[#表紙(表紙.jpg)] 酒井順子 たのしい・わるくち [#改ページ]  はじめに  わるくちは、言うのも、言われるのも、楽しいものです。ちょっと声をひそめ、絶対に自分の意見に共感してくれるであろう口の堅い友達と、そこにいない人のわるくちを語り合うのが楽しくないとは、言わせない。また、 「○○さんがこの前、あなたのことけっこうひどく言っていたわよ……」  という報告を聞くのも、悪くありません。他人からお世辞を聞くことは簡単だけれど、非難の言葉は貴重なのです。  自分のわるくちを聞いた瞬間にやってくるのは、真実を知ることによってのみ得られるゾクゾクするような興奮と恐怖です。それはまるで、恋人の浮気を知ったときのようでもあり、ホラー映画のラストシーンを見たときのようでもあり。  でも、やっぱりわるくちはあまり良いことではありません。 「わるくちって、楽しいよね」  と、堂々と口に出すには勇気が必要なのです。言うに言えないわるくちに、イラつくこともあるでしょう。  そんなときは、この本の気に入ったわるくちのページを開いてみて下さい。友人・知人の顔を思い浮かべてみたり、また自分の姿に当てはめてみたりと、使用方法はさまざま。  私も、書きながら自分の性格があまりに悪いことにゾッとする瞬間が多々ありましたが、自分で自分のわるくちを言うのもまた楽しいものだ、という発見もできました。本書が、皆様の「性格が悪いのは、私だけじゃないんだ!」という安心感につながることができれば、著者としては嬉しく思います。 [#改ページ] 目 次  はじめに  美人のわるくち   自慢しい   ヤリマン   カマトト   ブス   おっちょこちょい   負けず嫌い   心配性   トウが立つ   嫉妬深い  やり手のわるくち   慇懃無礼   テレ屋   ぼーっとしている   短気   神経質   生理的に嫌い   優柔不断   したたか  大人のわるくち   真面目あるいは不真面目   不潔   貧乏くさい   東京生まれ   ケチ   ものぐさ   年寄くさい   はすっぱ   文庫版あとがき [#改ページ]     美人のわるくち  自慢しい  自慢をする人というのは、嫌われます。反対に、 「あの人はちっとも自慢気なところがない」  というのは、褒め言葉になる。が、しかし。多くの人の心に「自慢、したーい!」という気持ちは、あるはずなのです。ほとんどの人は、自分も「自慢、したい」と思いつつ、または実際に自分でもたっぷりと自慢をしつつ、 「嫌ぁね、あの人って自慢ばっかりして」  と他人の自慢が気になってしまう。  私も、何かと�ああっ、自慢したい!�と、思ってしまう人間です。なぜ自慢したいかというと、皆に、 「スゴイね」  とか、 「立派だね」  などと褒めてもらうと、気持ちがいいからです。普段から褒められ慣れている人は、黙っていても褒めてもらえるので、わざわざ自慢をするなどという愚挙には出ません。褒められた経験の少ない人ほど、自慢をしたがるのではないでしょうか。  この違いが最もはっきりとわかるのは、「モテ自慢」の分野において、です。 「自分はモテる」ということを、他人にすぐ自慢する人がいます。私も、異性から少しでもアプローチがあると、すぐ「モテた」と思いこんでしまい、他人に言いたくてしょうがなくなる。普段、あまりモテなくて、過去にもモテた記憶が少ない人にとっては、たまの「モテ」は大事件なのです。  私を含めてその手の人は、�私は、モテない�そして�私って、モテない人だと思われているんだろうな�というコンプレックスを持っています。だからたまに「モテ」がやってくると、その事実を他人に示して「私は今、モテてます」ということをアピールせずにはいられないのです。たいした用もないのに友達に電話し、 「実は今困っちゃっててさぁ。ぜっんぜん好きじゃない男の人が、しつこく誘ってくるのよ。どうしたらいいんだろう……」  と、「困っている」と言いながらも弾んだ声で話す。 「普通に友達づきあいしてたときは、その人が私のことを好きだなんて、思ってもみなかったのよね。だから突然『つきあおう』なんて言われてもそういうふうに考えられないから困っちゃってさあ……」  ……そんな話を電話で聞いてあげているほうは、内心「嘘《うそ》をつけ」と思っています。絶対、本当は「自分は好かれている」ということに気づいていたはずなのです。あまりモテない人というのは、自分のことを誰かが好いているかもしれない、ということには異常に敏感です。「この人は私に好意を持っているのでは?」と気づいてから、少しは思わせぶりな態度もとったことでしょう。だって、せっかくの「モテ」がやってくるチャンスなのだから。  その男性がたとえまったく自分の好みではなかったとしても、「モテた」という事実を作るために、引き寄せるだけ引き寄せる。そして本当にモテた途端、自慢する。  モテ自慢をするときに肝心なのは、「自分は相手を好きではないのだけれど、相手は自分を好いている」という点を強調して話すことです。そうすることによって、「私はモテたからといっていちいち大喜びするような女ではなく、モテ慣れちゃってうんざりしてるくらいなの」というムード作りをするわけです。しかし、「モテ自慢」をすることそのものが「私、普段はあんまりモテないもんで、たまにモテると大はしゃぎしちゃうんです……」という事実の証明になっていることに、彼女はまだ気づいていません。  私も、以前は少しでも�自分は今、モテているのではないか?�と感じると、たいしたエピソードはなくとも、速攻で煮詰めて友達に自慢をしたものです。しかし、あるときふと、「本当にモテる人は自慢しない」という事実を、発見してしまったのです。  そう、あれは高校時代の友達と、昔の思い出話をしていたときのこと。高校生当時の私の異性関係のエピソードは、何かがあるたびに自慢していたので、友達みんなが知っていました。しかし、友達の中でも一番美人のWちゃんは、 「あのときはA君からもB君からも告白されてて、しばらくしたらC君も……」  などと、ものすごく豪勢なモテ話をしはじめるではありませんか。 「えっ、そんなこと初めて聞いた」  と言えば、 「だって、言ったってしょうがないじゃーん、つきあってたわけでもないのに」  という答え。高校時代でそれだけモテてたってことは、以来十年間、誰にも言ってないようなモテ話は掃いて捨てるほどあるのだろうな……。  そう、本当にモテる人というのは、ちょっとやそっとモテたくらいで騒ぎません。「自分はモテる」という確固たる自信があるから、それを他人に認めてもらおうとも思わない。モテる女は自慢をしないのです。  以来私は、モテ自慢をなるべくしないように我慢しました。しかし、モテ慣れていない女の悲しい性《さが》、どうしても話したくなってしまう。ちょっとナンパされたくらいでも、 「昨日、久しぶりにナンパなんてされちゃってさぁ」  と、つい言ってしまう。そしてそのたびに、�やっぱり私ってモテないのだわ�という確信を深くするのでした。  この、「本当に『持てる者』は自慢しない。自慢をするのは『持たざる者』である」という法則は、他の自慢にもあてはまります。たとえば、「裕福自慢」。裕福であるというのは、「持てる者」の中でも最も目につきやすい立場ですから、非常にやっかまれがちな存在です。だからこそ、本当に裕福な人はあまり自慢をしない。かえって地味な服を着たり、国産の車に乗ったりするものです。しかし、「ちょっと裕福」とか「急に裕福」といった人は、その裕福具合に慣れていないからこそ、「私(とか、私の家)って、お金持ちなのよぅ」ということを、非常にわかりやすい形で表現したくなってしまう。  それとリンクして登場しがちなのが、「家柄自慢」。これも、サーヤみたいな人は、 「ほら、ウチのお父さんって天皇じゃん? だから私、勤め人の家の方とは話が合わないのよね」  とは絶対に言いません。しかし、普通の家庭に育っているのだけれど「ヴァンサンカン」や「クラッシー」なんか読んでしまって、「お買い物はほとんどパリでします」とか「家に各国大使をお招きしてのパーティーもひんぱん」といった、令嬢達のハイライフに強い憧れを持ってしまったりすると、どうにかして「お嬢さま」になりたくなってしまう。そうすると、 「食べ方の下品な人って嫌よねっ!」  と他人を攻撃して自分の上品度を目立たせようとしたり、自分の家の経歴からたとえごく微量であっても「お嬢さまエキス」を抽出し、披露したくなってしまうのです。 「ほら、私の祖父って弁護士だったから、なんか自然と私も法律には詳しくなっちゃったみたいなのよね」  とか、 「ウチの母って、偉そうにしてるけど結局はお嬢さま育ちなもんだから、私が面倒見てやってるって感じなのよ」  等々、カマしてくる。  このようにさまざまな「自慢」に出会ったとき、どのように対応するかは、その人の性格がけっこう表れるところです。たとえば「私の家はお金持ち」という自慢をする人に対し、 「えっ? 家に車が五台もあるの? すごいのねぇ」  と素直に感動し、 「車種はなんなの? やっぱり外車なんでしょ?」  とさらなる自慢の機会を相手にあたえてしまう人がいる。この手の人は、正真正銘のいい人です。自慢されていることに気づかない純粋さを持っています。自慢しがちな人にとっては格好のターゲットとも言えましょう。  同じように「すごいのねぇ」と感心していても、自慢に気づいていないフリをしているだけの人もいます。彼等は、�この人の自慢は病気みたいなものなのだから、とりあえずしたいだけさせてやればいいのだ�という考えを持つ大人。自慢しいが同じことを何度も自慢しても、「それは前にも聞いた」などとは絶対に言わず、いちいち「すごいのねぇ」と反応してくれる。優しいとも言えますが、考えてみると最も恐ろしい相手です。  私の場合は、そこまで大人になれません。少しでも�あっ、こいつ自慢してやがる�と思ったら、ついムキになって「へぇ」だの「ほぉ」だのと素っ気ない返事をし、�そんな自慢、なんとも思わないもんね�という気持ちを示そうとしてしまう。あげくの果てには、 「あーあ、お腹空いたねぇ」  などと、まったく関係のない方向に話題を変えてしまったりもするのです。  私はなぜ、自慢されるのが嫌いなのか。それはやはり、自分が自慢したいから、なのだと思います。自分が「褒めてもらいたい」と思っているのに他人から自慢をされたのでは、他人を褒めなくてはなりません。なんだか、シャクに触るのです。  中には、可愛い自慢もあります。自慢というのは、自分側の優位性を相手側に認めさせる行為であり、たいてい「自分側」というのは「自分」そのものを指すわけですが、ときとして「自分側」の範囲が広い人もいるのです。その範囲が、 「ウチのパパって東大卒なのよね」  というように家族である場合はまだ普通ですが、「友達」とか「単に知っているだけの人」まで入ってくる場合がある。 「私の友達のスチュワーデスってタレントの○○からナンパされて、モデルの友達は歌手の××とつきあってて……」  と、他人がモテたことを自分の自慢として話していたり、 「私の知り合いが政治家の△△さんをよく知っていて」  と得意そうに言うので、その「知り合い」は誰かと聞いてみれば三軒隣の家の奥さんのお兄さんで、一回挨拶をしたことがある程度の関係だったり。  その手の自慢は、どこか憎めないものです。ストレートに自分の自慢をする人というのは、それなりの「自慢のネタ」を持っているわけで、こちらもムッとしてしまうのですが、他人の自慢ネタまで自分の自慢に取りこんでしまうのは、単に「私は、そのような特別な人と知り合いの人間なのである」ということの自慢。「おうおう、それほどまでに自慢したいのか」という気持ちになって、さすがの私も、素直に、 「へぇ、すごーい」  などと聞いたりする。  自慢は、言葉によってのみするものではありません。無言でできる自慢もあるのです。その一つが、「肉体自慢」。スポーツクラブへ行くと、男女を問わず「身体に自信、あります」とその肌に書いてあるような人がのし歩いている。隆々とした筋肉を誇る人が、ものすごく重いウェイトをかけたマシーンを、 「ふーんっ!」  などとうなり声を出しながら真っ赤な顔をして動かしているのを見ると、�そっ、そんなあからさまに……�と、こちらのほうが恥ずかしくなったりして。  このように男性の肉体自慢というのは、どこか滑稽《こつけい》な感じが漂うものです。「筋肉がモリモリした男の人って大嫌い」という女性も多い中、ひたすら自分の楽しみのために筋肉を鍛える男性を見ていると、「カワイイ」とも思えてくる。  しかし女の肉体自慢は、もっと奥が深いというか、ドロドロしています。自分の肉体を誇る女性は、身体を完璧に「他人に見せるためのもの」として認識している。それは「自分の筋肉が増えて自分が嬉しい」という男性的な感覚とは、異なります。  女の肉体自慢というのは、おそらくとても本能的なものなのです。花は、芳香を漂わせたり、華やかな花弁の色をアピールしたりすることによって虫を誘い、花粉を運んでもらって種の繁栄を図ります。同じように、女性も自分の顔や、すらっとした脚や豊かな胸といった美しさを他者にアピールせずには生きていられないのです。なにせそれは「良質な子孫を産みたい」という本能が為せるわざですから、教わってそうするものではなく、また止《と》められてやめることができるものでもない。  問題は、植物であれば一種類の花はほぼ同じ様相を呈し、ほぼ同じ香りを放つのに対して(虫にとっては違うのかもしれないけれど)、人間の場合は人によって条件がものすごく違う、というところです。同じ「人間」という種類なのだけれど、わかりやすく言えば「美人」と「ブス」というようなはっきりとした違いが存在する。誰もが平等に自慢できるわけではありません。  だから、肉体自慢をする女性は、同性の間で評判が悪いのです。肉体自慢をする女は、良い条件の異性を見つけて良い子孫を残すことに成功するかもしれません。一般女性はその辺にメスとしての危機感と焦燥感を感じます。そこで「男に媚《こ》びている」とか「粉をかけるのがうまい」といった悪口で肉体自慢をする女を攻撃することによって、自らの生き残りの道を少しでも広げようとする。  肉体をアピールするような服装をしがちな女子が、同性から、 「頭、悪そう」  と言われたり、脚の美しい女子が、 「あの人って、自分の脚がきれいだと思ってるからいっつもミニスカートなんだよね」  と言われたりするのもその一環。相手が自分より良いものを持っているからこそ、「でも、本当は性格は悪い」とか「でも、本当は馬鹿」といった違うマイナス点をあげつらい、なんとかして陥れようとするのです。  私も、肉体自慢をしている美女を見ると「ケッ」と思います。スポーツクラブで、明らかに美人で明らかにスタイルもいい、という女性が切れこみ度の高いレオタードを着て�見たいんなら勝手に見れば?�みたいな感じで尻をブリブリさせながらゆっくりとフロアを歩くのを見ると、�意地でも見ねえぞ�と、必死に自転車を漕《こ》いでしまう。  しかしその意地は、私自身がものすごく「できるものなら私も肉体自慢、したい!」と思っているから発生するものなのです。なにせ中学生時代の私の夢は、モデル。今でも�寝て起きたらスーパーモデルみたいな容姿になってたらアタシ、絶対にパリコレとか出ちゃうのにな!�などと馬鹿なことを考えているのです。もしも本当にスーパーモデル並みの肉体になれたとしたら、これまでの恨みを晴らすべく、私の肉体自慢は容赦《ようしや》ないものになることでしょう。  スーパーモデルの場合は、肉体自慢が職業にまでなっているので、別にいくら自慢しても「まぁ、許そう」という気持ちになりますが、全般的に見ると「自慢をする人」は、非常に他人から嫌われやすいものです。それは金持ち自慢でも学歴自慢でも、なんでもそう。  彼等は単に、「自慢するのが下手な人達」と言うこともできます。自慢したい気持ちというのは誰もが持つものなのに、上手に自慢をするテクニックを持っていないがために、「自慢ばっかりして、嫌な人ね」と言われてしまう。  それとは反対に、上手な自慢をする人もいます。話を聞いているほうも、ぜんぜん自慢をされたとは気づかないけれどいつの間にか自慢されている、というハイテクニックぶり。その秘密は、「絶対に自分からは自慢したいことを言わない」という部分にあります。自分は絶対に口を開かず、「他人に質問させる」のです。  自慢巧者というのは、他人から質問されれば、 「東大卒なんですよ」  とか、 「家は成城に三百坪で」  などとけっこう生き生きと話すもの。他人から聞かれても「いやいや……」などと言葉を濁す自慢嫌いな人とは、違います。  しかし、自慢したいときに必ずタイミングの良い質問が出るとは限らない。そんなときに自慢巧者は、 「お宅はどちらで?」  などと自分から先にたずねるのです。そうすると、質問された人はたいてい質問に答えたあとに、 「で、あなたは?」  と質問を返してきます。そうなったらシメたもの。誰の反感も買わずに、思いっきり「成城に三百坪」と自慢をすることができるというわけです。  対して自慢下手な人は、「自慢したい」という気持ちが先走ってしまいます。アセるあまり、誰も聞いてないのに、 「息子の東大時代のお友達はね、みなさん弁護士さんとか官庁勤めの方々ばかりだからとっても忙しいらしくって……」  などと無理矢理に話しだし、周囲の眉をひそめさせる。しかし本人はいったん自慢をしだすと周囲が見えなくなり、 「やっぱり東大ってすごいのねぇ」  と誰かが言ってあげるまで、自慢が止まらない。つまり、せっかちなのですね。  そしてもう一つ自慢下手な人が陥りがちなのは、せっかく聞き手が、 「へーぇ、すごいのね」  と自慢に反応してあげているのに、 「えー、全然そんなことないのよーぅ」  などとかたくなに否定する、という過ちです。自慢しているくせにへりくだるというのは、日本人らしさが非常によく表れている行動だと思うのですが、「自慢するならずっとしてろ!」と言いたくもなってきます。  だって「そんなことないのよ」と否定されたからには、聞き手は、 「でも、やっぱりすごいよー」  とさらに褒めなければなりません。最初に「すごいんだね」と反応するだけでも親切だというのに、もっといい気持ちになりたいなんて、ちょっといい気になりすぎ、というもの。一度「すごいんだね」と言われたら、 「イヤイヤどうも」  などとお茶を濁し、さっさと次の話題に移るというのが自慢をするときのマナーってやつではないでしょうか。自慢は自分が気持ち良くなるための行為なのですから、相手に必要以上の負担をかけてはいけません。  しかし私は、この「自慢下手」な人というのは、本当はそんなに嫌な人ではない、と思っています。確かに、自慢ばかりされるのは不快です。しかし自慢下手な人は、単に素直なだけなのです。チョコレートが食べたいと思ったら、 「チョコレート! チョコレート!」  とママに買ってもらえるまでスーパーでぐずる子供のように、�私は称賛してもらいたい!�と思ったら、すぐに行動に移さなければ気のすまない、純粋な人。変に気を回したり画策したりしない分、天真爛漫《てんしんらんまん》で疑うことを知らない良い人だと思うのです。  そういった意味で言うと、自慢上手な人のほうが、ずっと性格は悪い。�自慢したいーッ!�という気持ちがあるにもかかわらず、それを巧妙に隠し、嫌われないようにテクニックを使って自慢する。要領だけがやたらといいという、嫌な奴。  そして自慢好きな私はどちらのタイプかというと、明らかに後者です。�自慢はしたいけど、嫌われるのは嫌�という精神のもと、うじうじしている。嫌われることなどものともせず、ガンガンに自慢しまくっている人を見ると、「すごいなー」と尊敬にも似た気持ちになってくるのでした。 [#改ページ]  ヤリマン  高校生の頃。 「あの子って、ヤリマンなんだって」  という陰口が、よく交わされました。私は、性に対する好奇心や知識だけは旺盛だったものの、それを現実生活に当てはめてみるほど大人ではなかった。だから「ヤリマン」という言葉の響きは、なんだかとても恐ろしく聞こえ、かつ学校にいる間は自分とそう変わらぬ高校生である友達が、別の瞬間にはセックスをしているという事実になんとなく胸が苦しくもなりました。さらに�セックスとは、一体どんな顔をしてするものなのであろう�とまで考えが及ぶと、しばし嫌悪感と羨望《せんぼう》と怒りが入り交じったような、複雑な気持ちになったものです。  また私はその頃、ヤリマンの語源に関して、疑問を持っていました。「ヤリ」は、セックスを「やる」の「ヤリ」でしょう。では「マン」は? いわゆる、ふせ字四文字のから「お」をとって短縮したものなのか、それとも人間全体を指す意味での「MAN」なのか。そんなことを人に聞いてもしょうがないので、疑問解決に努めたことはありませんが、おそらく正解は前者なのでしょう。ヤリマンとは、主に女性を指して言う言葉なのですから。  女性が、別の女性のことを「ヤリマン」と蔑《さげす》むとき、その裏に必ず含まれているのは微量の嫉妬です。一応はセックスをしなければならないのですから、それなりに異性と接触が多くなければ、ヤリマンにはなれない。実際、「ヤリマン」とか「セックスマシーン」などと言われている人は、冷静に見ると外見的に恵まれている人が多いものです。だから外見的にあまり恵まれず、かつ異性との接触も少ない人は、やっかみ半分で「ヤリマン」と下品な言い方をして、優越感を得ようとしている。 「性的にふしだらである」というヤリマンの性質は、よく考えてみると誰にも迷惑をかけるものではありません。意地悪とか嘘つきとか暴力的、といった性質であれば、周囲にいる人間も迷惑しますが、ある女性がセックスをやりまくっていたとしても、お友達や家族に直接的な被害はなんらかからない。だからよく、 「『何をしてもいいから、人に迷惑だけはかけないように』と親から言われて育ちました」  という人がいますが、そのような娘さんがヤリマンになってしまっても、親御さんは何も文句は言えない、という理屈になります。  ここで、一口にヤリマンと言っても二つの系統があることを、確認しておきたいと思います。それは、「時間的ヤリマン」と「量的ヤリマン」です。時間的ヤリマンとは、ゲスな言い方をすれば「会ったその日にやっちゃう」みたいな人。異性との出会いから性交までの時間が、通常の(もしくは昔の)男女よりも短い、ということを非難されるケースです。  もう一つ、量的ヤリマンとは、「たくさんの人とやっちゃう」ということ。大昔の女子であれば、一生一人の男性に添いとげることが常識であったのでしょうが、今の若者・女子にその手の人はまずいない。 「私、主人しか知らないの」  というような主婦が存在しても、 「変な人……」 「よくそれで我慢できるわねぇ。それで一生が終わって、後悔しない?」  と、かえって変人扱いされてしまう。  現在の女性は、性の幸福なくして人生の幸福はあり得ない、ということをはっきりと認識しています。 「やっぱり男の人って、一回やってみなくちゃわからないじゃない?」  とか、 「『お願いだから一回やらせて』って、頼みたくなること、あるよね」  と、昔は男性が口にしていたような言葉を、女同士の場において平気で言う女性も、珍しくないのです。  とはいえ、そんな今でも限度はあります。二十歳にして「百人とやりました」というような女性は、やっぱり問題視される。それが、量的ヤリマン。  多くのヤリマンは、時間的にも量的にもヤリマンです。しかし「とりあえず身体から入るけど、つきあいだしたら長続きする」という時間的にだけヤリマンな人、「なかなかやらせないが、一回やっちゃうとすぐに飽きて『次、行ってみよう!』となる」という量的にだけヤリマンな人が存在することも事実。そしてそれぞれが微妙に違う倫理感覚を持っていたりするので、一口に「ヤリマン」と言って非難をするのは、短絡的というものです。  実際、ヤリマンにあまり悪い人はいません。一口で言えば、素直な性質。�この人と、早く仲良くなりたい!��たくさんの人と、仲良くなりたい!�という、言ってみれば誰にでもある気持ちを、そのままストレートに、肉体を持って表明する。その手段がセックスだったというだけです。  明るくてお人好し、と言うこともできます。ヤリマンといっても売春をしているわけではないので、行き当たりばったりで、 「セックスしましょう」 「そうですね」  とするわけではありません。それなりにつきあいを深めたうえで、セックスをする。ということは、たくさんの人とセックスをしているヤリマンの方々は、人間的な魅力もそれなりにあるのではないか。  それなのに、私達はヤリマンのことを許せません。自分の恋人を寝取られたというのなら話は別ですが、世間一般に存在しているヤリマンの方々から危害を加えられているわけでもない。なのになぜ、私達はヤリマンを責めたくなってしまうのか……?  世の中には、  A 他人に迷惑をかける罪  B モラルを破る罪  の二種類の罪があり、ヤリマンは後者の罪を犯しています。  モーセの十戒は、  ㈰唯一・全能の神(つまりイスラエルの神)以外、どんなものも神としてはならない。  ㈪偶像崇拝するな。  ㈫神の名をみだりに唱えてはならない。  ㈬安息日を守れ。  ㈭父母を敬え。  ㈮殺すな。  ㈯姦淫《かんいん》するな。  ㉀盗むな。  ㈷隣人に嘘をつくな。  ㉂隣人の所有物をむさぼるな。  ……というような内容です。  初めてモーセの十戒を習ったとき、ガキだった私は妙に㈯の「カンイン」という響きを印象的に聞いていました。�おっ、子供に内容を知られたくないと思ってわざと難しい言葉を使ってるな?�という気がしたし、それだけに、「カンイン、カンイン」とつぶやいてみると、意味はわからないけれどモヤモヤしたものが心に渦巻いたものです。  それはいいとして、「ヤリマン」はもちろん、㈯の戒めに反しています。「子供を作るため以外のセックスはするな」と解釈するか「愛のないセックスはするな」と解釈するかでずいぶんと違いますが、どちらにしてもヤリマンはバリバリ姦淫している悪い人。モーセの時代に現在の「ヤリマン」が存在していたら、即座に塩の柱にされてしまっていたことでしょう。  十戒を読むと、意外とモラルっぽい内容が多いことに気づきます。他人に迷惑をかけることはやめなさいね、という戒めは㈮、㉀、㈷、㉂くらい。あとはモラル上の戒めです。  おそらくそれだけ、モラルを守るというのは、難しいことなのでしょう。他人に迷惑をかけているかどうかは、ちょっと考えてみれば誰でもわかる。だからわざわざ十戒に書くようなことはしなかった。それよりも神様としては、モラルという、なんだかよくわからないけどとりあえず人間に従わせておきたいスジを引くことのほうが、ずっと困難でそして重要に思えたのでしょう。  私達日本人の多くはイスラエルの神を信じていません。でもやっぱり、なんとなく「ヤリマンは、いけない」と心の底で思っている。ということは、色々な神様が太古の昔から共同で「みだりに性交してはいけません」という意識を人間に植えつけようとしたのかもしれません。  イスラエルの神を信じている人にとって、「偶像を崇拝するな」という戒律は絶対でしょうが、その神を信じていない私達にとって、偶像|云々《うんぬん》はどうでもいいことです。大仏でも、お地蔵様でも、神社の鳥居でも、こだわりなく手を合わせてしまう。  それと同じように、「性的モラル」をハナっから信じていない人にとって、「たくさんの人とやりまくっちゃいけない」という言葉は、豚に念仏、私に英語。  ブルセラがブームになったときも、 「私がパンツ売ったって、誰にも迷惑かけないじゃーん」  と女子高生達に明るく言い放たれて、大人達が思わず�ごもっとも……�と黙ってしまったこと、忘れたとは言わせない。  そう、モラル自体を知らない人や信じていない人が発する、 「なんでこんなモラルを守らなくちゃいけないの?」  という質問に答えるのは、実は非常に難しいのです。偉い先生が難しい言葉を駆使して説明しても、普通の人にはわかりづらい。また、たとえばヤリマンに対して、 「自分の身体は大切にしなくちゃ駄目よ」  というように、わかったようなわからないような言い方をしても、 「身体を大切にって言われても……別に断食とか火渡りとかしてるわけじゃないんだし。気持ちいいことしてるだけじゃん。避妊はちゃんとしてるしィ」  と言われてしまうと、それまで。  おまけに今や、モラルをきちんと守っている人すら「モラルなんてぜーんぜん守ってない人だってたくさんいるし、守らなかったからって別に罰を受けてるわけじゃないのに、なんで私はクソ真面目にモラルを遵守しなくちゃいけないわけ?」という疑問を持ちはじめています。それが、インモラル社会に拍車をかけている。  実際、ヤリマンを見る私達の視線は、「真人間になってほしい」というものではありません。「ヤリマンみたいな女にひっかかっちゃう男が存在するのがくやしい」から陰口をたたき、できればそのヤリマンぶりが周囲にバレて、男性に相手にされなくなっちゃえば嬉しいのに、とまで思っているのです。  アダムとイブは、「善悪を知る木」になっている実を食べて、楽園から追放されてしまいました。しかし神様は、「とりあえずモラルは疑わない」という線は、残しておいて下さった。  もしかしたら今、私達は別の木になっている実を食べようとしているのではないでしょうか。実を食べた途端、「なんでモラルって、守らなくちゃならないの?」という疑問にとりつかれてしまう、甘美でいて恐ろしい味の、木の実。  そう考えていくと、木はさらにもう一本、はえているのではないかと思えてきてなりません。その実を食べると「なんで他人に迷惑をかけちゃいけないの?」「なんで殺しちゃいけないの?」という疑問が出てきて……。ああ、私はその質問に、答えられるのでしょうか。 [#改ページ]  カマトト  私は、�「カマトト」の意味を初めて知った日�の明確な記憶を持っています。何歳の頃だったかははっきりしないのですがとにかく幼い頃、何かで「カマトト」という言葉を目にした私が、親に、 「カマトトって、どんな意味?」  とたずねたのです。すると、 「『カマボコって、おととでできてるのぉ?』とか言うような女のことよッ」  との答え。口調から判断すると、カマトトとはあまり好ましい存在ではないらしい。しかし当時の私は、カマボコがおととで出来ているかどうかの知識もしっかり持たないガキでしたので、�なんでカマボコがおととかどうか、聞いちゃいけないんだろう?�と、訝《いぶか》ったものです。  あの頃の私は、それからの自分の人生が、カマトトとの戦いに明け暮れるとは、知らなかったのです。 「カマトトって、どんな意味?」  などとたずねてもカマトトだとは思われなかった、あの幼い日々が懐かしい。  カマトトという性質は、先天的にあたえられているものではありません。算数や理科と同じように、学習して、身につけていくものです。女性が成長するにつれて、�ああ、こういう場合は世馴《よな》れていないように装ったほうが得なのだな�という風に理解する場合は、多々あります。そのような機会を多数経験していくうちに自然に体得するのが、カマトトという芸なのです。  カマトト芸は、学習によってのみ、身につけられるものですが、誰かが教えてくれるわけではありません。親も、男の子に対しては、 「男なんだから男らしくしなさい」  と指導しますが、 「女なんだからカマトトぶりなさい」  とは言わない。周囲の大人も、�カマトトは確かに役に立つ芸当だが、それはあくまでも裏|技《わざ》であって、堂々と教えられるものではない�と知っているのです。女性は、自分が生きていく間に、�ああ、男の子には「アタシ、吉野家の牛丼って食べたことないの。一回食べてみたいんだぁ」なんて言うと、効果的なのだな�とか、�コンビニのおにぎりをスムーズに作れない女の子にグッとくる類の男子っていうのが、世の中には存在するのだな�という風に、自分自身の体験を通じて、カマトトの技術を会得《えとく》していくものなのです。  カマトト技術が応用できる場は多々ありますが、やはり最も効果的に使用できるのは、異性との交流時です。自分を一段低く見せることによって、異性に「可愛いな」とか「手が届くかもしれないな」という誤解をさせるための行為が、カマトトと言えます。  そこに女性しかいない場合は、「カマトト」という技《わざ》は無用です。同性に対して弱さや無知さを示してもなんら得することはありません。そんなことをしていたら、周囲に埋もれてしまうか、いじめられるかしてしまいます。反対に、「いかに自分は強いか」という力を積極的にアピールする行動が、同性のみの世界においては、目立つものです。  私は、女子だけの小学校に通っていました。異性といえば先生だけですので、「異性の目を意識する」ということがほとんどない、という意味では特殊な環境だったと思います。やはりそこでは、カマトト現象は見られなかった。世馴れていないフリをしてみたところで、 「馬鹿じゃないの?」  と言われるのがオチだったからです。  しかし、中学生になると事情は違ってきます。そろそろ、他校の男子と、つきあいを持つ人が出てきたのです。進んでいる友達が、文化祭などで男友達と話しているのを横で聞いていた私は、生まれて初めて�あっ、これが『カマトト』ってやつなんだ……!�ということをはっきり知りました。そのときの彼女の声は、普段の声より数段、トーンが高かったのです!  当時はちょうど松田聖子がスターとして輝きはじめた頃で、「カマトト」と「ブリッ子」はほぼ同義語でした。実は私も、当時は聖子ちゃんカットにしていたのですが、性格的には、聖子ちゃんが何かの授賞式に出るたびに、�涙が出てないクセに泣き顔になるんじゃねえよッ!�とムナクソ悪く思っていたタイプ。  となると、やはり同級生のカマトト化に対しては違和感を禁じ得なかった。つい一年前までは一緒になってドッジボールをやっていた友達が、急に自分の知らない世界で、理解できない行動をとるようになってしまったのです。それは少し悲しいようでいて、同時に�ちょっとー、アタシを置いていかないでよぅ�という、あせりにも似た気持ちでした。  私はなぜか、カマトト道にいち早く入った友人に対して、憎しみのような気持ちをも抱いたものです。彼女達は、よくはわからないけれど、男の子たちと楽しそうな生活を送っていました。�嘘をついて楽しい思いをしている�ということが、潔癖な中学生には許せなかった。今思うと、単なる嫉妬からくる憎しみだったわけですが。  あの年代の男女関係においては、カマトトは「すればするほどよく効く」ものでした。声は、高ければ高いほど、いい。難しいことは知らなければ知らないほど、いい。男の子にしてみても、中学生や高校生ですから、「いかにハンドリングしやすいか」という部分が、ギャル選びにおいて重要なポイントだったものと思われます。  私は、女友達同士で話しているときと、男の子の前とでは声のトーンが違う友達を見て、焦燥感を覚えました。�なんで男の子は、真実の姿を見抜けないのだろう。そしてなんで私はモテないのだろう�と。カマトトな女を好きになるような男はたいしたことない男なのだ、と信じようとしたけれど、格好いい男の子が皆、カマトト系になびくのを見ると�あたしもさっさとカマトトしたほうが話は早いのでは?�とも思った。  そして高校生になり、ふと気がつくと、 「私は絶対にカマトトしてない」  とは言いきれない自分がそこにいました。男の子の前に行くと、普段より少しだけ、声が高くなっている。そして、普段なら絶対に笑わないようなつまらないギャグに対しても、 「やっだー、キャハハ」  などと笑う。自分でも気がつかないうちにそうなっていたのです。私は「高い声の女の子であれば可愛いと思うような馬鹿男なんて最低」とサッパリ切り捨てられるほど思いきりの良い性格でもなかったので、�やっぱりー、みんながいい思いしてるんだったらアタシもしてみたいしー�と思ううちに、かわいこぶるようになったものと思われます。  まさにそれは、誰に教わったわけでもない自然な成長の結果、です。私は元来、声がとても低いのです。小学校の頃は、三部合唱をするときはいつもアルトのパートにいました。しかし高校生になると、小学生のときまったく気にならなかった「自分がアルトパートであること」が、恥ずかしく思えてきたのです。客観的に見て「こいつ、いかにも女の子っぽくてモテそうだな」と思われる女の子は、ほとんどソプラノパートでした。対してアルトは、とっても地味目。私はなんの根拠もなく、�なんとかしてアルトを脱しなくては人生暗いままなのでは?�と思い、無理してメゾパートに移ったのです。しかしながら四部合唱の場合は、当然ながらメゾアルトだったんですけど。  やってみてわかるのは、カマトトというのはとても疲れる、ということです。アルトの人がメゾの声を出すときのように、無理をしなければならない。それと同じように、相当に強い精神力を持っていないと、カマトトなんてとてもやっていられません。その点で言うと、私はメッキが剥《は》げやすいカマトトでした。男子校との飲み会でも、一次会までは高めの声で、 「やっだー、キャハハ」  などとやっていても、二次会になるとグッタリしてしまうのです。急に声のトーンは下がり、それまで無理をしていた分、何も話したくなくなり、黙りがちになる。笑顔も消えて、その場の話題にもあまり加われなくなってしまう。そうなると、他人のカマトトぶりが気になります。�ふん、いつもはもっと飲むクセに「もう飲めないーん」とか言いやがって�などと苦々しく思っているうちにどんどんその場が苦痛に思え、ときには途中で帰ってきてしまうこともあった。  そのうえカマトトは、几帳面《きちようめん》でないと務まりません。異性の前では生活すべて、カマトト様式をとらなければならないのです。単なる世間知らずだけでは完璧なカマトトとは言えず、隅から隅まで計算された「異性向き」の行動をとらなくてはならない。つい気を抜いて、トイレで洗った手をスカートで拭いたりしてしまっては、いけないのです。この点においても、ずぼらな私には無理な芸当だったようです。  当時は真剣に�私は一生モテないのでは�と心配した私でしたが、年月がたつとカマトトの嵐は次第に小止みになってきます。多大な労力を必要とするせいでしょうか、カマトトというのはなかなか一生やりとおせるものではありません。どんな女性でも、カマトト濃度が非常に濃くなる時期があるものですが、それが終わると、無理がたたって徐々にノーマルに戻ってくるのです。中学生のときに激しくカマトトだった人は、大学生にもなればすっかりヌケて、 「アタシ、モツ煮って好き」  などと言っている。  反対に、若いうちはカマトトにまったく目覚めていなかった人が、大学生や社会人になった途端、一気にカマトトデビューすることもあります。高校生時代まではアニメおたくだったのに大学生になったら急に「JJ」に載るような人になっていた。大学生までは、常に同級生男子にビールを注《つ》がせ自分から注ぐことはけっしてなかったのに、会社員になったら急にお酌上手になった、……等々。  思うに、きっとそういう人は恥ずかしがり屋なのです。本当は前からカマトトってやつをしてみたかったのに、周囲に知っている人ばかりいる場においては�「こいつ急にカマトトぶりやがって。さては色気づいたのか?」なーんて思われたら嫌だな�などと心配するあまり、つい踏みきれずにいた。だから新しい世界に出るにあたって、周囲に知らない人ばかりいるという好機を生かし、カマトトってやつをやってみたい。そしてぜひ、カマトトによって味わえる楽しさを、自分のものにしたい!……という風に思ったのでしょう。  その手の女性の場合、学生時代までは、すべての友人から、 「タケウチー」  などと名字で呼ばれていたのに、会社の友達にはどうやら、 「マリって呼んでね」  などと言っていたりする。そんな姿を見ると、中学生くらいであれば�なんだー、このカマトト女�などと思ったことでしょうが、今になれば�カワイイ�と思えてしまう。それも、自分が一度でも、「カマトト」にトライしてみたことがあるから、なのでしょう。  そう、自分でカマトトをしてみると、次第に「カマトトも方便」という風に思えてくるものです。需要と供給のバランスが重要なのは、経済も男女関係も同じ。「世馴れてなくて可愛くて無知な女の子が好き」という需要が多いのであれば、演技してでもその需要に応えようとするのは、当然の動きです。  私自身のカマトト化のピークは、とっくに過ぎ去りました。カマトトへのトライが続いたのは、おそらく高校時代から大学生の初め頃まで、だったと思います。ある程度大人になれば、「カマトト」という一手のみにだまされてくれる男性は減ってきますし(とは言っても一定数は常に存在しているが)、いくらカマトトぶっても無理なものは無理、という残酷な事実もはっきりわかってきます。�自分にとっての正攻法で戦ったほうが、勝率は高いやも……�と思うようになったというわけです。  ま、今でもあまりにあからさまなカマトトと、あまりにコロッとそれにだまされる男性を見ているとムカつくことはムカつきますが、「カマトトだと思われてもかまわない」という覚悟でカマトトを貫きとおす人を見ると、�一つのことをやり抜く……。それはそれで、立派なのかも�とも、思ってしまうのでした。 [#改ページ]  ブス  大部分の男性は、美人を好み、ブスを嫌う。これは、事実です。しかし、ブスにとって最大にして最強の敵は、異性ではなく同性だという事実に、世の中の人はあまりにも無関心なのではないでしょうか。女性は、男性の前においては、 「○○ちゃんって、すっごくいい子なのよ」  などと、ブスの友人を「いい子である」という錦の御旗で擁護するような発言をします。「女が言う『いい子なのよ』と『かわいい子なのよ』は信用できない」というのは、男性にとっての定説と言っても過言ではありません。しかし、そんなことを言いながらも、心の底では、激しい「ブス差別」をしているのが、女性です。  女性の容姿を重んじる男性の場合、「ブス=悪人」という信じ方をしている人もいます。それに対し女性は、 「ひっどーい」  などと言うわけです。しかしそんな女性も、ただ「ブスでもいい人はいる」ということを知っているだけで、胸の内には、男性よりもさらに激しい尺度で計った「ブス度ランキング」があるものなのです。  気のおけない女性同士のおしゃべりに、耳を傾けてみて下さい。お酒が入っている場など、特に口が滑りやすいものなのですが、 「あたし、ブスって嫌ーい」  と発言する人が、必ずいるはずです。一人が言うと、他の人も安心して、口をそろえて、 「私も! だーいっ嫌い」  と、応えることでしょう。そこからは、とても他人に聞かせられないようなブス責めが続きます。皆、深い理由があってブスを嫌うのではなく、 「とにかくブスはダメよ。絶対」  などと、感情的としか言いようのない激しい言葉で、断罪してしまう。  私も、正直言って「ブス好き」とは言い難い人間です。そして、きれいな女の人を見るのがとても好きです。そればかりではありません。子供の頃から、美人の友達と一緒にいるときのほうが、ブスの友達と一緒にいるときより、精神的に楽でした。それは、なぜなのでしょう。  単に「美人のほうが見ていて気持ちがいい」という理由だけではありません。私は、他人から自分がどう見られるかも、気にしていたのです。私の顔は、非常に「薄い」印象を他人にあたえます。目鼻立ちがはっきりせず、ボンヤリした感じ。だから、着ている洋服や周囲の状況によってイメージが左右されることが多い。  そうしたとき、�美人と並んで歩いていれば、私も美人の仲間だと思われるのではないか�と、私は思ったのです。引き立て役になっている可能性などこれっぽっちも信じていないのが、私の前向きなところですが。  対して、ブスの人と一緒に歩くと、自分までがブスだと思われるような気がしました。�類は友を呼ぶ、だな�などと思われているのではないかと、気が気ではなかった(あっ、私が自分で自分のことをドブスではないって思っているのがバレちゃいました?)。知り合いがいそうな町や店はなるべく避けたい、というような気分だったものです。  同じことはファッションセンスでも言うことができます。センスの良い人と一緒にいると、自分もセンスの良い人だと思われそうでなんとなく心地良いけれど、思いっきりダサい人と一緒にいるときなど、�あたしって……ダサい奴だと思われているのでは……?�と思ってしまう。ま、自分に自信さえあれば、どんな人と歩こうが気にしないのでしょうが、これもあいまいな容姿を持つ者の悲しい性。  確かに、「ブス嫌い」を公言する女性を見てみると、あいまいな容姿を持つ人、つまり「美人でもブスでもない」人が多いように思えます。明らかな美人が、 「私、ブスって嫌いなの」  などと言ってしまうと�こいつ、性格悪いんじゃねぇのか?�と思われてしまうので言わないのかもしれませんが、全般的に見て、美人はあいまいな容姿の女性よりも、ブスに対して寛容です。恵まれている者だけが持つことのできる余裕、ってやつなのかもしれません。もしくはマリー・アントワネット様が、 「パンがないのならお菓子を食べればいいんだわ」  と貧困に苦しむ庶民に対して言い放ち、「何言ってんだバカ」と思われたように、恵まれている境遇に生まれついた人というのは、自分が恵まれているということをわかっていません。だから、恵まれていないということがどういうことかも、わからないのかもしれない。  その点、あいまいな容姿の者は、美人がどれだけ得で、ブスがどれだけ損かを、熟知しています。だからこそブスに対して敏感に反応するのでしょう。 「ブス責め」は、あいまいな容姿の者の、ブスに対する「仲間だと思わないでね」という意志の表明でもあります。あいまいな容姿の者が何よりも恐れるのは、女性を大きく「美人」と「ブス」に分けたとき、「ブス」の部類に入れられてしまうことです。「上・中・下、あなたはどれ?」と聞かれれば「中」を好む人が多い日本人ですが、「上と下、あなたはどれ?」になった場合、それもこと容姿に関してであれば、やっぱり女性の場合は、「上」に入りたいのです。  だから自分から、「下」に別れを告げる。周囲にも「私は下ではない」と知らしめると同時に、自分を奮い立たせる意味でも、あえて「ブスは嫌い」と口に出す。 「自分を好きになることが、きれいになる第一歩」とか「いつも明るくしていれば、あなたは表情美人」などと、女性雑誌には「気の持ちようで容姿なんてどうにでもなる」的な甘言《かんげん》があふれています。私達は、あの手の雑誌を読んでは「そうよね、人間、容姿じゃないのよ。心なのよ」と元気を出すのですが、また世間の荒波に一歩踏みだすと、�やっぱ容姿って大切……�と、肩を落とす。  確かに、精神状態によって外見はある程度変わります。しかし、外見的なコンプレックスがあまりに強いとき、いくら「明るくなれ」と言われてもなれるものではないのです。「気の持ちよう」だけでは、根本的な解決にならない場合のほうが多いという事実から、女性は目をそらしすぎています。  でも、後ろ向きになっていてもどうしようもありません。�優しい性格のブスと性悪《しようわる》の美人を比べたら……、やっぱり美人のほうに人気が集まるんだろうな、きっと�と心の底では思いながらも、どこかで�私も表情美人ってやつになれるのかも……�と、夢見ている私達。  信じるものは、救われる。というわけで、「私は、きれいになれるのだ!」と信じるように、「私はブスではないのだ!」と、信じることも、あいまいな容姿の者には必要です。だから、ブスの人と一緒にいるよりも美人と一緒にいることによって、気分の高揚と安心感を得ようとするのです。  ブス嫌いの人が最も嫌うブスは、身近にいるブスではありません。どんな容姿をしていようが、友達であったり仲間であったりすれば、それなりに親近感はわきます。だからこそ、 「○○ちゃんって、すっごくいい子なのよ」  という言葉が出るのです。しかし、見ず知らずのブスに対して、彼女達の対応は厳しい。 「ブスのクセに変に露出度が高くて色っぽい格好してる人って、後ろから飛び蹴りしたくなるよね」 「ブスが妙にはしゃいでる姿を見ると、なんだか無性にイラつく」 「ブスって男に甘えちゃいけないと思わない? 見苦しいよね」  などと、ブス嫌いな男性が聞いても�そっ、そこまで言うことないんじゃあ……�と思ってしまうような激しさ。  そう。ブス嫌いの女性というのは、「ブスが自分より幸せに暮らすのは許さねえ」という気持ちを持っているのです。あいまいな容姿をしている自分が、これだけ「どう見えるか」ということを気にしているのだから、ブスはもっと自分のブスさ加減について悩んでいるべきだ。明るく楽しくなんて生きるべきではない。ブスはおとなしくしてろ。……と、無茶苦茶な発想。  やはり、「上・下」と分けたとき、自分がどちらに入るか不安に思っている人というのは、自分より下の存在を確認することによって、安心感を得るのです。学校でテストを返してもらったとき、どんなに自分の点数が悪くても、自分より下の点数の人がいるとわかると、なんとなく嬉しかった。しかし、自分は�これを親に見せたら、ものすごく怒られるだろうな�と悩んでいるのに、自分より悪い点数をとった友達が、 「ウチの親、テストの点数なんて気にしないのよ。らんらんらーん」  なんてノンキに構えているのを見ると、ムカついたものです。  それと同じように、自分では「あの人は、私よりブス」と思っているのに、相手が容姿のことなんてまったく考えもしないような人だったり、別の美的感覚を兼ね備えているため妙に自分に自信を持っていたりすると、彼女はイラつきます。自分の彼よりも格好いい男性とつきあっていようものなら、 「○○君も物好きよねーぇ」  と、彼のほうまで異常呼ばわり。しまいには「ブスならブスらしく悩めよッ!」という理不尽な怒りを爆発させてしまうのでした。  しかし本来、女性は「自分はブスが嫌いだ」という事実を、ひた隠しに隠すものです。人を容姿で判断しては、いけないのです。「異性を容姿で判断する」ということであれば、多少は頭が悪いと思われるかもしれないけれど、 「あらあら、面食いなのね」  ですまされることもあります。しかし同性をも容姿で判断するということがバレた日には、「鬼」「人でなし」「冷血人間」と、人類全体から罵倒《ばとう》されることを覚悟しなければなりません。  女性は「優しい」存在であることを望まれています。それも、犬や猫やお年寄や子供や、弱者に対しては無差別に優しさをふりまくのが、女性の特性とまで言われているのです。そんな世の中において、一種の社会的弱者と言うこともできるブスに対して「だいっ嫌い」なんて言おうものなら……。ああ、考えるだに恐ろしい。  だから女性は「ブス嫌い」の本音を語るとき、用心に用心を重ねる必要があります。たとえ自分の旦那や恋人の前であっても、気を許してはならない。また、女友達相手だからといって安心してはいられません。いわゆる「いい人」の前では、「ブス嫌い」のことなど、おくびにも出してはならない。もしそんな人の前で口を滑らせようものなら、こちらは半ば冗談だったとしても、 「そんなこと言っちゃ駄目よ」  などと真剣な表情で意見されてしまい、気まずい思いを味わわなくてはなりません。「私、ブスって嫌い」と安心して打ち明けることができるのは、自分と、容姿のレベルと意地悪さのレベルが釣り合っている友人と一緒にいるときだけ、と言えましょう。  地下に潜伏しているこのような「ブス嫌い」は、実は膨大な人数に達しています。地上に出たときは「いい子」の顔をしているので、見分けがつかないだけなのです。スーパーモデルという存在が女性の間で注目され、大人気になったのも、ひとえに「性格はどうでもいい。とにかく、容姿のいい女性が好き!」という女性が多いから、でしょう。スーパーモデルブームというのは、ブス嫌い現象の裏返し、なのです。  世間では、表面的には「外見より心」とか「ミスコン反対」だのと必死に叫ばれています。しかし本当の生活においては、女性が生きるうえで外見は非常に重要な要素。このギャップが、女性のブス嫌いを進行させているような気がします。自分にコンプレックスがあるからこそ、ヒステリックにブスを嫌うのです。これからも、美人以外の不遇の時代は、確実に続くことでしょう。 [#改ページ]  おっちょこちょい  小学校を卒業するとき、「卒業文集」というのを作ったのですが、最後のほうに、一人一人のプロフィールが書いてあるコーナーがありました。趣味とか、将来の夢を書くところまでは、まぁ普通の文集なのですが、変な欄もありました。それは、「長所」と「短所」です。それも自分が書くのではなく、友達から見た評価が、その部分には記載されていました。友達、それもまだまだ子供である小学生が書くのですから、その内容は残酷です。短所の部分には「ケチ」「なにかにつけてお金をようきゅうする」「すぐいじける」「ぼうりょくをふるう」「人をけおとす」などと、辛辣《しんらつ》な言葉が並んでいました。  ちなみに私の「短所」の欄には、「口がわるい。すぐに人をきずつける」とありました。昔っから変わっていなかったのだなぁ、と感心することしきり。今はさすがに大人になったので、他人に対して思ったことをすぐに口にするということはなくなりましたが、その頃はまだ純真だったので、ウケをとるためならなんでも言っていた。失言ばかりしていたのです。  しかし、私のように辛辣なことを書かれていた人ばかりだったわけではありません。「短所」の欄に最も多く書かれていた言葉。それは、「おっちょこちょい」でした。�なんでこんなにおっちょこちょいばっかりいるんだろう……�と思って私は気づきました。「おっちょこちょい」が、この世で最も無難な、そして最も女向きの、短所であることを。 「すぐに人をきずつける」や「なにかにつけてお金をようきゅうする」といった短所は、その元をただせば、大雑把《おおざつぱ》に言って「悪」の部類に入ります。しかし「おっちょこちょい」は「悪」ではありません。基本は「善」だが、あわてたりうっかりしたりして、失敗をしてしまう、というもの。  算数のテストで、三角形の面積を求める問題を間違える場合でも、底辺×高さ÷2、という公式そのものがわかっていない人の答案には、大きくバッテンがついて、 「何をやってるんだ」  と先生から怒られました。しかし三角形の面積を求める公式は理解しているけれど、最後にちょっとした計算で間違えてしまった、というときは、 「落ち着いて計算しなきゃ駄目だぞ」  と言われ、運が良ければ三角をもらえたのです。 「おっちょこちょい」という短所は、この三角じるしのようなものです。「すぐに人をきずつける」「口がわるい」と書かれている、つまりは大きなバッテンじるしをつけられている私からしてみると、「おっちょこちょい」なんて短所でもなんでもない。短所欄に「おっちょこちょい」と書いてあると、「この人には短所らしい短所はありません。でも、たまにあわてて変なことをしちゃうような可愛いところもあって、それもまた彼女の魅力を増しています」という意味のような気がして、�甘ったれてんじゃねぇよ�と、短所だらけの私は不快に思ったのでした。  まぁ、親友の短所欄に「おっちょこちょい」と書いた人の気持ちも、わからないではありません。「何においてもセンスわるい」とか「ネチネチした粘着気質」とか、本当のことを書いてしまって友達の気持ちをえぐるのも心苦しい。本人を傷つけないですむ短所が、なんとか発見できないものか……。と考えたとき、脳裏に浮かんだのが「おっちょこちょい」だったのでしょう。�そういえばあの子は、たまに給食をこぼしたり、忘れ物をしたりしたわ。「おっちょこちょい」なら、人間の根幹を傷つけないですむ!�と、素晴らしい発見をしたような気持ちになったのだと思います。 「おっちょこちょい」の恩恵にあずかるのは、子供だけではありません。女性は、ある時点で「おっちょこちょい」が持つ効力を知ると、自分の本当の短所を直視しなくなります。 「あたしって、おっちょこちょいなのぅ」  という言葉で、自分の内部における「負」の部分をすべておおい隠す、という芸当を身につけるのです。 「おっちょこちょい」という短所によって他人にもたらされる損害は、いつも笑って許せる範囲内で納まります。「口が悪い」という短所であれば、それによって他人が深く傷ついたり、ショックを受けたりする可能性がありますが、「おっちょこちょい」ならどんなことをされても「悪気はなかった」ですませることができる。  たとえば、会社の上司にコピーを頼まれたOLのA子さん。十部コピーしてくれと頼まれたのに、九部しかしていなかった。 「きみ、一部足りないよ」  と言われても、A子さんが「自分はおっちょこちょいである」と普段から喧伝《けんでん》している人であれば、 「すいませぇん、またおっちょこちょいやっちゃった……」  と、ペロッと舌を出すだけで、 「しょうがねぇなあ」  と一言ですむ。  しかし、同じミスを、「ズボラ」と評判のB子さんがやったとしたら、どうでしょう。 「君はまともに何かできたことがあるのか? 少しはしっかりしてくれなくちゃ困るよ」  と、マジで怒られてしまいます。おっちょこちょいのA子さんとズボラなB子さん、しでかすミスの数はたとえ同じだったとしても、A子さんのほうが負う傷は浅かったりする。  この「おっちょこちょい」のパワーが、最も効果的に発揮される場面があります。それは、異性とのつきあい、つまり恋愛の場。ある種の女性は、ある種の男性の前で、「いかに自分がおっちょこちょいか」ということを、非常に効果的に示してみせる技術を持っているものです。この技術を使えば、素直な男性に�こいつって、可愛いな�なんてことを思わせるのは、赤子の手をひねるより簡単。  トレンディー・ドラマでもよくありますね。お互い気になってはいるがまだ気持ちを伝えあってはいない男女が、夜道を歩いていたとする。そのとき、女性がコンタクトを落としたりなんかして、大騒ぎ。騒ぎの最中、男性がふと冷静になって彼女がアタフタする様を見る。�こいつは、俺がいないと駄目なんだな�なんて思って、突然抱き締める……ってなシーン。女性のおっちょこちょいさ加減が、男性の気持ちを刺激するわけです。  ドラマではなくても、たとえば居酒屋における飲み会などにおいて、女のおっちょこちょいを嬉しそうに見守る男性の姿は、たくさん発見することができます。ビールを注いでもあふれさせてしまうとか、焼き鳥に七味唐辛子をついたくさんかけすぎてしまうとか。 「馬鹿だなぁお前は……」  などと言いながらも楽しそうな男と、「馬鹿」と言われながらも嬉しそうな女。  さらに高度な応用テクニックも、トレンディー・ドラマではよく目にすることができます。たとえば深夜、一人暮らしの男性のマンションに突然女性が訪ねてきて、 「あの、ごめんなさい。あたし自分の部屋の鍵、なくしちゃって。それでどうしようかと思って……」  などと言う(外は雨で彼女は濡《ぬ》れ鼠《ねずみ》、だとさらに効果大)。男性は、 「しょうがない奴だなぁ。ま、あがれよ」  と、女を部屋にとおす。女、 「本当にアタシったら馬鹿で、鍵、どこにやったかわからなくって……」  と取り乱すフリ。  テレビを見る女性視聴者は、ここで�自分の部屋の鍵をなくしたら、普通は女友達に電話するか訪ねるかするだろうが。いきなり男の部屋に行くなんて、単なるアバズレじゃねぇか�と思うのですが、テレビに出演している男性は、そのままおっちょこちょいの魅力に参ってしまって、一丁上がり。  そう、おっちょこちょいを好む「ある種の男性」というのは、おそらく「父」性が強いのです。保護者的な立場になるのが好きな人。だから、女性が失敗したり無知だったりすると好意を持ってしまうし、そんな女性に救いの手を差し伸べることに充実感も覚える。賢い女性はそういった男性の性癖を知っているが故に、男性の前ではことさら可愛いおっちょこちょいをやってのけるのでした。  最近は、おっちょこちょいを武器にモテようとするのは、女性だけではなくなってきました。男性も、おっちょこちょい市場に激しく参入しているのです。男性の場合は、あまり「おっちょこちょい」という可愛い言い方はされず、単なる「うかつな人」とか「粗忽者《そこつもの》」になりますが、女性の中にもその種の人についクラッときてしまう保護者体質、つまりは「母」性が強い人は多い。男性がぎこちない手つきで皿洗いをしてつい皿を割ってしまったり、カード電話にオレンジカードを一生懸命に入れようとしたりという姿を見て、�カワイイッ�と思うわけです。  最近は、�こいつ、もしかしてわざと粗忽なことをしてるんじゃないか?�と思われる男性の姿も、ボチボチ見られます。たとえば、 「えーっと、若い女の子達が好きなカバンのブランドで……バトンだったっけ?」 「やだぁ、ヴィトンですよ」  などと、いつも流行語を変な風に言い間違えることで若いギャルから「カワイイ」と言われている中年男性。あまりに間違えるので、�こいつ、絶対ウケ狙ってる�と思う。  そして体育会系の若い男性が、本当は細かいことを気にする清潔好きなクセに、女の前では無理に落とした物を食べて豪傑ぶり、 「やっだーもぅ、○○くんったら汚いんだからぁ」  と言われて喜んでいる。事情を知っている者だけが、�フン、本当はうんちするときは男のくせに便座除菌クリーナー使ってるような奴なのに�と、イライラするのです。  さらにひねくれ者の私は、例の、 「不器用な男ですから……」  というあの健さんのセリフにも疑いをかけてしまいます。�健さんったら、「不器用」とか言えば女が寄ってくると思ってわざと言ってるんじゃねぇか? 本当は健さん、女に電話かけまくりのプレゼントしまくりの、そのうえ針に糸までとおせちゃうような、目茶苦茶に器用な人なんじゃないのか?�……なーんて。まさか、健さんに限って、そんなことはないですよね、と。  このようにおっちょこちょいは、一種変わった短所なのです。他人に迷惑をかけるから嫌がられるのではなく、「おっちょこちょい」を手段として用いる人が多いから、嫌われる。ただ、�こいつ、「おっちょこちょい」を手段にしてやがる�というような勘繰りをする人は、そうたくさんいるわけではありません。私のように「口が悪い」などと子供の頃から言われていた者くらいです。ただ、皆がなんとなく「おっちょこちょいっていうだけで世の中を渡っていけるような人って……なんだか納得できない」と、うっすら思っているだけ。ですから皆さん、安心しておっちょこちょいをしまくって下さい。 [#改ページ]  負けず嫌い  とてもボーッとした感じの外見なので、よく「おっとりしている」などと誤解されがちな私ですが、実は負けず嫌いです。子供の頃から、トランプなどのゲームをやるときは密かにそして激しく、�勝ちたい�と思っていました。ババ抜きなど、運で勝負がついてしまうものは負けてもしょうがないにしても、「スピード」や「うすのろまぬけ」など、自分の動作一つで勝敗が決まってしまうゲームのときは、特に負けたくなかった。  でも、「負けず嫌い」であることが表に出てしまうような子供は、負けると泣いたりふてくされたりするので、仲間うちで嫌われました。私はそういう人間だと思われるのが嫌だったので、「勝ち負けなんて気にしてません」という表情を作りながらも、実は全神経を集中して取り組んでいたものです。だから兄や近所の友達とトランプをやるときは、熱中のあまり流血したり爪が折れたりといった事態の発生が少なくありませんでした。  しかし、どんな人間でも多かれ少なかれ、負けず嫌いの部分を持っているもの。特に女性に多いのが、「恋愛で負けたくない」という負けず嫌いです。  女性にとって、「恋愛における敗北」は、ふられること、もしくは自分が想う相手に想われていない状態を示します。だから�恋愛負けず嫌い�の女性達は、自分から異性を好きになって当たって砕ける、というようなことは絶対にしません。自分のことを好きになってくれた人を好きになる、というケースがほとんどです。  しかしいくら負けず嫌いでも、恋愛は相手があることですから、ときには負けてしまうこともある。そんなときにどうするかが、負けず嫌いにとっては大問題となります。なにせ負けず嫌いですから、負けてみじめな姿を他人の目にさらすようなことは、絶対にしません。あらゆる手段を使って、負けたことを隠そうとします。  最も効果的な手段は、「負けの予知」です。まだ勝負が終わる前、�なんだかこの勝負、負けそうだな�とピンとくることが、ありまさぁね。負けず嫌いはけっして、この予感を無視しません。�彼が私のこと、嫌いになるわけないわ�なんていう希望的観測も、絶対に立てない。負けないためには怖いほど冷静になることができる彼女は、自分の負けを予知したら、とりあえず形だけでも、自分が勝とうとするのです。  まだ自分は相手のことがちょっと好きだけど、相手は自分のことをイマイチ好きそうじゃない。そうなったら、いつまでも未練など残している場合ではありません。ふられる前に、なるべく早く自分からふらなくてはならないのです。そうしなければ、彼女の戦歴に「負け」、つまり「ふられた」という忌ま忌ましい傷がついてしまいます。  彼女は、突如として、「別れましょう」などと手紙を書きます。手紙を投函し終えると、「相撲に負けて勝負に勝った」的な、半分くやしくて、でも半分スッキリしたような複雑な気分が残るのでした。  そこにいくと男性は優しい人が多い。もうこの女とは別れたいな、なんて思っていても、男の自分がふるのは可哀相だから、相手からふってくるように画策したりします。相撲に勝って勝負に負けてくれるのです。このような優しい男性と負けず嫌いな女性がつきあって別れると、別れたあともお互いひどい傷を負わず、かえって「うまくいった」という妙な満足感を得ることが多いようです。  別れる別れないという重要な部分だけでなく、自分と異性との間になんらかのかかわり合いがあるときは、「自分は常に異性から想われている存在である」ということを周囲に知らしめないと「勝ち」と思えない、贅沢《ぜいたく》な負けず嫌いさんもいます。そんな人は、単に、 「昨日○○君と電話で話した」  と言えばいいときも、 「昨日○○君から電話がかかってきてぇ」  と、「むこうからかかってきた」ということを絶対に忘れずに言う。もちろん、自分が電話を「かけた」ときの話はけっしてしません。自分が○○君と話したいと望むのではなく、�○○君のほうが私と話したいといつも思っている�という風にしておきたい。  B君とデートをする、というときも、 「B君が昔っから『今度ごはん食べよう』ってうるさくてさぁ。でも私って言われるたんびに忘れちゃってB君に悪いことしちゃってるのよねぇ」  と、「自分はごはんの約束を忘れるくらいB君のことを軽くあしらっているが、それでもB君は私のことを強く想っている」ことを主張することによって自分の「勝ち」を振りかざす。「アタシは常勝の女」ということを、しつこいくらいにアピールするのです。  私も負けず嫌いの一員ですから、異性関係においても、まぁ、勝ちたい。だから私がその手の話を一方的に聞かされると、非常にイライラします。本当は、 「『電話がかかってきた』くらいの勝ちがなんだってのよ。アタシなんて、こんなにすごーい勝ち方をしてるのよ」  と言い返したいけれど、事実が存在しないから嘘をつくわけにもいかず、ただ聞くだけ。でも、なにせ負けず嫌いですから、イラついているとは気づかれたくない私。�アンタが好かれてるのはわかったから早く話を進めろよ�と思いつつも、 「へーえ」  と素直に話を聞く、嫌な女なのでした。  さて、一口に負けず嫌いと言っても、二つのタイプがあります。「ハイレベルの勝利を手にするために、負けそうな勝負にも挑む」人と、「勝てる勝負しかやらない」という人。負けたくない、という気持ちは同じでも、前者は「勝ち」の質を求め、後者は「勝ち」の量を求めます。その結果、前者はギャンブルなどにのめりこみがちで、後者は「要領のいい奴」と呼ばれがち。  そして私は、確実に後者です。恋愛においてももちろんそうですが、今までの人生、ずっとのらりくらりと危機をすり抜け続け、 「サカイって、要領いいよねー」  と、イヤミを言われてまいりました。  たとえば大学進学。私が通っていた高校では、三分の一くらいの人は、系列の大学に推薦入学することができました。しかし他の大学に行きたければ、勉強をして受験することも当然できたのです。  推薦か、受験か。負けず嫌いな私は迷わず推薦を選びました。「推薦で行ける大学よりもレベルの高い大学を受験して合格する」というのは確かに高レベルの「勝ち」ですが、その勝利を得るためには想像もつかないくらいの努力をしなければなりません。そして努力をしたからといって報われるとは限らないのが、受験です。  私は中学時代、卓球部に入っていましたが、卓球の試合だって、始まる前は勝つ確率は五分五分。しかし大学受験はときに何十倍もの競争率になってしまう。�学校の勉強だけ一生懸命やってるほうが、努力対効果(費用対効果みたいなもん)は絶対にいいハズ!�と考え、ひたすら中間や期末のテスト勉強にのみ、打ちこんだわけです。  無事に大学に入ってからの、クラブ選びもまた、私の負けず嫌いな性格が出ました。四月、新入生はさまざまなクラブから勧誘を受けます。負けず嫌いな私はもちろん、運動好きです。だからスポーツのクラブに入ろうとは思っていたものの、どの部に入ったらいいのかわからない状態になりました。そこで私は�とりあえず、「勝ち」が経験できそうなクラブにしよう�と、方針を定めたのです。  私が通った大学は軟弱なイメージで世間にとおっているミッション校で、そのイメージどおりに強いスポーツはほとんどありませんでした。しかし、私は見つけたのです。 「我が部は過去インカレ(インターカレッジ)で八回優勝しィ」  と、新入部員勧誘の場で、得意になっている部を。  して、その部は何かと見てみると……「水上スキー部」でした。そんなスポーツで「インカレ」なんてやっとんのかいな、とは思いましたが、体育会でもあることだし、まぁ嘘をついているわけではないだろう。いかにも競技人口が少なそうなこのスポーツ、もしかしたら私も「インカレ優勝!」なんつって、できるかもしれない……!  そう目論《もくろ》んだ私は、自分がクロールの息継ぎもできないことを忘れて、ホイホイと入部してしまったのです。入部の後の苦労たるや、それだけで本が一冊書けてしまいそうなので割愛しますが、大学四年の最後のインカレでは、ある種目で本当にインカレ優勝! できたので、最初の計算はとりあえず成立した、と言えましょう。  そんな性格の私は、ギャンブルにあまりのめりこみません。ギャンブルというのは、ときには勝つこともあるかもしれないけれど、結局は負ける。ごくたまに大勝ちして、最高の気分を味わえるかもしれないけれど「勝ち」の量を求めることはできないだろう。それなら、やらないほうがいい……という考え方です。  ギャンブルにハマる負けず嫌いの方というのは、負けるたびに�こんなはずじゃない、次は勝つはずだ�と思うのでしょうが、要領のいい私にはその感覚が、理解できません。「勝つわけねぇだろうが」と思うのです。キモッタマの小さい奴、と言うこともできます。  私のような負けず嫌いは、あまり生き方としては格好よくありません。負けるとわかっている勝負にも挑む、ギャンブル好きな負けず嫌いの人々は、多くの場合「バクチばっかりやってしょうがない人だ」などと言われますが、ときとしてその破滅ぶりが尊敬されたり、珍しがられることもある。「無頼派」とか「破滅型」とか、今の豊かな時代においては、なんだかやたらと格好よく聞こえる言われ方をしたりするのでしょう。  言われる本人達も十分にそれを自覚しているので、わざと、 「俺みたいなダメな男は……」  などと言って、自らの無頼派ぶりを演出しようとする。そしてバクチ好き同士でバリバリの仲間意識を持ち、「普通の人間には、一回のバクチに何百万円も使って負けちゃうようなことはできないだろう。ああ、俺達って男っぽいなぁ」と選民意識を持つ。  合理的な負けず嫌いの私としては、その臭さが鼻につきます。�本当に破滅型なら自己破産くらいしてみろよ�とも思う。これも一種の負けず嫌いからくる嫉妬心なのかもしれませんが。  負けず嫌いというのは、つまり「他を蹴落としてでも自分が生き残りたい」という気持ちの表れです。世界中の人が皆、「そんな、勝負なんてどっちだっていいじゃん。アタシ、右頬を叩かれたって全然くやしくないわ。どうぞ左頬も叩いてちょうだい」と思っていれば、戦争も紛争も、そして一切の争い事は起こらないだろうに。負けず嫌いな気持ちがあるばっかりに、諍《いさか》い事は絶えない。  でも反対に、「勝ちたい」という気持ちがあったからこそ、人間は進歩を続けてきたと言うこともできます。「アタシ、一生負け続けてもいいでーす」とみんながみんな聖者のようだったら、学問も技術も、まったく発達しなかったことでしょう。オリンピックなんかも、ぜーんぜん成立しない。百メートル走をやってみても、スタート直後から皆がおしゃべりしはじめちゃったりしてすっかり和気あいあいのムードになり、全員で手をつないでゴール。ちっとも面白くない。  そう考えると、「負けず嫌い」はそう悪い性質ではないのかもしれません。勝っている人はいずれ負け、負けている人はいずれ勝つ。勝ちと負けの位置が色々なところで入れ替わることによって、世の中は動いているのでしょうから。 [#改ページ]  心配性  皆でスポーツだのキャンプだので遊ぶとき、つきものなのが怪我《けが》です。大きな怪我はなくても、足を少しくじくとか、すり傷を作るといったことは、アウトドアにおいては日常茶飯事と言えましょう。そのときに、 「大変! お医者さまに診《み》ていただいたほうがいいわ!」  といちいち大騒ぎする女が、グループの中に必ず一人はいるものです。その手の人のことを、私は好みませんでした。  怪我をするのはたいてい男性なので、「お医者さまに……」などと女子に言われた場合は、 「こんなキズ、全然平気だよ。バンソコでも貼っときゃ大丈夫」  と、元気ぶって答えることになります。そうすると、心配性な女はまた言います。 「でも、傷口からバイ菌が入ったりしたら大変よ。消毒だけでもしなくちゃ駄目よ!」  と。  その場にいる私は、いたたまれなくなってしまいます。なぜなら私は、心配するのが苦手なのです。元来、ポジティブ・シンキングってやつを実践しているので、何か悪いことがおきても、常に最良の結果を考えてしまう。すり傷から「破傷風で死亡」を想像する心配性の人の思考回路が、理解できないのです。  心配性の人というのは、往々にして悲劇に憧れていたり、少女漫画趣味を持っていたりするものです。自分のことでも、少し身体の調子が悪ければ、「骨肉腫」「ガン」などとものすごいところまで想像が及び、�私って可哀相……�と、自分の葬儀シーンを想像して涙まで浮かべる。また心配性の女子中学生は、期末テストの点がほんのちょっぴり前回より下がっただけで、�アタシはもう高校に行けないかもしれない。そうなったらパパもママもアタシには愛想を尽かすだろう。一人でどうやって生活していけばいいんだろう。AV女優をやっていくとか……?�と、思い悩む。それら心配からくる想像力の豊かさに接すると、�この人って、本当は不幸になりたいんじゃないだろうか?�とすら、思えてきます。  だから、心配性の人というのはたいてい、きちっとしていて世間様から後ろ指をさされることのない、幸せな生活をしているものです。うっすらとでも悪事の兆候があると徹底的に心配をし、きちんとした対処をするので、それ以上悪い方向に進むことがない。体調が悪い心配性の人は進んで人間ドックに入り「心配なし」と言われ、成績が落ちた心配性の女子中学生は、友達から「コスイ奴」などと言われながらも次回のテストの前は徹夜で勉強して、見事に成績アップするのです。心配事を「ま、平気でしょ」などと放置するなど考えられない彼等には、当然ながら安定した未来が待っている、と。  私は、心配するということ自体、とても面倒くさく感じてしまいます。色々なことを考えなくてはならないし、その心配を解消するためには、色々なことをしなくてはならない。たとえば、「キャンプのとき、すり傷を負った」のであれば、水で洗って放っておけばほぼ確実に治る。手をかけたとしてもマキロンくらいでしょう。  しかしいざ心配をしだせば、その心配を解消するためには、車で医者がいる所までその人を連れていき、診療時間じゃなかったとか保険証がないとか、色々と起こる問題をクリアしながら、診察を受けなくてはなりません。とーっても面倒くさいことです。だから私は、あまり心配をしないのです。  心配性の人は、もちろんそんな面倒くさがり屋ではありません。後先を考えず、バンバン心配する。�この人の履歴書の趣味欄には、「心配」って書いてあるのでは?�という疑念さえ浮かびます。また、「心配さえしておけば、あとのことは周囲の人がやってくれるだろう」という考えが見えることもあり、一緒にいる者としては、イライラすることもままある。  心配の場において私がいたたまれない理由はそれだけではありません。「心配する人」と「心配される人」というのは、瞬間的にではありますが、�愛し愛される間柄�を築いています。相手の身を慮《おもんぱか》り、心を砕く「心配する人」は、まるで「愛する人」。 「平気。大丈夫だよ」  と言ってその心配に応えながら、相手の心情に対してありがたいと思う「心配される人」は、「愛される人」。たとえ�すり傷をどうするか�という問題であったにしても、両者は心配という名の懸け橋で結ばれた、疑似恋愛関係でしっかりと結ばれているのです。  そうすると、「心配しない人」は、蚊帳《かや》の外にいるしかありません。とても寂しい気持ちになります。女友達と食事をしながらじっくり話したいと思っていたのに、つきあいはじめたばかりの彼女の恋人がついてきてしまってちっとも面白くないときの気持ちと似ています。 「お医者さまに診ていただいたほうが」 「平気だよ」 「でも心配だわ」 「これくらいすぐ治る」  といった会話を横で聞くのは、 「あなたって素敵」 「そんなことないよ、君のほうがきれいだ」 「いいえ、あなたのほうが」  と囁《ささや》き合う恋人の隣に座らされているようで、心配をしない人間は憮然《ぶぜん》としているしかありません。  もちろん、私も一緒にすり傷の心配をすれば、「愛の輪」の中に入ることができるのです。しかし、心配は「しろ」と言われてできるものではない。演技で、 「そうよ、お医者さま(もちろん普段は『医者』としか言わない)に行ったほうがいいわ」  などと言っても、本当に白々しく聞こえてしまいます。かえって、心配を介した蜜月を過ごしている二人に対する嫉妬で、意地でも心配などしたくなくなってしまう。  心配性の人というのは、「私は社交辞令で心配しているのではなく、真剣に心配しているのだ」という事実を相手にきちんと伝えなければ気がすまない、という几帳面な部分をも持っています。私などは、たまに誰かのことを心配して、 「大丈夫?」  などと言ったとき、相手が、 「大丈夫」  と答えると、 「ああそう、それならよかった」  とすぐにそれを真に受けてしまうのですが、心配性の人は、絶対にそんな愚挙を犯さない。相手から「大丈夫」と言われても、疑いまくります。 「そんなわけないわ。このままにしておくのは絶対に心配だわ。あなたは周囲に心配をかけまいと思って無理をしているのよ」  と、相手に「そこまで言われると心配になってきた」と言わせるか、もしくは「いい加減にしろ」と怒らせるかするまでは、心配し続けるのです。そのやりとりが、 「ああそう、それならよかった」  で引き下がってしまった私としては、またイチャイチャしているのを見せつけられているようで不愉快だったりする。 「心配しない人」の、心配性の人に対する嫌悪感というのは、嫉妬が生み出すものなのだと思います。特に女性の場合、「心配する人」=「優しい人」という見方をされがちです。そうすると、ある種の人からのウケは確実に良くなる。よく、新婚カップルにその馴れ初めを聞いたとき、 「僕が風邪をひいているときに、彼女が心配しておかゆを作りに来てくれて、こういう人っていいなぁと思いました」  という発言をする青年がいるものですが、「心配上手」というのは異性をゲットする折も、有効な手段となるのです。  心配性の人の中には、この効果を知ってわざと心配をするという、疑似心配性の人も混じっています。この「手段としての心配性」は、私のような者を余計にイラつかせます。飲み会において酔いが回った男性を、 「大丈夫? ちょっと外の空気でも吸う?」  などと店の外に連れだして寝業《ねわざ》に持ちこむ人。掃除が苦手、という男性の家に、 「ちょっとは部屋をきれいにしなきゃ駄目よ」  と有無を言わさず押しかけてしまう人。その後、幸せそうにしている二人を見ると、思わず心の中で「ホロッときてるんじゃねぇよ」と男に対してつぶやいている私。  彼女達は、異性に心配攻撃をしかけて彼等のハートを掴《つか》むだけではありません。異性がいる場においては、�私はいつも周囲の人の身になって考える心の優しい女�ということを示すために、同性にも心配をしまくるのです。  私のような「心配しない人」は、そういった場において、つい自分の身を案じてしまいます。すり傷を負った人に対して、 「お医者さまに行ったほうがいいわ」  と言うのは、冷静に考えれば馬鹿気ているのですが、 「ツバでもつけときゃ治るよ」  と言うような女より、医者をすすめる女にほだされる男性は世の中に意外と多いものです。その現実を知っているので、�馬鹿じゃねぇのこいつ�と思っても黙っている。しかし黙っていたとしても、�心の冷たい女だと思われているのでは?�という思いにとらわれてしまう。もしかしたら、こういうのも心配性と言うのでしょうか?  最近私は、反省もしているのです。 「いくら心配したって、なるようにしかならないんだから無駄じゃん」  などと言うような人ばかりでは、やはり世の中はギスギスしてしまう。その証拠に、心配をするのが苦手な私だって、他人から心配されるのは、実は好きなのです。たまに風邪などをひけば、色々な人が、 「大丈夫?」  と言ってくれる。 「大丈夫です」  と言ったとしても、 「本当に大丈夫? 無理しないでね」  と、「あと一押し」の心配をしてくれると、余計にありがたいと思うものです。そうすると、�ああ、私も『どうせ平気』なんて思ってばかりいるのではなく、もう少し他人のことを心配しなくちゃなあ�と、思うわけです。  他人が自分のことを思ってくれているということを知るのは嬉しいもので、それがどんなに的外れな心配だったとしても、心が和む。とすれば、すり傷に対してたとえ救急車を呼ぼうと言ったとしても、心配される側は満更でもないもの。心配とは、奉仕の精神なしではできないこと。心配性の人を尊敬の気持ちを持って見ようと努力する、最近の私でした。 [#改ページ]  トウが立つ 「トウが立つ」の「トウ」とは、一体なんのことなのだろう……とある日ふと思い立ち、辞書を引いてみました。正確には薹と書いてトウと読むのだそうですが、「フキなどの花茎」を表すらしい。つまり、フキノトウのトウ、なわけです。  この辺までくると、「トウが立つ」の意味が、実感としてわかってきます。フキノトウも、芽が若いうちはおいしいけれど、盛りが過ぎてしまえば食べられなくなる……。本来「トウが立つ」は、山菜摘みなどに行って、 「ああ、もうこれはトウが立っちゃってるねぇ」 「食べられないな」  という風に使用した言葉なのでしょうが、私達の身の回りに、山菜摘みができるような場所があるわけではない。となると、「トウが立つ」は、主に別の意味で使用されることになります。  山菜と女性を一緒にされるのはくやしいような気もしますが、「なるほどなあ」とも思います。若芽のうちは、柔らかくて清冽《せいれつ》な味を楽しむことができるけれど、食べ頃の時期はごくわずか。その時期を逃してしまうと、エグみが強くてもう食べる気にはならない。それを女性に当てはめてみると……。わかる、わかる。  もちろんこの言葉は、「女性には、結婚適齢期っつーもんがあるのだ」という前提に基づいて、言われるものです。あんまり若すぎるのは、駄目。肉体的には十分に育っていて、でも精神的にはまだ幼さが残っていて素直で御《ぎよ》しやすい時期が、女性の食いどき、ということでしょう。「女性は、従順なのが一番」と、声を大にして言えた時代に幅をきかせた言葉です。  しかし、今は「男女平等」がうるさく言われる時代です。 「どんなタイプの女性が好きですか?」  と聞かれて、 「従順な人です」  と答える大胆な男性は、少ない。そんなことを言ったら「何を時代がかったこと言ってるのだ」「女性の人権を無視している」「男尊女卑」「ダサーい」……等々、さまざまな罵声を浴びせられてしまいます。  そう、今はグルメブーム。「食べやすい味が好きです」などと言ったら、世間様に馬鹿にされてしまうのです。無理をしてでも、 「ちょっとエグみが残ってるくらいのほうが、おいしいですね」  という姿勢を表明しないと、味覚の発達していない人だと思われてしまいます。だから、 「若くて素直な女性が好きです」  などという発言は、 「ボンカレーとイシイのハンバーグが好きです」  と山本マスヒロ氏の前で言うようなもの。�趣味の悪い男だな。頭が悪いんじゃないか?�と馬鹿にされてしまいます。  本当はスパイシーな味は大嫌いなのだけれど、グルメになるために必死に南インド地方風味のカレーを平らげる人のように、今の男性の中には、 「知的な女性がいいですね」 「男に頼るのではなく、自分の考えをしっかり持った女性が理想です」  などと、自分を通《つう》に見せかけるために「ちょっとトウが立っているくらいじゃないと物足りない」という態度を示す人がいるものです。  が、しかし。ものすごくエグい山菜を食べて、 「自然の味ですな」  などと言う人だって、本当は畑で育って虫食いの跡のないキャベツのほうがずっと食べやすい、と心の底では思っているものです。同じように、若くて従順で素直な女性は、なんだかんだ言っても、いいものです。刺激を受けることは少ないかもしれないけれど、理屈をこねないし文句も少ない。結婚には、向いている。  男性の心は揺れますが、結局キャベツを選ぶ人は多いものです。かつては山菜もいいな、と思ったものの食べやすさにはかなわない。彼等は陰でこっそりと、かつては嫌いではなかった山菜のことを、 「トウが立っちゃって……」  と、哀れむのでした。  しかしいかんせん「トウが立つ」は、暴力的な言葉です。比喩としては秀逸だと思いますが、「それを言っちゃあおしまいよ」、です。どんなに残酷な人でも、トウが立っている本人に面と向かって、 「あなた、トウが立ってきたわね」  と言う勇気はないことでしょう。  なぜ、「トウ」は立つのか。「女は結婚」という筋道を決めた社会のせいだ、と言うこともできますが、結婚適齢期らしき年代を大幅に過ぎた未婚の女性でも、トウが立つ人と、立たない人がいます。結婚をしたいしたいと強く思いながらもできずに年齢を重ねてしまった人は、トウが立ちやすい。しかし、別に結婚に対してなんら特別の思いを持ったことがない、というタイプの人だと、歳は重ねていても「トウって何?」という感じ。  結婚を熱望しながら結婚ができていない女性というのは、完璧主義の部分を持っています。ずいぶん若い頃から、結婚を意識して自分の生活を組み立てているので、料理も掃除も洗濯も、もちろんお茶やお花もバッチリ。外見も、いかにも普通の男性に好かれそうなパステル系スーツ・化繊の白ブラウス・肌色ストッキング・三センチヒールパンプス・ファッションリング、という格好を好む。  そして、結婚準備態勢に入ってから十年余。未婚のまま、精神面と技術面においては、同年代の主婦が太刀打ちできないほど、たくましくなっています。「しきたり」とか「常識」ということにも、やたらとうるさい。しかし、外見は二十代前半と同じパステル系なのです。そのうえ、残酷なことに肌の衰えだけは容赦なくやってきます。可愛い格好をしてるのに、目尻にシワを寄せて厳しいことを言う。外見と内面のアンバランスさが、どこか痛々しさを醸しだすのです。  なぜこの手の方にトウが立ちやすいのかというと、あまりにも生真面目だからではないかと思います。きちんとした家庭できちんと育ってきた。きちんとした家庭だから、「やっぱり、女の子は結婚して子供を産むのが当然よね」という基本方針があり、本人もそれを了承し、子供の頃からおうちのお手伝いもちゃんとやったし、女の子らしく見える服装を好んでいた。  彼女は、何に対しても生真面目なので、試験と聞けば真面目に勉強をします。学校の勉強がけっこうできてしまったりする。中途半端に良い学歴を得るも、基底には「あたしはお嫁さんになる」という気持ちがあるため、バリバリの職業婦人になるほどの気合いはなく、いわゆる普通のOLになる。なったらなったで、仕事ぶりも優秀。そしてふと気づくと、あまりに生真面目すぎて男性が寄りつくスキもない。小学校の頃、掃除をさぼる男子に対して、 「真面目にやってよねッ!」  と激怒していたタイプの女性、と言うことができましょう。  対して、歳をとってもトウが立たない女性というのは、ある種のズボラさ、鷹揚《おうよう》さを持っています。小学校の掃除の時間も、さぼる男子がいたら、 「あたしもさぼっちゃおーっと」  と教室を抜けだしていたタイプでしょう。結婚に関しても、何歳までにしなくてはというような「〆切概念」はまったくないし、「別にしてもしなくてもいいんじゃないか?」くらいの考え方。かといって別に恋愛をしていないわけではなく、どちらかといったら男好きであったりもする。  当然、花嫁修業的なものはしていません。世間の常識ってやつにもイマイチ自信がなく、 「えーっと、香典っていくらくらい入れればいいんだっけ」  と、トウが立つタイプの女性から、 「あなた、それくらいの常識もないの?」  と言われそうなことを、いくつになっても堂々と人に聞いてしまう。  そうなると、周囲の人間が接する態度も違ってきます。トウが立ちやすいタイプの女性に対しては、皆が気を遣うのです。年下の女性から見ると、�この人、格好はガキっぽいけどけっこう厳しいからなぁ�と警戒され、同年代の女性に対してと同じように気軽に話していいのか、それとも年配の方として尊敬申し上げなければならないのかわからない微妙な存在として、最も恐れられます。  結婚の話は、もちろんタブーです。皆、「この人は、真面目」ということがわかっているので、 「○○さんは、結婚しないんですかぁ?」  なんて聞こうものなら、彼女がどれだけ傷つき、悩んでしまうかは容易に想像がつく。もちろん本人は常識を持った大人なので、たとえ結婚ネタを振られても表情は変えません。しかし、 「したくてもできないのよぅ、誰かいい人いたら紹介してねっ」  などと明るく対応しながらも、バレッタでとめた髪の生え際には、ピクピクと震える薄青い血管が透けて見えるのです。�ああ、一刻も早くこの人の結婚が決まってほしい……�と、彼女の周囲にいる人間は祈るような気持ちになるのでした。  その点、トウの立たないタイプの女性は気楽です。彼女は、なぜか一人でいても安心なのです。 「結婚、しないの?」  と聞いても、 「するかもしれないしー、しないかもしれなーい」  という感じで、本人も本当にどうでもよさそうにしている。彼女に対してなら、 「あなた、一生結婚しないんじゃないの?」  というようなことも、気軽に言えるムードを持っています。そう、トウが立ちやすい女性を見たときに頭に浮かぶのは「結婚できない」という言葉で、トウが立ちにくい女性の場合は「結婚しない」なのです。この差は大きい……。 「トウ」は、努力や根性でなくすことができるものではありません。かえって、その努力や根性がアダともなる。あせればあせるほど、トウは立つ。  さて、私も世間的に見れば立派にトウが立っている年齢になってきました。�私ってー、別に結婚しなくちゃなんて思ってないし、トウには無縁よねー�とうぬぼれていたのですが、ヘソを出している若いギャル達を見て、 「本当にまったく今の若い子達は……」  とイライラしている自分に、ふと�あら、私にも立派なトウが……�と、感じております。しかし、自分もヘソを出してギャルに対抗するよりは、悪態をつきまくるほうが、楽そうではある。端から見ていて「あの人もトウが立っちゃって……」と思うような人でも、本人は案外気楽に過ごしているのかもしれません。  そう、茎が芽に戻ることはできないのです。それならば、さらに太くたくましく、茎を木にしていくほうが流れとしては自然。多くの「トウ」が立派な大木になっていけば、世の中も少しは変わってくるかも、しれません。 [#改ページ]  嫉妬深い  嫉妬というのは、古今東西、さまざまな文学作品の中で取り上げられる題材です。昔の人も今の人も、男も女も、そして老いも若きも、嫉妬には苦しんでいるようなのです。嫉妬作品の多さというのは、 「私は、嫉妬しているのだ!」  という心情を吐露せずにいられないほど激しく嫉妬に苦しんだ人がいかに多いか、を示しているようで、今も嫉妬に苦しみ続ける世の中の人の気持ちを楽にさせる効果を持っています。  しかし、実際のところ「私は、嫉妬してまーす」ということを他人に知られるのは恥ずかしいものです。嫉妬とは、自分が欲している物を他人に奪われたときにわきあがるねたみの気持ちなわけですが、それは同時に敗北宣言でもあります。恋人の浮気に嫉妬したなら、彼女はその時点で浮気相手に負けている。また、お金持ちの友達に嫉妬したのなら、その友達にも負けている。  だから、自分の負けを認めたくない人は、たいてい「自分は嫉妬なんてしていない」というフリをしたがります。また、自分が嫉妬などという低級な感情とは無縁でいる人間なのだ、と知らしめるためにも、嫉妬に狂っている人を見れば、 「あの人って、嫉妬深いのねーぇ」  と、まるで「自分を抑えることもできない知性のない人」であるかのように後ろ指をさすものです。  もちろん、嫉妬を隠さない人もいます。子供の頃もいましたね、そういう人。 「Aちゃんはあたしと一番仲がいいのに、昨日はBちゃんと一緒に帰った」 「あの子は体育の先生と仲がいい」  と、いちいち憤慨していた友達。そんな子供が大人になれば、友達がお金持ちと結婚したと聞いて、 「ホント、昔はあんなデブでブスだった人がうまく化けたもんよね。だまされるダンナもダンナだわ」  と憎まれ口をたたく。もちろん、自分の彼が少しでも他の女の子と話そうものなら、大騒ぎ。  テレ屋のせいか負けず嫌いのせいか自意識過剰のせいか、とにかく私は嫉妬の感情をできる限り、隠そうとします。�あの人は、可哀相な人�と思われるのは、嫌なのです。だから思いきり嫉妬している人を見ると、�なんであんな素直に感情を出すことができるのだろう?�と不思議に思うとともに、一種の爽やかさすら、感じます。嫉妬を隠さない人というのは、自分の気持ちのおもむくままにさんざ嫉妬心を暴れさせたあとは、むしろすっきりとした表情を見せることもある。  嫉妬というのは、するのもつらいものですが、私のようにそれを隠すのはさらに大変なことです。私の場合、学生時代につきあっていた彼が浮気した、ということがありました。本格的な嫉妬をするのは初めての体験だったので、食欲がなくなるほど苦しんだのですが、「恋人を取られてうちひしがれている女」と思われるのはどーうしても嫌でした。友達に、 「○○くん、どう? 最近」  などと聞かれても、 「え? 全然普通ー」  などと答えたりして。さらには、 「なんか私も別に好きな人ができちゃったしー、別れようかなーなんて思って」  と、「自分のほうが先に別の異性のほうを向いた」という印象を周囲にあたえたくてやっきにもなった。嫉妬疲れと嫉妬隠し疲れで、精神と肉体とが、ヘトヘトになったものでした。  自分の嫉妬心を隠さない人というのは、よく「嫉妬深い」と言われます。この言い方は、本当は間違いなのでしょう。他人よりもたくさん嫉妬をしているわけではないのです。単に、気持ちをそのまま出しているだけ。正確に言えば、「嫉妬正直」です。普通の人は隠すような嫉妬も隠さないから、 「あの人って、嫉妬深い」  と言われるだけ。そんな誹謗《ひぼう》をも恐れずに嫉妬し続けるその姿は、実に潔い。  しかし、その潔さには秘密があります。その手の嫉妬正直な人というのは、�自分が嫉妬している�とは夢にも思っていないのです。彼等は往々にして非常に正義感が強い。だから、�自分は嫉妬などしていない。悪に対して怒っているだけだ�と思っている。この考えの前提には、もちろん�自分は、善だ。その自分から何かを奪う者は、悪だ�という確固たる信念がある。  夫の浮気に妻が怒るのも、�私は、嫉妬なんかをしてるんじゃあないのよ。ただ、結婚という契約をしたのに、その契約相手である私に対して不義理なことをするっていうのは、社会通念上あってはならないことなの。だから、社会に代わって私は腹を立てているの!�という理屈から。  お金持ちと結婚して裕福な暮らしをしている友達に対してムカムカするのも、もちろん嫉妬だとは思っていません。�あの人は、自分ではなんの努力もしないで、ダンナのお金を使ってラクな思いをしているわ。ダンナだって、どうせあくどい商売をして儲《もう》けているに違いない。私は自分で稼いだお金でやっと暮らしているのに……。真面目に働く市民が苦しい思いをして、悪いことをしている人が安穏と暮らしていけるなんて、許せない!�という正義感から、なのです。  嫉妬深い人にかかると、世の中は悪人だらけになってしまいます。自分より良い思いをしている人は皆、悪人でなくてはならないのです。「美人は、性格が悪い」という定説も、「自分より良い思いをしている人=悪人」という公式に「美人」を当てはめたときに、誕生したものです。  また、勉強があまりできない子供を持った主婦は、自分の子供より勉強ができる子供を許しません。 「あんな子、シコシコ勉強ばっかりしちゃって全然子供らしい可愛らしさがないわねぇ。あんな子になるなら、勉強なんてできないほうがずっとましね」  と、責める。スポーツができない子供を持つ親なら、 「○○さんの坊っちゃん、サッカーがすごくうまいらしいんだけど、自分に従わない子を仲間外れにしたりするらしいわ。いくら運動がおできになっても、それじゃあねぇ……。それにお勉強のほうも、授業についてこられない科目もあるらしいわ」  と、スポーツ万能の少年を、責める。嫉妬を嫉妬と気づかず、「悪に対する怒り」に転化させているのです。  この手の嫉妬深さは、何も女性だけのものではありません。男性も、自分の嫉妬を社会的な悪にすり替えて怒っている姿を、よく見ます。たとえば、会社。出世の早い同僚に関して、 「××さんもねぇ……。今はウエが可愛がってくれてるから自分じゃ気づかないと思うけど、あのやり方じゃあそのうち部下もついてこなくなるだろう。ウエが変わったら一発だよ。なんかああいう人って、見ていて可哀相だよね」  なーんて言ってる人、よくいますね。単なる嫉妬なのに、「嫉妬している自分」に気づくのが嫌だから、「悪い奴をいましめる自分」に酔っている。「可哀相」などと、あわれみまでつけ加え、自分のほうが上にいるような錯覚をし、充実感を覚えています。  嫉妬を怒りに転化させるタイプの嫉妬深い人というのは、自分が怒ることによって、相手が反省すると思っています。つまり「自分は、意見してやっているのだ」と思っているから、「真人間なら少しは態度を改めるだろう」と信じているのです。しかし、本人以外の人は、その怒りが単なる怒りではなく嫉妬の裏返しであることには、とうに気づいている。そうすると、かえって逆効果になるものです。  なぜなら、嫉妬というのは、する人間にとってはつらいものですが、される人間にとっては快楽なのです。嫉妬される側は、嫉妬する側が発する怒りを素直に受けとめて自分の態度を変えようなどとは夢にも思いません。妻が嫉妬している、という話を聞いて、浮気相手の女性が、 「じゃあ、おつきあいをやめるわ」  と言うでしょうか。彼女は、相手がくやしがっていることを知ったらさらに張りきるはずです。  嫉妬される者にとって嫉妬は、自分の優位性を確認するための存在なのです。 「あいつは金持ちで、けしからん」 「あの子は美人だから、ムカつく」  などと言われたとしても、当人にしてみれば、 「いいなぁ、お金持ちで」 「いいなぁ、美人で」  と羨ましがられているのと同じこと。むしろ嫉妬されるということは、�この人ったら、私が美人であることでくやしい思いをしているんだわ。クックック�と、嗜虐《しぎやく》的な気持ち良さを得ることができるという意味では、 「いいなぁ、美人で」  という素直な称賛を受けるよりも快楽の度合いが深いといえましょう。  被嫉妬者は、残酷です。「嫉妬している者が最も嫌がるのは、自分が嫉妬していることを他人に知られることである」というセオリーを知りぬいているので、嫉妬深い人から怒られても、 「っていうか、あなたが怒ってるのって、単に私にヤキモチ焼いてるだけでしょ?」  などと、やり返す。 「自分は、嫉妬なんかしていない」と信じて怒っている側は、半狂乱になります。 「あんた、あたしに嫉妬してるんでしょ」  と言われることは、「あんたは私より下の人間なのよ」と言われているのと同じ。くやしさは倍増し、バールでめった打ちくらいしてやらないと、気はすみません。  一方、世の中には嫉妬をあまりしないという奇特な人もいるものです。本当にしないのか、しないフリをしているだけなのかは、わかりません。しかし今は「あまり嫉妬しない」というのが流行のようで、現代風のカップルを見ていると、イマカレがいる前なのに平気でモトカレの話をする女の子がいたり、イマカノの前で別の女の子と会って楽しかった話などをしたりするのです。「僕達、お互いの自由を尊重し合ってまーす」「私達、友達みたいに仲がいいんです。束縛しあうなんて、ダサくって」という感じ。私などは感覚的におばあさんなので、�今の若いもんは進歩的じゃのう……�と、感心するばかり。  でも、「すべての人は嫉妬する」が持論の私は、その手の現代風カップルも、実は嫉妬に苦しんでいるのではないかと思うのです。流行だからとピンヒールの靴をはいても涼しい顔をするように、�嫉妬なんかしちゃったら格好悪いし……�と思うから、胸の中では色々思っても、グッと黙っている。ナウなファッションのナウなカップルも、実はやせ我慢をしているのではないかと見る私です。  それに、まったく嫉妬のない生活というのは、あまり楽しくないのかもしれません。「嫉妬する」という苦痛があって、「嫉妬される」快楽もある。その両方がなかったら、切実に何かを欲する気持ちも、なくなってしまうことでしょう。十分に嫉妬深い私としては、そんな風に考えておそらく一生続くであろう嫉妬の嵐をやり過ごすしか、なさそうです。 [#改ページ]     やり手のわるくち  慇懃無礼  会社員になって初めて聞いた言葉はたくさんありますが、中でも「慇懃無礼《いんぎんぶれい》」は印象に残っています。最初は、 「あの人って慇懃無礼な所があるよね」  などと言うのを聞いても意味がよくわからず、�でも慇懃っていうくらいだから褒め言葉なのだろう。丁寧だけれど豪快さも感じさせる人って意味か?�などと考えていました。しかし、本当の意味はぜんぜん違った。「うわべは丁寧すぎるほどだが、実は相手を見下していること」……だったのです。  言われてみれば、そういう人は確かにいました。見た目はいかにも紳士風。話す言葉もとても柔らかく丁寧だけれども、よーく聞いていると、人を馬鹿にしたようなトゲがある。相手が取引先で自分のほうが立場が上、というような場合は、そのトゲがますます大きくなる。そうか、あの手の人が「慇懃無礼」だったのか!  単なる「無礼」な人も嫌ですが、慇懃無礼な人というのは上に「慇懃」がついている分、つまり自分をとりつくろおうと思っている分、無礼な人よりもっとタチが悪そうです。そしてふと自分のことを考えてみると、実は私も相当な慇懃無礼なのではないか、という気がしてきました。それまで適当な言葉を知らなかったので�私は、慇懃な人だ�という勘違いをしていたのですが、言われてみりゃあ確かに「慇懃無礼」。  その兆候は、ずいぶん昔からあったように思います。たとえば中学時代、反抗期を迎えた多くの友達は、学校の先生に対して乱暴な話し方をしていました。女子校だったので、特に親しみやすい男性の教師に対しては、あだ名で呼んだり、 「そんなの嫌だー」  とか、 「信じらんなーい」  などと、激しいタメグチ(わからない方が万一いる可能性を考えて、注。タメグチとは、仲間うち同士で話すときに使用する言葉遣いのこと。同い年のことを「タメ」と称することから、こう言う)をきいていた。教師に対して中学生の分際でタメグチをきくなど、非常に無礼な行動です。  しかし、先生に可愛がられるのは、その無礼な人達のほうだったのです。私は、別に儒教思想の強い家で育ったわけではないのですが、厳しい年功序列制が敷かれていた卓球部において「目上の人には絶対服従」という教育がたたきこまれていたうえ、生来のテレ屋。先生にタメグチをきくなど絶対にできない生徒でした。すると、礼儀正しい良い子である私は単なる「印象の薄い子」でしかないのにもかかわらず、タメグチをきく無礼派は「明るくて元気な子」として重く扱われたのです。  本当は�私も先生とタメグチをきいたりして、親しくなれたらいいな�と内心思っていた私でしたが、他方では�ケッ、しょせんは教師なんて明るい生徒のほうしか向かないものなんだ。一生教師と親しくなんてなるものか�という気持ちも持っていました。だから私は、教師に対しては�意地でもタメグチなんてきかねぇ�と、必要以上に丁寧な言葉を使い続けたのです。もちろん年賀状も暑中見舞いもちゃんと出しますが、中身は紋切型の挨拶ばかり。私の慇懃無礼歴は、このように思春期特有の複雑な気持ちから生まれたものと思われます。  私にとって慇懃無礼というのは、一種の手段でした。普通、世間では明るい人が好かれます。私はどちらかと言うと暗いので、人に好かれたくて明るくしようとしても、空回りに終わってしまうことが多い。そこで、�そうだ、明るさに対抗するには礼儀正しさだ!�と考えて、慇懃路線をとってきたフシがある。そうするとごくたまに、年配の方には、 「キチンとした人だ」  などと言われることもありましたが、大方の若者たちには「他人行儀」「よそよそしい」と受け取られました。ときには慇懃さすらわかってもらえず、「サカイさんって怒ってるんじゃないか」などと思われることもあった。  そう、今の若者社会は、タメグチ社会でもあるのです。出会ってから短期間でいかにタメグチをきけるようになるかが、世の中でスムーズに生活していくためのポイントとなる。�別にそんなに親しい人でもないんだし、タメグチをきかなくったって……�などと思っていると、熱い友情の輪からとり残されるばかりか、とんでもない誤解を受けてしまうことすら、あるのです。そんなタメグチ社会で、タメグチをきく技術を持たない者は、慇懃に、それも必要以上のヤケクソ慇懃になるしかありません。 「ずーっと慇懃でいる」ということは、ある意味で非常に楽です。誰にでもタメグチをきいたりするような人は、親しみを抱かれやすいのは確かですが、一部の人からは「なんだあいつは」などと思われたりする。だから相手を見て、無礼さを加減しなければなりません。しかし�誰に対しても丁寧に接しよう�と決めてしまえば、そのような苦労は無用。  ときに、安寧な慇懃社会に、タメグチが切りこんでくることもあります。私は、仕事で人と接する場合、たとえ相手が年下であれ絶対に敬語しか使えない性分です。これは、なんというか性格的にそうなっちゃっているので、いくら仲良くなった人でも、仕事が間にある限りは、どうしてもタメグチをきくことができない。  一緒に仕事をする人の中には非常にフレンドリーな人もいます。その手の人は、何回か会ううちに「それでさー」「……だよね」などと、タメグチを交えるようになるのです。それも、絶対的な年上ならまったく平気なのですが、相手が同年代とか年下の人だと、私は非常に困ってしまう。�仕事っつーのは、タメグチでするものではない�という意識と�でもここで敬語を使い続けて『慇懃無礼な奴』なんて思われるのも嫌だ�という意識が交錯し、どう口をきいていいのかわからなくなってしまいます。�やっぱりタメグチのほうがいいのかしら�と弱気になったり�あっ、でも私にはできない�と思いなおしたりで、 「うん、そう思う。……のです」  という変な言葉遣いになってしまうのでした。  そんな私も、相手がものすごく嫌いな人、という場合は、迷わずギンギンに敬語を使います。 「じゃあそういうことでヨロシクー」  などと言われても、 「承りました。どうぞよろしくお願いいたしますッ」  などと、堅い態度を崩さない。どうにかして�あのー、私達ってまだタメグチきくほど親しくはないと思うんですけど�という気持ちを伝えんとするための、慇懃無礼です。しかしその手の人は根っからフレンドリーなので、たいていの場合は私の気持ちはわかってもらえません。�きっと「妙に堅い人だな」とか思われてるんだろうな�と思いつつ、軽くイライラする私。  怒髪天《どはつてん》を衝《つ》く、という状態のときも、私はついつい敬語を多用してしまいます。怒るという機会が滅多にない温厚な性格の私ですが、たまに何かクレームをつけるときなど、ふと気がつくとバリバリの敬語になっている。 「あの、そちら様がお忙しいっていうのも存じ上げているんですけれど、お約束させていただいた日はやはりきちんと守っていただかないとこちらも都合がございまして……」  ってな感じに。�ナメられちゃいけない�という気持ちもありますが、�本来なら汚い言葉で罵《ののし》ってもいいところ、こんな丁寧な言葉で対応してやってるんだ。へらへらしてないで早くそこんとこに気づけこのウスノロ�という意識が底にはあり、とってもイヤミです。むしろ、 「ふざけんじゃねぇよいい加減にしろテメェこのバカヤロー!」  という言葉のほうが、言われるほうとしてはラクかもしれません。 「怒ったときには、より一層丁寧な口調になる」というのは、慇懃無礼者の一大特徴です。なぜ、「バカヤロー」の方向に行かず、丁寧な言葉で怒るのか。「バカヤロー」などと怒るという行為は、けっして褒められるものではありません。慇懃無礼者は、そこを突かれるのが、怖いのです。前後を忘れて怒っているときに、 「なに青筋たてて怒ってるワケ?」  などと言われたら、日頃冷静な慇懃無礼者は恥ずかしくって倒れてしまう。後ろめたい気持ちで怒っているからこそ、余計に�誰からも後ろ指をさされたくない�という気持ちが強まり、言葉だけどんどん丁寧になってしまう……。  しかしこんな慇懃無礼者は、実は寂しがり屋なところもあるのです。いつも�礼儀は守らなくては�と、どんな相手に対しても慇懃な態度を崩さないけれど、本当は自分も皆とタメグチでフランクに話してみたい。礼儀さえ正しければ世の中は渡っていける、と信じてはいるものの、 「……だよねー」 「……じゃん」  と話している人の輪の中で一人だけ、 「……ですよね」  などと言っている自分に、ふと�私って、心の底からの本音を話さない冷たい人間って思われてるのでは?�と、不安になってみたりする。  だから、自分が好意を寄せている人から初めてタメグチをきかれたりすると、�ああ、私も仲間に入れていただけたのかもしれない�と、ものすごく嬉しいのです。でも次の瞬間には我にかえってしまい、�ここでいきなり私までがタメグチききだしたら、『こいつ、ハシャいでやんの』などと思われてしまうのでは?�とついつい警戒。本当はタメグチで話したいのに、ふたたび、 「……ですよね」  と言ってしまう、慇懃無礼者の悲しい性よ。  見ていて面白いのは、慇懃無礼者同士の戦いです。私の場合、まだまだ甘い慇懃無礼者なので、相手が強力な慇懃無礼者であることがわかったら、自分も慇懃無礼な人間であることは、さっさと忘れます。そして、 「へーぇ、すごいですねぇ。私なんてまだまだで……」  と、どんなイヤミを言われようと感じないという「慇懃馬鹿」のフリをしてしまう。しかし本物の慇懃無礼者同士がぶつかったときは、大変です。 「○○さんのお嬢さんは、現代的なお仕事をしてらっしゃるから、結婚なんてなさらなくたって全然お平気ですわよねぇ、憧れるわぁ(……よくまぁ売れない物書きなんてヤクザな仕事を娘にやらせといて平気でいられるわねぇ、の意)」 「うちはもう諦めてますから……。でも××さんのお嬢さんが羨ましいわぁ、一流商社にお勤めで堅実にやってらっしゃって(……地味でブスな娘は堅実に生きるしかないですものねぇ。でも下手に一流商社なんか入るとまわりはきれいな娘ばっかりで埋もれちゃってかえって大変なんじゃないですか? の意)」  と、○○家と××家、未婚の娘を抱える両家の奥さまが話していたりすると、端で聞いている者のほうがアタフタしてしまうくらいの緊張感。�やっぱり慇懃無礼も、ここまでくれば立派だよな……�と思ってしまう、中途半端な慇懃無礼者の私でした。 [#改ページ]  テレ屋  スポーツ選手、特にアマチュア選手のインタビューを見ていると、イライラすることがあります。あまりにも話すのが、下手だからです。それは芸能人が、 「あの人はしゃべるのが下手だから」  などと言われるレベルとはまったく違う、しゃべり下手。芸能界とか講演をする人の世界においては、面白く、つまり人をひきつけるように話せるかどうかが上手・下手を分ける基準となりますが、スポーツ選手の場合、意味がわかるように話すことができるかどうかが、その基準なのです。�この人、普段はまともに日本語話してるんだろうか?�と心配してしまうくらいの、ヤバさ。  話し方の下手さには、二パターンあります。無言派と、終われない派です。無言派は、その名のとおり、何か聞かれてもほとんどまともに話すことができない人。相撲の方に多いパターンですが、他にも柔道などの、指導や練習が厳しいであろうと思われる日本古来の根性系スポーツの人にもよく見られるようです。 「今日の勝利の原因は?」  と聞かれても、しばしシーン。困ったアナウンサーが、 「前半から、動きが速かったですね?」  などと、相手が言うべきことを言ってやっても、 「はい……」  くらい。 「自分の力を存分に出すことができたんじゃないですか?」 「はい……」 「では、決勝も頑張って下さい!」 「はい……」  と、結局最後まで「はい」しか言わなかったりする。  相撲の人も、無口です。その事実に対し、関係者は、 「相撲取りは、そんなにベラベラしゃべるもんじゃない」  と言いますが、それは半分、言い訳だと思う。確かに息は切れてしゃべりにくいでしょうが、中には�こいつ、本当に馬鹿なんじゃねぇか?�と思う人って、いるもんです。「しゃべらない」というのはスポーツ選手だから許される反応であって、会社員でこんな人がいたら上司や部下や取引相手はおおいに迷惑するでしょう。  終われない派は、無言派よりもサービス精神は旺盛です。色々なことを、しゃべってくれるのです。しかし、緊張のせいか興奮のせいか、センテンスがすべてつながってしまう。なかなか終わらない。言いたいことはなんとなくわかるが、文法的に目茶苦茶で、同じことを何回も言っていたりする。 「コーチからも油断しちゃいけないって言われてて、自分でもいつもの自分の力を出そうと思って、でも怪我のあとだから試合ができるだけで嬉しいっていうか、そういうことに嬉しさを感じられるのが嬉しいっていうか、まあ相手の選手も強かったんですけど、試合をできたことだけですっごく嬉しいっていうか、今までやってきてよかったっていうのが正直な気持ちっていうか、ほんとに自分の力が出たって感じで、すっごくみんなも応援してくれて、すっごくよかったっていうか、すっごく嬉しくって……」  ってなところで、興奮もあいまって、何を話しているのだか自分でもわからなくなって途切れてしまう。インタビュー担当のアナウンサーが必死に、 「おっ、おめでとうございました!」  と言って話を区切ると、もう放送の残り時間は少なく、中継席から、 「ありがとうございました。○○選手でした」  と、無理矢理終わらされてしまうのでした。  別に、板東英二さんのように話してほしいわけではないのです。ウケをとらないでもいい。普通に、試合の感想を述べてほしい。しかし、ほとんどのスポーツ選手のインタビューにおいてこの望みはかなえられず、それらインタビューは単なる形式でしかなくなっています。  私達は、そういった「話せないスポーツ選手」をテレビで見て、イラつくと同時にどこかで安心しています。この現象は、スポーツ選手特有のものではありません。スポーツばかりしていて人前で話す機会がなかった、ということも考えられますが、彼等の「うまく話せない」という悩みは日本人全体の悩みであり、もちろんスポーツ選手のインタビューを見ながら、�こいつ、馬鹿じゃねぇの�と思っている私の悩みでもあります。  私達は、恥ずかしがり屋なのです。それが国民性とも言われています。まったくテレ屋ではなく言いたいことを言うことができる人は、どちらかというと「珍しい人」の部類に入るのではないでしょうか。だから、よくニュース番組で、 「では、この件について街の人のご意見を聞いてみました」  ってやつがありますが、私はあの「ご意見」をあまり信用していません。街中でいきなりマイクをつきつけられ、それに喜んで応じるような人は、日本人の中ではけっしてノーマルとは言えない。となると、彼等の口から出てくる発言も、けっして日本人の意見を代表するようなノーマルなものではない、という感じがするので。  私自身も、バッチリ日本人らしい真性のテレ屋です。小学生以来の赤面症も、まだ治っていません。だから、必死になって試合をやったあと、すぐにマイクを向けられて茫然としてしまうスポーツ選手の気持ちも、わからないではありません。  私が共感できるのは、どちらかと言うと無言派の人達です。彼等は、言葉で表現するということにあまり価値を見いだしていません。おそらく、 「今日の試合はどうでしたか?」  と問われたって、別に言いたいことはないのだと思う。だからインタビュアーには、なるべく答えやすい質問をしてほしいものです。  テレ屋の人達に対して、「具体的ではない質問」及び「聞きたいことがわからない質問」をするのは禁物です。無言派テレ屋の私も、雑誌の取材などでこの二種類の質問に遭遇すると、とても困ります。 「あまりに具体的ではない質問」とは、 「試合終わってみて、いかがですか?」  とか、そういうもの。私も、 「ところで今の女性にとって恋愛とは?」  といった壮大な質問には、「そんなこと、難しくってわかりましぇーん」と言いたくなる。  しゃべり慣れている人とか、作家とか評論家相手であれば、「日本人にとって戦争とは?」といった地引き網的質問をしても喜ばれると思うのですが、私達のようなテレ屋さんには、とりあえず、 「今朝は何を食べましたか?」  くらいの、一本釣り的なやさしい質問をしてもらわないと、とても答えられない。 「聞きたいことがわからない質問」とは、 「今日はサーブがとてもよかったですね?」  みたいなやつ。 「はい」  としか言いようがない。恐らくインタビュアーは、 「はい。でもあのあと少し安心しちゃってミスが続いてしまったので……」  というように、被質問者が勝手に話を続けてくれることを期待しているのでしょうが、テレ屋の私達はそうはいかない。私も、 「今は女性の晩婚化が進んでますよね?」  などと聞かれても、 「そうみたいですね」  としか答えられないのです。やはり、幼児に何か聞くときのように、 「女性の晩婚化が進んでますが、それはどうしてだと思いますか?」  くらいは、噛み砕いていただきたい。  こう考えてみると、「テレ屋」と「バカ」は紙一重のような気もします。私も、会議の席などで、そのとき議題にのぼっている話題がチンプンカンプンで、まったく理解できないから意見を言うこともできない、という場合が多々あります。しかしそんなときも、「私はテレ屋だから発言しないのであって、バカだから発言しないのではない」というフリをするのです。そうして黙っているうちに、脳細胞はどんどん退化していく。「バカに見える」だけでなく「バカになる」という効果をも、テレは持っています。 「終われない派」のテレ屋は、「無言派」のテレ屋と比べると、口数的には多いのが特徴です。おそらくこの人達は、真性のテレ屋ではありません。訓練次第で、なめらかに話すこともできるはずです。無言派のテレ屋にとって、最初の一音を出すために声帯を震わせること自体、非常な苦痛を伴うことなのに、終われない派の人達はそれを感じていない。この差は大きいものです。  たとえばとてもシャベリのうまいタレントさんが、トークショーなどで、 「実は僕、すごく恥ずかしがり屋なんですよ」  と告白することがあります。すると司会者は、 「えっ? とてもそんな風には見えませんけどねー」  などと、言う。するとゲストは、得意そうに「私はテレ屋だから、沈黙が続くのが我慢できないのだ。だから、つい話してしまう。私は、テレ隠しのためにしゃべるのだ。ラクしてべらべら話しているわけではない」という理論を展開させるのです。  その手の人は市井《しせい》にも存在します。よくしゃべる外向的なタイプ、と思われる知人に対し、 「いいよねー、いつも明るくて」  などと言うと、なぜかムッとされてしまう。その人は私に対し、ムキになって「私は単純な明るい人間ではない。本当は恥ずかしいのに、無理して明るくしているのだ」ということを訴えるのです。  私のようなダンマリ系テレ屋は、そのような意見を聞くと、自分が責められているような気がして、少しつらいものです。つまり、「お前らみたいなテレ屋がしゃべらないでいるから座が白けちまうんだよッ。俺なんか同じテレ屋だっつーのにどれだけ苦労してしゃべってると思ってるんだまったく。『テレ屋』に胡坐《あぐら》かいてないでちょっとは自分で話す努力でもしやがれ」  と、言外にほのめかされているような気がしてしまうのです。  しかし無言派テレ屋としても、反発はしておきたい。話そうと思えば話せるテレ屋など、本当のテレ屋ではない。私もしばしば、 「あなたね、それだけ話せればテレ屋とは言わないのよ」  と言ってやりたくなるのですが、テレ屋だからそれも言えない。誰だって少しくらい恥ずかしいときがあるのは当たり前で、テレの感情があるから即テレ屋、というわけではないのです。「僕もテレ屋なんですよ」などと、嬉しそうに自慢しないでほしい。  ……と、偉そうなことを言っていられるのも文章の上だから。普段の私は、いつもニヤニヤしている気のいい日本人です。確かに、私のような過度なテレ屋は他人のイラつきを買うようです。まだ、子供とか若いうちなら、「まぁ、恥ずかしがり屋さんなのね。かわいらしい」などという誤解をする人を狙って、テレ屋ぶりを売りにすることもできたのですが、ある程度年齢を重ねれば、それも無理。こちらが真剣に恥ずかしがっていても、「こいつバカじゃねぇの」と思われる。私自身、自分もろくに話せない恥ずかしがりのくせに、他人がおどおどしているのを見ると�……ったく、いい年してもう少しシャキッと話せよなぁ�と思ってしまうものです。テレ屋の敵はテレ屋。他人が苦しむ「テレ」を、自分のものとして考えるのは難しいことなのです。  私は、生まれてから今まで、ほとんどの時間をテレながら生きてきたので、「テレない暮らし」というのがどういうものか、よくわかりません。前は、�私がこんなにテレ屋でなければ、人生変わったろうに……�と、テレ屋でない性格に憧れたこともありました。しかし、ここまでくると�別に一生テレててもいいや�と開きなおってきます。  世間では、テレ屋=純粋、というイメージが残っている場合も、あるようです。しかしそれは、違う。テレ屋でない人は、口に出すことがそのまま考えていることだったりするものです。しかしテレ屋の場合は、考えていることの中から口に出す言葉は、ごくごくわずか。腹の中では、何を考えているか、わかったものではありません。  さぁ、全国のシャイ仲間の皆さん。「テレ屋」から「何を考えてるんだかわからない人」にならないよう、気をつけたいものですね。 [#改ページ]  ぼーっとしている  ここ数年、とみに「ぼーっとしている」という言葉を目にしたり耳にしたりする機会が多くなりました。特に若い人達が、自分のことを表現するのに、この言葉を多用するようになっているのです。  私自身も、そうです。私は、どちらかというと無口でおとなしいタイプなのですが、人前であまりしゃべらずにいると、 「まぁ、おとなしいのね」  と言われる場合と、 「なんだか、いつもぼーっとしているのね」  と言われる場合があった。正解は、もちろん後者です。別に誰かとしゃべるネタも思い浮かばないし、無理に考える気力もないので、黙ってぼーっとしていただけ。一人でいるときも、よっぽど強い意志が働かない限り、ぼーっとしています。  私がギャルだった頃は、周囲の友達などを見ていると、いつも笑ったりしゃべったりと、あまりぼーっとしている人がいないような気がしました。まだ、「ぼーっとしている」ことには希少価値があったと思うのです。私も、イザというときは、 「私、ぼーっとしてるからさ……」  という言葉でウケをとったり、同情を買ったりすることができたものです。どう見てもぼーっとしていないギャル達は、 「えー、あたしも一人でいるときとか、けっこうぼーっとしてるよ」  と言って私を慰めようとしましたが、�私の「ぼーっ」は、ちょっとやそっとの「ぼーっ」とは質が違う�という自負が、私にはあった。  しかし、それから数年間。私がぼーっとしている間に、私の他にもぼーっとしている人がどんどん増えてしまったようです。テレビタレントだって、「ぼーっとしている」ことが売り物になって、バラエティやクイズでその「ぼーっ」ぶりが受けて活躍している人がいます。今や、私が少しくらいぼーっとしていたって、ちっとも目立たない時代になってしまいました。  昔は、こんなではなかったはずです。と言うのも、昔は「ぼーっとしている」ということは、悪いことだった。「明るい」とか「元気」であることが最高。まだ「暗い」というほうが、何かを生み出す底知れぬパワーを持っている分、良しとされた。「ぼーっとしている」なんて、なんら生産性を持たない、一番どうしようもない性質としてとらえられていたのではないでしょうか。  しかし今や、「ぼーっとしている」には市民権があたえられました。それどころか、むしろ自慢気に、 「アタシってぼーっとしちゃってるからー」  と口にする人も、少なくありません。一体なぜ、この「ぼーっとしてる」ブームがやってきたのでしょうか。私は三つほど、原因があるのではないかと思います。  一つは、「テレ」の問題です。バブルの時代のように、明るい、元気、派手……という「陽」の位置にいるのは、もはや恥ずかしい。けれどずっと昔、皆がもっと真面目だった頃のように、暗い、陰湿、地味、真面目……という「陰」の位置にいるのも、やっぱり恥ずかしい。となると、どの位置にも属さない、つまり「何も考えない」というニュートラルな位置が、一番居心地が良い。  もう一つは、教育の問題です。今の世の中には、ぼーっとしている子が、学校教育の期間中、ちゃんと保護されて成長していくことができる、寛大なムードが蔓延《まんえん》しています。今活躍している中年以上の文化人、たとえば作家や漫画家の方々が綴る�子供の頃の思い出エッセイ�みたいなやつを読んでみると、「僕が子供の頃は、授業中もぼーっと空想ばかりしていて、いつも先生に叱られたし、変わり者扱いされた」というような記述がよく出てくるものです。きっと昔は、子供はいつも一生懸命で真摯《しんし》で無邪気でなければならない、という思想が徹底していたのでしょう。  しかし、今では「個性を生かす教育」ってやつがブームなうえに、滅多なことで子供を怒ってはあとが面倒くさい。先生も、ぼーっとしてるくらいでは怒らなくなったのです。むしろ�この子は、きっと他の子にはないすばらしい個性を内面に秘めているのかもしれないわ�などと、過剰な期待をかけたりもするのです。周囲からの手厚い保護を受け、ぼーっとしている子供が、そのままぼーっとしている大人に成長することが可能な良い時代が、現在です。  もう一つ、「ぼーっとしている」人を増加させた最大の要因があります。それは、異性に対するコビの一つの形式としての、「ぼーっ」の発達です。女性が男性に、そして男性が女性に対して媚びを売る、というのは昔からある行為ですが、その媚び方も、昔と今では違います。今では、女性が女性らしくするとか、男性が男性らしくする、というだけでは、異性に対するアピールにはなりにくくなってきたのです。  もちろん、伝統にのっとって「女性らしさ」「男性らしさ」を好む人もいます。しかし、あまりに単純すぎる嗜好ということで、その手の人は馬鹿にされる傾向があるのです。たとえば、いわゆる「お嫁さんにしたいタイプ」のタレント。古くは竹下景子さん、近年では和久井映見さんとか鶴田真由さんとか。その手の女性のことを、堂々と「好きだ」と口に出す男性は大変に多いものですが、そんな男性は、往々にして女性から非難を受けがち。 「あつかいやすい女が好きっていうような男なんて、つまんない奴よねー」 「自分が馬鹿だからさ、女はもっと馬鹿がいいって言うタイプ」 「よく恥ずかしげもなくそういうことを口に出せると思わない?」  などと、陰口をたたかれているのです。もちろん、あまりにモテる「お嫁さんにしたいタイプ」に対する嫉妬も交じっています。しかし、単なるわかりやすい女らしさの中から、「知性」とか「個性」といった、今の若い女性が好むキーワードは、発見しづらい。男性から見たときに「お嫁さんにしたい」タイプの女性は、女性から見たときは「お嫁さんになるだけしか能がない」ということで、面白みがなく見え、嫌われがちな存在なのです。  男らしくガッチリしたタイプもまた、馬鹿にされやすいものです。私は、実はその手のタイプって嫌いではないのですが、女性の前でそんなことを言うと、 「えっ、変わってるね」 「なんかそういう人っていかにも頭悪そうだし、筋肉ばっかりで気持ち悪いじゃん」  などと言われてしまう。特に知性派の女性は、少年のような尻とか、しなやかな指を持った男性のほうが好みのようなのです。  となると、需要にあわせて、単純な「男らしさ」「女らしさ」以外の媚び方をする人が、出てきます。単純さが嫌われるのだから、その媚び方はとにかくわかりにくい。ある人は「私ってわがまま」という方法で媚びるし、ある人は「媚びない」という方法で媚びる。そのうちの一つとして、「ぼーっとしている」が、あるのです。  なぜ、「ぼーっとしている」ことが異性に対するアピールとなるのか。二つの理由が、考えられます。一つは、「自分は、ぼーっとしている」と言うことによって、自分のヌケサク加減を相手に知らせることができるから。これは主に、女性側が考えることです。「女性の時代になった」とか「男女平等」などと言ってみたところで、やっぱり「最終的に、女は男に従ってほしい」と思っている男性と、「最終的に、男に従いたい」と思っている女性は、圧倒的な数です。となるとどうしても、女性側の「私は、劣っている存在です」という訴えかけは多くなってくる。単純な「男らしさ」「女らしさ」が嫌われる事実とは矛盾するようですが、「都合のいいときだけは男に上位に立ってもらいたい」というのが、多くの女性の本音です。  自分が劣っていることを男性に知らしめたいからといっても、ここで「ブス」とか「ダサい」といったことは、有効なアピールとはなりません。男性相手なのですから、外見よりも内面が劣っていなくては意味がない。かといって「盗癖がある」とか「なまけもの」といった、実害が及びそうな内面の欠陥もいただけないわけで、そうなると「ぼーっとしている」は非常に、有効なのです。 「あたし、なんかついぼーっとしちゃって。この前もコップ割ってケガしちゃったのぅ」  などと小首をかしげて言う女子の姿は、カワイイもの好きの男子にはたまらない存在でしょう。また、 「あたし、いつもぼーっとしてて、何を考えてるんだかわからない奴っていつも言われるのよね」  と言う女性の言葉を深読みして、�こいつって未知数の魅力を持ってるよな�と誤解し、探求心を燃やしてしまう男子の姿も、よく見かけることができます。  しかし最近、「ぼーっとしている」は、女子だけのものではなくなってきました。 「僕、ぼーっとしているのが好きだ」  と、自慢そうに言う男性も、数多く見られるようになったのです。特にスポーツをするわけでもなく、難しい本を読むわけでもなく、本当にぼーっとしている。おしゃれも好きだけれど、あまりにこだわりすぎるのも格好悪いと思っている。  彼等は、本当にぼーっとするのが好きなのです。しかし、心のどこかではウケも狙っている。 「こんなにぼーっとしていても、世の中にはちゃんとついていっている僕」「あくせくと服を探したり友達と遊んでる奴なんて、ダサくって」というムードを、 「僕、ぼーっとしてるのが好きだ」  と言うことによって、演出しているのです。  それを見た女子は、�あの子って、きっと頭がよくて感性も鋭いから、あんなに余裕を持ってぼーっとしていられるのだわ。モテようと思って格好つけるような男とは全然違うのね。なんか、格好いい!�と思ってしまいがち。まんまと作戦にひっかかるのでした。  しかし、演出としての「ぼーっ」は、ボロが出がちです。ぼーっとしていることに慣れすぎてしまうと、元に戻るのはなかなか難しいものです。 「私、ぼーっとしてる男の子って、けっこう好きなんですぅ」  と言うギャルも増えてきましたが、彼女達だって四六時中ぼーっとしているような男は、嫌なのです。ぼーっとしてる、でもやろうと思えばスポーツも万能……とか、ぼーっとしてる、でも実は経営学修士《MBA》持ってる……とか、そういう「ぼーっ」が、彼女達のお好み。ぼーっとしている男の子とつきあってみて、彼は本当にただぼーっとしているだけの銅像のような人間だったことがわかろうものなら、 「つまんない奴! いつもぼーっとしてんじゃないわよッ」  と、手の平を返したようにぼーっとした男を捨て去るのでした。  最近は、中年男性でもぼーっとしているフリをする人がいます。以前は「オバタリアン」などと言われて恐れられた中年女性も、この頃はぼーっとしている人が多いような気がする。このままでいくと、日本中がぼーっとしている人々で覆われてしまいそうです。しかしまぁ、ぼーっとしている人の増加というのは、日本が平和であることの裏返しです。平和ボケとも言うのでしょうが、喜ぶべきことなのかどうか。 [#改ページ]  短気  怒られるのには慣れているのですが、自分ではあまり激怒ということをしたことがありません。穏やかな性格とも言えますが、主体的でないと言うこともできます。自分の中に、自分なりの判断基準がたくさんあればあるほど、そしてその判断基準を厳守すればするほど、人は怒りっぽくなります。対して怒らない人というのは、「本当は怒っているのだが、グッと我慢している人」と「自分の判断基準がないので、何が起ころうとどうでもいいと思っている人」の二種類存在し、どうやら私は後者らしいのです。  とはいえ、たまには怒ります。以前、一緒に仕事をした編集者が、取材の時間には何時間も遅れ、こちらが書いた原稿は断りなく直し、その他もろもろ、とにかく気に障ることしかしない、ということがありました。そのときは、さすがに私も怒った。電話口で、声を震わせて抗議したものです。  あまり怒らない生活をしていると、怒者《どしや》の気持ちというのはなかなかわかりません。しかしそのときばかりは、怒りの心理が理解できたような気がした。一つは、「怒ると仲間が欲しくなる」というものです。  怒っている人間は、実は不安なのです。「怒る人」と「怒られる人」というのは紙一重。最初は、怒っている人が優勢にコトを運んでいても、怒られている人が、 「だって、私がそういうことをしたのは、あなたがああいうことをしたのがそもそもの原因でしょ? 責任はあなたにあるんじゃないの?」  なんて言ってしまうと、立場が大逆転する場合があります。  だから、怒者は仲間を求めるのです。怒り怒られるというのは平たく言えばケンカですから、最終的には勝つ必要がある。そしてケンカや戦争の基本と言えば、味方作り。まずは周囲を自分の側に引き入れて、「悪いのはあっち。私は怒って当然」という地盤を固めておくことが不可欠です。  私も、激怒したときは仲間が欲しくなります。件《くだん》の話のときも、 「元の原稿にしていただけないのなら、ボツになっても結構ですッ!」  などと強気に出たあと、急に不安になりました。だって、私は「別に直さないでいいような部分に、一言の断りもなく手を入れてすごく変な文章にした」と怒っているのに、相手は�こんなつまらない原稿を書いておいて文句タレてんじゃねぇよ�と思っているかもしれない。  私は、不安のあまり仲の良い編集者に、 「……というわけなんだけど、これって絶対に向こうが悪いですよねッ?」  と確認しました。そして、 「それは酒井さんが怒るのも無理ないわぁ。ひどい人ねっ!」  と言ってもらうことによって、ホッとしたのです。  怒るときは、仲間が多ければ多いほど、自分は「可哀相な被害者」になりきることができます。単独で怒っていると、いつのまにか「勝手なことを言って一人で怒ってる変な人」という存在になっていることもあるし、下手をすると「怒られてる相手のほうが可哀相」とも思われかねません。  怒り仲間を作るとき、人は演技者になります。それはまるで、アメリカの裁判における検事の、陪審員に対するアピールのようです。いかに自分が被害を受けているか。いかに自分は正当な理由で怒っているか。きちんとプレゼンテーションしないと、有利な判断はなされません。もちろん、自分を「可哀相な被害者」に仕立てあげるためには、多少のオーバーな表現は大目に見られます。私なども、編集者との一件において仲間作りをするときは、本当は向こうが遅れたのは二時間半なのに、少しでも多く同情してもらおうと思って、 「その人ったら三時間も遅れてきて……」  などと言っているし。悪評が伝わるときというのは、このようにだんだんと話がオーバーになっていくものなのです。サッカーの試合で、ちょっと相手がぶつかっただけなのに地面をゴロゴロと転がり、断末魔の表情を浮かべて審判の気をひこうとする選手と似た心理といえましょう。  良い怒り仲間は、怒者を励まし勇気づけてくれます。ときには、 「あの人ったら、ひどいんだって」  と、さらに無関係な人に対しても喧伝し、独自の仲間作りをもしてくれる。怒りの場においては、まさに欠かせない存在なのです。  自分で怒ってみてもう一つ気づいたのは、「怒りの継続時間」の個人差です。短気な人の場合、普段の生活では「さっぱりしている」と言われるものです。 「あの人は、けっこう怒りっぽいけど、それを引きずらないのがいいわよね」  というのが、短気な人に対する大方の評価。やはり、怒るときには相当のパワーが必要です。量的にたくさん怒る短気の人は、一つの怒りを継続させる余裕がないのでしょう。Aの問題でパッと怒ったかと思うと、次の瞬間はBの問題に対して怒っている。  対して、私のように一見穏やかに見える人は、実はネチっこく一つのことを怒り続けているものです。短気な人と私とが、Aという同じ原因で怒りはじめたとします。短気な人が、まるで百メートル走のようにAに対する怒りを素早くそして激しく終えたと思うと、次の瞬間にはB、C、D……と、次々に別のネタで怒っている。しかし私のような人間はまだそのとき、「コノウラミハラサデオクベキカ」などと、Aのネタの怒りが心の中でくすぶっているのです。短気な人から見たら、 「あれっ、まだそんなことで怒ってたの? もうどうだっていいじゃん、Aなんて」  という感じでしょう。「穏やか」という仮面をかぶってはいるけれど、実は怒りのマラソン選手、なのです。一般的には、「執念深い」と言うわけですが。そう考えてみると、短気な人もそうでない人も、人生の中における「総怒り時間」というのは、あまり変わらないのかもしれません。  一口に怒りといっても色々と種類がありましょうが、世のため人のために怒るという「義憤」ばかりしている短気な人というのは、あまりいないと思います。いるとしたら、怒りを職業としている評論家とか、物書きといった人でしょう。やはり一般的に言う短気な人というのは、自分にかかわりのある世界の中でのみ、怒っています。  大学時代、体育会のクラブをやっているときもいましたね。合宿や試合に来て、やれ「返事が小さい」とか「掃除がなってない」とか、単に「ヘタ」とか、何から何まで怒りまくるOBが。 「本当は、俺だって怒りたくなんかないんだ。怒るほうだってつらいんだぞ!」  などと言いながらも、そんな金八先生のような格好いい言葉を吐く自分にウットリと陶酔し、涙すら浮かべながら往復ビンタしている。怒りながら殴るとか、泣きながら怒るといった行為には、一度やってしまうとやめられない魅力があるらしく、怒りグセがついてしまったOBは、しばらくは怒りの世界で恍惚《こうこつ》としていたものです。  自分にかかわりのある世界の中で怒る短気な人というのは、非常に不安定な立場にいるものです。「あなたが私に怒られるようなことをした。私は、被害者だ」と思っていても、怒られているほうにしてみたら、その人は「理不尽な怒り」という危害をもたらす加害者でしかない。  私があまり怒らない理由は、ここにもあるのかもしれません。自分の判断基準は、正しいとは限らない。とすれば、怒ることによって、加害者になってしまうかもしれない。それだけは、避けたい。……というように。私は、自分の運転に自信が持てなくて、人を轢《ひ》くのが嫌だから車には乗らないのですが、それと同じようなものでしょうか。  普通、短気な人はそんなことを考えもしません。勇気と、信念があるのです。運転をしていて一人や二人跳ねとばそうが、�こっちはちゃんとルールを守ってるんだから、ぼけぼけ歩いてるそっちが悪い�と、ますますスピードアップする、という感じ。  さて、そのように暴走気味の怒者を目の前にしたとき、私達はどのように対応したらいいのでしょうか。一番いけないのは、「あやす」とか「なだめる」といった行為です。短気な人は、その怒りがピークに向かうとき、一瞬自分で自分をコントロールできなくなります。たとえば眠くて泣いている赤ちゃん。眠い赤ちゃんというのは、一種の怒者です。大人の私達から見ると、�眠いんならさっさと寝りゃいいのに、なんで泣くんだろう?�と思えるあの行為ですが、きっと自分で自分をコントロールできなくて、腹立たしくて泣いているのでしょう。  そんな赤ちゃんは、ただ泣かせるしかない。同じように怒者も、ただ怒らせるしかないのです。下手に「よしよし」なんて言っても、怒者は聞かないし、かえって�馬鹿にされた�と思ってさらに激しく怒ることもある。  怒りのピークを迎えたあとは、どうでしょう。私のようにマラソン型の怒りをする人は必ずしもそうではありませんが、普通の短気な人は、いったん極限まで怒ってしまうと、自分をもてあますことになります。�こんなに怒っちゃって、どうしよう……。でも今さらあとには引けないしなぁ�というように。ここで、 「まぁまぁ、そんなに怒らないで」  などという言葉をタイミング悪く言ってしまうと、それこそ取り返しのつかないことになります。自分の怒り具合をそっと恥じているところだったのに「怒るな」なんて言われてしまえば、 「俺は怒ってなんかいないッ!」  と、再び怒りのピークに戻ってしまうのは自明。  怒者への対抗手段としては、逆怒りというのもあります。怒っている人に、「ウルセエ」と怒り返す。自分が怒られているにしても、なんとか理屈をつけて怒ってみる。男女間では、こういうことがよくあります。女が、浮気をしたとする。男が、怒る。しかし女は、 「あなただって半年前、違う女とデートしたじゃないの!」  と、論点を移して逆怒り。男、問題をすり替えられたような気を持ちつつも黙ってしまう。  私も、逆怒りが得意です。しかし逆怒りばかりしていると、次第に反省の気持ちを持つことを忘れてしまうもの。怒られたとき、�私はどこが悪かったのだろうか�と考える前に、�どうにかして私が悪くなかったことにしよう。そしてあわよくば相手に謝らせよう�と思って屁理屈をこねるので、話がものすごくこじれる。  やはり、怒る人に対しては、下手に反抗しないほうがいいのです。怒り上戸な人は、ストレス発散の一環として、怒っているもの。それを途中で中断されたら、ますます暴れたくなるのは当然です。それに、日本人はとかく自分の意見をはっきり言わず、何をされても怒らずにヘラヘラしている人が多いと聞きます。そんな中、短気な人というのはむしろ貴重な存在なのです。よく怒られる私としては、下手に逆怒りなどせず、見習うくらいの気持ちで短気な人には相対したい、と最近は考えております。 [#改ページ]  神経質  子供の頃、学校のキャンプなどに行くと夜寝るときに緊張しました。消灯時間を過ぎても、皆でおしゃべりをする。でも夜も更けてくればさすがに疲れて、なんとなくみんな黙る。その瞬間、すべての子供が�このまま眠っていいものか、それともまた話したほうがいいものか……�ということで悩むのです。  あの頃は、なんとなく「早く寝る奴はダサい」という共通した感覚がありました。親もいないワクワクするようなキャンプの夜、何が楽しくて早く寝るのか。第一、皆がヒソヒソとしゃべっているとき、一人だけ「すー、すー」という寝息を響かせているなんて、格好悪いことこのうえない。  そんなとき、 「私、いっつも寝つきが悪いのよね」  と言う人は、子供ながら格好良く見えました。普段と枕が変わったというのに、寝床に入った途端コテン、と寝てしまう友達は単純で鈍い神経の持ち主と見られ、遅く寝れば寝るほど繊細で大人っぽい、という印象があったのです。  私はまったく神経が細やかではなかったのですが、先に寝てしまうのが恐かった。私は身長が低いほうで、ただでさえ「ガキ」と見られることに異常なほどの嫌悪感を抱いていました。さらに皆より先に寝てしまって、 「ほーんと、サカイってカワイイわよね」  なんてあとから言われようものなら、屈辱以外の何物でもない。一生懸命に最後まで起きていようと努力したものです。  また、「自家中毒」にも憧れました。やはり小学校の頃、よくそれで学校を休む友達がいたのです。私の学校には皆勤賞のようなものはなく、どちらかというと「病気を押して無理して出席しても、ぜんぜん偉くない。家できちんと直すほうが大切」というムード。だから学校を休む人はけっこういたのですが、「風邪」とか「風疹」とは違う、何か特別で格好いい響きが「自家中毒」にはありました。どうやらカゼと違って、北風が吹く中にずっと立っていてもなることのできない病気らしいということを知るとますます憧れは募り、「自家中毒になって、おうちで家族に大切にされているお友達」の姿を想像し、私はウットリしていたのです。  ごく若い頃は皆、「神経質」に憧れます。太宰治の小説なんか読んでしまうと、神経質はなんとなく格好良く思えるのです。ちょっとのことで考えこんだり、すぐ死にたくなったり。マンガにおいても、主人公は常にあまり神経質でない努力型の人でしたが、主人公のライバルとなる人は必ず繊細な神経質タイプでした。「巨人の星」における花形満、「あしたのジョー」の力石徹、「エースをねらえ!」のお蝶夫人……。神経質っぽい人は、ちょっと意地悪そうな感じもするので万人に好かれるタイプではないにしても、一部の人には熱狂的に受け入れられたものです。そして必ず、細面《ほそおもて》の顔をしていた。  神経質な人は、頭が良さそうな感じもしました。自分より深く物事を考えていて、先のこともお見とおし。同じ体験をしても、神経質な人のとらえ方はどこか違う、というように。  しかし歳をとるに従って、だんだんと神経質に憧れる気持ちは薄れてきます。本物の神経質というのは、そんなに格好良いものではなく、それどころか身近にいるとイラつくこともある、というのがわかってくるのです。過度に清潔を好んだり、ささいな事にいちいち傷ついたり泣いたりしている神経質な人を見ていると、とても大変そうだし、それがたび重なると�……ったく女々しい奴だな�と、自分も相手も女なのに思ってしまうのです。  たとえば、田舎に行ったときに、たまたま入ったトイレが汲み取り式だったとしましょう。そのとき、 「あたし、こういう所だとどうしても用が足せない。水洗じゃないと……」  などと言われてしまうと、ちょっとムカつきます。用が足せる自分はなんなんだという気になり、上品ぶってんじゃねぇよと、怒りすらわいてくるのです。  私のような考えにも、無理があります。何かができる人間は、同じことができない人間のことを理解しないし、軽蔑すらしたがるものです。しかしそれができない人間は、本当にどう頑張ってもできないのです。  小学生の頃、何回練習しても逆上がりができない友達を見ていると�こいつ、ふざけてんじゃねぇか?�と思ったものですが、本人は必死でした。それと同じように、神経質な人に自分と同じことをしろと言うのは、無理な注文なのです。汲み取り式のトイレがどうしても嫌、という人に無理強いをするのは、 「同じ人間の血なんだからいいだろう」  と、A型の人にB型の血液を輸血するくらい無謀なことかもしれません。  友達づきあいや異性づきあいをするときは、神経質具合が同じくらいの人同士が、楽です。特に私のように、「神経質ではない」という度合いが著しい人間は、他人に安堵感をあたえる場合もあるのですが、逆に�この人ってなんて無神経なの�と不快にさせてしまう場合もある。だから私は繊細そうな人とお話するときなどは、ちょっと神経が細やかなフリをしたりすることもあります。  おそらく本当に神経質な人も、同じように調節しているのではないでしょうか。なにせ神経質だから、�自分の神経質具合は、他人に気を遣わせる場合もある�ということにはとうに気づいている。だから自分の神経の許す限り、表向きは豪放|磊落《らいらく》ぶるのです。  男女関係においては、神経質度合いのバランスが大切です。きちっとしているA型の男性と大らかなO型の女性は相性が良いと言います。私もO型なのですが、確かにA型男性と一緒にいると、自分の自堕落さ加減が多少は是正されるような気がします。しかしこの二人も、あまりお互いの性質が過度だと、相性が良いとは必ずしも言えなくなってくるようです。  神経質な男性は、神経質ではない女性に対して、つきあいはじめのうちは、 「君みたいな大らかな女性といると、僕みたいに物事を突き詰めて考えちゃう人間ってなんだかホッとするんだよね」  みたいなことを言うものです。確かにそれは事実でしょう。  しかし時が流れて、お互いが相手の前で自分を隠さないようになってくると、そのうち両者ともにいらいらしてきます。足首まで脱いだパンツを片足で蹴り上げて洗濯機に収めたり、テレビを足で消したりといった女性の姿を見るにつれて、「大らか」と思っていた女性の性質がだんだんと「ズボラ」「無神経」といった評価に変わる。また、米を研ぐ水までミネラル・ウォーターを使ったり、出かける前にいつまでも鏡を見ていたりする男性の姿は、「細やかで優しい」という印象から「男のクセに細かいことまで気にするせこい奴。ムカツク!」になったりする。  反対のケースはどうでしょう。大雑把な男性と、きちんとした女性。これはよくあるパターンです。布団は敷きっ放し、ゴミはちらかしっ放し、服は脱ぎっ放しという、底のほうから石油がわいてきそうな一人暮らし男性の部屋を見て、女性がきれいに片づける。�ああ、こんな奥さんがいたらな……�なんて思って結婚したりする。  しかしこれまた時間がたつと評価は変わってくるものです。�きちんとしていていいな�と思った奥さんだったけれど、便器にちょっとおしっこを飛ばしたくらいで激怒されたり、電気をつけっ放しにしていたことで激怒されたり、煙草のけむりが臭いと激怒されたり……ということが慢性的に続き、疲れてしまう。そう、彼はどちらかというと、雑然とした環境に身を漂わせておくことに落ち着きを感じるタイプだったのです。  私としては、別に神経質な人がだーい嫌いというわけではないのですが、あまりその人が「私って神経質」ということを売り物にしていると、鼻につくことがあります。神経質なら、神経質でいい。しかし、磊落なフリをしながらも煙草の箱の角を机の角に合わせているような人のほうが、「私って神経質だから、いっつもいっつも複雑なことで悩んでるの。いいわねぇ、そういう苦労を知らないズボラな人は」というムードをばらまく神経質な人よりも、可愛らしさを感じる。  前者つまり磊落なフリをする人は、「自分が神経質である」ということに神経質になっています。森|祇晶《まさあき》・元西武監督のような人よりも、大沢啓二・元日本ハム監督のような人に憧れてしまうのですが、自分ではどうしても大沢になりきれない。でも、�僕は神経質な人間だけれど、どうにかして豪放な人間になりたい!�……という努力は、ひしひしと伝わってくる。  その手の人がサラリーマンだったりすると、彼は、 「僕ってすっごくいい加減なんだよね」  と、常に自分に暗示をかけるように言っています。本当は部下のやることなすこと信用できず、つい口を出してウザったがられてしまうのです。 「やりたいことをやれ。失敗したときの尻拭いをするのが俺の役目だ、ワッハッハ!」  てなことを言えるタイプの同僚は人気者なのに、自分は陰で「あの人って細かいところまでいちいちうるさいよね」と言われている。そんな自分を知っているからこそ、「僕はぜーんぜん神経質なんかじゃありません!」と、自分から言うのです。もちろん誰もそんな言葉を信じないのですが、�そうか、彼も自分の神経質さを気にはしているわけね�と、少し親切にしようと思う、部下なのでした。  対して、「あたしって神経質なのよ」と自慢して憚《はばか》らない人は、「自分が神経質である」ということを言い過ぎなのだ、ということだけには鈍感になっているようです。「私は、このように人より特別に鋭敏な神経を持って生まれてしまったために、人より多く傷ついたり泣いたりしなくてはならない。私はこんなに可哀相な、でもある種の選ばれた人間なのだ」というアピールを、周りの人が降参するまで続けるのです。  しかしまぁ、逆上がりができない人に逆上がりができる人の気持ちはわからない。あまり神経質な人の悪口を書くと、それだけでまた、 「私は何も悪いことをしていないのにこの鋭い神経のせいでいじめられる……」  って自慢されそうなので、この辺でやめておきましょうっと。 [#改ページ]  生理的に嫌い 「一目惚れ」という言葉があります。パッと見た瞬間、相手の性格も性癖も何もわからないけれど、「これだッ!」という気分になる、あれ。一目惚れをする原因として考えられるのは、ほとんどが外見的要素ですが、全体の雰囲気、表情、声なども関係してくるものと思われます。  では「一目惚れ」に反対語はあるのか。一目見た瞬間、相手の性格も性癖もわからないのに、「何があろうとも、この人とだけはお近づきになりたくない……」と思ってしまうような感情。そう、それは「生理的嫌悪感」ってやつなのではないでしょうか。ある人に会ったときの、�この人、どうしても駄目だ……�という気持ちの素早いわきあがり方は、�この人、私好み!�のそれと非常に似ているように思うのです。  生理的嫌悪感は、同性よりも異性に対して感じることが多いように思います。ではどのような人に対して、生理的な嫌悪感を覚えるか。これは、人によって異なることでしょう。たとえば私なら、指がスラッと細くて色白で腺病質《せんびようしつ》、だけど唇は赤くて唾液によってテカってる……といったタイプの男性を見ると、�あっ、この人って駄目っす……�と即座に思ってしまう。歴史上の人物イメージで言うと、ショパンとか光源氏ってなところは、苦手です(もちろん、会ったことはないが)。  しかし世の中には、ショパンタイプを好む女性もいる。柳腰の男っていうかすぐ死にそうな男っていうか、要するに線の細い男性を見ると、ついつい感じてしまう女性。母性愛が強いために、「守ってあげたい」という思いにいつも溢《あふ》れているからなのかもしれません。そして、そういう女性はたいてい、私が好む筋骨隆々とした肉体派の男性を見ると、 「気持ち悪い。汗臭そう。それに、頭悪そう」  と言うのです。  肉体派男性を好む者はショパンを嫌い、ショパンを好む者は肉体派を嫌う。  こういった法則の他にも、身体のある一部分を見て下される生理的判断もあります。ある人は、「鼻の下の溝がすごくクッキリしている人はどうしても嫌だ」と言い、また他の人は「耳の構造があまりグチャグチャしてる人は嫌。柔道とかやってて耳が潰れてる人も嫌」と言う。私の場合、前述のとおり「手」です。繊細な手は、どうしても受けつけられない。歯もそうです。長い歯を持つ人が、嫌だ。乳首にも、好みがあります。歯と同様、長い乳首(乳頭の部分が五ミリ以上前に突き出していて、ぴっちりしたTシャツなど着てしまうと、乳首の形状が露わになってしまうようなやつ)が、嫌なのです。  他人の乳首という部分は、なかなか普段の生活で見られるものではありませんが、これは私が大学時代、水のスポーツをやっていたときに気がついた好き嫌いです。言い訳をするようですが、水のスポーツですので、男性は上半身裸でいることが多く、いやおうなく乳首が目に入ってしまうのです。  男性の乳首というと、普通はまったく気にも留めない、空気のような存在ではありますが、数をたくさん見てみるとこれがまた千差万別。陥没気味のものもあれば、タレ目のように下がっているのもある。まわりに毛が生えているかどうかという問題もあるし、色もさまざまです。その中で、�この乳首だけは、どーうしても嫌だ�と思ってしまうのが、私の場合は「長い乳首」だったわけです。  このような好みというのは、理屈ではなく生理からくるものです。どうしても苺《いちご》が食べられないという人がいるように、「どうしても色白の人は嫌」「長い乳首は嫌い」という好みに、他人を納得させられるような論理的な理由はない。  しかし、この「生理的」というのも怪しいものです。苺が嫌いとか牛乳が飲めないとか、その手の人はたとえどんなことがあろうとも、絶対に苺や牛乳を口にしないことでしょう。しかし人の場合はそうもいきません。大人になったら、 「取引先の担当者の人、ちょっと生理的に受けつけないタイプなんで仕事できません」  とは言えないのです。本能的に拒否反応を示す相手とも、そんなことをおくびにも出さずつきあわなければならないこともあるのが、世の中ってものです。  私も、そのような経験がありました。会社員時代のある期間ある仕事で、顔を突き合わせた状態で仕事をしなければならない男性がいたのですが、その人がちょっと、生理的に駄目だったのです。どの辺が駄目だったかというと、「顔」です。顔を突き合わせなければならないのに、顔が嫌い。冗談のような話ですが、毎日のことですから私にとっては大きな問題でした。私は真剣に悩み、 「どうしても好きになれない顔の人と一緒に仕事をしなければならなくって、私はとてもつらい。それとも、こんなことを考える私が異常なのだろうか」  と、友達に相談したりしたものです。友達は、 「いや、毎日のことだもの、仕事をするときに相手の顔が好きかどうかって重要な問題よ。あなたの気持ち、わかるわ」  と、私を慰めてくれました。  が、しかし。私はそんなに悩んだというのに、その顔に慣れてきてしまったのです。最初のうちはその人の顔を見るたびに肩がガックリと落ち、�アタシ、もう駄目だ……�と思ったものですが、次第に何も感じなくなってくる。最後のほうは�けっこう愛敬のある顔じゃん�とすら、思えたりした。  こうやって、「生理は克服できる」ということを学んだ私。泳げない子供をプールにつき落としたらいつの間にか泳いでいた、というようなものでしょうか。  しかし、嫌いな顔の人と仕事をする、などということは、大人であれば実は誰にでもできるのです。大人というものは、そういうもの。通勤に使う満員電車の中では、どんなに生理的に嫌いな人とでも、顔を十センチ以内の距離に近づけなければならないし、生理的に嫌いだからといってお隣さんの奥さんを無視するわけには、いきません。  しかしどんなに大人であれ、そしてどんな状況であれ、生理的に嫌いな人との間に絶対に引いておきたい一線があります。それは、「キス」。小説や映画で、「肉体を売る商売をしている女性も、客にキスだけはさせない」という話をよく目にします。彼女達は、 「キスだけは、本当に好きな人にしかさせないの」  などと言うわけです。つまり、「お金のためと割りきれば、セックスはどんな相手とやってもまぁ耐えられるが、キスはそうはいかない」という事実があるらしい。それほど、キスは重要なものなのです。  私はよく、街中で�ゲッ、こういう人って嫌い�と、生理的に受けつけない男性を見たとき、�ソープなんかの女の人って、たとえこういう人が相手でも、ちゃんと相手をするのかなぁ�と想像します。「キスだけはイヤ」というその気持ちは、なんとなく理解できるような気がするのです。  また、電車の中でイチャついているカップルを見ていて、�この二人って、絶対にキスとかしてるわけだよなぁ。もし私がこの男とキスしろって言われたらどうするかなぁ……�などと考えてみることもある。自分の顔に、相手の顔が近づいてくる。直前まで目を開いている人はあまりいないとは思いますが、段々と相手の顔が迫ってきて、まるで魚眼レンズをとおしたように、口が突き出して見えて……なんて考えてみると、「許せる」と思う人はだいぶ少なくなりまさぁね。ほとんどの場合は、顔が近づいてきた段階で、シルバーのゴツい指輪をつけた手で思いっきりカウンターをかましたい、と思ってしまうわけです。  たまに、生理的に嫌いなタイプの女性、という人もいます。その手の人を見たときは、自分が男になったつもりで�こいつとキスができるか?�と考えてみることにしています。と、やはり許せないわけですね。やはり、「こいつとキスできるかどうか」というのは、生理的判断の最終ラインと言うことができましょう。もしかすると人間とは、他者と相対した瞬間、�自分はこの人とキスできるか?�ということを、無意識のうちに考えている動物なのかもしれません。  誰かを嫌うとき、私達は「嫌う」という醜《みにく》い行為をする自分を弁護するために、色々な理由をつけるものです。その中でも、「生理的に受けつけない」という言葉は、非常に便利な言葉です。並みの理由だと、 「あの人、意地悪だから嫌い」  と言えば、 「でも、本当はけっこう優しいところもあるわよ。あの人のいい部分も見てあげようよ」  などと言われるし、 「あの人、ダサいから嫌い」  と言おうものなら、人を外見で判断する狭量で本質がわからない大悪人、のように思われてしまう。おちおち人を嫌いになることもできません。  そこへいくと、 「あの人、生理的に嫌いなの」  は効果的です。牛乳を飲むとアレルギーが出るから飲めない、と言っている人に無理矢理、 「でも、身体にいいから」  と飲ませる人はいないように、生理的に受けつけないと宣言してしまえば、それでも仲良くさせようとする人はいない。いくら�人類は皆兄弟�が信念の人でも、 「あ、そうなの……」  と手を引かざるを得ないのです。  また、嫌うほうの身も、この言葉は守ってくれます。よーく考えたけど嫌い、とか、意見が合わないから嫌い、という場合は、無理に妥協点を見つけられてしまうこともありますが、なにせ「生理」の問題です。それを言っちゃあおしまいよ、という感じもしますが、「嫌い」というわがままを言う際の、言い訳になるのです。 「いい人だっていうのはわかるんだけど、どうしても生理的に……」  と言えば、「わがまま」とは思われるかもしれないけれど、「悪人」のレッテルは貼られずにすむ。�まぁ、体質の問題だからしょうがないか�と、思ってもらえる場合もあるのです。  その代わり、自分が「生理的に、嫌いなんだよね」と言われなければならないことも、理解しなくてはなりません。「生理的」を盾に他人を嫌う人間には、 「酒井さんみたいなのっぺりした顔って、生理的に駄目なんスよね」  と言われたとしても、にこやかに、 「それじゃあしょうがないわね」  と言い放つ精神鍛練が必要なのです。理由もなく人を嫌うには、それなりの覚悟が必要、ってことですね。 [#改ページ]  優柔不断  日本の社会は(って、日本以外の社会で生きたことなんてないんですけど)、優柔不断すぎてもいけないし、またちっとも優柔不断なところがないとそれはそれで生きにくいところです。他人の話を聞いていると、どうやら日本人は世界で一番優柔不断な国民で、外国の方々はどんな問題に対しても即断即決、アアと言えばコウ、なのだそうです。  それでも最近の日本では、帰国子女が増えてきたり、国際化しなくちゃ人間じゃないみたいな言われ方をされてきているので、ハキハキと自分の意見を言う人が増えてきました。「自分の意見を持つようにしましょう」というのが国民のスローガンのような、昨今の日本です。  私は典型的な日本人、それも割と古いタイプの日本人ですので、当然ながら優柔不断です。私は無口なのですが、その無口さも優柔不断さによって助長されているところ、大。何人かの会話に入っても、�まぁ、どっちでもいいけどぉ……�なんて思っているうちに、話題は終わっているのです。  会社員時代は、この優柔不断な性格のおかげで、ずいぶん苦労しました。 「この仕事は、Aという方法で進めたほうがいいか、Bという方法で進めたほうがいいか」  と話し合っているというのに、�Aだっていいし、Bも悪かないし。別に、どっちでもいいんじゃないの……?�と思ってしまうのです。だから黙っていてもいいときは黙っていましたが、 「君はどう思う?」  などと聞かれてしまうと、とても困った。Aもいいけど、Bも捨てがたい、というようなことをあいまいに言ってお茶をにごしました。  私は判断することによって他人になんらかの影響が及ぶときは、急に選べなくなってしまうのです。たとえば誰かと食事をしようというとき、どの料理屋へ行ったらいいか。自分の知っている店へ行ってもいいけれど、そこが休みだったり、不味《まず》かったりしたら一緒にいる人に迷惑をかけてしまう。しかし他人に決めてもらえば、もしそこが不味い店でも、自分の責任にならずにすむ。つまり、優柔不断とは責任回避の気持ちの表れでもあります。私達がおみくじや占いを好むのも、�誰かに決めてもらいたい�とどこかで思っているからなのでしょう。  単純に難しいから選べない、ということもあります。政治や経済といった問題の前では、途端に思考が停止するのです。次の総理、AさんとBさん、どっちがいい? と聞かれても、「ハテ?」という感じ。  女性は、どちらかと言うと自分の手や肌で触れたり、目で見たり耳で聞いたりできる範囲の分野に対する興味は高いのですが、五官で直接感じられない分野へのそれは低くなるような気がします。雑誌を見てみれば一目瞭然で、女性向けの雑誌に載っているのは、ファッション、美容、食べ物、旅行、占い……と、読者である女性の生活に直接関係してくることばかり。対して、男性が主な読者の週刊誌を見てみれば、ヘアヌードも載っているけれど、政治や経済やスポーツといった、読んでいる人の日々の暮らしにはあまり関係のない、世界の出来事が多く載っている。お姉ちゃんのヘアヌードだって、読者の生活に直接関係するかって言えば、してないだろうし。  私が、政治や経済についてどうでもいいと思ってしまう理由は、二つあります。一つ目は、興味が持てないから。生まれたときから世の中は平和で安全で、オイルショックも大学紛争も記憶にない私は、「現状に対する不満」を持たずに育った。アタシが不幸なのは政治のせいだ! という強いパワーが生まれず、おかげで「政治より洋服のことに興味がありまーす」と言いきる平和ボケ女になったのです。だから�総理が誰になろうと日銀総裁が替わろうと、どうせみんなそこそこ頭いい人だろうし、なんとかなるんじゃないの?�くらいに思ってしまう。  もう一つの理由とは、�この程度の知識で判断を下してしまっていいものだろうか?�という疑問があるから、です。これは政治経済の問題ではなくても言えることで、たとえば、 「○○さんって好き? 嫌い?」  といったことを聞かれても、私はとても優柔不断になります。�確かに○○さんってちょっと意地悪なところはあるものだ。しかし私は○○さんとサシで話したこともなければ、本当の性格を知っているわけでもない。そんな私が「嫌い」だなんてとても言えない�と思ってしまう。で結局、 「ま、好きでも嫌いでもないっていうか……」  といった発言になるわけです。同じように、 「日本にとって円高は良いことだと思う? 悪いことだと思う?」  なんて聞かれると、 「そういうことって、別に素人のアタシが考えなくたって、誰か然《しか》るべき専門家がいいほうに考えてくれてんじゃないの?」  と言いたくなってしまうわけですね。  特に政治の問題に関しては、そうです。選挙のとき、誰に投票していいかなんて、わからない。候補者に会ったことがあるわけではない。公約を読んでも、本当に候補者がそんなこと考えてるかどうかは、わからない。万が一、すべての人がすべての公約を守ったとしても、本当に世の中が良くなるのはどの人の公約なのかも、わからない。道を造れとか新幹線の駅造れとか、具体的な欲求がない私のような人間にとっては、本当にわかりにくいのです。だから「いい人っぽい顔」とか「ダサくない」といった理由で投票してしまう。  昨今は無党派層が増えた、というのが話題になっているようですが、私のような生粋《きつすい》の無党派層から見てみると、どこか特定の党を支持することができる人のほうが、よっぽど特殊、というか異常に思えます。 「なんで『ここの党が絶対に一番!』なんて決められるのですか?」  と、素直に聞いてみたい。  もちろん、宗教も信じていません。やはり、�なぜすべての宗教を知ってるわけでもないのに、「この宗教の神様が、唯一絶対の神だ」と確信できるのだろうか?�と、不思議に思うのです。アメリカなんか、先進国と言われているわけですが、その大統領が戦争のときなどに、 「アメリカに神の恩寵《おんちよう》あれ」  などということを言っています。一国の大統領が、公衆の面前で、 「私はキリストの神様を信じてまーす」  なんて宣言してしまっているという事実に、「政治家や知識人は宗教的発言をしないもの」と思っている私は、�よくそれだけ自分の神様に自信を持てるよなぁ。本当にこの人って政治家?�と、とっても不思議な気分にもなるのです。このアメリカ大統領に対する違和感というのは、たとえば日本で妙な新興宗教にはまっている人に対する違和感と、なんら変わるものではありません。  しかし、「あるカテゴリーに関するすべての情報を集めてからでないと、その問題に対しての結論って下せないしぃ」というのは、実は優柔不断のいいわけでしかありません。まだ、「この町で、どのスーパーの牛乳が一番安いか」という問題であれば、町のスーパーを全部回って判断をすればいい。しかし、世の中には「全部情報を集める」なんてとうてい不可能な問題が山積しているのです。  政治にしても宗教にしても然り。その手の、自分に無関係そうな問題はおいておくとしても、自分に直接関係してくる就職や結婚といった問題に関しても、情報をすべて集めるなんてことは、絶対に無理です。そして私は、もともと優柔不断なクセに、いざ選ばなくてはならないときになると、「ものぐさ」というもう一つの性質が発揮されて、情報収集がものすごく面倒くさくなってしまうのです。  就職活動のときなど、まさにそうでした。一生を決めるかもしれない会社選びですから、色々な会社の資料を請求したり、人に会ったりしなくてはならないのに、私はクラブの合宿でずっと河口湖にいた。�あー、どこの会社を受けるか決めるのって面倒くせぇ。誰か「君、うちの会社に来なさい」なんてスカウトしてくれないかしら�と思っていた。  結婚は、もっと大変です。世界中に男性がたくさんいるのはわかっているが、どの人が自分に最も合っているかなんて、わかるほうがおかしい。あまりにも選択の幅が広くて、情報を収集しようにも茫然とするしかありません。「愛」という無謀な力がない限り、「今つきあっている人と一生一緒にいることが、自分を最も幸せにする方法である」などという無茶な確信を持つことは不可能でしょう。  人間は、「世の中には、小指と小指が赤い糸で結ばれている人がいるんですよ」という言葉を信じることで、「本当に、こいつでいいのか?」という疑惑から逃れようとしました。�可能性は無限!�などと明るく信じていると、いつまでたっても結婚しないことになりかねませんが、赤い糸伝説さえ信じていれば、適当に出会って、適当に恋愛した人とでも�マいっか。この人と結婚することは運命だったんだわ�と思うことができるでしょう。  しかし今、赤い糸伝説は崩壊しつつあります。�こんな人と結婚しちゃっていいのかなー、もっといい人がいるんじゃないかなー�とダラダラしている人は実に多い。その間に、おいしい物を食べたり楽しい旅行をしたり欲しい物を買ったりしているので、�結婚したらこういう生活ができなくなっちゃうのよね、やだわー�というところまで考えが及び、ますます決断は遅くなるのでした。  優柔不断でも、早く結婚する人ももちろんいます。彼女は、余計な選択をしないですむように、結婚という選択をしたのです。つまり、自分一人で生きていくには、子供が欲しいときはどうするとか家はどうするとか、なんだかんだいっても色々な決断や選択をしていかなければならない。しかし結婚してしまえば、重要な決断や選択は、夫にしてもらえる。これはいい、ということで結婚。この場合、旦那も「頼られると嬉しいっす」みたいな人なので、まずまず円満な家庭を築くのでした。  一つ、優柔不断な人の簡単な見分け方があります。それは、 「はァ」  という言葉を多用するかどうか、です。「はい」ではなく、「はァ」。「はァ」は、優柔不断な人が最も愛する言葉。肯定にも否定にもとれる返答なので、何か他人から言われて、�別にどうでもいいことだなぁ�とか�なんだっていいや�とか�考えるのも面倒くさい�なんて思ったときは、 「はァ」  とさえ言えばOK。  たとえば、特にお腹が空いているわけでもないけど何かを食べろと言われれば食べられる、くらいの腹具合のときに、目上の人から、 「ハラ減ったな。飯でも食うか」  などと言われたときは、絶対「はァ……」です。「はァ」の出自《しゆつじ》は「はい」にあると思われるので、「飯を食べるのはやぶさかではない」という意志は、なんとなく伝わる。しかし「はァ……」の「ァ……」の部分は、�でも、諸手を挙げて大賛成ってほどお腹が空いてるわけでもないんで、焼肉とかトンカツとか、ヘビーなものはやめて下さいね。できればソバ希望�とか�別にあなたと特に飯を食べたいというわけでもないけれど、まぁつきあってやってもいい�という意志を伝えることもできる。まさに「あ・うんの呼吸」を大切にする日本人ならではの、言葉です。  もちろん「はァ」ですから、他人から褒められるような良いお返事というわけではありませんが、優柔不断のままのらりくらりと生きていくには、不可欠の言葉と言えましょう。  もう少し歳をとれば、「はァ」は「ほぅ」になります。いつかおばあさんになって、孫達に、 「よぉ、小遣いくれよバアちゃん」  などと言われたり、嫁に、 「おばあちゃん、テレビばっかり見てたら身体に毒ですよッ」  なんて言われても、私は「はァ……」とか「ほぅ……」とか、わかったようなわからないようなことを言ってやり過ごすことでしょう。孫や嫁は新しい世代の人なので、バッチリ自分の意見を持っています。しかしおばあちゃんである私は旧世代。 「ホント、おばあちゃんって何考えてるんだかわからないでイライラするわ!」  と若者たちを怒らせるのが、今からとっても楽しみです。 [#改ページ]  したたか  悪人顔の人が、いるものです。「人間、第一印象が大切だ」とか、「性格は、顔に出る」なんて言われてしまうと、すっかり立つ瀬のない、という人。対して、善人顔の人も、もちろんいる。特別な美男・美女でなくとも見るからに平和そう、ちょっと笑顔でも作ろうものなら、�ああ、この人ってきっと優しくて良い人なのだろうなぁ�と、人に思わせることができる顔。  顔を見ればその人がどんな人かわかる、と豪語する人もいます。しかし、それは必ずしも正しくありません。目つきは凶悪で肌はあばただらけ、歯ならびもガタガタでいかにも�この人、信用ならねぇ�という印象を他人にあたえながら、少しつきあってみると�まるで天使のような人だわ�と思わせる人もいる。反対に、笑うと顔中にシワができて目は糸のように細くなり、いかにも、 「いい笑顔ですね」  なんて言われがちなおばさんが、実は近所中に他人の悪口を言い触らし、気に入らない家の飼い猫に石をぶつけるようなとんでもないババアだったりもするものです。  悪人顔と善人顔、生きるうえではどちらが得なのでしょうか。単純に考えると、やはり善人顔のほうが良いように思えます。第一印象は良いに越したことはないし、何をしても許される感じもする。しかし、善人顔にもつらい部分はあるのです。  実は、自分で言うのもナンですが、私は割と善人顔です。善人のつもりはこれっぽっちもないのですが、子供の頃から、 「優しそう」 「おとなしくっていい子ね」  などと、大人に誤解されることが多々あった。  子供の頃にそのようなことを言われたので、おそらく自分の中で�そうか、私は善人っぽい顔をしているのだな。それならば、善人のフリをしていれば、善人でとおすこともできるのだな�という意識が、当時から芽生えていたように思います。皆がそう思ってくれているのなら、その期待を裏切ったらいけないような気もしました。  特に「ツッパリになりたい」「ワルに見られたい」などという無茶な願望を持つほうでもなかったので、以来私は�他人の前では善人に見えるようにしなくちゃ�という気分で生きてきました。できれば本物の善人になりたいとは思うのですが、それはなかなか難しい。私はとても意地悪だし、人の粗《あら》さがしは好きだし、要領はいいし、ここにはとても書けないような悪いことをたくさん考えているからです。  人はなるべく自分のイメージを良いほうに保とうとします。私も、 「酒井さんって性格悪いわね」  と言われるよりは、 「酒井さんっていい人よね」  と言われたほうが、嬉しい。そうすると、自分が悪いことを考えれば考えるほど、いい人のフリに磨きがかかってくるのです。だんだん、誤解されることが一種の快感にすらなってきて、激しく誤解されるほど�ああ、もっと誤解されたいっ�という気持ちがわいてくる。  しかし、見ている人はちゃんと見ています。たとえば会社員時代、自分がやるべきことをなんだかんだ理由をつけて他人にやらせたりしつつ、なおかつ周囲からは嫌われないようにとりつくろったり、表向きはニコニコと皆と接しながら、陰では「クックックッ」などと笑いながら悪口を言う私がいた。そうするとやっぱり、 「酒井さんって、あれでけっこうなタマよね……」 「おっとりしてるフリしてるけど、相当にしたたかな女よ」  と、私の本質を見抜く人が、出現するのです。  私は、�ヤバイッ�と思います。いい人のフリをしていると、自分でも�あたしって、いい人なのよね�と自分にだまされる一瞬があります。だからこそ、いい人のフリがばれてしまったショックは余計に大きい。まるで、 「私のパパは病院の院長なの」  と嘘をついて、大会社の社長の息子ですっごく格好いい男の子・アキラ君とつきあっていた貧乏な女の子・ミヨちゃんが、パン屋さんでパンの耳をもらっている現場をアキラ君に目撃されてしまったときのショック、のようなものでしょう。ミヨちゃんは、パンの耳を握りしめて、 「こっ、これは……揚げて砂糖をまぶしてカリントウにするとおいしいのよッ」  などといいわけをするのですが、隣のソバ屋のお兄さんから、 「よっ、ミヨちゃん! 今日も天カス持ってくかい?」  と声をかけられてしまい、一気に嘘が露呈するのでした。  ミヨちゃんの場合は、アキラ君が心の温かい人であれば、 「僕はミヨちゃん自身のことが好きなんだ。お金がなくったって、そんなこと問題じゃない」  なんて言われてハッピーエンドとなりますが、私の場合は「いい人のフリ、でも実は悪人」ということで、バレてしまうと救いようがない。  このようなことを見破るのは、たいてい同性です。女性には男のしたたかさがなかなかわからないし、逆はなおさらです。私自身、 「あの子って可愛い顔してるけど本当は何考えてるんだかわかんない女よ」  などと、女性のしたたかぶりを発見するのは得意だと思っています。しかし男性に関しては自信がない。 「○○さんって、いい人よね」  などと「さわやか好青年」という評判がたっている男性について言っていると、別の男性から、 「○○さんって、皆が思っているような人じゃないぜ」  などと言われ、キョトンとしたりするのです。  男性も、やはり女性に対しては甘くなるようです。いくら目の前に「こいつの顔と腹の中はうらはらなのだ」という事実をつきつけられても、まだだまされている人もいます。というより、だまされるのを楽しんでいるのかもしれません。たとえ見破ったとしても、「ま、言わずにおこう」という優しさを持っている場合も、多いのです。  悪人|面《づら》の人の場合は、どうでしょう。悪人面の人が本当に悪人だった場合、あまり「したたか」とは言われません。�やっぱりな�と思われるだけです。期待を裏切らず悪人だったということで、かえってスッキリした気分にさせることすら、ある。  たとえば和田アキ子さん。彼女が悪人顔というわけではありませんが、身長の高さや全体のイメージから、彼女は悪役を引き受けがちです。だから、裏話っぽく「酔っ払うと手がつけられない」とか「殴る」とか「蹴る」とかいう話を聞かされても、こちらは「へぇ」としか思わない。  最初から「悪人」の印象をあたえているのですから、その人がちょっとでも善人ぶりを見せようものなら、イメージはぐんとアップします。和田アキ子さんにしても、テレビ番組で誰かの悲しい身の上話など聞くと、すぐ涙ぐんだりしてしまう。そんな彼女のことを本当に悪人だと思っている視聴者がいるわけもない。�やっぱり人は見かけじゃないんだわ。この人はこんなにいい人だっていうのに、顔だけで人を判断した自分が恥ずかしい�と、見ているほうが反省してしまったりして、実際以上に善人ぶりが強調されるのです。白い紙に白いペンキをたらしても目立たないけれど、黒い紙に白いペンキをたらせばハッキリと見えるようなものでしょうか。  善人顔の場合は、逆です。黒い紙に黒ペンキをたらしても目立たないように、悪人顔の人が少しくらい悪事を企てても「なるほど」ってなもの。しかし、白い紙に黒ペンキをたらせば、クッキリと目立つ。善人顔の悪人は、�いい人ぶってる分、余計にタチの悪い奴だ�と、悪人顔の悪人以上に憎まれることになります。  NHKの松平定知アナウンサーがタクシーの運転手さんに暴力をふるった事件などは、「善人顔の悪事」の典型でしょう。当時の世の中において「ミスター善人顔」的存在であった松平アナの犯した悪事は、あの温厚そうな顔と、さらには「NHK」「松平家」といった権威ある単語によってよりクッキリとふちどりされ、彼は視聴者から長く憎まれることになったのです。  しかし善人顔の悪人は、しぶとく、打たれ強い。それくらいではへこたれません。再起不能かと思われた松平アナが見事に復活したように、したたかな人間というのは、独特の嗅覚《きゆうかく》を持って、世の中を生きぬいていくのです。  したたかな人間は、相手のしたたか具合の波長が自分に合うかどうか、嗅《か》ぎ分けることに長《た》けています。相手がしたたかでないとわかったら、徹底的に「いい人のフリ」をする。するとたいてい、信じてくれる。そうしたら、その人の前では一生、いい人のフリをし続けるのです(バレる場合もあるけれど)。  相手もしたたかな人だ、ということがわかったときは、どうするか。この場合は、「かかわらない」もしくは「仲間に引き入れる」という二つの道があります。なろうことなら、したたかな人はあまりしたたかな人と交流を持たないほうがいいのです。したたかな人同士、相手の醜さが自分の醜さとしてよーくわかってしまうから、お互いつらくなる。心の中で�あの人は、自分と同類だな�と思いつつも、距離をおいてつきあうほうが、楽。  しかし、したたかな人も、やっぱり人の子。ときには、同類同士で腹を割って話し合いたいときもあるのです。「自分の悪人ぶりをわかってもらえる相手が欲しい」というのが、したたかな人の悩みなのです。そんなときは、自分としたたか度合いが釣り合いそうな人を厳選しなければなりません。相手を間違えて、善人や普通の人に対して「いかに自分は悪人か」ということを正直に言うと、今まで一生懸命にいい人のフリをして、したたかに生きてきた努力が水の泡となってしまうので、この人選には注意力が必要です。それだけに、 「俵万智って、ムカツク」 「あの善人面、ダサすぎて許せないよね」  といった共感が得られたときの喜びは、大きい。  この「したたか同盟」とでも言うべき間柄は、さまざまな分野別に、細かく締結されます。「したたか同盟・人の好き嫌い分科会」では、「世間では好かれているようだが、したたかな人間にとっては無性にカンにさわる」と思われる人を俎上《そじよう》にあげて目茶苦茶に言う。「したたか同盟・異性問題分科会」では、異性の前ではとりつくろっている自分の本当の気持ちを、存分に暴露する。異性問題分科会のさらに下部組織としては「オヤジ転がし班」が設けられ、「仕事の場を離れたオヤジを手玉にとるのはいかに簡単か」ということが話し合われたりもしています。  いずれにせよ、「したたか同盟」を組む相手だけは、慎重に選ばなくてはなりません。 「あなた、したたか?」  と聞くわけにはいかないのですから、すべてはカンが頼りです。ときには、�こいつはきっといい人のフリをした悪人だろう�と思ってちょっと自分の心情を洩《も》らしてみたら、 「酒井さんってけっこう嫌な人ね」  などと言われ、その人は単なる「したたかぶってるだけのいい人」であったことに気づいたりもする。  自分の感覚にぴったり合ったしたたかな人を発見できたときは、嬉しいものです。こちらの悪い心を告白しても、あ・うんの呼吸でそれを理解してくれるどころか、もっとあくどいことを告白してくれたりする。いくら悪人でも独りぼっちは寂しいので、�あたし以上の悪人がいた�と思うのは嬉しいことです。  したたかな人間は、普通の人の前で「自分を出さない」というのが、特徴です。下手に自分を出すと悪人ぶりがばれてしまうし、相手に警戒感を持たれてしまうから、いつも穏やかな顔をしている。ごく普通の市民のような顔をしながらも実は敵国の諜報部員、といった気分でしょうか。  だからおしゃべりな人というのは、たいてい良い人なのだと思います。どんなに辛辣なことを言いまくっていようとも、口数が多いというだけで「腹にイチモツのない人」と確信することができる。声が大きい人も、良い人です。自分がどんな人間か、他人に知られてしまってもまったく恥ずかしくない、と思っている証拠だからです。  しかし、本当はこんなに単純なものではないのでしょう。世の中には、「声を大きくしてしゃべりまくる」ということを、一つのフリとして使える人も、きっといるのです。無口でしたたかな人よりも、おしゃべりでしたたかな人のほうがずっと怖い……と思いたい、無口な私でした。 [#改ページ]     大人のわるくち  真面目あるいは不真面目  小学生時代、終礼の時間には「反省タイム」というのがありました。これは、その名のとおりその日一日の反省をするために設けられた時間です。手をあげて、 「私は、図書室の本を返すのが一日遅れてしまいました。気をつけたいと思います」  というように自分の反省をする殊勝な子供もいましたが、そのうち「公開チクリ合戦」といった様相を呈するのが常でした。 「今日、○○さんが廊下を走っていました。危ないので、やめたほうがいいと思います」  とか、 「昨日、××さんがいつもと違うバス停で降りていました。そういうことは、いけないと思います」  などと、他人を批判して反省を求めるという、今考えると隣組時代か文化大革命か、という感じの恐ろしい時間だったのです。中には、 「今日、お祈りのときに(キリスト教系の学校だったので、朝に礼拝があった)△△さんが目を開けていました」  とチクッた子がいて、�そういうてめぇはどうやってそれを見ていたんだ?�という批判を浴びたこともありましたが。  その「反省タイム」でいつも手をあげるのは、いわゆる真面目な子、でした。子供特有の純粋さから、規則を破る友達が許せなかったのでしょう。しかしもちろんそういう真面目な子は、友達ウケが悪かったものです。「いい子ぶっちゃって」「面白みのない奴」として見られ、けっして人気者にはならなかった。体制側、と判断されたのです。  私は、子供社会における日和見《ひよりみ》主義者でした。他人が廊下を走ろうがお祈りで目を開けようがどうだっていいや、と思っていたので、それをいちいち注意する体制側に対しては�よくやるなぁ�と思う。しかし、わざと廊下を走って先生をカリカリさせたいと思うような反体制側に対しても、同じように�よくやるなぁ�と思っていた。�とりあえず、あんまり人に嫌われず、目立たずにいられたらいいんでないのー?�という、よくいがちなフヌケた子供だったのです。  しかしそんな私も、歳をとるに従ってだんだんと�真面目に生きるっていうのも、いいもんだね�と思うようになってきました。若者というのは、たいてい不真面目に憧れます。私も、高校生時代などは「なにごとにも真面目に取り組む先輩」と「遊び人で顔の広い先輩」と、どちらに憧れたかといえば、やっぱり後者。なにごとにも真面目な人というのは、たいてい服装や遊びに対しては興味がなく、はっきり言ってダサい。そのダサい人が生徒会の集会で、 「本年度の生徒会予算は……」  などと叫んでいる姿よりも、文化祭で他校の男の子に囲まれているレイヤードカット(当時は流行とされていた)のおしゃれな先輩のほうが、そりゃあ格好いいというものです。�私も、あんな風になれたらなぁ�とレイヤードカットの先輩を見ていた私は、真面目さなんて、なんの価値もないものだと信じていたのです。  ところが今になって、「なにごとにも真面目」だった人と「遊び人」だった人のその後を見てみると、「なにごとにも真面目」だった人のほうが、意外と格好良くなっているのです。なにごとにも真面目だった人は、服装センスも(割と)まともになり、キャリアウーマンとして活躍しているか、地道に専業主婦をやっている。対して元遊び人は、「真面目に働くのもカッタルイしー、主婦なんて地味なことやってらんないしー」という姿勢をとり続けているうちに、「元遊び人」という経歴を持つ大人に共通する、なんとなく疲れた感じの漂う人になってしまっている。  そう、「真面目」は、結果が出るまでが長いが、息も長い。しかし「不真面目」は、輝くときに放つ光量は多いけれど、それを維持するのが大変なうえに、非常に朽ちやすいのです。ジェームス・ディーンのように早死にでもするか、特別な道に入る以外、「永遠に不真面目」でいるのはとても難しい。  なぜそうなのかと言えば、やはり「真面目さ」は一種の性分であっても、「不真面目さ」は必ずしも性分ではないから、なのでしょう。真面目な人は、生まれつき根っからの真面目な人なので、一生真面目に暮らしても別に苦ではない。しかし不真面目な人は、若いが故に突っ張って、無理をして「不真面目」をやっているので、ある程度歳をとると、疲れてしまう。無理をすればするほど、疲れも早くきます。暴走族の方々が十八で引退したり、二十歳前に結婚したりするのはこのためではないかと思われます。  真面目でも不真面目でもなかった私も、今になってみてやっと「真面目も、いいもんだ」と思っています。真面目も積もれば、山となる。もちろん、真面目に不真面目をやっていればそれなりに積もるものもあるようですが、真面目に「不真面目な人生」を生きるのは、真面目に「真面目な人生」を生きるより、よっぽど難しい。ほとんどの人は、不真面目に「不真面目な人生」を送っています。  私も、どうやらこの部類に属するようです。真面目にはなれず、かといって不良にもなれず。子供の頃、例の反省タイムで、 「酒井さんは、授業中におしゃべりばかりしていました」  と私のことをチクッたガリ勉タイプの子を今見てみれば、立派な研究者になっている。また、 「○○さん達は、花アブ(刺さない種類のアブを私達はこう呼んでいた)に糸を結びつけて遊んでいました。そういうことは、可哀相だと思います」  とチクッた子を見てみれば、今では立派な看護婦さん。また、 「××さんは、給食のブドウパンをこっそり捨てていました。ちゃんと食べなくては、いけないと思います」  と発言するほどに真面目に女の子らしく暮らしていた友達は、今は子供を二人育てる立派なお母さんになっているのです。うーん、やはり真面目に生きるってことは大切なことだったのだ。子供の頃から「クソ真面目で面白くない奴」「いい子ぶっちゃって」などと言われながらも真面目な姿勢を崩さなかったこの人達は、なんと人生を知る達人であったことか……。  ……と、感心していてもしょうがない。私は今、実は�私も真面目になりたい�と密かに思っているのです。私のような中途半端な人間が真面目になりたいと思っても、その道は困難にあふれています。かえって元暴走族、というような人が、 「俺も真人間になりたいっスよぉ」  ということで真面目になろうとするほうが、よっぽど簡単。そう、彼らは「不真面目な生活」はしてきたかもしれないけれど、根は真面目なことが多いのです。だから一回「真面目になろう」と決心したが最後、真面目に真面目な生活を送る、という金八先生っぽいパターンにはまる可能性を秘めている。  しかし私のような者の場合は、根っこの部分からして、あいまいです。真面目でも、不真面目でもない。世界のどこかに存在する難民達の悲惨なニュース映像を見れば、�ああ、可哀相だな�と思うけれど、ボランティアで現地に行く気はないし、ユニセフに募金もしない。パチンコはたまにやるけど、身を持ち崩すほどのギャンブルはしない。人の悪口は言うけれど、殴ることはしない……。善人でもなく、嫌われることを気にしないほどの悪人でもないのです。  私のような者が「真面目になりたい」と思って、なることができるのか。世の中には、努力すればできることと、そうでないことがあります。たとえば、太っている男の人に「痩せてみろ」と言えば、努力すればどうにかなる。しかし彼に「女になれ」と言っても、これは無理ってものです(特殊な事例は除く)。  果たして、私に「真面目になれ」というのは、そのどちらのパターンなのであろうか。これは性善説と性悪説にもつながるとっても難しそうな問題ですが、そう複雑に考えるのはやめて、「なぜ今まで私が真面目になれなかったか」ということから、考えてみたいと思います。  まず一つに、ごく若い頃は、周囲の目が気になったが故に真面目になれなかった、ということがあります。実は私、嗜好としては真面目好きなのです。テレビはもっぱらNHKだし、宮沢賢治を読んでジーンときたりするし、資源の無駄使いをしないために、原稿は失敗したコピー用紙の裏に書いている。しかし学生時代は、レイヤードヘアに憧れていた手前もあって、その嗜好を素直に人前で出すのが恥ずかしかった。不真面目ぶっている仲間うちでは、真面目であることは罪、だったのです。  試験前にちゃんと勉強している、というだけで「面白みのない人」「要領のいい人」と見られるのが、高校時代です。そういった視線を避けるためには、「私はこんなにダメ女である」というアピールを常にしておかなくてはならなかった。もうすぐ試験、というときに夜遊びに誘われても、 「勉強があるから……」  などと言ってはなりません。自分の中の真面目さと、�つまらない奴と思われたくない�という意識とに挟まれた結果、「夜中の一時や二時に帰ってきてから、おもむろに英単語を覚える」という、大変なんだか大変ではないのかよくわからない生活をすることになります。  嗜好と思考は違う、というのも、私が真面目になれない原因の一つでしょう。「真面目な人や真面目なものが好き」というのが、私の嗜好。しかし、たとえばテレビで、真面目にボランティア活動をする人のドキュメンタリー番組を見るのは大好きなのですが、�ああ、面白かった�で終わる。感動して泣いたりすらするのに、けっして�この人と同じように行動しよう�とは思わない。  私はもしかしたら、珍しいもの見たさと同じ感覚で、真面目さを愛好しているのかもしれません。自分とはかけ離れた世界だから、見てみたい。ただそれだけ。ボランティア活動をする人のドキュメンタリーを見たあとの�ああ、面白かった�は、スプラッター映画を見たあとの�ああ、面白かった�と、同種なのかもしれません。  また、「真面目さ」は「几帳面さ」とある程度リンクしています。自分の中に「ああするべき、こうするべき」というガイドラインを多く持っている人は、真面目と言われがち。しかし、私に徹底的に欠落しているのが、この几帳面さなのです。自分の中に存在するのは「痛そうなこと、速そうなこと(ジェットコースターとか)、怒られそうなことは避ける」という信条のみ。あとはどんなにだらしなくても、 「死にゃあしない」  という最低ラインをクリアしていれば、どんどん怠ける。  おかげで私は、会社員時代も、自分が失敗しているくせに、 「ちょっとくらい取引先の会社名間違えたって死ぬわけじゃなし。どうせ向こうも気がついてないっすよ」  とか、 「パンフレットなんて誰も読んでないんだから、ちょっとくらい誤字があったって平気」  などとほざき、周囲の顰蹙《ひんしゆく》を買っていたものです。  ……こう考えてみると、どこかで私の基本的な性格の変換が行なわれない限り、「真面目になりたい」という希望はかなえられそうにありません。  しかし、お題目を唱えさえすれば救われる、と昔の人が言ったように、「真面目になりたい」とさえ思っていれば、神様がどこかで�おお、根っからの悪人でもないのだな�なんて思って救ってくれないかな、などと考えて、とりあえず希望だけは捨てない私。本当に、どこまでもムシがいいのでした。 [#改ページ]  不潔  どんなに世論が取り上げようと、おそらく絶滅はしないと思われるのが、学校内におけるいじめ問題。そういえば私の小学生時代にも、似たようなものはありました。  小学校において最もいじめられやすいのは、友達から「フケツ」と判断されてしまった児童です。子供達は、親から、 「手を洗わないでおやつを食べるなんて、フケツですよ!」 「そんなフケツな物、触らないの!」  などと、「フケツ」はとんでもなく悪いことである、という教育をごく幼いうちからされています。だから、まだ「フケツ」は「不潔」と書くのだとも知らないうちから、非難する言葉としての「フケツ」を、しっかりと記憶してしまっているのです。  子供達の世界は、弱肉強食の世界でもあります。倫理とか規則がはっきりと確立されていない社会においては、自分が生き残るためには、他人を蹴落とさなくてはなりません。だから、周囲の人間の弱味を発見したら、徹底的にそこを攻撃する。ロス五輪のとき、山下泰裕選手の痛めた脚を攻撃しなかったラシュワン選手のような態度は、子供の世界では特に称賛されるべきものではないのです。  給食で残ったミカンやパンを机の中に入れっ放しにしている子や、頭にフケがある子を発見すると、子供達の心はウキウキと躍ります。特に、パンにカビなんかはえていようものなら、鬼の首を取ったような表情になることでしょう。そう、ちょうどライオンが弱い草食動物を発見したときのように。そして友達にささやくのです。 「なんか、あの子ってフケツだよね。カビはえたパン、そのまま机に入れといたんだよッ」  と。  子供は、「清潔は善、不潔は悪」という風に考えることは、ちょっと格好いいな、とも思っています。いつも、 「フケツにしちゃ駄目!」  と言うのは、大人でした。だから、ドロンコになって遊んで平気でいることはガキっぽくて格好悪いけれど、 「あの子ってフケツ」  と醒《さ》めた目で朋輩を見ることは、大人っぽいように思えるのです。  私も、子供の頃はそんなようなものでした。自分が常に「善」の側にいるためには、自分で「悪」の側を作らなければならないと感じたのでしょう。他人から「フケツ」と言われる前に、他人を「フケツ」と言わなくてはならなかった。自分と仲が良かった子でも、いったん「フケツ」と周囲で言われはじめると、罪悪感を覚えながらも、自分もあまり近寄らないようにもしたものです。 「エンガチョ」などという遊びは、この辺の心理をよく表しています。何か不潔な物に触ってしまったり(犬の糞を踏んでしまうとか)、「フケツ」と言われている友達と接触があったりすると、 「わー、汚い。エンガチョ!」  などと言いながら他人に触れ、指を「〆」の形にする。そうすることによって、自分が持ってしまった「けがれ」が、他人にうつったことになるのです。うつされた子は、また別の子に、 「エンガチョ!」  と言いながら手を触れて……。そのうち、皆がキャーキャー言いながら「エンガチョ」されることから逃げまわることになります。  つまり、自分がけがれた存在にならないためには、自分の力で、他人をけがれたものとしなければならなかった。「エンガチョ」という遊びはよくやりましたが、やるたびに�次は自分がエンガチョされてしまうのではないか�という恐怖心に襲われ、いたたまれない気持ちになったものです。  そんな私達が大人になった今、世の中では大「清潔ブーム」が続いています。不潔はますます「悪」となり、清潔な人でなければ大手を振って歩けないようになりました。異性を見るときなども、「清潔感」という条件は必須中の必須。「お金持ち」「優しい」「格好いい」といった条件は、「清潔」の前においては二次的なものとなります。  しかしそんな中で、不潔の復興とでも言うべき傾向も、わずかながら見ることができます。世の中があまりにも清潔な物、清潔な人ばかりであることに、居心地の悪さを覚える人が現れたのです。実は私も、そう。私は、子供の頃こそ、「あの子ってフケツ」とか「エンガチョ」的な言葉を発しやすく、またトイレの水を流すレバーをも、 「こんなの手で押すの、フケツよ」  と、たとえそれが腰より上の高さについていたとしても、無理矢理に脚を上げて踏んでいたのですが、それはものすごく一時的なものだったのです。  おそらく私が清潔ぶっていたのは、「仲間外れになりたくない」「大人っぽいと思われたい」という理由のためだけ、でした。私は性格的に清潔好きだったのではなく、流行として、もしくは嫌われないための手段としての清潔好きだったのです。  清潔ぶりっ子のメッキは、大人になるにつれて剥がれてきました。自分も周囲も歳をとってくると、仲間外れになることを心配することもなくなり、また「大人っぽいと思われたい」とも当然ながら思わなくなりました。次第に自分の素の性質が、出てきます。そうしたら私はぜんぜん清潔好きではなかった。  なるべく荷物を少なくしたいと思うと、旅行に行って十日間同じ服を着ていても平気だし、床に落ちた物を食べるのも大丈夫。胃も丈夫なので、「これって……まだ腐ってない?」というような物を食べても、なんともなかったりもする。鼻をかんだティッシュを放置しておいたら乾いていたのでまたかんで、それが乾いてまたかんで……と何回もくり返すのでティッシュはなかなか捨てられないし、自分の部屋の床にゴミが落ちていたとしても、�ああ、落ちてるなぁ……�と思いながら三カ月くらいはすぐ過ぎる。  この時代、私のような性癖の女子は、なかなか素直に生きにくいものです。これが男性であれば、 「俺、もう一週間もシャンプーしてないよ」  とか、 「この前寝てたら自分の身体のうえをゴキブリが歩いててさぁ」  などと言っても、一種の武勇伝と評価される可能性もあります。特に独身男性で一人暮らしをしていると、部屋が汚いことを自慢することによって、一部の独身女性の母性本能をくすぐろうとしている場合も、ある。  が、同じ「一週間シャンプーしてない」発言を女性がしたら、どうでしょう。 「まっ、酒井さんったらずいぶんと環境適応能力がお強くてらっしゃるのね」  などと口では言われるかもしれませんが、みんな心の中では�この人って、何?�と思うことでしょう。だから本当は私、ここに書いたことよりもっともーっと不潔な状態になっても平気なんですけど、保身のためにはなかなか他人に打ち明けられない。  私のような人間は、あまりに不潔に弱い人間を見るとムカつきます。 「喫茶店のおしぼりとかって、なんか変なにおいがして好きじゃないの」  などと言う女の前では、 「あーっ、サッパリするわ!」  と、おしぼりで顔から首の裏まで拭く。そして�フン、あんた達なんか今はきれいにして幸せで偉そうだけど、もし無人島に置き去りにされたら三日で死んじゃうんだからねッ�と、心の中で悪態をついたりする。缶ジュースは不潔だから直接飲めない、などという人にもムッとする。�日頃から雑菌を身体の中に入れておかないと、イザっていうときに抗体がなくてすぐ弱っちゃうんだから�と、医学的にたいした根拠のないことを思いつつ。  実は私、この「不潔でも平気」な自分を、少し自慢したい気持ちを持っています。やはり、ある傾向が極端に強まると、反作用は必ず出てくる。清潔がブームになれば、「ふーんだ、不潔でいられる女のほうが、今や希少価値があるんだからね」と自慢したくなるのが、人の常。  ファッションの流行だって、そうです。高級でエレガントなブランド物が流行《はや》ったかと思うと、次は反動でボロ風のモードが流行する。わざと破いたり、サイズが合わない服を着たりすることを、ぴかぴかの格好をしている人達に自慢したくなってくるのです。  今の若者達の行動にも、そういった「不潔への回帰」を見ることができます。たとえば、ごく普通の路上や地下道に、年配者から見ればいかにも不潔っぽい洋服姿のまま、べたっと座っておしゃべりをしている若者達。昔は、路上に座るのはホームレスの方か、外国人の方でした。若者は、きれいな喫茶店の中でお茶を飲むのが好きだったものです。それが今や、若者達は「路上にも堂々と座れちゃう自分」に酔っています。おそらく、この姿勢は西洋人の不良の真似をしたものだと思われます。  彼等の「路上座り」は、少し前のツッパリの方達が路上でよくやっていた「ウンコ座り」とも異なります。ツッパリや暴走族の方達は、路上でしゃがみはしましたが、座ることはしなかった。その辺は、礼儀や義理人情といった日本古来の精神文化を妙に大切にする彼等の、「譲れない部分」だったのかもしれません。  今の若者達には「譲れない部分」は、ほとんどありません。自分がいかに無気力でちゃんとしていないか、をアピールできればできるだけ格好いいと思っている。だから、服のままできるだけだらしなく路上に座る、というような行為を好むのです。  アウトドアブームというのも、あります。ブームの背景として、自然とのふれあいが求められているだのなんだのと言われていますが、他の理由もあると思う。おしゃれなイタリア料理の店へ行ったり、美しいホテルに泊まったりすることに魅力を感じてきた人達が、そのあまりにツルツルでピカピカな感触に、飽きてきた。そしてハタと、�もう少し、ザラザラでベトベトの、不潔っぽいエッセンスが欲しい……�と思ったのではないでしょうか。だから、鉄板で炒めるときにちょっと風で飛んだ砂が混じってしまったソース焼きそばなんかを食べて、 「こういうのって、おいしいよねーっ」  と、喜ぶ。  しかし私は、清潔すぎる人を見てもムカつくのですが、その手の「最近流行の不潔に目覚めた人」を見ても、ムカついてしまうのです。�ふん、新参者のクセにデカい面しやがって……�と。 「私って、けっこう大雑把で、何があっても平気、みたいなヒトなんです」  というような発言で人気を取ろうと思っているその魂胆が、自分もそうなのでよくわかってしまう。だから、嫌。  そんな私も、流行としての不潔を、楽しんでいるだけなのかもしれません。私達の生活は、すでにベースの部分が清潔であるから、余暇としての不潔を楽しむことができる。しかし、もしもベースそのものが不潔だったら、果たして、 「ああ、こういうのって居心地がいい」  などと悠長なことを言っていられるかは、疑問です。  世の中には、もっともっとハードな不潔がある。そう思うと、私の不潔好きなんぞ、ほんのお嬢さま芸でしかないと思うのでした。 [#改ページ]  貧乏くさい 「貧乏」を芸にしている人がいます。貧乏であることをネタにして笑いをとるコメディアンもいれば、貧乏関係の書籍も多数出版されている。貧乏ファンの底辺の広さを感じずにはいられません。確かに今の世の中、なかなか本物の貧乏を経験する機会は少ないわけで、世の中の大多数を占める貧乏知らずの人々にとって、貧乏経験は新鮮に聞こえるのでしょう。  昔、「貧乏」は完全に負のイメージを持っていました。貧乏は悪いことであり、悲しむべき境遇であり、そこから抜け出そうとするのは人間として当然の行動である……というように。しかし最近、貧乏そのもののイメージは、やや変わってきたように思うのです。貧乏の希少性に注目が集まり、まるでファッション好きの青少年達が「レア物」を欲しがるように、「貧乏」という生活パターンも、 「なんか、面白そうだよね」  という風に珍しがられる。  昔であれば、人は「いかに自分は豊かであるか」を他人に対してアピールしたがるのが普通でした。本当は貧乏であっても、それを表に出さないようにしたものなのです。しかし今では、 「私、貧乏だからさぁ」 「うちって貧乏なんだよね」  というような言葉を平気で口に出す人が多い。もちろん彼等は本当に貧困にあえいでいるわけではありません。ただ、「たくさんお金があるわけではない」という事実を、自分の個性の一部として利用できるしたたかさを持っているのです。  今の日本において、金持ち自慢をするには相当の覚悟が必要です。お金を持っているというだけで周囲からは悪人と思われる時代ですから、そのうえ自慢などしようものなら、非難中傷そしてやっかみでボロボロになること間違いなし。他人からどう思われても構わない、というくらい肝を据えていないと、金持ちなんてやってられないことでしょう。  恵まれた者=悪人、恵まれない者=善人、という法則はいつの世でも生きています。美人は性格が悪く、ブスは心根が優しい……と、美人でない女性は信じたがるものですし、またその考え方は恵まれない者に残された唯一の救いの道なのです。お金持ちとそうでない人の関係も、同じ。なにごとにおいても恵まれている人は、 「だけど性格は悪いのよね。いくら恵まれていても、あんな人にはなりたくないわ」  と陰で言われることを、覚悟しておかなくてはなりません。  近頃貧乏のフリをする人が多いのは、この辺にも原因はあるのでしょう。本当はローレックスの時計なんかも持っているけれど、見せびらかしては嫌われる。だから、 「私って、貧乏だから……」  と、時計を隠して貧乏ぶり発言。  ただ、たまに「貧乏」と「貧乏くさい」を混同してしまっている人がいます。世の中で何が格好悪いと言って、オリジナルの人気にあやかろうとする「似て非なるもの」の存在ほど、格好悪いものはありません。郷ひろみに対する若人あきら。伊勢の「赤福」に対する「御福」(伊勢近辺のキオスクで売っている類似商品。ピンク色のパッケージも赤福と似ていて、急いで電車に乗らなくてはならないときに「あっ、赤福だ!」などと思って買ってしまうと、あとから非常に後悔する)。いずれも、とてもダサい。同じように、「貧乏」は今や愛すべき存在ですが、「貧乏くさい」は好かれないのです。 「貧乏くさい」のどこが格好悪いのかというと、それは「徹していない」部分でしょう。貧乏なのか、貧乏ではないのか、よくわからない。郷ひろみのそっくりさんなのか、ものまね芸人なのかどちらかはっきりしない若人あきらのようなものです。  貧乏くさい人は、かならずしも貧乏ではありません。貧乏であれ中流であれ、はたまた普通に見たら「お金持ち」に見える人であったとしても、自分の暮らしを、自分が持つ経済力のレベルよりも上に見せようとしている人は、共通して貧乏くさく見えるものです。  たとえば、OL風の女の子がシャネルのカバンを持っていたとします。しかし、彼女の全体の姿が、パンプスは踵《かかと》が減ったまま修理もしておらず、ストッキングは伝線し、指輪はメッキが剥げてしまっている……という状態だったとしたら、どう見えるか。本物のシャネルバッグですら�あれって絶対ニセモノだよね�と見られ、�なんだか、ニセモノ買ってまでシャネルを持ちたいって思うのって、貧乏くさい……�とまで思われてしまうことでしょう。  すごーく小さい家の駐車場に、ベンツなどの高級車がとまっているのを見るときも、同じような思いを抱きます。日曜日になると、その家のお父さんは、息子がもう着なくなったTシャツを着て、いとおしそうにベンツを洗っています。  そのお父さんが、どんな思いでベンツを買い、そしてどんなに大切にしているかが見えてくるのです。広い家に買い替えるだけのお金はないが、長年の夢であったベンツ(それも中古の190)なら買える……との思いで奥さんの「なにもそんな見栄を張らなくったって」という反対などにも遇《あ》いながらやっと手にした、ささやかな幸せなのでしょう。……しかし、やっぱり貧乏くさいものは貧乏くさい。そこにある車が、カローラやコロナだったら、別になんてことはなく見過ごす風景なのですが、ベンツであるだけに哀《かな》しくてしょうがないのです。  きっと貧乏くささというのは、「ワンランク上の人間に見られたい」という気持ちから発生してくるものなのでしょう。「頂点に立つ人間になりたい!」とか「お金持ちになりたい!」というハングリーな気持ちとは違い、ただワンランク上に「見られたい」という精神。現状に不満というわけではないけれど、あわよくばも少し上の生活をしている人だと誤解されたら嬉しいな、というみみっちい気持ちが、貧乏神ならぬ貧乏臭神を呼び寄せてしまうのです。 「ワンランク上」は、金銭面に限ったことではありません。ファッションセンスのうえにおいても、使いこなすには自分がいるステージよりも高いセンスが必要な服飾品を突然取り入れてしまうと、そこには貧乏くささが発生します。たとえば、ファッション雑誌の編集者が、モード系の格好をして黒いマニキュアを塗っていても、「ああ、そういう人なのね」と人々は見るでしょう。でも、コムデギャルソンの服を一枚持っている程度の�モードにちょっと興味があるOL�が、割と普通の格好をしているのに黒いマニキュアをしてしまうと、突飛で、不潔そうで、貧乏くさい。  破れたジーンズにしても、それなりの若者が着れば「ファッションなのね」と思うでしょうが、ごく普通の真面目な青年が、�そうかぁ、破れたジーンズとか着ると、センス良く見えるかも�などと思って着てしまうと、周囲の人間に�この人って……貧乏?�と思わせてしまいます。  結婚披露宴という場においては、そのような貧乏くささを大量に目撃することができます。皆、「普段よりオシャレにしなくてはならない」というプレッシャーを抱え、普段の自分を見失っているのです。男子の場合は、�一味ちがうセンスのいい男だと思われたい�と、カマーバンドと蝶ネクタイを、揃いのペイズリー柄にしていたりするのですが、どう見ても普通の黒のほうが平均的日本人には格好いい。  また女子の場合は、通常に自分のファッションのポリシーをすっかり忘れてしまっている人が目立ちます。美容院でアップにした髪にかすみ草を差しこみ、ふくらはぎくらいの中途半端な丈の、サテン地フレアドレスを着ていたりする。それが貸し衣装屋さんのドレスであることは一目瞭然であり、「ワンランク上のファッション」を目指すが故に気合いが空回りしていることが見てとれます。「センスの良い服装」よりも「単に派手な服装」になってしまっているところが、哀しいのでした。  しかし、そう考えていくとこの「貧乏くささ」というのは、日本人なら誰しもが抱える問題のような気もしてきます。ちょっとやそっとお金があっても、本当に豊かな生活を望むのは無理。だから、車だけ、時計だけ、といった一点豪華主義的な趣向に走り、かえって「豪華」の周辺にある貧しさが際立ってしまう。池袋にキャバレーや居酒屋ばかりあった時代は、一軒一軒の店の汚さなど何も気にならなかったけれど、そこに突然立派なホールやデパートが建ってしまうと、残ったキャバレーがやたらと薄汚く見えてしまうようなものでしょうか。  また、「シンプル」であることに対して、罪悪感に近い拒否反応を示してしまうという古くからある日本人の感情にも、貧乏くささの原因はあるかもしれません。そこに空間があったら物を置かずにはいられない。真っ白な物があったら模様がないと寂しい。そして客が来たら間断なく食べ物を勧めなくては気がおさまらない……。というように、「シンプル恐怖症」の人は多い。しかしその結果、街の風景も家のインテリアも、お金をかけているのに、貧乏くさいものになってしまっている。  もちろん、以前のように花柄の炊飯器やポットといった、シンプル恐怖症からくるあからさまに趣味の悪いグッズは減ってきましたが、まだまだ完治したとは思えない。テレビでよくやっている「テレフォンショッピング」を見れば、シンプル恐怖症からくる貧乏くささがどういうものか、よーくわかるのではないかと思います。 「今日は、軽くて暖か、大型毛布三点セットをお届けします!」  といったときの毛布の模様を見よ。 「これなら、寝相が悪い人や身長の高い人でも風邪をひく心配はありませんね。柄もオシャレで、いいわぁ!」  と言うお姉ちゃんがなでる毛布は、大柄の花模様。おまけに赤・青・緑の三点セット。�これがキャメル色の無地だったら即、買ったのに……�と思いつつうなだれる人は多いことでしょう。 「今、このミシンをお買い求めいただいた方には、おしゃれな木目調の三段重ねソーイングボックスもプレゼント!」 「今、この布団圧縮シートをお買い求めいただいた方には、手軽にお粥《かゆ》が楽しめる、お粥炊飯|鍋《なべ》もプレゼント!」  といった「おまけ」も、シンプル恐怖症がもたらすものだと思います。三段重ねソーイングボックスやお粥炊飯鍋は、なきゃないでなんの問題もなく人生を終わらせられる物。そんな物が一つ増えれば、ただでさえ狭い日本の家はますます狭くなり、布団圧縮シートを買ってまで空間を求める意味が、まったくなくなってしまいます。  しかしもしかしたら私達日本人は、豊かであることに対して、世界の国々から、 「金持ちだと思って偉そうにしちゃって」  と非難されることを防ぐために、本能的にかつ無意識のうちに、自らの存在を貧乏くさいものにしているのかもしれません。元々、私達は慎み深い国民性です。堂々と金持ちぶるのは、恥ずかしくてできないのでしょう。それならば、身も心も貧乏くさくしていて、外国から、 「ダッサーい」  などと馬鹿にされているほうが、気が楽というもの。  日本の昔の写真や映像を見ていると、日本がまだ貧しかった時代のほうが、今より全然、街も人も貧乏くさくはないことに気づきます。豊かになるにつれ、どんどん貧乏くさくなっていった日本。やっぱりこういうのを、「貧乏性」と言うのでしょうか。 [#改ページ]  東京生まれ  東京生まれの人は、「嫌われないようにしながら、自慢をする」ということが、うまいようです。 「私って、東京生まれのクセに東京のこと何も知らないのよ。名所とか格好いいお店とか、ぜんぜん行ったことないし」  という言葉は、裏に�田舎の人が東京に来ると、必死になって色んなところをハングリーに見てまわってすっかり東京通になっちゃうけど、アタシみたいな根っからの東京者は、いつでもどこでも行けると思うからなーんにも知らないの。そのほうが格好いいの�という意味を含んでいる。  もちろん、 「私、東京生まれの東京育ちなものだから、田舎がなくって……。だから、帰る田舎がある人って、すっごく羨ましいの」  というのも、自慢です。そういう風に言えば、「帰る田舎を持つ人」は、絶対に、 「えーっ、東京生まれなんていいなぁ。私の家の周りなんか田圃《たんぼ》ばっかりで小学生なんかヘルメットかぶって通学しちゃうようなところなんだから。お正月とかお盆に帰省するのもいちいち面倒くさいしさぁ」  と、東京生まれの人を羨んでくれるから、言うのです。本当に�実家が田舎にあればいいのに�などと思っている人は、まずいないと言っていいでしょう。その東京人は、たまに�田舎って、いいなぁ�と思うだけなのですが、自分は東京生まれであることを際立たせるために、「田舎がある人って羨ましい」発言をしてしまうのです。  もしくはその東京人が、極端な恥ずかしがり屋であることも考えられます。自分が恵まれていることに対し、耐えられないくらいのいたたまれなさを感じてしまうタイプの人が、たまにいます。たとえば、親に新しいワンピースを着せられて家を出たはいいけど、�小学校にワンピース着てくる子なんて誰もいない。恥ずかしい�と思い悩み、わざとドロンコで汚してしまう子供のような。  その手の人が東京で生まれ育ったりすると、�東京出身が一番�と思うからこそ、地方出身の人に対して申し訳なく思い、どう接していいかわからなくなってしまうのです。�「三代前からずっと東京」とか、「おばあちゃんの若い頃には東京にも狸がいた」とか言ったら、「こいつ自慢してやがる」なんて思われちゃうんじゃないか�という風に考えてしまう。だから、素直な気持ちから、 「帰る田舎がある人は羨ましい」  という発言になるのです。  その手の人が、東京において地方出身の人ばかり集まっている所に、東京出身者として一人でいると、居心地の悪さを強く感じるようです。�ここで、もしも「私、生まれも育ちも東京デース」なんて言ったら、心に血の通っていない人と思われてしまうかも�とか、�「親と一緒に住んでます」なんて口に出した日には、苦労を知らずの甘い人間だと思われて、誰も友達になってくれないかもしれない�と過剰な心配をして、無口になってしまったりするのです。  私は、東京で生まれ育ちました。が、単純に�あーよかった、東京生まれで�と思っています。別に、 「いいなあ、田舎がある人って」  というような発言をしたくはありません。そういうことを言うと、いかにも人間的な心に欠けている冷たい人間と思われそうですが、事実なのでしょうがない。  緑豊かな自然と、地方特有のあったかみあふれる人情の中で育ってこそ真人間、という風潮は確かにあります。東京にいたって地方にいたって、本人の努力次第でいくらでも充実した生活を送ることはできる、というのも正論だと思う。東京がすべてではない、という意見にも、おおいに納得。  しかし。私は、ごく普通の人間なのです。華やかなものには目がいくし、また特にクソ意地やガッツが発達しているタイプではない。�もし私が、地方に生まれたら?�と考えてみると、絶対、女性雑誌に、 「私は地方の信用金庫に勤めて三年目のOLです。本当は東京の大学へ行きたかったのですが、親に反対され、地元の短大へ進み、就職しました。しかしこの町にあるのは、山と田圃だけ。刺激もいい男も面白い遊びも、とにかく何もないところなのです。このまま歳をとって、地元の人と結婚して、一生田舎で暮らすかと思うと、ゾッとします。東京の華やかなOL達の姿を雑誌で見ていると、紺のジャンパースカートの制服でお茶汲みをしている自分が嫌になります。今からでも東京に行って暮らしてみたいと思うのですが……?」  などという相談を投書していることでしょう。そして、辛口の意見が評判の先生に、 「あなたは甘い。まず自分は何をやりたいのか。なぜ東京に行きたいと思うのか。そしてこれから先、どういう人生を送りたいのか。そういった問題を、はっきりさせなさい。ただ今の状態がつまらないとか、都会は華やかだからというだけで悩んでいても、何も始まりません。空気のいい田舎でずっと過ごすことができるなんて、本当はとても幸せなことなのに、あなたは『他人の芝生は青い』という状態になっているのではありませんか?」  と、諭されてしまうのです。  しかし、いくら諭されても田舎は田舎。�なんで東京に行きたいかって言われてもなぁ……。やっぱりこっちはつまんないしなんとなく向こうは楽しそうだし格好いい男の人もいっぱいいそうだし……。でも仕事探したりするのも大変そうだし……�なんて考え、結局は不満を持ちながらも、ダラダラと何もせずに過ごしてしまう。  というように、私は怠惰でいて意志薄弱、そして落ち着いているフリをしながらもミーハーという自分の性格を熟知しています。そんな私がもし地方に生まれたら、積極的にその地方に根を下ろす割りきりもできず、積極的に東京に出ていく行動力も持たず、悶々《もんもん》としていたであろうことは、容易に想像がつく。だから素直に、�あーよかった、東京生まれで�と思うのです。少なくとも、�東京に行けば、すべては楽しいほうに転がるのではないか�という気持ちにさいなまれることだけは、なかったのですから。  私は、子供の頃から「東京に生まれた」という偶然を、神様に感謝していました。「マーガレット」のおたより欄に載っていた、 「私はみやぎ県に住んでいます。足立区とか目黒区とか板橋区とか、東京の住所を見るとカッコいいなーッて、思います。東京に住んでいる方、文通しましょう  石巻市のMAMI」  などという投書を読み、子供は子供なりに、「東京一極集中の、この社会。やっぱり東京生まれは、トクに違いない」ということを感じていたのです。�日本の人口の一割は東京に集中しているのだから、「私が東京に生まれる」ということの確率は、「私が新潟県長岡市に生まれる」とか「私が長崎県佐世保市に生まれる」ということの確率よりもずっと高いのだ。しかし、「東京に生まれる子供」の数と「東京以外の場所で生まれる子供」の数を比べたら、後者のほうがずっと多い。やっぱりなんてラッキーだったのだろう……�と考えていた私は、子供の頃からの怠け者でした。  東京生まれといっても、いいことばかりではありません。ある東京生まれの男性は、 「仕事で地方に行くと、東京出身者って冷たいとか怖いっていう印象があるみたいなんですよね。でも僕ってなぜか東京生まれには見えないらしくて、助かるんですけど」  と言っていました。確かに、東京生まれというだけで「性格が悪い」とか「怖い」などと思われるケースは、あるようです。関西の女性とつきあって、 「なんか東京の人の言葉ってキツい」  と嫌われた男性もいる。私も、地方の家庭で食事をご馳走になったりすると、 「こんなものは東京の人の口には合わないかもしれないけど、まぁこっちの名物だから食べてみて下さい。ぜんぜんたいしたものじゃないけど……」  みたいな感じで言われ、�私、(山本)マスヒロ君じゃないんですけど……�と思ってしまう。東京生まれといっても所詮は日本人なわけですが、どうも全国的なイメージとして「自然を破壊してもなんとも思わず、ギスギスとお金のことばかり考えてる人」というように、言ってみれば海外における日本人のイメージを凝縮させたような存在、と思われているようです。  地方の人から悪く思われるばかりではありません。東京内部においても、うかうかしてはいられません。一口に東京と言っても、激しい闘いが、内部にはあるのです。まず、下町の人は「下町が東京でいちばん偉い」と思っていて、さらに下町と言われる地域の中でも、格の上下があるのなんのとうるさい。  私が友達と浅草のもんじゃ焼き屋さんに入ったときも、深くそれを感じたものです。ごく普通の焼き方でもんじゃを作って食べていたら、店のおばさんがにじり寄ってきて、 「焼く前に何か味、つけたでしょう。ここのはダシ自体がおいしいから、味はつけなくていいのよね。それに焼き方も違うのよ。よく月島あたりで食べてるような人は知ったかぶりしてそういう焼き方しちゃうんだけど、ここの焼き方は違うのよね。ま、人それぞれだから黙って見てたけど……」  と、バリバリ文句を言いだした。内心、�それなら最後まで黙って見てろよ�と思ったけれど、部外者の私としては下町の人が怖くて文句は言えない。一緒にいた友達は同じく下町の両国在住だったのですが、あとから、 「アタシ、両国に住んでるなんてとても言えなかった。恐るべし、浅草……」  と言って肩を落としていた。  対して山の手の人は、「山の手は東京で一番格好いい」と思っています。もちろん、山の手と言われる地域内のライバル意識は猛烈で、「世田谷ごときで偉そうにしちゃって。あんなとこ、昔はただのハタケだったんだから。世田谷に住みたがる芸能人なんて屁みたいなもんよ」  と、松濤の住民がムナクソ悪く思っていたりする。さらには「文化レベルで言えば文京区」とか「目白がシブい」だのと意見が入り乱れ、大変な騒ぎ。  二十七市というのもあります。武蔵野市だの国立市だのといったところでは、「緑豊かな学園都市」的な、二十三区にはないウリで対抗してくる。とにかく、東京内部における抗争は激烈を極めるのです。だから東京で生まれたからと言って、幸せとは限らない。住居がどこにあるかによって、偉そうだったり自信がなさそうだったり。  私自身は、杉並区というところで生まれ育ちました。杉並区という場所は、いわゆる普通の住宅地です。都内でも非常にあいまい、というか中立っぽい立場を、とっている。山の手と言われることもあるけれど、地域的には武蔵野と呼ばれる地帯に近いので、本物の山の手ではない。当然ながら絶対に下町ではないけれど、中央線沿線でもあるので、下町っぽいムードもなきにしもあらず。だから、都民とは言っても反目しがちな「下町」「山の手」「市部」三地帯の人の気持ちをそれぞれ理解することができる区民性を持ち、またどの地帯の人が訪れても身の安全性が確保できるという、言ってみれば東京都におけるスイスのような場所、それが杉並区なのです。東京都の中でも、このような中立地帯に生まれることができたことも、私の「ラッキー」の一つでしょう。  というわけで、熾烈《しれつ》な争いが続く東京の中で生き残りながら、地方の人からも嫌われないようにするのは、非常に大変なこと。東京人のストレスは、案外そんな辺りからきているのかもしれません。地方の方も、あまり東京出身者を嫌わないでやって下さいね。本当はいい人も、多いんです。 [#改ページ]  ケチ  一人暮らしをするようになって、私は自分がケチであることを深く認識するようになりました。電気がつけっ放しになっていたり、シャワーから水がポタポタと落ちていたりすることに対し、非常にナーバスになったのです。家族と暮らしているときは、電気がつけっ放しになっている現場を発見しても、�あらあら、消さなくちゃ�くらいにしか思わなかった。しかし今は、�つけっ放しだなんて……あたしとしたことがなんてことだろう、一刻も早く消さなくちゃ、なんてもったいないことをしてしまったのだろう、ああどうしよう!�くらいのショックを受け、そこまでダッシュして消すのです。  この違いはどこから生まれたのだろう……と考えてみたところ、答えは簡単でした。自分で、電気代や水道代を払っているからです。親と一緒に住んでいたときは、「エネルギーを大切に」という意識のもとで、電気も水道もガスも、大切に使っていたと思うのです。しかし今は、�電気をつけている間中、料金の目盛りは刻々と上がり、そしてそのお金は私の銀行から引き落とされ、その分私の預金残高は確実に減るのだ!�という気持ちから、電気を消す。  それまでの私は、 「電気代も水道代も、けっこうかかるわよね」 「お風呂の残り湯で洗濯しちゃうもの」  などと話す主婦を、半分馬鹿にしていたのです。�んなもん、どんなに使ったっていくらも変わりゃしねぇだろうよ�と。確かに、普通の家庭でどんなにガスや電気をバンバン使おうが、洋服一枚買うのに比べればぜんぜん安いのです。しかし洋服の場合は、三万円なら三万円と金額が見えるけれど、電気代やガス代は、見ることができない。もちろん一カ月に三万円分も使うことはないとは知っていながら、�調子に乗って使っていたら、どんどん金額がかさんでしまうのでは?�という恐怖心に襲われるのです。その「だんだん増えていく」という恐怖は、カチカチと料金メーターが動く音を耳にしながらタクシーに乗っているときの�いくらになるんだろう?�の恐怖心であり、また値段が書いていない寿司屋における恐怖心でもあるのです。  タクシーも寿司屋も、他人が払ってくれる場合はまったく恐怖を感じません。自分のお金でタクシーに乗るときは、�目的地の近くの駅までは地下鉄で行って、そこからタクシーに乗ろう�などと思うくせに、タクシーチケットなんて貰《もら》おうものなら、 「じゃ、高速に乗って下さい」  となんの躊躇《ちゆうちよ》もせずに言う。寿司をおごってもらう場合も、�やっぱ、ウニ・イクラ・トロの連続じゃはしたないよな�と多少遠慮はするものの、間に青柳やアジを挟みこむことによって、希望の品はすべて食べる。  他人が払うものなら気にならないけれど、自分が払うとなると途端に少しのつけっ放しにもビクビクするとは、この吝嗇《りんしよく》さ! この意気地のなさ! �私って、お金に関してはけっこう無頓着なほうよね�と信じていたのに、初めて知る自分のセコさにびっくりしたのでした。  思い起こしてみれば、今までの生活の中にも「ケチ」の兆候はそこここに見えていたのでした。「ケチ」と「もったいながり」はよく似ている症状ですが、私にはその両方の性質が備わっています。おそらく育った家庭の影響が大きいのでしょう。祖母と折紙遊びをやるとき、使う紙はいつも新聞にはさまってくる広告チラシ。レストランに行って食事が余れば「犬のため」と持ち帰るのは当然で、パンが余ったときさえ、 「あら、もったいないわ」  とバター皿に残っているバターまで塗って、包んで持って帰ってくる母。家で使うサランラップだって、一度使って捨てるなんてこたぁ、絶対になかった。  そんな環境に育ったため、私は資源を大切にするようになり、ケチの芽をじっくりと育てていたのです。たとえば修学旅行で皆で歯を磨いているときなど、水をジャーッと出しっ放しにして歯ブラシを動かしている人を見てしまうと、もう居ても立ってもいられないような気持ちになった。オーバーでなく心臓が締めつけられるような緊張感に襲われましたが、かといって他人が使っている蛇口を私がいきなり閉めるわけにもいかず、いたたまれなくなってその場を去ったりしたものです。あれも、今思えばケチさの表れだったのでしょう。  もちろん、一応は女なので靴やカバンを買うのは好きです。買ったときは、買い物をしたとき特有の、充実感も得ることができる。しかし、その裏には必ず、罪悪感があるのです。子供の頃、親に服などを買ってもらったときも、�父親の月給はいくらくらいなのだろうか。その中から私のコートなど買ってもらったりして、あとにはいくら残るのだろうか。なんだか申し訳ない……�というような気持ちになった。  また、自分でお金を稼ぐようになってからも、買い物をするたびに�ああ、またこんなにお金を使ってしまった�と、ジトッと考える。「頑張った自分へのプレゼント!」などと、女性雑誌に出てくるようなフレーズをつぶやいてもみますが、�別にそんな頑張ってるわけでもないしな……�とますます陰鬱《いんうつ》な気分に。  ことに二十代後半になってからは、�アタシったらいい年をして服とかカバンばっかりにお金を使っていていいのだろうか?�という罪悪感が強くなりました。その手の買い物をするときは誰かについてきてもらって、買ったあとに、 「いやぁ、でもそれは本当に買ってよかったよ。すっごく似合ってるし、いい買い物だったと思うわ!」  と励ましまくってもらわないと、いつまでも�あたしったら……�となってしまうようになったのです。  ギャンブルをするときは、自分のケチさ具合をしみじみと感じることになります。マカオのカジノにて。私は「大小《だいしよう》」(サイコロの出目を当てるルーレットのようなもの)のテーブルに張りついていました。直前にやったドッグレースでも勝っていた私は、�今日はツイてるかも�と思ったら、本当についていた。でも、「ツイている」のは理解できるのですが、どうしても大きく張れないのです。�もしここではずれたら嫌だしな……�とついつい思い、セコい賭け方しかできない。結局、ちょろっと勝って�こういうのは勝ち逃げが一番�と納得しつつ、退散したのでした。  日常生活の中で自分のケチぶりを自覚するのは、食べ物を買うときでしょうか。�今日はちょっといい肉でも買うか!�という気分になっているときでも、お肉屋さんのガラスケースの前に行って百グラムあたりの値段を見比べているうちに、いつの間にか、 「切り落とし下さい」  などと言っている自分に気づくのです。私の頭の中では、�高い肉ってあるものねぇ。でも、百グラム千五百円の肉と、千四百円の肉って、どこが違うのかしら。きっと食べてわかるほど違わないわよねぇ�という風に考えています。その考えを�じゃあ千四百円の肉と千三百円の肉は……�と進めていくうちに、価格は�百グラム三百円も二百円も変わらないだろう�くらいに下落。ついには切り落としに到着する、というもの。  友達と「パスタでも作って一緒に食べようか」などとスーパーで買い物をしていて、互いのケチ具合が違うときは、あせります。友達は、ミートソース用の挽肉を、百グラムあたりの値段が一番高いやつにしている。 「乾燥バジルならうちにあるよ」  と言っているのに、 「ナマとは全然、風味が違うじゃん」  と外国野菜コーナーにおいてある高いナマのバジルもゲット。パスタがマ・マーではなくディチェコであることは、言わずもがな、でしょう。そんなときは、友達が、 「今日は私がおごるわ」  なんて言ってくれたとしても、私の罪悪感は爆発してしまいそうになります。それだけでなく彼女はパスタを作る折、うちにあった残り少ないエクストラバージンオリーブオイルを、 「こういうのはケチっちゃおいしくないのよねー」  とふんだんに使うではありませんか。私がその瞬間、殺意に近い感情を覚えてしまったことは言うまでもありません。  そんな私は、もちろん焼肉屋さんやウナギ屋さんといった所へ自腹で行くときは、悩みます。並か上か、という問題です。 「カルビ二つと……」  などと頼んで、お店の人が、 「上ですか? 並ですか?」  と聞いてきたときの、�ああ、上は食べたいけど肉ごときにこんなお金払うのもったいないし……�という微妙な気持ちよ。しかし、どこか恥ずかしくて、 「じゃあ……並でいっか」  などと言ってしまう。「並が」と言わず「並で」と言う部分に、いつもは上なんだけどたまには並を食べてみたい、というムードを漂わせようとするのです。しかし肉が来てみたら味がイマイチで、�ああ、好きな焼肉くらいケチらなければよかった�と、深く後悔するのでした。  ケチにも、上手・下手があるようです。私は、まんべんなくケチな割に、ダラダラとくだらないお金の使い方をしてしまうためになかなか満足感を得られない、というケチ下手。免許とりたての頃、車を買いたいと思ったこともあったけれど、�保険とかガソリン代とか駐車場代とかかかるしなー。やっぱもったいないなー�と思っているうちにその気持ちは失せ、結局今ではペーパードライバー。広告で見た新刊本を読みたいなぁ、と思って本屋さんに行っても、二千六百円などという値段にビビッて、�図書館で読めばいっか�と、買わない。しかし、図書館に行っても人気の本なのでいつまでも借りられず、気がつけば読まずじまい。文庫が出た頃に�そういえばこんな本、あったよね�で終わる。  だからといって、普段からきちんと節約しているわけでもない。お昼ごはんを食べようと思ったら、安くておいしい店が混んでいるのを見て�待つのは面倒だしぃ、マ、少しくらい高くてもいっか�とまずくて高い店で食べてしまう。旅行に行くにも、その地方のことがよくわかっていないものだから、何冊もガイドブックを買ったわりにはありがちな旅しかしていなかったりして。ケチした効果を、生活に生かせないのです。  ケチ上手は、もっと徹底しているものです。ワリカンと言ったら一円単位まできちっと割る。新しい洋服はほとんど買わず、リフォームに徹する。そしてその人達は、実際にケチって貯めたお金を効果的に使い、さらにお金持ちになったり、ドーンと高額消費をしたりしています。  やはり、「マメさ」と「度胸の良さ」を両方兼ね備えていないと、本当にケチを楽しむ生活はできないようです。しかし私の中途半端にケチな性格は、直りそうにもない。きっとこの先は、小金を畳の裏に貯めこんで誰にも渡さず嫌われて、そのうえで死んじゃうような、嫌なバアさんになりそうです。 [#改ページ]  ものぐさ  最近、おしっこをするのがとても面倒くさいのです。仕事をしていて尿意を覚えても、�あー、椅子から立って、トイレ行って、ベルト外してズボンとパンツおろして、おしっこして、ふいて、流して、またここに戻ってきて仕事を再開して……�という一連の流れを考えると、すごくおっくう。�あんまり我慢したら膀胱《ぼうこう》炎になっちゃうヨー�と思いつつも、尿意が仕事への意志を完全に凌駕《りようが》するまで、椅子に座り続けるのです。 「目の前に何か問題があったとしても、すぐに解決しようとする必要はない。問題解決を避けて避けて避けまくって、それでも逃げきれなかったときだけ、解決すればよい」……という処世訓《のようなもの》があります。私は、この言葉に�それは言える……�と実感を持ってうなずいてしまう、大変に怠惰な性質を持っています。  避けまくって避けられる問題なら、まだいいでしょう。おしっこ問題などは、いくら避けても避けきれるものではありません。しかし、それをわかっていて避けてしまうのが怠惰な者の性。�おしっこしたって、そうそう満足感を得られるわけでもないしなぁ�と思うと、なおさらなのです。  私が自分の並々ならぬものぐさに気づいたのは、大学生の頃でした。高校生までの私は、試験前になれば一応勉強もするし、たまにはクッキー作ったりするし、写真はちゃんとアルバムに入れて整理するし……ということで、�私って、けっこうマメなギャルじゃん�という誤解をしていたのです。  しかし、大学は高校とは違う世界でした。高校までの私のマメさは、あくまで「自分のためのマメ」でした。自分が大学に行きたいから勉強をし、自分がチョコレートのいっぱい入ったクッキーを食べたいから菓子を焼いていた。しかし、大学に入って周囲の女子学生を見ていると、彼女達が持つマメさは、自分のためというより、他者に向けられていたのです。  たとえば、ノートを取るという作業。共学の大学においては、たいてい女子のほうが真面目です。きちんと授業に出席し、読みやすくノートをとる。試験前になると、そういった女の子のノートのコピーが出回ることになります。私の友達の女の子は、みんな「ノート供給者」でした。しかし私は�完成したノートがあるのであれば、なんで私が授業に出席する必要があろうか?�とつい思ってしまった。私はもっぱらクラブ活動に専念し、試験前はひたすら友達のノートのコピー集め。試験前の混んでいる時期にコピー屋さんに行くのすら面倒だったので、 「あたしの分もコピーしといて」  と、何から何まで他人を頼っていたのです。  ノート供給側の女子達は、自分のノートのコピーが出回ることを、なんとも思っていませんでした。私だったら、�なんの苦労もせずに他人のノートを写しやがって、なんて虫のいい奴だ�などと思ってしまいそうですが、彼女達はラグビー部やアメフト部の男子から、 「またノート借りるなっ」  と言われると、 「本当にしょうがないんだから!」  などと言いつつも、満更でもなさそうにしていたものです。  その時期、他の面でも女子のマメさは驚異的にアップしました。特に、洋服や化粧など、自分を飾る作業においては、絶対に手を抜かなくなってきます。しかし私は前述のとおりクラブ活動ばかりしていたので、友達がそんなにマメになっているとは、夢にも思っていませんでした。  そんなこんなでふと気づくと、私はとんでもないものぐさ女になっていたのです。たとえば、バスタオル。我が家では、一枚のバスタオルを、最低四、五日は使います。それが、普通だと思っていました。大学のクラブで私は水のスポーツをやっていたのですが、その合宿のときなどは、一カ月を二枚のバスタオルで乗りきったものです。昼間、練習中に使うのが一枚と、夜お風呂に入ったときに使うのが一枚の、計二枚。それを乾かしながら、一回も洗わずに最後まで使う。  しかし話を聞くところによると、今の清潔好きの皆さんは、一回使ったバスタオルは、すぐ洗うというではありませんか。結婚した友達は、 「私の夫は、一回の入浴で洗い立てのタオルを四、五枚使わなくては気がすまない」  と言っていました。私は、とてもではありませんがそんな面倒なことはできません。水も洗剤も、もったいない。合宿をしているわけではないので別に一枚のバスタオルを一カ月使うとは言いませんが、「不潔な奴」と言われてもいいから、一回ずつバスタオルを洗うなどという面倒なことはしたくない。  髪型にしてもそうです。ファッション雑誌を見て、�いいなぁ�と思う髪型を発見することがある。しかし、その髪型にするには、カーラーを使用しなくてはならないらしいのです。一日くらいやってみることもあるのですが、二日目からはどうしても面倒くさくて、それができなくなる。しかし、電車の中でOLの方を見ていると、皆きれいにクルクルにしているものです。その手の髪型を毎日している友人がいるので、 「どうやってその髪型をキープしてるの?」  と聞いたところ、 「毎晩、髪を洗ったらカーラーを巻いて、そのまま寝てるのよ」  と教えてくれました。毎晩! カーラーを巻いて! 寝る!……シャンプーをしてからドライヤーで乾かすことすら面倒で、髪が湿ったまま�睡眠乾燥がいちばん�などと思いつつ眠りにつく私は、自分にはその髪型に憧れる資格はないと、思い知ったのでした。  このように、周囲の人々の几帳面さを見て、�ああ、私もマメにならなくちゃ�と思えばよかったのですが、私は反対に考えてしまいました。�みんなこんなにきちんとしているのだから、今さら私が頑張っても無駄だわ。私は、別路線で生きよう�と。以来、安心しきった私のモノグサさには拍車がかかったように思います。  最近は、ほとんど動物の「ナマケモノ」のようになってきました。たとえば、一回ある姿勢をとってしまうと、他の姿勢になるのが面倒なのです。仕事場の椅子にはキャスターがついているのですが、それはなぜかというと部屋の中で移動するのにいちいち立つのが面倒なため。電話が鳴ったりすると、座ったまま椅子ごとズリズリと移動しています。  手荷物を持って、飛行機に乗ったとします。手荷物の中には、カメラとか化粧水とかパスポートとかチョコレートなどが入っているので、けっこうな重さです。膝に荷物を置いて、シートベルトを締めます。しかし私はいったんシートベルトを締めてしまうと、その荷物を下に置いたり、上の荷物入れに移動させたりするのがもう嫌なのです。機内誌などを読みはじめようものならなおさらで、他人が「荷物、どこかに置いてあげましょうか」と気遣ってくれるか機内食が来るまで、ひたすらそのままの姿勢でいる。もちろん飛行機内でトイレに行く面倒さたるや尋常でなく、�シビン、欲しい�とか�カテーテルがあれば�などと、思ってしまう。  次のシーズンの洋服を買ってきたときも、ウキウキと帰ってきてショッピングバッグを部屋まで運んだはいいものの、自分の服を脱ぎ捨ててテレビをつけてウーロン茶なんぞ飲んでしまうと、もう「紙袋を開けて、新しい服をハンガーにかける」ということが面倒になっています。�マ、もう少ししたらやりますか……�と思っているうちに一週間後。部屋の片隅に置いてある見慣れぬ紙袋を「?」と思って開けてみると、買ってからまだ一度も日の目を見たことのない服が眠っていたりするのでした。  思い起こせば、この兆候はずいぶん昔からあったのです。子供の頃は、歯磨きやらシャンプーやらが、「面倒くさい」という理由で嫌いでした。当然、女の子らしく部屋の整理をするとか、模様替えをするとかも、嫌い。私はピアノのお稽古をするのも大嫌いだったのですが、右手と左手で別々のことをするような面倒なことはとてもやってられない、と思っていたからだったと推測されます。  子供の頃は、まだ親がフォロってくれますから、ものぐさぶりはあまり目立ちません。問題は、大人になってからです。さすがに歯磨きやシャンプーは自主的にするように(でもたまに面倒くさい)なりました。ま、その辺はたとえしなくたって、不潔で死ぬことはないので大丈夫でしょう。しかし、このものぐさが仕事の場で出てしまったときが、困るのです。他人に大変な迷惑をかけることになってしまいます。  私がまだ会社員だった頃は、さぞや上司は困ったことと思います。何かを頼まれても、�とりあえずあとでやりましょうっと�と思ってしまうので、何も進まない。そのうちに、「まだ何もやっていない」ということすら恥ずかしくて報告できないような時期になってしまいます。あとは必死で上司が忘れてくれていることを祈るのみ。当時の私は、 「この前頼んだこと、どうなってる?」  と聞かれて、 「あっ、ちょっとまだなんですけど……」  というのが口癖だった。  他人に連絡をとる、というそれだけのことにも面倒くささを感じてしまいました。特に偉い方に電話をするときなどはおっくうでおっくうで。先方が不在だとホッとし、例のごとく上司から、 「連絡、とれた?」  と聞かれれば、 「あっ、ちょっとまだなんですけど、いつ電話してもいらっしゃらないんです」  などと、本当は一回しか電話してないクセに言っていたのでした。私のような者にとって、唯一面倒くさがらずに言うことができたのが、「言い訳」だったのです。  よくマスコミ関係の仕事をなさっている方で、 「自分の会いたい人に会う機会をどんどん自分で作っていけるという意味で、今の仕事は気に入っています」  という発言をなさる方がいますが、私はとてもそのように思えない。見ず知らずの人に会うというのは、とても面倒なことです。だからどんなに自分の好きな人であっても、ものぐさな私は眺めているだけでいい。会話したり好かれようと努力したりするのを想像するだけで、疲れる。  原稿を書く仕事のうえでも、ものぐさによる失敗は続きます。辞書をひくのが面倒くさくてとんでもない誤字・誤用をしたり、うろ覚えの固有名詞をそのまま書いて、全然違ったりする。そのたびに�ああ、せめてこれくらいはちゃんとしなくては�と反省するけれど、くり返してしまうのです。  この他にも、私のものぐさ逸話は掃いて捨てるほどあるのですが、あまり正直に書くと今後一切の信用を失いそうで、怖い。しかし私も、ものぐさを脱却しようと試みたことは、あるのです。それも、何回、何十回となく。  子供の頃も、部屋の掃除をするたびに、そのあまりのとっちらかり加減さに疲れ果て�これからはずっと掃除したての状態をキープしよう。何かを出したら、すぐしまう。汚れたら、すぐに拭く。そうすれば、こんな苦労を味わわずにすむ�と誓ったものです。しかし不思議なことに、まるで子犬が成犬になるくらい自然に、そして素早く、部屋は前の状態に戻っていきました。  会社員時代も、毎年お正月には、�今年こそ、たとえどんな大変な仕事であっても、頼まれたことは次の瞬間から着手しよう�と心に決めました。しかし、その二日後くらいには自分の中で例外ができてしまうのです。�これって、ちょっとわからないからあの人が出張から帰ったら聞いてみよう�とか�パソコンのプリンターが壊れちゃったみたいだけど自分じゃ直せないし手書きじゃ汚いし……�などとモタモタしているうちに、未決の問題は増えるばかり。  今も私は、何かあるたびに�今日から、きちんとした人になろう�と決心しています。なぜか決心する瞬間だけは、�今度こそは大丈夫なのではないか�と、信じてしまうものなのです。ヘビースモーカーが禁煙するときの気持ちのようなものでしょうか。おそらくこれからも、その誓いは破られ続けるとは思います。しかし人生、特に大人になればなるほど面倒くさいことだらけ。生きること自体に面倒くさくならないことを祈るのみです。 [#改ページ]  年寄くさい 「誕生日は、九月十五日です」  と私が言うと、 「それってすっごくわかるぅ」  と、みんな大笑いしながら納得してくれます。九月十五日は、敬老の日。私は、とっても年寄くさいとよく言われるのです。ま、敬老の日は、私が生まれたまさにその日に制定された祝日なので、私の歴史は敬老の日の歴史。年寄くさくなるのも、当然のことかもしれません。  私は生まれたときから祖母と一緒に暮らしていたので、おばあさんっぽい身の振り方や言葉遣いなどが自然と身についた、という可能性もあります。祖母は、いつも和服で髪はお団子にまとめ、炬燵《こたつ》にあたる膝のうえには猫が座り……という、まさにおばあさんの見本のような人でした。冬至に南瓜《かぼちや》を食べるとか、その南瓜のことを「とうなす」と言うとか、我が家全体が、年寄っぽい風習を持っていたのです。食の好みにしても、梅干しとか古漬けとか、子供の頃からその手の物を好んでいました。また「くたびれた」「こりゃ上等」とか「もうたくさん」など、年寄系言語のネイティブ・スピーカーでもある。  自分が年寄くさいということに気づいたのは、皆そろそろ色気が出てきた、という高校生くらいの頃だったでしょうか。たとえば皆でディスコに行ったりしても、私はイマイチ、乗りきれなかった。一応は踊りながらも、�どうもこういう場所はやかましくっていけない……�と、ついつい思ってしまうのです。  しかし私の祖母は同じ頃、「トゥーリア」というディスコで照明が落ちてきて大惨事、というニュースを見て、 「アタシが若かったら、すぐに飛んで見にいってくるんだけどねぇ……」  と、とても残念そうにつぶやいていました。孫が年寄くさくなっている間に、祖母のほうがヤングっぽい気持ちになっていたようです。  年寄くさくなる理由の一つには、環境のほかに「テレ」もあると思います。やはり高校生のとき、仲良しの友達同士で、 「クリスマスの行事がある日は、学校に一人ずつ手作りのケーキを持ち寄って、ティーパーティーをしよう」  ということになりました。私は、ちょっと悩みました。ケーキ作りが嫌いというわけではなかったが、私のキャラクターを考えると、 「アップルパイを作りました※[#ハート白、unicode2661]」  なんていうのは、どうしてもこっ恥ずかしい。そして私は、どら焼きを作ったのです。当時、私は和菓子作りに凝っており、キンツバだの練り羊羹《ようかん》だの、休みの日によく作っていました。その中でも失敗が少なく、かつ、 「えっ、こんなの自分で作れるの?」  と友達に驚かれる可能性が高いのはどら焼きだ、と踏んだ私は、友達の人数分、母親と一緒にどら焼きを焼きまくり。  当日は皆、チーズケーキだの洋梨のタルトだのブッシュ・ド・ノエルだの、それぞれ美しいケーキを携えてやってきました。そこに出てきた、私のどら焼き。狙いは的中し、 「なんか、サカイらしいよねー」  と喜んでもらって「ババくさい高校生」の面目躍如《めんもくやくじよ》となったのでした。もちろん、ウケを狙ったが故のどら焼きではありましたが、「手作りケーキ」の恥ずかしさに耐えかねたのも、事実です。  流行をつっ走るように追い掛けたり、外国に憧れて日本を嫌ったり、感情を露骨に出したり……という若者特有の行動に対するテレは、年寄くささを助長します。その感情は、テレというよりも「怒り」に近いものかもしれません。ファッション雑誌に載っている、スーパーモデルが愛用しているというバッグを友達が買えば、心の中で�流行なんてどうせすたれるんだから、あんな買い物はお金の無駄よ�と思う。  また、 「やっぱ、ヨーロッパとかのほうが服でもインテリアでも、センスいいよね。日本って街並なんかも汚いしィ。年をとったら絶対にあっちに住むんだ」  などという言葉を聞けば、�ふん、日本の良さなんて知らないくせに。それに年とったら日本のほうがいいに決まってるじゃないの。おいしい漬物だって干物だっていつでも食べられるんだから�と攘夷思想。  そして、 「彼ったら私に嘘ついてA子ちゃんと会ってたのよっ。絶対に許せない!」  と泣いて激怒する人がいれば、 「短気は損気」  などと、これまた年寄くさい格言をなぐさめ代わりに言いながら、�彼は彼なりに事情があるんじゃねぇか? あなたがあまりにうるさいとか�と、思ってしまう。  当然、私のような年寄くさい人と、健全な若者っぽい思想を持つ人が一緒にいると、若者思想を持つ人は次第にイライラしてきます。皆で飲みに行ったりしても、 「さぁ、次はカラオケだ!」  と盛り上がっているのに、 「えー、あたしはどっか落ち着ける所でお茶飲みたいな」  と、雰囲気を盛り下げてしまう。当然、 「あんたの考えるようにやってたら、なーんにも面白くないじゃねぇかっ!」  と、怒りを誘います。  確かに、それはそうです。若者は刺激を求める生きものです。たとえ結果が悪くなるとわかっていたとしても、あえて火中の栗拾いを楽しめるのが、若者。来年は着られないかもと思いながらも流行の服を買い、事故で死ぬことがあっても、バイクに乗るのです。  しかし私は、 「そんな栗なんて、今拾わなくたっていいじゃないの。火傷《やけど》したら危ないし」  と、あくまで安全策をとります。スキーに行っても、 「無理して上のほうのリフトに乗っても、怖いし怪我とかしちゃうかもしれないじゃん」  と、下のほうの緩やかな斜面を一本滑ってはロッジでお茶を飲んでいたりして、「つまんねぇ奴」と言われるわけですね。  年寄くさい生き方をしていると、年配者からは、 「お年に似合わず落ち着いてらっしゃるわね」  なんて言われることもあります。しかし、それは現代の日本社会においてはけっして格好いいものではありません。色々な著名人が生き方を指導するような雑誌を見ても、 「やらないで後悔するより、やって後悔する道を選べ!」  とか、 「なにごとも第一歩を踏み出してみないと始まらない!」 「自分の殻を打ち破れ!」  など、やたらと能動的なアドバイスが並んでいるものです。希望に燃える若者に対して、 「落ち着きなされ」  などと言ってみても、始まらないのです。 「俺は絶対にビッグになってやるぜ!」  というような野望を持っている人も、絶対に年寄くさい生き方など、選ばないことでしょう。  しかし。年寄くさい人間が好む言葉は、「物は考えよう」です。「ビッグになってやる!」と熱いハートをたぎらせている人は、昇るときは昇るけれど、落ちるときの落ち方も激しい。 「やらない後悔よりやった後悔」  などと言われても、 「でも真剣、やらないほうがよかったかも……俺はもう駄目だぁっ!」  と、深い痛手をこうむる場合もあるのです。その点、年寄くさい生き方は低成長安定型。落ちるときの落ち方も少ないし、 「災いを転じて福となす」  などと考えているので、悪いことがあっても、案外とノンキに過ごせたりする。それはちょうど、ちょっとした大雨がふっても、私の祖母は、 「昔はよく神田川が氾濫《はんらん》したもんよ……」  と、まったく動じなかったのと似ているかもしれません。  年寄くさい人というのは、能動的な人にとっては確かにつまんない奴かもしれません。しかし、攻撃性はありません。若者のように、自分の考えに従わない人や、自分が理解できない考え方をする人に対して、 「信じらんなぁーい」  などとムッとしたりはしない。仲間外れにもしない。 「まぁまぁ、人それぞれなんだし。どうです、お茶でも一杯……」  と、物わかりの良さを発揮するのです。そこがまた若者のイラつきを買ったりする場合も多々あるのですが。  齢《よわい》を重ねるごとに、私の年寄くささはどんどん増してきました。最近は、物忘れは異常に激しいし、つまずくことも多いし、「どっこいしょ」とか言うし、墓参りは楽しいしで、�これは年寄くさいっていうよりも、本当に年寄なんじゃないか?�と不安に思うこともあります。  しかし私は、自分の年寄くささの本当の理由を、先日やっと、理解したのです。それは、ある雑誌取材の折のこと。初めてお会いするある女性に、私は、 「酒井さんってなんていうか……おばあさんみたいな雰囲気の方ですよね」  と言われたのです。 「そうなんですよ、年寄っぽいものとか、すごく好きだし……」  と答えると、その方はおそらく霊感のようなものをお持ちなのでしょう、 「そうね、たぶん魂が何回も、おばあさんまで生きてるのね」  と、自信を持っておっしゃるではありませんか。  私は、「そうかー、私の場合、魂がおばあさんなんだ! 年寄くさいのは、当然のことなんだ!」と、謎が解けたようでとても嬉しかった。  以来、どんなに、 「ババァくせぇなぁ」  などと言われても、 「魂がおばあさんなもんでねぇ」  と言うことで、納得していただいております。全国の年寄くさい皆さん。「覇気がない」「若々しさが感じられない」などとさまざまなことを言われるかもしれませんが、自分の魂が年寄なのだと思って、スパッと諦めましょう。年寄には、年寄の楽しみがあるのですから。 [#改ページ]  はすっぱ  茶髪が流行っています。茶色い髪の毛は、昔はごく限られた一部の「不良」や「水商売」の人のみが好むものとされていました。不良っ気のある高校生の娘が髪を茶色く染めてきたときなど、そのお父さんは、 「ななななんだ! その赤い髪は!」  と、血管切れそうに怒るのが普通の反応だったものです。  しかし今や、茶髪は一般化しました。もう誰も「赤い髪」などと言わなくなり、重い印象の黒髪から逃れるため、多くの人が気軽に色を抜くようになったのです。しかし、茶髪に手を出す人と出さない人には、やはり差があります。それは、「はすっぱ濃度」。ごく普通の日常生活をしている人でも、血中にほんの少し「はすっぱ」質を持っている人は、多数存在しています。茶髪に手を出しているのは、多かれ少なかれ、体内にこの「はすっぱ質」を持っている人なのです。  私は、髪を染めていません。そして煙草も吸わなければ、お酒も飲まない。ゲーセンに入りびたることもなければシンナーも吸わなかった。私は、型にはまった普通の人生を歩むことに充実感を覚えてしまうタチです。つまり、血中はすっぱ濃度が限りなくゼロに近いという、ちっとも面白みのない人間なのです。 「はすっぱ」自体はあまり良い意味を持つ言葉ではありませんが、その裏には非常に特殊で強力な魅力が隠されています。それは、「悪趣味の魅力」と言うことができましょう。上品・健康・端正・理知……といった、世の中において「良い」とされるものとは反対の方向に進むと、そこには「はすっぱ」というとても楽しい世界が待っている。  たとえば、肉食をせずに無農薬野菜ばかりを食べるのは、とても健康的です。しかしファスト・フードのハンバーガーにコーラ、ポテトチップスにインスタントラーメン……といった塩と肉と油と化学調味料にまみれた食事を、机のうえに足をのっけてパジャマのままでテレビ見ながらむさぼり食うときの幸福感は、生のニンジンをポリポリかじるときには感じ得ないもの。端正で理知的なのは良いこと、とわかっているからこそ、下品でおバカで享楽主義に基づいた生活は魅力的に輝くのです。  はすっぱな人の特徴は、群れることです。世間から好意を持って見られる存在ではないためか、同類同士が集まって行動する傾向がある。女同士でも、豹柄(モード系を除く)を好む人はテーラードスーツを好む人とは仲良くせず、豹柄同士でつるみます。  異性間でもそうです。豹柄の女性は、一日のほとんどをジャージで過ごす小学校教諭を選ぶことはせず、やっぱりダブルのスーツに外車のほうへ行ってしまう。選んだようにケバ目の女性とばかりつきあう男性がいますが、それはお互いがふりまく強いはすっぱ臭が、お互いを惹きつけている結果なのです。  はすっぱな人というと即、「そんな人は不良」と決めつける方もあるかもしれませんが、それは違います。はすっぱに惹かれるか否かというのはおそらく先天的なものですから、行動的にはとても真面目な人の中にも、ごく普通の家庭の奥さまの中にも、そしてきっと皇族の中にも、はすっぱ濃度が高い人は、一定の割合で存在するのです。皇太子のはすっぱ濃度は低いけど、秋篠宮はちょいと高い。高円宮は低いけど、ヒゲの殿下はちょっと高そう……というように。  はすっぱの芽は、小学校高学年から見ることができました。比較的高い血中はすっぱ度を持つ人達は、その頃から「それでェー」「……しちゃったらァー」等と、語尾を伸ばした話し方をしだします。中学生くらいになると、その時々の流行り言葉をいち早く使用し、そしてその時々の不良が好む服装を取り入れるようになる。高校生にもなれば、趣味が良いとはけっして言えないけれど非常に派手で女性っぽく、そして安っぽく見える洋服を着るようになり、露出度は、高。処女喪失年齢は、低。そしてもう少し大人になると、今度はヒカリモノ(と言っても金メッキ系)に触手を伸ばす、という状態になるのです。  はすっぱな人というのは、「流行を追わない」というポリシーを持っています。流行というのは、「世間が認めている」という意味で「善」なのです。彼等は「善」を受け入れないフリをしなければなりません。「はすっぱな人」は大阪弁で言うところの「ヤンキー」と重なる部分が多いわけですが、彼達にとってモード界の流行を取り入れることは、アイデンティティーの崩壊でもあります。だから、ヤンキー界にのみ通用するゆるやかな流行は、絶対に時代とリンクしていない。  お年を召されたはすっぱ女性を見れば、黄色のテカテカ素材のスパッツにピエロの大きなアップリケ(それもスパンコールの縁取り)がついたベロア素材の黒のトレーナーにつっかけ、といった格好。若いはすっぱ女性は、偽物のエルメススカーフで作ったみたいなプリントワンピースに偽物のプラダみたいなバッグにつけ爪。そして小学生のはすっぱ女性は、セーラームーンのトレーナーに赤いスカートに裸足。  もちろん、「はすっぱなお金持ち」というのも存在します。彼等はベルサーチやシャネルといった高級ブランドを、できるだけ下品にドレスダウン。デザイナーやブランド側にどんな意志があろうとも、それを無視して完璧に自分達のものとして着こなすことに成功しています。  お金があろうとなかろうと、はすっぱな人々に共通した趣味は、独特な派手さです。男の「はすっぱ」を昇華させた存在と言える極道系が好むファッションというのは、冷静な眼で見れば、絶対に「おしゃれ」とは言えないけれどとても派手。白いスーツ。白いエナメル靴。赤いシャツ。メッシュの靴。一度、「一体そのような服をどこで買うんですか」と聞いてみたいけれど、怖くて絶対に聞けません。  彼等は、とても頑固にそのスタイルを守っています。サラリーマンの背広にだって、時代とともに流行があるというのに、極道系ファッションにだけは、かたくなに同じテイストが保たれている。この事実を見ても、はすっぱな人は頑固者であることが、理解できます。自分がこう思ったら、滅多なことで意志を曲げることはない。その頑固さは、彼等が持つ強い純粋さから出ているのではないかと、私は思っています。  はすっぱな女性も、頑固で純粋です。彼女達は、必ずと言っていいほど、子供好きで動物好き。「善」に対する反発心はあるものの根は素直なので弱い者に対する優しい心を持っているのです。また男性に対しては自分から先に好きになることが多く、好きになったらどんなに虐げられたとしても、徹底的に尽くすタイプ。しかし理屈に合わないと思ったら即座に怒りだすし、ケンカも辞さない鉄火な女。後先のことは考えず、常に目の前にある問題を感情のおもむくままに解決していく……という、一口で言うと、子供のような純粋さをそのまま保っている人、なのです。  彼女達は、「打算」という言葉を知りません。世間にどう見られていようと気にしないし、また自分が愛情を傾ける相手からの見返りも、絶対に期待しない。彼女達の処女喪失年齢は低いことが多いわけですが、そのときも本人は、「本当に好きだから、あげる」という気持ちでやっている。相手はほんの遊びのつもりであることがわかっていても、自分が納得しているので後悔はしていないのです。端から見ているとだまされやすかったり、傷つけられやすかったりもする彼女達ですが、そこがまた可愛らしくて、はすっぱフリークの気持ちをグッと掴むのです。  はすっぱな人々と接していると、私のような打算好きの人間は少し疲れます。それは、都心のマンションで近所づきあいもまったくせずに生きてきた人が急に下町に引っ越してきたときの疲労と似ています。�おもてっツラでのつきあいなんて駄目よ。人間はハートとハートのぶつかり合いが大切なのよ�という彼女達のポリシーは、私の心の防波堤を荒らすと同時に、�あたしって駄目な人間だわ�という罪悪感をもあたえるのでした。  いわゆる「ヤンママ」も、はすっぱ濃度が非常に濃い人達だと思います。テレビなどで見る限り、ヤンママの九割がたは�できちゃった結婚�で、あとの一割は「相手が極道から足を洗わない」などの理由による未婚の母、という感じ。彼女達が持つ純粋さと一途さとが、若くして妊娠してしまうという事態の一因になっているのではないでしょうか。 「彼が、コンドームをつけるのを嫌がるので、そのままさせてあげたらできちゃって、でもせっかくできた赤ちゃんを堕《お》ろすのも可哀相だなぁって思って……」  などと、モザイクのかかった顔で告白する女の子達を見ていると、そう思ってしまいます。  妊娠がわかったとしても、もしはすっぱな人ではなく、私のような「型にはまった人生を歩むことに充実感を覚えるタイプ」だったとしたら、産む決心など絶対にせず、�一時の感情で軽はずみなことはせず、自分の幸せを第一に考えよう�と思うことでしょう。しかしはすっぱな人は、�せっかく授かった命なんだから、殺してしまうなんて絶対にできない�という純粋な気持ちを曲げません。そして、苦労をするのはわかっていながら、赤ちゃんを産むのです。  今の時代、「はすっぱ」はそうダサイ印象を持つものではなくなってきました。確かに今もその外見は独自ですが、生き方としては一目置かれるようになったのです。ヤンママだって、昔だったら「極道娘」として片づけられていた存在ですが、今は妙に注目されている。自分のはすっぱさを隠さずに生きる人は、単に社会のワクの中からはみ出ないようにビクビクしながら生きているような人間と比べると格好いい、という見方をされています。  これまでも、男の不良は社会の中でも認められている存在でした。不良の若者はモテたし、極道の世界やそのムードにたまらなく惹かれるという人も、数多く存在します。また、 「僕って、よく不良中年とか言われちゃうんだよね」  などと自慢気に言う中年男性がいるように、男性の世界では、「不良」と言うと、「社会の慣習に反抗する気概を持ち、精神的に一本スジがとおってる」風な印象を持ってとらえられがちなのです。  しかし女の不良は、イメージ的に弱かった。単なるふしだらな人、くらいの見方をされていたものです。しかし最近は女の不良の地位も上がりました。女性ファッション雑誌でも、「上品なだけの女は、つまらない。あえて不良っぽい魅力を演出するのが、新しい知性」などと題されたコーディネートが載るようになっています。また、若い女性達に「理想の大人の女性像は?」などと質問すると、 「いつまでもはすっぱな感じを持っていられるような人って格好いい」  という答えが交じっている。茶髪のブームだって、「はすっぱさが持つ魅力が一般の人に受け入れられはじめている」と考えることもできます。「はすっぱ」のおしゃれ化及び普遍化が始まっているのです。  しかし、本当のはすっぱな人というのは、はすっぱのおしゃれ化は望んでいないと思う。彼女達は、社会通念上「好ましい」とされていることに反発することによって、生きる充実感を得ています。だからファッションも、「コンサバ」や「トレンド」「親好み」とは正反対の物を好み、恋愛をするにしてもついつい周囲の者の眉をひそめさせるような相手を選んだりする。はすっぱ濃度の高い人達があまりにも似た路線の生き方を選ぶので、私とは別の意味で「型にはまっている」と言ってもいいくらいです。  そんな人達が、社会から堂々と「おしゃれ」「格好いい」と言われたからといって、嬉しいはずがない。はすっぱな人達は、愛情をあたえた相手からの見返りを期待しないのと同様、社会からの見返りも期待していないのです。  はすっぱな人達は、良い部分をたくさん持っているというのに、その誤解を受けやすい外見と行動から、今までとても損をしていたように思います。また社会のほうも、はすっぱな人々の良い力を、生かしきれずに来た。「社会に期待しない」という基本姿勢がある限り難しいのかもしれませんが、未知のエネルギー「はすっぱ」のパワーは、これから無視できないものになってくるのではないでしょうか。近いうちに必ず、大きなはすっぱブームがやってくるものと私は確信しています。  追記……この文章を書いてから一カ月後、私は美容師さんから、髪を茶色にすることを勧められた。私の心の中では、�ついこの前「私は髪を染めていない」などどキッパリ書いた者が態度をコロコロ変えたりしてよいものだろうか。でもちょっと茶色い髪ってやっぱカワイイし……�と激しい葛藤が起こったが、ついにその勧めを受け入れてしまったのであった。恥ずかしながら�満更でもないじゃん�などと、思っている、今。自分の中にも、「はすっぱへの憧れ」は確かに存在しているのだということ、しみじみ感じている私であった。 [#改ページ]    文庫版あとがき 「○○さんは、他人の悪口を絶対に言わない人だ」  と、称賛される人がいます。私はその手の人を見ると、「ほぇーっ、偉いなぁ」と思うと同時に、何だか恐ろしくなるのです。 「悪口を絶対に言わない」という人は、どんな人に対しても悪い感情を持たない、神様のような人なのかもしれません。しかしやはり人間は人間であって、神様ではない。だとしたらその人は、悪口を単に口に出さないだけで、心の中で「思う」ことはしているに違いない。もしくは、「悪口を絶対に言わない人」という評判を汚したくないために、決して知人にバレないような場所で、こっそりと悪口を言っているのかもしれない。  ……そう思うと、「この人の前でうかつなことはできない……」と、かえって身構えてしまうのですね。  悪口というのは、道徳的に考えれば良いことではありません。しかしもっとフランクに考えればそれは一種の娯楽であり、ストレス発散法でもあるのです。  幼い頃から私達は、悪口を娯楽として利用する時は、絶対にその悪口が本人の耳に入らないようにしなくてはならない、という不文律をどこかで悟り、守ってきました。本人の耳に入ってしまった瞬間、娯楽としての悪口は、「イジメ」とか「糾弾」とか「論争」とか、別のものに変わってしまうのだから。  そのために、娯楽として悪口を楽しむ時は、メンバーを厳選する必要があるのです。「悪口は、あくまでその場で楽しむだけのもの」という悪口の一回性を理解している人。 「駄目よ、他人の悪口なんか言ったら」  などと、興醒めなことを言わない人。あとから、 「あの人達、あなたの悪口をさんざ言ってたわよ」  なんてチクリも、しない人。そして、悪口は娯楽なのだから、言うも言われるもお互い様、ということを知っている人。  他人の悪口を言っている時、人はものすごく無防備になります。本人は、悪口を言う自分に「正義」すら感じているので、その快感に陶酔するあまり、実はつけ込まれそうなスキだらけ。  でもそんなところが、悪口を言う人の、いとおしい所なのです。「絶対に他人の悪口を言わない」と評されるような鉄壁の守りをする人よりも、ずっと人間味があると言いましょうか。そして私も、「ああ私も、他人の悪口を言っている時はスキだらけなのだろうなぁ」と思うのですが。  悪口の分析をしてみれば、他人の悪口とはすなわち、ひがみ・やっかみの裏返しであったり、自分の位置を確保するための手段だったり。つまり、自分の弱さが、他人への悪口となって出てくるわけです。  悪口を言いっこして楽しむ行為というのは、自分の弱さを見せ合って楽しむようなもの。だから「私は他人の悪口を言わない」という方もまぁ、私を含め悪口好きの人達のことを見過ごしてやっていただければ、と思うのですが……。って、さんざ悪口を言いたいだけ言ってきて、今さら「見過ごせ」はないだろう、という気もしますが。  最後になりましたが、文庫版の出版にあたっては、素晴らしい装丁をして下さった佐藤可士和さん、そして文春文庫の内山夏帆さんに大変お世話になりました。ありがとうございました。    一九九九年 初夏 [#地付き]酒井順子   単行本 一九九六年三月 ネスコ刊 〈底 本〉文春文庫 平成十一年八月十日刊