[#表紙(表紙.jpg)] 角田光代 空 中 庭 園 目 次  ラブリーホーム  チ ョ ロ Q  空 中 庭 園  キ ル ト  鍵つきドア  光の、闇の [#改ページ]    ラブリーホーム  あたしはラブホテルで仕込まれた子どもであるらしい。どのラブホテルかも知った。高速道路のインター近くに林立するなかの一軒で、ホテル野猿《のざる》、という。ホテル課外授業とか、ホテルアロハとか、ホテル回転木馬とか、命名者のセンスを疑うものは多々あれど、野猿、というのはもっともひどい。地獄級である。けれどその、もっともひどいネーミングのラブホで仕込まれて生を受けた、それがあたしである、それはどうしようもない事実だ。  十五歳という、非常に多感な年齢であるところのあたしがなぜ、自分の仕込まれ場所を知ったかといえば、理由はふたつある。  ひとつは木村ハナだ。ある芸能人が新婚旅行で子をなしたと、朝のワイドショーがやかましくつたえていたその日、木村ハナはどことなく自慢げな顔で登校してきて、自分の両親は新婚旅行でアムステルダムに赴《おもむ》き、そのとき自分を妊娠したと、そんなことを言い出したのだった。  あたしはいつかアムステルダムというその場所をたずねてみたいと、木村ハナはうっとりと言い、そこは未知の空間なのにきっとどこかなつかしい感じがするにちがいないなどとぬかしやがり、聞いていたクラスメイト数名を不快な気分にさせた。  しかしその数人は、不快ながらもそこはかとなくその話にロマンを感じ、ある期待をもって帰宅し、みんなそろって両親に訊いたに違いない。あたしはいったいどこで仕込まれたのかと、もう少し、とおまわしに、わざと子どもぶったかわいげのある言葉で。もちろんあたしも例外ではない。  ふたつ目の理由は、あたしの家の家庭方針にある。  何ごともつつみかくさず、タブーをつくらず、できるだけすべてのことを分かち合おう、というモットーのもとにあたしたちは家族をいとなんでいる。だからもちろん、パートから帰ってきたママは夕食の支度をしながらきちんと教えてくれた。インターの近くにホテル野猿ってあるでしょ、あそこよ、あそこもずいぶんくたびれたけど、あのなかでは老舗《しにせ》よね、そりゃママだって野猿なんかいやだったわよ、でもね、あの日、どっこも満室だったのよ、パパと私、歩いて一軒ずつまわったのよ、ホテルサンフランシスコ満員、ホテルバンパイア二時間待ち、ホテルフローラ満室、フロントでことわられるたび、私たちなんかひっこみがつかなくなっちゃって、ほとんどすべてまわって、それで野猿、てわけなのよ。と。  何ごともつつみかくさない、というのは、そうすることによってあたしたちの非行化を阻止する、という目的ではなくて、パパとママの基本的な考えかたである。彼らによると、かくすというのは、恥ずかしいからかくす、悪いことだからかくす、みっともないからかくす、つまり、負のものだからかくすわけで、でも、あたしたちの生活のなかに、恥ずかしいことも悪いこともみっともないこともあり得るはずがない、というのだ。  たとえば生理なんかがそうだ。女の生理は恥ずかしいものでも悪いことでもない、というわけで、あたしが初潮をむかえたときは、初潮晩餐会があった。文字どおり、パパとママとコウ(弟)と四人、初潮、おめでとう、と言い合って、ディスカバリー・センターのレストランで食事をした。  性行為もしかり。コウの性の目覚め晩餐会もあった。夢精おめでとう、とか、エロ本購入おめでとう、とかはもちろん言わなかったけれど、性的欲望自体は恥ずかしくも悪くもなく、一番いけないのは、愛と責任のともなわない行為であると、やはりディスカバリー・センターのレストランでそんな話を聞かされた。  すべてのことを我が家の蛍光灯の下にかざそうというこの宣言がなければ、ママはきっとラブホテルなんて答えなかったと思う。どこだったっけ、忘れたわ、パパんちだったかも、などと言ったかもしれないし、そんなこと訊くもんじゃありませんと顔を赤らめたかもしれない。よもや、野猿などと白状もしなかったろう。 「ねえねえパパ、今日ね、マナったらね、自分はどこで生を授かったかなんて訊くのよー」  帰宅したパパにママが言い、 「野猿だよ、忘れもしない」パパはすかさず答え、「コウはここんちだけどな」とつけくわえた。 「ださいよ、ださすぎる、あーもう、あたしだれにも言えない。木村ハナなんかアムステルダムだよ? そんであたしは野猿? ちょー頭わるそーって感じしない?」  夕食は餃子だった。あたしたちは食卓で、それぞれの席について餃子の皮に具をつつんでいく。あたしはしそ海老餃子、ママはキムチ餃子、パパはベイシック餃子。コウはまだ帰ってきていない。部活に属していないはずだから、ディスカバリー・センターをうろついているんだろう。 「ちょっとー、パパ手を洗ってから手伝ってよう」 「でもなマナ、アムスにハネムーンなんて、それぜったい、元ヒッピーだぜ? クスリやりにいったに決まってるよ、しかも子ども、なんだ、ハナだと? きてるねえ、フラワーチルドレンのなれの果てじゃんか」 「あ、パパー、ビール、私にもちょうだい」 「ヒッピーなんて古すぎる。ってゆーか、野猿にくらべたらヒッピーだって超クールだよ。あーあ」 「それよりさ、コウ、最近おそくなーい?」  あたしの嘆きを無視し、ママが言う。  ママとパパは、この町で生まれ育って、おきまりどおりにぐれて、ヤンキー同士恋に落ち、コンドームを使わない男気あふれる性交をして、当然の結果としてそれを見事ヒットさせ、これもまたおきまりどおり、はやばやと家庭を築き上げヤンキー生活を卒業して、今に至っている。 「ヤンキー方面にすすむんじゃない? 蛙の子は蛙って言うじゃん」  ママから聞いたふたりのなれそめを思い起こしてあたしは言う。 「ヤンキーなんて、もうはやんないだろ」  つまらなそうにパパは言い、ホットプレートを食卓に設置する。  結局、七時半まで待ったけれどコウは帰ってこなかったので、三人で食事をした。その日の話題はずっとホテル野猿近辺をうろついていた。パパとママは空き室を捜して歩きまわったことを昨日のことのように話し、それから、妊娠したとママがパパに告げた状況をあたしにこまかく説明してくれた。  食事を終え、洗いものがすむと、ソファに移ってまだその話は続いた。そもそもどうしてその日、ラブホテルにいくことになったのか。十六年前のラブホテル事情について。パパとママのデート形態について。あたしはソファに座り、ベランダの向こう、漁《いさ》り火みたいな町の明かりをぼんやり眺め、その話を聞くともなく聞いた。  こうしてまた、いくつかの過去はこの家の蛍光灯の下に引っぱり出され、よきものとして共有される。  食卓に置いてあった千円札をにぎりしめて、朝七時に家を出る。空気自体が凍っているみたいに冷たく、硬い。小走りでバス停に向かう。息があたしの鼻先で、白くまるく広がる。バス停にたどり着いたところで、あたしはそっとふりむく。あたしの住む集合住宅が澄んだ空気のなかにそびえている。すべての窓がこちらを向いていて、ベランダのいくつかには観葉植物の緑が垂れ下がっており、洗濯物が干したままになっており、またクリスマスの電飾が電源を抜かれたまま放置されており、しかし人の気配はまったくせずに、ひっそりとそこに建っている。午前中の光は光景から奥行きをうばい、ダンチはまるで書き割りみたいだ。  今年で築十七年、もうすぐ十六になるあたしよりひとつ年上の巨大マンションは、「ダンチ」と呼ばれている。ダンチはA棟からE棟まであって、敷地内には、しょぼいけれど商店も公園もある。パパとママは、あたしの存在を知ってすぐに結婚し、どちらか忘れたけれどどちらかの親の援助でこのダンチの一部屋を購入し、即新婚生活をはじめた。  朝の空気のなかで、ダンチはのっぺりしていて、外壁がずいぶん汚れている。巨大なのに、どことなくみすぼらしい。このダンチの十七年の疲れと汚れは、あたしのなかにも蓄積されているものということになる。  数人がバス停にやってきて、やがてバスがくる。まだ早い時間だからバスは空《す》いている。いつもの二人掛け座席に森崎くんを見つけ、あたしは隣に座る。おはよう、おはよう、とそっけない挨拶をしたのち、あたしは昨日の話をする。木村ハナからはじまって、あたしも自身の出生決定現場を訊いてみた、とそこまで話したところで、 「まっじー? それ」森崎くんは目玉をまんまるく見開いておどろく。「なんか、すげーな、すげーよ、そーゆーの」 「でしょー? 木村ハナ、感じ悪くなーい?」 「そうじゃねーよ、あんたんち、なんでそんなこと、ごはんどきに話してんの? すげーよそーゆーの」森崎くんは鼻息あらくくりかえす。ああ、そういうことか。 「おれんち、そーゆーの、ぜってーねーよ、ぜってー」  森崎くんが、気の毒になるくらいそうくりかえすので、あたしは取り繕うように言う。 「だって、森崎くんちは、浮わついてないもん」  森崎くんに何か正当性をあたえたくてそう口にしたのだけれど、なんだかずいぶんまっとうなことを言った気分になった。 「はあー?」森崎くんは首を伸ばしてあたしをのぞきこむ。 「浮わついてない。地に足がついてるよ」あたしは言う。 「地にいー?」森崎くんは言って、それきり黙りこんでしまう。あたしは森崎くんの向こう、窓ガラスに流れる景色を見る。  ダンチをすぎるとすぐ周囲は田畑になる。田んぼの真ん中に、大きな看板があって、宣伝物は定期的にはりかえられるが今は、発売されたばかりのCDのポスターだ。ずっと遠く、橋桁《はしげた》の上を線路が走っている。ときおり、白地に赤の電車がとおる。電車は無音で姿をあらわして、数秒後、かすかな轟音がこちらに届く。この景色は、角度は少しちがうけれどあたしんちの風呂場からも見える。窓を開けて風呂に入っていると、ときおり、ジッパーを開け閉めするみたいに、赤と白の電車が通りすぎていく。  森崎くんの家は、終点近くまでバスに乗り、バス停から、十五分ほど歩いたところにある古い一軒家だ。何回か遊びにいったことがある。広大な庭があり、庭の隅に人ひとり住めそうな物置小屋があって、その隣の屋根つき車庫には、トラクターと白いクラウンと赤い軽自動車が並んでいる。  森崎くんちは全体的に乱雑で、その広大な乱雑さのなかに、家族それぞれのテリトリーがある。たとえば玄関わきにある十畳ほどの和室。機能的には応接間らしいその部屋には、新聞や雑誌や時刻表や出前表が散乱し、いつも、本当にいつも、とりこまれた洗濯物が山をつくっている。その和室には主みたいに森崎妹がいて、ここは妹のテリトリーなのだとだれもが理解できる。関係ないけれど森崎妹はブスで愛想がまったくないうえ、メール依存症だ。携帯電話をとりあげたら、きっと五分足らずで酸素不足におちいり窒息死するだろう。森崎ブス妹は食事中であろうとも携帯電話を手放さない。唐揚げひとつとって一小節打ち、味噌汁飲んで一小節打ち、里芋を箸に突き刺して名前を打ちこみ、それを口に放りこみくちゃくちゃと咀嚼《そしやく》しながら送信する。家族のだれも怒らない。というよりも、家族のだれもブスな妹など見ていない。森崎父母、祖母、森崎くんはテレビを見ており、森崎家では食事中の私語厳禁、いや、そんなルールがあるのか訊いたことはないが、それはルールのように忠実にまもられている。  それから応接間のななめ向かいにある台所。あたしんちの台所の三倍はあるのに、床には酒瓶や米櫃《こめびつ》や調味料や得体の知れない瓶、缶、樽などが雑多に並んでいて足の踏み場がない。換気扇は油で真っ黒、ガス台も年季が入っている。ここの主は森崎母ではなく森崎祖母である。森崎祖母は台所に住み着いているようにいつもおり、あたしや森崎くんが台所に足を踏み入れると、まるでシンナー吸引がばれたみたいにあわてふためく。もちろん森崎祖母はシンナーなど吸引しないだろうから、いったい彼女が台所でこそこそと何をしているのかはわからない。  日向と日陰と、埃《ほこり》と醤油のしみと、テリトリーと無関心。森崎家にあってうちにはないもの。  バスを降り、学校に向かう坂道をあがり、ババミセに立ち寄る。ババミセは学校の裏門前にある駄菓子屋で、腰の曲がったおばあさんが経営している。学校がはじまるまであと三十分以上もあるから、まだだれもきていない。森崎くんはうまい棒を二本と缶コーヒーを買い、あたしはカップうどんに湯を注いでもらう。この駄菓子屋はほぼ二十四時間営業である。朝七時にきても開いているし、だれかが夜の十二時近くにいっても開いていたそうだ。働いているおばあさんは、じつは精巧につくられた人型ロボットであると、ひそかに噂されている。 「なんであんた朝っぱらからうどん?」いつものことなのに、森崎くんはかならず訊く。「朝ごはん食べてないもん」あたしも毎回同じ答えをかえす。 「ほーん」どうでもよさそうに言って森崎くんはしゃがみこみ、うまい棒を食べはじめる。 「あー、逃げてえー」  目をほそめて森崎くんは言う。逃げてえ、というのは森崎くんの口癖のようなもので、たいした意味はない。疲れた、とか、たるい、とか、やる気がでねえ、というくらいの意味だ。きっと一時間目の英語の宿題を忘れたのだろう。  あたしは少し考えて、森崎くんに向き合う。 「ねえ森崎くん」  一本目のうまい棒(明太子味)を半分ほど食べて、口の端に滓《かす》をつけた森崎くんは目をあげる。 「来月のあたしの誕生日に、何がほしいかって訊いてくれたでしょ? あのね、あたし、ものではないんだけど、いきたい場所がある」  思いきって、一息にあたしは言う。どきどきする。 「は、どこ?」 「あのね」言いづらい。「笑わないでね」でも言わなくてはそこへいくことはできない。ひとりではいけない場所なのだ。森崎くんがうなずくのを確認してからあたしは一気に言う。「インターの付近にあるラブホテルにいきたいの、あのー、そーゆーことがしたいんじゃなくてなかがどんなか見てみたいの」 「はあー?」  森崎くんは素っ頓狂な声を出してあたしを見る。口を開いたまんまなので噛み砕かれたうまい棒が舌にのっているのが見える。 「ま、まっじー? それまじ、それ、まじで言ってんのー?」  森崎くんはくりかえし、みるみるうちに赤面して、のこりのうまい棒をばりばりと口につっこんでいく。あたしも無言で、うどんの続きを食べる。耳が痛いのは、空気が冷たいからか、赤くなっているからか、わからない。  昨日までは、誕生日には小指にはめる銀の指輪をねだろうと決めていた。今日、そう言うはずだった。ゆうべ、ホテル野猿のことを聞くまでは。でも今、ピンキーリングより大事なことが、あたしにはある。  森崎くんは、ラブホテルの誘いには答えないまま、二本目のうまい棒(コーンポタージュ味)をもそもそと食べていたが、 「な、さっきのってひょっとして馬鹿にしてる?」と、こちらを見ず唐突に訊く。 「え、なんのこと?」ラブホテルはやはりまずかったか。誘われていやな男なんかいない、というのは思いあがりか。と、体をかたくするが、森崎くんは、うつむいたまま深刻な声を出す。 「さっきのさ、地に足がついてる、ての」 「なんでえー? そんなの、褒め言葉以外、ないじゃん。馬鹿になんかするわけないよ」 「そっか」森崎くんはうまい棒をじっと見つめる。「なんか、おまえんち農家だしだせえって言われたのかと思った」 「何それ、意味わかんないよ。ださくないよ、地に足がついてて、かっこいいよ」  あたしは必死に言う。なんだか森崎くんを意味もなく傷つけた様子なので、さっきの話の続き、あたしの両親はラブホテル、しかもフローラでもマリアージュでもグランブルーでもなく野猿、野猿であたしを仕込んだのだと告白し、同様に傷を負うことで詫びたくなるが、ラブホテルにいきたいと申し出てしまった以上、なんとなく言いづらい。あたしは自分が形成された場所というものを見てみたい、どうしても一度、そこにいってみたいだけなのだ。しかしその通り言ったら、また彼を傷つけてしまうかもしれない。そんなことをぐるぐる考えながらうどんの汁を飲む。  笑い声が聞こえ、数人の生徒が坂をあがってくるのが見える。 「いいよ、さっきの話だけど」  ぶっきらぼうに森崎くんは言って、まるめたうまい棒の空き袋を、大袈裟なそぶりでゴミ箱に投げ入れる。  まず驚いたのが、その空間が、ひどくまっとうな部屋《ヽヽ》だったことだ。ラブホテル、という言葉からあたしが連想していたのは、非現実的な赤い照明、薄汚れた赤い布団、すり切れた不潔なカーペット、ごとごと音をたてて回転するベッド、戸棚に並んだSM器具、等、だったのだが、そんなものは何ひとつなく、またホテル野猿のうらぶれた外観とはまったく不釣り合いに、それほど古びていない、清潔な、健康的な雰囲気の、どこにでもある、いや、どこかにはありそうな部屋が扉の向こうに広がっていた。  あたしんちの居間ほどの広さで、フローリングの床はきちんと磨きこまれており、部屋の真ん中にピンクのギンガムチェックのカバーが掛かった、キングサイズのベッドがある。部屋の奥に29インチのテレビがあり、その前には、ギンガムチェック地のソファがある。マチスのコピーが飾られており、ガラスばりのお風呂があった。ここで暮らすことはまったくもって可能であると、あたしはある衝撃をもって思った。 「おー、カラオケ! おー、エロビデ! おー、ポテチまであるー」  と、部屋に入るなり、驚いて部屋じゅうをうろつく森崎くんはやはり少々緊張しているにちがいなく、すでに緊張をといてしまったあたしは彼に合わせるように、 「おー見て見て、コーヒーメーカーもある、おー、ノートがある、おー、この枕元のスイッチはなになのおー」  などと騒ぎまくって部屋をうろついた。  あたしの誕生日まではまだ数週間あるが、なんなら今日でも明日でもいい、と森崎くんが言うのであたしたちは制服姿のままホテル野猿にきた。野猿はかえって入りやすかった。フローラやグランブルーだったらマジすぎて緊張し、入れなかったかもしれない。野猿、ぎゃはは、野猿、ホテル野猿、と森崎くんは笑い、私も笑い、そのいきおいでなかに入った。  ひととおり騒ぎ終えた森崎くんとあたしは、ホテル野猿の506号室で所在なげに顔を見合わせる。小学生の学芸会のようにおたおたとたがいの距離を縮め、それから、キュー、という音をたてて唇を吸いあう。 「だははっ」森崎くんは顔をそらして吹きだす。「キューって今」  あはは、とあたしも笑う。  森崎くんはふと黙りこんだかと思うと、今まで見たこともないくらい真剣な顔で近づいてきて、そしてあたしを力まかせに抱きしめ、唇をべろべろとなめてベッドに押し倒す。森崎くんはあたしの顔じゅうをなめ、首筋をなめ、片方の手で右の乳房を揉む。しきりに揉む。制服の上からなのに痛くて、やめてくれと幾度も言いそうになったが、男に乳を揉まれた経験があたしにはないからわからないだけで、こういうものなのかもしれない。そんなことを考えながら、部屋のなかを見まわす。  ベッドカバーとおそろいの、ギンガムチェックのカーテン。カーテンの向こうには何が見えるんだろう? ガラスのソファテーブルの上に、行儀よく並んだテレビのリモコン、エアコンディショナーのリモコン、灰皿、ポテトチップス。ベッドの枕の上は台になっていて、ティッシュとコンドームと、食べもの飲みもののメニュウがのっている。コーヒーメーカーの置かれたサイドボードには、造花のつっこまれた黄色の花瓶。  本当に部屋らしいかといえば、部屋としては珍妙だ。ベッドは大きすぎるし、天井は巨大鏡、ここからガラスばりの風呂場が見えるのも異様で、ピンクのギンガムチェック責めもなんだかカマトトチックではある。小型ながら冷蔵庫があるのに台所がないのも不自然だ。けれど、なぜかその部屋はとても部屋然としてあたしには見えた。あたしたちの家──ダンチの五階角部屋の、清潔で、あたたかく、不自由のないあの家を、ひょっとしたらママはここをお手本につくったのではないかと思うくらい。そんなことを思うのは、ここがあたしの出発点だからだろうか、と思ったら少し気が重くなった。木村ハナはアムステルダムにいってなつかしさをおぼえ、あたしはホテル野猿でほのぼのするのか? 「森崎くん、ここで全然暮らせるね」  森崎くんがあたしの制服を脱がそうと躍起になっていることに気づき、あたしは自分で上着を脱ぎ、ブラウスを脱ぎ捨てて、言う。 「もしさ、今日、もしだよ? なかで出してそれが卵子に届いたとしたら、あたしたちすぐ家族になるんだね、それってなんか、すごいことだね」  森崎くんも制服を脱ぎ捨てる。シャツの下にTシャツを着ている。ミッキーマウスのTシャツだった。森崎くんはキャラクター系はきらいなはずだから、森崎母が買ったのだろうか。 「っていうかそれってじつはかんたんなことかも」  あたしはつぶやき、自分でスカートを脱いで、ふたたびベッドに横たわる。森崎くんはブラジャーだけのあたしの胸に顔を埋《うず》めたまま、器用に尻をもちあげて、ズボンをするすると脱ぐ。あたしは彼の股間に手を伸ばし、森崎くんが勃起していないことを知る。はじめてだけれど知識くらいはある。かえる柄トランクスのなかで森崎性器はぐにゃりとしていた。なでても、さすっても、握っても、こすりあげても、つかんでも、それはぐにゃりとしたままだ。 「あー、だめだ」  しばらくのあいだ、片手であたしの乳房を、片手で太股《ふともも》のあたりを揉みしだいていた森崎くんは、そう一言つぶやいて、あたしの隣に仰向けに横たわる。 「だははっ」森崎くんは笑う。校庭を五周ほど走ったあとみたいに息があらい。「あひー、逃げてえー」森崎くんはいつもの口癖をつけくわえるが、それはどこか、悲愴な響きを持って聞こえる。 「気にしないで」と、こんな場面では言うのではなかったかと、あたしはそう言い、パンツ姿で森崎くんと天井を眺める。それでぜんぜんかまわなかった。あたしは処女を捨てたかったのではなく、自分が在《あ》ることを決定づけた場所が見たかっただけだから。 「なんかここにずっといたい」あたしはつぶやく。 「カラオケしよーぜっ、せっかくだから」森崎くんはそう言って飛び起き、ズボンに足を通す。  森崎くんがカラオケの歌本をめくり、数字を入力しているあいだ、あたしは鞄《かばん》に結びつけておいたテディちゃんをはずす。テディちゃんは、なんの芸もないネーミングだけれどテディ・ベアのマスコットだ。日によって柄のちがう、三百六十六種類あるバースデイ・テディで、もちろんテディちゃんはあたしの誕生日の柄だ。紫と黄色のタータンチェック。  ギンガムチェックの部屋のなかに、薄っぺらいカラオケの曲が流れてきて、森崎くんがミッシェル・ガン・エレファントを調子はずれにうたい出す。あたしは目玉だけであちこち探索し、コーヒーメーカーののったサイドボードに近づく。引き出しを開ける。何も入っていないその引き出しに、あたしはそっと、紫と黄色チェックのテディちゃんを寝かす。引き出しを閉めてしまうと、あたし自身がそのちいさな四角い闇に横たわっているみたいに感じられた。  ダンチからふたつほど手前の停留所には二軒のコンビニエンス・ストアがあって、そのうちの一軒、ampmでママを見つけた。森崎くんとわかれてそこでバスを降りたのは、何か用があったのではなくて、ただ単に、まっすぐ家に帰りたくなかったからだった。ジュースやポテトチップスのパッケージなんかを心ゆくまで眺めてから、家に帰るつもりだった。  ママはガラス戸に面した雑誌コーナーで、金髪のワカモノと縦ロールヘアの女子高生のあいだで何かの雑誌を立ち読みしていて、その姿があんまり意外だったので、最初はママだと思わなかった。  ママはディスカバリー・センター内ではなく、インターを反対に過ぎた街道沿いの飲食店でパートをしている。そのあたりには数軒のファミリー・レストランが軒を連ねているが、ママが働いているのは全国チェーンのうどん屋だ。ママは、子どもが帰ってくるときに家にいることに命をかけているような節があり、そのうどん屋も、絶対残業ナシという条件で働いているのだが、最近帰りが遅い。サッチン(十九歳のフリーター)に束縛好きの彼氏ができた、というのがその理由である。サッチンは彼氏に夢中でちょくちょく無断で休んだり遅刻したりするから、パートも社員も全員がその穴埋めをしなくてはならないのだと、ママはあたしたちに説明していた。でも今、ママはうどん屋でサッチンの穴埋め残業をしているのではなくて、コンビニエンス・ストアの雑誌コーナーにいる。七時も近いというのに。 「ママー、帰り遅いねー」  うしろ姿に近づきながら声をかけると、ママは予想以上に驚いて雑誌を棚に押しこみ、そうしたあとも驚きのあまり声が出ないらしくもごもごと口を動かして咳きこみ、 「やっ、やだマナッ、あんたこそどうしたのよ、こっ、こんな時間にっ」  顔を真っ赤にしてどもりつつそんなことを言う。 「あーうん」しまったと思った。声をかけるんじゃなかった。ママがこんなに動揺するとは思っていなかった。強く後悔しながらしかし、この人、浮気でもしているのではないかとあたしは疑いを持つ。「森崎くんとディスカバでケーキ食べてきた。遅くなるって電話したけどママいなかったからコウに伝言しといた」  できるだけ普段どおりに言うあたしを、ママは泣きそうな顔で見ている。ひょっとして、この店に浮気相手もいるんじゃないかと思い、さりげなく店内を見渡してみるが、うろついているのは二十歳くらいのミニスカートの女、グレイのコートを着た頭髪の薄い初老の親父、あとは雑誌コーナーで微動だにしない金髪男と縦ロール女のみである。 「やだママあんまりびっくりして」と、言うママの声は震えているし、「森崎くん……? あ、ああ、もっきー」放心したようにつぶやいて、その上、右目から涙が一粒こぼれて、本格的にあたしは気まずくなる。極悪人の気分だ。 「あたしさー、ちょっとお菓子見てくるから、ママ、先帰っててよ、あたしもすぐ帰るからさー」  どぎまぎしながらやっとのことでそう言い、ママに背を向けてスナック菓子コーナーにいく。ポテトチップスカレー味。激辛唐辛子チップス。季節限定バターしょうゆ味。色とりどりのそんな文字を必死で目で追いながら、秘密をなくそう、というモットーは、こんなにもみっともないことなのだとあたしは思っている。  唐辛子味のポテトチップスとムースポッキーを買って外に出ると、意外なことにママはあたしを待っていた。 「何買ったのー? もうー、太るわよう」  もうすっかりたちなおったらしくいつもどおりのママで、あたしのさげたコンビニ袋の中身を見、あたしの腕に腕をからませてくる。ママはシュークリームみたいなにおいがした。知らない女みたいに見えた。ダンチに向かいながら、ママは遅くなった理由、コンビニエンス・ストアにいたわけをことこまかく教えてくれる。  今日はいよいよサッチンをつかまえて、今後についての話し合いがおこなわれた。これ以上無断で休むのならやめてもらうとか、そんな話だ。シフトに入っていなかったママたち数人も話し合いに参加せねばならなくなり、サッチンがどうしたいとも言わないから話し合いは長引き、結局、迷惑をかけたのだから責任はとってもらわなきゃならないというパート長の長谷部さん、五十一歳主婦の主張がとおって、ママはとりなしたのにサッチンは今月いっぱいでやめなくてはならなくなった。ママとしてはサッチンが好きだった。だから、記念に何か贈りものをしたい。何がいいのか決めかねて、それで、コンビニエンス・ストアで若い子向けの雑誌(ノンノとかアンアンとか、とママは言った)を立ち読みしていたのだと切れ目なく説明し、長谷部さんの主張のあたりであたしはすっかり聞く気を失っていたのだが、途中で遮《さえぎ》ったらあまりにもママが気の毒なので、すべて話させて、たいへんね、と同情的に言うにとどめた。たいへんなのよ、とママは、寒さで鼻のあたまを赤くして幾度もうなずいてみせる。そうするママを見ていたら、あたしはなんだか急にママと向き合って目を見て訊きたくなった。ねえママ、ママはラブホテルの部屋をお手本にしてうちをつくったのよね? と。 「あら、マナ」ママはふとあたしの鞄に触れる。「あんた、くまちゃんは?」  ぎょっとしてあたしはママを見る。この女は超能力者か、隠しごとをしないという我が家のとりきめは、主義じゃなくてこの女の特殊能力によるものかと一瞬本気で疑ったあたしは、 「あ、ああ、あれね、森崎くんの鞄につけかえたんだ」  慎重に嘘をついてみる。見破るか。テレパシーか。 「まじー? あんなに大事にしてたのにぃ?」  ママはあたしをのぞきこみ、あたしはちいさな子どものように早口で、 「浮気防止のおまじないだって」などと口にする。 「あー、もっきーもてそうだもんねえ」とママはいつもどおりの口調で言い、「それきくの? ママも自分のベアをパパの鞄につけようかなあ」などとふざけたことを言い出すので、あたしはようやくほっとする。 「ね、今日さー、パパ帰ってきたらみんなでごはん食べにいこうか? 遅くなっちゃったし、最近外食してないからさー。レッドロブスターにママいきたいなあー」  ダンチの入り口、大きなアーチをくぐってママははしゃいだ声で言い、 「レッドロブスターよか牛角の焼き肉食べたーい」  あたしはことさら無邪気な声を出して笑い、息が白くあたりに広がるのをぼんやりと目で追って、ママが超能力者じゃないことなんか知っている、あたしはあの家の蛍光灯にさらされない何ごとかを、このようにしてわざわざつくりたかったのかもしれないと考える。  レッドロブスターも牛角も、ディスカバリー・センターのなかにある。ディスカバリー・センターというのは、典型的郊外型巨大ショッピング・モールで、あたしが九歳、コウが七歳の春にオープンした。  ダンチから学校に向かうバス通りを左折し、車で数分走ると、件《くだん》のラブホテルに囲まれた高速インターがあり、それを過ぎてさらにすすむと、ディスカバリー・センターがある。スーパーマーケットと、ファッションビルと、レストラン数軒、ディスカウント系日用雑貨店、カー用品店、美容院と本屋、カラオケボックスが入っている。  開店の日、ほかの家族たちと同様に、あたしたちも四人でそこへ向かった。あたしたちの乗ったバスはディスカバリー・センターを目前にして渋滞にまきこまれ、ぴたりと止まってしまった。気の急《せ》いたあたしたちはバスを降り、同じ場所へ向かう車の列から投げられる数多の視線のなか、ディスカバリー・センターへとてくてく歩いた。人に揉まれながら特売のティッシュやコーヒー豆を買い、行列にくわわって格安イタリアンレストランで食事をし、体力倍増合宿を終えたような疲労とともに、しかし不思議なほど満ち足りた気分で帰宅した。  ディスカバリー・センターの出現は、ダンチに住むおびただしい家族と、この町に住む多くの人間を救ったと、あたしは信じている。便利になったことはもちろんだが、もっと精神的な意味合いにおいて、だ。ディスカバリー・センターがもし存在していなかったら、この町、とくにダンチ内ではもっと事件事故率が高かったと思う。自殺、離婚、家庭内暴力、殺人、等々が、ひっきりなしに起きていたかもしれない。  毎週末、ほとんどの家族はディスカバリー・センターにいく。買いものをしたりしなかったり、とにかくそぞろ歩いてあれこれをながめ、食事をしたりしなかったりして帰る。中高生の半分は放課後ディスカバリー・センターにいくことを日課にしている。高校を卒業したものの、大学にも専門学校にもすすまない、将来の見通しのない子どもたちは、とりあえずディスカバリー・センターでアルバイトをする。  ディスカバリー・センターは、この町のトウキョウであり、この町のディズニーランドであり、この町の飛行場であり外国であり、更生施設であり職業安定所である。  でもな、ひょっとしたら、ディスカバリー・センターはおれたちを救ったんじゃなく、ここに閉じこめてしまっただけなのかもな、と森崎くんは言う。そういうことを考えると、爆弾をつくりたくなるのだそうだ。森崎くんは好きだけれど、彼のそういう考えかたをあたしはあんまり好きじゃない。爆弾であたしたちのダンチやディスカバリー・センターをぶちこわされるなんてまっぴら。森崎くんが実際に爆弾をつくれるくらい賢い高校生でないことを、あたしは神に感謝する。  実際のところ、ディスカバリー・センターが建つ以前のあたしたち、というものをうまく思い浮かべることができない。洋服はどこで買っていたんだっけ? 記念日にはどこでごはんを食べていたんだっけ? 休日には、何をしていたんだっけ?  ディスカバリー・センターが建ってからの、唯一《ゆいいつ》のあたしの懸念は、ラブホテル撤去運動だ。PTAやダンチ妻たちが結託して、ときおり思い出したようにラブホテル撤去のための署名運動や、デモ行進をはじめる。一番最近だと、去年の冬だ。そのとき、あたしはホテル野猿が自分の発生場所なんて知らなかったから、なんの感想もいだかずにそれを見ていた。今はちがう。撤去運動なんか糞くらえだ。もし彼らの運動が効をなして、野猿をふくむラブホテル群が一掃され、そこにぴかぴかの老人ホームなんかができたら、そのときこそあたしは図書館にかよいつめて爆弾をつくると思う。  とりあえず最近は運動はない。ホテル群も、新装開店をくりかえしながらきちんと並んで建っている。この町の人間のほとんどは、だからラブホテルの合間をすり抜けてディスカバリー・センターにたどり着く。  まったく本当に理解不能、史上最高のおおいなる謎だが、ともにホテルにいって以降、森崎くんはあたしを無視している。朝のバスも時間をずらすようになったし、ババミセにも寄らなくなった。休み時間はいつも、ヤノッチやなかピーといった馬鹿男子グループとつるみ、ホームルーム後は手品師のごとく教室から消える。森崎くんは携帯電話を持っておらず、一度家に電話をかけたらみえみえの居留守をつかわれた。これにはあたしも、避けられていると自覚せざるを得なかった。  心あたりがあって避けられるなら納得するが、あたしに非は何もない。ラブホテルは同意でいったし男性器が機能しなかったのはあたしのせいじゃない。徹底して森崎くんがあたしを無視するので、森崎は女子高生の豊満な肉体を前にしてもたたなかったと逆に言いふらしてやろうかと思ったが、みじめになるのは自分のような気がして、やめた。  あんなにあせってラブホテルになどいくんじゃなかった。せめて誕生日までまてばよかった。あと数週間後の誕生日、イベントは恒例の家族パーティだけだ。  それまで特定の男子(森崎くん)とだけつるみ、どの女子グループにも属さなかったあたしに、急に親友級の女友達などできるわけがなく、したがって、ディスカバリー・センターでいっしょにワッフルを食べたり新作コスメを試してくれる相手を見つけられず、あたしは女の子たちとあたりさわりのない会話をしたのち、ひとりダンチに帰ってくる。  寄り道をせず家に帰る日が続いて、あたしはママの異変に否応なく気づいた。あたしたちの帰宅時間には死んでも家にいたママの帰りはほぼ毎日遅い。アルバイトのサッチン問題はかたづいたはずではなかったのか。サッチン問題をのぞけばママのパートは残業ナシの四時までなのに、うちに帰ってくるのはだいたい六時すぎか下手をすると七時すぎ。あたしは最近米だけはといでおいて、ママの言いわけ(サッチンのかわりのアルバイトが見つからない)を聞きながら、ママが買ってくる出来合いの総菜を皿にうつしかえる。  コウはときおり夜の九時や十時というとんでもない時間に帰宅するが、それ以外はあたしよりも早く家に帰っている。家に帰ってきて何をしているかといえばずっと自分の部屋に閉じこもっている。コウは近い将来ひきこもりになるのではないかと思う。根拠はないけれど、コウには、なんとなくそんな雰囲気がある。よくいえば退廃的、ふつうにいえば陰々滅々としたところがある。  その日も家に帰るとママはいなかった。靴があるからコウは帰っているみたいだが、例によって自分の部屋に閉じこもっている。 「コウちゃーん、お茶するー?」コウの扉の前であたしは呼びかける。 「いらん」と、短い答えが返ってくるのみで扉は開かない。陰々滅々。 「今日雪降るかもってー」そう言ってみても、返事はない。  あたしはひとり、牛乳たっぷりの紅茶をいれて、ソファに腰かけそれを飲む。ベランダの向こうで、灰色の空はひどく低い。かなた、空に押しつぶされるようにして山の稜線がかすんでいる。思い出したように、町のところどころで明かりがともされる。ふとホテル野猿506号室にいるあたしの分身テディちゃんのことを思う。掃除のおばさんや女性客に見つかっていなければ、テディちゃんはまだあそこにいる。引き出しの隙間から、ギンガムチェックのカーテンやマチスのコピーを見ている。テディちゃんに一瞬のりうつったようにその光景がありありと目に映る。  マグカップを持って立ち上がり、あたしはコウの部屋の前にしゃがみこむ。 「コウちゃーん」目の前の扉に話しかける。「ママ、最近遅いと思わないー? ねえ、もうすぐ六時だよー、おなかすかないー?」  返事はなく、また無視かひきこもり野郎、と心のなかで毒づいたとき扉は開いて、コウが目の前に立っていた。なんだかひさしぶりに見る弟だった。コウはあたしの思うコウより二割増しで大きい。もっともいつもそう思う。コウは永遠にあたしのなかで二割がたちいさいのだ。 「何そんなとこ座って」コウはあたしを見下ろす。 「ママさー、遅いよね、帰り」 「残業なんじゃないの」へんに野太い声で言う。 「浮気してるのかも」 「キショい」コウはそれだけ言い、居間へいって電気をつける。明かりがひろがり、窓の外に浮かび上がっていた町のぼちぼちした明かりが、すっと遠のく。 「でもさー、ママ前は毛染め家でやってたのに最近美容院でやってるじゃん、それにさー、ママがよく言うサッチン、て、見たことある? そんな人実在しないんじゃないの? だって、サッチン、だよ? いかにも架空っぽくないー?」 「マナっちさあ、ほんと暇な」コウはおやつ戸棚からポテトチップスを出し、ソファに座って食べはじめる。「マナっちさあ、キショいこと言ってないで自分のことなんとかしたら? もっきーと喧嘩したんならさっさとなかなおりしなよ」 「なんで? なんで知ってんの」 「なんでも何も、マナっち全部話してんじゃん。最近帰りはやいんだからもっきーとなんかあったってことくらいわかるっしょ。みんな言ってるよ、もっきーとマナっちが今ケツベツの危機にあるって」  みんなというのはもちろんパパとママのことで、あたし以外の家族は森崎くんのことをもっきーと呼んでいる。テレビをつけ、数秒ごとにチャンネルをかえ、ポテトチップスを噛み砕きながら野太い声で言うコウは、あたしの頭のなかのコウより二割増しで陽気だ。つまりコウが部屋にひっこんでいるとき、あたしのなかで彼の不在は二割がた退廃的だが、いざ目の前にあらわれるといつもの弟だ。野太い声の十四歳に、陰々滅々であってほしいだけなのかもしれないと気づいて少々自分にぞっとする。 「あーあテレビいいのなーいや」  ポテトチップスの袋をかかえてコウはふたたび自分の部屋に戻っていく。乱暴に扉を閉める音がとても遠くのほうで聞こえる。  平日のディスカバリー・センターは思いのほか混んでいる。ファッションビルであるメインモールにはちいさい子どもを連れた主婦がけっこういる。制服こそ着ていないが、みるからに学校をふけてきました、という体《てい》の女の子もずいぶんいるし、何歳なのか、何をしているのかまったくわからない男の人も歩いている。ギャル系服屋のショーウィンドウを見ていたときに一回、アクセサリー屋の店頭ワゴンをのぞいていたとき一回、声をかけられた。今あたしの目の前にいるのは三回目、CD屋で blink-182 を試聴していたとき声をかけてきた人だ。あたしはビッグマックセットをたのみ、男の人はコーヒーだけたのんで、向かいで音もなくそれをすする。  三人目の人が一番ましだった。最初に声をかけてきたのは目だけ異様にぎらついた年金生活者で、二人目は色白なうえ頭髪の薄い長髪男でもろやばめ、この三人目もやばめといったらやばめだが、危険な感じはまったくしない。コーヒーを持ち上げたり煙草の灰を落としたりする手は気の毒になるくらいふるえているが、髪の毛はべたついていないし、不自然に太ってもおらず、どことなくチワワに似ている。二十代後半か、三十代か。生きてきた年月全部が彼女いない歴になるような男。  さもしい女子高生と思われたくなかったから、値のはらないマクドナルドをえらんだ。自分から誘ったくせにチワワ似の男は無言のままついてきて、勘定を払ってくれた。  子どもたちが走りまわり、母親たちが額をつきあわせて何ごとか話す、そういうグループ連れでごったがえしたマクドナルドの片隅で、見知らぬチワワ男と向き合い、Lサイズのポテトを食べながらあたしは今日一日のことを考える。マクドナルドのはす向かいにあるイタリアントマトにいたママのことや、あたし不在のまま時間割をこなしていく学校のことなんかを。  ママのあとをつけてみようと思いたったのは、今日、何がなんでも学校にいきたくなかったからだ。何しろ今日はあたしの十六回目の誕生日で、当初の予定としては、もう一度森崎くんとホテル野猿にいくつもりだった。できれば以前と同じ部屋で、ふたりだけの誕生日パーティをしたかった。けれど森崎くんは頑としてあたしと口をきいてくれない。女友達からもボーイフレンドからも話しかけてもらえない誕生日に、うきうきと学校にいけるような骨太精神をあたしは持ち合わせていないのだ。  学校をさぼってすることがママの尾行なんて、あたしの世界もずいぶんせまいが、昨日の夜ママは新記録並みに遅く帰宅した。ママがあんまりにも遅いので、空腹なあまり凶暴になりかけたあたしたち三人は宅配ピザをたのんで食べた。これはもうまちがいない。ママは何かトラブルを抱えている。サッチンという架空の人物の裏に何か秘密を持っている。  それで、いつもどおり七時に家を出たあたしは、ダンチ内をうろついて時間をつぶし、九時半に家を出たママをつけまわしてみたのだ。しょっぱなからママは、うどん屋方面ではなくディスカバリー・センターいきのバスに乗りこみ、次のバスでママを追ったあたしはだいぶおくれをとったが、ディスカバリー・センターのメインモールですぐに見つけることができた。ママは四階にあるヒステリック・グラマーで、店員と長いこと会話しながら、何か買っていた。ヒスグラとは、ずいぶん若くでたものだ。ママはそれから、あっちをのぞきこっちをのぞきして一階まで降りてきて、正面入り口わきの花屋でブーケをつくってもらい、スキップすらしかねない軽い足取りで、イタリアントマトに入っていき、奥の席を指し示す店員に首をふって、主婦らしい強引さで窓際の席に陣取った。それが十時五十分。  だれかにつけられているとか、知り合いに見られるかもしれないとか、考えたこともないだろう無邪気な無防備さでママは行動していた。それであたしは思ったのだ。かくしごとをしない、というモットーは、ひょっとしたら、とてつもなくおおきな隠れ蓑になるんじゃないか。あたしたち家族の一日は、いや、あたしたちの存在そのものは、家族に言えない秘密だけで成り立っていて、そのこと自体をかくすために、かくしごと禁止令なんかがあるんじゃないか。その禁止令があるかぎり、あたしたちは家族のだれをも疑ったりはしないのだから。 「が、が、学校は」  唐突に男が声を出した。顔をあげる。銀色の灰皿には吸い殻がいくつも押しつぶされていて、Lサイズコーラの氷はもう溶けてしまっている。学校は、の続きを待ったが、男はそれきり何も言わないので、学校は? という質問なのだと少したってから理解した。 「ずいぶん前からいっていないの、いったって、いじめられるだけだし」  嘘だった。森崎くんのしかと攻撃はいじめではないし、したしい女友達はいないが、だれもあたしの靴をかくしたり体操服を燃やしたりしない。そもそもあたしのかよう学校は、進学校のうえ校則がさほどきびしくなく、みんな好き勝手にやりたいことをやっているから、いじめも団結もない。けれどあたしは続ける。 「もうずっと前からだから、慣れっこだけどね。でも、慣れることと、すすんでいじめられにいくのとはちがうからねー」  男がそう言ってほしがっているような気がしたのだ。案の定、あたしの胸元のあたりに向けていた目を細め、安堵したように男は小刻みに幾度もうなずく。それを見ていたらしかし何か意地悪なことを言いたくなって、あたしは訊いた。 「あなたはお仕事は?」 「いや都内の出版社で働いているんだけれどもねこの近所に某作家先生が住んでいて原稿をとりにきたんだけれどもいや、はは、いかんせん遅くてね書くのが、しかし手ぶらで帰るわけにもいかないんでまあこのへんをぶらぶらしてころあいを見計らってまたいってみようかと思っているわけなんだけれども、はは」  言葉に詰まるだろうと思っていたが、予想外に男はどもらず流暢《りゆうちよう》に言ってのける。合間にはさんだ笑い声までが流暢だった。  マクドナルドの床の上を乳幼児がはいまわり、少し大きな子どもが突然泣き出し、母親たちはその泣き声のすさまじさに動じることなく、煙草の煙をすぱーと頭上に放ちながら夢中でしゃべっている。男は顔を動かさず目玉だけを動かしてそんな店内の様子を眺めていたが、チッ、とも、ケッ、とも聞こえる舌打ちをする。  メインモール一階全体はギリシャ建築風につくられていて、通路にはまったく意味のない円柱がいくつも立っているのだが、私はそのひとつに隠れて、イタリアントマトの窓際に座るママを見つめていた。ウェイトレスがママのテーブルにメニュウと、水の入ったグラスを置く。ママの前と、向かいの空席に。水だけ置いてあるあの席には、いったいどんな男がくるのだろうかとあたしは想像した。パパとちがって、マッチョな男じゃないかと思った。得体の知れない油で浅黒い肌をてからせた、歯の異様に白い、濃いハンサム顔の男に違いないように思われた。  十一時を少しまわって、しかしママの向かいに座ったのは、マッチョでもなく濃いハンサム顔でもなかった。なんていうか、これはもう、だれがなんと言おうとサッチン以外の何ものでもない、という風体の女の子だった。ママが話していたとおり、ぱさぱさの金に近い茶髪で、アイラインが強いせいでエキゾチックな娼婦みたいで、笑うと前歯が欠けていて急に幼稚園児のような顔になり、ママの話からあたしが想像したとおり、激ミニのスカートに未だルーズソックス着用で、日焼けあとのしみがそばかす状に顔に散らばる、十九歳にしては若づくりの女の子だった。  ウェイトレスが二人の前にコーヒーカップを並べて去ると、ママはさっき買ったばかりのブーケと、ヒスグラの包みを渡した。サッチンは通路にも声が漏れ聞こえるくらい驚き(うーそー、まーじーでえー? いいのおー、ナヨちゃんー、まーじーでえー?)、プレゼント包装を破きながら、あろうことか泣き出した。  イタリアントマトを出たママはサッチンとわかれ、メインモールの先にあるケーキ屋、グランマルシェへ向かった。ガラスばりの店内を見なくてもママが何をしているのかわかる。両手で抱えなくてはならないくらいの箱を受け取って、勘定を払い、口元をにやけさせて店を出てくる。箱の中身だって見なくてもわかる。生クリームたっぷりのチョコバナナパイで、表面に、チョコクリームでマナちゃんおたんじょうびおめでとうと書いてある。十六本の細いろうそくが束ねられて入っている。そもそもこの店はあたしのリクエストなのだ。  ケーキの箱を大事そうに抱えたママは、うどん屋方面に向かうバスに乗り、それを見送ってあたしは、地面に足をつけているという感覚を失っていた。そのままメインモールに戻り、エレベーターに乗り、上から順にひとつずつテナントを見て歩いた。ママの向かいに、色黒マッチョがあらわれたほうがまだ信じられた。流行の尻馬にのって出会い系浮気をしていたほうがまだ現実味があった。 「い、い、い、家は」  男が言う。氷の完全に溶けた薄いコーラをすすりあげ、あたしはぼんやりと男に焦点をあわせる。男はあたしの背後霊に話しかけているみたいに遠くを見ている。家は、の続きはないからやっぱりそれも、家は? という質問なのだろう。 「この近く。ママがさ、恋人をひっぱりこんでるから家にいたくてもいられないのよね。あたしそういうの敏感な年ごろだし」  言いながら、自分の世界のせまさ、想像力の限界に嫌悪を感じたが、男はまた小刻みにうなずいている。サッチンはママのことをナヨちゃんと呼んでいたっけ。ママの名前は絵里子だから、ナヨってなんのナヨだろう。ナヨちゃんというあだ名くらいか、ママが我が家の蛍光灯にさらさないものは。 「今日あたしの誕生日なの」  そう言うと、 「えっ」男は椅子から少し飛び上がって驚く。「えっ、た、たん? えっ、じゃ、な、何かほしいもの、あ、あるの」 「ほしいもの」あたしはつぶやく。ほしいもの。ほしいもの。パパには吉田カバンのリュックサックをたのんである。ママにはピアスかチョーカー。コウには何もたのんでいないけれどプレステ2のアドベンチャー系ゲームをくれるだろう。そのどれも、あたしはちっともほしくない。ほしくないのだ。 「ほしいものはないけどいきたいところならある」 「え、え、え、えっとそれ、それはどこ」 「じゃあついてきて」  あたしは言って立ち上がり、騒音と煙草の煙が渦巻くマクドナルドを出る。男はひどくあわててあとに続こうとし、立ち上がった拍子に吸い殻の詰まった灰皿をひっくりかえしてしまう。ほうっておけばいいのに男はテーブルに散らばった吸い殻をかき集め、しゃがみこんで床に落ちた吸い殻もひとつずつ拾い集めている。店員が手伝いにくるかと思ったが、座席は死角になっているらしくだれも気づかない。だれにも見つけてもらえず吸い殻をかき集めている男を見ていたら、なんだか男の成長アルバムを見せられている錯覚を抱いて気が滅入《めい》った。  午後三時のホテル野猿はほとんど全室空いていた。チワワ似の男はホテルに入るときも、506号室に入るときも、申し訳なくなるくらい動転し、平常心を失っている様子なので、今日あたしに声をかけた目的はなんだったんだろうと考えてしまった。いやらしいことをするつもりはなくて、ただいっしょに、コーヒーを飲みながら話がしたかったのか。どっちでもいいや。ここに連れてきてくれたのだから。ドアの向こうにこのあいだとかわらないギンガムチェックの部屋が広がっていて、あたしはひどく安堵する。  男がコートを着たまま部屋のなかをぐるぐる見まわしているあいだ、あたしはサイドボードにかけよって引き出しを開ける。テディちゃんはちゃんとそこにいた。引き出しの小さな暗闇のなかにじっと横たわっていた。  女の悲鳴が聞こえてきてふりむくと、コートのポケットに両手をつっこんだチワワ男が、ソファに腰かけてテレビ画面を凝視している。画面には、裸の女が映っていた。女、モザイク、女、モザイク、と交互に映り、合間合間におっぱいが大写しになる。テディちゃんを引き出しにもう一度寝かせ、あたしはチワワ男の隣に腰を下ろす。男はびくりと体をこわばらせたが、何も言わずテレビ画面を見ている。ギンガムチェックのソファ、マチスのコピー、引き出しのテディちゃん。名前も知らないチワワ男の隣でこうしてアダルトビデオを見ていることと、山の稜線が遠くにかすむ居間のソファでみんなとテレビを見ていることと、いったいどのくらいのちがいがあるんだろう。どうしてあたしにはそのどちらもが、薄い布地の向こうで起きていることみたいに感じられるのだろう。  男は身構える暇もないほどのすばやさであたしを抱きすくめ、ソファから立ち上がらせて、足をもつれさせながらベッドに運んであたしを突き倒す。見た目より力があった。自分はコートを脱がず、男はあたしのオーバーを脱がせ、上着を脱がせ、ブラウスをまくりあげてブラジャーの上から乳房をなでたりつかんだりする。男の掌は冷たかった。 「かわいそうに」ベッドのわきに立ち、かがみこむようにしてあたしの上半身をなでさすりながら男は言う。スカートに手を差し入れパンツの上から性器のあたりをいじり、けが人をあつかうようにそっとパンツをおろし、尻の穴や膣のあたりを指で幾度もなぞって「あなたはかわいそうだ」うわごとのようにくりかえす。  満室続きで性欲の限界をかかえたパパとママが、十六年と十カ月前、このホテルの、どの部屋で抱きあったのかまではわかりようがない。だから、とりあえずこの部屋だったにちがいないと思いこむ。ここがあたしの、在るとないとの境界線である。あたしはここで在ることを決定づけられ、そして今日、十六歳になる。  かわいそうだ、と口のなかでつぶやく男は泣いていた。涙をあたしの顔や首筋になすりつける。男が性器を挿入してくれればいいとあたしは願う。コンドームを使わずに射精して、見事にそれがヒットしたら、この部屋は因果の子孫繁栄場、きっとその子どももホテル野猿で処女もしくは童貞を喪失するだろう。いや冗談じゃなく、あたしが今日本当にだれかの生を抱えこんだら、いつも目の前にあるこの薄い布地はとりはらわれるかもしれない。この状況にいくら現実感がともなわないといったって、子どもが生まれれば現実になる。森崎くんに言ったとおり、簡単に、家族になれる。そこまで考えて、それが、自分の考えなのか十六年十カ月前にママの考えたことなのかふいにわからなくなる。  しかしチワワ男は挿入しなかった。コートすら脱がなかった。あたしの体のすみずみまでをもみしだいてなでさすって唾液でぬらして、突然その場を離れて風呂場へいった。二回もラブホへきたというのにあたしは未だ処女である。  ガラスばりの風呂で男がシャワーを浴びているあいだ、壁に掛かった額縁をあたしははずす。マチスのコピーを抜いて、絵のない額をもとの位置にかける。引き出しにテディちゃん、額のなかはからっぽ、たったそれだけのことなのに、この部屋が身近に感じられる。ダンチの自分の部屋よりも。  男はなかなか風呂場から出てこない。まるめたマチスをゴミ箱に投げ入れて、ベッドサイドの電話で食べものを注文する。海老ドリア、まぐろのカルパッチョ、鉄鍋餃子お願いしまーす、言ったあとで、男のためにビールを一本追加する。  ずいぶん長い時間かけて風呂場から出てきた男は、会ったときとまったくかわらないコート姿だった。髪もちゃんと乾かしてセットしてあった。ホテルの人が料理を部屋に運んできたとき、なぜか男はずっとトイレにかくれていた。ホテルの人が去るとそそくさと出てきてビールを飲み、ソファテーブルに並べた料理を男は無言で食べはじめる。あたしも男と並んで食べた。テレビ画面はあいかわらず女の顔、モザイク、顔、モザイク、合間におっぱい、をくりかえしている。食事のあいだ男は何もしゃべらないので、あたしも黙って箸を動かした。これが、幾度も幾度もうんざりするくらいくりかえされる日常にときおり思えて、そのたびあたしはたじろいだ。その錯覚は、すみずみまで触れられるくらい生々しかったから。  午後四時半、そろそろママが帰ってきて、誕生パーティの準備にとりかかるころだ。メニュウはちらし寿司とミートローフ、マカロニサラダで、へんなくみあわせだけど全部あたしの好物だ。パパは仕事を早めに切り上げて帰ってくるだろう。コウは野太い声で文句を垂れながら、「マナちゃん誕生日おめでとう」の貼り紙を壁に貼り、食卓にクラッカーを並べるにちがいない。遠い遠い、異国のおとぎ話みたいにあたしはそれを思い浮かべる。ここで、男としずかな食事を続けながら。  食事を終えて、あたしは窓に近づいてみる。ギンガムチェックのカーテンを開けると黒く塗りつぶされた窓がある。はめごろしかと思ったが普通のサッシ窓だった。少しきしむその窓を開けて、あ、とあたしは声を出した。うちの風呂場から見える景色とよく似た光景が広がっていた。枯れた色の田んぼが平坦にのび、そのずっと向こう、空と地面のあいだに線路がある。書き割りにいたずら書きされたジッパーみたいにまっすぐと。白地に赤の電車がすっと走る。まるでジッパーを開けるみたいに。開かれたジッパーの向こうに何かちがう景色が広がっているのではないかと、子どもじみた期待であたしは目を大きく見開くが、電車は去り、見慣れた景色がまたそこにある。 [#改ページ]    チ ョ ロ Q  あー、逃げてえ、というのが、娘のボーイフレンドの口癖らしいが、それを聞いてからというもの、気がつけばぼくは、あー逃げてえ、とつぶやいている。  あー、マジ逃げてえ。トイレの鏡に向かって今も、そう口を動かす。そうしたからって、どこかへ逃げられるわけじゃないんだけれどね。  ずいぶん長いことトイレにこもってしまった。のそのそと出て、フロアに戻る。土曜日だというのに、午後四時のインド料理屋は空《す》いている。奥の円卓に中年女のグループと、あとはぼくたちがいるきりだ。入り口近くの、飯塚の前に座って笑いかける。飯塚は笑わない。 「人間を人間たらしめているのはね、恥だと思うの」  飯塚は言う。まだ続くらしい。ぼくは目の前の、とうにぬるくなってしまったビールを一口すする。 「恥を感じない人間は、動物とかわらないと思うの。そうでしょ? 恥ずかしいと思うから私たち、服を着るんだし、恥ずかしいと思うから、人前でセックスしたりしないのよね?」  夕暮れどきとはいえ、まだ存分に黄金色の陽が店内に充満してる。こんな時間に、セックスなんて言うなよ。ぼくは上目遣いに飯塚を見る。 「なんなのよその目。すぐあまえる」飯塚は勘違いして横を向き、煙草に火をつける。とおりかかった小柄なインド人に、ぼくはビールをたのむ。飯塚は細く長く煙を吐き出す。「私はいいわ」訊いてもいないのにそう言って、また煙草を口に持っていく。「私、道徳って恥の概念のことだと思うのよ。そんなの、この国特有のことかもしれないけれどね。でもね、禁煙の電車のなかで煙草を吸わないのはなんで? ブランドものがほしいけど万引きしないのはなんで? 若い娘のミニスカートはそそられるけれどいきなり手をつっこまないのはなんで? 恥ずかしいからでしょう、そんなことをしたら」  ビールがはこばれてくる。赤いラベルの、マハラジャというビールだ。薄くて飲んだ気がしないが、このくらいなら三、四本飲んでも、家にたどり着くころにはにおいが消えているだろう。  奥まったテーブル席から、女たちの笑い声が聞こえてくる。夕方の光のなかを埃《ほこり》が上下している。インド人の店員がレジの奥で菓子をわけあって食べながら小声で話している。ガラス戸の向こうに、数人の高校生が駅へと向かっていくのが見える。娘の制服を見ていても思うことだが、女の子たちのスカートがあんなに短くて、クラスメイトの男子は勃起がおさまらなくてこまったりしないんだろうか。 「だからもっとも始末が悪いのは、恥という概念がない人間よ」  ぼくが上の空であることに気づいたのだろう、飯塚は声のトーンをあげる。ぼくはぼんやり飯塚に焦点を合わせる。飯塚は、ぼくが今の職場に移ったときもこのように文句を言っていた。水晶やムーンストーンといった石類、占星術やタロットといった占いグッズからはじまって、アロマオイル、サプリメント、無農薬野菜、アジア雑貨にいたるまで、脈絡なく仕入れて売る会社なんて、胡散臭《うさんくさ》さの極致だと言っていた。少し前だったらニューエイジグッズと総称されたらしいそれらが胡散臭いかどうか、ぼくはよく知らない。おもしろくもない倉庫番として働いていたぼくを、その会社に誘ってくれたのは大学一年のときサークルがいっしょだった仲手川で、彼はでも胡散臭い人間ではない。恥がない、とあのときも言われた気がする。いや、プライドがない、だったか、野心がない、だったか。だいたい職をかえるということ自体、飯塚は気にくわないのだ。根性が足りない、忍耐が足りない、そんなふうにも言われた気がするが、それが倉庫番の前だったか、家庭教師組合のときだったか、友達と有限会社をつくったときか、もう区別がつかない。しかし今、もちろん飯塚が仕事について憤慨しているのではないことを、ぼくは理解している。 「あんたのようなチョロけたやつよ、もっともたちの悪い、ある意味無敵な人間はね」  飯塚はつっかえず一息でそう言って、ふいと横を向き、鼻の穴をふくらませる。みるみるうちに目玉が湿る。けれど涙は流れない。いつだったかテレビである女優が、涙は目玉にためて、流さないのがコツで、それには多大なる練習が必要なんだと言っていた。なんのコツだったっけ。演技のコツだったか、男をころりとさせるコツだったか。 「これ」飯塚は灰皿に煙草を押しつけて消し、左手でバッグから包みを出す。橙《だいだい》色のちいさな袋で、なかに銀色のリボンで巻かれた橙の包みがある。 「えーと」なんと言っていいのかわからずぼくは笑ってみる。 「本気でむかついてるけど、誕生日でしょ」  飯塚は窓の外を向いたまま言う。ああそうか、来週の日曜、雛祭りはぼくの誕生日だった。 「本気でむかついてるけど、誕生日って私一番大事だと思うから」  開けていいかと訊くと、そっぽを向いたまま飯塚はうなずく。リボンをほどき、包みをていねいに開けていく。薄い青の箱のなかに、銀の腕時計が入っている。飯塚の細い手首にも、同じデザインの時計がからまっている。 「前に話したことあると思うけど、私、誕生日も覚えてくれない家族のもとで育ったから、そういうの、やなの。人の誕生日忘れたり、むかついてるからって、何もなかったことにするのはいやなの」  ありがとう、と言ってぼくは自分の腕時計をはずし、飯塚とそろいのそれをはめてみる。銀が肌につめたい。かっちょいいな、と言って腕を持ち上げてみる。いくらくらいするんだろう。一万円くらいかな。もっと高価な気もする。ものの値段は、本当にわからない。 「だから言ってみれば私は筋をとおしてんの。むかついてるのにかわりはないの」  ガラス窓の外、通りすぎていく家族連れをにらみつけるようにして、飯塚はつぶやく。  まいったな。仕事が残っているといつわって家を出たのが昼すぎで、夕飯までには帰るつもりだったんだけれど、やっぱり、よっていかなきゃだめかな。今から休憩三時間で、七時半か。ここからだと家まで四十分、帰りは九時になってしまう。 「あやまったって許すつもりはないし。私を怒らせたらこわいのよ。わかってんの?」  飯塚は言ってようやくぼくを見、唇の端をもちあげて笑う。ああ、逃げてえ。  つきあいはもう二十年になる。いや、交際という意味でいうなら十七年だ。  ぼくと飯塚は高校三年のときのクラスメイトだった。高校三年の数カ月、つきあった記憶がある。継続的な交際をはじめたのは十七年前で、どうしてそんなふうに正確な年数を覚えているかといえば、娘のマナがこのあいだ十六歳になったばかりだからだ。つまり、妻の妊娠がぼくと飯塚の交際のきっかけになった。  妊婦と夫婦生活ができなかったから昔のガールフレンドに手を出したなんて、そんな陳腐な話ではない。まあ、陳腐といえば陳腐なんだけれど。  結局、絵里子の妊娠によってぼくの生活は激変した。彼女がマナに話しているらしい、ヤンキーがどうのという奇妙な過去は真っ赤な嘘、実際は、アルバイトにきた平凡な大学生を絵里子がうまいことはめたのだ。まあそんなことはどっちでもいい。とにかく、ものすごいあわただしさで、出産日がきまり、結婚がきまり、ぼくの大学中退がきまり、新居がきまり、月々のローンがきまり、引っ越しがきまり、次から次へと、人生の重大事項が決定されてゆき、そのなかで、ぼくの仕事だけがきまっていなかった。いくらバブルの絶頂期だといったって、大学中退の二十歳の子連れ若造に、就職先なんかなかった。うちの両親は仕事がきまるまで援助してもいいと言ったし、なんだったらそれに学費もプラスするから大学は出ておけと言ったのに、絵里子の母親がそれはものすごい剣幕で、子を成すだけ成しておいて責任はないのかとつめよるわ、娘を無職の甲斐性なしにくれてやるのかと泣くわ、あげく亡き夫の遺影まで持ってきて、うちの娘は腹ぼてで働かなきゃならないのかと遺影に訴えるわで、とりあえず大急ぎで体裁だけでも仕事に就くことにしたのだった。  それでやむなくぼくは、中学高校大学の名簿を片手に片っ端から知人に電話をかけ、求人情報を乞うた。飯塚はそのときぼくに仕事を世話してくれたのだった。なんていうことはない、それまでにやったアルバイトとかわらない仕事だったが、それでも警備会社の社員になることはできた。  もし、あのとき絵里子が妊娠していなかったらと、ぼくは未だに考えることがある。たぶん大学も卒業していただろうし、ふつうに就職して、ころころ仕事をかえることもなかったんじゃないか。今ごろはそれなりに役つきで、この年で実家から仕送りをもらうなんてことは当然なく、逆に親に仕送りくらいしているだろう。想像していると、だんだんそいつが本当に、どこかで生活しているように思えてくる。避妊に失敗しなかった彼は、高校時代のガールフレンドと再会することもなかったはずだ。都内のどこかですれ違ったって、飯塚麻子という名すら思い出さないだろう。 「見て、おそろいなの」  ギンガムチェックのカバーが掛けられたラブホテルのベッドで、仰向けになっていた飯塚は、左腕をもちあげてぼくの目の前にちらつかせる。とうに気づいていたけれど、 「本当だ」  ぼくは言って、もらったばかりの腕時計をはめる。帰ろう、という合図のつもりなんだけれど、飯塚は素っ裸のままぼくにのしかかってくる。そうしてぼくの右胸に顔を押しつけて、しずかに言う。 「家のことはいいのよ。私は家のことは一度も言ったことないでしょ? 休日に会おうって駄々こねたこともないし、旅行にいきたいってわがまま言ったこともないでしょ? それはいいのよ、でもほかの女はいや。ほかの女はいやなの。わかるでしょ、私の言ってること」 「わかるよ」ぼくは言う。「あなたの言ってることはよくわかるよ。悪かった。ほんと、悪かったと思うよ」 「わかればいいのよ。それでいいのよ」  飯塚は右胸から顔をあげ、さっきと同じ、涙の落ちない湿った目でぼくをじっと見る。 「それじゃあ今日は、帰ろうか」  ぼくは言う。  駅で電車を待つあいだミーナに電話をしようと思っていたのだが、飯塚が車で送ると言いはり、結局、電話はできないまま家の近所まできてしまう。ダンチの前にもバスの停留所はあるが、ふたつ手前のバス停で降ろしてもらい、コンビニエンス・ストアに寄る。用はないんだけれど、寄る。ビールでも買っていくか、と心のなかでつぶやいて店に足を踏み入れる。店内には、ぼくのような年ごろの男性客が数人、やっぱり何を買うでもなくうろついている。発泡酒を三本買い、店を出てすぐミーナのことを思い出し、コートのポケットから携帯電話をとりだすが、ふと、向かいの車線に飯塚の車が止まっているのに気づく。こええな、まったく。携帯電話をさりげなくポケットにすべりこませ、家のある方向に歩きはじめる。背中でちいさくクラクションが鳴らされ、エンジン音がかすかに聞こえた。  コンビニエンス・ストアからダンチまで歩いてほぼ二十分。店も自動販売機もない、街灯だけが続く夜道なのに、まばらに人が歩いている。みんなダンチの住人である。ダンチの住人は、一日じゅうダンチとコンビニエンス・ストアを行き来している。永久運動のように。ぼくもそのひとりだ。  ミーナのことを考える。電話は今日はやめておこう。一日くらい電話がなかったことでミーナはぎゃあぎゃあ騒いだりしない。飯塚みたいに目玉に涙をためたりしないし、説教をはじめたりしない。若いということはすばらしいことだと近ごろ思うようになった。なんていうか、圧倒的に練習不足なんだよな。泣くときは鼻水まで垂らして泣く、感情を逐一言葉にできる語彙《ごい》もなく、ましてや、人に何か教えを施してやろうなどと思いつきもしない。歳を重ねるってことはあらゆることに練習を積むようなものだ。それは結構だけれど、へんなところで熟練してしまって嫌味にもなる。飯塚みたいにさ。だいたい、道徳が恥だとか、なんなんだよ、いったい。こないだは、手に入れるということと、与えられたものを受容するということはちがう、などと言っていたっけ。格言マシンか。  そんなことを考えて外廊下を歩く。鍵は持っているけれどインターホンを押す。 「あーもうパパー、ちょっとー、ごはんいらないときいらないって言ってよう、四人ぶんと、三人ぶんと、同じようでちがうんだから! それに何ー、またビールうー?」  ドアを開けた絵里子が騒々しくまくしたてる。 「パパー、ちょっとおみやげは? 新発売の焼きチョコ買ってくるって言ってたじゃん!」  背後でマナが絵里子にそっくりの声をはりあげている。 「あーあー、もうー、すまないねえー、だめ父で悪かった悪かった」  言いながらドアを閉めかけ、ふと夜空を見上げるとまばらな星がみすぼらしくまたたいていて、ああ、ミーナに会いたいと、ぼくは唐突に思う。  図書館で借りてきた本をベッドに寝転がって読んでいる絵里子は、 「こないだここのローンの残高しらべてみたのよ、そしたらさあ、何ー? まだ三千万近く残ってんのよ、ねえ、この十五年さ、こつこつこつこつ返してる額って、ほとんど利子よ? ねえ、おかしくない、そういうのって?」  本から顔をあげずに言う。 「ほんとだよなあ」  言いながらベッドの右側にぼくはもぐりこむ。腕時計をしたままなのに気づいて、それをはずしベッドサイドに置く。これが新品の時計でなくとも、たとえばトカレフなんかでも絵里子は気づかないだろう。実際彼女は顔をあげずに指をなめてページをめくり、 「介護つきマンションってあるじゃない? 介護って深刻な介護じゃなくて、なんていうの、老人病院と隣接してるようなマンションよ、体《てい》のいい老人ホームみたいなね、ああいうのさあ、保証料がいるらしいんだけど、それがばか高いのよね、最低三百万だもん、しかもそれプラス、月々の賃貸料も必要なの、なんでさあ、こんな山奥の施設なのに都心なみの賃料が必要になんのよねえ?」  独り言のようにつぶやく。 「何、きみのおかあさん? 具合悪いの?」  天井を見上げてぼくは訊く。天井にはところどころ薄茶色いしみがある。今度の誕生日で禁煙七年目になることを思い出す。 「タカちゃんの誕生日さあ、今年どうする?」ふたたび唾で指を湿らせページをめくり絵里子は言う。「私は家で手巻き寿司でいいと思ってたんだけどマナは外食したいんだって、たまには。なんだっけ? ディスカバリー・センターにね、家族亭ってまずい蕎麦屋があったんだけどそこつぶれて、ちょっと洒落た寿司屋ができたんだって、マナが言うのよ、寿司屋っていうより寿司バーっていった感じなんだって、そこいきたいって。外食する? 三万は飛ぶわよ」 「寿司屋、いいんじゃない。三万でもまあ、おれ払ってもいいし」 「コウはさ、どうしたい? って訊いたって、えーべつにー、だし、何食べたい? って訊いても、べつにーなんでもー、だし。何あれ? 反抗期? それにしちゃ覇気《はき》のない反抗よねえ」  絵里子と会話がかみあわなくなったのはここ五年ほどのことだ。コミュニケーションというものは、体と精神とが密接にからみあった何ごとかであるとぼくは思う。五年前、絵里子はぼくと体の関係を持つことを拒否した。その拒絶もいつかとけるのだろうと思っていたが、そのまま五年だ。体を重ねることがなくなってから、会話も重ならなくなった。絵里子は会話したつもりになっているらしいところがそもそも、コミュニケート不全である。 「三万円かあ……ちょっとおおきいけど、ま、しかたないか。私がパートの時間増やせばいいだけの話だしね」 「だからおれ払うって言ってんじゃん」 「あー、目、疲れた。寝よっと。電気消しといてくれる?」  絵里子は言って本をベッドサイドに置き、ふとんにもぐりこむ。部屋はしんとしずまりかえる。ぼくは電気を消さず、天井をじっと見上げている。茶色いしみをなぞって子どもみたいに動物なんかを描いてみる。ベッドの左側からはすぐに寝息が聞こえてくる。眠りに落ちる素早さは漫画の野比のび太並みだと、結婚したばかりのころはよくからかって笑った。  絵里子が体の関係を拒否した最初の原因は、ぼくの浮気だった。飯塚ではなくて、なんといったっけ……そもそも五年前は何をしていたんだっけ……ああそうだ、百合ちゃんという女の子だった、百合ちゃんといえば藤野の会社だ、藤野がつくった人材派遣を主にするという趣旨の、実際はよく意味のわからない有限会社のときだ、ずいぶん馬鹿みたいな浮気だったのに、あれがきっかけだったんだなあ。許す許さない以前にそのきっかけはとうに忘れ去られ、消滅し、ただ、スキンシップのない状態が日常として残った。  馬鹿みたいな浮気、というのはつまり、そのとき一回こっきり、酔ってやってしまっただけだったのだ。百合ちゃんはその会社で電話番をしていた二十代の女の子で、酔うとものすごく淫らになる。二人で飲みにいって、なかば拉致《らち》されるように百合ちゃんのアパートに連れていかれた。ばれた理由も馬鹿みたいだった。酔った百合ちゃんとやって、彼氏彼女の関係になったと信じていたバイトの青年に、そうとは知らずぼくはうっかりその話をしてしまい、怒った彼が絵里子にわざわざばらしたんだった。  そのまま五年。五年間、キスもなし、ペッティングもなし、ぼくに触れられるのをことごとく拒絶しておいて、それで飯塚の存在にも、そのほかの、過去短期間、関係の続いた女の子たちの影ばかりか、気配すら気づかないというのは、なんというか、絵里子のアンバランスさをよく示しているよなあ。その点、飯塚は八割がた気づく。気づいてちくちく言ってくる。今回も、わりに周到に隠していたのにばれた。どうしてなんだか、ぼくにはさっぱりわからない。  枕元のリモコンで電気を消す。暗闇に絵里子のかすかないびきが聞こえる。どこかから、水滴がしたたるようにちいさく話し声がする。マナが部屋でだれかと電話をしているのだろうか、それとも上の階の住人がテレビを見ているのか、どこからもれ聞こえてくるのかはさだかではないが、だれかの切れ目なく言葉を交わす、かぼそくたよりなげな話し声のなか、ぼくは眠りにつく。  会う時間もつくってやれず、電話で話もしてあげられない日が続いているから、せめて、事務所で腰をおちつけてミーナにきちんとメールを書こうと、一時間早く家を出たら、バス停でマナに会った。バス停にはすでに長い列ができていたが、真ん中へんの位置にいたマナは大きく手をふって、自分のうしろにぼくを横入りさせる。 「最近家を出んの、おそいな、前はもっと早かっただろう?」ぼくは訊く。今日はずいぶんあたたかい。バス停の向かいにある塀の向こうに、どぎついピンクの梅の花が咲いている。 「なんで早く出るのやめたか知ってんのに知らないふりしなくたっていいんだよべつに」  マナは早口で言って爪を噛む。なんでだっけ。ぼくは何を知っていて何を知らないふりしているんだっけ。わからないが、曖昧《あいまい》に笑っておく。 「こないだのさー、お寿司、おいしかったね、でもちょっと高かったからママさ、びくついてたよね、パパがビールおかわりするたび、眉ひくひく動いてたもん」マナは屈託なくしゃべる。マナの前にはグレイのスーツを着たぼくと同年代の会社員ふうがおり、ぼくのうしろにはキャリアウーマン然とした中年女がいる。どちらもバスがくるまでの退屈まぎれに、ぼくらの話に耳をすませている。「あそこさ、前はお蕎麦屋さんだったの、あたしママといったことあるけど激まずでさあ、でもね、クラスのさ、木村ハナいんじゃん、ほら、パパがヒッピーくずれって言ってた、あの子、あそこのお蕎麦が大好きだったんだって! ねえ、そういうのって味覚障害っていうんだよねえ?」  マナの背丈はもうぼくの肩ほどもある。そうして、マナ独特のイントネーションとマナ独特の語彙を使いながら、しかし絵里子とまったく同じようなことをしゃべる。マナとこうして二人になるとぼくはだからとまどう。だれと話すように話せばいいのかわからなくなるのだ。あはは、とぼくは無難に笑う。マナはふいに黙りこみ、肩に掛けた鞄をいじっていたがふいに顔をあげ、梅の花のあたりを見据えて、 「パパ、ちゃんとママをあいしてる?」  唐突にそんなことを訊く。一瞬、周囲の空気が濃度をかえる。マナの前のグレイスーツもうしろのキャリア女も、そのうしろの初老の男もスーツの前のギャルふうも、みんなぼくらの話を聞いている。全身でぼくの答えを待っている。 「なんでだよ?」  ぼくは声を落としてマナにささやく。マナは前を見据えたまま、 「ママ、なんかやばいかもよ。あぶなっかしいって言ったらおかしいけど、なんかへんだもん。いたずら電話みたいのも多いんだ最近」一気にしゃべり出す。「ママが帰ってきたのをばっちし見計らうようにしてかかってくること多くてさ、ママ、ふつうだったらごはんのとき言うじゃん、へんな電話多いのよー、やんなっちゃうわねー、って。でも言わないじゃん。ひとりで、無言電話に無言で対応して電話切ってんだよ。絶対おかしいよ」お願いだからマナ、黙るかトーンを落とすかしてくれと、心の底から願ってみるが、彼女には無言のプレッシャーは通用しそうもない。「こないだだって……いいやそれは。でも最近のママは本当にへんだよ。だから訊いたの。愛が足りないと、人は何するかわかんないんだからね。あ、パパ、バスきたよ」  マナの話に聞き入っていた証拠に、ぼくらの前後五人ずつくらいがいっせいにバスのやってくる方向を見る。かすんだような空気のなか、白い車体のバスが見えてくる。  マナの通う高校前でバスは止まり、乗客の三分の一が降りていく。「じゃあね、パパ、たまにはママにおみやげ買ってきなよ」と、なかば叫ぶように言ってマナはバスを降りていった。黒いブレザーにチェックのミニスカートの女子高生、グレイのズボンの男子生徒が、変わった生きものみたいに群れをつくって一定方向へすすんでいく。あっというまにマナはほかの生徒たちにまぎれ、どこにいるのかわからなくなる。  あいしてる、か。あたりまえだとぼくは心のなかでつぶやく。きみたちの出現はまったく予定外だったし、絵里子はキスすら拒むけれど、愛していなければここにいるわけがないじゃないか。大学を辞めて必死で職を捜して、少しでもいい仕事があればそれに飛びついて、恥をしのんで両親からの金を受け取り、浮気しても浮気で終わらせて朝方までには帰宅して、もうずいぶんくたびれてきたダンチの一室を守るなんて地味なこと、愛がなくていったいどうしてできるんだよ?  気がつくとバスは走り出しており、マナがまぎれこんだ群れはずいぶん遠ざかって見えなくなる。  午後五時に仕事を終えて事務所を出て、ぼくはその場に立ちつくす。事務所のあるビルの向かいに、飯塚の車が停まっている。いや、白いシビックなんてどこにでもある、見ないようにして通りすぎるがしかし、クラクションが鳴らされる。ふりむくと、運転席の窓から飯塚が顔を出して手をふっている。 「今日、なんだっけ?」運転席の窓に顔を近づけて訊く。 「何もないわよ。私の仕事が早く終わったからきたの。ねえ、ごはん食べてかない?」  飯塚は都内にアパートを借りて住み、革を扱う貿易会社で働いている。高校卒業以来、ずっと同じ職場だ。九時にはじまり、残業無しで五時ちょうどに終わる事務仕事で、退屈だけれど、安定していていいわと、飯塚はいつも言っていた。安定って経済的にってことじゃないのよ、予定外のことにとまどわなくてすむっていう意味。そう言って笑っていた。ここから車で三時間はかかる都心の会社で安定して働く飯塚が、どうして午後五時にここにいるんだ? 「今日はちょっと、悪いんだけど」  昼すぎに連絡がとれ、夜にミーナと会う約束をとりつけたのだ。しかし飯塚はそれを無視し、助手席のドアを開け、 「早く乗って、ほら、邪魔だから」  いらだった口調で言い、飯塚の味方をするようにうしろのスカイラインがクラクションを鳴らす。しかたなく助手席に乗りこむと、飯塚は車を発進させる。 「今日はほんと、悪いけど、約束があるんだよ」  飯塚はCDをかける。フィッシュマンズが流れだし、飯塚は片手で音量をあげる。 「今日はほんと、春! って感じね、明日からまた冷えこむらしいけど。気持ちいいからさ、オープンテラスのカフェで軽く飲んで、そのあとイタ飯屋とかいく? 私、おごるわよ」 「あのさ、約束があるんだ。ほんと、悪いけど」ぼくはくりかえす。六時に事務所の最寄り駅ロータリーにあるマクドナルド。「あさってなら平気なんだけど今日はちょっと」 「あの子に会うの? なんていったっけ、馬鹿っぽい名前の……」  飯塚は笑顔を浮かべて言う。道路は空《す》いている。道の両脇にちらほらならぶファミリー・レストランやファストフード店の看板に、明かりが灯りはじめる。 「ちがうよ、その話はもう終わっただろ、こないだ」  うんざりしてぼくは言う。飯塚は黙ってハンドルを握っていたが、突然思いきり左折して急ブレーキを踏む。背後からクラクションが響き、シートベルトをしていなかったぼくは頭を上部の手すりにしたたか打ちつけ、続けて前につんのめる。おそるおそる目を開けると、フロントガラスから砂利敷きの地面が見えた。車は鰻《うなぎ》屋の駐車場の、ど真ん中に停まっている。何すんだよ、いきなり、と言おうとして運転席を見ると、ハンドルに突っ伏して飯塚は泣いていた。 「ごはんくらいいいじゃない。ごはん食べるくらい、いいじゃないのっ。私とごはん食べる時間もないっていうのお? ひどいよ、タカシくん、ひどいよう」  空は紫色だ。入り口に出された鰻屋の看板も、かちりと白く明かりが灯る。 「あのさ、何か疑ってるようだけど、ほんと、今日はちょっと、仕事相手と約束してるんだよね、前話したよな? 今度うちの事務所で、CDも扱うって話したろ? 国外の環境音楽なんかをおもにとりあつかってるところがさ、今度アーティストの招聘《しようへい》イベントもはじめるって言ってて、そことちょっとパイプをつないでさ、うちでチケット販売とか? ライブ盤のネット限定販売とか? できないかって、その顔合わせがあるんだよ、今日、マジで」  事務所で見聞きした単語と言いまわしとをすべて駆使し、つなぎあわせてぼくはしゃべる。飯塚はハンドルから顔をあげず、低く嗚咽《おえつ》をもらしている。腕時計を見る。五時三十分。一時間で飯食ってここからタクシー飛ばして駅前ロータリーまで三十分。七時。なんとかなるか。 「一時間くらいならなんとかなるけど……ちょっと都内にいくのは無理だから、このへんでなら……」 「いいの?」  飯塚はハンドルからようやく顔をあげる。今日は涙を流したらしくマスカラが流れてしまっている。黒い筋が数本ずつ、両頬に流れている。 「一時間だけだけど……」  ぼくは言い、窓の外を見る。ついさっきまで紫色だった空がもう紺に浸食されている。  中華のファミリー・レストランに入ってすぐ、ぼくと飯塚は交代でトイレに駆けこむ。飯塚は化粧なおしをするために、ぼくは携帯電話からミーナにメールを打つために。打ち合わせが長引いていて遅れそうだけれど、でも今日はどうしてもどうしても会いたい、と送信すると、ミーナからは一分も待たずに返事がくる。  んもー。ったくしょうがないなー。じゃあ駅ビルで買いものしてるけど、一時間半以上待ったら帰っちゃうからねっ。おいしいものおごってもらうからねっ。  テーブルに並んだ海老チリや八宝菜や水餃子を、飯塚は上機嫌でたいらげていく。ミーナといっしょにおいしいものを食べるために、ぼくは箸をつけるができるだけ口に運ばないようにする。六時をすぎると店内には続々と家族連れがやってくる。ひっきりなしに出入り口の呼び出し音が鳴り、店員が走りまわり、子どもの甲高い声が重なり合って響く。飯塚は層を成していく喧噪《けんそう》にまったくかまわず、始終笑顔で話している。仕事場の同僚の話、雛祭りにまつわる子どものころの記憶、中華料理屋にまつわる思い出。ぼくは笑い、相づちを打ち、ビールをちびりちびりと飲み、テーブルの下で腕時計を盗み見る。  ほとんどの料理を飯塚がたいらげ、並んだ皿に濁った油だけが残ると、 「もういこうか? 時間でしょ?」  飯塚から言って笑いかける。さっき泣いたり駄々をこねたりしたのは腹が減っていただけなのか。だいたい、ああやって騒ぐのは飯塚のキャラクターじゃない。飯塚はものしずかで、どちらかといえばクールで、どうすることが自分の損につながるのかいつだってきちんと知っている。極度に腹が減ったり眠たくなったりすると、短気になるのが玉にきずなのだ。昔からそうだ。 「ねえ」伝票を捜している飯塚に声をかける。「あなたさ、うちに電話とか、してないよね?」  何げなく訊いただけなのに、飯塚は目を見開いてぼくを見る。しまったと思うが遅い。立ち上がりかけていた飯塚はゆるゆると腰を下ろし、目の焦点が微妙にずれ、目玉に水滴がたまりはじめる。 「何、それ?」かすれた声で彼女は言う。  飯塚の捜していた伝票は、ぼくの座っていた椅子の背にかけてある。それを飯塚に渡しながらぼくは笑ってみせる。 「ちがうならいいんだ、ちょっと気になっていろんな人に訊いてるだけなんだ。悪かったね、いこうか」 「何、それ?」  飯塚は動こうとしない。唇がふるえている。見開いた目から、涙が続けざまに落ちる。塗りなおしたばかりのマスカラがまた落ちてしまう。飯塚の頬に再度、黒い涙が流れる。 「だから悪かったって」 「私があんたに迷惑かけようと思って無言電話でもしてるっていうのっ!!」  飯塚は顔をこれ以上ないほど赤くして全身の力をふりしぼり、怒鳴る。店じゅうがしずまりかえる。家族連れも店員たちもみな動きを止めてこちらを見ているのが、ふりかえらずとも画像を見ているようによくわかる。 「じゅっ、じゅっ、十七年よ? あんたとこうして、十七年よ? いやなことも馬鹿みたいなこともむかつくことも全部全部耐えてきた。その私がなんで今ごろあんたんちに無言電話なんかしないといけないのよ!?」  ぼくは両手を伸ばし飯塚の肩をおさえる。 「わかった、悪かった、ちがうんだ、あなたがどうじゃなくて、ちょっとほら、今うちADSLとかいろいろアレで、ちょっと電話の調子悪くて、みんなに訊いてるだけなんだよ、いたずら電話なんて言ってないじゃないか、勘違いだよ」  いったい今日は何人の他人に見られたんだろう。何人の他人にこういう馬鹿げた会話を聞かれたんだろう。何人の他人にぼくという人間の人生を想像されたんだろう。そんなことはいい、今は何時だ? いやまずい。今うつむいて腕時計を見たら最悪の事態になる。飯塚を見ているこのぼくの視界のどこかに、掛け時計はないだろうか。ある。飯塚の右肩の奥、出入り口のわきに時計らしきものがある、しかし視線を動かしてばれないだろうか。また大声を出されないだろうか。 「ごめんなさい」  飯塚がちいさい声で言う。うつむいて、ハンカチをとりだし、頬に押しあてている。秒速で時計を見る。六時五十三分。絶望的だ。 「私、最近少し、おかしいの。ささいなことで自分でもどうしていいかわからないくらい動揺して、自分で自分をコントロールできないの。どうしてこんなことになったのか私にもわからないの。ねえ、どうしてこんなことになっちゃったの?」  飯塚は子どものようにもそもそつぶやいて、黒い涙をぼろぼろと流し続ける。店内には少しずつ喧噪が戻ってくる。家族連れたちはみな、ちらりちらりとぼくの背中に視線を向けながら、何ごともなかったように食事を続けている。十五年前の、七年前の、一年前の飯塚の姿が目の前の女にだぶる。笑ったり、上目遣いでぼくをにらんだり、そうしながらやっぱり笑ってしまう、クールでおだやかな飯塚。 「今何をどうしてほしいとかそういうんじゃないの。私、あなたを独占したいと思ったこともないし。あなたと結婚したいと思ったこともないの。本当なの。だけどときどきたまらなくなることがあるの。あなたに会いたいのに会えないとか、いっしょにいたいのにいられないとか、そういう今までだったらなんでもないことが我慢できなくて、気がへんになりそうになるの」  飯塚はうつむいたまましゃべりつづける。ぼくはしかたなく、ぬるくなったジョッキ半分のビールをすする。窓の外はもう暗く、向かいの店の紫色のネオン看板が、夜空に光を放ちながら点滅している。どうしてこんなことになっちゃったのか、ぼくにもわからないよ、飯塚。 「打ち合わせ、ごめん、もうまにあわないよね?」  飯塚は顔をあげ、にっこりと笑う。頬の黒線のせいで腹話術の人形のように見える。ああ、逃げてえ。今すぐここから逃げだしたい。  平日の動物園は空《す》いている。ペンギンの看板を見つけて、ミーナは駆けだしていく。ぼくはそのうしろ姿を見ながら、ゆっくりと歩く。どこかの小学校の遠足らしく、黄色い帽子をかぶった子どもたちが列になってぼくのわきを通りすぎていく。ミーナの姿は子どもたちの向こうで揺れている。白くふわふわしたスカートとベージュのジャケットが遠ざかり、ふとふりむいて、手をふっている。  ペンギンの柵の前で立ちすくみ、ミーナは真剣に皇帝ペンギンを見ている。十羽ぐらいのペンギンが整列して空を仰ぎ見ている。空は高く、雲ひとつなく晴れわたっている。 「あと五分で餌の時間だってよ」  看板を見て声をかけるがミーナはペンギンに集中している。これで二十六歳なんだから、外見が老《ふ》けないはずだよなあ。ミーナに最初会ったとき、橙に染めた髪を腰までのばしている彼女を見て、十代の子が学校の合間にアルバイトにきているんだと思っていた。それが、てきぱき作業をこなしていくからびっくりした。ミーナは、事務所がコンピュータ業務を依頼したデザイン会社で働く女の子で、今でも一カ月に数回ぼくらの事務所にきて、ホームページを更新したり改良したりしていく。ミーナとぼくのことは、もちろん事務所では極秘事項だ。ミーナはそれを知っていて仲手川がいるときなんかにわざと、「京橋さんて隠れ巨乳マニアっぽくないです?」だの、「あたしは結婚するなら京橋さんみたいな人は絶対にいや」だのと軽口をたたいて、ちらり、とぼくに目配せをしている。  飼育係がやってきて、細長い魚を宙に放る。ペンギンは必死になってそれに食らいつく。投げられる魚は薄水色の空に銀色の筋を描き、生ぐさいにおいが鼻を突く。岩で仕切られた隣の柵ではアシカたちが、皇帝ペンギンたちの餌に気づいて、岩にはりついて飼育係に熱い視線を送っている。 「ねえ、見てたらおなか空いちゃった。あたし焼きそば食べたいなー」  ミーナは餌やりに早くも飽きて、ふりかえってぼくに言う。 「じゃあ売店いこうか、ちょっと戻るけど」  言うとミーナは花が開くような笑みを見せる。ぼくの手に手を絡ませてミーナは歩く。甘いにおいがする。  チンパンジーの檻《おり》の前に売店があり、テーブルと椅子が並んでいる。数人の家族連れがひっそりと食事をしている。ミーナが売店で買いものをしているあいだ、家族連れを見るともなく眺める。ベビーカーのなかの子どもや、おんなじ質問をずっとくりかえしている──どうしてレッサーパンダのうんこくさくないの? どうして? どうして草を食べるとくさくないの? どうして?──四歳ほどの幼児や、茶色く髪を染めたヤンキーみたいな夫婦や。しかし、最近の父親ってのはずいぶん若いんだな。ニットキャップをかぶったあの男や、ジャージ姿のあの男なんか、ぼくにはみんな息子に見える。コウが子どもを連れて歩いているみたいでとまどってしまう。  焼きそばとたこ焼き、焼きおにぎりとフライドポテト、紙コップ入りの生ビールをトレイにのせてミーナが戻ってくる。 「いくら?」訊くと、 「あ、いいよこれ、あたしのおごり。いっただっきまーす」ミーナは言って紙コップを口につけ、空を仰ぎ見るようにして飲む。 「ミーナってさあ、なんかいいよなあ」ぼくは思わず言う。 「いいって、何が?」上唇に白い泡をつけてミーナはぼくを見る。 「なんていうのかさあ、せっぱ詰まってない感じがして、いいよ」 「何それ、ぜんぜんわかんない」大きく見開いた目玉をぐるりとまわして、ミーナは焼きそばを食べはじめる。「なんかこれ、なつかしい味がする。縁日の焼きそばの味! タカぴょん、食べてみ」  女の叫び声がしてふりかえる。紙コップが倒れて、氷もジュースもテーブルいっぱいに広がり、縁からしたたり落ちていて、叫んだ母親はそのままのテンションで子どもを叱りはじめ、父親が無言でテーブルの上を片づけている。子どもは肩を落としてその場に立ちつくし、まくし立てる母親を見上げて歯を食いしばっている。ぼくのように数人がふりかえって、何もそんなに叱らなくたっていいじゃないかという顔つきで母親を眺めており、おそらく、それを全身で感じとっている母親はひっこみがつかなくなってさらに声をはりあげ、数時間前に子どもがしたのであろう失敗まで持ち出して怒りはじめる。子どもは母親をじっと見上げている。彼のちいさな白い耳たぶは赤く染まっているが、泣く気配はない。気の毒に、彼は全身で耐えているのだ。 「今日はあったかいねー、ビールがまじうまいよ」  この広場一帯を支配する母親のパワーに飲みこまれることなく、ミーナはのんびりとそんなことを言ってポテトを口に放りこんでいる。  食事を終えて、昆虫館にいきたいとミーナが言い出し、ぼくらはそこに向かう。入り口付近にある昆虫館まで戻る途中、マレーバクの檻を通りすぎたとき、突然既視感がぼくをおそう。何にも遮《さえぎ》られることのない空と、行き交う人々とベビーカー、鶴の檻、極彩色のオウムの檻、甲高いオウムの鳴き声、入り口の、みず色の鉄柵。 「どうしたの?」  足を止めたぼくをふりかえってミーナが訊く。 「ああ、びっくりした、デジャヴかと思ったんだけど、ちがった、ここ、きたことあったんだった」 「えー、何それ、忘れてたのー? ふつう覚えてるもんだよそーゆーのって」  どうでもいいことのように言い、ミーナはぼくの手をとり、昆虫館に向かって歩き出す。  完璧に忘れていた。実際、ぼくはたいていのことを忘れてすごしている。ガールフレンドが妊娠し、結婚式を挙げ、子どもが生まれたあたりから、ほとんどの記憶が曖昧になっている。だから、ここへきたのがいつだったのか、どうしてくることになったのか、そのとき何を食べたのか、どのような交通手段できたのか、何ひとつ思い出すことができない。  ただ、ここを歩いたことをぼくは一枚の絵画のように記憶しており、その絵画が今、この場所のこの角度に立ってはじめて、思い起こされた。どんより曇った寒い日で、動物園にほとんどひとけはなく、歩いているのなんてぼくらだけだった。マナもコウもまだぜんぜんちっちゃかった。マナは淡いピンク色のオーバーコートを着ていて、コウはみず色のジャンパーを着ていた。マナとコウはぼくらの先をふざけながら歩いていた。マナが背伸びするとコウがしゃがむ、コウが背伸びするとマナがしゃがむ、そんなへんな歩きかたをしていて、どこがおもしろいんだか、ぼくにはまったくわからなかったがとにかく彼らはずっと、そうしてぴょこぴょこ歩いては、子ども特有の、澄んだ他意のない笑い声をあたり一面に響かせていた。コウが転んで、ぼくの少し前を歩いていた絵里子が甲高い声で、ちゃんと歩きなさいよと怒鳴った。マナとコウは手をつないで、しまった、と言いたげな、漫画みたいな表情でぼくらをふりかえり、そうしてまた、背伸びしたりしゃがんだりして歩きはじめた。ぼくは数十メートル離れて彼らのあとを歩いており、突然、泣き出したくなった。なんていうのか、その光景が、完璧に思えたのだった。ぼくらの頭の真上までふくらんだグレイの空と、グレイの空気、ピンク色のマナ、みず色のコウ、マレーバクの檻とオウムたち、あたりに響く子どもの笑い声。何もかもが完璧だった。  もしぼくがいなかったらこの光景はなかったのだと気づいて、足元がゆっくりゆがんでいくような気分になった。こんなことって今まであっただろうか? 似たようなことはあった気がする。たとえば小学校三年のときの水彩画で金賞をもらったときと似ている、それから中学の美術部で、描いた油絵がほとんどすべて高く評価されたときにも。高校ではじめたギターだってそこそこの腕前で、文化祭のライブなんかほぼ完璧に近いステージをこなして、あのときもものすごく興奮した。けれどそれらの、なんとちっぽけなことか。曇り空の下、背伸びしたりしゃがんだりする、ちいさな女の子と男の子、この光景の完璧さにくらべたら、なんとちっぽけでみみっちくてつまらないことか。  そうだ、あのとき絵里子は機嫌が悪かったのだ。コウは体があんまり丈夫じゃなかったから、天気の悪い日に連れ歩くなんてどうかしてると言って、朝からぼくとは目も合わせなかった。毛玉だらけの黒いオーバーを着た不機嫌な絵里子と、十代のとき親が買ってくれたダッフルコートを未だに着ているぼくは、二人そろってださくて、貧乏くさくて、ちっぽけでみじめでみみっちかった。けれどこの光景は、そのぼくらがつくったんだ。ぼくらがいなかったら無だったんだ。ピンク色の女の子もみず色の男の子もマレーバクもこの一瞬の完璧さも。すごくないか、それって。 「見て見て見て見て、この毛虫! すごいねー、きぼ悪いけど、見ちゃうねー、うわー、ね、ね、葉っぱ食べてるよ」  ミーナはぼくのジャケットの袖口をつかみ、毛虫のケースに近づける。人差し指ほどの太さの、緑色に白の点々のいきものが、葉の上で静止している。 「タカぴょん、あっちにさ、蝶が放し飼いになってる温室があるんだって、いってみようよ」  ミーナはぼくの手を引いて、小走りに温室に向かう。ガラスのドアを開けると、もあっと湿気を帯びたなま暖かい空気がぼくらを包む。目の前を、白地に黒い線の走った蝶が飛んでいく。そこは人工的につくられた南国だった。ハイビスカスだのポインセチアだの、チューリップだのポピーだの、あとはぼくが名前も知らない紫や黄の花が咲き乱れ、緑の葉が生い茂り、その合間を無数の蝶がひらひらと舞い飛び、中央には川が流れていた。入り口は一番高い位置にあって、そのすべてが見下ろせる。 「すごーい、天国みたい」ミーナは言って、花と木々に縁取られたスロープをゆっくり降りていく。「ねえねえ、人ってきっと死んだらこういうところにいくんだよね?」  絡まりあいながらのびる細い木の枝をよく見てみると、茶や黒の蝶がとまって、じっとしている。ちいさな花弁にストロー状の口吻をつっこんで蜜を吸っている蝶もいる。一区画、草原を模してつくられたスペースがあり、生い茂る猫草を注視すると、バッタが幾匹もとまっている。幼いきょうだいが二人息をひそめて、蜜を吸う原色の蝶に近づいていく。 「あたしね、専門のときの授業でね、神さまのつくったものが一番うつくしいんだって言う先生がいてね」ミーナは飛び交う白い蝶を目で追いながらそんなことを言い出す。「あれ、先生がそう言ったのか、だれか、死んだ画家がそう言ったのか、忘れちゃったけど、神さまのつくったものが一番うつくしくて、すべての芸術家は、みんな、競ってその真似をしてるだけなんだって言ってて、あたし、神さまとかわかんないしふーんって思ってたけど」  あの日はここへもきたのだろうか。こんな施設はなかったような気もするし、この花の咲き乱れる異界のような場所に、ちいさなピンクとみず色のコートがあらわれたり隠れたりしていたような気もする。この世のものではない、不可思議でとくべつないきものみたいに。 「そんでその先生はね、あ、先生か、どっかの画家か忘れたけど、神さまにくらべたら人間はみんな糞つまんなくて平凡で、所詮《しよせん》真似しかできない、でも、その平凡な自分にできる最高にうつくしいものをつくりたいとかって言うの。どうして覚えてるかっていったらその先生、それ言うときいっつも感極まって泣くのよ、だからなんだけど、でもさ、あたしこういうきれいなものとか場所とか見ると、すぐディズニーみたいって思うのね、ディズニーって、ディズニー映画ね、ってことはさあ、あたしにとって、ディズニー映画って神さまみたいなもんなのかな?」  ミーナはぼくが答えようが答えまいがひとりで話している。ぼくは必死に、十数年前のあの冬の日のことを思い出そうとしてみるけれど、どうもうまくいかない。あの、出入り口に向かう絵画のようなひとこましか思い出せない。昆虫館もペンギンも、その日の昼飯も思い出せない。 「何考えてんの? なんかタカぴょんさっきからしずかだけど」  帰り道のモノレールのなかでミーナはぼくをのぞきこんで訊く。モノレールはなぜだか混んでいた。乗っているのはみんな二十歳くらいの若い男女で、一様に同じ赤茶色に髪を染めている。大学か専門学校が近くにあるのかもしれない。 「あの動物園きたことあるって言ったろ?」ドアに押しつけられながら、ぴったりくっついてぼくを見上げるミーナに、声を抑えて話す。「前後がまったく思い出せないんだけど、子どもたち連れてきたことだけ思い出してさ」飯塚にはこんな話はできない。以前ならできたけれど、ここ最近、子どもとか妻とか家庭とか一言でも言おうものなら逆上して泣き出す。腫れ物にさわるような会話しかできない。なんでも口に出せる、解放感に似た気軽さを、ぼくはじつにひさしぶりに味わっている。「あのときやつら、マジでかわいくてね、今はもう生意気ばっかりだし、本気でむかつくこと言ったりするんだけど、そのときはさ、なんか、着ぶくれて、きゃっきゃっ笑ってさ、なんていうのかな、すげえよかったんだ」ミーナは要らぬ深読みなんかしない。ぼくの言った言葉をぼくの言ったとおりに聞き、納得し、べつの文脈から矛盾や被害妄想を持ち出してきて騒ぎ立てることはない。 「ふふふ」ミーナはぼくの胸のあたりに顔を押しつけて笑う。「すげえよかったんだ?」 「うん、感じいいっていうか、うまく言えないけど、なんか全部うまくいくような感じ。うちの奥さんとか、そんときもなんだかぶりぶり怒っててさ。でもなんか、よかったんだ、へんだけど」 「タカぴょんてさあ、ほんと、思ったことなんでもそのまま口にするよねえ」  ミーナは言って、もう一度ぼくを見上げ、また胸に顔を押しあてて笑う。モノレールのなかは若い男女のくぐもった話し声で満ちていて、ときおりどこかで馬鹿笑いが起きる。目線の真下にあるミーナの一直線の髪の分け目に、そっと唇を押しあててみる。  午後六時まで事務所のあるビルの前で待っていても出てこず、そこから会社に電話をかけて在不在をたしかめ、得意先まわりで一日不在と言われ、しかしどこかきな臭く思え、得意先まわりにしてもそのほかの私用にしても、バスではなく電車だろう、ならば、絶対にこの駅を利用するだろうと思って、七時前から待っていたのだと、順を追って、ていねいに、大きな声で、飯塚が説明してくれても、いったい何が起きているんだか、ぼくには理解できなかった。ミーナとつないでいた手を離すことも思いつかなかった。  仕事を終えて電車に乗りこむのであろう幾人かと、ここへ帰ってきて自宅へ向かうのであろう幾人かが、駅ビル二階にある改札へ続く階段の下、モロ修羅場といった風情のぼくら三人を、興味を隠そうともしない粘っこい視線で見送りながら通りすぎていく。 「あんた、会社さぼって、何やってんの? あんた、いったいいくつなの?」  飯塚は女教師が子どもを諭《さと》すように、文節を区切ってはきはきと発語する。このあいだみたいに奇声を発したり泣きわめいたりする兆候がないことに、とりあえずぼくは安心している。しかし、この場をどうしたらいいものか。 「なんでわかんないの? 私ほどあんたのことを考えてる人間は、ほかにいないんだよ? 断言できるけど、あんたの奥さんだって、あんたの両親だって、この、小便臭い馬鹿女だって、あんたのことを真剣に考えたりしてないよ、今なの、あんたがね、ちゃんとするのは、今が最後の機会なの、なんでわかんないの? このまま人間をなめきって、女を見下して、どうにかなるって全部人に決定をゆだねて、くずみたいになって、あんたそれでいいわけ?」  飯塚はせりふを読みあげるみたいに言う。この場をどうしたらいいか考えなくてはならないのに、何か考えようとするそばから頭のなかに白い、ざらついた靄《もや》がかかる。それで、今こちらを見ながら階段を上がっていったベージュのコートの男、アルバイトの奥村くんじゃないかとか、あのブレザーの制服の男の子、マナのボーイフレンドじゃなかったかとか、そんなことばかり、思い浮かんでは消滅していく。 「こんなこと、ずっと続けられるわけないでしょ? ねえ、本当に私の言ってること、わかんないの? みんな、見て見ぬふりを続けられるわけないでしょ? いつかはちゃんとしなきゃいけないんだよ、いつかは、ちゃんと、大人になんなきゃいけないの、遠足は終わるし、パーティは終わるし、そしたら生活が待ってんの」  そういえばてのひらの先にミーナがいる。ミーナは今、どんな顔で飯塚のことを見ているんだろう。確かめたいけれど、飯塚がぼくから目をそらさないから、ぼくも視線を動かすことができない。ミーナの手は、乾いて、あたたかくて、ちいさい。どうにかしなくちゃいけないのだが、このてのひらを離したくない。 「わかれてって言ってるんじゃないよ、ちゃんとしてほしいの、あなたにちゃんとしてほしいの、チョロ助みたいにへろへろしててほしくないの、私や、奥さんや、子どもや、そういう身近な人をなめきったことをするのは、もうやめてほしいの」  飯塚はそこまで一気に言うと言葉を捜すように唇を動かしていたが、彼女の口から出てくる言葉はもうない。放心したような表情でぼくをしばらく見据え、唐突にしゃがみこんで膝に顔を埋めて飯塚はちいさく嗚咽をはじめる。目の前に立っていた飯塚がそうしてしゃがみこんでしまうと、いやでもこちらを眺めて歩いていく人々と目が合う。気をゆるめると頭のなかに広がりはじめる白い靄をふりはらい、考えるべき何ごとかを捜す。  ──エッチがしたい。そう思っていることに気づいて愕然とする。しかし、ぼくは確実に、タイトスカートのまましゃがみこんで、声を抑えて泣きじゃくる飯塚に欲情しており、下半身のあたりがもったりしてくる。それはないだろう、と自分でも思う。この非常事態において、考えることが、やりてえ、だなんて、それじゃ高校生のまんまじゃないか。もう少しまともなことを考えよう。ほとんどすべての通行人がしゃがみこむ飯塚をおもしろがるように眺めていくし、そうだ、ミーナ、ミーナがいる。ぼくはゆっくりミーナを見おろす。逃げよう、と、そうする意志はないのにぼくの口は動いたらしい。ミーナは真剣な顔でひとつうなずくと、ぼくの手を強く握ってタクシー乗り場に走り出す。ぼくも走る。  駅前のタクシー乗り場に並んでいる人はいなかった。ぼくらを待ちかまえているように扉を開いていた一台に乗りこむ。ぼくの隣でミーナがいやにのんびりと、自分の住所を告げている。近くてすみません、などとつけくわえている。  タクシーが走り出し、ぼくはふりかえって飯塚を捜す。行き交《か》う人の混雑のなか、そこだけぽっかりと次元がちがうみたいに空間が開いていて、ちいさな女の子のようにしゃがみこんだままの飯塚が見える。 「すごかったね」ミーナが言い、ぼくは彼女を見る。ぼくらはまだ手をつないでいる。 「驚いた、死ぬかと思った」ぼくは思わずつぶやく。つぶやくと、全部ひとごとみたいに感じられた。 「まじこわかったー」ミーナは笑い出す。 「こわかったのはおれだぜえ」笑ってみると、よほど緊張していたらしく、笑いを止めることができない。 「チョロ助、だって」ミーナは言って、ぼくの肩に鼻先を押しつけて笑う。あれはだれかとか、どういうことかとか、ミーナはけっして訊かない。余裕があるのだ。自信があるのだ。「ひょっとして、チョロQ、って言いたかったんじゃないかな」ものごとを深く突き詰めて考えないのだ。そうしたって事態が好転するわけじゃないと、知っているくらいにはミーナは賢い。  ミーナのちいさなアパートで、靴を脱ぐのももどかしくぼくはミーナの唇を吸い、首筋をなめ、右手でおっぱいを揉み左手でスカートをまくりあげていく。自分が何に欲情しているのかもうわからない。どうだっていい。ミーナはやわらかくて、あたたかく、甘いにおいがする。 「やだ、待って」言いながら、しかしけっしてぼくの手を拒まずに、くすくす笑いながらミーナはその場に倒れこむ。ぼくの家からバスを二本乗りついでたどり着くこのちいさなアパートは、玄関と台所がいっしょになっている。台所の向こうは六畳の和室があるのみで、ピンク色のカーテンがおもての闇を遮っている。薄暗い台所で、ぼくはミーナのブラウスを脱がせ、パンツを脱がせ、体じゅうを夢中でまさぐり、なめ、噛み、その下で、ミーナはまだくすくす笑っている。 「きっとそうだよ、チョロQって言いたかったんだよ」ぼくにおっぱいをなめまわされながらミーナはそんなことを言っている。「チョロ助じゃへんだもん、だって」短く笑ってあえぎ声をあげ、「そうだよ、チョロQだよ」あえぎながら、幾度もその、ぜんまいで動く子どものおもちゃの名をつぶやく。  携帯電話を買いかえ、会社の電話に飯塚の番号を登録し、その番号からかかってきた場合はちがう呼び出し音になるように設定し、ダンチ全体にケーブル会社が宣伝ちらしを入れていったのを口実に、NTTからケーブル会社へと電話回線をかえてあたらしい番号をもらい、仕事場から家への通勤路を無理矢理遠まわりに変更し、そのような煩雑《はんざつ》な雑事をひとりで黙々とこなしたのは、飯塚対策だった。ぼくの平凡だけれどおだやかな日々を脅かすのは、ほかのだれでもなく飯塚で、こんなぼくでもそれなりに大事に思っている家庭を、ぶちこわすのは飯塚以外にあり得なかった。だから、ひさしぶりに夕食前に帰宅したその日、なぜミーナが居間にいるのか、まったく理解できなかった。理解の範疇《はんちゆう》を超えていた。  そこにいるはずのない人間がいると、時間と空間が微妙にずれてしまった感覚をじつに生々しく抱くものだと、へんな具合に冷めている頭のどこか一箇所で、そんなことを思っていた。今が三月の終わりで、ここが自分の家で、自分がだれであるのか、すべてずれて絡まりあって気色悪いマーブル模様を描いたのち、ひとつひとつ、絶望的に思い出されていく。  コウとミーナはソファに座っている。マナは食卓について雑誌をめくっている。絵里子が台所から顔を出してぼくがこの家のあるじであることをミーナに伝えている。初対面であるふりをしてぼくは頭を下げる。ああ、ちがう、時間と空間がねじれるなんて大層な話じゃないや。まじることのない現実がまじりあったことによって生じる単純な違和感を、ぼくは感じているんだ。つまり、ぼくは、まじることがないと思っていたわけだ、父親である自分と、だれかの恋人である自分とが。いや待てよ。まじることのない現実がまじることによって生じる違和感て、マナやコウ、この家そのものでもあるんじゃないのか。頭の冷めた一箇所は、めまぐるしく何かを必死で分析しようとしている。分析し、説明し、解答を出そうとし、そのまま混乱し思考不能に陥る。 「こちらねー、北野三奈さん。コウの家庭教師をしてくださることになって」家族以外の人間がいるときに絵里子がきまって出す、少しトーンの高い間延びした声が遠くで聞こえる。「来週からいらしてくれることになったんだけど、もうこんな時間だからごはんを食べていってもらおうと思って。ねえ、マナかパパさあ、どっちでもいいんだけど、ごはんにするから手伝ってよ、あ、マナはテーブルを拭いて」 「あたし、いいです、やっぱり今日は帰ります」  ミーナはぼくを見ずに、台所にいる絵里子に声をかけている。家庭教師? ミーナに何が教えられるんだ? 「いいのよー、たいしたものじゃないんだし、四人だって五人だって、いっしょなんだから。あ、じゃあコウさあ、コンビニまで自転車走らせてビール買ってきてよ、北野先生、そこ座ってテレビでも見てて、すぐできるからー!」  奇妙に興奮した絵里子の声が台所から聞こえてくる。まじかよー、低く言いながらコウは自転車の鍵を持って部屋を出ていく。カウンターから布巾を受け取り、マナはテーブルを拭いている。そのように視線を動かしているとミーナと目があう。ミーナは無表情のままぼくを見ている。ぼくが口を開きかけると、ふいと目をそらし、ソファに座り手元にあったリモコンでチャンネルをかえている。なんなんだ、この女は? こんなところで、いったい何をしているんだ? うちのリモコンを、なんで自分のものみたいにいじくっているんだ? 「ちょっとー、タカちゃん、ぼうっとしてないで手伝って! お鍋を火にかけてあったまったらお皿に移してよー」  ぼくは遠隔操作されるロボットみたいに台所へ移動する。 「ねえねえ先生、先生のつかってるファンデってどこの?」  ミーナをちらちら見ていたマナが布巾を持ったまま彼女にそろそろと近寄っていく。 「え、これね、イプサの、春のファンデセットの」「えーまじ? あたしそれほしくってー、ママにたのんだのにママケチだからさー」「ふだんどこで買うの?」「ディスカバのー、あ、知ってるディスカバ? あそこにレッドアースってあるんですよ、超安いの、口紅とか、三本千円。じゃ先生、この爪、人にやってもらってんの?」「ちがうよー、自分で描いたんだよ、今度やったげる」「うっそ、まーじ?」  マナはソファに立て膝で座り、犬みたいにミーナに近寄って早口で話している。 「ごめんねパパ、急に。コウがさあ、いきなり連れて帰ってきたのよ。ディスカバかどっかで貼り紙見て、自分で電話したんだって。たしかにあの子英語ひどいし、コウね、英語ともうひとつ、コンピュータを習いたいんだって。私はよくわかんないんだけど今度の四月から、架空の商店をね、インターネット上ではじめたりする授業があって、そういうのを教わりたいんだって。あの人ね、若く見えるけど、プロ並みらしいわよ、そういうの」  シチューの入った鍋をかき混ぜるぼくに、声を落として絵里子は説明する。どろりとした茶色の液体に、赤い人参や白いじゃが芋が浮かんでは消える。 「急だったし、どうしようかと思ったんだけどほら、コウ、自分でなんかやりたいなんて言うの、はじめてじゃない? 最近ずっと、えーべつにー、だったし。月謝もそんなに高くないしさあ。コウは受験がないっていっても、高校あがるとき、それなりに成績は関係あるらしいし……」  ぼくはカウンター越しに、ソファでくっついてしゃべるミーナとマナを見る。同級生みたいだ。女子校の教室にしのびこんだみたいな罪悪感すら感じる。  この家のなかからかくしごとをできるかぎりなくそう、という、この家の唯一のきまりごとを突然思い出す。そんなこと、すっかり忘れていた。忘れていたということすら忘れていた。ミーナとぼくの関係も今日、ここに暴き出されるのだろうか。牛肉のシチューをみんなですする、明るい家庭の晩飯の席で。 「がひー、マジ汗かいた! いつものでいいんでしょ、ママ」  どれほどの速度で自転車を飛ばしてきたのかコウが勢いよく帰ってきて、 「やだもうー、発泡酒じゃなくてビールでいいのよ、お客さまなんだから! やだー先生、すいませんねえ、安酒飲ませちゃう。じゃマナ、グラス持ってきて、私も飲むから三つね」  絵里子が指示し、ぼくらは席に着く。ミーナは誕生日席に座らされる。ここにいるのが飯塚ならまだ理解できる。なんだってよりによってミーナなんだ。なんなんだこの女。すごかったね、と、タクシーのなかでぼくの肩に鼻を押しつけて飯塚をあざ笑っていたじゃないか。真っ裸のまま台所でダイエットペプシを飲み、あんなおばさんにはなりたくないとつぶやいていたじゃないか。なんでここで、絵里子がぼくのために冷凍庫で冷やしているジョッキでビールを飲んでいるんだ? 「じゃああらためて、食べながら自己紹介しましょうか、先生、どうぞ」  絵里子が言い、上唇に白い泡をつけてミーナがにっこり笑う。  ミーナが口を開いたそのとき、ぼくはふとある錯覚を抱く。避妊に失敗しなかった京橋貴史が、ぼくらをじっと見ているという錯覚だ。  もうひとりの京橋貴史という人間を、まるで親友のように、すみずみまでぼくは知っている。大学二年の春休み、アルバイトを無事に終えたぼくは、バイト先のガールフレンドとも会わなくなり、予定どおりバイト代をすべてつぎこんでオートバイを買った。その年の夏はそれで北海道を一周したのだ。大学三年時にはテレビの制作会社に就職が決まっていた。就職後も休みのたびに、テントと寝袋をバイクに積んで日本じゅうをまわり、ひとりしずかにスケッチブックを開く。四十を間近にした今も独身のまま、同棲もせず、ガールフレンドと自立したつきあいを続けている。望みどおりの暮らしを手に入れたけれど、なぜかときおり、べたべたのホームドラマを無性に見たくなる。テレビをつける。その四角い箱のなかでは、いつもおんなじ家族が平凡な毎日を演じている。今日はどうやら、父親の浮気相手が彼の家にのりこんできたらしい。おもしろいじゃないか。ワインでも飲みながら、今日はじっくりこの間抜けな家族につきあってやるか。 「北野三奈です。ミーナって呼ばれてます。えーと、来月から、コウくんに、英語と、コンピュータのことを少し教えることになりました。あたしに教えられることはそれくらいかと思うんですが、コウくんやマナちゃんより、少しは先輩なので、なんでも相談してください。悪いことはできるだけ教えないように注意します、ふふふ」  ミーナは言い、ぼくをちらりと見て席に着く。ブラウン管の向こうの京橋貴史のためにこの場を一生懸命演じてやっているという強烈な錯覚は、ミーナの声できれいに消滅する。京橋貴史はここにしかいない。ワインなんか飲んでないし、バイクだって持っていない。頭のなかにだんだん、白くざらついた靄がたちこめはじめ、チョロQ、と意味のないその一言が、ぽとりとこぼれ落ちる。ぼくの手に、あのちいさなプラスチックの感触がなつかしくよみがえる。だれよりも速く走らせるために、車体に穴を空け、結局そのためにぼくの車はスピンをくりかえし、コースを大きくはずれていたっけ。  絵里子もマナもコウも笑っている。淡くかすんだ紺色の、春の薄闇が覆う窓ガラスに、ぼくらの姿が映っている。逃げてえ。心のなかで相変わらずそうつぶやいてみるのだけれど、次の瞬間、はじめて疑問を抱く。どこへ? 逃げてえ、その先がこのちいさな家でなかったら、ぼくはどこへ逃げ帰りたいのだろう? 「じゃあ、次はパパ、パパおねがいしまーす」  絵里子の声が聞こえ、ひょろりと痩せた男がぎこちない笑みをはりつけて立ち上がるのが、窓ガラスに映るのをぼくは見ている。 [#改ページ]    空 中 庭 園  もし完全犯罪を思いついたら小説を書こう、なんて思ったのは九歳のときだ。その数年後には、万が一そんなものを思いついたら即実行するだろうと思うようになった。結局思いつかなかったから、私は小説家にも犯罪者にもならず、ここにいる。 「結婚した年の母の日にはあの女きたんだよ、ここに。おにいちゃんは忙しくてこられないからっつって、ミニバラの鉢とさ、なんだかもんのすごいちっちゃいケーキ持ってさ。なんてこたないよ、自分ちの自慢ばっかして、なんだっけ? 自分ちは? 母の日とか? 父の日とか? そういうたんびに別荘いって? トランプして遊ぶんだとかなんだとかって、あきれちゃうよ、まわりに相手にされないもんだからこんなとこまできて婆さん相手に自慢大会」  居間はずいぶん散らかっている。埃《ほこり》も積もっていないし黒ずんでいるところもないから汚れているわけではない。けれど、折り畳んで重ねられた紙袋や、菓子の空き箱や、表紙の折れた週刊誌がいたるところに放置されており、そのせいで部屋はひどく乱雑に見え、しかし人の気配があまりしない家だから、その乱雑さは廃墟に似ていなくもない。 「別荘っていやあ買ったんだってよ、別荘。どこだったっけ、伊豆だか日光だか……戸建てじゃなくてさ、マンションね。週末に両親連れていってやれるようにさ。かずえちゃん、親孝行だもんねえ。それがさあ、旦那のほうの両親が入り浸りで、谷野さん自身、一回も連れてってもらったことないんだってよ、買ったの旦那じゃなくてかずえちゃんなのにさあ」  母が黙るのは煎餅《せんべい》を口に放りこみ咀嚼《そしやく》しているときだけで、飲みこむとすぐ、次の話題がはじまる。さっきの続きで、兄の妻がテーマの数年前の話だと思って聞いていたら、いつのまにか、近所の人の現在の話になっている。この人はまったくかわらない。思ったことを思った瞬間に思ったそのままに口に出す。わかりやすく順序だてたり、言いにくいことだから遠慮したり、聞かせてはいけないことだから言わずにいたり、そういうフィルターの役目を果たす脳味噌の部分が欠落しているのだ。たぶん、生まれつき。  母の背後には黒光りする仏壇がある。そこに活けられた洋ギクの黄色が、見知らぬ国の食べものみたいに毒々しい。腐りかけの果物を思わせる、べたついたにおいがかすかに漂っているが、出どころがわからない。 「あんたんとこもさあ、別荘くらい買えるようになるといいんだけどねえ。でもまあ、あの駄目男じゃ無理だよねえ、おにいちゃんとこは子どもがいないからいいけどさ、マナとコウ、最近夏休みだってどこも連れてってもらってないんだろ? おにいちゃんっていやあ、もうずいぶん会ってないけど、きっとあの女の差し金だね、ここにこられないように仕組んでるにちがいないよ」  母が煎餅一袋をほぼ食べ終えようとしていることに気づく。風邪で発熱したから買いものにいけないと、しつこくぼやかれたからきたというのに、煎餅の一気《イツキ》食いができるならたいしたことないのだろう。縁側からさしこむ陽の光は金色で、時計を見上げればもう五時近い。ああ、また帰宅が遅れてしまう。 「私もうそろそろいくね。たのまれたものは冷蔵庫に入れておいたからね」 「あんた、ちょっと待って、これ、これ持ってってよ、マナの誕生日にさあ、あたしなんにもしてやれなかったから、これでおいしいもんでも食べさせてやってよ。あんたたち、きちんとやってんの? タカシさんの仕事、ちゃんと続いてんの? あの男もさあ、もう四十でしょ? いつまでもボン気分でちゃらついてないで、あんたがパートなんかしなくてもいいようにしてくれないもんかねえ」  玄関に向かう私にぴったりとはりつき、四角くたたんだ和紙をふりかざして母は言いつのる。靴箱に手をついて靴に踵《かかと》を押しこんでいると、靴箱ががたついて上にのっていた小鉢が落ちてしまう。五円玉が玄関いっぱいに広がって私をいらだたせる。 「なんなのよー、こんなとこに小銭ためとかないでよー!」 「やあだもう、あんた昔から動きが乱暴なのよ、あーもう、ちゃんと拾って!」母は裸足で玄関におりてきて、背をまるめ散らばった五円玉を拾う。「サイメイ先生がさあ、あんた知ってる? サイメイ先生、風水の。サイメイ先生が五円玉をね、藍塗りの小鉢に盛って玄関先においとくと金運が」 「はいじゃあこれ、五円玉、ここにおいとくからね、じゃあ私いくから」  私はあたふたと玄関を出る。五円玉を拾っていた母も一緒に玄関を出てきて、ドアの前で手をふる。 「マナとコウによろしくね! うちにおいでって、言っといてよちゃんと! 気をつけるんだよ! お祝いのお金、馬鹿亭主に見つかんないようにね! とられちゃうからさ! あんたたち三人で、なんか食べんだよ!」  すっとんきょうな大声から逃れるように、バス停に向かって私は走る。ちょうどタイミングよくすべりこんできたバスに乗りこみ、一番うしろの座席に座る。そっとふりむくと、母はまだ玄関の前に立っていて、何か大きく口を動かしながら手をふり続けている。  夕暮れの光が田畑を金色に染め上げている。ぽつりぽつりと点在する商店は、時間においてけぼりを食らったように古ぼけていて、入り口のガラス戸も一様に埃をかぶっており、開《あ》いているのか閉まっているのかもよくわからない。田畑沿いの道を歩いている人の姿もあんまりない。ぽとぽとと歩いていた野良犬が、立ち止まり片足をあげ、火の見|櫓《やぐら》に小便をかけている。ゆっくりと息を吐《つ》く。たすかったと心のうちでつぶやいている。それはもう癖のようなもので、このバスに乗りこむと意識しなくともあぶくみたいに胸にわきあがる。ああ、たすかった。  バスで十五分、電車で十分、そこからまたバスで十分。時間にすれば、私の生家と私が今住んでいるマンションは三十分程度しか離れていないが、雰囲気がまるでちがう。駅からマンションに向かうバスに乗ると、現代へ戻ってきたと体で実感できてほっとする。私が家族と住む町が、現代の時間の流れにきちんとのっかっているのは、ディスカバリー・センターのおかげだとつくづく思う。そうして、私を私の抱える殺意から救ってくれたのは、時間でもなく家族でもなく、その郊外型ショッピング・センターだったと、今でも私は思っている。  ディスカバリー・センターのオープンというのは、私にとって黒船来航みたいなものだ。それまでの土日祝日、私たちはことあるごとに母親に呼びつけられて彼女の家までいき、そこで食事をしていた。家にこいという母からの電話を無視すると、母自身がやってきた。マナが小学校にあがってからは、母が我が家へ押しかけてくることのほうが多くなっていた。押しかけられた私たちに逃げ場はなく、結局、毎週末のように母は私の家で食事をしていた。  ディスカバリー・センターができて、母はめったに私の家にこなくなった。人が多いし、いつも混雑して、せわしない、バス便もなんだか数が増えて混乱する、人に訊いても無視される、お得意の文句を並べたてて母は家に閉じこもりがちになった。そうなると殺意はだいぶ萎《な》えた。母もずいぶん歳をとったのだと実感した。わざわざ完全犯罪なんか考えなくとも、時間があの女を勝手に葬り去ってくれるだろうと思えるようになった。なかなかくたばる気配はないけれど。  電車をおりて、駅ビルのスーパーへ駆けこみ、大勢の女たちと先を争うようにして野菜や肉を買う。献立を考えている暇はない。ほうれん草とトマトと牛蒡《ごぼう》、豚肉と鶏肉、それくらい買っておけばなんとかなる。はやく、はやく、はやくしなくちゃマナとコウが帰ってくる。彼らがそれぞれの鍵で無人の家に足を踏み入れるような家庭には、それが日常と化すような家庭には絶対にしたくない。  バスをおりるなり走り、私たちの部屋がある棟の前で立ち止まり、こちらに向いた窓を眺めて息を整える。並んだガラス戸に日の暮れはじめた空が映っている。二階のまんなかの部屋、三階の右の角、五階の右から二軒目は、あいかわらず空き家のようだ。人は住んでいる。住んでいるが、内部がいつも真っ暗で、カーテンや植物やスタンドライトや洗濯ものといった、人の気配を感じさせるものがいっさい見えない。四階の右から四番目、一階の左から二番目、五階のうちの隣、これらのベランダにはやはりいつもどおり、洗濯ものも布団も干しっ放しになっている。これからとりこんだって冷たくなっているだろうに。視線をずらし、五階の左端を見る。鉄柵にくくりつけたウォールポットには赤と白のベゴニアが咲き、フラワーポールに並べた鉢に緋赤《ひあか》のゼラニウム、やわらかい藍色のロベリアがまじりあって花をつけている。物干しのフックに吊り下げたヒメカズラは順調に葉を垂らし、床に並べたメジュームが淡い紫の花をつけているのがここからでもわかる。私はひとつうなずいて、小走りに正面玄関へと向かう。  家に着いたのは五時五十分、マナはまだ帰っていなかったが、コウの運動靴は玄関に投げ出されている。見慣れないピンヒールがその隣にそろえてあるから、今日は家庭教師の日らしい。コウちゃん、ごめん遅くなった、と、コウの部屋のドアを開けると北野先生とコウが並んで机に向かっていた。ふりむいたふたりの顔がさっと赤くなり、どことなくもじもじしている。 「ママ、ドア開けるときノックしてって言ったじゃない」  野太い声で脅すようにコウが言い、 「ごめん」  私はあやまって台所へ避難する。なんなんだ。北野先生、どことなくエロくさいけれど、十四歳の男の子なんか、まさか相手にしないよな、などと思いながら冷蔵庫をのぞく。人参とレタス、ピーマンにセロリがある。鶏肉のトマト煮と牛蒡のサラダ、レタスと卵のスープでいいか。北野先生は今日も夕飯をうちで食べていくつもりなんだろうか。コウがそうしたいと言うから家庭教師なんかつけたけれど、やっぱり、他人を家にあげるべきじゃなかったのかもしれない。北野先生がきてからというもの、コウはへんなことばかり言うようになった気がする。  米をといでいると電話が鳴る。マナかと思ったがちがった。母だった。 「あんたさあ、買ってきてもらってこんなこと言うの悪いけど、もうちょっと品物選んで買いものしなさいよ、ブロッコリー、これ、黴《か》びてんじゃないのさ、この白いの、埃じゃなくて黴《かび》だよ黴。それにこの焼きそば、賞味期限あさってだよ? あんた、あさってまでに三袋も焼きそば食べられるわけないだろ、あとねあんた納豆、納豆食べなさい。納豆は賞味期限なんか関係ないの。テレビで言ってたからこれはほんとだよ、毎食納豆食べてりゃダイエットにもなるって」 「あ、ごめん、ちょっと宅配便きたからまたあとで」  私は電話を切り、人の気配にふりむくとコウと北野先生が立っていて、思わず体をかたくする。 「宅配便なんてきてないよ」コウが言い、 「じゃああたし、今日はこれで失礼します」北野先生が頭を下げる。 「あら、北野先生ごはん食べてかないの? 今日はパパ遅いと思うし、食べていったら?」私は思ってもいないことを言っている。 「そんな、いつもいつもご馳走になってばかりじゃ悪いですから。今日はほんと、これで失礼します。コウくん、またね。マナちゃんによろしく」  北野先生は言って玄関に向かう。コウがあとに続き、玄関先で何かぼそぼそ話したあとで、戸の閉まる音が聞こえる。そのまま部屋に戻ろうとするコウを私は呼び止める。 「コウ、ちょっとレタスちぎって」 「げー、まじすか」  コウは文句は言うが言われたことはきちんとやる。流しに立って、レタスの葉をちぎり、ざるにいれていく。嗅ぎ慣れない甘い匂いがうっすらと部屋に漂っている。北野先生の香水だ。ずいぶんしつこい甘ったるいにおいで、私はふいに、母の座っている居間を思い浮かべる。縁側の窓から障子をとおして光がさしこむのに、何か暗い印象のあの和室。決して絶えることのない仏壇の花だけが、妙になまめかしく視線をとらえる。最近の母は、食べるのも眠るのもテレビを見るのもあの部屋でおこなうようになった。私はその光景を消し去るように首をふり換気扇をまわす。 「どう、北野先生」コウの横で牛蒡のささがきをしながら訊く。 「ああ、おもしろいよ。英語もずいぶんわかるようになってきた。っていうか、自分が何がだめだかわかってきた」 「へえ、何がだめなの」 「思いこみのはげしいところかな」コウは一枚ずつていねいにレタスをちぎって言う。 「『ボブはメアリーに、この町に五年間住んでいたことがあると答えた』って例文があったとすんじゃん。文をぱっと見たときに、五年っていうのが先に見えたら、ぼくはなんか『五年前にここを訪れたことがあると答えた』とかって勝手に柱の文を頭のなかにつくっちゃうわけ、ま、たとえね、たとえ。そうすると、次の文の、『どの学校に通っていたかとメアリーは訊いた』ってところで、はあ? なんで学校が出てくんの、って具合に、話が微妙にずれてきて、結局、大勘違いをしてまちがえるってことが多いんだ、すごく」  コウが何を言っているのかさっぱりわからないが、 「ふうん」と私は答え、「レタス終わったらセロリの筋とって、あとピーマンの中身とって」手の空いたコウに次のたのみごとをする。コウはおとなしく冷蔵庫からセロリを出してくる。私はコウのうしろ姿にちらりと目をやる。このあいだまで、私の肩ほどもなかった背丈が冷蔵庫と同じ高さになっている。 「北野先生にくらくらする? あの人、色っぽいじゃん」何気なく訊いてみると、 「くらくらはしないかな。おっぱいは大きいなって思うけど、ぼくの趣味とはちがうしな」コウは即答し、しばらく考えたのち、続ける。 「自分の敵はこの思いこみなんだよなって、北野先生と話してるとよくわかる。こうなはずだっていうのはさ、一番いけないんだよな。このダンチなんかいい例だと思うよ、ここは思いこみで建設されて、思いこみで成り立ってる場所だよ。ねえママ、ママはここに最初に越してきたとき、なんて思ったか覚えてる? すごい、全部うまくいく! って、思ったんじゃない?」 「うんまあ、そうね」鶏肉を一口大に切り分ける。手元が暗くて、流しの上にある電気をつける。ぱちぱちと数回白い光が飛んで、あたりは明るくなる。「ここいらへんで、画期的だったもの、このマンション群。ダンチなんて呼ばれてるけど当時は最先端だったんだから」  最先端だったかどうかは知らないが、田畑と高速道路が埋め尽くすこのあたり一帯では、この「グランドアーバンメゾン」はじつにクールな集合住宅だった。今ではだれもがダンチとしか呼ばないけれど、その、何語かわからない、意味もよくわからない名称が建物の正式名称なのだ。この部屋の購入が決定したとき、人生に勝ったような気がしたものだった。 「って、なんで? コウ、なんの話だっけ?」  われに返って隣のコウをのぞきこむ。ピーマンの芯をくりぬいていたコウは顔をあげず、 「思いこみの話。ここつくった人も、超いけてるって思いこんだはずなんだよ。いけてるし、その上、住んでる人がみんなのびのびリラックスして、行き交う人のたえないあかるい町になるって。子どもは無邪気、夫婦は円満、コミュニケーションはばっちし。ね、ピーマン終わったけど、次は?」 「ああ、とりあえずないや。テレビでも見ててよ、二十分後にはごはんになるからさ」  言うとコウは手を洗い、自分の部屋に戻ろうとする。 「何よ、その続きは?」私は声をはりあげる。 「それが思いこみだってこと。思いこんでると、本当のものが見えないって話だよ」  廊下からコウの太い声が聞こえてきて、コウの部屋のドアがしずかに閉まる。何を言っているんだかさっぱりわからない。ああいう奇妙なことを言い出すようになったのは北野先生がきてからだ。北野先生はエロくさい上ちょっとのうたりんに見えるけれど、本当のところは気持ちの熱い議論好きなのかもしれない。思いこみだの本当のものだの、コウも意味不明な生意気議論をかっこいいと思う年になってきたのだろうか。  鶏肉をトマトスープで煮込むあいだ牛蒡サラダをつくる。部屋がしずまりかえっているのでテレビをつける。ニュースの合間の野球中継を聞きながら、鍋に湯を沸かす。六時半をすぎても、マナもパパも帰宅しない。  下準備をすべて終えてしまい、私はひとり、テーブルに頬杖をつき発泡酒を飲む。ベランダに通じるガラス戸に私が映っている。私の向こう、淡い紺の夜のなかで、濃い輪郭のベゴニアと大ぶりなメジュームが、やわらかく揺れている。立ち上がり、発泡酒を片手にベランダへ向かう。しゃがみこみ、葉と葉裏をひとつずつ調べ、花がらを摘んでいく。  グランドアーバンメゾンに引っ越したとき、たしかに私は、光かがやくあたらしい未来にやってきたと思った。同い年の女たちが体にはりつく阿呆ドレスで踊り狂っているのも、都心の馬鹿高い高級料理を競うように食らっているのも、うらやましくもなんともなかった。いや、過去形じゃない。私は今でも、光かがやくあかるい未来だと、あのとき感じた同じ場所に居続けている。思いこみがなんなのかメアリーとボブがなんなのか、私にはちんぷんかんぷんだけれど、彼があのように素直になんでも話すのは、ここが未だ光かがやくあかるい場所である証拠だ。  七時近くなってマナが帰ってくる。自分の部屋にもいかず、マナはリビングのソファにだらしなく座ってテレビのチャンネルをかえる。 「遅いよマナー、何やってたのー?」  トマト煮とスープに火を入れながら聞くと、マナは父親のように靴下を脱ぎ捨てながら答える。 「ママ文句言わないで。あたしは今女の友情づくりに必死なの。高二から女友達つくんのってけっこう根性いるんだよ」 「コウ呼んできて、ごはんだって」 「あーもうこきつかうこきつかう。コウー、ごはんー、あれっ、コウ、今日ミーナ先生の日? ちょっとコウ! 開けてよ! なんで教えてくんないのー、ミーナ先生きてたら早く帰ってきたのにーっ」 「ちょっとマナっちうっさいよ、たたくなよドア。言ったよ、昨日ごはんのとき。マナっち心霊写真特集食い入るように見てて無視したんだろ」 「手を洗ってきなさいよーっ」  私は声をはりあげる。マナとコウが洗面所にかけこむ物音が響いてくる。  建設の終わったグランドアーバンメゾンを、公園や広場やちいさな商店を含むその敷地全体を見たとき、本当に新天地に見えた。充分な空間があり、光と緑にあふれ、田畑の泥くさいにおいも高速道路の排気ガスも届かず、新鮮な空気に包まれていた。突き出た腹をさすりながら自分の家になる窓を見上げてから十七年、ここもずいぶん古びて地味になってきたけれど、それでも、歩道から見上げる五階のベランダは、緑が生い茂り花が咲き乱れて、あのときと寸分かわらず、かがやく光につつまれている。  たったひとつだけ、私は家族に隠していることがある。言う必要がないから口にしていないことならたくさんある。たとえばパパの馬鹿馬鹿しい昔の浮気とか、最近母親が私を呼びつける頻度が増えたこととか、未だときおり完全犯罪について考えてしまうこととか。そうじゃなくて、積極的につくり話までして隠していることはただひとつ。  京橋家は私の完全なる計画のもとに端を発している、ということだ。夫は自分の失敗で私が妊娠したと思っているし、マナとコウは赤ん坊ができちゃったから結婚したと信じている。完全なる計画について隠しごとをしたかったからついた嘘──ママとパパは地元の不良で、ご多分にもれず早々と非行生活を引退して結婚したのだという、あまりに馬鹿らしいため疑う余地もない嘘を信じている。ママ、昔のゾッキーってカツアゲじゃなしにステッカー売ったんだって? とマナに訊かれたときは意味がわからずどぎまぎしたが、曖昧に笑ってみたら、昔のほうが秩序があるね、などとマナはひとり何かを納得していたようだった。  夫はずいぶん遊んでいたみたいだけれど、私は不良だったこともないしマナは予定外にできちゃったわけでもない。基礎体温は十五歳のときからつけていた。家庭をつくることのできる男子を捜し、男子の目にとまるようお洒落と美容に命をかけ、同時に出産育児、家事一般だけをまなんで高校の三年間をすごした。女友達と妄想色の濃いおしゃべりをしている時間はなかった。私の理想は十六歳の誕生日に入籍することだったが、現実はなかなかうまくいかなかった。輪にくわわらない私はクラスメイトからへんなあだ名で呼ばれほぼ集団無視され(運の悪いことに高校は女子校だった)、十七歳でつきあった男の子はひとつ年下で結婚話には応じず、それならばと実力行使に出たのだが、コンドームを使わずに幾度寝ても、なぜか私は妊娠しなかった。  不毛な、絶望的に無意味な高校時代だった。帰るところは家しかなく、帰れば母親といるしかなかった。このまま家を出る術《すべ》が見つからなかったらどうしようと考えると死にたくなったが、母親を生かしておいて自分が死ぬのはゆるせなかった。  高校を卒業後、勤めていた会社で夫と出会った。私が事務仕事をしていた宅配便屋に春休みのあいだアルバイトにきただけの大学生だったが、この男とだったら問題なく家庭をつくれそうだと、一カ月彼を観察していて確信した。彼のアルバイトが最後の日、飲みに誘ったらかんたんについてきて、ラブホテルは私から提案しなくても向こうが連れていってくれた。そういう男なんだろうと思ったが、そんなことは私の計算にあまり関係なかった。肝心なのは、子どもができたと告げたとしたら、渋々でも受け入れるか、逃げるか。三回目の性交で私が妊娠したとき、私の確信どおり、彼は逃げ腰だったが逃げなかった。私の過去を詮索するでもなく、私の家庭をしらべあげるでもなく、自分の失敗だと信じこんで、情けない笑顔で私と事実を受け入れた。  近ごろマナはよく、私の過去を知ろうとする。ママがあたしくらいのとき、だの、ママが妊娠したとき、だのといった話題をよくもちかけてくる。そのたび私は嘘をつく。私の抱えていた空洞や絶望を、あの子たちに教えることはできない。この世のなかにそんなものが在ること自体、伝えてはいけない。  いつかこういう日がくるんだろうと結婚したときから思っていた。だから、おなかのなかのマナがまだ何かの芽くらいにちっちゃかったころから、いずれ生まれてくる子どもに話す架空の過去は考えていた。アルバイトしていた宅配便屋の、むかいの席の女の子の過去をそのままぱくった。今では名前も忘れたけれど、私のあこがれそのままに十六歳で結婚したという、年下の主婦で、きれいな女の子だった。  もうずっと嘘をついてきたから、本当に自分がそのとおりの過去を生きてきた気がするくらいだ。中学時代の仲良しが不良になり、更生させるつもりで近づいて結局誘われるままそこに属し、けれど家族のことは大好きで迷惑をかけたことなんかなく、パパと会って恋をして、族仲間の多くがそうしていたように「卒業」して早々と結婚、大好きな家を模してあたらしい家族をつくったのだと。最後のところはそう嘘でもない。ひっくりかえって真実になる。あの大嫌いな家をそのまま反面教師にして私はあたらしい家庭をつくった。 「昨日から腰がもうぎちぎち痛んじゃって歩けないの、こりゃくるなって思ったら案の定雨、こりゃあんた確実に梅雨だね、でもやんなっちゃう、あいたたたたた、悪いんだけどさあ、またお願いできないかねえ。熱はないけどなんだか喉もごろごろするし」  午後五時に電話をかけてきて母は言う。電話の子機を耳と肩のあいだにはさんで、私はクリームコーンの缶を開ける。 「今から? 今からなんて無理よ、こっちだって夕食あるんだし」 「今からなんて言ってないよ、明日、明日でいいの。今さっき天気予報見たら明日も雨だって言うじゃないのさ、こりゃ明日も痛むよ、もうこればっかりはしょうがない。あたしはそうあきらめてんの。あきらめてんだけど、買いものができないっつーのが不便でさあ。あたしもあの老人カート買やいいんだろうけど、あれっていかにも婆くさいだろ? そこまで老いてないしさあ」  明日は九時から四時までパートだからいくことはできないと言おうとして、言葉を飲みこむ。そんなことを言えばまた、私の夫をこきおろしだすにちがいない。少なくとも三十分は。私だって夫のことを甲斐性のある男だと思ってはいないけれど、母親にだけは言われたくない。怒りがしずかに押し寄せてきて、私は息を吸いこみ台所からカウンター越しにベランダを見る。ガラス戸に雨粒がはりついている。このところの雨続きのせいか、ゼラニウムはしおれ、メジュームも元気がない。デイジーやチューリップといった春のものは花が落ちて、ベランダはなんとなく地味でみじめだ。 「天気予報っていやさあ、その前のニュース番組の特集、|メール友《ヽヽヽヽ》ってのやっててさ、近ごろじゃ、会ったこともない|メール友《ヽヽヽヽ》ってのに誘われて家出して、そのまま帰ってこないんだってさ、あんたんち、大丈夫なの? マナやコウにも自分たちの電話持たせてんの? やめときなよ、持たせんの。何かあったときじゃおそいんだからさあ。そういやあんた、ちゃんと二人にこづかいあげてんの? こないだコウと電話で話したんだけど、なんだか若い人にもいろいろあるんだって? へいきなの、あんたんち?」 「コウがなんだって?」  出した声があまりに大きくて私自身がびっくりする。母親も驚いたらしい。受話器を通る声が急に弱々しくなる。 「いや、べつに何も言ってないよあの子はさ。ただねえ、いろいろ若い人には若い人なりのつきあいがあるみたいだからねえ。つきあいっていやあさあ、町内会のエコなんとか清掃会、笑っちゃうね、ただのどぶ掃除をエコなんとかって名前つけてさ」 「私のいない時間帯にうちに電話しないでって言ってるじゃない」声が震えている。深呼吸するが、おさまらない。「私だったらいくらだってあなたの用をたのまれるけど、子どもたちは勉強もクラブもあって、そういうおつかいさせることはできないの」 「あーはいはい、わかってるって。何よう、やあねえ、ちょっと言っただけだろ、テレビ見てるといろいろ不安になるんだよ、今の子どもは一昔前とそりゃあちがうからねえ、あんたたちのころとはさ。あんたたちのころなんか、のんきなもんだったよねえ。ま、いいさそれは。それでね、そのエコなんとか。んもう、年寄りが年寄りナンパしてさあ」  鼻の奥がつんとする。目の奥が熱くなる。頬がくすぐったい。右目から涙が流れているらしい。右手でそれを拭《ぬぐ》おうとして、缶切りを握りしめていることに気づく。ずいぶん強く握っていたらしく、てのひらは白く血の気を失っている。  泣くなんて馬鹿げていると頭ではわかっている。今度の誕生日で私は三十七歳になる。上の娘はもう高校二年生だ。私の家庭とまったく関係のない老婆の他愛ない一言で泣くことなんか何もないのだ。頭ではわかっているのに、この女と話していると、私はまるで十代の娘のようにあっさりと傷つく。自分でもあわてふためくくらいかんたんに。  鍵がまわる音が聞こえ、 「あ、マナが帰ってきた、悪いけど、それじゃ」  一方的に言って電話を切る。子機をソファにたたきつけ、玄関へ向かう。 「おかえり、今日は焼売《シユウマイ》だからさ、手洗って、手伝ってよ」  靴を脱いでいたマナは、一瞬じっと私を見つめ、ひとつうなずいてそそくさと自分の部屋にいってしまう。あわてて洗面所に飛びこみ、鏡をのぞく。泣いたことはばれていないはずだ。 「コウー、コウも手伝って、焼売!」  声をあげて廊下をすすみ、ダイニングテーブルで私は焼売をつくりはじめる。四角いちいさい皮にスプーンで具を包んでいく。コウが部屋から出てきて、私のわきに立つ。 「手洗ってきた? これ、手伝ってよ」  コウはおとなしく私のむかいに座り、焼売の皮をてのひらに広げ、スプーンでていねいに具をすくいとる。ちらりとコウを見る。真剣な顔をしている。たかが焼売をつくるのにそんなに集中しなくたっていいのに。 「コウさあ、おばあちゃんと話したの?」  笑顔をつくって訊いてみる。コウは顔をあげる。 「ああ、ちょっと訊きたいことあったから電話したんだ。なんで?」 「訊きたいこと?」 「あのさ、団地ってあるだろ? あ、ここのことじゃなくて、昔の、公団住宅。あれについて訊きたかったんだ。図書館で見てみたんだけど、なんかピンとこなかったし、あと、ああいう建物をはじめて見たときってどんな感じだったのか訊いてみたかったんだ」  コウはしゃべると手が止まる。不器用なのだ。てのひらに白い皮をのせたまま、私を見て子どものようにしゃべる。 「ここのダンチにいくつか店舗ができちゃつぶれてるじゃん、ニコニコストアもポップマートももって一年だったでしょ? みんなあそこいかずにバス通りのファミマとかいくじゃん。二十分も歩くのにさ。それで結局、このダンチって全体的に不気味になっちゃうんだよね、人がいなくてさ。でも昔の団地って商店もコミュニティセンターみたいなのもなかったろ? だけど本で見るかぎりじゃなんかにぎわってる雰囲気があって、そのちがいってなんだろうとか……あと、建物としても興味あったし」  コウはいったい何についてしゃべっているのだろう? もしくは、何を訴えたいのだろう? 「マナ、あんたはできた焼売に、こっちかこっちのせてって」  Tシャツに着替えてあらわれたマナに、グリンピースと小エビの入った小皿を示す。へーい、と聞こえる返事をしてマナはテーブルにつく。 「両方でもいいの?」 「両方でもいいよ」 「ほーい」 「この前の話、ママがここを超いけてるって思ったのはさ、たぶん、まわりになんにもなかったからなんだ、都会とか田舎って話じゃないよ、遮《さえぎ》るものがなくて光があふれてればふつう人は明るいイメージを抱くんだ」  コウは話しやめない。頬が次第に赤く染まるコウから目をそらし、私はバットに並んだ、グリンピースと小エビの飾りつけられるちいさな肉のかたまりを見る。こづかいをあげてるか、だって? そんなこと、どうしてあの女に言われなきゃならないのか。団地の話を聞いたあとで、コウはこづかいもねだったんだろうか。コウは今、遠まわしに何か不満をぶつけているのだろうか。母には言えて、私には言えない不満を。 「あとさ、畑見えるだろ? あの緑とかも、健全なイメージでさ、光と緑、これだけあると人は例外なく問題なんか何もなしって安心するんだ、とくに住まいなんかだとね、人畜無害っていうのかな……でもひょっとしたらそれはまやかしで、人が本当に欲しているのは光じゃなく緑じゃなく人ってことに」 「何言ってんの?」私はコウの話を遮る。いや、抑えきれない自分の苛立ちを遮るために口を開く。「巨乳先生に気に入られるために賢くなろうとしてんの?」  テーブルは一瞬しずまりかえる。しまったと思う。鼻の奥がつんとする。混乱する。 「うわ、ママ、ビミョー」  マナがすっとんきょうな声を出して、いくらかすくわれた気分になる。 「だってコウ、いきなりむずかしい話するんだもん、ママわかんないよ、馬鹿だし」私は言って、できるだけ不自然にならないように笑う。「高校だってママろくすっぽいってないんだし、あはは」  コウは手にはりつけていた焼売の皮をぺたりとテーブルに落とすと、そのまま無言で立ち上がり、自分の部屋へ向かう。しずかにドアの閉められる音が聞こえてくる。 「あーあ」コウが使っていたスプーンを手にとり、マナが大袈裟にため息をつく。 「さすが元ゾッキー。ママ超意地悪だね、ああいう言いかた。あーあ。コウちゃん、ビミョーな年齢なのになあ。あのままひきこもっちゃうかもよ。あたし、やだよ、弟がひきこもりなんて。テレビきてひきこもりとその家族なんて取材されたりすんの、絶対やだよ」 「ばかなこと言ってるなあ、マナは。じゃ、あとたのんだからね、ママはサラダでもつくろーっと」  台所で手を洗い、さすがに言いすぎた、今部屋にいってあやまってこようか、と思うが、しかし思いなおす。ひきこもるならひきこもればいい。子どもが家から外にでなくなったとき、母という立場にある人間がどうすればいいのか私はちゃんと知っている。私の母が私にしたことと正反対のことをすればいいのだ。  母親がなすべきこと。かんたんなことだ。私はそれをあの母に見せてやりたい。私にはそれができるということを、示してやりたい。  視線を感じて顔をあげる。私を見ていたマナはあわてて視線をそらす。明日、帰りに苗をいくつか買ってこようと、マナの肩越し、雨に打たれたベランダを見て思いつく。  中学時代のほとんどの時間、私は家ですごした。私のような子どもをくくって呼ぶ便利な呼び名は、そのころはなかった。だから私も、自分がどうして学校にいけないのか、よくわからなかった。  中学一年生のとき父親が死んで、葬儀のためしばらく欠席し、そのまま学校にいけなくなった。父の死で傷ついたと思ったのだろう、学校側もしつこく出席を求めるようなことはしなかった。毎日家にいて、母と兄のぶんの食事をつくってすごした。兄は学校が終わるとボウリング場でアルバイトをし、十時近くに帰ってくる。母は夕方まで近所の医院で事務仕事をし、夜は自転車でパン工場に働きにいった。兄は家にいる私にまるで興味を示さず(というより兄はほとんど他人に興味をもたない)、母はそのときどきで、家事をしてくれてたすかると大袈裟にありがたがってみたり、どうして普通のむすめさんのようにできないのかと泣いたりした。要するに、頭に思い浮かんだことを、中学生の娘相手に垂れ流しているだけだった。  このころの記憶はあんまりなくて、けれど、母に喜ばれればうれしかったし、泣かれればどうしていいかわからずおろおろした。このころの私はまだ、母に好かれていたかった。  あわい記憶のなかで、私が一歩も外へ出なかったあの家は、陽が射さずに暗く、じめじめして、奇妙に居心地がよかった。剥《は》がしたポスターの周囲が四角く日に焼けた自分の部屋で、家事をするとき以外の私は、レコードを聴き、上下する埃を見ていた。兄の部屋にときおり忍びこんで家捜《やさが》しをした。日記やエロ本や女の子からもらった手紙や、何か、兄の弱みになりそうなものを捜すのが目的だったが、しかし、そうしたものはいっさいなかった。参考書や専門書の重ねられた机、やけに整頓されたクロゼットを捜しても捜しても、人間らしいしろものは見あたらず、そのうち兄自体が不気味に感じられるようになった。  屋外へ、という意味でも、ほかの住処《すみか》へ、という意味でも、家から出ていこうと決意したのは、十五歳の冬の日だった。  その日、見覚えのある教師と見知らぬ大人数人がうちをたずねてきた。仕事を休んだ母と彼らは、居間でずっと何か話しこんでいた。教師たちと顔を合わせたくなかったが、何が話し合われているのか知りたくて、私は足音を忍ばせて部屋を出、階段に腰かけて耳をすませた。  進学、高校、出席日数、友達、部活動、そんな言葉が扉の閉め切られた居間からとぎれとぎれに漏れ聞こえてきた。それはやがて、将来、病院、カウンセリング、自律神経、病理、聞き慣れないそんな言葉へとかわっていき、私は次第に恐怖を感じはじめた。私がここにいてこうしている、家事をし埃を見ている、ときに母に感謝さえされるそのことはとりかえしのつかない大問題で、もはや解決の糸口はどのようにも見つけられないのではないか、という恐怖だった。私は立ち上がり、それがどれだけ手遅れだとしても、話し合いにくわわるために居間へいこうと決意し、逡巡《しゆんじゆん》し、自分を奮い立たせ、しかし後込《しりご》みし、階段で阿呆のように立ったり座ったりをくりかえしていた。しかしそのとき、家じゅうに響くような母の泣き声が聞こえてきて私は動けなくなった。  あたしが悪いんです! 母は泣きながら吠えるように言った。あの子があんなになったのは全部全部あたしのせいなんです! 申し訳ありません、あたしが全部悪いんです!  かちかちかちと、とがったものが木片をひっかく耳障りな音がやむことなく聞こえていた。それが、階段の手すりを握った自分の手から発しているとしばらくして気づいた。手すりを握った私の手はこまかく震えて、伸びた爪が手すりにあたってかすかなもの音をたてているのだった。手だけではない、全身が震えていた。恐怖ではなく、抑えようのない怒りによって震えているのだと、頭の一番醒めた部分がしずかに告げていた。  おかあさん、そんなことはないですよ、しっかりなさってください、居間から、幾人かの声が重なって聞こえてきた。おかあさんのせいだなんて、そんなことはないんですから、どうかご自分を責めたりなさらないで。  いいえ、いいえあたしが悪いんです! あの子をあんなふうにしたのはあたしなんです! 母は泣き続けた。泣きながらうなり続けた。  願わくばいっそ死んでくれないかと思うほど母を嫌悪したのはあのときからだ。  あのとき、母は、自分が楽になるために泣いていると私は理解したのだった。泣いて許しを請えば、その場にいる全員が、あなたのせいではないと言う、それで母自身は救われるだろうが、私にとっては、彼女が泣いたことによって、自分のしていることが問題でなく罪になる。解決できるかもしれない問題ではなくて、償いようのない罪になる。  ああそうだ、薄暗い階段の中ほどに立って私はめまぐるしく考えた。母はいつだってそうだった、吐き出してしまうことでいつも自分だけ楽になろうとするのだ、そうすることで身近な人を傷つけ、恐怖させ、萎縮させ、絶望の底に突き落としても。あたしの結婚はまちがっていた、おとうさんのことを好きだと思ったことはない、あんたの父親は最低の男だ、あんたはどうやら父親に似たね、脳味噌のフィルターをとおさずその場その場で吐き出され、こちらを射抜いてくる言葉の数々が、記憶のなかから次々と浮かびあがり、消滅せずに頭のまわりをぐるぐる巡回する。最初の男の子だけでもういいと思ったんだ、次の子を産むつもりはなかったんだ、おにいちゃんがいてくれてたすかった、おにいちゃんは本当にえらい、どうしてあんたはおにいちゃんみたいにできないのか。  褒められたことはおろか、そこにいることを認められたことも存在を肯定されたこともなく、否定しかないこの場所に三年間も閉じこもっていたのかと、そのことに愕然とした。否定というその一点で、ともにいてくれる父はもうおらず、三年間身動きせず居座ってもそこに私のスペースは見つけられそうもないというのに。  この場所を一刻も早く出なければ、いや、自分がいることのできる場所を一刻も早く見つけなければ、私はあの女を殺してしまうだろうと、十五歳の私は思った。  高校へはなんとか進学できた。けれどそこも私のためにスペースを空けてくれはしなかった。私が中学時代家に閉じこもっていたことはなぜか学年じゅうに知れ渡っており、ナヨコと命名されていじめられ、ひたすら自分の家庭をつくる計画に没頭することで三年間やりすごした。  外界と隔てられ、いる場所のなかった六年間は、私のなかで埋めようのない大きな空洞で、その空洞をのぞきこめばいつも、母親の泣き叫ぶあの声がする。無力な娘にすべての罪と責任を負わせるあの悲痛な声。  あなたは母親失格だと、本人に直接言ったことがある。私が学校にいけなかったのはたしかにあなたの責任であると、そんなようなことを言いつのったのだ。子どもができればあんたにもあたしの気持ちがわかると言って、母はそこでも泣いた。実際私に子どもができて、母の気持ちはわからなかったが確実にわかったことはある。あの女は本当に母親になるべきではなかった、ということだ。  だってとてもかんたんなんだもの。子どもを愛すること。肯定すること。たいせつに育て、無用な憎しみや悪意から守り、善なるものに目を向けさせ、絶望や恐怖などよせつけないこと。そういう場所を確保すること。それはとてもかんたんで、こんなこともあの女にはできなかった──しようとすらしなかったのかと思うと、やっぱり、彼女に家庭などもつ資格はなかったのだと思ってしまうのだ。そしてその都度憎悪は更新され続けていく。  夕飯の準備がととのいマナにコウを呼びにいかせ、出てこないんじゃないかと思ったが、コウはなんでもなかったように部屋から出てきて自分の席に着く。巨人対中日戦を見るか、整形手術がテーマのドキュメンタリー番組を見るかでマナとコウは数分言い争い、結局テレビは野球を映している。 「コウ」冷蔵庫から発泡酒を出してきて私はさりげなく話しかける。 「何」テレビ画面に顔を向けたままコウは返事をする。 「おこづかい、足りてる?」おそるおそる訊く。 「へ?」コウは一瞬私をまじまじと見て、ふいとテレビに視線を戻す。「べつに足りてるけどくれるって言うならもらっときますよ」 「何それーずるーい、じゃああたしももらわなきゃわりにあわないー」 「あーもう、マナっちうるさい、耳元でがなるな」  十八歳までの私の時間を夫も知らない。うどん屋で昔のあだ名を呼ばれるまで私自身も忘れていたくらいだ。アルバイトの不細工な女に、あの忌々しい名前を呼ばれてぎょっとした。なんでも彼女の母親が、私と同じ高校の一学年上にいたらしい。私は学校じゅうで名を知られていたのかと絶句したが、くわしい過去を知らないらしい若いアルバイトは、他意なくナヨちゃんと私を呼んだ。その呼び名が耳に入るたび、脂汗がにじむほど気分が悪くなったから、彼女が辞めていったときは心底ほっとした。 「ママ、何見てんの? ひょっとして窓ガラスに霊映ってる?」  マナに言われて我にかえる。私は窓ガラスのあたり、ゆっくり上下する埃を見ていた。無力な中学生のような気分で。 「花がさ、枯れちゃったなあと思って。雨多いからね。そうだマナ、明日、あたらしく苗買いにいくからいっしょにいって持ち帰るの手伝ってよ、ディスカバで待ち合わせしてさ」  こづかいがなんだのコウがなんだのと言って、母は私の家庭も、私が自らつくりあげた居場所すらもこわそうとしているのかもしれないとふと思い、ぞっとする。  うどん屋を二時半にあがらせてもらい、母の家にたのまれた買いものを届けにいく。目覚めたときから降っていた雨は、強まるでも弱まるでもなく、まったく何ごともないかのようにべたべたと降り続いている。片手に傘、片手にスーパーマーケットのビニール袋を持ち、私はバスを待つ。傘からしたたるしずくが、羽織ったカーディガンの背も髪も濡らしていく。スーパーの袋には餅米二キロ、牛蒡、葱、豚肉、人参、筍、青梅一キロ、袋から飛び出して持ちにくく、重たいものばかり入っている。きっといやがらせなのだろう。  スーパーマーケットの袋がてのひらにくいこみ、左手に持ちかえようとして傘を落としてしまう。重たいグレイの湿った歩道に、花模様の傘がくるくるまわっていて、私はふいに、雨に打たれたまま大声で泣き出したくなる。  いったい私は何をやっているのか。家計簿をつけ、ぎりぎり平気な線を計算して労働時間をやりくりし、パートをこうして切り上げてスーパーで買いものをし、届け、愚痴や世間話を聞いて無駄な時間をすごし、大慌てで自分の家に帰る。死んでくれないかと願うような人間のために。  電話など無視すればいいのにこうして言いなりになっているのは、自分でもわかっている、結局、あんな女の呪縛から未だ逃れられないでいるからだ。電話を無視したりたのまれごとを断ったりしたときに発せられるあの女の憎まれ口に、傷つけられたくないのだ。 「あのう、おばさん、傘……」  制服を着た小さな子どもが、おそるおそる私を見上げて言う。私は愛想笑いを浮かべて傘を拾い、頭上にかかげる。傘の内側にたまっていた水滴が、柄《え》にしたたり落ちて私の手を、腕を、肘《ひじ》を濡らす。子どもはちらちらと私を見ている。バスはなかなかこない。永遠にここで、雨に濡れたまま、葱だの牛蒡だのの突き出たビニール袋を抱えて立っていなければならない錯覚を覚える。  四時半にディスカバリー・センターの誠啓堂書店で待ち合わせたのに、マナの姿はどこにもない。マナがいそうな、雑誌コーナーや写真集のあたりを幾度もうろつく。マナと似たような茶髪にミニの制服姿の女の子は投げ売りできるほど大勢いるが、マナはいない。おしろい粉ややすっぽい香水や、チョコレートやバニラシェイクのにおいがまざりあい、しめった息苦しい空気がそれらすべてに膜をかけるように充満している。三十分前にあとにしてきた母の家の、居間のじめじめしたにおいが合間からかすかに漂い、それは私自身が発しているのだと気づいて、気分が悪くなる。  四時五十分まで待ってみたが、結局マナはあらわれず、あきらめて花売場へ向かう。花売場にひとけはない。おもてに出されたポーチュラカやサルビアの鉢が雨に打たれている。店員を呼び、雨に強い丈夫な花を選んでもらう。配送しましょうか、と訊かれたが、持ち帰ると答えた。今すぐベランダをはなやかにしたいのだ。結局、かさばる苗を三つのビニール袋に入れてもらい、なんとか傘をさしてバス乗り場へ急ぐ。はやく、はやく、はやくしなくちゃマナとコウが帰ってくる。  家にたどり着いたのは午後六時数分前、しかしまだだれも帰ってきておらず、家はしんとしずまりかえっている。玄関先で靴を脱ぎ、そのままそこにへたばってしまいたいほど疲れている。  ビニール袋三つをひきずるようにして廊下を歩き、汗と雨でぐしょ濡れのシャツとカーディガンを洗面所で脱ぎ捨て、部屋着に袖をとおし、居間へいく。留守番電話のボタンが点滅していないか調べ、冷蔵庫から発泡酒を出して飲み、飲みながらベランダへ苗を運ぶ。花の落ちてしまったデイジーやチューリップはまとめてゴミ袋に捨て、買ってきたばかりの花をウッドボックスに並べていく。斜めに降る雨が顔や腕を濡らすが、かまわず作業を続ける。白に近いピンクのペチュニアと、藤紫のバーベナをとりまぜて、ビニールの鉢ごとはめこんでいき、外側にブラックパンジーを飾る。花の落ちたメジュームも思いきって捨ててしまい、ちいさな青い花をつけたワスレナグサをかわりに植える。  たしかワスレナグサは数年前にもこうして植えた。植えておけば毎年芽が出てくると聞いて、ノースポールやワスレナグサ、クリスマスローズなんかはくりかえし植えてみた。けれど、場所が悪いのか私にその才がないのか、次の年に勝手に咲いてくれる花なんかめったになく、結局いつも、枯れては捨て、あたらしいものをそこに植え、ということをくりかえしている。ときどき、このちっぽけなベランダのためにうどん屋で働いているんじゃないかと思うときもあるが、もはや何もないベランダにすることはできない。  昨日は地味で暗い雰囲気すら漂っていたベランダは、数個の苗でかんたんに彩りをよみがえらせる。この色鮮やかな庭園は、居間からも食卓からも、外からも見えて心を癒さなければいけない。汗がひっきりなしに頬をすべりおちていく。着替えたばかりの部屋着がもう、汗と雨で濡れて肌にはりついている。しかし、すべてを配置し腰を伸ばすと、息が詰まりそうなグレイの空気をよせつけないはなやかさでベランダは覆われている。ああ、これで大丈夫。たすかった。私はうなずき、ゴミ袋をかたづける。  発泡酒の缶を持ったまま台所へいき、冷蔵庫の中身をしらべ、ふと私は顔をあげる。かすかに甘いにおいがする。花のにおいでもなく、雨でもなく、マナのよく食べるお菓子でもなく、洗濯ものからたちのぼる柔軟剤でもない。もっと嗅ぎ慣れないにおい。うちのものではないにおい。 「コウー?」台所を出、コウの部屋へ向かう。「コウ、ひょっとしているの? 今日って北野先生の日?」言いながらドアをノックするが、返答はない。私はドアを開ける。  コウは帰ってきていなかった。部屋にはだれもいない。何もかもがきちんとかたづけられ、勉強机にはコンピュータが置かれ、棚には飛行機や車のプラモデル、フィギュアがならんでいる。いつもとかわりない、コウがいないコウの部屋だ。台所でかすかに感じた甘いにおいは、いくらか濃さを増してこの部屋にも漂っている。 「なんだ、いないのか」  私はひとりごとを言い、しかし、コウの部屋のドアを閉めることができない。ドアノブを強く握ったまま、目玉だけ動かして部屋のなかを見まわす。  ざわざわした感触が一瞬背中を通過する。何かがちがう。いつもと同じ部屋、まだ帰ってきていないコウ、染みつきつつある北野先生の香水、いつもと何もかわらない、なのに何かが確実にちがう。私は部屋に入り、ベッドカバーをまくり枕をひっくりかえし、シーツに鼻をつけてにおいを嗅ぎ、クロゼットを開け端から端までながめ、クロゼット内の引き出しを片っ端から開け、勉強机に近づき引き出しを開け、しまってあるノートをぱらぱらとめくり、フックにかかっているリュックサックを開けなかをのぞきこみにおいを嗅ぎ、顔をあげたその場所に貼ってある大判のカレンダーに目をとめる。今日の日付に赤いサインペンで丸印がつけられている。私はじっとその丸印を見つめる。なんの意味があるか考えてみるが思いあたらない。濡れた髪からなま暖かい水滴が頬をゆっくりつたっていく。  玄関の鍵を開ける音が聞こえ、私は飛び上がり部屋を出、ドアを閉める。帰ってきたのはマナだった。 「マナ、コウがいないのよ」私は言う。 「あーママー、ごめんね今日さあ、クラスの乙女組と急に乙女グッズ買いにいくことになってさー、約束やぶっちゃった、でもさーママの待ち合わせのほうにいけばよかったよ、あたしにゃあ乙女路線は無理だね」マナは私を見ず、だらだらとしゃべりながら自分の部屋にいく。 「マナ、コウからなんか聞いてないー? コウ、いないんだけど」マナのドアの前に立ち、私は訴える。 「えー、なんでえ? コウ遅いのよくあるじゃん、よくっていうかよくでもないけど、ときどきあるじゃん」ドアの向こうから、くぐもった声が聞こえてくる。 「あんた昨日コウと話してたでしょ、夜、何話してたの? コウ、明日はなんかの日だとか言ってた?」  ドアが開き、マナが目の前に立っている。Tシャツとジーンズ姿になっている。 「何それ、へんなのー、なんにも言ってないよ、今日なんかの日なの?」  めんどうそうに言って、マナは私をすり抜け居間へいく。テレビのニュースの声が遠く聞こえてくる。  十一時になってもコウは戻らなかった。しかしマナも、十時をすぎて帰宅した夫も、心配する気配もない。マナは食卓で漫画雑誌を読み、夫はソファで発泡酒を飲みテレビを見ている。 「ねえ、今までいくら遅いっていったって十時をすぎたことなんかなかったよ」  言ってもだれもこちらを見ない。 「十四歳なんていったら、もう立派な男だもん、コウはしっかりしてるほうだしさ、夜遊びくらいするよ」のんびりした口調で夫は言い、リモコンでせわしなくチャンネルをかえる。「しないほうがやばいんだって。落ち着いてなよ」 「ナヨ?」私は声をあげる。マナがちらりと私を見る。 「何その奇妙なあげあし」夫は笑い、ビキニ姿の女の子が映し出されたところでリモコンいじりをやめる。「心配しなくて平気だって」 「マナ、北野先生とあんた仲いいんでしょ? 北野先生の携帯の番号とか知らないの?」  ふと思いついて私は訊き、夫はなぜか急に真剣な顔になってこちらに視線を向ける。 「知らないよー、仲いいってべつにコウの授業のときちょこっと話すくらいだもん、携帯持ってんのかどうかも知らないよ、だからさーこういうときのためにあたしたちに携帯持たしたほうがいいと思うよ、写真撮れるやつ」  マナは雑誌をせわしなくめくっている。 「何よ」  じっと私を見据えている夫と目を合わす。 「今日ってあの家庭教師の日なのか」 「そうよ、さっきから言ってるじゃないのー、もういやんなるー、このパパの無関心ぶり」 「あーもうママうるさいっ! コウの友達の電話とか知らないの? クラスの名簿あるでしょ? かけてみたら? テレビではこういうとき、家庭教師とかじゃなくて担任とか友達とかに電話かけるんだよ。そんでさー、だれも知らなくて、たいてい、夜の町を暗い目つきでうろついてんだよね」 「どこいくのパパ」  リモコンを持ったまま居間を出ていく夫に声をかける。 「いや、今日仕事持って帰ってきたこと急に思い出した、部屋に置いてきた」  コウのクラス名簿はどこにあるのだったか。食器棚の引き出しを開け、出前表をかき分け、しかし名簿を見たってコウの友達の名などひとりも思いあたらないことに気づく。そういえばコウから北野先生以外、人の名前を聞いたことなどない。マナなら数人の名前をいつもあげている。木村ハナとか、森崎くんとか。コウの担任教師の名前も、私はすぐには思い出せない。いったいいつからだろう。コウに友達はいないのか。ピザと中華の出前表を手に、私はぼんやり顔をあげる。そして手にしていたそれらを床に放り投げ、小走りに寝室へ向かう。ほんの少し開いたドアの隙間をのぞきこむと、案の定、ベッドに腰かけ背をまるめ、夫は自分の携帯電話をいじっている。 「タカちゃん」声をかけると、漫画みたいに飛び上がり、携帯電話を床に落としている。「コウの居場所がわかるなら教えて。コウはどこにいったの」 「いや、あの、いや、あのさ、ぼくさ、べつに、ぼくはべつに」  私と夫はベッドをはさみ、突っ立って一瞬見つめあう。夫は私を見、天井を見、床を見、ポケットに手を突っ込んだり出したりし、 「じつはさ、ほんと、言いにくいんだけど、いや、ほんと、マジであやまるけど」  困った、という表現のとき俳優がよくやるように髪の毛をかきむしり、夫は言葉を押しだしていく。はっとする。この顔。こういう顔を、私は知っている。 「秘密はなしにしようってここんちのルールを、じつは破ってしまいまして……」  吐き出すことによって楽になろうとする人間の顔を、この人もしている。  あの阿呆面の巨乳女と何かあったんだろう。息子の家庭教師にちょっかいでも出したんだろう。そんなことは私の知ったことじゃない。しかし夫は苦難の表情までつくって打ち明けようとしている。そうすれば楽になる。打ち明けることで、罪も、苦しみも、悩みも、恥も後悔も、全部私にゆだねることができる。もし、万が一、コウに何かあったとしても、こいつが引き受けるべき罪は軽減される。自分が口にしようとしている言葉で私がこっぴどく打ちのめされても、こいつは傷つかない。 「ずるっちいことしないでよ!」私は叫んでいる。「なんでもかんでも脳味噌つかわずに話して楽になろうとしないでよ!」  向かい合う夫の表情がよく見えない。私は涙ぐんでいるらしかった。 「あんたの、そんな馬鹿げた告白は聞いてない、コウの居場所を教えてって言ってるの」  必死に冷静さをよそおって私は訊くが、声が震えているのが自分でもわかる。  秘密をできるかぎりもたないようにしようというとりきめをつくったのは私だった。私の家庭は母のつくったあのみじめな家とはちがう、私のつくりあげた家庭に、かくすべき恥ずかしいことも、悪いことも、みっともないことも存在しない。だからなんでも言い合おうと、私はくりかえし提案したのだった。けれどここにいる私の夫は、私の母とまるきりおなじに、自分の抱える|かくすべきもの《ヽヽヽヽヽヽヽ》をわざわざ披露しようとしている。彼が守ろうとしているのは秘密をもたないという私たちのルールではない。自分自身だ。 「ちがう、ちがうんだよ、そうじゃなくて、あの女がさ、あの女につきまとわれててさ、こっちはいい迷惑なんだけど、いや、ほんとの話」  ぼそぼそと口のなかで言っていた夫がふと口を閉ざし、その目線の先を追うとマナが立っている。マナは眉をつりあげ、おどけた顔をしてみせる。 「ちょっと小腹減ったからコンビニいってくるー、なんかいる、ママ?」 「ママは何もいらない、太るもん」私は平静をよそおって答えている。  マナは無言でその場を離れ、数秒後、玄関の戸が閉まる音がする。夫と私は十二時近くに買いものにいった娘を追うこともせず、ぼんやりと顔を合わす。夫の目に生気はなく、私の目もそんなふうなんだろうと、鏡を見るように思う。 「おい、電話だ」  夫が言い、たしかに居間で電話が鳴っている。私は小走りに居間へ向かい、子機を手にする。 「コウ? コウなの?」訊くと、 「あたしよう」半分寝ぼけたような母の声が、受話器から液体みたいににじみ出てくる。「悪いわねえ、遅くにさあ」 「なんなの」体じゅうから力が抜ける。 「夢見たのよう、あんたがさあ、中学生のころ、いや、高校あがってたっけねえ、いつだったかさあ、あたしはお誕生日おめでとうって家族に言ってもらったことがないっつってさあ、わんわん泣いたのさ、あんた覚えてる? 泣いたのよ、あんた、おにいちゃんはいつもおめでとうって祝ってもらってんのにって、そう言って。それをそのまんま、夢に見たのよう、あんたは本当に何度もおにいちゃんはおにいちゃんはって言うけど、あたしはさあ、正直分け隔てなんかしたことないの、それをあのときはさあ、ものすごい剣幕で泣いて泣いて」  母はガムを噛みながら話すような口調で切れ目なく続ける。ぼけたのだろうかと一瞬思う。いや、そんなことはない。いつものように、思い浮かんだことを抱えていられずに、時間も考えず電話をよこしたんだろう。 「悪いけどとりこみ中なの、あなたの思い出話聞いてるひまないの」  私は言う。 「ああ、悪かったよ遅い時間に。だけどそんな夢見て、こっちも気分悪いだろ? 夢見が悪いっつーのか……それであんた、はっと思ったら今日十八日じゃないか! 十八日だよ、ああ、絵里ちゃんまた怒ってんだなあー、虫の知らせだなあーって思ってさ、そんで寝てたけど、十二時過ぎちゃう前にと思ってさあ、いっそいで入れ歯はめて電話したの」  十八日? コウの部屋のカレンダーが頭に浮かぶ。すっかり忘れていた。赤いまるでかこまれていたのは、私の誕生日だったのか。 「お誕生日、おめでとう!」母はすっとんきょうな大声で言い、「あーこれで眠れるよ、はいはい、失礼いたしました」調子をつけてそんなことを言う。粘つくような不通音が耳元でくりかえされていることに気づき、受話器を元に戻す。  その場に突っ立ったまま部屋を見まわす。食堂兼居間はきちんとかたづいており、掃除もいきとどいており、壁の絵も、観葉植物も、スタンドライトもCD棚もそれなりに趣味よく飾られている。雑誌に出てくるみたいな部屋だと、ここにきたことのあるパート仲間は言っていた。こことくらべると自分ちはださいとマナのボーイフレンドは言ったそうだ。そうだ。私が一生懸命つくったのだ。私と私の家族のために、光かがやく未来のために。光あふれる現在のために。  壁に掛けた時計を見上げると、あと一、二分で十二時になる。十一時五十九分に、きっと夫とコウとマナが廊下から飛び出してくるんだ。お誕生日、おめでとう、とテンションの高い大声で言いながら。プレゼントやケーキをそれぞれ手にして。私が自分の誕生日をすっかり忘れているらしいと気づき、ずいぶん前から三人で準備していたにちがいない。ママは思い出したか? まだ忘れてるみたい、家族の誕生日はいつも覚えてるのにね。こういうの、なんていうか知ってるか? 知らない、なんていうのパパ? サプライズパーティっていうんだ。ほんとう? あやしいなあ。プレゼント買うためにちゃんとこづかいとっといたか? パパはへいきなのかよ? しいーっ、声が大きいよ、ママに気づかれる。  今年はずいぶん凝ったことを考え出したものだ。きっとコウが企画隊長だ。ひょっとして北野先生も巻きこんだのかもしれない。あとであやまっておかなくちゃ。だとしたらさっきの夫の演技は真にせまっていた。私はまばたきせずに時計を見つめる。  秒針は音もなくすすみ、長針はあっというまに五十九分を指し、笑うようにすべって十二の位置にきてしまう。部屋はしずまりかえっている。廊下へ続くドアは開け放たれているが、そこからなんの物音も聞こえてこない。マナもコウも夫もあらわれない。  しずまりかえった部屋のなかに、雨音がしのびこむように聞こえてくる。水滴のはりついたガラス戸の向こうで、色もかたちも様々な大小の花が、水滴を受けそれは見事に咲き乱れている。 [#改ページ]    キ ル ト  死ぬ段になって、自分の送った人生が走馬燈のように見えるっていうけど、あれ、本当だろうか。嘘なんじゃないかってアタシ最近は思うんだ。人が死ぬときは、もっとも古い、一番奥底で埃《ほこり》をかぶっていたような記憶が、無声映画みたいにしずかにしずかに流れるんじゃないかと思うのさ。  焼きものはハモのずんだ焼き、合鴨ロース芥子《からし》焼き。うやうやしく運んできたのはどう見たって高校生、アルバイトなんだろうけど、器の置きかたが逆。緊張してるんだか慣れてないのか、震えるもんだからさっきはお茶こぼしていったし。どんなに気どりくさったってこういうところが所詮《しよせん》、田舎のショッピング・センターだと思うよ。それにしても、五十後半で半分入れ歯にしてから、何食べてもおいしいって思えなくなった。歯、丈夫だったのに子ども産んで急にがたがたになっちまった。だましだまし治療してきたけど、五十代までが限界だった。  いや、そうじゃなくて、人が死ぬときの話。  そんなこと思ったのも、最近、眠るときかならず見える光景があるからだ。目を閉じるとそれは浮かんでくる。あれがきっとアタシの最初の記憶だ。二歳か、三歳になっていたか。  台風なんだ。昔のうちの古畳に大粒の雨が漏れてくる。まだ赤ん坊だったエツコを手拭いでぐるぐる巻きにして、それを人形おぶうみたいにノリちゃんが背中にくくりつけて、雨粒の落ちてこない場所を見つけてじっと息をひそめてる、アタシは雨粒が垂れる場所を見つけるたび、かあさんを呼んで金盥《かなだらい》や茶碗をならべる。とうさんは屋根にのぼってるんだ、たしか。トタン屋根が飛ばないように、トンカチなんか持って。それでアタシが顔をあげた瞬間、ばーんと屋根が飛んでっちまうのさ。飛んでって、不思議と頭の上には澄んだ星空がひろがってる。星空っていったって今みたいにぽちりぽちりとしょぼいのじゃなくて、もっと空じゅう星で埋め尽くされちまったようなあかるい夜空が見える。  そこまで。そこまでしか浮かばない。しかも、順序よく映画みたいに流れるわけじゃなく、ぱっ、ぱっ、と閃光みたいにひとつひとつの場面が脈絡なく浮かんで、それで、屋根が吹っ飛んだところでぱちんと消える。もっと見たい、もっとその先が見たいっていつも思う。飛んでった屋根はどうしたのか? 泣き虫だったノリちゃんは泣いたのか? エツコはノリちゃんの背中で眠ってたか? かあさんはなんと言ったのか? 屋根にいたとうさんは無事だったのか? アタシは何を着て何を思っていたのか?  でも、だめ。いつもぱちん。その先が見られたことなんか一度もない。だから、近ごろじゃアタシ、死ぬのがあんまりこわくなくなった。気どってそんなこと言ってるんじゃない。ひょっとしたらあの続きが見られるかもしれないんだ。父と母と、赤ん坊のエッちゃんと小学生のノリちゃんが、どんなふうに話したり笑ったりしていたか、も一回見ながらおっ死《ち》ねるのならこわくないじゃないか。  何ゆうの、木ノ崎さん、まだまだ現役、いけるいける、なんて牧野のエロじじいは言うけど、アタシの家系は早死になんだ。ノリちゃんは五十を過ぎてすぐ、エッちゃんなんか五十にならずに死んじまった。友也と絵里子が結婚して家を出てから、寝ようとすると二人の死んだときの顔思い出して、アタシは毎晩泣いたもんだけど、最近それについてもちがうこと思うようになった。二人もきっと見てたんだ、死ぬときにさ。ノリちゃんとエッちゃん、それぞれの一番古い記憶。五人でごはん食べてたときか、かあさんと手つないでとうさんを捜しにいった夜かわかんないけど、でも、きっと映画観るみたいにその場面をじっくり見ながら死んでった。そう思うと、なんだかほっとする。  揚げものが出てくる。これまた気どった一口サイズ。どうりで老人が多い店だ。なんでもかんでもぽっちりした一口サイズ。気どりのなんにもない、桜えびとみつばのでっかいかき揚げなんかに、さっくりかぶりつきたいもんだよねえ。でもま、ここのもそう悪くない。アスパラなんかずいぶんやわらかい。  アタシ、わかってんの。口開いてあんまり好かれる人間じゃないって。友達がわいわいいてちやほやされたことなんか一度もないしね。エッちゃんはそういう子で、いっつもまわりにだれかしらいて笑ってたけど、アタシは正反対。口開きゃきらわれる。でもそのこと本人気づいてないわけだから口開く。で、きらわれる。だから、アタシ学校の記憶なんてまったくない。記憶っていえば家か仕事場か。だいたい、他人がいなきゃ記憶なんて成り立たないんだと思う。台風の夜だって、ひとりでがたがた震えてたんなら記憶に残ってないだろう。  だからアタシじーっと黙ってんの。じーっと黙ってりゃ、人も良く品も良く見えるんだろうと最近おごりじゃないけど思うんだ。論より証拠に黙ってりゃこうして誘われる。黙って座ってんのも退屈だけど、きらわれるよりいいさ。考えごとしてればいいんだもの。死ぬときに見る光景のことだの、エッちゃんの死に際のことだの、ひとりで考えてればいいんだもの。  しかし、このおっさんも無口だね。目が合うと、照れくさそうににやにやしてうつむいてしまう。おいしいですね、なんてひっそり言うきり。だいたいさあ、懐石料理なんていうから、どこに連れてってもらえるのかわくわくしてたらなんのことはない、ディスカバリー・センターの食堂じゃないか。がっかりだった。アタシはもっと、テレビで見るような、行列のできる店なんかにいってみたいんだ。食べ放題だの、限定百個だの、達人の味だの、いろいろあるでしょ、今。  このばかでかいショッピング・センターのおかげで、アタシの生活もずいぶんかわっちまった。近所の山なんか軒並み崩されて、建て売りだのマンションだのが立ち並んで、あたらしい住人がずいぶん流れこんできた。うちの近所は思ったより年寄りが多くて、なんていうんだか、サークルってのかクラブってのか、要は爺婆《ジジババ》の寄り合いがさかんになって、コーラスだのキルトだのは有志がやるからいいけれど、清掃、見まわり、ゴミ点検、地元小学生の世話、そんなもんが持ちまわりでまわってくるからまいっちゃう。仕事もなく年金生活してんのにみんな若ぶって、おしゃれしてはりきっちゃって、阿呆らしいったらない。でもまあ、町が昔のまんまだったらアタシもかなりいやだったろう。何しろ付近一帯、台所のどこに味噌がおいてあるか、その味噌が赤いのか白いのかまで知り尽くした連中ばっかりだもの、息が詰まるってもんだ。アタシ、好かれてるわけじゃないし。  もう入んないって思ったけど、最後の飯蒸が一番おいしくてぺろりとたいらげちまった。ウニ、鯛《たい》と、あとは鰻《うなぎ》の飯蒸がちょうど一口ずつ。ニレモトさんはよりによってウニを残してる。もったいないと思ってちらちら見てたら、いかがですか、なんて差し出されちゃった。もらいたいけどもらうわけにいかないだろ、よく知りもしない人の食べ残しなんて。  勘定はニレモトさんが払った。そうだろうと思っていたけど大袈裟に驚いてみせて礼を言う。ちらりとレジスターをたしかめたら二人で一万円しなかった。なんだ、意外に安いもんだ。今度、絵里子に教えてあげよう。絵里子と、マナとコウで食べにこよう。どうせあの子たちハンバーガーばっかりだろ。子どものころからきちんとおいしいもの食わせなきゃ味音痴になるってこないだテレビで言ってたし。 「はあー、おいしかった、久しぶりにおいしいもの食べたわー。ごちそうさまでございました」  言うと、ニレモトさんは赤くなってそっぽをむく。 「今度フカヒレいかがですか、専門店があるんですよ」  アタシを見ず、エレベーターへすたすた歩いていきながらニレモトさんは念仏唱えるみたいに言っている。あんなにだんまりで食事して、もうこれきりだと思ったのに今度はフカヒレとは。このおっさんと会ってどうたらってのは面倒だけれど、フカヒレは食べたい。 「フカヒレ。いいですねえー、フカヒレなんてどのくらい食べていないかしら」  アタシは注意深く言って笑う。ニレモトさんも笑う。お茶でもどうですかと低い声でニレモトさんは誘ってくれたけど、アタシは用があるからと嘘をついてとっとと先にバス乗り場に向かう。では途中までごいっしょに、なんて言われないようさっさか大股で歩いて、バス停にたどり着いたときには全身汗びっしょり、息が切れて苦しいくらい。  ニレモトさんてのは建て売り組で、こないだ清掃当番でいっしょになった。よくは知らないけど、奥さんに先立たれて子どもはおらず、けっこうおおきな企業に勤めてたんだけれど定年になって、退職金で建て売りを買ったって噂だ。噂だからどこまでが本当かわからない。でも、あんなに何もしゃべらない人が、大企業に勤まるもんだろうか。食事しながら自分のことを話すだろうと思っていたら、なんにも言わなかった。けど、それでいいんだ、アタシだって自分の話なんかする気、さらさらないんだし。  通りの向こうに走りこんできたバスは、絵里子の家にいくバスのような気がする。乗っちゃおうかと一瞬迷うが、やめておく。このあたりのバス網は本当に複雑で、アタシは絵里子の家にいこうとして幾度も見知らぬ住宅街にたどり着いちまった。路線を訊くにも、人がいないんだ、バス会社の人が運良く歩いてたって、アーバンマンション前はどれに乗りゃいいのかって言い終えないうちに、お客さまあちらにバスネットくんがございますので! だもん。馬鹿にすんな。バスネットってのはコンピュータで、ぽちぽち画面をいじるといろいろ教えてくれるものらしいけど、それが使えないから訊いてんの! あんたはバスネットくん以下なのかって、言ってやりたくなる。自分ちに戻るバスと電車だけはまちがえないから、おとなしく戻るのが無難無難。  電車駅のスーパーで二割引きの刺身を買ったけれど、七時をすぎたっておなかなんか空きそうもない。ちょぼ、ちょぼ、だったけどずいぶん量があったんだ、懐石。結局刺身は醤油とみりんにつけちまって、夜はお茶だけ。お茶飲みながらテレビを見る。閉めた雨戸の隙間から、不平を漏らすような蛙の鳴き声が絶え間なく聞こえてくる。  しかし、ニレモトさん、懐石だフカヒレだって、こんなばあさんひっぱりまわしてなんだっていうんだろう。まさか交際したいわけ? こんな年でおつきあいしたって、先なんか何もないと思うけどねえ。たがいの介護くらいしかすることないだろうし、そんな馬鹿らしいことってないよ。でもさ、あんなふうに男の人と二人で食事してると、なんだか思い出しちまう。あの人のこと。ニレモトさんなんかと似ても似つかないけどね。快活で、なんでもはきはきもの言って、食べっぷりも飲みっぷりも豪快で、腹の底から声出して笑うんだ、あの人は。  けど最近は、あの人の顔ももうはっきりは思い出せない。写真一枚ないんだから、それもしょうがないとは思うけど、それでも数年前まではちゃんと顔が浮かんできた。あのころのまんまのさ。眉がきりりと濃くて、目がやさしくて鼻筋がすっととおってる。でも今は、そうやって思い出しながら細部を組み立てていくと、まぶたにあらわれるのは友也の顔。似てるっていうことじゃない、断じてちがう、友也はあの人の子じゃない。友也の顔を押しのけて、もう一度あの人の顔をかたちづくろうとすると、まぶたの闇にあらわれるのは、そら、またあれだ、台風の日だ。  茶箪笥がある。たてかけられたちゃぶ台もある。おんなじくらい黒光りしている。金色の盥が薄闇にぼうっと浮かび上がる。絶え間ない水の音。どこからか入りこむ隙間風と、ひゅるひゅる子どもが泣くような音。足の裏のじっとりした畳、汗ばんだ脇の下。心配そうに屋根を見上げるノリちゃんと、ノリちゃんの背で眠る赤ん坊のエツコ。手拭いを姉《あね》さんかぶりした母と、屋根をぎしぎし揺らす巨漢の父。  こんなもんなのか。あれだけ好いた男がいて、あれだけすったもんだがあって、信じられないくらい長い時間のなか、子ども産んで育てて、苦労があってよろこびがあって未だ消えない後悔があって怒りがあって、何度も泣いたり笑ったりして、それなのに結局、目を閉じて思い浮かぶのは台風の夜、これだけなのか。  ひゅるる、ってひときわ風の音が大きくなってそれで屋根が吹き飛ぶ。眠りはもうすぐそこだ。 「あなたの会話って」最近絵里子は気どった話しかたをする。パート先ではやってるのかもしれない。「ほんっと、テレビと新聞ね。世界がテレビと新聞だけなのねえ、お気の毒に」アタシの前に腰を下ろして、仏壇のあたりをぼんやり見て言う。 「べつに気の毒なことなんかなんにもないけどさあ、そのテレビではね、その子がさ、その会ったこともない子のうちで暮らしはじめちゃうのさ、電話でやりとりしただけでだよ? そんで、一カ月、二カ月と家に帰らないわけ、そんな会ったこともないもの同士でいっしょに暮らしてうまくいくはずないって思うけど、最近の子はあれだねえ、うまくいくも何も家で顔合わせないんだもの、最初の子がスーパーで昼間働いて帰ってくると、そのあとからきた子はビデオ屋さんに夜働きにいくって具合でね」  絵里子が買ってきたアイスクリームをガラスの器に盛りながらアタシは話す。見たことのない店のアイスクリームだ。この家にやってくるとき絵里子はいつもお茶|請《う》けを買ってきてくれる。昔からこんなふうに気のつく子だった。ちいさいころから手のかからないしっかりもので、料理や掃除なんかも、教わらなくとも器用にこなすもんだから、アタシもずいぶん甘えちまった。悪いことしたって心から思う。  明日はお弁当の日だってプリントを、前日に渡してくれりゃあいいものを一週間も二週間も前に渡すからアタシすっかり忘れちまって、中学にあがったばかりのころ、この子ごはん食べずに帰ってきたことがあったっけ。さぞ恥ずかしかっただろうに、おかあさん、今日お弁当の日だったよって、けろりとして笑ってた。この子はいつもそんなふうに笑ってるんだ。そんな子が、泣いてアタシに食ってかかってきて、ようやくあれこれ気づいたんだから、アタシののんきにもほどがある。ずいぶんつらい思いをさせちまった。戻れるなら戻ってやりなおしたいって幾度も考えた。けど、どこに戻ったらうまくやりなおせるのか、考えてるといつもわからなくなってしまう。 「それでさっきの続き」  アイスクリームを差し出しながら、窓の外をぼんやり眺めている絵里子に声をかける。庭は雑草が生い茂っている。もうずいぶん長いこと手入れなんかしていない。 「その子の親、急に子どもがいなくなってんのになんにも言わないわけさ、テレビが話を聞きに親を訪ねていったらね、一日に一回はかならず電話で言葉を交わしていて? 自分は信頼しているから? 子どもは平気だと信じているとかなんとか言うんだよね、信頼ってさあ、それどうよ、そういうのを信頼っていうのかね」 「何が言いたいの?」絵里子は窓から視線をアタシに移す。「言っておくけどうちの子たちは帰ってこないこともないしうちでは家族全員いっさい秘密がないんです。あなたもねえ、テレビと新聞が世のなかの全部だって思うのはやめたら? ケースAがあればBもあってうちはうちなの、知らないくせに口出しされても」  なんでこの子はこうつんけんした言いかたしかできないんだろう、やさしい子なのに、と、思ったことをそのまま口にしようとしてあわてて飲みこむ。そういうことを言うと最近この子はますますつんけんしだすからさ。ま、よけいなことは言わぬが花。 「あら、あんた、このアイスおーいしい。食べてごらん、って、オモタセだったか」  電話が鳴る。子どもみたいに、ちびちびとスプーンでアイスをすくいとっている絵里子を横目に、子機をとる。ニレモトさんだったらいやだな、と思ったら知らない声だった。知らない声がアタシの知らないことを告げる。意味がわからなくて言葉に詰まっていると、知らない声は同じことをもう一度くりかえした。近ごろの医者がアタシに対してよくやるように、文節ごとに区切って、幼児に言い聞かせるような口調で、声をはりあげて。子機から知らぬ男の馬鹿声が漏れて絵里子に聞こえないよう、アタシは廊下に出て、男がくりかえす単語に意味をあてはめていく。  電話を切って居間に戻ると絵里子は帰り支度をしている。悪いけど、ごはんの準備があるから帰るわ、と無愛想に言う。 「ああ、アタシも用ができたからちょっといっしょにそこまで出るわ、五分待って五分」  言うと、なぜか絵里子は途方に暮れた子どものような顔をした。  並んでバスの座席に座るのは久しぶりだった。窓の外で田畑の緑はまだ夕暮れに染まる気配がない。力強く生い茂って風に揺られている。 「なんだか思い出すね」窓際に座る絵里子に話しかける。 「何を?」絵里子は眉間《みけん》にしわを寄せてアタシを見る。 「昔よくごはん食べにいったじゃないか、バス乗って電車乗って……ディスカバリーがまだできないころよ、ライオン亭だの鮨常さんだのいったろ?」  絵里子が中学生、友也が高校生のころ、工場から皆勤の金一封が出たりすると、みんなでよくバスと電車を乗りついで食事にいった。友也が席を譲ってくれるからいつも、アタシと絵里子はこうして二人掛けの席に座って外を見ていた。そのときのことを言ったのだがしかし、 「何それ? 私、あなたとごはん食べにいったことなんかないけど」  絵里子は即答し、あまりにも当然のことのように言うので、その瞬間、自分の記憶が疑わしくなる。ぼけがはじまっちゃってんのだろうかと不安になる。みんなでごはんを食べにいけたらいいなあってパン工場で作業しながら夢みてたことが、実際の記憶みたいになっちゃってるのか? いったじゃないよライオン亭、クリームコロッケ好物だったじゃないよ、鮨常の若いのがなんとかってタレントに似てるってきゃあきゃあ言ってたじゃないよって、だからアタシはこわくて念押しできなくなる。そんなの知らないってぴしゃりと言われたらどうすればいい? 「コウはどうよ、最近」アタシは話題をかえる。 「べつに。問題なしよ」窓の外を向いたまま絵里子は答える。そしてふいにアタシを見据え、「コウは問題がなさすぎてこっちが心配になるくらい。勉強もスポーツもそこそこやってるし、友達も多いし、私たちともよくしゃべるしね。ねえ、コウ、コウっておかあさんよく言うけど、コウがなんなの? 何かあるの?」そんなことを言う。  何かあるも何も……喉まででかかった言葉をアタシは苦労して飲みこみ、 「コウは友也に似たのかもね」  なんてお愛想を言って笑ってみせた。  それからは絵里子はむっつりと黙りこんで、話しかけてももう何も応えてくれなかった。仕方なしにアタシも黙ってバスを降り、電車に乗り換える。近ごろのバスも電車も人を殺す気かっていうくらい冷房をきかして、なんだっていうんだろう。きんきんに冷やされて外に出るとねっとり蒸し暑くて、行き来しているだけでげんなりしちまう。 「いったいどこまでついてくるのよ、まさかうちまでくる気?」  ディスカバリー・センターに向かうバスにいっしょに乗りこんだら絵里子はいきなり大声を出す。 「ディスカバリーに用事があるんだよ」アタシは言う。 「なんなのよ、用事って」絵里子は訊くが、アタシは質問を返す。 「あんたはまっすぐ帰るの? このバスでいいの?」 「私も買いものして帰るのよ、ディスカバで」吊革に並んでつかまった絵里子は言い、「ええっ?」アタシはすっとんきょうな声をあげてしまう。  どうしよう。ばれないといいけれど。まあ、ばれたらばれたでそれもいいか。なんたって親子なんだし。  そんなアタシの懸念とは無関係に、ディスカバリー前で停まったバスから絵里子は転げ落ちるように降り、「じゃあ、またね! 急ぐから私先いくわ!」叫ぶように言って駆けだしていく。ああよかった。そろそろ淡い橙《だいだい》色に染まりはじめた空気のなか、こうこうと明かりをつけたショッピング・センターに向けてちいさくなる絵里子のうしろ姿をしばらくアタシは見つめ、充分な距離をとってから歩き出す。裏口にきてほしいと言われた。  メインモール、一番大きな建物ね、わかりますか? 正面の大きな建物です、そこの右側に、カフェがあります、カフェ、喫茶店、お茶屋さんですね、そのわきにちいさな通路がありますから、そこをね、ずうーっときてください、ずうーっと歩いて突き当たりを右、右ですよ、右に事務所がありますからね。  さっき電話をかけてきた見知らぬ男はそう言っていた。人を年寄り扱いして。カフェをお茶屋と言いなおさなくたってわかるっていうんだ。  ひょっとしたらさっきの電話は悪質ないたずらかとも思って──そう願ってもいたのだが、カフェの隣に細い通路は本当にあり、突き当たり右に雑然とした事務所が本当にあり、事務所の奥の机にはコウが、本当にいた。たった数カ月ぶりなのに、また手やら足やらが伸びてる。ずいぶん長ッ細い子になっちまったもんだ。その長ッ細い子がうなだれて、縮こまって灰色の事務机の前に座っている。  万引きをしたんだそうだ。係の中年が、机に並んだ物品をもったいぶってアタシに見せて説明する。生理用品と女性用|剃刀《かみそり》、それから化粧落としのクリーム。鞄に入れて出てきたところを出入り口でつかまったらしい。この中年男は電話をしてきた男じゃない。年寄りに話すように大声出さないで、不機嫌に淡々としゃべっている。アタシはちらりとコウを見る。コウはうなだれたまんま、自分のてのひらをこすってる。白いてのひらがほんのり赤くなっちまってる。  なんだ、心配して損した。絵里子と向かい合っているとき、コウが万引きしたという電話をもらって、連絡先はここの電話しか言わないなんて言うから、ああもう、たいへんなことになっちまった、とにかく絵里子には知られないよう、アタシができるところまではアタシがなんとかしなきゃって心臓がどきどきしてたけど、盗んだ品物を見れば、たいしたことない。おおかたマナに買ってこいって命令されたものの、こんな女の買いもの、レジに持ってくのが恥ずかしかったんだろう。そういう年ごろだもん。  不機嫌な中年と、店長だという絵里子くらいの年の女、二人から説教されて、幾度もあやまって、三十分後にその狭い散らかった事務所から解放された。品物は、代金払ってアタシが買った。 「おばあちゃんもうびっくりしちゃったよ、電話きたときあんたのおかあさんうちにいたんだもの」ディスカバリー・センターをあとに、並んで歩きながらアタシはコウに言う。「あ、ひょっとしたらかち合うかもよ、おかあさん、アタシといっしょにうち出てここのスーパーにいったからさ。そしたらあんた、おばあちゃんと偶然そこで会ったって言うんだよ、心配するから」  コウはなんにも言わない。うつむいて、ななめに掛けた鞄のホックをいじりながら歩き、ディスカバリーの敷地を出たところで、ふいに顔をあげ、 「おばあちゃん、ごめんね」急に言って、アタシの手からビニール袋をとりあげる。さっきの、生理用品だの剃刀だのが入った袋。「助かったよ。どうもありがとう」 「待ちな」  アタシをおいて駆け出しそうないきおいのコウの腕を、思わずつかむ。コウは困ったような顔でアタシを見おろす。なんだかきな臭い。生理用品はマナの命令じゃないのか。ひょっとしたら、テレビで見たような展開かもしれない。電話で知り合ったどっかのだれかんちに居候してて、それでおつかいでも頼まれたのか。 「なんなの」野太い声には似合わない、おどおどした口調でコウは言う。 「なんだも何もないよ、あんたの保護者としてひきとったのはアタシだよ、どこいくのさ、家か、それともべつの場所か。アタシはあんたに保護責任があるから悪いけどついてくよ。逃げてごらん? アタシは年だから追いつけないけど、そのままあんたんちいって、おかあさんに全部言いつけてやる」  コウはアタシをちらりと見る。声は立派に大人だけど、顔はまだ子どものまんまだ。なんにも知らない頭んなかで、あれこれ画策してるのが全部顔に出てる。 「うちじゃないんだ」アタシに右腕をつかまれたまま、押しだすようにコウはつぶやく。「どうしてもついてくるの?」  アタシがうなずくと、ちょっと歩くけど、と抑揚のない声で言って、コウは車のひっきりなしに行き交《か》うバス通りを歩きはじめる。車の騒音と競うように、油蝉が鳴きわめいている。アタシのてのひらのなかで骨張ったコウの腕は汗ばむ。ふいに、コウが赤ん坊だったころを思い出す。よくおぶって散歩したもんだ。眠るコウの体温で、アタシの背中もじっとりと汗ばんだっけ。ねえコウ、あのころはさ、このへんなんにもなかったよねえ、田んぼと畑がざあっと続いてるだけで。喉元までそんな言葉が出かかって、けれど見上げたコウの硬い表情が、そんなのんきなことを言っている場合じゃないと告げていて、アタシは口を閉ざしてひたすら歩く。  あちゃあ、と、その部屋に入ってようやく声が出た。コウがアタシを連れてきたのは連れ込み宿で、いったい何ごとかとしばらく声も出なかったんだけれど、コウは自分の家に向かうみたいにすたすたとエレベーターに乗り薄暗い廊下を進み、506と書かれた部屋の前でノックして戸を開けた。  扉の向こうにはかなり広い洋風の部屋があり、真ん中のベッドには女がひとり、座っていた。女のほうも目をまるくしてアタシを見てる。あちゃあ、とアタシが声を出して数秒後、 「なんなの、これ」  女も声を出した。 「あ、ぼくのおばあちゃん」コウは言い、女にさっきのビニール袋を手渡す。 「ええー? おばあちゃん?」 「うん、ちょっと、しくじって」 「何、しくじるって。ひょっとしてお金もってなかったの?」 「もってると思ったんだけど、財布見たら、なくて」 「それで何? もってきちゃおうとしたの?」 「うん、それで」 「げえー、だっさー」  アタシは人んちに招かれたまま放り置かれたみたいに、だだっ広い部屋の片隅に立って二人のやりとりを聞く。せいぜい友達の家か、たまり場になってる空き家か、コウの連れていく先はそんなもんだと思っていたが、中学生っていったって最近の子は早熟なもんだ。どう見たってはじめてきたとは思えないし。ベッドの上でえばりくさってる女は二十歳過ぎに見えるから、この女に連れてこられたんだろうけれど、コウが連れ込みに入り浸ってるなんて口が裂けても絵里子に言えない。何が秘密はないだ。何が問題ないのが心配だ。まったくのんきな親だよ。テレビの馬鹿ッ母を笑えないじゃないか。 「だってマ……おかあさんとかおとうさんとか、呼べないだろ」 「べつに呼んだっていいじゃん。あたしはべつにいいけど?」 「でもさ……」 「ってゆーか、なんでここまで連れてくるわけー? 意味わかんない。三人でここで何すんのー?」  ベッドの上で女は笑う。コウはベッドのわきで、叱られた子どもみたいにしょげて突っ立っている。それにしても、ずいぶん立派な部屋だこと。一昔前の、アタシの知ってる連れ込みなんかとはもうまるでちがう。じめじめしてて、どことなく不潔な感じがして、照明も夜具もけばけばしくて、足を踏み入れただけで何かうしろめたい気分になるのが連れ込みの常だったけど、フローリングであかるくて、カーテンやソファはかわいらしいピンク色で、部屋の真ん中にベッドがなけりゃ絵里子んちの応接間とそうかわらない風情じゃないか。だからこんな若造が易々《やすやす》と、罪悪感も羞恥心もなしに出入りできるんだ。 「そんで、ねえ、おばあちゃん連れてきてどうすんのよー。ちょっとマジ、シュールすぎて夢見そう」  女はさらに笑い、ヒステリーじみた笑い声をしばらくあたりに響かせたあと、 「あーあ」低い声で言って煙草に火をつける。裸足《はだし》でぺたぺた歩き、冷蔵庫から缶ビールをとりだして立ったまま飲んでいる。生理用品の入った袋はベッドの上に投げ出されている。コウを見る。コウはベッドのわきに突っ立って、ビニール袋から飛び出た剃刀のあたりを眺めている。コウの顔に表情はなく、耳だけが赤い。  無表情で何かを見つめるその顔が、友也にそっくりでアタシはぎょっとする。四歳で我が家に帰ってきた友也。自分がこのうちの子だと信じることができなかった幼い友也。  どうしても結婚したくて、結婚しなきゃ未来はないように思えて、人づての見合いで即決しちまったのが二十二歳のとき、家つきカーつき婆抜きってあのころよく言ったけど、ほんと、結婚を決めた理由なんてそれくらいだった。あの人に捨てられて、でもきっと戻ってくるだろうって信じてたのに、本当にあのままヨソの女と結婚しちまって、なかばヤケでね。  世のなかはさ、どんどんよくなってく。アタシなんかでもそれはわかるんだ。テレビだの炊飯器だの冷蔵庫だのどんどん出てきて、雲の上みたいな暮らしが夢じゃなくなってくってことだけはわかって、でも、じゃあアタシの手に入るものは何かっていったらなんにもなかった。勉強ついていけなくて高校いかなくなっちゃって、集団就職組といっしょになって東京にきて、学歴はなし|つて《ヽヽ》はなしで、しかも堪《こら》え性がないからどんな仕事も長続きしなくって。それでも働き口はいくらだってあった。なんでもやった。和タイプの時給がいいって聞けば夜間でタイプ習って、洋裁がそれより何割いいって聞けば洋裁習って、実際洋裁やタイプができれば仕事に困ることはなかったし、あれこれ選《え》り好みしなければ、工場の流れ作業なんかならわんさとあった。でも、いくらでもあったって、おんなじことだ。働いてお給金もらって、いやなら辞めて、また一からやりなおし、横にならいくらだって移動できるけど、縦に積みあがらないんだ。いつまでも今日明日の食い扶持《ぶち》を稼ぐような暮らし。そりゃ自業自得だって言われればそれまでなんだけどさ。皇太子さまが結婚して若い人がオートバイ乗りまわして、団地の抽選がはじまってカラーテレビが街頭に出て、田舎にいたら信じられないくらい東京はゆたかになっていくのに、でもそのころのアタシが欲しかったもの、なんだかわかる? 今考えれば笑っちゃう、ストッキングだもん。ナイロンのストッキングが欲しくて、なんていったっけあの会社、ナイガイアミモノ、あそこに募集かかるたび応募してたんだからおかしいよね。しゃれた建物だったし、それに何より、あそこならいくらだってストッキングが手に入ると思ったんだ。ひばりの事件あっただろ、硫酸だかなんだかをひばりにぶっかけたって。あのときアタシどきっとした。犯人とアタシ同い年だったし、あんたはアタシたちとちがいすぎるって、アタシだってそう思ってたもの。  でも、あの人と結婚できると思ってたんだ。あの人と結婚して、それでもうそんな全部が終わるって信じて露も疑わなかった。まさか、捨てられるなんて思ってもみなかった。マナやコウはもちろん、絵里子だって、今どきの人はそんな話信じてくれないだろうけど、あの人上司の娘と見合いして、アタシとはなんにもなかったみたいにぱっと結婚しちまった。そのまま出世コースにのったわけだから、地方の農家の、戦死して父親はいない、しかも出てきたっきり帰る予定もない「ああ上野駅」そのままの田舎娘なんか、しょっぱなから結婚相手の対象として見ちゃいなかったってことなんだろうけど。  そのときの勤め先は鉄を扱うわりと大きな会社だったけど、結婚の決まったあの人と顔を合わせるのがつらくて、逃げるように辞めて、なんとかしなくちゃって簿記を習いはじめたものの先が明るくなる見通しがまったくつかなくって、それですがるように結婚したんだった。  結婚したとき夫は造船会社で働いていたのに、結婚したとたん辞めちまって職捜し、食品会社の倉庫で働いてみたり、百科事典の類を売りはじめてみたり、あげく店を持ちたいって言い出して、喫茶店を開くためにあちこちから借金してみたり。性格がのんきなんだ、引き揚げ組だから。家があったからいいようなものの、その家だって名義は夫の長兄のもので、義姉をはじめ夫のきょうだいたちがしょっちゅう入り浸ってああだこうだと文句は言う、飯は食う、こづかいはせびる、いったい何人で暮らしてんのやら、頭がおかしくなりそうだった。カーつきだなんて有頂天になった車も、結局一年もしないで夫の弟が事故起こしておじゃんになっちまった。阿呆くさ。  なんであんなときに身ごもったのか、友也が生まれたのはちょうど、開店して一年もたっていない喫茶店をいよいよ手放すか、それとも開店休業のまま赤字を続けてくかって瀬戸際のころだった。ふつう、子どもができると目が醒めるだろ? それがあの人、喫茶店はとりあえずやめて、その場所でべつの商売をしようってまた夢みたいなこと言い出して、はじめたのが貸本屋だった。知り合いに古本屋がいたから、短絡的にぱっと飛びついたんだろうけど、時期が悪かった。いや、地の利が悪かったのか。  喫茶店がつぶれようが貸本屋がこけようが、生活はまわってくから、アタシも働いた。毎日入れかわりたちかわりうちにやってくる夫のきょうだいたちに友也をあずけて、馬鹿みたいに働いた。また、横への移動暮らしだ。いつまでたったって、縦に積みあがらない暮らし。父親も母親も一日じゅう家にいない、帰ってきたらなんかかんかとお金のことで口論して、そのせいなのかどうなのかは未だにわからないけど、友也の夜泣きがひどくなって、ミルクもなんにも受けつけなくなった。結局、みんなで話しあった結果、暮らしが落ち着くまで友也は義姉の家に預けることになったんだった。  あれは策略だったんだなあって今考えればわかる。夫の二歳上の姉、シズコさん、あとで知ったけど、十代のころ、なんかの病気して子ども産めない体だったんだ。シズコさん夫婦は好きで子どもを持たないんだとばかり思ってた。結局あの人、友也のこと欲しかったんだ。こんな生活じゃあ子どもに悪影響が出る、肉親だからしかたない、子どもいないしうちで当分預かるわってシズコさん訳知り顔で言ったけど、あのまま友也がなついて、アタシたちがあきらめて手放すのを虎視眈々《こしたんたん》と待ってたんだ。かといってどうしようもなかった。アタシの実家の人間がこっち出てきてなんとかしてくれるはずもなし、ほかに頼れる人はいなかった。  貸本屋もまた廃業、知り合いの|つて《ヽヽ》をたよって夫は運送会社で働きはじめ、アタシも近所の病院で事務のパートはじめて、借金をほぼ返し終えたのがそれから二年後。友也を人に預けといてなさけないけど、そのころ絵里子を身ごもって、それでアタシ、二人いっしょに一から育てようと思ったんだ。友也と、生まれてくる赤ん坊とを。シズコさんはなかなか友也を返さなくてたいへんだった。帰ってきたら帰ってきたで、友也、幼心に自分はもらわれてきたんだと勘違いしちまって。赤ん坊がどのくらいから記憶を持ってるのかアタシにはわからないけど、友也にしてみれば、一度だれかに捨てられて、今一度親と思っていた人に捨てられたって、頭のどっかでちゃあんと理解してたんだ。ここがあんたんちだよ、アタシはあんたを産んだおかあさん、この人はあんたのおとうさん、赤ん坊はあんたの妹だよっていっくら言って聞かせても、心のどこかで疑ってる。あの子、阿呆みたいに、ごはんがとてもおいしいですって言うんだ、食事のたびに。おいしいです、ありがとうございますって。四歳になったばかりの子どもがだよ。あら、友也シャツに醤油いつ垂らしたのって何気なく訊いただけで、ごめんなさいもうしません、だもの。お行儀よくしてなくちゃ、また捨てられるって思いこんでるんだ。  ちっちゃい子どもって、とことん無力なんだ。親がどんなに馬鹿でも駄目でも、それしか頼る人間がいなかったら、全身全霊で愛すんだ、愛することで愛されようとする。ほんと、こんな身勝手な親でもさ。愛だのなんだの、いったいだれに教わるんだろうってあのころアタシよく考えた。  アタシ、自分は頭がいいほうだなんて思ったことただの一度もないけれど、その馬鹿なアタシがしでかした一番おろかなことってのが、赤ん坊の絵里子と四歳児の友也をいっしょに育てようって殊勝な決心したことだ。どんなにこっちが気張ってみたって、どうしたって赤ん坊に手がかかる。ふつうならそれでいいんだ、上の子が赤ん坊に嫉妬して、こっちも見て、相手してって、赤ん坊がえり起こしたり駄々こねたりなんて、あたりまえのことだ。でも、下手すりゃまた捨てられるって疑心暗鬼のかたまりになってる友也は、アタシが赤ん坊にかかりきりになっても泣くこともできない、声をかけてくることもできない。視線に気がついて顔をあげると、ちょっと離れたところから、じっとこっちを見てるんだ。おっぱいあげておむつかえて、高い声あげてねんねこうたってるアタシをじっと見てる。ぞっとするくらいその顔に表情はまったくないのに、耳だけがなんでか赤かった。それはよく覚えてる。茶色くて細い髪の毛のあいだからぴょこんと出た白い耳が、すっとピンク色で、だんだん赤みを帯びてくる。そこだけ必死に何か訴えてるみたいにさ。  あのころは本当に、ずいぶんシズコさんを恨んだもんだ。今考えてみりゃ、自分の子どもなんだもの、いっときだって手放したアタシが悪いんだし、預けてるあいだいくら忙しくたって、しょっちゅう顔出してアタシが母親だってことをあの子にわからせるべきだった。全然いけなかったもの。シズコさんち、電車で一時間もしないっていうのに。とにかく借金さえなくなればみんないっしょに暮らせるんだからって、そっちにばっかり頭がいってしまってた。  でもあのときは、自分のことをママなんて呼ばせていい気になってた義姉に腹がたって腹がたってたまらなかった。きっと陰でおさない友也に、あんたのおかあさんはひどい人で、あんまりかわいそうだからあたしがこの家にひきとったなんて、それぐらいのことは言ってただろうって決めこんでたんだ。自分の生まれた家で一生懸命行儀よくして、実の父母の顔色をびくびくうかがってるあの子が、寝言でママ、ママ、なんて呼んでるのを聞いたときは、本気であの女を殺してやろうかと思ったものだった。  でもそれも全部昔のことだ。家はとうにアタシのものになった。がちゃがちゃと暮らしていた夫のきょうだいたち、そちらの親戚筋とは、夫が亡くなってずいぶん疎遠になってしまった。だから、絶縁状態になっていたシズコさんがつい数年前死んだと教えてくれたのは、貸本屋時代の知り合いだった。乳がんだったらしい。最後は全身に転移しちまったって。シズコさんが逝《い》ってしまって、子どもはいないし、シズコさんの旦那──なんという名前だったか、カメラが趣味の、口ひげ生やしたものしずかな男だった──は老人施設に入ったんだそうだ。  あのころのごたごたを、いや、アタシのいろんな不始末を、知っている人間は、だから身近にひとりもいない。赤ん坊だった絵里子は当然何も知らないし、友也だって、薄ぼんやりとしか覚えていないあのころの、こっちの事情は知らないはずだ。自分のしでかしたいくつもの馬鹿な失敗は一生だれにも言うまい、後悔といっしょに墓まで抱えていくんだ。自分のためだけじゃない、絵里子と友也のためにも、そのほうがいいんだ。  五年前の友也の結婚式に呼んでやればよかったって、このごろ思ってる。シズコさんだって余計なことを言い出さず、親戚のひとりとして参列してくれただろう。もちろん死んじまったと聞いたからそんなこと思うんだ。聞かなきゃ今でも憎いまんまさ。けど、ごはんをありがとうございますって頭を下げてたちっちゃい友也が、おっきくなって相手を見つけて結婚できたんだ。アタシたちの時代とちがって、ヤケばちの見合いなんかじゃない、ちゃんと自分で相手見つけて、わたしの選んだ人を見てくださいってだれかのせりふじゃないけど胸張って言うんだもの。あの子のことで泣きどおしだったあのころは想像もできなかったけど、現実にあの子はそこまでおおきくなったんだから、なんだかもういいやって思うのも確かだ。あの子の選んだ嫁の性格|云々《うんぬん》ってのはまたべつの話だけど。 「ちょっとトイレ」  どこか遠くで女の声がし、アタシの目には子どもの友也じゃなく、ベッドの前に立ちつくすコウが映る。ピンクのチェック地のカバーが掛かったベッドはへんにでっかいが、なんだか生活感があって、一瞬コウの部屋にいるみたいな気がしてしまう。コウ、こづかいあげる、おかあさんには内緒だよ、なんてついさっきアタシ言ったんじゃなかったか。  女は飲み干したらしいビール缶を握りつぶしてゴミ箱に放り投げ、アタシが買った生理用品を片手でつかんで部屋を出ていく。トイレは玄関のわきにあるらしい。部屋のなかがしずまりかえる。 「あの人」あの人に買いものをたのまれたのか、それでお金がなくてもってっちまおうとしたのかと訊こうとして口を開いたのに、喉の奥がひからびてくっついたみたいで、うまく声が出ない。コウがゆっくりこっちを見る。目が合う。なんだっていいや、訊くほどのことでもないやな。コウは泣きそうな顔をしている。だからアタシは笑いかけてやる。  乱暴な音をたてて部屋のドアを開け閉めし、女が戻ってくる。赤い髪の毛が腰まである。アタシと一瞬目が合う。なんでだか、この子も泣きそうな顔をしている。笑いかけてやろうと思ったらふいと視線を逸《そ》らし、壁掛け鏡の前に立つ。 「あーあ、ほんじゃ帰ろうかなー、あたし。コウちゃんはおばあちゃまとゆっくりしていったら?」言いながら、口紅をていねいに塗っている。鏡ごしにまたアタシをちらりと見る。唇がぬるりと赤い。うちの家系はそもそも相手を見る目がない。友也の嫁も小生意気で人を小馬鹿にしくさってるし、絵里子の夫も甲斐性なしの抜け作で、だいたいアタシの夫がああだったからしょうがない。コウまでこんな阿呆面の商売女みたいなのとくっつくなんて、これは何かの因果じゃないのか。女は鏡と向きあったまま、ブラウスの襟をなおしたりベルトをいじくったりしている。 「黙っといてやるけどね」思いきって声を出す。さっきよりきちんと声が出てほっとする。アタシは一気にしゃべる。「あんた、人に買いもの頼むならきちんと代金も渡しなさいよ、連絡がアタシだったからよかったけど、これが学校だったりしたら一大事だよ、あんたはいいかもしれないけどこの子はまだ中学生なんだし、そういうこともきちんと考えてもらわないと」 「いくらですか?」女はアタシの前に立って言う。赤い唇を横に開いて笑いかけてくる。アタシが呆気《あつけ》にとられていると、「だから、ナプキンの代金です。今払います。いくらでした?」しれっと言う。なんだこの女。 「金払えって言ってんじゃないよ」つい大きな声が出る。「あんたがいくつなのか知らないけれどこんな子どもを拐《かどわ》かしたってしょうがないだろ、こんなところに連れこんで、この子の親が知ったら泣くよ、あんただって親いるでしょう、中学生と連れ込みかよってるって親が知ったらどう思うかよく考えてごらん」 「コウくん、あたし帰るね。コウくん帰ってくるのあんまり遅かったから、延長ついでに泊まりに変更しといたの。そのほうが安くつくし。お金払っとくから、何時間でも、一晩でも、おばあちゃまと語り合ってね」  女はチェック地のソファに投げ出されていたハンドバッグをつかむと、まっすぐドアに向かって歩き、ドアノブに手をかけてふとふりかえり、アタシを見据える。 「おばあちゃま、べつに黙っておいてくださらなくて結構ですよ、コウくんのご両親にどうぞ報告なさってください。それからあたし、親はふたりとも亡くなっていて肉親はおりません。それじゃあ、ナプキンとか買っていただいて、ありがとうございました」  さっきの泣きそうな顔はどこへやら、口元に笑みを浮かべてふかぶかと頭を下げ、女は部屋から出ていった。 「先生」短く叫んでコウは数歩前に足を踏み出したが、女のあとは追っていかなかった。 「先生って、コウ、ありゃ学校の教師か」思わず訊くと、 「ううん、ちがう、ごめんねおばあちゃん」弱々しくそう言って、耳を赤くしたままコウはアタシに笑いかける。  見知らぬ女がいなくなってしまい、コウと二人きりになると、異様にベッドがでかい、部屋からガラス張りの風呂場がまる見えのその珍妙な部屋も、みるみる空気がゆるみ、見知ったような和んだ空間になる。 「コウ、正直に言いな、あの女とはどこまでいった仲なの」  ソファに腰かけてアタシは訊く。座ってみると足の裏がじいんとして、ずいぶん長いあいだ突っ立っていたんだと思った。そういえば腰も痛む。緊張して気づかなかったのか。というよりも緊張してたのか。何に、だ? あの女に? 連れ込みに? 意外な状況に? 友也に似たコウに? 「どこまでもいってないよ、本当だよ、なんにもしてないんだ、ここへきたのだってはじめてで、だいたいそういうんじゃないし」  コウは真剣な顔で答え、しばらくもじもじしていたが、足元に落ちていた鞄を拾い上げ、 「帰るね」とつぶやく。それならばアタシも、と立ち上がろうとしたが、足腰に力が入らない。 「アタシはもう少し休んでいってもかまわないかしら」  しかたなく言うと、コウは少し驚いたようにアタシを見、 「平気だよ。泊まっていっても平気。たしか、朝の九時までに出れば平気だよ」と、言い訳をするような口調で必死に言いつのり、ドアに向かう。さっきの女がふりむいたところでおんなじようにふりかえり、 「本当に、さっきの人となんでもないんだ。ちょっとこみいった話があっただけなんだ。あの、このこと、ママに言わないで。あと、マナっちにも。あの人に迷惑かかると思うし」  何かを演じるようによどみなく言う。 「はいはいわかったよ、だいじょうぶだよ、コウ、あんた帰りのバス賃あるの?」 「うん、平気」  コウはうなずいて出ていった。今日、ありがとう、ごめんね、と、ドアの向こう、玄関から聞こえてきて、扉の閉まる音が続き部屋はしずまりかえる。息を吐くと、それは思いのほか長いため息になる。  ソファテーブルに置いてあったリモコンでテレビをつけたら、いつも家で見ている夕方のニュースが流れてきた。それを見ながら足の裏を揉み、腰を伸ばす。そういえばアタシ、旅行なんか一回もしたことないんだ。絵里子たちがまだちいさくて、夫が生きていたころは夏によく海へいったけれど、ひとりでどこかへいったことなんか本当にない。ひとり旅ってこんな感じなんだろうか。アタシはほんと、なんにも知らずに生きてきたなあ。  サイドボードにお菓子が置いてあって、腰を伸ばしながらとりにいくと、横にレストランみたいなメニュウがあった。最近の連れ込みはずいぶん便利なもんだ。チキンサラダ海鮮サラダ、茄子《なす》とベーコンのスパゲティ、餃子炒飯、お刺身定食に焼き肉定食。写真つきのメニュウを読んでいたらお腹が減って、メニュウの指示通りに電話して、電話に出た声の細い女に、この料理はここでつくっているのかと訊いたら、近所から出前してもらうんだとおどおどした声が告げた。それならよかった。安心してお刺身定食を頼む。連れ込み宿でお刺身定食なんかつくられたら、なんだかぞっとするもんね。  注文が届くあいだ、下半身パンツ一丁になって風呂を洗った。風呂桶と、洗い場と全部、洗剤がないからシャンプーで洗って、シャワーでいきおいよく流したらすっきりした。部屋のピンポンが鳴って、あわててスカートをはき扉を開ける。どこか薄幸そうな中年女が盆にのった料理を持って立っている。アタシを見、いぶかしげに部屋の奥に視線を投げている。 「宿泊代は払ってあるって聞いたんだけど」不安になってアタシが言うと、 「ええ、いただいております」中年女は言って、あわてて去っていった。電話に出た細い声の女とはちがう人みたいだった。  入ったときは普通のうちみたいでびっくりしたけど、考えてみたら食卓ってもんがない。そりゃあそうだ、ここは男と女がすることをするためにくる場所なんだもの、食卓のかわりにベッドがあるのは当然のことだ。しかたない、ソファテーブルに盆をのせて、クッションを床に敷いて座る。刺身はまぐろ、イカ、カンパチに帆立。冷や奴の小鉢と、味噌汁、漬け物つき。さっきの女が冷蔵庫から缶ビールをとりだしていたのを思い出し、アタシも一本つけることにする。ごていねいにコップは「消毒済み」なんて書かれたビニールで一個ずつ包んである。  テレビ画面では天気予報が終わり、野球がはじまる。野球じゃつまらない、リモコンを手にとったとき、おばあちゃんチャンネルかえないで、と言う幼いコウの声が聞こえた気がしてふと手を止める。  あの子はアタシにおぶわれたことを覚えているだろうか。アタシの背中で歌を聞きながら眠ったことを。  子どもの持つ発火性みたいな熱の感触はかわらないのに、絵里子や友也をおぶったときとは何もかもかわっていた。力んで、額に汗して走りまわらなくても、きちんと生活はまわっていて、時間の流れがゆっくりになって、必要なものはちゃんと手に入る。マナやコウをおぶって、区画整理もされていないうちの近所や、ショッピング・センターもできていないこのあたりをぶらぶら歩いてると、生きなおしている気がした。突貫工事みたいにさ、アタシが考えなしに必死になってやってきた、いくつものおろかなことや、とりかえしのつかないようなこと、それを全部、やりなおしているように思えた。アタシは知ってる歌をくりかえしうたったっけ。背中にはりつく子どもの、まるくふくらんだ尻のあたりをやわらかくたたいてやりながら。  実際、絵里子とうまくつきあえるようになったのもそれからのことだ。言いすぎて、ああ悪かったって思うんだけどアタシは謝ることができないから、絵里子なんかにはずいぶんきびしくしちゃったと思う。ひどいこともずいぶん言った。あの子も頑固なところあるから、それまではぎすぎすしてたのが、マナやコウが生まれてきて、アタシもあの子も、ずいぶん素直に話せるようになった。ほんと、やりなおしなんだよね。くりかえし、やりなおし。  缶ビール、ちいさいの一本飲んだだけなのに酔っちまったのか、ずいぶんいい気持ちだ。風呂に湯をためて、ゆっくり浸かる。歌をうたってみる。カラス、なぜ鳴くの。カラスは山に。あの子たちにうたってやった歌だったか、それともとうさんがアタシたちにうたってくれたのだったか……。  飲兵衛で、酔いつぶれてよく帰ってこなかった。今でも覚えてる。十一時をすぎるころ、さあいくよって、かあさんが立ち上がるんだ。エツコをおぶって、右手にアタシ、左手にノリちゃん連れて、しんとしずまりかえった夜のなかに出てく。全員でとうさん捜しにいくんだ。飲屋街、っていってもバラックが連なってるだけだけど、そこを一軒ずつのぞいて、きたア? ってかあさんが訊く、きたよう、さっきまでいたよ、とか、今日はきてないねえ、とか、店の奥から女の声が返ってきて、それでアタシたちはまた歩く。だいたい、とっくに終わった市電の停留所で、とうさんはベンチにひっくり返ってる。ほら、きたよ、帰ろう、ね、巨漢のとうさんをかあさんが揺すって起こして、そうするととうさん、のっそり起きあがってまず笑うんだ、あはははは、まアーた眠っちまったかあ、って。いけねえなあ、眠っちまったようって、中途半端に髭の伸びたほっぺたをアタシたちにこすりつけてまた笑う。それで暗い道を五人で帰る。そんなことがしょっちゅうだった。カラスなぜ鳴くの、あのとき酔ったとうさんがうたったんだっけ。  風呂から出て、脱衣所にあったへんな寝間着に袖をとおし、リモコンを捜して冷房をとめる。蒸し暑いけど、つけ放しで眠ったら体に悪い。ベッドとおそろいの、チェック地のカーテンを開けると、黒く塗りつぶされた窓がある。普通のサッシ窓で、鍵を解除して開けたらちゃんと開いた。すうっと額をなでるみたいに涼しい風が吹きこんでくる。おもての闇に目が慣れると、青々した田んぼがぼうっと浮かび上がってくる。うちの二階、絵里子の部屋から見える景色によく似てる。似てるっていったって、ここいらはどこも田んぼばかりだけどさ。  ずうっと向こうに線路がある。電車が止まってる。窓から漏れる四角い明かりが、律儀に一列に並んでる。あれはうちと絵里子んちを結ぶ電車か。電車からこんな連れ込みが見えたっけ。電車が走り出す気配はまったくなく、だいたいこんなところに駅はなかったんじゃないかと思えてきて、もっとよく見るために手提げから眼鏡をとりだしてかける。窓枠に手をかけて、乗り出すようにして目を凝らすと、事故でもあったのか、止まった電車から人が降りてくる。蟻んこみたいにちっちゃいけど、窓から降りてくるのもいるらしい。次々と降りてきて、暗い田んぼのなか、列をなして歩いていくのが、電車の窓が放つ等間隔の明かりに照らされている。幽霊みたいにたよりなく、大名行列みたいにきちんと列を組んで、線路沿いをのっそりのっそり人々はすすむ。  ずいぶん長いこと、アタシはそこでその夢みたいな光景を眺めてた。人の姿はもう見えないが、電車は止まったままだ。明かりもまだついている。  網戸を閉めて、五人家族がいっしょに眠れそうなおおきなベッドに横たわる。天井が鏡張りだ。男とすることしながら天井を見るのか。明かりをつけたまま、目を閉じる。虫や蛙が鳴き声を絡ませあってずいぶんにぎやかだ。ときおり涼しい風が入ってくる。  連れ込み、あの人といったっけ。あの人強引で、すたすた入ってっちゃって。生きてりゃもうそろそろ七十だけど、どこでどうしてるんだろう。もう一度会ってみたいなあ。あの人だけだもの、アタシがあんなに好きになったのは。ニレモトさんがあの人だったりしたらおもしろいのに。もちろん別人なのはわかってるけど、建て売りに、妻に先立たれたあの人が引っ越してきたりしたら……。それにしても、ベッドって、なんだか背中がごろごろして寝にくいねえ。  閉じたまぶたに、いろんな人の顔や光景が浮かんでは消え、消えては浮かんでまた消える。絵里子にニレモトさん、友也にマナ。木造校舎、銀座にできた地球儀のネオン塔、ぎゅうぎゅう詰めの夜行列車。淡くぼやけたあの人、コウ、さっきの若い女。だんだん全部ごちゃ混ぜになって、老人の寄り合いで一回だけ教わったキルトみたいにつながって、ゆっくりと遠ざかり、暗くなり、ああ、ほらまたあれだ。  足元にはささくれだった古畳、薄暗い部屋の隅に、エッちゃんをくるんだ手拭いの白がぼんやり浮かび上がってる。視線をずらせばまっすぐ伸びた細いノリちゃんの足がある。障子や雨戸が耳障りな音をたて、橙の白熱灯がゆらゆら揺れて、壁にアタシたちの影がぼうっと映る。せわしなく行き来する母親の足音。盥に落ちる雨粒の音。でっぷりとおおきな父親が、手拭いで頭をしばってトンカチ片手におもてに出ていく。  どういうわけか今日は顔が見えない。エツコをおぶうノリちゃんも、土間や台所を走る母親も、その顔は部屋の暗闇に覆われてしまって見ることができない。いや、みんながそこにいるのかもだんだんわからなくなる。気配だけはかすかにある。だれかがそこにいる気配。アタシはひとり、台風ががたぴし揺さぶる掘っ建て小屋のなか、狭い部屋の真ん中で、ひんやり冷たい古畳に足を踏ん張って立っている。まわりの気配はだれのものか。見まわすが、ノリちゃんの足も母親の背中も見えず、揺れる白熱灯が壁に映し出すひょろ長い影だけになる。ごうごう吹く風の音に合わせるように、影は伸びたり縮んだり、ゆがんだりをくりかえす。そこにいるのはだあれ、エッちゃんか、友也か、かあさんか絵里子か?  トタン屋根をたたきつける雨の音、がたがたと戸や窓は外れちまいそうないきおいで揺れる、ぼうぼうと声をはりあげて泣く女みたいな風、地響きに似た轟音、ひゅるるるって、ひときわ風の音がおおきくなって、アタシは踏ん張った足に力をこめて天井を見上げる。もうすぐ屋根が飛ぶ。屋根が飛んで星空が見える。  気づくとアタシは眠りに落ちず目を開けていた。寝間着がぐっちょり濡れている。虫の音は聞こえない。どこまでもしずかだ。部屋の明かりはこうこうとまぶしく、部屋にぽかんと穿《うが》たれた空洞みたいな窓の外、電車はもう見あたらず、濃紺の空にはりついた少ない星が、ぽちり、ぽちりとまたたいている。 [#改ページ]    鍵つきドア  九時すぎに乗った電車は停車駅でもないところで突然止まり、動き出す気配はない。運が悪い。まっすぐ電車に乗っていればよかった。ホテルを出てから、あんまり胸糞《むなくそ》悪くてゲームセンターに寄ったんだった。次の停車駅で事故があったと、とぎれとぎれに車掌の声がくりかえし放送されてくるだけで、それが人身事故なのか線路のアクシデントなのか車両故障なのかくわしいことは何もわからず、おまけにその放送もぱったりとぎれてしまった。  乗客は羊みたいにおとなしく車両にじっとしている。座席に座ったサラリーマンやOL風の若い女は眠りこんだまま起きないし、吊革につかまっている数人はメールを打ったり、本を読みふけったりしている。あたしはドアにへばりつき、ガラスに映る自分をぼんやり眺めて、トイレにいってきてよかったと、そんなことを思っている。  それにしても電車の動く気配はまるでない。もう二十分はたっている。ひょっとして、ほかの車両にコウとあのババアが乗り合わせているんじゃないかとふと思い、きょろきょろ首を動かしてみるが、そんなに混んでいないとはいえ、隣の車両の乗客までは見渡せない。それにしてもあのババア。祖母をラブホに連れてきたコウも意味不明だが、ババアの自信も意味不明だ。いや、中年以降の女ってだいたいあんなものかもしれない。中年以降の、家族を持った女って。  悪い場所に誘ったのは他人で、たぶらかしたのは他人で、だましたのは他人で、身内は全部善人だと、なんの迷いもなく言い切る。実際、なんの疑いも持っていないのだ。ラブホテルに誘ったのも、金もないのに買いものにいくと言い出したのも、くすねるのに失敗して祖母を呼びつけたのも、全部あんたの孫だって、耳元で百回怒鳴ってやっても聞こえないんだろう。どういうわけだか、人は身内のことになると何ひとつわからないのだ。あのだめ男の血を息子はちゃんとひいているってあたりまえのことが、どうしてわからないんだろう。ラブホテルの部屋が見てみたいなんて、その陳腐な常套《じようとう》句もタカぴょんそっくりで、それは、目が似てる、口元が似てるってことと同じくらいシンプルな図式なのに、スケベ根性がそっくりそのまま遺伝したとは思いたくないのだろうか。  どこかで電話のベルが鳴り出す。携帯電話の呼び出し音だが、あたしの家の電話のベルとよく似ていてどきりとする。携帯の持ち主は寝くさっているのか、呼び出し音はなかなか鳴りやまない。いらいらする。なんだって携帯の着信音をわざわざこんな耳障りな音にしているのか。みんな、どうして平気な顔でこの場に立っていられるのか。  あたしのななめ前、吊革につかまっていた女がするりと溶け出すみたいにしゃがみこむ。顔が真っ白だ。気がつくと車内はずいぶん蒸し暑い。座席に座っていたスーツ姿の男が女に席を譲っている。ひとりが窓を開けると、あちこちでみんな窓を開けはじめる。涼しい風が一瞬通りすぎてほっとする。ほとんどすべての窓が開くと、降るように虫の音が車内を満たし、それにつられてか人々も低くざわつきはじめる。いったいどうなっちまってんだ。止まってからもう三十分もたってるのに。なんかおかしくない? 日焼けあとのまだ残るミニスカートの女は、床にぺたりと座って狂ったようにメールを打ち、会社帰りらしい二人組の男は、にじみ出る額の汗をてのひらで拭《ぬぐ》いながら何かをたのしそうに談笑している。さっきまでとぎれていた、うちの電話によく似た呼び出し音が、ふたたび車内に響きわたる。なんだかトイレにいきたくなってきたと、独り言にしては大きな声で禿げた中年男が言い、どこかからくすくす笑いがおき、でもこのまま何時間も閉じこめられてたら笑いごとじゃないわよ、と老いた女の声が聞こえる。さっき流れた涼しい風は、いつのまにか立ちこめる熱気にまぎれ、ぴくりとも動かない電車内に息苦しく粘ついた空気が、また充満する。  家族というのはまさにこういうものだとあたしはずっと思っていた。電車に乗り合わせるようなもの。こちらには選択権のない偶然でいっしょになって、よどんだ空気のなか、いらいらして、うんざりして、何が起きているのかまったくわからないまま、それでもある期間そこに居続けなければならないもの。信じるとか、疑うとか、善人とか、そんなこと、だからまったく関係ない。この車両に居合わせた人全員を信用することなんてできないのとおんなじだ。あと数分後に、あたしの正面に立つスケーター風の男がきれてナイフをふりまわす可能性と、中学三年のまじめな男子生徒が、パパの恋人とも知らず家庭教師をラブホテルに誘う可能性は、かぎりなくひとしい。  ああ、もうだめだ、ちっともう我慢できねえや、禿げた中年男は座っている客を立たせ、冗談みたいに窓から這い出ようとしている。酔っているのかもしれない。車内はざわつき、虫の音がかき消され、中年男は頭から落ちるみたいに外に脱出する。乗客たちは窓に近寄り男の行方を見守っている。あたしもドアにはりついたまま、田んぼに転がり落ちた男を見つめる。ひょこひょこした足どりで男は数歩すすみ、ふとふりかえり、見るなや、出るもんも出ねえや、と叫んで笑う。  男がそこに足をかけて出ていった座席が空《あ》いている。あたしは人をかき分けてすすみ、白く男の足跡が残る座席に右足を乗せ、スカートの裾をまくりあげて片足を窓の外に出す。車内にどよめきが広がるのが聞こえる。かまわない。こんな熱気の立ちこめる、閉鎖された胸糞悪い場所にこれ以上いられない。網棚につかまり、リンボーダンスでもするようにのけぞって、両足を窓の外に出す。そのままじりじりと体を押しだしていく。尻まで外に出たところで、足が踏み場を失って、ずるずると上半身がすべり落ちる。こちら側から着地点を確認し、窓枠をつかんでいた手を離し、はずみをつけて飛び降りる。  敷き詰められた砂利の上を転がる恰好で落ち、どこでこすったのか両てのひらがすりむけて血がにじんでいた。太股《ふともも》までめくれあがっていたスカートを急いでなおし、立ち上がって歩き出す。飛び降りは危険ですからおやめくださいと、車内に放送が広がるのが遠く聞こえる。闇に沈んだ田んぼの一角で、さっきの禿げた中年がこちらに背を向け用を足している。ふりむくと、窓から次々と人が身を乗り出すのが見えた。ドアをこじ開けている人もいる。異常事態に興奮しているらしく、あちこちで歓声や悲鳴や、ひきつったような笑い声が聞こえる。電車から無事脱出した人々は、行列になって田んぼのなかを歩く。虫の音が遠ざかり、田んぼの彼方、水に浮かぶお城みたいに、ネオンで照らされたラブホテルが並んでいる。  ハローワークにいってみるが、このあたりでは職種もずいぶんかぎられてしまう。選《え》り好みできるタマかと言いたげな受付男の応答を聞きながら、東京に戻ろうかと真剣に考える。東京ならもっといろいろ仕事はあるだろうし、デザイン会社だってもう少しまともだろう。何より引っ越してしまえば、京橋一家とも無関係になる。  ハローワークのビルを出、駅ビルのテナントを見て歩く。秋ものの服や靴やアクセサリーを手にしてみるが、それを手に鏡の前に立ったとたん、銀行残高が思い出され試着する気が失せる。  結局地下のスーパーに降り、夕食の材料を買う。ここでもやっぱり残高はちらつく。ほうれん草をあきらめて茄子《なす》にしたり、豚もも肉を棚に戻してセール中の鶏胸肉をかごに入れたりしていると、この先なんにもいいことなんかないような気持ちになってくる。デザイン会社を辞めるべきではなかったのかもしれないと、手にしたトマト缶を眺めて思う。失業保険が下りるとはいえ来年からだし、コウの家庭教師でもらえる二万円なんて焼け石に水以外のなんでもない。東京なら仕事は見つかるだろうが、そもそも引っ越し資金もないのだと気づく。あたしは百十八円のトマト缶を棚に戻し、スーパー内をぶらつく。  午後まだ早い時間のスーパーマーケットは空《す》いている。茄子と鶏胸肉、タイムセールで八十八円だった卵一パックをかごに入れ、手に入らないもののあいだを縫って歩く。ちいさな子どもの手をひいた茶髪の女が、あたしが買うのをためらったトマト缶を三缶もカートに放りこむ。体じゅうに肉のついた中年女がインスタントの中華料理の素を各種かごに入れている。小指をからませたカップルが、モッツァレラだのフェタだのとチーズ売場の前で言い合っている。二時半から野菜のセールがはじまると騒々しいアナウンスが響き、小走りに野菜売場を目指す数人とともに、あたしはスーパーのつるつるした床を蹴る。トマトと人参、エリンギと赤・黄パプリカが、それぞれビニール袋に詰め放題で二百円。マイクを握った店員からビニール袋をもぎとり、トマトを袋に詰めていく。空いた店内のいったいどこから集まってきたのか、あっというまに女たちがワゴンの周辺に群がる。  太った中年に押され、子ども連れの貧相な女に押しのけられ、香水のきついけばい女にわきへよけられ、あたしはそれでもトマトに手を伸ばす。必死の形相で野菜を袋に詰める女たちは、みんなそれぞれ家族に食わすために、ひとつでも多くエリンギだのトマトだのを袋に詰めこみたいんだろう。顔に浮いたいくつものしみを隠しもしないすっぴんの女が、きゃあ、いやあん、と顔に似合わない声をはりあげ、群がっていた数人がゆるゆると輪を崩す。気づくと、安売りトマトを奪い合うあたしの右手は、熟《う》れすぎたひとつを握りつぶしていた。崩れたトマトはあたしの手からぼとぼとと落ちスーパーの白い床を汚す。お客さま、どうぞ白熱なさらずに! マイクを持った店員がおどけた口調でがなる。タイムセールまだまだお時間ございますからあわてずに! あわてずにひとつ! やさしくソフトに! 好きなだけ詰めてたった二百円! アルバイトらしい女の子がおずおずとあたしにタオルを差し出している。あたしはそれでトマトまみれの手を拭い、群がる女たちの輪から抜け出る。  あたしは家族はつくらない。専門学校を出た二十歳のとき、どんな仕事をするかは決めていなかったけれど、それだけはつよく決意していた。二十三歳になり、二十五歳をすぎ、来月の二十七歳を待ち、家族をつくらないという決意はあいかわらずあるが、ならば何をするのか、何をして生きていくのか、つねにそう問われるようになった。周囲の人々からも、自分の内側からも。ならば何をするのか、何をして生きていくのか。家族を持つというのはたったひとつの選択なのに、家族を持たないと決めると無数の選択肢が生じはじめるのはなんでだろう。  必然的に夕ごはんは茄子と鶏胸肉とトマトの炒めものになる。西に向いた台所の窓から、どぎつい黄色の陽がさしこむ。光に目を細めてフライパンをふり、この具をオムレツ風に卵で包んだらいけるかもしれないと思いつく。挑戦してみるが包みこむのに失敗し、結局、鶏肉と茄子とトマトと卵の炒めものができあがる。  まだ午後五時、西の窓からさしこむ陽は赤みを帯びた黄色にかわり、夕ごはんにはまだ早いがあたしはテーブルに皿を運ぶ。ビールをグラスにつぎ、いただきます、とちいさくつぶやく。  ビールからワインに切り替えたところで電話が鳴る。口に鶏肉の詰まったまま、あたしは一瞬動きを止めて、床に放りだしてある電話機を眺める。ゆっくりと口のなかのものを飲みこみ、そろそろと電話に近づく。受話器を耳にあてるとタカぴょんの声が飛び出してきた。 「ミーナちゃん何ちてたー」阿呆男が阿呆な声で訊く。 「ごはん食べてまちたー」あたしも阿呆な声を出す。「めずらしいじゃん、携帯じゃなくてこっちに電話なんて」 「ああ、この時間ならいるだろうと思ってさ。しかし早いなー、ごはん、何?」 「鶏肉茄子トマトのバジル炒めオムレツ添え」 「何それー、うまそー、いいなあ、おれまだ外まわり。営業やらされてんの。つらいっすよ」 「えー、じゃあうちくるー? ちょこっと寄ったら? ミーナがいやしてあげるよー」 「うわー、いやされてえー」タカぴょんの声はぶちぶち小刻みにとぎれ、声の背後で電車の発車を知らせるベルが鳴っている。「明日はひま? ミーナちゃん」 「ひまだけどお」 「じゃあ五時に駅ビル、どう?」 「タカぴょんドタキャンとかドタ遅刻とか多いから駅ビルはもうやだ。店とか飽きたし、時間つぶせないんだもん。ディスカバのコーヒー屋ならいいよ」 「げえ、ディスカバ?」タカぴょんは一瞬黙る。家族に出くわす可能性を計算しているのだろう。「ま、いーや、わかった。ディスカバのスタバ、あ、なんかこれヒップホップ調? ディスカバのスタバ、いければやれば、くればー、おさらばー」 「ばーか、ほんっとにタカぴょんてばかだねー。遅れるなら電話ちょうだい。時間つぶしてるからさ」 「オッケー、じゃあ明日なー。ラブラブ。バハハーイ」  受話器を元に戻し、明かりをつける。西の窓の陽射しはすみれ色にかわりつつある。流しにつっこんだ油まみれのフライパンが、蛍光灯に照らしだされ、やけに白っちゃけて見える。  あたしはテーブルに戻り、しかしもう食欲はなく、油の浮きはじめた炒めものを流しに捨てて、ワインの瓶を抱えてテレビの前に移動する。グラスに口をつけるとワインはぬるく、ざらりと苦かった。  待ち合わせの店に、やっぱりタカぴょんは定時にはあらわれない。奥のほうの座席に腰かけ、おもてを歩く人たちをながめてコーヒーをすする。陽はまだ暮れない。長い布地を引きずるようにゆっくりと太陽はかたむいていく。地下のスーパーの袋を両手に下げた女が、店の外を急ぎ足で歩いていく。タカぴょんの奥さんかもしれないと思い、駐車場に消えていくうしろ姿を見送って、ぴょん妻はあんなにきれいに髪をブロウしていないと思いなおす。太い脚を丸出しにした女子高生たちががやがやと入ってきて、さんざん迷ってオーダーしている。コウの姉の着ていた制服と同じではないかと思い、帽子を目深《まぶか》にかぶってみるが、黒いブレザーなんてどこにでもある。ばかばかしくなり、あたしは帽子を脱ぎ、コンパクトに自分を映して化粧なおしをする。  このショッピング・センターで、全員鉢合わせする可能性があるのだと、あらためて思う。ぴょん妻と、マナと、コウと、あたしとタカぴょん、あのババアも含めて。  コウと知り合うのはかんたんだった。いつか駅で出くわした年増の愛人に気をとられてたのか、あたしのキャラクターに安心しきっていたのか、タカぴょんは訊けばなんだって答えた。家の住所、電話番号、子どもたちの名前、年齢、通っている学校。そこの学費もふたりの成績も、頭悪いほうが金かかるって、なんだかなあ、と笑いながら教えてくれた。このあいだの娘の誕生日、レストランのサービスで撮ってもらったというポラロイド写真まで見せた。だから、コウに会うのなんてかんたんだった。  仕事をさぼって幾度かコウのあとをつけた。コウが通うのは中高一貫の共学校で、生徒数が多いから最初は捜し出すのがたいへんだった。一度本人を確認すれば、すぐに見つけ出せるようにはなったけれど。友達がいないのか、コウはいつもひとりで行動している。学校を出てバスに乗り、ディスカバで寄り道をして、それからバスで大型アパートに帰っていく。ときどき、ディスカバの裏にある住宅展示場まで足を延ばしているから、へんな子どもだと思った。ダンチとタカぴょんが呼ぶあのアパートに、自分の部屋がないんだろうか。ペットが飼える庭がほしいんだろうか。コウは、あまりひとけのない展示場内をぐるりと歩き、意を決したように展示された家のなかに入っていくこともあれば、どこにも入らず、ただ乾いたアスファルトの上を歩きまわって、そのまま会場をあとにすることもあった。  どうやってコウと知り合いになるか、あれこれ慎重に考えていたが、そんな必要はなかった。コウのあとを追って展示場に足を踏み入れるようになって何回目だったか、コウから声をかけてきた。家のなかを見学したいんだけれど、ぼくは中学生だから見せてくれないんです、両親といっしょにいらっしゃいって追い出されちゃって。すみませんが、いっしょに見てまわってもらえませんか。  次の休みに親とくるのが待ちきれず、ふたりだけで先に家を見てまわっているきょうだいのふりをして、あたしたちはモデルハウスに入っていった。結婚を間近に控え、泣きつかれてしぶしぶ両親と同居する姉をあたしが演じ、姉と両親の板挟みになって困惑するものしずかな弟をコウが演じた。嘘を見破ってか、あからさまに迷惑そうに対応する業者もいたが、それでも追い出すことはせず、無視して自分たちの業務を続けていた。カウンターキッチンがいいっておかあさん言ってたけどもう古いわよね、やっぱりこれからはアイランド型よ、あたしだって同居するって条件飲んだんだから、こっちの言いぶんだって聞いてもらわないとね、ね、タカシ、そう思うわよね? おどおどと部屋を見てまわるコウに、彼の姉になりきって声をかけると、コウは耳を真っ赤にして幾度もうなずいていた。あたしの演技を本気にして、パンフレットや手みやげを袋に詰めてくれる業者もいた。その日、あたしたちは立ち並ぶモデルハウスの三分の一ほどを見てまわった。  あたしたちは展示会場を出て、顔を見合わせて笑った。すごい偶然、タカシってぼくの父親の名前なんです、どこにでもある名前だけど、タカシって呼ばれたとき、びっくりしちゃった。モデルハウスを思いどおりに見られた高揚のせいか、コウはうわずった声で言い、笑った。  バス停に向かいながら話をした。家がほしいのではなくて、住宅に興味があるのだとコウは言った。まじめな中学生に思えた。あたしは美術系の学校を卒業したのだと言うと、思いのほかコウは興味を持ち、あれこれ尋ねてきた。その学校に建築のコースはありましたか、建築学科ってそもそも何を勉強するんですか、どんな学校があるか知っていますか。あの、ぼくは、家づくりの、技術っていうか、そういうのより、どうしてこの建物がこういうかたちをしているのかとか、そういう勉強をしたいんだけれど、そういう学校って日本にもあるんですか。日の暮れた、紺色の空気のなかでこっちがとまどうほど熱心にコウは尋ね、あたしは友達になることを申し出たのだった。ときどき会い、モデルハウスを見にいったり、美術学校のあれこれについて話したりする「友達」。  家庭教師ということにすればいいと言ったのもコウだった。住宅について知りたいと思っていることを、家族に、とくに母親に内緒にしたいのだとコウは言い、だから家庭教師と生徒という役割があったほうが「友達」になりやすいのではないか、それに、何かを教えてもらうのにタダでは悪いし、ぼくのこづかいではなんの役にも立たないし、などと続けたコウが中学生だと思うと、頭がいいのか、気をつかいやすい子なのか、今では少々不気味にすら思うが、そのときは思いもよらぬ展開に興奮して、コウの提案する商談に大賛成でのったのだった。  話がまとまってから、あたしはいったい何をしたいんだろうと疑問に思った。週に一度、恋人の家庭に潜入して、いったい何をするつもりなんだろう。家庭を壊したいわけでもない、タカぴょんを奪いたいわけでもない、脅して何か強要するつもりもない。では何を。考えてもわからなかった。わからないまま、家庭教師の第一日目がきた。 「ごめんミーナ、まじごめんー、今日おごる、なんでもおごる」  両手を鼻先で合わせながらタカぴょんが目の前にあらわれる。 「んもうー、遅れるなら遅れるって携帯に電話してくれりゃあいいじゃんー、そしたらショップ流せたのにいー」  言いながらあたしは立ち上がる。外はとうに暗い。 「ほんっとわりかった、出がけにクレームの電話がきてさあ、先月アジア雑貨屋に卸《おろ》したバリの壁掛け、虫わいたっつって大騒ぎでさ」 「あーもう、いいっていいって、今日はじゃあミーナのわがままきいてもらおーっと」 「きくきく、なんでもきくっすよー、で、何食べたい? なんでもおごっちゃうよーん」 「そうだなあ」  店を出る。ひんやりした風が吹く。隣に立つタカぴょんの腕をとろうとすると、さりげなくかわされた。きっと家族に出くわすのが心配なんだろう。中途半端に空いた手を、あたしはジャケットのポケットにつっこむ。 「あたし、ラブホいきたい」 「ええ?」タカぴょんはふりむいて、すっとんきょうな声を出す。 「今すぐいきたい。我慢できない」 「えー、ごはんはあ?」タカぴょんは困ったように言うが、ハの字に下がった眉がにやついているのはわかる。はじめて会ったときから思っていたけれど、この男は透明のコップみたいなもので、表面にどんな細工をしても中身はすべて透けて見える。このあたりをびくびくしながら歩かなくてもよくて安堵《あんど》し、すぐさまあたしとエッチができると算段してやにさがっているコップ男。 「ラブホのごはん食べる。ね? ビールたくさん買って、ラブホいこう、しけこもろう」 「しょうがねえなあー、しかしチミ、しけこもろうじゃなくて、しけこもう、だろうがよ」  車のひっきりなしに通る国道沿いをあたしたちは歩く。 「ラブホなんてひさびさだな」あたしの少し先を歩きながらタカぴょんは言う。車がとぎれると、虫の鳴く音が聞こえる。透明な、細く長い叫び声みたいな音。 「あ、ねえ、野猿だって、すげー名前、強烈じゃない? あそこいきたい、あそこにしよう、きーめたッと」  あたしは言い、小走りにタカぴょんを追い抜く。 「ええー、もっといかした名前のとこいっぱいあるじゃん、ホテルテラコッタとかのほうがいいんじゃないのおー?」  言いながら、しかしタカぴょんはあたしのあとについてくる。コップ男はどうやら忘れているらしい。学生のとき、アルバイト先の女とこのホテルでやって、避妊に失敗し結婚するはめになったんだと、いつだったかおもしろおかしくあたしに話したことを。  505号室にチェックインする。扉を閉めるなり、タカぴょんはあたしを抱きすくめ唇をなめまわす。そうされながら、片目を開けあたしは部屋を見まわす。このあいだきた部屋は、たしかピンクずくめで少女趣味だったけれど、この部屋はずいぶんこざっぱりしている。ベッドカバーもソファもブルーのストライプで、ピンクの部屋より狭苦しい。 「ひー、会いたかったよう、ミーナにー」  熱に浮かされたようにタカぴょんはそんなことを言い、片手であたしの尻をなでまわしている。このラブホテルで彼は子どもをつくり、彼の子どもとあたしはこのラブホテルにきた。なんだかグロテスクな話だ。  二回続けてやってから、あたしたちはぐったりとベッドに横たわり、鏡張りの天井を見る。素っ裸のあたしとタカぴょんが闇に浮かびあがるように映っている。煙草に火をつけ、天井の自分と向きあったまま吸う。タカぴょんはあたしの胸に口をつけてから起きあがり、冷蔵庫からビールを出して飲んでいる。みっともないくらい痩せている体、そこだけぽかりと突き出た腹。 「あー、んまー。ミーナも飲むけ?」タカぴょんは訊く。 「うん。一個とって」  上半身を起こし、手渡された冷たい缶ビールをいきおいよく飲む。喉がきりきりと痛む。 「今度、いつ? カテキョの日」  部屋の明かりをつけ、メニュウを広げて見入り、どうでもいいことのようにタカぴょんは訊く。 「もうー、覚えなよー、毎週木曜日じゃん」 「そうだったっけか。ってことは、あさってか。このメニュウ、めちゃくちゃだな。スパゲティと刺身とラーメンと牛丼が全部あるぞ」 「あたし、なんでもいいや。ビール飲んだら食欲なくなった。タカぴょん頼むならミーナには軽いものをお願い」 「でもまじで食べにいかなくていいの? こんなとこの飯で?」 「うん、なんか疲れた。眠い」  ロング缶を飲み干して、あたしはもう一度ベッドに横たわる。目を閉じる。 「しかし、おっどろいたよなー。ミーナがうちにいたときは、まじで失神するかと思うくらい驚いた。あれさー、人生の三大びっくりのうちの一個だよ。一個は妊娠したっていきなり言われたときで、もう一個は猫が産んだ子ども食っちゃってんの見たときなんだけどさあ、立派にその仲間入りするくらいの驚きでしたなあ」  タカぴょんの声が遠くなる。蛍光灯が目の裏でも白い。汗で湿ったベッドに沈むような感覚。  最初、あたしが黙って息子の家庭教師になったことで、よほど気が動転したのだろう、タカぴょんはものすごい勢いであたしと無関係になろうとした。連絡をとることもせず、だからもちろん、何が目的で家庭に入りこんできたのかあたしに問いただすこともせず、携帯電話はいつも留守番になっており、事務所にかけてもつながらず、あたしがタカぴょんの事務所にいく日は、決まって外出していた。気の毒になるくらい必死の逃亡だった。実際、なんて阿呆な男なんだろうとあたしはうっすら同情してしまった。話し合いをとことん避けて逃げまわるのなら、事態は悪化するばかりだと、四十歳近くなっても学んでいないのだ。恋愛も家庭も、仕事も人生も、全部そんな調子なんだろうと思わざるを得なかった。これまでも、これから先も、ずっと。  彼がもっとかなしかったのはその後だ。週に一度京橋家を訪れるあたしが、おとなしく家庭教師を務めるだけで、問題を起こす気配がまったくないと知るやいなや、またそろそろと近寄ってきて関係を持続させようといじましい努力をする。そうして危険はとりあえずないと勝手に判断し、今やふんぞりかえっている。家庭教師の木曜日、この男はいち早く帰宅して、あたしをしつこく家庭の晩餐《ばんさん》に誘いまでするのだ。なんの根拠があって安心しているのか、一度などバス停まで送ると言ってついてきて、階段の踊り場でいちゃついてきた。あのあと、短パンの股間を突っ張らせたまま家に戻っていったんだろうか。阿呆すぎる。いや、でも、だから、あたしはこの男とつきあっているのだ。中身がないから。空のコップだから。自分から、何も選びとろうとしないから。面倒だという理由だけで、なんでもかんでも、いさぎよく手放すから。  遠くからゆっくり足音が近づいてくるように、電話のベルが聞こえてくる。まただ。またあの夢だ。電話はしつこく耳元で鳴り続ける。夢そのものをふりはらおうと飛び起きると、ソファに座って麺をすすっているタカぴょんと目が合った。ベッドサイドに置かれた事務的な白い電話が鳴り続けている。 「電話」うんざりしてあたしは言う。 「ちょっと待って、ミーナ出てよ」麺を吸いこみ口をもごもご動かしながらタカぴょんは言う。 「やだよ。なんであたしが出るのよ」 「あーもう、待って飲みこむから」  数秒後タカぴょんはようやく受話器を手にとる。ベッドから起きあがる。ソファテーブルにはラーメンと餃子が置いてある。テレビではアダルトビデオが流れている。この部屋には窓がない。狭苦しく思えるのは、だからだと気づく。橙《だいだい》色の光だけが部屋に広がり、部屋は隅々までつるつる光っている。 「あーはい、いえ、宿泊じゃなく休憩で。あ、そうすか、じゃあ」ベッドに正座し、タカぴょんは電話の受話器を耳にあててぺこぺこと頭を下げている。 「やだー、泊まろうよう」あたしは言う。夢に侵入してきた電話の音が耳にこびりついている。 「えー? 泊まんのー? おれちょっと明日朝がさあ」受話器を片手で押さえタカぴょんは言う。 「今日はミーナの言うことなんでもきくって言ったじゃん! 嘘つき!」冷めた餃子をひとつ口に押しこんで、あたしは怒鳴る。 「あ、じゃあちょっとすんません、やっぱ泊まりってしてもいいですか? あー、はー、料金は別にいいです。はー、そうすか、はーい、よろしくー」  電話を切り、テレビの前で立ったまま餃子を食べているあたしに、うしろからタカぴょんは抱きついてくる。 「もうー、ミーナ今日わがままじゃん、泊まりがいいなんて言ったこと一度もないじゃんよう」 「じゃあさ」テレビ画面で男の性器をなめている、女の白い顔を見つめてあたしは言う。「カラオケいかない? まだ十時でしょ? ここからなら歩いてすぐだし、カラオケにいくなら泊まんなくてもいいよ」 「カラオケかあ」背後からあたしの体をなでさすり、タカぴょんは何かを計算しているらしい声でつぶやく。あたしの機嫌をとって外泊し、家庭での厄介ごとをひきうけるのか、遅くなっても無難に帰ったほうがいいのか、算段するためちいさな脳味噌で一生懸命足し引きしている。「じゃあさー、カラオケにしよっか。おれ、カラオケもひさしぶりだしなあ」 「カラオケだったらコウくんも呼ぼう、ね? パパがいっしょならこないだみたいな騒ぎにならないから平気だよ、パパ、電話してコウくん呼んでよ」 「ばか言ってんじゃないよー、もう、ミーナいいかげんにしろよなあ」  タカぴょんは言いながら、あたしをひきずるようにして移動させ、ベッドに押し倒す。片手で髪をまさぐり、あたしの口に舌を差し入れて、 「そういえば、ミーナさっきうなされてたぞ、寝てるとき」そんなことを言う。「コワイ夢でも見まちたかー、平気でちゅよう、おれがいるからにー」ふざけた口調で言い、首筋から胸へと舌を這わせる。男の肩越しに、天井からこちらを見ている髪の長い女とあたしはふと目を合わす。  コウの部屋は無機質な感じがする。男の子の部屋にしてはかたづいているが、プラモデルや怪獣みたいな置物はあるし、部屋全体に色の統一感がなくて、それが生活臭をかもしだしてもいるのに、なぜか、コウの隣に座っていると、無機質な、がらんとしたつめたい場所にいるような気がしてしまう。だから、そのコウの部屋にお酢《す》のにおいがきつくなだれこんできたりすると、混乱する。机の引き出しに隠してそれきり忘れたお菓子が、ある日突然腐敗臭を発しはじめ、不気味に思いながら鼻をひくつかせる、そんな感じだ。 「先生、これって、先生のうちじゃないよね、これはどこ?」  学習机に広げた写真の一枚を手にとり、コウは訊く。あたしは色あせた写真に顔を近づける。 「ああそれ、隣の棟の女の子んち。なんていったっけ、ああ、のんちゃん。のんちゃんて子」 「へええ。なんかここんちはずいぶん昔っぽい感じがする」 「うん、のんちゃんち、おばあちゃんいたし。この暖簾《のれん》とか、ちゃぶ台と茶箪笥のセットとかって、かなりレトロだよね」 「団地は全部南向きなんだよね? じゃあこの子んちは、間取りや窓の位置は全部同じ? あれ、でもなんか反転してる。えーっと、この絵であてはめると、先生んちがここの三階、それで……」  コンピュータと英語担当ということになっているが、あたしに先生として教えられることなんかほとんどない。学校の成績はそれほどよくなかったし、それにそもそもやる気がない。コウが何に明確な興味を持っているのかもよくわからない。家だの建築だのと言うが、興味があるのはインテリアなのか、構造なのか、デザインなのか、他人の生活なのか、わからないしわかろうとも思わない。しかしお金をもらっている手前、彼の話を聞いていて、思いあたる本や雑誌があれば図書館から借り、自分の本棚をあさりもする。今日みたいに、昔のあたしの家が見たいと言われれば、アルバムから何枚かひっぺがして持ってくる。実際、英語やコンピュータについても、何か訊かれれば教える。タカぴょんの言っていたとおり、コウの学校はあんまり偏差値が高くないのだろう、あたしでも英語や国語ならなんとか答えられることが多い。 「このときさあ、あたし七歳なんだよね。二十年前。コウくんもマナちゃんも受精されてもいなかったね」  言うと、コウは黙ったまま写真を見ている。二十年前、あたしがのんちゃんちで鬼太郎カルタなんかに興じているこの瞬間、タカぴょんとぴょん妻はデートでもしていたのだろうか。 「なんか言っちゃ悪いけど、この外観すごいよね。真四角で、愛想がないわりに脆《もろ》そうで」コウが言う。 「そうねえ」 「この真ん中にある砂場がシュールだよね。こういうのってさ、五年くらいたつとだれも遊ばなくなって、ものすごく殺伐《さつばつ》とした光景になるんだよね。だいたい、同い年くらいの親が引っ越してきて子どもつくるわけだから、建物や遊び場も、みんなといっしょに年とってくんだもん、そこで生まれた子どもの半数が非行に走るころ、当然こういう場所もそれなりにぐれてくんだと思うな」  色あせ反《そ》り返った写真に顔を近づけ、熱に浮かされたようにコウはしゃべる。あたしは適当に相づちを打ちながら、窓の外を眺める。あたしの座る位置からは、薄い青の空と電線しか見えない。電線に数羽、雀がとまっている。お酢のにおいが薄れてきたと思ったら、今度はごま油のにおいが部屋に入りこんでくる。コウはなんにも気づかない。住人は自分ちのにおいに不思議なくらい鈍感だ。 「ねえ、今日、なんであたしお祝いしてもらうのかな」  あたしは言う。コウは写真から顔をあげ、あたしを見る。 「誕生日だからでしょ?」 「そういうんじゃなくてさ。なんであたしの誕生日をあんたんちの家族が祝うのかってこと」  コウの学習机に頬杖をつき、あたしはつぶやく。今度の家庭教師の日、もしよかったらそのあとの時間、あけておいてくれる? 先生の誕生会をやろうって、うちでなんだかもりあがっちゃって。そう言うわりには抑揚のない棒読み口調で、ぴょん妻から電話がかかってきたのは三日前だった。何かほかのもくろみでもあるのだろうかと思ったが、裏を読むのが面倒になって、うわあ、やだあ、うれしい、とかなんとか答えたのだった。 「うち、逆オートロックだからなあ」椅子の背にのけぞり、天井を向いてコウが言う。 「何それ」 「ここいらへん一帯、ぜーんぶそうだと思うよ。やっぱちょっと田舎だしさ、鍵は開けっぱなしも同然で、他人の出入りとか、ざっくりしてるっていうか、かなり適当にしてるんだよな。外の人、わりと自由に招き入れるんだけど、家のなかにもう一個見えない扉があってさ。こっちの扉は、絶対開けないっていうか。暗証番号も教えないし。表玄関は広く開いてるんだって宣伝して、オートロックのほうを隠してるんだよね。そんな感じ」  コウは言って、壁に掛かった時計を見上げる。 「それって、物理的な話? それとも、心とかそういう話?」あたしはそんなことを訊いている。 「うーん。どっちも、かな。うちもそうだし、友達んちいってもそう感じる。マナっちの彼氏んちとかもそうみたいだし。このへんの町民性なんじゃないのかなあ。あ、何が言いたいかって、だから、先生の誕生日とかやりたがるけど、あんま負担に思わないで平気っていうか」自嘲するような口調でコウは言い、そんなのどこだって、あたしが生まれて育った家だって同じだと言おうと口を開きかけたとき、遠慮がちにドアがノックされた。 「もしもーし。もしきりがよくなったら、コウは手伝ってくださーい。マナ、まだ帰ってこないんだものー」  ぴょん妻の声が聞こえる。コウはあたしを見て困ったように笑ってみせ、立ち上がる。  リビングルームもキッチンもずいぶん散らかっている。ダイニングテーブルにはすし桶に入った白米や、まな板にのったままの薄焼き卵があり、居間には折り畳んだ紙があちこちに落ちている。 「コウは飾りつけお願い、わかるでしょ? そこにあるの、いつもみたいに貼ってね。北野先生は座ってて、主賓なんだから」  カウンターキッチンの向こうからぴょん妻が言う。電話より二オクターブくらい声が高い。 「えー、あたしも手伝います、そのほうが気が楽です、お祝いしてもらうだけっていうのも、心苦しいし」 「そうお? 本当にい? じゃあ頼んじゃおうかなあ。そしたらね、あのね、ごはんをそこにあるうちわではたいてくれる? 少し冷めたら隣にあるすし酢、たらーっとまわしかけてくれるとうれしいな。そのあとね、こっちまわって、海老の背わたとってくれる? んーとそれが終わったら」 「ママさあ、それ、調子乗りすぎ。先生、この人永遠に命令し続けるから適当にね」  コウが言い、あたしとぴょん妻は笑う。コウは、奇妙な手づくりポスターを壁に貼っている。白い紙に、マジックペンで文字が書かれ、黄色や緑でカラフルな縁取りがしてある。白米をうちわで扇《あお》ぎながら、あたしは何気なくその手元を見ていて、頬にこびりついた笑みを消す。ポスターの右半分を押さえたコウも、ふりむいてあたしを見る。  おたんじょうびおめでとう、ピンクの縁取りの青い太ペンで書かれ、その下に、北野先生、ハートマーク、おばあちゃん、とある。 「ママー」コウが野太い声を出す。 「はいよ、何ー?」 「このティッシュでつくった貧乏くさい花も飾っていいの? あとさー今日って、参加人数何人ー?」 「六人よー、言ったじゃない、あ」ぴょん妻はカウンターキッチンから出てきてコウを見る。 「言ってなかったっけ、おばあちゃんのこと」 「聞いてないっすよ」コウはティッシュの花を、ずいぶん器用にポスターに貼りつけていく。 「来週じゃない、おばあちゃんの誕生日。忘れてた? じゃ、ひょっとしておばあちゃんにはプレゼントない? それはまずいよねえ。マナもパパも、忘れてたらどうしよう……。先生にだけプレゼント渡して、おばあちゃんにはなんにもなしって、それひどいよねえ」  コウは何も言わない。あたしも黙って白米にすし酢をかけ、しゃもじでかき混ぜる。 「ま、いっか。いいよいいよ、おばあちゃんには、みんなでお金出しあって買うんだって説明しよう。先生もいるんだし、まさかすねたりしないでしょ」  独り言にしてはずいぶん大きな声で言って、ぴょん妻はキッチンへ戻っていく。あたしとコウはもう一度顔を合わせる。おばあちゃんというのが、このあいだのババアと同一人物だとコウの目配せで知る。お腹が痛くなったと言って帰ろうかと一瞬思うが、なんだかどうでもよくなってしまう。へんなのはこいつらなのに、なんであたしが気をつかわなきゃいけないのか。 「すし飯できましたー、あと海老の背わたでしたっけ」  あたしはことさらあかるい声を出し、キッチンへ入っていく。  キッチンに立ってみると、カウンターから部屋全体が見渡せることに気づく。折り紙の輪っかをつなげた飾りものを、部屋の梁《はり》にテープで留めていくコウが見える。灰色の画面に淡くコウを映すテレビも、対面の観葉植物も、すし桶ののったテーブルも見える。 「うちはさ、誕生日を迎えた人が、その人の好きなものをね、その日だけはもうお腹いっぱい食べられるようにしようって決めててね。先生の好物、聞き損ねたってゆうべ気づいて、だから今日はおばあちゃんの好物の天ぷらにしちゃったのよ、ごめんなさいねえ」  あたしの隣で、鰯《いわし》の手開きをしながらぴょん妻は話す。竹串で海老の背わたをひっかきだしながら、血と内臓で汚れるぴょん妻の手元をあたしはぼんやり見る。 「みんな本当は外食したいの。うちもね、余裕があるときは誕生会、外でやるんだけどね、恥ずかしい話、ここんとこずっと家で誕生会なのよねえ。先生の誕生日も外でやりたかったんだけど、ま、先生ひとり暮らしなんだし、たまにはいいわよね、家庭の味っていうのも。なーんて、安上がりの言いわけ」 「なんだかすみません。あたし、祝ってもらっちゃって」 「やあねえ、そんなのいいのよう、うちはこういうことが全員大好きなの。こういう、イベントみたいなのがさ。それに、おばあちゃんひとりのお誕生日祝うより、ぜんぜん華やかじゃない、北野先生いてくれたほうが、ねっ。あーっ、ちょっとコウ、あんたディスプレイの才能ないわねえ、ちょっと離れて見てごらん、そんな一箇所にちまちま飾ったってだめじゃんよう」 「あーもう、うっさいなあ。文句があるならママやれよ」 「何よう、その言いかたーっ。むかついた。コウは海老マイナス一匹」 「うわ、やな感じいー」  この部屋の、この感じ、何かに似ていると、はじめてここで、家族そろって食事をしたときからずっと思っていたが、その何かがなんであるのか、コウがリビングルームじゅうに飾った折り紙の飾りでわかった。学芸会だ。ぴょん妻の躁《そう》状態のようなあかるさ、砂場の写真をシュールだと言ったコウの、そのせりふと対極にあるような無邪気さ。「おたんじょうびおめでとう」という痛々しいポスター、部屋全体を安っぽいセットに変えてしまうティッシュの花。 「ただいまーっ」玄関の戸が開き、廊下の向こうからマナが叫ぶ声が聞こえる。上手の幕よりあたらしい登場人物があらわれる。「ミーナ先生ーっ、あーもうやっと会えたー、馬鹿コウがさあ、誤情報ばっか流してさあ」 「ちょーっとマナ、着替えてらっしゃいよ、あーもう、あんたたちなんでそんなにうるさいのー?」  あたしはぴょん妻の手元を凝視《ぎようし》する。赤黒い内臓が指先をつたって流しに落ちる。そこくらいしか、正視できるところがない。  ぴょん妻が天ぷらを揚げ、マナとコウがテーブルをセッティングし、あたしはぽつねんとソファでテレビを見ていた午後六時半すぎ、ドアチャイムが鳴り、あのババアが登場する。モスグリーンの気どったツーピースを着て、ソファに座るあたしを見、視線が合う前にさっと目をそらす。どうやら、今日あたしが同席することをババアのほうは知っていたようだ。 「こちら、コウの家庭教師の北野先生」キッチンからぴょん妻が声をはりあげると、 「まあまあいつもコウがたいへんお世話になっております」ババアはふかぶかと頭を下げた。 「んもう、六時半スタートって言ったのにパパまた遅い」 「タカシさんに時間を伝えるときは三十分早めに言わなきゃ駄目だってアタシ言ったろ」 「ちがうよおばあちゃん、あれ頼んだんだよ、ね、ママ? あのね、ディスカバで売ってんの、限定品のケーキ。きっと並んでるんだよ」 「そうねえ、ちょっと悪かったかなあ、あれ、ずいぶん並ぶって話だったもんね」  交わされるやりとりを、あたしはソファに座って聞いている。どうしてだれも、この状況がへんだと、異様だと思わないのだろう。ティッシュの花や折り紙の飾り、へたなレタリングのポスター、ラブホテルで顔をそろえたコウとその祖母、一点の曇りもなくしあわせである役を、ヒステリックに演じる妻。ガラス戸には藍色《あいいろ》の空が映っている。ベランダには人工みたいな色の花が咲き乱れている。 「さ、じゃあパパはおいといて、先に乾杯しちゃいましょ。パパの天ぷらはあとで揚げるからさ。先生、こちらへどうぞー」  呼ばれてあたしは立ち上がる。長方形の、短い辺の席に着く。向かいにはババアがいる。あたしを見ない。テーブルには、鰯のおすし、大皿いっぱいの天ぷらと、蟹爪フライ、蒸し鶏のサラダが並んでいる。ぴょん妻があたしのグラスにビールを満たしたとき、玄関の開く音が聞こえ、タカぴょんがあらわれる。 「おー、ナイスターイミーン、五秒待って五秒」言いながら台所で手を洗い、あたしの右斜め前の席に着く。 「もうパパー、遅いよう」 「あっ、ケーキは買えたの?」 「おう、買った買った、グランマルシェの達人シェフだろ、黒くてまるくてでかいやつだろ、今冷蔵庫入れた」 「待って、それちがう、何よグランマルシェって。あたしたちが言ってたのはシェタキザワだよ、シェタキザワのガトーショコラって、あれほど言ったじゃーん! もう、信じらんないーっ」 「はあ? シェーッ! てなんだそれ、漫画じゃん、シェーッ! なんてケーキ屋、あんのか?」 「あーもう、いやんなる、このだささ。パパに頼んだあたしが馬鹿だった」 「ちょっとマナっち、もういいじゃん。マナっちの誕生日じゃないんだし」 「そうよ、すみませんねえ、先生、馬鹿ばっかりで。じゃあ、乾杯しましょ。ミーナ先生の二十七回目と、おかあさんのウン回目を祝して、はい、お誕生日、おめでとうーっ」  ぴょん妻は言うと、グラスのビールを飲み干し、いきなり誕生日の歌をうたいはじめた。あたしは唖然《あぜん》としてタカぴょんを見るが、彼はごくふつうの表情で自分のグラスにビールをつぎ足している。マナが声を合わせ、ふたりは声たからかに誕生日の歌をうたい、うたい終えると、 「イエーッ」  歓声をあげて手をたたいた。コウもタカぴょんも、おざなりだがしかしいっしょに手をたたく。  どうしてだれも異様だと思わないのか。学芸会じみていると思わないのか。あたしはグラスのビールを一気に飲み干す。「オーイエー」タカぴょんが言いながらビールをつぎ足す。あたしといっしょにいるタカぴょんはいつもふつうで、だからきっと彼は、このへんさを感じとりながら、我慢してつきあっているにちがいないと思ったが、そうではないみたいだ。この家庭内にいるかぎり、タカぴょんも相違なくへんなのだ。  なんなのこいつらは。全員珍妙で、へんで、おかしなくせに、なんでこうして集まるとふつうの顔をするの。これがごくごくふつうの日常で、ぼくらはごくごくふつうの家族ですって顔を。あたしはぴょん妻の手元を見る。さっきまで内臓で汚れていた指先は、白くつややかで、その手がまっすぐあたしに向かって伸ばされる。 「先生、サラダ取り分けるからお皿ちょうだい」  あ、すみません、あたしは言い、皿を渡してからふたたびビールを飲み干す。テーブルの上の蛍光灯が、あたしたち全員をぺかぺかと照らしている。恋人の息子と「友達」になって自分はいったい何をしたいんだろうと、住宅展示場をコウと歩いた日、あたしは思った。ただ見てみたかっただけなのだと、今気づく。私は見てみたかったのだ。阿呆なコップ男の、おうちの中身を。この、奇怪さを。  あのときあたしはコウの祖母に半分だけ嘘をついた。父は死んだが母はまだぴんぴんしている。でもおそらく、母と会うこともこの先ないだろうから、死んだと言ったって同じことだ。  父が死んだのはあたしが十九歳のときだった。  金曜の晩、深夜を過ぎて、電話がずっと鳴っていたのは気がついていた。十九歳のあたしは東京に住んでおり、専門学校で知り合った恋人と毎日のように会っていて、恋人以外のほとんどのことに興味を持っていなかった。電話がしつこく鳴り響いたときも、あたしは恋人と寝ていた。曜日を覚えているのは、次の日が休みだから、明け方まで「やり続ける」んだと、恋人と言い合っていたからだ。秋だというのに冷房をがんがんにかけて幾度目かのセックスにいそしんでおり、電話なんかに出ている場合じゃなかった。うるせえな、と、あたしの上で恋人は舌打ちをした。放っとけばそのうち切れるよ、あたしは恋人の背に脚をからみつけたまま言い、なんとなく呼び出し音を数えていた。十五、十六、十七……ずいぶん長かった。二十、とそこまで数えたときに恋人が果て、申し合わせたように呼び出し音は切れた。  明くる日は恋人の家に泊まって、その次の日、家に帰るなり電話が鳴り出した。受話器を取ると、こちらが何か言う前に、失礼ですけれどあなたはだれですか、と聞き覚えのない声がいきなり問うてきた。はあ? 何よあんた、思わず言いかえすと、しばらくの沈黙のあと、三奈さん? とその声は訊いた。そうだと答えると、電話の向こうで知らない女は突然切れ目なく話し出した。一定のリズムできゅうりを刻んでいくような、不思議な話しかただった。  昨日からずっとかけてたんです。他の連絡先を知らないし、なんのメモもなくて、ほとほと困ってそれでリダイヤルを押したんです。きっとお知り合いのかたが出ると思って。娘さんだとは思いませんでしたけれど。おとうさん、事務所で倒れられたんです。おそらくおととい、日付は昨日になっていたかと思うんですが、深夜に。私がそちらに出向いたのが昨日の昼すぎだったものですから、もう少し早かったらなんとかなったんでしょうけれど……。  女は少し黙り、それからまた、野菜を刻むような口調で続けた。  今から病院の場所を言いますからメモしてくれますか。それから、くれぐれもおかあさんに連絡しないで三奈さんひとりできてください。私ここでお待ちしていますから、できるだけ早くきてくださいね。  なんのことだかさっぱりわからなかった。事務所? 父は食品の輸入会社に勤めるサラリーマンではないか。もう少し早ければなんとかなった、って? じゃあもう、なんともならない状態なのか。リダイヤル? 父から電話なんてもらっていない。そう思ってはっとした。深夜の呼び出し音。延々と続いたあの音は、父からのものだったのか。そんな馬鹿な。真夏の心霊特集じゃあるまいし。  指定された病院へは、私鉄電車を乗り継いで、一時間もかからずについた。痩せた中年女が待っていて、病室にあたしを連れていった。見なれない機械と父の鼻の穴が細い管でつながっていた。おととい、父は都内で同僚と酒を飲んで事務所に帰り、そのままくも膜下出血で倒れ、翌日昼に彼女によって発見され、即病院に運びこまれたのだが、もう手術をしても手遅れであるらしいことなどを、医師が語るのをじっとあたしは聞いていた。父のかたわらにある大仰な機械には、緑の線が波打つ画面があった。ぽうん、ぽうんと定期的に聞こえる奇妙な音を聞き、ゆっくり線を描いて下降する緑を見、あたしは目の前のすべてを一生懸命理解しようとした。緑の線の動きが遅くなると、看護師が父の両足を持ち上げてさすっていた。こうして心臓に血流を流し刺激を与えるんですとだれかが言った。もう少し発見が早かったらよかったんですが、十時間近く放置された状態だったのでねとだれかが言った。患者さんも一生懸命がんばってはいるんです、呼びかけてあげてくださいとほかのだれかが言った。だれか、看護師か、女か、医師か。  病室を出ると女があたしの腕をとった。今からおかあさんに連絡してください。けれど決して私のことと、事務所のことは言わないで。金曜日の深夜、おとうさんは都内で同僚数人と飲んでいた。その帰り道で倒れてここまで運ばれた。手帳に書かれていたのは娘の電話番号だけだったから、そこに医師が連絡した。そのように言えと、女は電話と同じ、抑揚のないとつとつとした話しかたでしつこいくらい念押しし、あたしに復唱までさせた。みすぼらしいほど痩せて、目だけが子どものように大きな女の顔を見て、あたしは女の言葉をくりかえし、ぼんやりしたまま母に電話をかけ、そのせりふのとおりを告げた。女は横でじっと聞いていた。あたしが受話器を置くと、紙切れと鍵を押しつけて女は消えるようにいなくなった。紙切れには、父の事務所の住所が書かれていた。なんだか全部夢のなかのことみたいに感じられた。だから、恐怖も不安も疑問も感じなかった。当然かなしみも。  母が病院にやってきて、急にいろんなことがあわただしく現実味を帯びていった。あたしたちは交代で仮眠をとりながら父の様子を見守った。医師のアドバイスに従って、二日目にあたしたちは親戚に連絡し、数人がばたばたとかけつけてきた。人工呼吸器でかろうじてこの世につなぎ止められていた父が、死んだ──死ぬことを許されたのは、四日目の早朝だった。どこからか葬儀屋があらわれ、あたしと母は、葬儀屋と滑稽なくらい事細かく打ち合わせをし、あちこち手分けして連絡した。そんなふうにせわしなく段取りをこなしていると、数日前にあたしをここに呼んだあの痩せた女が、幻だったように感じられた。ショックをやわらげるための自己防衛手段として、あたしが空想のなかでつくりあげた架空の女ではないかとすら思った。  通夜は明くる日の夜とりおこなわれることになった。あたしはその日の昼間、準備にあわただしい実家を離れ、メモに書かれた父の「事務所」を訪れてみた。都内の私鉄駅から五分ほど歩いた場所にその建物はあった。ずいぶん年季の入った五階建てのアパートで、父の事務所は四階の角だった。鍵を開けるときだけ、気分が悪くなるくらいどきどきした。  扉を開くとすえたにおいが鼻を突いた。部屋にあがり、部屋じゅうの窓を開け放った。部屋は1LDKで、ダイニングテーブル以外部屋に大きな家具はなく、女がかたづけたのかもともとこうだったのか、こざっぱりしていた。南と西にある窓からは陽がたっぷりとさしこみ、死だの通夜だのとまったく関係のなさそうな、涼やかな風が吹き抜けた。  キッチンのわきに置いてある電話台にあたしは近づいた。夜半、同僚と飲んでここへ帰ってきた父は、急激に気分が悪くなり、トイレで幾度も吐き、そうしながら、酔ったにしては様子がへんだと悟ったのか、這うようにしてここまできて、さらに吐き続けながらあたしに電話をかけたのだと、これは医師ではなく女から聞いた。明くる日この部屋を訪れた女は、この場で吐物のなかに倒れている父を見つけ、部屋の様子からそう推測したのだろう。  うっすらとすえたにおいは部屋全体に漂っているが、フローリングの床にはなんのあとも残っていない。受話器をとって耳にあててみた。受話器からはなんの音も聞こえず、部屋に目を泳がすとモジュラーは引っこ抜いてあった。そしてそのとき、重たく黙りこんだ受話器を耳にあてたまま、あたしは突然すべてを理解した。  この部屋がなんなのか。あの女がだれなのか。あの女の不思議な話しかたはなんだったのか。子どものころ、不思議に思ったまま忘れ去っていたできごとのいくつかが唐突に浮かび上がり、ビリヤード玉みたいにぶつかりあって、くっきりした線を描き出した。  幼稚園のお迎えに、母ではなく見知らぬ女がきたことがあった。女は商店街のソフトクリームをあたしに買い与え、あたしの住む団地まで送り届けてくれた。あたしはなぜかそのことを母に言えなくて、ひとりで帰ってきたと嘘をついたのだ。小学校三年生の夏から二年、毎年いっていた家族旅行が続けて中止になった。父が書斎と呼ぶ物置部屋に忍びこんだあたしは、束になった旅行パンフレットを確かに見たのに。中学一年の春、休みでもないのにあたしは母と一緒に、母の実家のある長野にいった。三日ほど学校を休み、母と祖父母と温泉にいったり、お寺にいってお焼きを食べたりして遊んだ。無言電話が多かったのもこのころだ。母の留守に電話に出、はい北野ですと名字を名乗るとぷつりと切れる。あの電話はどのくらい続いたのだったか。高校にあがったお祝いに、父がくれた腕時計はまだ日本にきていなかったフォリフォリで、父と、そのヨーロッパのブランドがどうつながるのか、首を傾《かし》げたものだった。──そうか。そんなに長かったのか。三奈さん? と電話口でつぶやいた女の声は、幼稚園の鉄柵の向こうから、三奈ちゃん、とあたしを呼んだ知らないあの女のものと、耳のなかでひとつになる。そのころからなら、十五年も父はあの女と関係を持っていたのか。一度は母にばれたのに、それでも切れなかったのか。都内に別宅まで用意して、女と会い続けていたのか。そしてあの女。あの女のへんなしゃべりかたは、こみあげる怒りを、必死で抑えていたことによるのだろう。歩けないほど体調がおかしいのに、救急車を呼ばなかった父の愚かさ。気が動転していたにしても、父が最後の最後に電話した相手が、自分ではなく馬鹿娘だったこと。馬鹿娘は実際とんでもなく馬鹿で、父の一大事も知らずふらふら泊まり歩いて、文字どおり命に関わる電話を聞き逃していた。そうして父がぽっくり死んでしまえば、その後のいっさいに自分は関わることができない。そんなすべてに、女は猛烈に腹がたっていたのだろう。耳にあてた受話器の、重たく黒いその沈黙の向こうから、腹話術みたいだった女の声が細く聞こえてくる気がした。  実家に帰ると、通夜の準備はほとんどととのっていた。父の別宅をあとにしてから、このことを母に言うべきかどうか、ずっと考えていたのだが、言えるはずがないと実家に戻ってすぐ悟った。昨日までは落ち着いて父を見守り、葬儀屋と打ち合わせをしていた母が、子どもみたいに号泣《ごうきゆう》していた。昨日着ていたジーンズ姿のままで、大勢が準備に立ち働く和室で。母の弟がずっと母をなだめていた。通夜の時間が近づいても母がそんなふうなので、弟の妻であるおばさんと祖母が母を立たせ、奥の部屋で着替えさせた。  葬式が終わっても母は泣き続けていた。泣きつかれるとぼんやり宙を見つめている。そうしてふとあたしを見、なんであんたにまず連絡がいったのかしら、とぼそりと言う。なんでマアちゃんはあんたの連絡先だけしか書いていなかったのかしら。母が父をそんな名で呼ぶのを聞いたことがなかった。母のつぶやきは延々と続く。あんたがひとり暮らしなんてはじめなければ、連絡はこの家にきたんじゃないかしら。この家にきていたらあたしが電話を受けて、すぐ駆けつけられたんじゃないかしら。手遅れなんてことはなくて手術ができたんじゃないかしら。畳の目を指でいじる母の独白は、さらに続く。だいたいなんであんたはひとり暮らしなんてはじめたの。ここからだって時間かかるけど学校通えるじゃない。この家、マアちゃんが一生懸命働いて建ててくれたんじゃない。なのになんであんたはひとり暮らしがしたいなんて言い出したの。アルバイトしてまでなんでひとりで暮らしたかったの。論理は飛躍し、またふりだしに戻る。なんであんたにまず連絡がいったのかしら。  母は、なんにも知らないのだ。この地球上のどこかに、父が女と密会するための部屋が存在し、その女と父は十五年以上も関係を持ち続けていたなんて、想像したことすらないのだ。この地球上のどこかに、すでに宇宙人は存在するらしいよと告げたほうが、まだ信じてもらえるだろう。  四十九日がすぎ百箇日がすぎ、買った墓地に墓石が建ち納骨が済み、表面上はふだんどおりに生活がまわりはじめ、母もまた元どおりに暮らしはじめたが、それでも何かのときにふと思い出すのか、突然そのことを言いつのる。いったいなんだってあんたの連絡先しか……からはじまる、一連の堂々巡りを、母の様子を見にちょくちょく家に帰るあたしにぶつけてくるのだ。  執拗《しつよう》な、そして矛先《ほこさき》のちがう責め文句に不思議と腹はたたず、かといって母の言うとおりひとり暮らしをはじめたことに後悔はなく、しかし、ある気分がもやもやと生じてきて、母が同じことをくりかえすたび、それは増殖し拡大し、はっきりしたかたちをとりはじめる。  ある気分。それは、嫌悪と恐怖だった。父が最後にあたしに電話をしてきたという、ぬぐい去れない事実にたいする嫌悪感であり、同じ家に住んでいたひとりの人間が、ある秘密を秘密のまま完璧に消し去れるのだという事実への恐怖感。  あたしは多分、痩せたあの女にも母親にも、一生いわれなく恨まれるのだろう。あたし自身、不必要な罪悪感を一生感じ続けるだろう。電話のベルにどきりとして、セックスするたび覗かれ責められているような錯覚を抱くのだろう。なんだって父は、家族だというだけで、そのような重荷をあたしにあたえたんだろう。一生ぶんの咎《とが》をあたえてしかるべき権利が、父のどこにあるというんだろう。  そうして父は、そんなふうに家族にたよりながら、自分の半分の姿をあたしたちにまったく見せることなくいなくなった。同じ屋根の下で談笑している人間が、じつは連続殺人犯であるということと、それはまったくおなじじゃないか。もし人が、死の間際に求めるほど近しい家族にでも、何かを完璧に隠蔽《いんぺい》しようと思ったら、それは楽勝で可能なのだ。  あたしは未だに、父親を、というよりも、彼がつくり出した家族というものを、嫌悪し恐怖している。子どもっぽいとは思わない。あと十年たったってこの嫌悪も恐怖も薄まらないだろう。二十年、いや、五十年たったって。  だからあたしは母の住む家には帰らず、家族も絶対つくらない。願うことはただひとつ、どうか母がその死の間際に、何年も会っていないあたしをふいに思い出し、連絡などしてこないように。電話のベルなど鳴らさないように。それだけだ。 「あれー、全然食べてないじゃない、ひょっとしてお口に合わない? あ、こっちどうぞ食べて。揚げたてだから。こっちはもうくちゃっとしちゃったでしょ」  天ぷらののった皿を手にしたぴょん妻が、わきに立ってあたしを見おろしている。 「ひでえー、ぼくたちはぐちゃっとしたのでいいわけ?」 「ぐちゃっとなんて言ってない。くったりしてる、って言ったの。コウもパパもこういう時間のたった天ぷらのほうが好きじゃない」 「ミーナ先生、あたしおすしとるからお皿貸して。あっ、ママ、ミーナ先生ビールじゃなくてワインのほうがいいんじゃない?」 「お、ワインあんの? めずらしいー。おれにもちょうだい、ワイン」  あたしはぼんやりと、斜めに座るタカぴょんを見る。タカぴょんは視線に気づいてちらりとこちらを見、片頬を持ち上げて笑う。よっぽどまぬけな失敗でもしないかぎり、この男の秘密もずっと隠されたままなのだろう。妻も子どもたちも、駅のロータリーでしゃがみこんで泣いた父の恋人のことを、一生知ることがないだろう。チョロ助とののしられた彼の一面も。  逆オートロック。さっき聞いたコウの言葉を思い出す。外部の人間には閉ざされたオートロック式のドアが、自由に出入りできる家のなかに存在している。コウはそう言っていたけれど、その鍵は、外部に対して閉ざされているのではない。身内の侵入を防いで閉ざされているのだ。だから今、テーブルを囲んでここには五つのドアがある。頑丈な鍵のかかったおそろいのドア。五つのドアそれぞれの向こう側に、きっとグロテスクでみっともない、しかしはたから見たらずいぶんみみっちい秘密がわんさとひしめいて──これから先ずっと繁殖しつつひしめき続けるのだろう。 「先生、うちね、いっつも安いほうのビールばっかりでワインなんかめったに買わないんだよ、だからこれ、すっごくまずいかもしれない」マナがあたしのグラスに白ワインをそそぐ。かすかに甘い果実のにおいがたちのぼる。 「ちょっと、あんた、この鰯、酢が強すぎるんじゃないの? 酢なんて、ほんと、洗うくらいでいいんだよ」ババアが口のなかのものを見せながら言う。  今ここで、突然あたしがタカぴょんとあたしのことをばらすことだってできるのだ。閉ざされたドアの鍵をぶち壊すことなんかたやすいじゃないか。そう思い、その一瞬あとに、無関係ですました顔をしているけれど、彼らのグロテスクでみみっちい秘密にあたし自身も関係しているのだと、当然のことに今さらながら気づく。 「じゃあマナたちの食事もすんだようですから、プレゼントの贈呈式」母親が言う。 「あっ、しまった、おれ、忘れた」父親が言う。 「待って、あたし今持ってくる」姉が自分の部屋に走っていく。 「ぼくもごめん、今日はちょっと」弟が言う。 「なんだ、プレゼントがあんの? いいのにそんなの、気い使ってくれなくたって」祖母が言う。  お誕生日おめでとう。ミナちゃん、お誕生日おめでとう。耳元で声が響き、目の前の光景がぐにゃりとゆがんで、あたしはたった五歳であるかのような錯覚を抱く。まだ若い母親が顔を近づけ頬ずりをする。白髪のない父親が笑みを浮かべてあたしをのぞきこむ。ミナちゃんのこの一年がどうかすばらしいものでありますように。おめでとう。おめでとうミナちゃん。 「なんだかワイン飲みすぎたみたい」あたしは立ち上がる。「トイレお借りしていいですか」 「まあまあまあまあ、本当にい? 大丈夫? マナがあんなになみなみつぐから……」 「さっきから全然食べずに飲みっぱなしなんだもん、そりゃ気分だって悪くなるさ」  背中に響く声を聞きながらトイレにかけこむ。便座を抱くようにして座りこみ、大きく口を開ける。胃がひくひくと痙攣《けいれん》するのに、中身は出てこない。げええ、と声を出してみると、透明の液体が舌をつたって便器に落ちた。口を袖口で拭い、トイレットペーパーで涙を拭い、水を流すために顔をあげると、そこにある額縁が目に入る。  クレパスで描かれた絵だ。少々色あせ、額縁のなかで画用紙は黄ばみはじめている。コウか、マナが幼稚園のころに描いたものだろう。線はたよりなく、しかしところどころ力が入って、ぐちゃぐちゃと曲がり、かろうじて女の輪郭らしいとわかる。笑っている口を描きたかったのだろう、赤い線が耳元まで伸び、髪は金色、目は緑色で、大きさを強調するように描かれている。便座にへばりついたまま見上げると、額縁の絵は口の裂けた怪物に見える。あたしを見おろしあざ笑う怪物。私はふたたび便器をのぞきこみ、げええ、と低くうなってみる。  ふふふふ、あははは、えーやだあ、ふふふふ、ばっかねえ、きゃははは、たよりなく浮かび上がるあぶくみたいに、笑い声がトイレのドアから侵入してくる。口からしたたり落ちた唾液が、便器の水に波紋をつくるのを眺めながら、あたしはそれを聞いている。 [#改ページ]    光の、闇の  だれも信じないだろうけれどぼくは童貞じゃない。  学校で行われる阿呆らしいものごとや、家でぼくにのしかかるへんな重圧感に、かろうじてもちこたえていられるのは、ぼくは童貞ではない、という事実によってだけのような気がする。  もしぼくが童貞だったら、かなり悲惨な中学生だっただろうな、と思うことがある。クラスからはじまり今や学年単位でなされる無視、ちょっとした幼稚な意地悪、友情をためされる秋の明日葉祭、根性だけが求められる冬のマラソン大会。そうしてぼくんちの、あの重苦しい決意みたいなもの。チェーンソーを手にした殺人鬼の姿が見えたとしても、絶対にそちらを見ないような意志。それがいったいなんのためなのか、なんの役にたつのか、ぼくにはさっぱりわからないんだけれど、もし童貞だったらこういうものに、気持ちの上でぼくはどんなふうに対抗できたろう。きっと、できなかったんじゃないかな。押しつぶされていたんじゃないかな。マナ姉の安っぽい想像どおり、部屋に閉じこもって出なくなっていたかもしれないし、家の空気をかきまわすために非平和的な行為に走ったかもしれない。  学校前のバス停から出るバスに乗り、いつもどおり、一番うしろの隅っこに座る。すさまじいうるささで数十人の生徒が乗りこんできて、そのなかにミソノの姿をぼくはみとめる。ミソノは真ん中あたりで吊革につかまり、きょろきょろとバスのなかを見まわし、ちらりとぼくを確認するとまっすぐ前を向き、窓の外をじっと見ている。ぼくもミソノから目をそらし、鞄からイヤホンを出してCDウォークマンを聴く。CDはマナ姉の棚にあったものを適当に拝借してきた。本当は、マナ姉がださいという歌謡曲を聴きたいんだけれど、なんていうか、生徒たちで混雑したバスのなかで聴くには、歌謡曲はあまりにも効力を持たない。まじっちゃうのだ。マナ姉の騒々しいCDなら、大音量にしてじっと目を閉じていれば、バスに充満するみんなの制服も喧噪《けんそう》もかき消してくれる。ぼくは暗闇にひとり、しずかに座っていることができる。  十二歳から十八歳までの子どもたちをぎゅうぎゅうに詰めて、バスは走る。ぼくは目を閉じ、大音量のなか、じっと息をひそめる。がなるギター、うねるベース、耳元で叫ばれる声。尻からバスの振動が伝わる。右腕に、窓からさしこむ陽があたるのがわかる。  二十分ほどバスの振動を感じていると、バスは大型ショッピング・センターの前にとまる。寄り道は禁止されているけれど、三分の二ほどの生徒がここで降りる。ぼくも降りる。生徒たちは思い思いの方向へ歩き出す。紺のブレザーが、特殊な虫みたいにあちこちに散らばっていく。ぼくは、ゆっくりメインモールに向かって歩く。一面にはりめぐらされた白タイルに、ぼくの影がくっきり映っている。  少し先に、ぼくより少し早足で歩くミソノの姿がある。ミソノの影もおんなじくらいくっきりと、彼女とともに歩いている。ぼくはミソノに声をかけない。まだ地雷地帯なのだ。  ディスカバリー・センターのメインモール、北側エスカレーターを五階までのぼる。そこから、スタッフ以外立入禁止の看板つきポールをまたぎ、階段をあがり、グレイの地味な扉を開ける。扉の向こうには屋上が広がっている。  北側エスカレーターからだけくることができるこの屋上には、配電盤がおさまってるのだろう巨大なロッカーや、空調のばかでかい室外機があるだけで、人の気配はまるでない。忍びこむ従業員がいるのではないかと思うが、煙草の吸い殻が落ちていることもないし、空き缶が転がっていることもない。きっと、従業員が仕事をさぼるのに適した場所は、どこかほかにあるのだろう。  屋上の手すりにもたれミソノが手をふっている。地雷地帯は無事に抜けた。ぼくらはもう言葉を交わしてもかまわない。 「明日葉祭、キョーバシなんかやる?」  ぼくがミソノのところまでたどりつくと、彼女はコンクリートに座りこみ、鉄柵の向こうを眺めて訊く。 「一応仮装行列がクラス参加なんだけど、たぶんその日、ぼくは自主休暇」 「ああ、中三て仮装行列だよね。うちらは今年喫茶店。あたしは出るよ、占いブースやるんだ。やりたくないのに、やれってみんな言うからさ」  みんなにたのまれたなんて嘘だろうと思うが、ぼくは何も言わない。  ミソノはぼくよりひとつ年上で、高校一年生だ。ぼくもミソノも、クラブには入っていない。それからぼくにもミソノにも、同じ学年に友達はいない。 「何占い?」 「前世。前世しかできないもん、あたし」 「そっか」 「そうだよ」  ミソノはぼくらのダンチのB棟に住んでいる。B─302。ダンチから佼文館学園に通う子どもは少ないから、山下美園という名とミソノ本人はぼくのなかで前からつながっていた。登下校のバスもいつもいっしょだし、ぼくが中一のころからときどき言葉を交わしてはいた。そしてミソノがぼくの初体験の相手だ。  ミソノの家にはじめて遊びにいったのは中二になってすぐだ。ミソノの親は深夜にならないと帰ってこないらしい。実際ぼくはミソノの親をミソノの家で見たことがない。  ミソノの家にはじめていったとき、ものすごく興奮した。エッチな意味じゃない。ぼくの家とほとんど同じ造りなのに(同じダンチなんだから当たり前だ)、何もかもがまるきりちがっていた。そのちがいに興奮した。散らかっているとか風呂が黴《か》びているとか汚れた皿が山積みとか、そういうちがいではない。壁紙の色と模様、光のさしこみかた、日の暮れかた、フローリングと絨毯、そういうものが異なるだけで、まるっきりの別世界だった。間取りの同じ別世界。ご近所のパラレル・ワールド。  ぼくはそれからミソノの家に幾度も遊びにいった。部屋を見たかったからだ。何回目かで、ぼくらははじめてやった。おたがいを愛していたからじゃなくて、似たような切実さで体験を求めていたからだ。ミソノもはじめてだった。けっこうたいへんだった。けれどともかく、ミソノは処女じゃなくなり、期せずしてぼくは童貞じゃなくなった。非処女のミソノは前世が見えるなどと言い出し、非童貞のぼくは日々のあれこれに絶望しなくなった。 「明日葉祭の前夜祭ってカップル出生率高いんだって。あたしノザッチとカップルになれっかな」  唐突にミソノは言う。高等部二年の野崎寿也にミソノは一方的に恋をしている。 「そういうの、わかんないの? 前世占いで」 「わかんないよ、前世って過去のことだもん、未来は見えないんだよ」ミソノはぶすりとして言い、鉄柵に額を押しつける。  ぼくらはなんとなく黙る。しゃがみこんだまま鉄柵を両手でつかんで、それぞれ前方を眺める。ラブホテルの看板がいくつか不格好に建ち並び、高速道路が見え、ずっと向こうに工場がある。並んだ煙突から細い布みたいに煙が流れている。視線を数センチ動かすと畑が広がり、その向こうには刈り入れの終わった田んぼがあり、家がぽつぽつとその合間に建ち、突然緑が生い茂り、真ん中に白い建物がある。あれは病院だ。さらに畑と田んぼが続き、不自然な唐突さで高層アパートが突き出ている。左側、ずいぶん低い位置に赤みを帯びた太陽があり、空はピンク色に染まりはじめている。室外機がうなる低い音が、さっきからずっと続いている。  ディスカバリー・センターには、お客さんのためのきちんとした屋上がある。夏にはその一角がビアガーデンになり、隅にはゲーム機と動物の乗りものがあり、売店の前にはベンチとテーブルが外の景色を楽しめる角度で置いてある。そこからラブホテルは見えないし、高速道路も煙を吐き続ける工場も見えない。もちろん、空調のモーター音も聞こえない。 「あそこに野猿ってあるの見える?」  柵の向こうに腕を突き出し、四角い建物の上の、しょぼいネオンサインをぼくは指す。見える、とミソノは無愛想に答える。 「あそこ、いったんだ、カテキョと」 「ぐえー、まじー? あんたとうとうカテキョとやったのー? 年いくつちがうんだよー」 「ちがう、ちがうよ、やってないよ、そうじゃなくてさ、知ってた? ラブホテルって、窓がないんだって。いや、ぼくがいったところは窓あったけど、でも黒く塗りつぶされてて、ないような感じになってた。ラブホテルには窓がないって先生が言うからさ、なんか見てみたくなって、連れてってもらったんだよ、ねえ、窓のない部屋なんて見たことある?」 「えー、ラブホいったのにやってないなんてへんくなーい? それともできなかったとか」ミソノは肩でぼくを小突《こづ》く。 「先生となんか、やりたくないよ」彼女はたぶんパパとなんかあるし、と、それは心のなかでだけつぶやく。「窓がないと、ものすごく暗い、じめじめした部屋を想像するだろ? それがそんなことはなくてさ、でも、やっぱなんとなく不自然なんだ、窓のせいだけじゃないとは思うけど、でも、閉ざされた空間って度合いはたしかに強いんだ」 「キョーバシまたへんなこと言ってるよ。ラブホねえー。あたしはノザッチともしうまくいったら絶対ラブホなんかいかない。もっとお上品でロマンチックなところへいくな」ミソノはラブホ街から目をそらし、立ち上がる。「あー、なんか寒いしハラ減った。ねえ、かっぱ亭のラーメン食ってかない? クーポンあるから三百円だよ」 「あ、ごめん、このあと病院」ぼくも立ち上がり、ズボンの尻をはたく。 「ちぇっ。つまんねーやつ。ま、いーや。じゃクーポンはとっとくから今度おごれ」  ミソノは言って、歯茎をむきだしにして笑う。グレイの扉から建物内に入り、五階まで階段をおりるあいだ、ぼくらは声を落として話し、笑う。そうして地雷地帯の五階からは、また距離をとって、おたがいに知らんふりして出口へと向かう。そんなふうにしてバス停まで歩き、ミソノはダンチへと向かうバス停に並び、ぼくは病院へと向かうバス停まで歩く。  病院へいくバスはそんなに混んではいなかった。一番うしろの隅に座り、窓の外を眺める。日が暮れ、バスが通りすぎる畑や民家は、薄青のなかに沈んでいる。畑のなかにときおり看板が突っ立っている。白や橙《だいだい》の明かりに照らされ、蛍光文字や歌手の顔がぼんやり浮かび上がっている。  ミソノは隠しているけれど、高一軍団のなかでミソノもぼくと似たような立場だ。はじきもの同士がいっしょにいるとマイナスの二乗になるのは火を見るよりあきらかで、調子に乗りやすいやつや鬱屈《うつくつ》したやつが学年をまたいで手をつなぎ、さらにヒートアップしてぼくらを迫害するだろうから、人目につくところで話したりするのはよそうと、ぼくが提言したのだった。あくまで、ぼくと仲よくしてるとミソノまで危ないよ、と強調して。ミソノは同意し、だからぼくらは、中一にせよ高三にせよ佼文生の目がありそうな地帯ではけっして言葉を交わさない。  この時間このバスに乗っているのは見舞客ばかりだ。ぼくの前の座席には花を持ったおばさんがいて、斜め前にはケーキの箱を持った若い女の人が二人、声を落として話している。窓の外の闇が少しずつ濃さを増し、バスのなかはやけに白くまぶしい。  バスは大きく旋回して病院前広場に停車する。広場には本屋、コンビニエンス・ストア、花屋、ファミリー・レストランが建ち並び、こうこうと明るい。民家と田んぼの真ん中に突如あらわれる様は、ディスカバリー・センターとそっくりだ。数人の乗客とともにバスを降り、広場から続く屋根つき歩道を歩く。  外来患者入り口の巨大ドアをすぎてしばらくいくと、面会人専用の自動ドアがある。受付で名前を書きこみ、バッジをもらう。名前を書きこむ際、用紙をさっとチェックしてママやマナ姉がきていないか見る。とりあえず開かれたページに京橋の文字は見あたらなかった。  おばあちゃんが入院することになるまで、病院なんてほとんどきたことがなく、だから病院じゅうに漂うこの、腐敗物と洗剤と菓子の混じったような独特のにおいに最初はひどくとまどったんだけれど、二、三回くるとすぐ慣れた。そんなに悪い場所ではないと思う。エレベーターに乗り、五階を押す。バスでいっしょだった若い女の人たちが乗りこんできて、七階を押している。  自分がなんでクラスメイトから弾《はじ》き出されるのかはよくわからないが、ミソノが仲間はずれになった原因はよく知っている。前世占いだ。処女を捨てると同時に前世が見えると言い出したミソノは、猫の頭ほどの水晶の玉を持って歩き、アジア雑貨の店で買ったような香をたき、人の前世を見るようになった。最初ミソノは人気者だった。毎日水晶の玉とお香を持って学校にいっていた。ダンチまでくる佼文生もいた。けれど半年もすると、ミソノの占いはインチキだということになり、今では学校で見かけるミソノはいつだってひとりだ。ときどき、紺のスカートやブレザーの背に白い靴跡がついている。  ミソノとぼくのあいだに依然として愛や恋はない。ミソノには好きな人がいるし、ぼくはミソノのことをブスだと思う。けれど、とんちんかんな受け答えしかしないにしても、ミソノは、あの広大な学校でぼくと口をきいてくれる唯一《ゆいいつ》の人間だ。  ナースステーションを通り、518号室にいく。開け放たれたドアからなかを覗くと、おばあちゃんはベッドで上半身を起こし隣の老人と何か話しこんでいた。 「ああ、コウ、きたの」  かたわらに立つとようやく気づいてこちらを見る。泣いている。おばあちゃんは枕元の箱から数枚ティッシュをぬきとって鼻をかみ、涙を拭《ぬぐ》う。 「あーやだ、昔の話してたら、泣けてきちゃって」 「やあねえ、木ノ崎さんたら、涙もろいんだもの、お孫さんにアタシが泣かしたと思われちゃうじゃないのお、ちがうのよお、この人が勝手にさあ」  隣のベッドのおばあさんは、そんなことを言いながら自分の布団にもぐりこみ、週刊誌を広げて黙りこむ。 「どう、おばあちゃん」ベッドサイドにパイプ椅子をおき、そこに腰かけぼくは訊く。 「どうもこうもないよ。毎日検査検査検査検査。検査だけだもの、ごはんなんかぽっちりでさあ、検査ですよって呼ばれるまでじいーっと寝てんのよ、人を馬鹿にしてるよ、まったく」  ぼくはベッドのわきにある可動式のテーブルを見る。湯飲みと、りんご一個と、和菓子の包みが置いてある。 「あんたなんでくんのよ?」  ふいにおばあちゃんは動きを止めてぼくを見る。 「なんでって……帰り道だし。家帰ってもすることないし」 「いい若いもんがなんですることないのさ、あんたね、べつに心配しなくたっていいんだよ、あんたとあの馬鹿女のことなんか、アタシべつにだれにも言うつもりないんだから、そんな気ィつかってきてくれなくたって平気なんだよ、たいした病気じゃないんだし、じき退院なんだし」 「そんなんじゃないよ」  おばあちゃんと話しているとときどきげんなりしてくる。なんていうか、ものの考えかたや人の規定のしかたが、あんまりにもひねくれた方向に偏《かたよ》っている。 「じゃあコウ、ちょっとお茶もらってきてよ、詰め所いってここにお茶くださいって。あ、ねえねえ須田さん、須田さんもいる? お茶、この子がもらってくるけど」 「いいいい、アタシはいい、いいお孫さんでしあわせねえ、木ノ崎さん」  ぼくは急須を持ってナースステーションのわきにある給湯室にいき、そこにいた看護師さんにお茶を入れてもらう。病院に立ちこめる、何かが腐っていくにおいと、何かが清潔だと示すにおい、それらが交じり合ったにおいはトイレ近辺にもっとも強く漂っている。  おばあちゃんが入院したのは、誕生会のすぐあとだった。倒れたり転んだりしたわけではなくて、喉がなんだかごろごろすると言って外来診察にいき、しばらく外来で検査を続けていたが、がんの疑いがあるらしく、つい先週入院した。このあいだの日曜は、家族全員で見舞いにきた。  急須を持ったまま、すぐにはおばあちゃんの病室へ向かわず、廊下の窓からぼくは外を眺める。陽はすっかり落ちた。遠く、大小の明かりが見える。海の向こうに浮かぶ船みたいにも思えるけれど、実際にはディスカバリー・センターやラブホテルや高層アパートの明かりだ。ディスカバリー・センターと、病院と、自分の家、それぞれから外を眺めていると、ぼくは自分が神さまになったような気分になる。それは全能感だとか多幸感とかでは全然なくて、京橋一家全員の、いや、ミソノや北野先生や、この町に住む全員の、決定された行動範囲を見まわっている気分だ。そこからだれも脱走などしないよう。きちんと線の内側におさまっているよう。ささやかな毎日をひたすらくりかえしていくように。神さまってのが実際こんな立場なんだとしたら、神さまというのはずいぶんみじめな気分のものなんだな。 「絶対に麻酔はいやだって、言い張るのよ」  夕食の席でママがだれにともなく言う。パパはテレビを見ている。数分ごとに箸をにぎったままリモコンをいじる。マナ姉は豚肉のソテーからていねいに脂身を引き剥《は》がしている。ママは自分のグラスに発泡酒をつぎ足し、 「麻酔がいやだってことは手術もできないってことよ」  さっきより強くつぶやく。パパはある番組でチャンネルをとめる。クイズ番組だ。 「馬鈴薯《ばれいしよ》!」突然パパが叫ぶ。一テンポずれて、ココナツ、と回答者が答え、ビーと不正解を示すブザーが鳴る。「こいつ馬鹿か、馬鈴薯ってだれだって答えるよ」 「パパー、八時になったらちゃんとチャンネル変えてよ? 今日は未公開心霊写真特集なんだから」マナ姉の皿には細長い豚の脂身だけが残っている。 「ちょっと、みんなちゃんとママの話聞いてよ! もし手術できなかったら打つ手だてがないのよ? そうしたら病院だって変えなきゃならないんだし、何かべつの治療法を捜さなきゃならなくなるのよ?」  ママは言って発泡酒を飲み干す。食卓は一瞬しずまりかえり、クイズ解答を迫る秒針の音がやけに大きく部屋に響く。 「くわしい結果って、出たの、もう」パパがようやくぼそりと言う。 「まだよ。まだだけど、とっちゃったほうがいい腫瘍《しゆよう》があるのはたしかなのよ。だから入院したんだもの。悪性だとはまだ決まってないけどね、もし良性だとしても、はい終わりって退院するわけないでしょ? それがあの人、絶対に麻酔は嫌だって、そればっかりくりかえして」  ぼくは空《あ》いた皿を重ね、流しへと運ぶ。カウンターキッチンの内側から、なんとなく部屋を見る。テレビを見るパパ、脂身を箸でいじる姉、発泡酒を飲むママ、その全員を映すガラス窓、その向こうの、色とりどりの花。ママがふと顔をあげ、こちらにいるぼくをじっと見る。 「コウ、冷蔵庫にぶどう入ってるから持ってきて」  黒いぶどうの盛られた皿を手に、ぼくが席に戻るのを待ってママはふたたび口を開く。 「いい? とにかく、これからは今までどおりにいかないの。手術がいやだって言うんだから、私たちも長期戦を覚悟しなきゃならないし、そうすると私たちの生活だって変わらざるを得ない」ママは言い、発泡酒をグラスにつぐ。泡はほとんどたたない。 「とにかく結果を待って、おばあちゃんの意思を尊重して、手術をしない方向で、どんな方法があるのか調べて、それに見合ったことをしてかなくちゃならないわけ。とりあえず、おこづかいから見なおさなくちゃね。マナ、あんたバイトするつもりはないの? マナのところはそういうの禁止してないんでしょ? それからパパ、私お弁当つくろうか? マナとコウのつくるんだからパパだってついでに持ってってくれればずいぶん助かるのよ、あとね、コウ、北野先生だけど、どう? 続ける? ママできれば少し休んでもらいたいんだけど。少しでいいのよ、おばあちゃんのことがなんとかなるまでで」 「なんで麻酔の話からお金の話になんのよ?」  マナ姉がいつもの調子で甲高く叫ぶが、ママはさらに声をはりあげてそれを遮《さえぎ》る。 「ママが意地悪でこんなこと言ってるわけないでしょっ? お金の話になるわよ、当たり前じゃないの、おばあちゃんの入院が長引いて、手術すれば治るものも拒否して治らないで治療費だけかさんでいって、あの人の年金だけでまかなえなくなったら見捨てるの? それからね、私これ以上早引け続けるとパート辞めさせられちゃうかもしれないから、おばあちゃんのお見舞いね、洗濯もの持ち帰ったり届けたり、それは交代でやってもらいます。一週間に二回でいいから、持ちまわりで、みんなでやるのよ、わかった? 面会時間は午後二時から午後八時まで。自分の当番の日は、寄り道もしない、約束も入れないこと。みんな平等なんだから文句は受けつけません」 「我らが母なるエリザヴェータ万歳」  ぼくがついそんな|ちゃちゃ《ヽヽヽヽ》を入れたのに、本当に意味はなかった。ただ、ママはいつもとは異なるハイテンションで場をとりしきっており、その有無を言わさない威圧感にぼくは少々とまどって、ふっと頭をよぎったロシアの女帝の名──数日前の社会の時間、女帝即位のクーデターについて聞いたばかりだった──を口にしたのだった。が、ママは立ち上がり、白くなるほど唇をかみしめ、ものすごい形相でぼくをにらみつけた。 「何よそれ」  ぼくにそう訊くママの声は低く、聞きまちがえじゃなければふるえていた。 「えっ……ロシアの女帝陛下で……あの、ほら十八世紀の……」 「私が何? 独裁的だって言うの? ひとりよがりだって言うわけ?」 「ちがうよ、あの、ごめん、授業でさ」ぼくはしどろもどろに言い訳をする。マナ姉もパパも何も言わず、ママを見上げている。ママの見開いた目玉は膜がかかったようににじみ、なんだっていうんだ、と思うが、驚きのあまりもう何も言えなくなる。 「じゃあ好き放題やってたらいいじゃない。いいわよ、おばあちゃんのことだって私がひとりでなんとかすればいいんでしょうよ、私の母親だもんね、手術のことも洗濯もののことも治療費のことも民間療法のこともぜえええんぶ私がひとりでおっかぶればいいんだよね」  立ち上がったままママは言う。責めるような目つきでマナ姉がぼくをちらりと見る。 「そんなこと言ってないよ」パパが言う。「そうじゃなくて、検査の結果があきらかになった時点で話し合えばいいとおれは言ってるの、おまえの母親は当然みんなの家族だろ? みんな協力するよ、するけど今はまだなんにもできないだろ?」  ママは一瞬子どものように顔をゆがめ、席を離れガラス戸を開けてベランダに出ていく。ぼくらに背中を向けてしゃがみこみ、一心に花をむしりはじめる。いや、むしっているのか、手入れしているのか、植え替えているのか、しゃがんだママの背中にはばまれてその動きはよく見えないが、紺色の夜のなかで背中が小刻みにふるえている。 「コウちゃんあやまってきなよ、ママがあんなになるなんて、あんたそうとうひどいこと言ったよ」  テーブルの下でぼくの脚を蹴ってマナ姉が言う。パパはため息をついて立ち上がり、冷蔵庫からあたらしい発泡酒を持ってくる。 「コウちゃん、今のうちあやまってきな、あの人しつこいし、あたしたち、まじでおこづかい減らされるよ」  しかしぼくは立ち上がらず、ガラス戸の向こうにしゃがみこんだママを見つめる。小刻みにふるえるその背中が、泣いているのではなくて笑いを噛み殺しているように見えるのは、きっとぼくに思いやりややさしさがインプットされていないからだろう、なんてことを思っている。  建ち並ぶ高層アパートの、ほとんどすべての窓は南を向いている。ディスカバリー・センター・メインモールの、北側屋上から見える高層アパートの窓は、だから全部こっち向きだ。逆に、病院の五階から見える高層アパートの多くは、こちら側にドアがある。南には全面窓。北には全面ドア。その眺めは、なんていうか、ものすごくみにくい。グロテスクだとも思う。  すべて等しい大きさの窓が、すべて等しい角度で南を向いていれば、それぞれに等しく光が射しこむと、設計者は考えたんだろうか。そうではなく、ひょっとして、風水とかしきたりに関係しているのかもしれない。授業では習っていないけれど、南に窓という古来の伝統があるのかもしれない。もしくはただ単純に、光があふれれば平和になる──少なくとも平和そうに見えるという、単純な理由からだろうか。  こういうことに興味を持つようになったのは、ミソノんちにいってからだ。とはいえ、処女じゃなくなって前世が見えるようになった、とかいうオカルト話ではなく、単純に、同じつくりのミソノんちが、あまりにもぼくんちとちがって見えて驚いたことから生じた興味だ。  たとえばママは、理由なく南の窓に高得点をつける。新築や中古の、売り出しアパートの間取り図ちらしなんかを熱心に眺めて、何これ、安いと思ったら北向きじゃないの、だの、うわあすごい、全室ワイドスパンで南向き、豪華ねえ、などと言う。それを聞いていると、ぼくらは光を吸収しないとまっすぐ育たない植物みたいな存在であるように思えてくる。  だからきっとママは、ディスカバの裏手にある住宅展示場なんかにいったら、すばらしいって興奮するんだろうな。どれもこれも南向きで、光がたっぷり入るように計算されて一区画ずつ距離がとられているし、室内はさらに明るく見えるよう、すべての電気がさりげなくつけっ放しだ。ひとけのない場所に並び建つ、光あふれる住宅街なんて不気味だとは、つゆとも思わないだろう。思いこみの力というのはだから、やっかいながらものすごい。いや、ものすごいからやっかいなのか。  闇の神社というものがあると教えてくれたのは北野先生だった。神奈川県にほど近い東京の、私鉄駅から十分くらい歩いたところに、そんな神社があると聞き、ぼくはどうしてもこの目でその闇とやらを見てみたくて、先生の電車賃を往復持つという取り決めで、連れていってもらった。結局、その日の夕ごはんは先生がおごってくれ、その上、帰りが史上最高に遅くなってママに説教される羽目になったから、先生には迷惑のかけどおしだったけれど、でも、いって本当によかった。  一階はふつうの神社だ。おさいせん箱があって、縄の垂れ下がった鈴がある。そこから室内にあがると、隅に地下へと続く階段がある。それをおりていくと、地下が闇の神社だ。  本当に、なんにも見えないくらいの闇だった。てのひらをかざしても、鼻に押しあてるまで見えない。押しあてていてさえてのひらの輪郭は見えない。そんな暗闇のなか、細い通路がぐねぐねと曲がりながら続いていて、通路の両側をたしかめながら進んでいく。地下は岩をくりぬいたような造りになっており、両手が触れる通路の壁は本物の岩肌で、ほんのりと冷たい。しばらくいくと、ぼわんと明るくなる。岩のくぼみに立てられた数本の蝋燭《ろうそく》が灯《とも》って、そこに建つちいさな赤い鳥居を照らしている。けれど、鳥居を通りすぎてしまうとまたずうっと闇。本物の闇。宇宙とつながっているような漆黒《しつこく》だ。  光の教会というものもあるのだと、神社にいった帰り道、渋谷のとんかつ屋で先生は教えてくれた。北欧の町にそれはあると言う。教会の内部には照明器具がいっさいなく、天井がガラスになっている。明かりはすべて、天窓からさしこむ自然光だけなのだそうだ。そこもやっぱり岩をくりぬいて造った建築物らしい。さしこむ光をいっさい遮らない光の教会もとても見てみたかったけれど、外国まで連れていってくれとはもちろん言えない。もっとも先生も、北欧にいって実物を見たのではないらしい。グアムとオーストラリアしかいったことがないと先生は言っていた。  光の教会と、闇の神社。光の教会では、光は神聖なものとして扱われている。闇の神社はその反対、闇が尊い、貴重なものなのだ。  南向きの窓、北向きの部屋。窓のない部屋、陽射しのあふれる部屋。ダンチ内の無人の公園、人でごった返すディスカバの広場。数学も英語もやりたくない、こういうことをずっと考えていられたらいいのに。北に向いた家、廃墟になったアパート、暑い国の建物、寒い国の庭園。もっと、もっと見てみたい。  最後の授業の日、ぱんぱんにふくらんだ紙袋を両手に下げて先生はやってきた。床に座りこみ、それを全部広げる。写真集、雑誌、本、ガイドブック、紙が黄ばんでいるものもあれば表紙がとれかかっているものもあり、今しがた本屋で買ってきたのかと思うような、まあたらしいものもあった。 「あたしの専門はデザインで、建築じゃなかったからたいしたものはないけれど」分厚い写真集を手にとり、ぱらぱらめくって北野先生は言う。先生の手のなかで外国の町が秒速で流れる。「だからコウくんの見たいようなのとちがうと思うんだけど、一応建物とか、公共物のデザインの本とかね。これなんかは日本のおもしろい建物をめぐるガイドブックでしょ、あとこれはねえ、教会なんかがたくさん載ってるから持ってきたの」  ばらまかれたおびただしい本からは、湿気《しつけ》たような、けれどどことなく甘いお菓子みたいなにおいが立ち上り、それはぼくの部屋とは混じりあわず固形物のように漂う。 「すみません、重かったでしょう、運ぶの。それにこんなに、いいんですか」 「いいんだ、どうせ近いうち引っ越すし、いらない荷物を処分したかったしね。宅配便で送ればよかったんだけど、千いくら払うのもったいないじゃん」 「着払いで」 「あーいいっていいって、そんなの。子どもがそんなこと言うとなんか嫌味」 「すみません」 「でもちょうどよかったかも。仕事もやめちゃって、ここにくる以外、あたしがこの町にいる理由、とくになかったし、それだけで暮らしてくのもちょっとね。コンビニバイトとかはあるけど、ここんちにくるためだけにコンビニでバイトするって、なんか七転八倒っていうか」  ぼくは顔をあげ先生を見る。 「本末転倒だよ。わざと言ったの」  先生は笑い、窓に視線を向ける。あんまりじっとそちらを見ているので、ぼくもつられて首を曲げる。薄いブルーの寒空をしめつけるように、幾本か電線が走っている。それだけだ。ぼくは視線を戻し、ぼくの向かいで窓の外に見入る先生を盗み見る。赤茶色い長い髪、あちこちほつれたジージャン、薄いピンクのフレアスカートにルの字に折った脚。この人とパパのあいだに何があったのか、もしくは何が今もあるのかぼくは知らない。  ミソノと話すためにいつだって前後左右に注意しているから、若い女の人がいつも視界に入ることは気づいていた。ぼくの被害妄想もかなりすごいけれど、クラスメイトのおねえさんかと最初思った。いじめネタを捜すため、クラスメイトにたのまれてぼくを見はっているのかと。この近辺の若い人たちは、ディスカバでバイトするか、近所のだれかと恋愛してるかのどちらかで、どちらでもなければかぎりなくひまだ。弟のクラスメイトのあとをつけまわしてもおかしくないくらい。  だから、屋上でミソノと会うときはその女をまくのに苦労した。住宅展示場でも幾度かその女を見た。あんなひとけのない場所、あとをつけていればすぐに見つかるのに。声をかけたら、すんなりいっしょにモデルハウスに入ってくれたから、つけいる隙をねらう友達のおねえさんではないようだと判断した。もしそうだったら、きっと逃げるだろうから。けれど彼女は逃げず、ぼくにタカシと呼びかけた。タカシ。父親の名。そうか。そういうことなのか。確証は持てなかったけれど、だいたいそんなところだろうとは思った。もちろん言わなかった。知り合いになるほうが得策だった。おかげで、闇の神社にもいけた。光の教会も知った。窓の黒くぬりつぶされたラブホテルの部屋も見ることができた。  北野三奈という女の人が、個人としていったいどういう人なのか、数カ月いっしょにいてもぼくにはさっぱりわからなかった。何をおもしろいと思い、何を軽蔑し、何をうつくしいと思うのか。けれどぼくは北野先生を嫌いじゃない。ひょっとしてぼくの父親が、彼女の何かを決定的に壊しつつあるのかもしれない、と考えると、ぞっとする。 「先生さあ、引っ越すって東京にいくの」 「たぶんそうかな。東京にだって帰るところがあるわけじゃないんだけど、とりあえず仕事はたくさんあるしね。友達もちょっとならいるし。あーでも、ひょっとして家賃払う自信ないから地方都市にいくかもな。すっごく遠くにいってみたい気もするし」 「どこでもいいんだ?」 「うん。根無し草だもん」 「先生、このダンチのE棟、今売りに出てるよ。一階で、角部屋じゃないけど、すっごく安いってママ……母が言ってた、月々の返済が五万円くらいでいいってちらしにも書いてあったよ」 「えー、そこあたしに買えってー? 何よそれー」 「そしたらとりあえず根ができるじゃん」 「ばっかだなー。失業女に買えるわけないっつーの。こんな、バス乗らなきゃどこもいけないようなとこ、あたしだってお断りだし。それに、家買ったら帰るところがあるって発想がお子さまなんだよねー」  先生は脚を伸ばし、右手の爪をいじりながら話す。先生が黙ると部屋はしずまりかえる。 「遠くにいくとか、そういうのってうちの父ともなんか関係ある?」  ずっと訊いてみたかったことを、雑誌に目を落としたままぼくはさりげなく口にしてみる。 「げええー、何それえー」北野先生はぼくの顔をのぞきこみ、顔をゆがめ舌を出す。「コウくんのおとうさん、おっさんじゃーん。なんでこんなに若くて魅力的な女の子があんなくたびれた中年男に……って、ごめん、コウくんのパパだよね」先生は笑う。「そんなの、安っぽい昼メロの見すぎだよー、けっこうありがちな想像」  先生はしばらく笑って黙り、ぼくも黙る。雲が切れたのか、細長い陽の光が部屋にさしこむ。 「はたから見たら父親って、子どもが思うほどかっこよくも大人でもないよ」  北野先生は爪を見つめ薄笑いで言う。そうだよな、とぼくは思う。あのパパが、ひとりの女性の何かを壊せるほどのタマなわけないよな。そして父親にちょっと申し訳なく思う。かっこいいとも大人だとも思ってあげられないことに。 「あっ、これね」いきなり先生は大声を出し、ぼくのほうに身を乗りだしてくる。ぼくが開いていたページを指さし、続ける。「これも光の教会っていうんだよ。これは日本の教会だよ、案外近所にあった気がする。有名な人が設計したの。前に言ってた北欧の教会とはずいぶんちがうけどさ」  言われてぼくはゆるゆると手元に目線を落とす。ぼくの膝の上に開いたページは真っ暗だ。その暗闇に、十文字に白く切り込みが入っている。ああ、これは十字架か、窓のない暗い建物の壁に、十字架が刻まれていて、その十字架型の隙間から外界の光がこぼれ、闇に浮かぶ十字架みたいに見えるのだ。ぼくは写真に見入る。十文字に光のさしこむその場所は、平和で、汚《けが》れなく神聖で、何かによって強く守られているような、親密な場所だ。薄暗いのに。光より闇の分量が多いのに。先生、とぼくは言う。 「ん?」先生は顔をあげる。 「先生、北欧って冬が長いんでしょ、寒くて暗い日が多いんだよね、だから光が神聖なんだよきっと、でもさ、日本はいつだって明るいじゃん? 毎日たいてい太陽は照ってるよね、だから闇が神聖なんだよ、寒い地方では光を大事にするし、暑い地方では光がないところをわざわざつくるんだよね、そこになければ人は崇《あが》めまつって、ありすぎれば退ける。ねえ、そうすると、光も闇もまったく同じ意味を持つものだと思わない? でもなんで、住宅だけ光を信仰するみたいに大事にするんだろう?」  先生はぼうっとぼくを見ている。先生はよくこういう表情で生返事をする。きっと何かほかのことを考えているんだろう。 「先生」ぼくが知りたい、学びたいと切望しているものはなんだろう? 地域と家の構造のこと? 世界の宗教施設における光と闇の関係? 集合住宅のあたらしい可能性? それとも、ぼくが住むこの家のこと、ぼくら自身のことなんだろうか?「先生、今日が最後なんてすごく残念だ」ぼくは言う。 「メール書くわよ、今生《こんじよう》の別れってわけじゃなし」  先生はぼんやりしたまま言い、うっすらと笑う。閉ざしたドアの向こうから、ぼくらをお茶に誘うママの声が聞こえてくる。  毎年十一月におこなわれる文化祭準備のため、校内はなんとなくざわざわし、この季節、ぼくは少し気をゆるめられる。学校じゅう、ぼくのクラスメイトたちも例外なく浮かれ騒ぎ、カップル誕生や友情ごっこや熱血物語に夢中になって、無抵抗の男子生徒にプロレス技をかけたり、彼のもちものをかくしたり、彼をわざとらしく無視したり、彼の机だけ廊下に出したりする情熱を見事に失う。だからぼくは、どことなく浮き足立った校内を、まったくふつうの生徒のように歩くことができる。ミソノもきっと気をゆるめているのだろう、廊下ですれ違ったとき、ぼくの名を呼んで引きとめた。無視しようとしたが、腕をつかまれ仕方なくぼくはミソノの前に立つ。 「今日さ、キョーバシひま?」ディスカバの屋上でそうするように歯茎をむき出して無邪気にミソノは笑う。 「五時半に病院にいかなきゃなんないけど、それまでは」今日は家族全員で医者から話を聞かされる。おばあちゃんの検査の結果と、今後のことについて。 「今日準備のために学校二時で終わるじゃん、五時まででいいからさ、つきあってよ」 「いいけど。屋上?」周囲を見渡す。数人の中等部の生徒がふざけ合いながら通りすぎていく。窓に目をやると、中庭では数人の高校生がサッカーのまねごとをしている。 「平気だって。びくびくすんな」ミソノはぼくの肩を小突き、笑う。「屋上じゃなくて、べつのとこ。手伝ってほしいことがあるから。バス停で待ってる」  それだけ言って、ミソノは小走りに去っていった。ぼくはふたたび周囲を見まわし、嫌われものの高一女子としゃべってなんかいませんよ、中庭のサッカーに注意を引かれ足を止めただけですよ、というふりをし、ミソノの去った方向と反対へ歩き出す。昼休み終了を告げるチャイムが鳴り、蜂の襲来のようにあちこちからわきあがる喧噪のなか、ぼくはクラスへと戻る。手伝ってほしいことってなんだ? やっかいなことでないといいんだけれど。  ほとんどすべての生徒が明日葉祭に参加する。当然そのほぼ全員が準備に追われるわけで、学校前から乗ったバスはがらがらだった。ミソノはぼくの隣に座り、ラブホテルにいっしょにいってほしいのだと小声で言う。どうやらミソノは本当に、明日葉祭で占いブースをまかされたらしい。ラブホテルでぼくにその実験台になってほしいと、ミソノはくどくどと説明する。 「ミソノんちじゃだめなの?」ラブホテルにはこのあいだいったから、勝手はなんとなくわかっているけれど、ミソノといくのはなんだか気がすすまなかった。生々しい感じがして。 「うちじゃだめ。うちの念が入ってきて邪魔するから、うまく見られない」 「なんだよ念ってー」 「馬鹿だね、あたしにはあたしの前世があるでしょ? いわば家はあたしの前世がつくった場所なんだよ、そんなところで客観的に人の前世を見られるはずがないの」  ミソノはよくわからないことを至極まじめに言う。 「じゃあ屋上でいいじゃん。あそこ、人こないし」 「屋上じゃだめ。うるさすぎるし、大気中にこもった雑多な念がちらついて集中できない」 「はあー? なんだよそれー」 「今まで馬鹿にして前世を見せてくれなかったんだから今回くらい協力してくれたっていいじゃん。あたしの晴れ舞台なんだよ? デビューなんだよ? ひょっとしてものすごい未来への第一歩かもだよ?」 「何がデビューだよ……その発想がキショいっつーの」  ぼくはそう言いながら、しかしちらりと思う。明日葉祭で占いブースを任せられた、そのことが、ミソノにとって、からかいやいじめのネタじゃなくて、もう一度クラスに迎えてもらえるきっかけであればいいな。嘘つき女という名を撤回できる場であればいい、と。  ぼくらはディスカバの手前でバスを降り、ラブホテルが林立する界隈《かいわい》を数メートルの距離をとって歩く。タマネギ型モスクをまねた建物のキャラバンホテルや、みるからにまあたらしいホテルテラコッタにミソノはいきたがったが、ホテル野猿以外、ぼくはいくつもりはなかった。そこなら部屋の入りかたやお金の払いかたを知っているし、入り口から部屋までだれとも会わなくていい。それに何より、野猿ならさほど生々しくない。冗談みたいに感じられる。前世占いの実験台にぴったりだ。 「ま、野猿でもいっか。ノザッチでもない男と下手に洒落たところいっちゃうと、乙女の純情も逆に汚れるか。あたしたちまたやっちゃうかもしれないしね。野猿なら、みっともはずかしくてやんないよね、いくら年ごろのきみでも野猿で襲いかかってはこないよね、もしそんなことしたら、あたしあんたのこと一生野猿って呼ぶからね」  自動受付機で鍵を受け取り、エレベーターに乗り、しずまりかえった薄暗い廊下を歩く。そのあいだミソノはずっとそんなことを言っている。どうやらミソノは緊張しているらしかった。  505号室の鍵を開け、ソファテーブルに並べてあるリモコンのひとつで温度を調節し、テレビのスイッチをつけて無難に民放チャンネルを選び、ソファに腰かけ無料のポテトチップスを開封する。この前の部屋とは雰囲気がまるでちがい、ぼくもいささか緊張しないでもなかったが、できるかぎり平静をよそおって、自分のうちでくつろぐように動いた。部屋の入り口に突っ立ったまま、ミソノがぼくを尊敬のまなざしで見ているのを感じる。呆気《あつけ》にとられているだけかもしれないけれど。冷蔵庫にジュースが入ってるよ、有料だけどそんなに馬鹿高くない、と言うと、ミソノはぎこちなくミニ冷蔵庫に近づき、しゃがみこんでしばらくなかを見ている。 「ベッドに寝てくれる」  ポテトチップスを三分の一ほど食べ、ジュースを一本飲み干すと、落ち着いたらしくミソノは高飛車に言う。 「ベッドに寝るの? 明日葉祭のブース、教室につくるんだろ? 客を寝かすスペースあるの?」 「うるさいな。それを今日は実験するんだよ。いいからさっさと寝て。あ、上着脱いでね」  ぼくは言われたとおり上着を脱ぎ、青いストライプのベッドカバーの上にどさりと横になる。天井が鏡になっていることにはじめて気づく。耳がちりりと痛む。鏡は遠すぎてよく見えないが、耳が赤くなっているんだろう。ミソノはそんなことには気づかず、ベッドのかたわらに立ち、ぼくの額と胃袋のあたりにそっと手を置く。ミソノの手は乾いていてあたたかい。ちらりとミソノを見上げると、かたく目を閉じている。そうしているミソノの姿は見てはいけないもののような気がし、ぼくは目をそらし天井の自分と見つめあう。  額と胃袋に置かれたミソノの手が、だんだん湿り気を帯びてくる。妙な気持ちになる。シャツの上のやわらかいミソノの手。髪に数センチさしこまれたミソノの指。下半身がだんだんむずむずしてきて、ぼくは今日習った数式を思い出し解こうとする。yはxの2乗に比例し、x=3のときy=18である。yをxの式であらわしてみよう。y=2x2[#二乗]で、xの値が2から4まで増加するときの変化の割合を求めてみよう。  答えは出ず、うっかりするとぼくは数式の隙間でいやらしいことを考えはじめようとしてしまう。べつのことを考えよう。べつの何か。  そういえばこの部屋には窓がない。黒くぬった窓もない。  ラブホテルには窓がなく、あってもないように見せかけている。何を遮るためだろう。光と、人の視線と、それからなんだ? 外に向かう注意も遮るのか。もしここがぼくの家だったらどうだろう。窓はなく、食卓はなく、天井にぼくらの行為はいちいち映し出される。隠しごとはするべからず、なんてママの取り決めは用を成さないだろうな。狭いし、鏡だし、何か隠すなんて不可能だ。そしたらぼくらは今よりはればれした気持ちで日々すごせるのだろうか。それとも……。 「十九世紀終盤のスペイン」突然ミソノが声を絞り出すようにつぶやく。見ると、目を閉じたまま顔をしかめ眉間《みけん》に幾本もしわを寄せている。「アンダルシア地方……地中海沿岸」さらにつぶやき、小刻みにこくこくとうなずくと、かっと目を開けぼくを見る。 「なんか、それ、演出として逆効果なような気が……」  数式などよりミソノのその様子はよほど性欲を霧散させ、ぼくはふきだしたいのをこらえて言うが、ミソノは深刻な顔でぼくに起きるよう目配せし、堰《せき》を切ったように話し出す。 「キョーバシは貧しい漁師の家に生まれた、ものすごいうつくしい女の人だったんだよ。放任ていえば聞こえはいいけど、とことん親に放っておかれて育ったんだ。だからわりと早いうち、同じくらい貧しい漁師に嫁いだんだけど、じつはあんた、ものすごいヤリマンだったわけ、根っからの。子どもは二人産んだね。両方女の子。でも、ほんとのところ、だれの子かわからない。くるものは拒まずでやりまくってたから。それであんた、二十五のとき画家志望の青年と駆け落ちしたんだ。子どもも夫もおいて。でも全然罪悪感とか感じなかった。駆け落ち先で子どもたちのこと思い出しもしなかったね。なのに画家が貴族の娘に気に入られてあんたを捨てちゃうと、あんた平気な顔して帰ってったんだ、自分ちに」  ぼくはベッドに上半身を起こし、憑《つ》かれたように言葉をつなぐミソノを見ていた。そこまで言うとミソノは深く長いため息をついた。額が汗ばんでいる。 「ソファに移動してくれる?」ミソノは中年女みたいな声で言う。ぼくはおとなしくしたがった。  ソファに座るぼくの前に立ち、ミソノはまた片手をぼくの額に、片手を胃袋のあたりに置く。そして目をつぶる。ミソノはぼくの額と腹に触れたまま、前から右側へ、右から背後へ、背後から左側へと何かつぶやきつつ移動している。ミソノが背後にまわるとき、おっぱいがぼくの肩にあたるが、今度はへんな気持ちにはならない。姿勢の問題だけじゃなく、ミソノのうなされたようなしゃべりかたを思い出すと、ちんちんは眠るみたいにしずまりかえる。 「平気だ、キョーバシ、ありがとう。実験は成功だよ」  どのくらいソファに座らされていたのか、ふいに目を開けてミソノは言った。ミソノの手の触れていた額から水滴がしたたり落ち、制服のシャツは腹のあたりが湿ってくしゃくしゃになっている。ぼくは立ち上がり、冷蔵庫からダイエットペプシをとりだして飲む。 「前世って、横になってもらわないとあたし見られなかったのね、でもそれだとキョーバシの言うとおりブースじゃ無理でしょ? 保健室とか借りなきゃなんなくなる。だから、椅子に座ったままでも見られるように訓練したんだよ。それで、キョーバシで実験したかったの。でも、平気だった。ソファでも、ベッドと同じビジョンがばっちし見えた」 「なんだかずいぶん悲惨な前世だったけど」口元を手の甲で拭ってぼくは言う。 「そんなもんだよ、みんな。あたしだってそうじゃん。だいたい、前世で問題を解決してないから現世に持ちこむわけだもん」どことなく得意気にミソノは言い、立ったままポテトチップスを食べる。 「ミソノの前世はじゃあどんななんだよ」 「それ、ずっと昔に話してあげたじゃん。キョーバシってほんと、興味のないことって聞いてるふりして聞き流すよね」  ミソノの前世。聞いたような気もするが、思い出せない。実際、たしかにあんまり興味はない。 「で、なんなのさ? アンダルシアとか貧乏とかヤリマンとかだったぼくはいったいなんなわけ?」 「あ、わかんなかった? あんたを育てた両親ていうのは、キョーバシの今のおじいちゃん、おばあちゃんだよ。見るところ父方だね。それからあんたのふたりの子ども。これはね、キョーバシの現在のおばあちゃんとおかあさんだよ。おかあさんのほうが長女で、おばあちゃんが妹。母親がそんな女で、愛情をもらわず育ったもんだから、このふたりはもんのすごく憎みあって成長したみたい。あんたの夫、人がいいっていうか、ま、単純に鈍《にぶ》ちんなわけだけど、この人はえーっと、おとうさん。今のキョーバシの父親だね。駆け落ちの相手というのが、たぶんだけど、なんつったっけ、あの家庭教師。定住しない、放浪の画家。キョーバシさ、いろいろ、家のことやらされるよね? 面倒見させられるっていうか、神経使わされると思うんだけど、それ、前世で自分がまいた種なんだよね。自分がものすごく非情で無神経で、まわり全員に迷惑かけたから、今度はあんたが迷惑をかけられる番ってこと」  テレビの前に突っ立って、ミソノはよどみなくしゃべる。それだけ言うと、はあっとまたため息をついて、冷蔵庫からミネラルウォーターをとりだし一気に半分ほど飲む。 「で?」ぼくは訊く。 「で、って? でって何? そういうことだけど?」 「だから、これからぼくはどうなっていくわけ?」 「あのさあ、キョーバシ。これは手相見でもないしタロット占いでもないんだよ? 未来を見るものじゃなくて過去を見るものなんだってば」 「でも、じゃあ過去を見てどうなるの? ぼくの今の家族が前も家族だったって知って、それでどうなるの? ぼくがヤリマンで、家庭教師と駆け落ちして、それって現在にどう関係してくるの? あとさ、おばあちゃんの検査の結果、今日出るんだけど、それもなんか関係ある?」  純粋な疑問だった。信じるとか信じないじゃない。十九世紀のアンダルシアでヤリマンで、でもそれって、現世でなんの役にたつのだろう。けれどどうしたことかミソノはやけにむきになって、くってかかってくる。 「あんた、ばっかじゃないの? 前世ってなんのことだか知ってるの? 前世があるから今があるんだよ? 前世でやりのこしたことや残された課題を現在こなしてるんだよ? どうなるもこうなるもないよ、あんたは前世でまわりの人にたっくさん迷惑かけたんだから、現世では迷惑を引き受けなきゃならないし、どんなに不公平に思えることにも原因はあるんだってことだよ。それを見るのが前世占いなんだよ!」  ミソノは今にも泣き出さんばかりの勢いで言い、ぷいと横を向いて水を飲み干す。その姿にこのあいだのママが重なり、自分という人間がほとほといやになる。ぼくが思いやりを持てず、こうして人をいたずらにいらつかせたり傷つけたりしてしまうのは、そうしておいてまったく何も感じないのは、アンダルシアのヤリマンだったことと関係あるのだろうか? 訊きたかったが、訊けばもっとミソノがむきになるように思え、ぼくは黙って深く納得したように頷いてみせた。  ナースステーションわきにリネン室があり、その奥にさらに部屋がある。ホワイトボードと白い大きなテーブルのある、雑然と散らかったその部屋にぼくらは通される。隅に寄せられた回転椅子には漫画雑誌が数冊重ねられていて、背には白衣がだらしなくかけられている。ゴミ箱はお菓子の空き袋や使用済みティッシュであふれたままになっていて、窓辺の空調機の上には、文字の書きこまれたメモが散乱している。奥にはちいさな窓があり、遠くまで目を凝らしてもなんの明かりも見えず、窓はペンキで塗りつぶされたように深く青い。  背が高く、縁なしの眼鏡をかけた、色白の若い医者がここ数日の検査の結果について説明しているあいだ、ぼくは白いテーブルを囲む人々の顔をひとりずつ眺めていく。目を見開いて医者に相づちを打つママ、腕組みをし、何か考えるふうに上目遣いになっているパパ、唇を少し開いて頬杖をついているマナ姉、垢抜けたスーツ姿、冗談みたいに端整な顔立ちの、ママと似ているとは言い難いおじさん、胸元の開いた黒いセーターを着て、髪をひっつめておだんごに結った、神経質そうなおばさん。おじさんたちに最後に会ったのはいつだったか思い出せないくらい昔だから、彼らとここにいるのが不自然に思えるのは仕方ないにしても、ネクタイをきちんと締めてきたパパや、父兄会にくるみたいな淡いピンクのツーピースを着ているママも、この場にどことなくそぐわないし、知らない人みたいだ。すべてに現実味がなくて、なんだかドラマを撮影しているみたいだと思う。 「がんというとみなさん、その言葉だけでショックを受けられることが多いんですが、最初に言っておきます。木ノ崎さと子さんの場合、まったく問題ありません。甲状腺のがんには二種類ありまして、未分化がん、これだとちょっとやっかいなんですね、あばれんぼうのがんと言いますかね、成長が無秩序なんですよ、油断できないんですね。しかし木ノ崎さんは分化がんです。進行や成長が非常にゆっくりしていて、こちらでその速度を把握することができます」  うちの父は江戸時代の藩主だったんだよね。ミソノが語っていたミソノ自身の前世を、ぼくはふいに思い出す。ものすごいごうつくばりで、百姓たちから法外な年貢《ねんぐ》をとりたててたの。それが、あるとき百姓頭が謀反《むほん》をくわだててさ。それがうちの母親。前世って、男女の区別ないからね。 「甲状腺、木ノ崎さんの場合乳頭がんということになるんですが、ちょっと説明しますと」医者はホワイトボードに絵を描く。「ちょっとぼくは絵がへたなんですが、はは、これがまあ、喉頭ですね、これが気管、それでこう鎖骨があって……ここに、こんな感じでね、蝶みたいなかたちでついているんですね。これが甲状腺、ホルモンを分泌する役割を持っています」  それがこの百姓頭、力はあるし、人をまとめるのもうまいんだけど、おつむが弱かったんだわ。それで、頭脳面で彼をバックアップした若い男がいて、これが今の母の恋人。今、母が再婚したがっている男ね。前に話したでしょ? どっかのスーパーで働いてる男。ときどきこわれ菓子持ってくる。 「じつはこのがんですと、一生しずかにしていてくれることが多いんですよ。ほかの病気でお亡くなりになってから、調べていたら甲状腺がんが見つかったという例はいくらでもあります。木ノ崎さんの場合もたいへん進行が遅いので、今が今、大至急手術しなければ、というわけではありません。手術しますと、このリンパ節を除去することになりますから、術後毎日ホルモン剤を飲んでいただかなくてはならなくなります」  百姓頭は若者に支えられて一揆《いつき》を起こし、藩主をむごいやりかたでなぶり殺したわけ。それで一件落着なんだけれど、この藩主の妻は当然、その藩にはいられなくなるわな。妻は山に逃げて隠れていたんだけど、そうしているうち、神さまがおりてきちゃったの。天啓が下るっていうのかな。それで、山を下り、名前を変えて、新興宗教の教祖になっちゃった。これがあたし。 「万が一、除去し残した部分があった場合ですね、甲状腺ホルモンを投与して、充分ですよとわからせてやれば、がん組織がホルモンをさらに分泌しようとして成長をはじめるということは防げますのでね」  ミソノの父はミソノが小学生のときに気まぐれに家を出て、しかしときどきふらりと帰ってくる。ブティックを経営しているミソノの母にはあたらしい恋人がおり、早く離婚を成立させてこの男と再婚したいが、ミソノ父は離婚にはまったく応じない。これは前世ではなく現世の話。 「というような次第なんですが、まあ、いくら問題がないといっても、大事にとっておく必要もないですし、木ノ崎さんもそう希望されていますのでね、除去するいい機会ではあると」 「えっ」ママがすっとんきょうな声を出し、白い小部屋の空気が急にふるえる。その場にいた全員がママを見る。「本人が手術するって言ったんですか」 「先日そういうお話はすみましたけれど? えーとそれで、日取りなんですが、十七日で問題ないでしょうか。ちょっと時間のほうは、近くなってから変更があるかもしれないんですが午後の早い時間ですね。二時間か、長くても三時間ほどの手術になります。そのあいだ、ご家族のどなたかにお待ちいただくようになります。手術の方法について説明しますと」 「えっ、あの、でも」ママはまた口を開き話を遮る。パパとおじさんがとがめるような目でママを見るが、ママは全然気づいていない。そもそも、ママにはぼくらの姿など見えていないようだ。「あの人、麻酔がいやだって言ってたんです。絶対いやだって。だからあたし、たとえ転移するにしてもおっきくなっちゃうにしても、がんは放置するしかないのかって」 「ああ、麻酔。そのことですね」医者は薄く笑い、人差し指で眼鏡をずりあげる。 「木ノ崎さん、麻酔されて、意識がないままみなさんに何かしゃべっちゃうんじゃないかって、そのことを気にされてたんですね。何か、そういう本があるんですって? もうろうとしたまま秘密をしゃべらされてしまうことをおそれて、主人公が麻酔なしで手術を受けるというような……。そんな話を読んだことがあって、自分もあることないこと無意識のうちにしゃべるんじゃないかって心配されていましてね。でもぼくは知らないんですけれど、ずいぶん昔の小説か、もしくは医療とは関係なく書かれた古い探偵ものか何かじゃないかしら。ま、どちらにしても、自白剤を飲まそうってんじゃないんですから」医者は言って笑い、パパとおじさんが顔を見合わせて笑う。「……そうお話しして、麻酔のことは納得していただけました。それと先ほども言ったように、このがんは転移の心配は不要です。突然速いスピードで大きくなるってこともないですね」  医者はぼくらに背を向け、ホワイトボードに描かれた絵を消す。 「秘密? 秘密があるから麻酔はいやだって言ったんですか?」  ママはテーブルにほとんど上半身をのせるようにして訊く。突然のヒステリックな調子にたじろいだのか、医者はびくりと肩をふるわせてふりむき、片手を鼻の前でせわしなくふる。 「いやいや、ご家族に隠しごとがあるとはおっしゃってないです、あることないこと言うのがいやだって……意識しないところで何か言ってしまうのがいやだとおっしゃってたんですよ。何か言って、覚えていないのって困りますよね、ぼくなんかもよくあるんですよ、お酒飲んじゃうとね。あれはいやなものですよ。えーとそれで、手術の日はこれでよし……と。何かありましたら、いつでもナースステーションのほうにご連絡ください。とりあえず今日はこれで。ご苦労さまでした」  眼鏡を人差し指でずりあげながら医者は言い、言いながら小部屋のドアを開ける。彼にうながされるようにぼくらは部屋を出ていく。ママは最後まで立ち上がらず、一点を見つめて口のなかで何かつぶやいているのが窓ガラスに映っている。パパがママを立たせ、ぼくらはまた列になってリネン室を抜け、病棟の廊下に出る。おばあちゃんの病室に寄ってくると言っておじさん夫婦がその場を去り、ぼくらはなんとなく廊下のすみにたたずむ。 「おれらも顔出してくるか」 「あたしはいいわ。あんたたちいってきてよ」  ママは廊下の壁によりかかって言い、パパとマナ姉は目配せをして病室に向かう。ぼくもついていきかけて、足を止め、少し離れたところからママをふりかえる。  もし、おばあちゃんの心配したように、麻酔に自白作用みたいなものが本当にあったとしたら、ぼくは迷いなく手術台に向かえるだろうか。麻酔なしでメスを入れてくださいと言う度胸もないから、手術そのものを断固拒否するかもしれない。それで予定より早く死んじゃうにしても、ミソノとのことや野猿のこと、何より学校でのことをみんなの前でべらべらしゃべるよりは、そのほうがずっとましだ。麻酔を打たれてから目が覚めるまで、付き添いなしでたったひとりだったらいい。だったら何を言ったっていい。看護師さんやお医者さんになら何を聞かれたっていい。  これってへんなものだよな。ひとりだったら秘密にならないものが、みんなでいるから隠す必要が出てくる。でももし、ぼくが人をまちがって殺しちゃったとする。そしたら、家族にだけは打ち明けるかもしれない。本気でつかまりたくなかったら、家族だけに言って、かくまってくれと泣いてたのむかもしれない。  廊下の壁に背を押しつけて、ナースステーションの内部をぼんやり見つめるママに目を向けたまま、ぼくは北野先生のことを思う。根無し草の北野先生と話したくてたまらなくなる。ぼくの部屋で、いつものように横に並んで。同じ意味を持つ光と闇って、家族ってものとどこか似てなくないかと言ったら、北野先生は上の空のまま、お子さまは単純だね、とつぶやくだろうか。 「コウ、あんたいかなくていいの」戻ってきたマナ姉がぼくの肘をつつく。 「いいんだ、この前いったし、今度の当番はぼくだから」ぼくは答える。  おじさん夫婦とパパが戻ってきて、ぼくらはひとかたまりになってエレベーターホールへと向かう。病棟とエレベーターホールの中央はロビーになっていて、ベンチが並び、中央にテレビが設置されている。テレビは大音量でニュース番組を流していて、ベンチの一角に、テレビに背を向け数人が座っている。なんだか妙な具合にかたまっている、と思ったら、みんな泣いているのだった。中年の夫婦、若い男女が三人、うちのひとりは赤ん坊を抱いている。まるで冬の雀みたいに身を寄せ合って、泣いている。赤ん坊だけがにこにこ笑ってこちらを見ている。エレベーターがやってくるのを待ちながら、ぼくらはそちらを盗み見る。だれも何もしゃべらない。  エレベーターがぼくらの前で扉を開き、無人の、白い四角い空間が目の前に広がっている。 「麻酔がいやだって言い張っていた理由って、あんなことだったのかあ」  乗りこむと、パパがのんきな声を出す。 「何か言いたくないことがあったのかしら」  おばさんが言う。高くて細い、金属みたいな声だ。 「さあね。人間七十年近くも生きてたらいろいろあるんじゃないの。うちはとくに、昔からめちゃくちゃだったし。なあ、絵里子。おまえは知ってるんじゃないの、あの人の言いたくなかったこと。おれとちがっておまえら、仲いいんだし」  おじさんが言うと、前方を見据えていたママは目を見開いてふりむく。 「えっ、何よ、それ」  エレベーターは三階で止まり、扉が開くがだれも乗ってこない。マナ姉が閉ボタンを押し、ふたたび扉は閉まる。 「仲、いいじゃないか、ずっと昔から」  ママは食い入るようにおじさんを見つめている。おじさんは両手をズボンのポケットにつっこんで階数ボタンを見上げ、無表情に話す。 「今でも口を開けばおまえの話だよ。おまえがどこそこの菓子を買ってきただの、花の苗を持ってきてくれただの……まああの人は昔からそうだけど」 「えっ」 「そんなにしょっちゅう会って、なんでもしゃべりあってるなら、隠しごとってのがなんなのか、聞いてなくても見当くらいつくだろ」 「え……私……」  おじさんと向き合うようにして立つママをちらりと見ると、ママはおじさんを見ていない。焦点の定まらない目をおじさんの背後に泳がせて、言葉を捜すように口をちいさく動かしている。エレベーターのなかはへんなふうにしずまりかえる。 「それに」  言いかけたおじさんをさえぎるように、 「あっ、コウ!」  突然パパが叫ぶ。吸いよせられるようにぼくらはパパを見る。 「コウはここで産まれたんだぞ。そういや来月、誕生日じゃないか」  話題をそらそうとしたらしく、パパはやけに芝居じみた笑みを顔じゅうに浮かべている。 「まあ、おいくつになられるの」実際話題はかわり、おばさんは笑顔で訊く。 「十五です。いやー、ぼくらも老けるわけですよ、あんなチビが十五だもの」パパは唐突なしたしさでおばさんに話しかけている。 「えー、あたしは?」マナが訊き、 「マナんときはここはまだできてなかったよな、ママ?」  話しかけられたママは、まだぼんやりしたまま、おじさんと向き合って突っ立っている。  エレベーターは一階につき、乗りこむ人たちに揉まれながらぼくらは四角い箱を降りる。それぞれ胸につけた面会バッジを外して受付に返し、おもてに出る。タクシー乗り場に並ぶ車の空車ランプが、濃い紺の空気のなか、赤く灯っている。 「じゃあ、ぼくらは車ですので」おじさんがパパに言い、深く頭を下げる。「絵里子さん、十七日のこととか、また電話します」おばさんはぼくとマナ姉にちいさく手をふる。そうしてふたりは、ぴったりくっついて駐車場へと向かうスロープを降りていく。  二人を見送ったのち、 「車ならふつう途中まででも乗ってくかって訊くだろうが。なんかいけすかないんだよな」  パパが吐き捨てるように言う。 「ねーあたし超ハングリーなんですけど。ディスカバでなんか食べてこうよー」  パパとママを交互に見ていたマナ姉は、ママの腕に腕をからめて大きな声を出す。ママはマナ姉へとゆっくり視線を移し、そういえばそうね、とちいさくつぶやく。  ねえミソノ。  バス停に向かいながら、牛角だ、サイゼリヤだととりとめもなくしゃべりはじめる彼らのうしろを歩き、ぼくは心のなかでミソノに話しかける。  ミソノ、前世って、マジであるかもな。あ、誤解しないでほしいんだけど、ぼくがアンダルシアの淫乱で、ミソノが江戸時代のカルト教祖だってうのみにしたわけじゃないんだ。ただ、ぼくらが何ものだったにせよ、どこかの時代で、どこかの場所で、やっぱりこうして、ぼくらは人といっしょに群れをつくって暮らしていたのかもしれない、とは思うんだ。  だってさ、だれも憎んでいないのに、ぼくらは憎むってことを知ってて、とくべつさびしくなんかないのに、さびしいってどんなことかわかるだろ。ぼく自身はここしか知らないのにだよ? ちっぽけなこの町の、ちっぽけなダンチの、ちっぽけな家のなかしかさ。だから憎いとかさびしいとかってこの気分、ひょっとしたらアンダルシアから持ち越したものなのかもな、とか思うわけ。  コウ、バスきてるー、早くしなよー、マナ姉の声が聞こえ、ぼくは顔をあげる。バス乗り場でパパが大きく手招きをしている。パパのうしろには、行き先を白いランプでてからせたバスが停まっていて、ぼくは走ってそれに飛び乗る。乗客はぼくらしかいない。みんな離れた座席に座っている。音をたてて扉が閉まり、バスは音もなく走り出す。  前世のツケを今払うって話はきっとミソノが考えたんだよな。あんまり不公平な今を、自分自身で納得したくて。でもそれ、けっこういいアイディアだと思う。だって、もしミソノの言うとおりなら、ぼくらはたとえちょびっとずつでも、いい方向へ変化してる、し続けてるってことになるもんね。少なくとも、これからのぼくの人生はアンダルシアのかなしいヤリマンよりはましだろうし、ミソノだって、山で神に降りられた女よりはましな仕事につくと思うよ。  ばらばらの座席に座り、窓の外に思い思いの視線を向けたぼくらを乗せ、ヘッドライトで闇を分け入るようにしてバスはすすむ。今考えたそのことを、明日ディスカバの屋上でミソノに言おうと思い、けれどそのすぐ一瞬あとで、やっぱり言わずに黙っていようとぼくは決める。  窓に額をつける。ひんやり冷たい。空のかなたで、楕円の月が夜を照らす黄色いランプみたいに光っている。この光景には見覚えがあると、急に気づく。前世ではなくこの生だ。アンダルシアではなくこの町だ。右側からパパがのぞきこみ、左側からちっちゃいマナがのぞきこみ、ママの腕のなか、バスの振動をかすかに感じながらぼくはたしかに今と同じこの黄色い月を見ていた。  うしろの席をふりむくと、その気配に、それぞれ窓の外を見ていたみんながこちらに顔を向ける。ぼくら四人はなんとなく顔を合わせ、そして、まるでたった今、同じその記憶を見ていたと錯覚してしまうような顔で、ちいさく笑い合う。曖昧な笑みを口元にはりつけたまま、ぼくらはまた、思い思いの方角に目を向ける。月はぼくらのバスを追うように、さっきより近い位置で黄色い光を放っている。  初 出   「別册文藝春秋」     ラブリー・ホーム 第二三八号     チョロQ 第二三九号     空中庭園 第二四〇号     キルト 第二四一号     鍵つきドア 第二四二号     光の、闇の 書きおろし  単行本 二〇〇二年十一月 文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 平成十七年七月十日刊