TITLE : 中国妖姫伝 講談社電子文庫 中国妖姫伝     駒田信二 著  目 次 夷狄(いてき)の妖花(ようか) ——驪姫(りき)(晋) 株林(ちゆりん)の妖姫(ようき) ——夏姫(かき)(陳) 邯鄲(かんたん)の妖媛(ようえん) ——朱太后(しゆたいこう)(秦) 〓(ちぬ)られた女権(じよけん) ——呂太后(りよたいこう)(漢) 洛神(らくしん)の賦(ふ) ——甄〓(しんふく)(漢) 則天楼(そくてんろう)の妖帝(ようてい) ——則天武后(そくてんぶこう)(唐) 楊貴妃妖乱(ようきひようらん) ——楊貴妃(ようきひ)(唐)  年 譜 夷狄(いてき)の妖花(ようか) ——驪姫(りき)(晋) 一  周(しゆう)の恵王の二年、晋(しん)では、武公が死んでその子の献公(けんこう)があとをついだ。  晋はそのころ、河南(かなん)の北部と山西(さんせい)の大半を領していた大国で、その西北の地は夷狄(いてき)の国と境を接していた。  献公は、賈(か)という小国から娶(めと)った夫人のほかに、側室として、北辺の異民族・狄(てき)の狐氏(こし)の娘、狐姫(こき)とその妹を迎えて寵愛(ちようあい)していたが、即位をすると、賈姫(かき)でも狐姫姉妹のどちらでもなく、父の武公の側室であった斉姜(せいきよう)を迎えて正夫人とし、その子の申生(しんせい)を太子に立てた。  斉姜は、山東(さんとう)にあって諸侯に覇(は)をとなえていた斉(せい)の桓公(かんこう)の娘で、武公が斉との友好のしるしとして迎えた側室であったが、献公は武公の生前からこの斉姜と通じていた。 献公、斉姜に烝(じよう)す。秦の穆(ぼく)夫人及び太子申生を生む。 『左伝』にはそう記されている。「烝」とは自分よりも身分の上の女と私通することをいう。稗史(はいし)には具体的に、 武公すでに老いて女を御(ぎよ)すること能わず。太子(献公)悦んでこれに淫す。  と伝えられている。  献公と斉姜とのあいだには先ず女子が生れた。伯姫(はくき)といい、後その母と同じように、友好のしるしとして秦の穆公(ぼくこう)のもとへ嫁がされた。ついで男子が生れた。これが申生で、太子に立てられたときはすでに二十三歳であった。  献公と賈姫とのあいだには子がなかったが、狐姫とのあいだには次子の重耳(ちようじ)が、狐姫の妹とのあいだには三子の夷吾(いご)が生れた。長子の申生が太子に立てられたとき、重耳は二十一歳、夷吾は二十歳であった。  斉姜は、献公の正夫人に迎えられてから四年後に死んだ。  その翌年、献公は西方の異民族・驪戎(りじゆう)を討ってその地を併(あわ)せようとし、大夫の史蘇(しそ)に吉凶を占わせた。  史蘇は亀甲(きつこう)を火に投じて、その亀裂(きれつ)の形を見た。亀甲には、縦に二本の長い亀裂があらわれた。それは互に相抱く形に彎曲(わんきよく)し、両端で交ってほぼ楕円を描いていた。そしてその楕円のまんなかには、さらに一本の細い亀裂があった。史蘇はそれを見て、 「勝ちて不吉なり、と出ました」  といった。 「戦って勝つのは吉ではないか。なぜそれを不吉なりという」  献公が咎(とが)めると、史蘇は説明した。 「左右の線が両端で交っております。これは両者に勝敗の分け目のないしるしでございますが、右の線が左の線を包んでいる形になっておりますのは、わが晋が驪戎を併合するというあらわれでございましょう。この左右の線は両端が交って口の形を描いておりますが、まんなかに細い線が一本ございます。これは口の中に棘(とげ)をふくんでいる形で、讒言(ざんげん)がおこるというしるしでございます。つまり、驪戎に勝利をおさめましても、後に讒言によって国を乱されて勝敗の分け目なし、と出ているのでございます」 「讒言によって国を乱されると? そなたは、私が讒言をききいれて国を乱すというのか」 「いいえ。たとえ殿はそうではなくても、君側の者がそれにまどわされぬとはかぎりません」 「よし、わかった。とにかく戦いは吉と出たのだ。あとのことはあとのこと。戒めとしよう」  献公は軍を西方へ進めて驪戎をほろぼし、戎王の娘の驪姫(りき)とその妹とを奪って凱旋した。驪姫はこのとき十六歳、その妹は十四歳で、申生・重耳・夷吾らよりも十歳前後若かった。  重耳と夷吾の生母である狐姫姉妹はすでに四十歳の半ばを過ぎていた。献公は奪ってきた若く美しい異族の娘に心を奪われて、片時も傍からはなさず、凱旋してから三ヵ月後、前年死んだ斉姜のあとにこの驪姫を立てて正夫人とした。  その祝宴のとき献公は、黙然と席につらなっている史蘇を見ると、胸を張っていった。 「誰か史蘇に祝い酒をついでやれ。だが、祝いの肴(さかな)はやってはならぬぞ。史蘇、そなたは覚えているであろうな。勝ちて不吉なりといったことを。たしかに勝った。そなたのいったことは半分はあたったのだ。祝い酒はその褒美としてとらせる。しかし、不吉なりといったことは、あたらなかった。戦いに勝った上に、私はこのような美しく優しい妃(きさき)を手に入れたのだ。これ以上の吉はないではないか。なにが口の中の棘だ。そのあたらなかった半分の罰として、祝いの肴はとらせぬことにする」  史蘇は、つがれた酒を一息に飲みほして、いった。 「わたくしはあのとき、亀甲にあらわれましたことを、ありのままに申し上げたまででございます。たしかに、勝ちて不吉なりと出ておりました。しかし、いまにして思えば、わたくしは見落していたことがございます」 「うん、そうであろう。誰しもあやまちはあるものだ」  献公はいかにも満足げにうなずきながら、そういった。——いや、ちがう、と史蘇は心の中でいいかえした。あの亀裂を見て自分がいったことは、間違ってはいない。見落したというのは、あの亀裂が、それと同時に若い大きな女陰の形をあらわしていたということなのだ。その女陰こそ、いま献公のそばに正夫人として坐っている驪姫だったのだ……。 「史蘇、なにを浮かぬ顔をしている。私の座興がすぎたかもしれぬ。そなたを責めるつもりではなかったのだ。さあ、誰か史蘇に祝いの肴をとらせてやるがよい。酒もだ」  献公は上機嫌であった。  後、史蘇は親しい友人にたずねられて、いった。 「女だ。私はそれが亀甲にあらわれていたことに気づかなかったのだ。晋は武力で驪戎に勝った。しかし驪戎は女の力で晋に勝つということだ。勝ちて不吉なり、讒言によって国を乱され、勝敗の分け目なし、といったことは間違ってはおらぬはずだ。いまにきっと、そのときがくる」 二  驪姫(りき)は、はじめて晋(しん)の都の絳城(こうじよう)につれられてきたときは、白い肌、青い瞳の、可憐な少女で、その細い身体のしんはまだ蕾(つぼ)んだままだったが、たちまちのうちにその蕾(つぼみ)は豊かに花開いていった。驪姫にかぎらず、それが西方の女たちの性(さが)だったのかもしれない。献公が驪姫を正夫人に立てたのは、そのときであった。  それから一年もたたぬうちに、驪姫は献公のお抱えの楽人(がくじん)の一人、優施(ゆうし)という者とねんごろになった。優施も驪戎(りじゆう)の出身であった。驪姫は献公によってその蕾をふくらませていったように、優施と会うごとにさまざまな術を会得していった。献公はそれを、自分が会得させたものと信じてよろこび、益々寵愛の度を深めていった。驪姫がそう信じさせるように装い、よろこばせるように努めたことはいうまでもない。  驪姫は優施のほか、申生(しんせい)にも重耳(ちようじ)にも夷吾(いご)にも、秋波を送った。あるとき驪姫は、申生が献公のもとから退出するところをさきまわりし、長廊の外れの物陰で待ち受けていて呼びとめた。申生が黙礼をして通りすぎようとすると、驪姫は人にきこえるほどに声を高くして、 「なぜ、私をお避けになるのです」  といった。申生が仕方なく従うと、驪姫は申生を庭園の四阿(あずまや)へ誘い、長椅子に掛けさせて、 「申生さま、私は前からあなたをおしたいしておりました」  と、しなだれかかった。 「なにをなさいます、母上……」  申生は十二歳も年下の驪姫をわざと「母上」と呼び、 「それが夷狄(いてき)の風(ふう)かもしれませんが、晋では晋の風におならいください」  だが、驪姫は申生からはなれずにいった。 「申生さま、あなたは私を夷狄の女とおさげすみのようですが、こうすることは晋の風ではございませんか? わが母にあたる者を烝(じよう)するということは。あなたはそのようにしてお生れになったときいております。あなたも私をそうなさってもかまわないでしょう」 「あなたは、おそろしいお方です。手をおはなしください。さもないとこのことを父に申しますぞ」 「どうぞ、なんとでもおいいつけください。殿はかえってあなたをお疑いになるだけでしょう」 「母上、もう二度と私をおからかいにならないでください」  申生は驪姫を振り切って、帰っていった。父の献公に似ず、申生はきまじめな男であった。  驪姫は重耳にも同じことをいった。 「重耳さま、私は前からあなたをおしたいしておりました」  重耳は驪姫にしなだれかかられたまま、黙っていた。申生のように逃れようとはしなかった。 「重耳さま、なにかおっしゃってください。申生さまは私を、夷狄の女とさげすんでおいでのようですが、あなたも私をおさげすみになっていらっしゃるのですか」 「私の母も夷狄の女です。なんでさげすんだりいたしましょう。私はあなたを欲しいと思ったこともあります。父があなたを、あなたの国から奪ってきたときです。父とあなたとでは、あまりに年がちがいすぎます。私はあのとき、あなたがた姉妹を父は私と弟にくれるものと思って胸をときめかしていました」 「私が殿のものになってしまったいまは、もう私を欲しくないとおっしゃるのですか」 「いまでも、欲しいと思わないわけではありません」  重耳は驪姫が伸してきた手を遮って膝の上におさえながらいった、 「父があなたを私にくれるなら——」 「殿をおそれておいでなのですね」 「おそれていることは確かです。しかしそれは、父をか自分をか、それともあなたをか、自分にもわかりません」  重耳は申生とはちがったが、やはり、きまじめな男であった。  驪姫は夷吾にも同じことをいった。 「夷吾さま、私は前からあなたをおしたいしておりました」 「あなたは、兄たちにもそういったでしょう」  夷吾はしなだれかかってくる驪姫に応えながら、そういった。驪姫が頬笑んでうなずくと、夷吾も笑いながら、 「申生は怒って逃げたが、重耳はよろこんであなたを抱いた。——そうでしょう?」 「いいえ、重耳さまにも逃げられました。申生さまのようにお怒りにはなりませんでしたけれど」 「それはおかしい。重耳はいつもあなたを抱きたいといっているのに」 「それなら、まだ望みがあるわけですね」 「あなたは可愛いひとだ」  夷吾は驪姫の肩にまわしていた腕を引き寄せ、片手で驪姫の顎を上げて、その唇に唇を重ねた。驪姫の白い顔が上気して、その唇は蛭(ひる)のように吸いついた。夷吾はその唇をはなしていった。 「私は逃げませんよ」  夷吾が手をのばすと、驪姫は遮っていった。 「ここではいけません。今夜そっと私の部屋へおいでください。お待ちしておりますから」  こうして驪姫は、三人の兄弟たちのうち夷吾とだけねんごろになった。  優施はそれをかぎつけていて、ある夜、驪姫にいった。 「このごろ、夷吾さまと、ときどきお会いになっておられますようで……」 「それでどうしたというのです? どこか様子でもちがってきたというのですか」  驪姫は優施に身を任せたまま、そういった。 「殿にお気づきになられないようになさいませんと……」 「それは、そなたとのことも同じです」  驪姫は上体をおこし、優施を引き寄せて玩弄(がんろう)しながら、 「そなたは、嫉(ねた)んでいるのですね」  といった、 「嫉むことはありません。夷吾さまは殿よりも劣るし、殿はそなたに劣ります。そなたに勝るものはありません」 「重耳さまは?」 「重耳さまとはまだです。たのしみにしています」  優施は眼を上げ、あきれた顔で驪姫を見つめた。  驪姫には、そのころはまだ、申生や重耳や夷吾を、どうしようという考えもなかった。三人の公子たちを驪姫は、ただ身近にいる遊び相手としてしか見ていなかったのである。  晋につれてこられてから七年、献公の十二年の春、驪姫は男の子を生んだ。その子は奚斉(けいせい)と名づけられた。献公にとっては第四子である。このとき第三子の夷吾は三十三歳だったから、奚斉は献公が三十二年ぶりに得た子ということになる。それだけに献公のよろこびは大きかった。暇さえあればこの嬰児(えいじ)の顔を覗きこみにその寝室へかよった。  献公のそのよろこびはまた、驪姫に対する愛着をさらに深めることにもなった。しかし、驪姫には奚斉の父親が献公だという確信はなかった。あるいは優施かもしれなかったし、夷吾かもしれなかった。だが驪姫は格別そのことを気にしてはいなかった。確かなことは、奚斉は自分の生んだ子であるということであり、それにもう一つ、ほんとうの父親が誰であれ、とにかく奚斉は献公の第四子であるということであった。  奚斉が生れるまでの驪姫は、献公の正夫人に立てられていたとはいえ、晋を自分の国と思うことはなかった。自分は故国を奪われ父母を殺されて、この国へつれられてきた夷狄(いてき)の女でしかないという思いを、拭い去ることはできなかったのである。だが、奚斉が生れたとき驪姫の心は一変した。この子によって自分は、この国を自分の国と見ることができるようになったと思った。さらには、この子によって自分は、この国に自分の国をたてることもできるのだと思った。そこには、この子にこの国を継がせることによって、故国をほろぼしたこの国を見返すことができるのだという思いもあった。驪姫はこのとき、はじめて生きる目的を持ったといえよう。  目的をはたすためには、是非ともしなければならないことがあった。まず、太子の申生を退けてしまうことである。たとえうまく申生を退けることができたとしても、あとにはまだ重耳と夷吾がいる。驪姫はひとり思いなやんだ。 三  奚斉(けいせい)の誕生日の祝いがすぎたころであった。驪姫(りき)は優施(ゆうし)とたわむれた後で、 「あの子の顔は、このごろだんだん、そなたに似てくるようです」  といった。優施は驪姫をいたわりながら、 「夷吾(いご)さまには?」  ときいた。 「似ていると思えば、似ているかもしれません」 「このごろは夷吾さまとは?」 「会っております。そっと毒をお飲ませしようと思ったりしながら——」 「なにをおっしゃいます。お案じになることはございません。四公子さまのお顔がわたくしに似ておいでになれば、それは驪戎(りじゆう)の血で、つまり奥方さまに似ておいでになるということです。もし夷吾さまに似ておいでになれば、それは晋室(しんしつ)の血で、殿のお顔にも似ておいでになるということになりますから」 「そんなことを案じているのではありません。夷吾さまに毒を、といったのは、あの方に、この世にいてほしくないからです」 「それはまた、なぜでございますか」 「あの子にこの国を継がせたいからです。もしあの子がそなたの子なら、あの子の血はすべて驪戎の血です。殿の子でも夷吾さまの子でも、あの子の血の半分はやはり驪戎の血です。あの子にこの国を継がせたい私の気持はそなたにもわかるでしょう」 「それでは、夷吾さまだけではなく、太子さまも重耳(ちようじ)さまも……」 「そうです」 「それならば一層、毒をお使いになってはいけません」 「そなたの智慧を貸してください」  ——もし驪姫の子にこの国を継がせることができたら、自分は最高の功臣として、いや、あるいは国君の父として、思いのままをこの国にふるまうことができるのだ。優施はそう思うと、にわかに胸のふくらんでくるのを覚えた。  そのとき彼が先ず考えたのは、献公の寵臣で二五と呼ばれている梁五(りようご)と東関五(とうかんご)の二人を抱きこんで、献公に三人の公子を遠隔の地へ出してしまうように仕向けさせるということであった。優施はそのことを驪姫に話して、 「方法はわたくしと二五とで十分にうちあわせます。奥方さまはむしろ、なにも御存知ないほうがよろしいでしょう。お三人のことについては殿にはなにもおっしゃいませんように。もし殿のほうからおたずねがありましたときは、お三人のどなたのことでも、おほめになってください。ところで、二五を味方に引き入れてしまうには、金帛(きんぱく)の力だけでは不安が残ります。これは奥方さまとお妹さまのお力によるのが最もよい方法だと思うのですが、御承知くださいますかどうか……」 「どうしろというのです?」 「二五とねんごろになっていただきたいのです。奥方さまには年上の梁五と、お妹さまには東関五と」  驪姫は笑って、 「そなたは嫉(ねた)ましくありませんか。妹には私からよくいいふくめます」 「二五にはわたくしが、奥方さまとお妹さまがお望みになっていると伝えます。殿にはお年のせいで、このごろはめったにお求めになることもなく、お二人はさびしい思いをしていらっしゃるから、おなぐさめするようにと。お会いになっても、四公子さまのことは、はじめのうちはなにもおっしゃらないでください。そして一月(ひとつき)もたってから、ぼつぼつと、四公子さまにこの国を継がせたいということをお漏らしになりますように。お妹さまにもこのことはよくおふくみおきくださるようにおっしゃってください。二五はそのことをきっとわたくしに話します。それからのことは、わたくしどもにお任せくださいますよう」  ある日、二五は献公にいいだした。 「殿は曲沃(きよくよく)の地をどうお思いでございますか」 「わが晋室(しんしつ)の宗廟(そうびよう)の地だ。晋がはじめて諸侯に封ぜられた地だ」 「それに、軍事上から見ても重要な地です。その曲沃の守りをおろそかになさってはおられませんか」 「なぜ急にそのようなことをいう」 「周辺の列国がこのごろ、どこもみな武力を増強しているからです。ほかにも、重要な地であるにもかかわらず守りのおろそかにされているところが、二ヵ所あります。西北境の蒲(ほ)と、西境の屈(くつ)です。蒲は秦(しん)の国と境を接し、屈は狄(てき)の地と境を接している要地です。しかも荒野のまま捨ておかれております。早急に守りをかためる必要があると思いますが、いかがでしょうか」  優施のはかったとおり、献公は寵臣二人の進言にすぐ心を動かされた。 「その方(ほう)たち二人、それぞれ蒲と屈の守りに出たいというのであろう」 「ありがたいお言葉でございますが、わたくしどもでは重大な要地を守るには重みがなく、かえって秦と狄のあなどりを招くおそれがございます」 「それでは、誰がよいと思うか」 「蒲へは重耳さまを、屈へは夷吾さまをおさし向けになれば、あなどりを招くおそれもなく、国の守りは磐石(ばんじやく)と存じます」 「なるほど。では、曲沃へは誰を出そう」 「曲沃は国都につぐ地、太子は国君につぐ身です。太子の申生(しんせい)さまをおいて他に誰がありましょう」  献公は二五の進言をことごとくききいれ、申生・重耳・夷吾の三人をそれぞれの地へ派遣することにして、申生には曲沃の地を広めて副都とするよう、重耳と夷吾にはそれぞれ蒲と屈とに城郭を築いて駐屯し、秦と狄とに備えるよう命じた。  申生は献公の命令をきくと、その心をはかりかねておそるおそるたずねた。 「太子は国君につぐ者として、常に君側に従うものであり、地方の守備にあたるのは臣下たる者の役目であると思います。太子である私をなにゆえ地方へお出しになるのか、おそれながら父上の御意向をうかがいたいと存じます」  献公は声を荒くしていった。 「曲沃はわが宗廟の地であるということを知らぬのか。国都につぐ地を、国君につぐ者に守らせようとしているのに、なんの不服があるというのか」  優施は、二五からきいた事の次第を、さっそく驪姫に伝えていった。 「申生さまは御自分で太子の地位をお捨てになったも同然でございます。おそらく殿は、四公子さまを太子に立てようとお考えになっておられましょう。もし殿がそのようなことをお話しになりましたら、奥方さまは、どうか反対なさってください。これも計略の一つですから。……お三人のことについて二五が巧みに殿に進言してくれましたのは、奥方さまとお妹さまのおかげです。二人ともすっかり満足しております。これからもずっと会ってやってくださいますよう。二人に寝返りを打たれでもされましたら、もとも子もなくなってしまいますから」 「そうします。ただ、梁五に会うぶんだけ、そなたと会うおりがすくなくなりますけど」 「梁五はいかがでございます」 「夷吾さまよりはすぐれております。そなたには遠く及びませんけれど」 「それはそれは。夷吾さまが西境へいってしまわれましたので、そのぶんだけ、これまでよりも多くお会いさせていただきたいものです」  どちらからともなく二人は身を寄せあい、話し声は絶えた。  数日後、献公は驪姫にいった。 「重臣たちの中には反対する者もいるが、私は申生にかえて、奚斉を太子に立てたいと思っている」  ——やはり優施のいったとおりだった、と驪姫は思った。そうだ、ここが大事なところなのだ……。驪姫は、よろこびがこみ上げてきて思わず顔のほころびそうになるのをおさえ、わざと浮かぬ顔をして黙っていた。 「おまえはうれしくはないのか。自分の子が太子になることが」 「重臣がたの中で反対しておられるのは、どなたでしょうか」 「里克(りこく)たちだ」 「里克さまですか。反対なさるのはもっともなことと思います」  と驪姫はいった、 「わたくしも、格別に罪咎(つみとが)もない申生さまを廃して奚斉を太子に立てることは、道にはずれたことと思います。そのようなことをなさってはいけません。殿がわたくしや奚斉のことを思ってくださるお心は、涙の出るほどうれしゅうございますけれど、もし強(し)いて奚斉を太子にお立てになれば、里克さまならずとも皆、わたくしが殿をそそのかしたと思うでしょう。どうしても申生さまを廃して奚斉をお立てになるのでしたら、先ずわたくしを殺してからになさってください」 「そうか、おまえの気持はよくわかった。おまえはそのような清らかな心を持っているのに、重臣たちの中にはおまえが私に、奚斉を太子に立てさせようとして申生らのことをあれこれと讒言(ざんげん)していると見る者もいるようだ。やつらにおまえのその気持がわかったらな……。それだけに私は、おまえがいとおしくてならぬ。おまえの気持は気持として、奚斉を太子に立てたいという私の気持はかわらぬ」 「殿のそのお気持だけを、いまはありがたく頂戴しておきます」  翌日、驪姫は優施にいった。 「そなたのいったとおりでした。私はそなたのいったようにお答えしておきましたが、あれでよかったのでしょうか。せっかく殿がその気になられたのに、水をかけるようなことをいって、惜しいことをしたようにも思います」 「それでよろしいのでございます。殿は奥方さまを一層お信じになられるでしょうし、里克さまたちも奥方さまに対する見方を、すこしはかえられるかもしれません。これからも、奥方さまは殿に申生さまたちのことをわるくはおっしゃいませんように」 「それでよいのでしょうか。それでは殿がなかなか申生さまを……」 「曲沃(きよくよく)へ出された申生さまが御不満なことはわかりきっております。このまま放っておいても、申生さまはきっと、曲沃で謀叛(むほん)をおこされるでしょう。それに、殿のおそばには二五がおります。申生さまのことは二五にうまく殿のお耳へ入れさせますから、そのほうのことはわたくしどもにお任せになって、奥方さまは梁五の、お妹さまは東関五のおもてなしのほうを……」 四  しかし、申生が謀叛をおこすだろうという優施(ゆうし)の予測は、なかなかあたらなかった。  驪姫(りき)に心をくらまされている献公の、太子を奚斉(けいせい)にかえたいという思いはかわらなかったが、申生は曲沃(きよくよく)で仁政を布(し)いて住民たちの信望を得、地域を広めて曲沃を晋(しん)の副都にせよという献公の命令を着々と実現させていて、さすがの献公も、なんの咎(とが)もない申生を廃するというわけにはいかなかった。  二年たち、三年たってもその情況にはなんのかわりもなく、驪姫は次第にあせりだした。 「私はもう、梁五(りようご)のお相手をするのもいやになってきました」  と驪姫は優施にいった、 「いつまでさせるつもりです」 「四公子さまが太子になられる日まで、ではございませんか」 「それがいつかといっているのです」 「おあせりになってはいけません。二五はわたくしたちにとっては、大事にしなければならない人です。いま二五にそむかれたら、これまでのことはすべて水の泡になってしまいます。申生さまには里克(りこく)さまや荀息(じゆんそく)さまのような重臣がたがついておられます。荀息さまは殿に、申生さまを都へおもどしになるようにと、しきりに進言しておられます。殿のおそばで、それを防いでいてくれるのが、二五なのです。奥方さまには、そのことをよくお考えになってくださいますよう。梁五をおろそかになさってはなりません」  また、一年がすぎた。 「奥方さまに、していただかなければならないことがおこりました」  と優施がいった、 「殿はまだ、あのほうはおさかんでしょうか」 「六十をすぎられてから、すこしは……」 「まだ、おさかんなのですね。じつは、そのあとで、泣いていただきたいのです」 「そのあとでですか」 「そうです。殿が不審に思われて、わけをおたずねになるまで——。二五が、申生さまを東山(とうざん)へ出兵させるように進言するはずです。殿がその進言をおききいれになるかどうかは、奥方さま次第でございます。四公子さまの運命がかかっているとお考えになって、泣いて殿のお心を動かしてください」  優施は、そのとき驪姫のなすべきこと、いうべきことをくわしく話した。 「申生さまを出兵させると、どういうことになるのですか」 「東山の赤狄(せきてき)は強敵ですから、十のうち七は、敗け戦(いくさ)になるでしょう。申生さまが討死なさればそれまでですが、お帰りになったとしても責任を問われて、どんなに軽くても、太子の地位は剥がされます。もし勝ってお帰りになれば、そのときはそのときのことで、仕方がありません、また別の方法を考えることにいたします」  その夜、驪姫はさまざまな手をつくして献公を奮い立たせた。そのときに泣くのはもともと驪姫の癖(くせ)であったが、その夜は献公をよろこばせるために、早くからすすり泣きの声をあげ、献公の高まりにあわせて次第に声を高くしていった。そして優施にいわれたとおりに、献公が果ててしまったあとも、声を落してすすり泣きつづけたのである。  献公はそれを、纒姫が快美の余韻(よいん)の中にひたっているものと思い、満ち足りた思いできいていた。ところが驪姫はいつまでも泣きやまない。献公は不審に思って、 「どうしたのだ、驪姫」  と声をかけた。だが驪姫は答えずに、やはり泣きつづけている。 「おい、どうしたというのだ。うれし泣きではなかったのか」  献公が驪姫の肩をゆすぶってそういうと、驪姫はようやく口を開いた。 「今夜はわたくし、格別にうれしゅうございました。うれしかっただけに、そのうれしさをじっと味わっておりますうちに、かなしくなってきて、われながらどうすることもできなかったのでございます。おゆるしくださいませ」 「なにがかなしいのか」 「殿のおいつくしみがでございます」 「私のいつくしみが?」 「はい。もうじき、このようにしていただくこともできなくなるのかと思いますと、かなしくなってきて……」 「それはどういうことだ」 「申生さまが……」 「申生がどうしたというのだ」 「殿、わたくしはこれまでに一度でも、申生さまのことをあしざまにいったことがございましょうか」 「ない」 「殿が奚斉を太子に立てようと思っているとおっしゃったときにも、わたくしは申生さまのために、おとめしたはずでございます」 「そうだったな」 「それなのに申生さまは、わたくしが殿をそそのかして、奚斉を太子に立てようとしているといわれ、そればかりか、殿のことを、わたくしに心を奪われて国政をないがしろにしているといいふらしておられます」 「まさか申生がそのようなことを……」 「重臣のかたがたはみな申生さまについておられますから、殿のお耳にははいらないのでございます。曲沃で仁政を布いて民の心をつかむことに努めておられますのも、いざ謀叛というときに民を御自分のほうにつけるための準備をなさっているのだという人もおります。わたくしは以前は、申生さまを誠実なおかたとばかり信じておりましたので、謀叛などということはあらぬ噂と思っておりましたけれど、このごろの曲沃での御様子をききますと……」 「あれが曲沃の地を広めて、もとの二倍にしたことは知っている。土地の者がみなあれをしたって、住民の数はもとの数倍になったということも知っている。そういえば、ひそかに武力を増強していて、大軍をかくしているという者もあるが……」 「そのことは、わたくしもきいております。謀叛の準備をなさっていることは、まちがいございません。いっそのこと、殿が御隠居なさって、国を申生さまにお譲りになったらいかがでしょうか。そうすれば、わたくしも殿のおそばにいることができましょうし、親子の争いなどというむごたらしいことを見ずにすみます」 「そんなことができるか。わが子に国を奪われたなどということになれば、天下の諸侯の笑いものだ。もうよい、もうよい。おまえは、なにもくよくよ考えることはない。安心して私のそばにおればよいのだ」  二五が献公に申生の動きの不穏なことを伝え、この際、東山の赤狄(せきてき)を申生に討たせるよう進言したのは、その翌日のことであった。献公は二五の進言をきくと、即座に心をきめて、 「うん、それはよい考えだ」  といった。  このことを知った里克(りこく)は、すぐ献公に会い、太子を出征させることの不当を説いて諫めたが、献公は頑としてきかなかった。里克は慨嘆して退出すると、曲沃へ急使を出し、申生に出奔(しゆつぽん)するようにすすめた。だが申生は、 「父は私を殺すつもりかもしれないが、出征の命令にそむいて出奔する罪は大きい。私に残されているただ一つの道は、勝つということだ」  といい、悲壮な決意で出陣した。申生のその気持は全軍につたわって、士気大いにあがり、申生は赤狄を破って凱旋した。  驪姫(りき)の目算は見事にはずれた。驪姫はいよいよあせったが、優施はあわてなかった。 「十のうちの三のほうがあたってしまいました。残念ですが、あとの策はちゃんとたててあります」  その策というのは、荀息(じゆんそく)を奚斉(けいせい)のお附きにする一方、里克を申生から引きはなしてしまうことであった。 「殿は奥方さまのおっしゃることなら、たいていのことはおききいれになります。殿に、荀息さまを四公子さまのお附きにしていただきたいとお願いなさいませ。荀息さまも、殿の御下命であれば、仕方なくおききになるよりほかないでしょう。里克さまのほうは、わたくしにお任せください。あのかたは御自分のこととなると案外に小心なおかたですから、わたくしがうまく、申生さまから遠ざけるようにいたします」  荀息は優施が考えていたとおりになった。彼は驪姫が申生にかえてわが子の奚斉を太子に立てようとたくらんでいることを、早くから見ぬいていた。そのため里克とともに一貫して申生を擁護してきたのだったが、主君の命令とあっては従わないわけにはいかず、仕方なく奚斉のお附きになった。  一方、優施は、美酒をたずさえて里克を訪ねた。献公のお気入(きにい)りの楽人であり、後宮にも出入りしている人物であるから、粗略にあつかうこともできず、里克は客室へ招じ入れた。 「わたくしは一介の楽人で、政治のことも軍事のこともいっこうにわかりませんが、大夫さまには、このごろいろいろなことがおこって御苦労をなさっておいでの御様子。たまたま、めずらしい酒が手にはいりましたので、一献(こん)さし上げにまいりました」  と優施はいった。酒好きの里克は大よろこびで、さっそく酒盛りをはじめた。しばらくすると優施は、 「ひとつ、歌でも歌わせていただきましょうか」  といって、得意の咽(のど)をきかせた。 暇予(かよ)せんとして 吾吾(ごご)たるは 鳥烏(ちようう)に如(し)かず 人皆苑(うつ)に集(とどま)るに 己(おのれ)独(ひと)り枯(こ)に集る 「さすがにいい声だ。だが、歌の意味がよくわからん。その苑(うつ)とか枯(こ)とかいうのは、なんのことだね」 「苑というのは森、枯というのは枯木です。枯木にひとりでとまっているよりも、みんなといっしょに森で暮すがよいということです」 「はじめのほうは?」 「この世をのどかに暮そうと思いながら、人になじまずにひとりぼっちでいるのは、鳥や烏にも劣る、ということでしょうか」 「なるほど。もう一度、歌ってみてくれぬか」 「ほんのざれうたでございます」  優施がそういって、もう一度歌うと、里克は、 「おのれひとり枯(こ)にとどまるか」  といったきり、黙りこんでしまった。それからは優施が酒をついでも、里克はただ黙って飲むだけであった。しばらくして優施は辞去した。  その夜、里克は使いを出し、ひそかに優施を呼びよせていった。 「さきほどの歌のことだが、森と枯木というのがどうも気になってな。そなたがあの歌を私にきかせたわけを話してくれぬか」 「それでは申しあげます。たとえば母親が国君の正夫人になり、息子が太子になるなどというのは、一門繁栄のしるしで、鳥の群れつどう森のようなものでございましょう。これに反して、母親は死に、息子は国君にきらわれて、太子でありながらその地位を剥がれようとしてるなどは、枯木のしるしで、やがては伐りたおされてしまう運命にありましょう。あの歌をおきかせいたしましたのは、大夫さまに、枯木に執着せずに森のほうへおいでになったほうがよろしいでしょうとおすすめしたかったからでございます」 「枯木に執着していては、身が危いというのか。殿は枯木を伐りたおしてしまおうとなさっているのか」 「はっきり申しましょう。殿は申生さまを亡きものにして、奚斉さまを太子に立てられる御所存です。荀息さまはすでに枯木に見切りをつけられて、奚斉さまのお附きになられました。大夫さまも、伐りたおされるときまった枯木にとまっておられることはないと思うのですが」 「そうかといって、急にばたばたと森へ飛んでいくのも気がひけるし、枯木といっしょに伐りたおされてしまうのもいやだし……。いまは、どちらにもつきたくない気持だ」 「それなら、それでよろしいではございませんか」 「それでよかろうか」 「よろしゅうございますとも」  優施にとっては、まさに思う壺であった。里克を申生から遠ざけてしまいさえすればよかったのである。奚斉に近づかれてはかえって迷惑であった。 五  その後、驪姫(りき)はおりを見て献公にいった。 「申生(しんせい)さまを一度お呼びになってくださいませんか。わたくし、申生さまによくお話しをして、さきざきの心配のないようにしておきたいのです」 「そんなことしなくてもよい」  と献公はいったが、驪姫がそれでもと重ねてたのむと、献公は承知して申生を絳城(こうじよう)に呼びよせた。  驪姫は盛大な宴席を設けて、申生をもてなした。そして宴がはてると、申生を庭園の四阿(あずまや)へ誘って、 「ここでのことを覚えておいででしょうか」  といった。申生はそれには答えずに、 「母上、私をお呼びくださいましたのは、どういうご用ででしょうか」 「また母上とおっしゃる。心の中では夷狄(いてき)の女とさげすんでいらっしゃるくせに。あのときもそうでした。母上、母上といって、私からお逃げになりましたわね」  そのときと同じように驪姫は申生を四阿の長椅子に掛けさせて、しなだれかかりながらそういった。  その夜、驪姫は献公にいった。 「申生さまって、ほんとうに失礼なかたです。私が奚斉(けいせい)のことをいろいろお願いしてもろくにおききにならず、四阿で私の手をおにぎりになって、こうおっしゃるのです。——父のような老いぼれではつまらないでしょう、私ではいかがですかって」 「まさかあの申生が……」  と献公がいうと、 「そうお思いになるでしょう。ところが陰ではちがうのです。申生さまは殿が父上さまの御側室にお生ませになられたお子さまでしょう。申生さまは殿と同じことを私にしようと思っておられるのかもしれません。申生さまが陰ではどんなことをなさるか、明日よくごらんくださればおわかりになりましょう」  翌日、驪姫は献公を四阿のむこうの森の中にかくれさせておき、申生を誘って庭園へ出た。しばらくすると、蝶や蜂が驪姫のまわりに集まってきた。髪に蜜を塗っていたからである。驪姫は申生にすがりついて、 「どうしたのでしょう、こんなに虫が……、申生さま、お袖でおいはらってくださいませ」  申生はいわれるままに、なんども袖でおいはらったが、いくらおっても蝶や蜂はすぐまた驪姫の頭のまわりを飛び交(か)った。  献公がそのありさまを見て、申生が驪姫にたわむれていると思ったことはいうまでもない。その日、献公は申生を曲沃(きよくよく)へ帰らせた。  それから一月ほどたったとき、献公は狩猟に出て、しばらく帰らなかった。その間に驪姫の出した使者が曲沃へいって、申生に手紙をとどけた。 「殿には、昨夜、斉姜(せいきよう)さまが飢え苦しんでおられる夢をごらんになり、太子さまにお母上の御霊(みたま)を祭るようにとの仰せでございます。さっそく御霊をお祭りになった上、お供えの肉を都へおとどけくださいますよう」  手紙にはそう書かれていた。申生はすぐ生母斉姜の祭りをおこない、供物の酒と肉を都へとどけた。  ちょうどそのとき、献公は六日間の狩猟をおわって帰ってきた。驪姫は申生からとどけられてきた酒と肉に毒を仕込み、なにくわぬ顔でそれを献公の前に出した。  献公はしきたりどおり、酒を杯につぐと、その最初の一杯を地に注(そそ)いだ。と、酒を吸った土は、泡をたてて盛りあがった。 「殿、お待ちくださいませ」  驪姫は盛りあがった土を指さして、そういい、 「まさかと思いますが、毒がはいっているのかもしれません。おまえ、お毒見をしなさい」  と侍女の一人にいいつけた。侍女は一口飲んだだけで、たちまち悶絶してしまった。 「これでは肉も……」  驪姫はそういいながら、肉の一片を庭さきにいた犬に投げ与えた。犬は肉を食うと、すぐ倒れた。 「申生さまがこんな大それたことをなさったのは、私のせいです。私と奚斉がおればこそです。奚斉といっしょにこの肉を食べて死んでしまいます」  驪姫はそういうなり、肉のかたまりを抱いて駈けだした。献公はあわてて、 「驪姫をとめろ! 肉を取れ!」  と叫びつづけた。  知らせが曲沃につたえられると、申生の部下たちはみな歯ぎしりして口惜しがった。亡命をすすめる者もあり、献公に釈明するようすすめる者もあったが、申生はそのどちらをも拒否した。 「亡命をしなければ、私は殺されるだろう。亡命をすれば殺されずにすむだろうが、いずれ真相は明らかになって、父上が恥をかかれる。釈明をしなければ、私は父を殺そうとした人非人といわれよう。釈明をすれば、これまた父上が恥をかかれる。死んで身のあかしをたてるのが、一番無難であろう」  申生はそういって、自ら縊(くび)れて死んだ。献公の二十一年十二月であった。  たまたまそのとき都にきていた重耳(ちようじ)と夷吾(いご)は、驪姫の魔手の身に及ぶのをおそれて、献公に挨拶をするいとまもなく、いそいでそれぞれ蒲(ほ)と屈(くつ)の居城へ逃げ帰った。 「重耳さまも夷吾さまも、加担しておられたのです。殿に御挨拶もなさらず、あわてて逃げ帰られたのがなによりの証拠です」  驪姫は献公にそういった。献公はすぐ蒲と屈に刺客をさしむけた。  ——勝つも不吉なり。讒言(ざんげん)大いにおこらん。  史蘇が亀甲(きつこう)の亀裂(きれつ)を見ていった予言は、的中したのである。  重耳は蒲から狄(てき)へ亡命し、夷吾は屈から梁(りよう)へ亡命した。  驪姫の陰謀はついに成功した。だが、それは五年後、献公の死とともにくずれ去る。  周の襄王の元年九月、献公は在位二十六年で死んだ。死ぬ前、献公は荀息(じゆんそく)を招いて奚斉の擁立をたのんだ。——これが運命というものか、と荀息は思った。そう思うよりほかなかった。もともと荀息は驪姫には反感を抱いていた。申生の味方だったのである。それが奚斉のお附きを命ぜられて、献公の遺嘱(いしよく)を受けることになったのである。  驪姫は献公の柩(ひつぎ)のかたわらで涙にくれていた。奚斉は柩の前に、そのうしろには荀息が、すこしはなれて優施(ゆうし)と二五がいた。驪姫の横にはその妹が、昨年生れたばかりの嬰児を抱いていた。嬰児は献公によって悼子(とうし)と名づけられていた。だがそれは東関五の子であった。死の前年の献公はそれを知っていたかもしれない。  柩の前へ不意に人影が飛んできた。ギャッという声がきこえて、血が飛び散った。柩の前に倒れて奚斉はすでに息絶えていた。 「驪姫さま、私の不覚でございます。死んでおわびいたします」  荀息は柱に頭をうちつけて死のうとした。 「お待ち、荀息」  と、驪姫がとめた。人々のあわてふためいている中で、意外に落ちついた声であった。 「奚斉は死にましたが、まだ悼子がおります。どうか悼子を見てやってください」  こうして、満一歳にもならぬ悼子が、即日、喪主になった。  奚斉を殺して逃げていった刺客は、里克(りこく)の一味の者であった。里克らはさらに大挙して悼子をも殺した。その乱戦の中で、荀息は死に、二五も死に、優施も死んだ。残ったのは驪姫とその妹の二人だけであった。驪姫は侍女たちにいった。 「みんな逃げなさい。璧(へき)でも玉(ぎよく)でも帛(はく)でも、ほしいものがあったら持って逃げなさい。早く逃げなさい」  侍女たちをみな逃がしてしまうと、驪姫は妹といっしょに庭園へ出た。申生を誘い、重耳を誘い、夷吾を誘ったことのある四阿(あずまや)のある庭園である。申生に蝶や蜂をおいはらわせて、それを献公に見させた庭園である。 「みんないなくなってしまいましたね」  驪姫は妹にそういった。庭園の中ほどに井戸がある。そのそばまでくると驪姫はまた妹にいった。 「さあ、私たちももう、いなくなってしまいましょう」  二人は裳(もすそ)をひるがえして、なんの躊躇もなく井戸の中へ身を投じた。  里克らの一隊がこの庭園へはいってきたのは、それからしばらくしてであった。 株林(ちゆりん)の妖姫(ようき) ——夏姫(かき)(陳) 一  周の定王の二年六月、鄭(てい)では、霊公(れいこう)がその異母弟の子公(しこう)に殺された。  霊公はその前年の冬、父繆公(ぼくこう)が死んで、その年の春後をついで即位したばかりだった。それを祝って、南方の大国楚(そ)から雲夢(うんぼう)でとれたという大きなすっぽんがおくられてきた。霊公はさっそく重臣たちを招いて饗宴をひらいたが、そのとき子公は、同腹の弟の子家(しか)とつれだって宮門を入るなり、 「きょうは、めったに味わえぬ美味にありつけるぞ」  といった。 「どうしてわかるのだ」  と子家がきくと、子公は右手の食指を立ててぴくぴく動かしながら、 「これが感じるのだ。ほら、しきりに動いているだろう。これが動けばかならず美味が出るのだ」  といった。はたして宴席にはすっぽんのあつものが用意されていた。 「あたったな」  と子家がいうと、子公は得意になって、また食指を立てて動かしながら、 「どうだ、わかったろう、おれのこれがいかに霊妙かということが」  といい、声を立てて笑った。傍若無人に笑いつづけている子公と子家を見て、霊公が、 「なにがおかしいのか」  ととがめた。子公はかまわず、またもや食指を立てて霊公に示しながら、さきほどまでのいきさつを話し、さらに、 「もっとも、私のこの食指が美味をさぐりあてるのか、それとも美味が私のこの食指を呼びよせるのか、どちらであるかはわかりません。いや、おそらくはその両方でしょう。両方が互いに惹(ひ)きあうのでございましょう」  とつけ加えた。子家はそのとき、はじめて気づいた。  ——夏姫(かき)のことをいっているのだな。十年も前のことなのに、二人はまだ根に持っている!  霊公はあからさまに不快な顔をしたが、その場は事なくすんだ。ところが、やがて饗宴がはじまって料理人が鼎(かなえ)のあつものを人々の椀(わん)につぎはじめたとき、 「子公には、つぐな!」  と霊公がどなった。子公はそれをきくとカッとなり、いきなり鼎の中へ食指を突っこんだ。人々はみな恟然(きようぜん)とし、警固の者はいっせいに身構えたが、子公はなにもせず、ただ、鼎から指をぬくとその指を舐(な)めながら霊公を見て嘲笑をうかべただけであった。子公はそのまま黙って席を立っていった。 公、怒りて子公を殺さんと欲す。子公、子家と先んぜんことを謀り、夏、霊公を弑(しい)す。 『史記』の「鄭世家(ていせいか)」にはそう記されている。  霊公は鄭の国人に人望がなかった。子公も同じである。ともに夏姫(かき)のためであった。  国人に最も人望のあったのは霊公の異母弟の去疾(きよしつ)だった。霊公が殺されると国人は去疾の即位を望んだ。だが去疾は長幼の序を説いて固辞し、自分よりも年長の、霊公の同腹の弟、公子堅(けん)を推した。これが襄公(じようこう)である。襄公は即位すると、子公と子家を殺そうとしたが、去疾がとどめた。 「骨肉がこの上、血を流しあうようなことはおやめください。もしあくまでも二人の弟を殺そうとなさるのなら、私は鄭を去って他国へゆきます」  襄公は、もし去疾に去られたときは自分が国人の信望を失うであろうことを思い、去疾の諫めに従った。子公と子家は、そのため事なきを得たのである。  霊公が子公に殺されたことをきいて、最も心を痛めたのは、陳(ちん)の大夫夏御叔(かぎよしゆく)の夫人、夏姫であった。夏姫には、子公に殺された霊公もかなしく、霊公を殺した子公もかなしかった。二人とも夏姫にはやさしい異母兄だったのである。  幼いときから、まるで掌中の珠(たま)のように自分を可愛がってくれた父の繆公(ぼくこう)が死んだのは、前年である。それから一年もたたぬうちに、つづいて兄の霊公を、同じく兄の子公の手によって失おうとは! しかも、夫の夏御叔はこの一年来病臥していて、もはや手のほどこしようはなく、命はすでに旦夕(たんせき)に迫っていたのである。  ——私を愛してくれた人は、みんな死んでいくのだろうか。  そう思うと、夏姫は胸の張り裂けるほどかなしかった。  霊公が殺されてから一月もたたぬうちに、ついに夏御叔も死んだ。夏姫が夏御叔のもとへ嫁いできたのは二十歳のときである。その翌年に生れた一粒種の徴舒(ちようじよ)は、もう十二歳になっていた。夏姫は亡夫の葬儀をすませると、学問をさせるために徴舒を都の宛邱(えんきゆう)に残し、夏家の領邑の株林(ちゆりん)にひきこもって亡夫の喪(も)に服しながら、徴舒が成人して司馬(しば)の官に任ぜられる日を待った。司馬は夏家の世襲の官であった。  株林の人々は夏姫を見て、不思議に思わない者はなかった。その容色が、十年ほど前に夏御叔が領民たちを招いて宴を張り誇らしげに花嫁を披露したときと、すこしもかわっていなかったからである。すでに三十二歳だったが、二十歳前後にしか見えない。身には喪服をつけ、もとより顔には粉黛(ふんたい)をほどこしてもいなかったが、輝くように若々しかった。ときおり訪ねてくる徴舒と並んでいるところを見ると、これが親子だとは到底思えないのであった。誰がいいだしたともなく領民たちは、夏姫を株林の妖姫(ようき)と呼んだ。それには他意があったわけではない。領主の未亡人の不思議な若々しさは、そういう言葉でしかいいあらわしようがなかったのである。  夏姫のことを語った稗史(はいし)につぎのような話が伝えられているのは、その不思議な若々しさの秘密を解くためにつくられた話であろうか。それとも、夏姫自身がひそかに何びとかにあかした事実であったろうか。  夏姫がはじめて、笄(こうがい)で髪を束ねた十五歳のときである。夜中に、にわかに眼がさめた。しきりに名を呼ばれて、その声にめざまされたような気がした。眼をあけて見ると、寝台のそばに何者かが立っている。星冠をいただき、羽衣をまとった、天界の偉丈夫のような男であった。  それがこの世の人には思えなかったからであろうか、夏姫はその偉丈夫に対して、おそれもおどろきも覚えなかった。ただ、寝姿を見られていたということに、はじらいを感じた。はじらいながらも、その偉丈夫のいかにも男らしく逞(たくま)しい姿を、たのもしく思った。やがて我を忘れてうっとりと見惚れているうちに、次第に天界を浮遊しているような心地になっていくのだった。 「夏姫よ、そなたはたぐいまれな美質にめぐまれている」  その声を夏姫は夢うつつの中できいた。 「その美質をめでて、今宵一夜、そなたに女のよろこびを授けよう。起きて、着物をぬぐがよい」  偉丈夫はそういいながら、自らも冠をとり羽衣をぬぎはじめた。それを見ながら、夏姫も同じようにぬいだ。ひとりでにそうしていたのだった。夏姫が寝台の上にうずくまると、偉丈夫はその逞しい裸身を静かに寄せてきた。  その夜、夏姫は天界の偉丈夫から「吸精導気」という房術を授けられたのである。それは男女の交わりのよろこびをつくし、その陶酔の中で、陽の気を吸収して陰の気を補うという秘術であった。偉丈夫は至楽の境地で夏姫にくわしくその術を授け、ようやく夏姫が会得したと見ると手を休めていった。 「夏姫よ、そうだ、それでよいのだ。この術を行なえばそなたは、いつまでも老いを免かれて若さを保ちつづけることができるのだ。これを会得することができたのは、そなたがたぐいまれな美質をそなえているからだ。そなたをよろこばぬ男はなかろう」  夏姫が昏睡(こんすい)し、ふたたびめざめたときには、すでに偉丈夫はいなくなっていた。  その偉丈夫がはたして天界の偉丈夫であったかどうかは知るよしもないが、その夜を境にして、花にもはじらう可憐な乙女が妖艶(ようえん)な女に化したことは疑うべくもない。  間もなく夏姫は、異母兄である長兄の公子蛮(ばん)と通じる。公子蛮は兄弟たちの中で最もよく父の繆公に似ていて、逞しい体躯の持主であった。夏姫が公子蛮に惹かれたのはそのためだった。だが、逞しい体躯をしているとはいえ、ようやく二十歳を越えたばかりの弱年である。あの夜の偉丈夫が夏姫に与えたのと同じような陶酔が得られるはずはなかった。交わるたびに夏姫は満たされぬものを残して、あせった。そして、あせればあせるほど、激しく求めた。そのため公子蛮は次第に痩せほそり、精気を吸いつくされてしまったのであろうか、一年たったとき、朽木のくずれるように死んでしまった。  夏姫は終日泣きかなしんだ。それが幾日もつづいた。そのとき夏姫をやさしくなぐさめてくれた者がいた。公子蛮の同腹の弟の、公子夷(い)であった。夏姫が公子夷と通じたのは、自然のなりゆきであった。この公子夷が、後の霊公である。  公子夷との交わりにも、夏姫はいつもものたりぬ恨みを残した。公子蛮のときと同じく、あの夜と同じような陶酔は得られなかったが、しかし夏姫の天性の美貌には益々輝きが加えられていく。吸精導気の術のたまものであった。  ある夜、夏姫はこれまでにない充実を覚えて、思わず口ばしった。——今宵はどうしたのであろうか、いつもより何倍か逞しく、楽しみの骨髄に徹する思いがする。 「私の方が、兄上よりも何倍かすぐれていると見えるな」  その声にハッとして眼をあけて見ると、公子夷だとばかり思っていたのは別人で、同じく異母兄の子公だったのである。  ——兄上とのことは知っていた。それゆえ、つい食指が動いたのだ。しかしこれほどの美味だとは思わなかった。すばらしい。私はもうおまえを放すことはできない。  子公はそんなことをいって、しきりに、夏姫をほめた。稗史(はいし)の伝えるところによれば、子公はまた「つい食指が動いたのだ」といったその食指をあやつることも巧妙で、大いに夏姫をよろこばせたという。そうだとすれば、後に子公が霊公(公子夷)を殺す原因になった雲夢(うんぼう)のすっぽんの饗宴の場で、子公が食指を立てて動かしたということには、子公の霊公に対する優越の意味があったと見てよかろう。  ともあれ、こうして夏姫は子公とも通じるようになったのである。公子夷も子公も夏姫にはやさしかったが、以来この兄弟同士は互いに反目しあうようになる。  夏姫は子公の逞しさをよろこんだが、公子夷のやさしさもうれしく、努めて同じように二人を愛しているつもりでいた。だが公子夷から見ればそうは思えなかったのであろう。あとからあらわれた子公によって、すくなくとも夏姫の自分に対する愛の半分は、奪われてしまった。いや、それだけではない、夏姫は自分を拒みはせぬものの疎んじてはいると思われてならないのだった。  公子夷が事ごとに子公に対してつらくあたりだしたのは、それからである。公子夷は太子であり、子公はその庶弟だということに、公子夷の優越があった。しかし子公も、負けてはいなかった。そのため益々反目は深くなり、二人は些細なことから口論をしたり、睨みあったりすることが多くなった。それを見ている夏姫はつらかった。しかし、どうするということもなく、交互にやってくる二人を同じように愛し、つらさを忘れるためにも狂おしく陶酔を求め、二人の精気を吸って益々美しくなっていった。  夏姫の美貌は近隣の国々にもきこえていて、縁組みを求めてくる者がすくなくなかったが、繆公は掌中の珠を手放しがたく、ことわりとおしていた。最も熱心だったのは、陳の大夫の夏御叔(かぎよしゆく)で、はじめて縁組みを申しこんできたのは夏姫が十六歳のとき、公子蛮が死んだ年であった。それから四年後に夏姫は夏御叔のところへ嫁いだのだが、繆公がそれをゆるしたのは、公子夷と子公との夏姫をはさんでの反目が益々激しくなってきたことと、夏姫もすでに二十歳で、婚期を逸した年齢になっていたからでもあった。  長いあいだ望んでいた夏姫を得て、夏御叔は有頂天だった。しかもその妻は、世にもまれな美質をそなえていた。夏姫を溺愛し、その強壮な体躯を駆って惜しみなく精気をそそいだ。夏姫はそれを受けて、かつての夜の陶酔に近いものを覚え、益々美しくなり益々若やいでいったが、夏御叔もついには夏姫にかなわず、公子蛮と同じように、精気を吸いつくされて朽木のくずれるように死んでいったのである。 二  周の定王の七年。夏姫(かき)が株林(ちゆりん)の館にひきこもってから五年目のことである。五年間の空閨(くうけい)を夏姫がどのようにすごしたかは、正史の記述からはうかがうすべもない。ただ、稗史(はいし)の語るところでは、ときには村人や下男をひきいれていたような口ぶりも見えるが、最もしばしばあらわれるのは荷華(かか)という侍女である。荷華によって夏姫は、異性の陽の気を吸収して陰の気を補うかわりに、同性の乙女の気を以て補っていたようである。  すでに夏姫は三十七歳であった。しかも依然として二十歳前後にしか見えなかったというから、まさに株林の妖姫(ようき)である。夏姫がその成人するのを待ち望んでいた徴舒(ちようじよ)も、もう十七歳になっていたが、まだ世襲の官に任命されてはいなかった。  さて、その年の秋、徴舒は、亡父が親しくしていた大夫の孔寧(こうねい)にさそわれて、郊外の野へ狩猟に出たが、たまたま株林の近くの野まできたとき日が暮れてきたので、孔寧を母のいる株林の館へともなった。孔寧は、はじめからその魂胆だったのである。  夏姫はよろこんで孔寧を迎えた。徴舒が孔寧をつれてきたことをほめてやりたい思いでいっぱいだった。なぜなら、徴舒が司馬の官に任命されるためには大夫の孔寧の援助がなくてはならなかったからである。そんな思いをこめて孔寧を歓待する夏姫を見ながら、  ——なんという美しい人だろう。  と孔寧は思いつづけた。夏御叔が生きていたときから孔寧は夏姫の美しさに心を惹かれていたが、あのころよりもさらに美しくなっていると思った。 「御主人が亡くなられてから、何年になりますかな」  と孔寧はきいた。 「はい、もう五年になります」 「おさびしいでしょうな、こういうところにひとりでお暮しでは」 「もう慣れましたから、格別さびしいとは思いませんけど、ただ……」 「なんですか。私にできることなら、なんなりとお力添えしますから、おっしゃってください」 「ただ、女ひとりではいろいろと心細いことが多うございます」 「そうでしょうな。お困りのときにはいつでもおっしゃってください。よろこんで御相談に乗ります」 「徴舒が早く任官してくれたら、私も安心なのですけど、それまでは……」 「そのことなら御安心ください。御令息はいくつになられましたかな」 「もう十七でございます」 「それにしては、奥さまはお若い。御令息のお姉さんとしか見えん。お美しい。ほんとうにお美しい」  孔寧は酒がまわってきたふりをして、そういった。 「おからかいになっては困ります」 「いや、ほんとうです。天女のようにお美しい」  やがて夜も更けて、寝所へ案内された孔寧は、引きさがろうとする荷華(かか)を呼びとめていった。 「奥さんはもうお休みになったかな。もしまだなら、つたえてくれんか。いま思い出したのだが、御令息のことでお話ししたいことがある。あすの朝早くおいとまするから、今夜のうちにお話ししておきたいとな。わかるな」  そして、腰につるした璧(たま)をはずしながら、 「これでは不足かも知れんが、たのみ賃だ。きょうは狩(かり)にきたので、なにも持っておらんのだ。うまくつたえてくれたら、こんどきたとき改めてお礼をする」  荷華はその璧を受けとり、いかにも心得たというふうにうなずいて出ていったが、しばらくするともどってきて、 「御案内するようにとおっしゃいました」  といった。  夏姫の部屋には、小卓の上に酒の用意がしてあった。しばらく待っていると、寝化粧をした夏姫が出てきて、 「押しの強い大夫さまね」  といい、嫣然(えんぜん)と笑った。 「じつは御令息のことで……」  と孔寧がいうと、夏姫は、 「それよりも、まずお酒をどうぞ」  と孔寧を小卓の前に掛けさせて、その膝の上に斜めに腰をおろして片手を孔寧の腰にまわし、片手を卓上にのばして杯に酒をつぎ、孔寧の口にあてがった。  孔寧が一口飲んで、 「こんなことになろうとは、夢のようだ」  というと、夏姫はいたずらっぽく笑って、 「まあ。ちゃんとそのおつもりだったくせに」  といい、杯を持った手を遠くへ離して、匂うばかりのその顔を孔寧の顔へ近づけると、自分の鼻で孔寧の鼻をこすりながら、 「立派なお鼻。私、はじめてこのお鼻にお目にかかったときから、大夫さまをおしたいしていましたのよ」  といって、なおも鼻をこすりつける。孔寧は有頂天になって、 「奥さん、私は決して恥じませんぞ、この鼻に」 「そうらしいわね。もうむくむく動いているわ」  夏姫はそういって孔寧の膝から下り、その足もとにうずくまった。  その夜のよろこびは、孔寧にとっては、生れてはじめて経験した深いものだった。それは夏姫が、久しぶりに陽の気を吸うたのしさで、その秘術のかぎりをつくしたためであった。  しばらくまどろんでから眼をさました孔寧は、そっと起き出すと、そこにぬぎすてたままになっていた夏姫の襦袢(じゆばん)を着こんで、自分の部屋へ帰り、夜があけるまでぐっすりと眠った。  孔寧ははじめて経験した異常なよろこびが、うれしくてならなかった。思うだけで、ぞくぞくと身体がふるえてそのよろこびがよみがえってき、口もとがおのずからほころんでくる。誰かにいわないことには身体のふるえがとまらないような気がした。  ——そうだ、儀行父(ぎこうほ)も、ずっと前から夏姫に惚れていた。よし、あれにきかせてうらやましがらせてやろう。  孔寧は同僚の大夫の儀行父をさがし、襟(えり)をあけて例の襦袢を見せながら、誇らしげに、 「これがわかるか」  といった。 「なんだ、女物なんか着こんで、気でも狂ったのか」  儀行父がそういうと、孔寧はいっそう得意になって、 「気も狂うさ。これはあの夏御叔の奥さんにもらってきたのだ」  そして、いまもなお身内に残っているような、あの生れてはじめて味わった深いよろこびを、さらに誇張して話したのである。 「してやられたか」  と儀行父はいまいましげにいった。 「綺麗なだけではなく、そんなにすばらしいのか。うそではあるまいな」 「うそだと思うなら、ためしてみるがよい」 「とりもってくれるというのか」 「荷華という物わかりのよい侍女がいる。それにたのめばとりもってくれるだろう」  儀行父はさっそく家の者に荷華の身許をしらべさせ、親に賄賂(まいない)をおくって荷華にわたりをつけた。  夏姫は荷華から話をきくと、すぐ承知をした。孔寧にゆるして儀行父を拒むというわけにはいかない。同じく大夫で、徴舒(ちようじよ)の任官を早くしてもらうためには欠くことのできない人である。それに、久しぶりに陽の気を吸って欲火が燃えてもいた。  儀行父が荷華の手引きで株林(ちゆりん)の館へゆき、孔寧と同じく夏姫によって生れてはじめての深いよろこびを味わいつくしたことは、いうまでもない。  その翌朝、儀行父は明るい光の中で夏姫の輝くばかりの裸身にたわむれながら、 「奥さん、私にもこの肌につけた襦袢をくださいよ。孔寧にだけやさしくなさることはないでしょう。それとも私は孔寧に劣りますか」 「孔寧さまもご立派だけど、あの鼻ほどではないかも知れないわね」 「それならどうして孔寧にだけ襦袢を……」 「あれは孔寧さまが、私の知らない間に黙って持っていらっしゃったのよ」 「そうでしたか。私には、ちゃんとくださいますね。私の方がすぐれているしるしに」 「そんなことおっしゃっては、孔寧さまにわるいでしょう。私、あなたのほうがすぐれているとはいわなかったはずよ」 「おっしゃらないのなら、これにきいてみましょう」 「まあ、もう日が昇っているのに、またなの?」  そのあとで夏姫は、昨夜ぬいだ襦袢をとって、 「これ着られるかしら」  といって儀行父にわたした。  儀行父がそれを着て宛邱(えんきゆう)に帰り、前に孔寧が儀行父に対してしたように、襟をあけてそれを孔寧に見せたことも、いうまでもない。 三  その後、孔寧(こうねい)は、儀行父(ぎこうほ)と謀って陳(ちん)の霊公に夏姫(かき)をすすめた。  ——霊公が夏姫をよろこばぬはずはなく、夏姫も徴舒(ちようじよ)のために霊公を拒むはずはない。それよりも、霊公は夏姫をすすめたわれわれ二人を徳とするにちがいない。さらに霊公が夏姫をよろこんで徴舒を任官させれば、われわれの夏姫に対する面目も立つ。  それが二人の魂胆であった。  はじめ、霊公は怒った。 「おまえたちは、私にお古をおしつけてどうしようというのか。夏姫の名は私もきいたことがないではないが、いくら美貌だといっても、もう四十であろう。若くて美しい女が後宮にはいくらでもいるのに、おまえたちはなんの魂胆があって子供を生んだことのあるような、年とった女を私にすすめるのだ」 「魂胆などございません」  と孔寧はいった。 「おっしゃるとおり、夏姫は年は三十七ですが、十七、八にしか見えません。身体も十七、八の若い女とかわりません。しかも、たぐいまれな美質をそなえていて、すばらしい秘術も心得ております。おそらく夏姫のような女には殿も一度もおあいになったことはないはずです。それゆえおすすめいたしましたまでのこと、なにも魂胆などあろうはずはございません」  霊公はようやく心を動かしていった。 「それほどまでいうのなら、あすにでも株林(ちゆりん)へいって夏姫にあってみよう。そのようにとりはからってくれ」  しかしなお、霊公は思っていた。  ——美質といい秘術といったところで、宮嬪(きゆうひん)たちとさほどのちがいがあるものでもなかろう。  それだけに、夏姫の秘術をつくしたもてなしを受けたときの霊公のよろこびははげしかった。 「夏姫よ、そなたはほんとうに徴舒の母なのか」 「わたくしは内視の法という秘術を心得ております。子供を生みましても、三日とたたぬうちに乙女の姿にもどります」 「それならば、そなたは神仙であろう」  霊公はそういってまた挑(いど)み、陶酔のはてに夏姫に精気を吸われながら、 「仙界に舞いのぼっていくような心地だ」  といい、しきりに歓喜の声をあげているうちに、次第に眠りに落ちていった。  翌朝、夏姫にゆりおこされた霊公は、夏姫がまだ納めたままでいることに気づくと驚喜していった。 「ずっとこうしていてくれたのか」 「はい、いつまでもこうしていたかったからでございます」 「うれしいことをいう。私にはもう、宮嬪たちが糞土(ふんど)のようにしか思えなくなってしまったが、そなたはずっと私を心にかけてくれるか」 「もったいない仰せでございます。どうしてそのようなことをおっしゃいます?」 「もしそれがほんとうなら、その心のあかしに、そなたの匂いのしみている襦袢をくれるか。肌身離さず着ていたいのだ」  霊公はその襦袢を着こんで宮居へ帰ると、さっそく孔寧と儀行父を呼んでいった。 「夏姫はまことにそなたたちのいったとおり、たぐいまれな美質をそなえた女であった。そなたたちへの褒美に、なんでも望みのことをかなえてやろう。ただし、夏姫を独り占めにしたいなどといってはならぬぞ」 「褒美をいただきたくておひきあわせしたわけではございませんが、一つだけお願いしたいことがありますので申し上げます。それは、殿こそ夏姫を独り占めにしたいなどとはおっしゃらないように、ということです」  孔寧がそういうと、霊公は声をたてて笑って、 「仕方がない。かなえてやろう。ところで、そなたたちは夏姫の心のあかしのこういうものは持ってはおるまい」  といい、襟をあけて例の襦袢をのぞかせた。すると孔寧と儀行父は顔を見合せて笑い、 「それはおそれ入りました。まことに申しわけない次第ですが、私どもも……」  と、いっしょに襟をあけて見せた。 「そうか。そうであったか。そなたたちも夏姫の心のあかしをもらっていたのか。僭越(せんえつ)だぞ」  霊公はそういって、大声で笑いだし、一国の政治をはかるべき廟堂(びようどう)で王と二人の大夫は女色を語ってあきることなく笑いたわむれているのだった。 『史記』の「陳杞世家(ちんきせいか)」にはつぎのように記されている。 霊公、その大夫孔寧、儀行父、皆、夏姫に通じ、その衣を衷(うちにき)て、以て朝(ちよう)に戯(たわむ)る。泄冶(えいや)、諫めて曰(いわ)く、君臣淫乱す、民何をか効(なら)わんやと。霊公、以て二子に告ぐ。二子、泄冶を殺さんと請う。公、禁(とど)めず。遂に泄冶を殺す。  大夫の泄冶が、見るに見かねて霊公を諫めたのである。 「下(しも)は上(かみ)にならうというではありませんか。君臣が淫乱いたしますならば、人民はなにを見ならうでしょうか」  おそらく霊公は一言もなかったであろう。泄冶の諫言(かんげん)を霊公がどのように孔寧と儀行父につたえたかは、『史記』の文章からはわからない。 「泄冶に諫められたよ。つつしむことにしよう」  といったのかも知れないし、あるいは、 「泄冶が忠義づらをして諫めよった。いやなやつだ」  といったのかも知れない。  稗史(はいし)は『史記』の行間をつぎのようにうずめる。  泄冶が「君臣淫乱す」といって霊公を諫めた以上、孔寧と儀行父にとっては、泄冶を無きものにしなければ身の安全は保たれない。 「いっそのこと、殺してしまったらどうでしょう」 「いやなやつだが、泄冶は陳の柱石だ。私にはそれはできぬ」 「それでは、あの夏姫をおあきらめになるのですか」  霊公は答えることができない。 「それでは、私どもがやります」 「私は知らんぞ。私はなにも知らんぞ」  泄冶が入朝の途上、刺客に襲われて死んだのは、それから数日後のことである。刺客は逃走し、ついに捕えられなかった。  泄冶(えいや)が殺された翌年、周の定王の八年春、霊公は、十八歳になった徴舒(ちようじよ)を司馬に任じて父夏御叔(かぎよしゆく)の後をつがせた。  陳の国人の霊公を誹謗(ひぼう)する声は、日増しに高くなっていた。泄冶の死後も依然として夏姫にうつつをぬかし、株林ゆきをやめなかったからである。徴舒の耳にも、しきりにその声はきこえてきた。その中には徴舒は母の色香によって司馬の官にのぼったという声もまじっていた。  しかし、霊公の耳には国人の誹謗も馬耳東風であった。その年の六月、霊公は孔寧、儀行父とともに株林の夏姫の館(やかた)で酒宴をひらいた。徴舒は司馬として麾下(きか)の部隊をひきつれて霊公の護衛にあたったが、また、夏家の当主として接待もした。徴舒は、霊公ら三人と母との噂の真偽をたしかめたかった。いまはその絶好の機会だと思った。  酒がひとめぐりしたとき、霊公がいった。 「夏姫どのも徴舒も、しばらく席をはずしてくれぬか。国事のことで密談があるのだ」  徴舒は母を部屋へ送ってから、部隊の者らに指示しなければならぬことがあるからといって、いったん外へ出、また引きかえして宴室の扉の外の衝立(ついたて)のかげにかくれた。すでに密談はおわったらしく、霊公の大声がきこえてきた。 「徴舒は弱年ながら堂々たる体躯をしているな」  自分のことがいわれているので、ハッとして一層きき耳を立てると、 「眼光は鋭いし、それに大きな鼻をしている。孔寧、そなたに似ているぞ。あれはそなたの子ではないのか」 「なにをいわれます。口から顎にかけては殿にそっくりですよ。殿こそ、われわれをいつわって夏御叔の生きていたころから夏姫をものにしておられたのではありませんか」  孔寧がそういうと、儀行父が、 「いや、あれは誰の子かわかりませんよ。おそらく夏姫にもわからんのじゃありませんか。雑種の子というところですかな」  といい、三人はどっと笑いだした。  徴舒は思わず衝立の端をにぎった。身体がわなわなとふるえて、衝立が鳴った。 「誰だ!」  という声が中からきこえた。 「もうすんだ、入ってもよいぞ」  徴舒は急いで外へ出、部隊の兵士たちの前へいってしばらく気をしずめた。それから兵士たちを集めていった。 「みんな静かにきいてくれ。おれはこれまで諸君にいってきた。みだりに人を誹謗してはならんと。だが、諸君が耳にし口にしてきたことは、みな、ほんとうのことだったのだ。おれにはいま、それがはっきりとわかった。おれが母の色香によって司馬になったということも、ほんとうだったのだ。そんなおれのいうことなど、きけないという者はきかなくてよい。きこうと思う者だけでよい、きいてくれ。陳は小国だ。北には晋(しん)、南には楚(そ)という大国があって、たえずおびやかされている。このままでは陳は列国の餌食になって滅びるよりほかない。それを支えてきたのは大夫の泄冶(えいや)だった。その陳の柱石を殺したのは誰か。政権を壟断(ろうだん)して国政を紊乱(びんらん)し、国をあやうくして私腹を肥やし、民を苦しめて私財をたくわえてきた二人の大夫、孔寧(こうねい)と儀行父(ぎこうほ)だ。その二人の佞臣(ねいしん)にあやつられて、国を忘れ民を忘れて酒色におぼれている暗君は誰か。おれはいま、陳の危急を救うために三人のこの陳の敵(てき)を討つ。おれに従いたくない者はおれに弓を引け。従おうとする者はおれにつづけ」  兵士たちは喊声(かんせい)をあげ、徴舒につづいて館の中へなだれこんでいった。だが、そのときはすでに、孔寧の姿も儀行父の姿も館の中にはなかった。変事を察して、いちはやく逃走してしまったのである。霊公は孔寧と儀行父を見失い、救いを求めて夏姫の部屋へ逃れようとしたが、中門(ちゆうもん)がとざされていてはいれず、後園の方へ逃げた。後園には厩(うまや)があった。馬に乗って逃れようとしたのである。徴舒がその姿を見つけた。徴舒は大弓をひきしぼって一喝した。 「暗君、覚悟!」  足がすくんで動けなくなったところへ、矢が飛んできてその胸に刺さった。  いわゆる「株林(ちゆりん)の変」である。陳の霊公を殺した徴舒は全国軍を掌握し、自立して陳の王となった。孔寧と儀行父は南方の大国楚(そ)へ逃れ、霊公の子の午(ご)は北方の大国晋へ逃れた。 四  楚へ逃れた孔寧(こうねい)と儀行父(ぎこうほ)は、荘王に対して夏徴舒(かちようじよ)の討伐を乞うた。  大国の楚にとっては、夏徴舒を討つことはきわめて容易なことであった。それは陳を併合してしまう絶好の機会でもあった。ただ問題は、北方の大国晋(しん)の出方である。晋には陳の霊公の子の午(ご)が逃れていっている。楚が陳を併合してしまえば、おそらく晋は黙ってはいないだろう。楚も晋とのあいだに事を構えたくはなかった。  荘王は夏徴舒の討伐について、群臣にその可否をはかった。そのとき積極的に、討つべしと主張したのは、大夫の屈巫(くつふ)であった。  屈巫は、翌年、楚が夏徴舒を討って陳を併合したとき、荘王を諫めてこういっている。 「牛をひいて人の田を通れば、田の持主がその牛を取る、という諺(ことわざ)がございます。人の田を通るのもよろしくありませんが、田の持主が牛を取りあげることは、さらによろしくありません。王は夏徴舒が陳で乱をおこしたため、陳を討たれました。つまり、義を以て陳を討たれたわけですが、その陳をわが楚に併合してしまうことは、すじみちが通りません。そのようなことをなさっては、今後天下の諸侯に号令をすることはできないでしょう」  荘王はそれをきいて陳を復興し、晋へ逃れていた午を立てて陳の王にした。これが成公だが、これによれば、はじめ屈巫が夏徴舒を討つべしと主張したのは、あくまでも義のためであったということになろう。  ところが、稗史(はいし)ではそのようには見ないのである。  屈巫は文武両道にすぐれた人物であったが、また、すこぶる貪淫(たんいん)好色で、彭祖(ほうそ)の房術にあこがれていた。彭祖というのは、堯(ぎよう)のとき大彭に封ぜられてから長命して後に殷(いん)の大夫になったという人である。長命といっても、ただの長命ではない。じつに七百六十七年の齢(よわい)を重ねたのである。それは「導引行気」の房術を心得ていたからだという。導引行気とは、おそらく、夏姫(かき)が会得した「吸精導気」とは逆に、陰の気を吸収して陽の気を補う術であろう。屈巫はかつて陳へ使(つかい)したとき、夏姫が秘術を会得しているということをきいた。彭祖の房術にあこがれている屈巫が、夏姫にあこがれないはずはない。彼が夏徴舒討つべしと主張したのは、陳へ出兵して夏姫を奪って来ようという野心をいだいたからだったという。  荘王は陳に出兵し、夏徴舒をとらえて車裂きにし、夏姫をとりこにして楚の都郢(えい)に引きあげてきた。屈巫にとって無念でならなかったことは、荘王が出兵するとき、病(やまい)のために同行することができなかったことである。十日あまりおくれてあとを追っていった彼は、陳の都宛邱(えんきゆう)の城門に屍臭をただよわせてさらされている夏徴舒の遺骸を見ただけで、夏姫に会うことはできなかった。屈巫といれちがいに夏姫は郢(えい)に送られてきたのである。  陳では成公が晋から帰って即位し、孔寧と儀行父も楚から帰国して大夫の職に復したが、以来二人はともに徴舒の亡霊に悩まされつづけて、間もなく変死した。鄭(てい)の公子蛮からかぞえて、夏姫の七、八番目の犠牲者になったわけである。  荘王は夏姫を見たとき、聞きしにまさるその美しさと若々しさに、しばらくは茫然として、為(な)すすべを知らなかったという。自分が車裂きにしたあの夏徴舒の、これがどうして母であろうか、と思った。夏姫はそのとき三十九歳だったが、依然として二十歳前後にしか見えなかった。  夏姫は後宮の中の一室に監禁された。荘王は夏徴舒を車裂きにしたときと同じような、正義でつつんだ残忍性で、宮女たちの前で夏姫を全裸にしたが、そのときもまた、しばらくは茫然として、為すすべを知らなかったという。容貌だけではなく、その裸身のすべても二十歳前後の乙女とかわらなかったからである。その後、荘王はしばしば夏姫に挑んだ。夏姫は拒まず、荘王のとりこの身を以て荘王をとりこにした。  屈巫(くつふ)は気が気でなかった。荘王が夏姫を後宮の一室に監禁したままでいるのを見て、やがてはそのまま後宮にいれるつもりではなかろうかとおそれたのである。 「夏姫をどうなさるおつもりです」  荘王の機嫌のよいときをうかがって、思い切ってたずねてみると、はたして荘王は屈巫の最もおそれていたことをいった。 「いずれ後宮にいれたいと思っている」 「なりません!」  屈巫は愕然としながら、必死の思いでいった。 「夏姫は、家にあっては庶兄たちと通じ、寡婦となっては一君二臣と通じて国をくつがえした女です。そのような女を寵愛(ちようあい)なされては、天下の人々はわが楚に道なしと評しましょう」 「それなら、望む者に与えよう」  意外にも荘王はあっさりとそういった。中原(ちゆうげん)に覇をとなえようという野望をいだいている荘王である。小国の暗君とはちがった。 「それでは私がいただきましょう」  といいだした公子が幾人かいた。屈巫はそれに対しても、王族の身でありながらといって、とめた。荘王はそれを見ると、夏姫を独りにしておくことは禍(わざわい)のもとになると察し、自ら選んで武将の襄老(じようろう)に与えた。  その翌年、周の定王の十年、楚は鄭(てい)を争って晋と戦った。襄老が荘王に従って出征すると、夏姫は襄老の長子の黒要(こくよう)と通じた。その間に襄老は戦死し、その遺骸は晋へ持ち去られたが、黒要は夏姫に恋々として、戦いがすんでも父の遺骸を晋へ迎えにいこうともしない。夏姫の困っているのを知った屈巫は、ひそかに使をやって夏姫につたえさせる。 「御主人の遺骸をお迎えになりたいのなら、鄭へお帰りになって兄君の襄公から晋にたのんでいただくのが最上の方法でしょう。もしその気がおありなら、私がお力添えいたしましょう」  夏姫はこのときはじめて、屈巫が自分にあこがれていることを知った。屈巫は夏姫を鄭へ帰らせた上で、自分も楚を捨てて夏姫とともに暮そうとたくらんだのである。  屈巫はその翌年、夏姫を鄭へ帰らせた。だが屈巫が夏姫と再会したのはそれから七年後である。そのとき夏姫は四十八歳だったが、依然として若々しく美しかった。十五歳のあの夜、夏姫に秘術を授けた星冠羽衣の偉丈夫の、これまでは全く忘れていた言葉が、屈巫に抱かれたとき夏姫によみがえってきた。 「そなたの幸福は彭祖(ほうそ)の術者と逢って充実し、そなたの宇宙は彭祖の術者と逢って完成するであろう」 邯鄲(かんたん)の妖媛(ようえん) ——朱太后(しゆたいこう)(秦) 一  周(しゆう)の最後の天子、赧王(たんおう)の末年のころである。  斉(せい)・楚(そ)・燕(えん)・趙(ちよう)・韓(かん)・魏(ぎ)・秦(しん)の戦国七雄のうち、最も文化の進んだ中原(ちゆうげん)の地を占めていたのは趙・韓・魏のいわゆる三晋(さんしん)で、これをかこむような形で東には斉、北には燕、南には楚、西には秦が勢いを張っていたが、これら戦国七雄のうちで最も強大なのは秦であった。  中原の三晋のなかでも殊に文化の進んでいたのは趙で、その首都邯鄲(かんたん)は最も優雅な、文化の花咲く都として知られていた。そのころ趙は、しばしば秦の侵攻を受けて、国力は疲弊していたが、それにもかかわらず邯鄲の町は殷賑(いんしん)をきわめていた。戦火の拡大に対する不安がかえってそれを駆りたてる一方、戦火によって苦しむ者が多くなればなるほど、それによって利を得る者もすくなくなかったからである。  邯鄲の一郭の狭斜(きようしや)の巷(ちまた)も、戦火をよそに(あるいは、戦火の拡大するにつれて一層)にぎわっていたが、その狭斜の巷に毎夜のように遊びにくる一人の男がいた。年のころは三十前後、堂々たる体躯の美丈夫で、しかも金を惜しまず豪遊したので、女たちは競って彼の歓心を買おうと努めたが、彼は同じ女を二度相手にすることはなく、邯鄲三千の美姫を一人ずつ、ことごとく試そうとしているかのようであった。  この男は呂不韋(りよふい)といって、韓の陽〓(ようてき)の豪商であった。諸国を往来している交易商人で、邯鄲にも豪壮な邸宅を構えて幾人もの手下を配置していた。彼はしばらく邯鄲を留守にしていたが、まもなくもどってくるとまた、夜々(よなよな)狭斜の巷へ出入りしだした。その遊びぶりの豪快さは前とかわらなかったが、幾日かたったとき、一人の女にめぐりあってからは、これまでとはちがって夜毎(よごと)その女だけを相手にするようになった。  女は朱姫(しゆき)といって、年は十八。容姿艶麗で、歌と舞いにかけては邯鄲三千の美姫のなかにもその右に出る者のいない名手といわれていた。邯鄲の貴公子や富家の子弟たちは、大金を惜しまず、争って彼女と好(よし)みを通じることを願ったが、彼女は、一度とった客に対しては、たとえ千金を積まれても二度と応じようとはしなかった。  二度と同じ女を相手にしない客と、二度と同じ客をとらない女とが、逢瀬を重ねだしたのである。邯鄲の狭斜の巷ではたちまち二人のことが噂されだしたが、二人の耳にはかまびすしい噂もきこえぬらしく、互いにほかの女にもほかの客にも見むきもせず、二人は夜毎むつびあって飽きることを知らないようであった。  ある夜、朱姫は呂不韋に抱かれて、すすり泣きながらいった。 「わたしを、いつまでもはなさないで! 側妾(そばめ)にでも婢女(はしため)にでもして、ずっとおそばに置いてください」  呂不韋はそれには答えずに、笑いながらきいた。 「おまえは、同じ客を二度とはとらなかったそうだが、どうしてだったのだ」 「ご存じのくせに! あなたのようにいっぱいに満たしてくれる客がだれもいなかったからですわ。……あなたこそどうして、同じ女を二度とはお相手になさらなかったのです?」 「おまえのような女をさがしていたからだ。おまえのようにやわらかく包みこんでくれる女がだれもいなかったからさ」 「それなら、はやくわたしを身請けして、ずっとおそばへ置いてください」 「もちろんそうするつもりだが、それよりもおまえは、天下の国母になりたくはないか」 「なんでわたしのようなものが、天下の国母になれましょう。たとえなれたとしても、あなたの側妾でいるほうがわたしは、うれしい」 「いや、商人の側妾でいるよりも、天下の国母になるほうがよいにきまっている」 「わかりました。あなたは天下の国父になるおつもりなのですね。それなら、わたしも天下の国母になりとうございます」 「いや、わしは国父にはならぬ。たぶん、仲父(ちゆうふ)と呼ばれる身にはなれるだろうがね。それも、おまえがわしの子を孕(みごも)ってくれぬことには、できぬ相談なのだ」 「なんのことかわかりませんが、身請けをしていただいて、あなたの子を生むことができれば、こんなうれしいことはありません」 「いまにわかる。そのときになったら、くわしく話そう」  その翌日、呂不韋は、さっそく朱姫を身請けして、その壮大な屋敷へ引きとった。 二  これよりさき、呂不韋(りよふい)は、秦の昭襄王(しようじようおう)の孫で、趙(ちよう)に対する秦の人質として邯鄲(かんたん)におくられてきている子楚(しそ)という者を知った。  昭襄王の太子の安国君(あんこくくん)には二十数人の子があって、子楚はそのなかの一人であったが、その生母はすでに亡く、しかも生前から安国君の愛をうしなっていたので、二十数人の兄弟たちのなかで最も父の安国君にうとまれていたのである。子楚が人質として趙におくられてきたのは、そのためであった。  邯鄲での子楚は、本国からはほとんど見捨てられていて、めったに仕送りもなく、趙からは、秦が親善のしるしとして人質を送りながらしばしば侵攻してくるために、憎まれ冷遇されていて、日常の用にさえことかくありさまであった。  ある日、呂不韋は、その子楚が趙の兵士たちに護衛されながら輿(こし)にゆられていく姿を見たのである。それは、天下第一の強国である秦の王孫の姿とは到底思えぬ、みすぼらしい姿だった。 「あの輿の上の人は誰ですか」  呂不韋はあたりの者にきいてみたが、誰も知らなかった。なかに一人、知っている老人がいて、 「秦から人質にきている子楚という人ですよ。王は秦がしばしば趙の地を侵すので、人質の子楚を殺そうとして召し出されたのですが、重臣たちがみな秦をおそれて、人質を殺せば秦はそれを機に一挙に攻めてくるだろうと進言したために王は思いとどまられたのです。それで館(やかた)へ送りかえされていくところですよ」  と教えてくれた。  そのとき呂不韋は思った。 「奇貨(きか)居(お)くべし!」  ——これは掘り出しものだ、買っておこう。呂不韋が子楚を奇貨と見たのは、安国君の正夫人の華陽(かよう)夫人に子がないということを考えあわせたからであった。  呂不韋はさっそくつてを求めて、子楚の館へゆき、警固の趙兵を買収して子楚に面会を求めた。子楚は豪商呂不韋の名を知っていて、何をしにきたのだろうといぶかりながら会った。 「ごらんのような貧乏ぐらしです。わたしのところには、あなたの利になるようなものは何もないはずですが、どんなご用でおいでになったのです」  子楚が不機嫌にそういうと、呂不韋は笑いながら、 「いや、わたしはあなたの門を大きくしてさしあげようと思って、おうかがいしたのです」 「わたしの門を大きくしたところで、あなたには何の利もないでしょう。それよりもご自分の門をさらに大きくなさったらよいでしょう」 「わたしは商人です。利にならぬことをするはずはありません。あなたの門を大きくしようというのは、そうすればわたしの門も大きくなるからです」 「わたしが本国から見はなされているということも、ご存じの上でですか」 「そうです。すべて計算した上でです」  呂不韋がそういうのをきくと、子楚は呂不韋が本気で何ごとかを画策しているらしいことを察して、奥の居間へ通し、人ばらいをしてから、 「さあ、あなたの考えをききましょう」  といったが、呂不韋が、 「わたしは、あなたをまず、太子にしてさしあげようと思っております」  というと、笑いだして、 「あなたはやはり、何もご存じない」  といった。 「まあ、おききください」  呂不韋は子楚を制していう。 「秦王はご老齢です。太子のご夫人の華陽夫人にはお子がありません。秦王に万一のことがあれば、太子が即位されます。そのときにはあらたに太子をおきめにならなければなりません。あなたは人質として他国に出ておられる身ですから、二十幾人のご兄弟のなかで、太子になられる望みの最もうすいおかたです」 「そのとおりだ」  と子楚がいうと、呂不韋は膝を乗り出していった。 「物の値段というものは、人々がほしがればほしがるほど高くなります。高い物には誰もが眼をつけますから、利を独占することはほとんど不可能です。だが、ここに誰もが見捨ててかえりみない品があるとします。わたしはその品を安く買おうというのではありません。わたしのこの地の財産のことごとくを投じてそれを買い、わたしの腕によってその値をつりあげようというのです。もし値をつりあげることができれば、わたしの投じた財産は何千倍、何万倍になってかえってくるはずです。そこが商人であるわたしの腕の見せどころです。おわかりくださるでしょうか。わたしはあなたを、わたしのこの地の全財産を投じて買おうというのです。いかがですか」 「よろしい。売りましょう。そして、もしあなたの計画が成功したときには、秦の国をあなたと共有しましょう。ところで、わたしはあなたにわたしを売って、なにをすればよいのですか」 「わたしの全財産の半分をあなたにさしあげますから、あなたはそれによって大いに門戸を張り、趙の名士たちや他国から人質にきている王族のかたがたと交わりを厚くして、あなたの名声を高めてください。わたしは残りの半分の財産で、本国であなたの値をつりあげることに努めます」 三  呂不韋(りよふい)は子楚にいったとおり、全財産の半分を子楚にあたえ、あとの半分で高価な珍しい品々を買いあつめると、それを幾人かの手下の者に運ばせて秦へむかった。  秦の首都咸陽(かんよう)につくと、呂不韋はまず、わたりをつけて華陽夫人の姉に会い、黄金五十両をおくっていった。 「わたくしは、趙(ちよう)に人質となっておられる子楚さまの使(つかい)としてまいりました。これは子楚さまから、伯母上さまへのおおくりものでございます。どうかお受けとりくださいますよう。そうしていただかないことには、わたくしの使としてのお役目がはたせません」 「わたしは子楚さまには半面の識(しき)もございませんのに、華陽夫人の姉だからといってわたしを伯母上とお呼びなされ、このように厚く礼物をおとどけくださるとは」  華陽夫人の姉は、満面に喜色をうかべながらそういった。 「さようでございます。子楚さまは華陽夫人を母上とお慕いなさっておられ、秦王さまや安国君さまの聖寿の日はもちろんのこと、華陽夫人さまの聖寿の日にも、そのほか月の一日と十五日にも、かならず斎戒沐浴(さいかいもくよく)して、故国にむかって礼拝なされ、ご膝下に孝養をつくすことのできない身をみずから責めておられます。華陽夫人の姉君であらせられるあなたさまに対しても、おろそかにお思いになるはずはございません」 「そうですか。子楚さまはそのようなおかたでしたか。せっかくのお志、お受けしないことにはかえって失礼にもなりましょうし、御使者のあなたもお困りになりましょう。ありがたく頂戴しておきます。ところで、子楚さまは、さぞかし国へ帰りたく思っておられるでしょうね。あなたはおそばにいて、よくご存じでしょう?」 「さきにも申しましたとおり、秦王さまに対しては孫として、安国君さまと華陽夫人さまに対しては子として、あなたさまに対しては甥(おい)として、おそばでお仕えできないことをかなしんでおられますが、ほかのことで帰りたいとおっしゃったことはいちどもございません。わたくしがこのたびおとどけにまいりました子楚さまからのおおくりものは、その、おそばでつかえることのできないためのおわびのお気持でございましょう。子楚さまは趙では秦の人質として、堂々とふるまわれ、その門には諸侯の賓客のかたがたや名士の往来がたえることなく、大いに秦のために名声を高めておられます。さきに秦軍が趙の地に侵攻いたしましたときにも、趙王は怒って子楚さまを斬ろうとなさいましたが、趙の住民たちがみな子楚さまの助命を歎願いたしましたために、ことなきを得られたほどでございます」 「趙の住民たちがなぜ、子楚さまの助命を歎願したのですか」 「それは子楚さまのご仁徳が趙の住民たちにまで及んでいるからでございます。趙の住民たちはみな子楚さまの徳を感じ賢をたたえております」 「安国君さまや華陽夫人は、そのことを知っておいででしょうか」 「あるいはもうお耳に達しているかもしれません。子楚さまの趙での名声はまことに赫々(かくかく)たるものでございますから。……これは大事なことを申しおくれました。華陽夫人さまへの子楚さまからのおおくりものも、わたくし、あずかってきておるのですが、お引きあわせくださいませんでしょうか」 「おやすいことです。明日、おとりつぎいたしましょう」 「ありがとうございます。……華陽夫人さまには、お子さまは幾人おられるのですか」 「一人もないのです」 「そうでしたか。それなら、まことにさし出がましいことを申しますが、安国君さまのお子さまがたのなかから賢明で孝心の厚いかたを選び、養子として迎えた上で嫡嗣(ちやくし)にお立てになっておかれますように、姉君としておすすめになったほうがよいと思います。容色を以て人に仕える者は、容色が衰えると寵愛(ちようあい)もまた薄れるといいます。いまのうちにそうなさっておかれなければ、後になってかなしい目におあいにならないとも限りません」 「わたしもそう思うには思うのですが、どなたを選ぶかということになると、まったく手がかりがつかめないのです。おそらく華陽夫人にしても同じことだろうと思います」 「それならば、わたくしは子楚さまをおすすめいたします。なにゆえかと申しますと、第一に、ほかのかたがたとはちがい、子楚さまの母君は亡くなっておられて、なんのさまたげもございません。ほかのかたがたですと、養子にして嫡嗣にたてたあとで、その母君が華陽夫人さまをおしのけようとなさるおそれがないとはいえません。第二にはさきにも申しましたとおり、子楚さまが華陽夫人さまを母上として慕っておられ、しかも才・徳ともにすぐれておられることです。第三には子楚さまはもし華陽夫人さまによって嫡嗣にたてられたならば、その重恩に感じて、終生忘れることなく益々お慕いになることは明らかだからでございます。そうなれば華陽夫人さまはもとよりのこと、あなたさまのご身分も益々安泰でございましょう」  翌日、華陽夫人の姉は、呂不韋のいったことをほとんどそのまま夫人に伝えた。  華陽夫人はしきりにうなずきながらきいていたが、姉が話しおわると、 「なるほど。そうするのがいちばんよい方法でしょう。その呂不韋という者を呼んでください」  といった。呂不韋はそのとき宮門の外に控えていたが、呼び出されて華陽夫人に四拝の礼をささげ、邯鄲(かんたん)で買い求めた高価な品々の目録を、子楚からのおくりものとして、献納(けんのう)した。華陽夫人は呂不韋の堂々たる体躯と、立居振舞の整々として人品もいやしくないのを、いかにもたのもしげに見つめながら、 「このたびは遠路のお使(つかい)、ご苦労でした」  とねぎらってから、 「そなたの使の目的は、おくりものよりも、わたしに子楚を嫡嗣にたてさせることだったのでしょう」  といった。 「いいえ。姉君さまから、華陽夫人さまにはお子さまが一人もいらっしゃらないとおききいたしまして、秦国のために最もよいと思われる方法を申しあげたのでございます。もしそのようにしていただけますならば、子楚さまもどんなにおよろこびになるか知れません。わたくしも子楚さまに対して、なによりのおみやげができて、こんなうれしいことはございません」  華陽夫人はいよいよたのもしげに呂不韋を見ながら、 「事がきまるまでには、なお幾日かかかりましょう。それまで宿舎のほうで休んでいてください。そなたには子楚の後見役をお願いすることになりましょう」  その夜、華陽夫人は泣きながら安国君に訴えた。 「こうしてご寵愛をいただいておりますものの、子のないことを思うと、ゆくすえが不安でなりません。お願いでございます、趙にいらっしゃる子楚どのをわたくしの子にして、お世嗣ぎにたててくださいませ。公子たちのなかで母のないのはあのかただけです。あのかたは多くの公子たちのなかから、ひとりだけ人質に出されながら、なんの不平もなく、趙で異国の人たちにさえ慕われているほどの立派なかたです。あのかたならばわたくしを、末長く母として大切にしてくれるにちがいありません」 「わしはあれの母を憎んで、あれにまで冷たくしていたようだ。考えてみればあれにはなんの咎(とが)もないのだ。おまえのいうように、あれは忍耐づよいやさしいやつかもしれぬ。おまえのいうとおりにしてあげよう」  安国君は華陽夫人を安心させるために、玉(ぎよく)で割符(わりふ)をつくって子楚を嫡嗣とすることの証拠とした。  その翌日、安国君と華陽夫人は呂不韋を招き、懇請して呂不韋に子楚の後見役になることを承諾させ、また、子楚への手厚いおくりものを呂不韋に託した。  呂不韋は邯鄲に帰ると、趙の重臣たちや列国から邯鄲にきている賓客や名士たちを子楚の館に招いて、子楚が太子の世子になったことを披露した。これより子楚の名は、列国のあいだにようやく高まることになった。 四  呂不韋(りよふい)は邯鄲(かんたん)に帰ってからまもなく、朱姫(しゆき)が孕(みごも)っていることを知った。呂不韋にとって、それは二重のよろこびであった。 「でかしたぞ、朱姫!」  と彼はいった。 「おまえは、前にわたしが、国母になりたくないかときいたことを覚えているか」 「覚えてはおりますけど……」 「もしその子が男なら、おまえは国母になれるのだ。いや、かならずなれる。その子は男にちがいない」 「それは、どういうことでしょうか」 「わたしは子楚を秦の嫡嗣にした。いずれ子楚は秦王になる。子楚が秦王になれば、いまおまえの腹のなかにいるその子も、秦王になる。そうすればおまえは国母ではないか。わかるか」 「わかりません」 「おまえは、二、三日中に秦の嫡嗣のもとへ嫁ぐのだよ。子楚の夫人になるのだ」 「あなたの子を宿しておりますのに! いやです!」 「黙っておればよいのだ」 「いやです。子楚さまのところへゆくのがいやなのです」 「なぜ、いやなのだ。わたしはせいぜい宰相にしかなれぬだろう。子楚は王になるのだ。そうすればおまえは王妃だぞ。そして、その腹の子もやがては王になれるのだ」 「あなたは、わたしの腹を借りてご自分の子を秦の王にしたかったのですね。はじめから、そういう計画でわたしをお買いになったのですね。あなたは、わたしのことなどはなんとも思っていてくださらなかったのですね。わたしはただの品物なのですね」 「そんなことはない。どういったらおまえはわかってくれるだろうか……。わたしは商人だ。おまえに元手をおろしたことは確かだ。わたしにとっておまえは、高価な品物だといってもよい。それを愛さない商人があろうか。その愛する品物を、さらに高価なものにすることが商人の愛情というものだ。一介の商人の側妾(そばめ)と、一国の王の妃(きさき)と、品物としてどちらが高価かはいうまでもなかろう。わたしはおまえを高価なものにしたいのだ。わたしの側妾のままでは、おまえは高価なものにはならない。手ばなさなければそうならないのだ。手ばなしても、おまえを愛していることにはかわりはない」 「わたしを愛していてくださるのなら、手ばなさないでください。わたしは、いまのまま、あなたのおそばで、あなたの品物として愛玩(あいがん)してもらいたいのです。手ばなされて高価な品物になどなりたくありません。高価な品物として飾っておかれて、なんのたのしみがありましょう」 「わかったよ。むこうへいって話そう」  呂不韋はそういって、さきに寝室へはいっていった。  朱姫はいつものように、下女にてつだわせて身体を洗い、寝化粧をし、薄衣(うすぎぬ)をまとって、そのあいだに下女が用意した酒肴(しゆこう)を、寝室へはこんでいった。  呂不韋は朱姫にも酒をすすめながら、 「おまえは、同じ客を二度とはとらなかったな」  といいだした。 「おまえがさっきわたしにいったことは、かわるかもしれないよ。もし、子楚がわたしよりもすぐれていたら——。それきり、二度とわたしを呼ばなくなるかもしれないな」 「そんなはずはありません。あなたよりすぐれた人がいるはずは——」 「もし、いたら。そしてそれが子楚だったら」 「子楚さまはほんとうにそうなのですか」 「ほら、おまえの心はもう動いている!」 「いやですわ。そんなつもりでいったのではありません」 「どんなつもりでいったにしてもだ」  呂不韋は朱姫を寝台の上に誘い、薄衣を剥ぎとって、すぐ手で触れながら、 「これを手ばなすことは、わたしだってつらいのだ」  といった。 「それなら、お願いです、手ばなさないでください」  呂不韋は朱姫にも手に触れさせながら、 「手ばなしても、会いたいときには会える。そうでなければ、どうしてわたしがおまえを手ばなすものか。それよりもわたしが心配なのは、子楚がわたしのこれよりもすぐれていたときのことだ。もしそうだったら、おまえはもうわたしに会ってくれなくなるだろう。おまえが二度ととらなかった客たちのようにな」 「そんなはずはないといったでしょう?」 「もしそうだったとしても、会ってくれるね」 「きまってしまったようなことをおっしゃる! わたしはどこへもいきません」 「いってくれなければ困るのだ。わたしはもうきめてしまったのだ」 「子楚さまがそんなにわたしをお望みなのですか」 「そうなるはずだ。あした子楚を家に招く。子楚はおまえを見たら、きっと、おまえをほしがるにちがいない」 「ひとりできめていらっしゃるのね」 「わたしは誰よりも子楚を知っている。まちがいない。きょうは、おまえがわたしのものである最後の夜になるはずだ。これからは忍び会いをしなければならなくなるはずの夜だ。忍び会いもまた楽しいだろうけれど、いまは最後の夜を楽しもうよ。話はあとだ」  呂不韋はそういって朱姫を抱き、まだなにかいいたげにしている朱姫の口をふさいでしまった。  朱姫に歓(かん)をつくさせてから、呂不韋はいった。 「行ってくれるね、子楚のところへ。わたしたちはいつでも会えるのだから」 「子供が生れたら、あなたの子であることがわかってしまうのに」  と、朱姫はまだ喘(あえ)ぎながらいった。 「あと八ヵ月で生れるはずだろう。医者を買収して早産ということにすればよいのだ。八ヵ月の早産の子は育つというからな。医者のほうはわたしがうまくやる。生れ月をのばすこともできないことはないそうだし——。そんなことはないと思うが、万一、子楚が自分の子でないというようなことがあったら、子供はわたしが引きとる」 「そんなことから、子楚さまがわたしを嫌われたら、それでもわたしは堪えていなければならないのですか」 「おまえはわたしの大事な宝だ。粗末に扱われて、わたしが黙っているものか。そんなことがあったら、いつでもわたしはおまえを取りもどすよ」  翌日、呂不韋は子楚を、邯鄲にきている列国の賓客や名士たちといっしょに、家に招いた。宴たけなわのとき、果して子楚がいいだした。 「邯鄲一の美姫を側妾(そばめ)にしておられるそうだが、一目、拝顔の栄をたまわりたいものですな」 「それでは、おなぐさみに舞いを舞わせましょう」  広間にはすでにその用意がととのえられていたのである。そこには舞台が設けられ、楽人たちも並んでいた。  呂不韋が子楚たちを広間へ案内すると、楽人たちの吹奏がはじまり、やがて朱姫が舞台にあらわれて舞いを舞った。すべては呂不韋の思惑(おもわく)どおりであった。子楚は朱姫を、その舞いを、身じろぎもせずに茫然と眺めていたが、舞いがおわって客たちがみなもとの部屋へもどってからも、なお茫然としてひとり、席に坐っていた。 「公子さま、どうなされました。ご気分でもおわるいのでは?」  呂不韋が声をかけると、子楚はようやく夢からさめた人のように、 「どうしたのだろう、舞いのおわったのにも気づかなかった。美しい人だ。この世の人とも思えぬくらい美しい……」  とつぶやくようにいった。 「おそれいります。あちらの席へおもどりください。お相伴(しようばん)をさせましょう」 「あの人に?」 「そうです。衣裳をかえたらご挨拶にくるよう申しつけておきましたから」  子楚は朱姫に魅入られてしまったようで、朱姫が挨拶をしても、口ごもって応答もできないほどであった。朱姫はしばらく子楚の相伴をしてから、立って客の一人々々に酒をついでまわり、そして引きさがっていった。  朱姫がいってしまってしばらくすると、子楚はまたつぶやくような口ぶりで呂不韋にいった。 「わたしは、あなたがうらやましい。あのような人を側妾にしているとは——。あの人にくらべると、わたしには、秦の王位もむなしいものに思われてくる」  呂不韋が黙っていると、しばらくして子楚はまたいった。 「わたしは、あの人を見て心が狂ってしまったようだ。狂わなければ、こんなことがいえるはずはない。大恩あるあなたに対して、こんなことがいえるはずはない。それなのにわたしは、いわずにはおられないのだ」 「なにをおっしゃりたいのですか。わたしはあなたの後見役です。なんなりとおっしゃってください」 「思いきっていおう。……あの人をわたしにゆずってほしい!」  それは呂不韋の待っていた言葉だった。呂不韋はわざと、にがにがしい顔をして黙っていた。 「怒ったのであろう」  と子楚はいった。 「あなたが怒るのは当然だ。わたしは狂っているのだ」  呂不韋はやはり黙っている。 「あの人がわたしを狂わせてしまったのだ。どうしようもないのだ」  しばらくして呂不韋は、鸚鵡(おうむ)返しにいった。 「どうしようもないのですか」  そしてそのまま、また黙ってしまった。  子楚がまた、なにかいいだしそうな素振りをした。そのとき呂不韋はいった。 「いたしかた、ありません。わたしは邯鄲の全財産をなげうってあなたに賭けた身です。その、あなたのためなら、いたしかたありません」 「承知してくれるというのか」 「はい。ほかならぬあなたのこと、いたしかたありません。朱姫にとっては、公子さまから望まれたことは、むしろ身にあまる光栄でございましょう」  翌日、朱姫は子楚の館へ引きとられていった。それから十ヵ月たって、翌年の正月、朱姫は男の子を生んだ。呂不韋の胤(たね)を宿してからは十二ヵ月目だった。正月の生れなので、その子は政(せい)と名づけられた。政は正に通じる。 『史記』の「呂不韋列伝」には、つぎのように記(しる)されている。 呂不韋、邯鄲の諸姫の絶好にして善く舞う者を取りて与(とも)に居り、身(はら)めるあるを知る。子楚、不韋に従って飲み、見てこれを説(よろこ)び、因って起って寿を為(な)してこれを請う。呂不韋、怒るも、念(おも)うに業(すで)に已(すで)に家を破りて子楚の為(ため)にするは、以て奇を釣らんと欲すればなりと。乃(すなわ)ち遂にその姫を献ず。姫自ら身(はら)めるあるを匿(かく)す。大期の時に至り、子(こ)政を生む。子楚、遂に姫を立てて夫人と為(な)す。  ——大期とは十二ヵ月の意である。子楚は政が自分の子であることを疑わなかったようである。政が生れると朱姫を正夫人にしたことがそれを示している。この政が、後の秦(しん)の始皇帝(しこうてい)である。  政が生れた年の冬、秦軍は趙(ちよう)を攻めて邯鄲に迫った。このとき、最もあわてたのは呂不韋だった。もし秦軍が邯鄲をかこんで趙の敗色が濃くなれば、趙では人質である子楚を殺すことは明らかだったからである。子楚が死ねば、呂不韋は元も子もうしなってしまうことになる。呂不韋はあわてたが、心をしずめて冷静に行動した。まず、子楚の館(やかた)を警固する武将から城門の守備兵にいたるまで、すべての者を買収し、車馬を用意して子楚を馭者(ぎよしや)に仕立て、朱姫と政を車の上の荷物のあいだにかくした。そして、韓(かん)に帰国することにして無事に城門をぬけ出し、秦軍に投じて咸陽(かんよう)にたどりついたのである。  安国君と華陽夫人が子楚をよろこんで迎えたことはいうまでもない。 五  子楚が帰国してから六年たったとき、昭襄王(しようじようおう)が死んで、安国君があとをついだ。これが孝文王である。華陽夫人は王后となり、子楚は太子となった。  その六年のあいだ、呂不韋(りよふい)は朱姫(しゆき)と私通したことはいちどもなかった。朱姫のほうが避けたのである。呂不韋は子楚の後見役としてその身近にいることが多かったから、朱姫とも顔をあわせることがなかったわけではない。しかし朱姫は眉ひとつうごかさず、日ごとに公子の妃(きさき)らしく振舞うようになって、呂不韋を見る眼もほかの臣下たちを見る眼とかわらなかった。  呂不韋は安堵しながらも、そのかわりようにおどろき、人目のないおりをとらえてそっと朱姫にいったことがあった。 「朱姫さま、公子さまはやはりわたしよりもすぐれておられたようですね。いや、それでよろしいのでございます」  しかし朱姫は、かすかに笑っただけで、答えずに立ち去っていった。  孝文王は即位後わずか一年で死に、子楚が王位をついだ。これが荘襄王(そうじようおう)である。朱姫は王后となり、呂不韋は丞相(じようしよう)に任ぜられて、河南洛陽(らくよう)の十万戸をその封土としてたまわり、文信侯と呼ばれるにいたった。  荘襄王は即位後三年で死んだ。このとき朱姫は三十二歳。その子の政が十三歳で王位をついで、朱姫は太后となった。呂不韋は相国(しようこく)となり、仲父(ちゆうふ)(叔父)と尊称されて、国権はすべてその手にゆだねられたのである。  政の三年、秦は韓を攻めて十二城を取り、四年、魏を討ち、五年、また魏を討って二十余城を奪った。六年、韓・魏・趙・衛・楚の五国が合従(がつしよう)して秦を攻めたが、秦軍はこれを函谷関(かんこくかん)に迎え討って大いに五国の軍を敗退せしめた。これらの輝かしい戦勝は、みな将軍蒙〓(もうごう)の指揮のもとにかちとられたものであったが、それはまた相国たる呂不韋の政治の力でもあった。  呂不韋は外にむかって秦の国力をのばすとともに、また自らの家門をも大いににぎわした。その家臣、一万人。また、魏の信陵君(しんりようくん)、楚の春申君(しゆんしんくん)、趙の平原君(へいげんくん)、斉(せい)の孟嘗君(もうしようくん)らにならってひろく天下に有能の士を求め、食客として厚遇して自らの権勢を誇った。食客、三千人。そのなかの学識を集めて二十余万言の書を著(あら)わさせ、古今東西のこと、天地万物のこと、ことごとくこの書に備わると誇った。 『呂氏春秋(りよししゆんじゆう)』二十六巻がこれである。彼はさらに有能の士を誘うべく、その書を咸陽の城門に並べて「もしこれに一字を増減し得る者あらば千金を与えん」としるしたという。  三千の食客のなかに、〓(ろうあい)という者がいた。呂不阜におとらず、堂々たる体躯の美丈夫であった。彼がはじめて呂不韋の門を訪ねてきたとき呂不韋は一目見て並々ならぬ人物と思い、 「どのような才能がおありか」  とたずねた。すると〓はいった。 「わたくしと同国の斉の孟嘗君のことは、ご存じでございましょう。この国の先々王の昭襄王のとき、孟嘗君は招かれてこの国にきながら、かえって窮地におちいりましたが、つれてきた食客のなかの狗盗(くとう)(こそ泥)の名手と鶏鳴(けいめい)(鶏の鳴き声)の名手とによって、無事に斉に帰ることができました」 「その話はきいている」 「わたくしの才能も、鶏鳴や狗盗に類する小技(しようぎ)でございますが、わたくしのような者でも、ときにはお役にたち得ることがあるかもしれません」 「その技能というのは?」  呂不韋がきくと、〓は、 「お人ばらいを願います」  といった。呂不韋が左右の者を退かせると、〓は全裸になり、隆々とその男根を硬起させて、独楽(こ ま)まわしが一本の糸で自在に独楽をあやつるように、桐(きり)で作った輪をその巨根で自在にあやつった。輪を巨根のさきに掛けて水車のようにまわしたり、高くはねあげて受けとめたり、床(ゆか)にころがして抄(すく)いあげたり、手でするよりもあざやかに、思いのままにあやつるのだった。 「見事だ。もうよい」  呂不韋がそういってとめるまで、〓(ろうあい)はそれをやめなかった。やめてもその巨根はまだ隆々と宙を突いていた。  ——荘襄王(子楚)の生前には呂不韋をふりむきもしなかった朱太后は、王が死ぬとまもなく、掌(てのひら)を返したように、しきりに呂不韋を誘った。呂不韋が避けようとすると、朱太后はいった。 「そなたは、わたしが王に捨てられたときにはいつでもよろこんでわたしを引きとるといったではないか。王が亡くなられたいま、わたしは捨てられたも同じです」  人にきかれることもはばからずに、声を大きくしてそういうのである。呂不韋が仕方なく従ったことから、朱太后はいよいよはげしく求めてきた。荘襄王が早く死んだのも、朱太后の荒淫のせいだったのである。朱太后は政が年少であることをさいわいに、はなはだ大胆であった。しかし、政はいつまでも少年ではない。しかも、すぐれて聡明であった。呂不韋は政に気づかれることをおそれて、朱太后との関係を絶とうとしたが、朱太后はききいれなかった。ますますその淫欲をつのらせるばかりである。困(こう)じはてていたとき、呂不韋は〓に出会ったのであった。 「よし。太后の淫欲をこの男にむけさせよう」  呂不韋はそう思った。 『史記』の「呂不韋列伝」には、こうしるされている。 呂不韋、覚(あら)われて禍(わざわい)の己(おのれ)に及ばんことを恐れ、乃ち私(ひそか)に大陰の人〓を求めて以て舎人となし、時に倡楽(しようがく)を縦(はな)ち、をしてその陰を以て桐輪を関(つな)いで行(ある)かしめ、太后をしてこれを聞かしめて以て太后を啗(いざな)う。太后聞き、果して私(ひそか)にこれを得んと欲す。  ——呂不韋のたくらみは成功した。呂不韋は朱姫とはかって、〓を腐刑(ふけい)に処せられた者といつわり、眉毛や髭をぬいて宦官(かんがん)として後宮にいれたのである。  朱太后は〓の巨根を見て驚喜し、これをむさぼって片時も手ばなさず、もはや呂不韋に求めることはなくなった。  やがて朱太后は〓の子をやどした。朱太后はそのことの知られるのをおそれ、呂不韋ともはかって卜者(ぼくしや)にいつわりの卜(うらない)をさせ、雍(よう)の離宮に移った。〓がそれに従ったことはいうまでもない。朱太后は〓の巨根にうつつをぬかして、 「呂不韋の子である政にかえて、そなたの子を王にしたい」  とまでいった。翌年、二人目の子が生れた。〓は朱太后の寵愛によって長信侯に封ぜられ、朱太后の持っている権力のことごとくを握って、家臣数千人、食客一千人を擁する大勢力者にのしあがった。  政の九年、〓をにくむ者の密告で、政はようやく朱太后と〓とのことを知った。 「〓は宦官ではなく、太后と私通してすでに二子をもうけ、王にかえておのれの子を秦王たらしめようとたくらんでいる」  という密告だった。政がその確証を得ようとして、まだ兵をむけないさきに、〓はそのことを知り、機先を制して雍の離宮に叛旗(はんき)をひるがえした。政はただちに兵をくだしてこれを破り、〓を捕えて車裂(くるまざき)にした上、梟首(さらしくび)にし、朱太后の生んだ二人の子をも殺し、〓の一党をことごとくほろぼして、朱太后を〓陽(ぶよう)宮という小さな離宮に移した。  翌十年、政は呂不韋が〓にかかわりのあったことを知って、相国(しようこく)の位を剥ぎ、河南の封土に蟄居(ちつきよ)させた。しかもなお呂不韋のもとには賓客があつまり、諸侯の使者のゆききが絶えなかったので、政は謀叛(むほん)をおそれてこれを殺そうとしたが、その秦につくした功績を思い、またおのれの実の父であることを思って殺すにしのびず、書を送って蜀(しよく)の地へ移るように命じた。そのとき呂不韋は、権勢のきわまった末、いまようやく命運の尽きたことを知って、みずから毒を飲んで死んだ。  朱太后はそれから七年後、政の十九年、五十歳で死んだ。〓陽(ぶよう)宮に移されてから死にいたるまでの十年間、朱太后はかわるがわる男を引きいれて倦(う)むことを知らなかったが、邯鄲の狭斜(きようしや)の巷にいたと同じく、同じ男を二度と呼ぶことはなかったという。 〓(ちぬ)られた女権(じよけん) ——呂太后(りよたいこう)(漢) 一  秦(しん)の始皇帝(しこうてい)の末年、陝西(せんせい)の単父(ぜんほ)に呂公(りよこう)という人がいたが、ある事情で郷里に居られなくなり、一家をあげて江蘇(こうそ)の沛(はい)へ移った。沛の県令と親しい間柄だったので、たよっていったのである。  ある事情というのが何であったかは、わからない。『史記』の「高祖(こうそ)本紀」には、 単父の人、呂公、沛の令と善し。仇を避けて、従って之(これ)が客たり。  としか記されていない。おそらくは、何か事件をひきおこしたか、事件にまきこまれたかして、人のうらみをかったのであろう。  呂公と沛の県令との間柄もくわしくはわからないが、とにかく呂公は沛の県令に客として迎えられたのである。  県令が人を客として迎えたときには、県の役人たちはみな礼物を用意して挨拶にゆくのが当時のならわしであった。呂公が沛へいったときには、県の属吏の蕭何(しようか)がその取次役にあたった。  そのとき、「賀銭一万」と書いた名刺をさし出した者がいた。それは沛県の東の泗上(しじよう)というところの亭長(ていちよう)で、劉邦(りゆうほう)という者であった。劉邦は沛の城外の農民の出で、百姓仕事をきらって遊侠の徒に加わったりしていたこともあったが、壮年になってから県の見習の役人として用いられ、やがて泗上の亭長になった男である。  亭とは、公道の要所要所に設けられた宿舎のことで、宿舎を管理するとともに周辺の地区の治安をつかさどるのが亭長の任務であった。亭長はいわゆるおしのきく人物であることが必要だったが、役人としては卑賤な地位にすぎない。劉邦は卑賤な役職にもかかわらず、つねづね県の役人などは眼中にないごとく、傍若無人にふるまって、大言壮語している男だった。 「この法螺(ほら)吹きめが。一万銭とは大きく出たな。おそらくは一銭も持ってはおらぬだろうに」  蕭何(しようか)は劉邦がさし出した名刺を見てそう思い、銭の有無をただして追いかえそうとしたが、思いとどまった。劉邦が、ほかの役人たちとはちがって、県令の客の歓心をかいにきたのではないところに、蕭何は心を惹(ひ)かれたのである。しかし、気にかかることもあった。 「劉亭長、県令の客に無礼をふるまいはしないだろうな」  蕭何はそういった。無礼なふるまいさえしなければ取次いでやろう、というのである。すると劉邦は、名刺の「賀銭一万」という文字を指さして、 「このことのほかにはな」  といった。蕭何はうなずいて、その名刺を呂公に取次いだ。——蕭何は後に、韓信(かんしん)・張良(ちようりよう)とともに劉邦の三傑とうたわれた漢の功臣である。  劉邦の名刺を取次がれた呂公は、「賀銭一万」と書かれているのを見て心を動かされ、自ら出迎えに立っていったが、劉邦の顔を見るといよいよ心を動かされて、うやうやしく迎え入れ、上座をすすめた。劉邦は並居(なみい)る上役たちを後目(しりめ)に、悠然と上座につき、やがて酒宴がはじまると、無遠慮に飲みだした。呂公はそういう劉邦を見て益々心を動かされる。そして人々に酒をすすめながら目顔で劉邦に、話がある、あとに残るように、と合図をした。一万銭というのがいつわりであるということは、すでに呂公にもわかっていたのである。  酒宴が果て、役人たちがそれぞれ礼物を献納してひきさがってしまうと、呂公は、一人居残ってまだ酒を飲んでいる劉邦にいった。 「私は若いときから人相を見るのが好きで、これまで幾人もの人を見てきたが、あなたのような立派な相の人を見たのははじめてです。私の眼にくるいはありません。どうか自重なさってください。ところで、あなたは何をしにここへおいでになったのですか」 「あなたの察しておられるとおりのことをしにきたのです」 「役人たちから礼物をもらっている私を笑いに? そして私に礼物をさし出している役人たちを笑いに?」 「それと、ただで酒を飲みに」 「そうですか。大志をいだいておられるとお見受けします。自重なされば必ずや大業を成就(じようじゆ)されるでしょう。たまたま沛にきて、あなたのような人にお会いできたのは、あるいは天のひきあわせかもしれません」 「私に何をおっしゃりたいのですか」 「じつは私に娘がおります。下女代りにでも、あなたにもらっていただきたいと思いまして」 「もし私が、あなたのお見込みどおりにいけば、一万銭どころではありませんな。よろしい。お見込みに感じて、仰せに従いましょう」  話は簡単にきまった。  あとで呂公の妻は、怒って夫にいった。 「あなたはいつも、娘は貴人に嫁がせるのだとおっしゃっていて、ここの県令が息子の嫁にほしいといわれたときさえ、おことわりになったではありませんか。それなのに、なぜ娘を卑しい亭長ふぜいにおやりになるのです」 「女子供にわかるものか」  呂公はそういって相手にせず、ついに娘を劉邦に嫁がせた。  呂公の娘は、名は雉(ち)、字(あざな)は娥〓(がく)といった。呂雉が嫁いでいったとき、劉邦にはすでに曹氏という妻があって、劉邦とのあいだに肥(ひ)という男の子がいた。劉邦の家は貧しく、亭長の食禄だけでは一家は暮してはゆけなかった。呂雉は嫁いでいった翌日から、曹氏といっしょに畑に出て働かねばならなかった。はじめて鍬を持たされたのである。呂雉はあるいはその母親と同じように、父をうらんだかもしれない。  だが、呂公の眼にくるいはなかったのである。劉邦は呂雉を娶(めと)ってから三年後には兵をおこして秦に叛旗(はんき)をひるがえし、さらに三年後には秦の都咸陽(かんよう)を陥(おとしい)れて漢王となり、その後四年、宿敵項羽(こうう)をほろぼしてついに皇帝の位にのぼった。これが漢の高祖である。呂雉は皇后になり、呂后と呼ばれる。  これよりさき、高祖が漢王になったとき、呂公は臨泗侯(りんしこう)に封ぜられた。まさに銭一万どころではない大きな贈りものを得たわけである。それから三年後に呂公は死に、後に呂宣王(りよせんおう)と諡(おくりな)された。  呂后は高祖に嫁いだ翌年、女の子を生んだ。これが魯元(ろげん)公主である。それから二年後、高祖が秦に叛旗(はんき)をひるがえした年、男の子を生んだ。高祖にとっては二男の盈(えい)で、後の恵帝(けいてい)である。  はじめ曹夫人に鍬を持つことを教えられた呂后は、高祖が漢王になったときにはすでに曹夫人をしのいで王妃になっていた。そして曹夫人の子である長男の肥をしのいで、呂后の子である二男の盈(えい)が太子に立てられた。曹夫人がどのような人であったかは伝えられていない。呂后とあらそって敗れたのか、あるいは、あらそうことを好まずにすべてを呂后に譲(ゆず)っていたのか、さらには、譲ることが自分にとってもわが子にとっても無事な道であることを考えて敢てそうしたのか、一切はわからない。呂后については、『史記』の「呂后(りよこう)本紀」に、 呂后、人となり剛毅。高祖を佐(たす)けて天下を定む。大臣(たいしん)を誅(ちゆう)する所、多くは呂后の力なり。  と記されていることからだけでも、その人柄を推測することができよう。ただし、呂后がどのようにして高祖の天下統一を助けたかという具体的なことは何も語られてはいない。呂后が史書の上で大きく動きはじめるのは高祖の天下統一後で、「大臣を誅する所、多くは呂后の力なり」というあたりからである。  呂后は先ず、劉邦の三傑といわれた中の一人で漢朝創業の最高の功臣であった韓信を殺した。 二  高祖が皇帝の位についたとき、韓信は最高の功臣として王位を受け、楚王に封ぜられた。ところがその翌年、ある者が上書して「韓信は謀叛(むほん)をたくらんでいる」と密告したのである。  高祖はもともと韓信の才能を高く評価していただけに、また、おそれてもいた。まかりまちがえば自分をおしのけて皇帝になったかもしれない、それほどの力を持った人物だと思っていた。しかもいま韓信のところには、もと項羽の将であった鐘離昧(しようりばい)という者がいた。そのことが、韓信に対する高祖の不信をいっそう深めさせていた。高祖はかつて項羽と覇をあらそっていたころ、しばしば鐘離昧になやまされたことがあったのである。  高祖は、奇策を以て知られた都尉陳平(ちんぺい)のはかりごとに従って、巡幸という名目で河南の陳へゆき、そこで諸侯と会同することにした。楚へ軍を進めても勝敗はどうなるかしれない、それよりも諸侯の会同という口実で韓信を陳へ呼び寄せて捕えるほうがたやすい、というのが陳平の献策であった。  韓信は陳へいかざるを得なかった。もし拒否すれば、高祖は諸侯をひきつれて軍を楚へ進めてくるであろう。そのとき家臣の一人が韓信にいった。 「鐘離昧を斬って陳へゆけば、おそらく事なきを得られましょう」  韓信が鐘離昧を呼んでそのことを話すと、昧(ばい)はいった。 「漢帝が楚へ軍を進めてこないのは、あなたのもとにこの私がいるからです。あなたがもし、私を斬って漢帝に媚びようというつもりなら、私はいますぐにも死にます。しかし、そうすればあなたもまた、漢帝に殺されるでしょう」  昧はしばらく韓信の顔を瞠(みつ)めていたが、やがて声を荒くしていった。 「私は見そこなっていた。あなたはついに長者ではなかった!」  そして、その場で自ら首をはねて死んだ。  韓信はその首を持って陳へゆき、高祖に会った。だが、高祖はゆるさず、部下に韓信を縛りあげさせ、自分の車の後車(そえぐるま)に乗せて洛陽(らくよう)にむかった。韓信は車の中でいった。 「やはりそうだったか。狡兎(こうと)死して走狗(そうく)烹(に)られ、飛鳥尽きて良弓蔵(かく)され、敵国破れて謀臣亡ぶとは、よくいったものだ。すでに天下が平定された以上、おれは殺されるのは当然かもしれぬ」  諺(ことわざ)は、すばしこい兎が死んでしまえば猟犬は無用になって煮られてしまう、飛ぶ鳥がいなくなれば良弓も無用になって使われなくなる、敵国がほろんでしまえば忠臣は無用になって殺されてしまう、という意味である。高祖はそれをきくと、後車(そえぐるま)をふりかえっていった。 「そなたが謀叛をたくらんでいることを密告したものがあったから、捕えたまでだ。殺すつもりではない」  洛陽に着くと、高祖は韓信の縛(ばく)を解き、その創業のときの功を思って罪をゆるしたものの、王位を剥いで諸侯におとし、淮陰侯(わいいんこう)とした。  かつて高祖が、くつろいで韓信とともに諸将の能力の品さだめをしたときである。 「それでは、このわしは、そなたの見るところ、何万の兵に将たる器(うつわ)か」  と高祖がきくと、韓信は即座にいった。 「せいぜい、十万の兵でしょう」 「そなた自身はどうか」 「多ければ多いほどよろしい」  多々益々善し、といったのである。それほどまで自負している韓信にとって、十万の兵に将たる器が皇帝になっている世に一諸侯にあまんじているということは、死にまさる屈辱であった。  二年たち、三年たっても、韓信は淮陰侯のままであった。三年目に、郎中の陳〓(ちんき)が河北の代(だい)という国の相国(しようこく)に任ぜられた。陳〓は高祖に信任されていたが、高祖よりもむしろ韓信に心を惹かれていた。赴任の前、韓信のもとへ挨拶にいくと、韓信は左右の者をしりぞけ、陳〓の手をとっていった。 「あなたに謀りたいことがあるのだが、きいてくれるだろうか」 「どのようなことでも、おききします」 「代(だい)は天下の精兵の集まるところだ。しかもあなたは陛下の信任あつい寵臣だ。たとえ何者かが、あなたが謀叛をくわだてていると告げても、陛下は信じないだろう。しかし、重ねて密告する者があれば、陛下も疑惑はいだくだろう。三度(みたび)になれば、怒って親征するにちがいない。その隙(すき)に私が内応して兵をあげ首都長安を奪ってしまえば、天下はかならず私たちの手にはいると思うのだが……」 「わかりました。その機をうかがいましょう」  と陳〓は誓った。  翌年、果して陳〓は代で兵を挙げ、高祖は親征した。韓信は病と称して親征軍に加わらず、ひそかに使者を陳〓のもとへ送って、 「ひたすら兵を挙げて、あくまでも戦え。内応の準備はすでにととのっている」  と伝えさせた。  長安で韓信の動きに気づいた者はなく、彼の計画は成功しそうであった。ところが、決行直前に計画は漏れた。家臣の一人がそれを呂后(りよこう)に訴えたのである。  ここに、呂后が登場する。  呂后は高祖の不在をむしろさいわいとした。高祖には韓信を殺すことができないかもしれない、だが私なら殺せる。呂后はそう思ったのである。  呂后は相国の蕭何(しようか)と謀って、遠征中の高祖からの偽の使者を仕立てた。使者は長安の大道をあわただしく駆けぬけて長楽宮に乗りつけると、呂后に拝謁(はいえつ)を乞うて、「陳〓は誅に伏しました」と報告した。  長安に居残っていた諸侯や群臣たちは、みな慶賀のために参内した。しかし韓信は病と称して参内しなかった。  事実を知っているのは蕭何と数人の宮臣たちだけであった。参内した諸侯や群臣たちは、誰一人、それが呂后のたくらみであることに気づいた者はなかった。韓信も、そうであった。  蕭何は韓信のもとへ使を出して、 「御不快中とのことですが、ほかならぬ国家の慶事ゆえ、まげて参内なさいますように」  と伝えさせた。  韓信は仕方なく参内し、呂后の前へ進み出た。呂后は近づいてくる韓信を冷然と見つめていた。やがて韓信が立ちどまり、慶賀の辞を述べようとして跪(ひざまず)くと、呂后は手をあげて合図をした。と同時に、数人の警護の士がとび出してきて韓信をとりおさえ、たちまち縛りあげてしまった。 「何をなさいます!」  韓信が顔を上げて呂后をなじると、呂后は笑みをうかべながらいった。 「そなたが、陳〓に呼応して兵を挙げようとしていたことは明らかです。冤罪(えんざい)だというのですか」 「陳〓があのようにもろく討たれようとは思わなかった。せめてあと数日もちこたえてくれたら……」 「あのようにもろく?」  呂后は声を立てて笑った、 「陳〓はまだ討たれてはおりませんよ。あれは私のたくらんだいつわりです」 「なに、たくらみ?」  韓信は歯を噛んでくやしがった。 「こともあろうに、婦女子にあざむかれようとは!」  呂后は警護の士に命じ、韓信を縛ったまま長楽宮内の鐘室(しようしつ)へとじこめさせたが、韓信が舌を噛み切って死ぬことをおそれ、すぐこれを斬らせた。そしてその父母・妻子・兄弟の三族をも、一人残らず殺してしまったのである。  高祖の陳〓親征には諸王も兵をひきつれて従ったが、そのとき梁(りよう)王彭越(ほうえつ)は病と称して従軍せず、部下の将軍に兵をさずけて代理をさせた。  彭越はもと山東の鉅野(きよや)の沢(たく)で漁をしながら、ときには盗賊をはたらいたりしていたが、高祖が沛(はい)で秦(しん)に叛旗をひるがえしたとき、同じく鉅野で兵を挙げ、後、高祖の将軍として項羽をほろぼすのに功があった。そのため梁王に封じられていたのである。  高祖は彭越が陳〓討伐に従軍しなかったことを怒り、人をやって彭越を問責した。彭越はおそれて詫びに出かけようとしたが、将軍の一人がおしとめていった。 「王は、はじめにはゆかずに、問責されてからゆこうとなさいますが、ゆけば漢帝はかならず王を捕えるでしょう。さりとて、ゆかなければすむというわけでもないでしょう。漢帝はかならず攻めてきます。いずれ攻められるのならば、機先を制して叛(そむ)いたほうが有利です」  彭越はそういわれて迷い、また病と称して高祖のもとへはゆかなかった。その後、彭越の配下で「梁王が謀叛をはかっている」と密告した者がいた。高祖はただちに一隊の兵を遣(つか)わし、不意を襲って彭越を捕えた。  高祖は彭越を洛陽(らくよう)の獄におしこめ、役人に取調べさせたところ、謀叛の形迹(けいせき)は明らかだという。しかし高祖は、項羽をほろぼしたときの彭越の功を思って死罪をゆるし、身分を庶民にくだして四川(しせん)の青衣(せいい)へ移し、終身そこに住わせることにした。  彭越を護送して四川へむかった一行が、陝西(せんせい)の鄭(てい)にさしかかったとき、呂后の車に出会った。呂后はたまたま、長安から洛陽へゆくところであった。  呂后は彭越を道端に跪(ひざまず)かせて引見した。  彭越は泣いて無実であることを訴え、せめて故郷の鉅野に住みたいと願った。 「なぜ、故郷に住みたいのですか」  呂后は冷やかにいった。 「故郷の自然は心を休ませてくれます」 「いいえ、ちがいましょう。故郷でなら再起がはかれるからでしょう」 「いまはもう、そのようなことは念頭にございません。むかしのように漁でもして、静かに暮したいのです」  呂后はしばらく黙って考えこんでいたが、やがてきっぱりといった。 「よろしい。そなたの願いをかなえてあげましょう」  彭越は呂后にむかって何度も叩頭(こうとう)した。  呂后は護送の一行をともなって洛陽へいくと、彭越をもとの獄へおしこめ、高祖に会っていった。 「彭越は名だたる壮士です。たとえ庶民にくだしたとはいえ、これを野放しにしておくことは、わざわいの根を残すことになりましょう。私は殺してしまったほうがよいと思います。そのつもりで彼をつれもどしてまいりましたが、いかがでしょう」 「いったん庶民におとして青衣へ移すときめたものを、ひるがえして殺すわけにはいかぬ」  高祖はそういって承知しなかったが、呂后は腹心(ふくしん)の宮臣にいいふくめて、梁の住民の幾人かに「梁王の一族のものがまた謀叛をたくらんでいる」と密告させた。彭越が捕えられたために、一族の者が他国への逃亡をくわだてていたことは事実だった。取調べにあたった廷尉(ていい)はそれを知って、彭越とその一族をことごとくほろぼしてしまうよう奏請した。高祖もこうなっては彭越を生かしておくわけにはいかず、廷尉の奏請を裁可した。  こうして彭越も呂后のために、その三族にいたるまで一人残らず殺されてしまったのである。呂后は彭越の肉を切り刻んで塩づけにさせ、漏れなく諸侯に配らせた。  梁王には、高祖の妾腹の子で五男にあたる恢(かい)が立てられた。  呂后は機会あるごとに、いまは諸王や諸侯になっている漢朝創業の功臣たちを殺そうと謀った。わが子である太子盈(えい)が高祖のあとをついだとき、彼ら勢力のある旧功臣たちこそ帝位をおびやかす元兇であると考えたからであった。  旧功臣たちばかりではなかった。盈の異母兄弟たちや、その生母である夫人たちもまた、呂后母子にとっては敵であった。たとえ彼らには野心はなくても、権臣たちが彼らを利用しておのれの野望をのばさないとは限らない。敵はほろぼさなければならなかった。呂后はそれを着々と実行していったのである。 三  韓信(かんしん)と彭越(ほうえつ)が殺されるとまもなく、淮南(わいなん)王黥布(げいふ)が叛旗をひるがえした。  黥布も漢朝創業の功臣であった。韓信と彭越が殺されたことを知ると、やがてはわが身にも死罪の及ぶことをおそれ、先んじて兵を挙げたのである。  高祖は黥布を親征したが、そのとき流れ矢にあたり、次第にその傷が悪化したため、翌年の春、長安に帰った。  呂后(りよこう)は良医を迎えた。高祖はすでに死を覚悟していて、医者が謁見すると、 「なおると思うか」  ときいた。 「なおります」  と医者が答えると、高祖はいった。 「わしは一介の百姓から身をおこし、三尺の剣をひっさげて天下を取った。これは天命というものなのだ。命(めい)は天にあって、人にはない。いかなる名医といえども、命はどうすることもできないのだ」  そして治療をさせず、金五十斤(きん)を与えて帰らせた。  四月、高祖は長楽宮で死んだ。享年六十二歳、沛(はい)ではじめて兵を挙げてから十五年目、漢王と称してからは十二年目、天下を統一して皇帝の位についてから数えるならば八年目であった。  呂后は四日間、喪をかくしていた。叛乱をおこす者のあることをおそれたからであった。五日目、呂后は喪を発表して大赦(たいしや)令をくだした。  五月、高祖を咸陽(かんよう)の東の長陵(ちようりよう)に葬り、太子盈(えい)が帝位についた。これが恵帝(けいてい)である。恵帝はこのとき十六歳。父の高祖に似ず弱々しく、母の呂后に似ず心やさしい人柄であった。呂后は太后(たいこう)(天子の母)として政治の実権を握り、益々思いのままにふるまうようになっていく。  六月、呂太后(りよたいこう)は、高祖が生前もっとも寵愛(ちようあい)していた戚(せき)夫人を捕えて永巷(えいこう)にとじこめた。永巷というのは後宮の女官たちの部屋の並んでいる一郭のことで、そこには罪を犯した女官をいれる獄舎もあった。  呂太后は戚夫人を捕えると、使者をつかわして戚夫人の子の趙(ちよう)王如意(によい)を呼び寄せようとした。母子ともに殺してしまって、過去のうらみを晴らすとともに、将来のわざわいの根を絶ち切ろうとしたのである。  戚(せき)夫人は、高祖が秦(しん)の都咸陽(かんよう)を陥(おとしい)れて漢王と称してからまもないころ、山東の定陶(ていとう)で手にいれた女であった。以来、彼女は高祖の寵愛を一身に集める。そのころ高祖は河南・山東の各地を転戦しつづけていたが、戚夫人の可憐な姿は影の形に添うように、いつも高祖のかたわらにあった。  高祖の愛を若い戚夫人に奪われて、留守をまもらされている呂后のあわれな姿が、「呂后本紀」にこう書かれている。 呂后、年長(た)け、常に留(とどま)って守り、上(高祖)に見(まみ)ゆること希(まれ)にして、益々疎(うと)んぜらる。  一年後、戚夫人は如意を生んだ。高祖は如意を掌中の玉のように可愛がる。高祖はすでに呂后の子の盈(えい)を太子に立てていたものの、如意を見ると心がゆらいだ。弱々しげな盈よりも元気そうな如意のほうが自分の後継者にはふさわしい、と思うのである。  高祖の気持がゆらいでいるのを戚夫人が見逃すはずはない。 戚姫、幸(こう)せられ、常に上(高祖)に従って関東(函谷関の東)に之(ゆ)き、日夜啼泣して、その子を立てて太子に代えんと欲す。  愛する女の、昼は昼、夜は夜の涙を流してのたのみに、高祖の心は益々ゆらいでいく。  呂后は戚夫人を憎んだ。わが身から高祖の愛を奪っていったばかりか、わが子から太子の位を奪おうとしている女を呂后は憎んだ。呂后にとっては、まさに浮沈の瀬戸際であった。しかも、どうすることもできないのである。手をこまねいてなりゆきを見まもっているよりほかないのだった。それがまた呂后には無念でならなかった。  高祖は戚夫人の涙に動かされて、しばしば太子廃立の問題を持ちだしたが、いつも重臣たちの諫言(かんげん)に遇(あ)って思いとどまり、結局は沙汰やみになってしまった。しかし呂后の怨(うら)みは消えなかった。  趙へいった呂太后の使者は、むなしく帰ってきた。趙の宰相の建平侯周昌(しゆうしよう)は呂太后の心を見ぬいていて、使者にこういったのである。 「高祖は私に趙王の後見をお命じになりました。趙王はまだ弱年です。なにゆえ太后は趙王をお召しになるのでしょう。聞くところによると、太后は戚夫人に怨みをいだいておられて、趙王ともども殺害しようとなさっているとか。そのような物騒なところへ、どうして趙王をお送りすることができましょう。それでなくても趙王はいま御病気中です。御命令に従うことはできませんとお伝えください」  周昌は剛直な人であった。かつて政務上の急用で高祖の部屋を訪ねたことがあった。ちょうどそのとき、高祖は裳(もすそ)を開いて戚夫人を膝の上に抱き、喋々喃々(ちようちようなんなん)としている最中であった。周昌はおどろいて逃げだした。すると高祖が追いかけて周昌をつかまえ、組伏せて馬乗りになりながら、 「お前はわしを、どんな君主だと思うか」  といった。周昌は組伏せられながら首を上げていった。 「桀(けつ)・紂(ちゆう)のような悪王だと思います!」  さて呂太后は使者の報告をきくと、怒って再び使者を出した。だが、その使者もむなしく帰ってきた。三たび出したが、やはり同じであった。呂太后は激怒して四度目の使者を出し、こんどは如意をではなくて周昌を召した。  周昌も、自分に対する太后の命令には従わないわけにはいかない。周昌が長安へゆくと、いれちがいに、五人目の使者が趙へむかった。如意を召喚するための使者であることはいうまでもない。  周昌は呂太后の召喚を受けて趙を去る前、嫡子の周宣(しゆうせん)に一通の密書を託した。呂太后の五人目の使者の一行は、趙への長い道中のどこかで、旅商人に身をやつした周宣とすれちがったかもしれない。  周宣は、無事に長安に着くと、父にいわれたとおり右丞相王陵(おうりよう)に会って、恵帝への密書の取次ぎをたのんだ。  恵帝は周昌の密書を見ると、呂太后の手から如意をまもるために、城外の道々の遠くへまで人を出して如意の到着を待ち受けさせた。幾日かたって、ようやく到着の知らせがあると、自ら覇水(はすい)のほとりまで出ていって如意を宮中へ迎え入れ、それからはいつも起居をともにし飲食をともにして、片時も傍から如意を放さなかった。  恵帝は日課として、冬でも欠かさずに払暁に弓の稽古をしたが、その日はことのほか寒さがきびしく、自分でさえ起きるのがつらかったことから、少年の如意を起すことが可哀そうに思われて、一人で射場(しやじよう)へ出ていった。  恵帝が出ていってからしばらくすると、羹(あつもの)の碗を捧げた宮女がはいってきて、 「趙王さま、お起きくださいませ」  と呼びおこした。眼をさました如意は、恵帝のいないことに気づいて、 「陛下は?」  とたずねる。 「射場でお待ちになっておられます。寒いので可哀そうだと思って残してきたが、やはり気になるから、呼んでくるように、との仰せで……」  宮女はそういいながら羹の碗をさし出して、 「お召しあがりくださいませ。おからだがあたたまります」  といった。  如意は起きあがり、寝台のふちに腰をかけて羹を飲んだが、一口飲んだだけで、 「いらぬ」  といって、碗を返した。宮女は碗を受け取ると、一礼して出ていった。  恵帝が弓の稽古をおわって帰ってきたときには、すでに如意は死んでいた。  宮女は、呂太后の腹心の後宮の女官だったのである。女官が後宮へ帰って如意の死んだことを告げると、呂太后はよろこんで、 「よくやってくれました」  と褒めてから、 「つぎは戚夫人だが……」  といいかけて、急に口ごもった。——戚夫人に対しては、如意のようにひと思いに殺してしまうだけでは気がすまない。そういおうとしたのだったが、思っただけで感情が激してきて、言葉が出なくなってしまったのだった。  ——そうだ、如意の死んだことを知らせてやろう!  呂太后は屈強な宦官(かんがん)を二人つれて永巷(えいこう)の獄舎へゆき、格子の窓から中をのぞいて、 「淫婦!」  と呼んだ。ふりむいた戚夫人の顔は、蒼(あお)くやつれていたが、天性の美貌はなおうしなわれてはいなかった。 「淫婦!」  呂太后はまた、憎々しげに呼ぶ。この美貌のために自分は苦しめられたのだと思うと、うらみの焔がみるみる火柱のように燃えあがるのを覚えた。 「淫婦! そなたの如意のことを話してあげよう。そなたの如意は、いまごろあの世へいって、赤ん坊だったときと同じように、先帝の膝の上で可愛がられているだろうよ」 「妬婦(とふ)! 人殺しの妬婦! 私の如意を殺したのか! 早く私も殺すがよい。あの世へいって先帝に訴え、わが子といっしょに鬼になって、人殺しの妬婦を苦しめてやる!」 「淫婦! あの世へいってからもまだ、先帝の寵愛を受けて私を苦しめる気でいるのか」  呂太后は獄舎の中へはいり、二人の宦官にいいつけて戚夫人の着物をことごとくぬがせ、車裂(しやれつ)の刑のように、左右から脚を引っぱらせて、 「もっと引け、もっと引け」  といい、 「これが先帝をたぶらかした淫婦の穴か」  と、その上を履(くつ)で踏みにじった。  呂太后がさまざまな刑具や兇器や薬品を集めだしたのは、その日からである。腹心の者がそれらを集めてくるごとに、大きな刑具や兇器は獄舎の前へ運ばせて戚夫人に示し、ときには自らそれを使って、夫人の脚を捩(ね)じったり指を逆に折ったり、高祖が好んだその顔や胸や腰を痛めつけたりして、早く殺せと喚(わめ)き泣く夫人に、 「いや、早くは殺さぬ。集めた道具をみんな使って、ゆっくりなぶり殺しにしてやる」  というのだった。  ある日、呂太后は二人の男を獄舎へつれていった。二人は宦官の身なりをしていたが、じつは呂太后の腹心が徒刑場から選んできた最も凶悪な囚人なのだった。 「淫婦! きょうそなたを殺します。これは私の淫婦への最後の贈りものです。この世の名残りに、存分にたのしみなさい」  呂太后はそういって、二人の囚人にかわるがわる戚夫人を犯させた。  それがすむと呂太后は、数人の宦官のほかその二人の囚人にもてつだわせて、戚夫人を殺しにかかった。  まず〓薬(いんやく)を飲ませて唖(おし)にし、つぎには耳の穴に硫黄(いおう)を流し込み、燻(ふす)べて、聾(つんぼ)にした。耳もきこえず物もいえなくなった戚夫人は、美しいつぶらな眼に涙をためて恐怖におののいている。太后は囚人にいいつけて、その美しい眼をくりぬかせた。戚夫人が悲鳴をあげて失神すると、太后は水を浴びせて正気づかせる。  正気づいて苦しみもだえる戚夫人の、空(くう)をつかむその手を太后は斬りおとさせた。まず片腕を斬りおとし、血まみれになってのたうちまわるさまを冷酷に眺めてから、残った片腕を斬り取り、そしてさらに、両脚をも断ち斬ってしまったのである。  四肢をうしなってしまった戚夫人の死体を、太后は人〓(じんてい)と名づけて、大きな厠の糞壺の中へ捨てさせた。〓とは豚のことである。  数日後、呂太后は恵帝を後宮へ招いて、笑いながらいった。 「厠をのぞいてごらんなさい。おもしろいものがあるから」  恵帝は厠へいって見たが、何かわからなかった。左右の者にたずねて、はじめてそれが戚夫人であることを知ると、蒼白になっておののきふるえ、太后の前へいって、声をあげて泣いた。 「おわかりでしたか。あれは戚夫人です。美貌を武器にして先帝の寵愛をむさぼり、そなたや私をさんざん苦しめた戚夫人の、あれが、なれの果てです」  呂太后は誇らしげにそういった。恵帝は泣きながら弱々しく抗議した。 「これが、人間のすることでしょうか、人間にこんなむごたらしいことができるとは、私にはどうしても思えません。私はあなたの子として、あなたのお心を体して、天下を治めていかなければならぬ身ですが、もう、とても務められそうにもありません」  それからというもの、恵帝は政務をかえりみずに、ただ酒色に耽(ふけ)った。そのため病気になり、一年近くも起きあがることができなかった。 四  その翌年の十月、斉王肥(ひ)が来朝した。  高祖には男の子が八人いたが、八人ともそれぞれ母親はちがった。呂太后(りよたいこう)はもともと、わが子である恵帝以外の七人の諸王に対しては、おそれと憎しみをいだいていた。機会さえあれば、みな殺してしまいたかったのである。なぜなら、彼らが恵帝をたおして皇帝になろうとたくらまないとは限らないからである。たとえ彼らにそんな野望はなくても、彼らをかつぎあげてそうさせる者があらわれないとは限らないからである。殊に斉王は恵帝の兄であり、七郡七十余城を持つ強国を領している。呂太后にはそれがおそろしく、そのことが憎らしかったのである。  呂太后は斉王の気持をさぐってみたかった。ある夜、恵帝と斉王とを後宮に招いて酒宴を開いたのは、そのためであった。  そのとき恵帝は思った。  ——これは公式の席ではなく、いわばうちうちの小宴である。兄に上座をすすめて、自分は陪席しよう。  そしてそのとおりにした。呂太后はそれを見て、にがにがしく思った。恵帝の人のよさが歯がゆかった。すすめられるままに上座についている斉王が憎らしかった。  ——斉王は恵帝の兄にはちがいない。だが恵帝は天子だ。天子の上座につく兄が天子にあるということは、ゆるせないことだ。  呂太后は鴆毒(ちんどく)を盛った酒の壺を持ってきて、二つの杯につぎ、斉王と恵帝との前に置いて、斉王にいった。 「あなたは恵帝の兄ですが、恵帝は天子であり、あなたは諸王の一人です。天子に敬意を表して乾杯をしなさい」  斉王は杯を持って、立ちあがった。  すると、恵帝も杯を持って立ちあがった。兄の礼を、坐ったまま受けるわけにはいかぬ、と思ったのである。  呂太后はあわてた。急いで手をのばして恵帝の杯を払いおとした。斉王はあやしみ、口もとまで持っていった杯を置いて、別の酒を飲んだ。そして、しばらくしてから酔ったふりをして席を立った。  あやうく殺されるところだったと思うと、斉王はぞっとした。だが虎口(ここう)を逃れたわけではない。太后が自分を殺そうとしている以上、常に虎口にいるのだ。そう思うと生きた心地もなく、斉王は長安の邸宅にひきこもったまま一歩も外へ出なかった。  斉の内史の士(し)という者が、斉王にいった。 「太后には、恵帝とその姉君の魯元(ろげん)公主との、二人のお子しかありません。いま、王は七郡七十余城を領しておられるのに、魯元公主はわずか数城を食邑(しよくゆう)として持っておられるだけです。そこで、もし王が、公主のお化粧料として一郡を太后にお差しあげになれば、おそらく太后はおよろこびになって、王は無事に斉へお帰りになることができましょう」  斉王はさっそく、城陽郡を太后に献上して魯元公主を王太后と呼びたい、という旨を太后に伝えた。王太后と呼ぶということは、斉王が魯元公主に母としてつかえるという意味である。果して呂太后はよろこんで斉王の申し出を受け、斉王の招宴にも魯元公主とともにこころよく臨み、斉王は無事に斉へ帰ることができた。  稗史(はいし)では、斉の内史の士という者にかえて、梁上柱(りようじようちゆう)という名の力士(りきし)が登場する。  梁上柱は呂太后の甥の呂産(りよさん)の家に召抱えられている、心は剛直、力は無双という男で、呂太后はこの男に斉王を殺せと命じる。  ある夜、斉王は眠られぬままに、明りをつけて読書していた。と、庭に人の足音らしいひびきがきこえた。立ちあがって外をのぞいてみると、階(きざはし)の前に一人の大男が跪(ひざまず)いている。 「何者だ!」  ととがめると、大男は平伏して、 「申しあげたいことがございます」  といった。 「深更(よふ)けに忍び込んでくるとは、盗賊か、刺客か」 「刺客でございます」 「誰にたのまれてきたのか」 「王を殺せとの太后の命を受けてまいりました。だが私は、王を殺しにきたのではありません。申しあげたいことがあってまいったのです。おききくださいますか」 「きこう」 「申しあげます。王はいま、斉へ帰ろうとなされば必ず途中で難に遇われるでしょう。万一、無事にお帰りになることができても、王位を保たれることはおぼつかないでしょう。難をまぬがれるには、太后と好(よしみ)を結んでその心をよろこばせるよりほかありません。高祖には数多くのお子がおいでですが、太后のお生みになったのは今上陛下と魯元公主とのお二人だけです。王は曹夫人のお子ですが、斉の七十余城を領し、沃野(よくや)千里、権勢甚(はなは)ださかんです。公主はわずかに数城しかお持ちでなく、富貴を極(きわ)め栄耀(えいよう)を尽すことができずにおられます。太后がお心を休められることなく、常に諸王を殺そうと謀(はか)っておられるのは、そのためでございます。王がもしこのわざわいをまぬがれようとなさるならば、斉の地を割(さ)いて公主にお与えになればよろしいでしょう。そうすれば太后のお心もやわらいで、王は無事に斉へお帰りになることができ王位も安泰かと存じます」 「よくいってくれた。そうしよう。だが、そなたは私を殺さないことには、太后のもとへは帰れまい。私がもしわざわいをまぬがれて斉へ帰ることができるときは、私とともに斉へいって長く私を輔(たす)けてはくれぬか」 「私は太后の命を受けながら、それを果すことのできなかった身です。なんの面目あって世にながらえられましょう」  梁上柱(りようじようちゆう)はそういうなり、剣を抜いて自ら首をはねた。斉王がおどろいて階をかけおりたときには、すでにその首は地に落ちていた。 五  恵帝は即位してから七年目の秋八月、わずか二十三歳で死んだ。  恵帝の皇后は、宣平侯張傲(ちようごう)に嫁した魯元(ろげん)公主の娘である。つまり恵帝と張皇后とは、叔父であって夫、姪であって妻であり、恵帝にとって魯元公主は、姉であって義母にあたり、張皇后にとって魯元公主は、母であって義姉にあたる。この近親結婚は、漢の王統を呂氏の血にかえていこうという呂太后(りよたいこう)のたくらみによるものであった。  ところが、張皇后には子供が生れなかった。呂太后はそこで、後宮の女が妊娠しているのを見ると張皇后に妊娠をよそおわせ、後宮の女が男の子を生むとすぐひき取って張皇后が生んだことにした。それが太子恭(きよう)以下六人の子である。  呂太后は太子恭の生母を招き、酒肴(しゆこう)をすすめていった。 「そなたの子を太子にしました。やがて天子になれば、そなたは心のままに富貴栄華を極めることができます。いま、子を奪われたからといって、私や皇后をうらまないように」  そして、ねんごろに酒をすすめた。女はよろこんで杯を口にしたが、一口飲んだとき、忽ち地にたおれて死んでしまった。呂太后は事の漏れるのをおそれて、鴆毒(ちんどく)を盛った酒を女にすすめて殺してしまったのである。  ほかの五人の子の生母も、それぞれ同じようにして殺されたのだった。  六人の男の子は、あるいはみな張皇后の子ではないばかりか、恵帝の子でも、なかったかもしれない。正史にはそのことについての明瞭な記述は見あたらない。従って稗史(はいし)に伝えられているつぎのような話も、いわれのないわけではない。  呂太后は恵帝に子種のないことがわかると、腹心の者を町々村々へやって、美貌の女で孕(みごも)ったばかりの者十人をさがさせて後宮へいれ、草々(そうそう)に歌舞宮楽を習わせた上、恵帝の枕席へ侍(はべ)らせた。六人の男の子はみな彼女らが後宮にはいる前に宿していた子である。六人の子がほとんどみな同年齢であることも、これで納得される。  恵帝が死ぬと、その六人の子のうちの一人の太子恭(きよう)が帝位についた。これを少帝恭という。他の五人はみな王に封ぜられた。年齢はみな五歳前後であったろう。  少帝恭は、即位してから四年目、八歳ごろになったとき、生母のことを知って呂太后をうらんだ。 「太后はおそろしい人だ。母から私を奪い取り、その上、母を殺してしまうなんて。まだ小さくて何もできないが、大きくなったらきっと乱をおこしてやる」  呂太后はそれをきくと、恭を永巷におしこめて誰にも会わせず、重病だといって帝位を廃し、六人のうちの一人で常山王に封ぜられていた義(ぎ)を帝位につけた。義は名を弘(こう)と改めた。これが少帝弘である。恭の帝位を廃してから、呂太后はこれを殺した。  少帝弘が即位してから三年目、呂太后は趙王友(ゆう)を幽閉して餓死させた。  友は高祖の六男で、はじめは淮陽王に封ぜられていたが、趙王如意が殺されたあと、移されて趙王になったのである。彼は呂太后におしつけられて呂氏一族の娘を后(きさき)にしていたが、これを嫌ってほかの女を寵愛した。后は嫉妬し、怒って呂太后に趙王を讒言(ざんげん)した。 「趙王はいつもこういっております、太后は呂氏一族の者を続々と王にしているが、劉氏以外の者を王にするなど以てのほかだ。太后が死んだら、必ず呂氏一族を打ちほろぼしてやる。……」  呂太后は趙王を長安に呼び出し、幽閉したままにして食物を与えなかった。  趙王は餓えて、歌った。 諸呂事(こと)を用い 劉氏危うし 王侯を迫脅し 彊(し)いて我に妃(ひ)を授く 我が妃既に我を妬み 我を誣(し)うるに悪を以てす 讒女(ざんじよ)国を乱し 上(かみ)曾(かつ)て寤(さと)らず 我に忠臣無きか 何の故にか国を棄つる 中野(ちゆうや)に自決せん 蒼天(そうてん)直を挙げん 于嗟(ああ)悔ゆべからず 寧(むし)ろ蚤(はや)く自財(じざい)せん 王と為りて餓死す 誰か之を憐れまん 呂氏理を絶つ 天に託して仇を報いん  趙王が死ぬと、恵帝の異母弟の梁王恢(かい)が趙王に移され、梁王には呂太后の甥の呂王呂産(りよさん)が移された。その呂産の娘を、呂太后は恢に娶(めと)らせた。  趙王友(ゆう)が呂氏の娘を嫌ったのと同じように、趙王恢は呂産の娘を嫌ってほかの女を愛した。すると呂産の娘は毒を飲ませてその女を殺した。恢は悲しみのあまり自殺した。  呂太后は代王恒(こう)を趙王に移そうとした。恒は高祖の四男で、自殺した恢の異母兄である。恒は辺境の地に王としているほうが身は安全であると思い、「願わくは代の辺境を守らん」といって趙王になることを固辞した。これまで趙王になったもので終りを全(まつと)うした者はいない。如意は殺され、友は幽閉されて餓死し、恢は自殺した。この聡明な代王恒が、後の文帝である。趙王には呂太后の甥の呂禄(りよろく)がなった。  そのころ、高祖の末子(八男)の燕王建(けん)が死んだ。呂太后は人をやってその子を殺させ、後嗣なしとして国を取り上げ、呂産の子の呂通(りよとう)を燕王とした。  何人の者を殺したか、われながら数えきれないほどである。さすがの呂太后も気が咎(とが)めた。彼女は日蝕をおそれた。それを天の怒りだと思い、日がかげってゆき空が暗くなってゆくのを見て、 「私のせいだ」  といった。  趙王の友(ゆう)や恢が死んだ翌年の三月、呂太后は郊外へお祓(はら)いをしにいったが、その帰途、不意に黒犬のようなものが飛び出してきて腋の下をつかんだ。おどろいてふりはらおうとしたが、そのときにはもう、影も形もなかった。  不思議に思って卜官(ぼくかん)に占わせてみたところ、趙王如意のたたりであるという。やがて腋の下に傷ができた。はじめはさほど気にしなかったが、次第に悪化してきて、七月にはもう枕もあがらない状態になった。呂太后は死期の近づいたことを知ると、趙王呂禄と梁王呂産を枕頭に呼んで戒めた。 「高祖は天下を統一なさったとき、重臣たちと盟約して『劉氏にあらずして王たる者は、天下ともにこれを討て』といわれた。ところが、いまは呂氏がみな王や侯になっております。劉氏一族や高祖以来の重臣たちは、これを不満に思っております。私が死ねば彼らはおそらく変事をおこすでしょう。それゆえ、そなたたちはよく兵を掌握して宮城を守り、わたしの葬儀はおろそかにしても、彼らに乗ずる隙(すき)を与えてはなりませんよ」  それからまもなく、呂太后は死んだ。  呂太后はひたすら殺人という行為をつづけることによって天下の権力を握り、ひたすら殺人という行為をつづけることによってその権力を守りとおした。それを守りとおすことは死の直前までの願いだったが、しかし、呂氏一門の握っていた権力は呂太后の死と同時にうしなわれて、再び劉氏の手に移ってゆく。  殺人という行為によって権力を握るということは、思えば、呂太后だけの行為ではなかろう。世の権力者はみな、なんらかの形で殺人者なのである。 洛神(らくしん)の賦(ふ) ——甄〓(しんふく)(漢) 一  漢の建安九年、曹操(そうそう)は、河北(かほく)に強大な勢力を張っていた袁(えん)氏を攻めてその本拠地冀州(きしゆう)を奪った。  袁紹(えんしよう)が官渡(かんと)で曹操に大敗を喫したのは建安五年である。その二年後、袁紹はうちつづく敗戦の中で憤死し、その長子の袁譚(えんたん)があとをついだが、曹操は攻撃の手をゆるめず、冀州を奪った翌年、南皮(なんぴ)にたてこもった袁譚を攻めてこれを斬った。  このとき曹操は、夫人の卞(べん)氏と第三子の曹植(そうしよく)とを〓城(ぎようじよう)へやって凱旋(がいせん)を待たせ、自らは長子の曹丕(そうひ)、次子の曹彰(そうしよう)をひきつれて敗残の袁軍を北へ追っていった。  〓城の曹操の邸宅はもと袁紹の別荘で、王宮のように、壮大だった。〓城は戦火を受けておらず、城郭も住民ももとのままでただ統治者が袁氏から曹氏にかわっただけであった。十四歳の曹植は、この平穏な〓城のおごりをきわめた邸宅に、兄たちと別れてひとり事もなく暮している身を思うと、焦燥に似た思いにかられた。兄たちよりも何年か生れるのがおそかったために、父といっしょに馬を戦場に馳(は)せることのできないのが無念であった。そんな思いから、毎日午後になると家僮(かどう)の敬輝(けいき)に馬をひき出させ、剣をうち振りながら広大な庭園を縦横に駆けまわり、ときには下僕たちを集めて敵に仕立て、これを追いちらしたり、包囲を破って血路を開いたり、皆殺しにしたり、降伏させたりし、最後に勝利を収めると敬輝に紙と筆を持ってこさせて戦勝の〓告(ふこく)を書いたりして、うさばらしをした。  ある日の午後、馬にまたがってひとり庭園を駆けまわっていると、前方の松林の中から微かに人の笑う声がきこえた。耳ざとくそれをききつけた曹植は、ひとりで戦闘のまねをしているのを見て何者かがあざ笑ったのにちがいないと思い、馬首をめぐらすと、無礼なやつだとばかり、剣を抜いて声のした方へ駆けていった。と、松林のむこうの蓮池のほとりに、一人の女のたたずんでいるのが見えた。意外であった。  近づいて見ると、眼もさめるばかりの美しい女である。見たことのない人だった。曹植は顔を赤らめて、馬をおりた。声をかけてよいものかどうかためらっていると、 「あら、これはこれは、三公子さまではありませんか」  木立ちのかげからもう一人の女があらわれて、そういいながら礼をした。それは父の侍妾の徐氏だった。曹植が礼を返すと、 「ああ、そうでしたわね、まだご存じありませんでしたのね。こちらは甄姫(しんひめ)さま」  と徐氏はいい、そして甄氏にむかって、 「三公子の子建(しけん)さまでございます」  といった。  曹植は甄氏の名を知っていた。「河北に甄逸女(しんいつじよ)あり」といわれた有名な美女で、彼女が袁紹の次子の袁煕(えんき)に嫁したとき、「あの美麗な甄逸女が懦弱(だじやく)な袁煕のものになったとは!」といって父の曹操が歎いたということを、曹植は人からきいていた。  その有名な美女が、いま自分の前にいるのだ! 甄氏が身をかがめて丁寧に挨拶をするのを、曹植は茫然と見つめていた。ほんとうに美しい! 父の曹操には幾人もの侍妾がおり、家中には数多くの侍女や舞姫たちもいたが、曹植が心を惹(ひ)かれた女はこれまでに一人もなかった。はじめてほんとうに美しい人を見た、と彼は思った。 「三公子さま」  甄氏は眼前の少年が自分に心を奪われているとは知らず、静かに歩み寄って、曹植の手から剣を取った。そして頬笑みながらたずねた。 「剣のお遊びがお好きですの? 三公子さまは文才にすぐれたお方ときいておりましたけれど」 「剣も好きです」  曹植は顔を赤らめながらいった。甄氏に剣を取られたとき、彼の手は甄氏のやわらかい手にふれたのである。その感触が曹植の心をかきみだしていた。しかし彼はそれをふりはらうような思いで、威儀を正して、大人ぶっていった。 「遊びではありません。父も兄たちも北方の戦場におりますゆえ、私も安閑としてはおられないのです。それで、こうして毎日、剣と乗馬の訓練をしているのです」  甄氏はうなずき、笑顔で曹植に剣を返しながら、 「でも、物騒ですわ。どうか鞘(さや)にお納めくださいませ」  そのとき徐氏が口をはさんだ。 「三公子さま、ちょっと甄姫さまのところでお休みになりません?」  曹植は剣を鞘に納め、剣帯をはずして馬の鞍(くら)に掛けてから、 「まだいちどもお伺いしておらず、失礼しておりました」  と甄氏にいった。 「お寄りくださいますならば、光栄に存じます」  甄氏はそういって、さきに立った。風がその長裙(ちようくん)と腰帯(ようたい)をひるがえして、えもいわれぬ魅惑をただよわせる。曹植はそのうしろについてゆきながら、思いめぐらした。甄氏は曹植が母の卞(べん)氏といっしょにこの〓城(ぎようじよう)の邸宅に移る前から、父の曹操の俘虜(とりこ)としてここで優待されているのだった。父はこの美しい人をどうしようと思っているのだろうか。あるいは父は、やがてこの人を侍妾にしようと考えているのではなかろうか……。  蓮池の左側にある別院の門をくぐりながら、甄氏は曹植にいった。 「曹大将軍の故旧(こきゆう)を思われるお情けによりまして、私、国が破れましてからもずっとここで優遇をたまわっております」  曹植は彼女がいった故旧という言葉にこだわりを感じた。父は情け容赦もなく故旧である袁紹(えんしよう)父子を攻めほろぼし、現にいまも、甄氏の夫である袁煕(えんき)とその弟の袁尚(えんしよう)を追って軍を北へ進めているのである。そのうしろめたいような思いをまぎらわすように曹植はいった。 「姫は、私の母にはお会いになりましたか」 「母君さまには、こちらにご到着になりましたときお目見えさせていただきました。三公子さまもごいっしょにお見えになったことは知っておりましたが……」  徐氏が傍(そば)から口を添えた。 「甄姫さまは三公子さまにもご挨拶申し上げたいといわれたのですが、母君さまがそれには及ばないと申されまして……」 「それで、心ならずもいままで失礼しておりました」  と甄氏がいった。彼女は曹植を客間の奥の書斎へ案内して、窓際の肘掛椅子をすすめた。そして書卓をはさんだその正面の席に徐氏をつかせ、自分は書卓の角の椅子に腰をおろした。  侍女の幼蝉(ようせん)が茶を捧げてきた。甄氏は曹植と徐氏に茶をすすめてから、 「三公子さまはおいくつになられます?」  ときいた。 「十四です」  曹植はそう答えながら屈辱に似た思いをかみしめていた。甄氏は自分を子供だと思っているにちがいない。そう思うと甄氏が怨(うら)めしかった。 「そうですか。私、いまの三公子さまと同じ年のころ、叔父につれられていって曹大将軍にお眼にかかったことがございます。大将軍さまはそのときのことを覚えていてくださいました」  曹植は、甄氏が何年か前のことを話すのを黙ってきいていた。自分の知らない昔のことなど、どうだってよいのだ、自分とこの人とのことは、いまからはじまるのだ、と心の中で思いきめながら、ただその優しいひびきの声だけをきいていた。彼は話している甄氏の顔を正視するのがまばゆく、その形よく脚をそろえて坐っている膝のあたりに視線を落していた。長裙が腿(もも)と脚の線をくっきりと象(かたど)っている。彼はひそかに想像をたくましくしていた。あの脚もとにひざまずいて、彼女の脚をとらえることができたら……。  甄氏は曹植が上(うわ)の空なのに気づいたのか、話をやめて、 「私、ひとりでおしゃべりをして。昔のことなど、三公子さまにはおもしろくもありませんわね」  といった。曹植はあわてて、 「いいえ、そんなことは……」  といい、立ちあがって、 「きょうはこれで失礼いたします。またお茶をいただきにお寄りしてもよろしいでしょうか」 「あら、もうお帰りになられますの?」  と甄氏はいったが、ひきとめはしなかった。すぐ立ちあがって、 「おかまいもせず失礼いたしました。これを機会に、いつでもどうぞお立ち寄りくださいませ」  といい、いまからいっしょに刺繍(ししゆう)をするという徐氏とともに、門の外まで見送りに出た。  曹植は甄氏に恋々たる思いを残しながら、馬に乗るまでわざとふりかえらなかった。子供っぽく思われてはならぬと考えたからである。馬に乗ってから眺めたが、そこからは別院の門は見えなかった。なぜ甄氏は一言もひきとめてくれなかったのだろう、と思った。そして、おそらくそれは徐氏がいたからにちがいないと自分にいいきかせた。馬を走らせながら彼は、急に、わああっと大声をあげたくなった。これまでに一度も覚えたことのない深いよろこびが、にわかに胸にこみあげてくるのだった。きょうからおれの青春がはじまったのだ、と思うと、誇らかなうれしさが胸いっぱいにひろがってくるのだった。  彼は甄氏に会ったことを母に告げようと思ったが、思いとどまった。いちいち母に告げるなんて子供っぽいことだと考えたのである。翌日は午後になるのが待ちどおしかった。ようやく午後になると馬に乗り、きのうと同じ時刻を見はからって松林へいった。蓮池のほとりに甄氏が出てはいないかと、ひそかに見まわしたが、彼女の姿はなかった。しばらくしてからまたいってみたが、やはり彼女の姿は見えなかった。別院へ訪ねていこうと思ったが、きのうのきょうである。子供っぽく見られるのではないかとおそれて、ついにそのままひきかえしてきた。  その翌日の午後も、彼女は蓮池のほとりには出ていなかった。しかし彼は、朝のうちからそうしようと思いつめていて、松林で馬をおりると眼をつぶる思いでまっすぐに別院へはいっていった。  なにも惑うことはなかったのだ、と彼はうれしさのあまりに思わず声に出して笑った。甄氏が快く迎えてくれて、 「きのうもお待ちしておりましたのに」  といったからだった。 「きのうは乗馬はなさいませんでしたの?」 「いいえ、きのうもこの近くまできたのですが、あまり咽(のど)もかわかなかったものですから」 「すぐお茶をさしあげます。三公子さまはきょうはたいへんお楽しそうですが、なにかよいことがおありでしたの?」 「ありましたとも!」 「どんなことですの?」 「二人きりで姫にお眼にかかれたからです」 「まあ、三公子さまがそんなご冗談をおっしゃるなんて! どこでお覚えになったのです? そんな科白(せりふ)を」  曹植はうれしくてならなかった。二人のあいだをへだてていた眼に見えぬ垣が、急にくずれてしまったようであった。それは全く思いもかけぬことだった、自分が甄氏に対してこうもうちとけられるということも、甄氏が自分に対してこうもうちとけてくれるということも。  しかし曹植は前日とおなじように、茶を飲む時間だけをすごして、まもなく辞去した。けじめはつけなければならないと思ったのである。甄氏もやはり、ひきとめようとはしなかった。  それからは、曹植は、下僕を敵に仕立てて戦闘のまねをするような遊びは、もうしなくなった。しかし午後の乗馬は欠かさず、そしてその都度(つど)、別院を訪ねて甄氏としばらくの時をすごし、日ましに思慕を深めていった。  乗馬のできない雨の日や雪の日は、曹植は終日そわそわとしていた。机にむかって書物を開いても、甄氏のまぼろしがちらついてきて以前のように読書に専心することができない。こんなことではいけないと自戒して戦場にある父や兄たちを思いうかべようとしても、やはり甄氏のまぼろしを消すことはできないのだった。しかし、乗馬以外の口実で甄氏を訪ねていくことは彼にはできず、雨や雪が二日三日とつづくともう居ても立ってもいられぬ思いで、なにをしても手につかず、むなしく一日千秋の思いを甄氏に寄せて怏々(おうおう)としているのだった。 二  建安十年の冬も深まり、北方の戦場からはつぎつぎに捷報(しようほう)がもたらされてきた。袁煕(えんき)・袁尚(えんしよう)兄弟は北辺へ落ちのび、遼東(りようとう)の太守公孫康(こうそんこう)をたよっていったが、公孫康は二人の首を斬って曹操(そうそう)に献じたという。その知らせが入ってからまもなく、大将軍曹操の凱旋の日どりも知らされてきた。  曹植(そうしよく)は父や兄たちに会える日を心待ちにしたが、そのよろこびとはうらはらに、彼の心には一つの不安がきざしていた。それは、父が帰ってきたとき、俘虜(とりこ)の甄氏(しんし)をどうするだろうかという不安だった。父は甄氏を侍妾にしないとも限らないし、あるいはまた、軍功のあった将軍の誰かに恩賞として与えないとも限らない。甄氏を恋い慕う曹植の心の中で、その不安は凱旋の日が近づくにつれて大きくなっていった。 「姫、あなたは私にとって〓(オンドル)のようなかたです」  曹植はそういって甄氏を戸惑わせたことがあった。秋がふけ冬が深まるにつれて、火が恋しくなっていくように甄氏を恋い慕う自分を彼女はいつも優しく迎え、あたたかくつつみこんでくれる。自分にとってのそういう彼女を彼は〓のようだといったのだった。曹植はいま、彼女が自分を愛していてくれるということには疑いを持たなかった。しかし、それが姉の弟に対するような優しさを越えたものではないことも、彼は知っていた。彼はつねづねそのことを怨めしく思っていたが、その怨みを口に出して彼女にいうことはできなかった。甄氏はまた、ときおり彼を子供あつかいにすることもあった。「あなたは〓のようなかたです」といったときもそうだった。彼女はしばらく黙っていたが、急に笑いだして、 「まあ、おかしな公子さま。そんなことをおっしゃると、母君さまにいいつけますわよ。よろしいの?」  といったのである。そして曹植が、不意に水を浴びせかけられたような思いで黙っていると、 「さあ、公子さま。点心(てんしん)でも召し上って、ご機嫌をおなおしください。母君さまにはいいつけませんから」  というのだった。  あるいはそれは、自分の心が踏み越えてはならない垣を越えようとしているのを見破って、わざと子供あつかいをしたのかもしれぬ。曹植はそうも思ったが、やはり怨めしかった。そんなことのあった日は、曹植は一日じゅう思いつめた。時がたてば垣などは自然にとり除かれてしまうだろう。いや、いまにきっととり除いてみせる……。ひとり書斎にひきこもってそんなことを考えていると、遣瀬(やるせ)ない中にもまた夢見るたのしさもあった。  しかし、父の凱旋の日の迫った今は、事情がちがった。彼は一刻も早く彼女に告げなければならぬと思った。私はあなたを娶(めと)りたいと思っていると。  思いたつと矢も楯(たて)もたまらなくなり、長衣をひっかけて書斎をとび出した。 「公子さま、雪が積っておりますに、どこへお出かけでございますか」  と敬輝(けいき)がとがめるような口調でいった。 「どこへでもよい。雪靴を出せ。ひとりで庭を歩きたいのだ。お前はついてこなくてよい」  曹植が短気であることを知っている敬輝は、なにもいわず、急いで雪靴を出して曹植にはかせた。雪の積った庭園は歩きにくかった。まわり道をしてようやく松林のところまでいくと、あたりを見まわして人のいないのを確かめて松林を通り抜け、蓮池のほとりから灌木(かんぼく)にかこまれた小径(こみち)を通って別院へはいっていった。  曹植がわざと音をたてて長衣の裾(すそ)の雪をはらっていると、幼蝉(ようせん)が出てきて、 「まあ、三公子さま、この雪道を。寒うございましょう、早くおはいりくださいませ」  といい、曹植の雪靴をぬがせて、いつもの書斎へ案内すると、急いで奥へ知らせにいった。曹植が窓際の肘掛椅子にかけて、どんなふうに切りだしたらよかろうと思案に迷っていると、幼蝉がもどってきて、 「公子さま。奥へお通りくださいますようにとのことでございます」  という。 「奥へ? 姫のお部屋へか?」  曹植はききかえした。自分はもう子供ではないのだ。女の部屋へはいっていってよいものだろうか。 「姫がそういわれたのだな」 「はい。この部屋は火がおこしてありませんので寒うございます。姫さまは寒さにお弱くて、お出になれないのです。公子さまは寒いのがお好きですの?」 「好きというわけではないが……」 「姫さまがお出迎えなさらなければいけないのですか」 「いや、そんなことはない」 「では、早くおいでくださいませ」  幼蝉はなんの屈託もなかった。曹植はよけいな顧慮だったと思いなおして、幼蝉についていった。  甄氏は〓の前の、豹(ひよう)の皮を敷いた安楽椅子にくつろいで刺繍をしていたが、曹植がはいっていくと、微笑をうかべてそれをわきへ置き、長裙の乱れをなおしながら立ちあがって、 「お寒い中を、よくおいでくださいました。さあ、私の場所をおゆずりいたしますわ」  といい、曹植をそこへ掛けさせて、自分は窓際の赤い錦のおおいのしてある長椅子の方へ移った。曹植は女の匂いのただよう部屋へはいってきて緊張していた。安楽椅子の豹の皮には、甄氏の匂いだけではなく、肌の余温も残っているようであった。そう思うと、緊張と羞恥(しゆうち)とで見る見る顔が熱くほてってくるのを覚えた。曹植は内心を甄氏に見すかされるのをおそれて、 「この部屋は、まるで春のように暖かい」  といった。甄氏はうなずいて、 「寒いところから急におはいりになったからですわ。長衣をおぬぎなさいまし」  といい、幼蝉に、 「公子さまに蜜酒をさしあげて」  といいつけた。  曹植は長衣をぬがなかった。不作法になると思ったからである。飾り棚の上の小さな花瓶に、水仙が一輪挿(さ)してあった。曹植はそれに眼をとめて、 「水仙がお好きですか?」  ときいた。ようやく気持の落ちついてくるのを覚えた。甄氏は蜜酒をほんの少し飲み、杯を置いてから、うなずいた。 「まだ物心もつかないうちから好きだったそうです。それで、父が私の名を……」  甄氏はいいかけて口をつぐんだ。そして棚の上の水仙を見ながら、 「公子さまも、水仙がお好きですか」 「好きです。それで、父上がどういう名をおつけになったのです? 私は姫とこんなに親しくしているのに、まだあなたの名を知らない……」 「私には名前などありません。女は役人になるわけではありませんから、名前などいらないのです」 「でも、あなたはさっき、いいかけたではありませんか」 「つい、口をすべらしてしまって。あれは、小さいとき家の中だけでみんなが呼んでいた幼名です」 「それをおききしたいのですよ」 「いえませんわ」 「心をゆるした人にでなければ?」 「まあ、そんなことをおっしゃる!」  甄氏は曹植をにらむまねをした。 「水仙に関係のある名ですね。あててみましょうか」 「どうぞ」 「もしあてたら、私のいうことをなんでもきいてくれますか」  甄氏は長椅子の上に曲げていた脚をおろして立ちあがり、曹植の傍へ歩み寄って、 「おあてにならなくても、私、公子さまのおっしゃることなら、なんでもききます。もし私にできることなら、なんでも」  といった。そして腰につけていた佩玉(はいぎよく)をはずして、曹植にさし出し、 「名前はこれに書いてございます」  曹植はそれを受け取って、見た。肌の温(ぬくも)りの残っているその佩玉には、篆字(てんじ)で「〓(ふく)」という一字が刻(ほ)られていた。 「ああ、そうだったのか。水仙、水中の仙女ですね。全く、あなたにふさわしい名だ。これからは〓(ふく)姫とお呼びしますよ」 「いけません! ここでは私の名をお呼びになってはいけません。そんなことをなさったら……」  彼女は首をふりながら、曹植にむかって手をさし出した。 「お返しくださいませ」 「姫、名は呼びません。そのかわりに、この佩玉を私にください」 「まあ、公子さま。そんなこと、いけませんわ」  しかし曹植は佩玉を握りしめたまま、返そうとはしなかった。これをもらって、かわりに自分の佩玉を贈りたいと思い、さあ、いまこそ切りだすべきときだと思うのだったが、そう思っただけでもう、手も口も強張(こわば)ってしまって、どうすることもできない。 「公子さま」  彼女はさし出していた手をひっこめて、いった。 「女が男のかたに佩玉をさしあげることが、どんなことかおわかりですか?」 「わかっております。私は、子供ではありません」 「わかっていて、おっしゃるのですか?」 「そうです。かわりに私の佩玉をさしあげます」 「いけません。公子さまの佩玉をいただいても、私はどうすることもできません。苦しくなるばかりです」  彼女は長椅子の方へもどり、腰をおろしてからいった。 「そのことがわかっていただけますなら、その佩玉は、よろこんでさしあげます」  曹植は握りしめていた佩玉を懐(ふところ)にしまっていった。 「姫、ありがとう。あなたが私の佩玉をもらってくださるときがくるまで、私はこのあなたの佩玉を大事にここにしまっておきます」 「このことは、かならず、どなたにもおっしゃいませんように」 「いうものですか」  曹植はよろこびで身体がふるえてくるのを覚えた。じっとしてはおられず、いますぐ彼女の胸にとびついていきたいような衝動にかられたが、まさかそんなことをするわけにもいかない。しばらく心を鎮めてから、ゆっくりと立ちあがり、威儀を正して、 「それでは、これでおいとまいたします。きょうは私の、最もよい日でした」  といった。  別院を出ると、雪の積った庭をあてもなく歩きまわった。どこからも見えない木かげにくると、立ちどまって懐から佩玉を取りだし、「〓」という字の上にくちづけをして、また歩きだす。佩玉を懐にしまいながら、彼は屈原(くつげん)の「離騒(りそう)」の一節をくちずさむ。 吾、豊隆(ほうりゆう)をして雲に乗り 〓妃(ふくひ)の在る所を求めしむ 佩〓(はいじよう)を解きて以(もつ)て言(げん)を結び 吾、蹇脩(けんしゆう)をして以て理を為さしめん  雲の神の豊隆に雲に乗って〓(ふく)姫のいるところをさがしにゆかせ、もし会うことができたなら、佩帯(おびひも)の玉をはずして心をつたえ、媒妁人(ばいしやくにん)の蹇脩(けんしゆう)に仲立になってもらおう。——詩はそういう意味であった。  堯(ぎよう)が天子のとき、空に十個の太陽があらわれて人々は火あぶりの苦しみを受けた。堯が天帝に祈って救いを求めると、天帝は弓の名手の〓(げい)を地上につかわして、息子たちのいたずらをやめさせることにした。妻の嫦娥(こうが)といっしょに地上へおりた〓は、弓でつぎつぎに九個の太陽を射落して人々の苦しみを救い、さらに怪獣や怪鳥たちを討って人々の害を除いたが、天帝は〓が息子たちを殺してしまったことを怒って、〓を天へ帰れなくしてしまった。そのまきぞえになった妻の嫦娥はしきりに夫を怨んだ。〓はおもしろくない。毎日狩猟をして気をまぎらわしていたが、ある日、川のほとりで仙女たちと遊んでいた洛水(らくすい)の女神〓妃(ふくひ)と出会って恋におちた。〓妃は伏羲(ふくぎ)の娘だったが、洛水を渡るとき水にのまれて、洛水の女神になった絶世の美女である。いまは水神河伯(かはく)の妻になっていたが、河伯は放蕩者(ほうとうもの)で〓妃をかえりみず、〓竜(きゆうりよう)のひく車に乗って九河を周遊し、人間界の美女たちとばかりたわむれていた。妻にうとまれた稀代(きだい)の英雄と夫にかえりみられない絶世の美女とは、こうして深く愛しあうようになる。 「あなたは〓妃で、私は〓だ」  曹植は雪の庭をさまよいながらつぶやく。  しかし、〓と〓妃との愛は実を結ばなかったのである。だが自分たちはちがう、と曹植は思った。 「あなたの夫はすでに死に、私には妻はない。あなたには河伯のような者もなく、私には嫦娥はいない。私たちは必ず結ばれる」  曹植はまた懐から佩玉を取りだし、「〓」の字の上にくちづけをする。 三  建安十一年春、曹操(そうそう)は〓城(ぎようじよう)に凱旋した。閲兵や論功行賞や祝宴など、凱旋の軍務は一月(ひとつき)ちかくもつづいた。その間曹植(そうしよく)は父の傍につき従っていて、別院を訪れることはできなかったが、「〓(ふく)」の字を刻んだ佩玉(はいぎよく)は、片時も身からはなしたことはなかった。夜ひとりで寝るときも、懐にいれて寝た。  ようやく軍務がかたづくと、曹操は家族だけの祝宴をひらいた。侍妾たちもみな顔をそろえたが、甄(しん)氏は招かれなかった。曹植は懐に佩玉をあたためながら、いまにこういう席に彼女も出ることができるようになるのだと自らにいいきかせていた。 「子建、うれしそうではないか」  と曹操が声をかけた。はっとして顔をあげると、 「お前も、このつぎにはいっしょに出征してもよいぞ」  曹操は家族の者を前にして満ち足りた思いだった。初平(しよへい)元年、袁紹(えんしよう)らを糾合(きゆうごう)して董卓(とうたく)征討の旗上げをして以来すでに十七年になる。戦乱の中におのれの出路を求めて幾度か死線を越え、いまようやく彼の地位は安定したといえる。運がむいてきたのは子建の生れた年からであった。彼は十五歳になったこの三男がすでに英俊の気をみなぎらせているのを見て、末たのもしく思った。 「子建、お前はいま何を考えている」 「このつぎ、父上に従って出征するときには、長江を渡って呉の孫権(そんけん)をいけどりにしようと考えております」  曹操は声をあげて笑った。河北を得て、つぎには呉を。それは自分の考えていることと同じであった。 「荊州(けいしゆう)の劉表(りゆうひよう)も矢をむけているぞ」 「劉表など、ひとたまりもありません」  それも同じ考えだった。曹操はまた声をあげて笑いながら、満足げにいった。 「子建、あまりに大言するではないぞ」  宴がはてると、曹操は曹植だけを引きとめていった。 「書院に冀州(きしゆう)の名士らが待たせてあるのだ。私といっしょにいって彼らに会っておくがよい」  書院には、もと袁紹の騎都尉(きとい)だった崔〓(さいえん)をはじめ、冀州の降将たちが集っていた。曹操は曹植を彼らに引きあわせたのである。  その会合が終って自分の部屋にもどると、曹植は急いで着物を着かえて別院へいった。松林を越えたところで別院の方を眺めると、ちょうど、一人の男が門を出てくるのが見えた。つづいて、門の外に、それを見送る甄〓(しんふく)の姿があらわれた。曹植は突然、全身の血の凍るのを覚えた。男は長兄の曹丕(そうひ)だったのである。  木かげにかくれてうかがっていると、甄〓が身をまげて丁寧に礼をするのが見えた。表情まではわからないが、やさしい笑みをたたえているように思われた。曹丕は礼を返し、灌木の小径(こみち)に沿って、いま曹植がかくれているところとは反対の側の松林の方へ足ばやに去っていった。  しばらくしてから、曹植は木かげを出て別院への路をたどった。甄〓は曹丕の去っていった方をむいて門の前にたたずんでいて、曹植が近づいていくのには気づかないようであった。やがて足音に気づいたらしく、ふりかえって、 「あら、三公子さま!」  と、ぱっと顔を綻(ほころ)ばせた。 「なにをしておいでです?」  曹植はわざとそうきいた。もし兄とのあいだになにかあれば、兄がきたことをかくすはずだと思ったからである。 「さきほど長公子さまがお見えになりました。お見送りしたところです」  彼女はわだかまりなくいった。 「北方からお帰りになって、前よりも少しお痩せになったようにお見受けしました」 「前に兄とお会いになったことがあるのですか」 「はい。冀州(きしゆう)で……」  彼女の顔に俄かに暗いかげがさしたのを見て、曹植ははっとした。 「そうですか。冀州が落ちたときですね」  彼女はうなずいて、 「私はそのとき、袁(えん)家の館(やかた)で乱兵にかこまれていて、もう命はないものと思っておりました。そこへ長公子さまが見えて、助けてくださったのです。そのあと大将軍さまが入城してこられて、それからのことは三公子さまもご存じのとおりです。私の父は、まだ私が生れないときですけれど、大将軍さまとごいっしょだったことがあって、私がここで優遇をたまわっておりますのも、そのためでございましょう」  前に彼女が「故旧(こきゆう)」といったのは、父と袁紹とのことではなく、父と彼女の父の甄公(しんこう)のことだったのか、と曹植ははじめて気づいた。 「あなたのことを、もっとくわしく知りたいのです。ぶしつけですが、あなたはどうして袁家へ嫁がれたのです?」 「叔父が袁家の世話になっていて、そうさせられてしまったのです。私に限らず、それが私たち女の運命というものでしょう?」 「父上の甄公は?」 「私が四つのときに亡くなりました。その後戦乱に追われて河北(かほく)を転々とした末、叔父につれられて冀州に落ちついたのですが、その冀州でまた大きな戦乱にあって……」 「あなたは、冀州を攻めて袁氏をほろぼしてしまった私たちを、心の中では責めていらっしゃるでしょうね」 「三公子さま、そんなことをおっしゃらないでください。私はいま、あなたの家のおかげで贅沢(ぜいたく)に暮させていただいている身です。責めるなら、女に生れついた私自身を責めるよりほかありません。たとえ大将軍さまが攻められなくても、あの人たちは兄弟同士で攻めあって、結局は同じようなことになったと思います」 「私にはそれが気がかりだったのです。心の中のどこかでは私たちを怨んでいらっしゃるのではないかと」 「三公子さまは、おやさしいかたですわ。私のことを、そういうことまで考えてくださって」  曹植は甄〓の手をとって庭石の上に腰かけさせ、その手をはなさずに、彼女の上にかがみこむようにしていった。 「早く私の佩玉を受けとってほしいからなのです」  彼女は顔をあげて曹植を見つめながら、ゆっくりと首を横にふった。 「私には、それはできないのです。前にも申し上げたでしょう? そんなことをおっしゃることは私をお苦しめになることですと。私はここで優遇をたまわっておりますけれど、曹大将軍の俘虜(とりこ)なのです。大将軍さまのおゆるしなしに私に何ができましょう。三公子さまに私の佩玉をさしあげましたのは、私のせい一杯の気持です。三公子さま、どうかおわかりになってくださいませ」 「それは、父があなたを望んでいるということですか」  曹植は蒼白になっていった。 「大将軍さまには先日お眼にかかりました」 「いつです?」 「最後の論功行賞があったという日の夜です」 「夜?」 「私は、どなたか戦功のあった将軍のところへ嫁がされるのかもしれないと思いました」 「あなたはよくもそんなことが平気でいえますね。それで、そうではなかったのでしょう?」 「わかりません。大将軍さまはこう申されました……」  ——曹操はそのときこういったのだった。 「冀州(きしゆう)を攻めてそなたを窮地におとしいれたことを遺憾(いかん)に思っている。ついては、そなたの満足のいくようなつぐないをしたいと思うのだが、望みのことがあれば何なりといってほしい」  甄〓は席をはなれて曹操の正面にすすみ、跪拝(きはい)の礼をしていった。 「大将軍さまには、亡父との好(よし)みを重んぜられて、数ならぬ身の安全をおはかりくだされ、優遇をかたじけなくして、お礼の言葉もございません。そのご仁慈のほど、失礼ながらひそかにまことの父のようにお慕い申しております。この上、何の望みがございましょう」 「そなたの身のふりかたについても考えたが、才色を兼ね備えたそなたのような絶世の美女には、天下無双の英雄こそふさわしいであろうな」 「お言葉は私にはあたりませんが、天下無双の英雄といえば、大将軍さまをおいてほかにあるとは思えません。残念ながら大将軍さまにはすでにご立派なご家族があり、しかもひそかに父としてお慕いしているかたであれば、私には望むべくもないことでございます」 「そうか、望むべくもないことか」  曹操は膝をたたいて大声で笑ったという。  ——曹植はそれをきいて思った。父にはやはりその気があって、暗に彼女の意向をさぐったのだ。彼女の巧みな拒絶にあって、おそらく父は失望したにちがいない。だが父はわが父ながら天下の英傑だ、これ以上彼女に求めることはあるまい。 「父はもうあなたを望むことはないでしょう。それでもあなたは、まだ私の佩玉(はいぎよく)を受けとってはくださいませんか」  甄〓はまた首を横にふっていった。 「私が曹大将軍の俘虜であることにはかわりはありません。私の気持をおわかりになってください。いま私にそんなことができるわけはありません。たとえ公子さまの佩玉をいただいたところで、いつわりごとにならぬともかぎりません。私にはそれがおそろしいのです。しかし私が公子さまに私の佩玉をさしあげた心には、いつわりはございません」 「その佩玉は、いつもここに持っております」  曹植は懐から佩玉を出して彼女に見せた。 「おしまいくださいませ。つろうございます」  彼女は叱るような口調でいった。そのとき曹植は、彼女の眼に涙がにじんでいるのを見た。もう何もいえなかった。この佩玉の「〓」の字の上にいつも口づけをしているのだということも。曹植は佩玉を懐にしまい、彼女の横に腰をおろして、そっとその肩を抱いた。彼女は肩をぶるぶるふるわせていたが、しばらくすると自分の方から顔を近づけてきた。それから、長い口づけのあとで、つぶやくようにいった。 「公子さま、きょうはもうお帰りになってくださいませ」 四  建安十三年、曹操(そうそう)は〓城(ぎようじよう)からその本拠地の許昌(きよしよう)へ帰り、洛陽(らくよう)から献帝(けんてい)を迎えてこの地を首都にし、自ら丞相(じようしよう)となった。同時に、呉との開戦に備え、〓河(しようが)の水を引いて玄武湖という人工の湖を造り、水軍の訓練をした。  曹植もはじめての出征に備えて、名将夏侯淵(かこうえん)について戦略を学ぶとともに、練兵場に出て実戦の訓練にもはげんだ。続々と部隊が平原に集結されて、日ましに雄壮の気のみなぎってくる環境の中で、彼は初陣(ういじん)を思って胸をおどらせていたが、どんなときでも彼の懐の中には甄〓(しんふく)の佩玉(はいぎよく)があたためられていた。  〓城をはなれる日が迫ったとき、彼は馬車を走らせて甄〓と二人で城北の傑閣(けつかく)へゆき、楼に登って平原を眺望したことがあった。その平原はいまは兵士たちでうずめつくされている。彼はまた〓河のほとりに甄〓と肩を並べて、ひそかに彼女を洛水の女神や湘水(しようすい)の女神になぞらえたことがあった。その〓河の水を引いた玄武湖ではいまは水軍の訓練がおこなわれている。  彼は〓城にいる甄〓を思い、一篇の詩を書いて送った。 玉手を携え同車を喜び 北のかた雪閣飛除に上る 釣台は蹇産(けんさん)清虚にして 池塘(ちとう)観沼娯(たの)しむべし 仰ぎては竜舟を緑波に泛(うか)べ 俯しては神草の枝柯を擢(ぬ)く 彼の〓妃洛河を想い 退いて漢女湘娥(しようが)を詠ず  曹植は毎日心待ちにしていたが、彼女からの返信は得られぬまま、南征の日が迫ってきた。ところが、曹操は彼の出征をゆるさなかったのである。彼はすでに十七歳だった。次兄の曹彰(そうしよう)は十七歳のとき初陣をして戦功をたてた。彼はそのことをいって曹操にたのんだ。 「父上は私を文弱の徒とお思いなのですか」 「いや、そうではない。ただ、お前と子文とは同じではないのだ。子文は天生の武人だが、お前は天生の文人だ。お前は軍功をたてることを思わずに、詩文にはげめ」  曹操は曹植を特に可愛がっていた。この文才豊かな息子を危険な戦場へつれてゆきたくなかったのである。 「お前は居残って、首都の守りの要(かなめ)となるのだ。おりを見て〓城へも巡察にいってくれ。許昌で朝廷の儀礼を学ぶことも大切だ。お前にとってもそのほうが、戦場へ出るよりもむしろためになるのだ」  曹操はそういって、文箱の中から数枚の紙片をとり出した。 「これは私の近作だ。持っていって、見てくれ」  曹植は父の詩稿を受けとると、もう、重ねてたのむわけにもいかなかった。  建安十三年の初秋、曹操は大軍をひきいて南征の途についた。まもなく、南方からは相ついで捷報(しようほう)が伝えられてきた。荊州(けいしゆう)の劉表(りゆうひよう)は病死し、その子の劉〓は荊襄の地・九郡とともに軍門にくだり、新野(しんや)の樊城(はんじよう)にいた劉備(りゆうび)もあえなく敗退したという。  曹植は父が残していった詩にこたえて、何篇かの戦勝を歌頌(かしよう)する詩を作った。別に、許昌の近況を伝える手紙を書き、〓城へは近く巡察にいく旨を書き添えて、詩とともに前線の父のもとへ送った。  中原(ちゆうげん)に雪の舞いはじめた初冬、曹植は百余名の儀仗(ぎじよう)隊をひきつれて〓城へむかった。到着した日とその翌日とを、〓城の文武の官員との接見や閲兵についやした曹植は、三日目の午前、許昌で作った新しい平服に着かえて別院へいった。  松林のところまでゆくと、馬の蹄(ひづめ)の音がきこえた。たちまち馬は近づいてきて、曹植の前方でぴたりととまった。馬上で、気取って上半身を反(そ)らせたのは、甄〓だった。上半身を反らせるのは乗馬のときの男の礼である。あきれ顔で見ている曹植に対して、甄〓は顔を綻ばせて馬から下り、 「三公子さま、お待ちしておりました」  といった。彼女は長い黒髪を白絹で後ろに束ね、黒い縁どりをした黄色い上衣を着、空色の乗馬〓(ズボン)に黒い長靴(ちようか)をはいていた。長靴には鞭(むち)が刺してある。その鞭を引きぬいて彼女は、 「私、女盗賊みたいでしょう?」  と笑った。盗賊は長靴に剣を刺しているというので、そういったのだった。 「こちらへお帰りになったときいて、心待ちにしていたのですけれど、まさか午前中にいらっしゃることはなかろうと思って馬に乗っておりましたの。そうしたらお姿が見えたでしょう? びっくりしましたわ」 「びっくりしたのは、私の方ですよ」  と曹植も笑った。 「私、失礼してさきに帰って着がえをします。幼蝉(ようせん)にいっておきますから、書斎へおはいりになってお待ちくださいますように」  彼女は馬に乗ると、また気取って上半身を反らせ、笑顔を残して馬首をめぐらした。曹植は彼女の去っていったあとを、ゆっくり別院へむかった。  書斎で待っていると、まもなく彼女は着がえをし化粧もなおしてきて、 「奥へいってお話ししましょう。散らかしておりましたけど、もう片づけましたから」  といった。彼女の部屋へゆき、窓際の長椅子に並んで坐るとすぐ、彼女は怨むようにいった。 「どうして一年間もお帰りになりませんでしたの。長公子さまは一度お見えになったのに」 「兄がきたのですか」  と曹植はせきこんでききかえす。 「あなたに会いにきたのですか」 「はい。〓河(しようが)の岸の銅雀台(どうじやくだい)の工事がはじまったとき、見にいらっしゃったのです。そのおりお訪ねくださいました。あの馬はそのときにいただいたのです」  曹植は思い出した。出征に備えて戦略を学んだり実戦の訓練をしたりしていたときだった、兄が父の命令で銅雀台の工事を監督するためしばらく〓城(ぎようじよう)に滞在していたことを。そのとき兄が彼女に馬を贈ろうとは、思いもつかなかったことである。その馬を彼女は毎日乗りまわしているのだ。迂闊(うかつ)だった、と思った。 「でも、あなたに贈っていただいたものの方が、私にはずっとうれしゅうございます。そういえば、まだお礼も申し上げていなくて……」 「私が贈ったもの?」  曹植は思い出せなかった。 「あなたにいただいたのは、あなたのお心ですもの。あの詩をいただいたとき、私、どんなにうれしかったか」 「ありがとう、〓(ふく)」 「名をお呼びになってはいけないと申しましたのに」 「二人きりのときなら、かまわないではありませんか。〓、あなたも名を呼んでください」 「心の中では、私、いつもお呼びしております、子建、子建……」  胸にもたれてくる彼女を抱きよせて曹植が口づけをすると、彼女ははげしくそれにこたえた。 二人は言葉もなく長いあいだ抱きあっていたが、やがて甄〓が曹植の手をおさえながらいった。 「いけません、子建。私がよろこんであなたの佩玉を受けとれるときまでは、いけません」 「もう佩玉なんかどうだっていい」 「いけません。もうやがて昼になります、むこうでは大勢の人たちが接見を待っているでしょう。きょうはもうお別れしましょう」  甄〓は曹植の手をおしのけると、なだめるようにまたそっと口づけをして、 「子建、あした〓河の岸へ二人だけで遠乗りに出ましょう」  曹植はうなずき、あすを約束してようやく甄〓をはなした。  翌日、曹植と甄〓は北風の吹きさらす〓河の岸に轡(くつわ)を並べていた。そのはるかうしろから、敬輝(けいき)ら四人の家僕がやはり馬に乗ってついていく。 「〓、寒くはない? あなたは寒がり屋だったはずだのに、どうしてこんなところへ誘ったのです?」 「寒くなんかありませんわ。さっき走ったので熱いくらいです。部屋の中の寒いのはいやですけど、外へ出てしまえばいいのです。いつもとじこもっているものですから、こういうひろびろとしたところへ出ると、このままどこかへいってしまいたいような、うきうきした気持になります。子建、あなたも寒くはないでしょう? 傍に〓(オンドル)があるから」 「〓がある?」 「お忘れになったの? 私のことを〓のようだとおっしゃったことを」 「忘れるものか」  曹植は馬を寄せて彼女の顔をのぞきこみながら、 「寒ければ〓を抱きなさいということでしょう?」  といった。 「うしろから、敬輝たちがついてきますわ」 「あの者たちはかまわないのだ」  曹植が防寒頭巾をはねのけると、甄〓もそうした。二人は馬をとめ、どちらからともなく顔を寄せあった。 「父上が南征から帰られたら、すぐにもあなたとのことをたのむつもりだ」 「おゆるしになるでしょうか」  彼女はまた馬を進めながらいった。 「丞相(じようしよう)はあなたをお世嗣(よつ)ぎに立てようと考えておられるとか。将来大業を受けつがれる身には、権勢のある外戚が必要です」 「…………」 「私はあなたより八つも年上です。あなたがまだお若いうちに、私は年をとってしまいます」 「…………」 「私はあなたの家の俘虜(とりこ)の身です。丞相のいわれるとおりにするほか私には道がないのです」 「〓、あなたはどうしてそんないやなことばかりいうのだ」 「ほんとうにそうだからですわ。でも、私の身がどうなろうと私の心はいつでもあなたのお傍におります。敬輝たちが近づいてきましたわ、馬を走らせて敬輝たちをあわてさせてやりましょう!」  甄〓は眼に涙をにじませていた。彼女はそれを曹植にさとられたくなかったのである。  その日から二人はしばしば遠乗りに出た。誘うのはいつも甄〓の方からだった。彼女は曹植の、そしてまた自分の愛情が狂おしく奔放しそうになるのを、遠乗りによってまぎらわそうとしていたのである。残冬のある日、きょうも二人は〓河の岸に馬を並べていたが、不意に甄〓があわただしい声をあげていった。 「子建! なにか大事があったようです!」  彼女の指さす方をふりかえると、数騎の者が疾走(しつそう)してくるのが見えた。雪を蹴立てで見る見る近づいて来、敬輝たちを追い抜いて駆けてくる。先頭は家将の曹保(そうほ)だった。  曹保は馬からころがるようにして下り、声をきらしながらいった。 「丞相は長江で敗戦なさいました。すぐ許昌へお帰りください」 「長江で敗戦した?」  曹植は霹靂(へきれき)をきく思いで問いかえした。 「はい。赤壁(せきへき)の一戦で呉の周瑜(しゆうゆ)の火攻めの計にあって……」 「父上は?」 「くわしい情況はまだわかりません」 「三公子さま、すぐお帰りくださいませ。私はここでお別れいたします」  と甄〓も曹植をうながした。 「敬輝! 甄姫をたのむ。姫、それではここで」  曹保といっしょに〓城へもどると、儀仗隊はすでに整列して曹植の帰るのを待っていた。曹植はすぐ軍装に着かえて出発した。〓城を出てからまもなく、許昌からの駅使に出会った。曹植は新しい消息があるかもしれないと思い、馬上で封を切って見た。中は一篇の詩で、「長江に軍次して作る所の短歌、並びに植児に付す」と題されていた。赤壁の戦より前に作られたもののようであった。 酒に対し歌に当(あた)る、人生幾何(いくばく)ぞ。 譬えば朝露の如く、去日苦(はなは)だ多し。 慨(がい)しては当に以て慷(こう)すべく、憂思忘れ難し。 何を以て愁(うれい)を解かん、唯杜康(ただとこう)有るのみ。 青青(せいせい)たる子衿(しきん)、悠悠たる我が心。 但(ただ)君の為の故に、沈吟して今に至る。 〓〓(ゆうゆう)たる鹿鳴(ろくめい)、野の苹(よもぎ)を食う。 我に嘉賓あり、琴を鼓し笙(しよう)を吹く。 明明たること月の如し、何(いず)れの時か輟(ひろ)う可(べ)けん。 憂は中より来(きた)り、断絶す可からず。 陌(はく)を越え阡(せん)を度(わた)り、枉(ま)げて用(もつ)て相存す。 契闊談讌(けいかつだんえん)、心旧恩を念う。 月明らかに星稀(まれ)に、烏鵲(うじやく)南に飛ぶ。 樹を繞って一匝(いつそう)す、何の枝か依る可き。 山高きを厭わず、海深きを厭わず。 周公哺(ほ)を吐いて、天下心を帰(き)す。  曹植は馬上で父の詩を口ずさんだ。山高きをいとわず海深きをいとわずとは、父の、人を容(い)れる心の大きさを示している。そして、天下心を帰することは父の願望である。赤壁の敗戦は父の将来にどのような影響を与えるであろうか。父は兵を用いるときには必ず余力を残している。いま気づかわれるはただ父の安否だけである……。 五  赤壁の敗戦で曹操(そうそう)は挫折(ざせつ)したが、しかしそれは魏(ぎ)を危うくするほどのものではなかった。しかも、孫権(そんけん)と劉備(りゆうび)の軍事同盟は、お互いの猜疑(さいぎ)のために戦闘が終るとすぐ瓦解(がかい)してしまい、許昌(きよしよう)は相変らず安全であった。曹操の地位は一回の敗戦によってゆらぐようなものではなかった。敗戦の損害が恢復すると、彼は軍備の充実と拡張をはかるとともに、政治上でもいくつかの新しい部署をもうけて改革をはかった。許昌に万一のことのある場合に備えて〓城(ぎようじよう)の建設に心をつくしたことも、また、漢朝の前の首都であった洛陽(らくよう)を重視して、夏侯淵(かこうえん)と鐘〓(しようよう)の二人を派遣して治めさせたこともそれである。  そのとき曹植(そうしよく)は、洛陽へいくことを命ぜられた。彼には三人の俊才がつけられた。一人は楊修(ようしゆう)であり、あとの二人は丁儀(ていぎ)・丁翼(ていよく)の兄弟であった。  〓城の建設は曹丕(そうひ)にまかせられた。曹植は洛陽よりも〓城へいくことを望んだが、楊修がそれを思いとどまらせた。洛陽は重要な地であり、そこへの派遣は丞相(じようしよう)に深い考えがあってのことにちがいないからこの機会を逸してはいけないというのである。曹植が心の秘密をうちあけると楊修はいった。 「洛陽での任は数ヵ月でおわるでしょう。そのあとで丞相にいわれたほうが、いまそうされるよりもよろしいでしょう」  曹植は一理あると思い、甄〓(しんふく)に手紙を書いてそのことを知らせた。  〓城での甄〓の生活には、なんの波瀾(はらん)もなかった。曹植があわただしく去っていってからは、めったに馬に乗ることもなく、ひとり曹植を思い暮らしていた。そしてみたされぬ思いをなげきながらも、これが自分にはふさわしいのだと自らにいいきかせていた。  建安十四年の秋、甄〓は、洛陽での任をおえて許昌に帰ってきた曹植からの手紙を受けとった。それには、父丞相が〓城で新年を迎える意向ゆえ、近いうちに会えるであろう、と記されていた。そして、兄はあなたに、馬についで何を贈ったであろうか、と書き添えてあった。曹植には、ずっと〓城にいて銅雀台(どうじやくだい)の建設にあたっている曹丞と甄〓のことが気がかりだったのである。その添え書きを見て甄〓は頬笑みながら、 「子建、あなたはやきもちを焼いているのね。ありもしないことを考えて」  とつぶやいた。曹丕は父に銅雀台の建設を督促されてその方にいそがしく、夏と初秋とに二度、果物をとどけに訪ねてきただけであった。  ところが、曹植からの手紙を受けとってからまもなく、不意に曹丕が訪ねてきた。彼は一人の客をつれていた。許昌でも名の知られた人で、新たに丞相の別駕(べつが)に任ぜられて銅雀台を視察にきた呉質(ごしつ)だった。呉質は久しい以前から河北の甄氏の名をきいていて、この機会にぜひ一目彼女を見せてほしいと曹丕にたのんだのだった。  曹丕と呉質は書斎で茶を飲んだだけで帰っていったが、呉質は別院を辞して門を出るとすぐ曹丕にいった。 「公子、眼の前にあれほどの美人がいるというのに、あなたはなにを遠慮しておられるのです」  曹丕が頭を振って、 「彼女は身分が複雑すぎる。それに父の意向もわからない」  というと、呉質は、 「丞相には格別の思(おぼ)し召しはないと思います。あるなら今日までほうっておかれるはずはないでしょう。あすにでも銅雀台に招いて、午餐(ごさん)でもともにしながら彼女の意向をさぐってみたらどうです」  とすすめた。曹丕は心を動かされながらも、 「銅雀台へ招くのはどうかな」  といった。  銅雀台は室内の装飾や調度はまだととのっていなかったが、建築の工事はすでに終っていて、彼女を午餐に招こうと思えばその用意はできた。しかし曹丕は父をおそれていた。父よりもさきに彼女を招いたことをもし父が知って、勘気にふれでもしたら、とおそれたのである。甄〓に馬を贈ったことも、季節の果物をとどけたことも、彼女の歓心を買うためというよりは彼女を通じて父の歓心を買うためであった。めったに別院へ足を踏み入れないのも、彼女に狎(な)れることによって父に疎(うと)まれることをおそれてであった。彼は父が自分よりも曹植を愛していることを知っていた。彼が父の勘気にふれることをおそれるのは、父が自分をさしおいて曹植を世嗣ぎに立てることをおそれていたからである。 「かまうものですか」  と呉質はいった。 「公子は丞相に気をつかわれすぎます。もっと闊達(かつたつ)にふるまわれたほうが、かえって丞相のお気に入るのです。引き返して彼女を誘ってごらんなさい、あした銅雀台へ午餐に招待したいといって」  曹丕はそそのかされて、思い切って別院へもどっていった。すると幼蝉(ようせん)が出てきていった。 「姫は長公子さまがお帰りになってからずっと、ふさぎこんでおられます。長公子さまはどういうおつもりで、よそのかたを別院へお通しになったのだろうとおっしゃって。長公子さまがおつれになったので拒めなかったけれど、それではいいわけにならない、丞相のお耳にはいったらどうなることだろうといって案じておられるのです。この別院へお家(うち)のかたではない男の人が見えたのは、はじめてですから」 「そうか、呉質にたのまれて格別のこととも思わずにつれてきたのだが、軽率だったかもしれぬ。姫につたえておいてくれ。もうこのようなことはせぬ。父には黙っていてくれるようにとな。呉質にも口どめをしておくから、案じることはないとな」  曹丕は銅雀台への招待のことはいわずに、そのまま帰った。呉質にそのことをいうと、彼は頭をかいて、 「意外に手強(てごわ)い女ですな」  といった。  やがて冬になった。ちょうど一年前のいまごろは、二人でよく〓河(しようが)の岸へ遠乗りに出かけたのに……。甄〓がひとりで思いにふけっていると、不意に松林のあたりから馬の蹄の音がきこえてきた。空耳かもしれぬと疑っていると、幼蝉がかけこんできて、 「三公子さまです」  と告げた。いそいで出ていくと、曹植が旅装のまま、汗とほこりによごれた顔を綻(ほころ)ばせていた。 「まあ、子建!」  彼女は小躍りしていった。 「新年まではお会いできないと思っていたのに!」 「父が急に気を変えて、いまから行こうといいだしたのです。銅雀台の落成も近いときいて」  曹操の一行が〓城の近くまできたとき、曹植は先発隊に加わって馬を飛ばし、〓城に着くとすぐ兄の曹丕に、父を郊外まで出迎えるようにつたえて、そのまま別院へ駆けてきたのだった。 「〓(ふく)、早く何か話して! 私はこれから、すぐまた父の出迎えにもどらなければならないのだ」 「何を話せばいいの? お顔がよごれておりますわ、幼蝉にお湯を持ってこさせましょう」 「顔なんかかまわない。それとも、よごれていて、いや?」  曹植は顔を寄せながらいった。甄〓は頭を左右に振りながら頬笑み、曹植の口づけを受けた。二人はしばらく抱きあっていた。 「もう、もどらなくては。きょうはこれから、いろいろ用があって来られないが、あしたになったら抜け出してくる」 「子建、無理なことはなさらないで。そんなことをなさると、私はつらい思いをしなければなりません。おひまになるまでお待ちしていますから」  甄〓は曹植を門の外まで見送った。  その日、曹植は賓客たちの応接に寸刻のひまもなく、深夜になってやっと自室で休むことができた。旅の疲れと応接の気疲れとで、彼は上衣だけをぬぐとそのままごろりと寝台の上に寝ころんだが、眼をとじると別院の甄〓(しんふく)のおもかげが浮んできて、眠ろうとすればするほど眠れない。起きだして部屋の中を行きつ戻りつしたが、心の鎮まらぬまま、上衣を着て外へ出た。  月夜だった。庭園には夜廻りの影も見えなかった。彼は月がつくっている暗い木かげをたどりながら、松林へ出、別院の門をくぐると、中庭の方へまわっていって甄〓の部屋の窓をそっと叩いた。  彼女も曹植のことを思って眠れずにいた。〓、〓……と呼びつづける声が彼だとわかると、彼女はこんなふうにして会ってはならないのだと思いながら拒絶するに忍びず、起きて明かりをつけ、化粧台にむかって顔をととのえ、うがいをしてから、そっと窓をあけた。  曹植は窓枠に手をかけて跳びあがり、部屋の中へ下りると、甄〓が窓をしめるのを待ちかねて抱きしめながら、 「〓、無性(むしよう)に会いたくなって、どうにもならなかったのだ」  といい、彼女が何かいおうとする口を口づけでふさいだ。長い口づけのあと、彼女は身体の重みを彼にあずけ、頭を彼の肩にもたれさせて、気もそぞろにいった。 「子建、誰にも見つからなかった?」  曹植はうなずき、彼女を抱き上げて寝台の上へ横たえると、その脚をとらえて腿に唇をおしあてた。彼女は脚をあげて彼を迎え、自分の手で導いて、子建、子建……と、あえぎながら名を呼びつづける。  雲雨がおさまると、曹植がいった。 「〓、ありがとう。これでもう、佩玉(はいぎよく)をもらってくれたのも同じだね」 「子建、よくきいて。私はもう身も心もあなたのものです。いけないことだけど、こうなってしまったのも運命でしょう。でも、あなたのためを思うと、佩玉はいただけないの。わかってくださるわね、私たちはこのままでいいのよ、こうして愛しあっておればいいのよ」 「〓、またそんなことをいう! あなたのほかに私にあう人はいないし、私のほかにあなたにあう者はいないのだ。ねえ、そうだろう」  若い曹植がまたたけり狂ってくると、甄〓ももの狂おしくそれに応える。二度、三度、二人はそれをくりかえした。  やがて夜が白んできた。甄〓は、いかにも満ち足りたような顔でまどろんでいる曹植の顔に口づけをしながら、 「子建、もう起きて」  という。子建は眼をさまし、口づけをかえして、 「そうだ、もう帰らなければ。夜が明けてからではまずい」  と、いそいで起きて衣服をまといながら、 「誰かにたのんで、父にいってもらうことにしよう」 「どうしてもそうなさるおつもり?」 「うん、どうしてもだ」 「丞相が反対なさっても、争わないでくださいね。どなたかあてがおありですの?」 「これからさがす。若い人ではいけないし、父が信頼している人でなければいけないし……」 「子建、それなら崔〓(さいえん)はどうかしら。あの人なら私の家のこともよく知っているし、平生あなたに好意を持っているし、丞相の信頼も厚いし……」 「そうだ、崔〓ならよかろう。あしたにでもたのんでみる」  曹植が窓から下りると、甄〓は上半身を窓からのり出し、両腕を彼のうなじに巻きつけて、小声で、 「子建、子建、私の子建……」  と呼びながら頬ずりをした。 六  銅雀台(どうじやくだい)落成の祝宴は盛会であった。  曹操が冀州(きしゆう)を平定したときのことである、〓城(ぎようじよう)の東郊から古代の銅製の雀が掘り出された。 曹操はそれを瑞祥(ずいしよう)とみなして、そこに高台を建てることにしたのである。  銅雀台は三つの高楼から成っていた。中央のが最も高く、左右の二つはそれよりも低くて同じ形であった。中央のは銅雀、左右のはそれぞれ玉竜・金鳳と呼ばれ、この二つはその最上階で飛橋によって銅雀につなげられていた。  曹操は文武の官を従えて三つの高楼をめぐり、飛橋の上から〓河(しようが)の流れを眺めて、 「ここはまさしく老(おい)をたのしむに足るところだ」  といった。彼はまだ老年ではなく、退休する意志もなかったが、機嫌のよいときには好んでよくそんなことをいった。  宴席は中央の銅雀の太広間に用意されていた。一同がそこへ入っていくと、曹植が崔〓(さいえん)の袖を引いて、 「崔公、それではよろしくお願いしますよ」  といった。崔〓はうなずいて、 「おまかせください」  という。  やがて宴がたけなわになると、曹操は一同に高台の賦(ふ)をつくるように命じた。席には文名嘖々(さくさく)たる王粲(おうさん)、陳琳(ちんりん)、劉〓(りゆうてい)らもいた。曹植は彼らがまだ杯を持って想を練っているうちに筆を走らせ、曹操の前に進み出て、 「父上、登台の賦を詠じました」  といった。 「早いだけが能ではないぞ」  曹操はそういって受けとり、それを朗誦(ろうしよう)した。 明后(めいこう)の嬉遊(きゆう)に従い、台に登りて聊(いささ)か情を娯(たの)しむ。 天府の広開を見、聖徳の営む所を観る。 高殿の嵯峨(さが)を建て、雙闕(そうけつ)を太清に浮(うか)ばす。 冲天の華観を立て、飛閣を西城に連(つら)ぬ。 〓川(しようせん)の長流に臨み、衆果の滋栄を望む。 春風の和穆(わぼく)を仰ぎ、百鳥の悲鳴を聴(き)く。 天功其の既立(きりつ)を恒(つね)にし、家獲呈を得るを願う。 仁化を宇内(うだい)に揚げ、粛恭を上京に尽(つく)す。 恒文の盛と為(な)すと雖(いえど)も、豈(なん)ぞ聖明に方(なら)ぶに足らん。 休(やすらか)なるかな美なるかな、恵沢(けいたく)遠揚す。 我が皇家を翼佐し、彼の四方を寧(やす)んず。 天地の短景を同じくし、日月の輝光を斉(ひと)しくす。 貴尊を永くして極(きわま)り無く、年寿を東王に等(ま)つ。  曹操は吟じおわると、そのまま下座の王粲に渡した。王粲は軽く歎声をあげ、劉〓に渡した。劉〓がくりかえしくりかえし読んでいるのを見て曹操はきいた。 「どう思うか」 「千古に残る文章でございましょう」 「過褒じゃ」  曹操はそういって、満足げに笑った。すでに曹植の登台の賦は十数人の者が見おわり、みな口をそろえて賞讃した。曹操はうれしくてならず、うなずきながら、ひとり広間から廊下へ出て、ゆっくりと飛橋へ登っていった。  崔〓はこの機を逃してはならぬと思い、いそいでついて出た。しかしこのとき彼の心が大きくゆらいだ。きょうの様子では曹操はおそらく曹植を世嗣(よつ)ぎに立てるだろうと思ったからである。もし自分が曹植と姻戚関係を結べたなら、永く富貴権勢を約束されるのだ。 「公子さまたちのご結婚のことについて申し上げたいと思います」  崔〓がそういうと、曹操はふりむいて、 「そういえば、三人とももう結婚をしてもよい年頃だったな」  といった。 「丞相(じようしよう)にはすでにお心あたりでも?」 「ない。その方にはあると見えるな」 「もし私がお世話できますなら、身にあまる光栄でございます」 「遠慮せずにいうがよい。その方、それをいいにきたのであろう」 「おそれ入ります。じつは私の亡兄に一人、娘がおりまして、今年十六でございますが、私から申しますのは口はばったくは存じますが、才能にも美貌にもめぐまれておりますので……」 「その相手は、三人のうち誰がよいと思う?」 「それは……」  といったきり、崔〓は答えない。彼は運を天にまかせるほかないと思った。曹丕(そうひ)に、といわれても仕方がない、しかし曹操のいまの心は曹植に傾いているからおそらくその可能性はすくないだろう。  曹操は考えた。冀州(きしゆう)はいま、自分の最も大きな根拠地だ。そして、崔〓はその冀州の実力者だ。崔家と婚姻を結ぶことは将来かならず自分の息子にとって有益であろう。その上この婚姻は河北の民心を信服させるためにも好都合だ。彼は自らうなずきながらいった。 「年からいえば、子建がよかろうな」 「三公子さまですか。願ってもないことでございます」  崔〓はこみ上げてくるうれしさをおさえながら、ゆっくりそういった。 「子建に娶(めと)ってやって年上の子桓(しかん)をほうっておくわけにもいくまい。ほかに心あたりの娘はいないか」 「ございます。河北随一の佳人がお近くにおられるではありませんか」 「甄(しん)公の娘か。じつはあれは私も侍妾にしたいと思ったことがあるが、父のように慕っているといって婉曲(えんきよく)にことわられたわい。かしこい女だ。あれを兵乱の中から救い出したのは子桓だったな。よかろう、そうしよう。ところで、子建は私の鍾愛(しようあい)する子だが、少々重厚さに欠けるところがある。その方の姪(めい)の婿となったからには、今後よろしく教導をたのむぞ」 「三公子さまはまだお若うございます。もう何年かたてばきっと重厚さも出てきましょう。いまでも三公子さまは、才気が過ぎるところがあるだけで軽薄なところはございません」 「そうか。古人は子を知ること父に若(し)くはなしといったが、いまでは婿を知ること岳父最も深しというべきか」  曹操は愉快そうに笑いながら宴席へもどると曹丕と曹植を呼んで、 「私はいま、お前たちの婚姻を決めたぞ」  といった。  曹植は兄と並んで父に礼を述べた。宴席の人々はいっせいに起立し、杯を挙げて二人を祝った。崔〓に裏切られたとは知らぬ曹植は、うれしさのあまり三杯も飲み、早く甄〓(しんふく)のところへ知らせにいきたいと、踊りだしたいような気分でそわそわとしている。すると崔〓が眼顔で合図をして席を立った。曹植がついていくと、崔〓は隣室へ誘い、曹植の足もとにひざまずいていった。 「三公子さま、申しわけのないことになってしまいました」 「申しわけのないことになった? どうしたのです、ひざまずいたりして?」 「丞相は、甄姫さまは三公子さまよりも年上だからとおっしゃって、長公子さまに配されたのでございます。そして三公子さまには……」 「なんだって……」  曹植はたちまち全身の血のぬけてゆくのを覚えた。 「どうして父にいってくれなかったのだ、あなたに仲人をたのんだのに」 「申し上げたのでございますが、丞相はあのようなご気質です、いったんお決めになったことは、私ごときが何といってもおききいれくださらないのです。そして三公子さまには……」 「ききたくない!」 「お腹立ちはごもっともでございます。しかし丞相は三公子さまを内心お世嗣ぎに決めておられますようで、甄姫さまはお世嗣ぎになられる方にはふさわしくないと……」  曹植の耳にはもう何もきこえなかった。ふらふらと広間へもどっていって、手あたり次第に杯を取って飲みほした。そのことも彼は覚えていない。気がついたときには、自分の部屋で敬輝(けいき)に介抱されていた。敬輝はすでに事情を知っていて、 「公子さま、お察しいたします」  といった。曹植はふとそれを甄〓の声のように感じ、また狂おしくなってきて、夢なのかうつつなのかもわからなくなってくるのだった。 七  建安十六年秋、曹丕(そうひ)と甄〓(しんふく)、曹植と崔氏とが結婚してから三ヵ月たったとき、曹操は曹植を従えて西涼の馬超(ばちよう)討征の大軍をおこした。  その日の朝、曹植が銅雀台の広場で出発を待っていると、敬輝が馬をとばしてきて、耳うちをした。甄〓(しんふく)からの伝言だった。甄〓は孕(みごも)っていて、曹丕はよろこんでいるが、それは曹植の子であるという。  彼はただ、戦場で死ねるようにと、黙々と天に祈った。出発を見送りにきている兄の顔を見るのが苦しく、一刻も早く出発して〓城(ぎようじよう)からはなれたいと思ったが、大軍はなかなか動きださない。  と、〓城の留守をまもる崔〓(さいえん)が歩み寄ってきて曹植の馬前で一揖(ゆう)して、 「三公子さま、お元気で早く凱旋なさいますよう祈っております」  といった。曹植はそれを見ると、憎しみがにわかに燃え上ってきた。崔〓はすでに、自分の姪と曹植との結婚がうまくいっていないことを知っていたが、それでもなお自分の打った大賭博(ばくち)をあきらめきれず、卑屈な笑顔をうかべて馬の装具を点検した。 「崔公、いらぬおせっかいはやめてくれ」  と曹植は冷やかにいった。 「早く凱旋なさいませ? いや、私はきっと戦死する!」  崔〓はおどろいて曹植を見上げた。彼はいまだかつて、出征を前にこのような不吉な言葉をいうのをきいたことがなかった。 「そうだ、私が戦死したら、あなたはきっと悲しむだろうな。あなたの計画がくずれてしまうからな」  崔〓は思いがけない侮辱を受け、怒りで顔を真赤にして引きさがった。  西涼軍との戦闘は苦戦がつづいた。秋がすぎて冬になり、冬がすぎて春になる頃、ようやく長安を奪回して勝利をおさめたのだった。  歴代の帝王の都であった長安は、いまは荒れはてていた。漢の武帝の建設した通天台も色あせてくずれかかっていた。長安には多くの歴史のあとがあった。無数の変乱や興亡が、まざまざとこの土地に痕跡を刻んでいた。曹植は感慨深げに、この大地の歴史の瘡痕をさぐりつづけた。その中で甄〓の幻影は次第に淡くなっていった。ここでなら彼女を忘れることができる、と彼は思った。  凱旋の日どりがきまったとき、彼は父に長安に残りたいと申し出た。曹操はしばらく考えてから、いった。 「お前は何をなやんでいるのだ。お前のここに残りたい気持はわかるような気がする。長安はじつに多くの回顧するに足るものを持っているからな。だがお前には、これからしなければならぬことがたくさんあるのだ。ここに残って回顧にふけっているようなことは、お前にはゆるされないのだ」  曹植は父にさからって残ることもできず、凱旋の隊伍に加わって許昌(きよしよう)へ帰った。長安には残れなかったが、許昌にとどまることはできた。そして、夏から秋にうつるころには洛陽へいった。彼にとっては〓城へ帰らずにすめば、どこへやらされてもかまわなかったのである。  しかし、いつかは帰らなければならない。西征の軍に従って〓城をはなれてから約二年、ついに父は彼に〓城へ帰ることを命じた。帰っても彼は甄〓には会うまいと決心をした。兄に挨拶にはいったが、彼女に会うのをおそれて歓迎の宴はことわった。  だが、それによって妻の崔氏とのあいだが平静になったというわけではなかった。崔氏が彼と甄〓とのことを知ったからである。  それは崔〓がいったのだった。姪の結婚を利用して権勢を得ようとした崔〓は、曹植から侮辱されたことを怨んで一切を姪にぶちまけたのである。  ある夜、崔氏は曹植にいった。 「私は公子夫人になりたかったわけじゃありません。叔父にたくらまれたのですけど、叔父だけがわるいのでしょうか」 「私もわるかったよ。お前の叔父を憎むあまり、お前にまで冷たくあたったことは」  曹植が折れて出ても、崔氏はつっかかってきた。 「そうでしょうか。私に冷たくなさるのは叔父のせいではなくて、ほかの女のためでしょう!」  曹植は崔氏を可哀そうにも思ったが、そうかといって彼女を愛する気にはとてもなれず、自分自身をもてあました。 「私は公子夫人になんかなりたくなかったけど、なった以上は、夫がみだらな女と……」 「なにをいう!」  曹植は突然どなりだした。甄〓のことをそういわれると、彼はたえられなくなる。彼は崔氏をにらみつけて、 「どうしようというのだ!」 「私にどうにもできるわけはないでしょう? 曹家の勢力は皇帝よりも強いのですもの。私がきらいだったら、どうして離婚なさらないの? そうしたらあなたは兄嫁さんのところへいけるでしょう」 「私もわるい。だが、女の身でよくもそんなことがいえたものだ!」  曹植は書斎からとび出し、敬輝にいいつけて馬を用意させると、そのまま銅雀台へいった。その夜以来、彼は崔氏のところへは帰らなかった。  そのころ、曹操は旭日昇天の勢いを示していた。建安十八年四月、献帝(けんてい)は彼を魏(ぎ)公に封じて九錫を加えた。曹操は許昌から〓城に帰ると、曹植を臨〓侯(りんしこう)に封じ、食邑(しよくゆう)五千戸を与え、近衛軍の長官に任じた。それは曹植を後継者にするための用意ともいえた。  建安十九年三月、曹操は曹植を従え、再び西征の軍をおこして張魯(ちようろ)を討った。作戦ははかばかしく進展せず、二ヵ月をすぎたとき、長安に内乱がおこった。曹操は後方の基地をゆるがせにできず、軍の指揮を夏侯淵(かこうえん)に代らせて、自らは曹植とともに一隊をひきつれて長安にもどった。  長安の西涼兵の叛乱(はんらん)を鎮めたあと、曹植が〓城からとどいた公文書の整理をしていると、中に一通「臨〓侯子建に付す」と表書きした私信がまじっていた。兄からの手紙だと思って封を切ろうとしたが、ふと筆跡のちがうことに気づいてもう一度封筒の字を見なおして彼ははっとした。傍には誰もいなかったけれども、彼はあわててその封筒を懐(ふところ)にしまい、ほとんど上(うわ)の空で残りの公文書に眼を通してから、寝室へはいってその封書を取り出した。なんという大胆な! もし人に見つけられでもしたらどうするつもりなのか、と思いながら、待ち切れぬ気持で彼は封を切った。中には一篇の詩がはいっていた。 蒲あり我が池中に生ず、其の葉何ぞ離離たる。 傍(あまね)く能く仁義を行えども、妾が自ら知るに若(し)くは莫(な)し。 衆口は黄金をも鑠(とか)し、君をして生きながら別離せしむ。 念(おも)う君が我を去りし時、独り愁(うれ)いて常に苦悲せり。 君が顔色を想見し、感(かん)結んで心脾を傷(いた)ましめり。 君を念いて常に苦悲し、夜(よよ)寝(い)ぬる能(あた)わず。 賢豪を以ての故に、素(もと)愛せし所を棄捐(きえん)する莫(なか)れ。 魚肉を以て賤しむとも、葱(そう)と薤(かい)とを棄捐する莫れ。 麻〓(まし)を以て賤しむとも、菅(かん)と〓(かい)とを棄捐する莫れ。 出(い)づるも復(また)苦愁し、入るも亦(また)苦愁す。 辺地に悲風多し、樹木何ぞ〓〓(しようしよう)たる。 軍に従いて独楽を致す、延年寿(じゆ)は千秋。 新荷葉有り、思慕して已(や)まず、姑(しばら)く塘上行を作りて遠くに寄す。  曹植はなんども読みかえした。読みかえすごとに、狂おしくなるまでに甄〓がいとしくなってくるのだった。 「〓、私とて一刻もあなたを思わない時はないのだ。できればいつでもあなたのもとへ飛んでゆきたい。だが、それができないのだ。できないからといって、あなたを棄ててしまったわけではない、心の中ではいつでもあなたを抱きしめているのだ」  曹植は前の西征のとき以来、彼女には再び会うまいと決心した。会うことは兄に対する冒涜(ぼうとく)であり、彼女自身にとっても、そしてその子にとっても、不幸をもたらすことだと思ったからである。  だが彼女はいま、そういう自分の薄情を怨んでいる。 「〓、あなたの私を思ってくれる心はうれしい。だが、私にはあなたに会うことはできないのだ」  六月、張魯(ちようろ)を降(くだ)して〓城に凱旋した曹操は、七月また大軍をおこし、こんどは曹丕を従えて、赤壁(せきへき)の恥をすすぐべく南征に出発した。  曹植の心はゆらいだ。彼はそれを政務に没頭することにまぎらわそうと努めたが、ともすれば彼の心の中には、甄〓のかなしげな声がきこえてくる。「君を念いて常に苦悲し、夜寝ぬる能わず」——〓、それは私も同じなのだ、と曹植はその声に応える。  月明の夜、彼は飛橋に出て月を仰ぎながらゆらぐ心を鎮めていた。そのとき、飛橋の金鳳楼(きんぽうろう)の方の端に人影が見えた。人影はすこしずつ近づいてきて、やがて長裙(ちようくん)の衣(きぬ)ずれの音がきこえた。  彼のおそれていたことがおこったのである。おそれながら、あるいは彼はそれを待っていたのかもしれない。彼はその人影の方へ近づいていった。  月光に照らされて彼女の顔は蒼白に見えた。  唇がわなわなとふるえていたが、声は出なかった。彼が両手で彼女の肩を抱いたとき、かすかなふるえ声が、はじめて彼女の口を衝(つ)いて出た。 「子建! 私、とうとう来てしまいました……」 「〓、どうしてこんなところへ。人に見られたら大変だ、早く部屋の中へはいろう」 「私、どうしてもこらえ切れなくなったの、来なければ死んでしまいそうになったの。死ぬまでに一度、あなたの顔が見たかったの。来る道で殺されるようなことがあっても、来ずにはいられなかったの……」  彼女の声は次第に泣き声になり、ついには曹植の胸に顔を埋めて泣きだした。曹植はそのまま彼女を抱いて部屋へつれこんだ。 「〓、あなたはずいぶん思い切ったことをする! どうやってここへ来たの」 「五日前に幼蝉(ようせん)をつれて金鳳楼へ来たのです。そして毎晩、飛橋を渡る隙(すき)をうかがっていたのです。ところが、衛兵がいてどうしても飛橋へ出られないものだから、今夜は幼蝉をつかってうまく衛兵をたちのかせて、その隙に渡って来たのです」 「子供は元気?」 「元気です。だんだんあなたに似てきます。憎らしいくらいです」 「〓、私たちは不幸な運命に生れあわせたのだ。あなたの詩を読んで、私は胸の張りさける思いだった。ありがとう、あんなにも私のことを思いつめていてくれて。しかし私にはどうすることもできないのだ。わかってくれるね」 「いいえ、私はしあわせです。いま、あなたとこうしていられるのですもの、これ以上のしあわせはありません」  曹植が彼女を抱きしめると、彼女の方から身を開いて誘い入れた。 「〓、いけないのだ、いけないのだ」  といいながら、いったん堰(せき)を切ってしまうと、奔流(ほんりゆう)はとどめようもなかった。 八  建安二十一年四月、魏(ぎ)公曹操(そうそう)は魏王に封ぜられた。  曹操にはいま、一つの悩みがあった。それは立世子のことだった。彼は自分の衣鉢(いはつ)をつぐことのできるのは、曹植だと考えていた。だが、曹植を世子に立てれば、曹丕(そうひ)は生涯弟に反抗して軋轢(あつれき)がたえないであろう。軋轢は滅亡への第一歩である。  彼は重臣たちに諮問することにした。一人ずつ呼んでその意見をきいたのである。曹丕も曹植も呼ばれて、待機するよう命ぜられた。  曹丕はそわそわしていた。耳にはいった消息はすべて自分にとって不利なことばかりであった。彼は弟を、なにもかも横取りすると怨んだ。妻もである。彼は呉質(ごしつ)から、甄〓(しんふく)が弟に贈った詩のことをきかされたばかりだった。彼はいま、その詩稿を懐にいれていた。  曹植もそわそわしていた。甄〓が待っていると、伝言を幼蝉(ようせん)が敬輝(けいき)につたえ、敬輝がいまそれをつたえてきたのである。待機しておれという父の命令には背けないし、待っているという甄〓のところへゆかないわけにもいかない。  彼はいま、世子に立てられることよりも、甄〓に会いにゆくことの方を選ぼうと考えていた。 「子建、お前に見せてやりたいものがある」  突然、曹丕がいった。 「お前の好きな人が作った詩だ」  曹植はびくっとした。見ないわけにもいかず、兄が差し出した詩稿を手にとったが、「蒲あり我が池中に生ず」の第一句を見たとたん、めまいがしてそれ以上見ることができなかった。 「兄上、これは……」 「ふん、なかなかうまいじゃないか。お前の詩風に似ているよ」  曹丕はそういって部屋を出ていった。曹植はそのとき、やはり甄〓に会いにゆくことの方を選ぼう、とまた思った。  曹丕は廊下で崔〓(さいえん)に出会った。「こやつも子建派」とにくにくしく思ったが、表面は丁寧に挨拶すると、崔〓が近寄ってきて、 「私は三公子さまの岳叔にあたりますが、あの方の人柄にはすっかり失望しております」  といった。 「岳叔の私が、あの方はよくないといえば、かなり大きな力になると思いますよ。私はなにも富貴や権勢を願ってそうするのではなく、天下国家のために人材を選びたいだけです。長公子さま、ご安心なさいませ」  崔〓といれちがいに、司馬懿(しばい)(仲達)が出てきた。「あいつは、なんと進言してきたのか」と思いながら、曹丕は司馬懿にも丁寧に挨拶をした。  司馬懿は曹操に、どちらがすぐれているともいわずに、こういったのだった。 「三公子さまは才略にすぐれ、長公子さまは仁厚(じんこう)にまさっておられます。仁厚は守るのに適し、才略は進むのに適します」  崔〓はこういった。 「春秋の義は、長子を立てます」  崔〓のつぎに呼ばれた賈〓(かく)もいった。 「袁紹(えんしよう)と劉表(りゆうひよう)の例がございます」  二人とも長子を世嗣ぎにしなかったためにほろんだというのである。  曹操は重臣たちの多くが曹丕を推すのを不審に思った。司馬懿の前に会った者の多くも暗に曹丕を推すような口ぶりだったからである。そこで曹操は、曹植を呼んでその意見をきいてみようと思った。  だが、そのときすでに曹植はいなかったのである。彼はごみごみとした裏通りを、ゆっくりと馬を歩ませていた。彼のさきには敬輝がいた、そして敬輝のさきには男装した幼蝉がいた。  曹植は兄に甄〓の詩稿を見せられたとき、険悪な事態がおこることを覚悟した。甄〓が自分を呼んだのは、そのことについての相談のためだろうと思った。  市場の近くで馬を下り、敬輝に馬をあずけると、曹植は幼蝉について市場の中へはいっていった。古物屋の前で、薄絹で顔をかくした甄〓が出土品らしい器を手にとっていた。  幼蝉が傍へいって合図をすると、甄〓は金をわたしてそれを買い取り、曹植に目くばせをして、その道を通りぬけたところにある小さな廟(びよう)のうしろへまわっていった。廟の裏で甄〓は、 「子桓(しかん)は私たちのことを知ったわ」  といった。 「うん、さっき兄にあなたの詩稿をつきつけられた。どうして知ったんだろう」 「呉質が知らせたのです」 「呉質はどうして……」 「私があなたに送った手紙を、彼は職権を利用して封をはがしてみたのです。そして写しておいて、子桓に知らせたのです。子桓はひどくあなたを怨んでおります。あの人はうわべは温和で篤実そうだけど、内心はちがうわ。権力を握ったらきっと怨みを晴らすでしょうから、気をつけてね」 「〓、私はあなたにどうしたらいい?」 「私はかまいません。子桓はまだ私をそんなに嫌ってはいないから。あなたに対しても、魏(ぎ)王が生きていらっしゃるあいだは、おそらく何もしないでしょう。それに、もしあなたが世子になれば、自分がどうされるかわからないと思って、遠慮しているでしょうから。でも、自分で直接にはどうもしなくても、人をつかっておとしいれることはあるから、用心しなくては」 「私のことよりも、〓、あなたもどうされるかわからないじゃないか」 「私のことは心配なさらないで。子建、私はあなたがた兄弟を反目させようとしているのではないのよ。もうあなたと前のようには会えないけれども、あなたがた兄弟の仲がよければ、またお顔を見る機会はあるのですから。だけど、これだけはいわないわけにはいかないの。子桓は陰謀をたてる人よ。世子になるために、俸禄(ほうろく)を全部重臣たちの歓心を買うためにつかったのだから。親王の侍妾たちにも賄賂(まいない)を贈っているわ。朝廷の大臣たちの機嫌をとることも忘れないし。そのために俸禄だけでは足りなくて、呉質にたのんで玉器などを売りはらっているのよ。賈〓(かく)などの人に、気にいりそうな玉器を贈ったこともあるし……」 「しかし私も、兄を傷つけてきたから」 「子建、私だってこんなふうに子桓のことをいいたくはないわ。でも、子桓があなたをおとしいれていくのを知っていて黙っているわけにはいかないの」 「これからは、私たちはどうしよう?」 「これからはもう、会えないでしょう。でも私の心は、子建、いつでもあなたのお傍についています。ねえ、子建、もう行ってください。私はもう悲しまないわ。あなたと深く結ばれたことがあるのだから。そのために命をなくすようなことがあっても、私はもう悲しまないわ」  そういいながら甄〓ははらはらと涙をこぼした。 「〓、あなたがさきに帰りなさい。おそくなるとあやしまれる」 「それでは、そうします」  甄〓は曹植の首に腕をまき、あつい口づけをした。それから、幼蝉といっしょに市場の人ごみの中へ消えていった。  ちょうどそのころ、曹操は重臣たちを一堂に集めて、曹丕を世子に立てる旨、宣言をした。 九  曹植(そうしよく)は世子になった兄をはばかって、甄〓(しんふく)のいる〓城(ぎようじよう)をはなれ、自分の封邑(ほうゆう)の臨〓(りんし)へ去った。一年後、曹操(そうそう)は彼に五千戸を加封した。以前のとあわせて一万戸となり、彼の領地は最大の親藩となった。  加封と同時に、曹操は彼を〓城へ呼び寄せた。すでに曹操の健康はかなり衰えていた。  一年ぶりで父を見た曹植にはそれがはっきりとわかった。曹操は彼に、天下の形勢についての意見をきいたあと、話をかえていった。 「お前は妻と不仲のようだが、どうしてなのか」  曹植は父が自分と甄〓とのことを知ったのだと思い、かくさずに崔〓(さいえん)の裏切りにあったことを話した。 「そうか。崔〓はお前を裏切ったばかりではなく、私をもだましたのか」  そこへ崔氏が呼ばれて、挨拶に出た。曹操は彼女が絹の外衣に鮮かな紅色の帯を縫いつけているのを見て、いった。 「その服はどうしたのだ」 「母君さまのお服をまねて作ったのでございます」 「そうか。紅色の帯は王の夫人だけがつける服飾だということを知らぬのか。私はまだ子建(しけん)と国事についての話がある。お前はさがっておれ」  その日、曹植が辞去すると、曹操はすぐ使者を出して崔氏に毒薬を送った。三日後、崔〓も処刑された。  〓城の人々はそのことを知ると、曹操が曹植を憎むあまり、その妻に死を賜いその岳叔を殺したのだと噂しあった。しかし曹丕(そうひ)はおそれた。この一、二年のうちに自分の腹心になった崔〓を父が殺したことは、父に自分を廃して曹植を世子に立てようとする心があるからではないかと疑ったのである。  曹植が建議した荊州(けいしゆう)進攻計画を父が採用したことも、曹丕には不安の種だった。曹植は、孫権(そんけん)と連合して荊州の関羽を攻撃することを主張したのである。関羽を攻撃すれば劉備(りゆうび)が荊州の救援に出るであろう。その時を見て漢中へ進出し、西北方から蜀(しよく)へ侵入すれば、劉備は二面作戦を強(し)いられて潰滅(かいめつ)するであろうというのである。曹操はこの計画に感心し、荊州進攻作戦の全権を曹植にゆだねた。曹丕にとって、曹植が兵権を握ることは、これにまさる脅威はない。  このとき曹丕は、あらゆる手段をつくして曹植をおとしいれた。曹植ははじめて兄の陰謀のすさまじさを知り、〓城の市場の中の小さな廟の裏で甄〓がいったことの真実味を痛感した。  その翌年、建安二十五年正月、一世の英雄曹操はついに世を去った。死期をさとったとき、曹操は前年の元旦、銅雀台(どうじやくだい)で詠(よ)んだ自作の詩をつぶやいた。 神亀は寿なりと雖(いえど)も、猶(なお)竟(おわ)る時有り。 騰竜は霧に乗るとも、終には土灰と為る。 老驥(き)は櫪(れき)に伏するも、志は千里に在り。 烈士は暮年にも、壮心已(や)まず。 盈縮(えいしゆく)の期、独り天に在らず。 養頤(ようい)の福、永年を得べし。 幸甚しく至る哉、歌って以て志を詠ず。  曹操はこの詩を我ながらよくできていると思った。「盈縮(えいしゆく)の期、独り天に在らず」——彼は、運命とは自分がきりひらいていくものだと信じてきた。だが、いまになってみればその信念もはかないものに思われる。 「盈縮の期はやはり天によるのだ」 「なにか仰せになりましたか」  病床の傍に控えていた侍妾の徐氏がたずねると、曹操は、 「いや、なにもいわぬ」  といった。それからまもなく、曹操は息をひきとった。  曹植は父の葬儀に参列しなかった。丁儀(ていぎ)・丁翼(ていよく)兄弟がとどめたからであった。曹植自身も、参列すれば兄はおそらく自分を殺すだろうと思っていた。それから二ヵ月。曹丕は三千の兵を臨〓に迫らせて、曹植の不孝の罪を問い、怠慢の咎(とが)によって丁儀・丁翼兄弟を殺した。曹植も死を覚悟していたが、意外にも一命は救われた。  曹丕が曹植を殺さなかったのは、弟殺しの悪名を得ることをおそれたからだった。彼には大きな野心があった。正月魏(ぎ)王の位をついだ彼は、十月、献(けん)帝を廃して自ら帝位に即き、国号を大魏と改めて洛陽に都した。そして甄〓(しんふく)を皇后に立てた。  甄〓は、自分はいずれ殺されるであろうと覚悟していた。皇后を殺せば物議をかもすであろうに、なぜ自分を皇后に立てたのか甄〓は不思議でならなかった。しかし、皇后になったことによって自分の命が救われるとは思わなかった。 十  曹丕(そうひ)の即位の祝賀の宴には、曹植(そうしよく)も招かれた。そのとき曹丕の前に進み出て聖寿万歳をとなえおわった曹植に曹丕はいった。 「お前は私を怨んでおりながら、なぜ万歳をとなえたのか」 「私は陛下を怨んではおりません」 「怨んでいない? 私もそう信じたい。では、お前はわれわれ兄弟のあいだに遺憾(いかん)なことはないと思っているのか」 「遺憾なのは自分自身に対してでございます。自分が怨めしく思われます」 「子建(しけん)、お前はなかなか口がうまい。私は自分自身の優柔不断であることを遺憾に思っている。だがいずれ、決断をつける日もくるだろう。ところで、天才児よ、私が七歩あるくあいだに詩を一篇吟じてみよ。お前にとって、七歩の時間といえば短すぎることはあるまい」 「かしこまりました」  曹植も冷(ひや)やかに答えた。はじめの憤りは、いまは悲しみにかわっていた。兄弟相煎(あいに)ることかくのごとくに至っては、もはや生きて宮殿を去ることはできないだろうと思った。  曹丕は、一歩、二歩と、ゆっくりあるきだした。曹植は吟じだした。 豆を煮るに豆箕(まめがら)を燃やし、 〓(し)を漉(こ)して以て汁と為す。 箕は釜の下に在りて燃え、 豆は釜の中に在りて泣く。 本(もと)是れ同根に生じたるに、 相煮ること何ぞ太(はなは)だ急なる。  曹植が吟じおわったのと、曹丕が七歩目を踏んだのは同時だった。そのとき衝立(ついたて)のかげから卞(べん)皇太后がとび出してきて、曹丕にすがりついて、 「弟を殺してはなりません!」  といった。 「母上、私はただ弟をたしなめただけです。どうして殺すようなことをいたしましょう」  そのとき甄〓(しんふく)も、皇后として曹丕と並んでいた。宴がおわって後宮(こうきゆう)へ帰ると、彼女は急に身体じゅうの力の抜けていくのを覚えた。 「子建、あなたはきょうはゆるされたけれど……」  そうつぶやいただけで、涙がとめどなく流れてきた。  そのとき、一人の宮女がはいってきた。 「皇后さま、太子さまがお見えになりました」 「え? どこに?」  急いで涙をふいてふりかえると、 「太子さまは寝殿でお待ちになっておられます。いま幼蝉(ようせん)がお相手をしております」 「すぐ行きます」  甄〓は小走りに寝殿へ出ていった。  曹叡(そうえい)はすでに十二歳になっていた。甄〓の姿を見ると、 「母上さま、ご機嫌よう」  と挨拶をした。子建に似ている。会うたびに子建に似てくる、と思った。  彼女は、いまわが子に会うのが、今生(こんじよう)の名残りのような予感がした。永別の前に、一言、いっておきたいことがあった。そのためには、つき添ってきた女官を遠ざけなければならない。彼女は幼蝉に目くばせをして、 「このかたに、私の髪飾りをさしあげておくれ」  といった。 「わかったね。いくつか出して、いちばんお気に入ったのをさしあげるのですよ」 「かしこまりました」  幼蝉は深くうなずいてそういい、女官をつれて奥へ去っていった。 「きょうはここへくることを誰がゆるしたのです?」 「父上です」 「父上が?」 「はい、母上はお身体の具合がよくないから、いつどんなことになるかもわからない、だからゆっくりお会いしてくるように、といわれました。お元気のようですが、そんなにおわるいのですか」 「そうです。もういつまで生きていられるかわかりません。だから、これから私のいうことを、よく覚えておいてください。そして誰にもいってはいけません。いいですか。あなたはいずれ皇帝になる身です。そのときには子建叔父さまには最もよくしてあげなさい。しかし、皇帝になるまでは子建叔父さまのことを絶対にいってはなりません」 「なぜですか」 「あなたと子建叔父さまとのあいだがらは、普通とはちがうのです。よく覚えておきなさい。将来皇帝になったとき、わけを知りたければ幼蝉にたずねなさい。幼蝉が一番よく、そしてほんとうのことを知っておりますから」  しばらくすると幼蝉が女官といっしょにもどってきた。女官は甄〓に髪飾りを示して礼をいい、曹叡をつれて帰っていった。  夕方になると、宮廷の内吏が蒔絵(まきえ)の箱を捧げてきた。 「やはり、そうだった」  と甄〓は思った。内吏はうやうやしく、 「陛下御下賜の食品でございます」  といった。甄〓は幼蝉にいって内吏への贈り物を用意させた。内吏は何も知らないらしく、贈り物を受けとると、よろこんでもどっていった。そのあとで甄〓はいった。 「幼蝉、私の一番いい服を出して」 「皇后さま、なぜですか」 「死ぬときが来たからです」  幼蝉はぶるぶる身体をふるわせ、走り寄って箱の蓋(ふた)をおさえた。箱が、がたがたと鳴った。 「幼蝉、その蓋をあけてみなさい」  箱の中には、陶器の碗(わん)の中に羊の肉の汁が入れてあった。 「皇后さま、犬に飲ませてみましょう。それとも捨ててしまっては……」 「そうすればそれですむというものではないのです。これは陛下の、せいいっぱいの好意なのです」  彼女は近寄って、においをかぎ、また蓋をしてから、寝室へ入っていった。彼女は一番気にいりの服を自分で出して着かえ、鏡にむかって化粧をした。  それがすむと、身のまわりの品を整理し、高価なものは宮女たちにわけるように手配した。  幼蝉は放心したように箱の前に坐っていたが、ふと、 「もしかしたら、これは毒薬ではないかもしれません」  といった。 「そうかもしれません」  甄〓はそういいながら、蓋を取った。 「皇后さま、召し上らないでください!」  と幼蝉が叫んだ。甄〓は落ちついて碗を取りだし、静かに口をあてて、幾口か飲んだ。 「これでいいでしょう。幼蝉、かたづけてください。余った汁は捨てて、容れ物を洗いなさい」 「皇后さま、残りを私もいただきます」  幼蝉は碗を取ろうとした。 「いけません。あなたは、生きていなければなりません。生きて、わたしの子を見守ってください。ねえ、私のいうことをきいてね。長いあいだ、私のためによくつくしてくれましたわねえ、ありがとう、幼蝉」  甄〓は碗を腕の中にかこいながらそういい、幼蝉がわっと泣き伏すと、自分で残りの汁を捨てにいって、碗も洗い、もどってくると、泣き伏している幼蝉の肩に手をかけて、 「幼蝉、眼がくらんできたわ。お願い、私を寝室へつれていって」 といった。  幼蝉につれられて寝室へいくと、甄〓は碗を胸に抱いて静かに寝台の上に横たわり、口から一すじ、二すじ、血の糸を流して、まもなく息絶えてしまった。  その翌日の黎明(れいめい)、安卿侯に貶(おと)された曹植は、従者たちをつれて洛陽をはなれた。彼は前夜甄〓が曹丕のために毒を飲まされて死んだことは、まだ知らなかった。 則天楼(そくてんろう)の妖帝(ようてい) ——則天武后(そくてんぶこう)(唐) 一  則天武后(そくてんぶこう)は、唐の第二代の皇帝太宗(たいそう)のとき地方長官を歴任して工部尚書にまで進んだ武士(ぶしかく)の娘で、名は照(しよう)、字(あざな)を媚娘(びじよう)といった。  武照が十四歳のとき、太宗はその美貌のうわさをきき、後宮(こうきゆう)にいれて才人(さいじん)にした。  才人というのは宮女の位(くらい)の名である。唐の後宮の制度では、皇后のつぎに貴妃(きひ)・淑妃(しゆくひ)・徳妃(とくひ)・賢妃(けんひ)の四夫人があり、その下に昭儀(しようぎ)・昭容(しようよう)・昭媛(しようえん)・脩儀(しゆうぎ)・脩容(しゆうよう)・脩媛(しゆうえん)・充儀(じゆうぎ)・充容(じゆうよう)・充媛(じゆうえん)の九嬪があり、その下に〓〓(しようじよ)・美人(びじん)・才人がそれぞれ九人ずつ、これを二十七世婦(せいふ)といい、二十七世婦の下に宝林(ほうりん)・御女(ぎよじよ)・采女(さいじよ)がそれぞれ二十七人ずつ、これを八十一御妻(ぎよさい)といった。後宮には、皇后をふくめて、これらの宮女たちが絶えず天子の寵愛をあらそっていたのである。寵愛をうしなえば、皇后でも、下位の宮女に取ってかわられるおそれがあった。美貌であるからといって、いま寵愛を得ているからといって、安閑としているわけにはいかなかったのである。  太宗には、これらの宮女たちとのあいだに、皇子十四人、皇女二十一人、あわせて三十五人の子があったが、武才人は後宮にはいってから太宗が死ぬまでの十三年間、ずっと才人のままであり、ついに子を宿すこともなかった。つまり武才人はあまり太宗に顧みられなかったのである。  あるとき太宗は師子聡(ししそう)という西域の馬を手にいれた。荒馬でなかなか人に従わなかったが、太宗は毎日調教して駿馬(しゆんめ)に仕立てることを楽しみにしていた。 「まったく、手を焼かせる馬だ」  ある日、調教を終えた太宗は、日増しに馴れてくる馬に満足を感じながらそういった。あの馬を調教することのできる者は自分のほかにはない。そういう誇らかな気持がその言外にはあった。すると武才人がいった。 「わたくしなら、すぐ従わせてしまいます」 「ほう、そなたには乗馬の心得があったのか。どうして従わせる」  と太宗がいうと、武才人は、 「従わなければ、まず鉄鞭(てつべん)で打ちます。それでも従わなければ鉄〓(てつか)を首へつきたててやります。それでもなお従わないときには、匕首(ひしゆ)で喉をかき切ってやります」  興ざめたことをいう女だと、太宗は思った。自らもはげしい気性の太宗は、武才人のような女は好みにあわなかった。優しい、心弱い女の方を太宗は好んだのである。  太宗が病床にあったときのことである。見舞いにきた皇太子の李治(りち)が、太宗に薬湯(やくとう)を飲ませようとした。武才人はそのとき病室に侍(はべ)っていたが、太宗が薬を飲みやすいように、横へまわってその背を支えた。そのとき、薬を飲ませようとする李治と、太宗の背を支えている武才人との身体がふれあった。離れようとすれば薬がこぼれる。李治は益々身体を寄せるようにして、武才人に目くばせをした。  太宗が薬を飲み終って横になると、李治は厠(かわや)へ立った。武才人が金盆に水をいれて厠の外で待っていると、まもなく出てきた李治は、手を洗いながら、声をひそめて、 「東の脇部屋で待っていてくれますか」  といい、太宗の病室へもどっていった。  武才人は金盆の始末をすると、病室へはいかず、そのまま東の脇部屋へいった。しばらくすると李治がはいってきて、二人は無言で情を交(かわ)した。  李治が出ていってからしばらくして、武才人は髪の乱れをなおし身なりを正し、廻廊をまわって太宗の病室へもどった。  武才人はこのときのことを誰にも気づかれずにすんだと思っていた。だが、皇太子の妃(きさき)の王氏は知っていたのである。  太宗が死ぬと、皇太子の李治があとをついで帝位についた。これが高宗である。王氏は皇后になったが、高宗と武才人とのことを知っていたために、かえってわざわいを招いて自ら皇后の地位をうしなうことになる。 二  高宗は即位三年目に、先帝太宗の死後、長安(ちようあん)の感業寺にはいって尼になっていた武才人を、後宮へいれた。  それを高宗にすすめたのは、皇后の王氏であった。そのころ高宗はもっぱら淑妃(しゆくひ)の蕭氏(しようし)を寵愛していた。このままではやがて皇后の地位も蕭淑妃に取ってかわられるであろうとおそれた王皇后は、武才人を後宮にいれることによって高宗の寵愛を蕭淑妃から奪い取ってしまおうとたくらんだのである。  十四歳で先帝太宗の後宮にはいった武才人は、そのときすでに二十九歳になっていた。だが、その容姿はすこしもおとろえてはいなかった。父の太宗には似ず、虚弱な体質で心も弱かった高宗は、かえって武才人のような気性のはげしい女に心をひかれたのである。蕭淑妃もやはり、気丈な女であった。 「三年ぶりに、ようやく思いがかなえられました。どんなにお慕いしつづけていましたことか」  武才人は後宮にはいったその夜から、懸命に努めて高宗をよろこばせた。高宗はたちまち武才人の二十九歳の熟(う)れた肉体のとりこになってしまい、王皇后のたくらみどおり、次第に蕭淑妃をうとんじるようになる。  武才人はその年の末に、男の子を生んだ。これが高宗の第五皇子の李弘(りこう)である。子のない王皇后は、こんどは武才人に対して不安をいだきだした。だが、そのときにはすでに、武才人の後宮における勢力は王皇后をしのいでいたのである。  後宮に復帰することになったときから心に期することのあった武才人は、王皇后を恩人とたてまつってまめまめしく仕えるふりをしながら、ひそかに工作して宦官(かんがん)や侍女たちのなかに腹心をふやしていた。  王皇后はこんどは、蕭淑妃と組んで武才人の失脚をはかり、しきりに武才人を讒言(ざんげん)しだした。だが武才人のとりこになってしまった高宗はきかばこそ、かえって益々王皇后と蕭淑妃をうとんじるようになる。高宗の耳にはいってくるのは、宦官や侍女たちの、武才人をほめる声ばかりであった。  二年後、武才人は昭儀(しようぎ)になり、皇女を生んだ。  ある日、王皇后はその皇女を見に武昭儀の部屋を訪れたが、あらかじめ知らせてあったにもかかわらず、武昭儀は不在であった。 「陛下とごいっしょに、後園へ散策に出られました」  と侍女はいった。王皇后は仕方なく、皇女の寝室をのぞいてそのまま帰っていった。  それからまもなく、武昭儀は高宗といっしょにもどってきて、高宗を皇女の寝室へ迎えいれ、 「ごらんくださいませ、日増しに可愛くなってきました」  といいながら抱きあげようとしたが、蒲団をめくったとたん、「あっ!」と叫んで高宗の胸にもたれかかり、そのまま床(ゆか)の上にくずれたおれて、気をうしなってしまった。赤ん坊は無残にも首を締められてつめたくなっていたのである。 「誰がこのようなむごたらしいことを!」  と高宗は蒼白になり、身体をふるわせながらわめいた。侍女たちに介抱されてようやく息をふきかえした武昭儀は、赤ん坊の死体を見ると声をあげて泣きだし、高宗になだめられて泣きやむと、涙にむせびながら、 「可哀そうに、可哀そうに」  といって、また泣いた。高宗はまたなだめて、 「誰がこの部屋へはいったか調べてみればわかる。かならず怨(うら)みは晴らしてやる。それにしても八つ裂きにしてもあきたらぬやつだ」  といった。すると武昭儀は涙を拭(ぬぐ)って、 「どうか侍女たちを咎(とが)めないでくださいませ」  という、 「侍女たちの越度(おちど)は、わたくしの越度でございます。もし侍女たちをお咎めになりますのなら、わたくしをお咎めくださいませ。わたくしはこの子のあとを追って死にます」 「なにをいうか。気をしずめなさい。侍女たちは咎めぬ」 「誰もこの部屋にはいった者は、いないはずでございます。さきほど、もどってまいりましたとき侍女たちが、皇后さまがお見えになったと申しておりましたが、まさか皇后さまが、このようなことをなさるはずはございませんし……」  そういうと、また泣いた。  高宗は侍女たちに問いただしてみたが、みな、口をそろえて、皇后のほかにはこの部屋へはいった者はないという。ただちに王皇后が呼びつけられた。皇后はおどろいて、必死に無実を主張したが、皇女の寝室へはいったという証人はいても皇女に手をかけなかったという証人はいない。だが、高宗も、皇后がいかに武昭儀を憎んでいても、まさか自らの手で武昭儀の子を締め殺すようなことはすまいと思った。あるいは武昭儀の侍女のなかに王皇后と気脈を通じている者があって、その者の仕業かも知れないとも思ったが、武昭儀は侍女たちを咎めないでくれという……。高宗は思いあたることがあって、 「そなたは、皇后をかばおうとしているのだな」  といったが、武昭儀は涙ぐんだままで応えない。  皇女は、じつは、王皇后をおとしいれるために武昭儀が自分で殺したのであった。それを知るよしもない高宗は、王皇后を疑い、おりを見て王氏を廃して武昭儀を皇后に立てようと考えるようになった。  しかし、皇后の廃立ということは国家の大事である。王皇后に格別の咎(とが)がないかぎり、先帝以来の重臣たちがとどめることは明らかであった。そこで高宗は、皇后と四夫人の筆頭である貴妃とのあいだに、宸妃(しんひ)という位を設けて、まず、その位に武昭儀をつけようとした。  ところが高宗のこの思いつきは重臣たちの反対にあって挫折した。 「やむを得ぬ。重臣たちは、皇后の下には貴妃という位があるのに、なにゆえみだりに従来の制度を破ってそのような位を設けようとするのかというのだ。もうしばらく時期を待とう。宸妃などという曖昧な位ではなく、いずれ必ずそなたを皇后に立てるから」  高宗はそういって武昭儀をなぐさめた。武昭儀はかなしげな顔をして高宗の憐憫の情をかきたてながらも、内心は、この思いつきは功を奏したとほくそ笑んでいた。高宗の武昭儀に対する寵愛がなみなみではないことが、この問題で示されたことは確かであるから。それを知って武昭儀の側に歩み寄ろうとする者の多くなることも確かであったから。  高宗はある日、武昭儀をともなって太尉の長孫無忌(ちようそんむき)の屋敷を訪ねた。太尉という地位は、元老に与えられる三公のうちの第一位であった。無忌は高宗の伯父にあたり、高宗の生母の長孫皇后を擁立した人であった。  酒宴のとき高宗はなにげないふりでいいだした。 「皇后に子がないので困ります」  すると無忌はきっとなっていった。 「陛下はなにをおいいになりたいのです。皇后の廃立ということは、容易ならぬ問題ですぞ」 「いや、皇后は子がないために、絶えず自分の地位に不安を覚えているようで……、それで困るといったので……」 「それは陛下のお心次第です。陛下には四人の皇子がおられます。ご生母は皇后ではないとはいえ、皇后は天下の国母、四人の皇子たちの母君です」  酒宴は白け、高宗も武昭儀も気まずい思いで無忌の屋敷から帰った。  しかし武昭儀はあきらめず、母親の楊氏(ようし)を無忌の屋敷へゆかせて、 「どうか娘の後楯(うしろだて)になってくださいますよう」  とたのませた。だが無忌は、 「昭儀どのにかぎらず、わたしは後宮のどなたの肩も持ちません。もしそのようなことをすれば、後宮に波風を立てることになりましょう。後宮の乱れは、国の乱れにつながることがすくなくありません。どうしてわたしにそのようなことができましょう」  といって、とりつく隙(すき)を与えない。  武昭儀がいずれは皇后になるものと見越していちはやくその腹心になっていた礼部尚書の許敬宗(きよけいそう)も、長孫無忌に対して再三、王皇后を廃して武昭儀を立てるようすすめたが、無忌の答えはいつも、楊氏に答えたのと同じであった。  中書舎人(しやじん)の李義府(りぎふ)も武昭儀の腹心になっていた。長孫無忌は李義府がひそかに武昭儀を皇后に推戴(すいたい)する運動をすすめていることを知ると、末僚の身でありながら不埒(ふらち)であるとして、地方の属僚に左遷しようとした。これを知った李義府は、同志の者とはかり、この際思い切って皇后廃立のことを高宗に進言することにした。中書舎人というのは中書省の、詔勅の起草にあたる官である。李義府はさっそくお手のものの上奏文を書いて、武昭儀を皇后に立てることは万民の願いである、この願いをかなえて万民を安んぜられたいと進言した。  高宗はその上奏文を見てよろこび、さっそく李義府を引見して厚く褒賞した。彼は左遷されなかったばかりか、中書舎人から一躍して、中書侍郎に任命された。中書省の次官である。  武昭儀の腹心には、ほかに、御史大夫の崔義玄(さいぎげん)、御史中丞の袁公瑜(えんこうゆ)などがいて、武昭儀を皇后に推戴しようという動きは次第に目立ってくる。長安の知事斐行倹(はいこうけん)は、これはすててはおけぬとおそれ、ひそかに元老の長孫無忌と〓遂良(ちよすいりよう)に知らせて、ともに対策を講じたが、御史中丞の袁公瑜がそれに気づかぬはずはない。御史というのは百官の罪を糾明するのがその役職で、絶えず役人の動きに眼を光らせているのであるから。  袁公瑜は武昭儀の母親の楊氏に、楊氏は武昭儀に、武昭儀は高宗にと、それは知らされた。高宗はただちに斐行倹を左遷して辺境の州の長官に転出させ、長孫無忌・李勣(りせき)・〓遂良・于志寧(うしねい)の四人の元老を召集した。  高宗が皇后の廃立を強行しようとしていることは明らかであった。李勣は病(やまい)と称して参内しなかったが、他の三人は参内した。  李勣は唐朝創業の功臣で、李靖(りせい)(太宗と同年同月に病死した)とともに高祖(こうそ)をたすけて国内を平定した後、突厥(とつけつ)・薛延陀(せつえんだ)などを討伐した武勲赫々たる名将である。この李勣が病と称して参内しなかったのに対して、参内してはげしく高宗を諫(いさ)めたのは〓遂良であった。〓遂良は欧陽詢(おうようじゆん)、虞世南(ぐせいなん)とともに初唐の三大家と呼ばれる書家である。太宗の側近に仕えるようになったのも、虞世南亡きあと書を論ずる相手としてであった。 「武昭儀は皇后となるにはふさわしくないお方です。もし陛下があくまでも皇后をかえようとされるのでしたら、天下の名門からお選びください」  と〓遂良はいった。 「武昭儀の出身が名門でないというのか」  と高宗がにがり切っていうと、 「それだけではございません。武昭儀は先帝にお仕えした人ではありませんか。天下の耳目をおおうことはできません。どうかご再考くださいますよう」  〓遂良は手に持っていた笏(しやく)を高宗の前に置き、床にひざまずいて、 「わたくしは、先帝から陛下を輔翼(ほよく)せよとのご遺命を受けております。そのご遺命にそむいて陛下に従うことはできません。どうかご再考くださいますよう」  というなり、頭を床に打ちつけて、額から血を流しながら、 「ご再考を! ご再考を!」  と叫び、高宗がそれでもききいれぬのを見ると、 「この笏を、陛下にお返しいたします」  と絶叫した。  高宗が憤りにぶるぶると身をふるわせながら、 「この気ちがいをひきずり出せ!」  と叫ぶと、長孫無忌が、 「気ちがいではありません。遂良が死を賭して陛下をお諫めしているのが陛下にはおわかりになりませんか」  すると、すかさず簾(すだれ)のかげから武昭儀が叫んだ。 「死を望んでいるのなら、殺してしまえばよいのです」 「それはなりません」  と長孫無忌がいいかえした。 「遂良は先帝のご遺命をまもって陛下をお諫めしているのです。それが陛下のお心にそむいても、遂良を死罪にすることはできません」 「そんなに先帝が大事なら、無忌、そなたもそこで額を割って血を流せばよい。なぜそうしないのです。そなたは先帝のご遺命とやらをまもらないのですか。……陛下、伯父さまにも額を割ってもらったらいかがですか。割れば、どす黒い血が流れてくるかも知れません」 「ええい、みんな退(さが)れ!」  と高宗は叫んだ。  翌日になると、廃立を非とする上奏文が続々ととどけられた。高宗は見ようともしなかったが、武昭儀は、 「みんな、遂良や無忌の手の者の仕業にきまっております。ちょうどよろしいではありませんか。誰が敵かがわかります。名を覚えておきましょう」  といい、くわしく見て、 「みんな同じ文章です。みんなわたくしのことをあしざまに書いております」  と笑った。  数日たったとき、李勣(りせき)が参内した。 「そなたも、あの三人と同じか」  と高宗がいうと、李勣は、 「于志寧はほかの二人とはちがいます。昨日、志寧と話しあいましたが、彼は陛下の御意に従うと申しておりました」  といった。 「おお、そうだったのか。志寧はあのときは一言もいわなかったが……。それで、そなたはどうなのか」 「わたくしは、志寧とはちがいます」  と李勣はいった。 「これは、陛下の私事でございます。臣下の意見などおききになる必要はありません」 「なるほど、そういう意見もあるか。千万の味方を得たような思いだ。さすがに歴戦の将軍のいうことはちがう、文弱の徒のようにきまり文句はいわぬ」  高宗はこのときはっきりと、王皇后を廃して武昭儀を立てる覚悟をきめた。  武昭儀の腹心の許敬宗(きよけいそう)はこれを伝えきくと、さっそく朝廷で群臣たちにいいひろめた。 「田舎の百姓おやじでも、麦が一斗もよけいにとれる身分になれば、気にいらぬ女房をとりかえたくなるものだ。天子だって同じ人間だ、自分の后(きさき)が気にいらなければ自分でかえたらよいわけで、それについて臣下の者がなんのかのと口出しをするのはもってのほかだ。——李将軍がそういわれたそうだ」  高宗はさっそく、〓遂良に対して、尚書右僕射の官を剥いで潭州(たんしゆう)都督に任ずるという命をくだした。潭州はいまの湖南省長沙の地である。長安をあとに南方の任地へむかった〓遂良は、そのまま再び都に帰ることはなく、三年後に死んだ。  翌月、高宗は、王皇后と蕭淑妃(しようしゆくひ)とを廃する旨の詔書を発表した。王皇后と蕭淑妃は鴆毒(ちんどく)を以て皇帝を殺害しようとした、よって廃して庶民とし、その親兄弟はすべて嶺南へ流す、というのである。  数日後、百官は上奏して武昭儀を皇后に立てることを願い出た。許敬宗、李義府ら武昭儀の腹心たちの演出したものであることはいうまでもない。高宗はまた、武昭儀を皇后に立てる旨の詔書を発表した。武氏は名門の出身で人柄もよく、先帝の後宮に召されてすこぶる人望があったため、先帝はそのころ皇太子であった余のために、特に選んで武氏を下賜されたのである、その先帝の意をかしこんで、いまここに武氏を立てて皇后とする、というのである。  永徽六年十月、こうして武昭儀はついに皇后の位にのぼった。武后はそのとき三十二歳であった。  位を剥がれた王氏と蕭氏は、罪人として宮中の獄舎におしこめられた。武后は二人の姓をそれぞれ蟒(ぼう)(うわばみ)、梟(きよう)(ふくろう)と改め、以後は王、蕭と呼んではならぬ、文書にもすべて蟒、梟と記せと命じた。  高宗はさすがに二人をあわれに思い、ある日、獄舎へいってみた。獄舎は四方を壁でふさがれた小さな穴倉のような部屋で、わずかに食器を出し入れするための小さな穴があいているだけであった。窺(のぞ)いて見ても、中はまっくらで何も見えず、臭気が鼻を突いてくる。高宗は思わず、 「皇后よ、淑妃よ」  と呼びかけた。すると、中からすすり泣く声がきこえてきて、 「わたくしたちは、もはやそういう身分のものではございませんが、陛下、もしむかしのことを思ってくださいますならば、わたくしたちを、このくらやみの中から出して、せめて日の光のさすところへ移してくださいますよう」  それは王氏の声のようであった。 「よろしい。そのようにとりはからってやろう。おまえたちがこのようなところに閉じこめられているとは知らなかったのだ」  高宗がそういうと、またすすり泣く声がきこえてきた。 「蕭妃はどうした、元気か」  と呼ぶと、蕭氏の声がかえってきた。 「このようなところに閉じこめられて、元気なはずはありません。身動きもままならず、糞尿にまみれて息もつまりそうです。元気かとおたずねくださるくらいなら、ここからわたくしを出して沐浴(ゆあみ)させてください、そして、ひとおもいに殺していただきとうございます」  その声は怨みにふるえているようであった。高宗は蕭氏をなぐさめてやりたいと思ったが、その言葉もなく、 「二人とも、かならず出してやるから」  といい残して、重たい足どりで獄舎の前を離れた。  武后は腹心の者から事の次第をきくと、さっそく二人を獄舎から引き出させ、 「陛下がおまえたちを出してやるようにいわれたので、出してやるのです。ありがたく思うがよい」  といった。二人はすでに脚も萎えて歩くこともできず、光に射られて眼も見えぬようであった。 「それにしても、罪人の身でありながら、日の光を浴びたいの、沐浴をして死にたいのと、よくも勝手なことがいえたものだ」  武后は二人を中庭へ引きずり出させ、ことごとく衣服を剥ぎ取らせると、 「さあ、おまえたちの望みをかなえてあげよう。蟒婢(ぼうひ)はそこで存分に日を浴びているがよい。そのあいだ梟婢(きようひ)には沐浴(ゆあみ)をさせてやる」  といい、蕭氏を泉水のほとりへ引きずってゆかせて、足で蹴りおとした。蕭氏は泉水の中にうずくまったまま、武后を睨みつけて、 「この毒婦!」  と罵った。 「この怨みは死んでもかならず晴らすからおぼえているがよい。わたしは猫に生れかわり、おまえを鼠に生れかわらせて、その喉首を噛み切ってやる!」  武后は蕭氏を王氏のところへつれもどさせ、二人を並べてそれぞれ刑棒で百回ずつ打たせたすえ、 「生れかわってわたしに讐(あだ)をしないように、手足を切って酒甕(さけがめ)の中へ投げ込み、骨の髄まで酔わせてやりなさい」  といいつけた。  王氏と蕭氏はこうして惨殺された。  その後、武后は猫を飼わなかった。また、手足を切りおとされて血みどろになった王氏と蕭氏の姿をしばしば夢に見た。やがて太極宮から蓬莱宮へ移ったが、やはり二人の姿が夢にあらわれるので、武后は長安をきらって東都の洛陽に住むことの方が多くなったという。 三  王氏が惨殺されてからまもなく、皇太子の李忠が譲位を申し出た。  李忠は王氏の子ではなく、生母は身分の低い宮女であったが、王氏に子のないことを憂えた王氏の伯父の柳〓(りゆうせき)が、長孫無忌とはかって、王氏の皇后の地位を安全にするために皇太子に立てたのであった。その後、王氏が廃せられて武后が皇后になると、許敬宗が、李忠を廃して武后の子の李弘を立てようと運動をおこした。李忠はいたたまれぬ思いであったが、やがて武后によって王氏が惨殺されたことを知ると、このまま皇太子の地位にいては生命もあぶないと思い、譲位を申し出たのであった。  武后が皇后になった翌年の顕慶(けんけい)元年、高宗は皇太子李忠を廃して武后の子の李弘を立てた。李忠は梁王に封ぜられたが、それから四年後、武后のためにまた廃せられて庶民におとされ、黔州(けんしゆう)の地へ流された。黔州はいまの四川省彭水である。  武后はわが子を皇太子に立てることに成功すると、長孫無忌の一派を一掃することに着手した。  まず武后は高宗にいった。 「さきに陛下がわたくしを宸妃(しんひ)にしようとなさったとき、宰相たちのなかで韓〓(かんえん)と来済(らいせい)とがまっこうから反対しました。あれは国を思うまごころから発したものと思われます。二人に褒賞を与えてはいかがでしょうか」  高宗からこのことをきいた二人は、武后が王氏と蕭(しよう)氏を惨殺したときの執念の深さを思ってぞっとした。二人は高宗にしばしば宰相の地位を退きたいと申し出たが、高宗はゆるさなかった。 「まだあの二人に褒賞をお与えにはならないのですか」  武后はしばしば高宗にいった。  韓〓はいたたまれなくなって、逆に、さきに皇后の廃立問題のとき高宗を諫めて左遷された〓遂良(ちよすいりよう)の赦免を願い出た。  武后はそれを待っていたのである。 「韓〓は陛下が〓遂良を左遷なさったことを認めないというのです。これをゆるしておかれるのなら、どんなこともゆるされぬことはなくなってしまいます」  武后はこうしてまず韓〓と来済を左遷してしまうと、つぎには、わなを設けて疑わしげな行動をさせ、長孫無忌が〓遂良・韓〓・来済・于志寧・柳〓(りゆうせき)らと語って謀叛(むほん)をたくらんでいるといい、長孫無忌の官位を剥いでついに自害させ、柳〓も殺し、無忌の一派の人々をことごとく辺境の地へ流したり殺したりした。  すでに武后の勢いは天子である高宗をしのいでいたが、顕慶五年、もともと虚弱であった高宗は風眩(ふうげん)という病にかかって、頭痛と目まいになやまされ、視力もおとろえてきて、多く政務を武后にまかせるようになった。生来聡明な武后は、高宗よりも俊敏に政務を処理した。  武后は高宗にかわって政務をとりだすと、次第に権力をふるうようになって、かえって高宗の方が武后の掣肘(せいちゆう)を受けることが多くなる。高宗は武后をにがにがしく思い、次第に武后の存在がうとましくなってきたが、そのとき、王伏勝という宦官が、武后が道士を宮中に招いて厭勝(ようしよう)をおこなったと告げた。厭勝というのはまじないのことだが、高宗はそれを、武后が自分にかわろうとして道士に祈らせたのだと思い、ひそかに上官儀(じようかんぎ)を呼んで相談をもちかけた。上官儀は当時、西台侍郎で宰相であった。上官が姓で、彼は詩人として名高く、特に五言詩にすぐれて、その詩は上官体といってもてはやされていた。上官儀はそのとき、 「皇后の専横は、目にあまるものがございます。天下にも不満の声がみなぎっております」  といった。 「それで?」  と高宗がうながすと、上官儀は、 「廃するよりほかないでしょう」  という。高宗はうなずいて、 「そなたも、そう思うか。それなら、内密に詔書の起草をしてくれぬか」  高宗の左右には武后の腹心の者が配置されていたため、このことはすぐ武后の耳にはいった。  武后が急いで高宗のところへいってみると、机の上に、書いたばかりの詔書の草案があった。 「なんでございますか」  と武后がそれを取りあげると、高宗はあわてて、 「いま、上官儀が持ってきたのだ。あれは廃太子の忠に仕えていたことがあるので、忠が太子を廃されたのをそなたのためと思いこみ、そなたを憎んで皇后の地位からひきずりおろそうとしているのだ」  と、言い逃れをした。  武后が帰って許敬宗に調べさせてみたところ、はたして上官儀は、王伏勝とともに李忠に仕えていたことがわかった。 「陛下も、まずいことをいわれたものです」  と許敬宗は笑った。そして、上官儀は王伏勝と共謀し廃太子李忠を擁立して謀叛をたくらんでいると誣告(ぶこく)した。  高宗はそれが事実ではないことを知っていたが、武后の手前、上官儀を弁護するわけにはいかなかった。こうして、上官儀と王伏勝は捕えられて死刑に処せられ、李忠は黔州(けんしゆう)の配所で死を賜った。  この事件以来、高宗はほとんどその権力をうしなうことになる。 「これからは、陛下が臣下を接見なさるときには、わたくしは簾(すだれ)のかげで聞くことにいたします」  と武后はいった。高宗が承知すると、武后はまたいった。 「今後はなにごとによらず、すべてわたくしが眼を通させていただきます。こんどのことにしても、もしわたくしがあの詔書の草案を見なかったら、わたくしは知らぬまに謀叛者によってほうむられてしまうところでしたから」  高宗は拒むことができなかった。  上官儀の事件の翌年、武后の実子である皇太子李弘が死んだ。『新唐書』には、武后が殺した、とあり、『資治通鑑(しじつがん)』には、時の人は武后が毒殺したといった、と記されている。  李弘は心のやさしい人であった。さきに武后に惨殺された蕭淑妃の生んだ二人の皇女は、李弘にとっては姉にあたったが、その二人がいまなお宮中に幽閉されたままであることを知った李弘は、高宗に、二人をゆるして、然るべきところへ嫁がせるようにすすめた。  武后はそれをきいて、はげしく李弘を憎んだ。もともと李弘は、武后の専権を見るに見かねてときどき直言することがあったため、武后はこころよからず思っていたが、そこへ李弘が仇敵の娘に同情を示したことを知って、憎しみが百倍したのである。武后は二人の皇女をわざわざ身分の低い者のところへ嫁がせたが、それからまもなく、李弘は合璧宮(ごうへききゆう)で急死した。  皇太子には李弘の弟の李賢が立てられたが、武后は実子であるこの李賢をも殺した。  李賢は学者としても素質にめぐまれていて、専門の学者とともにつくったその『後漢書』の注釈は、章懐太子(しようかいたいし)注として高く評価されている。  そのころ、高宗も武后も明崇厳(めいすうげん)という祈祷師を信用して宮中に出入りさせていたが、ある夜この男が何者かに殺された。  明崇厳は生前、武后が李賢を好んでいないことを見ぬいて、 「皇太子は帝位につくべき人物ではありません」  と進言したことがあった。李賢がそれをきいて明崇厳を恨んでいたことを知っていた武后は、この事件を李賢の仕業ではないかと疑い、腹心の者にひそかに李賢の身辺を洗わせたところ、東宮の厩(うまや)から数百領のよろいが見つかった。  武后はこれを以て謀叛をたくらんでいる証拠といいたてたが、これだけでは李賢を愛している高宗を納得させることができぬと思い、李賢の気に入りの宦官を買収し、その生命を保証して、皇太子の命令を受けて明崇厳を殺したと自供させた。  こうして、李賢は謀叛の罪によって庶民におとされ、翌年、巴州へ流された。いまの四川省巴中である。李賢は巴州で、武后に迫られて自害した。  皇太子には李賢の弟の李哲が立てられ、顕と改名した。李顕も武后の実子である。  弘道元年十二月、高宗が死に、皇太子李顕があとをついで帝位についた。これが中宗である。武后は皇太后となり、天下の大権は全くその手ににぎられた。  中宗はその皇后の父の韋玄貞(いげんてい)を侍中にしようとした。それを知った中書令の裴炎(はいえん)が、 「太后のおゆるしもなく、勝手にそのようなことをなさっては……」  というと、中宗は怒って、 「勝手に? わたしは天子だぞ。たとえ天下を韋玄貞に与えようとも、それこそわたしの勝手だ。たかが侍中に任命するくらいが、なんだというのだ」  といった。  裴炎からこのことをきいた武太后は、ただちに百官を乾元殿(けんげんでん)に集めた。一同が控えていると、裴炎が文武の官僚とともに一隊の兵士を従えてあらわれ、皇太后の命令であるといって、大声で、 「皇帝を廃して廬陵(ろりよう)王とする!」  といった。そして、ただ茫然としている中宗を玉座から引きおろした。  中宗が武太后に向って、 「わたしになんの罪があるというのですか」  と詰(なじ)ると、武太后は冷やかに、 「そなたは韋玄貞に天下を与えようとしたではありませんか。それにまさる罪はありません」  といった。中宗は天子の位にあることわずかに五十四日であった。  中宗のあとには、その弟で、やはり武太后の実子の李旦が立てられた。これが睿宗(えいそう)である。武太后は睿宗には政務に関与させず、自ら紫宸殿に出て国政をとった。  その年の九月、武太后は甥の武承嗣(ぶしようし)の進言によってその祖先に王号を与え、洛陽に武氏の七廟を建てはじめた。武氏が天下に君臨することを誇示したものにほかならない。武后がその母の楊氏のために咸陽(かんよう)に築いた順陵の壮大さは、唐室の帝王陵をはるかにしのいだ。  武氏討伐、唐室復興の旗じるしを挙げたのは将軍李勣(りせき)の孫の李敬業(りけいぎよう)であった。彼は眉州(四川省)の長官のとき左遷されて柳州(広西省)の属僚になっていた。李敬業が揚州(江蘇省)に進出すると、これに呼応して各地から武后のために左遷されていた者や不遇な者、不平をいだく者が続々と揚州に集まってきた。そのなかには長安主簿の駱賓王(らくひんのう)もいた。駱賓王は王勃(おうぼつ)、楊炯(ようけい)、慮照鄰(ろしようりん)とともに初唐の四傑と呼ばれる文章家である。  当時、揚州は、長安、洛陽につぐ大都市であった。かれらはさきに武后のために自害させられた李賢に似た人物をさがし出してきて、皇太子は健在である、われわれは皇太子の命を奉じて兵を挙げたのだといい、駱賓王の書いた檄文(げきぶん)をとばして、わずか旬日のあいだに十余万の大軍にふくれあがった。  駱賓王の檄文は武后の悪業を責めたてて、こう結ばれている。 「一抔(いつぽう)の土未(いま)だ乾(かわ)かざるに、六尺(りくせき)の孤(こ)安(いずく)にか在る」  先帝の墓の土もかわかぬうちに、その遺児たちはどうなってしまったのか、というほどの意味である。たまたまこの檄文を手にいれた武后は、 「これはいったい誰が書いたのか」  とたずねた。 「長安主簿をつとめておりました駱賓王でございます」  と答えた左右の者は、武后のはげしい怒りを予想していたが、武后はただ、 「これほどの文才ある者を不遇な地位においておいたのは、宰相の責任です」  といっただけだったという。  李敬業らの十余万にふくれあがった大軍は、しかし、武后のさしむけた三十万の精鋭に対しては一溜(ひとたま)りもなかった。いわば烏合の衆に似た叛乱軍は足並みがそろわず、なかには寝返る者もあって、李敬業ら主謀者はほとんどみな殺されて、あとはちりぢりになった。駱賓王も、逃れてゆくえを絶ったとも、また、殺されたともいう。  武后の甥の武承嗣はこのとき、従弟の武三思とともに、唐室の血をひく者のすべてを殺して禍根を絶つべきであると進言した。武后はこのことを宰相たちにはかったが、みな口をとざして答えなかったなかで、裴炎(はいえん)ひとりだけが反対した。——皇帝(睿宗)がありながら皇帝は国政をとっていない。政権を皇帝にかえしさえすれば、叛乱はおこらない、というのが裴炎の答えであった。  当然、裴炎は異心をいだく者として獄にくだされ、やがて洛陽をひきまわされた上、斬罪に処せられた。  武后が自ら皇帝になろうと明確に心をきめたのは、あるいはそのときだったかもしれない。武承嗣と武三思の進言に従って武后は唐室の血をひく者、あるいはそれに荷担する者の絶滅をはじめ、数百人の者を殺しあるいは辺境の地へ流した。  こうして反対勢力を根こそぎにした上、天授元年九月、武后は自ら帝位につき、唐にかえて国号を周と改め、皇太子には睿宗李旦を立てて、武姓を名乗らせた。武后はそのとき六十七歳であった。 四  それから十四年間武后は帝位にあったが、その間、女性の身を以てよくこの大帝国を保持しつづけたのは、徹底した恐怖政治をおしすすめながら、一方では人材の登用に心をつくしたからであった。  武后のとった恐怖政治の代表的なものは、密告奨励制度である。これは帝位につく四年前の垂拱(すいきよう)二年からはじめられたもので、密告はたとえそれがいつわりであっても罰せられなかった。密告を奨励して反対者に臨む一方、よく賢人を登用して政務を任せた。当時の名宰相には、魏元忠(ぎげんちゆう)、婁師徳(るしとく)、狄仁傑(てきじんけつ)、姚元崇(ようげんすう)などがいたが、これらの宰相がいなければ武后もその終りを全うすることはできなかったであろう。  武后がその晩年に巨陽の男を寵愛したという挿話も語らなければならない。  僧懐義(えぎ)はもと洛陽の町で薬を売り歩いていた一介の無頼の徒であったが、なかなかの智恵者でもあった。巨陽の持主で、お手のものの薬を用いて通宵交わりつづけても倦(う)むことがなかったため、武后はこれを自由に宮中へ出入りさせるために、剃髪して僧侶にならせたのである。それは帝位につく九年前の開耀元年、武后五十八歳のときであった。それから五年後の垂拱元年、武后は懐義を白馬寺の住持にした。白馬寺というのは、六百年あまり前、後漢(ごかん)の明帝が建てた中国最初の寺である。懐義はその巨陽によって、僧侶としての最高の地位にのぼったのである。  その後、懐義は位(くらい)人臣を極めて国公に封ぜられ、武后が帝位についてから四年後の延載元年には突厥(とつけつ)を討って功をたてたが、その翌年、十五年にわたる寵愛の末、武后によって殺された。  懐義は富貴を極めると勝手なふるまいをしだし、多くの女をたくわえて、宮中へ出入りすることもすくなくなったにもかかわらず、そのころ武后が沈南〓(しんなんきゆう)という医師を寵愛して御医(ぎよい)として宮中にいれたことを知ると、武后にうとんぜられたことを怒って白馬寺の延命堂を焼いた。  そこで武后は懐義を宮中へ呼んで毒を盛った酒を飲ませ、急死したといつわって、その死体を白馬寺へ送りかえした。武后七十二歳のときである。  御医の沈南〓も、武后のためにあまりにも努めすぎたためか、懐義が殺された翌年、衰弱して死んだ。  その翌年の万歳通天二年、武后は張昌宗(ちようしようそう)という巨陽の美少年を得た。武后が昌宗を若く逞しいとほめると、昌宗は、 「わたくしの兄は、わたくしよりも巧みで、薬を調合することもできます」  といった。武后はそこで昌宗の兄の張易之(ちようえきし)を召してみたが、弟の言にたがわなかったため、兄弟二人を身辺に侍らせることにした。  まもなく昌宗は銀青光禄大夫に、易之は司衛少卿に任ぜられる。二人の父親はすでに没していたが、母はいた。武后はこの母を太夫人に封じ、常に女官を遣わして機嫌をうかがわせ、ひとりで淋しいであろうと気をきかせて兵部侍郎の李迥秀(りけいしゆう)に命じて閨房の相手をつとめさせた。  武后が張易之・昌宗兄弟を寵愛しだすと、武承嗣や武三思など武氏一族の者は争って張兄弟の門に伺候しだした。かれらは僧懐義に対しても同じようにしたことがあった。  聖歴二年、武后は控鶴(こうかく)府という役所を新設した。この役所は張兄弟のために設けられたもので、長官の控鶴監には易之が任ぜられ、その下に控鶴内供奉として、昌宗をはじめ吉〓(きつぎよく)、薛稷(せつしよく)、閻朝隠(えんちよういん)、李迥秀などが任ぜられた。  吉〓は左台中丞(御史台次官)であったが、彼は武承嗣に二人の妹をさし出し、その妹たちの口添えによって地位を得たという、ずるがしこくたちまわることを得意とする男であり、薛稷は鳳閣舎人(中書舎人)で、外面は剛直のように見えながら、人にとりいることがうまく、書画に巧みで、文章もよくした。閻朝隠は文章家として名を知られているが、おもしろいことをいって人を笑わせることがうまいために武后に可愛がられた男。李迥秀はさきに記したとおり、夏宮侍郎(兵部侍郎)の身で、武后の命を受けて張兄弟の母のお相手をつとめている男である。つまりこの役所は、武后の遊び相手をつとめる者たちのたまり場のようなもので、かれらのほかに武承嗣、武三思その他武氏一族の者をまじえて、酒宴を張ったり、ばくちをしたり、駄じゃれをいいあって笑いさざめいたりすることによって、武后は気ばらしをしたのである。この役所は翌年、奉宸(ほうしん)府と改称されたが、内容にはかわりはなかった。  あるとき、右補闕(うほけつ)(諫官)の朱敬則が諫言(かんげん)した。 「陛下は、僧懐義、沈南〓についで、張易之・昌宗兄弟を寵愛なさっておられますが、それだけで十分ではありませんか。近頃きくところによりますと、うちの子どもは色白で肌がきれいだから採用してほしいとか、自分は懐義におとらない巨陽の持主だから奉宸内供奉にとりたててもらえないだろうかといってくる者が多く、まことになげかわしい次第です。わたくしは諫言をするのが職務でございますから、申し上げないわけにはまいりません」  武后はそれをきくと、 「そなたが直言してくれなかったら、わたしは気がつかなかったろう」  といって、綵百匹を朱敬則に賜ったというが、格別あらためることはなかった。男の天子であるならば遊びはすこしも咎められないのに、女であるからといって咎めるのはおかしいではないか、という気持が武后にはあったのである。  以上のことはみな史書に記されていることであるが、稗史(はいし)には、これらの巨陽の男たちのほかに、さらに壮大異常な薛敖曹(せつごうそう)という人物が登場する。それは僧懐義が殺されたあと、武后は七十二歳のときである。  武后の年号に、如意(によい)というのがあるが、それは武后がはじめて敖曹と交わったとき、すこぶる如意(意に如(かな)う)であったために、敖曹に如意君という名をおくり、年号をも如意と改めたのだという。  聖歴元年、武后七十五歳のとき、武承嗣と武三思は、皇太子(睿宗)を廃して自らそれにかわろうとした。  武后が心を動かされたとき、狄仁傑(てきじんけつ)が進言した。 「太宗皇帝は身を弓矢のなかにさらして天下を平定し、これを子孫に伝えられました。高宗皇帝は二人のお子を陛下に託されました。しかるに陛下はいま、その天下を他族の者の手に移そうとしておられます。これは天意に逆らうことではないでしょうか。それに、叔母と甥、母と子とでは、どちらが親しいでしょうか。わが子をお立てになれば陛下は宗廟に祭られましょう。甥をお立てになれば宗廟に祭られることもないでしょう」  すると武后は、かつて李勣(りせき)が高宗にいった言葉をまねて、 「これはわが家の私事です。そなたのあずかり知るところではない」  といった。だが、狄仁傑はさらにいった。 「王者は四海を家とします。陛下にとっては私事というものはありません。わたくしは宰相です。陛下の家事の一部分です。どうしてあずかり知らずにおられましょう」  武后は狄仁傑の言葉に反感を覚えたが、思えば自分の将来に深いかかわりのあることである。子か甥か。やはり子をとるべきであろう。武后はそう思いなおし、湖北の房州に流してあった廬陵王李哲(中宗)を呼びもどした。そして、甥たちの野望をおさえ、弟の旦(睿宗)にかえて、兄である哲を皇太子に立てることにした。  長安四年、武后も寄る年波には勝てず、病床についた。武后は重臣たちにも面会をゆるさず、かの張易之・昌宗兄弟だけを身辺に侍らせて、政務もこの二人に任せきりにしていた。張兄弟は武后なきあとのことを思って、保身のための画策にあけくれている。  翌、神竜元年になると、武后の病気はいよいよ重くなった。武后を廃して皇太子を帝位につけようという計画が、張柬之(ちようかんし)を中心にして進められていた。張柬之は武后が狄仁傑のすすめに従って登用した人物で、いまは宰相になっていた。  正月二十二日、近衛軍を味方にひきいれた張柬之たちは、皇太子を擁して宮中へおしいり、まず張易之・昌宗兄弟を斬り、武后に迫って皇太子に位をゆずることを同意させた。  皇太子(中宗)が即位した、というよりも、中宗が二十二年ぶりに復位し、国号を周から唐にかえた。すなわち、十四年ぶりで天下は再び唐朝のものになったのである。  武后は長生殿から上陽宮へ移され、天子の母として則天大聖皇帝という尊号をおくられたが、その年の十一月、八十二歳でそのはげしい生涯をとじた。  武后は則天大聖皇后と諡(おくりな)され、高宗皇帝の皇后として、翌神竜二年五月、高宗の眠る乾(けん)陵に葬られた。 楊貴妃妖乱(ようきひようらん) ——楊貴妃(ようきひ)(唐) 一  唐の第六代の皇帝玄宗(げんそう)は、毎年十月になると驪山(りざん)の温泉宮(おんせんきゆう)(華清宮)へ避寒した。そのときには宮臣や後宮(こうきゆう)の妃嬪(ひひん)たちはもちろん、公主(こうしゆ)や王妃(おうひ)たちも随行し、温泉にゆあみして寒を避け、春を待って都へ帰るというならわしであった。  開元二十五年、玄宗は最愛の寵妃武恵妃(ぶけいひ)をうしなった。以来、後宮に武恵妃にかわるほどの妃嬪はなく、玄宗は日々遊楽にふけりながらも怏々(おうおう)として楽しまなかったが、開元二十八年の温泉宮への行幸のとき、一人の美女に眼をとめて、にわかに心の中に春のよみがえるのを覚えた。  玄宗の心をとりこにしてしまったその女の美しさを、白楽天(はくらくてん)はその「長恨歌」の中でこう歌っている。 眸(ひとみ)を廻(めぐ)らして一笑すれば百媚(ひやくび)生じ 六宮(りくきゆう)の粉黛(ふんたい) 顔色(がんしよく)なし  後宮三千の美女たちをして顔色なからしめたというほどのその人は、寿王(じゆおう)の妃(きさき)で、名を楊玉環(ようぎよくかん)といった。寿王は玄宗の子で、その母は武恵妃である。  玄宗は宦官(かんがん)の高力士(こうりきし)とはかり、玉環をゆあみさせるために、あらたに浴室をつくらせた。浴槽の底にはエメラルドをしきつめ、大理石でかこい、室内を金銀珠玉で飾りたてた華麗な浴室であった。  ゆあみする玉環の肢体(したい)を玄宗はつぶさに覗き見した。湯水をはじきかえす豊かな肌、湯からあがったときのなまめかしい姿態。それは玄宗を恍惚とさせた。 春寒くして浴(よく)を賜(たま)う華清(かせい)の池 温泉 水滑(なめ)らかにして凝脂(ぎようし)を洗う 侍児扶(たす)け起せば嬌(きよう)として力なし 始めて是れ新たに恩沢(おんたく)を承(う)くるの時 「浴を賜う」のは寵愛(ちようあい)されるときのならわしである。はじめて玉環が玄宗に寵愛されたとき、玉環は二十二歳、玄宗は五十六歳であった。白楽天が「凝脂」と表現した玉環の豊かな肌をよろこんで、玄宗はそのとき「朕(ちん)は天下の至宝を得た」といったという。  春になって都の長安に帰ってからも、玄宗はこの「至宝」を忘れることができなかった。しかし、玉環はわが子寿王(じゆおう)の妃である。そのまま奪って後宮へいれるわけにはいかない。玄宗はそこで高力士とはかり、玉環を道教の尼僧にして寿王のもとを去らせ、宮中の太真宮(たいしんきゆう)にいれた。寿王には別の女を選んでその妃にしたのである。  尼僧として太真宮にはいった玉環は、楊太真(ようたいしん)と呼ばれた。雲鬢(くろかみ)ゆたかに、金の歩揺(かんざし)をさし、粧(よそおい)をこらした美しい尼僧である。玄宗は日も夜も太真宮にいりびたって政務をうちすて、朝になっても朝廷へも出ない。 雲鬢(うんびん) 花顔(かがん) 金歩揺(きんほよう) 芙蓉(ふよう)の帳(とばり)暖かにして春宵を度(わた)る 春宵苦(はなは)だ短(みじか)く 日高(た)けて起き これより君主 早朝(そうちよう)せず 歓(かん)を承(う)け宴に侍(はべ)って閑暇(かんか)なく 春は春の遊(あそび)に従い夜は夜を専(もつぱら)にす 後宮の佳麗 三千人 三千の寵愛 一身に在り 金屋(きんおく) 粧(よそおい)成(な)って嬌として夜に侍り 玉楼 宴(うたげ)罷(や)んで酔うて春に和す  こうして後宮三千人の美女たちの中で、玄宗の寵愛を一身にあつめた楊太真は、温泉宮ではじめて寵愛されてから五年目の天宝四年、貴妃(きひ)の称号を賜(たまわ)った。貴妃とは、その位、相国(しようこく)(宰相)に並ぶ女官の最高位である。同時に、すでに故人になっていたその父母にもそれぞれ官位が追贈され、三人の姉はそれぞれ韓国(かんこく)夫人、〓国(かくこく)夫人、秦国(しんこく)夫人に封(ほう)ぜられて公主(皇女)にひとしい待遇を受け、その叔父(お じ)たちや従兄弟(い と こ)たちのすべてに官位が授けられた。それらの中で最も頭角をあらわしたのは復(また)従兄弟(い と こ)の楊〓(ようしよう)で、はじめ侍郎にあげられ、ついで戸部尚書(こぶしようしよ)に進み御史大夫(ぎよしたいふ)を兼ねて宰相となり、国忠(こくちゆう)という名を賜った。  こうして楊氏一族の権勢はにわかに天下を傾(かたむ)け、文武の官はみな楊氏の門に伺候(しこう)するにいたった。まさに国を傾けるというにふさわしく、この楊氏一族の繁栄のすべては、楊貴妃という一人の傾国(けいこく)、一つの妖艶な肉体のもたらしたものであった。  楊貴妃がこれほどまで玄宗の寵愛を得たのは、眸(ひとみ)を廻(めぐ)らして一笑すれば百媚(ひやくび)生ずというその美貌と姿態のほかに、また、すぐれた才智と、さわやかな弁舌(べんぜつ)と、たくみな手管とを持っていたからであった。常に玄宗の言葉にさきだってその心をさとり、言うこと為すこと、すべて玄宗の意にかなわないものはなかったからだという。そういう貴妃に対する玄宗の溺愛ぶりをつたえる一つの挿話として、〓枝(れいし)の話がある。  楊貴妃は〓枝を好んだ。〓枝は遠い嶺南(れいなん)の果物で、これを長安にとりよせることは容易なことではなかった。長い道中に変味してしまうからである。嶺南から長安への道すじには、五里ごとに見張台がたてられ、十里ごとに宿坊(しゆくぼう)がおかれ、夜を日についで、馬をかえ、人をかえて、〓枝は運びつがれた。急ぐあまり、ある者は馬を乗りつぶし、ある者は道に走りたおれた。〓枝を運ぶ者のために沿道には常にもうもうと砂塵が立ち、往来はさまたげられて人々の困惑はひとかたではなかったという。玄宗は楊貴妃一人の嗜欲(しよく)をよろこばせるために、あえてそれをやらせつづけたのである。 二  武恵妃(ぶけいひ)の在世中から玄宗が寵愛した妃嬪(ひひん)の一人に、梅妃(ばいひ)という女がいた。高力士(こうりきし)がすすめた女で、武恵妃の豊満濃艶なのとは対照的に、清楚可憐であった。玄宗はその風情に心をひかれて梅妃を寵愛した。  梅妃が後宮にはいったのは、武恵妃が玄宗の最愛の寵妃として後宮にゆるぎない地位を占めていたときだったので、あらたに玄宗の寵愛を得た梅妃に対して武恵妃は嫉妬を燃やすようなことはなかったし、梅妃もまた、玄宗の寵愛を自分一人につなぎとめておこうとたくらむような女ではなく、常に武恵妃を立て、寵愛が自分につづくようなときにはそれとなく玄宗の心を武恵妃に向けさせたりしていたため、武恵妃と梅妃とのあいだに軋轢(あつれき)のおこるようなことはなかった。  梅妃は詩文に長じていて、ことのほか梅の花を愛した。後宮にはいったときの名は江妃(こうひ)といったが、梅の花を愛する江妃を見てその花の清楚可憐な美しさをそのまま江妃の美しさだと思った玄宗は、江妃を梅の花の精のようだといい、たわむれて梅妃と呼んだ。それが江妃の通称になったのである。  玄宗は牡丹(ぼたん)の花が好きだったが、その濃艶な色香に倦(う)むと、梅の花のつつましやかな美しさに心を移した。武恵妃と梅妃とは、玄宗にとって、いわばそういう二つの花だったのである。  武恵妃が死んでからは、自然、梅妃が後宮随一の寵妃となった。だが玄宗が怏々(おうおう)として楽しまなかったというのは、心の一隅に牡丹の花を求めつづけていたからである。そのとき見いだされたのが楊貴妃だった。玄宗はあらたに得た牡丹の花に溺れて、梅の花を忘れてしまったのである。  武恵妃には姉に対するように親しんだ梅妃も、にわかにあらわれて玄宗の寵愛を奪いさらっていった貴妃に対しては、内心はげしい嫉妬を覚えて敵意を燃やした。楊貴妃にもまた、きのうまでは後宮随一の寵妃だった梅妃に対して、いつ玄宗の寵愛を奪いかえされるかもしれぬというおそれがあった。そのおそれをなくするために、楊貴妃は後宮から梅妃を追いはらうことをたくらんだ。  すべてに積極的な楊貴妃に対して、万事ひかえ目な梅妃には、勝ちみがなかった。やがて玄宗は楊貴妃にくどかれて、梅妃を後宮から上陽宮(じようようきゆう)の東宮(とうきゆう)へ移してしまったのである。  玄宗はそうしたものの、その後、梅妃をあわれに思い、また召し出そうとはかったこともあったが、楊貴妃のてまえ、いったん遠ざけた者を呼びもどすこともできず、そのまま数ヵ月をすごした。  ある夜、玄宗はなつかしさにたえられなくて、ひそかに宦官を上陽宮へつかわし、馬に乗せて、あかりもつけず、こっそりと梅妃を翠華宮(すいかきゆう)へ引きいれた。その夜、梅妃はうれし涙にかきくれて玄宗との一夜をすごし、翌日、日が高くのぼるころになっても二人はまだ目覚めなかった。 「たいへんでございます。貴妃さまがお見えになりました!」  あわただしく呼びおこす侍女の声に、玄宗はあわてて起きあがり、梅妃を帳(とばり)のうしろへおしかくした。  楊貴妃は、はいってくるなり玄宗にいった。 「梅の精は、どこにおいでです?」 「上陽の東宮にいるにきまっているではないか」 「それなら、すぐお呼びしていただきたいのです。きょうは梅妃さまとごいっしょに温泉にゆあみしたいと思いまして」 「あの女は、そなたにいわれて遠ざけたのだ。いまさら呼びよせることはなかろう」 「それなら、それでよろしゅうございます。ところで、お机の上には皿や杯がちらばっておりますし、お榻(ねだい)の下には美しい女の履(くつ)が見えております。昨夜はどなたがお伽(とぎ)なさったのでしょう?」  玄宗は答える言葉がない。 「どなたがお伽をなさったのか存じませんが、その女のために日が高くなるまでおやすみになって、朝廷へもお出ましにならないとは、あまりのことでございます。早くお出ましなさいますように。わたくしはここで、陛下がお帰りになるまでお待ちしていることにいたします」  玄宗は困りはてて、 「きょうは気分がわるい。朝廷へは出られぬのだ」  といい、蒲団をかぶって寝てしまって、顔を衝立(ついたて)のほうへむけたまま、ふりかえらなかった。そのまま、なにをいってもとりあわぬ玄宗に対して、楊貴妃もどうするすべもなく、侍女たちにあたりちらしながら、帰っていった。  楊貴妃が帰ってしまってから、玄宗は梅妃をなだめようとして帳(とばり)をあげたが、梅妃はもういなかった。玄宗と楊貴妃がいいあっているあいだに、宦官が上陽宮へ送っていったのである。玄宗はそれをきくと、怒ってその宦官を死罪にし、梅妃が残していった履(くつ)に翡翠(ひすい)の髪飾りを添えて、使いの者に持たせてやった。  梅妃はその使者にたずねた。 「陛下はもう、わたくしをお見捨てになられたのでしょうか」 「いいえ、決してさようなことはございません。陛下は貴妃さまのてまえをはばかっておられるだけのことでございます」  すると梅妃はさびしく笑っていった。 「あの肥婢(ひひ)(でぶ)をはばかってわたくしをお遠ざけになるということは、やはりわたくしをお見捨てになられたことです」  その後、梅妃ははじめに自分を玄宗にすすめた高力士に贈りものをして、司馬相如(しばしようじよ)の「長門賦(ちようもんふ)」のような歌を書いてくれる文人を紹介してほしいとたのんだ。司馬相如は漢の武帝(ぶてい)のときの文人で、武帝の寵愛をうしなって長門宮に遠ざけられていた陳(ちん)皇后が、そのかなしくせつない思いを司馬相如につたえて、かわって歌ってもらったのが「長門賦」である。武帝はそれを読んで心をうたれ、再び陳皇后を寵愛するようになったといわれている。——梅妃はその故事にならおうとしたのだった。  だが高力士は、玄宗のために楊貴妃を寿王のもとから太真宮へ移した本人であり、またいまの楊貴妃一門の権力はすさまじく、その恨みを買うことをおそれて、梅妃をあわれに思いながらも、然るべき文人を知らないといってことわった。そこで梅妃は、みずから歌をつくって「楼東賦」と題した。それは、さびしく日を送るいまの身の上をなげき、かつて帝の寵愛を得ていた日々の思い出をなつかしみ、そして、 奈何(いかん)ぞ 嫉色庸庸(しつしよくようよう)〓気冲冲(ときちゆうちゆう)として 我が愛幸を奪い我を幽宮に斥(しりぞ)くるや  と楊貴妃をうらみ、 空しく長嘆して袂(たもと)を掩(おお)い 躊躇(ちゆうちよ)して楼東を歩む  と結んだ、悲哀切々たる賦であった。  玄宗はそれを読んで心をいためたが、楊貴妃は怒って梅妃に死を賜わるようにと玄宗にすすめた。楊貴妃のいうことはなにごとによらず諾々(だくだく)とききいれていた玄宗も、さすがにこれにだけは応じなかった。  玄宗はその後、楊貴妃をはばかって梅妃を寵愛したことはついになかったが、あるとき、異国から献上された一斛(いつこく)の珍珠(ちんしゆ)(真珠)をひそかに梅妃のもとへ送って、心をなぐさめようとした。だが梅妃はそれを受けず、使者に一篇の詩を託した。 柳葉の双眉(そうび)久しく描かず 残妝(ざんしよう) 涙に和して紅〓(こうしよう)を汚(けが)す 長門 自ら是れ梳洗(そせん)するなし 何ぞ必ずしも珍珠の寂寥(せきりよう)を慰めん  玄宗はその詩を見て胸うたれ、楽府(がふ)に命じて曲をつけさせ、それを「一斛珠(いつこくしゆ)」と名づけた。 三  あるとき玄宗は宮中で、宗室の宴をひらいた。  その夜、楊貴妃は、玄宗の兄の寧王(ねいおう)(寿王の養父)の愛笛(あいてき)、紫玉(しぎよく)の笛を手にして席をはなれ、ものしずかな片隅でひとりその笛をもてあそんでいた。  玄宗の寵愛をひとり占めにしている貴妃に対して、隙(すき)あらばおとしいれようと眼を光らせている後宮の妃嬪(ひひん)たちが、それを見のがすはずはなかった。たちまち後宮にはその夜のことがいいひろめられ、ある者は貴妃がなつかしげにその笛を唇にあてて思いに沈んでいたといい、ある者はあからさまに貴妃が寧王と通じているといいふらした。  詩人の張〓(ちようこ)がそのうわさをきいて、一篇の詩をつくった。 梨花の静院 人見るなきに 閑(ひそ)かに寧王の玉笛を把(と)って吹く  玉笛を吹くということは、吸茎するという意にも通じる。その詩は宮女たちのあいだにひそかに歌いひろめられ、楊貴妃と寧王とのうわさはやがて玄宗の耳にも達した。楊貴妃を溺愛しているだけに、玄宗の怒りははげしかった。玄宗はとりあえず貴妃を楊家へ送り帰した。  楊貴妃が玄宗の寵愛をうしなうということは、ただちに、楊氏一門がその権勢をうしなうことであった。楊家の者はかわるがわる伺候(しこう)して玄宗の心をやわらげようとしたが、かえって玄宗は怒りをつのらせるばかりだった。  このとき,吉温(きつうん)という奸智にたけた者がいた。常に権勢のある者にへつらい、自分によくない者をおとしいれて、身を保っている男であった。かつては宰相の李林甫(りりんぽ)におもねっていたが、楊国忠が宰相になると、やがてその勢いが李林甫をしのぐことを見とおして、いまは楊国忠にとりいっていた。楊国忠はこの男に、貴妃のことをはかった。  吉温は、楊貴妃をうしなうことにたえられない玄宗の心を見ぬいていた。楊家へ帰らせたのは嫉妬にかられての激情からであって、決して楊貴妃を成敗してしまおうという心はないこと、いまはむしろ悔いて、楊氏一門の者ではない第三者のとりなしを待っていること、しかしまた、うかつなことをいえばかえって玄宗に楊貴妃をゆるす機会をうしなわせることになるだろうことなどを述べて、吉温は万事を引きうけた。  やがて吉温は機会を見て玄宗に奏聞した。 「貴妃さまが陛下のお心をなやまされた罪は、死にあたるべきものでございましょう。ただ、かつて陛下の恩寵(おんちよう)を蒙(こうむ)った身として、貴妃さまは宮中で死を賜わりたかったと申しておられます。それがかなわず、楊家に帰されたために、空しく生恥(いきはじ)をさらしている身がつらいと申しておられます貴妃さまは、まことにあわれでございます」  吉温の言葉は玄宗の心を動かした。  それから数日たったとき、玄宗は楊家へ使者をつかわして、嶺南(れいなん)の〓枝(れいし)を楊貴妃に贈った。楊貴妃は使者の前でその〓枝をおしいただいてしばらく泣いていたが、やがて涙をおさめ、形を正していった。 「わたくしのあやまちは、たとえ死んでおわびをいたしましても、つぐなえるものではございません。それなのにこのような贈りものを賜わり、君恩のかたじけなさにただ感涙するばかりでございます。わたくしの身につけております金銀珠玉は、すべて陛下から賜わりましたもので、ほかに陛下にさし上げるものとてなにひとつございませんが、ただ、わたくしの髪と肌は、これは父母からさずけられたものでございますから、この髪を陛下に残してせめてものお礼のしるしとし、わたくしは死んで罪のいくぶんなりともつぐないたいと存じます」  使者のおしとめるのもきかず、楊貴妃は髪をほどいてその黒髪の一束を切り取り、使者に手渡した。  おどろいた使者は、幾人かの部下を残して楊貴妃を監視させ、急ぎ帰って事の次第を玄宗につたえた。一束の黒髪を見て、玄宗の心のくもりはたちまちぬぐい去られた。玄宗はすぐ高力士を楊家へ急がせ、その日のうちに再び楊貴妃を宮中に迎えいれた。このことがあってから、玄宗の楊貴妃に対する寵愛はさらに深くなったという。  楊貴妃は玄宗の寵愛をほしいままにしながらも、たとえば則天武后(そくてんぶこう)のように、繊手(せんしゆ)に天下を握ろうというような政治的な野望はいだかなかった。しかし玄宗がその愛に溺れたがために、楊貴妃の片言隻語(へんげんせきご)は宰相にもまさって政治を左右し、後宮はさながら朝廷となった。そのため人々はあらそって楊貴妃の意を迎えることにつとめ、それによって栄達の道を開こうとした。そのいちじるしい例が、安禄山(あんろくざん)である。 四  安禄山は営州(えいしゆう)(熱河省)出身の胡人(こじん)で、安禄山という名は、アレキサンダーの漢名だともいう。はじめ、幽州の長史の張守珪(ちようしゆけい)にその武勇をみとめられて一軍の将となり、しばしば辺境で戦功をたてたが、開元二十四年四月、奚(けい)・契丹(きつたん)と戦って惨敗を喫した。張守珪はその責(せめ)を問うて彼を斬罪に処することにしたが、処刑のとき安禄山は大声でどなっていった。 「この安禄山を殺して、契丹(きつたん)をほろぼすことができるか!」  張守珪は感ずるところあって処刑をとりやめ、長安へ送って玄宗の裁断にゆだねることにしたのである。そのとき宰相の張九齢(ちようきゆうれい)は軍令を正すために斬罪を主張したが、玄宗は一度の敗戦を責めて辺境の勇将をうしなうことはしのびないとして、ゆるした。じつは、玄宗の近侍の者のなかにひそかに安禄山の助命を策動した者がいたのであった。  安禄山は弁舌にすぐれ、よく人の心を読み、処世の術にたけていた。なんとしても栄達して、権勢を中央にふるおうとたくらみ、常に将相から末輩の宦官にいたるまで、尊卑をとわず媚びへつらい、機会あるごとに宴に招き、賂(まいない)を贈ってその歓心を買うことにつとめていた。同時にまた、そのたくみな弁舌をあやつって自らを誇示することもおこたらなかった。  そのため、玄宗の耳には安禄山をほめる声だけがきこえた。ある者は彼の戦功をたたえて勇者だといい、ある者は彼を忠臣であるとほめ、ある者は彼のような人物こそまことの英雄豪傑であろうといった。玄宗はそれらの言葉を信じ、はじめて温泉宮で楊玉環を寵愛した翌年の開元二十九年、安禄山をあげて営州の都督とした。  都督になった安禄山は、ますます玄宗の信任を深めることにつとめ、辺境に戦功をたてて翌年の天宝元年には平廬(へいろ)節度使に任ぜられ、天宝三年には范陽(はんよう)節度使をも兼ねた。楊太真が貴妃になった天宝四年、安禄山は奚(けい)・契丹(きつたん)を破ってますます玄宗のおぼえをよくし、ついに御史大夫(ぎよしたいふ)を兼ね、後には河東(かとう)節度使をも兼ねるにいたった。楊氏一門にもおとらぬ、異例の出世ぶりであった。  安禄山は、自分が范陽にいるときには、腹心(ふくしん)の部下を長安にとどめて、常に朝廷のうごきに気をくばらせていた。そして機会あるごとに、異国の宝物や器物、珍奇な鳥獣などを献上して、異国趣味の好きな玄宗の心をよろこばせた。  安禄山はべんべんたる太鼓腹をした巨漢であったが、参内(さんだい)するといつも、軽快に、滑稽に胡舞(こぶ)をおどって玄宗をたのしませた。あるとき玄宗は、その太鼓腹を指さして、たわむれにたずねた。 「その大きな腹のなかには、いったい何がはいっているのだ」 「別にかわったものははいっておりません。ただ、陛下に対する赤心(せきしん)が一杯つまっておりまして、このように大きいのでございます」  玄宗はその機智を愛し、その答えに満足した。だが、そのべんべんたる太鼓腹のなかには、じつは赤心どころか、どす黒い悪心が一杯につまっていたのである。  ある日、参内した安禄山は、玄宗が楊貴妃と並んでいるのを見て、先ず楊貴妃にむかって拝礼をした。玄宗は色をなしてその非礼を詰(なじ)ったが、安禄山は平然として答えた。 「陛下もご存じのように、わたくしは胡人でございます。胡国では、すべて婦人をさきにすることを礼といたしておりますために、つい、ならわしに従って、さきに国母陛下に敬意を表しました次第。国母陛下の、まことに大唐帝国のおん母君にふさわしい、うるわしいお姿を拝しまして、よろこびにたえぬ次第でございます」  安禄山の言葉に、楊貴妃の顔は美しくほころんだ。玄宗もそれにつられて、けわしい顔をゆるめ、楊貴妃のほめられたことをわがことのようによろこんで、安禄山に酒をとらせるようにといった。  安禄山は酒を一杯飲みほすと、 「では、国母陛下のおなぐさみに、胡国のおどりをごらんにいれましょう」  といい、立ちあがって、おどけた身ぶりで、いつものおどりをおどった。  なごやかな宴になり、安禄山は杯をかたむけながら、辺境での戦(いくさ)の話や、胡国のめずらしい風物人情などを、おもしろおかしく語った。楊貴妃はたのしげにきき、玄宗もまた上機嫌だった。  玄宗は安禄山を信任するあまり、長安の御苑(ぎよえん)の永寧園(えいねいえん)を与えて彼の邸宅とし、また、楊氏一門の楊国忠(ようこくちゆう)、韓国(かんこく)夫人、〓国(かくこく)夫人、秦国(しんこく)夫人らと、きょうだいの契りを結ばせた。と、その信任につけこんで安禄山はとっぴなことを玄宗に願い出た。 「陛下に対するわたくしの忠誠が、誰にもおとらぬものであることは、陛下もおみとめくださるところと存じます。つきましては、その忠誠の臣として、わがうるわしき国母陛下を、わたくしの母上として仰ぎたてまつることをおゆるしいただきとうございます」  そんなことをいう安禄山を、玄宗はかえって愛すべき男だと思った。巨大な体躯をしながら、なんという児戯にひとしいことをいう奴かと、玄宗は笑いながらききかえした。 「それも胡人の国のならわしか。貴妃をそのほうの母とするならば、朕(ちん)はいったいそのほうのなにになるのだ」 「それは、いまさら申しあげるまでもないことです。もとより、わたくしは陛下の赤子(せきし)でございます」  こうして安禄山は楊貴妃の養子ということになった。玄宗のゆるしを得たそのことを理由に彼は、天子と宦官のほかは出入りすることのできない後宮に、自由に出入りしだした。  まもなく楊貴妃と安禄山との醜聞が後宮のうわさにのぼるようになったが、それは玄宗の耳にははいらなかった。安禄山が河東(かとう)節度使を兼ねた天宝十年には、玄宗はすでに六十七歳の高齢。楊貴妃はようやく三十三歳で、女のもっとも爛熟(らんじゆく)する年齢であった。その楊貴妃を満足させるものを巨大な体躯の胡人は持っていたのであろうか。そのころの楊貴妃と安禄山とが後宮でいかに狎(な)れあっていたかを示す挿話に、こういう話がつたえられている。  天宝十年正月のある日、安禄山は宮中に召(め)され、玄宗と楊貴妃からその誕生日を祝われて、かずかずの贈りものを受けた。  祝宴がおわって、楊貴妃が後宮へさがると、つづいて安禄山も「義母」に答礼をするためといって後宮へいった。楊貴妃は侍女たちをしりぞけて、安禄山とともに私室へはいっていったが、しばらくたってから侍女たちが呼ばれていって見ると、安禄山が榻(ねだい)の上にまるはだかで寝ており、その傍には楊貴妃が笑いくずれながら、錦繍(きんしゆう)の襁褓(おむつ)を安禄山のそこにあてているところであった。あわて、ためらって、部屋のなかへはいることのできずにいる侍女たちに、楊貴妃はいった。 「いま禄(ろく)坊やをお湯にいれてやったところなの。わたしがいくらあやしてやっても、この坊やはむずかってばかりいるので、おまえたちみんなで、あやしてやっておくれ」  そして楊貴妃は、安禄山を輿(こし)に乗せるように侍女たちにいいつけた。侍女たちは安禄山を輿に乗せ、それをかつぎあげて後宮のなかをねり歩いた。錦繍の切れを前にあてただけのはだかの巨漢が、輿にゆられて小児のようにおどけるさまがおかしく、後宮のなかには侍女たちの嬌声がひびきわたってやまなかったという。  玄宗はそのことをきいて、あまりのことと安禄山をとがめたが、 「まったく、仰せのとおりでございます。いかに母上とはいえ、あまりにもひどいお仕打ちでございました。いやしくも陛下の赤子(せきし)たるわたくしに対して、あのようなことをなさるとは、なんたることでございましょう!」  そういっておどける安禄山に対して、玄宗も苦笑するよりほかなかった。 五  楊貴妃が「寧(ねい)王の玉笛」の咎(とが)を受けたときとりなしをした吉温(きつうん)は、そのころは楊国忠にへつらっていたが、いまは安禄山(あんろくざん)に乗りかえてその腹心となり、戸部郎中(こぶろうちゆう)の官に進んでいた。  安禄山は長安にいるあいだは、この吉温を副使として范陽(はんよう)にとどめ、軍事をまかせていた。  李林甫(りりんぽ)はなお右丞相(ゆうじようしよう)の位にあった。楊貴妃によって楊国忠が頭角をあらわし、つづいて安禄山が擡頭してからは、李林甫は二人の権勢のかげにかくされているような形だったが、朝政の実権を握っているのはやはり彼であった。もともと彼も、武恵妃にとりいることによって玄宗の寵任を得、張九齢(ちようきゆうれい)をしのいで今日あるを得たのであった。従って、楊貴妃にとりいって権勢を得るにいたった安禄山が謀叛(むほん)の心をかくし持っていることを、誰よりも早くから見ぬいていた。だが、彼があえてそれをあばこうとしなかったのは、自己の保身のためであった。  安禄山は、李林甫よりもさらに、人心を収めることにたけていた。朝廷でも後宮でも、彼の評判はわるくはなかった。それは人望というよりも、人気といったほうがよかった。彼が参内(さんだい)するときは、いつも凱旋将軍のように迎えられた。そのなかで彼は、手をふってそれに応(こた)えるのとおなじように、地位や金品をまきちらしていった。彼は平廬(へいろ)、范陽(はんよう)、河東(かとう)の三つの節度使を兼ね、その実力は国家のなかに国家をきずいているにひとしかった。彼に謀叛の心のあることを気づいている者も、その実力をおそれて口をとざしていた。なかにはそれとなく玄宗の眼をさまそうとする者もなくはなかったが、すっかり安禄山に籠絡(ろうらく)されている玄宗は、かえってそれを安禄山の才幹をねたみ寵任をうらやむ者の讒言(ざんげん)と解した。  こうして安禄山はますます寵任を得、ますます謀叛の準備をかため、逆に忠臣はますます遠ざけられていった。こうしたなかで、安禄山の謀叛のくわだてを知りながら、そしらぬふりをよそおうことによって右丞相の地位を保っているのが李林甫だった。  安禄山が誰よりもおそれているのは、そういう李林甫であった。李林甫はいつも安禄山が心のうちに思っていることを察して、なにげないふうに、それをさきに口にした。謀叛のことには触れなかったが、それでも安禄山は、李林甫と会うときには冬のさなかでも身を汗ばませたという。李林甫が安禄山のたくらみをあばかなかったのは安禄山をおそれてであったが、そういう李林甫の存在が、かえって安禄山の謀叛の挙に出ることを制していたのである。  後宮の女たちが、はだかの安禄山を輿(こし)に乗せてかつぎまわるという狂態があってから、しばらく安禄山は後宮にいりびたっていた。これが楊貴妃との最後の歓楽になるだろう、と彼は考えていたのである。そして歓楽のかぎりをつくして、彼は范陽(はんよう)へ帰っていった。  その年の十月、長安の武庫(ぶこ)が焼けて兵器甲冑(かつちゆう)三十七万が灰燼(かいじん)に帰(き)した。出火の原因はわからなかった。  その翌年の十一月、李林甫が病死した。范陽でその知らせを受けた安禄山は、もはや長安におそるべき者なしと、胸を野望にふくらませた。李林甫の死をよろこんだもう一人は、楊国忠だった。彼が李林甫のあとをおそって右丞相になると、安禄山は腹心の吉温(きつうん)をすすめて御使中丞(ぎよしちゆうじよう)の位につけた。長安に吉温をとどめておいて、目付(めつけ)の役をさせようという魂胆(こんたん)であった。  天宝十三年、それまで范陽で謀叛の準備をすすめていた安禄山は、しばらくぶりで長安へ上った。すでに楊国忠も、安禄山のたくらみに気づきはじめていた。太子興(後の粛宗)はしばしば玄宗を諫(いさ)め、謀叛にそなえて兵備をととのえるようにすすめた。しかもなお玄宗は、楊貴妃の言をきいてそれを讒言(ざんげん)と信じ耳をかそうとはしなかった。それらのことは吉温(きつうん)からの知らせで安禄山はすべて承知していた。そして、そのいわば敵陣のなかへ、彼はなにくわぬ顔をして乗りこんでいったのである。 「陛下のために辺境のまもりをかためておりますわたくしを、疑いの眼で見る者もありますとのこと、まことに心外でなりません」  安禄山は参内してそういった。玄宗はそれを信じた。そして安禄山に同平章事(どうへいしようじ)の官を与えようとした。同平章事は宰相職である。楊国忠が反対していった。 「いかに戦功があるとはいえ、書を読むことも知らぬ胡人の武人を宰相にしては、四方の夷狄(いてき)どもに朝廷をあなどらせることになりましょう」  そういう楊国忠自身、もとは書を読むことも知らぬ一介の市井無頼(しせいぶらい)の徒にすぎなかったのである。ただ楊貴妃の一族であることを以て玄宗にとりたてられ、たちまち宰相の位置にまでのぼったのだった。楊国忠のおそれたのは、安禄山のいだいている野望よりも、むしろ安禄山によって自分の宰相の地位のおびやかされることであった。彼が反対したのは、そのためだった。  玄宗は楊国忠の言葉をいれて、宰相につぐ左僕射(さぼくや)の官を安禄山に与えた。そのいきさつも安禄山は、吉温を通して承知していた。 (よろしい。書を読むことも知らぬ胡人の力を、いまに見せてくれよう)  安禄山は心にそう誓い、しかし、なにも知らぬふりをして、外面はよろこんで左僕射の官を受けた。日をあらためて彼は、辺境の防備をかためるためといい、自ら閑厩(かんきゆう)総監(軍馬を司る総監)を兼ねて吉温を閑厩副使とすることを願い出て、ゆるされた。謀叛にそなえて軍馬を私(わたくし)しようという魂胆にほかならない。さらにまた彼は、辺境をまもる部下の勲功にむくいるために賞の数を増し、位を進めることを願い出て、これもゆるされた。これによって彼の部下には、将軍の位に進んだ者五百人、中郎将となった者二千人、以下士卒にいたるまでそれぞれ位を進められ、恩賞を与えられた。謀叛にそなえての、部下に対する懐柔策であった。  上京の目的をはたした安禄山は、楊貴妃との逢瀬(おうせ)もそこそこに、都に引きとめられることをおそれて急いで范陽(はんよう)へ帰った。そして翌年の春、腹心の何千年(かせんねん)を使者として上京させ、配下の将官のうち漢人三十余人を無能であるとして、胡人にかえたいと願い出た。玄宗はそれもゆるした。さすがに宮臣たちも、安禄山が着々と謀叛の準備を進めていることに気づいて、しきりに玄宗を諫めだした。玄宗もようやく疑いはじめ、安禄山の真意を知ろうとして、上京をうながした。だが、安禄山は病と称して応じなかった。  その年の秋、安禄山は玄宗に西域の名馬三千頭を献上したいと申し出た。その一行はすでに范陽を出発していた。それは、一頭の馬ごとに兵士二十余名がつき、そのあとに兵車三百乗を列(つら)ねた大部隊であった。  このとき、河南の尹(いん)の達奚〓(たつけいしゆん)はこのものものしい一行を見ておどろき、急いでそのことを長安に告げた。それまでは半信半疑だった玄宗も、ようやく安禄山の野望をさとり、ただちに勅使をつかわして名馬献上のことを拒絶するとともに、再び安禄山の上京をうながして、こう伝えさせた。 「病のため上京できぬとのことであるが、華清宮(かせいきゆう)に新しい温泉をつくったから、冬十月には保養にくるように」  安禄山は勅使に対する礼もおこなわず、高い台の上に腰をかけたままその言葉をききおわると、横柄(おうへい)にいい放った。 「名馬はいらぬが安禄山はほしいというのだな。では、十月には長安へまいろう」  その十月もすぎて、十一月、安禄山は楊国忠を討つことを名目として、ついに叛乱の兵を挙げた。  叛乱軍は、久しく泰平になれて兵火を知らぬ人々をふるえあがらせつつ、無人の境をゆくようにして諸郡県をおとしいれ、たちまちのうちに洛陽(らくよう)に迫った。  洛陽の留守(りゆうしゆ)の官(かん)の李燈(りとう)、御史中丞の廬奕(ろえき)らは、さきに安禄山の名馬献上のとき急を長安に知らせた達奚〓(たつけいしゆん)とともに防戦につとめたが、ついに城は落ちて、達奚〓は降伏した。李燈と廬奕は捕えられたが降伏することをがえんぜず、激しく安禄山を面罵(めんば)しつづけながら殺された。  洛陽をおとしいれた安禄山は、翌天宝十五年正月朔日(さくじつ)、洛陽城中で自ら帝位について大燕(たいえん)皇帝と称した。降伏した達奚〓はこのとき侍中の官にあげられ、安禄山の宰相になった。  安禄山が兵を挙げたとき、常山(じようざん)の太守だった顔杲卿(がんこうけい)は、その大軍を防ぐことのできないことを知って、長史の袁履謙(えんりけん)とはかり、常山の城をすてて道に安禄山の軍を出迎え、降伏を請うた。  かねてから顔杲卿の勇才をみとめていた安禄山は、よろこんで彼をゆるし、もとのまま常山を守ることを命じた。そして、部将の李鈞湊(りきんそう)を井〓(せいけい)にとどめてその地を守らせ、同じく高貌(こうぼう)を幽州(ゆうしゆう)へつかわして兵を集めさせて、自らは本軍をひきいて洛陽へむかった。  常山にもどった顔杲卿は、おもては安禄山に従っているように見せながら、ひそかに義兵を集めて安禄山を討つことをはかるとともに、使者を井〓へやり、李鈞湊の軍一同に対して安禄山から恩賞があったとあざむいて、彼を常山に招いた。部下をひきつれて常山にきた李鈞湊は、恩賞の酒宴と信じて前後をわすれて酔いつぶれたところを、部下ともども、殺されてしまった。高貌も同じ計略にかかり、幽州からの道に酒宴を設けて待ちうけていた顔杲卿の部下によって、宴なかばで殺された。  洛陽でこのことを知った安禄山は、何千年(かせんねん)を将とする一軍をさしむけて顔杲卿を討たせた。だが何千年は、途中、藁城(こうじよう)の尉(い)の崔安石(さいあんせき)にはかられて捕えられ、将をうしなった賊軍は敗退した。  顔杲卿のこの起兵によって、河北二十四郡のうち十四郡は朝廷に帰服した。  その翌年の正月、洛陽で大燕皇帝を僭称(せんしよう)した安禄山は、史思明(ししめい)、蔡希徳(さいきとく)を将とする数万騎をつかわして、常山を攻めた。顔杲卿は死力をつくして防戦したが、兵をおこしてからまもないこととて兵器や糧食の備えがうすく、ついに落城して、捕えられ、袁履謙とともに洛陽へ送られた。  安禄山の前に引き出された顔杲卿と袁履謙は、安禄山を指さして営州(えいしゆう)の羯奴(かつど)(羊飼い)と呼び、逆賊と罵ってやまなかった。安禄山は怒って二人を咼刑(かけい)(口切りの刑)に処したが、二人は死にいたるまで声ともならぬ声をふりしぼって安禄山を罵ることをやめなかったという。  これよりさき、玄宗は九原(きゆうげん)の太守の郭子儀(かくしぎ)を朔方郡(さくほうぐん)節度使に任じて賊軍を防がせた。郭子儀のもとには名将李光弼(りこうひつ)がいて、ともに軍略をはかったが、官軍は装備もわるく訓練もなく、安禄山の多年準備した精兵を破ることはできなかった。  はじめ、玄宗は河北の全郡が賊の手に落ちたという知らせをうけたとき、「二十四郡に、一人の義士もおらぬのか」と痛嘆したという。そのとき、平原の太守の顔真卿(がんしんけい)が義兵を挙げて安禄山の軍を撃退した。それが、緒戦のただ一つの朗報だったのである。顔真卿は楷書の大家として現在にいたるまでその名を残している。  顔真卿につづいて常山に兵を挙げたのが、その従兄弟(い と こ)の顔杲卿だったのである。だが、いまや常山も落ち、顔杲卿も殺されてしまったのである。  史思明が常山をおとしいれると、顔杲卿によってようやくささえられていた河北二十四郡のうちの十四郡は、ほとんど戦うこともなく賊軍に降(くだ)った。ただ、饒陽(じようよう)の太守の廬全誠(ろぜんせい)だけが屈しなかった。史思明は饒陽をかこんだが、廬全誠はよく戦って、饒陽城を守りつづけた。  このとき郭子儀(かくしぎ)は、李光弼(りこうひつ)に朔方(さくほう)の精鋭一万騎を与えて饒陽を救わせた。李光弼が先ず井〓(せいけい)を取り、ついで常山を奪還すると、史思明は饒陽のかこみを解いて常山を攻めた。対戦四十余日、李光弼の軍は食糧に窮して、急を郭子儀に告げた。郭子儀は大軍をひきいて常山にむかい、李光弼の軍と内外呼応(こおう)して史思明を破り、これを敗走させた。郭子儀と李光弼はこれを追いながら諸郡の賊軍を討ち、河北の十四郡を再び朝廷に帰服させて、賊軍が潼関(どうかん)にはいることを防いだ。  潼関は長安を守る要害であった。その守将を哥舒翰といった。  その軍中には、国を大乱にみちびいたのは楊国忠(ようこくちゆう)であるという恨みの声が高まっていた。安禄山の叛乱も楊国忠を討つことを名目としている。いま国を救う道は、むしろ軍をひるがえして楊国忠を討つことである、と哥舒翰にすすめる部将もいた。  楊国忠は潼関の軍の不穏な形勢を知ると、守備をかためるという名目で、腹心の杜乾運(とけんうん)を将として兵一万を潼関の西の〓上(はじよう)へ送った。哥舒翰は楊国忠の下心を見て、〓上の軍も潼関の指揮下にいれることを玄宗に請い、杜乾運を潼関に呼びよせ、他の罪にことよせて殺してしまった。機先を制したのである。  楊国忠がつぎの手段を講じているとき、賊将崔乾祐(さいけんゆう)が陝州(せんしゆう)の兵をひきいて潼関の東に迫ってきた。それを知った楊国忠は、ただ哥舒翰をおとしいれる目的のために、玄宗に請うて、哥舒翰に関を出て敵を討つよう命じさせた。哥舒翰は無謀の策であることを主張したが、再三勅使にうながされて、やむを得ず潼関を出た。  賊将崔乾祐はそのとき、敗走をよそおいながら官軍を山間の隘路(あいろ)にみちびきいれ、山の上から巨岩や炬火(たいまつ)を投げて混乱におとしいれた上、前後から挾み討った。官軍はほとんど潰滅(かいめつ)し、哥舒翰は敵に降って、郭子儀(かくしぎ)や李光弼(りこうひつ)らの河北での奮戦を徒労にして潼関は賊軍の手に落ちた。 六  潼関が落ちると、玄宗は楊国忠のすすめに従って長安を捨て、楊貴妃およびその三人の姉、太子〓(よ)、諸王、諸公主らをともなって蜀(しよく)の地をさして落ちのびた。やがて一行は咸陽(かんよう)をすぎて馬嵬(ばかい)に着いたが、そのとき将兵は飢えと疲れと、そして憤りとで、もはや進もうとはしなかった。 「われわれをこのような苦しみに追いこんだのは誰だ!」 「楊国忠だ。彼が朝政をあやまったからだ!」 「いや、楊貴妃が陛下をまどわせたのがもとだ!」  将兵の恨み憤る声が、地の底からわきあがるように全軍におこった。やがてそれは「楊国忠を殺せ」「楊貴妃を殺せ」「楊氏一族をみな葬れ」という叫びにかわっていった。そのとき、左竜武(さりゆうぶ)大将の陳玄礼(ちんげんれい)は、将兵の心をしずめて玄宗を無事に蜀の地へ移すためには楊国忠を殺すよりほかないと考え、その旨を全軍にはかった。  将兵は喊声(かんせい)をあげて楊国忠の宿舎をとりかこんだ。楊国忠はおどろいて討って出たが、もとより群衆に敵すべくはなく、たちまち斬られて、その首を馬嵬の駅門に掲(かか)げられた。  群衆はついで韓国(かんこく)夫人を殺し、秦国(しんこく)夫人を殺した。〓国(かくこく)夫人はいちはやく陳倉(ちんそう)へ逃れたが、県令薛景僊(せつけいせん)に追われて竹林へ逃げこみ、先ず子を殺し、ついで女(むすめ)を殺したのち、自らも首をはねて死のうとしたがはたせず、薛景僊に見つけられて殺された。御史大夫の魏方進(ぎほうしん)はなにゆえ宰相を殺したかととがめて、かえって殺され、国忠の子の戸部侍郎楊暄(ようけん)も殺され、その弟の楊〓(ようほつ)は漢中へ逃げたがそこで討たれ、その弟の楊晞(ようき)は母の裴柔(はいじゆう)ともに陳倉へ逃げようとして途中で追い討たれた。  将兵はさらに玄宗の行宮(あんぐう)をとりかこんだ。楊貴妃を引きわたせ、というのである。なすすべを知らずただ茫然としている玄宗の前に、高力士が進み出て、悲痛な面持でいった。 「楊国忠どのは将兵に殺されました。権(けん)をほしいままにして国を大乱におとしいれたゆえを以てです。楊氏一族も同じく殺されました。ほかにはただ、貴妃さまが君側におられるだけであります」 「貴妃をどうしようというのか」  玄宗は眼をつぶったままそういった。 「おそれながら、よろしく御裁断をお願いするよりほかございません」 「わしにそれができると思うのか」  玄宗は暗然として、やはり眼をつぶったままそういった。外の群衆の叫び声が、次第に明らかに耳にきこえてきた。楊貴妃が衆怨の的になっているのである。将兵たちは楊貴妃の命(いのち)を求めているのだった。 「貴妃にかわって、わしが死にたい」  と玄宗はつぶやいた。 「それはなりません。陛下は唐朝をつぶしてしまうおつもりですか」  と高力士がいった。  玄宗は立ちあがった。しかし奥へはいっていくことができなかった。奥には楊貴妃がいる、すでにすべてのことを耳にしているであろう。玄宗は杖にすがり、首を垂れて、長いあいだたたずんでいた。  そのとき、京兆司録(けいちようしろく)の韋諤(いがく)が進み出て玄宗の足もとに平伏し、自らの額(ひたい)を地にたたきつけて血を流しながら、玄宗の決意をうながした。 「陛下の御決断があるまでは、将兵は一歩もこの馬嵬から進まないでしょう」  唐朝を保つためには、いまは最愛の者を殺すよりほかないのか。楊貴妃をそのような運命におとしいれたのは誰か。この自分ではないか。  玄宗は奥へはいり、言葉もなく楊貴妃を抱いて、ただ涙を流した。楊貴妃はすでに覚悟をきめていた。しばらくは嗚咽(おえつ)して言葉を発することもできなかったが、やがて涙にぬれた顔をあげて、たえだえにいった。 「陛下が御無事でさえあれば、わたくしにはなんの怨(うら)みもございません。ただ今日までの陛下の御寵恩をありがたく思うだけでございます」 「ああ、そなたは、なんというやさしいことをいってくれるのだ。そなたを殺そうとしているこのわしにむかって」 「ただ一つお願いがございます。最期(いまわ)の願いとしておききとどけいただきたく存じます」 「ああ、なになりといってくれ。わしにいっしょに死んでくれというのなら、わしはよろこんでそうするぞ」 「どうしてそのようなことを申しましょう。死を賜わります前に、しばらく仏前に礼拝することをおゆるしくださいますならば、ほかにはもうなんの願いもございません」  玄宗は高力士を呼びいれて、楊貴妃に死を賜う旨をつたえた。  楊貴妃はすでに心を決していたものの、さすがに顔をおおってむせび泣きながら、高力士に扶(たす)けられて中庭へ出た。中庭の一隅に仏堂があった。  楊貴妃が高力士につれられて出ていってしまうと、玄宗は顔を袖でおおって慟哭(どうこく)した。高力士もいまさらながら悲しみにたえず、しばらくは足も進みかねたが、やがて、ようやく心を奮い立たせると、楊貴妃の手をとって仏堂の前へ進んだ。  楊貴妃は仏前にぬかずいてねんごろに礼拝し、終って、うながすように高力士をかえりみた。  高力士は一礼して、羅(うすもの)の帛(きぬ)を楊貴妃の首に巻いた。こうして楊貴妃は、仏堂の前の梨の木の下で、その三十八年の生涯をとじた。 「長恨歌」にいう。 六軍(りくぐん)発せず 奈何(いかん)ともするなく 宛転(えんてん)たる娥眉(がび) 馬前に死す 花鈿(かでん) 地に委(い)し 人の収むるなく 翠翹(すいぎよう) 金雀(きんじやく) 玉掻頭(ぎよくそうとう) 君王 面(おもて)を掩(おお)いて救い得ず 回看血涙(かいかんけつるい) 相和して流る  楊貴妃の屍(しかばね)は紫のしとねにつつまれて、外庭へかつぎ出された。陳玄礼(ちんげんれい)が外庭へはいってきて、それがまさしく楊貴妃の屍であることをたしかめ、表へ出て、楊貴妃がすでに誅殺(ちゆうさつ)されたことを将兵に告げた。君側の奸(かん)の除かれた知らせに、将兵は喚声(かんせい)をあげて、はじめて行宮(あんぐう)のかこみを解いた。  楊貴妃の屍は、馬嵬(ばかい)の西郭の外(そと)一里の野に埋められた。 七  最愛の楊貴妃を失って、玄宗は蜀へ逃れていった。  太子〓(よ)は蜀へはゆかず、馬嵬(ばかい)で玄宗と別れて平涼(へいりよう)にとどまり、朔方(さくほう)郡の留守(りゆうしゆ)の官杜鴻漸(とこうぜん)、節度判官崔〓(さいき)らに迎えられて霊武(れいぶ)へ移り、天宝十五年秋七月、ここで即位した。これが粛宗(しゆくそう)である。  粛宗が位につくと、顔真卿は書を奉って慶賀し、郭子儀(かくしぎ)は五万騎をひきつれて霊武にはせつけた。これより霊武の軍は次第に勢い盛んになっていった。  その後、史思明は河間(かかん)を攻めて顔真卿の軍を破り、さらに進んで平原を攻めた。顔真卿はこのとき、史思明の大軍に敵すべくもないことを知ると、いたずらに士卒の命を失うことをおそれて平原を放棄し、ひとり罪を負うて粛宗の裁断を仰いだ。粛宗はかえってその処置をよしとして、憲部尚書の官をさずけ、それ以後はもっぱら政務にあずからせた。朝政のようやくはじまったときで政務は繁忙をきわめたが、顔真卿は倦むことなく精励してよく粛宗の創業をたすけた。  郭子儀、李光弼(りこうひつ)らも力をつくして安禄山の軍と戦ったが、めざましい戦果をあげることはできなかった。だが、そのころ,安禄山の側にもようやく内訌(ないこう)がおこりはじめていたのである。  安禄山は兵を挙げたころから眼病をわずらっていたが、いまはそれが黒白も見わけがたいほど悪化していた。その上、疽(かさ)を病み、生来の短気が一層はげしくなって、部下の者にすこしでも気にいらないことがあると容赦なく鞭うち、あるいは罪もなく殺される者もあって、次第に部下の者の怨みをかうことが多くなっていた。  侍臣に契丹(きつたん)出身の李猪児(りちよじ)という者がいた。少年のときから側近に仕えて愛されていたが、ふとしたことで安禄山の怒気に触れて、陰茎を切り落された。だが李猪児はその後もかわりなく仕えて、すこしも怨みをあらわさなかった。そうしながら、実はひそかに報復の機会をうかがっていたのである。安禄山が自分にしたように、必ずその陰茎を切り落してやろうと、心に誓っていたのであった。  安禄山の宰相に厳荘(げんそう)という者がいた。安禄山は皇帝を僭称してからは直接に部下と会うことを避け、たいていは厳荘を通して用を達していたが、病いの進むにつれて日ごとに気がいら立ち、わずかなことを咎めて厳荘をすら罵ったり鞭うったりした。宰相たる身が、侍女たちの面前でそのような辱(はずか)しめを受けようとは! 厳荘は深くそれを怨みとしていた。  ここにもう一人、安禄山に怨みを持ちだした者がいた。それは安禄山の嫡子(ちやくし)の安慶緒(あんけいちよ)で、彼は父が段(だん)夫人という女を愛し、その甘言にまどわされて段夫人の子の慶恩(けいおん)を自分にかえて世嗣ぎに立てようとしていることを知り、父と弟に討たれるよりもさきに、二人をなきものにしてしまおうと画策していたのである。  ある日、厳荘はひそかに安慶緒にいった。 「大義、親(しん)を滅(めつ)すということがあります。義のためには、やむを得ずなさねばならぬこともありましょう。ただ、事をおこなうには時を失わないようにすることが肝要です」 「いますぐ、兵を挙げよというのか」 「その必要はありません。兵を挙げれば敵対する者もありましょう。一人をたおしさえすれば、その後には敢てさからう者はないでしょう」 「時は?」 「今です。だが、なおしばらくお待ちください」  厳荘はついで、ひそかに李猪児を呼んでいった。 「心にかくしていることを、つつまずにいってみろ。必ずおまえのために力をかそう」 「辱しめを受けた身をなおも屈しているのは、一刀を報いて怨みを晴らしたいからにほかありません」  それから数日たったある夜、安慶緒、厳荘、李猪児の三人は、安禄山の寝所へ忍びこんだ。李猪児の怨みの一刀は、安禄山の下腹部を深くえぐった。厳荘は安禄山の胸を刺した。安禄山ははね起きて剣をさがしたが、眼が見えない。賊を睨んだが、その姿も見えない。片手は寝台の帳(とばり)の柱を握り、片手は下腹部の傷をおさえながら、 「名をいえ! 外からの賊ではあるまい。名をいえ!」  と怒号した。その声とともに傷口からどっと腸(はらわた)が流れ出し、苦しみたおれて、そのまま死んだ。  粛宗の至徳二年の正月であった。安慶緒は父の位を奪って皇帝と称した。  その年、安慶緒の軍は各地に唐の軍を襲ったが、郭子儀、李光弼、張巡、許遠らが奮戦してこれを破り、九月、郭子儀は回〓(かいこつ)(ウィーグル)の王、懐仁可汗(かいじんかかん)の精兵を借りてついに長安を奪還し、十月には洛陽をも回復した。  その月、粛宗は長安に入城した。同じとき、玄宗も蜀を立って、十二月、長安にもどった。長安に帰ると、玄宗はひそかに侍官を馬嵬へつかわして楊貴妃の屍を鄭重に改葬させた。掘りおこしてみると、白骨と、胸にかけていた錦の香袋(こうぶくろ)とが残っていただけだったという。侍官が持ち帰ったその香袋を玄宗はいつも懐(ふところ)にし、また、画工に楊貴妃の姿を描かせて殿中の一室にかかげ、朝夕その絵にむかって追懐の涙を流したという。 天長地久 時ありて尽くるも この恨 綿綿として尽くる期なからん 「長恨歌」はそう結ばれている。  楊貴妃が馬嵬で殺されてから六年後の上元三年四月、玄宗は長安で死んだ。享年、七十八歳であった。 年 譜 大正三年 一九一四年 一月十四日、父の勤務先の大阪市で生れる。原籍は三重県。兄信一は後に父の姉の家を継ぎ谷姓になる。妹二人。幼時父の転勤に従って広島、金沢、東京に一、二年間ずつ住み、後父母と別れて郷里に住む祖父母に育てられる。 大正十五年(昭和元年)一九二六年〈十二歳〉 津市立養正小学校を卒業、三重県立津中学校に入学。二年生のとき母死ぬ。その二年前には祖父が、三年前には上の妹が死ぬ。四年生のとき作文が〈校友会雑誌〉に載る。文章が活字になった最初である。小説らしいものを書きはじめる。 昭和六年 一九三一年〈十七歳〉 津中学を卒業。父から逃れて一人で千葉市に住み、二年間千葉中学補習科に籍を置く。 昭和九年 一九三四年〈二十歳〉 山形高等学校文科甲類に入学。同人雑誌〈爐〉を創刊し、小説や詩を書く。一年生のとき〈改造〉の懸賞小説に応募して佳作になる。二年生のときから文芸部委員として〈校友会雑誌〉を編集し、毎号小説を書く。 昭和十二年 一九三七年〈二十三歳〉 山形高校を卒業、東京帝国大学文学部支那哲学支那文学科に入学。中谷孝雄・平林英子夫妻に師事し〈日本浪曼派〉に加入。また新関岳雄らと同人雑誌〈新樹〉を創刊し、二年後の終刊までに短篇四篇と長篇一篇を書く。 昭和十五年 一九四〇年〈二十六歳〉 東京大学を卒業。同級生に山口一郎、野口定男、柳沢三郎(常石茂)、稲田孝らがいた。卒業論文は「魯迅——その生と死」。文部省専門学務局雇になる。〈文章倶楽部〉に「花札」を書く。原稿料をもらった最初の小説である。 昭和十六年 一九四一年〈二十七歳〉 八月、松江高等学校教授になり、松江市奥谷町に住む。十月、憲兵と刑事に家宅捜索される。祖母死ぬ。 昭和十七年 一九四二年〈二十八歳〉 七月、召集されて京都伏見の野砲兵聯隊に入隊。三ヵ月後中国へ渡り、安徽省安慶城外に駐屯。後、武昌郊外へ移り、十九年南下。湖南省衡陽の戦の後、病気のため部隊に捨てられる。その後、湖南・貴州両省の境を放浪し、山中に倒れていたとき国民党軍に捕えられ、中国共産党の工作者某と誤認されて重慶へ送られ、白公館の地下牢に入れられる。一ヵ月後、出されて中米合作所に軟禁されたが、日本兵であることが明らかになって捕虜集中営へ移される。戦後一年たって中米合作所員とともに揚子江を下り、上海で国民党政府のための工作に従事させられる。 昭和二十一年 一九四六年〈三十二歳〉 八月、病気のため釈放されて帰国。九月、許婚者だった藤塚節子と結婚し、松江高校に復職して北田町で間借り生活をはじめる。後、北堀町に移る。〈山陰文学〉に「月光」を書く。 昭和二十二年 一九四七年〈三十三歳〉 〈午前〉に「断章」「魯迅の小説について」を、〈大華藝文〉に「魯迅の寂寞——『野草』における暗さについて」を書く。十一月、長男生れ、十日後に死ぬ。 昭和二十三年 一九四八年〈三十四歳〉 〈人間〉に「脱出」を書き、人間新人賞を受ける。〈文芸時代〉に「山河」を書く。十月、長女生れる。 昭和二十四年 一九四九年〈三十五歳〉 〈人間〉に「日暦」「影」を、〈小説界〉に「鬼哭」を、〈午前〉に「波」を、〈作品〉に「波光」を、〈社会〉に「海潮」を、〈文学界〉に「鵞籠」を書く。共著『猟銃・脱出・警視総監の笑ひ・俘虜記』を家城書房から、短篇集『脱出』を鎌倉文庫から出す。 昭和二十五年 一九五〇年〈三十六歳〉 三月、松江高等学校が廃止され、島根大学文理学部となる。引続き在職。戦後から高校廃止になるまでの学生の中には、篠田一士、永川玲二、藤田田、高橋和巳らがいた。〈人間〉に「骨片」「故事新抄——剣、女、徳」(「徳」は後にオペレッタ「銀貨の声」としてNHKから放送)を、〈小説と読物〉に「夙夜」を、〈週刊朝日〉に「晩花」を書く。 昭和二十六年 一九五一年〈三十七歳〉 〈人間〉に「野草」を、〈世界〉に「刺客列伝」を、〈北国文化〉に「孔子雑談——思弁の均衡について」を書く。〈山陰新報〉に匿名で「にくまれ口」を随時連載(二十八年まで、七十回)したほか、多く同紙に随筆などを書き、また、NHK松江放送局のためにラジオドラマ等を書く。六月、次女生れる。 昭和二十七年 一九五二年〈三十八歳〉 〈群像〉に「蜘蛛の囲」を、〈島根大学論集〉に「西鶴における『本朝桜陰比事』の成立」、その他随筆等を書く。 昭和二十八年 一九五三年〈三十九歳〉 一月、父死ぬ。〈群像〉に「神」(後にオペレッタ「神様に叱られた男」としてNHKから放送)を、〈新潮〉に「履」を、〈世界〉に「アメリカ蚕(かいこ)の悲しみ」を書く。 昭和二十九年 一九五四年〈四十歳〉 〈文学界〉に「狐の子」を書く。 昭和三十年 一九五五年〈四十一歳〉 島根大学を退職(旧制松江高校から数えて十四年間在職)し、東京に転居。東京都立大学講師になる(三十二年三月まで)。小松伸六、佐伯彰一らと第四次〈赤門文学〉を創刊。同誌に「瓶の中の世界」「現代小説への不満」等を書く。 昭和三十一年 一九五六年〈四十二歳〉 〈赤門文学〉に「石」を、〈文藝〉に「ぶらんこに乗る女」を、〈群像〉に「島の記録」を、〈文学〉に「野草——その一つの読み方」を、『ヒューマニズム講座』(宝文館)に「魯迅」を書く。共著「新十八史略物語」(十三巻、別巻三巻。翌年完結)を河出書房から出す。 昭和三十二年 一九五七年〈四十三歳〉 立教大学講師になる(四十四年三月まで)。六月から約一年間〈日本読書新聞〉の「同人雑誌評」を担当。十月「瓶の中の世界」を自ら脚色したオペレッタ(長谷川良夫作曲、岩城宏之指揮)に対し、放送作品国際コンクール「イタリア賞会議」でイタリア放送協会賞が与えられる。書下ろし長篇小説『石の夜』を角川書店から出す。 昭和三十三年 一九五八年〈四十四歳〉 〈文学界〉の「同人雑誌評」を久保田正文、小松伸六、林富士馬とともに担当(五十五年十二月まで二十三年間)。〈別冊文藝春秋〉に「慈悲」を、〈新日本文学〉に「一九三六年二月」を、その他随筆、書評等を書く。共訳『今古奇観』上下を平凡社から、共著『中国史談』(六巻。翌年完結)を河出書房新社から出す。 昭和三十四年 一九五九年〈四十五歳〉 東京大学文学部講師になる(三十六年三月まで)。〈新日本文学〉に「趙樹理の『三里湾』について」、ほか評論、随筆、書評等を書く。『新墨子物語』を河出書房新社から、『水滸伝』上(中国古典文学全集)を平凡社から出す。 昭和三十五年 一九六〇年〈四十六歳〉 〈文学界〉に「小説の中の『私』の位置」、〈赤門文学〉に「あんぽはんたい」等を書く。『水滸伝』中を平凡社から、共著『中国故事物語』を河出書房新社から出す。 昭和三十六年 一九六一年〈四十七歳〉 十月、東京大学大学院人文科学研究科講師になる(四十年三月まで)。〈別冊新日本文学〉に「絶頂」を書く。『水滸伝』下、『世界名作全集 水滸伝』を平凡社から、共著『新版十八史略物語』(八巻。翌年完結)を河出書房新社から、共著『中国史物語』(少年少女世界の歴史)をあかね書房から出す。 昭和三十七年 一九六二年〈四十八歳〉 七月、寺崎浩、小田嶽夫、木山捷平、中谷孝雄、伊藤桂一、尾崎秀樹らと同人雑誌〈宴〉を創刊。長篇「リアンクール・ロックス」を断続的に連載(四十年六月号まで十回)したが未完。〈日本読書新聞〉に「近代畸人伝」を連載(翌年十月まで四十六回)。その他評論、随筆、書評等を書く。『趙樹理集』(中国現代文学選集)、『水滸伝』(中国奇書シリーズ)を平凡社から出す。 昭和三十八年 一九六三年〈四十九歳〉 四月から一年間、東京都立大学講師。〈文学界〉に「小説家と批評家」、その他評論、随筆、書評等を書く。『中国故事物語』(河出ペーパーバックス)を河出書房新社から、『三国志』(少年少女世界文学全集)を講談社から出す。 昭和三十九年 一九六四年〈五十歳〉 〈文学界〉に「虚構の虚偽」、その他随筆、書評等を書く。 昭和四十年 一九六五年〈五十一歳〉 桜美林大学文学部教授になり、中国文学科をおこす(四十四年三月、学園闘争のもつれで退職)。『少年少女世界伝記全集』(講談社)に「孫文」を書き、サンケイ児童文学賞を受ける。〈文学〉に「趙樹理における政治と文学」を、〈本の手帖〉に「戦後文学としての戦争文学」を、「芥川龍之介全集月報」(筑摩書房)に「杜子春と杜子春伝」を、その他評論、随筆、書評等を書く。共訳『今古奇観』III(東洋文庫)を平凡社から出す。 昭和四十一年 一九六六年〈五十二歳〉 〈国文学〉に「中国の史伝・俗文学の近代文学への影響」を、〈サンケイ新聞〉に「郭沫若の『自己批判』をめぐって」を、〈潮〉に「郭沫若の自己批判」を、その他随筆、評論等を書く。『新十八史略』(三巻)を河出書房新社から、『今古奇観』III(東洋文庫)を平凡社から出す。 昭和四十二年 一九六七年〈五十三歳〉 四月、高橋和巳が京都大学へ移った後を埋めて明治大学文学部講師になり(四十四年三月まで)、また白百合女子大学講師になる(四十九年三月まで)。〈朝日新聞〉(西部本社版)で「西日本同人雑誌評」を担当(一月から五十二年六月まで十一年間)。〈国文学〉に「中国文学と日本近代文学」を、〈東京支那学報〉に「『水滸伝』に見える『〓』の訳語について」を、〈朝日新聞〉に「ゆっくり見よう——中国文化大革命にふれて」を、その他評論、随筆、書評等を書く。また〈別冊文藝春秋〉に「穴埋めの話」を書き、それがきっかけになって〈オール読物〉に「肉蒲団の話」を連載(七月号から四十四年二月号まで)、以後数多く艶笑随筆を書くようになる。『西遊記』(少年少女世界の文学)、『中国故事物語』(故事シリーズ)を河出書房新社から、『水滸伝』上(中国古典文学大系)を平凡社から出す。 昭和四十三年 一九六八年〈五十四歳〉 〈週刊文春〉に「女も強く男も強い物語」を(三月から七月まで)、「強きこと神の如し」を(九月から翌年三月まで)連載。〈中国文学論叢〉に「魯迅の『非攻』と『墨子』」を、〈文藝春秋〉に「人名の呼称について」を、その他評論、随筆、書評等を書く。『水滸伝』中下を平凡社から、共編『新文学の探求』を野火書房から出す。 昭和四十四年 一九六九年〈五十五歳〉 〈オール読物〉に「秘書杏花天」を(三月号から四十六年八月号まで)、〈NHK中国語講座〉に「中国人民文学小史」を(八・九月号から翌年二・三月号まで)、〈週刊プレイボーイ〉に「世界のPINKJOKE」を(九月から翌年二月まで)、〈小説現代〉に「艶笑すとりっぷ紀行」を(十月号から翌年三月号まで)、〈小説セブン〉に「中間小説時評」を(十月号から翌年四月号まで)連載し、〈サンケイ新聞〉でコラム「同人誌」を(九月から五十四年十二月まで十一年間)担当する。〈風景〉に「小説評価の問題」を、〈文学界〉に「いかに書かないか」を、その他小説、評論、随筆、書評等を書く。評論集『対(つい)の思想』を勁草書房から、『女は強く男も強い物語』を徳間書店から、『好色の戒め』を文藝春秋から、『棠陰比事』(中国古典文学大系)を平凡社から出す。 昭和四十五年 一九七〇年〈五十六歳〉 〈西日本新聞〉に「随筆いろは歌留多」を(一月から五十二回)、〈週刊サンケイ〉に「金瓶梅」を(五月から十月まで)連載し、〈小説現代〉で時評「文壇・虫の目」を小松伸六と交互に担当(四十九年まで五年間)。〈小説現代〉に「一条さゆりの性の深淵」「一条さゆりの性の秘密」を、〈人間として〉に長篇小説「島」を書く。〈諸君!〉に「中国ベッタリ型とイカレ型」、『現代中国文学』10(河出書房新杜)に「『紅岸』の周辺」、その他小説、評論、随筆、書評等を書く。『今古奇観』上(中国古典文学大系)を平凡社から出す。 昭和四十六年 一九七一年〈五十七歳〉 東京大学文学部講師になる(四十九年三月まで)。〈小説現代〉に「一条さゆりの性の虚実」「一条さゆりの性の宿命」「一条さゆりの性の波瀾」「一条さゆりの性の休日」を、〈中国〉に「八大山人」を、〈すばる〉に「躬耕する隠逸」を、〈人間として〉に「高橋和巳・中国文学研究とその小説」を、〈文藝〉に「高橋和巳との私事」を、その他小説、評論、随筆等を書く。『島』を筑摩書房から、『水滸伝』(世界文学全集)を研秀出版から、『好色の勧め』を文藝春秋から、『一条さゆりの性』を講談社から、共訳『郁達夫集』(現代中国文学)を河出書房新社から出す。 昭和四十七年 一九七二年〈五十八歳〉 〈別冊小説現代〉に「中国妖姫伝」を(新年号から爽秋号まで六回)、〈望星〉に「中国神仙綺譚」を(五月号から翌年七月号まで)、〈週刊サンケイ〉に「好色・女の一生」「好色・男の一生」を(五月から十一月まで)、〈オール読物〉に「風流どうぶつ記」を(十月号から四十九年六月号まで)連載。〈小説現代〉に「一条さゆりの性の終宴」を、〈別冊小説宝石〉に「糞尿登仙」を、〈別冊小説新潮〉に「往生観念菩薩」等を、〈伝統と現代〉に「中国における無用の思想」を、〈すばる〉に「仮の世の狂士」を、その他小説、評論、随筆等を書く。『趙樹理集』(中国の革命と文学)、『水滸伝』(四大奇書)を平凡社から、『駒田信二の金瓶梅』を二見書房から出す。 昭和四十八年 一九七三年〈五十九歳〉 〈大阪新聞〉に「中国列女伝」を(四月から翌年五月まで)、〈別冊小説現代〉に「海陵王荒淫」を(新秋号から五十年新秋号まで)連載。〈小説現代〉に「一条さゆりの性の受難」、〈問題小説〉に「襤褸と錦」、〈小説新潮〉に「女菩薩の穴」、その他小説、評論、随筆等を書く。『好色』をサンケイ新聞出版局から、『今古奇観』下を平凡社から、『中国妖姫伝』『中国神仙奇談』を講談社から、『聖人の虚像と実像——論語』を新人物往来社から出す。 昭和四十九年 一九七四年〈六十歳〉 〈週刊サンケイ〉に「風流のぞきからくり」を(七月から翌年九月まで)、「昭和国民文学全集付録」(筑摩書房)に「大衆という言葉について」を(六月から九月まで)連載。〈問題小説〉に「黄金の蝶」等を、〈小説新潮〉に「兄弟姻婚奇談」を、〈別冊小説新潮〉に「生姜売り殺人事件」を、〈太陽〉に「雪舟入明」を書き、〈新潮〉に「日本語とは何だろう」、〈文学界〉に「学者づら」、その他小説、評論、随筆、書評等を書く。共著『妖怪魔神精霊の世界』を自由国民社から、『阿Q正伝・狂人日記他』(愛蔵版世界文学全集)を集英社から、『中国怪奇全集亡霊の巻』を角川書店から、『今古奇観』IV(東洋文庫)を平凡社から、『妖花伝』を現代企画室から出す。 昭和五十年 一九七五年〈六十一歳〉 早稲田大学客員教授になる(現在(ママ)に至る)。〈大阪新聞〉に「花のしとね」を(四月から翌年二月まで)、〈小説歴史〉に「日本艶書考」を(七月から翌年十二月まで)連載。〈別冊文藝春秋〉に「りんの玉と絵本」、〈問題小説〉に「刺客とその姉」等、〈別冊小説新潮〉に「尼僧殺人事件」、〈週刊新潮〉に「天狗ショーする女」、〈学士会月報〉に「孔子と少正卯」、〈文藝春秋〉に「菊さんの英和辞典」、〈文学界〉に「対談時評」(二回)、『中谷孝雄全集』(四巻。講談社)に「解説」、その他小説、評論、随筆等を書く。『今古奇観』V(東洋文庫)、『中国の故事と名言五〇〇選』(二巻)を平凡社から、『中国ジョーク集』を実業之日本社から、『夏姫物語』を現代企画室から、『風流のぞきからくり』を大和書房から出す。 昭和五十一年 一九七六年〈六十二歳〉 一月、朝日カルチャーセンター講師になり、「小説の作法と鑑賞」を担当(現在(ママ)に至る)。〈宝石〉に「駒田信二のブックレビュー」を(八月号から翌年八月号まで)、〈週刊サンケイ〉に「銀山の女武者」を(十一月から十二月まで)、共同通信社を通じて各紙に「中間小説時評」を(十二月から翌年十二月まで)連載。〈問題小説〉に「ほんとうは、みよこ」「泣くな、あきさん」等を、〈週刊文春〉に「女の魔性」を、〈小説新潮〉に「なに啜り泣く」を、〈別冊小説新潮〉に「あワワワ、すッ!」を、〈小説現代〉に「赤い牡丹」等を、〈週刊小説〉に「騎馬娘の仇討」等を、また『岩波講座文学』に「中国小説の成立」、〈文藝春秋〉に「人事と人情」、〈文学界〉に「中国文学研究会で」(武田泰淳追悼)、〈すばる〉に「秋日異変」(武田泰淳追悼)、〈季刊歴史と文学〉に「中国に於ける『閨閥』」、〈中国文学研究〉に「魯迅の『起死』について」、その他評論、随筆、書評、解説等を書く。『中国大盗伝』を徳間書店から出す。 昭和五十二年 一九七七年〈六十三歳〉 〈別冊文藝春秋〉に「土蔵破り」を、〈小説宝石〉に「獣妖の姦」を、〈問題小説〉に「春の名残りの」等を、また『鑑賞日本古典文学』(角川書店)に「『夢応の鯉魚』とその原典」、〈文学界〉に「桃と鬼」、〈展望〉に「増田渉さんのこと」、〈季刊藝能東西〉に「一条さゆりとの出会い」、〈中国文学研究〉に「魯迅の『鋳剣』について」、その他評論、随筆、解説等を書く。『びんの中のせかい』(よい子の名作館)を暁教育図書から、『論語——その裏おもて』を主婦之友社から、『花のしとね』を現代企画室から出す。 昭和五十三年 一九七八年〈六十四歳〉 〈小説現代〉に「艶釈植物志」を(一月号から翌年三月号まで)、〈熊本日日新聞〉に「月曜随筆・壺中の天」を(十月から翌年七月まで)、季刊同人雑誌〈公園〉(林富士馬、伊藤桂一、真鍋呉夫らと創刊)に「魯迅『野草』訳並解説」を(創刊号から五十五年の終刊号まで)連載。〈小説新潮〉に「僵尸七話」、〈問題小説〉に「離魂記」、〈大法輪〉に「空即是色をどう解くか」、〈文学界〉に「桜と轡」、その他小説、評論、随筆、解説等を書く。『中国笑話集』(文庫)を講談社から、『普及版中国故事物語』を河出書房新社から、『狂人日記・阿Q正伝他』(世界文学全集)を集英社から、『荒淫』を現代企画室から出す。 昭和五十四年 一九七九年〈六十五歳〉 十月、友人野口定男死亡の後を埋めて立教大学大学院講師になる(翌年三月まで)。〈問題小説〉に「獣のかたち」等を、〈新潮〉に「自作『遺書』の解説」、〈銀座百店〉に「小説を書く女性たち」、〈週刊朝日〉に「芥川賞と小説教室と私」、〈別冊文藝春秋〉に「袁世凱の採用試験」、その他小説、評論、随筆、書評、解説等を書く。十一月、第二十七回菊池寛賞を「二十数年にわたって同人雑誌評を試み、文学を志す者に大きな励みを与えるとともに、数多くの作家を育成した功績」によって、久保田正文、小松伸六、林富士馬とともに受ける。『中国妖姫伝』(文庫)、『魯迅作品集』(文庫)、『艶釈版植物歳時記』を講談社から、『魯迅』(世界文学全集)を学習研究社から、『艶笑本の世界』を日本書籍から、共著『世界のジョーク・警句集』を自由国民社から出す。 昭和五十五年 一九八〇年〈六十六歳〉 〈日本と中国〉に兄谷信一(美術史)と交互に「日本文物のルーツ」を(一年間)、〈大阪新聞〉に「世界の悪女たち」を(三月から十二月まで)、〈家庭画報〉に「中国工芸挿話」を(十二月号から翌年七月号まで)連載。〈小説新潮〉に「百花村の女」、〈問題小説〉に「優しい少女」等、〈太陽〉に「君佇めば吾もまた」、〈小説宝石〉に「雌の復讐」を書き、〈群像〉に「夢中と霧中」、〈すばる〉に「辞書のさまざま——騎虎の勢」、〈青春と読書〉に「『日本人の中国への憧れ』について」、〈文藝春秋〉に「梁山に登る」、その他評論、随筆、書評、解説等を書く。『壺中の天』を講談社から、『谿(たに)の思想——中国と日本のあいだ』を勁草書房から、短篇集『騎馬娘の仇討』、同じく『獣妖の姦』を現代企画室から、『水滸伝』上中下(奇書シリーズ)を平凡社から出す。 昭和五十六年 一九八一年〈六十七歳〉 四月から朝日カルチャーセンター・横浜の講師を兼ねる(現在(ママ)に至る)。〈小説新潮スペシャル〉に「風流地名考」を(春号より翌年春号まで)連載。『井上洋介の絵本水滸伝』(講談社)を監修し、「水滸伝解題」「水滸伝梗概」を書く。また『人物中国の歴史』(十巻、別巻一巻。集英社)を共編し、執筆する。〈早稲田文学〉に「野の記憶」、〈小説新潮〉に「おかしな同窓会」、〈問題小説〉に「美少女の証言」等を書き、〈文学界〉に「立原正秋と『四人組』」「書けなかったこと——高橋和巳回想」、〈別冊文藝春秋〉に「日暮里とニッポリ」、〈旅〉に「水滸伝を辿る」、〈早稲田大学中国文学会集報〉に「桜と幻燈」、その他評論、随筆、書評、解説等を書く。共著『続世界のジョーク・警句集』を自由国民社から、共著『新十八史略』六巻(文庫)を河出書房新社から、『中国故事はなしの話』(文庫)、『世界の悪女たち』を文藝春秋から、『私の小説教室』を毎日新聞社から、『女は強く男も強い物語』(文庫)を徳間書店から出す。 昭和五十七年 一九八二年〈六十八歳〉 〈マダム〉に「中国古典散歩——鑑賞の手引き」を、〈月刊はあとぴあ〉に「中国故事由来抄」を一年間連載。〈墨〉(隔月刊)に「中国書人伝」を、〈問題小説〉に「風流擬人列伝」を連載。〈小説新潮〉に「白将軍」を、〈週刊新潮〉に「明治三十三年のスワッピング」等を書き、〈すばる〉に「井伏鱒二の訳詩」等、〈潮〉に「論語が今なぜ読まれるか」、〈毎日新聞〉に「『禹』のいない社会」、〈早稲田大学中国文学会集報〉に「『書けなかったこと』に対する批判者に答える」、その他評論、随筆、書評、解説等を書く。編著『中国雑学おもしろクイズ』を文化出版局から、『中国怪奇物語 幽霊編』(文庫)、『中国怪奇物語 神仙編』(文庫)を講談社から、『墨子を読む』を勁草書房から、『漢詩名句はなしの話』(文庫)を文藝春秋から出す。 著者自筆  (昭和57・12) 著者は、平成六年(一九九四年)十二月二十七日死去されました。〈編集部〉 中国妖姫伝(ちゆうごくようきでん) 電子文庫パブリ版 駒田信二(こまだしんじ) 著 (C) Setsu Komada 2001 二〇〇一年三月九日発行(デコ) 発行者 中沢義彦 発行所 株式会社 講談社     東京都文京区音羽二‐一二‐二一     〒112-8001     e-mail: paburi@kodansha.co.jp 製 作 大日本印刷株式会社 *本電子書籍は、購入者個人の閲覧の目的のためのみ、ファイルのダウンロードが許諾されています。複製・転送・譲渡は、禁止します。