運命を変えた一球 〈底 本〉文春文庫 昭和六十年三月二十五日  (C) Tadayuki Kondou 2000  〈お断り〉  本作品を「文春ウェブ文庫」に収録するにあたり、一部の漢字が簡略体で表記されている場合があります。  また、差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の書かれた当時の事情を考慮し、できる限り原文の通りにしてあります。差別的意図がないことをご理解下さいますようお願い申し上げます。 〈ご注意〉  本作品の全部または一部を著作権者ならびに(株)文藝春秋に無断で複製(コピー)、転載、改ざん、公衆送信(ホームページなどに掲載することを含む)することを禁じます。万一このような行為をすると著作権法違反で処罰されます。    目  次    まえがき     投の巻    西本 聖 ドラマは“たった一球”にあり    江夏 豊 歴史を刻む冷徹の勝負師    福士敬章 自分が納得すれば幸せである    星野仙一 男が胴ぶるいするとき    斎藤明夫 度胸があれば道はひらける    間柴茂有 一瞬のひらめきをものにせよ    山根和夫 精神の空白状態と闘う    鈴木啓示 “この野郎精神”が器を磨く    高橋一三 若いときには地獄へ落ちろ    角 三男 勝つと思うな、思えば負けよ    梶間健一 逃げたら負けだ    平松政次 チャンスは二度あるとは限らない    松岡 弘 人生、独りで相撲をとるな     打の巻    門田博光 プロに“予定原稿”はない    谷沢健一 心の師匠をもつことの強さ    石毛宏典 勝負の怖さを知った男    掛布雅之 一瞬の迷いがツキを見放す    落合博満 挫折は男の武器である    柏原純一 自分の生きる道を知れ    田淵幸一 ケガの功名で極意をつかむ    福本 豊 “会話なき恩師”との出会い    淡口憲治 仕事ができねばメシ食えぬ    基 満男 人生は綱わたりのドラマだ    杉浦 享 ドタン場で演技は無用    梨田昌崇 人間、誇りさえあれば    篠利夫 チャンスはするりと回ってくる    高木嘉一 世間は掴む自分を中心に回らない     守の巻    大矢明彦 “捕手人間”の哲学    平野光泰 執念が奇跡を呼ぶ    中政幸 人間くさったら負けだ    中畑 清 色気のかね合いを知る    佐野仙好 カンドウシタ サノハオトコダ    大杉勝男 恩師のビンタで目が覚める    山崎裕之 たった一言が運命を変える    河埜和正 “サル業”を生んだ舞台裏    藤田 平 先輩の温情が大器を生む    山下大輔 逆転劇から外された疎外感    大橋 穣 守備の名人も一球に泣く    水上善雄 無念は試合で晴らせ    水谷実雄 驕りは勝利をつき放す    真弓明信 やさしさは説教より恐ろしい    簑田浩二 野球の奥行きの深さを知れ       章、節名をクリックするとその文章が表示されます。 [#改ページ]    運命を変えた一球

   ま え が き  最初にプロ野球とは直接、関係のない話から書く。  しかし、これから伝える話がヒントになって、実は本書の執筆を思いついた。つまり相撲の話が、この企画の引き金になったといっていい。  私は先ごろ、東京・杉並区成田東3丁目にある二子山部屋を訪れた。二子山親方(元横綱若乃花幹士・当時花籠部屋)から「あなたは身長1メートル79、体重105キロしかなかったのに、なぜ上手投げがあれほど決まったのか」、その極意を取材するためである。  以下、二子山親方の話をまとめ、物語風に書くと次のようになる。  昭和28年初場所2日目、当時24歳10カ月、西前頭3枚目の若乃花(ただし、この時点では若ノ花)は、東横綱千代の山雅信(出羽海部屋)と顔を合わせた。立ち合い右四つから10数秒間、押し合いがあったのち、若乃花の相撲人生にとって忘れられないできごとが起きた。  若乃花は自分でも意識しないうち、右下手で千代の山の上体をゆり起こした次の瞬間、右足を思い切り引くと左上手からひねりつぶすような投げを打った。すると身長1メートル90、体重122キロの千代の山がマゲに砂をつけて横転していた。 「勝った瞬間、右からの起こし、足の引きぐあい、上手のひねりざま、上手投げのコツはこれなんだ、と、尾てい骨から脳天に向かって、ずしーんと電流みたいにしびれるものがあったな」(二子山親方)  二子山親方の話はホラばなしではない。ここにその証明材料がある。  千代の山に勝ってから4日後の6日目。若乃花は西横綱東富士謹一(高砂部屋)とぶつかると、“上手投げ開眼”した彼は、身長1メートル79、体重178キロの東富士を、こんどは右上手投げで投げとばした。その体重73キロ差の相手を右上手投げで横転させた。  翌7日目、若乃花は西大関吉葉山潤之輔(高島部屋)をまたまた右上手投げで土俵下に落とすと、8日目、西張出横綱羽黒山政司(立浪部屋)を右上手投げで、背中いっぱいに砂をつけた。  かくて若乃花はこの場所が終わってみたら8勝7敗。しかも3横綱1大関を上手投げでやっつけていた。  若乃花は昭和37年夏場所直前の5月1日、現役引退したのだが、彼が“上手投げ開眼”してから現役引退までの勝ち星は474勝(170敗)。その474勝のうち、上手投げによる勝ちは88勝。なんと相撲協会発表のきまり手70手中、上手投げの勝率18・6%であった。 「男の半生を振り返るとね。あのとき、あの男に勝った、あの一番がおれの人生を変えたなあ——というのがあるんだ。私の相撲を変えたのは千代の山関だったなあ」(二子山親方)         *  私は二子山親方の話を聞いたとき、これはプロ野球選手にもそのまま通用するのではないかと思った。 「あのとき、あの試合で、あの男から安打が打てたから、きょうのおれがある」  そういう思いは誰もが抱いているのではないか。  私はいまのプロ球界における最高年俸保持者、6500万円(推定)の山本浩二中堅手(法大、広島)に当たってみた。すると、こんな返事がはね返ってきた。 「あの試合の、あの本塁打がなかったら、いまの私は多分なかったと思いますよ。プロ野球というか、自分の職業というか、そういうものを甘く考えちゃってね。いま振り返っても、なにかこうゾッとするような試合でしたね」  昭和50年8月7日、神宮球場でヤクルト対広島16回戦が行われた。この年、梅雨入りと前後して山本浩は腰痛に泣いていた。たまたまこの試合前、三塁側ダグアウト前で柔軟体操をしているとき、腰部に電流のような激痛が走った。  そこで山本浩はどうしたのか。古葉竹識監督が先発メンバーを作成する以前に申し出た。 「監督、とても試合できるような状態じゃあないんです。休ませてください」  ところが、古葉監督はプイッと横を向いたまま返事もしない。  発表された先発メンバーを見ると、山本浩はちゃーんと四番・中堅手に入っている。本音を吐くと、山本浩はムカッときた。腰痛ばかりは、なった者でなければ、あの痛さ、情けなさはわからない。それなのに古葉監督は先発で野球をやれという。  ところが、この試合こそ山本浩の野球人生にとって、忘れられない試合につながっていくのである。  なぜ古葉監督は横を向いたのか。無理もない。この試合の始まる時点で、広島は85試合、44勝36敗5分け、勝率5割5分ちょうどで首位。それを2位中日が82試合、42勝35敗5分け、勝率5割4分5厘、0・5ゲーム差で追っている。しかも山本浩は打率3割3分1厘と当たっているのだから、腰が痛いといわれていい顔できる理屈がない。かくて山本浩は先発メンバーで出場した。  さて試合は広島のペースで展開した。一回、一番・大下剛史二塁手の中越え三塁打、五番・衣笠祥雄三塁手の左翼越え三塁打などで3点。二、三回も1点ずつを入れ、三回終了で5対0である。  この間、山本浩はなにをしていたのか。一回の第1打席は四球、二回の第2打席は空振り三振。そればかりではない。一回裏、一番・若松勉左翼手の左中間ライナーを好捕。そのおかげで腰痛はなおひどくなった。  三回裏、ヤクルトの攻撃が終わると、山本浩はまた古葉監督の前にやってきた。 「監督、申しわけないんですが、5対0になりましたので……」 「だから、なんだというんだ」 「腰が痛くてですねえ。これで交代させていただけませんか」  この場面で古葉監督はなんと答えたのか。ひとこともしゃべらない。数秒後、中堅守備位置付近に向かって、黙ってアゴをしゃくり上げた。文句いわずに、守備につけという指示である。  山本浩は小走りに走りながら、涙がこぼれた。腰の痛さ、情けなさ、古葉監督のつれなさなどが、ごっちゃになると、ぽろぽろ涙がこぼれるのである。  だが、四回から試合の流れが変わった。ヤクルトは四回、二番・永尾泰憲遊撃手(現阪神)の右翼席本塁打、三番・ロジャー中堅手の右翼席本塁打、四番・大杉勝男一塁手の右中間二塁打などで3点。六回もロジャーの連続打席本塁打、六番・中村国昭二塁手以下の4連安打などで3点。七回も中村の右翼線二塁打で1点を入れ、七回終了で7対6、ヤクルトが逆転した。  ところで私が本当に書きたかったのは、実は広島の八回なのだ。広島は八回一死後、二塁走者大下をおき、三番・ホプキンス一塁手が右越え三塁打して7対7の同点とした。ここで山本浩に打順が回ってきた。腰が痛く、上体だけで打った彼は第3、4打とも三ゴロである。  打席に立つ前、山本浩はたったひとつだけを考えた。 「ジャストミートして外野フライを打てば8対7と勝ち越せる」  カウント2─2後の5球目、石岡康三投手のストレートが外角ぎりぎりに入ってきた。山本浩は流した。打球は45度で舞い上がり、右翼席中段に入る逆転2点本塁打になった。  二塁ベースを回ったところで、山本浩はこみ上げてくるものを抑え切れなかった。なぜ古葉監督がおれを休ませなかったのか、5対0とリードしていても交代させなかったのか、その胸の内がいまわかったという思いである。  試合は広島が最終回にも1点を入れ、10対7で勝った。試合が終わると山本浩はまっすぐ古葉監督のところへすっとんで行った。 「監督、ありがとうございました」  古葉監督はチラッと山本浩を見て一瞬、真っ白い歯を見せた。  あれから7年、いま山本浩はこういっている。 「四番打者はチームを引っぱっていくと、いくらお念仏みたいにとなえても、現実に試合に出なければクソの役にも立たないと、あの試合で骨身にこたえましたねえ。腰の痛さなんて、なった者でなければわかりませんよ。でも、それを乗り切るのもまた、試合に出るという粘着力なんですねえ」  山本浩の昭和50年度における年俸は1080万円。それが「野球で飯を食っている以上試合に出る。腰痛だろうと腹痛だろうと、なにがなんでも試合に出る」この野球人生を歩き始めて7年、いま彼の年俸はプロ球界最高の6500万円になった。         *  私はこの本を書いて、本当によかったと思う。  私が選手たちに本書の趣旨、狙いどころを話すと、彼らの反応はさまざまであった。ぽーんと返事のはねかえってくる者、30秒ほど考えてから、ぽつり、ぽつりとしゃべり出す者、うなりながら記憶をよびおこそうとする者——。  しかし、これだけははっきりいえると思った。すらすらと、しゃべる男でも、脂汗を浮かべながら、記憶をたどる男でも、みんな他人にはいえない、自分だけの悲しみ、自分だけのよろこびを持っていた。  スター選手になると、その資料は数冊分の本と同量になる。だが自分だけが知っている悲しみ、自分だけが知っている感動などは、その資料に書いてない。  資料に書いてない部分を、私は取材し、光を当てたというよろこび、満足をいま感じている。  私は数十人の選手を取材し、痛感したことがある。とくにベテランになればなるほど、この傾向は強かった。  ——一番、忘れられない、運命的な試合はどんなものだったか。  と質問すると、70%〜80%の選手がつらい試合をこたえてくれた。  さよならエラーした試合、優勝を賭けた試合でのエラーや三振、みんなつらく、苦しい思い出の試合ばかりだった。  人間は嬉しい思い出よりも、つらい思い出の方が、心に焼きついているのだろうか。また私自身も、ヒーローになった試合よりも、そういう切ない思い出の原稿に、情熱が湧いた。  なお本書は昭和57年2月から8月まで、『タ刊フジ』運動面に「運命を変えた1球」というタイトルで連載したものを、一部修正、編集しなおしてまとめたものである。  取材に協力してくださった数十人の選手には心から御礼を申し上げます。だが残念なことには、編集の都合上、全員を紹介することはできない。そこで一部割愛させていただいたが、まことに申しわけないと思っている。なにとぞ御了解いただきたいと思います。 [#地付き]近藤 唯之        投の巻

   
西本聖 ドラマは“たった一球”にあり 「たった1球が名舞台より、なお奥行きの深いドラマを生む」  西本聖投手(松山商、巨人)はこの思いに感動した。  昭和55年5月28日、後楽園球場で巨人対大洋10回戦が行われた。先発は西本と平松政次投手との勝負である。  この時点の西本は3勝4敗、また巨人対大洋のカードも巨人の4勝5敗、つまり西本が勝ち投手になれば西本自身は4勝4敗、巨人は対大洋戦5勝5敗の五分になる。だから西本にとっては、勝ちたくて勝ちたくて、体のふるえるような試合だった。  三回終了で0対0。四回表、大洋の攻撃に移った。だが野球なんて不思議なものだ。それほど勝ちたい西本が先に崩れた。  大洋は四回無死、四番・高木嘉一右翼手が左前安打、五番・田代富雄三塁手が左翼席本塁打して2点。六番・松原誠一塁手は中飛に終わったが、七番・ジェームス左翼手が左前安打して出塁、打席に八番・福島久晃捕手が入った。  カウント0─2後の3球目、西本は真ん中に速球を投げた。それを福島は左前安打して一、二塁と持ち込んだ。  すると、この場面で長島茂雄監督がとびだし、西本を加藤初投手に代えた。要するに、西本は打者17人、投球数65球でKOである。そしてこの試合は大洋が3対2で勝ったので、西本は負け投手になった。  さてその夜、西本は寝つけない。 「田代の2点本塁打は仕方がない。しかし、なぜ福島の0─2後の3球目に、ど真ん中の速球を投げたのか。あれはアマチュアのピッチングだ。あの場面はシュートで併殺打を打たせてこそプロフェッショナルなんだ」  福島の左前安打が目の前にちらつき、ただ寝返りを打つだけである。  ここで話題を56年9月15日、横浜球場で行われた大洋対巨人24回戦に移そう。  この試合前の対戦成績を伝えると、巨人の18勝3敗2分け。「巨人を独走させた責任者は大洋である」といわれていた。  先発はまたまた西本と平松だった。試合は18勝の巨人が先行した。二回一死後、二塁走者・淡口憲治左翼手をおき、八番・山倉和博捕手が中前安打して1対0、そして問題の二回裏に入った。  大洋は無死、五番高木が西本の外角球を左翼線三塁打、打席に六番福島を迎えた。大洋ダグアウトからは巨人が二回に1点を入れたとき、「今夜もまたダメか」という、腹立たしさと絶望感が流れ出した。  それはそうだろう。それまで23回顔が合って、3回しか勝てなければ、人間だれでも腹も立つし、絶望的にもなってしまう。  そういうところへ高木が無死三塁走者になった。 「とにかく同点にさえすれば、今夜は勝てるかも知れない」  土井淳監督、大洋ナインはそう思って、打席内の福島に祈るような視線を送った。  初球、外角の速球が外れてボール、2球目カーブもボール、カウント0─2になった。3球目、西本は福島の殺気に似たものを18メートル44センチ離れた地点で感じていた。  同時に1年前の大洋戦のとき、カウント0─2後の3球目、福島にど真ん中の速球を投げ、KO負けした場面も思い出していた。  西本は福島の3球目にどんなピッチングをしたのか。内角ぎりぎりに、えぐるようなシュートを投げた。福島はバットを出して投ゴロ。三塁走者高木はスタートできないまま一死になった。  大洋は福島だけではない。七番・ピータース中堅手もシュートにつまって遊ゴロ。八番・斎藤巧三塁手は四球だったが、九番平松もシュートを二ゴロ。無得点である。  このピンチを無得点に抑えた西本は、打者数35人、投球数104球で完投シャットアウト、1対0で勝ち投手になった。その晩、西本はしみじみと思ったそうだ。 「カウント0─2になったとき3球目にシュートがくるだろうとは、当然、福島だって予想したと思う。その予想通りにシュートを投げて成功した。男とはかんじんカナメの勝負どころでは、たとえ相手が予想していたにせよ、自分の得意ワザで勝負するものなんだなあ」  相手が予想しているからといって、勝負どころで自分の得意ワザを使わないのは、本当の勝負師とはいえない。  だが西本と福島をめぐる“たった1球”のドラマはこれで終わってはいない。それどころか私が本当に書きたい話は、福島が投ゴロでアウトになった、それからあとなのである。  福島が投ゴロを打ってアウトになると、土井淳監督は三回表の守備から、恭彦捕手を出した。なぜ福島をに交代させたのか。交代理由はいろいろあるだろうが、要するに頭にきたといっていい。 「スコアは1対0で負けていて無死三塁走者、しかも六番打者がカウント0─2後の3球目に手を出して、投ゴロで無得点とはいったい、どういうわけなんだ」  なお具合の悪いことには、この試合前の対戦成績が巨人の18勝3敗2分け、土井監督も巨人と聞いただけで、神経がいらいらしていた。  その翌16日の午後2時50分頃、私は横浜球場三塁側の巨人ダグアウトで大洋の打撃練習を見ていた。時間が早いので巨人選手は一人も姿を現していない。  すると私服の藤田元司監督がふらりとやってきて、私の隣に座りこんだ。私が雑談しながら藤田監督を観察していると、藤田監督の目はグラウンドの大洋ナインを追っている。  そのうち藤田監督の視線が一点で静止、一人の人物から目を離さない。きのう投ゴロを打ち、三回からと交代した福島であった。私も福島を見ていると、彼はバッティングケージ後方に立ったまま動かない。  無死三塁という得点場面に投ゴロを打ち、交代させられた精神的ショックから練習どころではないのである。  突然、藤田監督がどなり始めた。 「おーい福島、どうしたんだ」  藤田監督は昭和50、51年の2年間、大洋投手コーチをつとめた。福島はそのときの部下である。そういう意味では、大声で呼んでも不思議ではない。しかし、いまは敵の大将である。福島も返事をしていいものやら、困り果てている。  すると藤田監督は、なお手招きをして福島をよんだ。それから時間にして10秒ぐらい、話しかけた。 「なあ福島。人生にはいろいろなことがある。元気を出して練習しなければだめじゃないか」  福島は小さくうなずきながら、引き返して行ったが、その顔はいまにも泣き出しそうだった。  私は藤田監督と福島のやりとりを見ていて、野球なんて不思議なものだと思った。  西本は前夜、福島に対して0─2後の3球目、内角シュートを投げた。西本はその1球で「勝負どころでは、得意ワザを使うものだ」という勝負哲学をつかんだ。だが同じ1球でも、藤田監督はかつての部下に愛情をぶちまけている。  西本も藤田も“たった1球”というところから出発はしている。しかし巨人が勝ったとか、大洋が負けたとかいう次元より、もっと高いところで考えたり、かつての部下に接触したりしているような気がしてならない。 “たった1球”が名舞台より奥行きの深いドラマを生むというのは、ここらあたりの話である。 [#改ページ]    江夏豊 歴史を刻む冷徹の勝負師  あの日本中をしびれさせた試合が、江夏豊投手(大阪学院高、当時広島、西武─引退)の運命をどう変転させたのか。  それを伝える前に、まず江夏の底知れない冷静さというか、プロフェッショナルというか、野球の極意を書いてみたい。  昭和54年11月4日、大阪球場で近鉄対広島の日本シリーズ第7戦が行われた。スコアは4対3、広島が1点リードのまま近鉄、九回の攻撃に移った。30年間におよぶ日本シリーズ史上、最高の名勝負・名場面の幕開けであった。  近鉄の六番・羽田耕一三塁手が中前安打(代走・藤瀬史朗)、打者アーノルドのとき藤瀬二盗。水沼四郎捕手の二塁悪送球で藤瀬は三進した。アーノルドは四球(代走・吹石徳一)。さらに吹石も二盗。無死二、三塁とする。しかも八番・平野光泰中堅手も四球となり、近鉄は無死満塁と持ち込んだ。ここで近鉄は、山ロ哲治投手に代えて佐々木恭介を代打に送った。  日本シリーズ史上、サヨナラ勝ち、サヨナラ逆転勝ちはあった。しかし佐々木が安打すれば、日本シリーズ史上第1号の“サヨナラ逆転優勝”となる。  ユニホームを着ている監督、コーチ、選手ばかりではない、当日、大阪球場にやってきた2万4376人の観客、テレビ画面を見ていた約2000万人のファンたちも、毛穴という毛穴が総毛立った。このとき江夏はどんな気持ちだったのか。 「ただ一つ、ただ一つしか考えなかった。佐々木のバットにボールを当てさせないこと。外野フライで同点、安打で逆転なんですから。つまり初めから三振を取りに行ったんです」(江夏豊)  江夏はカウント2─2後の5球目、内角低めのカーブで佐々木を空振り三振にとった。九回1点差、無死満塁という場面で、江夏は三振を取りに行って確実に三振を取れるのである。名人、達人というよりも、これほどの商売人がいるだろうか。  佐々木が三振、一死満塁となったところで、一番・石渡茂遊撃手が右打席に立った。私はここで江夏の洞察力、観察眼の恐ろしさに腰を抜かす思いである。 「石渡の顔色を見たら真っ青だったからね。これは初球から狙ってくる顔色じゃないと思った。そこで初球、ど真ん中にストレートを投げ込んでやったんですね。誘いダマというか、観察ダマというやつですよ。そうしたらほんの一瞬、時間にしたら10分の1秒ぐらいかな。ストレートを見送る石渡の体全体がピクンとふるえた。それを見た瞬間、“間違いない。百%スクイズやってくる。西本幸雄監督からスクイズやるぞのサインが発信されているな”とわかりましたね。根拠は石渡の体全体の微妙な動きですね。ただし問題は何球目にスクイズしてくるか、そこがわからない」(江夏豊)  そこで江夏はどうしたのか。江夏は左投手だから、セットポジションに移ったとき、三塁走者藤瀬の動きは見えない。それなら江夏はいったい、なにをマークしながら2球目を投げようとしたのか。 「一塁走者平野の目ですね。平野の目なら正面から向かい合ってますからよく見えます。2球目、水沼のサインはカーブですよ。だからカーブの握りでボールを持ち、まばたきぐらいのタイミングで投球動作を遅らせながら、2球目に入ったんです。なぜタイミングを遅らせたかというと、平野の目を確認したかったからですよ」(江夏豊)  江夏が平野の目を見ると、一瞬おびえたように光ったそうだ。  次の瞬間、視線を石渡に移すとスクイズの動作に入ろうとしている。そこで問題の2球目、外角高めにカーブを外して投げると、石渡は空振り。三塁走者藤瀬は三本間で水沼にタッチアウト。石渡も2─2後の5球目、内角低めのカーブを空振り三振した。  ところで、広島が日本一になったあと、この名勝負・名場面をめぐって、一つの話題が持ち上がった。無死満塁というピンチを迎えたとき、広島・古葉竹識監督が一度も三塁側ダグアウトを出て江夏のところに声をかけに行っていない現実である。  私は江夏に質問した。 「なぜ、あの場面で古葉監督は、あなたのところに行かなかったと思うか」  江夏の返事を聞いて私はうなった。江夏豊しかできない返事だったからである。 「私は今年でプロ16年生ですけどね。いちばん冷静な試合はどれだったかと聞かれたら、あの無死満塁の場面ですよ。針の落ちる音だって聞こえたでしょうね。逆にいえば、古葉監督としてはあの場面で出てきたくても、私があまりに冷静なため、出てこられなかったのじゃないですか。だって、たとえ出てきたにしても、私に話すことなんか、ひとこともないはずですよ。もし用事があるとすれば投手交代しかありませんね」  プロ野球の中で、このセリフを吐けるのは、江夏豊ひとりしかいないと思う。  だが、人間の運命なんて不思議なものだ。この男としてあふれるような自信というか、ごう慢に近い自信みたいなものが、江夏の運命を変転させたという噂がある。  無死満塁になったとき、古葉監督は三塁側ダグアウトから姿を現さなかった。そのかわり監督として、ある作業をやってのけた。あの時点でプロ3年生の大野豊投手をブルペンに走らせた。  これが江夏の目に入らないわけがない。本音を吐くとプロ野球超一流選手は、自信のかたまりを越して、ウヌボレのかたまりといっていい。ウヌボレがなければ、超一流選手になれるものではない。  ブルペンに走る大野を見て、江夏はなんと思ったのか。 「古葉監督はこの場面におよんで、まだ腹をくくらないのか。おれひとりで勝負させるという、開き直りを持てないのか。それよりなにより、この江夏豊より若僧の大野を信頼しているのか」  針の落ちる音も聞く冷静さとは別に、江夏の自尊心は泥にまみれた。  噂によると、日本シリーズのあと、江夏は一対一で古葉監督に大野を走らせたあたりについて説明を求めたという。だが納得のいく返事がなかったため、二人の仲は冷えたともいわれている。  ここらあたりは、なんともむずかしいところだ。江夏はたとえ無死満塁にされても、おれは冷静だ、おれしかこの場面を乗り切れる男はいないと思い込んでいる。当然の話である。しかし古葉監督の立場に立てば、なお大野にピッチングをさせておくというのも、わからない話ではない。そういうものが監督の仕事といっていい。  いってみれば、江夏も古葉も当たり前のことでぶつかり、やがて江夏が広島を去っていく話となる。話が当たり前だけに、男のつらさ、悲しみみたいなものだけが残る。  去った江夏は優勝してMVPになり、出した古葉監督は「だから優勝できなかった」といわれた。それだけになお、男のつらさが残るのである。 [#改ページ]    福士敬章 自分が納得すれば幸せである  私は本書取材のために、数多くの現役選手をインタビューした。意外な試合の、意外なエピソードを話してくれる者、思わず噴き出してしまう、とぼけた実話などエピソードは底なしにひろがっていく。  だが、取材した私が「この男には参った——」と、感動のあまり、その選手の顔をじっと見つめたのは、福士敬章投手(鳥取西高、当時広島、現韓国)しかいない。  さて私が福士に、本書の狙いどころを説明すると、彼は次の試合を答えてくれた。  昭和54年11月4日、大阪球場で行われた近鉄対広島の日本シリーズ第7戦である。私は福士の答えてくれた試合を聞いて、本当のところ腰を抜かした。  なぜ、この試合で腰を抜かしたのか。実はこの試合こそ昭和25年以来、30年間におよぶ日本シリーズ史上、最高の名勝負・名場面といわれた「江夏豊投手がカーブで石渡茂遊撃手のスクイズを空振りさせた」あの歴史的試合だった。  くどいようだが、もう一度書く。江夏豊の名前だけが、将軍のように伝えられる試合なのに、なぜ福士はこの試合を選んだのか。  先発は鈴木啓示投手(近鉄)と山根和夫投手(広島)で始まった。広島は一回に1点、三回に1点を入れ、2対0と引き離した。しかし近鉄も五回に2点をとり、2対2の同点に持ち込んだ。  ところが広島は六回にまた2点を加え、4対2とリードした。そして問題の六回裏、近鉄の攻撃を迎えるのである。  近鉄は無死、三番・マニエル右翼手が右前安打で出ると、四番・栗橋茂左翼手も左前安打し一、二塁とした。ここで古葉竹識監督は山根に代えて2人目の福士をリリーフに送り込んだ。 「投球回数5回、投球数65球、打者数22、被安打7、失点3、自責点3」  これが山根の投球内容である。  西本幸雄監督は五番・有田修三捕手にバントさせ、一死二、三塁と持ち込んだ。この場面で福士の死にもの狂いのピッチングがつづく。  六番・羽田耕一三塁手の三塁ゴロで、三塁走者のマニエルがホームイン。七番・アーノルド二塁手は左飛で近鉄は1点に終わった。つまり福士が羽田かアーノルドのうち、どちらかに安打されていたらスコアは4対4の同点になっていたと思う。  福士は七回裏、八番・平野光泰中堅手を遊ゴロ、九番・柳田豊投手の代打・永尾泰憲には右前安打されたが、一番石渡を三邪飛に料理したところで、3人目の江夏と交代した。 「投球回数1回2/3、投球数20球、打者数6、被安打1、奪三振0、与四球0、失点0、自責点0」  これがこの試合における福士の全記録である。 「一死二、三塁というピンチ場面を三塁ゴロの最少1点で食いとめて江夏さんにバトンタッチできた——このピッチングを私は誇りに思っています。あの場面で1点に食いとめておいたからこそ、最終回無死満塁のとき、江夏さんががんばってくれたと思います」(福士敬章)  私は福士に質問した。 「日本シリーズが語られるとき、あの試合の江夏豊の名前が語りつくされる。しかし福士敬章の名前は一字も出てこない。それでいいんですか」  すると福士はこんな返事をするのである。 「私は誰のためにも野球はやっていないんです。ただ自分のために野球をやっている。だからこの自分が納得すれば幸せなんです」  私は昭和1ケタ生まれ、福士は昭和25年12月27日生まれ、ずい分と年の差はある。それなのに、この心の広さはどうだろう。私はこれから江夏豊の名勝負・名場面を書くとき、福士敬章の名前もそれと同じぐらいの比重で書こうと思う。 [#改ページ]    星野仙一 男が胴ぶるいするとき  星野仙一投手(明大、中日、現解説者)をめぐるエピソードは、いつでもどこでも、涙のこぼれるような、同時におかしみを噴き出すような“星野節”である。  たとえば、あの“宇野勝・空中戦事件”がそれだ。  昭和56年8月26日、後楽園球場で巨人対中日19回戦が行われた。七回表、中日の攻撃が終わった時点でスコアは2対0、中日がリードしている。その裏、巨人の攻撃が始まったとき、新聞記者席に異常な熱気が流れ出した。もし星野がこのまま完投シャットアウトすれば、昭和55年度途中からの“巨人連続試合得点”は、159試合目でストップするからだ。  試合はそういう熱気の中で、巨人の七回の攻撃が始まった。七番・淡口憲治右翼手が中飛、代打・柳田真宏のゴロを谷沢健一一塁手がトンネル。代打トマソン三振のあと、一番・松本匡史左翼手の代打・山本功児(現ロッテ)が宇野勝遊撃手の後方に内野飛球を打ち上げた。 「七回も0点だ」  だれもがそう思った。  当日、右翼から左翼方向に5メートル前後の風が吹いていた。揺れながら落ちてきた打球は宇野のおでこに直撃、左翼ポール下まではね返った。一塁走者柳田はホームイン。巨人は紙一重、いやおでこひとつの差で連続得点試合をまたのばした。  柳田がホームインした瞬間、星野はグラブを地面に叩きつけて怒った。試合は2対1で中日が勝ったのだから、宇野の“空中戦”さえなかったら、巨人の連続試合得点をストップさせたのは、投球数131球の星野だったという話になる(同年9月21日、ナゴヤ球場での中日対巨人22回戦で小松辰雄投手が4対0で完投勝ち、174試合で巨人の連続試合得点はストップとなる)。  さてその晩、後楽園から宿舎にもどってきた星野は、ふるえ上がって星野の顔もまともに見られない宇野を銀座へ連れて行った。 「さあ宇野。好きなだけ飲んで、好きなだけステーキ食え。どうした宇野、おでこが笑ってるじゃないか」  2時間前は宇野の“空中戦”で頭にきて、グラブを地面に叩きつける。それが2時間たってみると、その宇野に銀座でステーキ食わしてやる。このあたりが“星野節”なのである。  ところが、男なんて不思議なものだ。そういう星野なのに、わずか“12球”投げるために、死ぬ苦しみを味わった試合があった。  昭和49年10月11日、神宮球場でのヤクルト対中日最終戦がそれである。くりかえすが、星野が2対1で巨人に完投勝ちした試合は、投球数131球なのに、この試合ではなぜたった12球で死ぬ思いだったのか。 「マウンドで立っていても、太ももが前後左右3センチはぶるぶるふるえたろうなあ。捕手の新宅洋志さんの顔がボケちゃうんだから。こめかみのあたりは引きつるし、呼吸困難になるし、本当に死んじゃうんじゃないかと思ったなあ。あの思いに比べたら、優勝決定の瞬間(同年10月12日、ナゴヤ球場での中日対大洋最終戦)なんて軽いもんですわ。最終回二死になったら、マウンドにいる私の耳に、新聞記者席のラジオが“山下大輔、最後のバッターになるか、中日20年ぶりの優勝まであと一人、あと一人——”なんて聞こえてくるんですから」(星野仙一)  ここで星野が“12球”投げるのに、太ももが前後左右に3センチもふるえた背景を伝えよう。  対ヤクルト最終戦は、この時点の首位中日にとって126試合目に当たった。そしてこの試合に勝つか、引き分ければ、なんと初めて“マジック2”が点灯する計算だった。それほど2位巨人の追い込みはものすごかった。  中日の日程を見ると、ヤクルト→大洋→大洋→巨人→巨人、となっているから、ヤクルトに勝ち“マジック2”にしてしまえば、大洋2連戦で優勝決定までこぎつける。しかしヤクルトに負けると“マジック2”が点灯しないばかりか、巨人戦で巨人と優勝決定戦という場面になってくる。なお具合の悪い話には、10月11日時点における中日対巨人の対戦成績は、12勝8敗4分けで巨人がリードしている。だから理屈は後回し、なにがなんでもヤクルト戦に勝たなければならない。それなのに問題のヤクルト戦、九回表を迎えたとき、3対2で中日は負けていた——。  この回のトップ七番・木俣達彦捕手がカウント2─1後、浅野啓司投手のカーブを左中間二塁打(代走・西田暢)、八番・広瀬宰遊撃手の代打・谷木恭平の一塁線送りバントで西田は三進したが、三沢淳投手の代打・飯田幸夫は遊ゴロ。三塁走者西田はそのままで二死。だが一番・高木守道二塁手が初球、ストレートを三遊間安打して3対3の同点になった。  私が本当に書きたいのは、実はこの瞬間から先の話なのである。  3対3の同点になったとき、星野は三塁側ブルペンにいた。そこへ近藤貞雄投手コーチがすっとんできた。 「仙一、たのむ。お前が九回裏だけ抑えてくれたら、マジック2がつく。仙一、やってくれ」  かくて星野はこの試合の8人目の投手、出場選手数では25人目としてマウンドに歩いた。 「私も今年でプロ14年生ですけれど、マウンドまで歩く間、両足のスパイクがすれ違うとき、カチャカチャ音がするんです。なぜだかわかりますか。両足がぶるぶるふるえるから、スパイク同士が歩きながらぶつかるんです」(星野仙一)  九回裏、最初の打者、八番・永尾泰憲(現阪神)と顔が合い、星野はあわてた。ぶるぶるふるえるのは太ももだけではない。胴体までふるえがのぼってくる。こめかみはけいれんし、歯の根は合わない。 「そのとき思ったんです。結果は神様だけがご存じだ。おれは生身の人間なんだから、どうにでもなれ、やけくそというか、開き直ってやれと」(星野仙一)  永尾は初球ストライク、2球目空振り、3球目ファウル、4球目空振り三振した。九番浅野の代打・井上洋一は初球、2球目ストライク、3球目ボール、4球目三ゴロ。なぜ異常興奮状態の星野なのに、これほどコントロールがよかったのか。 「打者は見ない。ただ一点、新宅捕手のミットしか狙わなかった。打者は誰でもいいと、このとき悟りましたねえ」(星野仙一)  最後の打者、一番・武上四郎二塁手が右打席に立った。胴ぶるいはまだとまらない。 「あと一人、あと一人——」  胃袋のあたりからこみ上げる感情と、胴ぶるいで星野は大声を出したくなった。  武上は初球ボール、2球目ストライク、3球目ストライク、4球目ストライクで見逃し三振——。 「あの試合は打者三人、投球数は12球、でも完投したよりうれしく、完投したよりへばったなあ。でも星野はプレッシャーに強い。とくに巨人戦に強いといわれるようになったのは、あの12球を境にしてですね」(星野仙一)  翌12日、ナゴヤ球場での対大洋ダブル・ヘダーに中日は連勝、20年ぶりの優勝をやってのけた。星野は第2試合に完投、九回二死後、山下大輔遊撃手をカウント1─0後の2球目、三塁ライナーでアウトにした瞬間、胴ぶるいどころか、観客の声が子守歌のように聞こえたそうだ。 [#改ページ]    斎藤明夫 度胸があれば道はひらける  斎藤明夫投手(大商大、大洋)が昭和56年11月、“明雄”から“明夫”に改名した。なにがきっかけで改名したのか。実はこの3月21日、横浜市南区上大岡3ノ20から同市港南区日野町1980に引っ越す。家族は典子夫人(当時25歳)と長男誠宏ちゃん(当時1歳)である。 「引っ越しするのを機会に印鑑研究家、姓名判断研究家の泉先生に見てもらったら、明雄より明夫の方がいいというので」(斎藤明夫)  さて、斎藤をめぐって噴き出すようなエピソードがある。  昭和52年、斎藤は「試合数38、8勝9敗、防御率4・40。投票総数194票のうち、得票113票、得票率58・2%」で新人王に選ばれた。 「斎藤が新人王に当選した」  このニュースが流れたとき、大洋ナインは「おめでとう」「よかった」という前に、誰もが顔を見合わせた。その顔にはこう書いてあった。 「それでなくても、ひとこと多いのが、これで当分、いよいようるさくなる」  この話でもわかるように、斎藤はひとこと多い。態度が大きいというのは、かなり有名だ。  だが、私は斎藤を取材して思うのである。本当の斎藤は中学生のように純情なのではないか。いや女子中学生のように傷つきやすいのではないかと思った。  昭和52年7月29日の深夜、斎藤は川崎市中原区等々力にある大洋宿舎で寝つかれない。当時、独り身の彼は二階一番奥の六畳間にいたのだが、暑さとやりきれなさで寝つくどころではない。  翌30日、後楽園球場での巨人対大洋21回戦に斎藤は先発するのだが、それが恐ろしくて寝られないのか。そうではない。斎藤が寝られないのは王貞治一塁手の本塁打と結びついていた。  王はその前日、つまり7月28日、神宮球場で行われたヤクルト対巨人20回戦の三回二死後、松岡弘投手から38号本塁打を打った。この38号が実は通算754号にあたった。  王が754号を打った瞬間から日本中が沸きに沸いた。なぜなら米大リーグのハンク・アーロン(ブレーブス─ブリュワース)の持つ本塁打記録755号にあと1本と迫り、逆転は時間の問題だからだ。  これは余談だが、アーロンは1954年(昭和29年)4月23日、セントルイス・カージナルス戦の四回、ラスキ投手から第1号本塁打を打って以来、755号をマークした。王は昭和34年4月26日、後楽園球場での巨人対国鉄6回戦の七回二死後、カウント2─1後の4球目、村田元一投手のカーブを右翼席2点本塁打した。これが王の第1号本塁打である。以来、王が200号、400号、500号、800号など、区切りのいい本塁打を打つたびごとに「第1号は村田からだ」と村田の名前が出て、そのたびごとに報道陣が村田の談話を取材しに行く。最初はガマンしていた村田も、最後には頭にきて談話を拒否した。  話題を斎藤にもどそう。もし斎藤が王に39号本塁打を打たれたら、それはちょうどアーロンの持つ755号とタイ記録になってしまう。そこで斎藤は悩みに悩むのだ。 「アーロンのタイ記録というのは、プロ野球史上、永遠に残る記録ですからね。その王さんの記録に私の名前がきざまれたらどうしよう——。そう考えたら頭は冴える、気分は重くなる、頭に浮かんでくるのは本塁打を打たれた場合のことばかりなんですよ。新聞記者がわっと寄ってくる。なぜ本塁打されたのか、その理由を質問される。ふと気がつくと自分で質問して、自分で答えているんです。顔中べったり脂汗ですよ」(斎藤明夫)  午前5時前、明るくなりだして斎藤はうつら、うつらした。すると夢を見る。王がお立ち台にのぼり、ヒーローインタビューを受けている夢だ。  くりかえすが、あの時点の日本列島は王をめぐって沸きに沸いた。しかしその陰で、王と勝負する先発投手が脂汗を浮かべ、夢にうなされていたのを読者は知っていたろうか。先輩や同僚から「斎藤のヤツ、ひとこと多いんだよ」といわれていた彼も、女子中学生のように悩み、寝返りを打ちつづけていた。  だから問題の当日、後楽園球場にやってきた彼は寝不足だった。だが、人間なんて不思議なものだ。寝不足で、もんもんと寝返りを打っていた男が、とんでもないピッチングをやり始めるのである。  さて一晩中、悩み抜いた斎藤はどんな悟りを開いたのか。基本的にはなにを考えて登板しようとしたのか。 「打たれたらアーロンとタイ記録755号だ、という意識を忘れろ、持つなといっても無理ですよ。だから、これは考えても仕方がない。ただ、そのために逃げるな、逃げて本塁打を打たれたら、一生涯悔いを残すぞと自分で自分にいい聞かせました。逃げないためには、王さんを“ただの人”と思い込むことです」(斎藤明夫)  思えば斎藤もずいぶんと、いい度胸をしている。この時点の王は通算本塁打754号も打っているのに、新人斎藤はプロ入り5勝6敗である。「754号対5勝」の勝負なのに、5勝が754号を“ただの人”と思い込もうという。いい度胸というか、途方もない度胸といったらいいのか。  試合が始まった。一回裏二死後、王が第1打席に入った。 「逃げるな、逃げるな」  そればかり胸の内でくりかえし、投げているうちに、カウント1─3から四球となった。  ところで大洋は二回表、五番・田代富雄三塁手の2点本塁打、四回表、七番・山下大輔遊撃手の中前安打で1点を入れ、3対0とリードした。そこで斎藤にも余裕が出てきた。  四回裏無死、王が第2打席に立ったとき、この余裕から内角、内角と押しに押した。そしてカウント2─2後の5球目、内角の速球で一塁ゴロ。ここでも斎藤が勝った。しかし王もそれほど甘くはない。六回裏無死の第3打席には、初球、内角の速球を右前安打した。そして八回裏無死、問題の第4打席を迎えた。 「当日の観客は5万人ですからね。それがホームラン、ホームランで沸きますから、マウンドにいると押しつぶされそうですよ。“王さんはただの人”と自己暗示をかけながら、スローカーブで勝負に行ったんです」(斎藤明夫)  この場面で本塁打されたら、おれの名前はプロ野球史上、村田元一投手のように永遠に残るという打席で、斎藤はスローカーブを投げた。度胸がなければできる芸当ではない。カウント1─1後の3球目、王は外角スローカーブを三塁ゴロ、ついに755号は実現しなかった。  そしてもうひとつ、気がついたら試合は5対0で大洋が勝った。 「プロ入り初完投、初完封でした。投手とは押しに押すものだ、そうすれば道はひらけると教えられましたね」(斎藤明夫)  斎藤が王を抑えた翌31日、同球場で巨人対大洋22回戦が行われた。 「こんどはおれの番か」  試合前からふるえ上がっていたプロ4年生、三浦道男投手は一回一死後、簡単に王に755号、ハンク・アーロンとタイ記録本塁打を打たれた。 [#改ページ]    間柴茂有 一瞬のひらめきをものにせよ  男なんて不思議なものだ。プロ入団以来11年間もかかって、やっと通算成績33勝(49敗)しか稼げなかった男なのに、気がついてみたら1年間で15勝(0敗)も勝っている。いったい、この男になにが起きたというのか。間柴茂有投手(比叡山高、日本ハム)をめぐる話である。  もう少し詳しく伝えてみよう。間柴は昭和45年大洋に入団、52年までに13勝27敗、53年日本ハムに移って3年間で20勝22敗、これでプロ11年間の通算成績は33勝49敗、勝率4割2厘である。  ところが、間柴は昭和56年、開幕15連勝という日本記録をつくって勝率10割、それまでの開幕13連勝記録保持者、御園生崇男投手(22年、阪神)、堀内恒夫投手(41年、巨人)を抜いた。  くどいようだが、もう一度書く。なぜ11年間で33勝(49敗)の男が、たった1年間で15勝(0敗)も勝てたのか。私はそこのところをドリルで穴をあけるように間柴に質問した。すると間柴はこんな返事をするのである。 「2年前の8月、近鉄戦でKO負けしたんです。なにが原因でKOされたのか、考えても考えてもわからない。それが昨年の6月の近鉄戦でやっとわかったんですね。1年越しの答案用紙が書けたと体がふるえました」(間柴茂有)  順を追って説明しよう。  昭和55年8月2日、平和台球場で近鉄対日本ハム4回戦が行われ、間柴は先発した。細かな得点経過は省略するが、六回表日本ハムの攻撃が終わった時点でスコアは4対2、日本ハムがリードしていた。 「きょうはいただきだ。7勝目は堅い」  間柴も腹の中でニヤリと笑った。  六回無死、間柴は四番・指名打者マニエルを歩かせた。五番・栗橋茂左翼手が打席に入ったとき、間柴は考えた。 「内角球はあぶない。逃げるカーブで外角球がいい」  ところが、その外角球のカーブを左翼線二塁打されて1点。4対3と1点差に追い上げられた。つづく六番・アーノルド二塁手の投ゴロで栗橋は三進、一死三塁の場面となった。外野フライで同点である。打席に七番・梨田昌崇捕手が入った。 「梨田は第1打席二ゴロ、第2打席遊ゴロと落ちるシュートで料理している。こんども低めにシュートを落としておけば間違いない」  そう判断した間柴は、落ちるシュートを投げたが、これが外角高めに入った。梨田の打球は中犠飛となり、4対4の同点になった。さらに八番・羽田耕一三塁手にも右前安打されたあと、九番・吹石徳一遊撃手と顔を合わせた。 「外角球は流される。思い切って内角速球だ」  だが、吹石にはその内角速球を左前安打され、間柴は二死一、二塁でKO。打者27人、投球数103球。2人目の高橋直樹投手(現西武)も一番・平野光泰中堅手を四球、二番・永尾泰憲二塁手に左翼線二塁打されたため、間柴は失点6、自責点4で負け投手になった。  なぜ勝てる試合を逆転負けしたのか。その夜、間柴は考えに考える。とくに逆転された六回裏の試合展開を思い出してみる。 「おれは栗橋、梨田、羽田、吹石の泣きどころを1球ごとに攻めに攻めたはずだ。それがなぜKOされたのか——」  考えても納得がいかない。球威が落ちたのかとも考えてみる。しかし投球数103球で球威の落ちるはずがない。翌日になってもわからない。シーズンが終わっても、なおわからない。 「あのような実感をカベにぶち当たるというのか」  間柴はそう思い始めていた。それが1年たってみて、ちゃーんと答案用紙が書けたのである。  昭和56年6月17日、後楽園球場で日本ハム対近鉄12回戦が行われた。この日こそ間柴茂有投手にとって生涯忘れられない試合となった。  投球開眼といったらいいのか、投球極意をつかんだといったらいいのか、プロ12年生の間柴が「おれが探していたものはこれだった」と、ぶるぶると体をふるわせて感動するのである。  間柴は一回表、一番平野を中飛、二番吹石を三ゴロ、三番・ハリス二塁手を二ゴロに料理した。気分をよくする材料はこれだけではない。日本ハムは二回裏二死後、三塁走者・柏原純一一塁手、二塁走者・ソレイタをおき、八番・大宮龍男捕手が中前安打、2対0とリードした。これで間柴は乗りに乗った。  三回表、八番・有田修三捕手を三ゴロ、九番・藤瀬史朗右翼手を二ゴロ、一番平野を左飛に片づけた。間柴に電流のようなヒラメキが走ったのは、マウンドから一塁側ダグアウトへもどる途中だったそうだ。 「ふっと気がついたら、たったいまの回に誰をアウトにしたのか、全然おぼえていないんです。つまり打者の名前なんか、どうでもよかった。もっと大胆にいえば打者の顔なんか見なくてもいいんです。大宮捕手の出すサイン通りに、大宮のミットめがけて投げている自分に気がついたんですね。相手は打者じゃない。大宮のミットなんだ。そう思った瞬間、これがピッチングの極意じゃないのかと思いまして——」(間柴茂有)  男が大物になるか、小物のままで終わるかの差なんて、実は紙一枚の差ではないのか。1秒の何分の1という時間でひらめいたものを、自分のものにした男が大物になる。たとえひらめいても、逃がしてしまえば大物になれない。  間柴は大宮のミットだけを標的に、打者の名前も顔も忘れてピッチングしている自分に気がつき、「これが極意か。これが探していたものか」とひらめいた。そして、そうとわかった以上、四回以後も大宮のミットだけを標的に投げに投げた。  この心境から誰が左右どちらの打席に立とうとも、カカシだと思えばいい。要するに、相手は大宮のミットだから、本当の敵は打者ではなく自分のコントロールだという話になる。  気がついたら九回二死後、五番羽田を右飛にとり、4対0で完投シャットアウト勝ちしていた。打者数32人、投球数116球、被安打5、与四球1、見事な内容である。  さてその夜、間柴はなぜ1年前、近鉄に逆転KO負けしたのか、その理由がわかったと思った。  前述した通り、昭和55年8月2日、平和台球場で近鉄対日本ハム4回戦が行われ、間柴は先発した。六回表、日ハムの攻撃が終わった時点でスコアは4対2、日本ハムがリードしていた。ところが六回裏、間柴は栗橋、羽田、吹石などに集中安打を打たれ、6対4と逆転されてしまう。  なぜ六回に集中安打を打たれ逆転されたのか、自分では納得がいかない。この問題が一年越しに頭にこびりついていた。それがアイスクリームが溶けるように解けた。集中安打されたとき、間柴は加藤俊夫捕手(現大洋)のミットだけを標的にしていない。相手は打者であった。 「栗橋は内角が強いから、外角で勝負してみよう」 「吹石は内角ぎりぎりの速球でいけば、つまるのではないか」  このように打者の泣きどころとの勝負に追われ、加藤のミットはまるで目に入らなかった。そこに落とし穴が待っていたと思う。  昭和56年、4対0で近鉄に勝った勝ち星が、間柴にとっては“開幕5連勝”目だった。 「そうか、投手にはこういう勝ち方があったのか」  そう思った間柴の前に、それから10連勝が待ち受け、御園生崇男投手、堀内恒夫投手の開幕13連勝を抜き、開幕15連勝の日本記録をつくった。それも間柴が1秒の何分の1という、一瞬のひらめきを自分の方に引き込んだからだと思う。 [#改ページ]    山根和夫 精神の空白状態と闘う  山根和夫投手(勝山高、広島)の話を伝える前に、15世永世名人・大山康晴をめぐるエピソードを書く。それが山根の気持ちに通じるだろうと思うからである。  大山康晴著『人生に勝つ』(昭和47年4月、PHP研究所)の中に、次のような話がのっている。  昭和37年、大山と挑戦者・二上達也八段が王将戦を争った。第1局は大山が勝った。それも気持ちいい勝ち方である。 「これで王将位は防衛した」  これが第1局を終わったときの大山の本音であった。  さてその晩、玄関をガラリとあけて帰ってきた大山の顔を見て、大山夫人は思ったそうだ。 「こんどの王将戦は負けるわ」  思っただけではない。知人にも王将戦の真っ最中に、そっといったそうだ。 「今年は負けますよ、きっと」  結果は2勝4敗で大山が負けた。第6局を終えて大山が自宅に帰ると、夫人が大山に「やっぱり私のカンが当たりましたね。お友だちにもあなたが負けると話してましたの」といったという。そこでなぜ、大山が負けるとわかったのか、そのあたりを聞くと夫人は、こんな意味の返事をしたそうだ。 「だってあなたは第1局に勝って気分をゆるめていたというか、いい気分になりすぎていたというか——夫婦ですからピンときたんですよ」  あの永世名人の大山康晴でさえいい気分の落とし穴に落ち込むのである。同じ落とし穴に、当時25歳の山根がはまり込んだとしても、彼を責められるものか。  昭和55年10月5日、広島市民球場で広島対巨人22回戦が行われた。この時点で首位広島と3位巨人とは12・5ゲーム離れている。  さて試合が始まった。広島は二回、四番・山本浩二中堅手が定岡正二投手から右翼席本塁打、1対0とリードした。先発山根のピッチングはどうなのか。  一回表無死、一番・松本匡史中堅手に二塁内野安打された。しかし二番・篠利夫二塁手を二ゴロ、三番・山本功児右翼手(現ロッテ)を三振、四番・王貞治一塁手を二ゴロに料理すると、乗りに乗り出した。  三回終了まで松本のほかには、一人の走者も出さない。しかも二回裏には山本浩の本塁打で1対0とリードしたから、祭りで酒に酔ったような気分といっていい。要するに、大山が王将戦第1局目で二上八段に軽く勝って、自宅に帰ってきた気分と思えばいい。  山根は四回二死後、2人目の走者、王を四球で歩かせたが、五番・淡口憲治左翼手を中飛でアウト。五、六回も三者凡退である。  山根のニックネームを“キンバリ”という。山根には腰痛の持病があって、そのため腰に金針20本を打ち込んでいるからだ。チェンジで山根が一塁側ダグアウトにもどってくるたびごとに「キンバリ、最高、最高——」と、ナインが出迎えるものだから、山根はいよいよいい気分になる。  こうして運命の七回表を迎えた。三番山本功が遊ゴロのあと、四番王が一、二塁間安打した。ここで左打席に五番淡口が入った。  初球、内角ぎりぎりのストレートでストライクをとった。問題は2球目である。 「あの日はフォークボールがストン、ストンとよく落ちましてね。だから、これを2ストライクから低めにきめて、ゴロを打たしていたんですよ。ところが淡口さんの打席のとき、ふっとフォークボールで空振りさせようという気になりまして……。カッコよく空振りに取ろうという色気が出たんです」(山根和夫)  そのフォークボールが高めに入った。淡口は右翼席へ逆転本塁打を叩き込み、巨人は2対1で勝った。この試合を広島市内十日市2丁目にある山根の自宅で、みどり夫人がビデオテープにとっていた。  その晩、山根がビデオテープを再生すると「調子に乗っているときこそ、その隣に死に神が待っている。怖いですぞーって、解説者の金田正一さんが解説してました。私のプロ6年間の生活で、一番いいピッチングをした試合なので、金田さんの言葉は一生忘れられませんね」(山根和夫)。  落語家・三遊亭円楽はさる4月4日、後楽園球場で行われた巨人対ヤクルト2回戦に、ラジオ日本のゲスト解説者として登場、そのとき登板中の西本聖投手(巨人)の心理に引っかけて次のような話をしていた。 「投手が1試合完投する間、全投球に全神経を集中するのはむずかしいと思いますよ。私たちが高座にのぼっている時間は30分間か40分間です。それでもきょうは調子に乗ってるなと思う日でさえ、ほんの短い時間ですが、一回はかならず精神状態が空白になる。そこをうまく乗り切らないと、あとはメロメロですな」  私はこの話を聞いたとき、あっと思った。山根和夫投手の苦しみ抜いた気持ちと、円楽の話がぴたり重なり合ったからである。  昭和55年4月15日、甲子園球場で阪神対広島2回戦が行われた。先発は江本孟紀投手(阪神)と山根だった。  広島は一回表、一番・高橋慶彦遊撃手が右翼席本塁打した。まるでこの試合を象徴しているような本塁打だった。広島は三回終了までに打者15人を送って4点、江本をKO。さらに五回にも3点を入れ7対0。八回は二番・衣笠祥雄三塁手の左翼席本塁打などで11対0と引き離した。  さて八、九回の2イニング、11対0と勝っているはずの山根が、なんともつらい思いをした。円楽のいう「ほんの短い時間ですが、精神の空白状態に落ち込みそうに——」なるのである。  しかも本音を吐けば、山根の気持ちのどこかに「2点、3点とられても勝負に関係ない」という安易感が頭を持ち上げてくる。つまり11対0で勝っている投手が、勝っているがために苦しんでいるのだ。そこで山根はどうしたのか。 「打者の顔を見ると雑念やら完封してやろうという、色気が出てきますからね。打者は一切無視しましてね。捕手の道原さんの差し出すミットだけを見ました。人間との勝負ではない、ミットとの勝負なんです」(山根和夫)  かくて山根は被安打4、投球数124球、11対0で完封勝ちした。九回最後の打者、八番・若菜嘉晴捕手を三ゴロに片づけた瞬間、「そうだったのか、ピッチングの極意は打者を無視してミットと勝負することだったのか」。  一つの壁を突き破ったというか、一つの波を乗り越えた思いみたいなものがこみ上げてきた。  話はそれから3カ月すぎた7月16日、神宮球場でのヤクルト対広島15回戦に移る。  先発は松岡弘投手(ヤクルト)と山根で始まった。広島は一回二死後、二塁走者・高橋慶彦遊撃手をおき、四番衣笠が左翼席本塁打して2点を先行。六回は松岡に5安打2四球を集中、4点を入れて6対0。九回には衣笠の2本目の本塁打などで8対0とした。  ところで九回裏のマウンドに歩く途中、山根はまた“ミット”と勝負しようと思った。人間の顔を見れば完封はむずかしい。ピッチングの極意はミットに限ると、自分で自分にいい聞かせた。  だが、人間なんて不思議なものだ。この前は11対0でも無心にミットと勝負できたのに、こんどは8対0でも無心になれない。円楽のいうように好調でも精神の空白状態に落ち込んだのである。  無死、五番・スコット中堅手に左前安打、六番・杉浦享右翼手に左翼線二塁打された。 「こうなったらミットどころか、もろに打者との勝負になっちゃいますね」(山根和夫)  二死後、九番・八重樫幸雄捕手に左前安打、さらに一番・パラーゾ遊撃手を歩かせたあと、二番・角富士夫三塁手に遊撃内野安打されるなど、気がついたら8対3で試合終了となった。  私は山根を取材して思うのである。山根は3カ月前にピッチングの極意をつかんだと思った。それが3カ月すぎてみると、九回に崩れて3点もとられた。だが、それが人間ではないのか。壁を突き破ったり、壁にはね返されたり、こうして中年から熟年へと男たちはみんな老いていく。 [#改ページ]    鈴木啓示 “この野郎精神”が器を磨く 「草魂」  これが鈴木啓示投手(育英高、近鉄)における野球哲学というか、座右の銘である。 「雑草はコンクリートの割れ目にも根を張る。あの根強さで野球をやっていきたい」  これが“草魂”の精神である。ところで鈴木はなぜ、このような野球哲学、座右の銘を持つようになったのか。  昭和41年、鈴木はドラフト2位、背番号「1」番で入団している。その限りにおいては雑草どころか、エリートといっていい。そういう鈴木がなぜ、草魂といいだしたのか。実は鈴木の精神を一刀両断するような、試合があったからである。  昭和41年3月17日、藤井寺球場で近鉄対東京(現ロッテ)オープン戦が行われた。この試合に鈴木は初先発、つまりプロ野球のデビュー。  さて試合前、吉沢岳男捕手が鈴木にいった。 「お前のカーブは申しわけなさそうに曲がる程度だから、サインは全部ストレートでいく。投げたかったら、いつでも勝手にカーブを投げろ」  一回表、東京の一番・池辺巌中堅手が右打席に入ったとたん、鈴木は頭に血がのぼった。吉沢のサインがまるで見えない。 「コントロールなんてもんじゃない。本塁方向に見当をつけてストレートを投げるのが精いっぱいですわ」(鈴木啓示)  池辺は四球、二番・八田正二塁手も四球、三番・榎本喜八一塁手は右翼ライナーになったが、四番・パリス左翼手も四球で一死満塁。五番・森徹右翼手の右中間二塁打で簡単に3点をとられた。  一回を終わり、脂汗を浮かべながらもどってくる鈴木をつかまえ、岩本義行監督はどなりつけた。 「あすから二軍に行け、二軍に! それでプロ野球で飯が食っていけると思うか!」  岩本監督の言葉はおどかしではなかった。本当にその翌日から鈴木は二軍に落とされた。ドラフト2位も背番号「1」番も、関係あるかというすばやさである。  鈴木を待っていたのは二軍・江田孝投手コーチの特訓だった。江田は鈴木にいうのである。 「お前、なんで藤井寺のオープン戦のとき池辺、八田、パリスたちに四球出したか、わかってるのか」 「アガったと思います」 「それは精神的問題だ。技術的には投球動作の途中で首が揺れるんだ。お前、針の穴に糸を差し込むとき、首を振りながら入れるか」  鈴木は開幕直後、一軍にまたもどってきた。そこで鈴木は腰を抜かした。なにが起きたのか。 「私の顔を見ても、一軍の人たちが言葉をかけてくれない。口をきいてくれない。視線を合わせてくれないんですよ。お前なんか、実力もないくせに、ドラフト2位指名され、背番号1番もらいやがって、藤井寺のあのザマはなんだ——みんなの顔にそう書いてあるんです。  私は新人ですから、どこへ行っても最敬礼ですよ。でも腹の中では何度も何度もくりかえしていましたね。“この野郎、いまに見ていろ”——この野郎、この野郎で毎日すごしました。鶴田浩二が歌う文句にもあるじゃないですか。“男泣くなら人形のように、顔で笑って腹で泣け”——あれですよ、あれ」(鈴木啓示)  同年5月24日、後楽園球場で行われた東映対近鉄8回戦のとき、鈴木は五回からリリーフとして登板、プロ入り初白星をあげた。以来、17年間の歳月が流れたが、鈴木の“この野郎人生”は変わらない。昨年終了時点で271勝201敗、昭和名球会員でもある。  鈴木はファンからサインをたのまれたとき、本音は“この野郎人生”と書きたい。しかし、これでは格調がない。そこで“草魂”と書く。だが草魂もわかりやすくいえば、この野郎人生である。 「このごろ、ふと気がつくと、この野郎とは思うんですが、それに迫力がない。だから自分で自分にいい聞かせているんです。“藤井寺球場の悔しさを思い出せ”と。そうすれば、この野郎も本気になれると思って」(鈴木啓示)  昭和41年6月3日、日生球場で近鉄対南海7回戦が行われた。先発は鈴木と皆川睦男投手(南海)である。  近鉄は一回、四番・土井正博左翼手の2点本塁打などで4点、七回にも1点をあげ、5点を記録した。鈴木は投げに投げた。吉沢岳男捕手のミットだけを見て、ストレートを投げまくった。気がついてみたら鈴木は「投球回数9回、投球数105、打者数32、被安打5、奪三振6、与四球1」で南海をシャットアウトしていた。  南海は昭和39、40、41年と3年連続優勝している。いってみれば最後の黄金期といっていい。しかも当日の先発メンバーは次の通りである。  一番・穴吹義雄右翼手(現監督)、二番・唐崎信男左翼手、三番・ブルーム二塁手、四番・野村克也捕手、五番・広瀬叔功中堅手、六番・坂口和司一塁手、七番・小池兼司遊撃手、八番・国貞泰汎三塁手、九番・皆川睦男と、名前を聞いただけで新人はふるえ上がるような顔ぶれだった。それをシャットアウトしたのだ。  ところで、鈴木は昨年終了時点までの16年間に、シャットアウト勝ちを68試合も記録している。その68試合のうち、なぜこの対南海7回戦が、運命を変える試合になったのか。  話はそれから39日後の7月12日にとぶ。この日、セ・リーグは川上哲治監督(巨人)、パ・リーグは鶴岡一人監督(南海)によって“第16回オールスター戦・監督推薦選手”が発表された。その中に、この時点で5勝4敗の鈴木の名前が入っていた。  当然、新聞記者が鶴岡監督に質問した。 「なぜ5勝4敗の新人鈴木を近鉄から一人だけ選んだのですか」  すると鶴岡監督は、ここでオールスター戦裏ばなしに残る名セリフを吐いた。 「ホークスをシャットアウトした新人だからだ」  この名セリフを聞いて、きょとんとしている新聞記者に、鶴岡監督はシャットアウトされた試合の話をつけ加えた。 「スコアラーの報告によるとだな、あの試合で鈴木は投球数105球のうち、ストレートが85球、カーブが20球だったそうだ。ワシが鍛えに鍛えたホークスを、ほとんどストレートだけでシャットアウトする新人だからな、これは推薦や」  なんともユニークな鶴岡流推薦方式に、新聞記者もなんとなく納得した。  さて、オールスター第1戦は7月19日、東京球場で行われた。 「勝負も大事ですけれどね、他球団の大投手と初めて同じダグアウトに座るのですから、その人の持ってるもの、盗もうと夢中でしたね」(鈴木啓示)  全パのダグアウトには、小山正明投手(東京=現ロッテ)、皆川睦男投手、米田哲也投手(阪急)、土橋正幸投手(東映・現ヤクルト監督)、足立光宏投手(阪急)、池永正明投手(西鉄)など、目のくらむような男たちが、ぞろりとそろっていた。  なぜ小山は高めのストレートに伸びがあるのか、なぜ土橋はいつも低めぎりぎりに投げられるのか、なぜ足立のシンカーは真下に沈むのか、なぜ池永は上背がオレよりないのに、ストレートが走るのか——。  鈴木は一人ひとりテーマを持って盗み出した。  男のめぐり合わせなんて不思議なものだ。もし鈴木が南海をシャットアウトしていなければ、鶴岡監督は鈴木を推薦しなかった。男はいつでも、どこでもあたえられた仕事を全力でこなさないと、自分が損をする。  オールスター戦が終わって3日後の24日、平和台球場で西鉄対近鉄13回戦が行われ、鈴木と池永が投げ合った。 「4対0でシャットアウト勝ちしましてね。捕手の吉沢さんから、オールスター戦で勉強したなあといわれ、胸が熱くなりました」(鈴木啓示)  鈴木はこの年、10勝12敗、防御率3・19を記録したが、新入王は“該当者なし”に終わった。  なにしろその前年、池永が20勝10敗で新人王だから、数字を比較されすぎた。いまなら文句なく当選していたのに——。 [#改ページ]    高橋一三 若いときには地獄へ落ちろ  高橋一三投手(北川工、日本ハム)の公式記録をめくっていくと新人のシーズン、つまり昭和40年の項目はこうなっている。 「試合数3、0勝0敗、投球回数6回、打者31、被安打8、被本塁打4、防御率9・00」  なんとも空しいというか、寒々とした数字である。しかし、この数字の中にひとり高橋が熱い涙をぽろぽろ流した“運命を変えた試合”があった。  昭和40年5月11日、金沢兼六園球場で巨人対広島4回戦が行われた。先発は城之内邦雄投手(巨人)と森川卓郎投手(広島)である。この日、城之内は荒れに荒れた。そして苦しくなって、ど真ん中にストライクを取りにくるところを狙われた。  一回二死後、三番・山本一義左翼手に中越え本塁打されて1点。二回には五番・大和田明良中堅手に左前安打、六番・森永勝也右翼手に右翼線二塁打されたあと、七番・漆畑勝久遊撃手にカーブを左翼席本塁打されて計4点。ここで新人高橋と交代した。  さて、問題の高橋はどうだったのか。これが三度目の登板だが、城之内よりひどかった。三回無死、四番・興津立雄三塁手に左翼席本塁打されると、六番・藤井弘一塁手(現二軍監督、現在は改名して博)にも左翼席本塁打された。  高橋をめぐる本塁打ばなしは、これで終わっていない。四回一死後、前の回に本塁打された興津に、こんどもまた左翼席に連続打席本塁打を叩き込まれた。そればかりではない。なんとまたまた藤井にも連続打席本塁打を左翼席にぶち込まれた。  広島はこれで“4イニング連続本塁打”のセ・リーグタイ記録をつくってしまった。脂汗を流しながら、3人目と交代した高橋の記録はこうである。 「投球回数3回、投球数74、打者19、被安打7、奪三振1、与四球3、失点6、自責点6」  ところで、宿舎に帰ってきた高橋は、川上哲治監督の部屋によび出しを受けた。 「高橋、そこへ座れ。お前に話がある」 「はい」  高橋は川上監督と1対1で向かい合うのは初めてだ。恐ろしさのあまり、まともに川上監督の顔が見られない。 「いいか高橋。お前が三回に興津、藤井にホームランされたのは目をつぶろう。お前は新人だし、向こうは四番、六番打者だ。しかしなあ高橋。そのまったく同じ興津、藤井に次の打席でまたもホームランされるとは、これはいったい、どういうことなんだ」 「はい」 「お前に研究心がない。どうしたらこの打者をうち取れるかという、真心がない」  川上監督は高橋に油をしぼった末、山崎弘美マネジャーを呼んだ。高橋がひょいと見ると、山崎マネジャーは手に列車の切符を持っている。川上監督はいった。 「高橋、これで多摩川へ帰れ。お前に真心、研究心がない限り、一軍にいても意味がない。あすから二軍でびっしり鍛え直されてこい」  高橋は自分の部屋へもどると荷物をまとめた。その最中、突然、湯のように熱い涙がふき出た。自分に研究心、真心がないのではない。いくらあっても技術がないから、実を結ばないのである。  だが高橋は泣きながらも巨人の恐ろしさに、ふるえ上がった。昼間の試合にKOされた新人が、宿舎にもどってみると多摩川へ帰る切符が用意されているのだ。 「私の記憶では米原までチームと一緒に移動したと思います。それからチームは大阪へ、私は東京へと別れたんです。その年はもう一軍に上がれないで、ずっと二軍暮らしでしたよ。一軍にもどったのは41年6月ですから、約一年間、二軍にいたわけです。この間、毎日地獄を見てきましたよ。私はいまプロ18年生ですが、あのとき二軍に落ちたのが、いま思うと幸せにつながってますねえ。若いうちは地獄を見なけりゃあ——」(高橋一三)  新人のとき地獄を見た高橋がプロ9年生のとき、もう一度“天国と地獄”の淵に両足をかけて立つ。  昭和48年10月20日午後2時、東京駅発「ひかり351号」の9号車、10号車で川上監督以下、巨人ナインは大阪に向かった。翌21日、甲子園球場で行われる阪神対巨人26回戦にそなえるためだ。  ところで、東京駅出発と同時に長島茂雄三塁手や王貞治一塁手は、顔をひきつらせ、トランジスタラジオに聴き入っている。いったい、なにを聴いているのか。この日午後2時1分からナゴヤ球場で中日対阪神26回戦が始まっていた。もし、この試合に阪神が勝てば昭和39年以来、9年ぶりの優勝が決まる。逆に中日が勝てば優勝の行方は、阪神と巨人にとって公式戦最終試合の甲子園球場での26回戦に持ち越される。つまり、その試合で勝った方が優勝なのである。  だから阪神も死に物狂いなら、巨人もまた死に物狂いでラジオを聴いている。小田原駅あたりまでは文化放送、熱海駅では静岡・NHK、愛知県に入ると名古屋・NHKとダイヤルを合わせながら聴く。 「ひかり351号」がナゴヤ球場の左中間場外を通過したのは午後4時。試合は4対2で中日がリード。戦況は九回表一死後、一塁走者の池田祥浩中堅手をおき、打席に七番・代打の和田徹が立っていた。そこを「ひかり351号」が横目に見ながら通過して行く。セ・リーグ史上に残る名場面である。  そして列車が名古屋駅に到着したとき、中日の勝利が決まった。  くりかえすが、優勝は阪神か、巨人かという話である。運命の試合は雨で1日延びた22日午後2時1分から始まった。先発は上田二朗投手(阪神)と高橋一三だった。  高橋はそれより6日前の16日、後楽園球場で行われた巨人対ヤクルト26回戦に先発、七回終了時点で4点を取られてKO、負け投手となっている。 「KOされて、しょんぼりしていると、川上監督がそばに来ていうんです。“阪神戦はお前でいく。たのむよ”って。もちろんダグアウトの中でですよ」(高橋一三)  川上監督はなぜ、KOされた高橋を阪神戦で先発させようとしたのか。巨人のV9を見ると、高橋は優勝を決める試合に六度先発し、五度勝利投手になっている。なんとも恐ろしいまでの強運の男なのだ。  試合の始まる前、両チームの成績はこうである。 「首位阪神=129試合、64勝58敗7分け、勝率5割2分5厘」 「2位巨人=129試合、65勝60敗4分け、勝率5割2分0厘」  阪神と巨人のゲーム差は0・5。公式戦最終試合に高橋の強運に賭けてみようと、川上監督が考えた。  さて試合が始まると、上田はカゼをひいていて、まるで迫力がない。巨人は五回終了時点で8対0、しかも毎回得点である。 「これが夢にまで見た、公式戦最終試合の優勝決定戦なのか」  4万8000人の観客はタメ息をついた。だが高橋は投げに投げた。 「私たちは苦しさのあまりヘドを吐き、涙を流しながら走ってきたんです。それが阪神はどうですか。阪神部屋といわれるほど腹が出っ張っているんです。その阪神部屋には負けられますか。その思いだけで投げまくりました」(高橋一三)  九回裏二死後、五番・カークランドが空振り三振、9対0で巨人が勝った。その瞬間、3000人の阪神ファンがグラウンドになだれ込み、巨人ナインに乱暴した。もちろん、川上監督の“胴上げ”どころの騒ぎではない。逃げ遅れた牧野茂コーチと王がなぐられ、川上監督は審判室へかくれた。 「カークランドを三振にとるやいなや、三塁側ダグアウトへ逃げ込みましたねえ。シャットアウト勝ちして、監督と握手しなかったのは、あの試合だけですよ。“胴上げ”は宿舎の竹園旅館に帰ってやりました」(高橋一三)  前にも書いたが、高橋は優勝を決める試合に六度先発し、五度勝ち投手になっている。あのやせた体、疲れ切ったような投球フォーム、それにあの悲しそうな顔の高橋の、どこに強運がかくされているのか。  でも、私はなおおどろくのだ。そういう強運のはずの高橋でさえ、そして巨人時代110勝(78敗)と貢献度のあった高橋でさえ、2年後の50年12月には日ハムへ放出された。強運がいつまでもつづくなど、考えられるはずもない。 [#改ページ]    角三男 勝つと思うな、思えば負けよ  角三男投手(米子工、巨人)を取材して、私は思うのである。なんだかんだいわれても、前巨人軍監督・長島茂雄は、名監督ではなかったのかと——。  なぜ私は長島を名監督だったと思うのか。それがこれから書く試合である。  昭和53年4月20日、甲子園球場で阪神対巨人4回戦が行われた。先発は小林繁投手(当時巨人)と江本孟紀投手(阪神)で始まった。  阪神は一回二死後、三番・掛布雅之三塁手が中堅本塁打して1点を先行した。だが四回表、巨人は逆転する。江本が突然といっていいほど、乱れに乱れるのである。  巨人は無死、二番・河埜和正遊撃手が右前安打、三番・高田繁三塁手も左前安打したあと、四番・王貞治一塁手が四球で無死満塁とした。ここで五番・柳田俊郎左翼手が押し出しの四球で同点、六番・シピン二塁手は遊直併殺に終わったが、七番・山本功児右翼手が中前安打、3対1と逆転した。  ところが、阪神も粘りに粘る。五回無死、八番・植松精一左翼手が左前安打、九番江本の投前バントは小林の野選となり、無死一、二塁と持ち込んだ。ここで一番・中村勝広二塁手が右前安打、3対2と1点差に追い上げた。打順はこのあと二番・藤田平遊撃手、三番掛布と左打者がつづく。下手投げの小林にとっては、最大のピンチ場面である。  さて私がどうしても書きたいのは、藤田を迎えたときの、長島監督の発想である。 「ブルペンで調整していた私のところに連絡が入ってきたんです。そこでマウンドヘ行ったら長島監督が、私に向かって腰を抜かすようなことをいうんですよ。そういう戦法が高校野球なんかではよくありますけれど、本当にプロでやるとは思ってませんでしたから。まして私が直接ねえ」(角三男)  長島監督は角に向かって、どういう戦法を吹き込んだのか。 「なあ角よ、お前は藤田と掛布だけ料理してくれ。お前が二人を料理している間、小林は右翼に回しておく。料理し終わったら四番田淵からまた投手にもどす」  角はこの年新人である。しかもこの時点で「試合数5、0勝0敗、0セーブ」であって、いまのように“リリーフの神様”になるとは、だれも思ってはいない。それなのに長島監督は、このピンチ場面で新人角にぽんとリリーフさせた。長島独特のカンで、角の持つ素質を見抜いたからか。  角がマウンドに立ち、小林が右翼の守備位置につき、山本右翼手が左翼に回って試合は再開された。  角は藤田に対し、初球ストライク、2球目ファウル、3球目ボール、カウント2─1後の4球目、空振り三振にとった。さらに三番掛布にも初球ストライク、2球目ストライク、3球目ボールでカウント2─1と追い込んだあと、空振り三振である。打者数2、投球数8球、三振2、完全内容である。  掛布を三振にとったところで長島監督がすっとんできた。 「角、ご苦労、ご苦労。休んでくれ」  角はダグアウトにもどり、小林は右翼からまたマウンドへ。山本も左翼から右翼へ、左翼には庄司智久(現ロッテ)が入り、試合は始まった。  二死一、二塁、打席は四番・田淵幸一捕手(西武─引退)だから、小林の顔も青い。だが小林は田淵を投ゴロに片づけ、ピンチを切り抜けた。小林は六回以後、1本の安打も打たれず、3対2で巨人が勝った。 「あのリリーフで左打者を攻めて攻めて、攻め抜く実感みたいなものをつかみましたね。なにしろ小林さんが右翼にいるんですから、同じリリーフでも緊迫感みたいなものは凄かったなあ」(角三男) “魔術師”三原脩が大洋監督時代、全く同じ戦法をやったところ、阪神監督・藤本定義から「おれが松山商業時代に使った手をやってやがる——」と冷やかされた。しかし、その古い戦法から“リリーフの神様”角三男が生まれたとすれば、古い戦法もまた名戦法ではないのか。  角は出番が回ってきそうになると、ひそかにダグアウトを抜け出す。行き先はトイレの個室である。 「個室に入ると気持ちが落ち着くからなんです。ただし個室に入るだけで用は足しませんよ。いつ登板するかわかりませんから」(角三男)  後楽園球場の場合、選手の昼食は午後4時すぎである。選手専用サロンでとるのだが、メニューはめん類、サンドイッチなどが多い。なにしろ試合開始時刻が目の前に迫っている。米の飯や、肉類を腹いっぱい食べられる道理がない。だが、角だけは違う。カツ丼、カツライス、えびフライライスなど、がっちり胃につめ込む。  なぜなのか。角の登板時刻は“午後8時半”前後と決まっている。4時間も先だから腹が減ってたまらない。  角は六回に入ると20球のキャッチボールをする程度で、投球準備を終えてしまう。そのかわりマウンドに立ち、本番までの“1分間、8球”に全神経を集中する。プロ野球46年間におよぶ歴史を振り返り、あの8球にあれほど全神経を集中するのは角しかいない。  昭和56年9月22日、甲子園球場で阪神対巨人26回戦が行われた。巨人にとっては、なにがなんでも勝ちたい理由があった。この試合に勝てば「マジック1」になる。そうなれば、もう優勝したも同じといっていい。2位広島が負ければ優勝がころがり込んでくるからだ。  先発は定岡正二投手(巨人)と工藤一彦投手(阪神)で始まった。細かな得点経過は省略するが、六回終了時点でスコアは2対1、阪神がリードしている。  ところが巨人は七回無死、四番・ホワイト中堅手が工藤から右翼席同点本塁打、2対2とした。六回にキャッチボールをすませ、三塁側ダグアウトにいた角は、するりと抜け出し“個室”に入った。出番が回ってきそうな予感がしたからだ。  すると藤田元司監督は七回裏から定岡を角に交代させた。球審松下充男の「あと5球、あと3球……」の指示にしたがって、角は1分間、8球の投球練習に全神経を集中する。こうして「マジック1」を賭けた角のピッチングは始まった。  七、八、九回の3回投げて打者10人、この間、被安打は五番・オルト一塁手に左前安打されただけだ。一番・北村照文右翼手と三番・佐野仙好中堅手は捕邪飛、いかに高めに浮き上がるストレートに伸びがあるかの証明だと思う。  試合は2対2で延長戦に移った。巨人は延長十回一死後、六番・淡口憲治左翼手が中前安打、八番・山倉和博捕手の代打柳田俊郎が四球で一、二塁とした。ここで九番・松本匡史中堅手が二塁内野安打で満塁、一番・河埜和正遊撃手が中前安打して4対2とした。 「十回裏を抑えればマジック1ですからね。私は心臓男で通っていますが、あの十回裏は足がふるえましたね。あの場面“おれは勝つんだ”という気持ちは崩れるもとですね。“おれは負けない”がいいんじゃないですか。勝とうではなく、負けないですよ」(角三男)  八番・原良行遊撃手(現日本ハム)を中飛、九番・福間納投手の代打・川藤幸三には右前安打されたが、一番北村を遊ゴロ、二番・吉竹春樹左翼手も遊ゴロに料理、4対2で勝った。「マジック1」実現を自分の勝ち投手でやってのけたのだ。 勝つと思うな、思えば負けよ……関沢新一作詞、古賀政男作曲、美空ひばりが歌った「柔」の名文句である。“リリーフの神様”角の極意は、柔の精神と同じだったのである。 [#改ページ]    梶間健一 逃げたら負けだ  梶間健一投手(鉾田一高、ヤクルト)が、マウンドではどれほど冷静なのかを物語る、ひとつのエピソードから書く。  昭和50年12月のある日、梶間の妹・恵美子さんが福島県で結婚式をあげた。当然、梶間も出席した。披露宴に恵美子さんの鉾田二高時代の同級生、紀子さんも出席した。憂いをふくむ紀子さんの表情に、なんとなく梶間はひかれた。  さて話は翌51年8月、後楽園球場で行われた都市対抗決勝戦・日本鋼管対北海道拓殖銀行戦に移る。鋼管のエースで左投手の梶間は、一塁側拓銀ダグアウトがよく見える。ところが試合途中、あっと思った。妹の恵美子さんの結婚式にきていた、あの美人が一塁側ダグアウト後方に座っているのだ。紀子さんは拓銀に勤務していたから、応援にやってきたのである。  決勝戦という雰囲気、白一色のスタンドから特定の人をさがし出すのは、よほど冷静でないとできない。この試合で日本鋼管は優勝、ついでに梶間はこの紀子さんを口説きに口説き、53年12月3日、紀子さんと結婚した。  そういうマウンドでの冷静男・梶間も、腰を抜かした相手がいる。王貞治一塁手(巨人)である。  昭和52年6月26日、神宮球場でヤクルト対巨人12回戦が行われた。先発は安田猛投手(ヤクルト、現ピッチングコーチ)と新浦寿夫投手(巨人、現韓国)だった。  試合は六回表終了時点で4対0、巨人がリードした。「勝負あった。巨人の勝ちだ」と、だれもがそう思った。  ところが、ヤクルトは六回裏一死後、三番・ロジャー中堅手が中越え二塁打、四番・マニエル右翼手が四球、五番・大杉勝男一塁手が左翼席本塁打して4対3、新浦をKOした。1点差ならどうなるかわからない。こういう状況で問題の七回表、巨人の攻撃を迎えた。  二番・河埜和正遊撃手が投手強襲の内野安打、張本勲左翼手が右前安打して2人目の西井哲夫投手をKO、打順が四番王に回ってきたところで、広岡達朗監督(現西武)は3人目の梶間を登板させた。  初球、内角低めのシュートでストライク、2球目ファウル、3球目ボールでカウント2─1になった。すると大矢明彦捕手が走り寄ってきた。 「外角にボール半分ぐらいかかる、そういう気持ちのカーブを投げろというんですね。つまりストライクゾーンから、ボールの半分は外側にはみ出している、そういう気持ちのカーブの注文なんです。そこで、その注文通りカーブを外角に投げたら、ボールの半径分だけ内へ入っちゃったんです。いいかえればボールがすっぽりストライクゾーンに入るカーブだったんですねえ」(梶間健一)  王はそれを右翼席中段に3点本塁打した。梶聞はふるえ上がった。 「ボールの半径分(約3・5センチ)甘くなっても王さんは見逃さないのか。この人には針の穴ほどのコントロールミスでも許されないのか」  そういう恐怖心である。くりかえすが、都市対抗決勝戦で相手チームの一塁側応援団席にいる一人の女性を見つけ出したほどの梶間が、同じマウンドで真っ青にふるえ上がったのである。この試合は王の3点本塁打が決め手になり、10対4で巨人が勝った。  それからの梶間は王と顔が合うと、頑固なまでに自分で自分にいいきかせた。 「王さんの目はボールの半径分でも見逃さない。だからボール半径分、完全なボールで勝負しよう」  王の終身本塁打は868本である。その868本のうち、梶間が打たれた一発は735本目に当たる。だがこの1発以外、梶間は王に本塁打を打たれていない。ボール半径分だけ、ストライクゾーンから外しまくった戦法のためらしい。 「王さんが800本を記録したとき、記念のタオルが売り出されましてね。そのタオルに号数と打たれた投手名が書いてあるんです。800本の中に1本だけ、ぽつんと私の名前がのっているんです。世界の王さんに打たれたのなら、投手として本望じゃなかったのか、そのとき、ふとそんな気分になりましてね。もし名前がのってなかったら、逆にさびしい気分になったんじゃあないかなあ」(梶間健一)  プロ球界には特異な才能を持った人物がいる。  野村克也捕手(当時南海)は、三冠王のほかに“ささやきの名人”でもあった。マスク越しに、打者にささやくのである。  平田薫二塁手(巨人、現大洋)は“左投手打ちの名人”といっていい。 「とくに極意なんてないですねえ。いつも考えていることは、タイミングをぴたり合わせることだけなんですが……」(平田薫)  さて、これから書く話は、その平田に2年連続してやられた左投手、梶間健一の、なんとも無念の思いである。  昭和55年8月6日、神宮球場でヤクルト対巨人16回戦が行われた。先発は梶間と西本聖投手(巨人)である。  巨人は二回、五番・シピン二塁手が左翼席本塁打して先行した。するとヤクルトは三回一死後、一番・パラーゾ遊撃手が中前安打、二番・角富士夫三塁手が右翼線二塁打して1対1の同点にした。四回以後、梶間と西本の投げ合いとなって、八回終了時点まで1対1は動かない。そして問題の九回表へと移っていく。  巨人は九回無死、シピンが中前安打(代走松本匡史)、六番・柴田勲中堅手は三振、七番・山倉和博捕手は遊撃内野安打で一死一、二塁とした。打順が八番河埜に回ってきたところで、長島茂雄監督は代打平田を起用した。 「平田君が左に強いのを知らない投手は一人もいませんからね。きたなという実感ですよね。ボールカウント2─2にしておいて、内角ヒザ元のストレートを投げたんですが、それを中前安打されちゃいまして。問題は神宮球場から自宅に帰ってきたあと、フジテレビの『プロ野球ニュース』を見ようか見るのよそうか……」(梶間健一)  試合は平田の中前安打が決勝点になって、2対1で巨人が勝った。だから当然、そのシーンはテレビ画面に出るはずだ。梶間は歯を食いしばる思いで『プロ野球ニュース』を見た。  相手はプロ野球NO・1の左投手キラーである。それにムザムザ食われた自分に腹が立つ。テレビの画面を見ながらこうも思う。 「ストレートよりシンカーがよかったなあ。こんど、あいつに会ったらシンカーで勝負する」  だが、プロ野球は人間がやっていると思う。一度ヤケドしたはずの梶間が、またほとんど同じ舞台設定で二度のヤケドを負うのだ。  昭和56年6月22日、神宮球場でヤクルト対巨人7回戦が行われた。細かな得点経過は省略するが、九回終了時点でスコアは2対2の同点。ヤクルトは梶間ひとりなのに対し、巨人は加藤初─角三男のリレーである。  延長10回表、巨人の攻撃に入ると藤田元司監督は、三番・篠利夫二塁手にかえて代打平田を送ってきた。 「去年の中前決勝打のことは頭に残ってましたからね。またきたな、という気分でしたね。ボールカウント1─1からシンカーを投げたんですが、左翼席本塁打されましてね。試合は3対2で負けました。ダイヤモンドを走る平田を見て、悔し涙が浮かびましたね。左投手キラーにまたも、まんまとやられたのかという、悔しさなんですよ」(梶間健一)  試合のあと、梶間はまた自宅に帰ったあと『プロ野球ニュース』を見ようか見るのよそうか、苦しみに苦しみ抜くのだ。  決勝本塁打だから、そこだけが集中的に放映されるだろう。そう思うと梶間の胸は|潰《つぶ》れそうだ。テレビの前から逃げ出そうかとも思う。しかし、もうひとつの胸の中では「これがお前の飯のタネだ。これでお前は女房、こどもを食わせている。逃げたら負けじゃないか」という声も聞こえてくる。 「……『プロ野球ニュース』を見ました。シンカーが沈んでなかったんですねえ。打たれるには、打たれるだけの理由がちゃーんとあったというのが、画面を見た収穫でした。でも、つらかったですよ、自分が左投手キラーに打たれるのを見るのは——」(梶間健一)  梶間は平田に二度やられた。そのたびごとにテレビを見た。本当につらいだろうと思う。だが、三度目にまた平田にやられないという保証はない。そこが人生のつらさなのである。 [#改ページ]    平松政次 チャンスは二度あるとは限らない  人間なんて不思議なものだ。まさかと思う落とし穴に、ストンと落ち込む。 「石橋どころか、鉄橋を叩いても渡らない」といわれた、あの川上哲治一塁手(巨人)だって、信じられないようなミスをやっている。  昭和28年7月1日、後楽園球場でオールスター第1戦が行われた。このとき川上はホームチーム用ユニホームを持ってくるところを、間違えてビジター用ユニホームを持ってきた。球場にきてから気がつき、東京・世田谷区野沢町の自宅に電話をかけ、拡子夫人がタクシーでかけつけた。しかし入場式には間に合わない。このため川上は入場式の間、ひとりロッカーにかくれていた。  こういう話はまだつづく。  昭和42年8月15日、後楽園球場で巨人対阪神18回戦が行われた。その前日、阪神ナインは新幹線で上京、東京・文京区真砂町の宿舎「清水旅館」に入った。  だがこの日、佳紀捕手だけは奥井成一マネジャーに断って別行動をとった。午後2時すぎ、宝塚市仁川の自宅を良子夫人と一緒に自動車に乗って出た。良子夫人の実家が東京・調布市つつじヶ丘にある。14日の晩は清水旅館に泊まらず、良子夫人の実家に泊まるためだ。  さて午後10時すぎ実家にやってきた。ここでトランクをあけたはふるえ出した。帽子、ユニホーム、アンダーシャツ、ストッキング、スパイク、バット、ミット、マスク、胸当て、すね当て、要するに商売道具一切、なにも入っていない。 「おい良子。お前、車に積まなかったのか」 「なにいってんのよ。あんた自分で積んだんじゃあなかったの」  こうして46年間におよぶプロ野球史上、ただひとり商売道具を全部忘れて相手球団本拠地に乗り込んできた男が誕生した。もっともの場合、翌15日の早朝一番の飛行機で自宅にとってかえし、後楽園にはなに食わぬ顔で現れたのだが——。  話題を平松政次投手(岡山東商、大洋─引退)に移そう。平松もまた、まさかと思う落とし穴に落ち込んだ試合がある。  昭和45年8月16日、川崎球場での大洋対広島15回戦がそれである。試合は平松と安仁屋宗八投手の先発で始まった。  一回表、平松はトップ打者、今津光男遊撃手を二ゴロにとったあと、二番・国貞泰汎二塁手にストレートの四球を出した。 「結果的にはこのストレートの四球がよかったんですね。きょうはコントロールがあまりよくないから、大事に行こうという気持ちになったんです」(平松政次)  カンのいい平松はそうひらめいた。それからは大橋勲捕手を相手に、粘土で銅像の原型を作り上げていくような、手間ひまかけたピッチングをやり始めた。 「カミソリシュート」のニックネームを持つ平松が、手間ひまかけて投げ出したのだから、広島ナインは青くなった。  大橋もていねいなサインをくりかえす。気がついたら六回終了時点まで、四球の国貞ひとりしか走者を出していない。  七回一死後、平松は三番・山本浩二中堅手をまたストレートの四球で歩かせた。しかしノーヒットノーラン試合は進行中で崩れていない。 「ところが安仁屋もよくて0対0なんですよ。ぴーんと緊張しましたね。ノーヒットノーラン試合と勝負を賭けているんですから」(平松政次)  平松は八回も五番・興津立雄一塁手、六番・上垣内誠右翼手、七番・井上弘昭三塁手をぴたり抑え、いよいよ九回に移った。 「この回を無安打に抑え、九回裏に味方が得点してくれたら、おれはノーヒットノーラン試合と勝ち投手の両手に花だ」  そう思うと、平松は心臓がとび出すほど体がふるえてくるのだ。九回無死、八番・田中尊捕手が右打席に入ると、大橋がすっとんできた。 「平松、緊張するな、油断するな」  平松は田中を三振にとった。次は九番安仁屋である。私が書きたいのは、安仁屋の顔を見た瞬間における、平松の微妙な心理なのだ。あと2人だという気持ちの中に、ちらりと安仁屋なら打たれないという、なめてかかった落とし穴に、落ち込んでいた。  平松は初球、ど真ん中に速球を投げた。安仁屋は打った。  打球はどん詰まりの飛球となって関根知雄二塁手と中政幸中堅手の中間地点へ落ちて行く。関根と中がころがるように、あえぐように走って行く。その姿を見て平松はすーっと血の気が引いていくのがわかった。  打球は関根の2メートル後方にポトンと落ちる安打になった。これでノーヒットノーラン試合は夢のように消えた。この時点における安仁屋の打率1割6分1厘である。 「九回は無得点に抑えたんですけれど、安仁屋に打たれたこと、打率1割6分1厘の投手に打たれたこと、それらが重なり合って放心状態でしたねえ」(平松政次)  九回裏、大洋も無得点で試合は0対0のまま延長戦になった。  延長10回表、広島は三番・山本から始まる。初球、カーブでストライク、2球目、内角のシュートで勝負に行った。山本はそれを左翼席中段に14号本塁打した。  男の運命なんてわからない。  わずか10数分前までは「ノーヒットノーラン試合と勝ち投手の両手に花だ」と心臓もとび出すほどの思いだったのに、それがどうなのか。  ノーヒットノーラン試合はつぶれ、それどころか、スコアは1対0、このままいけば負け投手となってしまう。  平松は怒りとも、泣きたい気持ちとも、なんとも整理のつかないうちに10回を投げ終えた。その裏、大洋は無得点だから、平松は被安打2本の負け投手となった。 「誰をうらむこともできないんですよ。安仁屋を甘くみてノーヒットノーラン試合を崩され、それにがっくりきて山本浩二に決勝ホームランされたんですから。  でも、その晩思ったんですよ。おれはまだプロ4年生だ。こんどノーヒットノーラン試合のチャンスがあったら、そのときこそ逃がすものか——と。でも世の中はそう甘くありませんねえ。いまプロ16年生ですが、いまだに完全試合はおろか、ノーヒットノーラン試合もやっていませんよ」(平松政次)  人生、チャンスは二度あるとは限らない。たとえ若くても、最初のチャンスはしっかりとつかめと、平松の顔には書いてあった。 [#改ページ]    松岡弘 人生、独りで相撲をとるな  松岡弘投手(倉敷商、ヤクルト)の心を支えているものはなにか。  昭和53年10月22日、後楽園球場で行われた日本シリーズ、ヤクルト対阪急第7戦を取材して、私は息をのむ思いだった。スコアは1対0、ヤクルトがリードのまま迎えた六回裏一死後、四番・大杉勝男一塁手は左翼席本塁打した。すると上田利治監督(阪急)は左翼線審の富沢宏哉に「いまの打球はファウルじゃないか」と抗議した。  この抗議は午後2時54分から4時13分まで、実に1時間19分もつづき、昭和25年以来、29年間におよぶ日本シリーズ騒動史上、もっとも長い抗議になった。  だが私が息をのんだのは、1時間19分の長時間抗議ではない。試合再開後にやってのけた、なんとも鮮やかな松岡のピッチングである。  リードしている投手が、1時間19分じらされれば、だれでもイラだつ。生理的には肩も冷えてくる。じれにじれない方がウソなのだ。それが先発松岡の場合、どうだったのか。  七回表が始まると、七番・中沢伸二捕手の代打・高井保弘を遊ゴロ、八番・大橋穣遊撃手の代打・大熊忠義を三振といったペースで、ぴたりぴたりと料理。ついに投球数136球で完投シャットアウト。ヤクルトを日本一にのしあげた。  くりかえすが、並の男なら1時間19分の間で心理的・生理的に参ってしまう。それなのに松岡は、抗議前と再開後とちっとも変わらないピッチングを見せた。いったい、なにが松岡の心を支えていたのか。 「あの一生忘れられない試合というか、悔しさというか、無念の思いを体験したからですよ。あの塩水を飲んだような思いだけは、これからあとの人生でも忘れられないなあ」(松岡弘)  私が本当に書きたいのも、実はその試合なのである。  昭和47年8月17日、後楽園球場で巨人対ヤクルト23回戦が行われた。先発は当時、プロ5年生松岡と関本四十四投手だった。 「あのころは速球とカーブの二種類しか持っていない。だから、その二種類をどう組み合わせるかの問題なんだけど、スピードはあったなあ。おもしろいほどあった」(松岡弘)  松岡は一回裏、一番・柴田勲中堅手を三ゴロ、二番・土井正三二塁手を遊ゴロ、三番・長島茂雄三塁手を右飛に片づけ、うまくはずみをつけた。  二回裏は四番・王貞治一塁手を中飛、五番・高田繁左翼手を三振、六番・末次利光右翼手も二飛である。松岡をさらに乗せたのが、四回表ヤクルトの攻撃だった。二死後、三塁走者に若松勉左翼手、二塁走者に中村国昭二塁手をおき、六番・ロバーツ一塁手が二塁内野安打して1点。五回表には無死、七番・大矢明彦捕手が中越え三塁打、一番・荒川堯三塁手は四球のあと、二番・東条文博遊撃手の右前安打で2対0とした。  松岡は四回裏まで一人の走者も出していない。五回裏、四番王からの打順のとき、大矢が松岡のところにすっとんできた。 「カーブなし、ストレートだけで勝負しよう。王さんにストレートだけで勝負すれば、ほかの打者は、それだけでふるえ上がるから」  松岡も納得、カウント2─2後の5球目、内角の速球で王を右飛に片づけた。  六回裏も走者を許さない。問題は七回裏、一番柴田から始まる打順だ。それでも松岡は柴田を三振、二番土井を三振、三番長島を三ゴロ。完全試合を進行させた。 「七回が終わって完全試合を本当にやりたいと思いましたね」(松岡弘)  八回裏、四番王を二ゴロ、五番高田を左邪飛、二死となった。打席に六番・槌田誠右翼手が入った。この日、末次は第1打席で二飛、第2打席で三振だったので、六回表の守備から槌田に交代していた。先発メンバーの末次と控えの槌田では、松岡の受ける圧迫感が違う。本音を吐くと、槌田の顔を見たとき、松岡はホッとした。それまで張りつめていた松岡の心がゆれ動いた。 「あと4人だ、あと4人で夢にまで見た完全試合だ」という心臓もとび出すような感動、そしてその裏側にチラリと「槌田なら怖くない。槌田なら完全試合は崩れない」という、槌田をなめた気持ちも働く。私が人間の心はあのムカデの足より微妙で、不思議にゆれ動くと書いたのは、このあたりである。  松岡は、槌田に対して初球ボール、2球目ボール、3球目ファウルのあと、4球目、内角の速球で勝負した。槌田は叩いた。「カーン」という音ではなく、「グシャッ」という、トマトのつぶれたような音がした。打球はどん詰まりの打球となって、山下慶徳中堅手、中村国昭二塁手の中間地点にとんでいく。山下と中村があえぐように、つんのめるように追ったが間に合わない。ポトンと落ちる安打になった。  投球数98球目に完全試合は崩れた。松岡は胃袋のあたりから、血の気が去っていくのがわかった。七番・上田武司遊撃手の初球、カーブを投げた。それを左翼席中段に2点同点本塁打された。  もう一度書く。松岡は投球数98球目で完全試合が崩れ、投球数99球目で2対2の同点にされた。なにが原因で打たれたのか。理由はちゃーんとわかっている。槌田の顔を見たとき「あと4人だ。槌田なら打たれない」と、ムカデの足のように、松岡の心がゆれ動いたからだ。  さて、松岡をめぐる話はこれで終わっていない。九回無死、九番・菅原勝矢投手の代打・滝安治に右中間三塁打を打たれた。それから柴田に1─2後の4球目、サヨナラ中犠飛を打たれ、2対3で負けた。  男の運命なんてわからない。投球数97球までは完全試合進行中だった。それが投球数107球を投げ終わってみると完全試合どころの騒ぎではない。なんと負け投手なのだ。10球で天国から地獄へ落ちた。 「当時はプロ5年生で夢中だったなあ。あの試合は10年すぎたいまでも夢に見ますよ。人間、一段階ランクを下げて勝負するという大切さを、あの試合で教えられましたね。完全試合進行中だったら、なにがなんでも完全試合というのではなく、無安打無得点試合でいいじゃないか。無安打無得点試合を進行中だったら、完投勝ち投手でたくさんだという、欲をかかない精神です。この精神さえ持っていたら、独り相撲をとらなくてすみますもの」(松岡弘)  松岡はいま完全試合も無安打無得点試合もやっていない。でも、この試合のおかげで、それからの人生は独り相撲をとらなくなった。 [#改ページ]       打の巻

   
門田博光 プ口に“予定原稿”はない 「プロフェッショナルに“予定原稿”はない」  門田博光外野手(天理高、南海)は、プロ13年間でたった一度だけ“予定原稿”を書き、プロフェッショナルの恐ろしさに脂汗をかくのである。  昭和46年10月6日、東京球場でロッテ対南海最終戦が行われ、延長十三回、6対5で南海が勝った。この試合で門田は6打数3安打2打点を記録、とくに打点部門では120点でトップを走っている。  さて試合開始が午後2時、そして延長十三回の試合時間3時間24分だから、門田の前に某民放ラジオ局アナウンサーが現れたのは、午後5時30分前後と見ていい。門田とアナウンサーとの会話を再現してみるとこうなる。 「門田さん、打点王をとった感想をしゃべってください。録音を取りたいんです」 「打点王といったって、阪急の試合がこれからあるじゃないですか」  同日、平和台球場で午後6時から西鉄対阪急最終戦が残っている。しかも長池徳二右翼手(阪急)は打点114で打点部門第2位。6点差はあるとはいえ、門田は打点王の感想など録音する気分になれない。そこで断った。西鉄対阪急最終戦がすみ、門田対長池の打点王争いの決着がついてからの話にしてくれといっても、アナウンサーは引きさがらない。 「門田さん、6点差ですよ、6点差。まさかでも逆転はない。それにだいいち、野村克也さんでも王貞治さんでも、みんな“予定原稿”は常識ですよ。平和台球場の試合が終わると同時に、とっておいた門田さんの録音を流したいんです」  人のいい門田を口説きに口説く。最後には門田もその気になって、“予定原稿”を書いた——つまりまだ阪急戦が残っているのに、打点王の感想をマイクの前でしゃべった。  ところでこの年、阪急の公式戦優勝はもう決定しているから、問題の西鉄対阪急最終戦はテレビ・ラジオとも放送がない。それなら門田はどうして長池の情報をキャッチしようというのか。  午後6時以後、門田は東京・原宿の宿舎「神宮橋旅館」で待機する。そこへ阪急担当記者が平和台球場から刻々、長池の打席ごとの結果を電話連絡する段どりになっていた。  いよいよ試合が始まった。なにしろ門田は“予定原稿”をしゃべっている。これで長池に逆転されたら、笑い話ではすまされない。プロ野球史上、打点王の話題が出るたびごとに、新聞記者に書かれてしまう。  新聞記者から第1報が入った。 「門田さん大変だ。四番打者の長池がトップ打者に入っている、打席数をふやすためだ。ひょっとすると、ひょっとするよ」  門田は心臓がとび出すほどおどろいた。電話連絡は刻々入る。 〈第1打席=三塁フライ〉 〈第2打席=遊撃内野安打、打点なし〉 〈第3打席=三塁ゴロ併殺〉 〈第4打席=三塁ゴロ〉 〈第5打席=一塁フライ〉  それはそれでいいのだが、試合そのものは6対6の同点のまま延長戦に移っていった。  阪急は延長十一回表、代打当銀秀崇が高木喬一塁手のトンネルで出塁。一死後、七番・岡田幸喜捕手、八番・平林二郎二塁手が連続四球。さらに、ここで登場した東尾修投手(現西武)からも九番・井上修遊撃手が選んで押し出し1点。なお一死満塁の場面に、打順は一番長池に回ってきた。 「門田さん、ちょっとややこしくなりましたよ。一死満塁で長池ですから、一発ホームランで打点4。その差2点ですわ」  門田は顔色の変わるのがわかった。長池の満塁本塁打のあと、西鉄も十一回裏4点を入れ、同点にすればまた長池に打席が回ってくるかもしれない。そうなったら、2打点差なんか問題にならない。受話器の向こうで新聞記者が実況放送してくれた。 「あっ、長池打った。凄いレフトライナー。レフト東田正義、とったあ。三塁ランナー岡田、タッチアップ。東田、バックホーム。あっ、タッチアウト、ダブルプレー」  気がついたら長池は0打点、試合は7対6で阪急が勝った。しかし門田は体中、冷たい脂汗をかいていた。  以来、門田はどんなに口説かれても、二度と“予定原稿”はしゃべっていない。 [#改ページ]    谷沢健一 心の師匠をもつことの強さ 「谷沢健一一塁手(早大・中日)の本当の相手は、張本勲左翼手(当時巨人)ではなく、実は王貞治一塁手(巨人、現監督)だった」という話を書く。  昭和51年10月19日、ナゴヤ球場で中日対広島25回戦が行われた。この試合の始まる時点で、谷沢の打率3割5分2厘。またすでに全日程を消化している張本は打率3割5分4厘7毛で首位打者だった。  谷沢と張本の関係をもっと詳しく書くとこうなる。  もし谷沢がこの試合で4打数3安打すると、打率3割5分4厘8毛、張本の3割5分4厘7毛を1毛上回って逆転、首位打者になる。要するに谷沢と張本は、金と栄光と生活を賭けて“1毛差”の勝負をしている。  それなのに谷沢の本当の敵は、なぜ張本ではなくて王なのか。話をそのあたりに移してみたい。  谷沢と張本が勝負する1年前の昭和50年8月28日、後楽園球場で巨人対中日21回戦が行われ、5対2で巨人が勝った。勝ち投手小川邦和、負け投手佐藤政夫(現大洋)である。  さて、試合終了が午後9時4分、いったん宿舎にもどった谷沢と徳武定之打撃コーチ(現ロッテ)と後楽園球場から直接やってきた王の三人は、東京・銀座のステーキ料理店で落ち合った。徳武は早実時代、王の2年先輩だから、よく会って食事をする。この夜、徳武は谷沢を連れて王の前に現れたのである。  三人の話は当然、打撃論に移る。徳武もそれが目的で、谷沢を連れてきた。いま王と谷沢の会話を再現してみるとこうなる。  王「きょうの谷沢は安打がなかったな」  谷沢「第1打席から四球、左犠飛、中飛、死球、二ゴロ。いいところありませんでした」  王「私は安打が出なかった結果をいうのではない。ただキミの打撃には不満がある。それは志の低い打撃ということだ」  谷沢「志の低い打撃とは、王さん、どういう意味ですか」  王「谷沢、キミはおれを目標にしたことがあるかね。王貞治を抜こうという目標、志を立てたことがあるかね」  谷沢「ありません。初めから無理ですから——」  王「それを志が低いという。今夜のバッティングにそれが現れていた。ただ結果として安打を狙う。こんな次元の低い打撃では、谷沢健一の名が泣くなあ」  谷沢「王さん、次元の高い打撃、志の高い打撃ってなんですか」  王「おれを追い抜こうとする打撃だな」  谷沢「それは無理です」  王「無理かどうか、あしたを出発点にしてシーズン終了まで、おれと勝負してみようよ」  この夜、谷沢はプロ6年目で打撃に次元があり、志の高い打撃、志の低い打撃があるのを初めて知った。  王にいわれてみれば、打席内でただ安打を欲しがる自分だった。納得のいく人物を目標にしようとか、納得のいくフォームでスイングしようとか、いうのではない。ただ結果として高打率が欲しかった。  この時点の谷沢の打撃は2割8分9厘だった。そういう谷沢を王は見抜いていたのである。  くりかえすが、志の高い打撃とは、王貞治を目標に王貞治を追い抜こうという精神の打撃である。志の低い打撃とは、安打が出れば満足する打撃を指す。  王の話を聞いた谷沢は、これが精神的打撃の極意かと思った。  その翌日から谷沢は、王を目標にしはじめた。どれだけ王が高い目標だろうと、同じ人間じゃないかと、自分で自分にいいきかせたのだ。  昭和50年が終わってみて、谷沢は腰を抜かした。あの銀座でステーキを食べた翌日から、シーズン終了までを計算すると、 〈王=35試合、114打数26安打、打率2割2分8厘〉 〈谷沢=33試合、123打数38安打、打率3割8厘〉  谷沢は心の中にいつも王をおき王と格闘しながら33試合をすごし、打率で王に勝ったのである。この年、谷沢は最終的に打率2割9分4厘を残し、打撃ベスト10の6位になった。 「翌51年に首位打者を賭けた大勝負をするわけですが、王さんと食事した夜というか、食事をした当日の試合が、なんだか私の運命を握ってたような気がしますね」(谷沢健一)  昭和51年10月19日、ナゴヤ球場で運命の中日対広島25回戦が行われた。  その前夜、谷沢はいったい、なにをしたのか。冷や汗を流しながらバットの素振りをしたのか。それとも名古屋市名東区猪高町の自宅で敏子夫人、長女順子ちゃん、長男一貴君とショートケーキでも食べていたのか。  そうではない。実は自宅を出て二軍合宿に泊まり込んだ。汗くさいユニホームの中に自分をおかなくては落ち着けない気分だった。そして鈴木孝政投手と午前3時ごろまで酒を飲み、野球人生を語るのである。  さて第1打席、カウント0─1から谷沢は金城基泰投手(のち南海、現巨人)の速球をつまった右前安打。第2打席も1─1後の3球目、金城のシュートを右前安打。これで打率3割5分4厘2毛。張本に5毛差と迫った。  第3打席は2─3後、7球もファウルしたが、14球目、高橋里志投手(現日本ハム)のカーブを見逃し三振した。  だが問題の最終打席、1─1後の3球目、高橋里のフォークボールを中前安打。これで打率3割5分4厘8毛、1毛差で逆転、首位打者になった。  試合が終わった直後、谷沢は涙をぽろぽろ流しながら、バットマンレース史上に残る名語録を吐いた。 「打球が高橋里の肩を越えたら、涙で見えなくなった——」  ところで、私はいま谷沢と張本をめぐる“毛単位”の首位打者争いの話を書いている。だから、谷沢は第1打席から第4打席にいたるまで、つねに頭の中に張本勲がいたと思う。  もっと大胆にいえば、金城や高橋里と勝負しているのではなく、張本と勝負していたのではなかったか。 「張本さんとも勝負していました。でも、それ以上に王貞治さんと勝負していたように思いますね」(谷沢健一)  張本も打撃の天才、“安打製造機”といわれた。だが、谷沢は張本と1毛差でせり合っていても、心の中では王を追っていた。谷沢にとって王こそは、心の師匠といえるのかも知れない。 [#改ページ]    石毛宏典 勝負の怖さを知った男  いきなり金の話から書く。石毛宏典遊撃手(駒大、西武)は契約金8000万円、年俸800万円で入団した。それが2年目の年俸となると、850万円アップの1650万円。現在の“プロ野球年俸順位番付”から推定すると、50─55位にランクされる。  あの原辰徳三塁手(巨人)でさえ、年俸1440万円で73─77位である。なぜ、石毛は850万円もアップしたのか。それは新入王と同時に、次の記録を見れば納得がいく。 〈試合数121、打数409、安打127、打率3割1分0厘5毛、本塁打21、打点55、盗塁成功25、盗塁失敗9、盗塁成功率73・5%、犠打39、四球44、三振96、併殺打5〉  同じ新人王でも長島茂雄三塁手(巨人)の打撃は3割5厘であった。それならなぜ、石毛はこれほど打てたのか。私は“開幕日”だったと思う。  昭和56年4月4日、つまり開幕日である。川崎球場でロッテ対西武1回戦が行われた。開幕日だから、東尾修投手(西武)と村田兆治投手(ロッテ)の両エースが登板した。  いまから24年前の昭和33年4月5日の開幕日、後楽園球場で行われた巨人対国鉄1回戦では、新人長島が金田正一投手(当時国鉄)から4打席4三振したが、石毛はどうだったのか。 “時速145キロ男”村田の速球、フォークボールにふるえ上がったのか。とんでもない。三振どころか、石毛は村田を打ちに打った。 「第1打席中前安打、第2打席右前安打、第3打席右翼席本塁打、第4打席二ゴロ」  要するに、村田から4打数3安打、1本塁打である。  ここでプロ野球史上、大物新人たちのデビュー打席を伝えると、  ▽29年=野村克也捕手(峰山高、当時南海)三振。  ▽34年=張本勲右翼手(浪商、当時東映)三振。  ▽同=江藤慎一左翼手(熊本商、当時中日)一飛。  ▽41年=長池徳二右翼手(法大、阪急)右飛。  ▽44年=田淵幸一捕手(法大、当時阪神)三振。  ▽45年=谷沢健一一塁手(早大、中日)中前安打。  ▽46年=荒川堯三塁手(早大、ヤクルト)三振。  いかに石毛がエース村田から記録した中前安打が、びっくりするものかわかると思う。  さて私は1月中旬、西武所沢球場で自主トレーニング中の石毛を訪ね、本書のための取材をした。 「あなたが昨年を振り返って、この人物こそ本当のプロフェッショナルだったなあ、この投手こそ最高に恐ろしい男だったなあ、この1試合こそ忘れられないというものがありましたか」  私のこの質問が終わると、石毛はポンと答えた。質問から回答までに2秒と間隔がない。そのことはいつも石毛の頭の片隅に、その人物が住みついていたという証明ではないのか。  私は石毛の回答を聞いて腰を抜かした。 「いま思い出しても、ぞっとするような、最高のプロフェッショナル投手は、ロッテの村田兆治さんですね」  くりかえすが、石毛は村田を相手に開幕日、3打席連続安打している。ぞっとするどころか、好きな男ではないのか。それなのになぜ、石毛は村田を怖がるのか。 「夜、ふとんに入って、平和台での対ロッテ戦(9月27日、12回戦)を思い出すと、いまでも体がぶるぶるふるえますね。あのときの村田さんは人間じゃない、鬼だと思いましたね」(石毛宏典)  石毛の話を取材したあと、開幕日から問題のロッテ対西武12回戦の試合前までにおける“石毛対村田”の勝負を調査してみた。 〈中前安打、右前安打、右本塁打、二ゴロ、左前安打、遊ゴロ、一邪飛、中前安打、三振、四球、四球、投ゴロ、二飛、三振〉  この勝負は14打席のうち12打数5安打、打率4割1分7厘、出塁率5割。だれが判断したって石毛の勝ちである。それがたった平和台の1試合で、石毛がふるえ上がってしまった。  いったい、この試合でなにが起きたのか——。  男が本当にふるえ上がるというのは、どういう場面なのか。それを石毛が教えてくれた。  昨年9月27日、平和台球場でロッテ対西武12回戦が行われた。参考資料として、この試合の背景を伝えよう。  日本ハムの優勝はすでに決定している。それなら、この時点で3位ロッテと4位西武の消化試合なのか。とんでもない。この試合を日本中のファンが見つめていた。石毛と落合博満二塁手(ロッテ)の首位打者あらそいがかかっていたからである。  この試合の始まる時点で、首位打者落合は「試合数124、打数415、安打136、打率3割2分8厘」だったのに対して、打撃2位の石毛は「試合数116、打数389、安打125、打率3割2分1厘」である。  しかし、もし落合がこの試合で4打数ノーヒットなら、打率3割2分4厘5毛に落ちる。逆に石毛が4打数3安打なら、打率3割2分5厘6毛で逆転首位打者になってしまう。ロッテは残り3試合、西武は残り5試合だから、石毛も落合も首位打者争いに体を張っていた。  さて、先発投手が発表されると石毛は腹の中で“しめた”と思った。 「うまくいったら、この試合で逆転首位打者になれるかな」  石毛はそんな思いで第1打席に立った。それが2分後、真っ青な顔で三塁側ダグアウトにもどってきた。  初球、速球を空振り▽2球目、速球をファウル▽3球目、フォークボールを空振り三振。つまり3球三振なのだ。  この日、村田は目がすわっていた。 「石毛に打たれたら、同僚でもあり、後輩でもある落合の首位打者はなくなる。なんとしても落合に首位打者のタイトルをとらせたい」  そういう気持ちから、速球はより重く、フォークボールは音をたてて落ちるようだった。  第2打席、こんどは石毛の目がすわっていた。 「初球、速球ボール▽2球目、速球空振り▽3球目、速球見逃しストライク▽4球目、フォークボールをファウル▽5球目、速球見逃し三振」  これで2打席連続三振である。  第3打席、石毛はバットを代えた。935グラムを942グラムと7グラム重くし、それを短く握った。重いバットで叩きつけてみようと思った。 「初球、速球見逃しストライク▽2球目、速球ボール▽3球目、速球ボール▽4球目、速球空振り▽5球目、フォークボールをファウル▽6球目、速球を捕邪飛」  2打席連続三振の次は捕邪飛である。第4打席、もう一度重いバットで打った。 「初球、速球ボール▽2球目、速球ボール▽3球目、速球空振り▽4球目、フォークボール見逃しストライク▽5球目、速球を左飛」  第5打席は一番ひどかった。 「初球、速球ボール▽2球目、速球ボール▽3球目、速球見逃しストライク▽4球目、フォークボールを見逃しストライク▽5球目、速球ボール▽6球目、フォークボールを見逃し三振」  なんのことはない。5打席のうち3三振、捕邪飛、左飛。投球数25球のうち、見逃しストライク7球、空振り5球、ファウル3球、ボール8球。まともにフェア圏内にとんだのは1本しかない。 「たとえ同僚のとはいえ、タイトルがかかると、ガラリと変わる。これがプロフェッショナルというものか」  試合が終わると、石毛はガツンと胸にこたえるものがあった。そしてこうも思うのだ。 「カネがかかってないところで打ち、カネがかかっているところで三振するオレは、村田さんから見れば大アマちゃんよ」  最終的に、落合は打率3割2分6厘で首位打者、石毛は3割1分0厘5毛で7位になった。 [#改ページ]    掛布雅之 一瞬の迷いがツキを見放す  人間、運命を賭けるような大仕事とぶつかったとき、心と体はどういう状態がベストなのか。  乗りに乗って突っ走ったらいいのか。それとも薄氷の張った池を渡るように、より慎重になった方がいいのか。それを掛布雅之三塁手(習志野高、阪神)が私たちに教えてくれる。  さて掛布が最初、乗り始めたのは昭和56年7月25日、甲子園球場で行われたオールスター第1戦だった。三回裏二死後、三塁走者・若菜嘉晴捕手(阪神、現大洋)、二塁走者・田尾安志右翼手(中日)をおき、掛布は山田久志投手(阪急)から中前安打、2打点をかせいだ。  くりかえすが、人間なんて不思議なものだ。掛布はこの中前安打で腰を抜かすほど乗りに乗った。六回にも遊撃内野安打して、この日は4打数2安打、2打点を記録。そして翌26日、問題の横浜球場でのオールスター第2戦を迎えた。  九回裏無死、掛布が第4打席に立ったとき、スコアは3対1、全パがリードしていた。全パはこの九回から江夏豊投手が登場したから、2万9573人の観客の大部分は、全パがこのまま逃げ切るだろうと思った。  だが、掛布は1─2後の4球目、江夏の速球を右翼席本塁打して3対2。このあと四番・山本浩二中堅手(広島)も中堅本塁打して同点、延長戦に入った。  何度でも書くが、掛布は乗っている。掛布自身も「いま、おれは乗りに乗っている。何も考えず、脇見もしないで走りに走れ」と自分で自分にいい聞かせた。  延長十回二死後、一番・原辰徳三塁手(巨人)が三塁内野安打、二番・山下大輔遊撃手(大洋)も左前安打、ここで三番掛布に打順が回ってきた。掛布はまた、自分で自分にいって聞かせるのである。 「二死後から連続安打が出たあと、おれに打席が回ってくるなんて、ツキまくっている証拠だ。何も考えるな、押して押して押しまくれ」  カウント1─0後の2球目、柳田豊投手(近鉄)は内角に速球を投げてきた。掛布が叩くと右翼席サヨナラ3点本塁打になった。  プロ入団以来8年間、掛布は公式戦でただの一度もサヨナラ本塁打を打っていない。それがオールスター戦でとび出した。当然、最優秀選手賞は掛布で「ニッサンレパード280XSF─L」をもらった。  28日、神宮球場でのオールスター第3戦当日、なお掛布は自分の胸に何度もいうのである。 「乗っている間は自分からおりるな。走れ走れ、押しに押しまくるのだ」  掛布は六回裏、一塁走者若菜をおき、またまた松沼弟投手(西武)から左翼席本塁打。しかも試合が終わってみたら4打数2安打、2打点。3試合の通算記録は「13打数6安打、打率4割6分2厘、本塁打3、打点8」を記録。とくに打点8は昭和26年以来、31回におよぶオールスター戦史上、新記録になった。  掛布はオールスター戦が終わった夜、改めて感動がよぎるのだ。 「人間、乗るときに乗り切れないような人間じゃあ、一流になれないんだなあ。なにも考えずに乗れてよかった」  波に乗るほど恐ろしいものはない。オールスター戦でツキまくった掛布は、その反動がくるどころか、そのすぐあとの対大洋、対中日戦で、あっと声をあげるような記録を残した。「10打数連続安打」という日本タイ記録がそれだ。  オールスター戦から8日目の8月5日、横浜球場で大洋対阪神17回戦が行われた。掛布の第1打席はカウント2─2後、投ゴロだったが、第2打席は0─1後の2球目、平松政次投手から左前安打した。なんとこれが“10打数連続安打・日本タイ記録”の最初の打席になった。  第3打席は初球、同じ平松から右前安打。第4打席もまた平松から1─1後の3球目、中前安打した。これで3打数連続安打である。  翌6日、同球場で対大洋18回戦が行われた。掛布は第1打席で1─1後の3球目、前泊哲明投手から中前安打。第2打席も前泊から1─3後の5球目を右前安打。これで5打席連続安打である。第3打席は竹内宏彰投手から四球。第4打席も斎藤明夫投手から四球。そして第5打席は、同じ斎藤明から1─3後の5球目を右中間本塁打した。  ダイヤモンドを走りながら、掛布はもう一度オールスター戦を思い出していた。 「いまのおれは、12球団全選手のうち最高に乗っている。いまは理屈をいう前に黙って走ればいい」  第6打席は藤岡貞明投手から1─2後の4球目を左前安打。これで2四球をはさみ7打数連続安打となった。 「10打数連続安打」がどれほど大変な仕事かは、次の記録を見ればわかる。  プロ野球が創設されたのは昭和11年、あの“雪の2・26事件”の起きた年だ。以来46年の歳月が流れている。この間、約4000人以上のプロ野球選手が登録されているが、10打数連続安打をやってのけたのは、昭和29年の坂本文次郎三塁手(当時大映)と、53年のマニエル右翼手(当時ヤクルト)の二人しかいない。  ところで、掛布のツキはまだつづく。翌7日、ナゴヤ球場で中日対阪神17回戦が行われた。 「なにも考えるな。わき見もするな。黙って乗りに乗れ」  この気持ちにこり固まっている掛布は、第1打席で曽田康二投手から2─3後の6球目、遊撃内野安打した。第2打席も曽田から1─1後の3球目を右翼線二塁打、第3打席もまた曽田から2─2後の5球目、中前安打した。これで“10打数連続安打タイ記録”となった。  そして運命の第4打席は八回表二死後、無走者の場面でやってきた。この打席で安打が出れば、プロ野球46年間、のべ登録選手数4000人をこえるうち、だれもがやれなかった“11打数連続安打”が実現するのである。相手投手は曽田で変わりはない。  そのとき打席に歩く掛布の気持ちに、信じられない変化が起こった。 「それまでの打席は、ただ黙って乗りまくれ、押しまくれの気持ちだったんですね。ところが、日本新記録がかかったこの打席に入る直前、ふっと思ったんです。こんなチャンスはもう二度とこないかも知れない。それなら、このチャンスを生かさなければ損だ。大事にいけ、より慎重に打てよ、という気分に変わっちゃったんです」(掛布雅之)  そういう掛布の心の動きを曽田はわからない。初球、ど真ん中に速球を投げてきた。打たれたら仕方がないという、開き直った精神である。  掛布は見逃した。より慎重にという配慮が、ど真ん中のストレートを見逃させた。  2球目ボール。3球目、内角の速球をファウル。こうして2─1後の4球目、外角のシュートにこわごわバットを出して遊ゴロに終わった。  オールスター戦で打ちまくり、10打数連続安打時点まで、乗りまくっていた掛布が、なぜかんじんカナメの日本新記録打席で用心深さに変化したのか。それは掛布が人間だからと考える以外にはない。 [#改ページ]    落合博満 挫折は男の武器である  私は落合博満二塁手(秋田工、ロッテ)に、本書のねらいを話した。 「あなたの運命を変えた試合とは、どんな試合だったのか。その試合は勝ったのか、負けたのか。プロフェッショナルの底知れない恐ろしさに、ふるえ上がった試合はあるのか、あるいは途方もない奥行きの深さに、腰を抜かした試合はなかったのか——」  私の質問に、落合はなんのためらいもなく、これから書く試合を話してくれた。  それなら落合は、その試合でヒーローになったのか。それとも試合を引っくり返すような、エラーをやったのか。  実はとんでもない。全く何もしていないのである。なぜ、全く何もしていないのに、これが落合の運命を変える試合になったのか。  昭和56年6月24日、川崎球場でロッテ対西武12回戦が行われた。翌25日、同球場でのロッテ対西武13回戦での観客が3000人なのに、この日は1万8000人が川崎球場にやってきた。なぜなのか。答えは簡単である。この日、ロッテが勝てば、ロッテの前期優勝が決定するからだ。  さて、九回表西武の攻撃が終わった時点でスコアは1対1。先発東尾修投手(西武)と、九回から登場した倉持明投手(ロッテ)が投げ合っていた。  ロッテは九回、三番・リー右翼手が投ゴロ、一死後、四番・レオン一塁手が中越え二塁打、五番・有藤道世三塁手は四球で一、二塁と持ち込んだ。ここで打順は六番落合に回ってきた。この日の落合は第1打席右前安打、第2打席中飛、第3打席三邪飛、だんだん東尾と合わなくなってきていた。  しかし落合はウエーティングサークルを出るとき、ぶるぶると体がふるえた。 「おれが安打すれば、サヨナラ勝ちで優勝だ」  こういう場面で体がふるえ、血が逆流しないような男は、男ではない。  ところで、ウエーティングサークルを出た落合が、打席近くまできたとき、だれかに声をかけられた。 「落合、落合——」  ひょいと振り返った落合は、こんどは血が凍った。バットを持った張本勲外野手が落合に声をかけながら、こちらに歩いてくる。要するに落合の代打張本という意味である。  この打席までの落合は「試合数62、打数197、安打63、打率3割2分0厘」と、打撃ベスト10の5位にいた。 「その男がですよ。優勝がきまるという最終回の、それも一死一、二塁の場面に代打で交代ですわ。あのときの気持ちだけは死ぬまで、忘れられないだろうなあ。山内監督にしてみれば、プロ23年生張本さんの冷静さというか、キャリアを買ったんだろうし、私としては山内監督も張本さんも、だれもうらむ気持ちはないが、なんとも、なんともつらかったなあ」(落合博満)  落合は酒が強い。酒も強いが、気も強い。もうひとつ自尊心も強い。  ある日、酒を飲んで山内監督にいってのけた。 「監督、おれは三冠王をとる」  山内は現役時代、“打撃の職人”といわれ、オールスター戦ではあまり打つので、“賞品ドロボウ”のニックネームまでつけられ、終身打率2割9分5厘(打数7702、安打2271)を残した男だ。その山内監督の前で、まだこの時点では実績のない落合が三冠王宣言するのだから、いい度胸をしている。  そういう落合も、この代打交代は骨身にこたえた。  落合は腹が立って腹が立って、声を出してどなりたい気持ちだった。他人に対して腹を立てているのではない。優勝決定の、しかも1対1で迎えた最終回一死一、二塁の場面、代打に交代させられる自分に腹を立てているのだ。  ところで、監督なんて不思議な商売だ。山内監督は、張本を代打に選びながら、なんと主審中村浩道に交代をなかなか伝達しない。伝達しないから打席近くで、落合と張本が並んで立つようなかっこうになる。  なぜ山内監督は、すぐ代打を主審中村に伝達しないのか。実はマウンドの東尾をイライラさせるためである。30秒、50秒、1分20秒……。東尾が山内謀略にはまって、マウンドからどなった。 「どうせ落合じゃあ、だめなんだろう。早くしろ、早く——」  落合はこの日、東尾に対して第1打席から右前安打、中飛、三邪飛で、だんだんタイミングが合わなくなってきた。  山内監督は東尾がどなるのを見とどけてから、代打張本を伝達した。  さて試合は午後9時11分、二死満塁から八番・高橋博士捕手が、三塁後方へぽとんと落とす安打で、涙のこぼれるような“サヨナラ優勝”をやってのけた。  だが、山内監督の胴上げの輪の中で、落合はさめていた。 「やったあ、やったあ。勝ったあ、勝ったあ」と、わめき、どなりながら、背番号33番山内監督の、腰のあたりを胴上げしていても、頭のどこかがシーンとさめていた。  理由は二つあった。なんとも大事な場面に交代させられたこと、マウンドから東尾にどなられたことが、落合の心を暗くしていた。  落合は胴上げの最中、自分で自分にいいきかせた。 「このままでは男がすたる——。今シーズンは首位打者をとろう。それと、こんど東尾と顔が合ったら、かならず打とう」  それから3カ月すぎた9月7日、西武所沢球場で西武対ロッテ11回戦(後期)が行われた。この試合で東尾が先発してきた。  当日、五番落合は第1打席右飛、そして問題の第2打席を迎えた。カウント1─1後の3球目、東尾はシュートを投げた。落合はこれを左翼席本塁打した。 「ダイヤモンドを走りながら、これが優勝決定の九回に出ていたらなあ、なんて思いましてねえ。でも、おれは打ったぜという実感はありましたね」(落合博満)  話題を落合の首位打者の周辺に移そう。  7月22日、金沢兼六園球場でロッテ対近鉄5回戦(後期)が行われた。落合は第1打席以下、死球、中前安打、中飛、右飛、右翼線二塁打で4打数2安打、打率3割4分0厘を残し、石毛宏典遊撃手(西武)を抜いて首位にとび出した。これで山内監督胴上げのとき、自分で自分にいいきかせた二つの約束ごとを実現したことになる。あとは首位打者を守り切ればいい。  落合はこの首位打者におどり出た日から最終試合までの期間、「試合数46、打数155、安打47、打率3割0分3厘」を残し、1シーズン通算打率3割2分6厘で首位打者になった。  落合が東尾からどなられたときカチンときてどなりかえしていたら、首位打者どころか、次に顔を合わせたとき、本塁打も打てなかったと思う。 [#改ページ]    柏原純一 自分の生きる道を知れ  私は本書取材のために多くの選手をインタビューした。インタビューの最初に、私の狙いというか、取材ポイントを明確に、相手に伝えなければならない。 「あなたがプロ野球で、プロフェッショナルとして野球で飯を食ってきてですね、いままで数多くの試合をやってきたと思いますが、あの1試合があったから、いまの自分がある、あの1試合がなかったら、いまの自分はなかったろう、つまり、あなたの人生観というか、野球観というか、そういうものを変えてしまった1試合です。いいかえればプロフェッショナル集団の底知れない恐ろしさ、そういうものが骨身にしみた1試合という意味です」  私はこういう意味の話を、かんでふくめるように説明する。  それでも、なかにはカン違いをして「一番恐ろしいのは死球ですね」などと返事をする男もいる。  さて、私は柏原純一一塁手(八代東高、日本ハム)をキャンプイン中の沖縄・名護球場で取材した。昼食時間で柏原が、にぎり飯2個とうどんを食べているとき、声をかけた。昼食時間は30分間だから、食べ終わるのを待っているわけにはいかない。  柏原がちょうど、うどんをすすっている最中、私は取材の狙いを話しだした。すると柏原はどんな反応を示したのか。私の説明の途中部分で、うどんをかみかみ、こんな返事をするのである。 「二年前の後期最終戦、つまり昭和55年度の後期最終戦です。あれが私の野球に対する考え方、姿勢というか、取り組み方を変えちゃいましたねえ」  たいていの選手たちは、私の質問を聞いたあと、首をひねったり、うなったりして、苦しそうな表情になる。それから思い当たった運命の1試合をポツリ、ポツリと話しだす。  ところが柏原の場合、口の中にあったうどんを飲み込む前に、うどんをかみかみ、昭和55年度後期最終戦こそ、自分の運命を変えた1試合だという。  頭の片すみどころか、骨のずいまで、この1試合の悔しさ、恐ろしさが、しみついていたと思う。柏原は右手に、のりの巻きついた三角形のおにぎりを持ったまま、こんな言葉も吐いた。 「試合時間もおぼえていますよ。3時間56分でした。試合開始が午後6時半だから、終わったのは10時半ごろですよ。それから11時すぎに後楽園球場を出て、木田勇、高代延博、岡持和彦さんたちと六本木へ行って飲みましたねえ。悔しさをまぎらわすために、飲んで飲んで——。でも、ちっとも酔えなかったですよ。それから夜明け近い午前3時頃、自宅(東京・大田区中馬込2丁目)に帰ってきたんですが、玄関のところで急に自分が情けなくなりまして——。そう思ったとたん、胃袋の中の物を全部吐いちゃいまして。吐いたヘドの中で10分間ぐらい、すわってましたよ」  身長1メートル79、体重80キロの男が自分の吐いたヘドの中に10分間もすわりつづけて泣く。  それはいったい、球団にとっても柏原にとっても、どんな意味を持つ試合だったのか。  昭和55年10月7日、後楽園球場で日本ハム対近鉄13回戦が行われた。書けば30字で終わってしまうこの試合も、日本ハムにとっては、死ぬか生きるかの後期最終戦であった。  日本ハムはこの試合の始まる時点で、「試合数64、33勝24敗7分け、勝率5割7分9厘」。2位ロッテに1・5ゲーム差をつけ首位である。そしてこの対近鉄戦に勝てば後期優勝決定なのだ。もっといえば日本ハム球団創設7年目の初優勝である。  ただし、3位近鉄はこの時点で試合数62、32勝26敗4分け、勝率5割5分2厘。もし近鉄が残り3試合を3連勝してしまえば、勝率5割7分4厘となり近鉄の逆転優勝となる。  だから、日本ハムにとっては理屈もなにもない。なにがなんでも勝たなければ困る最終戦であった。この夜、三番打者柏原はどんなプレーをしたのか。  スコアは4対1、近鉄のリードのまま五回裏、日本ハムの攻撃を迎えた。一番・高代延博遊撃手が二飛のあと、二番・島田誠中堅手が鈴木啓示投手から右中間三塁打。ここで三番柏原に打順が回ってきた。 「外野フライでいい」  日本ハム・ファンは誰でもそう思う。4対1から4対2にしておけば逆転もむずかしくない。  柏原はこの前の打席まで打数500、安打132、打率2割6分4厘、三番打者としては食い足りない。 「でも柏原は打率2割6分4厘でも、打点が95だから、なんとかしてくれるだろう」  ファンばかりではない。日本ハム選手の誰もがそう思った。柏原はこの打席で打ったのか。カウント2─3からの6球目、鈴木の内角カーブを空振り三振した。  試合開始は午後6時30分、試合時間3時間56分、そして午後10時26分、6対5で近鉄が勝った。このあと近鉄は3連勝し、後期逆転優勝をしている。  試合のあと柏原は岡持、高代、木田、島田、加藤俊夫捕手たちと東京・六本木へ飲みに行った。柏原は水割りを飲みながら、悔しさで胸が潰れる思いだった。4月5日の開幕日から死にもの狂いでやってきて、優勝がきまるという最終戦で勝てないのだ。  柏原は私にこんな話をするのである。 「一死走者三塁の場面で三番打者が空振り三振した——あれが勝負の分かれ道だったというのは、みんな知りつくしているんですよ。でも一人として文句をいわない。一人として柏原、お前の責任だとはいわない。みんな触れようとはしないんです。だから、余計つらかったですねえ。お前、なにやっているんだと、どなってくれれば、どんなに気が楽になったかわからないのに——」  同僚が失敗したら冷やかしたり、無視するのはよそう。精いっぱいの心で声をかけてやることだ。文句もいってやることだと私は思った。 「あの試合から一カ月間ぐらい、思い出すのさえゾッとするほど、気持ちが落ち込みましたよ。思い出すのはよそう、よそうと、そればかり考えていました」(柏原純一)  ところが気持ちが落ち着くと、ふっとこんな考え方を持つようになった。 「おれは首位打者になれる男じゃない。といって本塁打王にもなれる男じゃない。おれの生きる道はただひとつ、走者二塁、走者三塁の場面でそれをホームインさせる打者になることだ。これならできる」  前にも書いたが、六本本で飲んだ晩、午前3時頃、自宅にもどってきた柏原は、玄関前でヘドを吐き、そのヘドの中ですわりつづけて泣いた。そういう苦しみの果てに、彼はやっと自分の生きる道をみつけ出した。だから今シーズンの目標は——と私が質問すると、打率、本塁打数には一切触れず、ひとことだけこたえた。 「100打点です」 [#改ページ]    田淵幸一 ケガの功名で極意をつかむ  男のめぐりあわせなんて、不思議なものだと思う。左手首に受けた死球が、なんとそれから21日後、とんでもない日本新記録と結びつくのだから——。  昭和50年5月29日、中日球場(現在はナゴヤ球場)で中日対阪神8回戦が行われた。この日、三番・田淵幸一捕手(法大、当時阪神、のち西武─引退)は当たりに当たっていた。第1打席は左前安打、第2打席は右前安打、第3打席は左飛、第4打席は一ゴロ、そして九回一死後、問題の第5打席を迎えた。  カウント2─2後の5球目、鈴木孝政投手の内角速球を左手首に受けて退場、代走・笹本信二(現巨人)が出た。三塁側ダグアウトへもどってきた田淵はうらめしそうな表情で鈴木を振り返った。 「もし、これからの試合で、この左手首が痛み出したら、どうしてくれるんだよ」そういう顔つきである。  だが人間、冗談にもマネゴトにも、不服そうな顔つきをするものではない。田淵の場合、不服そうな顔つきが、実は本当になったのである。  2日後の31日、甲子園球場で阪神対大洋5回戦が行われた。試合前の打撃練習のとき、初球を三塁ゴロした田淵は、体中が恐ろしさのあまりゾッとした。 「左手首が痛さのため、まるで返らないんです。とても打てる状態ではないので、吉田義男監督に事情を話し、先発メンバーから外してもらったんです。とにかく打撃練習どころか、素振りさえできないんですから」(田淵幸一)  試合は谷村智啓投手(当時阪神、現阪急)と間柴茂有投手(当時大洋、現日本ハム)の先発で始まった。この時点の阪神は5月25日、ヤクルト7回戦に4対4の引き分けのあと、27日からの中日3連戦に11対9、8対1、8対5と3連敗し、全員しおれている。そこへ持ってきて、三番田淵が先発メンバーから外れたので、先取点も簡単に大洋にとられた。  六回表、大洋の攻撃が終わった時点で3対0、大洋が勝っている。それでも阪神は六回裏、二番・佐野仙好三塁手が左翼席本塁打、三番・池辺巌中堅手が左翼線二塁打、二死後、六番・相羽欣厚右翼手が左前安打、3対2と1点差に追い上げた。  さて、阪神の七回裏の攻撃は一死後、九番・安仁屋宗八投手に打順が回ってきた。走者はいない。ここで吉田監督は決断、球審・柏木敏夫に伝達した。 「安仁屋の代打田淵——」  それから田淵をよぶと耳打ちした。 「左手首は痛くて使えない。だから右脇をぴったりと締めて、外角球を右中間に流してみろよ」  初球カーブのストライク、2球目内角低めにストレートのストライク、3球目ボールのあと、間柴は4球目、外角にストレートを投げ込んできた。 「左手首には包帯がぐるぐる巻きしてあるので、バットを握る感覚がいつもと違うんですよね。それに左手首は痛くて返せないから、右腕一本でボールに対して一直線に当てた実感なんです。右腕一本ですから腕力なんていつもと比べると、せいぜい7割ぐらいでしたかねえ」(田淵幸一)  ところで、腕力70%でミートした打球はどうなったのか。45度の上昇角度で舞い上がり、左翼席中段に落ちる同点本塁打になった。 「私は法政時代、22本の本塁打を打ち、あの右腕一本で打った本塁打はプロ入り194本目なんですね。だから法政時代と通算すると216本目になるわけですが、この216本目でなんだか本塁打の極意をつかんだような気分でした」(田淵幸一)  腕力70%こそ本塁打の極意と見つけたり——この心境をつかむまで田淵は法政時代から、なんと216本の本塁打を打ちつづけたのだ。プロフェッショナルへの道とは、なんと遠く、なんと高く、なんとつらいものなのか。  阪神はこのあと一番・中村勝広二塁手、佐野、池辺が3連安打して4対3と逆転、3連敗でストップした。  ところで216本目の本塁打で極意をつかんだ田淵、それから19日後にその極意を生かし、王貞治一塁手(巨人)も真っ青という、本塁打をめぐる日本新記録をやってのけた。  昭和50年6月19日、中日球場で中日対阪神13回戦が行われた。田淵幸一捕手は、試合前から顔がひきつっていた。それにはちゃーんとした理由があった。もし、この試合で田淵が23号本塁打を打てば、昭和44年4月13日、甲子園球場での阪神対大洋3回戦の六回、池田重喜投手から第1号本塁打を打って以来、なんと通算200号本塁打になる。  だが、田淵が顔をひきつらしているのは、200号という区切りのいい数字ばかりではない。実は「200号達成プロ野球最短試合、最短打数」という記録がかかっていたからだ。  あの王でさえ、200号達成までに「870試合、2799打数」という時間をかけている。それなのに田淵がもし、この試合の第1打席で打ってしまえば、「714試合、2391打数」となり、王よりも156試合、408打数も速くやってのけた話になる。 「あの雲の上の王さんよりも、156試合、408打数も急ピッチなのか」  そう思っただけで、田淵は顔がひきつり体がふるえてくるのだ。  さて試合が始まった。四番田淵は第1打席、カウント2─1後の4球目、松本幸行投手のカーブを空振り三振、第2打席も2─3後の6球目、松本からまたカーブを空振り三振した。そして問題の七回表無死、第3打席が回ってきた。 「打席に入る前、ふっと思い出したんですよ。あの“デッドボール代打ホームラン”を——。あれでいかなくてはと思いましてねえ」(田淵幸一) 「バットを構えた位置からミートポイントまで、最短距離に、最少時間に——」  田淵はそれだけ考えて、松本の投球を待った。カウント2─2後の5球目、外角のカーブがきた。田淵のバットがすーっと動いた。打球はローン中堅手をはるかに越え、バックスクリーン左へ23号、通算200号本塁打した。同じ200号達成でも、王よりも406打数早く、試合数でもそれまでの200号スピード王、長池徳二右翼手(阪急)の797試合を83試合も抜いていた。  人間、死球までうまく取り入れてしまえば、幸せが待っているものである。 [#改ページ]    福本豊 “会話なき恩師”との出会い  昭和47年12月下旬のある日、福本豊中堅手(大鉄高、阪急)は数十枚の年賀状を書いた。その中にたった1枚だけ、他球団の現役選手の名前があった。広瀬叔功中堅手(南海)あてがそれである。  なぜ、福本はこの47年12月から広瀬に年賀状を書き始めたのか。そのあたりを順を追って書いてみよう。  福本が大鉄高3年生のとき、2年生に高橋二三男左翼手(のち西鉄)がいた。高橋は身長1メートル68、体重66キロ、なにからなにまでぴたり福本と同じの左打者。おまけに100メートル競走させたら、勝っても負けても福本とは胸ひとつの差しかない。  そこで監督は弱った。福本と高橋、どちらをトップ打者にしていいか見当がつかない。しかし、できることなら2年生高橋をトップ打者、3年生福本を三番打者にしたいと考えていた。 「大鉄高時代から広瀬さんにあこがれてましてね。広瀬さんのようにトップ打者になって盗塁したいというのが夢でした。だからトップ打者にしてくれなかったら、野球部やめるといいまして。監督も参ったんでしょうね。私をトップ、高橋を三番にしました。もし私が大鉄高時代に三番打者だったら、打撃ばかりを考えて盗塁に対する姿勢、とらえ方もいまと違ってたと思いますよ」(福本豊)  つまり福本にとっては、広瀬こそは“会話なき恩師”といってよかった。  だが男の運命なんてわからないものだ。めぐりめぐって“会話なき恩師”の方から、話しかけてくるめぐり合わせになった。  昭和46年5月20日、西宮球場で阪急対南海7回戦が行われた。先発は山田久志投手(阪急)と三浦清弘投手(南海)である。そして両チームのトップ打者は福本と広瀬だった。  福本は一回裏、左前安打すると二番・阪本敏三遊撃手の2球目に盗塁した。そして阪本の右前安打でホームインした。そればかりではない。六回裏一死後、高橋里志投手から四球で歩くと、阪本の初球に二盗、2球目、三盗に成功した。  試合は7対3で阪急が勝ち、福本は3打数1安打、2四球、2得点、3盗塁。酒に酔ったような気分で通路へ引きあげ、ひょいと通路の向こうを見ると、いままで勝負をしていた広瀬が手招きをしている。  福本は何げなくそばへ歩いて行った。そしてここで聞いた広瀬の話が、福本にとっては一生忘れられないものになった。  その広瀬と福本の会話を再現してみるとこうなる。  広瀬「福本君、いまキミの3盗塁を見せてもらったよ。走力、スライディングとも、盗塁王にふさわしい見事なものだった」(昭和45年、福本は盗塁75個で初めて盗塁王になっている)  福本「ありがとうございます」  広瀬「ところでなあ福本君。キミは日本のタイ・カップ(デトロイト・タイガース、大リーグ生活24年間で通算盗塁892個を記録した左翼手。左打者)になる男だと思うから、先輩としてちょっとアドバイスをしておくよ」  福本「はい」  広瀬「うちの監督(野村克也捕手)は、とくに強肩というほどではない。そのうえ三浦も高橋里も走者のけん制があまりうまくない。しかも投球動作が大きい。さっきのキミを見ていると、楽なスタートで盗塁を成功させていた」  福本「——─」  広瀬「だけどなあ、福本君。きょうの盗塁で満足していてはダメだよ。もっとはっきりいえば、きょうのスタートでは、巨人が相手のときは盗塁できないよ。もう1メートル、リードを大きくとらなければ——」  広瀬のしゃべった時間は、ほんの30秒か40秒である。しかし、いうだけいうと、あとも振り返らずに、さっさと消えた。残された福本の胸に、湯のように熱いものがこみ上げてきた。  広瀬といえば、昭和36年から連続5年間、盗塁王をやってのけた“盗塁の神様”である。その神様がわざわざ時間をさいて話してくれるのだ。福本は広瀬の背中に両手を合わせたい気持ちになった。  だが、それから5カ月後、福本は本当に巨人を相手に冷たい脂汗をかくのである。  昭和46年10月15日、後楽園球場で巨人─阪急の日本シリーズ第3戦が行われた。1対0とリードされていた巨人が、最終回二死後、三塁走者に柴田勲中堅手、一塁走者に長島茂雄三塁手をおき、四番・王貞治一塁手がカウント1─1後の3球目、山田久志投手の速球を右翼席に“逆転・サヨナラ本塁打”した、あのドラマチックな試合である。  さて試合を離れ、話題を福本にしぼってみよう。  阪急は五回表、八番・岡村幸治捕手が捕飛、九番山田が三振のあと、一番福本が四球で歩いた。だれが見たって盗塁する場面である。  巨人のバッテリーは関本四十四投手─森昌彦捕手だ。福本は二番・阪本敏三遊撃手の2球目にスタートしたが、土井正三二塁手にタッチされてアウト。その瞬間、福本は5カ月前の広瀬の言葉を思い出し、「やっぱりなあ」と、こみあげてくるものがあった。 「キミは日本プロ球界のタイ・カップになる男だ。そのためには、もっとリードを工夫しなければダメだよ。いまのリードとスタートで南海から3盗塁できても、相手が巨人だと勝手は違うよ」  この話を聞いたとき、福本はピンとこなかった。もっと本音を吐くと、相手が巨人でもどこでも、おれは走ってみせるという、甘くみたところがあった。  しかし本番で巨人と勝負してみて、福本は冷たい脂汗を流した。だいいち、投手にクセを盗むスキがない。森の二塁送球はコントロールがいい。 「この巨人から盗塁するにはリードとスタートを研究する以外ないと、広瀬さんにいわれた言葉が実感としてわかりましてね」(福本豊)  そう思った福本は日本シリーズが終わってから、どういう行動をとったのか。大阪市内にあるトレーニングセンターで水泳をやり始めた。筋力強化のためである。とくに瞬発的なスピードをつけるため、板につかまり、バタ足3000メートルを毎日くりかえした。  それから投手に一塁けん制球を投げられたとき、すばやく一塁にもどるため、サイド・ステップもやり始めた。 「最初は20秒間にサイド・ステップが36回しかできなかったのに、最後は47回までできました」(福本豊)  こういう筋力強化が、福本の盗塁とどのように結びついたというのか。  福本は翌47年、なんと走りに走って106個の盗塁世界記録をやってのけ“世界の怪盗”というニックネームまでつけられた。これは1962年(昭和37年)モーリー・ウィルス二塁手(ドジャース)がつくった、当時の大リーグ盗塁記録104個を破るものだった。  福本は大鉄高3年生のとき、当時、2年生高橋二三男左翼手とトップ打者争いをした。このときから福本は広瀬叔功にあこがれていたため、「トップ打者をやれないくらいなら野球部をやめる」といいだし、一番福本、三番高橋の打順がきまった。  もし大鉄高時代、福本が三番打者だったら、盗塁への執着というか、取り組み方もまた、いまと違ったものになったのではないか。  それやこれやで、昭和47年12月下旬のある日、福本は広瀬に心をこめて年賀状を書いた。福本が他球団現役選手に年賀状を出したのは、あとにも先にも、この広瀬ひとりしかいない。 [#改ページ]    淡口憲治 仕事ができねばメシ食えぬ  長島茂雄三塁手(巨人)をめぐる“空振り三振・初打席”は、あまりにも有名である。  相手はもちろん金田正一投手(当時国鉄)である。だが、一流打者のプロ初打席を調査してみると、意外なほど涙を流しているケースが多い。たとえば、こんな状況だ。  ▽昭和29年=野村克也捕手(当時南海)空振り三振。  ▽同34年=江藤慎一左翼手(当時中日)一飛。  ▽同34年=張本勲右翼手(当時東映)見逃し三振。  ▽同41年=長池徳二右翼手(阪急)右飛。  ▽同44年=田淵幸一捕手(当時阪神)空振り三振。  ▽同45年=谷沢健一一塁手(中日)中前安打。  ▽同46年=荒川堯三塁手(ヤクルト)空振り三振。  これは余談だが、長島が金田から“デビュー・4打席4三振”を食ったのは昭和33年4月5日、後楽園球場での巨人対国鉄1回戦である。ちょうど桜の季節だった。しかし長島はこのデビュー・4打席4三振を境にして、桜の花がきらいになったそうだ。 「プロ野球選手が、桜の花のようにあんなに見事に散っては(三振しては)飯が食っていけるか」という話である。  長島は桜がきらいになったせいか、金田が昭和39年12月、国鉄から巨人に移籍するまでの7年間、長島対金田の名勝負・名場面における通算成績は「打率3割1分3厘、本塁打18本」という見事な記録を残している。  さて、淡口憲治左翼手(三田学園、巨人)の話を書くのに、なぜ長島の話題を先に持ってきたのか。淡口のプロ初打席は“三振”ではない。ちゃーんとバットをボールに当てている。しかし、その心の底は、桜の花がきらいになった長島と同じように、なんともみじめだった。  昭和46年7月3日、川崎球場で大洋対巨人15回戦が行われた。先発は坂井勝二投手(大洋)と堀内恒夫投手(巨人)で始まった。細かな得点経過は省略するが、九回終了時点で3対3、同点のまま延長戦に移った。  新人淡口はダグアウトに座っているが、まだ一度も打席に立っていない。  ところで延長11回表、巨人の打順は九番・菅原勝矢投手からだ。川上哲治監督はここで代打淡口を指名した。マウンドに立っているのは、平松政次投手だった。 「25人の選手のうち21人出場した試合なんです。だから私に出番がくるかなという予感はしていたんですが、指名された瞬間、どきんとしましてね。いま思うとこれで勝負あったですよ」(淡口憲治)  淡口はカウント2─2後の5球目、外角をえぐるように沈むシュートを打ち、遊ゴロに終わった。あの長島、野村、張本、田淵たちが初打席で三振しているのに比べれば、平松の“カミソリシュート”にバットを当てただけ、ましではないか。  だが、そう思うのは第三者である。淡口自身はそうは思わなかった。 「ど真ん中にストレートが入ってきた——一瞬、私はそう判断したんです。だから喜んでとびついた。私の気持ちとしてはゴロで一、二塁間を抜けたか、ライナーで右前安打になるか、そんなストレートに見えましたね。だから打った瞬間、顔は二塁方向に向いているんですよ。ところが、ボールは手もとにきて、ぐっとシュートして沈んだため、バットの先端、それも下側に当たって遊ゴロですよ」(淡口憲治)  アウトになって戻る途中、自分のバットを拾った淡口は青くなった。バットの根元15センチのあたりから斜めに20センチほど裂け目が走っているのだ。 「平松さんの“カミソリシュート”は、新聞やテレビで知ったんですが、これほどだとは——。裂けたバットを見て、口もきけませんでしたね。そのとき心の中で思ったんです。左打者の私は、これからも平松用に代打として起用されるはずだ。平松を倒さなければ、プロ野球で飯は食ってはいけないと——」(淡口憲治)  かくて淡口はプロ入り初打席で“打倒平松”の秘策と取り組み始めた。  昭和50年4月5日、後楽園球場で巨人対大洋1回戦が行われた。開幕日である。  試合は堀内投手と平松投手の先発で始まった。大洋は前半、堀内を攻めに攻めた。二回二死後、三塁走者に長崎啓二中堅手、一塁走者に伊藤勲捕手をおき、九番平松がカウント1─2後の4球目、内角の速球を左翼席本塁打して3点、四回にも四番・シピン二塁手の左翼席本塁打をふくむ4安打を集中して3点、打者18人で堀内をKOした。  これに比べて巨人はどうなのか。四回終了時点まで安打は七番・矢沢正捕手の1本だけである。大洋は五回にも2点を入れ、8対0と引き離した。  さて、巨人は五回一死後、矢沢が左腰に死球、八番・河埜和正遊撃手が四球で一、二塁。打順は九番・谷山高明投手に回ってきた。ここで長島茂雄監督が淡口に声をかけた。 「おい淡口、お前しかいない。平松と勝負してこい」  淡口はカウント2─2後の5球目、外角低めへえぐるように沈む“カミソリシュート”を左翼席3点本塁打した。 「私は本塁打を69本(昭和57年4月19日現在)打っているんですがね。一番忘れられない本塁打を1本さがし出せといわれたら、この開幕日に平松さんから打った1本ですね。理由は外角シュートを左翼方向に本塁打できたということですね。これが内角の速球を右翼席本塁打したというのなら、とっくに忘れていますよ」(淡口憲治) 「ど真ん中の速球だ——」と思って、早く右腰をひらくと球道は外角低めへそれて逃げ、空振りか、当たってもバットの先端である。だから右腰を早くひらかない。次にバットのしんに当てるため、右足を外角寄りにふみこんでいく。さらに左脇を締め、おっつけるように左翼方向に持っていく。  順序立てて書けばこうなるのだが、平松のシュートは指先を離れてからホームプレート通過まで0・5秒弱しかない。その間にいま書いたような作業をやらなければ打てない。シュートを待っていてカーブがきたら、どう対応するのかという問題もある。  長島茂雄三塁手が“ミスタープロ野球”になれたのは、昭和33年4月5日、後楽園球場での巨人対国鉄1回戦、つまり開幕日における新人初打席で金田正一投手から、空振り三振したからだという説がある。私もこの説に納得している。  淡口もプロ初打席に平松の“カミソリシュート”にいじめられなければ、50年の開幕日に平松を打てたかどうか。 「あの開幕日の本塁打以来、平松さんとは相性よくなりましてねえ。いま平松さん、私の顔見るといやな顔しますよ」(淡口憲治) [#改ページ]    基満男 人生は綱わたりのドラマだ  人間の運命ほど不思議なものはない。昭和13年1月、池田潤之輔という18歳の若者が、故郷の北海道厚田郡厚田村をあとに、上野駅のホームに降り立った。職を求めての上京だった。  その潤之輔の前に高島部屋の若者頭と名乗る人物が現れた。 「北海道からじゃあ、30時間ぐらいかかったろう。ご苦労さん、ご苦労さん。さあ高島部屋へ行こうか」  最初、潤之輔はなにがなにやら事情がのみこめない。立ち話、数分間でやっとわかった。この高島部屋の若者頭は、北海道からやってくるはずの力士志願の若者を上野駅まで出迎えにきた。そこで、その力士志願の若者と潤之輔を間違えたのだった。  それなら若者頭と潤之輔はホームで別れたのか。そうではなかった。力士志願者が途中下車? して逃げてしまったのか、上野駅に現れなかったため、潤之輔が身代わりに高島部屋にやってきた。  この潤之輔こそ、のちに幕内在位37場所、この間304勝151敗85休、勝率6割6分7厘、優勝1回を記録した第43代横綱吉葉山である。最初の予定通り力士志願者が上野駅に現れていたら、吉葉山は誕生していなかった。  さて基満男二塁手(報徳学園、西鉄、現大洋)の場合も、なにやら事情が吉葉山と似ている。  昭和42年3月17日、下関球場で大洋対西鉄オープン戦が行われた。その年、基は西鉄に入団した新人である。  ところで試合前、基の打撃練習をじっと見ていた中西太監督が声をかけてきた。 「おい基。お前、二軍へ行け」 「——─」 「スイングのスピードが甘い。それではアマチュアだ。それでプロのスピードボールが打てると思うか」 「はい」 「この試合が終わったら、平和台へ帰れ」  基は胃袋のあたりから悲しみがこみ上げてきた。「これで、この一年間は棒に振った」という思いである。  だが、人間の運命とはわからない。それから数分後、中西監督がふるえ上がるような事故が起きた。打撃練習中のバーマ二塁手の右人差し指に投球が当たり、骨折したのである。  バーマはその前年、三番打者として「試合数134、打率2割6分0厘、本塁打23、打点53」を記録、そう簡単に身代わりのいる二塁手ではない。でも骨折したのなら身代わりは数分前、平和台へ帰れとどなった基しかいない。  かくて中西監督は、先発メンバーの八番打者に基を書き込んだ。これ以外はないという仏頂面で——。  二回二死後、八番基に打順が回ってきた。相手は東大出身プロ野球選手第1号の新治伸治投手だった。 「ボールカウントは1─2後の4球目だったと記憶しています。内角の速球でしたね。これをひっぱたくと左翼席本塁打なんですよ。新治さんもおどろいてたけれど、私もびっくりした」(基満男)  わずか30分ほど前、「二軍だ、平和台だ」と、どなった中西監督が抱きかかえるようにして基を迎えた。  この1本の本塁打で首脳部の基に対する評価ががらりと変わった。二軍どころか、バーマの骨折が治るまで二塁手のレギュラーポジションをあたえてみようという話になった。  この年、基の公式記録を見ると、「試合数124、打数311、安打70、打率2割2分5厘、本塁打3、打点16、盗塁10、失策15」で二番打者・二塁手をつとめ上げている。そして骨折の治ったバーマは一塁手に転向している。  くりかえすが、吉葉山は上野駅のホームで高島部屋の若者頭と出会わなければ、美男子の大男で一生を終わったかもしれない。基もあの下関球場のオープン戦で、新治から本塁打を打たなければ、間違いなく二軍落ちであった。それが紙一枚の差というか、綱わたりのめぐり合わせで、吉葉山は横綱になり、基はレギュラーをつかんだ。運命の底深さ、不思議さに私はぞっとする思いである。  6球団を転々と渡り歩いた終身打率2割7分8厘の右打者がいた。ある夜、酒を飲みながら、その男は私にこんな話をしてくれた。 「新しい球団、つまり新しい職場に入っていくのは、つらいだろうって、よく新聞記者に質問されましたね。でも、私はちっとも苦痛ではなかった。新しい職場に行ったら、腰を低くしていればいいんですから。そしたら、みんないいますよ。“こんどきたあいつ、態度いいじゃないか”って。要するに最初のうち、だれかれかまわず頭を下げていればいいんです。  ところが6球団目でふっと気がついた。入ってくるときは態度がいい。だから評判よくても、その球団をやめて出て行くときはケンカ腰じゃないか。いいかえれば人間新しい職場に入って行くときはやさしい。しかし、その職場のやめ方はむずかしい。こんど他球団に移る場合、納得のいくやめ方をしようと思ったら、6球団目を最後にクビになりましたよ」  プロ野球は反射神経の天才的な大男がやっているのではない。人間がやっているというのは、ここらあたりなのだ。  さて基満男という男、やたらに“最初”に強い。新治から本塁打を打ったのも最初なら、次に伝えるのもまた最初の話である。  昭和54年、基は太平洋ク(現西武)から大洋に移籍した。6球団転々とした男と同じように、基もまた態度をよくしようとした。  たとえば54年1月中旬、横浜球場で行われた自主トレーニングに、なんと彼は6年ぶりに参加した。それまでの6年間、基はキャンプインしてから合同自主トレーニングでやるような基礎筋肉強化をしていた。しかも嘉代夫人、長男・雅宏君、二男・彰伸君を福岡においたまま、ひとり横浜のホテル住まいをしながら参加したのである。  しかし基はただ態度がいいだけの移籍者ではなかった。 「おれの実力がどんなものか、おれの職人芸がどんなものか、大洋ナインに見せてやる」  ぎらぎらした野心をそっとかくした移籍者だった。  同年4月10日、横浜球場で大洋対広島1回戦が行われた。開幕日から雨にたたられ、これが開幕2試合目。そして本拠地横浜球場での最初の試合だった。  基は四回無死、カウント1─2後の4球目、大野豊投手の速球を左翼席本塁打した。これは54年度における横浜球場第1号本塁打であった。  これは余談だが53年に完成した横浜球場第1号本塁打は、4月5日、大洋対巨人2回戦の二回表、五番・柳田俊郎右翼手(巨人)が野村収投手(大洋、現阪神)から打った右翼席本塁打である。  ところで基が54年度・横浜球場第1号を記録した2日後、つまり12日、同球場で大洋対広島3回戦が行われた。先発は平松政次投手(大洋)と福士敬章投手(広島)で始まった。  二人のピッチングは理屈なしにすごい。平松が三回終了までに9人を料理、完全試合ペースなら、福士もまた三回終了時点まで、四番・マーチン右翼手を四球で歩かせただけである。そういう福士を基は四回一死後に叩いた。カウント1─1後の3球目、福士のシュートを左翼席本塁打したのである。  この試合は2時間20分で終わっている。気がついたら平松は投げに投げ、九回無死、八番・水沼四郎捕手の代打・内田順三に右前安打されるまでノーヒットノーラン試合をつづけていた。内田に打たれたあともピタリと抑え、1対0で大洋は勝った。 「平松でシャットアウトし、私の本塁打1本で勝った。つまり私の実力を大洋全員に見せつけた試合なんです。移ってきた基満男という男の実力をはっきりと認識させた意味で忘れられませんねえ」(基満男)  基はこの年、打率2割9分5厘、本塁打15、打点65をマーク。さらに翌55年には打率3割1分4厘、本塁打12、打点70を稼ぎ、年俸も34%アップの2260万円、平松を抜いて大洋NO・1にのし上がった。  態度の悪い新入者は底が割れている。態度よく入ってくる男ほど本当は恐ろしいのである。 [#改ページ]    杉浦享 ドタン場で演技は無用  宮本武蔵が佐々木小次郎と船島(巌流島)で決闘したのは慶長17年4月である。武蔵と小次郎が波打ち際でかわす言葉は、吉川英治作「宮本武蔵」によると、こうなっている。 「小次郎っ、負けたり!」 「なにっ」 「きょうの試合は、すでに勝負があった。汝の負けと見えたぞ」 「だまれっ、なにを以って」 「勝つ身であれば、なんで鞘を投げ捨てん——鞘は汝の天命を投げ捨てた」 「うぬ。たわ言を」 「惜しや。小次郎、散るか。はや散るをいそぐかっ」  私は杉浦享外野手(愛知高、ヤクルト)をめぐる話を書くのに、なぜ武蔵と小次郎の名場面を持ってきたのか。実は“逆転・サヨナラ本塁打”を打った杉浦の心理と、打たれた星野仙一投手の心理とが、武蔵と小次郎にあまりにもよく似ていたからだ。  昭和53年9月20日、神宮球場でヤクルト対中日21回戦が行われた。この時点で首位ヤクルトは2位巨人に1ゲーム差、マジック11であった。  さて杉浦に話題をしぼろう。杉浦は前日、同球場での対中日20回戦終了時点で打率2割9分7厘、六番打者としては当たっているのだが、どこか精神集中度が足りなかった。  たとえば20回戦の六回、一番・谷木恭平中堅手の飛球を落球(記録は二塁打)したり、21回戦の七回には四球なのにボールカウント1─3と間違えて、主審・大里晴信に注意されたりしている。  だが、人間なんて不思議なものだ。そういう杉浦の眠っていたような神経が、ある現象を境にして日本刀のように凄味をおびてくる。  試合は2対0、中日がリードのうちにヤクルト最後の攻撃に移った。無死、四番・大杉勝男一塁手が左翼線二塁打で出塁すると、五番・マニエル右翼手は中前安打し一、三塁と持ち込んだ。  ここで杉浦に打順が回ってきた。初球、カーブのストライク。2球目、シュートがボール。カウント1─1になった。 「星野さんは初球、2球目のときグラブの中でボールを握り、それから投球動作に移ったんですね。だから球種は予測できなかったんです。それなのに3球目、グラブを前にだらりと下げ、その外側でストレートの握りをわざと私に見せるわけですよ。星野さんにしてみれば、わざとストレートの握りを見せて、実際はカーブでくるのか、あるいはその裏の裏をかいて、ストレートでくるのか、ずい分と演技しているわけです。私はその星野さんの顔と(ボールの)握りを見た瞬間、“星野さん、迷っているけれど、間違いなくストレートで勝負してくる”と直感し、ストレートに的をしぼっていたんです」(杉浦享)  吉川英治が杉浦対星野の名勝負・名場面を書けば「仙一、なんでそんな演技をするのか。仙一、はや散るをいそぐかっ」となるのか。  杉浦の予測は当たった。わざとストレートの握りを見せ、その裏の裏をかいて、星野は内角にストレートを投げてきた。杉浦はそれを右中間に逆転・サヨナラ本塁打し、マジック10とした。 「夜中にふっと目をさましたとき、あの場面をよく思い出すんですよ。でも、あの3球目のとき星野さんが握りの演技をしなかったら、果たして本塁打を打てたかどうかと思うと、ぞっとしますね。あの一発で、プロで飯が食って行けるという自信みたいなものがついたんですから」(杉浦享)  男はぎりぎりのどたん場では演技するな、“裸一直線”で勝負しろという話なのか。  さて、感動的な本塁打を打った杉浦は、ダイヤモンドを夢中で走りながらこみ上げる熱い思いとは別に、一人の人物を思い出していた。杉浦が愛知高2年生のとき、脳出血で他界した父親秀夫さんである。  杉浦は愛知高1年生で野球部に入部すると、すぐ投手になった。「お父さん、オレ、投手だ」と伝えると、秀夫さんはさびしそうな表情で、杉浦が一生忘れられないような名文句を吐いた。杉浦はダイヤモンドを走りながら、その名文句を思い出していた。 「お前、投手なのか、打者じゃないのか。それなら、お前のサヨナラホームランは見られないなあ」  これには杉浦も参った。投手でも打てる場合があると、いくら説明しても秀夫さんは納得しない。その秀夫さんも杉浦が愛知高2年生のとき、脳出血で他界した。 「おやじが生きていれば、ひと目見せてやりたかった——」  そう思うと、杉浦は熱いものがこみ上げてくるのである。当日、神宮球場にやってきた3万1000人の観客のうち、「ダイヤモンドを走る杉浦が、おやじのセリフを思い出して涙ぐんでる」などと想像した者が、一人でもいたか。プロ野球は反射神経の天才児がやっているのではない。人間がやっているというのは、ここらあたりなのだ。  話題を変えよう。美津子夫人の出産予定日が、ちょうどこの20日にあたっていた。 「杉浦が逆転サヨナラ本塁打を打ち、病院にかけつけると美津子夫人が産気づく」  こうなれば都合よいのだが、現実はそうはいかない。「まだか、まだか——」といっているうち、9月23日、広島市民球場での広島対ヤクルト22回戦のため、杉浦は出かけて行った。  当日の試合開始は午後1時である。それが昼すぎ、東京・文京区の日本医大病院で美津子夫人は2780グラムの男の子を産んだ。試合直前、杉浦は佐竹一雄広報担当から連絡を受けた。 「杉浦、いま球場事務所に電話が入った。奥さん、男の子を産んだ。やったなあ」  杉浦は本当にダグアウトのすみで涙をポロポロ流した。女房がこれほど愛しく思えたことはなかった。  杉浦はこの試合でまた本塁打でも打ったのか。とんでもない。四回無死、三塁走者に大杉、一塁走者にマニエルをおく場面で投飛。そればかりではない。六回、三番・ライトル右翼手の打球を目測を誤って二塁打としてしまい、試合は7対4で負けた。プロ野球は人間がやっている、としみじみ思う。  杉浦は男の子になんという名前をつけたのか。 「ずっと前から、ヤクルトの担当記者になんという名前つけるの、と質問されていましてね。当時は“優勝”のことしか頭にありませんでしたから、男でも女でも、どちらでもいいように“|優《ゆう》”とつけると返事していたんです。約束通り“優”にしました」(杉浦享)  優ちゃんはいま、もう保育園に通っている。 [#改ページ]    梨田昌崇 人間、誇りさえあれば  本塁打を打ち、ダイヤモンドを走っているとき、男はいったい、なにを考えているのか。小便をちびりそうな思いをこらえ、体をぶるぶるふるわせながら走るだけなのか。  そうではない、これで首がつながったと家族を考え、年俸を計算しながら走る男もいる。そして、これから書く梨田昌崇捕手(浜田高、近鉄)は、12年前に他界した父親豊さんを思い出しながら走っていた。  昭和55年10月8日、西武所沢球場で西武対近鉄12回戦が行われた。球場にやってきた近鉄ナインは、だれかれなしに顔がひきつっている。当然の話である。もし、この試合で西武が勝てば、その瞬間、近鉄は優勝争いから脱落、日本ハムの優勝が決定するのである。  もう少し前後の事情を説明しよう。その前日の7日、後楽園球場で日本ハム対近鉄13回戦が行われた。ここで日本ハムが勝てば、日本ハムの自力優勝が決まる。ところが試合は6対5で近鉄が勝った。つまり日本ハムの自力優勝は消えたわけだ。  そのかわり、こんどは近鉄の逆転優勝の見通しが出てきた。8日の対西武12回戦と11日の藤井寺球場での対西武13回戦に連勝すれば、奇跡の逆転優勝である。だが前にも書いたように、対西武2連戦のうち、どちらかで負ければ日本ハムの“他力優勝”が実現する。いってみれば、この試合こそ、近鉄にとっては100万トンの鉄より重い意味を持つ。だからこそ、近鉄ナインの顔はみんなひきつっているのだ。  さて、試合は松沼弟(西武)と村田辰美投手(近鉄)の先発で始まった。近鉄は二回無死、四番・指名打者マニエルが右前安打、五番・栗橋茂左翼手も中前安打して一、二塁と持ち込んだ。しかし六番・アーノルド二塁手は右飛、七番・羽田耕一三塁手は三振、二死となった。  ここで八番梨田に打順が回ってきた。カウント1─2後の4球目、梨田は松沼弟の速球を中越え本塁打した。優勝するのかしないのか、100万トンの鉄より重い意味を持つ試合で、梨田は先制3点本塁打したのである。それならなぜ、梨田は12年前に他界した父親豊さんを思い出しながら、ダイヤモンドを走ったのか。 「この日がおやじの命日なんです。その朝、おふくろ(栄子さん)から“お父さんの命日よ”って電話もありましたし、命日だなと思いながら球場に行ったんですよ。二塁ベースを回るとき、風になびく球団旗を見てハッとしたんですが、試合開始してずっと無風状態だったんです。捕手というのは、いつでも風向きに神経をつかってますから、間違いありません。  ところが、走りながら見ると、風向きがホームからセンターに向かって強風なんです。おそらく私の打席のとき、この風向きに変わったんでしょうね。胸がじーんとしましたねえ。死んだおやじが、命日に、私に本塁打を打たせてくれたんだと——。その晩、風向きのこと、おふくろに電話しました」(梨田昌崇)  父親豊さんは昭和43年10月8日、肝臓ガンのため浜田市黒川町の国立浜田病院で息を引き取った。中学3年生の梨田は、こらえてもこらえても、声を出しながら泣いた。それから12年の歳月が流れ、その豊さんが13回忌に息子の梨田に本塁打を打たせたという。  これは余談だが、美男の梨田はバレンタインデーに、毎年200個前後のチョコレートをもらう。また55年12月まで日生球場近くの3LDKのマンションに、栄子さんと一緒に住んでいたが、毎晩“梨田親衛隊”数十人がやってきて大騒ぎする。その果てに壁に落書きするので、弱り果てたマンション管理人が“梨田選手への伝言板”という黒板を玄関においた。  それでも騒ぎがおさまらない。とうとう梨田は引っ越した。そういう美男・梨田も、命日におやじが本塁打を打たせてくれたと、本気で思う“日本人”なのである。本気で思っているか、いないかは、取材していて梨田の語り口、真心のこもった声で、私にもジーンと伝わってくるのだ。  近鉄はこの試合を5対1で勝ち、11日の西武13回戦でも10対4で連勝、あの逆転優勝をやってのけた。  昭和34年6月25日、後楽園球場で巨人対阪神11回戦が行われた。プロ野球46年の歴史をひもといて名勝負・名場面ベスト3に入る天覧試合がこれだ。そして天覧試合ときけば、中年男たちは涙を流すようにしていう。 「あの村山実が投げ、あの長島茂雄がさよならホームランした——」その通りである。  しかしスコアブックを丹念に指先で追っていくと、巨人は七回裏一死後、一塁走者の坂崎一彦右翼手をおいて、六番・王貞治一塁手が小山正明投手から2点本塁打して、4対4の同点に持ち込んでいる。  この王の2点同点本塁打があったからこそ、長島茂雄三塁手のサヨナラ本塁打が生まれた。  だが歴史というか、運命なんて不思議なものだ。“天覧試合”の4文字が出るたびごとに、百%長島茂雄の名前は出てくるが、王貞治の名前はただの一度も出てこない。王だって人間だ。無念の思いがあるだろう。 「オレの2点同点本塁打と、長島さんのサヨナラ本塁打が、もし逆になっていたら——」  そういう気持ちもきっとあると思う。ここらあたりのめぐり合わせが、持って生まれた星とでもいうのだろうか。  さて、梨田の話題に移ろう。近鉄球団史を追跡調査していくと、なんと梨田が天覧試合の王、平野光泰中堅手が長島に相当する試合にぶつかる。私には梨田の無念の思いが、痛いほどわかるのだ。  昭和54年6月26日、大阪球場で南海対近鉄13回戦が行われた。近鉄にとって、この試合はどんな意味を持つのか。  実はこの試合の始まる時点でマジック1、つまり近鉄はこの試合に勝つか引き分ければ、前期の自力優勝決定なのである。だから大阪球場入りしたとき、近鉄ナインはみんな小便をちびりそうな顔つきをしていた。  そういう試合で、平野は八回裏二死後、パ・リーグ史上に残る名勝負・名場面といわれ、またパ・リーグ最高の本塁送球をやってのけた。1対1の同点で迎えた八回二死後、南海は二塁走者の定岡智秋遊撃手、一塁走者の藤原満三塁手をおき、二番・新井宏昌左翼手の代打・阪本敏三が、ゴロの中前安打した。 「南海が勝ったあ。近鉄の自力優勝は消えたあ」  だれもがそう思った。ところが次の瞬間、こんどはだれもが腰を抜かした。平野がゴロを片手捕球すると、ノーバウンドで本塁ストライク送球をし、二塁走者の定岡をアウトにした。かくて試合は1対1の引き分けとなり、近鉄の自力優勝は実現した。だから話がこの南海戦におよぶと、“最高殊勲選手”として平野の名前が登場する。  それなら近鉄の1点を叩き出した男は誰なのか。  近鉄は二回一死後、六番・羽田耕一三塁手が左前安打、七番・永尾泰憲二塁手(現阪神)の投ゴロで二進したあと、八番梨田の中前安打で先取点を入れた。この貴重な1点があったからこそ、平野の本塁送球が生きたのである。  だが歴史はそうは伝えない。天覧試合の名前が出ると長島茂雄が語られるように、近鉄の前期自力優勝が伝えられるとき、かならず平野の「優勝を決めた執念のバックホーム」が語られる。  そのとき、あの1点は梨田が叩き出したんだという言葉を、私はいまだに聞かない。 「あのバックホームが二回に起き、私の打点が八回に出ていたら、世間の評価はどうなっていたかなあ、なんてよく思いますねえ。でも世間の評価がどうであれ、私はあの試合で1点を叩き出したんだという誇りを持っています」(梨田昌崇)  しかし言葉の行間というか、はしはしに無念の思いがこめられているのを、私は受けとめるのだ。  名勝負・名場面の舞台裏には、王貞治や梨田昌崇のような、やり場のない思いがうずまいている。 [#改ページ]    篠利夫 チャンスはするりと回ってくる  篠利夫二塁手(銚子商、巨人)に、本書の企画を説明した。すると、どんな返事が返ってきたのか。“サヨナラ本塁打”で体をぶるぶるふるわせた感動か。それとも“サヨナラエラー”で流した涙なのか。そのどちらでもなかった。  彼の返事はなんと“敬遠”ばなしであった。運命を賭ける場面に敬遠された、なんともいえない空しさというか、やり切れなさが、いつまでも忘れられないというのである。  昭和50年7月27日、千葉市の天台球場で第57回全国高校野球・千葉県大会の準決勝、銚子商対習志野高戦が行われた。銚子商は1回戦不戦勝、2回戦は東総工に4対2、3回戦は千葉高に7対1、4回戦は成東高に2対1、5回戦は一宮商に7対0で勝ち、準決勝に上がってきた。  習志野高も1回戦不戦勝、2回戦は君津農林に10対0、3回戦は千葉日大一高に8対0、4回戦は千葉商に11対5、5回戦は天羽高に3対1で勝ち、準決勝で銚子商とぶつかった。  さて、この試合前、習志野高・石井好博監督はミーティングでこういう話をしている。 「ピンチ場面で篠利夫三塁手(銚子商時代は三塁手)を迎えたら、満塁以外は敬遠する」  石井監督はなぜ、篠徹底敬遠作戦を採用したのか。その根拠は1年前、つまり篠が2年生当時における粘り強い打撃である。  銚子商は49年8月、甲子園球場で行われた第56回全国高校野球選手権大会に優勝したが、この5試合で四番・篠は、打ちに打ちまくった。打数19、安打8、打率4割2分1厘、打点5、もちろん優勝校銚子商の首位打者である。それが3年生になって、もっとパワーをつけてきた。 「昭和50年度と限定すれば、篠君は千葉県というか、関東高校球界ナンバーワンの打者でしたから、初めから勝負しないときめてたんですね」(石井好博)   試合が始まった。先取点をあげたのは習志野高である。習志野高は四回一死後、四番・岩崎勝己左翼手が中前安打したあと、五番・小川淳司投手(現ヤクルト)が初球、ストレートを左翼席本塁打して2対0とした。こういう戦況の中で、篠にとっては一生忘れられないシーンが訪れてくる。  銚子商は六回一死後、一番・宇野勝遊撃手(現中日)が三ゴロで二死となった。しかし二番・林淳一中堅手が右中間二塁打、三番・前鳩哲雄捕手が中前安打して1点、その差を1点に追い上げた。ここで打順は四番篠に回ってきた。  小川のコントロールが甘くなり、ボールが真ん中に集中しはじめた。篠が左打席に立ったとき、石井監督が立ち上がってうなずいた。 「ミーティングで決めた通り篠を敬遠しよう」というサインである。捕手が立ち上がった。 「最初はあっと思いましたね。二死一塁走者の場面で敬遠なんですから。次になんともいえない、空しさというか、無念の思いがこみあげてきましたねえ。プロ野球はきょうだめでも、あした勝負できますよ。高校野球の3年生はこの試合をのがしたら、一生もどってこないんですからね」(篠利夫)  篠が敬遠されて二死一、二塁としたが、五番・平野和男右翼手が三ゴロ、小川重信三塁手が捕球、菱木大功一塁手に送球してアウト、1点差はちぢまらない。  試合は2対1のまま習志野高が勝った。それだけではない。習志野高は決勝戦でも君津高に5対2で勝ち、甲子園出場を決めた。そして1回戦は抽選勝ち、2回戦は旭川竜谷高に8対5、3回戦は足利学園に2対0、4回戦は磐城高に16対0、準決勝は広島商に4対0、決勝戦では新居浜商に5対4で勝ち、優勝するのである。  それだけに篠の胸の中には「あのとき、あの1点差場面で勝負させてくれたら」という思いが残る。記録はただの“四球”でも、人間の|怨念《おんねん》のこりかたまったのが敬遠である。  昭和56年5月4日、後楽園球場で巨人対阪神6回戦が行われた。巨人は四回一死後、当時三塁手だった中畑清を一塁走者におき、五番・原辰徳二塁手が三ゴロを打った。掛布雅之三塁手は岡田彰布二塁手に送球、中畑を二封した。  このとき二塁ベース上で、中畑と岡田がもつれ、中畑は左肩を痛めて退場した。このため原が三塁に回り、控えの篠が二塁手をつとめた。  中畑の左肩痛は意外と長びき、それから2試合、藤田元司監督、王貞治助監督、牧野茂ヘッドコーチは打順編成に苦労した。たとえば5月5日のナゴヤ球場での中日対巨人3回戦では二番篠、三番に打率2割5分9厘の淡口憲治左翼手を起用。8日の横浜球場での大洋対巨人6回戦も三番淡口で先発したが、六回その淡口に代打・松本匡史を送っている。しかも三番打者のとき淡口は打数6、安打0であった。  さて話は5月9日、横浜球場での大洋対巨人7回戦の試合前に移る。王助監督が藤田監督、牧野ヘッドコーチを口説き始めた。 「篠はこの2試合で4打数3安打しているんですよ。三番篠でいきましょう。実力、センス、三番でいけます」  決断のつかない藤田監督を王助監督は、なお口説きに口説く。こうして当日の先発メンバーは、次のように決まった。一番・河埜和正遊撃手、二番・松本匡史左翼手、三番・篠利夫二塁手、四番・ホワイト中堅手、五番・原辰徳三塁手——。  篠をめぐって55年12月には“婚約解消”事件があった。球団から1カ月の謹慎処分を受け、自動車もBMWを手放し、国産小型車にするなど、じっと耐える期間だった。そこへ原が入団し、二塁のポジションまで取られた。ふんだり、けったりである。  そういう篠の前に、中畑の左肩痛が回り回って、先発・三番というチャンスが訪れた。 「ロッカーにいたら山崎弘美マネジャーがきましてね。“おいシノ、お前三番だぞ”っていうんですよ。ウソでしょっていったんですけれどね、発表を見たら三番になってました」(篠利夫)  巨人は一回無死、河埜が左翼二塁打、松本の遊ゴロを山下大輔遊撃手がエラー。一、三塁の場面で篠が打席に入った。  カウント1─1後の3球目、篠は斎藤明雄投手の外角シュートを左中間二塁打して2打点をかせいだ。いきなり三番打者成功である。二塁走者になった篠に、王助監督が立ち上がって10回以上も拍手を送る。  これだけではない。篠は入団以来6年間、初めての三番で打ちまくった。第2打席は中前安打、第3打席は右翼線二塁打、第4打席は投ゴロ、第5打席は中前安打で5打数4安打、4打点である。  だが、観客3万人をうならせたのは、5打数4安打の打撃ばかりではなかった。大洋は七回一死後、八番・福島久晃捕手が二塁ベース寄りのゴロを打った。 「中前へ抜けた」  だれもがそう思った。それを篠が逆シングルで捕球した。しかし一塁送球できる体勢ではない。すると次の瞬間、風のように河埜が接近してきた。篠は河埜にトス。河埜が山本功児一塁手に送球して福島をアウトにした。 「三番も初めて、4安打も初めてなら、福島さんをアウトにしたあの河埜さんとのプレーも初めてでしたね」(篠利夫) “婚約解消”という苦しい時期がバネになって、篠はこのチャンスをつかんだのか、それとも天性の打撃センスのためなのか。私はその二つをひっくるめたのが、篠の人生だと思っている。  7対3でこの試合を勝ち、ロッカーへもどってきた王助監督は、左肩痛で見学していた中畑へいったそうだ。 「おい清。お前、大変だぞ。ケガが治っても、お前の出番がなくなるぞ。三塁は原だし、二塁は篠だしなあ」 [#改ページ]    高木嘉一 世間は自分を中心に回らない  人間の運命なんて不思議なものだ。“平社員”と全く関係のない会社上層部の人事異動で、平社員の運命まで変転してしまうのだから——。  当時、新人でしかも二軍にいた高木嘉一右翼手(淵野辺高、大洋)の場合も、上層部の人事異動で運命が激変した。  昭和47年8月30日、後楽園球場で行われた巨人対大洋21回戦は、3対2で巨人が勝った。勝ち投手は高橋一三(現日本ハム)、負け投手は坂井勝二である。  この時点で大洋は5位とはいえ、対巨人戦に限っていえば13勝8敗と勝ち越している。昭和56年の対巨人戦4勝20敗2分けを思えば、夢みたいな数字である。  だが、大洋・中部謙吉オーナーは翌31日、政権交代劇を発表した。つまり別当薫監督の休養、青田昇監督代行の発表である。  それなら青田監督代行の最初の試合、31日、後楽園球場での巨人対大洋22回戦はどうなったのか。11対4で大洋は負けた。勝ち投手堀内恒夫、負け投手間柴茂有(現日本ハム)である。その晩、青田監督代行は考えた。 「このままでは大洋は巨人にもつぶされてしまう。なにか、あっとおどろく手はないものか——」  考えに考えた末、ひとりの若者の顔が浮かんできた。  46年11月のテストのとき、神奈川県相模原市税務部徴収課、いってみれば安定した公務員の生活を捨てて応募、契約金ゼロ、支度金20万円、年俸84万円(月給7万円)で入団してきた変わり者、二軍の高木嘉一の顔である。 「公務員というより、土建会社従業員という顔つきと、筋肉に惚れたわけですよ」(青田昇)  この時点の高木は、市役所の同期生、妙子さんと婚約中だったので、多摩川の合宿にいた。深夜、青田監督代行から合宿に電話がかかってきた。 「いいか高木。お前、あさっての中日戦から一軍に上がるぞ。せいぜい、今夜はぐっすり寝ておけ」  くりかえすが人間の運命ほどわからないものはない。巨人戦を13勝8敗と勝ち越しているのに、中部謙吉オーナーが監督を別当から青田に交代させたためにまわりまわって給料7万円で二軍にくすぶっていた男に道がひらけた。男の運命なんて、自分が切りひらくものなのか、他人がひらいてくれるものなのか——。  さて9月2日、川崎球場で大洋対中日22回戦が行われた。 「なにせ生まれて初めての一軍ダグアウトですからね。右を見れば松原誠さん、左を見れば江藤慎一さん、前を見ればボイヤーさん、みんな神様ばかりですから、太ももがぶるぶるふるえましたね。そのうち先発メンバーが発表されて、小便をちびりそうになりましたよ」(高木嘉一)  先発メンバーに高木の名前があったのか。それどころの騒ぎではない。なんと青田監督代行は「一番・左翼手」に高木をすえているではないか。  生まれて初めて一軍登録された日に、一番打者として先発するのだ。高木は小便をちびりそうになったというが、本当はちびったのではないか。  一回裏、高木は左打席に入った。胴体のふるえが自分でわかる。カウント1─1後の3球目、稲葉光雄投手(現阪急)はカーブを投げてきた。高木はそれを左中間二塁打した。 「打球が左中間を割ったときに思いましたねえ。公務員やめたこともふくめて、これでよかったんだと。プロで飯を食っていける自信みたいなものが、胸のあたりにごりごりって、こみ上げてきましてねえ」(高木嘉一)  高木は昨年終了時点で安打660本(本塁打77本)を打っている。しかし660本の安打のうち、たった一本を選べといわれたら、この1本をとるという。  私は本書執筆のために数多くの人物を取材したが、高木のように運命の試合の年月日をすらすら暗記していたのは彼ひとりしかいない。 「初打席で初安打した晩ですか? 電話しましたよ、電話。婚約中だった女房だけじゃなくて、市役所の税務部徴収課の連中にねえ」(高木嘉一)  昭和51年5月12日、神宮球場でヤクルト対大洋7回戦が行われた。高木が入団して5年目の話である。 「男のめぐり合わせなんて、奇妙なものですねえ。ツイてると思うときにはツイていなくて、ツイてないとガックリする場合は、逆にツイてるんですから——」(高木嘉一)  それなら高木が首をひねる不思議な運命とはなにか。  これは余談だが、高木の新人テストのときの舞台裏ばなしを書くと、60メートル競走、80メートル遠投には不合格だった。それが合格したのは、打撃テストのとき右翼席へ数本叩き込み、そのパワーが買われたからだ。  ところが、入団して5年目になるのに、1本の本塁打も記録していない。 「足と肩は不合格、パワーだけを買われたのに、本塁打が出ない。退団するまで出ないのじゃないか」  ふと、そんな気分になってしまう。  さて話題を試合にもどそう。  五回表無死、打順は六番高木から始まった。カウント1─1後の3球目、渡辺孝博投手はストレートを投げた。高木はそれをバックスクリーン左横に叩き込んだ。感動的プロ入り第1号本塁打である。 「当時、神宮球場のバックスクリーン両脇に、東京スタイルという会社がスポンサーになって、ここのゾーンに入ると婦人服地をくれたんです。私がダグアウトへもどってくると、場内放送で“東京スタイルより婦人服地6着分が高木選手に贈られます”と放送するんです。私は昭和47年10月10日に市役所の同期生の女房と結婚式をあげ、そのころ川崎市多摩区登戸の六畳一間のアパートに、長女の愛子と三人で生活してましたからねえ。女房に洋服なんか買ってやる余裕はない。それが第1号ホームランで婦人服地6着分でしょう。試合中に女房の顔がちらつきましたよ」(高木嘉一)  ところが、世間は自分を中心に回ってくれない。六回表の場内放送を聞いて、高木は腰を抜かした。 「先ほどの高木選手のホームランは、東京スタイルのきめられたゾーンを1メートルほどオーバーしておりましたので、婦人服地6着分はプレゼントされないことになりました」  高木はその晩、六畳一間のアパートで待つ妙子夫人の前で、この東京スタイルの一件を話していいかどうか、本気で迷ったそうだ。  話題を移そう。  それから2カ月後の7月25日、川崎球場で大洋対巨人18回戦が行われた。六回裏一死後、一塁走者の田代富雄三塁手をおき、七番高木が左打席に入った。小林繁投手は、1─1後の3球目、思い切って内角球を投げた。それが高木の右側頭部に命中、あっと気がついたときヘルメットは真っ二つに割れ、高木は馬が横倒しに倒れるように音を立てて倒れた。私も何度かヘルメットに命中する死球を記者席で見ているが、真っ二つに割れたのは高木のほかにはいない。  投球がヘルメットに当たったとき、カーンという乾いた音がしない。なんともいえない不快音を残して割れた。高木の倒れ方といい、命中音といい、全身が総毛立つような死球であった。  高木はすぐ救急車で川崎市中原区にある関東労災病院に運ばれ、精密検査を受けた。だが結果は脳しんとうで異状はなかった。その証明材料として7月27日、広島球場での広島対大洋14回戦に三番・右翼手として先発、八回に中前安打している。ヘルメットが真っ二つに割れたのに、2日後には安打を打っているのだ。  高木はプロ入り第1号本塁打で婦人服地6着分もらっていたら、あの頭部死球でやられていたかも知れない。理屈なしに、私はそんな気がするのである。 [#改ページ]       守の巻

   
大矢明彦 “捕手人間”の哲学 「大矢明彦捕手(駒大、ヤクルト)は神様だ」というエピソードから書く。  昭和51年12月24日から25日にかけて、ニッポン放送ではコメディアン萩本欽一さんを中心に「24時間ラジオ・チャリティー・ミュージックソン」が行われた。  これに自分から志願し、24時間を通じて萩本欽一さんの隣に座りつづけたのが、実は大矢であった。大矢が最初に電話を受けたのは10歳の少年だった。 「お金、あんまりないんだけれど目の不自由な人に寄付します」  このひとことで大矢の目頭はもう、うるみ始めた。それから24時間、何回、何十回となく大矢はマイクの前で涙を流した。この時期、プロ野球選手のほとんどはゴルフをやるか、マージャンをやるか、酒を飲むか、サイン会で金を稼ぐかしている。それなのに大矢は自分から24時間、“ラジソン”に奉仕しているのだ。本当に大矢は神様みたいな男だと思う。  だが“神様”だけで大矢は年俸2050万円をもらえない。これから書くように、ぞっとするようなリードを平気でできる度胸を持ち合わせているから、年俸2050万円、日本一の捕手にのし上がれたのだ。  昭和53年10月21日、後楽園球場でヤクルト対阪急の日本シリーズ第6戦が行われた。第5戦までの成績はヤクルトの3勝2敗である。  阪急は三回表、ヤクルトの先発、鈴木康二朗投手(現近鉄)をめった打ちにした。得点経過を書けないほど、打ちに打ちまくった。  たとえば、一死満塁としたあと五番・島谷金二三塁手の遊撃内野安打、六番・ウィリアムス右翼手の右前安打、七番・中沢伸二捕手が左翼ポールに当たる本塁打といった調子で、気がついたら6点を入れていた。  さて、スコアが6対0になったとき、大矢はいったい、なにを計算しはじめたのか。私は最初、大矢の口から出てくる言葉を疑った。そして話の意味がわかると“捕手人間”の恐ろしさに改めてぞっとする思いなのだ。  大矢は神様みたいな顔をしながら、淡々と話すのである。 「阪急の先発、白石静生投手は調子がいいんですね。そこで冷静に客観的に分析すると、6対0というスコアを逆転する確率は低いんです。それならば阪急打者にアメをしゃぶらせ、翌日の運命を賭けた第7戦にアメをしゃぶらせた分、取り返そうと考えたんです」(大矢明彦)  大矢の計算というか、発想法をくだいて書くとこうなる。  第1戦から第6戦まで6試合も顔を合わせれば、阪急打者の得意なコース、球種、泣きどころのコース、球種はわかってくる。それなら得意なコースに、得意な球種を投げさせたらどうなるのか。  打者はいい気持ちで打つと思う。そしてなお得点もプラスするだろう。  しかし野球というのは不思議なものだ。いい気持ちで2ケタ勝ちした翌日、よくシャットアウト負けしてしまう。前日、いい気持ちでスイングし、自分でも気のつかない間に打撃が大味になっているからだ。  そこが大矢の狙い目なのである。 「6対0を逆転するのは白石のピッチングからみて、可能性は10%ぐらいしかない。それなら、ここで阪急打者をいい気分にさせ、翌日、その反動で優勝しよう」  ざっくばらんにいえばこうなる。しかし逆に、いい気分になった阪急打線が第7戦でもなおいい気分で打ちつづける場合だって、まったくないわけではない。そこは運命を賭けた勝負である。  大矢は五回、本当にアメをしゃぶらせ始めた。阪急打者はどうしたのか。島谷が2本目の左翼席本塁打、ウィリアムスも左翼席本塁打、中沢は中越え三塁打などでなんと5点、計11点を入れた。アメの効果は数分間のうちに出た。 「うちの投手の名前はかんべんしてください。投手自身はいまだに気がついていない話なんですから——。それに私自身、一生忘れられないほど、心の中では申しわけないとわびているんですから——」(大矢明彦)  試合は12対3で阪急が勝った。その翌日、阪急に“アメ”の反動は出たのかどうか。  翌22日、同球場でヤクルト─阪急の日本シリーズ第7戦が行われた。ヤクルトの先発は松岡弘投手である。 「阪急と6試合もやっていれば、どの打者はどの球種、どのコースが好きで、どのコース、どの球種をいやがるか、わかりますよ。第6戦では好きなコースにサインを出して、アメをしゃぶらせましたから、第7戦ではいやがるコース、球種にサインを集中したわけです」(大矢明彦)  阪急にしてみれば、第6戦はいい気分で15安打を打った。それが第7戦になると、がらり勝手が違った。違うのは当たり前だ。大矢がいやがるコース、球種のサインで押しに押してくる。  スコアは1対0、ヤクルトがリードのまま迎えた六回裏一死後、四番・大杉勝男一塁手が左翼席本塁打、このとき左翼線審・富沢宏哉の“本塁打”の判定をめぐって、上田利治監督が午後2時54分から4時13分までの、1時間19分抗議したが認められなかった。  さて、試合は松岡が完投シャットアウト、4対0でヤクルトが勝ち、日本一になった。  しかし、このヤクルト日本一の舞台裏に、大矢が第6戦にアメをしゃぶらせた話は誰も知らない。  私はここで思うのだ。“捕手人間”とは、このくらいの度胸というか、計画性というか、非情さがなければつとまらない——と。  だが最後に大矢の年俸をめぐるエピソードを書いておきたい。  昭和56年12月3日、契約更改に現れた大矢は、球団側が「現状維持の2250万円」を提示したのに、なんと大矢自身、「200万円ダウンの2050万円にして欲しい」と粘りに粘り、とうとう2050万円でサインしてしまった。 「今年、鈴木康二朗、梶間健一、尾花高夫などが悪かったのは私の責任だ」——これがその理由であった。  この200万円ダウンの気持ちの中に、果たして日本シリーズ第6戦のとき、アメをしゃぶらせ、5点を取られた投手への“謝罪料”がふくまれていたかどうか。私はどこかにふくまれていたと思う。  こういう投手への、愛情が強い男でなければ、球団側の現状維持提示を誰が好き好んで200万円もダウンしますか。 [#改ページ]    平野光泰 執念が奇跡を呼ぶ  近鉄の“斬り込み隊長”平野光泰中堅手(明星高、近鉄)は、昭和52年11月30日、納会の席上で球団から“ガッツ賞”をもらった。だが、私は平野を取材して思うのである。 「男がガッツ賞をもらう裏側は、なんて悲しいことなんだ」  昭和52年9月12日、平野の母親シゲ子さん(55歳)が、胃ガンのため亡くなった。平野は明星高1年生の夏、つまり昭和41年8月31日、父親欽也さん(47歳)を肝臓病で亡くしているから、これで両親がいなくなった。当時、平野は28歳である。なのに、少年のように泣きに泣いた。  翌13日午後1時から大阪・吹田市新芦屋下22番地の平野の自宅で葬儀が行われた。この葬儀に西本幸雄監督、鈴木啓示投手、梨田昌崇捕手などがやってきたのか。一人も姿を現さなかった。実は当日、午後2時から藤井寺球場で近鉄対南海10回戦が行われ、葬儀が始まったころは、ちょうど打撃練習が終わったばかりだから、行きたくても行けないのである。  平野をめぐる腰を抜かすようなエピソードは、葬儀の真っ最中に起きた。長男であり、当然喪主である平野が突然、いいだしたのである。 「おれ、これから藤井寺球場に行って試合をする——」  これを聞いて親類が途方にくれた。いいだしたら最後、あとへ引っ込まない平野の性格を知り抜いているからだ。次に和子夫人が泣き出した。 「あなた、きょうはなんの日なの。お母さんの最後のお別れなのよ。それでもあなた、野球に行くというの。親類や球団の方、ご近所の方もお別れにきて下さっているのよ」  最後は涙声で声にならない。  しかし平野の試合に賭ける執念というか、いいだしたら誰がなんといおうときかない頑固ぶりというか、本当に母親の葬儀の途中を抜け出し、藤井寺球場へかけつけた。プロ野球46年の歴史を振り返って、母親の葬儀の途中脱出し、試合にかけつけたのはこの平野ひとりしかいない。  平野は葬儀の始まる前から途中脱出を計画していたのか。それとも葬儀の途中で突然、そういう気持ちになったのか。そこらあたりを私は、平野にしつこく質問した。 「計画的ではありませんでした。突然、いまからなら(試合に)間に合うと思ったら、もうたまらなくなって——というのが本音ですね。親類の者は、なにもいいませんでしたし、女房も途中であきらめたようです」(平野光泰)  平野がユニホーム姿でダグアウトへ現れたのは八回表である。戦況は2対1、南海がリードしている。 「平野、お前、お母さんの——」  西本監督はそれっきり絶句したそうだ。  近鉄は八回一死後、二番・石渡茂遊撃手が遊撃内野安打に出ると、三番・小川亨一塁手のところで、平野が代打に登場した。そして佐々木宏一郎投手から1─2後の4球目、シュートを中前安打した。この1本の中前安打こそ、近鉄球団史上、忘れることのできない「平野の葬儀逆転安打」となった。  なぜなら、このあと代打・白滝政孝の中前安打、佐々木恭介右翼手の右前安打とつながり、近鉄は4対2と逆転勝ちしたのだから。 「家へ帰ったら、女房がまた泣いていましてね。球団が逆転のこと連絡してくれたんです。その泣き顔見たら、やっぱり行ってよかったと思いましてね」(平野光泰)  平野は酒を飲むと自慢しだす。 「おれの太ももの太さは、あの大関貴ノ花の太ももと同じ太さなんだ」  そういう男が女房の泣き顔を見て、じーんと胸を熱くする。何度も言うが、プロ野球は反射神経の天才がやっているのではない。人間がやっているのである。  こうして平野は納会の席上“ガッツ賞”をもらっている。この平野の執念みたいなものが、2年後の昭和54年6月26日、大阪球場で行われた南海対近鉄13回戦の八回裏二死後、「パ・リーグ史上、もっとも歴史的な本塁送球」となって現れる。 「あの試合でしみじみ悟りましたねえ。勝負を決めるのは運もある、技術もある。だけど一番大切なのは勝とう、勝ちたいという執念。執念以外にないんだと」(平野光泰)  平野が勝負で一番大切なのは執念だと悟ったのは、昭和54年6月26日、大阪球場で行われた南海対近鉄13回戦、つまり近鉄にとっては前期最終戦である。この試合が近鉄にとって100万トンの鉄のかたまりより重い意味を持つわけは、次の資料を見てもらえばわかる。  この試合に入る前の時点で、近鉄は「試合数64、39勝19敗6分け、勝率6割7分2厘」で首位。2位は阪急で「試合数62、38勝20敗4分け、勝率6割5分5厘」でゲーム差1。もっとくだいていえば、近鉄のマジック「1」。要するにこの南海戦に勝つか引き分けるかすればマジック「1」が消え近鉄の前期自力優勝が決まるという話である。  だから、平野も小川亨一塁手も栗橋茂左翼手も、みんな小便をちびりそうな思いで大阪球場にやってきた。試合は佐々木宏一郎投手(南海)と村田辰美投手(近鉄)の先発で始まった。先取点をとったのは近鉄である。二回二死後、二塁走者に羽田耕一三塁手をおき、八番・梨田昌崇捕手が中前安打して1点を入れた。  だが南海も自分の本拠地球場で、しかも目の前で西本幸雄監督の“胴上げ”は見たくない。四回二死後、三塁走者に藤原満三塁手をおき、四番・指名打者の王天上が中前安打、1対1の同点に持ち込んだ。  こうして場面は運命の八回裏、南海の攻撃に移った。七番・久保寺雄二中堅手が三ゴロ、八番・定岡智秋遊撃手が右前安打、九番・黒田正宏捕手が一飛で二死となった。しかし一番藤原が右前安打して一、二塁。ここで広瀬叔功監督は二番・新井宏昌左翼手の代打に阪本敏三を送った。  ここから、パ・リーグ史上に残る名場面・名バックホームの幕開けである。 「阪本さんが打席に入ったとき、まず長打はないと判断しました。それに二死ですから3メートルほど浅い守備位置をとりました」(平野光泰)  カウント2─2後の5球目、阪本は中前安打した。打球は3メートルほど前進守備をとった平野の正面へゴロで転がった。1対1の同点だから、二塁走者の定岡を本塁でアウトにすれば引き分け、そして自力優勝という段取りになる。 「ゴロが二遊間を抜けたと思った瞬間、体中が火のように熱くなりましてねえ。アウトにしろ、アウトにしろ、この執念だけですよ。3メートルほど前進守備していたのも助かりました。両手捕球なんかやっている余裕ありませんよ。ゴロを片手捕球すると、これでもかーというバックホームでしたね」(平野光泰)  魂が乗り移った本塁送球とは、このことを指すのか。平野の指先を離れた送球は、地面をなめるように伸びて梨田のミットにノーバウンドでとどいた。 「ど真ん中のストライクというより、胸のあたりでちょっと高かったかな。タイミングは間一髪ではなく、間のあるアウトでしたね」(梨田昌崇)  主審・久喜勲のアウトの判定を見たとき、平野は全身がしびれた。 「梨田と、あのバックホームでよく話し合うんですが、最後はいつもひとこと“あの送球でよかったなあ”で終わるんです。真夜中に目がさめて、よくあの場面を思い出しますよ。もし1メートル左か右にズレていたらと思うとゾッとしますね」(平野光泰)  試合は1対1の同点で引き分け、ここに近鉄の前期優勝は決まった。“胴上げ”された西本監督は、ロッカールームにもどると、一人ひとりと握手をした。だが平野の顔を見ると握手をしなかった。そのかわり「ありがとう」といって両手で平野の右肩をさすったそうだ。 [#改ページ]    中政幸 人間くさったら負けだ  最初に“グラブ”ばなしを書く。昭和21年から27年までの7年間、金星、東急、西日本、西鉄に在籍した清原初男三塁手(立大)の“6本指グラブ”をめぐる話である。  清原は東急時代のある日、なにげなくグラブを見つめているうち、とんでもない発想にとらわれた。6本指グラブを使ってみたらという発想である。  当時のグラブは親指と人差し指の間に、細い革ヒモがあった。なにかの拍子に革ヒモの間をボールが抜けたり、革ヒモが切れたりする。 「この親指と人差し指の間に、もう1本、指型をつくって6本指にしたら、革ヒモより打球に対して、より完全なカベができるのではないか」  そう考えた清原は、本当に運動具店に相談、6本指グラブを作った。日米野球史上、6本指グラブをはめたのは、この清原ひとりしかいない。彼はこのグラブをはめながら、終身打率2割3分9厘、本塁打14本を記録している。  清原の話でもわかるように、プロ野球選手ならだれでも、商売道具のグラブに神経をつかう。  さて、話題を中政幸外野手(中大、大洋)に移そう。中は身長1メートル72しかない。 「それなのに入団した時から、グラブはローリングスのやたらに大きいのをはめてましたよ。腕が短い分、グラブの指の長さでカバーしようという心理が、働いていたんでしょうね」(中政幸)  そういう中に別当薫監督は、こんな注文をつけていた。 「おい中、お前みたいに指の短い者が、そんな長いグラブはめたって、ぴたりくるわけがないじゃないか。グラブの指先まで捕球感覚が伝わらないもの。外野手出身のおれのいうことに間違いないよ。指の短いお前は小さめのグラブにしろ」  しかし、中は代えようとしない。それが、これから書く試合を境にして小さめのローリングスに買い替えたのである。  昭和53年9月7日、神宮球場でヤクルト対大洋24回戦が行われた。試合は前半、大洋ペースで展開した。二回表、四番・松原誠一塁手が左翼席本塁打、四回表には一塁走者に松原をおき、五番・高木嘉一右翼手が右翼席本塁打して2点、合計3対0とリードした。  ところがヤクルトは六回裏、五番・マニエル右翼手が右翼席本塁打して1点、七回裏には代打・福富邦夫の右翼線二塁打、一番・ヒルトン二塁手の右犠飛などで3対3の同点とした。  そして中の商売道具を代えさせるシーンが起きたのは、八回裏一死後であった。一塁にマニエルをおき、六番・杉浦享左翼手は門田富昭投手のストレートを叩いた。打球は中堅深く舞い上がっていく。 「あの日はセンターを守っていましてね。打球が45度の角度でとんできたので、バックスクリーン前まで走れたんですよ。あとは夢中ですよ。ジャンプして打球にとびつく、グラブの先端に打球が入る、どーんとフェンスに体当たりする、ボールがグラブからポロッと抜けてフェンスを飛び越え、バックスクリーンに落ちてホームランになる——。すべて一瞬のできごとですね。時間にしたら1秒の半分ぐらいじゃないですか」(中政幸)  理屈はどうであれ、一度中のグラブに入ったボールが、ポロッと抜けて本塁打になったのはたしかである。これでスコアは5対3になった。八回裏ヤクルトの攻撃が終わって、中が三塁側ダグアウトへもどってくると、別当監督の顔色が変わっていた。 「コラッ、中。いつもおれがいっているじゃあないか。指の短いお前が、バカでかいグラブをはめているから、神経がグラブ全体に行きわたっていない。いまだって小さいグラブをはめていたら、とび出すはずがないんだ、この野郎——」  試合は大洋が5対3で負けた。中が捕球していたら、引き分けですんだかもしれない。 「人間、万事ほどほどです。あの落球ホームラン事件から、私の体格に合ったローリングスをはめていますよ。ほどほどがめでたいようですねえ」(中政幸)  昭和44年4月13日、甲子園球場で阪神対大洋2回戦が行われた。この日、中は、スタートメンバーとして出場、五番・一塁手である。  中がまだプロ2年生時代の話だった。だが相手が悪すぎた。村山実投手である。試合が終わってみたら、中は4打数3三振を記録していた。  中1日おいた15日、こんどは神宮球場(当時は変則だが、大洋が神宮球場を使用していた)で、大洋対広島1回戦が行われた。この日も中は先発で三番・一塁手である。だが、やっぱり相手が悪い。外木場義郎投手で2打席2三振、途中から引っ込められた。  さてその夜、試合が終わると中は別当薫監督によばれた。 「なあ中。この2試合でお前は6打席5三振している」 「はあ」 「お前は2年生、相手は村山と外木場。三振するのが当たり前といってしまえば、話はそれまでだ」 「はあ」 「しかし、お前もカネをもらっている以上プロだ。プロならプロらしい、ありようというものがあるはずだ。残念だが、18日からの巨人戦にはお前を外す」  中は自分の顔から血の気がひいて行くのが、自分でわかった。  中のニックネームを“チョンボの政”という。なぜ、このニックネームがつけられたのか。  あるミーティングのとき、別当監督がいいだした。 「野球はチョンボの出た方が負ける。最近そのチョンボが多い」  ただし別当監督は誰がとはいわない。すると突然、中が立ち上がって、最敬礼しながらいった。 「まことに申しわけございません」  以来、同僚は中を“チョンボの政”とよぶ。  そういう好人物の中でも、別当監督の言葉は胸に突き刺さった。プロ2年目でせっかくつかんだレギュラーの座を開幕4試合目で失ってしまうのか。  合宿に帰った中は眠られない。おれの野球人生はこれで終わりなのかとも思う。だが、明け方近くまで苦しみ抜いた中は、やっと結論みたいなものをつかんだ。 「くさったらおれの負けだ。人生、くさったヤツに幸せなど訪れる道理がない。いつチャンスが回ってきても慌てないように、剣を磨いて待つことだと思ったんです」(中政幸)  この時点の中は24歳である。昭和ひとけたの私でさえ、ここまではなかなか気持ちの整理がつかないと思う。  ところが、人間の運命なんて不思議なものだ。それから5日後、中にもう一度チャンスが回ってきた。20日、川崎球場での大洋対巨人3回戦に先発、一番・一塁手としての出番が訪れた。 「巨人戦の間、球場でも合宿でも走り込み、素振りをやってましたから、“きたか!”って感じで体が一瞬ふるえましたね」(中政幸)  試合が始まり、巨人は一回表3点を入れた。この年、三番・王貞治一塁手は打率3割4分5厘、本塁打44本、打点103点、四番・長島茂雄三塁手は打率3割1分1厘、本塁打32本、打点115をかせいでいる。その巨人が一回3点だから、だれもが勝負あったと思う。だが一回裏、一番中は渡辺秀武投手から右翼席本塁打して3対1とした。2点差ではわからない。  巨人はまた三回に3点を入れ、三回終了で6対3とした。 「こんどこそ巨人の勝ちだ」  だれでもがそう思った。しかし六回、中は一塁走者に代打・重松省三をおき、田中章投手から左翼席2点本塁打し6対5とした。  さて、この試合は7対6で大洋が逆転勝ちした。ヒーローは5打数3安打3打点、2得点の中である。 「あの試合がいまでも心の支えになっていますねえ。迷ったら練習しろ、苦しくなったら練習しろ、それしかないんだという支えですよ。2本目のホームラン打ってもどってきたら、別当さんの目がうるんでたみたい……。なんにもいわなかったけれどねえ」(中政幸) [#改ページ]    中畑清 色気のかね合いを知る  まず中畑清一塁手(駒大、巨人)の人柄を物語るエピソードから書く。  中畑が一軍昇格した昭和52年のある日、長島茂雄監督が中畑に打撃コーチをしていた。その最中、長島監督は中畑の握力が意外に弱いのを知った。 「なんだ中畑。お前、そんないい体(身長1メートル83、体重82キロ)しているわりには、握力がないんだな」  すると中畑はニコリともしないで、こんな返事をした。 「|安積《あさか》商時代から、やわらかーに、やわらかーに、家業の牛の乳しぼりをやってましたから」  福島県西白河郡矢吹町にある中畑の実家では、二男光二さんが肉屋、三男栄三さんが乳牛を中心とした畜産業を経営している。中畑は四男五女の8番目である。  牛の乳しぼりをしていたから握力が弱いという中畑の返事を聞いた長島監督、もっともな話だと納得したそうだ。  さて、そういう中畑が試合時間3時間14分を通じて、心も体もぶるぶるふるえ通しの試合があった。昭和55年4月10日、神宮球場で行われたヤクルト対巨人2回戦がそれだ。  この年、巨人は開幕3連敗、これが0勝3敗のあとの4試合目だ。だから全員の気持ちが、いまにも泣き出しそうであった。  それでも巨人は三回、八番・山倉和博捕手、一番・柴田勲中堅手、四番・王貞治一塁手、五番・ホワイト右翼手が、鈴木康二朗投手に4安打を集中、3点を先行した。巨人の先発は江川卓投手である。 「江川だから3点とれば勝つ」  巨人にそんなムードが流れ出した。ところが、それを最初にぶちこわしたのが、実は中畑だった。  ヤクルトは三回無死、七番・大矢明彦捕手が左前安打、八番・渡辺進二塁手の右越え二塁打で無死二、三塁と持ち込んだ。九番鈴木は二飛、一番・パラーゾ遊撃手は中畑の前へゴロを打った。ゴロと同時に三塁走者大矢はスタートを切った。 「大矢さんのスタートが視野に入ったので、一瞬、本塁送球だと判断したんです。タイミングは完全にアウトですからね。それがゴロを捕球したとたん、ケロッと忘れちゃって一塁送球しちゃったんです」(中畑清)  スコアが3対0と3対1では、北極と南極ぐらいの差がある。巨人はその前日、同球場での対ヤクルト1回戦でも、三回終了時点まで4対1とリードしながら、最終的には5対4と逆転負けしている。 「3対1では、また逆転負けか」  そう思うと中畑は本当に体がふるえた。だいいち、ゴロを捕球したとたん、本塁送球を忘れるようでは、プロフェッショナルではないと思う。  巨人は3対1にされたあとの四回、江川の左翼席本塁打で4対1と引き離し、問題の五回を迎えた。二番・高田繁左翼手が四球で歩き、三番中畑に打順が回ってきた。 「さっきの記録に表れないエラーを、ここで取り返したい。取り返すにはホームランだ」  安積商時代、牛の乳しぼりをした両手でバットをやわらかに、それでいて汗ばむほど握りしめた。カウント1─2後の4球目、西井哲夫投手は内角の速球を投げ込んできた。中畑はそれを左中間最深部に2点本塁打を叩き込んだ。  これでスコアは6対1。しかも登板中の江川は、四回終了時点まで3安打、3三振のピッチングをしている。中畑はダイヤモンドを走りながら思った。 「江川で6対1なら間違いなく勝った。ヒーローインタビューは決定的なホームランを叩きこんだオレかも知れない」  しかし勝ったと思ったのは中畑だけではない。この五回が終わったとき、球団職員が球場事務所でこんな電話をかけている。 「まもなく試合が終わりますから、長谷川実雄代表の車を球場正面にまわすよう手配してください」  だが世間なんて、そんなに甘いものではない。それから20数分後、もう一度、中畑が恐ろしさのあまり、ぶるぶるふるえ出すシーンが出現する。  もう勝ったと判断、迎えの自動車も到着したので腰を上げかけた長谷川代表も真っ青になって座り直した。自動車どころの騒ぎではなくなった。そのきっかけをつくったのが、またまた中畑であった——。  六回、ヤクルトの攻撃は一番パラーゾから始まった。パラーゾの当たりそこねのゴロを中畑はファンブルして生かした。そのあと二番・角富士夫三塁手の代打スコットの左翼線二塁打で1点。三番・若松勉左翼手の左翼席本塁打で、あっと気がついたら6対4。江川は六回終了でKOされていた。  それもこれも中畑のファンブルが、直接のきっかけであった。  世間には“天国と地獄”という言葉があり、戦前のプロ野球では“一寸先は闇”という、勝負を表現した名セリフがあった。20数分前に2点本塁打を打ち、「ひょっとしたらヒーローインタビューのお立ち台にのぼるのは、このオレじゃないか」そう思った男が、こんどは真っ青になってふるえるのだ。  試合は時間の経過とともに、なお、もつれにもつれた。巨人が七回1点を入れて7対4にすれば、その裏ヤクルトは3点を加え、7対7の同点にしてしまった。  巨人の7得点のうち、中畑は本塁打で2点をかせいでいる。しかし7失点のうち、中畑のエラーで最小限2点はとられた勘定になる。江川の精神的動揺まで計算すれば、3点─4点ともいえる。これではヒーローインタビューどころか、巨人の足を引っぱった男である。  7対7の同点で迎えた九回無死、巨人は一番・柴田勲中堅手が右翼線三塁打で出塁。二番高田は松岡弘投手の速球につまって二飛。ここで中畑に打順が回ってきた。0─1後の2球目、内角の速球につまって“三邪飛”を打ち上げた。それを渋井敬一三塁手がポトンと横に落とした。  エラー、本塁打、エラーと順番にくりかえしてきた中畑に、まだツキが残っていたのである。青くなったり、赤くなったりしている中畑の背中を、長島茂雄監督が叩いた。 「なあキヨシ、気楽に当てること考えればいい。スクイズはしない。だからジャストミートだけ考えてくれ」  1─1後の3球目、内角シュートがきた。中畑は左翼席中段へ決勝本塁打をぶちこんだ。  エラー、本塁打、エラーときた順番は、ここでも狂わず、きちんと本塁打と出た。 「試合中に“きょうはオレがヒーローインタビューかな”なんて考えちゃあだめなんですねえ。渋井の落球があったからいいようなものの、捕球されてたらそれで終わりですからねえ。私は“闘魂”という言葉が好きなんですが、試合中は“没我”だなあ」(中畑清)  最終的に中畑はヒーローインタビューを受けた。でも人間には色気はつきものだ。ちょっと打てば“オレがヒーローインタビューのお立ち台に”と色気を出すのは当たり前だ。男から色気をとったら、これも終わりである。問題はそのかね合いだろう。 [#改ページ]    佐野仙好 カンドウシタ サノハオトコダ  昭和52年4月29日、川崎球場で大洋対阪神3回戦が行われた。先発は高橋重行投手(大洋)と江本孟紀投手(阪神)である。  大洋は一回、一番・山下大輔遊撃手が左翼席本塁打して1点を先行した。ところが、阪神は四回一死後、観客2万5000人が腰を抜かすような、逆転劇をやってのけた。  二番・原良行遊撃手(現日本ハム)が投手内野安打、三番・藤田平三塁手が左前安打、四番・田淵幸一捕手(現西武)が四球で満塁、五番・ブリーデン一塁手は捕邪飛に倒れたが、六番・佐野|仙好《のりよし》左翼手(中大、阪神)がカウント1─2後の4球目、高橋のストレートを右翼席満塁本塁打、4対1と逆転した。  佐野は三塁ベースを回ったところで「バンザイ」をやった。当日、試合開始は午後2時である。バンザイしながら走る佐野の顔に、太陽がきらきら輝くのを私は記者席からはっきり見た。それから1時間50分後、このバンザイをしながら走る男が“頭がい骨骨折”で意識不明になろうとは考えもおよばない。  さて試合は7対6、阪神が1点リードのまま、大洋の九回裏の攻撃に移った。六番・長崎啓二中堅手が三振、七番・福島久晃捕手が左前安打(代走・野口善男)。ここで八番・江尻亮右翼手の代打・清水宏悦が左翼フェンスぎりぎりの飛球を打ち上げた。  佐野は背番号「9」を記者席に見せて背走、顔を中堅方向に向けながら好捕した。しかし好捕した瞬間、両足は空中に浮いている。しかも捕球地点から外野フェンスまで1メートル前後しかない。そのまま飛行機が着陸するように、コンクリートのフェンスに左前頭部から激突、意識不明になった。  代走野口はどうしたのか。二塁ベース近くまで走っていたが、捕球するのを確認すると一塁ベースまでもどってきた。  野口が一塁ベースにもどってきたとき、ボールは誰が持っていたのか。池辺巌中堅手が佐野のところへかけつけると、佐野は白目を出してケイレンしている。本当ならここで佐野のグラブからボールをとり、原に返球するのだが、池辺は佐野を見て仰天した。ボールはとらず、三塁側の阪神ダグアウトを見て「タンカ、タンカ。タンカだ!」とどなった。  くりかえすが、ボールは佐野のグラブに入ったままである。阪神ナインはどっと現場に走る。これと逆行するように、代走野口は一塁からタッチアップ、走りに走ってホームイン、7対7の同点にした。  こういう場合、野球規則ではどうなっているのか。    〈野球規則五・一〇〉    次の場合、球審はタイムを宣言しなければならない。    (C)突発事故により、プレーヤーがプレーできなくなるか、あるいは審判員がその職務を果たせなくなった場合——  だから、まともならタイムがかけられると思うのだが、主審・平光清は「代走野口が走りつづけていたので、タイムはかけられない」として同点を認めた。しかも記録上は佐野に“野選”がつく。  救急車で川崎駅前の太田総合病院に運ばれた佐野はレントゲン検査の結果、左前頭部に長さ8センチのヒビが入り、頭がい骨線状骨折で全治1カ月と診断された。  ここで私は思うのだ。「タイム」をかけなかった審判団は正しかったのかと。  明治38年、真下飛泉作詞、三善和気作曲の軍歌「戦友」の4節でも、こういっているではないか。  軍律きびしい中なれど   是が見捨てておかりょうか   しっかりせよとだき起こし   仮ほうたいも弾丸の中  池辺がボールをとらず、「タンカ、タンカ」と絶叫したのは人情である。人情を無視した野球規則なんて味もソッケもない。  ところで、佐野自身は私にこういった。 「事故が起きたのは六回ごろでしょう」 「打球を追いかけて行ったところまではおぼえていますが、ジャンプ捕球したことも、ぶつかったことも全然記憶にないですね」(佐野仙好)  二度と思い出したくないためか、当日の新聞記事は読んでいないのだ。さて、この事故から65日目、もう一度、佐野の運命をゆさぶるような日が訪れる。  5月30日、佐野は退院した。  私が本当に書きたいのは、佐野の事故の話ではない。どうしても伝えたいのは同年7月3日、甲子園球場で行われた阪神対ヤクルト、ダブル・ヘダー(15、16回戦)なのだ。  第1試合の15回戦は8対3で阪神が勝ったが、八回表、佐野は守備固めに出場した。あの衝撃的事件から65日、45試合ぶりの出場であった。  さて、問題の第2試合(16回戦)の先発メンバーを聞いて当日、甲子園球場にやってきた3万人の観客は感動した。「六番・左翼手佐野」と発表されたからだ。 「頭がい骨にヒビが入れば、へたすれば死んでしまう。それが立ち直って野球ができるまでになったのか」  そういう思いが観客の胸を締めつける。  二回裏無死、この回は佐野から攻撃が始まる。相手投手は安田猛である。佐野は復帰第1打席に立った。安田は初球、内角低めにストレートを投げ込んできた。佐野はそれをすくい上げるように左翼席本塁打した。 「私は昨シーズン(昭和56年)終了までに64本の本塁打を打っているんですが、一番忘れられない本塁打を選べといわれたら、あの復帰第1打席の本塁打ですね。605号室のベッドで、私は何十回、何百回考えたかわかりませんよ。“おれはもう一度、野球ができるのか。もう二度とできないのじゃないか”——。くる日もくる日も、そればっかり考えていましたからね。それが復帰第1打席で本塁打が打てたんですから。二塁ベースを回るまでは夢のようでしたね。三塁ベースを回ったら涙があふれましてねえ。ホームで出迎えてくれている次打者の池辺巌さんが、よく見えませんでした。おれはまた野球ができる、おれはまた野球ができると、胸の中でどなりながら走りましたよ」(佐野仙好)  当日、阪神対ヤクルト第2試合はラジオ放送された。 「佐野が先発で出場し、本塁打を打った——」  これを聞いて、たまりかねた阪神ファンが、阪神の合宿「虎風荘」に電話をかけてくる。「カンドウシタ サノハオトコダ(感動した、佐野は男だ)」という電報まできたそうだ。  試合途中、沼本虎風荘寮長に女性から電話がかかってきた。 「佐野の母親でございます。このたびは皆さまにご心配をおかけいたしまして申し訳ありません。ただいまラジオを聞いておりまして、ただもう涙が出てまいりまして——」  退院したあと、佐野は二軍で調整した。そして一軍へもどるとき、二軍選手が、佐野のために輪をつくり、三、三、七拍子で送り出してくれたという。 「頭が割れそうに痛かった入院直後のこと、拍手で送り出してくれた二軍選手の気持ち、これが私の心の支えになっているんです。野球ができるって幸せなんですよ」(佐野仙好) [#改ページ]    大杉勝男 恩師のビンタで目が覚める  最初に大杉勝男一塁手(岡山関西高、ヤクルト)とは直接関係のない“西本幸雄ポカリ事件”から書く。  昭和50年5月30日、西宮球場で近鉄対阪急9回戦が行われた。スコアは1対0、阪急リードのまま二回、近鉄の攻撃に移った。  無死一、二塁の場面で六番・羽田耕一三塁手が打席に入った。このとき西本幸雄監督(近鉄)は羽田に「初球は待て、バットを出すな」というサインを出した。  ところが、羽田はそのサインを確認しておきながら、初球を空振りした。あげくの果てにカウント2─2後の5球目、空振り三振した。  羽田が三塁側ダグアウトにもどってくると、西本監督がすーっと出て行った。羽田があっと思ったとき、彼の顔面に西本の左フックが叩きつけられた。これが近鉄球団史上、あまりにも有名な“西本ポカリ事件”である。  ところが、プロ野球史を掘り起こしていくと、これより8年前、試合中にグラウンドで監督が自分の部下をなぐったケースが起きている。それも西本監督のように左フック1発ではない。平手打ちとはいえ、実に6発である。  その上司とは水原茂監督(当時東映)、なぐられた部下とは、これから書く大杉勝男(当時東映)なのだ。だから試合中にグラウンドで監督が自分の部下をなぐった第1号師弟コンビは“水原茂─大杉勝男”、第2号が“西本幸雄─羽田耕一”となる。  さて昭和42年10月27日、東映と中日は韓国ソウル市民球場での帯同試合のため出発。翌28日、同球場で顔を合わした。スコアは4対1、東映リードのうち六回、中日の攻撃に移った。  中日は二死満塁としたあと、二番・高木守道二塁手が遊撃ゴロを打った。三遊間のむずかしいゴロだ。佐野嘉幸遊撃手が深い位置から大杉へ一塁送球した。 「間に合うか、間に合わないかの微妙なタイミングなんですよ。こんなとき、一塁手は捕球より数分の一秒、早く足をベースから離し、審判をけん制するんですね。なにしろ危機一髪の場面ですから、私もそれをやったんです。たまたまその試合の一塁塁審は白仁天さん(当時東映)の出身校、京東高野球部監督で“セーフ。キミの足がベースから離れるのが早すぎる”という判定なんですわ」(大杉勝男)  セーフの判定を聞いた大杉はあわてた。なぜなら捕球の次の瞬間、アウトだと思い込み、二死後だからボールをマウンド方向にころがしてしまった。  セーフと知って高木は二塁へ走る。大杉は夢中でボールをひろって二塁送球したら、これが悪送球で右中間にころがった。なお運の悪い話には、アウトだと思い込んだ外野手が、ダグアウトに引きあげてきている。宮原|務本《かねもと》右翼手が右中間最深部まで追いかけている間、高木もホームインして東映は5対4と逆転された。  ところで、三番・広野功右翼手がまた遊撃ゴロを打った。こんどは完全にアウトのタイミングである。 「なにしろ私も若かった。当時22歳ですからね。頭にきてますよ。佐野さんからの送球を捕球、アウトにしたあと一塁塁審、つまり白仁天さんの恩師の顔をにらみつけながら“これでもセーフか、これでもセーフか”と一塁ベースを三回けっとばしてダグアウトにもどってきたんです。そしたら最前列中央に腰かけていた水原監督が立ち上がって、私の前に歩いてくるんです。怖くて顔を上げられませんでした」(大杉勝男)  身長1メートル81の大杉の前に立ちふさがった身長1メートル70の水原監督は、なんといったのか。 「大杉、いまお前がとった態度はプロ野球人として正しいといえるのか」  返事につまった大杉は、苦しまぎれに答えた。 「正しいと思います」  次の瞬間、水原監督の往復ビンタが合計6発ぶっとんだ。  当日、この試合をテレビ中継していた。カメラマンが見逃すはずがない。こうして“往復ビンタ師弟第1号”は韓国中に放映された。 「鼻血こそ出ませんでしたが、目がくらみました。水原さんは試合が終わっても宿舎に帰っても、なにもひとこともいわない。私も自分の部屋で息を殺していました」(大杉勝男)  帰国してからも水原監督はなにもいわない。返事に困って「正しいと思います」と答えはしたが、自分の行動がいいか悪いかは、大杉自身が一番よく知っている。それだけに胸が痛むのだ。  だが男の運命はなお変転していく。それから約1カ月後、なぐったはずの水原監督が、大杉の肩をかき抱くようにして涙を流す場面が展開するのである。  11月8日から3日間、こんどは東映・西鉄帯同遠征が沖縄・奥武山球場で行われた。そこでも水原監督はなにもいってくれない。だからといって、当時22歳の大杉は自分からあやまりに行く勇気もない。こうして大杉は、衝撃的な11月25日昼を迎えるのである。  このとき、大杉はなに気なく昼のニュースを見ていた。そこへ「東映・水原茂監督解任」が流れた。ニュースによると新監督には当時解説者の大下弘の就任が決定したようだ。 「このままで水原さんと別れるなんて、おれはできない」  そう思った大杉は翌日午前中、東京・目黒区緑が丘2丁目にある水原監督の自宅を訪れた。 「最初は加保子夫人が現れましてね。奥さんは私がなぐられたのを知らないから、別れのあいさつにきてくれたんだろうと喜んでくれました。それから水原さんが出てきまして、愛情あふれるというか、涙のこぼれるような話をしてくれました。そしてこうもいってくれました。おれが解任されたあと、おれの前にきてくれた東映関係者、球団関係者はお前だけしかいないと——。私がプロ18年生、名球会に入れたのも、あの試合で水原さんにぶんなぐられた、あの往復ビンタのおかげなんですねえ」(大杉勝男)  昭和56年11月30日、東京・芝の東京プリンスホテルで「大杉勝男2000本安打・祝賀パーティー」が開かれ、その発起人が水原茂であった。なぐられた試合から14年の歳月が流れていた。 [#改ページ]    山崎裕之 たった一言が運命を変える  山崎裕之二塁手(上尾高、西武─引退)に、本書の狙いどころを説明すると、ぽんとはね返ってきたのが、18年前のこの試合である。人間、18年たてば記憶もあやふやなものになる。それが山崎の場合、ぽんとはね返ってきた。 「おれがいまあるのは、あのときの、あの試合の、あのプレーがあったからだ」  そういう思いが、いつも山崎の胸の中に住みついていたからかも知れない。  昭和40年8月3日、東京球場で東京(現ロッテ)対西鉄14回戦が行われた。細かな得点経過は省略するが、小山正明投手(東京)と稲尾和久投手(西鉄)の投げ合いで、延長十回終了時点でスコアは3対3の同点である。  さて延長十一回表、西鉄の打順は九番稲尾からだ。稲尾はカウント2─2後の5球目、遊撃手の正面にゴロを打った。遊撃手は新人山崎である。  山崎は「ゴロがきた」——それだけで脳天が火のように熱くなった。あとはよくわからない。気がついたら身長1メートル86のパリス一塁手がジャンプしてもとどかない一塁高投をしていた。こんどは心臓が凍りついたようになった。  これで稲尾は二進。一番・玉造陽二左翼手の捕前バントで稲尾は三進。二番・伊藤光四郎右翼手は三邪飛に終わったが、三番・アグイリー一塁手が1─1後の3球目、中前安打して西鉄は4対3で勝った。  ところで、話は試合終了後における東京ロッカーに移る。  山崎の一塁高投は延長十一回表に出たのだから、“サヨナラエラー”ではない。しかし山崎のエラーで出塁した稲尾がホームイン、決勝点となったのだから、実質的には“サヨナラエラー”みたいなものだ。  真っ青になっている山崎の体を、先輩たちの白い目が、ぶすぶすと突き刺す。 「なんだ6000万円も取りやがって」——その白い目には、そう書いてあった。山崎は昭和11年プロ野球が創設されて以来、昭和40年時点では契約金史上最高の6000万円をもらって入団した。その山崎が“サヨナラエラー”同然のプレーをしたのだから、先輩たちは白い目をむく。  すると、そこへ本堂安次監督がやってきた。 「なあ山崎、さっきのプレーを見たが、お前、(腕が)かじかんでるわ。このまま試合に出ても意味がない。しばらく二軍で勉強してこい」  山崎はくるものがきたと思った。男の運命なんて不思議なものだ。その1年前の39年10月25日には契約金6000万円もらい、「長島茂雄二世、新人王確実」と騒がれた山崎が、シーズン途中で二軍落ちだという。  本堂監督が二軍行きを指示したあと、こんどは濃人渉ヘッドコーチがやってきた。濃人はボソリとした顔つきと声で山崎を誘った。 「山崎、ちょっと話がある。一緒にフロに入らんか」  濃人と山崎は東京球場のフロに入った。 「よく聞けよなあ山崎。きょうの試合はお前のいってみれば“サヨナラエラー”みたいなもので負けた。その結果、お前は二軍へ行く。だが、くさるなよ。実力をつけるチャンスをあたえられたと考えるんだな。それから先輩たちの中には、やっかみ半分のヤツもいる。人間だから仕方がない。だけどなあ山崎、お前がプロ野球で飯を食っていこうとするなら、これだけは忘れるな。“サヨナラエラー”同然でチームに迷惑をかけたら、“サヨナラホームラン”でそれを帳消しにする——それぐらいの気概を持つことだ」  首まで湯につかりながら、山崎はあわてて両目をこすった。湯より熱いものが、不覚にもこぼれ落ちそうになったからだ。  かくて翌日から山崎は二軍に落ちた。だから新人の年、彼は71試合しか出場していない。  それから14年の歳月が流れた昭和54年10月3日、所沢球場で西武対南海13回戦が行われた。ダイヤモンドをゆっくり走りながら「濃人さんの顔が思い出されてならなかった——」(山崎裕之)という快挙を、山崎はやってのける。  細かな得点経過は省略するが、九回表、南海の攻撃が終わった時点で、スコアは7対6、1点差で南海がリードしていた。  さて九回裏、西武の攻撃に移った。無死、一番・マルーフ左翼手の代打・長谷川一夫が、金城基泰投手から右翼席本塁打、7対7の同点にした。これからあとの西武の逆転劇は、竜巻のような速度と破壊力を持っていた。  二番・立花義家中堅手の代打・鈴木葉留彦が左前安打、三番・土井正博一塁手が四球、四番・指名打者・田淵幸一は三振したが、五番・タイロン右翼手は右前安打して一死満塁とした。六番山崎はカウント1─2後の4球目、金城の速球を左中間最深部へ“満塁・サヨナラ本塁打”し、西武は11対7で逆転勝ちした。  山崎は一塁ベースを回った地点でバンザイをした。それから二塁ベースをふんだ瞬間、濃人の顔を思い出した。  山崎は三塁ベースに向かって走りながら、こういう濃人のセリフを耳もとで本当に聞いたと思った。 「悔しかったら“サヨナラ本塁打”を打ってみろ」  東京球場のフロの中で濃人にさとされてから、14年目にそれを実現したことになる。その夜、山崎は東京・新宿区弁天町の自宅、クレセントマンション602号室へ帰ってくると、栄子夫人がとびはねるように出てきた。 「友だちから満塁サヨナラ本塁打したよって、電話が何本も入っていましたから、女房はもう知ってました。でも濃人さんの話は私だけの問題ですから。新人時代のあのエラーとプロ15年生で打った、あの満塁サヨナラ本塁打は忘れられないなあ」(山崎裕之)  山崎二軍落ちの判断をし、指示をしたのは本堂安次監督である。それはそれでいい。だが濃人のような、心の温かい管理者がいたからこそ、それから14年間もすぎて、熱狂する所沢球場の中で山崎は、濃人の顔とセリフを思い出した。  突き放し、知らん顔するだけなら、だれでもできる。欲しいのは湯のように熱い心なのである。 [#改ページ]    河埜和正 “サル業”を生んだ舞台裏 「あれは人間業ではない。サル業だ」といわれたプレーが、プロ野球史上三つある。そのサル業を書く。  昭和49年7月22日、西宮球場でオールスター第2戦が行われた。3対2とリードした全セは五回一死後、二塁走者に藤田平遊撃手(阪神)、一塁走者に衣笠祥雄三塁手(広島)をおき、三番・田淵幸一捕手は神部年男投手(当時近鉄、現ヤクルト)から、左中間最深部へ45度の角度で大飛球を打ち上げた。  福本豊中堅手(阪急)は打球を追ってラッキーゾーンへ接近、あっと思った次の瞬間、音もなく金アミのてっぺんによじのぼった。そして上半身をラッキーゾーンへ30センチほど倒し、グラブを高々と差し出した。すると打球はすーっと、そのグラブに吸いこまれた。「あれは人間じゃない。サルだ、サル業だ。サルの演技だ」とうなったのは、長島茂雄三塁手(巨人)である。  次のサル業人間に移ろう。  昨年9月16日、西宮球場で阪急対ロッテ11回戦が行われた。一回表一死後、二番・弘田澄男中堅手は山田久志投手から左翼方向に飛球を打ち上げた。山森雅文左翼手は左斜めに背走して行く。打球は山森の頭上を越え、ラッキーゾーンに落ちるかに見えた。  このときである。山森はするすると金アミによじのぼった。ここまでは福本と同じだが、これから先が違う。福本の場合、下半身を金アミにひっかけ、上半身だけを金アミの上からラッキーゾーン内部へ30センチほど倒した。つまり下半身そのものはグラウンドに残っていた。  だが山森の場合は違う。するすると体全部が金アミのてっぺんに登りきった。金アミ頂上部の金具は横幅3センチぐらいしかない。そこに右ひざをつき、左足スパイクを乗せ、バランスを保った。それからぱっと左腕でグラブを差し出すと、1秒の何分の1後、スポンと打球はグラブに入った。  山森は捕球後、3メートルも頂上からグラウンドにとび下りた。山森は後楽園にやってくると、外野フェンスの頂上部、横幅約10センチの上を走って“フェンス上捕球”の練習をするそうだ。  いまから34年前、平山菊二左翼手(当時巨人)という“へい際の魔術師”がいたが、山森こそは“金アミ上の魔術師”である。  さて3番目に登場する“サル業人間”が、これから書く河埜和正遊撃手(八幡浜工、巨人)である。  昭和49年7月27日、川崎球場で大洋対巨人13回戦が行われた。大洋は二回裏二死後、三塁走者に江尻亮右翼手、一塁走者に松原誠一塁手をおき、四番・シピン二塁手が打席に入った。  シピンは下手投げに弱い。そこで川上哲治監督はここで関本四十四投手を下手投げの小川邦和投手に代えた。カウント1─1後の3球目、小川は外角高めに流れるカーブを投げた。いつものシピンなら空振りしてくれる。それがこの日に限って、出合い頭にジャストミートした。  打球はジェット戦闘機が離陸するように、目もくらむようなスピードで左中間方向へとんだ——。だれもが左中間二塁打か三塁打かと思った。ところがどうだ。打球は途中でぱっと消えた。なぜ消えたのか。河埜がなんと“垂直とび80センチ”で空中で浮き上がり、宇宙遊泳のように捕球したのである。  もつれにもつれたこの試合も11対6で巨人が勝ち、小川が勝ち投手になった。もし河埜の宇宙遊泳守備がなかったら、巨人は勝てていたかどうか。 「あの守備で“おれは遊撃手として飯を食っていける”という自信みたいなものが出てきましたね。たしか三塁寄りに三歩ほど走ったあと、ジャンプしたと記憶してます。グラブのアミに打球はひっかかったので、捕球の瞬間は実感がなかった。着地してはじめて“捕球したのか”とわかったんですよね」(河埜和正)  河埜はどうして“垂直とび80センチ”もできたのか。愛媛県八代中学時代、バレーボール部員だったからだ。中学三年生で身長1メートル76、“垂直とび80センチ”だったから、愛媛県でも鳴らしたアタッカーである。  それが、なぜ八幡浜工高に進学すると、硬式野球部に転向したのか。男のたどる運命なんて、つくづくわからないものだと思う。  河埜の実家のある愛媛県八幡浜市古町の隣に、八幡浜工硬式野球部・酒本脩二郎野球部長(現在は大洲市・大洲農業高校野球部監督)の家があった。当然、酒本野球部長が河埜を見逃さない。 「酒本先生に誘われたというか、口説かれたというか、肩が強かったので二年生までは捕手なんです。三年生になって遊撃手に転向したんですよ」(河埜和正)  人間と人間の結びつきというか、出会いほど不思議なものはない。もし河埜が酒本野球部長の隣に住んでいなければ、そのままバレーボールをつづけたと思う。そうなれば河埜の運命も、巨人軍球団史もまた、ずい分と変わったものになっていたはずだ。  だが、もう一人、河埜を語るとき忘れてはならない人物がいる。昭和45年、河埜がドラフト6位で入団したとき、二軍守備コーチだった須藤豊である。  須藤はバレーボールで鍛え抜かれた、すばらしい筋力とバネをどうしたら遊撃手と結びつけることができるか、そればかりを考えた。そして1年間、考えに考え抜いたあげく、46年3月、そのアイデアを多摩川のグラウンドキーパー、務台三郎に打ち明けた。 「とにかく河埜はバレーボールやってましたから、“垂直とび80センチ”をやるんです。肩も鉄砲肩なんですよ。そこで河埜に“おれはプロ野球NO・1の強肩遊撃手なんだ”という意識を持たせることから出発しようと思いましてね。河埜の意識革命を狙って務台さんに相談したんです」(須藤豊)  そのアイデアとはこうだ。河埜はプロ球界強肩NO・1遊撃手なのだから、守備位置をいまより3メートルほど後退させたい。しかし、ただ「3メートル後退してみろ」では、意識革命の効果がうすい。  そこで内、外野の切れ目になっている境界線の芝生を3メートルほど刈り込み、河埜を土と芝生との接点に立たす。そうすると河埜の意識の中に「深い守備位置だなあ」という実感が芽をふく。それが自信と実利にもつながるという、須藤アイデアなのだ。 「芝生を3メートル刈り込むというても、遊撃手の後方だけ刈り込むんじゃないんです。一塁方向もバランスよく刈り込むんです。務台さんが一日で作業を完了してくれましたので、河埜も深い守備位置で練習できたんです」(須藤豊)  さてこの須藤方式、実戦にどう結びついたのか。  昭和49年7月27日、川崎球場で大洋対巨人13回戦が行われた。大洋は二回裏二死後、三塁走者に江尻亮右翼手、一塁走者に松原誠一塁手をおき、四番・シピン二塁手はカウント1─1後の3球目、高めのカーブを叩いた。どんな打球が左中間方向に飛んだのか。試合のあと、福田昌久コーチ(当時巨人)はこういってうなった。 「最初、地面をなめるように伸びたが、そのままぐーんと本塁打になるのかと思った」  その打球が途中ですっと消えた。三塁寄りに三歩ほど走ったあと、河埜が“垂直とび80センチ”、グラブの最先端のアミに引っかけて捕球したからだ。もし河埜が他球団の遊撃手と同じ守備位置にいたら、ジャンプしても頭上1メートルを抜かれる三塁打になっていたと思う。  六回裏一死後、米田慶三郎遊撃手が三遊間へゴロを打った。河埜は三遊間最深部で逆シングルで捕球すると、鋭い腰のひねり、強肩でアウトにした。須藤のアイデア、務台キーパーの技術、河埜の強肩——この三つが一瞬にとけ合い、一瞬に実ったアウトである。  この試合から4カ月後、大リーグのメッツが日本にやってきた。当時のヨギ・ベラ監督は「年俸は二倍に、ボーナス5万ドル出すからメッツにこないか」と河埜を口説きつづけたが、その舞台裏の苦労は知るよしもない。 [#改ページ]    藤田平 先輩の温情が大器を生む  新人が失敗をして、先輩に迷惑をかけたら、新人は死ぬような思いをするだろう。その胸の内を藤田平一塁手(当時遊撃手。市和歌山商、阪神)は、淡々と語ってくれるのである。  昭和41年4月29日、ナゴヤ球場(当時中日球場)で、中日対阪神4回戦が行われた。新人藤田は二番・遊撃手として先発メンバーである。  さて、試合は小川健太郎投手(中日)と村山実投手(阪神)の投げ合いで始まった。細かな得点経過は省略するが、六回表阪神の攻撃が終わった時点で、スコアは2対0、阪神がリードしている。 「きょうは勝てる——」  阪神ナインがそう思い込みはじめたとき、運命の六回裏を迎えた。中日は六回二死後、一塁走者の中利夫中堅手が、打者権藤博遊撃手(投手から転向。現評論家)の2球目に二盗。権藤もまた四球で歩き一、二塁とした。  打席に三番・高木守道二塁手(現コーチ)が入った。高木はカウント2─3後の6球目、やや三遊間寄りの遊ゴロをころがした。打球を追いながら、とっさに藤田はなにを考えていたのか。 「高木さんは二死後、カウント2─3のフルカウントから打っているんです。だから二人の走者は自動的にスタートを切っていますよ。しかも打球は三遊間寄りですから、とても二封は無理なんですね。そこで、とっさの間に二塁走者の中さんを三封しようと思って、三塁手の朝井茂治さんに送球のゼスチャーをしかけたんです。ところが中さんは足が速いうえ、スタートを切っている。とても間に合わない。そこであわてて一塁送球したら、こっちもセーフで二死満塁ですよ」(藤田平)  藤田の一瞬の判断ミスで、阪神は二死満塁とされた。新人藤田は公式戦5試合目である。 「おれのために二死満塁か」  そう思っただけで、毛穴という毛穴から、冷たい脂汗がふき出るのだ。  だが、藤田をめぐる話はこれで終わっていない。終わっていないどころか、実はここから始まるのである。  中日は二死満塁の場面で四番・江藤慎一一塁手が打席にのそりと入った。そしてカウント1─1後の3球目、江藤は村山のフォークボールを左翼席へ満塁本塁打して逆転した。  藤田は自分の目の前を高木守、江藤が順番に走って行くのを見ながら、これがプロフェッショナルというものかと思った。こちらが毛で突いたほどのスキを見せたら、そこに洪水のように押し寄せるのがプロフェッショナルだとも思った。  そればかりではない。五番・スチブンス左翼手のとき、ダグアウトから杉下茂監督が出てきて村山を若生智男投手に交代させた。  六回表までは2対0で、阪神がリードしていたのである。先発村山は中日を無得点に抑えていた。それを自分が判断ミスしたため、先輩村山さんは満塁本塁打を打たれ、交代される——。そう思うと藤田は針のムシロである。  しかも藤田自身、七回には代打・和田徹に代えられた。もちろん、試合は5対2で阪神が負けた。負け投手は村山だが、“敗因”は藤田がつくったと考えていい。公式戦5試合目の新人が、大黒柱村山の足を引っぱったのだ。そのつらい気持ちは、私には刺すようにわかる。  阪神の名古屋遠征の宿舎、名古屋市中区南桑名町の旅館「みその」に帰ってきた藤田は、いても立ってもいられない。できたら荷物をまとめて郷里の和歌山へ帰りたい気持ちである。 「晩飯も食えないで、自分の部屋にじっとしていると、村山さんがすっと入ってきましてねえ。私に声をかけてくれるんです。“おい藤田、映画に行こうか”——。あの頃、深夜映画というのがありましたから。題名は忘れちゃいましたけれど、村山さんと並んで洋画見ましたよ。でも、映画見ている間じゅう、隣にいる村山さんの気持ち考えると、申し訳ないやら、熱いものがこみ上げてくるやら。映画のストーリーはよくわかりませんでしたね」(藤田平)  あのとき、村山にこのバカヤローとどなられていたら、藤田はとっくに忘れていて本書にこの話は登場しなかったと思う。  男はいつ、どこで、なにがきっかけで本気になるかわからない。藤田の場合、同僚の喧嘩が直接の原因で、故障部の左大腿部の不安がふっきれた。  話を順を追って伝えてみよう。  昭和54年4月17日、神宮球場でヤクルト対阪神1回戦が行われた。さて六回表二死後、藤田は水谷新太郎遊撃手の前にゴロを打った。このときである。左大腿部の肉離れを起こしたのは——。  このケガは意外に長びいた。たとえば同年7月16日、米国ロサンゼルスにある“外科手術専門治療所”に入院した藤田は、ここで筋力強化のリハビリテーションを2週間にわたって受けている。その年が終わってみたら、藤田の成績の記録は「試合数18、打数40、安打11、打率2割7分5厘、得点1、打点3、本塁打0」しか残っていない。  ところで翌55年、奇妙な“藤田流・カネのワラジ治療法”が始まった。鉄でつくった重さ5キロのゲタをはいて歩く。ただし故障の左足にだけで右足は桐ゲタかスニーカーである。 「ひとつ年上の姉さん女房は、カネのワラジをはいても探せ」という。幸子夫人はひとつ年上である。だが、シャレで重さ5キロの鉄ゲタをはいたのではない。筋力強化のためにはいたのだ。  しかし、私たちにも体験がある。ぎっくり腰体験者は、社内野球のとき、打席に立っても頭のどこかに「もしまた、ぎっくり腰になったら——」という不安が残り、夢中でバットを振れない。藤田もそれと同じで、内野ゴロを打っても、おっかなびっくり走っていた。  それがある事件をさかいに、ふっきれた。それがこれから書く試合である。  昭和55年9月15日、甲子園球場で阪神対ヤクルト20回戦が行われた。阪神は二回裏、一塁走者ボウクレア中堅手がスタートした。ボウクレアが二塁ベースにとび込んでくるコースに、大矢明彦捕手の送球が重なってきた。二塁ベースに入ったのは水谷遊撃手である。こうなれば物理的にボウクレアと水谷は激突する。  人間、激突すればだれでもカッとくる。まして相手は外人で英語でわめかれたら、よけい頭に血がのぼる。  こうしてボウクレアと水谷の小ぜり合いが始まった。同僚が小ぜり合いを始めたら、両チームのナインも、この野郎、やるかという気分になる。ボウクレアと水谷が小ぜり合いを始めた瞬間、一、三塁ダグアウトから、どっと全員が“現場”へ走った。  ところが、なんと一塁側阪神ダグアウトから真っ先にとび出し、集団のトップを切って“現場”へ走ったのは、カネのワラジをはいているはずの藤田だった。  阪神にも加藤博一中堅手(現大洋)、北村照文右翼手と足の速い男はいる。それよりなにより、藤田より足の遅い男はいない。それなのに藤田が集団のトップで現場へ到着した。 「一緒に野球やっている仲間が、もみ合っているのに、ダグアウトに座ってられませんからねえ。それが男というものでしょう」(藤田平)  つまり藤田はこの瞬間、左大腿部肉離れも、なにもかも忘れ、全力で走りに走ったのである。  乱闘事件は起きなかった。主審・竹元勝雄、二塁塁審・谷博などが走り回って、なだめ、すかし、とめたからだ。でも、藤田は騒動がおさまって、ふと気がついたそうだ。 「おれの足は完全に治ったんだ」  それはそうだろう、チームNO・1の鈍足が左大腿部の肉離れというのに、集団のトップを走ってなんでもないのだから。  この自信が翌56年、打率3割5分8厘の首位打者につながった。だが、私はここで人間のめぐり合わせの不思議さにおどろくのである。藤田が最初、左大腿部の肉離れを起こしたのも水谷への遊ゴロ、そして自信を持ったのもまたボウクレアと水谷をめぐるトラブルであった。 [#改ページ]    山下大輔 逆転劇から外された疎外感  最初に、ものにこだわらない山下大輔遊撃手(清水東高、当時慶大、大洋)のエピソードから書く。  昭和47年4月22日、神宮球場で慶大対立大1回戦が行われた。スコアは3対3の同点のまま延長十二回裏、慶大の攻撃に移った。二死後、二塁走者に臼井喜久男右翼手(飯商)をおき、三番山下に打順が回ってきた。たいていの男なら、顔から血の気の引く場面である。  ところが、山下はウエーティングサークルを出ながら、ダグアウトにいる大戸洋儀監督に話しかけた。 「ライト前、ライト前——」  つまり中村憲史郎投手(横浜南高)の外角球を右前打するという話である。  大戸監督は腰を抜かした。なぜなら、馬場秋広捕手(横浜南高)がマスク越しに、こちらをうかがっているからだ。  だが、山下はカウント1─0後の2球目、予告通り中村の外角球を持田幹雄右翼手(熊谷高)の右斜め前に、ワンバウンドのサヨナラ安打した。同僚に抱きつかれ、頭をなぐられながら、大戸監督と目と目が合うと、山下はニコッとしながらいった。 「ね、監督、やっぱりでしょう」  さて、そういう山下を私は横浜球場でインタビューした。私が本書の狙いを話すと、一瞬、山下の顔がくもった。それから10秒間ほど両手で後頭部をかかえこんだ。そのあと、ポツリ、ポツリとしゃべってくれたのが、これから書く試合である。ものにこだわらない山下にしては、ずい分と深刻な思い出を持つ試合のようだ。  昭和50年4月29日、川崎球場で大洋対巨人4回戦が行われた。先発は坂井勝二投手(大洋)と高橋一三投手(現日本ハム)である。両チームとも坂井、高橋、それに六回からリリーフした小川邦和投手崩しに決め手がない。気がついたら、八回終了時点まで0対0のままだ。  ところが、速いペースですすんだ試合ほど、大詰めで荒れる。くりかえすが、ものにこだわらない山下が、ふるえ上がる場面が九回表、巨人の攻撃で起きた。  巨人は九回無死、七番・矢沢正捕手の代打・萩原康弘(現広島)が四球で歩いた。この瞬間からウソのように坂井が崩れ始めた。八番・河埜和正遊撃手の左腰に死球で無死一、二塁とされると、頭に血がのぼった。九番・淡口憲治左翼手の右肩にも死球をあたえ、なんと無死満塁と持ち込まれてしまった。  一番・柴田勲中堅手を迎えたところで、間柴茂有投手(現日本ハム)がリリーフに登場した。 「九回表、0対0、無死満塁」こういう状況を考えて、谷岡潔三塁手、山下、シピン二塁手、松原誠一塁手の大洋内野陣は数メートル前進守備をとり、本塁送球にそなえた。そして柴田のゴロが三遊間へとんだ。 「ゴロがきた瞬間、体中がカーッと熱くなりましてね。当時、まだプロ2年生ですから。あとは夢中ですよ。逆シングルで捕球して本塁送球したんです。だけど、体がカチンカチンになってますからね。ボールを握っている時間が長すぎたんですかね。ボールがとどかないんですよ。捕手の伊藤勲さんの前でワンバウンドしちゃって、それを伊藤さんが後逸したんです。それで2人の走者がホームイン、2対0ですよ。川崎球場は満員でね。怒りとタメ息が聞こえてくるんです。遊撃のポジションに立っていても、心は地獄だったなあ」(山下大輔)  なお無死二走者を残したが、二番・土井正三二塁手は二飛、三番・ジョンソン三塁手、四番・王貞治一塁手が連続三振して巨人は2点に終わった。 「ダグアウトへもどってきたら、誰もなんにもいわない。だいいち、誰も私の目を見ない。あれはこたえました。せめて“このヘタクソ野郎”ってどなってくれる先輩がいると救われるんですがね」(山下大輔)  だが、私はなお山下を取材していておどろいた。山下の悲しいというか、つらい思い出の試合として、このエラーは半分の部分しか占めていない。あとの半分の部分が残されていたのだ。 「九回裏の攻撃中に起きたんですが、あれもエラーしたときと同じように、つらくてつらくて」  それなら残りの半分とはなにか。大洋は九回無死、七番・江尻亮右翼手が左翼線二塁打、八番伊藤が中飛に倒れた。九番間柴の代打・長田幸雄が四球で、一、二塁となったところで、長島茂雄監督は小川を倉田誠投手に代えた。だが一番・中政幸左翼手も四球で歩き、大洋もまた一死満塁に持ち込んだ。  野球はドラマだというのは、ここらあたりなのか。打順は二番山下に回ってきた。安打で同点、長打なら逆転場面である。 「ウエーティングサークルで待っているとき、本当に胴体がぶるぶるふるえましたね。頭にあったことはただ一つ、一死満塁ですから低めにバットを出し、併殺だけは食うな——それだけです」(山下大輔)  中が四球になった瞬間、山下は打席に向かって歩き出した。このときである。背中から秋山登監督に声をかけられたのは——。 「おい山下——」  山下は振り返って、あっと思った。自分で胃袋のあたりから、すーっと血の気が引いていくのがわかった。秋山監督の後方でバットを2本持った福島久晃捕手が、ダグアウトから出てきた。つまり自分の代打である。  秋山監督は無言のまま山下の前を通りすぎると、主審・松橋慶季に伝達した。 「山下の代打福島」  世間なんて甘いものではない。数分前エラーした山下が、いま一死満塁の場面で逆転打を打てば、涙と感動のドラマ・ストーリーができあがる。それなのに秋山監督はそのチャンスさえあたえてくれない。  この日の山下は第1打席以下、三振、中前安打、四球、投ゴロ、出塁率5割なのに、秋山監督はすとーんと切って捨てたのだ。  しかし、この代打策は成功した。福島の左前安打で1点。三番・松原誠一塁手の右前安打で2対2の同点とした。2万6000人の観客は酒に酔ったようにしびれている。四番・シピン二塁手は三ゴロ、中は本封された。しかし、なお二死満塁の場面に五番・長崎啓二中堅手が中前安打し、大洋は3対2で逆転・サヨナラ勝ちした。  一度は山下のエラーで負けた試合である。それが夢のように逆転した。一塁側ダグアウトの屋根から、ファン10数人がバッタかイナゴのように飛び下り、選手に抱きついた。  しかし、山下だけは不思議な生理現象に悩んでいた。体の右半身は熱いのに、左半身はしーんと冷えているのだ。自分だけが逆転劇の仲間から外された疎外感のぶんだけ、体の半分が冷えて燃えない。 「もうプロ9年生になっちゃいましたけど、あの試合はいつも頭の片隅に残っているなあ。勝った喜びより、プロフェッショナルの恐ろしさが忘れられないって、実感ですねえ」(山下大輔) [#改ページ]    大橋穣 守備の名人も一球に泣く  大橋|穣《ゆずる》遊撃手(亜大、阪急)が、どれほどの名人芸を持っているのか。たとえば、こんな資料がある。  昭和51年8月22日、西宮球場で阪急対日本ハム8回戦が行われた。日本ハムは四回表二死後、一塁走者に指名打者・永淵洋三をおき、七番・加藤俊夫捕手(現大洋)が遊ゴロを打った。それを大橋がポロッと前にはじいた。この瞬間、大橋がつづけていた「144回にわたる守備機会連続無失策のパ・リーグ記録」は終わった。  私は大橋の持つこの記録を前にタメ息が出るというか、気の遠くなるような思いがする。144回もゴロがきて1個も失策をしないなんて、人間業では考えられない。要するに“守備の名人”である。  だが、人間なんて不思議なものだ。それほどの名人・大橋が私に向かっていうのだ。 「あのときのライナーをなぜ落としたのかと思うと、いまでも眠れないんですよ」  社内野球の遊撃手がいうのではない。144回連続無失策で打球をさばいた男がいうのだ。  昭和53年10月18日、西宮球場で阪急対ヤクルト日本シリーズ第4戦が行われた。あれから4年たったいまでも大橋の頭にこびりついて離れないというシーンは、六回表、ヤクルトの攻撃中に起きた。  スコアは4対0、阪急のリードのうち六回表、ヤクルトの攻撃が始まった。九番・井原慎一朗投手の代打永尾泰憲(現阪神)が二塁内野安打、一番ヒルトンの中前安打で無死一、二塁とした。  ここで問題の二番・船田和英三塁手が打席に入った。スコアは4対0だから船田は打った。打ったのはいいが、今井雄太郎投手のシュートにつまり、ハーフライナーが大橋の前にとんだ。 「心持ち二塁ベース寄りで、数メートル前につまったハーフライナーがとんできたわけですね。しんに当たったライナーなら、体が勝手に動いてくれるんですが、ハーフライナーですから、タイミングを合わせながら突っ込んだんです。ところがグラブの土手に当てちゃって落としたんです。タイミングが10分の1秒ぐらいズレたんですね。記録はエラーですよ」(大橋穣)  これでヤクルトは無死満塁である。このあと三番・若松勉中堅手の右前安打、五番・杉浦享左翼手の一塁線安打などで4点、ヤクルトは同点に持ち込んだ。  だが、これだけなら大橋も一生忘れられないプレーにならない。4対4で迎えた九回表二死後、一塁走者に代走・渡辺進をおき、ヒルトンが左翼席本塁打をとばし、6対4でヤクルトが勝ったのである。 「翌日の新聞を読んだらですね、“ヒルトンは下手投げに弱い。九回二死後なのだから、なぜヒルトンひとりに足立光宏投手を持ってこなかったのか”という批判が多いんです。そして、どの新聞を読んでも“大橋の落球が同点のきっかけになった”とは書いてない。それだけに胸が痛みましたねえ」(大橋穣)  それだけではない。この日本シリーズは3勝3敗になった。そして10月22日、後楽園球場で行われた運命の第7戦の六回裏一死後、四番・大杉勝男一塁手の左翼席本塁打をめぐって「あれはファウルじゃないか」という上田利治監督の“1時間19分”の抗議場面となる。だが、ここでも4対0で阪急は負けた。 「私がエラーした第4戦に勝っていれば、阪急の3勝1敗なんですよ。だとすれば多分、第7戦まで展開しなかったのではないか。あの歴史的なホームラン事件も起きなかったのではないか。それもこれも、私が落球しちゃったからかなあと、思いは果てないんですよ」(大橋穣)  社内野球でも失策をすると「あのとき、あそこで、おれがあんなプレーさえしなければなあ」と、ヤケ酒をあおりながら、やり切れない思いに落ち込む。大橋の胸の内を聞くと、それとちっとも変わっていない。名人でも社内野球でも思いは同じなのだ。野球は人間がやっているのである。  日本スポーツ界史上、“顔”以外のところに“目”がついているといわれた男が二人いる。一人は先代若乃花(現二子山親方)。もう一人は大橋穣遊撃手である。  若乃花は体重105キロしかなかった。それでも160キロ級の相手に押し込まれ、両足が俵にかかると動かない。それでも押しに押すと俵の上を踊るようにつたわって、どこまでも逃げる。ときには足の親指1本で逃げる。そういうところから「若乃花のカカトには“目”がついているんだ」と恐れられた。  それなら大橋の“目”はどこについているのか。“右手指先”といっていい。一塁送球が正確だからだ。捕球もそうだが、一塁送球のコントロールも正確でなければ「144回守備機会の無失策パ・リーグ記録」は作れるものではない。  私は“右手指先”に目のある大橋に、本書の狙いどころを話した。すると、しばらく考え込んだ大橋は、こういう返事をするのだ。 「あのプレーから4年すぎましたが、夜中にふと目をさまして思い出すと、毛穴という毛穴が総毛立つプレーがあるんです」  プロ野球とは恐ろしいものだ。右手指先に目のあるといわれる大橋でさえ、毛穴が総毛立つというのである。  昭和53年9月23日、藤井寺球場で近鉄対阪急13回戦が行われた。近鉄にとってこの試合がいかに重い意味を持つかは、次の資料を見ていただければわかる。この試合の始まる時点で、首位近鉄は64試合、39勝19敗6分け、勝率6割7分2厘。2位阪急は62試合、36勝18敗8分け、勝率6割6分7厘でゲーム差は1。つまり近鉄は、この後期最終戦に勝つと後期優勝が決まる。逆に阪急が勝つと、なお残り2試合があるから、逆転優勝の可能性も出てくるという、どちらも優勝を賭けた試合なのだ。  先発は鈴木啓示投手(近鉄)と山田久志投手(阪急)で始まった。さて近鉄は一回裏一死後、二番・小川亨一塁手が中前安打、三番・佐々木恭介右翼手は三振に終わったが、四番・栗橋茂左翼手、五番・アーノルド二塁手が連続四球で歩き、二死満塁と持ち込んだ。  なにしろ優勝がかかっている。さすがの山田も脂汗が浮かんできた。しかも山田は六番・指名打者・有田修三の初球に暴投を記録。三塁走者の小川がホームイン。なお二、三塁のピンチ場面である。もしここで有田に安打されると3対0になり、阪急は苦しくなる。  カウント2─2後の5球目、山田はカーブを投げた。それが真ん中に入った。有田はジャストミートした。 「やったあ。三遊間を抜いた」  だれもがそう思った。だが次の瞬間、大橋の下半身が地面をなめるようにすーっと三塁寄りに移動、三遊間最深部で逆シングルで捕球した。 「三遊間の最深部で逆シングル捕球した場合、ステップしなおして一塁送球したら間に合いません。有田君のゴロをとったときも、ノーステップのノーバウンド送球でした。コントロールをつけている余裕なんかありませんよ。とって振り返ったときは、もうボールを離してましたねえ」(大橋穣)  大橋の一塁送球は目もくらむようなスピード、コントロールで高井保弘一塁手のミットに吸い込まれた。有田の足で1歩分、間に合わなかった。  試合は4対2で阪急が逆転勝ちした。もし有田の打球が抜けていたら、阪急は逆転できていたかどうか。さらに阪急は残りロッテ戦にも勝って逆転優勝した。  この試合に勝ち18勝4敗になった山田はMVPに選ばれた。しかし大橋を評価する声はほとんど聞かれなかった。でも大橋はひとり、夜中に目をさましては、自分のプレーに全身を総毛立たせたり、同時にしびれたりしている。 [#改ページ]    水上善雄 無念は試合で晴らせ  水上善雄遊撃手(桐蔭学園、ロッテ)に本書の狙いどころを説明した。すると私が腰を抜かすような、返事がはね返ってきた。 「私の運命を変えたのは、あの原辰徳(巨人)なんですよね」  なぜ、原が水上の運命を変えたのか。ひとりはロッテの遊撃手、ひとりは巨人の三塁手、全く関係のなさそうな二人なのに、運命の糸ではつながっていたのである。  さて、水上は横須賀市|不入斗《いりやまず》にある不入斗中学時代、投手であった。桐蔭学園に進学してからは投手兼遊撃手になった。それが桐蔭学園を卒業する時点では、すっぱりと投手をあきらめ、遊撃手専門になろうと思った。実はそこの接点に原辰徳が立っているのだ。  ここで話は昭和50年7月、第57回全国高校野球選手権大会神奈川大会に移る。水上のいる桐蔭学園は1回戦抽選勝ち、2回戦で湘南高を5対1、3回戦で柏陽高を11対1、4回戦で三浦高を7対0で破り、準々決勝に上がってきた。  水上が3年生の夏である。  ところで、このとき2年生原のいる東海大相模高も1回戦で抽選勝ち、2回戦で麻溝台高を10対5、3回戦で横浜高を5対1、4回戦で大和高を8対0で破り、準々決勝にすすんできた。  当時の主力メンバーはこうだ。一番・佐藤功中堅手、二番・森正敏二塁手、三番・原辰徳三塁手、四番・津末英明右翼手、五番・佐藤勉一塁手、六番・綱島里志左翼手、七番・崎山三男捕手、八番・村中秀人投手、九番・朝倉秀俊遊撃手。  この桐蔭高と東海大相模高の準々決勝が7月24日、横浜・保土ヶ谷球場で行われた。  桐蔭高・奇本芳夫監督はエース格の中山博投手を先発させ、二番手投手の水上は遊撃手においた。東海大相模高・原貢監督はエース村中を先発させた。  試合は呼吸もできないほど、せっぱつまったものになった。東海大相模高が1点とると、桐蔭高も取り返す。 「私は三番を打っていたんですが、4打数4安打で当たりに当たっていたんです」(水上善雄)  しかし七回終了時点でスコアは5対4、東海大相模高が1点リードしている。八回表に移るとき、奇本監督が水上をよんだ。 「1点差じゃ逆転できる。問題はこれ以上とられないことだ。お前、リリーフで投げてくれ」  こうして水上はマウンドにのぼった。そして水上の運命を変えるシーンが九回に起きるのである。東海大相模高は無死、二番森が左翼線二塁打した。ここで打順は原に回ってきた。 「この場面ではヒットでもホームランでも打たれたら負けですから、変化球でいこうと初球、カーブでストライクを取ったんです。それから2球目、外角へ外すカーブを思い切り引っかけられましてね。左翼2点ホームランですわ。九回表で7対4ですからね。勝負あったですよ。原君がダイヤモンドを走るの見ながら、“おれは、投手はもうやめた。遊撃専門でいこう”と考えてました。だから、私を遊撃手にしたのは原君なんです」(水上善雄)  水上はこのあと四番津末を右飛にとったが、五番・佐藤勉にまた初球、ストレートを左翼本塁打され、8対4で負けた。東海大相模高は準決勝で日大高を7対4、決勝戦で日大藤沢高を6対0で破り、甲子園へ出場した。 「去年、あるテレビ番組で原君と一緒になったとき、あの準々決勝の話がでましてね。“あのカーブはボールだった”と彼はいってましたよ」(水上善雄)  でも私は思うのだ。あの準々決勝のとき、水上が原に本塁打を打たれないで、桐蔭高が逆転勝ちでもしていたら、水上はおそらく投手への道を歩いていたと思う。そうしたらパ・リーグの代表的遊撃手としての、いまの水上はなかった話になる。  水上の人生を長い視野でとらえたとき、あの場面で原に打たれた本塁打こそ、彼の投手生活の中でたった1本の、幸せの“被本塁打”ではなかったのか……。 「私はすんでしまったことは、どんどん忘れてしまう男なんです。だから感動的なプレーや、悔し涙の試合なんか思い出せないなあ」  だが、そういう水上でも本当は体をぶるぶるふるわせる試合があった。その夜、濃いコーヒーを飲みすぎたような思いで、眠れない夜があった。昭和56年のプレーオフがそれである。  昭和56年10月10日、川崎球場でプレーオフ、ロッテ対日本ハム第2戦が行われた。プレーオフは5戦のうち、3勝したチームが優勝、日本シリーズ出場権をつかむ。  第1戦は柏原純一三塁手の本塁打が出て、1対0で日本ハムが勝っている。だからロッテとしては、第2戦で1勝1敗のタイにしておきたい。  さて第2戦の細かな得点経過は省略するが、八回裏、ロッテの攻撃が終わった時点で、スコアは5対3、ロッテがリードしている。 「ロッテが勝った——」  ほとんどの者がそう思った。ところが、日本ハムは九回表無死、三番・指名打者ソレイタが中前安打した(代走・五十嵐信一)。そして四番柏原の2─2後の5球目、五十嵐はスタート、柏原は水上の前にゴロを打った。まともなら当然、併殺コースである。しかし五十嵐のスタートがよく、打球にスピードがなく、ここのところに水上の感覚のズレが生まれた。ゴロを捕球した水上は井上洋一二塁手に送球したが、一瞬、五十嵐の足が速かった。記録は水上の野選である。これで無死一、二塁だ。日本ハムはこのあと五番・服部敏和右翼手の代打・村井英司の左前安打で1点。六番・古屋英夫三塁手が送り、七番・井上弘昭左翼手の左前安打で5対5の同点とした。  一塁側ダグアウトへもどってきた水上は、声を出して泣きたい気持ちだった。なぜ五十嵐のスタート、脚力、それに打球のスピードを一瞬のうちに計算できなかったのか。“野選”などという記録は、遊撃手にとって間抜けといわれているのと同じではないか。  しかも水上にとって、なんともやり切れない思いは、これだけではない。九回裏一死後、二塁走者に有藤道世三塁手、一塁走者に代走・芦岡俊明をおく場面で、打順は九番水上に回ってきた。男なら体中の毛穴が総毛立つほど、やってやるという思いがこみ上げてくる場面である。すると山内一弘監督が、主審・村田康一に伝達した。 「水上の代打・江島巧——」  江島は江夏豊投手のストレートにおされて左飛。一番・庄司智久左翼手も左飛。試合は5対5の引き分けに終わった。  この夜ばかりは水上も寝つかれない。野選もそうだが、九回の代打も納得がいかない。なぜなら、この試合における彼は、第1打席が左前安打、第2打席が中飛、第3、第4打席はともに左前安打、4打数3安打なのだ。それでも代打なのか。午前2時すぎ水上は自分で自分に、こういってきかせた。 「試合でこの無念さを晴らす以外にない。すべては試合なんだ」  さて話は日本ハムの2勝1分けのまま迎えた12日の後楽園球場での第4戦に移る。これに勝てば日本ハムは優勝である。  スコアは四回終了時点で6対5、日本ハムがリードしている。水上をめぐる、体のふるえるような話は五回表に起きた。ロッテは五回無死、落合博満二塁手が3点本塁打して8対6と逆転した。だが、村田兆治はもう四回まで失点6を記録している。2点のリードではなんともあぶない。  二死後、二塁走者・リー右翼手、一塁走者・土肥健二捕手をおき、水上はカウント1─2後の4球目、宇田東植投手(現阪神)から左翼席本塁打、11対6と5点差にひらいた。 「ぎりぎりのどたん場で、はね返したという思いで、ダイヤモンドを回るときは初めて体がふるえましたねえ」(水上善雄)  翌13日、第5戦が行われた。8対4でロッテは負けた。だが、水上は5試合を通じて打数13、安打6、打率4割6分2厘でプレーオフ首位打者になった。 [#改ページ]    水谷実雄 驕りは勝利をつき放す  最初に水谷実雄一塁手(宮崎商、広島、現阪急)とは関係のない「阪神・藤本定義監督をめぐる軍艦“定遠”沈没エピソード」から書く。  昭和39年夏、阪神と巨人が首位をせり合っていた。たまたま当日、国鉄(現ヤクルト)対阪神戦が神宮球場で、巨人対中日戦が後楽園球場で行われた。  さて、試合は神宮球場が早く終わり、阪神が勝った。そこで阪神担当記者が藤本定義監督のところへ談話取材に集まった。すると、この時点で60歳になっていた藤本監督は、担当記者をじろりと見渡したあと、後楽園球場の方向をアゴでしゃくり、ひとことだけいってのけた。 「いまだ“定遠”沈まずや」  いい終えるとさっさとバスに乗り込み、宿舎に帰ってしまった。若い担当記者は意味がわからない。そこで翌日、神宮球場に現れた藤本監督を取材した結果、次の意味がわかった。  明治28年2月、佐佐木信綱作詞、奥好義作曲による「勇敢なる水兵」という歌が作られた。一番の歌詞が——、 煙も見えず雲もなく、風も起らず浪立たず……  で始まる、あの歌である。  その第5番の歌詞にこういうのがある。 間近く立てる副長を  痛む|眼《まなこ》に見とめけん  声を絞りて彼は問う  まだ沈まずや定遠は  つまり標的にした敵の軍艦“定遠”はまだ沈没しないのかという確認である。いいかえれば、阪神と巨人は首位をせり合っている。そこで藤本監督は担当記者に「後楽園の巨人はまだ負けないのか」そういう意味をいった。  担当記者の「その名セリフは、とっさの間にとび出したのか」という質問に、藤本監督は余裕をもって答えた。 「きのうは勝ち試合だったから、試合中に名語録はないかと、ずっと考えていたんだ」  話題を水谷に移そう。  なぜ私は水谷の話を書くのに、藤本定義をめぐる軍艦“定遠”沈没の話題を先に持ってきたのか。  実は水谷も17年にわたるプロ野球現役生活を通じてただ一度だけ、プレー中に“ヒーローインタビュー語録”を考えた試合があるからだ。  人間なんて不思議なものだ。 「勝負は冷酷だ」なんていいながら、勝つとわかると試合中に、試合が終わったあと、どういうカッコいいセリフを吐こうかと考える。  昭和51年6月16日、広島球場で広島対巨人13回戦が行われた。四回表、巨人の攻撃が終わったとき、スコアは2対1、巨人がリードしている。  広島は四回、三番・ホプキンス一塁手が遊ゴロのあと、四番・山本浩二中堅手が中前安打、五番・シェーン右翼手の左翼線二塁打で2対2の同点とした。なお逆転の場面に六番・衣笠祥雄三塁手は投ゴロで、シェーンは動けない。こうして二死二塁の場面で七番・水谷(当時左翼手)が右打席に入った。  カウント1─2後の4球目、水谷は高橋良昌投手から左翼席逆転2点本塁打を打った。水谷は二塁ベースを回ったところで、体中がぶるぶるとふるえた。小便をちびりたくなるような感動とは、こういうものかと思った。  広島は外木場義郎投手が投げていた。外木場は一回に2点とられたが、二回以後ぴたりと抑えている。八回裏、広島の攻撃が終わったとき、スコアは4対2、広島がリードしたままだ。  勝つか負けるかわからないうちは、他人の目など計算に入らない。目をつり上げ、鼻の穴をふくらませて勝とうと思う。  ところが、いったん勝てるとなると、色気がにじみ出てくる。この試合の水谷がそうであった。 「このまま勝てばヒーローインタビューは私に違いないと考えたんですよ。そこでアナウンサーにカッコよく答えようとダグアウトにもどってくると、名セリフ、名語録、名文句を考え考えしていたんですねえ」(水谷実雄)  私は意地悪く、どんな名文句を思いついたのかと質問すると、 「ダイヤモンドを走るとき、体中が炎と燃えました」といったたぐいの、名文句だったそうだ。  さて九回表、巨人の攻撃が始まった。二番・高田繁(現日ハム監督)三塁手は中飛、三番・張本勲左翼手は一ゴロで二死になった。水谷は左翼守備位置にいて、胃袋のあたりからこみ上げてくるものがあった。 「もう勝った、もう勝った。ヒーローインタビューになったら、あしたの新聞の見出しになる名セリフを吐いてやるぞ」  だが、勝負の世界は自分を軸に回ってはくれない。それから数分後、水谷はこの試合こそ、生涯忘れられない試合だと、真っ青にふるえ上がるのである。  四番・王貞治一塁手は左翼線になんでもない飛球を打ち上げた。しかし“王シフト”で山本浩は右中間深く移動、水谷も左中間に寄っている。しかも、王の打球は左へ左へ切れていく。水谷が追っても追っても、打球は逃げていく。最後は水谷の1メートル先へポトンと落ちた。  五番・末次利光右翼手は四球、六番・土井正三二塁手は遊撃内野安打となり、気がついたら巨人は二死満塁に持ち込んでいた。ここで七番・吉田孝司捕手の代打・原田治明が右中間二塁打、巨人は5対4と逆転した。この間、わずかに5分間であった。  5分前、水谷はあと一人、この王さえ料理すれば、おれはヒーローインタビューだと、胸の内でどなっていた。それが5分すぎてみたら、自分のまずい守備が直接の原因で逆転されていた。 「王さんの当たりは記録こそ安打なんです。でも捕球できない打球ではなかった——。ダグアウトへもどったら同僚がみんな、そういう目で見るんです。しかも面と向かっては文句をいうやつは一人もいない。あれはこたえたなあ。1週間ぐらい、家に帰ってタメ息ばかりしてました」(水谷実雄)  原田の右中間二塁打で5対4と逆転されたあと、広島の九回裏の攻撃が残っている。だが、シェーンが三振、衣笠が中飛で二死となり、ここで水谷に打順が回ってきた。 「本塁打を打てば同点、せめてさっきの守備のお粗末さのつぐないになる」  そう考えた水谷は、初球から本塁打を狙った。初球、加藤初投手の速球を空振り。2球目、カーブを空振り。3球目、高めのつりだまを空振り三振した。  ヒーローインタビューどころか、3時開16分の試合時間が終わってみたら、一人で勝ち試合をぶちこわしたのが水谷であった。 [#改ページ]    真弓明信 やさしさは説教より恐ろしい  私が真弓明信遊撃手(柳川商、阪神)に、本書の狙いどころを説明すると、これから書く話がポンとはね返ってきた。真弓にとっては、つらくて悲しい話である。  そこで私が真弓にいった。 「いくら新人時代の話とはいえ、やり切れない話ですね」  すると真弓は、こういう返事をした。 「プロ野球選手なんて、楽しいこと、嬉しいことなんか、めったにありませんよ」  私が真弓を取材したのは後楽園球場から歩いて3分ほどの阪神の宿舎「サテライトホテル」のロビーである。真弓はこのインタビューのあとミーティングを行い、神宮球場での対ヤクルト戦に出かけて行くため、もうユニホームを着ている。しかし私は真弓のこのセリフを聞いたとき、彼が一瞬、背広を着ているのではないかと思った。  サラリーマンだって、つらいこと、悲しいことの毎日である。楽しく、嬉しいできごとなんか忘れてしまったような毎日だ。それと同じセリフを真弓が吐く。プロ野球選手はわれらサラリーマンと全く同じ人間がやっているのだと思う。  昭和48年5月15日、西宮球場で阪急対太平洋ク(現西武)3回戦が行われた。さて3対3の同点で迎えた九回表一死後、太平洋は二番・日野茂三塁手の代打・阿部良男が登場、二飛に終わった。そこで九回裏の守備では梅田邦三遊撃手が三塁に回り、遊撃には新人真弓が入った。  ただし真弓はこれがデビューではない。5月5日、平和台球場での太平洋対日拓(現日本ハム)6回戦の九回表だけ守備に出場、これがプロ入り初出場である。このデビュー試合ではゴロを1個もさばいていない。  話題を出場2試合目にもどそう。3対3のまま延長十回裏、阪急の攻撃に移った。三番・加藤英司一塁手(現近鉄)が中飛。一死後、四番・長池徳二右翼手が芝池博明投手のシュートにつまり、ゆるい遊ゴロを打った。そのゴロを見た瞬間、真弓はわけがわからなくなってしまった。結婚披露宴でいきなりテーブルスピーチの指名を受けたと思えばいい。気がついたら前にはじいていた。  一塁に代走の当銀秀崇をおき、五番・大熊忠義左翼手も芝池のシュートにつまり、また遊ゴロをころがした。プロ入り初めてのゴロを失策した真弓は、なにがなんだかわからない。このゴロも前に落としてしまった。要するに連続エラーである。  阪急はこのあと七番・種茂雅之捕手が左前安打してサヨナラ勝ちした。太平洋にしてみれば百%、サヨナラ負けの原因は真弓が作ったようなものである。  宿舎「椿荘」に帰ったあと真弓はどうしたのか。この時点でプロ5年生の芝池の部屋を一人で訪れた。これは余談だが、この芝池は専大時代の昭和40年6月20日、神宮球場で行われた第14回全日本大学野球選手権大会の準決勝、専大対東海大戦で学生野球史上、6人目の完全試合(投球数115)をやっている。 「芝池さんが負け投手ですからね。タタミの上に正座して“申しわけありませんでした”と頭を下げました。“このヘタクソ野郎ー”って、どなられるかと思ったら、芝池さん、ニコッと振り返って“気にするなよ、真弓”——これで終わりなんですよ。それだけにつらかったですねえ」(真弓明信)  稲尾和久監督から呼び出しを食い説教されるだろうと、真弓は深夜までじっと待っていた。ところが、なんの呼び出しもない。それどころか翌日の朝食のとき稲尾監督から「おい真弓、元気を出せよ」といわれ、ホッとした。  ところが、それから2カ月、3カ月たつうち真弓は初めて知った。「やさしさは説教より実は恐ろしいんだ」ということを——。  説教しないで元気出せよといってくれた稲尾監督が、以後そのシーズン、二度と真弓を試合に使わないのだ。だから真弓の新人時代の記録は「試合数2、打数0」しか残っていない。  真弓は、いつごろ、なにが直接のきっかけでプロ野球選手になろうと思ったのか。  昭和40年8月24日の昼すぎ、大牟田市で三池工の優勝パレードが行われた。三池工は同年8月13日から甲子園球場で行われた第47回全国高校野球選手権大会に優勝した。1回戦は高松商を2対1、2回戦は東海大一を11対1、3回戦は報徳学園を3対2、準決勝は秋田を4対3、決勝戦は銚子商を2対0で破り、47回におよぶ高校野球史上、“工業高校第1号優勝校”となった。  三池工ナインの大牟田市中優勝パレードが行われたとき、真弓は大牟田市内にある手鎌小学校5年生だった。 「当時、三池工野球部監督は原辰徳三塁手(巨人)のお父さんの原貢さん(のち東海大相模高監督)でした。先頭のオープンカーに貢さんとエースの上田卓三投手(のち南海)が乗ってましてね。あまりのカッコよさにしびれました。おれも高校野球をやろう。それからプロ野球だと思った一番最初は、このオープンカーの市中パレードでしたねえ」(真弓明信)  風船玉がふくらんで、ゆらゆらとあかね空に舞い上がって行くような、小学校5年生の思い出である。真弓はその夢がかない、いま阪神のスター選手になった。それなのに、彼は私にこういった。 「プロ野球選手なんて、楽しいことはひとつもありませんよ。つらいこと、悲しい話ばかりですよ」  なぜなのか——。  昭和55年9月12日、後楽園球場で巨人対阪神24回戦が行われた。先発は江川卓投手(巨人)と山本和行投手(阪神)である。  この日、山本は無類のすべり出しを見せた。一回裏、一番・松本匡史中堅手と三番・ホワイト左翼手を三振にとったのをはじめ、なんと三回終了時点までに10人の打者と顔を合わせ、8三振である。しかも投げるだけではない。山本は五回二死後、一塁走者のボウクレア中堅手をおき、左越え二塁打をとばし、打点1を記録した。 「山本は1対0で巨人をシャットアウトするのじゃないか」  当日、後楽園球場にやってきた4万8000人の観客と、テレビを見ていた数多くのファンはそう思い始めた。しかし野球はドラマをこえている。意外な人物の、意外なプレーから山本ワンマンショーは崩れていく。  巨人は七回無死、ホワイトが遊ゴロを打った。真弓が軽くさばいて一塁送球したが、ワンバウンドで藤田平一塁手が捕球できない。記録は真弓の失策である。四番・王貞治一塁手の投ゴロで、一塁走者のホワイトは二封された。しかし王は一塁走者として残った。  巨人はこのあと五番・シピン二塁手が中前安打して一、二塁。さらに六番・中畑清三塁手が右前安打して1対1の同点とした。  なにがつらい、なにが悲しいといって、自分の失策で生きた走者がホームインするくらい、やり切れない話はない。ホワイトは二封されたが、投ゴロの王が一塁走者として残り、あげくの果てにホームインしたのだから、真弓の胸はつぶれる思いである。  さて1対1の同点のまま九回裏、巨人の攻撃に移った。四番王が右飛のあと、五番シピンに打順が回ってきた。カウント1─2後の4球目、山本はフォークボールを投げた。それが高めに入った。シピンはそれを左翼席にサヨナラ本塁打した。気がついてみたら「投球回数8回1/3、投球数103球、被安打5、奪三振10、与四球1」の山本が負け投手になっていた。  私が真弓に向かって「あなたがヒーローになった試合も話してほしい」とたのんだが、返事は自分の失策で負けた、つらい話ばかりだった。プロ野球選手にとって、いつまでも忘れられない試合とは、勝った試合よりも、自分の失策で負けた思い出のようだ。 「苦労やつらい思い出は、やがて楽しい思い出にすり替わっていく」といわれるが、真弓のこの思い出は歳月とともに楽しいものに変わっていくのだろうか。 [#改ページ]    簑田浩二 野球の奥行きの深さを知れ  簑田浩二右翼手(大竹高、阪急)は取材の途中、こんな話をしだすのである。 「右翼手として一番恥ずかしいプレーは、なんだと思いますか。落球もありますよ。トンネルもありますよ。突っ込みすぎて打球を後逸する場合もある。しかし一番恥ずかしいのは、クッションボールをとりそこなって長打にしてしまうプレーなんです。あれは判断のミス、反射神経のミス、全部が重複しますからねえ。クッションボールを誤って、打球の後追いするぐらい、みじめな気持ちはありませんね。自分で自分が本当にいやになる瞬間ですよ」  人間の運命なんてつらいものだ。右翼手が一番やってはいけないプレーを、簑田はやってしまったのだ。それもただの試合ではない。球団が運命を賭けた、プレーオフ第5戦にである。  昭和52年10月9日、西宮球場で阪急対ロッテのプレーオフ第1戦が行われ、18対1で阪急が勝った。第2戦は3対0でロッテの勝ち、第3戦は3対1でロッテの連勝。これでロッテの2勝1敗である。  だが、第4戦は4対2で阪急が勝って2勝2敗。運命の第5戦は10月15日、仙台・宮城球場で行われた。先発は三井雅晴投手(ロッテ)と足立光宏投手(阪急)である。  この時点の簑田はプロ2年生。右翼のレギュラーはウィリアムスだった。たとえば簑田の52年度における公式記録は「試合数86、打数74、安打20、打率2割7分0厘、盗塁7、本塁打1」しかない。  その簑田がなぜ、運命を賭ける第5戦に七番打者・右翼手として先発したのか。理由は簡単である。ウィリアムス右翼手が右大腿部を痛めていたからだ。  さて一回裏一死後、ロッテは二番・飯佳寛遊撃手が左打席に入った。カウント2─2後の5球目、飯は内角ぎりぎりのストレートを引っぱった。打球はゴロになり、一塁線と加藤英司一塁手(現近鉄)の間を抜けた。それからファウルグラウンドをころがり、フェンスに当たった。 「宮城球場の右翼は何度も守ってますからね。打球のスピード、フェンスに当たる位置など計算しながら走り、クッションボールにそなえたんです。その計算が外れて、打球は私の方にはね返らず、外野フェンスにそってどんどんころがって行くんです。私はその後追いですよ。実際は4秒か5秒の後追いなんでしょうけれど、何十秒という実感だったなあ。あれから5年たってますが、いまでも夢に見ますよ」(簑田浩二)  飯は足に自信がある。簑田が背番号「24」(現在は1番)を本塁方向に見せながら後追いするのを見て走りに走った。一塁から二塁へ、二塁から三塁へ、そして2万人の観客があっと気がついたとき、飯は本塁へ突っ走った。  簑田も死にもの狂いである。やっとボールをつかむとマルカーノ二塁手へ送球。マルカーノも中沢伸二捕手へ好送球した。飯もまたヘッドスライディングしたが、主審・岡田豊は「アウト」を宣告した。  阪急は九回表、5安打を集中して大量4点を入れ、7対0で勝ち、プレーオフに優勝した。  ところが、優勝にわきかえる三塁側ダグアウトの中で、プロ2年生簑田はプロ19年生足立の前へおずおずと出て行った。 「足立さん、一回はすみませんでした」  すると足立はこういう返事をしたそうだ。 「お前のプレーを見て思ったよ。決勝戦だから、みんな硬くなっているのかなあ。そうだとしたら、おれが落ち着かなければ勝てないと考えたよ。おれがシャットアウト勝ちできたのも、お前のおかげだよ」  野球は技術者がやっているのではない。人間がやっているというのは、ここらあたりなのである。 「あのチョンボも忘れられないけれど、あの足立さんの言葉も忘れられないなあ。チョンボされてもどなるだけが芸じゃないんですよ」(簑田浩二)  さて、簑田はこの日から11日後の日本シリーズ第4戦で、5万人の観客が腰を抜かすような走塁をやってのけ、レギュラーの座をつかむ。  簑田は日本シリーズの流れを変えるような、ものすごいプレーをやってのけた。上田利治監督は簑田の顔にキスするほど抱きしめ、そのプレーをほめ上げたろうか。とんでもない。その晩、上田監督は簑田を正座させ、じゅんじゅんと説教するのである。だから当時の阪急は“日本一”であった。  昭和52年10月26日、後楽園球場で巨人対阪急の日本シリーズ第4戦が行われた。第1戦は7対2、第2戦は3対0で阪急が連勝、第3戦は5対2で巨人が勝ち、阪急の2勝1敗で迎えた第4戦である。  もし、この第4戦に阪急が勝てば、阪急の3勝1敗となり、優勝は80%以上決まったと考えていい。逆に巨人が勝てば2勝2敗となり、立場は五分となる。第4戦こそ日本シリーズの流れを決めるポイントだった。  先発は堀内恒夫投手(巨人)と稲葉光雄投手(阪急)で始まった。細かな得点経過は省略するが、八回裏巨人の攻撃が終わった時点でスコアは2対1、巨人がリードしていた。  さて九回表、阪急の攻撃が始まった。四番・島谷金二三塁手が二ゴロ、五番・マルカーノ二塁手が投ゴロ、二死となった。 「これで決まった。第4戦は巨人が勝った」——だれもがそう思った。すると二死後、六番・ウィリアムス右翼手の代打・藤井栄治が左打席に入り、粘りに粘って浅野啓司投手から四球で歩いた。上田監督は藤井の代走簑田を送り出し、さらに七番・中沢伸二捕手の代打・高井保弘を指名した。代走簑田、代打高井が登場した瞬間から、舞台は変転に変転を重ねていくのである。  簑田は高井の2球目に二盗した。吉田孝司捕手が死にもの狂いの二塁送球をしたが、簑田のスライディングした足が一瞬、早かった。静かに水があふれていくように、観客4万2433人の胸は締めつけられた。高井に安打が出れば同点だからだ。  カウント2─2後の5球目、浅野は内角高めのストレートを投げた。それを高井は痛打した。打球はライナーでとび、ワンバウンドで二宮至左翼手が捕球した。  打球のスピード、ワンバウンドで二宮が捕球している状況を考えると、簑田の本塁突入は無理かと思われた。 「でも、最初から突っ込むつもりでスタートしましたね。三塁コーチャーの石井晶さん(現ヤクルト)も、走れの指示でしたしね」(簑田浩二)  しかし現実問題としては、二宮が捕球するのと簑田が三塁ベースに接触するのと、どちらが先かほとんどわからない状態だった。それでも簑田は風のように、走りに走った。  二宮─高田繁三塁手の本塁送球は70センチほど、一塁ベース寄りにそれた。簑田は下半身を三塁側ダグアウト寄りに倒し、回り込むように左手でホームプレートをなぜた。上から押さえ込むようにタッチする吉田と、ホームプレートを左手ではくようにタッチする簑田。主審・岡田哲男は「セーフ」の判定である。阪急は2対2の同点にしたあと、八番・大橋穣遊撃手の中前安打、九番・山田久志投手の右中間二塁打などで5対2と逆転、対戦成績を3勝1敗とした。そして第5戦も6対3で勝って、阪急は優勝した。  代打高井の左前安打も見事だが、その前に二盗をやってのけ、さらに二宮の本塁送球をくぐるようにホームインした簑田の足こそ、この試合の“最高殊勲選手”といっていい。 「ところがその晩、上田監督の部屋によばれて説教されましてね。監督のいい分はこうなんです。高井は2ストライク後のストライクゾーンにきたストレートを打っているんだ。だから、二塁走者のお前は問題の5球目が、ストライクゾーンへすーっと入って行くのを見たら、ミートする以前にスタートを切っていなければだめだというんです。そういえば、あのとき私は高井さんが打ったあとスタートしてましたから」(簑田浩二)  簑田は第4戦の実質的な“最高殊勲選手”になっていながら、上田監督に説教された。だが、このために彼は知ったのである。野球の奥行きの深さと、レギュラーになる道のはるかなることを——。 [#地付き]〈了〉   単行本   昭和五十七年九月PHP刊 [#改ページ]          文春ウェブ文庫版     運命を変えた一球     二〇〇〇年七月二十日 第一版     二〇〇一年七月二十日 第三版     著 者 近藤唯之     発行人 堀江礼一     発行所 株式会社文藝春秋     東京都千代田区紀尾井町三─二三     郵便番号 一〇二─八〇〇八     電話 03─3265─1211     http://www.bunshunplaza.com     (C) Tadayuki Kondou 2000     bb000727