したたかな敗者たち 〈底 本〉文春文庫 昭和六十三年二月十日刊  (C) Nau Kondou 2001  〈お断り〉  本作品を「文春ウェブ文庫」に収録するにあたり、一部の漢字が簡略体で表記されている場合があります。  また、差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の書かれた当時の事情を考慮し、できる限り原文の通りにしてあります。差別的意図がないことをご理解下さいますようお願い申し上げます。 〈ご注意〉  本作品の全部または一部を著作権者ならびに(株)文藝春秋に無断で複製(コピー)、転載、改ざん、公衆送信(ホームページなどに掲載することを含む)することを禁じます。万一このような行為をすると著作権法違反で処罰されます。 [#改ページ]    目  次    第一部 メコンの勝者たち    第二部 パリの革命家たち    第三部 サイゴンの敗者たち    第四部 ジャングルの抵抗者たち    あ と が き      章名をクリックするとその文章が表示されます。 [#改ページ]    したたかな敗者たち [#改ページ]      第一部 メコンの勝者たち

 静かな着陸だった。機は、工事中の滑走路のはずれで向きを変え、ターミナルビルのすぐわきまできて停まった。  横手の駐機場に、三、四十機のC130型輸送機が雑然と並んでいるのが、目に入った。米軍の置き土産だ。尾翼や胴体にベトナム空軍の赤星マークを光らせているが、機体はいずれも古ぼけ、半数近くが廃機同然にみえた。  野ざらしの旧米軍機の向こうに、ソ連製の民間航空機が十機余り、銀色の機首を並べている。  ロビーで、ラム中佐が待っていた。  足早に近づいてきて、 「よう、しばらく」  笑顔で手を差し出した。 「だいぶ、時間がかかったじゃないか」 「ちょっと税関でひっかかりましてね」  てんまつを説明した。  妻から、彼女の家族宛てに、大荷物を託されてきた。衣料、布地、薬品などをぎっちりつめ込んだ、大型段ボール箱三個だ。合計一〇〇キロ以上ある。一般消費物資の持ち込みは無税、と聞いていたが、若い税関職員は、定量オーバーだ、といいはった。上役もでてきて、ひとしきり押し問答となった。どうやら、私の方の思い違いだったらしい。だが、荷の中身をカウンターに積み上げた職員らも、その分量に閉口した様子だ。この場で仕分けして税額をはじき出すのは時間がかかり過ぎるので、後日、あらためて受け取りにくる、ということで話がついた。 「そりゃ、厄介だったな。でも、奥さんの命令じゃしようがない」  中佐は、おかしそうに笑った。 「本当にしばらくでしたね、中佐」  私はあらためて、開襟シャツ姿の相手を見た。顔も体もずいぶん引き締ったように見えた。以前の彼は、解放戦線幹部にはめずらしく、腹の突き出した肥満体だった。今は、むしろライト級のボクサーのような体つきだ。その分、背丈ものびたように感じられた。 「君が来るのが遅いんだ。もう日本のプレスの連中はたびたび来てるよ」 「ええ、でもいろいろ仕事もあったし。それに……」 「うん」  ちょっと何かいいかけたが、  黙って、二、三回、うなずいた。それ以上、そのことに触れずに、 「ホテルはクーロン、昔のマジェスチックだ。部屋はもう取ってある。でも、まだ早いからこのままカンボジア領事館に回って、今日中に査証申請しておいた方がいいな」  空港ゲートを出ると、すぐ正面は旧米軍第三野戦病院の建物だ。近郊の戦況が荒れたときなど、終日、ヘリコプターが死者や負傷者を運んできた。今は、壁の赤十字マークも薄汚れ、構内に人の気配もない。廃屋になっているのか、あるいは、何かの倉庫にでも使われているのか。中佐に尋ねかけ、すぐ思い直した。米軍関係の建物は数え切れないほどあった。誰も、その正確な数や場所を知らないほど、町中に散らばっていた。いちいち現在の用途など尋ねていたら、きりがあるまい。  市中に通じる大通り——。  両側の家並みのたたずまいは、思いのほか変っていない。人々の往来、やり合うカミさん連、飛び回る子供たち。路地口の露店でコーヒーを前に時間をつぶす老人——その表情や身ごなしも、以前と同様にみえた。  久しぶりだな、と、窓外の光景に見入った。これといった感慨も感傷も湧いてこない。むしろ、慣れ切った、自分自身の空気の中に身を戻したような、心のくつろぎを感じた。これほど長い間、留守にしていたにもかかわらず、着くなり、こうもあっけなくその空気にとけこめた平静さが、自分でも少々予想外だった。 「どうかね。昔とくらべて」  中佐が、私の膝に手を置き、たずねた。 「——まだ、よくわからない。でも、想像していたよりずっと変っていない。それに、町全体が清潔になった感じがする」  車やモーターバイクの交通量が減ったためかもしれない。 「二、三カ月前、ポール・ボグルが来た」  と、中佐はいった。 「彼も、通りがきれいになった、と感心していた」  ポールは、中佐と親しくしていた、米国通信社の旧サイゴン特派員だ。現在は、私と同様、バンコクに勤めている。 「そのくせ、あいつ、後で『ホーチミン市が旧サイゴン時代より清潔になったのは、市民が飢えて残飯を捨てなくなったからだ』なんて書きやがった」  別に腹を立てたふうもなく、苦笑していた。  サイゴン河畔の旧マジェスチック・ホテル。  六階の食堂——。  朝食を運んできた初老のボーイ頭が、 「おや?」  信じられぬ、といった顔をした。 「覚えていますか」 「これはお懐しい、本当にお懐しい。ずいぶん長い間、お越しいただけませんでしたね」  顔中、ほころばせた。 「七年ぶり。元気でやってますか」 「はあ、何とか。以前の仲間もたくさん残っておりますよ」 「変っていませんね。初めて会った頃と少しも変っていない」 「まさか。もう|年齢《とし》をとりました」  また、にこりと笑った。  以前はタキシードだったが、今は、白い簡素なユニフォーム姿だ。  もう十数年も前になる。前の妻といっしょに欧州へ向かう途中、初めてこの土地へ立ち寄った。植民地時代から最も格式の高いホテル、と聞かされ、ここに泊まった。たしかに、従業員のしつけは驚くほど行き届いていた。なかでも、このボーイ頭の気配りはひときわこまやかだった。妻の達者なフランス語に感心し、 「日本のお客様もよくお泊まりいただきます。でも、奥さまのように美しいフランス語を話される方は、本当におめずらしい」  子供の頃からドアボーイとして働きはじめ、以来、このホテル一筋に生きてきた、という。出発の朝、玄関まで見送りに降りてきた。バラの花束を彼女に差し出し、 「必ず、またお運びを」  くり返し、念を押した。  数年後、私はこの土地に赴任した。到着後の二、三日をこのホテルで過ごした。  相手はすぐ気づき、足早にやってきた。 「やっぱり、おいでいただけましたね」  その記憶力に驚かされた。 「今回はお一人で? 奥様はお変りありませんか」  死別したことを告げると、 「なんですって!」  表情を凍らせてしばらく私の目を見つめ、言葉少なに悔みを述べて、ひっそり立ち去った。  彼と最後に顔を合わせたのは、一九七五年春、町が陥落する数日前だ。 「ここがロケット弾でやられた日だったね」 「ええ、よく覚えております。たしか、あの年の四月二十六日——」  未明、川向こうから飛んできた砲弾が、ホテルの食堂を直撃した。当時、食堂は、この同じ六階の、サロンをはさんで反対側にあった。今よりずっと広く、装飾も調度も重厚だった。その晩、私は、ここから数百メートル離れた、別のホテルにいた。睡眠薬を使っていたせいか、街中が飛び上がったという、その着弾音に気がつかなかった。  翌朝、現場を目にして、息を飲んだ。石壁を貫いて飛び込み、内部で|炸裂《さくれつ》したらしい。たった一発で、広大な室内は、スクラップの山だ。椅子もテーブルも、ひとつ残らずクズ鉄のようにひしゃげ、四隅になぎ飛ばされていた。内壁や大理石の像は崩れ、砕け、天井もまくれ上がって、広い青空がのぞいていた。 「夜番の仲間が一人死にました。運が悪かったのでございましょうねえ」  彼は、タメ息をつきながら、爆風で目茶苦茶になった奥の調理場の方まで案内してくれた。 「あの時は、ちょっとキモを冷やしたな。あのまま集中砲撃に出てこられたら、町全体がけし飛ばされてしまうんじゃないか、と思った」  事実、共産側は、南政府軍が最後まで抵抗を続けた場合に備え、郊外一円の砲陣に計十万発の大型砲弾を用意していたことを、昨日、空港からの車の中で、ラム中佐から教えられた。 「いろいろあったな。でも、こうしてまた会えるとは、思っていなかった」  相手はちょっと口元を引き締め、うなずいた。コーヒーをつぎたし、 「本当に、いろいろなことがございました」  ひとり言のようにつぶやいた。そのつぶやきに、世の激変にもまれながら、自らをこの伝統あるホテルの一部として生き抜いてきた人間の重みが感じられた。つかのま、かいま見せた想いを、すぐ、慎み深い微笑の奥に引っ込め、 「どうぞ、ごゆっくり」  丁重に腰をかがめ、カウンターの方へ引き返していった。  ゆっくりとパパイヤにさじを入れながら、窓のむこうに広がる川向こうの風景に見入った。  河岸に蝟集した粗末な家々、造船所、白く輝く教会の塔、その背後にはてしなく広がる水田、ヤシの茂み——。豊かな水をたたえた川は、木立ちの間に見え隠れしながら、銀色に朝日を照り返し、幾重にも折れ曲って霞の中にとけ込んで行く。  初めて、この明かるく、のどかな景色を目にした日々が、つい昨日のことのように思い出される。  そして、その後自分が歩んできた軌跡をふり返り、何か非現実的な気分さえした。  妻は、毎朝、テラスに椅子を持ち出し、川と対岸の風景を写生した。  広い視野の中を、ときおりヘリコプターが往来し、眼下の河岸には、腹に赤十字のマークをつけた西独の病院船が停泊していた。北部の港町ダナンに長く留まっていたが、何かの事情で最近サイゴンに移動してきた、と、土地の記者から教えられた。医師も看護婦も退屈し切っており、船内で毎晩、乱痴気騒ぎをくりひろげている、とも聞いた。一部には、近く共産側が、首都に照準を合わせて大きな作戦に出てくる、との噂も流れていた。しかし、旅行者の目には町とその周辺の空気は総じて、日常的であり、平和でさえあった。  今も、はっきり覚えている。  あのとき、私は、はるかに連なる緑と水と南国の大空を見渡しながら、自分がいつか必ず、この心広がるような風景の中に戻ってくるであろうことを、予感した。別に自分の職業とはかかわりのない予感だった。仕事のためではなく、ここを自分の人生の重要な場とし、ここで何かをつかむために戻ってくるだろうと思った。さらにいえば、それは、すぐ横で熱心に絵筆を動かしている妻の存在すら、一時忘れての、|私一人《ヽヽヽ》の予感でもあった。  なぜ、あのとき、ああも確信に近い予感を持ったのか、その後、たびたび考えた。  予想したより早く、私は、この土地へ戻った。そして生活した。年月でいえば僅か三年半ほどであったが、実に長い人生を、ここで送ったような気がする。  やがて、南ベトナムは消滅した。  ある人々がいうように、南ベトナムという国は、虚構の存在であったのかもしれない。私もときどき、そう思う。だが、私個人にとっての南ベトナムとは、自分がそこで過ごした日々に他ならない。その意味では、かけがえのない実体であった。  戦争がまき散らす、人々の不幸と悲惨の中に、自らの平静と充足を見出すとはどういうことなのか、と、しばしば考えた。その|後《うしろ》めたさを常に感じながら、結局のところ、私はここで幸福だった。そして、この混乱の世を、大家族を背負って生きてきた、ベトナム女性と再婚した。現在の妻だ。再び自分の世界を見つけた、と思った。  一九七五年四月三十日、私は、その世界が崩壊していくさまを、この同じ川沿いの建物の屋上から眺めた。  川向こうの空は壮大な修羅場だった。空港を破壊されて着陸場を失った、各種の軍用機やヘリコプターが乱舞していた。対空砲火を浴びて、黒煙の尾を引きながら墜落していく輸送機、僚機と接触し、バラバラの鉄の塊となって落下していくヘリコプター。水田の方々から、黒煙や白煙の柱が、巨大な竜巻きのように立ちのぼっていた。  それにもかかわらず、対岸の風景は、あい変らず、ものうく、のどかに見えた。この圧倒的な自然の大パノラマの中では、人々の最後の殺し合いの光景までもが、色褪せたフィルムのひとこまのように映った。  戦火の連なる水田の彼方を、長い間、見つめながら、前の妻と一緒にこの景色を飽かず眺めた、あの夏の日々の朝を、妙に物静かな気持ちで想い続けた。  七年ぶりにこの町を訪れることになったのは、なかば、偶然のなりゆきからだ。  サイゴンが陥落し、日本に戻って以来、長い間、この国を再訪する気になれなかった。別に、旧政権を全面的に支持していたわけではない。全土を統一したハノイの共産主義政権に対して、悪意や偏見を持っていたわけでもない。むしろ、突きつめれば、あの戦争の「理」はやはりハノイにあった、と思う。南北統一後のハノイの路線も、本質的には正しいのではないか、と思う。しかし、「理」とは、ときに、それに従うことを余儀なくされた人々に、苦痛と悲惨をもたらすものだ。統一後の旧南ベトナムの人々は、予想どおり、このいたし方のない原則に巻き込まれた。自分がかつてあれほどの愛着を覚え、今、変革の混乱の中であえいでいる人々の姿を、傍観者として眺めに戻る気には、なかなかなれなかった。  同時に、統一後のハノイの失政ぶりも、度が過ぎているように思えた。私個人、彼らの側に「理」を見出していただけに、その為政の不手際さは焦立たしかった。ハノイの錯誤は、方法論の過ちに過ぎないのかもしれない。しかし、ときには、方法論が本質を凌駕してしまうこともあり得るのではないか。私は、新聞や雑誌に、そのことを書いた。少々、書き過ぎたかもしれない。周囲はそんな私を「反ハノイ論者」のブースに入れた。  とりわけハノイの心証を害したのは、「中越戦争」の報道だったらしい。  現任地バンコクに赴任して間もなく、中国の大軍がベトナム北辺に進攻した。  つい数年前までの、「ベトナム戦争」中の両国の関係を考えると、思いもよらぬ事態であった。多くの戦争と同様、この衝撃的な「中越戦争」の背後にも、当事者双方に、第三者を納得させるだけの理由があった。抗米戦争終了後のハノイが、にわかに中国に反旗をひるがえしはじめた理由は、それなりに理解できた。だが、その、はためにも不必要と見えるまでの挑発的な態度には、首をかしげざるを得なかった。中国に対する態度だけではなく、米国にうち勝った後のハノイは、勝利に傲り、周辺諸国との関係についても何か思い違いをしているような気がした。この思い違いが続けば、ハノイは国際的にも孤立し、結局は自らの破滅を招くのではないか、と、危惧した。中国の、あの乱暴な進攻作戦にも、ハノイがこのまま東南アジアの鬼子となって突っ走ることを阻止するうえで、それなりの意義があったのではないか。  私は、自らのこの判断を、何本かの長文の原稿にして発表した。  短期の戦争が終ったあと、何人かの同僚がベトナムを訪れた。彼らから、ハノイ当局者の一部が、私の署名入り原稿のファイルを示し、この男の入国は当分認められぬ、と憤慨していることを知らされた。  少々、残念であった。同時にハノイの怒りも当然に思えた。過去、私が書いたハノイ批判の原稿のなかには、結果的にみて、ずいぶん見当はずれのものも少なくなかった。もしかしたら、中越戦争の判断だって皮相的に過ぎたかもしれない。  だが、いずれは、ハノイも私が悪意で批判しているわけでないことを、理解してくれるだろう。相手にとり入るために筆を曲げる気はなかった。  一年ほどして、バンコク駐在のベトナム大使館員何人かと親しくなった。  そのころ、私の考えは変りはじめていた。中越戦争にさいしては、一応、中国に理があると判断した。しかし、その後の中国の、あまりに強硬で執拗な対越政策に対しては、深い疑問を抱かずにいられなかった。  東南アジア諸国を抱き込み、軍事、経済、外交各分野でベトナムを締め上げ、孤立化させ、疲弊させ尽くそう、という北京の政策は、インドシナの人々の生活をさらに悲惨なものにするばかりでなく、誇り高いハノイを復元不可能なまでに|いこじ《ヽヽヽ》にさせ、ひいては、東南アジア全域の安定を乱すのではないか。  当然、この見方の変化は、自ら書く記事に反映された。  同時に、その頃からハノイの内政にも、顕著な変化が現れはじめた。南北統一直後からの性急な南部社会主義化路線を修正し、生産や流通の部分的自由化に踏み切るなど、現実主義的政策をとりはじめた。とかく南部人を銷沈させた公安警察による締めつけも緩和される。この結果、統一以来、惨憺たる状態にあった南部住民の士気がようやく上向き、それがベトナムの社会、経済の活性化に結びつきはじめていることは、各方面の情報からあきらかであった。  私は、この路線修正を、積極的に評価した。 「いつから、お前、ハノイ側に転向したんだ」  何人かの同僚から、こんないい方で、ひやかされた。  別に抗弁する気はなかった。もともと私を「反ハノイ論者」と色づけたのも、第三者だ。それに、ジャーナリストとは元来、イデオローグでもプロパガンディストでもない。自ら見きわめた現実を報道するのが職責ではないか。現実が変化すれば、論調もそれに即して変っていくのは当然のことだ。「変節」といわれようが、「無定見」と非難されようが、気にとめる必要はあるまい。少なくとも、私は自分の職業をそれほど買いかぶっていない。自らの「主義」や「信念」を、「現実」に優先させ得るほど、|偉い《ヽヽ》仕事をしているわけではないはずだ。  バンコクのベトナム大使館員らは、概して好意的であった。  なぜ、新ベトナムの取材に赴かぬのか、奥さんの家族にも会いに行かぬのか、と、たずねた。ことのいきさつを説明した。とくに、中越戦争報道の件を話すと、 「なるほど、そいつは罪が重いですな」  といった表情で苦笑した。 「しかし、僕は今でも、あの時点では、自分の報道が正しかったと信じていますよ」 「強情な人だ。では、現時点ではどうですか」 「お話しした通りです。中国のベトナムいじめはもう度が過ぎている、と思う」 「昔からずっとそうです。中越戦争のさい、それに気がつかなかったのは、あなたの不明だ」 「でも、失礼だがベトナムの対中外交のやり方も、まずかったと思う。あれは避けられない戦争ではなかったはずです」  相手は、穏やかに微笑み、それ以上議論しようとしなかった。立ち上がって、隣室から何枚かの書類を取り出してきた。査証交付の申請書類だ。 「とにかく、入国申請だけはしておおきになったらいかがです。本省が受け付けるかどうか、保証はできませんが」  いわれた通りに、書類に書き込み、顔写真を添えて相手に渡した。  一年以上も前の話だ。  ハノイからの返事はなかった。  別に腹は立たなかった。重ねて申請を出す気もなかった。何事によらず、いったん押された烙印は、なかなか消えるものではない。 「構いませんよ。僕はベトナムに住んでいろいろのことを教えられた。その中のひとつは、人生気長に待て、ということです」 「そう、貴重な教訓ですな。とにかくもう少し待って下さい。私たちも、あなたの真意を本省が理解するよう、できるだけ努力します」  親しい館員も、冗談めかして応じた。  今年(一九八二年)に入り、ヘン・サムリン体制下の新カンボジアの取材に出向く気になった。前々から一度は、と思いながら、体調がはかばかしくなく、腰をあげる気力がわいてこなかった。ポル・ポト政権による徹底した国土破壊後のカンボジアは、地方への旅行もままならず、とりわけ肝炎と悪性マラリアが慢性流行していると聞いていた。だが、いつまでも人づての情報たよりでは、いざというさい、ろくな原稿も書けない。バンコクに身を置きながら、東南アジアの焦点地域カンボジアの実情を、まだ一度もこの目にしていない“怠慢さ”にも気がひけた。  もっとも、ヘン・サムリン政権は、ハノイの全面支援下に稼動している政権である。そう簡単に入国を認めてくれるかどうか疑問だった。ともかく、プノンペン外務省宛てに手紙を書いた。返事は予想外に早く来た。  夕刻、ベトナム大使館から電話があり、 「カンボジア入国の件、先方、了解です。今、プノンペン外務省から、あなたにホーチミン市のトランジット(通過)査証を交付するよう連絡がありました」  翌朝、当のプノンペン外務省新聞局からも、入国OKの電報が舞い込んだ。  バンコクからプノンペンへの直行便はない。週一本のフランス航空の定期便で、いったん、ホーチミン市へ飛び、そこのカンボジア領事館で査証を受け取り、次便でプノンペン入りすることになる。 「お気の毒ですが、トランジットですからホーチミン市での公式取材活動はできません。でも、この機会に、ご家族を訪問できるよう、手筈をとっておきましょう」  もしかしたら、プノンペンから異例のはやさで返事がきたのは、この懇意のベトナム大使館員が一肌ぬいでくれたからなのかもしれない。こうして思いがけず急に、懐しい町を訪れる機会を得た。  昼寝から覚め、シャワーを浴びていると、電話が鳴った。裸のまま浴室から飛び出し、受話器を取り上げる。 「遅くなって気の毒した。もうほとんど段取りがついた。一両日中にご家族を訪ねられるよ」  ラム中佐からだった。 「ありがたい。お手数ばっかりかけちゃって」 「何をいってるんだ。ところであの荷物、どうする? ホテルに車を回そうか」 「いや、おかまいなく。明日にでも家の者に取りにこさせましょう」  ちょっと電話口の向こうで考えていたが、 「それじゃ、明日の朝、車を回そう。明日は、私は使わないから、自由に使ってくれていい」  言葉に甘えることにした。 「段取り」とは、公安警察や地区委員会への連絡のことだろう。  着いた日、空港からの車の中で、私の家族訪問を認めるよう記された、バンコクのベトナム大使館の書状を、中佐に渡した。彼の方にも、すでに連絡が入っていたらしい。 「ああ、手続き中だよ。もうじき段取りがつくはずだ」  と、うなずいた。 「家族訪問だけでなく、君が市内を自由に見て回れるように、手を打ってある」  彼も、ハノイ政府が私に正式な入国査証をまだ交付しない事情を、心得ているようだった。空港で、何かいいたげだったのも、そのことについてだろう。おそらく、“好ましからざる記者”としての立場を考えて滞在中の行動をつつしむよう、私に忠告したかったのではないか。私自身、そのことを承知しているのを見てとり、あえて念を押さなかったのだろう。  そして、逆に、私が妙な難儀にまき込まれぬよう、「手を打って」くれた——。  その好意に感謝し、無言でうなずいた。  しばらくして、 「つまらんことになったもんだ」  中佐は、ひとり言のようにつぶやいた。 「?」 「中国問題さ」  はじめてニヤリと笑い、ひやかすように私の顔を見た。 「本当に、不幸な戦争だったな。僕にも、相当、祟った」  相手の方から切り出したので、こちらも気軽に応じた。 「あんまりよけいなことを書くからだ」 「しようがないでしょう。書くのが商売なんだから」  彼は、苦笑した。 「でも、どうなんです、中佐。中国首脳だって、皆が皆、ベトナムを敵視しているわけじゃないでしょう。今でもよく考えるんだけど、もし、周恩来首相が生きていたら、中越戦争なんか起こらなかったんじゃないですか。逆にいえば、ベトナム側に、周恩来のような人がいたら、両国のいさかいは、もっと穏やかに解決できたんじゃないのかな」 「そりゃ、ダメだ」  言下に、否定した。 「周恩来だって、結局は、我々を利用していただけだ。現在の北京首脳と同断だ」  きめつけるようにいって、話を打ち切った。温厚な彼でさえこの調子では、当分、中越関係の好転は望み薄、ということか。  心の底に、ちょっと冷えびえしたものを感じ、私も、無言で窓外に目を戻した。  それにしても、到着以来、中佐の手をわずらわせっぱなしだ。出迎え、カンボジアへの査証申請、ホテルへの送りとどけ、プノンペン便のブック・イン、そして例の大荷物の引き出し——みんな彼がやってくれた。とくに、荷物の引き出しは、彼なしでは手に負えなかっただろう。  空港ターミナルに出向いたのは、昨日の午後だ。 「君一人じゃ往生しそうだな。毎日、百人からの連中が、在外家族からの仕送り品を受け取りに来るんだ」  中佐はその朝、市中の税関本部へ出かけ、二時間がかりで、緊急引き取り用の書類を整えてくれた。  私の荷物は、貨物ターミナルの方に回されていた。中佐の言葉通り、炎天下のターミナル前広場に、男女の行列が渦を巻いている。百人どころか、二百人以上が、身分証明書や各種書類を手に辛抱強く順番を待っている。 「なるほど、こりゃ、すげえな。話には聞いていたけれど」 「受け取るだけで、ときには二日がかりの大仕事になる。よく、悪い奴が他人の名をかたって荷を横取りしちまうことがある。だから、係りの方も、書類のチェックに時間がかかるんだよ」  首尾よく荷を引き出した人々は、かたわらの木陰ですぐ段ボール箱を開き、念入りに中味を検分している。送品の内容を細かく書いた送り状と照合しながら、下着の枚数までかぞえ直している。 「税関の職員にもたちの悪いのがいて、ときどき品物を抜いたり、新品の衣料をボロ着とつめ替えたりする。だから、みんなああして、受け取ると同時に紛失物がないか、調べるようになった。もっとも最近は上が目を光らせているからそういうことは少なくなったがね」 「あの連中はなんですか」  一見ヒマ人風の男たちが木陰にしゃがみ込んで話し合ったり、荷を調べる人々の囲りに群がって、口々に何か声をかけている。 「商売人。ブローカーだ。ほら、ああして目ぼしい物をその場で買い取り、町へ流すんだよ」  いわれてみると、中年のスポーツ・シャツの男が、驚くほどの札束を片手に、荷を調べ終ったカミさんと交渉をはじめている。 「要するにヤミですね。堂々たるもんだな」 「何、みんな生きていかなければならないからね」  中佐はこともなげにいい、当のカミさんに、 「おばさん、どうだい? 中味は全部そろってたかい」 「ああ、おかげさんでね」 「そりゃ、よかった」  人混みを押しわけるようにして、幾つかの窓口に割り込み、何枚かの書類にサインをしてもらった。中佐は、その書類を手に、ターミナル内の小部屋を何カ所か飛び回り、係官らとかけ合い、自ら税査定に立ち合い——おかげで一時間たらずで、私は荷を手にすることができた。  行列にくっついて順番を待っていたら、本当に、二日がかりの仕事になったかもしれない。 「さあ、これで、君も奥さんからどやされずにすむわけだ」  大汗かいて、段ボールの荷を車に運びながら、中佐は笑った。七年間も“不義理”をしていたにもかかわらず、以前と変らぬ彼の好意がありがたかった。  中佐と知り合ったのは、一九七三年の春だった。  その年の一月、「ベトナム停戦・和平に関するパリ協定」が成立した。 「パリ協定」はベトナム人の間に平和をもたらさず、戦争はなお二年余り続いた。だが、同時に、共産側は、協定の取りきめにもとづき、軍事代表団をサイゴンに送り込んだ。サイゴン側代表団と協力して、双方が停戦協定違反行為をおかすのを防止する、との主旨からであった。実際には、悪罵の投げ合いになった。サイゴン政府は、膝元に乗り込んできた敵の将兵約二百人を、タンソンニュット空軍基地内の、粗末な兵営に隔離した。水や電気の補給を停止したり、外部との電話線を切断し、しきりと嫌がらせに出た。共産側も、そのていどのことでは参らなかった。協定の一項をタテに、月例記者会見を行う権利を主張し、行使した。  奇妙な具合だった。  全土で、「協定違反」という名の激戦が続いている。それを横目に一方の代表が、敵陣のど真中で、堂々と記者会見を行う。しかも、空軍基地内の共産側代表部宿舎で行われる定例会見に、専用バスを仕立てて、報道陣を送迎するのは、サイゴン側報道担当将校らの仕事だ。  私たちは、代表団幹部らの拍手に迎えられながら、何重もの鉄条網の垣に囲まれた宿舎の敷地に入る。会見は、ときに二時間近く続いた。質疑応答は形ばかりで、もっぱら、宣伝や激越なサイゴン政府非難演説を拝聴させられた。それが終ると、ひとしきり茶菓の接待があり、再び平たいヘルメット姿の将兵の拍手に送られ、鉄条網から出て、バスに乗り込む。政府軍将校らは、この間、炎天下の蒸し風呂のような車内で、じっと待っていた。敵にいいたい放題、自分たちの悪口をいわせるために、律義に私たちを会見場に運び続ける政府軍将校のご苦労ぶりには、いつも感心した。  代表団の主役は、ボー・ドン・ザンという名前の大佐であった。首席代表のなんとかいう将軍は、半年たらずで、病気——おそらく交渉そのものを格下げするための“政治病”だったのだろうが——を理由にハノイに戻ってしまった。その後はザン大佐が、政府軍代表とのやり合いや会見をきりまわした。軍人としての肩書きを表に出していたが、いかにも切れ者の外務官僚といった感じの人物だった。軍事代表団に加わる前は、臨時革命政府のキューバ駐在大使を勤めていた、という。すらりとした長身に、癇の強そうな。実際に記者団、とくに南ベトナム記者団への応答の仕方は、当たりが強く、ときには相手への侮蔑を隠さなかった。  彼の女房役を勤めていたのが、体躯も顔立ちも気性も対照的なラム中佐だ。当時の階級は少佐だった。  解放後しばらくして、彼は外務省付きとなった。サイゴン改めホーチミン市に留まり、外国報道陣担当部門の責任者になった。そしてつい最近、ようやく軍籍を離れた。停年退役にさいし、一階級昇進した。  代表部時代から、実に気さくな人物だった。メコンデルタ出身の、生粋の南部人である。  父親も抗仏闘争の闘士で、自分が八歳のとき、仏官憲に爆殺された、といった。 「そこで私も、二十歳前から独立運動に加わった。五四年のジュネーブ協定で国が南北に分割されたさい、迷わず北に行った。米軍が来てからは大隊を率いて、中部地方を転戦したよ」  温厚な見かけにかかわらず、出身は歴戦の野戦指揮官である。 「でも、本当をいうと、子供の頃は作家になりたかった。三十年間、闘争生活で過ごしてきたけれど、戦争が終ったら、文章を書いて暮らしたいねえ」  何年間か大隊長を勤めたあと、司令部に申請して、ハノイのジャーナリスト養成所の研修員となった。卒業後二年間、こんどは従軍記者のキャップとして、戦場を駆け回る。 「それで、あんたたちのお相手をするために、この代表団に加わるよう命じられた。モチはモチ屋、だからね」 「それじゃ、同業のよしみで、本当のところを教えて下さい。サイゴン軍の将軍の中で、あなたたちにとって最も手強い相手は誰ですか」  ある日、会見後の雑談のおり聞いたことがある。 「第一軍管区司令官のゴ・クワン・チュオン将軍だ」  即座に答えた。 「やっぱりそうですか」  チュオン将軍は、サイゴン駐在の西側武官らの間でも、南ベトナム随一の名将と評価されていた。なぜか、グエン・バン・チュー大統領に|疎《うと》んじられていたが、七二年の、共産側春季攻勢で北部戦線の政府軍が潰滅の危機に瀕したさい、急遽、現地の第一軍管区司令官に任命された。その采配ぶりは、私たち素人目にも見事であった。掠奪を働いた脱走兵何人かを公開銃殺して、たちどころに敗軍の規律を立て直し、各戦線で敵を適当にあしらいながら、相手の補給線を巧みに引き延ばした。そして、それが延び切ったところで、突然、猛反撃に転じた。共産側は隊列を崩され、ボロボロになって敗走した。  この七二年春季攻勢の失敗は、ハノイに深刻な打撃を与えたようだ。 「たいへんな読み違えをした。十年計画ですべてをやりなおさなければならない」  党、軍部の首脳の間でこんなささやきがとりかわされたことを、ずっと後になって知った。 「とにかく、チュオンはたいした将軍だ。他の将軍共は汚職びたりで物の数じゃない。彼は身辺も実に清潔だ。兵の人気も高い」  あまり敵将を手放しでほめるので、なお聞くと、 「あの男と私は同郷なんだ。母親同士も親友で、私が子供時分は家族ぐるみの付き合いだった」  いって、ニヤリと笑った。  空軍基地内での定例会見は、サイゴン陥落の直前まで続けられた。 「パリ協定」締結から二年余り後の一九七五年三月上旬、共産側は、その兵力のほとんどすべてを投入して、突如、総攻撃に出た。不意をつかれた政府軍は大混乱に陥った。チュー大統領の拙劣な防衛作戦が混乱に輪をかけた。各部隊はなだれを打って潰走し、四月三十日、共産軍戦車隊はサイゴンに突入する。南ベトナムは、全面崩壊した。あっという間の出来事であった。  最後の定例会見が行われたのは、四月の初旬だった、と覚えている。すでに首都最後の外郭防衛線に、戦車隊が肉迫し、政府側要人や金持ちたちは、続々、国外に脱出しはじめていた。そんな中でも、政府軍報道担当将校は、律義に、私たちを基地内の会見場に運んだ。共産側代表団は、もう戦勝気分だった。  ザン大佐も、この日は愛想がよかった。  事態の急変について、 「熟して腐敗し切った果実が、ある日突然、枝から落ちるのは当然のことだ」とコメントし、 「客観情勢がかくもわが方に有利に推移しつつある以上、今さら、停戦交渉などもっての外である」  と、いう意味の、演説をした。そのあと、用意されたシャンペンを、自ら記者団についで回った。  おりを見て、彼に聞いた。 「大佐、あなた方の軍の無差別砲撃によって、多数の一般住民が殺傷されているようですが、これについて、どうお考えですか」  大佐は、にわかに怒りを顔に表した。 「何のことをいっているのかね。私には、君のフランス語が理解できない」  親しくしていた地元紙の記者が憤然と、 「彼は正確なフランス語を話しています。私も同様のことをお伺いしたい」  ベトナム語で、質問をくり返した。  大佐は、私たちをにらみつけた。 「そんなことは、パーセンテージの問題だ」  傲然といい放って、プイと横を向いた。  攻勢開始以来、二百万人以上の住民が、政府軍と逃避行を共にした。老人や婦女子は飢えと渇きでバタバタ倒れた。北部諸都市からの難民を満載して、サイゴン郊外のブンタオ沖にたどりついた貨物船団は、「浮かぶ鉄の棺桶」と呼ばれた。浜辺には、幼児や赤子の死体が累々と打ち上げられていた。 「この世に地獄があるとすれば、あれだ」  現場をヘリコプターで取材してきた、あるベトナム人記者は声をあげて泣いた。  ラム少佐が、とりなすように私の腕をつかみ、かたわらの茶菓のテーブルに導いた。  彼は、戦局の思わぬ変化に驚きと喜びを隠さなかった。 「こんなことってあるかい。こっちがろくに攻撃も仕かけないうちに、相手が風をくらって逃げ出しちまったんだもの。戦争じゃない。競走だよ、これは。我が方は、逃げる敵を追っかけるだけで精一杯だ」  その、あまりに嬉しそうな顔を見て、私は、難民問題にこれ以上触れる気をなくした。  むしろ、少佐らのこん後の身を案じた。共産側がこのまま進撃を続けて、サイゴン総攻撃にかかった場合、彼らの運命はどうなるのだろう。すでに町中の街路は、各地からの敗走兵で極度に殺気立っている。しかも、共産側代表団は、敵側基地の一角で、政府軍内でも最も気が荒い海兵隊や空挺部隊の監視下に置かれている。共産軍の出方しだいでは、まず、これら二百人の将兵が血祭りに上げられるのではないか。  少佐に、その不安を伝えた。 「覚悟のうえだ。今や、私たちは人質だ。ザン大佐も昨日の晩、全員を集めて『万一の場合は、私が真っ先に死ぬ、諸君も腹を固めてくれ』と、別れの演説をした」  初めて、練達の野戦指揮官当時を思わせる厳しい表情を見せた。  勝利のための捨て石——これも「パーセンテージの問題」か。私は、お気に入りのフランス人記者らと談笑しているザン大佐をあらためて見た。その悠然とくつろいだ態度からは、死を覚悟した人間の構えやかげりは、まったく感じられなかった。 「本当に大佐は、自分が真っ先に死ぬ、といったんですか」 「ああ、いった。いった以上、必ず先頭に立って死ぬよ。そういう男なんだ、彼は」  大佐の、ときに威丈高で硬質な人柄には、最後まで好感を持てなかった。だが、あの日、グラスを片手に何の屈託もなく仏人記者らと冗談を交していた彼の姿は、自分とかけはなれた水準に身を置く人間のそれとして、今も鮮烈な磁気を帯び、私の網膜に焼きついている。  共産側代表団の将兵は、陥落騒ぎのドサクサにまぎれて、生きのびた。解放旗を打ち振って、町に入城した友軍を迎えた。  ザン大佐は、サイゴンを統括する暫定軍政部の最高幹部の一人になった。新品の軍服を着込み、従卒らに守られて、押収した大型米国車で、さっそうと市内を乗り回している姿を、何回か目にした。まもなくハノイに戻り、外務官僚としての階段を駆け上った。現在は、首席外務次官を勤め、カンボジア問題をめぐって、相変らずの強腰で、タイ当局者らとやり合っている。  ラム中佐は、今日まで西側報道陣担当職にいる。解放直後の混乱の中で、軍政部からの各種通達の配布、記者会見の設営、わがままな報道陣から持ち込まれる各種の苦情や依頼の処理などに、汗水たらして飛び回っていた。  私の支局にも、たびたび足を運んできた。 「おう、一服させてくれい」  支局のお手伝いさん自慢のお茶をすすりながら、一時間近く油を売っていくこともあった。その支局が、建物のオーナーが国外逃亡したとの理由で地区委員会に接収されかけたとき、委員会にかけ合って助けてくれたのも、彼だった。中佐が、とくに私のところに親しくやってきたのは、残留した日本人記者のなかでフランス語を話す者が、ほとんどいなかったせいもあるのだろう。彼は、この国のフランス語世代に属し、英語はからきしだめだった。  今回の滞在中、何回か、食事を共にした。  ある晩、いまのこの町で唯一つの、外国人専用のナイトクラブに、招待された。客の大部分はソ連人か東欧諸国の連中だった。専属のホステス兼ダンサーも二十人ほどいた。中佐は彼女らを「トラバイユーズ(勤労者)」と呼んだ。  私たちは、そのトラバイユーズを遠ざけ、フロアから少し離れたテーブルに席を占めた。  政治や、現在の国情について、あまり突っ込んだ話をすることは避けた。私事や、思い出話が中心となった。 「古いことだからもういいでしょう。前々から、お会いしたら聞こうと思っていた」 「何だい」  サイゴン陥落の二日前だったか、タンソンニュット空港が、一三〇ミリ砲の猛砲撃を浴びた。私は、市中のホテルの窓から、空港炎上のさまを眺めた。何十発、いや何百発、射ち込んできたかわからない。おそろしく見事な命中ぶりであった。標的が有効射程範囲内の場合、一三〇ミリ砲の着弾誤差は一〇メートルていどといわれる。着弾のたびに、巨大なオレンジ色のキノコが夜空に吹き上がる。そのさまから、広大な空港敷地内に分散駐機している政府軍機や、各所の燃料タンクが、一つ一つ直撃されていることがわかった。現に、翌朝、空港に様子を見にいくと、管制塔もターミナルの建物も無傷だった。滑走路にもほとんど被弾の痕はみえない。しかし、機やタンクは全滅に近かった。爆撃機、輸送機などの大型機だけでなく、ちっぽけなヘリコプターまで、たんねんに破壊されている。よくこれだけ正確に当てたものだ、と、あらためて舌を巻いた。 「あのとき、基地内にいたあなたたちが、観測兵の役をつとめたんじゃないですか。無線で照準修正を味方に連絡していたんでしょう。そうでなければ、あんなに片っ端から命中するわけがない」 「もちろんだとも」  中佐はあっさり答えた。 「着弾点を見ながら、次は六〇メートル左方、次は同角度で八〇メートル射程延長、と、いちいち誘導してやったよ」  やっぱりそうだったのか。 「ひでえもんだ」  口にして、思わず笑った。 「政府軍もたまったもんじゃないな」  射撃目標のど真中に、わざわざ、敵の定点観測所を設けてやったようなものだ。 「むろん、奴らも気づいて、海兵隊の連中を差し向けてきた。すぐ味方に連絡して、一発でみんな吹き飛ばしてやったがね。それより恐しかったのは、弾薬貯蔵庫だ。私たちから僅か五〇メートルたらずのところに大貯蔵庫があった。こいつに味方の砲弾が当たったら、こっちも全員、こっぱみじんだ。必死だったな。まちがっても射ち込むな、と夢中で叫び続けたよ。まったく、あのときは必死だった」  そのときの緊張を思い出してか、興奮気味に、一気にしゃべった。 「それにしても、ザン大佐はずいぶん出世しましたねえ」  なかば無意識に口にしてから、うかつなことをいったか、と思った。 「ああ、彼は有能な男だからな。実に有能な男だ」  その口調に、これといった感情は読みとれなかった。だが、と、心の隅で思った。  空港で再会したとき、とっさに、中佐は変ったな、という気がした。別に体型、容貌だけではない。もっと深いところで、何かが変ったような印象を受けた。二、三日付き合い、この印象はますます強まった。以前の中佐は、その芯を貫く剛胆さを感じさせながらも、常に周囲の空気を弾ませ魅きつける、軽快なさわやかさを身に備えていた。今、その磁気があまり感じられない。気さくで、きびきびとこまめなところは、昔通りだ。だが、笑顔が変った。顔は笑ってても、目の奥に、いつも何か固い物が残っている。年齢がもたらした落ち着きとは異質のものだ。ずっとそのことが気になっていた。やはり職責上“好ましからざる記者”に対して心を許し切っていないのか、とも考えた。しかし、明らかに、それだけではなさそうだ。  七年前、タンソンニュット基地に駐在していた軍事代表団の中で、彼は、ザン大佐に次ぐ地位にあった。実質的なナンバー2だ。それにしては、現在、格差がありすぎる。大佐が政府の中枢に位置し、国家の重要任務を帯びてしばしば諸国を飛び回っているのに対し、中佐の方は、いまだにこうして外国報道陣のアテンド役という、ささやかな職にくすぶっている。来訪記者のためにホテルを用意し、空港に送迎し、滞在中の取材や乗り物の手筈を整える。人騒がせな日本人記者が大荷物を持って舞い込めば、方々飛び回って煩瑣な書類のサインをそろえ、税関職員らをおだてすかして、荷の引き出しを処理してやらなければならない。実際に、私は、年若い職員らに対する、中佐の、遠慮がちとすらいえるような、物腰や口のきき方に驚かされた。職員らはいずれも、北部ベトナムから送り込まれた連中だった。おそらく、中佐が独立運動に身を投じた頃は、まだ生まれてもいなかっただろう。彼らが母親の腰にまつわりついていた時分、中佐は、すでにジャングルで苛酷なゲリラ生活を送っていた。それから大隊を指揮して、砲弾飛び交う山野を駆けめぐり、最後には自軍の勝利と引きかえに命を捨てる覚悟さえ固めた。戦いが終った今、この殊勲の経歴への報酬は何だったのか。外国人の雑用係りとして、自分の息子のような年頃の若手幹部相手に、腰をかがめて物を頼みこむことだったのか。  軍部代表団時代は、二人とも、南部独自の組織とされていた解放戦線代表を名乗っていた。だが、おそらくザン大佐は、生え抜きのハノイ共産党員であったのだろう。中佐の方は、明らかに解放戦線の出身である。いわゆるゲリラ上がりだ。こうした経歴の違いが、現在の“身分”の違いとなって現れているのではないか。  もっとも、私の考え過ぎかもしれない。  真の革命者は、出世を求めたりしないだろう。過去の功績にしがみつき、それをふりかざすような真似もしないだろう。かりに彼らがふりかざそうとしても、「時勢」はそれを無視して変革していく。そもそも時勢を変え、未来に向かってそれを変革させ続けていくこと自体が、革命なのだ。一段ごとに、新たな工法で、階段を築いていかなければならない。ひとつの段の建設に命がけで取り組んだ職人も、自らの仕事を終えたら、新しい技術者たちに、席を譲らなければならない。そして、結局は、取り残され、埋もれていく。  革命とは、革命者自身に対しても、本質的に無情な事業だ。無情でなければ成り立たぬ事業だ。中佐も、その無情さを、当然のこととして受容し、いま、黙々と微小な歯車のひとつになり切っているのかもしれない。 「有能だ。実に有能な男だよ、彼は」  中佐は、くり返した。 「ところで、中佐、戦争が終ったら文筆の道に進みたい、と、いっておられましたね」  話題を変えた。 「うん、なかなか仕事が忙しくてね。しかし、ジュネーブ協定前後の、南部ベトナム情勢を整理してまとめたいと思っている。革命戦争が本格化して以来の記録はあるが、あの時代は歴史の盲点なんだ」 「それは面白いですねえ」  本当にそう思った。  一九四五年の日本軍撤退以後、ゴ・ジン・ジェム大統領が権力を固めるまでの約十年間、南部ベトナムは前近代的混迷状態にあった。ホアハオ教団、カオダイ教団、ビンスエン軍団など、奇怪な地方軍閥が割拠し、これらが互いに対立し合ったり、内部分裂して血の抗争をくりひろげていた。そして、インドシナ再植民地化をはかるフランスや、これに対抗して各地で独立運動を盛り上げはじめたベトミン勢力、さらにドミノ理論をかざして乗り込んできた米国を相手に血なまぐさく、かつ、複雑きわまる|合従《がつしよう》 |連衡《れんこう》を演じ、人々は恐れおののいて過ごした。この、はた目にはちょっと手がつけられぬ混乱期を、|生《な》まの目で内側から見つめ、各種の秘話やエピソードをおり込んで詳述した記録書は、今のところない。 「あの時代を明らかにしておかなければ、現在の若い連中は、私たちの革命の意義や目的を十分に理解しないかもしれないからね」 「まったく同感です。僕もかねがね、あの頃のことを勉強しなければ、と思っていた」 「今、資料を集め、ノートをとっているところだ」  私が本気で興味を示したので、中佐は満足気だった。身を乗り出すようにして、その当時の自分自身の体験や見聞について、ひとしきり話した。 「しかし、そうした話を総合し、系統化してまとめていくのは、大変な仕事だなあ」 「気が遠くなるような仕事だ。しかし、実際の関係者や、生き証人が残っている間にやっておかなければならない。まあ、一生の仕事と思って取り組んでいるよ」  中佐は、遠いところを見るような目を、しばらくフロアに向けていた。  中年のソ連人の夫婦が、陽気にパサドーブルを踊っている。  急に、 「ときに、君は何歳だい」  年齢を告げると、 「私より一回り半も若い」  ちらりと、私を見て、またフロアに目を戻した。 「羨しいなあ。私はもう|年齢《とし》をとった」  つぶやき、軽いタメ息をもらした。  そのたくましい横顔に、思いもよらぬ寂寥と苦渋のかげが浮かんで消えたのを見て、私は黙った。  やはり、あのとき、中佐は三十年間の闘争生活で、得たものと、失ったものに、こもごも想いをはせていたのではないか——。  日曜日の午後。  通りは以前と変らぬ人出だ。  こざっぱりした身なりの家族連れ、ぴったりと寄りそった恋人たち、若者らのグループ——体制は変っても、この町の人々の散歩好きの習性は、少しも変っていないらしい。目抜き通りの店舗も、七、八割方は昔通り営業している。品数の豊富さ多彩さも、ちょっと見た目には旧サイゴン時代と変らない。 「でも、物が高くなったので、ほとんどひやかし客ですよ」  市場前の雑踏の中を、ゆっくりとモーターバイクを走らせながら、ロン君がいう。  彼は、私がサイゴン特派員をしていた頃の助手だ。遠縁ながら、妻の一族でもある。  午前中は、二人で、旧中国人街のチョロンを訪れた。サイゴン地区にくらべると、めっきりさびれていた。大物華僑の大部分が出国してしまったためだろう。彼らが捨てていった店舗や家屋の多くに、今、ベトナム人が住んでいる。 「大部分が北から新しく来た人たちですよ」  屋台のコーヒー店でひと休みしていると、何人か、物めずらしげに集まってきた。以前はこんなことはなかった。私の容貌、体格はベトナム人に似ているらしく、よく憲兵らに徴兵逃れと誤解され、しつこく尋問されたものだ。 「どうして外国人だとわかっちまうんだろう」 「英語を話しているからですよ。それに、北からの人はまだ外国人をめずらしがる」  人垣に向かって、 「マンニョイ(今日は)」  と声をかけると、 「なんだ、この人、ベトナム語を話すよ」  嬉しそうな顔で、口々に話しかけてくる。  私のごく片言のベトナム語では、たちまちお手上げだ。 「誰か、フランス語を話す人はいませんか」 「ええ、私、話しますよ」  身なりは質素だが、品のいい顔立ちをした中年の婦人が応じた。 「彼女、中国人だな」  ロン君が判定する。  確かめると、本人も気遅れした様子なく肯定した。 「ずいぶんたくさんの中国人が国から出て行ったと聞いたけれど、奥さんは国を出る気はないの?」 「出ていったのは、金持ちだけですよ。私たちにはツテも行く先もありゃしない。ここで生まれ、ここで育ったんですからね。とても国を離れる気なんかになれませんよ」  笑って、答えた。 「どうですか。意地悪されませんか。近所に来たベトナム人たちと仲よくやってますか」 「意地悪される?」  彼女は、むしろびっくりした顔で問い返した。 「どうして私が意地悪されるんです? みんないい人よ。とても親切にしてくれます。貧乏人同士はケンカなんてしやしませんよ」  いってから、おかしそうに、私とのやりとりを、自らベトナム語で囲りの連中に通訳した。周囲の連中も、声を上げて笑った。 「この人たちも、みんな苦労してきた人たちです。苦労人同士は助け合わなければ生きていけませんからね」  彼女は寡婦で、成人した息子たちもみんな町に残っているという。解放以前は、近所の中国人女学校のフランス語教師をしていた。今は、新来のベトナム人たちがこの町の一角ではじめた、家具の集団工場で経理係りをしているそうだ。家具製造は北部ベトナム人のお得意わざのひとつだ。かつては徹底した「流通」の町であったチョロンも、「生産」の町へ変貌しはじめた、ということなのだろうか。  路地の小さなレストランで焼飯を食べてから、また、モーターバイクに二人乗りして市中に戻った。 「ひと休みしようか」 「ええ」  以前行きつけの、ホテルのそばの喫茶店に向かった。サイゴン勤務時代、日課のひとつであった軍部の戦況報告会見に出席したあと、ほとんど毎日のように二人で立ち寄った、外人記者だまりの店だ。七年ぶりのひとときを、その店で彼と一緒に過ごしたかった。店は、昔通り繁昌していた。もっとも、外国人の姿はもうない。  店内の喧騒に、ロン君は、ちょっとひるんだ様子だった。 「もっと静かなところがいいな」  少し離れた横丁の奥の静かな店に入った。 「どうですか。変ったと思いますか、サイゴンは」 「うん、みんなにそう聞かれる。でも、本当のところよくわからない。町の人たちと話してみると、まだ、ずいぶん多くの人が社会主義体制下での生活を嫌っているみたいだ。でも、さっきの中国人のおばさんみたいな人もいる。町自体の表情も、表面的にはちょっと変ったように見えるけれど、本質的には、昔通りじゃないか、という気がする」 「どういうところが昔通り?」  問い返されて、考え込んだ。 「この町とそこに住む人々特有の活気、というか生活力みたいなものかな。たとえば、オレが今住んでいるバンコクと、まったく違う。タイは自由主義の国だ。ベトナムは今、社会主義体制下にある。常識的にいえば、バンコクに住む連中の方が、もっとのびやかで、生気があっていいはずだけど、むしろ逆だ。だからただ道を歩いているだけで、何か心が弾んでくる。バンコクでは、そういう生活の磁気が感じられない」 「ひいきめじゃないかな。あなたはベトナムが好きだから」 「でも、オレ一人の印象じゃないよ。はじめてこの町を訪れたバンコクの記者仲間も、みんな同じようなことをいう」 「僕は外国を知らないけれど……」  しばらく考え、あいまいにうなずいた。  彼は、旧時代、国営通信者に勤めていた。およそ新聞記者らしからぬ控え目な性格の青年だった。小柄な体躯も一見、少年のように弱々しい。「パンダちゃん」というニックネームで私の同僚からも親しまれていた。  幼時に両親と死別し、メコンデルタのある町に住む叔母に引きとられた、といっていた。その叔母の何番目かの夫とやらが、私の妻の遠い親戚にあたることが判明したのは、彼が勤務の合間に私の仕事を手伝い始めてずっと後になってからだ。この国の幅の広い大家族制度では、それだけのつながりで「一族」に加えられてしまうらしい。以来、妻は彼を「私の|従弟《いとこ》」と呼ぶようになった。  サイゴン陥落後、ロン君は顔を輝かせて私の支局に飛び込んできた。 「僕の父親と母親が帰ってきたんです!」 「何だって?」  長い間、嘘をついていて申し訳なかった、と彼は詫びた。実は、両親とは死別したわけではない。両親は若い頃から革命の闘士で、一九五四年のジュネーブ協定のさい、ハノイの指令で北部に移住した。自分を残して去ったのも、ハノイの指令による。以来、あるルートを通じて、どうやら父母ともに生存していることだけは承知していたが、二十余年にわたり、音信不通の別離状態が続いた。その両親が、サイゴン陥落後数日を経ずして戻ってきた。 「僕も父親の顔はもう忘れていた。でも、母の写真は肌身離さず持っていたので、ちゃんと覚えていた。母は一晩、泣きあかしました。僕の方は、あまりの嬉しさに涙も出なかった。まだ、雲の中にいるような気持ちです」  父は次官クラスの要職をつとめ、母は軍医長に昇進している、という。これには、本当に驚いた。妻もこのいきさつは初耳だったらしい。もっとも同様の例は、そうめずらしくなかった。陥落後のひととき、こうした、私たちからみれば、思いもよらぬような再会風景は随所で見られた。  国営通信の記者であったロン君は、新体制の下で、六カ月間、再教育キャンプで過ごした。そのあと、自ら志望して、故郷に近いメコンデルタ地方の「新経済区」に居を移した。新経済区は、戦時中に都市に異常集中した人口を農村に再分散するために、新体制が各地に造営した“生産地区”だ。しかし、彼は、そこでひどい幻滅を味わった。新体制が支給を公約していた農機具も種子も食糧も、ほとんど回ってこない。医療設備もない。加えて二年続きの旱魃。それでも、若い妻君と二人の幼児をかかえ、死物狂いで開拓事業に取り組んだ。  結局、最後の頼みの綱であったタピオカも害虫で全滅し、食糧のストックも絶えた。 「骨と皮ばかりの子供を見るのも辛かった。でも、飢餓よりもむしろ、完全に精神的に参ったんです。僕は田舎の生まれです。土地を耕して生きることは長年の夢だったのに——。一時は一家心中も考えた。本当です」  カトリックの妻君に、自殺だけはといさめられ、乞食同然の姿でホーチミン市に舞い戻った。知識人の大量出国による人材不足が幸いして、なんとかある役所に職を得た。以後ずっとそこで働いている。 「辛い思いをしたな」  あらためて相手の顔を見つめた。初めてその老け込み方のひどさに気がついた。 「みんな同じような体験をしてます」 「うん」  うなずき、 「覚えているかい? あの、ソバを買い込んで行った北の兵士のことを」 「ええ」  と、ロン君もうなずいた。  解放後、二週間ぐらいたった頃のことだ。サイゴンの商業活動が、片肺ながら、ようやく、稼動し始めた頃だった。町をぶらついていた私たちは、夕方、市場の近くの乾燥ソバ屋の店先で、一人の北ベトナム兵が、店のおばさんと値切り交渉している光景を目にした。先陣を切ってサイゴンに入ってきた北軍の兵士らは、規律もよく、一様に生真面目で素朴だった。当の兵士の態度も、遠慮がちであった。それでもなんとか、抜け目のないおばさんとおり合いがついたらしい。彼は大量に買い込んだ。  フーティウ、と呼ばれる、米粉製のソバだ。日本でいう「ビーフン」と同系統だが、ずっと太く、コシも強い。豊かな南ベトナムでは、最も安価で、いってみれば、イヌのエサていどの食物である。カサカサに乾燥させ、大きな8の字形の束にまとめて売っている。だから、重みはないが、五束も買い込むと、たいそうカサがはる。若い兵士は、このフーティウの束をヒモでからげ、背中一杯にかついだ。こんなものを、後生大事にどっさり買い込んで、どうするつもりか、と、ちょっと興味が湧いた。ロン君に、わけをたずねさせた。  兵士は、三年ぶりの休暇を得て、明朝のトラックでハノイに戻る、という。 「それ、ハノイに持って帰るのですか?」 「ええ、両親への土産です」 「そんなものを? そんなにたくさん?」  私たちは目を丸くした。 「父も母も、もう、何年も、こんな高価な食べものを口にしたことがありません。両親に、お腹一杯、食べさせてあげたい」  兵士は|微笑《ほほえ》み、フーティウの山を背にして、銃を片手に、暗くなりはじめた町へ消えていった。微笑んで答えた彼の口調は、少々照れくさそうでもあり、また、親への情愛に満ち、いかにも嬉しそうでもあった。  私は、白い大きな荷物を背に、やや身を曲げてとぼとぼと(私の目にはそう映った)遠ざかる彼の後姿が、夕闇の中にとけこんでいくのを見送った。  体中に、|空《うつ》ろな寂しさが残った。 「両親にこれをお腹一杯、食べさせてやりたい」  サイゴンでは、どんな貧乏人も平気で食べ残し、残飯箱にぶちまけてしまうような安物を、だ。  気の優しいロン君も、悲しそうに首を振っていた。  おそらく彼一人だけではあるまい。二束三文の土産を宝物のようにかかえ、何日間も軍用トラックに揺られて、北の両親のもとへ戻っていく、何人もの兵士らの姿を想像した。北ベトナムとその人々が、どのような貧困と苦痛に耐えながら、今日までの道を歩んで来たか、を、あらためて思った。  そして、あの兵士の、子供のように嬉しそうな顔——。彼らは、米帝とその手先に搾取され、空きっ腹をかかえて奴隷のように生きる南の同胞を救うために、父母と別れ、故郷を離れ、今日まで戦ってきたのではなかったか。少なくともそう教えられ、それに何の懐疑も抱かず、数知れずのものがジャングルの腐土と化していったのではなかったか。無邪気にフーティウをかついで去った、若い兵士の笑顔に、一片の懐疑の影も見られなかったことが、よけい私の心を沈ませた。  サイゴン滞在中、何回となく、心の芯まで痛みで揺さぶられるような、辛く、悲しい人々の姿を目にした。各地の戦死者墓地——無数に連なる粗末な土盛りの前に炎天下、亡霊のようにしゃがみ込んで動かぬ黒衣の老女、美しい木陰の、婚約者の墓石に身を投げかけ、いつまでも静かに泣いていた娘。  町の薬局——乱暴に書き殴られたメモ用紙の処方箋を差し出し、ポケットの奥から、おそらく全財産であろう、よれよれの二十ピアストル札をとり出して、たった一個の錠剤を受けとり、顔をひきつらせ、全身の痛みをこらえるようにしながら無言で店を出て行った孤独の若い傷病兵。そして、陥落直前のあの混乱——夫や子供と生き別れ、髪をふり乱して泣き叫んでいた人妻……。  だが、と、今でも私は思う。  あの幾多の情景の中で、私の胸に終生、薄らぐことがないであろう、重く、不条理の寂寥を刻み込んだのは、あの夕方、あの、父母への土産をかついで、闇に消えていった兵士の姿ではなかったか——と。 「ところでお父さんは、今、何をしておられるの」 「元気で毎日、役所に出てますよ。国家再建委員会のメンバーです」 「偉いんだな」 「次官クラスだそうです。時間があったら、ご紹介したいところだけれど」  もっとも、あの一徹な父がおいそれと西側記者などの面会に応じるかどうかわからぬが、と、ロン君はつけ加えた。 「お母さんは?」 「もう引退しています。父が公務で忙しいので小さな家を借りて、一人だけで暮らしてます」  生活は党と政府が保証してくれているが、実に質素だ、自分たちよりずっと貧しい物を食べ、持ち物も仕事着二、三着しかない、とロン君はいった。 「母はそれで満足しているんです。人生のすべてを祖国に捧げ、次の世代のために自分の欲望を無にすることが、彼女自身の使命であり、然るべき生き方だ、と固く信じています」  小さな室内を板で区切り、何頭かのブタを飼っているそうだ。政府はこの手の食糧増産を人々に奨励している。屋内の清潔さを保つために、毎日、ブタたちを水で洗ってやらなければならない。六十歳半ばの身には、楽な仕事ではない。  ロン君夫妻は、ときおり見かねて、滋養のある物を差し入れに行く。ブタの世話も手伝わせてくれ、と申し入れる。 「でも、母は絶対に受け入れない。こうして質素に暮らし、ブタを育てることだけが、今の自分にできる唯一の奉公だ、といいはるんです」  軽いタメ息をついた。 「そうか……。ところで、例の件だが、どうなんだい。だいぶ考えが変ったと聞いたけれど」  ちょっとためらってから、 「ええ、それで静かなところで話したかったんです」  彼は、役所に職を得てからも旧サイゴンの多くの住民と同様、国を去りたがっていた。あるルートを通じて、当時、東京にいた私に、何とか相談に乗ってくれまいか、と、頼み込んできた。注意深い表現ではあったが、同様の趣旨の手紙も直接、何回かよこした。だが、ベトナム難民に対する日本の門戸は極度に固い。バンコクへ赴任してからも、二、三回、手紙を受け取ったが、私には打つ手がなかった。やがて、二年たち、三年たち、一昨年初めて里帰りした妻から、彼が以前ほど、脱出のことを考えなくなっている、と聞いた。 「なぜ、気が変ったんだい?」  かさねて聞いた。相手はコーヒーカップに目を落としながら、 「うまく説明できるかな。僕の英語、まだわかりますか。英語を使うのは、解放後初めてなんですよ」 「わかるとも。さっきからちゃんと通じてるじゃないか」  彼は、自分の考えを整理するように、ゆっくりとカップに砂糖を入れ、しばらくの間、かきまわしていた。 「もし、公安警察の耳に入るとまずいようなことなら、説明しなくていいよ」  店内の客はまばらだ。だが、万一を思って念を押した。 「別に気にしてませんよ。どうやら公安については、あなたの方が神経質すぎるみたいだな」  ロン君は、苦笑した。  外国人と親しくしすぎると、後難があるのではないか、と、今朝からくりかえし私が気づかって尋ねていたからだ。 「でも、率直にいって、二年ほど前までは、あなたのいう通りだった。何から何まで監視され、友達とも自由に話ができないような空気だった。しかも物価はどんどん上がる。米の配給は途絶える。北から来た役人や地区委員たちは威張りくさり、何かと難題をつけては、貧乏人からカネをせびり取る。僕もずいぶんひどい目に遭った。おまけに政府の公約は何一つ実行されない。完全にホープレス(期待無し)の状態だった。ベトナムはもうお終いだ、と本気で考えました」 「でも、君の両親は幹部だろう。何か後循になってくれなかったのかい」 「あるていどは助けてくれた、と思う。だから今の職にもありつけたんでしょう。でも、本当は今の体制では、そういうことは許されない。それは僕も承知してます。僕の方から物を頼んだこともありません」  結局、耐えられず、漁船で国を脱出することにした。ひそかに手はずを整え、妻と二人の子供を連れて、港町ラクジャに行った。だが、仲介者にだまされた。予定の船はもう出てしまっていた。 「逃げる計画は、ご両親に話したのかい」 「話しませんでした。黙ってラクジャに行きました」 「でも、君は、今でもご両親が好きなんだろう」  七年前、再会の喜びを体中に表して語った彼を思い出した。 「大好きです。両親も僕を可愛がってくれる」  しばらく黙ってから、 「でも、結局、もう物の考え方がまったく違うんです。何でもないことは、自由に話し合える。とても気が合う。だけど、世の中の見方とか、人生の意味などについての議論になると、どうしてもわかり合えない。完全に自分とは心が異質の人を前にした気になってしまう。相手が実の親なのにですよ。わかりますか」  目の底に涙をにじませて、私を見た。 「それで——、今は? 今は、もうホープレスじゃなくなった、ということかい」 「まだわかりません。でも、僕個人は少なくとも、もう何年か頑張ってみよう、という気になっています」  何よりも、二年前、それまで閑職にあったハノイ共産党ファム・フン政治局員が内務相に就任し、公安警察の総責任者になって以来、南部の空気は目立って明かるくなった、という。ファム・フン政治局員は、党最高幹部集団のなかで、ただ一人の生粋の南部人だった。メコンデルタのブンロン省の貧農の出身である。北部人と南部人の気質や、地域間の風習や、生活形態の違いを十分に心得、統一直後から、北部から南部に乗り込んだ一部の若手幹部が“戦勝者気分”でふるまうのを、苦々しげに眺めていた。内相に就任して以後、悪質公安警察官を容赦なく更迭し始めた。  そのことは、里帰りした妻からも教えられた。一昨年、初めて里帰りしたさい、彼女の住まいがある地区を担当する公安は、赴任間もない北部出身の青年だった。妻自身には丁重だったが、近所の評判はきわめて悪かった。傲岸で、いいがかりをつけては金品を巻き上げる。翌年帰ると、すでにこの青年は投獄され、その後任に南部出身者が登用されていた、という。 「それと前後して、ご存知のように、限定自由化政策が導入されたでしょう。個人規模の商売も認められるようになったし、農民も一定の量を政府に供出すれば、余剰生産米は自由市場に持ち込める。だから、去年あたりから、生産量が一気に増えた。町の経済も活気づいてきてますよ」  彼の場合も、まだ生活は極度に苦しい。しかし、小学校の先生をしている妻君と共稼ぎで、互いに勤務時間外は行商などして、ギリギリやっていけるようになった、という。 「むろん、まだホープフル(期待できる)な状態ではない。ただ、完全なホープレスな時代はどうやら終ったんじゃないか、という気がするんです。職場の若い仲間の中にも、そう考えているものがかなり増えてきています」 「なるほど。しかし、町の連中は、まだずいぶん逃げたがっているみたいだぜ」  町で、何人かと交した会話から得た感触だった。 「たぶん、住民の七〇パーセントぐらいはそうでしょう。以前は、九〇、いや九五パーセントまでが脱出したがっていた」  それに、以前はむしろ知識人の方が真っ先に逃げたがっていた。今は逆に、物を考えることを知らない庶民層の方が脱出に熱心だ。外国に逃げ出せば、働かないでも暮らしていける、と思い込んでいる人々だ、と、彼はいった。 「でも、どこの国でも、たいがいの人は、精一杯働かないと暮らしていけないわけでしょう」 「そりゃそうだ。このオレを見てみろよ。生活に追われて、もうヨレヨレだ」 「そうも見えないけれど」  笑って首を振った。 「それでも、自由主義の国に行ったところで、生活が楽になるという保証はない。現に、外国に逃げた友人の中には、もうベトナムに戻りたがっている連中もいます。そのくらいなら、多少、不本意な統制があっても、もう少し自分の国で頑張ってみよう、という気になったんです」 「君もどうやら、洗脳されはじめたのかな」  冗談めかしていうと、 「別にそういうわけじゃないけれど——」  苦笑した。 「とにかくあと三年、いや五年ぐらい頑張るつもりです。それでもやっぱりホープレスだ、と判断したときは、また考えなおします。そのときは、何とか出国できるよう手伝って下さい」  私は承諾した。  ひよわで物静かな、この若い友人の中に、以前は感じられなかった、男としての|芯《ヽ》を見たような気がした。  ホテルの玄関を出ると、道の向こう側にたむろしていたシクロ引きのうち、すばしこいのが、 「ヘイ、ミスター」  声をかけて、すぐ近寄ってきた。 「ホンタプツー通り」  乗り込み、行く先を告げる。相手は首をかしげた。 「いや、ソビエト・ゲチン通りだ」 「ああ、ソビエト・ゲチンか」  うなずき、威勢よくペダルを踏み出した。  十七、八歳か。この年頃の者には、もう旧街路名は通用しないらしい。  再統一後、市の街路名はずいぶん改称された。旧時代のゆかりの名は廃止され、共産革命の勝利と歴史を記念する名前が、それらにとって代った。 「四月三十日通り」「八月革命通り」「二月三日通り」「ディエンビエンフー通り」「総蜂起通り」「南部ベトナム決起通り」……。  新街路名にうとい私は、シクロに乗るたびに往生する。後に姪のフエに聞くと、年齢と関係なく、市民の多くが、すでに日常会話でも新たな街路名を使用している、という。 「ホーチミン市はどうだい。もうサイゴンの人たちも、抵抗なくこの名前を口にするようになったかい」 「ええ」  と、彼女はうなずいた。  どうやら、取り残されたのは私の方らしい。いまだにこの新しい名前になじめない。 「ソビエト・ゲチン通り」は、旧大統領官邸わきから植物園前を通ってチョロン方面へ通じる、タマリンドの並木道だ。ここで用いられている「ソビエト」は、本来のソビエト、つまり労農者の「代表者会議」「評議会」のことである。「ゲチン」は、故ホー・チ・ミン大統領を生んだ省の名前だ。植民地時代末期、北部ベトナムで幾つかのソビエトが組織された。いずれも蜂起の時期を誤り仏軍に粉砕されるが、ゲチン省のそれは、とくに果敢に、独立・革命運動の先兵の役割を果たした。その名が、この町の代表的な並木道に冠せられた。  一帯は官庁街だ。旧大蔵省、旧厚生省、旧情報省……。多くはフランス植民地時代からの重厚な建物である。現在も旧時代と同様、役所として使われている。  夕刻の通りは、自転車でいっぱいだ。以前、退庁時の通りはモーターバイクの洪水だった。若い娘さんたちもアオザイの裾をひるがえし、さっそうと飛ばしていた。今、アオザイ姿は、日曜日以外はほとんど見かけない。勤め帰りの女性の大部分が、地味なシャツと黒ズボン姿だ。化粧をしているものも少ない。  官庁街を抜けてしばらく行くと、ホーチミン市とハノイを結ぶ、統一鉄道の踏切りがある。このあたりはもう細民街だ。踏切りの手前でシクロを降りた。  あばら家の間を線路伝いに一〇メートルも行くと、前方で、 「わあーッ」  歓声が上がった。  妻の一族が迎えに出ていた。一族といっても、妻にはもう直接の親兄弟はいない。叔母、従姉、姪、その配偶者や遠縁の者たち——。多くは妻よりずっと年上だが、彼女は家系上、一族の家長にあたる。大家族制のベトナムでは、家長は、一族扶養の義務を背負っている。解放後の彼らの生活の困窮をどう切り抜けさせてやるかが、妻の頭痛のタネとなった。東京にいた頃から、月々、金品を送った。バンコクに移り、里帰りが可能になってからは、毎回、三〇〇キロ近くのお土産を持ち帰るのが常だ。ラム中佐の手を煩わせた段ボール箱三個も、これら一族への差し入れである。 「荷物は届いたかい?」 「届いたさ。おととい、中佐さんの運転手が運んできてくれたよ」  肥った義理従姉が威勢よく答えた。  他の連中も、みんな、血色もよく元気そうだ。 「ひさしぶりだねえ」 「でも、変ってないねえ」  大はしゃぎの婆さんたちに取り巻かれて、線路からちょっと奥まった“我が家”に引っぱり込まれた。  一族の最年長者である妻の叔母が、奥からよちよち出てきた。私の手をつかみ、涙を流しながら、ぼそぼそと何かいっている。 「よく帰ってきた。この七年間に二度ばかり大病したけれど、叔父さんたちが送ってくれている薬のおかげで何とか生きのびている。もう叔父さんに会えたから、思い残すことはない、っていっているわ」  姪のフエが通訳した。一族中、彼女だけが何とか英語を話す。「叔父さん」とは、私のことだ。  義理従姉が運んできてくれたコーヒーをすすり、家の中を見回した。  実は、この住まいは、私にはあまりなじみがない。以前は、もっと中心部に近い繁華街の長屋が、私たち夫婦と一族のねぐらだった。所有者の妻が日本に出たため、「国外逃亡者の財産」と見なされ、新政府に接収された。追い出された一族は、それぞれツテを求めて分散した。主だった者十人ほどが、この線路わきの、古い二階家に転がり込んでいる。妻が、最初の結婚をするまで、母親と二人で暮らした家だ。母親が死んだ後、叔母名義にしておいたので接収を免かれた。もっとも新政府も、こんな細民街のあばら家まで手をつける気はなかっただろう。  当初は廃屋に近かったそうだ。妻は里帰りのたびにかなりの|金《かね》をかけて修繕させた。今では、手狭ながらもまずまずの住まいだ。小さなサロンの隅に、私たちが香港で買って差し入れた、カラーテレビが置いてある。  そのうちに、外出中の甥や姪が次々帰ってきた。離れて住んでいる一族もやってきて、またひと騒ぎになった。  別れたときはまだ半ズボンをはいていた小娘のベエは、すっかりおとなになった。昔の面影がないほど、顔立ちも整った。 「お前、ずいぶんきれいになったな。あと二、三年もすると、すごい美人になるぞ」  声をかけると、恥ずかしそうに柱のかげに顔を隠した。はにかみ屋の性格は変っていないようだ。  姪の一人ホアは、相変らずぶくぶくと肥っている。 「何キロだ?」 「七〇キロ」  答えて、陽気に笑った。解放直後、三日間、水だけ飲んで過ごしたこともある、という。 「そのときは五五キロまでやせたわ。でも、お米が出回り始めたら、すぐ元へ戻っちゃった」  また、おかしそうに笑った。  近所の衣料工場で働いている。給料はともかく、米の配給はたっぷり受けられるのでなんとかやっていける、といった。  少し遅れて、フエの妹のランが来た。 「おひさしぶり」  しとやかに挨拶して、ニコニコ笑う。  病院で看護婦勤めをしている。 「叔父さんがみえた、って聞いたので|早退《はやびけ》してとんできたのよ」 「仕事はどうだい、面白いか」 「とっても。でも一日五百人からの血圧を測るのよ。おかげで右手が太くなっちゃった」  解放後、見習いの講習を受けた。隣国カンボジアのポル・ポト政権軍がしきりと越境攻撃をしかけてきた時分は、メコンデルタ国境の野戦病院で働いた。ポト政権が潰滅して以後、市内に戻り、今の病院で働いている。もう、婦長クラスだ。北部ベトナムで速成教育されて送り込まれてくる若いお医者さんより、診断も注射の腕も確かだ、と、自慢した。 「叔父さん、お元気? 調子が悪いところがあったら診てあげましょうか」 「冗談じゃない。これでも命が惜しい。お前なんかに注射されてたまるか」 「そんなに馬鹿にしたもんじゃないわ。あと二年で医師補の資格がとれるのよ。それから試験にパスすれば、本当のお医者さまになれるの」 「おいおい、バクシ(ドクター)・ランか」 「そうよ。だから今、日曜日も出勤して、偉い先生について勉強してるの」  変れば変るもんだな、と、感心した。  別れたときは、十六、七歳だったか。手のつけられない怠け者のプレイガールで、しょっちゅう男とほっつき歩いていた。その頃から、しなやかな肢体の、たいそうな美人だった。当時より、顔つきも体も成熟し、よけい魅力的になった。 「相変らず、男好きか?」  首をすくめ、ペロリと舌を出した。素行の方はおさまっていないらしい。  通訳係りフエの英語はだいぶさびついてしまっているので、あまり話は弾まなかった。  それでも、一族の陽気さや血色のよさからみて、みんな新体制の下で、大過なく日々を過ごしていることがわかった。手放しの笑顔に囲まれて、心の底からくつろいだ気分で過ごした。七年間の歳月がどこかへ吹っとんだような気持ちだった。  外は、そろそろ暮れかかっている。  むろん、正式の許可を取っての訪問だから問題はないはずだ。だが、私も新聞記者として“情報”に携わる身だ。おそらくこの家の周囲にも、今、公安警察が張り込んでいるだろう。あまり長居をして、彼らを無用に刺激したくなかった。  何杯目かのコーヒーを飲み終え、別れを告げた。 「明日、プノンペンに発たなければならない。まだその前に片づけておかなければならない仕事があるんだよ」  義理従姉が心得顔でうなずき、引きとめるみんなを制した。 「これ、今、ベエに買ってこさせたよ。今晩のおやつにでもしておくれ」  何個かのマンゴーをつめたワラの籠をさし出した。この国のマンゴーのおいしさは、ちょっと比類がない。 「これはありがたい」 「あんた、お金はだいじょうぶかい、少しぐらいならあるよ」  と、筒ズボンの内ポケットに手をいれかけた。それからおかしそうに、 「といっても、もともと、あんたから送ってもらっているお金だけどね」 「ありがとう。たっぷりあるから気にしないでいいよ」  思わず、苦笑した。ここまで来て、小遣いの心配までされようとは思っていなかった。  甥の一人がモーターバイクで送るといい張ったが、断った。私にとって、この土地での滞在最後の夜になるだろう。できるだけ自分の足で、町を歩きたかった。  全員、路地の入口まで見送りにきた。  隣り近所の人々も、ぞろぞろ出てきて、親しげに挨拶をよこす。 「叔父さんが送ってくれる薬を、ご近所にわけてあげるの。だから、この界隈で叔父さんの評判は上々なのよ」  と、フエがいった。  ごく限られた滞在であった。  いわゆる「取材」は何もしなかった。  大部分の時間を、気の向くままに町を歩き、ときおり、行きずりの人と短い会話を交すだけで過ごした。だが、それだけで、多くの人々が、まだ新たな体制になじめず、表面、気楽にやっているように見えながらも、内心ではハノイに対して深いわだかまりを抱いている気配は察知できた。  同時に、その一方で、「時間」が、じわりじわりとその効力を発揮しつつあることも、肌身で感じられた。  現に、かつては家長依存の風習を当然のことと心得、労働の|ろ《ヽ》の字にも縁がなかった、怠け者のホアが、今では、自ら養うために工場通いをしている。高校中途で学業を放棄し、これでは先行きどうなることか、と、妻や私を案じさせた遊び屋のランにいたっては、医師の資格取得をめざして、休日返上で働き、学んでいる。ここまでくる歳月が長かったか短かったかは、別として、やはり、何か新たなものが生まれていることは認めざるを得ない。  ロン君のように「とりあえずここしばらくは」と腹を固めた者は、全体から見れば少数かもしれない。だが、たとえ彼ら自身、その先行きについてまだ確信を抱いていないにしても、こうして一部の人々の内部に「未来」への想いの|芽《ヽ》が感じとれたことは、この国を思う私の心を、ずいぶん軽くした。  翌朝の機で、タンソンニュット空港を発った。 [#改ページ]      
第二部 パリの革命家たち

 デモ隊は、コンコルド広場の方からやってきた。  何十台ものオープンカーや小型トラックが、フルスピードでシャンゼリゼ通りを往き来し、露払い役をつとめる。車の青年たちは、巨大な三色旗をうちふりながら、口々に何事かアジっている。その後から、人々の隊列が、整然と進んできた。  見渡す限りが人の波だ。 「凄いぞ、まだあんなにいる」  めずらしく興奮したおももちで、|多発《タフア》が叫んだ。  カフェ・ジョルジュ五世のテラスの人混みにもまれながら、爪先立って指さされた方向を見た。  彼方の広場は、通りに入り切れぬデモ参加者たちで、黒々と埋まっている。  進んで来る人波の最前列に、ドゴール派の大物たちがズラリと顔を並べていた。ミシェル・ドブル蔵相、メスメル国防相、ペリフェリット教育相、クーブ・ド・ミュルビル外相、シャバンデルマス下院議長……。互いに腕を組み、横一列に広がって、静々と大群衆を従えてくる。  その中の一人に、私の視線と意識は引きつけられた。  アンドレ・マルロー文化相だ。  左右の僚友と腕を組み、中央を、先頭を切って歩を進めてくる。 「見ろ、マルローだ」 「マルロー……?」  多発はあいまいに応じた。彼は、見かけによらず世知や実学にたけている。そのくせ、体系的な知識や、多少なりとも文化的な分野の常識にはおよそ縁のない男だ。マルローの名を知っていたかどうかも、わからない。 「大作家だ。ドゴール派の中でも別格的存在だ」  手短かに、その作品や経歴を説明した。 「ふうん」  相手は別に感銘を受けた様子はなかった。デモ隊の人数のおびただしさにだけ気を奪われた様子で、嬉しそうに舌打ちしながら、しきりと頭を振っている。  もうデモの様子も、いぜんとして威勢よく眼前を走り回る、右翼の青年たちのオープンカーも、目に入らなかった。マルローを、この目で見たのは初めてだ。写真やフィルムから得ていた印象よりも、ずっと小柄に見えた。しかし、すべての点で、写真をはるかに凌駕している。その人物自体が、それだけで、すでに一個のすさまじい迫力であった。たくましく冷厳な容貌、鋼のような透徹したまなざし。渾身が、不屈の意志と、知性と、触れれば凍りつくような感性の具象化と映った。このあまりにもきわだった人物を目前にすると、左右に居ならぶドゴール派の重鎮らもかすんで見えた。  一個の人間の姿そのものから、これほど圧倒的な凝縮力と圧力を|じか《ヽヽ》に伝播されたのは、初めての体験であった。周囲を圧する貫禄、などという安直な表現ではとても、その姿を伝えられない。むしろ、逆に、僚友らとスクラムを組み、沿道の人々の拍手と称讃の叫びの中を、数十万人の群衆を従えて歩く、マルローの姿は、孤独であった。喧騒と興奮の中で、その一角だけが静寂であった。  彼の著作の幾つかを思った。“瀝青のような”と評される、その、ねばり合い、からみ合った難解な文体。壮大ではあるが、むしろ緩慢で退屈な筋の展開。晦渋をきわめ、ときには大仰に過ぎるようにさえ思える内省の連続——。一応の代表作には目を通していたが、ひとつとして理解し得たとは思わない。少なくとも好きにはなれなかった。現にフランス知識層の間にも、彼を「大山師」ときめつけている者も少なくない。ただ、不熱心な読者であった私にも、彼の作品群の底流を流れる強烈な息吹きだけは、はっきりと汲みとれた。作者の人格が備える、超人的なまでの(と、私には思えた)意志の力だ。作品そのものよりも、そこに充満した作者の意志と、行動への渇望、そして、たとえ一部から、山師のそれであると評されようと、冷たく澄みわたり、鍛え上げられた知性と感性により、彼は私にとってやはり、別次元の存在だった。  その別次元の人物が、今、目の前を行く。彼が冷然と身の囲りに漂わせている静寂の気を目の辺りにして、意志とはこうも孤独なものなのか、と、深く重い衝撃に打たれた。  カフェの前を通り過ぎたマルローの姿は、すぐ後続の大群衆に没した。  一カ月来のセーヌ左岸の騒ぎを思い起こした。そして、今、通り過ぎた“超人”を心服せしめ、自らの右腕としてあやつっている、ドゴール大統領という謎めいた人物の巨大さと恐しさに、あらためて思いをはせた。 「勝負はあった」  と思った。  その春、フランスは、思いもよらぬ異変に見舞われた。過去半年余り、世界各主要都市を地鳴りさせていたスチューデント・パワーの波が、突如、学生の街カルチエ・ラタンで集大成的に爆発する。マロニエの並木道に何十というバリケードが築かれ、各街路や広場は投石、催涙ガス合戦の巷と化した。サルトルと互角にわたり合う、非凡な赤毛の法学生を指導者に頂いた学生たちは、巧みに各労組と提携し、デモや警官隊との衝突の場は、セーヌ左岸から右岸にまで拡大した。労組は無期限のゼネストを指令し、生鮮食糧やガソリンの補給も途絶えた。パリをはじめ、フランス全土の都市機能は、たちまち麻痺状態に陥った。フランスを震撼させた「五月革命」である。  私が通っていたフランス語講座の教師は、コルシカ島生まれの一本気な女史だった。 「高い費用をかけて、こうしてパリまで勉強に来ているあなたたちへの授業を、このくらいのことで中断するわけにはいきません」  教室を、騒乱の中心地であるソルボンヌから、付近の中学校や地区図書館のホールへ移して、なおしばらく頑張り続けた。しまいに、催涙弾の煙は図書館の中にまで入ってきた。ゼネストで地下鉄が停まり、出席者の数も数人に減った。頑固な女史も諦めざるを得なかった。カルチエ・ラタンの多くの建物は、もうとっくに機動隊の壁で封鎖されていた。中世の鎧のような戦闘服と、銀色のカブトに身を固めた機動隊員らには、並みの警官とはまったく違った、不気味な迫力があった。つめ寄る学生たちの悪罵の雨を浴びながら、青い目を無表情にすわらせ、彫刻のように持ち場に突っ立っている。どんなに挑発されても、命令がない限り、けっして行動に出ぬよう、訓練されつくされた特別鎮圧部隊だ、と聞かされた。こんな特別部隊が、左岸一円の要所に配置され、ときに、隊長の号令一下、硬質ゴムの警棒をかざしてすさまじい勢いで、学生や通行人に襲いかかった。私も何回か、あわやというところまで追いつめられた。なんとか上官らしいのをつかまえ、おりから手に入れていた「パリ会談」取材用の特別プレスカードを示すと、 「新聞記者か」  いまいましそうに舌打ちし、 「よけいな場所に顔を出して、怪我しなさんな」  部下に命じて、退路を与えてくれた。  多発は小心な男だった。路地のずっと向こうで、鎮圧部隊のカブトがきらめいているのを目にしただけで、もう顔色を変えて逃げ腰となる。そのくせ、騒乱見物が大好きで、大きな衝突やデモが予想されると、必ず私を電話で呼び出した。おかげで、車の焼き打ちやバリケードのかがり火の炎が空を染める夜の街に、何回も付き合わされた。  攻撃の矢面に立たされたドゴール派は、当初、防戦一方であった。形勢不利とみてか、特別鎮圧部隊もいったん、右岸に後退した。 「なあ、内乱になるかなあ」  警官らを追い払い、勝ち誇る学生たちにより、完全な人民管理下に置かれた、カルチエ・ラタンを歩きながら、多発は、何回もいった。お前は新聞記者だから、そのくらいの見当はつくだろう、という。 「内乱なんかにならないよ。ドゴール政権は、このていどのことで引っくり返ったりしない」  別に根拠はなかったが、そんな気がした。  どうやらこの予感は当たったようだ。  ドゴール大統領がマルローらを動員して、あの大デモを皮切りに、突如、巻き返しに出たのは、騒ぎが頂点に達して間もなくだったように覚えている。騒乱勃発以来、大統領はエリゼ宮の奥に引っ込み、沈黙を守っていた。無言で、冷やかに機の熟するのを待っていた。そして、おそらく学生や労組が勝利に酔うと同時に息切れし、指導者らの統制が乱れはじめたのをみきわめて、反撃に転じたのであろう。  シャンゼリゼ通りの大デモ以降も、左岸の反体制運動は、なおしばらく燃えさかる。やがて、ポンピドー首相の老獪な工作により、学生、労組各派は分断される。「五月革命」は、挫折し、終焉した。 「五月革命」とその失敗の、本質的背景について、私に語る資格はない。当時の私は、まだ観光気分の抜け切らぬ、気楽な身分であり、この爆発的な騒動を招いた、フランス社会の長年のひずみについて、ごく表面的な知識しか持ち合わせていなかった。近年のフランスが体験した未曾有の混乱の現場に身を置きながら、結局、この騒ぎを「他人事」として眺めて過ごした。  とどのつまりは、|国家権力《ヽヽヽヽ》の勝利であったのだろう。  しかし、極めて個人的、かつ印象論的に片づけてしまうと、私にとっての「五月革命」とは、あの日のマルローの姿に他ならない。  そして、もし私が、あの一カ月半の混迷の中で、何事かことの本質に触れたとしたら、それはやはり、その時、自分の内部に鮮烈に食い込み、今もなお、まぶたの裏にはっきりと残っている、あの一個の人間の映像から得られた、と考える以外ない。鋼のようなまなざしを真っすぐ凱旋門に据え、無言で一歩一歩、大デモの先頭を切って行った、あの人物の、不動の意志の表示が革命の局面を転換させた——という気が、今もする。  それから約一年後、ドゴール政権は崩壊する。「五月革命」との相関関係はわからない。前年六月末、総選挙に大勝して学生らにダメ押しの一撃を与えた大統領は、一年足らず後、再度、自らの信任を問う国民投票を行い、敗れた。この国民投票は全フランス人の意表をつくものであった。同時に、当時のいきさつから、はた目にも無謀、無用の勝負とみえた。  当時住んでいた、プランタン街のアパートで、私は、テレビの開票速報を見た。開票開始と同時に、ドゴール大統領の敗北はすでに明らかだった。途中、インタビューに引っぱり出された、ドゴール派の行動隊長格ミシェル・ドブレが、持ち前の短気さをあらわに、カメラに向かって焦立ちと怒りを吐き散らした。  午後九時、新任間もないクープ・ド・ミュルビル首相がスタジオに姿を現した。  名門貴族の出身で、ドゴール派のプリンスとされていた。いかなる場合にも取り乱さない、“氷の男”ともいわれた。  その長身、端整な老貴族が、カメラの前に佇立し、敗北宣言を行った。 「私は悲しい。私の政治生活中に、これほど悲しい出来事を体験せねばならぬとは、考えてもおりませんでした」  氷の男が、その両眼からとめどなくこぼれ落ちる涙を、押えようとも隠そうともしなかった。この一幕も、重く呆然と心に残るドラマであった。短い敗北宣言の中で何回かくり返された「Triste(悲しい)」という単語の中に、私もまた、最後のフランスの栄光を築き上げた、ケタはずれの巨木が静かに倒れていく、沈痛な響きをじかに聞いたような気がした。  パリで暮らしはじめたのは、「五月革命」より約十カ月前の、一九六七年夏からだった。  国内での長い地方支局勤務を終えて、東京本社に戻ると、どういう風の吹きまわしか、二年間の欧州出張の機会を得た。表向きの肩書きは移動特派員であった。実質的には、語学と外国での土地カンを身につけるための研修であり、遊学であった。出先で大事件が起こった場合は、現地の常駐特派員に協力する義務を付されていたが、平時の生活や行動について拘束はなかった。  前の妻と結婚して、まだ何年もたっていなかった。外国に育ち、外国生活に飽いていた妻は、何度目かのパリ暮らしに気乗り薄だった。といって、互いに二年間離れて過ごす気もなかった。  結局、彼女も、結婚で中断していたフランス哲学の研究を、パリ大学大学院で続けることに同意した。そして、フランス政府公費留学生の資格を取った。  往路は、いわば新婚旅行の再現だった。東南アジア、インド、中東、ギリシャ——と、たっぷり時間をかけて、異土の風物や名所古跡見物を楽しんだ。  結果的には、日本での生活に深い未練を持ち続けていた妻を、なかば強引に連れ出したのがいけなかった。  パリに着いて三カ月ほどしてから、彼女は疲労を訴えはじめた。最初のうちは、それほど気にとめなかった。一カ月余りの長旅の反動、あるいは、しばらく遠ざかっていた学生生活への適応の気苦労が体調に現れたのだろう、と思った。私自身、まだ初めての外国暮らしに、自分をなじませるのに精一杯だった。大学の仏文科で学んだフランス語は、ほとんど日常生活の役に立たなかった。妻が、着くなり大学院に登録し、何やらむずかしい哲学者の著作に取り組みはじめたのに対し、私の方は、同じ大学内の外国人向けフランス語講座から再出発しなければならない始末だ。  すでにこの土地で何年も暮らした体験を持つ妻の|ぐずつき《ヽヽヽヽ》に、かまっている余裕はなかった。彼女の症状は徐々に悪化した。そして、私が、彼女の心身の消耗が、単なる疲労ではなく、本物の病いからきていることに気付いたとき、その病いはもうこの土地での生活を続けられないほど昂進していた。医師の勧めに従い、つい数カ月ほど前とは別人のようにやつれ果てた彼女を、急遽日本へ送り返した。自分の迂濶さを、ひどく悔いた。  彼女が去った、左岸の学寮の一室でひとり暮らしを続ける気になれないほど、心が落ち込んだ。  荷物をまとめ、右岸の場末近い外国人用下宿に引っ越してからも、部屋に引きこもって過ごす日が続いた。最後の一カ月間余りの、ほぼ不眠不休の看病で、体の方もすっかり参っていた。  下宿で得た新しい友人たちは、そんな私に、今も忘れ難い気遣いを示してくれた。 「とにかく体力を取り戻せ。これを火であぶって、毎日二個ずつ食べるんだ」  韓国人の李は、段ボール箱一杯ほどもあるニンニクの束を差し入れてくれた。 「焼くと|臭《くさ》みがとれる。それをショウユにひたしてかじればいい」  最初、彼と顔を合わせたときは、日本人だと思った。運送屋が下宿の玄関に投げ出していった荷物を、大汗かいて三階の自室に運び上げていたとき、 「重そうですね。手伝いましょう」  完璧な日本語で声をかけてきた。日本に行ったことはないが、子供の頃、基礎を父親から教わり、あとは独学でマスターした、という。パリ大学で博士論文執筆中の少壮物理学者である。  親しくなってから、 「李というのは由緒ある姓なんだろ。君も李王朝の子孫かい」  と、聞くと、 「いや、どこにでもゴロゴロある名前なんだ。ほら、日本でいえば、鈴木とか佐藤とか——」 「それで? そのゴロゴロしているのがみんな、李王朝の子孫だと名乗っているのかい」 「そう、みんなそういっている。僕も人から聞かれたら、威張って、『そうだ』と答えることにしている」  いって、生真面目な顔を、いたずらっぽくほころばせた。 「おい、そんなことより、フランス語で話そう。こうして日本語を使っていたら、ちっとも君のフランス語は上達しない」  暇をみては、家庭教師役をつとめてくれた。彼はフランス語も自国語同様にこなした。 「ダメだな。母音の発音が弱すぎる。アは|ア《ヽ》と、もっと勢いよく発音するんだ。どうも日本人は気が小さいから語尾の母音をのみ込んでしまう癖がある。それじゃフランス人に通用しないよ」  なかなか口やかましい教師だった。  個人教師は他にもいた。ベトナム人のフンだ。  その後の人生で多数のベトナム人と付き合うことになったが、フンは、ベトナム人種としては、まったく型破りのタイプに属する。一般に、ベトナムの人々は、体付きが細くしなやかで、物腰や身だしなみに気を配る傾向が強い。フンは、これら平均的同胞にくらべると、まるで野人である。頑丈な短躯の上にまん丸い顔と頭をのせ、容貌も、何かとがさつな身のこなしも、むしろ何百年か前、万里の長城の外側を馬で駆けめぐっていた連中を思わせる。  年齢は私よりもだいぶ上だった。メコンデルタ地方のちょっとした農家の伜で、兵役を逃れてもう七年以上もパリでひとり暮らししている、という。自国の戦争については、ほとんど話さなかった。他の在留ベトナム人との交際もあまりないようすだった。  ただ、ときどき、 「ああ、帰りてえ。早く帰って百姓をやりてえ」  と、望郷の想いを隠さなかった。 「女房の病気ぐらいでくよくよするな。オレなんざ、くよくよしたくても肝心の女房すらまだ持てねえ」  妻の病状や、私の気分に親身で気を配りながら、そんないい方しかできない男だった。  ひどい大酒飲みだ。ときには地下鉄の中にまで、安物のブドウ酒のビンを持ち込むので、しばしば大口論となった。  高飛び込みの名人でもあった。私の健康を気遣い、しきりと学生プールへ連れ出した。そのずんぐりした体躯が、いったん宙に跳ね出すと、実に見事な曲線を描いて流動するのに、いつも目を瞠らされた。  彼の教材は、『ル・モンド紙』の社説である。二、三日に一度、この高級夕刊紙を片手に部屋に現れる。文章も極度に圧縮され、難解な単語や高踏的な表現がやたらに多い。それ以上に、論じられている事象についてよほど深く広い背景知識を持っていないと、とても歯が立たない。フンは、このむずかしい社説を、ほとんど斜め読みで読みこなした。そのときそのときの、内外の時事問題や経済問題についても、驚くほど精通していた。それらについて、過去の経緯や、複雑で多元的な諸要素を、整理し、筋道をたてて、何も知らぬ私にも、事の輪郭がすぐのみ込めるほど、手際よく説明してくれる。粗野な外見からは想像もつかぬような博識家であり、ただならぬ知力の持ち主であった。 「いいか、これで筋はわかったか。わかったら、今晩、大きな声で三十回、これを読め。発音やイントネーションは李のやつに聞け。オレは細かいことを教えるのは苦手だ」  授業を終えたフンは、 「じゃ、またな」  そのまませかせかと部屋を飛び出し、廊下の奥のシャワー室へ駆け込んでいく。一日に少なくとも十回は水を浴びないと、生きていけぬ体質の持ち主らしかった。 「五月革命」のデモ見物に、よく一緒に出かけた|多発《タフア》は下宿仲間ではない。左岸の学生街のアパートに住んでいる。一室だけの、いわゆるスタジオ造りだが、広々として、備えつけの家具調度もなかなか立派だ。少々整理すればずいぶん快適な住まいになりそうだが、そういうことによほど無頓着な性分らしい。いつ行っても、床中、古新聞や、雑誌や、その他わけのわからないがらくたで覆われ、壁ぎわに押しやられたテーブルや椅子も、古ぼけたスーツケースや大小の段ボール箱、炊事道具などの山になかば埋もれている。そして、部屋の主は、床にじかに置かれたワラのマットに転がり、所在なげに天井を見上げたり、写真入りの地理雑誌の|頁《ページ》をめくって時間をつぶしている。  彼とは、パリに着いて間もなく、フランス語の教室で知り合いになった。  二十人ほどのクラスの中で、東洋人は私たち二人だけだった。一見、私と同年輩、おそろしく無口で、何やら陰気な感じのする男だ。いつも、いちばん後の席にポツリと坐り、教師の質問に対しても最小必要限度の返事しかしない。一カ月ほどは、目顔で挨拶するていどだった。ある日、たまたま時間つぶしに入った、サンジェルマン通りのカフェで顔を合わせた。相手は入口近い席で、両手をポケットに突っ込み、足を前に投げ出して、いつもの陰気な顔で、ガラス越しに通りを眺めていた。私に気がつくと手をポケットから出して招いた。びっくりするほど、人なつこい笑顔だった。  話してみると、別に根から暗い性格の男ではなかった。そう内気でもない。単に口が重いだけで、フランス語も不自由なくこなした。 「君は、いったい、どこの国の人間なんだ?」  国籍を問うと、 「カンボジア」  なぜかニヤニヤ笑いながら答えた。当時、私はまだカンボジア人と顔を合わせたことがなかった。これは毛色の変った仲間ができた、と思った。  だが、カンボジアのことに話を向けても、 「……プノンペン、汚い町だ」  通りを眺めながらポツンと答えるだけで、少しも乗ってこない。  それから、ボールペンを取り出し、テーブルの紙ナプキンに、漢字で「多発」と自分の名を書いた。ようやく、相手が中国人、つまり華僑であることがわかった。  姉は台北に、叔父はプノンペンに、両親はサイゴンにいる。自分はここではカンボジア人として外国人登録してあるが、中華民国の国籍も持っている、南ベトナムの旅券も所持している、だから本当のところは自分が何国人であるかわからない、そんなことはもう忘れてしまった——私には、にわかに理解しがたいことを、ボソリボソリといった。  年齢を問うと、 「|年齢《とし》? 年齢も忘れた」  いってまたニヤリと笑った。  別に深い事情から隠し立てしたがっている様子も見られなかった。  その後、彼の下宿に行ったとき、三種類の旅券も見せてもらった。どうやら本人には違いなさそうだが、互いに似ても似つかぬ顔写真が貼りつけてある。生年月日もまちまちだ。それも、二年や三年の違いではなく、南ベトナム旅券では当年四十六歳、中華民国旅券では三十四歳、カンボジア王国旅券では二十五歳となっているのには呆れた。この広い世の中には、ずいぶんずぼらなことがまかり通る一角もあるのだな、と、感心もした。これでは当の本人が|忘れる《ヽヽヽ》のも無理はあるまい。  多発とはその後、長く付き合うことになる。本当の国籍は、最後までわからなかった。年齢もついに不詳だった。  彼も、私が右岸の下宿でへたばっていた頃、たびたび足を運んできた。別に会話は、はずまない。多発は薄暗い部屋の椅子に腰を降ろし、ときおり、何かボソリといっては舌打ちしたり、いまいましげに頭をふる。一時間もすると黙って帰っていく。  一度、大荷物をかついで現れた。床に新聞紙を広げ、ひとかかえもあるグリエールのチーズと、大ナベと、携帯用ガスコンロ、それに白ブドウ酒二本と人参何本かを並べた。 「いいか、きょうは、お前に栄養をつけてやる」  グリエールを幾つかの塊りにへし割り、大ナベに投げ込んで、ガスに火を点けた。白ブドウ酒二本を注ぎ込み、木の大サジでかきまわしはじめる。 「フォンデュかね」 「ああ、これはたっぷり煮つめるのがコツなんだ。こうしてかきまわしながら、うんと時間をかけて煮つめていくんだ」  その間にまず人参をたいらげよう、という。  私は、妻が残していった荷の中から、ドレッシングとナイフを取り出した。 「サラダなんか赤ん坊の食べものだ。人参っていうのはこうして食うんだ」  塩をなすりつけるなり、丸ごとバリバリかじり出した。仕方なくいわれた通りにしたが、フランスの人参の頑固さには参った。一本片づけただけで顎が痛くなった。多発は、あわれむように頭を振った。 「煙草は吸う。夜更かしはする。運動はしない。だから人参もろくに食えない。日本人は不摂生だから基礎体力がないんだ」  彼自身は酒も煙草もやらず、アパートにバーベルと鉄あれいを用意し、一日一時間の鍛練を欠かさなかった。一見、貧相にみえるが、胸板の厚さも腕の太さも、私の倍以上ある。  二時間近く煮込んで、アルコール分をすっかり蒸発させた。それから二人がかりで取り組んだ。グリエールまるまる一個分だから、とても片づけられたものではない。二人とも満腹して引っくり返ったが、まだ四分の三以上残っている。 「このまま残していくから、残りは自分でたいらげろ。明日から、朝、昼、晩、三回、これを腹一杯食え。他のものはダメだ。いいか、必ず全部たいらげるんだぞ」  多発はいい残し、腹をさすりながら帰って行った。  うんざりした。もともと、こんなスイスの田舎料理なんかたいして好きではない。だが、彼の心遣いを無にしたくなかった。命令通り、その後まる五日間、ネバネバのチーズを胃の腑に押し込み続けた。李が差し入れてくれたニンニクもさかんに食べた。そしてその合間にフンとプールに出かけた。  半月後、私の体力は九割方、回復した。  もっとも、おかげでフォンデュは、一生の敵となった。その後一度も食べたことがない。たぶん、こん後も二度と食べる気にならないだろう。  かりに私が、どこの地域の、どこの国の人間に対しても、いわゆる“人種偏見”を持たずに接することのできる体質の持ち主に成長しているとすれば——私自身は、あるていどそう自負しているのだが——おそらくその体質は、パリ時代のこの下宿仲間との付き合いを通じて、芽生え、はぐくまれたのではなかろうか。  李も、フンも、多発も、そして相手が帰国してしまったので短い交際に終ったが、妻の病気回復を朝晩、神に祈ってくれたコートジボワールの神学生ナワヤも、みんな、私にとっては、友人であり、遊び仲間であり、それ以上に、さまざまの意味で師でもあった。  彼らは、一見、この町で気楽な青春のひとときを送っているようにみえた。しかし、平穏無事の日本を祖国とする私と異なり、彼らの多くが、それぞれ自国の複雑な事情を反映して、ときには私には想像もつかない状況下で生きていることを知り、いろいろ考えさせられた。 「五月革命」がパリを揺さぶりはじめてまもないある晩、李は、古ぼけたスーツケースを手に部屋を訪れた。ふだんは礼儀正しい彼が、挨拶抜きで、 「おい、これを預ってくれ。中味は博士論文の下書きだ。絶対に迷惑はかけない」  顔色が変っていた。  その日、一日中、韓国大使館員に尾行され続けた、という。 「KCIAが入り込んできている。しばらく姿を隠すよ」  本人は、はっきり口にしなかったが、その後、彼が、朴正煕体制打倒をスローガンとする在外留学生組織の指導者の一人であることがわかった。革命下のフランス当局は、学生騒乱に多数の外国人が加わっていることに焦立ち、留学生の取締り強化に出ていた。これに乗じて、韓国大使館内のKCIA分子の活動が活発化した。本国からも増援が送られている、という。  李は、その晩のうちに下宿から消えた。  戻ってきたのは、三カ月以上たってからだ。 「バスク地方の山奥の村で、本を読んでいたよ」  もうすっかり落ち着きを取り戻し、日焼けした顔を屈託なくほころばせた。  政治嫌いのフンも、「五月革命」中は、田舎に避難した。  彼も発つ前の晩、部屋に来た。 「お前、|金《かね》を持っているか」  いきなり、たずねた。  無心をするような男でないことを知っていたので、ちょっと驚いた。相手も私がカツカツの生活を送っていることを知っているはずだ。 「いや、無いならいい。ただ念のためにな」  この調子では、フランがどこまで下落するかわからない、万一、多少の現地通貨を持っているなら、早いところ物に替えてしまえ、と忠告にきたのだという。  当時の私にはおよそ縁のない発想だった。ずいぶん慎重で神経質な男だ、と思った。 「だから、お前は物を知らない」  と、フンはいった。 「覚えておけ、|金《かね》なんてただの紙|片《き》れだぞ。オレたちの国では、こういうときはいつも純金にかえる」 「で? 君も、持ち金を純金にかえたのかい」 「いや、もう相場が高すぎる。しようがないからフォルクスワーゲンを二台買った」  それを田舎のガレージに保管するよう手配した。ついでにオレもその町へ避難することにしたんだ、という。 「ずいぶん金持ちだなあ」 「何?」  一瞬、目を怒らせた。  それから、 「でも、オレたちの国の戦争は、いったい、いつ終るんだ。ワーゲン二台で、あと何年暮らせると思う?」  寂しそうに笑い、 「じゃ、またな」  と、立ち去った。  多発は、パリを離れなかった。 「オレは宿命論者だ」  そして「五月革命」をたっぷり見物し、騒乱がおさまってから数カ月後、フランスを去った。  数年後、私たちはサイゴンで再会した。赴任後十日ほどして、突然、支局を訪ねてきた。まったく思いがけぬ再会だった。  パリを去って以後、米国、カナダ、台湾などを転々とし、結局、両親が住むサイゴンに落ち着いたことは、風の噂に聞いていたが、音信は途切れっぱなしだった。  私の赴任をどうして知ったのか、と尋ねると、 「オレは知ってる。オレは何でも知ってる」  以前のようにニヤニヤ笑った。  赴任したての私のために、家具調度から、自炊用のナベ、カマにいたるまで、みんな買い整え、贈ってくれた。 「オレが家長だったら、お前をこんなアパートに住まわせない。ちゃんと家一軒と運転手付きの車を用意してやるのになあ」  在任中、徹底して面倒を見てくれた。  サイゴンでは、戦況が荒れると、米やセメントがさっと町から姿を消すのが常だ。チョロンの華僑たちが値を吊り上げるために隠匿するからだ。私が現在の妻と結婚して以後もたびたび、このチョロン商法に泣かされた。ときには一家が食べる明日の米さえ底をつく。そんなとき、多発に電話すると、深夜、軽三輪車に山積みの米袋を運んできてくれる。 「チョロンはダメだ、こんなあくどいことをしていたら、必ず、ベトナム人に仕かえしされる。見てろよ。北が勝っても南が勝っても、戦争が終れば、必ず、チョロンをつぶす革命が起こる」  本当におびえ、 「早くカナダに逃げたい。一日も早く逃げたい」  と、口ぐせのようにいう。長男の身で両親を捨てる決心はつかぬらしかった。  サイゴンでの多発は、ときおり、私たち夫婦を最高級の中華料理店に招く以外は、ひたすら、チョロンの奥の自宅の一室にこもり、数学とボディービルで時間をつぶしていた。 「何のために数学なんかやるんだ。仕事もしないのに、何のために体を鍛えるんだ」  と、からかうと、 「ああ、カナダへ行きたい」  また悲しそうに首をふる。  七五年春、サイゴン陥落が迫ったとき、何度か、彼の家を訪れようと思った。毎回、急な原稿に追われ、行けなかった。  彼からも連絡はなかった。  国内に今もとどまっているのか、外国へ逃げたのか、あるいは舟で逃げようとして海中に沈んだのか、消息は、まったく不明だ。  陥落七年後に、ホーチミン市と名を改めたサイゴンを訪れたさい、チョロン郵便局わきの通りにあった彼の家を探しに行った。同じ造りの家並みの中の一軒だが、以前は「豊記公司」の看板がかかっていた。だから、すぐ見わけがついた。だが、解放後のチョロンでは漢字の看板がほとんど姿を消してしまっている。何回通りを往き来しても、どれが彼の住まいだったのか、わからなかった。  下宿仲間に励まされて、私の体力、気力は回復した。 「五月革命」もようやく収拾期に入っていた。  その頃、凱旋門に近いクレベール街の仏外務省付属の建物を舞台に、これもまた、世界の耳目を集める“出来事”が滑り出していた。 「ベトナム和平に関する当事者会談」、いわゆるパリ会談である。  ジョンソン米大統領が、北爆停止を、共産側との交渉開始を決定したのは、一九六八年の春であった。  その年の一月から二月にかけて、共産側は、サイゴンをはじめ南ベトナム各主要都市に、大規模な突入攻撃を仕かけた。有名な「テト(旧正月)攻勢」である。僅かの衛兵を残して正月休暇に出払っていたサイゴンの米国大使館は、十人前後の決死隊によって、完全占拠された。中部高原の町ダラト中心部は、瓦礫の山と化し、北部の古都ユエの城跡には、赤と青の地に金星を染めぬいた解放旗が二十七日間にわたってひるがえった。  作戦は純軍事的に見れば、失敗に終ったといえるかもしれない。共産側は、態勢をたて直した米・南ベトナム軍の反撃に抗し切れず、多数の死者を残して、再び、森の奥深く撤退する。  しかし、この未曾有の大攻勢が国際世論に及ぼした心理的、政治的効果は、絶大であった。短期間とはいえ、米国大使館そのものが、サンダル履きのゲリラ戦士らの手に落ちた。北部山岳ケサン基地の米最精鋭部隊も、十重二十重に包囲され、一時、全滅の危機にすら瀕した。  共産側の戦闘能力について、MACV(南ベトナム援助軍=現地米軍)やサイゴン米国大使館の手放しの楽観論を真に受けていたホワイトハウスは動転した。衝撃を受けたジョンソン大統領は、秋の次期大統領選への不出馬と、共産側との交渉開始という、劇的な決定を余儀なくされることになる。  パリでの和平交渉は、当初、米国と北ベトナムによる「二者会談」、ついでサイゴン政府および解放戦線を加えての「四者会談」に拡大する。滑り出しから、はた目には滑稽とすら思えるようなすったもんだが相次いだ。  同盟国である米国と南ベトナムとの間に、深刻な対立が生じたからである。  北ベトナム側は、南ベトナム内部の反チュー政権、武闘・政治勢力である解放戦線は、ハノイ共産政権とは別個の人格を持つ「独立した勢力」だ、と規定していた。したがって、和平交渉には、他の当事者と同等の資格で臨む資格がある、と主張した。拡大会談の開催を急ぐ米国は事実上、この主張を受け入れた。しかし、南ベトナム側にすれば、解放戦線と対等の資格で会談に同席することは、「叛徒」である相手の法的存在意義を認知することにつながる。  グエン・バン・チュー大統領は、会談への出席を強要する米国に必死に抵抗した。サイゴンの町は、官製の反米デモや集会で明け暮れた。日頃は大統領と口もきかぬほど不仲のグエン・カオ・キ副大統領も、集会の場でコブシを振り上げて米国を罵倒した。  サイゴンの反米気運は、治世後期に民族主義色を強めたゴ・ジン・ジェム政権が軍部クーデターで倒れて以来、かなりおさまっていた。  こまかい事柄についてはしょっちゅういざこざがあったものの、南ベトナムの実権を握った若い将軍らも、肝要な路線については米国にさからわぬだけの保身術を身につけていた。なかでも、こうしたことがらについてきわめて慎重な性格の持ち主であったグエン・バン・チュー将軍がワシントンのお眼鏡にかない、大統領の座についた。  そのチュー大統領が、「四者会談」にさいしては、猛然と米国に抵抗した。長期的にみれば、解放戦線の認知は、チュー政権のみならず、南ベトナム国家の死命を制する問題であった以上、当然の抵抗であった。  しかし、ジョンソン氏に代ってオーバルルームの椅子に坐ることになったニクソン新大統領に、自力では何ひとつできないくせに、とかく可愛気のない“同盟国”の将軍たちを甘やかす気はなかった。彼の選挙戦の公約は、とにかく任期中に「ベトナムの泥沼から足を洗う」ことであった。  サイゴンは押し切られた。  昨日まで「会談反対」の旗を振っていたグエン・カオ・キ副大統領を、「総監督」という正体不明の地位に頂いて、南ベトナム代表団がパリに乗り込んできたのは、米国・北ベトナム二者間で準備交渉が開始されてから八カ月後の、一九六九年一月末であった。  むずかる相手を、あの手この手の圧力で脅しつけ、自らの政策に引き込んだ、このときの米国の方法は、象徴的だ。以後、ニクソン政権は、基本的には一貫して、この力の政策でサイゴン政権に臨むようになる。  少々先ばしるが、そのきわめつけは、七三年一月に、キッシンジャー米大統領特別補佐官と北ベトナムのレ・ドク・ト政治局員の秘密交渉で成立した「ベトナム停戦・和平に関するパリ協定(通称パリ協定)」の、サイゴン政権への押し付けであった。  二人の間で秘密交渉が続けられていたことが明らかにされたのは、それより四カ月余り前であった。サイゴンは飛び上がり、そして呆然とした。私たち現地駐在の報道陣にとっても、寝耳に水であった。  協定の要旨は、米軍全面撤退と引き替えに、南全土での戦いを現状凍結する、というものであった。当時三十万人といわれていた、北正規軍の南ベトナム領内への残留は認められ、しかも、現状凍結の一項により彼らはその支配地区を温存できる。サイゴン政権側にすれば、領土分割案でもあり、完全な敗戦協定にひとしい。  チュー大統領の手元にとどいた協定内容を知らせてくれた、ある与党議員は、 「頭越しの一片の協定で国を滅ぼされてたまるか」  と、電話口の向こうでむせび泣いていた。  大統領顧問を勤める、老政治家チャン・バン・アン氏のコメントを取りに、その事務所を訪れた。日頃、話好きの老政治家は、かたわらの紙片に、漢字で「城下の盟」とだけ書いて机上に投げ出し、無言で奥へ姿を消した。  協定に反対したのは“好戦的”なチュー大統領一派だけではない。  独立宮殿(南ベトナム大統領官邸=当時そう呼ばれていた)の一室で、チュー大統領とその側近が、次々とワシントンから送り込まれる使者らを相手に懸命の抵抗を行っていた頃、そこから数百メートル離れた建物では、野党指導者のチャン・バン・ツエン議員が、何人かの外国人記者を相手に、目を怒らせていきまいていた。 「こんな協定は絶対に受け入れられない。これは無条件降伏だ。必ず、南ベトナムの全面共産化を招く」 「しかし、大統領も結局は受諾せざるを得ないでしょう。突っぱねる手段はありますか」  居あわせた私は、聞いた。 「ダメだ! 万一、チュー大統領が調印に同意したら、われわれは、彼を国家反逆罪で軍事法廷に送る!」  その剣幕に、私たち報道陣の方が、かえって顔を見合わせた。  ツエン議員は、南ベトナムが文官政治時代に副首相もつとめた、古参の政治家である。チュー政権にも、共産側にも|与《くみ》せぬ、いわゆる「第三勢力」の長老格として、大統領の軍事路線に反対し続けていた。彼らの旗印は、「共産側との政治交渉による早期和平と民族和解の実現」であった。  外部のマスコミからは、 『南ベトナムの勇気と良識』  と、もてはやされていた平和勢力の指導者さえもが、 「チューが和平協定を受諾したら、軍事法廷に送る」  と、叫んだ。  結局、南ベトナム総力をあげてのこの抵抗も、ニクソン大統領の、アメと鞭、そしてとどのつまりは、情け容赦のない最後通牒によって粉砕される。  ベトナム戦争の真の悲劇性、および、このパリ協定を足がかりにその後、全土の軍事制圧に成功したハノイ政権が現在直面している、幾多の困難と苦痛を想うとき、私は、しばしば、あのときの苦渋にみちたツエン議員の叫びを思い出す。  ところで、クレベール街の「会議場」の壮麗なシャンデリアの下では、ベトナム和平会談の四当事者が、顔を合わせるなり、口角泡を飛ばし合うことになった。  ケンカのもとは幾つもあった。なかでもマスコミを騒がせたのは、交渉に使うテーブルの形をどうするか、ということであった。円卓を使うか、長方形にするか、あるいは真四角にするか、それとも……。  しぶしぶ交渉に引っ張り出された南ベトナム代表団は、パリに着いても、まだ解放戦線を自らと同格の交渉者とみなすことを拒否した。同時に、自らが米国の“かいらい”とみなされることも拒否した。  共産側二代表も同様に、二重の理由から、それにふさわしい形のテーブルと、各代表団の着席配置を求めた。  激論は延々と続き、ときには、 「パリ会議、開始以前に決裂か?」  などの予測さえ出た。  共産側は、郊外労働者地区の一邸に本陣を構えた。フランス共産党の大立者で、第二次大戦直後、ドゴール連合政権にも参加した故モーリス・トレーズの邸宅である。  南ベトナム代表団「総監督」のグエン・カオ・キ副大統領は、凱旋門から僅かにヌイーィ寄りの、最高級住宅街ポルト・マイヨーの豪壮なアパートに陣取った。その家賃の莫大さ、本国から引き連れてきた専用料理人やボディーガードの数、夫人の金に糸目をつけぬ買物ぶり——すべてが地元大衆紙の絶好の標的となった。もっとも、夫人は買物だけにうつつを抜かしていたわけではない。パリ滞在中の留学生を身辺に集め、しばしば会談場周辺でデモを行った。参加留学生たちは数も少なく、みるからに金持ちの坊ん坊んという感じであった。かえって、新聞や市民の失笑を買った。とりわけ、ボー・カルチエのご婦人たちは、政治などという低次元のことに首を突っ込み、壮麗な住宅街の静寂を乱すエア・ホステスあがり、と副大統領夫人をあしざまに罵った。どうやら、夫人の美貌ぶりへの嫉妬も作用していたらしい。サイゴン側代表団に対して敵意と軽蔑を隠さぬフランス紙の多くも、彼女の美しさには無条件降伏の態だった。  それ以上に参っていたのは警官たちだ。デモ規制に駆り出された伊達男の警官らが、美しい夫人の微笑と優雅な物腰にボーッとなって、職務の遂行もままならず、オロオロとうろたえている姿は、滑稽でもあり、微笑ましくもあった。  当時、パリには、五百人を越える外国報道陣が集まっていた。  期せずして「五月革命」およびその余震と、「和平会談」をかけもたなければならなくなった各国報道陣は、「テーブル論争」をはじめとする双方の前哨戦に、うんざりした。  しかし、外交とか国際会議の現場では、よそ目には児戯とも映る瑣末事が、交渉や会談の全体を左右しかねぬ重要性を帯びてしまうことが、しばしばある。「テーブル論争」も、各当事者にとっては、笑い話ではなかった。すでにそれ自体が、本質的なかけ引きの一部であった。双方が突っ張れば突っ張るほど、互いに譲れぬ重要問題となった。結局、いずれの側もが、 「オレが勝った」  と、理由をこじつけられるような類いの妥協が成立したようだが、具体的にどんな形のテーブルが使用されたか、いま、私の記憶は定かでない。  併せて問題となったのは、交渉にさいし、それぞれ相手方に対しどのような呼称を用いるか、ということであった。解放戦線側は、四者拡大会談開始直後、ジャングルの一角で組織を整え、「南ベトナム臨時革命政府」の樹立を宣言した。従来の単なる統一戦線を一歩前進させ、正式に「政府」を名乗ることにより、会談での自らの立場に重みを加えようという腹であった。だが、こうして一方では、自らにわかに「政府」として名乗りをあげ、他方では、相手側のサイゴン政権を「政府」と呼ぶことを拒否した。彼らにとってサイゴンの行政機関は、文字通り、一介の「行政機関(アドミニストレーション)」に過ぎず、国と国民を統治し代表する「政府(ガバメント)」ではなかった。  結局、この問題は、固有名詞の使用を避けることにより、迂回された。米国=サイゴン政府と北ベトナム=臨時革命政府の両陣営が、互いに相手を「あちら側(The other side)」(おそらく会談の場では「あなたがたの側(Your side)」)と、呼び合うことで、妥協が成立した。この奇妙な呼称が会談を通じて公式用語となる。このとき「sides」と複数形ではなく、単数形が採用されたことは、とりわけ臨時革命政府にとって、すでに暗示的だ。  いずれにしろ、ホスト国フランス外務省とパリの建具屋をハラハラさせ、各国記者団をうんざりさせた、これら子供じみた一連の論争の末、臨時革命政府は、形式上はサイゴン政府とまったく対等の資格で交渉の席を確保した。テーブルの形がどうあろうと、相手への呼称がどうあろうと、この客観的事実は、明らかに、ベトナム戦争の明白な分岐点を画するものであった。同時に、ハノイの外交・内政の、ひとつのパターンを明確に示すものでもあった。内容はどうあれ、ともかく体裁上の既成事実をまず固める、そして、時とともに、その形式上の事実が|本物《ヽヽ》の事実として周辺から認知され、かつ自らもその方向へ変質していくのをじっくり待つ——ベトナム共産党のお家芸ともいうべき、この巧妙で、息の長い戦術を、ハノイは会談当初から用いた。この独特のパターンは、南北再統一後のハノイ政権の南部対策、さらには、現在のカンボジア政策にも同様に適用されているようにみえる。 「パリ会談」の定例記者会見場は、セーヌ左岸のフランス郵政省ホールであった。  アレクサンドル三世橋を渡り、エッフェル塔を真下からあおぎながら右にハンドルを切り、十分足らず走る。  四百人以上、楽に収容できる大きなホールだ。地元フランスはじめ各国からの報道陣で、いつも満席だった。  クレベール街での会談が終ると、各代表団のスポークスマンが、それぞれ白バイに守られながら、時間をずらして現れる。  会見内容そのものは、概して、音を上げたくなるほど退屈なものであった。長たらしい声明文の読み上げ、宣伝、相手方の誠意のなさへの非難、そして質問に対しては、ハンで捺したような公式論の回答……。おそらく、一九七二年秋まで、延べ百回前後に及んだこの会見の記録を、最初から最後まで読みおおせる人はいないのではないか、と思う。  私が会見に付き合ったのは、延べ半年間ぐらいであった。肩書きこそ欧州移動特派員だが、つまりは遊学の身である。  だから、パリ会談の定例記者会見場にも、いわば後学のため、といった気持ちで足を運んだ。しぜん、会談の経緯を丹念に追おうというような心がけは薄かった。自分が後にインドシナ問題を本格的に取り扱うめぐり合わせになる、とも思っていなかった。  それでも、世界から腕ききの記者が集まった会見場の、緊迫した空気の中に身を置くことは、得がたい体験であった。  世界の世論は圧倒的に北ベトナム、解放戦線側に同情的だった。記者会見の雰囲気にも、当然、そうした傾向が反映されていた。  各代表団のスポークスマンの人柄や態度が、会談に対するマスコミの印象や見方を大きく左右したことも、まず間違いない。  米国スポークスマン(名前は失念した)は、仏頂面の大柄な人物だった。個人的に付き合うと誠実で律義な人柄ということだったが、ときに執拗な記者団の質問をのらりくらりとあしらうには、骨相学的にもすでに不向きな人物だった。通訳も記録係りの補佐も連れずに、ひとり演壇に巨躯を据え、酒場に現れたカウボーイのような目つきで、ひとわたりジロリと記者席を見回す。その態度は、傲岸とも威圧的とも見えた。  ある日の質疑応答で、フランス共産党機関紙『リュマニテ』の初老の記者が質問に立った。席が離れていたので詳しくは聞きとれなかったが、なんでも米国の侵略行為への非難をはっきりとにじませた、かなり原則論的、かつ挑発的な質問だった。  米スポークスマンは、質問者が『リュマニテ』と名乗ったとき、すでに相手を見据えて構えた。 「エクスキューズ・ミー。私はフランス語を理解しない。質問は英語でしていただきたい」  初老の共産党記者は、みるみる顔を赤くした。 「これは妙なことをいわれる。あなたは米国人だが、ここはフランスではないか。フランスで行われている国際会議の報道官がフランス語を話さぬとはどういうことか。ご自身がフランス語ができぬなら、通訳ぐらい用意されてはどうなのか」  米スポークスマンは動じなかった。いぜん、鋭い目で相手をにらみながら、 「I don't know French」「I can't speak French」  会場前方に陣取ったフランス人記者団から、抗議の声があがった。騒然とした会場の、右手後方の席から、ガーナの若い黒人記者が憤然と立ち上がった。 「失礼だが、あなたの態度は、ホスト国、およびその国の記者への礼儀を欠いていると思う。ここには、英語を解さぬ各国記者も集まってきている」  気負った口調でたしなめ、 「しかし、わからぬといわれれば致し方ない。私が、いまのフランスの同僚の質問を通訳させていただくから、しかとご返答願いたい」  質問を見事な英語に翻訳して、その場をおさめた。満場、拍手に包まれた。この拍手は、単にガーナ記者の鮮やかな態度への称讃というより、ベトナムでの米国の役割に対して、世界中のマスコミが“総意”として抱いている反感を示すものと、私の耳には響いた。  当時パリに集まった何百人かの世界の報道人も明らかに、一種の熱気を帯びた「連帯感」に高揚していた。そうした空気を十分察知しながらも、PR技術の本家ともいうべき米国が、なぜ、あんな不器用な人物をスポークスマンとして用いたのか、私は、いまだに不審に思う。  対照的なもうひとつの情景も、鮮明に記憶に残っている。  北ベトナムの首席スポークスマン、グエン・タン・レ氏は小柄で痩身、うだつのあがらぬ中学教師とでもいった感じの人物だった。だが、身のこなしと、流行遅れの眼鏡の内側に輝く目は、青年のように若々しい。どうつついても感情を表に出さず、けっして口を滑らせぬ、したたかな相手であったが、ときに、慎み深いユーモアをまじえて懇切に記者団に応じる態度は、文句なしに好評を博した。  この、一見気弱そうで風采の上がらぬ人物が、一度だけ“歴戦の闘士”の片鱗をかいま見せる、鮮やかな一幕を演じたことがあった。  会見場には、本物の新聞記者とは思われぬ、サイゴン政権派の“院外団”が、常時十数人、陣取っていた。どうやら、南ベトナム代表団に日当で駆り出された留学生らしい。この連中が、あるとき、“議事妨害”に出た。いつものように、レ氏がにこやかな会釈とともに壇上に登場するのを待ちかねたように、リーダー格の一人がいきなり立ち上がり、何事か語気鋭くまくしたてた。周囲の仲間もいっせいに立ち、ベトナム語やフランス語で口々に激越な反共演説をはじめた。  レ氏の左隣りにいた猪首の通訳が、サッと顔を紅潮させて仁王立ちになり、壇上から激しくベトナム語でやり返す。  突然の混乱に、記者団は気をのまれた。  レ氏の目が、キラリと光った。 「お坐りなさい! どうぞ皆さん、坐って下さい!」  大きくはなかったが、鋭いひと声を院外団に浴びせ、同時に、通訳の腕をつかんで席にひきもどした。一瞬の気合いで院外団の連中を圧倒し、たちまち騒ぎをしずめた迫力と貫禄は、日頃の同氏の物静かな人となりからは、想像もつかぬものだった。こそこそと着席した院外団はもとより、闘犬のような形相でケンカを買って出た通訳にくらべ、あまりに際立った“役者の違い”ぶりに、私は目を瞠った。 「失礼。しかし、ここは記者会見の場ですから、どうか感情に走らないで下さい」  ふたたび、気弱な国語教師のような笑顔に戻り、院外団のリーダーに質問の反覆を促した同氏の手並みに、並みいるベテラン記者らも唸った。  この、西側報道陣の誰からも親しまれた、小柄な北ベトナム・スポークスマンには、約六年後、雨上がりの朝のサイゴンで再会した。  北ベトナム軍の突然の総攻撃により、南ベトナムが、瞬時にして崩壊した直後であった。その朝、つい十日ほど前まで南ベトナム大統領官邸であった白亜の建物の前で、共産側の「戦勝祭」が行われた。サジキに居ならぶハノイの要人たちの前を、直立不動の男女兵士を満載した中国製軍用トラックや、ソ連製戦車、一三〇ミリ長距離砲車が次々と通過した。報道陣が固まった一角に、西洋人記者のわきの下をかいくぐるようにして、人混みの中を飛び回り、壇上の要人や群衆に、せわしなくカメラのレンズを向けている人物がいた。  半分、まさか、と思いながらも、近づいて声をかけた。相手が私の顔や名前を覚えていたかどうかはわからぬが、 「ああ、やっとまた会えましたね。お元気ですか。お会いできて実に嬉しい」  目を輝かせて、腕で背中を抱くようなそぶりを示し、実に如才ない反応だった。 「パリで私がいったことを、覚えておられますか。『必ずいつか皆さんとサイゴンで再会します』私はいつもそういっていたでしょう。こうしてお目にかかれて本当に嬉しい」  きのう別れたばかり、とでもいった、自然なしぐさで私をサジキの前に導き、壇上の、見知らぬ要人らの名前や地位を教えてくれた。 「現在、私は、古巣のベトナム通信社に復帰しています。あなたと同業です。今日は戦勝祭取材にハノイから特派されて参りました。いずれごゆっくり」  よれよれのレインコートの裾を引きずるようにして、次の被写体を求めて小走りに去った。  一政府への評価が、それを構成する無数の歯車の、ほんの微小のひとつでしかない特定個人への感情などによって左右されるべきでないことは、いうまでもない。それにもかかわらず、私は、ハノイ政府の姿、あるいはその本質を考えるとき、この小柄な“同業者”(現在はもっと偉くなっているそうだ)の人柄を思い起こす。少なくとも、現ベトナムの統治者集団の中にも、彼のような、たとえその政治的信条はしたたかでも、体質的に心広い人物(この評価が私個人の勝手な印象であったとしても、私はその印象を信じ、それをいろいろな意味での自らの発想起点にする)が存在する、という想いは、私の心をなごませずにおかない。  レ氏を中央に、猪首の通訳と反対側に座を占めていたのは、ハノイ外務省新聞担当官のブイ・フー・ニャン氏であった。レ氏と異なり、容貌、体躯に精悍の気をみなぎらせた、三十歳代後半の人物だった。  毎回の会見で、共産側が記者団に配布する声明文や会談要旨には、しばしば難解な単語が登場した。私自身の語学力も貧弱であったうえ、いわゆる「あちら側」独自の用語が多かったので、当初は読解に苦労した。南北ベトナムが再統一された後、南部庶民の多くは、新たに北から放送局に乗り込んできたアナウンサーが用いる単語の意味がわからず、悲鳴を上げた。地区の政治集会にひっぱり出されても、 「あいつら(共産側の委員たち)、どこの国の言葉をしゃべっているのかわからん」  そこで、居眠り組が続出し、なおさら仕事熱心な委員らを焦立たせる。これら南部庶民のボヤキを耳にしたとき、パリで初めて共産側の語彙に接した頃のとまどいを思い出した。  どうしても手に負えぬ場合は、会見後、ニャン氏のところへ飛んでいって教えてもらった。一見、ブスッと、とっつきは悪いが、律義で折り目正しい外交官だった。最初のうちは、あまり基礎的な単語を私が解さぬので、向こうも辟易気味だった。そのうち、多少の同情を催してくれたのか、顔を合わせると、 「どうです? 今日もどこかわからないところがありますか」  と、彼の方から声をかけてくるようになった。こんなときもニコリともしない。実に、生真面目な口調で問いかけてくる。  彼にも、解放数日後、サイゴンで再会した。  当時、臨時革命政府側の外国新聞担当官を勤めていたラム中佐が、 「ハノイから同僚が着いた。私と同じセクションだ。紹介するよ」  先輩顔で支局に連れてきたのが、かつての私の共産主義用語の教師だった。相手はどうやら、私の顔だけは思い出した様子だった。毎回うるさくつきまとわれたことは、もう記憶にないようだった。  相変らず無口で、生真面目で、陽気なラム中佐とは対照的だった。目の奥に宿る精悍さも、以前と変っていなかった。  解放約一カ月後、残留外国報道陣の多くは、新体制が用意した専用機でサイゴンを後にする。直接担当者のニャン氏が、ラオスのビエンチャンまで同乗した。専用機はここからサイゴンに引き返し、私たちは、各自の方途で最寄りの支局や本国に戻ることになっていた。去りぎわ、何かと世話になった彼に、礼と別れの挨拶にいった。彼は、サイゴンへ戻る機の給油を待ちながら、空港二階の食堂の片隅で、数人のエア・ホステスらとコーラを飲んでいた。 「何ですか。ニャンさん。自分たちで追い出したばかりの米国帝国主義の飲み物を口にするとは」  と、少々軽薄な冗談をいうと、 「ホー・チ・ミン大統領も、米国煙草の愛好者だった」  例によって、ムッとした表情で応じた。  それから、この人特有の、心の暖かさがそのままこじみ出るような笑顔で、 「またいらっしゃい。なるべく早くね」  手を握り返した。  次もまったくの奇遇だった。  八二年三月、新カンボジア取材の途上、ホーチミン市に立ち寄ったさいだ。  それより三年前の一九七九年一月、ベトナム軍はカンボジアに進攻して、ポル・ポト首相独裁下の極左ファシズム体制を打倒し、自らの全面支援下にヘン・サムリン新政権を樹立する。ニャン氏は、ヘン・サムリン政権樹立と同時に、ポト前政権の自国民大量粛清政策によって人材が枯渇したプノンペンに、新政権の外務省顧問として派遣された。  ホーチミン市に何日間か滞在し、カンボジア入りの査証を整え、プノンペンへ発つ前々日の夜だった。ホテルのロビーでソ連製の「三銃士」のテレビを見ながら時間をつぶしていたとき、開襟シャツ姿の小肥りの男が、年配の西欧人女性とともに外出から戻ってきた。二人のそぶりからみて、西欧人の老女は何かの代表団のメンバーらしい。小肥りのベトナム人はそのエスコート役だろう。ロビーを横切り、老婦人をエレベーターまで見送り、簡単に挨拶して引き返してきた。見るともなしに見ていた私と視線が会った。  相手は、 「おや?」  といった表情を見せ、それから懐しそうに近づいてきた。  こんどは私の方が見まちがえるところだった。だが、やっぱりニャン氏だった。  再会の挨拶をしながら、彼の変りように驚かされた。よれよれの開襟シャツ姿は最後に別れたときと同様だが、肥り、むくみ、何よりもその目がすっかり変っている。以前、いつも感じられた沈着な闘志の光が失せ、柔和というよりむしろ、芯を失ったような印象を受けた。パリ会談での彼、解放後の彼の、心身いかにも引きしまった面影を思い起こし、しばらく呆然と眼前の、その顔に見入った。 「ずいぶん老けてしまいましたねえ」  思わず口にし、あわてて、その言葉の非礼さを詫びた。 「なあに、本当にもう|年齢《とし》だもの。お互いさまじゃないか」  相手は大声で応じ、口をあけて笑った。  以前はけっしてこんな、タガの抜けたような態度を人に見せなかった。前歯が何本か欠けていた。 「とにかくしばらくだったね」  テレビの前の人だかりを避けて、もう店じまいした横手のバーに入った。  パリ会談、サイゴン解放、その他、断片的な思い出話をしばらく交した。相変らず、人変りしたような大声で調子を合わせてきたが、その声音や口調に何かせかせかしたものが感じられ、終始とまどった。 「プノンペンに勤務しておられた、と聞きましたが」 「ああ、三年、三年だよ。二カ月前、戻ったばかりだ」  その口ぶりから、あまり快適な勤務ではなかったように察せられた。 「ときに君、ゆっくり話がしたいなあ。明日の昼はあいてるかい」  私も、これから赴く新カンボジアの情勢について、彼からレクチャーを受けておきたかった。だが、翌日は叔母と昼食をする約束をしていた。 「そうか、残念だなあ。叔母さんはお幾つだい?」 「七十九歳。僕もおいそれとここへ来られない身だから、もしかしたら、今度が顔の見おさめになるかもしれないんです」 「もうそんなお|年齢《とし》か。それは行ってあげなくちゃいけない。是非、行ってあげなくちゃいけない。残念だが、また次の機会にしよう」  なおしばらく、とりとめのない話を交したあと、 「それじゃ、体に気をつけてね。今日はまだ一つ片づけなければならない仕事が残っているんだ」  立ち上がり、足早にホテルを出ていった。  人気のないバーのストゥールに腰を戻し、想いにふけった。あの毅然として、けっして節度を崩さなかった人物が、なぜ、あんなに変ってしまったのか。なぜ、ああも脂じみ、疲れてしまったのか。  戦いが終り、時勢が変り、彼もやはり、自ら挺身した革命に取り残された口なのか。そうは思いたくなかった。おそらく、その日の彼は、何かの具合でとくに疲れていたのだろう。あるいは三年間のプノンペンでの激務の心労からまだ抜け切っていないのかもしれない。そう思い込むことにした。部屋に戻り、シャワーを浴びた。ベッドに入り灯りを消してからも、心のどこかに寂しいしこりが残った。  共産側のもう一人の代表であった、解放戦線のスポークスマンについては、何も覚えていない。名前はもとより顔立ちすら思い出せないのだが、これは北ベトナム側のグエン・タン・レ氏の印象が強すぎたせいかもしれない。それに、共産側の言い分がどうあろうと、テーブルの形がどうあろうと、会談は実質的には、徹頭徹尾、米国と北ベトナムの「二者会談」であり、他の二者は添えものであった。  南ベトナムはそれを承知していたからこそ、会談に猛反対した。解放戦線側はどうだったのか。会見場はともかく、“主舞台”のクレベール街の会議場の圧倒的花形は解放戦線側首席代表のグエン・チ・ビン女史であった。優雅なアオザイ姿の女性を首席代表として送り込んだのは、共産側の巧みな外交技術であった。ねらいは的中し、彼女はマスコミや国際世論の熟視と共感を、一身に集めた。結局のところこれは、“スター的人気”にすぎなかった。もしかしたら、解放戦線は、この自ら一役買った演出効果に、自ら眩惑されたのかもしれない、と、いま思う。表面的人気をもって、自らの陣営の“実質的存在”の比重を測定する目安の一助にしてしまったのではないか。  解放戦線の一部幹部が、最後までハノイに対する解放戦線の、たとえそれが相対的なものであっても、主体性の存在を信じていたことは、新しいベトナムから一九七九年八月に海上脱出した、元臨時革命政府司法相チュン・ニュー・タン氏の証言に詳しい。会談の花形であったグエン・チ・ビン女史は、統一後、ベトナム社会主義共和国教育相として一応、新ベトナムの閣僚の地位に着いた。しかし、実権をほとんど持たぬ“飾り物”であることは公然の事実だ。最近、ある誌上でビン女史の近影を見て、衝撃に近い感慨をおぼえた。パリで、そしてサイゴンの「戦勝祭」の壇上で、気品と芯の強さをスラリと優雅な身の周辺に漂わせていた女史と同一人物と思えぬほどの変りようであった。失礼ないい方だが、顔も体も重苦しく肥満し、何よりも、弛緩したそのまなざしに、私は目を疑った。  南ベトナムは、四者会談での自らの立場を明確に自覚し、当初から屈辱感、無力感にうめきながらパリに臨んだ。そして、最後まですべての主導権を米国に握られ、なすすべなく自国の滅亡を目撃する以外なかった。逆に、仮りに解放戦線代表が、自らを一個の「実質的存在」と想定しながら会談の席に連なっていたとすれば、彼らは南ベトナム代表団よりも、さらに悲劇的で、滑稽な役割を演じたことになる。  もう一方の添え物であった南ベトナム代表団のスポークスマンは、グエン・チュー・ダン氏だ。初めて壇上のその姿を見たときは、人材不足(?)の南代表団が、パリ留学中の大学院生でも引っぱり出してきたのか、と思った。それほど若く、線が細く、頼りなくさえ見えた。貴公子のような色白の顔立ちや、飛び抜けたベスト・ドレッサーぶりも、“虐げられたベトナム庶民”の味方である、世論や記者団の冷淡なあしらいを招く一因となっていたようだ。  私自身は、記者団の質問に対する生真面目で端正な応対のしかたなどから、ダン氏の人柄に好感を持った。パリでは個人的に話を交したことはない。その後、むしろ偶然の縁で親交を結ぶことになった。  何年か後のある朝、何かの用件で、当時娘が通っていた、東京・九段のフレンチ・スクールを訪れた。小さな校庭のすみで、身だしなみのいい東洋人の紳士が、一人ポツンと、バスケット・ボールに興じる生徒たちを眺めていた。 「失礼ですが……」  半信半疑で声をかけた。人違いではなく、ダン氏だった。 「このたび、駐日大使を命ぜられまして」  丁重に、しかし、親しみ深く手をさし出した。数日前赴任し、子供の入学手続きをしにきたのだ、という。大使という職務から判断すると、すでに五十歳近い年齢のはずだったが、容貌も物腰も、いぜん青年のように若々しかった。  一九七五年春にサイゴンが陥落するまで、私たちの付き合いは続いた。パリで受けた印象どおり、誠実で洗練された教養人であった。当時、私は、すでに三年余りのサイゴン特派員勤務をいったん終え、東京で羽根休めのさい中だった。親交を深めるにつれ、南ベトナムの高官にしばしば見られた屈折した傲岸さや、何か卑屈な押しつけがましさなどとはまったく無縁の、大使のすがすがしい人柄に魅かれた。  駐日大使職というのは、当時のサイゴン政権内では、比較的重要なポストであったはずだ。その要職にある、このような人物が、汚職肥りした将軍たちや、彼らに追従して地位を得たあの無能で怠惰な高官たちの訓令の下で黙々と働いている姿に接するたびに、あらためて、サイゴン政権の、手のつけられぬ体質を見せつけられる思いがした。 「梅」の話が出たから、七五年の年明け早々だったと、思う。たまたま赤坂のフランス料理店で、私的な会食をもった。大使は、ベトナム旧正月の縁起物である「マイ」の花について話した。マイは梅によく似た、黄色い花弁の可憐な花だ。形体や、開花の時期や、ともに新年の縁起物とされているところからみて、梅の親戚に違いない、と、彼はいった。私も、当初そう思っていた。発音から判断しても、マイを漢字表記すれば「梅」になりそうだ。だが、その後サイゴンを訪れた日本の生け花の家元に、花の形こそよく似ているが、梅科とは別系統のアンズ科の植物であることを教えられた。確かに、ちょっと注意して見ると、樹木の姿や葉の色形はまるで違う。家元から教えられた知識を披露した。 「なるほど、植物学的には別種なのですか。それにしても、日本の梅は素晴しいですね。あの上品に咲き誇りながら、同時にハラハラと散っていくありさまはマイと同じです。見ていると、テトのベトナムに戻ったような気がします」  懐しそうにいった。 「ハノイのテトは桃です。この季節になると、野も山も、明かるい紅色の桃の花に覆われる。とても口ではお伝えできない美しさです」  そのとき初めて、大使が北ベトナム出身者であることを知った。ジュネーブ協定による避難民の一人だ。 「でも、私は南部の方が好きですね。人々の気質も、物の考え方も、私自身、もう体質的にも南部人だと思っています」  かたわらの夫人を見やり、 「それに、わが家では、もうとっくに北部が南部に制圧されております」  いって、ニッコリ笑った。夫人は南部人だった。  食後のコーヒーを飲みながら、年明け以来、散発的に全土で作戦行動に出はじめている共産側の意図について話し合った。 「近く必ず来ます。これまでになく大がかりな攻撃を仕かけてくることは、間違いありません」  彼は、断言した。そして、軍事情勢について本国からいい加減な報告しか送ってこない、これでは、日本の当局者に国情の説明のしようがない、とこぼした。 「大使のお考えでは、どのあたりが赤信号ですか」 「中部高原です」  また、きっぱりといった。 「私が北の将軍なら、必ず、中部を衝きます。ただ、どの町を、まずいちばんに攻めてくるかが、わからない。プレイク、コンツム、バンメトート……。中部一円に大軍が続々集結していることは、はっきりしています。しかし、各師団がめまぐるしく移動し、彼らがどこに最初の攻撃目標を置いているか、わからないのです」 「でも、大使が北の将軍なら、どこを狙われます?」 「コンツム……いや、むしろ、バンメトートかな。毎晩、ベッドに入ってからそれを考えています」  大使は心配そうだった。今回は共産側も腹を固めての大作戦であろうから、政府側が緒戦の対応策を誤ると、とんでもないことになりかねぬ、と、暗い顔でいった。  最後に会ったのは、南ベトナムが崩壊して二、三カ月後だった。  大使が心配していた通り、政府軍は中部高原で、総攻撃の火ブタを切った。最後まで巧みな陽動作戦を続け、政府軍部隊を右往左往させた。そして、オトリに引っかかった守備隊が出払った一瞬のスキを衝いて、バンメトートの町に襲いかかり、実質半日で、この政府軍の要衝を制圧した。あとは津波だった。不意を打たれた政府軍は全軍、大潰走し、五十五日後に南ベトナムは崩壊した。  大使から一転、“亡命者”の身に転じた彼は、新政府を支持する東京在住のベトナム人留学生らとの摩擦を避けるため、伊豆の知人の家に身を隠した。 「明日の朝、日本を発つことになりました。お時間があれば……」  サイゴン崩壊の現地取材から戻ったばかりの私は、伊豆からの電話を受けて、翌日、早目に、待ち合わせ場所の、ホテル・ニューオータニのラウンジに出向いた。大使は約束の時間に、航空会社のバッグを肩に姿を現した。多少のやつれは見られたが、身だしなみや物腰は、ふだんの通り穏やかでさわやかだった。それだけに、足元に置かれた、すりきれた航空バッグのみすぼらしさが目立った。ひとまずオーストラリアに行く、向こうで大学教授の職が見つかりそうなので、場合によっては定住するかもしれない、という。  本国政府の崩壊については、 「腐敗しすぎていました。残念ですが、こうなるのが当然だったのです」  微笑みながらいったが、その目がかすかに濡れているのを見て、それ以上そのことについて話すことを避けた。小一時間、あたりさわりのない会話をしたのち、別れた。コーヒーとケーキの勘定をもとうとした私を、 「いけません。こちらからおよび立てしたのですから」  彼は、優雅に制した。私はひきさがった。大使の心を、これ以上傷つける非礼をおかしたくなかった。  代々木の大使館を閉鎖したさい、大使は、館員に対しても私物以外の持ち出しを厳禁し、皿小鉢からソファーのクッションにいたるまで、大使館備品の詳細な目録をつくった。そして各部屋を封印したのち、備品目録を日本外務省に預託し、やがて赴任してくるであろう新共産政府の大使への引きつぎを依頼していったことを、後に聞いた。  対米交渉がはじまった一九六八年は、ベトナム戦争の“終りの初め”としてハノイ側の歴史に刻み込まれる年であった。同時に、東西ヨーロッパにとっても、衝撃と動揺の一年となった。  米、北ベトナム代表団のパリ到着とほとんど時を同じくして、会談ホスト国フランスが「五月危機」、あるいはのちに「五月革命」とも呼ばれる、スチューデント・パワーの爆発で大混乱に陥ったことは、すでに触れた。その頃、チェコスロバキアでは、ソ連の優等生であったノボトニー体制が、これまた突如、学生や知識人や労働者の攻撃を受けて崩壊し、全世界を驚かせた。長年のスターリン主義から“解放”されたチェコ国民は、「人間の顔をした社会主義」を唱えて、彗星のように登場したドプチェク第一書記の下で、「プラハの春」に浮き立った。  西側報道陣も負けずに興奮した。おそらく、この時期、世界の名のあるジャーナリストの大半が、東西ヨーロッパのこの二つの首都に顔をそろえたのではないか、と思う。  なかば弥次馬気分でクレベール街や左岸の郵政省ホールに群がっていた私も、南ベトナム、解放戦線の会談参加方法などをめぐって米国と北ベトナムがもめている合い間を見て、「プラハの春」の“見物”にでかけた。  新体制の自由化政策でドッと西側からの観光客や消費物資が流れ込んだプラハは、文字通り、お祭り騒ぎだった。  魔法使いの老婆でもでてきそうな、ボヘミアの石畳の小路のしじまはサクランボの袋を手にした米人団体旅行客の歓声に破られ、街の人々も、外国人とみるとうれしそうに声をかけてくる。とりわけ、米国人のおばちゃんたちを喜ばせていたのは、まだけなげに生命を保ち続けている年代不明の自動車だ。チャップリンの映画にでてくるような古色蒼然の代物である。持ち主らは大苦心でクランクを数十回まわし、ようやくエンジンを始動させる。キャーキャー騒ぎながらカメラのシャッターを押していた米国のおばちゃんたちは、いよいよ驚嘆し、ひときわカン高い歓声の束が街路にはじけかえる。汗だくの持ち主は、ここでまた、求められたポーズをとり、ひとしきり、自分自身とその愛車を好奇のレンズの前にさらさなければならないのだが、その照れたような微笑の裏側の心情は、私には測りがたかった。  突然の「春」は訪れたものの、街にも地方にも、前体制が長年培った非効率、不活性、担当者の怠惰などの遺産は、うずたかく残っていた。空地や貨物駅の構内に、山積みのセメントの袋がなかば破れて放置されている。そして、付近の工事現場では資材不足で、建設中の施策住宅の棟々が雨ざらしのまま、早くも廃屋化への道をたどり、手もちぶさたの労働者らはゲンナリ昼寝していた。官僚天国の習性も随所に生き残っていた。長距離列車の切府一枚買おうにも、窓口の若い女性職員が仲間とおしゃべりしたり、(どうやら)男友達との電話の長話に熱中しているので、半日近く行列しなければならない始末だ。このありさまでは、「春」以前はいったいどんな具合だったのだろう、と、行列の中の私も、屋台で買ったサクランボをムシャクシャ食べながら、やけになってタネをはきちらした。自然は政治体制の影響をそれほどこうむらないのか、サクランボだけはたいそうおいしかった。そして安かった。それ以前も、その後も、あのチェコのサクランボほどおいしいのにであったことはない。  駅の近くの通りに、かなり大きな書店があった。「自由化」は西側の出版物、雑誌・新聞の販売にも及んでいた。この店へ行けば、数日遅れながらも『ヘラルド・トリビューン』や仏紙『ル・モンド』が買えた。ある日、店の出口で若い男に声をかけられた。がっしりした肩の上に、ニキビだらけの童顔をのせた、二十歳そこそこの青年だった。ミハル某君といい、プラハ大学の学生だ、と名乗った。私が『ル・モンド』を小脇にしているのを見て、 「フランス語を話すいい機会」  と、声をかけてきたのだ、という。文法も発音も相当あやしげであったが、なんとか話は通じた。  素朴で、おそろしく気のいい青年だった。知り合って十分もたたぬうちに、「プラハの春」の喜びと、新指導者ドプチェク氏への手ばなしの讃美を披瀝しはじめた。 「幸福だ、僕たちが今どんなに幸せか、あなたにはわからないでしょう。見てごらんなさい。あの交通整理の警官。つい昨日まで警察官は市民の敵だった。今日はもう仲間だ。学生も警官も、過去を忘れて、もう兄弟同士だ」  いいながら、当の警察官に、親しげに手をふり、“同志愛”の合図を送ってみせたりした。相手はまだ「春」の空気になじみ切っていないのか、口元を引き締めたまま、とまどい半分、微笑み返しただけだった。  ミハル君は、毎朝ホテルを訪ねてきた。  ドプチェク氏が、全国民の尊敬と親愛を集めた、いかに素晴しい“英雄”であるか、ノボトニー体制下の国民が、いかに抑圧され、重苦しく希望のない日を送っていたか——飽きずに語った。そしてほぼ三十分に一度の割で、 「ああ、僕らは幸せだ。今はもうすべてが変ったんだ!」  を、くり返した。 「こうして西側世界のあなたとも自由に話ができる。そして、いろいろ学べる。外国へも旅行できるようになった。僕も来年はフランスへ行く。そして、世界のことをうんとこの目で見て勉強するんだ。ああ、本当に幸せだ」  こんな具合だ。  彼は、自分は社会主義者だ、といった。これまで学生友好連盟とかの一員としてソ連も旅行した、という。 「ロシアの市民大衆は、皆親切でとてもいい人たちだ。ただ、外部世界のことについては、何も知らない。まったく何も知らされていないんだ。悪いのは党と政府だ。ロシア人は好きだが、ソ連の共産党と政府は大嫌いだ。ドプチェク氏が指導者になってから、ソ連の顧問連中はこそこそわが国から逃げ出しはじめている。僕も、ロシア語の教材をみんな焼き捨ててやった」  大通りを歩きながら、あまり声高にソ連を罵倒するので、 「だいじょうぶかい。まだ、そこらにKGBの連中がうろうろしてるんじゃないかい」  少々閉口してたしなめると、 「なに、気にすることはない。ここは僕らの国なんだ。それにソ連人がいたら、一目で見分けがつく。奴らはみんな先が四角い時代遅れの靴を履いている。信じられないほど田舎者なんだよ」  彼が、ある晩、「とてつもなく面白い所」へ案内する、というので、出かけた。初夏とはいえ日没後は肌寒いプラハ市街地を、路面電車を乗りついで出はずれた、街灯もまばらな、市縁辺部の一角である。両側に木立ちや大きな建物が黒々とうずくまる大通りを十分ほど歩き、その建物のひとつに連れ込まれた。一帯は、プラハ大学の学生寮の敷地だそうだ。ノボトニー時代はよく“弾圧停電”に悩まされた、という。玄関を入り、廊下や階段を幾つか曲ったり上り下りして、行きついた先は、倉庫のような、だだっ広い一室だった。薄暗い電灯の下で、数人の若者がジャズを演奏し、壁ぎわのベンチや室内あちこちに、ジーパン姿やヒゲ面の学生らがたむろしている。 「学生ホールだ」  ミハル君は、誇らしげにいった。 「つい最近、店びらきしたばかりだ。寮の学生が集まって自由に話し合い、ほら、音楽も楽しめる。ビールやサンドウィッチもある」  仲間をつかまえては、今日は特別のお客さんを連れてきた、日本の新聞記者で自分の親友だ、と、私を紹介して回った。調子っぱずれのジャズがものわびしく聞こえるほど、学生らの表情は生真面目で、活性を欠いてみえた。もっとも、これはスラブ人一般が与える印象なのかもしれない。一角に、古ぼけた米国製の球はじきゲームの機械と、これまた年代物のジューク・ボックスが一台ずつあった。ここにもヒゲ面が静かに群がっている。ゲームの機械やジューク・ボックスを熱心に示しては、 「すばらしいだろう、面白いだろう」  と、ミハル君が念を押すので、 「うん、とても面白い」  と、調子を合わせた。  この「とてつもなく面白い所」で、かろうじて興味をさそわれたのは、ピルゼンのビールや軽食を売る片隅のカウンターだった。学生委員会が運営し、コック(?)もバーテン(?)も当番学生である。いってみれば生活協同組合みたいなものなのだろう。ただ、日本の大学の生協は組合員(学生)の資金をもとに、多くの場合、仲買いを経ずに廉価で仕入れ、廉価で売ることを主旨に運営されている。この学生ホールの軽食堂は、逆に「資本主義のテスト・ケース」であることが、ミハル君の自慢のタネだった。 「われわれは学ばなければならない。いかに商売をして、いかに利潤をあげるか。学生委員会の決議で、利潤追求の実験としてこの店をはじめた。今のところ、ここがチェコで唯一の“自由経済”の場所だよ。だから、われわれは絶対に成功させなければならない」  もっとも、官僚主義の弊は、キャンパスの委員たちの間にも、まだ蔓延しているようだった。「非組合員の特別ゲスト」の私が黒パンのサンドウィッチひと包みにありつくまでに、はたしてそういう特例が許されていいものか、ミハル君は、バーテン係りの“委員”と三十分近く議論をたたかわさなければならなかった。  二週間余り、「プラハの春」を見物したのち、西ドイツ経由でフランスに戻った。ミハル君はじめ、滞在中に接触した何人かの知識人、学生たちの反ソ感、それに、あまりにも抑制なく花開いてしまった「春」の行く手に、一抹の不安も感じた。こうも真っ向からメンツを汚されてはモスクワも堪忍袋の緒を切らすのではないか。たとえ人々の信望と尊敬に支えられていても、ドプチュク氏の路線はナイーブすぎるのではないか。現に、モスクワはすでにワルシャワ条約機構軍に合同演習の号令を下していた。だが、この一抹の不安感も、新たな出発と、新たな未来への喜びと希望にわき立っている現場のエネルギーの中に身を置いていると、結局は、思いすごしのように感じられた。ソ連が「交渉」で圧力をかけてくることはあっても、よもや「実力介入」で、人々のあのエネルギーを打ちくだき、萎縮させる手はとらないのではないか。現実問題としても、それはおそろしく困難であろうし、道義的にもあってはならない。だからあるまい——そんなことを考えながら、好青年ミハル君に見送られて、国際列車に乗った。  パリへ戻り、ガレージから車を引っぱり出して、一カ月ほどスペインを走り回った。帰途は、コスタ・ブラーバで二、三日、海水浴を楽しみ、昼頃、ピレネーの国境を越えて一気にツールーズまで走った。翌朝、寝ぼけまなこでロビーに降り、キオスクにうずたかく積まれたフランス各紙が、第一面にゲンコツのような大文字の見出しで、「ソ連戦車、プラハを制圧」を報じているのを知った。  スイスに逃げたミハル君から、亡命の事実だけを告げる簡単な葉書をもらったのは、それから一年近くたってからだった。  日本の知識人が、あの年、「五月革命」「パリ会談開始」、そして「プラハの春」という、それぞれ人々の思潮を問う三つの出来事に対して、どのような反応を示したか知らない。たまたま現場に身を置いていた私は、この三つの“世界的事件”を間近かに見て、それなりに興奮し、職業意識を離れた“臨場者の共鳴感”のようなものも感じた。いま、考えると、たいへん青くさく、矛盾に満ちた共鳴感であった、とも思う。学生時代からノン・ポリであった私にとって、「五月革命」は一応、他人事と傍観できた。しかし、「パリ会談」「プラハの春」については、明らかに一方の肩を持った。  当時、ベトナム戦争は、「解放者」である南ベトナム解放戦線、および彼らを支援する北ベトナム側と、抑圧者(あるいは侵略者、新植民地主義者)の米国、およびその|かいらい《ヽヽヽヽ》である南ベトナム政府との間の闘い、とされていた。しかし、練達の国際問題担当記者らは、すでに、この「正義対不正」という、一見、文句のつけようのない図式に、少なからぬうさんくささをかぎつけていたはずだ。少なくとも、会談の場で解放戦線が北ベトナムの添えものであることは、私でさえ承知していたのだから、本家の北ベトナム政府が、たんに同胞愛、人道、あるいは主義主張を抜きにしての、民族としての義務感に拠ってのみ南部のゲリラを支援している、と見なすのはあまりにナイーブすぎた。  それにもかかわらず、そして、おそらくそのことを知りつつ、自由世界の世論を左右する自由世界のジャーナリストの大勢は、基本的には、この図式の束縛から逃げ切れなかった。会談当事者の外交術やマスコミ操作の巧拙、会談の場が何かと対米批判精神が旺盛なパリであったこと、そしてそこを舞台に“旧秩序の打破”めざして吹き荒れた学生革命の余波——など、もろもろの二義的原因・状況に、あるていど、|のまれた《ヽヽヽヽ》のではないか、と、思う。  私自身は、当時、ベトナム戦争について、ごく通り一遍の知識しかなかった。それでも何回か各代表団の会見に顔を出すにつれ、どうやら「解放」と「革命」はコインの両面らしい、というていどの見当はついた。そしてベトナムの場合、その「革命」が、完全に南人民の総意にこたえた、言葉の最も単純な意味での「解放」を意味するものではないらしい、との初歩認識も持った。しかし、この必ずしも自信のない認識よりも、周囲の空気と心情の方が、圧倒的に作用した。加えて、米、北ベトナム双方のスポークスマンの態度や人となりの、きわだった対比を目のあたりにし、この会談は米側に勝ち目がないであろうことを、一種の満足感をもって予感した。  無限の時間をかけても、自らの「原則」に固執し、相手が焦立ち、怒り、ついには根負けして折れて出るのを待とう、と、いわんばかりの北ベトナム側の態度に、いわば「アジア的悠久さ」の底力を感じ、これもいま考えてみると妙なものだが、同じアジア人として、心の一隅で快哉を叫んだものだ。  プラハで試みられたのは、パリ交渉で闘い取られようとしているのと逆方向の「解放」だった。ベトナム解放とチェコ解放——むろん両国の歴史的、社会的、その他の固有の民族環境的諸要素を無視して二つの「解放」を比較するのは、乱暴すぎよう。だが、それを承知で、あえてせんじつめてしまえば、やはり一方は共産主義|による《ヽヽヽ》解放であり、他方は共産主義|からの《ヽヽヽ》解放を志向したもの、と規定して差しつかえないのではないか。  パリで、北ベトナム側の“勝利”を望む一方で、私は、それと同じくらいの共感と同情をこめて、ドプチェク体制下の解放の成功を願い、期待した。結局は、これも個人としての心情の領域であり、理屈の問題ではなかった。ツールーズで、ソ連の戦車が「プラハの春」をキャタピラの下に粉砕したことを知ったとき、私は、呆然とした。すさまじい国際政治力学の場では、しろうとの心情論的発想など何の意味も持ち得ぬのだ、という原則を、かいま見た思いがした。だが、このあまりにも明白な事実を、ベトナム戦争、あるいは眼前のパリ会談のしのぎの削り合いに投影させようという気は起こらなかった。私は、かいま見ただけで、その正体を一片のかげりもなくとらえ切ったわけではない。そのかいま見たものが、この国際社会とそこで生きる人々の幸不幸を左右するすべてだ、とも思い切れなかった。  ——実は、いまも同じだ。インドシナ問題を取り扱う新聞記者として、その後非情な原則がこの地域の人々を、まるでブルドーザーが土砂を運河へ押し落とすように、何のためらいもなく、軽々と冷酷に、不幸の淵に追い落とすのを何回も目にした。チュー政権軍に駆り出され、虫ケラのように死んでいった南の貧乏な若者たち、サイゴンの町へなだれ込んできた戦車群、ボートピープル、在越華僑の苦難、一方では、中国の後押しを受けたカンボジアのポル・ポト政権の想像を絶する大虐殺、ベトナム軍のカンボジア進攻、中越戦争、そして難民、また難民……。  もうこのへんで、オレも少し利口になっていいのではないか、と、ほとんど毎日のように思う。それにもかかわらず、原則は原則にとどまり、それが存在する以上、同時に、その原則の非情さを緩和する方法論も存在して然るべきだ、という想いを心底から払拭できない。  救いがたいナイーブさなのかもしれない。  実際に、考えてみれば、六八年が明日への期待のエネルギーに世界がざわめいた年であったとすれば、その根底にあったのは、人々のナイーブさであったのではなかったか。ドプチェク氏は、あまりにナイーブであった。氏の新体制に全人生を賭けたプラハの学生たちもナイーブであった。投石と火炎ビンでソ連の戦車を食いとめ、あるいはマロニエの並木道にバリケードを築いて新世界を作れると思った学生たちもナイーブであったし、パリ会談によせた世界の世論も、会談を報じたジャーナリズムも、ひとしくナイーブだった。  純真であるから期待できたのか。あるいは、期待が人々を純真にしたのか。  おそらくその回答は、私には永遠に見出せまい。いや、むしろ、見出すことを自ら拒否しながら、これまで生きてきたような気がする。たぶん、こん後も、この設問を心の裏側に封じ込めながら生きていくのではないか。 [#改ページ]      
第三部 サイゴンの敗者たち

 サイゴン政府情報省のプレスオフィスは、ツゾー通りとレロイ通りの角にあった。木造二階建ての古ぼけた建物である。歩道に並べられた、米兵相手のちゃちな土産物、毒々しく、なまめかしい裸体画。まとわりついてくるドル買い、煙草売り、靴磨きの少年たちをかきわけるようにして、暗い入口の階段をのぼる。床板をきしませながら、とっつきの一室へ。何人かの職員が居眠りをしたり、窓にもたれて所在なげに通りを見降ろしている。  プレスオフィスなどともっともらしく名付けられているが、まあ、姥捨て山だ。資料、情報の提供や取材のアレンジは、各官庁が直接行う。ここの業務は、記者証の発行、その更新あるいは、その他、ごくつまらぬ雑用に限られている。  記者証交付の手続きを担当しているのは、ミンさんという、しなびかかった小柄な人物だった。英語はほとんど話さない。その代り、フランス人記者も恐れ入るほど、正確で古典的なフランス語を話した。日本語にも堪能な『フランス・ソワール紙』のマルセル・ジュグラリス記者によると、「さようでござりまする」調だそうだ。  肉体はひからびているが、目は子供のように優しく明かるい。いつもオドオドし、ぎごちなく、それでいて妙に人なつっこいところも、社会に出たばかりの少年を思わせる。  この国の役所のいたるところにみられる、不適材不適所の典型といってよかろう。およそ、新聞記者などというくせのある人種を相手にできるような性格ではなかった。 「私は書斎型なんです。口下手で、人となかなか付き合えない」  その彼が、私に対してはいつも多弁だった。外国文学、とりわけフランス文学について深い素養の持ち主だった。ベトナム・ペンクラブの理事を勤めていることを、後に知った。私もかつてはフランス文学に熱中したことがある。それで、恰好の話し相手と歓迎されたのかもしれない。  いつ行っても、彼は、上司の目を盗みながら、何やら翻訳作業に精を出していた。膝に部厚いフランス語の書物を広げ、上半身で隠すようにしながら、ときおりそれに目を走らせては、机上のワラ半紙にさらさらとペンを走らせていく。  上司が留守の日、何と取り組んでいるのか、と、たずねた。ミンさんはニッコリ笑って膝の書物を差し出した。ショーロホフの『静かなドン』の仏訳だ。 「これをベトナム語に訳しているんですか」  少なからず驚いた。  南ベトナムは反共戦時国家ではないか。しかも、ミンさんだって、まがりなりにも情報省の職員である。私たち外国人記者が不埒な容共的報道をせぬよう、目を光らせる立場にある。そういう役職の人物が、職場に堂々とレーニン賞受賞作家の代表作を持ち込み、せっせと翻訳している。 「ええ、しかし、全巻は無理です。量が多すぎる。この仏訳は抄訳ですが、なかなかしっかりまとめていますよ」  相手は、私が驚いた理由にすら気づかなかったらしい。 「でも、政治的にどうなんです。いろいろいわれているけれど、一応、共産主義肯定の書とされている作品でしょう」 「いえ、文学は文学ですから」 「それにしても……。おかみがうるさくないんですか?」 「さあて」  老眼鏡をはずして、目をしばたたかせ、 「私もそのおかみの一人ですからねえ」  無邪気に笑った。  身をかがめて、足元の黒カバンから、部厚くとじたワラ半紙の束を五つか六つ取り出し、 「もうこれだけはかどりました。半分ぐらいまで来ましたよ。この調子なら来年中に出版できそうだ」  仮りとじの表紙をなでながら、いった。 「本当に、出版できるんですか」 「文学ですからねえ。なんとか、大臣が許可してくれればいいんですが」  どう考えても、実現不能の企画に思えた。  相手はなおしばらく、ワラ半紙の束をなでまわしていたが、やがて大切そうにカバンの中にもどした。それから、私の顔を見つめ、 「考えておられることはわかりますよ。でもね、今の私には、これが生き甲斐なんです。これだけが生き甲斐なんですよ」  気弱く微笑んだ。  私は、サイゴンで暮らした三年間に、多くの知人を得た。そのうちの何人かとは、ずいぶん親しい間柄にもなった。  しかし、仮りに今、それらの人々の履歴を書け、といわれたら、たちまち降参せざるを得ない。あれほどの良友、親友を得たのに、その誰についても、継続した経歴はもとより、明確な年齢すら知らない。  多くの庶民は、長い戦乱にもまれ、右往左往して生きてきた。そして、今も、今日を生き、明日を考えるだけで精一杯だ。誰もが、自らの軌跡を整理だててふり返るには、あまりに多くのことを体験してきた。もう自分自身についての記憶すらもが、混濁し、脈絡もとらえがたいものになっているようだった。  知識人は、意識的に過去を伏せたがった。彼らも、仏植民地時代以来、各勢力が対立し、闘い合った混迷の中を泳ぎ抜いてきた。過去、自らが、どこかの側に“所属”したことを明かすことを慎重に避けた。たとえ、それが古い昔のことであっても、風の吹き回しによっては、いつ、どんな形で、現在の自分に災厄となってよみがえってくるかわからない。周囲に累を及ぼすかもわからない。戸籍を隠すこと、これは人々にとって、なかば必須の保身の手だてだ、現にこの国の「Who's who」に載っている人々の大半が、生年も、学校の卒業年次も、「不詳」となっている。三十年以上も連れ添った、れっきとした大学教授の夫妻が、戸籍上は赤の他人であるような例もめずらしくない。他人であれば、一方が何かに連座した場合も、他方には「知らぬ存ぜぬ」で難を免かれる可能性がまだ残される。  こうした習い性が身についている人々の中で、ミンさんは、やや特異な存在だった。純真、というより、多分に浮世離れした性分に生まれついたのだろう。  あるていど親しくなると、問わず語りに、自らの過去を話した。  もとは、ハノイの大資産家の三男坊か四男坊だ。 「自分の口からいうのも何ですが、ええ、それは大した邸宅でした。家族用の部屋数だけでも二十四、裏庭には、車を六台おさめられるガレージがありました」  そんな大邸宅で、召使らに取り巻かれて育った。病弱でもあったため、若い頃から俗世界での活動は志さず、文学になじんだ。そこへ日本軍がやってきた。フランス語に堪能であった彼は、司令部付き通訳に引っぱり出される。いってみれば、これが、人生のケチのつきはじめだった。一九四五年の日本軍撤退後、フランス軍が舞い戻ってきた。対日協力者としての摘発を恐れ、大邸宅の地下室に潜んで過ごした。 「生きた心地もしませんでしたよ。毎日、本を相手に過ごしました。その頃から、もう本だけが私の救いでした」  それでも、いつかは、という夢があった。時勢がおさまれば、大学の教壇に立ちたかった。 「そして気が向けば、自分でも物を書いて、静かに暮らすんです。ねえ、これが人間として最高の生き方でしょう」  この国では、古来、読書人が尊ばれる。 『知・農・工・商』  という言葉を、そのとき、彼に教えられた。  町の内外で、抗仏勢力のベトミンが、じわじわと力をつけはじめる。多くの若い知識人が、ベトミンに身を投じた。彼は仲間の勧誘を斥け、ひたすら読書で過ごした。それから仏軍の要衝ディエン・ビエン・フーが落ち、北部ベトナムは、ホー・チ・ミン主席率いるベトミンの天下となった。 「このときは、私も血が騒ぎました。ホー主席は、当時のベトナム人にとって、本当に希望の星だったんですよ」  ベトミンの幹部であった親友に、新政府の文化行政を手伝うよう懇請され、ようやく腰を上げる。 「ホー主席と直接、言葉を交したこともあります。なかなか偉いポストだったんですよ」  目を細め、幾分誇らしげにいった。  だが、すぐに“反動狩り”がはじまる。  各地に広大な地所を所有していた従兄弟たちが、人民裁判にかけられた。何人かは公開処刑された。蒼くなった彼は、父祖の地を捨てて、妻子とともに赤十字機で南部に落ちのびる。好みの蔵書三千冊だけはなんとか、 「救い出した」  そうだ。  サイゴン郊外の小さな町に居を構え、高校教師として細々生計を立てた。  やがて「ベトナム戦争」がはじまり、町に兵隊があふれる。町の人々の「北避難民」に対する目も冷たかった。「北避難民」の中でも、時の独裁者ゴ・ジン・ジェム大統領に登用された者は羽振りがよかった。神父らに率いられて南へ逃げてきた農民や、ジェム体制に取り入る世知のない連中は、“他所者”として、地場の南部人からいじめられた。ジェムの庇護下の新たな高官たちがわがもの顔にふるまえばふるまうほど、南部庶民のとばっちりは、難民中の弱者に向けられた。 「ようやく整えた家を三回も掠奪されました。植木も皿小鉢もみんな持っていかれた。とくに兵隊たちはひどかった。でも、本だけは助かりましたがね。連中には価値がわからないものですから」  ふたたび蔵書を抱えて、治安のいいサイゴン市内に逃げ込んだ。いくつかの住所や職を転々とした後、ようやく、出世していた北避難民仲間のツテで現職にありついた、という。 「二十四室もある」大邸宅時代の回顧談は、何回聞かされたかわからない。ときには、邸宅の見取り図まで描いて、 「ええ、ここは全部庭です、ここにこうして池があり、大きな噴水がありました。母は客好きでした。週に何回か一族や知人を集めて、夜会を開いたものです。客たちの車は、この小径を通って、こちら側から、こう玄関まで乗りつける。庭にも屋敷にも灯りがともされ、それはにぎやかなものでした」  目を輝かせて、熱心に説明する。  そんな彼を相手にしていると、痛々しさに気が滅入ることさえあった。同時に、こんなに世事にうとい、ひよわな人物が、よくこれまで、生きのびてこられたものだ、と感心もした。  世の激動に小突き回され、落魄に落魄をかさねた、旧知識人の典型——と、同時に、ときに思いのほか、なまぐさく、芯の強い一面を示すこともある。  自分自身は、「政治」を恐れ、けっして手を出そうとしない。だが、おや、と思えるほど大物クラスの政治家たちとも、親交が深かった。彼は機をみては、そうした人々を私に紹介したがった。彼を通じて知り合った上院議員や下院議員は、いずれも北避難民出身者だ、同じく北出身であり、チュー大統領の最大の政敵であるグエン・カオ・キ副大統領一派であった。 「ミンさん、あなたは反体制派ですね」  あるとき、冗談半分、水を向けると、 「いえ、いえ、とんでもない。私はただの老書生です」  あわてて手を振ったが、北出身者であるキ副大統領に、好意を抱いていることを隠さなかった。 「キ将軍はときおり、軽率な行動をします。しかし、頭はいい。共産主義とはどんなものか、彼はよく知っています。私たち北出身者はみな知っています。南部の人たちは、それを知らない。チュー大統領自身、一度も共産主義のためにひどい目にあったことがない。これではとてもハノイの策略に対抗できない」  外国人記者である私に、キ派との接触を熱心に勧める彼の真意も、この辺にあるようだった。  私には、北部の共産化を招いた一因は、彼のように「二十四部屋」の大邸宅に住み、広大な土地を所有し、農民らとはまったく別次元の生活をしていた、ひとにぎりの人々の“自覚のなさ”にあったように思えた。そんな彼の懐旧談や頑なな反共論を聞いていると、しばしば、やはりこの土地へ来てすぐ親しくなったもう一人の知識人の言葉が耳によみがえった。政府直属のベトナム通信社のグエン・ベト・カン氏の言葉だ。  カン氏自身も北出身であった。だが五四年難民ではなく、それよりずっと以前に仕事の関係で南へ来て、そのまま居ついた組だ。  知りあって間もない頃、彼は私にいった。 「南ベトナムをこんな国にしてしまったのは、彼ら(と、彼は五四年避難民を呼んだ)の責任です。以前、北ベトナムでしたい放題をして暮らしていた。そして共産主義の世になると、昔どおりの安逸を求めて生まれ故郷を捨てた。彼らが、南を踏みにじり、堕落させ、米国を誘い込んで、とうとう国をこんなにしてしまった。南に来ている北避難民から北ベトナム人を判断してはいけませんよ。今、サイゴンで幅を利かしている北出身者の多くは、北でもクズだった連中です」  日頃の穏やかな口ぶりと異なり、吐いて捨てるような口調だった。  ミンさんをクズときめつける気にはとてもなれなかった。羽振りを利かせているどころか、もう尾羽打ち枯らしている。そして、あまりに邪気がなく、あまりに憐れだ。それでも、旧支配層としての自分の人生を奪った共産主義を一途に憎み、自らをひたすら「犠牲者」としてしか語れぬ彼に、ときに強く反論したくなることがあった。  彼の、北部出身者としての南部人に対する優先意識は、政治の分野だけにとどまらなかった。それが、南部ベトナム人である私の妻を激怒させた。  ある日、アパートへ食事に招いた。  彼はだいぶためらったあと、やってきた。妻は、その日、フランス料理を用意した。 「私は手先が不器用なもので」  何回も恥ずかしそうに詫びながら、ぎごちなくナイフやフォークを使った。 「でもこうした、家庭的なご招待だと、緊張せずにすみます。公式の会食などに出ると、囲りの人と話も合わせられないし、もう、どうしていいのかわからなくなってしまうんですよ」  しきりと妻の料理の腕を賞讃し、そのもてなしに感謝した。  よほど居心地がよかったのか、ずいぶん遅くまで話し込んでいった。その何でもない文学談義のさい中、突然、彼が、 「南部人は、私たちからみると動物です」  と、当の妻の前でやってのけた。 「私たち北部の者は、つねに学びます。本なしでは生きていけない。それにくらべると南部人は、ただ、食べて、働いて、眠るだけ。それだけで満足し切っている。こんな生活は、とても人間のものとは呼べません。一冊の本も読まずに、一生をゴロゴロ過ごしてしまう。まるで動物です」  酒を飲んでいたわけではない。話に熱中しすぎて、つい本音が出た、という感じだった。  みるみる蒼ざめた妻を、あわてて目顔で制した。  ミンさんは、自分の失言にも気づかなかったらしい。やがて、丁重に礼をのべ、引き上げていった。 「わかったでしょう。なぜ、私たちが、北の人たちを嫌うかが」  どうやら自分を押えて彼を送り出した後、妻がいった。静かな口調だったが、デザートの皿を片づける指先が震えていた。彼女が、これほどの怒りを体で表したのは初めてだった。 「二度とあの人を家に呼ばないで頂戴」 「別に悪気があっていったわけじゃないんだよ」 「それはわかってるわ。北出身の人の中にも、いい人はたくさんいる。私の友達にも多勢いるわ。だけど、彼だけはもうお断りよ。こんど、のこのこ顔を出したら、物もいわずに殴りつけてやるから」  私は了解した。  気をゆるし切っての失言とはいえ、やはり迂濶過ぎる。同時に、彼ら北部出身の旧支配層の一部が、南部人を心の底でどのように見なしているかを、思い知らされ、あらためて、厄介な国だな、と思った。  それでも、私は、この老知識人が好きだった。ベトナムという国について、いろいろのことを彼から学んだ。彼も、最後まで、私に好意的だった。何回か、仕事上のトラブルからも救ってもらった。主として、原稿内容についてだ。米国流の「報道の自由」を押しつけられた南政府は、私たちが書く記事について事前検閲はしない。その代り、あまり露骨な体制批判や、軍部批判をやると、忘れたころになって当局からの呼び出しがくる。その取り次ぎをするのもミンさんの仕事だった。 「また何か、書かれましたね、国防省から出頭命令がでておりますよ。とりあえず、私のところへご足労を——」  ときおり、遠慮がちな口調で、こんな電話をかけてくる。  プレスオフィスに出向くと、すでに手元にきている私の原稿の翻訳をチェックして、 「ここの表現の問題でしょうね。国防省は、あなたの原稿が国軍の威厳をキズつけた、とカンカンです。メンツなんですよ。ベトナム人にとってメンツがどんなに大切か、いつもお話ししているでしょう」  それから、腹を立てている役所へ出頭したさいの対応法を一緒に考えてくれる。 「あなた、人に謝るのはお嫌いですか」 「別に嫌いじゃありませんよ。僕はメンツなどそれほど気にしませんからね」  たとえ、それが理不尽ないいがかりであろうと、こんな場合、抗弁すればするほどことがこじれることは、その頃、私も承知していた。 「それはよかった。当局の担当者にあったら、最初から最後まで、申し訳なかった、でお通しなさい。私も電話で口添えしておきます。何、担当者だって一応のインテリです。上からいわれて仕方なくあなたを呼び出しただけです。このていどのことなら、ひたすら謝って彼の職責を果たさせてやれば、うまくおさまるでしょう」  何回か、この手で難を免かれた。  サイゴン陥落当日、彼は、一家とともに小舟で河を下り、海上に脱出する。洋上を十数日間漂流後、米国船に救われて、無事、アメリカにたどりついた、と、風の噂に聞いた。  あの、小心で女性的な人物が、よく小舟に命を託す気になったものだ、と、そのときも感心した。やはり、彼には彼なりの、そして、おそらくこの国の人ならではの、しぶとさとたくましさがあったのだろう。現在、米国で、何をしているのか、知らない。案外、「ござりまする」調のフランス語でも教えながら、結構な暮らしをしているかもしれない。  一面、恐しいほど部厚く、色濃い緑の茂みだ。そのところどころが、円型に焼け焦げ、真っ黒な地肌が露呈している。周縁部の大樹の幹や葉にも、コールタールのようなものがはりついている。ナパーム弾だろう。  前方は、大小の煙の柱。その向こうの、幾つかの峰の頂きは平らに削られ、双発のチヌーク型ヘリコプターが、機材をぶら下げて舞い上がったり、舞い下りたりしている。ローターの風が、赤茶けた砂塵を巻き上げ、火山の噴煙のように空を茶色く染める。  緑の茂みの中に、一筋、流れが見えた。  高度約六〇〇メートル。  私たちを乗せたUH2型ヘリコプターは、眼下の流れを横切り、煙の柱の中へ入る。 「ここからが敵性地区だ」  隣席の広報担当将校が、口を耳に寄せて叫ぶ。ついさっきまでのんびり煙草を吹かしていた機関銃手も、すでに、全身に緊張をみなぎらせて応射態勢を取り、タカのような目を眼下に走らせている。 「嫌な高度なんだよ。いちばん狙われやすい」  また、広報将校が耳元で叫ぶ。  たしかに、こんな中途半端な高さをふらふらと飛んでいくUH2ヘリは、ライフルの絶好の標的だろう。はるか上空を悠々と往き来するチヌークを見上げ、あそこまでは銃弾も届くまい、などと考える。たとえ届いても、あのドでかい腹にぶつりと一発くらったところで、ビクともするまい。それにくらべると、UH2などまるで竹とんぼだ。ローターをやられたらひとたまりもない。報道陣は、小回りの効くこの型式のヘリにしか乗せてもらえない。まったく何の気まぐれで、こんな阿呆らしい所まで取材にくる気になったのか、と、少々、後悔した。  そんな心中を見すかしたように、広報将校が、私のわき腹をつついた。機の下方を指さした。四、五機の、細身の小型ヘリが、木梢すれすれの高さを飛んでいる。まるで水すましのように、素早いジグザグ飛行だ。全機散開し、どうやら私たちのUH2を援護してくれているらしい。 「コブラだ。わかるか。ロケット砲をかかえているだろう」  名は耳にしていたが、実物を目にするのははじめてだった。飛行速度も回転角度も、ヘリコプター離れした二人乗りの高性能攻撃用ヘリである。 「あいつらがいるかぎり、めったにベトコンは射ち上げてこないよ」  私は、本当に毒蛇を思わせる敏捷でスマートなその機体に見とれた。 「この煙は? 空爆の名残りかい?」  林立する煙柱を示し、大声で聞く。 「安心しろ、これも味方の援護だ。後方から射ち込んでもらっている」  ちょっと間を置いて、 「もっとも全部がそうじゃない。小さくなびいているのは、山岳民族の山焼きの煙だ」 「山焼き?」 「ああ、あの連中、砲弾が降ってくる中でも、平気で仕事をするんだ」  国境の山並みが迫った。  機は、すでに、ジャングル地帯を抜け、起伏の多い山地にさしかかっている。高度を急に下げ、ホッピングに入る。三段跳びの最初の一とびのように、いったん、勢いよくはね上がる。中空に弧を描いてもの凄いスピードで木梢すれすれまで突っ込み、ガクンと機首を立て直して、また勢いよくホップする。山地を飛ぶときは、これをくり返していくのが一番安全な飛び方だそうだ。動きがめまぐるしく、しかもすぐ目の前まで突っ込んでこられるので、樹上のゲリラも照準を合わせにくい。 「恐がらずに、できるだけ木梢ぎりぎりまで突っ込むのが|こつ《ヽヽ》だ。相手の鼻先までな」  それにしても、大したパイロットだ。  山地の凹凸を巧みに拾いながら、ときには逆落しに|谷間《たにあい》に突っ込み、たえず左右に機首を転じながら、山肌にはりつくようにしてのぼっていく。  十分ほどの曲乗りで、ようやく頂上の陣地についた。 「いいか、ヘリは着陸しない。俺が声をかけたら飛び降りてくれ」  広報将校が、やや緊張した顔でいう。  地上一メートルほどまで降下して静止飛行に入ったところで、かけ声とともにバラバラ飛び降りた。機はそのまま急上昇し、機体をほとんどあおむけにひるがえして、ヤブの向こうの谷間に飛び込んでいった。人や機材の積み降ろしのひとときが最も迫撃砲の餌食になりやすい、と聞いていたが、これほどきわどい作業とは知らなかった。  この取材を熱心に勧めたのは、プレスオフィサーのミンさんだった。  その年(一九七二年)、春から夏にかけて、南ベトナムの戦況は大荒れに荒れた。  後でふりかえると、この時点で共産側が例年にない規模で春季攻勢に出た背後には、輻輳した事情があった。とりわけ、パリで秘密裡に進められていた、キッシンジャー米大統領特別補佐官=レ・ドク・ト政治局員の交渉の進捗と、その成立を見越して“失地回復”を策したふしが強い。単に軍事情勢だけを取り上げると、過去二年余り、共産側の動きはきわめて不活発であった。その機に乗じてサイゴン政権は、じわじわと各地の平定作戦を進めた。かつて共産側の牙城であったメコンデルタ地方の町村や、北部、中部の拠点も政府軍により奪回された。秘密交渉成立遠からずとみた共産側は、ここで揺さぶりをかけて、再度、軍事的バランスを自らに有利に塗りかえておく必要があった。  もっとも、当時、サイゴン政界はもとより、現地報道陣の中には、パリの一民間人のアパートで、米国と北ベトナムの大立者二人が、ひそかに交渉を進めている事実を知っている者はいなかった。  サイゴンから見る限り、この春、共産側を大攻勢に踏み切らせた、直接かつ最大の要因は、あの劇的なニクソン訪中であった。この突然の“三極構造”の変化が、全世界に衝撃を与えたことは、周知の通りである。とりわけ、サイゴンは、前年末、にわかに米中接近の動きが具体化し、米大統領の中国訪問が本決まりとなって以来、極度の焦燥と不安のうちに日々を過ごした。“反共聖戦”の唯一無二のパトロンである米国の大統領が、こともあろうに、敵方ハノイを後方から支えている大親分の毛沢東のもとに膝を屈して伺候しようとしている。しかも、この訪中は、同盟国南ベトナムに一片の通達もなく決定された。事後承諾を求められたチュー政権は、内心の激怒と不信を押えながら、この支援大国の“変節”を受容する以外なかった。彼がなし得た、せめてもの抵抗は、衛星中継によって世界中に報じられた米大統領の訪中光景を、国営テレビからシャットアウトしたことだ。  とはいえ、彼の権限が及ぶのは国営放送だけである。サイゴンの米軍テレビ局は、平気で、連日、トップニュースで中国滞在中の米大統領の言動を報道した。市民は、チャンネルを切り替えるだけで、中国側儀仗兵を観閲する米国大統領、万里の長城に遊ぶ大統領夫人、毎回の熱烈歓迎宴で、自らハシを手に米大統領の皿に料理をとりわけてやる周恩来首相の笑顔を、目にすることができた。  私も支局のテレビの前に陣取り、米中首脳のなごやかなエールの交換風景を熱心に見た。放映時間になると、にわかに街路の人影が少なくなるところから、市民の大部分が画面に吸い寄せられていることがわかった。あのときの米軍テレビの視聴率は一〇〇パーセント近かったのではないか、と思う。  当のチュー大統領も、独立宮殿の一室で米軍放送を見入っていたに違いない。その孤独の姿を想像し、あらためて、小国を率いる指導者の苦渋と無念さを思った。  事情は、ハノイにとっても同様であった。  米国と南ベトナムは、パリ会議をめぐって、派手なケンカをやらかした。同じ頃、中国と北ベトナムの間にもきわめて陰湿な確執が生じた。中国側は、当時吹き荒れていた文化大革命の嵐を、北ベトナム内部に持ち込もうとした。各会堂や公共建築物、さらに大学の教室にまで、毛沢東主席の写真が掲げられた。当時、ハノイ大学で学んでいた日本共産党機関紙『赤旗』の記者が、突然デカデカと部屋に飾られた毛沢東主席の肖像を目にし、憤然と授業をボイコットした、という挿話を耳にした。ハノイの自主性は、この中国側の態度に猛然と反発した。これを境いに、中国と北ベトナムの関係は、急速に冷却していく。加えて、いきなり頭越しの米中接近だ。サイゴン政府がそうであったと同様、ハノイ政府にとっても、この友好大国の、あまりにもあからさまな、“背信行為”は、国民を納得させ得るものではなかった。自分たちを血みどろの反米帝闘争に駆り立てておきながら、当の北京は、にこやかにその米帝とマオタイ酒の乾杯をくり返している……。  サイゴン政府がなすすべなく米中の交歓風景を眺めたのに対し、ハノイは現地の戦況を荒れさせることにより、北京に一矢報いる手に出た。  サイゴン側も、ハノイが、そうした挙に出てくることを十分察知していた。年明け早々から、全土の重要拠点に大量の援軍を送り、防備体制を強化して、共産側攻勢を待ち受けた。  年が明けてから三カ月間というもの、私たちは緊張のしどおしだった。すでに、サイゴン北方タイニン地区では、陽動作戦が激化していた。私たちは何回となくこの方面の戦線を取材した。そして共産側が、どのタイミングを狙って、どこを主要目標に大攻勢の火ぶたを切るか、右往左往しながら、情報蒐集につとめた。  ハノイにとっては、ニクソン訪中期間中に、現地で大攻勢に打って出るのが米中接近に水をさすうえで、最も効果的なタイミングだ。賢明なハノイは、そこまでえげつなく支援大国、中国の顔をつぶすことは避けた。  ニクソン大統領は、一週間にわたる中国訪問を終えた。その後の米中国交正常化への踏み台となる、「上海コミュニケ」を土産に、得意満面、帰国の途につく。  とりあえず最大級の山場が過ぎ、私たちはホッとした。  ハノイは、その後も引きつづき、沈黙を守った。三カ月近い緊張の反動が出た。結局は、カラ騒ぎだったのか——。  三月末の日曜日、久しぶりにブンタオ海岸に海水浴に出かけた。  この日、共産側は、突如、本格攻撃に打って出た。未曾有の規模の大作戦であった。戦法も従来とはまったく趣きを異にした。  未明、何千発かの長距離砲を、北部のDMZ越えに射ち込み、次いで、大量の大型戦車を先頭に、ドッと南ベトナム北辺になだれ込んだ。DMZは、ジュネーブ協定にもとづき、北緯十七度の南北ベトナム暫定境界線の両側に設けられた非武装地帯(DEMILITARIZED ZONE、あるいは、DEMARCATION ZONE)の略語だ。これまで、南ベトナム内の戦火がどんなに燃えさかったときも、DMZは、“聖域”としての地位を確保し続けた。政府軍も、共産側も、あからさまにここへ兵を送り込むことは慎重に避けた。戦争の無限拡大を避けるために、双方が暗黙のうちに了解し合った、最後の歯ドメでもあった。  この、暗黙の了解が、一夜にして踏みにじられた。政府側北辺警備軍は、思いも寄らぬ正面突破作戦に動転し、算を乱して潰走する。共産側は破竹の進撃を続け、中部、およびサイゴン北方にも次々と大規模な戦線を開く。各戦線の政府軍は、敗走に敗走をかさねた。  私たちは、書きまくった。  一部には、共産側がこのまま首都を衝くのではないか、との予測すら出た。実際に、サイゴン北方戦線と首都を隔てる距離は僅か一〇〇キロ余りであった。  その頃、ミンさんは、たびたび私の支局にきた。一方的に攻めまくり、支配地区を拡大している共産側の動きを赤いマジックインクで記した壁の大きな地図を見上げ、 「先走りすぎてはいけませんよ。政府軍はもちこたえます」  しきりと、私を牽制する。 「でも、今回は今までと違う。共産軍の主力は、解放戦線ではなくて北ベトナム正規軍です。しかも、大型兵器を駆使しての通常戦争だ。従来のゲリラ戦や機動戦とはわけが違うでしょう」 「だからこそ、私は楽観しているのです。あなたたち外国人記者は、神話にまどわされている。北正規軍も不敗ではない。それに、こんな型の通常戦争に出たのは彼らも初めてだ。必ずいつか息切れします。いいですか。私は北出身者ですよ。彼らが慣れない戦法に出ていることがよくわかるのです」  日頃の彼にしては、めずらしく自信ありげだ。 「しかもあなたは、政府軍の力を過小評価している。現地へ行ってごらんなさい。お望みなら私が手配してあげましょう」  口車に乗せられたわけではないが、たとえ相手が落魄の書斎人でも、こと戦争に関しては、私の方がはるかに素人である。激戦地の一つである中部戦線の視察便宜を依頼した。  結果的には、ミンさんの予測は正しかった。  政府軍は、数十日間にわたって押されに押された。それから米空軍の必死の援護や、ニクソン大統領がこうじた北ベトナム全沿岸機雷封鎖措置に力を得て、ようやく踏みとどまる。チュー大統領も、各前線をジープで駆け回る。 「あらゆる代価を支払っても、我が国の領土内から北ベトナム軍を追い戻せ」  と、行く先々で号令した。  反撃に出た政府軍は、白兵戦の末、占拠された町村や陣地を、一つ一つ奪回していく。この死に物狂いの反撃を、米人記者らは「ミート・グラインド(挽き肉)作戦」と呼んだ。文字通り、両軍兵士が、互いの肉を挽きつぶし合うような凄惨な攻防であった。  前後して、北辺第一軍管区の新任司令官ゴ・クワン・チュオン将軍が、共産側補給路の切断に成功した。以後、戦局は逆転する。  ミンさんの勧めで、中部山岳地方の山頂の陣地を訪れたのは、戦局が政府軍側に有利に転じて間もない、六月上旬だった。  ヘリコプターから飛び降り、 「地雷に気をつけろ。オレの歩いた跡をたどってついてきてくれ」  広報将校に導かれ、山頂の平地を取り巻く塹壕のひとつに向かった。陣地の広さは、せいぜい二〇〇メートル四方か。雑草、赤土、そして耐えられぬほどの灼熱。三方に中型野戦砲が据えられ、草むらでは、数十人の完全武装の兵士らが昼寝している。鉄かぶとをナベ代りに、タキ火を囲んで食事をとっているグループもいた。一角に、ピカピカの捕獲武器が山と積まれ、二人の野戦憲兵が見張りをしていた。  舞台装置はものものしいが、全体の空気は、拍子抜けするほどのんびりしている。おそらく、一時間近くのヘリ搭乗中の恐怖と緊張から解放されたせいもあるのだろう。  あたり一面に、異様な臭気が漂っているのが気になった。  塹壕の入口で、少佐の肩章をつけた、おそろしく大柄な、米人将校に迎えられた。当時すでに米軍実戦部隊の大半は撤兵していた。全土で数万人の“アドバイザー”が残っているだけだ。大柄な米人少佐はこの陣地に配置されている何人かのアドバイザーのチーフ格であった。  まだ二十代半ば、明かるく健康そうな童顔を快活にほころばせて、私たちを迎えた。塹壕づたいに、深さ五メートルほどの地下壕の一室に案内された。 「実にいいところへ来て下さった。一昨日、作戦がありましてね、ものの見事な勝利でした。完勝です」  目を輝かせながら、作戦経過を説明する。まるで、フットボールの勝ち試合を語るような、晴れ晴れとした態度だった。  この前哨拠点は、周辺基地群の中でも、最も危険な陣地の一つだ。つい数百メートル先まで共産軍の浸透路であるホーチミン・ルートの枝道が来ている。我々は、数日前、この枝道沿いに約五十人の共産兵が接近している、との情報をつかんだ。しかし、ここを守る兵隊は筋金入りである。山麓の基地に援軍待機の連絡をし、陣地から外へ出て、全員ヤブの中に分散して待った。おそらく相手の偵察隊は新兵だったのだろう。我々が逃亡したと思ったらしい。三日後の夕刻、五十人ほどの敵兵が森からしのびよってきた。彼らが全員陣地内に入り、気を抜いているスキに、包囲網を縮め、無線で援軍を|招《よ》んだ。ヘリは爆音を最小限に落とし、山腹一帯に二百人の増援部隊をばらまいてくれた。日が暮れるのを待って、一気に襲いかかった。敵もただちに応射してきた。味方は実に勇敢だった。二時間ほどの戦闘で、敵は死体四十六を残して逃げた。ほんの数人を取り逃しただけだ。完全に殲滅したといっていい。私は実に幸せだ。政府軍兵士がいかに勇敢であるか、これであなたにもおわかりいただけるだろう。  黒板に戦闘の見取り図を描きながら、本当に嬉しそうに説明した。  語りながら彼は、何回か、「プロフェッショナル」という言葉を使用した。 「この作戦をプロフェッショナルな観点から見ると——」 「我々、プロフェッショナルとしては——」 「南軍自身、すでにプロフェッショナルな技術を——」  明かるく優しい目をした、いかにもスポーツマンタイプの、たくましい青年が、自ら指揮した敵軍殺戮の一幕を、何のてらいも懐疑もなく、このような表現で称え、評価する、その明快さに、戦争そのものを感じた。彼にとっては、兵隊は、殺しのプロでなくてはならない。自らもそのプロのひとりであることへの誇りが、表情と口調のはしばしに、にじみでていた。  涼しい地下壕から外へ出た。  再び、むかつく異臭が鼻をついた。 「死臭ですね」 「まとめて埋めたんですがね。ちょっと穴が浅過ぎたのかもしれない」  炎天の下で彼は、数葉の写真を私に見せた。散乱した死体、掘られた穴にひとまとめに投げ込まれた死体、それを囲んでレンズに向かってVサインを示す、笑顔の政府軍兵士たち——。 「まったく大した連中ですよ」  草むらにアザラシのようにひっくり返って昼寝をしている兵士らを、友情に満ちた目で見回しながら、若い少佐はいった。  将校食堂とは名ばかりの、ちぎれかかった天幕の中で、昼食をともにした。  食事中の彼は、もう「プロフェッショナル」の片鱗もうかがえぬ、節度ある常識人であった。  体格、容貌、それに肌の色艶が一般の米国兵とやや異なるので聞くと、ハワイのオアフ島出身だ、という。 「なるほど、サーフィンで鍛えた体ですね」  ずっと以前、ハワイに行ったとき、サーフィンを試みてどうしてもうまくいかなかった話をすると、 「いつかまた、必ずいらっしゃい。高校時代、私は連続チャンピオンでした」  はじめて懐しそうに、遠くの山並みを眺めた。 「ハネ返ったボードに頭や肩を割られ、何回、父親に殴られたことやら。でも、サーフィンこそ、男のスポーツだ。私もあと三カ月で除隊です。帰ったら大学に入りなおし、また毎日、波と格闘しますよ」  草むらで昼寝している「すばらしい仲間たち」のことなど忘れはてた様子で、波をつかまえたときの“勝利感”と、ボードでバランスを取りながら宙を疾走する爽快さについて熱心に話した。  戦場取材というのは、たいがいの場合、馬鹿げたものだ。とりわけ、昼間のそれは、物見遊山に近い。いくら、付近で銃砲声が鳴り響こうと、周囲に硝煙や死臭がたち込めていようと、結局のところ、私たちは傍観者に過ぎない。  昼寝中の兵士らは、人なつこく話かけてくる。鉄かぶとの中で煮えたぎるトリ肉料理を指さし、「食え、食え」とすすめる。うっかりすると、私も彼らの仲間に加わったような錯覚にさえ陥る。オレは今、本物の戦場に身を置いているんだな、と、子供っぽい満足感を味わったりする。おそらく、この気の抜けたような昼の陣地のひとときを描写しても、筆の使い方一つで、読者を唸らせる、迫真の“戦場ルポ”が書けるだろう。事実、周囲ではたえず砲声が轟き、まかり間違えば地雷や流れ|弾丸《だま》で命を落とすこともあり得る。大仰な、緊張感あふれるルポをものしたところで、虚報でも創作でもない。同時にそれは、事実を伝える報道でもない。何よりも、周囲の兵士らと私とは、まったく別次元に身を置く人間だからだ。彼らの緊張、彼らの恐怖、彼らのくつろぎ、彼らの想い、そして実戦に臨んださいの彼らの狂気——真に戦争というものを伝える、これら兵士らの内面は、私にはまったく無縁のものだ。  私自身、何日か森で兵士らと行動をともにすれば、多少、彼らとの距離は縮まるかもしれない。ついでに銃を手にすれば、なお一歩、彼らに近づくかもしれない。そうすれば多少は、|掛け値なし《ヽヽヽヽヽ》の記事も書けるだろう。だが、それでも、そこから戦争そのものを描いていくのは、むしろ作家の領域に属する仕事であろう。ジャーナリストである私たちが、たとえ、彼らと体験をともにしたところで、畢竟、それはあくまで一個人の断片的体験に過ぎない。ひとつの材料記事にはなっても、この国の戦争の本質を伝えるものにはなり得まい。  結局、無意味と知りつつ、私はその後も何回か、こうして戦場へ足を運んだ。そこで個人的に何を得たか——いまだに、わからない。  少佐と別れて、炎天下の陣地内をぶらつく。広報将校が近寄ってきた。 「どうかね、案外、快適なピクニックだろう」 「ああ、のんびりしたもんだな。これじゃ記事にならない」 「本当の記事を書くつもりなら、今晩一晩でいい、ここへ泊まってみろよ。明日、あらためてヘリで迎えにきてやる」 「ごめんだね、あんたが付き合ってくれれば話は別だが」 「冗談じゃない。オレもまっぴらだ」  迎えのヘリが来るまでには、まだ五時間近くある。ひとわたり、少佐のブリーフィングを受け、兵士らとダベり、基地内外の情景を二、三本のフィルムにおさめたあとはもう何もすることがない。 「昼寝でもしようや」  切り開かれた陣地から一〇〇メートルほど離れた木立ちの下の枯草に、ごろりと寝転がった。「ヤブの側に体をさらさんでくれ。ときどき、敵さんにも頓狂なスナイパーがいてな。真っ昼間からしのびよって、射ち込みやがるんだ」 「よせやい」  まさか、とは思ったが、念のため、幹が遮蔽物になる位置に体をずらした。  相変らず、眼下のジャングルは、野火と、後方からの威嚇射撃の着弾が巻き起こす煙の柱。上空高く、野砲や弾薬の木箱をぶらさげたチヌークが間断なく往き来している。すぐかたわらの峰の林のあたりから、ときおり、ライフルの斉射音や乱射音が聞こえてくる。 「この暑さの中で演習かい」 「いや、ありゃ本物の作戦だよ」  今来た陣地の方から発射された迫撃砲弾が、ヒュルヒュルと気持ちのいい音を立てながら頭上を横切った。  サイゴンに残した娘から大学進学の通知を受け取った、祝いにピアノを買ってくれといってきやがった、ちと痛いが、たった一人の娘なので、何とかはり込んでやらねばなるまい、田舎の地所を売るつもりだが、うまく買い手がつくかどうか——広報将校は草の茎を口にしながらしばらくこんなことを話していた。やがていびきをかきはじめた。  そよとの風も渡ってこない。目が痛くなるような強烈な陽射しの中で、|四囲《あたり》の空気は澱み、乾き切っている。  私は、上空を往き来するチヌークの編隊を見上げながら、少佐がしきりと口にした「プロフェッショナル」という言葉に、まだこだわっていた。  彼は、何人もの人殺しのプロフェッショナルを育てたことに満足しながら、まもなくこの暑熱と、埃りと、死臭の世界を去っていくだろう。そして、ワイキキの浜辺でサーフィンを楽しみながら、心身とも完全に健康な米国青年として、毎夜ガールフレンドを家までエスコートしていくだろう。ベトナム戦争の英雄。両親の自慢のタネ。申し分なくハンサムで、明朗で、女の子たちにもてそうな男だ。  そして、残されたプロフェッショナルたちは、鉄かぶとの中のトリをつつきながら、この乾き切った自然の中で、いつ終るとも知れぬ殺し合い、殺され合いの生活を続けていく——。  カアも、こうしてプロフェッショナルの一人に仕立て上げられ、死んでいったのか。  攻勢初期、メコンデルタの森で戦死した、妻の甥のことを思い出した。  夕刻、妻が支局に電話をかけてきた。 「忙しい?」  ふだんと変らぬ口調だったが、返事も待たずに、 「カアが殺されたの」 「殺された?」  オウム返しに聞き直した。  この生ま生ましい表現の意味が、とっさに飲み込めなかった。誰かとケンカでもして刺されたのか。 「|作 戦《オペラシオン》で森に入り、地雷に触れたの。今、トラックがお棺を運んできたわ」  戦死か。三カ月前のテト休暇でサイゴンに戻ったときは、あんなに元気で溌剌としていたのに。二十六歳。両親が早死したため妻が、実の子のようにして育ててきた青年だった。 「仕事が終ったら、すぐ帰ってきてね。帰りに花輪を買って来て。いちばん大きな花輪を買ってやって」  最後は涙声で電話を切った。  私はすぐ支局を出た。支局前の大通りには、葬儀用の花輪を売るキオスクがずらりと軒を並べている。この町で、最も繁昌する商売のひとつだ。  家の前に、軍用トラックが停まっていた。  黄色い地の南ベトナム国旗に覆われた粗末な棺が、土間の隅に安置されていた。棺のつぎ目はコールタールでめばりしてある。部屋の隅に、遺体に付き添ってきた仲間の兵隊三人がぼんやりしゃがみ込んでいた。戦死したのはもう一週間近く前だ。駐屯地のメコンデルタの兵士墓地へ埋葬したが、その後隊付きの占い師が「あの兵隊は家に帰りたがっている」とご託宣を出した。そこで連隊長が一台トラックを仕立て、運び戻してくれたそうだ。カアの涼し気で優しい顔と、細身ながらしなやかな体つきを思い出した。この暑さでは、もう目もあてられぬ姿になっているだろう。土間には防臭剤が散布してあった。いくらめばりをしても、兵隊用の棺は板が薄いので臭いがもれてしまうのだ。一族は、突然のこの|帰宅《ヽヽ》に動転し、大声で泣きながら、祭壇の用意や僧侶の手配にかけずり回っていた。妻は目を赤くして、棺の頭の方に突っ立っていた。 「|四歳《よつつ》のときから子供のようにして育ててきたのに……。もうこれで、家には、若い男がいなくなってしまった」  次々と甥たちが戦死していったなかで、カアだけは最後まで生き残っていた。  簡単な通夜と葬式をすませて、すぐ翌日、郊外の墓地に埋葬した。目まいがするほど暑い真昼時だった。掘られたばかりの穴の底に、人夫たちが棺をおろすと、妻の、年輩の甥のダン衛生軍曹が、死者の軍帽を棺を覆った国旗の上に投げかけ、かしこまった顔で挙手の礼をした。 「敬礼なんかよせ、ダン」  思わず、いった。 「ちゃんと拝んでやれよ」  もっともらしく国旗なんかで覆いやがって。町で遊び暮らしている政府高官や金持ちの息子たちの姿を思い浮かべ、腹の底から怒りがこみ上げた。  ダンは、ふり返って私を見た。突然姿勢を崩した。それから、地面に転がり、いきなり、わあわあと泣き出したのには、私の方がびっくりした。  妻が、両手で土をすくって穴に投げ込んだ。一族もそれにならった。そのまま暑さを避けて、墓地の入口の本堂の方に戻っていった。  私は、その場に残り、人夫たちがスコップで穴を埋めていくさまを眺めた。  いつか、二人でブンタオ海岸に泳ぎに行ったことを思い出した。砂浜に並んで腰を降ろし、広い海を眺めた。 「この海を真っ直ぐ行くと、日本に行けますか」  彼は、片言の英語で聞いた。 「真っ直ぐかどうかは知らないけれど、とにかく、この海を渡れば行ける」 「行って見たいなあ。一度でいいから外国へ行ってみたい」 「行けるさ。戦争が終ったら連れて行ってやるよ」 「それまで生きていられるかな」  私はしばらく黙った。 「おい、君は、人を殺したことがあるかい」 「——あります。何人も」 「うん、兵隊だからな」 「——ええ、兵隊ですから」  私は、カアの端整な横顔を見た。彼はじっと海を眺めていた。そのとき彼が履いていた運動靴のワキ腹に、マジックインクで、 『I LOVE PEACE』  と、書いてあった。 「起きろ! 迎えのヘリが来た」  広報将校にけり起こされた。  どのくらい眠り込んだのか、もう陽は傾きかけていた。 「忘れ物はないな、カメラは? テープレコーダーは? OK。いいか、さっきと同じ要領だぞ。ヘリが地上すれすれまで来たら、力いっぱい飛び上がって、体を投げ込むんだ。はい上がろうとするな。体ごと投げ込むんだ」  見えない敵からの迫撃砲射を避けて、機体を大きくかしがせながらめまぐるしく旋回しつつ、下降してくるヘリコプターめがけて、私たちは一散に走った。 「パリ協定」については、何回か断片的に触れた。ここであらためて、経緯と現地サイゴンでのその受けとめ方を要約しておいた方がいいか、と思う。  キッシンジャー米大統領特別補佐官と、北ベトナムのレ・ドク・ト政府局員の間で、本格的な秘密交渉がはじまったのは、一九七〇年の二月からであった。会談は米国側の申し入れによって行われた。米国はすでに、前年にはじまったクレベール街の「四当事者会談」が、不毛のマラソン会議となることを見越していた。サイゴン政府、臨時革命政府という“夾雑物”抜きで、直接、ワシントンとハノイのエースが談合した方が、話をつけやすい。ハノイもおそらく同様の心境であったのであろう。党内きっての理論家であり、同時に実務交渉にもたけた超大物のレ・ドク・ト政府局員を、密かにパリに送り込む。  二人の秘密会談は、以後、何回かの中断をはさみながら、幾多の曲折を経て、七二年秋口に妥協に達する。クレベール街の「四者会談」も平行して続けられたが、結局のところ、これは、世界のマスコミの目をそらすためのカムフラージュに過ぎなかった。凍てつく街路で毎回「四者会談」の終了を待ち、退場してくる各代表のもっともらしい発言を大真面目で報道していた新聞記者らこそ、いい面の皮、ということになる。  米国側によると、米、北ベトナム両代表間で秘密会談が進められていること自体は、一応、“同盟国”のグエン・バン・チュー大統領も知らされていたようだ。しかし、双方の取り引き内容について、サイゴン政府がまったくツンボさじきに置かれていたことは、その後の経緯からも明らかである。  私が知る限り、最初に秘密交渉成立間近かの兆候をかぎつけたのは、東京駐在の『フランス・ソワール紙』特派員マルセル・ジュグラリス記者であった。同記者は、 「僕がインドシナ問題を手がけはじめた頃、チューさん(大統領)は、まだ新任中尉だった。当時、彼は、軍の郵便集配の部門にいたよ」  というほど、大ベテランである。サイゴン常駐勤務の体験はない。駆け出し時代から東京を基地に、アジア地区をカバーしている。  そのジュグラリス記者が、 『ベトナム停戦近し。今秋中に和平実現か』  との記事を東京から打ったのは、七二年の九月初めであったと記憶している。驚くべきスクープであった。  しかし、現地サイゴンの私たちは、この大スクープを、笑って読み流した。当時のサイゴンは、その年の春からはじまった共産軍の大攻勢を切り抜け戦勝気分にわきたっていた。共産側が「参った」といわぬ限りは、とても停戦など想像できる状況ではなかった。ジュグラリス記者の記事も、秘密交渉については、触れていなかった。取材源を伏せ、断片情報をもとにした、推測記事の形をとっていた。実際には、彼はその時点ですでに、秘密交渉の進捗ぶりについて的確な情報を得ていた。あえて推測記事の形をとったのは、情報源の発覚を防ぐためであったことを、それから一カ月ほどして、サイゴンに乗り込んできた彼自身の口から聞いた。しかも、その情報提供者が、どうやら、当のサイゴン在住のベトナム人政治家であったことを知り、またまた驚かされた。旧宗主国フランスの記者は、一般にインドシナ問題に関して強い。それにしても、こんな|怪物《ばけもの》みたいな超ベテランを前にしたらオレなんかまったくの赤ん坊だ、と、私もこん後の取材合戦を思い、あらためて絶望的な気分を味わわされた。  サイゴン在住の報道陣のほとんどが、一笑に付したジュグラリス記者のスクープが|真物《ヽヽ》であったことが判明したのは、十月に入ってからだった。  キッシンジャー特別補佐官自ら、サイゴンに乗り込み、チュー大統領に秘密交渉の成立を告げるとともに、サイゴン政府もこの成立事項を受け入れるよう迫った。  ことが明かるみに出ると同時に、ドッと世界中から記者が押しかけた。連日、タンソンニュット空港に、タイプライターや機材をぶら下げたひとくせありげな連中が群をなして到着する。一時、百人前後まで減っていたサイゴンの外国報道陣は、たちまち四、五百人にふくれ上がった。その大部分が、長いベトナム戦争の最後の一日に立ち会えるものと信じ、大張切りだった。  大方の新来記者の予測に反し、サイゴンは、おいそれとキッシンジャー特別補佐官の前に膝を屈しなかった。米国は、この思わぬ頑強な抵抗ぶりにとまどい、焦立った。  私の三年余りの勤務を通じて、サイゴン当局が最も厳しく報道介入に出たのも、この時期であった。早期和平実現を予測し、それを期待するような論調の記事は、片端から取り締りの対象となった。  最も手ひどく扱われたのは、騒ぎの火付け役(?)となったジュグラリス記者だ。サイゴンに来てからも、彼の活躍ぶりは他を圧していた。旧知の友人や情報源を次々と回り、 『十一月上旬には停戦実現』  との断定記事を打ち出した。  この記事もまた、大方の同業者に半信半疑で受けとられた。少なくともキッシンジャー特別補佐官の威丈高な態度に対する独立宮殿の憤激ぶりや、町にみなぎる反米機運からみて、向こう二、三週間以内に、サイゴンが米国に同調するとは、とても想像し難かった。  当のサイゴン政府は、この記事に激怒した。情報省は、ジュグラリス記者に国外退去を命じた。彼が、どんなコネでこの難を切り抜けたのか、わからない。 「大丈夫、大丈夫、何とか片づきそうだよ」  身を案じて宿泊先のホテルを訪れた私に、彼は片目をつぶってニヤリと笑ってみせた。 「その代り、ちょっと身を隠すからね」  二週間ほど彼はサイゴンから姿を消した。郊外七〇キロほどのところにある旧知の仏人ゴム園経営者の邸に身を潜めていたそうだ。  彼の記事は、結果的には外れた。しかし完璧な情報に基づいたものだった。キッシンジャー特別補佐官とレ・ドク・ト政治局員との間には、彼が記事中でズバリ明記したその日に、和平協定文書に調印する合意が成立していた。キッシンジャー特別補佐官の、すでにヒステリックなまでの強要に対しても、チュー大統領はいぜん首をタテに振らなかった。予定された調印は流れる。  北ベトナム側は、この違約に激怒した。  調印予定日の二、三日後の十月二十六日だった。ハノイ放送は、突然、それまで伏せられていた、停戦・和平協定文書の全内容を一方的に、世界に公表した。国際世論に訴え、米国とサイゴン政府を調印に引っぱり出すことを狙った、大バクチであったのであろう。  米国はこの途方もない素っ破抜きに動転した。そして逆にハノイの不実さをなじった。協定内容の詳細を知ったサイゴン政界も、ひときわ仰天し、硬化した。それまで、協定全文を知らされていたのはチュー大統領と、ごく一部の側近だけだった。軍部や政界の大方は、協定が全体としてきわめて南ベトナムに厳しいものであることは承知していたものの、ここまで一方的に不利なものとは思っていなかった。とりわけ協定が、北ベトナム正規軍三十万人の南ベトナム領土内からの撤退に触れていないことは、彼らの残留を認めたことを意味する。事実上の敗戦協定にひとしい。  私も、この協定内容の詳細を知り、唖然とした。  二日前、電話口の向こうで泣きながら協定の大要を知らせてくれたチュー派の議員も、「北軍駐留受け入れ」という、最も肝心な点については教えてくれなかった。おそらく、大統領も、まだこれについては突っぱね得ると考え、事前にことを荒立てぬよう|箝口令《かんこうれい》をしいたのだろう。客観的に判断しても、協定内容は不公平すぎる。私は、反対の立場を取らざるを得なかった。  たまたまその時期、サイゴンに立ち寄っていた年輩の同業者と激論を交した。 「これでいよいよベトナム戦争も終りだ。オレも、歴史的取材に参加ができる」  と、大喜びだった。彼も短期間ながら一時この地に勤務したことがある。  強硬に反論する私に対して、 「だって君、これは、和平協定じゃないか。君は和平に反対するつもりか」  しまいに本気で食ってかかってきた。  呆れて彼の顔を見返した。私が、この協定を無意味であり、むしろ有害であるとみなしたのは、まさにその点なのだ。  どう考えたところで、この甚しく片手落ちの協定は、ベトナム戦争の終了や和平の回復を約束するものではない。そのくらいのことは、南ベトナム人の心情と、現在の客観情勢の初歩でも認識していれば、完全に理解できるはずだ。むしろこんな協定は、こん後の南ベトナムを、これまでより、さらに陰湿で不幸な混戦状態に投げ込むことを約束したにひとしい。 「えッ、どうなんだ。君は和平に反対するつもりなのか」  相手はかさにかかって、問いつめてきた。  本当に、この男は、名称が「和平協定」でありさえすれば、それで万事ニコニコと片づくものと思っているらしい。こんな単細胞が、これまでしたり顔で、日本でベトナム戦争を論じていたのか。馬鹿馬鹿しくて返事をする気にもなれなかった。  花と死者の道だった。  ダラトは、サイゴン北東約三〇〇キロ。安南山脈の南端近い松林の盆地にフランス人が残していった高級避暑地である。瀟洒な別荘群が往時の面影をほぼそのまま伝え、洋野菜、生花、それに近辺の山岳民族がもちよる民芸品などで知られる。盆地を囲む山々は、日本商社にとって恰好の上質松材の乱伐場だ。古くから、解放戦線ゲリラの根城でもある。サイゴンからの道程の三分の二余り、ロンカン省を過ぎると、道は、カーブの多い登りとなる。つづら折りを曲るたびに、空気は涼しく澄み、両側の花の色も一段と鮮やかさをましていく。  そんなカーブの一つを曲ったとたん、 「オウ・ワン・ベトコン・キルド!(あっ、ベトコンの死体だ)」  運転手のタムが叫んで、勢いよくブレーキを踏んだ。  堆肥かゴミ袋のようなものが、道ばたに転がっている。紫色にふくれあがった化け物のような顔。炎天にさらされ、ガスではち切れそうな下着一枚の体。その体に幾つか穴があき、黒く乾いた血糊に、蚊柱のように蠅が群がっている。  同行のカメラマンは車から降り、死臭をこらえながら何回かシャッターを押した。 「オレもカメラをもってくればよかった」  タムが、残念そうに舌打ちする。 「カネになる。ベトコンの死体の写真は、米国通信社が一枚五〇ドルで買ってくれるんだ」  タムは小柄で陽気な中年男だ。もう何年も、外国報道陣に付き合って弾丸の飛び交う地域を走り回るという、危険ななりわいを続けている。一方ではサイゴン場末のあばら家をこぎれいに飾り立て、ささやかで平和な家庭生活を守っている。万事抜け目がない。すぐカッとしてケンカ腰になるくせに、根は気が弱く、少年のように優しいところも、典型的な南部ベトナム庶民だ。たいそうな美食家で、魚釣りとウズラ獲りの名手でもある。オンボロの大型フォードのハンドルにしがみついて、メコンデルタの一本道を一〇〇キロ以上ですっ飛ばしているときでも、|おいしそう《ヽヽヽヽヽ》な小沼や川相のいい流れが目に入ると、人の命を預っていることを忘れてしまう。 「みろ、あの水たまり、必ずデカいナマズがうようよいる。このタムさんに竿を持たしてみろ。 一時間で三匹は釣ってみせるんだがなあ」  スピードも落とさず、何回も水たまりをふりかえり、片手で竿を振るうまねをしながら切歯扼腕するので、その間、助手席の私は神に祈る以外ない。  ウズラ獲りは、頭を絞ったあげく独創的方法をあみ出した。ウズラは好奇心の強いトリで、オトリをさえずらせると近寄ってくる。  そこで、みんな上質のオトリを手に入れようと四苦八苦するわけだが、たとえ高いカネを払って仕入れても、森に持ち込むと、そう都合よくさえずってくれるとは限らない。彼も、何回となく横着なオトリに煮え湯をのまされた。思案のあげく、目をつけたのが、日本製の小型テープレコーダーだ。名人級のオトリの声を吹き込んだ。これを木の葉で覆い、カスミ網をしかけて、あとはヤブで昼寝をしていると、二、三時間で六、七羽は手に入る。この秘密兵器作戦は仲間には内緒だが、あんたにだけはそっと教える、ウズラ獲りはテープレコーダーがいちばんだ。 「とにかく、うまいものを食おうと思ったら、ここを使わなくちゃ、ここをね」  体に比例して小さな頭を指でたたきながら、誇らしげにいった。  彼の美食癖のおかげで神に祈ったこともあった。  サイゴンに赴任して半年ぐらい後だ。  当時まだ、盲蛇におじず、だった私は、頻繁に彼の車で地方へ出かけた。もっとも地方を走るさいは、遠征全体の司令官は私だが、行程途中の“船長”は彼だ。何年も死と隣り合わせの稼業を続けているだけに、田舎へ出たときの彼は、きわめて慎重であった。毎朝早起きして、付近の守備隊や農民たちから、その日の行程の道路状況について詳細に聞き込む。あの道には近頃どうも見知らぬ連中が姿を現す、この道ではつい二日前、軽四輪の乗り合いバスが地雷を踏んで四人死んだ——こんな情報をもれなく集め、地図を相手に、このときばかりは別人のような厳しい表情で作戦を立てる。仮りに、私が取材などの関係で、 「今日はこの道を行くぞ」  と指示しても、剣呑だと判断すると、絶対に聞かない。 「あんたはオレのボスだ。しかし、地雷でこまぎれになりたくなかったら、このタムさんのいうことを聞いてくれ」  この老獪な戦地運転手の彼が、一度だけ、食い意地に負けた。  一週間ほどメコンデルタの奥地を走り回り、翌々日はサイゴンへ戻る予定の午後だった。よほど治安の完璧な街道でない限り、夕刻四時以降はけっして走ろうとしない彼が、 「今日はこのまま、ミトまで突っ走ろう」  と、いいだした。  ミトはサイゴンから八〇キロほどの町である。私たちが遅い昼食を終えた片田舎の村落から二〇〇キロ近くある。しかも“戦況荒れ”の季節にさしかかっていた。夕刻の強行軍は無謀に思えた。 「大丈夫だ。この街道筋には夕方になると政府軍の戦車隊が展開する。それに、飛ばせば暗くならないうちにミトに着けるから心配ないよ」  と、妙にミトに執着する。問いただすと、 「あそこにはものすごくうまいカメ料理屋がある。しばらく行ってないが店の親爺が親友だからとくにうまいのを食わせてくれる」  ちょっと照れくさそうに、本音をはいた。  カメ料理には私も大いに興味があった。“船長”の判断に従うことにした。  途中、軍の移動に出会ったりして思うように飛ばせず、ビンロンという町のはずれでメコンの渡しを越えたときは、もう日没間近かだった。その日の最後のフェリーだ。私たちは、沈み行く太陽を気にしながら、街道を飛ばした。平地の太陽は、文字通りツルベ落としに没する。オレンジ色の塊の最後の部分が遠くヤシの林の背後に姿を隠すと、空にはほんの十分たらずの残照、そして気がつくと、もう道の両側の畑も洞も見分けがつかぬほど、黒々とした闇に包まれている。ついいましがたまで街道を往き来していた長距離便やモーターバイクや、野良帰りの農夫もかき消すように姿をかくし、広々とした原野の街道に取り残されたのは、私たちの車だけだ。  同乗していたベトナム人の助手がひどくおびえ出した。これ以上走るのは気違い沙汰だ、ビンロンに戻るか、付近の農家で泊めてもらおう、という。戻ろうにも、もうフェリーはない。得体の知れぬ農家に宿を求めるのは、もっと危険だ。  軍の移動で行程にてまどったことは、タムにとっても思いがけぬ計算ちがいだったらしい。最初は虚勢をはっていたが、 「実をいうと、夜、こんな暗い田舎道を走るのは、二十何年ぶりなんだ」  頼りない白状をした。 「でも、ベトコンにつかまっても、このオレは大丈夫だろうな。もう|年齢《とし》だし、だいいち、このタムさんは、メニー・メニー・ベトコン・フレンドだ(ベトコンの友だちがたくさんいる)。ミスター・コンドウも外国人だから、まあ殺されはしまい。でも、あんたは」  と、本職は陸軍少尉の助手に向かって、 「そのままベトコン側の兵隊に出されるか、下手するとズドンかもしれない」  冗談とも本気ともつかぬ口調だったが、当の本人も、すでに緊張と恐怖で形相が変っている。  助手の少尉は、生気も失せた顔で、 「女房が今月、赤ん坊を生んだばかりだ」  とうとう頭をかかえて車の後部の床にうずくまり、念仏を唱え出した。  はじめのうちは、たかがこのくらいの夜道と、悠長に構えていた私にも、いつか二人のおびえが感染した。こういうとき、一度恐しくなると、とめどなく恐しくなるものらしい。「夜」というものがこれほど濃密に暗く、人間の肝っ玉を抜き取ってしまうものであることを、はじめて知った。驀進する車のヘッドライトの前方に、ときおり、道端の墓石や木立ちなど白っぽいものがフワッと浮き上がる。そのたびにハンドルを握るタムは、肩を固くして息をのみ、私は私で「たかがカメ一匹のために」と心底からホゾを噛んだ。  あのポンコツ車がよく分解しなかったと思う。無茶苦茶に飛ばして、ようやく戦車隊の分隊に出会ったのは、ミトの三〇キロほど手前だった。道の両側からバラバラと飛び出してきた兵士らが、銃を構えて車をとりかこんだ。戦況荒れで気が立っていたのか、あるいは工作分子と誤解されたらしい。隊長のもとへひったてられた。相手は私のプレスカードを念入りに点検し、ようやく態度をやわらげた。  こんな時間に走っていた事情を説明すると、 「馬鹿もいいかげんにしなさい。カメと命とどっちが大切ですか」  またひとしきり油を絞られた。  親切な男だった。この街道は現在、完全な赤信号地帯である。われわれも五キロごとに戦車を配置し厳戒体制をとっている。しかし、この分隊での野営は夜襲の恐れがあるので許可するわけにいかない。次の分隊に連絡をとって状況を確かめてあげる。とにかくなんとかしてミトまで行きなさい——と、野戦電話で五キロ先の友軍を呼び出した。次の分隊でまた同様のことをくりかえし、五キロずつ尺取り虫のように走って、ミトの町へたどりついたのは、午後十時過ぎだった。  命を縮める思いでありついたカメ料理は、そのへんの田んぼのどこにでもいるやつを、丸ごと無造作に七輪で焙っただけのものだった。生ぐさく、泥くさく、とても胃の腑におさまる代物ではなかった。  つづら折れカーブの角度が鋭くなるにつれ、そして、登坂傾斜が急になるほど、花々の色は濃く、明かるくなり、路傍の死者の数も増えた。心にしみるほど深く紅いブーゲンビリアの花叢に頭を突っ込んで一体、岩かげに手足を投げ出してまた一体、茶畑のあぜ道にまとめて七体、八体……。  そのたびに、 「ああ、カメラを持ってくれば」  タムは残念がる。  とくに、おりかさなった死体の山の写真は“相場”が高く、ものによっては一枚で一〇〇ドル稼げるという。  それまでの付き合いを通じて、私は、彼がベトコン嫌いでも反共論者でもないことを知っている。むしろ、ふた言目には、 「グエン・バン・チュー、ナンバーテン!(チューの最低野郎)」  の、“反政府主義者”だ。 「メニー・メニー・ベトコン・フレンド」がいる、というのもハッタリではない。「向こう側」とも何らかのよしみを通じていなければ、狙撃も受けず待ち伏せにもひっかからずに、こんな危っかしい稼業を何年も続けられるはずがない。現に私の同僚の中にも、彼の手引きで「解放村」(ゲリラ基地の村。当時こう呼ばれていた)に潜入してきたのが何人かいた。その「ベトコン・フレンド」の死体を見るたびに、気のいい彼が、 「儲けそこなった」  まるで反射作用のように叫ぶ。  長い戦争はこうも人の心を片輪にし、荒廃させた——と、誰かを、あるいは何物かを糾弾することは容易だろう。  だが、私には、いまさら彼の反応に考え込んだり、それを嫌悪したりする気は起こらない。あえていえば、痛々しさに似た淡い波が、つかのま、心の一隅をよぎるだけだ。  腐乱死体の山から一キロも離れていない茶店に車を停め、私たちは、おやつのソバを食べた。 ソバも、この地方特産のコーヒーもすばらしくおいしかった。タムは、ベトコン・フレンドにわたりをつけ、外国人を乗せて危険地帯を走り回る。そして機会さえあれば、こんどはそのベトコン・フレンドの死体を撮って小遣いをかせぐ。倫理の間題ではない。自らの、ささやかな、しかしそのために彼が生まれてきた彼自身の生活とその世界を守るためだ。二束三文のソバに舌つづみを打ち、「ああ、うまい」と、目をうるませて腹をさするためだ。同様にソバのうまさに満足した私に“心の荒廃”ぶりを憤ったり、嘆いたり、あるいはそれに同情するポーズを取ったりする資格があろうか。  ダラトの夜は寒かった。  その夜、この国の軍部エリートの養成所である陸軍士官学校の卒業式が行われた。広い校庭に、幾つものタイマツがともされ、おもちゃの兵隊のような美しい制服帯剣姿の卒業生らが、直立不動で凍てつく風に身をさらしている。一時間もたってから、ようやく首相のチャン・チェン・キエム大将の大型ベンツが式場に姿を現した。さじきになみいる将軍たち、政府高官、きらびやかな礼装姿の各国武官たちの前を、ゆっくりと中央の自席に乗りつける。式場の入口で何台かのジープから猛々しい護衛たちが、バラバラと飛びおり、銃口を四方に向けながら、ベンツを取り囲んで走った。続いて、三軍総司令官のグエン・バン・チュー大統領が到着した。幾つかの演説や、卒業生らの長たらしい分列行進が終ったとき、吹きさらし報道席の私たちの体は歯の根も合わぬほどこごえ切っていた。 「どうしてくれるんだ、オレはもう凍死寸前だ」 「まったく、熱帯でこんな目に遭うとは思わなかったぜ」  将軍らの奥さんが、汚職で儲けるとまっさきにミンクのコートを買いたがる、という小話を一年中ガンガン照りのサイゴンで聞いたとき、私も腹をかかえて笑った。あれは外国人記者の皮肉でもジョークでもなかったことがわかった。  その夜を私たちは、市場に面したあやしげな木賃宿で過ごした。多少まともなホテルは、サイゴンからの高官や外交団に占領され、満員だ。やっと見つけた、シャワーも火の気もない一室の床に、寒さから身を守るため膝をかかえてうずくまり、私たちは昼間見た死者たちのことをボソボソ話し合った。  一九七二年の十一月だった。  パリで行われていたキッシンジャー=レ・ドク・トの秘密交渉の妥結が明らかにされ、不意打ちを受けたサイゴンが騒然としていた時期だ。同僚のカメラマンも、この突然の「平和」への動きに驚いた東京から、急遽応援に派遣された一人である。 「あの茶畑の死体。覚えてるか、十三、四歳の子供もいたな」  安ウイスキーで体をあたためようと苦心しながら、彼は、何回も悲しそうに首を振った。 「そうだね」  いつまでたっても慣れはしないが、もう何回となく目にした光景だ。当初は枯枝のように細い手足をした少年兵らの死体を見るたびに、暗く、重く、心が痛んだ。父母と別れ、見知らぬ南部ベトナムの山野で、ひ弱な骨肉を砕かれて死ぬために生まれてきた彼らの運命が、同じ人間である私自身のそれとあまりに異質であることに、いい知れぬ不条理を感じた。彼らは駆り出され、闘わされ、殺し、逃げまどい、そして射たれて苦痛にもがきながら死んでいく。同じ年頃のころ、私は小川でサカナを追い、教室で黒板に向かい、仲間とフットボールに興じて過ごしていた。  だが、何度も戦場に出かけるにつれ、そして、私が身を置いていたサイゴン側の兵士らのうち、親しかった何人かが同じように頭を吹き飛ばされたり、体半分になって箱につめられて戻ってくるのを目にするにつれ、いつか受けとめ方が変った。たとえ十歳であろうが十五歳であろうが、銃や手榴弾を手にすれば、相手は情け容赦のない殺人者に化身する。殺すのをためらったら、ためらった方が、父母兄弟を悲しみの淵に突き落とすことになるのだ。そのことをしかと知って以来、死体は、私にとって物質と化した。不恰好によじれて投げ出された手足、ガラス棒のように突き出した眼球、はみ出し腐乱した臓物にたかる巨大な銀蠅——いつか、私は、冒涜感のトゲに心刺されることなく、ただ醜悪な物への嫌悪から、これらの物体から目をそらすようになった。  堕落ではない、と、自分にいいきかせた。感覚の磨滅でもない。だが、やはり——とどのつまりは、私だって自らを守らなければならない。少年兵の死体を直視し、彼が送り得た人生を夜通し想像することによって、自らを神経症に引きずり込んだところで、誰が同情してくれよう。  床に置いた取材用のテープレコーダーから物悲しい反戦歌が流れていた。 『ジェム・スア(美しかったあの頃)』——ひところ、南ベトナムの津々浦々をひたした、この国の天才チン・コン・ソンのメロディーだ。歌うカン・リも十年に一人の天才といわれ、作曲者と同様、長年、麻薬にむしばまれている、と聞いた。そのせいもあってか彼女の声調、歌いくちには、爛熟と、頽廃と、人の魂を沈潜させる美と悲痛がある。この歌は、あまりに反戦の隠喩が目立つので、発表後まもなくチュー政権によって禁止された。だが、前線の隊長クラスには、物分りのいい連中も少なくなかったらしい。現に、このダラトを守る連隊のある大佐は、 「芸術は芸術だ。反戦もくそもあるか」  と、司令部命令に耳も貸さなかった。そして、逆にこの“現在の南ベトナムが世界に誇り得る唯一人の天才”の傑作を歌うことを、部下の兵士らに奨励したという。 「悲しい歌だな、どういう歌詞なんだい」  気のやさしい同僚のカメラマンがいう。  二部に分かれた歌詞の前半は、日本語である。発禁になる以前、大阪万博に持ち込まれたとき、日本の作詞者が翻訳し、それが逆輸入されたそうだ。いくつかのバリエーションがあるが、私たちがダラトの木賃宿へ持ち込んだのは、 《花は揺れていた……》  で、はじまる。  咲いた花が雨に打たれる。身を曲げ、顔を伏せ、耐えようとするが、ますます激しい雨粒に打たれ、なすすべなくぬかるみに散っていく。昔、空はあんなに、青く、美しく晴れていたのに。雨よ、いつまで降り続くのか。いったい、誰がこの雨を降らせるのか——。  恋人を戦場に送り出した女性の“語り”である。花は恋人の命、雨はいうまでもなく銃弾だ。  後半のベトナム語の部分では、男が女に呼びかける。彼はすでに墓石の下にいる。 《今日もまだ雨が降っている。僕は冷たい土の中にいる。寒くて眠れない。そして、君のことを考えている。なぜ、そんなところにいるのか。どうしてそばへきてくれないのか。寒い、寒いよ。降り続く雨が土にしみ込み、僕の体を濡らす……》  とりわけ、死者が寒さを訴える後半部の絶唱は、歌詞をかみしめながら聞くと、不気味に痛切の響きが心にしみる。  私たちは、無言で床に坐り込み、何回もくり返し聞いた。  それから私は目を上げ、同僚のカメラマンが泣いているのに気がついた。 「なあ、オレは停戦間近かと聞いて、“平和”を撮るために来たんだ。あんな、道ばたにさらされた子供たちの死体を撮るつもりで来たんじゃない——」  新聞社の写真部という荒っぽい職場で、二十年近く鍛えられてきた彼の両頬に、とめどなく涙が流れていた。 「パリの停戦協定なんてまやかしだよ。ここでは戦争が終るなんて信じているものは、一人もいない。東京の編集者がお祭り紙面を作りたくて騒いでいるだけだ」 「そうだな、でも、本当に、オレは死人の写真を撮るために来たんじゃないんだ」 「だけど、まだみんな死に続け、苦しみ続けるよ」  相手は黙り込んだ。  好きこのんで介入しておきながら、いまでは自らがまき散らした不幸を置き去りに、一日も早く“ベトナムの泥沼”から足を洗おうと、やみくもに「協定」をまとめあげた米国への苦い思いが、再び私の胸にこみ上げてくる。だが、こんな山の木賃宿でクダを巻いてもはじまらない。同僚と異なり、すでに二年以上をこの国で暮らした私には、いま、期待も幻想もない。だから失望もない。“平和を目前に”死体を道にさらすことになった少年たちへの、特別の感情もなかった。  それでも、こうして膝を抱いて沈み込んでいる同僚の姿を目前に、何か気恥ずかしかった。涙を分かち合えない自分が、薄汚く、やましくも感じられた。 「さあ、もう寝よう」  私は、テープレコーダーのスイッチを切った。  あの十月二十六日の時点で、一方的な協定文公表を行ったことが、ハノイにとって賢明な策であったかどうかはわからない。  少なくともそれは、北ベトナム側の胸の中を示した。つまり、この協定が自己に有利なものであることを認め、早急に固めたがっていることを示した。当然、サイゴン側の協定不信は高まり、米国への抵抗態度もそれだけ|頑《かたく》なになった。  ひっきりなしにワシントンから派遣される使者を相手に、チュー大統領は、ねばりにねばった。これには、キッシンジャー補佐官も音を上げたようだ。いったんまとまった合意文書をめぐり、彼とレ・ドク・ト政治局員の仲もこじれはじめた。  北ベトナム側は、当初からワシントンがサイゴンと結託して、ドタン場で、サイゴン政権の抵抗を口実に、協定を有利に修正するつもりだったのではないか、と疑った。  ワシントン=ハノイ、ワシントン=サイゴン——いずれの空気も険悪なまでに冷え切った。  おそらく、サイゴンは、いつか米国にネジ伏せられるであろう。しかし、どこまで時間稼ぎができるか。また、場合によっては、協定をかなり大幅に修正させるところまで持ち込めるのではないか。  サイゴンに集まった報道陣は一カ月間余りにわたって、いらいらしながら、このきわどい駆け引きを見守った。  この間に、ニクソン大統領は、対立候補マクバガン氏から地滑り的勝利をかちとり、二期目の椅子を確保する。  その勝利の余韻が冷めやらぬ十二月十七日、米国は、思いも寄らぬ“暴挙”に出た。突如、未曾有の数のB52戦略爆撃機を動員して、北ベトナムを目茶苦茶にたたきはじめる。北爆は首都ハノイにまで及び、誤爆により現地のフランス領事が死亡するという、おまけまでついた。  全世界は、呆然とした。 「狂ったか、ニクソン」  と、マスコミは叫んだ。  これで、協定も何も素っ飛び、すべてがご破算になった——かにみえた。もうこうなれば、停戦など何年先になるかわからない。各国報道陣に、本国から続々と帰国命令がきた。  当時、私は、気のやさしいカメラマンを含め、東京から増派された三人の仲間と仕事に取り組んでいた。  ニクソン北爆に対する東京と現地の反応は、まったく対照的であった。外部が大統領選に勝ったニクソン大統領の“狂乱”により、ベトナム停戦が完全にご破算になったと見なしたのに対し、サイゴンは、これでこれまでのすべての抵抗は無となり、最早、停戦協定の受諾は避けられぬ、と判断した。この読みはきわめて理論的であった。すでに、単なる説得や甘言では、硬化し切ったサイゴン政府を調印の場に引き出すことはできない。北ベトナムをたたいて、多少の見返りをチュー大統領に与えると同時に、米国自身、断固たる力を示して協定締結への不退転の意思をサイゴン側にも見せつけなければならない。ニクソン大統領は、世界中の非難を一身に浴びることを十分承知で、この大北爆に出た。ここまでオレもやった以上、もうサイゴン如きにつべこべいわせぬ、との最後通牒であった。  米大統領の、この恐るべき手段に、現地の私たちは戦慄した。もっと震え上がったのは、チュー大統領であり、また昨日まで猛烈に協定に反対していた与野党の政治家たちであった。コメントを取りに訪れたほとんどの政治家や高官が、 「ニクソンは恐しい男だ。これでサイゴンはお終いだ」  と、沈痛に肩を落とした。  東京は、いぜんこの北爆の真意を取り違えていた。  応援組の三人宛てに、連日、帰国命令が舞い込んだ。  三人とも、この北爆により、サイゴンがとどめをさされ、停戦協定の調印がすでに秒読みの段階に入ったことを心得ていた。私たちだけでなく、当時現地にいた記者の多くが、同様の見方をしていたはずだ。  東京からの矢の催促を受けながら、応援組は年末ぎりぎりまでねばった。  しかし、短いクリスマス“停戦”をはさんで、北ベトナムにはいぜん爆弾の雨がふり続いていた。ハノイも、猛り狂い、すでに秘密協定の無効を宣言している。 「でも、三人分の往復の航空運賃を考えてみなさいよ、どうせ、すぐまたこなければならないことになるんだ。飛行機代の無駄の方がよっぽど大きいじゃないか」  口をすっぱくして説得したが、東京は受けいれなかった。心底、ニクソン大統領の北爆で停戦の光が消え、ガックリきているようだった。  三人は致し方なく、機材や荷物をまとめた。 「外国人記者がどれほどベトナム戦争を理解していないか、あらためてわかったよ。必要もないときワンサとやってきて、いよいよこれから本番というときになると、みんな潮のように引き上げていく。まあいいさ、どうせまた、十日以内に君らと顔を合わせることになるだろう」  野党指導者のチャン・バン・ツエン議員は、なかば呆れ、なかばあざ笑うようにいった。  三人は機材をかついでタンソンニュット空港を発った。  ツエン議員がいった通り、十日後、彼らはふたたび機材をかついで、タンソンニュット空港に舞い戻ってきた。  北爆は一月中旬に終った。それから十日後、ベトナム戦争の四当事者はパリに会して「ベトナム停戦・和平に関するパリ協定」に調印する。サイゴン政府は、自らの頭越しに作成された協定文を、ほとんど無修正で受け入れた。  朝のサイゴンに教会の鐘が鳴り渡る。  一九七三年一月二十八日。 「ベトナム停戦・和平に関するパリ協定」が発効し、この日、ベトナム戦争は終った。  正確には「米国にとってのベトナム戦争」が終っただけで、サイゴンには、この「停戦」を、ベトナム人同士の戦闘の終了を意味するもの、と受けとったものは、私が知るかぎり一人もいなかった。おそらく、北ベトナムの党や軍部も同様であったろう。  鐘の音がうつろに空に消えたサイゴンの町は、重く、沈鬱な空気につつまれた。  そんな中を、西側報道陣だけが汗水たらして飛び回っていた。彼らもカンカンだった。  ある米国通信社の支局は、前日、本社から指示を受けていた。 『小型機をチャーターして、カメラマンをベンハイ川に派遣せよ。そして、橋上で南北両軍の兵士が停戦を祝って握手しているシーンを撮影せよ』  ベンハイ川は、北緯十七度線沿いに流れる南北境界線の川である。  日本人特派員らの多くも、東京から同様の電話を受け取った。 『グラビア特集を組むぞ。メインの写真に乾杯シーンが欲しい。政府軍と解放軍の兵士たちが肩をたたきながら、ビールで祝杯をあげているところを撮ってくれ』  注文を受けた特派員は、呆れて何もいえない。 『いいな、わかったな。カラーでたのむぞ』 「待ってくれ、何度いったらわかるんだ。サイゴンは停戦気分なんてもんじゃないんだ。両軍は、まだ射ち合っているんだぜ。乾杯なんてどこでもしていない」 『そんなはずがあるか。サイゴン中の酒場を探してみろ。それでも見つからなければ、南ベトナム中を探せ。いいか、とにかく両軍笑顔で乾杯の写真だぞ!』  一方的にどなりつけて、ガチャンと切れる。タメ息をつきながら、特派員も受話器を置く。東京から応援にとってかえしてきたカメラマンの中には、手回しよく、赤と青の地の中央に黄色い星をあしらった、大きな解放戦線旗を機材の箱のすみにしのばせてきたものもいた。  こうして、壮大かつ苦心惨憺のやらせ、商業ジャーナリズムの演出の成果が、 『和平! 和平!』  の大見出しとともに、翌日の世界各紙を埋めることになる。  ベトナム戦争報道を通じて、世界のジャーナリズムは、飽きもせず道化役をくり返したが、この日の狂騒ぶりは、文字通りそのクライマックスであり、画竜点睛のフィナーレでもあった。 「しようがねえよ。新聞というのは、こういうとき、お祭り紙面を作らなきゃならねえんだ」  静まり返った街路を、支局の窓から見降ろしながら、同僚の一人が憮然といった。すでに何回もこの戦争を取材し、「パリ協定」のいかさま性や、それを押しつけられた南ベトナム人らの心情を十分に理解しているベテラン記者だ。 「本来は、葬式紙面をつくるべきなんだが……」  鳩首協議の結果、私たちは、協定発効とかかわりなく各地で続いている「陣取り合戦」「旗立て合戦」のもようもできるだけ広く取材し、幾分なりとも「お祭り」を中和しよう、と決めた。「旗立て合戦」とは、現状凍結をきめた協定が生んだ、これまた、死物狂いの喜劇だ。その地域が自軍の支配地域であることを証明するために、両軍競って旗を立てる。一方が森の|木梢《こずえ》に旗を立てると、すぐ横の水田で同じく旗立て作業に精を出していた他方が、すかさず機銃でそれを吹き飛ばす。そして、隊長の目にとまった運の悪いのが、相手側からの応射の中を前進していって、木梢によじ上り、こんどは自分たちの旗を立てる。  結局、この「旗立て合戦」が生んだ“停戦協定違反行為”は、協定が発効してから一九七五年四月末にサイゴンが陥落するまで、一日も中断されたことがなかった。いま詳しい記録が手元にないが、同じ期間、双方ともに「戦死者ゼロ」の日も、一日もなかったはずだ。  ともあれ、私たちは、停戦当日の南ベトナムの「明」と「暗」を取材するため、それぞれ持ち場をきめて四方に飛んだ。  私の分担は、「サイゴンの表情」という、おおざっぱなものだった。行き当たりばったりに通行人をつかまえたり、顔なじみの政治家、軍人を訪れ、その心情を収録する。  誰に当たっても敗北感、こん後への不安感、諦観、そして不機嫌な無関心——こうしたなかで、ふだん、とくに親しくしていたグエン・ベト・チュク教授だけが、 「おお、君! 私は感動している。米軍は去った。今日はわれわれベトナム民族にとって歴史的な日だ!」  顔を合わすなり、叫ぶようにいって、手を差し出してきた。 「私は感動している。今日からベトナム人がベトナムの運命を決めていけるのだ。この日を待ちに待っていた」  教授はこの国で私が知り合った最高の知識人であった。もともと激情家タイプの人でもあった。  だが、その彼が、こうも手放しで「感動」を吐露し、しまいに頭をかかえて泣き出したのには、ちょっと驚かされた。 「パリ協定」が「停戦ならざる停戦。和平ならざる和平」協定であることを、何よりもよく承知しているはずなのに。現に、つい昨日まで彼は、反政府勢力指導者のチャン・バン・ツエン議員らとともに、 「チュー(大統領)の低能が協定に調印したら、国家反逆罪で告発する」  と、いきまいていた一人だ。 「なあ、君、私が、いま、どんなに感動しているかわかるか」  たくましい容貌と体を机に伏せ、子供のようにしゃくりあげながら、途切れとぎれにくり返す彼を前に、相槌に窮した。  ずいぶん親しくしてはいたが、彼は、私にとっていつも“ナゾの人”でもあった。  かなりの資産家らしい。市中心部の広々としたアパートに住み、知り合って以来、ずっとベトナム系自動車会社の重役を勤めている。 「しかし、いまの私は、仮りの姿だ」  というのが、なかば口ぐせだった。  事実、その言動や、反政府諸勢力の間で得ている、ただならぬ尊敬や信望ぶりから、グエン・バン・チュー政権打倒をめざす大物活動家であることは見当がついた。しかし、具体的正体は、いまひとつわからない。チュクという名前も、いくつかある偽名の一つらしい。その偽名を人前で私が口にすることさえ、彼は望まなかった。 「仮りの姿、といわれるが、そうすると本来のあなたは何なのです?」  二人だけのおり、何回か食い下がってみたが、 「急ぎ給うな。君にも少しずつわかっていくだろう」  もったいをつけているのではなく、やはり私を警戒しているらしかった。たとえ政府系の人間であろうと、反政府系の人間であろうと、行きずりの外国人に、自分の“正体”をあまさず語るような不用心な知識人はこの国にはまずいない。  私は、教授がときおり、会話のなかで何気なく与えてくれるヒントをつなぎ合わせて、その経歴を類推する以外ない。  五十歳代半ば。生まれは北部ベトナムのゲアン省(現在、旧名ゲチン省に復称)だ。故ホー・チ・ミン大統領を生んだ土地である。自然条件のうえからもベトナム有数の貧困地域で、反骨精神の旺盛な土地柄としても名高い。現在のハノイの党、政府中枢にも、この地方の出身者は多い。若くして反仏植民地主義闘争に身を投じ、青年時代は、ベトナム人民軍(いわゆるベトミン、その後の北ベトナム正規軍)の創設者であり司令官であったボー・グエン・ザップ大将(現在、副首相)の副官グループの一人だった。  第二次大戦末期、フランスはインドシナ植民地再掌握を企てる。計画は失敗し、ベトミンとの交渉のため、メスメル将軍を、現地に送り込む。後にフランス第五共和国の国防相、首相を勤めた人物である。将軍は、ボー・グエン・ザップ将軍との直談判の命を帯びて、北部ベトナム領空から、一人パラシュートで敵地に飛び降りた。山中をさまよっているところを、ベトミンのパトロール隊に捕えられ、目的通りザップ将軍との会見に成功する。以来、両将軍は愛憎半ばした絆で結ばれることになる。 「メスメル将軍が国防相のときだった。ある晩、私は恩師である、ある哲学者の家に招かれた」  場所がベトナムであったのか、フランス本国であったのかは明かさず、教授はいった。 「相客は一人だけで、私の方は、すぐ、彼がメスメル将軍であることがわかった。何気ない会話とともに食事が進んだが、ときおり将軍は、礼を失せぬよう気をつけながらも、私の顔を盗み見て、しきりに何か思い出そうとしている。とうとう、私は笑い出してしまった」  そして彼は愉快そうに、デザートのさいの、次の会話を紹介した。 『将軍、まだ思い出されませんか?』 『やはり、どこかでお目にかかったことが……』 『もう二十数年も前になります』 『……?』 『ベトナム山中に降下された将軍を、ベトミンの兵士らが保護しました』  将軍はハッと表情を引き締め、鋭く輝く目で教授を見すえた。 『覚えておいでですか。あのときフランス語を話す若い隊長がありました。将軍の御意志を伺い、ザップ将軍の司令部にご案内したのも彼でした』 『そうだ! 私には忘れられない顔なのに、どうしてもどこで会ったか思い出せなかった。間違いない。あなたでしたね。あのときの青年将校があなただった』 「当時、われわれベトミンはフランス政府にとっておたずねものだった。国防相になったメスメルに再会したときも、私はおたずねものだった。ただし、こんどは自分の国の政府のね」  彼は過去のどんな体験を語るときも、けっしてその体験にまつわる辛酸の思い出を表に出さない。このときも、町の小話を語り終えたような口調で、サラリと話を打ち切った。  このメスメル事件からほどなくして、教授は、ホー・チ・ミン体制と訣別する。反共に転じた事情は詳らかでない。一転、昨日までの同志から追われる身になった。追いつめられた彼は、深夜妻子とともに小型ヨットで海上脱出する。のちに教授は、全面共産化されたベトナムからボートピープルとなって脱出するが、すでに、その三十年ほど前にも同様の決死行を体験している。  その年、東京湾上のミズーリ号の甲板で、日本帝国の無条件降伏文書調印式が行われた。連合国側各代表が艦船を連ねて立ち会った。フランスは、ドゴール将軍の秘蔵っ子であり、パリ解放一番乗りを果たしたルクレルク将軍を、首席代表として派遣した。大海を漂流中の教授の小舟は、東京湾から帰国途上のルクレルク将軍の旗艦に救助され、一家はサイゴンに運ばれる。教授はサイゴンで教師の職を得ると同時に、ここでも同志を糾合して、活発な抗仏運動を再開する。当時、総督府の弾圧は苛烈をきわめた。教授も二回、フランス官憲のテロに遭う。一度は自宅のサロンを時限爆弾で吹き飛ばされた。二度目は、一家で外出のやさき、玄関口に手榴弾を投げ込まれた。  抗仏闘争と並行し、彼は、旧知のカトリック仲間であるゴ・ジン・ニューの要請を受け、ニューの実兄ゴ・ジン・ジェム大統領のかつぎ出しに奔走する。しかし、ジェム体制が独裁化すると、こんどは反ジェムの急先鋒に転じ、逆に、旧友ニューが君臨する秘密警察のブラック・リストに名を連ねることになる。  ある晩、隠れ家に電話があった。 「ニュー大統領顧問の命令により、これからあなたの逮捕に出動します。一刻も早く、姿を隠して下さい」  ニューの信任厚い秘密警察長官の座にありながら、個人的には教授の剛直な愛国心に深く心服していた、マイ・フー・スアン将軍からだった。  一家は夜通し車を走らせて、カンボジア領内に逃げ込む。そして、旧知のカンボジア要人や、ジェム体制を敵視していたシアヌーク殿下らの手引により、パリへ落ちのびる。  ジェム体制が崩壊してしばらく後、十二年間の亡命生活に終止符を打ち、サイゴンに戻る。だが、南ベトナムは、すでに新たな独裁体制下にあった。帰国した教授は、ただちにグエン・バン・チュー将軍以下若い軍人たちに固められた、米国まるがかえの軍事政権打倒をめざして、オルグ活動を開始する。昼間は立派なオフィスでダンヒルのパイプをくゆらす実業家、夜は学生や労働者などの秘密集会での精力的アジテーター。十四人の子供を、それぞれまっとうな学校に通わせ、「けっして尻尾をつかまれないよう」善良で温厚な教養人の役割に徹しながら、二重生活を続けた。  この国では、すべての知識人が何らかの形で“抵抗者”の過去を持っている。しかし、「反仏」「反共」「反ジェム」「反チュー」「反米」——同時に教授は北部出身知識人の多くがそうであるように激越なまでの「反中国」論者でもあった——これほど多くのものに反対を唱え、不撓の精力でその実践活動を続けながら、よくこれまで生きてこられたと思う。しかも、こうして、内部に過去四半世紀余りの、この国の知識人の苦痛と悲劇と危険を凝縮しながら、その日常の“仮りの姿”が、あまりに悠々と、陽気でさえあることに、私はつねづね驚かされた。これこそ、いわゆる革命家的楽観主義なのかとも、ときどき思った。  やがて教授は、ハンカチを取り出して、涙をぬぐった。 「失礼した。しかし、わかるだろう。私だって、ときには幻想に感情をゆだねたくなることがある」  すでに、力強く落ち着いた、ふだんの彼にもどっていた。 「仮りに幻想だとしても、いま、あなたは、こん後ベトナム人がベトナムの運命を決めていける、といわれた。南ベトナムの将来はどうなりますか?」 「わかり切っているじゃないか、君!」  相手は引き出しから「パリ協定」文書を取り出し、机の上に投げ出した。 「パリ協定は、完璧に組織された三十万人の共産兵力が、無期限で南全土に留まることを認めた。それに対してわれわれが持っているのは、無能な将軍たちと腐敗した政府だけだ」 「しかし、協定は武力解決ではなく、政治解決を義務づけています」 「共産側を相手に、そんなものが可能だと思うか? むろん連中は賢い。協定に定められた交渉には応じるそぶりを見せるかもしれない。しかし、彼らにとっては、たんなる時間稼ぎだ。今、こうしてサイゴンで一人の男がめめしく泣いている間にも、連中は地図を囲んで、次の作戦について討議しているはずだ」  私は黙った。たしかに「パリ協定」は余りに一方的すぎる。  しかし、たとえ、その可能性がコンマ以下であっても、協定が定めた「政治解決」への望みを最初から捨ててしまうことは、それこそ「敗北主義」を意味するのではないか。こと、ここにいたった以上、その可能性のワクを少しでも広げる努力をする以外、南ベトナムが生きのびる道はないのではないか。 「なあ君、ベトナム戦争とは何だと思う」  と、突然、教授は聞いた。 「——わかりません」  以前は、やはり本質的には民族解放の闘いだ、と思っていた。いまもぎりぎりつきつめれば、ハノイの共産主義者に理があるのではないか、という想いが消えない。しかし戦いが長びくにつれ、その本質の“純粋さ”は、もうそれと見わけがつかぬほど稀薄になった。大国の思惑、イデオロギー、地場の地域感情、頑なさ、日常生活の防衛、保身、個々人の憎悪や報復心——これら、結局は、あらゆる戦争につきものの属性的要素がからまり合い、定着し、いつか本質と同様の力をもって作用しはじめ、少なくとも私の目には、現実の現象としての戦争の正体は不明になった。タマムシ色の戦争、八岐のオロチ……。 「わからなくて記事が書けますか」  たたみ込まれるように問われ、私は再び沈黙する。書けようが書けまいが、私がすでにこの戦争について、一種の“判断停止”をきめ込んでいることは事実なのだ。教授がいつもいっているように、おそらく、いまやこの戦争の第一の性格は「解放」戦争ではなく、「共産革命」なのかもしれない。ただ、私には、ある歴史的環境下での「解放」と「共産革命」の相関関係が、しかとわからないだけだ。歴史的環境なる慣用語についても、それをどう規定し、どう定義すべきか、解答が得られないだけだ。 「苦しい闘いがはじまる」  教授は、先ほどの感泣のあともみせぬ、冷徹な目で私を見すえた。 「共産側のねらいが、南部ベトナムの全面軍事制圧であることは、はっきりしている。私が、ボー・グエン・ザップ将軍の副官であったことを忘れないでくれ。われわれには二年、いや長くて三年しか残されていない」 「その間に態勢を立て直せますか」 「立て直さなくてはならない。まず、あの愚かなチュー(大統領)を権力の座から引きずり降ろさなければならない。見ていたまえ。必ずわれわれはやる」  教授の予言は当たった。  予告の方は的中しなかった。  グエン・バン・チュー大統領が退陣したのは、南ベトナムが事実上息の根をとめられた、一九七五年四月二十一日になってからであった。  このときも、彼は、最後のドタン場まで、チュー大統領の引きずり降ろしをはかって、四方八方画策し、駆けずり回っていた。  客観的にみても、三月末に不落の要塞都市といわれていた北部の軍事都市ダナンが陥落して以来、南ベトナムはもう“死に体”となっていた。  私の目には、このすでに破滅的な状況の中で、南ベトナムが取るべき唯一の手は、たとえ、それが誰であろうと、一個の人間を中心にすべての派閥が結集して、ひとつの「政治体」としての勢力を固めることにあるように思えた。各派が鉄のスクラムを組み、ハリ鼠のように固まれば、バラバラに崩壊した軍も士気を立て直し、懸命の防戦を続けながら、なんとか無条件降伏だけは、免かれる余地は残されているのではないか。 「馬鹿なことをいうな」  と、教授は一言のもとに、私の考えを斥けた。 「とにかく、あの低能将軍(チュー大統領)を放逐することが先決だ。現に、共産側もチューさえ退陣すれば、政治交渉に応じるといっているじゃないか」 「そんな空手形を信用できますか。あなただって、共産側の言葉なんか信用していないはずだ」 「いや、チューが辞任すれば、まだ南ベトナム各勢力を一本化することができる。そうすれば交渉にもち込める。我々にはその自信がある」  なんとしてでも、まず、あの無能で不人気なチュー大統領を引きずり降ろす。そして、庶民受けのする、南部出身者をその後ガマに据える。しかし、これはあくまで|かいらい《ヽヽヽヽ》に過ぎない。こうして時間を稼いでおいて、自分たち北部出身者が結集して、共産側との交渉にあたる。政治性に乏しい南部人ではとても、共産側と太刀打ちできない。今こそ、共産主義の手のうちを熟知した我々、北部出身者の出番だ。すべての主導権を我々が握れば、事態打開の可能性は残されている、と、彼はいい張った。  共産側戦車群が首都に迫っているなかで、私は、連日、教授に、彼が「我らの同志」と呼んでいる北出身の人士のもとに引き回された。いずれも、彼のカトリック仲間であり、仏教徒は一人もいなかった。どこで手に入れたのか、教授は以前愛用していた軽自動車シトロエン二馬力の代りに、はるかに性能のいいプジョー504型車を使っていた。 「なぜ、今ごろ車を代えたんです?」 「もう一刻も無駄にできない。シトロエン二馬力など、まだるっこしくて運転できるか」  彼は、敗残兵や脱出志望者で混乱をきわめる町中を、恐しいほどのスピードで走り回った。 「いいか、根回しは着々と進んでいる。チャン・バン・ツエン議員、チャン・フー・タン神父、チャン・バン・ド元外相……北出身の大物は、ほぼ全員連携させた。グエン・カオ・キも今日、明日中には我々の仲間に加わる」 「グエン・カオ・キ将軍もですか?」  驚いて、問い返した。  同じ北部出身者でありながら、高度の知識人である教授は、この戦闘機乗り上がりの前副大統領を「ならず者」呼ばわりして激しく軽蔑していた筈だ。 「そうだ、たしかにあいつはクズだ。しかしこれは政治だ。チューを追い払うためには、どんな男でも利用しなければならない」  いい放った教授の、たくましく彫りの深い顔をちらりと見やり、私は、この人物に対して初めて、反発と一種の恐怖感を抱いた。  南部人は共に語るに足らずという、教授の考えは正しいのかもしれない。仮りに、共産側と交渉の道が開けたら、彼らとかろうじて互角に渡り合えるのは、教授とその一派の北出身知識人だけであろう。それにしても、すでにタイミングが遅すぎる。南ベトナムはもう事実上、崩壊している。そんな中で、昨日まで「ならず者」呼ばわりしていた人物まで抱き込んで、ひたすらチュー大統領を打倒することだけを考えている教授の執念のすさまじさは、異常とすら思えた。  彼はチュー大統領の後ガマの|かいらい《ヽヽヽヽ》として二人の人物に白羽の矢をたてていた。  一人は、いわゆる“第三勢力”の領袖ズォン・バン・ミン元将軍、他の一人は、グエン・バン・フエン前上院議長である。二人とも南部出身者だ。 「ミン将軍は、仏教徒でグズだから頼りにならん。フエン議長はカトリックだ。少なくとも、その点で我々と話が合う」  その日、当のフエン議長の家に案内された。南ベトナム政界の長老の一人であった。一年前、上院議長を引退するまでは、チュー政権に対しても、是々非々の態度を取り続けてきた。やはり南政界の最長老の一人であるチャン・バン・ド元外相と並んで清廉の士として知られていた。ツルのような痩身長躯には、その世評にふさわしい枯淡の風格があった。私たちは、市中心に近い、粗末な彼の自宅を訪れた。  教授と議長はにこやかに握手をかわし、ひとしきり、共産軍の進撃ぶりや、町々の陥落のもようについて意見を交した。私が同席していたせいか二人ともフランス語を使った。 「議長閣下、昨日、私のもとに詳細な報告が届きましたが、中部海岸諸都市陥落のさいの惨状をお聞き及びですか」 「左様、教授もおっしゃったようにまさにあれこそ、連鎖自動反応とでも呼ぶべき現象でしょう。チューもお終いですな」  茶をすすりながら、格式ばった口調で、現在、猛スピードで進行中の自国の崩壊ぶりについて論じ合った。妙に悠々と、まるで他人事のように事態を評するくちぶりに、私は驚かされた。こんな危急のさいも人は、これほど日常的な態度を保ち得るものなのか。むしろ、何か、楽しんでいる感じさえした。 「ところで君、議長閣下に質問は?」  教授は、私をふり返った。  ちょっとためらった。教授は明らかに、私に何かを“報道”させようとしている。しかし、それは同時に、私自身も確かめておきたいことだった。 「議長」  と、私は聞いた。 「仮りに、近日中にチュー大統領が辞任した場合、議長は、南ベトナムの大統領に就任する意思をお持ちですか」  相手は一瞬返答をためらった。それから、 「私は、いかなる役割でも引き受けます。国民がそれを望めば、大統領の椅子に坐る用意があります」  私をまっすぐ見て、はっきりと答えた。回答の|直截《ちよくせつ》さよりも、そのとき、老議長の目にギラリと走った、思いもよらぬなまぐさい光に驚かされた。私の思い過ごしかもしれない、だが、やはり彼も政治家なのか。これほど無欲|恬淡《てんたん》の境地に身を置いているように見えながら、「権力」に対する執着は、人変りしたような目の光になって現れるほど強いのか。  何か興ざめした思いで、過去三年半ただならぬ尊敬の念をもって遠くから眺めていた老議長の顔をあらためて見つめた。 「わかっただろう。議長もやる気だ。チュー打倒の機は熟している」  帰途、車の中で教授は満足気だった。 『そうではない』  と、私は心の中で反論した。  やはり、この期に及んでも、それぞれが自らの野心で動いているのではないか。そして結果的には、チュー大統領を排除することにより、サイゴン体制にとどめの内部分裂を引き起こそうという共産側の策略に、自ら手を貸しているのではないか。 「あとは、グエン・カオ・キだ。彼さえ引き込めば、シナリオは完成だ」  教授は、連日の奔走、画策の疲れも見せぬ張りのある声でいった。  もしかしたら、この人は、自ら権力を握るために、南ベトナムを犠牲にしようとしているのではないか。あるいは、抵抗のための抵抗、闘争のための闘争、だけを支えに生きているのではないか、と、そのとき、思った。  チュー大統領が辞任して九日後、一九七五年四月三十日に、サイゴンは共産軍の戦車隊に制圧された。南ベトナム国家は滅亡した。  共産軍入城の翌日、教授は妻君と十四人の子供をつれて、私の支局にやってきた。街路はオリーブ色の平たいヘルメットをかぶった共産側兵士であふれ、町中が、まだ興奮と不安と混乱の渦の中にあった。 「君、日本大使館に交渉して、私と家族のパスポートを取ってもらえまいか」  態度、口調はほとんどふだんと変らず沈着だったが、その目には、私が初めて見る狼狽の色があった。  日本政府はその立場上も慣例上からも、教授の依頼に応じられないことを説明した。 「しかし、私の身は危い。彼らにとって、私は裏切者だ。共産主義者は自分たちの手のうちを知っているものをけっして許さない」  だからこそ、私も、数日前、米軍機での脱出を強く勧めたのだ。そのとき彼は、 「この私に、今さら米国の情けにすがれ、というのか」  語気鋭く、私の忠告を斥けた。 「パスポートは無理です。今の僕にできることは、この支局を一時の避難場所として提供することだけです。少なくとも解放戦線は、外国人の住居や財産には手をつけないと、戦争中から公約していた。もし臨検で身分を問われたら、私の助手だ、といい張っていただけばいい。市街戦への用心から家族とここに泊まり込んでいるのだ、とかなんとかいい抜けられるかもしれない」  椅子に深々と身を沈めて考え込んでいた教授は、 「とりあえずはそれ以外なさそうだ」  弱々しくつぶやいた。 「ありがとう、君。しばらく厄介になろう」  私は宿舎のホテルに戻った。翌日から、ときに四十度を越す高熱でうなった。共産側兵士らがジャングルから持ち込んだマラリアにやられたらしかった。約一週間後、熱が引いた|一時《いつとき》をみて、ふらつく体を支局に運んだ。 「世話になった。ここはかえって兵士らの監視が厳しいので、他に身を移す」  あらかじめ、こういう場合のメッセージ置き場に指定してあった、机上の英和辞典の革表紙の中に、伝言が残っていた。  数日後、ホテルに電話があった。  ふだんの元気な声で潜伏先を告げ、 「ちょっと話したいことがある。重要なことだ」  すぐ訪ねてきてくれないか、という。  私は熱のぶり返しでダウンしていた。過去一カ月半の激務と緊張で、神経もすっかり参っていた。  教授は、例によって強引だった。 「よし、それじゃ、こちらから出向こう。ホテルも支局も危険だ。グエンフエ通りのサイゴン河方向から数えて三軒目のキオスクのわきに車を停めて待っている。かっきり二十分後にきてくれ給え。プジョーじゃない、例のシトロエンだ」  それだけいって電話を切った。  いわれた場所に行くと、彼はすぐ車のドアをあけ、私を助手席に招き入れた。後部座席には二十歳代半ばの、長男と次男がいた。二人とも父親そっくりの、立派な顔立ちとたくましい体格の青年だ。 「当分、ボディーガードとして連れ歩くことにしたよ」  と、教授は笑った。 「ところで、君たちはもう原稿を送れるんだろう」 「ええ」  数日前から中央郵便局は、英文と仏文に限り、報道原稿の受け付けを開始していた。 「でも、事前検閲があります。それにいったんハノイに回して香港かモスクワ経由で送るらしい。だから、本当に着くかどうかわからない」  相手はしばらく考えていた。  それから、通りを往き来している共産軍兵士らの方をうかがい、 「重大ニュースがある」 「なんですか」 「今、こいつらに指示して、デモを組織している」  と、二人の息子を指さした。 「なんですって?」 「デモだよ。目標はバチカン公使館だ」  自分の弟子たちも、息子らが所属している青年カトリック連盟のメンバーを何百人か動員して、バチカン公使追放要求デモを行うのだ、という。 「どうして、そんなことをするんです。目的は何です?」 「二つある。一つは、本当にあの馬鹿公使を追放しなければならない。あいつがボヤボヤしてカトリックの危機を国際世論に訴えなかったから、こうも易々と南ベトナムが共産軍に制圧されてしまった。だが、まあ、それは一種の口実だ」  真の狙いは、騒乱を引き起こすことだ、と、いった。占領直後の町は、まだ殺気立ち混乱している。デモ行進を起こせば、当然、共産兵も住民も興奮するだろう。しかし、バチカン相手だがら、けっして反共デモではない。むしろ新体制支持デモといい張れる。兵隊がデモ隊監視に集まったところで、弥次馬を粧ったシンパたちに投石させる。兵隊が発砲すれば、たちまち騒ぎは町中に広がるはずだ、町が騒乱に陥れば、共産軍を追い出す機会もひらける、という。 「本気ですか?」  呆れて聞き返した。 「共産軍は絶対にデモ弾圧に出ますよ。間違いなく何人か殺される。下手をすると、全員、機銃掃射で片づけられる」 「それなら、なお結構だ。サイゴン住民はますます共産軍を憎み、町の治安状態は最悪になる。 それだけ反撃のチャンスも大きくなるわけだ」 「——誰がデモを指揮するんです」 「こいつらだ。二人とも祖国のために死ぬ覚悟はできている。私は二十数年間、真の愛国者に育て上げることだけを目的に、彼らを教育してきた」  後部座席の二人はうなずいた。  やはり、私の方が思い違いをしていたらしい。教授が、単に、個人的野心で行動しているわけではないことが、父子の真剣なまなざしと口調から、はっきりと感じとれた。  それにしても——。 『本当にもういい加減にしたらどうですか』  と、叫びたかった。戒厳令布告下でのデモ行進など、いたずらな流血を招くだけではないか。 「教授、僕は反対です。あまりに無謀すぎる。仮りに、あなたの思惑通り町が騒乱に陥っても、今、サイゴンは、戦車隊と一三〇ミリ砲に囲まれています。共産側は、いざとなれば、無差別に射ち込むでしょう。何万人、いや何十万人という死者が出ますよ」 「それは承知だ。今すぐというわけではない。タイミングを見て行動する。とにかく、忘れないでくれ。戦いはまだ終っていない。むしろこれからはじまるんだ」  三週間後、私は東京に戻った。  彼が企画したデモは、その後実施された。 『サイゴンでカトリック学生デモ。当局側の発砲で数人が死亡』  報道管制下のサイゴンから、短い通信社電が入ったのは、本社勤務に復帰して一カ月余り後だった。あの礼儀正しく、たくましい青年二人が、数人のうちに入っていたかどうかは、確認のしようがなかった。  次に教授からの便りに接したのは、五年余り後、私が東京での退屈な内勤を終えてバンコクへ赴任してからだ。  差し出しは、パリのボートピープル収容所だった。どうやって私の居所をつきとめたのか、わからない。 「元気だ。組織を広げつつある。いつか必ず祖国を解放する。何かニュースがあったら教えてくれたまえ」  とあった。あの大家族とともに脱出に成功したのか、あるいは一人で逃げのびたのか、その辺については何も触れていなかった。 [#改ページ]      
第四部 ジャングルの抵抗者たち

「馬鹿、危い。引き返せ!」 「早く戻れ、射ち殺されるぞ!」  背後の土手で、タイ人記者らが叫ぶ。  浅瀬に足を踏み入れ、ためらった。少々軽率な行動か、と思った。  流れの幅は、せいぜい十二、三メートル。  対岸、カンボジア側の土手の上に、黒服の兵士が立ち、見降ろしている。ポル・ポト兵だ。少し離れて、仲間が二、三人ずつ、合わせて十人ぐらいか。いずれも銃を手に、鋭い目を私の方に向けている。浅瀬の中ほどで立ち停まり、しばらく、彼らの様子をうかがった。すぐ前の黒服の兵士は岸の立木に体を寄せ、いぜん、身動きもしない。 「それ以上、近寄るな。奴らはひどく気が立っているんだ」  背後のタイ側の土手の誰かがまた引きとめた。  だが、兵士の態度や目付きに、はっきりした殺意は感じられない。むしろ好奇心と、警戒、それに一種のとまどいがいりまじったまなざしだ。  小川の流れは、曲りくねっている。すぐ左手の|彎曲《わんきよく》部の淵で、難民の女子供が数人、黙々と水浴びをしている。いくら相手が、追いつめられ、死物狂いのポル・ポト兵でも、この衆人環視のなかで、外国人記者に危害を与えたりはするまい。  足元に気をつけながら、対岸にたどりつく。高さ三メートルほどの土手の傾斜は、雨に洗われ、まるで粘土の壁だ。木の根につかまり、泥まみれになって這いのぼる。すぐ先は、巨大なシダや、枝をからませ合った大樹が密生するジャングル。タイ側はのどかな疎林地帯なのに、僅か小川一筋隔てた、このカンボジアのジャングルのまがまがしさはどうだ。いきなり奴らに飛びかかられ、この中に引きずり込まれたら……。  気を落ち着けるため、胸ポケットから、くしゃくしゃの煙草を一本抜き出し、火をつけた。  いつの間にか、黒服の兵士の囲りに、数人の仲間が集まってきていた。手にした武器も、服装もまちまちである。いずれもヨレヨレに汚れ果てている。まなざしだけは、いぜん、鋭く、異様に暗い。  ここまで来た以上、いたずらにびくついてもはじまるまい。ことさら親しげな笑顔をつくって、彼らの方に近づいた。 「誰か、英語がわかるものはいるかい?」  兵士らは、しばらくためらったあと、とまどい気味に首を振った。 「フランス語は?」  同様の反応だ。いずれも|二十歳《はたち》前後、一人ひとりの顔を見渡す。その何か野獣を思わせるまなざしや容貌からみて、みんな、外国語などとは縁のない連中とわかった。どうやら、質問の意味すら理解できなかったらしい。  骨折り損だったか、と、ガッカリした。  ほんの二言、三言でも、彼らの言葉を収録できれば、予定しているルポルタージュにはめ込むことができたのに——。  兵士らの態度は、幾分柔らいだ様子だった。首に下げた小型カメラを示し、写真を撮ってもいいか、と、身ぶりで尋ねた。  とたんに、また、彼らの表情が|硬《こわ》ばった。いっせいに激しく首を振った。敗残兵とはいえ、いぜん、鉄の規律を誇る集団だ。彼ら自身、上官の許可なく写真を撮られる自由を有していないのかもしれない。その目の底に、むしろ恐怖に近い色がみなぎっているのを見て、撮影もあきらめた。  だが、まったくの空手で引き返すのも業腹だ。  かたわらの、濡れた岩に腰を降ろした。 「まあ、一服しないか」  日本語でいって、つぶれかけた煙草を取り出す。黒服兵士が、むさぼるような目で、差し出された箱を見た。彼がリーダー格らしい。ちょっと仲間たちをふり返り、小声で何かつぶやいて、一本、抜き取ろうとした。 「みんなで吸ってくれ」  ライターを添えて箱ごと渡すと、初めて目を輝かし、また、ボソリと何事かいった。 「ありがとう」  と、いったのだと思う。  みんな、倒木や岩根によりかかって、うまそうに吸った。何人かは、銃を木の幹に立てかけ、表情も目に見えてくつろいだ。 「チャイナ?(中国人かね?)」  黒服が、はじめて問いかけてきた。 「いや、ジャポン(日本)だ。ジャポンのプレスだ」  答え、 「君たち、ジャポン、知ってるか?」  知らなかったのか、もうこれだけの単語の羅列も通じなかったのか、みんな当惑気味に首を振った。首を振りながら、黒服は、ちょっと、微笑んだ。思いがけず、素朴なはにかみをこめた、いい顔だった。  妙なもんだな、と思った。  私は、彼らポル・ポト兵に恐怖を抱いていた。激しく憎んでもいた。この黒服の兵士たちが、自国民相手に行った残虐な行為については、すでに、直接の被害者から、何十という具体的事例を聞かされた。その一つひとつが、少なくとも現代人の尺度では、どう考えても、弁護の余地のない冷血の所業であった。あの非道な政策に突っ走った指導者だけの責任ではない。事情はどうあれ、その直接の執行に、それも多くの場合、嬉々としてあたった黒服たちも、同罪だ。たとえば、自分のこととして考えてみる。仮りに、自分の妻子が、目前でこれら黒服たちに棍棒で殴り殺されたとしたら、私は、その処刑を命令した雲の上の誰かよりも、ニヤニヤ笑いながら棍棒を打ちおろした当の黒服に対して、真っ先に復讐を誓うであろう。  ポト政権は、カンボジアの国と国民を、現代史上おそらく比類のない不幸と悲惨に陥れたが、同政権のあの途方もない政策も、これら黒服の精神的不具者がいなければ、遂行できなかったはずだ。たとえ、彼らを無血動物に仕立て上げたのが、ポト氏ら一部の超ファナティックな指導者であろうと、無血動物に仕立て上げられたこと自体について、彼ら黒服も責任を負わなければならない。くり返すが、事情はどうあれ、だ。  おそらく、私は、こん後の人生でも、ある人間の集団に対して、これほど激しい嫌悪と憎悪を抱き得ることはあるまい、と思う。少なくとも、私にとっては、彼らが行った行為は、政治やイデオロギーの次元からとらえるべき問題ではあり得ない。人間としての、さらに大きくいえば人類としての次元からのみ裁断されて然るべき問題だ。  今、目前に腰を降ろしている若者たちに対しても、私は、抜き難い憎悪と怒りを感じる。 『東南アジアの一角にあの不幸と悲惨をまきちらしたのはこいつらか』  と、あらためて一人ひとりの顔を見つめずにいられない。  だが、それなら、これはどうしたことか。  こうして一緒に濡れた岩に腰を降ろし、無言で煙草を吹かしているうちに、私は、親しみとまではいわぬにせよ、一種の心の通いを、彼らに対して感じはじめていることに気づく。何のことはない。リーダー格が見せた、つかのまの|人間の微笑《ヽヽヽヽヽ》が、突然、私と彼らの距離を縮めたのだ。そんな自分の他愛なさが、不甲斐なくもあった。同時に、これこそ人間が大切にしなければならない火花なのか、とも、一瞬、思った。  兵士らの態度がさらになごんだのを見てとり、再度、身ぶりで撮影の了解を求めた。返答を待たずに、カメラを向け、素早く十回ほどシャッターを押す。何人かは、ムッとして顔をそむけたが、残りの連中は苦笑していた。  突然、左手の森から鋭い声が飛んで来た。やや盛り上がった岩の向こう側に、新手の兵士十数人が姿を現した。体中に弾帯を巻きつけ、軽機関銃や自動ライフルで重武装した連中だ。何人かがこちらに銃口を向け、タイ側の岸を示しながら恐しい表情で怒鳴りつける。 「向こうへ戻れ!」  と、命じているらしい。  若い兵士らも、はじかれたように立ち上がり、銃をひっつかんで、それぞれの持ち場に戻った。  ほんのひとときの弛緩がけし飛び、本物の殺気が周囲にみなぎった。一瞬の変化にたじろいだが、もう長居は危険だ。私は腰を上げた。無用に狼狽して、相手の射撃欲を刺激せぬよう、ゆっくりした足取りで、流れへの降り口に向かう。  浅瀬の途中まで渡り、背後をふり返えると、若い兵士らは、再び獣のような暗く鋭い目で、私を見降ろしていた。別れの挨拶のつもりで手を振ってみたが、誰も応じなかった。  ベトナム軍がカンボジアに進攻したのは、それより約四カ月前の一九七八年暮れであった。作戦は電撃的に行われ、僅か二週間後、プノンペンのポル・ポト体制は瓦解する。これが引き金となって、「中越戦争」が生じ、インドシナ全域は、再び緊張と混乱の場と化すことになる。その状況は、今日もなお変っていない。  一九七五年の、北ベトナム軍による対米戦争の勝利が、ただちにインドシナ諸国の和平と再建を約束するものだ、などという幻想は、あのとき、まったく抱かなかった。  それにしても度が過ぎている。  長年、戦乱に苦しみ、戦火の中を逃げまどってきた人々が、こうも短期間のうちに、またもや陰湿な殺し合いの場に投げ込まれることになるとは、思っていなかった。  プノンペンを追われたポト体制の指導者らと、彼らが率いる敗残兵は、北走してタイ国境沿いのジャングルに身を潜める。そして、かつての同盟国ベトナムに対して、血みどろのゲリラ戦を展開する。  バンコクに赴任した私は、今度は、また別の方角からインドシナの戦乱と取り組まなければならない役回りとなった。  七九年いっぱい、バンコク特派員の主な仕事は「国境通い」であった。  ポト政権の崩壊と同時にドッとタイ側へ押し寄せたカンボジア難民、国境付近の森に次々と基地を構えた抗越ゲリラ集団、この突然の異変にたいするタイ軍部の対応策——などの取材。  とりわけ、当初、難民の状況は、悲惨をきわめた。  雨期に入って間もなくだった。  シャム湾に近い、マイルート(タイ領)の難民収容所を訪れた。  夜半、バスでバンコクを発ち、翌日の昼頃着いた。  収容所は、集落からだいぶ離れた、海辺の荒野にある。この地方は、カンボジア領の山並みが海岸線近くまでせり出し、その稜線の一つが両国国境をなしている。鉄条網に囲まれた、ぬかるみ原野の一角にヤシの葉小屋が急造され、一帯は、臭気と不潔と醜悪に覆われていた。小雨の中、あちこちの空地に黒々とうずくまり、異様に光る目で私たちを眺めている難民の姿は、まるで幽鬼の群だ。  多くは、ポト兵の敗残兵が、その逃避行の途上、手あたりしだい拉致してきた一般農民とその家族である。ポト兵が、本来足手まといとなるはずの、非戦闘員を強制連行した理由は、よくわからない。ベトナム及びその援護下にプノンペンの新主人公となったヘン・サムリン政権側は、ポト兵らがこれら老若男女を、迫撃戦をかわすための“弾丸よけ”として利用した、と非難する。だが、ポト派はむしろ、長期ゲリラ戦にそなえ、一人でも多くの住民を取り込んでおきたかったのではないか。  着のみ着のままで、突然、村から追い立てられ、昼夜わかたず山中を引きずり回された農民らにとっては、とんでもない災厄であった。限りある食糧、薬品は、兵士らに優先給付され、一般住民の間では、餓死者や行き倒れ、それにこの国境地域の森でとくに悪性のマラリア、肝炎による死者が続出した。  運のいい連中は、途中でポト兵の銃剣から逃れ、山腹を這い降り、タイ領にころがり込んだ。  この急造収容所を見て回ったのは、三時間そこそこだった。その間にも、タイ軍のトラックが、仮り小屋用の竹やヤシの葉を次々と搬入してくる。何台かは、新来の難民を満載してきた。いずれも、つい今しがた、近辺の山から這い降りてきたところを、タイ側兵士に収容された人々だ。トラックから降り、ぬかるみの中にへたばり込んだ彼らは、性別、年齢を問わず、完全に、表情というものを失っていた。いや、彼らには、性別も年齢もなかった、といった方が正確かもしれない。恐しいほど落ち凹んだ目、青銅色にしなびた顔、骨と皮の手足、そして、いたるところ破れ、ほころび、汚れきった野良着——。七、八歳の少年少女も、ひとしく五十歳の老人に見えた。多少の気力を残していた何人かは、後方の山々を指さし、 「何日も飲まず食わずでさまよいまわった。まだ、たくさん向こうにいる」 「夜が寒かった。山の中は死体と白骨でいっぱいだ」  と、口々に訴えた。  荒れ地の一角に、廃寺があった。重症者の収容所でもあり、死体の置き場でもあった。ときおり、横なぐりの雨が降り込む吹きさらしの床に、かつて人間であったものの残骸、あるいはこれからその残骸になろうとしている物体が、延々と並べられていた。死者の手足は、|黄疸《おうだん》でまっ黄色だ。|脳漿《のうしよう》がはみ出しながら、なお虚空を見つめて呼吸を続ける少年がいた。声もたてず、ただおびただしい緑色の液を|吐瀉《としや》しながら、右へ左へ顔を反転させている若い女性もいる。かたわらに夫が坐り込んで彼女の背を静かにさすり、赤ん坊は、瀕死の母親のしなびた乳房にしがみついている。一家の囲りに報道人が集まり、その光景をカメラにおさめた。夫はいぜん無言で、無表情で、シャッターの音やフラッシュの閃光を浴びても、私たちの方をふり向こうともしなかった。  廃寺の床のはずれに、一群の人だかりがあった。濡れた床板に、上半身裸の二十歳前後の青年が横たわっている。家族らしい者の姿は見えない。青年の上にかがみ込んでいた若い看護婦が、立ち上がり、しばらく無言で彼を見降ろし、それから別棟の方に歩いていった。タイ赤十字あたりから急派された医療班のメンバーらしい。足早に彼女の後を追い、青年の容態を尋ねた。 「五分以内です」  彼女は無表情に答えた。ひどい顔だった。おそらく、難民流入以来、不眠不休に近かったのではないか。凹んだ目の下に、まるで打撲傷のような黒い|隈《くま》が刻まれ、血色を失った顔一面に、脂の皮膜が浮き上がっている。 「新聞記者の方ですか」 「ええ」 「薬です。せめて薬を送り込んでくれるよう、世界中に伝えて下さい」  そのまま背を向けて、立ち去った。  私は、五分後に死ぬ人間のところに戻った。手足をぶざまに折りまげて投げ出し、不規則にあばらを大きく波打たせながら、ときおりかぼそく呻く。わざわざ雨に打たれる場所まで這い出してきたのは、苦痛がもたらした無意識の行為だったのか、あるいは、僅かなりとも|新鮮さ《ヽヽヽ》を得ようという、最後の本能からだったのか。明らかに、もう意識は失っている。この呻きは純粋に生理的なもので、すでに何の感情もこめられていないはずだ。だが、これほど悲しげな呻きを聞いたことがない。今、目前で形骸と化しつつある、一人の青年が送り得た人生を想った。のどかな田園での、単調だが平和な生活、壮健な肉体を力いっぱい使っての労働、そして村の祭り、娘たちとの踊り——すべてが、彼には可能だった。子供時分、近所のワル共といたずらに精を出していた頃、自分が、人生の最も希望に満ちた時期に、こんなにみじめで孤独な死に方をするとは、夢にも想像していなかったはずだ。  ときおり、彼の口からもれるヒューヒューというかすかな声——正確にはすでに音か——は、この、何年か前までは、たとえそれが平凡なものであろうと自分自身の希望に満ち、幾つもの夢をふくらませていたはずの若い魂の、思いもよらぬ運命の暗転への、呪いと憎しみを凝縮しているように聞こえた。  青年にレンズを向け、二、三十秒ごとにシャッターを押した。なぜ自分はこんなことをするのか、と思いながら、ほとんど機械的に押し続けた。明らかに、職業意識からではなかった。いいにくいことだが、やはり、好奇心もあったように思う。自分の行為の酷薄さを十分に承知しながら、とりたてて後めたさは覚えなかった。もう今さら、私がどんな感情を彼に抱こうと、どんな行為を試みようと、結果は同じことなのだ。それに彼自身、自分が死にゆくさまを、気楽な外国人がフィルムに記録しつつあることに気づく知覚も意識も、すでに失っているだろう。仮りに、気づいていたとしても、私自身が彼の状態に陥れば、もうそんなことに対して、何の感情の反応も覚えぬであろう。私や、周囲に集まった数人の難民の、これまた弥次馬まがいの視線を浴びながら、彼は完全に孤独だ。そして、孤独であるという意識すら、すでに彼のうちにはあるまい。  少なくとも、私自身は、自らを守るために、そうきめてかかる以外なかった。瀕死の病人や、すでに死体となった人々の姿は、これまで何回も目にした。だが、こうした状況の中で、この若さで、生から死へ移行しつつある人間の姿を直視するのは、初めての体験だった。好奇心、といったが、正確にはやはり、恐怖だったのかもしれない。たとえそれが、世にいう冒涜の行為であったにしろ、あえてその冒涜の行為にすがらなければ、耐えられぬほど、その光景は私にとって、恐しかった。  ひとしきり、けいれんが青年の肢体を歪ませ、踊らせ、ようやくあばらの上下動は停止した。やがて、見開かれたままの目に蠅がたかりはじめた。その顔に、レンズを近接させて、最後のシャッターを押した。  付き添いのタイ軍の広報部将校が、次の場所への移動を触れて回っていた。去りぎわ、さきほどの三人家族をのぞいてみた。緑液を吐き続けていた若い女性も、瞳孔が広がり、すでにこときれているようだった。夫はあいかわらず、無言で彼女の背を優しく撫で続け、赤ん坊もまだ乳房をまさぐって奮闘していた。  ときには「戦闘」を求めて、国境の森を訪れた。  焦点地区は、バンコクから直線距離約二〇〇キロ東方の国境の町、アランヤプラテートの南北五〇キロから一〇〇キロにわたる一帯である。  抗越勢力のうち、最強の軍事力を持つポト派残存軍は、初期のマラリアと肝炎の打撃から立ち直ると、一応、陣形を立て直す。彼らは主として、アランヤプラテート南方のジャングル地帯にこもり、じわじわと包囲網を縮めるベトナム軍に対して、必死の抵抗を試みた。かなわぬとなると、大挙、タイ領に避難してくる。それを阻止するため、ベトナム側砲弾がアランヤプラテートの市中にまで落下する事態もときおり生じた。  私たちは、しばしば、戦況の大要を把握するため、町南方のジャングル地帯を歩き回った。このあたりは、曲りくねった一本の小川が、一応の国境いをなしている。  もっとも、多くの場合、川を渡って、カンボジア側の鬱蒼たるジャングルへ踏み込む度胸は湧いてこない。「戦況激化」の報が伝わると、比較的、木立ちのまばらなタイ側の林をうろつき、砲音や銃声の頻度や遠近により、暗い森の中の殺し合いのもようを類推するだけだ。  たいがい、徒労に終ることが多い。ジャングル内に通常戦争型の戦いは持ち込めない。ベトナム側はふつう、はるか後方の砲陣からポト派拠点にひとしきり弾丸をたたき込み、ついで小隊あるいは分隊単位の歩兵を森に浸透させ、掃討をはかる。砲撃中、塹壕や洞穴に身を潜めていたポト軍も、同様に小人数の部隊を分散させて、遭遇戦で抵抗する。  すぐ目と鼻の先で、銃砲声の炸裂音を聞いたのは一度だけだ。一度で十分の体験であった。  その日も、例によって、のんびりとタイ側の林をパトロールするタイ軍兵士らに、 「あんまり不用意にうろつくなよ。こっち側も方々に地雷が埋めてあるからな」  冗談半分おどかされながら、「戦闘」を追って、林の小径を何時間か歩いた。静かだった。  夕刻、疲れ果て、国境の小川のほとりで休んだ。靴を脱ぎ、流れに踏み込んで、鉛のように重い足を冷やした。水はほとんどなまぬるい。それでも、そのまま全身を流れに横たえたいほど、顔も体も、汗とほこりだ。 「この|年齢《とし》になって、まだこんなことを続けなければならないのか」  内心うんざりして、岸にひっくり返ったとき、いきなり、対岸の森で轟音が炸裂した。二、三秒の間隔をおいて、五発、六発……。続いて、目の前のシダの茂みから、小火器のけたたましい連射音が起こる。  腹に響く轟音は、間違いなくベトナム側野戦砲の着弾音だ。シダの茂みからの応射音は、中国製のAKライフル銃らしい。この型式の銃のつんざくように鋭い速射音は、南ベトナムにいた頃、何回も耳にしたことがある。性能自体は、南ベトナム政府軍が使用していた米国製M16ライフルとそう変らないそうだ。しかし、音の鋭さが段違いにちがう。政府軍の兵士らは、しばしばこの音に圧倒され、小勢の相手に射ち負かされる、と聞いたことがある。  二分たらずで、ベトナム軍の砲撃は終った。ポト兵士側の応射は、なお続いている。別に森の中で遭遇戦が演じられているわけではなさそうである。ポト派兵士が一方的に射ちまくっているようだ。何を相手に射っているのかわからない。こんなところから射ち返しても、相手の砲陣までとどくはずはないのに——。  ときおり、すぐ数メートル先のシダの茂みが衝撃波で震え、銃声の合間に、突然の砲撃に動転した兵士らの、必死の雄叫びや叫喚が聞こえてくるような錯覚すら覚えた。  私は呆然と佇立し、対岸の茂みを見つめた。付近の岩かげに身を隠すことさえ忘れた。体が動かなかった。自分自身が、意志のない不動の物体と化したような、奇妙な感覚だった。別に恐怖ではない。  戦闘の現場付近に身を置いたことは、それまで何回もあった。流れ弾丸の射程内に取り残され、右往左往逃げまどったこともあった。  だが、この小川のほとりでの体験と感覚は、私にとって完全に未知のものであった。  多少の危険はあったにせよ、結局のところ、私は純然たる弥次馬であった。子供でも渡れる浅瀬一本を隔て、向こう側では、血みどろの死闘がくりひろげられている。私が立つタイ側の岸辺は、あまりに明かるく、のどかで、平和だ。その日常生活の岸に立って、私は、人々が殺し合うさまに、気楽に聞き耳を立てた。  あのときの、小川のほとりでの、あの感覚を何と表現していいか、今も、わからない。  初めて受ける種類の衝撃であった。暗く、|空《うつ》ろで、同時にすべての日常の常識的思考を麻痺させるような、鈍重な衝撃であった。この世にこういう状況があり得るのか、いや、あっていいのか——ようやく銃声がおさまった対岸の茂みをなお凝視しながら、二度とこの地域に「戦闘」などさがしにくるまいと思った。  アランヤプラテート北方の国境地帯は、別の意味でも、私たちの常識を逸した取材地区であった。何よりもとまどったのは、両国の国境が分明でないことだ。ひどいところでは、タイ側の地図とカンボジアの地図では国境線の位置が三キロもずれている。一帯は人家もほとんどない、のっぺらぼうの森林地帯であるから、地元の人間に聞いても、どこが本当の国境かわからない。タイの新聞記者らも、この点は確信がないらしく、記事中で「国境」という用語は使わず、おおまかに「国境地域」と逃げている。  私は、苦しまぎれにこの一帯を「無国籍国境回廊地域」と名づけた。正確にはわからないが、この回廊地域の帯は、延々一〇〇キロ近くにわたって続く。  ポト派兵士の銃剣から逃れ、同時に、タイ側収容所からしめ出された難民の多数が、この回廊地域に蝟集した。  人が集まれば、自然、親分が出来る。  当初、この一帯では、総称「クメール・セライ(自由クメール)」と呼ばれる、各種武装集団がそれぞれ難民らを周囲に集め、彼らを支配していた。正確には幾つぐらいの集団があり、それがどのように組織・連携していたかわからない。  その実情をさぐるため、しばしば回廊地域を訪れた。何人かの「セライ」の頭目たちに会った。  いずれも「××××解放組織」、「××××救国委員会」などの「議長」、あるいは「委員長」を名乗っている。その大部分は、国境ヤミ市の利権や国際組織からの救援物資などを食いものにしている、ヤクザまがいの連中であった。  最大派閥のボスは、バン・サレンという名の中年男だった。元ロン・ノル軍砲兵大尉を自称していたが、そのタイ語の流暢さからも、ずっと以前から一帯を根城に、密輸に携っていたことは明らかとみえた。  彼は、難民村の入口近い、掘立て小屋の「総司令部」で、型式も新旧もまちまちな小火器を携えた十数人のボディーガードに守られながら、昼間から酒盛りをしていた。  おりしも先着のドイツ人のTVカメラマンらを相手に吹きまくっていたところへ、新手の外国人報道者が訪れたので、よけい上機嫌になった。 「一万挺でいい。一万挺のライフル銃をオレによこせ。そうしたら必ず一年以内に、ベトナム軍を一人残らずカンボジアからたたき出してやる」  小屋の椅子にふんぞり返り、昼間からヤミ物資のビールをあおりながらいう。 「でも、武器があっても、あんた、兵隊がいないじゃないですか」 「とんでもない。奴らはみんな、オレの兵隊だ」  周囲の小屋の壁にもたれてゲンナリと昼寝している難民の男連中を指さした。 「ここだけじゃない。国内にも手下は山ほどいる。オレがひと声かければ、最低百万人は蜂起するはずだ」  難民らがこのボスとその側近らを恐れていることは、ひと目で見てとれた。多くは、こちらから声をかけると、おびえた目で、人の背丈の半分ほどのヤシの葉小屋のねぐらに姿を隠した。 「いいか、ライフル一万挺だ。信じてくれ。もし一年以内に全土を解放できなかったら、オレはこの首をあんたにやる」  手刀で自らの首をかき切る真似をして、大見得を切り、またビールをあおった。  威勢のいい言葉とは裏腹に、町の小商人風の貧相な男だった。  別れぎわ、 「感謝します。我々はあんた方、国際報道陣のご支援に心から感謝します」  私の運転手ペット君にも、腰をかがめて丁重に握手を求めていた。多分、私を護衛してきたタイ軍部の要人とでも思ったのだろう。彼は、シアヌーク殿下の従弟を自称する、前任者の自称プリンス某が就寝中、小屋に火を放って焼き殺し、ボスの座についた、との話だった。私が近づきになってから半年ほど後、この小柄なボスも暗殺された。下手人は不明だ。ヤミ市のもうけの分け前をめぐる内輪もめであったことは、まず間違いない。  彼の集落から二キロほど離れた他の難民村の頭目は、イン・サカンという青年だった。三十歳前後、凄い目をした長身の人物である。話を交してみると、この青年は、少なくとも、人品いかにもいかがわしいバン・サレンより骨のある男に見えた。彼も、元ロン・ノル軍の尉官で、ポト体制樹立と同時に森に逃げ込み、同志を糾合して今日に至った、という。私は、初対面のさい、この青年に多少の好意を持った。しかし、その後耳にした風評は、きわめてかんばしくなかった。バン・サレン派その他との利権抗争の銃撃戦には、必ず彼の一派が噛んでいた。やがて彼は、愛想づかしして離反した部下の妻君を捕え、白昼配下の難民らの前で腹を切り裂いて見せしめにする。手勢を率いて逃れた部下は、「セライ」と系統を異にする抗越グループのソン・サン派に走った。以来、イン・サカンは復讐を恐れて難民村を転々と逃げ歩き、現在は、シアヌーク派に身を寄せている。彼を追い回していた旧部下のミトル・ドンは、ソン・サン派の偵察隊長として森の小径をモーターバイクで走行中、ベトナム軍のB40迫撃砲の直撃を受けてこなごなになった。 「クメール・セライ」の中には、すでに、当時からシアヌーク派を称する一派もあった。難民村のはずれの、さしかけ小屋の“司令部”で、クン・シローというリーダーに会った。四十歳前後。他の頭目らと異なり、知的な目をした、なかなか上品な男だった。元海軍士官。夫人はフランス人でパリにいるという。ロン・ノル政権崩壊直前カンボジアを脱出した。フランス軍外人部隊に入隊し、二年間、ゲリラ戦の実戦訓練を受けてから抗越運動のため、この森にもどった。地域政治情勢について多少筋道のついた議論ができたのも、彼だけだった。腰にドでかい拳銃をさし込み、めったなことではへばりそうもない頑丈な体格の持ち主だったが、私が会った二週間後、あっけなくマラリアで死んでしまった。死体に妙な斑紋があったことから、毒殺説も出た。真相はわからない。ただ、シアヌーク殿下がこの人物を信用し、その殿下派と、当時ようやく勢力を伸ばしはじめたソン・サン派の仲が、きわめて険悪なものになっていたことは事実だ。  ずっとのちに、ソン・サン派の女性スポークスマン、カセット夫人に、あなたたちが毒殺したのではないか、と、冗談まじりに聞いてみた。 「とんでもないこといわないでよ」  年若い女性スポークスマンは、柳眉を逆立てて否定した。 「セライ」の村を歩き回ったのは、前後半年間ぐらいだったか。急死したクン・シローを除いて、ものになりそうな人物は、一人もいなかった。「セライ」と総称される抗越勢力にはいかなる|芽《ヽ》もないことがわかった。  一方、「赤いクメール」との接触を、私は、最初から拒否していた。情勢が不利になるに従い、「赤いクメール」は西側報道陣に媚を売りはじめる。私の手元にも何回か“記者会見”なるものの招待状が舞い込んだ。しかし、「セライ」に芽がない以上に、「赤いクメール」の将来は明白に思えた。彼らが勢力をもり返す可能性はもはや絶対にあり得まい。何よりの理由は、彼らがカンボジア国民の支持をまったく受けていないからだ。難民の口ぶりからも、その点については一片の疑問もなかった。そのような連中の先棒をかつぐためにはるばる国境のジャングルへ出かけるのは、まっぴらだった。  樹々はそうたてこんでいないのに、林の夜は蒸し暑く、寝ぐるしい。とりわけ、タイ・カンボジア国境線にまたがる一帯の森は、苛酷な気候と悪性マラリアの“巣”として知られる。  その森林地帯に点在する、カンボジアの抗越ゲリラ基地の一つ。手足や顔に蚊よけの軟膏を塗りたくり、パラシュートの布で作ったハンモックに体を沈めて、たてつづけに煙草を吹かす。このパラシュートも、インドシナ全土に無数に置きざりにされた米軍物資の一つだ。皮膜のように薄く強靱な地は、絹のように肌ざわりがいい。しかし通風性がゼロに近いので二、三分おきに寝返りを打たないと、体に触れた部分がじっとりと湿ってくる。ゆらゆら揺れる、窮屈な袋の中で、苦心して体の位置をかえながら、また胸ポケットから、つぶれた煙草の箱を取り出す。青黒く澄んだ空に散る星めがけて、煙を吐き出す。  ときおり、今、こうしてこんなところで夜を過ごしている自分を顧み、一種の非現実感に包まれる。インドシナ報道と取り組むようになって、いったい何年になるのか。はるけくも来つるものかな、それも思いもよらぬ所へきたもんだ、などとも考える。  これまでインドシナ戦争の取材を通じてあるていど深く知り合った、多くの人々に対してそうであったと同様、私は、この基地の老指導者ソン・サン氏の人柄に敬意と好感を覚える。  国境地域の森を基地とするゲリラ各派の中で、ソン・サン氏が指導する一派は、当初、最も影の薄い存在だった。軍事的にも非力であるし、これといった大国のバックアップもない。最初のうちは、その所在地すら一般に知られていなかった。しかし、氏の人柄が、国内の飢餓や戦火を逃れてきた難民らに慕われ、バンコク駐在の一部観測筋は、早くから、 「最も真面目で純粋な抗越勢力」  と評価していた。  初めて言葉を交したとき、六十九歳といっていたから、今はすでに七十二、三歳のはずだ。  かつては、カンボジアの若き君主シアヌーク殿下に経済学を講じた。国立中央銀行総裁を経て、一時、殿下のもとで首相をつとめた。この間、「サムデク」の称号を得る。その後、経済国有化問題をめぐって、殿下の側近、とりわけ殿下が熱愛していたモニク妃殿下と真っ向から衝突し、下野する。首相辞任後も、殿下の懇請を容れ、国家顧問として長く国政を補佐した。 「サムデク」は、日本語の適訳がないが、王政時代のカンボジアにおける最高の称号である。シアヌーク時代、この称号を有したものは、二人の仏教法主を除いて三人しかいない。殿下自身と、青年時代から公私にわたり殿下の後見役であったベン・ヌート氏、それにソン・サン氏である。  氏が、かつてのカンボジアでそれほど高位の人であったことを知ったのは、ずっと後になってからだった。  ある日、森での雑談のさい、 「議長はサムデクでいらしたそうですね」  と、確かめると、 「古いことをいいだしましたね」  ややはにかんだ様子で苦笑した。  重ねて念を押すと、 「ええ、そうです。でも、本当にもう古いことです」  手を振って私を制し、それ以上そのことに触れようとしなかった。  在野の国家顧問となってからの氏は、何回か、殿下の名代格として諸国に赴き、外交交渉に手腕を振るう。現在、敵対しているベトナムのファン・バン・ドン首相らとも親交が深かった。  六〇年代終りになって、シアヌーク殿下の為政は行き詰まる。モニク妃殿下に牛耳られた殿下の為政の乱れに対し、ソン・サン氏も決定的に愛想をつかす。以後二人の間柄は、今日に至るまで、しっくりいかない。  七〇年三月、時の首相ロン・ノル元帥がクーデターを起こし、殿下を追放した。クーデターにさいし、ソン・サン氏は、事前に元帥から協力を求められ、予定される新たな共和制カンボジアの枢要ポストに就任するよう、強く要請される。 「元帥は、何回も私のところへ足を運んできました。私もたびたび首相府に呼ばれた」  氏は元帥の要請を斥ける。 「議長は当時、すでに殿下の宮廷政治に絶望されていた。なぜ、元帥の要請に応じて共和制への脱皮に協力されなかったのですか?」 「すでに米国が介入していたからです。私は政権交代には賛成だが、クーデターの形だけは取らないよう、最後まで元帥に要請し続けた」  最後の会談は、次のようなやりとりで終ったという。 『クーデターを起こせば、米国の思うツボです。元帥閣下、あなたは共和制を確立するといわれるが、現状では必ず逆の方向へ進みます。閣下がどんなに努力をなさっても必ず、わが国は軍部独裁制へと移行していきます。カンボジアの破滅です』 『いや、その軍を統括している私が、共和制移行を決意しているのです。しかし、それを実現するためには、サムデク(ソン・サン氏)のご協力が絶対に必要です。シアヌーク殿下はすでに政治をお投げになった。軍の力と、殿下のご信任厚かったあなたの国民への影響力の、二人三脚で国を立て直す以外ありません』 『失礼だが、閣下の読みは甘すぎる。私の力でどうして米国の介入を防ぎ得ますか。どうか現時点でのクーデターだけは思いとどまっていただきたい。軍部独裁によりベトナム戦争は必ずカンボジアに拡大する。祖国破壊の全責任は、閣下がお取りにならなければならないことになりますぞ』 『……私がもし(クーデターを)決行したら、サムデクはどうふるまわれますか?』 『そのさいは、私はもうまったく無力です。身を引きます。フランスへの出国を許していただきたい』  長い沈黙のあと、ロン・ノル元帥は、 『残念です。しかし、お互いにもう思い直す余地はないようですな』  丁重に別れの挨拶をし、その場から去ったという。  数日後、元帥はクーデターを起こし、ソ連訪問中の殿下の権力を奪取する。  カンボジアの悲劇のはじまりであった。  ソン・サン氏は、祖国を離れ、青年時代を過ごしたパリへ居を移した。  こうした経歴や、知りあって後の言動から、彼が経済に関しても、政治に関しても、一徹なまでの自由主義者であることは明らかだった。  多くのカンボジア人と同様、氏も、ポト派が犯した残虐な所業を激しく憎んでいる。だが、そのポト政権が瓦解し、祖国が“ベトナム化”されたのを見ると、単身、パリから国境地帯の森へ戻った。そして、独自の抗越集団「クメール人民民族解放戦線(KPNLF)」を組織し、その議長におさまる。  鈍い砲声が聞こえる。ベトナム軍の威嚇砲撃であろう。音の具合からみて発射点も着弾点も、そう近くないようだ。だが、澱んだ夜の空気は、ずっと離れたこの林の基地まで、忠実にその衝撃波を運んで来る。一発轟くたびに、頭上の木の葉が何枚か枝から舞い、木梢で鳴き交していたカッケー(トカゲの一種)がいっせいに黙り込んだ。  もう夜中過ぎだろうか。何回か、枕代りのショルダーバッグから睡眠薬の箱を取り出しかけては、思いとどまる。森の戦士らは、この地方では生活必需品のマラリアの予防薬にさえ事欠く、苛酷な物質環境の中で暮らしている。たかが、このていどの蒸し暑さで、薬の厄介にならなければ夜も過ごせぬようでは大きな顔も出来ぬ、などと、どうやら無意味なストイシズムにとらわれる。  ハンモックの中で輾転反側をくり返しながら、初めてこの森へ来た頃のことを思い出す。  ソン・サン派の存在についてあるていど具体的な知識を得たのは、抗越勢力の実態を探るため「セライ」の村々を歩き回っていた頃だ。あのヤクザまがいの頭目たちの接触から得られたものは、何もなかった。  氏の経歴と、そのグループの所在地について知ったのも、一般難民らとの断片的な会話からだった。  当時、私は、もう森通いに飽き飽きしはじめていた。手間ひまかけて出かけても、原稿にするにたるだけの収穫はほとんど得られない。体の調子も崩しはじめていた。  たとえ指導者が元首相とはいえ、海のものとも山のものともつかぬ、いわば“幻の弱小勢力”を追って、酷暑の国境通いを続けることは、時間と、すでになけなしの体力の浪費ではないのか。  ひとつだけ引っかかった。タイの政府や軍部に、どうやら、外国報道陣がこの幻の勢力と接触をはかることを好んでいない様子がみられたことだ。  ポト派拠点や「セライ」の村々への出入りは比較的自由であった。しかし、ソン・サン派の小グループが潜む北方の森は「治安不良」との理由で、事実上、立ち入り禁止地区になっていた。  後に、プノンペンのヘン・サムリン新政権は、 『タイ当局は当初から反動・反革命勢力(反ヘン・サムリン勢力のこと)の“本命”の隠し玉として、ソン・サン一派を保護・育成した。すべてのシナリオはタイによって書かれ、実現された。ソン・サン自身を亡命先のパリから|招《よ》び戻し、国境地域に送り込んだのも、タイ当局である』  との、非難文書を発表する。  タイ側もソン・サン氏も、むろん、それを否定している。だが、初期のソン・サン派への接近の困難さや、その後の同派とタイ当局の関係などをふりかえると、ヘン・サムリン政権の非難は的をついているとみてよさそうだ。  タイ国内からの取材が困難な以上、他の手を探さなければならない。かつてのカンボジア情勢に詳しい知人たちを、何人か思い浮かべた。恰好の人物がいた。  シンガポールの鄭子建記者だ。一九五〇年代前半から、インドシナ情勢を追い続け、なお第一線で活躍している。諸国に培った人脈の広さや、飛び抜けた情報蒐集力により、政府当局にも一目置かれ、自国の外交政策全般に少なからぬ影響力を及ぼしている。首相側近や外務省高官にも、同期生が多い。少々縁があり、私にとっては、十数年来の、公私にわたる親しい先輩であった。  所用でシンガポールに赴いたさい、彼のオフィスを訪ねた。  案の定、彼は、ソン・サン氏とは、氏が現役首相時代からの付き合いであった。 「彼は用心深い人だからね。君がいう通り、タイ当局内部にもいろいろ事情がある。でも、できるだけ努力してみよう」  初老の先輩は、シンガポール港を見降ろす高層ビルの一室で、英国煙草をくゆらせながらいった。彼自身は、シンガポールにありながら、すでに、カンボジアの森の老指導者と、頻繁に連絡を取り合っているようだった。  それから一カ月たらず後、所用でバンコクに出てきた彼から電話があった。 「引き合わせたい人がいる。明日の昼食を設営してくれないか。そう、どこか静かな日本料理店がいいな」  私は、懇意の店の離れの一室を予約した。鄭記者は、定刻に現れた。連れは、若く、溌剌とした女性だ。 「こちらカセット夫人」  ソン・サン氏の秘書兼スポークスマン、と紹介された。  夫人は完璧なフランス語と英語を話した。  最初から打ちとけ、好意的だった。鄭記者の口添えもあったのだろう。刺身や天麩羅をつつきながら、二時間ほど話し合った。  彼女の駐在部兼住居——鄭記者はふざけて、アジトと呼んだ——は、市中心部からチャオプラヤー河を隔てたトンブリ地区の一角にある、という。  食後、私は、町はずれの渡し場まで車で送った。 「鄭さんのいった通りね。あなたは、インドシナのことをよく勉強していらっしゃる」  食事中の会話は、どうやら“試験”だったらしい。 「ご存じの通り、私たちの勢力は、まだとても脆いの。議長は無責任な記者にいいかげんなことを書かれることを何よりも警戒しているんです」 「僕は合格ですか?」  彼女は笑った。 「議長も前々から、そろそろ日本のジャーナリストともコンタクトを取らなければ、といっておられます。近く、森へのピクニックにご招待しましょう」  ゲリラ組織のレポが、こんなに陽気で魅力的な女性であること自体、まず思いがけなかった。食事中、彼女がどういう法的資格でこの町に滞在しているのか、それとなくたずねた。 「無資格。非合法。日陰者よ」  笑ってこたえた。  そのくせ、そんなことにまったく頓着せぬ様子で、こうして白昼堂々と町中を歩き回っている。そのことにもちょっと驚かされた。  やはり、ソン・サン派が、タイ国軍最高司令部あたりと特別に深い関係にあることは間違いなさそうだった。  ソン・サン派基地への訪問は、たいがい、彼女からの、かなり唐突、かつ一方的な電話連絡で実現する。 「段取りがついたわ。あさっての午前八時に、アランヤプラテートの手前のガソリンスタンドで落ち合いましょう」  最初の訪問のさいも同様だった。  私は、前日中に国境の町に行き、安宿で一夜を明かして、所定の場所に赴いた。  定刻、クリーム色のバンが現れ、後部座席から夫人が手招きした。  町から国境沿いに北へ一時間ほど走った。やがて、左手に折れて、さらに原野の凸凹道を二〇キロほど行くと、幅三、四メートルの|空溝《からみぞ》に突き当たる。途中、幾つかの検問所があった。助手席の中年男が書類を示すと、兵士らはすぐ通過を認めた。どうやらこの溝が、この地方のタイ・カンボジア国境らしい。丸木橋代りに、今にも折れそうな枯木がさしわたしてある。夫人は、身軽に渡った。それから、ややおぼつかない足どりで“対岸”に足を踏み入れた私に手を差し出し、 「Welcome to our Cambodia !」  実に嬉しそうに笑った。  彼女に導かれ、迷路のような森の小径を、一キロほど奥に入る。木立ちのかげに隠れるように、何十軒かのヤシぶき小屋や、ビニールを屋根代りにしたさしかけ小屋が点在している。ここが目的地だった。 「私たちの|総司令部《ヘツドコーターズ》よ。でも、ここに住んでいるのは幹部だけです。ベトナム軍の襲撃にそなえて、司令部と、一般住民の居住区は分離しておくべきだ、というのが議長の考えなの」  林をわずかに切り開いて、吹き抜けの集会場が設けられている以外、ゲリラ基地の名にふさわしい道具立ては何一つない。  氏の住まいは、集会場から二〇〇メートルほど離れたヤブの中にあった。他の小屋よりも多少はこざっぱりと仕上げてあるが、ヤシの葉と竹を組み合わせただけの貧弱な造りだ。  少なくとも、かつて一国の首相をつとめた人物の住まいとはとても思えない。  氏は長身をかがめるようにして、小屋から姿を現した。洗いざらした開襟シャツによれよれのズボン、素足にビニールサンダルを引っかけている。 「お待ちしていました。遠いところをようこそ」  微笑みながら、上品な物腰で手を差し出した。女性のように柔い掌、いかにも繊細そうな面長の容貌、かぼそく、一見弱々しい外観——およそ、ゲリラ指導者などという役割がふさわしくない人物にみえた。  集会場の隅に用意されたテーブルで、昼食をご馳走になった。カセット夫人の他、氏の軍事補佐官を勤める、元ロン・ノル軍の若い将軍らが同席した。茶色い米、水牛の肉の煮込み、小さな干魚、という献立てだ。氏は、思いの他、健啖家だった。私でも少々もてあます、固い水牛の肉を平然とたいらげ、茶色いご飯を二度もお代りした。 「会見」ではなく、単なる「顔合わせ」という約束であったため、固い会話は避けた。  氏がパリでどのような暮らしをしていたか知らないが、それにしても、現在のこの野宿に近い生活との格差は大変なものだろう。  そのことにちょっと触れると、 「いえ、森の空気はいい。かえって健康になりましたよ」  軽くかわされた。 「ごらんのように、私ももう|年齢《とし》だ。他に何の欲望もない。現にまったく無一物です。祖国解放のために残された時間を捧げる、それだけが、今の私に与えられた使命です」  夫人や娘、それに孫たちは、パリに残してきた。  別れは辛かったが、子孫のためを思えばこそ、森の闘争生活を選んだ、と、淡々と述べた。 「そうそう、無一物といったけれど、たった一つ財産があります」  微笑みながらいって、カセット夫人に目くばせした。夫人はすぐ席を立ち、氏の小屋から小型テープレコーダーを持ってきた。 「孫の一人です。六歳になります」  いって、再生ボタンを押した。 『大切なおじいさま。ボクはいつもおじいさまのことを考えています。おじいさまがいないので寂しくてなりません。でも……』  健康に気をつけて、うまく仕事をはたしてほしい、と、幼児のたどたどしいフランス語が続いた。  氏は目をつぶって聞き終え、 「これが、今の私の唯一の財産です」  スイッチを切り、微笑んだ。  その後、何回か、ソン・サン派の基地を訪れた。  最初の日に、国境の空溝まで運んでくれたバンは、やはり、タイ軍部の車だった。  タイ軍は、国境地域に抗越勢力が集結して以来、現地アランヤプラテートの町はずれに、最高司令部直属の特別の機関を設けた。「タスクフォース・80」と呼ばれる。バンコクから派遣された佐官クラスをチーフに、何組かの班が編成され、各ゲリラ集団の支援や、その動向監視などに当たっていた。  もっとも、例の空溝が本物の国境であるかどうか、今もわからない。毎回、私たちに同行する平服の「タスクフォース」要員も溝を渡り、ソン・サン派の集落まで平気で付いてくる。同派の旗上げ記念日など、重要な式典には、いつもどこから集まったのか、二千人ほどのソン・サン派の兵士が参列した。武器も貧弱で、その目つき物腰からみても、とても実戦には使えぬような若者たちだ。式典場の広場の一帯の林に、中隊規模のタイ軍が配置され、警備に当たっている。  もし、この基地が本当にカンボジア内に位置しているとすれば、堂々たる領土侵犯だ。一度、愛想のいい中隊長の若い中尉をつかまえ、 「あんたたち、せめて平服に着替えるか、ソン・サン派の戦闘服を着て“変装”したらどうなんだ」  冗談半分ひやかすと、 「マイ・ペン・ラーイ(何、気にすることないさ)」  相手はニヤニヤ笑った。  知り合って間もない頃のソン・サン氏は、見るからに年老い、弱々しく見えた。会うたびに私は、やせて、血色もさえぬ、その姿に打たれた。反越反共の意思をほとばしらせるときだけ、その目は激しく燃える。  氏の旗印は「反ベトナム」「反ポル・ポト」だ。  何度話を聞いても、私には、彼がこの二つの「反」のどちらかにより重い比重を置いているのかわからない。今でも、その本心はつかめないでいる。 「少なくとも、ベトナム軍は、あなたが“カンボジア国民の敵”と規定しているポト政権を打倒して、カンボジアを民族滅亡の淵から救ったではありませんか」 「|彼ら《ヽヽ》の行為の動機を、人道的なものと解釈できますか。それなら、なぜもっと早くポル・ポトをたたきつぶさなかったのです」  |彼ら《ヽヽ》とは、北ベトナム人のことだ。ソン・サン氏は、常に「北ベトナム人」「南ベトナム人」という用語を使いわける。現役時代からの長年にわたるベトナム人との付き合いを通じ、彼は、南北ベトナム人の気性や体質の違いをわきまえている。そして、腹黒いのは北ベトナム人であり、彼らに征服された南ベトナム人は、むしろ自分たちにとって潜在的な味方だ、と、みなしている。  たしかに、氏のいう通りかもしれない。なぜ、ベトナム軍は、ポト政権の常軌を逸した虐政を目の辺りにしつつ、長い間、手を出さなかったのか。むしろ逆に、国際世論がポト政権の自国民大量消去政策に肝をつぶし、声をそろえてこれを糾弾したとき、ハノイはポト政権を擁護した。 「大量虐殺など、西側反動一味が捏造した悪質なデマだ」  と、強弁した。  それが、突如、兵を送り込んでポト政権を粉砕し、こんどは国中から骸骨を掘り起こして、 「ポト一味は殺人鬼集団だ」 「中世的蛮行だ」 「ナチスよりも悪質である」  と、その罪状を世界中に告発した。ベトナム側にいわせると、 「堪忍袋の緒を切らせての自衛権の行使」  ということになる。明らかにそれだけでは片づけられない、何かがある。政治だ。 『しかし』、と、私はこの年老いたゲリラ指導者に、心の中で反問する。 『それなら、あなたたちはどうなのです。ポト政権は、誰かが打倒しなければならない凶悪な政権だった。その真の政治的意図がどうあれ、ハノイはそれを実行し、カンボジアの国と民族を滅亡から救った。本来はあなたたちカンボジア人がなすべきことを、彼らは、彼ら自身の血を流してやったのではないですか』 “人道的”な西側世論は、ポト政権の虐政に対して遠吠えするだけだった。各国とも、それぞれの思惑から——|就中《なかんずく》、中ソ対立に巻き込まれることを恐れて——実行動に出なかった。周辺のASEAN(東南アジア諸国連合)の国々は、この狂気の政権を、積極的に支持さえした。ベトナム膨張主義への防波堤、内政不干渉……。しかし、あの政権は、内政不干渉などという、現代国際政治のルールの適用資格を有するような現代的な政権であったのか。またしても、政治だ。  そして、そのポト政権がベトナム軍により打倒されると、ポト政権下、国を逃れていた人々はカンボジアへ戻り、ジャングルに基地を構えて勇敢に「抗越闘争」を開始した。  彼らはこれを、 「カンボジア民族解放の救国闘争」  と呼ぶ。私には、このあたりが、もうひとつ合点がいかない。  とはいえ、このことについて、私は、氏と本気で議論する気にはなれない。その資格もない。何といっても、彼は辛苦の道を選んだのだ。パリでの平安な暮らしを捨て、老躯を引っさげて、一人、苛酷なジャングル内の抵抗生活に戻った。俗に、状況が“英雄”を作る、という。しかし、仮りに私が彼の環境にあれば、やはり、何一つ不自由のないパリで余生を送ることを選んだであろう。  森の生活はきつい。乾期は、木の葉を貫いて射し込む強烈な日射しが地面に亀裂を生じさせ、雨期は逆に、一面の泥沼と化す。一度、水びたしの小径を基地に向かう途中、案内人の初老の幹部の姿が、スポッと地中に没した。苦笑いして這い上がってきたが、頭のてっぺんから爪先まで、完全な泥人形だ。林のいたるところに、こんな凹みや、穴がある。砲撃にそなえての塹壕、落とし穴、そして小型のは公衆トイレ……。私も、一度、セライの森で、車ごと、そんな落とし穴に転落したことがあった。木立ちの中から集まって来た難民たちが、太い木の棒や、ロープを使って、大騒ぎしながら車を引っぱり上げてくれた。  とりわけ、ソン・サン派の基地が置かれた一帯は、荒れ果てた貧土で、真水の水源がない。昼夜、ひときわ蒸し暑く、私はしばしば、取材後、発熱や眼病で倒れた。  氏に会うたびに、この|年齢《とし》でよくこんな生活に耐えられるものだ、と、感心する。  ある日、森へ行くときいつもショルダーバッグの底に用意しておく栄養剤のビンを取り出し、 「お使いになりませんか」  と、勧めた。 「ありがとう。本当にありがとう。しかし、私は仏教徒です。ブッダが生きておれ、といわれる間は生きているでしょうし、もうその必要はない、といわれたときは、しぜんそれに従うでしょう」  彼は穏やかに微笑みながら、きっぱりと拒否した。  こんな言葉も口にしたこともある。 「この基地の数キロ先に、ベトナム軍が進出しています。一昨日は、たびたびヘリコプターが偵察にきた。万一を考え、よほど、今日あなたがたをお招びするのを中止しようと思った。しかし、昨日の晩、一人で瞑想し、ブッダにお伺いしてみたのです。ブッダが、大丈夫、明日は危険がないといわれたので、予定通りおいでいただきました」 「瞑想してブッダとあい対されるとき、いつも何を考えておられますか」 「カルマ(宿業)です。同じ仏教徒であるわれわれとベトナム人が、なぜ、こうして対立し合わなければならないのか。歴史的に両民族を反目させてきたカルマが一日も早く消滅するよう、祈っています」 「それなら交渉でしょう。力の対立を志しては、カルマは解消しないのではないですか」 「理論的にはそうです。私たちもそれを目ざしています。しかし、君、相手が北ベトナム人であることを忘れてはいけません。しかも共産主義者です。われわれが無力では、けっして交渉など受け入れる連中ではないのです」  そして、彼は、自派の軍事力を一定限度まで充実させるために武器、資金援助を西側諸国に呼びかけてくれ、と、くり返し私たち報道陣に要求した。 「でも、どうか誤解なさらないで下さい。強大なベトナム軍と軍事対決しよう、などという馬鹿げたことは考えていません。くりかえしますが目的はあくまで交渉解決です。ただ、丸腰では交渉にならない。我々が防衛力をたくわえ、政治勢力としての地歩を固めれば、彼らを交渉に引き出す機会もできます」 「仮りに交渉が実現した場合、何を要求されますか」 「むろん、最終的にはベトナム軍のカンボジア領内からの全面撤退です。しかし、即時撤退ではない。こんな要求は相手も受け入れるはずがない。むしろ、ポト派のプノンペン再制圧を可能にし、またカンボジアを血の海にするだけです。私が要求するのは段階撤退です。それも、とりあえず、そのカレンダー(段取り)だけを示してくれればいい。いいですか、私が要求したいのは、まずカレンダーです。相手がそれさえ示してくれれば、本格的な政治解決への交渉の道が開けます」  くり返し、「カレンダー」という言葉を強調した。しかも、そのカレンダーの日付けに予め|印し《ヽヽ》をつけるかどうかという問題については、彼はいっさい口にしなかった。  せんじつめれば、具体的な撤兵実施はさておき、とにかく撤兵の意思表示だけはしてくれ、そうすればソン・サン派は、対立から和解への道を踏み出す用意がある——という意味に解釈できた。現実の状況に見合った、きわめてまっとうで妥当な態度に思えた。 「議長はそんなことはいっていません。カレンダーは、あくまで具体的で保証付きのものでなければダメです。ベトナム人の空手形なんて、誰が信用できるもんですか」  スポークスマンのカセット夫人は、私の解釈を言下に否定した。彼女はたいそう利発な女性だが、同時に血の気も多い。とかくその役職のワクを越えて私見をふりかざしたり、老指導者の考えや発言を増幅して伝える傾向がある。意識的にそうしているわけではなく、どうも性格上の問題らしい。だから、私の方も遠慮はしない。 「いや、あなたの解釈の方が間違っている。議長の考え方はきわめて現実主義的です。かけ引きにさいしては、常に含みを残しておかなければならない。最初から具体的にことを|つめて《ヽヽヽ》要求を突きつけても、相手が乗ってくるはずはないでしょう。現在では、議長が考えている以外、解決の糸口をつかむ方法はない」 「そんなのは解決ではありません。降伏です。だいいち、侵略者が居すわっているさいちゅうに、その侵略者相手に交渉なんかできますか」  夫人はさらに熱くなる。 「そもそも、あなたは、私たちの勢力を過小評価しすぎています」 「過小評価も過大評価もしていない。僕はあくまで現実にそくして判断しているのです。政治とは、好むと好まざるにかかわらず、現実だ。僕が議長を尊敬しているのも、彼が、彼自身にとって不本意な現実を直視し、あえてそこを基点に解決策をさぐろうとしているからです」 「まず不本意な現実を、納得のいく現実に変えていくのが、私たちの仕事です」 「夢だ。そんな頑固なことをいっていたら、三十年、五十年かかりますよ。あなたはロマンチストだ。そもそも感情的すぎる」 「ロマンチストでなければ、今頃、パリで息子たちと快適に暮らしてます」  夫人は、プノンペンの名門の出身だ。幼少時からフランスで教育を受けた。帰国後、シアヌーク殿下の秘書兼政府機関誌の編集長を勤める。外務省儀典課にも籍を置き、主として殿下のもとを訪れる外国要人の夫人の接待役を担当した。  かたわら、高等教員養成所の研修員となる。教授陣の一人に、彼女より少々年上の、しとやかで教養豊かな女性がいた。ひときわ同僚から尊敬され、学生らにも慕われていた。やがて、この女性は誰にも別れをつげずにプノンペンから姿を消す。  現名イエン・チリト、ポト派の最大実力者イエン・サリ氏の夫人である。夫と同様、狂信的な自国民消去政策の推進者として知られる。同じくポト政権の国防相として、反ポト派分子大量処刑の直接指揮を取ったソン・セン氏も、カセット夫人の師の一人であった。 「今でも信じられないわ。たしかに二人とも、当時から、どちらかというと左翼的な考え方の持ち主だった。でも、あんなに心暖く、穏やかな人たちが、率先してあの残虐な政策に加担することになるなんて、想像もつかなかった」  一九七五年四月十七日のプノンペン陥落より一週間前、彼女は、夫君の勧めで子供たちとともにパリに避難する。すでに「赤いクメール」の勝利は確定的であった。だが、たとえ彼らがプノンペンを制圧しても、ことはそれほど大事にいたるまい、と、農林省高官の夫君は判断していた。四月末にプノンペンで予定されていた農産関係の国際会議開催準備のために首都にとどまる。会議開催以前に、首都は陥落した。陥落直後、夫君は「赤いクメール」の兵士らにより処刑される。  夫人は、私より一つ年下だが、少女のように小柄で、陽気で、若々しい。森での彼女は、抵抗運動の闘士にふさわしく、質素で活動的な身なりをしている。しかし、名門の血筋とシアヌーク宮廷で身につけた優雅さ、そして、フランス仕込みのエスプリに満ちた社交作法は少しもそこなわれていない。正装すれば、どこへ出ても第一級の貴夫人として通用するであろう。 「でも、あなたのいうことは一つだけあたっているわ。たしかに私は、政治家の素質ゼロ。こんな広報担当役なんかにも向いてないわ。感情的すぎるから」  ひとしきりいい合い、少々気が静まったところで、彼女はあっさり白状する。 「あなたのいうことも、一つだけあたっている。本当にロマンチストでなければ、革命とか解放とかいう仕事に首を突っ込めない」  私たちの私的な会話は、おおむねこんな“和解”に落ち着くのが常だった。  ソン・サン氏の考え方を、直接彼の口から耳にするたびに、私は当初の氏に対して抱いた、いささか頼りなげな印象をしだいに修正せざるを得なかった。見かけは常に弱々しい。しかし、かつてプノンペン政界で鳴らしただけあって、芯は思いのほかたくましく、したたかで、同時に、ただならず老獪な権謀術数の手管を身につけた人物とみえた。私は、氏の人柄と、識見と、自らがその中に身を置く状況についての念入りな判断に“惚れた”といっていい。  以後、もっぱら、ソン・サン氏の動向を追った。もしカンボジア問題の政治解決が可能であるなら、当面、唯一の切り札はソン・サン派の存在であるとの確信を深めた。たとえ現在は弱小勢力でも、他派にくらべると確実な“成長株”だ。  この間、烏合の衆ながら、員数的には最大勢力を誇っていた「セライ」の頭目たちは、国境のヤミ市が活発化するにつれ、ますます内部抗争を激化し、配下の難民集団も四分五裂していく。加えて、その拠点の幾つかは、ベトナム軍の威嚇攻撃を受け、難民らに君臨していた頭目らの大部分は雲を霞と逃げた。  残された難民集団の大半は、自動的にソン・サン派に身を寄せる。同派は一躍、勢力を拡大させた。国境地域の“抗越勢力”は、ポト派、ソン・サン派、それに実勢力は僅かながら国外の旧君主を奉じるシアヌーク殿下派の三集団に整理される。  このころから、いわゆる「三派連合」の動きが具体化する。  タイ国境地域の抗越ゲリラ各派を「大連合」の名の下に一本化しようという案は、もともと中国の腹から出た。中国の対越政策は、すでに仮借がない。 「ベトナムが理解する言葉は“力”だけだ」  ことあるごとに、北京首脳は発言し、最大の軍事力を持つポト派に、他二派を吸収させる政策を推し進めた。あくまで、ベトナムを武力で、 「出血させる」  ことが狙いだ。だが、外交的には、西側に受けがいいソン・サン氏や、国際的知名度が高いシアヌーク殿下も抱き込んでおいた方が都合がいい。  ASEAN諸国、とりわけタイ、シンガポールなどベトナム周辺諸国も、連合化案に同意したが、その目的は、北京とはむしろ逆だ。諸国は、中国の徹底武闘路線のトバッチリが、自分たちにふりかかることを懸念した。カンボジア紛争が、周辺へ「はみ出す」ことを阻止するためには、政治解決、あるいは、交渉解決をめざす以外ない。そのためには、乱暴なポト派を封じ込め、三派連合の主導権は、穏健派のソン・サン氏が確保しなければならない。  強硬路線を崩さぬ中国側に対し、シンガポールのリー・クアンユー首相は、 「大国であるあなたがたは、ワイドレンズで物事を見られる。だが我々小国は、国力の点からも、地理的条件からも、カンボジア問題を、ズームレンズでとらえざるを得ないのだ」  という表現で、かみついた。 「それなら三派連合より、二派連合の方がいいでしょう。ベトナムは絶対にポト派を容認しない。でも、ソン・サン派とシアヌーク殿下が合体し、ASEANがこれを全面支援すれば、交渉に乗ってくるかもしれない」  連合化案について、私は鄭記者と、しばしば論じあった。 「しかし、現実問題として、連合からポト派を除外するのは不可能だ。中国が絶対に首をタテにふらない。それに、もうひとつ、重要なことがある。政府としての|正統性《レジテイマシー》の問題だ」  国際社会においては、「|正統性《レジテイマシー》」の重みは大きい。そして、その「正統政権」という錦の御旗は、今やゲリラ集団に転落したとはいえ、ポト派ががっちり握っている。連合化の何よりの目的は、ソン・サン派など非共産系二派にも、この錦の御旗の威光を分かち持たせることだ、という。 「危いな、非共産系二派の軍事力がポト派を圧倒しているならともかく、現実は逆だ。実質的には連合とは名ばかりで、ポト派による他二派の吸収合併、という結果になるんじゃないですか」 「むろん、君がいうように、それが北京の狙いだ。しかし、“軒端を借りて母屋を乗っとる”という言葉があるだろう」  日本語に堪能な鄭記者はいった。 「ASEANはじめ、西側諸国がこぞって穏健なソン・サン派を支持すれば、連合内でポト派は孤立し、地盤沈下していくはずだ」  自信ありげだった。 「とにかく我々は、ソン・サン氏を前面に押し出し、交渉解決への道を開くことを望んでいる。そのためには、とりあえず氏をポト派と連合させるのもやむを得ない」  鄭記者は、新しい煙草に火をつけて、私の目を見た。 「でも、やっぱり何かひっかかるな」  納得しかねた。  政治解決をめざす、という大目標を掲げながらも、結局のところ、この連合案は、ASEAN側の国益確保を最優先順位に立案されているのではないか。ともかく抗越勢力を強化して、カンボジア地域を、ベトナム社会主義の影響力が諸国へ波及するのを食いとめる“防波堤”に仕立て上げよう、という腹ではないのか。それに何といってもソン・サン派とポト派は、水と油だ。両者の提携はあまりに不自然であり、ソン・サン氏にとってリスクが大き過ぎる——。  私たちがこうして三派連合の構想について論議していた頃、おそらくこのASEAN側連合案の立案者である、シンガポールのリー首相は、北京を訪問中であった。  約一カ月前、ASEAN案のもう一方の推進者タイのプレム首相が、ソン・サン氏を三派連合の主軸に据えるよう、北京説得に赴いたが、ケンもほろろに断られた。代ってリー首相が、直談判に出かけた。一九八〇年十一月下旬であった。  明けて八一年一月下旬、中国の趙紫陽首相がバンコクを訪れた。そして、従来の強硬な態度を、突如、一転し、 「中国は、抗越連合戦線を(ソン・サン氏ら)非共産系人物が指導することについて、反対を唱えない」  との意見を、公式に表明した。ASEAN案を受け入れたことになる。これが中国の本心ではなく、単に、外部にASEANとの“協調ぶり”を印象づけるための戦術的発言であったことは、その後の経緯が証明している。リー首相も、おそらくそのことを承知していたであろう。しかし、この段階では、知恵者の首相は、北京の“柔軟化”が偽装であることを十分知りつつ、だまされたふりをしてだましかえしてやろうという自信があったようだ。  ともあれ、内実は同床異夢のものであろうと、三派連合化を早急に実現しようということで、北京とASEANは合意に達した。  以後、タイとシンガポールによる三派連合化工作は、フル稼動しはじめる。  ポト派は、連合化案を大歓迎した。追いつめられた彼らにしてみれば、連合化によって失うものはもはや何ひとつない。  シアヌーク派も、これに従った。すでに名目的存在に近い同派が将来に望みをつなぐためには、それ以外の選択はなかった。  結局、ソン・サン氏が、連合化成否のキャスチング・ボートを握ることになる。そして、そのソン・サン氏は、予想通り、猛然とこの案に反発した。 「自殺行為です。ポト派はカンボジア民族の敵だ。あの虐殺者たちと手む組むことは、カンボジア人民に対する最大の裏切りです。もし私が連合化を受け入れれば、その瞬間から私は人々の支持を失う」  ソン・サン派の中核をなす人々、それに同派の周辺に集まった十数万人の難民も、ほとんどが、ポト時代に、何らかの形で家族の一部あるいは全部を失っている。氏自身も同様だ。プノンペンに留った老母をはじめ、家族縁戚の何人かを失った。 「どうかあなたたちの目で見て下さい」  氏はヤブの中の粗末なヤシぶきの住まいから、私たちを、“村”の広場へ導いた。約三〇〇メートル四方にわたって樹々を切り開いた赤土の広場やその周辺に、一万人余りの難民がひしめいている。あらかじめ、少し離れた居住区から招集されていたのだろう。  氏は用意されたマイクの前に立ち、連合化案について説明した。話がポト派の提携に触れるたびに、炎天下の群集は拳を空に突き上げ、ドッと怒りと拒否の叫びを発する。 「おわかりでしょう。連合化は中国とポト派のワナです。中国は、私に連合政府の首相の座を提供していますが、実権はポト派が確保する。彼らは私を対外的看板として利用しようとしているに過ぎない」 「しかし議長、ASEAN側は総力をあげて、議長を実質指導者に押し上げようとしている。それによってポト派の力を削減しよう、というのがASEAN側のねらいだと聞いています」 「それならそれで私たちがポト派に食い殺されないですむだけの保証がほしい。少なくともポト派の軍事力に対抗できるだけの武器・資金援助がほしい」 「ASEAN側もそれについては十分考えているでしょう」 「……かもしれない。しかし、我々については、生きるか死ぬかの問題です。それに覚えておいて下さい。この連合化案は、外部が組んだシナリオです。当の私たちカンボジア人の頭越しに書かれたシナリオだ。そんなものに乗って、中国やポト派の踊りを踊るような真似は断じてできません」  ソン・サン氏の慎重さは正しかった。彼の怒りも当然であった。驚いたことに、タイもシンガポールも、事実上、何の具体的援助も用意せずに、彼にポト派との提携を強要していた。 「虎の檻に入れ、といわれるなら、その前にまず棍棒をくれ」 「いや、ともかく檻に入ることが先決だ。あなたが檻に入ったら我々も棍棒を差し入れてあげる」  次々と森を訪れるASEAN側使者と、ソン・サン氏との間でこんな押し間答が続いた。 「虎の檻」とは、むろんポト派との合体化、「棍棒」は、そのポト派という虎から身を守るための武器援助のことだ。  ASEAN側は、文字通り、「虎穴に入らずんば虎児を得ず」の論法で、氏を押しまくった。  はためにもこれは、ひどく無責任な態度に思えた。  連合化を拒否するソン・サン氏に対する、タイ、シンガポールの圧力は、猛烈だった。  タイ当局は、シチ外相が氏を外務省に呼んで直談判を重ねる一方、新聞を動員して、氏の非妥協的態度を非難した。 『身のほど知らず』 『権力亡者』 『抗越勢力のガン』  連日、ヒステリックなまでの個人攻撃が続いた。  そのころ私は、どうやらだましながら保ってきた体調を、すっかり崩し切っていた。サイゴン勤務時代にせおい込んだ慢性肝炎の症状が悪化し、医師に、森への遠征を厳禁された。  恒常的な発熱の身をアパートのベッドに横たえながら、氏の苦しい心中を思った。  なんといっても、ソン・サン派は、いくら「自主性」を主張しても、事実上の保護者であるタイとシンガポールに見離されたら、抗越勢力として存続し得ぬ立場にある。両国の支援がなければまったく孤立無援だ。氏自身、これといった軍事力もないし、シアヌーク殿下ほどの国際的知名度もない。国境ヤミ市の利権を掌握して、自前の資金をたくわえるような芸当も、彼にはできない。だからこそ、その清廉な人格を慕って、多くの難民が周囲に集まってくる。「セライ」の潰滅によって、氏が率いる“住民パワー”は一挙に増大したが、そのことは同時に、タイへの依存度をますます強めさせる結果となった。氏は、統率下の難民十数万人を|食わし《ヽヽヽ》ていかなければならない。食糧、飲料水の補給をはじめ、各種の便宜供与をタイに仰がなければ井戸も小川もない不毛の疎林地帯に小屋を連ねた難民は、一週間も暮らしていけない。  しかし、氏は屈しなかった。時には居所をくらまし、時には綱わたりのような外交術、政治力で、ポト派との提携を拒み続けた。いつまでこの抵抗を続け得るのか危惧しながらも、私は、この老指導者の芯を貫くしたたかさに、あらためて目を瞠る思いだった。  シンガポール、タイ立案の連合化構想については、さらに驚くべきことがあった。  八一年五月、ASEAN事務局のビルの落成式が、インドネシアのジャカルタで行われた。落成式出席を機に、ASEAN五カ国外相は緊急会議を開き、もたつく連合化問題を協議した。  ジャカルタへの取材の途中、私はシンガポールに立ち寄り、港に面したオフィスを訪ねた。鄭記者を食事に連れだした。 「虎の檻」云々に関するシンガポールの無責任さをなじった。 「いや、そうハナから悲観的に物を見ていたら、政治というものは進みやしない。大丈夫、連合化さえ成立すれば、その後の手当ては何とかつくよ」  相手は軽く受け流した。 「それより君、ちょうどいいところへ来てくれた。ジャカルタに行ったら、インドネシアの反応をしっかりさぐってきてほしい」 「インドネシアの反応?」  驚いて問い返した。 「うん」  インドネシアのスハルト大統領が、この三派連合案について、どのような態度を示しているか、を、見きわめてきてくれ、ということだった。 「そんなことは、あなたの方がずっとよくご存知でしょう。僕は、それについてあなたから予備知識を仕入れるために寄ったんですよ」 「うん、まあ……でもそれがね」  常になく、歯切れの悪い応答だった。  まさか、と思いながら、念を押してみた。 「タイもシンガポールも、三派連合案はASEANの総意にもとづくものといっています。当然、両国ともジャカルタと十分連絡を取り合ってことを進めているのでしょう?」 「基本的には五カ国の総意だ。でも、こまかい点については……。とにかく帰りにまた寄ってジャカルタ会議のもようを教えてもらえるとありがたい」  腑に落ちない気持ちをかかえて、翌朝の機でジャカルタへ飛んだ。  機中いっしょになったシンガポールの若手外交記者から、 「会議は荒れるかもしれんぜ」  と、予告された。  どうやら、シンガポールは、ソン・サン氏の要求に応じて、「檻に入る前に」武器供与の便宜をはかる気に傾きはじめたらしい。すでにそのことを同氏に約束してしまったふしすら感じられる。  勧進元は、間違いなく中国だ。現に数日前、かなりの量の火器、弾薬が中国からタイ領経由でソン・サン派に届けられていた。  今回の緊急会議も、その件について協議するため招集されたようだ、と、若い外交記者は読んでいた。  若手記者の予測通り、外相会議は長びいた。予定時刻を三時間、四時間過ぎてもまだ終らない。私たちは、夕方の強い陽射しにさらされながら、会議場にあてられた外務省付属の古ぼけた建物の玄関先にたむろして、ボヤきながら待った。  会議が終ると、外相らは記者団の質問をかわすようにして、そそくさと各自の車に向かった。二、三の外相の断片的発言から、やはりシンガポールが武器援助問題を持ち出し、会議が紛糾したことがわかった。 「で? 結論はどうなりました?」 「連合戦線が形成された場合、ASEANはこれを外交的、心理的に支持します。今日の会議で五カ国はこの基本合意を再確認しました」 「武器援助は?」 「ASEANが軍事色抜きのグループであることを忘れないで下さい。総意としての武器援助など、問題になりません」 「特定国家が、個別にするケースは考えられますか」 「ASEANとしては、個々の加盟国の行動を束縛する権限を持っていません」  マレーシアのリタウディン外相(当時)は、こう答えただけで車に乗り込んだ。  当のシンガポールのダナバラン新外相は硬い表情で、記者団の質問をかわすようにして、足早に去った。  翌日、地元インドネシアのスハルト大統領を迎えて、ASEANビル落成式が行われた。この日の驚きはさらに大きかった。式典には現役五外相をはじめ、各国の元外相、ジャカルタ駐在各国大使ら多数が参加した。ベトナム社会主義共和国大使の顔も見えた。  テープカットのあと、スハルト大統領のスピーチがあった。大統領は、ASEANのこれまでの成育ぶりを祝し、こん後の発展を祈ったあと、突然、カンボジア問題に触れた。 「……カンボジア問題に過度にコミットすることは、ASEANに何の利益ももたらさない。同問題は本質的にはカンボジアの内政問題であると、私は考える……」  私は耳を疑い、通訳係りをかってでてくれていた、地元有力紙の著名な外信部記者に念を押した。 「その通りだ。カンボジア問題は内政問題だ、と、大統領は今はっきりいった」  来賓席最前列にいたダナバラン外相の顔が、みるみる硬直していくのがわかった。 「わが国はもともと、三派連合案などに同情的じゃない。マレーシアも同じさ。タイとシンガポールが独走しているだけだ。スハルト大統領は、連合案は中国の陰謀だと警戒している」  外信部記者が補足説明してくれた。その口ぶりから、彼自身も明らかに連合案を快く思っていない様子だった。 「しかし、連合案支持は一応ASEANの総意ということになっている。今の大統領の発言は、その点まで全面否定したことになる。表現が強すぎるんじゃないか」 「タイとシンガポールへの面当てさ。我々の頭越しに勝手なことを進め、おまけに、こともあろうに武器援助問題まで口にしだした。大統領も堪忍袋の緒が切れたんだろう」  式終了後のビル内見学で、たまたま、二、三日前顔見知りになったばかりの、シンガポールのラジャラトナム副首相と同グループになった。副首相は、外相OB兼若いダナバラン新外相の後見役としてジャカルタ入りしていた。当時私は、彼が三派連合案の直接のシナリオ・ライターであることをすでに、疑っていなかった。 「スハルト大統領はえらいことをいいましたね。これじゃ連合化構想はお流れじゃないんですか」  冗談めかして問うと、 「なに、まあ……とにかく、こういうことは時間がかかるんだ。オレは楽観してるね。秋の国連までには何とか恰好がつくだろう」  老獪な副首相は、気にもとめていない様子で笑った。  その後二、三日、現地にとどまり取材を続けた。私の印象は、ほぼ確信に近いものになった。インドネシアは中国が裏側から介入している限り、三派連合案を本心からは支持しない、この、ASEANの盟主をもって任じる東南アジアの大国にとって、最も警戒すべき相手は中国だ。実際に町々を歩いてみると、この国の経済がいかに中国人に“支配”されているか、一目でわかった。一朝ことあれば、彼らが北京の先兵となりかねぬことは、すでに有名な九月三十日事件が証明している。むしろベトナムと和解し、インドシナ・ブロックとASEANが協力関係を強めることにより、中国の東南アジア進出を押えるべきだというのが、地域ナショナリズムの鼓吹者であるスハルト大統領の腹とみえた。マレーシアも、基本的には同質の立場にある。フリピンも資源大国インドネシアの意向を無視するわけにいくまい。となると、浮き上がってしまうのは対越強硬策に固執しているタイとシンガポールだ。だが、とどのつまりは、両国ともいずれは路線修正を余儀なくされるのではないか。とりわけ、マレー人の海にかこまれた華人ミニ国家シンガポールは、いまだにマレーシア、インドネシアによる|併呑《へいどん》を恐れ、一部世論は両国を仮想敵国とすらみなしている。中国がらみの事象の処理に関しては、いやがうえにも慎重にならざるを得ない。  そのインドネシアは、これまで“最前線国家”タイと、その参謀シンガポールが立案した、対インドシナ強硬政策に、一応、同調姿勢を取り続けてきた。内心の苦々しさをおし隠しながら——。ASEANの結束を乱すまい、という配慮からであろう。しかし、決定的局面で物をいうのは、この国の国力と、他国首脳にくらべ格段と貫禄が違う、スハルト大統領の一言であろう。結局のところ、三派連合案をはじめ、ASEANの対インドシナ政策は、スハルト大統領が首をタテにふらない限り、円滑に進むまい。  当のタイ、シンガポール外相を目前にしながら、 「カンボジア問題は国内問題である」  と、平然と切って捨てたさいの、大統領の口調を思い起こし、同じASEAN仲間でもバンコクとジャカルタの“距離”はこうも遠かったのか、と、自らの不勉強ぶりを思い知らされた。  それにしても、ラジャラトナム副首相のシナリオは、なぜ、こうまで雑であったのか。シンガポールは、なぜ、肝心のインドネシアと協議を煮つめぬまま、タイだけと二人三脚で“独走”したのか。  帰途、約束通り、鄭記者のオフィスに立ち寄った。 「どうだった? スハルト大統領は何といった?」  相手は顔を合わせるなりたずねた。  彼の手元に、まだ一件についての詳しい情報が入っていないことを知り、またまた驚かされた。もしかしたら当局が、箝口令を敷いたのか。あるいはシンガポールとジャカルタの情報交流網はこれほどかぼそいのか。 「本当に知らないんですか。この通りですよ」  落成式での大統領演説を、第一面に大きく掲載したジャカルタ英字紙を差し出した。 「やっぱりそうか」  相手は、長文の記事にすばやく目を走らせて、肩を落とした。 「なぜなんです。なぜ、ラジャラトナム氏はインドネシアと意見を調整しながらことを進めなかったんです?」 「——とにかく、あまり突っ込んだ話し合いができる相手じゃないんだ」  どうやら本音らしかった。一言居士で知られるラジャラトナム副首相でさえ気遅れするほど、シンガポールとインドネシアの力関係には格差があり、また、ある面での関係は疎遠である、ということなのだろう。あらためて、この地域の国々の関係の複雑さを知った。 「ひでえもんだ」  バンコクへの機中、心の中で何回かつぶやいた。こんな底の抜けたシナリオを押しつけられ、あげくが脅されたり痛罵されたりしているソン・サン氏に同情を禁じ得なかった。  以後、三派連合問題への私の関心はめっきりさめた。 「こういうことは時間がかかる」  老練な外交家ラジャラトナム副首相は、スハルト大統領の手ひどい牽制を笑ってかわしたが、実際に、「政治」とは時間を養分にして生きる一個の生物なのかもしれない。  タイ、シンガポールは、その後もひるまず、連合化工作に力を傾注した。ソン・サン氏が突っぱねれば突っぱねるほど、タイ当局の氏への締めつけは厳しくなった。私たちも、ふたたび彼の拠点を訪れる道を絶たれた。  だが、バンコクに届く情報から判断すると、一徹な老指導者もジワジワと動きを封じられ、すでに、 『政治的自殺につながることを覚悟で連合化案を受け入れるか』 『あくまでこれを拒否して、タイなどのメンツをつぶし、見捨てられてのたれ死の道を選ぶか』  の、二者択一を下さねばならぬところまで追いつめられているようだった。  ある晩、ひさしぶりに、市内のソン・サン派連絡所に電話を入れた。  動転した男の声が私の身分を確かめ、 「マダム・カセットは留守です。明日、彼女の方から連絡を取るよう伝えます」  早口のフランス語でいって、そのまま切れた。  翌日夕刻、彼女から電話があった。私たちはあるホテルのロビーで会った。 「ひどい目に会いかけたわ」  と、彼女は前日のてんまつを語った。  二、三日前から、ソン・サン氏はタイ外務省に呼ばれ、側近二人とともに市内の連絡所に滞在中であった。タイ当局は例によって、連合参加を迫り、同氏はこれを拒否した。中国も氏の頑なさに業を煮やし切っていた。そのまま三人を北京に拉致して、無理矢理、同氏から連合参加の合意をとりつけることをたくらんだ。中国大使館の要請で、タイ側官憲が連絡事務所を包囲した。たまたま外出中の氏らは、出先で急報を受けた。思い余って、北欧某国の大使館に保護を求め、一夜を明かして、そのまま森に逃げ戻った——という。前夜、電話口に出た男は、連絡所の留守番係りであったのだろう。 「でも一件落着。議長も無事に森に戻った、という連絡がさっき入ったわ」  どのような取り引きで落着したかは語らなかったが、彼女もすでに落ち着きをとりもどしていた。  彼女のことだから、多少、誇張があったかもしれない。しかし、話半分にしてもひどいいやがらせだ、と思った。  やがて、氏がポト派の民主カンプチア首相キュー・サムファン氏と接触を開始した、との噂が、タイ政府系紙の記者らから流されはじめる。活字にし得るだけの確認情報ではないようだった。カセット夫人も言を左右にして、私の質問をかわした。  少なくとも、氏が従来の「全面拒否」から、タイ当局、あるいは実際にキュー・サムファン氏との「条件闘争」を開始することを余儀なくされたことは明らかとみえた。むろん、ソン・サン氏は連合化参加の絶対の条件として、連合戦線内で自派が、確固たる主導権を握れるような人事配置、あるいはそのための具体的な保証を要求するであろう。現に、その後の交渉で、氏が「赤いクメール」二大首脳のポル・ポト、イエン・サリ両氏の完全退陣などを要求していることが明らかにされた。 「条件闘争」への戦術転換により、ソン・サン氏の外濠は埋められた。氏にとってはそれ自体、すでに大きな敗北であった。こん後、第二、第三の歯ドメがはずれ、彼が、しだいにポト派及び中国の軌跡に引きずり込まれていくことは、不可避とみえた。私は、氏の心中を想い、痛々しく、同時に苦々しい想いで、ことの経緯を見守った。  この頃、私は、しばしばバンコクのベトナム大使館に足を運んだ。  とくに初老の幹部と、その助手役をつとめる生真面目な青年外交官と親しくなった。三派連合工作が具体化して以来、彼らも、ソン・サン氏の動向に少なからぬ注目を払っていた。  むろん彼らは、私がソン・サン派とかなり頻繁に接触していることを知っている。 「どうですか、彼は今、いったい何を考えていますか」  行くたびに問いかけてくる。  初老の幹部は、ソン・サン氏を、他の二派とは別の目で見、氏に対してあるていどの評価すら与えていることを隠さなかった。 「たしかに彼は反共主義者です。我々は彼を反動と呼びます。しかし、人物は真面目で立派だ。その点は、他の反動と違います」  ときには、 「おしいことです。かりに、彼がポト派や中国と完全に手を切れば、カンボジアの復興のために十分働いてもらえる人なのに……。むろん、これはカンボジアの内政にかかわることで、私たちがみだりに干渉するわけにはいきませんがね」  とも口にした。 「むろん、あなたたちから見れば、氏は反動でしょう。しかし、彼があの年齢で闘争に身を投じた真の動機は、やはり祖国の解放、ということにある、と、僕は判断しています。その意味では氏は純粋です。率直にいって僕はその純粋さを尊敬しています。主義主張は異なるけれど、あなたたちも、祖国の独立と解放のために、あの苦しい戦いを闘い抜かれた。彼の動機を最もよく理解できるのは、あなたたちではありませんか」 「——それはわかりますよ。しかし、彼と同様に強い愛国心を持っている人々は、他にいくらもいる。そして、その人々は外部勢力に利用されず、それぞれの愛国のエネルギーを祖国再建のために傾注しています」 「僕はまだ、ソン・サン氏が完全に外部勢力に利用されているとは思わない。しかし、どんどん追いつめられていることは確かです」  相手はうなずき、テーブルの煙草を私にすすめた。一本受け取り、 「妙な言い方ですが、今、彼を救えるのはあなたたちだけじゃないんでしょうかね」 「どういうことですか」  ライターの火を差し出しながら、彼は私の目を見た。 「あなたたちの方から、氏に手を差しのべることはできませんか。ポト派や中国に彼を利用させるより、あなたたちの方からソン・サン氏に交渉の声をかけた方が、ベトナムにとっても都合がいいんじゃないですか」  しばらく考えて、 「それもひとつの考え方かもしれませんな」  微笑みながら、 「さめてしまいましたね」  茶をつぎ直した。  私は、少なくともベトナム側当局者が、ソン・サン氏を、誠実な人物だと評価していることを、氏自身に伝えてもいいか、と尋ねた。  相手は、手にした小さな茶碗を、漆塗りのテーブルに戻した。深々とソファーに坐り直し、 「私たちは、あなたが中立の新聞記者として、ソン・サン派とも懇意にしていることを前提に、お話ししています」  いって、また穏やかに微笑んだ。  数日後の夕刻、カセット夫人が、ちょっとした所用を携えてアパートを訪ねてきた。用談後、彼女を夕食に引きとめた。  たまたま、妻は、その日、ベトナム料理を用意していた。 「敵国の料理を口にするわけにいきませんか」 「とんでもない。ベトナム料理は大好きですよ」 「料理に国境はない?」 「そう——。個人の間にもね」  夫人は妻をふり向き、明かるく笑った。互いに最初から気が合った様子だった。 「その個人が集団となり、国家を形成すると、互いに憎み合ったり、血を流し合ったりする。有史以来の原則だ。人類というのは、つまらん原則を背負い込んじまったもんだな」 「あらあら」  茶化すような目で、私を見た。 「今さら何をいっているの。私のことを、ロマンチストだとからかったくせに」 「別にからかった覚えはない。むしろ、僕はこの単純だが根元的な原則について考えることをやめてしまったら、その人間はお終いだと思っている。とくに僕らのような職業に従事している人間はそうです」  ソファーに移って、デザートのザボンをつまみながら、ベトナム大使館でのやりとりの一部始終を話した。 「それで?」  黙って聞き終えたあと、夫人は問うた。 「——いいですか。誤解をしないで下さいよ。僕は別にベトナム側のメッセンジャー・ボーイじゃない」 「もちろんわかってます。あなたは、最初から私たちのグループに好意的だった。議長もそのことはよく知っています」 「でも、だからといって、一方的にあなたたちのシンパでもありません」 「当然です。そうでなければ新聞記者ではない」 「そこまで理解していただければいい。で、今の話で僕がいいたいことはおわかりでしょう」 「ベトナム側と妥協したらどうか、といわれるのね」 「そうです、ベトナム側はまだあなたたちを完全に“敵”とはみなしていない。いったん妥協し、ヘン・サムリン政権と交渉したらどうです」 「でも、妥協を拒否しているのはベトナム側です」 「技術上の問題でしょう。もしあなたたちが、多少折れて出れば、十分、乗ってくる可能性があると思う」 「私たちが折れてでる? 話が逆だわ。彼らの方が侵略し、居すわっているのよ」  例によって、夫人は熱くなった。 「だから、技術的な問題だといったんです。闘争も政治の一形態でしょう。政治かけ引きでは、一歩後退二歩前進というのも、常道の一つじゃないですか」 「………」 「あなたはどう見ているか知らないが、議長はもう壁ぎわにいる」 「その通りです」 「早晩、ポト派と手を組まなければならないことになる。手を組むというと聞こえがいいが、ポト派の配下に入るということです」 「必ずしもそうとは……」 「まあ、お聞きなさい。たとえ、対等の立場での連合化にもち込んでも、割りを食うのは、軍事力のないあなたたちだ。ベトナム軍は、ポト派を後回しにして、真っ先にあなたたちをたたきにくる可能性がある。女や子供を含めたあの十万人以上を、ベトナム軍の集中砲撃の|餌食《えじき》にするつもりですか」  彼女は黙った。 「とりあえずヘン・サムリン政権の内懐に飛び込み、それからジワジワと相手を|食って《ヽヽヽ》いけばいいでしょう。議長とヘン・サムリン氏では、政治家としての格が違う。内側からあの政権を食いつぶしていくことは不可能ではないはずです」 「ヘン・サムリンなんて問題じゃないわ。でも、今のカンボジアの主人公はベトナム人なのよ」 「そうかもしれない。しかし、あなたも議長も、カンボジア人の大部分があなたがたを支持している、と、いつも主張しておられる。それが本当なら、プノンペンの実権を握ってから、国民の総意を背景にベトナムを譲歩させることができるはずだ。もし、それができないなら、あなたたちは、口にされているほど、カンボジア人の支持を受けていないことになる」  ちょっといいすぎたかな、と思った。  夫人は、しばらくの間、無言で私をにらみつけた。 「なぜベトナムが議長を評価し、妥協をほのめかしているか、ご存知?」 「だいたいの見当はつきます。やはり、議長を中国に利用されると少々厄介だ。それに、失礼ながら、議長はもうお|年齢《とし》だ。第一線で政治活動を行える時間は限られている。あと五年、いや、せいぜい七年か、八年でしょう。その間に議長の声望と政治手腕を利用してヘン・サムリン政権の内外基盤を固める」 「そして?」 「役目が終れば、ご引退願う、ということでしょう」 「その通りよ。これはワナです。それがわかっていながら、どうしてベトナムとの妥協を勧めるの?」  また、目をキラキラさせてにらみつけた。 「まあ、そう怒らないで。別に勧めてはいません。あくまで局外者の意見です」 「怒ってはいませんよ。でも、あなたのいうことは理屈です。私たちの立場は、もっともっと複雑なの」 「わかっています。たしかに青くさい理屈です。ただ、みんなが互いに疑い合い、物事が無用に複雑にこんがらがっちまった場合、案外、単純な理屈が局面の新展開に役立つことはあるでしょう」 「だけど——」 「いや、もうこの辺でやめましょう。当事者のあなたに対して、気楽な弥次馬が書生論を吹っかけたところで、結局、意味がない。どうせ、堂々めぐりのむし返しになる」  必ずしも、後味のいい会話ではなかった。  別に、夫人から反撃を食らったから、というわけではない。  むしろ、このところの自分の行動が、どうやら、新聞記者としての領域をはみ出しかけているような気がし、その意識が、整理のつかぬかたまりとなって心の隅に残った。  同時に、過去、つねに抱き続けてきた懐疑と、一種の無力感が、ふたたび自分の内部で胎動しはじめたことも感じた。  いったい、新聞記者という職業は何なのか。この職業の意義の限界は、どの辺にあるのか。さらに、その限界がどこにあるにせよ、自分には、この職業を続けていけるだけの素質と資格があるのか、etc、etc……。  秋の国連総会が近づいた。  ラジャラトナム副首相がいったように、ASEAN内の三派連合工作推進派諸国は、国連開催までに何とか「恰好をつける」意向であった。タイ、シンガポールなどの同氏への圧力は執拗をきわめた。  ソン・サン氏は、結局、屈した。  国連総会開催直前の、九月四日、シンガポールで三派の指導者は顔を合わせる。ソン・サン氏、ポト派のキュー・サムファン首相、それに欧州からかけつけたシアヌーク殿下の三人は、 「ベトナム侵略者からカンボジアを解放するため、民主カンプチア連合政府樹立の願望を表明する」  との、合意書に署名した。  ソン・サン氏が要求していた条件はひとつも容れられなかった。氏の勢力を強化するためのASEAN側の“保証”も何一つなかった。  タイ、シンガポールの新聞は、鳴り物入りで「三派合意、連合政府成立へ」と報じた。北京も公式に満足の意を表した。  スハルト大統領は慎重に沈黙を守った。大国には大国としての遠慮がある。この時点で物言いをつけることは、お祭り騒ぎで浮かれるタイ、シンガポールのメンツを傷つけ、かえって両国を硬化させる、と判断したのであろう。  シンガポール会談の取材に出向かなかった。ソン・サン氏が無理矢理、引っぱり出されたことはわかっていたが、彼の食言には多少、失望し、腹も立った。  その数日前、ひさしぶりに森を訪れ、すでに取り沙汰されていたシンガポール会談への出席の意思の有無を確かめた。  氏は、自分の立場は不変である、これまで提示していた要求が容れられない限り、連合政府には参加しない、と答えた。 「それでは、シンガポールにはおいでにならない、ということですね」  かさねてたずねると、 「今、お答えした通りです。要求が容れられない限り、出かけることは無意味です」  その表情に多少、当惑の色が見られたが、公式には「出席せぬ」という意思表示としか解釈し得ぬ言い方であった。  もっとも氏もしたたかな政治家だ。その彼の言葉を真に受ける方が単純すぎる。ただ、私は、やはり、ここまでがんばり通した、彼の“頑迷さ”に期待したかった。その言葉を信じたかった。  それに、ことがすでに完全に中国ペースで進んでいることは明らかだ。たとえどんな形で連合化が成立したところで、真のプロモーターが中国である以上、いつかまた、スハルト大統領から、 「待った」  が、かかることは確実と思えた。となると、シンガポール会談は、所詮、外交喜劇に終るだろう。それがはっきりしている以上、ベトナム側も何ら動揺するまい。つまり、インドシナ情勢転換のインパクトとはなり得まい。 「なぜ、シンガポールへ来なかったの? 議長が気にしていましたよ」  二週間ほど後、バンコクにもどったカセット夫人がいった。 「コメディーを取材するほど、ヒマではありません」  と、憎まれ口を返した。 「もし、会談がコメディーでなく、|本物《ヽヽ》なら、議長は、こん後中国の踊りを踊らされることになる。その場合は、いよいよ取材の価値はありません」 「誤解です。右にカーブするために、いったん左へハンドルを切らなければならないこともあるでしょう」 「なるほど、これがあなたたちの一歩後退二歩前進ですか。しかし、このままでは左へハンドルを切りっぱなしになりかねない。本当に、踏んばれるという自信を議長はもっているのですか」 「そこまで彼を信用してないの?。議長は政治家です。あなた自身、そう評価していたじゃないですか」  結局、シンガポール会談での合意は実を結ばなかった。その後バンコクで、連合政府形成の具体的段取りを煮つめるための、三派代表者会議がくり返された。案の定、ソン・サン氏らから合意書の署名をとりつけたポト派は居直った。回をかさねるにつれ、要求事項を拡大し、とどのつまりは、自派による主導権完全掌握をねらって、強硬な条件を他二派につきつけた。ソン・サン氏は譲歩に譲歩を重ねた。しかし、ドタン場で、奇手を用い、切り抜ける。ポト派の要求は全面的に受け入れる、自らの組織も連合政府に参加させる、しかし、自分自身は従来通りKPNLF議長の地位にとどまり、いかなる形でも連合政府には名を連ねない——と、宣言し、そのまま国外に姿をくらました。  タイ、シンガポールはもとより、ポト派もこの意表を衝く抵抗策には困惑した。氏という看板抜きでは、連合政府の中味は、文字通り空洞となる。国際世論も、そんなものには目も向けぬであろう。  氏の、このいささか女性的な粘り腰が物をいって、八一年末、第一次三派連合案は流産する。  それから半年余り後——。  いったん立ち消えになった連合構想は、突然、再浮上し、あっという間に具体化する。  ソン・サン氏がポト派との連合に最終合意した事実が発表されたのは、八二年六月十八日のことだ。シンガポールで開催されていたASEAN五カ国外相定例会議最終日の記者会見で、タイのシチ外相が、 「さきほどバンコクから届いた最新ニュース」  として、三派が最終合意に達したことを公表した。次いでマレーシアのガザリ新外相が、ソン・サン氏、シアヌーク殿下、キュー・サムファン首相の三人が、数日中にクアラルンプールで、合意書に調印することを明らかにした。  虚をつかれる一方で、 「やはり」  と、いう気もした。  第一次案が流れたあと、連合工作の主舞台は北京に移った。北京は、標的をソン・サン氏からシアヌーク殿下に移し、その抱き込みに成功した。ポト派のキュー・サムファン氏も北京に赴き殿下と合流した。ソン・サン氏は、中国政府の意を体した殿下からの北京訪問の招請を断り、欧州諸国を逃げ歩いていた。中国は焦立った。氏を除外した、ポト派=殿下派の「二派連合」がささやかれ、タイの新聞も、「ソン・サン無用論」を流しはじめていた。これに対して、ソン・サン派の内部には、自派だけで「臨時政府」を樹立し、その主体性を守り抜こう、という声も出たようだが、私はもうその詳細を追う気をなくしていた。舞台が北京に移って以来、手元に集まる情報量もめっきり減った。  ただ、「ソン・サン無用論」が同氏を動揺させたことは、カセット夫人との接触から推測できた。  二カ月ほど前、久しぶりに彼女と食事を共にした。そのときの彼女は、 「私たちだけで臨時政府を作っても、はたして生きのびていけるかしら」  常になく弱気だった。 「ポト派と連合するより、独自の臨時政府を作る方が、筋は通る。しかし、生きのびてはいけないでしょうね」 「もし議長が三派連合を受け容れれば、マレーシアが、私たちにとても好意的な役割を果たすことを約束してくれたらしいわ」 「で、議長はどう考えておられます? マレーシアの約束、とやらをあてにしておられるんですか」 「……わかりません。私たちにも、今、議長の胸の中はわかりません」  森の小屋に一人閉じ籠り、終日思いあぐねている老指導者の姿を想った。 「疲れたわ」  不意に、カセット夫人がつぶやいた。  あらためて彼女の顔を見た。  そして、過去三年たらずの間に、相手がすっかり面変りしてしまっていることに、初めて気がついた。初めて会った頃の夫人は、未婚女性と見まがうほど、若く、溌剌としていた。いつどこで会っても、カモシカのように爽快で、はなやいだ空気を身の囲りにまきちらしていた。ふとしたときの表情やしぐさは、あどけなく、可愛くさえあった。  今、こうして見ると、その目鼻立ちの整った顔から血色がまったく失せ、荒れて、やせた肌は、ほとんど灰色に近い。容貌もしぐさも、枯木のように乾き、ときにトゲトゲしささえ感じさせる。あのしなやかな優雅さは、すっかり影をかくしてしまった。  これほどの変化に、なぜ、今まで気がつかなかったのだろう。 「そういえば、ちょっと血色が悪いみたいだな。どこか体の調子が悪いんじゃないですか」 「別に。ちゃんと定期診断は受けているわ」 「働きすぎだな。あなたみたいに動き回っていたら、男だってもたない。こう組織が拡大した以上、一人じゃ無理だ。なぜ、もっとスタッフを増やさないんです?」 「そうしたいんだけど……」  弱々しく首を振った。  なおしばらく、異様に黒ずんだその顔を眺め、本当に病いを患っているのではないかと思った。 「誰か代りをたてて、しばらく休んだらどうです。無理を続けたらとり返しがつかなくなる」 「休んでどこへいくの?」 「しばらくパリへでも戻ったら?」 「パリへ戻って何をするんです」 「とにかく静養するんです。息子さんたちにも、もう長く会われていないでしょう。いったん森のことを忘れて、しばらく|ふつう《ヽヽヽ》の生活をすればいい。家事、買い物、読書、息子さんたちとの夜の団欒——。いくらでも体と気力を休める方法はあるじゃないですか」  彼女はコーヒーカップに目を落とし、黙り込んだ。 「前から思っていたんだけれど、どうも、あなたは、もともとこんな闘争生活をするために生まれついてきた人じゃないような気がするな」 「そうかもしれない」  なかばひとり言のようにいって、軽いタメ息をもらした。  しばらくして、急に顔をあげて私を見つめた。 「でも、私の祖国はカンボジアよ。いつか必ずカンボジアへ帰るの」  きっぱりと、いった。  それから、また声を落とし、 「それに、今の私から闘争を奪ってしまったら、何が残るというの?」  ソン・サン氏は、なぜ、ポト派との連合に踏み切ったのだろうか。  シアヌーク殿下とポト派の合体の動きを見て、これまで、と観念したのか。そして、これ以上孤立化することの不利を考え、自分もバスに乗り込んだのか。  あるいは、本当にマレーシアのガザリ外相との取り引きで、何らかの成算あり、と判断したのだろうか。 「合意成立」が発表された記者会見場からホテルに戻り、バンコクのカセット夫人の連絡所に電話を入れた。  夕食時だったが、相手はすぐ電話口に出てきた。 「どういうことなんですか。突然のことなので、ちょっととまどってる」 「わかりません。私にもわからないわ」  彼女自身も、その朝、氏から連合参加の最終決意を打ち明けられたそうだ。こうも急激にことが回転し、あっさりと合意が成立してしまうとは予想もしていなかった、という。 「私だけじゃない。KPNLFの幹部連中もみんなびっくりしてるわ」  自分たちの頭越しに事を決定した氏の態度に当惑し、多少焦立っている気配さえ感じられた。 「議長は、今どこにおいでになります」 「夕食をとりに外出されたところです」 「どうでしたか、議長の様子は? この合意に満足しておられるようでしたか」 「Non!(いいえ!)」  はねかえすような口調だった。 「ガックリしておられます。とてもご不幸そうです」  電話を終えたあと、タクシーを飛ばして鄭記者のオフィスに行った。  彼はすでにその二、三日前から、合意成立の確報をつかみ、独自のソースを当たって、ことのいきさつを取材していた。新連合政権はシアヌーク殿下を大統領にすえ、ポト派のキュー・サムファン首相は副大統領として外交をとりしきる。ソン・サン氏は首相に就任することで話がついている、という。その他の合意内容も説明してくれたが、ソン・サン氏側の完敗だ。一見、対等の連立のようにみえながら、すべてがポト派有利にはこぶようにとりきめられている。 「どうやら、タイ軍部が動いたらしい」  外務省の説得を拒み続ける氏に対し、業を煮やした軍部が最後通牒を突きつける役を買って出たようだ、という。 「武力行使の脅しですか?」 「………」  相手は肩をすくめ、返答を避けた。  大体の想像はついた。タイ軍部も、一応カンボジア領内とされているソン・サン派の集落そのものに対して武力を行使するわけにはいかない。だが、集落の難民らは、毎日、例の溝を越えてタイ側に飲料水をとりにくる。“不法越境”であるから、彼らへの発砲は可能だ。 「軍部がそう通告したんですか」  鄭記者は、否定も肯定もしなかった。 「でも、ソン・サン氏も何らかの成算があると読んだからこそ、連立に合意したんでしょう」 「連立に参加すれば、西側からの援助が得られる、そうすればポト派を押え込むことは可能だ、と判断したのかもしれない」 「シンガポールやタイは、その理論で押しまくってきたじゃないですか」 「うん」  彼は、また肩をすくめ、窓外に目をやった。  港内に、大小の船の灯りがぎっしりとひしめいていた。 「それが空手形であることは、あなたがいちばんよく知っている。ソン・サン氏は、本当にそんなASEAN側の言い分を信じているんですか」 「——らしい。不幸なことにね」  鄭記者もすでに、大分以前から、ソン・サン氏に対する自国やタイの態度について、批判めいた言葉を口にするようになっていた。彼自身は、当初からこの老政治家に対して、個人的に敬愛の念を抱いていることを隠そうとしなかった。 「結局、どこの国も国益最優先に動いているんだよ。このシンガポールだってそうだ。氏のために動いているわけじゃない。ソン・サン氏を連合政権に参加させることが、自国の対越政策上有利だと判断したからこうして引きずり込んだ」 「それは僕が前々からいっていたことです」  彼は黙っていた。  それから、 「ソン・サン氏も本当に気の毒だなあ」  と、深いタメ息をついた。  私は、重い気持ちでオフィスを出た。  すべての国が国益最優先にたちまわる。それは当たり前のことだ。そのことは当のソン・サン氏が一番よく知っているはずだ。知っていながら連合化を受けいれた以上——。  それに、と、公園都市シンガポールの、静まりかえった夜の並木道を歩きながら、考えた。  まだ、スハルト大統領がいる。大統領は例によって、しばらく沈黙を守るだろう。だが、連合政権があまり露骨に“中国化”した場合——。  さきほどの合同記者会見直後、インドネシアのモクタル外相と交した短い会話を思い出した。 「外相、率直にいって三派の合意をどう思われますか」 「……まあまあ、といったところだろうな」  温顔の外相は、あいまいにかわした。  だが、 「ASEANは中国のシリ馬に乗ってカンボジア問題に深入りするべきではない、というのがスハルト大統領の考え方でしょう。大統領は、この合意をどう受けとられますかね」  なお食い下がると、 「わからない。大統領がどう受けとるか、それは、本当に私にはわからないよ」  憮然とした口ぶりでくり返し、エレベーターに乗り込んだ。めったに感情や意見をおもてに出さない人だが、明らかに、合意成立の発表をおもしろく思っていない様子だった。  連合政権のメカニズムが、合意書が予測させる通り、中国及びポト派の完全主導下に回転しはじめるようなことになれば、いずれインドネシアは動き出すだろう。中国はそれを好むまい。スハルト大統領の反発を避け、同時に連合政府の命脈を保つためには、最初から連合政府を名目的な存在に留め置く以外ない。単なる、外交の道具としてだ。となると、クアラルンプールの調印式も、昨年九月のシンガポール調印と同様、喜劇に過ぎないのではないか。から騒ぎのくり返し。しかし、国際政治の世界には、奇妙な原則がある。たとえ、グロテスクなドタバタでも二回、三回とくり返されているうちに、いつか、それが|実体《ヽヽ》としての生命を持ちはじめることもあり得る、ということだ。形式上の事実が、いつか、真物の既成事実と化してしまうことがあるように。  クアラルンプールへは出向かなければなるまい、と、私は思った。  ガザリ外相の発表通り、抗越三派首脳は、一週間後にマレーシアの首都クアラルンプールに顔をそろえた。  シアヌーク殿下は滞在先の北京から、ソン・サン、キュー・サムファン両氏はカンボジア国境地帯の森からバンコク経由で、それぞれ半日ずつ時間をずらして到着した。  三首脳の宿舎は、ヒルトン・ホテルであった。  表向きの主役は、連合政権大統領に決まったシアヌーク殿下であった。モニク妃殿下らを伴って、夜遅く到着し、疲れも見せず、そのまま、ホテル一階の広間で予定外の記者会見を行った。  ずいぶん長くインドシナ報道と取り組んできたが、若年時代から小国カンボジアの苦痛と悲劇をその身に具現してきたような、この著名な指導者の姿を|直接《じか》に目にしたのは、初めてであった。  サイゴンに赴任したとき、殿下はすでにロン・ノル元帥のクーデターで国を追われ、中国に居を移していた。北京に亡命政権を樹立し、ポル・ポト氏率いる「赤いクメール」と提携して五年後、プノンペン奪取に成功する。しかし、ただちに昨日まで配下にあった「赤いクメール」に裏切られ、一時はその生死さえ定かでなかった。結局、ポト統治下の四年間、プノンペンの旧王宮の一角で幽閉生活を送った。  政治的にも、社会的にも、その生命は絶たれたかに見えた。ベトナム軍によるプノンペン制圧直前、中国は、このいわば廃人同様の境遇に陥っていた、かつての“第三世界の英雄”を、旧王宮の一角から連れだし、ふたたび北京に拉致する。以後、殿下は北京、平壌、欧州などを転々としながら、ときには「祖国再解放」を叫び、ときには「全面的隠退」の意を表明するなど、振幅の激しい発言で、世界をとまどわせる。だが、おそらく、さまざまの発言で自らの真意をカムフラージュしながら、自国指導者への返り咲きは、殿下の一貫した夢であったのであろう。  会見に臨んだ殿下は、多弁で上機嫌であった。連合政権の目的は、抗越勢力の存在をベトナムに「認知」させ、交渉に引き出すことだ、と強調した。 「そのために私は、私自身やカンボジア国民をあれほど手ひどくとりあつかい、私の息子を五人も殺した、赤いクメールとの連携を選んだ」  多少の老け込みは感じられたものの、国王時代にたびたび目にした写真と、そう変っていないことに驚かされた。体力的な衰えもほとんど感じられない。彼が、長い間もまれ、くぐり抜けてきた、おそらく、現代の政治家が誰一人体験したことのないような、激動と、苦悩と、失意の日々をふり返ると、そのカン高い声に託して表出される、殿下の気魄と精気の充実ぶりは、ほとんど信じ難いほどであった。  予定を三十分も上回って続けられた会見中、私は、連合政府大統領としての殿下の、こん後の抗越闘争方針などについて、二、三の質問をした。愛想のいい応答だったが、核心については、慎重にかわされた。 「私はかつてのシアヌークではない。そう、いわば、年老いた哲学者としてのシアヌークだ。発言する前に考えるすべを覚えた。しかも自分一人の意思で物事を進めるわけにはいかない立場にある」  ときどき、やや調子はずれの独特の笑いをまじえながら、流暢ではないが正確な英語でいった。  この独演に近い会見を通じて、世間では何かといわれているものの、殿下はやはり、私がこれまで接した、この地域の指導者らの中で、第一級にすぐれた政治感覚の持ち主ではないか、との評価を下さざるを得なかった。とりわけ、その人柄がそなえる強烈な魅力に感服した。 「そう、初めて会った者は、誰でもあの弁説と人間的魅力に眩惑される。でも、二回、三回とあの独演を聞かされるとね」  知り合いの日本人記者が、やや皮肉な口調でいった。  必ずしも同意できなかった。相手によって臨機応変の発言は、ときに不節操にさえ感じられるが、その言葉の裏を注意深くさぐれば、綿密に計算され、しっかりと筋が一貫している。そして、その話術と、人間的魅力——これこそ、政治家として最大の素質であり、武器ではないのか。  会見終了後、ホールの入口で殿下をつかまえ、再度、たずねた。 「殿下は、連合政権の政策はすべて三派指導者の合議により決定され、自分には何の決定権もない、とおっしゃった。しかし、少なくとも殿下は、今や国家元首でいらっしゃる。そして、連合政府の目的はカンボジア交渉解決だといわれた。もしポト派があくまで武力路線を主張した場合、国家元首として、どういう態度をとられるおつもりですか」 「ダメだ、ダメだよ、君。私は本当に実権なき国家元首なんだ」  カン高く答え、高笑いしながら、室外に去った。  三派の連合政府がうまく稼動する見通しは、皆無に近い。  しかし、万一、ASEANの思惑通り、連合化によりポト派勢力が凋落した場合、あるいは、彼らがその凋落を避けるために連合から脱退した場合、ベトナムにとって最も手強い相手は、交渉解決を旗印に押しまくるであろう、このシアヌーク殿下になるのではないか。少なくとも、体質的に一徹なところを捨て切れぬソン・サン氏よりも、変幻自在の殿下の方が、結局は、政治家として一枚上手なのではないか、という気がした。  ソン・サン氏の一行は、氏を含め三人の小世帯であった。カセット夫人の姿は見えなかった。これまで彼女は、氏が公式の用向きで外国に出る場合、ほとんど同行していた。やはり健康状態がよくないのか、あるいは、氏の突然の連合受諾をめぐり、組織内部でごたごたが生じたのか。  氏とは、もう半年近く顔を合わせていなかった。一行が到着した翌日の朝早く、挨拶もかねて一時間ほどお目にかかれる機会を作っていただけぬか、と、ホテルの便箋に認め、ボーイに部屋に届けさせた。午前六時過ぎであったが、森での生活で相手は早起きの習慣がついているはずだ。二、三十分後、随員の一人から電話があった。一時間後に部屋にきてほしい、とのことだった。  会見を申し入れたものの、考えてみれば、もう何も聞くことはないのではないか、という気がした。すべては、証文の|取り遅れ《ヽヽヽヽ》だ。  テーブルに向かい、設問要旨をまとめにかかった。当然相手の回答が予想されるようなありきたりの項目しか浮かんでこない。是非とも確認しておきたいことだけを、二、三、メモし、すぐテーブルを離れた。  思いついて、二階ロビーの花屋に行き、オーキッドの花籠を注文した。まだ朝の入荷がなく、花数は少なかった。 「できるだけ大きいのにして下さい」  愛想のいい中年女性の売子に氏の部屋番号を告げ、でき上がったら届けてくれるよう頼んだ。  カフェテリアで、朝食代りのコーヒーを前に時間をつぶしながら、ちょっと考え、苦笑した。女性に花を贈ったことは何回かあるが、男に、しかも七十歳過ぎの老人を相手に、こんなことをする気になったのは初めてだ。一種の“衝動買い”かな、とも思った。だが、あれほど懸命の抵抗も空しく、ついに、ポト派との提携に追いつめられた老指導者の心中を思うと、もう言葉は空しいものに思われた。少々照れくさくはあったが、一籠の花は現在の氏に対する、私自身の心を幾分かでも伝えてくれるだろう。  定刻、部屋を訪れた。  要人警護のために特別配置された私服警官のチーフが、ドアのスキ間から私の名を告げた。 「しばらくでしたね。お待ちしていました」  氏自身、ドアの内鎖をはずした。室内に導かれた。 「花をどうもありがとう。何よりも嬉しいお心遣いです」  書類やノート類、何台かのタイプライター、テープレコーダーが、テーブルや床のあちこちに置かれ、にわか作りの事務所を思わせるスイートサロンの一角に、飾ってあった。なかなか見事なできばえだ。愛想のいい女性店員が、贈り先の人物の身分を知って、ひときわ丹念に腕をふるってくれたのかもしれない。  ソン・サン氏は健康そうに見えた。背広姿の彼を見るのは初めてだ。やはりこの方が、森での開襟シャツ姿より、ずっと板についている。グレーの上下に包んだ長身をソファーに沈めた氏の姿には、闘士の激しさも、政治家のなまぐささもない。誰が見ても、すでに世に認められ、悠然と自適の生活を送る、老文学者か大学教授を想像するだろう。  十分ほど、あたりさわりのない話で過ごした。  それから、さきほどメモにとっておいた確認事項に触れた。 「覚えておいでですか。KPNLFの旗上げの式典で、議長は、目的はあくまで交渉解決だ、と、おっしゃった。それも、ベトナム側が、カレンダーさえ示してくれれば、交渉の糸口が開ける、といわれた。正直なところ、僕には、その後議長がだんだん態度を硬化させたように思えることがある。さまざまの事情から、現在の議長は、当初より、かなり非妥協的な姿勢に転じておられるように思えるのですが」 「私の態度は一貫しています」  氏は穏やかに首を振った。 「ベトナム軍の全面撤兵、これはあくまで我々の原則的要求です。即時撤退などという非現実的なことは考えていません。まず相手が、この原則を受け入れてくれればいい。双方が期日や方法を協議し、徐々に引き上げてもらう。いいですか。カレンダーの作成も、協議の対象です。協議とはお互いがお互いの事情を斟酌し合って、妥協点を見出していくことです。一方通行の要求は交渉ではない。私が求めているのは、協議です。真物の交渉です」  きっぱりと念を押され、かろうじて救われた気になった。氏のこの路線を、カンボジア解決の最も妥当な方法と信じたからこそ、過去三年間、彼の動向を追い続けてきた。その意味で私が過ごした日々もまた、まったく無意味ではなかった——。 「しかし議長、ポト派と連合なさったことにより、もうその路線の推進は不可能になりましたね」  ソン・サン氏は、苦しげな顔をして黙り込んだ。私も無言で答えを待った。  一分近い沈黙の後、 「君ならわかってくれると思っています。もう、これ以外、方法がないのです。私たちは連合政権に参加せざるを得なかった。参加を余儀なくされた」 『誰にです?』  とは、聞かなかった。氏は本当のことを答えられる立場にない。 「余儀なくされたのです」  ソン・サン氏はくり返した。 「ベトナムは、日増しにカンボジアで既成事実を固めつつある。同時に、私たちは、何とかポト派の再|擡頭《たいとう》を阻止しなければならない。いいですか。ポト派を弱体化させること、これも私たちの目標の一つです。そのためには、今、どんな形でも現状打破の行動に出なければならない。この機会を逃したら、カンボジアの不幸は永遠に続く。私は現状を打破するためには、いかなる方法でも試みなければならない、と判断したのです」 「それで、ポト派を弱体化できるという自信をお持ちですか」  再び黙り、しばらく窓の外に目をやった。  やがて私の方を向き直り、 「J'es(そう期待しています)」  これ以上問いつめる気になれなかった。  礼をいって立ち上がった。 「ありがとう。本当に、花をありがとう」  氏は、再度、壁ぎわの花籠に目をやり、握手の手を差しのべた。  翌々日午後、マレーシア政府迎賓館で、合意書の調印式が行われた。  壇上、ガザリ外相とシアヌーク殿下を中央に、向かって左にソン・サン氏、右にキュー・サムファン氏が座を占めた。外相と殿下は陽気だった。ソン・サン氏は、端然と表情を崩さずに記者団を直視し、キュー・サムファン氏は、何かおびえたような視線をたえず左右に走らせている。調印はあっけなく終った。外相が立ち、三指導者の抱擁を促した。殿下とソン・サン氏、殿下とキュー・サムファン氏、ソン・サン氏とキュー・サムファン氏、それぞれ席を立って歩み寄り、抱き合って、互いの両頬にキスをした。フラッシュ、シャッターの連続音、TVカメラの唸りに混じり、記者団の一部から、異様ともいえるどよめきが起こった。こんなグロテスクな光景を目にするために、あの酷暑の森通いを続けたのか、と、苦く空ろな気分に引き込まれた。  調印後、そのまま合同記者会見に入った。  記者団の質問は、おおむね、殿下がさばいた。  朗らかに語り、笑い、会場の空気をなごませようと、懸命に努力している様子が見てとれた。何人かが、キュー・サムファン氏に対し、ポト政権の虐政に対する、痛烈な批判と質問を浴びせた。英語を解さぬキュー・サムファン氏は、かたわらの通訳に耳を寄せ、一つ一つの質問にカンボジア語で答える。思いのほか穏やかな声だった。すべての質問に、淡々と、公式論で応じた。その目はいぜん、異様に落ちつきがなかった。 「百万人単位の人間を殺すと、ああいう目になる、という、現代類例のない見本だな」  隣席のオーストラリア人記者が、私にささやいた。  会見終了まぎわ、 「ソン・サン議長におうかがいしたい」  中ほどの席から、見知らぬ西洋人記者が立ち上がった。 「議長は、何らかの強硬な圧力に屈して、今回の連合政府参加に合意させられた、と聞き及んでおります。それは本当ですか?」  真っ向からの質問に、室内の空気が、突然、はりつめた。  氏はまっすぐ、質問者の顔を見つめた。  ひと呼吸置いて、 「イエス!(その通りです!)」  満座に響く声で、鋭く答えた。  剛胆なガザリ外相が、サッと顔を硬ばらせ、氏をふり向いた。  私は思わず、身を固くして、ソン・サン氏の顔を凝視した。このドタン場で、内部のすべてを爆発させようというのか。そして、ことをぶちこわし、同時に自爆しようというのか。これが当初からの作戦だったのか、とも、一瞬思った。  思いがけぬ応答に、会場は静まり返った。  南国の明かるい室内の空気が、一瞬そのまま、凍りついたような印象を受けた。  シアヌーク殿下が何かいいかけたが、度を失い、言葉が出てこぬ様子だ。  無言で質問者を見すえるソン・サン氏の顔に、つかのま、激しい感情が、走り、消えた——ように見えた。  それから、氏は、端然とした表情に戻り、 「そうです。私は、強い圧力に屈し、ここへ来ざるを得ませんでした。ベトナム軍の圧力です」  会場に、どっと明かるい声が上がった。  単に緊張からの解放、あるいは、氏の機転に対する称讃というより、多くの記者の好感を集めていたこの老指導者の、決定的破滅に立ち会う辛さを避け得たことへの安堵のどよめきと受け取れた。  外相と殿下が激しく拍手し、何人かの記者もそれにならった。  ホテルへの帰途の車中、心が深く沈んだ。 「イエス!」  充満した怒りを、一気に破裂させるような声でソン・サン氏が答えたとき、私はその気魄のすさまじさに圧倒された。結局、氏の抵抗はここまでだった。氏は自らを懸命に抑え、自爆を避けた。たとえ、連合政府参加が、まったくといっていいほど勝ち目のない闘いであるにせよ、なおそこに僅かばかりの活路を求めて——。  政治家としては当然の選択であろう。  氏は、自分が踊らされていることを十分承知しながらも、それに耐えながら、今まで、必死に闘ってきた。  これからも闘い続けるであろう。  しかし、たとえそうであったとしても、氏が過去三年間の|艱苦《かんく》の闘いで得たものは何であったのか。その間、浴びせられ続けた罵倒や、体験し続けた屈辱への報酬は何であったのか。  結局のところ、それは、あの一瞬の「イエス!」に凝縮され、そのまま宙に消えた。消えたあとに何も残らなかった。  シートに身を沈ませ、胸ポケットから煙草を取り出した。火を点じ、ひと息吸ってもみ消し、知らず想いにふけった。  ことのはずみで付き合うことになった、長いインドシナの戦乱——。  それぞれの立場や信念から、この長い闘いに賭けた人々——。  勝者がいる。  敗者がいる。  勝者となりながら、敗者と同様の、失意と苦痛を味わわなければならなかった者もいる。おそらく、その逆の体験をした人々もいるであろう。そして、幕はまだ引かれていない。  結局のところは、闘いのメカニズムとは何なのか。いったい、人々の中の何が、それを稼動させ続けるのか。  希望? そして光明?  おそらく、そうなのだろう。  本質的には同じゴールをめざしながら、その希望と光明への到達を試みる方法論の違いが、闘いの引き金をひく。その過程でさまざまの二義的夾雑物が介入し、この過酷なメカニズムをもつれさせ、それに自らの生命を与え、とめどなく回転させ続ける。  そして、人々は逆に、いつかこのメカニズムに巻き込まれ、翻弄され、ある日、仮借のない空しさに逢着する。そこから、いったい、人は何を得るのだろうか——。  新たな煙草に火をつけ、ひと息大きく吐き出す。急に、自分がひどく疲れ切っていることに気づく。果てしない無為の淵に引きずり込まれていくような、重く、鈍い、疲れ。自ら闘いに関与してきたわけでもないのに——。  だが、と、同時に思った。  ひとたび賭けた人々にとって、すでにこんな無為も虚脱も、無縁のものなのではないか。勝者も敗者も、立ちどまりはしない。少なくともこのメカニズムが稼動し続ける限り。たとえ勝ち目のない闘いであったにしろ、リングに上がることを決意したその時点で、彼らはひとしく勝者なのだ。  こうして、めめしく落ち込むのも、私自身が、常に、傍観者の立場に身を置き続けてきたからに他なるまい。安逸で、平穏で、無風の生活。つまりは、真の光明の火花も、希望も知らぬ生活——。  車は、木立ちにかこまれた高級住宅街を過ぎ、夕方の下町に向かう。左手に思いがけず広々とした空地がひらけた。造成中の公園らしい。明かるいユニフォーム姿の青年たちが、青草の上を走り回っている。若く、たくましい叫び声の束が、白と黒のサッカーボールを追って、広場いっぱい、旋風のように移動する。  平和だ。そして、健全で、真剣だ。  こんなスポーツひとつにさえ、全身をあげてうちこむことのなかった、自らの過去を、あらためてふり返った。 [#改ページ]

   
あ と が き  闘い、という状況の中で生きる人々の断面を羅列し、インドシナ戦争そのものを語ると同時に、人間の生き方というようなものを見つめ直してみたかった。どうやら、そのいずれもの意図も、中途半端なものに終ってしまったような気がする。  彼らを、一種の「鏡」と位置づけ、そこに投影され、自らの視線にハネ返ってくる自分自身の姿も観察してみたかった。得られたものは、傍観者とは敗者よりも敗者である、という、平凡な、しかし、私自身にとってそれなりに痛切な結論だけであった。本書の、もしかしたら各挿話全般に適合せぬかもしれぬ「したたかな敗者たち」というタイトルも、この個人的に痛切な感覚から生じた。  書き終えた今、少なからぬ虚脱感の中を漂っているが、これは、自分の力量不足から、当初の意図が達せられなかったことへの苦渋と無力感からである。とりわけ、最終部で、現在進行中の時事問題に踏み込んでしまったことにより、視点も筆調も、いわゆる「記者もの」風になりすぎ、おそらく読者の退屈感をさそうものとなってしまったと思う。一時、ギブ・アップしかけた私を、文藝春秋の新井信さんが、はるばるバンコクまで足を運び、励まし、教示して下さった。これまでの二冊の小著(『サイゴンから来た妻と娘』『バンコクの妻と娘』)執筆・発刊のさいと変らぬ、御厚情に感謝したい。  最終部で扱った時事問題が、そしてインドシナ情勢全般が、こん後どのように展開していくか、については、無責任な予測をさしひかえたい。ただ、インドシナ諸国も含め、この東南アジア全域に、一日も早く平和がよみがえり、人々が、より幸せな環境の中で明日をめざしてその日々を過ごせるよう、祈るだけだ。  これまでの人生を通じて、この地域で多くの人々と付き合った。その絶対多数が、間違いなく私よりも不幸で悲惨な境遇にあった。それにもかかわらず、私たちの付き合いは、完全な一方通行であった。私は、これらの人々から実に多くを与えられ、教えられた。こちらから与えたものは——。何もない。このことは、本書執筆中、かたときも頭を離れなかった。  書き下ろし、というたてまえであったが、部分的には何カ所か、過去月刊誌などに発表したものを使用させていただいた。御寛恕願えれば幸いである。  一九八二年十月十二日  バンコク・スクムビット通りのアパートで [#地付き]近 藤 絃 一    単行本   昭和五十七年十一月文藝春秋刊 [#改ページ]          文春ウェブ文庫版     したたかな敗者たち     二〇〇一年十一月二十日 第一版     著 者 近藤絃一     発行人 堀江礼一     発行所 株式会社文藝春秋     東京都千代田区紀尾井町三─二三     郵便番号 一〇二─八〇〇八     電話 03─3265─1211     http://www.bunshunplaza.com     (C) Nau Kondou 2001     bb011107