妻と娘の国へ行った特派員 〈底 本〉文春文庫 平成元年三月十日刊  (C) Nau Kondou 2001  〈お断り〉  本作品を「文春ウェブ文庫」に収録するにあたり、一部の漢字が簡略体で表記されている場合があります。  また、差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の書かれた当時の事情を考慮し、できる限り原文の通りにしてあります。差別的意図がないことをご理解下さいますようお願い申し上げます。 〈ご注意〉  本作品の全部または一部を著作権者ならびに(株)文藝春秋に無断で複製(コピー)、転載、改ざん、公衆送信(ホームページなどに掲載することを含む)することを禁じます。万一このような行為をすると著作権法違反で処罰されます。    目  次          「|四月一日《エプリル・フール》」クーデター    密林の中の“共和国”    サイゴンのナイトクラブ    アンコールワット断章    滑走路の暗殺    殿下のポロ|競技場《クラブ》    シンガポール夜話    女帝ガンジーの悲劇    山羊を殺す    ベテラン記者の死          ばくち好き    サイゴンの釣り師たち    「お化け」が住みにくい国    CIAと長屋の人民軍    集団の厄介さ    与那国島へ    二度目の亡命    二倍と十倍の差    相続税のない国    ピストルと家賃    アランヤプラテートで    飛び込んできた雷さま    清潔すぎる? シンガポール    スッポン、ワニ、ニシキヘビ    ペナンのホテルで    タイの中の外国人    バンコクの日本人    あ と が き      章名をクリックするとその文章が表示されます。 [#改ページ]    妻と娘の国へ行った特派員[#改ページ]      

  
「|四月一日《エプリル・フール》」クーデター  床の間を背にどっかりとあぐらをかき、スッサイ退役将軍は上機嫌であった。せわしなく|箸《はし》をつかいながら、しきりと、日本のある右翼の巨頭についてたずねる。自らTVコマーシャルに出て「人類愛」を説くので、誰でもその顔と名前を知っている人物である。 「よほどの金持ちだと聞くが、ほんとうかね」  将軍はその人物の“台所”を知りたがった。 「さあ、でも百億円やそこらのカネはわけなく右から左へ動かせるといわれてますよ」  相手は「ふむ」と|唸《うな》り、黙り込んだ。  将軍は血筋やんごとなく、代々チャオプラヤー(侯爵)の称号を持つ。角刈りのゴマ塩頭、がっちりと固肥りの短躯。戦闘服姿は|精悍《せいかん》だが、こうして開襟シャツをはだけてあぐらをかいていると、その辺の農家の|親爺《おやじ》だ。  評判はきわめてかんばしくない。一九七〇年代後半、タイの学生たちは、隣接インドシナ諸国共産化に刺激され、国政民主化運動に立ち上がった。将軍は命知らずの与太者を集めて私兵部隊「カチン・デン(赤い野牛)」を組織し、大流血のすえ学生デモを鎮圧した。「カネに汚い」との風評も定着している。私兵維持費の調達と称して何かと脅しやたかりを働くという。一時、その行状が国王の不興を買い失脚状態にあったが、どう立ち回ったのか、数カ月前の内閣改造で国務相に返り咲いた。  私が彼を夕食に招待したのは、またぞろ高まりはじめたクーデターの|噂《うわさ》について取材したかったからである。相手は承知し、即座にバンコクで飛び切り高いこの日本料亭の名をあげた。 「あそこの|しゃぶしゃぶ《ヽヽヽヽヽヽ》はうまい。うん、トロも悪くない」  職業柄、要人を招待することはよくあるが、いきなり先方から最上級の店と最高級の料理を指定されたのは初めてである。当日、将軍はジープに前後を守られ、黒塗りのベンツで現われた。完全武装のボディーガード十人余りを引き連れてさっさと座敷に入り込み、 「こいつらも同席させるが、かまわんだろな」  とんでもない人物を招待してしまった、と閉口したが後の祭りである。将軍も|健啖《けんたん》家であったが、ボディーガードどもはそれ以上にガツガツむさぼる。三カ月分の取材費が吹っ飛ぶのではないか、と私のほうは胃袋が締めつけられる思いだ。  ようやく箸を使うピッチが落ちはじめたところで、本題を切り出した。 「例の噂ですが、どうなんです。だいぶ大佐たちが気勢を上げているようですが」 「うむ」  |鍋《なべ》をのぞき込みながら、 「君は最近、プラチャクに会ったか」  クーデターを策しているといわれる大佐グループの首領株の名をあげた。 「会っていません。でもこんどの噂はかなり手応えがある——」 「ウワッ、ハッ、ハッ」  と、|哄笑《こうしよう》した。  陸軍司令官を兼任するプレム首相は|篤実《とくじつ》な人柄で、国民にも人気がある。しかしその為政態度はときに優柔不断で、均衡人事を看板にした先の内閣改造はきわめて不評であった。とくに何かと身辺に不明瞭な噂の多いこのスッサイ将軍の入閣は「国政浄化」を叫ぶ大佐連中の憤激を買っている。将軍もそれを心得ているようすだが、 「あのチンピラどもに何ができるか。だいいち、陛下はプレムとこのわしを信頼なさっておる」  気易く首相を呼び捨てにし、言下にクーデターの噂を否定した。そんな|世迷《よま》い言にふり回される馬鹿があるか、だから君たち外人記者は困る——顔を紅潮させてひとしきりまくしたてた。さきほどから部屋の隅でガーガー音を立てている携帯無線機を指して、 「見たまえ。わしはいやしくも国務大臣だ。どこにおっても全土の情報はたちどころに耳に入る」  悠然とデザートのメロンにスプーンを入れ、 「いいか、君、忘れるなよ。この国では陛下が首をたてに振られない限り何事も起こらない。つまらん雑音など気にするな。何かあったら、このわしが真先に知らせてやる」 「ほんとうに信用していいんでしょうね」 「ああ、男と男の約束だ」  再び哄笑し、席を立った。  翌朝五時前、電話のベルにたたき起こされた。 「知ってるかね。やったらしいぜ」  ジョージの眠そうな声だ。二十年近くこの土地に住んでいるアメリカ人のPR業者で、各界におそろしく顔が広い。 「第一師団と第九師団が首相官邸や放送局を押さえた。機甲化部隊も町に出ているそうだよ」  あのタヌキ爺いめ!  だまされた自分の|迂濶《うかつ》さをタナに上げ、しゃぶしゃぶただ食いの将軍を|罵《ののし》った。それにしても何というタイミングの一致か。よけいな確認取材などしたおかげで、かえって虚を衝かれ、泡を食った。 「首相はどうした、戦闘はあったのか?」  たたみ込むように尋ねたが、 「消息不明、詳細も不明。とにかく一回りしてこいよ」  クーデター慣れした相手はのんびり答えて電話を切った。  身仕度もそこそこに、車で町に飛び出す。明け切らぬ大通りに人影は少ない。ペブリ通りを西へ飛ばして首相官邸に向かう。飛ばしながら、左右に忙しく目を走らせたが、戦車も兵士も見当たらない。官庁街もまだ静かな眠りからさめていない。ラケットを片手にテニスコートに向かう若者や紳士方が五組、六組。王宮わきの競馬場では色とりどりの服を着た騎手が朝駆けに励んでいる。  妙だな、と拍子抜けし、それから、 「やられたか!」  また、カッとなった。  今日は四月一日(一九八一年)、エプリル・フールだ。ジョージの野郎にまんまと引っかけられた——。  その時、前方の朝もやに数人の人影が見えた。近づくと、二人の制服警官がのたりのたりと鉄柵のバリケードを引っ張り出している。他の三人の平服は公安警察か下級将校らしい。そのうちの一人が、 「すみませんが、ここから通行禁止です」  片言の英語でいう。 「クーデターですか」 「ええ、革命です」 「誰が革命を起こしたんです。首相はどうなりました」 「さあ、私たちも今呼び出されたばかりで」  相手は当惑し、他の連中もタバコを吹かしてニヤニヤ笑っている。 「とにかく、クーデターに間違いないんですね」 「間違いないんでしょう。そう聞かされましたから」  なんともしまらないやりとりであった。  タイ・カンボジア国境地帯を守備する第九師団第二連隊の将兵は、この日午前零時過ぎ全員出動を命じられた。連隊長は問題のプラチャク大佐である。隣国からの共産軍の侵攻を度々斥け、ときにはカンボジア領内深く追撃をかけ、国境戦線の“英雄”として知られる。かねて国政刷新を唱え、学生や知識層の間でも人気が高い。  兵舎から出た将兵約三千人は、いつもとは逆に国境を後にして、バンコク方向へ進撃した。二時間後、彼らを乗せた軍用トラックの車列は首都に入った。市街地西寄りの国軍最高司令部はすでに同志マヌーン大佐指揮下の機甲化部隊と第一師団によって占拠されていた。  プラチャク大佐はじめ数人はその足で首相官邸を訪れ、プレム首相に「革命」の指揮をとってくれるよう要請した。本来、大佐らは首相の秘蔵っ子であり、「親父」「息子」と呼び合う間柄である。革命の目的は首相追放ではなく、あくまで老害閣僚を一掃することにある。寝間着姿の首相は穏やかに“息子”たちの憂国の訴えを聞いた。「陛下がお目覚めになるまで待て」となだめた。ねばる息子たちをもてあました首相が王宮に電話を入れると、王妃から「とにかくこっちへおいで」というお言葉。首相は裏口から出て数百メートル離れた王宮の門をくぐり、そのまま帰らなかった。はかられた、と悟った大佐らは協議のすえ、かねて首相とおり合いが悪い陸軍副司令官のサン大将に白羽の矢を立てた。そして彼を説得して総大将にかつぎ上げ、「革命成就」を宣言した。  わかったような、わからないような話だが、どうやらこんな具合だったらしい。一九三二年の立憲革命以来、十五回目(失敗も含む)のクーデターである。他のほとんどの場合と同様、「革命団」側は無血のうちに首都の全権を掌握した。  夕刊の送稿を終えた。  スッサイ将軍はどうなっただろう。逃亡したか、それとももう逮捕されたか。町はずれの自宅に車を飛ばした。  案に相違して門前に監視兵の姿もない。当の将軍は、半ズボン姿で悠々と庭木に水などやっていた。邸内にはいつものように三十人ほどの「カチン・デン」の強者たちがたむろしているが、別に殺気立ったようすもない。 「よう」  と、将軍は親しげに私を応接室に導いた。 「ひどいじゃないですか」  とりあえず、昨夜のただ食いに抗議の意を表明すると、 「いやあ、すまん、すまん。このわしも今朝になって知らされたんだ」  大声で笑って、額をピシャピシャとたたいた。 「大佐連中もやりおるわい。プレムがぼやぼやしてるからこういうことになる。しかし、いいか、君、この革命の動機は純粋だ。大佐たちはあくまで国のためを思って行動に出た」  |呆《あき》れて相手の顔を見つめた。  昨夜のチンピラ呼ばわりの舌の根も乾かぬうちに、ケロリと変節している。これまでもタイの政治家の遊泳術には何度となく感心させられたが、これほどぬけぬけと厚かましいのは初めてだ。 「でも、将軍はかねがね大佐たちから攻撃されていた。今にこの家も包囲されるんじゃないですか」 「何、プラチャクはいい男だ。わしの部下だったこともある。サン大将にも、今朝、会ってきた。彼は士官学校以来の友人だからな」  まったく驚きいったタヌキ爺いだ。 「それじゃ、将軍は今や革命団側ですか」 「そんなことはわしは知らんよ。何といっても軍人としてはもう退役の身だからな。しかし革命団の言い分も十分理解できる、といっておるのだ」  どうやら打つべき手は打ったうえで、こうして邸内にこもり|洞《ほら》ヶ峠をきめ込んでいるらしい。ここまでぬけぬけ構えられると、妙な可愛気さえ感じる。あるいは、大物ぶってはいるが、実際はすでに取るに足らない端役なのかもしれない。大佐連中も、本心はこんな“道化”は相手にしていないのかもしれない。将軍自身それを知っているから、こうして好々爺然と落ち着いていられるのだろう。  だが、その直後、急に彼の態度は変わった。電話が鳴り、受話器を取った将軍は、二言、三言問い返し、目にみえてうろたえた。受話器を置き、額の汗をぬぐってしばらく考えていたが、突然立ち上がり、 「君、すまんが急用ができた。これで引きとってくれんか」 「どうしたんです、いったい」 「陛下がバンコクを去られた。サンのやつ、また、何というヘマをしでかしやがったんだ」  国王首都脱出——この一報は今回のクーデターをいわば定期行事として扱っていた西側報道陣を大混乱させた。  タイのクーデターには三つの不文律がある。  第一はすでに述べたように、無血で行なわれるべきこと。第二は技術的問題となるが第一師団が行動に加担すること。首都圏を管轄する第一師団が立ち上がらなければクーデターは成功しない。そして第三の最も重要なルールは、事前にしろ事後にしろクーデター側は国王の暗黙あるいは公然の了承を取りつけること——である。  とりわけこの第三の条件は|必須《ひつす》である。タイは立憲君主国であり、国王は政治に参与しないたてまえになっている。しかし日本と異なり王権の精神的影響力はきわめて大きく、国王の認知を得ないクーデターが成功した例はない。  ところが大佐らの革命団は、考えられぬミスをしでかした。情報によると、未明、王妃に迎えられたプレム首相は国王の起床を待って事のいきさつを説明した。国王は従来の定石どおり、革命団議長のサン大将に使者を送り、王宮へ出頭するよう伝えた。双方の言い分を聴取して、穏便な解決を勧告するためであった。なぜか今もってわからぬのだが、サン大将は「おそれながらただいま取り込み中で」と、出頭を拒否した。これが国王を激怒させた。首相の勧めに従い、ただちに王家全員と侍従らを率いて首都を去り、東北タイのコーラートにある第二軍管区司令部に赴いた。白昼堂々、車を連ねて三百キロを走破したわけだが、奇妙なことに革命団はこの王家の脱出を阻止しようともしなかった。  後にプラチャク大佐に、 「なぜ王さまを首都にひきとめる努力をしなかったんです」  と聞くと、 「陛下のお車の前にバリケードでも張れというのか。そんなおそれおおいことができるものか」  と答えた。  いずれにしろ、平穏に成就したかにみえた革命は、王家の首都脱出という前代未聞の出来事により、状況が一変した。  錦の御旗を擁したプレム首相はコーラートに「クーデター鎮圧本部」を設け、断固巻き返しの意を表明する。主だった政治家、軍人も続々とコーラートにはせさんじる。この間、革命団側は街道も空港も閉鎖せず、手をこまねいて人々が首都を去るのを見ていた。スッサイ将軍もおそらく、夢中でコーラートに車を飛ばした一人だろう。  翌二日は、緊張の一日となった。  鎮圧本部側には第二軍管区司令官アーチット少将以下同軍管区全将兵、及び空・海軍が|与《くみ》し、革命団側は首都圏警察、郊外サラブリの戦車隊さらに陸・海・空三軍を統轄するサーム・ナ・ナコン国軍最高司令官らを味方につけた。場合によっては、タイ王国二分の内乱という未曾有の事態も無視できぬ布陣である。  その日の“戦闘”はもっぱら電波で行なわれた。双方、ラジオやテレビを通じての非難合戦だ。“緒戦”は首都の強力な周波数を動員した革命団側が優勢であった。午後になって形勢が逆転する。鎮圧本部側は周辺各省から発信器や増幅器をかき集めてコーラート放送局の肺活量を強化し、首都にビンビンと電波を送りはじめる。合わせて空軍の軽飛行機が何機か首都上空に飛来し、ビラ|撒《ま》き作戦に出た。  意気衰えた革命団の中で、プラチャク大佐一人が平然としていた。王宮前広場に学生らを集めて大演説をぶち、気勢を上げた。  大佐とは国境取材のさい何回か言葉を交わしたことがある。 「ほんとうに市街戦に持ち込むつもりですか」 「ここまで来た以上、後に|退《ひ》けんじゃないか」  日焼けしたボクサーのような顔を引き締め、頭上からビラを撒き散らす軽飛行機をにらみつけていた。  とどめは、王妃の放送であった。夕方遅く、コーラートで自らマイクを取り、 「汝ら、兵士たちよ」  革命軍側の下士官、兵卒らに呼びかけた。 「一部の野心的将校にだまされてはいけない。すぐ兵営に戻れば処罰は加えぬが、将校らとともに市中にとどまる者は国家及び王家に対する反逆者とみなされる——」  兵士たちは蒼くなった。農村出の彼らにとって「王家への反逆者」の|烙印《らくいん》を押されることは、極刑にもひとしい。要所要所に配置されていた分隊や小隊はトラックに乗ってぞろぞろと兵舎に戻った。  翌朝、革命は終わった。竜頭蛇尾というか、ズッコケというか、実に|さま《ヽヽ》にならぬ幕切れであった。  サン大将はヘリコプターで国外に逃亡し、大佐連中もコーラートから空輸された鎮圧部隊に逮捕された。とりわけ、プラチャク大佐逮捕の一幕はふるっている。大佐は味方の兵が消えた市内をなお巡回するため数人の部下とジープで革命団本部を出た。悠々と走り、ある交差点で信号待ちをしていたところを鎮圧部隊に発見され、 「大佐殿、御用!」  と取り巻かれた。部下の一人が発砲した。弾丸はそれて一〇〇メートルほど先をモーターバイクで出勤途中の中年男に命中し、男は絶命した。足かけ三日間にわたった「エプリル・フール」クーデターが生んだ唯一人の犠牲者である。  後日談も私たちを面食らわせた。  たとえズッコケとはいえ、スカタンとはいえ、大佐たちは首都を武力制圧し、首相と王家を追放した。しかもプラチャク大佐の場合は国境戦線の前線を離脱し、部隊をバンコクに移動させた。反逆罪に加え、敵前逃亡の罪科を問われてしかるべき行動である。  しかし、事件後軍部内に設けられた「査問委員会」は二週間たらず後に何の結論も出さぬまま「調査打ち切り」を宣言し、解散してしまった。調査打ち切りの理由として、新任国軍最高司令官サユート将軍は、 「これ以上革命団の背後調査を続けたら、誰の名が出てくるかわからない」  と、珍妙な談話を発表した。一説には若い皇太子が大佐たちに共鳴していたといわれるが、真相は明らかでない。  この国軍の決定を受けて、国王は首謀者一同に「免罪」処分を下した。軍法会議も何も行なわれなかったのであるから、「恩赦」や「特赦」ではない。残念な事件ではあったが、さいわいにして国家と軍部の統一・結束は保持された。将来にしこりを残さぬためにもこの事件は「なかったことにする」というお言葉であった。  なかったことにする、といわれても私たちは三日間、書きまくってしまった。 「おい、オレたちはどうやって原稿の始末をつければいいんだ」  仲間同士、顔を見合わせたが、どうもこの辺がこの国の「知恵」であり、タイ政治の精髄らしい。  逮捕後、市内の刑務所で連日酒盛りをしていた大佐たちは、免罪決定に歓声を上げた。看守全員を呼びつけてひときわ盛大な“打ち上げ”の宴を張り、「国王讃歌」を合唱しながら|昂然《こうぜん》と出所した。さすがに軍籍は|剥奪《はくだつ》され、全員、一介の市民に戻った。  出所後もプラチャク大佐は多忙であった。マスコミや講演を通じて「陛下を政治利用する一部の国賊」の追放を訴え続けた。チュラロンコン大学での講演では、 「われわれは、国賊五百人のリストを用意していた。革命成功のあかつきにはこの五百人を処刑するつもりだった」  と、間接的に一部政財界の大物の名前をほのめかし、学生らの|喝采《かつさい》を浴びた。  現在、大佐は、 「悪徳財界人に搾取されている農民や貧困消費者を救済するために」  市内に事務所を開き、米の安売り事業に精を出している。国境の“英雄”から米屋の親爺への転身は奇抜だが、政界浄化の初志はまだ捨てていないようだ。  ヘリコプターでビルマに逃げたサン大将も再び市内の豪壮な邸宅に戻り、しきりと軍内の落ちこぼれ組や老将たちを集めては政界進出のチャンスを狙っている。  スッサイ将軍は、革命騒ぎ後、国務相の職を解かれた。こんどこそほんとうに失脚したのか、あるいは例のようにぬけぬけと構え、私兵集団をバックに脅し、たかりに精を出しているのか、消息はつまびらかでない。 [#地付き](「諸君」60・3)

  
密林の中の“共和国”  バンコクから国道1号線を北に四〇〇キロあまり走ると、タークという町に着く。タイ中部平原の北端近くに位置し、このあたりの省庁所在地である。家並みはなかなか立派だが、おそろしく暑い。タークは土地の言葉で「乾燥した」「干上がった」というような意味だそうだ。以前、一帯は緑おりなすチークの大森林だったという。長年の伐採と都市化により、今は一面ガンガン照りである。それでこの町名が生まれたといわれるが、真説か俗説かわからない。  国道1号線をそのまま直進すれば、北部の古都チェンマイに達する。私たちはここで左折して、ビルマ国境地帯の山岳部に立ち入る。  一行は、フリーカメラマンのタブちゃんこと田淵君、テレビ支局長の宮原君とその助手ビシット君、それに谷村老人と私である。  タブちゃんは野球選手のような大柄な体に優しい童顔を乗せた無類の好漢で、利発なカンボジア女性を妻君にしている。婦唱夫随で、彼もいつの間にか日本語よりカンボジア語の方がうまくなってしまった。タイ語にも不自由しない。宮原君は逆にどんな国の人間が相手でも「イエス」「ノー」「ホッ、ホーッ」「イヒャーッ、それは」の四単語(?)だけで|完璧《かんぺき》に会話を成立させてしまう特技の持ち主である。  その彼が、この遠征の団長格として谷村老人を引っぱり出してきた。東南アジアのどこの国にもいる日本人古老の一人で、もとは軍属としてこの国に渡ったらしい。中央地方を問わず、たいそう顔が広く、各種裏情報にも精通している。大商社の支店長連や日本大使館が最もけむたがる類いの人物だが、私たちにとっては頼りになる指南である。バンコク市内に小さな貿易事務所を開く一方、朝鮮料理屋の旦那におさまっているが、本職は鉱山師である。いまでも若い頃の血の気が抜けず、二カ月に一度はタイ人の子分どもを引きつれて一週間、十日と山奥を渡り歩く。  間道をしばらく行くと、ようやく空気にしめり気が出てきた。道はつま先上がりとなり、行く手は重畳とした国境山岳地帯だ。 「あの山を越えるんですかい」  機材をつめ込んだランドローバーの後部座席から声をかけると、 「ああ、三つ山越えをしたら今日の泊まりだ」  老人は悪路の窮屈な道中には慣れている。  山間部に入り、 「こりゃ、すげえな」  老人を除く一同が口々に驚きの声を出す。  曲りくねった道は海抜一〇〇〇メートル級の山に囲まれている。その大部分が赤茶の地肌を露呈した|禿《はげ》山である。話には聞いていたが、これほど徹底した乱伐ぶりとは思わなかった。緑を失った急傾斜の山肌は切り倒したばかりのチークの丸木に覆われ、遠くからみると、まるでマッチの大箱をぶちまけたようだ。空恐ろしくなるほどの自然破壊である。 「これじゃ、もう復元不可能だな。でも政府は伐採を厳しく規制しているんでしょう」 「将軍たちの利権さ。軍部が中国商人と組んでやっとるから、森林局の若い役人など手も出せやせん」  老人もいまいましげに丸坊主の山頂を見渡す。 「この国は何もかも軍部が山分けさ。政府が連中の利権を取り上げたら、たちまちクーデターで引っくり返される」 「自分で自分の首を絞めているようなもんじゃないですか」 「ああ、もうタイのチークはお終いだ。最近はビルマから入れておる。これも密輸利権の争奪でときどき死人が出る」  バンコクの大邸宅のサロンにゆったりとかまえ、愛想よく私たちの相手をしてくれる有力将軍らの姿を思い出す。個人的に付き合えば、教養と機知に|溢《あふ》れた上品な紳士たちである。その彼らが一方ではこうして強欲な資源破壊行為に精を出しているのだから、どうも人間というのは手に負えない気がしてくる。  禿山のふもとや山腹を何回も巻いて峠を一つ越え、二つ越え、三つ目をおりると、メソトの町に入った。町は小ぶりだが、これまでに見たタイのどの小都市よりも活気と物資に溢れている。  メソトはタイ最大のビルマ密貿易の拠点である。インド人の宝石商、中国人の布地屋などが軒を並べ、通りには身なりのいいご婦人方や、開襟シャツの|糊《のり》をきかせたすばしこそうな目付きの男たちが目立つ。多くはバンコクや遠くの南部タイから訪れたブローカーである。女性の姿が多いのは、東南アジアの通例として彼女らの方が男より甲斐性があるからだろう。この国でも、たいがいの場合、よくも悪くも|大事《ヽヽ》を働くのは女性だ。  もっとも、密貿易といっても、なかば公然の経済活動である。業界では国境貿易と呼ぶ。ビルマ関係では、この他山岳越えの数ルートがあり、これにカンボジア貿易やマレーシア、シンガポールなどからの海上貿易を合わせると、タイの経済の一割は、この種の闇交易で成立しているといわれる。  日本では少々想像しにくいことだが、隣国と地続きで接した地域に住む人々は、元来の習慣として、国境の存在にそれほど重きを置かない。一族縁戚が両国にまたがって住んでいるケースもざらにある。物資をあちら側からこちら側へ、あるいはこちら側からあちら側に運ぶことが違法であるという観念は代々薄かった。国が近代化され、国外取り引きが法の下に置かれるようになって以来、人々の日常行為が密輸呼ばわりされるようになったが、これは漁師にサカナ獲りを禁じるようなものだろう。だからタイの場合も、国防省内に専門の委員会を設け、よほどのことがない限り、この国境貿易を黙認する政策をとっている。 「今日は見当たらんな」  行き交う人々を検分しながら谷村老人がいう。 「きれいごとをいっても、日本の大商社だってこの密貿易でうるおっているのさ」  しばしば、バンコクから大手商社員がこの町までやってくる、という。  旅の目的は二つあった。  一つはこの国境貿易の具体的光景を目にすること、もう一つはこの付近のビルマ側にある「カレン共和国」をのぞいてみること、である。  翌朝六時に起き、小型の乗り合いトラックで町を出て一〇キロほど林の中を走る。すでに野菜やニワトリや雑貨類をかついだおばさんたちが陽気に声をかけ合いながら林の道をたどっている。林を出はずれ、モエ川のほとりにそってやや行くと、小集落に出た。集落の名はワンカーという。乾期のモエ川は流れの幅三〇メートル余り、瀬を選べば徒歩でも渡れる。この地方の川の特徴か、水の色はトルコ石のように滑らかで美しい。  この可愛らしい流れが、タイ領とビルマ領を画する国境である。タイ側の畔には、コンクリート建ての市場があり、日常品の他、米や衣料や日本製調味料や|梱包《こんぽう》されたままの電気製品がぎっしり積み上げられている。周囲の店舗はみんな漢字の看板をかかげている。昔と異なり、国境貿易はバンコクの大商人や高官により大がかりかつ組織的に行なわれているが、ここに店を構えた中国人らは出先の元締めなのであろう。次々とトラックが到着し、中国人商人の指揮のもとに積荷がおろされ、区分けされる。  朝日を受けた川に、人がようやくすれ違えるほどの板橋がかかっている。両岸からの人の往来が盛んだ。 「なるほど、これが国境の通路か」 「乾期にはこうして橋がかかる。雨期で水かさが増すと、人も荷物も舟で行き来せにゃならん」  橋のたもと近くにタイ警察の詰め所があるが、警官らも橋を渡ってくる“不法入国者”らと陽気に冗談を交わしている。毎日の顔見知りらしい。 「さて、向こう側へ渡ってみようか」 「でもぼくたちは外国人ですぜ。パスポートをバンコクに置いてきた」 「何、そんなものいりやせんよ」  老人が詰め所の指揮官を呼び出し、何事か告げると、相手は愛想笑いして腰をかがめた。 「やつはそろそろ停年だ。家族がバンコクにいるので停年後はわしの事務所で使ってやろうと思っている」  |杭《くい》に板切れをさし渡しただけの頼りない橋を渡ってビルマ領に入った。対岸のたもとに哨所が設けられ、旧式銃を手にした数人の兵士が橋上を監視している。 「サワディ・カップ(今日は)」  タイ語で|挨拶《あいさつ》すると、 「YOU ARE WELCOME」  きれいな発音の英語で愛想よく応じてきた。  土手の背後は、すぐ深い密林である。  その密林の中が、これまた物資溢れる“商店街”になっているのには驚いた。下生えを切り開いて大小の道をめぐらせ、その両側に店舗兼住宅のさしかけ小屋が軒を並べている。一帯は、ビルマの反政府少数民族カレン族の居住地である。  少数民族問題はラングーン政府の頭痛のタネだ。ビルマは一九四八年イギリスから独立した。総人口約四千万人のうち、多数派のビルマ族は千六百万人ほど、残りはモン族、アラカン族、シャン族、カレン族、カチン族、チン族、パラウン族、ワ族、ナガ族など約五十の少数民族で占められる。  ラングーン政権は当初、融和策をとったが、地方に割拠するこれら少数民族の多くは中央政府になじまず、自治権拡大や独立を求めて、長年政府軍と武力闘争を続けている。とりわけ強硬なのが、北部一帯を押さえるカチン族、タイ国境一円に分布するモン族、シャン族、それにこのカレン族などで、ときには互いに連合し、またときには同じ部族内でも分裂抗争し、どうにも収拾のつかない混迷状態が続いている。各部族あるいは部族内グループはそれぞれ「独立軍」「革命軍」「解放軍」などを組織し、これら武闘集団の数はざっと数えて二十組織に及ぶ。  カレン族は少数民族中、おそらく最大の人口を持ち、推定二百五十万人。その中の最大組織がこの森に拠点を置くカレン民族連合だ。総司令官ボーミャ将軍を大統領に戴いて独自の「共和国宣言」をしている。宣言文書による正式国名はコートゥレイ国という。カレン語で「花咲く大地の国」という意味だそうだ。  もともとカレン族は、最近物故した東南アジアの麻薬王クンサなどが率いるシャン族と異なり、知識層が多く、イギリス植民地時代は官吏、軍人、警察官などに多く登用された。多数派のビルマ族にとっては“植民地主義者の手先”であったわけだ。イギリス撤退後はそれが|祟《たた》って逆に多くのビルマ人から憎まれ迫害される立場になった。ボーミャ将軍もかつてはビルマ国軍の将官であった。幕僚の多くも、かつて日本軍に教育され、今でも興に乗ると「見よ、東海の空明けてェー」などと歌う。紛争激化とともに将軍は同志の官僚や教授らとともにラングーンを離れ、この辺境に「共和国」を樹立した。国連にもその他の国際機関にも認知されぬ、影の共和国である。  私たちが訪れたとき、ボーミャ大統領とその幕僚は森の拠点にはいなかった。大統領と公称二万人といわれる実戦部隊はふだん数十キロ北方の軍司令部で起居している。たまたま数日前から司令部へのビルマ政府軍攻撃が続けられている、とかで、将軍自ら反撃の指揮を取っているそうだ。  森の一角に設けられた粗末な木造小屋の「本部」には、将軍の指示で戦闘地区から避難してきたという年輩の「大蔵大臣」がしゃがみ込み、のんびり扇子を使っていた。以前はラングーン大学の教授だったというが、苛酷な森の抵抗生活に消耗したのか、貧相でいかにも気の弱そうなおっさんである。  この住民居住区の最高責任者は、なんとかいう長身の少佐である。彼ももとは高等学校の教師だった。 「ラングーン政府の若い官僚の中には私の教え子もたくさんいますよ。でもビルマは腹黒くていけない。兵隊も残虐だ。どうか理解してください。私たちも何回か和解交渉に招かれたが、そのたびに基地を襲われ、住民を虐殺された」  ラングーン政府の大ビルマ主義が、こうして各少数部族を分離独立運動に走らせた、と元教職者らしい穏やかな口調でいった。 「あなたがたの訪問は私たちに何よりも心強いことです。どうかこれにご記帳を」  さし出された大きなノートに、これまでの訪問者の署名が並んでいる。  最後の三人の何某はいずれも日本人で、肩書きは国際勝共連合とある。この連中は社会主義あるいは共産主義に対抗するグループがあると、どこへでも首を突っ込むらしい。 「立派な人たちでした。私たちの戦闘訓練にも参加していかれました」  示された写真をみると、たしかに、戦闘服姿のずんぐりした日本人がライフル銃を手に得意気にポーズをとっている。 「こりゃ、むしろ暴力団の組員じゃねえのか。連中、ときどきこのあたりまで実弾射撃の練習に来るからな」  と、物識りのタブちゃんがいう。 「かもしれん。カレンはお人好しだから、誰にでも食い物にされる」  谷村老人はニヤニヤ笑っている。 「記帳はいいけれど勝共連合の隣りじゃいやだなあ」 「同類あつかいされちゃたまらんな。おい、旦那、どうする。あとでまた日本人が誰か来てこのノートを見るかもしれないぞ」  タブちゃんも宮原君も閉口している。  結局、二、三頁白紙のままとばして名前を書き込んだ。  森の商店街には日本製のラジカセ、医療品や化粧品、米国のカンヅメなど、諸国の物資がぎっしりならんでいる。教会、学校、病院——いずれも木造だが、ひととおりの施設もそろっている。ないのは映画館くらいか、と思ったら、それもあった。文化センターなる看板をかかげた大きな小屋で週に二回、自家発電でタイや欧米のフィルムが上映される。内部で調子っぱずれのジャズの音がするのでのぞいてみると、十人ほどの色シャツ姿の若者がバンド演奏の練習をしている。壁には彼らの銃がたてかけてあった。それにしても何という暑さか。よくこんな暑さの中で人が暮らせるものだ、と感心する。 「ほれ、来おったわい。それがかつぎ屋だ」  大樹におおわれた森の小径を二十人ほどの男が六〇キロはあろうかと思われる大荷物を|背負《しよい》|子《こ》にのせて一列縦隊でやってくる。ワンカーの中国人たちに雇われた運び屋である。品物は衣料、食器類、電気製品と雑貨だが、いずれも申し合わせたように味の素のラベルをはりつけた石油カンを荷物のてっぺんにくくりつけている。  居住区のはずれに机を二つ並べた検問所があり、カレンの“税関吏”が品物をチェックして通行税を取る。製品によって税率は異なるが大体、七パーセントから一二パーセントまでだそうだ。日に百人は通るからこの通行税がカレンの最大の資金源となる。かつぎ屋の方もこれにより、密林内の通行の安全が保障される仕組みだ。 「ビルマまでどのくらいかかるんだい」  品物チェックの順番を待ちながら老木の根元にひっくり返ってタバコを吹かしている四十歳がらみの男に聞くと、 「四日から六日かな。雨期はちょっと時間がかかる。山越えに象を使わなければならないことがあるからね」  まずビルマ側のヤミ物資集散地モールメインまでかついで行き、そこで受け取り人にわたす。受け取り人もむろん中国人でワンカーの仲間とたえず連絡を取っている。物資はその場で卸市場に運び込まれるか、船に積み込まれ対岸のラングーンに送られる、という。 「こんな大荷物を背負って山の上り下りはつらいだろう」 「なあに、戦闘さえなければどうっていうことないさ。オレはこの道十年だ。月に二回運べば、あとはメソトで酒と女よ」  消費物資の不足に悩むビルマ側も、かつぎ屋たちの活動には目をつぶっている。ビルマから持ち込まれるのは名産のルビーやヒスイ、海産物、それにチーク材やカンヅメ用の肉牛であるが、“輸入路”は別ルートである。  ふたたび暗い密林に消えたかつぎ屋たちを見送ってから、教会に戻ると婚礼のさい中だった。イギリス人に教育されたカレンは英語達者のクリスチャンである。ビルマの他の少数民族と異なり、阿片の取り引きには手を出さない。この居住地での飲酒も禁じられている。婚礼はミサと揃いの白服を着た子供たちの唱歌隊の合唱で簡単に終わった。続いてオレンジジュースとコーラの乾杯で宴会が始まる。会食者の中には川向こうのタイ領メソトから着飾ってやってきた連中も少なくない。私たちも相伴にあずかった。タイ料理ともビルマ料理ともつかぬ皿が幾つもテーブルに並べられたが、早朝起床と暑さにゲンナリし、余り食指が動かない。  隣席の、居住区責任者の少佐殿が、 「いかがですか。わが国についてのご感想は」 「平和でのんびりしてますなあ。とてもゲリラ基地とは思えない」 「ここは基地ではありません。れっきとした町です。もっともビルマ軍部隊がときおり撃ち込んできますがね」 「少佐、遠慮なくうかがいますが、いつまでこうした抵抗生活を続けられるおつもりですか」 「ビルマ政府が独立を認めるまでです」 「認めますかね。認めないでしょう。あなたたちの独立を認めたら、カチン、シャンなど他の解放組織の要求もみんな認めなくてはならないことになる。ビルマの解体につながる」 「いや、我々への差別と迫害さえなくなればラングーンともうまくやっていけます」 「まあ、無理だな」  かたわらの谷村老人が日本語でつぶやいた。 「この連中も結局はタイの政府や利権屋たちに利用されているだけさ。歴史的宿敵のビルマ国内がまとまれば、タイにとっては大脅威だ。だから辺境の反乱分子を陰に陽に利用してラングーンを消耗させ、ついでに反共、反社会主義の外濠として利用しているわけだ。カレンはシャンやカチンと違ってお人好しだからその辺がよくわかっておらん」  老人はカレン族の運動に同情的だが、この「花咲ける大地」共和国の行く手は覚めた目で見ている。  それから少佐に向かって英語で、 「あんたたちも本気でやる気なら阿片はやらんなどときれいごとをいっておっちゃ話にならん。要はカネだよ。ろくな軍資金もないのに戦おうといっても、そりゃ、無理だ」 「いや、ご老人」  ふだんからいわれていることなのか、少佐は穏やかな笑顔でかわした。 「住民の士気は|旺盛《おうせい》です。武器もビルマ軍から奪って整備されつつあるし、ご存知のとおりボーミャ将軍は有名な戦さ上手です。時間はかかってもジリジリとラングーンに圧力を加えていきます」  老人は、ふん、ふんと|頷《うなず》いて苦笑いした。 「まあ、そういうことにしておこうか。どっちみちわしがくちばしを入れることじゃない」  午後の密林の暑さはいよいよ殺人的だ。  頭上を一面におおう部厚い茂みが地熱の発散を妨げるのか、シャツもズボンもべったりと肌にはりつく。 「夜は少しは楽ですよ。あなたたち泊まっていかれませんか」  少佐に誘われたが、老人が、 「無茶をしちゃいかん。この森は最も悪性のマラリア蚊の巣だ。夕方になると蚊柱で二メートル先も見えなくなる」  一カ月ほど前、西欧人記者二人がここを訪れた。居住者たちが三重に|蚊帳《かや》を吊るすよう忠告したのに、「なに、蚊などにやられる|柔《やわ》な体じゃない」と、小屋の軒先でゴロ寝し、一人はバンコクに戻って発熱死亡、もう一人も香港にたどりついたところで死んでしまったそうだ。  マラリアにはやられなかったが、重いカメラをかついで飛び回っていた宮原君が、突然、蒼白になって引っくり返った。 「おっ、おっ、変だぞ、ぼく、どうしたんだ」  自分でもびっくりしながら、口から泡を吹いている。熱射病だ。半分気絶した彼を、タブちゃんと川原の岩陰に運んだ。 「しようがねえなあ、おや、待てよ、オレも頭が痛くなってきた」 「オレは腹も痛い。あまり|喉《のど》が乾いたんで、さっき砲台のカメの水を飲んじまった」 「冗談じゃないよ。旦那、何年この国に住んでんの。クロマイ、すぐ飲んで」  タブちゃんは私に薬を渡すと、 「ふええっ、ダメだ。こりゃ、もうたまらん」  その場でシャツを脱ぎ、ズボンを脱ぎ、パンツまでかなぐり捨てて、パシャパシャとモエ川に駆け込んだ。 「待て、馬鹿、野蛮人。女性がいるぞ」  二〇メートルほど上流で若い娘さんらが食器を洗っている。あわててたしなめたものの、私の脳天も、もうクラクラである。こんな暑さは生まれて初めて体験した。  男二人、素裸で国境の川に潜水して、浮かび上がり、娘たちの目を恐れてまたあわてて潜る。水までトロンとなま温い。浮上したさい、板張りの橋の方に目をやると、さっきの新婚さんが手を取り合って渡って行くのが見えた。バンコク、チェンマイにでも新婚旅行に行くのだろう。タイ側の岸で、花飾りをほどこした草色のベンツが二人を待っていた。 [#地付き](「諸君」60・7)

  
サイゴンのナイトクラブ  旧南ベトナムが滅亡してから、十年余り過ぎた。サイゴン最期の日々は、まだ克明に脳裡に焼きついている。  共産軍の巧みな攻略による陥落であったのか、あるいは攻勢への対応ミスが招いた自壊であったのか。軍事的なことは私にはわからない。今さらそんなことを考えてもはじまるまい。  ただ、サイゴンという町に住みながら、いつかこの町が消滅するであろうことは、日々感じ続けた。さらにいえば、これは消滅しなければならぬ宇宙だ、と思った。  歴史の流れ、大国の思惑など、むずかしいことはともかく、あの町はこの世に存続し得るにはあまりに|蠱惑《こわく》的すぎた。その病的魅力の裏側にあるのは、陳腐な表現だがやはり“亡びの美学”であった。あの爛熟も|頽廃《たいはい》も|放埒《ほうらつ》も惨落も純粋さも罪深さも、そしてそれらとまったく相反する健全さも活気も、その底にいつの日か避けられぬ滅亡を自覚した人々のどうしようもない哀切と悲痛が無言で脈打っていたことを読みとらなければ、安手の週刊誌の|惹句《じやつく》に利用されるのがせいぜい、ということになる。  実際に、サイゴンの夜の世界は当時、たびたび日本の週刊誌をにぎわした。  ある人は、ニワトリと卵の関係を持ち出す。堕落がサイゴンの滅亡を招いたのか、逆に不可避の宿命への絶望と焦燥が堕落となって表われたのか。おそらくその相乗作用が、あの町を比類なく|妖《あや》しい|巷《ちまた》に仕立てあげていた。  今でも私は思う。こんごも、世界のどこを探しても再びあのように美しく悲しい宇宙には遭遇できまい、と。  南ベトナムを制圧した共産主義者たちは、この町をホーチミン市と改称した。往時のサイゴンを知るものにとって、これほどそぐわない名称はない。私はサイゴンを愛し、南ベトナムを愛した。だが、その私が最も尊敬するベトナム人は、やはりホー・チ・ミンである。  そして私は今も確信している。彼が存命していれば、断じて自らの名を町に冠するような真似はしなかったであろう。そんなことは、いくつかの挿話からうかがい知る彼の人格から考えられぬことだ。彼でなくても、なかば|依怙地《いこじ》なまでにすべての“権威”に反発するベトナム人の体質を知る者には考えられぬことだ。ペテルブルグをレニングラードと改称する発想は彼らにはない。ハノイのバディン広場のこれまた途方もない記念|廟《びよう》に生前の姿のまま眠るホー・チ・ミンは、自分の弟子たちの行為を「馬鹿めが」と痛恨をこめて罵っているであろう。  統一後のサイゴンは変わったのだろうか。 「イエス・アンド・ノー」  と答える以外なさそうである。  私がこの町を初めて再訪したのは、陥落七年後であった。  誤解を招くことを恐れずにいえば、社会主義政権下のサイゴンは、いぜんとして爛熟と自堕落の都である。えげつない活気に満ちた生活の場でもある。  人々は相変わらず何かと声高に罵り、|儲《もう》け口を求めて出し抜き合い、不満たらたら生きている。以前、その不満は「現在」の日々に向けられていた。今はどうやらそれ以上に「将来」の日々に向けられている。  統一後のハノイの為政のまずさがサイゴン住民の民心の掌握に失敗したことは、否定のしようがない。外部がハノイ攻撃の材料とするボートピープル問題やカンボジア進攻について、私は私なりの考えを持っている。だが、一九七九年の「中越戦争」のさいのサイゴン住民の反応には考え込まざるを得なかった。  当時、国外脱出をはかっていた旧知のインテリは、 「これで面白くなってきた。ハノイはつぶされるかもしれない。もう少しとどまってようすを見てやろう」  と、書き送ってきた。  常識的に考えても、中国軍がハノイまで攻め込むことはあり得ない。侵攻のインパクトでハノイが倒れることもあり得ない。こんなわかり切ったことも見通せぬほど、彼の理性と判断力は、ハノイへの怨みつらみで混濁していた。しかも憎しとはいえ、相手は同民族である。ここまで民心を離反させたハノイの為政の不手際は、どうも弁護の余地がなさそうだ。あてがはずれた彼が、その後、出国したかどうか、音信はない。  二年半前に訪れたとき、人々の不満は|諦観《ていかん》に包まれはじめているようにみえた。かすかながら将来に望みを求める声も聞かれた。  もっとも、夜の町は旧来通り、絶好の週刊誌ネタだ。ベトナムは東南アジア随一の美人国といわれる。夕涼みでにぎわう町の広場に出ると、たちまち彼女らに取り囲まれる。一〇ドル、二〇ドル、気の毒なほどの値段でどこぞやらへの同行をせがまれる。闇レートはときに公定の十五倍を越す。今のベトナムでは二〇ドルでも大変な収入になる。そのせいか、彼女らの身なりは驚くほどいい。そして一方ではこれまた以前同様、ボロ布をまとった孤児や物乞いが足腰にまとわりついてくる。  物乞いの攻撃は多少のドン紙幣でかわせるが、美人たちの誘いを斥けるのにはなみなみならぬ意志の|強靱《きようじん》さを必要とする。一夜の歓楽はともかく、彼女らがいったいどのように法網をくぐりぬけ、どんなシステムの下でどこを“仕事場”にしているのか、探求心、好奇心を抑えるのが一苦労なのである。  新生サイゴンを何回か訪れながら私が童貞を守り通したのは、とどのつまり、公安警察への恐怖からであった。外国人とくにジャーナリストとして情報に携わる者の動向は、日夜、公安の監視下にあるといわれる。本当か|嘘《うそ》か、外出するたびにそれとなく前後左右に気を配って歩いた。  かつて住み慣れた町である。市場の雑踏にまぎれ込みすばやく裏口から飛び出したり、人気のない路地を選んで歩けば、尾行の有無ぐらいは判断がつく。何回も試してみたが、どうしても常時監視の気配は感じられなかった。それでも公安警察という言葉がもたらす心理的効果は大きい。誘惑に負けて万一、妙な現場に踏み込まれるようなみっともない真似を演じるのはまっぴらだった。 「二、三年前まではずいぶんやかましかったのよ。密告が多くてうっかり口もきけなかったわ」 「君たちもかい」 「そう、私たちベトナム人もよ」  川面をくだる|羊草《ひつじぐさ》の塊りを目で追いながらランがいう。 「でも今はずっとよくなったわ。こうして外国人と出歩いても何もいわれないし」  彼女と知り合ったのは、その前々日である。サイゴンには幾つかの外国人専用ホテルがある。このサイゴン河畔のクーロン・ホテル、旧議事堂脇のドクラプ・ホテル、市役所前のベンタン・ホテル——多くが旧体制時代からの一流ホテルだ。  私はいつも河畔のクーロン・ホテルに泊まる。旧名オテル・マジェスティック、仏植民地時代からインドシナで最も格式が高いホテルとして知られた。電報で訪問日時を伝えると、外務局の要職にある元解放戦線幹部の知人が最高級のスイート・ルームを確保してくれる。調度は古びているが、温水バス、冷房完備のドでかい二間で、ちょっとした王侯気分にひたれる。一泊一二ドルと聞いて、最初は耳を疑った。 「外貨不足で苦しんでいるのに、どうかしてるんじゃないか。香港やシンガポールなら一〇〇ドル近くはするぜ」 「オレもそう思うんだがね」  五十歳がらみの幹部も少々いまいましげにいった。 「地方のちっぽけな外国人ゲストハウスも、このホテルも料金は一律なんだ。政府がきめちまったんだからしようがない」  市役所前のベンタン・ホテルは解放後、店開きした。ホテルの建物は、以前、米軍情報部の本部として使われていた。外務局は主としてソ連人や東欧諸国からの訪問者をここに宿泊させる。一種のブラック・ユーモアか。  このベンタン・ホテルに、現在のサイゴンで、いや、おそらくベトナム全土で、唯一のナイトクラブがある。週に一度、土曜日の午後八時から真夜中まで営業している。客は外国人か、外国人と接触するポストにある党、政府の要人に限られる。  |件《くだん》の幹部に誘われ、午後十時頃、のぞいてみた。そう広くない店内は、満席のにぎわいである。|無聊《ぶりよう》をもてあました長期滞在組、他のホテルから遊びにきたフランス人や西ドイツ人、亡命先に帰化した里帰りベトナム人——ソ連圏諸国からの客の中には夫婦連れも少なくない。どこへ出しても一流として通用するバンドがワルツ、タンゴから最新のディスコ・ミュージックまでこなし、ホステス兼ダンサーも三十人近く揃っている。幹部にいわせると、このあでやかなアオザイ美人らも政府の「トラバイユーズ(勤労者)」だ。時間が遅かったため、そのトラバイユーズたちはもうみんな他の客についていた。  なかに一人、飛び抜けてダンスの上手な|娘《こ》がいた。それがランだった。歌や踊りの名手が多いベトナム人の中でもこれほど見事に踊る娘は見たことがない。長い黒髪を水色のアオザイの肩に流し、フロアの人混みを縫うようにして、実に優雅に軽々とリズムに身をまかせている。クラシックの複雑なステップも、目まぐるしいディスコのさばき方もプロ顔負けである。相手のおそらく越仏混血らしい中年男のリードも悪くなかった。  隅の席で幹部と雑談を交わしながら、私はともすれば、彼女のしなやかな肢体の動きに見とれた。一見、踊りに熱中し、陶然としている。それでいて、その細く端整な容貌に、どこか遠くを凝視しているような、放心と冷たさが感じられた。 「気に入ったのかい」  幹部がからかうようにたずねる。 「うん、味けない社会主義国にこんな高雅な花が咲いているなんて想像もしなかった」 「何いってやがる」  苦笑し、 「奥さんにいいつけてやるぞ」  彼はサイゴン産の私の妻とも親しい。彼女が里帰りするたびにいたれりつくせりのサービスをしてくれる。このクラブにも何回か招待してくれた。 「〇〇さん」  と私は彼にいった。 「あんた、ここでオレの女房と踊っただろう。亭主であるオレの許可も受けずにだ」 「おい、よせやい」 「見逃してやるから、あの美人がオレに二、三曲付き合えるよう取りはからってくれよ」  相手はニヤニヤ笑って私の顔を眺めた。ライターをともしてマネージャーを呼んだ。  ラスト近くなって、彼女は席に来た。|流暢《りゆうちよう》なフランス語を話す。私たちは閉店までフロアで過ごした。 「父がダンスの教師だったの。私も小さいときから毎日、練習させられたわ」  素人離れしているはずだ。  解放後の風紀粛正で、父親の教室は閉鎖を命じられた。二、三年、慣れぬ賃雇いの体仕事などでなんとか糊口をしのぎ、最近はまた自宅の一室で細々と個人教授をはじめているという。大学生であった彼女はその間、このベンタン・ホテルのクラブ開設を知ってトラバイユーズに応募し採用された。 「給料はいいの?」  やや無遠慮に聞くと、黙って肩をすくめた。 「ほんの少しは父の助けになるわ。それより週に一度ぐらい踊らないと頭がどうかしちゃうから」 「踊りが好きだから? それとも他のことを忘れるため?」  また、肩をすくめた。 「食事に誘ってもいいかい。むろん、お昼ご飯だ」  相手は緩いステップを踏みながらしばらく私の顔を見つめ、 「いいわよ。どうせほかにすることないんですもの」  河岸に沿って歩き、桟橋の先の水上レストランでカニと鳩のグリルを食べた。ホテルに戻り六階の食堂でコーヒーや果物を前に夕方まで過ごした。川向こうのたそがれが美しかった。私はそれとなく、トラバイユーズの仕事について聞いてみた。 「公務員じゃないの。みんなアルバイト」 「お客に迫られることは?」 「あるわよ。あなたのように」 「ぼくは迫りゃしない。迫りたいけれど、君はどう見ても、そういうことに応じそうもない女性だ」 「でも、そっちの仕事をする人もあの中にいるの。相手はたいがいソ連人」  ちょっと吐き捨てるようにいった。 「上から命令されるのかい」  相手はしばらく黙っていた。それから、 「ソ連人の中にもときどきお金持ちがいるから」  といった。夕闇が近づいた。 「私、もう帰らなくちゃ。とても楽しかった。何年ぶりかで新鮮な空気を吸った気持ち」  ポケットから一〇ドル紙幣を何枚か取り出し、そっと手渡そうとした。 「何なの、これ?」  美しい顔に硬い色が走った。 「いや、何でもない。悪かった」  紙幣をポケットに戻した。 「怒ってないわよ。次に会ったときは私からねだるわ。でも、もっと大きなおねだり」 「何だい」  笑ってハンドバッグを引き寄せ席を立った。別れぎわ、小さな声で、 「私をこの国から連れ出して」  翌日の国内便でハノイに発った。  滞在中、中国国境の町ランソンを訪れた。  町は一九七九年の中越戦争の跡をそのまま残し、いまだになまなましい|瓦礫《がれき》の山だ。 「よくこれだけ壊しやがったな」  と、いささか呆然とする。 「でも、なぜもう少し復興しないんです」  同行の外務省の役人に聞くと、 「ムダですよ。今復興しても、またやつらがくればもとのもくあみです」  陽気に笑いながら、すぐ先の国境山頂で回転する中国軍レーダーを指さした。 「また来ますかね」 「来るでしょうね。また“懲罰”に来ます。とにかく北京にとって私たちは実に悪い生徒ですからね。しかし来たらまた必ずひどい目に会わせてやります」  不敵とも虚勢ともつかぬまなざしで、山頂をにらみつけていた。ハノイをはじめ北部ベトナム諸都市は、サイゴンとは比較にならぬほど貧しい。それ以上に対照的なのは、人々の気性の強さだ。路傍の茶店の相客や地方取材で接する住民の多くが、ときにくそみそに党や政府の指導部を批判し罵倒する。 「やつらどこまでオレたちを締めつける気だ。もうオレの行く先は墓場しかない」 「あんた、妾つきの豪邸に住みたくないか。ハノイ〇〇街××番地へ行けば買えるぜ」  教えられた住所は、共産党書記長レ・ズアン氏の公邸の所在地であった。  あまり激越な批判を面と向かってやられ、こちらはまたまた公安警察の目や耳を気にする。住民にいわせると、 「何、オレたちはベトナム戦争中も平気でいいたいことをいってた」  そうだ。 「だいいち、人の悪口をいうのをやめたらベトナム人じゃないからな」  本当に、統治するに始末に負えない反骨精神の持ち主たちであることを実感させられる。党も政府もこうした住民の気質にはただならず気を使っているようにみえた。建前上の制約は厳しくても、必ず抜け穴を設ける。 「連中を怒らせたら一日で党も政府も引っくり返されちまう。ほかの社会主義国のようにはいかないんだよ」  ホー・チ・ミンの偉大さは、この、アジア屈指の気性の強い個人主義者たちをひとつの火の玉にまとめ上げたことだろう。内部に充満する反骨精神も、ひとたび強大な外敵が現われれば結束してそちらにホコ先を転じる。中国の圧力は、今のハノイ指導部を側面から支援する方向にも作用している。どうやらそんな気がしてならない。  東南アジア諸民族の中で、北部ベトナム人ほど中国に対して激しい反感を抱いている民族はないのではないか。単に建国以前から相手に痛めつけられてきたことへの反感ではあるまい。近親憎悪に近いものすら感じる。  他の東南アジア諸民族は今日も華僑の経済制圧下にある。中央アジア諸民族はとっくに中国帝国の版図に組み込まれた。中国帝国からいちばん近い辺境に住むベトナム人は断固その自主性を守り抜いた。何よりの理由は、諸民族の中でベトナム人、とくに北ベトナム人が、経済的才覚のうえでも政治的権謀術数や知的吸収力の点でも中国人と競合し得る体質を備えていたからであろう。日本人も小才がきき模倣や吸収にたけた民族だが、中国を母とし続けたベトナム人の現実主義は、サムライ美学を捨て切れぬ私たちとケタが違う。  それにしても、国家あるいは民族というのは厄介なものだ。いくら反骨の気が旺盛でも、ベトナムは親であり教師である中国の底知れぬ恐ろしさを知っている。それがよけい|敵愾心《てきがいしん》を|煽《あお》り、対中国感情を曲折させた。そしてその曲折した国家感情が、結局は、はた目にもだらしがないほどのソ連のベトナム進出を許した。何と馬鹿げた次第か、と、気楽な観察者は思いたくなる——。  帰途、サイゴンに寄り、またベンタン・ホテルを訪れた。  翌日曜日、ランと動物園に行き、町へ引き返して前回と同じ桟橋の先のレストランで夕食をとった。朗らかだが、相変わらず、どこか冷たく静かな空気を身に漂わせている。  食後、住宅街の|邸宅《ヴイラ》の庭を利用した、カフェに案内された。老いたピアニストが、「ラ・パロマ」を弾き、「愛の讃歌」を弾き、それから私に目くばせして「さくら、さくら」を弾いた。こんな夜の芝生の庭で日銭を稼がねばならないような腕ではない。以前は音楽学校の教授あたりか、と見当をつけた。 「日本の歌ね」 「そう」 「明日発つの」 「うん」  彼女はかたわらの植え込みから摘んだハイビスカスの花を指先でもてあそんでいた。 「この前私がいったこと、おぼえてる?」 「本気なのかい。本当に国を出たいのかい」  周囲のテーブルを気にして低い声で聞き返した。幹部専用というわけではなさそうだが、客の大部分はいかにも風雪に耐えた革命の闘士といった感じの容貌風体である。 「ここにいて何の夢があるの。私、父よりもっと有名なダンサーになりたかったの」  私は黙った。 「踊りたい、ああ、思いっ切り踊りたい。一生涯、音楽に乗って流れていたい」  その目に、初めて見る、ひたむきな光があった。にわかに周囲の物の形や談笑の声が遠のき、目前に、まばゆく輝く清らかな若い娘の姿だけがあった。彼女はじっと私を見た。私が独身なら、この完璧な創造物の出国を実現させるために何カ月でもここにとどまり奔走する気になっただろう。  私は目をそらせた。彼女の背後の夏の星空に、雪をいただいたあの遠いランソンの山並みが浮かんだ。北部ベトナムで目にした人々の厳しさ、貧しさを思い出した。そしてあの|惨憺《さんたん》たる国情と、目の前の娘の瞳に宿る夢とを隔てるほとんど絶望的な距離を想い、この国とそこに住む人々への痛々しさに言葉を失った。ランは目を指先の花に落とし、長い間想いにふけっていた。急に花を芝生に投げ捨てて顔をあげ、 「私、あなたに悪いことをしたわ」  口調をあらためた。 「何だい」 「この前会った時も、あなたとどう過ごしたか、あなたがどんなことをいったか、報告書を書いたのよ」 「……公安警察の職員だったのか」 「正式な職員じゃない。協力の義務があるの。あのナイトクラブで働く者はみんなお客のことを公安警察に報告しなければならないの」  そうだ。そのくらいのことは当然、計算に入れておかなければならなかったはずだ。それにしても、まさか、この情|濃《こま》やかで、同時にどこか毅然とした|芯《しん》を崩さぬ娘が——。あらためてその美しい顔を見つめ、無言で肩をすくめる以外なかった。 「親切にしていただいたのにごめんなさい」 「——謝ることはないよ」 「でもね……」  突然、その目から涙がこぼれ落ちた。 「信じてちょうだい。私がいったことは本当なのよ。本当に、私、今すぐでもこの国から出ていきたい」 [#地付き](「諸君」60・2)

  
アンコールワット断章  |案内人《ガイド》のヘン君がホテルに迎えに来た。 「あまり道がよくないから覚悟してくださいよ」  あまりよくないどころか、町を出はずれると二車線の道路はまるで月の表面だ。ずっと以前は舗装道路だったのであろう。一九七一年の内戦以来、荒れ放題である。戦車の往来による陥没や地雷のクレタが、ほぼ一〇メートルおきに続き、もはや道の名に値しない。おまけに乾期のまっただ中である。一般車の往来はほとんどないが、数百メートル先で国際赤十字のマークをつけた大型ジープが一台、奮闘している。|黄塵《こうじん》万丈。よほど粒子が小さいのか、巻き起こった砂|埃《ぼこり》は、そのまま道路や両側の荒野をいつまでも包み込み、後続の私たちの視界をさえぎる。 「これはたまらん」  と、窓をしめると、車中はたちまち|天火《オーブン》である。日干しになるか、目や口の中まで砂まみれになるか、どちらかを選ぶ以外ない。 「もう少し距離をとろうや。あのいまいましいジープを先に行かしてしまおう」 「同じことだよ。そのうちに軍用トラックか何かに追い抜かれてまた煙幕の中だ」  ソクサン運転手は陽気にいって、クレタにはまらぬようせわしなく右に左にハンドルを切る。ときに障害物を避けそこなって車ごとハネ上がったり、前輪を穴ぼこに落としたりする。  そのたびにヘン君が「ヨーイ、ヨーイ」と楽しげな声を出す。 「先月、医療関係のカナダ人の老婦人を案内しましたがね、自分は世界の|僻地《へきち》をたいがい走り回ったけれど、こんなものすごい道は初めてだ、と感心してましたよ」  私の方は、とても感心している余裕はない。車の天井や窓わくに激突してコブをこしらえぬよう手足を踏んばるのに精一杯である。  プノンペンからアンコールワットに通じる街道は二筋ある。大湖トンレサップの東岸沿いに走る6号国道と、西側を迂回しいったんシソポンの町まで北上してからシエムレアプに折り返すこの5号国道である。6号国道を使えば三二〇キロほど、5号国道は五〇〇キロ近くある。道路の破壊度は似たようなものだが、この旅行を申請したさい、なぜか当局側は遠回りの5号国道の使用を指定した。東側の6号国道は進駐ベトナム軍の物資補給路として使われてでもいるのか。もっとも5号国道の方が、途中、トンレサップの漁業拠点プルサートや、カンボジア第二の都市バッタンバンなどを経由していくので道中は興味深い。  最初にアンコール遺跡行を試みたのは、一九七二年だった。その一年前からカンボジアはすでに内戦下にあった。革命軍「赤いクメール」の戦闘部隊が各地で政府軍を揺さぶり、遺跡群で名高いシエムレアプ州はじめ北辺諸州は彼らの支配下にあった。遺跡の中で最も有名なアンコールワットが「赤いクメール」に占拠され、その総司令部になっているとの情報も首都プノンペンに伝わっていた。  それでも、ものは試しとホテル玄関先の白タクの運転手に頼み込んでみた。 「無茶だ。旦那、死にに行くようなもんだぜ」  相手は言下に拒否したが、差し出した札束に心が動いたらしい。行けるところまで行こう、ということで話がついた。勇猛な面構えに反して、ずいぶん|肝《きも》ッ玉の小さい男だった。町を出てトンレサップ川沿いに三十分も走ると、 「爆撃だ! ほれ、もう戦場ですぜ」  なるほど、前方数キロの森から幾筋かの黒煙が上がっている。運転手は急ブレーキを踏み、さっさと車をUターンさせて町に戻ってしまった。  やがて内戦は終結し、全土の森から躍り出した「赤いクメール」が政権を握った。隣国タイからアンコールへの観光便が開設された。第一便が飛び、第二便が飛び、当時バンコクにいた私が第三便にブックインしたところで、ベトナム軍進攻により、「赤いクメール」政権は崩壊した。カンボジア僻地はまたもや戦乱状態に入り、観光便どころではなくなった。今回、政情がややおさまるのを待ってプノンペンを訪れ、ようやく遺跡への旅が実現した。  ソ連製の小型車「ラダ」は、5号国道を走り続ける。  運転手のソクサン親爺は五十歳代半ば。|僅《わず》か三年前まで「赤いクメール」のポル・ポト政権下で飢餓と強制労働に苦しんでいたとは思えぬほど、たくましく頑丈な人物である。以前はプノンペンで手広くタクシー業を営んでいたという。一週間来の付き合いだが、素朴、博識、沈着、生来楽天家でもあるのか、絶好の旅の伴侶である。若いヘン君はプノンペン大学の法学生あがりという。外務省所属の外国人訪問者用ガイドで、おそらくベトナムの支援下に誕生したヘン・サムリン新政権の幹部候補生だろう。小柄でまだ少年くささが抜け切れない。猛烈な親ベトナム派であり、ことあるごとに顔中まっ赤にしてポル・ポト政権の残虐ぶりを語ってきかせる。あまりむきになってベトナムをほめそやすので、 「でも、君、ベトナムだって君たちカンボジア人を救うためだけの目的でポト政権を倒したと考えるのはナイーブすぎるぜ」  茶々を入れると、よけい興奮して食ってかかってくる。 「ベトナムは真の兄弟だ。カンボジア人民の敵はポル・ポト、中国、それにアメリカです。ごらんなさい、この爆弾の穴。これもアメリカのしわざです。彼らは罪もない人々を殺し、我が国土を破壊した。恐ろしい犯罪です。許せない。けっして許せない」 「ところが君の好きなベトナムは、今そのアメリカと国交回復を望んでいる。となると君たちの立場はどうなるんだ」 「冗談じゃない。ベトナムがアメリカと国交を望むわけがありません」 「そうかな。気をつけてベトナム首脳の発言を調べてみろよ。ベトナムの踊りを踊らされていると、そのうちひどい目に遭うかもしれないぜ」 「そんな馬鹿な。彼らは本当の同志です」  髪を逆立てて、キラキラ光る目で私をにらみつけ、ぶつぶつ一人言をいって黙り込む。そのうちソクサン親爺になだめられ、機嫌を直す。 「あなたみたいなことをいう人には初めて会ったな」 「君たちの政府が“友好的人物”だけ受けいれてるからだろ。それにオレは物をいうときあまり遠慮をしない方だから」 「あなたはぼくたちに友好的じゃないんですか」 「きわめて友好的だよ。だから思った通りをいうんだ」  内戦とポル・ポト政権による国土破壊政策の跡は、車窓の両側いたるところに残っている。幾つかの町の跡を示されたが、残っているのは夏草におおわれ、爆破でひび割れた家々の礎石だけだ。首都プノンペンやその南部のタケオの町もそうだが、よくまあこれだけ徹底的かつ丹念に壊したものだ、と思う。とりわけ、この大湖の西側一帯は首都を捨ててタイ国境に北走した「赤いクメール」の|潰走路《かいそうろ》にあたる。もともと「石造りの家」は富裕者のシンボルとして破壊の対象とされたが、敗残兵のヤケッパチがひときわこのあたりを廃墟にしてしまったのだろう。  生き残った人々は、街道沿いに板切れやニッパやしの小屋をさしかけて雨露をしのいでいる。ところどころにちょっとした池ほどのぬかるみがあり、老若男女が腰までつかって底をさらっていた。 「あんなところにサカナがいるのかい」 「貴金属や宝石をさがしているのですよ」 「赤いクメール」はほとんど全土の都市住民を農村や未開地に移動させた。一帯の住民はそのさい貴重品を水たまりなどに隠していった。そこで新たな居住者がこうして連日、ぬかるみさらいに精を出すことになった。 「よく純金の仏像なんかが出ますよ」  ヘン君もサクソン親爺も人々の“収穫”が気になったらしい。車を停め何事か声をかけると、泥人形のようなおばさんが威勢よく答え、腰の布袋をたたいた。今日はついていたので二キロ近くかき集めた、という。  バッタンバンで一泊し、翌日の夕方シエムレアプに到着した。宿舎のグランド・ホテルは前内戦なかばまでフランス人が経営していた。植民地時代からインドシナ半島で最も名の知られたホテルの一つである。都市を容赦なく壊した「赤いクメール」も、各省に中国人顧問用の宿舎だけは残した。おかげでこの由緒あるホテルは破壊を免れた。宿泊客は二人連れのフランス人の医師と、遺跡修復調査にきたインド人の考古学者四人の二組。ほかに陰気な顔つきの中年職員が二、三人いるだけで、まるでお化け屋敷である。  シエムレアプ州にある石造遺跡は約二百七十を数える。最も有名なのがアンコールワットとアンコールトムである。  アンコールとは「首都」を意味するサンスクリットがカンボジア語になまったものだそうだ。  クメールの王がこの地を都城と定めたのは十世紀である。以来この地は“輝ける世紀”である十二世紀の繁栄を頂点に、五世紀半にわたってカンボジア(クメール帝国)の首都となる。王たちはいずれも精密複雑な様式の巨大な石造建築物の造営マニアであったらしい。  アンコールトムは第一期の盛時には一三平方キロにわたって広がっていた大都城で、住民十万を数えたという。遺跡は観音菩薩の巨石四面像で有名なバイヨンの神殿を主体に一辺三キロの城壁内にある。ジャングルに埋もれていた遺跡は十九世紀なかば、フランス人によって世界に紹介された。当時一帯はシャム(現在のタイ)領土であった。踏査に乗り込んだフランス海軍士官のドラポルトは、高さ五〇メートルの中央塔を取り巻いて林立する奇怪な四面像の迫力に圧倒され、 『おそらくこれはクメール族が残した建物のうち、もっとも奇異なものであろう』  と記している。  ついで彼は、計五十四の四面像がまだ金泥に覆われていた建立当初の景観を想像し夢中になるのだが、彼が訪れたとき、遺跡の荒廃はすでに甚しかった。 『建物の周辺、内部塔、腰石などは石材の破片や丸天井の崩壊物、その他さまざまの断片で埋まり……。どんな塔も、その構造が樹木の力で離ればなれになっていないものはなかった。人面はゆがめられ、しかめ面をしているように見え、あるものは|静謐《せいひつ》な微笑を浮かべて元の表情をとどめていた』  当時の描写は、今日もそのまま通用する。  シャム軍の略奪、自然崩壊、そして何よりも密林の巨木による侵蝕——。フランス植民地時代、遺跡はフランス考古学者らにより多少整理された。ついでに学者たちは仏像、彫刻など値打ち物の多くを失敬してパリのギメ博物館に運び込んだ。若き日のアンドレ・マルローが盗掘の|かど《ヽヽ》でプノンペンの法廷で懲役三年の刑を言い渡されたのは有名な話である。  ただしマルローが石像を切り出したのは、ここよりさらに北方のバンテアイ・スレイの神殿跡だ。 「行けるかね?」  ヘン君にたずねると、 「許可を取ってきませんでしたから」  シエムレアプの兵営から護衛についてきた二人の若い兵士も固い表情で首を振った。アンコール以北の密林地帯はタイに近いせいもあり、まだ治安が万全ではないらしい。  翌日、アンコールワットを訪れた。トムとワットの両遺跡は密林に隔てられ、距離にするとかなり離れているが、いずれも面積が広大なため、実感としてはほとんど隣接している。  ワットの寺院は、宿敵チャンパ帝国を制圧したスリヤバルマン二世(一一一三─一一四五年頃)によって建立された。チャンパは現在のベトナム沿岸からインドシナ半島南部一円に隆盛した地場民族チャムの大帝国である。中国語では林邑と呼ばれる。度重なるクメールとの攻防に疲弊し、ついでベトナム民族の南進によって滅んだ。現在チャム族はベトナム、カンボジアの少数民族として細々生き残っているに過ぎないが、彼らの音楽や舞踊は中国を経由して日本に伝わり、今日も保存されている。雅楽の|林邑楽《りんゆうがく》である。  アンコールワットは、真西を正面に建てられている。夕映えの効果を狙ってか、午後遅く案内された。境内に入り、前庭に広がる巨大な人造湖の橋上から遺跡を目にした第一印象は、 「アンコールワット、健在なり」  であった。  そのわりに、はるばるたどりついたという感慨は薄い。写真でなじみすぎてしまったせいだろう。すでに何回となく目にした映像の実物がそのまま、眼前に展開している。世の遺跡、記念物あるいはただの観光地にしてもそうだが、実際に訪れる気があれば予め写真など目にしない方がいい。もしかしたら得られるかもしれぬ“初対面”の感動が減殺されてしまう。  遺跡の建材には主としてインドシナ特有のラテライトやトンレサップ湖から舟で運んだ硬質の巨石が使用されている。アンコール期を通じ、インドシナ諸帝国の抗争は激烈を極めた。そしてこれら巨大建造物の造営には、奴隷になった敗軍の兵士や住民が使役された。おそらく、インカ帝国の遺跡も、エジプトのピラミッドも、ボルブドールの寺院も同様であろう。  だが、そんなことは別にしても、このカンボジアの有名な遺跡の陰惨さには閉口させられる。 「トムもワットもカンボジア民族だけの遺産ではない。人類共通の遺産です」  押しつけがましくくり返す初老の案内人を振り切るようにして、一人境内をさまよう。ワットを拠点にした「赤いクメール」は、ここでも徹底した仏像破壊を行なったというが、遺跡とは元来、壊されたり盗まれたりするために存在するようなものであろう。アンコールの|凄《すご》さはむしろ、ドラポルトが描写した荒廃と破壊にある。血みどろの戦いで築いたかつての王の狂気の栄華と、それを何百年にわたって腐蝕させ死滅させたこのまがまがしい密林の溶解力との、鬼気迫る調和にある。  回廊は、本殿を取り巻き三層に築かれている。全長一キロに及ぶその壁には、戦闘、宗教儀式、往時の日常生活のさまを伝えるレリーフが施され、描かれた人物は万余にのぼる。かねて耳にしていた通り、第一回廊東側の破損が最も目についた。内戦中、シエムレアプの町に布陣していたロン・ノル政府軍の砲撃による破損だという。  その先の「天国と地獄」絵図の個所で思わず足を停めた。人々の長い行列が牛に乗ったシバ神の裁きを受けて二組に分かれる。一方は天国に上り、一方は地獄に落ちていく。地獄に落ちた者は、逆さ吊りにされ、刀や棒で|殴殺《おうさつ》され、野獣に投げ与えられ……。その地獄絵図が、プノンペン市内の「赤いクメール」時代の刑務所トルスレンに陳列されていた拷問光景そのままであったのは、いささかの驚きだった。後手に縛られた裸の受刑者らを獄吏たちが横抱えにして処刑場あるいは仕置台に運んでいく。受刑者は頭部を押さえつけられて水に漬けられ、足に石の重しをつけて吊り下げられ、奇妙な恰好で鉄の手かせ足かせに固定され、獄吏に打ちすえられる。  その縛り方、抱え方、拷問のバリエーション、獄吏らの陰惨な喜びの表情、どれをとっても、トルスレンだ。内戦中、遺跡にたてこもっていた「赤いクメール」の兵士たちは、このレリーフを毎日見ながら「敵」への報復の方法を学んでいたのだろうか。  とてつもない|殺戮《さつりく》と権力を象徴する灰色の諸塔をあらためて仰ぎ、「先祖がえり」という言葉を思い出す。クメールの王たちは、その超絶的な権力を使って血の海の中にこの巨大石造建造物を築き上げた。王たちがこの地を去った原因はナゾだ。ハンセン氏病の流行ともいわれるし、新興シャム帝国の圧力ともいわれる。しかし、帝国の衰退と没落が莫大な国富と人命を注ぎ込んだこれら土木工事により促進されたことは間違いあるまい。代々の王が建設に狂奔し自ら滅んだのに対し、「赤いクメール」は破壊のとりことなり自らの首を絞めた。どちらがより多く人々の血を流したのか。  回廊に沿って歩きながら、数日前訪れた首都郊外の集団処刑場跡を思い出す。  川の|畔《ほとり》の草地にいくつもの凹地があった。  その一部は掘り起こされ、数千のシャレコウベがかたわらの納骨小屋に積み重ねられていた。半分以上は未発掘であった。トルスレン刑務所で拷問に耐えかね、過去の“反革命行為”を自白した人々が連行され撲殺されたという。掘り起こされた穴は一〇メートル四方、深さ二メートル余りか。未発掘の墓穴が凹んでいるのは、土中に折り重なった死体の肉が溶け表土が陥没したからだろう。数十の凹地を掘り起こせば幾つ死体が出てくるか見当もつかない。穴の底も草原も一面の骨片である。他にも何カ所か同様の集団処刑場を見たが、どこも人骨を踏みしだかなければ五歩と歩けない。灼熱の太陽の下に、国中、幽鬼が満ち満ちているような錯覚にすら陥る。  穴の底に飛びおりたヘン君が二〇センチほどの|大腿《だいたい》骨を拾い上げ、 「これは赤ん坊ですね」  すでに慣れ切った口調でいう。  彼は奇跡的に家族全員、ポル・ポト体制下を生きのびた組だ。ヘン・サムリン政権成立直後、プノンペンに戻ると、新当局の宣伝車が「誰か外国語の話せる人はいませんか」と町に触れ回っていた。フランス語に|堪能《たんのう》なので名乗り出て、即日、外務省職員に採用された。彼の上司の外務省新聞局長は、ロン・ノル反共政権時代、憲兵隊長だった。局次長は以前の米国大使館雇員である。いずれも宣伝車の呼びかけに応じ、その日のうちに現職に任命された。  川原の集団処刑場で、一人の女性に出会った。しなやかな肢体を、|裾《すそ》に金糸の|刺繍《ししゆう》をあしらった黒衣に包んだ二十歳代なかばの女性である。この国の女性にはめずらしく彫りの深い、|琥珀《こはく》の肌の優雅な美人だ。無言で私たちを見据えた目に、冷たく異様な光があり、その妖しさに見とれた。長い間、納骨小屋の前にたたずみ、やがて手にしたジャスミンの花を、幾つかのシャレコウベの鼻孔にさして、どこかへ立ち去った。 「彼女は、元カンボジア航空のスチュワーデスです。同僚もパイロットも全員殺され、ただ一人の生き残りです」  と、ヘン君がいった。  どうも気分が滅入る一方の遺跡訪問であった。そのせいか、三日目には猛烈な下痢と発熱に襲われた。ヘン君とソクサン親爺を心配させないため我慢をして予定をこなしたが、アンコールワットの第三回廊への石段で体力が尽き、四つん|這《ば》いではい上がる羽目になった。そう高くはないが、おそろしく|急 峻《きゆうしゆん》で完全に人間工学を無視した造りである。わきに手すりが取りつけられており、正常な体調でもその助けなしにはのぼれまい。 「かつては王だけが、|輦台《れんだい》に乗って上り下りできた。臣下はみんなあんたみたいに這ってのぼらなければならなかったんだよ」  中年の案内人がニヤニヤ笑う。  この男は二言目に、 「アンコールは私の生命だ」  と口にする。ポル・ポト時代は地方に追いやられたが、その後また舞い戻ってこうして遺跡守りをしているという。そのくせ、ヘン君らの目を盗んで私を物陰に呼び、小さな仏像の頭などをポケットから取り出しては、 「一〇ドルでいい。女房も子供も二日前から飯を食っていないんだ」  などという。  帰途はまた“世界一”の悪路との闘いになった。道中にスタンドがないので、トランクはガソリンのポリ容器で一杯である。ラダは、炎天下をゲンナリと牛車で行き来する農民らを遠慮会釈なく砂煙に巻き込んで走る。車中の私は煙草一本吸えない|苛立《いらだ》たしさで哀れな彼らに同情する余裕もない。熱と暑さと疲労でボーッとなった|脳裡《のうり》にあのバイヨンの奇怪な四面像が浮かぶ。像の多くは顔の見分けもつかぬ、ただの|尖《とが》った岩山と化していた。何体かは、分厚いくちびるをした巨大な|菩薩《ぼさつ》面が不気味に表情を凍らせ、歴史を見降ろしていた。川原で出会った、あの黒衣の女性の冷たく動かぬまなざしが、それに重なり合う。  どう思い返しても呪われた遺跡だ、二度とここへは来るまい、と思う。 [#地付き](「諸君」60・6)   *文中引用はドラポルト「アンコール踏査行」・三宅一郎訳から。 [#改ページ]

  
滑走路の暗殺  残照のマニラ湾——。  ロハス通りのレストランのテラスから眺めると、観光ポスターそのままの色彩と構図である。ダイダイ色に燃える海と空、灰色から暗灰色に移りゆくちぎれ雲、その下の部分は海の向こうに没した日輪の最後の照り返しを受けて黄金色に輝いている。  風はない。並木のヤシは自らの葉の重みで思い思いにうなだれ、背後の海と空を黒く染め抜いて寝仕度に入っている。 「いつ見てもすばらしいね」  と、私はいう。 「東京の夕暮れは、まるでゴミ捨て場の空だ。色も形も光もない」 「ふん」  大佐は憂鬱そうな顔で、臓物料理のカレカレを土鍋から皿に移す。 「少しやらないかね」 「いや、結構」  七不思議の一つだ。生活を享楽することにかけては達人ぞろいのこの国の人々が、なんでこんなものすごい土鍋料理に夢中になるのだろう。 「ところで、オレに話せることは何もないぜ。誰が下手人か、黒幕は誰か、なぜあんな方法でやったのか——」  目を上げず、フォークを口に運びながら、いった。 「泣く子も黙る国家警察の幹部が何も知らないのかね」 「この国では暗殺は政治だよ。政治にはいっさい触れないのがフィリピン軍部の伝統だ」 「あんたはそうかもしれない。でも軍部の中にだってハネ返りはいるだろう」 「知らんね。とにかく捜査は今のところ、首都圏警察の仕事だ。国警は何も関知してない」 「誤解しないでほしいんだ。僕は犯人捜査なんかに興味はない。この事件がフィリピンの国情にどういう影響を及ぼすか、あるていどの見当をつけておきたいだけだよ」  大佐は肩をすくめ、ナプキンで唇をぬぐった。 「わからんよ。突然のことでまだ町中がいきり立っているからな。大統領が下手に動けば、火に油をそそぐことになりかねない」 「………」 「ただ、フィリピン|気質《かたぎ》というのは、根は暴力を好まない。せっかちに判断することはできないよ」  フィリピンの反体制政治家ベニグノ・アキノ元上院議員が暗殺されたのは、その前々日の昼過ぎであった。事実上の追放先アメリカから、偽造パスポートを使って強行帰国をはかった。動きを察知したマニラ空港警察司令部は搭乗機の着陸とともに三人の兵士を派遣し、氏を機外に|拉致《らち》した。殺害は抜く手もみせぬ早業で行なわれた。  数発の銃声を耳にした機内の乗客が窓に顔を押しつけたとき、氏はすでに死体となってタラップの下に倒れ伏していた。数メートル離れてもう一つ、小肥りの男の死体があお向けに転がり、空港司令部当局は、この男が下手人であり、氏暗殺直後、兵士らに射殺された、と発表した。  当局側の発表を信じる者は誰もいない。この辺がこの暗殺事件を企画・実行した(おそらく)軍人グループの奇妙なところである。暗殺そのものは白昼の滑走路を舞台に、幾多の視線の一瞬の死角を衝いて、もののみごとにやってのけた。その後の筋書きは、子供だましとすらいえぬほど粗雑きわまる。もっともこのチグハグさは、事件の陰湿さを中和し、何か劇画じみた色合いを添えた。こうしたスカタンぶりも、この国の人々の“人の好さ”を示すものと解釈すべきなのか。  事件発生を東京で知り、二十四時間後に現地に飛んだ。  暗殺されたアキノ氏を、私は直接知らない。フィリピンの国情について継続的にフォローしたこともない。こういうとき困るのは土地の人々の発想や感情の“回路”がつかめないことだ。  人々は炎天下の空港前広場に群がり、|拳《こぶし》をふりかざし、プラカードを打ち振り、暗殺者への怒りを示威していた。行きつけのマカチ地区のホテルに向かう道筋も集会の波で埋まり、完全な人民管理状態である。ふだんは人なつこく、当たりの穏やかなこの町全体がすっかり形相を変えている。 「誰が|殺《や》ったのかね」 「きまってるじゃないか、あんた」  運転手は肩越しに右手の親指を突き出し、 「アキノを|殺《や》れる者は一人しかいない」  マルコス大統領のことだ。  おそらく、その時点では、誰に聞いても同じ返答が返ってきたであろう。  アキノ氏は大統領の宿年の政敵であった。  個人的には二人の仲は悪くなかったといわれる。ときに「兄弟」と呼び合う仲であったそうだ。二人の知人らは大統領とアキノ氏を「一卵性双生児」と呼んでいた。並はずれた権力志向、国家近代化への意欲、周囲をおびえさせる権謀術数の才——これら共通の体質がかえって二人を対極的位置においた。長期の権力死守をはかる大統領に対し、アキノ氏は果敢な抵抗者としてスター的人気を博した。  大統領は、その人気を背後に再三の懐柔の手をはねつけたきかん気の“弟分”を長年、首都中心部のボニファシオ兵営に軟禁し、次いで米国に出国させた。軟禁中のアキノ氏は、当時のマーシャル・ロー(戒厳令)下の軍事裁判で、死刑判決を受けた。大統領は刑の執行を許可しなかった。逆にこの死刑囚をときおり兵営から大統領官邸に招き、膝を交えて政治談義にふけったという。  アキノ氏が強行帰国の意思を表明したさい、大統領は米国に使者や親書を送り、何度も、翻意を促した。「君の帰国を喜ばない者がいる。現時点で帰国したら生命の安全を保障できない」  アキノ氏はこれを脅しと受け取った。そして密かに東京・台北経由で帰国し、故国の土を踏んだ瞬間(あるいは踏む直前)、何者かに頭部を射ち抜かれて即死した。  ホテルに荷を解き、その足で首都圏警察長官の記者会見に赴く。長官のオリバス将軍は金輪際、敵に回したくないような、|獰猛《どうもう》な面構えの人物であった。テレビ・ライトを浴びながら、迫力満点のダミ声でまくし立てる。アキノ氏の入国経路、殺害時の状況、凶器の断定経過など。しかし、ときにそわそわと|猪首《いくび》の汗を拭く態度から、真実と異なる発表をしていることは容易に察しがついた。  それにしても、氏はあまりに不用意であった。機内で随行者らにサファリ・スーツの下に着込んだ防弾チョッキを示し、上機嫌であったという。「レーガン大統領が射たれたときに着ていたのと同じ品だぜ」偽造パスポートに用いた変名はマーシャル・ボニファシオ。マルコス体制を象徴する戒厳令と、自分が軟禁されていた兵営の名をもじったものだ。本名以上に正体を示す変名だが、氏自身は「いい名前だろう」と側近に自慢していたそうだ。  聞きかじりの判断だが、私は政治家としてのアキノ氏をそれほど買っていなかった。行動力に富んだ快男子ではある。だが、政治家としては、マルコス大統領と格が違う。防弾チョッキや変名の話から氏の軽率な自信家ぶりを知り、やはりそのていどの人物であったのか、という気がした。  それに、フィリピンに限らず、東南アジアの多くの国には一つの原則がある。政敵に迫害され、追放されるようでは話にならぬ。いわんや自信におぼれて暗殺されるに至っては、政治家失格といっていい。身もふたもない原則だが、ある国々の政治力学はそれ自体、身もふたもない。延べ八年近くこの地域の政争劇を目にしていると、この辺の見方はどうしてもシニカルになってくる。  夕刻、アキノ氏の非業の死を悼む大統領のテレビ演説があった。 「私は深い衝撃を受けた。ニノイ(氏の愛称)は、私にとってよき友であった……しかし、私情を殺していう。彼がフィリピン共和国に対して行なった行為についてはいまだに残念に思う」 「こすからいキツネめ」  隣りにいた地元紙の若い記者が吐き捨てるようにいう。彼も戒厳令で粉砕された学生運動の指導者の一人である。  夕食後、大佐に電話をした。彼とは二年余り前、この国に|跳 梁《ちようりよう》する日本ヤクザの取材をしたさい知り合いになった。フィリピン警察は組織上、軍の一部をなしている。マニラを管轄する首都圏警察と全土の治安を担当する国家警察の二系統があり、大佐は国警軍の所属である。肩章姿は生粋の軍人だが、平服に着がえるとしたたかな遊び人だ。最初からなぜか馬が合った。ヤクザの取材が片づいたとき、 「慰労会をしてやるぜ。一晩バギオにくり込もうじゃないか」 「なんであんな山奥まで?」 「わかってるじゃねえか。マニラじゃ女房の目がうるさい」  彼が運転する日本製小型車でベンケット道を走り、松林の中の民家風のホテルで少々|不埒《ふらち》な騒ぎを演じ、それでますます意気投合した。いったん友人になると、フィリピン人は無類に気前がいい。  ロハス通りのレストランで、大佐の口は固かった。本人の言葉通り、これといった情報を持っていなかったのかもしれない。  最後にとってつけたようにいった。 「フィリピンは三百年間、スペインの暴政下にあった。今もこの国はカトリックの国だよ」 「どういうことだい」 「さっきいっただろ。忍従と寛容の国、ということさ」  翌々日、当局側の解剖を終えたアキノ氏の遺体は、ケソン地区の自邸に帰った。  町の興奮はさらに高まり、大学、高校、職場での抗議集会が相次いだ。当局側は間欠的に首都への送電をカットして集会者の気勢をそぐと同時に、近郊の連隊を市内に導入し、騒乱やテロの防止態勢を固めた。  クラクション・デモでほとんど身動きもできぬ通りを三時間以上かけて、ケソン地区の自邸に遺体を見に行く。  おりから、急ぎ米国を発った未亡人コラソン夫人の帰宅と重なり、アキノ家の周辺一キロ四方は|立錐《りつすい》の余地もない人波で埋まっている。氏の郷里タルラック州やルソン島各地の支持者はもとより、遠くセブ島、ミンダナオ島などからの弔問者も多い。異様な熱気、というより一種のお祭り騒ぎだ。ニノイ・カラーと称する明るいクリーム色のスカーフを巻いたボーイスカウトのような青年団が、門前にとりつけられたサーチライトの下で、弔問者の列を整理している。  汗だくになって人垣をかきわけ身分を告げると、銀ブチの眼鏡をかけた大柄な好男子が丁重に招じ入れてくれた。写真でおなじみのアキノ氏によく似た顔立ちである。実弟であった。さし出された名刺に、何とかいう会社のマネージャーとある。 「アルバイトに映画俳優もしてますよ。もっとも|傍《わき》役ですがね」  棺頭にはそぐわぬにこやかな挨拶である。  |柩《ひつぎ》は一階のサロンの中央に祭壇を設けて安置してあった。ガラスぶた越しの死顔は白くむくみ、生前の精悍な面影をとどめぬほど鈍重で威厳がない。母堂が、暗殺者への抗議と怒りを表わすため、射殺時の姿のまま遺体を弔問者の目に触れさせるように言い張ったという。  彼女は気性の激しい女性だ。息子を共和国大統領にすることだけを目的に、その半生を過ごしてきた。州一番の名家であったアキノ家の土地はほとんど彼女によって売り払われ、氏の政治活動資金となった。  血糊にこわばったサファリ・スーツ。乱れた短髪、閉じた両眼の下の真黒な|隈《くま》。額や頬の暗褐色の擦過傷は、焼けつく滑走路になぎ倒されたさいに生じたのだろう。  母堂の気持ちはわからぬではないが、こんな生々しい姿を衆目にさらすのは、むしろ故人に残酷なのではないか。あるいはこれまたアキノ家らこの国の上流社会に残るスペインの血を示すものなのか。  そんなことを考えながら死顔を検分していると、表ではなやいだ女性の声が交叉した。コラソン夫人が着いたらしい。色白のしなやかな体を黒衣に包んだ若々しい女性が足早に現われ、私たちは席をはずすよう求められる。中庭に幾つかテーブルがならべられ、飲物の用意がしてある。二十分ほどして柩の夫との対面を済ませた夫人が出てきた。その表情、態度の明るさに、またまた驚かされた。中庭で待ち受けた親戚の女性や友人らと嬉しそうに|抱擁《ほうよう》し合い、にぎやかに挨拶を交わしている。湿っぽいところは少しもない。よほど気丈な女性なのか、あるいは悲報を受けてすでに四日余り、その間にしっかりと心構えを固めてきたのか。  それにしても、夫妻のオシドリぶりはかねて評判だった。あの|凄惨《せいさん》な遺体を目にした直後に、こうもかろやかに屈托なくふるまえるものなのか。大佐のいう通りだ。日本人の感覚でこの国の事件を見ていたら、えらい報道ミスをやらかしかねない。  葬儀と埋葬はその一週間近く後に行なわれた。当初の予定よりも日取りを遅らせたのは、息子の無残な死体をできるだけ多くの人々に見せつけ、町の反マルコス機運を盛り上げよう、という母堂の作戦であったらしい。この間、遺体はトラックに積まれ、ケソンの自宅と中部ルソンの郷里タルラック州を往復した。二〇〇キロの沿道は人で埋まり、故郷の町に号泣と怒声が渦巻いた。アキノ家はこの地方のお|館《やかた》さまである。長男の氏は二十二歳で町長に推され、数年後に州知事、そして三十歳そこそこで中央政界に進出した。 「追悼というより、まるでさらし者だな」  遺体に同行した記者仲間の一人が|憮然《ぶぜん》という。 「どうもよくわからねえ。昼間は涙々の連中が夜になるとニノイ・Tシャツを着てディスコでどんちゃん騒ぎをしてるんだ。いったい悲しんでるのか、楽しんでるのか」  土地の小売商らが、口角泡を飛ばして大統領や軍部の非道さを罵る一方、手回しよく氏の愛称を染め抜いたニノイ・Tシャツなるものを大量に売り出し、稼ぎまくっていた光景も彼を考え込ませた。  国中騒然としている中で、首都の険悪さは日ごとに増していった。集会流れの学生や労働者と警官隊の衝突が起こり始める。各ホテルやショッピングセンターの入口はテロ防止の治安部隊に固められた。アキノ家を中核とする反体制派と大統領側の全面対決を回避させるため、カトリック最高位のシン枢機卿が双方の間をあわただしく行き来した。アキノ家は強硬だった。大統領の使者としてケソンに弔問に訪れたビラタ首相やロムロ外相に門前払いを食わせた。葬儀めざして全国から人々が集まる。郊外の軍もいよいよあわただしく移動し、これでは当日、何が起こるかわからない。アメリカのテレビ各社は内乱にそなえて何組ものスタッフを本国から急派し、市民も預金の引き出しや食料の買いだめに走った。  こりゃ、一騒ぎ避けられまい、と私もなかば観念する。こんなところで騒乱の巻き添えはまっぴらだが、これも給料のうちか。治安部隊と群衆の衝突が始まったら、できるだけ早くどちらが優勢か見きわめることだ。負け犬と行動を共にしたら、ろくな目に遭わぬことはこれまで何回かの騒乱取材の経験からわかっている。  葬儀前夜、大佐から電話が入った。 「聞いたか、大統領は思い切った賭けに出るらしいぞ」 「どうするつもりだ。一挙に鎮圧か」 「逆だ。明日は全軍を兵営に閉じ込め、いっさいの外出を禁止する。葬列警備の警官も最小限にとどめ、銃もピストルも携帯させない」 「なんだって? 完全な丸腰かい」 「そうだ。今、命令を受け取った。いかなる挑発に対しても、微笑をもって対せよ、という命令だ」  受話器を置いて、|唸《うな》った。  たしかに大バクチだ。裏目に出たら、ハチの巣をつついた騒ぎになるだろう。へたをすると、そのまま内戦突入も覚悟しておかなければ。だいいち、当の警官らに無防備で大群衆の中に出ていく度胸があるのだろうか。  当日は緊張のクライマックスであった。  葬列はケソン・マニラ地区の下町から海浜のロハス大通りを通って首都圏中心部を南北に縦断し、パサイ地区の埋葬地まで、三〇キロ近くを進む。  早朝のロハス通りはすでに黒山の群衆である。数十万人、いや百万人近く。おそろしいほどの人出である。大佐が教えてくれた通り、警官の数は驚くほど少ない。だいたいどこの国でも警察官というのはピストルをぶら下げているからさまになるのであって、こうしてガン・ベルトをはずしてしまうと気の毒なほど頼りない。もっとも当の警官らはそんなことは一向気にせぬ様子だ。三々五々固まって周囲の群衆と気楽に冗談を交わしている。無理をしているのか、本当にくつろいでいるのか、判断がつかない。  各種の反政府プラカードを手にした葬列露払いのデモ隊が通りすぎる。千人、二千人と隊をなしてあとからあとからやってくる。胸ポケットのトランジスタ・ラジオの実況放送が、柩を乗せたトラックは数時間前、教会を出発したものの、下町で群衆に取り巻かれ動きがとれなくなっている、と伝えた。  正午過ぎ、アキノ氏の実弟ブット氏を先頭とする一団がやってきた。炎天下の群衆はさかんな拍手を送り、長身のブット氏もにこやかに左右に手を振っている。  再び、葬列なのか、お祭りの行進なのかわからなくなる。通りに面したリサール公園はまるでピクニック場だ。バスを連ねてやってきた地元のおばさんたち、高級住宅地マカチ地区の住民、臨時休業の諸官庁の職員たち。それぞれ弁当を広げ、芝生に車座で|団欒《だんらん》し、ジュース売りが呼ばわり、子供たちが駆け回る。  だが、私も南国の群衆の恐ろしさには覚えがある。一見のんびりしたお祭り気分が、何かのはずみで発火すると、たちまち天地を引っくり返すような修羅場となる。最初から血相を変えているよりも、かえってへらへらと弁当を食べているような場合の方が|剣呑《けんのん》なのだ。  炎天下のビルのテラスに陣取っての長い長い待機——。 「やだね、これじゃ、こっちの神経が参っちまう」  行き合わせた初老のアメリカ人女性記者が顔の汗をぬぐいながら、不機嫌そうにボヤいた。何やらむずかしい博士号を持ち、諸国首脳との会見でもズケズケものをいう名物婆さんだが、その彼女にもこのつかみどころのない持久戦はこたえるらしい。  木陰を求めリサール公園に足を踏み入れたとき、にわかにパラパラときた。あっという間に土砂降りだ。すさまじい雷鳴と稲妻。つい今までの抜けるような青空が、ほんの一、二分で渦巻く雲の塊りと化している。逃げる暇もなくびしょ濡れになり、たちまち全身がガクガクと震えた。  車軸落としの雨の中を、果てしない葬列は変わらぬテンポで進んでいった。水煙を通してようやく、巨大な装甲車のようなトラックに高々と積まれ、ゆっくりと浜辺の道を進んでいく柩が見えた。不気味な光景であった。  埋葬は真夜中近くに終わった。  低姿勢に徹した大統領の賭けは成功した。総計二百万人からの人が街頭に出たにもかかわらず、一件の小競合いもなかった。  当日の犠牲者は、リサール公園の木に登って葬列を遠望していた群衆のうちの一人だけであった。あの突然の大夕立に襲われ、落雷で死亡した。  いまだに首をかしげたくなる。奇跡に近かったのではあるまいか。熱しやすく冷めやすい南国気質——そんな安易な見方では片づけられない。結局、何の底が抜けていたのか。空港へ降り立つなり思わず胴震いさせられた、あの、町をあげての怒りと緊張のエネルギーは何だったのだろう。今なお、私は解答が得られない。もしかしたらフィリピンの人々も、アキノ氏の“名声”が何かカサ上げされたものであることを心底では知っていたのかもしれない。  だがおそらく、将来、マルコス大統領が退陣したさい、あの滑走路の暗殺は体制崩壊の序曲として位置づけられるだろう。どんなことでも、後になれば、然るべき|辻褄《つじつま》合わせができるものなのだから。 [#地付き](「諸君」60・8)

  
殿下のポロ|競技場《クラブ》  中国がピンポン外交に乗り出した頃、ブルネイの人々はおっとりと笑った。 「ピンポンとはまたつつましい。わがサルタン殿下はポロ外交じゃ」  テラスに出ると、目の先は月光に輝く南シナ海。浜は見渡すかぎりの牧草地である。波打ち際近くに黒々とうずくまる建物の列を指さして、ダグラス氏が、 「殿下のご|厩舎《きゆうしや》です。このあたりのご料地は全面立ち入り禁止です」 「………」  何十回目かのタメ息をつき、うなずく。 「どうです。これで信用していただけますかな。私は別にホラを吹いたわけじゃない」  ダグラス氏はロイヤル・ブルネイ航空の支配人である。かつて親会社格であった英国航空から派遣され、この土地で停年を迎えようとしている。数日前、空港に遊びに行き、新導入のコンピューター・システムや構内各施設を見学させてもらった。ロイヤル・ブルネイ所有の三機のボーイング737型機のうち二機が格納庫で翼を休めていた。ダグラス氏が一機を示して、 「これは目下のところ、お馬専用です」 「お馬?」 「ええ、殿下のご競技用です」  |元首《サルタン》のボルキア殿下はまだ三十歳代。英国の陸軍士官学校卒業後、父君から元首の座を受け継いだ。ポロの名手だが、ブルネイは馬を産しない。そこでこうして特別機を仕立て、アルゼンチンから取り寄せる、という。 「アルゼンチンからですか」 「そう。はるかアルゼンチンからですよ。ごらんなさい」  氏に導かれタラップを上ると、機内は|柵《さく》に仕切られた馬房になっている。  ポロはかつて英国貴族が好んだ馬上競技である。四人が一チームを組み、馬を走らせながら|打ち棒《ポール》をあやつり、球を相手のゴールに打ち込む。インド、マレーなど植民地でとくに盛んだった。勇壮であるがそれだけ危険で、すぐれた技術と胆力を要する。財力も要する。騎手の意のままに右に左に駆け回れる特別の調教馬が必要である。全力疾走の連続であるから十五分ごとに新しい馬に乗り替えなければならない。二時間の競技で二チーム計六十四頭が使用される。 「運び込んですぐ競技というわけにはいきません。騎手も馬も互いに慣れなければなりませんからね。練習や試合を通じて馬の消耗も大きい。シーズンが近づくと私たちはピストン輸送です」  ブルネイには今、チームが三つある。殿下のチーム、弟君のチーム、英国人司令官何とか大佐のチームである。三チームの交互試合では退屈なので毎年国際競技会が開かれる。英国、オーストラリア、アルゼンチン、インド・ジャイプール州のマハラジャ(旧藩王)やマレーシアのサルタンたちが常連である。むろん総費用ボルキア殿下もちの招待試合だ。試合後、殿下は競技場付属のクラブでオレンジジュースのグラスを片手に王侯外交を展開される。庶民にいわせるとポロ外交である。  年間輸出額三億五千万ドルを越える原油、天然ガスの大部分が事実上サルタンの私有財産と聞かされていたが、何ともケタ外れの話でピンとこない。口をあけて話を聞く私の顔を半信半疑と受けとったのだろう。 「|競技場《クラブ》はもうごらんになりましたか」  と、ダグラス氏が聞く。 「まだです」 「近くご案内しましょう。おそらく世界で最も豪華なポロ競技場といってさしつかえありますまい。私も幹部メンバーの一人です」  夜八時頃、ダグラス氏は緑色のベンツで市内のホテルにやってきた。首都バンダル・セリ・ベガワン唯一のホテルである。氏は郊外に住む。空港からいったん帰宅し、涼しくなるのを待って出直してきたという。陽気な夫人が一緒だった。  町を出て暗い田舎道を十五分も走ると、浜辺のクラブに着く。  巨大な合掌造りの、超一流ホテルのような建物である。全館まばゆいばかりに照明がともされている。人里離れた浜辺に突然現われた夢の館だ。クラクションの音を聞き、三十人ほどの白い制服姿のウェーターやウェートレスが玄関ホールに駆けつけてきた。左右に整列しうやうやしく私たちを迎える。  チーフ格の中年男にダグラス氏が何かたずね、相手は礼儀正しく|微笑《ほほえ》んでうなずいた。 「今晩の客は私たちだけらしい。食堂もサロンも娯楽室も専用ですよ」  このぜいたくな照明、大勢の従業員らも私たちたった一組のために? 「そう、私も最初はびっくりしましたな。でもこのクラブも殿下の物で、連中も殿下から給料をいただいております。客があろうとなかろうと、こうして夜中までは明りをつけて待機する規則なんですよ」  またまた頭がかすんできそうだ。  ダグラス氏は他にも二組の夫婦を招いていた。一組はロイヤル・ブルネイ副支配人のケント氏夫妻、もう一組は第一大臣府の高官ハッサン夫妻と紹介される。ハッサン氏は三十五、六歳。一年後予定の完全独立で外務省が設立されるのを機に外交官に転身しどこかへ大使として出たい、という。  数十のテーブルが広々と配置されたジュータン敷きの食堂で三十数人のウェーター、ウェートレスに囲まれ夕食をとった。出来合いのコースではなく、各自ア・ラ・カルトである。調理場ではパリのオテル・リッツで修業を積んだというシェフをはじめ六人のコックが、これまたメニューに書かれた全料理の材料を整え、常時待機している。 「毎日材料をそろえても今晩みたいに客が一組じゃ余ってしまうでしょう」 「ええ、一組もこない日もありますからね」 「材料はどうするんです。従業員が持ち帰って食べるんですか」 「いや、たいがい捨てますよ」  メンバーの多くは英国人だ。従業員はイスラム教徒である。イスラム教徒はブタ肉を食べない。牛その他の肉もイスラム方式に従って屠殺したものでなければ口に入れない。ここでは英国人相手に|ふつう《ヽヽヽ》の材料が大量に仕込まれているから、毎日捨ててしまう以外ないのだ、とダグラス氏は平然という。  これ以上口をあけたりタメ息をつくのはやめよう、と自分にいい聞かせるのだが……。  試みに、スモークド・サーモン、車エビの白ぶどう酒煮、|鴨《かも》のオレンジ・ソース煮、レタス・サラダ、チーズ、シャーベットのフルコースを選んでみたが、これまで東南アジア各地で出あった最高の味であった。コーヒーもうっとりするほどすばらしかった。  食事中の会話は、新参の私がいたせいか、もっぱらこの東南アジアの|桃源郷《エルドラード》の生活ぶりに向けられた。  東洋のクウェート、いや、庶民レベルではそれ以上かもしれない。国土面積は三重県とほぼ同じ。マレーシア人、中国人など外国国籍者を含め約二十四万人が住み、税金、教育費、医療費、電気、水道その他いっさいの公共料金は無料。戒律厳しく夜の遊興施設は皆無にひとしい。賭けごとも禁じられているので、人々はカネの使いようがない。多くの人がブルネイ川の桟橋上に建てられた水上村に住む。見かけはパッとしないが家の中は舶来の家具や高級ステレオで豪華に飾り立てられている。腰巻き姿のおっさんは漁から戻ると二台のカラーテレビで地元ブルネイ放送と隣国マレーシアからの放送を楽しみ、若い勤め人たちはほぼ例外なくセカンド・カーを持つ。一台は出勤用、もう一台はドライブ用だ。  衣・食・住たりて国民の実質所得は日本をはるかに上回る。だから人々はケタ外れのサルタンの富をみても懐疑を抱かない。東南アジアで最も純粋なイスラム国の名にふさわしく、サルタンは祭政一致の頂点にまします絶対君主であり、半神的存在である。いってしまえば、ここでは土地も資源もそして住民そのものも「サルタン殿下のもの」なのだ。  ボルキア殿下は若き英主として知られる。父君二十八代ボルキア殿下も気性の強い人だったらしい。第二次大戦後マレー連邦(現マレーシア)への加盟を断固拒否し、英国の保護国に留まった。その代わりに国家規模からみれば無尽蔵に近い海底石油、天然ガスの利潤を一手に掌握することになった。若き二十九代も伝統にのっとり絶対統治、半鎖国政策を続ける一方、国内の近代化につとめ桃源郷の基礎をさらに固めた。  驚いたことに、一方は南シナ海に、他の三方は東マレーシアの森林に囲まれたこの“飛び地”と欧米諸国との間はダイヤル直通の国際電話でつながっている。東南アジアではシンガポールに次ぐ通信先進国である。 「サルタン殿下専属のスイス人カメラマンがおりましてね」  ハッサン氏がおかしそうに話した。  若いスイス人カメラマンの仕事はとくにポロ競技中の殿下の“勇姿”をフィルムにおさめることだった。 「ほれ、このクラブに飾ってある殿下の競技中のお姿もぜんぶ彼が撮ったものです」  シーズン・オフはスイスの自宅に帰る。欧州への国際電話ダイヤル直通化は、彼が帰国中に行なわれた。その年、彼は本国で結婚した。次のシーズンに新妻をスイスに残しブルネイに来た。  ある日、試合後、殿下に親しく声をかけられた。 「結婚したそうだな」 「はい、殿下」 「ちょうどいい、君への贈り物だ。スイスの家の電話番号を回してみたまえ」  かたわらの電話機を指され、 「しかし、殿下……」  カメラマンはまだ直通化を知らない。 「いいから回してみたまえ、奥さんの声が聞けるよ」 「はあ、では、おそれながら」  いわれるままに国番号とエリア・コードに続き自宅の電話番号を回すと、スイス寒村のわが家がつながった。 「そこまではよかったんだがね」  ケント氏が話を引き取り、 「電話口に出てきたのは聞いたこともない男の声だった。妻君の方もまさか東南アジアのジャングルから直通でかかるようになってるとは知らなかった。そこで男を連れ込んでよろしくやってたんだ」  ダグラス氏がオチを披露したところをみると、かなり有名なエピソードらしい。カメラマンは殿下の許可を得て即座に帰国し、離婚手続きをとったそうだ。  殿下の側近には何人かの英国人がいるが、なかでも特異なのは「お車係り」だろう。  スミスという名前の三十歳過ぎの人物で、 「君、これほど優雅な渡世はないぜ」  |嬉々《きき》としている。  殿下は馬だけではなく、ヘリコプターや車の操縦もお得意だ。世界の高級車を三百五十台余り所有しておられる。  スミス氏の日常業務はこの三百五十台の管理だが、年に何回か外国出張がある。殿下がカタログで注文された新車を、香港まで行って受けとり、そこで殿下好みの仕様にしたて直して特別機で持ち帰ってくることである。  特別機には、例によってロイヤル・ブルネイ航空のボーイング737型機が使われる。 「乗客はお車とオレの二人だけだ。オレは台車に固定したお車の横にソファーをすえ、のんびりと空の旅を楽しむんだ」  ただし、「お車係り」はA級ライセンスを持っていなければ務まらぬそうである。  殿下は大のレース好きである。だが平地が少ないブルネイにサーキット・コースはない。首都バンダル・セリ・ベガワンから北方に三〇キロほど、海岸沿いの高速道路が完成した。元来、夜が早い土地であるから夜中を過ぎると交通はまったく絶える。  そこで午前一時頃、スミス氏の家に電話が入る。 「まだ起きていたかね」 「はあ、殿下」 「三十分後に高速の入口で会おう。新しいマセラッティの調子を試してみたい。君も車庫から一台引っ張り出してこい」  二台の車が三〇キロの深夜の高速を、抜きつ抜かれつ、ひとしきりけたたましく行き来する。  豪華な食事に満足した腹をさすりながらテラスに立ち、すぐ下の競技用の馬場や、潮風に波打つ牧草の原やその向こうの黒い海に目を漂わせる。  独立後もダグラス氏はこの国にとどまるつもりだという。 「とてもイギリスなどに戻っていく気になれませんな」  殿下は独立をひかえ、ブルネイ及びサルタン一家の財産管理を従来の英国系銀行から米国系銀行に切り替えはじめた。 「たぶん、|現金《キヤツシユ》だけをみれば、殿下は今、世界でいちばんのお金持ちでしょうな。管理権の切り替えで、もうイギリスの銀行が幾つかつぶれましたよ」 「ときに、あなた、東京にはカスミガセキ・ビルディングというのがあるそうで」  涼みに出てきたハッサン氏に聞かれた。 「ありますよ。三十六、七階建てでしたか」 「そのビルの代金は幾らぐらいしますか」 「さあて」  と応じたが、見当もつかない。 「なぜです?」  問い返すと、 「いえ、何。でも独立したら我が国も日本に大使館を開かなければならない。そろそろ建物の見当をつけて買収に取りかからねば」  いってからニヤリと目元をほころばせ、 「冗談ですよ。カスミガセキ・ビルディングは私もよく知っています。年に一回は東京に出張しますからね」  翌日、ハッサン氏に連れられランドローバーで山に入った。「ブルネイもう一つの顔」を見せてやる、という。  急峻な山並みは部厚い樹木に覆われ、文字通りの熱帯降雨地帯の風土だ。ブルネイがその一角に位置するカリマンタン島は、かつてボルネオ島と呼ばれた。島に覇を誇ったブルネイ王国の名前に由来する。現在、島はインドネシアのカリマンタン州と、マレーシアのサバ、サラワク州に二分され、ブルネイはそのサラワク州に背後を取り囲まれた小領土である。第二次大戦中は日本軍の占領下にあった。首都東方のムアラ岬、その沖のラブアン島(現在マレーシア領)は、連合軍反撃により一個師団が全滅した有名な北ボルネオ作戦の最後の舞台となる。  二時間ほど山にわけ入り、ランドローバーを乗り捨ててジャングルに踏み込む。頭上で間抜け面の|犀鳥《さいちよう》が叫び、足元のヤブから野ブタが飛び出してくる中を三十分ほど歩くと二、三軒の大きな木造長屋から成る集落に出た。 「イバン族の村です。ご存知ですか、つい最近まで首狩り族といわれた」  一帯にはイバン族の他、カザン、ビサヤ、カヤンなど十余りの少数種族が住む。いずれもことのほか勇壮で、第二次大戦中はまだ首狩りの習慣を残していた。戦後も観光客用にシャレコウベを軒先に|吊《つ》るす長屋が少なくなかったが、現在はサルタンの命令でこれも禁止されている。  山間を放浪し、気に入った土地があると高床式の長屋を建てて一族数十人が集まって住む。  男連中は出払っていた。男の仕事は父祖の代まで長槍や弓矢を用いての狩猟であったが、現在はモーターバイク、自家用車で町へ降りての役所勤めだそうだ。家長のイボー老に迎えられた。七十歳代前半か。小柄だが全身に入れ墨を施した精悍な体躯である。 「日本人か。ジョートー、ジョートー」  女連中を呼び出し、中国茶を入れてくれた。「ジョートー」は日本軍の置きみやげだろう。東南アジアのどの地域にいってもこの言葉は残っている。 「しかし、あんた、日本の車はいかんな、モーターバイクもいかん。今の若い者は車やバイクに夢中でイノシシ一頭しとめられん。わしは好かん」  手厳しく日貨を糾弾されたが、当の老も日本製の腕時計をしている。 「ご老人も首狩りをされましたか」  槍や吹き矢が束ねられた天井裏をそれとなく目で探りながら聞くと、 「フォリナー(外来者)は皆んな同じことを聞きおる。でも、今はやらんぞ」 「そりゃ、そうでしょう」  獲物にされてはたまったものではない。 「うむ、今はもうやらん。やったら殺人罪になるからの」  ずっと昔、若い頃、一つだけ首を採った、という。  当時、首狩りの習慣は一般的だったが、それでも手当たりしだいというわけではない。若者が色気づき、誰か娘を見初めたときが危ない。彼は結婚申し込みにさいし、当の娘とその親に勇気の証しを見せなくてはならない。同じ村に住む者は一族であるから、絶対に首を失敬してはいけない。そこで蛮刀を片手に隣りの村に出かけていく。 「その頃、わしらはここよりもっと北の、いまはインドネシア領、ほれ、日本の会社がばっさり木を切っていったあたりな、あのあたりに住んでおった」  ある日、色気づいてどうしても女房がほしくなり、出かけた。山を越え谷を渡り、隣村の畑にしのびより、いちばん強そうな男を物色し、後から襲いかかって「エイヤッ」とその首を切り落とし、用意した特別の竹の|籠《かご》に入れて娘の両親のところへ持参した、という。 「女子供の首では話にならん。一人前の男、それもうんと強そうなやつを狙わなければならんのじゃ。わしが狩ったのもオランウータンみたいな大男じゃった。生首もそのまま籠に入れて二日歩いて村に持ち帰ったが途中で腐りはじめての。ひどくにおいおったわい」 「なるほど、首は結納品というわけですね。日本にもそういう習慣はありますよ」 「何、日本人も首を狩るか」 「まさか。首なんて狩りゃしません。結婚したい女とその両親に贈り物をするんです」 「そりゃどこの国でも同じじゃろう」  どうも可愛げのない爺さんである。 「首など狩らん方がいい。ありゃ、あんた野蛮じゃ」  お説のとおり、と|相槌《あいづち》を打ち、ジャングルの小径をランドローバーに戻った。  愉快な滞在だった。  そのご何回か山に入った。ホテル前の波止場で平底船に船外機をとりつけたのをチャーターし、ブルネイ川の支流から支流へ、ときには船底が浅瀬を|噛《か》むほどさかのぼった。流れの畔にときおり高床式の長屋を見かける。どの長屋にもシャレコウベはなかった。代わりに、サルタン殿下の写真と、カラーテレビと、消火器があった。  夕方遅く、町の波止場に戻る。  大通りの米国系チェーン店でアイスクリームをなめてからホテルのすぐ近くの中華料理店へ。注文する皿はいつも決まっている。ゆでた芝エビを大皿に一杯、鹿肉と青野菜のうま煮、それに小エビの焼飯。新鮮な海の幸、山の幸を飽食し、まったく桃源郷だ、とつぶやく。夜十時にもなると町中深閑と静まり返り、ホテルにたてこもる以外なくなるのは少々不都合であるが、まあ、そう何もかもというわけにはいくまい、と、おっとり諦める。  おかげで一カ月たらずの滞在で五キロも太った。  一九八三年末、ブルネイは予定通り完全独立した。前後して殿下の新宮殿もでき上がった。建設工事に従事したのはおもにフィリピンからの出稼ぎ労務者である。新宮殿の部屋数は千二百室と聞く。 [#地付き](「諸君」60・4)

  
シンガポール夜話  異国の旅先で|ねぐら《ヽヽヽ》にありつきそこなうほど厄介なことはない。仕事柄、ホテルの予約もなしに各国を飛び歩くことが多いので、ときおりそんな目に遭いかける。なぜかそういうときは日中の仕事や移動で疲れはてた深夜か、雨期のドシャ降りの日か、あるいはその両方である場合が多い。  もっとも、そこは男の一人旅である。  最悪の場合は、場末に車を走らせ、いわゆるシナ宿の看板を探せば、なんとか一室ぐらいは見つかる。日本流にいえば木賃宿である。設備も客柄も相当なものだが、夜中に麻酔をかまされて目がさめたら魔界に売り飛ばされていた、などという悲運は経験したことがない。  ただ、一度、シンガポールでひどい目に遭った。  周知のように、この面積淡路島ぐらいの都市国家は、東南アジア随一の近代商業国家であり、金融センターであり、ノー・タックスの買い物めあてに観光客もワンサと押しかける。市中心部のオーチャード通りかいわいには超一流、一流ホテルが軒を並べ、海岸寄りにはビジネス・ホテルも多く、それまでの旅行でねぐらに難渋したことはなかった。  かなり長い取材旅行の終わり頃だった。マレーシアの首都クアラルンプールで値切りに値切って白タクを雇い、途中いくつかの用を足しながら、夕方遅くジョホールバルーに着いた。往時、近衛師団のいわゆる“銀輪部隊”が南下した道である。  シンガポール防衛のイギリス軍は日本軍が海から来るものと思い込み、南への備えを固めていたが、予想に反して突如背後のジョホール海峡から大夜襲を受け、あえなく投降した。なんとか名誉ある降伏にもち込もうとする防衛軍のアーサー・パーシバル将軍に、日本軍司令官山下奉文将軍が「イエスか、ノーか!」と怒気あらわにつめ寄った有名な一幕である。  当時の要塞島セントサ島は南海のリクリエーション・センターに衣替えしているが、島内の記念館にはいまもこの降伏交渉場面がロウ人形で再現・保存されている。セントサ島の前名(一九六九年に現名に改称)の「プラカン・マテー」は、マレー語で「死後の島」を意味する。地元の抗日義勇軍に対する日本軍の行為を想い起こさせる名前で、この土地を訪れるたびに考え込ませられる。  ジョホールバルーで白タクを放し、海峡の橋をのこのこ渡ってシンガポール側に入った。幅数百メートルの海峡が国境である。通関所を出てシンガポール側のタクシーを拾うと、三十分たらずで市街地に入る。行きつけの二流どころのホテルに乗りつけたが、顔見知りのフロントの男は、「これはようこそ——といいたいところですが、なぜまたこんなときを選んで」  当惑顔である。  国際会議が四つ、それに地域諸国の競技会が重なってホテルは満室だという。治安のいいシンガポールは東南アジアの会議センターでもあるが、こんなにいくつも重なることはめずらしい。  そのときはまだタカをくくっていた。  ご多分にもれず雨が降り出したのは少々厄介であるが、まだ九時前である。二、三軒回れば炎天下十時間のドライブの埃と汗を流してくれる快適なシャワーにありつけるだろう。  ところが、驚いたことに四軒、五軒と訪ね歩いても空室がみつからない。 「運が悪いねえ。こんなことは考えられないんだが」  インド人の運転手もすっかり同情し、豪雨の中をまた次の一軒に運んでくれる。段々とホテルの格を落としながら十軒近く回り、とうとう連れ込み宿まがいの一軒のフロント女性に、 「おそれながら」  と空室を乞うまでに落ちぶれた。  なんということか、こんなあやしげなホテルまでが予約客で満員である。競技会の応援団が各国からつめかけているのでシナ宿も望み薄だという。  夜は進むし、腹は減ってくるし、昼の疲れがガックリ出た。  フロントの女性は、こんなあいまい宿には場違いな、しとやかで感じのいい中年増だった。 「お気の毒ね。どんなところでもかまいません?」 「かまいません。ベッドさえあればいい」  私をロビーに待たせ、何カ所かに電話で問い合わせてくれた。  この親切さも、この土地ではめずらしい。シンガポールの女性はとかくツンケンしてとっつきにくい、と定評があるが、私も同様の印象を持つ。別に日本人に対して「死後の島」時代の恨みが残っているからというわけではなさそうである。当のシンガポール男性の中にも、 「オレは絶対、この国の女を女房にしないゾ」  と宣言している者が少なくない。  受話器を片手にしきりと問い合わせている彼女のやや浅黒い顔を見ながら、マレー系かと見当をつけた。この土地でもツンケンしているのはもっぱら絶対多数派の中国人の女性である。  二十分ほどしてようやく受話器を置き、 「見つかりましたわ。これがアドレス」  メモをさし出した。 「でも本当ならお勧めできないホテルよ。一泊だけにして、明日は他をお探しになった方がいいわ」  どんなところでも宿無しよりましである。  丁重に礼を述べてメモを受けとり、 「あなたはシンガポール生まれですか」 「出稼ぎよ。マレーシアから来てるの」 「どうりで親切だと思った」  深い木立ちの坂道を何回か右に左に折れたから、大統領官邸の裏あたりだろう。紹介された「サボイ・ホテル」にたどりついた。名前はごたいそうだが、土地の人もほとんど知らぬ最下級の連れ込み宿である。  薄汚い帳場のおっさんが、 「お客さん、一人だって?」  うさんくさげに尋ね、 「もう連れは呼んどいたからね」 「連れ? 連れなんていないぜ」 「うちは一人客は泊めねえよ。だからさっき電話しといたよ。おっつけ着くはずだ」 「おい、おい、待ってくれよ」  抗議したが親爺は受けつけない。 「わかったよ。でも、せめて晩飯くらいは食わしてもらえるんだろうね」 「食堂はもう閉まったよ」  ひでえことになった、と思った。  ホテルの格からみて、どのていどの“連れ”が現われるか、見当がつく。それにしても清潔が売り物のこの都市国家にこんなところがあるとは知らなかった。  それでもシャワーだけは何とか使えた。  リノリュームの剥がれた床に突っ立ち体をふいていると、乱暴なノックの音がして、 「お待ちどお」  親爺が“連れ”をつれてきた。  何が、お待ちどお、なものか。年齢不詳、病気ではないかと思われるほどちんちくりんのしなびた体に、目玉と口だけやけに大きな顔をのっけた、絵にも話にもならない女性である。この国の下級娼婦の多くがそうであるように、一目でわかるマレー系である。それも飛び切りの山奥から出てきたに違いない。呆れてそのシワだらけの顔を見ながら、マレー原人というのはたしかに存在したのだな、と思う。  彼女がニッと笑って、 「先払いにしてくれる?」 「幾らだい」 「一〇〇ドル。シンガポール・ドルよ。マスターの分はホテル代に入っているから」  マスターとはあの親爺のことだろう。一〇〇シンガポール・ドルは五〇米ドルに相当するが、たとえ一〇ドルでも願い下げにしたい。旅疲れの体を励まして彼女のお相手をするほど飢えてもいないし物好きでもない。どうこの難関を切り抜けるか。娼婦にも娼婦の誇りがあろうから、そう露骨にあしらうわけにもいくまい。相手が余りに|醜《みにく》すぎるので、かえってそんなことに気を回さなければならない。  チョコンとベッドに腰かけている相手を前に思案一刻——。 「おカネは先払いするよ。でもね、オレは疲れてるんだ。それに腹ぺこだ。とにかくどこかの屋台にでも案内してくれないか」 「いいね、あたしもお腹が空いた」 「腹ごしらえしてからどこかへ遊びに行こう。君が知ってるところならどこでもいい」 「マレー人の集まるナイトクラブがあるよ。あんまりきれいじゃないけれど、安い」 「よし、そこへ行こう。マレーのダンスを教えてくれよ」  |同衾《どうきん》せずにすむなら、言い値の倍払ってもいい心境である。 「じゃ、行こうか。その前におカネおくれ」  雨はあがっていた。  暗い坂道をおりてタクシーを拾い、下町のブギット・ストリートに行った。シンガポールの夜の“名所”として知られるオカマ通りである。かつては幅七、八メートルの屋台の小路に男娼があふれていたそうだが、政府のお達しで直接の客引きは禁止された。今では呼び物の女装の麗人(?)たちは部屋で待ち受け、客引きはもっぱらポン引きによって行なわれる。  夜中に近いのに、狭い通りは食い道楽や冷やかし客でにぎわっている。彼女の名はユリイという。出身はマレーシア北部のイポーだそうだが、この当人証言はあてにならない。イポーは美人の産地として聞こえ、この商売の女性はたいがいイポー出身を自称するからである。  屋台の一軒でまずワンタンをかき込み、次いで二、三品注文した。  お腹が空いた、といっていたくせにユリイはほんの少ししか食べない。料理がくるたびに私のために小皿に取りわけ、お茶のお代わりを注文したり、卓上の調味料に気を配り、思いのほかかいがいしい。 「そう気を使ってくれなくてもいいよ。君も食べたまえ」 「うん」  何組かの日本人の観光客グループがテーブルの脇を通り過ぎた。 「あんた、変な人ね」 「なぜだい」 「たいがいのお客は払った分取り戻そうと思ってガツガツやるよ」 「そりゃそうだろう。でも食い気と色気を同時に満足させるわけにはいかないからね」 「それにふつうのお客はあたしたちとこんなところに出歩いたりしないのよ」 「そうかい」 「そう。同じ商売女でも色が白い中国人は平気で連れ歩く。でもあたしたちはマレーだからね」 「日本人のお客もそうかい」 「日本人のお客は今日がはじめてよ。でも友達に聞くとそうらしいわ」 「オレは色が黒い方が好きだね」 「変わってるね」  シンガポールは多民族社会だが、圧倒的多数は中国人である。福建人、潮州人、|客家《はつか》などいわゆる南洋華僑が総人口二百万人の七割以上を占め、残りはインド、スリランカ、マレー系など旧イギリス植民地の出身者である。最近は在住日本人が二万人以上となり、総人口の一パーセントを越えた。  表側からはわかりにくいが、少数民族の多くは社会の下の方に|澱《よど》んでいる。東南アジアのどこの国でも中国人の経済力はたいしたものだが、ここではその中国人が“正統派”である。すばしこい中国人にくらべて何かとおっとりした南洋系の人々は、それだけ取り残され、底辺に沈むことになる。  半面、政府はマレー人の海に囲まれた華人国家としてさまざまの神経を使わなければならない。  この国のインテリの一部が、同じ東南アジア諸国連合(ASEAN)仲間の隣国、マレーシアとインドネシアを「仮想敵国」とみなしていることを知り、驚かされたことがある。  リー・クワンユー現首相は一九六五年、マレーシアから分離独立して今のシンガポールを築いた。それ以前のシンガポール州首相時代から常時、閣僚一人を外遊させていた、という。外遊閣僚は、クアラルンプールの中央政府が新国家取りつぶしをはかってリー首相らを一網打尽にしたさい、ただちに外遊先で亡命政権樹立を宣言するよう言い含められていた、といわれる。  ミニ国家が驚異的な経済成長をなしとげてからも、マレー人国家への警戒心は国民の間に残っている。マレーシア、インドネシアという両マレー人国家とシンガポールとの関係はときにより流動があるが、最近はインドネシアへの警戒心が強いようだ。  シンガポールの港に立つと、海上すぐ目の前にインドネシアのスマトラ島が望める。国土が狭いシンガポールは海岸を埋め立てて工業化用地を拡張させているが、数年前まで埋め立て用の土はスマトラ島から買っていた。しかし、最近は土を得るために自国のわずかな山地の切り崩しを余儀なくされている。インドネシア側が、自分の国の土でシンガポールの領土を拡張させるのは業腹だ、と売却契約の更新に応じないからだそうだ。少なくとも国民はそう受け取っている。  華人ミニ国家の微妙な立場は外交や人事にも現われている。シンガポールはいまだに、多くの国民の心の祖国である中国と国交を持たない。中国嫌いの隣国インドネシアへの気兼ねからで、対中国交樹立はインドネシアと中国の国交が回復してから後に行なう、との方針を固めている。  またシンガポールの大統領、外務大臣は代々インド人だが、これも中国人があまり出しゃばり過ぎると、他の東南アジア諸国の反発を買い、ASEAN外相会議などで、まとまる話もまとまらなくなる恐れがある、との配慮からだという。  政府はたてまえとして国内の人種差別を否定しているものの、こうした周囲への気兼ねと多数派国民の中華意識が微妙にからみ合って、国内少数民族であるマレー系人への|蔑視《べつし》となって表われているのかもしれない。  食事が終わってからユリイに連れられて裏町のマレー人クラブへ行った。オーチャード通りの豪華な店々とはうって変わり、ナイトクラブとは名ばかりの粗末なダンスホールである。殺風景な空き地に何軒か固まって建っている。造りは田舎の芝居小屋に近い。アロハ姿の若い衆がマレー音楽を奏でる小屋の中は、ムッとする人いきれだ。男も女も褐色の肌を汗で光らせ、単調な調べに乗って無言で、独特のダンスに興じている。  この国のどこにこんなに大勢のマレー人がいたのか、と思う。昼間は中国人の海の中にかすんでいるのだろう。夜になるとこうしてこの一角に集まり、互いによりそうように民族舞踊に憩いを求めるのだろう。トイレのアンモニアの臭いが漂う、暗いホールの光景はものうく、同時に荒涼としていた。  ユリイは友人何人かを見つけ、彼女らと楽しげに踊った。私も試してみたが、簡単なように見えて案外、手さばき、腰さばきがむずかしい。二、三曲であきらめ、客席のベンチに戻った。 「どこへ行く? ホテルにもどろうか」  店がはねたあと、ユリイがいう。  もう午前二時を過ぎている。 「君の家はどこだい」  ここまで来たらついでのことだ、と思った。この東南アジア随一の近代国家の底辺をのぞいてみるか。 「ちょっと遠いよ、汚いよ」 「彼氏はいるのかい」 「いない。あたしの部屋に来る?」  懐ろの中味を考えた。旅も終わりに近いから大した額は残っていない。カメラ二台はホテルの親爺にあずけてきた。万一、顔に傷があるようなのが現われても、おとなしく持ち金をさし出せば、明日、土左衛門となって港内を漂っている、というような事態は起こるまい。それに、先刻からの観察では、そう|性質《たち》の悪い女ではなさそうだ。 「うん、行ってみるか」 「よかった。あのホテルはあんまり好きじゃないんだ」  うれしそうにいって、チョコチョコと通りへ駆け出しタクシーを呼びとめた。  いくつかの工場の脇を過ぎ、真暗な埋め立て地を通ってずいぶん長く走った。ミニ国家でも案外広い。  再び小さな家並みに入り、街灯がわびしく灯った迷路のような路地を右に左に曲ったところで、彼女はタクシーを停めた。 「ここよ」 「なるほど」  うなって感じ入るほど、古ぼけ、傾いた長屋造りだ。 「こっちからよ。靴を脱いで。シーッ、声を出さないで」  驚いたことに、彼女は玄関横の外壁にたてかけられたハシゴを上りはじめる。 「音をたてちゃいけないよ。大家さんがうるさいから」  一階の屋根から二階の屋根へ。|瓦《かわら》の傾斜に気をつけながら這い上り、これじゃ、まるでドロボーだ、と思う。 「気をつけてね。こっちよ」  ユリイの尻に鼻面をくっつけるようにしてなお這い続けながら、ちと酔狂が過ぎたか、と後悔し始めた。たどりついた小窓に体を押し込みようやく到着したところは屋根裏の物置きである。広さはせいぜい三畳。鉄製の狭いベッドとミカン箱が一つ。その上に化粧ビンが二、三本。コンクリートの壁の釘からしおれたワンピースが一枚ぶら下がっているほかにバケツが一つ。二〇ワットほどの裸電球に照らされた空間にあるのはただそれだけだ。  これまで方々の土地でこれでも人の住まいか、と思いたくなるようなのをいくつも目にしたが、これほど徹底的な穴ぐらは初めてである。コンクリートで四角く囲まれているので、よけい荒涼としている。映画で目にする独房より、もっとあじけなくみじめだ。この娘はここで毎朝目を覚まし、まず何を考えるのだろう、とあらためてユリイの顔を見た。 「お茶でも、といいたいんだけど、この通りだからね」 「気を使うなよ」 「バケツに水がある。体を洗ってよ」 「ああ」  今の“登山”で再び吹き出した汗をぬぐい終え、|呆然《ぼうぜん》とベッドに仰むけに伸びる。威儀をただして腰をおろそうにも、おろす場所がないのだから仕方がない。  ユリイも体をふいてもぐり込んできた。 「君はここでも商売をするのかい」 「ときどきね。でも大家さんに見つかるとうるさい。中国人でね」 「部屋代はいくらだい」 「五ドル、一日五ドル。三日たまったら追い出されるんだよ。中国人はガメついからね」 「なぜ、マレーシアに帰らないんだ」 「帰るよ。ビザなしだから二週間に一度帰らないと警察につかまる」 「みんなそうなのかい」 「この商売の|娘《こ》はみんなそうよ。ねえ、あんた、何もしないの」 「待てよ、そう急がせないでくれ」 「だって、あたし、おカネもらったのに悪いよ」  私の方は部屋の|凄《すさ》まじさにまだ呆然として、タメ息ばかり出る。 「今月はどうだい。部屋代はたりるかい」 「うん、毎日お客がつけばね。親への仕送りも大変なんだよ。でも何とかやっていけるから満足しなければ」 「今月の部屋代はオレがあげるよ。その代わり一眠りさせてくれないか」  驚いたような顔で私を見ていたが、 「いいよ。明け方前に起こす。大家さんに見つからないようにね」  うとうとしかけたとたん起こされた。  まだ外は真暗である。 「あたしがタクシーを拾ってあげる」  ユリイは素肌にサロンを巻きつけただけの姿で表の通りまで送ってくれた。 「部屋代をどうもありがとう」 「ああ、元気でな。早く国へ帰れよ」 「うん、そのうち帰るよ」  運転手が無愛想にギアを入れ、ニッコリ笑った彼女の顔が|早暁《そうぎよう》の闇に消えた。  シンガポール政府が、ことのほか人種問題に気を使い、同時に国内のマレー人らの動向に目を光らせている理由が初めてわかったような気がした。 [#地付き](「諸君」60・5)

  
女帝ガンジーの悲劇  午前九時二十分、彼女は公邸の玄関を出た。植え込みの葉に照りかえす陽光がまぶしい。一団の秘書官や側近が後に続く。  官邸は、鉄門を隔てて公邸と敷地続きにある。庭につめかけた老若の市民とひととき挨拶を交わしてから、官邸の執務室に入る。就任以来の慣わしである。  警備隊員らは定位置にいた。  顔なじみの古参の隊員が、姿勢を正し、官邸に通じる鉄門の扉を押し開く。彼女はそのまま歩を進めた。ふだんの朝とまったく同じだった。  そのとき、銃声が響いた。  腕に衝撃と激痛を覚え、彼女は地面に崩れた。 「何を、何をしよう、っていうの!」  鋭い叫びが、その口からほとばしり出た。  拳銃を手にした古参の隊員は、一歩かたわらに身をずらせた。背後の若い隊員に、 「やれ」  と|顎《あご》でうながす。  軽機関銃の一連射。全二十五弾のうち八弾が、至近距離に横たわる彼女の体に撃ち込まれた。  ——細部は不明だが、「女帝」といわれたインドのインディラ・ガンジー前首相の最期(一九八四年十月三十一日)はおおよそ右のようなものであったらしい。  実にあっけなく、そして|迂濶《うかつ》な最期であった——という気がしないでもない。同時にそのあっけなさ、唐突さは「女帝」にふさわしく悲劇的に見事であった、という感も禁じ得ない。  硬い話はここで避ける。  事件自体がそもそも報復のドラマであった。周知のように暗殺はシーク教徒の手で行なわれた。  首相はかねて自治権拡大さらにはインドからの分離独立を求めるシーク過激派への対策に悩み、この初夏(一九八四年六月)、思い切った強硬策に出た。彼らの総本山である通称ゴールデン・テンプル(黄金寺院)に国軍をさし向けた。寺院内にたてこもる教徒側と激しい銃砲撃戦が演じられ、過激派主力は潰滅したが、寺院の建物も甚大な損傷を受けた。  首相を|斃《たお》した八発の軽機関銃弾には、この“聖域破壊”に対する教徒側の|激昂《げつこう》と|呪《のろ》いがこめられていた。  暗殺成功の知らせを受けたシーク指導者の一人は冷然という。 「彼女は自ら選んで然るべき運命への道を歩んだ。そして今日、自ら選んだ結果に到着した」  どうも私たちの目には、大時代のドラマめいて映る。  だが、この暗殺を大時代的蛮行と片づけてしまうと、いわゆる第三世界が抱え込んだ「荷の重さ」を理解する手がかりが失われるのではないか。その荷を背負って七転八倒しながら自国を統治している諸国指導者らの辛さ、悲しみ、孤独といったようなものもわからなくなるのではないか。  第三世界が抱える重荷の中でも、最もわかりにくい要素の一つは宗教であろう。  幸か不幸か、現代の私たちは宗教感覚が稀薄である。だから、「政治」は近代的なものであり、「宗教」は前近代的なもの、と考えがちだ。  すでにこの割り切り方に疑問符を付さなければなるまい。  もしかしたら、神仏|混淆《こんこう》など平然とやらかした私たちの方が、世界的に少数派なのかもしれない。あるいは、日本が導入した大乗仏教自体が、宗教としては例外的に自らを主張することにかけて|ずぼら《ヽヽヽ》な体質を備えたものであるのかもしれない。  このずぼらさが、しぜんと政治を宗教に優先させ、おそらく日本を工業先進国に成長させた。同じ工業先進国でもキリスト教の洗礼を受けた西欧諸国の場合は事情が異なる。ときには流血の末、「政教分離」を実施して宗教の政治介入を排除しなければならなかった。だが西欧の場合、宗教は分離されたにすぎない。必ずしも時代遅れのものとして取り残されたわけではない。従って現在でもバチカンの底力を計算に入れぬと西欧諸国で生じる各種現象はしばしばわからなくなる。  第三世界の多くの国々では、形式上はともかく、この分離がまだ確立されていない。むしろここでは、政治は近代国家の枠組みを維持するうえでの「人為」であり、宗教こそが人間の「本然」にもとづく力学的要素であり続けている場合が多い。  本然としての宗教心が稀薄な私たちにとっては、理解するにますます厄介な地域となってくる。  その点もしかしたら、地球の裏側の紅毛|碧眼《へきがん》の人々の方が、私たちよりもはるかに身近にガンジー首相暗殺の動機を理解したかもしれない。首相を殺したシークの怨念に最も近い“エネルギー”を日本史に求めるとすれば、奈良を炎上させた|平 《たいらの》|重衡《しげひら》をノコギリでひき殺した衆徒の行為あたりを想起しなければなるまい。千年以上も時計の針をもどさなければならないのだから、容易なことではない。  ところで問題のシークであるが——。 「シーク」とは「弟子」、つまり神の弟子という意味だそうだ。  辞書には、回教の教義もとり入れながらヒンズー教の改革をめざして十五世紀に成立した宗派、とある。教徒は約千二百万人でインド総人口七億の二パーセントていどを占めるにすぎない。ということも、私は今回の事件で知ったのだが、二パーセントという数字は意外であった。  私が子供の頃、絵本や周囲のおとなの話から得たインド人のイメージはたいそうはっきりしている。ターバンを巻き、立派な容貌にヒゲをたくわえた堂々たる偉丈夫である。今でも多くの人が、インド人といえばターバンを連想するであろう。  実際にはこのターバンを巻いたヒゲ面の偉丈夫はシークであり、つまり、僅か二パーセントの極少数派がインド人の平均的イメージとして外部に定着しているわけだ。  |面妖《めんよう》なことであるが、それだけ彼らの個性と存在は数字を|凌駕《りようが》して大きい、ということなのであろう。  それにしても二パーセントで全体を代表してしまうというのは並たいていのことではない。当のシークはそうは思っていないらしい。どうやら数あるインド諸部族の中で自分たちは飛び抜けた“少数優秀派”であると心得ているようだ。この誇りは、しばしばインド人仲間だけではなく外国人に対しても示される。  十数年前になるが、所用もかねて一カ月ほどインド各地を旅行したことがある。滞在中雇った運転手がシークであった。正確にはもっと長ったらしい名前であったが、略してダラ・シン君と呼ばせてもらった。シークの特徴の一つは名前に必ず「シン」が付くことであるが、もう一つは車の運転など“高級な職業”はたいがい彼らが独占していることである。  ダラ・シン君はその時、私よりずっと年下の二十四歳であったが、身の丈二メートル近い肥大漢であった。ご多分にもれず勇猛果敢なヒゲ面の持ち主でもあった。  その彼が、雇い主である私に向かって放った第一声が、 「お前さんの国にシークの寺はあるかね」  というのだから、こちらも面くらった。  後で人に聞くと神戸の方に一つあるらしいが、当時の私はシークの何たるやすらろくに知らない。 「さあ、聞いたことないなあ」 「ふん」  相手は鼻の先でせせら笑った。 「オレたちの寺は世界中どこにでもあるぞ。アメリカにもイギリスにもカナダにもアフリカにもある。お前さんの日本はシークの寺もないほどちっぽけな国なのか」  嘲笑とも|憐憫《れんびん》ともつかぬ目で、雇い主の私を見降ろした。  インドの他部族はこの見るからに強そうで、|傲岸《ごうがん》で、しかも勤勉で抜けめのない巨漢族に一目置く半面、同時にその虚喝癖や妙に子供っぽい——とりわけシークの中でも庶民層はそうだ——素朴さを、何かと|揶揄《やゆ》の的にしてもいるようだった。  いくつかのジョークを教えられたが、きわめつきの二つを紹介すると——  あるアメリカ人の金持ちが、どうしても首を横に振らない頑固なロバを持っていた。 「振らせた者に一〇〇〇ドルやろう」そこで、みんなニンジンを使ったり、力ずくで試したがロバは身動き一つしない。最後にシークの男が出てきてロバの耳元で何事かささやくと、相手は大|慌《あわ》てで、いやだ、いやだと首を横に振った。「お前、何といったんだ」とみんなが驚いてたずねると、当のシークはニヤリと笑って「何、ロバよ、お前もシークになりたいか、と聞いてやったんだ」  もう一つは——  ある映画館に毎日、シークが同じ映画を見にやってくる。切符売場の娘さんが不思議そうにわけを尋ねると、 「この映画の中に、可愛い子が着物を脱いでいくシーンがあるだろう」 「ええ、ありますわ」 「一枚一枚脱いでいって最後の下着を脱ごうとするところに列車がやってきて彼女の姿はその向こうに隠れてしまう」 「そうでしたね」 「でも、あんた、インドの列車を知ってるだろう。必ずそのうちやってくるのが遅れるはずだ」  実際に、ダラ・シン君も、豪快、直情径行、多分に単細胞的な、実に愉快な一面を持っていた。  滞在中、私はダラ・シン君の命令で半日だけシークに“改宗”させられた。  当時、インドとパキスタンは緊張状態にあった。両国分離以来の係争地カシミールは外国人立ち入り禁止地域に指定されていたが、その南部はパンジャブ州一帯の国境地帯への接近は比較的容易であった。 「行ってみようか」  というと、 「おお、行こう、行こう」  ダラ・シン君は大乗り気である。  パンジャブ地方は彼らシークの本拠地である。ここではシーク住民が半数以上を占め、彼らはれっきとした多数派だ。肥沃な土地と豊富な水に恵まれ、インドの食料庫としても知られる。  国防省で必要書類を整え、翌日の早朝でかけた。飛ばせば、首都ニューデリーからこの方面の国境地帯へは一日で行ける。  州境を越えると、たしかに左右の景観はめだって豊かになる。 「どうだ、ここがオレたちの国だぞ」  ダラ・シン君は誇らし気に叫んで、見事な並木の街道をますます威勢よく飛ばす。  パキスタンの古都ラホールに通じる街道筋に金色の巨大なドームを夕陽に輝かせた壮麗な寺院があった。 「見ろ、あれがゴールデン・テンプルだ」 「なるほど、たいしたもんだな」 「国境警備の見物は明日回しだ。オレはこれから参拝してくる」  寺の見物などあまり興味はなかった。  しかし頼りの運転手が勝手に決め込んでしまった以上、付き合わないわけにはいかない。  寺の前の池の畔に車を乗り捨て、参道を寺院に向かう途中、ダラ・シン君が、 「いいか、ここはインド中のシークにとって最も聖なる場所だ。お前もここではシークになれ」  おごそかな顔でいう。  いきなりシークになれ、といわれても、どうしてなればいいかわからない。 「何、わけはない。たっぷりとサイ銭を奉納してくれればいい。そうすれば神にお前の心が通じる。寺院内ではすべてオレにならって、ふるまえ」  シークはすぐれた商才の持ち主と聞いていたが、たしかに、たいそう現実主義的な宗教でもあるらしい。  寺の周辺にはテント村がつくられ、何千人という教徒がたむろしている。遠隔地から聖地詣でにきた長期滞在組らしい。広大な境内は敷石も各建物も純白の大理石造りである。 「いいか、タバコは吸うな。大声で話すな。写真撮影は禁止だ」  ダラ・シン君も境内に一歩踏み入れると人変わりしたように|敬虔《けいけん》、謹直な人格に変じた。その表情には恐怖に近い緊張すらみなぎっている。  雑踏の中を静々と進み、黄金ドームかたわらの本堂に入った。仏教寺院なら本尊がましましているところに、巨大な黄金づくりのドラのようなものがすえられ、背後の壁はこれまた黄金づくりの長|槍《やり》や刀剣その他の武具でぎっしりと飾り立てられている。  いわれた通りドラの前に少なからぬ“入信料”を投げ出し、あとはダラ・シン君にならって一時間近く額を大理石の床にこすりつけて祈った。別にシークの神にお願いすることは何もない。両膝だけがやたらと痛い。最後はもう一刻も早くこの祈りから解放していただけまいか、と祈った。  いずれ劣らぬ巨漢ぞろいのヒゲ面たちが、狂信の光を目にみなぎらせ、一心に|跪拝《きはい》をくり返している光景は、異様でもあり、何か圧倒的な迫力すらあった。  翌日、付近の国境地帯を訪れた。  幾重にも連なる岩山と断崖がおりなす、荒漠とした光景であった。灰色の岩壁のところどころにはりついたブーゲンビリアの真紅の鮮やかさは今も目によみがえる。峰々や絶壁の各所に点々と完全武装の兵士らが配置され、はるか下方の峡谷の底に紺青の河が一筋流れていた。スラワジ河、と教えられたと覚えている。 「あの向こうがパキスタンだ!」  岩山の彼方を指さして、いきなり、ダラ・シン君がわめきはじめた。 「いいか、すぐあの空の下がラホールだ。あそこも全部、神がオレたちにくださった土地だ。それをあつかましくイスラム野郎がぶんどりやがった。みてろ。必ずいつか攻め込んでやる! 取り返してやる! オレたちの土地だ! 絶対にやつらに思い知らせてやる!」  これまた今しがたまでの陽気さとは打って変わって、もの凄い剣幕である。 「攻め込むぞ! やつらを皆殺しにしてやる!」  腕をうちふり、目をギラギラと光らせ、ひとしきりパキスタンの空に向かって|吼《ほ》え続けた。その突如の憎悪の爆発ぶりに、少々呆然とした。  少なくとも彼らの心の中では、一九四七年の印・パ分離の決着がまだついていないことを、|生《なま》の形で見せつけられ、第三世界とは厄介な所だ、と実感した。  ガンジー前首相暗殺の一報に接したとき、とっさに私の脳裡に浮かんだのは、あの異様なまでの熱心さで神前にぬかずいていた彼の姿と、印・パ国境で目にしたこのすさまじい形相だ。あの狂信と激情と執念が凝縮すれば、ちょっと手がつけられまい。 「神の弟子」を自称するシークは、その勤勉さと勇猛さに物をいわせ、インドの政財界、軍部に多数の人材を送り込んでいる。現大統領もシークであるし、国軍首脳の一〇パーセント以上はシークである。そしてインド人とターバンの連想が示すように、国外のいわゆる印僑の大物もたいがいは彼らだ。  そのシークの中の過激派が、パンジャブ州を中心に自分たちの根拠地の自治権拡大さらには分離独立を要求した。理由は多々あるが、つまるところは選民意識であろう。敬虔な彼らは、神の導きを忠実に守り刻苦勉励してパンジャブをインド随一の富裕州に仕立て上げた。その富はインド全土を養うため中央政府に吸い上げられる。その割りには中央政府からの見返りが少ない。広義では一種の住民エゴだが、その住民がひとつの選良宗教体としての意識を持っている場合、当然、他宗派の怠け者とは付き合い切れんという気持ちが生じる。  日本と異なりインドは(他の東南アジア諸国の多くも同様だが)、宗教的にも種族的にもきわめて多様で複雑なモザイク国家である。大きくわけても十近い宗教、三百近い種族で構成され、使用言語にいたっては方言も含めると千数百、地方公用語だけでも十四を数える。こんなとてつもない国を治めていく指導者の労苦は、日本の政治家には想像もつくまい。生前の女帝ガンジーの目の下に刻まれていた幽鬼のような黒いクマは、こうした第三世界の指導者が背負った重圧をなまなましく物語っていた。  モザイク国家の指導者が何よりも神経をとがらすのは、宗教や種族が示す分離傾向である。モザイクの一片の分離は他の破片の連鎖反応を引き起こし、下手をすると国家の空中分解につながりかねない。故ガンジー首相は、濃淡の差こそあれそれぞれ分離傾向を持つモザイクのタガを締め続けるうえでも、狂信的なシーク過激派に対し強硬に出なければならなかった。  パンジャブ州アムリツァルのあのゴールデン・テンプル鎮圧に出動した精鋭将兵の多くもまたシークであったことは、宗教と国情のからみの複雑さをいっそう如実に示す。  そして彼らの聖域は破壊され、シークのホメイニ師といわれていた過激派長老ビンドランワレ師らは寺院内で討ち死した。  これが過激派の政治要求に対しては冷淡であった穏健派シークをも憤らせ、その宗教的復讐心に火をつけた。  政治的行為が、人々の本然としての宗教心を刺激し、刺激のすえの宗教的行為が再度、政治を左右する要因となる。  宗教が|生きている《ヽヽヽヽヽ》国々の現象は、一元的な、いわゆる近代政治理論ではとらえ切れない。  となると、やはり、インドをはじめ宗教が生きている世界は、私たちとは次元が違う世界なのか。そう片づけてしまえば身もふたもなくなる。  今、私は、国境でつかのま凄い目を見せたダラ・シン君が、滞在中私に示してくれたきわめて人間的でこまやかな心づかいを思い出す。実に気のいい、親切な快男子だった。ガンジー前首相を撃った警備隊員も長年、首相のかたわらにあり深く彼女を敬慕していたという。  宗教のファナティシズムもとどのつまりは人間の心の不思議さから生じるものだろう。人間レベルで考えると、ことはそう|他人事《ひとごと》とも思えなくなってくる。宗教は格下げされたが、といって私たちがある日、何かを|核《コア》に同様の集団ファナティシズムに走らぬという保証はあるまい。すでに外部世界は日本の現状を評して経済ファシズムという表現すら用いている。  第三世界とそこで生じる現象の理解を試みるうえで、別に源平の昔までさかのぼる必要はなさそうだ。 [#地付き](「諸君」60・1)

  
山羊を殺す  テヘラン市街を南北に走る大通りをパーレビ通りといった。古い|鈴懸《すずかけ》並木の両側に近代的なオフィス、航空会社の支店、それにまじってすすけたレンガ塀などが並び、東京でいえばひところの銀座通りと青山通りを足して二で割ったような格か。  テヘランは、エルブルズ|山塊《さんかい》の山ふところにある町である。この大通りも見た目にはそうわからぬがかなりの|勾配《こうばい》をなしている。車道と歩道との間の石畳のミゾを、山塊からの雪解け水が勢いよく流れていく。  王制は崩壊寸前で、パーレビ国王とその一族の出国は時間の問題とされていた。  下町では、連日、学生や労働者のデモがあった。遠くパリから革命の指揮をとっていたホメイニ師がゼネストを指示し、町の機能はほぼ|麻痺《まひ》状態にあった。  私たちにもほとんど仕事がない。  公式情報の発表元である国営通信は、数日来、開店休業状態だ。町の情報屋たちは、国王の出国時期や、パリからの新指令、それにこの土地の大勢力であるバザール(市場)の大商人らの動向について、大小の情報を持ち込んでくる。だがその多くは互いに矛盾しており、私たちに確認の手段はない。それ以上に参ったのは日々の生活である。食料の補給がたよりなくなったため、ホテルの食事はもう一週間来、塩をまぶしたあぶり肉だけ。暖房も温水も途絶えがちで、いったん冷え込みはじめると、仲間数人一室に毛布をかき集め、南米のインディオのように身を寄せ合って|温気《うんき》をわかち合う以外ない。  広いホテルの泊まり客は、私たち日本人記者だけだった。そのうち二人は王制危うし、というのでニューデリーから飛んできた。他の二人はカイロ常駐で、彼らはもう大分前からテヘランで頑張っている。ニューデリー特派員にとってもカイロ特派員にとっても通常の守備範囲である。西も東もわからぬ新参者は、なぜかはるかバンコクから舞い込んだ私だけだ。  新聞記者にとって、地理も事情もわからぬ土地で火事場の仕事をこなすほどつらいことはない。とりわけ、この土地のデモが荒っぽいのには恐れをなした。若者たちの方もすぐ目の色を変えるが、それ以上に鎮圧部隊の兵士らの方もこらえ性がない。突然の|叫喚《きようかん》と銃声。道行く群衆がひとしきりなだれを打って駆け走ったと思うと、もうそのあとには二十人、三十人が血まみれになってぶっ倒れている。国王出国の噂が広まってから、よけい流血の規模は大きくなり、頻度もました。  この国では兵士らは国民の兵士ではなく、あくまで国王陛下の兵士である。反国王派は軍隊を国王の番犬と呼んでいたが、たしかにそんな性格が感じられた。頼りの国王が危うくなったので、兵士らも苛立ち、臆病風に吹かれ出した。それで、ちょっとした騒ぎでもやみくもに発砲した。  取材する方もうかうかしていると命がけである。それでも私たちは、町で騒ぎが起きるたびに、それっ、と部屋を飛び出した。インディオまがいに毛布をひっかぶって震えているばかりではあまり芸がないし、やはり、そこは記者としての弥次馬根性だ。  私は、カイロから来たテレビ局の報道記者M君と気が合い、よく二人でつるんででかけた。相手は私より多少年下だが、コール天の上下に細ネクタイ、それにチョビ|髭《ひげ》なんかはやしたいやに|気障《きざ》な男である。風体は気障であるが人がらはすこぶる泰然としている。もう中東在住歴も数年ということで、なにやらむずかしいイスラム各派の教義の違いなどについて教えてくれる。たとえばスンニ派とシーア派の違いなどについてだ。もちろん、私の方は何回聞いてもわからない。そこでまた翌日、初歩的な質問からはじめると、 「きのうあれだけ説明したじゃないか。まだわからないのか」と、相手は怒る。 「無理いうなよ。オレの任地は小乗仏教国だもの」 「そいつはそうだが」  相手は困ってちょっといいにくそうな顔で、「実をいうとな、スンニとシーアがどう違うか、ほんとうはオレにもよくわからないんだ」  別にこれはM君が不勉強なわけではないらしい。ほんとうに律義に追求していくと両派にもそれぞれいろんな分派があり、結局のところどこに境界線を引いたらいいか、わからなくなってしまうのだそうである。ごく一般的にいうとシーア派はアラブ・中東世界でも少数派で、それだけ各種戒律に固執している“原理派”であるが、どうして、そんな大ざっぱな分類だけではなかなか片づかぬそうだ。  このM君と組んで仕事をしたのは、ハイヤー代を節約するためでもあった。国は革命で崩壊に|瀕《ひん》し、町では連日、阿鼻叫喚の衝突が起きているというのに、ペルシャ人というのはやはり古来何かといわれるだけのたくましい商魂を失わない。とくに石油精製所の機能停止で町からガソリンが姿を消して以来、ハイヤー代はウナギ登りになった。当初は一時間二〇ドル前後だったのが、五〇ドル、一〇〇ドル、二〇〇ドルと等比級数的に上がり、これではとても一人では雇い切れない。  M君と私は、ゴリラというあだ名の最も鈍く人が好さそうな運転手をつらまえ、一時間一五〇ドルで一カ月間の長期契約を結ぶことに成功していた。ところがこのゴリラは、鈍くてお人好しな長所がある代わりに運転技術の方もそれだけ鈍くてたどたどしい。おまけに、すぐ動転してしまう癖があった。  ある日、例によって衝突があった。  二人でゴリラをせきたてて飛び出すと大通りのはずれ近くの路地で何百人かの学生連中が騒いでいる。路地の向こうの兵士らめがけて罵る、石を投げる、火のついた棒切れをぶつける。剣呑である。隣りの路地から迂回接近しようとしたが、ゴリラが、大丈夫だというのでそのまま学生の渦の中に車を乗り入れた。中ほどまで来たとき、突然、周囲の人波がドッと崩れ、みんな一目散に逃げ出した。|堪忍《かんにん》袋の緒を切らした兵士らが、路地の向こうから、ワッと突撃してきた。 「Uターンだ! Uターンだ!」  M君が血相変えて叫ぶ。 「馬鹿、右の小路へ逃げ込め! いや、そこだ。左へ入れ!」  私も蒼くなって、後部座席から身を乗り出し、ゴリラの肩をポカポカ|殴《なぐ》りつけた。  何を思ったか、ゴリラは、銃を水平に構えてバラバラと駆け寄ってくる兵士らめがけてひときわアクセルをふかすではないか。二人でその頑丈な体を後からかかえ上げて運転席からひっぱがし、シートを乗り越えたM君がブレーキを踏みつけ、なんとかわきの塀にこするようにして車を停めた。ゴリラはドアから転がり出してこけつまろびつ逃げ出す。私たちも無我夢中で逃げた。兵士の何人かが射ってきたが、走り射ちなのでさいわい一発も当たらなかった。兵士らの追撃をかわして路地から路地へ逃げまどい、ようやく一時間ほどしてから大分離れた広場の敷石に呆然とへたり込んでいるゴリラを見つけた。 「馬鹿野郎、どういう了見だ、オレたちを殺す気か」二人で散々どやしつけると、 「面目ない」とゴリラはいった。  銃を構えて走ってくる兵士の姿を目にしたとき、恐怖でカッとなり、もう前後の見境がつかなくなってしまったそうだ。それで、後ろで何やらわめいているあんたたちの声は聞こえたが、とても何をいっているか理解する余裕はなく、もうハンドルにしがみついてアクセルを踏み込むだけで精一杯だった、という。  呆れたものである。あのまま突っ込んでいたら三人ともハチの巣ではないか。どうもこの国の群衆はカッと度を失うと何をしでかすかわからず、それが無用に多量の流血になって現われたように後で感じたが、単に多血質の民族性からではなく、むしろ人が好くておとなし過ぎるからこういうことになるのかもしれない。 「恐いよ、恐いよ」と、まだ岩のような体を小さく丸めておびえているゴリラを蹴とばすようにして、騒ぎが静まった路地へ車を取りに行かせ、ようやくホテルへ戻った。  一月の半ば、国王は密かに出国した。  前日、王室官房から連絡があり、国王は出国前、外国報道陣に空港で接見し、記者会見を行なう、といってきた。官房さし回しのバスで私たちは空港に行った。王家専用通路の入口で長い間待たされ、その間に国王とその家族の亡命機は離陸してしまった。うまうまと官房にだまされた形となったが、後の祭りだ。  国王亡命後も町のデモは連日続いた。  しかし、鎮圧部隊の態度は一変した。  パリのホメイニ師も、民衆と軍隊の直接衝突という事態は回避したいようだった。デモ隊に、無用の挑発行為を禁じ、兵士らを敵ではなく友人として扱うように命じた。デモ隊はこの命令に従い、カーネーションの花を兵士らに投げかけた。兵士らはすでに、下士官に怒鳴られていやいや出動してくるだけである。ある現場で、デモ隊の若者たちが三人の兵士を隊列に連れ込み、おみこしのように肩にかついで“親善”をはかっているのを見た。デモ隊の連中はみんな上機嫌だったが、兵士らは臆病そうに微笑み、その顔面はいずれも蒼白だった。軍が発砲しなくなったので、私たちの仕事もだいぶ楽になった。  その後もゼネストは続き、町の食料不足、燃料不足はますますひどくなった。  ある午後、すっかりのんびりムードになったデモ見物を終え、パーレビ通りをホテルの方に戻ってくると、一人の老人とその息子らしい若者が二人がかりで一頭の黒い|牡山羊《おやぎ》を路地から引っ張り出してきた。 「おや、何をするつもりか」  と、足を止めたとき、もう老人の剣が|一閃《いつせん》して、山羊の頭と体は分断されていた。まだピクピクけいれんしているのを、かまわず歩道に押さえつけ、皮をはぎにかかる。  見物人が四人、五人と集まってくる。  私も、歩道にしゃがみ込んで、タバコに火をつけた。  二人は小刀を使って、さっさと皮をはぎはじめた。喉元から肛門まで一筋切れ目を入れ、父親は下から、息子は上からはいでいく。四肢にも、ひづめのすぐ上から、つけ根に一筋切れ目を入れる。それから、ひづめの方からはいでいく。仕事は思いのほかきめこまかく、丹念である。左手で皮を裏返しにしてひっぱり、右手で肉と皮との間に軽く小刀の刃を当てる。左手の引っ張る力が働いて、皮は無理なくしぜんにはがれていく。  見ていると、父親の方が息子より何倍も手ぎわがいい。小刀の刃を正確な場所に当てるので、はいだ皮の方に肉も脂肪も残らない。息子の方はまだそこまで年季が入っていない。速度も父親よりはるかに遅い。三本目のタバコに火をつけたとき、山羊はもう、ホカホカと湯気が立つ肉の塊りである。  父子がかりでその肉の塊りを運び上げ、かたわらの並木の枝に逆さまに吊るす。この頃には、買い物袋を手にした主婦や立派なオーバー姿の中年紳士、若い娘さんやデモ隊流れの青年たちであたりはもう黒山の人垣だ。どうやら、町のメーンストリートで山羊を殺した父子は、その場で即売に出すらしい。  父親が、逆さ吊りの前に踏んばり、包丁で腹を一直線に切り下げる。上方、つまり下腹の部分から、途方もない分量の腸がザッと流れ落ちる。山羊やヒツジの大腸、小腸は長い、と聞いていたが、本当に驚くべき量だ。  息子は歩道に流れ落ちた湯気の立つ腸を両腕いっぱいかかえ上げ、かたわらのミゾに無造作に捨てる。捨ててからまたしゃがみ込み、大腸の何カ所かを小刀で切り開いた。腸をパンパンにはらせていた内容物がドッと飛び出してくる。麦ワラか乾し草か、まだ一部原型をとどめた黄土色の半消化物である。飛び出した内容物は、ミゾの激しい流れに洗われてどんどん下流に流れていく。息子が腸をつかみ上げると中の物は全部流れ落ち、いったん黄土色の堆積ができたが、それもたちまちエルブルズ山のすきとおった雪解け水に溶け落ち、流れ去った。息子はカラになった腸を、ちょうどぼろ布を洗うように何回か水の中でうち振り、そのままミゾに捨てた。ぼろ布と化した腸も、勢いよくくねりながら、ミゾの急流に運ばれていった。  親父と、待ちかまえていた群衆との間で“商売”が始まる。行列も何もないので、我れ勝ちのえらい騒ぎである。  さんざん罵り合い、小突き合ったあげく皮ジャンパーのあんちゃんが|腿《もも》を一本確保する。そのあんちゃんと売り手の親父との値決め交渉。何をいっているのかわからぬが、両方ともひどく興奮の態で口調もとげとげしい。そこへ周囲の連中がしきりと相の手を入れるものだから、交渉はますます混線し、騒ぎのボリュームは上がる。  十五分くらいたってようやく売り手と買い手との間に合意が成立した。親父が小刀で器用に腿をはずし取り、あんちゃんはそれを新聞紙にくるんで持ち去った。  二番手の客と再び同様の騒ぎ。  とにかくこの売り買い、いかにも無秩序で要領が悪い。値決め交渉は当事者二人にまかせ、他は黙っていればいいのに、ことあるごとに金切声で交渉に介入する。切り分けられた肉の分量が多いの少ないの、肩肉の質がいいの悪いの。そうするとこんどは、売り手の親父も買い手の方も、外野席とのやり合い、どなり合いに夢中になり、肝心の交渉はその間中断となる。ようやく太ったかみさんがあばら肉を三、四片、買い物袋に入れて持ち去った。  肉が売り切れたのは約二時間後。買いあぶれた連中はそう残念そうな顔も見せず散っていった。外野からさかんに弥次を飛ばし、売買に一役買った気になり、それだけでもう満足しているのかもしれない。  三時間近く、しゃがみ込んで見物していた私は、骨の髄までこごえる思いだった。  この町に来てから何十回目かのタメ息をつき、私は立ち去る。  どうもガサツで粗野な土地だ、とあらためて思う。  山羊を殺すのは飼い主の勝手だが、場所ぐらいわきまえたらどうなのか。それに何よりもあの肉の配分光景。たかが山羊一匹の肉を売ったり買ったりするのに、なぜ、ああも際限もなく口論し、非効率的、かつ消耗的な騒ぎを演じなければならないのだろう。  同時にこの国は、いわゆる近代国家の尺度だけで測定しようとしたら、測り知れぬところが多くある国であることを、再度肝に銘じて実感する。  テヘランは立派な近代都市だが、そこでの人々の生活や意識は、時代的に複層をなしている。近代と非近代が、土着と外来が、そして東と西の文化や発想が混り合った複雑な世界だ。  たとえばこのゼネストである。  何週間来も物資輸送がストップしているのになぜ人々の生活が成り立つのか、と東京デスクサイドはしきりと問い合わせてくる。正直なところ現地にいても、その辺の理由はわからない。そのくせ当のテヘラン市民は案外のんびりした様子で日々の生活を送っている。律義で画一化された日本人の体質は、多様で未整理の社会に投げ込まれると居心地の悪さを感じるが、多くの場合、多様性とか未整理性とかいうものは、しぶとさ、たくましさの土壌となる。  四十階建ての高層ビルが停電に見舞われたら人々はパニックに陥るが、テヘラン下町への送電が途絶えても、人々は一言罵ってそのまま毛布の下にもぐり込んでしまえばいい。  ここの下町ではまだ一つ屋根の下に人間と山羊が同居している。ゼネストでスーパーマーケットや食料品店の店先から品が消えたら、人々は一頭つぶし、それで一家が一週間や十日は楽に食いつないでいける。  未整理の社会というのは、人々がそこでいわば伸縮自在の生活を送れる社会だ。ゼネストや都市機能の麻痺がもたらす打撃を吸い込んでしまう社会だ。たかが何時間かの国電ストで蜂の巣をつついたような騒ぎになる社会とはまったく別の社会だ。  今、テヘランの大衆は自家調達の山羊の肉を食べ、日が暮れれば眠り、夜明けとともに起き出してホメイニ師万歳のデモに出かけていく。子供たちは一日仕事を覚悟でポリ容器を手に、灯油やガソリンの買い出し行列にならぶ。  彼らにとっては多少時計の針が逆戻りしたにすぎない。基本的にはどうということはない。ホテルに戻ると相棒のM君が、 「おう、どこを一人でうろついてたんだ」  兵士らが低姿勢になったとはいえ、まだ町中は何かと殺気立っている。単独行動のさいはなるべく仲間に連絡をとるとの申し合わせがあった。 「すまん。通りでおっさんが山羊を殺してたんでね」首が切り落とされてから、最後の胸肉の一片が若い奥さんの買い物かごにおさめられ、さしもの大山羊が“消滅”するまでの一部始終を語ってきかせたが、中東ズレした相手は別に感慨を示さない。 「それで、何かね、あんた、この寒いのに三時間もしゃがみ込んで見ていたのかい」 「そうだよ」 「暇だねえ、あんたも」  相手はあきれ、 「それで、何か得るところはあったかい」 「うん、親父の方が息子の倍以上も早く、うまく、皮をはぐんだ」 「年の功だな」 「それにしても、この国の連中はなぜああおしゃべりなんだ。なんだってあんなに大声で怒鳴りあうんだ」 「なよなよした、気候温和の日本と違うんだよ。年中ワァワァいっていなければとても気候に立ち向かえない。あんた、一度砂漠に行ってみな」 [#地付き](「諸君」60・9)

  
ベテラン記者の死  いきなり私事になるが、この原稿は入院先の東京・虎の門病院で書くことになった。  夏の初めから腹部にさしこみを覚えはじめ、七月上旬になると耐えられぬほどの激痛になった。元来私は医師とか病院にほとんど縁のない人生を送ってきたのだが、今回ばかりはネを上げた。近所のクリニックに駆け込むと、ただちにバリウムを飲まされたあげく奇妙な台に乗せられ、ぐるぐる体を回されて腹中を透視され、 「出来てますぜ、デカいのが」  胃|潰瘍《かいよう》だ、という。  盛大に出血中で急を要するとかで、翌日病院入りとなった。  最初の何日間かは、痛みと吐き気でシーツをかきむしり、応急の点滴が効きはじめたところで本格的な検査と治療にはいった。  医師の診断では、昨日や今日に出来たキズではなく、よほど長期間にわたり抱え持っていたものらしく、おかげで直径三センチほどの潰瘍の周辺が繊維化してしまっている、という。いわれてみれば、食後など異常に腹が張ったり、ときおり胃のあたりに筋肉痛のようなものを感じはじめたのは数年前のバンコク在住当時である。長年培った病気を追い出すには、それだけ長期の治療を要するらしく、 「長期戦を覚悟しなさい」  と宣告された。  加えて、各種検査の過程で、かねて不調を自覚していた肝臓の方も慢性的な機能低下に陥っていることが明らかになり、当分は入院生活を観念することになった。  学生時代、スキーで足の骨を折って病院にかつぎ込まれたことがある。十二、三年前、サイゴン(現ホーチミン市)で肝炎につかまったときも家人に近所の病院に運び込まれた。だが、骨折で入院したときは一週間もたたぬうちに悪友どもが押しかけてきて、 「このくらい何だ」  と、寄ってたかってギプスをたたき割り、そのまま裏口から|娑婆《しやば》に搬出してくれた。そればかりか、次の週にはまた皆でスキーに出かけた。さすがに天罰が当たって、痛む足首をかばいながらゲレンデを滑降中、大転倒をやらかし、こんどは新調のスキーを真っ二つに折ってしまった。それでも、骨を折ったままでゲレンデに出かける気になれたのだから、たいしたケガではなかったのだろう。一週間たらずで逃げ出したから入院生活の思い出など何も残っていない。  肝炎にやられたときも何日間か病院にとどまった。戦時国家の病院であるから、環境はおよそ劣悪であった。病棟はほとんど傷病兵や市内で頻発するテロの負傷者に占領され、いってみれば野戦病院まがいである。内科のスペースは、片隅に追いやられ、一つのベッドを二人の患者が共用する。一人が右半分、もう一人が左半分、それも同じ方向で寝ていると面積不足で二人とも床に転げ落ちてしまうので、|入れこ《ヽヽヽ》になって寝た。片方が東を枕にし、他の一方は西を枕にする。当然、互いの顔先に他の一人の足がくる。同床のベトナム人が水虫持ちであったのか、その足のくささに閉口した。こんな具合であるから、せいぜい栄養剤の点滴ていどで、ろくな治療は望めなかった。そのうちに戦況が動きはじめ、仕事に戻らざるを得なかった。 「無茶もいい加減にしろ。あと一カ月は絶対安静にしていないと、一生涯病気を抱え込むことになるぞ」  と、医師にどやされたが、どうやらベトナム戦争終結間近を予測させる天下分けめのヤマ場であったからいたしかたない。結局、そのまま病院を出て、医師の警告どおり肝臓いかれっぱなしのまま現在にいたることになった。  いずれにしろ、過去二回の入院はこんな具合で、本当に闘病生活あるいは療養生活をしたという実感はない。  だから、今回の虎の門病院八階北病棟での謹慎生活は、四十数年の私の人生でのいわば初体験であり、まあこれだけずぼらな生活を重ねてきた当然の報い、と心得ざるをえない。  二週間たち、三週間たち、たちまち一カ月が過ぎた。入院のことはあまり友人や知人に知らせなかった。うす汚いヒゲ面をベッドにさらしている姿をあまり宣伝したくなかった。それでもどう聞き知ったか、チラホラと見舞いが来はじめた。勤務先の社の仲間、親しい出版社の人、なかでも毎日新聞の古森君は多忙の中を三日にあげず足を運んでくれる。バカンスで勉強先のパリから戻った娘のユンもフランス人のボーイフレンドを連れて毎日夕方になるとやってきた。  八月の中旬過ぎだったか、思いがけぬ男が現われた。他の病床の患者を気づかってか、金髪の大柄な体を、遠慮しいしい室内に運んできて、 「心配させるぜ。具合はどうだい」  バンコクの米NBC放送の支局長、ニール・デービス記者だった。原水禁大会の取材で日本に来て、たまたま外国人記者クラブで旧知の古森君から私のことを聞き、病院を探し当ててきてくれた、という。  私も一緒にいた妻も、その親切さに驚いた。取材出張であるから、何かと多忙な筈だ。 「もっと早く来たかったんだけど、広島や長崎を飛び回っていたんでね。今日の最終便でバンコクに戻るよ」  妻が譲ったベッドわきの椅子に腰をかけ、 「よかった。元気そうじゃないか。バンコクにいた頃より顔色もだいぶよくなっている」  その日、私は薬の副作用もなく気分がよかった。ベッドに起き直り、この遠来の友人とバンコク政情や二人でよく通ったタイ・カンボジア国境地域の戦闘状況などについてひさしぶりで活気のある会話を交わした。  ニールとはもう十何年も前、サイゴン勤務時代からの付き合いだ。国籍はオーストラリアだが若い頃から腕一本の一匹狼としてインドシナ報道で鳴らし、東南アジア地域では最も名が知られたジャーナリストである。  ベトナムでもカンボジアでも、つねに戦闘の現場に身を置き、銃弾でなぎ倒される兵士や、やぶをはさんで敵味方が手投げ弾を投げ合う光景などを至近距離からカメラにおさめた。当然、危険も大きく再三、弾丸や破片を食らっている。いつかカンボジア内戦時代の彼のフィルムを特集した米国テレビの特別番組を見た。三、四時間の大番組で、ニール自身がキャスター兼解説者として登場していた。ある戦闘場面で突如カメラがぶれはじめたと思うと、奇妙にパーンして画面に森の|梢《こずえ》や遠くの水田や、足元の地面が映り、ついで暗転。次の場面には足をやられて野戦病院にかつぎ込まれるニールの姿があった。  こんなことは一度や二度ではなかったらしく、彼の体内にはいまも二個の銃弾や破片が残っている。  現場を離れた彼は、こんな荒事をこなすとは想像もつかぬほどの、穏やかな優男である。若々しく、二枚目俳優顔負けの美男子だ。とくにその青い眼にたたえられた物静かな優しさが、男も女も|惹《ひ》きつける。  根は生真面目だが、そこそこの遊び人でもあった。  ニールと私の交遊については、一九八五年春に文藝春秋から出版した拙著『パリへ行った妻と娘』で、彼の名をハワードと変えて触れたので、ここではほんの断片だけをなぞることにする。  一九七一年夏、私がサイゴンに赴任して間もなく、彼はその大柄な体を私の支局に現わした。それが初対面であった。一見、私と同年輩あるいは三つ四つ年下に見えた。おめあては私ではなく、私が使っていた二十歳前後の秘書の娘だった。その後も彼の行状を観察していると、小柄で細っそりしたうんと若い娘に弱いらしく、仲間からもよくそのことをからかわれていた。  私は初対面の日からニールに一〇〇パーセント好印象を持った。当時はまだ彼が私の何倍ものインドシナ報道歴を持つベテランだとは知らなかった。現場記者というのは、場数を踏めば踏むほど、その身ごなしや目つき、口のきき方に筋が入ってきて、よくも悪くも独特の雰囲気を備えてくるものだが、ニールはいつも謙虚で新鮮だった。当時彼はすでに一流の記者であったが、周囲のそんな評価など少しも意識していない様子で、赴任したての私をまったく対等の仲間として扱った。そのごも彼の口から自慢話らしいものは一度も聞いたことがない。  私が彼のカンボジア、ベトナム戦線での凄絶な活躍ぶりを知ったのも、たまたま何年か後に米国テレビの特別番組を見てからである。英国BBC放送が彼をモデルとして『最前線』という特別ドキュメンタリーを作っていたこともずっと後になって知った。  付き合いが深まるにつれて、私は彼の人柄にますます惹かれた。私の秘書はサイゴンの金持ち階級の出で、頬骨の張った美人であったが何かとこまっしゃくれ、小生意気な娘だった。ニールのようないい男が追い回すに値しない娘に思えた。まあ、他人のことなので黙ってみていたが、半年ぐらいで娘は虚弱児のようなイギリスの外交官の卵と突然結婚し、アルゼンチンに行ってしまった。  ニールも別にしょげていなかったところをみるとそれほど本気ではなかったのだろう。  サイゴンで最後に言葉を交わしたのは、一九七五年五月の二十何日だった、と思う。サイゴンが陥落して約一カ月後である。私はベトナム生まれの妻と娘を一足早く東京に避難させていたため、彼女らの生活の手当てをしに早急に出国しなければならなかった。翌日か翌々日に革命政権側が出国記者団専用機を飛ばしてくれることになっていたので座席を確保した。当時VISニュースの支局長をつとめていたニールは、独身の気楽さでいられるだけサイゴンに居続ける腹だった。市役所の前のカフェで朝食を共にしながら、とりあえず別れの挨拶をした。 「一緒に仕事ができて嬉しかったよ」 「どうせ、どこかでまた会うよ。オレはサイゴンを追い出されたら、たぶんバンコクに拠点を移す」  ニールは陽気にいい、それから私たちは、 「See you soon」  握手をして別れた。  彼の予告どおり、私たちは三年余り後の一九七八年秋、バンコクで再会した。  私が赴任した翌々日、彼は私たち夫婦を下町の海鮮料理屋に招いてくれた。過去三年余りの間に一回結婚したがうまくいかなかった、とかいう話を風の噂に聞いていたが、ブン屋仲間の付き合いでは本人が言い出さない限りプライベートな事柄に触れないのが鉄則である。  私が赴任して間もなくベトナム軍のカンボジア進攻のあおりでタイ・カンボジア国境が荒れはじめ、インドシナ屋のニールはまたまた精力的にヒットを飛ばしはじめた。バンコクから前線の国境地域までは直線で二五〇キロほどである。飛ばせば一日で往復できるが、戦況が荒れたり、森へ入ってゲリラの拠点を取材するとなると現地泊まりが続く。国境の町の木賃宿でよくニールと泊まり合わせた。出足のいい男で、私がバンコクで異変を聞きつけて、それ、と抜け駆けを試みても、必ず彼の方が半日以上先に来ている。夜遅く国境沿いのバンガロー風の小屋にたどりつき、そのまま泥のように眠り込んでいると、明け方、勢いのいいノックの音がして、戸口でジョギング姿のニールが笑っている。 「おい、今日は森の中の強行軍だぜ。バンコクでなまった体を少しもとへ戻しておけよ」  この頃、カンボジアの反越ゲリラ基地との接触に関しては、私もどうやらニールと太刀打ちできるていどのコネを開拓していた。しかし底辺の集積知識はまだまだくらべものにならない。各国記者が何人か集まって森に入るさいは、しぜん彼が幹事役になった。  バンコクでは彼は米国テレビNBC放送の支局長をつとめていた。ついでにタイ外人記者クラブ会長という難役を押しつけられ、実に多忙であった。  その彼が、わが家の二十二歳の小娘ユンを見初め、すっかり|惚《ほ》れこんでしまったのには驚いた。  この辺も拙著(先述)に書いたので重複を避けるが、どういう風の吹き回しか、本気で惚れてしまったらしい。一度など私をバンコク一のフランス料理店に引っぱり出し、相当深刻な相談をぶたれた。  食事の間は照れていたのかよもやま話で過ごしたが、コーヒーとコニャックが運ばれてくると、 「なあ、おい、娘さんにはもう決まった相手がいるのかい」  こんな調子で切り出してきた。  娘には一年ほど前から付き合っている年下のフランス人のボーイフレンドがいた。まだ夫婦仲を約束した相手ではないにしろ、場合によってはそうなりかねないていどの相手だ。事情を話すと、腕組みをして考え込んだ。 「オレはもう家庭は持つまいと思ってたんだ。どうせこんな商売だ。いつどんな死に方をするかわからない。だけど最近なあ」 「弱気になったのかい」 「いや、君をみているとつくづく|羨《うらやま》しくなることがあるんだよ。いい家庭を持つということもやはりこの世のしあわせだなあ」 「苦労もそれだけ多いよ」 「うん、でもユンは本当にいい娘だ。彼女とならうまくやっていける」  もしかしたらオレがこいつの義理の親父になることになるのか、と少々うろたえた。  それ以上にこの練達のベテラン記者と、まだ女子高校生並みのわが家の小娘の取り合わせのちぐはぐさがおかしく、ニールには気の毒ながら本気でこの問題を考える気にはなれなかった。  そのごもニールはだいぶ娘を追い回していたようだが、しばらくして娘がパリへ行ってしまったためことは沙汰やみになった。  一九八三年春、私が過労でバンコクから帰任することになったとき、彼は、 「早く戻ってこいよな。君はやっぱり東南アジアの現場向きだぜ」  といった。  虎の門病院に姿を現わしたニールは、二年半前に別れた時と同様に若々しくさわやかだった。  病室に、たまたま娘のユンとその男友達が居合わせた。 「久しぶりだね、ユン。こんな所で会えるとは思ってなかったよ」 「バカンスでパリから戻ってきてるの」  ニールと娘とのいきさつを知っている男友達が硬い表情をし、娘も突然の“元彼氏”の出現に|狼狽《ろうばい》していた。  男友達に遠慮してか、ニールは娘とあまり言葉を交わさなかった。ただ、私との話の合い間合い間に、チラリチラリと娘の方に目を走らせる。その様子を見ながら「こいつ、まだ気があるのかな」などと考えた。  約二週間後の九月九日昼過ぎ。  ナース・ステーションから、外線電話が入っている、と呼び出しがあった。廊下の角の受話器を取ると、日本経済新聞の諸星さんからだった。 「知ってるかい。タイでクーデターがあったよ」 「またやったか」 「夕刊段階では入電内容がまだ混乱している。だけど——」  ちょっと間を置いて、 「ニール・デービスが射たれて死んだ」 「まさか」  空耳ではないか、と思った。 「残念ながら、確報だ。銃撃戦を取材中にやられたらしい」  とっさに言葉も出なかった。  諸星さんはバンコク特派員時代の仲間である。数日前、病院に見舞いに来てくれた。だからニールが病室を訪ねてきてくれたことも知っている。 「悪い知らせだけれど、やっぱり耳に入れておいた方がいいと思ってね」  死亡の確報は入ったが、詳細はまだ不明だという。流れ弾説、ねらい射ち説、一部外電は腹を射たれた、とも打ってきている。  信じられないことだ。  受話器を戻し、病室にもどり、ベッドにあぐらをかいた。  あのニールが。  つい三週間前、ベッドのかたわらのこの椅子で元気に笑い、私をはげまし、 「治ったらバンコクに療養に来いよな。待ってるからね」  いつものように軽くウインクをして去って行った。  そのニールが本当に死んでしまったのか。  誤報——と思いたかった。通信社電が人名を間違えたのではないのか。だが、諸星さんはいいかげんな情報を真に受けたりするような人ではない。バンコク発のAP電、AFP電、時事電などを照合し、確認したうえで連絡してくれたのだ。  それにしても、あの大ベテランが。  私が知るかぎり、ニールは凄いフィルムを撮るが、それだけに諸事に慎重で沈着で、絶対に無茶はしない男だった。功名心にはやる駆け出しとはわけが違う。だからこそあのベトナム戦争で何十回も危険な従軍をしながら生きのびてこられた。何回か負傷はしたが、いずれの場合も無鉄砲が原因でのケガではなかった。  夕方、古森君が来た。  顔を見るなり、 「知ってるかい?」 「うん、さっき知らせがあったよ」 「信じられない。こないだ会ったばかりだ」  その後の新聞情報によると、クーデターそのものは、クーデターの名にも値せぬお粗末の一席であったらしい。  このシリーズで、一九八一年四月に起きた「四月一日(エプリル・フール)クーデター」について書いたことがある。「ヤング・タークス」と呼ばれるタイ国軍の若手大佐連中が、国政改革を叫んで起ち上がった事件だが、|蜂起《ほうき》計画自体がお話にならぬほどずさんで、いったん首都バンコクを制圧したもののたちまち鎮圧された。  今回(一九八五年九月九日)のクーデターも同じヤング・タークスの仕業だ。首謀者の大佐たちは前回の事件で一時勾留されたが、どういうわけか一カ月たらず後、無罪放免となった。その彼らが今回は政府の経済政策の不調ぶりに憤慨して再び事を起こした。起こしはしたが、その計画も実施方法も前回にまして粗雑で、クーデター部隊はたった一日で空中分解した。一部報道によると、クーデター側の実質兵力は千人たらずだったともいわれる。  前回と同様、首謀者らは、この国で「政変」を起こすさいに不可欠な国王の了解すら求めなかった。  こうした情報から判断すると、首謀者らが本気で政府を転覆させる気であったのかどうか、わからない。クーデターが起きたさい、プレム首相も、首相と折り合いが悪い軍部最高首脳のアーチット大将も外遊中であった。アーチット大将は一応外遊先の北欧から腹心の将軍らにクーデター鎮圧を指示したが、実際には今回の事件は最近政府に頭を押さえられ気味の同大将派の軍部タカ派がおっちょこちょいの大佐連中をたきつけて一種の示威運動を試みたもの、との見方も消えていない。  いずれにしろ、事件そのものはまともに取り上げるのも馬鹿馬鹿しいほどの茶番であった。  この茶番に巻き込まれてニール・デービス記者は死んだ。  病院の私の手元に詳しい情報は届いていないが、市内一、二カ所で起きた散発的な銃撃戦の現場で射たれたらしい。  翌十日の日本テレビ・ニュースは、ニールの最後のフィルムを流した。射たれて転倒したニールの手から放れて投げ出されたカメラはなお回り続け、地上を這っていくニールやその向こうのクーデター部隊側の建物などをとらえていた。ニールは何メートルか這って後、絶命したらしい。遅れて現場についた他のテレビ・クルーは両脚を少し開いて仰向けに横たわるニールの遺体を映していた。どちら側の弾にやられたのかわからぬが、流れ弾ではなかったような気がする。  タイ軍の兵士らは実戦慣れしていない。小規模とはいえ、初の銃撃戦に興奮し逆上した兵士が目についた人影をめがけ、やみくもに掃射を浴びせたのではないか。ニールと一緒にいたNBC放送の録音助手も射たれて死亡した。  新聞情報では、ニールの最後の言葉は、 「友よ、オレはだいじょうぶだ」  であったという。  誰が集録した言葉かわからない。年齢は五十一歳であった。そのことを知り、あらためて彼の若々しさに驚かされた。最後まで私は、彼の方が私より年下と思っていた。本当にさわやかで、すがすがしい男だった。 [#地付き](「諸君」60・11)      

  
ばくち好き  新聞社に入ってしばらくの間、静岡支局にいた。  町に浅間神社という大きな神社があった。この地方ではたいそう格式の高い神社だそうで、春秋の大祭はなかなか盛大だった。NHKのスター・アナウンサーの一人山川静夫さんがこの神社の神官の子息と知ったのは、ずっと後になってからである。  祭礼の時期になると、境内、沿道に露店が開く。どこの祭りにもそうなのだろうが、全国から旅回りの|香具《や》|師《し》やおあにいさんたちが集まってきて、荒っぽくにぎやかな空気になる。  ある日、某社某記者が、露店で子供たちが射的遊びをやっているのを見て、これはけしからんと憤慨した。コルク|弾丸《だま》で棚のキャラメルを射ち落としてせしめる、例の遊びである。 「十八歳未満はこの種の遊びを禁止されているはずである。祭りとはいえ、子供の|射倖《しやこう》心をあおるような遊びを野放しにしておくとは何事か」  と、彼は写真入りで|糾弾《きゆうだん》記事を書いた。  自分は毎日、県警本部の記者クラブで賭け麻雀に明けくれながら、たかが祭りの射的で「射倖心」とは恐れ入ったが、まあ、狭い町に全国紙、地元紙合わせて新聞記者が、三、四十人もごろごろしていると、こんなことまで記事にしなければ記者の方もやっていけないのである。  不幸にして、彼の新聞は当時、日本一の良識を代表する有力紙ということになっていた。県警本部防犯課は閉口頓首した。早速係り官が縁日に出向き、小屋の連中におキュウをすえた。  翌日、射的屋やスマートボール屋の店先には、 「その筋のお達しにより、十八歳未満の方の遊戯は固くお断りします」  という張り紙が出た。  |件《くだん》の記者はニンマリ笑って、その掲示の出た店頭を再度カメラにおさめ、“キャンペーン”の成果を大々的に報じてから、また麻雀の卓に戻った。  もともと「射倖心」とは、人間としてかなり自然な心の赴きではないかと思う。いってみれば「夢」なのだ。どうもわが島国には、労働は美徳であるなどという、上に立つ者に都合のいい観念が|蔓延《まんえん》しすぎているので、こんな埒もない記事一本でも県警本部がきりきり舞いしてしまう。  子供だってキャラメルほしさに、夢中で自らの能力の限りを尽くそうとするだろう。人間の真の「夢」と「進歩」は、自らの能力の度合いを具体的な形で認識した時に初めて生まれる。  その意味では射的場だって学校なのであって、せっかくの能力自己測定の場を「射倖心はいかん」と取り上げてしまうなど、実に濶達さを欠いた発想という他ない。  もっとも、射的屋の味方をする私も、近頃のテレビの子供向けコマーシャルには何ともいえず情ない思いをすることがよくある。  とりわけ、「このマークを送れば×××が|もらえるよ《ヽヽヽヽヽ》」という類のせりふだ。これは射倖心などという高尚なものではない。実にさもしく、汚らしい、乞食根性の奨励ではないか。  かりに自分の子供が「|もらえるよ《ヽヽヽヽヽ》」などといわれてホイホイ応募したりしたら、私なら一生涯忘れられぬほど手ひどくぶんなぐってやるだろう。  どの辺を境にするかといわれると少々考え込んでしまうが、少なくとも私自身の内なる価値観からいえば、「射倖遊び」と「|もらえるよ《ヽヽヽヽヽ》」のコマーシャルとの間には無限の距離がある。  射的にしろ、バクチにしろ、ミソはやはり当人の能力が勝負であり、その行為を通じて彼自身が積極的に自らを一つの目的に集中させる、ということなのではなかろうか。  私自身は賭けごとへの粘着力はきわめて稀薄であり、だいいち、|真物《ほんもの》のバクチに手を出す度胸もない。が、いろいろ読んだり考えたりしてみると、バクチもやはり売春と同様、人間の歴史発生以前の行為のように思えることがある。  少なくとも、バクチというものの中に、人間の本質に結びつく何物かがなければ、ドストエフスキーの『賭博者』はあのなまなましく凄絶な迫力を持ち得まい。  南ベトナムで暮らしてまずびっくりしたのは、この国の連中が上から下まで大変なバクチ好きであることであった。  法律では禁止されている。だがもともとこの国の法律は破るためにあるようなものだ。  政府、軍の偉い連中は、憲兵や親衛隊を見張りに立てて盛大に場を開く。在野の超大物、グエン・カオ・キ将軍の麻雀では、一夜に数千万円が動くといわれていた。華僑の旦那衆の手なぐさみもそれに劣らぬスケールだそうだった。  町の庶民は、トゥー・サックと称するベトナム式カード遊びやサイコロ賭博に目がない。トゥー・サックは、「将」「馬」「卒」などと、漢字が記された百二、三十枚のたんざく状のカードを二人以上の遊び手が分配して、山から引いたり上家の捨て札を利用してさまざまの組み合わせを作っていく。  ルールは麻雀によく似ているようだった。幅一・五センチ、長さ六センチほどのカード(二人でやる場合、手持ちのカードの数は三十枚前後になる)を左手の親指と人差し指で束ね、扇形に開いて勝負をはじめる。  他のことにかけてはあまりだらしよくなさそうな市場のおばさんも、街のガキどもも、右手の人差し指で半円を描くようにしてこのツルツルした小さなカードを、実に見事な扇形に開く。  その器用さは人間技とも思われない。私も半年近く修練を積んでみたが、不揃いに開いたり、指の間からカードがこぼれてしまったりでとうてい手に負えず、ルールを覚えるどころではなかった。  ベトナム人の手先の器用さは定評があり、機械いじりや乗り物の操縦も世界一といわれるが、あの手品師のようなカードの取り扱い方を見ていると、なるほどと納得がいく。  ところで、私は浅間神社の射的にかみついた同輩よりも多少度量が広いつもりでいたが、それでもベトナム人のこの国をあげてのバクチ狂いぶりにはいささか批判の念を禁じ得なかった。  何といっても戦争の国なのだ。それも自前で戦っているわけではなく、骨の髄まで他人のカネに頼りながらこの始末では、国としての行く末も目に見えているように思えた。どうもこれは余りになまなましく人間的でありすぎる世界ではないか、と思った。  これに対し、当時解放勢力と呼ばれていた共産側は、大義と信念のためには家族も恋人もいっさいの人間的欲望も忘却し得る“英雄”の集まりとされていた。  後に、その解放ゲリラの村へ潜入してきた記者仲間から、「おや、まあ」と思うような目撃談を聞いた。  革命家の兵士らも、銃撃戦の合い間にはこのトゥー・サックを取り出し、夢中になってバクチにふけっていたそうだ。 [#地付き](「マネジメント・レポート」54・1)

  
サイゴンの釣り師たち  ベトナム人がなみはずれた釣り好きの民族であることは、これまでもいろいろな機会に書いた。  私が駆け出し記者時代を過ごした静岡県は、背後を南アルプスや身延の連山に守られ、沿岸は|駿河《するが》湾、遠州の暖流に洗われ、気候、産物に恵まれた結構な土地であった。興津川、安倍川、大井川など、アユ釣りの名所にもこと欠かない。当然、釣りキチ、釣りテングが多い。石を投げれば、“県下一の友釣りの名人”に当たる、といわれた。  ベトナムの釣り人口の密度はそれ以上だった。それも、身分階層性別年齢を問わない。  サイゴン政権の初代大統領ゴ・ディン・ジエム、修道僧のように謹厳・質素な人物で、そのためよけい各方面から煙たがられ、恐れられた。その彼も、ナマズ釣りとなると目の色を変えたそうだ。  ジエム暗殺後に政権を握ったグエン・カーンという将軍も、暇さえあれば米国供与の大型哨戒艇で沖釣りにくり出し、米軍事顧問らをカッカとさせた。将軍は肥ったトカゲのような大目玉を|剥《む》き出した|愛嬌《あいきよう》ある顔立ちで、とてつもない汚職をすることで有名であったが、地元の南部人には比較的人気があった。女好きの彼は毎回側近の夫人連や町のきれいどころを大挙招待して派手に船出する。彼女らもさかんに釣り上げるが、エサの虫をつけかえられず、キャーキャー大騒ぎになる。亭主たちはもうサカナに夢中で、女房など眼中にない。人の好い将軍がいつも右へ左へ駆けずり回って、夫人連や他人の恋人のサービスにこれつとめなければならず、ゆっくり釣りを楽しむどころではなかったそうだ。  この話を私はカーン将軍の沖釣りの常連であったある年増美人から聞いた。将軍はその後、首相の座を追われ、あげくがかつての側近の一人に妻君と財産を横取りされてすっからかんでフランスに亡命した。 「無理もないわよ、あいつは本当にグズなんだから」  年増美人は冷然とコメントした。  その後天下を取ったグエン・バン・チュー大統領はずいぶん生まじめな性格で、女性にはまるで人気がなかった。のみならず、その性格が祟って余りに生まじめに反共の政策を貫きすぎたため、とうとう南ベトナムという国を亡ぼしてしまった。彼もまた一日十八時間といわれた律義な執務の唯一の息抜きが、郊外の水路に糸を垂れることだった。  もっとも、月に一度のこの息抜きは、周囲にとって一騒ぎだった。毎回、特殊部隊が出動して釣り場一円の水域にもぐり、機雷の有無を確かめた。当日もフロッグマンらが水中に身を潜め、忍者スタイルで大統領の身辺警護に当たったという。  サイゴンにいた頃、私の妻は十指に余る扶養家族をかかえて大変多忙だった。それでも暇を見つけてはよく釣りに出かけた。  彼女が自分の中に民族の血、つまり“釣り師”の血を自覚したのは、四歳か五歳のときだったという。当時サイゴンは日本軍の占領下にあり、家のすぐそばに兵営があった。雨期が去ると、兵営裏庭の水たまりに小ザカナやオタマジャクシがたくさん集まり、近所の子供たちの絶好の“漁場”となる。ある日、洗面器で小ザカナの群を追っていたら、ストンと|塹壕《ざんごう》跡の深みに落ちた。泥水をいやというほど飲み込み、子供心に「ああ、これでお釈迦さまのところへ行くのだな」と観念したそうだ。観念しながら浮き沈みをくり返し、気を失った。  気がついたときは、司令部の床の上に寝かされていた。パッチリ見開いた目にまず映ったのが、日頃彼女を可愛がってくれていた司令官の“|ダイタ《ヽヽヽ》(大佐)”だった。偶然通りがかった日本兵の一人が異変に気づき、竹|竿《ざお》で泥水を引っかき回して釣り上げてくれたのだそうだ。  意識を取り戻した彼女にニッコリ笑いかけた、イガグリ頭の“大佐”の嬉しそうな顔を今でもはっきり覚えている、と彼女はいう。  私と結婚し、やがて日本に移り住まなければならないことになった時も、彼女はこの優しい“大佐”の面影を思い出した。人生の半ばになって言葉も習慣も知らぬ国へ生活の場を移すことは、妻にとってもそれなりにしんどい思いだったのだろう。 「でもしようがない。これもきっと何かの縁でしょう。もともと日本人に拾ってもらった命なんだから」  などと、自分にいいきかせていた。  彼女の釣りの相棒は二人いた。  一人は内務省の某局長、もう一人は市中のホテルにたむろするハイヤー運転手トムのおっさんだ。この、生まれ育ちも住む世界も違う三人が、釣りとなるとたちまち四民平等のなごやかな社会を構成する。内務省の局長といえば配下に国家警察を従え、まあ、泣く子も黙るほどこわぁい実力者である。トムのおっさんなどその前では虫ケラ同然で、日頃はおそれ多くて直答もできぬような間柄だ。それが竿を片手に熱が入ると、そんなカミシモは吹っ飛んでしまう。  相手が手元まで引き寄せた大物を逃がすような不始末でもしでかそうものなら、 「何たる阿呆だ。おめえは恥知らずのヘボだ。低能だ」  びっくりするほど、口汚い。  局長殿の方も、穴があったら入りたいような風情で、恐縮し切ってくどくど言い訳している。こんなに民主的になれる連中が、なぜ世界の進歩的世論から|蛇蝎《だかつ》の如く糾弾されるような非民主国家を作り上げてしまったのか、と私はよく首をかしげた。  トムのおっさんは、森にカセット・レコーダーを持ち込んでウズラを捕らまえる名人でもあった。ウズラは生まれつきおせっかいな鳥で、仲間の|啼《な》き声を聞くと、用もないのにのこのこ集まってくる。集まったところにバサッと網をかけ、羽根をむしってあぶればビールのつまみにもってこいだ。おっさんは若い頃から森に出かけたが、オトリにはさんざん苦労した。ウズラにだって多少の自主性があるから、丹精こめて訓練してもいざ本番となるとなかなか計算どおり啼いてくれない。  その日も不猟だった。腹にすえかねて、いっそこのオトリをつまみにしてやろうか、と思いあぐねながら町へ戻ると、偶然、路地のヤミ市で日本製のカセット・レコーダーを目にした。その時、天才的に|閃《ひらめ》いた。  さっそくカネをため、一台買い込んで、オトリの声を吹き込み、森に持参した。機械はヘソを曲げたり横着をきめこんだりしない。 「それ以来、ビールのつまみには不自由しないね。ここだよ、ここね」  おっさんは、この話をするたびに、明らかに森のウズラより数等中味の濃そうな自らの頭部を誇らしげに指し示した。  彼は小柄で、陽気で、ダンディーで、いかにも南部ベトナム人らしい楽天家だった。  だいぶ後になってその彼の妹一家が、郊外に迫った革命軍をたたきに出撃した政府空軍の爆撃で全滅した。 「もうオレはベトコン(革命軍)も、政府軍も大嫌いだあ! みんな殺してやる!」  日頃の彼からは想像もつかないほどそれは凄い形相だった。いつまでも支局のソファーにうずくまって少年のように泣いていたおっさんの姿は、今も忘れられない。  ナマズを釣ったり、ウズラをだましたり、見ためはみんな結構気楽そうに生きていたが、やはり、何ともいいようのない世界だった。 [#地付き](「マネジメント・レポート」53・11)

  
「お化け」が住みにくい国  どこの国にも、それぞれの「お化け」がいる。などというと、子供だましに聞こえるかもしれないが、実はこの辺が、人間と他の生きものを隔てる明確な境界なのではないか。人類と他の動物との間の最大の違いは、想像力を持つか持たぬか、ということだろう。  人類は、幸運にもこの想像力を授かった。おかげで、創造を知り、芸術・科学を発達させて、万物の霊長を|僭称《せんしよう》するにいたった。イヌ、ネコどもの第六感と称する本能は、人間以上に鋭敏さをそなえている。が、気の毒なことに、「お化け」を思い描いてこれを|畏怖《いふ》するほど高度な心の働きはなかった。それがために、動物学的にみれば彼らよりはるかに鈍で虚弱な人間たちに畜生呼ばわりされる運命となった。  だから、化けもの、妖怪、幽霊、もののけ、悪霊の類をあざ笑う人は、イヌ、ネコ並みといっていいかもしれない。  インドシナ半島にもさまざまの「お化け」がいた。地理的に大別すると、安南山脈西側のタイ、ラオス、カンボジアでは、いわゆる「精霊」が主流を占め、山脈を東へ越えたベトナムでは、「幽霊」「|怨霊《おんりよう》」の類が幅をきかしていた。  タイ、ラオスなどでは「精霊」を総称して「ピー」という。詳しく調べたことはないが、どうやら森羅万象を司る無数のピーがいるらしい。彼らは人間に対しても悪さを働いたり、親切を施したりする。  ピーのお告げは絶対だ。ラオスに取材で出張したときのことである。ある朝郊外へ取材に行くために予約しておいたハイヤーがやってこない。いらいらしながら待っていると、昼近くになってようやく運転手から、 「出勤途上でピーに出会った。今日は出歩いちゃいかんといわれたので家に引き返した。勘弁してくれ」  と連絡があった。電話をかけに出るのも恐ろしいので、いままでふとんをひっかぶって寝ていたという。  ベトナムの「お化け」は「コン・クイ」と「コン・マ」の二種類がある。漢字で表わすと前者は「鬼」、後者は「魔」(コンは一種の定冠詞)らしい。両方とも死者の霊が極楽や地獄に行きそこね、幽界の間で宙ぶらりんになってしまった奴だ。  タイやラオスのピーがむしろ素朴な自然崇拝の産物であるのに対し、ベトナムの「お化け」は人間の霊魂が原料である点、かなり発想が違う。安南山脈は、この地方を彩るインド文化と中国文化の分水嶺になっている。精霊崇拝と霊魂畏怖の差はもしかしたらこの二つの文化の体質の違いを示すものなのかもしれない。  コン・クイとコン・マの区別はときに分明ではない。が、一般的にいうと、コン・クイは「悪霊」「怨霊」の類で、人間に対しても悪さばかりする。たとえば老木の上に住み、夕方、女性に化けて近所の子供を誘拐しては木の上に引きずり上げて食うという。  これに対しコン・マの方は、悪さもするが丁重に祭れば人助けもしてくれる。とぼけた失敗をやらかすこともある。同じ迷った魂でも、生前の業や死にざま、それに現世に残した未練や恨みの度合いにより、コン・クイになったり、コン・マになったりするそうだ。既婚の女性が子供を残して非業の死をとげると、コン・クイになる。男を知っていても子供がなければコン・マていどですむ(処女のまま死んだ場合は、迷うことなく菩薩に生まれかわるそうだ)。  コン・クイもコン・マも音を嫌う。戦争で山野に砲声が響き、しかも近年、日本製モーターバイクが津々浦々を席巻して以来、ベトナムの「お化け」の人口(?)はめっきり減ってしまったという。  サイゴンにいた頃、妻はよく、 「私が小さい頃は、この街にもコン・マがたくさんいたのに」  と、むしろ懐かしげにいった。  彼女の叔父の一人も、コン・マと一騎打ちの末、|腑抜《ふぬ》けになったそうだ。もともと大酒飲みの叔父だったが、ある日、一杯機嫌で果物の行商をしていたら、墓地の近くで品のいい中年の奥さんに呼びとめられた。気前よく全部買ってもらった。が、家に帰り、受け取った銭を調べてみると木の切れ端だった。  怒った叔父は翌日、水をいれたバケツを携えていった。同じ場所でまた昨日の奥さんが現われ「全部買いましょう」と銭を差し出した。一枚一枚バケツに落としてみたら、みんなプカプカ浮かんだ。 「野郎、コン・マだな。なぜオレを馬鹿にするか」  と、恐いのを我慢して叱りつけると、相手も急に男の声で、 「生意気いうな。くやしかったらオレと勝負しろ」  と、居直ってきた。  で、二人は翌日あらためて墓地の中で決闘をすることにした。ナイフにするか、素手にするか、と叔父が聞くと、相手は、 「何でも持って来い」  と威張った。が、そのあとで急に恥ずかしそうな声で、 「だけどお前、桑の枝だけはよそうな。あれだけは持ってくるなよな」  といったという。  それで叔父はコン・マは桑が苦手なことを知り、翌日枝を隠し持って墓地に出かけた。おかげで決闘は両者痛み分けとなったが、やはりこのときの緊張と恐怖で、彼はそのご廃人同様になってしまったそうだ。  グエン・バン・チュー政権の末期にも、まだコン・マはサイゴンに残っていた。郊外の陸軍墓地の入口に、銃を膝に物思いにふける巨大な兵士の銅像があった。これにコン・マが乗り移った。銅像は夜な夜な台から降りて付近の国道を|徘徊《はいかい》しはじめた。町中が大騒ぎになった。  ついに首都防衛司令部は憲兵隊をさし向け、像を監視させた。深夜、ジープに分乗した一個中隊の憲兵らが見張っていると本当に銅像はスックと立ち上がったという。憲兵らはクモの子を散らすように逃げた。蒼くなった司令部は翌日、像をとり壊させた——この話を私はこれまで何回か書いたが、実際に本当の話なのである。  ベトナム人はけっして非科学的な人々ではない。むしろ機械いじりにかけては日本人以上に器用なところがある。ほとんどの連中がちょっとした車の故障など自分で直してしまう。ベトナム航空のパイロットの|技倆《ぎりよう》は世界一といわれるし、医学の水準なども西欧の学界が舌を巻くほど高い。  それでも、偉い大学教授が本気で「コン・クイ」「コン・マ」を信じ、日々の生活の中でこれらを深く祭り、その意向に気を配ることを忘れない。  日本でも、何十階建ての高層ビルを建てるときでさえ、まず神主さんにお|祓《はら》いを頼むチグハグさがある。このチグハグさが、人間の人間たる|所以《ゆえん》なのだろう。インドシナの世界にはこの人間らしさが、はるかに濃厚に息づいていた。  ベトナムなどを解放した共産勢力の指導者たちは、いま“非科学的な迷信”の撲滅に力を入れているという。それはそれで国家を成長させるために不可欠のことなのだろう。が、あの人間らしさが過度に窒息させられるのは寂しい気もする。  東京の騒音と雑踏の中で、妻はときおり「ここは寂しい」とつぶやくことがある。日本は、すでに世界中でいちばん「コン・クイ」「コン・マ」が住みにくい国なのかもしれない。 [#地付き](「マネジメント・レポート」52・12)

  
CIAと長屋の人民軍  ベトナムでは、戦車や戦闘機や最新鋭の武器を使っての近代戦がくりひろげられている一方、野山や町にはまだいくらもコン・クイ(鬼)やコン・マ(魔)が住み、人々を恐がらせたり、脅したり、たぶらかしたり、ときにはたぶらかされたりしていた。  米国はベトナムで数え切れぬほどのヘマをやらかしたが、その原因の一つはこれら「お化け」の人格(?)を尊重しなかったことだろうと思う。米人の将校と、ベトナム人の兵士との間で、よくいさかいがあった。米人将校は「客観的」な情報を、「科学的」かつ「合理的」に分析して、作戦をきめる。敵何個中隊がかくかくの方向に移動を開始したから、当方は何個大隊でしかじかの日にこれを横から攻めれば勝利はまちがいない、と兵士らに説明する。  が、兵士らは必ずしも「ごもっともで」とはいわない。暦を調べ、占いをたて、つぶさに方位を検討する。そして、作戦の日取りや、進軍の方向が|悪い《ヽヽ》とたちまち尻込みする。当然である。|悪い日《ヽヽヽ》に作戦に打って出ても最初からへっぴり腰だから敗けるのはわかっている。暦も占いも、広義でいえばコン・マのお告げだろう。米人将校は頭にきて悪態をつくが、いくら怒られても兵士らには「お化け」の方がはるかに恐い。  ホワイトハウスもペンタゴンもこうしたベトナム人の精神風土をほとんど理解していなかった。数字と統計を拠り所に、戦争に臨み、物量にものをいわせてこれを押し通そうとした。が、『聊斎志異』の世界にコンピュータを持ちこもうとしたこと自体が、どだい無理な発想だったのではないかと思う。  むろん、米国人の中にも、もののわかる連中は何人かいた。多くはCIAのスペシャリストだ。CIAというと、とかく暗い汚いイメージばかりが強調されるが、少なくともベトナム戦争に関する限り、CIAの分析は総じてハト派志向だった。CIAが、ケネディ政権時代からすでにこの戦争の敗北を予測し、ベトナムからの米軍の撤退を勧告していたことは、数々の公式記録から明らかだ。それはCIAのスペシャリストたちが、その豊富な語学力と、たくましい適応力を生かして地場の生活にとけこみ、この地の現実に立脚してものを見ることを知っていたからだ。  たとえばこういうことだ。  現地の米軍司令部が、ある地域内での作戦を計画する。地域内の非戦闘員を巻き添えにしては気の毒だから、前日ヘリコプターを村々に派遣し、住民を安全地域に運び出す。村人も巻き添えにされてはたまらないから、先を争ってヘリコプターに乗ろうとする。  そのさまを見て、米人パイロットが、 「こいつらアジア人は、人間じゃねえ。畜生だ」  と怒り出す。  彼によると、ヘリに殺到した村人らの中の母親が、赤ん坊を後ろに投げ捨て、自分だけさっさと乗り込んでしまった、というのだ。自分だけ助かればいいらしい、畜生には親子の情愛もねえんだ、と彼はいきまく。  そばでCIAはタメ息をつく。  ベトナムの村々には、赤ん坊を抱いて家の入口をくぐると、その子が悪霊に取りつかれるという言い伝えがある。母親にとってヘリコプターの搭乗口は、家の入口と同じように思えた。だから彼女は、型通り、一度赤ん坊を後ろの人に渡し、自分が入口をくぐってからあらためて受け取ろうとしたに過ぎない。このくらいのことは、ほんの少しこの国について勉強すればわかる。こうした初歩の知識も持たぬGIが何万人、何十万人と鉄砲とドルを持って乗り込んできたのだから、ソンミの虐殺も当然の帰結といえよう。  が、このCIAのタメ息は、太平洋を越えたワシントンへはついに伝わらなかった。CIAの現地機構自体が膨張し過ぎ、官僚化して風通しが悪くなっていた。それに、CIA内部でも、この、ほんの少しがわかっていたのは少数派だった。  さらに悲劇的なのは、たとえこうしたタメ息が伝わっても、米国人のコンピュータ化された体質は、この誤解の重要さを理解することを拒否したのではないか、ということだ。村人の迷信はそれ自体馬鹿馬鹿しいものかもしれない。しかし、これを鼻の先であざわらったがために、米国の対ベトナム政策は、|破綻《はたん》に破綻を積み重ねていく結果となった。  たいそうもっともらしい話に紙面をさいてしまった。  ところで、私がサイゴン特派員時代に住んでいた、市場横の下町の長屋にも「お化け」がいた。ずっと以前に失恋して首を吊った先住者の霊で、その後も居心地がよくて住み続けているそうだった。しかもご当人は、私が居室にしていた二階の窓際の一室で俗界に別れを告げたとかで、家人は恐れてめったにこの部屋に入ってこようとしなかった。  女主人を除く一家のメンバーは例外なく、白髪ふり乱したこの若い女性(なぜ若いのに白髪なのかは誰も知らなかった。失恋の苦しさで脱色してしまったのかもしれない)の幽霊を見た、という。私が住むようになってからもしばしば出没したらしい。ある日、部屋を掃除にきた婆さんの一人は幽霊に「出て行け!」と脅かされ、恐怖のあまり階段から落ちて、残っていた前歯を失ってしまった。  女主人に悪さを働かなかったのは、彼女が家長だから幽霊も居候の身として気兼ねしているのだろう、ということだった。  そのご私は女主人と結婚し、この下町の長屋の実質的な主となった。幽霊はますます遠慮して、とうとう最後まで私の前に姿を現わさなかった。  一九七五年四月、北ベトナム軍の戦車隊がサイゴンに入城し、ベトナム戦争は終わった。一カ月後、私は出国記者用に用意されたソ連製の特別機でサイゴンを去った。  それから一年ほどして友人の一人が、そのごホーチミン市と名を変えたサイゴンに観光旅行をした。出発前、私は彼に長屋の住所を渡し、写真を撮ってきてくれるように頼んだ。長屋は私の出国後、国外逃亡者の所有物として新政権に没収されたと聞いていたが、どんな風になっているか知りたかった。 「よし、幽霊長屋を撮ってきてやる」  友人は張り切って出かけていった。  が、半月ほどして帰国した彼から、 「お前のおかげでひどいめに遭ったぞ」  と、猛り狂った電話があった。  住所をたよりに首尾よく探しあて、パチリと一枚撮ったら、中から鉄砲を持った北ベトナムの兵士らが飛び出してきて、たちまち地区委員会に連行された。わが長屋はいまや地区の人民解放軍詰所として新ベトナム政府に貢献しており、友人は“軍事施設”撮影の現行犯でしょっ引かれたのだそうだ。  たどたどしい英語で、「マイ・フレンズ・ハウス(私の友達の家だ)」と蒼くなって釈明したが許してもらえず、フィルムを没収されたあげくさんざん油を絞られ、飛行機の出発時間直前にやっと解放してもらった、という。 「いきなり銃口を突きつけられて連行されたときはもうどうなるかと思ったよ。やっぱり幽霊より鉄砲の方が俺たちにはずっと恐ろしいぜ」  と、友人はいった。 [#地付き](「マネジメント・レポート」53・1)

  
集団の厄介さ  一九七八年十二月、カンボジアとベトナムが、とうとうおおっぴらに戦争を始めた。ベトナム戦争が終結してから僅か三年七カ月後である。  いきなりこんなことをいっても、インドシナ屋(つまり、インドシナ担当記者のことだが)以外には、そう興味のないことかもしれない。が、商売っけ(?)抜きにこの|喧嘩《けんか》を眺めても、やはり、人間の集団とは厄介なものだ、とつくづく思う。そして、この厄介さに目を向けず、イデオロギーや理論にだけ照らして物を見たり、いったりする態度がいかに馬鹿馬鹿しいことか、ということもあらためて実感する。  両国ともついこのあいだまで、「民族解放」「抗米救国」のスローガンをかかげ、共同戦線を組んできた。それぞれの国の親米カイライ政権を打倒し、抑圧された民衆を解放し、売国奴たちに懲罰を加えるために、手を携えて共闘してきた。一九七五年四月、首尾よく宿願が実った。米国大使は命からがらヘリコプターで脱出し、カイライ政権は大音響をたてて瓦解した。正義は勝った。歴史の正しさが証明された。世界中に、「連帯」の強さ、尊さを誇示してきた「兄弟国」は、そのごも手を取り合って、人民のための人民の国家を築き上げていくはずだった。  四年足らず後の今日、互いを「旧カイライ政権より恥知らず」「野蛮残虐な侵略者」と罵り合っている。  たいがいのものには、わけがわからぬ。  が、わからないのは、美しい言葉を真に受け、その言葉によってすべてを判断したからだろう。人間の集団の厄介さに目を向けてあれこれ|呻吟《しんぎん》するより、非の打ちどころのない言葉をかざして、えいやと相手をねじ伏せてしまう方が、はるかに安易で手っ取り早い。灰色の領域でさまようより、白黒二分法で裁断した方が、パンチも効くし、説得力もある。そのかわり三年後には何がなんだかわからなくなる。まあ、|他人《ひと》の国のことだから、わからなくても別にさしつかえはないわけだが、やはり、言葉の威を借る精神構造の持ち主があまり幅をきかしてはこの世もまずかろうと思う。  ところで、集団の厄介さ——。  一人一人は涙もろい善人でも、これが集団となると、とてつもない蛮行愚行に突っ走ることがよくある。集団心理、群衆心理というのは、その意味では狂気と同義語なのだろう。ナチズムや日本軍国主義を持ち出すまでもない。アメリカのインドシナ半島での血狂いもそうだし、一億火の玉エコノミック・アニマルだってそうだ。ろくな暮らしもせずにはた迷惑に働きまくって一人で外貨をため込めば、自由世界という有機体のバランスが崩れることは、中学生にだって理解できる。その理屈を承知しつつ、会社のため、お国のため、がむしゃらに働き、筋書き通り円切上げを食らって泣きべそをかいているのだから、健全な精神にはとても理解の及ぶところではないのではないか、と思う。  私たちの国民的体質の最も厄介な点は、集団心理が往々にして狂気に走ることを重々承知していながら、なおかつ、この集団心理から超然としていられるだけの、個々の精神の強靱さがないことかもしれない。日本人は団体で外国旅行をすると動物園のゴリラ顔負けの不作法さ、武勇伝を発揮するという。逆に一人の場合は借りてきたネコ以上にしおらしい、という話をよく聞く。不作法も蛮カラも、単独で平然と履行できれば、それはそれでいい。最も情けないのは、衆を頼む心根であろう。衆を頼む意気地なさがある限り、いくら憲法で自由を保障されていても、真の自由は存在するまい。逆にいえば、自由という状況は、私たちの体質では耐えられぬほど、底知れず恐ろしい状況なのかもしれない。  カンボジア人には“アモック”という現象がときどき起こるそうだ。ふだんは温厚、従順で忍耐強い好人物だが、その忍耐の緒が切れたとき、突如人変わりして狂暴になる。感情の爆発にまかせて、ひとしきり常人ではとてもできないような蛮行を行ない、嵐が去れば自らしでかした蛮行に呆然としておいおい泣き出す——といったふうな現象らしい。“アモック”はもともとマレー地方の狂熱病をさす言葉である。カンボジア人、マレー人に限らず、南方海洋民族は多かれ少なかれこうした体質を持っているという(これはかつてカンボジアの国王であったシアヌーク殿下のコメントだ)。私もタイに暮らすようになってから地元紙の社会面で「また農夫、アモックで道行く老女をナタで殴り殺す」などの記事を目にしたことがある。  ベトナム人には、この“アモック”の現象はなかった。もともと中国系の、懐ろの深い民族だから、力でかなわぬと知るとどんな屈辱にもたえて愛想笑いをし通す。その代わり、相手が隙や弱みを見せたら即座につけ入り、いったん有利に立てば敵を徹底的にたたきつぶすまで手をゆるめない、という。  こうしたベトナム民族が中国南部からインドシナ半島へ下り、地場のカンボジア人たちをだまくらかし、たたきつぶしながら、現在の国を造り上げた。そう古い話ではない。カンボジア副王の領地であったサイゴン(現ホーチミン市)がベトナム人に制圧されたのは今から約三百年前だ。インドシナの穀倉メコン・デルタからカンボジア人が追い払われたのは今から二百年たらず前だ。二百年前、三百年前といえば、私たちの感覚では“時効”かもしれない。が、もともとこの土地の主であったカンボジア人はそうは思わない。ただでさえ、歴史を通じてひどい目に遭わされてきた、という怨みがある。  おまけにベトナム人は、はたからみてもどうかと思うぐらいカンボジア人を馬鹿にする。中国式現実主義にたけたベトナム人にとっては、インド文化圏に育ち、とかく|瞑想《めいそう》的なカンボジア人が何かにつけ薄のろに見えてしようがないらしい。いってみれば土民扱いなのだ。籠に乗る人、かつぐ人、そのまたワラジを作る人——という。インドシナ世界では籠に乗るのは中国系人、かつぐのがベトナム人、ワラジを編むのがカンボジア人かラオス人、という相場だった。  第二次インドシナ戦争中、この両民族はそれぞれ相手と手を結び合った。ベトナムの解放勢力はカンボジア解放勢力と“兄弟”になり、一方プノンペンとサイゴンの親米政権は同盟を組んだ。しかし、解放勢力の側も、反共同盟軍の側も、内情は複雑だった。カンボジア軍とベトナム軍が共同作戦を起こすと、敵に遭遇する前に同士討ちが起こってしまうことが多かった。現に、戦況が荒れたおりなど、カンボジア領内に住むベトナム人が同盟軍に襲われ大量に虐殺されたりした。一九七五年の解放のどさくさの中でもそれが起こった。  おそらくカンボジア人もベトナム人も、一対一なら、互いに|侮蔑《ぶべつ》感、劣等感など表に出さず、円満に付き合うのだろう。が、集団となるとまた話が別なのだ。千年余りの陰惨な歴史が培った両民族の反目感情をぬぐい消すには、僅か五年間の“鉄の結束”はあまりに無力だったということなのだろう。 [#地付き](「マネジメント・レポート」53・2)

  
与那国島へ  与那国島——というところへ行った。  沖縄本島の那覇から、ローカル航空のYS11型機で一時間半ほど飛び石垣島へ。そこでDHC6型機という、小型セスナ機に毛がはえたくらいのに乗り継いで、さらに南へ四十分余り。東京から二三六〇キロ。日本領土の最南西端の孤島である。島の浜に立つと一七〇キロ離れた台湾(|基隆《キールン》のあたりか)が、むしろ北方に見えた。  一帯の島々は八重山群島と呼ばれる。石垣、|西表《いりおもて》など一部を除いて、島々の地形はほぼ円形で、起伏に乏しい。上空からのぞむと、大海に浮かぶ色鮮やかな睡蓮の葉のように見える。いずれも明褐色のサンゴ礁に寄せてきらめく透明の水と白波にとりかこまれている。  はずれの与那国島だけ、だいぶ景観が異なる。周囲はほとんど切り立った|断崖《だんがい》にとりかこまれ、島内の地形も他島にくらべはるかに男性的だ。それだけに、機窓からはじめてとらえた島の姿はよけい絶海の孤島といった趣きがあった。  もっとも、孤島などといったら、島の人々は気を悪くするかもしれない。  島民約二千三百人。|祖納《そない》、|久部良《くぶら》、|比川《ひがわ》の三集落があり、中学校二、小学校三、診療所一、公民館三を持つ、むしろ裕福な町なのである。  訪島の目的は、島に漂着したベトナム難民の取材だった。  今年に入り、与那国島はすでに二回、ベトナムからの脱出者たちを迎えた。最初のグループ二十七人は、五月、漁船でたどり着いた。数日間の滞在後、沖縄の宗教団体に引き取られていった。今回のグループは八十六人(成人男子三十四人、同女子二十三人、子供二十九人)。  九月四日未明、島の西端ナーマ浜に、ときならぬタキ火のあかりが見えた。付近の久部良の漁民らがこわごわ近づくと、油だらけのシャツをまとった俊寛さんみたいな一団が、「SOS VIETNAM-REFUGEE(ベトナム難民)」と大書した白旗を砂浜に突ったて、べったり坐りこんでいた、という。波打際には、長さ七、八メートルの鋼鉄製の救命ボート二隻が乗り上げてあった。二隻とも、船名がペンキで塗りつぶしてあった。  難民らは、入国経路について当初、口が固かった。沖縄県警の調べと、私自身が彼らから聞いた話を総合すると、どうやら台湾が押しつけてきたらしい。  一行は八月十八日、漁船で中部ベトナム海岸ニャチャン付近から夜の南シナ海へ脱出した。数日後、パナマ船籍の貨物船に救われた。船長は台湾人だった。いったん台湾に接岸したものの、台湾政府に受け入れを拒否された。結局、そのまま与那国近海まで運ばれ、救命ボートを与えられて放されたらしい。 「あの島の灯りをめがけて行きなさい、島の人は皆親切だから、夜陰にまぎれて上陸さえしてしまえば何とかなる、と船長にいわれた」と、難民の一人(元新聞記者)はいった。 「どうも、えらく見込まれちまったようで……」と、町役場の幹部連も苦笑いしていた。  もっとも、おっとり笑ってばかりいられない。前回にくらべ人数が多いだけに町はテンヤワンヤだ。中央公民館の二階催し物場を一行に明け渡し、衣料、日常品の寄付、健康診断、朝、昼、晩の炊き出し……島でただ一人英語の話せる女性や町医、民生課職員、消防団長など、手すきのものが総出で、もう一カ月も世話を焼いている。  役場の最大の悩みは、経費だ。九月末現在、日本各地の教会、宗教道場などには計七百八十五人のベトナム難民が仮住いしている。大部分が漂流中を日本船あるいは外国船に救助され、特例措置で緊急仮上陸を認められた人々だ(日本政府は政治亡命者や難民の入国を認めていないので、この人々は水難者として扱われている)。これら仮上陸許可を与えられた難民に対しては、国連難民高等弁務官事務所が、日額一人当たり九百円の食費、生活費を支給する。五、六人の家族ぐるみで逃げてきている連中が多いから、家族当たりにすればかなりの額だ。  ところが、与那国の八十六人にはこれが支給されない。この人々は文字通りの不法入国者であり、刑法上はれっきとした犯罪人あつかいだからだ。国連も日本政府から公式に、かくかくの難民に仮上陸を認めたからよろしく頼む、という連絡があってはじめて、支給対象として考慮するきまりだ。だからカネを出したくても出せない状態にある。  すべては地元の与那国町に押しつけられる。役場、町議会は声をからして沖縄県や政府に「せめてカネの面倒でも見てくれ」と訴えてきた。  私が訪島したときも町長さん自らはるばる東京まで陳情に出かけていた。が、いまのところ成果ははかばかしくない。役場で、難民上陸以来、九月二十六日まで三週間の出費を試算してもらったら、すでに二百八十四万円余り。ようやく黒字財政とはいえ、予備費四百万円の町財政にはずいぶんしんどい負担だろうと、思う。  それでも、難民そのものに対する町の空気はひどく同情的だった。役場の民生課長、タクシーの運ちゃん、宿のおばさん、誰に聞いても、 「あの人たちだって私たちと同じ人間だ。どんな事情で国を捨てたか知らないが、とにかく可哀相じゃないか」という。  島の人々の風貌は、本土の人間とだいぶ違う。男は古武士のようにとっつきが悪く、中年女性や老女の顔は角ばっていかめしい。そんな人たちが、何のてらいもなく、「だって可哀相じゃないか」と口にするのを聞くと、よけい、煮しめたような、人間の心の暖かさが感じられる。 「与那国? あそこはもう、気候、風土も人心も日本じゃないよ」  と、好意をこめて評した友人がいる。  気候は十月、十一月まで三十度を越す暑さ(気温が十度以下になると、テキメンに磯のサカナが凍死するという)。島を覆う草木、作物も、デイゴ、ガジュマロ、バンジロー、バナナ、パパイヤ、砂糖キビ……。家の造りは熱帯あるいは亜熱帯風の、通風防熱を第一に配慮した四角いコンクリート造りだ。通訳兼助手として連れていった妻も、飛行機を降りるなり、 「わあ、国に帰ったみたい。私、ここに住みたい!」  と、有頂天だった。  この島の人々の、素朴なおおらかさは、あるていどはこうした底抜けに自然のエネルギーの満ち満ちた気候、風土に培われたものなのかもしれない。  が、人々の心底に脈打つ暖かさ、優しさは、本当に“日本離れ”したものなのか。なぜかそうは思えなかった。大都会の人々だって、一人一人は優しく親切な心の持ち主だ。が、がんじがらめの管理社会、組織社会の中で、人々の自然な心情は出る場を失い、しぜん磨滅していく。いや応なしに失われていく私たち本来の心が、この絶海の小さな島にまだ照れもせず残っている——むしろ、そんな気がした。  若者たちの離島に悩む与那国の町は、政府さえ然るべき措置をこうじてくれれば、難民の島内定住を拒否しない、という。「この島の砂糖キビ工場で働ければなあ」、何人かの難民もそういっていた。 [#地付き](「マネジメント・レポート」52・11)

  
二度目の亡命  沖縄諸島のはずれの与那国島へ漂着したベトナム難民を取材に行った話を、前章で書いた。  共産化した祖国を漁船で脱出した八十六人のベトナム人が昨年九月夜陰にまぎれて日本最南西端の与那国島へ上陸した。私が島を訪れたのは、その月の下旬だった。難民たちは島の人たちにいたわられ、ようやく人心地を取り戻したところだった。何日かの取材を通じて、私は一行のリーダー格のお医者さんや、元教授のロンさん、漁師のクイ君らと親しくなった。  その後日談——。  一行は私が現地を訪れてからほどなくして、本土の難民仮収容所数カ所に移された。  東京近郊では、大宮、鎌倉、などの教会や修道院に分散収容された。ある日曜日、鎌倉の雪の下教会にきたリーダー格のお医者さんに再会にいった。島の公民館の二階でゴロ寝生活を続けてきた難民らは、あばら屋ながら教会付属の大きな一戸建てに住んでいた。家族ごとの個室生活もできるようになり、ますます上機嫌だった。  だが、再会したお医者さんたちから、思いがけない話を聞いた。  ——私が島を訪れて一、二週間後、こんどはNHKの取材班が来島した。ベトナム人通訳が一人ついてきた。彼は元留学生で、偶然、難民の中のロン元教授の親しい教え子だった。  ふつうベトナム難民は、異邦で会った同国人にかなり警戒心が強い。だが、このときは相手が仲間の教え子というのですっかり気を許した。問われるままに、皆、国に残した親兄弟やその住所まで洗いざらい話した。話してしまってから、はじめてその通訳の態度に疑問を持った。“人定質問”の仕方も単なるルポ取材にしては異常に詳しいし、ときには「なぜあなた方は逃げてきたのか」などと非難めいた質問もする。おまけに彼が難民たちに対して偽名を名乗っていることも判明した。  しばらくしてこんどは別のベトナム人留学生が来た。この留学生の口から、NHKの通訳は、代々木のベトナム社会主義共和国大使館に頻繁に出入りしている“左翼”の活動家であったことを知らされた。難民たちは|愕然《がくぜん》とした。おそらく相手は難民についての情報を逐一大使館に報告しただろう。ベトナムに残した妻や両親が逮捕されたり投獄されたりしたのではないか。  哀れをとどめたのは、元教授のロンさんだった。この人は一行の最年長でもあり、それまで仲間からいちばん慕われていた。それが一転して「あいつはスパイの手引きをした。いや、あいつ自身も共産側のスパイに違いない」ということになった。  現に国を小船で脱出してくる難民の中に共産側スパイがまぎれ込んでいるという話はかねて一部で取り沙汰されている。救出されるあてもなく小船で夜の大海へ乗り出してくる脱出方法がいかに危険で頼りないものであるかを考えると、これに付き合うほど命知らずのスパイなどはたしているのか、と思う。共産ベトナムだって他国にスパイを送り込もうと思えば他にいくらも手段はあるのだから、わざわざこんな歩どまりの悪い方法は取るまい、と思うのだが……。  それでもやはり人は異常な環境に身を置くと(とくに難民などという立場に身を置くと)、よほど疑心暗鬼になるらしい。とにかくロンさんは村八分となり、それどころか反共派のベトナム人留学生らの立会いのもとで“人民裁判”にかけられた。後に本人から聞いたところでは、荒海の漂流で生死をともにし、昨日まで同じカマの飯を食ってきた仲間たちに|罵詈雑言《ばりぞうごん》を浴びせられ“自白”を強要され、しまいには身ぐるみはがんばかりの剣幕で身体検査までされたという。  鎌倉・雪の下教会にもロンさんはいなかった。私が居所を訊ねると、リーダーのお医者さんは露骨に憎悪の色をむき出しにして、「彼は別のところへ行きました」とだけ答えた。  そのご私は、彼がもう一人の仲間といっしょに、藤沢のある修道院で暮らしていることを知り、訪ねていった。修道院には、与那国グループよりもはるかに先着の難民らが何家族かおり、私が訪ねたとき、新参のロンさんらはまだ肩身が狭そうな様子だった。 「ここでも私の行動は二十四時間、監視されているんですよ。留学生の人たちが、こいつはスパイだといいふらしたらしい」  と、憂鬱そうだった。  日本には、元南ベトナムから来て、サイゴン陥落後なかば居ついたベトナム人留学生が三、四百人いる。政府や親元からの仕送りはとだえ、日本国内での法的身分もあいまいで、ずいぶん気の毒な境遇に落ち込んでいる。それでもそこは芯の強い民族だから皆、地下鉄工事現場で働いたり、レストランの給仕をしたり、ちゃっかり仲間にたかったり、はた目には驚くほどしたたかに食いつないでいる。  だが、残念なことに彼らの一部は故国での戦争が終わったとたん、やけに政治づいた。以前は心情的反チュー派に過ぎなかった連中が、歴戦の闘士みたいな顔をして、代々木の新ベトナム大使館に取り入ろうとする。逆に共産党嫌いの連中は別個の組織をつくり、「自由と人権」を旗印に憂国の志士を気取っている。大使館はむろんこんな“闘士”を信用しない。真物の革命家たちから見れば、この連中も結局はジャングルで自分たちが苦しみに|呻《うめ》いていた間、平穏な外国でぬくぬく過ごしていたのだ。私自身も(大使館と立場は逆だが)にわか“志士”たちを見るたびに、片腕や胴体だけになって戻ってきた数多くのサイゴンの身内や知人の息子たちのことを思い出さずにはいられない。貧乏な同胞が虫のように殺されている間は安全圏で過ごし、今さら悲壮に戦うポーズを取っても遅すぎるのではないか。  だが、彼らは“闘士”や“志士”としての実績をあげようとけんめいだ。NHKの通訳が難民をスパイしたのも大使館の覚えをめでたくするためだったのではないかと思う。反共留学生たちも難民を自分たちの政治(?)に利用しようとする傾向が目に余る。  いちばん迷惑なのは難民だろう。命からがらたどりついた外国で同胞に会い、やれ嬉しやと思ったら洗いざらいを密告されたり、ダシにされたりする。おかげで難民同士があいつはスパイだと警戒し合い、憎悪し合い、これまでにも神戸の方の仮収容所で|刃傷《にんじよう》沙汰が生じたこともあった。  村八分にされたロンさんはそのご査証申請で東京に出てくるたびに、私の家へ寄り、ときには夕食を食べていくようになった。じっくり話して彼の人柄や考え方を知るにつれ、この人物をスパイときめつける周囲の精神状態を滑稽に思うと同時に、そこに一種の恐ろしさも感じた。  タネをまいたNHKの態度も奇怪だ。最初は通訳の素性や行為については知らぬ存ぜぬで押し通し、そのごは逆に開き直っているという。その後ロンさんは外出からの帰途、彼をスパイ視する元留学生らに集団で襲われた。知らせを受けた私は藤沢警察署に彼の身辺保護を依頼したが「難民同士の内輪モメでは」と断わられた。結局、修道院側はロンさんの生命を案じ、密かに彼を北海道の施設に移した。彼にとってはまったく思いもよらぬ“二度目の亡命”であっただろう。 [#地付き](「マネジメント・レポート」53・4)

  
二倍と十倍の差 「インドシナ」——実におもしろい呼称だ、と時々思う。インドと中国にはさまれた一帯をひっくるめて、欧州人が使いはじめた言葉である。言い得て妙、ともいえるが、考えようによっては実に安直で、おおざっぱで、地域住民を馬鹿にした呼称でもある。往時の欧州からみれば、東洋の国はインドと中国だけで、それ以外は文字通り|夾雑《きようざつ》物あつかいだったことがわかる。日本を「極東」呼ばわりした発想と似ている。 「極東」は自国のことだからともかく、以前南ベトナムに住んでいた頃、私は「インドシナ」という、私の感覚からいえば一種の差別用語の使用にしばしばためらいを感じていた。念のため土地の知識人たちに確かめてみたが、どうやらこれは私の方の思い過ごしだったようだ。  そういえば、ベトナム国自体が、古来「南越」「越南」を名乗ってきた。「越」(むろん呉越同舟の越国のことである)の南方、というわけで、これも明らかに|中心《ヽヽ》を|他所《よそ》に置いた発想である。中華意識の強いベトナム人にしてはずいぶんへりくだった国名に思える。もっとも、|癪《しやく》にさわったこともあったのか、一時は“本家取り”をして「大越国」などと称したこともあった。現在の北京とのケンカがこれ以上こじれたら、ハノイ政府も中国の“辺境”を意味する現国名を捨ててしまうかもしれない。  余談冗談はさておき、インドシナあるいはさらに広く東南アジアなどという呼び方は、純粋に地理的便宜上のものであるということをしかと心得ておいた方がいい。各国の風土や景観は類似していても、やはりこの地域を特徴づけるのは、域内諸国の、さらには諸国内部の多様性であろう。その意味で、ホモジェンヌの国に育った私たちには、理解することが実に厄介な地域といえる。  ところでサイゴン陥落でベトナムから追い出された私は、二、三年の東京仮住いのあと、バンコクに居を定めた。  タイ人とベトナム人を比較してみただけでも東南アジアの多様性といったものをつくづくと感じる。実をいうと、私は、タイ人にとっては相当失礼な先入観を持ってこの国にきた。観光案内書には“微笑の国”“礼譲の国”“|静謐《せいひつ》を重んじる性温厚の国”などとうたわれている。だがそれはあくまで観光業者のキャッチフレーズで、実際にはそんななま易しい国や国民ではないんだ、と主張する人々も私の周囲に少なくなかった。  東京で東南アジア諸国からの留学生たちと広く付き合っていた知人の一人は、「いちばん|すれ《ヽヽ》ていて、要領がよく、しかも女に手の早いのがタイからの学生だ」と評した。タイ人の反日感情はよく新聞でも取り上げられたし、荒っぽい犯罪にこと欠かぬ国であることも、この国に暮らした人々の口からよく聞かされた。事実、私自身の数回の、しかしごく短期間の滞在で得た印象からも、バンコクはそれほど|人気《じんき》のいい町とは感じられなかった。それだけに、だいぶ|構えて《ヽヽヽ》当地に乗り込んだ。  腰を落ち着けて半年余りたったいまでは、この先入観は妥当なものでなかったことを明言しておかなければ、タイとタイ人に申し訳ないと反省している。たしかに日々の新聞は凶悪犯罪の記事でいっぱいだ。町の空気は「静謐」などという言葉からおよそかけ離れている。  しかし、人々の「すばしこさ」「油断のならなさ」を前任地サイゴンの住民とくらべると、これが同じインドシナ地域の国か、と思えるほど違う。端的な例がタクシーやサムロの運転手である。  料金は交渉制である。当然どこの国の運転手連中も、事情にうとい外国人とみると吹っかけてくる。ただタイの運転手たちはその吹っかけ方が、サイゴンの雲助共に悩まされた者からみれば、気の毒になるほどつつましい。せいぜいが相場の一倍半どまり。よほどすばしこいのでも二倍を吹っかけてくるやつはめずらしい。サイゴンでは相手が外国人と見ると五倍、十倍を平然と要求してくるのがザラだった。 「外国人に限らない。お客がベトナム人でもそうよ」  奥方もこの点については同国人のガメツさをよく嘆いた。一度、中部山岳のいなかから出てきた親戚の娘が、市場横の国内便ターミナルで輪タク(ベトナムではシクロと呼ぶ)を拾った。市場から私たちの長屋までは数百メートル、料金にして五〇ピアストル(約二十五円=当時)の距離である。事情を知らぬ彼女は相手がいうままに五〇〇ピアストル払った。  こうなると一種の詐欺だが、話を知ったさいの奥方の反応も面白かった。雲助の所業をののしったあと、「|騙《だま》されるお前の方がもっと悪い!」とこっぴどく娘を叱りつけた。実際にあの国では「騙される」と「私は馬鹿です」は同義語のようなものだった。  それにひきかえ当地バンコク。あるときサムロを拾い、支局のそばの大通りへ行くように命じた。相手は(これまた当地では往々にしてあることだが)町有数のその大通りの所在を知らなかった。それでもせっかくの客、と思ったのだろう。「一〇バーツ(約百円)」と答えた。そこで何とか相手を誘導して目的地にたどりつくと、運ちゃんいわく「なんだ、こんなに近かったのか」。約束通り一〇バーツ支払ったら、二バーツおつりをくれた。  タイ政府は国産品奨励のため厳重な関税障壁を設けている。個人あての小包でも、うっかりしたものを送ってこられると、どえらい税金を取られる。某テレビ局が創立何十周年記念とかで海外特派員に金製のペンダントを送った。送られた方は蒼くなって郵便局に出向いた。局付きの税関職員は送り状に記された価格と包みから出てきた現物を見くらべ、「これ、安物ですぜ。記載価格は高すぎるね」。大幅に関税をまけてくれた。おかげで東京の局が恩きせがましく送った高級記念品は二足三文のガラクタであったことがばれてしまった。たぶん総務部あたりにインチキ伝票でガッポリ稼いだのがいたのだろう。  もっとも右の話はあくまでタイ人の一面を物語るものであって、総合してみるとこの国の人々も実にたくましくしたたかであることがわかる。  このところタイとカンボジアの国境一帯が騒々しくなっている。今年一月にポル・ポト政権を追い払ってカンボジアを事実上支配したベトナム軍が、国境周辺に追いつめられたポル・ポト軍残党に対し、執拗な追撃作戦を展開中である。  バンコクに身を置いていて大変興味深く、またある意味で舌を巻きたくなるのは、こうした隣接のインドシナ情勢に対するタイ政府の身の処し方である。  広義のインドシナ、つまりインドと中国にはさまれたこの地域の諸国の中で、近世以降の「竜」と「虎」はベトナムとタイであった。両国とも衰退期のラオス、カンボジアの領有・支配をねらって血みどろの戦いや権謀術数を行使してきた。短期的にはタイが勝つこともあったが、収支決算するとベトナムの方が強かった(現に、現インドシナ半島情勢がその歴史の環の中の一局面といえるかもしれない)。  当然、タイの人々は心の底で、ベトナムやベトナム人について快く思っていない。とりわけベトナム戦争中、タイは米軍の後方基地であったので、一九七五年の半島全面共産化以来、スネに傷持つ思いでベトナムの“膨張性”をひどく警戒している。そのベトナム軍がいま、ポル・ポト軍を追って最短バンコクから三〇〇キロ足らずの国境ぎりぎりまで肉薄している。私たちテンション民族の体質から判断すると、これはまことにゆゆしい事態と見える。  で、私も他の同業者も最近しきりと国境の町アランヤプラテートやその一帯に出かけていく。多数のカンボジア難民が続々タイ側に逃げ込んできており、たしかに多少のざわつきはあるのだが、いわゆる“緊張感”が稀薄なのには毎回驚かされる。小川の向こうの森でドンパチが響き、ときにはタイ領内へも、誰が撃ったかわからない大砲の弾丸が落ちてくる。いつベトナム軍がポル・ポト軍の退路を断つために、タイ領内に越境攻撃をかけてくるかわからない。  それなのに一帯のタイ軍はおよそのんびりしたものだ。一応形ばかりのタコツボを掘ったり、泥縄の対戦車戦迎撃演習をしながらも、暇を見つけては町のレストランで昼間からビールなんか飲んでいる。「こんなことでええのかいな」と|他人事《ひとごと》ながら気を|揉《も》みたくなるほど、悠揚迫らぬ大らかさである。  といって手をこまぬいて、いつ飛び火してくるかわからぬ「対岸の火事」を眺めているのか、というと、そうではない。国境回廊地帯に|蝟集《いしゆう》したポル・ポト軍残党が全滅して、強力なベトナム軍と直接にらみ合うようなことになっては大変だから、あの手この手で、飢餓状態のポル・ポト軍に食料・薬品を与え、頑張らせている。ただしこれも余り大っぴらにやるとハノイ政府がカッとして何をしでかすかわからないので、国際機関による人道援助という体裁を整え、実に慎重にやっている。  その一方でタイ政府首脳はケロリとして「われらが友人ベトナム」とハノイとの“友交関係”を強調し、非公式ながらどうやらコメその他の消費物資をベトナムに輸出し、ちゃっかり稼いでいるようだ。  この辺のタイの身のこなし、ずるいというか、柔軟というか、賢明というか、とにかく白黒二分法の好きな私たちの一元的感覚ではすんなり見通しにくい。むろんタイがこうした一種の“綱渡り”を演じ、しかも単に表向きかあるいは腹の底でもか悠揚平静に構えているのは、この国特有の「右へ左へ凄腕外交」で諸大国相手の根回しも十分にやっているからだろう。  私の乏しい知識体験で断言することはいささか|僭越《せんえつ》かもしれないが、対外関係に限らず、この国の政治スタイルにはときに実に奇抜な側面があるように思える。  政府機関と労組との争議、実力者同士の利権争い——などが、なんとか互いのメンツを立てて「足して二で割る」式解決を見るのは私たちにとってもそう目新しいスタイルではない。が、ここでは時として足し算だろうが掛け算だろうが答えをゼロにしてしまうことで問題解決に持ち込むことがあるようだ。  たとえば——。  タイ政府は国産品の育成をはかって大幅な輸入規制を実施している。デパートには歯みがき、化粧品、その他日用雑貨類も日本や欧米からの直輸入品が一応顔をそろえているが、値段は国産品(あるいは地場での合弁会社製)にくらべて馬鹿馬鹿しく高い。  ところが腑に落ちないことに、スコッチウイスキー、コニャックなど高級輸入洋酒は驚くほど安い。ジョニ黒が二八〇バーツ(約二千八百円)、オールドパーも二五〇バーツ(約二千五百円)ていど。タイにも「メコン・ウイスキー」と称する国産の酒があるのに、なぜ洋酒に限ってこんな特別廉価なのか。とりわけ酒が一滴も飲めない私は、この不公平に大いに頭に来た。  で、厳しく事情を追及してみると、当地の物識りは、 「それがつまり、タイ式なのである」  といった。  以前は洋酒も他の輸入品なみに高額の関税をかけられていた。しかし、そこは歯みがきやチリ紙と異なり、とにかく意地汚い酒飲みが相手の品物である。「メコン・ウイスキーなど甘ったるくて飲めるか」という手合いが(恐らく上流階級に)圧倒的に多く、おかげでいたずらに密輸業者を肥らせる結果になった。品が品だからいずれ偉い連中が一枚も二枚も|噛《か》んだ密輸であろう。とうてい取り締まり切れぬと見た政府は、逆に関税の方をどんどん下げて正規の小売価格を安くし、密輸のウマミをなくしてしまう手に出た。  私の赴任直前、五バーツ硬貨のニセ物が出回ったときも同様の手段で解決したという。手持ちの警察力ではとても偽造団を摘発できないと諦め、流通中の五バーツ硬貨をあっさり廃止し、形も構造も異なる新硬貨に切りかえてしまった。  五バーツは日本円にすれば五十円である。苦労して五十円玉のニセ物をせっせと造る方もなかなかのものだが、ええい面倒くさい、と真物の方をさっさと廃止し、それによってニセ物も無理心中させてしまおう、という発想は、たいそう私には面白かった。「悪」を駆逐するために、その「悪」が拠って立つ「正」の方も葬り去ってしまおうという突拍子もない妙案は、並の合理的精神からはなかなか生まれない。葬り去られた「正」にしてみれば、天道是か非か、という心境だろうが、諸般の事情をかんがみると、この国ではやはりこれが最も効果的でコスト安の方法らしい。  とにかく外交にしても内政にしても極力事を荒立てず、ときには「おやッ」と思えるほどの妥協をしながらも結局のところは曲げられぬ原則は守り切ってしまう、というのが、この国伝統の身のこなし方のようである。  その最も見事な例の一つが第二次大戦終戦前夜の“政権交代”であろう。大戦中、バンコクのピプン政権は日本軍に強要されたとはいえ、一応日本側に|与《くみ》し各種協力を行なっていた。当然、終戦と同時に敗戦国の立場に転落すべきところだったが、その直前、ピプン元帥は、米国で反日の自由タイ運動を指導していたセニ・プラモート大使にすばやく政権を譲り、おかげでタイ王国は一転して戦勝国側に列し、がっぽりと日本から戦時賠償を取り立てることに成功した。列強植民地時代も東南アジア地域で唯一独立を守り抜いた国だけに、タイの知恵はけっして一筋縄、二筋縄ではいかぬものと心得なければなるまい。 [#地付き](「週刊サンケイ」54・10・18、11・22)

  
相続税のない国  タイに限らず東南アジア諸国の社会は「二重構造」の社会といわれる。「富貧共存の社会」ともいわれる。“指導階級”あるいは“支配階級”と呼ばれる物心両面のエリートと、一般大衆及び農民階級の分化が歴然としており、意識的にも生活の形態・水準の面でも双方を隔てる格差が極度に大きい、という意味であろう。  この二重構造は歴史が作り上げたものであり、双方の人々がそれぞれ、それなりの宇宙を持ち、それに拠って生き、少なくとも“共存”をしている限り、むやみと外部の“民主的尺度”で上層部の無自覚や“社会的不正”ぶりを断罪するわけにはいかないかもしれない。  ただ、タイの場合、同じ東南アジア諸国でも、たとえば、以前私が住んでいた旧南ベトナムなどにくらべ、はるかに富裕階層への“保護”が厚い社会であることを感じる。再三書いたように大家対店子の関係が大家側に一方的に有利であることはその一例だが、他にも「へえー」と首をかしげたくなることがいくつかある。  その端的な例が税制であろう。驚くべきことに、この国には相続税、贈与税、固定資産税の類いがない。不動産関係ではかろうじて土地所有税、土地譲渡税などがあるだけだが、それもお話にならないほど課税率が低い。  たとえば、私の仕事仲間のチャイチャロン農学修士は現在、市中心部からややはずれた新興住宅地の実父の家に夫婦と子供一人とで同居している。日本流にいえば建売住宅である。もっとも建売住宅とはいえ、敷地の広さも、家の造りも、先進国日本のマッチ箱家屋などとはケタ違いに豪勢である。農学修士の父君は大蔵省の次長クラスのお役人である。家はガレージ付き、サロンを合わせて計六部屋の二階建てで、ざっと四〇〇平方メートルの敷地に芝生の庭がある。近隣の建て売りも同様規模なのでさして目立ちはしないが、かりにこの家を日本の“都心一時間圏内”のニュータウンとやらへそのまま運んできたら、人気歌手の邸宅といっても十分通用しそうだ。  農学修士の父君はこの家を三年前、土地付きで五〇万バーツで購入した。日本円換算五百万円たらずである。譲渡税はあっても取得税はない。またいくら“邸宅”でも|うわもの《ヽヽヽヽ》には課税されない。おまけに、新興住宅地では四〇〇平方メートルまでの所有地は無課税ということになっているので、一家はこの土地付き家屋に関して一銭の税金も払わないでいい。  農学修士の一家は知的には明らかにエリート階級だが、物質的にはこの国の水準からみれば必ずしも“お金持ち”と呼べるほどではない。が、彼らが“指導階級”の一員としてこの“強者保護”の税システムの恩恵に浴していることに変わりはない。  遺産相続税、不動産税、固定資産税が無い(あるいはあっても無きにひとしい)うえ、個人や企業の所得税の徴収もきわめて手ぬるい。したがってタイの税収はどうしても間接税に頼らなければならない。  ちょっと数字が古いが、農学修士の父君自身が自らの役所で調べてくれたところでは、七五年の税収の中、個人所得税は二〇億バーツどまり。これに対し、輸出入税、タバコ税、アルコール税などを中心とした間接税は三〇〇億バーツを超えている。  個人・企業の所得税の厳正徴収が困難なのは、とりわけ商活動の大半が華僑あるいは華人系に握られており、彼らの脱税の|知恵《ヽヽ》の前には国税庁の帳簿検査などとても歯が立たないからである。  一方、輸入品などにかけられる間接税は当然のことながら大金持ちも日雇い労働者も均等に負担している。たいそう不公平な事態に思える。  もっとも、徴税の不備は金持ちだけが対象というわけでもなく、ごく大ざっぱな推定によると、農民階層の七〇パーセント前後は土地所有税以外の税金を払っていないというから、不公平ながらなけなしの“理”は保たれているのかもしれない。  が、それにしても、 「相続税や固定資産税が無いということは、それだけ富の偏在を固定化し助長することになるじゃないか」  他人事ながら私はいささかの義憤を感じ、チャイチャロン農学修士に物言いをつけた。  彼はこの国の“民主化”を叫ぶ若きインテリの一人である。文民勢力を代表する野党のククリット・プラモート元首相に心酔している。ククリット・プラモート元首相は先に述べた自由タイ運動のセニ・プラモート元駐米大使(その後何回か首相をつとめた)の実弟であり、政治家としてだけでなく、ジャーナリスト・文人としても国際的に有名な人物である。ただこの名流兄弟はそれぞれ独自の政党を率い、個人的に互いに口もきかぬほど仲が悪いとか。ともあれ農学修士はククリット元首相が主宰する新聞の常連執筆者でもある。しかし、この私の物言いに対しては、 「はあ、そうですか。いや、まあ、そういうことになりますねえ」  と、日頃の“進歩的”論調とはうって変わって歯切れが悪い。  ククリット元首相自身、外国の新聞などではタイの“民主化”勢力の雄と持ち上げられることが多いが、やはり大地主の王様であり、大資産家階級を代表する人物だ。 「ククリットさん自身、これまでの政治活動の中で相続税や固定資産税の導入を|唱《とな》えたことがあったかい」  と尋ねると、 「いや、ありませんでしたねえ」  農学修士はおうように笑いながら答えた。  彼の記憶によると、これまで議会で(私たちの目には前近代的な)この税制の不備を衝いたのは社会党、社会統一戦線の代議士たちだけで、当時ククリット氏自身は首相の座にあった。結局、外部では進歩派知識人ともてはやされる人物がタイ社会民主化の土台ともなるべき法改革案を葬ったことになる。この辺にいわゆる第三世界がかかえる重いしがらみがあるのだろう。一九七七年十月六日の軍部クーデターにより、三年間にわたったタイの「民主化実験」が終わったあと、社会党系の活動家らは地下に潜ってしまった。  といってもこの国の「民主化」への動きの緩慢さを、私たちがせっかちな目で裁断するのは、裁断する方のあさはかさを示すものなのだろう。タイ大蔵省の若手テクノクラートの中にも近代税制の導入を主張する声が少なくないという。  この点、東南アジアで唯一、植民地化を免れた国の|歴史の重み《ヽヽヽヽヽ》がこの国の変革を阻害しているのは皮肉な逆説といえる。  とりわけ税の徴収にかけて、列強植民地政策は情け容赦がなかった。  たとえばベトナムの場合、相続税、不動産税、人頭税はもとより、塩税、酒税、アヘン税、およそ考えつくものの大半がフランス植民地当局による直接間接の課税対象となった。住民は絞りとられるだけ絞りとられた。はては冠婚葬祭税、出産税などというのまで課せられたものだから、人々は結婚しても出産しても役所に届けることを避けるようになった。そのごの戦乱続きもあいまってこの非公式結婚、非公式出産(要するに同棲であり、私生児出産である)の習慣は長く残った。私がサイゴンにいたころ(一九七五年まで)も、大学教授クラスの階層でもいぜん“同棲”段階の老夫婦がいくらもいた。  晴れて書類の裏付けもない夫婦、親子を山ほど生んだ税制のあくどさは植民地主義の悲しむべき後遺症をインドシナに残した。  タイの場合はこれと逆に、独立を守り抜き植民地主義者の苛烈な徴税から身を守り通したがために、かえって前近代の非合理とひずみが修正されないまま今日にまでいたったように思える。  税制ひとつを例にとったが、よろずこの国の社会改革、人々の意識変革は、「幸運な歴史」の|重み《ヽヽ》をハネ返すだけの「内側からの気迫」が充実しなければなかなか実現しないのではなかろうか、という気がする。 [#地付き](「週刊サンケイ」55・1・24)

  
ピストルと家賃  バンコクに移り住んでまず難渋したのは、アパート探しであった。不動産屋に依頼したり、知人に声をかけたりして、格好な物件が出るとただちにかけつけるのだが、とにかくこの国の家主たちの強欲ぶり、鉄面皮ぶりはほとほと呆れるほどである。  私たちのように新規契約者の足元を見て吹っかけてくるのはまだ幾分話がわかるが、継続居住者もことあるごとにインフレを理由に、とてつもない値上げを申しわたされ、赤くなったり青くなったりしている。小さな一戸建てに住む私の友人のベトナム人老夫婦は、今回の契約更新で月額七千バーツ(約七万円)から一万三千バーツに値上げされた。もっと情け容赦のないのもおり、あるアパート住まいの日本人は従来の一万バーツからいきなり二万バーツへの値上げを通告されたという。ただ、こうしたあこぎな値上げを突きつけてくるのは、どちらかというとタイ人よりも中国人や、この土地の不動産業界に根を張っている出稼ぎインド人の家主たちが多かった。  一般にバンコクの外人向け住宅は、庭付き一戸建てよりアパートの方が割高である。急激なインフレで先行きの治安が懸念されるようになると、外国人、とりわけ銃器で自衛するというような物騒な習慣のない日本人は、どうしてもアパート住まいを志向する。平時でもこれは同様で、だからしぜんと「日本人は固まって住む」という現象が生じやすいのだ。そんな足元を見て、大家も日本人が相手だとよけいえげつなく吹っかけてくる気配がある。  この国では、銃器の所持許可はごく簡単に手に入る。西洋人の場合、たいがいピストルの一丁や二丁は持っており、そのうち一丁は必ず寝室の引き出しに用意している。タイ人の金持ちも同様らしい。  夜、庭で犬が吠えたり、塀の上に張った鉄条網のあたりで黒い影が動いたりすると、かならず窓から一発ぶっ放す。  少し前、本国に帰任したあるフランス人記者は、私が“丸腰”で暮らしていることを知り、呆れた。 「無茶だぜ、オレはもう必要ないから、使いやすいのを一丁譲ってやる」 「いや、そんなもの持つとかえって危ない。生まれてから一度もピストルなんて撃ったことないんだ」  手投げ弾でさえ町に出回っている土地柄だから、押し入ってくるドロボウの方だって飛び道具くらい用意しているだろう。万一銃撃戦になったら、私の方に勝ち目がないのは明らかである。  初手から“敗北主義”をきめ込む私を、第一次インドシナ戦役の古強者であるこのフランス人記者は、一人前の男が何たる腰抜け、といわんばかりの顔で見た。実際、こういう国で暮らすと「平和と繁栄」の中で育ったことがありがたいことなのか、そうでないのか、わからなくなってくる。  おそらくこうした治安事情を反映して、一戸建て家屋の方はときおり、空き家が見つかる。先日、不動産屋のおばさんに、 「ちょっと遠いけれども、七千バーツの掘り出し物よ」  とそそのかされて見にいった。  ちょっとどころか市中心部から名にしおうバンコクの交通渋滞の中を車で四十分余り、大通りからはるか奥へ奥へと入り、そろそろ人家がとぎれかかった所に、これはカケ値なしに「豪邸」と形容できるどえらく立派な|邸宅《ヴイラ》が構えていた。二階建て、南国風の明るく|瀟洒《しようしや》な造りもさることながら、ヤシやマンゴーの木に囲まれた、軽く千坪はあろうという芝生の庭の豪勢さにまずおじけづいた。同時に大いに食指も動いた。  この「豪邸」を一目見てこんごの自分の人生で二度とこんな立派な住まいで暮らせる機会はあるまい、と多少の悲痛感をもって判断したので、よけい気が動いた。  もっとも、所詮は“夢の豪邸”であることも最初からわかった。家賃は七千バーツでも、専用のウォッチ・マン(門番兼ガードマンとでも訳すか)、庭師、それに訓練のゆき届いた獰猛な番犬の五匹や六匹を確保しなければ、とても枕を高くして眠れそうもない。熱帯の植え込みにはどうやら素人にはあつかいかねる猛毒のグリーン・スネークが出没しそうだし、何よりの難点は商店街から遠く引っ込んでいることである。タクシー、輪タクも入ってこないような場所だから、家族専用のセカンド・カーを買わなければ奥方も娘も島流し同然となる。結局は高くつくことになり、やはり日本人の特派員風情の住める家ではないのだ。 「いいわね、素敵ね」  と、目を輝かせて豪邸を鑑賞していた奥方も、無念そうにあきらめた。  そのご人から聞いたところでは、バンコクに駐在員を置く日本商社の中には、この土地でやたら多いレセプション用に夫人の夜会服経費、さらにはセカンド・カー経費を支給しているところもあるという。これはあまり日本ではわかってもらえないことだが、東南アジア勤務の日本人は、本人が好むと好まざるにかかわらず、その土地のエスタブリッシュメントの最下層あたりに組み込まれてしまうので経済的にひどい目にあうことがある。さしずめ薄給の新聞社特派員などその最大の犠牲者といってよかろう。  私自身も生活経費の面ではバンコク在住四年間の間ひどい目に遭い続けたので、その辺を少々しつこくつづると——。  赴任して一年ほどたった頃、この土地で四年間を過ごした他社の特派員が日本に帰った。記者仲間の送別会の挨拶でまず彼が口にしたのは、 「とにかく小生赴任以来のこの土地の物価上昇は食料など日常品が三倍、家賃が二倍半……。四年前を思い起こすとまさに隔世の感があります」  新聞記者の発言であるから多少は割り引いた方が妥当かもしれないが、まあ、当たらずといえども遠からず、といえる。  とくに問題の家賃は、相手が外国人、とくに金持ちの(?)日本人とみると強硬に吹っかけてくるようだ。商社など家賃の全額あるいは大部分が会社持ちになっているところが多いことを大家側も知っているからである。 「別にあんた自身の懐ろが痛むわけではありますまい」  とくる。  報道各社の場合、家賃補助などまともに出しているところは少ないので、たちまちなけなしの給料の半分が吹っ飛ぶことになる。  次にまいるのは車の購入費である。  現在では東南アジアの多くの国々が現地ノックダウン方式を取っているが、部品の関税率はときに一〇〇パーセント近い。タイの場合、中型車トヨタ・クラウン2600の価格は一九七五年当時二二万三千バーツ(二百二十三万円=当時)だった。七六、七七年と徐々に上がり、私が赴任した七八年には三七万バーツ(三百七十万円)、保険や税金も合わせると四百万円の買い物である。  いうまでもなく「足」は新聞記者の必須の武器である。とくにタイのように一般交通機関が不便な国では、車がなければ仕事はつとまらない。  ところが、ここがまた日本の新聞社の信じ難くりんしょくで時代遅れのところなのだが、ほんの一、二社の例外を除いて車の購入および維持費は、特派員の「自己負担」ということになっている。その点、テレビ局はさすがに上層部の頭が若いせいか車は局持ちである。  欧州や米国なら数十万円も出せば「安全な」中古車が手に入る。しかし私のサイゴン勤務時代の体験からも、熱帯中進国の中古車は必ずといっていいほど「持病」があるのが通例である。いくら外側はピカピカに磨き立てられていても、エンジンや各種系統にひどい欠陥がある。これらの国々の人にとって車はまだ耐久消費財ではなく、なかば一生の財産であるから、使える車なら売りに出したりはしないのである。  とりわけ、職業上、遠隔地へしばしば出かけたり荒れ地や森へ乗り入れたりすることが多い私たちは、いくら値段が高くても馬力の強い新車にしなければ命にかかわる。  私も命は惜しいからクラウンの新車を選ばざるを得なかった。それが四百万円と聞いて肝をつぶした。本社の外信部長に事情を説明し、せめて社に交渉して半額負担ぐらいにしてくれるよう取りはからってくれ、と頼んだが、相手は、 「前例がない」  の一点ばりで、社の経理に取り次ぐ気配さえない。当の外信部長は、欧米ばかり渡り歩き、東南アジアに長期滞在したこともない自称エリートで、おまけに経費節減で社上層部のご機嫌を取ることに汲々としていた小心者であったので、よけい始末におえなかった。結局、私は自腹を切って四百万円の借金をかかえ込み、滞在中その返済に追われることになった。  もっとも、家賃と車という二大支出については、最近はシンガポールやインドネシアなどタイよりもさらに高いようで、これは他社の同僚の例だが、二年余りの任期が終わって帰国の運びとなったが、車の月賦が完済できず本社に申し入れて半年間帰国をのばしたとの話も聞いた。  くり返すようだが、日本には、東南アジアは生活費が安い、だから駐在員は優雅な生活を楽しめる、という一種の固定観念がまだ濃厚に残っている。たしかに地元の庶民はちょっとお話にならないような低収入でやっているが、これは生活の形態や慣習に加えて“勝手知ったる自分の国”だからこそ初めて可能なのである。外国人の場合、さまざまの意味で生活法の選択肢が限定されてしまうから、こんごの東南アジア暮らしは、収入に応じた家賃の家に住めるような欧米での生活よりもむしろ高いものにつくことを覚悟しなければならないことになりそうだ。 [#地付き](「週刊サンケイ」55・1・17)

  
アランヤプラテートで 「アランヤプラテート」という町にしばしば出かける。タイ語で「森の国」。何となく旅心を誘う美しい地名だが、残念ながら私が足を運ぶのは、心理的にも精神的にもあまり気の進まぬ取材のためである。町は、バンコクから東へ約三〇〇キロ。手入れのよくない二車線道路を数時間、この方面のタイ領土のはずれにある。小川一本隔てたすぐ向こう側が、今なお血みどろの戦いがやまぬカンボジア領だ。  ここ数年来のカンボジアほど、戦慄すべき殺戮と恐怖と悲惨に塗りつぶされている国は他にあるまい。  一九七五年春、赤色クメールと呼ばれる共産勢力が、時の親米政権をたたきつぶして国と住民を“解放”した。ところが解放者は勝利を得たその日から徹底した弾圧者、報復者に変じ、自ら“米帝”の魔手から救出したはずの住民らを壮大なスケールで殺しはじめた。世界を唖然とさせたポル・ポト政権(赤色クメール政府)の血狂いは四年近く続いた。やがて、新たな解放者が現われた。ベトナム軍を主力とする新解放者らが電撃的に首都プノンペンを陥したのは一九七九年のはじめだった。  しかし、それで流血と恐怖と住民の不安に終止符が打たれたわけではない。首都を捨てた赤色クメールは再びジャングルにもぐり、新たな“侵略者”に対する抵抗ゲリラとなった。新たな侵略者とはむろん、つい四年前まで抗米救国闘争の盟友であったベトナムである。なぜ、解放・独立の大義が、この小国を相互報復と憎悪のルツボにおとしいれ、国自体をグシャグシャにしてしまったのか——これについてはすでに各方面から各種の論や説や解釈が出ているのでここで深入りはさしひかえよう。  とにかく“再解放”後のカンボジアは事実上ベトナム軍の占領下に置かれた。彼らはその圧倒的な軍事力に物をいわせて、赤色クメールの抵抗ゲリラたちをじわりじわりとタイ寄りに追いつめ、すりこぎですりつぶすような|殲滅《せんめつ》作戦に出た。  迷惑千万なのはタイである。袋のネズミとなった赤色クメール敗残兵や、うち続く闘いで財産も逃げ場も失った一般住民たちが、束になって逃げ込んでくる。それを追うようにしてベトナム軍の銃弾、砲弾が容赦なくタイ領に飛び込んでくる。とりわけアランヤプラテート一円の国境地帯は、こととしだいではインドシナ、いや、さらに広く東南アジア全域のこんごの動向を左右しかねない“焦点地区”となった。  はじめて町を訪れたのは四月末から五月にかけてだった。|十重二十重《とえはたえ》の包囲網を確立したベトナム軍が、初の大規模なすりつぶし作戦にとりかかった頃である。この季節、|火焔樹《かえんじゆ》の濃|緋《ひ》色の花がいっせいに噴き出し、南国の町や野山は目がさめるほど美しい。サイゴンにいた頃から私は、この鮮やかというにはあまりにも豪華強烈な巨大な緋の天蓋の下に立つたびに、ポカンと口をあけて見上げては、世の中にこれほど遠慮会釈なく自らの美と生命力を表出できる樹があるか、と、毎回同様の驚嘆と感慨を新たにするのが常だった。  その日も道のほとりや両側の原野にそこだけ場違いなほど明るく燃える火焔樹の美しさを楽しみながら、二車線国道を数時間飛ばして、夕刻、目的地についた。「森の国」の名が示す通り、林と畑地にかこまれ、一見して豊かで落ちついたたたずまいの町だった。予想に反して“焦点地区”の緊迫感は少しもない。子供たちは路地を走り回り、商店街の旦那衆は店先に椅子をもち出して夕食前のビールを楽しみ、四つ角の交番では三人の巡査がかわるがわるあくびをしていた。  町並みを過ぎ、疎林の中の道をさらに五キロほど行くと、トロンとよどんだ小川に出くわした。一衣帯水、などというものではない。手をさしのべれば対岸のジャングルのシダやヤシの葉に触れられるほどの、この小さな流れが、「平和」と「戦争」を隔てる境界線だ。私たちは、ところどころに坐り込んだタイ側国境警備兵らの目を避けながら疎林の小径を迂回して、小川のほとりにおりた。  向こう側では本当に戦争をやっていた。重く腹にしみる、が同時に何か快い野戦砲の|咆哮《ほうこう》がカンボジアのジャングルをゆるがし、ついでにタイ側の疎林の枝々を震わせる。ベトナム軍の一三〇ミリ砲だろう。その砲声の合間をねらうようにして今度は目と鼻の先の茂みの中から機関銃や自動小銃がけたたましく応射する。厚い茂みにさえぎられ人影は見えないが、まちがいなくこの緑豊かなジャングルを舞台に血みどろの攻防がくりひろげられていることがわかった。 「やばいぜ。うっかりしていると流れ|弾丸《だま》が飛んでくる」  同行のタイの記者は倒木を援護物代わりに身をかがめた。だが、私にはそんな危険に思いをいたすこと自体が、何か非現実的なことに感じられた。岸辺に突っ立ち、トロンとした流れにひたしたタオルで首筋や腕の汗をぬぐいながら、私はおそらくこれまでに味わったことのない感覚に打ちのめされていたのだろう、と思う。戦場取材は、サイゴン特派員時代にも何回となく経験した。しかしベトナムでの取材は、いつ銃撃戦の舞台となるかわからぬ現場そのものに自らも身を置いての仕事だった。  それにひきかえ、今私が立つ小川のこちら側はあまりにのどかで日常的世界だ。すぐ目の前の暗い茂みに憎悪と、報復への恐怖と、多勢に無勢の絶望にかられた数千人が、死にものぐるいで這い回り、叫び合っていることが、まったく信じられないほどののどけさだった。「平和」の岸から、殺し合いの物音を聞きながら、一時間もその場に|佇《たたず》んでいただろうか。夕闇が迫り、同行の記者にうながされて、町のホテルへ戻った。盛りだくさんの中華料理を腹一杯つめ込み、あんまを呼んで悪路の遠乗りでこわばった体中の筋肉をほぐさせ、空調の効いた部屋でぐっすり眠った。  バンコクからこの東辺の町まで、道路距離にして約二七〇キロ。私たちにとっては、少々始末の悪い距離である。一帯の国境が焦点地区と化して以来、“アランヤプラテート通い”は、私たちの月例行事、ときに週例行事となった。  バンコクのタイ国軍最高司令部は、各週の定例会見で国境近辺の戦闘状況や難民流入のもようを説明する。だが、東南アジアの多くの国々がそうであるように、ここでも辺地と中央の情報ギャップが大きい。とりわけ、戦況(主としてベトナム軍の動き)について、タイ当局はとかく“緊迫”した情報を流す傾向がある。定期的にこの目で現場を視察点検しておかないと、ときにとんでもないカラ情報にふりまわされかねない。  そこで各国報道陣の“アランヤプラテート通い”となるわけだが、往復五五〇キロたらずだから、飛ばせば一日で行って帰ってこられる。早朝出発も辛いが、現地で何かニュースに出食わした場合はもうひとつ難儀だ。手早く取材し、そのままフルスピードでバンコクへとってかえせば、朝刊最終版の締め切りに間に合う。こんな日は、各社が手入れの悪い二車線の舗装道路で、カーレースまがいの騒ぎを演じることになる。おかげでこれまで何台かの車が、田んぼに突っ込んだり、横転大破する事故を引き起こした。とくに雨期は剣呑だ。どうやらタイ人の運転手連中は、バンコク市内の交通渋滞で日頃、欲求不満が鬱積しているらしい。田舎に出ると、道が濡れていても、豪雨で視界がきかなくても、命知らずにぶっ飛ばす|癖《へき》がある。  ある同僚の運転手はとりわけ勇壮な男で、こいつはある晩、タイヤをスリップさせて前方のトラックの荷台に激突し、車の屋根を丸ごと吹きとばしてしまった。それでも、これまでのところ、死人が一人も出ていないところをみると、新聞記者というのはよほど悪運の強い人種なのかもしれない。  さいわい、私はまだこの種の事故に見舞われたことはない。私の運転手のペット君はたいそう慎重な性格の持ち主で、雨道や夜道ではけっして時速七〇キロ以上出さない。私自身は、どちらかというとスピード狂の方である。そんな私がたまに眠気ざましをかねてハンドルを握ると、ペット君の方が助手席で硬直してしまう。  そして、 「ナイハン(旦那)、あたしにはまだ小学校にも行かぬ子供が二人いるんで……」  と、嘆願したりする。  もっとも、一度、象に衝突しかけ肝をつぶしたことがあった。 “アランヤプラテート通い”をはじめて間もない頃だ。当時はまだ忠実なペット君もおらず、私は、もっぱら親しいタイ人の記者の車に便乗させてもらっていた。この男は重度の近眼で、夜目がきかない。したがって帰路は私が運転を担当することになるのだが、近眼の同僚はひどく寝つきのいいやつで、町を出て十分も走ると、もう助手席で高いびきをかいている。  こちらはまだ土地カンがない。ナビゲーターに寝こまれては処置なしである。田舎道の標識は、しばしばタイ語でしか表記されていないので、分かれ道にくるたびに大|煩悶《はんもん》しなくてはならない。寝つきがいいだけでなく、おそろしく寝起きの悪い男で、そんなとき肩を揺さぶって、 「進路はどっちだ?」  などとお伺いをたてると、 「馬鹿野郎、それでも一人前のブン屋か。自分で判断しろ!」  えらいけんまくで、食ってかかってくる。  あまり毎回怒らせてこの次から同乗を拒否されてはたまらぬので、私も運を天に任せて勝手に右か左かを選ぶ以外ない。確率からいうと五〇パーセントなのだが、どういうわけか、|はずれ《ヽヽヽ》を引き当ててしまうことが多い。一度まちがうと、これはもう|蟻《あり》地獄の迷路に飛び込んだようなものである。その晩もてきめんに蟻地獄に迷い込んだ。とくにこの地方の地形は平板で、目印にとぼしい。ときおり通り抜ける集落もたいがい似かよっているので始末が悪い。  だが、こんなところで今さら同僚をたたき起こしたら、何と痛罵されるかわからない。ヤケになって、しだいに細くなっていく道をいさいかまわず飛ばした。そのときだ。突然、道路の前方に、ほの白い巨大なものが入道雲のようにわきあがり、全速力で突進してきた(実際にはこっちが突進していったわけだが、そのときは本当にそんな感じがした)。 「わッ、ばけもの!」  と、力一杯ブレーキを踏み込んだ。助手席で眠りこけていた同僚の体がピョコンと前へ飛び出し、フロントガラスに額が激突して、気の毒なくらい大きな音を発した。 「痛え! ど、どうしたんだ、いきなり」 「見ろ、ものすごいやつがでてきた」  相棒は、目の前の怪物にちらりと目をやり、 「何だ、ただの象じゃねえか」  たしかに、象だった。  象というのは、昼間は暗灰色をしているくせに、暗闇の中でライトを浴びると、まるで夜坊主(こんなものがいるのかどうか知らないが)のような、白っぽい塊りに変わってしまうらしい。  巨象は鼻をのばして、軽く車の前部に触れ、そ知らぬ顔でのそのそと後方の闇に姿を消した。 「何をうろたえてるんだ。タイに来て象に驚くやつがあるかよ」  額のコブをさすりながら、同僚がくどくどと毒づく。 「でも、あんなやつに暴れられたら、こんな車、ひとたまりもなくペシャンコだぜ。お前もひどいじゃないか。こっちは、こんな所に象が出るなんて思ってもいなかったんだ」 「馬鹿、あいつは野生じゃない。近所の農家の飼い象だ。たぶん野良仕事を終えてひとりで家に戻る途中だったんだろう」  野生であろうが、飼い象であろうが、私の方はまったく命が縮まる思いだった。飼い主も飼い主だ。あんなばけものに、暗い夜道を勝手に濶歩させておくなど、道交法違反もいいところではないか。  さいわい、象に衝突しかけたのはこの時一度きりだった。その後は運転手のペット君が往路復路のハンドルを握ってくれるようになったので、私の“アランヤプラテート通い”も、はるかに気苦労が少なく、かつ安全なものになった。 [#地付き](「週刊サンケイ」54・11・1)

  
飛び込んできた雷さま  雨期が明けた。バンコクも含めインドシナ南部一帯は、大ざっぱにいって五月頃から雨が降りはじめ、初冬あるいは年末頃から乾期に戻る。雨の降り方は、ベトナムなど半島内部と、タイでは少々異なるようだ。  メキシコ・ユカタン半島のメリダの町には「メリダの時計」という言葉があるそうだ。雨期に入ると毎夕、四時か五時を期して寸分の狂いもなく(?)、突如黒雲が空を覆ってザアーッとスコールが街路や並木をたたき出す。小一時間、ほしいままに降ったあと、黒雲はかき消すように消え失せ、またカッと照りつける。余りにスコールの到来が規則正しいので、人々は時計を身につける必要がない——という。  私が訪れた時は乾期だったのか、この有名な「メリダの時計」には出くわさなかった。その代わり、小柄、丸顔で褐色の肌をしたこの地方の人々は至極陽気で親切で、道で行き会う十人に八人が「ノグチの研究室」だか「家」だかへ案内したがった。熱帯病の研究に一生を捧げた野口英世博士が黄熱病の研究のため、一時過ごしたのが、この土地だそうである。日本の名を世界に広めた偉大な先達には申し訳ないが、|他人《ひと》の家やなんとか記念館の類には余り興味がないので、私は人なつこいメリダ市民の好意を辞退した。  サイゴン(現ホーチミン市)の雨の降り方も、「時計」に似ていた。町がシエスタ(昼寝)からさめて二、三時間後、ザッとくる。多少ネジが狂って、午後二時頃、訪れることもあるが、たいがいは夕刻の仕事じまい直前のいちばん忙しい時分に落ちてくるので始末が悪い。街中が水煙に包まれ、合羽やコウモリ傘など物の役に立たない。「来たな」と思うと人々は一目散に建物の軒下や露店のぶ厚い天幕の下に逃げ込んで、三十分でも一時間でも悠々と、雲がとぎれるのを待つ。この間、空も大地もしのつく豪雨と耳を|聾《ろう》する雷鳴、稲妻に支配され、人間さまの活動はほぼ完全に中断である。  サイゴン軍の情報部将校によると、雨の間は撃ち合いも中休みになるという。こんなとき、濡れ鼠になりながら街を走り回っている人間がいたら、それは間違いなく貧乏性日本国の特派員だと思っていい。  さてタイの雨期だが、これも原則としては「一天にわかにかき曇り——」で、ドシャッと来襲することが多いらしい。しかし、「アスタ・マニャーナ(まあ明日回しに、といった慣用語)」のメキシコや、とかく「チャムチャム(ゆっくりゆっくり)」好きのベトナムよりもうひとつ悠揚迫らぬお国柄を反映してか、タイの雨はひどく気まぐれでずぼらである。ドシャッとくるときは車のワイパーも効かないほど豪快だが、必ずしも連日同じペースでくるわけではない。日が暮れてから夜通ししまりなく注ぎ続けたり、朝からどんより雲がたち込め、一日お陽さまを拝めないことも少なくない。同じインドシナ地域だからと、サイゴン流の陽性で爽快なシャワーをあてにしてきた私は少なからず失望した。  おそらくこれはこの地域を覆う極端な湿気のせいだろう。サイゴンで最も明快壮大に美しい景観は、雨期入り前のひととき、抜けるような青空を背に、輝く噴煙のように盛り上がっていく巨大な純白の入道雲群だった。水蒸気でかすんだバンコクの空にはこの明快さと盛り上がる雲の気迫がない。  空、という、人間がどうしてもその下から逃れられぬ大自然の舞台装置は、こうしたニュアンスの違いだけでやはり、その下に住む人々の気質、発想に大きな影響を与えるらしい。ことしのバンコクはとくに雨の降り方が不規則だったそうだが、その|しまりのない《ヽヽヽヽヽヽ》降り方を見てそんなことを感じた。  タイの雨期名物もやはり雷だという。 「とにかくこいつは天下一品。すさまじいとか、ものすごいとかいう段じゃない。全天怒号して炸裂して、とてもこの世の物音とは思えないんだゾ」  と、来た当初、仲間に脅かされた。  大いに期待したものだ。根がよろず常軌を逸した破壊的、目茶苦茶的な事象現象を好むせいか、私は雷が大好きである。これまでの生涯で最も爽快に興奮したのは、フロリダ半島先端に一直線に延々と張り出したキイ(砂州)を車で突っ走っていた時に遭遇した雷鳴と稲妻だった。大海原を圧する見わたす限りの暗灰色の空が無数の青白の閃光にたち割られ、カギ裂きにされ、ひときわどえらい衝撃音が、走行中の車体を震わせたと思うと、臆面もなく中空で恋を成就した(多分)男稲妻と女稲妻が一つに合体し、夕暮れの太陽のような巨大な火の玉となって尾を引きながらゆらゆらと千メートル以上を落下して、逆巻く波にジュッと消えた。  まさしくそれは、箱庭日本の自然からは想像もつかないスケールの、|凄愴《せいそう》かつ荘厳な大自然の劇的スペクタクルであった。瞬時の恋が燃えつきた波の上を、大きなペンギンが一羽長大な羽根をしならせながら右から左へ悠々と横切って行った。土地の人に聞くと「ウィリー」というニックネームを持ったこの海域の|主《ぬし》だそうだった。  私がヘミングウェイの文学を本気で理解しようなどという大それた試みを断念したのは、この余りにも日本のそれとはダイナミズムの異なるフロリダの稲妻の洗礼を受けてからだった。  サイゴンの雷も相当のものだったが、これは下手をするとイン・カミング(敵方から撃ち込んでくる)の砲声と区別がつかない場合があるので、余り気楽にその物音を楽しんでばかりいられない、という不都合があった。  バンコクにきてようやくフロリダ稲妻の片鱗ぐらいには再会できるか、と私は雨期前の雷鳴シーズンを心待ちにしていた。  なにしろ、 「雷が鳴り出したら、電話をかけるなよ。オレは一度、通話中にビリビリッときてたまげて受話器を投げ出してしまったことがある」  親しい特派員仲間の忠告だった。  たしかに、雨期入りをひかえた三月、四月頃、空は暴れ出した。だが、まだほんの|はしり《ヽヽヽ》ていどだったのだろう。ものは試しと雷鳴の中でかまわず電話をかけてみたが、ビリビリッは体験しなかった。その代わり、雨が降り出すとなぜか通話の混線がやたらとふえ(たぶん本管に水がしみ込むからなのだろう)、急ぎの用のさいなどひどく難渋することがわかった。  ただ一度だけ魂が消し飛ぶような目に遭った。ある雷鳴の夜、高性能短波ラジオの前に陣取り、日課のハノイ放送傍受に精を出していた。傍受用の特別アンテナをアパートの屋上に設けてあるのだが、少し離れたところに避雷針があるので支障はないはずだった。ところが、カン高いベトナム人女性アナウンサーの対中国非難が佳境に入ったとき、突如ドカーンと室内が揺るぎ、目の前で青白色の光の玉が爆発した。数分間呆然と腰を抜かした。  私の非科学的頭脳から判断するかぎり避雷針に落ちた雷のかけらがアンテナに飛び移り、コード伝いに部屋まで飛び込んできたとしか考えられない。とにかくあれほどキモをつぶしたことは近年なかった。さいわいヒューズが飛んだだけで虎の子のラジオの本体は無事だった。念のため近所に住む外国通信の特派員に電話をすると、 「命拾いしたぜ、オレのところは|もろ《ヽヽ》にくらってラジオも目茶目茶だ」  期待したより威勢が悪いとはいえ、やはりバンコクの雷さまをあなどるととんだ災難に遭うことになるかもしれない。 [#地付き](「週刊サンケイ」54・12・20)

  
清潔すぎる? シンガポール  タイは出入国や滞在手続きが案外やかましい国で、私たちは滞在中ほぼ三カ月ごとに周辺諸国のタイ領事館へ滞在査証の更新に出かけた。「ビザ退去」という。  一九七五年にインドシナ半島が全面共産化するまでは、最も便利で安上がりな退去先はラオスであった。夜行列車でバンコクを発ち、翌朝、国境の町ノンカイに着く。ここでサンパンに毛が生えたような渡し舟に乗ってすぐ目の先のラオス領に渡り、対岸の税関の小屋でパスポートにスタンプを押してもらう。待たせてあった舟でタイ領に戻り、こんどはこちらの税関でスタンプを押してもらえば万事が完了。再び夜行に乗って翌朝にはバンコクへ帰ってこられる。  ラオスが共産化して以来、この手は使えなくなった。ビエンチャン政府、バンコク政府ともに相互の人の行き来に厳しい条件をつけるようになったからである。  で、最近はビルマ、あるいはマレーシアのペナンに出かける人が多い。ビルマ政府はかつての鎖国政策を緩和しており、入国査証の申請書類の職業欄に「新聞記者」などと書かなければ、案外簡単に入れてくれる。素性が新聞記者と知れても、訪問目的を「観光」としておけば大目にみてくれることがほとんどである。  ペナンの場合は、査証無しで行けるのでもっと都合がいい。うっかりタイ滞在査証の期限切れが二、三日後に迫っていることに気付かず、最後のドタン場で「大変だ」ということになった場合、たいがいの外国人はペナンに遁走する。  バンコクから飛行機で一時間前後、南部マレーシアの本土から目と鼻の先のインド洋の小島である。空港からジョージタウンの町を経て海辺のホテルにいたる道筋の両側には日本軍が築いていったトーチカの残骸がいくつもぶざまな姿をさらしている。島は近年、観光地、海浜リゾート地として売り出し中だ。日本の航空会社のパック・ツアーにも組まれている。島内にはちゃんとタイ領事館があり、いとも手慣れた態度でタイへの再入国査証を発行してくれる。  難点は観光地なので、ときにホテルや航空便の予約が厄介なことである。北半球の冬場はドイツ人旅行者や日本からの団体客が多く、逆に南半球の冬場は、オーストラリア、ニュージーランド方面からの滞在客が多い。  最近、私は遅れに遅れた夏休み(?)を取った。ビザ退去と、夏以来の蓄積疲労の回復を兼ねてペナン行きを試みた。しかしエージェントに問い合わせるとすでに観光シーズン入りでホテルは満杯とのこと。浜辺での日光浴がフイになったのは残念だったが、それなら、と、シンガポールまで足を伸ばした。ここのタイ領事館も物わかりがよくて、頼み込めば申し込んだ翌日にでもタイ入国査証を発給してくれる。  マレーシアといい、シンガポールといい、実はれっきとしたバンコク支局の守備範囲である。私も本来なら、この両国を含めてASEAN(東南アジア諸国連合)の国々を足まめに回らなければならない立場にある。このところ多忙続きでしばらくこの都市国家を訪れていない。  シンガポールは人も知る“グリーン・アンド・クリーン”の公園都市だ。並木、車道、それぞれ少しずつ意匠を変えた無数のアパート群が東南アジアの別世界を形成し、よくまあこれだけきれいに作ってしまったものだ、と半ば感心し、半ば呆れる。アジアだけでなく、これほど徹底した公園都市は世界でもめずらしいのではないか。中心部はもとより郊外の自動車道路両側の芝草も実に端整に刈り込まれ、道にはチリひとつ落ちていない。私が知るかぎり、この“グリーン・アンド・クリーン”ぶりに比肩できる町は、オランダの首都ハーグ近郊の住宅街ぐらいではないか、と思う。  この、シンガポールという都市国家をここまで徹底して“公園化”したのは、一九六五年のマレーシアからの分離独立以来十四年余りにわたって独裁体制を堅持し続けているリー・クワンユー政権の政策であることもよく知られている。その町造りの方法も、独裁政権ならではの、強引なものだった。東南アジア諸国のランドマークともいうべき粗末な小家屋群から住民を強権で退去させ、スラムをブルドーザーでつぶして次々と高層のアパート群を建てた。そして、一時的に退去させていた人々を、驚くべき低家賃で新築のアパートに移した。  現在、シンガポール住民約二百四十万人の六割は、これら施策住宅に住んでいるといわれる。家賃あるいは分譲価格は専有面積、立地条件、収入、家族員数などによってまちまちである。一例をとると、分譲の場合、床面積一三〇平方メートルほどの2DKスタイル(五、六人家族用)の価格が九千シンガポール・ドル(一Sドルは〇・五米ドル・見当)。この規模だと固定資産税は年間一〇〇Sドル(これも家族数によって按配され、子だくさんだとほとんど無料になるそうだ)、それに一種の清潔維持費として年間二〇Sドルを政府におさめるだけで、それ以外に住宅費はかからない。タクシーに乗るたびにしつこく運転手たちを取材したところ、月収七〇〇Sドルていどの彼らも例外なく、日本ならさしずめ数千万円級の“マンション”暮らしの身であることが判明し、いささかうんざりした。  清潔維持費、とは私の造語である。政府は、一戸建てやテラスハウス住まいの住民には庭の草花や植え込みの手入れを義務付けている。高層アパートの場合も町の職員が敷地の清掃、芝刈りなどに回ってくる。西ドイツなど欧州の一部にもバルコニーに花を飾るべし、との条例を持つ町があるが、シンガポールでは植木鉢の巡回視察まであると聞き驚いた。町の職員が各戸を定期的に訪れ、鉢の受け皿に水がたまっていると、 「ボウフラ発生の可能性あり」  と、注意していく。一回目は警告だけですむが、二回目は何十Sドルだかの罰金をとられるという。街路に紙クズ、タバコの吸いがらが落ちていないのも、この罰金制度が適用されるからである。  とにかく、リー・クワンユー政権ひきいるシンガポールはいろいろな意味でどえらい国(というよりやはり都市?)だ、と感嘆した。だが、その半面、どえらくご清潔で、整頓されてしまっているので、短期滞在はスウーッと町へのなじみがわきにくい。  とりわけバンコクの喧騒とにぎわいの中から出かけていった身にはさわやかすぎて、かえってしっとりと落ち着きが肌にしのび込んでこない。東南アジア産の奥方が、まっさきに、 「ここ、寂しい。もう帰りましょう」  と、滞在予定の切り上げを主張した。  東南アジアの一隅に力ずくで建設された欧州——この土地の人口の約七〇パーセントを占めるのは中国人だ。彼らの底知れぬ混沌・|雑駁《ざつぱく》のエネルギーと、この余りにも潔癖な“容れ物”が、こんごどう調和を保ち続けていくのか、少々興味深い。 [#地付き](「週刊サンケイ」55・2・7)

  
スッポン、ワニ、ニシキヘビ  超近代化へ向けて国家改造が進められているシンガポールで、 「ここは東南アジアだぞ!」  と叫び続けているのは、市の中心部に今なお細々と頑張っている「チャイナタウン」であろう。中国人が大半を占めるこの都市国家の一角を、とくにチャイナタウンと呼ぶのも奇妙なものだが、土地の人々もそう呼んでいる。  リー・クワンユー独裁体制下の街の清潔さ、美しさ、そして滞在中|仄聞《そくぶん》した各種社会福祉政策のきめこまかさに、なにがしかの威圧と|寂寞《せきばく》をこもごも感じ、なぜか少々うんざりしたような気分で私たちはこの土地を去った。  出発の朝、奥方が、何を思ったか、 「チャイナタウンを回っていこう」  といいだした。  元来、中国人街などというのは日本や欧米からの観光客には物珍しく、足を運ぶ価値があるのかもしれないが、東南アジア産にとっては、別にどうこういう場所ではないはずである。それが馬鹿に熱心に「一回りしていこう」といいだしたのは、酒飲みにたとえれば、山村の住人が突然、銀座か赤坂あたりに連れだされてコニャックやシャンパンをいやというほど飲まされ、その果てになじみの焼酎、どぶろくの味を切なくも懐かしく思い出し、といった心境だったのかもしれない。  私も中国人街に限らず、かみさんたちがトリ、サカナを相手に血まみれの殺戮にふけり、婆さんどもは口々におめき叫び、男連中は男連中で連れ合いに|叱咤《しつた》激励されながらぬかるみの中でキリキリ舞いしているような修羅場は大好きだから、飛行機待ちの三時間ほどをこの「東南アジア」で過ごすことに異存はなかった。  めざす中国人街は、ホテルから車で五分ほどの下町の繁華街のド真ん中にあった。四方を、しゃれた表通りや高層ビルに取り囲まれ、規模はすでに気の毒なほど小さい。縦横十数本の路地が碁盤の目のように走り、道の中央にまで露店、屋台、安食堂の椅子がはみ出している。両側の店舗は、どこの中国人街も同様の、カビのはえかかったような、しかし見るからに堅牢頑固な長屋造りである。  奥方はこの混沌と活気の中に足を踏み入れるとたちまち生気を取り戻した。さっそく、ひときわ年ふり店内の空気も店番の爺さんの顔も歴史に沈澱してしまったような感じの「なんとか薬房(薬局)」に入り込み、漢方薬の値切り交渉を始めた。  ちょっと話がそれるが、この国の公用語は英語である。ついで中国語、マレー語、タミール語などが幅を利かしている。夜、テレビの番組が終わると、それぞれの民族衣裳に着飾った美人アナウンサーが次々ブラウン管に登場し、おのおの勝手な言葉で、 「本日はわがチャンネルにお付き合いいただき有難うございました。おやすみなさい。また明日ネ」  と、|艶然《えんぜん》とご挨拶なさる。  むろん、私が聞きとれるのは英語の挨拶だけだが、どのみち他の美人たちも同じような|台詞《せりふ》を述べているのであろう。  中国語に関しては最近、北京官話の習得使用が、重要政策のひとつとして奨励されている。当然、中国人街でも北京官話が主体と思っていたが、どうやらこの一角は言葉についても旧習墨守らしい。 「広東語よ。みんな広東語を使っているわ」  なるほど、かたことながら広東語を話す奥方と、薬房の親爺の攻防はけっこうスムーズに|進捗《しんちよく》している様子だった。もっともこれが通り一つ隔てると一帯は突如福建語の通用地域となり、広東親爺と福建親爺がマレー語を使って話し合わなければ意思が通じないということも起こるらしい。  私はその間、スッポン、ワニ、大小のカエルなどを並べているかたわらの屋台を見物した。  ほとんど英語を解さぬおっさんに大苦心の末値段を聞いてみると、スッポンは三〇センチ級の大型が一匹三三Sドル(一Sドルは〇・五米ドル)、中型、小型は二五〜一五Sドルとのことであった。  ついでにかたわらのワニの骨皮付き切り身を指さすと、一キロ当たり八Sドル、網袋にとぐろを巻いた体長二メートル余りのニシキヘビは一匹三六Sドルであった。  タクシーの最低料金が一Sドル、朝食用の五目そばも一Sドル前後だから、やはりスッポンもヘビもごちそうの部類に属するのだろう。ただワニは、ライギョの一キロ九Sドルにくらべて割安の感じがする。この連中、いずれもバーベキューにするのが最も手軽な食べ方だそうだ。  タイの市場でもスッポン、ヘビはときどき目にするが、ワニの切り身には対面したことがない。大いに食指が動いたが、バンコク空港で動物防疫などに引っかかっては厄介なので、あきらめた。  水槽のスッポンも片づき、ワニの切り身もほとんど売り切れた頃、ようやく薬房での値切り交渉に成功した奥方が包みを幾つか抱えて出てきた。いずれも、薬不足、医師不足に悩むサイゴンの残留家族へ送ってやる品物である。  奥方に限らず、バンコク在住のベトナム人女房(その大部分は外国人と結婚し、一九七五年の南ベトナム滅亡前後に出国してきた人々だ)は、テト(旧正月)が近づくと故国の家族への送金や送品でひどく頭と財布を痛める。  奥方もバンコクの急激な物価上昇の中で大家族への送金、送品の用意に四苦八苦し、かつ私への気がねを深めつつあっただけに、 「香港よりは少し高いけれど、まあまあだったわ」  と、シンガポール・チャイナタウンの買い物にはまず満足の様子だった。  空港へのタクシーの運転手は、 「チャイナタウンもそろそろおしまいだね。あそこは土地の補償金が高いから政府も手をつけてないが、もう大物商人たちとの間で交渉に入っているそうだ。三、四年後に来てごらん。きっと姿を消しているよ」  と、いった。  私はまだワニに未練があった。バンコクに戻ってから人に聞いたところ、タイは防疫検疫についてはフリーパスに近いほど寛容な国だそうだ。いよいよもって残念なことをした、と思う。  運転手がいったとおりシンガポールのチャイナタウンはそのご次々と取り壊され、いまや余命|幾許《いくばく》もない。 [#地付き](「週刊サンケイ」55・2・14)

  
ペナンのホテルで  二、三カ月に一度、「ビザ退去」でタイを出国しなければならないことは前に書いた。  最も手軽な退去先は中型機で一時間余りのペナン島(マレーシア)である。とくに|他国《よそ》に用事がないときは特派員仲間の多くがここへ出かける。「インド洋のエメラルド」などと称される美しい島で、家族連れ(ビザ退去はたいがい家族連れとなる)の保養にも恰好である。  マレーシアは、東南アジアでも指折りの多民族国家だ。マレー人、中国人のほか、インド人、スリランカ人、パキスタン人、アラビア人その他多数の現地種族がおり、視覚的にも生活風習的にも、社会問題的にも実に多彩なモザイク構成をなしている。主力はマレー人と中国人で、約十年前両者の間の反目が全国的暴動に発展し、国中で多数の死者が出た。そのご政府は経済界、官界などで余り幅を利かせすぎていた中国人を押さえるため、各分野でマレー系優先政策を取った。いわゆるブミプトラ政策である。  商店街は今も漢字の看板があふれているが、その漢字よりも上の部分にマレー語(ローマ字を使用)で店名を記すよう義務付けられている。たとえばスーパーマーケットの表示は一番上にマレー語で「PASARRAYA」、次いで英語で「SUPERMARKET」、その下に「超級市場」といった具合である。どうしても漢字だけの看板を墨守したいという頑固な店主に対しては、その希望をみとめる代わりに特別の「漢字看板税」が課せられているそうだ。  タイの場合も似ている。タイは東南アジアで最も中国人の地元同化が進んだ国とされている。事実、両親が中国人でも中国語を話せない若年層が圧倒的に多い。それでもやはり東南アジア各地域とも「商売」と「漢字看板」とは切っても切れぬ関係にあるらしい。中国系人にしてみれば「××|公司《コンス》」とか「〇〇大飯店」と金ピカの文字で掲げなければ一城の主になった気がしないのだろう。バンコクの町にも漢字看板があふれている。  ただタイの場合はタイ文字表記が絶対の義務であり、漢字だけの看板は許可されない。タイ文字に漢字を並記した場合、「漢字並記税」を取られる。この点、マレーシアよりタイの同化政策は確かに厳しい。もっとも中国系商人の方もさるもので、形の上ではタイ語、漢字を並記しながら、漢字の方は金ピカに大書し、タイ語の方はひっそり小さく掲げてある店が少なくない。  これに関連してシンガポール。この都市国家では現在、広東語、潮州語、福建語など中国の各地方語の使用を廃して北京官話に一本化しようという政策が猛烈な勢いで進められている。私が訪れたときも、福建語の発音でローマ字表記した看板を北京官話発音に書き換える作業が方々の店で進められていた。  蛇足ながらこれら諸国の公用語は、タイはもちろんタイ語、マレーシアはマラヤ語、シンガポールは英語である(シンガポールの場合、公用語とは別に、国語としてマラヤ語が使われている)。  とにかくこうして店の看板ひとつとっても東南アジアは「中国」あるいは「中国人」の存在を抜きにして考えられないことを、文字通り目の当たりに感じる。  ところで、「インド洋のエメラルド」ペナン島は、目下各種開発に力を入れており、日系企業の進出や日本人観光旅行団の訪島も盛んだ。島内随一のラササンヤ・ホテルはときにパックツアーの日本人客であふれかえる。  ある時、ビザ退去と休暇をかねて何日か泊まっていたら滞在後半、そんな団体客に出くわした。人数は四、五十人。いずれも地方都市の中小企業の経営者といったタイプの人々で、日中プールサイドや海岸に分散して“静養”を楽しんでいるときは、そう目立たなかった。私も何人かと言葉を交わしたが、いずれも遠慮がちで感じのいい“紳士”であった。  しかし、その夜のホテルのロビーは前夜までと打って変わった喧騒と活気の舞台となった。もともとリゾート・ホテルであるからロビーも熱帯樹の庭に面して広々としつらえられ、調度も客が優雅な民族衣裳の長身のウエートレスのサービスで飲み物を楽しみながらバンド音楽に耳を傾けたり、小人数ずつ談笑したりできるようゆったり配置されている。  夜九時頃か、おそらく団体バスででかけて市街地の有名レストランで“団体夕食”をすませてきた|件《くだん》の日本人ツアー客の一行が、突如このロビーを“襲撃”した。定石通り大部分の“紳士”たちがすでにきこしめしている。それが群れをなしてドカドカと踏み込み、 「おお、御機嫌じゃねえか、ここ。ここでいっちょ飲み直そう」 「ネエちゃん、ビール、ビール。ギブ・ミー・ビール」 「なんでえ、ケン坊、一人でそんなすみにすましこんでやがって。こっちへ来いよ、こっちへ!」  それまでの静寂はたちまち消し飛び、一場の雰囲気は、突然、忘年会の二次会並みのものに変容した。  周囲かまわず胴間声を張り上げ、横柄な口調で(少なくともはたにはそう聞こえる)ウエートレスをからかい、他人のテーブルのソファやイスを、挨拶もせずに移動させて二、三のグループにまとまり、高歌放吟とまではいかないにせよ、まあそれに近いはしゃぎようだ。ロビーの両はずれに陣取ったグループ間で、大音声のかけ合い、高笑いが交錯する。  ひっそり、ゆったりとムード音楽を楽しみながら南国の宵を味わっていた豪州人や英国人その他紅毛碧眼の小グループたちは、ドギモを抜かれてしばし談笑を中止した。とにかく余りやかましくて、ふつうの音声では小さなテーブルをはさんだ会話さえも相手の耳に届かぬほどなのである。ついに何組かの米人夫婦は憤然と席を立って部屋へ引き揚げていってしまった。  ホテル側はさすがに客商売である。すでに日本人パック旅行者は大切な顧客らしい。こういう団体にも慣れてしまっているとみえ、それほど動じた風はなかった。バンドの連中も寛容な笑みを浮かべながら、如才なく曲目を「支那の夜」に切りかえた。  私だって、こんな光景はもう世界のいろんなところで見てきているので、いまさらびっくりしたりはしない。  しかし、いっしょにいた奥方はよほどたまげたらしかった。  海外でのある種の日本人の“蛮勇”ぶりについては、彼女もサイゴン在住時代から多少の実見聞を積んでいるはずだ。日本人がアルコールに弱く、しかも群れをなすと、とかく人格が変わりやすい人種であることも、何年間かの東京暮らしで予備知識を得ているはずである。  それにもかかわらずこのロビーのなりゆきには顔色を変えるほどの衝撃を受けた。 「何も今さら驚くことはあるまい」  と、冗談半分に挑発すると、 「だって私だって今は日本人よ。あれじゃ日本人はみんなああなんだと思われる。私、自分の国の人たちが他人から馬鹿にされるのは我慢ならないわ」  場所柄をわきまえぬ“同胞”のふるまいと、露骨に眉をしかめて去った米人夫婦たち、さらに侮蔑を押し隠してツンと応対しているウエートレスらの態度が、怒り、口惜しさ、恥ずかしさ、その他諸々の想いと感情をドッと誘発させたらしく、ちょっとたじたじとするほど蒼ざめて答えた。 「まあ、そう怒るな。お前さんたちと違ってオレたちは長い間、外国と付き合うすべを知らずに島国で育ったんだ。日本人が多少金持ちになって海外旅行に出られるようになったのもせいぜいここ十年ほどなんだから、少しは大目にみろ。この人たちの子供の代になればもっと変わってくる」 「別に日本人の悪口をいってると思わないでよ。でも本人たちが知らないんだったら、なぜ日本を出る前に旅行会社が海外での最低限度のエチケットぐらい教えないのかしら。韓国人の友達から聞いたけれど、韓国では国外旅行者に対する政府や旅行社の事前教育がとても厳しいそうよ」  私たちも早々にロビーを引き揚げた。 「それにしても本当に不思議ねえ」  エレベーターの中で彼女はまだ首をかしげていた。 「日本人は一人一人だと、とても優しく礼儀正しい人たちなのに……」  お説ごもっともと思うが、といって純血の大和男子として私自身、無下にツアー旅行者のふるまいに目クジラたてるわけにいかないのだ。自分自身の体の中にも、群れると妙に“勇ましく”なる、という厄介な血が流れていることを、ときおりいまいましく自覚することがあるから——。 [#地付き](「週刊サンケイ」55・3・6)

  
タイの中の外国人  東京からバンコクに居を移す前、タイ在住経験の豊かな知人から、 「あそこは“親友”を作るのがむずかしい国だよ」  といわれた。  別にタイに限ったことではあるまい、と、その時は思った。言葉も生活風習も異なる他国に飛び込んでいって、そうそう容易に心の奥まで許せる友人ができるわけはない。  もう十年以上前、私はパリで二年間暮らした。その間におそらく十年後、二十年後に世界のどこでひょっこり再会しても「よう」とまるで昨日別れたような調子で口をききあえるであろうような類いの友人を何人か得た。現実にそのうちの二、三人とは、ずっとあとになって旅行先のネパールや前任地の旧南ベトナムで再会した。互いに何年間かの“空白”を意識する気分などまったくないまま顔を合わせた瞬間から「オレ、お前」でやり合えた。  ただこうした友人ができたのも行ってすぐというわけではない。あるていど言葉とフランスという国になじみ、|生ま《ヽヽ》の自分を表出できるようになってから、つまり時期的には滞在の後半になってからだった。旧南ベトナムでも「生涯の友人」と呼べるようなものを何人か得たが、これも暮らしはじめてずいぶんたってからだった。  タイの場合も、基本的には同じことなのだろうと思う。が、それでも滞在一年余り経た現在、「親友を作りにくい国」という知人の言葉があるていど納得できる気がする。  大変いいにくいことだが、もうずいぶん長くこの土地で暮らしているのに、私にはまだ夕食後にひょっこり遊びに行ったり、あるいは家族ぐるみ遠出のドライブを一緒に楽しめるようなタイ人の友人がいない。  日頃付き合うタイの知人らはみんな親切で心温かい人々だが、それでも彼らと私との間には、なんとなくぬらぬらした空気の壁みたいなものがあるような感覚がつきまとい、今一歩、相手の懐ろに近づきにくい感じなのだ。  いうまでもなくその原因の八〇パーセント以上は、言葉もいまだカタコトで、また理由はともあれ、土地の日本人社会に“所属”してその気楽さにかまけ、しぜん気苦労な一匹狼的生き方を避けている私自身の心の持ちようにある。  しかし、それを十分承知のうえで、あえてここでは、残り二〇パーセントに目を向けてみたい。  結論から先にいってしまうと、タイの社会とそこに住む人々の心にも、私たちのそれと案外同質の「閉鎖性」があるのではないか、と思う。  先日、知人の米国人の自宅で小さなパーティーがあった。行ってみてちょっと驚いた。|主《あるじ》の米国人はバンコク滞在十年余り、タイ人の同業者十数人を配下に、立派な弁護士事務所を経営している。当然、仕事仲間や共同経営者のタイ人も招かれているものと思った。タイの人と交わるいい機会だというような気分で出かけていったのだが、メンバーは、フランス人、ドイツ人、インドネシア人、インド人、それに当の|主《あるじ》やわが奥方も含め三人のベトナム人女房。タイ人の客は一人も招ばれていなかった。  もっともこのパーティー、タイに来る前ベトナムで長く暮らした|主《あるじ》が、なるべくベトナムゆかりの知人だけを招いたという事情もあった。一同の中では、私がいちばんのバンコク新参者だった。  食後、サロンの床にくつろいでの会話で、私は、つねに私自身の心に居心地悪くたゆたっていること、つまり、自分がなかなかこの土地の|地下《じげ》の生活に融け込めず、いまだに親しい友人もできぬことを話した。 「それは何もあんたばかりじゃない。私たちこの土地の外国人はほとんどみんなあんたと同じ感覚に悩んでいるんだよ」  |主《あるじ》の米国人をはじめ、いずれもタイ在住数年以上、なかにはタイ語も十分にこなす先輩連が異口同音に答えた。 「あなた方みたいなベテランでもですか」 「オレは若い頃、日本でも何年か暮らした。日本人もshy(恥ずかしがり)で融け込みにくい社会だったが、タイはもっと徹底している」  アジアを舞台にかなり荒っぽい生き方をしてきた感じの、むこう傷のドイツ人がいった。 「いや、タイ人の場合はshyであるだけじゃない。同時におそろしく誇りが強く、気質的にも文化的にも排他的なんだ」  と、インドネシア人が補足した。 「とにかくこの国の連中には東南アジアで唯一独立を守ったという意識が過剰に残っている。だから、あんたたち西洋人に対してはどうかしらないが、オレたち他の東南アジア人に対してどうしても、ちょっと高見から、の態度で接する癖が抜けない」  続けたあとで彼は、 「といってそのためにとくに不快な思いをするなどの経験はこれまでになかったがネ」と、付け加えた。 「いずれにしろ、ベトナムとはまるで違った社会だということはあんたもわかるだろ」  |主《あるじ》の米国人が私にいった。  そう、まったく違う——。  少なくともサイゴンでは運転手も支局の女中さんもいわば“仕事仲間”であり、雇用者、被雇用者の折り目はあっても、基本的には人間として対等の相手として付き合えた。戦地という特殊事情はあったにせよ、遠出のさいなど運転手のトムはいわば“船長”格だった。この道は危ないと判断すると、「強行」を指示する私の“業務命令”を断固拒否した。  ふだんも彼は私を「マスター」とか「ボス」などとは呼ばなかった。私たちは「ミスター・コンドウ」「ミスター・トム」と呼び合い、互いにそれを少しも不自然に思わなかった。女中さんも同様だ。あるとき近所の家で業欲な主人がひどく口汚く女中さんを罵っている場に行き合わせた。女中さんはしだいに蒼ざめ、ついに主人の口調の二倍ほどの物すごい剣幕でやり返しはじめた。結局、主人の方が気圧されてぶつぶつボヤきながら退散してしまった。一緒にいた奥方に聞くと、理不尽な怒られ方をした女中さんは、 「安月給でこき使っておいてもういい加減にしたらどうだい。私だってイヌやネコじゃない。そんな態度を続けるならあたしゃベトコン(共産側)に行って、いつか必ずあんたに仇をうってやるよ!」  と、タンカを切ったそうだ。  これにくらべるとタイの被雇用者は、ときにこちらがさびしくなるくらい“気迫”に欠ける。運転手のペット君はけっして私を「ミスター・コンドウ」と呼ばない。「ナイハン、ナイハン(旦那さん、旦那さん)」だ。日中仕事に出て大衆食堂に入っても、しつこいほどすすめないと私と同じテーブルにつきたがらない。 「そう、ここじゃ私たち外国人はナイハンなんだ。だから同階層の限られた人々とは付き合える。でも、たとえあんたがこんごタイ語を勉強して下町の長屋で暮らそうとしてもサイゴンでしていたような近所付き合いはできやしないよ。連中にとっちゃいつまでも身分違いの|他所者《よそもの》なんだからネ」  というのが弁護士事務所の米人ボスの結論であった。  この、きわめて画然とした階層固定社会にこんごどう取り組んでいけばいいのか。 「日本人に限らず、この国にはやはりすべての外国人を地元社会からハミ出させる歴史的社会的土壌がある。そこへもってきて外国人の中で君たち日本人の数が圧倒的に多いから、結果としてはよけい“閉鎖性”が目立っちまうんだろう」  と、これは向こう傷のドイツ人の同情論。 「ただオレたちから見ると日本は余り急に金持ちになっちまったおかげでまだその懐ろの豊かさ具合に、心がついていっていないきらいがある。悪くいえば、ナイハンのくせに、まだ出稼ぎ根性が残ってるんだ。本当をいうと、タイの庶民は日本人はケチだと思っている。何といってもオレたちは外国人なんだから、“外国人税”を払いながら暮らしていかなければならない。つまり女中を雇うにしろ、乗り物に乗るにしろ、あんまりガメツク値切るな、ということだ。一部には気前よくしすぎることはタイの社会秩序を破壊するという声もあるが、結局のところそれはこの国のナイハンたちの秩序だ。これに対してオレたちの“外国人税”は直接、庶民層にディストリビュート(配分)されていく。町の一般庶民の間に、日本人はケチでなくいい人たちだという評価が定着すれば、君らが心配する反日感情なんてそう簡単に起こるもんじゃないと思うぜ」  異論はあろうが、出稼ぎの心根を捨てて庶民を味方につける、というこのインドネシア人の忠告は、傾聴に値する気がした。 [#地付き](「週刊サンケイ」55・3・20)

  
バンコクの日本人  外国に身を置いて物事を眺めたり、思ったりしていると、そこから生じる想念が、しぜんとわが身、つまり日本人あるいは日本のありざまへの反省(といっては表現がややかたより過ぎるかもしれない。あえていえば遠隔観察、とでもいうか)に回帰、集約されてくることが多い。もちろん、私自身も含めて外国に暮らす日本人の対日観のみんながみんな妥当なものとは思わない。なまじ皮相な面だけ見てくると、 「日本の技術は多くの分野で米国を追い抜いた。すでに米国恐るるにたらず」 「欧州に学ぶものはもはやない。だいいちパリのエレベーターときたら、まだ手動式でドアを開閉しなければならないような代物なんだ」  式の、箸にも棒にもかからぬ思い上がり(あるいは思い違い)が生じ、こんなところへしか目の向かない脳細胞の持ち主なら、外国などへ行かない方がかえってわが国のためではなかろうか、と思う。  しかし、通常の「眼」を持った人々を対象とする限り、 「日本を知るためには、外国に行け」  は、やはりれっきとした真理のひとつと思える。  とりわけ東南アジアの場合、「対日感情必ずしも良好ならず」という一種の固定観念が当の私たちの心の底の方に残っている。だからよけい日々の生活を通じた想念は「日本」に向かう。旧日本軍の悪しきイメージだけが妙になまなましく頭に浮かんだりするので、この地域から「日本」を判断する「姿勢」は、とかく|贖罪《しよくざい》的(?)あるいはその当然の結果として消極的になりがちである。エレベーターの新旧を基準に見当はずれののぼせ上がり方をするより、多少の罪の意識を抱きつつ|慎《つつま》しやかに物事を見た方が、それはそれでなんぼか|まし《ヽヽ》だが、これもおそらく過ぎたるは及ばざるが如し——。  東南アジアに住む私たちが、心がけるべきことは、要するに、もっとおおらかに、虚心坦懐に現在ある自分たちの立場を考え、それに沿って行動することであろう。  前に、私は東南アジアの日本人は「固まって住む」のが(少なくとも土地の人々の目から見れば)通り相場であると書いた。たしかにタイ、とりわけ首都バンコクに関する限りこれはかなり当たっているように思える。私の過去一年余りのねぐらであった「チャニット・コート」も四十数世帯のうち九〇パーセントが日本人家庭によって“占拠”されている。市街地中心部の高級アパートもだいたい似たり寄ったり。夕方テラスから庭で子供たちが遊ぶ光景などを見降ろしていると、 「一体、オレはどこの国に住んでいるのかいな」  と考え込みたくなることがしばしばある。  居住地区だけでなく、日常行動様式も、ちょっと見た目はまず画一的である。一家の|主《あるじ》は、朝は運転手付きの車で御出勤、昼はオフィス付近の日本料理店に定食その他を食べに出向き、日曜日は日本人仲間でゴルフ。奥様方は連れ立って朝夕の買い物に出かけ、週に何回かはこれまた同国人宅や日本人経営のホテルの喫茶店などにたむろしておしゃべり——。当然、子供たちもタイ人の子供とは一線を画した世界に住み、両方が「オレ、お前」の仲で遊んでいるありさまを目にすることはまず稀だ。  私自身も同様のことをやっている。日本料理店やゴルフ場に通わないのは、サシミの類にあまり興味が無く、加えて広い野っ原を棒を振り回しながら歩き回るぐらいなら、家でソファに転がっていた方が|まし《ヽヽ》という生来の物ぐさ癖からであり、本質的にはやはり日本人としての閉鎖行動の生活パターンにどっぷりとはまり込んでいる。奥方の方は、日本人社会と当地のベトナム人社会との両方に足をひっかけて日常生活を送っているから、やや領域が広い。それでもまだ親しいタイ人の友人はできていないようだ。  そこへいくとわが娘のユンはなかなか偉い。彼女は他の日本人家庭の子女と異なり、日本人学校へは通っていない。午前中は寺子屋に毛が生えたていどの当地のフレンチ・スクールに通い、午後はこの町でおそらく一番規模の大きい英語学校に通っている。  この英語学校には日本人の奥様方もかなり多数通っておられるが、生徒は圧倒的にタイ人が多い。ユンにとっては恰好の、タイ人ボーイフレンド、ガールフレンドの獲得場所となる。案外気易く友達を作れる性格の子らしく、もうわがアパートに何人か連れてきた。お互いたどたどしい英語で、それでも結構親密に、和気|藹々《あいあい》とやっている図はおかしくもあり、感心したりもする。  これは何も彼女が“国際性豊か”といわれるベトナム人であるからというわけではあるまい。子供とは天性こういうものなのだろう。となると、少なくとも子供に関する限り、在バンコク邦人の子女がおちこんでいる「閉鎖性」の元凶は日本人学校の存在そのものにあるのでは、とも考えたくなる。  ここの日本人学校には現在、約千人の生徒がいる。親の側にすれば、帰国後の進学などを考えると教育ていどもあやしげな地元の学校では、ということで子供たちをみんな日本人学校へ放り込んでしまう。その心情は無理からぬものなのだろうが、逆にいえば、またとない“国際人”教育の機会を、ともったいない気もする。  タイの場合はまだよく調べていないが、私が日本にいた頃、「子供の将来のため」を思って、やんちゃ盛りの息子、娘どもをフレンチ・スクールにやらずにわざわざ近所の日本人の学校に通わせていたフランス人の知人が何人かいた。  ちょっと余談めくが、他の面でも日本人学校の存在は、明らかに在留邦人が「固まって住む」一つの要因をなしている。教育パパ、教育ママたちは、土地の治安も考えてどうしても“住学接近”を志向しやすい。バンコクの日本人学校は、市中心部に近いスクムビット大通りにあるが、おかげでただでさえ数が限られた一等地のアパート、小型独立家屋は日本人でいっぱい、ということになる。  右に述べたことは別にバンコク在住日本人(あるいは日本人そのもの)への批判ではない。そもそも皆と同じことをやっている私に他人を批判する資格など少しもないわけだし、それにもっときめこまかく見れば、在留邦人の中にも土地に融け込んで一匹狼的に生きている人は案外たくさんいるはずだからだ。そういう人々は日本人ととくに親しく交わったり、日本人の集まりなどにもあまり出てこないから、しぜん私たちの目にも入りにくい。 「チャニット・コート」の住人の中にだって、一歩外へ出れば達者なタイ語をあやつり、週のうち何回かはたくましく地方をドサ回りしている|主《あるじ》たちが何人かいる。海外駐在日本人の“声望”をけがすのはとかく奥様方の態度だ、との説もあるが、これも一方的に“断罪”するのはどういうものか、少なくともわが近隣の奥様方は別にタイ人に対してツンツンしている様子はみられない。そういう人がいたとしてもそれはむしろ例外で、かなりの数の奥様方がミニバス(小型トラックの荷台で人を運ぶ簡易バス)やサムロ(軽オート三輪のタクシー)にぶら下がったり揺られたりしながら、それなりに土地の庶民生活に融け込もうと努めておられるように見受けられる。  たしかに、見知らぬ土地へ来るとなんとなく肩寄せ合わせてしまう、というのは、私たちの民族としての気弱さ、言語能力の低さ、それに何よりも|気楽さ《ヽヽヽ》、|便利さ《ヽヽヽ》を求めるイージーゴーイングの習い性からであろう、と推測もし、反省もする。  ただ、東南アジアの日本人が経済大国の威をカサに、その心の持ちざままで土地の支配層なみに成り上がり、彼らと同態度でふるまっているという風説が残っているとすれば、それはすでに相当時代遅れの誤解で、少なくとも長期滞在者に関する限り、バンコクの日本人の生活態度や心構えは、他の外国人とくらべても概して|いい線《ヽヽヽ》をいっているのではないか、と私には思える。  サシミへの志向も島国育ちの長年の食習慣がそう簡単に変えられるものでない以上、多少は大目に見てもらっていいのではないか。ゴルフだって、熱帯の日盛りに棒を振り回して歩くような酔狂にはあまり興味がない人々の中へ、たまたま、槍が降ろうがブタが降ろうがコースに出なければ人間扱いされないような社会の人間が飛び込んできただけの話で、そのことだけをもって「閉鎖性」「集団性」を云々するキメ手の材料にしてしまうのはちと短絡ではないのか。  身びいきに|溺《おぼ》れたわけではないが、何となく文章が東南ア在住同胞の弁護を試みるような方向へ流れてしまった。  が、それはそれとして、私たちが結果的には「固まって住み」やはり一種の「閉鎖社会」を構成していることは、主観的にも客観的にも厳然とした事実といわざるを得ない。  日本と東南アジア諸国の距離や差異は、近く似ているようでいながら宗教、慣習、人々の発想や生活形態など諸々の面で、実は日本——欧米間のそれらより遠い部分がたくさんある。  こういうところに、「関係のないことには目を向けぬ」という、今や日本人の一特性となってしまった(と、少なくとも私には思えるのだが)心の態度を持ち込んで暮らしたらどういうことが生じるか。差異が大きいだけに余計、私たちは地元から浮き上がった存在となる。地元の人々との交流や日々の行動半径も極度に限られ、その半径外の人々からは「あいつら何と閉鎖的なんだ」とヒンシュクを買う。  いってみれば、東南ア在住の日本人に対する「閉鎖的」という批判は、単に固まって住むとか集団で遊ぶというような可視的、物理的な面からのみ生じるのではなく、本質的には「関係ないことには目を向けない」日本人の心の閉鎖性に対する糾弾なのではあるまいか。  実際に、考えてみれば何も外国に限らず日本でだって私たちは同じように、「関係ないこと」に対してみごとなまでに心を閉ざして日常生活を送っている気がする。むろんこれ、自分自身を顧みての所感でもある。 [#地付き](「週刊サンケイ」55・2・21、2・28)

  
あ と が き  随筆、旅ノート、随筆調ルポ——本書に収録された二十七の短い文章を区分けしようとしても、どのジャンルに当てはまる文章なのか、書いた当人も見当がつかない。  過去十年あまり、折りをみては雑誌に連載したりした文章の散逸をおそれ、一冊の本にまとめてもらったものであり、その点、私の従来の著作が書き下ろしであるのにくらべ、この本は趣きがちがう。  二十七の短い文章に共通のテーマはない。あえていえばどの文章も、アジア、とくに東南アジアを舞台とし、それがひとつのテーマらしいものを構成しているといえよう。  つねづね考えることだが、東南アジアのその日その日の姿を過不足なく描き出すというのは、とても困難な仕事だ。どこの国でもそれは同様のことなのであろうが、東南アジアの場合、私たちの目にはまだ、日々の生活、社会、経済、さらには政治の振幅がとても大きい。昨日書いた庶民の悲しみが翌日はすっかり影をひそめ、人々が路上で笑い転げるというような、ある意味ではダイナミックな生活がじかに日々の街を彩っている。  東南アジア取材記者となって以来しばしば考えるのだが、いったい私は、妻子をこの地域で得たからこれほど東南アジアに惹かれるのだろうか、あるいはそうした事情より先に、東南アジアにいわば先天的に親しみを感じたからこの地で妻子を持つことになったのだろうか。今では家族の|絆《きずな》を通じて東南アジアは私と縁の切れぬ地域となっているが、この説明に|遡《さかのぼ》って考えてみると、回答は恐らく後者であろう。  そしてその東南アジアの魅力を生み出すものは、多少重複するが、この地域のそれぞれの国で見られる人間らしさである。新聞記者というむしろ「現象」を追う身でありながら、そこで見る私の興味は、実際にこの地域で生きる人々の生き方やその喜怒哀楽といったようなものに注がれ続けた。  この小文集がいわゆる新聞記者の事件取材ノートとならず、むしろ一個の人間好きの旅人の覚え書といったようなものになったのはそのためであろう。  なお、本全体の表題をつける作業は、それぞれの文章の具体的テーマが拡散しているため、なかなかの難作業となった。当初は、この一言でその喜びも怒りも悲しみもこめた東南アジアをぴったりと表現できるようなタイトルを模索したが、相手が多様性の総和といわれる地域である以上、これは無理な相談であった。結局、タイトルは多少著者自身の個人的な立場をふくめた、かなりおとなしいものに収まった。  終わりにこの本の出版に最初から最後まで力を貸して下さった文藝春秋の新井信さんに、あらためてお礼を申し上げたい。  一九八六年一月二十日 虎の門病院で [#地付き]近 藤 紘 一 *この「あとがき」は、著者が病床でテープに吹き込んだものを原稿にし、ご本人が自ら目を通されました。 [#改ページ]   単行本   昭和六十一年三月文藝春秋刊 [#改ページ]          文春ウェブ文庫版     妻と娘の国へ行った特派員     二〇〇一年十一月二十日 第一版     著 者 近藤紘一     発行人 堀江礼一     発行所 株式会社文藝春秋     東京都千代田区紀尾井町三─二三     郵便番号 一〇二─八〇〇八     電話 03─3265─1211     http://www.bunshunplaza.com     (C) Nau Kondou 2001     bb011108