TITLE : 勝負師語録 勝負師語録 近藤 唯之 目次 知の章 「卒業式の夜、コンタクト・レンズをはずしたら、監督はイスからころげ落ちました」 ——高《たか》田《だ》 繁《しげる》 「私の場合、相撲はイメージで取ります」 ——舞《まい》の海《うみ》 秀《しゆう》平《へい》 「100メートル43歩のうち最後の3歩で、世界記録保持者となりました」 ——カール・ルイス 「打席に入ったとき、丹念に地ならしをするのは、要領よく白線を消すためです」 ——王《おう》 貞《さだ》治《はる》 「代打に耳打ちしたんです。バットを一度も振るな、三振して帰ってこいと」 ——三《み》原《はら》 脩《おさむ》 「あの月に向かって打て——」 ——飯《いい》島《じま》 滋《しげ》弥《や》 「あの眼《め》の色を見たら、2球目に間違いないと思った」 ——江《え》夏《なつ》 豊《ゆたか》 「“風が吹くと台湾勢が勝つ”という言葉は、頭を使えという意味なんですよ」 ——覇《と》 阿《あぎ》玉《よく》 「勝負は相手に疑問を抱かせたほうが勝ちますね」 ——松《まつ》尾《お》 雄《ゆう》治《じ》 「勝負師は、逃げるのも大事な芸なんですよ」 ——鶴《つる》岡《おか》 一《かず》人《と》 「踏み切り上昇角度を5・3度引き上げたため、ルイスに逆転勝ちできた」 ——マイク・パウエル 情の章 「私が涙を流したあの場面で、外野フライを打たせた工藤さんに感謝しています」 ——清《きよ》原《はら》 和《かず》博《ひろ》 「背番号1番、ヤクルトの“顔”になりました。だけど年《ねん》俸《ぽう》は現状維持なんですって——」 ——池《いけ》山《やま》 隆《たか》寛《ひろ》 「なぜ若《わか》乃《の》花《はな》の右上手を切りにいったのか、あの謎《なぞ》は私にしかわからないんです」 ——栃《とち》錦《にしき》 清《きよ》隆《たか》 「私は世界一の幸せ者だ。誤解が伝説に変わってしまうのだから——」 ——ベーブ・ルース 「私は、明治大学で出身者ひとり、という学部を出たんです」 ——星《ほし》野《の》 仙《せん》一《いち》 「人生、楽ありゃ、苦もあるさあ」 ——武《たけ》 豊《ゆたか》 「私は世界中で一番高いアスピリンを買いましたよ」 ——ウォリー・ピップ 「“4番打者”というのは、4番目に打席に入る男じゃないんです」 ——山《やま》本《もと》 浩《こう》二《じ》 「10年かけてこの男を倒そうと、ひそかに剣を磨《みが》いてました」 ——原《はら》田《だ》 哲《てつ》夫《お》 「勝ったなと思った瞬間に、魔物がすーっと入り込んできちゃうんですよ」 ——山《やま》田《だ》 久《ひさ》志《し》 「丈夫な体に生んでくれた母親に感謝します」 ——野《の》村《むら》 克《かつ》也《や》 「トレーナーは、技術を教えるよりも、ハートをつかむものなんですよ」 ——エディ・タウンゼント 「体力の限界—気力の限界—(あとは涙)」 ——千《ち》代《よ》の富《ふ》士《じ》 貢《みつぐ》 「オヤジがくれた」 ——尾《お》崎《ざき》 直《なお》道《みち》 「最後は開き直りしかないんです。私も先発5分前、ビールを飲みました」 ——今《いま》井《い》 雄《ゆう》太《た》郎《ろう》 「チームの顔として、ロッテでは最高額でしたが、12球団では最低額でした」 ——西《にし》村《むら》 徳《のり》文《ふみ》 「相撲とって、楽しいことなんて、ひとつもありません」 ——貴《たか》花《はな》田《だ》 光《こう》司《じ》 信の章 「私がルール・ブックだ——」 ——二《に》出《で》川《かわ》 延《のぶ》明《あき》 「あの“弓なり投げ”は、相撲史百年間の謎《なぞ》になってくれたら嬉《うれ》しいですね」 ——貴《たか》ノ花《はな》 利《とし》彰《あき》 「セコンドの指示より、相手の目を直視する自分の目を優先させます」 ——渡《わた》辺《なべ》 二《じ》郎《ろう》 「バットは両腕の延長、だから執念さえあれば折れるはずがない」 ——長《なが》島《しま》 茂《しげ》雄《お》 「おれは、地面をはっている、アリ1匹で世界一になったよ」 ——中《なか》村《むら》 寅《とら》吉《きち》 「私の横綱土俵入り時間は1分15秒、同じ雲《うん》竜《りゆう》型でも栃錦関、若乃花関は1分40秒、でも25秒速かったから32回優勝ができたと思います」 ——大《たい》鵬《ほう》 幸《こう》喜《き》 「ソウル、ソウルと100回、つぶやきながら走りつづけました」 ——宮《みや》原《はら》 美《み》佐《さ》子《こ》 「あの橋を先頭で渡ったとき、勝負師は勝たなければうそだと思った」 ——尾《お》崎《ざき》 将《まさ》司《し》 「東京五輪は私にとって敗北の歴史なんです。0秒2で私は敗北者になりました」 ——佐々木 吉蔵 「勝負で一番大切なのは自己暗示、だって私は打席の内で実況放送しましたからね」 ——大《おお》杉《すぎ》 勝《かつ》男《お》 「男は桜の花、自分の限界を見たら、パッと散らなければ——」 ——田《た》淵《ぶち》 幸《こう》一《いち》 「カルガリー五輪から帰ってきた翌日、また練習を始めました」 ——伊《い》藤《とう》 みどり 「あの晩、“イマダ モッケイ タリエズ”と電報を打ちました」 ——双《ふた》葉《ば》山《やま》 定《さだ》次《じ》 「1プラス1が3になるんです。ぼくら兄弟は——」 ——若《わか》花《はな》田《だ》 勝《まさる》 「フォークボールも“マル”、契約更改も“マル”、プロ3年生で年《ねん》俸《ぽう》6600万円になりました」 ——野《の》茂《も》 英《ひで》雄《お》 根の章 「私は、ベーブ・ルースにも、一部の人種差別にも勝った」 ——ハンク・アーロン 「同じアウト・コースを引いたとき、逆に神に感謝しました」 ——黒《くろ》岩《いわ》 彰《あきら》 「同じ雰《ふん》囲《い》気《き》を出せるまで、10年間かかりました」 ——山《やま》下《した》 泰《やす》裕《ひろ》 「人生、課題がなくなれば、死ぬだけだよ」 ——青《あお》木《き》 功《いさお》 「新婚初夜、20キロ走りましたよ」 ——君《きみ》原《はら》 健《けん》二《じ》 「この馬は“ゼニ”の顔見んと、走らんのや」 ——栗《くり》田《た》 勝《まさる》 「伝《てん》馬《ま》舟の下は海、飛行機の下は空気、人間、どこでも死と向かい合っているんです」 ——稲《いな》尾《お》 和《かず》久《ひさ》 「私のサイン“草魂”は、わかりやすくいえば“この野郎”ですよ」 ——鈴《すず》木《き》 啓《けい》示《し》 「——ボールだ、ボールだ(絶息)」 ——円《えん》城《じよ》寺《うじ》 満《みつる》 「現役時代、自分でネクタイを結べませんでした」 ——森《もり》 祇《まさ》晶《あき》 「人生なんて案外、“他人”の一言がきめてくれるものなんですね」 ——衣《きぬ》笠《がさ》 祥《さち》雄《お》 「気がついたら、私の手の平には“水かき”がついていました」 ——鈴《すず》木《き》 大《だい》地《ち》 「メガネをかけたまま、日本一の捕手になろうと思いました」 ——古《ふる》田《た》 敦《あつ》也《や》 「陸上100メートルを早く走りたかったら、鉄棒を練習することだね」 ——吉《よし》岡《おか》 隆《たか》徳《のり》 「盗塁は脚でするのじゃなくて、“眼《め》”でするんですよ」 ——福《ふく》本《もと》 豊《ゆたか》 「私、本当は一度、両親に遺書を書いたことがあるの。恐怖心は誰にもあります」 ——今《いま》井《い》 通《みち》子《こ》 「“相打ち”が不可能だというところから、あの“カエル”とびは生まれましたね」 ——輪《わ》島《じま》 功《こう》一《いち》 「眼《め》の玉ひとつ動かすにも、映画からヒントを盗んだね」 ——牧《まき》野《の》 茂《しげる》 「巨人、巨人と騒ぐけれど、巨人はロッテより弱いですよ」 ——加《か》藤《とう》 哲《てつ》郎《ろう》 「水着の左胸に“Z”と縫いつけたのを、知っている人は誰もいませんでした」 ——田《た》中《なか》 聡《さと》子《こ》 「4連敗して、私の野球観が変った」 ——岡《おか》崎《ざき》 郁《かおる》 「すみません、すみませんで、世界チャンピオンになりました」 ——柴《しば》田《た》 国《くに》明《あき》 「私が出した日本記録の10秒1は、実は100メートル20センチ走っちゃったんですよ」 ——飯《いい》島《じま》 秀《ひで》雄《お》 「あの挫《ざ》折《せつ》があったから、三冠王になれたと思うよ」 ——落《おち》合《あい》 博《ひろ》満《みつ》 「全種目入賞の特効薬なんて、この地球上にありません」 ——橋《はし》本《もと》 聖《せい》子《こ》 「待ったをしたら制裁金10万円、あの双葉山の仕切りをやっていたら、10万円も取られないし勝てるんだ」 ——二《ふた》子《ご》山《やま》 勝《かつ》治《じ》 「重量級ボクサーだって、スポーツ・カーが勝つ時代なんだ」 ——マイク・タイソン 「やられたら次に勝つ。これが3番打者の極意だね」 ——秋《あき》山《やま》 幸《こう》二《じ》 知の章 「卒業式の夜、コンタクト・レンズをはずしたら、監督はイスからころげ落ちました」 ——高《たか》田《だ》 繁《しげる》 *プロ野球。左翼手→三塁手。明治大。巨人。日本ハム監督、巨人ヘッドコーチ。新人王、盗塁王1回。終身打率2割7分3厘、本塁打139本、打点499。  プロ野球半世紀にわたる歴史をひもとき、最高の“左翼手”は巨人の高田だと思う。左翼線内に落ち、ファウル・グラウンドへそれる打球を、寸分の誤差もないクッション利用で、打者走者を二塁でアウトにする高田の守備は名人芸だった。  しかしこれから書くエピソードは、高田の明治大学在学中における秘話である。高田は直線100メートルを11秒5、ダイヤモンド一周を13秒9で走る脚力を持ちながら、たったひとつ肉体的ハンディを持っていた。 「右《みぎ》眼《め》の視力0・3、左眼の視力0・5」  左右の視力にバラつきがあるうえ、薄暮試合になるとボールがよく見えない。 「明治へ入学すると同時にコンタクト・レンズをはめました。ただし先輩、同僚には一切秘密でした。もし相手投手にこれがばれたら、高田は眼に泣き所があると間違いなく心理的優位に立たれますから——」(高田繁)  高田の明治時代の個人タイトルを伝えよう。 ㈰2年生の春(昭和40年)試合数12、打数45、安打18、打率4割で首位打者となる。 ㈪昭和39年〜42年まで通算最多安打127本、これは東京六大学野球連盟新記録である。 ㈫同4年間、通算最多盗塁48個の新記録をつくる(ただし現在は小《こ》林《ばやし》宏《ひろし》中堅手=慶応、昭和53年〜昭和56年=の62個)  さて高田は明治時代の4年間、コンタクト・レンズを味方にもひた隠しに、隠した。2年間、合宿で相部屋だった1年後輩の星《ほし》野《の》仙《せん》一《いち》投手も、実は気がつかなかった。  昭和43年3月中旬のある日、卒業式のため、高田は川《かわ》上《かみ》哲《てつ》治《はる》監督(巨人)の許可をもらい明治にやってきた。その夜、高田は調布市深《じん》大《だい》寺《じ》南町にある明大野球部合宿“明和寮”に恩師島《しま》岡《おか》吉《きち》郎《ろう》監督を訪れた。監督室で水割りを飲んでいるとき、高田は何気なく両眼からコンタクト・レンズをはずし、薬で洗ってからケースにしまった。 「お前それ巨人に入ってから、やり始めたのか」  島岡監督が聞くと、高田はさり気なくこたえた。 「明治の新人のときからです」  すると身長1メートル58センチ、体重96キロの島岡は本当にイスからころげ落ちたそうだ。高田は4年生のとき、主将になっている。だから監督と主将という立ち場で島岡監督とは密接な関係にあった。それでも自分に不利な材料は一言ももらさない。  私たちは勝負はもちろんのこと、企業内部のことでも、自分の女房にもしゃべらない、鉄のような意志と、細心の神経、それに高田のように恩師にももらさない、クールさを持ち合わせているだろうか。 「私の場合、相撲はイメージで取ります」 ——舞《まい》の海《うみ》 秀《しゆう》平《へい》 *大相撲。出羽海部屋。日大。技能賞2回。幕内通算72勝53敗。本名長尾秀平。青森県出身。  平成3年11月20日の朝、つまり大相撲九州場所11日目の朝、出羽海部屋のけい古場では東前頭3枚目久《く》島《しま》海《うみ》、西前頭10枚目両国の2人が東前頭9枚目舞の海に作戦伝授をしていた。きょうの取り組相手、西前頭筆頭《あけぼの》にどうしたら勝てるのかという作戦伝授である。  舞の海の身長は“シリコン込み”で1メートル74センチ、体重95キロ、は身長2メートル4センチ、体重197キロ、実に身長差30センチ、体重差にいたっては102キロである。  久島海「は立ち合い、双《もろ》手《て》突きで一気に突っこんでくるから“猫《ねこ》だまし”は通用しない。立ち合いの瞬間、一歩下るのも初日の旭《きよ》道《くど》山《うざん》でやっちゃったからなあ」  両国「フェイントをかけたあと、下にもぐりこむ手以外、なにもないよ。いいか舞の海、立つと同時に棒立ちになって、にこれはなんだという迷いを起こさせる。つぎの瞬間、もぐりこんで足取り、内掛け、あとは技の百貨店でいくことだ」  要するに対戦法をめぐって、出羽海部屋の関取衆がチエをしぼって舞の海の尻《しり》を叩《たた》く。問題はそれからあとの舞の海の時間のすごし方である。けい古場の隅《すみ》に立った舞の海は、ひとり黙然と眼《め》をつぶり、棒のように動かない。 「が双手突きでくる。ひょいと立ってフェイントをかける。それからすっと下にもぐって左四つ、あとは左内掛け、右手での左足をとる。私の場合、一見サボっているように見えるが、頭の内では立ち合いから決着がつくまで、くりかえしくりかえしイメージで相撲をとっている。これを何十回とくりかえしていると、不思議なことに体がその通り動くんです」  本番ではウソのように、その通りの相撲展開になった。立ち合い一瞬棒立ち、もぐってから左四つ、それから左内掛け、右足取り、おでこでの胸を押す。同時に三ヵ所を攻める“三ところ攻め”でを恐怖の淵《ふち》に落としこみ、13秒4、どっとを土俵の外に倒した。決まり手は“内掛け”である。初代横綱明《あか》石《し》志《し》賀《が》之《の》助《すけ》以来、約四百年に近い歳月が流れた。この間、数千人におよぶ力士が現われているが、イメージで相撲をとり、イメージトレーニングをすることによって、幕内にまでのぼりつめてきたのはこの舞の海ひとりしかいない。  舞の海こと長尾秀平は昭和43年2月17日、青森県西津軽郡鰺《あじ》ヶ沢《さわ》町大《おお》字《あざ》舞戸町に生れた。“舞の海”というシコ名はこの舞戸町からとった。名付け親は日大相撲部田《た》中《なか》英《ひで》寿《とし》監督である。平成2年3月場所、舞の海は新弟子検査を受けた。身長1メートル73センチが合格ラインなのだが、舞の海は1メートル68センチしかない。そこで頭のてっぺんにシリコンを5センチ分埋める手術にふみ切った。頭部にビニール袋状のものを埋めこみ、そこに注射器で数回にわたってシリコンの液体を注入する。5月場所の検査ではやっと1メートル74センチにまで頭部がふくれあがって合格する。合格するとその足で病院に直行、とりあえず注射器でビニール袋の液体を抜きとる。それから7月場所の千秋楽の翌日、また入院してビニール袋を取り去った。シリコン液を頭部に注入すると、頭痛、吐き気、めまいなど、それは簡単に話せないほどの苦しみにおそわれる。それはそうだろう。頭の内部にマンジュウ1個分のシリコンを埋めるのだから——朝起きると、髪の毛がごそり、ごそりと脱け落ち、まくら元にまっ黒にかたまっていたそうだ。相撲協会ではこの苦労と切ないまでの心情を認め、 「学生相撲界でそれなりの評価を受けた者は、身長が1メートル73センチなくても合格という特例をもうける」  と規則改訂した。  を倒した一番について二《ふた》子《ご》山《やま》前理事長(初代横綱若乃花)はこういう。 「平成3年度における、最高の名勝負名場面だよ。永遠に相撲史に刻みこまれる」  根性とか、気合いとか、忍耐とか、精神のみを重視する相撲界でのイメージ導入、私は近代相撲四百年における最大のヒットだと思う。蝶《ちよう》のように舞い、花びらのようにかろやかに——そういう意味をこめて、いっそシコ名は“舞の花”とか、“蝶の舞”にすればよかった。 「100メートル43歩のうち最後の3歩で、世界記録保持者となりました」 ——カール・ルイス *陸上。100メートル。ロサンゼルス、ソウル五輪金メダル。世界陸上3連覇。9秒86の世界記録保持者。アメリカ。  私はカール・ルイスを陸上選手だとは思っていない。 「100メートルという舞台を1センチ残さず使い切る、舞台名優である」  これは言葉の飾りではない。ルイスを見つめる私の本音である。なぜ私がルイスを舞台名優だと本気で思うのか。  平成3年8月25日、東京・国立競技場で第3回世界陸上競技選手権大会の超目玉、男子100メートル決勝が行われた。 「いま売り出しのリーロイ・バレル(アメリカ)が勝つか、やっぱりルイスか。六分四分で若いバレルが有利だろう」  これが大方の予想だった。この決勝戦のスターターをつとめたのは東京五輪100メートルに出場した名スプリンター飯島秀雄さんである。  バレルは3コース、ルイスは5コース、ならんでは走らない。身長1メートル86センチのルイスは100メートルを43歩で走る。単純計算すれば1歩について2メートル32センチ間隔で、忍者のようにとんでいく。参考までに伝えると昭和7年8月に行われた第10回ロサンゼルス五輪100メートルに出場した、あの“暁の超特急”こと吉《よし》岡《おか》隆《たか》徳《のり》さんは身長1メートル68センチ、100メートルを左足からスタートして48歩で走った。吉岡さんは五輪史上、東洋人としては初の100メートル、6位入賞した。吉岡さんの1歩間隔は2メートル8センチに当る。ただしスタート直後は当然、歩幅は短い。だからルイスの場合、最速状態に移った50メートル〜90メートルあたりでは1歩間隔が2メートル60センチ前後まで伸びるのではないか。身長1メートル86センチのルイスの1歩間隔が2メートル60センチだとすると、最速状態では身長の1・39倍も伸びるようだ。  さて国際陸連が調査、発表した資料によると、ルイスは飯島スターターのピストル音が鳴った瞬間から0・140秒後に右足から始動を起した。つまり右足からのスタートである。バレルは0・120秒後、一番素早く反応、始動したのは9秒91で3着になったミッチェル(アメリカ)の0・09秒だった。要するに簡単にいい切ってしまえば、ルイスはあまり反応が速くなく、スタートはうまくない。9秒96で6着になったスチュアート(ジャマイカ)でも0・114秒で始動しているのだから、ルイスは当然のように100メートルの前半が弱い。この日、50メートル中間地点でのルイスは8人のうち、6番目あたりを走っている。くりかえすが、ピストル音を耳にしたとき、ルイスは反応に時間がかかるから、前半に出おくれるのは理の当然なのだ。だがルイスの凄《すご》いのは、60メートルあたりからの加速度である。70メートル〜80メートルで3、4人のランナーを追い抜くと、90メートルをすぎたあたりで先頭のバレルと胸が揃《そろ》った。胸が揃ったとき、ルイスは40歩目である。このあとルイスは41歩目、42歩目、43歩目と3歩、足を回転させて右足でゴールインした。最後の43歩目が右足ということは、第1歩目もまた右足である。タイムは9秒86、世界新記録である。43歩のうち、40歩目まではルイスは先頭には立っていない。それが最後の最後の3歩で逆転世界一になった。ルイスは42歩目で胸の厚さだけバレルを抜いた瞬間、自分の向って左側を走るバレルをちらっと見た。 「勝った、オレは勝った——」  しっかりと確認すると両腕を真上に突き上げながら43歩目でゴールインした。  私がルイスを名優と書いたのは、100メートルという舞台を100メートル使い切っている走法と計算なのだ。100メートルを43歩、9秒86なのだから、全く単純計算すれば1歩の時間は0・23秒弱である。100メートルは10秒間のドラマといわれるが、ルイスは10秒間のドラマのうち、39歩分、別の表現をすれば8秒9まで負けている。それが40歩目でバレルとならび、あとの3歩、時間にして0・69秒で逆転してしまう。距離にしたら92メートルぐらいまで負けているのに、残りの8メートルでストーリーを変えてしまうのである。100メートルをきちんと100メートルで使っている。ここのところが100メートルの名優だというのである。  さらに私がうなったのは右足の43歩目が同じ間隔で振り出され、それが着地したところに、ぴたりとゴールの白線があった。1センチのムダもズレもない。100メートルを1センチのムダなく舞台にしているのだ。  ルイスは筋肉がすばらしいだけではない。10秒間ドラマの脚本、演出、演技がスタートの前からきちんと測定されているのだろう。  人間、だれでも焦《あせ》りたがる。100メートルのうち、92メートルまで負けていたら、焦らないのが不思議である。それなのにルイスは92メートルから先の8メートルのところに、勝負どころをおいているのだ。なにか私たちに訴えてくるものがあると思う。旧帝国海軍の戦術における原理原則は“先制と集中”だった。昭和16年12月8日のハワイ真珠湾奇襲攻撃がそのシンボルである。  だがルイスはその裏返しの発想を私たちに訴えてはいないだろうか。名優、いま31歳。 「打席に入ったとき、丹念に地ならしをするのは、要領よく白線を消すためです」 ——王《おう》 貞《さだ》治《はる》 *プロ野球。一塁手。早実高。巨人。巨人監督。国民栄誉賞受賞。MVP9回、三冠王2回、首位打者5回、本塁打王13回、打点王12回。終身打率3割0分1厘、本塁打868本、打点2170。  王の現役時代を知っている者は、みんな覚えているだろう。  王は左打席に入ると、いつの打席でも必ず、丹念に丹念にスパイクで地面をならす。 「王は几《きち》帳《よう》面《めん》な性格だから、あんなに地面をならすのだろう」  たいがいの者はそう思う。ところが王は本塁打868本打ったプロフェッショナルである。ただ性格が几帳面なだけで地ならしをしているのではない。ちゃーんと目的、狙《ねら》いがあって地ならしをしている。  王は一本足打法で本塁打を打ちつづけた。左足一本で立ち、持ち上げた右足スパイクはストライク・ゾーンにおいておきたい。  理由はストライク・ゾーンの内角低目あたりに右足スパイクが浮いていると、そこの部分に投げにくい。つまり死球になるような恐怖心が湧《わ》いてきて投げられない。  一本足の王にとって、一番の泣きどころは“足もと”を攻められることだ。なにしろ一本足なのだから、足もとへ投げられたら逃げられないのだ。  王はそれを知り抜いているから、内角低目のところに、持ち上げた右足スパイクを持ってきて、投手がそこへ投げてくるのを防衛している。  しかもできるだけストライク・ゾーンに右足スパイクを持っていきたいので、本塁に一センチでも接近したい。  ここまで書けばもうおわかりだろう。打席の白線がはっきりしていると、それを乗り越えて本塁寄りに立てない。そこで王は両足で地ならしをするふりをして、土を白線にかけ、巧みに消してしまう。その分本塁寄りに接近して立ち、右足スパイクをストライク・ゾーンに入れてしまう。  投手は死球を恐れて高目か、ど真ん中に投げて本塁打されてしまうという仕組みである。  ここで読者は思うのではないか。 「なぜ主審が王に注意しないのか」  ここのところが王の名人芸なのだ。いきなり白線の上に土をかけない。両足で真ん中に土を集め、その高く盛り上がった土が白線上に崩れていくように、テクニックを使う。  あの誠実で几帳面な王が、こういうテクニックを使う。それがプロというものだ。  あらゆるスポーツのうち、「盗塁、挟《きよ》殺《うさつ》、三重殺、故意落球、死球、振り逃げ、かくし球」など、およそスポーツマン・シップと反するような用語があるのは野球だけだ。  王が巧みに地面をならすふりをして白線を消すぐらい、プロなら当然である。“王ボール”という現象までつくり、主審を自分に誘いこんだ実力こそ、私たちは吸収したい。 「代打に耳打ちしたんです。バットを一度も振るな、三振して帰ってこいと」 ——三《み》原《はら》 脩《おさむ》 *プロ野球。二塁手。早稲田大。巨人。巨人→西鉄→大洋→近鉄→ヤクルト監督。終身打率2割2分6厘、打点40。  三原は“魔術師”とよばれた。昭和33年の日本シリーズ西鉄対巨人戦のとき、当時西鉄監督の三原は3連敗4連勝した。さらに昭和35年、大洋に移ると前年度ではどん尻《じり》だったこの球団を、三原はなんと優勝させてしまった。以来32年間、大洋は一度も優勝していない。  三原の持つ魔術の正体はなんなのか。  昭和46年5月26日、神宮球場でヤクルト対巨人10回戦が行われた。当時、三原はヤクルトの監督である。  スコアは4対4の同点のまま、9回裏ヤクルトの攻撃に移り、無死満塁と持ちこんだ。打順が9番外《と》山《やま》義《よし》明《あき》投手に回ってきたので、三原は右の代打大《おお》塚《つか》徹《とおる》を送り出した。右の大塚を選んだ理由は、マウンドにいるのが左の高《たか》橋《はし》一《かず》三《み》投手だからだ。  さて、大塚が右打席に歩きかけたとき、三原はよびとめて耳打ちした。 「バットを一度も振らずに、三振してこい」  大塚が内野ゴロを打てば併殺の可能性もある。大塚の次打者武《たけ》上《がみ》四《し》郎《ろう》二塁手はこの時点で打率2割7分9厘《りん》、大塚がわざと三振して、一死満塁の場面で武上が打ったほうがさよなら勝ちの確率は高い。三原の耳打ち時間は5、6秒だ。耳打ち時間が長いと、相手に考える暇をあたえてしまうからだという。  大塚は耳打ちされた瞬間、三原の意図を読み抜いた。ボール・カウント1—3になったとき、大塚は主審大《おお》里《さと》晴《はる》信《のぶ》に注文を出した。 「ボールが見にくい。ニューボールに換えてくれ」  三原の意図を実現するための芝居である。ニューボールは指になじみがない。運命の5球目、高橋のストレートは外角高目に外れ、ヤクルトはさよなら勝ちした。  三原のこの名語録は私たちに、ふたつの問題をあたえてくれる。 「指揮官はいつも意図を持つこと、偶然の結果を求めるのは最低の指揮官である」  あとのひとつは、大切な耳打ちは5、6秒ですますという時間の問題なのだ。  試合中、選手の神経はコンピューター以上に作動している。そこへ持ってきて、3分間も4分間もくどくど、説明されたのではたまらない。 「大事な用件ほど短い時間で部下に伝えろ」  しかし別な見方をすれば、三原は練習中、かんでふくめるように、時間をかけて選手を説得する。だからこそ肝心の場面、5、6秒の耳打ちで意図が通じてしまう。いつでも5、6秒だけではないのである。 「あの月に向かって打て——」 ——飯《いい》島《じま》 滋《しげ》弥《や》 *プロ野球。一塁手。慶応大。セネタース→東急→大映→南海。東映打撃コーチ。首位打者1回。終身打率2割8分2厘、本塁打115本、打点484。  プロ野球史上、永遠に伝わる名台詞《せりふ》といっていい。この名台詞には二つのすばらしい値打ちがあると思う。  一つは勝負の世界にロマンチックな語録を持ちこんだこと、あとの一つはわかりやすく、具体的な目の前にある月を利用したこと。打撃コーチとして飯島はずい分と頭の回転がよかった。  昭和43年9月6日、後楽園で東映対東京21回戦が行われた。試合開始時刻午後7時、延長12回、1対1の時間切れ引き分けに終わったのが10時23分、実に3時間23分にわたる激闘であった。  ところで東映の5番打者大杉勝男一塁手が最後の打席に入ったのは、11回裏二死後である。この夜、大杉は三振2、あとは凡打、ただの一度も出塁していない。  延長11回二死後だから、大杉は当然、本塁打を狙《ねら》っている。  さて大杉が打席に歩きかけたとき、一塁コーチス・ボックスにいた飯島が声をかけた。時刻はちょうど10時頃《ごろ》だから、初秋の名月が左翼席のすぐ上に顔を出し、輝いていた。 「おい大杉、きょうのお前はバットが下から上に、しゃくり上げすぎている」 「はあ、そうですか」 「あの月に向かって打て——」  要するに飯島のいいたいことはこうだ。  大杉の位置から名月を見ると、目線の角度は25度くらいで、バットをあまりしゃくり上げないですむ。 「バットをしゃくり上げるな」  といいたいところを、月の位置にいいかえたのである。  繰り返すが、とっさの間に月を応用した名コーチは、プロ野球で飯島しかいない。  飯島も名コーチだが、大杉も終身安打2228本打った男である。飯島のいいたいことが、10分の1秒ぐらいで理解できた。もっともこの打席では“右飛”に終わったのだが——  日本のコーチ(指導者)で一番足りないのは、実は“表現力”だと私は本気で思っている。 「この野郎、根性だ」 「バカもん、死ぬ気でやれ」  これしかいわない指導者を私は何十人と知っている。プロ野球だけではない。高校野球、高校バレー、ずい分と多い。  コーチはわかりやすく、しかもあまり気取って外国語を使わず、日本語でしゃべるのがいい。  しかも目の前にある、月、机、電灯、そういうものを実例に持ってくるのが名コーチだろう。名コーチはやたらに英語の単語をならべる男ではない。 「あの眼《め》の色を見たら、2球目に間違いないと思った」 ——江《え》夏《なつ》 豊《ゆたか》 *プロ野球。投手。大阪学院高。阪神→南海→広島→日本ハム→西武。MVP2回、沢村賞1回、セーブ王5回。終身成績206勝158敗193セーブ。  男は炎のように燃焼したほうがいいのか、それとも燃焼しながらも、頭の隅《すみ》のどこかで、しーんとさめていたほうが本当の男なのか。  この永遠のテーマに江夏は見事な答案用紙を書いてくれた。  昭和54年11月4日、大阪球場で近鉄対広島日本シリーズ第7戦が行われた。スコアは4対3、広島が1点リードのまま、近鉄は9回裏の攻撃に移った。この9回裏の攻撃こそ、42年間におよぶ日本シリーズ史上、最高の名勝負・名場面になった。  さて試合経過は省略するが、あっという間に近鉄は江夏豊投手を火のように攻め、無死満塁に持ちこんだ。  打順は9番山口哲治投手に回ってきたが、西《にし》本《もと》幸《ゆき》雄《お》監督は代打佐《さ》々《さ》木《き》恭《きよ》介《うすけ》を送りこんだ。ところが佐々木は三振、そして一死満塁で運命の打者石《いし》渡《わた》茂《しげる》遊撃手が右打席に入った。 「皆さんはあの場面で、さぞや私がカリカリしていたと思うでしょうね。でも私は終身記録829試合のうち、一番冷静だったのがあの試合のあの9回裏でしたね。だって打者の毛穴という毛穴まで見える気分でしたから——」(江夏豊)  江夏は初球、石渡に直球でストライクをとった。そのとき石渡の体がピクンとふるえた。 「スクイズをやるぞという、サインが出ているな」  江夏は瞬間的にそう判断した。カンではない。ピクンと動いた石渡の動作から、そう見抜いたのである。問題は何球目にスクイズをやってくるかだ。  江夏は左投手だからセット・ポジションのとき、一塁走者平《ひら》野《の》光《みつ》泰《やす》中堅手と向かいあう形となる。2球目、水沼四郎捕手のサインはカーブだった。 「カーブの握りで、しかも何分の1秒かわざと投球動作をおくらせ、平野の眼を見ながら投球動作に移った。そしたら平野の眼が一瞬、おびえたように光りました。これはスクイズの眼だと思い、カーブで外角高目に外したんですね」(江夏豊)  石渡は空振り、三塁走者藤《ふじ》瀬《せ》史《し》朗《ろう》は三本間でタッチ・アウト。石渡も三振した。  江夏の名人芸、“カーブでスクイズを外した”というあの名場面も、タネを明かせば平野の眼だった。  しかし日本一をきめるという、ぎりぎりの極限状態で平野の眼の色を見抜いた冷静さは、恐怖に近い。  燃えるのは誰でもできる。誰にもまねのできないのは、燃えながらどこかしーんとしているという、江夏のような男だと思う。 「“風が吹くと台湾勢が勝つ”という言葉は、頭を使えという意味なんですよ」 ——覇《と》 阿《あぎ》玉《よく》 *プロゴルフ。豊原翁子中。ミズノ。台湾勢ゴルファー実力NO・1で、7度の賞金王に輝く。日本女子オープン2回、日本女子プロ1回優勝。通算91勝。その“パンチ・ショット”は有名である。  覇阿玉は、昭和57年度3902万円、58年度4576万円、59年度5289万円、60年度6563万円、61年度6243万円と5年連続して女子賞金王になっている。  いまは岡《おか》本《もと》綾《あや》子《こ》が実力NO・1と言われているが、昭和50年代後半から60年代前半は覇阿玉時代がつづいたといっていい。  ところでゴルフ界には奇妙な合言葉があって、それが不思議とよく当る。 「強風の日は台湾勢がかならず勝つ」  これが奇妙な合言葉である。この意味を少しずつ書いてみよう。  覇は台北市から自動車で一時間ほどのところにある、“淡水ゴルフ”場で腕をみがいた。  覇の師匠は陳金獅という。  さて台湾きっての名門ゴルフ場である淡水ゴルフ場は、海岸線につくられてある。海岸線といっても、湘《しよう》南《なん》海岸のような砂浜ではなく、断がい絶壁の上にある。だからいつでも海から陸に向かって、かなりの強風が吹く。 「淡水ゴルフ場で勝負する場合、敵は相手でも自分自身でもない。海から吹きつける強風なんですね。打球を高く打ち上げると、とんでもない方向に流されちゃうんです」(覇阿玉)  それならどういう打法をしたらいいのか。“パンチ・ショット”といって、クラブを上から叩きつけ、極端にいえばミートした瞬間、クラブをとめるような実感で叩く。  すると弾道は低くとんでいき、強風にあまり左右されない。淡水ゴルフ場出身のゴルファーは、全員このパンチ・ショットのコツを体得しているから、日本にきても強風の日はとくにこのパンチ・ショットの感じを強く打ち出す。そこで、 「強風の日は台湾勢が勝つ」  という合言葉が生まれた。 「私の師の陳金獅が淡水ゴルフ場ではパンチ・ショットで打てというのは、ゴルフ場の環境をよく頭にいれておけという意味なんですよ。もっと大胆にいえば(強風の日は台湾勢が勝つ)という合言葉も、頭を使えよ、頭を使った者が勝つという意味なんですね」(覇阿玉)  覇はまた、いつでもゴルフ場でスラックスをはき、スカートは身につけない。身長1メートル68センチ、体重55キロだから、ずい分とすらりとした、魅力ある脚を持っていると思われるのに、毎試合スラックスである。 「私、台湾から日本にきているでしょう。ミニ・スカートはいて賞金ばかりとっていたら、日本の女性に反感を買うんじゃないかと——」  ゴルフばかりではない。彼女は服装にまで頭を使っている。 「勝負は相手に疑問を抱かせたほうが勝ちますね」 ——松《まつ》尾《お》 雄《ゆう》治《じ》 *ラグビー。明治大。新日鉄釜石の主将、監督。そのテクニックは、ラグビー界の頂点といわれ、新日鉄釜石の日本選手権V7の立役者となった。  昭和60年1月15日、東京・国立競技場で社会人代表新日鉄釜《かま》石《いし》、学生代表同志社大が顔を合わす、ラグビー日本一決定戦・第22回日本選手権が行われ、31対17で新日鉄釜石が優勝した。  この時点の松尾は新日鉄釜石の監督兼プレーヤーである。  私はこの試合を見て、松尾はラグビーの天才だと思った。理由はどういう場面でも、いつでも、どこでも、相手に疑問を抱かせる動きをしているのだ。  たとえば、ほかの選手はボールを抱いて走るとき、利《き》き腕《うで》でボールを抱く。利き腕のほうが確実に抱けるからだ。松尾は右利きだから、普通なら右腕でボールを抱いて走るはずだ。  ところがどういう狙《ねら》いからなのか、松尾はほとんどの場合、右腕で抱かない。両手で胸のあたりに持って走りに走る。どういう理由からなのか。 「片手ではパスはできませんね。だから敵はピンとくるんですよ、(片手で持ったら走るだけだな)と——。しかし両手で持っているとパスされるかもしれない。キックされるかもしれない。あるいは裏の裏をかいて一気に突っ走るかもしれない。相手は三つの疑問のうち、私がどれを選択するか迷うんですよ。これでわかるでしょう。勝負は相手に疑問を抱かせたほうが勝なんですよ」(松尾雄治)  頭は帽子をかぶるためにあるのではない。勝負師は勝負に勝つために頭を使う。そのためには相手に数多くの疑問を持たせたほうがいい。  さて試合を見ていてもうひとつ、私は松尾にうなってしまった。彼はボールを両手で抱くと、必ず味方の密集軍団の方向に走っていく。間違っても敵の密集軍団の方向には走らない。 「そんなのラグビーの初歩じゃないか」  読者はそういうだろう。  だが、松尾はボールを抱いた何分の1秒後、もう味方と敵の分布図を見抜いてしまう。  天才なのだろうが、同時にいつでも試合の流れを頭の中に叩《たた》きこんでいる証明でもある。  叩きこんでない者は、ボールをつかんでから状況をつかみにいく。松尾は状況をつかみながら動いているから、ボールを捕球した瞬間、すぐ味方の密集軍団方向へ走る。そうすればトライしやすいからだ。 “松尾流ラグビー”を私たちサラリーマンにおきかえてみよう。商売仇《がたき》にいつも疑問を持たせ、自分はいつも的確な状況をつかんで、チャンスをつかんだらすぐ走り出す。  だから松尾のいる時点の明治、新日鉄釜石ラグビーは全盛期だった。 「勝負師は、逃げるのも大事な芸なんですよ」 ——鶴《つる》岡《おか》 一《かず》人《と》 *プロ野球。三塁手。法政大。南海。南海監督。MVP3回、本塁打王1回、打点王1回。終身打率2割9分5厘、本塁打61本、打点467。  二昔前、関西に渋谷天外という名人喜劇役者がいた。渋谷は熱心な南海ホークスファンで、当時、南海の監督は鶴岡だった。  当然、渋谷と鶴岡とは親しい。  さてある日、渋谷と鶴岡が将棋の勝負をする話になった。  立ち合い人は、これも南海ファンで有名な作家・藤《ふじ》沢《さわ》桓《たけ》夫《お》である。  対局が始まり、序盤戦は五分五分だった。しかしもともと実力は渋谷の方が二枚、三枚上である。  中盤戦になると誰が見ても鶴岡が不利だ。すると一手打つごとに鶴岡が、大声でどなるのである。 「この野郎、誰が負けるものか」 「くそっ、こうなったら攻めて攻めて攻めまくるぞう」  渋谷は黙って打つのだが、鶴岡は一手ごとに感情がにじみ出る。  ところが藤沢はあることに気がついた。口では強気、この野郎、攻めるぞ、攻めるぞといっている鶴岡が、実はせっせと逃げまくり、金、銀、角などで王を防衛している。  つまり、口と手とでは正反対のことをやっているわけだ。  このとき藤沢は、「鶴岡野球の本質を盤上で見た」と思ったそうだ。  プロ野球の監督の中には、“攻めの名人”がいる。  たとえば、水《みず》原《はら》茂《しげる》監督(巨人→東映→中日)などがそうだ。攻めさせたら名人なのだが、どういう事情からか、守りに回ると攻めるほどの冴《さ》えを見せない。  だが鶴岡は違う。「攻め」でも一流だが、「守り」に回っても一流なのだ。  要するに攻め足も鋭いが、逃げ足も速い。その要領を藤沢は盤上で見たというのである。 「先取点をとったあと、大詰めの逃げ足も芸のうちなんですよ。つまりいまは攻めた方がいいのか、守りながら逃げた方がいいのか、状況判断のできない監督は困るということですよ」(鶴岡一人)  株の売買でも、攻めるか、守るか、その判断は大切だろう。  スポーツでも、男と女の関係でも、なんでもかんでも、攻めればいいというわけにはいかない。  鶴岡は口ではなんといいながらも、逃げのタイミングを知っていたから、三原脩などとともに名監督といわれたと思う。 「踏み切り上昇角度を5・3度引き上げたため、ルイスに逆転勝ちできた」 ——マイク・パウエル *陸上。走り幅跳び。ソウル五輪銀メダル。第3回世界陸上優勝。アメリカ。  私はあの眼《め》の色を死ぬまで記憶していると思う。100メートルを走らせたら、人類誕生以来、最速の男カール・ルイス(アメリカ)の眼がふるえているのである。 「人類史上、最高の男でもおびえるのか」  私は走り幅跳びの決勝を眼の前にして、胸が締めつけられる思いだった。もっと本音を吐けば見てはならない、ルイスの心の奥底を見てしまったと思った。  平成3年8月30日、国立競技場で世界陸上の男子走り幅跳び決勝が行われた。ルイスはこの種目でなんと65連勝している。そのルイスが1回目の試技で8メートル68センチ、3回目では“追い風参考記録”(2メートル以上は参考)ながら8メートル83センチを跳んだのだから、ほとんどの観客は信じこんだ。 「これでルイスの66連勝はきまっちゃった」  それだけではない。ルイスは4回目でまたも追い風参考2・9メートルながら8メートル91センチと、3回目を8センチも伸ばした。  このとき世界陸上史における最大の逆転劇が、わずか数分後に起きると予感した人間はひとりでもいたのだろうか。  マイク・パウエル、28歳、身長1メートル90センチ、体重77キロ、この大会ではルイスのライバルといわれてきた人物である。  パウエルはソウル五輪に出場したとき、技術的立ち場からいうと、 「踏み切り上昇角度は17・9度、スタイルは“そり跳び型”」  を採用していた。  走り幅跳びの場合、助走路距離は40メートル以内なら、どの地点をスタートにしようがかまわない。パウエルは助走路を23歩走り、左足で踏み切って空中にとび出していく。パウエルはソウル五輪では空中にとび出したあと、大きくそり返る方法で、両足を走るように回転させない。7メートル98センチの日本記録を出した南《なん》部《ぶち》忠《ゆう》平《へい》はこのスタイルだった。  ところがソウル五輪のあと、パウエルは考えた。 「いまのままではルイスに勝てるはずもない。思い切った発想の転換がないと、ルイスのあとばかり追う」  それでは発想の転換とはなんだったのか。 「踏み切り上昇角度を17・9度から23・2度に引き上げる。そしてそり跳び型をシザーズ型に変えてみよう」  シザーズ型とは左足で踏み切ったあと、空中で右足、左足、右足と走るときのように両足を回転させる。そして後ろ足のけり返しで腰をのばす跳法である。ルイスはこの方法をずっと採用している。  パウエルにしてみれば、なにからなにまでモデル・チェンジして東京の世界陸上へやってきた。パウエルは4回目にファウルしたが、8メートル80センチは楽に越えた。上昇角度と跳法のモデル・チェンジがぎりぎりの場面で効用を見せ始めた。この瞬間である。65連勝しているルイスの眼に、はっきりとおびえが現われたのは——  5回目、パウエルが最後のスタートを切った。踏み切った直後、パウエルのゼッケン番号1155番が地上2メートルも舞い上った。左足で踏み切ると空中で右、左、右と3歩ももがくように回転させ、心持ち体全体が右へ傾斜するように着地した。8メートル95センチ、世界新記録の瞬間である。それまでは昭和43年、メキシコ五輪でボブ・ビーモン(アメリカ)の記録した8メートル90センチだった。要するにパウエルは一瞬にして世界新記録を5センチも伸ばした。追い風0・3メートル、公認世界新記録である。  政治の世界は一寸先が闇《やみ》だという。だがルイスとパウエルの立ち場はパウエルがスタートを切ってから6秒間で逆転した。こんどはパウエルがチャンピオン、65連勝のルイスが追いこまれた。しかしルイスはいつも大試合では、最後の土《ど》壇《たん》場《ば》で奇跡的に勝つ男だ。たったいま8メートル95センチでとびはねたパウエルがおびえる番に回った。 「オリンピックは参加することに意義がある」  なんてのは大ウソだ。勝ちたい、勝ちたい、なにがなんでも勝ちたいが本音なのである。ルイスが5回目のスタートを切った。走っているルイスの脈拍は1分間150前後だろうが、立ったままルイスを見つめるパウエルの動《どう》悸《き》も1分間150あったと思う。ルイスの5回目は8メートル84センチ、わずか数分前まで世界一だったルイスは雨にぬれた老人のようにしぼみ、パウエルの前で顔だけは無理に笑った。だが眼はうつろである。 「オレはロシアンルーレットのように、ビクビクしっぱなしだった」(ルイス)  ルイスが本音を吐くと、パウエルもまた本音を吐いた。 「勝てた——神に感謝したい」  ドラマが終っても、日本人はほとんど本音をいわない。何千年もつづいた日本文化だから、いっても仕方がないか。 情の章 「私が涙を流したあの場面で、外野フライを打たせた工藤さんに感謝しています」 ——清《きよ》原《はら》 和《かず》博《ひろ》 *プロ野球。一塁手。PL学園高。西武。新人王。通算打率2割8分5厘、本塁打186本、打点503。  清原和博一塁手はテレビ画面で二度泣いている。身長1メートル86センチ、体重92キロの若者が、熱い涙をほおに伝え、歯を食いしばって泣くのである。  昭和60年11月20日、プロ野球ドラフト会議が行われた。この年の目玉商品は甲子園球場で20勝を稼《かせ》いだ桑《くわ》田《た》真《ま》澄《すみ》投手と13本の本塁打をとばした清原のPL学園コンビである。高校生が甲子園球場で1本の本塁打をとばせば、生《しよ》涯《うがい》の物語になる。ポール際《ぎわ》にふらふらと入った本塁打でも、10年たち20年すぎると、これが130メートル級の大本塁打になってしまう。当然の人情だろう。  それが桑田は20勝、清原は13本である。ところが60年夏の甲子園大会が終ると、どこからともなく“桑田早大進学説”が流れだした。それを裏付けるようにドラフト会議8日前の11月12日、早大野球部首脳が桑田に早大受験を確認している。受験はそのまま合格を意味した。残りの清原は巨人入りを強く希望し、王貞治監督(巨人)もまた、某社巨人担当記者を通じて清原に自分のサイン入り色紙を贈ったといわれている。 「桑田は早稲田、清原は巨人」  これでおさまるものと、だれもが思った。だが桑田と清原をめぐる人生劇場は大どんでん返しが待っていた。最後の最後で桑田は早稲田をだまし、PL学園もだまし、密約通りに巨人は桑田を指名した。清原の交渉権をつかんだのは西武である。 「結局、巨人はオレをだましたんじゃないか」  だから清原の最初の涙は、巨人へのうらみ、つらみの涙である。王貞治はウソつきだという涙である。  清原が西武に入団して2年目の62年、日本シリーズで巨人と西武が顔を合わせた。西武の3勝2敗で11月1日、第6戦は所沢球場で行われた。スコアは3対1、西武がリードのうち、9回表巨人の攻撃は二死となった。左打席には6番篠《しの》塚《づか》利《とし》夫《お》二塁手が入った。この瞬間である。日本シリーズ史上、おそらく最初で最後になると思われるシーンが出現したのは——。  一塁のポジションにいた清原が突然、子供のように泣きじゃくり始めたのである。ぽろぽろと涙があふれ、とてもプレーできる状態ではない。 「あれほどオレをだました巨人や桑田に、あとひとりで勝てる。あのうらみ、つらみの巨人への怨《おん》念《ねん》をいま晴らすことができる」  そう思ったらあとは涙しかないじゃないですか。隣りにいる辻《つじ》発《はつ》彦《ひこ》二塁手が走り寄ってきて、清原を抱くようにしてなだめ、すかして、涙をとめようとする。日本シリーズに勝ったあと、泣き出した監督、コーチ、選手はずい分と見てきた。しかし優勝目前で涙をこぼしたのはこの場面での清原ひとりしかいない。それでもテレビ画面で清原の涙を見た日本中のファンは、この時点で19歳の清原の胸のうちをみんなが理解した。  だが私が本当に伝えたいのは、清原が泣くのをやめ、試合が再開された直後の話である。清原は泣くのをこらえたが、眼《め》には涙がたまっている。要するに眼は涙でかすんでボールが的確にとらえられない状態なのだ。  左打者の篠塚が強い一塁ゴロを打ってきたらどうするのか。一塁ライナーでもどうするのか。内野ゴロの場合、一塁送球を確実に捕球できるのか——いくつかの技術的問題がとび出してきた。  マウンドにいる工《く》藤《どう》公《きみ》康《やす》投手はこの不安感を誰よりも強く持った。そこで運命の初球、外角へスライダーを投げた。篠塚が流すようにバットを出すと、打球はライナー性の飛球となり、秋山幸二中堅手のグラブに吸いこまれた。もしも工藤が内角球を投げて、篠塚のゴロが一塁線にとんでいたら、涙でかすんだ清原の眼で捕球できていたのか。内野手の一塁送球がショートバウンドしても同じ理屈である。  清原の涙は日本人なら胸にしみこんでくる。しかしプロフェッショナルの立ち場からすれば、プレー中に涙をこぼすのはまだシロウトである。  クロウトの工藤が外野フライにとってくれたからこそ、清原の涙が、“日本シリーズ純情詩集”として100年間語り伝えられることになった。 「背番号1番、ヤクルトの“顔”になりました。だけど年《ねん》俸《ぽう》は現状維持なんですって——」 ——池《いけ》山《やま》 隆《たか》寛《ひろ》 *プロ野球。遊撃手。市立尼崎高。ヤクルト。通算打率2割6分3厘、本塁打147本、打点394。  平成4年度における12球団契約更改を見て、もっとも腰を抜かしたのは、池山隆寛遊撃手の現状維持だった。池山は平成3年度では年俸8000万円、2億2千万円の落《おち》合《あい》博《ひろ》満《みつ》一塁手(中日)を年俸第1位とすると8000万円の池山は第13位だった。それが現状維持だったために、平成4年では推定第24位に落ちた。 “契約更改”とは客観的な給料査定だと思っていたら、12球団それぞれ12球団流の主観的査定だと思い知らされ、それで腰を抜かしたのである。  池山の8000万円現状維持がなぜおかしいのか、申し訳ないのだが落合を引き合いに出して考えてみたい。前にも書いたように、平成3年の落合は2億2千万円である。この2億2千万円という金額には、活字には残していないが、 「それ相応の成績を残して当り前である」  という、球団側の思惑がふくまれている。落合は本塁打37本、打点91を残した。すると約36%強の8000万円が上積みされ3億円になった。それなら池山はどうだったのか。  本塁打32本で5本差、打点80で11点差、はっきりいい切ってしまえばたったの5本差、11点差しかない。それ相応の働きという立ち場に立てば、落合は2億2千万円の現状維持でも文句はいえないと思う。それが36%の8000万円も昇給した。そして落合の2億2千万円に対して、約30%弱しかもらっていない池山が、32本、80打点も打って1円もアップしていない。世の中これで丸くおさまるのか。それよりなにより、球団経営者という立ち場の人間は、 「守備の貢献度」  というものを何だと思っているのか。  池山は平成3年に132試合の全試合に出場して、守備率9割9分4厘《りん》1毛を記録した。これは遊撃手としてはプロ野球最高記録である。考えても見てくださいよ。遊撃というポジションはあらゆるポジションのうち、もっとも守備機会が多い。そこへ打球が100本とんできて、99本以上アウトにしたという意味なのだ。いままでの内野手記録保持者は昭和62年における岡《おか》崎《ざき》郁《かおる》三塁手(巨人)の9割9分4厘だった。池山はそれを1毛上回った。池山はこの9割9分4厘1毛をやってのける間、たった4失策しかしていない。池山のニックネームは“ブンブン丸”という。バットをブンブン振り回して三振するからだ。しかし守備はブンブン丸どころか、正確度99%以上の精密時計である。私だったら池山にブンブン丸という名前はつけない。コチコチと正確に時を刻みつけるコチコチ丸である。  この守備能力をヤクルトの球団側はなんだと思っているのだろう。要するに本塁打32本打って本塁打数第2位、もっともむずかしい遊撃のポジションで9割9分4厘1毛の記録をつくっても現状維持だという。落合が守備で貢献しているという方、ひとりでもいますか。  本音を吐くと球団側も良心に痛みをおぼえたのだろう。池山の背番号36番を“1番”に変更した。1番とは要するにヤクルトの顔である。顔として持ち上げたが、金は1円もアップしない。世間ではよく、 「口は出すが、金は出さない」  という言葉がある。ヤクルトは池山にこの手を使った。中日も中日だが、ヤクルトもヤクルトだ。池山は契約更改直前、写真週刊誌で女優南野陽子さんとの交際がばれた。南野さんのマンションからの朝帰りの写真をとられたのだから、弁解の余地はない。契約更改の席上、球団側から、 「早く結婚することだ」  といわれたそうだ。  球団側の現状維持には、この女優とのスキャンダルのペナルティがふくまれていたと思う。しかし一人前の独り者の男が、一人前の独り者の女と、同じマンションで一夜をすごそうが、それと給料は関係ないだろう。他人の女房となら問題だろうが、独り者同士、男と女じゃあ、あーりませんか。池山は契約更改直前という、なんとも間のわるい時期に、写真週刊誌に狙《ねら》われたものだ。  私だったら池山の年俸は9500万円が妥当だと思う。  最後にこういう話を伝えよう。大リーグの歴代遊撃手で最高終身打率を残したのは、1930〜1950年までプレーしたルーク・アプリング(ホワイトソックス)で、3割1分0厘である。あの大リーグでも遊撃手の最高終身打率はやっと3割1分0厘で、それだけ守備にエネルギーを吸いとられてしまう。  大リーグの最高終身打率はタイ・カッブ左翼手(タイガース)の3割6分7厘。遊撃手と外野手では守備に消耗するエネルギーがこれだけ違うという、なるほどという話である。 「なぜ若《わか》乃《の》花《はな》の右上手を切りにいったのか、あの謎《なぞ》は私にしかわからないんです」 ——栃《とち》錦《にしき》 清《きよ》隆《たか》 *大相撲。第44代横綱。春日《かすが》野《の》部屋。幕内優勝10回、殊勲賞1回、技能賞9回。幕内通算513勝203敗1分。春日野親方。元相撲協会理事長。本名中田清。東京都出身。  栃錦は幕下時代、“マムシ”というニックネームをつけられた。食いついたら離れない。それが昭和30年1月場所、29歳7ヵ月で第44代横綱になると、マムシは“名人”に変っていた。名人横綱を証明するように、横綱在位28場所の勝率7割7分7厘《りん》(292勝84敗)、関《せき》脇《わけ》で初優勝して以来、実に10回優勝している。  ところがこういう名人栃錦でも、横綱時代に取り組んだ376番のうち、たった1番だけ、“あれは謎の相撲だった”といわれる内容があった。八《や》百《おち》長《よう》相撲などというのとは本質的に違う。名人にしては相撲の展開が納得いかないという話である。しかもこの1番が大相撲史上に百年間刻みこまれる歴史的なものだっただけに、相撲解説者、相撲担当記者、相撲通などが首をひねった。  昭和35年3月場所千秋楽結びの大一番をむかえて、テレビを見ている日本中は熱気というより、むしろ殺気さえただよっていた。この瞬間におけるテレビ視聴率は記録されていないが、日曜日の夕刻、推定70%台はのぼりつめていたのではないか。  東横綱栃錦は初日、西小結富《ふ》士《じに》錦《しき》を押し出しで破ると、14日目西前頭5枚目房《ふさ》錦《にしき》を突き落とすまで14連勝である。だが相手の東張出横綱若乃花幹《かん》士《じ》(花《はな》籠《かご》部屋)もまた栃錦と同じなのだ。初日西前頭4枚目成山を寄り切ると、14日目西大関若羽黒を掬《すく》い投げに破るまで14連勝した。要するに14日間全勝同士の横綱が千秋楽結びの一番で優勝をきめる。詳細な記録が明記されている近代相撲史四百年をひもとき、これほど劇画的優勝争いは、この時までもちろんこの場面での栃錦対若乃花の取り組しかない。くりかえすがこの日の相撲で栃錦が、謎の技を出したのだから大さわぎになった。  立ち上ると左の相四つだから、がぶりと左四つ、あとは動かない。数秒後、若乃花が先に吊《つ》りに出ると、残した栃錦が逆に吊り返す。土俵のほぼ中央で若乃花はこの吊りを残したから、二人はまたがっぷり左四つ、そのまま数秒間、動かなくなった。つぎの瞬間である。戦後の優勝決定大一番のなかで、最大の謎といわれる大技がとび出したのは——  栃錦は突然、左の差し手を抜いた。日本中があっと思ったとき、栃錦は抜いた左手で若乃花の右手首をつかむと、体重を乗せて切りに動いた。この右上手切りが謎だというのである。腕力、握力は若乃花の方がはるかに強い。しかも切りに動いた栃錦の上体は浮き気味になってしまう。動物的カンのとぎすまされた若乃花が、この一瞬を見のがす道理がない。すっと双《もろ》差《ざ》しになると寄りに寄り、最後は右腕を返して向う正面に寄り切った。第23代木《き》村《むら》庄《しよ》之《うの》助《すけ》(本名内山等三)の軍《ぐん》配《ばい》も感動的だった。栃錦が左差し手を抜いて、右上手を切りにいったのが直接、負けにつながった。なぜマムシで名人の男が、こういう技に出たのか——  実はその前場所の35年1月場所、栃錦は14勝1敗で10回目の優勝をやってのけた。当時エールフランスが優勝者をパリに招待していた。栃錦も2月上旬パリに出かけていった。パリの宿舎クラリッジホテルで当時のイブ・シャンピ夫人(女優岸恵子さん)とも一緒に写真をとっている。ヨーロッパ旅行の疲労、それによる帰国してからのけい古量の不足——こういった不安材料を抱えて3月場所に入っていった。そしてこの胸の奥底にくすぶっていた不安感が若乃花戦で噴き出した。 「長びいたら負ける。短時間で勝負を——」  これが名人をしてあの技に走らせた。このとき若乃花は32歳、栃錦は35歳。  栃錦はそれから2ヵ月後の5月場所2日目、西前頭筆頭安念山に寄り切られると、翌3日目(5月10日)五月風のようにさわやかな引退をした。解説者や新聞記者は第三者として技や精神面を分析する。それはそれでいい。しかし本当の理由、本音は当人しかわからないケースも多い。だから私は栃錦の謎の上手切りが、当然の展開として理解できるのである。 「私は世界一の幸せ者だ。誤解が伝説に変わってしまうのだから——」 ——ベーブ・ルース *プロ野球大リーグ。右翼手。レッドソックス→ヤンキース。本塁打王12回、打点王10回。終身打率3割4分2厘、本塁打714本、打点2209。アメリカ。  いきなり問題の“誤解”場面から書く。  1932年(昭和7年)10月1日、シカゴ・カブスの本拠地リグレー・フィールドでカブス対ヤンキースのワールド・シリーズ第3戦が行われた。  この試合の5回、ルースが左打席に立つと、右腕投手のチャーリー・ルートが初球、2球目とストライクをとった。ルートはこの年15勝した実力者である。  さてボール・カウント2—0と追いこまれたルースは、右手人指し指をルートに向けるとどなった。 「おれを三振させるには、あとひとつのストライクが必要なんだぜ」  カチンときたルートは3球目、速球で勝負に出た。その運命の3球目をルースは中堅深く本塁打した。すると翌日の新聞はつぎのような記事を書いた。 「ルースは3球目に右手人指し指で中堅を指し、あそこに本塁打すると指定した」  これが大リーグ史上、あまりにも有名な「ベーブ・ルースのコールド・ショット(指定打ち)」である。  だが真相はルースがルートにどなったにすぎない。それならなぜ、ただどなっただけの話が指定打ちにすり変わったのか。ひとつは指定打ちの方が劇画的という見方もあるだろう。  しかし新聞記者がこれを書いた本音は、やっぱりルースの人《ひと》柄《がら》ではなかったのか。  ルースは通算本塁打714本、1927年(昭和2年)には60本塁打を記録した、大リーグ最高の打者だが、その心根はやさしい男だった。ある日、ルースのファウルが観客席にとびこみ、少年の抱いていた小犬の頭部に命中、少年が泣き出した。するとルースは試合をほっぽり出し、ユニホーム姿のまま自動車で少年と小犬を病院に運んだ。  いま原《はら》辰《たつ》徳《のり》一塁手(巨人)が試合中、ケガ人抱えて病院へ走るなんて考えられますか。古き良き時代といってしまえばそれまでだが、ルースのなんともやさしい気持ちがにじみ出ている。  こういう人柄を知っている大リーグ担当記者が、指定打ちという伝説をつくりあげてしまった。これが本当のところだろう。  あるとき小児マヒで入院している少年を見舞ったルースはこう言った。 「君のためにきょうは本塁打2本打つよ」  そして約束を現実にやってのけたルースの実力とやさしさ、こういう人柄だからこそ、誤解は夢のような指定打ちに変わった。 「人間も伝説が生まれて超一流」  という言葉がある。人に嫌《きら》われている男に、伝説の生まれたためしがない。 「私は、明治大学で出身者ひとり、という学部を出たんです」 ——星《ほし》野《の》 仙《せん》一《いち》 *プロ野球。投手。明治大。中日。中日監督。終身成績146勝121敗34セーブ。  明治大学の前身、明治法律学校は明治14年1月17日、当時の東京麹《こうじ》町《まち》区有《ゆう》楽《らく》町《ちよう》3丁目1番地(現在の銀座数《す》寄《き》屋《や》橋《ばし》ぎわ)で誕生したのだが、以来111年間を通じ、卒業生ひとりという学部は本当にあったのだろうか。  とにかく星野と島岡吉郎監督の短い物語を書いてみよう。  星野が明治の3年生だった昭和42年9月9日、神宮球場で早明1回戦が行われた。結論を伝えると、星野は6回一死後でKO、明治は3対1で負けた。島岡は激怒した。早稲田に負けたことに激怒したのではない。星野の試合態度に真剣さというか、命がけの投球が伝わってこないことに怒った。その晩の10時すぎ、 「全員パンツ1枚でグラウンドに正座しろ」  と島岡はどなった。  指示通りパンツ1枚で本塁後方に正座すると、これもパンツ1枚の島岡監督が大声で言いだした。 「グラウンドの神様、申し訳ございません」  それからおでこを地面にこすりつけた。やがて冷たい秋の雨が音を立てて降り始めた。  30分、1時間、1時間半、島岡はグラウンドの神様にあやまり、全身ずぶぬれになりながら、地面におでこをこすりつづけた。その姿を見ているうち、星野は冷たい秋雨の中で、熱い涙をぽろぽろ流した。 「いまの世の中でこれほど体を張って、教え子を教育してくれる指導者がいるだろうか。私は人間で一番大事なものをあのときの島岡監督から学びました」(星野仙一)  星野は中日の現役時代、146勝121敗、巨人に35勝もしているが、その原点は雨にぬれたパンツ1枚の島岡監督の姿だったと思う。  昭和61年11月、星野は中日の監督になった。多方面に人脈を持つ彼は、なんと7回におよぶ“監督就任激励会”を受けた。その席上、星野は次のように話している。 「私は明治大学で出身者ひとりの学部を出たんです。明治大学島岡学部野球学科がそれですよ。これはシャレでいっているのではありません。本音なんです」  星野の父親仙蔵さんは昭和21年12月にガンで他界、星野はその直後の昭和22年1月22日に生まれた。だから、父親の味をまるで知らない。逆に島岡監督には子供がいない。星野と島岡監督の心情には、他人にはわからないものが通じ合っていたのかもしれない。  ここで読者は気をまわすだろう。 「星野の出た本当の学部はどこなんだ」  星野が手にした卒業証書には一応「明治大学政治経済学部」の10文字が書かれてあった。 「人生、楽ありゃ、苦もあるさあ」 ——武《たけ》 豊《ゆたか》 *競馬。騎手。武田作十郎舎。平成元年(133勝)、平成2年(116勝)のリーディングジョッキー。通算527勝。  平成2年12月23日、あの第35回有馬記念(G1、芝2500メートル)を忘れてしまった競馬ファンはひとりもいないだろう。  第4コーナーを回り、最後の直線に入ったとき、トップ集団になんとあのオグリキャップがいたのである。いま実力、人気ともにNO・1といわれる武豊を乗せて、このレースで引退するオグリキャップがトップ集団を走っている。競馬場につめかけた18万人だけではない。有馬記念のテレビ画面を見ていた日本中の競馬ファンがしびれた。オグリキャップがトップで逃げに逃げまくった約200メートルは、国立競技場での世界陸上でカール・ルイスが100メートル決勝で、世界新記録9秒86を出した、あの興奮ににていた。  この日のオグリキャップは100年間語りつがれるだろう。同時にこの瞬間における武豊の評価は、頂点にのぼりつめた。レース前の読みの洞《どう》察《さつ》力《りよく》、レースに入ったあとの展開のうまさ——この21歳の若者は本当に天才なんだと思った。  あの日からわずか1年間しかすぎていない。別の表現をすれば、武豊の評価が頂点にのぼりつめてから、たったの1年間しかたっていない。だがこの短い1年間を振りかえって、武は、 「人生、楽ありゃ、苦もあるさあ」  生きるほろにがさを胸にぐっと押さえこむのである。  平成3年10月27日、東京競馬場で“秋の天皇賞”(第104回天皇賞・秋)が行われた。武が乗ったメジロマックイーンの馬番は“13番”である。あまり縁起のいい番号ではない。左回りの東京競馬場での2000メートルはスタート直後にカーブに移る。第2コーナーのところで外側にいたメジロマックイーンは内側に斜行した。一番人気の馬に乗る武としては、気持ちのうえでおさえ切れない斜行だったのか。それとも関西の名人騎手武邦《くに》彦《ひこ》の息子で、関西出身の武豊は、関東出身者ほど、東京競馬場になれていなかったのか。実質的にはぶっち切りで1着になったのに、この斜行のため18着に降着、そのうえ3週間の騎乗停止処分を受けた。18歳で騎手になった彼にとって、最初にぶつかった壁だったかも知れない。武は身長1メートル70センチ、体重50キロ、一見女っぽい体型だが反射神経もまた天才といっていい。18歳の春からゴルフを始め、6ヵ月すぎてみたら80台を記録していた。そのうえレース前の展開の読み、うまさがあるから、5年間の騎手生活で通算527勝、この1年間は平成3年終了時点で96勝、全国第2位の成績を残している。そういう天才武でも、頂点から下り落ちるような“流れ”は変えられなかった。この世の中で“流れ”ほど、恐ろしいものはない。  平成3年12月22日、中山競馬場で第36回有馬記念が行われた。メジロマックイーンが引き当てた馬番は“1番”である。向う正面で15頭はほぼ縦長のレース展開のまま走っていく。メジロマックイーンは前から7番目あたり、中位を保っている。時間の推移とともに雑然とした固まりになり、やがて馬群は第4コーナーに入っていく。武は巧みなまでに馬群をすり抜け、直線に出た地点では3番目、4番目あたりの絶好位置を占めていた。 「1年前のオグリキャップと同類型の戦術だ。中位から第4コーナー付近でトップ集団にせりあがっていく。あとはゴール前の直線200メートルで勝負に出る」  ほとんどのファンはそう思ったのではないか。メジロマックイーンという一番人気の馬の特質を生かすには、この戦術しかないのである。メジロマックイーンの特質は大ナタの実力はあるが、カミソリのような切れはない。ゴール前200メートル、メジロマックイーンは実力通り、先行馬をすこしずつ、確実に追い抜きにかかる。 「武の頭にえがいた絵図のままにレースは展開している。やっぱりメジロマックイーンの1着だ」  99%、勝負の大筋が見えてきた。あとは武のガッツ・ポーズを見れば今年は終る。そう思った瞬間、内側から鹿《か》毛《げ》の“8番”のダイユウサクが、つむじ風のように抜け出てきた。それは競馬のゴール直前における、スピード常識をはるかに超えた差し脚である。時間にしたらほんの2秒間か3秒間のうちに、メジロマックイーンは脱落し、ダイユウサクは大逆転した。タイムは2分30秒06、有馬記念レコードである。ゴールする数メートル手前から、23歳の騎手熊《くま》沢《ざわ》重文の右腕が真上に伸びた。15頭のうち、実に14番人気の7歳馬が大本命を軽々と逆転した。  ダイユウサクの橋元幸平オーナーは当日、中山競馬場に姿を現わさなかった。忘年会のため、名古屋市内の料亭でビールを飲んでいた。 「まさかオレの馬が勝てるわけがない」  これが本音である。表彰台にはたまたま中山競馬場にきていた幸平オーナーの孫、15歳の幸《ゆき》絵《え》さんがオーナー代理でのぼった。勝てると思うオーナーが名古屋でビール飲んでると思いますか。幸平さんに小学校4年生になる、幸作という相撲のやたらに強い孫がいる。そこで本当はこの馬に“ダイコウサク”と名付けた。ところが調教師の内藤繁春さんが、“コ”の字を“ユ”と馬名登録に書き間違えて、気がついたらダイユウサクになっていた。“1番”を引き当てた天才も、“仰天差し脚”の前には、流れの向きを変えることはできなかった。 「私は世界中で一番高いアスピリンを買いましたよ」 ——ウォリー・ピップ *プロ野球大リーグ。一塁手。ヤンキース。アメリカ。  昭和62年6月13日、広島球場で行われた広島対中日10回戦で、衣《きぬ》笠《がさ》祥《さち》雄《お》三塁手(広島)はあのルー・ゲーリッグ一塁手(ヤンキース)の持つ連続試合出場記録を抜く2131試合をやってのけ、日本列島を沸《わ》きに沸かせた。  ところで衣笠に逆転されたゲーリッグの周辺にもまた、なんとも人間くさいドラマがあった。1925年(大正14年)ヤンキースにルー・ゲーリッグという、左打者、一塁手が入団してきた。だが同球団にはウォリー・ピップ一塁手という実力者先輩がいるため、ゲーリッグには出番がない。だがこのピップという男は1922年(大正11年)の公式戦の最中、同僚のベーブ・ルース右翼手とダグアウトでなぐり合いをするほど、仲間から嫌《きら》われていた。  ベーブ・ルースもずい分とわがまま者だったが、その人《ひと》柄《がら》は誰からも愛されていた。そういうルースと試合中、なぐり合うのだから、ピップという男の、嫌われる性格もわかってもらえると思う。  さてゲーリッグが入団間もない6月1日、ピップはミラー・ハギンス監督に言いだした。 「きょうはプレーしたくない」 「どうしてだ」 「頭痛がするし、熱もある」 「それならすぐアスピリンを買ってきて飲め。一塁手には新人ゲーリッグを使う」  たったこの一言がゲーリッグとピップの運命を分けた。信じられない話だが、ゲーリッグはなんとこの日から、1939年(昭和14年)5月2日、自分から現役引退を申し出るまで、実に15シーズン、2130試合にわたって連続試合出場をきめた。米国では彼を“鉄の馬”とよんだ。衣笠のニックネーム“鉄人”はこの鉄の馬をもじったものである。  ゲーリッグが、“鉄の馬”でヒーローになっている頃、全く出番のなくなったピップはヤンキースのユニホームを脱いだ。  もしあのとき、頭痛がするの、熱があるのと不平不満、文句をいわなければ、ヤンキースの正一塁手はピップだった。それがピップはみんなに嫌われていたから、ハギンス監督もさっさとゲーリッグにかえてしまった。  ピップがハギンス監督に好意を持たれていたら、 「なあピップ、多少の頭痛だったら試合に出ろよ。新人ゲーリッグは打撃がいいから甘く見たらとんでもないぞ」  といわれていたろう。  ピップは過去2回も本塁打王のタイトルを持っている実力者だった。それでもヤンキー・スタジアムをひとりで去る日、この男はぽつんと一言言った。 「私は世界中で一番高いアスピリンを買いましたよ」 「“4番打者”というのは、4番目に打席に入る男じゃないんです」 ——山《やま》本《もと》 浩《こう》二《じ》 *プロ野球。中堅手。法政大。広島。広島監督。MVP2回、首位打者1回、本塁打王4回、打点王3回。終身打率2割9分0厘、本塁打536本、打点1475。  昭和50年8月7日、神宮球場でヤクルト対広島16回戦が行われた。当時中堅手、そして4番打者だった山本は、試合前の柔軟体操中、あっと気がついたらギックリ腰を起こしていた。山本は古《こ》葉《ば》竹《たけ》識《し》監督(広島)に申し出た。 「ギックリ腰で走れません。休ませてください」  すると古葉はぎょろりと山本を見てそっぽを向いた。1時間後、先発メンバーを見て山本はうなった。 「4番、中堅手山本」  と書いてある。  山本は本音を吐くと、腹の中でどなった。 「じゃあテメェ、ギックリ腰やってみろ」  さて試合が始まり、山本は第1打席四球、第2打席は三振した。要するに腰の激痛のあまりバットを一度も振らなかった。  3回終了時点でスコアは5対0、広島がリードした。山本はもう一度、古葉の前にやってきた。 「監督、5対0ですから——」 「だからなんだというんだ」  山本は黙って古葉の前から消えた。  だが勝負とはわからないものだ。3回で5対0だったのに、7回を終わってみたら、なんと7対6でヤクルトが勝っている。このままでは広島の負けである。  ところで8回一死後、広島はホプキンス一塁手の三塁打で7対7の同点にし、4番山本に打順が回ってきた。 「腰が痛いから軽く当てるだけだ」  ボール・カウント2—2後の5球目、石《いし》岡《おか》康《こう》三《ぞう》投手の外角ストレートをミートすると、打球は45度で舞い上り、右翼席本塁打になり、9対7と再逆転した。  腰をかばいながらダイヤモンドを走る山本は胸が熱くなった。たったいま古葉の気持ちがわかったと思ったからだ。 「4番打者は4番目に打席に入る男じゃない。チームの顔だし、チームの精神的支柱なんですよ。だから病気だろうと、なんだろうと、球場にこられる状態なら、全試合、全イニング出場しなければうそなんですね」(山本浩二)  その夜、宿舎のレストランで山本はもう一度、古葉の前に出ていった。 「監督、申し訳ありませんでした」  古葉は白い歯をちらりと見せ、だまってうなずいたきり、ひとこともいわない。 “4番打者”という、目立つ立場の男こそ、人にうらやましがられる男こそ、裏では親が死んでも、球場に走ってきて試合に出なければならない。 「10年かけてこの男を倒そうと、ひそかに剣を磨《みが》いてました」 ——原《はら》田《だ》 哲《てつ》夫《お》 *剣道。六段。大阪貿易学院高。昭和59年度全日本チャンピオン。決め技は長身からの“面”。京都府警機動隊。  原田哲夫六段は昭和59年度における全日本剣道選手権優勝者である。つまり昭和59年度の剣豪日本一である。  原田は身長1メートル81センチ、体重84キロ、剣豪というより、重量級柔術家というイメージといった方がいい。  ところで原田はなにがきっかけで、こういう名台詞《せりふ》を吐いたのか。  さて昭和50年の夏休み中の話だった。当時すでに大阪貿易学院高を卒業し、京都府警に勤務していた原田の前に、ひとりの剣豪が現れた。大東文化大の学生だった加《か》治《じ》谷《や》速《はや》人《と》(現在は埼玉県警機動隊、六段)だった。  加治谷は身長1メートル70センチ、体重65キロ、いかにも隼《はやぶさ》のような剣さばきである。  京都府警道場で原田と加治谷は立ち合ったが、まるで原田は歯が立たない。要するにガキ扱いなのだ。 「私は腰を抜かしましたね。世の中にこんな強い男がいるのかと——。この加治谷はいつか日本一になるだろう。加治谷を倒さなければ私も日本一になれない。10年かけてこの男を倒そうと思ったんですよ」(原田哲夫)  しかしその方法が無類に変わっていた。なにしろ加治谷は天才的剣士だから、よく国体や全日本、大きな地区大会に出場する。原田は勤務の都合がつく限り、加治谷の姿を日本中追いつづけた。  剣の専門用語に“起《お》こり”というのがある。剣の始動を意味する。つまり剣先の運動始めと考えていい。原田は加治谷の“起こり”のくせ、さらに相手との“間合い”など、加治谷に気づかれないように、盗みつづけた。それから9年すぎた昭和59年11月3日、東京・九段にある日本武道館で全日本剣道選手権大会が行われ、なんと決勝戦に残ったのは原田と加治谷だった。2人とも年齢は同じ31歳だが、実績はまるで違う。加治谷は国体で2度優勝しているうえ、大東文化大時代は全日本学生選手権大会準優勝者である。  逆に原田の持つ勲章をさがすと、第27回全日本大会3回戦進出という記録しかない。  ほとんどの高段者、観客は加治谷が勝つだろうと思った。だが目の前では意外な現実が展開していった。  3分5秒、原田が面1本、3分50秒面2本で優勝した。原田が9年間、加治谷の技を盗みつづけてきたのだから、優勝するのは当り前だったかもしれない。  日本一になった瞬間、原田は昭和50年夏、京都府警の道場でガキ扱いされたシーンが過《よ》ぎり、熱い涙があふれてきた。ただし面をかぶっているから、この涙を見た者はひとりもいない。  加治谷は自分が研究されていたのは、負けて半年ぐらい経ってから、知ったそうだ。 「勝ったなと思った瞬間に、魔物がすーっと入り込んできちゃうんですよ」 ——山《やま》田《だ》 久《ひさ》志《し》 *プロ野球。投手。能代高。阪急。MVP3回、最多勝3回、防御率1位2回。284勝166敗43セーブ。  昭和46年10月15日、日本シリーズ巨人対阪急第3戦が後楽園球場で行われた。1勝1敗でむかえた第3戦である。  巨人のV9は昭和40年から始まっている。ところでV1からここまでの6回の日本シリーズを分析してみると、不思議な現象が目につく。“第3戦”に限っていえば、6連勝なのである。つまり、川上哲治監督(巨人)の日本シリーズ必勝法は、第3戦に勝って“流れ”を自分流のものにするところにあった。  だからこの日も、“流れ”の奪いあいで、両ナインの目の色は変わっていた。とくに阪急の先発山田久志投手のピッチングは人間離れがしていた。たとえば、2回一死後から8回二死後までひとりの走者も出さない。二死後、代打上《うえ》田《だ》武《たけ》司《し》に中前安打され、これが2人目の走者である。こうして1対0、阪急がリードのまま9回裏、巨人の攻撃をむかえた。  巨人は9回、代打萩《はぎ》原《わら》康《やす》弘《ひろ》が三振、一死となった。この瞬間である。山田の胸の奥底に、ちらりとつぎのような思いが走ったのは—— 「勝った、もう勝った、運命を変える第3戦にもう勝った——」  この思いがちらりと走ってから、山田のピッチングに微妙な変化が現われ始めた。  1番柴《しば》田《たい》勲《さお》中堅手を四球で歩かせてしまった。2番柳《やな》田《ぎだ》俊《とし》郎《ろう》右翼手は右飛にとったが、3番長《なが》島《しま》茂《しげ》雄《お》三塁手には中前安打を打たれた。  2回から8回までのピッチングはどこへいってしまったのか。打席に4番王貞治一塁手が入った。初球ストライク、2球目ボール、そして3球目、内角低目の速球を投げた。それを王は右翼席に逆転さよなら3点本塁打した。  山田の投球数109球、しかもこの年山田は22勝6敗、防御率2・37、脂《あぶら》ののりきっていた季節である。  9回でへばったとは思えないのだ。やはり心の奥底で、 「もう勝った——」  と思う気持ちが、緊張の糸をぷつんと切断したとしか思えない。 “第3戦”に勝ち、流れをつかんだ巨人は4、5戦にも連勝、4勝1敗でV7をやってしまった。  山田ほどの超一流でも、95%まで勝ち、あと5%の詰めのところで、 「もう勝った——」  と思ってしまう。  ここに人生というか、運命というか、落とし穴が待ち受けている。 “柔《やわら》”という歌でも名文句がうたわれているではないか。  皴勝つと思うな 思えば負けよ 「丈夫な体に生んでくれた母親に感謝します」 ——野《の》村《むら》 克《かつ》也《や》 *プロ野球。捕手。峰山高。南海→ロッテ→西武。南海→ヤクルト監督。MVP5回、三冠王1回、首位打者1回、本塁打王9回、打点王7回。終身打率2割7分7厘、本塁打657本、打点1988。  野村の父親要市さんは、太平洋戦争で戦病死した。野村が3歳のときである。だから野村は要市さんの記憶がまるでない。  野村を育ててくれたのは、母親ふみさんである。しかし女手ひとつで育てるのだから、金があるわけがない。  中学生になると、新聞配達、牛乳配達、デパートの荷物配達、自動車の洗車、なんでもやった。  この間、ふみさんも行商、道路工事の仕事、苦労の限りをつくして、金をかせいで野村を峰山高まで進学させた。  ふみさんの苦労がなければ、現役生活26年、出場試合数3017、本塁打657の野村は生まれていなかったろう。  さて昭和47年9月28日、西京極球場で阪急対南海25回戦が行われた。4回表無死。水《みず》谷《たに》孝《たかし》投手から、野村は左翼席本塁打した。  この一打こそ、野村にとっては、“通算550号”に当る、区切りのいい数字だった。  このあと王貞治一塁手(巨人)が868本を打ち野村を抜くのだが、この時点では野村の550本がプロ野球記録であった。  試合のあとの記者会見で野村は言った。 「丈夫な体に生んでくれた母親に感謝します。プロ野球選手のもとでは体なんですから——」  なんという素《そ》朴《ぼく》で、正直な言葉なのだろうか。記者会見の場にいた私は、目頭が熱くなった。  私たちは次のような、気分のわるくなるような場面をよく見る。  酒に酔った中年男がどなっている。 「おれはだな、20歳のときから25年、誰の助けも借りずに、おれひとりの実力でいまの会社をつくり上げたんだ。文句があるのか。くやしかったらお前らも、おれみたいになってみろ」  冗談ではない。この男だって母親から丈夫な体に生んでもらったからこそ、25年間も仕事ができたのではないか。  野村は母親への感謝の気持ちを抱き、後者の中年男は、この世の中を自分ひとりで生きていると思いあがっている。  この気持ちの差は、赤道一周4万キロぐらいの差があると思う。  この世の中で一番ありがたいのは、丈夫な体に生んでくれた母親なのである。  人生、苦労しつづけた野村の母親ふみさんは、昭和43年12月20日、大阪医大病院で腸閉そくのため他界した。65歳。  野村のこの名台詞はふみさんが他界して4年後、野村は母親を偲《しの》びながら、語ったものだろう。 「トレーナーは、技術を教えるよりも、ハートをつかむものなんですよ」 ——エディ・タウンゼント *プロボクシング・トレーナー。6人の世界チャンピオンを育てた。  タウンゼントは昭和63年2月1日、上行結腸ガンのため、大阪市内の病院で他界した。73歳であった。  日本プロボクシング界最高のトレーナーといわれたタウンゼントは、実に6人の世界チャンピオンをその手で育てあげた。  藤《ふじ》猛《たけし》(リキ)ウエルター級、海《え》老《び》原《はら》博《ひろ》幸《ゆき》(金《かね》平《ひら》)フライ級、柴《しば》田《た》国《くに》明《あき》(ヨネクラ)J・ライト級、ガッツ石松(ヨネクラ)ライト級、友《とも》利《りた》正《だし》(三《み》迫《さこ》)J・フライ級、井《い》岡《おか》弘《ひろ》樹《き》(グリーンツダ)ストロー級の6人である。  相撲の横綱になるのは、新弟子400人にひとりといわれているが、これが世界チャンピオンになると、確率は宝くじ1等なみだろう。それなのにどうしてタウンゼントは昭和42年4月の藤猛から、昭和62年10月の井岡までの20年間に、6人もの世界チャンピオンをつくりあげたのか。いってみれば同一人物が20年間に6回、宝くじ1等を当てたようなものである。 「トレーナーというと、すぐみんなは技術だけを教えると思う。これは間違いですよ。選手のハートをしっかりつかむ。これが最初で最後ですよ」  タウンゼントの口ぐせだった。  ある日、私はタウンゼントが柴田をコーチしている場面を見た。 「クニアキ、いまの左フック、最高ね。この左フックが連発できれば世界チャンプ間違いないね。クニアキ、いまお前が世界NO・1ね」  まるで魔術をかけるようにささやく。こうして柴田のハートを少しずつ、確実につかんでいく。  それまでのボクシング界の主流は、 「根性とゲンコツと竹刀《しない》」  だった。 「この野郎、根性のねえ野郎はやめちまえ」  気がつくと選手はゲンコツか竹刀でなぐられている。  くる日もくる日もなぐられると、選手の気持ちはトレーナーから離れていく。これで勝負に勝てると思いますか。  タウンゼントはセコンドにいて、意外とも思われることがひとつあった。“タオル”を投げ込む(負けのジェスチャー)のが早かった。  あるときボクシング担当記者が質問した。 「なぜタオル投入が早いのですか」  するとタウンゼントは、どうしてそういう質問をするのかという顔で返事をしたそうだ。 「ボクシングをやめたあとの人生の方が、ボクシング現役時代より何倍も長いんですよ」  いつでも、どこでも選手に愛を持っていた。 「体力の限界—気力の限界—(あとは涙)」 ——千《ち》代《よ》の富《ふ》士《じ》 貢《みつぐ》 *大相撲。第58代横綱。九重部屋。国民栄誉賞受賞。幕内優勝31回、殊勲賞1回、敢闘賞1回、技能賞5回。幕内通算807勝253敗。陣幕親方。本名秋元貢。北海道出身。  あの日、テレビ画面を見ていた私は、第58代横綱千代の富士貢は負けるなと思った。いまだからいうのではない。また結果論で書くのでもない。仕切りのときから、あるささいな動作に気がついて、千代の富士は負けるのではないかと思った。  平成3年5月場所初日(12日)、時代のバトンタッチの名勝負名場面といわれる大一番、千代の富士と当時前頭筆頭貴《たか》花《はな》田《だ》光《こう》司《じ》(藤島部屋)が顔を合わせた。私が気が付いた千代の富士のささいな動作とはなにか。  千代の富士は右手で塩をまくとき、野球でいえば“サイドスロー”気味にまく。昭和56年初場所後に大関になった頃《ころ》、千代の富士は塩をまいたあと、右手が左肩より外側に伸びていた。そのサイドスローの塩まきフォームには、 「オレは千代の富士だ。天下の千代の富士だ。文句あるか」  という気迫に満ち、体の芯《しん》から気力がほとばしる実感だった。ところがこの日の塩をつかんだ千代の富士の右腕は、どういう動きをしたのか。同じサイドスローでも、なんと右手が右脇《わき》腹《ばら》にとどかないうちに、ほろっと塩を土俵にまいた。大関当時にくらべると、右手の伸びが50センチも短い。つまり千代の富士の体力、気力を距離で表現すると、全盛時に比較して50センチ分おとろえたと、テレビ画面を見ながら私は独断した。  男が権力の座から崩れ落ちるなんて、こんなにもはかなく、こんなにも短い時間なのか。私はいま一つの時代が終息し、一つの時代が始まった相撲内容を書くつもりはない。それは読者がすでに何回もテレビで見ていると思うからだ。運命の勝負は19秒間で決まった。決まり手は寄り切りである。19秒間といえば5回息を吸い、5回息を吐く程度の時間である。この短い時間で一つの時代が事実上終った。人生、築きあげるのには無限の長さを必要とするが、崩れ去るのは呼吸5回分、吸って吐けば終る。  千代の富士は2日目、前頭4枚目板《いた》井《い》圭《けい》介《すけ》(大《おお》鳴《なる》戸《と》部屋)を寄り切ったが、3日目小結貴《たか》闘《とう》力《りき》忠《ただ》茂《しげ》(藤島部屋)に、とったりで負けた。正面土俵下にころげ落ちたのである。その夜、つまり14日夜、千代の富士は九重部屋で現役引退を発表した。はっきりと聞きとれた言葉は、 「体力の限界—気力の限界—」  だけであとは涙声でよくわからない。  千代の富士の実績を書きならべたら一冊の本ができる。現役生活20年、左肩10回、右肩1回、合計11回の肩脱きゅうをのりこえ、通算勝利は史上第1位の1045勝437敗、優勝回数は史上第2位の31回(1位は大《たい》鵬《ほう》幸《こう》喜《き》の32回)、連勝記録は昭和相撲史第2位の53連勝(1位は双《ふた》葉《ば》山《やま》定《さだ》次《じ》の69連勝)。それだけではない。60年6月11日、アメリカ公演で千代の富士はアメリカ国務省内で太刀持ち大関若島津六《むつ》夫《お》(二《ふた》子《ご》山《やま》部屋)、露払い小結小《こに》錦《しき》八《や》十《そ》吉《きち》(高《たか》砂《さご》部屋)をしたがえ、アメリカ人200人の前で横綱土俵入りまでやってのけた。さらに平成元年9月29日には国民栄誉賞受賞。身長1メートル83センチ、体重123キロ、昭和大相撲史上、最大の“小さな巨人”になった。  さて私はここで心情的には書きにくいことを書く。くりかえすが心情的には、千代の富士にこれを注文するのは、無理は百も承知で書いておきたいことがある。  彼自身が思わず言葉に出したように、現役引退は本当に体力の限界、気力の限界だった。とくに“一人横綱”として、あの小さな体で何場所も相撲協会の屋台骨を背負ってきた。だから現役引退発表のとき、涙がこぼれるのは当り前である。だが千代の富士はやることは全部やった。とてもできそうにもない、大記録を次々と書きならべていった。それだからこそ私は現役引退発表の席で、涙は流してもらいたくなかった。これが私の本音である。一つの時代が終ったことを告げ、静かに笑って土俵を去っていってほしかった。 「これで胴体がぶるぶるとふるえるような、毎日の勝負から解放されました。あとは当分、温泉にでもひたります」  やることを全部やった男が、36歳で土俵を去る場面で、淡々とこういってくれたら、私はどんなにホッとしたろう。  泣きながら話す千代の富士を見て、 「あんたは全部やったんだ。やり残したことはなにひとつないんですよ」  思わずそういいたい気持ちになった。でも人生、理屈通りには動かない。それをわかっていながら書いているのである。 「オヤジがくれた」 ——尾《お》崎《ざき》 直《なお》道《みち》 *プロゴルファー。千葉日大一高。日東興業。尾崎3兄弟の末弟。通算21勝。平成3年は1億1950万円を稼ぎ、賞金王となった。  世間にはどんな劇画の天才でも書くことのできない、人生劇画があるのだと思った。そしてその人生劇画が頂点に達したとき、人間の吐くセリフもまた、想像を超えた素《そ》朴《ぼく》なものだとうなる思いである。  ゴルフの尾崎将《まさ》司《し》、健《たて》夫《お》、直道3兄弟の父親実さん(76歳)は平成3年12月4日、急性心不全で他界した。なんと東京よみうりCCで行われるゴルフ日本シリーズの前日の話であった。長男将司は喪主として葬儀を取りしきらなければならない。次男健夫もまた将司を手だすけする。まさか父親の通《つ》夜《や》、葬儀を他人にまかせ、長男、次男が日本シリーズに出場するわけにはいかない。そこで通夜、葬儀は兄たちにまかせ、三男直道だけが出場した。  この出場がきまった瞬間から、劇画作家も絶句するような、直道をめぐる人生劇画が刻々、動き出した。葬儀は6日、徳島県海《かい》部《ふ》郡宍《しし》喰《くい》町の自宅で行われる。  直道は初日を終えると、自動車で羽田空港に直行、5日午後6時羽田空港発のジェット機で、冷たくなった父親が待つ故郷へ向った。  日本シリーズ初日における直道の成績は1アンダー、15位である。実さんと無言の別れをつげた直道は、6日午前3時に起き、5時実家を出て、9時羽田空港につくと、予約してあったヘリコプターで東京よみうりCCへとんだ。実家へ帰っても仮眠すること2時間、コンディションとしてはこれ以上ない、最悪のままの状態でゴルフをするのは35年の人生で初めてである。だが2日目、ツキものにツカれたように直道は正確に打ちまくった。人間業とは思えない。神がツイたか、キツネがツイたか、2日目65でなんと15位から一気に首位におどり出た。もっとも横島由一、湯原信光と通算136の1位タイである。東京—徳島間を仮眠2時間で往復した男が12人もゴボウ抜きできるものか。そして3日目、運命の11番ホールをむかえた。507ヤード、パー5。第1打で約270ヤードをとばし、さらに第2打で約220ヤード、ピンから向って右寄り12メートル離れた地点のグリーンにのせた。プロでも12メートルはかなりの距離である。 「できるものなら直道に優勝させてやりたい」  ギャラリーのほとんどは、そういう心情だったろうと思う。ギャラリーの最後方に世志江夫人が、両手で顔をおおうようにして立っている。  魂が乗り移ったとはこういうことなのか。ボールは芝生の上をある瞬間は滑るようにころがり、ある瞬間はハネるようにころがり、自分の意思があるという実感でコクンと入った。その瞬間である。直道の唇《くちびる》が動いたのは—— 「オヤジがくれた」  この11番の神ガカリ、いやオヤジツキのイーグルで湯原を突き放し、3日目終了時点で14アンダー、2位湯原に3打差をつけ単独首位に浮かびあがった。  直道の人生劇画はこれで終っていない。4日目の13番は460ヤード、パー4である。第2打でオンさせたがピンまで25メートルもある。陸上選手が走っても3秒はかかる距離なんですよ。それを一発できめた。叩《たた》いてからコクンと落ちるまで6秒間かかった。この間ギャラリーで、“まばたき”する者はひとりもいない。頭の内はまっ白といっていい。祈っていたのは直道と世志江夫人と、遠いところにいるオヤジだけか。コクンという音でギャラリーは初めて、この世にもどってきたといえる。25メートルはこの年のゴルフ界で最長パットである。  通算268打目を打ち、20アンダーで優勝したとき、直道はいつものようにウイニングボールは投げない。そっとズボンのポケットにしまいこんだ。実さんの霊前にささげるためだ。当日のギャラリー数2万5542人、みんなが直道のその瞬間を見たくてやってきた。ゴルフ日本シリーズ史上、最高の数字である。こんな優勝を二度と直道に求めても無理である。毎日この思いこみで仕事をしていたら、男は3ヵ月で死ぬだろう。だが心の芯《しん》からの思いこみがあれば、これだけのことは人間できるのだ。直道はそれを見せてくれた。優勝賞金1500万円。 「最後は開き直りしかないんです。私も先発5分前、ビールを飲みました」 ——今《いま》井《い》 雄《ゆう》太《た》郎《ろう》 *プロ野球。投手。中越高。阪急→ダイエー。最多勝2回、防御率1位1回。終身成績130勝112敗10セーブ。  私ごとで申し訳ないのだが、私は昭和53年〜57年までの5年間、フジテレビ“FNNニュースレポート6・00”のスポーツキャスターをつとめた。メインキャスターは政治評論家俵《たわ》孝《らこ》太《うた》郎《ろう》さん、のちにフジテレビ報道部の山川千秋さんにかわった。私の出番は午後6時21分〜25分の4分間である。一日かかって取材した内容をわずか4分間で一気に吐き出す。吐き出すだけでは物足りない。視聴者がなるほどなあと納得し、ときに感動し、ときに涙をにじませ、なお4分間が終ったあと、ふっと胸に迫るような余韻を残したい——  テレビにはシロウトの私が、これだけのことをやってのけるには、42・195キロのマラソンを3時間で走ってくれと注文されたのと同じほどの苦しみである。  夕刻から気持ちが高ぶり、6時のニュースが始まる頃《ころ》、高ぶりは恐怖心に変っていく。 「相撲とりが土俵に向って花道を歩くとき、こんな気持ちになるのだろうか」  と何度も思った。土俵での勝った負けたより、実はこのときの心情の方が切ないのではないか。私はキャスターをつとめたおかげで、出番を待つ相撲とり、歌手、落語家、キャスター、アナウンサーなどの胸の痛み、ときめきみたいなものが、わかるようになった。  さてこれから書く今井雄太郎投手もまた、あのごつい面《つら》魂《だましい》とはうらはらに、ハートは処女のように、春の野草みたいにやわらかい。  昭和53年5月4日、大阪球場で南海対阪急6回戦が行われた。先発今井はこの年この時点までまだ1勝もしていない。実力者なのだが、先発すると気持ちの動揺が激しく、持っている技術を出せないまま、負けてしまうケースが多い。この日も試合直前の調整が終り、ロッカーにもどってくると、もう顔色がすこし白くなっていた。おそらく胸の動《どう》悸《き》は1分間100以上、手の平は汗でびっしょりぬれているはずだ。このときである。途方もない場面が出現したのは——ひとりのコーチが、今井の前にぽんと1本の缶《かん》ビールをおいた。 「おい今井、オレンジジュースだ。ぱあーっと飲んで見ろ。ぐーんと度胸がつくぞ」  今井は阪急切っての酒豪である。新人の高知キャンプのとき、日本酒一升びん1本、ウイスキー・ボトル1本あけ、深夜、宿舎筆山荘にもどってきた。今井の部屋は筆山荘の3階、階段をのぼって3番目の部屋である。酔っているから2階の階段をのぼると3番目の部屋に入った。つまり自分の部屋の真下である。今井にとって不幸だったのは、そこが当時の阪急監督西《にし》本《もと》幸《ゆき》雄《お》の部屋だった。こうして今井は新人時代の1年間、禁酒させられた。  コーチからオレンジジュースだといって手渡された缶ビールを、今井は10秒間ぐらいで飲んだ。アルコールとは不思議なものだ。60秒ぐらいたつと両手の指の先端まで、 「勝つか、負けるかは時の運、時の成り行きにまかせることだ。オレとしては開き直って、ただただ死にもの狂いでやるしか道はないんだ」  という、くそ度胸みたいなものがみなぎってきた。今井は投球回数7回3分の1を投げて失点1、山田久志投手とかわったが、試合は2対1で阪急が勝った。今井は勝投手となりこの年の1勝目を記録した。 「そうか、勝負なんて相手より早く開き直った方が勝ちなんだ」  勝負というか、人生の悟りというのは大げさだが、今井はその晩、なにかつかんだと思った。あの剣豪宮本武蔵《むさし》だって、柔道の姿三四郎だって、案外この開き直りの技術をどこかで巧みに体得していたのかも知れない。  それから119日すぎた8月31日、仙台でロッテ対阪急8回戦が行われた。先発今井はなんとこの試合で5対0で勝ち、プロ野球史上15人目の完全試合をやってしまった。この日は缶ビールは飲んでいない。しかし気持ちのどこかで、開き直るコツみたいなものをつかんでいたのではないだろうか。 「投球数100球、内野ゴロ18、内野飛球4、外野飛球2、三振3」  今井は平成3年のシーズン終了と同時に現役引退した。21年間で試合数429、130勝112敗10セーブ、酒豪とメガネと愛《あい》敬《きよう》のある人物という、夏風のような好もしい余韻を残しての引退である。  開き直りとヤケクソとは違う。開き直りとは、やることは全部やって、あとは成り行きにまかせようというのである。1本の缶ビールが今井にこれだけのことを教えた。私もキャスターをやっていたとき、今井と同じものをつかんでいれば、もっと気持ちが楽のまま、もっといい放送ができていたのにといまにして思う。 「チームの顔として、ロッテでは最高額でしたが、12球団では最低額でした」 ——西《にし》村《むら》 徳《のり》文《ふみ》 *プロ野球。中堅手。宮崎福島高。ロッテ。首位打者1回、盗塁王4回。通算打率2割8分4厘、本塁打29本、打点253。 “チームの顔”をだれにするのかは、なかなか微妙である。たとえば西武の場合、清原和博一塁手なのか、秋山幸二中堅手なのか、また巨人の場合、原《はら》辰《たつ》徳《のり》左翼手なのか、桑田真澄投手なのか——さらにいまの近鉄の顔は野《の》茂《も》英《ひで》雄《お》投手だと思う。  しかしここでは尺度をわかりやすくするために、平成4年度における年《ねん》俸《ぽう》順にきめた。つまりチーム最高年俸者をチームの顔ときめた。参考のために12球団の顔、要するにチーム最高年俸者はつぎの通りである。 〔西武〕秋山幸二中堅手1億4千万円(プロ野球全体では2位) 〔広島〕北《きた》別《べつ》府《ぷま》学《なぶ》投手8千3百万円(21位) 〔近鉄〕大石大二郎二塁手9千2百万円(16位) 〔中日〕落《おち》合《あい》博《ひろ》満《みつ》一塁手3億円(1位) 〔オリックス〕松《まつ》永《なが》浩《ひろ》美《み》三塁手9千6百万円(11位) 〔ヤクルト〕広《ひろ》沢《さわ》克《かつ》己《み》一塁手9千2百50万円(15位) 〔日本ハム〕柴《しば》田《た》保《やす》光《みつ》投手7千5百万円(27位) 〔巨人〕原辰徳一塁手9千9百万円(9位) 〔ダイエー〕門《かど》田《た》博《ひろ》光《みつ》右翼手1億3千2百万円(3位) 〔大洋〕高《たか》木《ぎゆ》豊《たか》二塁手9千5百万円(12位) 〔ロッテ〕西村徳文中堅手6千万円(42位) 〔阪神〕真《ま》弓《ゆみ》明《あき》信《のぶ》右翼手6千5百万円(37位)    これでおわかりと思う。西村はロッテ最高額6千万円をとったが、なんのことはない。12球団の立ち場から見ると“顔”としては最低額である。西村の無念の想《おも》いというか、涙のしたたり落ちるような胸の内が、私には伝わってくるのだ。  西村には奇妙な勲章がひとつある。案外と知られていない話なのだが、実はパ・リーグ史上、“スイッチヒッター首位打者第1号”なのだ。西村は平成2年、打率3割3分8厘《りん》で首位打者になった。セ・パ分裂は昭和24年の暮だから、実に41シーズン目にして初めてのスイッチヒッター首位打者誕生だった。念のために伝えるとセ・リーグでは昭和62、63年に正田耕三二塁手(広島)がスイッチヒッター首位打者第1号となっている。いってみれば正田も西村もスイッチヒッターとしては、頂上にのぼりつめた男である。そればかりではない。西村は昭和61年から連続4年間、盗塁王をとっている。  巨人で盗塁王になれば、たとえば“赤手袋の柴田勲”とか、“青い稲《いな》妻《ずま》松本匡《ただ》史《し》”とか、ニックネーム付きで球団史に刻みこまれる。西村はロッテにいるために4年連続盗塁王でも、ニックネームひとつない。重光武雄オーナー、このあたりを本気で考えてやってくださいよ。  さらに西村の凄《すご》さはこの4年連続盗塁王の間、 「盗塁企図数216、盗塁成功数174、盗塁失敗42、盗塁成功率80・6%」  なんと盗塁成功率が80%を上回っている。監督としてこれほどサインを発信しやすい男はいない。10回走って8回はかならず成功するからだ。昭和63年に西村は136本の安打を記録したが、そのうちの27本が内野安打である。全安打の約20%が内野安打なのだ。いかに脚が速いかわかるだろう。  もっと西村の値打ちのある仰天記録がある。61年に西村は打数381、それでいて併殺打はたったの“1個”しかない。  プロ野球大運動会の100メートルで11秒3、いつも優勝する屋《やし》鋪《きか》要《なめ》中堅手(大洋)でさえ、61年には併殺打“10個”である。  くりかえすが、盗塁成功率は80%を上回り、併殺打はほとんどない。こういうのをチーム切って信頼のおける男という。  それでチームの顔にのしあがったのだが、年俸6千万円はロッテ最高額だが、12球団の顔としてはどん尻《じり》である。  実力もないのに、やたらにギャグばかりをとばす若い選手が多いいまのプロ野球で、黙々と信頼度の高い男にのぼりつめていく。いくら人気のないロッテでも、せめて金ぐらいどかーんと一発、出してやってください。 「相撲とって、楽しいことなんて、ひとつもありません」 ——貴《たか》花《はな》田《だ》 光《こう》司《じ》 *大相撲。藤島部屋。優勝1回、殊勲賞3回、敢闘賞2回、技能賞3回、幕内通算73勝62敗。本名花田光司。東京都出身。  貴花田光司の父親藤島親方は、だれもが知っているように、元大関貴《たか》ノ花《はな》利《とし》彰《あき》である。  貴ノ花は昭和47年11月場所で大関になると、56年1月場所で現役引退するまで、実に大関在位50場所の新記録をつくり、“角界のプリンス”といわれた人物である。貴花田の伯父さんの二子山前理事長は現役時代“土俵の鬼”とおそれられた第45代横綱若乃花幹士である。そういう相撲の世界へ貴花田と兄の若花田勝《まさる》はとびこんできた。本音を吐くと、胸の奥底は父親と伯父の存在に、押し潰《つぶ》されるほどつらかったと思う。  父親の長島茂雄(巨人)といつでも、どこでも比較される息子の一《かず》茂《しげ》三塁手(ヤクルト)の場合を想像してもらえればわかるだろう。  昭和63年の冬、貴花田は新弟子として入門、その日から自分の母親憲《のり》子《こ》さんを、おかみさんとよばなければならない。貴花田が2階の自室から3階の新弟子部屋へ引っ越すとき、憲子さんと貴花田の指先がしっかりとからみ合っていた。父親の貴ノ花は幕下時代、先輩からなにかことあるごとに、こういう理由でなぐられたそうだ。 「この野郎、手前の兄貴が親方だからといって、でけえ面《つら》するんじゃねえ」  貴ノ花はでかい面をするどころか、実兄が親方だからこそ、すべてにわたって自分をおさえてきたのにである。いまの藤島部屋にはいじめがないという。ないとはいいながら、先輩たちの気分の内に、もしかしたら、 「親が親方だと思いやがって——」  という、ねたみや憎しみが全くないとはいえないのである。くりかえすが、貴花田と兄の若花田はそれを百も承知でとびこんできた。兄の若花田にはどこか、ひょうきんなところがある。若花田が明大中野高1年生のとき、二子山前理事長が半ば本気で問いただした。 「おい勝、お前は将来、なにになりたいんだ」 「美容師です」 「ビヨウシ? なんだそれ、養《よう》子《し》のことか」  若花田は二子山親方に美容師を理解させるのに30分間かかったという。  そこへいくと貴花田は禁欲的なまでに相撲にのめりこんでいる。幕下時代、ひとりの女高生と交《つ》き合っているのが藤島親方にわかった。このときばかりは、いつもは弟子をなぐらない藤島親方も貴花田をなぐったという。体も技術も一番のびざかりの若い衆のときに、女に夢中になって大成した相撲とりはいない。  私はいま現役、しかも三役体験者からつぎのような話を耳にした。 「私たちクロウトは相撲を見れば、この力士がどの程度のものかわかります。本番で取り組んでみればなおわかります。弟の貴花田はまず横綱を張れますね」  クロウトがクロウトを評価するこの話に耳を傾けていいだろう。だからこそ藤島親方も甘い言葉ひとつかけない。いまの世の中、親はかならずいう。 「子供の好きな道にすすませたい」  だが貴花田は毎日、相撲をとっていて楽しいことは何もないという。大関になっても父親と同じである。横綱になっても伯父さんと同じである。関《せき》脇《わけ》どまりなら長島一茂のようにいわれる。私の中学の同級生に、東大法学部国際政治学科教授の息子がいた。どういう事情かこのおやじを持ちながら、この息子はできがわるい。クラス45人のうち、いつも成績は“40番台”を上下していた。 「お前のおやじは東大教授なんだろう」  毎日のように職員室に呼び出され、かなりの数の先生から説教されていた。“30番台”の常連の私に、この息子は仲間意識を持ったのか、よくぐちるのだ。 「おやじを持ち出されると、この世は地獄絵だな」  私はそんなものかと中学生でも納得した。私のおやじは一日の手間賃1円50銭(もっともこの金額は戦前だが)の左官職人だったから、おやじに押し潰されるという不安はツメの先ほどもなかった。人間、どこに幸と不幸があるかわからない。  貴花田の耳の穴に、どこからともなく、毎日聞こえてくる声がある。 「お前のおやじは大関50場所つとめ、お前の伯父さんは横綱だった」  昭和56年5月29日、蔵前国技館で貴ノ花の引退相撲が行われた。憲子夫人とともに勝、光司の兄弟もいた。王貞治(巨人)、将棋の米《よね》長《なが》邦《くに》雄《お》など252人が土俵にのぼった。髷《まげ》を切り、オールバックになった貴ノ花こと当時鳴戸親方は、この日の記者会見でつぎのようなセリフを吐いた。 「振り向けば、相撲とりになって楽しいことはなにもなかった」  彼もまた毎日、毎日、 「お前は横綱若乃花の弟じゃないか」  この津波のような声に潰されそうになり、気分としては泣く泣く相撲をとってきたのである。 信の章 「私がルール・ブックだ——」 ——二《に》出《で》川《がわ》 延《のぶ》明《あき》 *プロ野球審判。明治大。パ・リーグ審判部長。野球殿堂入りした名審判。  プロ野球には名台詞《せりふ》が多いが、二出川延明のこの名台詞を知らない中年男はいないと思う。  昭和34年7月19日、後楽園球場で大毎対西鉄ダブルヘッダーが行われた。問題のシーンは第2試合の8回裏、大毎の攻撃中に起こったのである。  小《こ》森《もり》光《みつ》生《お》三塁手を一塁におき、醍《だい》醐《ご》猛《たけ》夫《お》捕手が投前バントした。稲《いな》尾《お》和《かず》久《ひさ》投手はゴロを捕球すると豊《とよ》田《だ》泰《やす》光《みつ》遊撃手に送球した。アウトとも、セーフとも、どちらとも判定しにくいタイミングだった。だが二塁塁審中《なか》根《ねす》之《すむ》はセーフの判定をした。すると三塁側ダグアウトから三原脩監督(当時西鉄)がすっとんできた。 「中根君、なぜセーフなんだ」 「理由をいう必要はない」 「自信がないからいえないんだろう」 「送球と小森の足が全く同時だったからセーフにしただけだ」 「同時だからセーフ? これは初耳ですな。野球は創設以来、同時アウトにきまっている」  二塁ベース付近で三原と中根が同時アウト、同時セーフ論争をやり始めた。  ところでこの日、審判部長二出川は試合に参加していない。三塁側ダグアウトの隣りにある審判室で試合を見ていた。三原と中根は二出川のところへ行って、判定してもらおうという話になった。 「世の中って不思議なんですよねえ。私は球場へいくとき、必ず野球規則書を持っているんですが、この日に限って忘れてきちゃったんですよ」(二出川延明)  三原はそんなことは知らない。二出川に向かって、 「野球規則書のどこに同時セーフと書いてあるのか」  と迫る。  カチンときた二出川は、しかし野球規則書を忘れてきたともいいにくい。  とっさの機転で二出川は胸を張っていい切った。 「同時はセーフだ。この私がルール・ブックなんだ」  三原も二出川の気迫に押され、納得して引きさがった。  私は二出川の自信をすばらしいと思う。男が胸を張って、 「おれがルール・ブックだ」  という裏側には、人の10倍の自信がなければいい切れない。  二出川は司法試験を受ける学生のように、中年になっても毎日、野球規則書を読んでいたのだろう。ひょんなことからとび出したこの名台詞も、その底辺にあるものは努力であった。 「あの“弓なり投げ”は、相撲史百年間の謎《なぞ》になってくれたら嬉《うれ》しいですね」 ——貴《たか》ノ花《はな》 利《とし》彰《あき》 *大相撲。大関。二子山部屋。優勝2回、殊勲賞3回、敢闘賞2回、技能賞4回。幕内通算578勝406敗。藤島親方。本名花田満。青森県出身。  平成4年時点で藤島親方は42歳になる。若者から見れば、藤島親方といえばあの若花田勝、貴花田光司兄弟の師匠、父親にすぎない。  しかし昭和40年代後半〜50年代前半の相撲界は、ややオーバーにいえば、“角界のプリンス”とよばれたこの男、貴ノ花ひとりが話題になったといっていい。二子山前理事長(横綱初代若乃花)の末弟、身長1メートル82センチ、体重106キロ、当時の幕内最軽量でいながら、優勝2回、実に大相撲史上最長記録の大関在位50場所をつとめた。  どんな相手とぶつかっても、きょうは勝てるという安心感がない。それだけにいつでも、どこでも貴ノ花ファンに切ないまでの心情をかき立てる。  貴ノ花の幕内勝率5割8分7厘《りん》、大関50場所の勝率6割0分3厘、この勝負のうち、記憶のなかから消えることのない名勝負、いや謎の名勝負といわれているのが、これから書く北の富士戦である。  昭和47年1月場所8日目、横綱北の富士(九重部屋)と当時西関《せき》脇《わけ》貴ノ花が顔を合わせた。立ち上ると双方相四つの左四つに組んだ。北の富士は最初、左外掛けで攻めた。土俵に詰った貴ノ花は一度これを外すと土俵中央に寄りもどした。すると北の富士はこんどは強烈な右外掛けをかけた。これで貴ノ花は後方に傾斜、だれの目にもそのまま倒れるように見えた。だがこれから先が貴ノ花の不思議さだった。かつて相撲解説者玉ノ海梅吉はこういっている。 「貴ノ花の下半身には別の魂があるんだ」  要するに相撲常識のワクを越えた腰の粘りという意味である。北の富士の右外掛けで貴ノ花の腰は弓なりにそった。あとは北の富士が上、貴ノ花が下の重ね餅《もち》のまま、どっと倒れるかと思った。ところがつぎの瞬間、眼《め》を疑うような場面が出現した。貴ノ花の腰—背中—肩の水平面がほとんど土俵の表面と平行面になったとき、貴ノ花は腰を左にひねり、右からの上手投げを打った。このため貴ノ花の腹の上にそっくり乗っかっていた北の富士は、右腕を土俵に垂直に近い状態でついた。当然、貴ノ花の上半身は土俵上まだ30センチぐらい上方に浮いている。  相撲の判定の場合、重ね餅で倒れ、下になっている力士が“死に体”と判断されたとき、上になっている力士の手が先に土俵についても“かばい手”、つまり上の力士の勝となる。ただし下の力士が“死に体”ではなく、まだ反撃能力が残されていると見なされた場合、“つき手”と判定されて上の力士の負けになる。  この勝負を第25代立行司、木村庄之助(本名山《やま》田《だ》釣《きん》吾《ご》)は北の富士の“つき手”と判断し、貴ノ花に軍《ぐん》配《ばい》をあげた。つまり貴ノ花の右上手投げの勝と判定した。だが審判委員から物《もの》言《い》いが出て、協議の結果は3対1で庄之助の判定は大逆転、最終的には“浴びせ倒し”で北の富士が勝った。立行司木村庄之助は土俵に上るとき、いつでも左腰に小刀を差している。もしも差し違いをおこしてしまった場合、その場で切腹するという決意の現われといわれている。いままさか切腹ではないが、立行司は差し違いをすると進退伺い提出が慣例になっている。しかし25代庄之助は自分の眼に自信を持っていた。進退伺いどころか、春日《かすが》野《の》審判部長に自説を主張し主張し、引っこまない。 「北の富士はつき手である。かばい手ではない」  庄之助は慣例を破ったとして9日目から1週間の謹慎処分を受けた。そしてこれが直接のきっかけとなり、庄之助はこの場所を最後に54年間にわたる行司生活から引退へと追いこまれた。  数年前、この謎の一番があるテレビ局で放映され、いまは藤島、九重親方になっている2人もゲストとして出席した。2人とも自分が勝ったとはいわない。ところが話の途中で、九重親方が藤島親方の顔を見ながらこういった。 「藤島親方は肚《はら》の内では、自分が勝ったと思ってますよ」  そういわれてみると、北の富士の右手が土俵についた瞬間、貴ノ花の右足指の先、とくに右足の親指、腰の弓なりのそり工合には、勝つんだという意思がにじみ出ている。意思があれば“死に体”とはいえない。庄之助の軍配は正解だったような気がしてならない。  いつ頃《ごろ》からか、あの大一番の最後の最後に出した貴ノ花の技は、“弓なり投げ”といわれるようになった。もちろん相撲協会で発表している決まり手70手のなかに、“弓なり投げ”という5文字は入っていない。 「セコンドの指示より、相手の目を直視する自分の目を優先させます」 ——渡《わた》辺《なべ》 二《じ》郎《ろう》 *プロボクシング。追手門学院大。WBA・WBC世界ジュニア・バンタム級チャンピオン。大阪帝《てい》拳《けん》。WBAチャンピオンとして6度、WBCチャンピオンとして4度の防衛を果し、日本人初の海外防衛もやってのけた。  渡辺は浪《なみ》商《しよう》高2年生まで水泳部員だった。それが3年生のとき日本拳法をやり始め、追手門学院卒業のときは日本拳法五段になっていた。天才的な反射神経といっていい。それではなぜ渡辺は日本拳法からプロボクシングに再転向したのか。  日本拳法には重量別という発想がない。相撲と同じで、身長1メートル65センチ、体重58キロの渡辺が身長1メートル83センチ、体重90キロの男と勝負する。勝てばカッコいいのだが、本音を吐くと大男相手の勝負はつらい。そこで重量別のプロボクシングをやり始めた。  日本拳法の極意に相手の目をじっと見つめ、相手の心を読み抜いてしまう、“直眼読み切りの術”というのがある。  渡辺はこれを体得すると、ボクシングに巧みに応用した。言って見れば渡辺はこの直眼読み切りの術で世界チャンピオンになったと考えていい。  さて昭和59年11月29日、熊本県民総合体育館でWBCのJ・バンタム級タイトルマッチ、チャンピオン渡辺対世界同級1位パヤオ・プーンタラト(タイ)戦が行われた。  直眼読み切りの術でパヤオの目を見ていた渡辺は、3回おやっと思った。パヤオの目に一瞬、おびえたような影が走った。 「パヤオはおびえている。これは勝てる——」  と渡辺は読み切り始めた。そう思えば渡辺はチャンピオンだ。猟師が熊《くま》を追いつめていくようにパヤオを追い、5回1分40秒、右フックで最初のダウンをとった。そして11回1分54秒、右フックでTKO勝ちした。 「試合中はセコンドの指示通りに動くのは選手の義務ですよ。でもわざと私のパンチが利《き》いたようゼスチャーをして私を誘い出し、カウンターを狙《ねら》っている目もあります。これはセコンドにはよくわからず、戦っている私しかピンとこない。だからセコンドの指示より、相手の目を見つめる自分の目が優先するんです」(渡辺二郎)  人間、相手の目を見ないでしゃべる者を私は信用しない。それだけではない。相手の話を聞くとき、目を見ない者も信用しない。  考えてもみてください。渡辺は天才的な反射神経を持っていたろうし、テクニックもパンチ力も超一流だったと思う。  そういう渡辺でさえ、相手の目を見て、そこから相手の心を読みきった。  人間、まず相手の目をまっすぐ見よう。それができなかったら、その人物は男でも女でも、なにもできはしない。 「バットは両腕の延長、だから執念さえあれば折れるはずがない」 ——長《なが》島《しま》 茂《しげ》雄《お》 *プロ野球。三塁手。立教大。巨人。巨人監督。新人王、MVP5回、首位打者6回、本塁打王2回、打点王5回。終身打率3割0分5厘、本塁打444本、打点1522。  長島の日常生活をまとめると1冊の単行本ができる。ある日、後楽園球場のロッカーで自動車のキーがなくなったと騒ぎ出した。同僚、マネジャーなど10数人が探したが見つからない。すると突然、長島がどなった。 「おれ、きょう新聞社の自動車で後楽園にきたんだあ」  こういう長島の天才的感覚からいくと、バットは木材ではなく、なんと両腕の延長なのである。  昭和47年5月4日、後楽園球場で巨人対阪神5回戦が行われた。細かな得点経過は省略するが、スコアは3対3の同点のまま、延長10回裏巨人の攻撃に入った。巨人は一死一、三塁の場面で3番王貞治一塁手が敬遠された。 「おれで併殺狙《ねら》いか」  そう思うと4番長島は背骨がきしむほど燃えた。燃えたという表現ではとても伝えられない。胴体がぶるぶるふるえ、小便をちびる思いで右打席に立った。  ボール・カウント0—2後の3球目、谷《たに》村《むら》智《とも》博《ひろ》投手の内角シュートを火の玉になって叩《たた》いた。打球はゴロで鎌《かま》田《たみ》実《のる》二塁手のグラブ下を抜く。さよなら安打になった。  話はこれで終わっていない。私が本当に書きたいのは、実はこれから先なのだ。巨人がさよなら勝ちした5分後、私は長島のいまさよなら安打を打ったバットを手にして絶句した。このバットは長さ34インチ(約86センチ強)重さ919グラム、グリップ・エンドに、「アーニー・バンクス34インチ型」をしめす“EB4”の刻印が押してある。  よく見るとグリップから約13センチ、つまり右手の平に当る部分にタテに4センチほど、“くの字”型にさけ目が入っている。そればかりか“HILLERCH&BRADSBY”という打《だ》芯《しん》部に近い焼き印(マーク)下部にも、6センチほどのさけ目が斜めに走っていた。 “並”の打者だったら文句なくバットは折れ、ゴロは鎌田の前にころがっていたろう。  だが長島の執念、中年男の怨《おん》念《ねん》みたいなものが、両腕からバットに伝わり、バットは木材ではなく、両腕の延長になった。だから2本のさけ目が上と下に走ってもバットは折れない。 「バットは武士の差し料ですよ。単なる木材だと考えている者はすぐ折れますね」(長島茂雄)  最後に涙のあふれこぼれるような実話を書く。昭和34年6月25日、後楽園球場での巨人対阪神2回戦、つまりあの有名な天覧試合で長島は村《むら》山《やま》実《みのる》投手からさよなら本塁打した。その前夜、長島は剣豪宮《みや》本《もと》武蔵《むさし》のように、本塁打したバットをまくら元に横たえて寝た。 「おれは、地面をはっている、アリ1匹で世界一になったよ」 ——中《なか》村《むら》 寅《とら》吉《きち》 *プロゴルフ。日本オープン3回、日本プロ4回優勝。通算36勝。“パットの寅”といわれたパットの名人。  若い方にとっては、青《あお》木《きい》功《さお》や岡《おか》本《もと》綾《あや》子《こ》がゴルフの神様だろうが、私が若い頃《ころ》の神様はこれから書く中村寅吉であった。  中村は身長1メートル58センチ、体重68キロ、重戦車のような体型だが、“パット”の名人、“パットの寅”といわれる男だった。  さて昭和32年10月24日から27日までの4日間、霞《かすみ》ヶ関《せき》カントリークラブでワールド・カップ・ゴルフ大会が行われた。  このとき中村は、小野光一と組んで団体優勝したが、実は意外なところで意外な問題を引き起こしてしまった。  最終日の27日、中村・小野組はリース・トマス組(英)と組んでスタート、どちらかが逆転したり、逆転されたりしながら、7番ホールまできたときである。リースとトマスが小便をちびる思いでパットをしようとしたとき、突然、中村がグリーンの上でなんと“大あぐら”をかき、でーんとすわりこんでしまった。  当然、リースとトマスの神経にカチンとくる。観客もマスコミも中村を袋《ふく》叩《ろだた》きにした。 「とくにゴルフはマナーを大切にする競技ではないのか。リースとトマスがパットをするとき、邪魔にならないところで、静かに見てやるのが礼儀というものだろう」  そのとおりである。だが、中村は中村で別のことを狙《ねら》っていた。 「おれはあすこで大あぐらをかき、芝の中を探していたんだ。(アリはいないか、芝の中に1匹もアリはいないのか)とね。もしアリを見つけることができれば、おれは落ち着いている証明だから勝てると思った。そしたら1匹のアリが芝の中を歩いていた。オレはこの1匹のアリを見て世界一になれると思った」  中村のいうとおり、中村・小野組は勝ったのだから、まさに中村はアリ1匹で世界一になったといっていい。  私は中村こそ本当のプロフェッショナルだと思っている。ぎりぎりの極限のところで、“1匹のアリを探そう”とした発想、そして大胆にも大あぐらをかいて、そのアリを探した度胸、しかもワールド・カップという場でこれをやってのけた。  私たちはこの「中村流アリ探しの術」の心得をいつもおぼえておきたい。入学試験、入社試験の直前、“自分のアリ”をどこかで探せば気持ちが安定し、仕事もスムースにいくと思う。  なにもしないでマナーさえよくても、百点満点、いや合格点はとれないのである。 「私の横綱土俵入り時間は1分15秒、同じ雲《うん》竜《りゆう》型でも栃錦関、若乃花関は1分40秒、でも25秒速かったから32回優勝ができたと思います」 ——大《たい》鵬《ほう》 幸《こう》喜《き》 *大相撲。第48代横綱。二所ノ関部屋。優勝32回、敢闘賞1回、技能賞1回。幕内通算746勝144敗。大鵬親方。北海道出身。  最初に“雲竜”型から書く。横綱土俵入りの最大の見せ場、せり上りのとき、右腕を横に伸ばして差し出し、左腕は左胸あたりに折りたたむ。右腕は攻め、左腕は守り、つまり攻守のバランスの表現である。もう一つの“不知《しらぬい》火”型は両腕を左右に翼のように拡《ひろ》げてせり上っていく。すべて攻撃という意思表示なのだ。同じ雲竜型なのに身長1メートル87センチ、体重153キロの大鵬が1分15秒、身長1メートル77センチの栃錦、1メートル79センチの若乃花が1分40秒、25秒も大鵬が早く終ってしまうとはどういう意味を持つのか。  要するに栃錦と若乃花はメリハリをはっきりとつけ、見せどころのせり上りの場面には思い切って時間をかける。大鵬は逆に見せどころをつくらない。だから25秒早く終ってしまう。だが大鵬が本当にいいたいのと、私が本当に書きたいのは、実は横綱土俵入りの時間だけではない。25秒速いことが、そのまま大鵬の相撲につながっていくという話なのである。もっと手っ取り早くいい切ってしまえば、大鵬の相撲には見せ場、泣かせどころがない。  あの名横綱双《ふた》葉《ば》山《やま》には右四つ、左上手投げという宝刀があった。双葉山が右四つに組みとめると、すっと立ち上って帰っていく客があったそうだ。あとは双葉山が左上手投げで勝つだけだからだ。栃錦には右出し投げ、若乃花には右からの呼び戻し(仏壇返し)、柏《かし》戸《わど》には電車道といわれる一直線の押し、千代の富士には左前《まえ》褌《みつ》どりという名人芸があった。  要するにこういう組み手になったら、もうオレのものだという型をこの男たちは持っていた。別のいい方をすれば、大相撲の歴史は自分の型を持った者だけが、頂点にのぼりつめていく。  だが大鵬はこの歴史に反逆した。たとえば彼はあれほどの身長があるのに、双《もろ》差《ざ》しにこだわった。立ち合いの一瞬、自分の左右の腕を相手の眼《め》の前でX型に交《こう》叉《さ》させる。それを左右にぱっとほどくと、するりと双差しになっている。それからあとは時間をかけ、すこしずつ自分有利に持っていく。自分の型で見せどころをつくって勝つのではない。時間をかけて負けない準備をすすめていき、気がついてみたら大鵬に軍配が上っている。いってみればどんな相手にも通用する、全方位政策であり、八方美人相撲といっていい。大鵬の師匠二所ノ関親方(元大関佐賀ノ花)は大鵬の新弟子時代、彼の体をひと眼見るなり、 「この少年は相撲史に革命を起こす」  と直感したという。すらりとした体型のなかに、ゆるやかな肩の線、心持ち前かがみの腰と両ひざのたるみに天才を見つけた。だから自分の付け人として英才教育し、特定の型を教えなかった。全方位政策でだれにも負けない相撲が、この師弟における究極の相撲だった。大鵬にはひとりの兄がいた。大鵬一家が南サハリンで生活していた頃、大鵬の家に馬《うま》泥《どろ》棒《ぼう》が忍びこんだ。それを追った兄は馬泥棒に殺害されたという。私たちには想像もできない暗い悲しみが、大鵬をより用心深い男に追いこんだのか。この人生に対する用心深い姿勢が、時間をかけて負けない準備をすすめ、それから八方安全相撲に出ていく取り口になったのか。ただしこれは私の勝手な想像である。あるとき私は大鵬に質問した。 「あなたには自分の型がないといわれていますが——」  すると彼は珍しく、怒ったような表情で、 「水はどんな器にも入る。どんな相手にも対応して勝つには、水の流れのような、私の型なし自然流しかないんです」  と答えた。  大鵬の32回優勝途中、世間では“巨人・大鵬・卵焼き”という言葉が流行した。世間のみんな、とくに女性や子供たちはこの三者びいきだという例えばなしである。だが本当の大鵬はどんな男だったのか。女好みどころではない。卵焼きなんてとんでもない。型こそ最高といわれる大相撲に背を向けた、反逆と孤独の道を歩いていた。 「ソウル、ソウルと100回、つぶやきながら走りつづけました」 ——宮《みや》原《はら》 美《み》佐《さ》子《こ》 *マラソン。ソウル五輪代表。平成元年のワールドカップで銀メダル。旭《あさひ》化成。  私もずい分とマラソン・レースを見てきたが、ゴールと同時に涙があふれたのは、この宮原が初めてだった。  スポーツマンが芸能人に傾斜していくような世相の中で、宮原はまぶしくて神様のように見えた。  昭和63年1月31日、大阪国際女子マラソンが行われた。優勝したのはリサ・マーチン(オーストラリア)だったが、日本人の胸を激しくゆさぶったのは、眼《め》をこすって見直すような2位争いだった。  29キロ地点まで浅井えり子(日本電気HE)が2位を走っていた。しかし30キロ直前で3位だった宮原が、浅井を1メートル抜いた。 「背中に浅井さんの息づかいが聞こえるんです。それが大きくなったり、小さくなったりするんですよ。また太陽の位置の関係で、浅井さんの影が私の足元で離れたり、くっついたりしているんです。浅井さんが私をマークしているのなら、呼吸も影も一定しているはずでしょう。浅井さん疲れてるなと思って——」(宮原美佐子)  33キロ、宮原は勇気をふりしぼってピッチをあげた。もしピッチをあげて浅井を引き離しにかかり、これに失敗したら全エネルギーを使い果たすので、実は大変な賭《か》けなのだ。 「浅井さんを引き離したあと、ソウル、ソウル、ソウル、ソウルと100回つぶやきながら走りました。自分で自分の気持ちをソウルへ追いこんだのですね」(宮原美佐子)  宮原は2時間29分37秒で2位、日本の女性として初めて30分の壁を突き破り、その日のうちにソウル五輪出場の出場権をつかんだ。  それまでの日本女子最高は増《ます》田《だ》明《あけ》美《み》(日本電気)の2時間30分30秒で宮原はこれを53秒も短縮した。長居陸上競技場のホーム・ストレッチに入るところで、宮原は右腕を上げてガッツ・ポーズ、そしてゴールインすると師匠の宗《そう》茂《しげる》コーチ(旭化成)の胸にとびこみ、少女のように号泣した。25歳の宮原が女子高校生のように見えた。 「ソウル、ソウル、ソウル、ソウル——」  と100回念じるこの一念が宮原を走らせたと思う。心に念じ、100回つぶやくことの恐ろしさが私に伝わってくる。  宗茂コーチはレース前、こういうアドバイスをしている。 「いいか宮原、向かい風は体を冷やすから、前半手袋をはめるんだ。体が暖かくなったらおなかの中に入れ、風向きを考えて後半またはめろ」  その通り宮原はちゃーんと2度、手袋をはめている。ソウル、ソウルといいながら、どこかでシーンとさめている部分もあった。 「あの橋を先頭で渡ったとき、勝負師は勝たなければうそだと思った」 ——尾《お》崎《ざき》 将《まさ》司《し》 *プロゴルフ。徳島海南高。ジャンボ尾崎エンタープライズ。日本オープン3回、日本プロ4回優勝。通算71勝。“ジャンボ”のニックネームで親しまれている。尾崎3兄弟の長兄。元西鉄ライオンズ投手。  尾崎がこのロマンチックな言葉を吐いたのは、どんな場面だったのか。  昭和62年9月25日〜27日、栃木ジュンクラシックCC(7087ヤード、パー72)で、ジュンクラシックが行われた。賞金総額5600万円である。  さて、最終日の4番ホールの第2打のときだ。455ヤードのミドルホールは、アウトで一番の難所といっていい。青木功がグリーン・オーバーし、鷹《たか》巣《す》南雄は手前のバンカーにほうりこんでしまった。 「尾崎だって失敗するだろう」  ほとんどのギャラリーがそう思った。しかし尾崎はフェアウエー真ん中から7番アイアンで打ち、グリーン奥のカップ横80センチにぴたりとつけた。尾崎と青木はこの4番ホールで3打差となり、14番ホールを残して心理的には勝負がついたと思った。  ところで最終18番のグリーン手前の池にかかる橋がある。設計者のジーン・サラゼンが、 「この橋を勝者は胸を張り、先頭で渡ってくる。それを見たくて私はあの橋を設計した」  という。  この運命的な橋の入り口に、尾崎と青木がほとんど同時にやってきた。それなのにどうだろうか。青木はそっと尾崎に先頭をゆずった。その前を尾崎が胸を張って歩き、青木は下をみつめ、水面に視線を移して渡った。  試合のあと、尾崎はこのロマンチックな言葉を吐いたのである。これで尾崎は史上最多の52勝、ゴルフ界の頂点に立った。  しかし、私は尾崎の52勝を目の前にして感動するのだ。尾崎は42年、21歳でプロ野球の西鉄を退団してプロゴルファーに転向、20代は、「ジャンボ尾崎」として爆発時代というか、活火山のような時代をむかえる。  だが、20代後半から30代中《なか》頃《ごろ》にかけて、スランプといったらいいのか、有頂天時代の反動があった。それが40歳となって、史上最多の52勝、胸を張って橋を渡ってきた。  人生には波がある。でも努力とか、研究とかによって、40歳でも勝負師の頂点に立てるのだ。  間違っても男は、 「あーあ、おれもとうとう40歳か、疲れたなあ、年をとったなあ」  などとは言わないことだ。  ここで尾崎の西鉄時代の、ささやかなエピソードを伝えよう。ロードに出るとき、投手だった彼は、バット・ケースの中にゴルフ道具をかくして移動していた。休日の日にそっとゴルフを首脳部にかくれてやるためだった。野球よりゴルフが天職だったのだろう。 「東京五輪は私にとって敗北の歴史なんです。0秒2で私は敗北者になりました」 ——佐々木 吉蔵 *陸上スターター。東京五輪主任スターター。  佐々木吉蔵は、昭和11年、ベルリン五輪の陸上100メートルスプリンターとして出場、予選で失格した直後、陸上の“スターター”に転向した。  スターターが“ヨーイ”のヨから、ピストルのドンを打つまで、何秒で打たなければいけないという、陸上規則はない。スターターそれぞれのカンで、適当な間合いで打てばいい。佐々木の場合、ヨーイのヨから、ドンまで正確に“1・8秒”である。 「この1・8秒という時間が選手にとって、もっともスタートしやすい間合いだと思うんですよ。それ以上、短すぎても長すぎても、スタートしにくいようですね」(佐々木吉蔵)  さて昭和39年10月14日の午後、つまり東京五輪男子陸上100メートル決勝が行われる前日の話である。佐々木は1・8秒の感覚を確認しておこうと選手村を訪れた。すると100メートル予選で10秒0の当時の世界タイ記録を出したヘイズ(アメリカ)がいた。 「ヘイズさん、私はあしたの100メートル決勝でスターターをつとめる佐々木です。申し訳ないんですが、私の練習台になっていただけないでしょうか」  ヘイズも軽く引き受けてくれ、2人の練習が始まった。佐々木がヨーイといい、1・8秒の間合いでドンと打つ。これを10回、15回と繰り返し、2人は別れた。  翌15日午後3時36分、100メートル決勝が始まろうとしている。昭和11年から昭和39年までの28年間、ピストルを打ちつづけてきた佐々木も、さすがに緊張気味だった。 「ヨーイ、ドン」  ピストルが鳴り、7人の男たちがつむじ風のようにすっとんでいった。 「あとでビデオ・テープを見て測定したら、なんのことはない、1・6秒で打ち、いつもより0・2秒早いんです。つまり、1・8秒をじっとがまんして引っぱれなかったんですよ。私の敗北です」(佐々木吉蔵)  この話を耳にした私が佐々木に、つぎのような質問をした。 「しかし佐々木さんが0・2秒早く打ってしまったことに、気が付いた人間は世界中でひとりもいなかったでしょう」  すると佐々木はしばらく考えて、静かにしゃべり始めた。 「世界中のだれもが気が付かなくても、自分で0・2秒早かったことに気が付けば、それは敗北なんですよ。問題は他人ではなく、自分の胸の内なんですよ」  私にとって佐々木のこの言葉は、生《しよう》涯《がい》忘れることのない、人生の言葉になった。 「勝負で一番大切なのは自己暗示、だって私は打席の内で実況放送しましたからね」 ——大《おお》杉《すぎ》 勝《かつ》男《お》 *プロ野球。一塁手。岡山関西高。東映→ヤクルト。本塁打王2回、打点王2回。終身打率2割8分7厘、本塁打486本、打点1507。  昔からプロ野球にはこんな合言葉がある。 「素質の差で勝負はきまらない。きまるのは自己暗示の差である」  つまり肝《かん》腎《じん》かなめの場面でプラス志向のできる者は勝ち、マイナス志向しかできない者は敗れていく。  昭和46年8月7日、西宮球場で阪急(現オリックス)対東映(現日本ハム)19回戦が行われた。いま解説者をやっている大杉も、この時点ではプロ7年生、27歳、しかもこの年、本塁打41本を打ち、脂《あぶら》ののりきった時期であった。  この日、4番大杉は、第1打席で右中間二塁打、第2打席は三振、そして問題の第3打席は5回表に回ってきた。  さて、打席に立つと大杉は意外なことをやり出した。なんと小さい声で実況放送をやりだした。  主審久保山和夫の耳に入ったら注意されるだろうが、そこまでは聞こえない程度である。 「打者はパ・リーグきっての大物大杉、相手投手は中央大学出身の宮《みや》本《もと》幸《ゆき》信《のぶ》、宮本は岡《おか》村《むら》浩《こう》二《じ》捕手のサインになかなかうなずきません。さすがの宮本も強打者大杉を前に、ストレートかカーブか、迷っているようです」  こうして大杉は1球ごとに実況放送をつづけ、遂《つい》にボール・カウント2—3になった。 「いよいよ運命の6球目、おそらく宮本はストレート勝負でくると思います。そうなればストレートに強い大杉は本塁打を打つでしょう」  6球目、本当に宮本は内角ストレートを投げてきた。世間には不思議なことがあるものだ。大杉は本当にその6球目を左翼席本塁打したのである。  だが私はこれを偶然とは思わない。大杉は実況放送することで、自分で自分に一生懸命、自己暗示をかけていたのである。  主審久保山には聞こえないが、岡村の耳にはとびこんでくる。  大杉が本塁打を打って本塁をふんだとき、岡村は言ったそうだ。 「大杉、助けてくれ。もう二度とやらないでくれ。頭が混乱しちゃった」  プロ野球半世紀を振りかえり、打席内で実況放送したのは、この大杉ひとりしかいない。ビッグ・スターの資格は、 「ここで打ってほしい」  とファンが願望したとき、必ず打つ打者である。  同じ素質を持ちながら、ファンの願望を満たせる男と失望させる男、それは自己暗示をプラスにかけられるか、どうかの差である。  大杉はプラスにかけられたから、プロ野球第7位の本塁打486本を打てた。 「男は桜の花、自分の限界を見たら、パッと散らなければ——」 ——田《た》淵《ぶち》 幸《こう》一《いち》 *プロ野球。捕手→一塁手。法政大。阪神→西武。ダイエー監督。新人王、本塁打王1回。終身打率2割6分0厘、本塁打474本、打点1135。  最初に読者のあまり知らない話から書く。田淵は右《みぎ》利《き》きのはずなのに、実は右腕より左腕の方が3センチも長い。プロ野球選手の場合、右利きは右腕の方が長いのが普通だから、田淵は逆といっていい。  だが田淵はこの左腕の長さが、そのまま本塁打474本(史上第8位)に結びついた。田淵は右打者だから、腰をひねり左腕でバットを引っ張り出す。左腕が長いから“左腕プラスバットの長さ”で田淵のスイングの円弧は大きい。  だからこそ田淵は474本の本塁打を打てた。 「ミートする瞬間、右腕を急激に伸ばしていくと、バットの先端速度は秒速34メートル前後で回転、ボールと衝突しますね。この先端の回転速度は日本一だと信じていますよ」(田淵幸一)  日本一の回転速度でボールをひっぱたいたバットは、もの凄《すご》いスピードで田淵の後頭部あたりまで回ってくる。  さて反動というものは恐ろしい。もの凄い回転スピードで後頭部あたりまで回ってきたバットは、両手を離すとこんどはどういう運動をすると思いますか。  なんとバットがタテに一回転しながら、三塁コーチ・ボックス方向に数メートルすっとんでいく。 「ところが昭和59年の夏頃《ごろ》から、打ち終わったあと、バットが私の背中にポトンと落ちるんです。つまり回転スピードがなくなったから、反動もなくなったという理屈ですよ」(田淵幸一)  これを見た田淵はどうしたのか。この時点における西武の広《ひろ》岡《おか》達《たつ》朗《ろう》監督に相談したのか。そうではなかった。誰にも相談しないで、現役引退をひそかに心の中できめた。 「バットが背中に落ちるのは、私の限界を見たと思いましたね。男は桜の花のように、パッと散った方がいいと考えてね」(田淵幸一)  こうして田淵はまだやれるという声を背中に、現役生活16年間にさよならした。  プロは桜の花のように、いさぎよく散った方がいいのか、あるいは生活をかけているのだから、ぼろぼろになるまでやった方がいいのか、これは永遠のテーマである。  野村克也(南海→西武)のように、ぼろぼろ現役26年やった方がいいのか、田淵の方がカッコいいのか、その答案用紙を書ける人はいないだろう。ただ田淵は桜の花をとり、余韻のある人生コースを選択した。  それ以上もそれ以下も私には書けない。ただ書けるのは、田淵は自分で自分の人生を選択したということだけだ。 「カルガリー五輪から帰ってきた翌日、また練習を始めました」 ——伊《い》藤《とう》 みどり *フィギュア・スケート。東海女子短大。プリンスホテル。カルガリー五輪5位入賞、アルベールビル五輪銀メダル。  私はローマ五輪、東京五輪、メキシコ五輪、ミュンヘン五輪、モントリオール五輪、モスクワ五輪(日本不参加)、ロサンゼルス五輪、ソウル五輪とずい分詳細に、日本選手団の動き、表情などを見てきたつもりでいる。  しかしカルガリー冬季五輪の女子フィギュアで5位入賞したときの伊藤みどりほど感動を素《そ》朴《ぼく》に、率直に表現した選手は初めて見た。  私の本音を書くと、この18歳の伊藤みどりを見て、 「とうとう日本人もここまで表現するようになったのか」  という感動であった。  伊藤みどりは6歳からフィギュア・スケートを始めた。1時間リンクを借り切り、専属コーチを頼めば約1万円かかる。母の千《ち》佳《か》子《こ》はヤクルトの配達、化粧品の販売と背骨がきしむほど働いた。母と娘が一緒になって、フィギュアへのめりこんでいった。  12年間と簡単にいうが、短い時間ではない。伊藤の3回転ジャンプの技術は満点といっていい。とくに氷上から高いジャンプでの3回転の技術は、世界のトップ・レベルである。彼女は3回、4回と3回転ジャンプをやってのけ、5回目も成功させた瞬間、右腕を上げてガッツ・ポーズをとり、さらにスケーティングをつづけた。スケーティングの途中でガッツ・ポーズをとったのは、世界フィギュア・スケーティング史上、伊藤が第1号である。 「あれは自然に出ちゃったんです。いまビデオを見ると恥ずかしいですけれど——」(伊藤みどり)  伊藤はこのとき18歳だが、世界の五輪で夢中のうちにガッツ・ポーズが出るのは、無欲、無心ですべっていた証明で、その精神的境地は達人の域といっていい。  私がさらに驚くのは、五輪から帰国した直後の彼女の行動である。まっすぐ山《やま》田《だ》満《ま》知《ち》子《こ》コーチを訪れ、五輪の演技をふたりで分析している。  翌日は東海女子高の卒業式である。出席し、卒業証書と特別表彰を受けたあと、その日は休養する予定だった。  ところが午後5時、なんと彼女はリンク、名古屋スポーツセンターに現れ、黒の練習着を着て1時間、丹念に“円”を描きつづけた。 「卒業式の翌日は午前6時から、いつものように早朝練習しました。だから実質的には休んでいません」(伊藤みどり)  あの小《こ》柄《がら》な彼女がガッツ・ポーズをしたとき、私たちの胸は熱くなった。だがあの愛くるしい伊藤の本当の姿は、カルガリー五輪から帰ってきても、コーチとの演技分析、その翌日からのトレーニングと不断の練習にあった。この姿がアルベールビル五輪での銀メダルにつながったのだと思う。 「あの晩、“イマダ モッケイ タリエズ”と電報を打ちました」 ——双《ふた》葉《ば》山《やま》 定《さだ》次《じ》 *大相撲。第35代横綱。立浪部屋。優勝12回。幕内通算276勝68敗。時津風親方。元相撲協会理事長。大分県出身。  戦後生まれの方で双葉山の名前を知っている読者は、あまりいないと思う。だが双葉山の全盛期に小学生、中学生だった私は、毎日ふるえる思いで双葉山を見ていた。私にとって双葉山は神様であった。  双葉山は身長1メートル78センチ、体重130キロ、どれほど強かったかは、つぎの記録を見ていただきたい。 「優勝12回(当時年2場所制)、全勝優勝8回、69連勝、横綱時代の勝率8割8分2厘《りん》」  とにかく昭和11年1月場所、この時点で東前頭3枚目だった彼が7日目、瓊《たま》ノ浦《うら》(のち両国と改名)に勝って以来、昭和14年1月場所4日目、西前頭3枚目安《あ》芸《き》ノ海《うみ》(出羽海部屋)に負けるまで、69連勝、足かけ4年間、一度も負けなかった。もっと別の表現をすると、双葉山は前頭3枚目から、横綱にのぼりつめるまで一度も負けていない。  さて双葉山のある後援者が双葉山に、木でつくった鶏(軍鶏《しやも》の彫刻)を贈った。軍鶏はハネを左右にひろげ、闘志を内に秘めながら、じっと動かない。双葉山は連勝中、この軍鶏を見ながら思った。 「この軍鶏の姿こそ、本当に勝負師なんだ。闘志があるのに外に出さず、無欲、無心の精神状態で動かない」  双葉山は軍鶏の彫刻を自分の理想像として、毎日を過ごしていた。そのうち双葉山はふと思い始めた。 「私も軍鶏になれたかな」  だが現実と理想は、赤道一周4万キロほどの距離があった。運命の日、双葉山は安芸ノ海に左外掛けで負けた。取り組み時間は11秒。  その晩、双葉山の気持ちは風速40メートルの台風のように揺れ動いた。それもただ揺れ動いたのではない。 「おれはもう二度と勝てないんじゃないか」  不安と絶望のかたまりになった。たまりかねた双葉山は、後援者で神戸の中谷清一さん、四国の竹葉秀雄さんに電報を打った。 「イマダ モッケイ(木鶏)タリエズ フタバ」  このとき双葉山26歳である。  相撲の資料を調べると4代目横綱谷《たに》風《かぜ》梶《かじ》之《の》助《すけ》は寛延3年(1750年)8月8日、宮城県仙台市に生まれた。これから推定すると組織的相撲の歴史は約250年ぐらいたつ。この間、名横綱をひとり選出しろといわれれば、私は双葉山と書く。その双葉山でさえ、69連勝した双葉山でさえ、安芸ノ海に負けるとこれだけ動揺する。  人間、無欲、無心になんて、なれるはずがないだろう。だからこそ毎日、できたらそういう心境になりたいと、脂《あぶ》汗《らあ》か《せ》いて生きているのである。 「1プラス1が3になるんです。ぼくら兄弟は——」 ——若《わか》花《はな》田《だ》 勝《まさる》 *大相撲。藤島部屋。殊勲賞1回、技能賞2回。幕内通算73勝62敗。本名花田勝。東京都出身。  最初に相撲とは関係のない話から書く。いまから10年ほど前、テレビでマラソンを見ていた。折り返し点を通過してもトップ集団は約10人、みんなが牽《けん》制《せい》し合ってとび出さない。トップ集団をよく見ると、双生児である宗《そう》茂《しげる》、宗猛《たけし》の兄弟はならんで走っていない。歩道寄りに兄の茂、センターライン寄りに弟の猛が走り、2人の間隔は数メートルあった。この場面で解説者がつぎのような話をしだした。 「いま茂君と猛君はさかんにテレパシーを発信し合っています。ときどき兄から弟へ、弟から兄へ視線を送って(調子はどうか、頑《がん》張《ば》ろうよ)と確認し合っているんですね。宗兄弟の強みはこのあたりなんですよ」  それから私は注意深く宗兄弟の眼《め》の動きを観察した。なるほど3分間に1回ずつぐらいのペースで、兄弟はテレパシーを発信し合いながら走っている。  話題を若花田と弟の貴花田光司に移そう。若花田は昭和46年1月20日生れ、弟の貴花田は昭和47年8月12日生れ、年子だから実質的には双子みたいなものだろう。この若花田、貴花田兄弟が、実は宗兄弟のように本場所の土俵近くでテレパシーを発信し合い、おたがいに出世街道をのぼってきたのである。  平成3年9月場所4日目、つまり9月11日である。西前頭3枚目若花田は東張出し小結琴《こと》富《ふ》士《じ》孝《たか》也《や》(佐《さ》渡《ど》ヶ嶽《たけ》部屋)と顔を合わせた。琴富士は前場所の7月場所、当時東前頭13枚目で14勝1敗、平幕優勝をやってのけ、小結まで昇進した。若花田は身長1メートル80センチ、体重125キロ、琴富士は身長1メートル92センチ、体重148キロ、見た目は二回りほど違う。いま幕内の平均身長は1メートル85センチ、平均体重は150キロである。立ち合い若花田はとびこむと左を差し右上手を引きつけた。それから右へ回り、琴富士が出てくるところを上手投げで横転させた。ところで私が本当に書きたいのは、勝名乗りを受けたあとの若花田のとった行動である。若花田はいつものような速足で西花道を引き揚げてきた。すると西花道の一番奥のところに西関脇貴花田が出番を待ち、仁王立ちに立っていた。貴花田のきょうの相手は東前頭3枚目久島海啓太(出羽海部屋)、次の次の次が取り組みだから、まだ花道の奥にいた。そこへ若花田がまだ若いのに多少背を丸めるようにして歩いてきた。貴花田は身長1メートル86センチ、体重127キロ、向ってその左寄りを若花田がすーっと通りすぎた。いや正確に伝えるとスレ違う一瞬前、若花田の右手がすっと動いた。それから貴花田の右手の指先にちらっと触れた。恋人同士が指をからめ合った雰《ふん》囲《い》気《き》といっていい。時間にしてほんの1秒か、1・5秒である。おたがいに顔は見ない。眼も見合わせない。スレ違いざま指先が接触しただけだ。 「オレは勝てた。お前も勝て——」  この心情を伝えるには、指先の接触と時間にして1秒間があれば十分に間に合うのだ。この直後、貴花田は土俵に向って歩き出した。しかし勝負は久島海に寄り切られて貴花田は負けた。  兄と弟が切ないまでの気持ちをこめて指を握り合った。それでも勝てないときは勝てない。ここらあたりが男の世界の、なんともたまらない味だろう。  格闘技はいつでも、どこでも孤独だといわれている。そうはいっても若花田の肩には貴花田の守護霊がつき、貴花田の肩には若花田が守護霊のように離れない。つまり1プラス1が3となる。  相手にしてみればいつでも兄弟2人を向うに回して相撲をとる。この兄と弟が短時間でのしあがってきた秘密はここにある。もちろん貴花田が勝ち、若花田が花道で待っている逆の場面でも、このシーンは見られる。ただし兄弟がともに勝ち、同じ花道の場合に限られるから、1場所のうちこの指先触れ合いは2度か3度か—— 「フォークボールも“マル”、契約更改も“マル”、プロ3年生で年《ねん》俸《ぽう》6600万円になりました」 ——野《の》茂《も》 英《ひで》雄《お》 *プロ野球。投手。近鉄。成城工。MVP1回、沢村賞1回、新人王、最多勝2回、防御率1位1回、最高勝率1回。通算35勝19敗1セーブ。  野茂英雄投手(近鉄)のフォークボールについて、ちょっと意外な話から伝えよう。  野茂はフォークボールを投げる場合、二通りの握り方をする。ひとつは人差し指と中指の第2関節でボールをはさむ。これは他の投手と全く同じ握り方である。つまり第2関節という骨部分でボールをはさんで投げる。あとのひとつが問題の“マル・フォークボール”なのだ。  野茂は試合を決める重要場面でフォークボールを投げるとき、なんとも奇妙な握り方をする。人差し指の第1関節から先の部分を、思い切って折り曲げる。その先端部分が親指先端の内側横腹に接触するまで折り曲げる。もっと簡単にいうと、人差し指と親指で“マル”形を形成するのだ。中指は横腹でボールをはさんで投球する。なぜ野茂は重要場面でマル投法をするのか。あまりにも微妙な落下コースの差なので、なんとも表現しにくいのだが、要するにこのマル投法だと、より打者に近い地点でボールは急落下する。野茂は二つのフォークボールを局面によって投げ分け、新人で18勝8敗、2年目では17勝11敗、2年連続して最多勝を記録した。おかげで1年目の年俸1200万円、2年目が3600万円、3年目では6600万円になった。人差し指と親指を丸めてのマルは金を指す。マル投法であっという間に6600万円までせりあげた。平成4年に18勝程度の最多勝をすれば4年目で1億円を狙《ねら》える。  もちろんプロ野球史上、マル・フォークボール投法は野茂ひとりしかいない。フォークボールはボールをすっぽ抜くようにして離す。それだけにコントロールがつけにくい。マル投法で握ると、ボールがそれだけ安定して握れるので野茂はこのアイデアにたどりついた。  野茂は近鉄から指名され、入団交渉を受けたとき、契約金1億2千万円のほか、つぎのようなユニークな条件を球団側にのませた。 「特異な投球フォームについては、そのままで投げさせていただきたい。フォーム改造は一切しない」  私もプロ野球を40年間取材してきたが、入団交渉条件に投球フォームが持ち出されたのはこの野茂しかいない。野茂は背番号11番をそっくり打者に見せるように、腰を外野方向に回転させる。しかも腰をひねりながら、両手も同時に後方ななめ上に持っていく。この特異ひねり投法でノンプロ新日鉄堺《さかい》時代は都市対抗小野賞、同優秀選手賞、アジア選手権最優秀投手賞、インタコンチネンタル野球三振奪取王、社会人ベストナインなど手にしてきた。だから野茂にしてみれば近鉄入りしたあと、 「オーソドックスな投球フォームに——」  と注文されても迷惑だったのだろう。  ところで私は野茂の投球フォームについて、いつもある疑問を抱いていた。 「あれで投球動作の途中、野茂の眼《め》は打者から一瞬でも離れていないのか」  この一点を野茂に質問した。 「それが不思議なんですねえ。練習では眼が切れる(眼が打者から離れる)のですが、本番では切れないんですよ」  その理由は野茂自身にもわからないという。しかしそういう説明不明の話は、勝負には実際にあるのだろう。投手の腰がぐるりと回転し、顔も三塁方向にそっぽを向いてしまう。打者にとっては、いい知れぬ恐怖の瞬間である。ボールがどこからとび出してくるか、見当のつかない恐怖なのだ。それでも野茂は本番に限っていえば打者から眼を切らないという。野茂が三振奪取王の秘密は、ここらあたりにあるのではないか。  野茂は2年間で打者1999人と顔を合わせ、奪三振574個、実に打者3・5人に1個の割り合いである。くりかえすが、打者に恐怖心は抱かすわ、マル投法はするわ、彼は三振をとるために生れてきた男といっていい。 「三振とるのと、勝つのとどちらが好きか」  当り前すぎる質問をしてみると、勝つ方がずっといいという。当り前である。勝てば年俸はハネ上るからだ。  入団した年と2年目に、2年つづけて最多勝したのは、宅《たく》和《わ》本司投手(南海、昭和29年26勝9敗、30年24勝11敗)と権《ごん》藤《どう》博《ひろし》投手(中日、昭和36年35勝19敗、37年30勝17敗)の2人だけである。その宅和は現役8年間で最終的には56勝26敗、権藤は現役5年間で82勝60敗に終った。3年目以後、宅和はわずか6勝、権藤は17勝しかあげていない。人生、自分のためにあるようないまの野茂に、宅和、権藤のような野球人生もあったのだと、いつの日か、伝える日もあるだろう。 根の章 「私は、ベーブ・ルースにも、一部の人種差別にも勝った」 ——ハンク・アーロン *プロ野球大リーグ。左翼手。ブレーブス→ブリュワーズ。終身打率3割0分7厘、本塁打745本(大リーグ記録)、打点2261。アメリカ。 「ハンク・アーロンって誰ですか」  という方のために、最小限度の説明をしよう。  アーロンが出現するまでの、大リーグの本塁打王は白人のベーブ・ルース右翼手(ヤンキース)の714本であった。ただし、ルースは1948年(昭和23年)8月16日、ガンのため53歳で他界している。ところが黒人のアーロンが745本を打ち、ルースを逆転して本塁打王になった。そこで黒人に偏見を持っている一部の白人にとってはたまらない。  アーロンが700本を越え、ルースの714本に迫ってくると、 「これ以上ホームランを打つと家族に危害を加える。もし約束を破ると後悔をするぞ。本当に打たないことを証明するため身《みの》代《しろ》金《きん》の前払いを要求する」  という脅迫状もきた。その脅迫状をFBIが調査すると、手紙の発信地はテネシー州のナッシュビルであった。この市にはアーロンの長女ゲールが、同市のフィスク大学に通っていて、脅迫めいた電話がかかってきていた。  こういう状況の中で、 「静かなる男」  といわれるアーロンは黙々とプレーした。  そして1974年(昭和49年)4月4日の開幕日、カブス戦の2回、ビリングハム投手から714本目を打って、ルースと並んだ。さらに4日後の8日、ドジャース戦の1回、ダウニング投手から715本をとばし、ルースを逆転した。  アーロンが700本目を越すと、外野席に同じ顔ぶれの20数人の白人が毎日押しかけ、アーロンに向かって人種差別的な野次をどなりつづけた。  だが静かなる男はそれに耐え、1975年(昭和50年)9月14日、レッドソックス戦の5回、リー投手から745本を打ち、現役引退した。  もちろん白人の大部分はアーロンを支持し、アーロンもまた感謝したが、一部の白人はアーロンへの差別感を持ちつづけた。 「私は尊敬するベーブ・ルースにも勝ったが、一部の人種差別にも負けなかった」  これが静かなる男の現役引退のセリフだった。  一部白人の気持ち、それに耐えたアーロンのつらい気持ちなど、私たちにはなかなか理解しにくい。  王貞治一塁手(巨人)がアーロンの745本を抜いたとき、日本列島全体が沸《わ》きかえるように祝福したのとは、多少事情が違うのだろう。それでも白人の大部分がアーロンを応援したのが、なによりの救いといっていい。 「記録を全員で喜ぶ」  こんな幸せはないと、しみじみ思うのである。 「同じアウト・コースを引いたとき、逆に神に感謝しました」 ——黒《くろ》岩《いわ》 彰《あきら》 *スピード・スケート。専修大。カルガリー五輪500メートル銅メダル。  黒岩彰は昭和63年2月、第15回冬季五輪カルガリー大会の500メートルで36秒77を記録、「銅メダル」をしっかりと胸にぶら下げた。  思えば、サラエボ五輪の無念さを一気に吐き出した銅メダルであった。  昭和59年2月、サラエボで第14回冬季五輪が行われた。この時点が最盛期の黒岩は、500メートルの金メダル候補NO・1として騒がれた。ところが彼のスタートコースは“アウト・コース”だった。アウト・コースはイン・コースにくらべ、1秒の10分の2秒ほど損だというのが、専門家の一致した見方である。  理由はこうだ。 「アウト・コースでスタートすると、もっともスピードの乗った最後のコーナーでイン・コースに入らなければならない。それだけスピードを殺す話になる」  なるほど納得のいく説明である。  だが不運にも黒岩はアウト・コースときまり、38秒20、金メダル候補が第10位に終わった。 「いくらアウト・コースといっても、黒岩はノミの心臓なんだ」  黒岩は世間から袋《ふく》叩《ろだた》きにあった。  それからの黒岩は1年間、放浪するようにひとりで海外修行に出かけた。黒岩にとっては、もっとも孤独でもっともつらかった時期だと思う。  さてカルガリー五輪の500メートルのスタート抽選をしてみると、関係者は唇《くちびる》をかんだ。黒岩はなんとまた損な立ち場のアウト・コースを引いてしまった。 「でもアウト・コースであることに、神に感謝しましたよ。サラエボから4年間、人にいえない苦労をしてきて、いままたアウト・コースなのは神の試練なんだと思いました」(黒岩彰)  前に書いたように、黒岩は見事なまでの滑りでアウト・コースのハンディをのり切り、36秒77で銅メダルをとった。  黒岩は昭和56年の世界スプリントの500メートルで38秒67を出して以来、国内競技ではなく世界戦の500メートルに57回出場しているが、カルガリー五輪で出した36秒77は自己最高である。  一番大切なカルガリー五輪で、黒岩は自己最高を出したのだから、ノミの心臓どころか、彼は鋼鉄の心臓に生まれかわった。つらい4年間の歳月が、 「苦手のアウト・コースを神に感謝する」  という澄みきった心境にかえたのだろう。  人間、ヒーローもすばらしい。しかし挫《ざ》折《せつ》した者がもう一度はい上ってくる姿は、もっと人の胸を打つ。  負け知らずの人間よりも、負けてなおつぎに勝つ人間の方が、人生の“ひだ”みたいなものを持っている。 「同じ雰《ふん》囲《い》気《き》を出せるまで、10年間かかりました」 ——山《やま》下《した》 泰《やす》裕《ひろ》 *柔道。六段。東海大。全日本柔道V10。ロサンゼルス五輪金メダル。日本柔道界最強といわれた。東海大助教授。  相撲の決まり手は相撲協会の発表によると70手、そして柔道の場合、決まり手は立ち技60手、寝技30手、合計90手もある。  ところが、全日本柔道で奇跡といわれたV10をやってのけた山下は、その勝負の95%までがなんと“左大内刈り、左大外刈り、左内《うち》股《また》”の3手だけで勝った。90手のうちの3手。実に山下は柔道の決まり手のうち、3%強の技しか使っていない。  その3%強の技でどうして山下はV10ができたのか。昭和の柔道界における最高の不思議といっていい。  山下は左自然体だから、技をかける足は左足である。大内刈りとは相撲の内掛けのように、左足かかとで相手の右足かかとあたりを刈るように手前に引く。大外刈りとは山下の左足で相手の左足ひざ裏から、ふくらはぎあたりを刈りこんで後方に倒す。内股とは左足を相手の内股にはさみ、はねあげるように倒していく。  さて山下の柔道が神秘的なのは、この3種類の技を使う場合、その技の途中までの雰囲気が寸分変わらない。つまり山下の眼《め》の色、呼吸法、左足の始動、腰の入れ方、それよりなにより山下の雰囲気が全く同じなのだ。だから相手の立ち場に立つと、大内刈りなのか大外刈りなのか、それとも内股でくるのか、防御の対策が立てられない。もちろん技の途中からは変わってくるのだが、相手が気がついたときはもう遅い。読者はこれでおわかりだろう。山下がたった3%強の決まり手でV10をやってのけた謎《なぞ》が——。 「中学生で右から左自然体に変え、九州学院高に進み、それから東海大相模《さがみ》高に転校、さらに東海大と学生時代は10年間柔道をやりましたが、左大内刈り、左大外刈り、左内股を全く同じ雰囲気でかけられるようになったのは、東海大4年生ですね。つまりこれだけに10年間かかったわけですよ」(山下泰裕)  勝負はいうまでもない。商売の交渉、かけ引き、一番へたなのは“試合前”からこちらの腹を見抜かれ、読まれていることだ。  だが山下はどんな交渉に入っても、全く同じ雰囲気で相手にとびこんでいく。相手にしてみれば対応策がない。世間を寸分変わらない雰囲気で歩けるのは、人生の達人である。 「一芸に秀《ひい》でた人物は、人生の達人」というのはここらあたりからきた諺《ことわざ》なのか。  山下は東海大相模高に転校したとき、同級生から校歌を3度聞き、メロディも歌詞も覚えてしまったという伝説がある。よほどカンのいい男なのだろう。その山下にしてなお、同じ雰囲気で技をかけにいくのに10年間かかった。技術の奥行きの深さに、私は、ただうなるほかはない。 「人生、課題がなくなれば、死ぬだけだよ」 ——青《あお》木《き》 功《いさお》 *プロゴルフ。我孫子中。青木ゴルフ企画。日本オープン2回、日本プロ3回優勝。通算58勝。世界マッチプレー、ハワイ・オープン、欧州オープン等世界的大会でも優勝。尾崎と並びAO時代と称される代表的ゴルファー。  全日空オープンが北海道・札幌GCユニコース(7031ヤード、パー72)で行われ、さる昭和62年9月20日、青木功が優勝した。青木の賞金900万円、さらに青木はこの1勝で通算51勝。これでこの時の歴代最多勝の杉《すぎ》原《はら》輝《てる》雄《お》、尾崎将司にならんだ。  ところで全日空オープン直前における、青木の体調は最悪だった。昭和62年だけでも数回の渡米、これでさすがの青木もプロ生活で初めて、腰《よう》痛《つう》を起こしていた。  気がついてみると、青木も中年真っ盛り、45歳である。4日間にわたる大会が始まってみると、疲労感は意外に重い。  そこで青木は大会中、コースから自動車で50分間もかかる、千《ち》歳《とせ》市内の尾谷医院で毎日、点滴をつづけた。水分、栄養分補給のため、点滴は500CC、時間にして約2時間。 「この間も眠りっぱなしだったよ。ハリを外すのも気がつかないくらいなんだから——」(青木功)  さて最終日の18番ホール、3番ウッドのショットが大きくフックし、ボールはギャラリーを仕切る鉄サクを越え、左の林の中へとびこんだ。青木の唇《くちびる》がかすかにふるえた。結果的に2位になった渡辺司は5アンダーでホール・アウトしている。  青木はそれを知りながら、白《しら》樺《かば》の木を越してグリーンを狙《ねら》わなければならない。  青木はグリーンに乗せ、しかもピン右手前6メートルにつけた。これを2パットでおさめ、6アンダーで51勝をやってのけた。 「試合のあと、なんで最終日の最終ホールで林の中へ打ちこんでしまったのか、考えましたよ。わかりましたね。いつも上半身は鍛えていたのに、この1、2年、下半身を鍛えていなかった。つまり上と下のアンバランスが原因でした。この全日空オープンで下半身が弱くなってきたなと、自分で知ったのが収穫でした。だからこれからは試合のないとき走りこみます。人間、課題がなくなったら死ぬときですよ」(青木功)  人生、60歳の手習いという言葉がある。60歳になってなお挑《ちよ》戦《うせん》しようという意味なのだ。  青木は前にも書いたようにこのとき45歳、しかもプロとしては頂点までのぼりつめた人物である。それが試合ごとに課題を見つけて精進する。  45歳といえば、サラリーマンも“疲れ盛り”だ。帰ってきてフロに入ると、ガックリする年で、体力のおとろえを誰でもなげく。  それでも青木はなお下半身を鍛えようと、自分にいい聞かす。だからこそ頂点にのぼりつめたのかもしれない。 「新婚初夜、20キロ走りましたよ」 ——君《きみ》原《はら》 健《けん》二《じ》 *マラソン。メキシコ五輪銀メダル。ミュンヘン五輪5位入賞。新日鉄。  中年男にとって、君原健二の走り姿を思い出すと涙がこぼれてくる。42・195キロのうち、30キロをすぎると首を左右に振り出す。苦しくなると首を振るのが、君原のくせだった。  さて私はずい分と数多くのスポーツマンを取材してきたが、君原ほど腰を抜かした男も珍しい。  君原は昭和41年3月3日、和子夫人と結婚した。結婚式場は北九州市八《や》幡《はた》区にある高見神社だから、新婚旅行は出雲《いずも》大《たい》社《しや》であった。いまの若いカップルは新婚旅行というと、ほとんど海外旅行だが、いまから20数年前の若者たちは、列車で3時間ぐらいのところに行く。東京で挙式した私は箱根だったから、なんとも安上りだった。  挙式当日の夕刻、出雲大社の近くの旅館に到着した君原と和子夫人の前に、なんとも感動的な時間が待っていた。  すると君原が途方もないことを言いだした。 「和子よ、ちょっと走ってくるわ。お前フロでも入ってろよ」  君原はトレーニング・ウェア、マラソン・シューズをはくと外に出た。  私たちのまともな感覚でいくとこう思う。 「どんな名選手でも、新婚旅行ぐらいゆっくり楽しみ、帰ってきたらまた努力する」  だが君原は違う。新婚初夜に愛妻ひとりを残して外を走った。 「20キロは走りましたね。約1時間ぐらいでしょうか」(君原健二)  もっともこれには理由がちゃんとあった。約1ヵ月先の4月19日、第70回ボストン・マラソンがあり、君原はこれに出場する。君原にしてみれば、 「女房もらって君原の腰がふらついているじゃないか」  と言われるのがなによりつらい。  ボストン・マラソン当日、27キロ地点にある“心臓破りの丘”にきたとき、なんと先頭集団は寺沢徹、岡部宏和、佐々木精一郎、君原の4人だけになっていた。 「私が4番目を走っていたんですが、(君原は女房もらって弱くなった)と言われたくなくて、心臓破りの丘は全く死にもの狂いでした」(君原健二)  39キロ地点で寺沢と佐々木がトップ、20メートルおくれて岡部、さらに60メートルおくれて君原だった。だが君原は首を左右に振り振り、3人を追い始めた。41キロ地点で君原は寺沢、佐々木に追いつき、ゴール前800メートルで遂《つい》に逆転、2時間17分11秒で優勝した。  新婚旅行でいくら金を使っても結構だ。だが男は君原が持っていたように、 「女房もらって仕事ができなくなった」  と言われたくない気持ちを大事にしたいと思う。 「この馬は“ゼニ”の顔見んと、走らんのや」 ——栗《くり》田《た》 勝《まさる》 *騎手。武田文吾厩《きゆ》舎《うしや》。通算766勝。シンザンの五冠のうち四冠まで騎乗し、名騎手とうたわれた。  若い競馬ファンのために、“シンザン”がどれほど名馬であったか、大筋を伝えよう。シンザンは昭和39年の日本ダービー1着、皐月《さつき》賞1着、菊花賞1着、つまり野球でいえば三冠王である。しかもシンザンは翌40年、天皇賞1着、有馬記念1着だから、五冠王といっていい。  ところで話題は昭和39年5月、東京競馬場で行われた日本ダービー直前にもどる。  もちろんシンザンは本命とされていた。だが練習での“併せ馬”を見た新聞記者たちは顔を見合わせた。 “併せ馬”というのは、2頭並んで走る。2頭並べると、競走馬の本能でせり合い現象が起こる。新聞記者が首をひねったのは、併せ馬で走ると、シンザンが弱いのだ。  シンザンほどの名馬だから、速いはずなのに、併せ馬をすると、不思議な話にはシンザンは二流の馬より、2メートルほど遅れて走る。それでいて本番の日本ダービーでは軽く1着になった。  翌年の天皇賞でも、併せ馬をすると二流馬より、2メートルも遅い。それが本番になると、またまた1着になってしまう。  たまりかねた新聞記者がシンザンに乗っている栗田勝に質問した。 「栗田さん、どうしてシンザンは併せ馬に弱くて、本番に強いのですか」  すると栗田はけろりと言ってのけた。 「この馬はゼニの顔見んと、走らんのや」  まさかシンザンが千円札、万円札を見抜くことはできないだろう。しかし練習の併せ馬と、現実に馬券がとびかう本番とでは、ムードがまるで違う。  シンザンという馬は本能的に、これから走るのが練習なのか、馬券のかかった本番なのか、敏感に感じとってしまうらしい。  観客の騒音、興奮、背中に乗っている栗田の緊張感、そういうもので判別してしまうのだろう。  関西風にいえば、ゼニに強い馬だから本当のプロフェッショナルである。逆説的にいえば、金に強くないとプロではない。馬券のかかったレースに強いシンザンこそ、競馬史上プロのNO・1名馬といっていい。  反対に練習ではいつも好記録を出す。そのくせ馬券がからむと、勝負に弱い馬もいる。  本当のプロではない。  シンザンを人間におきかえてみよう。野球、相撲、ボクシング、なんでもいい。練習に強いのに、金がからむと実力を出しきれない。これではアマチュアなのである。  シンザンに恥ずかしくて、この馬の前に出られない男も多いのではないか。  そういうシンザンの特質をうまく引き出した栗田もまた、名人騎手である。 「伝《てん》馬《ま》舟の下は海、飛行機の下は空気、人間、どこでも死と向かい合っているんです」 ——稲《いな》尾《お》 和《かず》久《ひさ》 *プロ野球。投手。別府緑ヶ丘高。西鉄→太平洋ク。西鉄→太平洋ク→中日(コーチ)→ロッテ監督。新人王、MVP2回。終身成績276勝137敗。  稲尾は男5人、女2人、7人きょうだいの末っ子、父親久作は別府湾で伝馬舟に乗る漁師である。稲尾は別府市立北小学校1年生になると、久作と一緒に伝馬舟に乗り、夜《よ》釣《づ》りに出かけた。兄たちはサラリーマンになったので、末っ子の稲尾が漁師になろうと思った。  稲尾は小学校5年生の頃《ころ》、ある夜、伝馬舟の中でふっと、思ったという。 「底の板の下は海、舟板が折れたらおれは死ぬんだなあ」  11歳か12歳で死を考えるなんて、稲尾和久という人物はよほど、すばらしい資質の持ち主だったと思う。 「プロ野球に入ってあるとき、飛行機に乗っていたんですよ。そしたら飛行機の下は空気、つまり伝馬舟も飛行機も同じじゃないか、もっといえば人間、いつでもどこでも、死と向かい合っているんだなあと思いました。その瞬間ですよ。マウンドに立つのがこわくなくなったのは——。結局、マウンドの下にだって死があるんですよ」(稲尾和久)  稲尾は昭和31年から昭和44年までに276勝137敗、“鉄腕”稲尾といわれ、とくに昭和33年の日本シリーズ、西鉄対巨人戦では6連投し、3連敗から4連勝し、日本シリーズ史上最大の物語になっている。  だが私は、ここで思うのだ。稲尾はプロ入りした当時、やっぱりマウンドに立つのがこわかった。 「1回のトップ打者の初球になにを投げようか、9回まで完投できるだろうか」  ダグアウトからマウンドへ歩くまで、ひざのふるえる日もあった。これが本音だろう。  だが伝馬舟も飛行機もマウンドも、結局は同じだとわかったときから、この恐怖心から解放された。小学校時代、久作と一緒に別府湾に出た体験がそのまま、自分の職業と結びついた。  私ごとで申し訳ないのだが、実は私はかなりの飛行機嫌《ぎら》いである。それでも仕事で乗るとき、たいがいウイスキーを飲んで、自分をごまかしている。 「飛行機の下は空気。マウンドも同じ」  などと、とても悟りきれない。  ここらあたりが276勝かせいだ投手と、“並”の差だろうか。 「気流が悪くて、飛行機が大揺れに揺れると、(ああ俺《おれ》はいま、生きているんだなあ)と体がしびれますね」(稲尾和久)  おそらく稲尾はマウンド上でピンチになると、飛行機が揺れたときみたいに、 「おれはいま勝負しているんだ」  と武者ぶるいしていたのだろう。稲尾はこうして終身防御率1・98を残した。 「私のサイン“草魂”は、わかりやすくいえば“この野郎”ですよ」 ——鈴《すず》木《き》 啓《けい》示《し》 *プロ野球。投手。兵庫育英高。近鉄。最多勝3回、防御率1位1回。終身成績317勝238敗2セーブ。  いまの若い方はわからないだろうが、私が新聞記者になった昭和28年当時、近鉄は、 「パのお荷物、ボロ鉄」  などといわれていた。  昭和25年に球団創設されて以来、球団順位は、「7位(当時7球団制)、7位、7位、7位」といつも最下位だったから、お荷物といわれてもしかたがない。  昭和41年、そういう近鉄に鈴木啓示投手が入団してきた。背番号は球団側の期待を表現するように“1”番。そして契約金はなんと球団創設以来最高の700万円だった。  これは近鉄だけではないのだが、新人が最高額の金で会社へ入ってきたら、先輩たちはやっかむ。当然の人情だろう。  オープン戦で鈴木が初登板、KO《ノツクアウト》されると首脳部は彼を二軍に落とした。6月、鈴木が一軍にあがってくると、意外な現実がそこに待っていた。先輩が誰も言葉をかけてくれない。 「背番号1番をもらって、あのオープン戦のざまはなんだ」 「せめて球団最高額のピッチングをしたらどうなのかよ」  針のような先輩の眼《め》が鈴木の体中を刺す。このとき鈴木は自分の胸に言いきかせた。 「スポーツマン、スポーツマンときれいごとならべるが、現実はやきもちとやっかみじゃないか。よーし、いまに見ていろ、こっちが見返してやるからな」  こうして鈴木はくる日もくる日も、“この野郎、この野郎”という気持ちで過ごした。  ある日、鈴木が合宿の庭を見ると、1本の草がコンクリートを割って根を張っている。 「草とはコンクリートよりも強いのか。この草の精神をおれの生活信条としよう」  この日から鈴木はサインに“草魂”と書くようになった。草のように、ふまれてもふまれても、なお生きて根を張る生きざまを表現しているのだ。  サインの中に、努力、根性、闘志、忍耐という字は多い。しかし草の字を持ってきたのは、おそらく鈴木しかいないのではないか。  こうして彼は317勝238敗を記録した。若い方はどうしても敵は相手だけだと思いこむ。だが本当の敵は味方の中にいる。やきもち、やっかみ、裏切り、陰口、こういう陰湿ないじめで、若くて素質のある者を潰《つぶ》してしまう。  鈴木はそれを乗りこえ、乗りこえ、300勝台に記録をのばした。  いま飽食の時代といわれ、ハングリー精神はあまりもてない。だが鈴木の草の根精神だけは大切に持っていたいと思う。 「——ボールだ、ボールだ(絶息)」 ——円《えん》城《じよ》寺《うじ》 満《みつる》 *プロ野球審判。セ・リーグ。  これから書く話は、胸を打つというより、あまりの凄《すご》さに胴体がふるえるような思いである。  とくに私のように思いこみの激しい昭和一ケタにとっては、男の“切腹”を見せつけられた気持ちなのだ。  昭和36年10月29日、後楽園球場で日本シリーズ巨人対南海第4戦が行われた。9回表南海の攻撃が終わった時点でスコアは3対2、南海が勝っていた。  ところが9回裏二死後、巨人はつき立ての餅《もち》のように粘り始め、二死満塁と持ちこんだ。右打席に4番エンディ・宮本が入り、ボール・カウント2—1になった。相手投手はスタンカである。運命の4球目、スタンカは外角低目にフォークボールを投げた。 「きまった——」  野村克也捕手が立ち上った瞬間、主審円城寺満がどなった。 「ボール」  スタンカが赤鬼のように円城寺につかみかかり、南海ナインがやっとスタンカを引き離した。ほっておくと退場までいってしまう。5球目、スタンカは外角低目のストレートで勝負した。それを宮本は右翼線に“逆転さよなら”安打した。打球が右翼線にとんだ直後、野村のカバーに走ったスタンカが巧妙に円城寺に体当りし、円城寺は帽子をとばし、仰向けにひっくり返った。しかも試合が終わると南海ナインが円城寺に迫り、取材中の新聞記者が仲裁に入るシーンもあった。  話題を昭和58年7月12日に移そう。この日の午後1時すぎ、円城寺は横浜市立大付属病院で肺ガンのため他界した。75歳。  臨終のとき、円城寺の唇《くちびる》がかすかに動いた。数子夫人が唇に耳をつけるようにすると、「ボールだ、ボールだ——」と言っている。  数子夫人はあとでセ・リーグ審判部の人たちにこう言ったそうだ。 「あのボール、ボールというのは、スタンカさんの問題の4球目をいっているのではないでしょうか。私はそう思いました」  人間、息を引きとる瞬間は、だれでもぼろぼろである。その最後に吐くセリフにウソがあるだろうか。  現実問題として、あの運命の4球目がストライク・ゾーンを通過したのかどうか、わからない。  しかし円城寺は息を引きとるまで、あれはボールなんだと信じこんでいる。だからこそ“遺言”のようにそれが出てきた。  男がそこまで思いこむのは、私も男だからよくわかるが、死ぬほど真剣にならないとできない。この「ボールだ、ボールだ」という八文字に、見事に生きた円城寺の人生が凝縮されていると思う。 「現役時代、自分でネクタイを結べませんでした」 ——森《もり》 祇《まさ》晶《あき》 *プロ野球。捕手。岐阜高。巨人。ヤクルト→西武コーチ。西武監督。終身打率2割3分6厘、本塁打81本、打点582。  森祇晶捕手をめぐって、ぞっとするようなエピソードがある。  巨人V9時代の初期、森は試合中に左手親指を突き指した。城《じよ》之《うの》内《うち》邦《くに》雄《お》投手の内角シュートを捕球しそこなったのである。  突き指したまま、プロの時速135〜140キロの硬球を捕球する痛さは、体験者でなければわからない。1球捕球するごとに脳天がしびれ、男が声をあげて泣きたくなる。  森は痛めた左手親指をミットの外側に出した。少しでも衝撃をやわらげるためだ。  ところが左手親指をミットの外側に出していると、相手にスパイクされる心配もある。  そこで森は親指を突っこむ袋を特別に注文した。つまり、ミットの上に袋が縫いつけられ、その袋に親指を入れる。こんな特別ミットを使用したのは森ひとりしかいない。  それでも森は交替してくれとはいわなかった。プロで正位置をとるとは、それほど甘くはないのだ。突き指の親指が治らないうち、毎試合約130球の投球を捕球するのだから、第一関節の先が横に曲がってしまう。  そのうちこの突き指がいよいよひどくなり、森が途方にくれることに出合った。 「左親指が自由にならないから、自分ひとりでネクタイが結べない。あれには弱ったね」(森祇晶)  巨人はロードに出かけるとき、背広、Yシャツ、ネクタイ着用である。自宅を出るときは夫人に結んでもらい、旅館を出る場合はお手伝いさんに結んでもらう。  それでも正位置の座を他人にゆずらなかった。森は強肩で二塁送球のコントロールがよく、いつでも盗塁阻止率は6割台、そのニックネームは、「皆殺しの森」と言われた。  でもその裏側では、ネクタイも結べない苦しみがあった。  ところで最近、私は腰を抜かすような現実を見た。某人気新人がカゼを引いた。熱を測定してみたら、“37度0分”だった。  そしたら球団ではこういう発表をした。 「大事をとって練習を休ませます」 “37度0分”は平熱というのが常識ではないのか。それともこの新人の平熱は35度ぐらいだったのか。過保護は少年、少女たちばかりではない。37度0分でユニホームを脱ぐプロ野球も話にならない。  いまの若者は一度でいい、自分でネクタイを結べないほど、死力をつくして本職と向かい合ったことがあるのか。世の中で一番大切なのは、自分の本職に死力をつくすことである。 「人生なんて案外、“他人”の一言がきめてくれるものなんですね」 ——衣《きぬ》笠《がさ》 祥《さち》雄《お》 *プロ野球。捕手→三塁手。平安高。広島。2215試合連続出場。国民栄誉賞受賞。MVP1回、打点王1回、盗塁王1回。終身打率2割7分0厘、本塁打504本、打点1448。 「国民栄誉賞、広島県民賞、日米野球殿堂に衣笠コーナー設置、教科書に教材として掲載される」  衣笠は昭和62年6月13日、広島球場での広島対中日10回戦で連続試合“2131”を記録、ルー・ゲーリッグ一塁手(ヤンキース)を追いぬいて世界記録を樹立、いま書いたようなプロ野球選手としては最高の栄誉をつかんだ。  しかしこういう衣笠にも、なんともぞっとするようなピンチがあった。  昭和54年8月1日、広島球場で広島対巨人17回戦が行われた。7回裏二死後、衣笠は西《にし》本《もと》聖《たかし》投手のシュートを左背中に受けて退場、そのまま病院に直行、精密検査を受けたところ、「左肩《けん》胛《こう》骨《こつ》亀《き》裂《れつ》骨折、全治2週間」  と診断された。要するに左肩の骨が折れたのである。  参考までに伝えると、この時点の衣笠は昭和45年10月19日、後楽園球場での巨人対広島26回戦の7回、興《おき》津《つ》達《たつ》雄《お》一塁手に交替して以来、連続出場をつづけている。  この夜、自宅に帰った衣笠は左肩を包帯にぐるぐる巻きされ、 「これで9年間つづいた連続試合も終わりか」  呆《ぼう》然《ぜん》とした思いだった。  するとそこへ古葉竹識監督から電話がかかってきた。 「なあ衣笠よ、あしたはどんなカッコでもいいから、広島球場にやってこい。おれは必ず待っているからな」  これで衣笠の迷っている気持ちがぴたりときまった。翌2日、衣笠はスポーツ・シャツ、包帯姿で広島球場に現れた。そして7回裏一死後、大《おお》野《のゆ》豊《たか》投手の代打で出場、江《えが》川《わす》卓《ぐる》投手の外角速球を空振り三振した。衣笠が3度空振りしたとき、三塁側巨人ダグアウトから拍手が起こった。見送り三振なら誰でもできる。肩の骨が折れているのに、3度スイングしたのである。勝負は結果がすべてではない。  6月11日、広島球場での対大洋9回戦でゲーリッグに追いついたとき、古葉から花束をプレゼントされた。古葉の目もうるんでいた。 「もしあの晩、あの電話がなかったら私の人生の展開も変わっていたものになっていたかもしれない」(衣笠祥雄)  中年男は酒を飲むと若者を相手に大演説をぶち出す。 「いいかお前たち、おれは誰の世話にもならず、おれひとりの実力でのしあがったんだ」  若者はうんざりしながら、 「あんたが大将、あんたが大将」  という顔でそっぽを向いている。  人間、自分ひとりの実力と思っても、実は気の付かないところで、他人に世話になっている。ここに気がつくか、つかないかが人間の別れ道だろう。 「気がついたら、私の手の平には“水かき”がついていました」 ——鈴《すず》木《き》 大《だい》地《ち》 *水泳。順天堂大。ソウル五輪100メートル背泳金メダル。  読者はご存知だろうか。昭和39年10月に行われた第18回東京五輪では、日本は実に“16個”の金メダルをとった。開催国だから金メダルが多いのは当り前かも知れないが、それが昭和63年9月に行われた、第24回ソウル五輪ではどのように変っていたのか。  なんと金メダルはたった4個である。東京五輪で16個もとれたのに、24年たってみたらソウル五輪では4個に減っていたという話である。  そのたった4個の金メダルのうち、大逆転で日本中をしびれさせたのが、これから書く鈴木大地の100メートル背泳であった。  なにしろ100メートル決勝では、90メートル地点まで世界記録保持者バーコフ(アメリカ)が勝っている。もっと細かくいえば95メートルまでは、鈴木が金メダルをとれると思っていた者はいなかった。タッチの差で鈴木が勝った瞬間、テレビの実況アナウンサーが3言、絶叫した。 「勝った、逆転、金メダル——」  この3言がすべてを物語っている。一切のムダをはぶき、必要最小限の言葉を最少時間でしゃべった名放送である。  タイムは55秒05、もちろん日本新記録である。最後のタッチは一直線にのびた右腕の中指最先端だった。もしタッチが小指だったら、短いその分だけおくれ、はたして金メダルをとれていたか、どうか。  鈴木は昭和59年、千葉県・船橋高3年生のとき、ロサンゼルス五輪の代表選手に選ばれ、以来、黙々と泳ぎに泳ぎ、なお泳ぐ。そして62年、ザグレブ(ユーゴスラビア)で開催されたユニバーシアード大会では、世界水泳界を絶句させた。鈴木のお家芸である、あの“バサロ泳法”で100メートル背泳に優勝した。バサロ泳法とはスタートと同時に潜水してしまう。両腕を前方に伸ばして指を組み、あとはキックだけで40メートルは泳ぐ。要するに鈴木が潜水艦になったと思えばいい。この潜水艦の距離と速さが、世界水泳界の謎《なぞ》なのである。ほかの選手が“水上”で泳いでいるのに、鈴木だけが水中にかくれて見えない。40メートル付近ですっと浮上すると、もうトップを泳いでいる。  鈴木はどんなにすくなくても、1日に20キロは泳ぐ。10日間で200キロ、1ヵ月間で600キロ、1年間で7200キロである。1日の練習量20キロはすくなく見積っているから、1年間1万キロ近くは泳ぐ計算になる。地球の赤道上一回りは約4万キロだ。つまり鈴木は1年間で地球の4分の1を泳ぐ。逆算すれば4年間で約地球一回りである。  簡単にいえば、鈴木は船橋高時代からソウル五輪にいたるまでの間に、地球一回り分泳いだと考えていいだろう。  ある日、私は鈴木の両手の平を見た。5本の指をひろげると、本当に鈴木の手の平には“水かき”があると思った。たとえば人差し指と中指の付け根部分の筋肉が、普通の人間より1センチぐらい“膜状”に高く盛りあがっている。中指と薬指の付け根部分にも同じ膜状の筋肉がついている。5本の指をいっぱいひらくと、この膜状の筋肉がだれの眼にも“水かき”に見える。  それならどういう理由で鈴木には“水かき膜”ができたのか。ここのところが人間の不思議さというのか、人間の持つ神秘さというのか、恐ろしい部分である。 「0・1秒でも速く泳ぎたい」  鈴木は地球一回り分泳ぐとき、ただ胸の奥深いところでは、この一点の想《おも》いしかなかった。速く、速く、速く——鈴木は両腕を何千万回と逆水車のように回転させながら、これだけを想いつづけた。水中で水をかく手の平の面積は広いほどいい。鈴木のこの一点の想いがつのり、つのって指の根元に筋肉の膜が張られた。これが水かきである。人間の手の平に本当に水かきができるのだ。ただし毎晩ビールを飲み、腹を突き出しながらマージャンをやっていたのでは膜はでてこない。  日本が水泳で金メダルをとったのは、第20回ミュンヘン五輪の田《た》口《ぐち》信《のぶ》教《たか》以来、16年ぶりだった。  もぐる潜水艦ではキック泳法、手の平には水かき、足と手が世界一なのだから、鈴木大地の金メダルは納得がいく。 挑《ちよう》の章 「メガネをかけたまま、日本一の捕手になろうと思いました」 ——古《ふる》田《た》 敦《あつ》也《や》 *プロ野球。捕手。立命館大。ヤクルト。首位打者1回。通算打率3割0分3厘、本塁打14本、打点76。  昭和11年、プロ野球が創設されたとき、巨人はハワイ・マッキンレーハイスクールにいた田中義雄捕手を誘った。田中は二世である。田中は無類にドイツびいきなところから、“カイザー(皇帝)”田中というニックネームまでつけられた。さて田中は巨人と契約するところまできて、突然ことわられた。球団代表市岡忠男が、 「田中はメガネをかけている。明治6年に野球が日本に伝来して以来、メガネをかけた捕手はみたことがない」  という不思議な理由をつけたからである。  こうしてカイザー田中は翌12年阪神に入団、19年に太平洋戦争でプロ野球が中断されるまで正捕手をつとめた。 「試合数477、終身打率2割4分7厘《りん》」、そればかりか田中は昭和33、34年の2年間、阪神の監督にも就任し、昭和60年4月10日、心筋梗《こう》塞《そく》のため78歳で他界した。  ところでプロ野球とは奇妙なところで、田中がメガネによって巨人をことわられた話が伝わると、いつのまにかそれが定説のようになった。25年、2リーグ分裂以後、古田敦也捕手が入団するまで、メガネをかけた正捕手はひとりも出てこなかった。たとえば高田繁左翼手(巨人)や松《まつ》岡《おか》弘《ひろむ》投手(ヤクルト)のように、コンタクトレンズをはめた者は案外と多い。しかしこれだと強風でほこりなどが立つと、眼が痛くてプレーがやりにくい。そこで近視の古田は兵庫県の川西明峰高—立命館大からメガネをかけたままで名捕手になりたいという夢を持った。  捕邪飛が上った瞬間、どんな捕手でもぱっとマスクをはねとばす。このときマスクはとばしても、メガネを固定させておくのはかなりの技術を必要とする。捕邪飛は顔を真上に上げていないと捕球できない。もし相当の雨が降っていたら、雨が直接、レンズを叩《たた》いてボールが見にくい。もっと直接的な苦労もある。一塁走者が走ったとき、送球動作の途中でほんのちょっとでもメガネがズレてしまったら、気持ちの内にしまったという焦《あせ》りが生まれてしまう。そうなれば当然、二塁送球のコントロールが狂ってくる。  メガネにはそういう不利な材料があるのに、どうして古田はメガネをかけた名捕手になろうという夢を抱いたのか。メガネの不利材料はさまざま工夫することで、乗りこえられると思ったからだ。  古田は二塁送球のとき、“強肩”ばかりにたよらない。古田は新人の平成2年で盗塁阻止率5割2分7厘(盗塁企図数55、許盗塁26、盗塁刺29)を記録した。平成2年におけるセ・リーグの平均盗塁阻止率3割5分5厘、パ・リーグの2割7分3厘と比較するとき、古田の5割台がどれほど凄《すご》いかわかると思う。そこのところの秘密を古田は100%、強肩においてない。もちろん水準以上の肩が前提にあるのは当り前の話だが、それよりも“時間と正確さ”を強肩より前面に押し出している。時間とは捕球—送球までの時間を0・1秒でも短縮することを意味する。もし0・2秒短縮できたら、ボールは0・2秒分、速く二塁に入った二塁手か遊撃手にとどく理屈になる。走者の脚を0・2秒分におきかえてみたら、1メートル50センチから2メートル近くは違ってくる。正確さとはコントロールをさす。送球が二塁ベース上20センチの地点にぴたりと送球されれば、グラブを真下におろせば走者はアウトにできる。走者はそこにスライディングしてくるからだ。 “時間と正確さ”は一切のムダな動きをなくすことから始まる。頭や顔もズラさないで、古田は素直な送球動作をする。もし古田がメガネをかけていなかったら、もっと強肩だけにたよる捕手になっていたのではないか。 「古田はメガネの分だけ、損をしている」  というイメージをファンは抱いていると思う。だが私は逆の発想をしたい。古田はメガネをかけているからこそ、時間と正確さにたどりついたのではないだろうか。古田の平成3年度における盗塁阻止率は両リーグNO・1の5割7分8厘。古田がメガネをかけたまま、名捕手になりたいと思ったのは正解である。  カイザー田中はメガネのために巨人をことわられた。球団代表市岡忠男が理屈をいわなければ、巨人のユニホームを着ていた。メガネこそが田中の人生を変え、巨人と阪神両球団史まで書きかえた。古田もまたメガネのために、日本一の捕手になっていくだろう。  平成4年における古田の年《ねん》俸《ぽう》6000万円。メガネが稼《かせ》いでくれた6000万円といってもいい。 「陸上100メートルを早く走りたかったら、鉄棒を練習することだね」 ——吉《よし》岡《おか》 隆《たか》徳《のり》 *陸上。短距離。第10回ロサンゼルス五輪6位入賞。「暁の超特急」のニックネームは有名。元東京女子体育大教授。  いまの若い方で吉岡隆徳の名前を知っている読者は、ほとんどひとりもいないだろう。吉岡は、戦前、東洋で100メートルを一番速く走った男、そして昭和7年8月、第10回ロサンゼルス五輪では陸上100メートル決勝に勝ち残り、10秒6を記録、五輪史上東洋人として初めて6位入賞した人物である。  吉岡は身長1メートル68センチ、体重62キロ、7歩目までは思いきって低い姿勢で走り、8歩目から上半身を起こし、歩幅を少しずつのばしていく。14歩目から最長歩幅2メートル20センチになり、これが70メートル地点までつづく。  70メートル以後は歩幅、足の回転ペースが少しずつ乱れ、最終的には48歩でゴールイン、これが吉岡の基本的走法である。  とくに吉岡のスタートは当時、世界一の素早さだった。そこでスポーツ評論家川《かわ》本《もと》信《のぶ》正《まさ》さん(当時読売新聞社運動部記者)が永遠の名ニックネーム、「暁の超特急」と名付けた。  ところでなぜ、吉岡は世界一のスタートができたのか。生前、吉岡は私にこういう秘話を語ってくれた。 「ある日、水泳の遊佐正憲(日大、昭和11年8月、第11回ベルリン五輪の100メートルで57秒8、銀メダル)の飛びこみを見て腰を抜かしたね。外人みたいに空中高くとばない。低くとんですぐ泳ぎ出す。(スタートは低いほどダッシュがつく)というヒントをつかみました。しかし、陸上のスタートは低い姿勢をとればとるほど、両腕と10本の指に体重がかかるんですよ。だから腕力と握力を強くするため、毎日、鉄棒の大車輪や懸垂やってましたね」  こうして戦前、東洋一速い男は毎日、地面をつむじ風のように走ったあと、こんどは体操の選手に早変わりした。  私は吉岡のこの発想を見事だと思う。とかく日本人の発想は自分の職業にこだわりがちである。 「相撲とりは相撲だけ、大工の職人は大工だけ、水泳の選手は水泳だけ」  という考え方である。  私はそれも否定しない。それはそれで大変なことだろう。しかし、いまから半世紀以上も前に、テレビもない時代に、 「地面を速く走るために、鉄棒にぶら下がろう」  という発想は天才といっていい。もっと大胆にいえば、吉岡は両足で走ったのではなく、両腕で走ったといっていい。  吉岡の本名は(たかのり)と発音するが、これではスプリンターとしての迫力がない。  だから生《しよ》涯《うがい》(りゅうとく)という、幕末の坂《さか》本《もと》竜《りよ》馬《うま》ににた発音を好み、これで押し通した。 「盗塁は脚でするのじゃなくて、“眼《め》”でするんですよ」 ——福《ふく》本《もと》 豊《ゆたか》 *プロ野球。中堅手。大鉄高。阪急。MVP1回、盗塁王13回。終身打率2割9分1厘、本塁打208本、打点884、盗塁1065。 “世界の怪盗”のニックネームを持ち、日本記録の盗塁1065個を持つのが福本豊である。  盗塁第2位の広《ひろ》瀬《せ》叔《よし》功《のり》中堅手(南海)が596個だから、福本の凄《すご》さがわかると思う。  私はある日、福本に質問した。 「盗塁の極意を一つだけ、取り上げるとしたらなんですか」  すると福本はなんとも意外な答案用紙をしゃべるのである。 「盗塁は眼で稼《かせ》ぐもの、眼でするものですよ」  盗塁とは脚でするものではないのか。脚で走りに走って、スライディングして稼ぐものではないのだろうか。  だが福本はこういうのだ。 「まず盗塁は投手のくせを盗むところから始まる。あるとき神《かん》部《べ》年《とし》男《お》投手(近鉄)のくせがどうしても盗めない。スコアラーに頼んで神部のセット・ポジションを16ミリで撮影してもらい、200回ぐらい見ていたらくせを発見しました。打者に投球するとき、軸足の左ひざが5ミリぐらい曲がるんです。それから神部をカモにしましたね」  でもここで読者は思うのではないか。 「脚が速くなければ、いくらくせを盗んでもアウトになるじゃないか」  そのとおりである。盗塁に脚はつきものだ。しかし福本はもうひとつ、違うところで眼を生かしていた。福本は身長1メートル69センチしかないから、14歩かけて盗塁する。  ところで彼は9歩目あたりから、走りながら二塁ベースに入った野手のボールを見る視線に眼を移す。もし捕手からの二塁送球が右翼方向に流れているとしたら、当然、野手の視線もそのボールを追っているはずだ。つまり福本は走りながら、背中から飛んでくるボールの位置、コースを見抜いてしまう。もし野手の視線が右翼方向に流れているとしたら、福本は三塁方向に体を倒してスライディングすれば、セーフになる確率は高い。  こうして福本は眼を100%生かして、1065個の盗塁をかせいだ。  要するに私のいいたいのはこうなのだ。 “盗塁”というと100人のうち、100人までが脚でかせぐものだと思いがちである。  ところが福本は脚も速いが、“眼”という意外な要素を持ってきて世界の怪盗になった。人間、ほんのちょっとした発想の転換で、これほどすばらしい結果がつかめる。  他人と同じ発想、同じことしかやらない者は頭ひとつもリードできない。ほんのわずかな発想のズレが、地球1周4万キロほどの差が出てくる。 「私、本当は一度、両親に遺書を書いたことがあるの。恐怖心は誰にもあります」 ——今《いま》井《い》 通《みち》子《こ》 *登山家。森田たまパイオニア賞受賞。著書に「私のヒマラヤ」「私の北壁」「魔頂」ほか。東京女子医大講師、医師。  今井通子は登山の世界で、「北壁三冠女王」としてあまりに有名である。  登山にあまり詳しくない方のために伝えると、今井はマッターホルン、アイガー、グランドジョラスと、世界登山史上、女性でただひとりのヨーロッパ・アルプス三大北壁登頂者である。  私などは富士山どころか、東京に近いハイキング・コースになっている高尾山にも登ったことがない。そういう男からみると、ほとんど垂直な北壁を、寒気団と戦いながら登りつめていく女は、まるで理解できない。 「暖かいところで、うまい物食べていたほうがいいじゃないか」  という気分である。  ところがこれから書く話を知って、今井に対する考え方が変わった。  昭和42年6月23日、今井たちのパーティはソ連船ハバロフスク号で横浜港を出航した。マッターホルン北壁登頂に出かけるのである。その前夜、今井は眼科医の父親亮、母親久子に手紙を書き、それを自分の机の引出しの奥にしまいこんだ。 「お父さん、お母さん、もし今回の遠征中に通子、および隊の人間に何かあった場合を考えてこの文を書きます(中略)通子はお父さんやお母さんにとっては親不孝な娘でした(中略)通子は好きな山へ行く(中略)お父さんやお母さんを悲しませると思うと、自分は良いけれど、どうしても心にひっかかります。でも通子が最も幸せな子だったのだと思って諦《あきら》めてください。本当に申し訳ございません」(原文のまま)  手紙の精神は遺書といっていい。  私はこの話を知り、今井との距離がぐっと近づいたような気がした。  今井はマッターホルン北壁登頂を前に、実は死の恐怖にふるえ、どこかに死の予感みたいなものが走ったからこそ、そっとこの遺書を机の引出しに忍ばせたのではないか。  私は登山をしたことがないから、登山家の本当の気持ちはわからない。ただ想像するだけなのだが、彼等は恐怖心を持たないのではない。誰よりも敏感に恐怖心、死への予感みたいなものを持っているのだろう。  だからこそ万全の準備、装備をし、気象の情報を集め、登山にとりかかる。そして頂上をあと100メートルにした時点で無理だと判断すれば、前進するより10倍の勇気で、もと来たコースを引きかえす。  死への恐怖を強く持っている人ほど、実は世界の名登山家ではないのか。  今井は遺書を書くナーバスな神経を持っていたからこそ、北壁三冠女王になれたと思う。 「“相打ち”が不可能だというところから、あの“カエル”とびは生まれましたね」 ——輪《わ》島《じま》 功《こう》一《いち》 *プロボクシング。WBA世界ジュニア・ミドル級チャンピオン。三《み》迫《さこ》ジム。チャンピオン防衛を4回果し、その後2度チャンピオンに返り咲いた。  最初に輪島の肉体的資料から伝えよう。身長1メートル71センチ、制限体重69・85キロ以下、胸囲99センチ、股《また》下《した》左右91センチ、ナックル(握りの周囲)左右30センチ、腕の太さ(上はく部)右29センチ、左29・5センチ、握力右40、左38、ところが意外なことにリーチが短くて1メートル67センチしかない。この測定法は両腕を左右に水平にひろげ、中指から中指までの距離だが、ほとんどのプロ・ボクサーは、身長よりリーチが上回る。それなのに輪島の場合、4センチもリーチが短い。簡単にいえば、輪島は腕が短いのである。 「腕が短いとね、“相打ち”ができないんですよ。たとえば同時にストレートを打つ。私のがとどかないうちに、相手のパンチが私の顔面に当ってしまう。それなら私のように腕の短いボクサーはどうしたら勝てるのか」(輪島功一)  輪島は毎日、このテーマと取り組んだ。その果てに、ひとつの結論をつかんだ。 「相手のパンチをかわしたつぎの瞬間、相手の内ぶところにとびこみパンチを叩《たた》きこむ」  昭和47年10月3日、東京・日大講堂で世界ジュニア・ミドル級チャンピオン輪島対挑《ちよう》戦《せん》者《しや》世界同級5位マット・ドノバン(トリニダードトバコ絎南米)の世界タイトルマッチ15回戦が行われた。  輪島のリーチは前にも書いたように1メートル67センチ、ところがドノバンのリーチは1メートル97センチ、なんとリーチ差30センチ、世界タイトル史上、最長リーチ差記録といっていい。  2回2分すぎ、ドノバンが右ストレートを打った瞬間、輪島の姿がすっとドノバンの視界から消えた。輪島がリング上でしゃがむように腰を落としたのだ。ドノバンも観客もあっと思ったとき、輪島はカエルとびで、強烈な右フックを叩きこんだ。3回30秒すぎ、カエルとび恐怖症におちこんだドノバンは、動きにためらいが出た。これこそ輪島がカエルとびで仕掛けたワナである。40秒すぎ、一気にとびこんだ輪島は右フックをドノバンのテンプルにぶちこんだ。KO時間3回53秒、輪島は、KO勝ちの直後、リング上で滝田順作詞、曽根幸明作曲の“炎の男”をうたった。    皴人に頼るな自分で勝て   押せば開ける人生だ    人間、弱点のない者はいない。負け犬はその弱点を理由に消えていく。死にもの狂いで生きていく男は、弱点を必殺の武器に変えてしまう。つまり、泣きどころは強烈な武器に変わる、恐ろしい爆弾といっていい。 「眼《め》の玉ひとつ動かすにも、映画からヒントを盗んだね」 ——牧《まき》野《の》 茂《しげる》 *プロ野球。遊撃手。明治大。中日。巨人コーチ。終身打率2割1分7厘、本塁打9本、打点134。巨人V9時代の名参謀。  牧野は明大時代、遊撃手、二塁手をつとめていた。そこで一塁走者が出ると、 「いつ盗塁をするのかな」  と気になって仕方がない。  投手がセット・ポジションから投球動作に移った瞬間、どうしても一度、打者から眼を離し、一塁走者に視線を移さなければならない。牧野はそこのところに、ひとつの疑問を抱いた。 「たとえば、遊撃の守備位置にいてこれをやる場合、顔ごと打者から眼を離し、一塁走者を見て、また顔ごともどした方がいいのか、顔はそのままにして、眼だけチラチラ移した方がいいのか、よくわからなかった」  これは牧野の話である。  牧野は昭和27年、中日へ入団したあと、ある日、映画を見に行った。時代劇映画の「鞍《くら》馬《ま》天《てん》狗《ぐ》」であった。  牧野が何気なくスクリーンを見ていると、鞍馬天狗が新《しん》撰《せん》組《ぐみ》数人に取りかこまれ、壮烈なチャンバラが始まった。1対6の勝負だから、鞍馬天狗は川を背に、左右にびっしりかこまれている。  このとき、牧野は鞍馬天狗の眼の動きを見て、あっと思った。彼は右側の新撰組から左側の新撰組に視線を移すとき、顔ごと動かさない。顔は右側に向けていても、眼玉はぎょろりと左側の新撰組を見ている。  そしてまたつぎの瞬間、ぎょろりと右側に眼玉だけ移す。つまり眼だけ動かして顔はそのままなのだ。 「あの鞍馬天狗を見たとき、いままでの疑問がすーっと消えて、そうだったのかと思ってね。顔を動かし、つぎに眼で照準をつけると二段階の動きになるが、眼だけ動かすと一段階ですみ、それだけ早く照準をつけられる。鞍馬天狗の映画を見て、内野手の勉強させてもらいましたよ。だから二塁手—遊撃手—一塁手の併殺の場合、顔はだいたい、一塁の方向に向け、眼だけ二塁手をとらえる。そして捕球したら、ぱっと眼を一塁手に振り向ける。これが一番理想的な顔と眼の関係ですね」    野球の勉強は野球だけでするものではない。  極論すれば、 「鞍馬天狗から併殺の勉強ができる」のだ。  歴史家は科学の本を読んでヒントをつかみ、歌《か》舞《ぶ》伎《き》役者は相撲から芸を盗んだという実例を知っている。  人間、いつも勉強しようという気持ちがあれば、この世の中の物、すべてが吸収できると思う。 「巨人、巨人と騒ぐけれど、巨人はロッテより弱いですよ」 ——加《か》藤《とう》 哲《てつ》郎《ろう》 *プロ野球。投手。宮崎日大高。近鉄。通算16勝12敗6セーブ。  この日、日本中が腰を抜かした。もっとオーバーにいえばこの夜、テレビのVTRで加藤哲郎投手の発言を初めて耳にしたアンチ巨人派の男たちは、手を叩《たた》いて水割りを飲みつづけた。  平成元年10月24日、東京ドームで日本シリーズ巨人対近鉄第3戦が行われた。第1戦は4対3で近鉄が勝ち、第2戦も6対3で近鉄が連勝した。そして日本シリーズ史上、22世紀まで語りつくされるであろう名語録がとび出したのが、この運命の第3戦であった。  この試合は加藤と宮《みや》本《もと》和《かず》知《とも》投手(巨人)の先発で始まった。加藤は投球回数6回3分の1、打者数23、投球数90、被安打3、四球1、三振2、ぴたり無得点におさえ、2人目の村《むら》田《た》辰《たつ》美《み》投手とかわった。スコアは3対0で近鉄の3連勝だから、先発した加藤は勝投手である。身長1メートル85センチ、体重85キロ、薄い鼻ヒゲを生やした加藤がお立ち台に乗った。鼻ヒゲと眼《め》の鋭さが、彼の談話をより凄《すご》味《み》のあるものにした。 「巨人は弱いなあ。ロッテより弱いなあ」  弱い実例に持ち出されたロッテこそいい面《つら》の皮だが、しかしロッテは文句ひとついえない。この年、ロッテは、 「試合数130、48勝74敗8分、勝率3割9分3厘《りん》、首位近鉄との差21ゲーム半」パ・リーグで勝率3割台はロッテだけである。このロッテより巨人は弱いといわれた。  巨人V9の間、近鉄の平均順位は4・2位である。要するに巨人V9の間、近鉄は平均でBクラスにいた。巨人と近鉄がオープン戦で初めて試合をしたのは、あの太《おお》田《た》幸《こう》司《じ》投手が入団してきた昭和45年からである。それ以前はオープン戦ですら、近鉄は巨人から相手にされなかった。太田が入団してきたら、 「たとえ太田は登板しなくても、ブルペンでは50球以上投球練習すること」  という条件付きで、近鉄はやっと巨人と組むことができた。太田がブルペンに現われるだけで客は大さわぎ、大よろこびするからだ。  これほどガキ扱いしてきた近鉄の加藤に、巨人はいいたい放題いわれた。これで巨人ナインの血がさわぎ、頭に血がのぼらなければ男ではない。巨人は第4戦以後、4連勝して大逆転劇をやってのけた。巨人ナインの血をたぎらせ、ふつふつと音を立てて煮こんだのは、この加藤のひとことといっていい。  時は10月下旬、夕方になると吹く風も身にしみる。 「物いえば 唇《くちびる》寒し 秋の風」  大逆転された近鉄の心境だったろう。  ところで加藤哲郎という人物、たんなる放言居《こ》士《じ》なのか。私はそうは思わない。平成2年、ドラフト第1位指名で野《の》茂《も》英《ひで》雄《お》投手が入団してきた。契約金1億1千万円とも1億2千万円ともいわれた。すると加藤がまたいいだした。 「新人にこんなにはらう金があるのなら、オレたちの給料をもっとアップしてくれ」  これは放言ではない。正論である。新人への契約金は投資ではなくて投機なのだ。ここの部分に金を使いすぎるから、働きざかりの男たちが、ワリを食ってあまりアップしてもらえない。新人への契約金をいまの半分におさえ、実績をあげた者には大波のように高給をはらえばいい。球団経営が苦しいと経営者がいうのは、自分たちの頭のわるさを自分たちで世間にいい触らしているのである。  加藤に無理にニックネームをつければこうなる。 「放言正論同居居士」 「水着の左胸に“Z”と縫いつけたのを、知っている人は誰もいませんでした」 ——田《た》中《なか》 聡《さと》子《こ》 *水泳。背泳。第17回ローマ五輪銅メダル、東京五輪4位。現姓 竹宇治。  田中聡子は昭和39年10月、東京五輪女子100メートル背泳決勝で1分8秒6の日本記録を出したが4位になった、涙のヒロインである。  当時田中は22歳の娘さんだ。なぜそんな娘さんが、胸にあの“Z旗”のZの字を縫いつけたのか。順を追って伝えてみよう。  東京五輪の半年ほど前、黒佐年明コーチ(当時八《や》幡《はた》製鉄)が山ほどの本を田中の前に持ってきた。吉《よし》川《かわ》英《えい》治《じ》作“宮本武蔵《むさし》”全6巻と、なんと日本海海戦の史書であった。  若い方はわからないと思うが、日露戦争真っ最中の明治38年5月27日午後2時、対馬《つしま》海峡沖ノ島付近で帝国海軍連合艦隊とロシアのバルチック艦隊が出合い、戦艦8隻《せき》以下38隻から編成されていたバルチック艦隊は、撃沈21隻、完全敗北した。帝国海軍の損害は水雷艇3隻、世界海戦史上、これほどの完全試合はない。  この海戦の直前、“Z旗”が旗艦三《み》笠《かさ》のマストにするするとあがり、秋山真《さね》之《ゆき》参謀が名文を起草した。 「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層、奮励努力せよ」  この“Z旗”の名文を読んで田中は涙があふれてきた。東京五輪を前にした自分の気持ちがそのまま、Z旗なのである。  東京五輪水上女子チームの水着は、白の帽子に黒の水着である。 「左胸のところに、細いネズミ色の糸でZ字の刺しゅうをしました。直径五センチぐらいですね。黒地に薄ネズミ糸だから、Zに気がついた人はいなかったですね」(田中聡子)  いってみれば100メートルのスタートに歩いた田中の心は、連合艦隊司令長官東《とう》郷《ごう》平《へい》八《はち》郎《ろう》と同じだったといっていい。  決勝での田中は“死力”をふりしぼった。22歳の娘が胸に“Z旗”をつけ、死ぬ気で泳ぐのである。日本人の胸を打たないわけはない。しかし世界は広い。ファーガソン(アメリカ)が1分7秒7の世界記録を出したほか、キャロン(フランス)は1分7秒9、デュンガル(アメリカ)は1分8秒0とふるえあがるようなタイムを出し、1分8秒6の田中は銅メダルもとれなかった。  ゴールインしたあと、金髪娘がロープをはさんで抱き合っているのに、田中ひとりはロープに両腕をもたれかけ、水の面を放心のまま見つめていた。  東京五輪のあと、メキシコ五輪、ミュンヘン五輪、ロサンゼルス五輪では、女子の水着はどんどん派手になった。  紺と白の立てじま模様、桜の花びらの色どり、水着はファッション化していく。だが“Z”の精神はほとんどなくなり、東京五輪のあと、決勝に勝ち残った女子選手はひとりもいない。 「4連敗して、私の野球観が変った」 ——岡《おか》崎《ざき》 郁《かおる》 *プロ野球。三塁手。大分商。巨人。通算打率2割7分1厘、本塁打38本、打点252。  これからの話は岡崎郁三塁手における球団批判ではない。とかく球団批判と誤解されやすい語録なのだが、岡崎の本音はもっと別のところにあった。巨人だけではない。セ・リーグ6球団全部が考え直してもいい、重みのあるセリフなのである。  平成2年10月20日、東京ドームで日本シリーズ巨人対西武第1戦が行われ、5対0で西武が勝った。西武は1回表、5番デストラーデ一塁手が右翼席3点本塁打して、この場面で事実上、勝負をきめた。  第2戦もまた9対5で西武が連勝した。この日もまた巨人は1回、4番清原和博三塁手をこわがって、本音のところでは敬遠、またデストラーデに右翼線二塁打された。所沢球場に移った第3戦でも巨人の清原恐怖症はちっとも薄れていない。清原とは命を賭《か》けたような勝負をしないで四球、満塁にされたところで、またデストラーデに右中間二塁打された。  巨人はいったい、何を考えているのだろう。第1戦から第2戦、第3戦までを通じていずれも1回に、1番辻《つじ》発《はつ》彦《ひこ》二塁手に安打され、清原とは勝負しないで歩かせる。揚句の果てにデストラーデに長打をとばされた。3試合とも全く同じパターンで負けたのは、日本シリーズ史上、このときの巨人しかない。こういうのを蟻《あり》地獄、砂地獄、油地獄とでもいうのか。同じ1回に同じ選手たちに、同じパターンでやられているのだ。第4戦も7対3で4連敗した。 「巨人はこんなに弱かったのか。西武とはこんなに強かったのか」  これだけを鮮明に浮きあがらせた日本シリーズだった。  さて4連敗のあと、新聞記者たちは所沢球場で巨人ナインに質問した。 「いま何を実感しているのか」  負けた直後だから、無言のまま顔をそむける男も多い。そういう雰《ふん》囲《い》気《き》のなかで、岡崎はぽつんと返事をした。 「私の野球観が変った」  岡崎はこの4試合で巨人からただひとり敢闘賞を受賞した。 「打数12、安打5、打率4割1分7厘《りん》、得点2、打点3、四球3、三振2、失策0」  個人としては悔いのないプレーをしたから、冷静に答えられたのかも知れない。  岡崎のこのひとことは、どういう意味を持つのか。巨人野球を最少時間、最少文字で説明しろといわれたら、 「管理された野球」  という話になると思う。そしてセ・リーグ5球団はいずれも、巨人野球を究極の野球と思い入れ、ここ何十年と歩いてきた。簡単にいえばセ・リーグ6球団は、ちまちまとした管理野球を追いながら、30年の歳月を歩いてきたといっていい。 「野武士集団では、見た眼《め》は楽しいが勝てない。やっぱり管理野球が勝つ早道なのだ」  セの全球団がこれにのめりこみ、巨人のあとを追いつづけた。その果てが西武に4連敗なのである。それならこの現実を突きつけられたセ・リーグはこのあと、なにを指標にして生きていけばいいのか。 「選手個人に実力をつけることしかない。パワーをつけ、スピードをつけ、技術をつけ、そのあとに管理野球がくる。ところがいままでは管理野球が先走りしすぎた。管理野球さえやっていたら勝てる時代ではなくなった。西武の選手はひとり、ひとり、みんな凄《すご》い実力者である。その実力者が管理されているのだから強いはずだ」  岡崎はそういいたかったと思う。  管理野球を否定しているのではない。あまりにも強い西武を目の前に見せつけられ、管理の基盤は実力なんだと、当り前の話に気がついたということだろう。  この日本シリーズ4試合を記録上から分析してみよう。西武の安打44本、巨人の安打25本、西武が19本も多い。ところが巨人のバント3本にくらべ、西武のバント13本、西武はバントでも10本多い。巨人の打点8点、西武の打点27点——これでおわかりと思う。西武はやたらに打つだけではない。確実に送りバントも13本もやっている。よく打つ男の集団が森祇晶監督によって、巧みに管理集団にバケているのだ。 「強いはずだよ西武は——オレたちも考えなければなあ」  これが岡崎の胸の奥底にあった本音だろう。しかし平成3年の巨人は、サムライ集団にも管理集団にもなり切れないまま、Bクラスに落ちた。せっかく岡崎が考えようよと、叩《たた》き台を差し出してくれたのに—— 「すみません、すみませんで、世界チャンピオンになりました」 ——柴《しば》田《た》 国《くに》明《あき》 *プロボクシング。WBC世界フェザー級、WBA・WBCジュニア・ライト級チャンピオン。ヨネクラジム→BVD。  柴田国明のいう、 「すみません、すみません」  という意味から書く。  人間、相手に「すみません」という場合、かならず頭を下げている。突っ立ったまま、「すみません」といったのでは、間違いなく喧《けん》嘩《か》になるだろう。つまり柴田は試合中、相手の前で、 「すみません、すみません」  という要領で頭を下げ、頭を下げ、とうとう世界一になってしまった。  順を追って話をすすめてみよう。  ある日、名トレーナー、エディ・タウンゼントが柴田に、つぎのようなたとえ話をした。 「真夜中に道を歩いていたらギャングがひとり現れた。見たらピストルを持っている。ギャングがピストルの銃口を空に向けていたら、君はとびこんで左右フックを放つだろう。だがもし銃口が君の胸に向けられていたら、君は危険でとびこめない。しかしそれでもひとつだけ、相手を倒す方法がある。思い切って頭を下げて突っ込めば、弾丸は頭の上を通過して当らない。ピストルを相手の両こぶしと置きかえてごらんよ。真っすぐ上体を起こしたまま入れば打たれる。だが頭を下げてとびこんでパンチを打てば、君のパンチは当っても、相手のパンチは空振りになる」  昭和45年12月11日、メキシコ・ティファナ市民会館で世界フェザー級チャンピオン、ビセンテ・サルディバル(メキシコ)対世界同級4位柴田の世界タイトル・マッチが行われた。この時点におけるサルディバルは37戦36勝1敗、25KO、勝率9割7分2厘《りん》、KO率6割9分4厘、世界タイトル防衛7回、“黄金のフェザー”といわれていた。 「まともにいったら殺される相手ですよ。そこでタウンゼントさんの話を応用したんです。(すみません、すみません)と心の中でいいながら頭を下げてサルディバルの強打をさけて接近、左右ボディを連打したんですね」(柴田国明)  13回のゴングが鳴ったとき、サルディバルは立ち上らなかった。柴田のTKO勝ちである。  柴田の(すみません戦法)はボクシングだけではない。商売全部に通用するのではないか。人間、頭を下げられない者、自分がわるいのに、他人にあやまれない者はいつのまにか、おいてきぼりになる。 「リング上でのなぐり合い」  といわれるボクシングでさえ、頭を下げた柴田が世界一にかけのぼったではないのか。  ふんぞり返り、えばりくさって、成功するはずがないのである。 「私が出した日本記録の10秒1は、実は100メートル20センチ走っちゃったんですよ」 ——飯《いい》島《じま》 秀《ひで》雄《お》 *陸上。短距離。早稲田大。東京、メキシコ五輪100メートルに出場。のちプロ野球ロッテに入団、代走のみで出場し、23盗塁(盗塁刺17)。  私はなぜ、飯島のこの意外とも思われるセリフを紹介する気になったのか。  簡単にいえばこうである。 「世の中、全く想像しないようなことでも、現実にはちゃーんと存在するんですよ」  それを読者の皆さまにわかってもらいたかったからだ。  昭和39年6月14日、西ベルリンのモムセン・スタジアムで、 「欧州4ヵ国(東・西ドイツ、フランス、オランダ、ルクセンブルク)親善陸上競技会」が行われた。  ちょうど東京五輪の4ヵ月前の話である。たまたまこの時期、欧州修行中の飯島は、この競技会に出場した。  8人コースで飯島は2コースを走った。グラウンドが固く、80メートル地点で飯島の足は棒のようになった。この時点で最好調だった飯島はなんと、日本記録の“10秒1”で1着になった。東京五輪における飯島が10秒6なのだから、10秒1がどれほど凄《すご》い記録か、わかると思う。  さて世にも奇妙な話はここから始まる。飯島がゴールインした直後、競技事務局員数人がゴール・ライン地点に集まって、みんな両手を30センチぐらいひろげて論議している。 「よく聞いてみたら、10秒1は速すぎる。この直線100メートルコースはこの分だけ短いのではないかというんです。腰を抜かしましたね。日本人の感覚で想像できますか」(飯島秀雄)  そこで飯島や観客の前で、事務局員が実測した。結果はどうだったのか。飯島は2度、腰を抜かした。実測は“100メートル20センチ”あった。なんのことはない。飯島は100メートル競走したのではなく、100メートル20センチ競走したのだ。  日本人のプロが測定したら、1ミリの誤差もなくコースをつくるだろう。20センチも多いコースをつくるなんて、日本人の感覚では全く考えられない。それが欧州4ヵ国親善陸上競技会という、ぎょうぎょうしい名前の大会で実際にあった。つまり世の中、考えもおよばない現象がときに起こることを、私たちは頭に入れておいて損はない。私はそこのところを書きたかった。記録は100メートル20センチでも、100メートルとして公認発表された。いってみれば飯島の20センチ走り損である。 「100メートル走るときはですね。肺の中に酸素を60%ほど入れた状態でスタート、70メートルまでは無呼吸なんです。それから酸素を吐き出し、上半身を前傾させるんです」(飯島秀雄)  飯島はこれほどの酸欠状態で走るのに、コースづくりがこれでは困る。日常生活の中で、どんなささいなことでも、私たちは100メートルを100メートル20センチと誤らないように、注意してすごしていきたい。 「あの挫《ざ》折《せつ》があったから、三冠王になれたと思うよ」 ——落《おち》合《あい》 博《ひろ》満《みつ》 *プロ野球。三塁手。秋田工→東洋大中退。ロッテ→中日。三冠王3回、MVP2回、首位打者5回、本塁打王5回、打点王5回。通算打率3割2分4厘、本塁打413本、打点1148。  いきなり落合が無念の涙をこぼした場面から書く。  昭和56年6月24日、川崎球場でロッテ対西武12回戦が行われた。この日、同球場に1万8000人の観客がやってきた。この試合でロッテが勝てば、ロッテの前期優勝(当時2シーズン制)がきまるからだ。  スコアは1対1の同点のまま、9回裏ロッテの攻撃に移り、一死一、二塁のさよなら勝ち場面にもちこんだ。打順は6番落合に回ってきた。落合は胴体がぶるぶるふるえた。優勝はもちろんしたい。だがそれ以上に自分がさよなら安打を打ってヒーローになりたい。  もっと本音を吐けば、翌日のスポーツ紙の一面を自分の記事と写真で埋めたいと思う。  こういう場面で毛穴という毛穴から、脂《あぶ》汗《らあせ》と熱気が噴き出さない男は男ではない。落合が打席に歩きかけたとき、 「おい落合」  背中から声をかけられ振りかえった。そして体中の血が凍った。山《やま》内《うち》一《かず》弘《ひろ》監督(ロッテ)が代打交替のために出てきた。山内は主審中村浩道にどなった。 「落合の代打張本勲——」  さて試合展開はこのあと午後9時11分、二死満塁から8番高《たか》橋《はし》博《ひろ》士《し》捕手が東《ひがし》尾《お》修《おさむ》投手のシュートを三塁後方にぽとんと落ちるさよなら安打した。  山内が胴上げされ、狂喜するロッテ・ナインの中で落合は地球の底に落ちこんでいた。 「おれはロッテの優勝にどれだけつくしたんだ。結局疎《そ》外《がい》されたんじゃないか」  その晩、落合は飲んでも飲んでも、頭の中はシーンとさめていた。 「このままでは落合博満の男がすたる。見ていろ、落合の名前を外せない男になってみせる」  この日から落合の眼《め》の色が変わった。そして、昭和56年が終わってみたら、1シーズン通算3割2分6厘で彼は最初の首位打者になった。 「あの代打交替は死ぬまで忘れられないなあ。あの挫折感がバネになって、三冠王を3度もとれるようになったんだから——」(落合博満)  私は半分ジョークで半分本気で書くのだが、初恋の女と結婚できた男を信用しない。  この世の中で挫折を知らないからだ。初恋の女に相手にされず、ひとり涙をこぼした経験のない男には、人間の気持ちがわからない。  いま日本一の打者落合にも、優勝をきめる場面で、紙くずのように交替させられた瞬間があった。男の人生とはこうありたいと私は本気で思う。 「全種目入賞の特効薬なんて、この地球上にありません」 ——橋《はし》本《もと》 聖《せい》子《こ》 *スピード・スケート。カルガリー五輪で出場5種目全部に入賞。アルベールビル五輪1500メートル銅メダル。富士急。  カルガリー五輪で胸を締めつけられるシーンがあった。5000メートルを7分34秒43で6位入賞、ゴールインした瞬間、つんのめるように倒れ、そのまま動けない。死力を使い果たした末の6位入賞である。橋本はコーチに抱かれて退場、すぐに1時間にわたる点滴治療を受けた。  橋本は昭和59年、サラエボ五輪に出場したが、最高は500メートルの11位、他の3種目はまるで歯が立たない。このとき彼女は全日本チャンピオンだった。 「そうなのか、日本一でも世界には通用しないのか」  この日から橋本のカルガリー五輪への挑《ちよ》戦《うせん》が始まった。橋本は身長1メートル57センチ、体重51キロ、まず自分の生活自己管理から始まった。  好物のケーキ類は一切食べない。ジュース類も飲まない。要するに若い娘なのに甘い物は絶つ。そして飲み物は低脂肪の牛乳、シチューの具は牛肉の代わりにレバーを食べるなど、食生活から変えていった。  もちろんこの間、猛練習につぐ猛練習の繰り返しである。こうして橋本の体脂肪の数値は9%、同じ年《とし》頃《ごろ》の娘の数値は20%、いかに橋本が生まれ変わったのか、わかると思う。  橋本はカルガリーの最初の500メートルで5位入賞、日本の女子選手で初めて40秒を切る39秒74、3000メートルでは2度までも同走の相手に走路妨害されながら日本記録を11秒32も縮めて4分23秒29で7位入賞、1000メートルでは1分19秒75で5位、1500メートルでも2分4秒38で6位、要するに出場5種目全部入賞である。  新聞記者が橋本に質問した。 「全種目入賞の秘密はどこにあるんですか」  すると彼女は可愛《かわい》らしい笑顔ですらりと返事をした。 「特効薬なんて地球上にありませんよ」  食生活をきちんと管理し、練習量をふやし、カルガリー五輪にそなえてきた。これ以上、一体どんな特効薬があるというのか。一服飲んで五輪に入賞できる薬なんて、地球上にあるはずがないのだ。  橋本が全部入賞できた理由のタネ明かしは、“正しい生活と猛練習”以外の何ものでもなかった。  勝負に魔術も忍耐もないのだ。当り前のことを当り前にするという教訓を、彼女は私たちに教えてくれた。  いまマスコミも一般人も、ややもするとおもしろおかしい秘密、魔術を表面に求めすぎる。  しかし勝者のタネ明かしは、本音を吐くと当り前のことを、あきずに繰り返す意思しかない。橋本のまじめさ、素《そ》朴《ぼく》さを私たちはもう一度、じっくり味わいたいと思う。 「待ったをしたら制裁金10万円、あの双葉山の仕切りをやっていたら、10万円も取られないし勝てるんだ」 ——二《ふた》子《ご》山《やま》 勝《かつ》治《じ》 *大相撲。第45代横綱、初代若乃花。花籠部屋。優勝10回、殊勲賞2回、敢闘賞2回、技能賞1回。幕内通算546勝235敗4分。二子山親方。本名花田勝治。青森県出身。  二子山理事長(元横綱若乃花幹士)は平成4年1月場所の終ったあと、任期満了によって理事長を辞任した。二子山の理事長時代、もっとも強烈な改革は9月場所から実施された、あの待った10万円制裁金だろう。 「幕内は10万円(十両は5万円)、待ったをしたら双方共10万円の制裁金をとる。(ただしのちに故意にタイミングを狂わすように突っかけた場合はその限りではないと、改訂された)」  二子山は理事長就任と同時に、“土俵の充実”をとなえつづけてきた。しかしその延長線上で、待ったをしたら制裁金10万円の発想にたどりつくとは思ってもみなかった。二子山は現役時代、身長1メートル79センチ、体重105キロでいながら、“仏壇返し”などの大業をふるって“異能”力士といわれた。待った10万円という大胆発想も“異能”理事長といっていい。  二子山は東北巡業中のある日、幕内全員を集めて説教しだした。 「お前たちのは仕切りじゃあないんだ。ただただ速く立てば勝てるというカン違いしている。これがあの双葉山の仕切りなんだ(といいながら自分が仕切って見せる)。双葉山の立ち合いは“後の先”といって、相手よりおそく立つが、相手と接触したときは自分が有利な体勢になっている。つまりこれが“後の先”なんだ。きっちりとした仕切りさえやっていれば勝てるんだ」  双葉山は身長1メートル79センチ、体重130キロ、筋肉質と肥満体とのほぼ中間体型、いまでいえば若花田勝(藤島部屋)あたりだろうか。  双葉山の仕切りは腰を低く沈め、腰から背中、肩、首の線がゆるやかな直線をえがき出す。仕切りの歩幅は約50センチ、土俵におろした両手の間隔はそれより多少せまく、両《りよ》肘《うひじ》はゆるい“く”の字、4本の指で親指をつつみこむ。全体のイメージとしては立ち腰ではなく、低く体を土俵に沈めるといったらいいのだろうか。  双葉山の仕切りをめぐって、信じられないような仰天相撲がある。双葉山に6戦6敗した、最高位前頭2枚目の竜《りゆう》王《おう》山《ざん》光《ひかる》(出羽海部屋)という突っ張り専門力士がいた。  昭和15年1月場所(当時春、夏2場所制)8日目、西前頭6枚目竜王山は横綱双葉山と顔を合わせた。 「まともにいったら99%勝てる相手ではない。残り1%に賭《か》けてみよう」  竜王山の1%とは“ハワイ真珠湾奇襲攻撃”である。要するに1回目の最初の仕切りで、竜王山は突っこんでいった。昭和15年時点の幕内制限時間は10分間(いまは4分間)、仕切り回数は10回前後もできた。それを1回目から立ったのだから、竜王山もいい度胸をしていた。だが勝負は5秒間できまった。受けて立った双葉山は右四つ、左上手をとるとつぎの瞬間、強烈な上手投げを打った。資料写真で見ると竜王山は背中から落ちている。  二子山理事長のいいたいのは、ここの部分だと思う。 「きっちりと相手の眼《め》を見て、きっちりとした仕切りをやれば、たとえ相手が仕切り1回目から突っかけてきても、きちんと立てるのだ」  シロウト将棋に待ったがあるように、プロの相撲にも古くから待ったの歴史があった。4代目横綱に谷風梶之助という、講談でおなじみの途方もない男がいた。本名金子与四郎、身長1メートル88センチ、体重160キロ、横綱在位10場所では49勝2敗7預り、横綱勝率9割6分1厘《りん》である。当時関脇に八《はつ》角《かく》楯《たて》之《の》助《すけ》(のち大関)がいたのだが、どうしても谷風に勝てない。この頃の相撲には制限時間がない。適当な仕切り回数のあと、両力士の呼吸が合ったと見たところで行司が軍配を引く。そうしたらかならず立たなければルール違反という仕組みである。さて谷風に勝てない八角は行司の尺子一学になにか方策はないかと、ひそかに話を持ちこんだ。  その結果、行司尺子一学が軍配を引いても、八角は待ったをして立たないという、抜け道を考えついた。これが5回、7回とつづくから谷風もやり切れない。結論から書くとこの一番で谷風は“イライラ負け”で寄り切られた。相撲古本“角力《すもう》鬼拳”にこのときの状況がこう書きこまれてある。 「(前略)見物中ときの声八町にひびき渡り、八角をそのままにて見物内七八百ばかり寄り集い、手に差し上げ、十五六町もありし相撲間へ連行(後略)」(原文のまま)  要するに八角を廻《まわ》し姿のまま、胴上げ状態で相撲部屋まではこび込んだ。 「そうか、待ったの手があったのか——」  とほかの相撲とりも、この歴史的待った一番から、待ったをするようになった。この時期は享《きよう》保《ほう》年間(1730年代)だから、実に相撲における“待った”の歴史は261年におよぶ。思えば二子山は261年間もつづいた待ったの習慣を、“一発10万円”でやめさせた。二子山の名前は現役時代の若乃花とともに、相撲史に長く刻みこまれるだろう。 「重量級ボクサーだって、スポーツ・カーが勝つ時代なんだ」 ——マイク・タイソン *プロボクシング。統一ヘビー級世界チャンピオン。アメリカ。  マイク・タイソンは1966年6月30日、ニューヨーク州ブルックリン生れ。そして1986年11月22日、バービックに勝って20歳4ヵ月22日で、史上最年少世界チャンピオンになった。  とにかく理屈は一切いらないほど強い。33戦33勝(29KO)、29KOのうち、なんと1回KO勝ちが15試合、1試合平均の時間が9分23秒(3回23秒)、左フック一発で相手を倒す。  ところがいま世界七不思議のトップといわれているのが、タイソンの身長である。公称1メートル80センチと発表されているが、実際は1メートル77センチしかない。体重100キロ。  重量級名チャンピオンをひもといていくと、ジョー・ルイスは1メートル86センチ、ロッキー・マルシアノは1メートル81センチ、モハメド・アリは1メートル87センチ、彼等にくらべるとタイソンの実質1メートル77センチはあまりにも小《こ》柄《がら》である。  なぜタイソンはこんなに小柄でも強いのか。専門的な分析をすれば、首回り50センチの太さが、相手のパンチをクッションのように柔らげてしまうという。  だが、彼はこう言っている。 「おれは少年院時代、100メートルを12秒2で走ったからね。重量級選手のうち、おれが一番速いだろうよ。いまから20年前の重量級は大男でダンプ・カー時代だったが、いまはバランス、敏しょう性が要求されるスポーツ・カー時代なんだ」  タイソンは試合直前になると、パスタ、雑炊など炭水化物に切り替える。炭水化物がもっとも敏しょうに動けるからだそうだ。  いままでの重量級ボクサーは、 「ステーキ食って、食いまくって勝つさ」  と肉ばかり食べていた。  敏しょう性よりも“腕力”重視のあらわれと思う。  このタイソンのセリフはこれからの世相を表現していないだろうか。いままでは巨大なもの、重いものがすばらしいとされていた。相撲だって巨大で重い者が強かった。  しかしスピードのある千代の富士の出現で、考え方が違ってきた。  たとえば体重が100キロ以上の者でも、敏しょう性、スポーツ・カーの要素がなければ勝てないのだ。  これはボクシングだけではない。作家だって文章やストーリーにスピード感、話術にもスピード感がないと大衆はそっぽを向いてしまう。  鉄人タイソンは強いばかりだけではない。いまの世の中で勝者になっていく、秘密のようなものを、私たちに教えてくれる。 「やられたら次に勝つ。これが3番打者の極意だね」 ——秋《あき》山《やま》 幸《こう》二《じ》 *プロ野球。中堅手。八代高。西武。本塁打王1回。通算打率2割7分4厘、本塁打267本、打点697。  大相撲史上、最強の横綱といわれる双葉山定次(立《たつ》浪《なみ》部屋)はなぜ、横綱在位17場所を通じて、 「180勝24敗、勝率8割8分2厘《りん》」  という数字を残せたのか。この謎《なぞ》解きはただひとつ、 「一度負けた相手には、二度と負けなかった」  つまり苦手な相手をつくらない。具体的に伝えてみよう。昭和14年1月場所4日目、横綱双葉山は西前頭3枚目安《あ》芸《き》ノ海《うみ》節男(出羽海部屋)と顔を合わせた。このとき双葉山は69連勝中である。だが双葉山は相撲時間11秒間、安芸ノ海の左外掛けに左腰から倒れ70連勝をにがした。号外が夕暮れの街を走り、日本中が沸《わ》き返る、昭和相撲史最大の一番になった。この取り組みは初顔合わせである。要するに双葉山は初顔合わせの安芸ノ海に負けた。ところで双葉山はこのあと安芸ノ海と9回対戦しているが、実に9連勝(1不戦勝)している。苦手はつくらない——この簡単な勝負哲学が双葉山を昭和史大相撲の頂点にまで押しあげた。  秋山幸二中堅手の生き方もまた、双葉山とよくにている。  平成3年4月20日、藤井寺球場で近鉄対西武2回戦が行われた。先発野茂英雄投手(近鉄)は立ち上りから気合いのかたまりである。この日まで0勝2敗、まだ1勝もしていない。エースが眼《め》の色変えて投げてくる。高目の速球がぐっと浮き上り、低目に伸びてきたボールがすとんと落ちる。しかも5回終了時点で近鉄は3対0とリードしているから、野茂は手がつけられない。  さて問題のこの日、秋山は第1打席から、 「三振、右飛、左犠飛、遊ゴロ」  と安打どころか、4打席を通じて1度の出塁もない。  その夜、秋山は眠れない。3番打者は出塁している1、2番打者をホームインさせる仕事があり、それと自分自身もまた出塁して、4、5番打者で得点するという、二つの作業をこなすもっともむずかしい打順である。1番打者は出塁して還《かえ》ってくるのがテーマである。だが3番打者は打点—出塁—得点という3要素を要求される。器用さと長打力と脚とが同時に必要なのだ。眠れない秋山は野茂のピッチングを何回も何十回も思い出していた。そのうちあることに、ひょいと気が付いた。6回西武は野茂から2点を入れた(最終的にスコアは5対2で近鉄が勝つ)。この場面で野茂はしきりに左手で帽子を脱ぎ、グラブをはめた右手の肘《ひじ》の内側あたりで顔の汗をぬぐった。 「そうだ、本当の野茂は案外、気の弱い男なんだ。あの汗はべっとりとした脂《あぶ》汗《らあせ》だったんだ」  それから2週間すぎた5月4日、所沢球場で西武対近鉄4回戦が行われた。野茂は20日の2回戦に登板して以来、対西武戦では一度も投げていない。そしてこの日の西武戦では2度目の登板となった。  秋山は試合前、静かに肚《はら》の内でくりかえし、くりかえし、自分で自分にいいきかせた。 「野茂は案外気が弱い。気合いで押しに押していけば2度も負けることはない」  秋山は第1打席で四球で出塁した。それから第2打席は中前安打、さらに4回二死後、一塁走者に9番打者田《た》辺《なべ》徳《のり》雄《お》遊撃手をおき、第3打席目が回ってきた。秋山は打席内でまばたきもしないで野茂に気合いを集中していく。すると野茂はさかんに右腕で顔の汗をぬぐう。 「オレの推察した通り、野茂はビビっているんだ」  甘い外角コースにフォークボールが入ってきた。秋山はこれを右翼席本塁打した。ここまでくれば秋山と野茂の関係はヘビとカエルといっていい。6回二死後にもまた秋山は左翼線二塁打、6回終了で野茂をKOした。スコアは9対8で西武が勝ち、秋山は4打数3安打3打点4得点、逆に野茂は失点9、自責点9である。  苦手はつくらない。つくらない打者こそ3番打者である。そのためには投手のささいな動きにも眼を離すなよ。こんな単純明快なことを秋山は確実にやってのけた。そして平成3年12月の契約更改ではパ・リーグNO・1、1億4千万円を握った。 あとがき  私が新聞記者になったのは、昭和28年4月である。  参考のために書くと、昭和28年2月NHKの東京テレビが本放送を始め、世間はようやくテレビ時代に入ろうとしていた。  人生、歳月の流れなんて、清流の流れより速いと思う。23歳で新聞記者になってから、4回息を吸い、4回息を吐いたと思ったら、もう40年近くがすぎていた。  だがこの歳月の流れの中で、私はほとんどあらゆる種目のスポーツマン、約4000人をインタビューしてきた。  私の半生、とくに何も悪いことはしなかったが、とくに善もしないで、財も残していない。いってみればプラス、マイナス、ゼロの半生か。  それでもこの40年の中で、約4000人の人をインタビューできたのが、私の最大の財産だったと、本気で考えている。  名人、達人、超一流のスポーツマンが何気なく、ふっともらした一言の中に、千万貫の重みがある。そこにまっとうな人生を生きてきた、果てのない奥行きをのぞき、私は感動するのである。  この感動、奥深さの語録を、私ひとりの胸にしまっておくには、あまりにももったいない。できることなら数多くの方に読んでもらいたいとこの原稿を書いた。  しかし私は読者に、 「この本を読んで、人生の奥深さを知ってもらいたい」  などと思い上がった気持ちは、さらさらない。名人、達人の語録を伝え、それから先、その語録をどう受けとるか、どう消化しようかは読者の自由なのである。そこのところは誤解しないでいただきたい。  登場人物は、日本人の中では最年長者は吉岡隆徳か双葉山、一番若いのは貴花田である。双葉山と貴花田とでは、あまりにも時代が違う。だが時代が違っても、ふたりの言葉は人の胸を打つ。時代を超えて、歳月をのりこえて、本当の言葉は胸の中に熱い思いで入りこんでくる。これが人間というものだと思う。  競技を見るとき、大部分の方は勝ったか負けたかに焦点をしぼる。勝負だからそれは当然だろう。  だが勝った、負けただけがすべてではない。そこに至るまでの、その人間を知ることもまた、勝負の厚みをより厚くする。  この一冊の本を読み、そこらあたりをわかっていただければ、著者としてこの上なき幸せである。  最後に一言、結婚式のスピーチ、後輩への激励会などでネタにお困りの方は、ぜひお好きな話を“盗作”してくだすって結構です。著者としては一切、苦情など持ちこまないことを約束いたします。 Shincho Online Books for T-Time    勝負師語録 発行  2000年9月8日 著者  近藤唯之 発行者 佐藤隆信 発行所 株式会社新潮社     〒162-8711 東京都新宿区矢来町71     e-mail: olb-info@shinchosha.co.jp     URL: http://www.webshincho.com ISBN4-10-861015-6 C0875 (C)Tadayuki Kond� 1988, 1992 Coded in Japan