凍える島 近藤史恵 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)なつこさんの恋人の椋《むく》くんは |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)矢島|鳥呼《とりこ》っていってね、 ------------------------------------------------------- [#ここから4字下げ] 点描 その、ほんのすこしまえ [#ここで字下げ終わり]  もうとっくに、だめになりかけていた。  性懲りもなく、くりかえされる悪食めいた抱き合い。わたしが顔をもたせかけるための首のくぼみも、白い顔には不似合いな髭の感触も、そのときだけのことだった。  いつだってぎこちなかった。  なにひとつ、うまくいったためしがなかった。それは彼の妻と、妻に対する思いのせいだけではなく、わたしたちが生まれつき持っていた、血の流れのせいだったのだと思う。  わたしの問いかけに、彼は気のきいた答を返せず、彼の質問に、わたしはいつもくちごもった。  ことばにつまると、わたしは黙ってうえを向き、彼の抱擁を待った。かわいた唇。苦くつらい味の唾液。ふたりとも水にもぐるように息をつめて抱き合った。  無数の羽虫がわたしたちをかすめて飛ぶような気がした。  日盛りにかすむ夏の歩道から、すべては始まった。  人の群れの中に、奴のすがたを見つけた。大きな荷物を抱え、上唇にこどものような、不機嫌さをにじませて歩いていた。  気付くのはおれの方が少し早かった。  声をかけるには遠すぎた。おれが近づきはじめたとき、奴ははじめておれに気付いた。  だが、一瞬だけのことだった。奴の目は大きく見開かれ、そして次の瞬間、なにも見なかったように無関心を装った。  たとえば、たいして親しくもない人との、挨拶の手間を惜しむかのように。  次におれがしたことは、人生でいちばん馬鹿なことだった。  奴の腕を掴んで、なにをぼんやりしているんだ、と言えばよかったのだ。  だが、おれはそうしなかった。自分も気付かないふりをした。  おれたちは見知らぬ者のようにすれちがった。互いに全身を神経の塊のように尖らせて、相手のことを意識しながら。  後になって思う。あのときおれたちは、互いへの思いを、冷たく硬い刃物に変えて隠し持ちながら、すれちがう瞬間、確かに刺し違えたのかもしれない。  うまくやるのだ。  たいしてむつかしいことではないはずだ。ただ、うまくやるだけ。  あいつがおれにふざけてもたれかかるとき、ひどく近いところで笑うとき、おれは気持ちにシャッターを下ろす。なにも、感じないようにする。硝子の窓越しに、あいつの顔を盗み見る。そうして、あいつがいなくなってから、はじめて息をつき、あいつのことを思い出す。  言ってはならない。ゆるされないことだから。だが、おれの耳もとでささやく者がある。  言ってしまえよ。  言ってしまえば、もう、言わないでいることから解放される。  だが、おれはなにものぞんではいない。ただ、うまくやりたいだけ。  彼女の二十五歳の誕生日のことだった。  わたしと彼女はお祝いに、一流ホテルのフランス料理店に行き、デザアトとシャンペンだけを注文するという、豪快な無作法をやらかしていた。  彼女はその日、ひどく陽気でゆううつそうだった。いつもの数倍喋りながら、言いたいことはひとつも言えないようだった。ことばは現実を上滑りしていくだけだった。  どうやら、彼女は、もやもやしているらしかった。  わたしはちょっと考えた。彼女がなぜ、もやもやしているのかは、わからない。けれど彼女がもやもやしている、ということはよくわかった。  わたしは十代のころ、「もうなにかに迷わされたり、弱らされたりすることはやめよう」と、決めてしまっていたので、その手のもやもやとはごぶさたしていた。  いつか、その考えを、目の前でシャンペンの酔いに目を赤くしているおんなのこに教えてあげようと思う。  だが、とりあえずは応急処置だ。わたしは安楽死のようなひとことを考えた。  シャンペンの最後の一滴がなくなると、わたしは苺をつついている彼女に、きっぱりと言った。 「あやめさんは、なにごとにも考えすぎだよ」  時計が十二時を指した、その瞬間。  いっせいに、皆が身じろぎをはじめる。 [#改ページ] [#ここから4字下げ] 壱 北斎屋 [#ここで字下げ終わり] 「無人島とはこれまた古風な」  うさぎくんがおおげさにおどろいてみせた。なつこさんの恋人の椋《むく》くんはからになったジタンの箱をわたしに渡した。 「ガスも電気もあるし、ちゃんと人が住めるようになってるんだよ」  凝った煙草はうちにはおいていない。わたしはハイライトを椋くんのまえにおいた。手をあげて、感謝のしぐさをする。贅沢を言わないのが彼のいいところだ。  話は椋くんの知り合いが、無人島に別荘をもっているということだった。 「おれならひまそうだから、つかわないときは貸してくれるってさ」 「いいねえ」  うさぎくんは窓ぎわの席からわたしに声をかけた。 「あやめさん、どう。北斎屋《ほくさいや》の慰安旅行でさ」  わたしは、白木のままの、とげの刺さりそうなカウンタにもたれた。 「慰安旅行っていったって、わたしとなつこさんしかいないじゃない」 「だから、ぼくとか椋くんとかも一緒にさ」 「客つれて慰安旅行に行く喫茶店なんてきいたこともない」  と、言いつつも、わたしは半分その気になっていた。  北斎屋という名に違《たが》わず、店の壁は葛飾《かつしか》北斎の版画で埋められていた。もちろんオリジナルは一枚もない。わたしが、死んだ爺さんからもらったのは、かたむきかけたこの店と、何の価値もない北斎の複製のコレクションだけだった。  店の名を北斎屋にしたのは、家族のなかで一番の男前だった爺さんを忘れないためだ。  ぶらぶら仲間だった、なつこさんと一緒に始めた店は、わりとうまくいっていた。  うさぎくんは近くの電気屋の店員で、ひどく細い首と肉の薄い肩をした男の子だった。肩までの髪や、好んで着ているピンクのシャツが、あんまりかわいいので、なつこさんとこっそり、「うさちゃん」だの「うさぎくん」だの呼んでいたら、いつのまにか定着してしまったのだ。本名は田中《たなか》なにがしとかいう聞いた端から忘れてしまいそうな名前だったと思う。  椋くんは、よく笑う気持ちのいい人だった。髪を長く伸ばして、後ろで束ねている。気まぐれに、髭を伸ばしたり、伸ばさなかったりして、殉教者のような、面もちをしていた。写真の仕事をしているが、気が向くと、ぷいとどこかへいってしまう。そうして一ヶ月や二ヶ月たったころに、タイや中国の土産をもち、蜂蜜色に日に焼けて帰ってきた。そんな椋くんを、なつこさんはいつもにこにこして待っていた。  みんなすてきなひとたちだったし、彼らと一緒に旅行をすることは、とてもすてきな思いつきだった。 「山下白雨」の渋いのれんを押してなつこさんが出前から帰ってきた。 「ねえ、はなしした?」 「した、した」 「あやめさん、行かない?」 「行きたいなあ」 「行こうよ」  話は簡単だった。わたしとなつこさんは店をしめればよかったし、椋くんはいつものことだし、うさぎくんも、バイトだったから休むのはそう難しいことじゃなかった。まあたらしい旅の計画は、気分をやたら高揚させる。わたしたちは、悪だくみを考えついた子供のように、顔を見あわせて笑った。  思い出したように、なつこさんは言った。 「矢島《やじま》さんも誘おうよ」  一瞬、胸がきしんだ。すぐに返事ができなかった。 「あいつも、ひまそうだしなあ」  椋くんが、愛用の、ピイナッツのコオヒイカップを口に運んだ。あまりにも何気ない彼の口調が少し憎たらしくなった。  話の見えないうさぎくんが口をとがらせる。 「ぼく、会ったことあったっけ」  なつこさんはジインズの細い腰をくねらせて、カウンタに肘をつく。 「いつも、夕方か夜くるの、矢島|鳥呼《とりこ》っていってね、詩人なんだって」 「へええ、すごいな」 「あやめさんも、詩をかいてたんだよ」  昔のはなしだ。もうほんとは「あやめ」なんて名で呼ばれるのもごめんだったが、無理に角をたてる必要もない。  わたしはさりげなく話をかえた。 「奥さんが美人なんだよ」  そんなことをつい、言ってしまうのは、かさぶたをめくるくせのようなものだった。 「それじゃ、奥さんぐるみ誘おうよ」 「決まった、�日本脱出したし、皇帝ペンギンも、皇帝ペンギン飼育係も�って感じだな」  なつこさんは、はしゃいで塚本《つかもと》邦雄《くにお》の歌を暗唱した。  その年の夏は、ひどくなまぬるかった。  扉を開けると、湯のような熱気が流れ込んできた。夜になっても風さえなかった。おかげでたくさん、かきごおりが売れた。  なつこさんは暑さで参ってしまい、店にはあまり来なかった。別にわたしはそれを責めなかったし、一人でうまくやっていた。  わたしはカウンタのまんなかに立ち、ひたすら氷をかきながら、来る人だけを待っていたんだ。  旅行の計画は、そんないいかげんな夏に活をいれた。しばらくの間、切符の手配やら、みんなへの連絡などの雑事にわずらわされ、わたしとなつこさんはしばし、暑さを忘れた。  鳥呼にはぎりぎりになってから、計画を伝えた。  鳥呼はしばらく考えてから、妻をつれて行っていいか、と聞いた。彼はわたしに悩まされそうなとき、いつもお守りのように妻を連れてきた。  わたしは別に彼を困らせるつもりなどなかった。いつもだれにも失礼のないようなやり方をよく考えて選んでいるつもりだった。ただ、その最善の方法がいつも、彼を困らせてしまっていることも、確かだった。 「あんたはいつも最悪のことばかり予想しているみたい」  返事はなかった。かれは空になったカップを両手で温めていた。  鳥呼と初めて会ったのは一年ほど前、肩透かしのように涼しい、夏のことだ。  映画館の隣の席で、休憩時間、わたしの鞄にコオヒイを引っかけた男が彼だったとは、まったくお粗末な出会いだった。  おどおどとしたしゃべりかたと対照的に、射るような目で人を見、少しも悪いと思っていないような顔をしてわたしに一冊の本を差し出した。 「交歓——君の右腕と、ぼく自身との——」  浅葱《あさぎ》色の表紙にはそうあった。作者名は、右下に金文字でtricotと、あるだけだった。どんな字を書くかは、中表紙を見て、確かめた。  白いサマーセエタアを着たやさ男に、いかにも、ふさわしい名だと思った。 「ぼくの本です」  出版社の名前は聞いたことがあった。わたしは、ぱらぱらとめくってみた。  何気なく開けたペエジには、こう書いてあった。 [#ここから2字下げ] ——動揺を許しておくれ キミの唇が語る見え透いた幻想に 少しだけ酔いたいのだ—— [#ここで字下げ終わり] 「もしかして誰にでもこんなことするの?」 「誰にでもこんなことするわけじゃないです」  わたしたちは並んで外へ出た。映画はまだ途中だったが、そんなことはどうでもよかった。公園に行き、鳩に餌をやった。それから電車に乗って町に出た。彼の名を声に出すと、壊れやすいボンボンを口に含むような気がした。  わたしは、肩の明いたクレエプ地の、新しい夏服を着てこなかったことを後悔していた。  鳥呼はわたしの名を知っていた。 「野坂《のさか》あやめか。〈上昇気流〉に書いてただろう。いい名前だなって思ってた。なぜ詩をやめたんだ」  わたしはしばらく言葉を選んでいた。 「自分が無感動な人間だと気がついたから」 「それはどういう意味かな」 「ただ、詩という形態に憧れてただけだったの。だから既製の詩をまねて言葉を埋めていた。でも本当は何にも感じてなくって……。それがいやだった」 「ぼくはそう思わなかった。〈人喰いの森〉を覚えてるよ」  それはわたしの初期の詩で、喰人鬼と暮らす娘のことを書いたものだった。殺戮を繰り返すふたりの前に、町の男が現れる。男は喰人鬼を倒し、娘を抱く。あらがいもせず無表情に犯される娘の姿で、詩は終わる。  日もとっぷりと暮れた頃、わたしたちは駅に戻ってきた。それでも二人は家へ帰ることを怖がるように、同じ道を行ったり来たりしていた。もうしゃべり疲れて、顎も口もくたくただったのだけれど。  鳥呼は決心をするように家まで送ると言った。  北斎屋の看板(北斎漫画の太った人がすりこぎでなにかを擂っている絵だ)に大笑いした後、鳥呼はまっすぐにわたしを見て言った。 「結婚しているんだ」  彼の帰った後、茶色いしみのついた鞄を見ながら、わたしはその日、二度目の後悔をした。  飛び起きた。  いきなりの大音響。目やにのこびりついた目をやっとの思いであけると、月光を背にしてなつこさんが立っていた。どうやら窓から忍び込んだらしい。 「いま何時?」 「三時くらいじゃない」  しゃあしゃあと言いやがる。なつこさんの手にしたアコオディオンを見て、わたしはさっきの音を理解した。 「古道具屋で見つけたの。五千円」  そう言ってジャヴァらしきメロディを弾き始める。わたしはため息をついた。 「いま何時だと思ってるの」 「だから三時だって」  まるで禅問答だ。しかたない、いつものことだ。わたしはなつこさんのきまぐれにつきあうことにした。 「椋くんには聞かせたの?」 「聞かせた。あやめさんにも聞かせてやれって」  さすが恋人だけあってなつこさんの扱い方を心得ている。今ごろ彼は夏布団のなかで、安らかに眠っていることだろう。  メロディは次第になめらかになっていく。わたしはフランス語の歌詞を思いだした。 [#ここから2字下げ] ——疲れてしまったのだよ、けれど貴方《あなた》にではない、恋人よ—— ——貴方の気配を感じる前からさ、恋人よ—— [#ここで字下げ終わり]  モナムウル、とリフレインするゲインズブウルの声。いつも満たされない子供の顔をしていた彼も、当たり前のように死んだ。  開け放した窓から、夏を癒すような涼風が流れこんでくる。わたしはパジャマの膝小僧に顔をうずめた。  たまらなく、せつなかった。けれどそれは、そんなにわるい気分ではなかった。  いままでに何度も、なつこさんに鳥呼とのことを話そうと思った。もしかしたら彼女だって勘づいているかもしれない。  一年の間、何度もくりかえされた逢い引き。蜜壺のなかで抱き合うような、息詰まる、秘密。主に抱擁は、閉店後の店の冷たい長椅子の上でおこなわれ、人前では目線だけですべてを語った。  無意味だった。なにもかも。  口に出せば、すべて汚れてしまうような気がした。うそではないことも、うそになってしまうような気がした。  ただ、いままでの経験から考えると、なつこさんは恐ろしいほど鈍感だった。  というより、他人のことにあんまり興味を持っていないようなのだ。仲間のあいだで公然の秘密になっていることさえ、知らないことが多かった。  いずれ、終わってしまうことだ、そう思っていたから、どうしても口に出すことができなかった。  わたしは、ほんのわずかでさえも、彼女に軽蔑されたり、嫌われたりすることに耐えられなかったのだ。  出会ってからの数年間、わたしは彼女に頼りきって生きてきた。はた目には、なつこさんがわたしを頼っているように、見えただろう。彼女ときたら、自分ひとりでは地下鉄の乗り換えさえ、うまくできなかったり、なにがあろうと午前中に起きることができないような、そんな、すっとんきょうなおんなのこだったから。  ただ、彼女と一緒にいると、毎日がちがう輝きを帯びた。彼女とふたりなら、浮浪者たちの溜まる暗い路地も、平気だった。彼女のことばひとつ、眼差しひとつで、現実はあざやかに色を変えた。  最終電車を逃し、寒いのを通りこして冷たいとしか言いようのない夜の河原で、ふたりで一言もしゃべらずに朝を待ったこともあった。あれはすばらしい夜だった。空が白んでくるにつれて、一羽二羽とゆりかもめが舞いはじめ、わたしはただ、生まれてきたことに感謝した。  彼女とふたりなら、銀行強盗や空き巣狙いになったって最高の人生だと思う。たぶん、彼女は、不幸に不思議な色彩を与える、たぐい稀な、才能の持ち主なんだ。  なつこさんはよく、「わたしはとてもふしあわせだ」といった。ただ彼女が言うと、ふしあわせ、ということばもひどくラッキイなことに聞こえるのだ。  ふと、なつこさんのゆびが止まった。アコオディオンを抱えなおし、わたしの横にすべりこんだ。 「さむいね」  言われてはじめて気付いた。ゆうべもその前も熱帯夜だったのに、まるで時空にぽっかりと穴があいたように、涼しい夜だった。  ほどかれた豊かな髪がわたしの二の腕に触れる。そして、冷たい、むきだしの、腕の感触。  なつこさんは、わたしに体重を預けた。 「あやめさん」 「ん」 「旅行行くのやめようか」 「どうして」 「どうしても」  わたしは彼女の方を向き、語気を強めてもう一度聞いた。 「どうして」 「家がいちばんいいよ」  しばらくしてから、なつこさんがぽつんといった。 「あやめさんがあんまり乗り気じゃなさそうだから」  ぎくり、とした。  この二、三日わたしが考えていたのは鳥呼のことだ。彼と、彼のツマと同じ屋根の下で数日を過ごすことなどはじめての経験だった。  なにかがかわるかもしれない。あるいはなにもかわらないかも。  どうだっていい、と、投げやりなひとりのわたしが言う。 [#ここから2字下げ] ——ジャヴージャンネバヴェパヴー モナムウル—— [#ここで字下げ終わり]  わたしは、重苦しい口をひらいた。 「行くよ、わたしは」  たぶん、なにも起こらないだろう。彼と、彼のツマの睦まじい様子に、わたしは少しだけ傷つき、けれどもそれで、わたしたちが終わることはないだろう。  いつだって、そうなのだ。  なにかを変えるには、わたしが動かなければならない。わかっていたが、それだけだった。わたしはただ、待ち続けていた。  なにかを変える、暴力的な、決して逆らえない力を。 [#改ページ] [#ここから4字下げ] 貳 水の上の午餐 [#ここで字下げ終わり]  機械油のにおいが潮の香と混じっている。  ゆっくりと、そして確かに速く、船は陸地を突き放していく。風の抵抗が頬にここちよい。わたしは生成《きな》りのブラウスのボタンをひとつはずし、胸元にも風を迎え入れた。  わたしたちの行くS島は、瀬戸内海《せとないかい》の真ん中にあった。一度K県に渡り、そこから週に三度ある定期便の船で、小さな町のあるH島に行く。そこからモォタアボォトですぐ、という、まあ言うなればH島の離れのような小島だった。  幸い椋くんがモォタァボォトを運転できるというので、物が足りなくなればH島まで行けば良い。そんな大がかりな無人島というのではなかった。 「つまんないなあ、絶海の孤島じゃないなんて」  なつこさんはそれを知って口をとがらせた。椋くんはチュウリップ形のぼうしが、風に飛ばされないよう頭を押さえながら、 「そんなところになつこをつれていけるか」  もっともである。わたしはこみあげてくる笑いを抑えながらうみをみていた。  H島にわたる定期便の甲板である。北斎屋慰安旅行ご一行様は全部で八人、当初の予定より二人多い。  モォタァボォトの借り賃や、向こうでの食費などを考えると多い方が安くつくことが解り、急にうさぎくんの彼女と友人が参加することになったのだ。  矢島夫妻となつこさんとわたしは、椋くんの愛車で大騒ぎをしながら、K県に向かったので、全員が顔を合わせるのは、この船の上となった。  うさぎくんは初対面の矢島夫妻に、「田中|幸広《ゆきひろ》です」と自己紹介したあと、自分の彼女と友達をわたしたちに紹介した。 「守田《もりた》充《みつる》、中学からの腐れ縁の友人で、今はR大薬学部の院生。そんでこっちが松島《まつしま》静香《しずか》」 「これから一週間よろしくお願いします」  彼女は大きな目をくるりと動かして、しっかり頭を下げた。短くきった髪、細い手足、つぶらな目が小動物のような印象を与える。うさぎくんには似合いの女の子だった。  守田氏は、なかなかの男前だった。ひょろりと縦に長く、少し張ったえらが精悍な感じだった。首回りののびたTシャツも、はげっちょろけた綿パンも、無愛想にむすっとしているとこさえ好感がもてた。 「そんで、こっちが椋|隆之《たかゆき》さん、寺島《てらしま》ナツ子さん、矢島夫妻に、北斎屋の店長の野坂あやめさん」 「おことばだけど」  なつこさんが口をはさんだ。 「あやめって本名じゃないよ」 「そうなの」  うさぎくんは知らなかったみたいだ。 「野坂|照美《てるみ》がほんとの名前」 「じゃあ、あやめっていうのは?」 「むかしの筆名」 「きれいな名前だと思った」  静香さんのことばに、守田氏が無表情に答える。 「少女趣味だな」  いきなり言われてむっとした。この人に何がわかるというのだ。鳥呼はわたしの表情に気付いて、あわてて取りなした。 「花のアイリスじゃないんだよな」 「そういえば矢島さんもペンネエムでしょ、本名はなんていうの」  なつこさんが、助け船を出す。 「さっきは夫妻で軽くかたづけられたけど、あらためて、ぼくが矢島|俊弥《としや》でこっちが妻の奈奈子《ななこ》」  よろしく、と奈奈子さんは首をかしげて笑った。  ツマ、ということばの響きが胸のどこかを刺激した。奈奈子さんの顔を見るたびに、かなわない、と思う。  まるで小鳥のようなひとだった。  色の薄い髪が頬をつつんで、首筋に流れおちる。すこしばかりそばかすの浮いた、白い小作りな顔。目のしたの涙袋も、ちいさいけどぷっくりとした唇も、せつないほど愛らしかった。  きれいに生まれつくか、つかないかは、おんなのこにとって、非常に重要な問題だ。いくら上から塗りたくっても、透き通るような皮膚を持ったひとにはかなわない。  なつこさんがわたしの気持ちを見透かすように言う。 「奈奈子さん、いつ見てもきれいだね」 「なつこさんもきれいだよ」  彼女は照れたように笑い、顔からはみ出しそうなおおあくびをした。  なつこさんだって、きれいなのだ。切れ長の一重の目。すねたような受け口。無造作に染めた長い髪を、なんどもかきあげる。すこし、英泉《えいせん》の絵を連想してしまう。  彼女が、公園のベンチで寝っころがって昼寝しても、五日間、風呂に入らなくても許されてしまうのは、第一級の美人だからにほかならない。わたしがおんなじようにしたならば、コンクリイト詰めにされて、海に投げ込まれるだろう。  まったく不幸なことである。  船がH島に到着するまでまだ二時間はある。わたしたちは甲板のベンチに座り、遅い昼ごはんをとることにした。  なつこさんとふたりで用意したお昼のバスケットを開けると低いどよめきが起こった。椋くんなどは腕をくんで、 「一本とられたな」  などとつぶやいている。  バスケットの中はすてきなものでいっぱいだった。紅いグレエプフルウツ、名前も知らない南国産のくだもの、小さなすいか、缶詰のチイズ、掌くらいの大きさの魚の燻製。ラベルのはがれかけたワイン、ぬるくなった青島《チンタオ》ビイル、塩漬けの肉やきゅうりのサンドイッチ、幾種類もの、ジャム。  きりきり、とワインがあけられ食事が始まった。  静香さんが「コップは?」と聞いた。 「この食事には回し飲みがふさわしい」  なつこさんの厳粛な言葉に、誰も反論しなかった。手から手へ、ワインの瓶やピクルスが回される。わたしたちは餓鬼のようにむさぼり喰っていた。  後になって、思い出すのは、この食事のことばかりだ。  味だとか、栄養だとかはまったくかまわず、ただその食物の詩的さだけで、わたしたちは午餐を楽しむことが出来た。今になると面映《おもはゆ》いけれども、そのころのわたしたちは自分がうつくしいことに、何の疑いも持っていなかった。お金だとか、幸運だとかは、手の中のざくろほどにも意味がなかった。  ただ喰い散らかされたハムの残骸と、それを手にする自分と、横にいる友人をなによりも愛していたのだ。  あのころ、わたしたちはほんの少し不幸で、全知全能だった。  おなかがくちくなり、みんなの動きが鈍くなる頃、なつこさんはアコオディオンを取り出した。 「リクエストは」  だれもなし。ならばわたしが言おう。 「ジャヴァネエズ」  わかっているくせに、なつこさんはゲインズブウルのではなく、ボリス・ヴィアンのジャヴァを弾きはじめた。 「かわいい曲」 「タイトル知ってる?」  静香さんはくびを振る。 「原子爆弾のジャヴァ」  ボリスやヴィアンのセンスに乾杯だ。  鳥呼は、果物の皮をむきながら、うさぎくんの話に耳をかたむけている。うさぎくんはピンクのダンガリイの裾をもてあそびながら、音楽の話をしている。奈奈子さんは膝小僧をきちんとそろえ、だれとはなしにほほえんでいる。守田氏は、片方の足だけベンチの上にあげ、目を閉じてアコオディオンを聴いている。静香さんはまだ雰囲気になじみきれないようでそわそわしている。  わたしはとなりでまだビイルの瓶にこだわっている椋くんにもたれかかった。 「わるくないね」 「おう」  なかなかいい返事だ。 「みんないいよ、清潔で、なまなましくなくて」  女の子で、厚化粧をしているものや、男の子で、髪に油をつけているものは、誰もいなかった。髪の乱れも、風に吹かれるままにまかせていた。 「おれはゆうべ風呂に入ってないぞ」 「そんな意味じゃなくて」 「わかってるよ」  椋くんは鼻のあたまにしわを寄せてわらった。 「あやめさん、おしぼりある?」  よそよそしく鳥呼が声をかけた。バスケットの奥からひっぱりだして渡す。 「ありがとう、あいしてるよ」  ずるい。辻斬りにうしろから袈裟《けさ》がけに斬られたような気がした。  鳥呼はたまに人前でこんなことを言う。どうして平気でいられるのか、その神経が理解できない。  おもいっきりにらみつけたわたしに、鳥呼は一瞬だけ真剣な顔をした。  椋くんは乾いた色の目で、空を見つめて重々しく言った。 「色即是空《しきそくぜくう》」 「つぎは、う、だよ」  なつこさんの番だった。 「う、う、紆余曲折ってのはどう」  小型船の心地よい揺れに、身をまかせながら、わたしたちは時間つぶしをしていた。 「つ、ね」  静香さんは短パンの、日焼けした脚を投げだした。 「通信販売」  四字熟語のしりとり、である。このおそろしく退屈なあそびは、眠ってしまいそうな海の上の午後に、ひどく似合っていた。  わたしはベンチの上に寝ころがって、見上げるようなかたちで、みんなを見回した。  うさぎくんは、ストロオの袋を蛇腹に折ることに熱中していた。守田氏はうさぎくんにおおいかぶさるようにして、彼の手もとをのぞきこんでいる。 「うさぎくんの番だよ」 「ああ、なんだっけ」 「い」 「囲碁将棋ってのは」 「それって四字熟語じゃないような」 「しかたないだろ。い、とか、う、は多いんだから」 「義理人情」  奈奈子さんがすかさず言う。彼女はさりげなく、昼食の残りを片づけていた。  わたしはのけぞって彼女の顔を盗み見た。わたしの視線に気がつくと、彼女は屈託なく笑った。  なにも、知らないのだろうか。  目を閉じても、瞼の裏に陽光があふれる。彼が奈奈子さんを裏切っているからといって、わたしの勝ちとは限らない。あらゆる瞬間に、かれが選び続けているのは、たぶん彼女の方だ。だが、わずかな罪の意識は、日常の刺激剤だ。  そう、それにすべてを預けてしまわない限りは。 「また、う、が来たな」  鳥呼がおおげさに腕を組んで考える。 「有象無象」  守田氏がひっくりかえった。うさぎくんが男の子にしては高い声で大笑いをした。 「矢島さん、それはひどい」 「う、を制するものは、四字熟語しりとりを制す、だよ。守田」 「うるせえ」  うさぎくんと守田氏は幼稚園児のように、はしゃいでいる。しばらくもみあったあと、守田氏がうさぎくんにプロレスの技をかけて、勝敗が決まった。 「う、ね。う。浦島《うらしま》太郎《たろう》」 「人名はだめ」 「却下」 「う、う、歌声喫茶」 「まあ、いいとしましょう」  船のアナウンスが、H島到着を告げた。 「これで最後だな。あやめさん、トリをどうぞ」  わたしはしばらく考えて、きっぱり言った。 「殺人事件」  H島の船着き場には管理人が待っていた。別荘の管理人というからには、年寄りを連想していたのだが、意外にも「おじさん」と呼ぶことさえためらわれるような男性だった。  彼は、ひからびたような麦わらぼうしを手に持ち、にこにこしながら、わたしたちを迎えた。足元には毛足の長い老犬が、ぴったりと寄り添っている。愛想よく笑いかけると、いぬはうさんくさそうに顔をそむけた。 「いらっしゃい。中本《なかもと》さんから、おもしろい若者たちが来ると聞いて楽しみにしてたんですよ」  こっちには、おもしろがられるいわれはない。  中本さん、というのは別荘の持ち主のなまえで、椋くんはその人とネパァルで会ったという。パスポォトも、現金もすられて異国の真ん中で困り果てていたとき、その人に助けられたらしい。中本さんは、身一つでいきあたりばったりの旅をしている椋くんの男気にひかれ、(このあたり椋くんの言葉だから信用できない)今の就職先を紹介してくれたという。椋くんが何ヶ月休んでもくびにならないのは、そのあたりに理由があるらしい。 「中本さん、この二週間ほど連絡がとれないんで心配してるんだけど」  椋くんが、別に心配そうでもないような様子で言う。 「あの人のことだから、またインドにでも行ってるんじゃないですか。たぶん、心配ないですよ」  管理人さんが笑うところを見ると、椋くんの同類らしい。違うのは、金持ちというところくらいか。 「食料なんかは一足先に向こうに運んであります。一週間分以上用意しましたので、足りると思います。椋さんは四級のボォト免許をお持ちですね」  椋くんは静かにうなずく。 「だったら心配ないと思いますが、むこうには電話がないので気をつけて下さい」 「あれがそうです」  と、指さされたS島はずいぶん近かった。船着き場の反対がわの丘が、小高く盛りあがっていて、その上にマッチ箱のようなグレイの家があった。わりと傾斜は急で、まるで海のうえに小山が顔を出しているみたいだ。 「泳いでいけそう」 「さすがにそれは無理です。遠泳の選手でもないとね」  船着き場にはモォタアボォトが二艘あった。 「一艘が六人乗りなので、四人、四人に分かれてください」  片方は管理人さん、片方は椋くんが操縦するらしい。椋くんの操縦に空恐ろしいものを感じたわたしたちは我先に管理人さんのボォトへ乗り込んだ。 「おまえら長生きしないぞ」  椋くんはもう一艘のボォトのわきですねている。見るとなつこさんまですました顔でこっちに座っていた。 「帰りはおれのボォトに乗るしかないんだぞ」  まあまあと椋くんをなだめて、わたしとうさぎくんファミリィの三人がそっちに移ることにした。 「運命共同体ってとこかしら」 「どういう意味だよ」  管理人さんのボォトは水しぶきをあげて岸を離れていく。どんどん向こうが遠ざかるのに、椋くんの方は「まてまて」とか「せいてはことを仕損じる」とかいいながら、あちらこちらを点検していた。  わたしは埠頭のいちばん先に立って、ぐんと背伸びをした。  きもちいい。 「あやめさん、あぶないよ」  うさぎくんがなにか言ってるけど知らん顔をする。  めのまえにはうみ、まるで世界でわたしだけが突出してるようで気分がよかった。  気がつくと横に守田氏が立って、同じように伸びをしていた。背が高い。わたしなど、彼の胸のあたりまでしかない。 「身長、いくつ」 「一九〇とちょっと、かな。あんたは」 「一五二」 「なんだ、四〇センチも違うのか」  うさぎくんは笑うけど、彼だってどう見ても一六三、四しかない。  わたしがそう言うと、今まで黙っていた静香さんが、唐突に聞いた。 「なんでユキヒロのこと、うさぎくんっていうの」  わたしと椋くんは顔を見合わせた。 「うさぎみたいでかわいいから」 「そのままやんけ」 「それだけじゃないよ、目と目のあいだがはなれてるとこもうさぎに似ている」 「うさぎって、一見かわいいけどよく見るとじじむさいよな」 「なんだよ、それ」  うさぎくんはむくれた。ちなみに彼は二十八歳、わたしたちのなかではいちばん年上である。 「ひげぐらいちゃんと剃れよ。かわいい顔が台無しだぞ」  守田氏に言われて、うさぎくんはあごを撫でた。 「濃いんだよ。朝剃っても夕方にはこうなるんだ。今日は朝が早かったし」  もちゃもちゃじゃれているうちに、準備ができたようだ。 「さあ、覚悟を決めて乗れ」  もう一つのボォトは向こうについたらしく、もう見えない。わたしたちはおそるおそる乗り込んだ。  がくん、と衝撃がありボォトは埠頭を飛び出した。思ったよりも速い。飛ばされないように片手でスカァフをしっかり押さえた。 「ねえ、あやめさん」  耳もとで静香さんが声をあげる。こそばゆい。 「つきあっているひと、いるの」  鳥呼と出会ってから、この手の質問には弱らされた。以前なら「いない」と明快に答えられたのに。いないわけでもない、けれどだれにも、いる、とはいえなかった。 「いない、と思う」  われながら変な答だ。 「充のこと、どう思う」  どう思う、と言われても困る。最初に、あ、男前、と思ったくらいだからタイプじゃないわけではないけど。 「彼のいない女のひとがいるって聞いたから、充も誘おうって思いついたの。彼も恋人いないし」  うさぎくんが振り向いて小声で「よせよ」とささやいたが、静香さんは気にしないようだった。豪快に大きなお世話だ。わたしは静香さんに抱いた、いい印象を海に投げ捨てた。 「守田さんがいやがるんじゃない」  適当に言ってそっぽを向く。  うわさの彼は、話が聞こえているのかいないのか、ボォトの縁に頬杖をついてむっつりとしている。短く刈りこんだ髪、痩せてはいるがしっかりと筋肉のついた腕、楯《たて》の会の制服でも着せたら似合いそうだ。  男だ、と思う。やせっぽちの鳥呼とはまったく違う。たしかに魅力的、ではある。  もし、このひとがわたしでもいい、と思うなら、鳥呼は嫉妬するだろうか。  わたしのよこしまな考えをじゃまするように、モォタァボォトはぎゅん、と曲がった。  島は近くによってもちっぽけだった。 「おそいから難破したかと思った」  なつこさんはむちゃを言う。  ボォトは小さな入江につけられた。岩場に降り立って見上げると、うっそうとした林がおおいかぶさるように続いていた。まるで人の侵入を拒むかのような急斜面。別荘はここからではよく見えない。 「向こう側に階段があります」  管理人さんが言い、わたしたちは手に荷物を持って歩きだした。  あっちのボォトに乗っていたいぬが、道案内をするように、威張って先頭を行く。水の上では涼しいような気がしたけど、陸にあがるとお日さまはやっぱり無慈悲だった。  三歩ほど歩いただけで汗がふきだしはじめる。まるで病んだような暑さ。  わたしは砂浜ぎりぎりを歩くことにした。 「くつがぬれるよ」 「かまわない」  足の下で砂がうごく。くつの中に流れこむ水の冷たさに、救われたような気がした。  ある瞬間に景色がかわった。  息をのんで立ちつくす。砂浜の白さを侵蝕するようにゆうがおが群れて咲く。地面はなめらかに林へと立ちあがり、ところどころ、こぼれるように土の色をのぞかせている。山を縦に走る石の階段。そしてその階段は無数の石の門をくぐり抜けていた。  まぶしい。  胸を焼くような景色だった。 「天国への階段みたいだな」  鳥呼はわたしの後ろに立っていた。振りきるように走り出す。アスファルトに慣れた足の裏に、砂の感触はなんだか頼りない。  景色がゆれる。  石の建造物がこれほど神々しいなんて、思ってもみなかった。灰色の物体は、日輪を真っ向からうけていた。  そばまで来ると石の門に、絵が刻みこまれていることに気付いた。二本の四角い柱の上に一本の板が渡されただけのそっけないかたち。そこにごくうすく、稚拙な線が刻まれている。柱を縦にふたつに割る、素手で引いたような線、その中程より上にひとつのまるがある。ああ、と思った。 「抱擁だ」  あとからなつこさんが追いついてきた。 「なあに、これ」 「ラシェフスカヤの抱擁」  架け橋、飛翔、そしてこの抱擁、三作の連作のみをもって世界中にその名を知らしめたルゥマニアの彫刻家。おそろしいまでに対象を簡素化し、装飾を廃し、純粋なかたちにこだわりつづけた。  半分に割られた柱はおとことおんなで、まんなかのまるは二人の目だ。それ以外に何の装飾もない。この門は、抱き合った男女の姿を、プリミティブに形象化していた。みればすべての柱も同じ形をしている。 「よく、ご存じですね」  管理人さんが汗をかきかき近づいてきた。 「この島は�オアンネスの息子�教の聖地だったんですよ」 「�オアンネスの息子�教といえば、あの集団自殺の」  たしか三年ほど前に十人の教徒が、昇華儀式と称して焼身自殺をくわだて、大評判になった小さな宗教団体だ。  事件があるまでは、まったく無名だったが、そのセンセイショナルな事件後、フリィセックスや、定住を嫌うヒッピィめいた教えがマスコミの槍玉にあげられていた。 「あの後、教祖が行方不明になってね。もちろん教会もつぶれて、宙に浮いたこの土地と教会を、中本さんが買い取ったんです。ラシェフスカヤと教会は、何の関係もないんですが、教祖がこの、抱擁の像にインスピレイションを受けた、とかで、あちらこちらに置いてあります」  ヒッピィのような新興宗教のシンボルには、たしかにふさわしい彫刻だ。 「やだ、ここで自殺したの」  静香さんが不快を露骨に顔に出した。 「別に幽霊なんかはでませんよ」  管理人さんが笑いながら言った。 「それにしてもこの階段は一苦労だぞ」 「うう」  なつこさんは下唇をつきだした。 「まあ、あせらず行こうぜ」  椋くんの一言を合図に、わたしたちは各々一週間ぶんの荷物を持って階段をのぼりはじめた。  真夏の照り返しが足を焼く。無数の柱のかげを通り抜けて、わたしたちは天上へと近づきつつあった。  日頃の運動不足がたたって、足が遅れがちになる。息をつきながら、わたしはえっちらおっちら重くるしい身体を運んだ。身体中の液体が沸騰するみたいだ。深呼吸しても、なまぬるい空気が流れ込むようで、非常にきもちがわるい。  急に背中がかるくなり、わたしはバランスをくずして階段に手をついた。ふりかえると、逆光の中に、守田氏がわたしの色のあせたリュックを手に立っていた。 「もってやるよ」 「ありがとう」  この、親切な、愛すべき、大きなひとは、らくらくとふたつのリュックを両わきにかかえ、階段をのぼって行った。  あわてて追いつき、もう一度ありがとうを言った。彼は返事をしない。  わたしたちはしばらくならんで歩いた。もうみんなとは、かなり間をあけられている。  急に守田氏が立ち止まった。 「いっとくけどさ」 「ん?」 「静香がなんと言おうと、おれ、あんたとはどうこうするつもりはないから」  それだけ言うと、急にペエスをあげてどんどん階段をのぼっていった。  わたしはその背中をあっけにとられてぼんやり見ていた。  失礼だ、と思った。もっと言い方があるだろうに。なにもわたしが、彼とつきあいたいと言った訳ではない。文句があるのなら静香さんに言えばいいんだ。  だんだん腹が立ってきた。しかしそれと同時に情けない気持ちでいっぱいだった。彼に対して、わずかでもよこしまな気持ちを抱いたことを、見透かされたような感じだった。  空っぽの手をぶらぶらさせて、わたしは登りはじめた。 「あやめさん、おそい、おそい」  なつこさんがぶんぶん手を振った。  最上階につくころには、すっかり回復していた。もともと立ち直りは早いほうだ。  遠くからみるとマッチ箱のようだった石の家は、二階建てほどの、それなりの大きさだった。窓が少ない。各階の上方にちっちゃな明かりとりの窓が、ぽつぽつ、とあるだけだ。石の壁には、蔓草が糸を引くようにからみついていた。 「部屋が暗いんじゃない」  椋くんが振り返って、管理人さんに聞いた。 「中庭の方に、大きな窓があるからだいじょうぶですよ」  管理人さんに鍵をあけてもらい、わたしたちはこれから一週間の住処《すみか》へ入った。  重い鉄製の扉を開けると、すぐに中庭があった。  椋くんがううむ、とうなっている。彼はあまり饒舌ではないけれど声の感じでわかる。  気に入っているのだ。  愛想のないましかくの建物は、なかに楽園をかくしていた。住居の空間は意外にすくなく、そのほとんどが中庭だった。四角いドオナツのような形に、部屋がぐるりを取り囲んでいる。内側の壁は、ほんの少しの壁土を除いて、全部硝子張りになっている。きれいに磨かれた硝子が、午後遅くの空気をやさしく映し出していた。  庭がまたなんともいえず、すばらしい。  花壇もなにもなく、ただ幾何学的に区切られた芝生。樹はすべて、少しの乱れもなく円錐形に刈り込まれている。  おそろしく、丁寧に手入れされた、フランス風の無機質な庭園だった。  そしてこの庭の主役は、真ん中にあった。石の平たく低いテエブル。漫画のふきだしのように、丸に小さなぽっちがついている。それを同形の九個の椅子が囲んでいる。  ラシェフスカヤの「暗示のテエブル」のレプリカだった。そして、ここにも抱擁の像。  椋くんが、そばに寄って像を撫でた。 「これは他のと違って、木でできてるみたいだな」 「特別製なんですよ、見ていてください」  管理人さんはかがみこんで、抱擁の根元をいじっている。とたんに像は、水を噴き出しはじめた。 「噴水になってるんだ」  うさぎくんが叫んだ。  たしかにそれは噴水だった。ただ、わたしたちが知っている噴水とはずいぶん感じが違う。いきおいよく噴き出す水の躍動を見せるのではなく、ただ抱擁の像をやさしく濡らすだけのために水はあふれていた。  抱き合うふたりの頭上から水は生まれ、かわいた木肌をつたって下まで流れ落ちる。  この像がラシェフスカヤのレプリカであっても、水のために本物をしのぐ芸術品となっていた。ほうっ、とだれかがためいきをついた。  来てよかった、と心から思う。  ふだんの生活では、触れることのできない風景だった。なによりもすてきなことは、この風景が一週間の間、わたしたちだけのものになることだ。  どうやらこの家は、庭を中心にして建てられているようだった。個々の部屋の行き来はできない。台所へも、礼拝堂を改造した居間へも、庭を通ってしか入れないようになっている。  二階には、狭い回廊がついていて、四隅に青銅色のらせん階段がある。 「だから雨が降るとなかなかやっかいなんですよ。たのしい旅行に水をさすようで悪いけど、ちょっと雲行きがおかしいですからね」  管理人さんの言葉に空を見上げれど、べつにくもっているわけではない。  時刻は、五時を半ばほど過ぎたころ、小暗くなっているが、さっきまで快晴だった。土地の人にはわかる兆候でも、でていたのだろうか。 「なに、一週間もあるし、連日雨ばかりというわけでもないでしょう。それにちょっとくらい曇った方がいいんですよ。この暑さじゃやりきれないでしょう」  みんながそろって不機嫌になったのに気付いたのか、管理人さんは慌てて言った。  にゃおう、と母性本能をくすぐる声がした。  ふりむくと開け放した玄関からいっぴきの黒猫が顔を出している。 「かわいい」  奈奈子さんが駆け寄ると、ねこはちいさな頭を彼女の足に擦りつけた。 「ここにはなぜか、野良猫が多いんですよ。中本さんがかわいがるから、やたら人懐っこいけど」  ねこは物おじせず入ってくると、管理人さんのいぬに、はなづらを押しつけた。いぬは迷惑そうに顔をそむけた。  あと、簡単な設備や間取りやらを説明すると、管理人さんとその愛犬は、一艘のボォトに乗って帰っていった。  これであと六日間はわたしたちだけの世界だった。  だれにも気兼ねすることもないし、指図されることもない。あとはバカンスを楽しむだけだ。なにもないこの島では、こころゆくまで、良質のたいくつが味わえるだろう。  わたしたちは相談して部屋割りを決めた。  二階がおもに、寝室になっているため、用心棒がわりに椋くんを玄関の横の部屋にいれ、厨房係代表のわたしが、厨房の横の一室に入ることにして、あとは二階の部屋を割り振った。  四角形の一つの辺に二つずつ部屋がある。各々の部屋にはユニットバスがついていて、完全な個室になっていた。西向きの部屋は、吹き抜けの礼拝堂になっている。東向きの部屋になつこさんと静香さん。北向きの、玄関の上の部屋には、守田氏とうさぎくん。南向きの、厨房の上の部屋には、矢島夫妻が入ることになった。  旅の疲れで、みんな無口になってきた。とりあえず今日は、早く食事をすませて休むことにする。  重い荷物を引きずって部屋へはいる。  庭に面する方の壁は、すべて硝子張りになっている。出入りするドアさえ硝子張りだ。外から見られたくなければ、カアテンを閉めればいい。庭が見渡せるのと、陽光があふれるほど入ってくるのが、気持ちよかった。  おや、と思った。  チェストとベッドだけの殺風景な部屋の奥に、小さな白い引き戸があった。小柄なわたしでさえ、かがまなくては入れない。 [#ここから2字下げ] ——ありす、いん、わんだぁらんど—— [#ここで字下げ終わり]  つぶやきながら身を屈めた。  読めた。茶室になっているのだ。  引き戸のこちら側には、静謐《せいひつ》な世界があった。塵ひとつなく、掃き清められた畳。だるまさんの絵が、墨で描かれた掛け軸。炉には茶釜がおきっぱなしになっていた。  なるほど、和室と洋室の間の引き戸なら、どちらにも不釣り合いにならないようそっけないデザインになるだろう。  ちょっと、お床《とこ》を拝見。  にじりぐちから入り、スリッパを脱いで上がり込む。茶の湯なら高校生のころ少しかじったことがある。どうせ暇なのだから、滞在中に一服、点《た》ててみてもいいだろう。  床の間に目をやったわたしは眉をひそめた。そこには茶室にあってはならない、まがまがしいものがあった。  海底に沈んでしまったような闇だった。  窓にそって並ぶ古めかしいライトが、深海魚の放つ光のようだ。  石のテエブルを囲み、わたしたちはこの島でのはじめての夕食をとっていた。  わたしもなつこさんもひどく疲れていたので、食事はレトルトや缶詰で、我慢してもらう。どうせ、文句を言うほどのグルマンデイズなどここにはいまい。  守田氏と静香さんは知らないが、みんな北斎屋のランチを、よろこんで食べるほどなのだから。  せめてもの食卓のにぎわいに、とありあわせのフルウツサラダをつくると、やっと夕食らしいテエブルになった。  椋くんが乾杯の音頭をとる。 「わたしたちの七日間のために」  アルコオルだけは十二分にある。どうやら、うわばみが揃っていることは事前に連絡済みだったらしい。  みんな疲れが顔に出てきている。酔いがまわるにつれ、饒舌にはなったけれど、ろくでもないような話しかできなかった。そのなかで妙に元気なのは静香さんで、みんなの気が抜けるような、つまらない冗談をくりかえしている。最初のおとなしげな様子は、ひとみしりをしていただけなのかもしれない。  ツナの缶詰をつつきながら、ふと顔をあげると鳥呼と目があった。  それだけで、あんたがなにがいいたいか、わかる。  彼も静香さんにあきれているようだ。わたしは口を開けて、声を出さずに言った。 「寝言は寝てから言ってほしい」  彼はビイルを噴いて、笑いこけた。みんなびっくりしたような顔をしている。 「なにがおかしいの」  きょとん、とした静香さんのせりふがよけいにおかしい。含み笑いをしていると、背中に視線を感じた。  ふりむくと奈奈子さんと目があった。ほんの一瞬だった。彼女はすっと視線をそらした。だがわたしは一生忘れないだろう。そのとき彼女のきれいな顔に浮かんだ、彼女自身も気付かないほどの微妙な表情を。  守田氏が空になったビイルの瓶をもてあましているのに気付いたので、手を伸ばす。 「こっちにもらおうか」  彼は、あまりにも露骨にわたしを無視して、空瓶を地面に置いた。さっきからずっとこの調子だ。いったいなにが気に入らないというんだろう。きらわれるような覚えはまったくない。  椋くんが、髭についた、ビイルの泡を拭って立ち上がった。 「ひとつ、提案をさせてもらいたい」  咳払いをして、仰々しく続ける。 「せっかくおれたちだけでひとつの島を支配できることになったんだ。ここにいる間は、いままでの倫理観や習慣にしばられず生活したい。すくなくともおれは、自分の内なる衝動にしたがって行動するつもりだ。そしてもうひとつ、だれであろうと人に干渉する権利は与えられない」  みんながあっけにとられているなか、鳥呼のみが華々しく拍手した。 「最高の提案だ。ぼくも賛成するよ」 「さすが芸術家は話がわかる」  どう考えても、ふだんから椋くんは好き勝手やっているように見えていたが、どうやら彼にも屈託はあったらしい。 「ということは」  守田氏が皮肉らしく、口をはさんだ。 「主ある人を好きになってもかまわないということかな」 「あんたがそうしたかったらな」  一瞬、ぎくり、として守田氏の方をむいた。彼には、すこしもわたしを気にしている様子はなかった。あたりまえだ。今日会ったばかりの人に見抜かれてたまるものか。 「寝る前に歯を磨かなくてもいいわけだな」  うさぎくんは妙なことで感心している。 「あとかたづけを手伝わなくても、あやめさん、おこらない?」  なつこさんにはかなわない。 「いいよ、あたしもごはんつくらないもの」 「それは困るから、なつこ、おまえはちゃんと手伝え」  椋くんもずいぶん身勝手だ。  それはそうと、 「ねえ、わたしの部屋に茶室があるんだけど」 「へえ、侘《わ》びさびだねえ。新興宗教も、いろいろするんだな。それとも後で、別荘の持ち主が造ったのかな」  うさぎくんが前髪をかきあげながらこちらを向いて、笑う。 「あれは絶対設計時に、組み入れてたのよ。造りがそうなっているもの」 「だれか、心得のあるやつはいないの」 「奈奈子が免状持ってるよ」  鳥呼がこともなげにいう。じゃあわたしのでる幕はない。 「なら、奈奈子さん、わかるでしょう」 「なにが」 「へんなものがあるの」 「なあに」 「大小」  奈奈子さんは眉間にしわを寄せた。 「床の間に飾ってあるの?」 「そう」 「それはへんね」 「大小ってなんだ」  守田氏が話に割りこんでくる。 「日本刀のことだよ」 「なんかおかしいわけ」 「まあ、茶室に日本刀を飾りで置くようなことは、まずないよ。江戸時代では、武士も茶室では腰のものを外さなければ、ならなかったんだもの」  奈奈子さんが、 「珍しい流儀なのかも」  とつぶやいた。  椋くんが腕をのばしてあくびをした。 「どうでもいいんじゃないの。どうせ得体のしれない宗教団体がすることだろ。得体がしれなくて当然だよ。とにかく今日は疲れたから寝るよ。明日から、気合いをいれてぐうたらするんだからな」  そして、ぐうたら、ぐうたら、と渋くうなりながら自分の部屋に戻っていった。 「おもしろいひとだね」  静香さんが感心している。しかしうさぎくんを恋人にしている女に、そんなことを言う資格はない。  それを合図にみんなぱらぱらと席を立ち出した。あとかたづけ要員はわたし、なつこさん、奈奈子さんの三人だ。うさぎくんは、ぼくも手伝おうか、などと律儀なことを言ったが、また別の日にお願いすることにして、今夜はまあお引き取り願った。 「おやすみ」 「おやすみ」  すべてのあいさつのなかでも、「おやすみ」の優しさは群を抜いている。ひとりぐらしに慣れれば、だれにも「おやすみ」を言わないことがあたりまえになってくるけど、こうやってたくさんの人と、「おやすみ」をかわしたよるは、ことさら、ゆっくりとねむれるような気がするのだ。 [#改ページ] [#ここから4字下げ] 参 わたしたちはもう、戻れないところまできてしまった [#ここで字下げ終わり]  目が覚めると八時だった。  ふだんならいつまででも寝ていたい方だが、まくらが替わると二度寝ができない。  よろよろと起き上がり、からだを締め付けない、ゆったりとした木綿のワンピイスに着替えた。二十五歳のおんなにしては子供っぽい格好だが、いちばんこれが落ちつくのだ。  泥のように濃いコオヒイが飲みたい。  少し睡眠時間が足りないような気もしたが、なに、昼寝でもすればいいのだ。  まだ身体にまとわりつく眠りの残骸をひきずって、わたしはとなりの厨房へ入った。  時代もののようなコオヒイ沸かしを分解して、ポット部分をとりだした。機械まかせでないほうが、おいしくいれられる。薬缶《やかん》を火にかけ、そばにあった小さな林檎の皮をむく。  午前中に起きられない女、寺島ナツ子は論外として、椋くんもうさぎくんも、朝には弱そうだ。鳥呼だってほっときゃいつまでも寝てるし、起きそうなのは奈奈子さんと静香さん、よくわからないのが守田氏といったとこか。どっちにしろ、凝った朝ごはんをつくるほどでもないだろう。冷たい林檎を食べ、濃いコオヒイを飲むとようやく完全に目が覚めた。  なにも、しなくていい。 「次の日、なにも予定がない日って、遠足の前日よりわくわくする」  これはある友人の言葉だが、けだし、名言である。  最後の日は帰るからあわただしいとしても、五日間もなにもしなくていい、というのは、とてつもなく開放的な気分だ。  時刻は八時四十分、いまからなら昼までに文庫本が一冊読める。  わたしはしあわせな気分をかみしめていた。 「おはよう、お相伴させてもらっていい?」  窓をたたく音にふりかえると、奈奈子さんが笑っていた。 「はやいんですね」 「あやめさんはもっと早いじゃない」  ブルウのシャツにジインズと、彼女らしくない格好だ。 「鳥呼さんは」 「しらない、別の部屋でねたもの」  ちょっとしたことばさえ、意味深にきこえるのは、彼女が恋人のツマ、だからか。 「あやめさん、さそってくれてありがとう」  急に言われてびっくりした。  コオヒイを注ぎながら答える。 「べつに、お札を言われるようなことじゃないですよ」  奈奈子さんは目を伏せて、テエブルの脚を蹴った。なにか、思い切ろうとしているかのようだった。 「あやめさん、もしも、もしもよ」 「なんですか」  奈奈子さんはこれまで見たことのない顔をして、わたしを見上げた。 「わたしになにかあったら、俊弥をお願い」  わたしの動揺は、奈奈子さんには予想外だったらしい。 「ごめんなさい、ごめんなさい、大した意味があったわけじゃないの。そんなにびっくりさせるつもりはなかったの」  わたしは顔をおおってしゃがみこんでいた。  かろうじて、のどまででかかった、 「知ってるんですか」  ということばをおさえ、かすれた声で言った。 「どういう意味ですか」 「別に意味なんてないの、ただ、ふとそういう気になったから、ごめんなさい、驚かせてしまったみたい」  わたしはテエブルにすがるようにして、椅子に腰掛けた。奈奈子さんの顔には、かまをかけた、とか、そういうような表情はなかった。ただおろおろと困惑しながらわたしの顔をのぞきこんでいた。 「奈奈子さん、病気なんですか」  彼女は寂しげに笑った。 「そんなことはないけど、ただ、先のことが不安になってしかたない時ってあるでしょう。いま、ちょっとそんな気がして。ほら、俊弥ってあんな人じゃない。ひとりにしておけなくて、あやめさんにだったら頼めるかな、と思ったの。ごめんなさい、変なことをいうと思ったよね」  奈奈子さんの言うことは、ぜんぜん要領を得なかったけど、なんとなくわかるような気がした。  わたしは立ち上がった。 「一服、点てに行きましょうか。気持ちが落ちつきますよ」  奈奈子さんは泣きそうな顔で笑った。  わたしは読みかけの文庫本を脇に置いた。  久生《ひさお》十蘭《じゅうらん》の『黄金遁走曲』、だいすきなコン吉とタヌの活躍も、ちっとも頭にはいらない。さっきの奈奈子さんの言葉が頭にこびりついているのだ。  あのあと、奈奈子さんは茶室にて、あざやかな手付きで薄茶|点前《てまえ》をした。そのようすからは、先ほどの取り乱した感じはまったく見受けられなかった。ただ、茶室からでるときに、わたしの手を汗ばんだ手でしっかり握り、 「さっきのことは俊弥には言わないで」  と言っただけだった。  そろそろ、そとが騒がしい。みんなが起き出してきたらしい。 「あやめさん、あさごはんができたよ」  なつこさんの声がする。なにがあさごはんだ、世間ではそれをひるごはんというのだ。  それでものろのろと起き上がり、外へでた。 「おはよう、遅いねえ」  矛盾したことを言う、なつこさんは。 「おあいにくさま、わたしはもう八時に起きてました」 「そういう人とは友達づきあいができないな。もしかして、きのう早起きしたのも苦痛じゃなかった?」 「ぜんぜん」 「うわあ、いやな女。ボリス・ヴィアンも言ってるよ。朝六時から起きているような人は、人生をわかっていないってね」 「ヴィアンにいっといて、大きなお世話だってね」  それでもわたしを起こさずに、あさごはん(ひるごはん)をつくってくれるだなんて、けっこう可愛いところもあるのだ、この女は。 「ねえ、あやめさん」  またなつこさんが話しかけてくる。 「ばんごはん、なににしよう」 「なに言ってるの、キャンプの第一日目は、カレーと相場が決まっています。次の日に、カレーうどんや、カレーパンに活用するんです」  こう言うと、男性陣から一斉にブーイングが起こった。 「なぜだ、北斎屋のカレーは好きなくせに」  なつこさんにうさぎくんが言い返す。 「カレーうどんなんて食べさせられたことないぞ」  手間はむしろ、カレーの方がかかるのだが、シチュウにするといったら衆愚どもは納得した。見ていろ、あしたになればシチュウうどんを作ってやる。 「あやめさん、あやめさん」  今日はやけになつこさんが絡む日だ。 「あとから、見晴らし台の方へ行こうね」 「見晴らし台なんてあったっけ」 「この裏をすこし登ったとこにあるって、きのう管理人さんが言ってたよ」  うさぎくんと、静香さん、守田氏はこれから水泳をするという。 「みんなは行かないの」  どうやら残りはぐうたら組らしい。  管理人さんの予想ははずれた。今日もぬけるような青空である。  抱擁の像は、相変わらず水を浴びていた。  枕を抱いて惰眠をむさぼる。  いい気持ちだ。完全に目が覚めているのでもなく、眠りこけているわけでもない。  窓が開いてだれかが入ってくる気配がしたが気にならない。  ふいに、枕と顔のあいだに冷たい手が差し込まれた。  こんなことをするのは。  鳥呼。 「よく寝てたな」  とびきりのやさしい目。ああ、この目だ。  寝返りをうって上を向く。 「奈奈子さんは」 「あいつも寝てる。だから来たんだ」  寝乱れた髪を、なおしながら起きあがった。鳥呼はベッドに腰掛け、そとを向いた。  静かだった。みんな寝てるのか、本でも読んでいるのか。遠くから小さく嬌声が聞こえる。どうやら水泳組も楽しんでいるらしい。 「ごめんな」 「え?」  今日はこの夫妻に謝られる日らしい。 「奈奈子と一緒だと、あんたにひどいことしてるような気がして。本当は来るべきじゃなかったのかもしれないけど」  たしかに奈奈子さんと一緒の時、鳥呼はわたしをナイガシロにした。多くの場合、それはごく小さなナイガシロだった。ただ、その小さなナイガシロが集まって、わたしのなかで悲鳴をあげていた。さかなののどにささった釣り針のように。 「ぼくが、いいかげんで、優柔不断なせいなのはわかっている」  わたしは彼の背中にもたれた。体温が頬に伝わった。 「わたし、だまされてたわけじゃないよ」  だから彼を責めるのはまちがっている。  あえぐように言った。 「わたしがえらんだんだ」  らせん階段を降りてくる大きな音がした。あわてて、鳥呼を隅にやり、わたしは外へでた。階段の途中から、なつこさんが顔を出した。 「あやめさん、起きた?」  このようすでは、彼女も昼寝してたらしい。よくもそれだけ寝られるものだ。 「見晴らし台へ行こうよ」 「待って、したくするから」 「そのままでいいよ、だれにも会わないのに」  それもそうだ。わたしは鳥呼をそのままにして庭へでた。  玄関を通るとき椋くんにも声をかけたが、本に夢中でそれどころではないらしい。 「なあなあ、こっち来いよ」  うれしそうに呼ぶので、中に入る。椋くんの部屋は、殺風景なわたしの部屋と違い、本棚や机、古めかしい蓄音機などが、あった。 「この本、オアンネスの息子教の教本みたいだぜ」  薄い水色の表紙に、筆文字で外国語が書いてある。 「オアンネスっていうのは、どっかの神様で、フロベエルの�聖アントワアヌの誘惑�にでてくるらしいんだ」  彼は、声を出して読み上げた。 「混沌の最初の意識であるわたしは、物質を固くし、形体を定めるために、深淵からおどりでてきた」  彼が指してみせた、挿し絵には混沌とした微生物のようなものが描かれてあった。 「つまり、人間が人間である前に原生物であったときの神様だね。この宗教は、余計なものをすべてそぎとり、自分の本当の原型だけを見つめよ、と説いている。究極の話、肉体も記憶もなにもいらないらしい。ここにはこう書いてあるよ。�すべての生き物に、ひとつの実体、ひとつの記憶、真実必要なのはそれだけだ�」  なつこさんが、首を曲げて本をのぞきこんだ。 「昇華儀式とは、余計な肉体を処分する儀式なのね」 「そうらしい。だからよほど、成熟した教徒でないと参加できないらしいよ」  わたしは、机に肘をついた。 「やりたい人が、やりたいことをするんだから、ほうっておいてあげればいいのに」 「良識のある大人にすれば、自分の価値観をくつがえすものは、すべて悪なんだよ」  椋くんは指をなめてペエジをめくった。 「茶室の日本刀のわけも、書いてあるんだぜ。茶の湯の緊張感を礼賛して、修行にとりいれているんだけれど、おもしろいことが書いてあるよ」 「なあに」 「従来の茶道は、客をもてなし、くつろいでもらうために、刃物の持ち込みは禁止されているのだけれど、ここでは、あえて、床の間に二振りの日本刀を置くんだ。いつ、だれがそれをとって、自分に斬りかかるかもしれない、ということを意識しながら、主人と向き合う。そして、斬りかかられても、逃げてはいけないことになっている。みんな、命を預け合いながら、一杯の茶を楽しむ、というわけだね」 「なにそれ、こわい」  なつこさんが、率直に口にした。 「でも、なんかわかるような気がするな」  たぶん、厳しい宗教なのだろう。道端で勧誘をしているような手合いとは、違うような気がする。  椋くんは本を、ぱたんと閉じた。 「見晴らし台へ行くんだろ。おれも、あしたになれば、絵を描きに行くよ」 「あしたになれば、あたしたちは行かないよ」  なつこさんはいじわるなことを言った。  二人で並んで玄関をでた。  見晴らし台に通じる坂道をのぼる。林のかげから見えかくれするものがある。きっとあれがそうだ。  道の脇には、石を濡らすほどの小さな川が流れていた。 「うー、ずいぶんあるね」  なつこさんの手には、ショートピースの缶と、マッチが握られている。景色のいいところで吸うつもりらしい。  お日さまはてっぺんにある。  殺菌灯のような光に曝されて、わたしたちはぶらぶらと歩いた。  ふたりとも頼りなく、右へよったり、左へよったりしながら歩いている。 「わかった」  なつこさんがふりむいた。 「なにが」 「ものごとのわからないひとって、多いよね」 「うん」 「そういうひとって、きっとわたしたちにできないことができるんだと思う」 「たとえば」 「まっすぐに歩くとか」  なつこさんはものすごく感心した。 「さかなをきれいに食べられるとか」 「まいにち、おなじ時間に起きられるとか」 「だからこれからわたしたちは、まっすぐな歩き方とか、さかなのきれいな食べ方を、時間をかけて覚えていけばいいんだよ」 「そうだね」 「そうだよ」  ふわっと視界がひらけ、目の前に、木を組んで作った見晴らし台があった。  さすがにここまで来ると、風が強い。なつこさんの茶色の髪が、いきもののように風に舞う。彼女は風からかばうようにして、缶ピーに火をつけた。  目が眩むほどだ。  わたしたちのねぐらが下の方に見える。まわりになんにも高いものがないせいで、空のまんなかにいるような気がした。  浜辺まではほとんど切りたった崖だ。ここから落ちればひとたまりもないだろう。  なつこさんはわたしにも缶ピーを差し出した。一本とって火をつける。  からい。  あまりたばこを吸わないわたしには、両切りの缶ピーはかなりハアドだ。少し咳きこんだ。 「おんなのこらしいね、あたしもそんなふうに、むせてみたいなあ」  缶ピーを吸っているようじゃ、一生むりだ。  浜辺には水泳組のすがたが見えた。  三人の区別はここからでもすぐつく。飛び抜けてのっぽなのが、守田氏。オレンジのワンピイスの水着ではしりまわる静香さん。うさぎくんは、海パンの上にTシャツを着ているので、おんなのこにさえ見える。 「かわいいなあ、うさぎくん」  なつこさんは、にやにやしている。 「ねえ、あの三人、へんだと思わない」 「なにが」  ふつう、一組の恋人とその友達という関係の場合、それを三角形にたとえると、いびつな形になるものだ。たとえばわたしとなつこさん、椋くんの場合を考えてみる。  椋くんとなつこさんの辺がいちばん短くて、そのつぎに、わたしとなつこさんの辺がすこし長い。そして椋くんとわたしがもっとはなれている。  だが、あの三人は正三角形のような親しさで接している。そして、それはひどくあやうい均衡だった。重心はすこし、ずれているほうが安定するものだ。完全な正三角形は、つぎの瞬間、崩壊の予感を漂わせている。不発弾を抱え込んでいるように。  決してひとは、ふたりと同時にむきあうことなどできない。ひとりでいるか、だれかとむきあうか、どちらかしかないのだから。  なつこさんは黙ってわたしの話を聞いていた。 「守田君は、松島さんがすきなのかな」  言われてはっとした。  だとすれば、彼がわたしに言ったことばの意味も、なぜ静香さんに言わなかったのかもわかる。そして、静香さんがわたしと彼を、なぜくっつけようとしたのかも。彼女は彼女なりにあやうさを感じ、重心をずらそうとしたのかもしれない。  ここにも一組、なにかが起こるのを待っている恋人たちが、いた。  しばらくわたしたちは、なにもしゃべらずにここにいた。  やりきれないほど、蝉の声がする。  凶暴な日盛りに犯されるような気がして、思わず目を閉じた。 「のたれじにしそうだ」  なつこさんは、無感動な声で言った。  戻ることにした。  夕方になれば、すこしは過ごしやすくなるだろう。もしくはひと雨くれば。  冬の寒さは自閉症をひきおこし、夏の暑さは分裂症の原因となる。神経が休まる季節なんて、ほんのすこしだ。 「またね」  手をふって自分の部屋に戻る。硝子戸を開ける前に、なつこさんが階段をあがるのを確かめた。ノブを回す。  部屋にだれかがいる気配はなかった。  なかに入る。  いきなり、強い力で引きずられた。  ふりむくひまも与えず頸《くび》に力がかかる。すねに激痛が走った。  目を閉じる一瞬前、刃物の冷たいきらめきを見た。  ころされる。  ぎゅうとつぶった目のなかで、紅いものが飛び散った。  もうすぐ、首筋に焼けるような熱さがあり、わたしは意識を失うだろう。  血はそこかしこを熱く濡らし、わたしの身体は生体活動をやめる。  もうすぐだ、もうすぐ、だ。  だがいつまでたっても、首筋に白刃が押しつけられるようすはなかった。 「にげないんだな」  わかっていた。こんなことをするのはひとりしかいない。  ゆっくり目を開けた。  鳥呼はわたしの頸を、うしろからしっかり抱いていた。だらり、とたれた右手には日本刀がにぎられていた。 「わかってたのか」  うなずく。 「おどろかそうと思ったのに」  鳥呼だということはわかっていた。けれどふざけていたことはわからなかった。  わたしは顔をそらせて、彼の顔を見上げた。 「別れたかったら、別れてもいいよ」  こころからそう思った。強がりでもなく、なげやりな気持ちでもなく。  いまなら、まだ間に合う。  プライドに苛《さいな》まれて、めちゃめちゃになるのはごめんだ。そのくらいなら、この場で最後の接吻をして、右と左にわかれてしまうほうがいい。そうして、あとの人生をおまけのようにして生きるのだ。  貴方がいた、という記憶だけを残して。  鳥呼はあいた方の手でわたしの頬にふれた。 「ごめん」  彼の表情を見ると謝らずにはいられなかった。  こつん、と額と額がぶつかった。  血が逆流して、彼のなかに流れこむみたいだった。  わたしたちは、ずいぶん長いことそうしていた。  奈奈子さんが彼を呼んでいる。その声は、ひどく遠くから聞こえるようだった。  石像が人に戻るようにわたしたちは、のろのろと身体を離した。 「いくよ」 「うん」  手に持った日本刀を鞘にしまい、わたしに渡した。  彼が庭へでて、二階に手をふる。  もう、薄墨を刷いたようにしっとりとした暗さが漂いはじめていた。  わたしはなにかをもぎとられた気がして、しばらく立ち尽くしていた。 「椋くん、今日の首尾はどうでしたか」  なつこさんが聞いている。 「余は満足じゃ」  なにを言ってるんだか。  みんなが再び顔をそろえたのは、例によって晩餐のとき。水泳組はさすがに真っ赤に焼けている。守田氏とうさぎくんは海水着のまま、席についていた。まるで日焼けで火照った皮膚の熱を、冷まそうとするかのように。  夕刻になると、ぐん、と涼しくなる。蚊が少ないのは、庭がきちんと手入れされているからだろうか。  ドアを開け放していると、食事の匂いにさそわれたのか、数匹のねこがあらわれた。急遽、ちくわやハムを出して、彼らにも振る舞うことにする。彼らはなかなか大胆で、いちばんおおきくて、きたない雉《きじ》ねこなどは、わたしの膝の上にどっかりと座りこんでいる。  守田氏は案外動物好きらしく、抱きたがって追い回していたが、ねこは守田氏が嫌いらしく、逃げ回っている。 「動物実験されると思うからじゃないの」  静香さんが笑いながら言う。 「心外だな」 「そんなでかい図体だから、こわいんだよ」  うさぎくんは、黒猫を抱きあげながら言った。  うさぎ、ねこを抱くの図。 「だから、あやめさんが気に入られているのか」  大きなお世話だ。わたしは、さっきからこの雉ねこに、あちらこちらを咬まれているんだ。 「椋」  鳥呼がホオクを置いて話しかけた。 「うちのやつ、部屋の鍵をこわしたらしくって」  奈奈子さんが、小さな声でごめんなさい、と言う。 「鍵を?」 「そう、奈奈子は鍵をこわす名人だから。怪力なんだよ」  とても、そんなふうに見えない。 「奈奈子さん、鍵かけてたの」  椋くんが訊ねる。 「ゆうべはかけなかったけど、今日、散歩するときにホテルみたいなつもりで、かけようとしたら壊しちゃった」  鳥呼は愛情の塊のような顔で笑った。  嫉妬。 「家の鍵もこわしたよな。机のひきだしの鍵も二度こわした」 「学生のころ、体育館の鍵と、音楽準備室の鍵を壊したら、だれも鍵をもたせてくれなくなって」  椋くんは、食事中にも拘らず、ジタンをくわえた。 「何だったら、部屋を替わってもらってもいいけど」 「いいの、よく考えれば他人が侵入することなんてないものね」 「だれか、鍵をかけているひと、いる?」  椋くんの質問にだれも手をあげない。  あたりまえだ。この島にはわたしたちしかいない。部屋割り時に鍵は各々もらったけど、手も触れていない。 「管理人さんに言っておいてくれないかなあ。ちゃんと弁償するし」 「いいよ、合い鍵は管理人さんが持っているらしいし、ふつうの鍵だから大したことないだろう」  奈奈子さんは舌を出して、もういちどごめんなさいを言った。  その日は前の晩よりずっと遅くまで起きていた。みんなでアルコオル漬けのまむしのように陽気になった。なつこさんはアコオディオンを抱きかかえながら、すっとんきょうな声で「アコオディオン」を歌った。  守田氏は、それを聞いて、 「なぜ、アコオディオンを弾かないんだ」  と、怒鳴り、なつこさんは、 「アコオディオンに聞かせてるんだ」  と怒鳴り返した。  食物は、食べられたり、食べられなかったりしながら冷えていった。  だれひとりとして、立派なよっぱらいでないものはなく、わたしはすこぶる満足した。  午前二時を過ぎるころ、みんなぽつぽつと部屋に戻っていった。わたしが寝ようとするころには、庭にはうさぎくんファミリィの三人が残って、ばかがつくほどの大騒ぎを続けていた。  シャワアを浴びて横になる。いっこうに眠くならない。なんども寝返りをうつ。  いつのまにか、庭は静かになっていた。  起きて、カアテンをずらして外を見る。部屋の明かりはすべて消えていた。どうやらわたしひとり、寝そびれたらしい。  酔いが身体の芯に残っている。微熱のようでなんだかやりきれない。  飲み直そうかな。  厨房にはいり、レェベンブロイの瓶をとってきた。こんなとき、隣の部屋だと楽だ。  おや、と思った。さっきはついてなかった奈奈子さんの部屋に明かりがついている。彼女も寝そびれたのだろうか。  庭へでて、常夜灯の明かりのとどかない、抱擁の像の足元へ座った。やはり、おんなひとり、庭の真ん中で酒をくらってる、というのはいい図ではない。  パジャマがわりに素肌にオーバーオール。ひどく風通しがいい。 「あやめさん」  急に呼ばれておどろいた。見れば二階の手すりからうさぎくんが顔を出している。 「起きてたの」 「ああ。そっちへ行っていいかな」  彼はブルウの縞の、絵に描いたようなパジャマを着ていた。 「うさぎくんも飲む?」 「そうだな」  厨房へ行って彼の分のビイルをとってくると、軽くくびをかしげて、受け取った。  顔にかかるさらさらの髪を、幾度もかきあげる。折れそうに細いくび、まぶしそうな目、特別製の男の子だね、と、こころの中で呟いた。  女みたいにきれいな男、というと、煽情的な小説によくある悪趣味な描写みたいだが、飄々としたうさぎくんには、そんなところはみじんもない。  北斎屋に彼が来はじめたころ、最初に騒いだのはなつこさんだ。 「ねえ、あの子かわいいと思わない」 「あ、かわいい。うさちゃんみたい」 「ほんとだね、うさぎくんだね」  何度めかになつこさんは本人の前で「うさぎくん」と呼ぶ失態をおかした。  うさぎくんはねむたそうな目で、なつこさんを見上げた。 「それってぼくのこと?」  あわてて二人で、うさぎくん命名のいきさつを説明し、コオヒイをおごった。彼は少しも気を悪くしたそぶりを見せなかった。豪快に笑って、むしろ気に入ったようだった。  それからわたしたちは、急速に親しくなった。彼が、もう二十八歳になっていること、バイトをしながら音楽をやっていること、マッキントッシュおたくであることなどを聞いた。  一度、なつこさんと、彼が演奏するのを聞きに行ったことがあった。彼は直立不動のままベースを弾いていたが、一曲だけ歌った。曲は、「ヴィナス・イン・ファアズ」だったが、あのうたを直立不動で淡々と歌う、うさぎくんにしびれた。 「なにをにやにやしてるんだよ」  うさぎくんに言われて我に返る。 「べつに」 「へんなやつ」  月がかげる。遠くで潮の音が聞こえた。人工の音から隔離されてみるとよくわかる。自然は無数の音を持っているのだ。透き通るような音、肉厚の音、ふるえるような、吐息にも似た、音。 「風がでてきたな」  四方を石の壁で囲まれた、この場所ではわからない。しかし、かわいた木の葉の音は、たしかに強くなっていた。  見上げると、奈奈子さんの窓に人影が映っている。その影をうしろから現れたもうひとつの影が抱いた。 「あ」  思わず声がもれた。うさぎくんも気がついたみたいだが、なにも言わず目をそらした。  いやなものを見た。夫婦なのだからあたりまえなのだけど、目《ま》の当たりにしたショックは大きかった。  下世話な冗談など言わないうさぎくんの存在がありがたかった。 「もうすこし、飲もうか」  どちらからともなく言い出し、こんどはうさぎくんがビイルをとりに行った。  それからはあまりしゃべらなかった。べつに伝えたいことなどなにもなかったし、彼だってそうだっただろう。ただ、少しずつ距離が近づいていることには気がついた。気がついていたが、自分でも気付かないふりをしていた。  最初に手をのばしたのは彼だった。  むきだしの肩がつかまれ、目の前に顔があった。キスする前に鼻面がぶつかり、ちょっと笑った。  こんな近くで、彼を見たのははじめてだった。肩のくぼみに顔をのせて、首筋の皮膚をじっと見ていた。彼の手はぎこちないあせりを見せて、オーバーオールの肩紐を探った。  うさぎくんの触れかたは鳥呼とはちがい、ひどく、くすぐったかった。  まるで、迷路のようだった。  なんどもなんども息をつきながら、わたしたちは出口を探した。ひとやすみのとき、わたしたちはよく笑った。うさぎくんの笑った顔はとてもよかった。  なんども確かめなおし、後戻りをした。うわごとのように、いろんなことをしゃべった。  空が白んでくるころ、わたしたちはやっと、からだをはなした。 「部屋に戻る?」  パジャマを身につけているうさぎくんに、寝台から起きあがったわたしが聞いた。 「何時頃かな」  わたしは腕時計を見た。 「五時少し前」  わたしはまた、くすくすと笑った。 「なんだよ」 「なんでもないよ」 「へんなやつ」 「うさぎくん、いいひとだね」 「いまごろわかったのか」  斜めに見上げると、うさぎくんは怒ったような顔をしてみせた。 [#改ページ] [#ここから4字下げ] 四 心臓の在処 [#ここで字下げ終わり]  シンバルのような悲鳴が、あたりにこだました。最初は夢の続きだと思った。二度目の悲鳴が聞こえたとき、はじめてなにかが起こったことに気付いた。  急いで服を身につけ外へ出る。むかいの部屋から出てきた椋くんと目があった。 「どうしたの」 「わからん」  見れば、奈奈子さんの部屋のあたりに、みんなが集まっている。わたしたちはらせん階段をのぼった。  静香さんがうさぎくんに、しがみついている。なつこさんと守田氏は、青ざめた顔で立っていた。鳥呼は窓枠の横でしゃがみこんでいた。 「なにがあったんだ」  椋くんがかけよる。わたしも行こうとしたが守田氏に手をつかまれた。 「女は見ないほうがいい」  大きなお世話だ。わたしはその手をふりきった。  硝子戸の中をのぞき込み、わたしは息を呑んだ。何が起こったのかはしばらく理解できなかった。四角い硝子に切りとられた光景は、絵を見ているように静かだった。  窓の内側は無惨絵のようだった。ベージュのカアテンや、絨毯が朱に染まっている。飛び散った血が、硝子に赤い痕跡を残していた。そしてその真ん中に、奈奈子さんがあおむけに倒れていた。白いワンピイスが、血でどろどろだった。向こうを向いているから表情はわからない。ただ、その光景はあまりにも現実離れしていた。しすぎていて、血に弱いわたしでさえ貧血も起きなかった。 「だめだ、鍵がかかっている」  椋くんが叫んだ。 「扉を破る。離れていろ」  椋くんは隣の部屋に駆け込み、椅子を取ってきた。シャツを脱ぎ捨てると、それで手をくるみ、椅子を硝子窓に叩きつける。二度、三度。わたしたちは遠巻きにぼんやりとそれを見ていた。  ひどい音がして、硝子が割れた。椋くんは手を中にいれて鍵をあけた。彼のむき出しの二の腕に血が滲む。部屋一面の血より、なまなましく、わたしははじめて気分が悪くなった。  わらわらとみんなが部屋にとびこんだ。むうっと血のにおいが外にまであふれてきた。とても、部屋にはいる勇気はない。見ればうさぎくんと静香さんも廊下に立ち尽くしている。  すこし離れたところに鳥呼はうずくまっていた。腕で顔をおおうようにして、肩を震わせている。その姿を見たとき、はじめてこの光景が現実味を帯びた。 [#ここから2字下げ] ——わたしになにかあったら、俊弥をお願い。—— [#ここで字下げ終わり]  自殺。という単語が頭に浮かぶ。  わたしのせいだ。  気付くと同時に身体の芯がすうっと冷えた。おそろしい、めまい。力がぬけ、わたしはやっとの思いで手すりにしがみついた。  落ちつくのだ。破れそうな鼓動に言い聞かす。  揺さぶられて、我に返った。鳥呼がわたしの肩をつかんでいた。目が真っ赤だ。 「だいじょうぶだ」  まるで自分に言い聞かせるように言う。わたしは泣き出しそうな顔でうなずいた。そのことばに何の意味もないことは、わかっていた。ただ、うなずかないと、わたしではなく彼がこわれてしまいそうだった。  彼はそのまま、部屋のなかへ入っていった。うさぎくんが後を追う。廊下にはわたしと、静香さんだけが取り残された。わたしはずっと、しゃがみこんでつめを噛んでいた。  数分後、椋くんをはじめとしてみんながでてきた。 「ばかにしやがって」  椋くんが吐き捨てるように言った。 「どうしたの」  つとめて平静を装って、椋くんに訊ねた。彼は返事もしない。うしろからきた、なつこさんが目で合図した。  様子がおかしい。そりゃあ人が死んでいるのだ。ふつうでいられるわけはないけど。  わたしたちはぞろぞろ、いままであまり使われなかった、居間に入った。  狭い礼拝堂を改装した居間は、吹き抜けになっている分、寒々しい感じだった。古いピアノも、ステンドグラスの窓も、ほこりをかぶり、疲れきったような表情を見せている。  部屋の中央に、硝子のテエブルがあり、その周りを、長椅子や、背もたれのない椅子、ロッキングチェアなどが、取り囲んでいる。この家の持ち主が、応接セットなどを嫌悪していたのが、伝わってくるようだ。  雰囲気が険悪だ。もしかして、と思う。  遺書が残されていて、それにわたしと鳥呼のことが書かれていたのだとしたら。  じっとりと背中が汗ばむ。だとすればこれから行われるのは、妻と友人を死に追いやった罪人の告発か。  守田氏がピアノの椅子に、長い脚をもてあますように腰掛けた。低いビロオドの長椅子に、残りのものが座るのを黙って見ている。わたしは助けを求めるような気持ちで、なつこさんの横に腰をおろした。  守田氏が口を開いた。 「矢島さんは、ゆうべいつまで奥さんと一緒にいましたか」 「部屋に戻るときに、廊下で別れてそれっきり……」 「じゃあ二時過ぎにみんなと別れてから会ってませんね」  なんだろう、まるで殺人事件の証人喚問みたいだ。奈奈子さんは自殺じゃなかったのだろうか。しかし、あのドアにはたしかに中から鍵がかかっていた。  いきなり、テエブルの下の足が蹴りあげられた。目の前でうさぎくんがこわい顔をしている。  なに、いったい。 「あ」  思わず大声を出した。十二の目が一斉にわたしに注がれる。うさぎくんのは、阿呆、という表情だったが。  わたしは、ごまかすために立ち上がった。 「待って、何があったのか説明して」 「ご覧のとおりさ」  守田氏はそっけなく言う。 「自殺じゃなかったの」  この単語を言うとき、唇がふるえるのがわかった。 「だれが自殺だなんて言った」 「つっかからないでよ」  なつこさんが感情を爆発させた。もともと狐のような目を、さらにつりあげて、守田氏にくってかかった。 「あんた、あやめさんにうらみでもあるの。部屋に入らなかったんだから知らなくて当然じゃない」 「なつこ」  椋くんが静かにたしなめる。なつこさんと守田氏は、子供のように顔をそむけた。気持ちがささくれるような気がした。  椋くんが、青白い顔で言った。 「あやめさん、あれは自殺なんかじゃない。奈奈子さんは刃物で喉や、胸を突かれて死んでいた。自分であんなことができるもんじゃない。それにもうひとつ、彼女が殺された刃物は、いくら部屋を探しても出てこなかった。いくら、中から鍵がかけられていても、間違いない、だれかに殺されたんだ」  気が遠くなりかけた。よろよろとあおむけに倒れかけたわたしを、両側のなつこさんと鳥呼があわててささえた。 [#ここから2字下げ] ——ミッシツサツジン—— [#ここで字下げ終わり]  単語が頭のなかで点滅する。だれが、どうして、なんのために。  もう一度、足をしたたか蹴られ、わたしはうさぎくんの顔を見た。  わたしとうさぎくんがかくし持っている秘密、そして疑問。さっき、声をあげてしまったのはそれに気付いたからだ。  すなわち、鳥呼ではないのなら、いったいゆうべ、奈奈子さんの部屋にいたのはだれ。  守田氏は気を取り直して、つづけた。 「これが部屋の鍵だ。チェストの上にあった」  彼がハンケチにつつんで差し出した鍵は、無惨に途中からねじ曲がっていた。キイホルダァには2−4と部屋番号が書かれている。 「矢島さん、こういう状態にしたのは奥さんですね」  鳥呼がうなずく。 「だから部屋の鍵は決して外からかけられない。内側からシリンダァ錠をおろさないとだめなんだ」  守田氏は一呼吸おいてから、みんなの頭にある文字を確かめるように言った。 「すなわち、密室ってやつですか」  重苦しい沈黙があたりを支配した。  ひとが、ひとを殺す。そんなことは小説世界にしかないと思っていた。わたしたちと同じ屋根の下で、わたしたちの友達が、だれかに殺される。しかも殺したのは、わたしたちのうちのだれかかもしれないのだ。  正直な話、自殺ならそれほど遠い気がしなかった。学生のころつきあっていた文学仲間には、自殺志願の奴が多かった。実際、実行に移せたものは、ひとりもいないにしろ。  わたしだって、ありとあらゆる自殺の手段を考え、それだけで救われたころもあったのだ。  だが、いままでわたしが人を殺したいと思ったことは。  ああ、ないとはいえない。  学校を卒業して、一年だけ働いた職場に、いやなおばさんがいた。ロッカァ室でわたしの下着姿をなめるようにみた。ものをわざと高いところに置き、わたしが届かずに、椅子を使って取るところを見て、気が狂ったように笑った。  うっとうしい、心から思った。  蝿をたたきつぶすように、鈍器で後頭部をどやしつけ、脳髄が飛び散れば気持ちいいだろうな、と考えた。ただ、そんなばばあのために、罪人になるのはごめんだった。絶対わからない殺し方があれば、あるいはやったかもしれない。  ただ、そのおばさんはわたしにとって、ひとでさえなかった。  もうひとつ、二十代の初め、わたしには恋人がいた。一年ほどの色恋のあげく別れた。原因は、恋人が、わたしの友だちを好きになったことだった。  はっきりそう言われた日、わたしは、駅のトイレで泣いてから電車に乗った。死んでしまえばいい。死んでしまえばいい。電車のなかでずっとそう思っていた。憎んだ。胸がすっぱくなるほどに。  そのつぎの日わたしは、彼が交通事故にあったことを知った。絵を描いていた人だったのだけれども、右手にひどいけがをしたことも。  その日からわたしは、人を憎むことをやめようと思ったんだ。  だが、そんな事件さえなかったら、わたしは彼に殺意を抱いたかもしれなかった。好きだった分、強く。そうしてなにかのきっかけで、かんたんに実行に移したかもしれない。その人のことは、とても好きだった。だから、その考えはひどく甘美だった。  そうだ、好きだったなら、殺せる。  となりのなつこさんがびっくりした顔でわたしを見た。考えに夢中になって、つい口が動いてしまったらしい。  なつこさんがしっかりうなずいた。 「そうよ、きっとそうだよ」  みんなの目がなつこさんに集まる。 「殺した人は奈奈子さんが好きだったんだよ。だって、そうじゃないと心臓を取って持って行くわけがないもの」  一瞬にして空気が止まった。  みんな、なにが起こったのか理解できてないようだった。なつこさんは、自分のことばが呼び起こした波紋に、きょとん、としている。 「どういうことだ」  椋くんが叫んだ。 「だって、みんな気がつかなかったの。服でかくれていたけど、胸元におおきな傷があって、心臓が、なかったよ」  なつこさんは半べそをかいている。  最初に部屋を飛び出したのは、鳥呼だった。椋くんと、守田氏が続く。うさぎくんはしばらく迷っているようだったが、結局、腰をおろした。  しばらくして、三人の勇敢な男たちは戻ってきた。 「なつこの言った通りだったよ」  椋くんは力なく言って、腰をおろした。 「どういうことだ、これは」  答を出せるものはいなかった。  守田氏が、この陰鬱な空気に見切りをつけるように口を開いた。 「とにかく、いまの時点でわかっていることを整理しよう」  だれも異論はなかった。 「専門家じゃないからはっきりとは言えないけど、死後硬直の感じから、殺されてから五、六時間はたっていることがわかる。みんなゆうべが遅かったから、発見も遅れて十時過ぎ、つまり今朝、四時から五時までが犯行時刻だ。それより早いことはあっても、遅いことはないと思う。どうだ、この時間にアリバイのある奴は」 「気に入らないな」  椋くんが不愉快そうに口の端を曲げた。 「犯行時刻だの、アリバイだの、そんな推理小説みたいな単語は聞きたくない。おれたちの仲間が死んだんだ」 「あんたは仲間だったかもしれないが、おれには他人だね」  鳥呼が立ち上がった。いまにも殴りつけそうな感じで、わたしは彼の腕にしがみついた。  これ以上もめごとを起こしたくない。 「それに感情論に走ってどうなるんだ。犯人、いや殺した奴を見つけたいだろう」  椋くんは黙った。しかし守田氏も椋くんの言い分を認めたらしく、ぎこちない調子で言い直した。 「その時間、だれかと一緒にいたり、なにかをしてたり、つまり、奈奈子さんを殺してなかったことを証明できる奴は」  わたしとうさぎくんの目があった。わたしは目で合図した。うさぎくんがうなずく。 [#ここから2字下げ] ——ダマッテイヨウ—— [#ここで字下げ終わり]  みんなの沈黙を代表して、静香さんが口を開いた。 「そんな時間、みんな寝てたわ」  みんな、ばらばらにうなずく。 「当然だろうな」  待ってましたとばかりに、静香さんが反論にかかる。 「そんなことばかり言って、わたしたちのうちに犯人がいると思っているの。この島にわたしたち以外の人間がいないなんて、どうしていえるの。こんな島、H島からボートで簡単にこられるじゃない」 「稀代の殺人鬼が林に隠れている、なんていうんじゃないだろうな」 「ありえない話じゃないわ」 「そうだ、ありえない話じゃない、でもそれ以上に、この中に犯人がいる確率も高いんだよ」  静香さんはうつむいた。たぶん、彼女自身も自分のことばを信じていないと思う。ただ、ヒステリックになっているだけのように見えた。  守田氏はだまりこくってしまった静香さんを、なだめるように言った。 「静香のことは、だれもうたがっていない」  静香さんは答えなかった。 「うたがわれているのはぼくですか」  鳥呼が皮肉っぽく口を歪めた。彼がこんな話し方をするのをはじめて聞いた。  守田氏は無視して話を続けた。 「つぎに凶器だ。あやめさん、台所には包丁が何本あった」  出刃がひとつ、菜切り包丁がひとつ、果物ナイフがひとつ、そうして持ってきた果物ナイフと万能ナイフがひとつずつ。 「見に行こう」  わたしたちは、ぞろぞろと立って、寒々しい厨房へ行った。引き出しをあけて確かめる。刃物類は、昨日のままだった。 「数に変わりはないけれど」  守田氏はこともなげに言った。 「一度使って洗ったかもしれないさ」  ぞっとした。あわてて、引き出しを閉める。 「まあ、わからなくて当然だ。自前の凶器かもしれないしな」 「あ」  なつこさんが間の抜けた声をあげた。 「どうしたの」 「あの、茶室の日本刀」  言われてはじめて思い出した。しかしあそこには、わたしの部屋からしか、出入りができない。 「たしかめてみようぜ」  守田氏は、ごく当然のように言った。  厨房のとなりのわたしの部屋に入り、くぐり戸を開ける。日本刀はちゃんと床の間に揃っていた。守田氏は、腰の所から二つに折るようにしてなかに入った。つづいて、わたしと椋くん、鳥呼が入る。  守田氏は長い方の刀を手に取った。すうっと抜くと、研ぎ澄まされた、涼しげな白刃があらわれた。 「みごとなものだね」  そんなのんきなことを言っている。もう一方の朱鞘の差し添えに手をのばす。  こちらのほうは固いらしくなかなか抜けない。 「椋さん、ひっぱってくれますか」  ふたりで刀を引っ張りあう。こんなときだが、忠臣蔵の七段目を、思いだした。  ある瞬間、すぽんと刀が抜けた。 [#ここから2字下げ] ——やあやあやあ、錆びたりやな赤鰯—— [#ここで字下げ終わり]  だが現実はそんなにのんきなものではなかった。  刀には血がべっとりとついていた。  守田氏は笑いながら振り向いた。 「名探偵だね、なつこさん」  信じられない。血を目の当たりにしたこともあり、ひどくめまいがした。守田氏は獲物を手に意気揚々と茶室を出ていく。 「凶器発見だ。こりゃあことによったら、この部屋の住人が犯人かもしれないな」  欠席裁判なんてごめんだ。わたしはあわてて後を追った。だが、どう考えてもいいわけはできなかった。  あの朱鞘は、鳥呼がふざけて持っていたものだ。たしかにあのときは血などついていなかった。わたしが自分の手で茶室に戻したのだ。 「待てよ」  鳥呼が守田氏を制した。 「本当にそれで奈奈子が殺されたと言えるのか。見ろよ、血は完全に乾いて固まっている。ぼくたちが来る前から血に汚れていなかった、という証拠があるのか」  べっとり、と思ったのはわたしの見まちがいだった。血が苦手なものだから正視できずにそう思ったのだ。実際、血は乾いて茶色に変色していた。 「それは、警察が調べることだ」  鳥呼は何を言っているのだろう。その刀が血塗られていなかったことは彼も知っているはずなのに。 「あやめさん、この刀を抜いてみたかい」  彼の目が言ってた。 [#ここから2字下げ] ——ボクニマカセテ—— [#ここで字下げ終わり] 「そんなこと、考えもしなかった」  うまいぞ、事実、わたしは抜いていない。 「そんな不確かな証拠で、犯人をうんぬんするのはやめてくれ、そんなことじゃ奈奈子も」  鳥呼は苦しげに唇をかみしめた。 「浮かばれない」  それはたしかにもっともなことばだった。 「すまない」  守田氏は案外素直に謝った。 「つい、気が立ってしまって」  わたしたちは、気が抜けたようになって、居間に戻った。気がつかなかったが、ひどく空が暗い。もう昼過ぎなのに、早朝のような空気だ。  ただ、あの日本刀だけはどう考えても不思議だった。鳥呼から受け取って茶室にしまったあと、夕食の準備をするために、部屋を出た。しかし、そのころには、中庭にうさぎくんや、静香さん、守田氏が戻ってきていた。わたしやなつこさんも、庭に出たり入ったりしたし、だれかがわたしの部屋にしのびこんだりすれば、すぐわかるはずだ。  夕食から寝るまでは、みんなで庭にいた。そして、庭にだれもいなくなってからは、わたしとうさぎくんが、わたしの部屋にいたのだ。奈奈子さんが殺されたと思われる時間の、端から端まで。  可能性として、夕食の準備の隙を見て、と、わたしが厨房にビイルを取りに行っている間、というのが考えられるが、どれもあまりにも、あやうい冒険だ。  なぜ、そんなことまでしてあの日本刀をつかわなければならないのか。  ましてや、一度使って血に濡れた刀を、もう一度茶室にしまうなんて、どう考えても不可能だ。いくら寝ているといったって、ドアも、引き戸も開けるときにかなりの音がする。目が覚めないわけはないのだ。  ならばあの血はいったい。  あの、白刃は、たしかに一度わたしの首に突きつけられた。あの時見た、目の裏の紅いものは幻影ではなく、切り落とされたわたしの首が、空中を旋回しながら振りまく鮮血だったのか。  そうして、あの時わたしが死ななかったことが幻影で、あの血こそがわたしの頸動脈から噴き出した血潮かもしれないのだ。  めまいがした。首筋に手をやってなぞってみる。濡れた様子はない。  わたしは、殺されたようにぐったりと、長椅子の背もたれに顔をまかせた。けばだった感触が頬にいたい。 [#ここから2字下げ] ——あやめさん、どうしたの—— [#ここで字下げ終わり]  だれかの声がやけに遠くから聞こえた。 [#ここから2字下げ] ——まいっているんだよ、きっと—— [#ここで字下げ終わり]  まいっている、どころではなかった。もう今朝から何度、おどろいたり、めまいを起こしたりしていることか。  こんなのは、わたしの好みじゃない。  脊髄のあたりが重苦しく、ものを考える気にもならなかった。  みんなは、密室について議論しているようだった。守田氏は、シリンダァ錠の、糸と、ピンセットを使ってのかけ方について一席ぶった。うさぎくんは、うさぎくんで、はめ殺しの、明かりとりの窓にこだわっているようだった。少なくとも、みんなの意見の一致をみているのは、あの部屋にはわずかばかりの隙間もない、ということだった。  もうたくさんだ。なにもききたくない。急に涙がこぼれてきた。  みんながおどろいてこちらを見る。 「みんな、ためしてみればいいんだよ。成功した人が奈奈子さんを殺した人なんだから」  それだけ言うのがやっとだった。  うさぎくんが気まずそうな顔をして、わたしに、格子柄のハンケチを差しだした。椋くんはわたしに、部屋で休むよう言った。わたしは首をふった。  なつこさんが、けりをつけるように言った。 「とにかく、警察に知らせなきゃ。椋くん、早くボォトを出して、H島に行って」  椋くんは返事をしなかった。  そういえば、さっきから彼はほとんどしゃべっていない。なにか困ったことがあれば、率先してみんなを引っ張っていくタイプの彼にしては、不思議なことだった。  顔に血の気がない。考えごとに耽っている、というより、なにかを思い切ろうとしているように思えた。神経質に、大腿のあたりを指でたたいている。 「椋くん、はやく」 「だめよ」  甲高い声がひびいた。見れば静香さんが立ち上がって、こぶしを震わせていた。 「だめよ、だめ。その人が犯人だったらどうするの。わたしたちをここに閉じこめて、遠くに逃げてしまうかもしれないのよ」  椋くんは静香さんを見上げた。腹をたてている様子はなかった。ただ、なにかめずらしい生き物を見るような目で、彼女を見ていた。  うさぎくんが、静香さんの肩をつかんで座らせた。 「何を言ってるんだ。いい加減にしないか」 「さっきは、仲間を疑うな、とか善人面したくせに、よく言うな」  守田氏があきれ果てた調子で言う。おや、と思った。  彼の声からは、静香さんに接するときのやさしい様子は消えていた。  静香さんは、おどろいたように守田氏を見つめ、それから、火のついたように泣き出した。  白けた空気があたりを埋めた。  やってられない。  椋くんが感情的にならないことだけが、救いだった。彼はジタンを口のはしにはさんで、火をつけた。  しかし、静香さんが言っていることも決してまちがっているわけではなかった。だからこそだれも、彼女の意見を無視することはできなかった。ただ、ここでそれを言い出すこと自体が、まちがっていた。  誰かが殺したのかもしれない。  その疑いは、みんなの胸の中にどす黒く溜まっているものだった。だが、それを言い出せば、わたしたちの間の最後の糸が切れてしまうような気がした。  罵り合い、疑い合う。そんな状態に陥ることだけは避けたかった。  うさぎくんは決心をするように、 「ぼくも行く。ぼくも椋さんと一緒に行くよ、それでいいだろ」 「だめよ、ユキヒロも殺されてしまうわ。どうしても行くなら、犯人じゃないことを証明して」 「証明は、できない」  椋くんは静かに言った。しぼりだすような声だった。 「証明はできないし、するつもりもない」  手に持った煙草がどんどん短くなってゆく。彼はそれを親指と人差し指の間で、握りつぶした。じゅっ、といやな音がして、なつこさんが小さな悲鳴をあげた。  椋くんは立ち上がると、テエブルの脚を力まかせに蹴った。すくみあがるほど、大きな音がした。 「あんたら、いいかげんにするんだな。自分が犯人でもなく、被害者でもないことがそんなにうれしいのか。なにもしなかったことがそんなに立派なことなのか。もう少し、考えてものを言うんだな」  彼はあごをしゃくって、周りを見回した。 「それに、やったやつもやったやつだ。殺したければ、殺せばいい。そいつの勝手だ。だがな、我慢できないのは、このふざけた態度だ。密室にしたり、心臓をえぐりとったり、小賢《こざか》しいまねばかりしやがって。人の死とむきあうのなら、それなりの礼儀ってものがあるだろう」  殺人に作法があるのかどうかは知らないが、わたしたちは、椋くんの剣幕にすっかり毒気を抜かれてしまった。それほど大きな声ではなかったが、その分すごみがあった。  彼は怒っていた。暗く、根深く。  彼はジインズのポケットから、赤い硝子のキイホルダァの鍵をとりだした。 「見てろよ、これがボォトのキイだ」  そう言い捨てると、中庭に飛び出した。  そのまま庭を走り抜け、玄関の方へ向かってゆく。  なつこさんがわたしの手を引っ張った。 「追いかけよう」  うなずいて、後を追う。外に出ると冷たい空気が頬に触れた。庭を抜け、重い玄関のドアを開ける。  しばらく何が起こっているのかわからなかった。  目の前にはなにも見えない。ただ、乳白色の世界がつづいていた。  さっきからの暗さの原因はこれだったのか。  濃霧だった。  十メエトル先もわからない。  きのうまで見えた、海も、空も、目の前の砂浜さえ霧によって消失させられていた。  後から追いかけてきたみんなが、息を春むのがわかった。 「椋くん」  なつこさんが呼んだ。  返事はない。  わたしたちは、おぼつかない足どりで彼を探しはじめた。触れられない障害物はかなりやっかいだった。手で掻き分けようがどうしようが、視界は晴れない。おまけにひどく寒いのだ。  やっとのことで、青いダンガリイの背中を見つけたときには、泣きそうになるくらいうれしかった。 「椋くん」  彼は振り向いた。  みんながわたしの声を聞いて集まってくる。  椋くんは、海がすぐ真下に見おろせる崖のところに立っていた。 「近づくな。そこで見てろ」  椋くんの命令に逆らう勇気のあるものは、ひとりもいないらしかった。  みんな息を呑んで立ち尽くしている。その様子がおかしかったのか、椋くんはちょっと笑った。  そうして、海に向かってなにかを投げた。  ひゅん。  くるくると旋回しながら霧に消えるものを見て、わたしは声をあげた。  赤いキイホルダァ。  椋くんは、うすい笑いをうかべながら振り向いた。 「もう、ボォトには乗れない。H島へもわたれない。警察もこない。さあ、殺人犯人さん、あんたのお手並み拝見といこうじゃないか。密室殺人のつぎは、おきまりの連続殺人だろ。あんたのすることは、全部おれが見届けてやるよ」  しばらく、なにもしゃべるものはいなかった。最初に静香さんが、悲鳴のような声をあげた。 「どうして」  守田氏が、信じられないといった様子で、叫んだ。 「ばかな。気でも狂ったのか」 「最初に言ったはずだ。おれは、おれのやりたいようにする。どうせ、五日たってH島に行かないと管理人がやってくるだろう。警察には本当のことを言えばいい」  鳥呼はつかつかと椋くんの方へ歩いた。いきなり胸ぐらをつかみ、殴りつけた。  続けざまに二度、三度。椋くんは足元に崩れ落ちた。  椋くんは、鳥呼を見あげて微笑んだ。 「あんたには、殴られてもしかたないと思ってたよ」  鳥呼は口をひき結んだまま、きびすをかえし、早足で家に戻っていった。  椋くんもゆっくりと立ち上がり、後につづいた。  だれも、後を追うものはいなかった。 「やっぱりそうよ」  静香さんが涙まじりの声で叫ぶ。 「やっぱり、あの人が犯人なんだわ。わたしたちをこの島に閉じこめて、ひとりずつ殺すつもりなのよ」  びしっ。小気味のよい音がして、うさぎくんが彼女を張り倒した。 「ここにいるのがいやなら、泳いで帰るんだな」  冷たい語調だった。恋人にあんな言い方をされたらたまらないだろう。わたしは思わず顔をそむけた。  うさぎくん、つづいて守田氏も、濃霧のむこうに消えていった。  後には、わたしとなつこさん、泣きじゃくる静香さんが残された。 「ミルク瓶のなかに、閉じこめられたみたいだね」  なつこさんはおどろくほど陽気に言った。この霧はまさにそんな感じだ。  わたしは弱々しいため息をついた。 「どうなってしまうんだろう」 「ううん」  なつこさんは、海があるはずの方を向いて苦しげに笑った。 「冗談みたいに言うけど、正直な話、ひどく寒いよ」 [#改ページ] [#ここから4字下げ] 伍 濃霧に抱かれて [#ここで字下げ終わり]  家に戻ると、中庭に守田氏と、うさぎくんの凸凹コンビがいた。二人とも憮然とした表情をしている。 「静香は?」  うさぎくんが訊ねた。 「部屋に帰った。薬が効きすぎたみたいだよ」 「いいんだよ。あんなことは言うべきじゃないんだから」  今朝はだれも栓をひねらなかったらしく、抱擁の像は水を出していない。乾いた木肌がざらついていた。しかし、こんな霧の日に噴水などごめんだった。  空気がひどく肌寒い。みんな冷房が効きすぎたときみたいに、青いくちびるをしていた。  なつこさんは、おそるおそる、どうやら少しだけおなかがすいたみたいだと言った。  うさぎくんと守田氏も、別におなかはすかない、すかないが、やはりすこしは食べたほうがいいと思うと言った。  よく考えれば、ゆうべからなにも食べていない。時計は二時をまわっていた。わたしとなつこさんは、なにか食べるものを用意することにした。  五日目の夜になれば、管理人さんが助けにきてくれるだろう。それまで、何とか持ちこたえなくては。  おむすびと、具の入っていない味噌汁をつくり、庭のテエブルに置く。熱い日本茶を飲むとようやく人心地がついた。  うさぎくんと、守田氏はひたすらぱくついている。自分の作ったものを人が食べているのを見ることは、なんとなくすきだった。  わたしたちは、まだ生きている。  そう考えると、やっと食べる気になった。 「椋くんに、持っていってあげなくてもいいの」  そう言うと、なつこさんはおむすびをほおばりながら、 「いいんじゃない、おなかがすいたらでてくるよ」  と言った。  彼女はいつもこうだ。いつか彼女から聞いたが、落ち込んでいる人の最高の慰め方は、立ち直るまでほうっておくことらしい。わたしが何かあって落ち込んでいても、ほうっておかれたものだが、確かに下手な慰めかたより、心地が良かった。  食事はきれいに片づいた。うさぎくんが洗い物をすると言ったが、身体を動かしてると気がまぎれるから、と断った。  厨房に皿を運ぶ途中に、なつこさんが低い声でぼそっと言った。 「だれが、奈奈子さんみたいな人を殺したいと思うんだろうね」  わたしは振り返らなかった。顔を見られれば、動揺を悟られてしまうような気がした。 「さあね、あ、あとはいい。わたしがするから」  なつこさんの去った後の洗い場で考える。  たぶん、このなかで一番、奈奈子さんを殺して得をするのはわたしだろう。みんなに知られていなかったからいいようなものの、そうでなかったら、まっさきに疑われても仕方がない。いや、そうでなくても、警察が調べれば、すぐにわかってしまうだろう。  あの人を嫌っていなかった、といえば嘘になる。けれど、殺したいなんて思ったことはない。鳥呼が、椋くんを殴ったときのことを思い出す。あんな彼を見るのは、はじめてだった。そして、死んでなお、奈奈子さんは彼の心をとらえ続けていることを、痛いほどわからされた。  かなわない。死んでしまった人にどうやって勝てというのだろう。  それよりも、あの人自身に疑われることが、怖い。日本刀だ。あの血塗れの日本刀。あの人は、わたしが殺したと思ってはいないだろうか。みんなの前ではわたしをかばっても、心の隅に、抑えようのない疑惑を抱いていないだろうか。  それにしても、どうしてこの皿の汚れは落ちないのだろう。洗えば洗うほど汚れてくるみたいだ。さっきからこんなに力をいれて洗っているのに。 「あやめさん」  急になつこさんの声がした。流しにつっこんだ手をつかまれて、ひっぱられる。 「なにしてるの」  彼女の剣幕に我に返った。  見れば皿がひとつ割れている。その破片で切ったらしく手首から血が流れて、あたりを赤く浸していた。 「ああ」 「ああじゃない」  なつこさんは、上ぶきんをとってわたしの手をつつんだ。白いふきんが、みるみるうちに赤く染まる。わたしはぼんやりそれを見ていた。目に映るものが、何だかぼやけているようだった。なつこさんはわたしの髪を撫でた。 「だいじょうぶだよ」  さっき、鳥呼にも言われたことばだった。その声は、とても遠くから聞こえてくるようだった。わたしは堰《せき》をきったように泣き出してしまった。血まみれの手で顔をおおう。涙が頬にしみて、痛かった。 「だいじょうぶ、だいじょうぶだから」  なつこさんは、男のようにわたしを抱きしめた。  わたしとなつこさんは、ずいぶん、彼らを驚かせてしまったようだった。  無理もない。あんな事件の後に、手首から血を流して泣いている友人を見れば、だれだって何事かと思うだろう。  なんでもないのだ、と言うわたしたちの話を聞かず、うさぎくんと守田氏はひとしきり大騒ぎをした。 「お皿を洗っていて切ったんだよ」 「なんだ、おどろかせるなよ」  勝手におどろいたくせに。  それでも守田氏はどこからか救急箱を持ってきて、包帯を巻いてくれた。もう、すっかり血は止まっていたのだけれど。  わたしたちは、また、テエブルをかこんで座った。だれも、部屋へ帰る気にはならないようだった。  守田氏は、テエブルに肘をついて、何度目かのため息をついた。 「とんでもないことに、なっちまったよな。椋さんは、いったい、どういうつもりなんだ」 「どういうつもりって」  なつこさんは、新しい缶ピーを開けながら訊ねた。 「殺人犯人を、挑発するようなことを言うなんて」  しかし椋くんの性格からいって、あのことばに他の意味があろうとは思えない。  うさぎくんが、おそるおそる、切りだした。 「もしかして、海に投げたのはモォタァボォトのキイじゃないんじゃないか」 「それって、どういう意味」 「どう考えても不自然だよ。自分で自分を危険な状能だ追いやるなんて」  なつこさんは、呆れたように、 「逆上してたんだよ。ふつうの判断力がなくなってたんじゃないの」 「それにしてもさ、ぼくたちがみたのは紅いキイホルダァだけだろ。椋くんが別の、例えばアパアトのキイを、ボォトのキイだって言ったかもしれないだろう」  それを聞いて、なつこさんは、気色ばんだ。 「そんなことして、彼にどんなメリットがあるって言うの。うさぎくんまで、彼が犯人だなんて言う気」 「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」 「うさぎくん」  彼は血の気のない顔をあげて、みんなを見回した。 「椋くんはひとごろしなんかしない」  なつこさんがそう叫ぶ。 「たぶん、そうだとぼくも思ってる。でも、そういいだせば、誰ひとりとして犯人らしい人なんかいない」  正論だった。だが正論を持ちだしたうさぎくんが憎たらしかった。 「まあ、別にぼくは椋くんが犯人だなんて言いたいわけじゃない。たとえばこんなことも考えられる。犯人にとっては、警察がくることはありがたくないことだろ。椋くんは、犯人に油断をさせようとしたのかもしれない。警察がしばらく来ない、と判ったら、犯人は安心して、どこかで、ぼろを出すかもしれないしな」 「可能性、としてはおもしろいし、そう望みたいところだけど、そんなことをして、たいして意味があるとは思えないな」  守田氏は、却下するように冷たく言った。  なつこさんは靴で地面を削りながら、 「気になるなら椋くんに確かめてみたら。たぶん、そこまで考えていないと思うけど」  どう考えても、椋くんは、あまり小細工を弄するタイプではない。  うさぎくんは、小首をかしげて、 「そうしてみるよ」  と言った。  この家の中にいる限り、あんなに霧が濃いようには思えない。もともと狭いこの庭では、さえぎられるほどの視界もなかった。ただ、灰色の壁にも、青銅色のらせん階段にも、すべて乳白色のフィルタァがかかっているようだった。空気に、白い液体を混ぜてかきまわしたような、もどかしい濁りがあった。  本当に、この霧の中から抜けでるすべはないのだろうか。 「ねえ」 「どうした、あやめさん」 「見晴らし台で、懐中電灯を振ってみたらどうかな。あんなに近いんだもの。H島のだれかが、気付いてくれないかな」 「どうだろうな。可能性はあるけれども」  渋る守田氏に、きっぱりと言った。 「なにもしないより、いいよ。懐中電灯は」 「椋くんが持ってる」  なつこさんの返事より早く、わたしは玄関脇の椋くんの部屋に駆け込んだ。 「椋くん、椋くん」  彼はこちらに背中を向けて、煙草を吸っていた。 「なにか用事ですか」  向こうを向いたままで言う。いやなやつ。 「懐中電灯、どこ」  やっと、こちらを向いた。一応怒っているふりをしてるが、その表情には、ばつの悪さがありありと浮かんでいた。ふだんあんまり、怒ったりしない彼だけに、感情を爆発させたあとは、気恥ずかしいらしい。 「その、テント地の鞄の中」 「あっそ。借りるよ」  こんなとき、当たり前っぽく言うのが、彼に抵抗させないコツである。わたしは自分で鞄をあけて、懐中電灯を取り出した。  見れば椋くんはまた、あさっての方を向いていた。  そのまま、玄関を出る。  心なしか、霧が薄くなったような気がした。わたしは見晴らし台へ行く坂道をのぼりはじめた。  急な傾斜の先は見えない。白い帳《とばり》が視界をさえぎっているようだった。わたしは曇った道をずんずん行った。両側の林が、道におおいかぶさってくる。昨日に比べて小川がずいぶん、水かさを増していた。  まがりくねった瘤をいくつも作った、ごつごつした形の樹が、何本もあった。  おどかされないよ、と思う。 「幽霊の正体見たり、枯れ尾花」  呪文のようにつぶやきながら歩いた。  さっきから、かなり気分が楽になっていた。いつもそうだった。長い時間、いやなきもちだったり、うれしかったり、かなしかったりすることはなかった。そんな感情は、一瞬、身体を駆け抜けてどこかに消えてしまった。  あとは、そんな気持ちを憶えているだけだった。  小学生のとき祖母が死んだ。悲しかった。つぎの日の朝、洗い物をするように言われたわたしは、いつものようにうたを歌いながらした。  すると、母にぶたれた。 「なんて子なの」  母は目に涙をいっぱいためて言った。わたしのなかでは、祖母が死んでかなしいことと、いまうたを歌うことは、まったく別だったのだけれど。  鳥呼のことを好きだ、と思うのもいつもほんの一瞬だった。その切ない一瞬を、他の時間で水増ししながら生きていた。ほとんどの時間は、彼などいなくても平気だった。  わたしは確かに無感動な人間だった。  見晴らし台は、霧の中に突き出るようにして、その全体像を、曝していた。  台の上にたち、H島に向けて懐中電灯をかかげた。大型なので思ったよりも重い。  届くだろうか。不安が頭をよぎる。霧のせいでひかりの道筋は見えない。精いっぱいの力で振った。  何分かがたった。  肩がきしむ。少し休んではくりかえす。三十回も大きく振れば、腕は悲鳴をあげる。  軟弱ものめ。自分でも情けなくなる。わたしは、地面にすわりこんだ。  霧の向こうからだれかが近づいてきた。  走っているようだった。 「あやめ、さん」  息が切れているから、言葉も途切れがちになる。鳥呼だった。 「よかっ、た、なんと、もなかっ、た」 「なにがあったの」 「なにがあったの、じゃない」  彼は子供を叱るときのように、怖い顔を作った。 「こんなときに、ひとりで外に出るなんて無防備過ぎる。何が起こるかわからないのに」  そう言われれば、そうだ。まったく気がつかなかった。 「下から明かりが見えなかった」 「いいや」  だとすれば、H島にも届いていない可能性が強い。 「夜になれば、目立つようになるんじゃないか」  かもしれない。するといままでのは無駄な骨折りだったことになる。 「すごいな、異次元に迷いこんだみたいだ」  彼は下をのぞき込んだ。  もしかして。 「心配して、来てくれたの」 「そう言ってるだろう」 「ごめんね」  数秒の間。 「そんなときは、ありがとうっていうんだ」  こんなとき、好きだと思うのだ。  不思議な感じだった。たしかにこの島にきてから少しずつ、彼との関係が回復していた。癒されることなど、ありえない、と思ってばかりいたのに。一時はひとこと、ことばを交わすたび、こころがささくれるような気がしたのに。  砂時計の砂が落ちるような、時間が流れた。  わたしはまっすぐ彼を見た。 「わたしがころしたんじゃない」 「わかった。信じるよ」  嫉妬だとか、独占欲だとかはひどく自分を苛むものだ。それを抱くことはやめられなくても、どこかで空気を抜いてやらなければならない。恋人に絵を失わせた日に、わたしはそれを知った。 「ぼくのことも信じてくれるか」  うなずく。貴方がどんなに奈奈子さんを大切に思っていたか、それはわたしがいちばん、自分の痛みとして知っているのだ。  鳥呼は片手でわたしの首をつかんで引き寄せた。まるで猫の子にするみたいに。 [#ここから2字下げ] ——わたしになにかあったら、俊弥をお願い。—— [#ここで字下げ終わり]  接吻をこばんだわたしを、彼は誤解したみたいだった。 「ごめん、不謹慎だった」  そうじゃない。わたしは首を振った。  奈奈子さんは言うなと言った。だけどこんなことになってしまった今、隠さない方がいいような気がした。 「奈奈子さんは、殺されることを知ってたよ」  彼の顔から血の気が引いた。 「どういう意味だ」  わたしの肩を恐ろしい力でつかんで揺さぶった。痛みにあとずさると、彼ははっとしたように手をはなして、顔をそむけた。わたしはきのうの朝の出来事を説明した。  彼はしばらく口をきかなかった。 「ぼくのいうことをきいてくれるかい」  かすれた、楽器のような声だった。 「奈奈子の昔のことは本当になんにも知らない。ただ、家がやくざとかかわりあいになって、そうとうひどい目にあったことがあるらしいんだ。おととい、あの管理人が、奈奈子を変な目つきでみていた。そのときは、たいして気にしなかったけど、今思うと、彼女の過去に関係のある男かもしれない」  奈奈子さんの部屋の窓に映った影、そしてそれを後ろから抱く、もうひとつの。  あのときは、胸を焼かれるようだった光景が、けがらわしく、思い出される。見たことを彼に伝えるのはためらわれた。  ある考えが浮かぶ。 「ねえ、あの管理人が殺したんだったら、鍵のことも説明がつくよ。あの人は合い鍵を持ってるんだもの。奈奈子さんが鍵を壊したことを知らずに、施錠してしまったかもしれないよ」 「密室も、わかってみれば簡単なことだな」  だが、謎はまだある。 「あの日本刀のこと」 「ああ。あれは、あんたが寝てる間に忍び込んで取ったんだろう」  鳥呼はそれほど気にしていないようだ。 「うん、でも」 「寝てたんだろ」  なんて言っていいかわからない。わたしは首を振った。 「眠れなくて、五時くらいまで本を読んでたの」 「なんだって」  彼はかなりおどろいたようだった。 「なにか見たんじゃないのか。庭にだれかいたとか」 「カアテンは閉めてたから」  うそつきだ。自然と声が小さくなる。 「何か、物音はきかなかったか」 「ごめん」  本当は、何か音がしたかもしれない。けれど夢中になっていたわたしたちには聞こえなかった。 「そうか、なにか手がかりになれば、と思ったんだけど。べつにあんたが謝ることはないさ。でも、そうすると本当に日本刀のことが、ひっかかってくるな」 「でしょう」 「まさか、村雨丸《むらさめまる》じゃあるまいし、自然に血を噴いたりはしないだろうし」  村雨丸。南総里見八犬伝《なんそうさとみはっけんでん》で、犬塚《いぬづか》信乃《しの》が持っている水を噴く刀だ。 [#ここから2字下げ] ——殺気を含みて抜放せば、刀尖《きっさき》より露霤《つゆしたた》り、讐《あた》を切り、刃《やいば》に血塗れば、その水ますます、噴《ほとばし》りて、拳に随《したが》ひ散落《さんらく》す。譬《たと》へば彼《かの》村雨の、樹杪《こずゑ》を風の払ふが如し。よりて村雨と名付られる。—— [#ここで字下げ終わり]  一瞬、なにかがひっかかった。溶けるように思考の中に消えてゆく。  なんだったのだろう。 「ばかばかしい考えかもしれないけど、秘密の抜け道か何かあるんじゃないか。帰ったら探してみよう」  なんでもいい。ちゃんとした、説明が与えられるのなら。 「でも、わたしたちのだれかが殺したんじゃなくてよかった」  変な言い方だが、どう考えても、みんなのなかに人殺しをするほど、濃く生きているものがいるとは思えなかった。  わたしたちはひどく希薄だった。人殺しをしなければ生きていられないのなら、別に生きていなくてもよかった。わたしがそうだから、他人もそうだと思いこむのではなく、その希薄さが、わたしたち仲間の共通点だった。  その点、静香さんは、あきらかにわたしたちと違っていた。彼女は死ぬことをひどく恐れていた。だからこそ、彼女が示すあのヒステリックさに、わたしたちはしらけるしかなかったのだ。 「よろこんでばかりもいられない」  鳥呼がつぶやいた。 「どうして」 「考えてもみろよ。ぼくたちが待っている最後の日の助けは、だれによってもたらされるんだ。管理人が殺したのなら、助けに来るはずがない。まさか、このまま野垂れ死になんてことはないだろうけど、かなり不愉快なことになるだろうな」  言われてみればそうだ。今さらながら、勝手なことをした椋くんがうらめしい。  いや、しばらく島から出られないくらいならまだいい。助けを求めるすべもないまま、島を知りつくしたあの男に、口封じのため全員殺されてしまうかもしれないのだ。  わたしがよっぽど悲壮な面もちをしていたのか、鳥呼はちょっと笑ってみせた。 「だいじょうぶだ。まだ、証拠もなにもないんだ。単なる推測だ。それに、霧さえ晴れればなんとかなるさ」  そうしてわたしの手にそっとふれた。 「どうした、その包帯」 「ああ、これ、なんでもないよ。皿を洗っていて切っただけ」 「だいじょうぶだったのか」 「うん、たいしたことないよ」 「そうか」  彼は見晴らし台の柵の上に、手をくんでのせた。目を細めて遠くを見る。やはり、顔色がいつもより青い。額に乱れた髪が、今朝からの憔悴を物語っていた。手を伸ばして整えてあげたい。けれど思っただけで、触れはしなかった。  奈奈子さんがもういないのだ、と思うことはひどくわたしをとまどわせた。はじめて籠の蓋をあけられた鳥が、なかなか外へ出られないように。  しばらくは今までの通りかくしていても、数ヶ月後にはだれに遠慮をすることもなく、一緒にいられるようになるだろう。うれしい、と思ってもいいはずなのに、わたしはなぜかとまどっていた。  今ここで彼と一緒にいることが、ひどく苦痛に思えてきた。 「霧が少し晴れてきたな」  鳥呼が無理に明るく言った。  たしかに。  今まではわずか先も見えなかったのに、ある程度の見晴らしがきくようになってきた。  相変わらず、下の方は見えない。坂の中腹から下が、霧につつまれているので、実際以上に高いところにいるようだ。  仙人の山みたいだ。  すべてが灰色の濃淡で描かれているようだった。まるで水墨画のように。  鳥呼は、物憂い様子で懐中電灯を取り上げた。 「H島までは届かなくても、近くまできた船が、気付いてくれれば」  そうだ。だれでもいい。ここから連れ出してくれるのなら。  鳥呼は何かを振り切るように、懐中電灯を高く上げた。 「腕がしびれるみたいだ」  彼は懐中電灯を下ろした。無理もない。もうかなりの時間、振りづめだ。 「わたしがかわるよ」  鳥呼は首を振った。  下の方から霧をかきわけて、だれかが歩いてくるのが見えた。うさぎくんだ。大きく手を振るが気付かない。 「うさぎくん」  やっとこっちに気付いた。走るようにしてやってくる。 「矢島さんは」 「いるよ」 「矢島さん、替わるよ」 「ああ、お願いするよ」  うさぎくんは、鳥呼から懐中電灯を受け取った。 「矢島さんは、もう帰っていいよ」  鳥呼は片手をあげて、感謝を表した。 「じゃあ、悪いけど。あやめさん、行こうか」 「待って」  立ち去りかけたわたしたちを、うさぎくんは呼び止めた。 「あやめさんは、残ってくれないかな。ぼくひとりじゃ心細いし」 「それなら、ぼくが残ろう。あやめさんは、ぼくより前から、寒いところにいるんだ」 「いや、いい。矢島さんは早く帰って奥さんのそばにいてあげれば」  鳥呼が眉をひそめた。どこか、刺のある言い方だった。  険悪な雰囲気が流れた。 「わかった」  鳥呼があきらめるように、口を開いた。 「なるべく早く、替わりに来てもらうようにするから。あやめさん、悪いね」 「いいよ。別に」  去っていく鳥呼の後ろ姿を見ながら、わたしはうさぎくんを責めた。 「なんで、あんないいかたするの」  うさぎくんは、苦いものを呑み込むような顔をした。 「こんなこと、言いたくはないけど。あの人は好きじゃないんだ」 「でも、奥さんを亡くしたばかりなのに、かわいそうだと思わないの」 「あやめさん」  うさぎくんは、懐中電灯を下ろしてこっちを向いた。 「あの人、悪いけどそんなふうには見えないね」 「どういう意味」  でも、うさぎくん。  心のなかでつぶやいた。推理小説では、アリバイを持ってる人こそ怪しいんだよ。  だが、この場合はすこし違った。だれにも言えないアリバイなんて、何の意味もない。  うさぎくんが、不安そうにこちらを向いた。 「なあ、本当にあのこと黙っていてもいいのかな」 「うさぎくん、静香さんに知られちゃ困るんじゃないの」  気まずそうにうなずく。 「だったら、黙っていようよ。べつに、大事な手がかりを隠してるわけじゃないもの。アリバイがないのは、みんな一緒だし。話すのは警察が来てからでも、遅くないよ」  空のてっぺんから少しずつ闇が降りてくる。  うさぎくんは懐中電灯をとりあげた。  さっきより光の道筋がはっきり見える。この分なら、届くかもしれない。  わたしは期待をかけた。早く助けてほしい。これ以上なにも起こらないうちに。  きのうまでの暑さが嘘のようだ。霧のせいか、夕方になると底冷えがする。わたしはむきだしの二の腕をかばった。掌でなぞると、ざらっとした鳥肌の感触がした。  ほの暗い空に、鳥たちの影が浮かぶ。陸地に戻るのか、群れをなして飛んでいる。かもめだろうか。島をかすめる羽ばたきの音が、耳に心地よかった。  引き裂くような鴉《からす》の鳴き声がする。こんな海辺にも、あの黒く、まがまがしい鳥は棲んでいるのか。  それはいきなりやってきた。  ばさばさっ、と大きな羽の音がした。  神々の使いのような大鴉。  それがわたしたちにおそいかかったのだ。 「うわあっ」  うさぎくんが悲鳴をあげる。黒い羽が散った。むっとする生き物のにおい。なんとか、腕を振り回して追い払う。  大鴉は中空で何度か羽ばたくと、そのまま夜のなかへ溶けるように、消えていった。  まるで、もう目的を達したみたいに。 「なんだったんだろう、まさか獲物だと思ったわけじゃあるまいに」  うさぎくんは返事をしなかった。  振り返ると、蒼白な顔をして下をのぞき込んでいる。 「どうしたの」 「懐中電灯を落としちまった」  あ、と叫んで駆け寄った。崖下には、なにも見えなかった。  ただ、ぼやけた闇があるばかり。 [#改ページ] [#ここから4字下げ] 六 霧散孤島花《きりにちることうのあだばな》 [#ここで字下げ終わり]  帰り道、うさぎくんは一言もしゃべらなかった。 「しかたないよ。うさぎくんのせいじゃないもの」  わたしが何度なだめようと、硬い表情で唇を結んだままだ。無理もない。わたしたちの唯一の頼みの綱だったのだ。よくよくわたしたちは、ついていないらしい。  家に戻ると、椋くんと鳥呼以外の人は、みんな居間に集まっていた。  うさぎくんは、ただいまより先に、きっぱりと言った。 「懐中電灯を落としたんだ」  部屋の空気の流れが止まった。みんな凍り付いてこっちを見ている。 「ごめん」 「このタコ。なにやってるんだよ」  守田氏が怒鳴った。うさぎくんは黙っていた。あわててわたしが、大鴉がおそいかかってきたことを説明した。 「しかたない状況だったんだよ」 「それでも、ぼくの不注意にはちがいない。みんな、ごめん」  沈黙がおとずれた。どうしようもないことだった。だれもそれ以上、うさぎくんを責めなかった。  なつこさんがのんびりと言った。 「やっちゃったことはしかたないんじゃない」  話はそこで終わりだった。うさぎくんはまだこわばった顔をしていたけど。  みんながまだ、他人を思いやる余裕を持っていることがありがたかった。  わたしはなつこさんに訊ねた。 「椋くんと、鳥呼は?」 「椋くんはまだすねてるよ。言ってもでてこないんだもの」 「気まずいんじゃない。あんまり、怒ったり怒鳴ったりしない人だし」 「そうかなあ。あたしも、あんな椋くん見るのははじめてだけどさ。矢島さんは部屋。さっき、倒れたんだよ」  鳥呼が。 「うん。やっぱりショックうけてるみたい。帰ってきて、庭でね。それで、部屋で休んでるよ」  わたしは居間をでて二階にあがった。鳥呼の部屋をのぞく。まっくらだった。 「鳥呼」  返事はない。カアテンは半分、開いていた。部屋にはだれもいなかった。誘い込まれるように中に入り、乱れたベッドに手を触れた。まだ、ぬくもりが残っている。トイレにでもいったのだろうか。  隣の奈奈子さんの部屋を通るとき、中に人影が見えた。あわてて、部屋と部屋の間に身を隠した。  鳥呼は部屋の真ん中に座り込んでいた。明かりとりの窓から差し込む、ほの白い光を避けるようにして。横の、毛布をかけられたものは奈奈子さんだろう。  彼は、暗く静かな表情をしていた。ときどき、奈奈子さんに話しかけるように、口が動いていた。前髪が、額に痛々しい影をつくっている。彼の目がすっと細められ、手が毛布へと伸びた。祈るように、毛布の膨らみをなんども撫でる。  見てはいけないものを見たような気がして、わたしは、あわてて逃げようとした。 「あやめさん」  呼び止められた。気付いていたのか。  彼は部屋からでてきた。 「どうした」 「倒れたって聞いたから」 「たいしたことはないよ。ちょっとつかれただけだ。早かったんだね」  わたしは、懐中電灯のことを説明した。彼はうなずいただけだった。  彼は、部屋のなかを振り返った。かつて、彼の連れ合いであったものに視線をやった。それはもう、身動きさえしなかった。これからも、きっと、ずっと。  彼は、息を吸い込むような微かな声で、言った。 「あいつのお通夜もしてやれない、なんてな」  わたしは手で顔をおおった。胸に熱い塊がこみ上げてくるようだった。 「奈奈子さん、かわいそう」  心からそう思った。 「あんたを置いていかなきゃならないなんて」  わたしが彼女の立場なら絶対に、耐えられないだろう。鳥呼はそっとわたしの手首をつかんだ。 「行こう、あの茶室を調べてみなきゃならない」  昨日となにも変わりはしなかった。  引き戸を、音を立てながら開けると、世界から切りとられた、静謐な空間があった。ただ、床の間の、二振りの日本刀だけがまがまがしく鎮座していた。  わたしは、もう一度朱鞘の差し添えに手を伸ばそうとした。それより早く彼の手が刀をつかんだ。 「どうするの」  わたしのことばに答えず、シャツの裾で刀をぬぐった。 「そんなことしていいの」 「衝動的にさわっていないと言ってしまったけど、刀にはぼくとあんたの指紋がついている。見つかると、これ以上言い逃れできない」 「動機もあるしね」  彼はわたしの肩をぐっと抱き寄せた。 「おねがいだ。そんなことは言わないでくれ」  泣き出しそうな声だった。 「そんなことになれば、ぼくも共犯と同じだ」  わたしたちは、抜け穴を探し、部屋中をひっくり返した。畳をめくり、掛け軸を上げ、水屋の空の水壺までどかして、調べた。  どこにも、それらしきものはなかった。 「骨折り損か」  鳥呼がぐったりとつぶやいた。 「映画みたいには行かないね」  わたしのことばにうなずく。 「戻ろう、みんなが心配してる」  鳥呼は椋くんを呼んでから行く、と言った。 「ぼくが許さないと、出てこないだろうからね」  居間に戻ると、食事の準備ができていた。  守田氏はわたしの顔を見ると、 「矢島さん、どうだった」  と聞いた。 「だいじょうぶだって、もうすぐくるよ」  そう言うと、少しほっとしたようだった。  だれもが、朝の探偵ごっこに懲りているようだった。あのときの、変にぎすぎすした空気は、もう残っていない。  それがいい。下手にさぐり合って、神経をすり減らすより、ここを脱出する方法だけ考えて、あとは警察にまかすのだ。  椋くんと鳥呼が戻ってきて、食事が始まった。静かな晩餐だった。アルコオルなしの夕食なんて、ここへ来てはじめてだった。みんな、あまり食べなかったが、なかでもうさぎくんはほとんど口をつけなかった。よほど、責任を感じているらしかった。  わたしも食物を噛んで呑み込むことが、こんなに苦痛だと思ったことはなかった。なにもかもが、ぱさぱさで味がしなかった。  食事が終わり、なつこさんが紅茶をいれてくれた。  鳥呼ははじめて口を開き、わたしに話した管理人さん犯人説をみんなに説明した。わたしも、きのうの朝、奈奈子さんの言った言葉をみんなに話した。 「それで、説明がつくな」  うさぎくんがほっとした様子で呟いた。 「警察が捕まえてくれるかしら」  静香さんが言う。みんなの間の緊張は、少し和らいだ様子だった。  外部に犯人がいる、と思うことは、少しだけみんなを安心させた。 「納得できないな」  言い出したのは守田氏だった。また空気が冷えた。 「なぜ、あの管理人が鍵をかけなきゃならないんだ。合い鍵を持っている自分が怪しまれるのに決まっているのに」 「鍵が中にあるのを知らなかったのかも」  静香さんの言葉は直ちに否定された。 「部屋の持ち主が持たずに、だれが鍵を持つというんだ。奈奈子さんの姿を、かくそうとしたのか。いいや、それも違う。硝子戸にはカアテンも閉めていなかった。外から丸見えだ」  自分の言葉を確かめるように、みんなの顔を見回す。 「それに、そんな危ない奴がやってきたのになぜ、奈奈子さんは助けを呼ばなかったんだ。となりには旦那が寝てるんだ」  鳥呼の肩がぴくり、と動いた。 「寝ていたのか。だが、殺されるかもしれない、と知っていて、ひとりで寝るか。旦那と同じ部屋で寝りゃあいいだろう」 「だれにも、過去のことを知られたくなかったのかもしれないさ」  椋くんが脚を組み替えながら、言った。 「ありえないことでは、ないけどね」  守田氏は冷めた紅茶を飲み干した。 「あと、もうひとつ。なぜ、心臓をえぐりとったのか。それがわからないかぎり、おれは納得しない」 「食べたのかもしれないな、マルセル・マルソオみたいにね」  椋くんは冷たく言い放った。  白い服を着たクラウンが、どくどくと脈打つ心臓を食べる様を思いだし、寒気がした。 「ハァト・イィタァか。冗談はやめてくれ」  鳥呼はあえぐように言い、椋くんが失言をわびた。ふたたび部屋は静けさに見舞われた。 「とにかく、これは推測にすぎない。ただ、その可能性が高いと言ってるだけの話さ」  鳥呼が、自分を納得させるためのように、話を終わらせた。  今まで黙っていた、うさぎくんが暗い顔を上げた。 「椋くん、ほんとうに、あれはボォトのキイだったんだろうな」 「うさぎくん。まだそんなこと言ってるの」  なつこさんは、とがめるような口調で叫んだ。 「別に椋くんが犯人だって言ってるわけじゃない。ぼくはただ、本当のことが知りたいだけだ」  椋くんは、強力マッチをテエブルの脇で擦り、ジタンに火をつけた。みんなをじらすように、ゆったり煙を吐いている。 「おれが、嘘をついていると思うのか。そんなことをして、何になる」 「犯人を安心させ、夜にでもひとり抜け出して、H島に戻り、警察を連れてくる」  うさぎくんの刺すような視線を逸らすようにして、椋くんはテエブルに肘をついた。 「ううん。それはいい考えだな。そうすればよかったか。でも、もう遅いんだ。キイは海の底だろうからな。といっても、証明するすべはなし」  彼は皮肉っぽく笑った。 「まあ、何日かたてば、おれのいうことが間違ってなかったと判るだろう。どうやっても、ここから出られないんだしな」  守田氏は陽に焼けた肩を誇示するように腕を組んだ。 「それか、あんたが全員殺した後、ボォトで逃亡するためかな」  インクを水に落としたように、不快な沈黙が、あたりに広がった。この人は皆を不安にさせて、喜んでいるようだ。みんなの冷たいまなざしをさけようともせず、彼は椋くんを凝視した。  椋くんは豪快に笑った。 「よしとくれ。一人で七人も殺すなんて、大変だ。もし、おれがそのつもりなら、最初の晩に全員殺すね。そうでもしなきゃ、警戒されてやりにくいだろう」 「もう、やめて」  静香さんが、たまらず泣きだした。この、癇の高い赤子のような女の子も、わたしたちの頭痛の種だった。  しかし、なつこさんは、静香さんの肩を抱いた。 「今のは、椋くんが悪いよ。冗談が言えるような状況だと思ってるの」 「すまないねえ」  椋くんは、ぷいと横を向いた。  だれとはなしに、かたまって寝た方がいいんじゃないか、といいだし、わたしたちはそうすることにした。  なつこさんと静香さんがわたしの部屋で一緒に寝ることになり、椋くんと鳥呼、うさぎくんと守田氏が、それぞれ同室となった。  長かった一日が終わろうとしていた。  その日、わたしはゆめを見た。  錦絵で見るような、大振袖に紫の帽子の女方《おんながた》が、鳥籠を持って立っていた。今まで見たことがないほど、大きくて、美しい鳥籠だった。格子は銀色で細く、ぴかぴかしていた。市松模様のタイルの巣箱、まがりくねった止まり木、中は何段にも分かれていて、細い銀の梯子や、螺旋階段があった。硝子のように透き通った水入れには、なみなみと水が満たしてあった。  どんな鳥を飼っているの。  訊ねると彼は、鳥籠を持ち上げて、中を見せてくれた。  中にいたのは、奈奈子さんの心臓だった。  心臓は、ちっちゃな声でさえずったり、きれいな羽根をばたばたさせたりしていた。  どうするの。  飼うんだよ。  心臓を。  知らないの。心臓は、愛玩用にはもってこいなのさ。  心臓は、止まり木に飛び移ったり、銀の鏡に自分を映してみたりして、ひとりあそびをしていた。  気付くと女方は、見知らぬ人になっていた。彼は籠の戸を開け、心臓を掌につかんで外へ出した。心臓はにげなかった。手のうえで、虚しいはばたきを繰り返すばかり。  にげないんだね。  うん、羽根を切っているからね。  もしかしたら、この人、会ったことがあるかも。そう思うけれど、どうしても思い出せない。  そこまでで、ゆめは、泥のような眠りの中に溶けて散っていった。  目が覚めたら、眠る前より疲労していた。腕や、脚が、身体からとれてしまったみたいだ。身体がベッドの中に、ずぶずぶと埋まっていきそうだった。  わたしのとなりでなつこさんは、コオヒイカップを灰皿代わりに、目覚めの一服を吸っていた。 「おはよう、よく眠れた?」 「さいあく」  脚がひどく痒い。手をやってみて、わたしは唸った。 「どうしたの」 「じんましん」  ほら、と毛布のうえに脚を出す。なつこさんが、ひー、と変な声を出した。  脚が真っ赤に腫れ上がっていて、ところどころ、水疱が出来ている。 「痒い?」 「痒いよ。やだな、ストレスがたまってるのかな」  疲れたり、神経を遣ったりすると、よく出るのだ。  床に寝ていた静香さんが、目をこすりながら起きあがった。 「おはよう」 「おはよう。あやめさん、どうしたの」 「じんましんが出た。ほら」 「やだあ、うつりそう」  だれかこの女に、口のききかたを教えてやってほしい。 「静香さん、原罪って知ってる?」 「え、なあに? 聞こえない」 「いや、いい」  皮肉を言ったつもりだったが、思いきり、はずしたようだ。  静香さんは、顔を洗うため、洗面所のほうへ行ってしまった。  とたんに腕を引っ張られた。 「なつこさん、なによ」 「ひみつのはなし。耳貸してよ」 「右、左?」 「右でいい」  なつこさんは、声をひそめて話しだした。 「ゆうべ、二時頃だったかな。うさぎくんがひとりで庭に出てきたんだよ。しばらくうろうろして、外に出ていってしまったよ。そしたら、そのあとから守田さんが出てきて、うさぎくんの跡をつけるみたいに、行ったんだけど、それって変じゃない」 「変だね。それでいつ帰ってきたの」 「それは寝ちゃったからわからない」  頼りない探偵だ。それにしてもなかなか不審な行動ではある。まさかこんなときに真夜中の散歩でもあるまいに。 「また、今朝もだれか殺されてるようなことはないよね」  なつこさんは不吉なことを言った。そんなことわたしが知るもんか。 「あやめさん、なつこさん、お先でした」  静香さんが洗面所から顔を出し、わたしたちはユニゾンで、はあい、と間抜けな返事をした。 「おはよう」 「おう」  居間にはもう、鳥呼と椋くんがいた。二人とも顔色がましになっている。よく眠れたのかな、と思い、少し安心した。 「霧が晴れないな」  椋くんがぼそっと言う。  外の空気は、まだ乳白色に、濁っていた。避暑に来た、とはいえ、この肌寒さは異常だった。  皮膚の外側で不安が、泡立つ。今日こそはこの島から出られるだろうか。何も、もう起こらないだろうか。 「あの凸凹コンビは、まだ寝てるのか」  椋くんが言い、わたしとなつこさんは顔を見合わせた。もう、昼近い。優雅に朝寝をしていられる状況ではない。 「静香さん、見てきてよ」  何気なく言ったのに、彼女の表情が変わった。 「行きたくない」 「なんで」 「どうしても」  ちょっとしたことで、妙な空気になる。やはり、みんなぴりぴりしているのだ。  わたしは食事の支度を、静香さんとなつこさんに頼み、二階を見に行くことにした。なつこさんのことばを聞いたばかりだから、なんだか気になったのだ。  うさぎくんの部屋をのぞく。カアテンは閉まっていたが、鍵はかかっていない。ベッドからはうさぎくんの長髪が、ぼさぼさとのぞいていた。床の上の毛布のかたまりは守田氏だろう。  光をさえぎられた部屋に、浮かび上がる彼らの身体はひどく存在感がなかった。まるで沖にうちあげられた魚のように。  二体の黒い骸《むくろ》。  不吉な連想にぞっとして、わたしは乱暴に、カアテンを開けた。湿っぽく薄暗い光が射しこんで、ふたりはほぼ同時にうめいた。どうやらどちらも、まだ生きてるようだ。  守田氏がむっくりと起きあがってわたしの顔を見た。 「なんで、あんたがここにいるわけ」  ずいぶんなごあいさつだ。朝から、ふて腐れたような渋い顔をしている。 「あんまり遅いから見に来たんだよ。生きてるかなと思って」  無事だとわかると、こんな冗談も言える。ところが、彼はさっと顔色を変えた。 「死んでたほうがよかったか」 「そんな意味で言ったんじゃないよ」 「じゃあ、どんな意味なんだ」 「守田」  うさぎくんはベッドの中から怒鳴った。顔はあっちを向いたままで。 「やつあたりはなしにしようぜ」  守田氏はすっくと立って、部屋から出て行った。あわてて、後を追う。 「ごめんなさい」  守田氏は振り向いた。回廊の手すりに背中をあずけ、こちらを見る。 「変なことを言って、気を悪くしたのなら、ごめんなさい」  一瞬、目の前の彼と、夢の中の男が重なった。胸が悪くなる。ずるずると、記憶は糸を引き、ゆうべの夢が意識の中に、にがく広がった。 「来るんじゃなかったよ」  彼の声で我に返る。 「なにもかもがだいなしだ」  そう言うと、守田氏は階段を駆け足で降りていった。  うさぎくんが、部屋から出てきた。  髪がみだれ、目の下が黒ずんでいる。そうして、それ以上に、ひどい眸をしていた。まるで、お日さまを呪うみたいな眸。眸だけが急に、病に冒されたみたいだった。  彼は、今にも腐って落ちそうな眸をしたまま、階段を降りていった。わたしに、挨拶もしなかった。  居間の雰囲気は、入るまえから見当がついた。ただでさえ、あんまりいいとはいえないのに、あのふたりが入ってきて、よかろうはずがない。  ためいきがでる。最初の一日が懐かしかった。わずかなほころびが、だんだん大きな裂け目になる、その有り様を目の前にしているようで気が重かった。  食事中、わたしは思いきってきりだした。 「ボォトのキイ、探せないかな」  みんなの冷たい視線が集まる。 「海に捨てちまったよ」  椋くんが、どうでもいい、といった感じで言う。 「海に捨てたって言っても、そんなに沖に投げたわけじゃないもの。ほら、あの崖の真下は砂浜だし、海も遠浅でしょう。もしかしたら、見つかるかもしれないよ」  みんな黙った。いやなら、いい。だが他に、何か方法があるとは思えなかった。  鳥呼が最初に沈黙を破った。 「ぼくも手伝うよ。なにもしないよりましだ」  つづいてなつこさん。 「見つかるかどうかはわからないけどね」  うさぎくんや、静香さんもうなずく。  椋くんは、当たり前みたいに言った。 「おれは探さない。理由は前に言った通りだ」 「勝手にすればいい」  守田氏が言って、話はまとまった。六人中五人が賛成、悪くない成績だ。  三十分後に、水着に着替えて玄関に集合。わたしたちは各自の部屋に戻った。 「あやめさんは着替えなくてもいいよ」  なつこさんが言う。 「なんで。いいだしっぺだもの。行くよ」 「ほら、じんましん。水につけると悪いんじゃないの」  わすれてた。見ると、さっきよりはましだがやはり腫れている。 「ごめんね」 「いいよ。そのかわり砂浜はまかせたよ」  がってんしょうちのすけだ。  すくわれたい、すくわれたい。心がくりかえす。不毛な行為だったとしても、何もしないより、神様の心証もいいだろう。  わたしはまだ、信じていたのだ。なにかをすれば、それなりの見返りがある、ということを。  椋くんが、キイを投げた崖の下に、わたしたちはいた。  いつもなら下から崖が見えるのだろうが、霧のために視界はおぼろげだった。場所の見当さえつけば、落ちた場所も自然と限られる。しかしこの状況では、出来るだけ範囲を広げて捜索するしか、方法がなかった。  もどかしい。見えるはずのものさえ奪われているということが、ひどくわたしたちをいらだたせた。 「霧が晴れてからのほうがいいんじゃない」  静香さんの言葉に、賛成するものはいなかった。部屋に帰って、ジグソオパズルでもしてろと言うのか。  水中眼鏡持参の、うさぎくんと守田氏に少し沖まで行ってもらうことにして、わたしたちは黙々と、捜索をはじめた。  みんな分かれて、水の中へ入っていく。ぼやけた影が、ひとつ、またひとつと霧の中にまぎれこんでいった。  砂浜を這いつくばるようにして探す。  たぶん、わたしたちのいらだちは、奈奈子さんが殺されたことよりも、先が何も見えないことからきているのだろう。  あと四日たって、管理人が迎えに来るかどうか。わからない。  霧がいつ晴れるのか。わからない。  奈奈子さんをだれが殺したのか。わからない。  そして、殺人犯人が、もうだれも殺さないかどうかもわからない。  椋くんのいった「おきまりの連続殺人」という単語が頭から離れない。あれは、クリスティだったか。ひとり、ひとり、マザアグウスに見立てられて、殺されていくのは。確かに、推理小説ではお決まりのパタァンだ。孤島、密室、連続殺人。わたしたちの不安の中に、そのイメエジがあるのは間違いない。  だとすれば、わたしたちは単なるドクサに踊らされているのではないか。奈奈子さんを殺した犯人が、わたしたちをも殺す可能性は、現実には低いと思う。人を殺すには、それなりの重い理由があるものだ。とんでもない殺人鬼でもない限りは。  一時間ほどの間、わたしは砂浜をくまなく探した。濡れた砂が、足にも、膝小僧にも張り付いた。だれからも、キイが見つかった、と言う声はあがらなかった。  落ちている可能性のある範囲を全部探し、わたしは結論を出した。  砂浜には落ちていない。つまり、キイは海に落ちている。  近くに、黄色の縞の昔風の水着がうろうろしている。なつこさんだ。 「なつこさん」  彼女が振り向く。 「キイあった?」 「ない。たぶん、砂浜にはないと思う。あんな赤いキイホルダァを見落とすこともないし」 「そうだね。やっぱり海かなあ」 「やっぱり海だよ。だからわたしも着替えてくるよ」  幸い、じんましんはもう、かなりひいている。わたしは、階段に向かって駆け出した。  急いで階段をのぼって約五分。かなり重労働だ。わたしは息をきらしながら、玄関の扉を開けた。 「椋くん」  返事がない。わたしは椋くんの部屋をのぞいた。後ろ向きで机に座っている。Tシャツの背中ではボブ・マァリィが憎たらしく笑っていた。  聞こえないはずだ。彼はヘッドホンを耳にあてていた。忍んでいって、ヘッドホンを引き抜く。とたんに流れ出す|J《ジェイムズ》・B《ブラウン》の声。 「椋くん」 「あやめさんか。見つかったのか」  首を振る。 「砂浜にはなかった。海を探そうと思って、水着に着替えに来たの」 「ふうん」  椋くんは、また背中を向けた。強情な奴だ。わたしは背中のボブ・マァリィにむかい、下唇を突き出した。  部屋に戻り、短パンとTシャツを脱いで水着に着替える。グレイのなにもないワンピイス。上にTシャツを羽織る。蚊トンボみたいな体型は、フリルや派手なプリントでごまかしたほうがいい、と雑誌には書いてあった。だけど、土下座して頼まれたってあんな水着は着る気になれない。なつこさんの着ている、半袖で足も太腿まであるのはかわいいけど、と思う。  鏡のなかの子供みたいな女に、一瞥をくれ、わたしは部屋を出た。 「あやめさん」  玄関を通るとき、椋くんの声がした。 「みんなに、あやまっておいてくれないか」 「うん、わかった」 「おれが、勝手だったって」 「いっとくから、後からおいでよ」 「そうだな」  椋くんは、かしこい人だった。絶対まちがったことはしなかった。さすがになつこさんを選び、なつこさんが選んだ人だ。そう思いながら階段を降りた。  J・Bの声はかなり遠くまで聞こえていた。  みんなの元に戻り、捜索を続けた。  浅瀬は、ほとんど探したらしかったので、少し沖の方まで、捜索範囲を広げる。水に潜って、キイホルダァを探した。  水が冷たい。かなり沖まで行っても足がつくのが幸いだった。潮の濃い海水の中に顔をつけ、海の底をのぞく。石や、海藻の残骸が、ゆらめいている。鍵だけならむつかしいが、あの、ぐみのように赤いキイホルダァを目印にすれば、なんとかなるのでは、と思う。  焼けた皮膚に、潮が沁みる。時には、潜って、石をどけたり、砂をかき回したりした。  キイホルダァは見つからなかった。  二時間はたったと思う。ふいに守田氏の声がした。 「おい、あれを見ろよ」  しばらく、何を言われているのかわからなかった。霧の向こう側、家のあるあたりに赤いものがちらちらしている。まるで薄紙で火をくるんだみたいに。  火。  燃えているのだ、と気付くまでに時間がかかった。  だれかが悲鳴をあげた。  わたしたちは階段に駆け寄った。みんなの後に続きながら、わたしは全員揃っているかどうかを確かめた。  椋くんだ。椋くんはまだ家に残ったままなのだ。あとは、みんないる。  無事でいてほしい。おねがいだから。ただのボヤであってほしい。  突き刺すように祈りながら、急いだ。水の中の捜索で疲れた身体が、きしむ。  中庭から狼煙《のろし》のような煙があがる。空をなめるように炎が揺れていた。なにかがはぜる音と、鼻をつくにおい。  わたしたちはやっとのことでたどり着いた。燃えているのは家ではなかった。  場違いに陽気なソウルナンバァが鳴り響いていた。黒人の伸びやかで熱っぽいボォカル。  玄関を開けて飛び込んだ。  抱擁の像が燃えていた。  そうして像の上には、見慣れた背中が燃えていた。  ちりちりと音をたてて、ボブ・マァリィは燃え落ちた。 [#改ページ] [#ここから4字下げ] 七 馬鹿者のためのレクイエム [#ここで字下げ終わり]  なつこさんが、声にならない声をあげた。  火は、椋君の背中をなぶり、彼を呑み込もうとしていた。彼女は抱擁の像に駆け寄った。  あぶない。  燃え盛る火の中に飛び込もうとする彼女を抱き留める。 「いやあ」  思いきり、強い力で振り切られる。  なつこさんは、火の中に飛び込んで椋くんを引きずり下ろそうとした。  わたしも後に続く。  熱い空気が気管に流れこみ、失神しそうになる。Tシャツの片袖に火がついた。  腕がちぎれそうなほどの痛みと熱さ。  暴力的にひきもどされ、地面に転がされる。のしかかる重みに気が遠くなった。  目を開けると、鳥呼がわたしを抱いていた。むきだしの肩が赤くただれている。身体で、わたしのTシャツについた火を消してくれたのだ。  わたしは彼にしがみついた。  なつこさんの号泣が響いた。彼女が泣くのを見るのははじめてだった。  彼女の決死の救出はまるで無意味だった。  椋くんの頸はがくん、とうなだれ、Tシャツの胸は、べっとりと血に染まっていた。 「あぶない」  だれかが叫んだ。ばらばらと火のついた破片が落ちてくる。  鳥呼に引きずられるようにして、わたしは逃げた。なつこさんは、椋くんの骸を膝に抱いて呆然としていた。  黒人がもどかしげに歌う。 [#ここから2字下げ] ——おれが何を間違えたのか、教えてくれ—— [#ここで字下げ終わり]  抱擁の像が燃え落ちる。  勝ち誇ったような、炎の嘲笑。その中で像は無惨に崩れていった。  飛び火した立木も燃えていた。火はあらゆるものを嘗めつくしていた。  そして、わたしたちは見た。  燃え落ちた像の残骸に、二つの頭蓋骨が並んでいるのを。  庭を焼きつくして、火は鎮まった。  空はもう、薄暗くなっていた。わたしたちは固まってふるえていた。  火は、家中の可燃物、服や毛布、本のたぐいを集めて点けられていた。  殺人犯人は、椋くんを、奈奈子さんを殺した日本刀で殺し、彼の死体と、凶器をまとめて、抱擁の像の下で燃やそうとしたらしかった。  焼け跡からは、黒こげになった差し添えがあらわれた。鞘も燃え、むきだしの刀身のみが、歯こぼれのした、無惨な姿をさらしていた。  そうして、二体の白骨死体。  それは抱擁の像の内部に、封じ込められていたようだった。わたしたちが来る前にも、ここでは殺人があったのだろうか。ばらばらと散らばった白骨に、触れようとするものはいなかった。  なつこさんは、椋くんを離そうとはしなかった。生き返ることを信じているかのように。まるで、なにかをもがれてしまったみたいだった。椋くんを知っていた部分、椋くんを好きだった部分が、不在にさらされて、ひりひりと痛んだ。  着るものさえもなかった。すべて燃えてしまったのだ。わたしたちは海水着の身体を寄せ合って、捨て犬のように暖をとっていた。  鳥呼はもう、わたしを抱くことや、髪に触れたりすることに躊躇しなかった。わたしも彼のむきだしの胸に、迷うことなくもたれかかった。触れていないと、連れ去られてしまいそうだった。  守田氏がかすれた声でいった。 「あいつのことばが本当になるなんて」  椋くんは言った。 [#ここから2字下げ] ——さあ、殺人犯人さん、あんたのお手並み拝見といこうじゃないか。密室殺人のつぎは、おきまりの連続殺人だろ。あんたのすることは、全部おれが見届けてやるよ。—— [#ここで字下げ終わり]  そうして、彼は殺されてしまったのだ。 「あやめさん」  守田氏は急にわたしの方を向いた。 「あんたが着替えに行ったとき、まだ奴は生きてたんだな」  うなずく。生きていた。口もきいた。あれがまだ数時間前のことだったなんて、考えられない。 「じゃあ、殺されたのは、その後だ。みんなのアリバイを聞く前に、これだけは知っておきたい。みんなの中で、H島から来るボォトを見たり、それらしい音を聞いたものはいないか」  だれもいなかった。  わたしたちが集中的に探していた入江は、H島に向いている。だれにも気付かれずにH島からここに来ることはたぶん、難しいだろう。霧にまぎれても、音は隠せない。 「また、ぼくたちの中に犯人のいる可能性が高くなるな」  鳥呼は、皮肉っぽく投げやりに言った。  守田氏は何も答えない。無視するように話を続けた。 「入江からここまで来るのに五分、帰りも五分、日本刀を手にいれて殺すのに最低で五分。燃えるものを集めて、火を点けるのに十五分。合わせて三十分はかかったはずだ。あやめさんが戻ってきた後に、三十分以上いなくなったものはいるか」 「ちょっと待って」  静香さんが話を止める。 「火がつく三十分前でしょう」 「いや、蝋燭でも使えば簡単に時限発火装置は作れる。火がつく前に限る必要はない。むしろ、あの発火は犯行時刻をごまかすためだろう。だれでも、殺してすぐ火を点けたと思うからな。それより以前に殺された可能性が高いと思う。だれかが、いなくなっているはずだ。気がついたものはいないか」  だれも返事できるものはいなかった。  まず、コンタクトをはずしていたなつこさんと、うさぎくんはまったく証人にならなかった。  静香さんは、うさぎくんと一度、鳥呼と二度、言葉を交わしたと言った。彼らもそれを認めた。  わたしとなつこさんは比較的そばにいたが、お互いに、ずっとそこにいたか、と言われると返事が出来なかった。顔を合わせることは、三十分に一度あるかないかだった。  守田氏に至っては、一時間くらい浜の石の陰で、さぼっていたことを告白した。鳥呼もなにも気付かなかった、と言った。  半径五十メエトルほどの範囲にいて、だれひとりとして、だれかがいたこと、いなかったことを証言できるものはいなかった。  霧と、水の中に潜る捜索方法が、明らかに邪魔をしていたのだ。 「うまいことやりやがって」  守田氏は憎々しげに言った。  陽が完全に落ちてしまうと、寒さは倍増した。冷たい空気が皮膚にいたい。身体の中まで凍り付くみたいだった。  濡れた水着のまま、わたしたちは、身体を押しつけ合った。鳥呼の肌は、焼け付くように熱く、なつこさんの肌は、人形のように冷たかった。  部屋に逃げ込んでも、寒さは容赦なかった。冷房設備については聞いていたけど、暖房の方法は聞かなかった。うさぎくんは、地下を探しに行き、ストオブも何も見つからなかった、と言って戻ってきた。  唯一残っていたカアテンも、防寒にはまったく役にたたなかった。はずして身体に巻くと、少しはましだったが、かわりに部屋が寒くなった。  太陽が恋しかった。なにもかも露《あらわ》にするくらい、照りつけてほしかった。あぶられるような蝉の声、皮膚がじんじん、痛むくらいの紫外線。水疱が出来るほど灼かれ、消毒されたい。嫌っていたはずの何もかもが恋しかった。  わたしたちは、とりあえず庭で火を焚くことにした。男たちは枯れた木を探りに、林へ行った。なつこさんとわたしはぴったりと寄り添っていたが、静香さんはそばへ寄ろうとはしなかった。  なつこさんの肩は椋くんの流した血で濡れていた。椋くんの死に顔はひどくやさしかった。枯れたような不精髭、薄い瞼、青白い、殉教者のような表情だった。  わたしは、ことばを選びながらなつこさんを慰めた。 「椋くんは、偉大なるばかやろうだったから、偉大なるばかやろうに、ふさわしい死に方だよ。だから、ね」  おねがい、我慢して。  わたしたちは我慢するしかないのだ。彼をもがれた傷口がどんなに痛もうとも。  なつこさんは、また泣いた。わたしの肩に、濡れた顔をやたらに押しつけた。 「あたし、ほっとしてるの。彼が死んでしまったのに、どこかでほっとしてるの」  わたしはなつこさんを抱きしめた。 「わかるよ、わかるから。そんなことで自分を責めないで」  なつこさんの涙は熟かった。わたしは彼女の頭を抱え込んだ。胸のあたりで、彼女の嗚咽が聞こえた。  身体が破れて、何もかもが流れ出してしまいそうだった。  愛するものを失って、悲しみながらも、ほっとしない人などいるだろうか。もう、愛することから解放される。その人の、ことばや態度に悩まされることもない。そう思わない人など、いるだろうか。  鳥呼が死ぬこと、なつこさんが死ぬことを考えると気が狂いそうになる。けれどその中に、確かに、自由の気配がするのだ。  だれかを愛していることは、なによりも重い枷なのだから。  なつこさんは、泣きながら椋くんの骸を引きずって、彼の部屋へ行ってしまった。 「信じられない」  静香さんがわたしを見て言った。 「彼が殺されたのにあんなことを言うの」  なんとでも言えばいい。誰もが気付かないだけだ。じぶんが本当はほっとしていることに。  男たちが、枯れ木を手に帰ってきた。 「なつこさんは」  うさぎくんが聞く。  わたしは首を振った。答えるのも苦痛だった。  鳥呼が火を焚き付ける。枝が湿っているせいか、燃えにくい。それでも、どうにかこうにか焚火らしいかたちになった。  手の先から、じんわりと暖まってくる。こわばった身体が少しずつほぐれてくるのがわかった。  なつこさんが戻ってきた。手にジタンの箱をたくさん持っている。椋くんが持ってきたものだろう。チェインスモォカァの彼は、一日二箱ぐらいのジタンを吸った。  みんなに一箱ずつ渡す。彼女は、もう泣きやんでいた。わたしはすぐ、蓋を開けて吸った。なつこさんも、火を点ける。煙草を吸わない鳥呼やうさぎくんも、続いて吸った。  あたりに椋くんの匂いが充満した。  続けざまにみんな、何本ものジタンを吸い続けた。椋くんが、すぐそばにいるみたいだった。  好きなソウルに抱かれながら死んでしまった椋くん。彼の魂《ソウル》が、ジタンの煙に送られて昇っていくようだった。  一箱全部吸い終わったころ、なつこさんが重苦しく言った。 「どうせ、死んじまうなら浴びるほど酒を飲んで、死にたいよ」  同感だった。  酔っぱらって、自分でもわからないうちにあの世に逝《い》っちまうのが、最高に決まっている。わたしたちは厨房から、残っているアルコオルを全部出した。  そうして、わたしたちは浴びるほど酒を飲んだ。朝になれば、みんな冷たくなっているような気がしたけど、もうどうでもよかった。  誰かが、ラジオをつけた。  そばにいて、そばにいて。  錆びついたノイズの向こうでベン・E・キングが繰り返す。  そばにいて、そばにいて、そばにいて、そばにいて。  鳥呼は、わたしが風邪をひくことばかり心配していた。まるでそれしか、愛情を示すすべを知らないかのように。  その夜、わたしたちは重なりあって眠った。  肌を押しつけていないと、寒くてとても眠れなかったのだ。暗い部屋のなか、すすり泣きとまじりあった寝息と、時計の音だけが聞こえていた。  眠ったのか眠らなかったのか、わからないような夜が終わり、わたしは目覚めた。こんなときは、夜が明けてからの方が眠れるらしく、みんな安らかな寝息をたてていた。  よろよろと起き上がり、自分の部屋に戻った。風邪をひいたのか、熱っぽく、節々が痛かった。しかたない。ゆうべからずっと、水着のままなのだ。なんともないほうがおかしい。  顔を洗って、鏡を見る。  ひどい顔だ。目が腫れぼったく、顔がむくんでいる。  殺人鬼がわたしたち全員を殺すのと、わたしたちが自滅するのとどっちが早いかな。そんなことを、ふと思った。  ところどころ、吹き出物が出ているし、皮膚もがさがさだ。毒でも盛られたような、と思う。  風呂に湯を張った。ゆうべは湯冷めしそうでとても入れなかったが、昼間なら、まだ大丈夫だろう。  水着を脱いでつかる。疲れが、熱い湯に溶けるように消えていった。脳味噌のかわりに脂肪の塊でもつまっていたような頭も、だんだん、はっきりするようだった。  現実のことなのだ。奈奈子さんが殺されたのも、椋くんが死んだのも。鼻の下まで湯につかりながら考える。  この家の中に、二体の新しい死体があった。ひとつは胸にぽっかりと穴をあけられ、もうひとつは頸動脈を掻き切られ、焼かれて死んだ。  そうして、あの白骨死体。  かなり以前のものなのか、最近のものなのか、燃え尽きているだけにわからない。抱擁の像の中に封じ込められていた、ということは、�オアンネスの息子�教に深い関わりがある、ということではないか。  殺人と決めつけることはできないが、この島には、なにかまがまがしいものが巣くっているようだった。  最初の事件の疑問も、解決されてない。なぜ、奈奈子さんは心臓を、えぐりとられていたのか、どうやって、犯人はあの部屋を密室にしたのか。  結局、管理人さんはなんの関係もないのだろうか。そうだったらいい。そうだったらまだ助けが期待できる。けれど、もし、そうならわたしたちのなかに犯人がいる、ということになる。  考えれば、考えるほど、思考は迷路の中に深く入っていくようだった。  わたしは湯船から出て、身体を拭いた。タオルが数枚残っていて助かった。もう一度、水着を着て、髪を乾かす。さっきよりはましな顔になったような気がする。  がちゃ、とノブがまわる音がした。わたしはおどろいて振り向いた。  うさぎくんが、わたし以上に憔悴した顔で立っている。 「おはよう」  精一杯、明るく言った。同時に、もしかして、と思った。彼が犯人でないことは、最初の事件の時にわかっているはずなのに。 「おはよう。おどろかせてごめん。起きたらあやめさんがいないし、もしかして、なにかがあったのか、と思って」 「霧、かなり晴れたみたいだね」  窓から差し込む光が明るい。わたしは窓を開けた。彼は、部屋に入ろうとはせず、戸口のところで立っていた。 「なあ。本当にあのこと、黙っていていいのか」  あのこととは。ああ、あのことだ。 「静香さんにこれ以上ショックを与えること、ないんじゃないの」  彼は物憂げに目を伏せた。彼の口からもれたことばば、意外なものだった。 「ぼく、もう静香と、やめようと思うんだ」 「どうして」 「きのう、あやめさんが部屋に戻る前、静香が家に向かって歩いていくのが見えて、跡をつけたんだ。そうしたら、あいつ、みんなの部屋を探っていたんだ。つかまえて、なんでそんなことするんだって聞いたら、犯人を見つけるんだって、いいやがってさ。たまんなかったよ。気がついたらひっぱたいていた。あんな子だと思わなかった」  そんなことがあったのか。 「椋くんもさ、このことは誰にも言わないからって、約束してくれたのに、あれからふて腐れて、口もきかないんだ。今まで、素直ないい子だって思ってたのに、裏切られたみたいだ」  彼は口の端を曲げて笑った。 「ここへ来てから、何もかもが壊れてゆくみたいだ」  わたしはタオルを握りしめた。髪の先に残った水滴を絞り取る。 「しかたないよ。こんな状況だもの」  だれだって、理性をなくすだろう。 「それに、みんなに話してどうなるの。わたしたちは犯人じゃないって、大きな顔をしたってしかたないよ。かえってそんなことしたら、次に狙われるかもしれないのに」 「それだけじゃないだろう、理由は」  うさぎくんは、まっすぐわたしを見た。 「どういうこと」 「矢島さん、だろ」  わたしは顔をそむけた。彼の顔がまともに見られなかった。 「ぼくと寝たことを、矢島さんに知られたくないんだろ」  図星だった。身体の芯が火照るのがわかった。 「信じられないよ。あやめさんが、そんな人だったなんて。もう、長いのか」 「そうでも、ないよ」  一年という歳月が、長いのか、短いのかはわからなかった。うさぎくんは、もう一度口のなかで、しんじられない、とつぶやいた。 「奥さんは知ってたのか」 「知らない」  奈奈子さんが、ではなく、わたしが、だ。 「不倫、だな」 「やめてよ、そんな言い方」  思わず声を荒らげた。うさぎくんの口調には悪意がこもっていた。 「なにも、わからないくせに。なにも、わからないくせに」 「わからないさ、わかりたくもない。奥さんに悪いって思わなかったのか」  思った。なんども。だけど。 「どうしようもなかったんだよ」  血を吐くようなことばだった。自分の口からでたのに、わたしじしんを突き刺した。 [#ここから2字下げ] ——ドウシヨウモナカッタ—— [#ここで字下げ終わり]  ことばは、揺らめいて地に落ちた。 「どうしようもないことなんて、ないよ。あやめさんが自分で、どうしようもなくしたんだろ。自分を美化するのはよせよ」  うさぎくんのことばは明らかに理不尽だった。だけど、反論してもわかってもらえるはずもなかった。かれは、わたしではないから。  わたしは口をつぐんだ。黙って受け取るには、痛すぎる台詞だった。 「言いたかったら、言えばいい」  やっとのことでそれだけを言った。声はひきつれていたけど。  切ない沈黙が続いた。 「言わないよ。だれにも」  うさぎくんは、ぽつん、と言った。  静かだった。二人も殺されてしまったと思えないほどだった。  わたしは、濡れたタオルを胸に押し当てた。 「ねえ、うさぎくん」 「ん」 「守田さんと、なにがあったの」  彼の顔色がかわった。きのうの朝、見たのと同じ眸になった。憎む、というより嫌悪に近く、呪う、というには悲しすぎる、そんな眼差しだった。 「ぼくの口からはなにも言えない。どうしても聞きたかったら、守田に聞いてくれ」  それだけ言うと、くるりと背を向けて、うさぎくんは、部屋からでていった。窓の下で、かさり、と動くものがあった。いつものねこだろうか。  わたしは、洗面所の床に座りこんだ。濡れた髪から、水滴が頬に伝う。  身体はもう、冷えきっていた。  居間に戻るとみんな、まだ眠っていた。  鳥呼の横には、わたしが眠っていた空白があった。そこにもぐり込み、目を閉じる。彼の寝息が、わたしの頬にかかる。  聞き慣れた、寝息だった。  けっして、他人とまちがうことなどないだろう。しっかり目を開けて、彼の寝息を聞きつづけた夜が数え切れないほどあったから。  わたしは、少し眠った。  どのくらいたったのか、揺り起こされた。 「あやめさん」  なつこさんが、のぞきこんでいた。 「もう、みんな起きてるよ」  あたたかい飲物がわたされた。紅茶だった。なつこさんは、ぎこちないながらも笑顔を見せた。よろよろと起きあがる。ウィスキィの香りの湯気が、疲れを癒すようだった。 「これから、どうするか相談しよう」  ピアノの椅子に腰掛けた、守田氏が言った。彼も一日で信じられないほど、憔悴していた。うさぎくんは、わたしの顔を見ると、目を逸らした。 「幸い、霧は晴れた。なんとかして、ここから脱出しないと」 「どうやって」  鳥呼が投げやりに言った。 「浜に立って、通りかかる船に助けを求める。旗でもつくって振れば目立つだろう。なんなら、火を焚いてもいい」  うまくいくのだろうか、問いかけようとして呑み込んだ。今のわたしたちは、方法を選ぶことなど出来ないのだ。 「そのまえに聞いてほしい」  守田氏がいつになく真剣に言う。 「奈奈子さんが殺されたとき、動機はただの怨恨だと思っていた。だから、新参者のおれに、犯人を探す権利などないと思っていた。だが、椋さんが殺されたことで状況は変わった。これは、凶悪な連続殺人だ。許せない。推理小説のまねをして、人を人とも思わず、遊びのように殺人を犯している」  守田氏はつばを呑んだ。 「椋さんは、犯人に挑戦して殺された。だがおれが後を継ぐ。必ず、犯人を見つけて牢獄にたたき込んでやる」  ずいぶん芝居がかったせりふだった。名探偵登場、というところか。わたしたちはしらけていた。それよりひどく疲れ果てていたのだ。 「登場人物がつかれている恋愛小説など、読んだことがない」と言ってたのはロラン・バルトだったっけ。さしずめ、今のわたしたちは「疲れきった、推理小説の登場人物」ってところか。まったく話にならない、と思った。 「そんなに、かしこまるなよ」  うさぎくんは、長椅子の背もたれにそっくりかえりながら、 「守田は凶悪な連続殺人と言ったけど、殺人淫楽症なんて、そう簡単にいたら困る。人を殺すにはそれなりの理由があるはずだよね。奈奈子さんと椋くんに共通する、殺される理由とはなんだろう。推理小説でいう、ミッシング・リンクってやつだね。二人は親しかったか。いや、顔見知り程度だった。二人をつなぐのは矢島さんだ。椋くんと矢島さんは、仲のいい友だちだったからね。殺人の動機は矢島さんに関係があるのか。これも説得力にかける。椋くん以上に矢島さんに近しい人は、他にいるしね」  うさぎくん、いやみだ。 「実は大きな共通点が、ひとつあるんだよ」 「なんだよ、それは」  守田氏、お株を奪われ、おもしろくなさそうだ。 「この島にいるってことさ」 「あたりまえじゃない」  静香さんが頬をふくらませる。 「あたりまえだ。大きすぎて気がつかない共通点さ。犯人は奈奈子さんと、椋くんだけを殺したかった訳じゃない。ぼくたちの内ならだれでもよかったんだ。もしかすると全員やるつもりかもしれない」 「この島にいるってことが殺人の動機になるの」 「みんな忘れてないか。この島は、�オアンネスの息子�教の聖地なんだよ」  そうだ。管理人さんがそう言ってた。つまり、わたしたちは聖地を汚したというわけだ。 「生き残った熱狂的な教徒が、聖地に戻ってきたとき、そこは騒がしい若者に支配されていたとしたら、殺意がわくんじゃないか。一人ずつ処刑しようと思ったとしても、不思議じゃない。ましてや、集団自殺するような宗教の信者だ。奈奈子さんの心臓も、怪しげな儀式に使ったのかもしれないし、密室だって自分達が建てた家だ。なにか方法もあったかもしれない」 「あの白骨死体は」 「ぼくたちの前に、殺された人の死体じゃないのか。ほら、中本さんていう、この島の持ち主、椋くんが言ってたじゃないか、行方不明だって。あの人とだれかが、少し前に管理人さんに内緒でここへ来て、殺された。そう考えられないか。像の中へ死体を閉じこめ、今になってぼくたちの前に曝すのも、ぼくたちをおびえさせるためだ」  鳥呼は興味深そうにうなずいた。 「死が昇華儀式となるような宗教団体なら、親切で、ぼくたちを殺そうとしてくれているのかもしれないしね」  なつこさんは大きな息を吐いた。 「やめてよ、ずいぶんなおせっかいだよ」  それでも、もし、そうなら、手ごわい相手だ。この島を、この家を、知り尽くしているのだ。わたしたちが束になっても、かないそうもない。  守田氏は手を組んで、その上に顔をのせた。 「田中の推理では、その犯人はどこに隠れてるんだ」 「H島から来てる可能性もあるけど、昨日の感じから言うと、林に潜んでるんじゃないかな。さもなきゃ、あんなにいいタイミングで人殺しはできないよ」  守田氏はすっく、と立ち上がった。 「田中の推理が正しいかどうかはわからない。だが、椅子に座ってあれこれ言ってもはじまらない。山狩りをしようぜ。林の中で犯人を探して、追いつめる。なんなら殺してしまってもかまわない。田中の言うとおりなら、林に誰かいるはずだ」  わたしは、あわてた。これ以上、危ない真似をしてほしくない。 「相手が大勢だったらどうするの。早く島から出て警察を呼ぼうよ」 「奈奈子と椋の敵討ちがしたいな」  鳥呼まで、涼しい顔であんなことを言う。  うさぎくんは反論を許さないような口調で、 「女たちは浜で助けを呼べばいい。ぼくたちは、林を探す。日本刀もあるし、地下室に木刀もあった。油断さえしなければ大丈夫だよ。やられっぱなしでたまるものか。あやめさんたちは、浜で絶対離れないようにしてるんだよ」  うさぎくんは、ひとつ忘れている。あの、ふたりで過ごした夜、奈奈子さんの窓辺にいた人影のことを。  だが、鳥呼の前でなにが言えよう。わたしは唇を噛んだ。 [#改ページ] [#ここから4字下げ] 八 青の迷路 [#ここで字下げ終わり]  うさぎくんはてきぱきと、みんなに指示をした。なんだか、いつもの彼じゃないみたいだった。不思議な高揚に、踊らされているかのように見えた。 「矢島さんは、残った日本刀を持つといい。あとは、地下室に木刀やら、鉄パイプやらがあったから、武器になりそうなのを見繕ってくるよ」 「おれはいいよ」  守田氏が言った。 「どうして」 「あの、焼けた刀を使う。切れ味は鈍くとも、木刀なんかよりはましなはずだ」 「あれを使うの」  自然とわたしは、彼を責めるような口調になっていた。 「だめなのか」 「だめじゃないけど」  あの差し添えは、奈奈子さんと椋くんを殺した刀だ。あれを持つことは、ひどく不吉な気がした。  守田氏は庭に出て、ゆうべからそのままにしていた差し添えを手にした。  朱い鞘は燃えてしまったのか跡形もない。黒く焦げた刃は、ひどく猛々しかった。白刃の冷たい凶暴さではなく、むしろ素手での暴力の生々しさを感じさせた。守田氏の焦げた痩躯と、刀は共鳴しあっていた。  彼は、柄の部分に手ぬぐいを巻き、脇にはさむようにして持った。 「女の子たちも身を守るために、なんか持ったほうがいい。あやめさん、ついてきてくれないか」  うさぎくんに言われて、わたしは重い腰をあげた。ふたりで地下室への階段を降りる。中は、ひんやりとしていた。 「これからが正念場だ。なつこさんも、静香も動揺している。あやめさん、彼女らのことを頼むよ」  なぜ、うさぎくんはわたしにそんなことを言うのだろう。 「もう、やだよ」  これが、わたしの本音だった。 「もう、危ないことなんか、やめようよ。警察にまかせればいいよ。これ以上、だれも欠けることなく、うちに帰りたいよ。いやなことは、もうたくさんだよ」  男たちは三人とも、からだに凶暴さを滲ませていた。武器など持たせれば、なにをするかわからない感じだった。そして、ひどく、生き生きしていた。  彼らは不思議な生き物だ。友人や妻の死を目のあたりにしながら、不幸のまんなかで、確かにはしゃいでいた。自分を危険に曝すことが、うれしいみたいに見えた。 「もう、たくさんだよ」  うさぎくんは、手をのばしてわたしの左の乳房をつかんだ。  わたしは息を詰めた。  それほど強い力ではなかったが、痛みを感じた。  彼の半裸体が、急に目を射る。白い、なめしたような皮膚、筋の浮かんだ細い頸、雌猫のような乳暈、顔にかぶさった前髪のむこうから、じっと見ている、眸。  困る、すごく困る。  わたしは目を閉じた。それでも、瞼の中に残像は消えなかった。  うさぎくんの手がはなれていった。背筋を羽毛がなぞるような、感覚だけが残った。 「だいじょうぶだよ、あやめさん。ぼくらは、必ず、あなたやなつこさんらを、うちに送り届けるよ。だけど、そのまえにしなければならないことが、たくさんあるんだ。ぼくは絶対に忘れないよ。椋くんの背中が燃えていたことを。さっきまで、口をきいたその背中が、燃えていたことを。さぞ痛くて、熱かっただろうな。あれを見て、正気でなんかいられないよ。女の子たちから見たら、ばかばかしいだろうけど、ぼくたちは、そのままになんてしておけないんだよ」  わからない。彼の言うことなど、わからない。わたしは、だだをこねるように、首を振った。  うさぎくんは、わたしの肩を、しっかり掴んだ。 「ぼくたちは酔っぱらっているんだ。へべれけにね。生まれてはじめて、アルコオルや、音楽以外のものでね」  男たちは、出ていった。  見送ることさえしなかった。なつこさんは床に座って、絨毯の毛羽をむしっていた。わたしは、爪を噛むことをやめられなかった。  鳥呼は、出てゆく前にわたしの前に立った。わたしは、彼の膝小僧のあたりだけを見ていた。いびつな、男の、脚。 「あやめさん、行くよ」  顔をあげずにうなずいた。彼は、くるり、と向きをかえ、外へ出ていった。毛深いすねが遠ざかっていくのが見えた。  出征兵士を見送る女たちも、こんな気分だったのだろうか。  爪はすっかり白く、ふやけてしまっていた。ためいきをつき、長椅子に深く沈みこんだ。  なつこさんが、顔をあげた。 「べつに、もういいのに」  泣きだしそうな言い方だった。 「なにが、もういいのよ」  訊ねたのは静香さんなのに、なつこさんはわたしに答えた。 「べつに、あたし、殺されてもいいのに。そんなこと、もう、どうだっていいのに」 「なつこさん」 「あんなこと、してほしくない」  そうだ。自分が死ぬことはそれほど怖くない。だれかが、いなくなってしまうことほど。自分勝手ないいぐさだ。だけど、ほんとうだった。  静香さんが、舌ったらずな口調でまくしたてた。 「なつこさんや、あやめさんの言うことなんか、わからない。この島に、殺人犯が隠れていることが、どうでもいいことなの? また、だれかが殺されてしまってもいいの? あなたたち、人間らしい感情ってものがないの? 信じられない。なつこさんは、恋人が殺されたのに」  そこまでで、彼女は悲鳴をあげた。なつこさんが彼女の足を蹴り飛ばしたのだ。 「だまってれば。もの言えば唇寒しってことば、憶えといたほうがいいよ。おしゃべりって、みっともない」 「なつこさん」  わたしはなつこさんをたしなめた。彼女は聞かなかった。 「静香さん、あんたとあたしって、人種が違うんだよ。人種が違うと、ことばだって違う。同じ日本語も通じないんだ」 「言ってる意味がわからないわ」 「わからなくて結構。でも、これだけはおねがい。あたしを評価しないで。あんたからもらう通信簿なんて、まっぴらごめん」 「なつこさん」  わたしは声を荒らげた。気まずい沈黙が部屋に充満した。  不安、いらだち、こんなふうに心を苛みあって、なんになるのだろう。傷つけられる前に傷つけるために、わたしたちは不安を敵意にすりかえる。相手を傷つけたところで、なにかがむくわれるはずもないのに。 「ごめん」  なつこさんは、小さな声で謝った。  静香さんは返事をしなかった。  なつこさんは、立ちこめる不快なムウドを振り払うように言った。 「とにかく、助けを呼ばないと。このままじゃどうなるかわからないよ」  わたしたちは、部屋中を探してやっと、替えのシイツを見つけた。 「これで、旗が作れるね」  静香さんがやっと、安心したように言った。  ざくざくと、粗く端を縫い、物干し竿に固定した。まっしろだと目立たない、となつこさんが言い出し、黒のマジックでSOSと書いた。なにもかも、現実感がなかった。笑いだしたいほど、陳腐だった。  ふいに、ふるえるようなくちぶえがかすかに聞こえた。 「ねえ、いまの聞こえた?」  静香さんとなつこさんは顔を見合わせる。 「なんにも聞こえないよ」 「うそ、くちぶえみたいなの。聞こえなかったの」  また、だ。なつかしいような、かなしいような、そんなくちぶえ。とぎれ、とぎれに。きいたことのあるような、旋律だった。 「ほら、また」 「きこえない」  なつこさんはきっぱりと言った。  わたしは立ち上がった。 「見てくるよ、なんだか気になる」  なつこさんが不安げに見上げた。 「あたしも行く。あやめさん、一人だとあぶないよ」 「そうしたら、静香さんが一人になるじゃない。だいじょうぶだよ、すぐ帰ってくる。三分たって、戻らなかったら、ふたりで見に来て」  わたしは木刀を片手に部屋を出た。幻聴かもしれない、とちょっと思う。だけど、そのままにはしておけなかった。たがが、はずれてるな、と、ひとごとのように考えた。  またきこえる。歌詞のようなものが、ふと頭をかすめる。 [#ここから2字下げ] しず、むくがいのなみ、まくうら [#ここで字下げ終わり]  なんだったろう、思いながら玄関の扉を開けた。  ぎいっ。  少しだけ開けて外をのぞく。だれもいない。顔をのぞかせて、あたりを見回そうとした。そのとき。  後頭部に鈍痛がはしった。意識が飛び散るような気がした。  つづけて、もう一度。  浪のようなものに意識を呑み込まれ、わたしはずるずると、くずれおちていった。  吐き気がした。  頭のなかを素手で引っかきまわされたみたいだった。粘液質のものが脳味噌や、脊髄にからみついてとれない。  わたしはぼんやりと、見上げていた。  無数の樹が天にむかって伸びていた。その合間に見える、青黒い空。息苦しさを感じて身をよじると、骨が悲鳴をあげた。  夢魔に犯されたような重苦しさが四肢に残る。少しずつ、手足に感覚が戻ってきた。  塩漬けのような頭で考える。  ここ、どこだろう。  スイッチがオンになったように記憶が戻った。  島だ。島にいるのだ。奈奈子さんの死、椋くんの死、一度戻りだした記憶は、止めたくても止まらない。虫歯の穴をさぐるような痛みと共に、ずるずるといろんな光景が戻ってくる。血まみれの奈奈子さん、血まみれの日本刀、血まみれのわたしの手首、いやなゆめ、大鴉、ねじれた鍵、椋くんの背中、うさぎくん、鳥呼。  いたい、いたい、いたい、記憶の重さに耐えかねて、心が泣く。  いたい、いたい、いたい、いたい。  鳥呼、鳥呼、鳥呼、鳥呼。  彼の名前さえ、ひどく痛かった。  わたしは、自分の腕を思いきりつねった。身体の痛みは、心の痛みを少し中和するようだった。  後頭部を殴り付けられて気絶して、それからどうなったのだろう。よろよろと、起きあがる。頭ががんがんするのが、自分の記憶の正しい証拠だった。  針葉樹にかこまれた、林のなか、枯れ葉の寝床、あれから、どのくらいたったのか、どうして、こんなとこにいるのか、わたしは、死ななかったのか。  上を見ても、下を見ても、林が続くばかり。むき出しの、水着の足や手には、無数の擦り傷があった。  とんだ、切られお富だ。  犯人は、わたしが死んだと思って、置き去りにしたのか。この傷のようすでは、うえから投げ捨てられたのかもしれない。  つくづく悪運が、強いね。自分でおかしくなる。  とにかく、だれかに会いたい。みんな、まだ無事だろうか。  立ち上がり、歩き出す。  下に降りれば、砂浜に出るはずだ。斜面が急で、まっすぐ降りることは難しい。わたしは、スキーのパラレルのようにぐねぐねと、歩きだした。  頭とからだがずきずきした。裸足に枯れ木が突き刺さる。  濡れた落ち葉に足を取られ、五メエトルほど転落した。  樹々が嘲笑う。身体をゆすらせながら、さもおかしそうに。  林は敵意に満ちていた。なぜ気がつかなかったんだろう。この島自体が悪意の塊だった。集団自殺も、殺人も、この島の、毒が原因だったんだ。  ここからだして。  でられないよ。でられないよ。でられないよ。  こだまのように、樹が輪唱する。  また歩きだしたわたしを、林は翻弄した。三歩歩いて太い幹にぶつかり、あとずさりして、木の根につまずく。どこまで行っても、出口はなかった。  迷路だ。青い迷路。生きている迷路。うじの涌いた猫の死骸。藪蚊が傷にむらがる。目や口に飛び込む、ちいさな虫。  空さえも病んでいた。青黒く、ひどく近い。何度めかに転んだとき、もうわたしは起きあがらなかった。  ぬるぬるした、枯れ葉のうえで、樹々の嘲笑を聞きながら目を閉じた。  もう、無駄かもしれない。みんな死んでしまったかもしれない。もう、この島にいないかもしれない。  歌が、くちをついて出た。 「はかあ、ない、親の、せに立っ、て沈むう苦界の浪、枕、夜毎お日毎に幾万人ん、通い廓のそ、のなか、あに、きゃく、へ手くだのいれ、ほくろ、誓紙書くのも指い、切るもお、真、実う男の、可愛い、さに、尽くす誠は誰とても、勤めする身のな、らいにて、私にい、限る事、かいな」  思いだした。あのくちぶえ。新内《しんない》の明烏《あけがらす》だ。時次郎《ときじろう》との心中を描いた、名曲。明烏が時次郎に彼と死ぬうれしさを語る、一節。 「世に、ありたけの実情を、尽くし、尽くしいいてえ、え、諸共お、お、おにい、ええ、死ね死のうとが、ほんになり、互いに胸のうた、がいも、晴れえてえ、未来へみょおと、連れ、何の心が残ろぞ、と」  なぜ、わたしだけにくちぶえがきこえたのかわかった。なつこさんも、おそらく静香さんも新内など聞かない。とぎれとぎれにも知った旋律なのだ。彼女らには気にかからなくとも、わたしには妙に気になったはずだ。  遠くから、木の枝のおれる音、落ち葉の鳴る音が近づいてきた。  殺人者なのだろうか。もう、顔を上げる元気もなかった。  こんな苦しい思いをするくらいなら、ひとおもいに、 「あやめさん」  名が呼ばれ、抱き起こされる。わたしはうつろな目を開けた。 「あやめさん」  守田氏だった。 「よかった。生きてたのか」  汗ばんだ抱擁。しっかりかき抱かれ、すこしずつ我に返った。 「みんなは、みんな無事なの」 「ああ、だいじょうぶだ。みんなさがしてたんだ。あやめさん、けがは」 「わからない。あたまが痛い。足も」  守田氏はわたしの汗でべたついた髪に、手を入れた。 「何があったのか、話して」  わたしは問われるままに喋った。口だけが、意志を持って勝手に動いているように、喋った。 「血が出てるな。ひどく殴られたらしい。意識ははっきりしてるのか」  うなずく。かれは、わたしの傷だらけの足を見て、顔をしかめた。 「おぶってやる」  彼の背中は、ひどくぬくかった。  彼はわたしをおぶったまま、楽々と斜面を降りて行った。林はもう、わたしたちをもてあそんだりしなかった。  守田氏は話してくれた。三人がかりの山狩りは何の成果もあげなかった事を。 「見つかったのは猫の死骸ぐらいさ。三人で手分けして追いつめるつもりだったけど、やはり、一人になると心細くてね。結局みんなで声を掛け合いながら、一時間ほど林のなかを走り回ったけど、誰もいなかった。誰かが棲んでた気配もない。戻ってみると、なつこさんと、静香が大騒ぎをしてて、あやめさんがいなくなったって言うから」  全員で手分けして探す事にしたのだと言う。わたしたちは、砂浜に出た。  砂の上を歩く男の背中。なんだか、こんな映画があったような気がする。猛禽のように肉厚の肩甲骨、固く盛り上がる腕。  わたしは頼りきって目を閉じた。 「あやめさん」  なつこさんの声がした。 「あやめさん、無事だったの、無事だったの」 「ああ、少し怪我してるけど」  守田氏が答えて、わたしを砂に下ろした。よろけて立つわたしに、なつこさんは抱きついた。 「よかった、よかったよ」  泣くなつこさんがいとおしかった。 「心配かけてごめんね」 「みんなはどこにいる」  守田氏が訊ねた。とたんになつこさんの表情が変わった。 「どうした」 「うさぎくんが」 「田中がどうした」 「崖から落ちて」  守田氏は駆け出した。見れば向こうの方、切り立った断崖のしたに、人影があった。  自分が助かった幸福感も、そう長くは続かなかった。 [#改ページ] [#ここから4字下げ] 九 詩人の血 [#ここで字下げ終わり]  骨まで冷たくなる光景だった。  飛び散った血と脳漿の真ん中に、変なふうに頸の折れ曲がったうさぎくんがいた。岩の上に落ちたのだ。ひとたまりもなかっただろう。打ち寄せる波が、彼の血で汚れた岩を洗っていた。  静香さんが泣いている。泣いているが、彼の身体にふれる勇気はないようだった。守田氏がうつぶせの、彼の死体を抱き上げた。顔がこちらを向き、わたしは息を呑んだ。  あんなに綺麗だったうさぎくんの顔が、こんなになってしまうなんて。  それほど恐怖はなかった。ただ驚きだけがあった。  うさぎくんは、その綺麗さゆえに連れ去られてしまったのだ、と思った。いまここで、横たわっているのは、彼の抜け殻だ。  守田氏はうさぎくんの無惨に打ち砕かれた顔を黙って見つめていた。首筋を伝う血をなぞり、手についた血痕を無表情にながめた。目の前に投げ出された親友の死体に、どう接してよいか、わからないように見えた。  手がぎゅっとにぎられた。  いつのまにか、横に鳥呼が立っていた。  目を見合わせてうなずいた。彼は、声を出さずに口だけで言った。 [#ここから2字下げ] ——よかった、無事で—— [#ここで字下げ終わり]  自分がどんな事になっていたかを思いだし、改めて、ぞっとした。ひとつ間違えば、うさぎくんは、わたしだったかもしれないのだ。  守田氏は、顔をあげてわたしたちを見た。 「誰が殺したんだ」  後に残ったのは、わたしと、鳥呼、静香さん、なつこさん、そして守田氏。このなかに犯人がいると言うのか。 「誰が殺したんだ。責めないから言ってみろ」  守田氏の言葉は静かだった。  わたしがころしました、そう言ってしまいそうな、不思議な誘惑に満ちたことばだった。彼は、うさぎくんの、生きてるときと少しも変わらない綺麗な手を取った。 「かわいそうに、なにもこんな酷い殺しかたをしなくても、いいようなものを」  まるで、仔犬かなにかが死んだような言い方をして、彼はうさぎくんの身体をもう一度、地面に寝かした。血や、体液に汚れることなど、まったく気にしていなかった。  不思議だった。少しも悲しいと思わなかった。明らかにどこかが麻痺していた。  奈奈子さんや椋くんの時のような、喪失感はまるでなく、むしろとり残されたような気がした。  うさぎくんの身体を波が洗った。さらさらの茶色の髪や、細い腕はそのままなのに、折れ曲がった頸や肉の裂けた肩が痛々しい。 「連れてかえってやってもいいか」  守田氏が聞き、みんながうなずいた。  彼はうさぎくんを肩にかついだ。水滴と血がぽたぽたと砂に落ちた。  救いのない葬列だった。  朱をまき散らしたような夕焼けのなか、わたしたちは押し黙って歩いた。  泣いているのは静香さんだけだった。  わたしたちは、あまりにも無力だった。わけのわからない大きな力に、友だちが、ひとり、またひとりと連れ去られてゆくのを、どうすることもできなかった。  せめても、うさぎくんが天国にて神様の寵愛を受けるように、心から祈った。  抱擁の門の側面は夕焼けを受けて、真っ赤に染まっていた。  無数の抱擁の門は、薄暗くなった階段に、いっそう暗い影を投げかけていた。  先頭を上っていく、守田氏の灼けた背中。そうして、肩からぶらさがり揺れている、うさぎくんの身体。流れる血が、背中や四肢を汚すことをまったく厭わないようすで、彼は、ひたすらまっすぐに、歩いていた。  急に吐き気がして、しゃがみこむ。 「だいじょうぶか」  肩を抱きかかえられ、わたしは淀んだ目を開けた。  恋人は、ひどく不安そうな顔でのぞきこんでいた。 「あやめさん?」  静香さんも止まって振り向く。わたしは首を振った。考える気力もない。  鳥呼は静香さんを見上げた。 「先に行っててくれ。彼女、気分が悪いらしい。様子を見て連れて帰るよ」 「でも、あたしも心配だもの。ついててあげる」  静香さんはそう言うと、階段のわたしの横に、腰を下ろした。  胃を裏返しにされるみたいだった。  なんどもこみあげてくるものを抑え、わたしは膝小僧に顔をすりつけた。  彼は、汗で額に貼りついた髪を、撫でつけてくれた。 「気分、悪いのか」 「だいじょうぶ、すぐよくなるから」  冷や汗が際限なく流れてくる。わたしは目を閉じた。  わたしの後頭部に手をやった彼は、いきなりきつい調子でわたしを問いつめた。 「どうしたんだ。この傷」  そうだ。彼にはまだ説明してなかった。わたしはとぎれ、とぎれに自分の身に起こったことを彼に話した。  彼は絶句した。 「そんなことが」  やっとそれだけ言うと、口を引き結んで下を向いてしまった。  静香さんは自分の肩を抱くようにして、ため息をついた。 「こわい。みんな殺されてしまうんじゃないかしら」  奈奈子さんに始まり、椋くん、うさぎくん、そしてわたし。殺人犯人はわたしたちの仲間の半数に、手を伸ばした。残りの人たちに危険がない、といえる確証はまるでないのだ。  鳥呼が顔を上げた。 「静香さん、うさぎくんの死体は誰が発見したんだ」  彼女ははっと顔を曇らせた。 「なつこさん」 「どうやって」  彼女はぽつん、ぽつん、と話しはじめた。 「四時前、だったかな。五分、たっても十分たっても、ユキヒロが戻ってこないから、心配になって、砂浜に降りて」 「待って」  わたしは吐き気をおさえて訊ねた。 「話が見えないよ」 「こういう訳だ、あやめさん。林から戻ると、あんたがいなくなってた。とにかく探そうということになって、できるだけ危険のない方法を考えたんだ。まず、高台をうさぎくんが探す。家と、その周りをなつこさんと、静香さん。林をぼくと守田さんで手分けして探す。そうして、うさぎくんとなつこさんと静香さん、ぼくと守田さんは、集合場所を決め、五分ごとにそこに集まり、無事を確認しあう。もし、だれかが五分たっても戻ってこなかったり、あやめさんが見つかったり、異状を発見したときは、すみやかに砂浜に降り、みんなに手を振って、異状が発生したことを知らせることにしたんだ」  それで、守田氏は砂浜に降りたのか。みんなが、わたしのためにそこまでしてくれたのか、と思うと、うれしくもあり、うっとうしくもあった。 「そんな、ばらばらになるとかえって危ないから、みんなで一緒に探せばよかったのに」  思わずひとごとのような言い方になったわたしに、鳥呼は眉をひそめた。 「なに言ってるんだ。もし、ぼくたちの発見が遅くて、あやめさんの身になにかあったら、大変じゃないか。現に、そんな傷をつくってる。これからは絶対、そんな無茶なことはしない、と約束してくれ」  静香さんはまるで、その光景を思い出すかのように、目を細めた。 「砂浜に、降りて手を振ったんだけど、だれも気付いてくれた様子がなくて、不安で、なつこさんとどうしようかって言ってたの。そしたら、なつこさんが、あそこに人が倒れているみたいだって、言い出して」  それで、うさぎくんを見つけたのか。  彼女は唇を噛んだ。伏せた瞳に涙が滲んで、頬を伝った。  うさぎくんの、あの顔。もとは人間の顔であったことさえ、信じられないような、ぐしゃぐしゃの、あの、うさぎくんの。  悪寒が四肢を襲う。  見慣れた海水着と、彼独特の髪型や、弓のようにしなやかな身体、それがなかったら、彼だとわからないほどだった。  ふと、奇異な考えが、わたしを刺し貫いた。  もしかして、でも、まさか。  ありえないことだ。だが、一度火のついた疑惑はどんどん、膨らんでくる。黙っていることが、むつかしいくらいに。 「ねえ」  二人の目がわたしに注がれる。 「うさぎくんが落ちるところを、見た人はいないんでしょう」  鳥呼と静香さんは顔を見合わせた。 「たぶん、そうだと思うわ。でもなぜ」  わたしは少し躊躇し、口を開いた。 「あれは、うさぎくんではないかもしれない、とは思わない?」 「まさか」  鳥呼は空虚な笑い声を上げた。 「違うと言い切れる? うさぎくんみたいに細くて、肩までの髪の男の子が、あんなふうに倒れていたら、みんな疑いもせず、彼だと思いこんでしまうんじゃない」  静香さんは、滲んだように大きな目を見開いてわたしの顔を見た。 「正気で言ってるの。推理小説じゃあるまいし、そんなことがあるはずない」  鳥呼がぼそっと呟いた。 「推理小説じゃあるまいし、か」  そんなことを言っているうちに、もう、被害者は三人目なんだ。 「ねえ、静香さん、うさぎくんに、目立った身体の特徴とかはないの。ほくろとか、手術の痕とか」 「覚えてない。どちらかの腕の内側に、ほくろがあったような気がするけど」 「それじゃあやめさん」  鳥呼はわたしを見据えて、 「あやめさんは、うさぎくんが犯人だと思っているのか」 「そういう訳じゃないけど」 「だって、そうじゃないか。うさぎくんが死んだと思わせて、だれにメリットがあるんだ。考えられるのは、彼が犯人で、これからも殺人を続けるつもりのときだけだ。それにしてもはじめから、身代わりを用意して、それを自分に見せかけて殺すなんて、並みの神経じゃ出来ない。よっぽど練りこまれた計画殺人だ」  言われて狼狽した。そこまで考えていなかった。それに奈奈子さん殺しに、彼が関わっていなかったことは、はっきりしている。 「ごめんなさい。考えが足りなかった。でも、こんな状況だもの。おかしいと思ったことはぜんぶ確かめたほうがいいと思って」 「気持ちはわかる。でもいい加減なことは言わないほうがいい」 「もう、やめて」  引き絞るような声で、静香さんは叫んだ。 「いや、いや、もう何も聞きたくない」  小さな顔を手で覆い、嗚咽する。わたしと、鳥呼は、目線を交わした。彼女がいることを考えていなかった。どうやら、恋人を失ったばかりの女の子に、残酷すぎる仕打ちをしてしまったようだ。  とめどなく泣く静香さんをなぐさめようともせず、彼とわたしは黙りこくっていた。  景色はすっかり夜の中にまぎれこんでいた。  うさぎくんの身体は、椋くんと一緒に、二階の一室に寝かされた。  生き残った者達は階下の居間に集まっていた。なつこさんは、救急箱を持ってきてわたしの傷の手当をしてくれた。  泥だらけの手足を洗い、血のこびりついた髪を濡れタオルで拭いてくれた。  鳥呼はわたしの身体に触れて、ひどく熱いと言った。口のなかが渇いて、のどがねばねばした。静香さんは、泣きじゃくっていた。もう慰める者もいなかった。  守田氏はただ、黙りこくっていた。けれど、そう見えたのは表面だけだった。彼は自分の腕をきつく抱いていた。二の腕に爪が食い込んでいた。肉が破れて、血がにじむほど、強く。  いつになったら、ここから逃げ出せるのか。鳥呼がわたしの顔をのぞき込んだ。 「あやめさん、気分は悪くないか」  首を振る。頭がひどく重い。 「なにか、ほしいものはないのか」 「水が飲みたいの」 「わかった、くんでくる」  とたんに、麻酔から覚めたように飛び起きた。 「だめだよ、いっちゃだめ。いらないから、いらないから」  彼の腕にすがった。 「どうしたんだ」 「一人になったら、殺されてしまう」  みんなから離れたとたん、おそってきたもののことを思い出した。黒い影、音もなくあらわれて。 「だいじょうぶだよ、心配性だな」 「あやめさんの言うことが正しいよ」  なつこさんが低い声で言った。 「みんな、だいじょうぶだと思って殺されてるんだよ。あたしが一緒に行くよ。みんななにか、食べたほうがいい。果物でも取ってくる」 「ほしくない」  静香さんが声を殺すように言った。 「殺人鬼に殺される前に、死んでしまうよ。悲しむのは、後だって出来るんだから。食べたくなくても、なにか食べて。もう、これ以上だれもいなくなってほしくない」  なつこさんは、いつも最後になって、強かった。みんなが駄目になったころ、ぼちぼち動き始めるのだ。わたしが、彼女に頼りきっている理由のひとつが、そこにあった。 「もう、誰も殺されないよ」  守田氏が、はじめて口を開いた。壁に頭を押しつけて、薄目を開けていた。 「どうして、わかる」 「犯人は田中だよ」  空気が凍り付く。なぜ、どうして、そんな。 「そんなわけない」  静香さんが悲鳴のような声をあげる。 「ユキヒロが、人殺しなんて、するはずないじゃない。充、やめてよ。へんなこというの」  守田氏はゆっくりと顔を起こした。まるで、憐れむような眼差しで、静香さんを見た。 「かわいそうに、あんたも田中と一緒だ。自分の信じてる世界がすべてだと思ってるんだろう」  静香さんは一瞬、息を呑み、火のついたように泣きだした。 「守田さん、ちょっと待って」  鳥呼が彼を制した。 「いきなり、そんなこと言われても納得できない。なぜ、彼が奈奈子や椋を殺さなきゃならないんだ。根拠を教えてくれ」  守田氏はしばらく考え込んでいた。首のあたりをしきりに掻く。自分の考えをまとめているように、見えた。  しばらくして、ぽつりと言った。 「見たんだよ。二日目の晩、四時頃だったかな。あいつが奈奈子さんの部屋に入って行くのを」  頭がぐらぐらした。さっき、頭を打ったショックでばかになってしまったのだろうか。わたしは耳を疑った。 「うそ」  静香さんが叫ぶ。 「うそじゃない。最初はおれも信じられなかったさ。たぶん、あいつは奈奈子さんにひとめぼれしたんだろう。そうして、言い寄ろうと部屋に行った。手ひどくはねつけられて、発作的に殺してしまったんだ。あとで、後悔したんだろうな。なにかのトリックで部屋を密室にし、自分のものにならなかった、恋しい女の心臓を、くりぬいて逃げた」  なつこさんが訊ねる。 「椋くんを殺したのはどうして」 「椋さんは、おれとは別に、彼が部屋から出るところを、目撃したのかもしれないな。そうして、あんなことを言って、田中が自首するように暗にほのめかしたんだ。そして、自暴自棄になった田中に殺されたんだろう。いや、もしかすると彼はなにも知らなかったかもしれないな。ただ、なんの気なしに言ったことばだったが、田中にすりゃあ、脅かされてるようにきこえたかもしれない。だから、殺したんだろう」 「なぜ、最初の時にそれを言わなかった。椋の死はくいとめられたかもしれないのに」  鳥呼が吐き捨てるように言った。 「静香と一緒さ、なにかの間違いだ。そう思ってた。たとえ、そうじゃないとしても、親友を売るような真似はできないね」  なにが、親友だ。聞いてあきれる。膝に置いた手がふるえていた。最初は自分の記憶を疑った。だが、まちがいない。この、大嘘つきこそが、奈奈子さんと、椋くんを殺したのだ。そうして、うさぎくんも。 「そうして、良心の呵責に耐えられなくなって、自殺したんだろう。かわいそうに、小心者のくせにだいそれたことを、するからだ」  いま、言うべきだろうか、警察の前で、言ったほうがいいのか。だが、この人の舌先三寸で丸め込まれて、新たなる犠牲者がでないと、どうして言えるのだ。  わたしは、決心して顔をあげた。 「そこまでだよ。犯人さん。うさぎくんに罪を擦《なす》り付けようとしても無駄。ばかじゃないの。変な嘘をならべたてなければ、あんたのことなんか、だれも疑わなかったのに」  守田氏は片方の眉を上げてわたしを見た。思ったほどの動揺は見られなかった。度胸が据わっていやがる、と思った。 「どういうことなの、あやめさん」  なつこさんが、わたしの手をつかむ。  わたしは、話しはじめる前に鳥呼の顔を見た。知られたくはなかったけれど。 「いい。あんたがうさぎくんを犯人だとする論拠は、二日目の夜の目撃証言にかぎられているわけだよね。悪いけど、わたしはその夜、ずっとうさぎくんと一緒にいたの。彼は奈奈子さんの部屋になんか、入って行かなかったよ」 「あやめさん、ほんとなのか」  鳥呼がとがめるように言う。 「うそついて、ごめんなさい。変に誤解されたくなかったから、黙ってたの。別に特別なことはなかったんだよ」  うそじゃない。わたしとうさぎくんの間には特別なことなどなにもなかった。抱き合いはしたけれども、あんなことはおしゃべりと大差ないのだ。  守田氏は下を向いてた。肩がふるえている。最初は泣いているのかと思った。押し殺したようなうめき声がした。そうではなかった。彼は笑っていたのだ。 「なにがおかしいの」 「悪かった。悪かったよ。うそをついたことは」  彼は頭をごしごしと掻いた。目にうっすらと涙がたまっている。 「まいったな。こんなことになるとは思わなかった」 「なに言ってるの、うそつき。ユキヒロが犯人のわけないじゃない。よくも、ぬけぬけとそんなことが言えたわね」  静香さんが、涙まじりの声でまくしたてる。 「悪かったよ。だけど、みんなのためを思って言ったんだぜ。おれがこう言うと、本当の犯人にしちゃ、好都合だろ。田中を犯人だと思わせるためには、これ以上殺人が起こってはならない。これ以上の連続殺人をくいとめようと、思ってやったことだ。だけど、まさか、証人が出てこようとはね。ほんとうにまいったよ」  とってつけたような言い訳だ。 「悪いけど、信用できないな」  鳥呼が静かに言った。なつこさんやわたしもうなずく。 「信用してくれなくても、結構。自分の無実は自分で知ってる」  彼は、焼け焦げた日本刀を手に立ち上がった。一瞬、空気が硬直した。  しかし、彼はあたりを見回して、もう一度腰を下ろした。  いままで、なまぬるかった部屋の空気は、まっぷたつに分かれていた。守田氏と、それ以外と。彼は、うそをついたことで、仲間の資格を剥奪されたようだった。 「こんなことを聞いていいのかわからないけど」  なつこさんは、ためらいがちに切りだした。 「守田さん、三日目の夜、なにしてたの」  守田氏は、しばらく考え込んでいた。彼女が、何を言っているのかわからないみたいだった。だが時間がたつにつれ、顔に赤みがさし、表情が変わった。確かに記憶の中に、なにか汚点を見つけたようだった。 「なにをしてたんだ」  鳥呼がなつこさんに聞く。なつこさんは自分の見たものを、彼に説明した。  守田氏は短い髪を、かきまわし、ほうっとためいきをついた。 「べつになんでもないさ。田中が起きて出て行ったから、何事かと思って跡をつけたんだ。なんのことはない、ただ寝そびれたから散歩に出ただけだったよ。ただ、跡をつけたことがあいつにばれてね。少し言い合いになった。それだけだ」 「うそつき」  静香さんのことばが鋭く飛んだ。守田氏は目を細めた。 「おれが、嘘をついているって言うのなら、あやめさんはどうなんだ。あのときはそれほど問いつめなかったけど、この」  彼は手にした日本刀を振りあげた。 「この日本刀に、ついてた血はどう見ても、それほど前についたものじゃなかった。せいぜい、丸一日ってとこだ。学部がら、血を触ることも多いんでね、それくらいのことはわかるんだよ。それでも、知らないって言い張るのか」  はっとした。その日本刀。  わたししか、触れることが出来なかったはずの。  それに血がついていたいいわけは、どう考えてもできない。知らぬ存ぜぬで通すこともできる。鳥呼は口裏をあわせてくれるだろう。  でも。 「たしかに、ね。信じてもらえないかもしれないけど、前の日、その刀には血はついていなかったよ。証人は、ここにいる」 「あやめさん」  鳥呼は鋭い声でわたしをとがめた。だけど、フェア・プレイが原則だ。わたしは状況を説明した。 「なるほど、ね」  守田氏は、頬杖をついて、にやりと笑った。立場は逆転した。 「矢島さんと、あやめさんの関係はうすうす、わかってたけどね。これは、おもしろいことになったな。いちばんの動機を持つ人の部屋に、血染めの凶器があった。警察ならそれで決まりだろう」  鳥呼は刺すような眼差しで、守田氏を睨《ね》めつけた。 「それで、自分の優位が決まったとは思うなよ。あやめさんが犯人なら、なぜ、血も拭わずに凶器をそのままにしておく。自分で、自分しかそれに触れなかったなんて、説明するはずがない。たぶん、何者かがトリックを弄して、彼女を陥れようとしたんだ。もしかしたら茶室に抜け道があるのかもしれないし、刀自体に細工があるのかもしれない」 「自動的に血を吹く刀かい」 「たとえば、かの村雨丸みたいにね。こんな状況だ。何があっても不思議じゃない」 「思いこむのは勝手だがね」 「とにかく、ぼくはそう思ったから、彼女をかばった。あんたみたいに勝手なことを言うやつがいるからな」 「彼女、気が狂ってるのかもしれないさ」  キガクルッテル。  そうかもしれない、と束の間思った。  皮膚が弾かれる音がした。なつこさんが守田氏をはりたおしたのだ。 「いいかげんにして、あんたが犯人じゃないならそれでいい。うさぎくんが犯人だなんて嘘をついた理由も、納得できないけど信じてあげる。だけど、自分が疑われた腹いせを、人に向けるのはやめて。そんなのは、警察のお仕事だよ。もし、これからも名探偵を気どるのなら、この部屋から出て行って、顔も見たくない」  守田氏は上目づかいに、なつこさんを見た。 「あんたは、犯人の味方なのか」 「そうかもしれない。少なくとも殺人犯は自分の手を汚してる。手も汚さずに、人の心の中を踏み荒らすやつより、幾分かまし」 「手も、汚さずに、ね」  静香さんがヒステリックに叫んだ。 「もうやめて。本当のことを教えて。なにを信じていいのかわからないじゃない」 「本当のことか」  鳥呼は息をつくように言った。  守田氏はつばをはいた。 「本当のことなんて、たいしたことじゃないさ」  まだ、ものを食べたり、眠れたりすることは、すごくふしぎな気がした。  パイナップルの缶詰は、異物感をもたらしながらも、わたしののどを、通り抜けていった。水を何杯も飲んだけれど、喉の渇きは癒えなかった。  うさぎくんの、顔、とさえ呼べないほど無惨な死に顔が、脳細胞のひとつひとつに張り付いているみたいだった。  頭がぐらぐらした。吐きそうだった。 「頭をやられたからな。少し、安静にしたほうがいい」  守田氏はわたしの表情に気付いて、親切ごかしに言った。  わたしは、油臭い絨毯のすみに横たわった。ざらついた化繊の肌触りも、湿っぽいにおいも、なにもかもが不快だった。  鳥呼は、わたしの瞼に手をやって、目を閉じさせた。まるで、死人にするようなしぐさだった。そして、それはひどくわたしを安心させた。  充血したような睡眠だった。重苦しく、熱かった。この島に来て、ゆっくり眠れたのは最初の日だけだ。眠りが、わたしを拒んでいるのか、わたしが眠りを拒んでいるのか。  切れ切れに、目を開けると、みんなは輪になって、話し込んでいた。 「何を話してるの」  聞こうとしたけれど、ろれつがまわらない。頭を打ったせいなのか、半分眠っているせいなのか、血の替わりに油でも詰まっているようで、自由がきかない。また、とろとろと、あぶられるような睡眠の中に、沈みこんでいった。  空が白んでくるころ、目を覚ました。  みんな、思い思いの姿勢で眠っていた。椅子にそっくりかえった守田氏。床の上にちぢこまったなつこさん、鳥呼はうつむいて、舟を漕ぎ、静香さんは長椅子を占領していた。  身体を起こして息をつく。朝の冷たい空気が、身体のすみずみまで、行き渡った。 「あやめさん、起きたのか」  どうやら、鳥呼も目を覚ましたらしい。掌で顔をこすりながら、とろん、とした声を出す。 「どう、調子は」 「だいぶ、いいみたい」  偏頭痛がかなり、ひいていた。わたしは立ち上がって、壁にかかった鏡をのぞいた。 「ひどい、顔」 「しかたないさ」  ため息で曇った、鏡をこする。ふたたび、バセドウ氏病のような、目だけがぎょろりと大きな顔が、映った。 「百年の恋もさめるかな」 「さあね」  鳥呼はそらとぼけるように言い、あくびをした。  紙のように白いくちびるを噛むと、にじむように血の気が戻った。  鏡の中の自分に向かって言った。 「ねえ」 「ん」 「とんでもないことになっちゃったね」  彼は返事をしなかった。 「ごめんね」 「なにが」 「わたしが、こんなところに誘ったから奈奈子さんが」  憎まれてもしかたない、と思う。彼から、最愛の人を奪うことになってしまった。  鳥呼と最初にそうなってしまったとき、決して、この人を傷つけまいと思ったのに。  彼はわたしのことばには答えず、こう言った。 「外へ行こう。ここじゃ、話しにくい」  たしかに、誰かが目を覚ますかもしれない、ここでは言いたい事も充分に言えないだろう。わたしたちは、みんなを起こさないように、忍んで外へ行った。  うっすらと、もやがかかっている。ぬれそぼった草を踏みわけて歩いた。うるんだような、林の色。光がまだ、やさしい。  海の青が目にまぶしい。霧に遮られて、こんな景色を見る事もなかった。ここで、過ごすはずだった、ありふれた休暇のことを思うと、心が痛んだ。  彼もおなじことを考えていたのか、 「なにもかもが、うそみたいだな」  なにもかもが、うそみたい。  それは今に始まったことではない。彼とはじめて会った日、日盛りの公園での数分。あのときから、すべてに現実感は、なかった。  あのとき彼は、わたしの名について語った。 [#ここから2字下げ] アヤメモワカヌヤミノ、アヤメ、ダロ ヨク、ワカッタネ ソレトモウヒトツ [#ここで字下げ終わり]  もうひとつ。  いきなり、首をつかまれた。  接吻。ウィスキィのボトルに口をつけて飲むような。  らんぼう。でもがまんする。  からみついた舌がほどけ、離れていった。その口が言った。 「てるみ、逃げよう」  あとにも、さきにも、あのときだけだった。かれが、わたしの本名を呼んだのは。 「逃げるって、どうやって」  声がかすれた。 「泳いで」  泳いで、そんなことができるだろうか。 「だいじょうぶだ。遠泳には自信がある。あんただって、泳ぎは下手でもないだろう」 「自信がないよ」 「力がつきたら、ぼくがささえて泳ぐ。命がけになれば、それくらいできるはずだ」 「でも」 「それでもだめなら、ふたりで溺れるだけだ。わけもわからず殺されるより、そのほうがいい」  鳥呼はわたしの顔を見た。 「おねがいだ」  うなずいた。ふたりで溺れる。そのことばに、ふるえた。謎の殺人鬼がわたしたちに手をのばさないと、誰が言えるのだ。そのくらいなら、自滅しよう。泡のように海に溶けて。  わたしたちは、走りだした。  抱擁の門を、いくつも、いくつも通り抜けた。しだいに、加速度がつき、景色の中にとけこんでしまいそうだった。  風景が痙攣する。おそろしいくらいに。  空気が、刺激物ででもあるかのように、皮膚をぴりぴりと刺した。  石の階段を降り、砂浜に出る。引き潮なのか、海が遠い。湿った砂を踏んで、走った。  足の下で、少しずつ大地が溶けて行くようだった。打ち寄せる波と、くずれる砂。  わたしたちは、まっすぐに波に向かって行った。  ふいに、動けなくなる。  足が、がくがくした。  行こう。行こう。頭の中でけしかけたけど、身体は言うことをきかなかった。  先を行っていた、彼が立ち止まった。  ゆっくりと、もどってくる。 「どうしたんだ」  首を振る。もう、だめだ。 「行けないよ」 「どうして」 「なつこさんを、置いて行けない」  彼女を一人にして、どうして逃げられよう。守田氏はあまりに怪しいし、静香さんは頼りない。 「すぐに、助けに帰ればいい」  だめだ、そのあいだに殺人鬼の手が、彼女をつれ去ってしまうかもしれない。わたしは砂の上にしゃがみこんだ。 「だめなのか」 「あんた一人で行って。足手まといはいないほうがいい。それで、少しでも早く、助けにきて」  彼の顔がゆがんだ。 「だめだ、ひとりでは泳ぎきる自信がない」  後になって、なんども後悔した。  なぜ、このときに一緒に行かなかったのだろう。そうすれば、あんなにかなしい結末にふれることもなかっただろうに。  わたしたちは塑像《そぞう》のように、しばらくそうしていた。彼は他人のように遠かった。ふたりは、身動きもせず、なにかのきっかけを探していた。ちょうど、数字錠の番号を、手探りであわせるように。  かちり、と、音のない音がした。  彼はわたしの腕をつかんで立たせた。 「ぼくが悪かったよ。身勝手で」  ちがう。そんなことじゃない。 「ごめんなさい」  彼は笑った。まるで幾重にも重なった花びらを、ほぐすように。 [#改ページ] [#ここから4字下げ] 拾 風に揺れる、瓢《ひさご》 [#ここで字下げ終わり]  階段は行きの倍くらいの長さがあるようだった。  新たなる被害者が出ることを恐れながら、あの死の匂いの色濃い家にもどることには、ためらいがあった。  息を切らすわたしをそのままに、かれはどんどんと上っていった。  ずきん、と直線のような頭痛が走った。  わたしは石の門にもたれ、息をついた。頭の中でだれかが、釣り鐘でもついてるみたいだった。目を閉じた。殺人者の一撃は、まだわたしを苛みつづけていた。頭の中に異常なウイルスが繁殖しつづけているような、気がした。  悲鳴が響いた。他でもない彼の。  あっと思う間もなく、彼の身体が上から転がり落ちてきた。  抱き留めるひまもなかった。  後ろ向きで、がくん、がくん、と振動しながら、あと数メエトル落ちて、やっと止まった。 「鳥呼」  だれかにつきおとされたのだ。  彼は頭を下に、大の字になって倒れていた。頭から血が流れている。わたしは息を呑んだ。  駆け寄って、抱き起こす。 「鳥呼、鳥呼、鳥呼、鳥呼」  彼の身体は、ぐにゃんとして抵抗がなかった。冷水を浴びせられたように、身体が凍った。  まさか、彼まで。  なんども名を呼んで揺さぶった。  あんな落ち方をしたのだ。変なふうに頭を打つか、首の骨を折るかしたかもしれない。  秀でた額が割れ、赤いものが幾筋も流れ出している。わたしは彼の頭を抱きかかえた。  首筋に脈打ちを感じたときは死ぬほどうれしかった。  まだ、生きている。 「しっかりして」  せいいっぱいの、ぬくみを押しつけるように抱きしめた。  肉の薄い鼻梁がぴくりと動き、押しころしたようなうめきが、歯の間から漏れた。 「う、う」  何とかしなければ、と思うけれども、どうしたらいいのかわからない。  彼の生温かい血が、わたしの内腿をつたっていった。ふるえて歯が鳴る。わたしはしきりに彼の髪を撫でつけた。 「死なないで、死なないで」  もう、いじわるをいったりしないし、貴方の嫌がることもしない。だから。  彼の顔色がしだいに青ざめてくる。  恐怖がいきなり、わたしをとらえた。  わたしは、悲鳴をあげた。のどが張り裂けるほどの。 「どうしたんだ」  みんなが駆け降りてくる。 「矢島さん」  守田氏は動揺した声をあげ、駆け寄ってきた。 「なんてこった」 「生きてるの、まだ生きてるの。おねがい助けてあげて」  しゃくりあげながら言うが、ことばにならない。守田氏は、わたしのことばが正しいことを確かめると、鳥呼を抱き上げた。 「部屋に運ぶ、みんな、あやめさんを頼む」  なつこさんは、わたしの手をつかんで立たせた。 「行こう。きっとだいじょうぶだよ」  わたしは天啓のようなそのことばにすがった。  守田氏は鳥呼を長椅子の上に寝かせた。水で冷やしたタオルで、血を拭ったり、脈を取ったり、まめまめしく手当をする。  ぐったりとした彼の身体は、ひどく華奢で、ちいさく見えた。ときおり、ぐうっ、とのどが鳴り、そのたびに心臓をわしづかみにされるような気がした。  静香さんは、醒めたような口調で言った。 「何があったのか、説明して」  わたしは、話した。頭が混乱して自分でも何を言っているのかわからなかった。  殺人鬼は、とうとう彼にまで手を伸ばしてきたのだ。わたしたちを皆殺しにするつもりなのだ。そんなふうなことまで言ったような気がする。  誰もなにも言わなかった。なつこさんは、小さな声でわたしに、血を拭くように言った。わたしのグレイの水着には、彼を抱き起こしたときについた褐色の染みが、ところどころにあった。 「彼を突き落としたものの、姿は見なかったの」  なつこさんに聞かれて、ことばに詰まる。あのときは、そんなことまで気がまわらなかった。  鳥呼の上に、おおいかぶさるようにしていた守田氏が顔をあげた。 「たぶん、だいじょうぶだと思う。かえって出血したのがよかったんだ。脳内出血でもすりゃあ、あぶないとこだった」  わたしは、せきこむように聞いた。 「助かるの」 「今のところね。打った場所が場所だから早く病院に運んだほうがいいけれども」  誰ともなく安堵のためいきをつき、張りつめていた空気が、すっと溶けていった。  骨までこわばるような緊張が緩むまでには、すこし時間がかかったけれども。  鳥呼が少しうめいた。  みんなの目が長椅子に注がれた。  ひどく、重いもののように左手を持ち上げ、額をおさえた。 「矢島さん、動いちゃいけない」  守田氏は、彼の目をのぞき込むようにして言った。  鳥呼は濁ったような目で守田氏を見た。視線は宙をさまよい、つたない線を描くようになにかを探した。  視線がふれあったとき、彼はいつものように、やさしげに目を細めた。 「おれのことがわかるか」  守田氏の質問に、ゆっくりとうなずく。  かすれた、ぎこちない口調で、こう言った。 「守田さん、やっぱりぼくにはできないよ。あんたがやってくれ」  どういう意味なのか、わたしには理解できなかった。  なつこさんは、やっぱりね、とつぶやいた。静香さんも別に不審そうな顔はしていない。 「矢島さんには荷が重いと思ったんだ。だけど、あんたがやるって言ったから。いいよ。あとはおれがやる。あんたはなんの心配もしなくていいから」  それを聞くと、かれは安心したように目を閉じた。 「あたしもぬけさせてもらいたいな。こんなのは趣味じゃないの」  なつこさんが、椅子から立ち上がりながら言った。  守田氏の責めるようなことばが飛ぶ。 「おれと、静香だけを悪者にする気か。フェアじゃないな。あんたは参加してもらわなきゃな」  なつこさんは、しぶしぶ腰を下ろした。  守田氏は正面を向いた。 「さてと、こんな状況に慣れてるわけじゃないから、どうしたらいいのかわからないけどな」  彼は塩の吹いた腕をこすりながら言った。 「とにかく、あやめさん、庭に出ようか」  機械音のような蝉の声がする。  ふたたび、夏が戻ってきていた。島は、回復しつつあった。悪性の、重い、流行り病から。  一年草の一生は、早春の芽ぶきから始まり、夏の過剰な緑を経て、秋に種を落とし、冬に終わる。真夏から始まったわたしたちの休暇も、秋を足早に通り過ぎ、寒さに凍え、また真夏へと、生き急ぐように駆け抜けたことを思うと、確かになにかが終わろうとしている、という確信はいよいよ深まってくるのだった。  荒れ果てた庭の真ん中に、墓石のようにうずくまったわたしたち。  終わりが近い、ともう一度思って空を見上げる。鳥たちは、何者かの手に操られるように、空を自由自在に行き来していた。  思い返すと、わたしはどこかで間違ってしまったような気がする。そうして、今、わたしを囲むように座っている墓石たちは、その間違いを、親切にも正そうとしてくれているのだ。  なまぬるく、陰鬱な空気が庭に満ちていた。  守田氏は最初のひとことを探していた。黒々とした火事の残骸を見つめながら。さてと、などと言い出したところをみると、たいして気のきいた台詞は、浮かばなかったらしい。 「今ごろになって気付くとは、おれも間抜けだけどさ。今回のことは、よけいなことが多すぎたよ」  彼は何を言い出そうとしているのか。 「人殺しの場面に立ち会うなんて、はじめての経験だから、妙に、証拠だとかアリバイなんかにこだわってしまったけど、そんなことより、事件の全体像を見れば、本質ってものは案外、単純なものなんだな」  わたしは、なつこさんを見た。彼女は視線をそらした。 「おれが、まず考えたのは、連続殺人の意味だ。絶海の孤島だの、吹雪の山荘だのに閉じこめて、一人ずつ殺していく。推理小説や映画なんかによく、あるよな。そのイメエジがあるから、おれたちは、この事件が最初から、連続殺人を企てたものだと、思いこんでしまった。 「だが、犯人は、本当に連続殺人を意図していたのか。ここで、ひとつ、ひっかかってくる。この島が、外部と連絡を絶たれてしまったのは椋さんの気まぐれと、いくつかの偶然によってだ。もし、椋さんがボォトのキイを海に投げ捨てよう、なんて考えなかったら、おれたちは、とっくに本土へ戻り、事件は警察の手にゆだねられたわけだ。そうすりゃ、犯人は、もう他の奴に手は出せない」  彼はここで息をついた。 「本当に連続殺人を企てていたのなら、最初に殺すべきは、椋さんのはず。彼がいなくなれば、ボォトを操縦できるものがいなくなり、外部への連絡は絶たれる。だが、犯人はそうしなかった。つまり、犯人は連続殺人などとは、考えていなかったといえるじゃないか」  静香さんが、後を受ける。 「肝心なのは、奈奈子さんが殺されたことなのよ。ねえ、奈奈子さん殺しに動機を持っている人はだれかしら」 「持ってまわった言い方をせずに、はっきり言って」  わたしは語気を強めて言った。  守田氏は、一呼吸置いて口を開いた。 「あやめさん。あんたしかいないんだよ」  動揺はしなかった。  顔見知りのおばさんに、「素直なお嬢さんですね」などと言われたときほどの、反抗心もわかなかった。  彼のことばの意味は、徐々にしみこむように理解できてきた。  そうかもしれない、そう思うと世界は不思議な眩暈《げんうん》につつまれた。  わたしの沈黙を、肯定と受け取ったのか、守田氏は続けた。 「うまくやったよな。あんたと、矢島さんの関係は、奈奈子さんが殺されたときは、みんなに知られていない。状況がせっぱつまってきて、あんたらの関係が露見したころには、他にも殺されていて、奈奈子さんだけを殺す動機には、みんな注目しなかった。だが、あんたは最初は、奈奈子さんだけを殺すつもりだった。いつ頃かは知らないが、あんたと、矢島さんは男と女の関係になった。だが矢島さんは依然として、奥さんと別れる気はない。なあ、なつこさん、あんた言ったよな。おれたちは長いつきあいじゃないから、わからないだろうけど、あやめさんは、欲しい男を手に入れるためなら、人殺しさえしかねないおんなだってな」  なつこさんは、豊かな髪をかきあげた。 「言ったよ。だってそうだもの。別にそれが悪いなんて思ってないもの。あやめさんは、そういう人だから、あやめさんなんだよ」  彼女のことばが孕《はら》む意味に気付いていないらしく、守田氏は満足そうにうなずいた。 「言い訳があるなら、聞いてやるよ」 「証拠があるの」  陳腐なことばだ。そう思いつつ、言った。 「ひとつ、大きなのがね」  それが、合図ででもあるかのように、静香さんが立ち上がった。厨房の横のわたしの部屋に入っていく。 「あんたも、頭がいいようで、どっか、ぬけてるな。女、賢しゅうして、牛売り損なう、って言うだろう」 「牛でも、馬でもなんでもいい。とにかく、証拠を見せてよ。あの日本刀ならおあいにくだよ。証拠にもなんにも、ならないからね」  静香さんが、なにかを持って戻ってくる。オレンジの水着姿で、ワトスン役もないだろうに。  彼女の手には、わたしの部屋のキイが握られていた。1−5と書かれた緑色のキイホルダァが揺れている。 「二階に行こう。奈奈子さんの部屋にね」  わたしたちは青銅いろのらせん階段をのぼった。奈奈子さんの部屋を見るのは、三日目以来だった。部屋はあの時とまったく変わっていなかった。ただ、あれほど鮮烈だった絨毯やカアテンの血痕は、乾いた、愛想のない褐色に変化していた。  守田氏は、硝子の扉を開けた。胃が収縮するような匂いがした。これが人間の腐臭なのか、毛布に隠されて、骸が見えないのが救いだった。死斑の浮きでて醜くなった死体と対面したからといって、彼女の呪縛から、逃れられるとは思えない。  彼は、もう一度扉を閉めた。まるで、腐臭を嗅がせるためだけに、扉を開けたみたいに。だが、そうではなかった。 「あやめさん、見てろよ」  そう言うと、わたしの部屋の鍵を、鍵穴に当てた。  鍵は難なく、鍵穴に収まり、回すとカチリと音をたてた。  もう、扉はびくともしなかった。 「これが証拠だ。密室はこういうことだったんだよ」  まるで、失ったパズルの破片が収まるべきところに、収まった感じだった。  彼らはもう、こんなところまでたどりついていた。  鳥肌がたつ。まるで、ぽっかりあいた穴に、足元をすくわれたみたいだ。まわりの景色がふいに、硝子を通してみるような、現実感のないものに、感じられた。  静香さんが勝ち誇ったように言う。 「つまり、あやめさんの部屋の鍵と奈奈子さんの部屋の鍵との、すりかえが行われていたわけよ。だれもが、鍵をかけない仲間内だから使えたトリックね。単純だけど、うまい考えだわ。だれもキイホルダァと鍵が別々だなんて思わないもの」  口をひらきかけたわたしをさえぎって、守田氏が続けた。 「もしも、途中で奈奈子さんが気付いたら、計画を中止すればいい。鍵が入れ替わっていたくらいで殺人を疑われることもないだろうから。犯行が終われば、できるだけ早く、もとに戻しておけばいいんだ。だが、思わぬハプニングが起こった。奈奈子さんが鍵をねじ曲げてしまったんだ。合わない鍵穴に、鍵を差し込んでまわそうとしたんだ。そんなことになるのは当然だろう。あやめさんと、奈奈子さんの鍵には、一目でわかる違いができてしまった」  息継ぎもせず、咳きこむようにしゃべる。 「もう、もとに戻すことはできない。そのかわり、この計画の危険性は少なくなった。鍵が壊れていなかったら、犯行現場でだれかが気付いて、確かめる可能性もあるからね。盲点をついた、単純なトリックゆえの危険性だ。壊れた鍵なら、たしかめようがない。あんたは計画を実行した。そうしてあんたの手元には、この爆弾のような、大きな証拠が残されたわけだ」  呆然とするわたしに、なつこさんが追い討ちをかけた。 「あやめさん、あのとき、好きだったら殺せる、って言ったよね。あたしは奈奈子さんを好きだったら、と解釈したんだけど、違ったんだ。あやめさんが言いたかったのは、矢島さんのことが好きだったら、ってことだったんだね」  うなだれた。もう、逃げることはできない。だが、最後まで毅然とした態度をくずしたくはなかった。  守田氏は物憂げに手すりにもたれた。 「あの日本刀のことも、大胆だよな。密室を謎めいたものにするため、茶室の日本刀を見つけて、考えついたんだろう。新たなトリックを考えるのは、たいへんだからな。矢島さんが言ったように、だれも殺人者が、凶器を自分に疑いがかかるようなところに、おきっぱなしにしておくとは思わない。そうして、事件を不可解なものにして、ごくありふれた動機に、気付かれないようにしたんだ」  わたしは、つとめて平静を装った。 「そんなのは、あんたの推測だよ。わたしが犯人なら、凶器はその辺に投げ捨てておくし、第一、密室を作るなんてややこしいことはしない」 「そうしてあったら、いちばんに疑われるのはあんただ。さっき、誰もあんたの動機に気付かなかったと言ったが、たったひとり、知ってる人がいた。わかるだろ、矢島さんだ」  鳥呼はあれから、どうだろう。ひどくなっていないといいけど。 「血塗れの日本刀をつかい、あえて、罠にかかったふりをすれば、憎からず思っている女のことだ、矢島さんだってあんたをかばおうとするだろう。毒をもって毒を制す、だな。密室と、血を吹く不吉な日本刀、くりぬかれた心臓の三段構えで、第一の事件のスリラァ性は決まりだ。陰には、ありふれた動機が潜んでいたのにな」 「確証のないことをおもわせぶりに言うのなら、わたしたちだって負けないことよ」  わたしは、『虚無への供物』の女探偵のことばで応戦した。  守田氏は、無視した。 「そんなにして、矢島さんを信用させようとしたけれどな、あの人は、とっくにあんたを疑ってたんだよ」  鳥呼が、と一瞬おどろき、すぐに考え直した。そうだ、あの人以外、だれがわたしを告発するというのだろう。 「あの、管理人が奈奈子さんを、殺したんじゃないかって話は全部でっちあげだってさ。あんたを疑ってることが恥ずかしくって、作り話をして自分の目をそらそうとしたらしいよ」 「あのひとらしい」  なつこさんが、ぽつんと言った。  たしかに、そんなひとだった。だからいとおしいと思ったのだ。  わたしはひどく陽気に言った。 「下に降りない。こんなとこにいたら気が滅入っちゃうよ」  なつこさんの煙草をもらって火をつけた。けむりとともに、身体の中に邪悪な意志が充満してくるみたいだった。  高笑いをしたい、気分だ。  こころの中で、つぶやいた。  言いたいことがあるなら、全部言ってご覧。聞くだけなら聞いてあげる。だけど、それを指摘してなにもかもが終わると思ったら、大間違いだよ。  吸い口に歯をたて、上目づかいに守田氏の顔を見た。 「それで、終わりなの。あなたがたの告発は」  自分でも芝居がかった台詞になっておかしい。 「終わりじゃないさ」  守田氏はむきになって言う。 「奈奈子さんのことは、あとから解ったんだ。あんたにしか、犯人の資格がないのは、椋さんの場合だ」 「ふうん」  わたしは軽く鼻を鳴らすと、煙を吐いた。 「おれが、なぜあんたがやったことに気付いたのか、教えてやる。椋さんの事件のときも、みんなに殺人の機会があった。アリバイの面から問いつめるのは無理だ。動機も、表だったものはない」  みんなの目線が痛い。身も凍るような憎しみの視線を受けたのは、生まれてはじめてだった。 「あの白骨死体がでてきたことで、事件はより、怪しげになった。だが、確かにあの白骨は、おれたちが島に来る以前のものだ。そうしてこの島は、昇華儀式と称して、集団自殺をするような宗教団体のものだった。死を至福とする宗教団体の、シンボルの像の中に、死体が入っていても不思議はないんじゃないか」  彼は額に滲む汗を拭った。 「おれは気付いた、あの二体の白骨死体は、今回の事件にはまったく関係はないんだ。犯人にとっても意外なものだったに違いない」  確かに、あの白骨死体には、ひどくおどろかされた。 「そうなると、やっと全貌が見えてきた。おれが、まず考えたのは、なぜ、椋さんは燃やされなければならなかったのか、ということだ。彼の死体を、焼いて始末するつもりだった、と誰もが思った。それにしても、やり方がずさんすぎる。抱擁の像の上にのせて、台に火をつけるだなんて、魔女裁判じゃあるまいし。そうしたのは、また不気味な雰囲気を出すためと、もうひとつ、始末したいものを燃やすためだ」 「おもしろいわ。つづけて」  平然としているわたしに、彼は苦い顔をした。 「椋さんは、殺人犯人を挑発するようなことばを吐いた。人を殺して神経が高ぶっていた犯人が、そのことばに挑戦する気になったのかどうか、理由はわからない。とにかく、犯人は一人でいた椋さんに襲いかかり、あの日本刀で頸動脈を切って殺した」  なつこさんが、ぎゅっと目をつむった。まるで、椋くんが、今この腕間に殺されてしまったかのように。 「さて、困ったのは、返り血のついた衣服の始末だ。洗うわけにもいかないし、自分の服だけ燃やしても、あやしまれるだろう。そこで、犯人は考えた。全員の服を燃やしてしまおう。服だけなら、だれかが真相に気付くかもしれない。毛布や、紙など燃えるものは全部燃やしてしまおう」  わたしは短くなった煙草を、地面に投げた。 「そうして、椋さんも燃やしてしまうことで、犯人は、血痕のついた衣服をだれにも気付かれずに、始末したんだ。これが椋さんが燃やされていた理由だ。つまり犯人は、最初から水着を着ていた者ではないことになる。なあ、あやめさん、あの時、最初に服を着ていて、途中で上にあがって水着に着替えてきたのは、だれだったっけ」  わたしは、目を閉じた。聞かれるまでもない、それはわたしだ。 「あんたは、あのとき椋さんがまだ生きていたと言った。それは嘘で、彼はあの時殺されたんだ。そうして、蝋燭と油を使って時限発火装置を仕掛け、なに喰わぬ顔で、下に降りてきたんだ」  わたしは、薄目を開けて笑った。自分でもぞっとするような顔。 「講釈師、見てきたような嘘を言い、ってね」  静香さんはヒステリックに叫んだ。 「人殺し」 「ねえ、時限発火装置って簡単に言うけど、あなたのお説では、火がつくまで二時間くらいあったわけだよね。その間に、だれかが家に戻ったらどうなるの。血痕のついた服を発見されたら、それで終わりじゃない」 「たぶん、一番肝心な、血のついた服は、あらかじめ燃やして、灰だけをそこらに散らしてたんじゃないのか。だれかが部屋に戻ろうとしたら、邪魔するつもりだったんだろうけど、それで最悪の事態だけは免れる」 「なるほどね」 「厨房には停電用の太い蝋燭が、何本もあったし、油はてんぷら油でも代用できる。蝋燭をつないで立てて、布にてんぷら油でも染み込ませておけば、簡単だ。蝋燭の火が、布に達すれば、一気に燃え上がる。四方を壁に囲まれた、この中庭なら、風で消えることもない」  不思議なことに、いつからか蝉の声が途絶えている。異様な静けさの中、樹々をわたる風だけがざわついている。  わたしは、場所を移し、ところどころ焦げた、石の椅子に腰掛けた。けだるげに紫煙を吐く仕草は、殺人犯人にふさわしいような気がして、わたしはひたすらなつこさんの煙草を、減らしつづけた。  何本目かのピースをくわえ、火をつける。横からなつこさんの手が伸びて、煙草を奪った。自分の煙草に火を移すと、そのままわたしの口にくわえさせた。 「田中がなぜ、殺されたのかはわからない。だが、ここまできた以上殺したのはあんたに間違いないだろう」  守田氏は自分を抑えつけるように言った。 「あんたは、聞こえもしないくちぶえが聞こえると言い、外に出て姿をくらました。そうして、見晴らし台に隠れ、あいつが来るのを待った。あいつを見つけると、うまいこと言いくるめて、見晴らし台から下をのぞかせ、突き落とす。そうして、自分も林の中で、いかにも突き落とされたように、身体中に生傷をつけた。駄目押しで、死なない程度に頭を打って倒れていれば、だれも疑わないだろうと思ったんだろうけど、そう、いつもうまくはいかない。そろそろ、みんなも感づきだしたのさ」 「ちょっと、待って」 「弁明なら聞いてやる」 「うさぎくんを、殺すことができたのは、本当にわたししかいないのかしら」  守田氏はわたしを憐れむように見た。 「あんたが嘘をついていないとしたら、犯人はあんたと、田中、両方を殺そうとしたことになる。あんたが殴られたとき、なつこさんと静香は一緒にいた。男たちも、林の中で声を掛け合いながら、走り回ってたんだ。長く姿を消すことは不可能だ。 「田中が殺されたときは、おれたちはひとりひとり、捜索場所を決めてあんたを探してた。なつこさんと、静香は一緒に家のまわりを探し、田中は家よりも高台を探し、矢島さんとおれは、林を探した。安全のため、五分ごとに、田中は家に戻り、なつこさん、静香の無事を確認する。おれと、矢島さんは階段を境に、右と左に分かれ、五分ごとに階段に戻り、互いの無事と、捜索状況を確認していた。そしてみんな、あやめさんを見つけたら、まず、砂浜に降り、みんなに判るように立つ。そういう約束だった。なつこさんと静香はずっと一緒にいたな」 「トイレまで手をつないで行ったよ」  なつこさんは、おもしろくもなさそうに言った。  守田氏は満足そうにうなずいた。 「おれと、矢島さんだが、林から見晴らし台まで走って三分はかかる。行って帰るだけで六分だ。おまけに田中を見つけて、見晴らし台から突き落とさなきゃならない。五分ではとても無理だね。みんなあんたを探すのにあわてて、ちりぢりになると思ったんだろう。残念だが、田中を殺せたのはあんたしかいないんだ」  彼は下を向いて、拳をふるわせた。 「おれが聞きたいのは、あんたが田中を殺した理由だ。たぶん、あいつはあんたに不利な証拠を握っていて殺されたんだと思う。それならまだいい。もしかしたらあんたは、別に誰でもよかったんじゃないか。見晴らし台に隠れ、最初に来た奴を標的にしようと、虎視眈々と息をひそめてたんじゃないか。もしそうなら」  守田氏は怒りに充血した目をわたしにむけた。 「おれはあんたを許さない」  わたしは、退屈していた。理詰めの解決なんて、どうだってよかった。 「どうなんだ」  彼は声を荒らげた。 「憶えてないわ」  とたんに頬がはりとばされた。  ゆっくり顔をあげる。守田氏は今にも泣き出しそうな顔で、右手を握りしめていた。 「殺人鬼め」  何と言われようと、かまわない。わたしは自分の言うべき台詞を考えていた。  あくまでも、殺していない、と言いはろうか。うなだれて、わたしがやりました、どうももうしわけございません、とやろうかどうか。  彼はわたしの気持ちに構わずまくしたてた。 「おれが、田中が犯人だと言ったとき、それが嘘だと判ったのも当然だよ。あんたがやったんだものな。そうしておれの嘘を利用して、自分のアリバイをでっちあげたんだ」  どうだっていい。好きなように言ってほしい。 「だがな、あの夜、おれは真相にたどりついた。あんたが寝たのを見計らうと、みんなに相談したんだ。なつこさんも、矢島さんもショックを受けてたよ。矢島さんはこう言った。あやめさんには黙っておいてほしい、ぼくが自首をすすめるからってな」  守田氏は、仁王《におう》のような表情でわたしを見つめた。 「あんたは狂ってる。結局、人を殺してまで手にいれようとした矢島さんまで、自分の手で突き落としたんだ。自首をすすめられて、気が動転したんだろう」  守田氏の向こうに鳥呼が立っていた。  けがはもう、いいのだろうか。悲しそうな顔をして、ためらうように、わたしを見ていた。まるで、ちがう世界の人のように遠く、ゆらいで見えた。  たまらずわたしは、顔をそむけた。  もう一度顔をあげたとき、もう彼の姿はなかった。  守田氏は念を押すように言った。 「気が狂ってるよ」  身体中の力が、抜けてしまったようだった。わたしは、かすれた声で言った。 「殺すつもりはなかったの。気がついたら、彼が下の方で倒れていた」 「それじゃあ、他の人を殺したことを認めるんだな」  わたしは答えなかった。  なつこさんが、いたたまれない様子で席を立った。そのまま、玄関に向かって歩いていく。  外へ出るつもりなのか。  その背中に向かって、小さな声でごめん、を言った。彼女を傷つけてしまったことだけが悔やまれた。  扉を開けたとき、一瞬、その背中が凍り付いた。  彼女はそのまま、張り裂けるような悲鳴をあげた。  わたしたちは、玄関に駆け寄った。 「あやめさん、来ないで」  なつこさんは、わたしを押し戻そうとした。 「どうして、離して」  守田氏も静香さんも呆然としていた。わたしはなつこさんを押し退け、外へ出た。  息を呑む。  景色が急に、色あせた。  玄関からまっすぐ先、  石の階段、  一番目の抱擁の門に、  ぶらさがり、揺れるものがあった。  鳥呼だった。  ゆらり、ゆらり、と。  重心を持たぬように。  揺れて。  身体のなかですべてが溶けていった。  骨も、記憶も、  心臓も。  守田氏がわたしの肩をつかんだ。 「見ろ。これが結末だ。あんたが人を殺してまで手にいれようとした男は、もう、いない」  わたしのくちびるを割って、自然に言葉がまろびでた。 「わたしがころしました」  ワタシガコロシマシタ  ちぎれそうなほど、後ろから抱かれた。  なつこさんだった。  彼女は泣いていた。 「あやめさん。見ちゃいられないよ」  わたしは、ロボットのような声でもう一度、言った。 「みんな、わたしが、ころしました」 [#改ページ] [#ここから4字下げ] 壱拾壱 名前の呪縛 [#ここで字下げ終わり]  翌日の夕方になると、管理人さんがやってきた。彼は、ここで、何が起こったかを聞くと、ひどく驚いていた。  四体の骸を置いたまま、わたしたちはH島に連れて帰られた。  わたしはただ、管理人さんの連れてきた老犬が無性にいとおしかった。  名前もしらないいぬを、ぎゅっと抱きしめると、生き物のぬくみが伝わってきた。  はじめて、涙が出た。  いぬは迷惑そうな顔をしていたが、おとなしくわたしに抱かれていた。長い毛足に顔を埋めると、猥褻なにおいがした。  ボォトに乗り、H島に着き、警察に連れていかれるまで、わたしはいぬを離さなかった。たくさんの、おとなのひとが来て、おんなじことを質問した。  わたしも、おんなじ答をかえした。  父と母が、やってきた。  彼らはひどく泣いていた。  わたしは、できるだけやさしく、彼らに、泣かなくていいよ、と言った。  それを聞くと、彼らはもっと泣いた。  それからまた、いろんなひとがやってきた。口が疲れてしまうくらい同じことをくりかえした後、わたしは病院に連れて行かれた。  白い服を着たお医者さんが、わたしにいろんなことを聞いた。  わたしが、口をとがらせて、「そんなにいろんなことを聞かれると、あたまがだめになってしまう」と言うと、お医者さんはおっくうそうな様子で、カルテになにか書き込んだ。  わたしは入院することになった。  毎日、朝六時に起き、九時に眠った。食事は軽い食器に入れられて、ベッドまで運ばれた。味の薄い、薬臭い食事だった。  わたしは、聞かれればしゃべり、聞かれなければ黙っていたので、お医者さんや、看護婦さんから、とてもかわいがられた。  母が、ほおずきの鉢を持ってきてくれたので、わたしはしばらく、ほおずきの実を揉んで、中の種をきれいに出すことに熱中した。そうして、作ったほおずきは、きしんだため息のような音がした。  ある日、やってきた母に、「わたしは、こんなことをしているばあいではない、おかした罪のつぐないをしなければならないので、牢屋にいれてください」と言うと、母はまた泣いた。  母は、「おまえは頭がおかしいのだ、頭がおかしいから、牢屋にははいらなくてもいい、病気なのだから、罪をつぐなうより入院しなければならない」といい、それももっともなので、わたしは納得した。  実際、病院で、花を植えたり、絵を描いたりするのは楽しかった。  ときどき、横柄な人がきて、わたしを怒ったり、なだめたり、なにかを言わせようとしたりしなければ、もっと楽しかったと思う。  わたしは、相変わらず、聞かれればしゃべり、聞かれなければ、黙っていた。 「それじゃあ、あんたが、三人を殺したんだね」 「そうです」 「矢島俊弥を、殺そうとしたのも認めるんだね」 「はい」 「矢島奈奈子はなぜ、殺したんだ」 「奥さんがいなくなれば、矢島さんがわたしと結婚してくれると、思ったからです」 「椋隆之はどうして」 「やり方ですか、理由ですか」 「理由だ」 「連続殺人をしてみろ、なんて言うので、こんな傲慢な人は、懲らしめなくてはならないと、思いました」 「あの日本刀で殺したんだな」 「そうです。血がたくさん、飛びました」 「田中幸広はどうして、殺した」 「だれですか」 「田中幸広」 「知りません」 「知らないことはないだろう」 「警部、確かあだ名は、うさぎくんとか言ったような」 「なんだ、それは。二十八歳の男だろう」 「ええ、でも調書に書いてありましたよ」 「うさぎくんだ。知っているか」 「うさぎくんなら、知っています」 「野坂照美、あんたが殺したんだな」 「そうです。見晴らし台から突き落としました」 「理由は」 「奈奈子さんを殺すとき、一晩一緒に過ごし、彼が帰るとき、誤った時間を教えて、アリバイ作りに利用しました。でも、なんだか、役に立たなかったし、真相に気がついたみたいだったから」 「それで、殺したのか」 「はい」  もう、何百回、同じことを聞かれ、同じことを答えただろう。もう、うんざりだ。  そう思ったとき、目の前の警察官ははじめて、新しいことを言った。 「このノオトに見覚えがあるかね」 「はい」 「ここに、野坂さん、あんたの日記がある。これを読む限りでは、あんたが殺したようには書いてないんだけどね」 「はい、そうですね」 「どうして、かね」 「誰に読まれるかわからないから、はっきりとは書きませんでした。わたしの行動や、殺した人の台詞なんかは、嘘が入っています。今、生きている人が出ているところは、みんな本当です」  警察官は、その相棒(部下らしい)にノオトを渡した。 「それ、返してもらえませんか」 「一応、重要な証拠なんでね。捜査が終わってからなら、お返ししてもいいですけど」 「いえ、いいです」  わたしは、病室の白い壁に目をやった。  部下は、上司にささやいている。 「一見、どこがおかしいのか、と思ったんですが、話してると、かなりきてますね」 「三人も、殺したんだからな。そのあとは、嘘みたいにおとなしいらしいが」 「女房のいる男にもてあそばれて、おかしくなってしまったんでしょう。なんだか、かわいそうですね。うちの娘も悪い男にひっかかって、こんなことになったら、と思うと、胸が痛みますよ」 「君のところのお嬢さんは、まだ幼稚園だろう」  わたしは、なにも言わなかった。中途半端に伸びた髪はうっとうしく、パジャマ姿で、人前に出なければならないことだけが、いやだった。  中年の方の警察官が、わたしの身体に触れて言った。 「まあ、お大事に」  一瞬、殺意をおぼえた。  目をさました。  いたずらに鋭い花の香が、鼻孔をついた。目を開けたその先に、水仙の花があった。  それを持つ大きな手から、視線をずらした。背の高い男の人が立っていた。  だれかは、しばらく判らなかった。  守田氏は、髪が伸びていた。日焼けした色もさめて、別人のようだった。 「よう。元気か」  しばらくぶりに聞く、声だった。 「すこし太ったな」  彼は不器用な手つきで、花を花瓶にいれた。わたしはよろよろと起きあがった。 「なつこさんに、聞いたの」 「病院は警察に聞いた」 「ちがう」  わたしは、花を指さした。 「はな」 「ああ、これがどうしたんだ」 「水仙、だいすきなの」 「いや、これは来る途中、安かったからさ」 「ありがとう」 「どういたしまして」  刺すような香りが、病室に充満した。こわれもののような白い水仙が、ガラスの花瓶からあふれそうになっていた。なんて若々しい、緑。 「もう、水仙が咲く季節になったんだね」  自己愛、などという花言葉は、このあまりにも清々しい花にはふさわしくない。  そう言うと、守田氏は笑って訊ねた。 「あやめさんなら、なんてつけるんだ」  そう、わたしなら、 「蘇生」 「蘇生、か」  守田氏はうなずいた。  彼とは、夏に会っただけだから、白いTシャツや海水着のイメエジしかない。だが、今日着ている、焦げ茶の幾何模様のセエタアは、彼にとても似合っていた。 「不起訴になるかもしれないんだってな。よかったじゃないか」  わたしは、よくわからなかった。彼は、皮肉で言っているのではないらしかった。 「ごめんね」  彼は、くるり、とそっぽを向いた。 「なにが」 「うさぎくんを、殺してしまって」  彼のモッズコオトが、いきなり床にたたきつけられた。立ち上がった彼の肩が、ふるえていた。 「あてつけで、言ってるのか」 「どうしたの。なに、怒ってるの」 「うるさい」  わたしは、ふとんを掴んだまま、壁ぎわに後ずさった。彼はわたしを許してくれたのではないのだろうか。 「もしかしたら、おれは取り返しのつかない間違いをしたんじゃないかと、ずっと思っていた。あれからいろいろ考えたよ。だが、その考えは、あまりに突拍子もなくて、信じられなかった。それを確かめるため、あんたに会いに来たんだ。さっき、あんたの寝顔を見て、やっとわかった。おれがいいように利用されてたことを、な」 「わたし、どんな顔して寝てたの」  その質問に返事はなかった。  彼は、スチィル椅子を引くと、また腰を下ろした。  無意味な沈黙だった。わたしは、ただ彼が話し出すのを待っていた。  彼は決心したようにわたしを見た。 「まるで映画みたいな日々だった。死んだのが、田中じゃなかったら、おれは今でもあの日々を現実だと思うことができないだろう。孤島、密室、殺人。あまりにも舞台が揃いすぎてる。仲間たちが、一人ずつ、欠けていき、犯人は誰だかわからない」  駆け抜けるような時間。  あの数日間、わたしたちはおそろしく、濃い時間を生きた。 「なあ、あやめさん。あんたが犯人であることは間違いない。だが、あそこで行われたことは、すべてお芝居だったんだろう」  乱暴な力が、わたしを現実へと引き戻していく。彼は、気付いたのだ。 「芝居だ。よくできた芝居。被害者役のものは本当に殺され、犯人役のものは本当に罪に服す。あやめさん。犯人役はあんただ。だが、この芝居には、作者がいるだろう。本当に手を下したのは作者なんだ」  わたしの沈黙に、メスを入れるように彼は言った。 「矢島さんが、やったんだな」  不思議な気分だった。  時間が後戻りして、わたしのなかの空白が消えていった。いままで、死んだように眠っていた心の一部が、目覚めはじめる。  まるで、優しい手で揺り起こされたときのように、おだやかに。 「おれは作者の手に導かれて、いい気分で探偵役を演じていただけだった。矢島さんは、おれと話しながら、少しずつ創られた真相へ、おれを誘導していった。決して自分から言い出すことなく、おれに発見させるようにして。見事に、ひっかかってしまったよ」  わたしは窓の外をぼんやり見ていた。この、病室の窓から見える冬木立も、夏になれば、あの島のような猛々しい緑に変化するのだろうか。 「この、殺人劇の真の目的は、誰かを殺すことにあったんじゃない。すべてはあんたを、野坂照美を殺人犯人にするため、仕組まれたんだ」  彼はここまで言うと、急にベッドに手をついて、わたしを見た。声が哀願するような悲しさを含んだ。 「なあ、あんたがいまどんな気持ちでいるか判るつもりだ。おれだって、軽い気持ちでこんな告発をしてるんじゃない。悩みに悩んでここまで来たんだ。だから、本当のことを教えてくれ。でないと、おれは一生、あんたたちの呪縛からのがれられない」  わたしは、頭をこつんと壁に打ちつけた。 「本当のことなんて、わたしにも判らない。守田くんが言うことが正しいような気もするし、やっぱり、わたしが殺したような気もするの。ただ、ひとつだけ、これの説明がつかないのなら、やっぱり、わたしが殺したことに間違いはない、と思う」 「なんのことだ」  わたしは彼の目を見た。 「日本刀に、なぜ血がついていたか、よ。どう考えても鳥呼は、あれにさわることができたわけがないの。鳥呼があの日本刀を持ち出して、奈奈子さんを殺し、またあの刀をわたしの部屋に戻す方法があるのなら、たぶん守田くんの言うことが正しいんだよ」 「それなら、もうわかった」  彼は姿勢を正した。 「矢島さんはあの刀を持ち出していない。あの刀は、凶器でさえないんだ」 「どういうことなの」  わたしは彼のことばが理解できなかった。 「なあ、矢島さんがあの刀を村雨丸だって言ったのを憶えているか。あの刀は村雨丸なんだ。それも本物ではなく、偽物の」  偽の村雨丸、そのことばと共に浮かび上がってくる情景。  鳥呼が、刀を鞘にしまい、わたしへと差し出す。 「南総里見八犬伝で、蟇六《ひきろく》と亀篠《かめざき》が犬塚信乃を偽の村雨丸でだますとき、どうしたか知ってるか。鞘に水を少し入れておく。今度、刀を抜いたときには水が滴る。それを見て、信乃は、その刀が村雨丸だと信じるんだ。おそらく、あの血は人間の血でさえないだろう。矢島さんは、あんたの留守にうろうろしている猫でも殺し、鞘の中に血を少し流し込んでおく。次に刀を抜いたときには血にまみれている、というわけだ」  それは、最後のピイスだった。すべてが収まるべきところへ収まった感じだった。だが、なにも変わりはしない。なにひとつ。  わたしの気持ちに気付いているのかいないのか、守田氏は話を続けた。 「これから話すことに反論があったら、言ってほしい。矢島さんは、最初、奈奈子さんだけを殺し、あんたを殺人犯人に仕立てあげるつもりだった。そのために考えられたのがあの、鍵のトリックだ。なぜ、あの部屋を密室にする必要が、あったのか。理由はただ、ひとつ。あんたを犯人に仕立てあげるためだったんだ」  あの夜、奈奈子さんの窓からみた人影はやはり鳥呼だった。いくら、カアテン越しの影だからといって、わたしが彼を見誤るはずはなかったのだ。 「鍵は、おれが考えたように一回ではなく、三回すりかえられたんだ。あんたの鍵を、矢島さんの鍵と替え、またあんたの鍵を、奈奈子さんの鍵と替える。あんたの手元には矢島さんの鍵、矢島さんは奈奈子さんの鍵、奈奈子さんはあんたの鍵を持つことになる。そうして、犯行後、奈奈子さんの鍵をあんたの持つ、自分の鍵とすりかえた。おそらく、奈奈子さんが鍵をよく壊すため、鍵が合わずにまわらなくても、自分が壊したと思いこむであろうことも、計算済みだったんだろう」  彼は、わたしの反応を確かめるように、ことばを休めた。 「鍵のトリックだけでは証拠として少し弱い。あんたを犯人にするには、どうしても自白に持ち込む必要があった。あの日本刀の話を聞いた彼は、村雨丸のトリックを思いついたんだろう。警察に仕掛けるトリックではなく、暗示に弱いあんたに仕掛けるトリックだ」  わたしは、あの血塗れの刀を思いだした。 「実際、あんたはそれにいままで、囚われていた。本当は、血のついた日本刀は、あんたにだけ見せられるはずだった。だが、なつこさんや、おれが気付いて、調べてしまった。あの日本刀は証拠としては何の拘束力も持っていない。あれに必要以上に注目されることは避けたかった。警察がきて、調べられ、血痕が人間の血ではないことを発見されると、いままでの苦労が水の泡だ。それで、自分でトリックを仕掛けておきながら、あんたをかばい、血痕が前からついていたかもしれない、などと言ったんだ」  そうだ。それでもわたしは、その刀に血がついていなかったことを知っている。暗示にかけるのなら、それで充分だった。 「矢島さんは、本当はそれ以上、殺人を犯すつもりはなかったんだろう。だが、事態は思わぬ方向へと進んでいった。椋さんは、あえてこの島を孤立させ、殺人犯人を挑発するようなことを言った。それだけだったら、矢島さんも次の殺人を犯そうなんて、思わなかっただろう。しかし、あの日本刀をなんとかする必要があった。あれを警察に調べられることだけは避けたい。だが、あれだけを隠すなり、捨てるなりすれば、かえって注意をひくことになる」  行き当たりばったりで、弄した小細工は、自分の首をも、絞めるものだったんだ。 「次の日、みんなでボォトのキイを探したとき、あんたが途中で家に戻るのを見て、矢島さんの頭には、第二の殺人の筋書きが浮かんだんだろう。日本刀の血痕を火にくべることで、解らぬようにし、あんたを犯人にすることができる。いいチャンスだ」  たぶん、彼はわたしの後から、家に戻り、椋くんを殺した。そうして、論理的にわたしを追いつめる証拠を偽装し、何喰わぬ顔で、海に戻ったのだろう。 「あの白骨死体は、彼も予期せぬものだった。調べた結果、あれは、�オアンネスの息子�教の教祖と、その愛人の骨だったらしい。管理人が、白状したよ」  あの、管理人さんが。 「と言っても、殺人じゃない。管理人は�オアンネスの息子�教の、信者のひとりだった。集団自殺がマスコミに攻撃されたとき、教祖が言ったらしい。やはり、自分たちの考えはこの地上では、受け容れられないものだった。ここにとどまれば、俗物的なことに苛まれ、せっかく築いた信仰が崩れてしまう。もう、こうなったからにはしかたがない。教祖とその愛人は、二人で抱き合ったままで、焼身自殺をし、その亡骸は、あの抱擁の噴水の中に、納められた。あれは、二人の墓標だったんだ」  抱擁の像、抱き合ったまま、過去も、未来もなく、永遠に。  たしか、ラシェフスカヤはある本のなかでこう言っていた。 [#ここから2字下げ] ——この像は、すべての結ばれた恋人たちと、すべての結ばれなかった恋人たちの、影である。—— [#ここで字下げ終わり]  あの噴水に封じ込められた、恋人たちがうらやましかった。  守田氏は、唇を舌で湿して、話を続けた。 「彼はうまくやった。失敗はなかった。だが、思わぬことを知ってしまったんだ。第一の殺人の時、あんたにはアリバイがあった。田中と寝てた、というアリバイがな」  彼は、わたしに反論する隙を与えなかった。 「田中から聞いたのか。あんたと、田中の会話を立ち聞きしてしまったのか。どちらかは知らない。だが、それを知ったからには、田中も殺さなければならない。このままでは、筋書きが狂ってしまう。奈奈子さんも、椋さんも無駄死にになる」  だから、うさぎくんも殺したのか。 「彼はあせっていた。凝ったトリックを、考え出す暇はない。とにかく、早く殺してしまわねばならない。矢島さんは、山狩りの隙を狙って家に戻り、口笛であんたを呼んだ。あんたが出てこなければ、他の手を考えるつもりだったんだろうが、うまくいった。気絶したあんたをかかえて、林に戻った。おれたちは、声を掛け合ってはいたが、互いに姿は見ていない。山狩りを続けるふりをして、あんたの身体に傷をつけ、適当な場所に転がしておく」  守田氏は嘆息した。 「よくも、短い間にこれだけのことを考えついたと思うよ。気絶している間、あんたにはアリバイがない。あんたが行方不明になることで、みんなには隙ができる。矢島さんは、みんなを指揮して、あやめさんを探させた。できるだけ、全員がしっかりしたアリバイを持ち、かつ自分が田中を殺せるように」  わたしは爪を噛んだ。 「田中には、高台をひとりで探させる。なつこさんと、静香は一緒にいさせる。そうして、おれとふたりで林を探す。そのとき、あいつは二つ提案をした。ひとつは、階段の左と右に分かれて、五分ごとに階段に戻り、互いの無事と捜索の状況を報告すること。もうひとつは、あやめさんを見つけたら、ただちに砂浜に降り、みんなに彼女が見つかったことが解るように、手を振ることだ」  彼は、少し笑った。ひどく被虐的な笑いだった。 「しごく、あたりまえの提案だ。そう思ったから反対はしなかった。だが、ここに罠があった。おれは、あの人の計略に見事に引っかかりながら、探偵役をきどってたんだ。おれたちは、五分ごとに顔を合わせた。だから、矢島さんに、田中を殺すことはできないと思っていた。だが、一度だけ、あの人を五分以上見ていなかったときがあったんだ。それをすっかり失念していた」 「いつなの、それは」 「あやめさん、あんたを見つけたときだよ」 「矢島さんは、あんたがどこにいるか知っていた。おれは毎回、どこまで捜索したか、彼に報告した。あの人には、おれがいつ、あやめさんを発見するかわかったはずだ。そうして、その時を見計らって、高台へとむかい、田中を殺した。おれが、あんたを見つけ、律儀にも彼の言うまま、砂浜へと降りていくころにな。あの人の頭の良さにぞっとするくらいだよ」  彼が、あの凶悪な意志を持った林を、走る。ふだんは静かな目が、肉食獣のようにひかり、いくつもの岩をとびこえ、速度をゆるめず、ひたすらに。  見たことがあるように鮮明な画像が、網膜を焼いた。  あの、鋭い殺意、速度へと変換された殺意は、実際の被害者であるうさぎくんではなく、ほかでもないわたしに向けられているのだと、思うと、胸が痛かった。 「最後に、あんたを連れだし、自分が次の標的であるかのように、階段から自分で落ちる。これで、もう、だれもが、あんたが犯人であることをうたがわないだろう」  守田氏は、しばらく息を止めた。  結論を出すように言った。きつい声だが、優しさを孕んでいた。 「これが、すべての真相だ」 「なあ、あやめさん、ここまでたどり着くのは、それほどむつかしくはなかったよ。それから、先が遠かった。遠いだけじゃない、ひどく苦しかったんだ。布団のなかで、このことを考えて、一晩中眠れなかった日もあった。心のどこかが、知ることを拒否していたんだ。なぜ、矢島さんはあんたを殺人犯人にするためだけに、こんなに無意味な虐殺を続けたんだろう」  消えがちな、独り言のようなことばがつづいた。 「奈奈子さんを殺して、自分も罪に問われないため、あんたを利用したのか、と最初は思ったよ。だが、矢島さんには奈奈子さんを殺す動機はなかった。べつに彼女が資産家の娘でもなかったし、保険をかけていた訳でもない。あんたと結婚するためなら、あんたを犯人にしたてあげるのはおかしい。それに、保身のための殺人なら、それがうまくいき、あんたも罪を認めてるのに、自殺するわけがない。それにもうひとつ」  彼は射るようにわたしを見た。 「なぜ、あんたはあんなに簡単に、わたしがころしました、なんて言ったんだ」  わたしはすっかり覚醒していた。頭の中にかかっていた霧は、嘘のように晴れていた。 「守田くんにはわかるはずだよ」  彼は目に見えて、落胆した。 「気付いていたのか」 「さっき、ね」  彼は、わたしたちの、ひりひりする部分に触れた。わたしにも触れる権利はあるはずだ。 「うさぎくんを、好きだったんだね」  彼はがくん、とうなだれた。  苦しそうな目だった。自分であることが辛く、痛いのだ、ということがひしひしと伝わってきた。  彼の、神のように若く充実した肉体は、持ち主の不幸を受け止めかねていた。  彼は、教師に言い訳する子どものように、話しはじめた。 「そうだ、もう、十年以上前からね。誤解しないでほしいのは、おれは同性愛の嗜好を持っているわけではない。あいつ以外に男に惚れたことはないし、あいつを抱きたいとか、そんなふうに思ったことはない。あいつはただ、親友だった。中学の時から、おれの世界のかたわれだった。なんでも理解し合えたし、同じフィルタァでものを見ていた。もしもだれかを、生涯の伴侶にするなら、田中の他にはいないと思っていた。性欲なんかは女で満たせばいい。おれたちは、太陽の下でも清廉潔白だった」  わたしとなつこさんが感じた、うさぎくん、守田氏、静香さんの間の不均衡は、それが理由だったのか。 「いつごろか、その均衡が狂ってきた。あいつは当たり前に恋人を持ち、おれよりもそいつを大事にするようになった。あいつにとって、おれはただの、友人に過ぎなかったのか。そう思うと、やりきれなかった。だけど、田中は相変わらず、田中だった。自分の半身を憎むことの出来るやつが、どこにいるだろう。おれは思った。おれの気持ちはおさえていよう。ただ、ずっとあいつに付き添い、あいつが苦しいときには支えてやろう。あいつと一緒にすごす特別な時間、それさえあればかまわない」  彼は遠い目をした。 「そうやって、ずっとおれは、自分の本心をかくしつづけてきた。だが、人殺しがあって、島に閉じこめられたあの夜。不安に脅かされて、魔がさしたんだ。おれはあいつに言ってしまった」  思い出す。その夜、なつこさんが見た光景を。うさぎくんが、ふらふらと外へ出て、守田氏が追っていった、あのことだ。 「あいつは、驚いたよ。それだけならいい。ひどく怒ったんだ。まるで、おれがあいつにたいして、理不尽な仕打ちをしたみたいに。もう、おれのことを親友だとは思えない、なんてぬかしやがった。おれがいくら、言い訳してももう、聞いてはくれなかった。同性愛者を見るような目付きで、おれを見やがってさ。おれの、十余年の思いは、そのとばくちで拒まれてしまった訳だ」 [#ここから2字下げ] ——なにもかもがだいなしだ—— [#ここで字下げ終わり]  憶えている。確かに彼はそう言った。  あの時の彼と、今、目の前にいる男が重なる。切ない眼差しを支点として。 「田中が、おもちゃのように投げ捨てられて死んだとき、思った。あいつがみんなを殺して自殺したんだったら、どんなにいいだろう。連続殺人の被害者3、なんてあいつにはふさわしくない。おれの恋人は、犯罪者で、それゆえにおれを受け容れなかった、そう思う方がどれだけ救われただろう。だが、その提案は、あんたのことばでくつがえされた。それならおれが、切ない恋の果てに、殺してしまった、そのほうが納得できた」  彼は、前髪の向こうから、充血した目をわたしに向けた。 「あやめさん、もしかして、矢島さんもそうだったんじゃないか」  いつからか、小雨がばらつきだしていた。じっとりとした、冷たそうな雨だった。窓から差し込む光は、墨をうっすらと流したように夜の気配を漂わせていた。 「あの島で行われたのは、殺人ではなく、心中だった。そう、思わないか。どうしても、女に、一緒に死のうと切り出せない男が仕組んだ、新手の心中だ」  泣きたかった。 「わたしたち、相手を信じていなかったんだよ」  この連続殺人のすべての原因は、わたしたちのコミュニケイションの不完全さからきていたのだ。  彼は、妻がいる、という負い目から、なにも言えなかった。  わたしは、はなから諦めていた。  彼の気持ちを考えると、胸が張り裂けそうだった。  頭から、諦めてしまった恋人に、いったい何が言えるというのだろう。彼が、わたしに送りつづけて来たであろう、切ないサインを思う。わたしはそれを、受け止めることもせず、それでいて、彼を捨てることもしなかった。残酷すぎる仕打ちだった。  わがままも言わず、なにも望まず、別れろといえば、なにも言わずに別れてくれる恋人など、いない方がましなのではないか。そんな恋人に、どんな激情をぶつけられるというのだろう。  そうして、わたしがそんな態度を取り続けたのは、彼のためではなく、自分が傷つきたくなかったからだ。妻のいる人だから、そんな理由で、わたしは彼を真剣に受け止めることを拒んでいた。  いつしか、彼は望むようになったのだろう。わたしが、自分や自分の妻を殺してしまうほど、自分を愛してくれることを。そうして、その幻想を、現実のものにしたのだ。  最後の瞬間、彼はわたしを見た。わたしは、彼の投げかけたメッセイジを今度こそ、確かに受けとめた。  わたしがころしました。  愛していた。いまさらながらに思い出す。  だが、わたしたちは互いに固い殻の中から、相手を愛していたのであって、いつかは、どちらかは殻を破らねばならなかったのだ。  そうして、死に至る手傷を負いながら、殻をぶち破ったのは、彼の方だった。わたしたちは、その時、はじめて、むきだしで向き合ったのだ。  後悔はしていない。  これ以上ないほど、愛し、愛されたのだから。ただ、もうすこしやさしいやりかたが、できなかったのかと、それだけが悔やまれてならなかった。  泣きじゃくるわたしを、守田氏は告発者の眼差しでみていた。 「なあ、でもおれにはたまらない。なぜ、田中が、あんたらのエゴの巻き添えを食って死ななきゃならないんだ。それくらいなら、おれが、ひとおもいに」  ひとおもいに、というとこで、彼は苦いものを呑むような顔をした。  わたしは、泣き濡れた目をあげた。 「まだ、まにあうよ」 「どういうことだ」 「彼が死んだのが、間違いなら、まだ、間違いを正すことはできるよ。あなたがわたしをころせばいい。あなたが、彼を愛した手でわたしの首を絞めれば、かれの死はむくわれる。愛したものの手で、復讐してもらうことでね。さ、早く」  誘うようにささやいた。  彼の目が異様な光を帯びる。まるで、はじめて動くことを知った土人形のように、よろよろと立ち上がる。 「早く」  わたしは、ベッドに横たわり目を閉じた。  彼の大きな掌が、髪をかきわけて頸をつかむ。  少しずつ、力が込められた。  喉が鳴る。  わたしはすこし、ずりあがった。  つよく、つよく。  折れてしまいそうなほど、強く。  糊のきいた冷たいシイツ、なじみのない、枕。喉に焼けるような熱さが生まれ、身体中に広がった。  もっと、つよく。  ふいに、手が離れた。  肩透かしを食らわされたような、物足りなさを覚え、目を開ける。  彼はコオトを着込み、帰り仕度をしていた。わたしの不満そうな表情に気がつくと、泣き出しそうに笑った。 「だめだ。おれはまだ、ふつうの人間みたいだ」  わたしは何も言わなかった。  彼は出ていく瞬間わたしを見た。 「なあ、奈奈子さんの心臓も、まだ発見されていない。矢島さんはあれをどうしたんだろうな」 「わからない。でも、彼は奈奈子さんのことも、大事に思っていたから」  わたしは、自分がみた夢を思い出していた。  守田氏は、肩をすくめた。 「考えない方がよさそうだな。精神衛生上悪そうだ」  色あせたモッズコオトが、樹の間から見えかくれする。  わたしは、窓辺に立ち、彼を見送っていた。ほおずきの実を口に含み、歯で鳴らした。きしむような音が病室に響く。  なにもかもが、うそみたいだ。  鳥呼の声が、息づかいが、耳に蘇る。  守田氏とわたしは、向き合った鏡だった。わたしは精神病院に残り、彼は街へ帰っていく。選んだものと、選ばなかったもの。それだけの違いだ。  鳥呼。  あの人は、最初に会ったときわたしの名前の意味を読みとった。 [#ここから2字下げ] ——文目もわかぬ闇、のあやめだろ—— ——よく、わかったね—— ——それと、もうひとつ—— ——なあに—— ——ひとをあやめる、のときのあやめじゃないのか—— [#ここで字下げ終わり]  そうだ、その名は、絵描きの恋人が右手の自由を失った日に、自分を責める意味でつけたものだった。  いままで、だれひとりとして読みとったことのない意味を、彼は易々と読みとった。  ある未開民族の間では、本当の名を人に知られることは、タブウであると聞いたことがある。名前こそ命であり、それを知られると、呪いなど忌まわしいことに利用されると。  ならば、あのとき、彼はわたしに永遠の呪縛をかけたのかもしれない。いろんな意味を持った名をひらひらさせて、わたしを煙に巻きながら。  もしくは自分で、自分を名付けること、このバベルの街の人々のような、神をも恐れぬ行為に下された、雷鳴にも似た天罰なのかもしれない。  わたしはほおずきを強く鳴らした。  もう、どうだっていい。守田氏の姿が見えなくなると同時に、わたしはすべてを忘れるだろう。そうして、今までの通り四人の人間を、死に追いやった犯罪者として生きるのだ。  わたしがどれだけ愛したかは、みんなが知っている。  わたしが、どれだけ愛されたかは、あの、消えそうな背中の持ち主、彼だけが知っているのだ。  ほら、彼が見えなく、なる。  真夏の寒い島で、わたしたちは熱く凍えた。  何日か後に、なつこさんがやってきた。 「お見舞いにはメロン」  見たことがないような、大きなメロンをベッドの上においた。  彼女は長かった髪を、男の子のように刈り上げていた。 「守田くんにあったの」 「ううん、あれから、会ってないよ」  彼女は、あれから北斎屋をひとりで切り盛りしているという。 「あやめさん、早く帰ってきてよ。たいへんだから、メニュウ減らしちゃったよ」  彼女は屈託なく笑った。  たぶん、あれから三ヶ月の時間で、彼女はすべてを乗り越えたのだろう。すぐ、会いにこなかったところに、わたしは彼女の優しさを見た。  帰りぎわに彼女は、これから木曜日には必ず見舞いにきてくれると約束した。  わたしは、木曜日にはうれしくて、朝からそわそわしてしまうだろうと言った。  彼女はなつかしい笑顔を見せた。 「もし、遅くなって夕方になっても、待ちくたびれて、ひからびてしまわないでね」 [#改ページ] 単行本 一九九三年九月 東京創元社刊 底本 創元推理文庫 一九九九年九月二四日 第一刷