」 「都へ行くところです」  と旅人が答えると、男は、 「わたしも同じ道を行くところです。途中までごいっしょさせてください」  と言った。  何日かいっしょに旅をつづけたところ、ある日、男が急に、 「じつは、わたしは亡霊なのです」  と言いだした。 「あなたを見込んでお願いしたいことがあるのですが、きいてくださいますか」 「さあ、わたしにできることなら……」  と旅人が言うと、亡霊は、 「わたしの家の金銀のやつらが謀叛(むほん)をおこして、戦乱がやまないのです。あなたにひとこと言っていただけば戦乱がしずまるのですが、お願いできましょうか」 「どこへ行って、なんと言えばいいのですか」 「わたしの家の前で、『勅命により金銀の一味を斬罪に処す』と、大声で言ってくださればよいのです」 「おやすいご用です」  ちょうど日暮れどきであった。道の左側に大きな塚があった。亡霊はその塚を指さして、 「これがわたしの家です。この前で、大声でおっしゃってください。そうすれば万事かたがつきますから」  と言うなり、その塚の中へはいって行った。旅人が亡霊にたのまれたとおりに言うと、まもなく、塚の中から首を斬り落すような音がきこえてきた。しばらくすると、さきほどの亡霊が、手に幾つもの金銀の武人の人形を持って塚の中から出てきた。その人形はみな首がなかった。亡霊はそれを旅人に渡して、 「さきほどはありがとうございました。これをお持ちになれば、一生ゆたかに暮していけましょう。お礼のしるしです」  と言った。  旅人は旅をつづけて都の長安に着き、亡霊にもらった人形の一つを売った。と、その翌日、捕盗役人が宿へやってきて、金銀の人形を押収したうえ、墓場荒しの犯人として旅人を役所へ連行して行った。 「どこの墓をあばいたのだ」  と旅人は詰問された。 「あばいたのではありません。亡霊からもらったのです」  と、旅人がありのままを話しても、役人は信用しない。とにかくその墓を調べてみようということになり、旅人を案内に立てて墓へ行ってみたが、墓には掘り返したあとがない。役人は怒って、 「でたらめを言って、罪をごまかそうというのか」  と言ったが、旅人が、 「わたしに金銀の人形をくれたのは、まちがいなくこの墓の亡霊です」  と言い張るので、念のために墓を掘り返してみたところ、中から首を斬り落された金銀の武人の人形が何百と出てきた。亡霊が旅人に渡した人形は、その中の幾つかであることはまちがいないことがわかり、旅人は釈放されたのであった。 唐『広異記』    荀季和(じゆんきわ)の霊の運命  開元年間のことである。劉(りゆう)という士人がいた。才学はあったが官途につけず、家が貧しかったので、食客として生計を立てようと思って河北の地へ出かけて行ったものの、どこへ行っても相手にしてくれる人がなかったので、引き返して河南の黎陽(れいよう)まで来たときのことである。  日が暮れてしまったが、つぎの宿場まではまだかなりの道のりがあったので、どこかに一夜の宿を借りる家はないかと見まわしながら歩いていると、ゆくての道端に門が見えた。あそこで宿を借りようと思って行って見ると、なかなかりっぱな屋敷だった。門をたたくと下男が出てきたので、 「日が暮れてしまって、つぎの宿場までは行けそうもありませんので、門のわきの小屋にでも泊めていただきたいのですが……」  と言うと、下男は、 「しばらくお待ちください。旦那様にうかがってまいりますから」  と言って引き込んで行った。しばらくすると靴の音がきこえてきて、冠をつけたりっぱな身なりの人が出てきた。 「わたしがこの家の主人です」  とその人は言った。 「あばらやで、お立ち寄り願うほどのところではありませんが、よろしかったらどうぞ、おはいりください」  そして先に立って部屋の中へ案内した。  主人は超俗的な話題を好んで話した。北朝以来の出来事も話したが、まるで自分の眼で見たことのような話しぶりだった。劉が姓名をたずねると、 「荀季和(じゆんきわ)と申します。郷里は潁川(えいせん)ですが、父が当地で役人をしておりましたので、そのままここに住みつきました」  と言った。やがて酒食が出された。料理はみな清浄なものだったが、味は、それが主人の好みか、きわめて淡白であった。  酒食がすむと、主人は劉を寝室へ案内したうえ、下女の一人に夜伽(よとぎ)を言いつけた。劉は久しく女に接していなかった。しかも下女は美貌(びぼう)だったので、劉は心を動かして情を交(まじ)えた。そのあとで劉は下女にたずねた。 「この家のご主人は、何をしておいでなのか」 「いまは河伯(かはく)の主簿をしておいでです。でも、このことは誰にもおっしゃらないようにしてくださいませ。わたしがそう言ったということも……」  と下女は言った。 「やはりそうだったのか」  と劉は思った。河伯というのは川の神である。  しばらくすると、部屋の外で苦しそうなうめき声がした。劉がそっと窓からのぞいて見ると、主人が椅子に腰をかけていて、一人の髪をふり乱した裸の男を前に引きすえていた。 「鳥を呼べ」  と主人が部下の者に言いつけた。部下が手をふって合図をすると、まもなく嵐のような音がおこって鳥の群れが飛んできた。鳥は男にむらがって、その眼をつついた。男の顔からは血がしたたり落ちつづけた。  主人は憎々しげに男に言った。 「どうだ、これでもまだわしに乱暴をはたらく気か」  男は答えることもできず、苦しげにうめいている。  劉は下女にたずねた。 「あの仕置を受けているのは何者なのだ?」 「あなたにはかかわりのないことです。他人のことなど、どうでもよいではありませんか」 「たのむ、教えてくれ」 「知ってどうなさるのです?」 「どうもしない。できるわけもない。だが知りたいのだ。身分のある人のようだが……」 「どうもしないとお誓いになるなら、お教えします」 「誓う。もし誓いを破れば、わたしの眼が鳥の群れにつつかれるだろう……」 「あの人は黎陽の県令です。狩猟が好きで、獲物(えもの)を追いかけて何度もこの屋敷の垣根を乗り越えるので、それでお仕置を受けているのです」 「そうか……」 「あの人は自分の犯している罪を知らないのです。知らずにひどい目にあわされているのです。あなたなら、それをあの人に教えてあげることができるでしょう」  翌朝、劉は主人に一夜のもてなしの礼を言って別れを告げ、その下女に見送られて門を出た。しばらく行ってからふりかえって見ると、門にたたずんでいた下女の姿はなく、そこは大きな塚であった。村人に出会ったのできくと、 「あれは荀使君の墓です」  と言った。やがて黎陽に着いた。劉は県役所へ行って県令に面会を求めたが、下役人は、 「病気で誰にも会われぬ」  と言った。劉が、 「眼がおわるいのではありませんか」  ときくと、役人はおどろいて、 「どうして知っている?」  ときき返した。 「わけは県令にお会いしてお話しします。わたしは治療の法を知っているのですが、ここでは言えません」  と劉は言った。  県令は役人から劉のことをきくと、すぐ居間へ呼びいれさせた。劉は昨夜のことをくわしく話して、 「今後、二度ともうあの塚をお荒しになりませんよう。紙銭(しせん)を焼き、供え物をしてお祭りをなされば、必ずご病気はなおりましょう」  と言った。県令はうなずいて、 「そうだったのか。確かに狩猟をしてあの塚の垣の中へ馬を乗りいれたことが何度かあった。そなたの言うとおりに祭りをして、荀使君の霊にわびよう」  と言い、劉に十分な礼金を贈った。  県令は劉が立ち去ったあと、村役人を呼び、内密に命令して、数万束の薪(まき)を集めて塚のまわりの垣根の外側に積ませた。  そしてその翌日、薪に火をつけて垣根を焼きはらったうえ、塚をあばいて棺を掘り出し、新たに遠くの山の麓に塚を築いて改葬した。すると、眼の病気はたちまちなおってしまった。  それから一年たったとき、劉はまたもとの荀使君の塚の前を通りかかった。と、頭も顔も焼けただれ、身にはぼろぼろの焦げた着物をまとった男が一人、いばらの中にうずくまっているのを見かけた。その男は立ちあがって劉に近寄ってきたが、劉には見覚えがない。怪訝(けげん)な顔で見ると、男は、 「あなたは去年、わたしの家に宿を借りたことをお忘れか。わたしは荀季和ですよ」  と言った。劉はそう言われてはじめて、それが荀使君であることに気づき、 「どうしてそんな姿になられたのです」  ときいた。 「去年、あなたにお別れした翌日、県令にひどい目にあわされたのです。垣根を乗り越えたぐらいのことで、眼を痛め苦しめたわたしがわるかったのかもしれません。あなたが県令にわたしのことを話されたのは、わたしへの好意からであって、県令がわたしをひどい目にあわせたことは、あなたの本意でなかったことはわかっております。つまりは、わたしの運が尽きたのでしょう」 「下女たちはどうなりましたか」 「下男も下女も、そのときみな焼け死んでしまいました。あなたに仕えて夜伽をしたあの下女も……」 「そうでしたか。まったく申しわけのないことをしてしまいました。なんといっておわびしたらよいのか……」  劉は心から後悔して、荀使君のために、その場で小さな酒宴を開いてなぐさめ、着物を一そろい焼いて贈り物とした。荀季和の亡霊はよろこんでその贈り物を受け取ると、それきり姿を消してしまった。 唐『広異記』  (注)荀季和は後漢の学者。名は、淑、季和は字である。当時の名賢、李固・李庸らはみな彼を師と仰いだ。二度朝廷から召されて官職につき、明快にその職務を遂行して神君と称されたが、二度とも長くは官職に居らず、辞任して家へ帰り、閑居して超俗的な生活を送った。   嵩山(すうざん)の仙人  趙合(ちようごう)という進士がいた。容貌はおだやかだったが、正直(せいちょく)な気性の人で、その行状はきわめて高潔であった。  唐の文宗の太和年間のことである。趙合は甘粛(かんしゆく)の五原のあたりを旅していたが、途中、砂漠地帯を通ったとき、風物をながめて感傷的になったあまり、酒を飲みすごして酔いつぶれ、砂漠の中で眠ってしまった。  真夜中、酔いがさめて眼をあけると、月光の冴(さ)えわたっている砂漠のどこからか、悲しげな声で歌う女の声が、かすかにきこえてきた。趙合は起きあがって、歌声のするほうへ、声をたよりにたずねて行った。  と、果して一人の娘がいた。年はまだ二十歳にならぬほどで、絶世の美人である。一目見て、この世の人ではないことがわかった。 「わたしに訴えたいことがあるのでしょう。できることならなんでもしますから、おっしゃってみてください」  趙合がそう言うと、娘は話しだした。 「わたしは李と申しまして、陝西の奉天に住んでおりました。姉がこの甘粛の洛源(らくげん)の守備隊長のもとへ嫁ぎましたので、会いに行く途中、党羌(とうきよう)(タングート族)に出会って捕虜になり、ここまで連れてこられて、殺されたのでございます。その後、通りがかりの人があわれに思って遺骸を砂の中に埋めてくれました。それから三年になります。あなたは義侠心のつよいおかたと存じますので、お願いする次第ですが、どうかわたしの骨を奉天まで持ち帰ってくださいませんでしょうか。奉天の町の南郊に小李村というところがございます。そこがわたしの郷里なのです。もしお願いをきいてくだされば、お礼は十分にいたします」 「承知しました。あなたの遺骸の埋めてある場所をお知らせください」  趙合がそう言うと、娘は涙を流しながら感謝して、その場所を教え、 「ここでございます」  と言うと、その姿は見えなくなってしまった。趙合はそこを掘って遺骸をとりあつめ、旅嚢(りよのう)の中へおさめて、夜のあけるのを待っていた。  そのとき、紫の衣装をまとった偉丈夫が馬をとばしてやってきて、趙合に会釈(えしやく)して言った。 「あなたは仁慈の心深く、義侠心に富み、信義に厚く、高潔な人物とお見受けした。婦女子のたのみをも感動して引き受けられるとは! わたしは尚書の李文悦(りぶんえつ)と申す者です。去る元和十三年、五原の守備をしていましたが、犬戎(けんじゆう)の三十万の大軍に城をかこまれました。敵陣の厚さは十数里にも及び、連発する石弓は雨の降りそそぐよう、城壁にさしかけてくる梯(はしご)は雲にもとどくばかり。敵は城壁に穴をあけ、堀の水を切りおとし、昼も夜も攻めたててきた。城中では水汲みをするにも戸板をかついで出たが、その板に矢が立って、たちまちはりねずみのようになるありさまだった。  そのとき守備の兵士はわずかに三千。わたしは住民をはげましたので、女子供や老人まで土運びをし、飢えも寒さもいとわず働いてくれた。  犬戎は城の北に高さ数十丈の櫓(やぐら)を建てた。城内のありさまはそのため、ことごとく敵に見られるありさま。そこでわたしは奇計を案じて逆襲し、その櫓をうち倒してしまった。敵の大将はびっくりして、神のしわざではないかと言ったそうだ。わたしはまた城内の者に、建物をこわして焼かぬように言いつけた。薪が不足していたため、建物をこわしてそのかわりにする者がいたからだ。敵は火攻めの用意をしていて、城壁の下に薪を積みあげていたのだ。わたしはそれを知って、城内の者にその薪を釣りあげることを教えたのだ。  月が次第に欠けて夜の暗くなる頃だった。城壁のまわりに大勢の足音がきこえて、夜襲だ! と呼ばわる声がした。城内の者はおそれおののき、片時も安らぐひまがない。わたしはそのとき、夜襲ではない、敵の計略だと見破った。蝋燭(ろうそく)を鉄線のさきにくくりつけて城壁の外側へおろして見たところ、果してその足音は、敵が牛や羊を追いたてて城壁のまわりを駆けめぐらせているのだった。わたしはそれを見破って城内の者を安堵(あんど)させた。  あるとき、城壁の西北が十丈あまりにわたって攻め破られたことがある。闇夜の時期だったが、敵陣では、酒を飲んで前祝いをし、大声で歌いながら、夜があけたら一気に攻め込もうと言いあっていた。わたしはそのとき、馬に載せた大弓五百を城壁の破れ口に向けておき、皮の幕を垂らして城壁の補修をさせた。どうしたかというと、ひそかに水をかけさせたのだ。寒い季節だったから、一夜のうちに水は結氷し、補修のあとは銀のように光って、敵は攻め入ることができなかったのだ。  敵の大将は、旗じるしを立てていた。彼らの酋長(しゆうちよう)から賜(たまわ)ったもので、いのちよりも大事にしているものだ。わたしは夜中に城壁の穴から出て敵の本陣へ忍び寄り、その旗じるしを奪って飛ぶように馳(は)せもどった。敵の将兵は旗じるしを取られたことを知るとあわてふためき、これまで捕虜にした者をすべて返すから、その旗じるしと交換してくれと申し入れてきた。承知すると敵は、老若男女百余人を城内に返してきた。わたしは彼らがすべて無事に城内にもどったのを見とどけてから、その旗を投げ返してやった。  そのころ、〓(ひん)州・〓(けい)州からの援軍二万が五原の境まできていたのだが、敵の大軍を見て恐れをなし、近寄らなかった。こうして三十七日間敵とにらみ合っていたのだが、敵の大将はわたしに向って遠くから頭を下げ、この城には神のごとき将軍がおいでになる、これ以上無礼(ぶれい)ははたらかぬことにいたします、と言い、武器をおさめて兵を返した。彼らはそれから二晩もたたぬうちに宥(ゆう)州に着き、一日でその城を攻めおとした。宥州の住民三万は、そのとき老いも若きもすべて敵につれ去られてしまった。  この得失を考えてみれば、五原の城を守りとおしたわたしの功績は、決して小さなものではないはずだ。しかし当時の宰相はわたしが軍の権限を握ることをおそれ、わずかに位を一級進めてくれただけであった。  きくところによれば、鐘陵(しようりよう)の韋大夫(いたいふ)は、堤防を築いて洪水を防いだため、それから三十年たった後も住民はその徳をたたえ、勅命によってその仁政をたたえるりっぱな碑が建てられることになったという。わたしがあのとき、もし五原の城を守りとおさなかったら、どうなったであろうか。城内の者はみな夷狄(いてき)の奴隷になってしまったであろう。  あなたは心ある人とお見受けした。どうか五原の住民たちにこのことを伝え、州の刺史にもわたしの功績を気づかせて、わたしの徳をたたえる碑を建てさせていただきたい。婦女子のたのみをも感動して引き受けられたあなただ、わたしの願いをきいてくださらぬはずはないと思う」  李文悦の亡霊はそう言うと、頭を下げ、また馬をとばして帰って行った。  趙合はそれから五原へ行き、李文悦のことを住民に話し、刺史にも伝えたが、誰もみな、砂漠で妖怪に出会ったのだろうと言って、とりあわなかった。趙合はがっかりして引き返したが、再び砂漠を通ったとき、また李文悦の亡霊があらわれて言った。 「あなたがせっかく話してくれたのに、五原の住民たちは、いま自分たちがあるのは誰のおかげかも知らず、刺史も愚かで、とりあおうともしなかった。五原の町には必ずわざわいがおこる。わたしはいま、このことを冥府へ請願したところだ。あなたをわずらわしたのに、わたしの五原への希望は達せられなかったことを報告したのだ。おそらく一ヵ月もたたぬうちに、五原にはわざわいがおこるだろう」  言いおわると、その姿は消えた。  その後、果して李文悦の亡霊の予言した時期に災害がおこり、五原の町では一万人が飢え死にをし、人間が人間を食うというあさましい状態におちいった。  趙合は娘の骨を持って奉天へ行き、小李村をたずねて、ねんごろに葬ってやった。  その翌日、道を歩いていると、また娘があらわれて礼を言った。 「あなたの信義の厚さに感激いたしました。わたしの祖父は貞元年間に道術を体得いたしまして、『周易参同契(しゆうえきさんどうけい)』の解説を書き、また『混元経』の続篇をあらわしました。あなたがもしこの書物を研究なされば、いくらもたたぬうちに不老不死の仙薬をつくることができるようになられましょう」  娘はそう言って趙合に二つの書物を差し出したが、それが趙合の手に渡ったとたん、娘の姿は消えてしまった。  趙合はそのとき官途につくことを断念し、嵩山(すうざん)の中の少室山にこもって二つの書物の奥義を研究した。一年たって仙薬を作ってみたところ、瓦(かわら)をすべて黄金に変えることができるようになり、二年目には死んだ者を生き返らせることができ、三年目にはその薬を飲むと、俗界を超越することができるようになった。  いまでも嵩山の山道で趙合を見かける人があるという。 唐『伝奇』    二つの餅(もち)  宋(そう)の真宗の景徳元年のことである。  山西の霍丘(かくきゆう)の県令をつとめていた周潔(しゆうけつ)が、官をやめて淮水(わいすい)のほとりを旅していたとき、道に迷った。  そのころ、この地方は大饑饉(ききん)に見舞われていて、ほかには旅をする人もなかった。周潔は丘の上へのぼって見渡した。すると、遠くの村落に煙がたちのぼっているのが見えたので、目じるしを決めて、その方へ歩いて行った。  日暮れになって、ようやくそこへたどりついた。村落の入り口に、かなり大きな家があったので、門をたたくと、しばらくたってから一人の娘が出てきた。周潔が泊めてもらいたいとたのむと、娘は困った顔をして、 「このあたり一帯は大饑饉で、食べるものは何もありません。わたしの家もほかの家と同じで、家じゅうの者はみな飢えに迫られ、男も女も子どもたちも、みな患(わずら)って寝ておりますので、お客さまをお通しすることができないのです」  と言った。 「それは、それは——。夜露のしのげるところなら、どこでもよいのです。食糧は持っておりますから、決してご迷惑はおかけしません」  周潔がそう言ってたのむと、娘は、 「中堂に一つだけ空(あ)いている寝台があります。そこでよろしかったら、どうぞおやすみください」  と言って、周潔を中堂へ案内した。  案内されて部屋へはいり、寝台の縁に腰をおろすと、娘は立ち去らずに黙ってその前に立っていた。しばらくすると、もう一人の娘がやってきて、さきの娘のうしろに顔をかくして立った。 「どなたです」  と周潔がたずねると、娘は、 「わたしの妹です。はずかしがって顔をかくしておりますの」  と言った。  周潔は包みを開き、餅(もち)を出して、娘たちに一つずつやり、自分も食べた。娘たちは餅をもらうと、礼を言って帰って行った。  その後は、何の物音もきこえず、人声もせず、家のなかはしんと静まりかえったままだった。周潔は不審に思いながらも、旅の疲れからそのまま眠ってしまった。  夜があけたが、家の中はやはりしんと静まりかえっていて、人声も物音もきこえない。周潔は一夜の宿の礼を言ってから出かけようと思ったが、部屋から出ていくら呼んでも、だれも出てこず、返事をする者もない。  いよいよ不審に思い、扉(とびら)をこじあけて表の部屋へはいって見ると、そこには幾人もの死体が並んでいて、たいていはもう白骨になりかかっていた。  そのなかで、一人の女の死体は、まだ死後十日とはたっていないようで、腐ってはいなかった。それが昨夜の娘だったのである。そのそばに横たわっているもう一人の女の死体は、顔がもう骸骨(がいこつ)になっていた。  昨夜の餅は一つずつ、姉と妹の死体の胸の上に置いてあった。  周潔はいちど郷里へ帰ってから、あらためて人夫をつれてその村へ行き、その一家の死体をみな埋葬してやったという。 宋『稽神録』    叩き売られた亡霊  南陽の宋定伯(そうていはく)が若かったときの話である。あるとき、夜道を歩いていて亡霊に出会ったので、 「おまえは何者だ」  ときくと、亡霊は、 「おれは亡霊だよ」  と言い、 「ところで、おまえは何者だ」  とききかえした。 「おれも亡霊だよ」  と定伯が言うと、亡霊はさらに、 「どこへ行くのだ」  ときいた。 「宛(えん)の町へ行くところだ」 「そうか。おれもだ」  しばらくいっしょに歩いて行くと、亡霊がまた、 「かわりばんこに負(おぶ)っていこうじゃないか」  と言った。定伯が、 「うん、そうしよう」  と答えると、亡霊は、 「それじゃ、さきにおれが負ってやろう」  と言って定伯を背負ったが、しばらく行くと、首をかしげて、 「おかしいな。おまえは重すぎる。亡霊ではないんじゃないか」  と言った。定伯がとっさに、 「おれは死んでからまだ間がないので、重いんだろうよ」  と言うと、亡霊は、 「うん、そうか。亡霊は時がたつにつれて軽くなるものだからな」  と言った。  定伯がかわって亡霊を背負ったが、ほとんど重さがなかった。こうして何度もかわりあって背負って行くうちに、定伯は亡霊にきいた。 「おれはまだ亡霊になってから間がないのでわからないのだが、亡霊にとっていちばんおそろしいのは何だろう」 「おそろしいものなんか何もないが、ただ人間の唾(つば)だけはどうにもならんな」  やがて道は川に行きあたった。亡霊はさきに渡って行ったが、すこしも水音を立てない。定伯が渡ると、ざわざわと水音がした。 「おかしいな」  とまた亡霊が言った。 「おまえ、なぜ音を立てて渡るんだ」 「死んでからまだ間がないので、おまえのようにうまく渡れないだけだよ」  川を渡ると、宛の町はもうすぐだった。定伯は亡霊を背負って行ったが、しばらくすると不意に、力いっぱい腕で亡霊を締めつけた。亡霊は骨をきしませて、 「痛い。おろしてくれ」  と哀願したが、定伯はきかず、そのまま宛の町へはいって市のまんなかにおろすと、亡霊は逃げ場がないまま、一匹の羊に化けた。定伯はそこで、べたべたと唾をつけて、売りに出したところ、羊は銭百貫で売れた。  その後、亡霊の化けた羊がどうなったかはわからない。 六朝『捜神記』    亡霊退治  楽安の劉池苟(りゆうちこう)が湖北の夏口に住んでいたときのことである。彼の家の屋根裏に亡霊が住みついてしまった。  はじめに亡霊があらわれたときは、暗闇の中に白い服をつけた姿がうすぼんやりと見えるだけだったが、やがて数日おきにやってくるようになって、もはや姿をかくそうともせず、そのまま住みついてしまったのである。  その亡霊は、家の者が眠ってしまうと屋根裏から降りてきて盗み食いをした。それだけで、ほかには何もわるいことをするわけではなかったが、劉家にとってはとにかく迷惑なことだった。  ある日、池苟は客を招いたが、その中の一人に吉翼子(きちよくし)という向こう気の強い者がいて、 「お宅に亡霊が住みついているといううわさだが、ほんとうですか」  ときいた。池苟がほんとうだと言うと、吉翼子は大声で笑って、 「それはあなたの気の迷いですよ。この世に亡霊などというものがいるはずはない。もしほんとうにいるのなら、ここへ呼んでください。わたしがどなりつけてやるから」  と言った。と、そのとたんに屋根裏で物音がした。客たちがふり仰ぐと、何かひらひらする物が投げおとされてきて、吉翼子の顔にぺたりと貼りついた。見ればそれは女の下ばきで、よごれものがついたままだったので、客たちは大笑いをした。吉翼子はすっかり面目をつぶし、顔を洗ってそのまま帰って行ってしまった。  その後、池苟が親戚の家へ行くと、 「まだ亡霊はいるのか」  ときかれた。いると言うと、 「盗み食いをさせておくから、いい気になっていつまでもいるのだ。一度ひどい目にあわせてやれば出て行くだろう」 「ひどい目にあわせる方法があるのか」 「食べ物の中へ毒をいれておくのだ。うちに冶葛(やかつ)(毒草)があるから、ここで煮ていって使えばよい」  池苟はさっそくその家で冶葛を煮て汁をとり、ひそかに家へ持ち帰った。その夜は家じゅうで粥(かゆ)を食べ、碗(わん)一杯ぶんだけ食べ残して、その中に冶葛の汁をいれると、机の上へ置き、鉢でふたをしておいた。  その夜、池苟は眠ったふりをして様子をうかがっていた。と、真夜中に亡霊が屋根裏から降りてきて、粥を食う音がきこえた。食い終ったと思うころ、碗を土間に投げつけたらしく、それの割れる大きな音がした。つづいてこんどは屋根裏から吐く音がきこえ、それがやむと、窓や戸にぶっつかったり、たたいたりする音がしたが、やがて何の音もしなくなった。  亡霊はよほどこりたらしく、それきり二度と池苟の家にあらわれることはなかった。 六朝『捜神後記』    恥じる亡霊  阮徳如(げんとくじよ)という人がいた。あるとき、便所で亡霊に出会った。  その亡霊は、身のたけは一丈あまり、色は黒く眼は大きく、上の平らな頭巾(ずきん)をかぶり白いかたびらを着て、ぬっと阮徳如の前にあらわれた。  だが、阮徳如は剛胆(ごうたん)な人だったので、びくともせず、落ちつきはらって言った。 「亡霊というやつは、いやらしいものだと世間では言っているが、なるほどそのとおりだな」  すると亡霊は顔を真っ赤にして、すごすごと消えて行った。 六朝『幽明録』    谷底の亡霊たち  晋の末のことである。浙江(せつこう)の故〓(こしよう)県の山奥に、一人娘といっしょに暮している老人がいた。  同じく浙江の余杭(よこう)の、広(こう)という男が、その娘を嫁にもらいたいと申しいれたが、老人はどうしても承知しなかった。  広は娘をあきらめきれずにいたが、そのうちに老人は病気になって死んでしまった。その日、広は偶然、山の裾(すそ)で娘に出会った。 「どこへ行くのです」  と呼びとめると、娘は蒼(あお)い顔を上げて、 「ああ、あなたでしたの。ちょうどよいところでお会いしました。父が亡くなりましたので、町へお棺を買いに行くところです。わたしの家へ行って、わたしが帰るまで父の遺骸の番をしてくださいません? そしたらわたし、あなたのお嫁になりますわ」 「承知しました。すぐ行ってお守りしましょう」  と広が言うと、娘はさらに、 「家の裏の柵の中に豚が飼ってありますから、それを殺してお供(そな)えしておいてくださいません?」 「承知しました」  広は娘に別れて、急いで山道をのぼって行った。家の近くまで行くと、大勢の者が手をたたきながらにぎやかに踊っている声がきこえてきた。不審に思いながら、生け垣をおし分けてのぞいて見ると、大勢の亡霊が老人の死体をかつぎまわっているのである。 「この、亡霊ども!」  広が大声でどなりながら、杖をふり上げてかけつけて行くと、亡霊どもは老人の死体を放りだしてばらばらと逃げて行った。  広は老人の死体を寝台の上に安置し、豚を殺してその前に供えると、香のかわりに木の葉をくすべながら、娘の帰ってくるのを待った。やがて日が暮れかかってきたが、娘は帰ってこなかった。  部屋の中が暗くなったので広があかりをともすと、死体を安置してある寝台の向こうから年を取った亡霊があらわれ、手をのばしながら広に近寄ってきて、 「肉をくれ……」  と言った。広がきこえないふりをして黙っていると、亡霊はさらに近寄ってきて、 「肉をくれ……」  と言う。広はすかさず、その腕をつかまえた。亡霊は逃げようとしてもがいたが、広がますます力をこめて握りしめると、 「たのむ。放してくれ。息子たちに笑いものにされる」  と、情けなさそうな声で言った。同時に家の外で大勢の亡霊どものがやがやとはやしたてる声がきこえた。 「老いぼれじじいの食いしんぼう。ざまあ見ろ。いい気味だ」 「あの亡霊どもは何だ」  と広がきくと、腕をつかまえられている亡霊は、 「うちの息子たちだ。わしを笑いものにしているのだ。たのむから放してくれ」 「わかった。おまえだな、この家の老人を殺したのは。放してほしかったら、早く魂を返せ! 返したら、おれもおまえを放してやる。返さなかったら、このまま町へ連れていって見世物にしてやるぞ」 「わしじゃない。この家の老人の魂を盗んだのは息子たちだよ」  年を取った亡霊は広にそう言うと、家の外の亡霊どもに向って、 「おまえたち! わしが見世物にされてもよいというのか。この老人の魂を返してやってくれ」  家の外の亡霊どもは声をひそめて何やら相談しあっている様子だったが、しばらくすると、何の物音もきこえなくなった。 「外の亡霊どもはどうしたのだ」  と広が年を取った亡霊にきくと、 「もう魂は返したよ。約束どおり、わしを放してくれ。放してくれなければ、また息子たちが魂を盗るぞ」  広が寝台の上の老人を見ると、胸のあたりがかすかに動いて、次第に息を吹き返してくるのがわかった。そこで広が亡霊の腕を放してやると、亡霊の姿はそのまま消えてしまった。  しばらくすると、老人は寝台の上に起きあがって、広を見るなり、 「また、きたのか。娘はやらんというのに」  と言った。ちょうどそこへ娘が、棺桶(かんおけ)を車に積んで帰ってきたが、老人が寝台の上に起きあがっているのを見ると、あっと叫んで気を失ってしまった。  広に介抱されて正気にもどった娘は、広の話をきいてもなかなか信じられずに、 「お父さん、あなたはお父さんの亡霊ではないの」  と言った。すると老人は、 「わしにもわからん。わしはわしの亡霊かもしれん。よく見てくれ」  と言った。しばらくして、三人はいっせいに笑いだした。  広は娘を妻にして、老人と三人でその家で暮した。後、家の近くの谷に幾つもの白骨の埋まっているのが見つかった。むかし谷の上に家があって山津波に流され、家ごと谷底に埋もれてしまった人々のものらしかった。老人と広夫婦はねんごろに供養をしてその霊をなぐさめた。 六朝『幽明録』    瘧(おこり)をなおす法  宋の大明年間のことである。浙江(せつこう)の武康(ぶこう)に徐という人がいた。瘧(おこり)にかかり、いろいろと治療をしたが、どうしても根治しない。  と、ある人が、 「なおる方法がありますよ。やってごらんなさい」  とすすめた。 「握り飯を持って道端へ出、負傷して死んだ人の名を呼んで、こういうのです。握り飯をあげますから瘧をとめてください! そして握り飯を投げて、あとをふり向かずに帰るのです。そうすればなおります」  徐は半信半疑ながら、やってみることにした。ところで、誰の名を呼んだらよかろうと考えていると、ふと、晋の車騎将軍沈充(しんじゆう)のことが思いうかんだ。そこで、その名を呼び、教えられたとおりにして帰った。  しばらくすると、供の者を従えて馬に乗った人がやってきて、徐に、 「おまえだな、旦那様の名を呼んだのは。不埒(ふらち)なやつだ」  と言い、なわで縛って引きたてて行った。  徐の家族の者は、みんなでさがしまわったが、徐の行くえはわからなかった。何日かたったとき、墓地のそばの棘(いばら)の茂みの中で倒れている徐を家族の者が見つけた。徐のからだはなわで縛られていたが、瘧はそれきりなおってしまった。 六朝『述異記』(祖冲之)    亡霊の国  梁(りよう)のときである。青州の商人(あきんど)たち十数人の乗った船が海上で暴風に遇(あ)い、幾日も流されたすえ、どこともわからない国へ漂着したことがあった。  船の上から見ると、山があり、川も流れ、遠くには壮麗な城が一つ見えて、普通の島のようではない。 「いったいどこだろう」  と商人たちは口々に言った。船頭も、 「わたしたちにもわかりません」  と言い、 「この商売をはじめてから、暴風に遇って流されたことは何度もありますが、こっちの方へきたのははじめてです。なんでもこっちの方角には鬼国(きこく)という国があるとか聞いたことがありますが、もしかしたらそれかもしれません」  とにかく、あの城の方へ行ってみよう、ということになって、一同は岸へあがった。  あがって見ると、ずいぶんたくさんの人々が住んでいる島だった。家のつくりや田畑のありさまは格別に変ったところはなかったが、途中で出会う人々は、会釈(えしやく)をしても、声をかけても、みな知らない顔をして行きすぎてしまうのである。どうやら、この島の人々の姿はこちらには見えても、こちらの姿はこの島の人々には見えず、言うこともきこえないようであった。  村を通り、町を通って、やがて城門の前まで行った。門には番人がいかめしい姿で立っていた。そばへ行って会釈をしたが、やはり知らない顔をして立っている。そこで、かまわずに城内へはいって行ったが、一同がぞろぞろとはいって行っても、城内の人はだれもとがめようとはしない。宏大(こうだい)な城であった。奥深くまではいっていくと、王宮らしい建物があった。あがって行ってみると、王が饗宴(きようえん)をしているところだった。多くの重臣らしい者、賓客(ひんきやく)らしい者が座についていて、楽しげに酒を飲んだり料理を食べたりしている。王以下の者の服装も机の上の器具も、楽師たちが演奏している音楽も、みな格別変ったところはなく、見なれ聞きなれているものだった。  だれもとがめる者がないのをさいわい、玉座のそばまで行って様子をうかがうと、王はにわかに病気になったらしく、侍臣たちが大さわぎをしだした。しばらくすると巫女(み こ)らしい女が呼ばれてきて、占(うらな)いをはじめた。ていねいに占ってから巫女は言った。巫女のその言葉だけは一同にはっきりきこえた。 「わかりました。これは陽地(ようち)の者のせいです。陽地の者がきましたので、王はその陽気に触れてにわかに発病なさったのでございます。しかし案じることはありません。陽地の者もたまたまここへきただけのことで、別にたたりをなすというわけではありませんから、食べ物や乗り物をあたえて帰らせてやれば、王のご病気はすぐ全快いたします」  王の侍臣たちはそれをきくと、さっそく別室に酒や料理を用意した。そこで一同は、はじめて自分たちの飢えていたことを思いだし、別室へ行って飲んだり食べたりした。巫女と侍臣たちはそのあいだずっと、一同のまわりにひざまずいて、しきりに何か祈っているようであった。  一同が満腹すると、馬の用意ができて、中庭にずらりと十数頭の馬が並んだ。馬の数はぴったりと一同の数に合っていた。それに乗ると、馬はひとりでにもとの岸の方へ進んだが、はじめからおわりまで、むこうの人たちにはこちらの姿は見えなかったようであった。  これはつくりばなしではない。青州節度使の賀徳倹、魏博節度使の楊厚などが、その商人たちから直接にきいた話である。 宋『稽神録』    あとがき 駒田信二    わが国でいう「幽霊」のことを、漢語(中国語)では「鬼(クイ)」(gui)という。ここに集めた八十一篇の説話は、三篇の「離魂」の話のほかは、みなその「鬼」についての話である。 「鬼」という言葉は、古くは、漢語の意味と同じ意味のままで「おに」という日本語にもなっていた。『日本書紀』にその例が見られる。  火の神を生んだためにその陰部を焼かれて死んだ伊奘冉尊(いざなみのみこと)(『古事記』では伊邪那美命)に逢いに殯斂(もがり)の処(ところ)(黄泉(よ み)の国)へ行った伊奘諾尊(いざなぎのみこと)(伊邪那岐命)が、伊奘冉尊の醜悪な姿を見ておどろきおそれて逃げだすと、雷(いかずち)どもが追いかけてくる(伊邪那美命が怒って黄泉(よもつ)醜女(しこめ)に伊邪那岐命を追わせ、さらに八柱の雷神に命じて千五百(ちいほ)の黄泉(よもつ)軍(いくさ)をそえて追わせる)。そのとき伊奘諾尊は道のほとりに大きな桃の木があるのを見てその下にかくれ、桃の実をとって雷どもに投げつけたところ、雷どもはみな逃げ帰った(伊邪那岐命が黄泉(よもつ)平坂(ひらさか)の麓の桃の木から実を三つとって投げつけ黄泉軍を撃退した)という話の後半の部分が『日本書紀』には次のように書かれていて、そこに「鬼(おに)」という言葉が見えるのである。  時に、道の辺(ほとり)に大きなる桃の樹(き)有り。故(かれ)、伊奘諾尊、其の樹の下(もと)に隠(かく)れて、因(よ)りて其の実を採りて、雷(いかずち)に擲(な)げしかば、雷等(ども)、皆退走(しりぞ)きぬ。此(これ)桃を用(も)て鬼を避(ふせ)ぐ縁(ことのもと)なり。 『古事記』の方には「鬼」という言葉は用いられていないが、黄泉(よ み)の国の伊邪那美命も黄泉(よもつ)醜女(しこめ)も黄泉(よもつ)軍(いくさ)も、みな「鬼」なのである。この「鬼」とは、亡魂とか亡霊とかいう意味の「鬼(おに)」であって、漢語の「鬼(クイ)」と同意なのである。  その後、「おに」という言葉は漢語の「鬼」とは全く別なものをさす言葉にかわっていくけれども、それでもなお「死して護国の鬼となる」というような言葉は、ごく最近まで生きていた。この場合の「鬼(おに)」は漢語の「鬼(クイ)」に近く、従って「ゆうれい」という意味ではない。 「幽魂」「幽霊」「亡魂」「亡霊」などという言葉も本来は漢語(中国語)であって、それがほとんどそのままの意味を持ったまま日本語になってしまったものである。いずれも「死者の霊魂」という意味である。ところが、これらの言葉の中で特に「幽霊」という言葉だけが、「鬼」が本来の意味をはなれて別箇のものに形象化されていったように、漢語にはない意味を持っていくようになる。  中国では、幽魂、幽霊、亡魂、亡霊などが人間としての形をあらわしたものを「鬼」という。冒頭に〈わが国でいう「幽霊」のことを漢語(中国語)では「鬼(クイ)」という〉と書いたのはこのためである。  本書の標題には「幽霊」という言葉を使ったが、説話の中では「鬼(クイ)」を「幽霊」とせずに「亡霊」と訳した。中国の「鬼」の説話の中にはわれわれの「幽霊」という言語感覚からはずれるものが多くふくまれているからに他ならない。      *  わが国の幽霊にもさまざまな形のものがあり、一概にはいえないけれども、大半は、怨みを報いようとしてこの世にあらわれてくる怨霊(おんりよう)であって、身の毛もよだつようなおそろしい形相(ぎようそう)をしていることになっている。一方中国の「鬼」は、多くは若い娘の亡霊で、この世の人間を恋い慕って情交を求めてくる。その姿かたちはこの世の人間と少しもかわらないばかりか、情緒纏綿(じようしよてんめん)たる絶世の美女であることが多い。従って人間は亡霊をおそれるどころか、そのあらわれるのを待ち望んで契りを結ぶ話(「州長官の娘」)や、亡霊との別れをかなしむ話(「赤い上着」その他)や、再会の約束をはたそうとする話(「夫人の墓」)なども少なくはない。  なかには情交した相手の人間の助けによって人間に生きかえる亡霊(「生き返った娘」)や、子供を生む亡霊(「赤い上着」)、孕(みごも)ったまま死んで墓の中で子を生み育てる亡霊(「餅を買う女」)、寺僧と密通して子をはらむ亡霊(「孕った娘」)などもある。  だが一般には、人間は亡霊と情交をしつづけていると次第に陽(よう)の気を吸いとられてついには死ぬ、というのが中国の亡霊説話の主流で、なかには一夜の情交だけで死ぬもの(「汝陽の宿」)もある。情交を絶ったために死をまぬがれる話(「死女の傷」その他)もあり、道士の法術によって救われる話(「州長官の娘」)も、法術をまもらずに死ぬ話(「床下の女」)もある。  わが国の幽霊ほどではないけれども、おどろおどろしい姿をした亡霊も、ないわけではない。たとえば、「身のたけは一丈あまり、色は黒く眼は大きく、上の平らな頭巾をかぶり白いかたびらを着」た亡霊(「恥じる亡霊」)、「どこが目とも鼻ともわからぬ、長さ一尺ばかりの大きな顔」の亡霊(「車の中の貴婦人」)、「首が甕(かめ)のように太く長く、眼は赤くとび出して」いる亡霊(「県令の死後の実力」)などもあるが、それらは極めてまれであるばかりか、おそろしさという点ではわが国の幽霊よりもはるかに劣る。  むしろ、滑稽な亡霊の方が多いのである。人間にだまされて羊として売られてしまった亡霊(「叩き売られた亡霊」)や、いたずらをして結局は人間にやっつけられる亡霊(「亡霊退治」)や、人間にこきつかわれる亡霊(「なりたての亡霊」)などがそれである。  怨霊に近いものも、勿論、ないわけではない。無実の罪によって殺された者の亡霊が自分を殺した者に復讐をする話(「ぬれぎぬの怨み」「執念の復讐」「陳府君の廟」)、継子いじめをされて死んだ者の亡霊が継母とその子に復讐をする話(「継子いじめの末路」)、夫が自分の死後下女と結婚し、その下女に自分の子がいじめられているのを怨んで下女を殺す亡霊の話(「先妻の凶刃」)、男にだまされたあげく殺された妓女の亡霊が男に復讐をする話(「美男の罪」)などがそれであり、また、自分の死後、夫が(あるいは妻が)再婚したことを怨んだり嫉妬したりする亡霊(「泣き明かした女」「嫉妬する亡妻」「妻の怨み」「開善寺縁起」その他)も多く、たたりをする亡霊(「泥があたった仕返し」「荀季和の霊の運命」)もある。        *  亡霊にはまた、この世には姿をあらわすことなく、ただ縁者の夢枕に立って何事かを知らせたり、たのんだりするもの(「塚をあばく賊」「流れついた棺」「髑髏のお礼」その他)も少なくはない。この種の亡霊はわが国の「幽霊」の範疇(はんちゆう)にははいらないであろう。  もう一つわが国の「幽霊」の範疇からはずれるものに、冥府(冥土の役所)の使者としての亡霊の話がある。それは、人間の命を取りに、あるいは冥府でさだめられている寿命の尽きた者を迎えに、あの世から人間の姿をしてやってくる亡霊である。そういう冥府の使者の話(「冥土の使者」「北台の使者」「子供の命」「冥府の小役人」「亡霊たちの饗宴」「不正合格をした李俊」「悪少年の死」「張鬼子」「押し出された魂」など)は、かなり多い。  それらの冥府の使者たちの話は、たいていは、命を取りにきた相手の人間が、親切にもてなしたり、酒食をふるまったり、賄賂(わいろ)をやったりすると、命をのばしてくれたり、似た名前の別の人間を身代りにつれて行ったりする、という話になっていて、すこぶる人間的である。あるいは、人間と亡霊との区別の境界を定めない部分を残している、ということができよう。  従って、いったんは死んで冥府へ行った者でも、それが人ちがいだったことがわかったり、まだ寿命が尽きていないことがわかったり、あるいはそういうまちがいではなかったとしても冥府の役人に賄賂をつかったりして、再びこの世へ送りかえされてくることもある。そこで、そういう男と女とがたまたま冥土で知りあいになり、それぞれこの世にもどってきてから夫婦になるという話(「冥土の縁」)や、冥府の役人に賄賂をやってこの世へ帰らせてもらった話(「賄賂の腕輪」)や、まちがいとわかって冥土から帰れることになったものの、城門の役人にやる賄賂がなくて困っているとき、金持らしい娘の亡霊が自分の腕輪をはずしてくれたためにこの世に帰ることができた男の話(「冥府で会ったやさしい娘」)や、冥府から帰ってきた男が、冥府で責苦(せめく)を受けている僧にこの世で会うという話(「腋の下の腫れもの」)など、この世とあの世とに、いわば決定的な境界のない話も少なくはない。 「離魂」の話(「もう一人の自分」「娘の魂」「二人の倩娘」)も、あの世とこの世とのあいだに決定的な境界がないという考え方に通じるものがある。離魂とは生者の魂がその本人からぬけ出して別に肉体を持ち、亡霊と同じような行動をすることである。  魯迅はその『中国小説史略』の第五章「六朝の鬼神志怪の書」(上)で、次のようにいっている。 「幽と明との世界はもとより同じではないが、当時の人々にとっては、人も鬼も、ともに実際に存在するものであった。従って怪異を叙述することと、世間の常事を記載することとのあいだには、もともと真妄の別はないと考えられていたのである」        *  現存する中国の小説で、最も古いものは六朝の小説である。六朝の小説は「志怪(しかい)」と呼ばれる。怪(かい)を志(しる)すという意味である。「志怪」には、今日われわれが使っている意味での「小説」というものの要素は、素材の点を除けば、ないといってよかろう。たとえば『捜神記』は干宝(かんぽう)の編著であるけれども、干宝が自ら書いたものでも、作ったものでも、語ったものでもなく、さまざまな怪奇な話を『捜神記』という書名のもとに集めたにすぎない。それは見聞した怪奇な話をそのまま採録しているだけであって、編者の作意はない。主観をまじえることもなければ、空想をはたらかせることもなく、おもしろく物語ろうという意識もない。つまり、意識的に、今日の言葉の意味での小説を書こうとしたわけではなかったのである。  唐代にはいると、はじめて、一人の作者によって書かれた物語があらわれる。一般によく知られている作品名を挙げるならば、沈既済の『枕中記』や陳鴻の『長恨歌伝』や李復言の『杜子春伝』などがそれだが、それらは一貫したストーリーもプロットも備えた、作意も明らかな物語である。唐代のそれらの小説は「伝奇」と呼ばれるが、すべての小説が「伝奇」になってしまったわけではなく、同時に六朝の「志怪」と同じものも編まれつづけていく。  宋代には「伝奇」も「志怪」も書かれるが、概していえば「伝奇」は唐に及ばず、「志怪」も六朝には及ばないといえよう。そのかわりに白話(はくわ)(話し言葉)の小説がおこってくるが——。  明(みん)代になると白話小説がいよいよ盛んになるが、『剪燈新話(せんとうしんわ)』のような「伝奇」と「志怪」とを渾然(こんぜん)と一体にしたいわばロマンも出現する。 『剪燈新話』は江戸時代の怪談小説に大きな影響を及ぼした作品である。浅井了意(りようい)の『伽婢子(とぎぼうこ)』は全篇ほとんど人名や地名をわが国に置きかえただけの翻案作だが、それが『剪燈新話』の流行のきっかけとなって、その後、都賀庭鐘の『英草紙(はなぶさぞうし)』、上田秋成の『雨月物語』などに『剪燈新話』は多く利用されるようになる。『剪燈新話』の中で、最もわが国で著名なのは「牡丹燈記(ぼたんとうき)」であろう。『奇異雑談集(きいぞうだんしゆう)』のなかの翻訳「女人死後男を棺の内へ引込(ひきこみ)ころす事」、『伽婢子』のなかの翻案「牡丹燈籠」や「祈りて幽霊に契る」、『狗張子』(浅井了意)のなかの「塚中の契り」、『雨月物語』の「吉備津(きびつ)の釜」(この小説には同じく『剪燈新話』の「愛卿伝」と「翠翠伝」も利用されている)、山東京伝の『安積(あさか)沼』『浮牡丹全伝』『戯場(しばい)花牡丹燈籠』、鶴屋南北の『阿国御前化粧』などを経て、やがて三遊亭円朝の「怪談牡丹燈籠」がうまれる。  だが、『剪燈新話』のその「牡丹燈記」にしても、本書に収めた「州長官の娘」を見れば、この「志怪」に小説的な肉付けをしたものであることがわかるのである。  本書は専ら「志怪」の系統の「鬼」に関する説話を集めた。六朝の説話四十三篇、唐の説話二十四篇、宋の説話十三篇、元の説話一篇、計八十一篇。六朝のものを多く取り、唐、宋と時代がくだるに従って少なく取ったのは、すでに原型が六朝のものにあるためであり、明以降のものを取らなかったのは、小説的に肉付けされて「志怪」の域を越えているからである。 「真妄の別」を追求する科学の時代である今日の世に、しばらく「真妄の別」のない「志怪」の世界に踏み入ってみることも無意味なことではなかろう。あるいは読者はこのなかに思いがけない憩いを見出されるかもしれないと自画自讃しておく。 中国怪奇物語(ちゅうごくかいきものがたり)〈幽霊編(ゆうれいへん)〉 電子文庫パブリ版 駒田信二(こまだしんじ) 著 (C) Setsu Komada 2000 二〇〇〇年一一月一〇日発行(デコ) 発行者 中沢義彦 発行所 株式会社 講談社     東京都文京区音羽二‐一二‐二一     〒112-8001     e-mail: paburi@kodansha.co.jp 製 作 大日本印刷株式会社 *本電子書籍は、購入者個人の閲覧の目的のためのみ、ファイルのダウンロードが許諾されています。複製・転送・譲渡は、禁止します。