戦火と混迷の日々 〈底 本〉文春文庫 昭和六十二年二月十日刊  (C) Nau Kondou 2001  〈お断り〉  本作品を「文春ウェブ文庫」に収録するにあたり、一部の漢字が簡略体で表記されている場合があります。  また、差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の書かれた当時の事情を考慮し、できる限り原文の通りにしてあります。差別的意図がないことをご理解下さいますようお願い申し上げます。 〈ご注意〉  本作品の全部または一部を著作権者ならびに(株)文藝春秋に無断で複製(コピー)、転載、改ざん、公衆送信(ホームページなどに掲載することを含む)することを禁じます。万一このような行為をすると著作権法違反で処罰されます。    目  次    1 序にかえて    2 赤いクメール       そ の 前 夜       プノンペン陥落       首都を追われて       街道へ——       長 男 の 死       次 男 の 死    3 異 風 土 で       結  婚       プノンペンへ       外交官夫人として       戦火の“母国”へ    4 流浪の日々       亡  霊       再 移 動       夫 の 死       タペントモー村の人々    5 孤独の三年間       再婚しなさい       望  郷       マ ウ 村 で       すっぱいブドウ       養女をもらう       粛  清    6 混迷のインドシナ      「大下放」政策とは       殺戮の論理       ベトナムとカンボジア       シソポンへの脱出       ベトナム軍に保護さる       中 越 戦 争    7 生  還       越  境       脱出をはかる       タイの難民キャンプ       生  還    8「インドシナ難民」を考える       妻 の 祖 国       ベトナム難民の特異性       なぜ、逃げ出すのか       ハノイの誤算       特異な政治スタイル       ある政府高官の発言       優秀市民と劣等市民       国家に有害な毒草       ハノイ、華僑弾圧へ       ある仏人記者の予言       孤立と模索    あ と が き      章、節名をクリックするとその文章が表示されます。 [#改ページ]    戦火と混迷の日々        悲劇のインドシナ

   1 序にかえて  内藤泰子さんという女性と初めて個人的に言葉を交わしたのは、一九七九年七月八日、バンコク・ドンムアン空港から成田へ向かう日航機の機中でであった。  彼女は一九七五年四月のインドシナ全面共産化以来、四年間近くを「赤いクメール」のポル・ポト政権支配下のカンボジアで過ごし、ようやくその異常な生活環境から脱け出して、日本へ帰る途上だった。  私はある個人的用件で、任地のバンコクから一時東京へ戻る必要が生じ、航空券を物色していた。たまたま彼女が八日、バンコク発の成田行直行機に乗ることを知り、便を合わせた。機中、彼女の了解が得られれば、ナゾ多いポル・ポト政権の下での彼女自身の体験・見聞や、これまた外部によく伝わっていない、昨今のカンボジア内情について聞いてみたかった。私は、航空会社に頼んで、隣り合わせの席を用意してもらった。  変な言い方かもしれないが、最初から私たちは妙に気が合った——ような気がする。彼女の人見知りせぬ性格のせいもあったのだろうが、それだけではなさそうだ。  彼女は、カンボジア人の配偶者を得て、インドシナに住んだ。私はベトナム人を妻としてサイゴン(旧南ベトナムの首都、現在ホーチミン市)、バンコクと、やはりインドシナ地域を渡り住んでいる。  今後を読み進めていただければわかることだが、彼女がくぐり抜けてきた苛酷な体験と、インドシナに足を引っかけながら、なんとか革命の嵐に巻き込まれずに、いわばぬくぬく過ごしてきた私の生活との間には無限の距離がある。  それにもかかわらず、彼女が初対面の私に心を開き、親近感さえ抱いてくれたとしたら、それは、やはり共にこの地域の人間を生活の伴侶とし、いったんはその風土を自らの第二の故郷に選んだという、一種の同類意識が彼女のうちに作用したのかもしれない。  後に彼女は、 「国際結婚だけはもうこりごり。絶対に人にも勧めたくない」  と、述懐した。  彼女が経た体験から、その気持ちは十分納得がいく。  しかし、少なくとも「赤いクメール」による超暴力主義的な革命の断行という、彼女自身にとっても、他のカンボジア人にとっても思いもよらぬ厄災に見舞われる前まで、彼女は国籍や人種を越えて「人間の心」を信じ、それをいちばん重んじる人だったように、私には思えた。  今から二十年以上も前、彼女は当時、日本駐在のカンボジア外交官であった亡夫ソー・タンランさんと結婚した。いわゆる「国際結婚」のはしりである。日本人とカンボジア人の組み合わせは、彼女ら夫婦が初めてであった。  当時、夫婦の間には、彼女のカタコトていどの英語以外、共通語がなかった。恋愛期のデートには、つねに同じカンボジア大使館の日本語の達人が付き添ったそうだ。 「そんな、言葉もろくに通じないご主人と、なぜ所帯を持つ気になったんです?」  と、冗談半分にたずねると、 「それじゃ、あなたたちの場合はどうなの。あなたたちだって、最初はほとんど言葉が通じなかったって言われたじゃないの」  と、これまた冗談半分、逆襲された。  右に述べたことと若干矛盾するようだが、泰子さんとの対話を通じて、私は彼女が必ずしも、あらゆる種類の「人種偏見」や「民度意識」から解放された人ではないようにしばしば感じた。たとえば、彼女はカンボジア農民を指して、「現地人」、ときには「原住民」と呼ぶ。  しかし、その彼女が、「とにかく誠実を絵に描いたような」亡夫タンランさんについて語るとき、その声、口調にはこのうえなく自然な敬慕と信従の響きがつねにこもっている。「夫婦」として当然のことなのかもしれないが、私は何よりも、そのことに心を打たれた。そこに「国際結婚反対」という現在の心境とは相反した、彼女本来の「自由人」としての体質を感じさせられた。  ほんの二言、三言交わしただけで、彼女が実に気丈な性格の持ち主だということがわかる。現に、異常な環境下の異土で子供や夫と次々と死別しながらも、長い孤独生活に耐え抜いたことが何よりもそれを証拠立てている。さっぱりと男っぽく、相当の姉御肌で、もっと遠慮なく言わせてもらえば、日本人としてはかなり|クセ《ヽヽ》の強い女性との印象を受ける。  しかし、そうした諸特性にもまして、私が「これはとてもかなわぬ」とたじたじとし、幾度となく感服の舌を巻いたのは、彼女の精神の驚くべき強靱性である。 「悲しいこと、辛いことがあっても男は泣けないからかわいそう。女ならひとしきりワッと泣けばいくらかでも気が軽くなる。だから、ある状況の中では男より女の方が強いんでしょうネ」  と、彼女自身は、過去四年間の不幸と悲劇を振り返って言う。  そんな一般論は別にしても、彼女個人が人並みはずれて優れた自制力、自己暗示力にたけた気性の女性であったことは疑いない。日常的な状況の中なら、彼女は多少しゃきしゃきした、相当えこじな、しかし面倒見のいい、まずは平凡な女性にすぎなかったかもしれない。その彼女の内部を貫く真の強靱性は、異常環境の中で初めて十全に発揮され、それが彼女を生き延びさせる大きな要素の一つになった——ことは、間違いあるまい。  彼女の物語を小説家が扱えば、波乱と数奇と悲劇と変転に満ちた稀有の人間ドラマが描けるであろう。しかし、この本はそうした類のものではない。私は、あくまでジャーナリズムの域内の仕事として、書く内容の主題を取捨選択しながら筆を進めていきたい。  あえて泰子さんへの失礼を顧みずに言ってしまうと、実は彼女の国籍は私にとってそれほど意味がない。私はつとめて彼女を、今、インドシナというアジアの一隅で彼女と同様の境遇に生き、苦しみ、そしてなお明日の生をめざして呻吟している何十万、何百万という人々の中の一人としてとらえていきたい。彼女がたまたま日本国籍の所有者であった(厄災に見舞われる前、彼女はカンボジア国籍も所持していた)というだけの理由で、日本の世論は、大きく彼女の“悲劇”を、その“奇跡の生還”を、取り上げた。  これまで私は、外航船などに救助されて日本にたどりついたインドシナ難民を、取材をかねて何度か港へ出迎えに行った。いちばん多い場合でも、八日夜に彼女の到着を成田空港に出迎えた報道陣の百分の一も来ていなかった。  このことについて、私は「日本人の心」といったものに対する寂しい疑問を感じる  泰子さん自身に対してはむごい言い方になるかもしれないが、日本の世論が彼女について同情と関心を示すなら、同じ人間である何十万人、何百万人ものインドシナ悲劇の犠牲者に対しても同質同等の同情と関心と、さらにその救済のための実行動の手をさしのべて|然《しか》るべきではないのか。彼女の“奇跡の生還”が束の間の話題に終わらぬと誰が保証できよう。そしてその束の間が過ぎれば、人々は、日本からそう遠くないアジアの一角に、彼女と全く同じような悲惨と苦痛にうめき、今なおうめきつづけている数知れぬ人間がいるという事実を、またしても|他人事《ひとごと》としてなかば忘却していくのではなかろうか。  帰国後の彼女を他の同業者と同様、“ニュース対象”として追い回しながら、私は一度ならず立ち止まり、そんなことを感じずにいられなかった。あえていえば、この本の執筆動機はそのとき生まれた。  私自身も、この熱しやすく冷めやすいわが国の世論構成分子の一員である。それどころか職業上、ときにはその世論形成者の側に身を置いている。インドシナ悲劇へのわが国の無関心ぶりに対して批判めいた口をきける立場にはない。むしろ、インドシナ問題報道者の一人として、最もその怠惰と力量不足を反省しなければならない職責にある。  ただ、ここでかろうじての弁明を試みさせていただくと、私は以下の文章を、不十分ではあったが、これまでの私なりのインドシナ報道、あるいは難民問題報道の「鎖の輪のひとつ」として書き進めていくつもりでいる。彼女自身のつぶさな体験談は、この本と前後して発表されるであろうご本人の「手記」にゆずって、ここでは、彼女を、インドシナ悲劇の断面と輪郭を、より鮮明に読者に伝達するための一素材として扱っていきたい。主題は、今日のインドシナ悲劇そのもの、そして諸要素入りまじったこの混迷と悲劇の中で生きる人々の姿であり、泰子さんにはむしろ、これらの人々の一代表としての役割をつとめていただこうと思う。  この意図が、以下の文章あるいはその行間に十分ににじみ出てくるかどうか、実は心もとなくもある。それは、やはり、泰子さん個人の物語があまりに悲壮で強烈であるため、ともすれば彼女を“主人公”に押し上げたくなる誘惑に|溺《おぼ》れる可能性が多分に予見されるからである。  だが、繰り返すようだが、たとえそれが独断と偏見に満ちたものであったとしても、私自身の目に映ったインドシナ悲劇とそこに生きる人々の現状を、泰子さんの直接体験談の助けを借りながら、総括的に報告し、できれば一人でも多くの読者に、日本から五千キロたらずのあの地に生きる人々の苦痛と悲惨と呻吟を「彼らのこと」ではなく「私たちのこと」として感知するきっかけをつかんでいただければ、というのが以下各章に一貫して託した筆者の願いである。  以上、本来は「あとがき」に書くべき内容をいきなり第1章として冒頭に置いた。  第2章以下第5章までは主として、カンボジアの共産軍「赤いクメール」が全土を制圧した後の泰子さん一家の行動を追う。基本的には|聞き書き《ヽヽヽヽ》であるが、随所に私自身の所見や感想、さらに、背景説明、状況説明的な叙述が出てくる。必要と判断した場合、これらの部分は、それとわかる形で、彼女の物語と区別して書いていく。  うち第3章の一部では、泰子さんの人となりや亡夫ソー・タンランさんとの結婚およびその後の生活にまつわるエピソードを取り扱う。  第6章の「混迷のインドシナ」以下の章は、かなり泰子さんの話から遠ざかる。とりわけ最終章の「『インドシナ難民』を考える」は、読者が「泰子さんの物語」としてこの本を読まれた場合、違和感を感じられるかもしれない。それを承知でかなりの紙幅をさくのは、いろいろな意味でこの問題が、泰子さんもその嵐に巻き込まれた解放後のインドシナ悲劇の諸様相を集約しているように思われるからである。  書かんとする内容自体が相当に欲ばったものであり、しかも明快な分析が困難な事象を取り扱うため、構成自体もかなり統一を欠いたものにならざるをえまい、と覚悟している。  文中にしばしば「私」(つまり筆者)が顔を出すことにより、読者はある煩わしさを感じられるかもしれない。すでに述べたように、インドシナ革命、それもきわめて特異な形で断行されたカンボジアのポル・ポト政権下の革命にほんろうされた泰子さんの諸体験と、同じインドシナに足を突っ込みながら革命の嵐からうまうまと身をかわし、現在にいたるまで、いわば日常的日々を過ごしている私自身の生活は、その次元からしてあまりにも異なる。あの凄絶な悲劇を身をもって体験してきた泰子さんの話に、私の|思い《ヽヽ》を照応させようなどというのは明らかに大それた試みであり、当の泰子さんには、笑止千万な筆法と映るであろう。この本の趣旨を念頭に置きながら、|不遜《ふそん》を承知であえてそれを試みた。  当の「私」は、執筆中思いつくままに発言したり、現任地バンコクでの行動に触れたり、さらにさかのぼってサイゴン時代の思い出を振り返ったりする。ときに話の領域は私事にまで及ぶ。  このへんの執筆者の|位置付け《ヽヽヽヽ》は、少々読者に繁雑かと思われるので、あらかじめその所在に関してひとまとめに説明しておいた方がいいかもしれない。  私は一九七一年、サイゴン特派員として赴任し、七五年、現地で得た妻子を連れていったん東京に転勤した。その数カ月後、再び崩壊直前の南ベトナムに赴任し、共産軍による全土制圧以後、約一カ月間かの地に滞在した。そして再度の東京勤務を経て、一九七八年秋から現任地バンコクに滞在している。したがって、泰子さんが「赤いクメール」政権の大下放政策に追われてプノンペンをさまよい出した当時はサイゴンにおり、その後、彼女が移動と孤独の生活を送った四年近くの大半は東京に、その後期はバンコクに身を置いていたことになる。物事の見方、とらえ方は、必然的に現場からの物理的、心理的距離感に影響される。彼女の物語に、おりにふれ挿入するであろう私の思いや判断、解釈に、ときおりニュアンスの違いがあるとしたら、それは主として右の理由による。 [#改ページ]

   
2 赤いクメール   そ の 前 夜  白塗りのスポーツカーがブレーキをきしませて門前に停車したのは、その日の午後三時頃だった。夫の従兄の次男ベンが降り立ち、朝顔の花に埋まった前庭を突っ切って、まっすぐ玄関に来た。内藤泰子さん夫婦の顔を見るなり、郊外に共産軍が迫っている、早く町へ避難してほしい、と言った。  昨晩来、何万人という郊外の住民が共産軍の攻撃を恐れて首都プノンペン中心部へ避難を開始していることは、泰子さんらもすでに知っていた。  その日、一九七五年四月十五日は、カンボジア正月の三日目にあたった。彼女は早起きして、にぎりずしやおはぎを作り、次男トニー君に言いつけて市中に住む友人の日本人女性の家に届けに行かせた。トニー君は昼頃帰って来て、|町中《まちなか》にどんどん避難民が流れ込んでいることを両親に報告した。  本当に事態がそれほど悪化しているのか、夫婦は半信半疑だった。これまでも共産軍の乾期攻勢が激化するたびに、外国報道陣は「プノンペン、風前の灯」と伝えた。そのたびにこうした避難騒ぎがあった。  しかし、毎年、共産軍は至近郊外にまで迫りながら、雨期入りと同時に政府軍に押し戻された。人々もまた郊外のわが家へ戻った。ことしの乾期もそろそろ終わろうとしている。トニー君の話を聞いた夫婦は、一応、衣料、常備薬、多少の食料などはスーツケースにつめたものの、まだ、まさか、という気が強かった。  そんな二人をベンは、 「こんどは本当に突っ込んでくるつもりらしい、一刻も早く」  と、せかした。  とりあえず宝石と貴金属だけ持って避難しよう、という夫タンランさんの言葉で、泰子さんは、外地勤務時代に買い集めたダイヤや装身具類をアタッシェケースにつめた。本当は、宝石よりも“家宝”のロシア絵画に未練があった。モスクワ勤務時代に手に入れた時代物の田園風景画である。母親が娘の手を引いて夕暮れの畑中を歩いている構図で、フスマ二枚分ほどもある大作だった。  当時、市西部の新興住宅地トゥオルコク地区にあるタンランさんの自宅には、一家五人が住んでいた。夫婦、長男トーモリ君(17)、次男トニー君(15)、それにタンランさんの先妻の娘ティニーさんである。一家五人が市中心部の従兄の邸宅に着いたのは、そろそろ日が暮れかかった頃だった。ふだんならなんでもない距離だが、すでにトゥオルコク方面から市中へ向かう道は、人や車でいっぱいだった。  従兄コー・ベン・スンさんの家は、市の最繁華街ケマラクプーミン通りに面した五階建ての大邸宅である。手広く貿易を手がけ、プノンペン有数の金持ちとして知られていた。  長男リム、それに夫婦を迎えにきた次男ベンは、いずれも日本留学の経験者だ。長男の方はそのとき教会で知り合った、泰子さんより二歳年上の家里容子さんを妻に迎えていた。  スンさんの邸宅には、一家の到着と前後して親戚、遠縁なども集まり、総勢は三十人前後になった。  この段階ではまだ、誰もそれほど深刻な危機感を持っていなかった。  客好きのスンさんは、広い食堂に、おりからの正月料理の大皿を次々と運ばせた。にぎやかで豪華な一夜となった。  次の日、少なくとも市中心部は、比較的穏やかに暮れた。スンさん宅の一族約三十人は、二回目の晩餐を終えた。ブタ肉の角煮、ピーナツとカレーをまぶした大きな牛肉の塊、モチ米とブタ肉の蒸し物——など、前夜に引き続き数々の大皿がテーブルを埋めた。食事中の空気はくつろいだものだった。  この日早朝、四十八時間の外出禁止令が出されたが、暗くなっても共産側の砲撃はきわめて散発的であった。  食卓では、ワインのグラスを合わせて「良き新年」を祝う言葉さえ交わされた。  食事が終わって一時間もたたないうちに、邸内の空気は変わり始めた。 「赤いクメール」の最後の集中砲撃が始まったのは、午後八時過ぎであった。  ついさっきまで、たまに遠くに落下していたロケット弾が、にわかに雨のように街中に降り始めた。ロケット弾はもともと無差別殺傷を目的とした弾丸である。着弾と同時に無数の鉄片となって|炸裂《さくれつ》する。その破裂音はすさまじい。  この夜、プノンペン市民を震えあがらせたのは、そのけたたましい炸裂音ではなかった。天から巨岩が降るような鈍い音である。遠く近く落下する弾丸は、雨期の湿気のせいか、大部分は不発弾だった。ボソッ、ボソッと地を揺るがせて打ち込まれる着弾音は、かえって不気味で迫力があった。夜がふけるにつれ、陰気な着弾音は、ますますひんぱんに町の空気を震わせた。スンさんの邸のすぐ前の大通りにも何発か落ちた。  その音を聞きながら夫とどんな会話を交わしたか、泰子さんは覚えていない。  カンボジアの風習ではこうして内輪の者が集まったとき、食卓でも居間でもしぜん男女が分かれ、別々の輪をつくる。そしてそれぞれのおしゃべりに熱中し、たとえ夫婦同士でもこの輪を越えて声をかけ合うことはめったにないそうだ。このへんは同じインドシナでも、とくに女性のご機嫌を取りむすぶことを食卓や社交の第一のマナーとするベトナムとは、かなり|趣《おもむき》が異なる。フランス植民地主義者らが、インドシナ諸国民のうち、とくにその天性として洗練と優雅さを重んじるベトナム人をことさら“都会人”に仕立てあげ、カンボジア人、ラオス人は最後まで“百姓”扱いしたことの名残かもしれない。  泰子さんも女連中の輪に加わり、もっぱら、もう一人の日本女性、家里容子さんと身を案じ合った。  夜半、砲撃はますます激しくなった。  本当にプノンペンはこのまま共産軍に占領されるのだろうか。万一そういうことになれば、日本に帰った方が無難かもしれない。これまでの諸国の共産革命の例からみて、たとえ占領されても、二カ月ぐらいは外国人に出国の猶予が与えられるだろう。どうしても、という場合は、そのときになってからにしよう——だいたいこんな結論に落ち着いた。  不発弾の雨にさらされたプノンペンは、町中息をひそめてその夜を過ごした。前日まで繰り返し発令された外出禁止令は、郊外からプノンペンへ逃れてくる流入難民の波にのまれて事実上無効だったが、この夜ばかりはだれも外出するものはいなかった。首都圏警備の部隊やパトロール隊のトラックさえ姿を消し、大通りはシンと静まり返っていた。 「赤いクメール」のプノンペン総攻撃は一九七五年一月一日を期して開始された。当初はこれが|最後《ヽヽ》の総攻撃になると予測したものは、外部の専門家の間にもいなかった。インドシナの戦争はそれまで多くの場合、一種のシーソーゲームだった。いずれの国でも乾期に入りゲリラ活動がしやすくなると、解放勢力側の攻撃が激化する。そして雨期が来ると、補給網の堅固な政府軍が反攻に出て、乾期中に奪われた地区や陣地を取り戻す。  乾期は、おおざっぱにいって日本の秋口から始まる。年末から年初にかけて本格化し、四月、五月頃から雨が降り始める。一日中降り続くわけではなく、一定時間、水煙りを上げて車軸を流すように降りそそぐ。雲が去るとまたカッと照りつけるのが通例である。平坦な低地続きのカンボジアでは、このスコール期になると、トンレサップ湖の面積が二倍以上に広がり、ほぼ全土が湿地あるいは、沼地と化す。  スコールの降り方(というより落ち方といった方が適切か)は、この間、攻守双方ろくに銃も撃てず、しぜん戦闘も小休止となるほどのすさまじさである。それが連日続いて国中ぬかるみと化すと、どうしても機動性を本領とする解放勢力側は相対的に不利になる。  首都プノンペンもすでに七一年頃から、年末年初になるとジワジワと共産側の“鉄の輪”にしめつけられ、春から初夏にはしぜんとその包囲網が後退するのが毎年の例であった。  したがって七五年一月に始まった最後の攻撃も、例年にくらべ、ややそのホコ先が鋭くはあったものの、“恒例の乾期攻勢”と受けとる向きが圧倒的に多かった。  今年は様子がおかしいぞ、と、外部が気づきはじめたのは、二月から三月にかけてである。それまで不落のメコン川畔の要衝ネアクロンが落ち、首都と南部カンボジアの交通路が絶たれた。その後の戦況の進展は急激だった。首都外郭の街道の要所が矢つぎ早に陥落した。三月十三日の「赤いクメール」側地下放送は「国土の九七パーセント、人口六百万人を解放した」と伝えた。  カンボジアでは一九七三年八月十五日、米軍空爆が中止された。以後、着々と準備をととのえて総反攻の機会を|狙《ねら》っていた「赤いクメール」及びその背後の北ベトナム軍は、米軍支援を失った政府軍が十分に弱体化するのを待って、ようやく、しかし突然ほんものの勝負に出てきたのだ。  四月に入ると、すでに戦況は完全に政府側に絶望的であった。各地の政府軍は相互の連絡を絶たれて解体し、崩壊した部隊は退却に退却を重ねた。 「正月期間中一日五百発の砲弾を首都に撃ち込む」などというビラがプノンペン市内の工作分子によってばらまかれた。ロン・ノル大統領は病気療養と称して早々とハワイへ逃亡した。なんとか五月の雨期入りさえもちこたえれば、危機を切り抜けられる、と言いはっていたディーン米大使も、四月十二日には、海兵隊の命がけの援護のもとで、砲弾ふりそそぐ首都からヘリコプターで脱出した。  同十四日、プノンペン市内の政府軍総合参謀本部を反乱機が襲い、二発の爆弾を浴びせた。翌十五日には郊外の工場地区で大火が発生、夜に入っても燃え続けた。  その頃、共産側先遣隊はすでに郊外数キロに迫り、市内から目と鼻の先のポチェントン空港への道路もとっくに切断されていた。  実際には、もうプノンペンの崩壊を食い止める手段は何一つ残されていなかった。いや、泰子さんらがスンさんの邸宅に避難し、皆が「良き新年」を祝っていた頃、プノンペンはすでに“死んでいた”と言った方がいい。  それでも町の人々は、まだ一〇〇パーセント本気で共産軍の首都攻略の可能性を信じていなかったようだ。渦中に身を置くと断片情報しか手に入らず、ともすれば全体の展望がきかなくなる。それ以上にやはり、このあまりに急激な終末の訪れを信じたくない気持ちが強かったのかもしれない。  スン氏邸の人々も、不発弾の雨におびえながらも、「まさか、まさか」を繰り返しながら眠れぬ夜を過ごした。  こうした心的状況は陥落直前のサイゴン住民の間でも同様だった。南ベトナムの首都サイゴンは、プノンペン陥落から十三日後の一九七五年四月三十日、陥落した。私は当時現地で取材にあたっていた。最終段階での状況判断は、総じて現地よりも外部のワシントンや東京の方がはるかに正確であった。米国がディーン大使をプノンペンから脱出させて、最終的に隣接同盟国のカンボジアを見捨てたとのニュースが伝わったときも、サイゴンの軍部・政界はさすがに騒然とした。しかし緊張感、危機感は町のレベルまで伝播しなかった。  四月下旬に入ると、共産軍はもう市東方の街道の玄関口にあたるドンナイ橋の突破を試み、一群の決死隊を送り込んだ。市街地縁辺からほんの三、四キロの地点である。橋のこちら側に配置されていた政府軍戦車隊が、いっせいに砲門を開き、橋上を|吶喊《とつかん》してくる決死隊を全員、吹き飛ばした。すでに事実上の市街戦であった。共産側百三十ミリ砲や各種ロケット砲は市中心部を射程内におさめ、連日、サイゴンの夜空は赤く染まった。  信じられないような話だが、こうした中で、陥落を二日後にひかえた四月二十八日まで、市内の映画館には朝から行列ができていた。ラケットを片手に、自転車でコートに向かうテニスウェア姿の紳士も見られた。  こんな現地の空気の中に身を置いていると、数十時間後に共産軍戦車隊が町になだれ込んでくることなど、あまりに現実離れした事態に思えた。  私が『サイゴンはいま間違いなく崩壊しつつある』という書き出しで、“決定稿”を書き送ったのは二十八日夕刻遅く、町が北ベトナム軍パイロットらの空襲を受け、すでに物理的崩壊を始めてからであった。  冷徹に情報を総合して判断すれば、崩壊はすでにその何日も前から始まっていた。それまで、“決定稿”を書かなかったのは、結局のところ|書きたくなかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》からだ。新聞記者として然るべき態度とは思わないが、この町に慣れ親しみ、ここで家庭を持ち、この世界を自分の世界として生きた一人の人間として、私は、やはり自分の人生をふたたび決定的に変えてしまうであろう眼前の事実を直視したくなかった。  外国人の私でさえそうであったのだから、この土地で生まれ育った人々にとってはなおさらであったろう。人々が現実に生じた事態を真に理解したのは、三十日午前、四方の街道から完璧な戦闘隊形を組んで市街に突入してきた共産軍のロシア製T54戦車群の姿を、自らの目で確認したときだったのではないか、と思う。  いずれにしろ、思いがけぬ、それも自分にとって望ましくない事態が迫ったとき、眼前を直視することを避けようとする本能的傾向は、日常生活においてもしばしば体験する。一国の陥落あるいは滅亡という、日常性を|凌駕《りようが》した事態に見舞われた場合も、この本能は同様に作用するらしい。   プノンペン陥落  長い夜が明けた。共産軍「赤いクメール」の集中砲撃音もいつかやみ、プノンペンの町はつきものの落ちたような静けさの中で目覚めた。  スンさんの大邸宅で眠れぬ一夜を過ごした一同は、早々に|蚊帳《かや》をはい出し、バゲット(フランス風棒パン)とゆで卵、サカナのかんづめなどで朝食をすませた。  午前七時のニュースを聞くため、だれかがスイッチをひねったが、ラジオは無言だった。どうやら放送局も砲撃を浴びたらしい。泰子さんと家里容子さんは、緊張の一夜の疲れをほぐしに三階の居間に戻った。通りにどよめきが起こったのは午前九時頃だった。  二人は窓に駆け寄った。右手数百メートル離れたトンレサップ川の方から五、六台の戦車がやってくるのが見えた。家並み一つを隔てた向こうの通りにも別方向からやはり数台、いずれも白旗をなびかせ、規則正しい間隔を置いて近づいてくる。  泰子さんたちには戦車の型式の識別がつかない。政府軍? それとも共産軍? 「クァイだ。とうとうクァイが来た」  スンさんの次男のベンがカメラを手に興奮し切った顔で三階に駆け上がってきた。 「クァイ」とはカンボジア語でカラスのことだ。「赤いクメール」の兵士たちが黒ずくめの服装をしているところから、プノンペンの人たちはこう呼んでいた。 「歴史的瞬間だぞ」  ベンは、窓から身を乗り出して何回もシャッターを切った。  戦車兵たちはたしかに皆、黒服だった。白旗をかかげた戦車は、共産軍が政府軍から分捕ったものだ、とベンが教えてくれた。  住民たちは通りに飛び出し、歓声と拍手で勝利者を迎えていた。  そんな光景を見下ろしながら、泰子さんは深い感動にうたれた。戦争が終わった——五年にわたる流血と破壊に終止符が打たれ、自分はいま本当にその歴史の瞬間に立ち会っている。もう通りのあちこちに“カラス”が姿を現していた。十四、五歳の少年兵もいる。兵士らの表情はけわしく、市民の“歓迎”に応じる気配はなかった。その代わり、どこで手に入れたか、いずれも五、六本のバゲットをわきにかかえ、むさぼり食っていた。 「かわいそうに」  と、容子さんがつぶやくように言った。  あんな若い兵士がさぞ長いこと空腹に耐えて戦ってきたのだろう、と思うと、泰子さんの目にも涙がにじんだ。  あのとき、自分が泣いた本当の理由はわからない。  カンボジアはこれで共産化された。少年兵たちはどんな気持ちでパンを食べているのか、そして、共産軍に分捕られた戦車についさっきまで乗っていた政府軍兵士たちの運命は……。  いろんな思いが入り混じっていた。でも、やはり平和がよみがえったうれしさがいちばん大きかった。 「よかったわねえ、よかったわねえ、と容子さんと手を握り合った」と彼女は言う。 「赤いクメール」が自らのラジオで最終的にプノンペン解放の達成を宣言したのは、その日、一九七五年四月十七日の午前九時半である。政府側は正午過ぎ、国営放送を通じて全将兵に武装放棄を命じ、無条件降伏宣言を行なった。  これによりカンボジアは正式に共産主義者の支配下に入った。アンコール・ワットの国とその国民にとって、歴史的な日付けが画された。  余談になるかもしれないが、この本の原型を新聞に連載していたさい(サンケイ新聞、『私は生き残った』昭和五十四年七月十二日より九月六日まで)、この「赤いクメール入城の光景に二人の女性が感動した」というくだりを読んだある識者から、ひとつの意見が寄せられた。  注意深い表現ではあったが、要旨は「これで平和がよみがえる」と思った二人の、共産主義に対する認識の“甘さ”への苦言であった。  事実、その後の勝者らの酷薄さを考えると、彼女らがパンをむさぼり食っていた兵士らに同情の涙を流したことが、いかに|善良《ヽヽ》すぎ、ナイーブすぎたか、思い知らされる。  識者は、この二人の姿を引き合いに、日本人の共産主義の恐ろしさに対する無知さかげんを説き、強く反共の警鐘を打ち鳴らしていた。  私は、パンをむさぼる兵士らに同情の涙を流した二女性の心の流れはきわめて人間的なものであったと思う。  この世には、理屈を越えて人を深く感動させる場面・状況がいくらでもある。むしろ、あるとき理屈抜きで感性に身をまかせ得ること自体が、人間の美しさであり、救いでさえあるのではなかろうか。こうした人間としての心の動きの自然さを度外視するのは、少々酷ではないかという気がする。  泰子さんらが、「わけもわからず」感動の涙にくれた日から約二週間後、隣国南ベトナムの首都サイゴンにも長い戦いを耐え抜いた共産軍が入城した。戦車やトラックの上で解放旗を打ち振りながら乗り込んできた若い勝利者らの輝く顔を目にして、私もやはりまちがいなく感動した。泰子さんと同様、彼らがその背後に残してきた幾多の悲痛と断腸の軌跡に思いをはせると、感情を抑えることはできなかった。  もっとも、泰子さんらと私の感覚を隔てていたものは、その時の私が、一方で兵士らに祝福の目を向けながら、一方では今後に起こるであろう事態にいささかの幻想も抱いていなかったことだ。私は苦難の末に勝利した共産軍の兵士らの喜びに思わず手を振って応じたくなるような共感を覚えながらも、同時に、これからこの国を見舞うであろう苦難と混乱をはっきりと予測した。  私の心は感動に揺らぐと同時に、今後、勝利者をも含めて、この国の人々が体験しなければならぬ日々を思いやり、暗く、重く、沈んだ。  そして、いま考えても、この互いに矛盾する二つの感覚は、いずれも生きた心を持つ人間としてごく自然のものだったと思う。   首都を追われて  インドシナ諸国の共産勢力は“解放”を“人民の力による人民の勝利”と呼ぶ。しかしプノンペン制圧も、サイゴン制圧も、実際には|プロの軍隊《ヽヽヽヽヽ》による完全な武力制圧であった。いずれの場合も、少なくとも私たちがその表現に託しているような意味での「いっせい蜂起」は、最後の段階まで起こらなかった。ものをいったのは、結局のところゲバ棒であった。  その後のインドシナ情勢を眺めるうえで必須の前提条件は、この明白な事実をしっかりと頭に入れておくことであろう。この点の認識をあいまいにしておくと、なぜ、新生インドシナ諸国の国造りがこうも難渋しているか、を始め、カンボジアの「大下放」政策、ベトナムの「ボート・ピープル」問題などの本質がすべてわからなくなってしまう可能性がある。  もっとも、首都に戦車で押し入った後のカンボジア、ベトナム両共産軍の“戦後処理”の方法は、大きく異なった。  私は共産軍入城後、なお一カ月間をサイゴンで過ごした。その間、町の空気は多分にお祭り気分に包まれていた。  陥落前後のひとときの緊張と恐怖が去ると、たちまち“融和”(少なくとも個人レベルでの)が生まれた。街頭や家々の戸口で、何年ぶり、十何年ぶりの再会を喜び合う親子兄弟の感動的光景が見られた。  南部出身のゲリラたちは解放の翌日から、旧体制側にいた以前の知人や級友と手をつなぎ合って町を散歩していた。北ベトナムから乗り込んできた共産軍主力の正規兵らはいくぶん態度が固く、迎える町の人々の表情・態度もよそよそしかった。それでも、兵士らがトラックやジープの上からしきりに愛想をふりまき、“占領者”としての自らのイメージを払拭しようと努力していることははっきりと感じられた。  隣国カンボジアでは、途方もない事態が生じた。  首都の要所要所を押え、ついでにパンをたいらげ終わった「赤いクメール」の兵士らは、時を置かず次の行動に出た。 「平和の回復」への感動と興奮がさめやらぬ泰子さんらが、朝食の残りで簡単な昼食を済ませた頃、町内に拡声機を取り付けた黄色いマイクロバスがやってきた。映画館の宣伝カーを接収したらしく、車体はまだけばけばしい宣伝ポスターに覆われたままだった。  各戸とも銃器、鉄棒、電話を通りに出すように、と、マイクロバスから兵士たちが大声で告げて回った。その強い命令口調に気押され、人々はためらいながらも言われたとおりにした。やがて、黒服の兵士らが何分隊も来て、家々の入り口に出された物をトラックに積み込んで持ち去った。家々の電話線もズタズタに断ち切っていった。  ついで再びマイクロバスが巡回してきて、各町内の住民に、ただちに家を捨ててプノンペン市内から立ちのくよう命じた。当時、首都の人口は近郊からの避難民も入れて三百万人近くにふくれ上がっていた。これらの住民に対する「総退去命令」である。退去理由は、米軍機の空襲から身を守るため、と説明された。  多くの住民は、あまりのことにポカンとした。銃を手にした兵士たちが乗り込んできて、家の中にいる人たちを片っぱしから追い出しはじめた。兵士らの表情、態度はけわしく、殺気立っていた。  一帯の住民は市内から十数キロのプレクプヌーという村へ行くように指示された。半信半疑、というより、多くの人々が、さし迫った兵士たちの態度から“米軍機来襲”の可能性を信じた。スンさんの邸宅の約三十人も、当面、必要な身の回り品や三、四枚の着替え、わずかのコメ、干し魚、塩づけにしたアヒルの卵、ソーセージなど、もちのいい食料を車に積んだ。  金目の物を持つとかえって危険がある、という夫の言葉に従い、泰子さんは宝石を入れたアタッシェケースを三階の飾り戸だなと壁の隙間に隠した。上にマットレスを置いてカムフラージュした。  兵士らは、市北方国道五号線沿いのプレクプヌーの革命組織で各住民が姓名・住所などの登録を終えれば、二、三日中に町へ戻す、とも言った。米軍機来襲説と矛盾しているが、とにかく有無をいわさぬ追い立てぶりであった。泰子さんも追い立ての激しさに動転していた。しかし、そのときは本当に二、三日で戻れるものと思っていた。  プノンペン中の街頭はたちまち、あり合わせの身の回り品を車や荷車に積んだ住民らで埋まった。車も荷車もない連中は紙袋や布袋に最低必需品を詰め込んだ。  男連中の意見は、遠くまで行かず、ひとまず近くにとどまって様子をみよう、ということで一致した。  一族と懇意のビッチ医師の邸宅が郊外にある。三十人の一行は四台の車に分乗してスンさんの邸宅を後にした。  監視兵の少ない道を迂回して、夕方、ビッチ医師の家に着いた。医師の家は、プノンペン市街からポチェントン空港に通じる国道から、やや奥まった高級住宅地にあった。泰子さんらの自宅があるトゥオルコク地区とは、国道をはさんで反対側である。  この古くからの高級住宅地には、昼頃、何人かの兵士が回ってきただけで、まだそれほどきびしい「退去命令」はない、と言う。  一同はホッとした。医師の家も三十人の突然の来訪者を楽に受け入れられるほど広い。泰子さんたちは入浴し、昨日の夕刻から続いた緊張と不安の糸をちょっぴりゆるめた。  ビッチ医師は三十歳代半ばの独身者である。その後、プノンペンを追われて以後の行動を一同と共にすることになる。  医師の姉夫婦は、「赤いクメール」の指導者の一人、キュー・サムファン氏を敬愛し、何年も前から赤ん坊一人を老母に託して森に潜っていた。  スンさんの邸宅から追い出された一行がビッチ医師のもとに赴いたのは、彼の姉夫婦から何らかの情報・連絡が届いているのではないか、との期待感からだった。期待はずれだった。  医師はすでに、姉夫婦の生死についてすら知らなかった。  一般にインドシナ諸国では、「家族の絆」を重んじるのが古来の風習である。  しかし、「赤いクメール」の場合も、隣国のベトナム共産党の場合も、「党への忠誠」の前では親兄弟のつながりはほとんど効力がない。  サイゴンが陥落したさいも、私は、ベトナム人にとってあれほど神聖なものであった肉親のつながりがいかに無力のものであったかを身近に見た。首都に居残った知識階層の多くは、親兄弟が解放戦線の幹部なので「かばってもらえるだろう」と少なからぬ期待を抱いていた。  とりわけ、儒教の影響が強いベトナムの場合、インド文化圏のカンボジアよりさらに「家族意識」が強い。  この「家族意識」は、役人を採用するときなどに、「ネポティズム」と呼ばれる“縁者びいき”を招き、旧南ベトナム政府上層部の腐敗に拍車をかけた。  グエン・バン・チュー旧南ベトナム大統領と、その夫人は、多くの親族で各界の重要ポストを固めた。動乱の世界では他人は信用できない、という感情が強いことも確かだ。だが、同時に自分が出世すれば、家族、親族にもそれなりの“おすそわけ”をしてやることは、インドシナ世界ではある程度の常識であり、さらにいえば、家長としての祖先に対する義務でもあった。  米国製民主主義を、インドシナあるいは東南アジアに直輸入しにくい大きな原因は、こんなところにもあるのだろう。  インドシナを解放した共産勢力は、この伝統的な精神規範を“進歩のさまたげ”とみなし、さまざまな手でこれを打ち破ろうとした。ベトナムの場合、新しい教師は児童に「父親、母親の言動に注意せよ。“反革命的”な両親を告発することは、ホーおじさん(ホー・チ・ミン大統領)の子である君たちの義務である」と教えた。  子が親を批判する——この教育方針は、すでに伝統的価値観を血肉としている庶民層、とりわけ母親たちを激昂させた。哀れなのは子供の方だ。当初、先生の教えるままに、親の“封建的”命令に逆らったり、口ごたえしたりしたものもいたようだ。その報酬として彼らは翌日、体中にアザをつくり、顔を二倍ぐらいに|腫《は》らせて登校することになる。それでも律儀に先生の言いつけを守って敢然と親の“教育”を試みると、今度は顔を三倍ぐらいに腫らせて登校しなければならない。結局、子供にとっては先生より母親の方が何十倍も恐ろしいから、この学校教育は大混乱を招いた。母親たちが学校に押しかけ、わが子を堕落させるような“教育熱心”な先生たちにどなりこむような騒ぎも随所で起きた。ベトナム庶民の多くが新政府に背を向けた原因の一つはこんなところにもあった。  ただし、この「ネポティズム」の傾向は、この“悪風”を除去しようとした当の共産党幹部の内部でも、いかんなく発揮されている。  後のシアヌーク殿下の発言では、「赤いクメール」内部の実権はすべてポル・ポト首相夫妻、イエン・サリ副首相夫妻に集中し、この“四人組”以外は、何の政策決定にもあずかれなかったという。ベトナムの場合も、海外留学生のワクや、うまみのあるポストの配分や、上級学校への進学権、劇場、映画館の席にいたるまで、党幹部の子弟が極端な特別待遇を受けている。こうした傾向は、多かれ少なかれ他の共産党独裁国家にもみられることだそうだが、これまで外部から幾度となく、その賢明さ、柔軟さを称えられたハノイの指導者も、結局「権力のワナ」から逃れることはできなかった、ということなのか。  その晩、ビッチ医師宅では盛大な晩餐が行なわれた。いずれここにも追い立てが回ってくるだろう。男連中は、つぎつぎとフランスワインのビンをあけた。“威勢づけ”のようでもあったが、高級外国製品を保持していることが、もし共産軍に見つかったら……。それなら、いっそのことみんな飲んじまえ、という気持ちが強かった。  食後、若い女性たちは、白い布で細長い袋をいくつも作った。大きい袋、小さい袋。全員がこの袋にコメを詰めて、背中にタスキがけで背負うためである。小さい袋は、子供たちのものだった。夜になっても兵士らは回って来なかった。泰子さんは医師が用意してくれた来客用のベッドに就いた。  その後、約四年間を通じて彼女がベッドで寝たのは、この夜が最後となった。   街道へ——  翌朝九時頃。  日頃から病弱の長男トーモリ君が腹痛を訴えた。泰子さんが常備薬の箱をかき回しているところへ、別室でラジオに耳を傾けていた夫タンランさんが駆け込んできた。  いいニュースだ、と言う。  占領者たちが、市内のホテル・プノンをインタナショナル・ゾーンに指定したので外国人はすぐにそこへ集合せよ、との報道だった。ということは、新しい支配者らが国際赤十字の呼びかけに応じ、外国人のための“安全”を保障したことになる。  一同に勧められ、一家はただちにホテル・プノンに出向くことにした。  泰子さんは日本人だし、日本で生まれたトーモリ君も日本国籍を|併《あわ》せ持っているから“外国人”だ。この二人に問題はない。夫のタンランさん、次男トニー君も「家族」ということで受け入れてもらえるだろう。  養女ティニーさんは残ることになった。彼女はタンランさんの先妻の娘で、当時、医科大学の学生だった。日本人である泰子さんとは正式の養子縁組の手続きをとっていない。それにビッチ医師宅に集まった一族の中には彼女の実の叔母もいた。叔母一人をここで見捨てることはできなかった。  ティニーさんは叔母とこのまま国にとどまり、ひとまず、彼女らの故郷であるクラチエに行ってみることにした。クラチエは首都から東北へ百五十キロ、メコン川東側の大都市である。すでに長い間、「赤いクメール」の牙城として、プノンペンとの交通は途絶していたが、戦争が終わった今、道も開通したのではないか。「赤いクメール」のラジオも「戦争中に地方から首都へ移り住んでいたものは故郷に戻っていい」と告げていた。  もう一人の日本人、スンさんの長男の妻、家里容子さんは、いったん夫と別れて二人の子供とともにホテル・プノンに移ることになった。彼女の夫リムさんは中国系だ。前項で触れたように、インドシナ地方に残る中国的価値観では、長男が親を見捨てることなど、天罰を受けて然るベき“義務不履行”であり、“反社会的行為”でもあった。  多少冗談めくが、私と妻が互いに結婚しようか、という気になり始めた頃も、これが大きな問題になった。彼女は女性ながら一家の「家長」だった。先祖を祭る義務と数十人に及ぶ一族を養う義務を一人で背負い込んでいた。先祖の祭りと一族の扶養は日本からでもできないことはない。しかし、「私は日本なんて行くのはイヤだよ」と言いはる老母のそばを離れることは、彼女自身の価値観からも到底できかねる相談だった。 「いったい、お前さん、オレとお袋さんとどっちを選ぶんだ」  多少頭にきた私がつめよると、当時(まあ多分、今も)ぞっこん私に惚れ込んでいた(と、少なくとも亭主の方は思っているわけだが)彼女は、いとも平然と、 「そんなこと当たり前じゃないの。ママンの方を選ぶわ」  と、答えた。  その後、間もなく問題の老母がポックリ逝ってしまった。結局、彼女は“二番手”の私についてくることになった。  泰子さんら一家四人、容子さんとその二人の子供の計七人は、多少の現金と最小限の身の回り品をあわただしく用意し、ビッチ医師らが提供してくれた二台の車でホテル・プノンに向かった。  ホテル・プノンは、プノンペン発祥を記念するプノムの塔にほど近い、ドーンペン並木道に面して広大な敷地を持つ、市内で最も格式の高いホテルである。シアヌーク時代はホテル・ロワイヤルの名で知られたが、ロン・ノル共和体制後、改名された。二台は、家財道具を乗用車や手押し車に載せて三々五々町を出て行く住民らの流れと逆行して、小一時間で並木道に入った。  その時、ホテルのすぐ手前のフランス航空事務所前に道一杯に広がってピケを張っている「赤いクメール」兵士らの姿が見えた。  停車を命じられた。行先を聞かれた。  泰子さん夫婦は車から降りた。パスポートを提示して、さきほどの放送内容を説明した。 「われわれはそんな指示は受けていない」  と、兵士らは言う。  みんなはせいぜい二十歳前後で、手にしたパスポートを横にしたり、逆にしたりしている。だれも字が読めないようすだった。  タンランさんが、自分の妻は日本人で、この書類はパスポートといい、出国許可証明なのだと説明した。若い兵士らは耳をかさなかった。指示を受けていないから、戻れ、の一点ばりだ。なお頼み込むと、突然、三人が銃口を胸元に突きつけた。  ぐずぐず言うと射殺するぞ、と、ものすごい剣幕で叫んだ。  |悄然《しようぜん》として、正午過ぎ、ビッチ医師宅に戻った。  居残り組は、ちょうど昼食を始めていた。事情を説明し、泰子さんらも腹ごしらえに加わった。  その頃は住宅街はまだ比較的静かだった。  午後二時頃だったか、突然、近所でけたたましい自動小銃の連射音がした。続いて、何台ものモーターバイクにまたがった兵士たちがエンジン音をいっぱいに響かせて、住宅街になだれ込んできた。兵士たちは乱暴にエンジンを吹かせながら小路から小路を走り回り、住民に退去を命じた。  今はこれまで、と一同も観念した。用意したコメ、干し魚、ソーセージなどの貯蔵食品や衣類を車に積み込んだ。ビッチ医師やその知り合いも加わり、車六台の“キャラバン”となった。 「赤いクメール」は市内各地区の住民を最寄りの街道から郊外に追い出した。市南部の住民は国道一号線あるいは国道二号線方面へ、西部に住む人々は四号線、三号線伝いに、そして北東部の住民は五号線方面へ、というふうに。  一同が指示された集結地は北部へ向かう五号線沿いのプレクプヌーという村落の付近だった。五号線は首都から約四十キロほどで、東部カンボジアへの動脈、国道七号線と分岐する。プレクプヌーは、この分岐点よりずっと手前、プノンペン市縁辺部から十三キロ程度の地点である。  ビッチ医師邸から間道伝いに五号線に出る途中、次男のトニー君がオートバイで、泰子さんらが三日前に去ったトゥオルコク地区の様子を見に行った。すぐに戻ってきて、まだ同地区には追い立てが来ていないようだ、と報告した。  一同は最後の試みとして、そこへ“避難”することにした。  家は少しも荒らされていなかった。近所の人々のなかには、まだ頑張って様子をうかがっている連中もいたが、多くはそそくさと車に荷を積み込んでいた。  一行はここでコメをさらに補給し、塩、かんづめなど食料をかき集めて車に積み込んだ。泰子さんは、家族の着替えをできるだけたくさん持って行きたかった。  夫は反対した。タンランさんは、すでにいったん首都を追われれば三日や四日で戻ってこられるとは思っていなかったらしい。余分な衣類などより、車の修理道具、大工道具、石油ランプ、ナベやカマの方が大切だ、と妻を説き伏せた。夫婦が以前、旧南ベトナムの首都サイゴンに勤務していた頃買い込んだ三十人用の大テントも積み込んだ。一族そろってのピクニックや、タンランさんの大好きな釣りや狩猟旅行のために買った品だ。  荷造りを終え、家を出る前、タンランさんは、先日植えたばかりの十数本のヤシの苗に水をやった。  すでにその頃、住宅街の街路も人、車、荷車、手押し車でいっぱいだった。とても乗用車を運転できない。エンジンを切った車には、ハンドルをとるため一人だけ残り、皆で車を押して歩いた。  国道の入口まで来たとき、泰子さんは、貴金属店の前で背中を道路に向けてヨロイ戸にひざまずき、大声で泣き叫んでいる中年の男の姿を見た。男の両手首は、閉じられたヨロイ戸の大きなカギに鎖で縛りつけられていた。周囲の人々の話では、男は、正月休みで里帰り中の妻が帰ってくるまで家で待たせてくれ、と兵士らに頼み込んだ。兵士らは、それならお前は一生涯こうして待ってろ、と彼をこうして縛りつけ、そのまま行ってしまったそうだ。ぶざまな格好で子供のようにオイオイ泣いている男の姿を見て、初めて泰子さんの背筋は凍った。こんな残酷な兵士が相手ではどんな抵抗もムダだ、と思った。  プノンペンを制圧した「赤いクメール」の兵士はせいぜい十万人余りだった。その彼らが瞬時にして何百万人の人々を羊の群れに変え得た事実に、私は当初あるいぶかしさを感じた。しかし、その十万人が、たとえば「日本赤軍」の連中と同様の精神形態や行動方式の持ち主であったと想像すれば、これを理解するのはそう困難ではない。兵士らは「恐怖政治」の真の技術と方法を「日本赤軍」などよりはるかに的確に学び、身につけていたといえるかもしれない。  国道五号線に出ると、人と車の波はさらに身動きのできないほどのものになった。インドシナの気候は雨期入り直前のひとときが最も厳しい。日中、陽射しの下の気温は、ときには優に四十度を越える。この炎天下の街道行進の辛さがどんなものであったか、他国に逃れたカンボジア難民の多くが一様にそれを口にする。押し合いへし合い、ときには数時間かけて二、三百メートルも進めない。甚だしい場合、長さ数百メートルの橋をまる一昼夜かけて渡った、との証言もある。それでも後から後から押してくるので、腰をおろして休むことはおろか、足を止めることもできない。  この大群衆を、銃を擬した「赤いクメール」の兵士らが、「早く歩け、早く歩け」とせかした。彼らは街道両側に、十数メートル置きに配置されていた。口で命令するだけでは満足せず、やたらと空に向けて威嚇射撃する若い兵士もいた。街道の中央には何台もの戦車が陣取り、砲塔に仁王立ちの兵士らが、“交通整理”をしていた。  この大下放政策発動直後の街道光景の詳細が伝わったとき、世界は顔色を変えた。  とりわけ人々を|慄然《りつぜん》とさせたのは、「赤いクメール」が|瀕死《ひんし》の重病人、手術直後のケガ人、出産間近の妊婦などをも、情容赦なく病院から追い出し、街道へ駆り立てたことだ。片腕に注射針を刺し、もう一方の手でリンゲル液が入ったビンをささげて、よろめきながら歩く病人がいた。包帯に覆われた腹を真っ赤に血で染めている老人もいた。数時間前に、切開手術をしたばかりだという。道端の赤土にサロン姿の若い女性が倒れていた。かたわらで夫らしい男が、「助けてくれ。医者を探してくれ!」と、必死で叫んでいる。泰子さんは、荷物を積んだ乗用車を押しながら、若い女性の下腹部から赤ん坊が半分、外へ出ているのを見た。  郊外のある工場の門前、一枚の大きなドアに手足を五寸クギではりつけられた素っ裸の男の死体がさらしてあった。胸には「クマン(敵)」という一文字が黒い塗料で書きなぐってある。死体はもはや正視に耐えないほど真っ黄色にふくれあがって、顔の見分けもつかなかった。人々は目をそむけ、よけて通ろうとした。死体のかたわらの兵士らが「よく見ておけ」と強要した。  あれで、みんなが頭に白い布をつけていたら、文字通りの地獄の光景だった——このときの街道のありさまを語るたびに、泰子さんは決まってこう口にする。  話がそれるが、私は、この泰子さんの体験談、目撃談を聞きながら、よろず伝聞情報というもののひとつの特性を感じた。これは、私たち報道者にとっても、また同時にその報道に接する側の人々にとっても、案外ゆるがせにできないことと思われる。炎天下の街道を銃剣に追い立てられながら“一時間二百メートル”の速度で歩かされた人々にとって、その体験が“地獄”であったことは疑いを容れない。また、道端で獣のように出産する婦人や、裸でハリツケにされて死体がさらされていたことも、他の難民の証言からはっきりと確証されている。  むしろ、私がちょっと立ちどまりたくなるのは、多くの難民が、この残酷な行進のすさまじさを伝えるために、決まってこの「道端の妊婦」と「ハリツケのさらしもの」の二例を真っ先に持ち出すことである。“死の行進”のありさまを伝えた何冊かの書物にも、この二例は必ず語られている。これは、とりもなおさず、そうした事実があったことの何よりも雄弁な証拠といえるのだが、ただ、あえていえば雄弁すぎるのではないか、という気がするのだ。その日、プノンペンからプレクプヌー方面へ向かう国道五号線を、何万人、何十万人の人々が通ったか、私は知らない。そして、その大半が、おそらく、この道端の産婦と、ハリツケの処刑者を見た。いずれもあまりにもどぎつい光景だっただけに“体験談”“目撃談”の|さわり《ヽヽヽ》としてこれらが出てくること自体は当然といえよう。  しかし、ここに、一種のおとし穴もあるのではないか。それは、私たちがある種のルポ記事を書くときに用いる“鋭角的手法”とやらに一脈通じている。記者自身が、取り扱う主題を最も生々しく読者に伝えようと試みた場合、彼は、自らの職業意識が最も敏感に感応した現象のみを、それもときに局所肥大的に描写・伝達したい誘惑に駆られる。どぎつい実例を二、三並べれば、それだけ原稿のパンチも効く。私はこの“鋭角的”な切り込み方そのものがジャーナリズムの邪道だとは思わない。ただし、この種のルポがルポとして通用するのは、書き手に感応した、|全体の一部《ヽヽヽヽヽ》があくまで、その全体の本質を語り、かつ全体像自体の輪郭をも過不足なく伝えるものであった場合のみだろう。言い換えれば、“鋭角的視点”をふりかざすことで、いくらでも、「事実」を伝えながら「真実」をゆがめて伝えたり、真実の一面のみを極度に誇張して伝えることができるのだ。  難民たちの話を聞いていると、しまいに、この日の国道五号線には何十人もの産婦が息絶え絶えで転がり、行く先々に“敵”の裸の死体がさらされていたような印象さえ受ける。  現実に泰子さんが目撃した産婦はただ一人であり、ハリツケ死体もただの一体であった。私が唐突にここで、あるいは言わずもがなの注釈を付したのは、ある時期の日本のベトナム戦争報道が、書き手側のどうやら|恣意《しい》的な“鋭角的”切り込み方の積み重ねによって、とんでもない方向にねじ曲げられてしまっていたことを、戦争後期に現地をカバーした特派員としてなかば絶望的な思いで実感したからである。当時、この手法で“切られた”のは、米軍の行為や、各国の親米反共勢力の腐敗と圧政ぶりであった。米軍や各反共政権の非道さを浮き彫りにする個々の報道は、おそらく「事実」を伝えていた。しかしこの「事実」を伝えた報道の総体の中に、あるていどの「真実」が語られていれば、「正義の味方」「民衆の救世主」であった解放者が勝利した後のインドシナが、どうして現在のような混乱に陥ってしまったか、について、多くの読者(報道の受け手)は、こうも途方にくれずにすんだはずではないのか。むろん私は、いまこの日の街道の凄惨な光景が過度に誇張されて伝えられているなどと言っているわけではない。右に述べたことは、むしろ報道者としての私自身が、今後もつねに|反芻《はんすう》しつづけていかなければならない、自戒のつぶやきと受け取っていただければいい。   長 男 の 死  街道の大移動は、野宿につぐ野宿だった。いぜんとして牛歩の行進。一行はプノンペンを出て三日目にようやく十三キロの距離を押され押されて、プレクプヌーの手前の養魚場にたどり着いた。広い敷地はすでに先着者でいっぱいだった。一行はそこで他の難民らから|蚊帳《かや》やゴザを買った。  さすがに主婦だけあって、こんな状況の中での「買い物」についても泰子さんは細かい値段まで覚えている。  ゴザは一枚三百リエラ(当時の換算レートで二千二百五十円)、蚊帳は、ナイロン製が三千五百リエラ(二万六千二百五十円)、木綿製が三千リエラ(二万二千五百円)——市場での相場よりずいぶん安かったそうだ。  ほかにも何か買えるものはないか、と周囲に声をかけると、米国製の豆油の大缶を二千五百リエラ(一万八千七百五十円)で売ってやるという人がいた。四缶買い込んだ。これも市場なら五千リエラ(三万七千五百円)はする品物だった。おそらく売り手は店の品をかき集めて持ち出した乾物商だったのだろう。味の素の袋などもたくさん持っていた。  管理人が逃亡した養魚場のイケスにはサカナが渦巻き、敷地内のマンゴーもいっぱいに実っていた。男連中は養魚場のイケスに飛び込み、かたはしからサカナを捕えた。ライギョに似た「テーホア」、ナマズの親分みたいな「タイダイ」、それに草魚など。女性たちはサカナを開き、干したり塩をまぶしたりして、この先の道中にそなえた。  やがてここも立ちのかされる。さらに住民の去った民家の軒先などで夜を明かしながら、人々の群れはトンレサップ川の渡し場プレクダムへと追い立てられた。  ある夜、暗くなってからレンガ工場に着いた。敷地内に空いた場所を見つけて蚊帳を張ったが、不快な異臭が鼻をつき、一晩中眠れなかった。翌朝、明るくなって夫のタンランさんらが悪臭の元を調べに行った。皆、青い顔で戻ってきた。レンガを焼く大きなカマドに、何人もの政府軍兵士の死体が詰められ、まだくすぶっている、という。夫にとめられ、泰子さんは見に行くのをやめた。  行程が進むにつれ、街道の光景はますます凄惨なものになった。疲労、飢え、渇き、暑さで、病人や弱者から順次倒れていった。道端にへたばり込んだ老人を捨てていく家族が続出した。家族は、ゴザの上に老父や老母を座らせ、わずかの水と食料を与えて、泣き叫ぶ彼らを置き去りにした。  一行が群衆にもまれながらプレクダムの渡し場付近に着いたのは、プノンペンを出て十数日後だった。わずか四十キロたらずの距離を、二週間以上かけて歩いたことになる。プレクダムは北部の大湖トンレサップ方面に向かう国道五号線と、湖から流れるトンレサップ川を渡し船で越えて、東部の大都市コンポンチャム方面へ通じる国道七号線の分岐点である。  トンレサップ川に限らず、インドシナの大河にはいずれも橋がない。戦略的理由からではなく、川幅の広さ、底の地質などから、技術的にも架橋工事がきわめて困難らしい。人も車も、バック(フランス語でフェリーの意)と呼ばれる箱型の大きな渡し船でのんびり渡る。軍隊の移動などがあると一般人は後回しにされる。ときに数時間も行列しなければならない。あの、渡し場の町の|雑駁《ざつぱく》な活気、悠々と流れる茶色の大河を人と車を満載して流れに押されながら弓なりに横切っていくバックの往来風景は、私が最も愛したインドシナの風物詩の一つだった。 「大下放」の中での渡し場は、何十万人という人々の殺到で、風物詩どころの騒ぎではなかった。人々は川岸へも近づくことができず、手前の空地で野宿しながら何日か過ごした。彼らを相手に付近の村人らがつめかけ、抜け目なく商売に精を出していた。村人たちはわずかばかりの砂糖、コメと引き替えに、難民たちから衣料、時計などを巻き上げた。  ポル・ポト政権は大下放政策とほぼ同時に貨幣の全面廃止という、これまた人々の耳目を疑わせる政策をとった。泰子さんらがプレクダムにたどりついた頃、まだ正式な布告は届いていなかったが、戦乱慣れした村人らは、もう紙幣などには見向きもしなかった。交換用の現物がなければ、食料も手に入らない。都市からの難民の中には、そこまで気が回らず、現金だけを後生大事に持ってきたものもいた。二つのビニール袋に大型紙幣をぎっしり詰めてきた若い夫婦は、絶望して、泰子さんらの目前で二人の子供とともに車ごと川に飛び込み、心中した。  ベトナム難民が日本に上陸し始めた一九七六年、七七年頃、日本の新聞は、「難民の多くは|純金《きん》の腕輪や、延べ板を持っている。旧政権時代によほど恵まれた生活をしていた人々に違いない」と、しばしば論じた。  私たちは|金《きん》をためたり純金の装身具を身につける習慣が少ない。しかし戦乱のインドシナで唯一の価値ある“通貨”は|金《きん》だ。紙幣などいくらためても一朝にして紙クズ同然になりかねぬことを人々はその体験から知り尽くしている。どんな貧民階級でもコツコツと稼いだカネを|金《きん》に替えていく。そして、いつでも身につけて逃げられるように指輪、腕輪、ネックレス、延べ板などの形で保持している。カンボジアの「大下放」のさいは、道中の検査でみんな、その|金《きん》も兵士らに没収されたそうだ。いずれにしろ、難民が|金《きん》を持っている、というその一事だけで、彼らを旧富裕階級呼ばわりする発想は、当の難民には理解し難いものであったろうと思う。  渡し場付近で野宿している間に、タンランさんの車は「赤いクメール」兵士らに没収された。「ちょっと車の鍵を貸して下さい」——窓から首を突っ込まれ、何気なく渡したのが運の尽きだった。一夜、嵐に襲われ、テントも吹き飛ばされそうな冷風と豪雨に見舞われた。骨の髄までしみいるような寒さだった。  道中、腹痛と下痢で苦しみ続けた長男トーモリ君が、急に衰弱しはじめた。  この頃、泰子さんら一家と従兄のスンさん一族は、行く先についての意見の対立からたもとを別っている。スンさんらはトンレサップ川を越えて彼らの故郷クラチエへ帰りたがった。泰子さんは、断固この大河を越えたくなかった。せめてプノンペンと地続きのところにいないと、日本へ帰る可能性も失われてしまうのではないか。  結局、泰子さん一家、容子さん一家、ビッチ医師ほか二、三人が川のこちら側にとどまった。車の屋根に積んできた自転車を二台解体して、手押し車をつくり、荷物を移した。  別れたスンさん夫妻らが、その後間もなく行き倒れて死亡したことを、ずっと後になって、泰子さんは、当時の居住先で偶然出会ったプノンペン時代の昔なじみの電気器具商から聞いた。  スンさん一行と別れた泰子さんらは「赤いクメール」のトラックに乗せられ、渡し場にほど近いウドンの山中に運ばれた。中腹に廃寺があった。廃寺の中庭は都市から運び込まれた住民ですでにいっぱいだった。  ここで住民の戸籍調べがあった。黒服の初老の委員が中庭の一隅に机を据え、全員を整列させて、次々と姓名、年齢、出身地、職業などを問いただした。出身地を問われ、泰子さんが、ジャポン(日本)だと答えると、 「なに、日本?」  書類から顔を上げた初老の委員は、びっくりして泰子さんをまじまじと見つめた。  彼は次の容子さんにも、同じ質問をした。同じ答えにまたびっくりした。自分が管理を任された強制移住民の中に、二人も日本人がいたことに、すっかり当惑したようだった。  あなた方は本当に外国人か、と、念を押すように聞いた。  その通りだ、なんとか日本に帰れるようとりはからってほしい、と頼み込んだ。  相手は、それとわかるほど同情の色を示したが、「今は、まだ、それが可能な時期ではありません」と言ったきりだった。  ウドンに着いて数日後、ようやくコメの配給にありついた。分量は一人当たり一日練乳缶二杯だった。コメの配給量について難民は、いずれも練乳缶何杯という言い方をするのだが、実は、この「練乳缶」という“単位”が私にはよくわからない。私自身、缶の実物を目にしたことがない。ある推定によると一缶当たり二合(〇・三六リットル)弱という数字が出ている。二缶なら大体四合となる。ふつうインドシナの人々はたいへんなコメ食いで、ベトナム人などの場合は、性別・年齢ならして一カ月当たり平均二十キロは食べる(一キロは約一・三リットル)。  それにしても、私たちの感覚からいえば一日一人四合は相当気前のいい量に思える。もっとも一缶二合弱という計算も必ずしも信頼できそうもない。タイの収容所などで難民に缶の大きさをたずねると、握り拳の三分の二ぐらいの大きさを示す。泰子さんも「こんなちっぽけなものです」と、同様の大きさを手で示した。  ウドン山中での配給は、その後の四年近くの生活でいちばん恵まれていた。  その後コメの出来高や担当委員のサジ加減次第で、配給は一人一缶、あるいは一家族二缶、集団食事制度が始まるとさらに落ち込んだ。  ウドン山中では廃寺よりも少し上の疎林地帯に家を造るよう命じられた。この家造りの最中、泰子さんは長男トーモリ君を失った。一九七五年五月九日、プノンペンを追われて二十三日目である。  プレクダムの嵐ですっかり体力をなくしたトーモリ君は、それでもウドン山中までがんばり通した。ひどい腸チフスでズボンは真っ黒に汚れはてていた。両親は交代で身長百六十六センチの長男を背負い、山道を登った。  山中に着いて二、三日、木陰のゴザに横たわり、生き続けた。ビッチ医師が一本だけ残っていた注射を、その細い腕に打った。腕を放すと、すでにチアノーゼが出ていた。そのまま両親にみとられながら息を引きとった。  トーモリ君は一九五八年三月二十日、東京・山王下の小さな産院で生まれた。泰子さんと、夫タンランさんは第二次大戦後、初めて誕生した日本─カンボジアの国際結婚第一号のカップルだった。  当時、泰子さんは二十六歳、駐日カンボジア大使館員だった夫タンランさんは三十九歳。難産で病院から帝王切開手術の知らせがあったとき、タンランさんは真っ青になってうろたえた。そのころまだ帝国ホテル内にあった大使館から駆けつけ、まる二日間、狭い病室や廊下をクマのように歩き回ったという。しまいに、泰子さんの方が「いい加減になさい。手術を受けるのは私なのよ」と逆に励まし、室外へ追い出したほどだった。 「THOMORY」、日本語表記「遠盛」という名前は、子孫には「TH」で始まり「Y」で終わる名前を付けるという、ソー一家の“家訓”と、漢字でも書ける名前という二条件をもとにタンランさんが頭をしぼって考えた。日本人の母親と外国人の父親の間にできた子は、父親の国籍に編入されるのがふつうだが、「日本国籍も持っていた方がいい」という当時のネクチュロン大使の意見と努力で、トーモリ君は死ぬまで日本国籍も持っていた。  みんなに祝福された赤ちゃんだったが、健康にはめぐまれなかった。生後七カ月のとき、当時大流行したアジア風邪にやられて一時は左半身が不随になり、その後遺症がいつまでも残った。学校にも行けず、ずっと家庭教師について過ごした。  遺体は、まだ温かいうちに、ありあわせの板を打ちつけた箱に納められた。腐敗を恐れる兵士の命令で、ただちに一キロほど先に埋葬された。  二日後、彼女とトニー君は難民から小刀を借りて墓を訪れ、そばにそびえる木の幹にひらがなで「そー・とおもり」と刻んだ。   次 男 の 死  トーモリ君の死から一週間余りして、再び“場所替え”の指令がきた。首都住民をプノンペンに送り返すことになったから、二十四時間以内に準備を終えよ、とのことだった。みんな、半ばでき上がった小屋の建設作業をほっぽり出し、荷物をまとめた。  泰子さんたちは、トーモリ君に別れを告げに行った。わずか二週間のウドンの山中の仮住まいで、すでに三人が命を落としていた。トーモリ君のほか、老女が一人、もう一人は六歳の女の子だった。  トーモリ君を囲んで、両脇に二つの|土《ど》まんじゅうができていた。泰子さんは家里容子さんと手分けして、付近に咲き乱れている白い花を摘み、トーモリ君の霊に|手向《たむ》けた。両側に並んだ土まんじゅうに目をやりながら、これで少なくともわが子は一人ぽっちで置き去りにされるわけではない、と自分を慰めた。  山中の都市住民たちは、いくつものグループに分かれて出発した。泰子さんらは五月二十二日早朝、他の五家族とともに山を降りた。航海者たちは「ホーム・スピード」という言葉を使う。長い航海を終え、船が母港へ近づくと、船長の制止にもかかわらず、しぜんと船足が早くなる。一行も同様だった。二週間前、押し合いへし合い北上した国道五号線を一路首都めざして南下した。三日後、プノンペン近郊プレクプヌー付近の、トラカップ村に着いた。あたりの村々はもう首都帰還をめざす人々でいっぱいだった。トラカップは良水の池で、ソバの産地としても知られ、以前、村人たちはソバを首都の中央市場に売りにきていた。泰子さんらは「六家族もとても引き受けられない」と渋る村民らに頼み込み、軒先を貸してもらった。  この首都と目と鼻の先までたどりついたところで一行は足止めを食った。六月下旬になっても、いっこうに首都入りは許可される気配がない。ウドンでは一人当たり一日二缶だったコメの配給量も、ここでは一家族当たり二缶に減らされた。一家族の員数は二、三人から十数人(一般にインドシナの人々は子だくさんだ)とまちまちなのに、ずいぶん無茶なやり方だった。おそらく首都帰還住民がこの一帯にドッと集まり、コメの量が不足していたのだろう。他の配給物は塩だけだ。流れのほとりでセリの一種をどっさり摘んできて、スープのようなカユに混ぜてなんとか飢えをしのいだ。  村長は土地の人間で、いかにもカンボジアの地方民らしく、善良そうな男だった。しかし、その背後で次々指令を発する「赤いクメール」の委員や兵士をひどく怖がっていた。  プノンペン入りを待ちくたびれた人々に、追い打ちをかけるように、ここでも「家造り」が命じられた。田植え、草取りなどの集団労働も命じられた。泰子さんは生まれて初めて、イネの苗を手に、田んぼの中を|這《は》いずり回った。  だんだん村人たちの態度が横柄になってきた。村自体も食糧難で参っているところに、六家族も|他所者《よそもの》が押しかけてきたのだから当然だろう。新参者は、みんな土もいじったことのない都会人なので、何をやらせてもヘマやグズばかりする。 「町の連中はこれまで立派な石造りの家に住み、のうのうと暮らしてきた。こんどは彼らが土にまみれて働き、君たちが石造りの家に住む番だ」という「赤いクメール」の“村民教育”も効き目をあらわし始めたらしい。  こんな中で村長は夫妻によく気をつかってくれた。村長は泰子さんが日本人であることを知っていた。夫妻が栄養失調や慣れぬ肉体労働、それに長男の死などで心身ともに人一倍衰弱しているのに同情し、田畑の重労働を軽減し、スズメ追いの仕事に回してくれた。カンボジアのこの地方は四月から雨期のはしりに入る。伸び始めた穂をついばみに、スズメが集まってくるのを、空き缶をたたいて追い払う。 「こっちの田と思うとあっちの田。まるでカカシ代わり」の仕事だった。  スズメ追いの合間をぬって、泰子さんとタンランさんは家造りを始めた。二人で竹と柱を少しずつ運び、家の骨組みをつくる。クギがないので、布を裂いてしばった。  屋根や壁は、砂糖ヤシの葉をたばねてつくる。ヤシの葉は、村の人たちが“売って”くれた。代金は葉五枚当たりコメ一缶である。だが、毎回コメと替えていてはお腹が|空《す》くので、十五歳のトニー君が“自家調達”をかって出た。てっぺんに円く葉を茂らせて畑や荒地のあちこちにそそり立つ、やたらと背の高いネギ坊主のような砂糖ヤシの姿は、インドシナ南部からタイにかけての独特の風物詩の一つだ。実もふつうのヤシとは異なり、殼をはぐとマッチ箱大の扁平で半透明の、やや硬質なゼラチン状の果肉がいくつも詰まっている。その名の通り、砂糖の原料として使われるが、そのまま食べてもおいしい。直立した幹には凸凹があり、身軽な子供なら比較的簡単に登れる。トニー君はスルスルと登り、十メートル近くもある木のてっぺんに茂った葉や実を、もいで落とした。  男でも二、三枚かつぐとよろめくほどの大きな葉である。夫婦はトニー君が木登りに出かけるたびに心配した。活発で運動神経の発達した少年だったが、何といっても都会育ちだ。タンランさんは、正午の木登りを厳重に禁じた。カンボジアには、正午から午後一時の間に木に登ると、幽霊が足を引っ張るという言い伝えがある。父親は、それを引き合いに次男が調子に乗って軽はずみなことをしないよう繰り返しいましめた。  屋根も壁もほとんどでき上がり、あと一回登って葉を落とせば小屋も完成、という日の夕方、いつものように林に出かけたトニー君が、背中を押え、蒼白の顔で戻ってきた。木から落ち、腰をひどく打ったという。夫婦は仰天して茂みまで走って行った。虫でも巣食っていたのか、十メートルもある一本のヤシのてっぺんのあたりの枝がポッキリ折れていた。あの高さから真っ逆さまに大地にたたきつけられたのか、と思うと、泰子さんはふるえがきた。  村長はマムシの油でつくった塗り薬と、|煎《せん》じ薬をくれた。トニー君は背中を押えて一晩中うなった。真っ赤な血便が出た。外傷はなかったが、内臓が破裂していたらしい。  容態は日増しに悪くなった。  死の前日、食物の幻想にうなされた。すでに食欲のまったく失せたトニー君に、何か食べたいか、とたずねると、彼は、さっきよその人が持ってきてくれたパンがそこのテーブルにあるから、今夜はおカユもごはんも用意する必要がない、と小屋の一角を指さした。むろん何もなかった。  ケガ人はその晩、パンの幻覚にうなされ続けた。  一夜明けるといくぶん元気を取り戻したようだった。仕事をサボってコメの配給を停止されたら大変だ、と、むしろ朗らかに笑いながら両親を小屋の外へ送り出した。  タンランさんと泰子さんは例によってスズメ追いに出かけた。仕事を始めて間もなく、泰子さんは胸騒ぎを覚えた。自分でたたく空き缶の音が、重く胸に食い込む。午後二時頃、耐えられなくなり、小屋へ駆け戻った。テントをシーツ代わりに床に横たわったトニー君の口から、ひとすじの赤いものが流れていた。アリの行列だった。首すじからほおを伝って、口の中にアリがいっぱいはいり込んでいた。  泰子さんの悲鳴を聞いて村人たちが集まってきた。遺体は温かかった。まだ息を吹き返すかもしれない、せめて丸一日埋葬を待ってほしい、と頼む泰子さんに、人々は無言で首を振った。疫病予防のため、死者は即刻埋葬しなければ村中総倒れになる恐れがあった。  村人たちは遺体を竹のスノコにくるみ、村はずれに運んで埋めた。  泰子さんは長い間自分の愛情が、心身虚弱の長男に偏っていたことを知っている。  だからよけい、この次男の不幸な死を語るときの彼女は辛そうだ。  プノンペンに住んでいた頃、子供たちの間で、ピラニアの“闘魚”がはやっていた。トニー君は、ピラニア一つがいを市場で買ってきて、子供をつぎつぎ産ませた。台所のビンがしきりに“蒸発”するので、トニー君の部屋をのぞき、カッとした。壁ぎわにピラニアを入れたビンを何十個も並べ、トニー君が学校仲間を相手に飼育したピラニアのせり売りの最中だった。  泰子さんは、物も言わず部屋に踏み込んでビンをかき集め、ピラニアを全部、水洗便所に流して捨ててしまった。なぜあのとき、あんなひどいことをしてしまったのか、と彼女は、今も悔やみ続ける。  次男トニー君が死亡したのは、プノンペンを追われて三カ月半目、長男トーモリ君の死から八十三日後の、一九七五年七月三十一日だった。  五人だった家族は、夫婦と、夫の先妻の娘、ティニーさんだけになった。 [#改ページ]

   
3 異 風 土 で   結  婚 「赤いクメール」政権下のカンボジアで強靱に生き延び、十一年ぶりに故国へ婦る内藤泰子さんを乗せた日本航空四七四便は、七月八日(一九七九年)、快晴のバンコク・ドンムアン空港から成田へ飛んだ。静かなフライトだった。  そろそろ日本上空へさしかかる頃だった。泰子さんは免税品のカートを押してきたスチュワーデスを呼び止めた。フランス製のオーデコロン一びんを買うと、その小さなビンを座席のわきに置いた。四年間の異常な生活環境から抜け出してきたばかりとは、とても思えぬほど、さりげない買い方だった。私がその銘柄をたずねると、 「マダム・ロシャス。むかしよく使っていたモノなの」  と、言った。 「主人と知り合った頃、よく彼は香水を贈ってくれました。私、本当は香水よりオーデコロンのほうが好きなのに、主人はいつも香水のほうを持ってきてくれましてね……」  何回か言葉を交わしただけでわかるが、泰子さんは、さばさばした、しかし勝ち気な性格の女性だ。自分自身でも「一度言いだしたら他人がなんと言おうと自分が決めた通りにやってきた」と言う。  その彼女が「主人」という言葉を口にするとき、実に自然で素直な響きがある。彼女はその変化多いこれまでの人生でさまざまに|鍛えられ《ヽヽヽヽ》、染色もされただろう。しかし、その話のはしばしに表れる「主人」への愛情には、最後まで一片の変化も感じられない。彼女が過ごしてきた体験を思うと、この愛情の徹底した一貫ぶりは、むしろ稀有のことに思える。  私がバンコク帰任のため別れのあいさつに行ったとき、彼女は、 「今後はもう仕事のことは離れて、純粋な友人同士としてお付き合いを続けましょうネ」  と言った。  仕事、とは、私が彼女の帰国直後、新聞に連載した企画や、この本の執筆のことだ。とりわけ新聞連載は、私自身にとっても思いがけず急に言いつけられた仕事だったので、帰国直後の疲れ果てた彼女を、ずいぶん取材で悩まさなければならなかった。  私は彼女にかなり遠慮のない質問を浴びせ、ときには批判めいた反問もし、また、しばしばその家族の死にざまのディテールをしつこく聞いて、彼女を泣かせたりもした。私が彼女の立場に立てば、もうこんな男の顔も見たくない、と思ったかもしれない。  そんな私にとって「仕事を離れて今後も——」という言葉は、ひとつの救いだった。  彼女がかなりクセの多い、というより型破りの(エキセントリックという意味ではない)人間であることはすでに触れた。しかし、「主人」への一貫した愛情、そして何よりも彼が「誠実」だから好きだった、という彼女の本質的な人となりに、私は強い好感を覚える。この「誠実さ」を何よりも重んじる人柄も、間違いなく、彼女が慣れぬ土地での厳しい環境を生き抜くことができた一つの理由となった、と思う。  この章では、不必要な私事にわたらぬよう気をつけながら、そうした彼女の人間像や、亡夫タンランさんとの結婚、その後の生活などをなぞらせていただく。  内藤泰子さんは一九三二年(昭和七年)十月四日、東京・本郷で生まれた。東大の赤門の前の路地をちょっと入ったあたりである。男一人、女五人の兄弟の末っ子だった。  父親の照雄さん(泰子さん十三歳のとき死亡)はちょっとした会社の役員をしていた。もの静かな人で、酒も飲まず、勤務を終えるとまっすぐ家に帰り、盆栽の手入れに精を出すのが唯一の趣味だった。  母親の梅さんは、旧薩摩藩士の士族出身で、しつけ、折り目には厳しかった。男と女の肌着をいっしょに洗たくしないような人だった。  しかし泰子さんは年齢の離れた末っ子ということもあって、「甘やかされ、わがままいっぱいに育った」。父に連れられて、よく縁日の盆栽市に出かけたことを覚えている。ずっと年上の兄や姉の目にも彼女は「しっかりした子」と映った。「運の強い子」という定評もあった。  東京空襲が始まっていたから、昭和十九年か二十年の頃だったろうか。当時の大田区の千鳥町に住んでいた泰子さん(小学校六年生くらい)は、母親に連れられて、大森の知人宅に遊びに行き、引きとめられて一人で泊まった。その晩、空襲があって、大森一帯はまる焼けになった。母をはじめ兄姉は、泰子さんも被爆死したものと、なかばあきらめた。  翌日、日が高く昇った頃、大きな板ぞうりをはいた泰子さんが、婦ってきた。国道と池上線の線路を目安に自宅の方角についておおよその見当をつけ、無数の死体がくすぶる焼け野原の中を、たった一人で、徹夜で歩いてきたという。この「気」も「運」も強い娘が、それから十年余り後の一九五五年、カンボジア外交官と結ばれた。石原慎太郎が『太陽の季節』で文壇にデビューし、ジェームス・ディーンの映画『エデンの東』が大ヒットした年である。  泰子さん自身の記憶によると、夫タンランさんと知り合ったのは、彼女が千葉商業女学院(その後、千葉商業高校)卒業後、当時、千葉県稲毛にあった地理調査所の会計課(その後、国土地理院に吸収)に勤めていた頃である。    (著者注)私が泰子さんからこの話を聞いたとき、彼女は長い変転の人生から脱したばかりだった。まだ冷静に過去を整理して振り返る余裕がなく、年代その他細かいことの記憶については若干の混乱があるかもしれないと、言っていた。事実、その後、関連取材を進めているうち、そんな例にもときどき出くわした。しかし、ささいな記憶の混乱があっても、ここでは、あくまで彼女の追憶談をもとに話を進めたい。  当時、タンランさんは開設間もない日本駐在カンボジア王国大使館の二等書記官だった。本国政府が日本の地図作成技術を見込んで、カンボジアの地図の作成を地理調査所に依頼した。これがきっかけで、二人は「いつの間にか、なんとなく知り合った」そうだ。泰子さん二十三歳。タンランさん三十六歳のときである。  当時、進駐軍の影響で、ダンスが流行っていた。  いわゆる“アプレ・ゲール(太平洋戦後)”の末期にあたる年代だ。  見よう見まねでタバコを覚え、ダンスに興じ、「ずいぶん銀座や新橋をのし歩いたものよ」と、本人自身いうから、今様にいえば、かなり突っぱった娘だったらしい。 「つまり、プレイガールだったんですね」 「プレイガール? それ、どういう意味、とにかく十一年も日本にいなかったから、そういう流行語わからないんですよ」 「いや、プレイガールというより、男を男と思わず、とくにこれといった感情もなく、皆で遊び歩く。要するに一見不良風だったわけでしょ」 「あらあら、とうとう不良にされちゃった」  彼女はむしろ朗らかに笑い、あえて否定しなかった。  一方、彼女に一目惚れした駐日カンボジア大使館二等書記官タンランさんは、カンボジア東部のクラチエの裕福な旧家出身で、フランスに留学して経済学を学び、外務省入りした。階層格差の激しいこの国のエリートである。狩猟、魚釣り、水上スキーなどに熱中するスポーツマンでもあった。 「なんとなく知り合った」泰子さんの方も、この、先妻(カンボジア女性)と別れ、三人の子を持つ見知らぬ国の外交官にたちまち魅かれた。香水や映画の切符の贈り物攻勢、フランス仕込みの優雅で慎み深い女性へのマナーなど、日本の男性にはあまり見られぬ求愛法も彼女の心を揺さぶったのだろう。 「でもそんなことより、なんといっても人柄の誠実さです。三カ月で“意気投合”しちゃったんです。でも、周囲や友人にはとても笑われました。スラリとしたやせ型が私の好みなのに、まったく逆のタイプを選んだってね」  泰子さんは短期間、津田英語塾に通ったことがあるが、当時、英会話は「ほとんどダメ」だった。タンランさんは、フランス語、英語の達人だが、日本語はまったくダメである。“通訳付き”のデートになった。  通訳はタンランさんの上司で、東京留学が長く、日本語ペラペラのポンソン一等書記がかって出た。映画、ダンス、当時流行しはじめたプロレスリング見物など、毎回、この“通訳”が付き添った。当時の駐日カンボジア大使(初代)はシアヌーク殿下の信任厚いネクチュロン将軍である。堂々とした押し出しの、温厚で洒脱な、純フランス仕込みの紳士だったという。カンボジア政府は、自国の外交官が外国人妻をめとることに強い難色を示した。タンランさんは「それじゃ、私は外交官をやめる」と言いだした。  泰子さんの人柄に惚れた大使は、本国政府へ結婚許可を出すよう電報を打ったり、二人を食事に招いては「早く既成事実をつくってしまえ」とまで肩入れした。  本国からの許可を待つ間、「大使も含めて館員のみなさんといっしょに、本当によく“遊んだ”ものです。毎晩、ナイトクラブからナイトクラブへ。大使は芸者遊びもお好きで、新橋、|葭《よし》町へもよく通いました。赤坂、青山で飲んで踊って、夜が明けはじめると、大使が“さあ、江の島へ朝食を食べに行こう”とおっしゃる」。  大使のベンツや、タンランさんのグリーンのシボレーを連ねて、第二京浜を夜明けのドライブ——。  当時カンボジアは若い独立国だった。大使館の建物も完成しておらず、帝国ホテルの二、三部屋を事務所にしていた。館員は大使以下五人の小所帯だった。大使自ら“陣頭指揮”の、この連日連夜の豪遊は少々私たちの倫理観にもとるが、どうやら、全部が全部国庫のカネの流用(?)ではなかったらしい。もともと新興国家で外交官になれるような人々の階層は限られている。というより、外交官自体が“名誉職”である場合も多い。タンランさんも、クラチエの裕福な実家から給料の何倍もの仕送りを受けていたという。  結婚にさいしてのもう一つの難関は泰子さんの母親だった。  薩摩藩士の血を引く昔かたぎの母親には国際結婚など、とんでもないスキャンダルと映ったらしい。  わがまま娘の泰子さんも、タンランさんを母に引き合わせるまでずいぶん苦労した、という。  ところが、最後にはこの母が“全面賛成”に転じた。それどころか泰子さん夫婦の間でちょっとしたいさかいが起きても「泰子、あんたの方が悪い」と、何から何まで「|婿《むこ》」びいきになった。  インドシナ諸国の人たちは、(少なくとも現代の)日本人より、はるかに親や年寄りを大切にする気風を持っている。タンランさんにとっても、もしかしたら義母は妻の泰子さん以上にいたわり敬うべき存在だったのかもしれない。 「食事の時なんか、母のサカナの小骨をていねいに、ぜんぶ取ってやるほどでした」  夫婦が日本を離れてからも同じだった。 「たとえば、誕生日。どの任地にいるときも、夫は決して私の母の誕生日を忘れず、プレゼントを欠かしたことがありませんでした。ワルシャワにいたころ、母から礼状がきて私の方がキョトンとしたことがあります。私は忘れていたのに、夫は私には黙ってちゃんと日本の母にお祝いの品を贈っていたのです」  カンボジアと日本の国際結婚第一号カップルが誕生したのは一九五五年十二月のことだった。  三年後に、長男のトーモリ君が生まれた。東京・青山の借家に、夫婦とトーモリ君、泰子さんの母の四人で住んだ。その後、タンランさんが引き取っていた先妻との間の子供三人も来日した。  チャナリー君が七歳、ティニーちゃんが五歳、トミー君が三歳だった。   プノンペンへ  結婚して五年後の一九六〇年の初夏、タンランさんのプノンペン帰任が決まった。  五月下旬のある朝、一家は羽田空港からオランダ航空機で飛び立った。よく晴れた朝だった。香港でフランス航空に乗り継ぎ、マニラ経由で、その日の午後三時頃、プノンペンに着いた。  再三触れたように、泰子さんは正直に自分の気持ちを口にする女性である。ちっぽけな空港ビル、ハダシで構内を往き来する荷物かつぎや見物人、それにとてつもない暑さ——。  飛行機を降りたとたん、 「うえーっ、これはとんでもない“未開地”に来てしまったナ」  と、たちまち里心が芽ばえた、という。  空港での出迎えは温かいものだった。タンランさんの親族、友人、外務省の仲間ら六十人近くが“ニッポンの花嫁”を迎えた。  敷地いっぱいに南国の陽を浴びて、ジュウタンのように咲き乱れているピンクがかったスミレのような花の美しさも強くまぶたにしみた。可憐な花で、午前十時頃、盛りの花をつけることから、土地の人は「十時の花」と呼んでいることをあとで知った。  着いてしばらくの間、彼女は、はたしてこんな土地に自分が住みつづけられるか、と思い続けた。 「|町中《まちなか》だって、当時はハダシの人の方が多かったんですヨ。それに変な動物の多いこと。夜になるとヤモリやトッケー(樹上に住むトカゲの一種)が庭や室内に入り込んできて、気味の悪い声で鳴くの。あれ、最後まで慣れませんでしたけれどネ」  ヤモリは日本ではもう田舎に行かなければ姿を見られなくなったが、半透明のベージュ色をしていてトカゲに似ている。足の裏に無数の吸盤がある。それを伸縮させて真空状態をつくり出して、壁に張りついたり、天井を逆さまに走る。蚊を退治してくれるので南国の生活には必須の益獣(?)である。 「でも、天井のヤモリがいつお皿に落ちてくるかと思うと、もう怖くて、怖くて、スープもおちおち飲んでいられませんでした」  プノンペンの町の規模はそう大きくない。だがいくつかの広場から放射状に通じる並木道や、優雅で有機的な町の構成は、かつてインドシナ半島の支配者であったフランス人の、町造りの才能をそのまま伝えていた。  町はこの国の二大河川、トンレサップ川とメコン川の合流点に面している。茶色く滑らかな水の流れは、ゆったりと穏やかだった。  四月から五月にかけての雨期入りの前後、並木の火炎樹がいっせいに花を開く。さわやかな緑に沈んだ町は、このひととき燃えるようなあでやかさに包まれる。美しい都だった。  飢えを知らない国でもあった。バッタンバン、コンポンチャムなどの平野は、旧南ベトナムのメコンデルタと並んで、インドシナ最大の穀倉地帯である。場所によっては田植えから三カ月後に収穫できる。農民は田を耕す必要もなく「稲が実るのを眺めているだけでいい」などともいわれた。雨期になると大湖トンレサップの水があふれ出し、国中に水たまりができる。そこへ大きなサカナやエビが流れ込む。人々は水が引く頃合いをみはからって手づかみでおかずをとる。それに、この国の特徴は、事実上、大地主がいないことだった。国土は名目的には王家のものだが、開墾した土地の所有権は開墾者にあった。  こうした国情の中で、農民は住居こそ粗末な高床式家屋やニッパヤシの葉でふいた小屋に暮らしていたものの、十分に食足りて、人あたりは実に穏やかであった。  一家はひとまず従兄のコー・エム・ホーさんの邸宅に荷を解いた。ホーさんは、それから十五年後の一九七五年四月、泰子さんらがプノンペン陥落のひとときをその邸宅で過ごした貿易商、コー・ベン・スンさんの弟である。兄と異なり、陥落よりずっと以前に国を去り、現在はフランスのマルセイユでレストランを経営している。  インドシナ諸国は、一般に大家族意識が強い。カンボジアの人々も、直接の親子兄弟でなくても親類なら、まったく家族同然に迎える習慣だという。一族だけではなく、人なつこい町内の人々も、「日本のお嫁さんがきた」というので連日、口実をもうけては“見物”につめかけ、勝手に台所に入り込んでは、競って歓迎料理やお菓子の用意を手伝ってくれたりした。  泰子さん一家は、タンランさんが次の任地、サイゴンへ赴任するまでの十一カ月間をホーさん方に同居して過ごす。  ひとしきり落ち着いたところで、タンランさんの故郷クラチエにあいさつに出かけた。タンランさんの亡父は中国系だったが、母親ピンさんは純粋のカンボジア人。初対面したおしゅうとめさんについての印象は、「ちょうどガンジーのように、やせて色が黒く、とても心の温かそうな人」だった。  七十歳過ぎの小柄な老夫人は泰子さんを大喜びで迎えて「ポポン・タンラン、ポポン・タンラン(タンランの妻の意)」と呼んだ。  第二次大戦中に日本軍が進駐していた国々には、共通してひとつの日本語が残っている。「ジョートー(上等、のことらしい)」という言葉である。老夫人も彼女が知るこの唯一の日本語を連発しながら、しきりに菓子や果物を泰子さんにすすめた。  ここでも歓迎料理ぜめにあったが、あいにく泰子さんには|つわり《ヽヽヽ》が訪れはじめていた。二カ月来彼女のおなかには次男トニー君がいた。  もともと辛いものは嫌いではなかったが、ほとんどの料理に慣れぬ香菜が使用してあるので、口に近づけるとたちまちグッとくる。  心配げなタンランさんに、彼女は、 「カンボジアにもキュウリ、ある?」 「あるさ、キュウリぐらい」 「たまごもある?」 「たまごだってあるさ」  翌日、タンランさんの実姉が市場でキュウリとたまごを仕入れてきてくれた。泰子さんはキュウリの三杯酢とたまご焼きを作り、食べた。「ポポン・タンラン」がようやく物を食べたのを見て、義母はじめ一同は大喜びだった。おかげで彼女はその後しばらく、キュウリとたまごぜめにあうことになった。  現在の泰子さんは、達者なカンボジア語をこなす。放浪の四年間に、文字通り|生きるため《ヽヽヽヽヽ》に覚えたカンボジア語だ。しかし、初めて夫の母国の土を踏んだとき、彼女が知っていたのは「アクン(ありがとう)」と「スント(ごめんなさい)」と、一から十までの数字だけだった。夫婦間の“意思交流”は英語、フランス語、それにその頃タンランさんがだいぶ上達していた日本語のミックスで行なわれた。  その年の十二月二十日、泰子さんは市内のカルメット病院の一室で、次男トニー君を出産する。長男トーモリ君のときと同様、帝王切開の難産だった。   外交官夫人として  一九六一年春から二年間、泰子さんは、タンランさんが赴任した南ベトナムの首都サイゴンで暮らす。  その頃、南ベトナムは九年間にわたってこの国に君臨したゴ・ジン・ジェム政権の末期にさしかかっていた。ゴ・ジン・ジェム大統領は一九五四年のジュネーブ協定でベトナムが南北に分割された当時、米国が“反共の旗手”として権力の座に押し上げた人物である。当初はその清潔謹厳な人柄とすぐれた政治手腕が内外に高く評価されたが、やがて実弟ゴ・ジン・ヌーとその夫人にそそのかされて極端な独裁政治に走り、国民の|怨嗟《えんさ》の的となる。  これに乗じて各地の共産ゲリラ(いわゆる解放戦線)はジワリジワリと勢力を拡大した。一方、米軍も介入の度を深め、ベトナム戦争はようやく泥沼化しつつあった。  結局、ジェム政権は米国の“了解”をとりつけた軍部のクーデターで倒されるが、泰子さんがサイゴンに住んだ二年間は、このジェム政権崩壊直前の、騒然とした時期にあたる。  当時、カンボジアはシアヌーク殿下の左寄り中立政策がまだ功を奏し、なんとか戦火から身を守っていた。こうしたシアヌーク政権と、反共のジェム独裁政権とは、当然のことながら冷ややかな間柄にあった。  サイゴンにはカンボジアの「大使館」はなく、「代表部」が置かれているだけだった。一方、カンボジア・プノンペン駐在の南ベトナム外交官らの“仕事”は、夜な夜なひそかに、シャベルを持って町へ出かけ、めぼしい大通りの下にトンネルを掘ることだ、などと陰口が言われていた。憎いシアヌーク殿下の車が通過するのを待ち受け、ダイナマイトで暗殺する——という、まことしやかなものだった。  サイゴン指折りの繁華街、レ・バン・ジュエット大通りとファン・ディン・フン大通りの交差点に面した「代表部」の古ぼけた建物が、タンランさんの勤務先兼一家の新たな住まいとなった。  サイゴン在勤二年間は外交官タンランさんにとっても何かと気苦労の多い時期だったらしい。泰子さんは、夫が両国の“微妙な関係”の調整に疲れ果て、「殿下(シアヌーク殿下)の政治は西を向いたり東を向いたりだ。われわれ出先の外交官は何をしたらいいかわからない」とこぼしていたことを覚えている。  しかし、現実の生活面では、この二年間は泰子さんにとって興味とスリルに富んだものだったようだ。 「カンボジアとベトナムでは町や人々の動作表情にみなぎる気迫といったようなものが全然違うのにびっくりしました。静かで単調なプノンペンにくらべ、サイゴンはケタ違いの活気に満ちていた。とても同じインドシナの町とは思えないほどでした」  何よりも驚いたのは“ベトナム女性の気性の強さ”だった。 「インドシナ諸国のうちでベトナムの女性が断然、気性が激しく利発だということは聞いていましたが、本当に彼女らはよく働く。これじゃとても男は頭が上がらないはずだ、と思いました」  ベトナムに何年間か暮らし、この国の女性を生活の伴侶とした私も、彼女の意見に全面的に同意せざるを得ない。が、冗談は抜きにして、女性に限らず、総体としての民族エネルギーといったものを考えると、この狭いインドシナ地域でベトナム一国が図抜けて他の二国(カンボジア、ラオス)を引き離しており、このあまりの格差が、インドシナ地域全体の不安と不幸の根源のひとつをなしていることは、この地域にくわしい多くの人々が一致して指摘するところだ。「ベトナムの膨張主義」という言葉がよく使われるが、政治的意味合いを抜きにしても、この地域でベトナムが「膨張性」をもつのはむしろ自然のことと思える。単純に国土、人口を比べてもベトナムが五千万人の住民をかかえているのに対し、カンボジアはおそらくその十分の一ていど(現在のカンボジアの人口はポル・ポト政権下での人口激減もあり、正確に掌握できない)、ラオスにいたっては辺地に分散した山岳民族をかき集めても、総人口三百万人前後にすぎない。  一方、国土面積はベトナムを十とすれば、カンボジアは五、ラオスは七の割合になる。  人口密度を割り出せば、ベトナム一国が不公平なまでに過密状態にあることがわかる。つまり、ベトナムとカンボジア、ラオスの関係は、分子が充満した元素と、スカスカの元素が狭い地域に肩を並べ合っているあんばいで、充満元素の「膨張性」が発揮されるのは、物理学的にみても当然の理といってよかろうと思う。  加えて泰子さんを驚かせたベトナム人の「気迫」「活気」の問題は、現在のインドシナ情勢を見つめるさいも大きなカギとして頭に入れておかねばなるまい。  物情騒然のサイゴンで、内藤泰子さんは、前後三回、危うく死を免れた体験をしている。一度は、買い物を終えて立ち去ったばかりの市場でプラスチック爆弾がはぜた。  次は、南ベトナムの独立記念日の式典に出席した時だった。式典のあと、サイゴン河畔の海軍基地で新型戦艦の内部が一般公開された。泰子さん夫婦もいったんは物見高い市民らの行列に加わった。  あまりの人込みに夫婦どちらからともなく「もう帰りましょう」ということになった。  行列を離れて五十メートルも歩かぬうち、背後でゴウ音がした。テロ分子二人が手投げ弾を投げこんだことを後に知った。戦艦の入り口付近で群衆整理をしていた海軍士官をはじめ何人かがバラバラになって吹き飛んだ。  もう一回は、親しくなったベトナム女性に誘われ、郊外の彼女の親類の家を訪れた時だった。夫タンランさんはゲリラの出没を心配し、外国人である彼女がむやみと田舎へ出ることを止めたが、泰子さんは友人のアオザイ(ベトナム女性の民族衣装)を着込んで出かけた。内心ヒヤヒヤしながら、それでも無事先方にたどり着いた。着いた直後、ついさきほど車で渡ってきたばかりの橋に時限爆弾が仕掛けられていたことを知らされた。  泰子さんのサイゴン滞在中、ジェム政権のカジは復元不能なまでに狂い、弾圧・恐怖政治の暴走はますます歯止めが効かなくなった。すでに彼女が住みはじめた六一年の秋、後に束の間この国の第一実力者となる若きグエン・チャン・チ将軍(当時大佐)配下の空挺隊員が軽戦闘機二機を駆って、ジェム大統領の宮殿に爆撃を加えていた。大統領とその弟ゴ・ジン・ヌー夫妻はいずれも一命をとりとめた。  ヌー夫人は泰子さんがその「強さ」に感心したベトナム女性の気性の激しさを当時最も世界に“宣伝”した女性だろう。この国の女性としては飛び切り美人というほどではなかったが、小柄でチャーミングな女性の武器を最大限利用して米外交官らを虜にする一方、同様の武器と夫のヌー大統領特別顧問の作り上げた秘密警察組織を駆使して、国軍の将軍たちを完全に膝元に押えつけていた。  後に私が知り合った美男で名高い某将軍も、ある日突然、当時彼が司令官を務めていた北部の古都ユエの軍管区から飛行機でサイゴンに呼び戻され、いきなり夫人の寝室へ迎えられた、とその思い出を語った。当時、ユエ地方の将兵の間にジェム打倒クーデターの噂が流れていたのを察知しての夫人側の“先制攻撃”だったらしい。 「でも、傾国の美女(文字通り彼女にはこの呼び名がふさわしい)と楽しい時を過ごせて別に悪い役柄じゃなかったじゃないですか」  ずっと後になって将軍と知り合った私が軽口を言うと、ジェム政権崩壊後、国防大臣、副首相を務めたこの南ベトナム軍部きってのダンディーな美丈夫は、 「冗談言わんでくれ。あの数日間ほど恐ろしい思いをしたことはなかった。|自惚《うぬぼ》れるわけではないが当時マダム・ヌーはたしかに私に惚れていた。しかし私の方は、御用済みになったらいつ秘密警察の手に渡されるか、と思うと、色事どころの心境ではなかった。ベッドで失敗をやればそれもまたいのち取りになりかねぬと思うと、毎日毎日が生命の縮まる思いだった」  と答えた。  数年後、この将軍はジェム政権打倒クーデターの立役者となる。ジェム兄弟が殺されたさい、夫人は米国に滞在中だった。  米人記者らは、事実上この国を女手ひとつで支配していたヌー夫人を「タイガー・マダム」と呼んだ。  泰子さんは、レセプションなどの席で、何回かこの世界に冠たる「タイガー・マダム」の姿を見かけた。夫人はいつも女性も惚れ惚れするほど見事にドレスアップしていたが、必ず肘までの長手袋をしていた。グエン・チャン・チ大佐配下のパイロットに宮殿爆撃をくらったさい、両肘にひどい|火傷《やけど》を負ったとのもっぱらの噂だった、という。  サイゴン滞在の終わり近く、泰子さんは恐ろしい光景を目撃した。  ある日、街路で異様なざわめきがするので、代表部三階の居室の窓から見下ろすと、目の下の交差点の中央で、人間が生きながら燃えていた。ゴ・ジン・ジェム大統領の仏教徒弾圧政策に抗議しての、僧侶の焼身自殺だった。彼女が立ちすくんでいる三階へ、外国通信社のカメラマンが飛び込んできて、窓から身を乗り出し、たて続けにシャッターを切った。この頃、僧侶の焼身自殺があいついだ。  カトリックのヌー夫人がこの焼身自殺のニュースを外遊先で聞いて、 「あら、人間バーベキューね」  と、ころころ笑ったのは有名な話だ。  以後、世界のマスコミは彼女を「バーベキュー・マダム」と呼ぶようになった。  こうした世情ではあったが、泰子さんにとって、二年間のサイゴン暮らしは楽しみも張りもあるものだったらしい。ベトナム側から見れば半敵性国の外交官夫人ではあったが、町の人々は親切で、ひどく気の合う友人も何人かできた。  彼女自身の気質や性格は、万事ひかえめなカンボジア女性よりも、行動力、生活力にたけたベトナム女性とうまく照応したのかもしれない。  一九六三年の四月、一家はタンランさんの再度の転勤でサイゴンを離れる。  一家がサイゴンを去って半年ほどして、九年余りにわたって南ベトナムに君臨したゴ・ジン・ジェム政権は、軍部クーデターで崩壊した。ジェム大統領と実弟のゴ・ジン・ヌーは逃亡先の市内の教会から引きずり出され、射殺された。これにより南ベトナムは事実上、軍政へと移行し、戦火は一挙に拡大していく。  一方、ラオスでは左右両派及び中立派が三つどもえになっての内戦状態が絶えず、右派を支援する米国の動きもいよいよ露骨なものになっていく。  両国の戦火にはさまれながら、カンボジアのシアヌーク政権は外交的には左寄り路線を、内政面では逆に右寄りの路線をとりながら、まだかろうじて平和を守っていた。  この頃、日本ではようやく、ベトナム戦争の記事が新聞に載りはじめた。  サイゴンから帰任後、短期間のプノンペン住まいのあと、一家は再びタンランさんの転勤で、モスクワに赴いた。一九六四年一月のことである。そこでぶつかったのはフルシチョフ首相の失脚だった。  空港から宿舎へ向かう車の中で、泰子さんがまず、目にしたのは、フルシチョフの写真の取りはずしだったという。 「とても残念でした」  と泰子さんは言う。彼女は、それまでも何回か雑誌や新聞でフルシチョフ首相夫妻の姿を目にしていた。首相の方はともかく、 「なぜか知りませんが、奥さまの方にはとても親しみと敬意をもっていたの。是非とも一度、|真物《ほんもの》にお目にかかりたかったのに……」。  そのかわり、モスクワ滞在中、彼女は、「女性の日」の政府高官夫人主催のパーティーで、コスイギン新首相夫人から真っ先に、さあ、踊りましょう、と手を取られ、民族舞踊の輪に迎えられるという忘れ難い思い出を得た。モスクワ暮らしは、最初の一年間、言葉が通じないため、町で釣り銭をごまかされたり、口惜しい思いの連続だった。二年目、三年目は楽しかった。絵の好きな泰子さんはタンランさんと一緒に各旅先の美術館を訪れ、「めったなことでは一生見られないような」名画の数々を堪能した。  外交官生活は、引っ越しの連続である。  一九六八年、タンランさんのソ連勤務は終わる。その夏八月末、モスクワからプノンペンへ帰任途中、泰子さんは二週間ほど日本に里帰りした。海の大好きな彼女は、母親、姉たちと江の島に一泊旅行した。やがて一足先に帰国してプノンペンから迎えにきたタンランさんとともに再びカンボジア行きの飛行機に乗る。これが、その後十一年間にわたる日本との断絶の端緒となった。  翌六九年八月、またまたタンランさんに外地勤務の辞令が出た。新任地はポーランドのワルシャワだった。物価が安く、人々の気持ちもソ連人よりはるかにオープンで、暮らしいい任地だったそうだ。外交団の楽しみは、年間二ドルの会員料で参加できる野ウサギ狩りだった。  泰子さんも銃を肩に、よく獲物を|狙《ねら》った。野ウサギには、逃げていく最中、ときおり立ちどまり、ちょっと腰をおろして後ろを振り返ってみる習性がある。 「そのタイミングを狙うんですが、とてもむずかしくて私は結局ダメ」  これにひきかえ、タンランさんは若い頃から、インドシナの上流階級の多くがそうであるように、ハンティング、フィッシングの達人である。休暇や任地替えの途中、帰国するたびに夫婦はクラチエのタンランさんの故郷を訪れた。一帯はウサギ、シカなどの絶好の狩場である。タンランさんの老母は信心深い人で、息子がそわそわしだすたびに、 「いい加減におし。殺生はするでないよ」  と、叱りつけた。  タンランさんはそんな老母の目を盗み、ひそかに近所の実姉の家に猟銃を隠していた。午前三時頃、泰子さんを誘って家を抜け出し、ライトを使って、夜狩りを楽しんだ。当時、カンボジアはまだ平和な時代で、夜間に森や原野に出歩いても安全だった。  ワルシャワ勤務のもう一つの楽しみは、旅行だった。一家はカー・マニアのタンランさんが新しく手に入れた淡いブルーのフランス車プジョーを駆って東欧圏、オランダ、フィンランドなどを頻繁に旅行した。  この、タンランさんご自慢の愛車は、それから約五年後、トンレサップ川の渡し場プレクダムで、「赤いクメール」の兵士らに没収された。   戦火の“母国”へ  タンランさんのワルシャワ勤務中、祖国カンボジアは決定的な運命の変化に見舞われた。  隣国タイとならんで“微笑の国”と呼ばれたこのインドシナの小国カンボジアは、五〇年代以降戦火続きのベトナム、ラオスにはさまれながらも、奇跡的に平和を守り続けてきた。この国が第二次大戦後、日本軍の去ったインドシナに再復帰を試みたフランス植民地勢力から一応の“独立”をかち取ったのは一九四九年のことだ。当初はフランス連合内の“半独立”であり、国政のほとんどはフランス人たちに牛耳られていた。元首シアヌーク殿下は若い頃、勉強ぎらいのプレイボーイとして折り紙つきの青年だった。フランス政府は、彼を元首に推して形式的な独立を与えたところでカンボジアは思いのままにあやつれる、と踏んでいた。  この思惑ははずれた。王位についた若いシアヌーク殿下は、にわかに愛国的君主としての自我に目覚め、そのフランス人の“保護者”たちが舌を巻くような卓越した治世の腕を発揮しはじめた。  国内の各勢力も植民地主義の完全払拭をめざし、武装闘争に立ち上がる。殿下自身いったんはタイに亡命したあと領内に戻って抗仏闘争を指揮し、五三年、完全独立をかち取った。  以来、この小国は若い殿下の指導下でインドシナ戦火から身を守り通す一方、独立国としての基盤固めにけんめいの努力を続ける。砲声途絶えぬ両隣国の間にあって平和なプノンペンは“地上の楽園”と呼ばれた。有名な遺跡アンコール・ワット、アンコール・トムは世界中の観光客でにぎわった。  自国を両隣国の戦火から守るために発揮された殿下の外交手腕の冴えは、一時、“魔術”とも“綱渡り”ともいわれた。だが、そこには、綱渡り政策につきものの無理や矛盾があった。  一言で表現すれば、シアヌーク殿下の政治は常に“二つの顔”を持っていた。外交面ではインドシナに進出する米国の圧力に対抗するため、「左寄り」に軸を置き、内政面では逆に、足元に共産分子が台頭するのを抑えるため「右寄り」路線をとった。どちらが殿下自身の本当の顔かといえば、やはり後者であろう。  新興国の常として極右から極左までの勢力が権力をめぐってひしめき合い、既得権に固執する旧勢力と貧富の格差是正を叫ぶ若い知識人・学生らが対立し、さらに|脆弱《ぜいじやく》な経済基盤の上で腰定まらぬ自国を、殿下は、国教である小乗仏教と社会主義の理論を組み合わせた「仏教社会主義」の理念のもとに結束させようとはかった。一種の翼賛会体制をめざした、といえる。この政策は理論のあいまいさや、殿下自身のあまりにも個性的で感情の振幅の激しい性格もあいまって無残に失敗した。  この間、若い進歩派指導者を周辺に集め、ときには閣僚に登用するなど、外見上、柔軟な妥協を数々行なったが、結局は、君主としての体質が共産主義とは相容れぬものであったことは、その後、殿下自身が再三、口にしている。殿下の為政態度、生活態度も万事が派手好み、豪勢好みの“王様スタイル”であった。  外交的にもこの若い小国の立場はきわめて微妙なものだった。カンボジアに限らず、小さな国の進路や運命はいつも隣接大国の挙動に左右される。殿下自身「われわれは二頭のトラにはさまれたウサギだ」とよく口にした。  二頭のトラとは、十五世紀以降、たえずこの国を踏み荒らしてきたベトナムとタイである。トラに食われないためには、まずそのトラを刺激しないように注意し、同時に、その背後の竜に身を寄せて、自国の平和と安全保障を求める——これがカンボジアに左寄り中立外交をとらせた基本的理由とみえる。  第二次大戦以降のカンボジアはタイよりもベトナムの行動に頭を痛めた。対仏独立闘争中にカンボジア領内に展開していたベトナム共産勢力が、そのまま居すわり、カンボジアの一部を対米戦争の“聖域”に仕立て上げてしまったからである。細々としたカンボジアの軍事力ではこれを強硬に追い出すわけにはいかない。といって領内をベトナム共産勢力が勝手に使用する事態を放置すれば、国内の極左、極右をともに剌激し、体制の安全を|脅《おびや》かしかねない。  シアヌーク殿下は、領内のベトナム兵の存在に一応目をつぶる形でハノイ政府との摩擦を避けながら、インドのネール首相やフランスのドゴール大統領を“師”に、けんめいに「中立」の道をまさぐり続けた。とりわけ、ドゴール大統領への敬慕の念は強かった。戦後フランスの偉大な指導者の方も側近との内輪話では、エリゼ宮(フランス大統領官邸)詣でを欠かさぬこの旧植民地の青年国王を「プティ・プランス(小さな皇太子)」と、いささか軽んじたニックネームで呼びながらも、何かと殿下の相談に応じた。殿下が、この老練なフランス指導者に“踊らされた”という見方をする人すらいる。  当時、ドゴール大統領のインドシナ政策の基本は戦後、火事場泥棒的にこの地域に進出した米国勢力をなんとか食い止め、いくらかでも旧植民地時代の利権を確保し続けることにあった。  このため、大統領は「インドシナ中立化構想」をぶちあげ、カンボジアを訪ね、シアヌーク殿下を最大限に持ち上げるようなデモンストレーションも行なった。米国、両ベトナムの各当事国をはじめ、諸大国はこの「中立化構想」に見向きもしなかった。  しかし、米国のインドシナ制覇や、ベトナムというトラを警戒するシアヌーク殿下は、この「中立化構想」を唯一の国家存続の道とみなした。外交的には、ますますトラの背後の社会主義諸国との関係を密にする一方、一時はドゴール大統領が嫌っていた米国との断絶まで宣言してワシントンを怒らせた。  殿下のこうした「容共中立路線」は国内の極右勢力の強い不満をかった。殿下の独裁君主政治を攻撃していた左派の活動も激化した。孤立を深めた殿下は、右派の突き上げを封じ、かつ王制の安泰をはかるために、六三年から思い切った左派弾圧に出た。ポル・ポト首相、イエン・サリ副首相ら、後の「赤いクメール」政権の大物(当時いずれも教師をしていた)は、いずれも六三年からの殿下の“赤狩り”によって地下にもぐった。  シアヌーク体制を行きづまらせたのは、ベトナム軍の存在がもたらす厄介な内外状況に加え、経済の不調、官僚の無能、王族や実力者らの腐敗だった。“綱渡り”政策の諸矛盾がジワジワ進行し、さらにきわめて個人技的色彩が強かったシアヌーク外交の効力が、激化拡大するベトナム戦争の圧力に耐え切れなくなったとき、|破綻《はたん》は突如表面化した。  一九七〇年早々、殿下は数々の失政に自ら嫌気がさし、静養と称して渡仏した。この虚をねらって日頃、殿下の対ベトナム政策の“甘さ”に不満を抱いていた国軍の総帥ロン・ノル将軍がクーデターを起こし、あっけなく権力を握った(三月十八日)。  ロン・ノル将軍は、陸軍士官学校出身で、国防相、参謀長を務め、当時は首相の地位にいた親米派の領袖である。殿下の属するノロドム家と常に王位継承権を争ってきたシソワット王家のシリク・マタク殿下ら各右派勢力も積極的にクーデターに加担した。  カンボジア国民の圧倒的支持を得ていたかのように見えた殿下が、簡単に追放されたことに世界は驚いた。国内的にみれば、殿下の政策の行きづまりとその独裁体制に対する軍部、知識人、学生らの不満はきわめて大きく、六〇年代後半以降、殿下の支持層は王権を絶対視する農民層だけになっていた。  クーデターの立役者らは、いずれ劣らぬコチコチ反共の親米派であった。カンボジア領内のベトナム共産軍の“聖域”に手を焼いていた米軍部にとっては願ってもない環境変化だ。米国はすかさずロン・ノル体制にふんだんな軍事・経済援助を提供し、プノンペン・サイゴン反共軸を作り上げた。  シアヌーク追放からわずか一カ月半足らず後の一九七〇年五月一日、米・南ベトナム軍は津波のように国境線を越えてカンボジア領内の“聖域”掃討作戦を開始した。有名な「カンボジア侵攻作戦」である。周囲を戦火に取り囲まれながらも、ようやく保たれていたカンボジアの平和もここで断たれた。昨日までの“地上の楽園”は一朝でインドシナ戦火に巻き込まれることになった。  追放された殿下は、北京で亡命政権「カンプチア王国民族連合政府」を樹立し、かつて自ら弾圧の采配をふるった共産ゲリラの「赤いクメール」と手を結んで権力奪還をはかった。  一方、ロン・ノル新政権は米国、南ベトナムと同盟した。  カンボジアへの戦火の波及はインドシナ戦争に“人種対立”という新たな要素を持ち込んだ。クーデターに先立ち、ロン・ノル将軍は学生や市民をけしかけ、プノンペン市内の北ベトナム大使館、南ベトナム臨時革命政府大使館を襲撃させた。この騒ぎをきっかけに、各地でベトナム人住民の虐殺が始まった。  カンボジア人とベトナム人の間の人種感情、というより、むしろインド文化圏にのんびり育ったカンボジア人が、きわめて現実主義的なベトナム人に対して抱く反目感情はホモジェンヌ(単一民族・単一文化の国)の国に育った私たちにはちょっと想像がつかないほど根強く激しい。これについては後にやや詳しく触れることにするが、ロン・ノル新政権は巧みにこの反目感情を|煽《あお》り立て、カンボジアの路線を自らの思惑通りに急転回させることを狙った。狙いは的中し、メコン川の流れは、連日、暴徒と化したカンボジア人に無差別殺害されたベトナム人の男女、老人、幼児の死体を、彼らの母国である下流のベトナム領内に運んだ。  私がサイゴン特派員として赴任したのは、こうして、プノンペン・サイゴン反共軸が形成されて一年余り後だった。当時、サイゴン政府軍とプノンペン政府軍はしばしば合同作戦を行なったが、その結果はいつもはかばかしくなかった。その原因もやはりこの人種反目にあった。敵方と撃ち合う前に友軍同士が撃ち合いを始めてしまうような事態がよく起こった。  戦線の向こう側でも、同様の事態が生じた。一九七〇年のクーデターをきっかけに、カンボジア領内のベトナム共産軍は公然とカンボジア共産軍(「赤いクメール」、当時はまだ弱小だった)の育成・支援に入った。カンボジアの新兵が、いまその取り扱い法を教わったばかりの銃でベトナム人教官を撃ち殺した、などという情報がしばしば伝えられた。  タンランさんは、七二年十月、ワルシャワ公使を最後に外交官生活から身を引くことを決意し、カンボジアに戻った。  三年ぶりに目にしたカンボジア国土のあまりに無残な変貌ぶりは、機中からも手にとるように見てとれた。田畑や森林の遠く近くに戦火が連なり、“平和の楽園”といわれた首都、プノンペン内外にも戦車や重砲が配置されている。すでに国内は荒れ果て、戦時色一色に塗りつぶされた感じだった。  ポチェントン空港めがけて下降を続ける機の窓から変わり果てた“わが国”を見下ろしながら、泰子さんは涙を流した。 「泣いちゃいけない。泣くんじゃないよ、ママ」  とタンランさんがはげました。 「ネクチュロン将軍のいうことは本当だった」と、泰子さんは思った。  ワルシャワからの帰途、タンランさんと泰子さんは、元駐日大使で、二人の結婚に手をさしのべてくれたネクチュロン元将軍をパリに訪ねた。シアヌーク殿下の信任厚い元将軍は駐日大使を終えて帰国後、プノンペン政界で活躍したが、当時はすでに引退し、パリに居を定めていた。 「あなたたちも、もうプノンペンに帰ってはいけない。カンボジアの内情はすでに破局的だ。帰ってもろくなことはない」  将軍は暗い顔で予言し、しきりと一家のパリ定住を勧めた。その言葉を振り切るようにして、タンランさんは家族とともに帰国した。  後に「赤いクメール」の大下放政策に巻き込まれ、泰子さんを一人残して死ぬ間際まで、タンランさんは「すまなかった、ヤスコ。私は大変な見込み違いをした。たとえ共産側が勝ってもこんなひどいことをするとは思わなかった」とうわ言のようにわび続けた。  職業外交官の目から見ても、あるいは同じカンボジア人としての立場から見ても、「赤いクメール」があれほど極端な政策に走るとは、タンランさんにも想像もつかなかったのだろう。  もっとも、戦火に巻き込まれたとはいえ、当時のプノンペンは隣国南ベトナムの各都市にくらべると、歴然と“楽園”の面影を残していた。サイゴンに赴任間もない私は、四六時中身辺を圧迫する銃器、砲音、ヘリコプターの|唸《うな》り、それに、街中にとぐろを巻く有刺鉄線がかもすささくれだった空気に神経が参りかけると、オンボロ飛行機に揺られて、プノンペンへ息抜きに行ったものだ。  同じインドシナの、同じ戦争の国でこうも人々の気持ちや町の空気が違うものか、と思えるほど、当時のカンボジアの首都はまだのどかであった。ホテルの部屋に現金をむき出しにして放置しておいても決して盗まれることはない。憲兵に道をたずねると、ニコニコしながらわざわざ目的地まで案内してくれる。生き馬の目を抜くサイゴンでは考えられないことだった。  平和なシアヌーク時代に、日本人特派員も含めて多くの外国人がこの国に永住したがった。何回かの短い滞在で私にもその気持ちがよくわかる気がした。こんな国でなぜ「赤いクメール」のあの大暴政が猛威をふるったか、その理由を今後、私なりに考えていきたいが、いくつ理由をならべ、自分にいいきかせてみても「それにしてもなぜ」という気持ちは心の底から消えまい。  静かに、しかし、ひしひしと迫る戦火の中で泰子さん一家は、プノンペンの“わが家”に身を落ち着けた。タンランさんがモスクワから帰任後、土地を下見し、ワルシャワ在勤時代に、甥に建築管理を依頼してあった市内の新住宅街、トゥオルコクの家屋が出来上がっていた。一階をガレージにした二階建てである。家は小ぢんまりと、そのかわり庭は広々と明るい、しゃれた新居だった。  首都とタンランさんの故郷クラチエを結ぶ交通はすでに途絶していた。「ポポン・タンラン、ジョートー、ジョートー(タンランの妻は上等)」と、泰子さんをかわいがってくれた夫の実母も、もう高齢で亡くなっていた。  その年が暮れ、七三年、そして七四年。プノンペンにもテロやロケット砲撃の被害が増えはじめ、市場の物価は日ごとに上がった。この間、隣国ベトナムでは「パリ停戦・平和協定」が成立し(七三年一月二十三日仮調印)、米軍戦闘部隊の全面撤退が完了している。同じ年の八月十五日、米軍機によるカンボジア領内爆撃も中止された。インドシナ情勢は総体として、不気味な「待ち」に入ったようにも見えた。  こうしたなかで泰子さん一家は新住宅地の一角に初めて腰を落ち着けた。高血圧気味のタンランさんは予定通り退官して、新しい家の庭造りに精を出した。敷地の縁に沿ってヤシの苗を何本も植えた。泰子さんは日本から取り寄せた朝顔のタネを庭一面にまいた。  プノンペン陥落二日前の一九七五年四月十五日午後、従兄の次男ベンが「共産軍が来る!」と緊急避難を勧めに駆け込んでくるまで、束の間の静けさだった。 [#改ページ]

   
4 流浪の日々   亡  霊  次男トニー君の死に次いで二十三歳の養女ティニーさんが倒れた。疲労と栄養失調で「まるで枯木が倒れるように」息を引き取った。幼時から泰子さんと共に暮らし「お母さま、お母さま」といつも日本語で継母を慕っていた。プノンペンでは医科大学に通っていた。  この二人の死を境に、当時四十二歳の泰子さんはにわかに老け込んだ。髪が見る間に白くなり、クシを入れると、髪の毛がボロボロと抜けた。「四谷怪談」の“お岩さま”みたいだ、と自分でも空恐ろしくなった。  同時に、泰子さん自身の追憶談を聞いていると、彼女がこの頃から、急にある神経的傾向を深め始めたことに気づく。泰子さんは「私は若い頃から信心深くもなかったし、特別に宗教への関心も持っていなかった」というが、あるていど|縁起《ヽヽ》をかつぐ性格ではあったらしい。  十代の頃、ある近所の人相見に、あんたは遠いところにお嫁に行くよ、と言われた。彼女の母は鹿児島から東京へ嫁いだ。なるほどそれなら東京生まれの自分は北海道へでも行くのかな、とそのとき思った。北海道どころか、インドシナまで来てしまったが、タンランさんとの結婚を決めたときも、彼女はこの手相見の言葉を思い出し、多分これも生まれついての定めなのだろう、と思ったという。  もっとも、このていどの縁起はたいがいの人が二度や三度、偶然に体験する。むしろ本質的には、彼女は各種の自己暗示により自分を律していける強い意志と性格の持ち主とみえる。彼女の体験談を聞いていると、この傾向は最後まで一貫して感じられる。  が、同時に彼女はトニー君の不運な死を境に、にわかに“超自然的なもの”の存在を信じ、ときにそれにすがって生きるようになっていく。  彼女と初めて会ったバンコクからの機中で、泰子さんは「今、私は神とはいわないまでも、科学では説明がつかない超自然的現象の存在を絶対に信じます」と、言った。  いくつもの例をあげた。  トニー君の死後しばらく、夫婦は力を落とし、仕事も休みがちだった。  コメの配給量は仕事次第なので食べるものに事欠いた。  ある日、空腹をかかえたタンランさんが小屋の前にたたずみ、 「こんなときにヘビでもいいから出てこないかなあ」  とつぶやいた。  言い終わるか終わらないうちに、目の前に本当に一匹のヘビが降ってきた。泰子さんはマキを手に握りしめると、夢中でヘビの頭を一撃した。  頭を持って、皮をはいだ。生まれて初めての経験だったが、串ざしにして焼いたヘビは、香ばしい味がした。両親に食べさせるためにトニー君の霊が天から投げ与えたに違いない、と今も泰子さんは固く信じている。  村では、夕方六時から朝の四時までは、外出が禁止された。八月に入ると熟れきったヤシの実が木から落ちはじめる。人々は外出禁止時間明けを見はからって、暗いうちからそれを拾い集めに行く。タンランさんも毎日出かけた。  ある夜、泰子さんが目ざめると、隣に寝ているはずのタンランさんの姿が見えない。腕時計に目をやるとまだ午前二時、小屋の外は真っ暗である。泰子さんは外へ捜しに出た。兵士や民警に見つかれば撃たれるかもしれない。タンランさんがよく行く場所で、声を押し殺して何度も夫を呼んだが返事がなかった。  そのとき、すぐそばで声がした。 「ママ、心配しないでいいよ。パパはすぐ帰ってくるよ」  間違いなくトニー君の声だった。  間もなく、ヤシの茂みの中から足音が聞こえ、タンランさんが姿を現した。月明りを夜明けと間違えて実を拾いに出たところ、雲が出て暗闇で迷い、途方にくれていたらトニー君が手を引いて林の外へ連れ出してくれた、と答えたという。  こういう不思議なことを、泰子さんはその後何回も体験した。タンランさんの死後は、彼女が何かの選択に迷うたびに、彼が夢に現れ、道を示してくれた。  読者は、こうしたエピソードを単なる|気のせい《ヽヽヽヽ》、あるいは彼女自身の当時の心的状態の産物ととられるかもしれない。  私も同意見だ。ただ、おそらく、同意見であっても、これらの話の|肌身《ヽヽ》での受け取り方は、多少、読者と違うかもしれない。つまり、私の肌は、むしろ積極的にこうした気のせいの産物に関心を示す。  というのは、インドシナに住む前、私は、われながら実に割り切った科学的精神の持ち主(?)で、この類の話にはまったく興味を示さなかった(そのくせ、人並みに|丑《うし》三つどきの古寺などへ近づく度胸はなかったのだから、そもそもからして矛盾していたわけだが——)。  私は、今もさまざまの事象にさいしての自分の発想原点が、「科学」と「合理」にあると思っているが、インドシナに何年か暮らすようになり、やはりその発想原点に以前と比べ多少のニュアンスの違いが出てきたことを認めないわけにはいかない。  カンボジアに限らず、一般にこの地域の一般庶民の間には、“超自然的なもの”を信じる傾向が強い。幽霊やお化けの存在、夢のお告げ、虫の知らせ——など。これらは人々の日常生活を律する一要素とすらなっている。たとえば、暦の日どりと攻撃すべき方角が悪いと、兵隊たちでさえ作戦に出るのを拒否する。合理主義者はこのインドシナの人々の“迷信深さ”を笑う。  サイゴンで一緒に暮らし始めた当初、私と妻はよく言い争った。私の出張や急な取材旅行の旅立ちの日が彼女自身の暦の“悪い日”に当たったりすると、妻は猛烈に気をもみ、何とか出発の日を延期させようと食い下がってくるからだ。  ときに私は深刻な口論を中断し、重く後味の悪い気分のまま空港に駆けつけなければならないこともあった(実は現在でもそうだ)。これは私にとって実にわずらわしいことであり、ことさら旅立ちの気分を縁起でもない予言でぶちこわしにする妻に対して荒い言葉もつかった。しかし、後に残る妻が、不眠症に陥るぐらい私の身を案じていることを知っていたので、本気でその“迷信深さ”に立腹したり、それを笑う気にはなれなくなった。  表現的には矛盾しているようだが、インドシナの人々がとかく“超自然的”なものに重きを置くのは、あの地域の自然があまりに優勢に人間の力を圧倒しているからかもしれない。そして、迷信も、いったん市民権を得てしまえば、それはそれで一つの「合理」であり「事実」となり得る。泰子さんと私は、バンコクからの機内でこのことについて話し合い、互いに意見が一致した。  ただ泰子さんの心を“超自然的なもの”へと傾かせたのは、単にあのインドシナの森のすさまじい迫力や、周囲の人々の感化だけではなかった。  きっかけはやはり、彼女が体験した悲痛な「運命」だった。実はこの「運命」も、あの地域の人々に共通したものなのだ。  サイゴン在勤中、私は、戦火にもまれ、家族と生活から引き裂かれる幾多の人々を見た。タイのカンボジア難民キャンプでも、これが自分と同じ人間か、と思えるような、汚濁と喪失と苦痛にまみれた人々の集団を見る。そのたびにまず「神も仏もあるものか」と思う。  しかし、仮に私があの難民キャンプの一員だったらどうか。おそらく私も、神を、あるいは|定め《ヽヽ》を、また、“超自然的なもの”の存在を、信じないではいられまい。救いを求めるために、ではなく、すべてを受け入れ、わが身の境遇をすべてこれらのものの|せい《ヽヽ》にして、とにかくその日を生き延びる気持ちを|保《も》ち続けるために——。   再 移 動  環境の激変の中では、順応性のない弱者から順に|淘汰《とうた》されていく。泰子さんの話を聞いていると、何度かこの冷厳な“摂理”を再確認せざるを得ない。  プノンペンを追われ、地方に駆り立てられた人々の多くは、処刑されたり虐殺されたわけではなく、飢えと疲労、それにマラリアなどにより衰弱死した。  泰子さんの周辺で、弱者から順に生命を失っていったことを考えると、これらの人たちの大半は、プノンペンを追われてから比較的早い時期に倒れていったことがわかる。夫のタンランさん、容子さん夫婦もひどく衰弱しはじめていた。一時八十キロもあったタンランさんはすでに見るかげもなくやせおとろえていた。  泰子さんはプノンペンを追われて以来の日々を、短文ながら綿密なメモに記録している。次男の死以後のメモにはっきりと望郷の思いがつづられている。 『8日(木)=注・一九七五年八月 昨夜母の夢見る 逢いたい』  それ以外は、ほとんどが仕事と食べ物のことばかりだ。一部引用すると、   『13日(火) 毎日草むしりの仕事 サトウ1キログラム配有 魚塩と替える』   『18日(日) 米が少しなので水ばかりのむ』   『23日(金) 畑仕事 皆イバッテいる』   『27日(火) 力仕事なので骨の節々が痛い』   『29日(木) 稲取り 一日中仕事』   『8日(日)=注・同年九月 田植えの間中雨で寒かった』   『13日(金) 仕事休む 私が休むと野菜不足』  こんな生活の中で、九月二十日、泰子さんは仕事を休んで夫の五十七回目の誕生日を祝った。付近の小川でタニシをたくさんとってきてお祝いの料理を作った。 「赤いクメール」の兵士たちから再び移動の指示が伝達されたのは九月下旬だった。一行が約四カ月前ウドンの山中からトラカップへ移されたとき、彼らは「首都へ戻すから近郊まで行って待機せよ」と言ったはずだった。  それなのに、次の移転先は、プノンペンとは逆方向のバッタンバンだった。バッタンバンは、大湖トンレサップの西方にある穀倉地帯の中心地で、カンボジア第二の大都市である。  トラカップ村に滞在中の都市住民のうち数家族が指名され、再移動することになった。医師のベンさんは指名者の中に入っていなかった。プノンペンから励まし合いつつ行動をともにしてきた家里容子さんも、「重病人だから病院に連れて行く」と言われて移動組からはずされた。  彼女は衰弱がひどく、すでに動ける状態ではなかった。これが容子さんとの最後だった。消息は、今もわからない。  九月二十五日午前四時、泰子さん夫婦を含めた家族は、用意された牛車に荷を積んで出発した。この五カ月間、慣れぬ農村暮らしでの飢えと疲労に弱り切った心身にムチ打って、人々は、再び長い旅路につかなければならなかった。  この一九七五年九月の再移動は、全国規模で行なわれた。「赤いクメール」入城直後のプノンペンなど大都市からの住民追い出しを「第一次大移動」とすれば、これは「第二次大移動」ということになる。  わずか五カ月間に、ポル・ポト政権がなぜこの大規模な住民再移動政策を実施したか、その目的はよくわからない。コメの収穫期に入った北部バッタンバン州へ人手を集中させることをめざした、ともいわれる。が、陥落直後の「第一次大移動」ですでに多数の弱者が淘汰されたことはこれまで見てきた通りだ。衰弱しきった住民を休む間もなく「第二次大移動」に駆り立てることにより、「赤いクメール」は意識的に人々を再度、恐ろしいふるいにかけた、とも解釈できる。現にその後の「赤いクメール」要人の発言は、しばしば“弱者は不要”という意味の含みを伴っている。  再移動の旅程はよく組織されていた。用意された牛車に荷物を積み込み、田舎道を二十キロ余り行ったところで、通称「赤い道」といわれる舗装道路に出る。そこから一行はトラックに乗り込み、二十六日夕刻、鉄道沿線の町、ポーサットに着いた。すでに各地から「第二次移動」者に指名された人々が何千人何万人と集結していた。四泊、汽車待ちの露営をして三十日夜半、ぎゅう詰めの貨車に積み込まれた。 「赤いクメール」の兵士たちが、連結器や屋根の上から見張った。汽車は目的地とされていたバッタンバンを通過し、翌日、さらに北方のシソポンに到着した。農家で夜を過ごしたあと、トラクターや牛車で北への旅を重ねた。  タペントモーという村へたどり着いたのは、十月三日、泰子さんの四十三歳の誕生日の前日だった。   夫 の 死  タペントモーは、カンボジア西北部の大都市、シソポンから東北へ四十数キロ、同名の小さな沼に面したいかにも湿気の多そうなところにあった。沼のほとりのジャングルを切りひらいた村である。沼へ通じる小川に面したいい場所は、プノンペン陥落直後にここへ連れてこられた新着組に占領され、すでに彼らの村づくりが終わっていた。  泰子さん夫婦に割り当てられた居住地は、隣村に通じるジャングルの小道の両側の未開地だった。割り当て地の中で最もひどい場所だった。ここを開拓して小屋を建てろと指示された。こんな茂みを開いて、どうやって家を造れというのか。気丈な泰子さんも、このときばかりはガックリきて「思わず泣きだしてしまった」という。そんな彼女を周囲の人々が「手伝ってやるからがんばれ」と励ましてくれた。  体の頑健なものにとっても、インドシナのジャングル生活はつらい。トラカップ以来衰弱一途のタンランさんは、この新たな生活環境が決定的にこたえた。食欲もほとんど失った。そのくせ、ひどい下痢だけは止まらない。マラリアも併発し、高熱と震えが続いた。  この村に集まった人々はおおむね泰子さん夫婦に好意的だった。みな泰子さんが日本人であることを知っていた。病気のタンランさんのために砂糖や小魚をくれた。長男トーモリ君、次男トニー君らの形見の衣類はコメや塩辛などに変わった。  タンランさんの病状はすでに絶望的だった。到着後一カ月もすると、いったんアバラが見えるほどやせた体が、逆にむくみはじめた。どこの移転先でも村への新着住民は五〜十家族につき「組長」を一人選ぶのが決まりだった。名目的には互選だが、しぜん、読み書きが多少でき、しかも「赤いクメール」に“優等生”とみられた者が組長になる。「組長」の上には、地元民、あるいは「赤いクメール」から送り込まれた「村長」がおり、その背後で委員や兵士が住民管理の指示を発していた。  夜になると各組、あるいは数組合同の集会がある。政治教育をはじめ、個人の行動、仕事の態度などの批判、はては夫婦ゲンカの裁定までが集会の合議で下された。  |瀕死《ひんし》のタンランさんは、近所の人の協力で泰子さんが作り上げたヤシ小屋の床に横たわって日を過ごした。十二月中旬の集会で、ようやく彼を病院に収容することが決まった。  組長が運搬用の牛車を手配しに行ったが、みんな出払っており、なかなか迎えに来なかった。泰子さんは移住民の中の漢方薬師兼占い師から、あやしげな薬を手に入れ、看病に尽くした。  ある日、観念した。暗い小屋に座り込み、かつて肥満体ながらたくましいスポーツマンであった夫の、ほとんどぶよぶよにふくれ上がった寝姿を見ているうちに、なかば発作的に「もうこれまでだ」と決意した。無意識に立ち上がり、右手に果物ナイフを握って病人ににじり寄った。  その手を上にあげ、目をつぶって夫の胸に振り下ろそうとした。夫を殺して自分も死のうと思った。そのとき、だれかに手首をつかまれた。動かそうとしてもどうしても動かなかった。  われに返った泰子さんは、そのまま床にへたばり込んだ。目をさましたタンランさんは一部始終を知った。「きっと神様が止めたんだよ。自分で生命を断つのは罪悪だ。生きられるだけ生きようじゃないか」と穏やかに言った。  死の数日前になってようやくタンランさんは病院へ運び込まれた。病院とはいえ、壁をヤシでふいただけの長屋で、近代医学をおさめた医者も、満足な薬もない。泰子さんが占い師と名付けた例のあやしげな漢方医がいるだけの粗末な施設だった。ちょうど工事現場の飯場のように中央に通路があり、左右のやや高くなった床に七、八人の重病人が転がっていた。  死の前日、タンランさんは、村人からお見舞いに砂糖をもらって子供のように喜んだ。  正気を取り戻すたびに彼は、外交官であった自分の見通しの甘さをしきりと妻に|詫《わ》びた。カンボジア人の気質からも、たとえ共産化されてもピンクていどにおさまり、こんなに国中が真っ赤に染められるとは思わなかった、と言った。おまえは外国人だから生き延びればきっと日本に戻れるだろう。自分は離婚してもおまえをもっと早く日本に帰すべきだった、としきりに侮やんだ。  十二月十九日午前四時頃、昏睡状態のタンランさんが突然言った。 「日の丸の旗が見える。日の丸を立てた車が迎えにきたよ。ママ、必ず生き延びるんだよ」  うわ言とも、遺言ともつかぬ言葉だった。三時間後の午前七時、泰子さんに手を握られたまま二十年間連れ添った五十七歳の夫は息を引きとった。穏やかな死顔だった。  その日の彼女の日記にはこう記してある。   『19日(水) 朝からパパ昏睡状態で七時頃息をひきとる。とうとう私一人になってしまった。これからどうしたらよいか?』  遺体は例によって、即刻埋葬された。泰子さんはタンランさんの髪の毛をひと握り持つと、ナイフで切り落とした。涙は出なかった。次男のトニー君の死は泰子さんを消沈させたが、夫タンランの死は彼女の「姿勢」を逆の方向に変化させたようにみえる。  失うものはもうこれで全部失った。一時の虚脱状態から立ち直った彼女に残ったのは「何が何でも生き抜いてやる。夫と息子らへの供養のためにも絶対に生きて日本に帰ってやる」という強靱な執念だった。「もう失うものは何もない。よおし、それなら」と、自分自身に、繰り返ししかと言い聞かせた——という。   タペントモー村の人々  その後約三カ月にわたるタペントモー滞在中、心身衰弱しきった彼女はほとんど重労働を免除されている。主な仕事は他の人々が働きに出ている間の子守、家の中の雑用、それに、彼女の裁縫や編物の腕が皆に珍重された。  村長や組長のはからいで、彼女はタンランさんの死の翌日から、今は一人となった森の掘っ立て小屋を離れ、旧集落の中の「先生」の家に同居させてもらう。「先生」とは名ばかりの病院の院長コッドエルさんのことだ。五十歳余りの好人物で、彼もプノンペン出身者だった。二十歳代半ばの奥さんと、その妹ヤーなどと一緒に、病院のそばの掘っ立て小屋に住んでいた。奥さんは亭主より背が高く、ベトナム系の顔だちをした、たいそうな美人だった。  泰子さんが引っ越していった日、奥さんは、「体力をおつけなさい」と、どこからかたまごを探してきて料理してくれた。  先生夫妻の親切は泰子さんの身にしみた。それまでのメモ日記で彼女はコッドエルさんのことを「占い師」と呼んでいたが、引っ越し当日には『今日から先生と呼び改めることにしました』と記している。  タペントモー村の生活をメモした泰子さんの一行日記は、人間というものを考えるうえで示唆に富んでいる。戦時中のサイゴンでも人々の生活を見ながら私は同様のことを感じたのだが、異常な状況、あるいは極限の状況に置かれると、人間はよくも悪くもなまなましく、|人間くさく《ヽヽヽヽヽ》なる。親切も物欲も|猜疑《さいぎ》も、いわばオブラートなしで、人々の言動を左右する。そして妙なことかもしれないが、私が、あの不幸と汚濁と悲惨に満ちた旧南ベトナムの首都の生活に深く魅かれたのは何よりもそのためだったように思う。  タペントモー村の人々は泰子さんを心温かく遇したが、といって、ここでも人間の内部にうずまくものを、きれいごとばかりと受け取るわけにはいかない。  タンランさんの死の三日後、泰子さんは『世話になった人たちの所へあいさつに行く。皆パパの形見をあてにしているので悲しくなる』と日記につけている。  同様のことは泰子さん自身にとってもいえるかもしれない。『こんなにいい人たちにめぐり会えて本当に運がよかった』(日記から)はずの「先生」の小屋に引きとられて一カ月目あたりから、彼女の心にも少しずつ苦情や不満が見えがくれし始める。   『先生の家だんだん人使いが荒くなる』(一九七六年一月二十四日)   『毎日がやり切れない』(同二十六日)   『今日はゆっくり出来ると思ったら魚とりに皆でかけて子守、留守番だ』(二月一日)   『粉をひき、クティユ(注・コメ粉のウドン)を作り、奥さんは自分は作らず食べるだけ食べる。作るのは私だ。嫌になる』(同十一日)   『昨日サロン(この地方の女性の一般的衣装)が一枚新品がなくなった。奥さんは大さわぎ。私が家をみないとヤツアタリされた——』(同二十一日)  また、泰子さんは、彼女自身つけたあだ名などを用いて周囲の人々との交流を点描している。 「中国小母さん」というのがいた。まだタンランさんが生きていた頃、彼の病気は何かのたたりだと口にしては、“お|祓《はら》い”のためにしきりと夫婦の衣類や食料をまきあげていった。近所の小屋にプノンペンでシクロ(輪タク)引きをしていた「ドロボー小父さん」がいた。夜になると、こっそり家を出ては村はずれの共同畑でトウモロコシやイモをどっさり盗んでくる。見かねた泰子さんが「見つかったら銃殺されるからおよしなさい」と忠告しても、最後まで盗癖は直らなかった。 「ドロボー小父さん」の女房は「ドロボー小母さん」だった。泰子さんは、ワルシャワ在住時代に買った三個一組の素晴らしい厚手の鍋を最後まで持ち歩いていた。一個はすでに食料と交換した。タペントモー村で、夫の死後、二個目をわずかばかりのブタの三枚肉、骨付き肉と交換した。農村の人々が喜ぶのはこの種の実用品、衣料などだった。久しぶりにごちそうを手に入れて彼女は三枚肉は塩漬けにし、骨付き肉は夜中まで煮込んで栄養補給のためのスープを作った。翌日ナベのフタをあけると、からっぽだった。昼間から様子をうかがっていた「ドロボー小母さん」の仕業と、すぐわかった。ふだんでも、スキを見ては砂糖などチョロマカしていくからだ。それでも、このシクロ運ちゃんの夫婦はケロリとして、ときどきマラリア見舞いにきたり、ちょっとした食べ物をもってきてくれたりした。  思いがけない|邂逅《かいこう》もあった。夫タンランさんの死から約二十日くらいの一九七六年一月上旬、泰子さんの住まいに二十歳余りの青年が現れた。「長い間英語を話さないので忘れてしまいそうだ」。泰子さんが外国人と知り、“会話”の勉強に来たのだという。話している間に、この青年の父親と泰子さんの夫タンランさんが間接的な知人であったことがわかり、思い出話がはずんだ。しばらくしてこんどは中国人青年二人が来た。泰子さんがプノンペンで親しくしていた日本女性から日本語を習っていた、と言った。イレーヌという名の二十二歳の混血娘もプノンペン出身だった。人々は彼女を「フランス娘」と呼んだ。本当は父親が米国人、母親が、中国系インド人だったが、米国人の血が流れていることがオンカー(「赤いクメール」の党組織のこと)に知られたら危険なので、皆で申し合わせて「フランス娘」にしてしまった。カモシカのような肢体のたいへんな美人で、彼女の母親も泰子さんにとても好意的だった。  ある日、「この家に元カンボジア外交官の奥さんだった日本人の女性がいませんか」と、中国の女の人がたずねてきた。戸口に出た泰子さんは目を疑った。相手もやつれ、うす汚れ、変わりはてていたが、間違いなくタンランさんの従兄コー・エム・ホーさんの夫人の妹、アガーさんだった。ホーさんは、泰子さんが初めてカンボジアの土を踏んだとき、市内の大邸宅の一階を一家に提供してくれた大金持ちの貿易商である。その後プノンペンを去り、現在、マルセイユで「アブサラ」というカンボジアの女神の名を冠したレストランを経営している。一九七五年の陥落前夜を泰子さんらが過ごしたコー・ベン・スンさんは、エムさんの実兄で、いずれもタンランさんとは兄弟のような間柄だった。  アガーさんはトンレサップ湖の東を回り、泰子さんより何カ月も前にタペントモー村に来た。二人はわずか二百メートルほど離れた掘っ立て小屋に住んでいたのだが、この日まで互いに気がつかなかった。  この頃、タペントモー村に、いくつかの内外情報が伝わった。一九七六年一月七日、シアヌーク殿下のスピーチがラジオで流された。次いで周恩来中国首相の逝去が伝えられた。それより後しばらくして、住民らはときおり、西方彼方で砲声が響くのを耳にした。人々はプノンペン住民に人気があったイン・ダム元首相配下の新解放軍が、「赤いクメール」軍に立ち向かっているのではないか、と期待をこめてささやきあった。 [#改ページ]

   
5 孤独の三年間   再婚しなさい  私は、たびたび内藤泰子さんのことを「強靱な性格・精神」の女性と書いた。  天涯孤独となってから三年間余りの彼女の生き方の断片を知ると、いっそうそのことを強く感じる。正確には、息つく間もなく彼女を見舞い続けた悲劇が、彼女の生来の|強さ《ヽヽ》をさらに鍛えていったと表現した方がいいかもしれない。  日常生活の喪失、家族との死別、そして未知の土地での放浪——これら、私たちの通常の感覚に訴える“ドラマ”は、泰子さんがプノンペンを追われて約八カ月間に集中して起こった。そして夫タンランさんの死により、彼女は腹をすえた。いわば居直った。  その後の彼女を支え、耐えさせ、闘わせた不変の原動力は、 「生き抜いてやる」 「絶対に生きて日本に帰ってやる」  という、執念と確信だった。 「何度かへたばりかけたが、この確信だけは一度もぐらついたことはなかった」  と、彼女自身も繰り返し言った。  タペントモー村で夫タンランさんを失ってしばらくしてから、彼女に“縁談”があった。話を持ち込んだのは、村長だ。  あなたも、こんな見知らぬ外国のいなかでご主人を失われて寂しかろうから——と、やや当惑気味に切り出した。  聞いてみると、どうやら六十歳以下のものは必ず配偶者を持つように、とのオンカーの指示が出ているようだった。理由はよくわからない。住民が家族単位で互いに結ばれればそれだけ、逃亡の量が減るだろうという“脱走防止措置”だったのか。この前後ポル・ポト首相は、プノンペンを訪れたベトナム人記者に、カンボジア国民の大部分がマラリアに苦しめられていると述べ、すでに大量の死者が出たことを示唆している。そして将来人口を千二百万人まで増やすつもりだ、と当時の状況からみてきわめて非現実的な発言をし、外部を驚かせた。一方では「国土再建」のためには百万人の若い健康な住民がいれば十分だ、と放言する幹部もいたが、あまりに派手に殺しすぎたので、政府も多少は「産めよ、殖やせよ」の必要性も感じ始めたということなのか。とすれば、六十歳の老人にまでその“お勤め”の義務を課すのは、酷、というより少々滑稽な話だ。もっとも右は私の個人的な、それもあまり品のよくない推測で、その後何次かにわたって、なお吹き荒れた粛清の嵐からみて、この“結婚奨励”策は、必ずしも人間生産を意図したものではなかったらしい。  いずれにしろ、村長は泰子さんをつかまえて再婚を執拗に勧告した。だんだん押しつけがましい口ぶりになり、彼女をめとりたがっている新夫の候補者がもう二人もいるのだ、としまいには強要じみたことを言った。  当然ながら、夫の死から二カ月もたっていない彼女に、再婚など思いもよらぬことだった。ふだん物わかりのいい村長も、とうとう荒い言葉遣いに出た。 「あんた、そんなに頑固に上にタテつくつもりなら、銃殺刑ぐらい覚悟してもらわねばならんかもしれんよ」  おそらく「赤いクメール」体制下では、こんなふらちな住民がいたら、村長としての身の安全にも直接ひびいたのだろう。  泰子さんの方もカッとなった。勝手に銃殺でもなんでもしなさい、日本では配偶者を失ったら最低三年間は喪に服すことになっている。わずか二カ月で再婚しろとは、いったいどういうつもりか、声を荒らげてまくしたてた。  結局、村長の方が、この剣幕に気おされた。弱り切り、途方に暮れた顔で彼女の顔を長い間見ていたが、そのまますごすご引き下がっていった。 「赤いクメール」体制下に結婚の自由はなかった、という説もある。しかし、これは必ずしも全面的に事実を伝えていないようだ。いわゆる“強制結婚”があったとしたら、それはおそらくその村の委員の個人的指令で、一般政策であったことを裏付ける発言はむしろ少ない。結婚に限らず、処刑、労働時間、配給、その他住民管理のすべてが、とかく地区単位あるいは村単位の幹部の裁量しだいで決定されていた節が強い。通信網もろくに修復されていなかったので、中央政府の行政掌握力はきわめて限られたものであったのだろう。だから、幹部の質の良さ悪さによって、その管理下の住民らの運命や境遇は決定的に影響される。  タイ領へ逃亡してきた難民の話でも、良質の幹部は住民から慕われさえした。が、不幸なことに与太者まがいの幹部の方が多く、この連中はささいなことで平然と人を殺した。  情報の世界でも当然、悪貨は良貨を駆逐する。こうした与太者幹部の行動についてのウワサが、よけい人々を恐怖させた。タペントモー村で泰子さんが再会した義理の従姉の妹(貿易商コー・ベン・スンさんの夫人の妹)アガーさんも、「強制結婚」を恐れて、書類上は実兄と夫婦になりすましていた。  もっとも「結婚の自由」は、やはり限られたものに過ぎなかった。政府の集団化政策が進むにつれ、結婚も“集団化”した。年に二回、結婚許可日なるものがある。相愛の男女は、あらかじめオンカーに結婚の意思を伝えておく。片思いではダメである。たとえば私が隣の小屋に住む美人に惚れてどうしても一緒になりたくても、不粋な委員がしゃしゃり出て行って彼女自身の意思を確かめる。「あんな男ダメ」とつれなく彼女が言えば、オンカーは私の結婚願いを却下する。まあ、相手が拒否すれば、そうたやすく結婚できないのは自由世界でも当たり前の話だが、自由世界には、いざとなれば直接交渉による押しの一手、泣き落としなどで相手の心をゆさぶる“自由”が残されている。一度ぐらい肘鉄を食っても、まだ救いはあるわけだ。直接交渉を存分にさせず、黒服の委員がのこのこ乗り出してくるのは、やはり実に|僭越《せんえつ》な過剰介入というほかない。 「赤いクメール」のカンボジア革命は、すべての革命と同様、各種のピュリタニズムを人々に課した。たとえば公式の一般道徳規律には、  一、同胞は貧農および労働者をいつも愛し、尊敬し、奉仕しなければならない。  一、人民の性格に応じて人民と交わり、話し合い、冗談を言い合うべきである。  一、女性の利益に反する行ないは、決して許されない。  一、かけごとをしてはならない。  一、革命的政策から外れる一切のことをしてはならない。  一、国家や人民に属する財産を、たとえ米一粒でも奪ってはならない。  とくに“不純異性交遊”は、厳しく禁じられていたようだ。単に言葉を交わすことはおろか、人生の大事について、森の木陰で二人きりになり、じっくり“直接交渉”を行なうことすら“不純異性交遊”とみなされかねなかっただろう。  話が多少よろめいてしまったが、とにかくオンカーが双方の合意を認証すれば、結婚は許可される。息づまる体制下でも、若い男女には性欲はもとより、精神的な異性恋しさは常の世と同様にある。「結婚日」は年にわずか二回だから、一回はずすと半年お預けになる。だからみんな必死だったそうだ。  こうして、「結婚日」には何組もの新カップルがまとまって誕生する。各カップルにはオンカーから、作業服に多少毛のはえたような結婚衣装を支給され、一同、広い集会場でオンカーの“恵み”への感謝を表し、それへの忠誠を誓いつつ夫婦の取り決めを交わす。この“式”には幹部も出席して一席祝辞をぶち、あとは簡素ながらも、日頃よりは相当ましな祝いの食事がふるまわれる。そして歌や民族舞踊——。  少なくとも泰子さんが知る限り、集団結婚はこんな形で行なわれた。やはり「結婚の日」とはそれ相応のなごやかさと楽しさが、村全体の空気を浮き立たせたという。   望  郷  独り身となって以後の泰子さんは、たえず「脱走」について考えた。最初の誘いは夫の死後まもない一九七六年一月六日、タペントモー村の仲間の一人、ベトナム系中国人から、「新政府は私たちをベトナムに送り返すつもりらしい。あなたもベトナム人になりすまして一緒に来ないか」と声をかけられた。「赤いクメール」は全土制圧以後、大量のベトナム人の弾圧・追放に出た。多くの中国人、カンボジア人がこれに便乗してベトナム領に逃げ込んだ。さんざん考えたすえ、泰子さんは誘いを断った。おそらくこの判断は正しかった。それまでにも「ベトナムへ帰す」と言われて五十人のベトナム人住民が村を去ったことがあって、その大半が遠い山岳地に連行され、生ける骸骨の姿で重労働に従事している姿を、泰子さんの知り合いが目撃している。  彼女はむしろタイ領への脱出を考えていた。  事実、その頃、旧知のアガーさんから、一団の人々がタイ領内への脱出をはかっているとの情報を聞かされた。一人では地理もわからず、野獣や物盗りの多いジャングルを抜ける度胸も体力もないが、グループ行ならなんとかなるかもしれない。しかしこの計画は立ち消えとなった。  最終的にアガーさんから計画延期の連絡を受け取り、がっかりして住まいに戻る途中、村の手相見に呼びとめられた。相手は泰子さんの掌を見つめ、「ことしは、あなたにとてもいい年だ」と言った。「近いうちに帰国できますよ」と保証してくれた。三月にハスのつぼみがふくらみはじめ、七月には満開になる、と言う。事実、彼女は七月に帰国した。しかし、この手相見の女性が予告したより三年後の七月だった。  三月三十一日、タペントモー村六百家族の住民のうち一部にまたもや移動命令が下った。アガーさんは移動組だったが泰子さんの名前は名簿に載っていなかった。行く先は知らされていない。しかしどこからともなく伝わったウワサでは、タイ国境から十キロあたりの新開地が次の目的地だという。国境に近づけば、それだけ脱出の機会が多くなる。泰子さんは組長を訪れ、自分も移動組に入れてほしい、と頼み込んだ。四月二日朝、泰子さんらは村を出た。途中、野宿で一泊してマウ村という集落に着いた。タペントモーよりさらに奥地の寒村である。  マウ村到着直後の日記に泰子さんはこう書いている。 『タイ国に近い(十キロ)なんとか逃げられないものか……近いところに自由があるのになんでこんな生活をしなければならないのか?』  土地カンのない泰子さんは、マウ村がタイ国境に近い村と思い込んでいた。しかし実際には、移動の牛車の列は、彼女を国境からむしろ遠ざかる方向に運んで行ったのだ。彼女と「自由」を隔てる距離は、少なくとも八十キロ以上はあった。  移動後一週間ぐらいしてようやく彼女もそのことに気づく。 『……私のとった道、間違っていたみたい。移動しないで前の場所で静かに待っていた方がよかったらしい……』  と、四月九日にはホゾを噛んでいる。  マウ村は北部カンボジアの見捨てられたような小村である。田んぼ、クワ畑、タバコ畑にかこまれて、七十軒ほどの古びた農家が建っている。村内には車もトラクターもない。以前、村人たちは、近くのシソポンの町へ出かけるさい、自転車で何時間かかけて舗装道路まで出た。そこで地方都市と地方都市を結ぶ乗合タクシーやトラックを拾った。「赤いクメール」時代になってからは、こんな外出もよほどのことがなければ許可されなくなった。どうやら七五年の全土解放以前に、早々と「解放区」(「赤いクメール」の支配地)となった村らしかった。村人たちは、「今は苦しいが、もう一年もたてば水道も引ける。電気も来る。皆が平等に豊かに暮らせるようになる」と、心から「赤いクメール」を信奉している様子だった。  泰子さんら新着住民は、このマウ村一村にはおさまりきらず、そこから二〜四キロ離れた隣村ウェン、ウンペル両村の計三村に分散収容された。これまで泰子さんがさまよった中で、最も人里離れた地方である。兵士らも、この古くからの解放区である奥地の村へ都市住民を追い込んでおけば、手がかからない、と判断したのかもしれない。村内に兵士は常駐しておらず、ときおり一分隊ほどの兵士が村を通り抜けて行った。飲み水を所望するていどで、村人たちととくに親しく言葉を交わすことはなかった。  二、三カ月に一度、少々偉そうな幹部が、三、四人の護衛兵とともに、自転車で巡回に来た。彼らも長く村にとどまらなかった。村人たちは、まるで大臣か偉い政治家に接するような態度で、かしこまって彼らを迎え、見送った。  街道から遠く引っ込んだ、インドシナ|僻地《へきち》の典型的な寒村、しかも、旧解放区——この条件が結局は自分のその後の身の安全に幸いしたのではないか、と彼女はいう。  マウ村での泰子さんの住まいは、家齢十年近くの高床式のあばら家だった。「赤いクメール」は、ここでは新着住民に家造りを命じず、村人らを親しい親類ごとにまとめて同居させ、空いた家々を新着住民にあてがった。  同居者十人余りは、みな中国人だった。クモの巣やほこりにおおわれた暗い室内に立ち、泰子さんは若い頃日本で見た映画『どん底』を思い出した。これはひどいことになった、と心の底から思ったという。ヤシ小屋の野宿にはもう慣れていたが、この廃屋まがいのあばら家は、これまでで最低の居住環境だった。とりわけ、同居の中国人たちの言葉がわからず、食事のさいもたった独り、片隅で押し黙ってボソボソ食べる寂しさが身にしみた。中国人の老女の一人にイン婆さんというのがいた。これがとほうもない意地悪婆さんで、ことあるごとに彼女をどなったり仕事の邪魔をするので、すっかり泰子さんの気を滅入らせた。 『息がつまりそうだ。日本に帰りたい。神様どうぞこの位で許して下さい……後一週間で(注・プノンペン陥落から)丁度一年になり、その間泣きづめだった……』  私が目を通した限り、「神様もう許して」という言葉は、この一九七六年四月十七日付の日記に、たった一言だけ登場している。 「どん底」の雑居生活で、彼女は体力的にこの四年余りで最大のピンチに見舞われる。着くなり猛烈な腸チフスを患った。立っていられないほどの痛みと、一晩に二十回も便所に通わなければならないほど激しい下痢だった。マラリア、皮膚病、下痢はもう何回も経験したが、これほどひどいのは初めてだった。家の中や村に便所はなかった。「地上に汚物を残すべからず」ときついお達しが出ていたので、皆催すと、シャベルを片手に村はずれの畑に出かけた。周囲 に気を配りながら、用を足したあとは自分で土をかぶせる。  夜中、小屋を抜け出し、暗闇の畑で用を足し、木の幹伝いによろめきながら小屋へ戻っても、高床式の階段を上る気力と体力がない。階下でへばっているとまた次の便意に襲われ、また畑に逆戻り。こんな毎晩が続いた。ここまで生きてきたのに、こんどこそはもうダメか、と暗い中で一人ヤシの幹をたたいて歩きながら何回か悔し泣きをしたという。  中国人たちは、息もたえだえに床の隅に転がって唸る泰子さんをかまおうとしない。見かねた隣家の夫婦が、「あんたたちはそれでも人間か」と彼らをどなりつけて、泰子さんを引き取り、何日も徹夜で看病してくれた。  数日後その夫婦に、何か食べたいものはないか、と聞かれた彼女は、どうせこのまま死ぬなら、トウモロコシでも腹いっぱい食べて死んだ方が思い残すことが少なかろう、と思った。夫婦は村長の特別の許可を得て、畑から五本もいできて、ゆでてくれた。むさぼるように食べた。翌日、夫婦はニワトリをつぶしてトリソバを作ってくれた。毒食らわば皿までで、これも腹いっぱいつめこんでみた。その晩から下痢がバッタリ止まった。  泰子さんはマウ村に着いた直後の登録で、年齢五十歳以上と申告した。「新しい場所へ行ったら、年齢五十歳以上と申告しなさい。老人組に入れられ、辛い仕事をしないですむ」との、タペントモー村の村長の親切な入れ知恵からだった。 「赤いクメール」は、国民を体力別に三種類に分類していた。  体力一——独身の青年男女。彼らはそれぞれ男女の「青年突撃隊」なるものに編入され、野良仕事やコメの収穫、水利土木工事、道路工事などに遠くへ駆り出される。ときには二、三カ月家へ帰れない。人々は“出稼ぎ”と呼んだ。  体力二——青年突撃隊に入れないものから五十歳まで。体力に従って村の付近で畑仕事、魚取りなどの仕事を割り当てられる。若い者の中には“出稼ぎ”に駆り出されるものもあった。  体力三——五十歳以上の老人や病弱者。主として村内外で楽な仕事を受け持つ。子守、留守番なども体力三の仕事だ。  泰子さんは年齢五十歳以上と申告する一方、日本帰国の“手続き方”を依頼するため、地元民の村長を訪ねてみた。村長は留守だった。隣家の屋根で、三十過ぎの色黒の好男子がカヤをふいていた。相手は下におりてきて、自分は村長の弟だと名乗った。 「私は日本人です。パスポートも持っています。こんどポル・ポト政権の兵隊さんが巡回に来たら、なんとかプノンペンの外務省に、私の帰国意思を伝えるよう頼んでいただけませんか」 「とんでもないことだ」と、好男子は顔色を変えた。  彼は、「赤いクメール」は現在、スパイ狩りや外国人狩りに血道をあげており、泰子さんが日本人とわかれば殺されてしまうだろう、と言った。困ったことがあれば、いつでも私たち兄弟が力になるから、中央政府が落ち着くまで、もう少しがまんしなさい、と親身に気を遣ってくれた。こんな時世になる前はよく、シソポンの町へも遊びに繰り出した。ああ、また、町のカフェでビールでも飲みてえなあ、と、古い“解放区”の優良村民にしては、くだけた青年だった。  中央政府、つまりポル・ポト政権は、一九七五年から七九年初の崩壊まで、公式に記録されているだけで七回もクーデター未遂に遭っている。とりわけ七六、七七両年は、旧政府分子の粛清や内ゲバが激しく、おまけに|旱魃《かんばつ》によるコメの不作が重なって、この頃、政府もひどく気が立っていたもようだった。   マ ウ 村 で  彼女は、この北部カンボジアの地図にもない、街道離れた集落で、その三年間を過ごす。長い放浪生活の四分の三にあたる期間である。しかも夫や息子をはじめ、ともにプノンペンを出た知人らとも死別、離別し、天涯孤独の三年間だった。  私は内藤泰子さんという女性が、この村での異常な、長い孤独の生活にどうして耐え抜けたのか、その間の彼女の心境、気持ちの揺れ動きなど、せめてその表層だけでも知りたかった。  おそらく多くの読者もそうだろう。マウ村での三年間の生活をくわしく、具体的に語ってくれるように、私はおりあるごとに彼女に頼んだ。率直に言って、“満腹感”は得られなかった。私の話のもっていき方がまずかったのかもしれない。三年間という月日(そう、中学あるいは高校の全課程に匹敵する月日なのだ)の長さが、かえって彼女の記憶や印象を色あせさせてしまったのかもしれない。とりわけ、泰子さん個人にとって最も悲痛なドラマは、最初の一年間に集中して生じた。そして、夫タンランさんの死で|とどめを刺された《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》彼女は居直った。以後は「生き抜いてやる」という“執念”だけにすがって、いわば流れにまかせ、かつ、自己を律して生きた。これほど強烈な“執念”を固めれば、たいがいのことは二義的になる。感性すら摩滅する。いや、意識的に摩滅させなければ、とてもやっていけまい。となると、マウ村の三年間は、彼女にとっていつになるかわからぬが、かたときもその可能性を疑ったことのない、日本生還の日の到来を待ちながらの、なかば惰性の日々であったのかもしれない。  私はまた、この長い三年間の彼女の生活の中に、何らかの理由あるいは思惑から、不用意に人に語りたくないようなことがらがあったのか、とも、ときおり考えてみた。しかし私個人の印象では、彼女が意識的に何事かを伏せておきたがっているという感じは必ずしも得られなかった。  この私のカンは間違っているかもしれない。ただし、たとえ仮に泰子さんに、話したくないことがあっても、少しもそれを不思議とは思わない。  これは、泰子さんの物語とはまったく関係のない、私自身の純個人的な体験だが、私だって、ある状況の中で自分がとった言動について、決して詳しく口外したくない思い出をいくらも持っている。とりわけ、サイゴン陥落前の自分自身の|行ない《ヽヽヽ》について、逐一語れと言われたら、私はカキのように口をつぐまざるを得ない。  個人的ことがらにだけ話を絞れば、サイゴンの陥落とは、私にとって不実と裏切りの集積であった。私はあの土地で、貴重な仲間や友人や、さらには恩人と呼べるような知人を得た。いってみれば、彼らのおかげで私はあの土地で新たな人生を得た。北ベトナム戦車隊が郊外に迫ったとき、(いや、陥落して以後も)彼らの何人かは、友情に甘えることを詫びながら、けんめいに外国人としての“特権”を持つ私に国外脱出のための手助けを求めた。「せめてこの子たちだけにでも、自由の世界で生きる機会を与えてやってくれ」と、涙ながらに幼い息子や娘の“運び出し”を頼む両親らを振り切って、私は去った。実際には、外国人の“特権”など無きに等しく、それ以上に当時の私は、自分自身の身の安全をはかるだけですでに精いっぱいの状況にいた。ほんとうに、どうしようもなかったのだ。  私は、その友人たち、父親、母親たちの必死の表情や嘆願の言葉を、絶対に思い出したくないが、間違いなく、あの顔や言葉の一つ一つを忘れることは一生涯できまい。あのひとときの体験で、私の内部の何かが明らかに変質したことを、私はほとんど毎日の日常生活で感じ続ける。これは一種の|自堕落《じだらく》な|甘え《ヽヽ》かもしれない。しかし、あれだけひどい裏切り行為をひとまとめにやってしまった以上、たとえ、今後自分が他人に対してどれほど汚く、卑怯な行為を働いても、つまるところ自分はすでに無感覚でいられるのではないか、とさえ自分自身を疑うことがある。  ——話がそれた。  泰子さんの話から判断するかぎり、マウ村での日々は、少なくとも当初のうちは、どうやら私たちが想像するより単調で、そして平穏に明け、そして暮れていったようだ。  村人も新着住民も、一定時刻の起床を強制されることはなかった。太陽の高さから自分で時間を見計らって起きた。たいがい午前六時頃だった。飢餓、病気の不安、ときおり訪れるポル・ポト兵への恐怖は、つねに新着住民の心の|襞《ひだ》につきまとっていた。しかし、 「おとなしく仕事をし、あてがわれたものを食べてさえいれば、とくに生命の危険を感じるようなことはなかった」と泰子さんは言った。  体力三グループの主な仕事は、タバコ摘み、クワ畑の手入れ、ヤシの葉編み、牛や水牛のフン集め、そして子守、留守番。純然たる力仕事に比べて楽とはいえ、「よくまあこれほど次から次へ使ってくれる、とあきれるほど」一日がぎっしりつまっていた。  マウ村一帯はタバコの産地として名高い。泰子さんら、体力三グループの乾期中の主な仕事は、タバコの葉の手入れと摘み取りだった。日本の冬場にあたる十二、一、二月がタバコの取り入れどきである。朝早くから畑に出て大きな葉を一枚一枚摘み取った。まず葉の先のシンの堅くとがったところを切り落とし、あとはシンを軸に葉を巻いていく。巻いて積んだ葉は、村の仕事場へ持ち帰り、用意された棒の先の穴に差し込み、少しずつ刻んでいく。それから天火で乾かす。最初は摘み方のコツも知らなかったが、村人たちに教えられ、すぐ覚えた。仕事が終わると、葉汁で指先が真っ黒に汚れ、洗うのが難儀だった。ふつうは石油で洗い落とすのだが、配給は月にコップに四分の三ぐらいしかない。電灯もない村では大変な貴重品である。そこで薬草を集め、その汁で手を洗った。  このタバコ刻みの仕事は、泰子さんにまたとない余禄をもたらした。カンボジア女性と異なり、彼女は愛煙家である。外交官夫人時代は、ずっと米国タバコのケントを愛用した。多いときは三日に二箱吸った。プノンペン陥落で首都を追い出されたさいもタバコだけは多量に用意したが、やがてそれも尽きた。その後はときおり配給される葉巻や刻みタバコが唯一の頼りだった。それを、ふつうの紙で巻いて吸った。  マウ村でも、ごくときたま一世帯当たり七本の紙巻きタバコの配給があったが、遠いプノンペンから送られてくる途中カビが生え、ひどい代物だった。仕事場で少量ずつ刻みタバコを失敬し、薄く黄色いバナナの葉で巻いた方がずっとおいしかった。  辛かったのは家畜のフン集めだった。女性たちが数人一組となって、素手やシャベルで一日のノルマ二トンを集める。村には合わせて七、八十頭の牛や水牛がいた。家畜たちは奇妙な習性があり、夜のうちに囲いの中でしてくれればいいのに、日中、野良に放牧されたときに、所かまわずまき散らして歩く。ノルマを達成しなければそれだけ翌日の分担量が増えるので、追い回す方はけんめいだ。 「赤いクメール」ポル・ポト政権の国民管理法は、徹底した「集団化」であった。  食糧の配給、住民居住地の指定と、再三再四にわたるその移動、そして集団労働。ポト政権の首脳らは、農村と都市部の意識・生活格差があまりに大きい自国の特殊性を考えて、都市的なもの、都市住民的発想の根絶を、その政策の土台にすえた。  ポト政権の「集団化」政策の破綻は、何よりも徹頭徹尾、恐怖政治方式に頼ったことにあった。だからこそ、よけい現場の兵士らの無知・無能は悲劇的な状況をもたらした。  泰子さんの言葉を借りると、「何もかも中途半端。時間と労力のロス以外の何ものでもありませんでした」ということになる。  彼女自身、とりわけ初期のうちは恒常的に集団労働に駆り出された。「家畜は今後人々の共有物だ。ひとまとめに管理するため、水牛用と役牛用の柵をつくれ」という。冊が八分通りできあがったところで次の指令がくる。「青年突撃隊用の宿舎をつくれ」。やっと骨組みと壁ができた頃、今度は道路工事の指令がくる。八分通りができあがったものは放置され、最後まで物の役に立たない。  すべての計画が、遠いプノンペンの机上で立案され、兵士や現場の委員を含めて、上から下まで官僚主義と恐怖政治に硬直し、おののいているので、「集団化」のエネルギーは人々を疲労|困憊《こんぱい》させ、餓死、病気に追いやる方にだけ働いた。  一九七六年の中頃になり、家畜の共有化、七七年には食事の集団化などが進むと、以前は「赤いクメール」に吹き込まれたバラ色の夢を信じていたマウ村の人々の気持ちも、徐々に変わった。人民の「共有物」となった家畜は、だれも熱心に世話をしないので、みるみるやせ細っていった。  こうした中で、ときには連日にわたって長々と集会が行なわれた。重要な政治記念日には、炎天下の広場の赤旗に長い|黙祷《もくとう》が命じられた。  七七年後半になると、人々の幻滅は決定的な域に達した。村人の家々も政府に取り上げられ、壊されるというウワサが流れ、営々として家を建てた村民らは、戦々恐々の毎日を送るようになった。私有物検査も頻繁に行なわれた。 「でも、私はもう失うものが何もないので、別に家宅捜索なんか恐れる必要はなかった。そういうことに神経をつかわなかったので、かえって生きられたのかもしれません」  しかし、村民や移動民の間では、マウ村でも泰子さんは、「気の毒な日本人」として、ずいぶん皆に気を遣ってもらったようだ。  雨期には苗代作りや田植えも命じられた。泰子さんは「やり方を知らない」と断った(実はずっと以前、プレクプヌー付近のトラカップ村で田植えに従事したことがあったのだが)。 「なぜ覚えないんです?」と問う村人に、 「冗談じゃないわ。この年になって、今さら田植えなんて」  村人はそれ以上、強要しなかった。単なる同情心だけでなく、彼女の男っぽく、世話好きで、同時になにかと姉御肌の性格が、素朴な村民や、他の移動民たちに好かれもしたらしい。   すっぱいブドウ 「生き抜く決意」「食べ物の確保」「夢と思い出」——マウ村での孤独の三年間、自分を支え、かつ明日へと追いたてたのは、この三つだった、と泰子さんはいう。  最も切実な問題は、その日その日の食べ物をいかに手に入れるか、であった。マウ村にかぎらずプノンペンを追い出された都市住民が、ただちにその日から直面した問題だった。この点「赤いクメール」の認識・定義は正しい。カンボジアのような農業国では、都市住民は純然たる「消費人口」に過ぎず、「生産人口」である農民こそが国家再建の礎となる人々だ。  泰子さんの一行日記も、その大半は食べ物のことで埋まっている。  新政府からはコメ、塩、それにときたま少量の小魚、ブタ肉、砂糖などが配給されるだけだった。コメの配給量は場所と時期によって異なる。  配給は、村内の「配給所」で毎日行なわれた。「配給所」とは、その他の行政指示の発行所も兼ねた一種の「役場」みたいなものだったらしい。労働のノルマを達成しなかったり、仕事を休んだりすると、てきめんに、その日あるいは翌日の食糧にひびくシステムだった。  こうした個人相手の配給制度はやがて廃止され、“集団食事制度”が取り入れられた。村に食堂とは名ばかりの吹き抜けの大きなヤシ小屋が建てられ、個人の食器もすべてそこへ集められた。午前と午後二回、食事を告げる合図のカネが鳴る。遅れれば次のカネが鳴るまでお預けとなるので、皆、われがちに駆けつける。泰子さんはこんなとき、“生存競争”に不熱心な方で、いつも人々が食べはじめてから駆けつけた。しまいに人々が同情し、ちゃんと彼女の分を取っておいてくれるようになった。  集団食事制がとられてから、炊事係はたいへん役得のある仕事になった。生ゴメを着服したり、食事のさい、自分や家族のカユの盛り付けを多くする。だから炊事係とその家族は、一カ月もしないうちにみるみる太った。目にあまると集会にかけられて更迭された。ただし、同じ村内のものはほとんど“身内”なので、「赤いクメール」に突き出すようなことはなかった。彼らは、いつも地元民の中から選ばれた。都市からの移動民は「毒を盛る恐れがある」と、最後まで「赤いクメール」に信用されず、この種の“要職”にはつけなかった。  オカズは原則として各自の自家調達である。野草、野ネズミ、小魚、カエル、ヘビ、沢ガニ、カメ、トカゲ、サソリ……食べられるものは何でも食べた。カメ、ヘビ、ネズミなどというと、少々グロテスクに聞こえるが、私自身の体験からいっても、これらはおおむね“ごちそう”の部類に属し、町の市場で買えばトリやブタより高い。泰子さんも『野ネズミ美味』と記している。ヘビやカエルの苦手な泰子さんは、次男の死の直後、目の前に落ちてきたヘビをマキで殺したのを除いて、最後までカエルやヘビを自分の手ではつかまえられなかった。いつも村人にコメやつくろいものを“代価”に交換してもらった。「ふつうのカエルもごちそう。カタツムリはフランス料理のエスカルゴと異なり、あまりおいしくないけれどまあまあ。イボガエルも、キモとたまごだけ除去すれば食べても毒ではありません」  皆が競って取るので、これらの“ごちそう”にありつく機会はきわめて少なかった。ただし村人たちは、食べ物に関しても泰子さんにはずいぶん親切にしてくれたようだ。彼女はしばしば村人らの家に招待され、ごくたまには『太ってしまった』(日記から)ほど、ニワトリ料理やソバなどをふるまわれている。  ある日、彼女は、同じプノンペン出身の愛儀、愛麗という広東人の姉妹にネコ料理を招待された。姉妹が村人と物々交換で手に入れたネコをぐつぐつ煮込み、プノンペンから持ち続けてきたピーナツの粉とカレーにまぶし、ボルシチ風に仕立てた。最初の一切れはすんなり喉を通った。しかし二切れ目は、口に近づけただけで「もうネコくさくて、ネコくさくて」、すでにたいていのものに慣れ切った泰子さんも降参した。  七六年中頃から七七年中頃にかけては、前年の豊作とうってかわり、ポル・ポト政権は旱魃による大凶作に悩んだ。兵士らのコメ調達も厳しくなった。マウ村の村長は、三つの米置場の一つを兵士らから隠しおおし、村人らは飢えをしのいだ。  夜が楽しみだった。東京や外国各地の、思い出のレストランを次々食べ歩く自分を想像し、空腹と苦しい時間を忘れた。アップルパイの夢もしきりと見た。華やかな外国暮らし時代の思い出にもしきりとふけり、現実から逃げるよう試みた。外交団のレセプション風景、夜会服の注文、会食への出席を前に、化粧に専念していたころの自分の姿や浮きたつ気持ちを思い出の中によみがえらせた。  どんなにお腹が空いても、彼女は二つのことについては最後まで自分を律し通した。  第一は健康管理だ。栄養失調で恒常的に足元がふらついた。消化器にもガタがきていたので頻繁に下痢をした。それだけに、その場の空腹の誘惑には決して負けないよう、厳しく自分にいいきかせた。  たとえばホウレンソウに似た野草がある。村人たちは、「これは食べられるが、連食をしたら体が冷えるから注意しなさい」とプノンペンからの住民に教えた。人々はそれを知りながら、空腹に耐えかね、毎日オカズにしてひどい中毒を起こした。泰子さんは、ほかにオカズが見つからなくても、週二回以上は決してこの草を食べないようにした。ソラマメに似た木の実があった。熟すと青い実の皮が黒くなり、中に白い果肉が固まる。これをたくさん食べると体にむくみを起こす。しかし多くの人がこの実を見つけると、ワッとむらがって一度に二百粒以上摘み、ナベでゆでてむさぼり食った。ゆで汁まで飲んだ。そして、てきめんにひどい苦しみ方をした。泰子さんは実を摘むときは必ず二十粒までと定めた。焼きぐりのように土中で焼き、パチンと音がしたところで皮をむき、ポケットに入れて持ち歩いては、空腹にがまんできなくなると一粒ずつしゃぶった。  七七年後半には、政府の集団化政策の“行き過ぎ”により、村人たちの「赤いクメール」への態度も完全に変わった。いわば「食べる自由」も奪われ、しかも何から何までいいことずくめだった公約は一つも実施されない。逆に生活は貧しく、息苦しくなる一方だ。しまいには「政府の言うことはみんな嘘っぱちだ」と、完全な反「赤いクメール」に転じた。家畜所有の集団化のウワサが近づくと、人々はきそってブタを殺しはじめた。「政府にとられるよりは、さっさと食ってしまえ」というわけだ。みんなひそかに丸焼きにして食べた。そのにおいをかぎつけて、近所の都市からの移動民が集まってくる。恥も誇りも忘れ、「食べ残しのクズでもいいからください」と手を合わせて村人らを拝んだりしていた。  そんなとき彼女は、「私はブタなんか大嫌いだ」といわんばかりの顔で、むしろ昂然とかたわらを通りすぎた。心理学の表現に「すっぱいブドウの心理」というのがあるそうだ。ブドウの木の下にキツネが来る。いくら跳び上がっても高くて届かない。「あんなブドウ、すっぱくて食べられるか」。キツネは悔しまぎれに、自らにいいきかせて立ち去る。このイソップ寓話が、自己防衛のために、自ら欲望の対象を格下げする心の働きを表す用語を生んだ。  彼女はことあるごとに「すっぱいブドウの心理」を働かせ、自分がみじめになることをふせいだ。今にみていろ、日本に帰ったら身動きできないほどブタの丸焼を食べてやるから、と心中で自分を励ましながら。  言い換えれば、これは福沢諭吉が名付けたところの「やせがまん精神」であろう。薩摩藩士出身の母を持つ泰子さんの中に流れる、この日本人の一特性を示す血が、異常環境の中での彼女の生存を助けたのかもしれない。   養女をもらう  マウ村で暮らしはじめて一年ほどたった頃、内藤泰子さんは、“養女”を得た。  裁縫上手の彼女は村でもよく人々の衣服をつくろってやったり、“物々交換”の対価としたりした(三年間を通じて針九本の配給があったという)。  一人の娘がよく泰子さんのところに遊びにきた。十九歳、名前をキムランといった。娘の一家は、シソポン北方四十キロ余りのトモーポー町から移住してきていた。なかなかの美人で、トモーポーの高校を出ており、利発な娘だった。  最初は「おばさん、編み物を教えて」と通ってきた。そのうちに、こんどは「英語を教えて」と言い出した。 「それじゃ、一緒に勉強しましょう。テキストを探していらっしゃい」  数日後、娘はどこで見つけたか、英会話「BOOK 」のテキストを持って現れた。この頃は泰子さんへの呼称も「おばさん」から「ママ」に変わっていた。もっともカンボジアでは親しい間柄になると、他人でも「父さん」「母さん」「兄さん」「姉さん」などと家族のように呼び合う習慣が強い。当時、村人や近所の人々も、泰子さんを「マエ・ジャポン(日本の母さん)」と呼ぶようになっていた。  このキムランの父親が、「どん底」のあばら家で言葉のわからぬ中国人らと暮らす彼女に同情し、「家に来て住みなさい」とすすめてくれた。四十代の体格のいい穏やかな好男子で、町にいた頃は漢方薬師兼まじない師をしていた。マウ村へ来る前のタペントモー村でも、泰子さんは漢方薬師兼占い師の「先生」の家に居候した。占い師、まじない師などというと、何となくあやしげな職業に聞こえるが、庶民レベルでは大変な名士である。キムランの父親も、トモーポーにいた頃は町いちばんの金満家だった。キムランを最年長に十人の子供を持つ子福者でもあった。町の自宅は「赤いクメール」政府に接収され、地方視察幹部やときたま訪れる外国人(おそらく中国人か)の“迎賓館”として使用されているとのことだったが、マウ村ではむろん他の住民と同様、粗末な小屋に寝起きしていた。  父親は泰子さんの日本人としての折り目正しさ、家事能力、それに元外交官の奥さんという経歴に惚れ込んだらしい。 「狭いところですまないが、ぜひ家に来て子供たちをしつけてやってくれないか」  と、しまいには頼み込むように言った。  泰子さんは好意に甘え、彼の小屋に引っ越した。狭い床一つに夫婦と子供十人がゴロ寝し、それに泰子さんが加わったのでよけい窮屈な毎晩となった。  奥さんは、色黒のポチャポチャとして小柄な婦人だった。子供たちもなつき、泰子さんにはとても居心地がよかった。  キムランの父親はとても子ぼんのうで、夕方仕事から戻ると、どんなに疲れていても、四方八方から飛びついてくる子供たちと遊んで過ごした。  そんな光景に、泰子さんが、 「いいわね、たくさん子供がいて。私はもうみんな亡くしてしまった。あんた、一人ぐらい私にちょうだいよ」  冗談半分ねだると、 「いいよ。誰がほしい?」  相手は真顔で答えた。 「そりゃ、くれるならキムランがいいわ。いちばん私を慕ってくれているし」  父親はその場に長女を呼び、本人の意見を求めた。 「いいわよ、私。もし日本に行ったら、一生結婚しないでママの世話みるわ」 「とんでもない。もし二人で日本に帰れたら、あなたは東京でいい人を見つけて結婚しなさい」  こんなやりとりで、あっさり話が決まった。  インドシナの国々では、案外気安く養子をとったり、他人を実の親代わりにして尽くす傾向があるようだ。おそらく泰子さんとキムランの養母養女縁組も、日本で想像するほど堅苦しい感じのものではなかったのだろう。キムランはそれ以後、ますます泰子さんを慕い、実の母親同様に尽くした。  こうして泰子さんは書類上もキムランの世帯に組み入れられ、ひさしぶりに“家族”を得た。  子ぼんのうの父親はその経歴・職業や、沈着で男らしい性格から、皆に一目置かれていた。病人もよく治療を求めにきた。泰子さん自身、まだキムランを養女とする前、ひどい眼病を患い、ほとんど失明寸前の状態にまで|腫《は》れたことがあった。父親は彼女の両眼にクワの葉を軽くあてがいながら、何やら呪文をとなえた。翌日、ほんとうに腫れが引き、すっかり回復したのには泰子さんも驚いた。  彼女はよく、養女や旧知のアガーさんらと連れだって、村はずれにマンゴーの実を失敬しに行った。マウ村の内外にはマンゴーの木が多かったが、「赤いクメール」体制下では全員の共有物なので、少々危険な違法行為だ。しかし、栄養補給のためには、ときおり、このスリルを味わわなければならなかった。  水浴にもよく出かけた。水浴は南国暮らしのものにとって重要な健康管理法の一つである。各村に水浴専用の水たまりが設けられている。いわば共同浴場である。月夜の晩など連れだって出かけた。インドシナの女性は、水浴のさいも裸にならず、サロンと呼ばれる薄い一枚布を体に巻きつけたまま水を浴びる。  泰子さんも、プノンペンを出るとき荷物を包んできた大きなテーブルクロスをサロン代わりにして水浴びをした。ときにはブラウスに、上部から支給された作業ズボンのまま浴びた。マウ村に来た頃、彼女にはもうこの上下一枚しか残っていなかった。ブラウスはワルシャワ時代に買った品物だ。もとは黄色の花模様だったが、すでに原形をとどめず、つぎはぎだらけで、洗濯しても容易に乾かないような代物に変わり果てていた。  ある夕方、村の水浴場の水が|涸《か》れていたので、キムランたちが誘うままに三、四キロ離れた隣村に遠征した。無断で村を離れるのも違法行為である。向こうの村の「赤いクメール」監視委員に見つかった。名前とやってきた理由を告げると、銃を手にした監視委員はしばらく考えていたが、やがて先に立って案内してくれた。若い親切そうな男だった。   粛  清 「脱走」の文字は、つねに泰子さんの頭を去らなかった。他の都市からの移動民も同様だ。親しい間柄のものが集まると、必ず「脱走」に関する情報交換や、その方法・計画が話題となった。  七七年に入ってからだったか、親しくしていた近所の青年が、夜そっと訪ねてきた。「一緒に行きませんか」とささやいた。もと高等学校の教師をしていた、緻密な性格の青年だった。すぐ相手の意図がわかった。彼は数日中にグループで魚取りに出かけることになっていた。漁場が遠いので、一週間分ほどの食料をもらって野宿労働になる。その機会にタイ領に脱出をはかるつもりだ。しかし、泰子さんはもっと安全なチャンスを待つことにした。ずっと前にも、同様の方法で脱出した一団があった。しかし、各地で監視の壁にはばまれ、結局一年もたってから進退窮して、再び村の近くに逃げ戻ったところを全員射殺された、という話を聞いていたからだ。  青年は名残惜しげに長い間話し込み、自分の小屋へ帰っていった。翌週、青年らは魚取りに出かけた。その後、この青年たちについての消息はなかった。  七八年六月十二日。早朝から「赤いクメール」の兵士百人以上が村を包囲し、異様な雰囲気だった。各住民は小屋から五十メートル以上離れないよう命じられた。午前九時頃に砂糖とコメの特別配給があった。そのさい、六人の男とその家族が荷造りをするように命じられた。いずれも以前、南ベトナムで軍事教練を受けたことがある旧ロン・ノル軍兵士であった。  六家族の中には組長の家族も交じっていた。組長は移動民の中から多少読み書きができ、「赤いクメール」に受けのいいのが選ばれる。マウ村百六十人の都市住民は五人の組長の下にいたが、彼はそのうちの一人で三十代半ばのもの静かな男だった。出発前、組長は「マエ・ジャポン」(日本の母さん、泰子さんはこう呼ばれていた)に別れを告げに来た。高床式の家の階段の下から泰子さんを見上げ、「ボク行きます」とだけ言った。それから、彼女が無事日本に帰れるようにと、はげましてくれた。泰子さんは言葉がなかった。  兵士らに付き添われて六家族は村を出て行った。翌日、「赤いクメール」の兵士らが、前日村人から借りていったクワやザルを返しにきた。クワやザルに血のりや頭髪がこびりついていた。兵士らが去ったあと、何人かが様子を見に出かけ、村を出はずれて三百メートルほどのところで、三つの新しい土盛りを見つけた。掘り起こすと一つには男連中、他の二つには女性と子供の射殺死体が折り重なって埋められていた。死体は全部で百五十七体あった。マウ村と隣接の二カ村から摘発され、ひとまとめに処刑されたらしい。泰子さんは人々に止められ現場を見に行かなかった。マウ村からの処刑者の中には、妊娠八カ月の女性と、生後二カ月の赤ん坊が含まれていたそうだ。  当時、ポル・ポト政権の“親ベトナム派”退治は全土の村々に及んでいた。  多くの難民談話は、プノンペン陥落直後から各種の大量処刑があったことを伝えているが、泰子さんにとっては、この百五十七人の処刑が初めての身近な例だった。  このあと、村には第二回、第三回の処刑の噂が広まった。二回目は残存旧体制分子のほか医師、教師を全員葬り、三回目は三十歳以上の男女全員を抹殺するという。  結局、噂にすぎなかった。しかし、当初は泰子さんも「赤いクメールならやりかねない」とずいぶん恐ろしい思いをしたという。 [#改ページ]

   
6 混迷のインドシナ   「大下放」政策とは  これまで、多数の都市住民を地方に追いやった「赤いクメール」の大下放政策のもようを、泰子さん一家の軌跡を追いながら再現してきた。いわばこの特異な政策の|現象面《ヽヽヽ》だけをながめてきたわけだが、そもそも「政策」としての「大下放」とは何だったのか。  この問いに対する回答を見出すには、まだナゾが多すぎる気がする。いや、もしかしたら、明確な結論を引き出すことは、今後も不可能かもしれない。それを承知で、私なりの解釈をまじえながら、この政策の輪郭、背景を、そしてできればその本質の一端をさぐってみたい。  私がカンボジアの大下放政策についての第一報を聞いたのは、陥落直前の旧南ベトナムの首都サイゴン(現ホーチミン市)であった。  当時、私は“臨終”まぎわのサイゴン政権の取材にあたっていた。プノンペン陥落が一九七五年四月十七日、サイゴン陥落がその二週間後の四月三十日だから、この第一報は「赤いクメール」が首都を制圧してほとんど間もなく、隣国南ベトナムに伝わったことになる。 「カンボジア共産軍は、プノンペンをはじめ、すべての都市の住民を全員いなかに追い出した。カンボジアの町はどこもかしこも空っぽになった」  このニュースがどんな形でサイゴンへ伝わったか、正確には覚えていない。外国の短波放送を傍受したベトナム人記者から、間接的に教えられたような気もする。当初、私はこのニュースにほとんど気をとめなかった。都市住民の即日全員追い出しなど、物理的に不可能なことと思われたし、その意図も見当がつかなかった。それ以上に、当時の私にはこの目で見、耳で聞き、そのままテレックスセンターに走って東京に伝えるべき、眼前の事実が多すぎた。  やがて、第一報が伝わったと同じような不明確な方法で、地方へ追い出されたカンボジア都市住民の惨状が伝えられはじめた。  実はこの凄惨なウワサにも、その頃の私の感覚は麻痺していた。そのつい一カ月足らず前、南ベトナムでも、インドシナ戦史上類例のない難民移動が生じ、国中が(おそらく)カンボジアの「大下放」に優るとも劣らぬ死と悲劇に見舞われた。  とりわけ惨をきわめたのは、中部山岳諸都市からの住民の脱出行だった。ハノイ政治局員のバン・チュエン・ズン大将自ら指揮する北ベトナム正規軍の大部隊が、南ベトナム中部山岳の要衝バンメトートの町を、ものの見事な不意打ちで一夜にして突き崩したのは三月上旬だった。サイゴン政権軍はこの意表をつく作戦に動転し、中部山岳地方全域を放棄した。そして一帯の守備隊を南シナ海沿岸まで一挙に退却させるという、信じられないような作戦ミスをやらかした。この大ポカで各地の政府軍は浮き足だって総崩れとなり、わずか五十日後に南ベトナム(ベトナム共和国)は滅亡してしまうことになる。  中部山岳からの|大潰走《だいかいそう》は、想像を絶して|惨憺《さんたん》たるものであった。沿岸郡に通じるわずか二、三本の国道に、兵士、一般住民を含め何十万人もの人々が殺到した。軍用トラックが一台故障すれば後続の人、車は身動きがとれなくなるような狭い旧道である。着のみ着のまま町々を逃げ出して炎天下の国道に流れ込んだ住民は飢え、渇き、疲労でバタバタ倒れた。両側の森伝いに先回りした共産軍が随所で無差別砲撃を加えた。ヘリコプターでこの“死の潰走”のさまを取材してきた空軍上がりのベトナム人カメラマンは「この世に地獄があれば、あれだ」と、私の前で声を放って泣いた。  潰走はナダレ現象を起こして全国規模に広がり、少なくとも三百万人以上の一般住民が、同様の悲劇に見舞われた。北部の大都市ダナンから海路脱出した人々は、スシづめの船中で衰弱し切り、サイゴン近郊のブンタオ海岸には赤子や幼児が累々と|屍《しかばね》をさらした。  こうした光景を見聞すれば、都市を銃剣で追われたカンボジアの住民がどんな目に遭ったか、想像に難くなかった。大下放政策の情報が事実なら、それが大量の死者、犠牲者を生んだことはむしろ当然だ、そのていどの気持ちで私はなかば隣国からのニュースを聞き流しながら、刻一刻迫るサイゴン崩壊の過程を追う仕事に追われた。  初めて大下放政策について多少の関心を抱きながら話し合ったのは、四月三十日のサイゴン陥落以後である。相手は、町に乗り込んできた共産軍の報道担当将校フン・ナム少佐だった。陥落後、数日して、勝ったばかりのカンボジア共産軍とベトナム共産軍が、シャム湾上の島々の領有権をめぐって武力衝突を起こしたとのニュースが入った。  戦時中、両共産軍は、解放闘争の盟友とされ、外部の多くの論者はその“連帯と結束”ぶりをしきりと|喧伝《けんでん》していた。しかし、親米派、共産派を問わず両国軍の互いの仲の悪さは、現地に身を置くものにとっては公然の事実であり、この種の武力衝突が起こっても別に不思議はなかった。 「それにしても、早々とやったか」  と、思った。  私は、フン・ナム少佐をホテルのそばの喫茶店に連れ込み、詳細をたずねた。  このときの彼の反応ぶりは、その後の両国関係を予測するうえで示唆的であった。少佐は「武力衝突」についてはあいまいにしか語らなかった。しかし、 「あなた、奴ら(赤いクメール)が自国の国民に対しどんなふるまいに出たかごぞんじでしょう。この気候・風土の中で都市の人々を着のみ着のままで地方に追い出せば、どういうことが起こるかはだれでもわかっている。それを奴らは平気でやったんだ」。一見、温厚素朴な、田舎教師風の少佐は大下放政策に話題を転じ、カンボジア共産勢力のやり口を、このときばかりは激越なまでの口調と表情でののしった。  一方、当の「大下放」に巻き込まれた泰子さんが、この大移動が一つの「政策」であることを最初に耳にしたのは、プノンペンを追われて約二週間後、メコン川に近いウドンの山中にいたときだった。  周囲の人が持っていた短波ラジオで、外国通信社が「カンボジアで大下放政策により一日三千人の生命を失いつつある」と報じているのを耳にした。そのとき彼女は、 「私たちや、多くのカンボジア人の身に、何が起こっているか。少なくともカンボジア以外の国の人も、この異変を知ってくれている」と、かろうじて、安堵を感じたという。  現実にはカンボジアの外部の人たちは、あっけにとられていた。いったい何のために「赤いクメール」はこんな異様なことを始めたのか。  当のポル・ポト政権首脳がこの政策を行なった理由について公式に説明したのは、七六年秋の国連総会に出席したさいだった。ポト首相の右腕イエン・サリ副首相(外交担当)は、西側外交団や記者に、次のようなことをあげた。  ——私たちはCIA(米中央情報局)と旧ロン・ノル一派が私たちの勝利後、混乱を起こす計画であることの確証をもっていた 敵は私たちが権力を取ってもプノンペンに食糧補給ができないから、そこを狙って混乱を生じさせる ロン・ノル軍兵士は降伏後も武器を隠し持ち、プノンペンで内部反乱に出る 敵は、女性、アルコール、金を使って私たちの兵士の腐敗をはかるつもりだ。  同副首相はこうも述べた。  ——私たちはプノンペンの人口を二百万人と推定していた。しかし実際に三百万人もいることがわかった。私たちには、それだけの食糧を首都に輸送する手段がなかった。そのために、人々に食糧のある場所へ行ってもらわなければならなかった。私たちはどの国からも援助を|貰《もら》わず、国民に食を与え、国の独立を保たなければならなかった。  要するに、国家を維持し、住民を保護するためには、大下放政策以外に道はなかった、という論理である。  その後、この“公式見解”はいつの間にか取り下げられた。そして大下放政策の目的が、外部が新・集産主義と名付けた原始共産主義的な超重農主義体制作りをめざして行なわれたことが、しだいに明らかになった。ポル・ポト政権の考えでは、コメこそが国の礎であり、コメの生産さえ上がれば、カンボジアの繁栄は約束されるということだったようだ。貨幣経済を廃止し、都市文化を完全に破壊して、すべての国民を水田に追いやるという政策は、この考えと首尾一貫する。彼らの政策は論理的には、矛盾はなかったわけである。 「共産主義ではない。われわれは、いまだかつて人類が試みたことのない新しい事業に取り組んでいるのだ」とポル・ポト首相自身も、むしろ誇らしげに言明した。  つまり、はっきりしているのは、この、一国の国民を現代稀な悲劇に追い込んだ政策は、決してことのはずみで実施されたのではないということだ。大下放政策は、ポル・ポト首相以下「赤いクメール」首脳陣が、ジャングルの中で練りに練った国家再建策だった。長い間都市で生活している人たちを、いきなり農村へ投げ込み、食糧難と疫病の中で重労働に駆りたてれば、どういうことが起きるか。ポル・ポト政権は、大量の人間が虫のように死んでいくことを織り込みずみで、なお、自らの“理念”(というよりも、すでに“執念”とさえ思える)にもとづく政策を実行した。  ふたたび「なぜ?」に立ち戻る。  ナゾ多いこの政策の「なぜ?」に首を突っ込んでしまったら、大著の論文を書く覚悟をしなければなるまい。  ここでは、私自身首肯し得る理由を、思いつくままにあげてみる。  すでに触れたように、小国の挙動はつねに隣接大国の性格によってしばしば決定的な影響を受ける。カンボジアは、アンコール・ワットの時代までインドシナに覇を唱えたが、やがて歴史学的にもナゾの衰退が始まり、隣接大国、とりわけベトナムからの絶えざる圧迫・侵蝕に悩まされた。インドシナ半島の地図を広げてみると、あまりに単純なことで、ともすれば見落としがちだが、その地図自体がすでに意味深長な事実と背景を物語っていることに気づく。一般的にいっても、「海への出口」をもつことは、国家の基盤や将来性を決する重要な条件であろう。ベトナムは、半島の東側、南シナ海沿岸部の、しかも平野に富んだ|おいしい《ヽヽヽヽ》部分全域を細長い帯のように領有し、それだけでこと足らず、カマウ岬からシャム湾にまでくびれ込んで、その一部をわがものとしている。見方によっては、これほどえげつない形をした国土は少ない。隣国に海岸線をほぼ独占されてカンボジアはひどく不利な地理的条件に陥り、ラオスにいたっては完全な陸の孤島となっている。  北部ベトナムに興ったベトナム民族が、人口増加に対処して本格的にインドシナ東岸沿いに領土を伸ばし始めたのは、ざっと十世紀前だ。いわゆる、ベトナムの「|南進《ナムテイエン》」政策である。地場先住民族のチャム族をほぼ皆殺しにし、さらに南下して、十六世紀には現在の南部ベトナムに達した。当時、|豊饒《ほうじよう》なメコン・デルタ一帯はまだカンボジア領土だった。サイゴンというと、何となく大昔からベトナムのものだったように聞こえるが、ベトナム人がカンボジア副王からこの土地を巻き上げたのは、今からわずか三百年前(一六九八年)のことである。活動的なベトナム人はさらに中国人入植者らを手先に使って「南進」し、二百年前には、デルタ地方の先住カンボジア人を殺すか追い払うかして、現在の版図をつくりあげた。メコン・デルタ奪取のさいのベトナム側の“討伐”ぶりは、米国の西部開拓史を思い起こさせる。捕虜にしたカンボジア人の首をはね、そのシャレコウベを酒を温める器や、ナベ、カマ代わりに使って、侮辱したという。  二百年、三百年というと、日常生活の常識では時効であるが、民族の歴史を単位にみれば、そうはいかないのだろう。現に、現在タイ領に羽根を安めにくるポル・ポト政権「赤いクメール」残存軍の中には、「これから反攻して、サイゴンを取り返してやるんだ」と烈々たる戦意をみなぎらせて、カンボジアへ戻って行くものも少なくない。  要するに民族感情のうえでいえば、カンボジア人にとってベトナムは、何世紀にもわたる強大な侵略者であり、今もこのカンボジア人の意識は変わっていない。  こうしたことを念頭に置いて「民族主義」という言葉を定義するとどうなるか。私たちは、この言葉に何やら崇高かつ称賛すべき概念を託して使用する場合が多いが、大国に隣接する小国の民族主義とは、結局のところ、その大国の圧力に対抗して、いかに自国の自主性を固持するかに集約されてくる。その意味でベトナム民族主義は明らかに中国への対抗意識を意味し、同様にカンボジア民族主義はベトナムへの対抗意識を意味する。  政治の次元にこれを置き換えれば、大国が一つの路線をとれば、小国はこれとまったく異なる路線を選ぶことが、国家としての“保身術”の一つのキメ手になる。イデオロギーの同質性あるいは共通性などにおかまいなく、ここでもベトナムが中国と異なる路線を選んだのは理論的必然であり、カンボジアでも同様のことが生じた。  ポル・ポト氏一派のカンボジア共産党の一部は、何よりもかつてホー・チ・ミンがうかつにもほのめかした「インドシナ連邦構想」を、いわば妄執的に警戒した。ベトナム主導の路線に従えば、必ずいつの日か、カンボジアはハノイの弟分へ、そして子分へ、最後には民族・国家としての独自性を喪失してしまうことは目に見えている。  象徴的なエピソードがある。インドシナ各国の解放勢力が当局から弾圧された場合、その大部分は“聖域”北ベトナム(当時)方向へ姿をくらますのが通例である。  一九六三年カンボジアで“赤狩り”が始まった際も、多くが東方へ(つまりベトナム側へ)逃げたが、反ベトナム超タカ派のポル・ポト、イエン・サリ氏らは逆に西側のタイ国境付近に身を潜めた。同氏らが、いやいやながらハノイと手を結んだのは、一九七〇年のロン・ノル派によるシアヌーク打倒クーデター後、それも故周恩来中国首相のねばり強い説得によってであった。ベトナム側にしてみれば、「ポル・ポト一味はタイ国境の森でボロをまとい、餓死寸前の状態にあった。それを私たちは救ってやった。しかるに(その後の恩知らずぶりは)何ぞや」ということになる。  一方、当初からベトナムに逃げたカンボジア解放勢力の要人たちも、ベトナム人に対して、民族的にも政治路線的にも好感を持ってはいなかった。ハノイ政府もそれを十分承知のうえ、諸国解放勢力の結束・連帯ぶりをとりつくろうため、これら“小生意気”な亡命者らを保護し援助した。ハノイ亡命組もカンボジア国内で対ロン・ノル政権武力闘争が始まると、続々と母国に戻り、銃を取る。数の上では彼らの方がポル・ポト氏らの|頑《かたく》なな反ベトナム超タカ派勢力よりも、はるかに多かった。ポル・ポト氏らは、彼らを“親ベトナム派”とみなした。そして、対ロン・ノル政権武力闘争を拡大させるのと並行して、これら“ハノイの手先”たちを容赦なく抹殺し始めた。武力闘争が激化すれば、なべてタカ派の勢力が相対的に浮上するのが通例である。カンボジア解放勢力内部でも、よろずタカ派のポル・ポト派が、“親ハノイ派”をじりじりと消去していき、結局、主導権を握った。  つまり、少数派が多数派を押えつけて、新カンボジアの権力を手中にしたわけだ。この危うい地位を確保するためには、ポル・ポト派は民族・国家の“自衛意識”を根幹とする極左路線をことさら徹底させなければならなかった。 「赤いクメール」をベトナム型修正主義とは対極に立つ超過激政策に突っ走らせた要因を、一元的にこのポト氏らの民族としての“自衛意識”に求めることは無理だろうが、こうした民族感情はかなり有力な背景説明の一つとなろう。  カンボジアの社会構造と、カンボジア人自身の民族性の問題もある。この国は小乗仏教国である。同じ仏教国でも大乗仏教国と異なり、宗教感覚的にすでに、現代的な意昧での国民一体感が稀薄といっていい。簡単にいってしまえば、小乗仏教国には、たとえば「護国寺」などという寺名をつける発想はない。|托鉢《たくはつ》に応じるのも、他人はともかく、善行を施せば少なくとも自分だけはいずれ報われる、という考え方が基本にある。  しぜん人々は生まれついてのおのれの“分”をわきまえ、それを受容し、この結果、国民の階層固定感はきわめて強固なものになる。その典型的な例は、現在、タイであろう。他の東南アジア諸国は、いずれも第二次大戦後の独立闘争の過程で、幾度も旧来の社会構造や階層秩序を変革したが、唯一独立をまっとうしたタイは、この“内部の嵐”がなかった。したがってタイ社会の変革は、今後も東南アジア世界で最も遅れる可能性があるわけだが、カンボジアもこれにやや類似していた。シアヌーク殿下の独立運動も結局天下り的性格が強く、仏植民地主義者に搾取されながらも十分に食足りた下層から盛り上がったものではなかった。ベトナムの解放闘争とも大いに趣を異にする。  とりわけ、カンボジアの場合、都市住民と農民の意識格差、生活形態の違いがきわめて大きかった。さらに現代経済理論を基準にした場合(あくまで現代経済理論上での、だ)の貧富の差も当然甚だしい。  こうした中で、革命家が(ある意味では自らにあくまで誠実に)その革命意欲を満足させようとすれば、文字通りすべてをぶちこわし、すべてを作り直すという“純粋革命”のイデオロギーに溺れやすい。さらに豊かな自然と小乗仏教が植え付けた個人主義的国民体質が相乗すれば、それだけ人々のうちに「国民意識」あるいは「国家概念」といったものが育ちにくくなる。そうした人々の集団を何とかまとめていたのが「王権」であった。「王権」を廃することが革命の一目的である以上、それに代わる強烈な「核」がなければならず、ここでも革命のイデオロギーは、“特殊なもの”にならざるを得なかったのかもしれない。  一方、民族性の問題だが、実は私はカンボジアでの生活体験がきわめて乏しいので、一般論ていどにとどめざるを得ない。私自身の体験・印象からいえば、悠長なインド文化圏に育ったカンボジア人は、中国人に鍛えられた帝国辺境国の民であるすばしこい現実主義者ベトナム人に比べ、はるかに|気のいい《ヽヽヽヽ》連中であることは前に書いた。しかし、インドシナ諸民族唯一の南方海洋民族であるカンボジア人は、忍従の度を過ぎると突如、凶暴な感情を爆発させるという特性をもっているという。 「アモック」と呼ばれる現象だ。「アモック」はもともと、マレー地方のある種の熱病の名前で、正常人が突如、発熱に狂って、ひととき阿修羅のような凶行に走り、熱が去ると、自らの行為に呆然としてオイオイ泣きだしたりする、という少々厄介な症状である。シアヌーク殿下自身も、自国民の一特性を説明するさい、この「アモック」という言葉を用いている(ただし、同じカンボジア人でも、この殿下の見解を真っ向から否定する人もいる。今、私たちに最も身近な例は、泰子さんの亡夫タンランさんだ。地方の名家に生まれ、フランスで教育を受けたこのカンボジア最高水準の教養人は、同胞の血を徹底的に穏和なものとみなし、だからこそ「赤いクメール」の勝利がほぼ確実な祖国にとどまった。タンランさんにとって「赤いクメール」の蛮行は、彼らがカンボジア人であるが故に、なおさら信じられぬものであった)。私には「赤いクメール」の凶暴な行為と、この「アモック」という血の相関関係はわからない。ただ、ポル・ポト軍がベトナム領内を襲ってベトナム側村民を虐殺したさいの殺害方法は、通常の感覚をはずれたものだった。少なくともベトナム側の発表した写真によると、散乱したベトナム村民の死体は、赤ん坊は両足をつかんで引き裂かれ、男は首や手足を切られ、女は文字にしかねるような暴行と凌辱の痕跡をそのままにさらされ、実にすさまじいものであった。  これに関連し、報復、復讐の血も、この南方海洋民族の体内に強く流れているようだ。夫を政府高官(あるいは王族だったか)に殺された若妻の復讐譚は有名である。彼女は夫の|敵《かたき》に言い寄り、相手を魅了して妻の座におさまる。一児が生まれ、二児が生まれる。さらに三児、四児が——。父親は妻と子らを溺愛する。妻は五年、十年と待ち続ける。そして父親の子供たちへの愛情と期待が最高潮に達した頃を見計らって、自ら生んだ子を一人一人殺していく。最後の一児を殺し終わってから、高らかに復讐の歌を歌いながら夫にとどめをさす。  私が直接目撃者から聞いた話にもこんなのがある。村の夫が他人の陰口から女房の浮気を発見する。男は血相を変えて家に駆け戻り、ナタをふるってまず女房をたたき殺し、子供たちを皆殺しにし、ついで庭に飛び出して飼っていたブタを殺し、アヒルを殺し、ニワトリを殺し……我が家に関係のある生きものすべてを殺すまで狂いやまなかった、そうだ。  この異常なまでの復讐の心理は政治の次元にも顔を出した。クーデターで北京に追われたシアヌーク殿下がたびたび口にしたのは、「あれほど目をかけてやった男(殿下を追放したロン・ノル将軍)に必ず報復を加える」という意味の言葉だった。殿下はもともと気性の激しい人である。それにしてもこうした発言は、少なくとも現代の政治感覚からは生まれてきて然るべきものではない。殿下は、祖国を愛するがため、と言いながらも結局は個人的復讐心にかられて、思想的に相容れぬ「赤いクメール」と手を組んだのではないか、と私はよく思った。  政権を握った「赤いクメール」は、農民に対して「都市の奴らはこれまで石造りの家に住み、君たちのつくったコメを食い、車を乗り回してのうのうと遊び暮らしていた。こんどは君たちが石造りの家に住み、高級な生活をし、奴らが汗まみれで働く番だ」と“教育”した。復讐の論理——これはあらゆる革命の根底に流れる黒い水なのだろうが、カンボジア革命では、この伏流水が革命成就とともに一気に奔流となって表面に噴き出したような気もする。  さらに一、二の推測をあげる。 「赤いクメール」の指導者らは、いずれもフランス留学体験を持つインテリである。ポル・ポト政権の大統領キュー・サムファン氏、同じく情報相フー・ユム氏は、いずれもフランス経済学博士号をとっている。彼ら二人と並んで六七年潜行組のフー・ニム氏(六三年からのシアヌーク殿下の“赤狩り”で、まずポル・ポト、イエン・サリ氏ら筋金入りの強硬派が地下に潜った。右の三人はいったん殿下と妥協しながらプノンペンに留まり、六七年になりようやく地下に潜った)も名だたる知識人であった。「赤いクメール」が勝利後、キュー・サムファン氏は大統領にタナ上げされて事実上実権を失い、フー・ユム、フー・ニム両氏は粛清された。  とりわけ気性の強いフー・ニム氏は大下放政策の実施に猛反対して、「赤いクメール」のプノンペン制圧直後、ポル・ポト氏らに処刑されたといわれる。  こうして実権はポル・ポト、イエン・サリ両氏の手中におさまった。二人のうちイエン・サリ氏の知性は高く評価されているが、ポル・ポト氏の方はフランス留学中に政治に身を入れすぎたせいか、専門学校ていどの学校も卒業できず、本国へ召還された経歴の持ち主である。イエン・サリ氏にしても、そのもとをたどれば、ジャコバン色のきわめて強い仏共産党の理論と体質を、きわめて表面的にのみ学び、それをその後の自分の革命理論の金科玉条とした、と指摘する人が多い。こうなると、これは指導者の「質」の問題となる。さらに見逃せないのは、「赤いクメール」の勝利は事実上、北ベトナム軍の力に全面依存して行なわれ、しかも敵方のロン・ノル軍が自己崩壊したことにより得られたことである。たとえば人口三百五十万人といわれたプノンペンを制圧した「赤いクメール」兵士は、十五、六歳の少年兵も含め、せいぜい十万人前後であった。たいした戦力もない少数の勢力が、その何十倍かの住民、あるいは旧敵方兵士を支配管理することになった。プノンペンに入城してきた兵士らの顔は一様に固くこわばり、「まるで笑ったら損」とでもいわんばかりの様子だった、と内藤泰子さんも語っている。  彼らはいつ反抗に立ち上がるか知れぬ圧倒的多数の“潜在敵”を、徹底した恐怖政治で押えつけたが、恐怖政治をとらざるを得なかったのは、彼ら自身が自勢力の非力さを知り、極度の緊張と恐怖感にとりつかれていたからではなかろうか。  外部は、ポル・ポト政権の大下放政策及びその大規模な処刑・粛清政策を“狂気の政策”と呼ぶ。私もポル・ポト政策は、天道許さぬ常軌を逸した暴政だと思う。  しかし、これらごく一部の背景、つまりこの歴史的・現代的状況や民族性などを|瞥見《べつけん》しただけで、この“狂気”が生じた事情はまったくわからぬでもない。少なくともこうした背景に、超ファナティックなイデオロギーが作用した場合、いかに恐るべき方向に物事が突っ走るか、ということを痛烈に感じる。あるいは逆にイデオロギーというものがそれ自体、カンボジア民族に限らず、すべての人々が濃淡の差こそあれ本能的に持つ“獣性”を、突如とてつもない形で爆発させる|呪詛《じゆそ》の力をその本質としているものなのか。  改めて私はここで、理論に狂ったファナティシズムの恐ろしさに戦慄すると同時に、もしかしたら民族体質的に、抗すすべもなくこのファナティシズムとイデオロギーが生んだ地獄の中に自ら入り込んでいったカンボジアという国の、国家としての悲劇的体質といったようなものについて深く考えさせられる。同時に、あるいはこれまでの日本も、あるとき、これに似た地獄の状況を自らつくり上げたことがあったのではないか、と振り返り直さずにいられない。   殺戮の論理  かつてカンボジアというのどかな一国家があった。そこへ、現代史の“鬼子”といわれる「赤いクメール」政権が出現して、世界が目を|剥《む》く勢いで自国民の|殺戮《さつりく》を始めた。歴史的時間単位でみれば、ポル・ポト政権という凶星は瞬時で消滅したが、この間のカンボジアの荒廃と疲弊ぶりは、少なくとも外部に伝わった情勢から判断する限り、すさまじいものがある。今、プノンペンには新たなカンボジア人の“指導者”たちがおさまったが、いったいこの国が再度、民族国家としての歴史を踏み出せるのか、現段階では私には判断がつかない。  今はただ、その殺戮の跡と性格をふりかえってみる以外ない。  一九七五年四月のプノンペン陥落直後の第一次粛清では、旧ロン・ノル体制の将校・下士官、官僚・警官の多くが報復処刑された。同時に、シアヌーク派の主だった人々も殺された。たとえばいくつかの地方では、「赤いクメール」兵士らが「シアヌーク殿下のご帰国を出迎えに行こう」と、多くのシアヌーク派人士を集合させ、人里離れた森などへ運んで密殺したという。プノンペン陥落後、亡命政権の元首であった殿下は長い間、祖国への“|凱旋《がいせん》”を許可してもらえなかったが、これはこの間にそれまで国際知名度が高い殿下をかついで闘ってきた「赤いクメール」が、国内のシアヌーク派を根絶して権力を独り占めにするための措置であった。  こうしてロン・ノル派分子への報復と、昨日までの盟友でありながら、勝利の瞬間から“敵”となったシアヌーク派の非共産分子を片端から片づけたあと、こんどは「赤いクメール」内部の派閥闘争が表面化した。表面化、という言葉を用いたのは、前項に書いた通り解放勢力内部の「親ベトナム派」と「反ベトナム派」のつぶし合いは、対ロン・ノル政権闘争中からすでに苛烈をきわめていたからである。一九七五年春のカンボジア全土制圧後も、「赤いクメール」内タカ派の「反ベトナム派」は、党内部の「親ベトナム派」残存分子掃討の手をゆるめなかった。プノンペン陥落とほとんど同時に、新カンボジアと新ベトナムの国境紛争が始まっていたからである。内政の進めぐあいについても、党内最上層部で激しい意見の対立があったようだ。「大下放」に象徴される国家の“根こそぎ改革論”を強行するポル・ポト、イエン・サリ両氏ら、いわゆる六三年潜行組(前出。シアヌーク殿下の“赤狩り”を逃れて早々と六三年に地下に潜行した筋金入り幹部。主力は反ベトナム派)に対し、学生や知識人に信望が厚かった六七年潜行派(六三年潜行組がジャングルに姿を消してからも、しばらく殿下との妥協をはかり、体制内改革をめざした。党内序列からいうと六三年組より後輩にあたる)のキュー・サムファン、フー・ユム、フー・ニム氏らはもう少し穏健な路線を主張したようだ。七五年四月中に、すでにキュー・サムファン氏処刑のウワサが国外に流れた。同氏は、その後正式発足したポル・ポト政権の大統領(名誉職に近い)として生き残ったが、他の二人はいずれも粛清された。このこともすでに書いた。  とりわけ、七七年大|晦日《みそか》、ポル・ポト政権が一方的に対越国交断絶を宣言し、両国の「紛争」がほんものの「戦争」に拡大していらい、党、軍部内の粛清はすさまじい勢いで行なわれた。「仲間の中の敵を見分け、懲罰すること」が、党上層部から末端の兵士までに課せられた“最優先義務”となった。昨日までの同志であった党員も将兵も、極度の警戒と|猜疑《さいぎ》心をもって互いを見つめ合うようになった。  解放直後のロン・ノル派、シアヌーク派の粛清を「第一次大粛清」と呼ぶとすると、七七年〜七八年頃に吹き荒れた、この親ベトナム派残存分子の粛清は「第二次大粛清」と名付けてよかろう(とくに「大粛清」と表現したのは、小、中規模の粛清・処刑はたえず続けられていたとみられるからである)。  私たちはここに、恐怖政治がたどる奇型肥大化現象の典型を見る。「赤いクメール」は当初、自分たちより、圧倒的に多数の旧体制分子や一般住民を支配管理するために「恐怖政治」を行なうことを選んだ。それがいまや、「赤いクメール」自身が、独り歩きしはじめた「恐怖政治」に支配され、管理されることになった。ポル・ポト首相、イエン・サリ副首相の、政治家あるいは指導者としての生命も、このとき失われたとみてよかろう。自ら選んだ力の政策に最もおびえなければならなくなったのは、ほかならぬ彼ら自身であったのだから。 「第二次大粛清」により、多くの地方で、プノンペン陥落直後に大小の要職についた委員らの総入れ替えが行なわれた。旧委員らは「怠業」「不勉強」「住民の無用な迫害(!?)」などの罪状で処刑された。民心掌握の失敗も、前年来の|旱魃《かんばつ》によるコメの不作も、これら“実はベトナムの修正主義路線に同調していた”旧委員らのサボタージュの結果とされた。「親ベトナム派」の範囲は際限なく拡大解釈され、ついには、単にベトナムでの生活体験を持つものも抹殺対象となった。泰子さんの住むマウ村で、ベトナムで教練を受けた旧軍兵士らだけが選別処刑されたのもそのためであろう。  この頃、恐怖に駆られた「赤いクメール」兵士らのタイ領への脱出が続出した。各地方で連隊、師団クラスの反ポル・ポト政権クーデター計画が相次いだ。この「第二次大粛清」は、「粛清」というより、すでに殺す側にとっても殺される側にとっても陰惨な「内戦」と呼んだ方がいいかもしれない。  こうして、いわば国内がグシャグシャになってしまった「赤いクメール」のカンボジアで、一九七五年四月以来、いったいどのていどの人数が生命を失ったのか。  一説には百万人、二百万人、さらにベトナム軍の全面バックアップによりポル・ポト政権を首都から駆逐したヘン・サムリン“新”政権によれば、少なくとも三百万人が組織的、計画的に殺害された、とされている。正確な数字は永遠にわかるまい。百万人から三百万人という推定幅の広さ自体が、何よりも事態の恐ろしさを物語っている。  これは私個人の取材に基づく概算だが、少なくとも三百万人という“新”政権(結局はベトナム側)の推定は、かなり誇張されたものと思える。 「第一次大粛清」の対象となったのは、旧体制の中堅幹部以上と、ロン・ノル軍の将校・下士官(下級官吏や一般兵士のかなり多くが、身分を隠すなどして粛清から逃げおおせている)である。ロン・ノル体制時代を振り返ると、この該当者はせいぜい二十万人〜二十五万人にすぎない。これと並行して抹殺されたシアヌーク派勢力も、同数あるいはそれ以下とみられる(シアヌーク殿下を慕う全員が処刑されたわけではない。ポル・ポト政権と“野合”した殿下の人気は、いまや農民の間でさえ最低だそうだが、一九七五年四月の解放時には、殿下はまだ多くの農民らにとって最大の権威であり、敬慕の対象であった。したがって、ポル・ポト政権がこれら殿下支持者の全員抹殺をめざしたとしたら、すでに七五年の時点で、カンボジアの農民はほとんど姿を消していたことになる)。  となると、これら「第一次大粛清」の犠牲者数は五十万人前後とみていいのではないか。七七年〜七八年以後の「第二次大粛清」の実態はナゾだ。「ベトナム側が解放闘争参加のために送り返した幹部|数千人《ヽヽヽ》は、七五年以前の段階ですでに全員殺された」というハノイの言明にみられる数字を唯一の拠りどころとして推定すると、必ずしも聞いてキモをつぶすほどの人数とは考えられない。  ただし、右はいわゆる組織的粛清の犠牲者にかぎった数字である。大下放政策が引き起こした一般住民の死者は含まれていない。そして、多くの難民談話から判断するかぎり、死者の人数は明らかに組織的な処刑・粛清の犠牲者よりも、疲労、マラリア、栄養失調で倒れた者の方がはるかに多い。泰子さんも、都市住民の世帯数約百六十の中からマウ村在住約三年間に四十人以上の死者が出たように思う、と述べている。  プノンペン陥落後、二次にわたって行なわれた都市住民の大移動により淘汰された者の数は百万人に達するのではないか、というのが、バンコクに基地を置く比較的冷静な“カンボジア・ウォッチャー”たちの見方である。一般に言われているより、やや少なめの数字が想定されるのは、タイ領へのカンボジア難民の中には、十人以上の大家族が全員無傷で脱出してきている例などが思いのほか多いからである(泰子さんの場合は家族全員を失ったが)。  こうしたことを総合すると、ポル・ポト体制下四年間の死者の総数は、ヘン・サムリン“新”政権が主張する三百万人よりかなり少なく、百五十万人から二百万人どまり、とみる方が論拠が明確と思える。人口たかだか七百万人たらずの国で、わずか四年間に同国人の手によりほぼ四人に一人が殺害され、あるいは生命を落としたのだから、恐るべき事態であることはいうまでもない。  もう一つの衝撃は、方法論の問題であろう。餓死、疲労死、撲殺、生き埋め、妊婦や幼児にいたるまでの連座処刑——人々を始末するために「赤いクメール」が用いた手段はあまりにどぎつい。おそらくポル・ポト氏の“政治家”としての感覚は、この冷血・凶暴な殺人行為を、少年に近いような年齢の兵士たちに執行させたことにあった。ジャン・コクトーの『恐るべき子供たち』がえぐり出しているように、ある状況や気分のもとで子供ほど冷血になれるものはいない。幼年時代を振り返り、生きたセミの羽根を引きちぎったり、チョウをカゴに閉じ込めて死なせた経験を、自分や自分の周囲に持たぬ人はむしろ少なかろう。超ファナティックなイデオロギストに教育された「赤いクメール」の十六、七歳の少年兵は楽しみながらセミの羽根を引きちぎる子供たちに似ていた。  ただここで、厳しい反論を受けることを覚悟でいえば、これら人殺しの方法論についても、「民族・文化の感覚」というものをまったく無視してかかることに私は多少のためらいを感じる。  私たちは、撲殺や生き埋めを「虐殺」と呼ぶ。そして一方では、二発の原爆による犠牲者を「被爆者」と呼ぶ。しかし広島・長崎の二発も、あるいはもっとこの物語に即していえば、たとえばベトナム軍がカンボジア侵攻のさいに降らせた長距離砲弾やロケット砲弾も、赤子や妊婦を避けて通らなかった。  カンボジア人は、どうやらときにある種の|血《ヽ》に狂う体質の持ち主であるらしい、ということは「アモック」を引き合いに前に書いた。が、それと同時に、文明・社会環境の「質」の問題も加味する必要があるのではなかろうか。  たとえば、私が住んでいた頃のベトナムは戦争の国であった。人々は、殺伐な状況の中で、殺し殺されることにいわば慣れ、少なくとも生命の重さについての感覚は私たちより相対的に|麻痺《まひ》しているように思えた。  あるとき、ベトナム中部山岳ダラトの避暑地に出かけた。ダラトは花の産地として名高く、途中の山道の両側は心を洗われるほど鮮やかな色彩にいろどられていた。そんな花の道に沿ったある小さな村のはずれのカーブを曲がり切ったところで、真紅のブーゲンビリアの下に仔牛のようにふくれ上がった死体が一個転がっているのを目にした。路傍に放置されたベトコン(南ベトナム解放民族戦線、当時はまだこう呼ばれていた)兵士の死体を目にしたのは初めてではなかったが、何の心の準備もなく、遊山気分で車を走らせていただけに、衝撃は強烈だった。村の女性らはバナナをほおばりながら、あるいはおしゃべりに興じながら死体のわきを行き来し、すぐわきの水たまりでは子供たちが水遊びをしていた。いくら死体を見るのに慣れているとはいえ、ベトナム人とはどういう神経の持ち主か、と思った。  そのベトナム人である妻が、日本に来て、はためにも予想外なほど強烈な衝撃を受けたのは、東京ではそう珍しくもない赤子の「ロッカー置き去り殺人」の新聞記事を私が読んで聞かせたときだった。彼女にとってこれは、完全にその想像力の|埒外《らちがい》にある残虐行為であり、人間のなし得る行為ではなかった。現在も彼女は「ロッカー殺人」のニュースを知るたびに、怒りと恐怖で蒼ざめる。 「赤いクメール」兵士らによる大量殺人と、駅のロッカーに赤子を置き去りにする行為は、動機はもとより、何よりもその“規模”において異なる。しかし、両者を並列して考えたとき、少なくとも方法論としての「残虐性」への感覚は必ずしも一元的尺度に拠って云々できるものではないのではないか、と感じることがある。  もう一例あげる。  カンボジアの“新”政権ヘン・サムリン派が最近、「赤いクメール」の残虐ぶりを世界に知らせるために暴露した“罪状”のひとつとして「こどもらをワニに食わせた」という“事実”が報じられた。  これも私たちにとっては衝撃的な行為である。その晩、私は、二、三の親しい友人と、かなり長い時間、この行為の残虐性について論じ合った。今、その議論の結論はたいして問題ではない。  ただ、その後しばらくして、私は議論の場に居合わせた一人の女性から、突然、電話を受けた。日本でいちばんたくさんワニがいるのはどこか、と彼女は私に尋ねた。そんなことは動物園にでも問い合わせればいい、でもいったいどうしてヤブから棒にそんなことを聞くのか、と問い返すと、先日の男どもの議論を黙って聞いていて、最後まで腑に落ちないことがあったのだ、という。むしろあんな議論は無意味ではないか、と彼女は言った。 「結局のところ、日本にはワニがいないから、ワニに人を食べさせることの残虐さがそれだけ増幅して受けとめられるんじゃない? ワニがウジャウジャいる国の人にとっては、もしかしたらそれは人を始末する案外一般的な方法で、やる方もそれほど残虐だと思わないんじゃないの」  と、どうも空恐ろしい感想を述べた。当人の名誉のためにことわっておかなければなるまいが、この女性は私が知る限り最も聡明で心優しい女性の一人である。  実のところ、私自身も、このへんの「感覚」の問題については、まだ自ら解答を得ていない。しかし、もしかしたら人をワニに食わせたり、赤子をまたざきにできる人間が、電気椅子での処刑光景を見てその「残酷さ」に卒倒することだって、あり得るのではないか、とは思う。現に、カンボジアの一部には、殺した強敵の肝臓をつかみ出して食べることにより、相手の勇気が我が身に移るという考え方が残っているそうだ。この場合、この“残虐”行為はむしろ、相手の勇気と強さへの敬意を表すものとも解釈できる。  話がだいぶそれてしまったようだ。妙な誤解を避けるため再度断っておかなければならないが、私は別にこの問題をなでまわすことにより、「赤いクメール」の大量殺人行為をいささかなりとも弁護しているわけではない。  ただ、彼らの方法論はあくまで、「ことの属性」に過ぎず、これに過度の比重を置いて物事を判断することは、左右上下どの方角か知らないが、とにかく、ためにするプロパガンダにむざむざ乗る可能性を自らに許すことになるのではないか、という気がする、ということを言いたかっただけである。 「赤いクメール」が行なった、「ことの本質」については、私も恐怖と嫌悪と怒りしか感じない。同時に、セミの羽根をちぎる一方、道を渡る老女に手をさしのべる優しさをも自然の本能として持っているはずの|子供たち《ヽヽヽヽ》を、血狂い一方に突っ走らせ得る“イデオロギー”という白熱光の空恐ろしさを、腹の底から再確認せずにいられない。  とりわけ、そう遠くない昔、名こそ違えやはりある白熱光のもとに、明らかに異常のファナティシズムに走った体験を持つ民族の一人として。   ベトナムとカンボジア  内藤泰子さんの住む地区で、ベトナムでの生活体験を持つ百五十七人が集団処刑されたのは一九七八年六月十二日だった。  インドシナ半島の大国ベトナムと、小国カンボジアとの歴史的関係、その民族感情については、これまでにもたびたびふれた。ここでは、解放後の両国の抗争経緯を簡単になぞり直しておく。  両国の紛争は、一九七五年春のインドシナ全面共産化以後、ただちに表面化し、翌々年には、すでに抜きさしならぬものになった。七七年大晦日、ポル・ポト政権は一方的にベトナムに対して国交断絶を宣言した。以後、「紛争」は「戦争」へと拡大し、結局七九年一月の、ベトナム軍によるカンボジア全土の電撃的軍事制圧という事態に発展した。  この両共産主義国家の憎悪に満ちた対立、さらに二月に生じた中国・ベトナムの軍事衝突ほど、“イデオロギー”を価値判断の基礎とし、“虐げられた人民の結束と連帯”といった類のうたい文句を|鵜呑《うの》みにしていた人々をとまどわせた事件はあるまい。かつてあれほど威勢のよかった「ハノイ讃美」論、「諸悪の根元は米帝」論は、急に影をひそめ、賢明な論者らは、口を閉ざしてしまった。  しかし、インドシナ事情の経緯を着実に見つめてさえいれば、現情勢はむしろ起こるべくして起こった、と思う。  前項で触れたことと若干ダブるようだが、私たち、いわゆる現代的な意味での「政治理論」「経済理論」の中で育ったものは、とかく自らの尺度を、|然るべき尺度《ヽヽヽヽヽヽ》として物事を判断しがちだ。あるいは単に|現代的《ヽヽヽ》であるというだけの理由で、自分たちの尺度が|然るべき尺度《ヽヽヽヽヽヽ》と思いがちだ。とりわけ四方を海に囲まれ、地続きの国境をもたない私たちは、良くも悪くも、いわば処女的な狭量さを身につけた民族と思える。狭量さとは、自分たちのそれとは状況の異なる世界で生じていることがらを理解することがきわめて不得手、という意味である。このことは、職業柄外国で暮らすことが多い私自身も、我が身のこととして痛感する。  端的な例が、たとえば多民族社会が抱える苦しみへの、認識の浅さであろう。あるいは地続きの国に生きる二つの民族が互いに抱く「民族感情」というものの厄介さへの、理解の不足であろう。  しかし、これも少し発想を柔軟にすれば、かなり容易に推測し得るものではないのか。たいへんいいにくいことだが、ほんの少し前まで一部の日本人が抱いていた“対朝鮮人感情”を思い起こせばいい。明らかに愚劣で、日本人としてなお恥じ続けなければならぬ感情だが、それは確かにかつて存在したのだ。  さらに一歩進んで、この私たちの隣国が日本海という空間を置かず、わが国と地続きであった場合を想像すれば、今インドシナで生じている事態も、もう少しわかりやすくなるのではないだろうか。  現代的な理論がそれほど効力を発揮しない国は、この世にいくらでもある。とくに、インドシナの国々のふるまいを理解しようと努力する場合、政治理論やイデオロギーと並んで、この地域の文化人類学的な側面にも大きな比重を置いて物事を眺めなければなるまい。  米国のコンピューター兵器と、キッシンジャーの頭脳が、ハノイの小柄な一団の老人たちの前になすすべなく敗れたのは、この基本的姿勢の欠如ではなかったのか。  理論的には起こり得るはずのないカンボジア・ベトナム戦争がなぜ起こったのか。  現在のインドシナ混乱の根源をなすものを、地場的視野に限っていえば、こうした歴史的な、同時に文化人類学的な観点からのベトナムの「膨張性」であろう。これは当のベトナム自身が好むと好まざるにかかわらず、隣接諸国とケタ違いの人口の多さや、その中ではぐくまれた文化や、国土の相対的狭さなどから身につけてしまったものという以外ない。それを無視してベトナムの「膨張主義」と表現すると、あまりに政治がかってしまって、ことの本質を見失いかねない。  解放ラオスの場合はなすすべなく、この「膨張性」に吸収された。ふだんは温厚だが、中国大陸から南下したラオス人と異なり、南方海洋民族系のカンボジア人は、ベトナムの圧力に対抗して起爆する発火点がはるかに低かった。  ポル・ポト軍によるベトナム南部越境攻撃は一九七五年春に始まり、やがて国境全域に拡大した。当初ハノイは、このカンボジア軍のヒット・エンド・ラン攻撃を甘く見ていたふしがある。あるいは、もっと深い何らかの理由から、やらせるだけやらせる、という手に出たことも考えられる。元来、純軍事的にみれば、ベトナム軍にとってカンボジア軍は、文字通り|鎧袖《がいしゆう》|一触《いつしよく》の相手といっていい。  七七年秋になって、ベトナム側は師団規模の戦闘で思わぬ不覚をとったのを機に(あるいは口実に)、積極的な反撃に出始めた。  同十二月にはベトナムはカンボジア領奥深くまで本格追撃を仕かけ、かなりの軍勢がそのまま居すわった。そして事態は同年暮れの国交断絶、さらに約一年後の一九七九年一月の、ベトナム軍によるカンボジア全面攻略と全土支配——に発展していく。  いかに民族的反目感情が強かったとはいえ、ポル・ポト軍が行なった執拗なまでのベトナム領内攻撃の意図は、いまひとつはっきりしない。というより、むしろ私はここに、政治家としてのポル・ポト氏がおかした致命的な矛盾を見る。大下放政策は、たとえそれがはた目には“狂気の政策”であったにせよ、一応彼らなりの理屈にのっとったものであった。ポト首相自身、この、イデオロギーというもののすさまじさを最も端的に具現した政策に、将来のカンボジアにとって“無益な”人々を大幅に淘汰することも織り込みずみだった。  しかし、こうしてただでさえ、国家にとって大きなリスクをもたらす“人減らし”を行ないながら、なぜ同政権が強大な隣国にどのみち勝ち目のない戦いを挑み、さらに“人減らし”に輪をかけるような挙に出たのか。しかも、国境戦線に送り込まれ、圧倒的に強力なベトナム正規軍の本格反攻の前に、いわば無用に死んでいったものの多くは、国家に“無益な”都市住民たちではなく、同政権の唯一の信奉者であり、なけなしの支柱であった若い「赤いクメール」の兵士たちであった。ポト政権は、自らの手で自らの支持者を物理的に減少させる道を選んだわけだ。なぜ、この誰の目にも明白な論理的矛盾をポル・ポト政権はあえておかしたか。私にとって、混迷のインドシナ情勢を幾重にも覆うナゾのひとつである。  ベトナム側にいわせれば、ことは簡単だ。つまり、カンボジアのベトナム領攻撃は「北京のさしがね」ということになる。一方ベトナム軍のカンボジア領内進出は「自衛のため」とされているが、これも多分に「過剰防衛」の気味がある。少なくとも、カンボジア軍が遠い南部国境でいくら|攪乱《かくらん》攻撃に出ても、ハノイ政府の基盤はビクともしない。これに対し、ベトナム正規軍が師団規模でカンボジアへ越境すれば、距離的にも内部構造的にも、ポル・ポト政権にとっては直接生死にかかわる大脅威であることは常識以前の問題だからだ。  私はさきにベトナムが「何らかの理由」で、当初の間カンボジアの挑発をかわしつづけた可能性もある、と書いた。実をいえば、真にここに恐るべきベトナムの戦略があったかもしれない、と、今もときどき考える。つまりベトナムは、中国の子分であるカンボジアがポト政権の暴政の下で疲弊し、極端な人口減に陥るのを、内心は多大の満足を感じながら待った。そして一九七八年十二月、ようやく機が熟したのを知り、カンボジア救国民族統一戦線(ヘン・サムリン“新”政権)なるものを作り上げて段取りを整え、一挙に大軍を送り込んでカンボジア全土を制圧した(プノンペン陥落は一九七九年一月七日)。  明らかにこれは「侵略」と呼べる。とりわけ、この「侵略」の背後にモスクワの影が濃厚にさしているだけに、ことは生ぐさい。  ただ——。  私はまたここで思う。カンボジア国民をあの恐るべき悲劇に陥れたポル・ポト政権の行為は、人類の名において弁護の余地のないものであった。その行為を“支援”した北京の態度もまた、当のカンボジア人に百年、二百年にわたって呪われて然るべきものであった。  誰かが、いや世界中が、国際共同体の責任のもとに、あの血にまみれた政権を葬り去らなければならなかった。世界は「大国関係のしがらみ」を隠れミノに、あえて実行動に出なかった。そして百五十万とも、二百万ともいわれるカンボジアの民を見殺しにした。その意味ではベトナムは、あえて火中のクリを拾う挙に出た、といえるのではないか。  そしてそのベトナムは、今、自らの侵略行為の代償を支払いつつある。ハノイ首脳が自ら口にするように、ベトナムのカンボジア政策はすでに「折り返し可能点」を越えた。あとは、時間とともに既成事実が固まるのを待つだけとなった感がある。しかし、とりわけ中ソがからみ合った現在のインドシナ状況からみて、ハノイは今後、得たものよりもさらに高い代価を支払わなければならないのではないか、という気がする。少なくともその間、あのベトナム戦争の大義であった「独立と自由」、そして「抑圧された人々の民生向上」は、おあずけとならざるを得まい。もしかしたらインドシナの人々が投げ込まれたドロ沼は今後もっと陰惨な“粘液性”を備えていくことになるのではないか、という気さえする。   シソポンへの脱出  泰子さんが住む、カンボジア北部の寒村マウ村へポル・ポト政権崩壊の報が伝わったのは、ベトナム軍及びヘン・サムリン“新”政権軍の首都制圧から一週間遅れた一月中旬だった。村人も都市からの住民も、圧政からの解放にどよめいた。同特に敗残ポル・ポト兵がどういう行動に出るか、新たな恐怖も生まれた。  事実、このあと彼女は、最後の、そして最も危険な“橋”を渡ることになる。  ラジオが公式にプノンペン再解放(つまりベトナム、ヘン・サムリン“新”政権軍による制圧)を告げる数日前から、すでにポト政権崩壊の噂は村に流れていた。“新”政権がプノンペン住民を首都に呼び戻しつつある、との情報も伝わった。この段階でマウ村の一行はほとんど全員、それぞれの町へ帰る荷造りを始めた。  泰子さんも、キムラン一家とともにトモーポーの町へ出ることに決めた。他の住民らと直接プノンペンへ戻ることを避けたのは、亡夫タンランさんが夢枕に現れ、しきりに「南へ行くな」「南へ行くな」と、止めたからだという。荷造りを終えたのは、一月十三日のことである。  一行がちょうど牛車に荷物を積み込んでいるとき、一群の「赤いクメール」兵士が村を通りかかった。「何をしているか」と、えらい剣幕で住民を取り囲んだ。  長老格の一人が、しどろもどろで事情を説明すると、「ポル・ポト政権は健在だ。変な噂を信じるんじゃない」。皆を小屋に追い戻してそのまま立ち去った。どうやら、急いで戦闘に向かう途中のようだった。  十五日の放送で、やっと事態が確認された。村にとどまっていると「赤いクメール」に何をされるかわからない。一帯にはまだ多数の「赤いクメール」兵が駐屯・散開しているので、うかつな方角へ逃げると、かえって飛んで火に入る夏の虫にもなりかねない。さんざん迷ったが、結局、キムラン一家と泰子さんは当初の予定通り、一家の出身地トモーポーの町へ逃げ込むことにした。マウ村からわずか北方三十二キロ地点の町である。ほかにも三家族がこの計画に同意した。  一月十九日朝、一行四家族は牛車に荷を積んで出発した。三十二キロの道程を無事半日でこなし、昼頃、町の入口の柵にたどりついた。そのとたん、前方でいきなり「ワァーッ」という人々の悲鳴と|喚《わめ》き声が聞こえた。一行は血相変えて町から走り出してくる大群衆の波に巻き込まれた。「来た、来た。カラス(「赤いクメール」の兵士)が来たぞ」。人々は口々に叫んで、なだれを打って逃げた。泰子さんら一行も仰天して、今来た道を無我夢中で走った。  ふと見ると、動転したキムランが、|遮蔽物《しやへいぶつ》のない田んぼの中を一人駆けていく。 「危ない。そんなところ走ったら、後ろから狙い射ちにされるじゃないの」  泰子さんは大声でキムランを呼びとめ、道路わきの林に引きずり込んだ。家族とはぐれ泣き叫ぶキムランを、「この意気地なし! 今はとにかく力一杯逃げるのよ」と叱りつけた。それから二人で、「宙を飛ぶように」走った。しまいに若いキムランが養母泰子さんの手を取り、「ママ、早く、早く」と引きずるようにして逃げた。「人間って、いざとなるとすごいものですね。十キロ近く、死に物狂いで走り続けました」  ようやく安全地帯まで逃げのび、二人で腰を抜かして道ばたにへたり込んでいるところに、牛車を引いたキムランの父親らもやってきた。あわただしい相談のあと、マウ村の四家族はほうほうの|態《てい》で村に引き返した。夕刻村に戻った。結局、一日で六十四キロを歩き、走ったことになった。  その二日後、彼女が水浴から戻り、村はずれのキムラン一家の小屋の前にたたずんでいたとき、突然、隣の集落の方向から激しい銃声が聞こえた。しばらくして、三人の男が転がるようにして村内に走り込んできた。 「カラスが来て皆連れて行った。逃げられたのはオレたち三人だけだ。この村へも来るぞ」  聞くなり村の住民は一目散に逃げ出した。泰子さんも濡れた着衣のまま、皆といっしょに走った。パスポートだけは、ビニールに包んで着衣の下に身につけていた。  村の南方数キロまで走り、ひとまず休憩した。皆あまりあわてふためいて逃げたので、食料も野宿の用意もない。キムランの弟の二十歳の青年が仲間五人を誘って、村へ様子を見に戻った。六人は牛車にコメ、食料、毛布、|蚊帳《かや》などを積んで戻ってきた。 「兵隊は来ていない。村はシンと静まり返っている」と報告した。一同評定の結果、こんどは長老格の老人たちが様子を見に戻った。年寄りなら、兵士に捕えられても即座に殺されることはあるまい、との判断からだった。三時間ほどして長老たちは戻ってきた。 「もう村中、兵士でいっぱいだ。しかし、今、素直に戻れば決して懲罰は加えないから、すぐ皆戻れと言っている」  と告げた。  ここで引き返すグループと、あくまで脱出に固執するグループに分かれた。キムラン一家をはじめ、いずれもトモーポーから来た計十家族が、南方のシソポンの町に向けて逃走を続行することを選んだ。泰子さんもそれに加わった。いったん村を出た者は敵とみなされる、と思った。二組は互いの無事を祈り合って別れた。  帰村組が村へ戻ったら、十家族足りないことがすぐわかってしまう。十家族は追手を恐れてあわただしい野宿を重ねながら、ほとんど昼夜の別なく歩いた。夜歩くときには子供を泣かせないよう、たえず母親たちが乳首を子供の口に含ませた。何日歩いたか、昼夜の別ない逃避行だったため、泰子さんは覚えていない。  シソポンの手前の集落に近づいたとき、前方から銃を手にした一団の人影がやってきた。人影は太陽を背にしていたので、全員黒服の「赤いクメール」兵に見えた。「ああ、とうとう出会ってしまった」。一行は観念した。田んぼのあぜ道伝いに歩いていたので、逃げ場はない。 「立ち止まるな。こうなったら、もう歩き続ける以外ない」  リーダー格のキムランの父親が一同をはげました。  前方の人影も近づき、|誰何《すいか》してきた。黒服の“カラス”ではなかった。迷彩服や、カーキ色の軍服を着込み、左腕に赤い布を巻きつけたヘン・サムリン軍の兵士たちだった。一行七人の分隊の隊長格が、キムランの父親から事情を聞き、 「あなたたちは、信じられないほど運がよかった。まだこの道の両側はポル・ポト兵でいっぱいですよ。われわれもてっきり敵だと思って射つところだったが、子供の姿が見えたので思いとどまった。ここまできたらもう安心です」  と一行を歓迎した。  泰子さんらがシソポンの町へ入ったのは、その何日か後の二月九日だった。   ベトナム軍に保護さる  シソポンは、カンボジア北西部のバッタンバン州の主要都市の一つである。タイ国境まで鉄道沿いに約五十キロ。この鉄道線路は、以前はバンコクとプノンペンを直結していたが、その大部分は久しく使用不能となっている。  しかし、「赤いクメール」が極端な鎖国政策に閉じこもって以後も、鉄道沿いの国境の町ポイペット(カンボジア側)と、アランヤプラテート(タイ側)を結ぶ、幅十メートルほどの橋が、ポル・ポト政権が“西側”に対して開いていた唯一の交易路だった。交易は主として、カンボジア側からコメ、タイ側から塩の物々交換で行なわれた。  田んぼ道で出会ったヘン・サムリン側の兵士に救出された泰子さんら一行は、町にたどりついたあと、キムランの父親の友人の家などに分宿した。この頃、都市住民の帰還はかなり進んでいたらしく、キムランの父親の友人も、長い強制移動生活を終え、つい数日前、もとの居住地シソポンに生きて帰ったばかりだった。  泰子さんは町に着いた翌々日、キムランと二人で町役場を訪ね、町長に面会を求めた。肌身離さず持っていたパスポートを提示し、新政府外務省に、日本送還の手続きを取るよう連絡してほしい、と頼み込んだ。町長は彼女のパスポートを受け取り、そのまま執務室から姿を消してしまった。二時間、三時間と待っても帰らないので、「早まったか」と悔やみながら家に戻った。  二日後の午前九時頃、黒塗りのメルセデス・ベンツが二台、泰子さんの仮住まい先の玄関前に横付けになった。ベトナム軍将校五人が降り立った。年配の一人が泰子さんの顔を見るなり、同行の通訳を通じて、あなたが日本人か、と尋ねた。通訳は|流暢《りゆうちよう》なカンボジア語と、なかなか達者な英語を話した。  年配の将校は、突然のものものしさにおびえているキムランを、二、三日であなたの養母の方から連絡がとれるようにすると慰め、泰子さん一人を司令部に連行した。連行、というより、丁重に案内した、といった感じだったらしい。  町中の目立たぬ木立の中に、ベトナム軍の司令部が置かれていた。当時シソポンを含むバッタンバン方面一円に進駐していたベトナム軍は約二万人、と後に泰子さんは推定している。  泰子さんは、この方面軍の最高司令官とおぼしき大佐の執務室に迎えられた。 「長い間、ごくろうさまでした。マダムの身柄はもうこれで絶対に安全です。必ずご帰国できるよう、とりはからう所存であります」  と、たいへん礼儀正しい軍人だった。  一応の人定尋問のあと、プノンペン放逐後の状況・体験・目撃などについて、いろいろ聞かれた。  昼食には、ブタの角煮、牛肉、日本製のカツオの缶づめなどがふるまわれた。それから四年ぶりの本物のコーヒーも。  大佐自ら泰子さんの皿に料理をとりながら、缶づめの「日の丸」の旗を示して、「日本とベトナムは、とてもいい友人です」などと言った。夕食にはベトナム中部山岳ダラトの名産、イチゴ酒も出た。ミルク四缶、砂糖二キロ、ベトナム煙草一カートンも、とくに大佐からの個人的プレゼントとして贈られた。 「でも奥さん、ふだん私たちがこんなぜいたくをしているとは誤解しないで下さいよ。ちょうど旧正月明けで、お祝いの配給がまだ残っていたのです」とも大佐は付け加えた。  宿舎は、司令部の建物から木立をわずかばかり行った二階建ての木造建築があてがわれた。別に隔離された場所ではなく、翌朝気がつくと、二日前、泰子さんとキムランがパスポートごと町長に消えられて大いに気を|揉《も》んだ、役場の建物のすぐ隣だった。  宿舎に移ってからも、泰子さんの不安と緊張はまだ完全に解消したわけではない。  彼女はベッドつきの二階の居室をあてがわれた。階下には五人のベトナム兵がたむろし、常時、保護(そして、おそらく監視)に当たった。  翌日からこの二階家で、予想外に長い、ベトナム兵らとの共同生活が始まった。兵士らは二十歳ぐらいから二十五歳半ばまで、いずれもカンボジア語に堪能で、どうやらカンボジア生まれらしかった。指揮官格のトン以下、ヒエン、ビン、コーク、それにもう一人の交代要員が、従卒のように泰子さんに食事を運んだ。朝はメン類とミルクコーヒー、昼、夜ともたっぷりの食事をあてがわれ、泰子さんはみるまに体重を取り戻した。階下をのぞくたびに、兵士らがわずかの塩魚や野菜をオカズに、粗末な食事をしているのを見て、気がひけた。  ここに寝泊まりして二日目の夜、町内にロケット弾が落ちた。「赤いクメール」の残存分子が撃ち込んだものらしかった。すさまじい着弾音と同時に、五人のベトナム兵が二階に駆け上ってきた。 「絶対に心配御無用。万一マダムの身に何か生じるとすれば、それは、われわれ五人が全員死んだあとになりましょう」  と、言った。  泰子さんは、ここでも五人の兵士とすぐ仲良しになった。とりわけヒエンという兵士が何かと彼女の身の回りの気を配ってくれた。甘い細おもてのスラリとした体格の青年だった。音楽好きで窓ぎわに腰かけて、よく一人でギターを弾いていた。ときにはトランジスタ・ラジオのダイヤルを、こっそり外国の音楽番組に合わせ、ジャズのリズムに陶然と体をゆすったりしていた。  その後、話しているうちに、彼の父親と、泰子さんの亡夫タンランさんがプノンペンの学校で同期だったことがわかった。偶然の一致に二人は驚き、以来、ヒエンはカンボジア流に、泰子さんを「ママ(母さん)、ママ」と親しい敬称で呼ぶようになった。他の仲間も、いつの間にかそれにならった。ベトナム軍保護監視下の生活で、泰子さんは別に自由を束縛された覚えはない。自由に町に出歩き、キムランや知人ともよく会った。仕事もないのでますます健康を回復し、皮膚のシミや脱毛の量も減った。ただ、いつまでも日本送還の手続きが進んでいる様子がない。退屈でもあったので、いまはすっかりなついたベトナム兵らの洗濯やつくろい物をかって出た。洗濯物を干しながら、もしかしたらまたこのままここで数年? と不安を覚えることも、ときどきあった。  私との一連の会話を通じて、彼女は「政治」に触れることを極力避けた。その彼女が例外的に口にしたコメントは、「あれではいくら統一しても北ベトナムと南ベトナムはうまくいかないのではないか」「大国、とくに中国は、シアヌーク殿下をカンボジア指導者として復帰させることを考えているらしいが、現在の殿下への国民感情を知らないにもほどがある。カンボジア人はみんな、国が現在のような状態になった責任は、もとはといえば殿下の政治失敗にあると深く彼を恨んでいる」の二つであった。  彼女は進駐したベトナム軍が、町のカンボジア人に対してずいぶん気をつかっていることをしばしば感じた。カンボジア住民にとって、ベトナム軍は凶暴な「赤いクメール」からの「解放者」であったことはまちがいないが、民族感情の面からいえば、この解放者は、やはり同時に「占領者」でもあった。ベトナム軍側も住民感情を刺激することを避けるため、人々との接触部門にはこの国の言語と気風に精通した、カンボジア生まれの兵士らを重点配置している気配がはっきり感じられた。  さらに、周囲のベトナム兵らとの交際を通じて彼女は、北部出身者と南部出身者との間に、いかに深い反目感情のミゾがあるか、ということもおりにふれ実感させられた。兵士らは何かというと、「あの北野郎」「あの南野郎」と、互いに露骨なまでの反感と軽蔑の陰口をききあっていた。  こんな観察を深めながら、彼女は、ベトナム軍将兵の「下にも置かぬ心遣い」を受けながら、このシソポンの町でなお四カ月余りを過ごすことになる。   中 越 戦 争  泰子さんがシソポンの町のベトナム軍司令部に保護されて間もなく、インドシナは再度、思いもよらぬ嵐に見舞われた。彼女が同町に入って、その二十日足らず後の一九七九年二月二十六日、中国軍がハノイ北方の国境を越えてドッとベトナムに攻め込んだ。  この事変は、一月七日のベトナム軍によるカンボジアの電撃的全面制圧よりも、さらに手ひどい衝撃を国際世論に与えた。とりわけ、四人組追放以後の中国では、復活した小平副首相の優れた政治・外交手腕と、その底知れぬ風格が世界を魅了していたおりだけに、北京の“暴挙”には大方のものがキモをつぶした。  私も、この中国軍侵攻には虚をつかれた。当持私はイランのパーレビ王制の崩壊と、革命指導者ホメイニ師の亡命先からの凱旋をテヘランで取材し、任地バンコクへ戻ったばかりだった。イラン革命の取材・報道はつらい仕事だった。とりわけ熱帯バンコクから飛んだ身には、ゼネストで交通も電気も暖房用灯油も途絶えがちな酷寒地での一カ月余りの籠城生活がこたえた。  私のテヘラン滞在の後期、すでに小平は、日米首脳などに「近くベトナム懲罰に出る」意思を予告していた。しかし、中国の政治のやり方についてうとい私は、半信半疑だった。一応テヘランからの帰途、バテ気味の体を引きずって香港に回り道し、念のために香港筋の情報を確かめた。香港でも、北京がごく近日中に、いきなり大部隊を出動させるという感触は得られなかった。バンコクへ帰着後、念には念を入れて、ていどの気持ちで、妻に一日数回の定時のハノイ放送の傍受だけは欠かさぬよう頼んでおいた。  一週間ほど後のある晩、例によって「助手兼通訳料をよこせ」などとブツクサぼやきながら、短波ラジオの周波をハノイからのベトナム語放送に合わせていた妻が、めずらしく興奮の面持ちで、 「ワッ、大変。本当にシノワ(中国人)攻めこんだ!」  と叫んだ。  続く三週間は、ほとんど徹夜の連続だった。  バンコクからの中越紛争のカバーは、もっぱら「耳」での取材だった。ハノイ放送の傍受と分析が主要な仕事となる。  妻をおだて、すかしながら、私は彼女を毎日最終ニュースまで付き合わせた。彼女のあやしげな通訳力をたよりに、おそらくベトナム人でなければ識別できない放送者の口調や言い回しの変化を追いながら、千キロ余りの彼方から現地の戦況やこの戦争の意味を考えた。  大国中国が、なぜ小さなベトナムに対してあの“懲罰”に出たか。中国・ベトナムの歴史的関係、両民族が相互に抱く感情については、別に第8章で触れるが、さまざまの背景を踏まえて考えると、この戦争は明らかに中国側に理があるように思えた。一口でいえば、対米戦争後期以降のハノイの対中態度をふりかえると、ベトナムはソ連の威を背景に、あまりに中国をコケにしつづけた感があった。  私の疑問は、むしろ、ベトナム側がなぜああした|鉄槌《てつつい》を受けざるを得ないまでに北京を怒らせたか、にあった。  ここで、そのへんの詳細に立ち入る余裕はないが、あの賢明なハノイの首脳部が、外交路線、華僑問題、越ソ条約、さらに全般的なインドシナ政策など、ことごとく、ことさら北京の神経を逆なでする挙に出た裏には、ハノイをそうした方向へ追いやる、ハノイの力では抗し切れぬ圧力も大きく働いたと解釈する以外ない。むろん、一方的にソ連傾斜を深めたハノイに対する中国の圧力も、きわめて因業なものだったのであろう。しかし、ベトナムの“衛星国”化をたくらむソ連が、戦時中のツケをかざして、ハノイを抜きさしならぬ反中路線に追い込んだことは明らかとみえる。  グローバルな視野から現在のインドシナ悲劇の本質を表現すれば、「中ソ両大国が、米国の去ったこの地域を各自の東南アジア政策の最重要拠点とみなし、地元政府や、地域住民の幸・不幸などおかまいなく、自らの影響力拡張あるいはその確保に血道を上げている」という事実に尽きるだろう。  現象面だけとれば、ベトナム軍がその一カ月半前に敢行したカンボジア侵略が、中国軍のベトナム侵攻の引き金となったことはまず間違いない。先述したように、私はポル・ポト非人道政権を葬ったという点においては、ベトナム軍のカンボジア侵略を「是」とする立場を取る(ただし、私がベトナムの行為を「是」とするのは、その一点においてのみだ)。したがってこの侵略行為が、中国軍にベトナムを侵攻させる唯一の、あるいは第一義の理由であったとすれば、私も当然、北京の態度を糾弾しなければならなくなる。しかし、数年来の中越関係及びインドシナの総合情勢を考えると、ことはそれほど直線的に片づけられるものではあるまい。北京にとって、ベトナムの対カンボジア侵略は、ハノイが、それもソ連陣営に身を投じたハノイが、対米戦後、世界(とりわけ東南アジア諸国)に対してとりつづけた、あまりに自分勝手で、ときには傲岸なふるまいの一例にすぎず、その意味では対越“懲罰”の理由の一つにすぎない。  バンコクに身を置いていた私は、ベトナムの、ときには強圧的な自己中心主義的態度に神経をすりへらしていたタイ、マレーシア、シンガポールなどの国々が、中国軍のベトナム侵攻を「よくぞやってくれた」と拍手で受け止めた事実に深く考えさせられた。これはやはり第8章で触れるハノイの「政治スタイル」の問題とも直接関係する。  いずれにしろ、戦後ハノイは数々の錯誤、愚行をおかしたが、それらの中で最たるものは、この巨大な隣国中国との対立関係をここまで抜きさしならぬものにもちこんだことではないか、と私には思える。対中関係の改善なくしては、新ベトナムは内部の貧困と混迷にあえぐ、ソ連の永遠の三流衛星国に甘んじ続ける以外ないのではないか。ベトナムを愛するものの一人として深く危惧せずにはいられない。  戦局は、すでに最初の数日で明らかだった。ハノイ政府は、決してその事実を口にしなかったが、北部諸都市防衛のために急派されたいくつかの正規軍独立連隊は、各地で大敗を喫した(総合的な意味でである。もしかしたら、両軍の死傷者数は人海戦術をとる中国軍の方が多かったかもしれない。しかし彼我の総合国力の差はあまりに決定的だ。仮に、中国側死者五十人に対してベトナム側の死者が一人にとどまったとしても、“政治”としての両国の戦争はベトナム側の惨敗と解釈する以外ない)。  ベトナム北部一帯の町々を|蹂躙《じゆうりん》した中国軍は、三月上旬、一方的に兵を引いた。嵐は一応去ったが、この短期間の事変で、新ベトナムが受けた総合的打撃は、はかりしれず大きい。そしてなおにらみ合いをつづける両国の関係が、今後のインドシナ情勢、さらにはもっと広く東南アジア情勢をいっそうこみ入った、そしてそこに住む人々にとって不幸なものにしていくことも、また間違いあるまい。  こう見てくると、現在のインドシナのドラマの中で最も“非道”な役を演じているのはモスクワと北京であり、さらに、冷淡な言い方をすれば最も愚劣で自国民に対し無責任な役を演じているのは、両大国の圧力に抗する能力のない各小国の指導者たちであり、そしてそれらすべてのシワ寄せを一身に引き受けているのはこの地域に生きる六千万人の名もなき人々、ということになる。  この果てしないインドシナの悲劇を中断させるためには、世界が人類の名において大国イデオロギー闘争の非情さと罪悪を糾弾し、かつそれに踊らされている小国の指導者らを、これまた、人類の名において目覚めさせる努力をしなければどうしようもない——のではないか。  日本が国際社会という共同体の中で生きることを望むかぎり、とりわけアジア地域の一国として安定と繁栄の中に生きることを望むかぎり、六千万人の人々を国家とイデオロギー闘争の道具と考えるこれら大小の国々に「早く目を覚ませ」と叫びかける勇気を持つことは、欠くべからざる義務ではなかろうか、と思う。 [#改ページ]

   
7 生  還   越  境  シソポンの泰子さんが、この解放後のインドシナを震撼させた中越紛争について、どのていどの情報を耳にしていたか、私は聞き忘れた。彼女はこの間、じりじりしながら帰国の日を待ちわびた。実際には統一後最大の困難に直面したベトナム側にしてみれば、思いがけず舞い込んできた一日本女性のことなどにかかずらわっている余裕はなかったのだろう。あるいは、彼女を手元に引きとめておいた方が、対日外交上有利との思惑が働いたのかもしれない。  そこで、ここでもうしばらく彼女には辛抱を願うことにして、話をタイのカンボジア難民キャンプに移す(彼女自身も、やがてベトナム軍の保護監視生活にしびれをきらし、タイへの脱出を考えている)。  ポル・ポト政権はベトナム軍の軍事攻勢のもとで事実上あえなく崩壊したが、このカンボジア国内の出来事は、新たに大量の難民流入という形で隣国タイにひどいトバッチリを与えた。 「赤いクメール」の幹部、兵士らはプノンペンを追われて散り散りに森に逃げ込み、その後ガマにヘン・サムリン“新”政権が座った。一部の人々はこれを「カンボジア再解放」と呼ぶ。森に潜ったポル・ポト政権の「赤いクメール」兵士たちは、再度抵抗ゲリラと化した。かつてその旗印は「抗米救国」だった。現在では「抗越救国」あるいは「カンボジア再々解放」の戦士である。ベトナム軍は今なお、これら「赤いクメール」残存軍の掃討作戦をジワリジワリと、しかし情容赦なく進め、カンボジアはいぜん国中が戦乱に近い治安不良状態にある。  両軍の間にあって哀れを極めているのは、各地の一般住民である。ポル・ポト政権の大下放政策は都市住民を|塗炭《とたん》の苦しみに陥れた。全土が無秩序な戦闘地区と化した今、ひどい目にあっているのはこんどは農民の方だ。  たとえば、ベトナム軍がある村へ進駐し、数日居すわった後よそへ転戦していく。そのあとへこんどは「赤いクメール」ゲリラたちが乗り込み、村民らを“親ベトナム派”とみなして全員|殺戮《さつりく》したりする。タイ領への難民の話では、この逆のケースもしばしば生じるという。  実際、戦線が固定しないゲリラ戦、機動戦の舞台に住む住民ほど割りの合わないものはない。ベトナム戦争中も、何百万人という農民が、こうして文字通り死の往復ビンタにおののきながら、二十年、三十年と過ごした。いや、それ以前の第一次インドシナ戦争(ベトミン軍による抗仏独立戦争)時代から事情は同じだ。  一九四〇年代の終わり、当時幼児だった私の妻とその一族は、戦火に追われてたびたびトワイライト・ゾーン(昼でも夜でもない、たそがれ地区。つまりフランス軍とベトミン軍の競合地区)にさまよい込んだ。子供心にも、ひどいものだったという。今日はフランス軍の迫撃砲の猛射を浴びてバナナ畑を転げ回ると思うと、翌日はベトミン軍にとっつかまり、「フランス軍の回し者だろう」と、一族ともども殺されかけたりする。彼女はこんな思い出をいくつも持っている。  ベトナム軍侵攻後のカンボジアでも、またしてもこれが起こった。しかも圧倒的に形勢不利な「赤いクメール」は、手当たりしだい農民をつかまえ、銃剣を突きつけて部隊との同行を強制している節がある。住民の奪い合い、というよりベトナム軍の追及をかわすための一種のタマよけとして連行するらしい。いったん「赤いクメール側」と行動をともにすれば、たとえ逃げてもこんどはベトナム軍、ヘン・サムリン“新”政権軍側に「赤いクメール派」として殺される恐れがあるから、農民の方は絶体絶命だ。  ベトナム軍は今、メコン川東岸地域の組織的掃討作戦を一段落し、「赤いクメール」残存部隊の主力を西側のタイ国境ぎりぎりの回廊地帯に追いつめているようだ。面倒を背負い込むことになったのは、タイ政府である。タイはインドシナ最強国であるベトナムの「膨張性」に対する警戒から、互いの政体、イデオロギーの極端な違いなどおかまいなく、反ベトナムの用心棒ともいうべきポル・ポト政権とよしみを通じていた。そのポル・ポト軍の敗残兵らが、ベトナム軍に締めつけられ、進退|谷《きわ》まって続々とタイ領に越境してくる。彼らとともに、大量のタマよけ用農民も連行されてくる。農民にとっても、タイの収容所に逃げ込むことが、追いつめられ殺気だった「赤いクメール」との一蓮托生から逃れる唯一のチャンスであるわけだ。このほか、独力で戦火を避け、あるいは権力者が変わっても、結局は共産主義支配下から逃れられぬ祖国を捨てて国境を越える住民も後を絶たない。  ベトナム軍によるプノンペン制圧以来、タイ領に逃げたカンボジア人の数は八万人(あるいは延べ十万人以上)に達した。しかもタイにはこのほか、ラオス難民十数万人のほか、かなりのベトナム難民も転がり込んでいる。日本は、さまざまの理由をこじつけてインドシナ難民の受け入れを事実上、拒否し続けている(定住許可五百人という数字はゼロに近い)。しかし他国からの流入民をかかえ込む“重さ”はどこの国にとっても同じことだ。  八万人を抱えたタイ政府は、一九七九年初夏、たまりかねて難民の一部を強制的にカンボジアに押し戻した。前後してベトナムからのボート・ピープルに悩むマレーシアも同様の措置に出た。陸上、海上へ追い戻された難民の運命は、たいがい想像がつく。世界は両国の「非人道的」態度に衝撃を受け、騒然となった。奇妙なことに難民生産の張本人の一人であるベトナムまでが、「地雷原の中に罪なき人々を放逐する」タイの態度を非難した(カンボジアのタイ国境全域には以前、「赤いクメール」が住民の逃亡を防ぐため、奥行き数キロにわたり地雷がびっしり敷設してあるそうだ。おそらく、住民を脅すための誇大宣伝だろうが、一部については信用できる情報がある)。  私自身も、難民の立場に立てば、タイ政府の“冷酷さ”を呪うだろう。しかし、バンコクに身を置いてみると、大量の難民を抱えたタイの苦しみが肌身でわかる気がする。多くの公務員、兵士、警官を、国境近いキャンプの監視管理に動員しなければならないので、治安悪化や一般行政の停滞などが生じる。国連援助を受けているとはいえ、目に見えない国庫支出は少なくない。しかも、ベトナムとの外交上の問題もある。こうした事情はマレーシアも同様で、強制押し戻しも両国政府にとってはせっぱつまった措置といえよう。  今さら「人道」を云々してタイやマレーシアを非難するなら、なぜ心優しい国際世論は、これまでの度重なる両国の悲鳴に耳を貸さなかったのか。   脱出をはかる  シソポンでの泰子さんの生活はすでに四カ月目を迎えた。ベトナム軍兵士らは、いぜん親身に世話をしてくれるが、司令部からは何の音沙汰もない。日々あせりがつのった。  そんな彼女のところへ、一九七九年五月上旬になって、ひょっこり養女キムランの父親がやってきた。泰子さんと顔を合わせるなり、カンボジア語に堪能な周囲のベトナム兵らの耳に入らないように、「本当は病気じゃないんだ」とすばやくささやいた。調子を合わせろ、という意味だな、と彼女も相手の目顔で即座に察した。  父親はそれから、こんどはわざとベトナム兵らに聞こえよがしに、トモーポーに帰ったキムランがひどい熱病を患い、死ぬ前に一目泰子さんに会いたい、と訴えていると告げた。 「娘の最期の願いだ。一週間でいいから見舞いにきてくれないか」  逃亡の誘いだ。キムラン一家は戦火と混迷のカンボジアを捨てて、安全なタイ領へ逃げる計画だった。  泰子さんは、ここで最後のカケに出ることにした。このままいたずらにベトナム軍司令官の口約束を信用していたら、人知れず飼い殺しで朽ち果てることにもなりかねない。たとえ日本に帰れるとしても何年先か、見当もつかない。  彼女は計画に加わることにした。一人ではジャングル越えの脱出は無理だが、キムラン一家といっしょなら、やりおおせる自信があった。  彼女とキムランの父親は、五月九日の午前十一時に、父親の宿泊先である友人宅で落ち合う約束をした。いったんトモーポーに出て、そこから東に道をとれば、タプラヤ(タイ領)方面の国境への最短距離は|僅《わず》か二十キロ余りである。人目を避ける旅でも五日間あれば十分だ。父親が「一週間暇を取れ」と言ったのもそのためだろう。  父親と別れた泰子さんは、その足で役場に町長を訪れた。養女が重病であることを説明して、一週間の旅行許可書の発行を求めた。町長は、ベトナム軍司令官の大佐の同意がなければ発行できない、と言った。司令部へ行くと、大佐はその朝早く、アンコール・ワット遺跡近くのシエムレアプに会議で出かけ、昼前にならないと戻らないとのことだった。彼女は司令部に座り込んで待った。十時半になっても大佐のヘリコプターが戻ってくる気配はなかった。  再び役場にとって返し、町長と交渉した。  相手はガンとして首をタテに振らない。 「でも、いったいどういうことなんです。あなたはこの町の町長でしょう。こんな紙切れ一枚にサインするにもベトナム軍の許可が必要なの? 娘が死にかかっているというのに、そのくらいの融通もきかないんですか」  とうとうカッとなってまくしたてた。  町長は当惑した顔で、 「奥さん、行く先がトモーポーだから問題なんです。シエムレアプや他の場所なら今すぐにでも私がサインします。でも、ごぞんじでしょう。トモーポーの町からタイまではたった二十キロしかありません」 「なーるほど、あなた、私が脱走すると思ってられるのね」 「いや、奥さんがそんな人でないことはもうよく知っています。しかしあの付近は治安が完全ではありません。ポル・ポトのゲリラに捕えられたり射たれたりする恐れがある。もしあなたの身にそんなことが起これば、私は完全に監獄行きです。私だけじゃない。あなたの世話をしている人もみんな投獄されるでしょう」  あきらめ、というか、思い切りのよさも泰子さんの性格の一特徴のようだ。ここまでいわれると、泰子さんもさっぱりと脱出を断念せざるを得なかった。  いったん宿舎に戻った。 「私、見舞いに行くのやめた。可愛いあんたたちが牢屋に入れられたらかわいそうだからね」  すでに事情を察していた護衛の兵士らは目にみえてホッとした表情だった。 「ママ、もう少しの辛抱だから我慢してください。きっと近いうちに日本に帰れますから」  気の優しいヒエンはしきりに彼女を慰め、励ました。  泰子さんは定刻、待ち合わせの場所に行き、じりじりしながら待っていたキムラン一族に、脱出断念を伝えた。ほかにもこの脱出に加わる数家族が集合していた。  キムランの父親はタイに着いたら必ず国際赤十字に託すから、バンコクの日本大使館宛ての手紙を書け、とすすめた。 「私たちは五日後にタイ領に到着するつもりだ。もし手紙がうまく大使館に届かなくても、必ず私自身がもう一度あんたを迎えに戻ってくる」  キムランの父親は、固く約束した。  泰子さんはその場で便箋と鉛筆を借り、大使館宛てに救助を求める手紙を|認《したた》めた。   〔泰子さんの手紙の全文〕   氏名 内藤泰子(漢字の横にローマ字で振り仮名がついている)   昭和七年十月四日生れ   本籍地=東京都文京区本郷五丁目四十七番地   現在スワイシーソフォン市長の所にいます。主人子供共七五年に死亡しました。他国に一人きりになり、日本に帰国出来る日を千秋の思いで待っております。どうぞ一日も早く救出して下さるのを待っております。パスポート(日本旅券)を所持しておりましたが、現在市長が保管しております。    この手紙が一日も早く日本大使館に届き、日本に帰れますことを神に祈っております。    一九七九年五月九日  一同は泰子さんに別れを告げ、町を去った。養女キムラン、頼もしいその父親、なついていた子供たち、三年近く苦労を共にし、ときには手を取り合って生死の間をくぐり抜けてきた一族との、最後の別れとなった。   タイの難民キャンプ  一九七九年四月から五月にかけて、私は何回かタイ・カンボジア国境の町アランヤプラテートに出かけた。  ベトナム軍に国境一円に追い込められた「赤いクメール」敗残兵や、一般難民が最も集中的に越境してくる地区が、バンコク東方二百八十キロの人口約四万人の町、アランヤプラテート一帯である。ときには彼らを追うようにして、ベトナム軍の長距離砲弾、迫撃砲弾もしばしばタイの国境沿いの村々に降ってくる。強大なベトナムとの無用の摩擦を避けるタイ政府は新しい村をつくって、国境の小川沿いの村々の住民を数キロ領内奥深くに移動させ、極力事を荒立てないよう、神経をつかっている。  私は当初、タイ政府のこの臆病なまでの気のつかい方に、|他人事《ひとごと》ながら歯がゆさに似たものを感じた。しかしバンコクに住みはじめて、あるていど理解できる気がした。タイは東南アジア諸国の中で、唯一、西洋列強に植民地化されず、奇跡的に独立を守り通した国である。その妙手の奥義を尋ねると、あるタイの高名な記者は「絶対に他人を挑発しない」政策に徹したためだという。こわもてのフランス、イギリスの植民地主義者に、じわりじわりと領土を削り取られながらも、なんとか“国体”は守り通した。「とにかく、強姦されるより、せめて和姦の形をとった方がましだろう」と、彼はニヤリと笑った。どうも新聞記者というのは国籍を問わず、連想と表現があまり上品な人種ではないようだ。  それはさておき、初めてアランヤプラテートの町を訪れたのは四月の末頃だった。ブーゲンビリアが咲き乱れる清潔な町並みを出はずれた疎林を流れる幅わずか七、八メートルの小川が、両国の国境である。「平和な世界」「戦争の世界」を隔てる、待ったなしの境界線でもある。小さな橋のたもとにタイ側検問所がある。対岸の町がポイペットである。人影はなく、橋のたもとの火炎樹のこずえに、ヘン・サムリン新政権の国旗がひるがえっていた。こずえの国旗は一月以降、四回変わった。プノンペン陥落後、いったんポイペットを放棄した「赤いクメール」は、三月、中国軍のベトナム侵攻と呼応して町を奪回した。それも束の間、四月に入って町は再びベトナム軍の手に落ちた。  私たちはタイ警備兵の目を盗み、疎林におおわれた小川沿いのノーマンズ・ランド(前線の無人地帯)を、徒歩や車で百キロ以上行き来した。小川を渡ってくる「赤いクメール」兵をつかまえて様子を聞きたかった。対岸では、ひっきりなしに長距離砲や機関銃が|吠《ほ》えたてている。長距離砲は、国境から八キロほど先のカンボジア国道を戦車と砲陣で固めたベトナム軍側から、国境ぎりぎりに照準を合わせて撃ち込まれているようだ。機関銃や自動小銃の音は、明らかに「赤いクメール」のものだ。小川を隔てたすぐ先のジャングルからも応戦している。同行したタイ人記者は、用心深い青年だった。砲音が森をゆるがすたびに顔色を変えて身を固くした。  この最初の日、対岸の銃砲声を聞きながら——銃声のみならず、目の先のジャングルの暗闇で抗戦する「赤いクメール」の必死の雄たけびまで聞こえるような錯覚さえした——重く、鈍く、自分自身の心と体にしみ込んできた、あの非現実的なまでの不条理感を、私は忘れることができない。タイ人記者は後方から大声で呼びとめたが、私はほとんど無意識に、ノーマンズ・ランドの刈り取られた田んぼを突っ切って小川のほとりに降り、手を伸ばせば届きそうな対岸のジャングルの巨大なシダやツル草の茂みを長いこと眺めた。ときおり、ヤケになった「赤いクメール」が|狙撃《そげき》してくることがあると聞いていたが、そんな物理的危険に気を配る余裕もないほど、私は、いわば呆然とした。  サイゴン勤務時代も前線取材には何回となく行った。銃砲声を間近にして、私はいつも怖かった。弾丸は厳正中立(?)の新聞記者だからといって、よけて通ってはくれない。その意味ではベトナム戦争の現場取材では、私自身も常に“戦場の中”にいる、という感覚があった。  このタイ国境での取材は、まったく状況が別であった。文字通りの目と鼻の先の暗い森の中で、今、血みどろの殺し合いがくりひろげられている。そして、子供でも徒歩で渡れそうな茶色に濁った一本の細い流れを隔てて、私たちが立つ疎林の風光はあまりに明るく、のどかで、日常的である。銃砲声さえしなければ、目の前の森に数万人が包囲され、死に物狂いの抵抗を行なっているとは、とても信じられないようなのどかさだった。  その、のどかで、平和な日常世界に身を置いて、私は、戦争を、人々の殺し合いを、いわば気楽に眺めた。まさしくこれは不条理としか言いようのない感覚であった。もっと単純にいってしまえば、この世の中にこういうことが実際にあり得るか、あっていいのか、といった、|暗澹《あんたん》とした感慨だった。  圧倒的なベトナム軍に包囲され、絶体絶命の「赤いクメール」が、当然“懲罰”を受けて然るべきであることを十分理解しつつ、私はやはり、こうした状況は恐るべき「罪悪」だ、と思った。  ——もっとも、圧倒的に不利とはいえ、この暗いジャングルの戦いは、まだ果てしなく続くだろう、との予感もした。戦車、重砲を存分に使ったいわゆる正規戦では「赤いクメール」はベトナム軍の敵ではない。しかしジャングルの戦いは、いわば個人戦だ。銃列を組めない、一対一の戦いではカンボジア兵の闘争力は、その血の激しさからもインドシナ最強といわれる。ジャングルをT54戦車群で踏みしだき、大量にタイ側に越境して、タイとその背後にひかえる中国から、避けられない報復を受ける覚悟を固めない限り、ベトナム軍はこの地域の「赤いクメール」の完全掃討にひどく手こずるであろう。  その後訪れたタイ・チャンタブリ県レム村の難民には、二百人ほどの「赤いクメール」の兵士(あるいはシンパ)が収容されていた。彼らは鉄条網に囲まれた原野に野宿する一万人以上の一般難民と厳重に隔離されていた。おそらくこの二百人を一般難民の中に投げ込めば、たちまち八つ裂きにされてしまうだろう。兵士らの何人かは、かなりしっかりしたフランス語を話した。口々にカンボジアを侵略したベトナム軍の残虐さを訴えた。ベトナム兵はいくつもの村で、村民全員を家から追い出して機銃掃射を浴びせ、わざわざ戦車をジグザグに走らせて逃げ遅れた老人や婦女子を引きつぶした、という。「ポル・ポト政権下の最初の二年間は住民も兵士も苦しかった。でも三年目から国造りの土台が固まり、すべてがうまくいきはじめた。そこへベトナム軍がきてすべてをぶちこわした」と、元シソポンの高校のフランス語教師と名乗る青年は言った。彼はロン・ノル時代の自分は反「赤いクメール」派であった、とかさねて繰り返した。各種の情報を総合して、この教師の言葉を私は|鵜呑《うの》みにできない。しかし、数人以上の口から聞いたベトナム軍による全村虐殺の話は、必ずしも|捏造《ねつぞう》とは思いきれない。インドシナ戦史を振り返ればそんな例は無数にあった。そして、もし、これらレム村で得た証言が事実なら、ハノイにはもはや米軍によるソンミ村虐殺事件を「悪魔の行為」と罵る資格はない。  レム村の国境で私は、小川の浅瀬を渡ってカンボジア領に入ってみた。対岸を守る「赤いクメール」の兵士らは、恐る恐る近づいた日本人記者を半ばはにかみ、半ば警戒して、迎えた。結局、タバコ一箱とひきかえに何枚かの写真を撮らせてくれた。いずれも素朴そのものの好青年に見えた。やがてすぐ背後の稜線に戦闘態勢をとった一小隊ぐらいの新たな兵士が現れ、銃を構えて、私に、タイ領へ戻るよう目顔で命じた。そのついでに、タイ側難民キャンプの仲間たちから“補給”されるコメ袋の運搬を手伝わせた。  タイ側の急ごしらえの収容所での難民の生活は、正視にたえぬほど悲惨だ。ある収容所警備に当たっていたタイ軍の老兵士は、「薬と医者だ。日本から薬と医者を送るよう新聞に書いてくれ」と言った。人々は虚脱し、やせ衰え、目ばかりぎらつかせて、幽鬼の群れのように無言で私たちを眺めた。収容所内の廃寺の床には、爪の先まで真っ黄色になった年齢不詳の死体が転がっていた。開いた口に入ったハエを追い払う力も失った|瀕死《ひんし》の男女や子供たちが横たわっていた。臨終の母親のかたわらで、腹ばかりふくれた一人の幼児が、タイ赤十字から支給された空の哺乳瓶を手に、暗く光る目で、無表情にカメラのシャッターを押す私を見つめていた。  その晩、宿舎に戻って、私は自分も酒が飲める体質の持ち主だったらと、おそらく生まれて初めて本気で思った。  この頃、キムラン一家もこうしたタイの難民キャンプのどこかにいたはずだ。 「ママ、必ず迎えに来るわよ」  キムランたちが固く約束して森へ姿を消したのは五月九日だった。  その後しばらくして無事タイ領に入り、アランヤプラテート北方のタプラヤの難民キャンプに収容された。  泰子さんの手紙は、キャンプを取材に来ていた日本報道陣の手を通じて、バンコクの日本大使館に届いた。  結果的には一家と同行しなかった方が、彼女にとって幸運だったかもしれない。シソポンの町長が言ったとおり、道中には「赤いクメール」の敗残兵や地雷の危険が多かった。キムラン一家はともかく、私が訪れた他のキャンプでは、脱出行最後の行程で親や子を失った家族が幾組かいた。  無事タイ領にたどりついたものの身も安泰ではなかった。この頃、カンボジア難民の大量流入に音をあげたタイ政府は、いったん領内に保護した流入民の一部を力ずくでカンボジア領に押し戻す政策をとりはじめた。戻れば殺される、後生だ、追い返さないでくれとひざまずいて哀願する難民たちが、次々タイ軍の軍用トラックに積み込まれた。泰子さんがバンコクに着く直前、キムランとその家族もタイ軍の手で北部国境方面へ運ばれ、そこからカンボジア領内に追い戻された。生死は不明である。  泰子さんは、この痛ましく、決定的なすれ違いについて多く語ろうとしない。私も今あえて聞く気はない。少なくとも現在の彼女には、まだ|忘れるべきこと《ヽヽヽヽヽヽヽ》があまりに多すぎるように思えるからだ。   生  還  シソポンに残った泰子さんのもとへ、ようやく朗報が訪れた。一九七九年六月十五日、ベトナム軍将校が来て、ジープでシエムレアプへ送る、という。タイ大使館からの連絡で日本外務省が動いた結果だろう。  シエムレアプは有名なアンコール・ワット遺跡の玄関口である。平和な時代には、その小さな飛行場に世界中の観光客を満載した中型機、小型機がひっきりなしに着陸したものだ。今では、カンボジア西北部に展開するベトナム軍の空輸補給基地となっている。 「これでようやく目鼻がついた」  泰子さんは数少ない身の回り品をまとめ、ベトナム軍ジープでシソポンを発った。まだ戦火がカンボジアを覆わなかった頃、彼女は夫タンランさんや子供たちと、何回かアンコール・ワットを訪れた。  のどかなローカル空港、すぐそのわきにこぢんまりした旧ホテルの建物——。懐かしい光景が平和で幸福な日々の思い出を鮮やかによみがえらせた。 「あのときの感動は生涯忘れないでしょう。何よりも、“ああ、主人や子供たちにもう一度、この空港を見せてやりたかった”と思いました」  プノンペンへ彼女を運ぶヘリコプターは、予定より遅れて十七日の朝迎えに来た。まだローター(回転翼)の止まり切らぬ機内から、カメラを肩にした小柄でもの静かな感じの中年の人物が、随員二人とともに降り立った。つかつかと泰子さんに近寄り、 "Are You Mrs. Yasuko Naito ?"  英語で声をかけた。  ハノイ外務省報道担当官のブイ・フー・ニャン氏だった。私も一九六八年からのパリ会談取材や、一九七五年春のサイゴン陥落取材のさい、何回も彼の世話になったことがある。少々とっつきの悪い、しかしいかにも気まじめで誠実そうな外交官である。  この折り目正しい外交官が一枚の写真を取り出し、目の前の泰子さんと照合した。彼女自身の顔写真だった。余白に「内藤泰子さん、四十六歳」と日本語で記入されていた。 「これでもう、間違いなく自分は助かった」  写真を目にしたとたん、初めて彼女の感情が爆発した。周囲の人目も、自分がどこにいるかも忘れた。ニャン氏の腕に支えられ、しばし号泣し続けた。  ヘリコプターは午前中にプノンペンに着いた。ヘン・サムリン“新”政権の外務次官らから、過去四年間の苦労を丁重にねぎらわれ、担当の看護婦もあてがわれた。「下にも置かぬもてなし」だった。しかし、同時に新政権側から、ポル・ポト政権の“罪状”についての体験や見聞を、ことこまかに供述するよう要求もされたらしい。  このへんのことについて、泰子さんは詳しく話したがらない。少々奇異にすら感じられるのだが、彼女はカンボジアの“政治”について発言することを極度に警戒している。時には、こうして東京にいても、まだ消されるかもしれません、などとも口にする。  いったい誰に? おそらく彼女の口が固い理由の一つは、まだ何人かカンボジアで消息を絶っている日本人の身を案じてのことなのだろう。それにしても、ベトナム軍およびヘン・サムリン政権が彼女にどのような“教育”を施したのか、その内容や程度は、私にははっきりつかめない。しかし、これについて別に彼女をしつこく取材する必要はないように判断した。少なくとも本書で扱った彼女は、政府や権力闘争や戦争やあるいはイデオロギーの相克に巻き込まれた何十万、何百万人の一般インドシナ住民の一人であって、政治、イデオロギーを裁断する彼女ではなかったのだから。  彼女がプノンペンを発ったのは七月五日だ。便の関係でサイゴン(現ホーチミン市)、ハノイ、ビエンチャンと回り道し、バンコクのドンムアン空港に降り立ったのは七月七日夕刻である。「自由の世界に戻り、空気まで変わったような気がします」。これが、西側世界に戻っての“第一声”だった。  最後のプノンペン滞在中、彼女は当時同地にいた日本人報道陣に勧められ、ためらいながら、トゥオルコクの“わが家”を再訪した。「もう一度見たい。でも見るのは怖い。口で表せない気持ち」だった。新住宅地の道は夏草に覆われ、護衛の兵士らが先行して地雷の有無を確かめた。 “わが家”の赤い屋根が見えた。表門は茂みに覆われて近づけず、門扉には、カンボジア語で「無用のもの立入禁止」と大書してあった。「赤いクメール」は階下のガレージに面した部屋を弾薬庫か何かに使用していたらしい。  庭も家の内部も変わり果てていた。床はそこかしこはがされ、ロシア製の冷蔵庫、チェコで買ったシャンデリアなどを除き、家具はほとんど持ち去られていた。まったく別人の家のような変わりざまに、かえって懐旧の情にひたるつらさを免れたという。塀をへだてた隣家も、完全に姿を消していた。  雑草の茂みと化した庭を歩き回り、かびでふくれ上がった亡夫タンランさんの短靴、長男トーモリ君のサンダル、次男トニー君のよそ行きの靴を見つけ、拾った。いずれも片足だけでタンランさんとトーモリ君のは右足分、トニー君のは左足の分だった。彼女自身のサンダルも見つけたが、これは持ち帰らなかった。  走り出した車の窓から彼女は目で、“わが家”の形骸に最後の別れを告げた。  タンランさんが毎日水をやっていたヤシの苗々がこの四年間にたくましく生長し、いずれもたわわに実をつけているのに気がついた。 「感慨無量でした」とだけポツリといって口をつぐんだ。  このとき彼女の胸を満たした万感の思いを、過不足なく想像することは、何百回彼女の物語を聞いてもとうてい不可能だろう。 [#改ページ]

   
8「インドシナ難民」を考える   妻 の 祖 国  しばらく、内藤泰子さんの物語から遠ざかりたい。この章ではいわゆる「インドシナ難民」問題を主題にする。厳密にいえば、彼女が、たとえばベトナムの「ボート・ピープル」に象徴される「難民」と名付け得る存在であったかどうか、私にはわからない。少なくとも彼女はドタン場になれば「私は日本人です!」と叫べる“特権”があった(もっとも下手にこれをやると逆効果の恐れもあったそうだが)。悲惨な境遇からの脱出に成功した場合、帰るべき地があった。  しかし、思いもよらぬインドシナの奥地で同胞から忘れられた孤独の長い生活心境と、その明日知れぬ境遇は、現在のいわゆる「インドシナ難民」のそれと、多くの共通項をもっていた。  そうした意味で、この章で取り扱う主題は、彼女と無関係ではない。第1章で私は、泰子さんを、インドシナの地で苦しむ何十万、何百万人の人間たちの一人として考えていく、と書いた。泰子さんの行動と心情にも、一九七五年春のインドシナ共産化以来、父祖の地を逃れて陸路、海路さまよいだした、数知れぬ「難民」の姿が間違いなく投影されていると思う。  私事から始める。  妻の祖国ベトナムの“状況判断”をめぐり、私と彼女は最近、しばしば意見が対立する。  妻が国を去ったのは、サイゴン(現ホーチミン市)陥落直前の一九七五年四月中旬であった。以来四年余り過ぎた。この間、彼女はほとんど去った国への思いを口にしなかった。ここ一年ほど、しだいに風向きが変わった。  テレビなどでベトナムの社会、風光、民族歌舞などが紹介されると、それまでになく熱心に見入る。そしてときに、 「ああ、私も一度帰りたい」  などと、口にする。 「ダメだ」と、私は即座に彼女の希望を拒否する。「お前さんは、今の政府からみれば祖国を捨てた裏切り者だ。うかつに帰ってもろくなことはない」 「違う。私は裏切り者でも難民でもない。ちゃんと正式な書類を整えて、解放前に国を出ている」  理屈はその通りである。しかし、現に彼女が所有していたサイゴン下町の長屋は「国外逃亡者の財産」として、家具もろとも没収され、そこに居候していた妻の一族の老人、親戚十数人は四十八時間以内の立ちのきを命ぜられた。 「帰っても、もう向こうに私の住む場所がないことはわかってる。でも、家の年寄りたちがどうやって暮らしているか。お墓参りもしたいし、みんなが死ぬ前に一度ぐらい顔を見ておきたいわ」  妻は大家族制度の名残強いあの国の「家長」であった。その立場上先祖を祭り、一族を扶養しなければならぬという義務感が心の底に強く残っており、日がたつにつれそれが妻の内部に望郷の思いをつのらせるらしい。 「私はもう日本人だから、観光客として帰る分にはさしさわりない。何かあれば日本大使館が保護してくれるでしょう」  しかし、社会主義国家で、いったん革命を避けて亡命した国民が、その後当の社会主義政府の“門戸開放”策を信用し、母国の家族などを再訪し、そのまま“消え”てしまった、という実例を、私は社会主義圏にくわしい同僚、先輩記者からいくつとなく聞いている。たとえ外国人でも、いったんその土地に足を踏み入れれば一般法の適用対象となる。万一彼女が、道に紙屑を捨てたなどの理由で拘引され、街路から姿を消した場合、その行く方を突き止める能力が少なくとも現在のかの地の日本大使館にあるとは私には思えない。  もしかしたら、私の方が用心深すぎるのかもしれない。ただ、仮に私がハノイの首脳なら、この国の「昔」と「今」を比較できる類の人間を歓迎したりはしないだろう。その点私は、どんなにハノイに好意を持ち、その革命を讃美する人々よりも、ハノイの人々の気持ちと「革命」という事業が|具《そな》えるいたしかたのない厳しさを理解しているつもりだ。かつて北ベトナムを熱烈に讃美し、その革命を支援した西側新聞記者の一部は、解放後のベトナムを訪れて「取材の自由」がなくなった、と腹を立てた。いったい彼らはどういう気持ちで「革命」というハノイの事業を支援していたのか、私にはわからない。ハノイが今、そのために何十年を費やしてきた革命の事業を成就させようと思えば、一般の価値判断など無視したさまざまの手を使わなければなるまい。|汚い《ヽヽ》こと、|酷薄《ヽヽ》なこと、見えすいた宣伝、ときには非同調者を容赦なく抹殺していくことだってせざるを得まい。その意味で、ハノイの「戦争」は続いている。しかもこの戦争は単にB52機を追い払うだけのものではない。万一、敗北すれば今度は国全体がつぶれてしまいかねぬような、死物狂いの戦いなのだ。他人に見せたくないことが山ほどあるのは当然ではないのか。むしろ、私がハノイの要人なら、とかくアラ探しが習性となった西側記者など、少なくとも十年、二十年ぐらいの間は、一人も入国などさせぬ手を取るだろう。  話がそれてしまったが、妻が祖国を後にしたのは、あの年の四月十五日朝だった。すでに共産軍戦車隊はサイゴン・タンソンニュット空港まで数十キロに迫り、空港周辺も共産側先遣隊と政府軍の交戦による黒煙と銃声に包まれていた。外国人である私は、いざとなれば当時まだかろうじて機能していた日本大使館に避難する手があったが、ベトナム国籍の彼女に、その権利はなかった。私は最後まで抗議する彼女の手に、ようやく手に入れた切符を握らせ、ほとんど最後の民間機で一足先に妻を東京に送り出した。  今考えると、やはりタッチの差だったと思う。空港にはその翌日から脱出をめざす大群衆がつめかけ、手のつけられないパニックに陥った。もし妻の出国がほんの二、三日遅れれば私たちは長い生き別れを覚悟しなければならなかったであろう。あるいは彼女自身、餓死と狂死を覚悟で「ボート・ピープル」の運命をたどらなければならなかったかもしれない。  日本で、あるいはタイで、インドシナ難民収容キャンプを訪れるたびに、私はそのことを考える。やせ細り、あかにまみれ、マラリアや肝炎の異様な臭気を発する、幽鬼のような人々の群れ。家族とはぐれ、ただれた口や目にたかったハエを追い払う気力もなく、ひっそりと死んでいく幼児や老人。人間と認められない形で打ち捨てられた彼らの姿を見ながら、「もしあの時、妻の脱出が遅れておれば——」と考え込まずにはいられない。そして私はうなだれる。私は難民問題についてたびたび書いたが、それはいったいどんな効果があったのか。  難民の問題を多少は人より身近に受け止めているとはいえ、結局は私たちも、安楽椅子の一人としてこの四年間を過ごしてきた。  今も内藤泰子さんの悲劇と苦痛の体験を聞きながら、私は、それに対する自らの感想を口にする気が一度も出なかった。「大変でしたね」「お気の毒でした」——こうした安楽椅子の感想を口にすること自体が偽善の上塗りであるような気持ちさえした。  その私が、今さらこんな文章を書いていること自体に、私自身つねにある後ろめたさを感じずにいられない。しかし、この本の冒頭近くで述べたように、私は自分の文章が、私自身も含めた日本人の「インドシナ悲劇」「難民問題」への身近な関心をもうひとつ喚起するきっかけになり得るのではないか、という思いを、せめてもの自己弁護にしつつ、筆を進めていこうと思う。   ベトナム難民の特異性  一九七五年のインドシナ三国全面共産化以来、多くの人々が自国を逃れた。これらの人々は「インドシナ難民」と総称されているが、出身国別に見ると、その性格・内容はかなり違う。  カンボジア難民——新旧合わせて現在タイ領内の収容所に約五万人いる。旧難民はプノンペン陥落後、ポル・ポト政権の弾圧や報復を逃れてきたロン・ノル体制下の人々。新難民は、一九七九年一月崩壊したそのポル・ポト政権の敗残兵および彼らがベトナム軍やヘン・サムリン“新”政権軍の追撃をかわすため一種の弾丸よけとして連行している一般村民(連行組以外に、両軍の戦火を避けて避難してきた、純粋の戦争難民もいる)。また、先述したように、厳密な分明は明らかではないが、泰子さんのように「赤いクメール」の暴政に巻き込まれて諸都市を追い出された放浪民も「国内難民」と呼べるのかもしれない。  ラオス難民——タイ領に十三万人から十四万人。かつてCIA(米中央情報局)の訓練下に反共特殊部隊を形成したメオ族の敗残兵が多いが、その他、現共産体制を嫌ってメコン河を渡河してきた社会的・政治的亡命者も少なくない。  ベトナム難民——いわゆる「ボート・ピープル」として現在、国際問題化している海上脱出者。サイゴン陥落後、その総数は三十数万人とされているが、正確な数字はつかめない。米国その他へ引き取られたもの以外は香港やマレーシア、タイなどASEAN(東南アジア諸国連合)各国の収容所に仮住まい中で、現在もなお本国からの流出が続いている。  本章は、その対象を「ボート・ピープル」に絞って書き進める。それは、たんに「海上漂流」という彼らのシチュエーションが劇的であるという理由からだけではなく、ラオス、カンボジア難民に比べて人数も断然多いうえ、その性格がきわめて特異なものとみられるからである。「ボート・ピープル」の特殊性は、さまざまの意味で現在のインドシナの苦痛とその悲劇的状況を最も総合的な形で集約しているように思える。  周辺のASEAN諸国にとっても、「ボート・ピープル」の取り扱いは、共通の大問題であり、諸国とこの地域全体の安定をおびやかす脅威ともなっている。  現在、「ボート・ピープル」の主力は、ベトナムが政策的に“厄介払い”をはかっている華僑あるいは華人系ベトナム人であるが、純粋のベトナム人も少なくない。そしてこれらベトナム難民の特異性は、たとえばタイの収容所を訪れると歴然と知覚できる。カンボジア難民の収容所は、まるで黒服に目を光らせた幽鬼の集落だ。人々は疲れ果て、気力を失い、ただ呆然と日々を過ごしているだけ。供与された竹やヤシの葉で自分たちの小屋を作る動作もうつろに緩慢で、収容所内は病と臭気と無秩序に支配されている。  一方、ベトナム難民の収容所は、すでに“自治体”と呼べるほど、内部組織が発達し、秩序と活気と生活力があふれている。人々は各自の小屋に先祖の祭壇や仏壇あるいはマリヤの肖像を飾り、床をみがき、書物を読み、タイの村人からミシンを借りて“内職”に精を出している。首長格の世話役もおり、難民中の医師、教師は“自治体”の病人や子供の面倒を見ている。  この二種類の収容所の格差は、カンボジア難民の多くが農民であるのに対し、ベトナム難民の大半は都市住民であることからも生じているのだろう。それにしても、民族の生活力あるいは気迫の差といったようなものをあまりにも鮮明に見せつけられる思いがし、何か考え込まずにはいられない。  実はASEAN諸国が「ボート・ピープル」の波に深刻な脅威を感じているのも、この図抜けたしたたかさと生活力を持つ人間集団が不安定な形で領土内に腰をすえてしまうことへの懸念からなのではないか、とさえ思いたくなる。話はちょっと古くなるが、現実にタイの場合、抗仏戦争当時に当時の仏領インドシナ(ベトナム・ラオス、カンボジア)から避難してきた第一次ベトナム難民が、東江国境一帯の指定居住区をはみ出し、地元のタイ住民を|食って《ヽヽヽ》床屋、小商いなどの分野にどんどん進出している。  さらに、“政治性”の高いベトナム人の存在は、それぞれ内部に共産ゲリラなど反政府武闘勢力をかかえる諸国にとって不穏のタネとなりかねぬ、という恐怖心もある。ベトナム当局が「ボート・ピープル」にスパイを混入させ、各国に送り込んでいるという噂も、このところ急速に真剣味をもって議論されるようになった。  一九七九年初夏に入り、たまりかねたマレーシア、タイなどが、領内の難民を陸路海路、強制的に押し戻す意図を表明し、一部実施した。この両国の強硬措置は、その直後に東京で開催を予定されていた先進国首脳会議を前に諸大国の関心を難民問題にひき寄せることを狙ったものであった。狙いは的中し、難民問題についての国際世論は爆発的に沸騰した。これに連結して、政策的に住民を“海のアウシュビッツ”へ送り出すハノイ政府への非難が、これまた突然の大合唱となって世界にこだました。  私自身には難民を人道的立場から救済する作業と、難民を|生産《ヽヽ》する国の政治の是非を論じることはまったく別次元の行為に思える。  とりあえず、海上に漂う人々を救うこと、これは各国の政治的立場にかかわりなく、おそらく人類の名においての私たちの義務であろう。しかしこの人道と情緒(むろん高貴な)の発想をそのまま延長させて、それをバネにハノイ政府をいたずらに非難することには、なお少なからぬためらいを感じる。  この文章で私は別にハノイ政府の弁護を試みるつもりはない。ハノイ政府は世界の糾弾に値すべき幾多の失政、愚行、錯誤をおかし、自ら現在の悲劇的孤立状態に落ち込んだ。自己過信、傲慢、鉄面皮な言い抜け、はた迷惑をかまわぬ自己中心主義的振る舞い——失政に次ぐ失政の裏には、これら他者にはきわめて不快なハノイの政治体質があった。  それにもかかわらず、ハノイが結局のところは国をよくするためにこれまで必死にやってきたということを、そして今も死に物狂いの努力を続けているということを、私は疑いたくない。なりふりかまわぬまでの努力を続けながら、結果はつねに裏目へ裏目へと出て、ハノイは次第に袋小路に追い詰められた。そこに、ハノイ政府一個の力ではどうにもならぬほど過重な内外状況の圧力が作用していたことが感じられるだけに、現在のハノイの立場はいっそう悲劇的なものに見える。  仮に日本が、ベトナムと同様の歴史環境、内外政治状況の中に立たされたら、一人の「ボート・ピープル」も出さずにやってこられたか——。難民問題とインドシナの悲劇を見つめるさいの私の原視点はここにある。   なぜ、逃げ出すのか  最も|直截《ちよくせつ》でかつ単純明快な疑問——それは、「解放されたはずの国から、なぜ、いまだにこうも多くの人間が逃げ出したがるのか」という疑問だろう。おそらく多くの日本人はこの疑問への回答をまだ見出していない。これまで日本世論が難民問題に関してきわめて冷淡で、無関心でさえあった根本原因の一つは、間違いなく、この、問題の出発点としての「なぜ?」への確たる回答が見出せぬからであろう。この「なぜ?」への、一種のナショナル・コンセンサスとしての理解の欠如は、まったく相反した二つの極論の台頭を可能にする。  一つは、「ボート・ピープルは国家再建の苦業に耐えかね、安逸な生活を求めて祖国を捨てた落伍者の群れ」という“難民屑論”である。この種の議論は往々にして葉巻をくゆらせながらストイシズムを説き、自らの不幸・苦痛には敏感な半面、他人の不幸・苦痛を知覚することはえてして不得手な人々の間から生じる。  私たちサムライの末裔には、我が身はすでに|放埒《ほうらつ》なまでの物質文化を享楽しているという事実とはかかわりなく、他者の行動を評価するさい、とかく「お国のため」「大義のため」式のストイシズムを尊しとする精神的傾向(あるいは美学)が残っているように思える。それだけに、この“屑論”は、案外人々の共感を呼ぶ。たしかに「落伍者の群れ」という表現は、部分的に正しいかもしれない。私自身、これまで三年間余りの難民との“つき合い”を通じ、その境遇に同情を覚える以前に、むしろ当人の人格、物の考え方に失望や嫌悪を感じざるを得ないような相手に何人もでくわした。ただし、これは一般論ではない。それに、たとえたまたまそのとき私が話をしている難民が個人的に「こんな連中……」と思いたくなるような|つまらぬ《ヽヽヽヽ》相手でも、その|つまらぬ《ヽヽヽヽ》相手が投げ込まれた状況に私自身が投げ込まれたら、自分はどう振る舞うだろうか、と私は考える。あれこれ思案して結局、結論は一つに落ち着く。私自身も、その|つまらぬ《ヽヽヽヽ》相手がとったと同様の道、つまり脱出を(むろん、暗夜の大海に小舟で逃げ出していくだけの度胸がそのさいの私にあれば、だが)を選ぶであろう。ここで、私は「落伍者」を批判する資格を失う。  一般的に考えても、「落伍者の群れ」の一言で難民問題を片づける態度はきわめて危険な心の動きを示すものと思える。単にそれが極論であり、しかも事実に反した極論であるというだけでなく、この種のストイシズムとは、結局のところ本人の「心の貧しさ」を示すものにほかならないからだ。少なくとも他国人にはそう見える。私たちが無意識、無自覚に示しているこの「心の貧しさ」に対する世界の反発がいつ、どんな形で、私たち自身の上にシッペ返しになってハネ返ってくるか、その日を私は深く恐れる。  私は現在バンコクに住んでいる。タイはインドシナ難民問題の重圧をもっとも直接に受け、その処理に心身をすりへらしている国だ。  地元の新聞記者たちと私は、しばしば日本および日本人の、難民問題への態度について語り合う。ある英字紙の記者は、「将来なにかのはずみで、日本人の多くが“難民”と化すような事態が生じても、私たちは一人として彼らを救ってやらないだろう」と言った。私は一言もない。漫画本とインベーダーの氾濫の中で、私たちは何か重要なものを忘れているのではなかろうか。  国際政治のしがらみの中で不安に流動し、必死で一国家としての、あるいは自国と他国との均衡を取りつつ毎日を送っている東南アジア世界に身を置いていると、現在の“無風状態”にあまりに慣れすぎ、この世に嵐というものが存在することさえ忘れたような、“繁栄日本”の姿にこそ、むしろ異常さを感じずにいられない。  もう一方の極論。それは、 「ほれ見ろ、共産体制とはもともとこういうものなのだ。何十万人もの人々が愛する父祖の地を脱出したくなるほど、それは住みにくく、非人間的な世界なのだ」  という問答無用の反共論である。  |解放された《ヽヽヽヽヽ》はずの国々から人が逃げ出す——事態があまりに明白なので、この論も一見申し分のない説得力をもつ。たしかに私たち自由世界に住む者の目からみれば、共産主義全体主義体制が、想像を絶したほど住みにくいものであることは間違いあるまい。  しかし、「ボート・ピープル」の悲劇を指摘して共産主義を糾弾する人々が、その糾弾に費やすと同じ熱意とエネルギーをもってこれら難民救済に尽力しているなら、私も彼らに賛意を表したい。かんじんの実行を伴わぬ議論は、やはりこの問題をタネに利用した反共宣伝としか私自身の耳には聞こえない。他人の、あるいは他国の不幸をダシにしての議論だけに「落伍者」論のいい気なストイシズムに対して感じると同様の、「心の貧しさ」を、こうした論者に対して私は感じる。  前者の極論は間違いなくベトナム解放の経緯とその後の実態を現実の姿の何十倍も美化した形でとらえ、いまなおその錯誤から脱け出てないところから生じている。そして後者の極論は、現在の事態の根元を無視して何もかも共産主義のせいとねじ伏せてかかりたがる先入観から生じている。これら錯誤や先入観に基づいた両極論のいずれにもまどわされないためには、やはり、問題の出発点としての「なぜ?」への回答をさぐらなければなるまい。 「なぜ、解放された国から、今なおこうも多くの人々が出国・脱出を続けるのか」  おそらくこの基本的問題の検討は、再統一後のベトナムが直面し体験した幾多の苦難、誤り、曲折の軌跡をなぞり直し、さらに、もしかしたら今後もこの国がたどりかねない苦痛と不幸の道を予測する作業になるだろう。  これまで「難民問題」「ボート・ピープル問題」など、大ざっぱな用語を用いてきたが、話の混乱をできるだけ避けるため、ここで、あるていど整理をしておきたい。  ベトナム難民の問題は、時期的にも、その性格上からも対象を大きく三つのジャンルに区分して検討するのが妥当と思われる。  第一は、いわば純粋に「難民」あるいは「脱出者」としか名付けようのない人々。つまり、あの一九七五年春のサイゴン陥落時をピークに、大挙“自力”で国外へ逃亡した人々である。  第二は、これらの人々よりやや遅れて国外に出た人々。彼らは「難民」であると同時に「棄民」の性格を備えはじめている。  そして第三が、現在、問題の引き金となった大量の中国系難民だ。彼らは明らかに、ハノイ政府の意図に基づいた「棄民」であり、もっと正確にいえば、難民スタイルを取った「国外追放」の対象者といえる。  第一の“自力”による「純粋難民」も、その大部分は、現実の脱出手段として米軍輸送機、ヘリコプター、沖待ちの第七艦隊各艦船など、“他力”に頼った。  ここで“自力”組というのは、直接的にも間接的にも他ならぬ当のベトナム新政府の|世話にならず《ヽヽヽヽヽヽ》、国外へ出たグループである。彼らの正確な人数は把握しがたい。サイゴン陥落時に米国が受け入れた十四万人という公式数字と、その後の小舟によるさみだれ脱出行の頻度を思い合わせれば、あるていどの目安は得られるかもしれない。  新ベトナムからの流出者、脱出者の内容がこれら第一のグループにのみとどまっていれば、現在、ハノイ政府が浴びている国際世論の集中非難現象は生じていなかったであろう。  難民問題に対するハノイ政府への疑問と不信そして非難は、第二、第三のグループ、つまり「棄民」とみなされる人々の増加とともに芽ばえ、高まり、ついに今日の域に達した。彼らはハノイ政府自身の|助けを借りて《ヽヽヽヽヽヽ》出国した。今も出国し続けている。  いつごろから「難民」が「棄民」に変わったのか、その時期的境界は分明ではない。  私が各地の収容所で難民自身から得た情報を総合すると、厳しい監視の目をくぐって“自力組”がさみだれ脱出を敢行していた時期、その一方ではすでに政府の予測外に寛大なお目こぼしにあずかって比較的容易にベトナム海岸を離れた人々も少なくないように判断できた。 「カネ(米ドルあるいは|金《きん》)を払えば出国できる」という噂も、当時から根強く流れていた。当初、そのカネは、過去、諸国で革命が生じるたびに必ず暗躍した不法代理業者の懐だけに収まるものと思われた。亡命志望者からの高額の“手数料”を受け取って密かに脱出の手はずをととのえる稼業である。  実際に「カネを払って」出国してきた難民らも、それでは誰にどういう形でカネを手渡し、どのような手はずに乗って出国してきたか、という点については一様にきわめて口が堅かった。明らかにこれら秘密業者群の存在や、その組織が政府当局にバレて、その結果、他の亡命志望者に迷惑が及ぶことを警戒しているように受け取れた。  時期が進むにつれ、このカネはたんに代理業者への“手数料”ではなく、政府当局への“出国料”である、という声も聞かれはじめた。私はその噂を信じたくなかった。現実に私が取材したかぎり、このカネが“出国料”的性格を持つものであることを裏付ける談話や確証はひとつも得られなかった。それ以上に私自身の常識からいって、一国の政府が、自ら“出国料”を取って自国の民を密かに国外に流出させるというような、私自身の倫理感からいえば、破廉恥な行為をとり得るとは考えたくなかった。  おそらくこの辺にも、この稿を貫いて流れ続ける私自身の|甘さ《ヽヽ》があるのだろう。  当時、私はこの“出国料”問題について私の妻としばしば論争を行なったものだ。  彼女は当初から「ハノイ政府がカネを取って国民を海外に脱出させている」という噂を何の疑いもなく信じた。 「そんな馬鹿な噂を信じる奴があるか」  と反論する私に対して、 「信じないのはあなたがまだベトナム人をよく知らないからよ。とくに北部の人たちはおカネのことにはとても厳しい。私たち南部人の目には“汚い”と見えるほど厳しい。それに、いまハノイの政府がいちばん必要としているのはおカネでしょ。“出国料”は絶対にただの噂なんかじゃないわ」  事実、ベトナム人とりわけ北部ベトナム人の金銭感覚(さらにはなべて物欲への姿勢)は、とかくこの方面でも“精神主義”の|残滓《ざんし》を残す私たち日本人に比べ、驚くほど現実的である。私自身も、サイゴン在任中、良くも、悪くもあまりにガメつい彼らの姿勢にしばしば舌をまいたものである。当人の言葉通り、豊かな土壌に育った南部人の妻は、この点、北部の貧土に育った人々より、比較的|恬淡《てんたん》としている。それでも彼女は、もし自分がハノイの偉い人なら、当然、同様のことをするだろう、といわんばかりの口ぶりだった。  先述したように、ベトナム難民がたんに「純粋難民」の域にとどまっていれば、現在のいささか熱病じみた国際的な対ベトナム非難は生じなかったであろう。これまで世界中のいかなる「革命」も、あるていどの難民、亡命者の産出をともなわずには行なわれなかった。  しかし、現在のベトナムの「ボート・ピープル」は、この点、例外的といえるほど特異な性格をもっている。「政府が一枚|噛《か》んで、国家再建に不要・有害な人々を国外にタレ流す」——国際世論が衝撃を受け、そして、突如「ボート・ピープル」問題が世界の“緊急問題”となった要因はこの一事にある。  そのことを踏まえたうえで「なぜ、人民を救うために国を解放したハノイが、こんなことをしなければならないことになったのか」この基本的背景を点検する作業に立ち戻りたい。   ハノイの誤算  いきなり結論らしいものからいってしまえば、「難民問題」はハノイがその理念に沿って推進しようとした、そしておそらく現在も推進に努力している国家再建政策の当然の帰結だったように思える。現実の再建政策が、ハノイの思惑どおりに進めば、現在のような規模・形態の「ボート・ピープル」問題は生じなかったであろう。この推測は、やや安直すぎるかもしれない。しかし私自身は、難民問題に思いを向けるとき、内部の基本的視座をこの辺に据えないではいられない。その理由もまた単純明快である。「どんな政府だって、自国民が自分たちに背を向けて命がけで国を脱出していくような事態を嬉しく思うはずはない」——と思えるからだ。カンボジアのポル・ポト政権でさえ無用な自国民の国外脱出は“奨励”しなかった(もっともそのかわりに彼らは国内でこれら無用な民の始末をつけてしまったが——)。  ハノイの悲劇は、理念としての国家再建政策と、現実のことの成り行きの間に、あまりにも大きなズレが生じたことに発した。この|あてはずれ《ヽヽヽヽヽ》が生じた背景にはさまざまの外的要因も指摘できる。しかし基本的にはそこにハノイ自身の、弁護を試みることが少々困難なほどの、“読み違い”があったことは、否定のしようがあるまい。たとえハノイが当初から難民を生むことを望んでいなかったとしても、この、あまりにも明白かつ重大な“読み違い”の積み重ねを振り返ると、「難民問題はハノイの政策の当然の帰結」という、厳しい表現の使用も許されるのではないか、と思う。多少の理論の省略を覚悟でいえば、「ボート・ピープル」問題に限らず、現在のインドシナ混迷の全般的原因の底は、この地域の主人公となったハノイの幾多の誤算が渦巻いているといえるのではないか。  最初の“読み違い”——そして|蹉跌《さてつ》は、ベトナム全土を解放したハノイが「新経済区」政策を拙速で実現しようとしたことにあった。  一九七五年春、全土解放以後のハノイ共産党の一貫した基本方針は、「非生産人口」を「生産人口」に変えていくことであった。その具体的政策の柱が「新経済区政策」である。荒廃した国土を再開発し、整備し直すために、各地に「新経済区」と呼ばれる開拓村を設け、都市部に異常集中していた住民の効率的“再配分”をはかる。ハノイの理論からいえば都市住民は「消費人口」「非生産人口」であり、彼らにクワを握らせ「生産人口」に改造しなければ、ベトナム国家は貧困と不平等から抜け出せない。論理的にはこの「新経済区政策」「人口再配分計画」は間違っていなかったはずだ。  おそらく、人口三百数十万人級の世界の大都市のなかで、解放時のサイゴンほど「生産」と無縁の都市はなかったであろう。下層庶民をも含め、サイゴン住民の全員が少なくとも物質的には、戦時利得者であった。米国からの膨大な商品援助物資を右へ左へ手アカがつくほど流通させながら、そのカスリや余禄を食って生活していた。新政府の最大の課題は「流通」と「消費」しか知らぬこれらの人々を「生産」の担い手に変革することであった。人口を地方に分散させることによって、まだ都市部に根強かった「反共」の核を解体させることができるから、これは一石二鳥の政策でもあった。  しかし、この、理論的には正しく、新為政者側にもたいへん都合のいい政策は初手から大きくつまずいた。ハノイは弁解の余地のない読み違いを犯したのだ。  第一に、北の共産主義者らが、南の都市住民の多くは米軍とグエン・バン・チュー反動政権の「人民の海」|涸《か》らし作戦により、無理矢理、都市部に移動させられ、幽閉された人々だと思い込んでいたことである。当然、彼らの多くは一刻も早く都市の窮乏生活から解放され、豊かな農村生活へ戻ることを切望しているものとハノイは読んだ。現実に、戦火を避けて農村から流入し、生き馬の目を抜く都市の経済生活に乗り遅れた人々の生活は、はた目にも無残なものであった。  それにもかかわらずそれは、ハノイが勝手に決めてかかっていたほどひどいものではなかった。サイゴンに乗り込んできた北軍兵士の多くは、米帝と反動資本家の支配下で奴隷同然の飢餓状態にあるはずの南部の貧しい同胞が、自分たちは見たこともないような内容豊かな屋台のソバを惜しげもなく食べ残しているのを呆然として見ていた。総合的な生活環境はともかく、少なくとも南部貧民の間に飢えは存在しなかった。その点では、彼らにとって都市生活も農村生活も同水準にあった。  第二は、こうして都市の細民街に沈澱しながらも、彼らの多くが、ともかく都市文化の味を知ってしまった事実の“重さ”を、北の共産主義者らが正確に測定できなかったことである。  このことについて私は、“解放”よりずっと以前、当時、南ベトナム政界の長老であったチャン・バン・ド元外相と交した会話を思い出す。当時はチュー政権の基盤がおそらく最も強固な時期にあり、少なくともサイゴン近郊の農村部の治安はほぼ問題がなかった。  私の意見は、後にハノイが強引に実施した理論に一脈通じていたと思う。 「なぜこの機会をとらえて、細民街で苦しむ農村部からの戦災難民たちに帰村の手当てをしてやらないのです?」  と、私はたずねた。都市内部のこうした細民街を放置しておくことは、結局のところ“人民の海”を懐の中にかかえ込むにひとしいのではないか。長老は市縁辺部の戦災難民地区が共産側宣伝分子の格好のターゲットになっていることは認めた。 「しかし、たとえば君自身の問題として考えてごらんなさい。あの地区の人たちだってもう盛り場のにぎやかさを知っています。ときには映画、芝居も見るし、家にテレビを持っている連中だっている」 「テレビはどうですか。壊れかけた冷蔵庫ぐらいなら見かけたことがありますが」 「いや、要するに私が言いたいのは、あの人たちだって、みんなもう、テレビやステレオの“味”を知っている、ということなんだ。いったんそういう世界で暮らしたものが、とりわけ若者たちが、政府の一片の指示で再び村に戻って水牛の見張り番をしながら一生涯過ごす気になると思いますか」  残念ながらこの戦争は、そういう意味でベトナム社会を大きく変えてしまった。もう“後戻り”はできないのだと元外相は言った。 「どうです? 君がもし彼らの立場にあり、村に帰って一生水牛の番をしろ、といわれたら、喜んで帰りますか?」  たたみ込まれて、私は口をつぐんだ。  現実に、その数年後、ハノイ政府が懸命に帰村を呼びかけたにもかかわらず、大部分の人々はこれに応じなかった。 「新経済区政策」が無残につまずいた原因は多様だが、ハノイの基本的誤算はやはり、「理論」のおごりから生じたように思える。  ド元外相の言葉どおり、南ベトナムの人々は明らかにある「文化」の中に生きていた。ハノイはこれを“腐敗した資本主義の風潮”と呼んだ。たとえ腐敗していようが、堕落していようが、それもひとつの文化であり、人々の日々の生活を、その思考を、行動を包み律する規範でもあった。ハノイの指導者らは、あまりに長い間自らの「理論」に拠って闘ってきたがために、その「理論」の力で、それとはまったく次元を異にする「文化」そのものをも一挙に変革できると錯覚した——。  いずれにしろ、ハノイが国家再建の最重要策として取り組んだ「新経済区政策」の蹉跌は、ほとんどその開始と同時に明らかになった。  単に理論に溺れただけでなく、実施面での拙速主義の弊も致命的に響いた。新政府の激励と華やかな歓送を背に「新経済区」行きの第一陣が出発したのは、サイゴン陥落後三、四カ月たってからだったと覚えている。彼らの多くは、政府の呼びかけに積極的に応じた|本物《ヽヽ》の帰村志望者であった。続いて第二陣、第三陣……と送り出され、これと並行して先発組のUターン現象が始まった。政府のバラ色の約束と、現実の開拓村の生活環境の格差があまりにもひどすぎたからだ。農器具不足、水不足、医療施設の不足——ないないずくめに加えて、一定期間支給を公約された食料さえも回ってこなかった。飢餓とマラリヤで人々はばたばた倒れた。ほうほうの|態《てい》で町へ逃げ戻った人々の口を通じて「新経済区」の悪環境ぶりが、おそらくかなりの誇張を伴って口から口へ伝わり、“地獄の新経済区”のイメージが普及定着した。いったん「新経済区」行きに応じた人々は、都市の住居も新政府に“献納”してしまっていたので、Uターン後の生活はさらに悲惨をきわめた。多くは家族ぐるみ、路上を宿とする物乞いに転落しなければならなかった。彼らの悲惨な姿を目のあたりにして、地区委員らのバラ色の勧誘に応じるものはいよいよ少なくなった。   特異な政治スタイル  当然のことながら、新政府はこの国家再建の成否をかけた「新経済区政策」の予測外の不調ぶりを深刻に受け止めた。  それにもかかわらず、政府は力ずくで都市住民を開拓地に送り出すというキメの荒いやり方は慎重に避けた。勝ったハノイが当初から打ち出していた基本線は、「南部のゆるやかな社会主義化」であり、これは、当時の南部と北部の生活格差、住民の意識のズレ、さらに遊んでいても食える南部の自然環境の豊かさなどを考えると、当然の穏健路線であった。  しかし、同時にそこに、ベトナム共産党の特異な政治スタイルがあったことも見逃せない。悪意じみた表現になるが、この特異なスタイルとは、表向きはあくまで“民主主義”“人道主義”の衣をとりつくろいながら、|搦《から》め手から各種の圧力や、嫌がらせを加え、たっぷり時間をかけながら結局は「既成事実の積み上げ」で自らの路線を貫いていく方式である。この方法はラオスに対して最も典型的な形で適用された。ラオスがベトナムの植民地となった、と表現したら、ハノイは目の色を変えて怒るだろう。が、それならなぜ現在、ラオス国内で中央政府に抵抗する「民族運動」の武闘が続けられているのか。新ラオスの弱小な軍隊では手におえぬ勇猛な少数民族メオ(以前、米中央情報局の指導下に反共特殊部隊を形成していた)の残党狩りをベトナム正規軍が猛烈な勢いで進めていることは周知の事実である。  こうした、ある意味ではきわめて陰険な側面を持つベトナム共産党の方式がどこの国の共産主義を見習ったものか、私は知らない。反共論者は、ここでも「共産主義とはそういうものなのだ」と言うかもしれない。しかし、少なくともベトナム革命では、スターリンの粛清は生じなかった。中国革命後に生じたといわれる多量の旧富裕階級への報復処刑も起こらなかった。もっと極端なのは、カンボジアのポル・ポト政権との対比だ。カンボジアの大下放政策も、べトナムの「新経済区政策」も、本質的にはめざすところは同様とみえる。カンボジアはこの政策の実施にさいして、“民主主義”や“人道”など、外部に耳ざわりのいい言葉にはいっさいの考慮を払わなかった。  ポル・ポト政権のこの超強権主義的、というより超暴力主義的な「大下放」と、それが人々に巻き起こした混乱・不幸についての情報は、解放直後のサイゴンにも断片的に伝わったことは前に触れた。私たち残留外国報道陣の“世話役”を担当していた新政権軍のフン・ナム少佐は、ある日、私との茶飲み話の最中、この隣国の盟友の行動を、 「だからあいつらはダメなんだ。政治というものが何もわかっていない。兵士の教育、幹部の養成、何ひとつできていないから、ああいう目茶苦茶をやる」  と、色をなして糾弾したこともすでに書いた。  少佐は、解放軍中堅幹部には珍しく、|短躯《たんく》ながらでっぷりふとった、陽気で気さくな南部人だった。一日も早く、メコン・デルタの町に住む家族をサイゴンに呼び寄せていっしょに住みたい、と、持ち主が逃亡した私のアパートの一室を、どうやら“無断接収”してニコニコしていた。この温厚で、ひときわ|杓子《しやくし》定規にこだわらぬ人物が、ポト政権の大下放政策を憎悪、いや恐怖といえるほど激しい嫌悪感をむき出しにして罵った。 「ご安心なさい。私たちベトナム共産党の指導部は、決してああいう血にまみれたことはしません。人々に道理を説き、彼ら自身の自覚を待って、民主主義的に国を再建していきます。それが“政治”というものでしょう」  当時、私は、少佐への個人的好意も働いて、彼の言葉を信じた。もしかしたら、気のいい少佐自身も、あの“解放”達成の、わき立つ空気の中では、自分自身の言葉を信じていたのかもしれない。  その数日後、私は、別の方面から、ベトナム共産党の“やり口”に関して、同様の、しかしこれを裏返しに表現するコメントも聞いた。その日私は、間近に迫る出国を前に、三年余りのサイゴン在任中にいろいろ世話になった旧体制下の野党指導者チャン・バン・ツエン議員のもとに別れの挨拶に行った。当時は、新政権の旧体制分子、革命非同調分子の摘発はまだ始まっておらず、国外脱出をしなかった、あるいはできなかった旧政府軍将官らが、家族連れで繁華街を散歩しているような状態だった。とりわけ、ツエン議員は、共産側には|与《くみ》しなかったが、南部庶民の圧倒的支持を得てチュー政権の暴政・反動ぶりを厳しく非難し、ベトナムの民族和解と早期平和の回復を勇敢に説きつづけた、いわゆる“第三勢力”のリーダーの一人である。体制内改革派ではあったが、“解放”に貢献した度合いは決して少なくなかった。 「チュー体制が崩壊し、これであなたたちも弾圧の日々から逃れられましたね。これからが“第三勢力”の力の振るいどころでしょう」  と祝福した私に対し、彼は手を振って陰気に笑った。 「君はベトナム共産主義者のことを何も知らない。オレはホー・チ・ミンとも一時は手を組んだ仲だから、彼らのやり方はいちばんよく知っている。いいかね、今後、彼らの最大の敵は庶民を背にした私たちだ。しかしベトナム共産主義者は大量粛清とか集団処刑のような子供みたいな下手な真似は絶対にしないだろうということを覚えておいた方がいい。彼らはもっともっと賢い。長い時間かけてじっくりくる」 「というと?」 「まず、われわれ“敵”は、党の寛大さに感謝しながらありがたく収容所に入れていただく。彼らに言わせれば“再教育施設”だ。それだけで十分。処刑はされまい。しかし五年、十年、二十年……その間、再教育施設の中では“病死”“事故死”という手がいくらだってあるじゃないか」  これが彼らの“民主主義的”“人道主義的”政治スタイルの真髄なのだ、とツエン議員は言った。現実に、同議員は彼自身が予告したとおりの運命をたどった。反チュー主義者の“勲章”を評価されながら丁重に“再教育”の機会を与えられ、各収容所をたらい回しにされながら、消息を絶った。同議員の“病死”が新政府から正式に夫人のもとに伝えられたのは、一九七八年夏のことである。  冷酷に表現すれば、ハノイが口にする“民主的・人道的”方法とは、人々をあまりに小馬鹿にした「偽善」とさえ受け取れる。  もちろん、ポル・ポト政権の虐殺政策とベトナムの“民主的・人道的”政策のいずれの下に身を置くかと択一を迫られれば、私は迷うことなく後者を選ぶ。ひとこと口ごたえをしただけで黒服の兵士に銃尻で殴り殺されるような体制は真っ平である。おそらく泰子さんに聞いても同じ答えが戻ってくるだろう。  しかし、それなら、この、“民主主義”と“人道”をタテにしながら、“不良分子”には配給制限を施し、つねに監視、あるいは“善行補導”の目を光らせ、毎週の地区の政治ミーティングには自発参加を“強制”し、欠席者は翌日ただちに地区委員会に呼ばれて、長い自己批判をさせられ、「新経済区行き」志望者リストの頭に署名させられるような体制を、私が「住みよい」と思うだろうか。  日本には南ベトナム(のみならず東南アジア諸国全般)の人々に対して「後進国の民」という偏見がある。しかし、東南アジアの後進性は、単に機械文明や、いわゆる西側自由主義の政治制度が未整備である点にとどまり、自由圏の人間としての人々の価値観や生きざまは、“目ざめた”日本人と同質同等である。むしろ、組織などに依存せず、ガッチリと自らの人生の道を歩もうという腰の座った個人主義的自由志向の姿勢は、南国人の体質、制度の未整備などから、これら“後進国”の人々の間により強いようにすら思える。この点、“後進国の民度”を頭から過小評価することは日本人のとんでもない思い上がりといえる。おそらくハノイも、こうした南部ベトナム人の腰の座ったそれなりの|気骨《きこつ》を知っていたからこそ、強権政策を避け、持ち前の“半ば懐柔、機を見て強硬策”の政治スタイルを適用せざるを得なかったのであろう。  が、繰り返すようだが、偽善とはもともと相手を小馬鹿にしきった姿勢からしか生まれない。  難民問題を考える場合、さらに現在のインドシナの不幸、周辺諸国のベトナムに対する警戒心、不信感の根強さを思う場合、このハノイの「政治スタイル」の特異性を無視できない。率直素朴を好む南部人がとかく北部人を拒否するのは、北部人がその厳しい歴史を生き延びるためにいや応なく身につけてしまった偽善的性格(ときには面従腹背、ときには巧言令色、そしていったん強者の立場に立てば様変わりの傲岸さ……など)への反発からだが、この体質はそのまま、ハノイの内政・外交姿勢に持ち込まれている。  ハノイの南部経営の失敗や、現在ハノイ政府が自らの失敗に苦しみ、同時に各国から総スカンをくらっている背景に、こうしたハノイ自身の政治体質があることは否定のしようがあるまいと思う。  微笑みながら、時間をかけ、真綿でしめるようにじっくりと政策を既成事実化していく——これがお家芸のハノイが、なぜ「新経済区政策」に関して、あれほど馬鹿馬鹿しい拙速に走り、国造りの基幹政策を致命的にまでつまずかせてしまったのか。  あまりにも迅速で見事な勝利の、皮肉なシッペ返しと思う以外ない。  ハノイの記録からも明らかなように、一九七五年春のあの最後の大攻勢は二年計画として立案された。初年度(七五年)中に各種の都市攻撃で南を分断|攪乱《かくらん》し、翌七六年中にサイゴン解放にこぎつける方針だった。ところが、中部山岳に不意打ちを食らったチュー政権側の、信じられないような作戦ミスにより、攻勢開始後わずか五十日で北ベトナム軍はサイゴンに入城した。ハノイはほとんど何の具体的準備もないまま、南部ベトナム全域の行政を管理しなければならないことになった。  とくに当時、難民流入で人口四百万人近くまでふくれ上がっていたサイゴンの平定・経営は急を要した。治安を掌握し、都市機能を維持するためにも、できるだけ早く四百万人の“遊民”(とりわけその多くは旧政府軍の兵士なので|険呑《けんのん》だ)を処理しなければならない。  そこで、現実には居住に耐えぬような急造の「新経済区」に、しゃにむに人々を送り出す以外なかった。  人材の不足も決定的だった。当時、“地獄の新経済区”の実態をUターン組から詳しく取材したフランス人のある神父の一人は、「計画そのものの|杜撰《ずさん》さもさることながら、現場の幹部や担当委員の情ない権威主義が政策失敗の大きな原因の一つ」と結論していた。  たとえば、開拓村には井戸を掘らなければならない。この手の専門家は極度に限られているから旧体制側の地質・水質学者も水脈探査作業に駆り出される。彼らは嬉々として出かけ、各村に適地を見つける。ところが、その場所が幹部や委員の|気に食わない《ヽヽヽヽヽヽ》と、せっかくの調査結果はあっさり|反故《ほご》にされる。「ここを掘れ」幹部のツルの一声で水脈のない場所にいくつも井戸が掘られる。なぜ「ここ」がいいか、というと、上級幹部が巡視にきたさい、そこに井戸があれば開拓村の|見ばえ《ヽヽヽ》がよくなる——ただそれだけの理由で、多大の労力、時間を浪費して水の出ない井戸がいくつも掘られた、という。  おそらく、こうしたゴマスリ低級幹部の数は、全体のごく一部だったのであろう。しかし、百人の立派な幹部の中に一人の低級幹部がいれば、全体をぶちこわしにすることは容易だ。残念ながら南に送り込まれた幹部の中には、こうした低級幹部が許容量をはるかに越えて混じっていたようだ。ベトナム政府は、カンボジアのポル・ポト軍が領土問題をタテに国境一円に攻撃をかけたことにより「新経済区政策」が“重大な危機”に陥った、として反攻し、ついでカンボジア全土制圧に出た。しかし、自らの拙速主義が国境地域の「新経済区」を当初からどれほどみじめなものにしていたかには一言も触れなかった。  ハノイ政治局もこうした内部の不良分子が、南部の人心掌握失敗の大きな原因となっていることを承知していた。統一後、数次にわたって党内の綱紀粛正、現場幹部の再教育を行なった。しかし、優秀な幹部の多くが長い戦争で命を落としてしまったせいもあり、人材の養成は容易にはかどらなかった。 「新経済区政策」の挫折と並んでハノイの失政に輪をかけたのは、コメ流通の国有化政策が引き起こした混乱であろう。  七五年秋、ハノイは南部経済の「ゆるやかな社会主義化」をめざして五項目の政策を打ち出した。内容は、中小規模私企業の存在許可、資本家と労働者の工場共同管理など、表向きは|謳《うた》い文句どおり、「ゆるやかな」ものだった。しかし、その中核であるコメ流通部門の国有化政策は断固とした方針であった。ハノイはここでも性急にこの政策の実施に着手した。  南部ベトナムはメコン・デルタを抱えた世界有数のコメの産地である。戦時中、農村人口が減り、捨て地がふえ、コメ生産は見るかげもなく低下して、一時はコメ輸入国にまで転落した。しかし、チュー政権末期にはふたたび盛り返し、わずかながらの輸出が可能なまでに復元していた。  国内のコメは自由販売で、その流通販売経路の大部分は華僑に握られていた。東南アジア諸国にナショナリズムが起こったとき、真っ先にターゲットとなるのは国内華僑であり、政府が志すのは彼らからの経済支配権の奪還である。多くの場合、この経済“現地化”政策は、受け皿となるべき地元民の商活動の未熟や不慣れが作用して、一時的とはいえ国内経済の混乱を引き起こす。加えて大物華僑らが、その土地に見切りをつけて、すばやく財産を退蔵したり、国外へ逃がしたりするので、経済は活性を失う。  ハノイ政府によるコメ流通部門の国有化も、同様の混乱を引き起こした。  華僑に代わってコメ流通の主要部分(生産者からの買い上げから末端への配給業務にいたるまで)を押えた北部から来た役人たちの無知・無能がそれに輪をかけた。ベトナムの北部人と南部人の気質、生活態度、さらに一般風習の違いはきわめて大きい。北部から送り込まれ、南の現業部門についた役人たちは、南部のさまざまの風習や気質にうとく、これらを無視して杓子定規でことを運ぼうとした。すでに触れたように“勝者”としての傲岸さ、横柄さも、いろいろな形で顔を出した。官僚主義の弊害が一挙に吹き出し、国有化はしたものの、コメの効率的流通は、破滅的な滞りをみせた。  メコン・デルタの|沃土《よくど》は、二毛作、三毛作で、フルに利用すれば一億人分近くの生産量が得られると試算されていた。したがって行政さえうまくいけば、この地方だけでベトナム全人口を養い、なお一年分近いおつりがくることになる。現実に生じたのは、その逆の現象だった。  流通部門国有化以後のベトナムは極度のコメ不足に陥った。中部に運搬されるべき多量のコメが南部の倉庫に放置され、|徒《いたずら》に腐敗するような無駄が、ずいぶん頻繁に生じたようだ。  次いで、生産そのものが著しく低下した。政府はこれを外貨不足による肥料輸入の途絶と、悪天候のせいにした。事実、南部ベトナムの土壌やコメの品種は、長年、米国製肥料に慣らされていた。化学肥料というのは水田にとって一種の“麻薬”みたいなものらしく、米国の禁輸措置により、水田はいわば禁断症状を呈したわけだ。解放後二、三年間の天候も順調でなかった。政府発表によると、干害と水害が交互にコメどころを襲い、凶作年が相ついだ。この点、ベトナムのカンボジア支配の動機が食糧確保にある、というポル・ポト政権の言い分は必ずしも宣伝とは考えられない。少なくともポル・ポト政権は国民をコメ作りの機械に仕立て上げることで、七五年〜七六年度はめざましい収穫を得た。  ただし、各種状況から判断してこの天災は、ハノイ政府が外部に宣伝したほど、つまり、それだけで国家経済をゆさぶるほど深刻なものではなかったようだ。  むしろ、コメ不作の原因は、農村の意識改革に政府が力を入れなかったところにある。どこの国でも社会主義革命が起こると、農民の労働意欲は一時的にせよ激減する。政府の安い公定買い上げ価格に嫌気がさして自給分以外は作らなくなる。甚だしいのはラオスの場合だ。政府が「生産税」なるものを設け、生産すれば生産するほど相対的に農民が損をする制度をとったため、農民の方はすっかり頭にきて最低限の生産しかしなくなってしまった(この「生産税」のシステムはその後廃止された)。  ベトナムのメコン・デルタの農民は長年、党支配のもとで「団結・協調・滅私奉公」を強いられてきた北部農民よりも、はるかにしたたかで個人主義的であった。こうした農民の中へろくに南部言葉もしゃべれぬ北の若い役人がやってきて、横柄な態度で割り当て額の|醵出《きよしゆつ》を命じる。代金はしかも銀行振り込みの場合が多い。農民にしてみれば、汗水流して作ったものを無料で献納するような気持ちになる。そこで、自給用と来期用のタネモミだけを残して、余った収穫は巧みに隠匿してしまう。村中が口裏を合わせる。これをやれば役人の方は手が出ない。そして隠匿米は公定価格よりもはるかに高額で買ってくれる華僑の闇商人の手元に流れることになる。  こうしたさまざまの不手際が重なり、コメ流通部分の国有化はただちに配給難の形で庶民生活を直撃した。市場で公然と売られているヤミ米を買える党幹部や旧金持ち層にとって、配給難はさほど苦にならなかった。逆にそのシワ寄せは、社会主義経済体制がまず救済をめざした、貧困階層に集まった。  このあたりから、後の「棄民政策」につながる、ハノイの苦悩の政策が始まる。   ある政府高官の発言  ベトナム共産党は、この頃すでに当初かかげていた威勢のいい重工業最優先振興政策を引っ込め、「重工業振興はあくまで国の基本目標として守るが、そのための条件としてまず軽工業、とりわけ農林水産、食品加工工業に力を注ぐ」と路線修正を行なっていた。三十年戦争の後に、いきなり製鉄、石油コンビナートなどの巨大工業を興そうという当初のラッパは、はためにも|はしゃぎ過ぎ《ヽヽヽヽヽヽ》の感があり、世界を驚かせた。この路線修正により、新ベトナムの再建路線はきわめて現実的なものに引き戻された。  しかし、同時にこの頃、私は、日本の新聞報道でハノイ政府高官の次の言葉に接し、憮然とした感慨に襲われたことを覚えている。「新経済区政策」の不調を|衝《つ》いて今後の政策を|質《ただ》したある西側報道者に対して、この高官は、 「ご安心なさい。われわれは少しもこの政策が失敗するなどと心配しておりません。人々が“非生産人口”から“生産人口”に転身するには長い時間がかかります。われわれはこれを強制しません。あくまで彼らが自覚し、自発的に生産に出て行くのを待ちます。五年、十年、二十年。でも、見ていてごらんなさい。彼らは必ず町を出て行きます。なぜなら、町にしがみついていたら必ず食っていけなくなることを、いずれ悟るでしょうから」  と述べた。  当時、この高官の発言の真意は日本ではあまり論じられなかった。しかし、先に触れた“ハノイの政治スタイル”をこれほど平然と、かつあからさまに表した言葉はない。  言い換えれば、これは、力でこそ強制しないが、都市部の糧道をしだいに断ち、人々を餓えさせ、いや応なく「新経済区」に出て行くように仕向けていく、という意味なのだ。ハノイ政府にすれば、これは力による強制でないから、“民主的”な、“人民の自覚と自発”に基づいた行為ということになる。  私は、それまで、たとえ苦しくてもたっぷりと時間をかけて住民一人一人の目覚めを待つという新政府の繰り返しの言明に、ホー・チ・ミン大統領の|衣鉢《いはつ》をつぐベトナム共産党の“人間的”体質を感じ、その思想とはかかわりなく一種の好感を抱いていた。私自身の印象からも、長年、徹底した消費文化、流通文化の中を泳いできたサイゴンの非生産者たち、いってみれば|のらくらもの《ヽヽヽヽヽヽ》たちが、自発的に生産の闘士に変身するのを待つことは百年河清を待つにひとしいことと思えた。ベトナム共産党は、こうした連中を相手にしながらなお、腰をすえてあくまで|人間的《ヽヽヽ》に事を運ぼうという。フン・ナム少佐の言葉ではないが、それこそがベトナム人の「政治」の真髄なのか、と思った。  先の政府高官の言葉は、私のこの期待に似た幻想に甚だしく抵触した。「いや応なしに町を出るように|しむけていく《ヽヽヽヽヽヽ》」という発言内容をかみしめながら、私は、ハノイ共産党が口にする“民主主義”のひとつの本質をなす酷薄さ、冷血さに触れた気がした。このとき、私はおそらく初めて、新ベトナム指導層が進めようとしている政治のありように、一種の嫌悪をこめたショックを覚えた。同時に、こうした政治のもとで、はたして将来のベトナムとベトナム人の幸せが約束され得るのか、深い疑問を感じずにはいられなかった。  以来、私自身の目には、サイゴンを中心とする旧南ベトナム諸都市の貧困化は、明らかにハノイ政府の意図的政策に基づくものと映ずるようになった。今も私は、この自分自身の見方が間違っていないと思う。  ただし、このあたりに、かつてのサイゴンの豊かさを知る者と、解放後になって初めてベトナムを訪れた者との視点のズレが生じる。  解放後、初めてベトナムを訪れた私の友人のなかでも、いまだにハノイとサイゴンを隔てる物質文化の“格差”に呆然とし、「いったいあの豊かな南部を共産化しようというのはどういうことなのか」と深刻な疑問を抱きながら日本に帰ってきた者が少なくない。 「極言すれば、北には|何もない《ヽヽヽヽ》。北緯十七度線を越えて旧南ベトナムに一歩足を踏み入れると、空気まで変わる。町や市場に物資があふれ、サイゴンなどは言ってみれば、我々資本主義国の消費文明社会とまったく同次元にある」とコメントした者もいた。彼はその証拠に、サイゴン市場を中心とした旧繁華街の|にぎわい《ヽヽヽヽ》を示す写真を見せてくれた。それを見て私は私で逆の感慨にうたれる。「あれほど豊かだったサイゴンが、わずか二、三年でよくここまでさびれ、悄然としてしまったものだ」と。サイゴンの繁栄は、一見、アメリカの商品援助物資を中心にしたアダ花の繁栄でもあった。しかし、さらに深層を見ると、それは、それ以上に地上有数の|豊饒《ほうじよう》なメコン・デルタを後背地とした、|自然の《ヽヽヽ》豊かさでもあった。そしてこの自然の豊かさが、南部人特有のあの自由を好み、無意味なストイシズムを拒否し、率直で、おおらかで、冗談ずきの、北部人に言わせればぐうたらな人格を形成した。  やや大げさに言えば、私は写真や旅行者が伝える現在のサイゴンの貧しさを、涙なしに思えない。あれほど|自然に《ヽヽヽ》豊かであった町とその人々の生活を、国家再建あるいはイデオロギーの名のもとに現在の貧困にまで陥れているベトナム共産党の政策は、文字どおり自然の摂理への抵抗ではないか、と思いたくなることさえある。  ベトナム共産党は対米戦争を闘い抜くために、北部ベトナムを三十年にわたって貧困のドン底に放置した。かつてのサイゴンの豊かさを腐敗者の豊かさと罵る者は、北部の貧困もまた共産党によって|人為的《ヽヽヽ》に作られたものであることを理解しなければならない。そして今、勝利した共産党は腐敗したサイゴンの貧困化政策を進める一方で、北部民生の向上にもこれといった効果ある政策を打ち出さず、ひたすら、そのなけなしの富を新たな闘いと超全体主義的な国防体制の強化に注ぎ込んでいる。  都市貧困化政策にしろ、棄民政策にしろ、やむを得ずこれらの方策決定に踏み切ったハノイ首脳部の心情はさぞかし悲痛なものであったろうと思う。しかし、住民の「民生向上」のために戦いながら、結局は住民を国家の従属物と位置づけ、自らの理論に基づいた政策のみを強引に推進していこうという鉄の心に、私は一種の空恐ろしさを感じずにはいられない。同時に、ハノイの指導者自身が、重要な|ことの本質《ヽヽヽヽヽ》を見失い始めたのではないか、という疑問と寂しさを感じずにはいられない。  唐突なようだが、難民問題を考えるときも、私の思いは結局のところこのあたりに集約されていく。   優秀市民と劣等市民  新政府が、「国家再建に努力する意思がないごくつぶしは、わが国には不要である」という意味のことを公言し始めたのは、各方面の経済政策の失敗が外部の目にもはっきりとなってからである。すでに棄民政策の芽は生まれた。元来、「カイライ」「半端もの」という言い方は、ベトナムの新しい主人公たちが、敗者である旧南ベトナムの|おとな《ヽヽヽ》たちに付した呼び名であった。この侮辱的な呼び方は、たんに旧南軍将校、政治家、官僚などチュー体制をじかに支えていた人々だけでなく、一般住民から庶民層にまで適用された。「カイライ」の子弟は、進学、就職、その他各種制度の利用などで甚だしい差別待遇を受けた。たとえば、同じ大学進学年齢の青少年でも、革命の闘士の息子には門戸が開かれるが、「カイライ」の子は「新経済区行き」を説得される(私は身近な例として、こうしたケースを二、三知っている)。コメの配給カードにも色別に何種類かあり、“優秀市民”と“劣等市民”のランクが一目でわかるようになっている(少なくとも一九七七年頃まではそうだった)。  北から乗り込んできた役人、委員たちが、「南部のおとなはもう資本主義の毒にどっぷりつかってしまっており、救いようがない。我々が相手にすべきは十五歳以下の子供だけだ」と言い出したのは、すでに“解放”の熱気が冷め、“民族和解”の芝居が終わった直後の一九七五年夏頃からである。南部人の人間改造作業に最も熱意と誠意を示すべき末端の委員らの中には、早くも三カ月でサジを投げはじめたものもいたわけだ。  当時、国外脱出して日本にたどりついた難民の大部分が、「とにかく、ことあるごとに“半端もの”扱いされることに耐えられなかった。彼らは私たちが以前からの党員でないという理由で決して信用してくれず、一人前に扱ってくれなかった」と述べていた。自分も家族も、一生半人前扱いで過ごさなければならないことの辛さ、寂しさ、そして無為感が、とりわけインテリ層を、ボートに乗り込ませた。一方、経済政策不調のシワ寄せをまともに受けた庶民層は、「食えない」から、金持ちやインテリと組んで海上脱出した。当時の難民はいわゆる純粋難民である。私が日本の各収容所で取材した限り全体の三分の一は、外国語もしゃべれず、知人もおらず、これといった知識・技術もない階層の人々だった。「こんな連中が祖国を脱出してきて、今後どう生計を立てていくつもりだろう」と、私はよく首をかしげた。  この私の疑問に対して、彼らの一人(沿岸の町の市場の野菜売りのおばさんだった)は、「これから金持ちや、昔の偉い連中はだんだん逃げにくくなるよ。何といっても連中は昔いい暮らしをしていたから、いざというとき才覚がきかないからね。そこへいくと私たちはしょっちゅう聞き耳を立て、右へ左へ動き、脱出用の船が出るというニュースを聞いたら、必ず食らいついていくだけのすばしこさを持っているからね」  と、むしろ得意気に言った。  ついで、少なくとも外部の者の目には、予測外の不幸な出来事が生じた。ベトナム・カンボジア戦争の激化を契機としたハノイ・北京間の不仲の決定的な表面化である。中越戦争の簡単な経緯についてはすでにふれた。深入りすると紙幅がいくらあっても足りなくなるので、この戦争についての考察は別の機会にゆずろうと思う。   国家に有害な毒草  当初の「棄民」は、単に「国家に不要なごくつぶし」の厄介払いを目的としたものであった。中越の不仲が表面化した後のターゲットは、国内の華僑に絞られていく。華僑はベトナム人の「ごくつぶし」と異なり、いつ“敵性国”人になるかわからぬ「国家に有害な毒草」である。もっとも一口に華僑といっても、南部ベトナムの流通経済に君臨する大旦那衆から、まったくその日暮らしの庶民層までいる。彼らがベトナムに来た時期も、明末から仏植民地時代までさまざまである。何代にもわたって暮らしている連中のなかには、同化・混血が進み、むしろベトナム人の中に吸収されてしまっている者も少なくない。  厳密にいえば、華僑、華人系ベトナム人、純粋のベトナム人を区分けすること自体が非常に厄介な仕事になるのだが、ハノイ政府が「国家に有害な毒草」と決めつけたのは、ごくおおざっぱにいえば“金持ちの中国人あるいは中国系人”だったようだ。彼らが稼いだカネは、もともとベトナムの国家財産だから、それを吐き出せば自由に出国させる。あるいはカネを吐き出させるために出国を仕向ける。このへんはニワトリと卵の議論になりかねぬところだが、いずれにしろ、それまでの単なる「ごくつぶし」の「棄民政策」は、政治的・経済的理由に基づく「追放政策」へと性格を変じた。中国人の身分証明書さえあれば便乗出国できるというので、汚職で書類をととのえるベトナム人も続出した。  現在、流出している「ボート・ピープル」の七〇パーセント近くは中国人あるいは中国系人と見なされている。書類問題はその後あまり重要ではなくなったらしく、最近の傾向からみるとカネさえ出せば、階層、人種を問わず“出国許可”が与えられているようだ。  とはいえ、「棄民」から「追放」への転換が華僑対策と直結していたことは間違いない。  したがって、現在の「ボート・ピープル」問題への理解を志す場合、ベトナム華僑の問題を掘り下げておかなければなるまいと思う。  北部ベトナム人が中国人に対していかに激しい反発を抱いているか、これはベトナム・カンボジア両民族の反目感情と同様、いやさらにスケールの壮大な、インドシナ混迷の背景をつらぬくライトモチーフといえよう。  要点だけを押えると、北部ベトナム人の、はた目には異常なまでの対中国人反感は、「歴史」と「文化」と「現実」の三つに、どうしようもないほど深く根ざしている感じだ。  私たち、淡泊な日本人の感覚からいえば驚くべきエピソードがある。  ベトナム史の四分の三は中国からの侵略とその支配、そしてそれに抵抗する“解放闘争”の歴史であった。紀元一世紀に自ら象に打ち乗って中国侵略軍を散々悩ませ、最後には殺されたハイ・バ・チュン(チュン姉妹)の名前は現在も各都市の大通りに冠せられ、彼女らの霊はハノイのチュン廟で手厚く供養されている。二十世紀半ばになって、建国後間もない中華人民共和国と、ベトナム民主共和国(前北ベトナム)は、反植民地・反米帝闘争の名の下ににわかに手を握った。以来、中国はベトナム支援の一方のパトロンとなり、北京─ハノイの間柄は「唇と歯」の関係といわれた。  一九五〇年代に入り、北京が正式にベトナム全面支援に乗り出したさい、この結束を固めるために周恩来首相が初めてハノイを訪れた。当時まだ弱小なハノイにとって、この来訪は百万の味方を得たほど心強い出来事であり、最大級の歓迎に町は沸いた。しかし、このときハノイを訪れた周首相がまっ先に示した政治的ジェスチャーは、市内のチュン廟に赴いて彼女らの霊前にぬかずき、過去二千年来、中国がベトナムに対して犯し続けてきた“犯罪行為”について、深い陳謝の意を表すことであった。それまで「鎮南関」と呼ばれていた国境の関門も、このとき「友誼関」と改名された。  一国の首相が、しかもその“援護下”にある小国を訪れ、二千年前に自分たちの先祖が殺した抵抗の英雄の霊に|詫《わ》びを入れる——周首相を迎えたベトナム首脳陣にとっても、国民感情の手前、このちょっと吹き出したくなるような手順が必要であったわけだ。いかにベトナム民族の中国への怨みつらみが、執拗で根深いものであるかがわかる。 「文化」の問題もゆるがせにできない。  専門家が微視的にさぐれば、ベトナムにはベトナム固有の文化の破片がいくらもあるのであろう。しかし、私たち素人目には、現在ベトナム人が「ベトナム文化」と称しているもののほとんど|総《すべ》て——文字、美術、歌舞、宗教、さらに社会制度の諸規範や儒教を源とした日常生活上の各種風習、価値概念——は(たいへん失礼な言い方になるが)、中国文化の真似事、亜流に見える。ベトナム人が“国民文学”として誇るグエン・ズーの「キム・バン・キュー」は、中国作品の完全な焼き直しである。現在、世界の軍事専門家の“聖書”の一つであるボー・グエン・ザップ将軍(現国防相、副首相)の「人民戦争論」も、毛沢東の著作をほぼそのまま頂戴し、ベトナムの特殊事情に合わせて多少の味つけをしたものにすぎない。しかし、これらを指摘したときにベトナム知識人が示す激昂ぶりはすさまじい。  結局のところ、「ベトナム文化」とは何であるのか。ラッキョウの皮をいくらはいでいっても、その下から「中国」が出てくる。おそらくこれは、ベトナム民族が持つあまりに怜悧な体質とも関係がある。あまりにも頭の回転が小器用に働きすぎたおかげで、新しいもの、便利なもの、優れたものの「模倣・導入」には優れた適性を示したが、それに反比例して“創造”への努力はお留守になった、という解釈は十分成り立つと思う。日本人も物真似の巧みな民族といわれるが、私たちは中国文化圏に育ちながら、歴史の過程でいつの間にか、日本固有の文化らしいものを作り上げた。少なくとも作り上げた気になっている。したがって、私たちは亜流文化コンプレックスに悩まず、まあ、落ち着いていられる。  しかし、自国の文化が何から何まで他国の二番煎じでしかないことを、ことあるごとに自覚せざるを得ない環境の中での、とりわけ知識階層の心的状況とはいったいどんなものであろうか。“固有文化”を有する、あるいは有しているつもりの、私たちには、誇り高いベトナム知識人らがこのことについて、偏執的なまでに抱いている曲折したコンプレックスを過不足なく理解することは、おそらく不可能であろう。のんびりした南部人に比べ、意気高く、知的向上心が強い北部人の方が、はるかに強烈な反中国感情を抱いている理由もこのへんに求められる。  だが、こうした背景に加えて、何よりも「現実問題」として火急のことがらは、南部の流通経済支配者としての華僑への対策であった。  南部華僑が旧南ベトナムの流通をほぼ一手に掌握し、いわば、したい放題ふるまっていたことはすでに触れた。  社会主義建国をめざすベトナムが、これら地場の富と日常生活に直結した経済機構を独占しながら、しかも、国家帰属意識のきわめて稀薄な特殊な人間集団の手から「経済権」を奪還しようとしたのは、当然の措置といえる。その点で、ハノイが華僑取締りを断行したことは誰にも文句のつけようのない行為であった。一方、南部華僑が、ハノイが当初打ち出した「ゆるやかな社会主義化」政策に甘え、弾圧を受けて然るべき錯誤を犯したこともまた間違いない。  たとえば、解放後のどさくさが一段落したところで、新政権はサイゴンの中国人街チョロンの住人に対して国籍再申請を行なうよう通達した。対米闘争中、解放戦線は華僑の同調を得るため「旧ゴ・ジン・ジェム政権はあなたたちに強制的にベトナム国籍の取得を命じたが、私たちが天下を取ればこの悪法は消滅させる。あなたたちはベトナム籍、中国籍のいずれか好きな方を保持できる」と“公約”した。  大多数の華僑はこれを真に受けてベトナム籍から中国籍への再切り替えを要求した。これは新生ベトナムに“国内国”の設置要求を突きつけるにひとしい態度だ。この不快な事態に直面した新政府は、“公式公約”をあっさり反故にした。  その後もチョロンの隠然たる経済支配力は、新政府の各種経済政策を妨害し続けた。華僑にしてみれば、日々相場をにらんでの買い占め、売り控えはもとより、汚職買収も“商道徳”のうちである。そして残念なことに、新政府の人々も“物欲”に弱いという点では旧チュー体制の人々と大差はなかった。このことも、実は現在のベトナムの不幸の最大要因の一つをなしている。統一後、一、二年たったベトナムを訪れた西側記者の一部は、「北は武力で南を征服した。しかしいまや南は、その資本主義的風潮(汚職・腐敗など)で北を取り込み、これを支配しつつある」という趣旨の観測さえ公表した。  実際に華僑商法の“怪物”ぶりは、私たち、あまり彼らと身近な縁のない者の想像を絶している。何よりもその情報収集と内部伝達の早さ、物資移動の変幻自在ぶり、そして買収による当局への食い込み方。これは個人的な交際で買収とは関係ないが、私自身、十年来付き合っている華僑の友人と一緒に食事し、一度も|払わせてもらった《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》ことがない。毎回、相手があまりにも巧みに、あまりにも自然に払いを済ませてしまうので、しまいにはそれが当然のことのようにさえ思えてくる。実際に私が勘定書きを奪いとり、不器用に手をポケットに突っ込もうとでもしようものなら、彼は絶交せんばかりの剣幕で怒るのだ。  あの手で贈物攻勢をやられたら、よほど強靱な精神の持主でも相手のペースにはまってしまうのではないか、と思う。チュー政権時代、チョロンの華僑はこの方法であらゆる方面(つまりチュー大統領、その政敵たち、共産側、さらには北京、台北まで)にコネをつけ、商売安泰の保証を得ていた。統一後も新たな支配者たちに対して同様の“商法”を続けた。いかにその“汚染”ぶりがひどかったかは、チョロン地区の最高責任者に任命された党歴十数年の筋金入り委員が、わずか一年余りで多額の収賄罪に問われ、終身投獄の憂き目にあっている一事をみてもわかる。  経済のベトナム化、つまり華僑からの流通機構支配権の奪還は、解放ベトナムの経済政策の一つであったはずだが、すでに数々の政策不調に悩むハノイはこの大仕事に手をつけかねていた。これをいいことに、チョロンは旧態依然のしたい放題を続けた。そして西側記者が指摘したように、華僑らによる計画経済の妨害ぶりは、これを放置すれば、新生ベトナム自身が崩壊しかねないていどにまで進んだ。   ハノイ、華僑弾圧へ  たまりかねたハノイ政府が、経済改革の強硬派ド・ムォイ副首相を南部経済政策の責任者に据えて、突如、徹底した華僑取締りに出たのは、一九七八年春のことである。すでに引き返し不能点にまで達していた中国との確執、北京に支援されたカンボジアのポル・ポト政権との紛争の激化など、“政治的タイミング”を十分考慮に入れての強硬策であった。しかし、ド・ムォイ副首相の荒療治は、本質的にはやはり新ベトナムが国家を維持するためにやむを得ず行なった防衛措置と受け取るべきだろう。  鉄槌は完全に不意打ちであり、実に情容赦のないものであった。情報もれを防ぐため一般官吏は遠ざけ、兵士と学生を大量に動員して突如チョロンを包囲し、シラミつぶしに各戸の退蔵物資、退蔵金(無届けで壁の中や階段の手すりの内部にかくしてあったもの)を根こそぎ没収した。おりから、週末でチョロンの旦那衆が気を抜いて遊びに出ていたところを急襲し、家々の扉を厳重に封印して没収作業が進められた。ついでド・ムォイ副首相は、これまた抜き打ち的に、統一後二度目の通貨改革を断行し、旧紙幣の価値をゼロにした。この二回の痛烈なパンチで、さしものチョロンも一朝にして崩壊した。  華僑が社会主義体制下における自らの立場を自覚し、徐々にでも|身をあらためて《ヽヽヽヽヽヽヽ》いれば、あのチョロンの悲劇は、少なくともああまでドラマチックな形で生じなかったに違いない。ベトナムの華僑“弾圧”政策の狙いが単に南部華僑からの経済支配圏の奪還にあったのなら、なぜ七五年春、まっ先に国を逃げ出しはじめたのは、長年ベトナム社会主義体制下に組み込まれ、これへの忠誠を誓っていた北部華僑だったか、という議論が、当時盛んに出た。実際にこのあたりを考察すると、問題はにわかに生ぐさくなってくる。  実は、ハノイがチョロンに鉄槌を下すわずか二カ月前の一九七八年二月の中国人民政治協商会議第五期全国委員会で、四人組体制下を抜け出した中国は国務院内の僑務弁公室を復活させ、江青夫人らが裏切り者呼ばわりしていた「海外在留同胞(華僑)」らの保護を再開した。同室主任には廖承志氏を据えた。この華僑保護政策の復活は、経済的には「四つの近代化」推進のための資金と技術導入をめざし、一方、政治的には、ベトナムを足場に東南アジア南下をはかるソ連勢力を、各国の華僑の“壁”で防止しようという狙いをもっていた。  その意味では、北京にとってもこの弁公室復活は、四人組時代にガタガタになった東南アジア政策の建て直しをはかる、重要かつ画期的な政策の具体化であった。  ハノイは、まさにその北京の出鼻を痛打する規模とタイミングで、国内華僑の取締りに出たわけだ。はた目にも、これはえげつないまでの面当てと見えた。  当然、北京は激怒した。北京はハノイの、このあまりにベトナム式らしからぬキメ粗いやり口の裏に、ソ連の強硬な圧力が働いていると見た。「ソ連は東南アジア在住華僑を北京の“第五列”と中傷し、各国政府当局に不当な華僑弾圧をけしかけている」といった趣旨の主張が連日、北京側から流された。この北京の推測を裏づける証拠は何もない。しかし、各種の状況判断や、そのあまりに強硬なやり口からみて、ハノイの“華僑弾圧”の裏に、モスクワの黒い影が作用していたことは、まず間違いないものと思える。現実にハノイの柔軟な政治手腕をもってすれば、もっと|穏やかな《ヽヽヽヽ》方法でチョロンを締め上げ、ゆっくり息の根を止めていくことは決して不可能でなかったはずである。ハノイの華僑取締りが社会主義経済建設上必須の「国是」であったことは間違いないにしても、その方法論に関するかぎり、ハノイは、やはりソ連の圧力に追いつめられ、あの挙に出た、という見方はきわめて説得力があるように思える。  チョロン撲滅作戦の奏効と同時に、ハノイの公然たる華僑排斥政策は、いわば騎虎の勢いで進められた。とりわけ一九七九年早春の中越紛争以降、「華僑追放政策」→「棄民政策」は「毒食らわば皿まで」の域に達した。  商活動権を奪われた華僑らに残された道は、他の一般ベトナム人と同様、ジワリジワリと進められる政府の「新経済区政策」の歯車に乗って地方へ「生産」に出るか、この国に見切りをつけ新天地で出直す以外ない。代々「商い」をもって人生としてきた華僑にとって、ジャングルの開拓作業は、ベトナム都市住民にとってより、さらに辛い。  こうした人々を相手に、ハノイは「取引」に出た。一人頭千ドル─三千ドル(あるいはそれ相当の金)の「出国料」と引き換えに、政府自ら華僑脱出のお膳立てを組んだ。  ハノイ政府は、この組織的棄民——というよりここではすでに明白な華僑追放策と呼んだ方がいいかもしれない——行為に、政府自体が一枚噛んでいる事実を頑強に否定し続けている。しかし、各種の情報から、このハノイ政府の強弁が事実に反していることは、すでに疑問の余地がない。  具体的には政府は表に立つことを可能な限り避けている。出国志願者の募集、書類の用意(中国人であることの証明など。現実には多くのベトナム人もこれに便乗し汚職で中国人の書類を入手している)、大型搬出船のチャーター、現実の海上作業などは、いずれも政府の下請であるバーター業者が直接とりしきる。しかし、海岸から沖待ちの大型チャーター船までの誘導、警備をベトナム海軍の哨戒艇が行なったことを証拠づける証言はいくらも得られている。さらに、この棄民手続きとその実態に詳しい元サイゴン在住日本人の話では、徴収された“出国料”の三分の一は船のチャーター代、三分の一はバーター業者の組織、そして三分の一は国庫へ納められる見当だという。   ある仏人記者の予言  こうした経緯を振り返ると、現在国際的な問題となっている「ボート・ピープル」の大半は、いわゆる「難民」のワクを少々はずれた性格を備えていることがわかる。さらに、たんなる厄介ものの「棄民」でもない。むしろ彼らは、新生ベトナムが、その政策の錯誤を重ね、かつ中ソ対立の前線に身を置いてしまったことにより、政策的に追い出しをはからねばならなくなった「追放者」と定義するのが、やはり最も妥当かと思われる。  ベトナムの再建政策の失敗は、それ自体、悲劇的である。この失政の原因が一〇〇パーセント、ハノイ自身にあると決めつけることに、私はやはり少なからぬためらいを感じる。  対米戦争勝利の直後、ただちに訪れた経済苦境にさいし、世界はあまりにも冷たかった。ベトナム人の勝利のおごりと気位の高さは、「頼むから助けてください」という言葉を彼らに吐かせなかった。逆に、ニクソン書簡や第二次大戦の補償をタテに米国、日本などに対して「復興資金を出すのは当たり前ではないか」という姿勢でのぞんだ。多くの国が、こうしたハノイの、あまりにも独善的・高圧的な姿勢に対して背を向けた。この点、その内政についても、外交についても、ハノイは免罪されることはあるまい。  いずれにしろ、いまベトナムは、対米戦勝利後、最悪の孤立状態にある。あの四年前の勝利の興奮と、国際世論の祝福の中で、ハノイ首脳の誰が現在の恐るべき苦境を予測しただろう。  こう書きながら私はいま、インドシナ問題を三十年近くフォローしてきた仏人記者マルセル・ジュグラリス氏「(フランス・ソワール」紙、東京在住)の|慧眼《けいがん》ぶりに、あらためて舌を巻かざるを得ない。正確な日付けは失念したが、北ベトナムの最終的勝利が事実上、確定した時期だったと思う。  当時サイゴンに駐在していた私は、東京から乗り込んできたこの老練記者に、再統一のベトナムはどのような道を歩むことになるのか、と意見を求めた。やせて小柄な同記者は、私の耳に口を寄せるようにして、独特の含みある口調で、 「シカエシ。シカエシが始まる」  と、答えた。  何のことかわからなかった。 「これからは世界がハノイに復讐をするの。これまでハノイは、あんまり世界中の国をバカにしすぎた。嘘をつきすぎたからね」  まるで軽口のように言ってのけ、 "Tu verras.(まあ、見てりゃわかるさ)"  いかにも南仏人らしい大仰な身ぶりで、自信たっぷりに私の反論を封じた。  彼はその著書で米軍機の北爆を厳しく批判し、共産側の厚遇を受けていた記者の一人だ。その彼が、「世界の仕返しが始まる」という奇妙な次元の表現でハノイの将来を予告したことに、私は驚かされた。  ただ、ハノイの内幕やその政治スタイルに精通したこの仏人記者が、どのようなプロセスを経て、どのような形で、世界がハノイに、それまで|コケ《ヽヽ》にされつづけた借りを返すと想像していたのかはわからない。たぶん彼自身も、具体的な展望は持っていなかったのではないか——と思う。  私はそのとき、ジュグラリス記者の“目”をあまりに冷たいと感じた。しかし結果的に彼の冷徹な予言は的中した。  四年後のいま、私はよくバンコク駐在の欧米のベトナム・ウォッチャーたちと議論をする。そのたびに肉食人種であり、国と国とのぶつかり合いの歴史を生きてきた欧米人の目は、やはり私たち島国の草食人種にはついていけないほど冷たく厳しい、とよく思う。彼らの一部はハノイの今後のふるまいについて、露ほどの“甘い幻想”も抱いていない。 「ラオス、カンボジアは事実上ベトナムに植民地化された。次に彼らがめざすのは、間違いなくタイ、そしてマレーシアだ」  ハノイに長く住み、ベトナム女性を妻に持つあるフランス人記者は、「オレはベトナムを愛している」と念を押しながらも、まるで既定事実を口にするような口調でこう言った。  彼は私よりはるかにベトナム事情に精通していることを十分承知しながらも、私はこのあまりに身もふたもない見方に|与《くみ》することはできないでいる。   孤立と模索  自らの錯誤が招いた結果とはいえ、現在のこのにっちもさっちもいかぬ孤立感覚に最も背筋を寒くしているのは、やはり、ほかならぬハノイなのではないか。しかしハノイはその政治体質、指導体制(集団指導体制)、さらにこの民族特有の気位などから、一朝にして、明白な軌道修正をやってのけることができない状況(というよりむしろ宿命)にある。国内的にも“政治局の|不可謬《ふかびゆう》性”が何らかの形で傷つけば、それは現体制自体の総崩壊を意味する。だが、この孤立が結局は国家の永遠の沈滞を意味することが明らかな以上、ハノイはいまそこから抜け出すために、懸命に“道”を模索しているのではないか。建て前はいささかもくずさず、しかし内実は大小の“既成事実”の積み重ねによって、内外が気がついたときには、すでに軌道が修正され終わっていた、というような形で——。  周囲がいくら|こわもて《ヽヽヽヽ》の圧力をかけたり、非難を行なったところで、明日から「ボート・ピープル」がゼロになるような事態を期待するのは非現実的であろう。むしろ、ハノイにあるていどの時間の余裕を与えながら、なしくずしの軌道修正を可能にしてやるのが、問題の最終解決への最短距離なのではあるまいか。  たぶん、私の見方は過去にそうであったように、甘すぎるのであろう。  しかし、それにしても——。現在の自分の甘い見方が幻想にすぎないことがいつか証明されても、私は結局のところ、その時点で再び甘い展望を繰り返すのではないか、と思う。相変わらず、それにしても——とつぶやきながら。  最後に、現実の問題について一言。  これまで述べてきたこととはかかわりなく、いま、私たちができることといえば、やはりハノイの態度についての|徒《いたずら》な黒白論争を中断し、とにかく国家改善の陣痛と国際政治の非情なしがらみに巻き込まれ、海上に漂い出さなければならなくなった人々に対して、|実質的《ヽヽヽ》な救いの手をさしのべてやることであろう。  が、この点については、私は“人道”や“人類愛”の甘さには溺れない。ハノイがしたたかであると同様に、「ボート・ピープル」の一人一人もまた苛酷な歴史と、異常体験に鍛え抜かれたしたたかな人々だということを忘れてはなるまい。少なくとも、この特異な民族を相手にした場合、慈善に見返りを求めたら、とんでもない相互誤解のもとになりかねない。悲しいことだが、場合によっては救った相手に小馬鹿にされ、|背《そむ》かれることだって十分覚悟しておかなければならない。救助という行為は気高く美しい。しかしその美しい行為を行なうには、その前に、いずれ自分にハネ返ってくるかもしれない失望、不信、精神的無報酬をすべて受容するだけの腹を、しかとかためておく方が無難だという気がする。  長い間、話が泰子さんの体験談からそれた。が、今、私はこう断言しても、彼女に対して失礼にはならないと思う。泰子さんの物語は、それだけですでに私たち人間の不幸の極限とは何かという問題について考えさせる。しかし、それにもかかわらず、彼女は数知れないインドシナ難民の中で、最悪の不幸を体験した一人といえまい。  現在、大小の「ボート・ピープル」の“船団”がさまよう南シナ海は、中世的な地獄の海だ。飢えと渇きに苦しむ難民が、弱者の死を待ちかねてその血肉を口にした体験談も確認されている。何十隻が、エンジン故障で、あるいは付近を航行中の船に見捨てられ海底に姿を消したかわからない。これらに加え最近問題となっているのは、タイ、マレーシアなどの沿岸で、これら難民船を待ち受ける海賊たちの|跳梁《ちようりよう》である。襲われた難民らは、なけなしの金品・食料を奪われ、抵抗する男は手足を切られて海中に投げられる。おかげでタイなどの沿岸の漁民は現在、大型魚の漁をさしひかえはじめているといわれる。網にふくれ上がった死体が引っかかったり、取ったサカナの腹中から、しばしば人間の体の一部が出てくるからだ。これは直接私が漁民に聞いた話ではないが、私個人の判断でも十分あり得ることに思える。  女性は、女性ならではの地獄を体験する。最近、バンコクの私の自宅に、旧知のベトナム女性から、マレーシアのトレンガヌー島の難民収容所から手紙が届いた。私はその文面の一部をこの本の土台となった新聞連載の中で引用したが、彼女がそこで語っている海賊たちの女性に対する行為の詳細については、とても活字にする気になれなかった。私自身、タイ中南部の「ボート・ピープル」収容所で、十日余りの漂流中、八回海賊船に襲われ、延べ数十回手ひどい方法で暴行を受けた娘の話を聞かされた。彼女の叔父は、タイの精神病院のベッドに横たわる姪の写真を見せてくれた。美しい娘だった。まるで死に顔のようなその顔色は文字通り灰色に変じており、病院側からの通告では、この十八歳の娘は、すでに精神的にも肉体的にも生涯、正常な生活を営むことは不可能だろうとのことだった、と叔父は言った。  で私と妻は、三年間の東京暮らしの後、昨年(一九七八年)十一月末、新任地バンコクへ引っ越した。 「一度サイゴンに戻りたい」  と言いだしていた妻は、この転勤が決まったとき、手を|拍《う》って喜んだ。当面、母国再訪は望み薄でも、一族の住む土地へ少しでも近づける——そんな思いが彼女の気持ちを浮き立たせた。  私たちの赴任機は、北部南シナ海上を越え、ベトナム中部の沿岸都市ダナン上空からインドシナの空に入った。眼下の大海原を指して、私はすでに当時断片的に伝わっていた難民目当ての海賊たちの話を妻に聞かせた。彼女は、目を光らせて機窓から海上を見下ろしながら、無言で怒りを示した。  それから、 「あっ、ダナンだ!」  突然、通路をはさんだ隣席の客がふりむくほど、はずんだ声で叫んだ。  かつて米軍がマーブル・マウンテン(大理石の山)、モンキー・マウンテン(サルの山)と呼んだ近郊の小高い丘、白砂の浜、河岸の港に停泊する大小の船々が手にとるように見えた。機は安南山脈を斜めに横切りベトナムを通過した。緑深く輝く森や峰々、ところどころの小集落や田畑、曲がりくねった茶色い河川の流れ——目をうるませ、機窓に額を押しつけて、長い間無言で澄み切った空気の中に広がる母国の姿を見続けていた彼女の横顔は、私にとって初めてのものだった。  多くの人々が、死と、ときには死より悲惨な運命を覚悟で祖国を逃れる。だが、彼らもまた、もし|生命《いのち》ながらえていつか、こうした祖国の山河を見下ろせば、抑えがたい望郷の涙を流すだろう。難民の心的境遇とは、いったいどのようなものなのか。私自身にとっても懐かしいインドシナの空を飛びながら、私は私なりの思いにふけった。 [#改ページ]

   
あ と が き  一日本女性の体験を追いながらインドシナ悲劇の輪郭と現状を報じたい——というのがこの本の趣旨であった。書き終えて、どうやらその意図の何分の一も達成できなかったように感じ自ら歯がゆさを覚える。今はこの歯がゆさを、今後、自分がインドシナ報道、東南アジア報道の仕事を続けていくうえでの原動力に転じていく以外あるまい、と思う。  本文中にも記したように、この本の土台は一九七九年七月十二日から五十六回にわたりサンケイ新聞に連載された『私は生き残った——内藤泰子さんの証言から』である。この連載企画も私個人の署名で掲載されたが、他の多くの新聞社の仕事がそうであるように、多数の人々の協力、というより社全体の「共同作業」の結実である。  とりわけ、東京本社の山下幸秀、斎藤富夫、宗近良一記者らの全面的バックアップで作成された。  一冊の本にまとめ直すに当たっては、同じく東京本社の柴田裕三、サンケイ出版の相川二元、足立利弘氏らが、手にあまる大作業を前にともすればへたばりがちな私を最初から最後まで、励まし、導いてくれた。連載企画もこの本も、これら息の合った先輩、同僚の力添えがなければできなかった。  限られた時間内で取材・執筆の作業がはかどるよう最大限の条件づくりをしてくださった藤村邦苗東京本社編集局長はじめ、それぞれ全力をあげて今回の仕事を手伝ってくださった方々に、あらためてお礼をいいたい。  なお、最終章の「『インドシナ難民』を考える」には、雑誌『中央公論』の了解を得て、同誌一九七九年九月号に寄せた小文を加筆修正したものを使わせていただいた。  また内藤泰子さんとの接触については、私のサイゴン特派員時代の“ライバル”であり、今回の彼女の帰国実現に尽力されたNHK外信部の島村矩生氏が、最初から親切に協力してくださった。  末筆になってしまったが、内藤泰子さんご自身の新たな生活に再び幸が訪れることを心から祈りつつ——。  一九七九年九月八日 [#地付き]近藤紘一    単行本   昭和五十四年十月サンケイ出版刊 [#改ページ]          文春ウェブ文庫版     戦火と混迷の日々       悲劇のインドシナ     二〇〇一年十一月二十日 第一版     著 者 近藤紘一     発行人 堀江礼一     発行所 株式会社文藝春秋     東京都千代田区紀尾井町三─二三     郵便番号 一〇二─八〇〇八     電話 03─3265─1211     http://www.bunshunplaza.com     (C) Nau Kondou 2001     bb011106