28年目のハーフタイム 〈底 本〉文春文庫 平成十一年十月十日刊  (C) Tatsuhito Kaneko 2002  〈お断り〉  本作品を「文春ウェブ文庫」に収録するにあたり、一部の漢字が簡略体で表記されている場合があります。  また、差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の書かれた当時の事情を考慮し、できる限り原文の通りにしてあります。差別的意図がないことをご理解下さいますようお願い申し上げます。 〈ご注意〉  本作品の全部または一部を著作権者ならびに(株)文藝春秋に無断で複製(コピー)、転載、改ざん、公衆送信(ホームページなどに掲載することを含む)することを禁じます。万一このような行為をすると著作権法違反で処罰されます。    目  次 プロローグ 第1章 奇跡と真実     '96・7・21 マイアミ オレンジボウル・スタジアム     日本オリンピック代表─ブラジル・オリンピック代表 第2章 西野朗の告白     '96・11・8 バルセロナ 第3章 ハーフタイムの出来事     '96・7・23 オーランド シトラスボウル・スタジアム     日本オリンピック代表─ナイジェリア・オリンピック代表 第4章 中田英寿の肖像 第5章 経験というタマゴ 第6章 川口能活の叫び 第7章 キャプテン・前園真聖 第8章 祝祭の終わり     '96・7・25 オーランド シトラスボウル・スタジアム     日本オリンピック代表─ハンガリー・オリンピック代表 第9章 アウダイールの笑顔     '97・4・3 ローマ 第10章 ジェネレーションA     '97・5・21 東京 国立競技場     日本代表─韓国代表 エピローグ あ と が き アトランタ五輪日本代表の足跡 アトランタ・オリンピック サッカー(男子)グループ・リーグD組 文庫版のためのあとがき      章名をクリックするとその文章が表示されます。 Prima di tutto dovrei ringraziare al Sig.ANGELO ORAZI e MITSUTAKA SAKAI per la questa collaborazione. Sicuramente senza la vostra parteci- pazione non avrei potuto realizzare questo libro.  28年目のハーフタイム

 プロローグ  世界で2番目にサッカーのブラジル代表に対して厳しい論評を浴びせる国、それは間違いなくアルゼンチンである。  アトランタ・オリンピックのグループ・リーグ第1戦で日本代表がブラジル代表を破った翌日、アルゼンチンのある新聞はこう伝えた。 「日本の若き二軍選手たちは、最後まで恐るべき集中力と団結力を発揮し、秩序も統制もない世界チャンピオンに赤っ恥をかかせた」  アルゼンチンとブラジルは、言わずと知れた宿命のライバルである。この記事を書いた記者は、アトランタ・オリンピックでアルゼンチンが金メダルを狙ううえで最大の障壁になると予想されていた宿敵の敗戦に、なかば小躍りしていたに違いない。しかも、ブラジルがベベート、アウダイール、リバウドという3人の23歳以上の選手をチームに加えていたのに対し、はるかに格下と見られていた日本は純粋な“23歳以下代表チーム”で大会に臨んできていた。ヨーロッパ、南米の概念からいけば完全な二軍にあたるチームが、ワールドカップ優勝メンバーを補強したブラジルに勝った。常にブラジルの敗北を期待するアルゼンチン人ならずとも、これは興奮に値する結果だった。  世界で最もブラジル代表に対して厳しい論評を浴びせる国、サッカーが下手な選手を「まるで日本人のようだ」と表現する国、すなわちブラジルでは、もちろん興奮どころではすまない大変な騒ぎが起きていた。 「いいか、相手はワールドカップに一度も出たことがない国の、しかも二軍チームなんだぞ。そんなチームから1点も取れないなんて、私は言葉を失ってしまうよ。たぶん、今回のセレソン(代表チーム)はコラソン(魂)のない軟弱野郎の集団だったんだろう」  すぐさま組まれたテレビの緊急特別番組では、著名なコメンテーターがいまにも血管が切れそうな勢いで憤慨していた。 「彼らにはすぐにでもJリーグへ移籍することをおすすめする。日本人の勤勉さや団結力を学び、自分がいかに恥知らずなエゴイストだったかを思い知るべきだ」  そう皮肉っていたのは、日本に滞在したことのある元代表選手だった。  怒り狂っていたのは識者ばかりではない。各新聞社、テレビ局、ラジオ局には遠く北米大陸で戦うセレソンに対する非難の声が殺到し、担当者が応対にきりきり舞いをさせられていた。  世界一のサッカー王国が、総ヒステリー状態に陥っていた。  世界で最も代表チームに対して甘い論評をする国では、奇跡を起こした選手たちを英雄に祭り上げる動きが始まっていた。本国では得点者の高校時代の恩師がメディアに引っ張り出され、現地ではキャプテンの母親のコメントを取るべく記者たちが走り回っていた。新聞の号外が打たれ、大都市の街角では「日本、ブラジルを破る!」というテロップがニュースの電光掲示板に流れた。 「やはりJリーグ効果でしょうね」  スポーツ番組では、解説者が喜ぶというよりは驚いた表情で勝因を探っていた。 「これで2002年ワールドカップが楽しみになってきましたね」  ニュースキャスターはそう言って相槌を打った。  日本中が、狂騒に包まれていた。  だが、誰も語らなかったことがあった。 “恐るべき集中力と団結力”  アルゼンチン人の記者が、日本オリンピック代表について触れたことといえば、実はたったこれだけだった。彼の意識の中では、日本が勝ったのではなく、ブラジルが敗れたのである。それゆえ、この記者は日本の勝因を本気になって探そうとはせず、日本人に対する典型的なイメージを羅列することで片づけていた。そして、ほかならぬ日本人の中にも、彼と同じように考える人が少なくなかった。いわく“チーム一丸”、いわく“耐えてつかんだ感動の勝利”。  1996年7月21日、フロリダ州マイアミで日本オリンピック代表は優勝候補筆頭のブラジルを倒した。これは疑いのない奇跡だった。しかし、彼らは巷間言われているように“チーム一丸”となって勝利をつかんだのでもなければ、恐るべき団結力を発揮したわけでもなかった。  これは、メキシコ大会以来28年ぶりにオリンピック出場を果たし、世界中を嵐のような騒ぎに巻き込んだチームの、知られざる物語である。 [#改ページ] 第1章 奇跡と真実     '96・7・21 マイアミ オレンジボウル・スタジアム     日本オリンピック代表─ブラジル・オリンピック代表

     1  おい、テル、お前どこ行くんだよ。  後半27分、稲妻にでも打たれたかのような勢いで走り出した伊東|輝悦《てるよし》を見て、ブラジルの攻撃的ミッドフィールダー、ジュニーニョのマークに腐心していた服部年宏は、まずこう思ったという。  服部からすれば、行けるはずのない状況だった。立ち上がりこそ抑え目だったブラジルだが、0−0のまま時間が経過していくにつれ、グイグイとプレーのレベルを上げてきていたからである。相手の華奢な背番号9に食らいつきながら、服部は到達したかと思った海溝の底に、さらなる深淵が隠されていたことに気づきつつあった。  イングランドのプレミア・リーグ、ミドルスブラでプレーするジュニーニョこと本名オズワルド・ジロウド・ジュニオールは、おそらくブラジル・オリンピック代表の中で、最も日本人に名前の知られた選手だったことだろう。身長は173cmと決して恵まれた体格を持っているわけではないのだが、一瞬のスキをついて放つスルーパスはミドルティーン時代から注目されており、すでにA代表としてもプレー経験のある選手だったからである。しかも、世界一当たりの激しいプレミア・リーグに活躍の舞台を移したことで、弱点とされていたフィジカル・コンタクトの対応にも|長《た》けた選手になってきていた。三浦|知良《かずよし》や井原正巳らがメンバーに名を連ねた日本A代表は、ロンドンと東京で二度彼と戦い、二度とも煮え湯を飲まされている。日本のサッカーファンには、忘れられない名前だった。  ジュニーニョを自由にすることは、そのまま敗北への特急券を手にしてしまうことを意味する。そう考えた日本の西野|朗《あきら》監督は、彼のマーカーとして服部を指名した。東海大を中退してジュビロ磐田へと入団した服部は、本来は左サイドバックの選手であるものの、日本人には珍しく馬力と速さを兼ね備えた選手でもあるため、一対一のマーク、すなわちマン・マークの能力にも極めて高いものがあった。服部を本来のポジションに置いて日本の良さを前面に押し出すか、それともこちらの良さは消えてしまうものの相手の良さも消す策をとるか。ギリギリまで考えた末、西野は後者を選択した。服部にはジュニーニョに密着する任務が与えられ、左サイドバックのポジションにはサンフレッチェ広島の|路木龍次《みちきりゆうじ》(現浦和レッズ)が入った。  急な役割変更だったにもかかわらず、前半の服部は与えられた任務をほぼ忠実にこなしていた。完全にジュニーニョを見失ってしまったのは一回きりで、その一回|はG K《 ゴールキーパー》川口|能活《よしかつ》のファインセーブによって事なきをえた。前半が終わった時点で、服部はまずまずの手応えを感じていた。  だが、後半が始まるとすべては変わった。服部が全力を挙げて封じてきた相手は、実はまだ実力の何割かを温存していたようだったのである。やっと本気になってきたな、と思ったとたん、ジュニーニョはプレーのスピードをアップさせた。死に物狂いで追いつくと、スピードはさらに増した。前半を0−0で折り返した時、チームメイトと「なんだ、俺たちでもやれるじゃんか」などと軽口を叩いたことを、彼は本気になって後悔しはじめていた。もはや攻撃のことを考える余裕などどこにもなかった。あったのは、未知なる世界に引きずり込まれていく得体の知れない感覚であり、腹の底から湧き上がってくる畏怖の念を、服部はジュニーニョにしがみつくことで打ち消そうとしていた。  やっぱり、ブラジルには勝てないのか。  苦く、そして当然の思いが、選手たちの胸に湧き起こってきていた。そもそも試合前は、日本が勝利を収めるどころか、後半の途中まで無失点でいくことすら考えられなかったのである。ブラジルにはA代表でプレーした経験のある選手が数多く含まれていた。中にはアウダイールやベベートのように、1994年の米国ワールドカップ優勝を味わった選手までいた。到底、日本が太刀打ちできる相手ではない。事実、日本戦の直前に彼らは世界中からのスター選手を集めた“世界選抜”と対戦し、観戦した西野を驚愕させるほどのサッカーを披露している。オリンピック・サッカーの取材に携わる者で、日本がブラジルを前半だけでも無失点に抑えると予想した者は、まずいなかったに違いない。  しかも、実力で劣る日本は、このアトランタ・オリンピックにかける準備という点でも大きく後れを取っていた。'94年、ロサンゼルスで黄金のワールドカップを掲げたセンターフォワードのロマーリオは、決勝戦直後のインタビューで「次はオリンピックで金メダルを取ることが目標だ」と公言し、世界中から集まったジャーナリストを驚かせている。それまでサッカー界では軽視されてきたオリンピックのサッカーは、このロマーリオの発言以降、世界のサッカーシーンの中でも極めて重要な意味を持つものとしてとらえられるようになった。結局、体調を崩したこともあってロマーリオのオリンピック参加は見送られたものの、ブラジルはこの大会のために異例の準備期間を設け、着実にチームをビルドアップしてきていたのである。米国ワールドカップに優勝している彼らは、フランス・ワールドカップの予選を免除されている。予選に参加するということは、そこで敗退するというデメリットを抱えていると同時に、選手たちに修羅場を体験させることでチームを一気に成長させるという意味合いも持っている。ブラジルの場合、全国民がアトランタ・オリンピックをプレ・ワールドカップ、すなわち真剣勝負の場としてとらえていた。  一方の日本はといえば、オリンピック予選のわずか1年前、成田空港に集まったオリンピック代表選手たちがほとんど無視され、同じ場所に居合わせたヴェルディ川崎のメンバーに取材が殺到したというエピソードがあったことからもわかるように、とても国民的なバックアップを受けたとは言いがたい環境の中で活動を続けてきた。かたや、この大会を|来《きた》るフランス・ワールドカップへ向けての試金石と考え、万全の強化を図ってきたブラジルと、予選突破が決まってから思い出したかのように騒ぎ始めた日本——王者と挑戦者の間には、フィールドの外を見ても大きな差があった。  言うまでもなく、日本の選手たちもブラジルに勝てるなどとは誰も考えていなかった。だが、前半は0−0で終わった。ここで選手たちの心に欲が出てくる。テレビで見ていたスーパースターたちが、急に手の届く存在に思えてくる。ところが、さあ手を伸ばそうと思った瞬間、スターたちは突然遠いところへ離れていこうとした。すでに日本の選手は全力を振り絞っていた。当然、相手も全力だと思い込んでいた。それが、どうやら間違っていたらしいことがわかってきた……。日本選手たちは、精神的にも肉体的にも、極度の疲労感を覚えつつあった。少なくとも、服部はそう感じていた。  そんな時、服部と同じ守備的ミッドフィールダーの伊東が、マークする選手はおろか守備のバランスに対する配慮もかなぐり捨てて走り出したのである。伊東本人に言わせれば「匂った」ということになる。だが、服部には彼の行動が理解できなかった。同じ高校でプレーし、かれこれ5年以上のつきあいにもなる後輩の行動が、この時の服部には理解できなかったのだ。  だが、突如として伊東は自陣を飛び出した。しかも、あろうことか、伊東の動きに釣られるように右サイドバックの遠藤彰弘もタッチライン際を駆け上がろうとしていた。  アメリカへ入るまで、遠藤はオリンピックで自分が先発することはまずないだろうと考えていた。それが、現地入りして最初の練習で主力チームに組み入れられ、「たまたまだろう」と思っていたら翌日も同じチームに入れられた。ブラジル戦の先発を言い渡されたのは、試合前日のことだったという。その際、彼はスタッフから「とにかく相手の左サイドバック、ロベルト・カルロスの良さを消すように」との指示を受けた。  アトランタ・オリンピック当時、イタリアのインテル・ミラノでプレーしていたロベルト・カルロス・ダ・シルバは、左足の一発にとてつもない破壊力を秘めた攻撃的サイドバックである。ジュニーニョ同様、すでにA代表でのプレー経験がある彼は、セリエAでも30m以上の超ロングシュートをおもしろいようにたたき込んでおり、このオリンピック代表でもブラジルの攻撃にアクセントをつける存在として期待されていた。強豪同士の対決となった際は、変幻自在とされるブラジルの攻撃力を以てしても、相手に守りきられる可能性がある。密着マークを受けるであろうジュニーニョ、ベベートが少しでも体調を崩し、完全に封じられてしまうようなことがあれば、その可能性はなおさら高いものとなってしまう。だが、ロベルト・カルロスの左足に関してだけは、スランプを心配する必要はまったくなかった。時速140kmに達するともいわれる弾丸シュートを叩き出す彼の左足は、身長190cmの選手はどれほど高熱を出そうと190cmであるように、確実に計算できるものと見なされていた。「ファンタジー」に当たりはずれはつきものだが、ロベルト・カルロスの左足は絶対にはずれのない、野球における“肩”や“足”のような、いわばリアルなものだったのだ。  相手からすれば、これほど厄介極まりない存在はない。ロベルト・カルロスが攻撃専門の選手であれば、ディフェンダー一人を密着マーカーとしてつけ、その良さを封じることもできる。しかし、左サイドバックとなるとそうはいかない。基本的には敵陣でプレーすることの多い選手にマークをつけることは、そのまま自陣の守りが一人分手薄になることを意味するからである。  放っておくには危険すぎるが、つきっきりになるわけにもいかない——そんな難敵対策として、西野はタテへの突破を抑える策を考えた。「彼がボールを持ったら、とにかく中央へ追い込むように」との指示が遠藤には与えられた。ロベルト・カルロスは左利きのため、左タッチライン沿いのコースを切って中央へ追い込めば、左足でシュートを打つことが非常に難しくなる。そして、右足しか使えないロベルト・カルロスであれば、日本にとってさほど危険な存在ではない。西野は、そう考えたのだった。  先発と控え、その紙一重のところに位置している自分の立場をよく理解していた遠藤は、スタッフの指示をできるだけ忠実に実行しようと決心し、実際、前半は相手にスペースを与えることにもなる攻撃参加を完全に自重していた。しかも彼は、後半開始早々、最も警戒していたロベルト・カルロスのタテへの突破を許して決定的なピンチを招いてしまったことで、本気になったブラジルの怖さを強烈に思い知らされていた。ロベルト・カルロスはA代表にも入ったことのあるセリエAのジョカトーレ(選手)で、遠藤はオリンピック代表はおろか、所属する横浜マリノス(現横浜F・マリノス)でもレギュラーの座を確固たるものとはしきれていない選手である。服部がそうだったように、彼もまた、後半に入ってからのブラジルからは底知れない強さを感じ取っていた。  にもかかわらず、遠藤は伊東とともに、魅入られたかのように前線へと飛び出していったのである。  日本の右サイドはがら空きになった。      2  タッチライン沿いで|前園真聖《まえぞのまさきよ》からパスを受けた左サイドバックの路木は、そんな反対サイドの動きにまったく気づいていなかった。  前日、服部から「俺、ジュニーニョのマーカーかもよ」と伝えられた時、路木はまだ半信半疑だったという。すでに西野の頭の中では、服部をジュニーニョのマン・マーカーとして起用する方向で固まりつつあった。試合前日の直前練習で、左サイドバックではなく中盤に起用されたことで、服部はその意図に薄々気づいていた。だが、路木は、自分がそれまで完全なサブの位置に甘んじていたこと、そして左サイドバックとしての服部がどれほど優秀な選手であるかをよく知っているだけに、服部の代わりに自分がそのポジションに入るのだと信じることができなかった。試合当日の朝がくるまで、出場のチャンスはよくて五分五分だろうと考えていた。  突然の指名に路木は奮い立った。ブラジルという名前に怖じ気づくこともなかった。キックオフまでの短い時間の中で、彼は二つのことを自分に言い聞かせた。自分と対面する右サイドバックのゼ・マリアは、Jリーグで対戦してきた鹿島アントラーズのジョルジーニョほどの選手ではないから、さほど怖がる必要はない。難しく考えるのはやめて、常に突破していくイメージを持とう。そう、服部がそうだったように——。  試合開始早々、路木はそのイメージを忠実に実行した。前半3分、ちょっとしたスペースを利用してタテに抜け出し、中央へドンピシャリのセンタリングを合わせたのである。この場面以降、攻撃に参加するチャンスは訪れなかったが、苦しい状況にあっても虎視眈々とその再現を狙っていた。そして、ついにその時は来た。  前園からパスを受けた瞬間、路木の目は、前線で待つ城彰二の姿に釘付けになった。マーキングに入ろうとしているアウダイールの顔も目に入ったが、ただ、二人の間にはまだちょっとしたスペースがあった。前半に一度突破からセンタリングというパターンを成功させていることもあって、対面のゼ・マリアは突破を警戒してやや引き気味のポジションを取っている。  あの二人の中間点にボールを落とそう。  瞬間的にそう判断した路木は、プレッシャーを受けずにプレーできるギリギリのゾーンまでドリブルで持ち上がり、そこでとっさに本来の利き足ではない左足を使った。使おうとして使ったのではない。いつの間にか、出ていたのだという。狙いは、城とアウダイールとの間にある、そして今にも失われようとしているわずかなスペースだった。  路木の左足から放たれたボールは、パッサーの狙い通りのコースに、しかし狙いとは異なる豊かな放物線を描いていった。路木としては、もう少し直線的なクロスを送るつもりだったのである。それでも、ゆったりと飛んだボールは夢のようなタイミングで城とアウダイールの間に吸い込まれていき——。  いいところに落ちたのはわかった。城が走っていくのも見えた。だが、路木が覚えているのはそこまでである。彼には、ここから先の記憶がない。路木だけではない。後方で見守っていた服部は、ボールが路木の足を離れたとたん、ミスキックだと思い、ほんの一瞬ではあるが目を離してしまった。最後尾に構える川口能活も同様だった。嵐のようなブラジルの猛攻を真っ正面から受け止めていた彼は、チャンスがついえそうだと見て取った瞬間、すぐさまマーキングの確認に入っていたのである。彼ら3人は、試合が終わるまで得点をあげたのは城だと思い込んでいたほどだった。  だが、伊東と遠藤はまだ走っていた。  路木からのクロスが自分たちに向けられたものではないとわかっても、彼らはまだ走っていた。理由は本人たちにもわからない。あの状況で攻撃参加しようとした自分が信じられない、とまで遠藤はいう。夢と呼ぶのも|憚《はばか》られるような、本能の奥深いところがささやくわずかな可能性のために、右サイドの二人は走った。  そして、神の見えざる手が下された。  城は路木のセンタリングに届かなかった。だが、ボールを支配下に置いたかに見えたアウダイールは、若いGKジダと信じられないような交錯をしでかしてしまう。ブラジルの中盤と最終ラインは、猛烈な勢いで突っ込んでくる二人の日本人に、まったく気づかずにいた。相手が路木の突破を警戒してやや引き気味になっていたという必然と、狙い通りのコースに狙いとは異なる球質のクロスが飛んでいったという偶然、二つの要素によって生まれたチャンスに、ここしかないというタイミングで相手のミスという三つ目の要素が加えられたのである。  ジダとアウダイール、二人のブラジル人の間からボールが目の前にこぼれてきた時、伊東輝悦がやらなければならないことはさほど多くなかった。世界を揺るがした衝撃のゴールは、おそらく世界中の誰がやっても外さないであろう形で生まれた。      3 「私が見た中では間違いなく最高の才能を持った選手なんですが、本人が自分の才能にちっとも気づいてくれないんですよ。自分がどれほどの才能を持って生まれてきたか、そのことに気づいてくれれば、もっとすごい選手になると思うんですが……」  '90年代の初め、私は当時東海大一高の監督をしていた望月|保次《やすじ》からこんな話を聞いたことがある。彼が言っている「最高の才能を持った選手」とは、伊東のことだった。  小学校時代、伊東は清水FCの長身センターフォワードとして夏の全国少年サッカー大会に優勝し、彼自身も得点王のタイトルを獲得している。この時、伊東のプレーが周囲に与えたインパクトは大変なもので、取材陣や関係者の中には「あの男が日本サッカーの歴史を変える」と口にする者も少なくなかった。彼にはラストパスのセンスがあった。得点能力もあった。アタッカーに必要な才能をすべて兼ね備えた選手、それが当時の伊東だった。  清水の期待を一身に浴びるようになった伊東は、清水市立|袖師《そでし》中に入ってからも輝きを失わず、順調に成長していった。唯一の誤算があったとすれば、身長がさっぱり伸びず、長身センターフォワードがいつの間にかズングリとしたミッドフィールダーになっていたことだが、それは逆に、周囲がマラドーナの姿を彼とダブらせることにつながった。依然として、伊東は清水はもちろん、全国のサッカー関係者によく知られた存在だった。  様子が変わってきたのは、東海大一高に進んでからである。入学と同時に名門高の背番号10を与えられた伊東だったが、チームはどうしても清水商、清水東の壁を破れなかった。服部、|白井《しらい》博幸、松原|良香《よしか》と、後にオリンピック代表に選ばれるチームメイトを3人も揃えながら、どうしても全国大会には駒を進められなかった。そして多くの場合、その原因は伊東自身にあった。準決勝あたりまでは素晴らしいゲームメイクをするにもかかわらず、ここで勝てば全国大会という場面になると、なぜか試合の流れから消えてしまうケースが多かったのだ。同じ世代に小倉|隆史《たかふみ》というスーパースターが現れたこともあり、次第に伊東の名前は忘れられていった。結局、彼は静岡県の2チームに出場権が与えられた地元開催のインターハイに出場しただけで、高校サッカーのキャリアを終えた。  清水エスパルスに入団してからも、伊東がかつての輝きを取り戻すことはなかった。ブラジル人監督のレオンも、アルゼンチン人監督のアルディレスも、“元天才児”と言われ始めるようになった小柄なミッドフィールダーにレギュラー・ポジションを与えようとはしなかった。メキシコ・オリンピック以降、日本サッカー界には幾人もの天才サッカー少年が現れ、そのほとんどが大成しないまま消えていった。おそらくこの頃、伊東が同じ道をたどりつつあると考えた人は少なくなかったことだろう。  そんな中、東海大一高の望月監督と同じように、断固として伊東の才能を信じ続けた男がいた。ユース代表の監督を務めていた西野である。 「騒がれる選手はずいぶん増えたけど、俺からすれば伊東ほどの才能を持った選手はいないね。いま俺が持ってるチームの中でも、才能でいったらダントツのナンバーワンだよ」  ユース代表が結成されてすぐの頃、西野はこんな話をしていたことがある。その言葉通り、西野はユース代表でもオリンピック代表でも、常に伊東を招集し期待をかけてきていた。もっとも、伊東がその期待に応えてきたとは言いがたい。本来、サッカーの才能とは数あるスポーツの中でも最もわかりやすいたぐいのものである。日本では小難しいサッカーの代名詞のように言われているプレッシング・フットボールにしても、その最初の具現者だったヨハン・クライフの天才は、誰の目にも極めて簡単に理解することができた。ペレことエドソン・アランテス・ド・ナシメントしかり、ディエゴ・アルマンド・マラドーナまたしかりである。  しかし、伊東のプレーにスポットライトが当たることはついぞなかった。つまり彼は天才と言われながら、真の意味で天才の名にふさわしい仕事はほとんどしてきていなかったのである。メディアからほとんど注目されなかったユース代表はともかく、オリンピック代表でも、スターになったのは前園であり川口だった。期待を集め、それを裏切り続けてきた男は、誰も期待していなかった対ブラジル戦で、突然自分の才能を思い出したかのように歴史にその名を刻んでみせたのだった。      4  ブラジルは驚いただろう。だが、もっと驚いたのは日本の選手たちだった。  試合の2日前、日本オリンピック代表のスタッフは、これまでもそうしてきたように、選手たちをミーティング・ルームに集めてブラジルのビデオを見せた。アジア最終予選の準決勝を前に、サウジアラビアのビデオを見た時は「こりゃあ|強《つえ》えや」と笑みをまじえた感想を漏らしていた選手たちが、ブラジルのビデオを見せられた時は静まり返ってしまった。しかも、ビデオで見た段階では笑みを浮かべる余裕があった相手と、日本は文字通りの死闘を演じてしまっている。展開からすると最初に2点のリードを奪い、サウジアラビアの反撃を1点に抑えて——という典型的な勝ちパターンだったが、内容はアップアップで、もしサウジアラビアに先制点を奪われていたら、大差をつけられての敗戦もありえた試合だった。だが、本大会で対戦するブラジルは、笑みすら浮かべさせてくれない相手である。多くの日本選手にとって、カナリア色の世界チャンピオンは別次元に存在する集団だった。キックオフ直前、ブラジル人選手と談笑するGKコーチのマリオに対しては、多くの選手から「マリオ、すげえじゃん! スーパースターと知り合いかよ」という感嘆ともやっかみとも取れる冷やかしの声が飛んでいたほどだったのだ。  そんなチームから、日本がリードを奪っている。  刻一刻と残り時間が少なくなっていっても、多くの日本人選手は自分たちの勝利を信じきれずにいた。失点以降、さらにスピードをアップさせたジュニーニョを抑えるのに必死だった服部は、ロスタイムに入ってもなお、「ああ、これで負けずにすむかもしれない」としか思えなかった。  ここまでほぼ完璧にベベートを抑えていたストッパーの鈴木|秀人《ひでと》も、最後まで勝てるという思いは浮かばなかったという。ブラジルとの対戦が決まると、彼はジュビロ磐田の同僚、ドゥンガにベベートのことを尋ねた。ブラジル代表キャプテンの答えは「賢い選手だが、スピードならお前の方が上だ」というものだった。もちろん鈴木にとってはうれしい答えだったのだが、同時に彼は、ドゥンガの言葉から「それでもブラジルはお前たちの敵じゃない」という強烈な自負をも感じ取っていた。リードを奪っても、残り時間がどれほど少なくなっても、彼は勝利を身近なものに感じることができなかった。  実際に戦っている選手からしてこうだったのである。控えの選手たちは、激しさを増してきたブラジルの攻撃を観客席のファンと同じような心理状態で眺めていた。 「いやあ、ついにブラジルが総攻撃に出てきましたねえ」 「そうですねえ、よく頑張った日本ですが、もうここまででしょう」 「あ、城選手が足をつらせました。初めて見る光景です。やっぱり、彼も入れ込んでたんでしょう」 「アウダイールが日本のゴール前に飛び込んできます。失点の原因を作ってしまっただけあって必死です」  一人で実況をしてみんなを笑わせていたのは、陽気な松原良香だった。ウルグアイへ留学した経験のある彼は、南米サッカーのレベルの高さと、ウルグアイですら歯が立たないブラジルの強さを誰よりも理解しているつもりだった。そんなチームに、日本が勝とうとしている。松原にはそれが信じられなかったし、信じていいことだとも思えなかった。それでいながら信じたくもある自分の気持ちと折り合いをつけるには、もう笑いでごまかすしかなかったのだ。もっとも、松原が笑っていられたのはそんなに長い時間ではなかった。西野朗監督は、残り時間が4分になったところで、この陽気なムードメーカーをフィールドの中へ放り込んだからである。与えられた役割は、とにかく走り回って、パスの出所となるポイントへプレッシャーをかけることだった。わずか数分間ではあったが、永遠のように感じられた数分間だった、と彼は言う。  だが、ついに終わりは訪れた。  選手も、スタッフも、マスコミも、世界中の誰一人として本気では信じていなかった結果で試合は終わった。選手たちは喜びを露わにしなかった。いや、できなかった、と表現した方が正しいのかもしれない。彼らの多くは、自分たちが世界チャンピオンに勝ったことはもちろん、試合が終わったことすら信じられないでいた。それぐらい特別な相手との試合だった。  真っ先に喜びを爆発させたのは、日本からはるばるフロリダ半島まで応援にやってきたファンだった。彼らの多くは若く、選手たちほどにはブラジルを特別な存在とは見ていなかったのだろう。一様に信じられないという面持ちをしながらも、選手たちよりはずっと素直な形で感情を表した。絶叫があり、涙があり、抱擁があった。  日本が、ブラジルに勝った——。  間違いなく、日本サッカー史上空前の快挙だった。気の早いマスコミのなかには、決勝トーナメント進出はおろか、はやメダルが見えたとブチあげるところまであった。  だが、歴史的偉業の陰には、もう一つの真実が隠されていた。  この日は、日本オリンピック代表がチームとして機能した最後の日でもあったのである。 [#改ページ] 第2章 西野朗の告白     '96・11・8 バルセロナ

     1 「試合の何日か前にね、夢を見たんだ」  アトランタ・オリンピックから3カ月ほどたった日のことである。オリンピック代表監督だった西野朗は、スペイン・バルセロナ旧市街にあるガリシア地方の料理を出すバル(小料理屋)にいた。テーブルの上では、3本目のガリシア産ワインが空になろうとしていた。白い陶製の杯をクッとあおった彼は、ちょっと遠くを見るような目つきになってつぶやいた。 「0─8だったよ」  西野を待ちかねて集まったバルセロナ在住のサッカー狂たちは、ただ絶句するしかなかった。  何気なくぶつけた「ブラジル戦ではどれぐらいのスコアを予想していたのですか」という問いに対する答えだった。西野の口調もいたって淡々としていた。だが束の間、恐慌と冷たい汗にまみれて目覚める男の姿と、それでも巨敵に立ち向かわなければならない立場に置かれた男の絶望的な苦悩を、聞き手たちはありありと思い描くことができた。確かに一瞬、地獄が見えたのだ。  凍りついた場の雰囲気を取りなすかのように、西野は明るい口調で付け加えた。 「現実的にはね、1─5、とにかく1点は取ろうって思ってたんだけどね」  それでも、口を開く者は誰もいなかった。1本目のワインを開けた時から数時間にわたって語られてきた西野の言葉、その一つひとつが新たな重みをともなってのしかかってきていたのである。  西野にとって、アトランタ・オリンピックへの道は修羅の道でもあった。問題はあまりにも多く、理解者はあまりにも少なかった。しかも、本大会の舞台で待ち受ける相手は世界チャンピオンのブラジル、アフリカ・チャンピオンのナイジェリア、かつては“マジック・マジャール”として世界中から恐れられたヨーロッパの古豪ハンガリーである。大会が近づくにつれ、彼は睡眠薬を服用するようになった。そうしなければ眠れなくなってしまったのである。西野という男をよく知るチームのスタッフたちは、異常な勢いで増えていく彼の白髪に、胸がつぶれる思いだったという。  西野がオリンピック代表の前身となるユース代表の監督を任されたのは、1992年、彼が37歳の時である。当時、日本サッカー界は長く続いた暗黒時代の最後の時期に差しかかっていた。まもなくJリーグが発足することは決定していた。だが、代表チームはA代表はもちろん、オリンピック代表(23歳以下)、ユース代表(20歳以下)とすべての年代で韓国の後塵を拝し続け、選手たちのメンタリティには負け犬根性が染みついてしまっていた。そんな環境の中で持ち得る夢といえば、せいぜい高校選手権で活躍することぐらいだっただろう。まだワールドカップもオリンピックも、はるか彼方のかすんだものでしかない時代だった。  明るい兆しと言えそうなものもないではなかった。ブラジルからは三浦知良が帰ってきていた。ルイ・ラモス・ゴンザレス・ソブリーニョが日本国籍を取得し、ラモス|瑠偉《ルイ》になった。西野の前任者が率いて参加した'91年ワールドユース選手権・アジア最終予選で、日本は「戦い方は恐ろしくお粗末だったが、選手のタレントでは大会ナンバーワン」との評価を受けていた。夜明けの時は確実に近づいてきていた。ただ、夜は一瞬にして明け、明けたあとにようやく気づくものでもある——。  西野にとって幸いだったのは、ほとんどのマスコミもまた、日本サッカーは依然として暗黒時代にあると信じていたことである。そのため、まったく経験のないまま監督を任された西野は、ある程度自由に自分の考えを貫くことができた。結果を出せない伊東にこだわったやり方などは、雑音があっては絶対にできないことだっただろう。  そうして迎えた'93年ワールドユースの第1次予選で、日本は韓国、中国と同居する厳しいグループに振り分けられた。従来の常識からいけば、韓国の1位はほぼ確定的で、日本としてはいかにして2位に滑り込んで最終予選に進むかがカギになるはずだった。3チーム中の2位までが最終予選に進めると聞けば、簡単なことのように思われるかもしれないが、当時の日本サッカーは韓国はもちろん、中国との力関係においても明らかに劣勢だった。'87年、ソウル・オリンピックのアジア最終予選で中国に敗れた記憶は、まだ多くのサッカー関係者の間に残っていた。  ところが、この誰も期待していなかったソウルでの1次予選で、日本は韓国と中国を抑えて予選1位で最終予選進出を決めるという快挙をなし遂げる。日本ユースが韓国ユースに勝ったのは実に15年ぶりのことで、これを機に、韓国には一気に“日本脅威論”が台頭した。韓国側にとって衝撃的だったのは、結果だけでなく、内容、個々の能力でも完全に日本が優っていたことだった。大会前、韓国のパク・サンイン監督は「最近の若い選手は日本とやるとなると相手をナメてしまって」と傲慢ともとれる発言をしていたほどだったが、これで状況は一変した。「このままでは日本に抜かれる」と危機感を募らせた韓国サッカー協会は選手選考のあり方を大きく改め、ユース年代の強化に本腰を入れていくことになる。  歴史的な勝利から半年後、遠くアラブ首長国連邦で開催されたアジア最終予選に堂々の予選1位で出場した日本は、ここでも素晴らしい戦いぶりを見せる。グループ・リーグを2勝1敗の2位で通過し、勝てば14年ぶりのワールドユース出場が決まるという準決勝にまでこぎつけた。相手は、1次予選の時とはメンバーを5人入れ替えてきた韓国である。  韓国選手たちの闘志は凄まじいものがあった。彼らはすでに一度日本に敗れている。ここで再度苦杯を喫するようなことがあれば、それは近い将来、アジアの王座を明け渡す日が来ることを意味する。絶対に負けられないという思いは、立ち上がりからの猛攻となって現れた。ソウルで勝ったのがウソのように、日本は序盤から韓国に押しまくられ、ついに先制点を許してしまう。  だが、日本もそれまでの日本ではなかった。夢だったワールドユースが、あと1勝で現実のものとなる。しかも、戦っている相手は一度勝ったことのあるチームである。徐々に落ち着きとリズムを取り戻した日本は後半26分、キャプテンの山口貴之が芸術的なボレーを決めて試合を振り出しに戻す。山口が、そして多くの選手が絶叫しながら疾走し、西野のもとに駆け寄った。西野にとっても、服部や川口にとっても生涯忘れ得ぬシーンだった。その直後、あまりにもつらいシーンが待っていただけに……。  同点ゴールからわずか12分後、日本のゴール前でスクランブル(混戦)が発生した。崩されたわけではない。どうやっても入りそうもない強引なシュートが放たれ、日本のディフェンダーはキッチリとそれに対処した。そこに韓国のアタッカーがなだれ込んできたのだった。もちろん、日本側も人数はいた。にもかかわらず、シュートのリバウンドは魅入られたかのように、ただ一人フリーでいたチョウ・ヒョウの足元に転がってしまう。GK川口は飛び出したが一歩及ばなかった。ボールは投げ出された彼の身体をかすめ、ゴールネット天井へと突き刺さっていった。  これがオリンピックの予選であれば、本大会への出場枠は三つ用意されていた。準決勝で敗れても、3位決定戦に勝てば世界大会へ進むことができた。だが、ワールドユースがアジアに与えた枠は二つしかなかった。後半38分、チョウ・ヒョウのシュートが決まった瞬間に、日本の夢は終わったのである。 「いいか、絶対に3位になろう。オリンピックの予選は3位にまで出場権が与えられる。ここで3位になっておくことが、3年後、オリンピック予選を戦ううえで自信になってくれるはずだ。頑張って3位決定戦に勝とう」  1年間にわたって追い求めてきた夢を絶たれ、|嗚咽《おえつ》だけが響く試合後のロッカールームで、西野は涙を隠し、必死の思いでゲキを飛ばした。この時、西野はまだオリンピック代表の監督を任されると決まっていたわけではない。それでも、彼はオリンピックのことを考えずにはいられなかった。思えば、この'92年の10月から、西野のアトランタへの戦いは始まったのだった。  西野のゲキに応えるかのように、日本は2日後の3位決定戦でUAEに圧勝する。この大会においてはまるで意味のない、それでいながら後になって極めて大きな意味を持ってくる勝利だった。  大会が終わってしばらくして、西野のオリンピック代表監督就任が決まった。  肩書は変わっても、西野を取り巻く環境にさしたる変化は見られなかった。マスコミは依然として西野のチームに興味を示さず、そのために彼はユース時代同様、比較的自由にチームを作り上げていくことができた。すべてが変わってしまったのは、オリンピックのアジア地区最終予選が近づいてきたころのことである。  それまで恐ろしく冷淡だった周囲が、突然愛国者に変貌し、西野に勝利を求めてくるようになった。もちろん、西野とて強く勝利を望んではいた。絶対にワールドユース予選の復讐をしたいという気持ちは強く持っていた。その思いだけでさえ、時として重圧になってのしかかることがあったというのに、一番大切な時期になって、さらに大きな重圧がふりかかってきたのである。いつの間にか、西野のチームは本来はまったく関係のない事柄であるはずの2002年ワールドカップ招致活動とも関わりがあるものとしてとらえられるようになっていた。ようやくアジア最終予選を突破してからも、彼と選手たちはさして有意義とは思えない、北アフリカのチュニジアにまで遠征しなければならなかった。チュニジアの理事が、2002年ワールドカップの開催国を決定する投票権を持っていたからである。西野の苦悩は、いつまでたっても消えなかった。  対外的な悩みだけでも、若い西野にとっては相当な重荷だったことだろう。しかし、問題は外部だけではなく、チームの内部にも発生していた。  そのひとつが、小倉隆史の負傷だった。  アジア最終予選の直前に彼が戦列を離れたことは、後になって極めて大きな意味を持ってくる。西野はそのことを十分に予測していながら、どうすることもできなかった。      2  四日市中央工から名古屋グランパスエイトに進んだ小倉は、西野が攻撃陣のリーダーとして大きな期待を寄せていた選手だった。'94年まで、サッカーの年齢制限は欧米の新学期にあたる9月1日を境に決められていたため、7月6日生まれの小倉はユース代表にこそ入ることができなかったが、高校サッカー界では“レフティ・モンスター”とも呼ばれる文字通りの怪物的な存在だった。高校3年生時の全国選手権決勝では、残り時間がわずかになったところで値千金の同点ヘッドをたたき込むなど、大舞台になればなるほど力を発揮するタイプの選手でもあった。国際サッカー連盟の年齢規定変更が発表された時、西野が真っ先に思い浮かべたのが小倉の名前だった。彼は、新規定適用の第1号としてオリンピック代表に加わった。  高校時代から、小倉は日の丸のついたユニホームに強い憧れを抱いていた。相手チームにユース代表の選手がいると異常なまでに闘志を燃やし、その選手に徹底的に勝負を挑んだ。実力がなくてユース代表に入れない小倉ではない。勝負はたいてい、彼の一方的な勝利に終わった。試合が終わると、彼は誇らしさを隠そうともせずに言ったものだ。 「なんや、ユース代表言うからどんなもんや思てたら、案外大したことないもんですね」  そんな選手が、母親に「なんで俺を7月になんか生んだんや。あと2カ月ぐらい待ってくれたらよかったのに」と冗談まじりにこぼしていた男が、晴れてオリンピック代表のユニホームを着ることを許された。オランダ留学を経験し、すでにA代表でゴールも決めていた小倉だったが、今まで指をくわえて眺めているしかなかった同世代の戦いの場に参加できる喜びは大きかった。陽気な性格と強烈なリーダーシップ、そして左足を駆使する変幻自在のプレーで、小倉はすぐさまオリンピック代表にとって欠かせない存在となった。  ところが、アジア最終予選の直前、開催地であるマレーシアに入ってから思いもよらぬアクシデントが小倉を襲った。練習中、ヘディングを競り合った際の着地に失敗し、右ひざの靱帯を全断してしまうのである。 「やった瞬間ね、これですべてが終わったんやって、すぐわかりました。僕、高校時代にも靱帯の怪我はやったことがあったんですけど、その時とは痛みもひざの具合も、まるで違いましたから。ひざから下がね、内側にへっこんだっていうか、ただぶらさがっとるだけみたいな感じになっとったんですよ。あれを見た途端、自分の中から自分のものでないみたいな叫び声がね、ウワァァ〜ッって飛び出してきて……。あの時って、僕にとって生涯最高に近いコンディションやったんです。ずっと前から身体は作ってきとったし、気持ちの|昂《たかぶ》りも凄かった。自分が自分を超えられるような、そんな予感がしとったんです。それが……。あかん、これでオリンピックには間に合わへんって思った瞬間、芝、殴ってました。殴りながら、神さまおるんか、俺、何かしましたかって叫んでました」  医者の診断は全治6カ月、予想通り、小倉の怪我は重症だった。オランダ留学中、彼のもとにはオランダ・リーグ1部の強豪からもオファーが来ていた。そうした誘いをことごとく断り、あえてレベルの低いJリーグへ戻ってきたのは、すべてオリンピックのためだった。突如として夢を断ち切られた夜、小倉はこらえきれず涙したという。チームスタッフも、医者も、看護婦も、誰もいなくなってから、真っ暗な部屋で号泣したという。  西野の衝撃も大きかった。彼と小倉の間には、単に監督と選手という関係を超えた、深い部分での結びつきがあった。小倉がオランダでプロとしてやっていくか、日本へ戻ってオリンピック代表に参加するか迷っていた時、西野は自らオランダに飛んだ。そしてその行為が、小倉の心を動かしたからである。  もう一人、小倉のリタイアに大きなショックを受けていた男がいた。同い年で、周囲からは「あいつら、言葉がいらないんじゃないか」と言われるほど仲の良かった前園である。 「オグのためにも最終予選は絶対に勝つ。勝って、本大会に出場させてやるんだ」  小倉の負傷が深刻なものだとわかった頃から、前園はことあるごとにこう公言するようになった。友のために勝ちたい。その思いが彼を駆り立てていたのだろう。鬼神のような奮闘を見せるキャプテンに引っ張られ、日本はついにオリンピックの出場権を獲得した。  だが、その後マスコミを中心に沸き上がった大フィーバーが、徐々に前園を蝕んでいく。本来、前園は先頭に立って仲間を引っ張っていくというよりは、リーダーの後についてやんちゃぶりを発揮するタイプの男である。それが小倉の離脱により、彼は攻撃陣の要であると同時に、リーダーとして、チームのキャプテンとしても振る舞わなくてはならなくなった。周囲からの注目の度合いも、もはや以前の比ではない。高校時代、小倉ほどには注目されていなかった前園は、初めて体験する狂乱の渦の中にポツンと取り残されたのである。  次第に精彩を失っていく前園を見ながら、西野は幾度となく小倉の不在を悔やんだ。しかし、いくら悔やんだところで小倉の怪我が治るわけでもない。前園がストレスをためこんでいったように、西野もまた、苦悩を深めていった。  そんな西野にさらなる追い打ちをかけたのが、日本サッカー協会だった。 「オリンピックの出場が決まった時、俺は当然、'96年のカレンダーはオリンピック代表を中心にして組まれていくもんだとばっかり思ってた。あれだけ悲願だの2002年のためにも負けられないだの言ってたわけだからね。ところが、実際にこっちが要求すると、やれこの時期はカップ戦が組まれているからダメだとか、やれこの時期に日本を離れてもらっては困るだとか、ブレーキばっかりかけられちゃったんだ」  代表チームの監督である以上、自分の考えた強化プランに沿ったスケジュールを要求するのは当然のことである。だが、強化委員長の|大仁邦弥《だいにくにや》は、本来利害が対立するはずのJリーグ側の理事も兼ねていた。つまり、西野と同じ立場になってJリーグと選手の貸し出し交渉をするはずの人物が、同時にそれを拒否する立場をも兼任していたのである。しかも、この強化委員長は三菱重工の社員、つまりはサラリーマンとしての顔も持っていた。いくら大仁に日本代表の経験があり、また三菱の監督を6年間務めたことがあるといっても、それはまだ日本サッカーがひよわなアマチュアにすぎなかった頃の話である。現場の人間にとっては、プロフェッショナルとしての経験を持たない人物が自分たちの長として納まっているだけで十分に不安なのに、三つの顔を使い分けられてはたまったものではない。今後の強化案について話し合おうと電話を入れた西野が、「大仁はただいま出張しております」との返事を受けたのは、一度や二度のことではなかったという。  西野は断じて口にはしなかったが、オリンピック代表スタッフの間では「協会の人間はひがんでいるんじゃないか。メキシコ・オリンピック銅メダルの威光がかすむからって」と、その非協力的な態度に対する不満がこぼれることもあった。  アジア最終予選の時まで、協会の強化委員長はメキシコ・オリンピック組よりもずいぶん下の世代になる加藤久が務めていた。彼がリーダーシップをとる強化委員会のバックアップに西野はずいぶん助けられたし、後に日本代表監督に関する問題で加藤を始めとするメンバーの辞任が決まった時は、西野自らが続投を要請したほどだった。だが、大仁が後任の強化委員長として就任して以来、状況は大きく変わってしまった。スタッフが、自分たちは孤立無援のまま荒波に放り出されたようだ、と感じたのも無理はない。本大会で待ち受ける相手は、アジア予選で闘ったチームとは比較にならないぐらいの実力を持っているはずだった。より一層の強化を図ったとしても歯がたつかどうかわからない相手と、さしたる強化もないまま闘わなければならない。しかも、責任は自分たちが取らなければならない——若いスタッフの苦悩は深かった。  西野にとって許せなかったのは、必ずしも自分たちを支えてくれたとはいえない協会が、オリンピック終了後に「日本はCクラス」との評価を突きつけてきたことである。 「そんなことは、改めて言われなくても俺が一番わかってる。大会前からわかってたことなんだ。でも、そこで協会は何をしてくれたか。Cクラスから脱出するために何をしてくれたか——。そのくせ、大会が終わってから日本のサッカーは守備的すぎた、スペクタクルじゃなかった、なんて言われてもね。こうやってバルセロナにサッカーの勉強をしにきたっていうのは、そんな協会に対する反発もあったんだ。『FCバルセロナのサッカーは世界でもっともスペクタクルだって言われてますから、そういうサッカーを見て勉強してきます』ってね」  協会に関して、西野にはもう一つ腹に据えかねたことがある。「3人まで許されている23歳以上の選手枠を使うべきだった」というコメントが、彼のものだとして協会サイドから発表されたことである。 「俺はそんなこと、一言も言ってないんだ。実際、あのブラジルの失点にしても、経験の浅いGKがベテランのアウダイールに遠慮したから起きたって部分が絶対にある。ワールドカップでプレーした選手を入れても、必ずしもプラスの面ばっかりじゃないってことだろ。だったら、ワールドカップに出たこともない、世界的にズバ抜けた選手がいるわけでもない日本が23歳以上の選手を入れたからって、どうしてすぐチームが強くなるなんて考えられる? もちろん、プラスの面もあるだろうけど、俺はそれ以上に、選手間の連携が崩れるのがイヤだった。GKの問題にしてもそうだよ。小柄な川口じゃ国際舞台で通用しないって、かなりの人から言われたけど、能活とディフェンダーたちの間には、修羅場をくぐったことで生まれたある種の連帯感があった。言葉が聞こえない状況でも、お互いに何をしようとしてるかがわかるようになってたんだよ、あいつらは。そんなところに新しい選手を入れようなんて気には、俺はとてもなれなかった」  最終予選直前に「チームの精神的支柱に」と期待していた選手を失い、予選突破後は協会との関係に精力の何割かを搾り取られる。監督としてはまだ若い西野にとっては、それだけでも十分すぎるほど過酷な条件だった。だが、チームにとって最大の問題は他にあった。マスコミである。      3  アジア最終予選が終わった後、マスコミは特定の選手ばかりを取り上げるようになった。のちに多くの人が知るようになる攻撃陣と守備陣の間に存在した不協和音は、そのことによって生じたのだと西野は考えている。 「全員で勝ち取ったオリンピックの出場権だったのに、マスコミが取り上げる選手はいっつも同じ。あれじゃ、若い選手に今までどおりでいろっていっても無理な話だよ。実際、マレーシアから帰ってきたあたりから、それまではミーティングの時なんかでも食い入るようにこっちの話を聞いてた選手の何人かが、心ここにあらずって感じになってきた。これはもう、本大会が終わるまで直らなかったね」  マスコミは、ただ特定のスター選手を取り上げてチーム内に溝を作っただけではなかった。大会が近づくにつれ、雑誌やスポーツ紙に「オリンピック代表のサッカーはあまりにも消極的すぎる」という意見が載るようになった。きっかけは、前線の選手が雑談の間で漏らしたちょっとした不満だったが、マスコミはそれを西野に対する要求という形で活字にし、問題をより大きくしていった。 「攻めるには、自分たちがボールを持ってなきゃいけないワケだろ。じゃあ、ブラジルからどうやってボールを奪うか。一番確率が高いのは、こっちの陣内に引きずり込んで、人数で奪うことだと俺は思った。守るために引いたんじゃない。攻めるために引いたんだ。それを消極的だっていうんなら、積極的なサッカーってのがどんなもんなのか、それがブラジル相手に通用するものなのか、そこまで考えてるのかって言いたかったね」  西野は、早稲田大学時代に「釜本(邦茂)の後継者」と呼ばれ、日立でプレーした日本リーグ時代には連続得点記録も作ったことのある男である。フォワードの選手から出始めた「もっと攻めたい」との不満は誰よりも理解しているつもりだったし、「それぐらいの自己主張ができないようでは、フォワードとしてたいした働きはできない」とまで考えていた。そのうえで、彼は若いフォワードたちに守備を要求していたのである。巨大な敵を前にして、「胸を借りるなどとは口が裂けてもいえない」と公言しながら、実は勝利をつかむためには最悪の手段といえる破滅的なカミカゼ・アタックを敢行したのが'94年のインターコンチネンタル・カップにおける加茂周A代表監督だとしたら、彼我の実力差を徹底的に検証し、数ある方法論のなかでもっとも可能性のありそうな手段を追求したのが西野だった。  そんな努力が、したり顔で近づいてくるマスコミの無責任な報道で水泡に帰しつつあった。アルゼンチンやナイジェリアとの対戦が決まった時の加茂監督がそうだったように、記者たちの間でも「ブラジルのように強い相手とやるのだから、守っても守りきれるものではない。ならば、いっそのこと攻めに出た方が可能性はあるはずだ」との考えが一般的だった。ほとんどの記者は、南米予選におけるブラジルのビデオなどまったく見たことがなかったはずである。にもかかわらず、積極的なサッカーという耳に響きのいい言葉を単純に信奉し、攻撃陣の選手であれば誰でも抱くはずのちょっとした不満に相乗りして騒ぎを大きくしていくマスコミが、西野には許せなかった。「この人たちには話をしてもわかってもらえない」という思いは、もともとサッカーの話であれば一晩中でも話し続けるほどの男を次第に寡黙にし、いつしか彼にはマスコミ嫌いとのレッテルが張られるようになった。彼と記者団の間には溝が生まれ、そのことでマスコミはより一層、西野に対して不満を漏らす攻撃陣の選手に肩入れしていった。  それでも、大会がかなり迫ったあたりまで、西野と攻撃陣の選手たちの関係は、マスコミで言われていたほど険悪なものではなかった。それどころか、守備陣の間では「やっぱり西野さんは攻撃の選手がかわいいのかなあ。自分がアタッカーだったから」という感想を抱く選手もいるほどだったのだ。関係が本格的に悪化するのは、取材するマスコミの数が飛躍的に増えた、アメリカ入りした後のことである。  28年ぶりのオリンピック出場権を獲得した英雄とはいえ、日本オリンピック代表の選手はまだ若かった。練習が終わってホッと気を許した時に何気なく漏らした一言が大きな記事となり、大の大人である記者たちが「それはそうだよね」とすべてを肯定してくれる日常に身を置くうち、決して楽しいことではない西野の要求に対して反発する選手が出てきてしまったのは、少しも不思議なことではない。チーム内のムードは次第に悪化していき、ブラジル戦の8日前、ついに決定的な事件は起きた。メキシコとの練習試合を終えた後、キャプテンの前園が「やっているサッカーがあまりにも守備的すぎる」と西野を批判したとする記事が、新聞紙上を賑わしたのである。 「翌日、すぐにゾノを呼んだよ。これはどういうことだ、不満があるなら不満があるで、なぜ俺に直接言わずに記者に言うんだってね。だいたい、俺はメキシコ戦を守備的に戦えなんて指示は一切出してなかったし、あの試合に関しては、戦おうとして守備的になったんじゃなくて、相手に押されたから守備的になっちゃったんだ。知っての通り、サッカーってのは、相手があってやるものだからね。そのことを伝えたうえで、ただブラジル戦に関しては、これは間違いなく守備的に戦わざるをえなくなるだろうし、それはお前もわかっておいてくれって話もした。あいつは一応うなずいてはいたけど、あんまり納得したって感じじゃなかったな」  前園が西野監督を批判したという記事は、当然、他の選手たちの目にも入った。面白くないのは守備陣の選手である。  言うまでもないことだが、サッカーは攻守一体のスポーツである。ディフェンダーだけでは守りにならないように、アタッカーだけで攻撃することもできない。地味な役割に甘んじている選手たちからすれば、攻撃に行けないのは前線なり中盤の選手がキッチリとボールをキープしてくれないからだ、という思いが強くあった。いつしか両者の関係は険悪なものとなり、守備陣の選手のなかには「負ければ俺たちのせい。勝てばフォワードのおかげ。あいつらは気楽でいいよな」とこぼすものまで現れてきていた。そんな時期に出た、前園の記事である。攻撃陣と守備陣、両者の関係にここで亀裂が走った。西野と前園の関係はとりあえず修復されたものの、もはや問題はそれだけでは収まらないところまできてしまった。  ことここに及ぶまで、西野を始めとする日本代表のスタッフは、ブラジルに勝つためのありとあらゆる手段を講じてきていた。南米予選におけるブラジルの数少ない失点シーンだけを集めたビデオを作り、できるだけさりげない形で選手たちの目に触れさせるようにしていたのも、その一つである。西野は言う。 「ブラジルだって無敵じゃないってことを、選手たちの心のどこかに刷り込んでおきたかったからね。だから俺は、テルのゴールが偶然だったとは思わない。なぜあそこにテルがいたか。なぜ遠藤までが攻撃に参加したのか。それは前園から路木にボールが出た時点で、瞬間的にブラジルのやられるパターンをイメージできたからだと思う。俺にとって、驚きは1点を取ったことじゃない。1点も取られなかったことだったんだ」  アルゼンチンとの南米予選決勝で、ブラジルは左右両サイドから速いグラウンダーのクロスを一本ずつ入れられ、そこから2失点を喫している。路木がボールを受けたとたんにイメージした「城とアウダイールとの間に速いクロス」というパターンがまさにそれである。日本のゴールは、幸運ではあったもののまったくの偶然ではなかった。西野はそのことに強い誇りを抱いているし、ゆえに、自分がやろうとしたサッカーは断じて消極的ではなかったと言い切れる自信も持っている。  だが、それも結果を出した後だからいえる話である。ブラジルとの決戦を間近に控えたその時点では、白髪染めに隠された西野の頭髪の実情を知る人が少なかったように、一見消極的なサッカーに隠された、得点に賭ける彼の情熱と戦略に気づいた者はほとんどいなかった。本気でブラジルからの得点を狙っている以上、「ブラジル戦では両サイドからの速いクロスでセンターバックの間を狙う。それがブラジルの唯一の弱点だからだ」などという相手の警戒心を募らせるようなことを、監督である西野が公の場で口にできるはずもない。かくして、マスコミは相変わらず攻撃陣のコメントばかりを取り上げ、それを読む守備陣は彼らに対する不信感を深めていった。取り上げられる側には増長があり、取り上げられぬ側には嫉妬があった。そして、両者の間でのコミュニケーションはほぼ完全に途絶えていた。  もちろん、これが攻撃陣と守備陣、双方にとって不快な状況であったことは間違いない。しかし、よりストレスを抱え込んだのは守備陣の方だった。 「注文ばっかり多いくせに練習はチンタラやってる。まるで子供が駄々をこねてるみたいだった。自分はああなっちゃいけないんだって言い聞かせてた」 「最終予選まではまとまってたのに、本大会が近づいてくるにつれて何人かの選手が『自分はすごい選手なんだ』といった勘違いをするようになった。みんなで勝ち取った出場権だったのに、彼らは自分たちの力だけでここまで来たと思っているようだった」 「マスコミがヒーローを作りたがるから、それに乗せられる選手が出てきた。それまでは試合になるとまとまる不思議なチームだったのに、いつの間にか壁のようなものができてしまった」 「プライドばっかり高くなった選手が増えた。そのためにお互いが本音をぶつけあうということが難しくなった」 「チュニジアに遠征したあたりから、攻撃の選手にとっつきにくさを感じるようになった。要求オンリーで自分たちは好き放題。そんな選手ばかりを取り上げるマスコミもだんだん嫌いになった」 「最初は取材されるとニヤニヤして喜んでたくせに、それが増えてくると記者の人に失礼な態度をとるようになった。思い上がってるのがありありとわかった」  取材ノートを読み返してみると、攻撃陣の選手に対する守備陣の怒りがこれでもか、これでもかとばかりに記されている。アタッカーたちのために少し弁護をすると、そもそも極限状況での創造性を求められる彼らは、ある意味、エゴイストでなければやっていられないところがある。ジョージ・ベスト、ヨハン・クライフ、ディエゴ・マラドーナ、エリック・カントナ……世界の歴史をひもといてみても、問題児といわれるのはほぼ例外なく攻撃の選手だった。  ただし、ヨーロッパや南米の場合であれば、いかにマラドーナやクライフが偉大な選手であろうとも、彼らだけが常にマスコミの脚光を浴びるということはありえない。GKやディフェンダーといった地味なポジションの選手であっても、プレーの内容次第では新聞の一面を飾ることは十分に可能である。そんなことが、ともすればギクシャクしかねないアタッカーとディフェンダーの関係をうまく取り持ち、両者がともに尊敬しあってプレーできる環境を作り上げていく。  しかし、残念なことに日本はサッカー報道に関しては完全な後進国である。決勝点を上げたバッター、相手を完封したピッチャーばかりにスポットライトを浴びせる野球報道の影響にどっぷりと漬かったマスコミは、従来と同じ手法を日本オリンピック代表に持ち込むことで、選手たちの間にある溝をより深いものにしてしまった。前園や城の名前を知っている人はいても、アジア最終予選で“最優秀ディフェンダー賞”を受けたリベロの田中誠を知っている人は、ごく少数でしかなかった。これが、マスコミが総力を挙げてオリンピック・“チーム”を取り上げた末の結果だった。自分たちがやってのけた仕事の偉大さを、ディフェンダーの選手たちは自己満足という方法でしか再確認することができなかったのだ。  さらに言うなら、露出度だけは高かった攻撃陣の選手にしても、マスコミが彼らの本意をくみ取っていたとは言い切れない部分があった。城彰二は言う。 「Jリーグに入って1年目は、僕としてはもうアップアップで、周りのレベルについていくだけで精一杯だったんです。それが2年目ぐらいになると余裕が出てきて、途中からは物足りなささえ感じるようになった。入団した頃にイメージしてた“こういうプレーができるようになりたい”っていうのがこなせるようになってきたこともあって、高校時代は名前を聞いただけでもビビッてた韓国に対しても、コンプレックスみたいなものがなくなったんですよね。だから、アジア最終予選決勝の時も、僕らは普通にやれば問題なく韓国に勝てると思ってたんです。ところが、直前になって西野監督が守備的布陣で行くって言いだした。こっちはガックリですよ。だって僕らは、それまですべての試合でゴールを奪ってきた。なんで相手が韓国の時だけは特別なことをしなきゃいけないのって。あの試合がパッとしなかったのは出場権を獲得して燃え尽きてたからだ、なんて言われてますけど、それは違う。僕らは勝つ気満々だった。ただ、直前になって西野監督への不信感が噴き出してしまった。それが原因だったんです」  攻撃の選手には、彼らなりに要求を出すだけの根拠があった。ところが、マスコミを介して出てくるのはそんな本意から出た要求の最後の最後、つまり「もっと攻めたい」という言葉だけだった。当然、西野やディフェンダーたちはそうしたコメントを新聞などで目にするたびに不快感を募らせ、今度は「西野監督が不快感を露わにした」といった記事を見た攻撃陣の選手が不信感を強めていった。  一度動き始めた悪循環は、大会直前になって加速度的にその速さを増していった。アトランタ・オリンピックの幕が華々しく開いた時、日本オリンピック代表はもはや団結という言葉とはかけ離れた状態に陥っていた。  それでも彼らがかろうじてチームとしての体をなしていられたのは、ブラジルという存在があまりにも大きかったからかもしれない。攻撃の選手にとっても守備の選手にとっても、アトランタ・オリンピックでの最大の目的はブラジルと戦うことだった。子供のころからテレビで観てきたカナリア色のユニホームを着た選手たちと戦って、自分たちがどの程度やれるかを知ることが大切だった。目的というよりは夢と呼んだ方がふさわしかったのかもしれない。ただ、この夢だけが、壊れかけたチームをギリギリのところで支えていたのは疑いのない事実だった。  だが、巨敵は時間軸の向こうへ去り、事件は必然として起きた。 「ナイジェリア戦のハーフタイムだったなあ。生まれて初めてってぐらい、キレちゃったんだ、俺が」  そう言って西野はまた杯をあおった。バルのテーブルの上では、5本目のワインが空になろうとしていた。 [#改ページ] 第3章 ハーフタイムの出来事     '96・7・23 オーランド シトラスボウル・スタジアム     日本オリンピック代表─ナイジェリア・オリンピック代表

     1  西野の怒声が飛んだ。 「みんなが頑張ってるのに、なんでお前はそういうことを言うんだ!」  小倉の代役として代表に入った19歳は、ただ黙っていた。  ナイジェリア戦のハーフタイム、ロッカールームに引き上げてきた|中田英寿《なかたひでとし》は、同じ左サイドでプレーすることが多かった路木に、もっと押し上げてくれないとサッカーにならないじゃないか、と不満をぶつけた。  困ったのは路木だった。試合前、彼は西野から「ブラジル戦同様、自陣でボールを奪うことを考えるように」との指示を与えられていたからである。 「僕にとっての西野さんは、真の意味でのプロの監督でした。僕はあの人の言うことを全面的に信頼してましたし、試合に起用してくれたことで、ああ、西野さんも俺のことを信頼してくれてるんだ、って強く思ってたんです。だって大会直前のメキシコ戦まで、僕は先発どころか出番すらない選手だったし、そんな選手をブラジル戦みたいな大事な試合で使うってことは、監督にとってもものすごくリスクのあることでしょ。負けたら、『路木なんかを使うから負けたんだ』って言われるのはあの人なんですから。だから、ナイジェリア戦で『あんまり飛び出すな』って言われた時も、よし、それなら監督が要求しているものを見せてやろうじゃないかってね。実際、前半の僕のプレーは、そんなに派手なところはなかったけど、言われたことはキッチリこなしてたと思うんですよ。ところが、それを同じ立場にあるはずの選手に否定されてしまった。僕にはそれがショックだったし、試合の最中に監督が描いた“絵”を勝手に描き換えようとする選手がいるってことも信じられませんでした。それで……何も言わずに黙ってたんです」  だが、西野は黙っているわけにはいかなかった。重大な反逆に彼はキレた。監督になってからはもちろん初めてのことだった。  周囲の選手はただ呆然としていた。そのせいか、西野が怒りを爆発させた後に何が起こったかということについては、同じ場所に居合わせたとは思えないほど、それぞれの証言が食い違っている。 「ゾノさん(前園)とヒデ(中田)が控室に戻ってくると、フテくされた態度でロッカーを蹴り上げた。それで西野さんがキレて大変なことになってしまった」 「路木とヒデが話してるところを見て西野さんが激怒した。ヒデは黙って聞いてたけど、全然納得した様子じゃなかった」  怒声を浴びせられた側がロッカーを蹴り上げて反抗したという“事実”を記憶している者がいた。西野が怒っただけだという形の“事実”を覚えている者もいた。そして、たいして重要なこととは思わず、こちらから聞かれるまで事件の存在をきれいさっぱり忘れている者までいたのである。事件の当事者たちにしても、西野が「生まれて初めてってぐらい、キレちゃったんだ」と言っているのに対し、中田は「僕は冷静に話をしたつもりだったんですけど、西野さんが怒りだしちゃって。でもまあ、よくあることって言ったらよくあることですよ、あれぐらいは」と、まるで違った受け止め方をしている。結局のところ、確実に起きたことだと言えるのは「中田が西野のやり方に異を唱えた」ということと「それに対して西野が激怒した」ということの二点だけなのかもしれない。  ただ、いかに各個人が異なる映像と音声を記憶しているとはいっても、一つ、間違いなくいえることがある。  この時が、日本オリンピック代表が完全に崩壊した瞬間だった。  30分過ぎからやや押され気味にはなっていたものの、前半を終えた段階で、日本はまだナイジェリアに得点を許していなかった。 「無理して勝ちにいこうという気はサラサラなかった。言い方は悪いけど、ちょっとチンタラした試合に引きずり込んで、勝ち点1をあげて最後のハンガリー戦で勝負をかけるつもりだった」  そんなゲームプランを考えていたという西野にとっては、ある意味で、願ったりかなったりの展開だったと言える。にもかかわらず、彼は後半へ向けての具体的な指示を与えることができなかった。少なくともブラジル戦のハーフタイムに出したような、「間違いなくブラジルは前半とやり方を変えてくる。相手の両サイドバックはグンと前線に張り出してくるだろうから、路木と遠藤は十分にケアするように」といった、選手が何をしなければならないかを瞬時に理解できるような指示は、まったく出なかった。それぐらい、西野はキレてしまったのである。もっとも、仮に西野が何とか冷静さをひねりだし、具体的な指示を与えていたとしても、それがブラジル戦のような効果を持ったかどうかは疑問が残る。多くの選手が呆然としていたのは、西野の剣幕によるものというよりは、本大会のハーフタイムに選手と監督が言い争うという異常事態に対してだったからである。  フィールドに戻る選手たちの足取りは重かった。本来、ハーフタイムという時間は、前半に生じた戦術的なズレを少しでも元へ戻すための時間であると同時に、精神的なリフレッシュをはかるという意味合いも持っている。しかし、シトラスボウル・スタジアムのロッカールームで、彼らは戦術的な指示を与えられることもなく、精神的なリフレッシュをするでもなく、ただチームが完全に崩壊したという苦い思いだけを与えられてしまった。しかも、彼らは肉体的にかなり疲弊していた。足取りが軽いはずもなかったのだ。  だからだろうか、ロッカールームから選手たちの姿が消えるのにはいつもよりもずいぶんと時間がかかった。ようやく全員がフィールドへと向かい、スタッフもベンチへ入る準備を始めたその時である。ロッカールームのドアが開き、一人の選手が入ってきた。おや、といぶかしがる西野に、その選手は思い詰めた表情で言った。 「僕の責任です。僕がよくなかったから、あんなことになっちゃったんです。僕を代えてください」  副キャプテンの服部だった。  西野と服部の付き合いは長い。ユース代表の監督に就任した西野が、当時東海大一高を卒業したばかりの服部をチームに加えたのが始まりだから、かれこれ5年近くも一緒のチームで戦ってきたことになる。韓国ユース代表をソウルで破り、静まり返るチャムシル・オリンピック・スタジアムで歓喜の抱擁を交わしたことがあった。アラブ首長国連邦でのワールドユース・アジア最終予選で韓国に惜敗し、涙をこらえて抱き合ったこともあった。立場こそ違え、ともに修羅場をくぐってきた二人である。西野は服部のことを誰よりも信頼していたし、服部もまた、同じような気持ちを西野に抱いていた。 「僕は付き合いが長いから、西野さんがどんなことを考えてて、どんなサッカーをしようとしてるのかがよくわかったけど、オリンピック代表になってから入ってきたヤツらじゃそうはいかない。だから、どうしても西野さんに対する不満が出てくるし、僕も立場は選手だから、彼らの言うことがすぐ耳に入ってくるわけですよ」  信頼する監督と、仲間たるべき選手たちの間で板挟みになった服部は、「まるで中間管理職のような」ストレスを感じながら、それでも両者の間を行き来し、懸命になって関係を修復しようとした。コーチの山本昌邦と夜を徹して語り合ったことも一度や二度ではない。不満を持つ選手たちと意識的にケンカし、ゼロからチームを作り直そうと考えたこともあった。「時間がないし、完全に関係が壊れてしまうのが怖かった」ために結局は思いなおしたものの、そこまで、服部は西野のチームのことを案じていたのである。もちろん、西野も彼のそうした動きをよく知っていたし、それだけに、突然の直訴を受けた驚きは大きかった。  しかし、服部は何も思いつきでこんなことを言いだしたのではなかった。 「前半の途中あたりから、必死にボールを取ってクリアしても、取り返されてすぐにこっちに戻ってきちゃう状態で、ホッとする間もなくディフェンスに集中しなきゃいけないっていう、一番疲れるパターンだったんですよ。そんな時間帯が続いたんで、だんだん僕のパスの精度が落ちてきてた。それは自分でもよくわかってたし、前線の選手が苛立ってきてるのはもっとよくわかった。プレーが中断した時なんか、テル(伊東)と一緒に『今日はダメだな、俺たち』って話してたぐらいだったんですよ。ゾノやヒデが苛立ってるのは、僕とテルが中盤でまったくボールをキープできてないせいだったんですから。だから、チームのことを考えたら、僕の代わりにフレッシュな、たとえばキープ力のあるヒロ(|廣長優志《ひろながゆうじ》)みたいな選手を入れた方が機能するんじゃないかと思って……。前半の途中から、ヤツがアップしてるのは見えてましたしね」  ブラジル戦の後半で、服部はゼ・エリーアスに背後から悪質なタックルを見舞い、警告を受けていた。場所はセンターサークルの付近だったから、普通であれば相手を倒すタックルなどまるで必要のない状況である。だが、彼は意図的にそれをやった。「みんなが疲れていたから、このプレーでカツが入ればいいと思った」のだという。そこまで試合の流れを読める選手が、自分を下げてくれと要求してきている。選手である以上、ゲームに出たくない者などいるはずがないのに、服部はそれでも自分を外してくれと懇願している。西野の心は揺れた。  実は西野自身も、前半の服部の動きには大いに不満を感じていた。ハーフタイムの直訴を待つまでもなく、前半の半ばが過ぎた段階で、彼は服部を交代させることを真剣に考え始めていたほどだったのである。試合が0─0のまま進んだため、交代は現実のものとはならなかったが、前半が終わった時、まず西野の頭に浮かんだのは「服部と(右サイドバックの)白井は途中で代えなきゃいかんかもな」ということだった。  だが、ロッカールームでの事件を境にして状況は一変していた。本人が言うように、攻撃陣の選手が服部のプレーに苛立っていることに西野は気づいていたし、メキシコとの練習試合の最中、攻撃陣の選手があからさまに不満をぶつけたのが服部だったということも、よく覚えていた。だが、引き分け狙いというゲームプランがうまくいっている以上、ここで服部や白井を代えることは、結果として攻撃陣の言い分を認めることにもなってしまう。短い躊躇の後、西野は言った。 「いや、お前は絶対に代えないぞ」  同時に西野は、この先、仮に決勝トーナメントへ進むことがあっても、二度と中田は使うまい、と決心した。しばしの沈黙の後、服部は意を決したかのようにフィールドへと向かった。すぐに後半が始まった。      2  精神的なまとまりを失い、具体的な指示を受けたわけでもない日本の選手たちは、それでもよく戦った。試合の流れは明らかにナイジェリアへと傾いていたが、リンチのようですらあったブラジルの攻めに比べれば、最終的にオリンピック・チャンピオンとなるアフリカ人たちの攻めはずいぶんと単調で、日本の最終ラインはある程度の余裕を持って対応することができた。突発的なアクシデントさえ起きなければ、西野が試合前に描いた「0─0で乗り切って、次のハンガリー戦に勝負をかける」というプランは現実のものとなっていたかもしれない。  しかし後半23分、大会が終わってしばらくしても西野を「あれさえなければ……」と悔しがらせるアクシデントは起きてしまった。相手選手と接触したセンターバックの田中誠が倒れたのである。 「マコ(田中)が倒れた瞬間、俺は『あ、これなら大したことはないな』と思った。ベンチから見たところ、相手の足は腹に入ったように見えたし、マコ本人も最初は腹を押さえてたからね。ちょっと苦しがってるようだけど、それは息が詰まってそうなってるんだと思ってた。だから、別に控えの選手をアップさせるでもなく、わりと落ち着いてみてたんだよ。ところが、トレーナーがヤツのところに行って話を聞いてみたら、ひざの痛みを訴えてるっていう。ひざを痛めたんなら、もうプレーを続けさせるわけにはいかない。おかしいなとは思いつつも、慌てて秋葉(忠宏)をアップさせたんだけど——」  得点をあげた伊東や最後尾で派手な活躍をした川口ばかりにスポットライトが当てられたブラジル戦だったが、これがヨーロッパや南米であれば、マスコミやファンはセンターバックとして獅子奮迅のカバーリングを見せた田中にも脚光を浴びせたことだろう。それぐらい、ブラジル戦における田中の働きは際立っていた。このナイジェリア戦でも、途中から完全に中盤を制圧された日本が無失点を保っていられたのは、危ないと思った場面には必ず姿を現す彼の判断力によるところが大だったと言える。もちろん、西野は田中のプレーを高く評価していたし、彼のことをいわゆる“補充の効かない選手”の一人であるとも考えていた。そんな選手が、いよいよ正念場というところでフィールドから消えてしまったのである。西野はそのことに対する悔いを捨てきれていないし、同じ悔恨の思いは田中本人の胸にも強く残っている。 「大会が終わってしばらくしても、なぜあそこで退場しちゃったんだろう、なぜもう少し頑張れなかったんだろうって、ずっと考えてましたよ。そりゃ、ずっと前からひざは痛めてたし、アムニケの足が僕のひざに入ったのも事実だったけど、今から思えば、そんなに大した接触じゃなかったんですよ。なのに、担架で運ばれてフィールドの外に出たら、何か自分の中でプツンと緊張の糸が切れてしまったんです。もちろんナイジェリアは強かったし、特に体力的な面で苦しい試合ではあったけれど、でも僕たち最終ラインの人間はブラジル戦に比べればずいぶん余裕を持ってたし、あのまま僕がプレーを続けていたら、0─0で終わってた可能性はすごく高かったと思います。もしやり直せるなら、僕はナイジェリア戦のあの時間からやり直したい。フィールドに戻って、残りの22分間を戦いたい……」  ブラジル戦のキックオフ直前、田中はスタンド下の通路に並んだカナリア色のユニホームを横目に「俺、無事じゃ帰れないかもしれない」と漏らしていたという。この時、彼の心中には強い恐怖感があった。オリンピックという世界大会で大量失点を喫する恐怖、その失点がすべて守備陣の責任とされてしまう恐怖、そして果たして自分のプレーがブラジル相手に通用するのかという恐怖——さまざまな恐れに心を|炙《あぶ》られながら臨んだブラジル戦だったのだ。それはおそらく、初めて実弾の飛び交う戦場に放り込まれた初陣兵の心理状態と極めて似通ったものだったのかもしれない。  アジア最終予選では大会最優秀ディフェンダーにも選ばれた田中は、誕生日が川口と1週間違いで、高校も川口と同じ清水商を卒業している。ただ、高校1年生の時からユース代表に選ばれ、いくつもの修羅場をくぐってきている川口に比べると国際経験はグッと少なかった。さらにいうならば、彼は所属するジュビロ磐田でも、まだレギュラーとは言い切れない微妙な立場にいた。そのカバーリング能力には間違いなく素晴らしいものがあったが、それを果たしてオリンピックという世界大会で発揮できるかどうか、そして通用するのかどうかは本人が一番不安に思っていたところだった。そのせいだろうか、田中はジュビロのブラジル人選手にアドバイスを求めるでもなく、対峙するであろう選手の特徴を聞くでもなく大会に臨んでいた。  幸運にして、田中は初陣を無傷で乗り切った。しかし、休む間もなく次なる戦いは始まり、彼は再び戦場へと駆り出されていった。ナイジェリアは先の米国ワールドカップでセンセーションを巻き起こし、ワールドユースでは優勝経験まである強豪である。ブラジル戦の前ほどではないものの、田中の心中に再び恐れが芽生えていたとしても不思議ではない。むろん、彼とて戦士である。戦いが始まれば恐怖心など一切捨て去っていただろうし、実際のところ、ナイジェリア戦での彼のプレーにはふてぶてしささえ漂っていたものだ。  だが、相手選手と接触したことで、彼はフィールドの外に出てしまった。絶対に自分が傷を負わずにすむ世界の存在を知ってしまった。ブラジル戦での終盤、日本ベンチには笑いさえあった。しかし、冗談を飛ばしていた松原は、交代出場を命じられたとたん、「自分でもあんなに走ったのは初めて」というほどの勢いでグラウンドを駆け回り、わずか数分間を永遠のように感じていたという。細い白線一本で仕切られただけなのに、フィールドの外と中とはさほども違うものなのである。  そんな外の世界に、田中は運び出されてしまった。死闘が展開されている世界のすぐそばに、平穏な世界が広がっていることを知ってしまった——。      3  突如として要を失った日本の守備陣は、次第に破綻を|来《きた》していった。田中が倒れてから5分近くたって交代で入った秋葉は、最終ラインの作り方が前任者とはやや異なっていたうえ、多くの選手は田中と守るリズムにすっかり馴染んでいたからである。精密機械のようにバランスのとれていたディフェンダー同士の間隔にはバラつきが出るようになり、それはGKとの関係にまで影響を及ぼしていった。相手右サイドバックがいきなりのタテパスを日本の最終ラインに放り込んできたのは、そんな時である。  川口が言う。 「押されてたせいもあって、あの試合の最終ラインは、いつもよりちょっと引き気味になってたんですよ。当然、僕もそれに合わせたポジション取りをしてました。それがなぜか、あの瞬間だけはラインが上がってたんです。僕はそれに気づかないで、最終ラインとの間隔を開けてしまっていた。気づいたのはタテパスが入ってきた時ですよ。『あっ、距離が開き過ぎてる、間に合わない!』ってね。ああいうボールに対する飛び出しの早さは、僕の最大の売りだったのに……」  何ということのないロングボールだった。しかし、日本の最終ラインはそれまでの組織だった守りがウソのように、いとも簡単に裏を取られた。ババンギダの放ったシュートは、慌てて飛び出した川口と入れ替わるような形でゴールマウスへと向かい、最後はカバーリングに入ろうとした秋葉の身体に当たってゴールネットを揺らした。  簡単にロングボールの放り込みを許した前線のチェックの甘さ、あっさりと裏を取られた最終ラインの油断など、失点の原因はいくつもあった。だが、あえて最大の原因をあげるとすれば、それは川口の判断ミスだった。ブラジル戦では張りつめたピアノ線のように敏感だった彼の危機察知能力は、ハーフタイムの事件に神経の何割かを取られたことで、かなり弛緩していたのである。ゆえに、飛び出しが一歩遅れた。失点の瞬間、彼は「恥ずかしさと申し訳なさでグラウンドから消えたくなった」というが、もう後の祭だった。  日本は苦しくなった。ぶつかりあいではかなわない。スピード勝負でも厳しい。パスを多用して素早い展開に活路を見いだそうにも、多くの選手はかなり疲弊してしまっている。そんな絶望的な状況でありながら、彼らはナイジェリアからゴールを奪わなければならなかったのだ。八方塞がりになった選手たちの中に、レフェリーに助けを請うことで苦境からの脱出を図ろうとする者が出てきたのは、責められないことなのかもしれない。  その兆候がわかりやすい形で現れたのは、残り時間が5分を切ったあたりだった。相手ボールのカットから、素早く前を向いた城が絶妙のスルーパスを前園へと通す。ディフェンダーにはさまれるような位置でボールを受けた前園は、よくコントロールされたファーストタッチで両者を一気に置き去りにし、飛び出してきたGKも軽いステップで鮮やかにかわした。これで障害物はなくなった……はずだったのだが、GKを抜き去る際に少々ボールを強く持ち出しすぎてしまったため、ボールに追いついた時はシュートの角度がほとんどなく、彼は一度切り返して狙い直さなければならなくなった。その時、必死に戻ってきたナイジェリアのディフェンダーが足元にスッ飛んできたのである。  前園はバッタリと倒れた。  PKか!? 日本のベンチは総立ちになった。だが、期待も長くは続かなかった。問題の地点に急行したイタリア人のコリーナ主審は、倒れた前園に対してイエローカードを突きつけたのである。PK欲しさにワザと倒れた、という判断だった。  後になってビデオで見返してみると、確かにナイジェリア・ディフェンダーの足は前園の身体にほとんど触れていないことがよくわかる。コリーナ氏のジャッジは正しかった。残念ながら、前園を倒したのはアフリカ人選手の足ではなかった。彼にとって不運だったのは、コリーナ氏がセリエAという世界屈指の“演技派”たちが集うリーグで笛を吹き、そこで年間最優秀レフェリーにも選ばれたことのある人物だったということである。前園の“演技”はなかなか鮮やかであったものの、目の肥えたベテラン・レフェリーを欺けるほどではなかったのだ。  問題は、なぜ前園が倒れたのかということである。切り返しを行った時点で、まだ彼は圧倒的に有利な立場に立っていた。パスを出した城は懸命のパス・アンド・ゴーでゴール前へ突っ込んできていたし、ナイジェリアのディフェンダーは誰も城の存在に気づいていなかった。前園には、自分でシュートを打つことも、城にセンタリングを合わせることも、そして城の存在を相手に気づかせておいてから、それを|囮《おとり》にして中へ切り込むこともできた。  なのに、前園は倒れてしまった。  同じような兆候は、試合終了直前にも現れ、より重大な結果をもたらした。日本陣内に放り込まれたルーズボールを、ストッパーの鈴木とイクペバが追った。先にボールに追いついたのは鈴木の方だった。だが、彼は突然倒れたかと思うと、ボールを抱え込んでしまったのだ。前園のケースとは違い、鈴木の足には間違いなくイクペバの足が引っかかっていた。軽くではあるが、後ろにはね上げた鈴木のカカトをイクペバのスパイクが引っかけていたのである。そのまま転ぶだけにしておけば、おそらくはコリーナ氏も攻撃側の反則を取っていたことだろう。ところが、鈴木は「主審が反則を取るのは当然だ」とばかりに、イクペバのプレーに自らジャッジを下してしまった。弁護士や銀行家といった、社会的ステイタスの高い人間によって構成されるイタリアの審判は、ジャッジメントの権利を選手に奪われることを何よりも嫌う。コリーナ氏は迷わずペナルティ・スポットを指さし、ナイジェリアにPKが与えられた。 「なんであんなことをしてしまったのか……。本当にイクペバの足は僕のカカトを引っかけてたんです。絶対にファウルはあったんです。でも、倒れた瞬間、思わずボールを抱え込んでしまった。試合展開が苦しくなってきてて、こっちが追い詰められてたっていうのが原因なのかもしれませんが……。正直、自分がなんであんなことをしてしまったのか、今でもよくわからないんです」  アトランタ・オリンピックがずいぶんと過去のものになってからも、鈴木の口調は重かった。あのハンドは、結果的に日本から決勝トーナメント進出の権利を奪うことになってしまった。大会終了後、各方面から「あの無用な反則がなければ」と手厳しい批判を浴びたこともあって、彼はあの場面を生涯忘れないだろうという。  しかし、かたや忘却の彼方へと消え、かたやオリンピックのたびに語り継がれそうな気配もある二人の選手の転倒は、実はまったく同じ根を持っている。  最初の失点を喫した時点で、前園は「これは相当に難しいことになったぞ」と感じた。田中がフィールドを去った段階で、鈴木は「ちょっとまずいかもしれない」と不安を募らせた。前線で倒れた者も自陣で倒れた者も、心身両面でずいぶんと追い詰められていたのである。そこで彼らは、無意識のうちに審判に助けを求めてしまった——。  さらに付け加えるなら、もし前園が敵陣で転倒していなかったら、鈴木のプレーはハンドではなく、相手の反則として処理されていた可能性が大だった、ということもできる。それまでのコリーナ氏は、どちらかといえば日本に甘めのジャッジを下していた。前園の転倒は、彼の思惑がどうであれ、コリーナ氏からすればレフェリーを欺こうとする行為と映ったに違いない。それゆえ、以降、転倒する日本人選手に対する判断の基準が厳しくなったということは十分に考えられるからである。  とどのつまり、ナイジェリアに2点目をプレゼントすることになった鈴木のプレーは、彼個人の単純な判断ミスとして片づけられるようなものではなかった。彼のプレーの前には前園の転倒があり、その前にはちょっとしたミスから生まれた失点が、田中の退場があった。そして、「自分の中でプツンと緊張の糸が切れてしまった」という田中の退場は、精神的なリフレッシュを一切することができなかったハーフタイムの事件にも原因があった。要は、すべてが綿々と連なった結果として生まれた失点だったのである。 「最後はナイジェリアの体力に押し切られたって感じでしたね。まあ、気持ちを入れ替えてハンガリー戦は頑張りますよ」  試合終了後、テレビカメラに囲まれた西野は、ハーフタイムに重大な事件があったことなど微塵もうかがわせない明るい表情で語った。しかし、もちろん彼は事件のことを忘れたわけではなかったし、あの時の決心が揺らいだわけでもなかった。  日本は0─2でナイジェリアに敗れた。  2日後の第3戦、スターティング・メンバーに中田英寿の名はなかった。 [#改ページ] 第4章 中田英寿の肖像

     1 「今回のオリンピック・チームって、選手の中で大学に行ってたのが俺だけだったんですよ。だからこう、俺なんかが大学で感じてた常識が通じないっていうか、考え方がまるで違う人種がいるなっていうのは時々感じてましたね」  大会が終わってしばらくしてから、副キャプテンだった服部はこんな感想を洩らしている。彼は特に個人名をあげることはしなかったが、頭の中で具体的な名前を思い浮かべているであろうことは、容易に想像することができた。変人、傲慢、冷めたヤツ……取材を進めていくうち、実に多くの選手の口からこうした言葉を聞かされていたからである。それは大抵の場合、話が中田に及んだ時のことだった。  だが、そうしたネガティブな印象とはまるで違う中田像を持っている人物もいた。たとえば、日本サッカー協会の強化委員を務めていたこともあるサンフレッチェ広島の総監督、今西和男である。彼は、オリンピック代表に中田が初めて合流した日のことを鮮明に記憶している。 「あれはとにかく、賢い子じゃった。もちろんプレーの質も素晴らしかったが、ワシが一番感心したのはあの子の頭やね。普通、十代の男っちゅうもんは、同じ世代のモンとばっかりひっついて、外の世界にはなかなか興味を示さんもんなのに、あの子だけは違った。練習が終わると、すぐにワシらのところに来て話をしたがっとった。それもサッカーに限った話だけやない。あらゆる分野のことを話したがるんじゃ。礼儀作法もキチンとしとるし、何かこう、子供のチームの中に、一人だけ大人が紛れ込んだような感じを漂わせとった」  今西は、日頃からサンフレッチェの選手たちに「サッカーばかになったらいかん。世間に出ても普通にやっていける常識を身につけろ」と口を|酸《す》っぱくして言っている人物である。新人選手を獲得する際には、ただプレーの面だけを見るのではなく、果たしてその選手が強いハートを持っているかという点も重視してきた。そんな人物が、ユース時代から“ロンリー・ウルフ”と呼ばれ、協調性などまるでないとみられていた男に対して好感を抱いている。これは実に興味深いことだった。  中田英寿とは、いったいどんな男なのだろうか。 「もし本当にサッカーがうまくなりたいんなら、やっぱり海外でやらなきゃダメなんじゃないですか。ただ、僕はそこまで力入れてサッカーやってるわけじゃないですから、自分で売り込んでまで海外でやろうとは思わないですね」 「サッカーはそんなに好きじゃないし、あんまり深くは考えてません。まじめになればなるほど、ストレスがたまりますから」 「サッカーをやっているのは、今の僕にはそれが一番お金になるから。他に稼ぐ方法が見つかったら、そっちの方にいきますよ」  中田に初めて話を聞いた時のノートを見返してみると、熱血漢であればカチンときそうなセリフがこれでもか、これでもかとばかりに記されている。なぜベルマーレに入ったのか、という問いに対する答えは「ここが一番タテ社会のしがらみがなさそうだったから」となっている。実際、彼は別の機会でもまったく同じことを答え、「君はもうサッカーをやめた方がいい!」とインタビュアーを憤激させたことさえある。一見すると、確かに誰からも愛されるというタイプの人間ではないようだった。  だが、彼と話をする機会が増えていくうちにふと思いついたのは、ひょっとするとこの選手は、偽善者ならぬ偽悪者なのではないか、ということである。  誤解を招きそうな答えをしている時、中田はこちらの顔をじっとうかがい、果たしてこのインタビュアーは自分の真意を間違いなく理解しているのか、と観察しているようだった。その受け答えにしても、どうやらわざと刺激的な形で口にしているフシがある。そのうえで、それを鵜呑みにするような聞き手であればそこで心を閉ざし、もし裏を読もうとする聞き手であれば、もう少し突っ込んだ、言い方を変えれば自分の真意に近いところをちょっぴり明かす。誰に対しても開けっ広げに自分の素顔を見せるのではなく、理解してくれる人だけ理解してくれればいいといった、19歳の少年とは思えないしたたかな部分を、中田という男は持っているようだった。  たとえば、話がナイジェリア戦のことに及んだ時である。中田はこんなことを言った。 「絶対に攻めに出るべきでしたよ。こっちの力を100%出せば、ナイジェリアは十分に勝てる相手だったんだから。少なくとも、後半は攻めに出なきゃいけない状況だったと思います。たぶん、西野さんに攻撃に関する具体的なイメージがなかったんじゃないですか」  このセリフだけを聞けば、中田の言っていることはただのわがままとしか聞こえない。100%を出せばナイジェリアに勝てるという根拠が見えないし、攻撃の選手である以上、攻めに出たがるのは当然のことだからである。しかし、続けてブラジル戦の話を聞けば、彼が単なるエゴイストではないことがよくわかる。 「攻撃の選手としてはつまらない試合でしたけど、僕が監督だったとしても、間違いなくああいうサッカーをやらせたでしょうね。日本とブラジルの実力差を冷静に考えた場合、普通にいけば1─5、悪くすれば2ケタ近い失点もあると思ってましたから」  チーム内で「口の利き方がなってない」と陰口を叩かれることもあった中田は、私に対して最後まで美しい敬語を崩そうとはしなかった。「フィールドの中にタテ社会を持ち込んでもいいことは何もない。でも、初めて会う人に対して|タメ口《ヽヽヽ》を叩いたら、それは日本の社会では恐ろしく失礼なことだし、相手に不快感を与えることになるでしょ」というのがその理由だという。 「金子さん(筆者)とだって、これから親しくなっていったらタメ口になるかもしれませんよ。どうします?」  そう言って中田は少々挑発的な笑みを浮かべた。こういうところが誤解を受けるのだろうが、どうやら本人は、それを楽しんでさえいるらしい。破天荒に見えて、実はすべての行動に理由と根拠を用意しているのが中田という男だった。  ではなぜ、中田はナイジェリアを十分に勝てる相手だと観ていたのだろうか。  前半の45分間で、彼はナイジェリアの弱さに愕然としていたのである。 「僕が人生の中で一番衝撃を受けたのは、'93年のアンダー17世界選手権の前に、ナイジェリアと練習試合をやった時だったんです。とにかく身体能力がすごい。これは僕らがどうやったって歯のたつ相手じゃないって感じでした。それがアトランタで当たってみたら、彼ら、ほとんど伸びてない。十分に手の届く存在になってたんですよ。まあ、実際に戦ってみる前はわからないからしょうがない。でも、45分間戦ったあとも、前半と同じようなサッカーをやるってのは納得がいかなかった。それで、もっと押し上げてくれって路木に言ったんです」  中田と同じような気持ちを抱く選手は他にもいた。同じくアンダー17で世界大会を経験している松田直樹である。彼はナイジェリアの怪物フォワード、カヌーのマークにつきながら、「初めてやった時に比べたら全然動けなくなっているな」と感じたという。そして、ストッパーという相手攻撃陣の重圧をモロに受ける立場でありながら、ハーフタイムに出た中田の発言を「ヤツの言うことにも一理あるな」と見ていた。ズルズルと一方的に自陣ゴール前に釘付けにされ、いくらラインを押し上げようとしてもできなかったブラジル戦とは違い、求められるのであれば攻撃陣に力を貸すことも可能だとの自負が、松田にはあった。      2  アンダー17世界選手権、かつてはワールド・ジュニアユースと呼ばれていた17歳以下のワールドカップは、'93年、日本で開催された。この大会は、ちょうどワールドカップがそうであるように、開催国には自動的に出場権が与えられるシステムを採用していた。日本サッカー界は、'79年に地元で開催したワールドユース以来、久々に世界大会へ参加する機会に恵まれたのである。  初出場とはいえ、地元開催で無残な姿をさらすわけにはいかない。日本サッカー協会はいつになくこのチームの強化に力を入れ、その甲斐あってか、アンダー17日本代表は日本サッカー史上初めて、国際サッカー連盟(FIFA)主催の世界大会でグループ・リーグを突破し、ベスト8に進出する。キャプテンの|財前宣之《ざいぜんのぶゆき》が大会優秀選手に選出されるなど、単に地元の利を生かしただけではない、堂々のベスト8だった。中田、松田はこの時のメンバーだった。そして、準々決勝で日本に2─1で勝ち、そのまま優勝まで突っ走ったナイジェリアには、後にアトランタ・オリンピックで対戦することになる選手が何人もいた。  ヌワンコ・カヌーは、そんな中の一人である。日本での活躍で注目を集めた彼は、大会が終わってしばらくすると、ヨハン・クライフやマルコ・ファン・バステンらの名だたるプレイヤーを輩出した世界的名門、オランダのアヤックス・アムステルダムに引き抜かれ、わずか2年後にはクラブ・チームの世界一決定戦、トヨタカップのフィールドに立つまでになっていた。現状だけを見れば、もはや日本サッカーのレベルとは遠いところにいってしまったとも言える選手だった。  ほとんどの日本人選手は、世界と日本の差を計る際に三浦知良を基準にしてきた。三浦は、アジアでは間違いなく傑出した選手である。だが、所属したチームが弱小だったこともあって、セリエAではほとんど活躍できないまま終わっている。そのため、Jリーグで三浦より劣る活躍しかできない選手たちは、必要以上に世界の壁を高いものだと感じてしまう傾向があった。  しかし、中田や松田の物差しは違った。彼らはアンダー17世界選手権の1年後、今度は自力でワールドユースの出場権を獲得し、そこでもベスト8に進出していた。グループ・リーグで対戦し、中田がゴールをあげたものの1─2で敗れたスペインには、イバン・デ・ラ・ペーニャ、ラウール・ゴンサレスといったのちにヨーロッパの新星とまで呼ばれるようになった選手がいた。準々決勝で対戦したブラジルとも、1─2という接戦を演じていた。中田や松田にとって世界は十分に手の届く存在であり、恐れる理由はどこにもなかったのだ。オリンピック初戦のブラジル戦のキックオフ直前、松田は「笑いが止まらなかった」とさえ言う。 「これから世界中のファンが見ているところで本当の真剣勝負をブラジルとやれるんだと思った瞬間、ワケもなくゾクゾクするような喜びがこみ上げてきちゃって」というのだ。  しかも、彼らにとってナイジェリアは勝手知ったる旧敵でもあった。彼らは、オリンピック終了後にセリエAの超名門、インテル・ミラノに移籍することの決定していたナイジェリア人のセンターフォワードが17歳の時にどんな選手で、どんなプレーをしていたかをよく知っている。自分たちと彼の間にあるレベルの差が、身体能力の差ほどにはないことも熟知している。さらにアトランタ・オリンピックでのカヌーは、まもなく発覚することになる心臓疾患を抱えており、動きの量は明らかに落ちていた。中田や松田からすれば、ナイジェリアは十分に勝ちを計算できる相手だったのである。  その思いを、中田はストレートに口にした。  松田は、黙って西野の指示に従った。 「こういうのが自分の一番ダメなところだってのはわかってるんですけどね、あの時はチームに対して遠慮があったんです。っていうのは、僕の中で、アジア最終予選に出場してないっていうのがすごく負い目になってたから。もしあの予選に出場してて、日本が出場権を獲得するのに何らかの貢献をしてたとしたら、僕もチームに対して要求することができたと思うんです。でも、みんながマレーシアで死に物狂いで戦っている時、僕は日本にいたんですよねえ……。だから、すごく情けないことなんだけど、『これは自分のチームじゃない。自分のやりたいサッカーを要求するべきじゃない。みんなに合わせなきゃいけない』って思いを捨てきれなかった。僕、年齢も一番下でしたしね」  中田と松田にとっては練習試合を含めてこれが4度目の対戦となるナイジェリアも、その他の選手にとっては初めての相手だった。多くの選手は、3年前の中田と松田がそうだったように、相手の身体能力に驚愕していた。  アモカチのサイドアタックを封じるために、本来のポジションではない右サイドバックに起用された白井博幸は、予想に反してアモカチがあまりサイドをついてこなかったにもかかわらず、「前半だけで足がつりそうだった」というところまで追い詰められていた。ブラジル戦の英雄、伊東は「中田の気持ちはわからないでもなかったけど、(マークする)オコチャが上がりっぱなしだったし、僕が攻めに出るのは危険だなという気持ちが強かった。それと、とにかく身体が重くて、一度前線に飛び出したら戻ってこれないんじゃないかなって恐怖感もあった」という。  道のりを一番遠く感じるのは、その道を初めて歩いた時だという。これがオリンピックはもちろん、世界大会初出場だった白井は、クラブ・ブルージュ(ベルギー)、エバートン(イングランド)とヨーロッパの強豪チームを渡り歩いてきたアモカチが、途方もなく危険な選手に感じられたに違いない。米国ワールドカップでプレーした経験があり、アモカチ同様、アイントラハト・フランクフルト(ドイツ)などの名門で活躍してきたオコチャは確かに危険な選手だが、見方を変えると、ブラジル戦でゴールをあげている伊東は、ナイジェリアにとってはもっともわかりやすい、警戒すべき選手だったはずである。彼が攻撃に参加すればオコチャは自陣に戻らざるを得ず、逆に伊東の負担は減っていたかもしれない。  だが、それもすべて結果論である。7月23日のシトラスボウル・スタジアムには、相手をかつてより身近な存在としてとらえた選手と、相手を未曾有の強敵ととらえた選手が同居していた。同じ相手と対戦していながら、それぞれの皮膚が伝える感触は、見事なまでに異なっていたのである。  自分が弱さに驚いた相手に、仲間は脅えさえしている。松田は自分を殺すことで周囲に同化しようとした。だが、中田は最終予選で大活躍していたし、そもそも、そうした遠慮をサッカーに持ち込むのはまったくのナンセンスであると常日頃から考えている男である。彼は|焦《じ》れったさをこらえきれず、それが路木に対する要求となって現れた。  しかし、本人がなかば確信犯的に誤解を招くような態度を取ってきていたこともあって、中田の本質はチームの内部でもほとんど理解されていなかった。      3  中田は、口にすると嘔吐してしまうほどの野菜嫌いである。嫌い、というよりはほとんどアレルギーだと言っていいかもしれない。それゆえ、合宿や遠征などでも食事に対して文句をつけることが少なくなかった。それが、周囲の人間にはわがままに映る。そんな選手が求める攻撃重視の姿勢は、疲弊した者たちにとって「また始まった」程度のものでしかなかった。だが、実は中田は血液検査を受け、自分の血液に問題がないと知ったうえで野菜の摂取を拒否していたのである。「野菜を食べなくても誰に迷惑をかけるわけじゃない。それよりも、食事のマナーを知らず、周囲に不快感を与える選手の方がよっぽど問題じゃないか」とまで彼は考えていた。要求には常に根拠を求め、根拠なき頭ごなしの要求には本能的な反発さえ覚えてしまうのが、中田という男だった。  誤解を招いてきた大きな要因の一つである「サッカーはそんなに好きじゃない」という言葉にしても、彼の経歴を調べてみれば、とうてい鵜呑みにできることではないことがすぐわかる。中学時代の中田は、望むのであれば山梨県内のどの高校にでも進める学業成績をとっていた。にもかかわらず、彼はあえて自宅から遠い、|韮崎《にらさき》高校への進学を選ぶのである。理由は簡単だった。自宅からごく近いところにある進学校は、工事のためにグラウンドが使えなくなっていた。ならば、サッカーのできる、そしてサッカーの強い学校に行った方がいいんじゃないか——。  サッカーが嫌いな男にできる決断ではない。 「(サッカーについて)あんまり深くは考えてません。まじめになればなるほど、ストレスがたまりますから」と言いながら、彼は恐ろしく深くサッカーを考えていた。ただ、それを知られることで、サッカーのことにしか興味を持たない、いわゆる「サッカーばか」と同一視されることが嫌だった。「自分で売り込んでまで海外でやろうとは思わない」という言葉の裏には、「請われて移籍するのでなければ、向こうへ行っても試合に使ってもらえない」という冷静な読みがあった。彼は海外に行きたくないのではない。ユヴェントスに留学したことはあるし、イタリア語や英語の勉強もしてきている。強調したかったのは、“売り込んでまでは”という部分だった。  西野の怒声を浴びながら、「ああ、この人もか」と中田は思った。彼は何も、自分をアピールするために攻撃的なサッカーをしようと要求していたのではない。大会前にそうしたコメントをしていたのは事実だったが、この時は、攻めに出た方がナイジェリアに勝つ可能性が高いと考えたから要求していたのである。それが間違っているなら間違っているで、納得のできる反論を彼は欲していた。  アジア最終予選の際、彼は西野からいわゆる右のウイングバック、つまり守備的なポジションを与えられていたが、そのことについては「あのポジションをやれる選手がいなかったから仕方がない」と納得していた。あのサウジアラビアとの死闘で、後半27分、ゴールライン上で奇跡のクリアをしたのも中田だったのである。彼は決して、周囲が考えているように単なるわがままで攻めを要求したのではなかったのだ。  しかも、ナイジェリア戦より苦しい展開といえたサウジアラビア戦で、日本は最後までサイドアタックを狙おうという姿勢を貫き通していた。押し上げさえあれば、中田にはチャンスを作る自信があったし、実際にこのナイジェリア戦でも、前半の40分、流れの中で敵陣まで入ってきていた路木からのパスを受け、GKと一対一となるラストパスを城に通してもいた。なのになぜ、引き気味に戦わなければならないのか。彼はそれが聞きたかった。  にもかかわらず、西野の口から出たのは「みんなが頑張っているのに」という言葉だった。そこに中田は「だからお前も……」という論理的ではない圧力を感じてしまう。監督に対する信頼が音を立てて崩れていくのを感じながら、彼は、ただ黙っていた。  普段の西野であれば、こんな言い方で中田を説得することもできたかもしれない。 「お前のいいたいことはわかる。だが、ほかの選手を見てみろ。ブラジル戦の疲れが抜けていないから、ほとんど身体が動いていない。こんな状態で攻めに出たら、間違いなく大量失点を食らうことになる。ここは我慢だ。我慢して勝ち点1を取れば、ほぼ確実に決勝トーナメントでプレーできるんだぞ」  多くの選手は、ナイジェリアの身体能力に驚くと同時に、まるで動かない自分の身体にも愕然とさせられていた。ブラジル戦では、それまで一度もそんなことのなかった城の足がつった。痛み止めの注射をうっていた遠藤は、アキレス腱があげる悲鳴に気づかないままプレーを続け、試合後、身動きすらとれなくなってナイジェリア戦の欠場を余儀なくされた。  肉体的な問題だけではない。イマジネーション豊かな、それまで体験したことのない次元の発想でプレーを組み立ててくるブラジルとの試合は、日本選手の精神面にも大きなダメージを与えていた。知らず知らずのうち、多くの選手が人間としてのリミッターを踏み越えていた。西野はそのことを知っていたし、知らされれば、中田も納得したかもしれない。  しかし、本大会のハーフタイムという極限状態で冷静さを保てるほどの余裕を、マスコミや協会は西野に与えていなかった。加えて、アトランタは西野にとっても初めての世界大会だった。普段の彼であることを阻害する条件は、揃い過ぎるほど揃っていた。これが3度目の世界大会で、外敵に悩まされることもなく、当たり前のように怜悧な感覚を保ち続ける19歳とは何もかもが違っていた。  オリンピック代表のトレーナーを務めた並木|磨去光《まさみつ》には、どうしても忘れられないエピソードがある。  ブラジル戦のキックオフ直前、こわばった表情ばかりが並んでいることに気づいた彼は、少しでも緊張をほぐしてやろうと耳のマッサージを申し出た。 「人間、本当にプレッシャーを感じた時っていうのは、それが耳に出るんですよ。ウソみたいな話なんですけど、ガチガチになっちゃうんです。で、試合前に選手やスタッフの耳に触ってみたら、案の定ガチガチ。ところが3人だけ、ガチガチどころか普段とちっとも変わってない耳の人がいたんですよ。それがコーチの山本(昌邦)さん、ヒデ(中田)とマツ(松田)でした」  山本には、監督としてワールドユースに出場した経験があった。中田と松田は前にも触れたとおり、アンダー17世界大会、ワールドユースと、各年代ごとの世界大会に出場しており、どちらの大会でも予選リーグを突破している。彼ら3人にとってみれば、オリンピックは、自分の耳がガチガチになってしまうほど遠い夢の舞台では必ずしもなかったのである。  サウジアラビアに勝ってオリンピックの出場権を獲得した時、なかば狂乱状態に陥った選手や関係者、マスコミを眺めながら、中田はこんなコメントを残している。 「そんなにうれしくない。こんなことで騒がないでほしい」  案の定というべきか、彼の言葉はマスコミにも仲間にも、彼が変人であることの|証《あかし》のような形で受け取られてしまった。世界大会に出場したことのない人間にとっては、そうとしか受け取りようがなかった。しかし、例によって多少悪ぶってみせた部分はあったにせよ、中田の言葉はほぼ本心と言ってよかった。もちろん、彼はうれしかった。ただ、アンダー17世界大会やワールドユースでグループ・リーグ突破を決めた時ほどではなかった、と言いたかっただけなのだ。  チームが結成された時から西野とコンビを組んできた山本であれば、自分と西野の間に存在する微妙なギャップについて、何とか伝えることはできたかもしれない。だが、中田が西野のチームに招集されたのはアジア最終予選の直前でしかなく、しかも、西野は41歳の監督で中田は19歳の選手だった。西野には中田の意見が単なるわがままとしか思えなかったし、中田には西野の怒りが理解できなかった。そんな二人が、オリンピック本大会のハーフタイムという平常心とはほど遠い状況で、本心をぶつけあってしまったら……。  西野が冷たい怒りを押し殺してテレビのインタビューに答えていたころ、中田はスタンドやベンチに一瞥もくれることなく、足早に引き上げようとしていた。皮膚感覚こそ中田と違え、もっと攻めたいという点では志を同じくする攻撃陣の選手も中田に続き、それを見たディフェンダーの選手たちは憤然たる思いを隠しきれず、これまたスタンドに挨拶すらすることなくフィールドを去った。  同じころ、マイアミではブラジルがハンガリーを3─1で下していた。またもGKジダとアウダイールの連携ミスから一度は同点に追いつかれ、苦境に追い込まれたブラジルだったが、この試合から先発出場したロナウドの奮闘が優勝候補筆頭の危機を救ったのである。  2試合が終わった時点で、2戦2敗のハンガリーは早くも決勝トーナメント進出の可能性がなくなった。首位に立ったのは2戦2勝で勝ち点6を獲得したナイジェリアで、得失点差はプラス3あった(得点3、失点0)。2位にあがったブラジルの勝ち点は3で、得失点差はプラス1(得点3、失点2)、日本は勝ち点こそブラジルと並んでいたものの、得失点差がマイナス1(得点1、失点2)に転落し、ブラジルとの間に2点の差をつけられてしまった。  苦しい状況ではあった。ただ、絶望的な状況でもないはずだった。最終戦でナイジェリアはブラジルと対戦する。この試合が引き分けに終わるようなことがあれば、あるいはどちらかのチームが3点差以上の勝利を収めるようなことがあれば、日本は勝ちさえすれば決勝トーナメントに進むことができる。しかも、ハンガリーはすでに死に体のチームであり、これまで戦ってきた2チームに比べればモチベーションも大幅に低下しているはずだった。ほとんどの者が実現不可能だと考えていた夢は、依然として日本の手の届くところにあった。  だが、すでにチームは完全に崩壊してしまったのだ。 [#改ページ] 第5章 経験というタマゴ

     1  西野は中田を許せなかった。中田にはそれが理解できなかった。二人の間に横たわっていた決定的な違いは、経験の有無、だった。  だが、経験とはさほどにも重要なものなのだろうか。  サッカーの世界においては、答えはイエスである。話はしばらくオリンピック代表のことから逸れるが、本章ではこの問題について触れたいと思う。  1985年10月26日、国立競技場で行われたメキシコ・ワールドカップのアジア最終予選第1戦で日本は韓国に敗れた。1─2というスコア以上に実力差はあったとする声があれば、後半、あの加藤久のヘディングがバーに嫌われなければ、とする声もある。今ではなかば“伝説の試合”ともなったこの一戦については、これまでもワールドカップ予選が近づくたびに取り上げられてきたし、サッカーファンの間では今後も様々な意見が戦わされていくことだろう。ただ、接戦か完敗か、あの試合をどう見るかという点についてはともかく、我々日本人が絶対に認めなければならない点が一つある。  メキシコ・ワールドカップの出場権を獲得した後、韓国は強くなった。  '80年代の到来を待つまでもなく、第2次世界大戦が終わってからというもの、韓国は常にアジア最強のチームであると言われ続けてきた。しかし、そのわりには国際舞台への出場経験は乏しく、ワールドカップは'54年のスイス大会以来、オリンピックにも'64年の東京大会以来、出場を果たしていなかった。常に直接対決で打ちのめされてきた日本にとってはともかく、'86年メキシコ・ワールドカップに出場するまでの韓国は、ヨーロッパ人から見れば日本と同じ、何の実績もないアジアの弱小国にすぎなかったのである。  それが、メキシコを境に大きく変わった。この大会でブルガリアと引き分け、世界大会での勝ち点を獲得して以来、韓国はすべてのワールドカップ、すべてのオリンピックに出場を果たし、次第に世界の中でも認められる存在となった。もはや韓国がワールドカップで世界の強豪を苦しめるのはニュースでも何でもなくなり、「アジアのサッカーと言えば韓国」という認識が完全に定着した。この認識が、2002年ワールドカップ招致活動の際に大きな力となったのは周知のとおりである。  しかしなぜ、韓国は急に強くなったのだろうか。  ここで、経験という言葉の重要性が浮かび上がってくる。これはまた、ヨーロッパや南米から来た選手や指導者が、「日本へのアドバイスは?」と聞かれるたびに口にする言葉でもある。  正確に言えば、韓国は“急に強くなった”わけではない。'60年代も'70年代も、いつの時代も韓国は強かった。そう、アジアの中で敵なしと胸を張れるぐらいには強かった。ただ、このころの彼らには世界大会で勝った経験が乏しかった。勝利の経験からくる自信がなかったのだ。'54年のスイス大会に出場しているのは事実だが、この大会の予選に参加したのは全世界を合わせてもたったの38カ国でしかなく(韓国は日本と2試合戦い、1勝1分けで予選突破)、しかも、本大会での韓国はハンガリーに0─9で惨敗し、'82年のスペイン大会でエルサルバドルがやはりハンガリーに1─10で敗れるまでのワールドカップ最多失点記録を作っている。後の選手たちに力を与えるような経験ではとてもなかった。  勝った経験のない者は、本当の意味での苦境に追い込まれた時、自分たちは勝てる、と信じることができない。これは韓国に限ったことではなく、世界中どこの地域についても言えることである。  ワールドカップで勝ったことのない国の選手たちは、自分たちがワールドカップで勝てる、と信じることができない。ゆえに、'98年のフランス大会で16回を数える大会は、いつも限られた国の優勝で幕を閉じてきた。'78年のアルゼンチン大会以降、ワールドカップは新たな優勝経験国を生み出していないし、第1回からの歴史を振り返ってみても、たった6カ国しか黄金のカップへのキスを許されていないのだ。ヨーロッパ各国のリーグ戦でも、セリエAではパルマ、スペイン・リーグにはラ・コルーニャといった新興チームが出てきてはいるものの、いずれもあと一歩のところでタイトルを逃し続けている。  では、パルマやラ・コルーニャはユヴェントスやACミラン、バルセロナやレアル・マドリーよりも戦力なり戦術面で劣っていたのか。'74年のオランダは、'82年のフランスは西ドイツよりも弱かったのか。  そうではない。  彼らに足りなかったのは、勝った経験だけだった。だが、それが大きかった。勝ったことのある者は、勝ったことのない者とは逆に、どれほど苦しい状況に追い込まれようとも、自分たちの勝利を確信しながらプレーすることができる。前後半あわせても30分しかない延長戦で2点のリードを許したとしよう。ここであきらめずに逆転を狙おうという発想を持てるのは、子供のころから自分の着ているユニホームが常に勝つところを見てきた選手だけである。  よく、ドイツ・サッカーの強さを語る際に彼らの精神的なたくましさがあげられるが、'54年、当時無敵とされたハンガリー相手に2点のビハインドをひっくり返したワールドカップ・スイス大会決勝がなければ、今ほど“ゲルマン魂”という言葉が脚光を浴びることもなかっただろう。あの試合があったからこそ、西ドイツの選手たちは、オランダと対戦した'74年のワールドカップ決勝で試合開始早々、クライフの伝説的な突破からの衝撃的な失点を許しても、フランスと戦った'82年のワールドカップ準決勝で残り試合時間が20分程度しかなくなった段階でジレスに弾丸ミドルをたたき込まれても、自分たちの勝利を信じることができたはずだからである。いや、自分たちの勝利を信じることができた、というよりは、自分たちが負けるなんて信じられなかった、と表現した方が正しいかもしれない。なにしろ、ドイツという国は、多分に精神的な要素と運に左右され“フットボーラーズ・ロシアン・ルーレット”と呼ばれることもあるPK戦において、ワールドカップや欧州選手権といった大舞台では'76年の欧州選手権決勝でチェコスロバキアに敗れたことがあるだけという、まさしく|希有《けう》な国なのである。  メキシコ・ワールドカップの予選で日本を下した韓国は、ついに経験を得た。しかも、本大会でブルガリアと引き分け、勝ち点をあげたことで彼らの自信はさらにふくらんだ。もともと強かったチームが、予選突破を悲願ではなく常識と考えるようになったのである。戦力的に劣り、かつ本大会に過剰な夢を抱く日本を始めとするワールドカップ未経験国が韓国に勝てなくなったのは、当然といえば当然のことだった。  彼らが得た自信がどれほど大きかったのかということは、国立競技場での決戦から8年後の'93年、ドーハでの米国ワールドカップ・アジア最終予選でも明らかになる。  この時、韓国はアジア最強のチームでは断じてなかった。戦術面を見れば日本、イラクに大きく劣り、選手個々の能力を見ればサウジアラビア、イランに劣った。すべての面で彼らが優っていたのは、北朝鮮だけだったと言ってもいいかもしれないし、ごくごくわずかな差ではあるが、総合的に見ても参加6カ国中せいぜい4番目程度の力しか持っていないチームだった。  そんなチームが、米国への切符を勝ち取った。  あの10月28日、日本がイラクを相手に死に物狂いの苦闘を演じているころ、韓国は北朝鮮からやすやすとゴールを略奪していた。いくら相手が本大会出場の夢を絶たれた死に体のチームとはいえ、そして北朝鮮が実力的に最も落ちるチームだったとはいえ、「これに勝たなければワールドカップへは行けない」という状況でキッチリと結果を出すのは、決してたやすいことではない。しかも韓国は、この3日前、絶対に負けてはいけない相手であるはずの日本に、手も足も出ない完敗を喫していた。自国のマスコミに「日韓併合以来の屈辱」とまで手厳しく叩かれた選手たちは精神的にも相当追い込まれていたはずで、どう考えても普段通りの実力を出せるような状況ではなかった。  それでも、彼らは勝った。  これが本当の意味での勝った経験がないチームになると、一度苦境に追いやられると、そこから立ち直ることはまずないと言っていい。'84年4月15日、ロサンゼルス・オリンピック最終予選の初戦で日本はタイに敗れた。必ずしも強豪とはいえなかった当時の日本ではあったが、それでもタイに負ける可能性を真剣に考えていた関係者はまずいなかったに違いない。そんなチームの、有能ではあるがまだ無名の若手ストライカー、ピアポンにハットトリックを喰らい、2─5という歴史的な惨敗を喫してしまった——これで完全にパニック状態に陥った日本は、マレーシア、カタール、イラクにも連敗し、なんとグループ・リーグ全敗でシンガポールを去る羽目になったのだった。  韓国にとって、日本に負けるということは、日本がタイに惨敗する以上に衝撃的なことだったはずである。だが、彼らは崩れなかった。  経験とは、強いチームをさらに強くするだけでなく、弱いチームにも見えざる力を与えるものなのである。      2  南アメリカ大陸はラプラタ川のほとりに、ウルグアイという小国がある。人口はおよそ300万人で、東京はおろか横浜の人口にも及ばない、本当にちっぽけな国である。ところが、このウルグアイ、なぜかサッカーは抜群に強い。近年は多少|翳《かげ》りが出てきているとはいえ、サッカーの南米御三家といえば、依然としてブラジル、アルゼンチン、そしてウルグアイの名前があげられる。  サッカーがまだ全世界的に普及したとは言いがたかった'60年代までならいざ知らず、FIFA加盟国の数が国連加盟国のそれを上回り、各国に若手育成システムが根づいた現在では、人口の多さはそのままサッカーの強さに比例すると言っていい。似たようなやり方で若手を育成する場合、20人の中から選ばれた11人よりも100人の中から選ばれた11人の方が強いのは、確率論的にいっても当然のことだからである。  しかも現代のサッカーは、ちょうどアメリカのNBA(National Basketball Association)が白人主体のノンビリとしたゲームから黒人主体のスピーディでパワフルなゲームに変わってきたように、技術、戦術といった要素の他にアスリートとしての能力という要素も強く求められるようになってきている。純粋に運動能力の高さを競い合うという面を強く持ったオリンピックの陸上競技や水泳で、米国や中国がメダル獲得数で他を大きく引き離していることから見ても、“人口の多い国=スポーツ大国”という図式は、今後さらに強まっていくことが考えられる。  具体的な例をあげてみよう。たとえば、西ヨーロッパで最も人口が多いのはドイツの約8000万人である。以下、フランス、イギリス(イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランド)、イタリア、スペインがこれに続く。アフリカで最も人口の多いのはナイジェリアで、南米のそれはブラジル、続いてアルゼンチン、コロンビア——一目瞭然、これはサッカーの実力ほぼそのままの順位であることにお気づきいただけると思う。もはや、この図式が当てはまらないのは、人口が億を超える3つの大国、中国、インド、日本にさえワールドカップ出場経験のないアジアしかない。そしてそれは、アジアの選手発掘・育成システムがいかに遅れているかをも物語っている。  さて、それではなぜ、南米きっての小国、ウルグアイのサッカーは強いのだろうか。米国ワールドカップの出場こそ逃したものの、彼らは'90年のイタリア・ワールドカップ、'86年のメキシコ・ワールドカップに出場し、いずれもグループ・リーグ突破を果たしている。一方、アルゼンチンと同程度の人口を誇る国、コロンビアは'90年のイタリア・ワールドカップまで、常に地区予選敗退の憂き目にあい続けてきた。ほんの数年前まで、ウルグアイの11倍という人口は、何の力にもなっていなかったのだ。  ウルグアイにあってコロンビアにないもの、それはワールドカップに出場し、そこで勝った経験だった。ウルグアイは'30年のウルグアイ・ワールドカップ、'50年のブラジル・ワールドカップでの優勝経験を持っている。まだサッカーが全世界に普及していない時代の出来事だったとはいえ、優勝ということになれば、後に続く選手に与える影響は極めて大きなものになってくる。南米予選でどれほど苦しい状況に立たされようとも、彼らは「俺たちは本大会でも優勝したことがある代表チームだ。こんなところで負けるわけがない」と信じて戦うことができた。リードを許すと「ああ、やっぱりか」と考えてしまう国の選手とは、根本的に異なるメンタリティを持っていたのである。それが、決して戦力的に恵まれたとは言えなかったウルグアイが、強国としての地位を保ち続けた秘密だった。  今ではすっかり世界の強豪として認知されたアルゼンチンにしても、'78年の地元大会で初優勝をとげるまでは、ワールドカップになるとからきし意気地のなくなるローカル・チームにすぎなかった。コパ・アメリカ(南米選手権)ではウルグアイやブラジルと互角以上の戦いを演じているのに、舞台がワールドカップとなるとなぜか冷静さを失ってしまい、あまりにダーティな戦いぶりで「アニマル」とまで呼ばれてしまったのが、ワールドカップで勝つまでのアルゼンチンだった。  しかし、一度勝ってからの彼らは、'86年のメキシコ・ワールドカップで二度目の優勝を果たし、続くイタリア・ワールドカップでも決勝まで進出と、南米2位という人口どおりの成績を残している。いや、イタリア・ワールドカップ決勝トーナメント1回戦の対ブラジル戦などは、10回やっても1回勝てるか勝てないかぐらいの実力差があったにもかかわらず、ワン・チャンスをモノにして勝った、言ってみれば実力以上のものを出し切った試合だった。マラドーナの神業があったことも事実だが、それ以上に大きかったのは、'78年に優勝した彼らの方が、'70年以来優勝から遠ざかっていたブラジルの選手より、自分たちの勝利を信じることができた、という点ではないだろうか。GKゴイコチェアに代表される、奇跡的なプレーを連発してゴールを死守した守備陣の奮闘がなければ、あのマラドーナからカニーヒアに通ったラストパスが伝説として残ることもなかったのだから——。  そう考えてみると、FIFAのランキングがどうであれ、フランス・ワールドカップ最終予選前の段階で日本が韓国を抜いたと公言するのはまったくの時期尚早であると言わざるをえない。純粋に戦力だけを見れば、確かに日本の方が韓国よりも上なのかもしれない。しかし、日本はまだワールドカップに出たこともなければ、「これに勝てば本大会」という状況で韓国に勝った経験もない。アトランタ・オリンピックのアジア最終予選でも、結局日本は韓国に勝てなかった。予選突破が決まって燃え尽きていた? それは韓国も同じことである。コンプレックスがなくなったといっても、韓国が日本にコンプレックスを抱くようになったわけではないのだから、どんなに甘く見ても、並んだと見るのが精一杯のところだろう。  とどのつまり、コロンビアやアルゼンチンがウルグアイという一見小さな壁に恐ろしく手こずったように、そしてアフリカ一の人口を誇るナイジェリアが、ワールドカップ出場経験のある北アフリカ諸国をなかなか乗り越えられなかったように、日本が韓国に勝つのは決してたやすいことではない。ナイジェリアなどは、'85年のワールド・ジュニアユース(アンダー17世界大会の前身にあたる)で優勝して以来、ずっと「これからは彼らの時代だ」と言われながら、ワールドカップの本大会には'94年まで手が届かなかったのだ。      3  残念ながら、メキシコ・オリンピックの銅メダルは、日本サッカー界にとって“勝った経験”とはなりえなかった。当時、オリンピックのサッカーにはプロの参加が認められていなかった。このオリンピックで優勝したハンガリーは、続く'70年のメキシコ・ワールドカップ地区予選を勝ち抜けない程度のレベルだったのだが、オリンピック至上主義の日本はそうした現実に気づかないまま舞い上がってしまい、次代への布石を何も打たないまま、ブームと言われた時期を終わらせてしまったからである。  ゆえに、日本はまだ勝った経験からくる“勝者のメンタリティ”を持っていない。これは選手や監督だけに限ったことではない。マスコミについても同様のことは言える。  '96年のアジア・カップで、主導権を握りながらゴールを奪えず、逆にカウンターから2点を許してクウェートに敗れた際、日本のマスコミが見せた反応はおおまかにいって2種類しかなかった。「ワールドカップ出場に黄信号」というものと、「ワールドカップ予選前に|膿《うみ》が出せてよかった」というものである。二つの意見は、敗戦をかなり深刻にとらえているという点で共通していた。  しかし、試合の主導権を握っていながら、力が劣るチームのカウンターを食らって負けるというパターンは、サッカーという競技の性質上、どんな強豪にもおこりうることである。だが、勝った経験のある国のマスコミとない国のマスコミでは、そこからのリアクションが違ってくる。ロサンゼルス・オリンピックの最終予選でタイに負けた時もそうだったが、クウェート戦の敗戦以降、日本のマスコミはあっという間にパニックになってしまった。それまでの根拠なき楽観論は一気に影をひそめ、今度は根拠なき悲観論が取ってかわった。  これが勝った経験のある国のマスコミになると、盛大にその試合についての批判を展開するものの、それをあとの試合と結びつけて論じることはまずない。つまり「サッカーにはこんなこともある。仕方がないさ」という認識が、常識として行き渡っているのである。  ドイツはアルジェリアに負けたことがある。アルゼンチンはカメルーンに負けたことがある。そしてブラジルは、日本に負けたことがある。いずれの敗戦も、日本がクウェートにやられたように、相手の露骨なカウンター狙いにはまった結果のものだった。  では、こうした国のマスコミが「もうわが国の時代は終わった。未来は暗い」という論陣を張っただろうか。それに合わせるかのように、チームも立ち直れないまま大会を去っただろうか。  答えは絶対にノーである。  勝った経験のない日本人は、たとえば万に一つという形でブラジルに勝つと「これで日本のサッカーは世界に追いついた」と舞い上がり、逆の形でクウェートに敗れると一気に自信を失ってしまう危うさを秘めている。ゆえに、国民の代表である代表チームは、一度衝撃を受けると立ち直れないまま終わってしまう。これはもう、日本がワールドカップ出場を果たすまで直らないだろう。ニワトリが先かタマゴが先かではないが、大舞台で勝利を収めるための必要不可欠な要素である勝者のメンタリティとは、勝ったことのある者にしか宿らないからである。  もちろん、コロンビアがついにウルグアイの壁を打ち破ったように、物事にはすべて“初めて”がある。そして一度壁を破れば、コロンビアやアルゼンチン、そして韓国の例をとるまでもなく、その後はそれまでの苦労がウソのような黄金時代の到来が待っている。勝者のメンタリティを持たないものが持てる者を破るのは、極めて難しいことではあるものの、決して不可能ではない。  ただ、日本はまだ“初めて”を経験していない。その時の訪れがフランス・ワールドカップになるのか、2002年の地元ワールドカップになるのかは神のみぞ知ることだが、まだ訪れていないことだけは間違いない。くどいほど繰り返してきたように、勝った経験のある国とない国の間には、やっているサッカーの質や実力とは関係なく、極めて大きな差が存在する。韓国を予選で引きずり下ろして自らが出場権を勝ち取るまで、日本は韓国を抜いたとは言えないのである。  中田には、アンダー17世界大会とワールドユースでベスト8に入ったという世界レベルの経験があった。しかも、そこでゴールをあげた経験まであった。西野は、アトランタ・オリンピックが初めての世界大会だった。  両者の間に横たわっていた断層は、二人が思っていた以上に大きなものだったのである。 [#改ページ] 第6章 川口能活の叫び

     1 「壊れたね、このチームは。きっと、人間関係のトラブルがあったんだ」  試合終了を告げるコリーナ主審の笛が鳴ってから、数分がたっただろうか。隣でボソっとつぶやいたのは、スタンドで一緒に観戦していたセルジオ越後だった。正直に告白すると、私は終わったばかりの試合にかなり打ちのめされていて、フィールドの光景に注目する余裕などなかった。あと1試合残っているとはいえ、鈴木のハンドで与えたPKの1点はあまりにも大きい。ナイジェリアとブラジルの試合がハイスコアリングなゲームになるとは考えにくいし、そうなると日本はハンガリーから2点、もしくは3点を取らなければならない。ああ、ブラジルがナイジェリアから4点ぐらい取ってくれたら……。 「観てごらん、挨拶に来たのは一人だけだから」  それは、今から思い出しても心に冷たいものが走るような光景だった。  中田が足早に引き上げていく。前園や城がこれに続く。ちょっと間を置き、服部や伊東、路木といった守備の選手たちも何やら憤然とした雰囲気を漂わせながらフィールドを後にしていく。確かに相手が強かったのか日本が無策だったのか、つかみどころのない試合ではあった。明らかに疲弊しきった服部や白井の起用にこだわった、スタンドから見ると不可解な西野の采配もあった。だが、日本はすでに勝ち点3を獲得している。2失点でかなり厳しい状況になったのは事実だが、最終戦のハンガリー戦次第では、決勝トーナメントに進出する可能性がまだ残されていた。  にもかかわらず、選手たちはこれまでのようにスタンドへ挨拶をすることもなく、ただそそくさとグラウンドを去ったのである。まるで、トーナメントのカップ戦で敗れたヨーロッパのプロ選手たちがそうするように——。  やってきたのは、川口能活ただ一人だった。 「なんでこのチームはこんなことになっちゃったんだ……」  こみ上げる無念の涙をこらえ、必死に笑顔を装ってスタンドに手をあげながら、川口はつぶやいていた。  川口は何も、敗戦だけが悔しかったのではない。試合について言うならば、悔しさよりも申し訳なさの方が強かった。1点目の失点に関しては自分の責任が大であることを、彼は十分に承知していたからである。そんなわけで、タイムアップの笛が鳴った瞬間、真っ先に川口の脳裏に浮かんだのは「気持ちを切り換えなきゃ。まだ1試合残ってる。あきらめちゃいけない」との思いだったという。  しかし、スタンドに挨拶することもなく、足早に引き上げていくチームメイトたちの姿は、彼の胸に「もはやチームは完全に崩壊した」という残酷な事実を改めて突きつけてきた。持てる力以上のものを出し切っても決勝トーナメントに進めるかどうかわからない状況だというのに、チームはまとまりという言葉から、まったくかけ離れたところにいる。彼は、それが悔しかった。  奇跡的勝利を収めたブラジル戦でも、川口は言いようのない違和感を覚えていた。タイムアップの瞬間、彼はいつものようにガッツポーズをした。だが、それはアジア最終予選でのサウジアラビア戦に比べるとずいぶん控えめで、掛け値なしの奇跡を演出した人間とは思えないほどだった。 「もちろん、大変なことをやったんだって気持ちはあったんですけど、それ以上に次の試合のことが気になっちゃって……。それと、僕自身、ブラジル戦は最高の心理状態で試合に入っていってたにもかかわらず、試合中に何度も勘弁してくれよって場面があったんです。後半になると、ブラジルは二人のセンターバックまでグッと押し上げてきてた。そんなところに僕がゴールキックを蹴っても、すぐに跳ね返されるのがオチじゃないですか。だから僕としては、とにかくフォワードに外へ開いてほしかったし、相手ボールになったら追いかけてほしかった。10mでも5mでもいい。彼らがそれだけ動いてくれれば、後ろの選手はずいぶん楽になるんです。もちろん、体力的にキツかったっていうのはわかります。でも、ああいう試合になったら、やっぱりキツいのはディフェンダーの方なんですよ。実際、後ろの方の選手は最後まで闘っていたと思います。でも……」  ブラジル戦の後半、興奮したブラジルのファンがフィールドの中に乱入するというハプニングがあった。いつまでたっても日本ゴールをこじ開けることのできない自国の代表チームに肩入れをするつもりだったのか、男はヨロヨロと川口の方へと向かっていった。酔っぱらいとはいえ、状況が状況である。男が川口に危害を加えようとしていた可能性は十分にあったし、普段であれば、川口も君子危うきに近寄らず、とフィールドの外へ避難していたに違いない。  ところがこの時、川口は自ら男の方へと近寄っていった。「捕まえてやろうと思った」のだという。 「たぶん、僕の精神状態が普通じゃなかったと思うんです。ただ、あの時はとにかく気持ちで負けちゃいけない、攻撃的な守りをしなきゃいけないって自分に言い聞かせてたんで、自然とああなっちゃったんですよね」  そこまで試合に“入って”いて、かつ勝利を収めていながら、違和感があったというのである。チーム内に生じた溝を埋めきれないまま迎え、いいところなく敗れたナイジェリア戦で、彼がどれほどの違和感を覚えたかは、想像して余りある。 「ハーフタイムの時、攻撃の選手が僕らに『なぜあんなに大きく蹴るんだ、自分たちに細かくつないでくれれば展開できるのに』って言ってきたんですよ。僕らはカチンときたし、実際、それを聞いた西野さんは激怒しちゃった。なのに、後半になって僕が手でフィードしようとしたら、前の方の選手は待て、落ち着けっていう。一度動きを止めてしまったら、スローでつなぐなんてできっこないじゃないですか。頼むよ、せめて自分の仕事はきっちりやろうよって、叫びたかったですよ。あの時は、もうナイジェリアがどうこうって問題じゃなかった。相手をどうやって抑えていこうか考える以前に、対仲間って部分で自分をコントロールできなかった……」  しかも、誰にとっても後味の悪い90分が終わった後、彼を除く全員が足早にフィールドを後にしていった。自分たちの要求を拒まれた攻撃陣の選手はもちろん、川口とともに憤慨し、奮闘を誓い合ってきた守備陣の選手までもが、スタンドに挨拶をすることなく引き上げてしまったのである。川口の絶望感は深かった。 「情けなかった。たぶん、前の方の選手は自分たちのサッカーができなかったことに腹を立てて、後ろの方の選手はそんな彼らの態度に腹を立てていたんでしょうけど……。世界大会を闘ってるっていうのに、チームが一つになってない、純粋じゃない選手がいる、そう考えると、泣きたいぐらい情けなかった……」  挨拶を終えて一人でフィールドを後にしようとすると、もうひとつ、違った感情が芽生えてきた。昔からの付き合いでありながら、時々どうしようもなく川口を疲れさせる感情——孤独である。  思えば、サッカーのために清水へやってきた中学1年のころから、彼は孤独だった。      2  東海大一中に入学した当初は「富士市出身のヤツなんかがココで通用するのか」という冷たい視線が待っていた。“サッカー王国静岡”といっても、実際に優秀な選手を輩出してきたのは清水、藤枝という二つの街であり、川口が生まれ育った富士市はお世辞にもサッカーどころとは言いがたい土地柄だった。そんな街からやってきた少年に、プライドの高い清水の少年たちは、若さからくる無遠慮な懐疑の視線を隠そうとはしなかった。  それは、ブラジルやイタリアに行った三浦知良が体験したように、サッカー先進の地に出かけていった実績のない少年であれば誰もが乗り越えなければならないことだったのかもしれない。だが、初めて親元を離れ、心中にたっぷりと不安を詰め込んでいた中学1年生の川口にとって、周囲から向けられる疑いの眼差しはあまりにも重かった。そして、この時に感じた苦い思いは、6年後、プロ入りする際に清水エスパルスを選択肢の中から外すことにもつながっていく。  それでも、川口はこの清水の名門中学で早々にレギュラーの座を勝ち取った。すると、今度は先輩たちの嫉妬が待っていた。  全国大会の最中、彼はある一室に呼び出され、複数の先輩から「なんでお前が試合に出るんだよ」と詰問されたことがある。口の利き方には気をつけていたし、生意気な態度を取ったつもりもなかった。だが、先輩たちは自分を憎んでさえいるようだった。  同じような体験を、彼は高校でも味わっている。  入学と同時にレギュラーに抜擢された川口は、“名門・清水商の1年生守護神”として各方面から注目される存在となり、まもなく西野朗率いるユース代表入りも果たした。中学時代の苦い経験もあり、彼は以前にも増して先輩たちに気をつかった。だが、2年の秋、チームが高校選手権の静岡県大会準決勝で敗れた日の夜のことである。いつものように行きつけの定食屋のノレンをくぐろうとした17歳の川口は、全身が凍りつくような一言を耳にしてしまう。 「ま、川口が試合に出て負けるよりはよかったよ」  中から聞こえてきたのは先輩たちの声だった。準々決勝で肉離れを起こした川口は、この日の試合をフィールドの外から見守っていた。心の底から、先輩たちに勝ってもらいたいと思っていた。なのに——。  何かが壊れ、そして何かが芽生えた。  この日を境に彼は、どうせ誤解をされるのなら、と周囲への気遣いを捨てた。代わりに、誰からも文句が出なくなるまで自分を追い込むようになった。徹底して結果を求めた。勝ち続けることこそが、チーム内に波風を立てない最高の良薬だと知ってからは、自分が好セーブを連発しての0─1より、見せ場のない1─0に喜びを感じるようになった。己の内面に潜む、人には見せたくない部分をあえて隠さなくなった。やはり学生時代、先輩たちから“異端児”扱いをされた中田は、一般常識や人間としての幅を身につけることによって自我の確立を図り、周囲の人間を見返そうとしたが、川口は中田とは正反対の道、つまりサッカーという一点を突き詰めることに、己の生きる道を見いだしたのである。  それが他人から見れば、相当に暑苦しい生き方であることは川口にもよくわかっていた。名門・清水商のサッカー部員とはいっても、みな素顔は普通の高校生である。剣のためにすべてをなげうった|古《いにしえ》の武人のような彼の考え方は、やはり相当に異色だった。チームとしての練習が終わった後、さらに自主トレーニングを続ける川口の姿が、仲間の目には監督に対する点数稼ぎのように映った可能性も十分にあった。時にドン底まで悩み、落ち込みながら、それでも川口は自分を追い込んでいった。  横浜マリノス(現横浜F・マリノス)に入団してからも、彼のやり方は変わらなかった。いや、むしろ拍車がかかったと言った方が正しいかもしれない。  入団1年目、彼は「生まれて初めて」控え選手に甘んじることになった。当時、マリノスには'89年のイタリア・ワールドカップ予選から日本代表の守護神として君臨してきた、松永|成立《しげたつ》が所属していたからである。ワールドユースの予選で修羅場を|潜《くぐ》り、高校選手権で満員の国立競技場でプレーしたこともあった川口にとって、観客もまばらなサテライト・リーグでのプレーは屈辱以外の何物でもなかった。  彼の屈辱感をさらにあおったのは、マスコミだった。 「結構ね、取材はあったんですよ。僕にはそれが悔しかった。だって、あのころの僕はサテライト・チームの選手で、普通だったら新聞に名前も載らないような存在だったわけでしょ。それが——自分でこんなこというのは無茶苦茶イヤなんですけど——ルックスがどうこうとか、そういうところで僕を取り上げる。マリノスのGKとしてチームに貢献してる選手だから取り上げるんじゃない。最近すごい勢いで成長してきてる若いGKだから取り上げるんでもない。サッカーとは全然関係のない理由で取り上げられてたんですから。ちょうど自分に余裕がない時期だったせいもあるんですけど、マスコミの人たちは誰も本当の僕を見てくれてない、僕がどんなプレーをして、どんなGKを目ざしてるのか見てくれてないって、そんなことに腹を立ててましたね」  幸か不幸か、彼がこのころに味わった屈辱と、そこから|培《つちか》ったマスコミに対する醒めた目は、後の川口を大いに助けることになる。アジア最終予選が終わってから、彼は再びマスコミの取材攻勢を受け、果てはCM出演まで求められるようになるのだが、そんな狂騒状態の中にあっても、最後まで自分を失わずに済んだからである。ことマスコミに関する限り、川口はオリンピック代表の中で最も経験と免疫を持った男だった。  現代の日本人、特に若者たちにとって、テレビの魔力から逃れるのは並大抵のことではない。ましてや、スタンドが満員であることに喜びを覚えるプロのサッカー選手は、誰もが潜在的にナルシスティックな一面を持っている。テレビに出演することで自分が偉くなったような錯覚を起こし、いつしか艶やかな夜の世界に引きずりこまれた結果、プレーのキレを失っていった選手は少なくない。サテライト時代の経験がなければ、川口といえども自分を見失っていた可能性は高かっただろう。  もっとも、これは今だから言える話である。後の大フィーバーなど知るよしもない当時の川口は、松永からレギュラー・ポジションを奪取すべく、そしてオリンピック代表での正GKの座を確固たるものとすべく、ひたすらに自分を追い込んでいった。  ユース時代から川口を知り、オリンピックにもトレーナーとして同行した並木が、印象的なエピソードを話してくれた。 「一時期、西野さんが能活をレギュラーから外した時期があったんです。そうしたら、食事の時とかでも、能活がすごい目でライバルをにらんでるんですよ。話しかけるのもはばかられるような、すごい視線でね」      3  11人の中でただひとり手を使えることからもわかるように、GKは極めて特殊なポジションである。練習においても、彼らだけは別メニューのトレーニングをこなし、チームによってはフィールド・プレーヤーと一緒に練習をするのはフォーメーション・チェックか紅白戦の時だけ、というところもあるほどだ。となると、GK同士は周囲から隔離された環境の中で、自分たちだけで練習をしていくことになる。選手交代が頻繁になされるフィールド・プレーヤーと違い、よほどのことがない限り試合中の交代がないGKの場合はレギュラーとサブの距離が恐ろしく遠い。チームによっては1試合はおろか、1シーズンを一人のGKで戦うこともあるほどで、まさにレギュラーは天国、サブは地獄である。両者はそのことを痛いほど知っていながら、それでもともに練習をしていかなければならない。登りつめられるのは一人であるにもかかわらず、登るには助け合っていかなければならないという、恐ろしく残酷な宿命を持つ蜘蛛の糸がGKたちの間には垂れ下がっているのである。  普通の場合であれば、GKたちは“友情を育む”というところまではいかないものの、周囲から見てそれほどギクシャクした感じはしないな、といった程度の人間関係を築いていく。フィールド・プレーヤーのように「俺の方が実力が上なのに、なんでアイツが試合に出るんだ」と口にして両者が犬猿の仲になるようなことは、自己主張が強いとされるヨーロッパ人たちの間でもまずない。というのも、フィールド・プレーヤーであれば、自分が非難した選手とかかわらずに練習をこなしていくこともできるが、GKの場合、それは不可能だからである。ライバル=敵であると公言すれば、それは直接自分の身にもはねかえってくる。しかも、両者は顔を突き合わせて練習していかなければならないのだ。  川口は、そんな道を選んだ。まさに、鬼だった。  トレーナーの並木には、川口についてもう一つ忘れられないエピソードがある。 「あれはアジア最終予選のイラク戦だったかなあ。途中、能活が相手フォワードと激突する場面があって、僕が飛んでいったことがあったんです。幸い、ケガ自体は大したことがなくて、彼はすぐ試合に戻れたんですが——。試合が再開してしばらくして、心配したドクターが『能活、大丈夫かぁ?』ってタッチラインから声をかけたんですよ。そうしたら、帰ってきた答えが『うるせぇ!』。それも、ものすごい形相でね。たぶん、もう頭の中が試合の方に行っちゃってて、集中を乱すようなことをされたのが我慢できなかったんでしょう。でも、普段は絶対にそんな口を利く奴じゃなかったから、もうドクターの方は唖然としてましたね。僕は能活という男を少しは知ってたつもりだから唖然とまではいかなかったけど、でも、『ああ、こいつはやっぱりグラウンドの中に入ると人間が変わるんだな』ってしみじみ思いましたよ」  もちろん、そんな鬼でも弱気になることは多々あった。オリンピック本大会直前にあったいくつかのインタビューを調べてみると、彼の「僕、チームの中で浮いてるんですよ」というコメントを見つけることができる。しかし、川口からすれば精一杯自分の本心を吐露したつもりのコメントは、どれも例外なくサラリとインタビュアーに受け流されている。フィールドを離れた印象が爽やかなだけに、聞き手にとっては軽い冗談としか思えなかったのだろう。  だが、それは真実だった。うまくなることに、レギュラーになることに、そしてチームが勝つことに、すべてをなげうってこだわる川口は、確かにチームの中で浮いていた。そのことに苦悩し、迷い、それでも彼は執着心を捨てなかった。オリンピックへの切符と代表チームの背番号1は、あまりにも多くのものを犠牲にしてつかんだものだったのである。  だからこそ彼は、涙が出るほど悔しくて歯がゆかったのだ。ハーフタイムに西野と衝突し、試合が終わると足早にフィールドを去った中田が、彼に反発するチームメイトが、そして最後まで「日本のために」とは口にしなかったキャプテンが——。 「好きだとか嫌いだとか、そんな問題じゃないんです。アジア最終予選の時のゾノさんは、本当にキャプテンだった。倒されても倒されても黙って前へ進もうとして、そうやって、苦しい時にみんなの心を奮い立たせてくれるような人だったんです。あの人がいたからアジア最終予選は勝てたし、チームは一つになれたって、今でもそう思ってます。だから僕はゾノさんを批判するつもりなんてまるでない。ただ、本大会でのゾノさんは最終予選の時とは違った。結果、最終予選の時はまとまってたチームが、一番大事なところでまとまらなかった。それが悔しかったって言いたかっただけなんです」(『スポーツ・グラフィック ナンバー』408号)  オリンピック終了後、川口が主将批判とも取れる発言をしたのは、後に一部で言われたように「和を重んじたから」でも、「チームワークを大切にしたかったから」でもなかった。彼はただ勝ちたかったのだ。和などなくても、皆の目標が勝利という一点に向けられていたのであれば、それでよかったのだ。アジア最終予選でのサウジアラビア戦のように、痛み止めの切れた足を引きずってスライディングを敢行するキャプテンの姿に「畜生、あの人があそこまでやってくれてるのに、俺が点を取られてたまるか」と思えれば、それでよかったのだ。  だが、本大会での前園真聖は、川口を「後ろで見ていて涙が出そうだった」とまで感動させた最終予選での前園ではなかった。  トレーナーの並木は、アジア最終予選の最中、何事もなかったかのようにホテルへ戻った前園が、彼と二人きりになったとたん「痛ってぇ〜!」と絶叫してうずくまったときのことをよく覚えている。なぜそこまで我慢したんだ、という並木の詰問に、前園は「だって、みんなに心配かけたくなかったから」とうめきながら答えたという。本人がなんと言おうと、最終予選の前園は真の意味でキャプテンだった。皆が認める、オリンピック代表のシンボルだった。  そんな男が、以前であれば乗り越えていたタックルに簡単に倒されるようになった。倒れて、大げさにグラウンドをのたうち回るようになった。リーダーを失ったチームは迷走を始め、本大会の最中という極めて重要な時期に崩壊してしまった。  川口能活には、それが悔しかったのである。 [#改ページ] 第7章 キャプテン・前園真聖

     1  |次原悦子《つぎはらえつこ》からしてみれば、ほんの軽い冗談のつもりだったのだ。 「ゾノ、あんたってホントにヤな奴だね。それに比べて、能活ってホントにいいコ」  PR会社の社長であり、前園のマネージメントを請け負っている彼女は、前園が「俺の最大の理解者」と信頼を寄せる女性でもある。無名時代に知り合い、前園との付き合いが長いだけに、次原は日本サッカー界のスーパースターとなった男のいいところ、悪いところを知り尽くしていた。そのうえで、彼女は笑いを交えて前園に話を振ったのである。彼女の手元には、読みおわったばかりの『ナンバー』があった。 「だから、2勝1敗という結果は予想以上の好成績かもしれないけど、やっぱり悔いは残ってます。というか、悔しい気持ちの方が強いんです。最後までチームがまとまらなかったこと、精一杯やってきたのに結果を出せなかったこと、キャプテンの口から最後まで日の丸って言葉が出なかったこと——。  古い人間なのかもしれないけど、僕、日の丸がついたユニフォームにすごく誇りを感じてるんです。だから、一度でもいいから前園さんに、日本のためにがんばろうって言ってもらいたかった。本音の部分では自分のために戦ってるんだって思っててもいい。でも、せめて一度でいいから……」(『ナンバー』アトランタ五輪総集編「百年の夢」)  次原が目に止めたのは、記事の最後の方に出てきたこんなくだりだった。彼女は川口の純粋さに素直に感動し、以前から感情表現が下手だと感じていた前園をからかったつもりだった。  だが、返ってきた反応は次原が予想していたものとは違っていた。 「悦ちゃんだけには言ってほしくなかったよ、そういうこと」  明らかに前園はショックを受けていた。  後にインタビューで、前園はこんなことを言っている。 「能活の記事見たよ。自分の気持ちを表現するのはいろいろなやり方があるからね。能活には能活のやり方があるんだろうし、『日の丸のために』って選手がいても、それはそれでいいと思う。でも、たいていの人は、きっと能活みたいな表現の方に共感を覚えるんだろうね。実際、俺の周りにも能活の記事を読んで『前園、おまえは非国民だ』って真剣に言ってきた人もいたからさ(笑)」(『ナンバー』406号)  |字面《じづら》を見るかぎり、前園は余裕を持って川口の「叫び」を受け止めているようにも見える。おそらくは、流れゆく時が彼にいつものスタイルを取り戻させる助けとなったのだろう。しかし、次原が語りかけた時の前園は、確かにショックを受けていた。  親しい友人でもある中田がそうだったように、前園真聖という男にも「わかってくれる人だけがわかってくれればいい」といった部分がある。そのためにどれほど誤解を受けようとも、自分が正しいと考え、数は少なくともそれに賛同してくれる人間がいるのであれば、そのまま突っ走ってしまう。そして、誤解に対する弁解や申し開きは一切しない。それが前園のスタイルであり、「叫び」に対するコメントには彼のそうした特徴がよく現れている。  前園が所属していた横浜フリューゲルス(現横浜F・マリノス)が九州で試合をした時のことである。翌日、彼はチームから決められた集合時間を破り、一人でさっさと帰京してしまった。 「ちょっと約束があるんで」  理由として前園が挙げたのは、たったこれだけだったという。このころ、彼はすでに日本サッカー界でも名の知られた存在となっていた。そんな選手が、納得のいく説明をするでもなく単独行動をとってしまったのである。周囲は驚き、呆れ、「思い上がっている」と憤慨したことだろう。もちろんそれは、前園にも十分にわかっていたはずである。しかし、彼はそれでも、団体行動を乱してまで守らなければならない「約束」が何であるかを明かさなかった。  約束とは、赤十字の運動会に参加することだった。  その日、赤十字は両親を失った子供たちのために、年に一度の運動会を計画していた。以前から赤十字の集まりに顔を出していた前園は、子供たちにとって夢のヒーローだったに違いない。自らも早くに父親と別れ、マラドーナに憧れることで将来への夢を支えてきた前園は、自分に対して純粋な憧れの視線を向けてくる子供たちから出た「一緒に運動会しようよ」という願いを、とても断ることができなかった。前日は九州で試合があり、東京に戻ってくるのは午後の予定となっていた。運動会へ参加するには、チームの決まりごとを破らなければならない——。  彼は、破った。  朝一番の便で東京へ戻った前園は、何事もなかったかのように運動会へ参加した。子供たちに混じってリレーや綱引きに興じ、底抜けに明るい笑顔を振りまいた。そしてすべてが終わると、ひょっとすると冷たい視線が待っているかもしれない自分の世界へ、これまた何事もなかったかのように戻っていった。  前園真聖とは、そんな男なのである。      2  鹿児島実業時代の前園は、好選手という評価は受けていたものの、小倉や川口、中田のように全国的な注目を集める存在ではなかった。将来日の丸をつけるような選手は、たいていの場合、中学生のころから名前が知られているものだが、前園の場合は高校2年生になるまで、ほぼ無名の存在だったといっていい。1年生の時も彼は試合に出場してはいたのだが、完全なレギュラーとまではいかなかったからである。  前園が2年生の時の全国高校サッカー選手権で鹿児島実業は、阿部敏之(鹿島アントラーズ)や松波正信(ガンバ大阪)を擁する帝京、超高校級のゲームメイカーと言われた上野|良治《よしはる》(横浜F・マリノス)を軸とする|武南《ぶなん》などを次々と打ち破り、一気に決勝まで進出する。決勝では路木のいた国見に0─1で破れたものの、これが前園が全国的な注目を集めた最初の時だった。  もっとも、この時鹿児島実業で注目を集めたのは前園だけではなかった。彼に好パスを供給した遠藤拓哉(オリンピック代表の遠藤の兄)、守備的ミッドフィールダーの藤山竜仁(FC東京)、GK|仁田尾《にたお》博幸(京都パープルサンガ)などは、前園と同等か、見る人によっては前園以上の評価も与えられた選手たちだった。鹿児島実業はそれまでどうしても全国大会ベスト8の壁を破れなかった学校で、これといった有名選手もいなかったため、予想外の躍進は、チーム全員にほぼ等しくスポットライトを当てる結果となったのである。  3年生になっても、前園を取り囲む環境にさほどの変化はなかった。1年前に比べれば有名になっていたのは間違いない。だが、この年の高校サッカー界には小倉隆史(四日市中央工)という怪物がいた。鹿児島実業にも、城彰二が入学してきていた。そして前園は、キャプテンには選ばれなかった。  結局、この年の鹿児島実業はインターハイで初戦敗退、冬の選手権でもベスト8止まりと、さしたる活躍もできないまま1年を終える。前園の評価も前年度より上がることはなく、小倉と違ってほとんど騒がれることもないまま、ひっそりと横浜フリューゲルスへの入団が決定した。他チームのスカウトの中には、「スピードはあるしおもしろい存在ではあるけれど、まあ、どこにでもいる選手だね」といった評価をしている者が少なくなかった。彼らが間違っていたとは思えない。この頃の前園は、本当にその程度の選手だったのである。  ただ、前園の獲得に動いた横浜フリューゲルスのスカウトと同じ見方、つまり彼の能力を高く評価している者もいた。当時ユース代表の監督だった西野である。  前線のアタッカー不足に頭を悩ませていた西野は、鹿児島実業でスピーディな突破を披露している前園を以前から注目していた。もちろん、彼とて小倉をチームに呼べるのであれば呼んでいただろうが、誕生日の関係で小倉のユース代表入りは不可能だったのだ。ここでユース代表のレギュラーを獲得し、アジア予選に参加していれば、前園と日本オリンピック代表はまた違った運命を歩んでいたことだろう。  だが、1次予選の直前になって、前園の内臓疾患が発覚した。レギュラーどころかプレーすらできなくなった前園はユース代表から外され、その後しばらく、西野の意識の中から消えてしまうことになる。  病気が治ってからも、前園の低空飛行は続いた。入団して1年目、彼は一度として一軍でプレーするチャンスを与えられていない。同期の小倉がナビスコ・カップに出場してゴールをあげるなどの大活躍で、一躍時の人となっていたのに比べると、ずいぶんな違いである。モチベーションを失った前園は酒を覚え、いつしか練習にも身が入らないようになっていた。この頃の自分について、前園は自著『ドリブル』(ベースボール・マガジン社)の中でこう書いている。 「俺、最低だったね」  横浜フリューゲルスの監督だった加茂周は、周知のように木村|和司《かずし》を育てた人物ではあるものの、その後、彼が「こいつは木村二世や」と言って売り出してきた|其田秀太《そのだしゆうた》、梅澤学は一瞬の輝きを放っただけで終わっている。もちろん、これは選手個人の責任によるところが大なのだが、木村以降、加茂のもとから天才肌のアタッカーが育っていないという事実は、少なくとも私には、前園の将来に暗い影を落としているようにも思われた。  なかば忘れられた存在になりつつあった前園が大きく変貌したのは、入団して2年目、アルゼンチン留学を経験してからである。  南米から助っ人として日本にやってきた外国人選手がチームに入ってまず驚くのは、日本人選手の乗っているクルマの豪華さだという。アルゼンチンやブラジル、さらに言うならヨーロッパでもイタリアの一部のチームを除くと、ポルシェに乗っている選手などまず皆無だと言っていい。それが日本では、代表選手はもちろん、レギュラーを獲得していない選手までがポルシェを乗り回している。よく言われることだが、ことギャランティだけに限れば、Jリーグとは世界で3本の指に入るリーグなのである。  前園は、そんな国からアルゼンチンへ出かけていった。ハングリー精神に驚かされたことだろう。チームメイトたちの冷たさにも驚いたことだろう。短期留学とはいえ、新しく来た選手が素晴らしいプレーを見せれば、以前からいた選手が誰か一人追い出されることになる。温かく迎えてもらえるはずなどなかったのだ。しかし、バブル全盛期のJリーグから来た前園には、それがわからなかった。6週間の留学で、彼はイヤになるほどカルチャーショックを味わうことになる。 「俺、間違ってたよ。キツかったけど、おかげで完全に考え方が変わったね」  前園は別人になって帰ってきた。帰国後、彼は周囲にこんなことを洩らしていたという。      3  生まれ変わった前園は、それまでの鬱憤を一気に晴らすかのような凄まじい勢いで上昇を始めた。アルゼンチンで激しいタックルを経験したことで、以前から定評のあったドリブルには重心の低さと力強さが加わった。ゴールに対する貪欲さも蘇ってきた。再び、そしてかつてないほどの輝きを放ち始めた前園に、まずオリンピック代表の監督になっていた西野が注目した。'94年1月21日、前園はチームの第1回合宿に招集された。3カ月後、日本A代表の監督として招聘されたブラジル人のパウロ・ロベルト・ファルカンも、小柄なドリブラーのプレーを見逃さなかった。ついこの間までフリューゲルスのサテライト・チームでくすぶっていた選手は、小倉とともにA代表チームに呼ばれ、オリンピック代表でも攻撃陣の核として迎えられるまでになった。  西野は、そんな前園をチームのキャプテンに指名した。 「意外でしたね。僕はオグ(小倉)が選ばれるもんだとばっかり思ってましたから」  西野の決定を聞いた時にトレーナーの並木が抱いた感想は、そのままほとんどの選手の感想だったかもしれない。確かに前園は変わってきていた。しかし、オランダ・リーグで1年間プレーしてきたという実績があり、明るい人柄と強烈なリーダーシップを持つ小倉は、誰の目から見てもキャプテンにふさわしい男だった。だが、西野はあえて前園に大役を任せた。意外な思いを抱いた者は多かっただろうが、おそらく一番驚いたのは当の前園本人だったかもしれない。  オリンピック終了後に彼が受けたインタビューでの「一個人だったら、キャプテンじゃなかったら、たぶん好きなようにやっていたと思う。何を言われようが、自由にやっていたと思う。たとえ外されたとしても、ノホホンとしていたと思う」(『ナンバー』400号)というコメントや「人をまとめることの難しさも実感した。俺ってやっぱりキャプテン向きじゃないってこともね」(同406号)という言葉には、チームが解散してもなお西野の決定に納得しかねている前園の気持ちがよく現れている。  なぜ、西野は前園をキャプテンに指名したのだろうか。  監督には、監督の思惑があった。 「たとえば小倉や服部、川口っていったところは、黙っててもチームのために頑張るヤツだし、キャプテンに選んだとしても、それでどうこうってことはなかったと思う。でもゾノの場合は、一選手として置いておくと、ヘタをするとチームから気持ちが離れていってしまうっていうか、試合によってプレーのレベルにムラが出てくる可能性があると思った。キャプテンに指名すれば、あいつはイヤでもチームってことを意識するだろうし、そうすればヤツの持ってる力すべてを引き出せるはずだと踏んだんだ」  西野の思惑は的中した。いや、思惑以上の好結果をもたらしたと言えるかもしれない——少なくともある時期までは。キャプテンとなった前園はコンスタントに力を発揮したばかりか、アジア最終予選では素晴らしい求心力をも発揮したのである。  最終予選の直前、前園の個人トレーナーとして沖縄キャンプに同行した並木は言う。 「最終予選のちょっと前まで、ゾノは本当に子供だったと思うんです。陽気で、無邪気で、素直でね。それが予選が始まると完全に人が変わった。マッサージしてる時に、『やっぱり俺が頑張んなきゃダメなんだよね』とか口にするようになったし、実際、顔つきからして変わってきてましたから……。サウジ戦でのゾノは、はっきりいって満足なプレーができる状態じゃなかったんです。それを痛み止めを打って出場して、痛む足で2点も決めた。僕は見てて涙が出そうになりましたし、あれは今でも、ゾノのキャプテンシーが点を取らせたんだと思ってます」  アジア最終予選の準決勝、これに勝てばアトランタ行きが決まるという状況で対戦したサウジアラビアは、あらゆる意味で日本より格上のチームだった。彼らは3年前、川口や服部が涙したワールドユース・アジア最終予選の覇者で、この時は日本を破って決勝に進んできた韓国を2─0とあっさり退けている。もちろん、オリンピック代表にはこの時のメンバーが何人も上がってきていた。しかも、A代表がアメリカ大会において悲願のワールドカップ出場を果たし、しかもベスト16まで進出したことで、国全体が本物の自信を身につけつつもあった。'92年アジア大会の優勝が日本サッカー界全般にもたらした以上の自信を、サウジアラビアのサッカー界は手にしようとしていたのだ。  前園はそんな相手から2ゴールを奪った。日本サッカー界に28年ぶりのオリンピック本大会出場をもたらす、特別な意味を持つゴールだった。  どれほど力関係が接近していようとも、敗者と勝者、経験なき者とある者との間には極めて大きな断層が横たわっている。だが、その断層が大きければ大きいほど、乗り越えた時につく勢いもまた大きい。前園のあげた2ゴールは、日本を経験ある勝者の側に近づけただけでなく、彼個人をも、ただの才能ある選手というだけではない位置にまで導いたはずだった。そして、偉大な跳躍を可能にした原動力の一つに、前園の左腕に巻かれた腕章、キャプテン・マークの存在があった。本人が何と言おうとも、間違いなく——。  その日の夜、遠く日本では一人の男が前園の活躍に涙していた。食事は喉を通らなくなり、すべての感情を失ったかのようになっていた男が、静かに涙を流していた。  やがて、部屋の電話が鳴った。  前園からの電話だった。  短い、ほとんど言葉のない会話だった。だが、電話が切れた時、男の目からは涙が消えていた。長い間失われていた力が再び戻ってくるのを、男は感じていた。 「よっしゃ」  小倉隆史は静かにつぶやいた。      4  マレーシアから帰ってきた日本オリンピック代表は、未曾有の大フィーバーに巻き込まれた。選手たちはあらゆるメディアから引っ張りだこの状態となり、中でもキャプテンとして感動的なリーダーシップを発揮し、大一番のサウジアラビア戦で2ゴールをあげた前園のもとには、文字通り分刻みでの取材が殺到した。それまでサッカー界のみでしか知られていなかったちょっと変わった名前のキャプテンは、一気に国民的なスターとして祭り上げられるまでになったのだった。  しばらくの間は、前園もこの状態を楽しむことができた。だが、なかった頃は素晴らしいものに思えた知名度が、実は自分のプライバシーを奪うという一面を持っているということを、彼はすぐに思い知らされる。もはや、彼が注目されているのはフィールドの上だけではなかった。私生活の一挙手一投足にまでマスコミの視線は及び、メディアによってはプレーよりもむしろ私生活の方に注目するところまで出てきた。プロ野球のスター選手や三浦知良が通ってきた道に、前園もまた足を踏み入れたのだった。  最終予選までの前園であれば、遊びでストレスを発散することができた。そうすることで、ともすれば押しつぶされそうになるキャプテンの重みを一時忘れ、気持ちを新たにすることができた。カズがメディアの注目を栄養として自信をふくらませ、どんどんプレーのレベルを上げていった男だとしたら、前園はどこかで素顔をさらせる場所、真の有名人ではなかなか持ち得ない場所を必要とする男だった。  しかし、知名度は前園から大切な場所を奪ってしまった。  並木は言う。 「最終予選が終わってしばらくすると、夜、ゾノから電話がかかってくることが増えたんですよ。お前、いまどこにいるんだって聞くと、『ああ、家だよ』って。それまでは、かかってくるとしても外で遊んでる時が多かったのにね。オリンピックの時もそうでしたよ。マッサージでもしてやろうと思って部屋に入っていくと、あいつ、一人でポツンとしてるんです。とにかく元気で明るかった、あのやんちゃ坊主みたいだったゾノがですよ」  重い哀愁を漂わせたその姿に、並木は思わず言葉を失ったという。  ストレスのはけ口を失った前園は、以前にも増してキャプテンの重みに悩まされるようになった。グチが増え、時としてそれは以前と変わらない状況で生きているチームメイトたちに向けられた。  本大会の2カ月前、日本オリンピック代表はチュニジアに遠征し、同じく本大会出場を決めていたチュニジアのオリンピック代表と2試合を行った。2試合目、日本は守備の乱れもあって、2─4と思わぬ惨敗を喫したのだが、帰りのバスの中でちょっとした事件が起きた。前園が、他の選手にも聞こえるような声で「守りがこれじゃ、いくら点取ったって勝てるわけがない」と守備陣に対する不満を洩らしてしまったのである。守備陣は一斉に反発し、キャプテンに対する信頼を急速に喪失していった。後に極めて大きなものになっていく攻撃陣と守備陣の溝が、初めて姿を現した一瞬だった。  もちろん、前園の言動はほめられたことではない。だが、前園には前園の事情があり、それは周囲にはわからなかった。そして、彼はそうした悩みを断じて口にする男ではなかった。一人でストレスをため込んでいった前園のプレーからは切れ味が失われ、そのことで彼はさらにストレスを深めた。フィールドで結果を出すことは、彼が知る唯一のキャプテンシーの発露の方法だったからである。ディフェンダーたちの心が離れていくのを感じ、プレーの質が落ちていくのを感じ、そのすべての原因が何にあるかを知りながら、前園はどうすることもできなかった。それでも、彼はキャプテンでいなければならなかった。  川口は「キャプテンの口から最後まで日の丸って言葉が出なかった」ことに物足りなさを覚え、それをストレートに口にした。間違いではない。確かに前園は、オリンピック直前になっても「自分のために戦う」と公言し、「日本のために戦う」とは一切言わなかった。しかし、前園が日本のことを考えていなかったわけではない。口からは出なかったが、口の中には、日の丸があった。治療に出向いた歯科医に、彼はある頼みをしていた。それは、奥歯に日の丸を描いたコーティングをしてもらうことだったのである。  ブラジル戦を間近に控えたある日、現地入りしていた前園のもとに一本の電話が入った。  小倉からだった。  サウジアラビア戦の直後に前園から電話を受けた小倉は、医者の許可が下りるや否や、周囲があきれるほどの熱心さでリハビリに取り組み始めた。彼は本気で、本大会までに復帰するつもりだったのである。オリンピック代表のスタッフも、ヒマを見ては小倉のもとに足を運び、その回復具合を気にかけてきた。メンバー登録の最終締め切りとなる6月を過ぎても小倉の足は完治したとはとてもいえない状況だったが、それでも彼は夢を捨てなかった。7月までに治れば、きっと西野がウルトラCを使ってでも自分を代表に呼び戻すはずだと信じていた。  しかし、7月になっても小倉の足は回復しなかった。 「ギプスは取れて、一応、見た目だけは試合できる格好にはなったんですけど、ジュビロとやった東海チャンピオンシップかな、実際にゲームしてみたらまるであかんかった。まるっきり走れんし、プレーしながら右足で踏ん張るのを怖がっとるんですよ、どこかで。あれで完全にあきらめました。プロである以上、試合には勝たな意味がない。そんな場に俺みたいなのがおったら迷惑かけるだけやなって」  自分がプレーする可能性がゼロになっても、小倉はオリンピック代表のこと、親友の前園のことを忘れなかった。前園たちが守備的なサッカーに不満を洩らしていると聞き、「あのメンバーであの相手と戦わなあかんのやったら、守備的なサッカーしかない。あいつら間違っとる」と憤慨したこともあった。それでも彼は、最後の最後で前園のところへ電話をかけてきたのである。 「大したことは話してませんよ。僕自身、何を言ったか覚えとらんぐらいやし」  ただ、たまたまその場に居合わせたトレーナーの並木によれば、電話を終えた前園は、最終予選の時の前園に戻ったようだったという。キャプテンは言った。 「俺、やるしかないよね」  彼は、やった。日本はブラジルに勝った。伊東がゴールをあげた。路木が的確なセンタリングを入れた。そして、その路木に中盤からダイレクトでパスを供給したのが、前園だった。  だが、その日は日本がチームとして機能した最後の日だったと同時に、前園がキャプテンシーを発揮した最後の日でもあった。小倉の声とブラジルという巨大な敵、二つの要素が前園の心から絞り出したのは、消耗しきった彼に残された最後のエネルギーのひとしずくだったのである。  攻撃陣にもう一人スターがいれば、あるいは前園が心のすべてを打ち明けられる男が身近なところにいれば、彼はその後も最終予選の時のようなキャプテンでいられたかもしれない。しかし、スターでもあり無二の親友でもあった男は、電話線を通じてしか話すことのできないところにいた。 [#改ページ] 第8章 祝祭の終わり     '96・7・25 オーランド シトラスボウル・スタジアム     日本オリンピック代表─ハンガリー・オリンピック代表

     1  ナイジェリア戦から2日後、日本は3─2でハンガリーを下した。  ハンガリーはオリンピック地区予選を兼ねたアンダー21欧州選手権の準々決勝でスコットランドに敗れたが、国際オリンピック委員会(IOC)が「スコットランド」という地域を国家として認めていないため(認めれば他の種目での“イギリス代表”の定義づけが難しくなってしまう)、繰り上げで出場権を獲得したチームだった。オリンピックに出場した他のヨーロッパ勢、イタリア、スペイン、ポルトガル、フランスに比べると実力がワンランク落ちる存在だったのは事実である。  ただ、これはあくまでもヨーロッパの中での話だった。'84年のロサンゼルス・オリンピックまで、オリンピックのサッカーはプロに開放されていなかった。そのため、建前上はアマチュアになる社会主義国の代表チームは、ワールドカップの予選に出場するチームと、オリンピックに出場するチームがほぼ同じメンバーによって構成されていた。これでは、トップクラスの選手のほとんどがプロになっている西側諸国のオリンピック代表が勝てるはずもない。そのため、オリンピックのサッカーは社会主義国の独壇場となっていたのだった。  しかし、プロが解禁されたとなると話は変わってくる。しかも、最初はワールドカップに出場経験のない選手に限られていたプロ選手の参加条件は、次第に条件が緩和され、このアトランタ・オリンピックでは23歳以下の選手であれば全員がプロでもOKで、かつ3人までは23歳以上の選手も出場が許されることになっていた。プロ対プロの対決であれば、モノを言うのはその国が持つリーグ戦のレベルの高さになってくる。つまり、ハンガリーの地盤沈下は、彼らが弱くなったというよりも、西側諸国がオリンピックのサッカーに力を入れるようになってきたがゆえの現象だったのである。  大会前、日本のマスコミの中には欧州予選におけるハンガリーの順位だけを根拠に「|与《くみ》しやすし」という声があったと聞く。だが、これは「ヨーロッパ代表の中では最も日本にチャンスのある相手」という比較論を都合よく拡大解釈しただけの話で、アジア代表の日本にとって、依然としてハンガリーは強敵だった。28年前のメキシコ・オリンピックで、釜本邦茂、杉山隆一らのいた日本代表は準決勝でハンガリーに0─5と木っ端みじんに粉砕されている。四半世紀以上にも及ぶ月日は、ヨーロッパにおけるハンガリーの位置を大きく変えたが、日本との力関係も同じように変わっていたかといえば、それは疑問だった。  ところが……。 「100年に一度の試合を日本にやられてしまった」  試合後、ハンガリーのアンタル・ドゥナイ監督は呆然とした面持ちでつぶやいた。この試合、ハンガリーは二度のリードを奪った。日本は二度追いつき、そして最後には逆転した。これは、よほど力の差があるか、力が互角で一方に神がかり的な勢いでもついていない限り、おこり得ない結果である。日本が二度リードを奪い、ハンガリーがそれに追いつけずに敗れたというのであれば、アンタル・ドゥナイもまだ納得したことだろう。しかし、常にリードを奪ったのはハンガリーの方であり、彼は、日本が自分たちより力が上か、少なくとも互角であることを認めなければならなくなった。日本サッカーについての情報のほとんど入らない国の監督にとって、これはとてつもない屈辱だったに違いない。  ただ、彼は幸いにも日本オリンピック代表の内情を知ることなく記者会見を終えることができた。もし誰かが、攻撃陣と守備陣の確執や前園の消耗ぶりを伝えていたら、彼は呆然とするぐらいでは済まなかったはずである。彼らが敗れたのは、歴史的に見ても状況的に見ても負けるはずがない試合だったのだ。 「ハンガリー戦ですか、あんまり記憶にないなあ。ブラジル戦やナイジェリア戦だったら、いろいろ印象に残ってることがあるんですけど……」  あれほど劇的で、あれほど印象的だった試合だというのに、ハンガリー戦について自分から触れようという選手はほとんどいなかった。ここに紹介した田中のコメントは、ハンガリー戦について日本選手が抱いている感想の最大公約数と言っていいかもしれない。彼らは、ブラジル戦のような試合前の昂りを感じることもなく、ナイジェリア戦のように相手の身体能力に愕然とすることもなく、ただ淡々と試合に勝った——そんな感じだったのだ。  しかも、ナイジェリア戦のハーフタイムに、チームは崩壊してしまっている。状況が好転する兆しはまったくなく、より悪化していてもおかしくないような状態だった。そんなチームがなぜ、ハンガリーという強敵から勝利をあげることができたのか。これは誰もが疑問に感じるところだろう。  きっかけは、ごく些細なことだった。苦笑を浮かべながら、トレーナーの並木はこんなエピソードを教えてくれた。 「ナイジェリア戦の夜は、もう真っ暗な雰囲気でしたね。攻撃の選手は攻撃の選手で固まって、守備の選手は守備の選手で固まってという感じで。食事の時になってみんなが集まってきてからも、会話なんてどこにもない。そしたらね、ヒロ(廣長)だったかな、突然叫んだ奴がいたんですよ。『やっべえ、盗まれたっ!』って」  日本オリンピック代表が宿泊していたのは、1泊シングルで200ドル以上する高級ホテルだったが、幸か不幸か、セキュリティが万全とは言いがたかった。日本の高級ホテルに宿泊するのと同じ感覚で高級品を部屋に無造作に置いておいた選手たちは、オリンピックというめったにない好機に舌なめずりしていた窃盗団にとって、まさにとびっきり、極上のカモだったのだろう。彼らが部屋に飛んで帰った時、何人かの選手の貴重品はきれいさっぱり消え去っていた。 「財布がなくなってたよ。お前は?」 「時計が盗まれてた……」  食堂用に設けられた中2階のホールに、被害を確認した選手たちのすっとんきょうな声が飛び交った。もはや攻撃陣だ守備陣だのと意地の張り合いをやっている場合ではなかった。ちょうど、ブラジルという巨大な敵の存在がすでに壊れかけていたチームを支えたように、窃盗という犯罪が、互いにそっぽを向き合っていた両者に再び一体感を与えたのである。食事が終わった時、暗かったムードは完全に一掃されていた。少なからず財政的な打撃を被った選手たちには申し訳ないが、ある意味、この事件で、日本オリンピック代表は救われたのだった。  もちろん、雰囲気が多少明るくなったとはいっても、それはマイナスがゼロに近づいただけのことで、ゼロがプラスになったわけではない。前園には依然としてキャプテンの重圧がのしかかっており、チームにアジア最終予選のような一体感が戻ってきたわけでもなかった。さらにムードがよくなっていくのは、翌24日、ハンガリー戦の前日を迎えてからのことである。 「確かハット(服部)の部屋だったと思うんですけど、誰が誘うでもなくディフェンダーの選手たちが集まったんですよ。で、『いろいろイヤなこともあったけど、明日が最後だから、絶対にいい試合をしよう。勝って、予選リーグを突破しよう』って話になったんです。『もう一度フォワードの選手たちを信じて、俺たちはいいボールを供給するようにしよう』って。正直言って、それまではやりきれないなって気持ちが強かったんですけど、自分に関しては、あれでスパッと気持ちの切り換えができましたね」  しゃちほこばったミーティングではない、リラックスした席での雑談だった。だが、皆と話をしながら、路木は全身に鳥肌が立つような感動を味わっていたという。ディフェンダーたちの心に、再び力が甦ってきていた。  ただ、それでも物足りなさを覚えている選手はいた。川口である。 「ハンガリー戦前のミーティングで、(GKコーチの)マリオが『この試合に勝って、メダルを獲ろう』って言ったんです。日本人でもない彼が日本のために熱くなってくれてる——そう思うと僕は涙が出てきちゃったし、他の選手もグッとくるものはあったんじゃないかと思います。マリオのあの言葉が、最悪だった僕らの雰囲気を変えてくれたんです。ただ、やっぱり一丸にはなれなかった。あの試合、日本は最低でも3点差をつけなきゃいけない状況でしたよね。なのに、日本ボールのキックオフが、いきなり自陣まで戻されてきた。みんなで勝ちにいこうって雰囲気があったら、キックオフのボールは絶対に相手陣内に入っていくもんだと思うんです。それが、あっさりと右サイドバックの森岡(茂)さんのところまで返ってきた。あの瞬間、そりゃないだろってガックリきたのを覚えてます」  川口のいうキックオフの場面に象徴されるように、ハンガリー戦の立ち上がりは、決してホメられたものではなかった。攻撃陣の選手にこれといった強いモチベーションがないのは明らかだった。守備陣にしても、3分、最初のコーナーキックからあっさりゴールを許してしまうなど、集中力に欠けた部分はあった。しかし、それまでの2試合と違い、あくまで中盤にいいボールを供給しようとするディフェンダーたちの|真摯《しんし》な姿は、いつしか攻撃陣の選手にも伝わっていった。  前半40分、前園のPKで追いついた日本は、後半立ち上がりにカウンターから再びリードを許したものの、ロスタイムに入る間際、GK川口までが攻め上がる総攻撃から執念の同点ゴールをたたき込み、さらにその1分後、ブラジル戦のゴール以来、初めて敵陣深くまで侵入した伊東がグラウンダーのセンタリングを中央に走り込んだ前園にピタリとあわせ、敵将をして「100年に一度」と言わしめた驚異の逆転劇を演じて見せたのだった。  残念ながらブラジルがナイジェリアに1─0で勝ったため、日本の決勝トーナメント進出はならなかった。3チームが同じ勝ち点6で並んだものの、ブラジルとナイジェリアの得失点差はプラス2、日本はプラスマイナス0と、上位2チームに2ゴール足りなかったのだ。2勝をあげながら決勝トーナメントに進出できないという、オリンピック・サッカーでは史上初めてという珍しい記録を残し、日本サッカーのアトランタ・オリンピックは終わった。      2  選手たちの思いは様々だった。 「悔しい……」  そういったきり泣きだしてしまったのは、この試合で初めて先発に起用された松原だった。ナイジェリア戦で出場機会が与えられず「ムカついてた」という彼は、その鬱憤を晴らすかのように縦横無尽にフィールドを駆け回った。ただ、1点が取れなかった。決勝トーナメントに進めなかったということと、アジア最終予選で1点も取れなかった雪辱を果たせなかったという無念の思いが、彼の感情を揺さぶっていた。 「終わったか、これで……」  服部はなかば放心状態だった。悔しいという思いはもちろんあった。だが、チームを陰になり日向になり支えてきた彼には、そうした苦労からすべて解放されるのだなという安堵感も強かった。 「ああ、これで終わりなのか……」  安堵感よりも、喪失感を強く感じていたというのが路木だった。ブラジルやナイジェリア、ハンガリーと戦いながら、彼は秒刻みで上達している自分の姿に気づいていた。レベルの高い相手との真剣勝負が、どれほど己の財産になるかを知りつつもあった。決勝トーナメントに進出すれば、そうした戦い、ひょっとしたらグループ・リーグとはまた違った、もっと新しい何かを与えてくれるかもしれない戦いを体験できるはずだった。しかし、チャンスは完全に失われた。そのことが、路木に喪失感をもたらしていた。 「明日は何時から練習をしようか……」  同じような喪失感を感じながらも、すでに翌日のことに頭を切り換えていたのは川口だった。オリンピックの期間中、彼は試合だけではなく、練習の最中にも成長していく自分を感じていた。そして、実際に世界のGKと対峙してみて、自分が必ずしも劣るわけではないことを実感しつつあった。つかみかけた自信が練習でふくらみ、試合でより強固なものとなるという経験は、小学校の時からGKをやってきた川口にとっても実に新鮮なものだったという。明日練習をすれば、ハンガリー戦でつかんだ自信をもっと大きなものにできるのではないか、もっと新しい自分に出会えるのではないか。川口はそう考え、同時に心の中で苦笑いを浮かべた。きっと、こんな気持ちは誰にも理解してもらえないだろうな、と——。 「さあて、今度はワールドユースに出るかな」  周囲とまるで違うことを考えていたのは、やはりというべきか、中田だった。ハンガリー戦の90分をベンチとゴール裏のウォーミングアップ用のスペースで過ごした彼は、'97年にマレーシアで開催されることになっていたアンダー20世界選手権、すなわちワールドユースに思いを|馳《は》せていた。'77年生まれの中田は、'97年になってもオリンピックより一つ下のカテゴリーとなるワールドユースに出場する資格があるはずだったのである(後に、ワールドユースに2度は出場できないという決定がなされた)。自分をメンバーから外した西野への怒りはなかった。彼の胸中にあったのは「サッカー観が違うんだからしょうがない」という醒めた思いと、次なる目標に対する貪欲な欲求だった。  様々な感慨、表情があったシトラスボウルのフィールドだった。だが、ナイジェリア戦とは決定的に違うところがあった。  選手たちは、全員が揃ってスタンドに手をあげたのである。  中央には西野がいた。隣には服部が、路木がいた。列の端には前園が、中田がいた。  まだわだかまりが完全に消えたわけではなかった。それでも、彼らはともに手をあげていた。最後の最後にチームの形をとりもどして、日本代表のアトランタ・オリンピックは幕を閉じたのだった。      3  ハンガリー戦の夜——。  ホテルの食堂ホールには、心地よい弛緩とでも言うべき雰囲気が広がっていた。長かった戦いは終わった。もはやプレッシャーはない。恐怖も反発もない。あるのは、身体の奥底に残った連戦の疲れからくる痺れるような脱力感と、ずっと夢に見ていた世界大会での戦いを終えた充実感、そして終わってしまったという喪失感だった。彼らはまた、次の夢に向けての戦いを始めなければならない。そのことはわかっていた。しかし、ほとんどの選手にとって、オリンピックは生まれて初めて体験する世界大会だった。しばしの余韻が、彼らには必要だった。 「酒でも出そうか」  西野がポツリと言った。 「もう大会も終わったわけだし、いいだろう」  それは他人に、というよりは自分に問いかけているような口調だった。'92年のユース代表結成以来、長かった戦いはついに終わった。選手たちがそうだったように、西野もまた、自らを解き放つ心地よさに身を委ねていた。  テーブルにビールが並べられた。ヨーロッパや南米のチームでは食卓にワインが並ぶことも珍しくないが、日本オリンピック代表としては極めて珍しいことだった。選手たちはもちろん、興が乗ってくればいくらでも飲めてしまう酒豪の西野であっても、食事の席ではアルコールを口にしないというのが、暗黙のルールだったのである。そのルールを西野はあえて破った。それは彼の、選手や自分に対するささやかな慰労でもあった。  ただ、選手たちは疲れていた。ほんの一口ビールをすすっただけで、すぐにベッドのある部屋へと戻っていく者も少なくなかった。真夏のフロリダ半島で供されたというのに、この夜、ビールの人気はさして高いものではなかった。時間が経つにつれ一人、また一人と選手は消えていき、小一時間ほどすると、ホールにはかなりの本数のビールと西野を始めとするチームスタッフ、そして数人の選手が残るだけとなった。  西野は酔った。一人でワインのボトルを2本以上空けてもケロッとしている男が、わずかコップ2、3杯のビールで顔を真っ赤にしていた。他の者も同様だった。染みていくアルコールの力を感じながら、彼らはオリンピック代表の2年間に思いを馳せていた。  残った選手たちは、服部、路木らディフェンダーがほとんどだった。攻撃陣から守備的なサッカーに対する不満が出るようになってからというもの、彼らと西野の間にはある種のシンパシーが漂うようになっていた。もちろん、例外はあっただろう。ただ、多くのディフェンダーたちにとって、スポットライトを浴びる攻撃陣の選手から突き上げられ、彼らの側についたとしか思えないマスコミから叩かれる西野は、自分たちの置かれた立場、心情を象徴する存在でもあった。  西野は中田に対して怒った。多くのディフェンダーも同じ怒りを感じていた。西野はマスコミに対して不信感を抱いていた。ディフェンダーたちもそうだった。オリンピックに出発する直前、あるディフェンダーの選手がパスポートを家に忘れ、集合時間に遅刻したことがあった。そのニュースを伝えるスポーツ新聞の冷たい論調に、ディフェンダーの中には「あれが攻撃の選手だったら、あんなふうに書かれることもなかったのに」と感じている者がいた。皮肉なことに、チームの亀裂が深くなっていけばいくほど、ディフェンダーたちは西野に対する信頼を深めていった。  酒を出そうかという西野の言葉から、ディフェンダーの選手たちはそこに込められた慰労の意を強く感じとった。彼らにはそれが嬉しかったし、できることならば自分たちの方からも西野に「お疲れさまでした」と伝えたかった。ホールの人影が少なくなってきても、彼らは部屋に戻ろうとはしなかった。  前園真聖も、そこにいた。  チームが末期症状を迎えつつあったメキシコとの練習試合を終えたあたりから、守備陣と攻撃陣の間のコミュニケーションはほぼ完全に絶たれていた。攻撃陣の選手たちは攻撃陣と、守備陣の選手たちは守備陣とばかり集まるようになり、ナイジェリア戦以降、それは決定的で動かしがたいものになった。まるでサバンナの野生動物がそうであるように、彼らは自分たちのテリトリーだけをかたくなに守り、相手側のテリトリーには入っていこうとしなくなっていた。当の本人がどう考えていたかはともかく、守備陣にとっての象徴は監督の西野であり、攻撃陣にとっての象徴はキャプテンの前園だった。  その前園が、ディフェンダーたちと一緒になってホールに残っていた。  ビールをコップで1杯だけ口にした前園は、しこたまウィスキーを流し込んだような顔をしていた。西野の体内で偉大な力を発揮したこの夜のアルコールは、前園にも同様の効果をもたらしたらしい。頭の方はしっかりしていた。ただ、長く心の中にあった冷たいしこりのようなものだけが、きれいさっぱり溶けてしまっていた。  前園が「やっているサッカーが守備的すぎる」と新聞記者に不満を洩らし、西野がそのことを注意したのはわずか2週間前のことである。前園は西野の注意に納得したわけではないし、そんな前園の態度に西野は不満を抱いていた。中田のように目に見える形での衝突はなかったものの、決して良好なものとは言えない状態にあった両者の関係だった。それがこの時は、まるでそんな過去など存在しなかったかのように打ち解けた雰囲気が広がっていた。  監督がキャプテンに語りかける。  前園が西野に語りかける。  ビールは一向に減らなかった。それでも、二人の話は終わらなかった。誰も、彼らを遮らなかった。  窓の外では、昼間はにぎやかだったプールが、その水面に明るい月の姿を映し出していた。フロリダの夜が|更《ふ》けつつあった。 [#改ページ] 第9章 アウダイールの笑顔     '97・4・3 ローマ

     1  ローマの春は3月21日から始まる、と言われる。  暦のうえでは春の始まりから2週間ほどたったその日、街を行き交う人々の顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。空は抜けるように青く、地中海から潮の香りを乗せて漂ってくる風は、何ともいえないぐらい爽やかだった。つい数日前までは空席が目立った屋外のカフェテラスでは、サングラスをかけた大勢の若い男女が、小さなカップでのんびりとエスプレッソを楽しんでいる。若かった春が、いよいよ成熟した春になりつつあった。 「いい天気、いい風だ。窓を開けて走ってもいいかい?」  メルセデス300クーペのハンドルを握るアンジェロ・オラッツィが、ずいぶんと明るい声で問いかけてきた。今ではすっかり温和な実業家の顔つきになった彼にも、かつては闘志をむき出しにして戦うジョカトーレ(選手)として生きていた時代があった。ASローマのプリマヴェーラ(イタリアのサッカー界では“ユースチーム”を意味するが、本来の意味は“春”)で選手としてのキャリアをスタートさせた彼は、17歳という極めて異例の若さでセリエAにデビューし、18歳で23歳以下代表のキャプテンとなり……23歳でヒザを壊した。以後、35歳で引退するまで決して恵まれていたとはいえないサッカー人生を送ってきたにもかかわらず、古巣のトレーニング・センターへと向かう彼の表情が明るかったのは、記憶と現在、二つのプリマヴェーラの偉大な力によるものだったのかもしれない。  この日、私たちはASローマでプレーするブラジル代表のディフェンダー、アウダイールのインタビューをすることになっていた。 「え、あいつのインタビューをやるのか? 頼むぜ、インタビューだけにしといてくれよ。間違っても日本に連れていこうなんて考えを起こさないでくれよ」  前日、私たちがインタビューをすると知ったアンジェロの友人は、真剣な表情でこう言ってきたものだ。このブラジル人ディフェンダーが、かつてセリエAでプレーしていた日本人選手、三浦知良と親交をもっていることはよく知られた事実だったのである。そして多くのイタリア人は、そのことがアウダイールに日本行きを決心させる十分な動機になると見ているようだった。 「じゃあ、なんで彼に話を聞きたいんだ?」  アウダイールが来シーズンどこでプレーをしようがまったく関心はない、と答えても、アンジェロの友人は納得しなかった。彼には、日本人のジャーナリストがASローマのセンターバックに興味を持つ理由がわからなかったのである。 「日本がブラジルに勝ったから? サッカーでか? いつ? オリンピックだと? 知らんな。それとアウダイールがどんな関係があるんだ?」  理由を説明しても、彼は最後まで半信半疑の様子だった。彼はまず、日本チームがアトランタ・オリンピックに出場したことを知らなかった。ブラジルに勝ったことを知らなかった。そして、この大金星にアウダイールが大きく関係していたことを知らなかった。日本中が熱狂し、多くの国民が瞼に焼き付けたアウダイールとGKジダの接触と、そこから生まれた伊東輝悦のゴールを、彼はまったく知らなかった。  だが、私は聞きたかったのだ。ローマのファンにとっては理解できないことでも、日本人である以上は、どうしてもアウダイールに会って、あの時、彼に何が起こったのか、そしてブラジルに何が起こっていたのかを聞いておきたかった。かつてASローマでプレーしていたアンジェロにコーディネイトを頼み、ハイウェイを南に走らせていたのはそんなわけだったのである。 「ようし、見えてきた。あそこが“トゥリゴーリア”、ASローマのトレーニング・センターだよ」 “練習場”と書いたのでは、あの時受けた感じを伝えることは難しい。それはまさに、トレーニング・センターと片仮名で表記するにふさわしい施設だった。辺り一面は、映画「大脱走」でスティーブ・マックィーンがバイクを飛ばして逃走を図ったシーンを思わせる、広大な丘陵地帯である。そんな中を緑の絨毯を切り裂くように一本の細い道路が伸びており、最後は眼下に広がる一大施設の中へと吸い込まれていく。そこが、我々が約束の場所として指定されたASローマのトレーニング・センター兼クラブ・オフィス“トゥリゴーリア”だったのである。 「おいおい、誰かと思ったらアンジェロ・オラッツィじゃねえか」  入り口で中へ入り込もうとするファンを阻止するのに大忙しだった門番の老人は、車の中を覗き込むとすっとんきょうな声をあげた。 「やあ、じいさん、元気かい」 「ああ、おかげさんでな。お前さんも元気そうでなによりだ。ところでアンジェロ、今日は一体どんなご用件だい?」 「こちらの若い彼、バルセロナに住んでる日本のジャーナリストなんだけど、アウダイールにインタビューを申し込んでてね。クラブ側との交渉役ってことで俺がついてきたってわけさ。ほら、一面識もない記者がひとりでいくよりは、馴染みの顔がいっぱいいる俺みたいな人間がついてった方が何事もうまくいくだろ」 「|違《ちげ》えねえ。ところで——」  老人はこちらに向き直った。 「若えの、このアンジェロはとんでもなくいい奴だが、もしこいつが生意気なこと抜かしたら、ワシに言っとくれよ。何たって、こっちはアンジェロがほんのヒヨッコだった十代のころからこの仕事をやってんだ。こいつとは長い付き合いだし、こいつのことだったら大抵のことはわかってるからな。いつだったかな、コーチに叱られて泣きべそかきそうになってたこととか……」 「おいおい、そんな30年も前のことを言いださないでくれよ」  アンジェロがあわてて口をはさむと、老人は声をあげて愉快そうに笑った。そして、メルセデスを入り口に一番近いスペースへと誘導し、茶目っ気たっぷりにウインクをして持ち場に戻っていった。途中、人とすれ違うたびにメルセデスの方を指さしては話し込んでいたから、おそらくは「おい、若えの、あのクルマに乗ってるのが誰だか知ってるか? アンジェロ・オラッツィだよ。17歳でトップチームに昇格した……」とでも言っていたのだろう。 「いやはや、もうすぐ五十代だっていうのに、ここじゃいつまでたっても小僧っ子だな」  アンジェロは頭に手をやりながら苦笑した。 「髪の毛だってこんなに白くなっちまったのに」  駐車場からクラブ・オフィスの入り口までほんの数十mを歩くのに、我々はたっぷり5分以上もかかってしまった。老人の精力的な宣伝活動のおかげで、何人もの顔見知りが挨拶のキスをしにやってきたのである。ようやくたどりついた入り口で待っていた広報担当者も、アンジェロの旧友、プリマヴェーラ時代の同僚だった。 「やあ、アンジェロ、久しぶり。今日はアウダイールのインタビューだったよな。ずいぶんと迷惑かけて申し訳ないことをしたが、今日は安心しててくれていいぞ。彼が来たら、俺が捕まえてお前のところに連れていくから。それまでは、そうだな、サロンでコーヒーでも飲んどいてくれよ」 「ああ、頼むよ。こちらの記者さんはもう4日もローマで待っててくれてるうえに、明日はバルセロナへ帰らなくっちゃいけないんだから」  もちろんさ、とばかりに肩をすくめ、広報担当者は我々を中へ招き入れてくれた。実は、アウダイールのインタビューは3日前に行われる予定だった。それが、急遽ブラジル・サッカー協会から代表チームに合流せよとの招集がかかり、彼は入れ違いでブラジルへ戻ってしまっていたのだった。これが普通のインタビュー申し込みであれば、「そんなわけですので、今回は残念ですが」ということになっていたのだろうが、幸い、交渉役としてあたってくれていたのはASローマのOBでもあり、広報担当者の旧友でもあるアンジェロである。チーム側としても|無下《むげ》に断ることはできず、アウダイールがイタリアに帰国したその日、すぐにインタビューをさせてくれることになったのだった。 「よし、これで安心だ。サロンの方で待っていることにしよう」  久しぶりとはいえ、彼にとっては勝手知ったるオフィスである。豪華なインテリアが|醸《かも》しだす重厚な雰囲気など少しも気にならないように、アンジェロはサロンへと向かった。 「ここがサロンだ。アウダイールが空港からこっちに着いたら、さっきの広報が呼びに来てくれるから大丈夫だよ。しばらく、おもての景色でも眺めてくるといい」  おもてに広がる景色が、また壮観だった。これ以上ないというぐらい完璧に整備された芝のグラウンドが、少なく見積もっても4面はあった。プールがあり、陸上競技用のトラックもあった。これがACミランやインテル・ミラノ、そしてユヴェントスといったいわゆるスクデット(優勝楯)常連の強豪チームの持っている施設だというのなら話はわかる。だが、ASローマは一番最近の優勝が'82年で、二番目に近い優勝となると実に'42年にまで遡らなければならない、お世辞にも強豪とは言えないチームなのだ。実際、ローマよりもさらに実力的に落ちるという面はあったにせよ、三浦知良が所属していたジェノアの練習場は、ヴェルディ川崎の施設がハイアット・ホテルに思えてしまうほど貧弱かつ旧式なもので、しかもグラウンドは芝生の禿げかかったものが1面あるだけだった。資金力の面ではいまやイタリアを凌駕するまでになったスペインの2チーム、FCバルセロナやレアル・マドリーにしても、所有している施設の比較では到底このASローマに及ばない。春の陽光に輝く緑を眺めながら、私はしばし呆然としていた。  これだけの施設があっても優勝できないのがイタリアなのか……。  資金が潤沢であるということが、強いチームが成立するうえでの絶対条件となっているのは日本のプロ野球に限ったことではない。イタリアではミラノの2チーム(ACミラン、インテル・ミラノ)とユヴェントス、スペインではレアル・マドリーとバルセロナの両巨頭、イングランドではマンチェスター・ユナイテッド、ドイツではバイエルン・ミュンヘンといった具合に、ヨーロッパで強豪と言われるチームは、トーキョー・ジャイアンツも真っ青になるぐらいの資金力と強引さで強化を推し進めている。これらのクラブでは、最上級の選手に最上級の環境でトレーニングを積ませ、彼らが勝ち取った賞金をまた次年度の予算として投入し、さらなる強化を図っていく。  これでは、資金力のないクラブは太刀打ちできるはずもない。30年前のように、移籍がさほど日常的でなかった時代であれば、ユースのころから育てた優秀な選手が活躍し、クラブの財政が潤い、それを元手にビッグクラブへの道を目指すという方法論もあっただろうが、移籍の基本的自由が認められてからは、彼らにできるのはせいぜい若手有望選手と長期契約を結び、移籍の際に“違約金”という形でかつての移籍金にあたる分を受け取ることぐらいである。だが、そうやって得た資金は、ビッグクラブがタイトルを獲得した際に得る資金、すなわちキャラクター・グッズの売り上げやテレビの放映権料などとは比較にもならない額でしかない。こうして、差はさらに大きなものへとなっていく。実際にビッグクラブと中小クラブ、その双方の練習場に足を運んでみれば、多くの人はあまりの落差に愕然とすることだろう。  言うまでもなく、環境の整備はクラブが成長していくうえで不可欠な要素である。そのため、私はいつしか、ビッグクラブとは例外なく素晴らしい施設を保持しているものであり、逆に言えば、素晴らしい施設を保持しているクラブは、例外なく素晴らしい成績を残しているものだと思い込んでいた。そしてこの定義は、ヨーロッパや南米、さらには日本も含む世界すべての地域に当てはまるものだと信じていた。  しかし、その定義がイタリアには当てはまらなかった。  おそらくはイタリアにも、素晴らしい施設を持つことがそのまま偉大なクラブたり得る絶対条件だった時代があったのだろう。だが、この国の人々がカルチョ(サッカー)に注ぎ込む情熱は、サッカー先進圏と言われるヨーロッパの中でも際立っていた。そのことが、ビッグクラブにより一層の努力を促し、資金と施設を持っていても勝てないクラブのある、世界一厳しいリーグを育てていったのではないか。あと数十年たてば、ドイツやスペインにも同じような時代が到来するのかもしれないが、未だに自前のグラウンドを持っていないプロ・チームすらある日本の場合は一体——。 「どうだい、ここの施設は」  物思いが絶望的な結論に達しようとした時、アンジェロが肩を叩いてきた。 「どうもアウダイールが遅刻しそうなんだ。もう広報がインタビュー用にVIPルームを開けてくれたそうだから、そっちの方で待ってることにしよう」  どうやらASローマの広報担当者は、旧友とバルセロナからやってきた日本人ジャーナリストに格別な待遇をもって接することを決めたらしい。普段はマスコミも立ち入り禁止だというその部屋は、クラブの首脳陣が今後の方針などを決定する際に使われる、文字通りのVIPルームだった。部屋の中央には巨大なマホガニーの円卓が鎮座し、それを取り巻くようにローマのチームカラー、渋い茶色に染められた革のソファーが並んでいる。 「しばらくはお客さんにトロフィーでも眺めてもらっててくれ。アウダイールも、もうそろそろ来るとは思うから」  壁際にはクラブがこれまで獲得したトロフィーやカップ、楯などがズラリと並んでいた。もっとも、ASローマが獲得したタイトルの数はさほど多くないため、トロフィーの見学はほんの10分程度で終わってしまった。インタビューは4時半から始まるはずだったのだが、時計の針はまもなく5時半に差しかかろうとしている。当初聞いた話では、練習が始まるのは5時半とのことだったから、このままいけばインタビューを行うことは不可能になってしまう。 「大丈夫だよ。我々はアポイントをキチンととっているわけだし、こっちに落ち度は何もない。練習が何時に始まろうと、インタビューは絶対にさせてもらえるから」  おそらくは、私の表情にもはっきりと不安の色が出ていたのだろう。アンジェロが気遣うように言ってきた。だが、それでも心配は消えなかった。今回のインタビューで聞くことになっているテーマは、アウダイールにとって決して愉快なものではないし、そのことは本人にも伝えてもらってある。一度OKはもらったものの、気が変わったといってすっぽかされる可能性がないとはいえない。しかも、彼は今日、ブラジルから帰ってきたばかりで疲れてもいる——。      2 「いやあ、待たせたね。こっちがウチのアウダイール。ウチとの契約は|2060《ヽヽヽヽ》年まであるから、日本へ連れて帰ろうとしたって無駄だよ。アウダイール、こちらがアンジェロ、こちらがバルセロナから来た日本の記者さんだ。今日はもう練習に参加しなくていいから、きっちり答えてあげてくれ」  そろそろ6時になろうとしたころだった。息せき切って階段を駆け上がってきたらしい広報担当者の後に続いて、彼、あのアトランタ・オリンピックの日本戦でGKジダと致命的な接触をしでかし、世紀の番狂わせを起こしてしまったディフェンダー、アウダイール・ナシメント・ドス・サントスはやってきた。 「遅れてしまって申し訳ない。あの試合について聞きたいらしいね。いいよ、すぐ始めようか」  ブラジル代表ともあろう男が、たかだか一回のミスをいつまでも悔やんでいるはずもなかったのだ。アシックスのチームジャージ姿というラフな格好で現れたアウダイールは、こちらの懸念がまったくの杞憂だったことを確信させてくれる笑顔で手を差し出してきた。数々の修羅場をくぐり抜けてきた男の手は、意外にも柔らかかった。  アウダイールと会うに当たって、私には聞かなければならないことが山ほどあった。個人的に聞きたいことが多かったのは事実だが、それ以上に、日本の選手たちが聞きたがっていたことも多かったのである。 「ブラジルとの対戦が決まった時、多くの日本人選手は敗戦を覚悟しました。普通にいけば0─5、ヘタをすると2ケタ失点があるかもしれないと考えていた選手さえいたほどです。ブラジルの選手は、どのような結果を予想していたのでしょうか」  ブラジルは自分たちのことをどう考えていたのか——。あの場に居合わせた日本人選手は、皆一様にこの疑問を口にした。選手だけではない。これは日本人であれば、誰もが聞きたい質問だっただろう。 「もちろん2ケタ得点だったよ」  そう言ってアウダイールは苦笑した。 「いや、それはともかく、私を含めた全員が勝利を信じて疑っていなかったのは間違いない。それもかなりの大差をつけてね。申し訳ないけど、ブラジル一のペシミスト(悲観主義者)だって、日本に負けることは考えていなかったと思うよ」 「日本側は何とか活路を見いだそうと、あなた方のチームを徹底的に研究していました。西野監督だけでなく、選手全員が南米予選決勝の対アルゼンチン戦、オリンピック本大会直前に行われた対世界選抜戦のビデオを見ています。加えて、何人かの選手は、自分のチームでプレーするブラジル人選手から、あなた方がどのような特徴を持ったプレーヤーであるかといったレクチャーも受けています。同じようなことは、ブラジル側でも行われていたのでしょうか」 「ザガロ(監督)は研究してたみたいだよ、アジア最終予選のビデオを見てね。試合の前にも、日本の特徴についてのちょっとした説明はあった。ただ、残念ながら我々選手は試合が始まるまで、日本がどんなチームでどんな選手がいるか、まったく知らなかった。それを油断だと言われてしまえばそれまでだけどね」  価値観の違いだよ、とでも彼は言いたげだった。過去、ブラジルといえどもまさかの敗戦を喫したことは幾度かある。そのたびに、カナリア色のユニホームを着た選手たちは相手国のマスコミから問われ、自国のマスコミには決めつけられてきたに違いない。つまり、油断の有無について——。  だが、ブラジルはブラジルなのである。結果的にワールドカップを逃すことはあっても、常に実力は世界一と認められてきた国なのである。彼らのサッカーは、相手の良さを消すサッカーではない。相手の良さを全面的に受け止めたうえで、芸術性をもって叩きつぶす。それがブラジルの伝統であり、誇りだった。アウダイールたちが西野監督率いる日本オリンピック代表の事前データに興味を示さなかったのは、当然といえば当然だった。  私は質問を続けた。 「それにしても、日本にはあなたが米国ワールドカップで一緒にプレーしたドゥンガを始め、多くのブラジル人選手がいます。彼らから情報を仕入れることも可能だったはずですが」  アウダイールの答えは意外なものだった。 「実を言うとね、私個人としては、以前日本代表の監督をやってたファルカンからアドバイスは受けてたんだよ。ほら、彼はこのASローマで英雄だった選手だから、後輩にあたる私にはちょくちょく連絡を入れてくれるんだ」 「ファルカンは何と?」 「キャプテンの選手(前園)と伊東は危険な選手だから、この二人にだけは自由に仕事をさせないように。彼はそう言ってた。ただ、ファルカンもそれ以外の選手については何も言ってなかったから、こちらとしても日本が危険な相手だなんて考えもしなかったんだ」  だとしたら、アウダイールはブラジル代表の中で、日本人選手の情報を事前にチェックしていた唯一の選手だったとも言える。そんな選手が、ブラジルに歴史的な敗戦をもたらすミスを演じてしまったとは、何と皮肉なことだろうか。 「日本のGK川口能活は、『ブラジルの立ち上がりが静かだったので助かった。もし序盤から激しい攻めをしてこられたら、結果は違うものになっていたかもしれない』と言っています。彼だけではなく、同じように感じていた日本人選手は少なくありませんでした。実際、あの試合でブラジルが初めてシュートを放ったのは、キックオフから5分たってのことでしたから、これは間違いなく静かな立ち上がりだったと言っていい。ブラジルには、格下のチームと戦う時は序盤に猛攻をかけて相手の戦意を喪失させてしまうという伝統があったはずなのに、なぜあのようなことになったのでしょうか」  これはアウダイールの責任ではない。しかし、もし攻撃に携わる選手たちが、川口たちの恐れていたように序盤からスパートをかけていれば、アウダイールに敗戦の責任が押しつけられることもなかったはずである。 「大きかったのは、あの試合がオリンピックで最初のゲームだった、という点だね。あなたが言うように、確かにブラジルには格下の相手と戦う時のやり方があった。でも、同時に開幕戦の戦い方というものもあるんだよ。過去のワールドカップの歴史を見ても、ブラジルの初戦は、いつもあんまり|芳《かんば》しくない。やっぱり、大事にいかなければという思いが、選手たちから自由さを奪ってしまうんだろうね。ただ、日本戦について言うならば、立ち上がりを静かにしてしまったのは大失敗だった。正直に言おうか? 我々は、日本には猛攻をかける必要すらないと考えていたんだよ」 「慎重に戦っていたって、いつかはゴールが決まっているさ、と?」 「その通り。失礼な物の言い方だってことは十分承知してる。でも、許してもらえるだろ? 我々はこの勝手な思い込みが原因で、とてつもなく高い代償を支払ったんだから。もちろん、ザガロが言ってたように、サッカーにドリームチームはないし、どんなに優勢に試合を進めたって負けることはある。それにしても、日本は負けちゃいけない相手だった。あの敗戦は、本当に高くついたよ」  私は、助け船を出さずにはいられなくなってしまった。 「コンディショニングで失敗したということはなかったのでしょうか。世界選抜戦に比べると、ずいぶんと身体が重かったようにも見えたのですが」 「いや、それはない。ブラジル人の中にも、それが大きな敗因になったって言ってる人はたくさんいるけれど、本当にコンディションは100%の状態だったんだ。でも、恐るべきことに日本人はそれ以上に走ってきた」  アウダイールは自嘲気味に笑った。 「ブラジルが動かなかったんじゃない。日本が動きすぎたんだよ。もう一つ言えるのは、世界選抜戦の我々は良すぎたってことかな。それまで、ブラジルはすごくいい準備をしてきた。そのことは選手たちもよくわかっていたし、おまけに大会の直前、つまり世界選抜戦や(練習試合の)デンマーク戦で素晴らしい試合をすることもできた。ようするに、すべてがうまく回ってたんだよ。今から思えば、それが慢心を生む原因になってしまったんだけどね」  彼の言う通り、ブラジルがワールドカップの初戦で苦戦をすることが多いのは事実である。'94年米国大会のロシア戦は大勝を予想されながら2−0、'90年、'86年、'82年は、いずれもわずか1点差での辛勝だった。こうした“伝統”に加え、アトランタ・オリンピック直前のブラジルは、偵察した西野監督が言葉を失うほどの仕上がりを見せていた。伝統と慢心——思えば、日本が奇跡を起こす要素は確かに揃っていたのである。 「あの試合、ロナウド(大会での登録名はロナウジーニョ)は後半からの出場でした。あれは、日本には彼を使うまでもなく勝てるという意味だったのでしょうか」 「というよりは、むしろ怪我の影響だね。その前の年、彼はオランダのクラブチーム、PSVアイントホーフェンでひざに大怪我をして、ほぼシーズンの半分を棒に振ってた。そんなわけで、オリンピックのブラジル代表に呼ばれたのは、本当に最後の最後だったんだ。だからザガロとしては、初戦はサビオとベベートでコンビを組ませてみて、それがうまくいかなかったらロナウドを使うつもりだったんだと思う。日本をナメたというよりは、あくまでも日本戦時点でのロナウドは3番目のアタッカーだったということだね。ところが、いざ試合が始まってみたら、予想もしなかった展開になってしまった。こうなると、監督としてはアタッカーを増やして攻めを厚くせざるをえない。結果的にゴールはあげられなかったけど、ロナウド自身の出来はそんなに悪くなかった。で、以後はレギュラーの座を獲得したってわけさ。この間、代表の試合で会った時にロナウドが言ってたよ。『オリンピック代表に選ばれてなかったら、今日の自分はないだろうな』って」 「では、もし日本戦でサビオやベベートがゴールを量産していたら……」 「そうだね。彼の人生はずいぶん違ったものになっていたはずだ」  オリンピックで代表レギュラーの座を初めて手中にしたロナウドは、大会終了後、スペインのFCバルセロナへ移籍し、突如としてその巨大な才能を開花させた。ケタ外れの得点能力はバルセロナにカップ・ウィナーズ・カップの優勝をもたらし、彼自身もスペイン・リーグ得点王のタイトルと、国際サッカー連盟(FIFA)が選出する'96年の世界最優秀選手賞を受賞した。いまや80億円とも100億円とも言われる値がついた男が、日本戦での味方の不調を遠因として新たな人生を踏み出したとは、実に興味深いことではないか。 「試合前、ザガロ監督はどのような指示を出していましたか」 「特別なことは何もなかったね。彼はいつもそうなんだ。相手が強かろうが弱かろうが関係ない。彼が言うことはいつも同じさ、『我々のスタイルでサッカーをやろう』って」 「しかし、前半は0─0のまま終わってしまいました。ハーフタイムには何らかの指示があったのでは?」 「指示をどうこうっていうより、とにかくザガロは激怒してたなあ。あんなに怒った彼を見たのは、ずいぶんと久しぶりだった。『お前たちは恥ずかしくないのか、後半はとにかく攻めに出ろ、ブラジルの誇りにかけて日本を粉砕しろ』なんてことを言ってたよ。もちろん、選手たちにも45分間を“寝て”過ごしてしまったという自覚はあったから、彼の言葉には奮い立たされたけどね。ザガロとしては、戦術どうこうというより、我々のプライドを刺激して、コラソン(魂)に恥じない試合をさせたかったんじゃないかな。残念ながら、選手たちが本当に目を覚ましたのは、日本に点を取られてからだったんだけどね」 「では、後半に入って両サイドバックのロベルト・カルロスとゼ・マリアがずいぶんとポジションを押し上げてきたのは……」 「ああ、ザガロの指示じゃない。指示というよりは、彼が以前から口を|酸《す》っぱくして選手に要求してきたフォーム、約束ごとだった。それを選手たちがようやく実行に移しただけのことだよ。両サイドバックの攻撃参加を、ザガロはなかば義務づけてきていたんだ。前半はそれがほとんどなかった。状況は0−0で相手は日本。これで指示されなきゃ自分のすべきことがわからないような選手は、もうブラジル代表じゃないよ」  時間がたつにつれ、アウダイールはすっかりリラックスしたようだった。いくら取材に慣れたセリエAの選手といえども、悪夢とも言える思い出について聞かれるのは楽しいことではあるまい。事実、笑顔を浮かべていたとはいえ、インタビュー序盤のアウダイールは、果たしてインタビュアーが自分に対して悪意を持った者なのかどうか、見極めようとしているフシがあった。そうでないことがわかるにつれて、彼は単に聞かれたことに答えるだけではなく、彼しか知り得ないエピソードを披露してくれるようにもなっていた。そろそろ、核心に入る時だった。      3 「さて、いよいよ問題のシーンについて聞きたいのですが」  アウダイールはニヤリと笑った。彼も、話題がそのことに入っていくのを予想していたようだった。 「ああ、何でも聞いてくれ」  彼に会う以上、これはどうしても聞いておかなければならないことだった。日本人にとっては忘れ得ぬ、伊東のゴールが生まれた場面について、である。 「日本の左サイドバック路木がクロスを入れた。センターフォワードの城が走り込んできた。まず最初にボールをコントロールできるポジションをとったのはあなただった。にもかかわらず、ボールはこぼれ、日本にゴールが生まれた。あの時は一体、何が起きたのでしょうか」 「まず言えるのは、素晴らしいボールが入ってきたってことだね」 「路木本人は、あのクロスについて『狙ったコースに違った球質で飛んでいった』と言っていますよ。つまり、ミスキックだと」 「おいおい、勘弁してくれよ」  大げさに手を広げて、アウダイールは笑った。 「いや、それは彼の方が間違ってる。あれは神にかけて素晴らしいクロスだった」  肩をすくめた私を見て、アウダイールは続けた。 「ボールが上がった瞬間、私はもっと前の方、つまりGKの方に流れると思った。ところがバウンドしたと思ったら、ボールには見事にストップがかかってしまったんだ。最悪なことに、ジダの方は私とまったく逆の判断をしたらしく、ボールが上がった瞬間は私がコントロールできると見ていたのに、クロスが空を飛んでいるうちに『これは自分のところまで来る』と前に飛び出してしまっていた。それで、私がボールに触ったと思った瞬間、ドカ〜ンと衝突だよ。彼がゴールの前で待っててくれさえしたら、あの失点はなかったのにね」  コンディションについて聞かれた時は自ら“助け船”を拒絶した男が、この時ばかりは少しばかり歯切れが悪かった。彼とジダは、続くハンガリー戦でも同じようなコンビネーションのミスからゴールを許している。普段、セリエAで世界でもトップクラスのGKとプレーしているアウダイールは、決してレベルが高かったとはいえない自国のGKについて、かなり不満を感じていたようだった。 「はっきりいえば、日本戦での失点はGKの責任だったと?」 「ああ。日本戦だけじゃない。ハンガリー戦の失点に関しても、僕はコンビネーションというよりはGKの問題だったと思ってる。残念ながら、ブラジルにはそう思っていない記者が多いのも事実なんだけどね。ディフェンダーがボールを追いかけている時、GKはゴール前に留まっていなければならない——これは鉄則だろ?」  確かに鉄則ではある。だが、ブラジルのマスコミ同様、あの失点をGKのミスではなく、コンビネーションの問題によるものだと考えている人物は日本にもいた。たとえば、日本の監督を務めていた西野である。 「日本代表の西野監督は、本大会で23歳以上の選手、いわゆる3人枠を使わないことでずいぶんとマスコミから批判をされました。そのこともあって、彼は『ブラジルの失点は3人枠を使ったからこそ起こった。ずっと同じチームで戦ってきたGKとディフェンダーであれば、あのようなシーンはありえなかった』と言っています」  一瞬、アウダイールの眼差しに険しいものが走ったように見えた。 「3人枠については、確かにいろいろな考え方があると思う。日本の場合、予選を突破したメンバーをそのまま本大会でも使ってきたわけだよね。それは一つのやり方だし、日本人には日本人の考え方がある。果たして日本が3人枠を使うべきだったかは私にもわからないよ。でも、ブラジルについて言うと、間違いなくコンビネーションの問題はあった。ブラジル協会やザガロとしては、そうしたコンビの問題よりも、ワールドカップで優勝したことのある私やベベートの経験が大きいと考えていたんだろうけど、残念ながら、大会が進むにつれてこの問題は大きくなっていってしまったんだ。日本戦での事故は、コンビの問題というよりはオリンピックの初戦で慎重になりすぎたという要素の方が大きかったんだけど、準決勝のナイジェリア戦なんかは、完全にバラバラ、コンビネーションのミスだった。もっとも、ブラジルは優勝を義務づけられていたから、協会や監督としては3人枠を使わざるをえないという面はあっただろうね。コンビの面で問題があるのはわかってても、使わないで負けた時の国民やマスコミの反応を考えたら、リスクが大きすぎるから」  日本人には日本人の考え方がある、という言葉の裏に、彼は「ブラジル人にはブラジル人のやり方があるのだ」というメッセージをはっきりと織り込んでいた。そこに私は、ちょっとやそっとのことでは揺らがぬ王国の誇りと、アウダイールの中に残る、完治したように見えて実はかさぶたになりきっていない傷口を見た思いがした。 「マスコミといえば、日本に負けた後の批判は相当手厳しかったのではないですか?」  寂しげな笑いが浮かんだ。 「厳しかったなんてもんじゃない、とてつもなかったよ。新聞やテレビはオリンピックの最終戦(準決勝)まであのミスのことを叩き続けてたし、人によっては、今でも私に対する批判の材料にしてるぐらいだ。まあ、あれは絶対に負けちゃいけない試合だったから、それも仕方ないことなんだけどね」  オリンピックと聞くと無条件で「世界最高のスポーツ・イベント」と発想する人が多い日本と違い、世界最高のスポーツ・イベントといえばサッカーのワールドカップで、つい最近まで、オリンピックといえば「北半球だけで盛り上がっている大会」と考える人の多かったのが、ブラジルという国だという。ブラジル国民にとってのオリンピック・サッカー競技は、勝って当たり前、いや、負けるはずがない競技だった。強敵揃いのワールドカップでの敗戦すら許さない国民が、それよりもレベルの落ちる大会に敗れて黙っているはずもない。寂しげな表情で語るアウダイールを見ながら、私は、改めてこの国の代表選手にのしかかる重圧の凄さを思い知らされていた。 「話をちょっと元に戻します。普通にいけば5─0、うまくいけば2ケタ得点もありうると考えていた相手に、信じられないような敗戦を喫してしまった。試合後のロッカールームの雰囲気はどんなものだったのでしょうか」  アウダイールは、少しホッとしたようだった。国をあげて行われたであろう彼に対するバッシングについて話すのは、やはり気の重い作業だったらしい。 「最悪って言葉は、たぶんああいう状況を説明するためにあるんだろうね」  そう言いながらも、彼の表情には再び笑顔が戻ってきていた。 「みんなドン底まで落ち込んでたし、とにかく悲しかった。初戦、優勝するためには勢いをつけるために利用しなきゃいけないゲーム、しかも相手は日本。私たちが敗れたのは、そんな試合だったんだ。あれで我々は残り試合すべてに勝利を収めなければならないところまで追い詰められたし、それでもまだ、日本とナイジェリアの結果いかんでは決勝トーナメントへ進めない可能性があった。結果的に我々は首位で決勝トーナメントへ進出することができたわけだけど、あの瞬間は、間違いなく可能性は小さなものになってしまっていたんだから」 「ザガロ監督はどんな様子でしたか?」 「うん、そこがカギだった。ハーフタイムにあれだけ激怒してたザガロが、試合が終わった時はむしろ冷静だったんだよ。『あと2試合勝てば大丈夫だから!』とか『絶対に取り返しはきく。気にするな!』とかね、何とかして選手の気持ちを切り換えさせようとしてた。過去にワールドカップで3度も優勝してる監督が、日本みたいな相手に負けたにもかかわらず自分たちを信用してくれてるっていうのは、何よりの支えになったね」  興味深い言葉だった。ザガロは「ワールドカップで3度も優勝している監督」だったからこそ、「日本みたいな相手に負けたにもかかわらず」選手たちを信用することができたのだ、と私は感じていた。おそらく、アウダイールの言う「あれだけ激怒してた」という場面にしても、ザガロは本気で我を失っていたのではないだろう。ハーフタイムには怒りが有効だと考えたからこそ怒り、試合が終わってからはまた異なる手段が建て直しに有効だと考えたに違いない。もちろん、すべては推測である。だが、一度は激怒していながら、45分後にはすっかり冷静さを取り戻していたというザガロの姿に、私は改めてブラジルの底力を見せつけられた気がしていた。こういう監督が日本に生まれるまで、一体あとどれくらいの歳月が必要なのだろうか、と。 「では気持ちの切り換えはうまくいったのですね?」 「というより、切り換えざるをえない状況だったからね。もう勝つしかない。次はハンガリー戦? よし、勝とうと考えるのは当然だよ」 「しかし結局、ブラジルはオリンピックで優勝できませんでした。そのことについて、日本でプレーしているドゥンガは『ブラジルには、オリンピックを売名行為の場として利用しようとした選手がいた。それゆえ、チームにはまとまりが生まれず敗れてしまった』と言っていますが」  突然、アウダイールの表情が曇ってしまった。彼はしばし黙り込み、言うべき言葉を探しているようだった。 「……私たちはね、ブラジル代表なんだよ。そしてブラジル代表には、いつもそういう選手がいる。ものすごく残念なことだけど、ドゥンガの言葉は100%正しいと言わざるをえないな。彼の言葉は、オリンピックだけでなく、ブラジル代表のすべての試合に当てはまる。それが誰かって質問には、答えるわけにはいかないけれど」  いきなり歯切れの悪くなってしまったアウダイールの言葉を聞いて、私は以前、ブラジル代表のキャプテンだったオスカー(元京都パープルサンガ監督)から聞いた話を思い出した。 「'82年のブラジル代表にはファンタジーがあったと言われる。全員に攻撃参加の意識があり、見ていて退屈しなかった、と。だが、私からすればそれこそがブラジルの敗因だった。あの時、ブラジル代表にはヨーロッパでプレーしている選手がファルカン一人しかいなかった。そのため、選手たちは皆ヨーロッパのクラブに認められようとして、必要以上に自分が目立つプレー、つまり攻撃を繰り返してしまった。右サイドバックが敵陣に入っていった時、逆サイドのバックまでが上がっていくなんてことは、それこそ日常茶飯事だった。そして、テレ・サンターナ監督はそうした動きにストップをかけることができなかった。'82年のブラジルが素晴らしい攻撃サッカーをして、しかしイタリアにあっさりと敗れたのは、あのチームの体質からいって当然のことだった」  次の'86年大会以降、ワールドカップに出場するブラジル代表選手のほとんどは、すでにヨーロッパでプレーしている選手になった。しかし、アトランタ・オリンピックでのブラジル代表は、ブラジル国内でプレーしている選手の方が多かった。そのことも、チームがまとまりを欠く一因となったのかもしれない——私は、思ったことを口にした。 「それについても、私の口からどうこう言うことはできないな。ただ、間違いなく言えるのは、もしドゥンガがいればブラジルはオリンピックで優勝してただろうってことだ。ブラジル代表にとって、彼は大切で特別な存在だ。ああいう、チームのためにすべてをなげうってプレーできる選手がいれば、若い選手のわがままも許されなかっただろうからね」  時間は、すでに1時間半ほど経過していた。入り口のところに立っていた広報氏が、腕時計を指してウインクをしてきた。そろそろ、切り上げて欲しいということらしい。私のなかで、最後に聞くべき質問は決まっていた。 「いま、日本戦と聞いて何を思い出しますか?」  ニヤリと笑ったアウダイールが、こちらの肩をポーンと突いてきた。まだ俺にそんなことを言わせようとしているのかい? そんな感じだった。 「あの衝突、それだけさ。できることなら、もう思い出したくないんだけどね」      4 「どうしようもないクソったれ野郎だな。この男は」  インタビューを終えた我々は、その足でローマの高級住宅街にあるアンジェロの自宅へと向かった。そこには、オラッツィ夫人が腕によりをかけて作ってくれた自家製パスタと、トスカーナ産の素晴らしく美味いワインが待っていた。そのどちらをもたっぷりと腹につめこんだころ、テレビでイタリアのワールドカップ予選が始まった。  すると、それまでノンビリとテレビを眺めていたアンジェロ・オラッツィが、顔を真っ赤にして怒り出したのである。特別な事件が起きたわけではない。ただ、画面の中にいるイタリア代表のミッドフィールダーが敵陣で相手を後ろから引きずり倒し、イエローカードをもらっただけのことだった。時間は前半の15分ぐらいだっただろう。その剣幕にちょっと驚いている私に気づくと、彼は苦笑を浮かべながら言った。 「いいかい、前半のこの時間帯に、ミッドフィールドの選手が敵陣で反則をしてイエローカードをもらうことに、一体何のメリットがあるっていうんだい? これが終了直前、自陣深くでやったっていうんなら、私だって怒りはしないさ。でも、彼はこの時間帯にあんなクソったれな反則をしてしまったことで、本来そういうプレーをやらなきゃいけない時間帯、エリアでそれができなくなってしまったんだ。もっと問題なのは、彼自身、自分のやったことがいかに馬鹿げているか、いかにチームにとってマイナスになるか、まるで理解してないってことだ。ああいうエゴイストはさっさとチームから追い出すべきだと私は思うがね」  説明を聞いて、驚きはさらに大きなものになってしまった。  日本で育ったサッカー経験者のほとんどが、子供の頃から「反則をしてはいけません」という指導を受けて育った。反則は悪で警告は恥だった。これには、日本独特の風土も関係しているかもしれない。日本の場合、レフェリーの大部分は学校の教師で、監督の大部分もまた、彼らと同じ職業についている。監督が選手に「レフェリーの目を盗め」とアドバイスを与えることは、教師が生徒に「あの先生をだませ」とそそのかしているのとまったく同じことになってしまうのである。しかも、監督の多くは自らレフェリーを務めることも珍しくない。学校の生徒でもある選手たちが、イタリア語で言うところの“マリッツィア”(スペイン語では“マリーシア”)、つまり|狡賢《ずるがしこ》いプレーを覚えないのは当然のことだった。  ところが、Jリーグが誕生し、日本に多くの外国人選手がやってくるようになると、彼らの口から「日本の選手には狡さがない」という言葉が頻繁に聞かれるようになった。反則は悪だという教育を受けてきた者にとって、それは恐ろしく新鮮な響きを伴っていた。  時と場合によっては反則そのものも厭わない——。  そういうプレーのできる選手がサッカーには必要なのだということを、先進国から来た選手たちは言葉とプレーで日本人の目前に突きつけてきた。コーナーキックになるとわざわざ相手GKの顔を見ながら近寄って行き、ペッと彼の足元すぐの地面にツバを吐きかけるブラジル人選手がいた。GKがエッと思った瞬間、コーナーキックは蹴られており、彼のチームはあっさりとゴールをものにした。反則ではないが、ホメられた行為では断じてない。  ラテン諸国の中には、指導者が少年たちに「相手と身体がぶつかったら声をあげろ。そうすれば反則をとってもらえる可能性が高くなるから」と教えている国まである。世界のサッカーを知れば知るほど、私の中で“マリッツィア”を持ち合わせない日本人選手への物足りなさは募り、いつしか反則に対する|禁忌《きんき》の意識は希薄なものになっていった。少なくとも、日本代表の選手が相手チームの選手を引きずり倒しても、怒りや恥ずかしさを覚えることはなくなった。それが、自陣ペナルティエリアの中でない限り。  テレビ画面の中でイタリア人選手が犯したのはこんな反則だった。敵陣で自分のミスからボールを奪われた。取り返しにいった。失敗した。だから倒した——。Jリーグでなら、その闘志をほめられこそすれ、怒る観客はまずいないプレーだった。しかし、アンジェロは激怒していた。 「ヨーロッパの人間はJリーグと聞くとバカにするが、みんなが思っているよりはるかにレベルが高いのは間違いない。そして、驚くべきは少年のレベルの高さだね。これはもう、どこの国と比べてもちっとも恥ずかしくないレベルにある。ただ、問題なのは根本的に“マリッツィア”が欠けてるってことだ。国民性もあるんだろうけど、この点がどうにかならない限り、いつまでたっても世界では勝てないと思うよ」  実はアンジェロには、日本で少年サッカーを指導した経験があった。その時の感想について、こんな話をしていたのはついさっきのことだった。そんな男が、自国代表選手の犯した反則に顔を真っ赤にして怒っている。彼の顔を眺めながら、私はASローマのトレーニング・センターに足を踏み入れた時と同じ、絶望的な歴史の差を感じていた。  説明を受ければ、アンジェロの怒りに納得するのは簡単なことである。しかし、日本にはまだ反則を罪と感じている人間がたくさんいる。ようやくそこから抜け出しても、今度は自分たちの側が犯す反則であればすべて“マリッツィア”という言葉で許されると思ってしまっている者がいる。果たして、大多数の日本人がアンジェロのように“マリッツィア”のなさに不満を洩らし、かつ無用な反則に怒りを覚えるようになる日が来るのだろうか。アンジェロは決して特別な人間ではない。セリエAでのプレー経験があり、BやCでは監督をやったこともあるが、そんな経歴の持ち主はイタリア中に掃いて捨てるほどいる。そんな人間でも、日本でいったらJFL下位チームの監督しかやったことのない人間でも、彼のような反応を示すようになる日が来るのだろうか——。そんなことを考えてしまったのだ。  思えばサッカーは、近代国家としての形態を完成させつつあったイギリスで誕生した、言ってみれば実に近代民主主義的なスポーツである。まず個人の権利が重要視され、それを尊重したうえでより大きな利潤を産むために集団を形成するのが近代国家だとしよう。“権利”という言葉を“技術”、“集団”を“組織”とでもすれば、近代民主国家の定義は、そのままサッカーの定義にも置き換えられる。  他の競技ではあれほど強かった共産主義圏が、なぜサッカーでは頂点に立てなかったか。オリンピックはボイコットしてもワールドカップの予選には出場し続けた彼らが、なぜ陸上競技や水泳のように常勝軍団たりえなかったのか。サッカーと民主主義を関連づけて考えると、こんな答えもでてくる。それはつまり、サッカーを生んだ国ほどには、個人が尊重されていなかったからだ、と——。  残念なことに日本は、明治維新から100年以上たった今も、個人の権利が確立されていないという意味で、真の民主主義は根づいていないとされる国でもある。そんな国に、欧米で生まれたスポーツが人々の生活に不可欠なものとして定着し、結果として世界の強豪にのし上がる日が来るとは、ちょっと思いにくい。映画「大脱走」で独房に送り込まれた“トンネル・キング”ことスティーブ・マックィーンの支えとなったのは、一個のグローブとボールだった。第2次大戦中、欧米では可能な限りスポーツを続けようという動きがあった。一般市民はもちろん、死と背中合わせの毎日を送っている兵士までもが、戦場にスポーツを持ち込んでいた。「この非常時にスポーツなんて」という日本では未だに通用しそうな発想が、ヨーロッパやアメリカではすでに50年以上も前に多数派ではなくなっていたのである。  ASローマのトレーニング・センターは確かに素晴らしいものだったが、資金さえあれば、日本で同じようなものを作るのは十分に可能である。だが、人々の心はそうはいかない。日本に真の意味での民主主義が定着し、スポーツが血のレベルで求められるものになるには、気が遠くなるほどの時間が必要なのではないか。 「ん、どうした?」  考え込んでしまった私を見て、アンジェロが問いかけてきた。とっさの質問が口をついて出た。 「もし今のイタリア人選手が、ワールドカップは自分のために戦う、なんてことを公言したら、どうなりますかね」  当たり前のことを聞くなよ、といった面持ちでアンジェロは答えた。 「袋叩きだね、間違いなく。そんなエゴイストは」  苦い思いが胸いっぱいに広がった。ならば日本の選手はエゴイストばかりではないか。オリンピック代表に限らず、監督の目指すサッカーが「つまらない」と平気で口にする選手は、日本代表にもクラブチームにも、それこそゴマンといる。彼らのうちの何割かは、その真意はどうであれ、平気な顔で「自分のために戦う」と公言する。彼らは、それが個人主義でありヨーロッパのやり方だと信じている。得点をあげると自らのユニホームを誇示し、「このユニホームの力が俺に得点をさせてくれたんだ」とアピールする選手が大勢いることを知らないまま、個人主義の発達したヨーロッパでも嫌われるエゴイストのマネばかりをしている。これが、ブラジルを破り、世界に近づいたと言われる日本サッカーの現状なのだ。私は、こう言うのが精一杯だった。 「時間がかかりますね。日本が強くなるのには」 「そりゃそうさ、それがサッカーってもんだよ」  アンジェロは微笑を浮かべた。 「ただね、忘れちゃいけないのは、イタリアだって簡単に強くなったんじゃないってことだ。いろんな試行錯誤をして、現在に至っているわけだからね。日本にはいい素材がたくさんいて、しかもオリンピックではいい経験もした。今はそれで十分じゃないか」  アンジェロの住む街ローマには、"Roma non fu fatta in un giorno."という有名な格言がある。彼の穏やかな笑みを眺めながら、私は「ローマは一日にして成らず」と訳されるこの言葉の意味を考えていた。  ローマのような巨大な都は、そう簡単に作れるものではない。  ゆえに、一日一日の積み重ねを大切にするべきなのか。  それとも、今さら何をやっても無駄なのか——。 [#改ページ] 第10章 ジェネレーションA     '97・5・21 東京 国立競技場     日本代表─韓国代表

     1  三浦知良のPKが決まった。得点者はコーナーフラッグ目がけて歓喜の疾走を始め、何人かのチームメイトがそれを追う。ベンチは一瞬のうちに無人となり、飛び出した者たちは思い思いのスタイルでガッツポーズを繰り出していた。むろん、観客は総立ちである。宿命のライバル、韓国からようやく奪った同点ゴールに、久々に満員となった国立競技場は、文字通り熱狂の渦に包まれていた。  だが、この日、A代表初出場を果たした中田英寿に興奮はなかった。カズのシュートが相手GKの逆をつくのを見届けると、彼はクルリと|踵《きびす》を返して自陣へ戻り始めた。 「そんなに素晴らしいゴールってわけでもなかったし、僕自身、興奮するほど自分を追い込んでプレーしてたわけでもなかったから……。韓国がもっと強くて、こっちがムキになってプレーした末に奪った同点ゴールなら、また違ったんでしょうけどね」  同じような言葉を、彼は以前にも洩らしたことがあった。この1年と少し前、アトランタ・オリンピック・アジア最終予選の時である。 「これに勝てば28年ぶりの本大会出場が決まる」という準決勝のサウジアラビア戦は、あの試合に出場したほとんどの選手たちにとって、生涯最大ともいえる重圧を味わった試合でもあった。1点差に追い上げられてから、10分あまりの残り時間を永遠のように感じ、ひたすらに終了のホイッスルを渇望していた選手たちは、その希望がかなえられた瞬間、すべての感情を解き放った。グラウンドに全身を投げ出す選手がいた。言葉にならない雄叫びを繰り返す選手がいた。恥も外聞もかなぐり捨てて号泣する者も少なくなかった。  あの時は、中田だけが冷静だった。  しかし、この日、1997年5月21日の国立競技場には、カズの同点ゴールに狂喜できない選手が他にもいた。 「俺、普段だったらゴールが決まるとガッツポーズを連発しちゃうんですけど、あの時はいつもの半分ぐらいしか喜べなかったかなあ。いや、もちろん嬉しさはあったんですよ。でも、ホームであること、前半は一方的に押し込んでたこと、いろんなことを考えたら、あれは勝ってて当たり前、いや、勝たなきゃいけない試合だったと思うんです。しかも、あの段階ではまだ残り時間が多少なりとも残ってた。一刻も早くキックオフしてほしいって気持ちもあって——」  コーナーフラッグ付近でしばし歓喜の宴が繰り広げられた後、試合は再開され、これといった場面もなく、1─1のまま終幕の時を迎えた。同点ゴールの際に彼が感じた違和感は、試合後、スタンドへ向けて挨拶をする際に決定的なものとなる。 「満足そうに笑ってる選手、多かったんですよね。ちょっとショックだったなあ。ワールドユースの最終予選、オリンピックの最終予選、俺は全部韓国に負けてる。だから、絶対にこの日はブッ倒してやろうって思ってたんです。それが引き分け。しかもホームで。正直、俺は笑える心境じゃなかったから……」  アトランタ・オリンピック最終予選で号泣した男、川口能活はそういって苦い笑いを浮かべた。  苦笑どころか、怒りを抑えられずにいる者もいた。 「韓国はいい選手もいなかったし、前半のやり方を続けてたら問題なく勝ってた相手でしょ。だから僕、文句言いましたもん、加茂さんに。なんで僕が交代しなきゃいけないんですかって」  やはりオリンピックの最終予選、サウジアラビア戦で涙を流し、この日は前半での交代を命じられた城彰二は、試合が終わってしばらくしてもまだ憤懣やるかたないといった表情だった。 「意識のギャップっていうか、目的の違いみたいなものをすごく感じましたね。僕だけじゃなく、アトランタを経験してる選手たちは、もうワールドカップ予選は勝つのが当たり前だし、すでに本大会の方に目が行ってる部分はあると思うんですよ。ところが、いざA代表に入ってみると、どうもそうじゃない選手もたくさんいる。はっきり言って、話が通じないなって感じること、多かったですよ」  それはおそらく、中田がオリンピック代表で感じたものと同種の違和感だったのだろう。一度世界の壁を思い知らされ、そのうえで再度の挑戦を試みようとしている城にとって、アジア予選や韓国を必要以上に「大きなもの」と感じているA代表の監督や選手たちは、ただ焦れったさをかきたてるだけの存在でしかなかった。 「これはもう、いくら口で説明したってわかってもらえる問題じゃないでしょ。だから、勝ったことのある奴でチームを変えていくしかない。極端な話、全員、オリンピック代表のメンバーに入れ替えたっていいと思いますよ、僕は」  笑いのオブラートに包みながら、しかし真剣な眼差しで城は言った。内部にいくつもの亀裂を抱え、間違っても一枚岩とは言えなかった西野のチームに、彼は郷愁の念すら抱いているようだった。      2  日本中を熱狂させたアトランタ・オリンピックから、一年近くが過ぎた。あの時、ブラジルを相手に歴史的偉業をなし遂げたメンバーの中から、何人もの選手がA代表へと昇格してきた。中田、川口、城、路木、伊東、鈴木……28年ぶりに日本をオリンピックへ導いた男たちは、A代表の先輩たちにある種の違和感を、そしてかつての戦友にある種のシンパシーを覚えながら、フランス・ワールドカップへの道をたどっている。 「僕たちは若くても、シビれまくった試合をして、そこで勝った経験がある。これって、いくら口で説明してもわかってもらえるものじゃないですからね」  アトランタ・オリンピックでチームワークの欠如に涙した川口は、旧世代の経験不足に対する物足りなさをはっきり口にするようになった。そして、「正直言って、ムカつくこともありましたよ」という中田に対する思いは、「ヒデだけが、試合中に頭を切り換える速さが僕と同じなんです。やっぱり、世界で戦ってきたからかなあ」というものに変わった。川口と言えばシュートを捕ってからのフィードの速さに定評のある選手だが、A代表の場合、彼が投げる先の八割は中田である。  一時期、川口に象徴されるような「日の丸」という言葉を連発して感情を高ぶらせる周囲の選手に醒めた目を向けていた中田は、修羅場を勝ち抜いた経験を持ったうえで、それでも日の丸にこだわろうという選手たちに、以前より柔らかい気持ちを抱けるようになった。「努力しているところを見られるのは嫌い」と言っていた男が、「外国人選手の当たりに負けないように」と上腕部のトレーニングに取り組むようになった。 「最近、Jリーグでやってても、チームによっては僕を二人がかりでケアするところがでてきたんです。そうなると、前を向いてプレーするのは難しいし、どうしても相手を背中に背負う場面が増えてきますよね。僕は本来そういうプレースタイルの選手じゃないんだけど、でも、ワールドカップなんかでも、中盤で自由にやらせてくれることってないと思うんですよ。だから、Jリーグでやってることは、将来へ向けての勉強なんだって信じてます」  そんな勉強は、できればやりたくはないんですけどね、と悪戯っぽく笑った姿は、「世界で戦うためにはもう少し守備範囲を広くしないとダメでしょ。だからマリノスでやる時には、ちょっとずつ限界を超えた飛び出しにチャレンジしていこうと思ってるんです」と熱っぽく語った川口のそれと、おかしくなるぐらい似通っていた。  彼らは、夢ではなく現実としてワールドカップを、世界をとらえている。そして、彼らの台頭により、日本代表も確実に変わりつつある。  世界を知らず、ワールドカップ予選を「夢への挑戦」と感じる者の多かった日本という国に、歴史上初めて、「ワールドカップは出場しなければならない大会」と考える世代が育ってきているのである。  だが——。  川口や中田、城といった選手が、オリンピックに出場したことで世界という舞台の具体像をつかみ、そこで活躍するための方法を模索しはじめた選手だとしたら、オリンピックに出場したことで、その後のモチベーションを喪失してしまった選手もいる。  たとえば、田中誠である。 「オリンピックに出場したことで、思ってたより自分のプレーが通用するんだなってことはわかりました。最終予選の頃は、自分が本大会に出場できるかどうか信じきれない部分があったし、だから予選突破を決めた段階で、ちょっと満足してしまったんだと思います。でも、いまもし日本代表に選ばれたら、たぶん予選の最中でも本大会のことを考えるんじゃないかな。まずはベスト16、うまくするとベスト8ぐらいはいけるかなって。だから、今度はナイジェリアの選手と衝突しても、気持ちが切れることはないんじゃないかって確信はあるんですけどね」  恐怖心すら抱いて臨んだアトランタでの経験は、田中に大きな自信を与えた。しかし「自分でもやれるんだ」という思いが、逆にJリーグに戻ってからの田中を弛緩させてしまった。どれほどJリーグの中で際立ったチームであろうとも、ブラジルやナイジェリアに比べればずいぶん見劣りする。スタンドの雰囲気や試合前に感じる重圧は比較にもならない。「あんなに燃えたのは生まれて初めて」という経験をアトランタで積んだ田中は、それゆえ、Jリーグで「どうしても気持ちが入っていかない」という状態に陥ってしまったのである。  残念なことに、田中と同じような状態にある元オリンピック代表は決して少なくない。 「オリンピックを終えてJリーグに戻ってみたら、何かこう、イライラするんですよね。特に理由があるわけじゃない。なのに、観客の反応にムカついちゃったり、レフェリーのジャッジに必要以上に腹を立てちゃったり……」  そう言って視線を泳がせたのは、田中の同僚、服部年宏だった。彼もまた、A代表はおろか、ジュビロでのレギュラーさえおぼつかない状態に置かれている。  もちろん、いくら停滞しているとはいえ、田中も以前の田中ではない。彼の中には、井原正巳や小村徳男といったベテランのディフェンダーですら持ち得ない、世界と戦ううえでのノウハウが蓄積されている。 「ブラジルとやる時は、絶対に足元に飛び込んじゃダメだったことがよくわかりました。飛び込めば、かわされる。でも、時間をかけて対応すれば、決して取れない相手じゃないんです。ナイジェリアだって、前線からきっちりと攻撃のコースを限定していけば、そんなにやられることもない。今度やる時は、もっとうまくやれるんじゃないかって気はしてるんですけど……」  もとより能力はある選手である。選ばれさえすれば、彼の経験は代表にとって大いなる力となるに違いない。しかし、選出に値するだけのパフォーマンスを、オリンピック以降の田中は見せられないでいる。パフォーマンスを発揮するために必要な新たなモチベーションを、彼は見つけられないでいる。  同じようなことは、前園真聖についても当てはまる。アジア最終予選であれほど輝いていた男は、以来、一度たりともあの時と同じ輝きを放っていない。フリューゲルスでも、日本代表でも、そして心機一転が期待された新天地ヴェルディでも……。  高校時代からの後輩にあたる城は言う。 「ゾノさんは本気で、スペインに行くつもりだったんですよ。それも、オリンピックが終わるとすぐに、ね。ところが、いろんな事情があってスペイン行きは流れてしまった。ゾノさん、それで目標みたいなものを失っちゃったんじゃないかな」  田中にしても前園にしても、聞けば同情できるだけの理由は持っている。だが、選手が本意ではないポジションで起用されるのはヨーロッパでもよくあることだし、希望していた移籍が流れることも、これまた日常茶飯事である。厳しいようだが、その程度のことでプレーに精彩を欠いてしまうようでは、プロフェッショナルとして失格だと言わざるをえない。アトランタ・オリンピックに出場したことで、多くの日本選手が世界を知ることができた。しかし、彼らはまだ世界のスタンダードに追いついたわけではない。  そうした意味からすると、やはり特別なのは中田だった。 「オリンピックに出場したことで、その後のモチベーションが見つけられない、ですか……。う〜ん、わからないではないけど、僕には関係ないですね。だって、考えてみてくださいよ。そりゃ、オリンピックやA代表の試合に比べれば、Jリーグのレベルは落ちるかもしれない。でも、僕はアンダー17世界大会の時に、もっとすごいギャップを感じてるんですよ。世界大会から山梨県大会。芝のグラウンドから土。あれに比べれば、ね」  オリンピックは、中田にとって3回目となる世界大会だった。「まっさらの手さぐり状態」で参加したアンダー17世界大会で、彼は「自分でもやれるという自信がついて、プレーに余裕が出てきた」という。スペインのラウールと対決したワールドユースでは「世界大会って聞いてもビビらなくなった。コンプレックスを抱く必要がないこともわかった」という域に達した。A代表入りが決まった直後、群がる記者たちを愕然とさせた「ワールドカップも国際大会の一つ」というコメントは、中田からすればはったりでも強がりでもなく、本心から出たものだったのである。 「ワールドカップって、出られればそれでいいんですかね。そこでボロ負けして大恥かいたっていいんですかね」  最終予選を間近に控え、周囲が“悲願の初出場を!”と盛り上がっていくなか、中田がウンザリした顔で洩らしたことがある。もはや彼にとって、ワールドカップは憧れでもなんでもない。それがカズや井原といった“ドーハ組”の選手と決定的に違う点でもある。  彼は何も、ワールドカップに出たくないのではない。出たくない選手が、外国人選手対策として上腕強化のトレーニングなどするはずもない。ただ、ワールドカップが憧れかと聞かれて、「はい」と答えるのは嘘になってしまうからうんざりしているのである。      3  '93年10月25日、日本はドーハでのワールドカップ最終予選で韓国を下した。まだ予選突破が決まったわけではない。にもかかわらず、多くの選手があまりの感激に涙をこぼした。一人、ラモスだけが怒っていた。 「まだ終わったわけじゃないんだヨ。なぜ泣くの!」  あの時、ラモスの怒りを、真意を、完全に理解した日本人は、ほとんどいなかったに違いない。日本国籍を取得していたとはいえ、ラモスは子供の頃からワールドカップは出て当たり前、勝って当たり前という国で育った男である。それゆえ彼は、たかだか韓国に勝ったぐらいで涙をこぼす仲間たちのメンタリティが理解できなかったのだ。  だが、いまは違う。 「たぶん、泣けないでしょうね」  もし代表に選ばれて、ワールドカップ本大会出場を決めたらどうする、と聞かれた田中はそう答えた。 「ワールドカップで優勝したって泣かないと思いますよ。だって、それでサッカーは終わりじゃないんだから。優勝したら一生を保証してくれるっていうんなら、泣くかもしれませんけどね」  ニヤリと笑ったのは中田だった。  川口はしばし考えた末、「やっぱり泣く」と答え、そしてこう続けた。 「ただ、オリンピックの時とはちょっと意味が違うでしょうね。あの時が、初めてのマラソンを走り終えた感激による涙だったとしたら、今度のは勝ったことに対する感激の涙になるんじゃないかなあ……」  Atlantaを経験し、世界の“Aクラス”と真剣勝負を演じ、そしてA代表として戦っていこうという、日本サッカー界にとっては初めての一歩を踏み出そうとしている選手たち、言うなれば“ジェネレーションA”の選手たちは、まだ全員が全員、加茂監督率いる日本代表やJリーグで確固たる地位を築いたわけではない。田中に象徴されるように、世界を経験したゆえの現実に苦しめられている選手もいる。だが、わずか数年前、日本代表では韓国に勝っただけで泣いてしまう選手が多数派だった。42・195kmを走り終えたことのないランナーばかりが揃った国だった。いまの日本には、マラソンに勝つためにはどこで、どうやって頑張ればいいのか、身をもって知っている選手が何人もいる。時代は、確実に変わりつつある。 「すべて慣れですよ、慣れ」 “ジェネレーションA”のさらに先を行く男、中田は事も無げに言った。  近い将来、日本代表ではアトランタ・オリンピックを経験した者とそうでない者の間に、西野のチームが抱えたよりもさらに深刻な、意識のギャップという断層が生まれる可能性は十分にある。  だが、私はそれを悪いことだとは思わない。  おそらくはイタリアもブラジルも、一度は通ってきた道だと思うから。ワールドカップで初優勝した選手とそれ以前の選手の間には、やはり断層があったと思うから。日本オリンピック代表がナイジェリア戦のハーフタイムに起こしたような事件は、彼らの歴史にも刻まれていると思うから——。 [#改ページ]

 エピローグ  日本オリンピック代表がアトランタ・オリンピックの初戦でやってのけたことは、世界でもごく限られた国しか果たしていない、とてつもない偉業だった。長いワールドカップの歴史をひもといてみても、パオロ・ロッシのイタリア、ディエゴ・マラドーナのアルゼンチン、ミッシェル・プラティニのフランスなど、正真正銘のスーパースターを擁していた国のみが、ブラジル打倒という偉業を許されてきた。日本はそんな巨人を、彼らがワールドカップと比べても遜色のない情熱と才能を持って臨んだ大会で倒したのである。フロックかもしれない。事故かもしれない。それでも、アジアの中ですら勝てなかった敗北の歴史と比較して自己満足に浸るためにしては、あまりにも大きな勝利ではないか。 "Roma non fu fatta in un giorno."  だから私は信じたい。マイアミでの歴史的な勝利、オーランドでの屈辱と逆転劇は、それぞれに素晴らしく意味のある、将来の偉大な栄光につながる一日であったと。そして、あのオリンピックを目撃した少年たちが、彼らのしるした足跡をさらに確かなものにしていってくれることを。 「僕、今までサッカーでシビれたことってないんですよ」  残念そうにつぶやいたのは中田だった。 「昔、交通事故にあったことがあるんですけどね、その時、自分の身体が宙に舞っているのを感じながら、ああ、これで終わりかって思ったことは強烈に覚えてるんです。あの時、僕は間違いなくシビれてました。でも、サッカーではそういう経験をしたことがない。オリンピックの雰囲気っていっても、僕は何も感じませんでしたし、勝ったから、負けたからって感情が爆発するようなこともなかった。自分でも、それがすごく不幸なことだってのはわかってるんです。だから……だから、今は一度でいいからシビれてみたい。僕なんかが偉そうに格好をつけていられないような状況に身を置いてみたい。僕をコテンパンにやっつけてくれる指導者にも会ってみたい。それが外国にあるっていうんなら……」  外国には、それがある。日本の中ではナンバーワンとも言える世界での経験を持つ中田にしても、まだ知らない世界は十分にある。それが、100年の長きにわたって世界中から愛されてきたサッカーというスポーツの偉大さなのである。  だから——。  願わくば、28年ぶりのオリンピックのために闘ったメンバーが、日本サッカー史上、誰も経験したことのないそんな境地にまでたどり着くことができますように。彼らが現役生活に別れを告げる時、日本サッカーがオリンピックへ28年ぶりに出場した際の物語を読み返し、ああ、これが自分のサッカー人生にとってのハーフタイムだったのだな、と懐かしくも恥ずかしげな笑みを浮かべてくれますように。  それが、私の夢である。 [#改ページ]

 あ と が き  いっやあ、長かった。単行本を書くってのが、こんなに大変なことだとは思いませんでした。実はワタクシ、子供の頃は本を読むのが速いのをやたらと自慢したがる奴でして、友達と同時に同じ本を読み始めては「オ前マダ終ワランノ」などとほざいていたものでした。もしこの世にタイムマシンなるものがあったとしたら、真っ先にあの頃の自分に会って往復ビンタの100連発でも食らわしてやりますね。作者の方に対して失礼極まりない、お前がすっ飛ばして読んでたところにも、書き手は気をつかってるかもしれないんだぞって。  この本は、僕にとって初めての単行本になります。普段、400字詰め原稿用紙で長くても30枚程度のものしか書いたことのない人間にとっては、完全な未知の世界、どれぐらいのペースでどうやって書けばいいか、わからないだらけのまま書いたものです。途中、突発性無気力発生症(けっ、こんな長いモン、書けっこねえよ)や進行性遊戯渇望症候群(ああパチンコしてえマージャンもしてえ)などに冒されることも少なくなかったため、周囲の方々に御迷惑をおかけすることしきりでした。そうしたわがままを一手に受け止めて下さった文藝春秋「ナンバー」編集部に、まず感謝したいと思います。彼らがどれほど気をつかってくれていたかは、単行本執筆中は何度マージャンをやっても負け続けてくれたにもかかわらず、脱稿したとたんに「もう知ったことじゃないもんね」とばかりに猛烈極まりない反撃に転じたことからも明らかです。安達康雄、石原修治、鳥山靖、大石正輝、宇賀康之の各氏には本当にお世話になりました。もう二度と……いやいや、何でもありません。  それにしても——突然シリアスになりますが——人間の運命とはわからないものです。あのブラジル戦を、僕は記者としてではなく観客として観戦していました。理由は簡単、仕事がなかったからで、実を言えば、アトランタへ行くこと自体、散々悩んだ末の結果だったわけです。もしあの時、オリンピック行きを断念していたら。ブラジル戦の翌日、居候先のホテルに「明日までに川口の原稿を一本書いてくれ」という電話がなかったら——。ミズノ・スポーツライター賞をいただくことになる『ナンバー』の記事「叫び」「断層」を任されることもなかったでしょう。編集部の武田昇、柚江章の両氏が「この物語を単行本にしましょう」と動きだしてくれることもなかったはずです。あの日、恐るべきバイタリティで僕の居場所を探し出してくれた山田憲和氏(現「文藝春秋」編集部)にも感謝したいと思います。  そしてもちろん、取材を受けてくれたオリンピック代表の面々にもお礼を言わなくてはなりません。彼らの話を聞いているうち、僕の方が衝撃のあまり呆然とし、言葉を失ってしまうことが多々ありました。原稿に行き詰まった時、「せっかく話をしてくれた彼らを失望させてはいけない」という思いが、どれほど僕を力づけてくれたか……。  この本に登場する選手の中には、すでに代表チームでも確固たる地位を築き、さらなる大舞台へ羽ばたいていこうとしている選手もいます。修羅場に身を置き、そこで勝ったことのある彼らの経験は、これからの日本サッカーにとってかけがえのない財産となるはずです。しかし、世界には彼らが潜ったよりもさらに深く、厳しい修羅場が待っています。28年ぶりのオリンピック出場は、日本にとっては永遠に語り継がれる大事件でも、世界から見ればすぐに忘れ去られてしまうようなちっぽけな出来事かもしれないのです。  日本はすでに一度、過ちを犯しています。  メキシコ・オリンピックの銅メダルは、当時まったくのマイナー競技だった日本のサッカーを大きく育てる格好の材料となるはずでした。栄光に酔うのではなく、さらなる挑戦を目ざしていたのであれば。しかし、ひとたびの栄光は継続的に行なってきた様々な努力を中断させ、日本サッカーは長い低迷の時代へ突入していったのです。  この本は、オリンピック代表のスタッフ、選手の協力なくしては完成しえないものでした。いくら感謝してもしきれないぐらい、彼らには恩義を感じてもいます。でも、サッカーに携わる人間としてもっと大きな喜びを知りたいから、あえて言わせてもらいたい。  頑張れ。もっと、頑張れ。 [#地付き]金子達仁  アトランタ五輪日本代表の足跡 [#改ページ] [#改ページ] アトランタ・オリンピック サッカー(男子)グループ・リーグD組 [#改ページ] [#改ページ] [#改ページ]

 文庫版のためのあとがき  いまでも時々、この本を書いていた頃のことを思い出します。  まず、僕はスペイン在住でした。ということは、日本には僕の住む家がないわけで、あの頃の僕は「文春社員より文春社内にいる奴」という生活を送っていました。文藝春秋には、作家の大先生が缶詰になるために用意された執筆室と、仕事が忙し過ぎて家に帰れなくなってしまった社員のための仮眠室が用意されています。フリーライターというよりは限りなくプータローに近い身分だった僕は、執筆室が空いている時は執筆室に、そうでない時は仮眠室に泊り込んで宿泊費を浮かし、かつメシ時になると『ナンバー』編集部に顔を出しては出前のおこぼれを頂戴するという、何ともまあ情けない、それでいて実に気楽な毎日を過ごしていたのです。2日、ないしは3日に1回のペースでマージャンをやっていたのもこの頃でした。  スポーツライティングという世界に対する見方も、いまとはずいぶん違っていたような気がします。『ナンバー』編集部の面々が、この本の原型になった記事「断層」を単行本にしようという動きを起こしてくれた時、彼らは社内でずいぶんと冷やかな対応を受けたと聞きます。僕自身、『ナンバー』編集部と出版局のあまりの体温差に驚き、「だったら単行本なんか書かない方がいいんじゃないか」と思ったこともありましたし、正直、ずいぶんと憤慨したものでした。でも、いまとなってはわかる気もします。スポーツに関する単行本は売れない——それは文春だけでなく、出版界全体の共通認識だったのです。憤慨していた僕にしたって、熱意が感じられないのにはガックリしながらも、自分の本が売れるとは夢にも思っていなかったのですから、文句は言えません。  つくづく、巡り合わせってすごいものだなあと思います。  この本が発売されたのは、'97年9月21日でした。本当は7月上旬ぐらいに刊行される予定だったのですが、なんだかウヤムヤなうちにズルズルと発売日がズレこんでいたのです。ところが、決して狙ったわけではない発売日は、結果的にスーパー大吉と出ました。'97年9月下旬、それはフランス・ワールドカップの最終予選がスタートした時期とピッタリだぶっていたのです。メディアの話題はサッカー一色になり、その余波を受ける形で、僕の単行本もあちこちの書評で取り上げられるようになりました。出版界では「ベストセラーを作るには、ベストセラーにすればいい」という言葉があるそうですが、いろいろなメディアで「この本が売れている」と紹介されたことで、僕も含めて誰も売れるとは思っていなかった本は本当に売れてしまったのでした。  もし、ワールドカップの最終予選がああいう形でなく、当初予定されていた「セントラル方式の集中開催」だったとしたら——つまり10日ほどですべてが決まってしまう方式だったとしたら——この本があれほど長期間、ベストセラーリストに名を連ねることはなかったでしょう。ついでに、僕の人生もずいぶんと違ったものになっていたはずです。'95年夏にスペインへ渡った時、僕は2001年までは日本に帰らないつもりでしたし、それは'97年夏になっても変わっていませんでした。ところが、最終予選の方式が変更になったことによって、カザフスタンやウズベキスタン、アラブ首長国連邦といった国のビザが必要になりました。で、ビザ申請のためにパスポートを提出している間に、スペインへ帰るチケットの期限が切れてしまったのです。そうこうしているうち、新潮社から「次の単行本を書いてみませんか」という話が持ち上がり、それが終わってホッとしていると「書き下ろしは大変でしょうから、雑誌に連載したのを一つの形で」と畳みかけられ、この本が出てからわずか1年後、僕の履歴欄には「著書に『28年目のハーフタイム』『決戦前夜』『惨敗』、共著に『ライブ!』『|蹴 球 中 毒《サツカー・ジヤンキー》』『BLUE』がある」と書かれるようになっていました。  以来、僕の人生は完全に変わってしまいました。単行本が出るまで、僕の収入源はいわゆるイレギュラーな仕事、つまり「どこそこでこんな大会があるんですけど、取材してもらえませんか」といったものだけだったのですが、刊行以降は連載、すなわちレギュラーな仕事が8割になりました。高校時代、「お前ぐらいサラリーマンになりそうな奴も珍しいよな」とからかわれるほど安定指向だった僕としては、収入の計算ができるレギュラーな仕事が増えるのは実にありがたいことだったのですが、ただ、それによって自由な時間が大幅に減ったのも事実でした。この本を書くために僕はバルセロナで西野さんと会い、日本に戻ってからは10日間ほどかけて多くの選手から話を聞き、最後にはローマでいつ来るかわからないアウダイールを待ちました。その間、他に仕事のなかった僕は、この本のことだけを考えていればよかった。話を聞き終わったら時間をかけて消化し、ただじっとインスピレーションの訪れを待っていればよかったのです。いま、同じことができるかと聞かれれば、残念ながら答えは「ノー」になります。'97年以前の不安定な生活に戻りたいとは思いませんが、時々、「ああやってじっくり仕事をしたいなあ」という思いに駆られるのは事実です。  もっとも、僕の生活以上に変わったのは、日本のサッカー界でしょう。  いまから思えば信じられない気もしますが、'97年当時、日本はまだワールドカップを知りませんでした。やれサッカーには経験が必要だの、だから中田英寿はすごいんだだのとエラそうなことを書いている僕にしても、ワールドカップは出場するもの、自分たちにも手が届くものだとは根っこの部分で信じきれてなかったところがあります。  それがどうでしょう。'98年6月、フランスの3都市で君が代が流れました。9月、中田英寿がイタリアへ渡り、シーズンが終わるまでに10ゴールをあげるという活躍を見せました。翌年9月、今度は名波浩がヴェネツィアへ移籍しました。もはや、日本がワールドカップに出場するのも、日本人選手が海外で活躍するのも、当たり前のように受け止められる時代になりました。この変化の速さには、ただただ驚くしかありません。  とはいえ、日本人は過去にも何回か、同じようなことをやっています。第二次大戦に負けた時、50年後の繁栄を予想した人は世界中にほとんどいなかったことでしょう。でも、日本はやってのけました。10年前、メジャーリーグは異次元のように遠い世界でした。いま、日本人投手が勝利をあげてもスポーツ新聞の1面になることはなくなりました。日によっては、5面ぐらいに小さく載っておしまいという日もあるぐらいです。それだけ、メジャーリーグは短期間で身近なものになりました。当の日本人が一番わかっていないような気もするのですが、実は、日本人ぐらい新しいものをあっという間に吸収する民族は珍しいのかもしれませんし、だからこそ、Jリーグができた時に世界中のあちこちで「きっと日本は成功する」という声があがったのかと改めて思います。  脚本家の三谷幸喜さんにインタビューをした時、「未完成であっても、自分の書いたものにはすべて愛着がある」というお話をうかがったことがあります。「すごいな」というのが、その時僕の頭に浮かんできた率直な感想でした。もちろん、僕だって自分の書いたものに愛着がないといったらウソになります。でも、愛着以上に恥ずかしさ、「ああ、こんなものを書いてしまった」という思いが先に立つというのが本音です。自分をギリギリのところまで追い込んでない、どこかで妥協してしまっているというのがわかっているからなのかもしれません。高校時代、僕は連続ダッシュといったキツい練習の時になると、わざわざキャプテンの横を走る男でした。そこで、まだホントはもうちょっと頑張れるのに、「もうダメです、死にそうです」みたいな顔をしてダッシュして、キャプテンに「お前らさあ、遅くてもいいからカネコみたいに必死にやってみろよ」と言わせてしまうあざとい奴だったのです。たぶん、そういう部分は原稿を書くようになった今も残っているでしょうし、だからこそ、できあがった原稿に愛着よりも恥ずかしさを覚えてしまうのかもしれません。  というわけで、僕はこの本を読み返したことがありませんでした。恥ずかしくて、読み返すことができませんでした——文庫化が決定するまでは。  読み返してみての感想は……残念の一言です。  読者の方はすでにお気づきでしょう。この本には、前園真聖の肉声がほとんど出てきません。日本オリンピック代表のキャプテンにして、この物語で極めて重要な役割を果たしている男の肉声が、ほとんど描かれていないのです。  この本の第6章「川口能活の叫び」は、'96年夏に『ナンバー』増刊号に掲載された「叫び」という記事に大幅に手を加えたものなのですが、お読みいただければ明らかなように、かなり前園に対して厳しい原稿になっています。発売以来、僕はあちこちから「前園が相当に傷ついている」という話を聞きました。無理もありません。2年後、僕も三浦知良のファンクラブ雑誌に「メディアがカズを殺した。たとえば金子達仁に」と書かれ、大変な衝撃を受けることになりました。ファンクラブの会報誌などとは比較にもならないほどの影響力を持つ『ナンバー』に自分のことを批判する記事を発見した前園のショックは、僕よりも10歳近く若い男のショックは、本当に凄まじいものがあったことでしょう。ただ、何とも恥ずかしいことに、この本を書いている時の僕は、自分たちが持っているペンの力に対してずいぶんと無頓着なところがありました。はっきりいえば、前園が受けたであろう痛みを想像することができなかったのです。結果、「前園が傷ついている」と聞いた僕は、「じゃあ僕のことを恨んでいるに違いない」と短絡的な勘違いをしてしまいました。そこでどうしたか——逃げてしまったのです。一度だけ取材を申し込み、それが断られるとホッとして粘る努力を放棄してしまったのです。  もしあそこでもう少し頑張っていたら。一度目がダメなら二度目、二度目がダメなら三度目と粘っていたら。アウダイールを待った時のように、我慢する気持ちを持っていたら。この本の内容は、もっともっと濃いものになっていたはずです。  誤解のないように付け加えておきますが、僕はいまでも、「叫び」で書いたことについては間違っていなかったと信じています。足りなかったのは僕の想像力。同じことを書くにしても、痛みを知ったうえで書いたのであれば、もうちょっと違った形の、それでいて言わんとしていることは変わらないものができたのではないかという気がするのです。そして、「相手の痛みを思いやったうえで、それでも書かずにはいられなかった」という確信が僕の中にあれば、彼のインタビューを取るためにもっと頑張れたことでしょう。それが残念なのです。 「叫び」から1年後、僕と前園の間にあった溝は、いや、ひょっとしたら僕が一方的に感じていただけかもしれない溝は、ひょんなことから解消されました。橋渡しをしてくれたのは、中田英寿でした。彼が前園に、僕のインタビューを受けるように勧めてくれたのです。当初、「絶対に30分だけ」と言われて始まったインタビューは、最終的には2時間まで延びました。インタビューが終わった時、僕はそれまで味わったことのないような晴々とした気持ちになったのを覚えています。ああ、雨降って地固まるってのはこういうことなんだなあ、と——。  1冊の本を作るというのは、大変な作業です。数百ページもある中からほんの数カ所の誤字を発見して直してくれる人がいます。少しでも書店で目につきやすいようにと、様々なアイデアを駆使して表紙のデザインをしてくれる人がいます。そして、大したお金にもならないのに、忙しい時間を割いて解説文を書いてくださる作家の方がいます。そうした方々すべてに感謝の念を捧げます。デザイナーの関口聖司さん、『ナンバー』連載「いつかどこかで。」の担当者にして、急遽この文庫本の担当まで押しつけられた武田昇君、偉大なる大ベストセラー作家の馳星周さん、本当にありがとうございます。  でも、キザな言葉使いをお許しいただけるなら、僕はこの本を二人の選手のために捧げたい。彼らのために、エールを送りたい。前園真聖と、もう一人、小倉隆史に。この物語の主役だった男と、主役の一人になるはずだった男に。'96年以降、孤独な戦いを続けている二人に。  頑張れ、もっと、頑張れ——と。 [#改ページ]   単行本   一九九七年九月 文藝春秋刊 [#改ページ]          文春ウェブ文庫版     28年目のハーフタイム     二〇〇二年四月二十日 第一版     著 者 金子達仁     発行人 堀江礼一     発行所 株式会社文藝春秋     東京都千代田区紀尾井町三─二三     郵便番号 一〇二─八〇〇八     電話 03─3265─1211     http://www.bunshunplaza.com     (C) Tatsuhito Kaneko 2002     bb020403