[#表紙(表紙.jpg)] 幸福な遊戯 角田光代 目 次  幸福な遊戯  無愁天使  銭 湯 [#改ページ]   幸福な遊戯  三人での共同生活を始める際に、同居人同士の不純異性行為禁止と、それだけを決めた。誰を連れ込んでも毎晩違う女を連れ込んでもいいが、同居人だけはだめだ。立人がそう提案するのには、訳があった。男が二人に女が一人、三人の共同出資で成り立っているのだ。色恋|沙汰《ざた》を交えると、誰かが出て行くことになりかねない。すぐに次の同居人が見つかればいいが、なかなかそうはいくまい。そうすると誰かが出て行った場合、当分一人分の家賃が増える。そんな現実的な配慮だった。だからこの三人は、男だ女だというのでなく、まるで同性同士のように暮すべきだ。立人は引っ越してきた第一日目に、そんな演説をした。  禁止事項を破ったのは、私とハルオだった。共同生活を始めてまだ三か月目、梅雨がまもなく明けるだろうという晩、立人は親戚《しんせき》の葬式で田舎へ帰った。私と立人は大学時代四年間クラスメイトだったから気心が知れていた。しかし立人の高校時代の同級生であるハルオとは、ここへ越してきて初めて顔を合わせた。通り一遍の話はするものの、なかなか心からうちとけられなかった。だいたいハルオは、犬みたいに人なつっこい笑顔で年中微笑んでいるから、裏っかわで何を考えているのかわからないところがあった。その晩も、立人という仲介役が存在しない居間でハルオと二人、何か居心地悪さを感じながらもTVに見入っていた。ハルオもその居心地悪さを感じているのか、よく喋《しやべ》る裏側に無理が見え隠れする。気まずさを追い払うために私たちは酒を飲んだ。気付いたら寝ていた。それだけのことだ。  ハルオのベッドから手を伸ばして窓を開けた。さっきまで降っていた細かい雨はやみ、暗闇の向こうから湿った緑の匂いが流れて来る。暗闇の中で隣家の大木が、葉についた雨を振り払うように大きく揺れていた。 「最初の頃、立人が妙に気を遣ってておかしかったな」ハルオが言い出した。  まだ桜が花をつけていなかった頃を思い出す。 「私たちを和ませようと一生懸命で、まるで子供を連れて後妻に入った母親みたいだったね」 「そうそう、料理はきっちり三人分作って、よく三人で食事したなあ」 「そんなふうにされて、かえって緊張しちゃった」  それからハルオは口をつぐみ、しばらく黙っていたが、そのうち訊《き》きもしないことを喋り始めた。  五年前に高校出ていきなり東京に来て、立人のアパートに転がり込んだ。東京でやりたいことがあったわけでもない。東京って場所に憧《あこが》れていただけだ。東京に行けば楽しいことが山のようにあって、やりたいこともきっと見つかる。未知のものが、度胆《どぎも》を抜かすような何かがきっとある——そう思ってたけど、五年たった今でも何もありゃしない。相変わらずふらふらしてて、何かを待つばかりだ——。  ハルオは闇に声を溶かすように静かに話した。人なつこい笑顔の裏側には何もないのだと気付いた。いや、何もないのではない、裏にしてみたところできっと同じ人なつこい笑顔があるに違いない。彼に対する心の重りがぐんと軽くなった。この夜のセックスは恋愛の蓋《ふた》を開けるのでなく、私にとっても彼にとっても、この家をずっと住みやすくしてくれるだろうと思った。 「もともと、深く考えないんだよ」  五年間の自叙伝を締め括《くく》るべく、またこの夜の秘密の言い訳をするべく、ハルオは笑って言った。深く考える人ではないことをありがたいと思った。深く考えずに私と寝たことをありがたいと思った。  翌日、田舎から帰ってきた立人と顔を合わせても、禁止事項を破った罪の意識は感じなかった。むしろ、ハルオとの一夜を彼に報告したがっている自分がいた。 「葬式って不思議な儀式だよな」  田舎から帰ってきた立人は、びっしりと汗をかいた麦茶のコップを見据えてぽつりと言った。ハルオはバイトに出かけていた。殺伐としながらも騒々しい、工場のようなあの居酒屋で大ジョッキを運ぶ彼の姿が浮かぶ。やりたいことがないと言ったその口で注文を繰り返し、私の体に触れた手で枝豆や揚出し豆腐を運んでいるだろう。  沈みかけた太陽が立人の顔を橙《だいだい》に染める。コップの氷が溶けて、からりと涼しい音を奏でる。私は立人の話に耳を傾けた。 「父方のばあちゃんが死んだんだけど、何だか親族大集合でかえって不思議だったよ。滅多《めつた》に顔を合わせない親父とお袋が並んで頭下げてるのも、ばあちゃんに憎まれ口しかきかなかったお袋が涙流してるのも、何年も会ってない兄貴がいるのも、親父のねえさんとお袋が口きいてんのも、すべてだまされて芝居見てる感じだった」  話しながら立人は土産に買ってきた包みを開けた。どこにでもあるような饅頭《まんじゆう》だったが、頬張ると懐かしい味がした。 「葬式の後はみんなで卓を囲んで宴会だろ、変だったなあ」  煙草に火をつけると立人は私を見、 「そういえばサトコには家族の影がまるでないな。お前、一人で派生してきたって感じがするよ」  と言った。私は麦茶を一口飲んで笑った。 「だって私、家族いないもん」 「またそういう、変な冗談を言う」  立人も笑って庭に目を向けた。縁側の向こうの小さな庭には、生い茂った紫陽花《あじさい》の葉が橙に染まって静止していた。  明くる日、昼過ぎに授業を終えてから姉の家に行った。六つ年上の姉は何年も前に結婚した。都内に住んでいるが、訪ねていくにはかなりの気合いが必要で滅多に行かない。その日訪ねる気になったのは、前の日に立人の話を聞いたからかもしれない。そういえば、引っ越してもう三か月になるのに引越し先すら教えていなかったことを思い出す。  主婦に紛れて商店街を歩き、手土産にケーキを買った。同じようなマンションが並ぶなか、記憶をたどって姉の家を捜した。ベルを押すとはあいという明るい声が聞こえ、ドアが開いた。私を見ると姉は大袈裟《おおげさ》に驚き、スリッパを揃えて置きながら早口で喋る。 「本当に久し振りじゃないの、連絡ぐらいしなさいよ。あんた一体今何してるの? 近いんだからちょくちょく来ればいいのよ。もう二十三でしょ? もっとちゃんとした格好をしたらどう、汚いジーンズなんかはいてないで」  私の買ってきたケーキでお茶を飲んだ。どこで覚えたのか、姉がいれた紅茶は本当においしかった。姉が一人で自分の近況報告などするのを、ティーカップに描かれた花模様を見ながら聞いた。 「そうだ、私引っ越したの」  姉の話の合間に言った。彼女はまた大袈裟に驚き、メモを用意してきて住所を書けと言う。書いてる最中も、どんなところなのか家賃はいくらなのかと質問を浴びせる。 「三人で木造の一軒家を借りたの。庭が付いてて十万だよ、安いほうでしょ。三人だから一人三万三千円。日当たりのいい部屋をもらった私が、三万四千払ってる。大学の時のクラスメイトと、その人の高校時代の同級生。高校時代の同級生って言うのは、引っ越して初めて会ったんだけど、なかなか気が合うし、まあ快適な生活だと思う」  姉はふんふんと聞いていたが、ふと思いついたように言った。 「そういえばあんた、就職したの?……そんな訳ないわね、こうして昼間訪ねてくるんだから。何してるの」 「大学五年生よ。留年した」  姉は笑い、笑いがおさまる頃に私を見つめた。 「まあ、あんたが楽しければいいわ」  フローリングの床に置かれた観葉植物や、壁に飾られた写真や、大きな額に入ったしゃれた絵などは、すべて昔姉が何かで見、憧れていたものだ。そしてこの家の中の清潔さや、部屋中にあふれる平和な空気もがそうだ。私たちが暮してきた家には、しゃれた絵も家族の写真も暖かい空気もなかった。  姉と母親の乱闘騒ぎをドアの透き間から垣間《かいま》見たのはどのくらい前だったろう。高校卒業後働きだした会社の人と姉は付き合っていた。一回りも年の違う人だと姉が言っていた。その姉とは一回りも年の違う男に母親が手を出したことが乱闘の原因だと、幼い私は何となく感じていた。細く開いたドアの向こうで、夜中だというのに彼女たちは大声で罵《ののし》りあい、ものを投げつけあい、相手をひっぱたいていた。それは母と娘でなく、女同士の戦いだった。小気味よくお互いをひっぱたく図を覗《のぞ》き見て、気持ちよさそうだと思った。まるでTVでボクシングの名試合を見るように。部屋の外、暗い廊下で一人|佇《たたず》むことしか出来ない自分が口惜しかった。私ももう少し大きかったら、その中年男に手を出して、この戦いに交じることができただろうに。三人でさぞや面白い戦いが繰り広げられただろうに。そんなことを思っていた。乱闘戦の後しばらく、母親は家に寄りつかなくなった。しばらくして姉は結婚を決めた。相手は「ドラえもん」という漫画に出てくるのび太みたいなやつだった。ぬぼっとして頼りなさそうなその相手を見た時、こいつは二人で争った男ではないとわかった。 「何だ、あんな奴。姉ちゃんなら、もっといい男がいるだろうに」  その人を紹介された後で、私は姉に向かって言った。姉は店屋物の丼《どんぶり》に付いてきた漬け物をぽりぽりと食べ、 「あたしは幸せになれればいいの」と言った。  その時は姉の言う「幸せ」の意味が分からなかったが、静かで清潔な家の中を見れば理解できる。そしてその「幸せ」を姉は手に入れたのだと思う。 「ねえ、一緒に暮している人たちは何をしてるの」  二杯目の紅茶をいれながら姉が訊く。 「一人は大学院に行って勉強してて、一人はぷらぷらとしてる」 「もしかして男の子?」 「そう、二人ともね」 「どっちが彼氏?」  昔のままの姉の顔に戻って彼女は訊いた。 「どっちも違う。あそこの家ではセックス禁止令が出てるの。だから、両方友達」  姉は笑い転げ、それは安心ね、と言った。  壁に掛かった時計を見ると来てから一時間もたっていなかったが、私は立ち上がった。 「もう帰るの?」 「明日までにレポート書かなくちゃいけないから」  私は嘘を言った。清潔な空気というものがどうも私の性に合わないらしい。ここに坐《すわ》っていると肩が凝るのだ。 「ちゃんと銀行にお金は振り込まれてくる?」  立ち上がりながら姉が訊く。 「うん、大丈夫」  玄関に坐り込んで靴を履く私を見下ろして、姉はふいに言った。 「ねえサトコ、あたし最近思うんだけど、人が持って生まれた運命の糸って、生まれた時からぐちゃぐちゃによじれているんだと思うの」  急に何のことかと言おうとして、私は黙った。中学生の私を相手に、姉はいつも運命の糸の話をしていたことを思い出したのだ。ねえ神様っていると思う? いるとしたら、よく家みたいな複雑な糸を思いついたもんだわね。そんな具合に。 「だけどそれは、成長していくうちに、自分の手で真直ぐにできるもんなのよ。ほら、毛糸が絡まった時と同じ、焦らずいらつかず、丁寧にだまをほぐして、自分の糸を真直ぐ真直ぐ伸ばしていくの」  靴紐《くつひも》を結び終えた私は、黙って姉の言葉を聞いていた。何か言おうと思ったが言葉が見つからず、 「じゃあ」  と立ち上がった。 「またいつでも来てちょうだい。ケーキありがとう」  姉の顔が白いドアの向こうに消えた。  帰り道、首をこきこきと左右に曲げながら、姉の言葉を思い出した。姉が自分で伸ばした糸の上に、手入れの行き届いたキッチンがあり、落ち着いた色合いのテーブルクロスがあり、花模様のティーカップがあり、隅に埃《ほこり》のない居間があり、糊《のり》のきいた夫のシャツがあるらしい。姉の言葉を聞きながら、私は違うと思っていた。それは違う。もし運命の糸なんてものがあるとしたら、生まれた時は産声くらい真直ぐな糸なのだ。それを私たちはわざとよじれさせていくに違いない。ある時は弱さのため、ある時は興味のため、面白さのため、悲しさのため、自分のために——。  結果的に禁止令を破ったことで私は心から安心できる場所を獲得した。すなわち、この家でどこにいようと誰といようと、緊張するということがなくなった。共同生活を始めてから半年たったが、まるで生まれる前からこうして三人で暮してきたような錯覚に私は時々陥った。一日一日と過ぎていく月日は、習慣を形成するだけでなく、性別もこだわりも踏み付けてどこかに置いてきてしまった。  当初、私とハルオを和ませようと必死に料理の支度をしていた立人だが、半年もたつとそれが習慣になってしまった。食事を待つ私たちが「いつも悪い」と口にすると、「料理はもともと好きなんだよ」と立人は笑った。 「母親も父親もよく家を空けたから自然と作るようになったんだ。自分で作ってみると、母親の手料理なんかがまずくて食べられなかったよ。あの人は料理とかそう言うの、似合わないんだ。得意料理がゆで卵なんだから。おれが料理に凝りだして兄貴にも作ってやって、うまいなんて言われると本気でうれしくてね」  そんな話を聞いた後は私もハルオも彼を喜ばせようと何度も「おいしい」を連発した。実際彼は女の私より手際よく、またおいしく料理をした。  バイトをしながら大学院に通う立人と、夜バイトに行くハルオ、週三回大学に行く私と、生活はばらばらだった。しかし三人がまる一日顔を合わせない日は滅多《めつた》になかった。立人は六時頃帰宅し、ハルオは十時頃出かける。その間の四時間は気が付けば三人揃って居間にいた。他愛のないことを喋《しやべ》り、ビデオを見ながら食事をし、子供のようにカードゲームに興じた。  そんな時間を過ごしながらふと気付いた。私たちは三人とも、奇妙な共同意識を持っている。彼等は気付いていないかもしれない、が、それは確かにあった。  例えば立人が三人分のビールを買ってくる。例えば私が三人で出かける休日の計画を立てる。例えばハルオが、バイト先の友達を連れてきて私たちに紹介する。金銭的に困った時は少しでも持っている人が惜し気もなく提供する。その日の食事は誰が賄っているのかわからなくなる時もしばしばあった。  そういうふとした時に、私はこの家に姿のない形を見た。三人が共通意識としてそれを感知していて、誰もがそれを大事そうに抱えこんでいる。ばらばらの生活でも必ず片手はその姿なき形を掴《つか》んでいる。だから家族でもない他人同士の暮しの中で、私はこんなに心穏やかに、夢を見ているように過ごせるのだ。そう思い、ほかの二人もそう思っていてほしいと願った。そう思っているに違いがないと信じた。  二人より千円多く払っている分だけ、私の部屋は明るい。二階には三人分の部屋があるが、東南のこの部屋が最高だ。千円でこの日差しが買えるなら安いものだといつも思う。真っ昼間、カーテンも窓も開け放して私はよく眠った。点々とベッドの上に落ちる日差しを縫いつなぐように横になる。汗ばんだ額や肩をそっと風がさすってゆく。窓から隣りの桜の木が見える。花びらをすっかり落とし、緑の葉を枝中に飾って風に踊らせている。それを見つめてからゆっくりと目を閉じる。まぶたの裏に桜の木がうつり、それはやがて白に溶ける。  夕方になれば立人が戻ってくる。ハルオが出かけるまでの間、また三人でビデオショップに行こう。「バグダッド・カフェ」がもう一度見たい。立人の夕食を食べてビールを飲みながらビデオを見よう。そんなことをうつらうつら考えていると、ハルオの人なつこい笑顔がまぶたの裏に現れる。立人の暖かい笑い声が耳の奥に響く。そして私は幸福な眠りの中に入って行く。  騒がしさに目が覚めた。カーテンを開けると空が高い。窓ガラスから伝わってくる冷気にもう夏も終りだと思う。ついこの間桜が散ったばかりなのに……それにしても騒がしい。時計を手にするとまだ七時だ。どうせまたハルオがバイト仲間を連れて帰ってきたのだろう。時計を置いて横になったが、久し振りに早起きもいいだろうと思い直してベッドを下りた。  ハルオは何回かバイト仲間を連れてきたことがあるので、ほとんど彼等の顔と名前を覚えてしまった。学校帰りに遊びに来る小学生のように屈託のない人ばかりだ。その明るい笑顔を見る度、類は友を呼ぶものだと感心してしまう。  騒ぎの元である居間に行くと、アルコールの匂いと六、七人の真っ赤な顔が私を迎えた。女の子も混じっていた。私を見るなり「おはようサトコちゃん」と彼等は馴《な》れ馴れしく人の名を呼ぶ。 「うるさかった? まあ飲みなさい」上機嫌のハルオが言う。  飲めと言われても早朝七時である。それでも円の中に坐ると、ちゃぶ台にカメラが置いてあるのに気がついた。酒瓶、倒れたコップ、つまみの袋、それらの中に置かれたカメラは妙な異物に思えた。私がそれに見入っているとハルオが気付いて声を上げた。 「これ、おれのカメラだよ」  おもちゃの所有を自慢する子供のようだ。 「はしゃぐな馬鹿」 「今、このカメラのオークションしてたんだよ」 「何の用もないのにこの馬鹿が買った」  赤い顔が口々に言った。 「いくらで落札?」私は訊《き》いた。 「二万」  ハルオが二本の指を突き出す。それを合図にしたようにまた騒ぎが広がる。 「みんな欲しかったんだけど、誰も二万以上出せなかったのよ、情けないことに」 「どうしてハルオが二万もぽんと出せるんだ」 「これ、店長のカメラなんだけど、すげえいい代物なんだってよ、プロが使うような」 「へええ、カメラのことはわからないけど、それを二万ねえ」  ハルオはうれしそうにカメラを手にすると、そう言う私に向かってばしゃりとシャッターを押した。急いで笑顔を作った私に、 「残念。ネガ入ってないよ」  と舌を出した。  学食は混んでいたので中庭で時間をつぶした。まだ日差しは強いが、それでも太陽は秋服に着替えたようだ。ベンチに腰掛けて風に銀杏《いちよう》の葉が飛ばされるのを見ていた。早起きしたせいで欠伸《あくび》が止まらない。間抜けに欠伸を続ける私の前を、ぴしりとスーツを着こんだ学生が行き来している。それが穏やかな中庭には不釣り合いで、不思議な雰囲気が漂っている。 「珍しいな」  声をかけられて顔を上げると前に立人が立っていた。家の中で見るのと学校で見るのとでは彼の顔が違う気がして立人だとわかるまで数秒かかった。 「学校来てるんだ」 「もちろん。会わないだけだよ」  彼は私の横に腰を下ろした。学校で見る彼は少し前のクラスメイトだった頃の顔に戻っているようで懐かしい。 「今朝、うるさかったでしょ」 「もう慣れた」  太陽に目を細めて立人は笑った。わずかになった銀杏の葉が彼の顔に影を落とし、まだらに染める。 「カメラのオークションやってたんだって」  私は今朝の話をした。立人は不思議そうな顔をして訊く。 「どうしてハルオがまたカメラなんか?」 「さあ。私も訊こうと思ったけど、なにしろ酔ってるし、訊いたってふざけるだけだと思って訊かなかった」  立人はにやにやと笑い、 「どうせ欲しくもないのに意地になって買ったんだろ」  悪意なく言った。 「でもあいつ飽き性だから、三か月後には誰かに半値で売ってるぞ」 「そうかな」 「賭《か》ける?」 「賭けまでしなくても」 「いや、面白いから賭けよう。三か月後、我が家からカメラがなくなることに千円」  私たちは声を上げて笑った。  家に戻り、宿酔《ふつかよい》顔のハルオに訊くと、立人の言った通りだったので笑ってしまった。別に欲しくはなかったが、みんな必死になっていくらいくらと言っているので面白くなり、たまたまその時金を持っていたのでつい買ってしまった、そうである。しまった、賭けるんじゃなかった。咄嗟《とつさ》に私はそう思った。三か月後、本当にカメラはなくなるだろう。 「でも」カメラをいじりながらハルオは笑った。「三人でどこかへ行った時、カメラがあれば便利だよ」  それを聞いた時、また感じた。ハルオが手をのばしてこの家の姿なき形を必死に守っている、と。 「そうだね。じゃあ三人でどこかへ行かなきゃね。寒くならないうちに」私は言った。  立人が賭けをしようと言ったことを話して笑おうかと思ったが、話せなかった。相変わらずふらふらして何かを待つばかりだ——いつか聞いたハルオの細い声が頭の中で響いていた。  三か月後、カメラは依然としてこの家にあったのだから私は賭けに勝ったことになる。しかしその頃には、私も立人も賭けのことなどすっかり忘れ、ハルオがカメラを持ってうろついていることは一つの習慣のようになってしまっていた。  庭に霜が降り始め、隣の木は雄々しく尖《とが》った。三人で迎える初めての冬だった。こんなに暖かい冬も、初めてだった。風の冷たさに耳が痛くなっても、急ぎ足で帰れば部屋は暖かかった。雨の日は三人とも部屋から出ず、鍋《なべ》を囲んでTVを眺めた。部屋の中にいさえすれば、これから一生冬が続いてもいい、などと思えた。  こたつに入って夕食をとっている時、ハルオがバイトを始めると言いだした。最近の食事はいつも鍋だ。何でも鍋に放りこめばいいから楽なのである。 「じゃあ居酒屋はどうするの?」何気なく私は訊いた。 「掛け持ちするんだよ。三時から九時まで新しいバイトして、十時から朝まで居酒屋に行く。忙しくなるけど、よろしく」 「金が必要なの?」立人が訊く。 「まあね」  何に必要なのか、ハルオは言葉を濁したが、私も立人も深く追及しなかった。 「何のバイト」 「まあ、普通のサービス業だよ」  また彼が言葉を濁したのを私は聞き逃さなかった。それ以上聞きだそうとすると、ハルオは箸《はし》でTVを指し、話を逸らした。 「見て見て、すごいぜあれ」  思わず画面を見る。ドキュメンタリー番組らしかった。大阪のあいりん地区とテロップが入る。うらぶれた道路に何人もの労働者風の男が坐《すわ》り込み、酒を飲んでいる。すさまじい光景だった。朝なのである。薄汚い路上に酒とつまみを並べ、朝から彼等は酒を浴びているのだ。インタビュアーが話し掛け、彼等は何か答えているが、言葉になっていない。  なぜかそれが正視できず、私はチャンネルを変えた。鍋から上がる白い湯気は部屋中を漂い、窓を曇らせ、窓の外の闇は水蒸気に隠される。部屋の中は暑いくらいだったが、窓を開ける気にはなれなかった。  明くる朝、寒さに足踏みをしながら洗濯機を回していると、ハルオが傍に立った。おはようと声をかけたが、ハルオは黙って洗濯槽に溜《た》まる水を見つめている。 「バイトから帰ってちゃんと寝たの?」  と訊くと、うんと答えた。 「サトコ、今日暇?」  日を吸い込んで眩《まぶ》しそうにきらめく水に視線を落としたまま、ハルオは口を開いた。 「暇だけど、何?」 「話があるんだ。付き合ってほしいところがある」  何だか見当がつかなかったが、 「洗濯が終ったらね」  と答えた。  ハルオは縁側に腰掛けて、私が洗濯物を干すのを子供のように見ていた。いつもより口数が少ないのが気になった。立人はバイトに出かけた。家の中のしんと静まり返った空気が縁側から緩やかに流れ出している。その突破口にじっと坐るハルオは、静かな空気に溶けてしまいそうだった。  ついてきてほしいところ、というのは区の青年館だった。貸しホールがいくつかあり、小さな図書館が付いている。反応の遅い自動ドアの向こう側、整然としてつるつる光る床を私は見つめた。ハルオは受付で何か言葉を交わし、鍵《かぎ》を持って地下へ下りてゆく。訳が分からないまま私は後に続いた。  そこは暗室だった。ハルオはカーテンを閉め、まるで理科の実験の準備をするように作業をしている。ドアに寄り掛かり、私はいろいろ質問を浴びせかけた。 「これから何が始まるの? 話って何? ここ、よく来るの? こんな場所があるの、私知らなかった」  ハルオはそのどの質問にも答えず、 「すっげえ面白いもん、見せてやるよ」  とだけ言った。  部屋の中が真っ暗になり、赤い電気だけがこうこうと光る。ハルオは紙袋からネガを取り出し、奇妙な機械にはさんでいる。 「ハルオ、もしかして、写真ずっと、自分で焼いてたの?」  やっと結び付き、私は驚いて言った。ハルオの側に行って覗《のぞ》き込むと、妙な機械の下に敷いた紙に、うっすらと風景が写っている。 「全部じゃないよ。ここを見つけたのは最近。これで三度目かな。これは印画紙。これを現像液に漬ける。見てごらん」  白い紙に、ぽうっと景色が浮かんでくる。見慣れた景色だ。私たちの庭が写る。そこで、何をするでもなく私が立っている。 「やだ、いつ撮ったの、これ」  白い紙に絵が浮かんでくるのに興奮して、私は随分大きな声を上げた。 「これをこっちに移す。これは停止液。それから定着液に移す。干して乾かせば、写真のでき上がり」  液から出した写真をロープに吊《つる》すハルオに私はついて歩いた。 「すごい、ハルオ、こんなのどこで覚えたの」 「全部本で読んだ。面白いだろう」  得意げに言って、ハルオは次のネガにうつる。私は黙ってハルオの作業を見つめた。赤いライトに、真剣なハルオの表情が浮かぶ。 「最初、自分で写真焼いた時、すごく興奮したんだ。そんな気持ち、本当に久し振りだった。そんな自分にまた興奮して、鳥肌が立った」  しばらくすると、ハルオは作業をしながらぽつぽつと喋《しやべ》りだした。三種類の液に写真を漬けては出すのを繰り返す彼を、私は床に坐り込んで見つめた。 「ああ自分にもまだこんな気持ちが残ってたのかって、すごくうれしかった。東京に来てから五年間、こんな気持ちは忘れていたし、もうそういうのを感じられないと思ってたからね。それからカメラの本を何冊か買ってみた。あの充実した気持ちをもっと味わいたくて。そしたらあの二万のカメラ、本当に高級品だったんだぜ、プロが使うようなさ。使わなきゃ勿体《もつたい》ないよ」  真っ暗な部屋の中、ぼうっと光る赤いライトは、私の心の中に入り込む。ハルオの話を聞きながら、心の中に浮かぶ全く別の光景を目で追った。  ランドセルをしょった私が歩いてゆく。帰り道の商店街は賑《にぎ》やかで好きだった。薄暗闇にぽうっと白熱灯が浮かび上がる。それらは幾つも重なり合い、目をむいた魚たちや洗濯バサミや丸いオレンジを照らしている。まるでお祭の夜だった。だから早く街を薄暗くする冬が好きだった。グラウンドで遊んでから、空き家を覗き、子犬とじゃれあい、薄暗くなるのを待つように寄り道をした。乱暴に遊びすぎて制服のスカートの上げが下りている。その一か所が恥ずかしくて、スカート襞《ひだ》もそこだけ重いような気がする。もしお姉ちゃんが先に帰っていれば、スカートをうまいこと上げてくれるだろう。そんなことを考えながら、小学生の私はいつまでも商店街をうろうろしていた。お祭のような光の渦の中にいた。それらは眩《まばゆ》いくらいに明るいくせに、どこか私を寂しくさせた。 「次々とカメラの部品が欲しくなった。今まで貯めてた金でレンズを買ったんだ。そしたらまた面白くなった。道具を買うのにはもっと金が要る。だからバイトを増やしたんだよ。立人に言うとばかにされるから言わなかったけど、現像所のバイトなんだ」  絵の浮かび上がった写真を一枚一枚干しながら、ハルオは話し続ける。赤いライトに照らされる彼の表情は、本当に楽しそうだった。 「東京に来てから、初めてだったよ、こんなふうに自分が何かに夢中になることなんて。五年間遊ぶだけだったこのおれが、自分でカメラの本買って、いろいろ調べてるんだぜ」  ハルオが口を閉じると、部屋の中はしんと静まり返った。冷たい床の感触が、夜の理科室を思い出させる。 「それで、話っていうのは?」  静けさの中にそっと言葉を投げ出した。 「カメラ、本気でやってみようと思うんだ。もっと勉強して、どうなるかわからないけど、そのうち居酒屋のバイトもやめて、アシスタントにでもなって……。もっと、自分が何か感じるものを撮ってみたい。五年間おれは遊んでた。本気で勉強してる奴にはかなわないよ、五年のハンデがあるんだからな。だけど少しずつ、そいつらに近付きたい」  写真をすべて吊し終えると、ハルオは私の横に坐った。国旗のように並んだ写真たちを眺めながら、ハルオと寝た時のことを思い出す。あの時もハルオはこうして、自分のことを喋っていた。 「あのばか騒ぎが発端だなんて」いつかの朝を思い出して私は笑ってしまった。ハルオも照れたように笑い、小さな声で言った。 「きっと、何でもよかったんだ。あの時のおれに鳥肌を立たせてくれるものなら。それがたまたまカメラだった。それだけ。だから、きっとおれ、これからが大変になるんだ、今まで遊んだ分」  ハルオは急に立ち上がった。私もつられて視線を上げる。 「あそこ、出ようと思うんだ」  写真を一枚一枚はずしながら、何気なくハルオは言った。その口調があまりにも何気なかったので、私は意味がわからなかった。 「あそこって、どこ?」 「三人の、あの家さ」  訳がわからない。話があると言った、話というのはそのことなのだとしばらくして気付いた。 「今までずっと、東京出てきた時は立人んちに転がり込んだし、今は三人で暮してるし、全くの一人になったことがないんだ。常に安心な巣の中っていうかさ。一遍、とことん自分を一人にしたら、もっと変われるんじゃないかと思って。うまく言えないけど、珍しく考えたんだ、おれ、自分があそこにいちゃよくないと思うんだ。いつまでも甘えるばかりでさ。だけど急に出て行くって言っても、そうもいかないだろ、家賃のこととかさ。それで、サトコはどう思う? おれが出て行ったら、やっぱり家賃が増えて困る?」  ハルオの声がうまく耳に入らない。何か言おうと私が立ち上がった時、ハルオが閉め切っていたカーテンを思い切り引いた。目の前が急に真っ白に染まる。その眩しさに目が眩《くら》んだ。  黙って突っ立っている私に、ハルオができ上がった写真を渡した。TVに見入っている私と立人が、私の手の中で小刻みに揺れていた。  帰り道、ハルオと並んで歩いている時には、ハルオが何を言ったのかがようやく理解できた。彼は、出て行く、と言ったのだ。あの三人の城を出て行く、と。 「私、困る。ハルオが出て行ったら本当に困る。一人きりになったって、別にいいことなんかないよ」  ハルオは空を見上げ、目を細めた。 「そうだなあ。三万いくらと五万じゃ、随分違うもんなあ。おれの友達で、あそこに住みたいってやついないかなあ」 「お金の問題じゃない。ハルオが出て行ったら困るの」  慌てて私は言った。ハルオは私を見、 「お金の問題でなければ簡単じゃないか。おれがいないのなんてすぐ慣れるよ」  と言う。 「慣れるとかそういうのじゃないんだって。ハルオがいて立人がいて、それであそこは成り立っているんじゃない。三人が居心地のよい場所になってるんじゃない」 「それがだめなんだよ。生温かいんだ、あそこは」  ハルオは言った。 「あそこにいると、何て言うか、何もしなくたっていいやって気持ちになっちゃうんだ、どういうわけか。それがいやなんだって」 「それは個人的なものでしょ。何かしようと思えば何もできないはずないよ、あそこにいたって」  私は必死に反論した。 「そりゃあそうさ。だからだめなんだ。おれにはそういうことができないから」そう言ってからハルオは言葉を探すようにしばらく黙った。そして続けた。「……親離れできない子供と、子離れできない親のマイホームみたいなんだ、あそこは。居心地がよすぎる」  ハルオの言っていることはまるでわからなかった。何だか、私たちから離れたがっていて、理屈をこじつけているような気さえした。ハルオの口振りには何をどう反論しても無駄だと感じさせるものがあった。  立人と話せばいいのだ、彼はきっとハルオを嘲笑《ちようしよう》するに違いない。お前自分が飽き性だってこと忘れたのか、またすぐ飽きるんだから馬鹿な真似は止せ……暗室で浮かび上がったハルオの顔を思い出すと、そう言われる彼が気の毒な気がしたが、それでハルオがこの家に居残るなら構わなかった。 「そこまで言うなら立人に相談してごらんなさいよ」私は得意げにそう言った。  ハルオはわざわざその話をするために、バイトを遅らせて立人の帰りを待っていた。立人が帰るやいなや居間に呼び、私にしたのと同じように話があると切り出した。私もその場で、立人が笑い飛ばすのを心待ちにしながら隅にうずくまっていた。言葉を選び選びハルオは話した。一つ話しては二つ沈黙するような話し振りだった。TVはどこかののどかな風景をうつしだしている。私の目はTVを通り過ぎて窓の外の闇を見つめていた。すっと一筋、細い雨が光ったような気がしたが気のせいだろうか。  ハルオの話が一段落つくと、立人は笑い飛ばすどころか「そうだな」と言った。 「一人でやってみるのもいいかもしれないな」 「じゃあもし、一か月後におれが出て行くと言っても、許してくれるか、その、家賃のこととか、いろいろ……」  私は窓の外に目をむけたまま、視界の隅の立人を見据えた。立人は清々《すがすが》しく笑い、 「何とかなるよ。おまえもやってみろよ」  と、青春ドラマのような台詞《せりふ》を吐いた。話が済むとハルオは晴れやかな顔をしてバイトに出かけていった。 「どうして承知したのよ」  二人だけになった居間で、私は憎々しげにつぶやいた。立人は驚いて片隅の私を見る。 「飽き性なんでしょ、どうせすぐ飽きるって言ってたじゃない。どうしてハルオを出すの?」 「追い出すわけじゃないよ、本人が出たいって言い出したんだろ?」反対する私を不思議そうな目で見つめ、立人は続ける。「東京来て、何もやる気のなかったやつが何かやりたいって言い出したのに、どうして邪魔する必要がある? 家賃だってそんなに増えるわけじゃないし、実際何とかなるだろう。それとも五万はきついの?」 「じゃあどうしてセックスが禁止だったの? 誰かが出ていくのを止めさせるためでしょう?」  古びたすりガラスや床に散らばった雑誌や、吸い殻を積み上げた灰皿が私のヒステリックな声を黙って吸い込む。 「傷ついてやむなく出ていくのと、目的があって出ていくのとは違うよ」  私は立ち上がって声を上げた。 「ここだってカメラいじれるじゃない。何が邪魔することになるの?」 「ここは生温かいってあいつ言ってたけど……あいつはここじゃ出来ない。何となくわかるよ」立人は私を見つめて訊《き》いた。「何がそんなにいやなんだ? 友達でなくなるわけじゃないんだし、いつだって会えるよ」  子供のおもちゃだったカメラは、いつの間にかおもちゃでなくなろうとしている。そして当然、ハルオは子供でもないのだった。  空が明るくなるまで私はベッドの中で起きていた。考えてみればハルオがこの家から出ていくのはそんなに大袈裟《おおげさ》なことではないのかもしれない。三人で築きあげた城、というのは私の勝手な妄想で、だから三人いないといやだというのは確かに私のエゴだった。そう思っては目を閉じるが、なかなか眠れない。だんだん空がほの白くなってくるのを確かめるように何度も寝返りをうった。意識が遠のき、窓の外の群青色がまぶたの裏に貼り付く頃、声を押し殺した会話を聞いた。忍び笑い。ベッドの軋《きし》む音。そして快楽の沼で呼吸する男と女の声。ハルオの部屋からだった。  その声は頭の中で響く。声は遠く浮かび上がり、まぶたの裏で像を結ぶ。声を追うとドアが見えた。暗い廊下に帯を垂らす寝室の明りが見えた。光の帯に影を映さぬようにそっと壁際に佇《たたず》む。荒々しい呼吸と喘《あえ》ぐ声が入り交じって耳に入る。その奇妙な声を聞いている幼い私の中に、ある光景が浮かんだ。それはTVでよく流れる、一家|団欒《だんらん》のCMだった。大きなテーブルに家族全員が並んで坐《すわ》り、おいしそうにコーヒーをすすっていたからコーヒーの宣伝だったのだと思う。食事を終えても家族の時間を大切にしたいから、一杯のコーヒーを飲むのだと、そんな意味の台詞が低い男の声で流れた。柔らかい線を描いて湯気が立ち上り、暖かそうな色彩の中には家族たちの笑顔がはめ込まれている。おかしいくらいに一家団欒を強調したそのCMが心の中でくるくると回った。ドアの向こうに入りたい、幼い私は思う。けれどもドアを開けることはおろか、影の気配を悟られただけで叱られてしまいそうな予感がする。だから私は足音を忍ばせて部屋に戻り、眠ろうと固く目を閉じるのだった。  次の朝目が覚めたのは昼近かった。階下へ下りてゆくと、立人が食事を片付けていた。 「もう少し早ければ一緒に作ってやったのに。今日はこれから出かけるから無理だな」  水道の蛇口を捻《ひね》りスポンジに洗剤を垂らす立人の脇に立ち、告げ口をする子供のように小声で言った。 「今朝、ハルオの部屋に誰かいなかった?」 「ああ」立人は変な笑顔を作った。「気付かなかった? 結構前から、しょっちゅうだよ」  驚いて立人を見た。彼は平然と食器を洗っている。 「……私、一時頃には寝てるから……」 「あいつも気を遣って静かにやってるからな。おれはよく、明け方までレポート書いてることあるから、何となく気付いてた。でも取り立てて騒ぐほど子供でもないし、干渉しないのもルールだし」 「ねえ、ひょっとしてハルオ、ここを出るなんて言って、あの女と暮すんじゃないの。だとしたら、何が一人でやってみたい、よねえ。いい言い訳じゃないの」  しつこく付き纏《まと》う私を軽くいなし、立人は身支度を始める。 「違うと思うよ。多分連れてくる女はいつも同じじゃないみたいだし、……あいつが一人でやりたいって言ってるのは、本当だと思うよ。じゃあ、出かけてくる」  私から逃れるように身をかわすと、立人は玄関に飛んで行った。  コーヒーをいれて居間に行き、縁側の戸を開けてみると、もう昼近くだというのに空は重たく町を覆っていた。  バイトを二つほどかけもちし、帰ってきて朝眠る生活をしているハルオとは滅多《めつた》に顔を合わせなくなって半月ほど過ぎた。現像所のバイトが休みの、三人揃った久しぶりの夕食の席で、ハルオは新しく住む部屋が見つかったと報告した。その報告に「よかったね」と言えるほどには、私は落ち着いていた。ハルオはいつものように居酒屋での笑い話をし、私たちはいつものように笑った。「今」だけを切り取れば、それは本当にいつも通りだった。  九時半を過ぎるとハルオは時計を見て立ち上がった。これから居酒屋のバイトである。 「おまえも忙しくて大変だな」立人が言った。「そんなに忙しいの、生まれて初めてだろう」  ハルオは顔をくしゃくしゃにして笑い、 「でも今が生まれて初めて充実してるよ。スケジュール帳がぎっしり埋まることが、こんなに楽しいとは思わなかった」 「ハルオは何もないと本当に何もしないからな」  二人の会話を耳にしながら、のろのろと食器を重ねた。外は寒いというのに薄着のままハルオは飛び出して行った。  その夜、私は立人の部屋に行った。立人は本から目を上げて私を見た。何か用、と彼が訊く前に私は言った。 「ハルオが出て行ったら二人で恋人のように暮そう」  立人は驚いて私を見つめる。 「恋人同士が愛しあって一緒に暮しているように暮そう」  立人は黙って立ち上がり、私を抱きしめた。多分、私が泣いていたせいだろう。泣くほど淋《さび》しかったのではない。そうすれば落ち着いて眠れることを私は知っていた。そうすれば立人がどうしてくれるかを私はちゃんと知っていたのだ。  引越しは簡単なものだった。ハルオはどこからか小型トラックを借りてきて、少ない荷物は私たち三人で運び終えてしまった。前の日、送別会と称して飲み明かしたおかげで、頭がずんずんと痛んだ。寝不足|宿酔《ふつかよい》の顔をしたハルオは、それでも晴れやかな表情を貼りつけていた。荷物をトラックに積み終え、立人が三人分のコーヒーをいれている間、私とハルオは黙ってトラックの前に立っていた。 「淋しくなったら、いつでも戻ってきてよ」  気まずい沈黙を私が破った。それを聞くとハルオは苦笑し、白い息を吐きながら言った。 「あんたのおかげで、二度家を出る気分を味わったよ。一度目は田舎を出た時……。同じような台詞《せりふ》をお袋が言って、いつまでも玄関の外に立ってたっけ。恥ずかしいから早く家に入ってくれって言っても入ろうとしないで、生野菜より煮野菜のほうがいいとか、味噌《みそ》汁はだし入りのが出てるからそれを買えとか、出て行く間際に何言ってんだっていうようなこと言い出して……。おれはあの時家を出たはずなのに、またあの時の気持ちになってる」  その光景を思い浮かべた。そうだ。あなたはまた私たちを全部捨ててここを出て行くのよ。心の中でそう言った時、それを読み取ったかのようにハルオは呟《つぶや》いた。 「でも、ここは家じゃないもんな」  その邪気のない笑顔に叩《たた》きつけるように、私は言葉を連射した。 「立人の料理が食べたくなったらすぐに来てよ。また三人で食べようよ、ビデオ見ながら。だから鍵《かぎ》は返さなくていいよ。いつでも入れるように。洗濯機だってないんでしょ、洗濯しに来ても構わないからね、それから」 「コーヒー、飲まないのかあ、冷めるぞう」  私の言葉を遮って、立人が家の中から叫んだ。  新しいアパートまで行くという私と立人を、ハルオは何度も断わった。連絡するよと一言言って、ハルオはトラックに乗りこむ。 「ねえ」ハルオがエンジンをかける前に、私は声を上げた。ハルオは気づいて窓ガラスを開ける。 「どうしてカメラなの、どうして一人でやってみなくちゃならないの」  ハルオはエンジンをかけながら答えた。 「まだ当分死にそうにないから、何かしなくちゃね」  ハルオは私たちに手を上げ、ハンドルを回した。トラックがあっという間に後ろ姿になる。トラックのおこした冷たい風が、ずんずんと鳴る頭にきりきりと痛んだ。その痛みの中に、暗い現像所の赤いライトに照らされたハルオの顔がぼうっと浮かんだ。  ハルオの出ていった家は、妙にがらんとしてしまった気がした。ハルオの所有物が一つもない彼の部屋のドアは、怖くて開ける気になれなかった。三つのグレープフルーツを買おうとしてはたと気付く時、一つを棚に戻す手が震えるくらいさみしかった。  しばらくは何もせず、一人家で過ごした。TVもステレオもつけないで、静かな空気の中に坐っていた。アルバイトでもしようかと広告を広げて眺めていても、何もする気になれない。そうしていると自然に、立人を待って暮している形になる。毎日家にいるから、立人の帰る時刻もより正確にわかってくる。あと十分。部屋を暖めておこう。ポットに湯を入れておこう。面白いビデオを借りてこよう。段々とそういう気持ちになることがうれしかった。立人の帰りが一分一秒と近づくに連れ、ハルオのいなくなった「がらん」が少しずつ埋まってゆくようだった。  立人は決まった時間に帰ることもあれば、帰らないこともあった。帰らない時は軽く失望し、失望が広がって私の心を占めてしまわないうちに眠ってしまうのだ。眠るのは私の特技でもあり至福の時だ。眠りが私を食い尽くすのをじっと待つ。そうすれば朝が来た。  夜になって私が立人の布団に潜り込むことも当然のことになった。彼を愛しているのか、そんな問いを私は一切自分に向けなかった。立人の隣にいると心が安らいで良く眠れた。眠りを待たずに眠ることができた。それだけでよいのだと思っていた。立人も何も言わない。体を重ねる理由となる言葉を口にしない。機嫌よく料理を作ってくれる習慣のように私を抱いた。恋愛感情とは遠く離れたところで、私と立人は手をつないでいるようだった。  湿っぽい布団の中で耳を澄ますと、本当に二人きりなのだと思えた。隣のハルオの部屋が、埃《ほこり》が舞い落ちる音の響き渡るくらいがらんとしているように思え、怖かった。私は立人にしがみつく。赤ん坊をあやすように立人はとんとんと背中を叩いてくれる。定期的なそのリズムが、私を眠りへと誘ってゆく。  この感じ、この感覚、手に入れたことのないはずなのに、妙に懐かしい。それはまるで、子供の頃に欲しがって泣いた他愛もないハンカチが手に入った時みたいな懐かしさだった。  立人は布団の中で、ぼんやりとものを考えることが多い。その時の静けさがいやで、私はよく訊《き》いた。何を考えているのか、と。答える時も答えない時もあったが、ある時ハルオのことを言い出した。 「ハルオがここを出て行く時、当分死にそうにないからって言っただろう。そのことを思い出してた」  立人の部屋の大きな本棚には、私がとうに捨ててしまったり売り払ってしまった分厚い教科書がきちんと納まっている。この人はまだ勉強しているんだなあと、自分も学生であることを忘れて本棚を眺めながら聞いた。 「あいつにとって、カメラってそんなに重要じゃなかったと思うんだよ。何か、一つのきっかけというか………。確かに、当分死にそうにないから、何かしなくちゃいけないんだよ」  立人は窓の外に目を遣って言葉を捻《ひね》り出していた。クリスマスが近いことも忘れてしまいそうな、静かな闇が横たわっている。 「大学院を出たら、一体おれには何ができるんだろう。っていうか………、死ぬまでの間、おれは何をするんだろう。今まで勉強しかしてこなくて、大学院まで行って、これで卒業した時のことを考えると不安になる」 「私はそうは思わない」私は言った。「生きてくことって、遊びなんだと思う。ハルオは、それに気付いたのよ。当分死ぬまでに時間があるから、だから遊ばなきゃいけない。そして遊ぶからには、勝たなきゃ面白くないって」  立人は黙って聞いた。 「何ができるかって、何でもできるのよ。自分が何をして遊べば楽しめるかさえわかればね」 「おまえは幸せもんだな」  ぽつりと立人が言った。私は笑ったが、私の言った本当の意味を彼はわかっていないだろうと思った。それと同じように、立人が考えている本当のことをきっと私もわかっていなかった。それでも彼が目の前にいて、触れられる位置にいることで満足してしまう。立人の体は今が冬だと忘れさせるくらい暖かかった。布団の外の空気がしみわたるほど冷たいことに、私は気付かずにいることができた。  立人と体を重ねると、時々ハルオのことを思い出した。そういう時私は本当に幸せを感じた。子供の頃に見たあのCM、大きなテーブルにコーヒーカップを手にした家族が坐《すわ》り、にこやかに湯気に包まれている。あの絵の中に自分がすっぽり納まっているような感じがした。それが私にとってのセックスだった。  正月を実家で過ごすために、立人は暮れに田舎へ帰った。姉から家へ来いと電話をもらったが行く気になれず、一人には大きすぎるこの家で私は時間を過ごした。立人がいないかわりにいつもTVをつけっ放しにしておいた。この静かな家の中にいると、暮れだ正月だと浮かれている世の中が、随分と遠い所にあるような気がした。  台所で皿を洗っていると、居間からTVの音が騒がしく聞こえてくる。立人が、あるいはハルオが帰ってきたのかと思い水道を止める。が、ふと我に返ると、つけ放しておいたのは自分なのだった。そんなことが時折あった。  ぼんやりと部屋の中に坐って、様々なことを思い出した。ハルオ、立人と三人で夜の散歩をしたこと、怖い話を聞かされた後は子供のようにトイレに行けなかった。粗大ごみの中からこたつを拾ってきたのは夏だった、爆発しないかと恐る恐るコンセントを入れ、ぽっと赤くなった時には大喜びして、暑い日だというのにこたつに入った。今年初めて雪が降った日は野良犬のように飛び出して、雪の中を走り回った。  それらを思い出し眺めてみたところで何にもなりはしないとわかっていながら、私は恍惚《こうこつ》として大事な宝箱の中に見とれていた。  正月が過ぎ三が日が過ぎても、立人は戻って来なかった。正月休みのあける七日目になると、私はじっとしていられず部屋の中をうろつき回った。九日目に立人から電話が来た。どこで何をしているのかと噛《か》み付くように問うと、まだ田舎にいると言う。いつ帰ってくるのか訊くと答えが返って来ない。しばらくおいて立人は言った。 「そこ、出ようと思うんだ」  立人の続ける言葉は受話器と耳の透き間からこぼれ落ち、うまく頭に入ってこない。何秒かおいて一言ずつゆっくり頭に入ってくる。まるで東京とロンドンで中継をしているみたいだった。  おれが出るとなると君一人でそこに住むのは無理だろう、だから勝手を言うようだけれど、君もどこか探してくれないか。おれの身勝手だからできるかぎりのことはするし、金銭面でも協力するよ。  それだけ頭の中に入ったが、私はそれらの意味不明の言葉を引き出しに仕舞いこんで鍵《かぎ》をかけた。 「それで、いつ戻ってくるの」  私の問いに立人は一瞬黙り、二、三日のうちには帰ると言った。それならお餅《もち》を買ってきてくれ、と私は頼んだ。 「ここにいるかぎりお正月なんか全然関係ないんだけど、やっぱりお雑煮が食べたい。立人の家の方の雑煮を作ってみてよ」  立人はそれには答えずに、一月末には引っ越したいと言って電話を切った。  今はまだ田舎にいると立人は言ったが、それは嘘だと思った。  受話器を置いて坐りこんだ。その時私の家の和室を思い出した。  私の育った家は駅に似ていた。ラッシュアワーに人が押し寄せ、ガムや空き缶が放り投げられている、ごちゃごちゃとした駅。キッチンには汚れた皿が何枚も重ねられ、使わないジューサーやコーヒーメーカーや枯れた観葉植物などがそこここで埃をかぶっていた。居間には母の派手な服が積み重ねられ、雑誌やレコードが勝手に動き回っているように様々な場所に置かれていた。廊下にはくだらない絵が何枚も飾られ、隅では絡み付いた髪の毛と埃が自分の生活を守っていた。  物心ついたときから、我が家には大勢の人間が出入りしていた。幼い頃は、駅の改札に吸い込まれるようにこのうちに人が集まることが楽しくて仕方なかった。私の名前を覚える人もいれば覚えない人もいた。おもちゃや縫いぐるみを与えてくれる人もいれば、私の存在を無視する人もいた。段々と年を重ねるにつれ、彼等は「家族」に招かれた客人ではないと気付いてきた。彼等は招かれざる客、つまり母親の秘密のボーイフレンドたちであり、こっそり父を訪ねてくる打算的な女だった。父が家に寄り付かないのをいいことに、好きになれば自分の家庭に男を連れ込む変わった母を父は憎んでいたし、母は母ではんこを押した紙っ切れで自分は父と結ばれているだけだとよく言っていた。だから家は駅に似ていた。誰もが足を止め安らぎを求める陽だまりの公園ではなく、影と無数のくずと喧騒《けんそう》の中に沈む駅に似ていた。しかし家の奥に、そこだけ静寂を守る和室があった。そこは日があたらず、陰湿でじめじめとした感じがあった。誰もが好んではそこへ足を踏み込まない。だから散らかるものもなく、窓も開けないのだから埃《ほこり》もない。まるで家とは隔離された場所のように、飾りも家具も何もない部屋だった。あるものといえば秒針の音がいやに大きい柱時計だけだった。新しいボーイフレンドに散らかった部屋を見せたくない時、表面だけの片付けさえ出来なかった時、母はこの静寂をいいことにその和室に客を通した。私はそういう理由もあって、じめじめとしたその和室がひどく嫌いだった。しかしその時、今の自分の立っている場所はここなのだ、この和室なのだと思っていた。  父が帰らなくなり、母親もやがて寄り付かなくなり、姉が嫁にいき、そうして一つ一つ何かを失うような感覚を覚え、あの家全体は何もない和室同様になった。生きることは喪失の繰り返しに違いないと高校生の私は思っていた。  ただそんなことを、今まで忘れていた。クラスメイトと借りたぼろい一軒家は、そんな悲観的な考えを忘れさせるに足るほどの場所になったからだ。しかし私は今、この幸福な城の中にいながら、またあの和室を思い出している。私の心の中にまたあの和室がよみがえる。あの和室の暗闇が、私の心でぱっくりと口を開けている——。  二、三日のうちには立人は帰ってこなかったが、代わりに一人の女の子が訪ねてきた。ドアを叩《たた》く音に立人だと思い込み、慌てて開けたドアの向こうに見知らぬ女の子が立っていたので心底がっかりした。 「藤田英恵といいます」  彼女はまず名乗った。どこかで会ったことがあるだろうかと考えていると、 「上がっていいですか」  てきぱきと彼女は言い、返事をしないうちに玄関へ入りこんでいた。  同じインスタントでも、私がいれると立人がいれるとではコーヒーの味が違う。あれはどうしてだろう、人にいれてもらうからおいしく感じるのか、それとも立人は何か特別ないれ方をしているのだろうか……そんなことを思いながら、居間に坐った彼女にコーヒーを出した。 「戸、閉めていいですか」  彼女の声で縁側の戸を開け放していたことに気付いた。はいと答えた私の息が白かった。戸を閉め、私の前に彼女は正座した。ベージュのコートを着たままの彼女に私は言った。 「コート、掛けます」  立ち上がって鴨居《かもい》にぶら下がっているハンガーを手にする私を、彼女は止めた。 「いいです、ここ寒いから」 「寒い? 私はずっとここにいて暖かいけど………寒いならこたつに入って下さい。今つけますから」 「いいです、コート着てます」  よく切れる包丁できゅうりをとんとんと切るような口調だった。私が守ってきたこの家の穏やかな空気がその鋭い刃で掻《か》き乱される感じがして、私は彼女に好意的になれなかった。気を遣うのも話しかけるのもやめ、私は彼女の前に坐《すわ》り直した。その刃先と、先日の立人の電話がぼんやりイコールで結ばれた。 「一つ訊《き》きたいんですけど、あなた立人の恋人ですか」  胸までかかる彼女の長い髪を見つめていると、赤い唇が言葉を吐いた。 「いいえ」  私は答えた。 「私たちは付き合っていこうと思ってるんです。だけど、私おかしいと思うんです、こういう暮し。ハルオ君て人がいた時はまだよかったでしょうけど、今はあなたたち二人なわけでしょう。こういう状態で、私あの人と付き合いたくはないんです」  てきぱきとした口調は、考えに考えてきた台詞《せりふ》のようだった。英恵と名乗るこの人が、私に言うことを考えて、意を決してこの家に訪ねてきた様子を私は想像した。そうすると、自分がとても悪者に思えた。  一か月ほど前に立人と彼女は出会い、彼女も立人もお互いに好きなのだが、この家だけがどうしても彼女には納得できない。何度も立人に引越しを勧め、そうしたら自分の気持ちもさっぱりとして付き合いを続けられるのだが、どうも立人が引っ越す気配を見せないので、業を煮やして私に談判に来たのだと彼女は説明した。  談判、という言葉がどうしてもこの家の空気に不釣り合いで、その言葉だけ行くあてもなく私の目先で旋回している。床の上の雑誌を、そろそろと入りこむ冬の日を、立人を待つキッチンを、三人で拾ったこたつを、そしてこの家の空気を守るべく、私は言葉を押し出した。 「私と立人の間に、愛だの恋だのというものは、ないんですから、それでいいじゃないですか。もし立人がこの家を出て、どこかほかに住んだとしても、あるいはあなたと家を作ったとしても、何か、同じことだと思いませんか」  彼女は眉間《みけん》に皺《しわ》をよせて私を見た。 「家って何ですか? 私は立人と一緒に暮したいと言ってるんじゃなく、彼がここで恋人でもない人と暮しているのがいやなんです、親やきょうだいでもないのに」  無理だと思った。この家で膨らんでいる姿なき形、私たちが抱いて守って来たものを共有していない人にはわかってもらえるわけがない。そしてそんなものの存在しない世の中から見れば、私たちの暮しがおかしいということも理解できた。私は立人と寝たけれど、立人にとっても私にとってもそれはセックスじゃなかった、あれは家族|団欒《だんらん》のCMなのだと言ってみたところで、私が気狂い扱いされるだろうことも、わかった。 「大丈夫ですよ、立人はここを出るって言ってましたから。今月中には出ると」  私の投げたその言葉が、彼女の表情に安堵《あんど》のベールをかぶせるのを見た。彼女はやっとコーヒーカップに手をつけ、一口すすると立ち上がった。 「わかりました。あなたも承知したってことですね。突然来てすみませんでした」  廊下を歩く彼女の細い肩を見つめていたが、不意に言葉が私の口から洩《も》れた。 「——一緒に暮しませんか、ここで」自然に言葉はするすると零《こぼ》れた。「私とハルオも初対面でうまくやれたし、私が恋人でないとわかったんだからいいと思いませんか。……私たち以前三人でとても楽しく過ごせたんです、だから、また三人になっても平気だと思うの、——但しセックスは禁止だけど」  新しいジグソーパズルの蓋《ふた》を開けたように胸を躍らせて私は言った。彼女の背中はふと立ち止まったが、まるで何も聞かなかったかのように靴を履き、振り返らずに出ていった。  彼女の残したコーヒーをぼんやりと見た。口紅のあとが指でなぞって消してある。どこか遠くの方から台風が来て、家の屋根をとっぱらってしまった感じがした。  あの英恵と名乗る女はいつか映画館で会った人かもしれない。私は思いだした。珍しく立人と映画を見に出掛けた日だ。確かクリスマスが近づいていた頃だった。カルト映画のロードショウで、日比谷《ひびや》まで足をのばさなければならなかった。  ジュースを買おうと販売機の前で小銭を出していると、後ろで大袈裟《おおげさ》な声が響いた。 「あら、こんなところで会うなんて」 「本当だ。一人?」と答える声は、立人だった。 「私はそうよ。あなたは?」 「友達と」  立人の声が言った。友達——その答え通り、彼の元クラスメイトの表情を作り、そっと振り返った。いや実際、私と彼の関係を何かの言葉で括《くく》るとしたらそれしかないのかもしれない。振り向いたものの、彼とその友人になぜか声がかけられず、ジュースを持ったまま私は少し離れた場所で突っ立っていた。レポートがどうしただの、アンケートの集計がどうの、彼女と立人の間で交わされる会話は暗号のようで、家の外に出た立人のことを私は何も知らないのだとその時改めて気付いた。 「じゃあ資料貸すわよ、またね」女の声で話は終った。女の後ろ姿を見送る立人の肩をたたくと、彼は驚いて振り返った。 「友達? 偶然だね」 「うん、驚いたよ。中入ろうか」  たとえば立人に恋人ができたとしたら、彼は私に紹介するのだろうか。暗闇に沈む客席でそんなことを考えたのは、あの驚いた立人の表情に私が驚いたからかもしれなかった。反対に、もし私に好きな人ができたら——私は嬉々《きき》として立人に話すかもしれない。ハルオとの一夜を彼に報告したかったように、喜びを彼と分かちあおうと相手をあの家に連れてくるかもしれない。  あの時そう考えた通り、本当に彼女は立人の恋人だったのだろうか。あの時もっとよく見ていればよかった。いや、全然違う人かもしれない。どちらでもよかった。あの時会った人でも、そうでない人でも、どちらでも同じことだ。外から突然やって来た台風に変わりはない。思い出したようにTVから笑い声がはじける。つけ放しになっていたTVのスイッチを切った。笑いの消えた黒い箱を眺めていたが、私はふと立ち上がった。  まだ五時にならないのに日が暮れかけている。賑《にぎ》やかな音楽を鳴らすスーパーに足を踏み入れた。しかし棚に並ぶトマトやレタスを眺めているうち、気分が悪くなって外へ出た。空気がきいんと冷たい。空を見上げると、こんなに寒いのに落日に染められた雲は暖かそうな橙《だいだい》だ。夕食の買い出し客で賑わう商店街を歩き、駅の前に立った。自動販売機で切符を買い、どこへ行くでもなく電車に乗った。  上り電車は空いている。暖房がききすぎて暑いくらいだ。ドアの脇に立ち、夕暮れに染まる屋根が流れてゆくのを見た。ハルオの家はどのへんだろう。さっきの女の子の家はどのあたりだろう。  嘘をつけばよかったのか。私は立人の恋人だと言えば、あの女はおとなしく帰ったのだろうか。しかしそんな嘘をついて、見知らぬ女の子と争いたくはない。一人の人間を誰のものだなどと怒鳴りあう乱闘戦は、姉と母親のだけで充分だ。昔見たあの光景を、今ここで自分が繰り広げたいとは思わない。 「家に来いよ」  背後の声に私は振り向いた。対面の椅子にぽつんと二人、浮浪者風の男が坐っている。私の耳に滑り込んだ声は、図体《ずうたい》の大きい方が隣に腰掛けた小柄な男に言った言葉らしい。心なしかぷんと特有の匂いが鼻につく気がする。それほど彼等の着ている作業着は汚れ、肌は黒ずみ、埃《ほこり》のついた髪は絡まっていた。 「あれだ、姉貴が一人いるけどよ、口うるさいが気にするこたあねえよ。おれあもう慣れてる。あれだ、ほれ所帯持ってっけどよ、こんなのが周りにいるもんで、気になって仕方がねえんだよ」  大柄の男はのけぞり宙を見つめて話している。私はそっと彼等から視線を外し、背中でそのしゃがれた声を聞いていた。 「お前なんぞ弟でもないわあ、おう望むところよ、そう言ったものの何かっていやあ訪ねてきやがる。……なんだ、世話はできねえよ、面倒だってみられねえが、なあ、来いよ。その方がいいだろうよ」  私はゆっくり振り向いた。小柄の男は背中を丸め、うつろな目をしてただ小刻みに体を揺らし続けている。 「なあ、家へ来いってばよ」  大柄が彼を覗《のぞ》き込む。小柄な男はぼろぼろの作業着の袖《そで》ですんと鼻の下を擦《こす》った。  電車が止まり、ドアが開く。私は下りてもう一度彼等を振り返った。喋《しやべ》り続ける大柄と体を揺らすだけの小さな男はガラスの向こうに閉じこめられ、ゆっくりと流れていった。  改札を出、駅前から続く商店街を歩いた。揚げ物の油の匂いと生魚の匂いのたちこめる細い道を、行き交う人に交じって歩いた。子犬とじゃれあい空き家を覗き、暗くなるのを待ち焦がれて商店街をうろついた幼い日を思い出す。店先まで垂れたビニールシートやぶら下がる裸電球は、毎月銀行に振りこまれる数字より、より身近に、より現実的に感じられた。  小さな商店街が大通りで区切れ、そこから先が住宅街の明りになると、私は元来た道を引き返した。また一駅分の切符を買い、次の駅の商店街をあてもなく歩いた。すれ違う主婦の顔に、今日会った英恵の顔が重なる。買い物かごを下げた彼女に「あなたのしていることはおかしいの。家を出なさい」と今にも言われそうな気がした。実際、すれ違う見知らぬ主婦も英恵も、私にとっては同じようなものだった。  ふと何かを思い出しかけ、心の中で記憶の芽を出す何かを掴《つか》むべく、果物を見る振りをして八百屋の店先に立ち止まった。 「ここは天国だ」——まず言葉が思い出された。どこで聞いた言葉だったろうか。つやつやと光る紅《あか》いりんごを見つめる私の目に、その言葉がずるずると引き出してきた場面が映った。あれは——三人で見ていたTVの画面だ。  空が藍色《あいいろ》を落としきっていない朝方、さびれた道路に坐《すわ》りこみ何十人と輪になって酒を飲む人々——インタビュアーが訊《き》く。どうですか、この暮しは。彼等のうち、一人の赤茶けた顔が画面に映しだされる。舌の回らぬ口調で彼は答える。最高やでえ、サイコオ。ここは天国や。隣から声が入る。カメラは隣の男を映す。極楽や、ほんまに。深い皺を動かして彼は吐き捨てるように呟《つぶや》く。さみしくはないですか? 寂しいねえ、寂しいよォ、あんた。  そうだ。あの時彼等は、寂しいと言っていたのだ。家庭を出て自分の中の家を壊し、そしてまたファミリーを作る。見知らぬ人々、その日その時間に隣り合った人々と酒を酌み交わし笑顔で盛り上がる。ここは天国だ。けれど寂しいと、彼等は言っていたのだ。 「りんご? 奥さん」  声をかけられ、顔を上げた。 「——うん、うち二人だから、この半分でいいんだけど」  家に着く頃には夜はとっぷりと辺りを闇で包んでいた。遠くから家に明りがついているのを確かめると、私は全速力で走り出した。りんごがビニール袋の中でかさかさと音をたてていた。  ドアを開けると、居間の明りとTVの音が廊下にはみだしていた。靴を脱ぐのももどかしく上がり居間へ行くと、私を迎えたのは「お帰り」という立人の声ではなく、荷物をダンボールに詰める立人の後ろ姿だった。 「今日、あなたの恋人が来たよ」  襖《ふすま》に寄りかかって私は言った。何日かぶりで見る立人はいつも通りの穏やかな声で、 「餅《もち》、買ってくるの忘れちゃったよ」  後ろ姿のまま言う。 「きれいな人じゃない、髪が長くて、目が大きくて」 「うん——」立人は曖昧《あいまい》な声を出した。そして続ける。「部屋のことだけど、来月分までおれの分は出すから、ゆっくり探せばいいよ。悪いね。……君だって、恋人でもない男と住んでいたらいつまでも恋人なんかできないぞ」  立人は振り返り、言い訳めいた笑顔を作った。 「そうだね」私も笑ってみせた。「あの女の人と、いつから付き合ってたの」 「付き合ってないよ。付き合うかどうかもわからないし。向こうはおれのこと気に入ってくれているようだけど。はっきりした子で驚いただろ」 「じゃあどうして出て行くの」  床の上に散らばった何枚ものレコードの埃を拭《ふ》きながら、立人は優しい声で言った。 「ハルオが出て行く時も、そう言ってたね。ハルオがどうして出て行ったか君にはわからなかった。きっと、おれがどうして出て行くのかも、わからないんだろうね」 「わからない」  立人は私を見上げ、立ち上がった。 「すごい埃たてちゃった。今掃除機かけるよ」  そう言い残して私の横を通り過ぎた。レコードは無造作にダンボールの中に収まり、後は蓋《ふた》を閉じるだけになっている。ちゃぶ台もTVもそのままなのに、ダンボールがあるだけで妙にがらんとして感じられる。少しだけ片付いた部屋の中をぼんやり見回していると、立人が掃除機を持ってきて私の前に置いた。 「サトコ、掃除機の紙パック取り替えられないだろ。教えといてやる。いいか」  立人は私の目の前で掃除機を開け、 「ここをこうやって押すだけでパックは取れる。簡単なんだよ。新しい袋はここにくわえさせる。そしてこの手を離すと、ほら、もう付いた」  冗談混じりに実践した。いつもなら笑うところだが、心がきりきりと痛んで掃除機を見ることすら出来なかった。立人はコンセントにプラグを入れ、ぽつりと言った。 「暮れに、ハルオに会ったよ」  私は顔を上げた。 「ほんと? 田舎で会ったの? 元気だった、ハルオ」  立人はうつむいたまま、元気だったよと呟いた。どんな暮しをしているのか、カメラの方はどうなのか、あれこれ訊こうとしたが、掃除機のたてる騒音が私に何も喋らせなかった。 「一緒に寝たからって、恋人ってわけでもないもんな」  騒音の間に突然立人の声が混じった。その一言の意味がすぐにはわからず、しばらくしてそれが英恵の言葉と重なった。あなたは立人の恋人ですか、そうでないならこんな暮しはおかしいです。私はかっとして掃除機のプラグを引き抜いた。TVの音が急に大きく響く。 「何よそれ、言い訳? この家を壊す言い訳のつもり?」  立人は床から目を上げず、消え入るような声で言った。 「——違うよ」それから私を見上げ、「おれのこと、好きだった?」と訊いた。 「……好きだよ、すごく」  彼が何を考えているのか戸惑いながら私は答えた。 「男として? 恋人として? それとも? 家族として? ハルオと同じように」  私は立人に視線を向けた。が、TVがあんまり賑《にぎ》やかに色を変えるので、立人の表情をうまく見ることができなかった。 「三人で……あの人もいれて三人で、暮してみない、また。好きだの嫌いだの、そういうの全部なしにして」  彼を見ずに急いで言った。私の喉《のど》から出たのは、井戸の底、一本の糸にすがるような声だった。 「よそうよ、もう」  彼は細い糸を引きちぎるように、静かに、しかし抗《あらが》いがたい声で言った。  何がどこで間違ってしまったのだろう。どこで糸はねじれてしまったのだろう。自分が一体何をしてきたのかこれっぽっちも考えずに、そう思った。もしかして、立人はあの女の子に頼んでここに来させたのかもしれない。私たちが恋人ではないのだということを私の口から言わせるために、自分がここから出ていくために。私は立人の顔をじっと見た。何もわからなかった。ただ、私を見つめる立人の歪《ゆが》んだ笑顔が、ここは天国やと笑っていた画面の中の赤茶けた顔に、重なって見えた。  眠れるだろうか、と思う。  電気を消してベッドに潜ると、澄みきった夜空がぺったりと窓に貼りつく。今日は眠れるだろうか。隣はどこまでも続く黒い井戸のような静けさで、そしてもう片方からは荷物を片付ける小さな騒音が響いてくる。この中で眠れるだろうか。  眠ってしまえばこっちのものだ。あの幸福な眠りを一生懸命思い出す。柔らかい日差しの中で目を閉じた、あの感覚を。  閉じた目の二つの暗闇が一つになる。様々なものが浮かんでくる。ハルオを照らす赤いライト、じっと考え事をする立人、ハルオのカメラ、難しい教科書、姉の部屋のお揃いのスリッパ、店屋物の皿が積まれたキッチン、小刻みに体を揺らす身寄りのない浮浪者、じめじめした和室に横たわり眠る私……。すべてを消し去るように、私は深く息を吸い込み、そして吐く。その息で様々な光景は吹き飛ばされ、また暗闇が広がる。  もうすぐだ。すぐそこだ。  遠くで笑い声がする。そうだ、きっとこれは夢の入り口だ。  白く輝く草原が薄く浮かび上がる。緑の葉が風にそよぎ、太陽の光がたなびいているように見える。草原はどこまでも続いている。彼方《かなた》は白く輝き、空との境がつかない。草の間で何かが動く。それは集まったかと思うとぱっと散り、てんでんばらばらに動き続ける。子供たちだ。何人もの子供たちが走り回っている。笑い声をソーダの泡のように弾《はじ》き飛ばしながら。背の高い草にひょっと隠れ、また現れては走り続ける。何をして遊んでいるのだろう。鬼ごっこ、それとも缶|蹴《け》りだろうか。  ——もう帰る。走っていた一人が急に立ち止り甲高く叫ぶ。  ——ほんとだ、もうこんな時間。帰ろうっと。  帰ろうという声が輪唱になって響く。  ——ねえ、あんたは帰らないの?  一人が赤い服を着た女の子に訊く。女の子はうつむいてしまう。バイバイが輪になって広がっていく。  ——帰らないの。  女の子が顔を上げる頃には、もう誰もいない。帰らなくてはならないことを彼女は知っている。もう帰る時間なのだ。  いいもん一人で遊べるから、小さな声で言い、頬をぷっと膨らませた彼女はしゃがみこんで草をむしり始める。  もうすぐ帰るから、きっと帰るから……でも帰りたくないの。  女の子の囁《ささや》く声は、黄金色に染まり始めた草原に遠く遠く広がってゆく——。 [#改ページ]   無愁天使      1  パロマピカソのアクアマリンをはめ込んだリング。デュポンのカラフルなペン。猫足のカフェテーブル。六〇年代のライトスタンド。春の花が咲き乱れたスーツ。マイセンのカップ&ソーサー。がちょうの絵入りの缶詰。魚が泳ぐ水色のシェーカー。木彫りのジュエリーケース。絹のランジェリー。サテンをあしらったイブニングバッグ。気取った瓶に詰まった香水。曼陀羅《まんだら》を思わせる色鮮やかなピローケース。金の額縁にはめ込まれた下品な絵。イタリアンカラーのブランケット。インド綿のラグ。真珠をはめ込んだ時計。  目の前にあふれ返る品物を前に、私の時間は一瞬止まる。行き交う人々の気配はすべて消え失《う》せ、フロアに存在するのは私と陳列された品物だけになる。それらを手に取り品質を確かめる必要はない。私の目に入る品物は、私の手に取られることを確信してそこにある。  思考という思考がどこかへ押し遣《や》られ、私の頭の中は段々白くなる。真っ白い空間にただ私を呼ぶ品物の声だけが反響する。その声に応《こた》え私は目に映ったものを順に手にしていく。見落としたものはないかと、獣の貪欲《どんよく》さで一階から六階までのエスカレーターに繰り返ししがみつき、いやというほどフロアを往復する。やがてうら寂しい曲が流れ始め、デパートは閉店を告げる。私は振り返り振り返り、表に向かって口を開ける扉を潜る。  日が昇りつめる頃デパートに入り、出口を潜るときにはもう日はビルの合間に隠れている。それは私を充分安心させ満足させた。  だらしなく肩から落ちる紙袋をずりあげ、腕に食い込む紙袋の位置を変えて車道に出、タクシーを探した。  玄関で荷物をすべて下ろし、思い切り妹の名前を呼んだ。さおり、さおりという声は吹き抜けに舞い上がり階段を上り、廊下を滑って行ったが返答がない。靴を脱ぎ、居間、キッチン、和室、妹の部屋からバスルームまで覗《のぞ》いたが、妹はいなかった。今日の戦利品を見せびらかす相手がいず、わくわくと膨らんだ気持ちは中途半端にしぼみ始める。仕方なくキッチンへ行き、山と積まれた品々をそうっとよけてやかんに水を入れ、火にかけた。確か父の買ってきたセーブルのティーセットがあったはずだと、ものの山をひっくりかえす。家族が買い漁《あさ》ってきた様々な品物たち。テーブルを埋め尽くし、床を盛り上がらせているそれらに、感心してしまう。世の中にこれほど多種多様な食料やキッチン用品が存在しているのかと。大地震後のデパート店内を歩くように注意して歩き、私はセーブルのティーカップを探した。  湯が沸騰し、やかんが悲痛な金切り声を上げる頃、ようやくそれを見付けた。それはカウンターワゴンの傍に積まれたボール箱に紛れていた。父がこれを買ってきたときはまるで子供が生まれたかと思うほど喜んで、これが王者の青だと蘊蓄《うんちく》をたれたくせに、父はそれを飾りも使いもせずまた薄紙で包みそうっと箱に納めてしまっておいたらしい。私は丁寧に紅茶を入れ、王者の青に注いだ。  居間へ行き、ここでもあふれ返るものを足でよけ、ソファの上に坐《すわ》るスペースを作って腰を下ろした。転がった三台のTVのスイッチを入れ、私は妹の行方について考えながら、甘い紅茶を口に含んだ。どこかのデパートで私のように走り回っているか、マモちゃんのうちだろう。後者のほうがかなり確率が高い。なぜならデパートはもうとっくに閉店時間のはずだし、閉め出された妹は飛んで帰ってきてここで品物を広げて見せるだろうから。  マモちゃんというのは彼女の恋人で、都内に住む浪人生だ。妹に連れられて何度かマモちゃんのアパートを訪ねたことがある。日の当たらない、布団と本しかない六畳間だった。こんなにさみしい部屋でさおりは処女を失ったのだろうかと考えた。妹はやがてその六畳間に、餅《もち》も作れる炊飯ジャーを買い、布団乾燥機を買い、天気予報をしてくれる掃除機を買いBSチューナ内蔵の大型TVを買い、エアコンを取り付けハート型の炬燵《こたつ》を買い、なぜかコードレスの電話を買いペアのバスローブとスリッパを揃えたらしい。そして狭いながらも楽しい愛の巣を完璧《かんぺき》に作りだし、歩いたり坐ったりする度にあふれるものをよけなければならない家に飽きたのか、最近はしょっ中外泊している。  私は妹の部屋の天蓋《てんがい》つきベッドを思う。あれほど欲しい欲しいと喚《わめ》き、あちこちに問い合わせて探し回り、ようやく手に入れた天蓋つきベッドは、シーツも変えてもらえず妹の部屋に横たわっている。  大きく伸びをして部屋の中を見渡す。夥《おびただ》しい数の衣類や靴が散乱し、まだ中身の残ったウィスキーの瓶が栓をされてあちこちで倒れ、奇妙なデザインの椅子が点在している。ゴブラン織りのタペストリーが丸まって立てかけられ、巨大なベンジャミンと椰子《やし》は枯れかかりエアプランツは奇妙な葉をすくすく育てている。ライトスタンドが倒れごみ箱には雑誌が突っ込まれ、巨大な月型のミラーが部屋を歪《ゆが》めて見せ、投げ出された簀子《すのこ》の上に何足ものフォーマルシューズが鼻を突きあわせ、きっちりと作られたロックガーデンが鎮座し、化石の入った天板は倒れテディベアの鼻先を押しつぶしている。鯨のオブジェと緑の木馬が仲良く並び、テラコッタの壺《つぼ》がいくつも転がっている。陶器の壺には極彩色のインド人形が何体も差し込まれ、その視線を追うと知らない画家のタブローが生々しく外を見つめている。古めかしい跳び箱の上にはアンティークラジオとパチンコ台が共存し、そこここでスナック菓子の袋がだらしなく口を開けている。赤いボブの鬘《かつら》まであるから笑ってしまう。少なくとも私の目にはもの静かに映っていた父は、これを被り派手なドレスで女装をし、集まった会社の人々の前で酔っ払って踊り大爆笑を浴びた。この山をひっくりかえせば、きっとあのとき父が身に着けた黒いシースルーの下着も出てくるだろう。  こんな日々は、もう一年以上続いている。  あの夜——私と家族と親戚《しんせき》たちは黒い服で集まり、細い煙突から黒い煙がたなびいて行くのを見守った。それは母の体に似て、細く頼りない煙だった。  ひととおりの儀式を終え、一層静けさを増した家に父と妹と私は残された。父は何も言わず出前を取った。ピザと寿司《すし》と懐石だった。私たちは運びこまれたそれらを黙々と食べた。  この果てしなく長い乱痴気《らんちき》騒ぎの始まりがあるとするなら、それは多分あの静かな夜だ。  私は天井を見上げ、天井がただの天井であることになぜか安らぎを覚えた。  翌朝、立て続けになるドアチャイムの音で目覚め、居間で眠りこけた自分を思いだした。私の下で皺《しわ》くちゃになった新品の衣類から顔を上げる。それらは涎《よだれ》で湿り、私は口を拭《ぬぐ》いながら玄関を開けた。ベージュの作業服を着た三人の男が立っていた。皺だらけの服をまとい顔に何本も筋をつけ、涎を拭う若い女が珍しいのか、彼等はじっと立って私を見つめている。 「何でしょう」  掠《かす》れた声でそう訊《き》くと、リーダーらしい年配の男が明朗な声で言った。 「浴槽の取付け工事に参りました。指定日時は今日ですよね?」 「浴槽……ああ、お願いします」  私はドアを大きく開けた。彼等は一向に動かない。 「お風呂《ふろ》は突き当たりを右です。あの、このへんのものは踏んで歩いて全然構わないですから。どうぞ宜《よろ》しくお願いします」  卑屈な程明るく私は言った。ようやく彼等は一歩を踏み出す。明朗な声の男が言った。 「工事に取りかかる前に、日程のことですとか、いろいろお話があるのですが」 「あの、申し訳ないんですが私ちょっと時間がないんです。それ省略して、どうぞ工事のほうお願いします」  彼が口を開く前にそう言い捨て、居間に飛び込んだ。 「すげえな」「大丈夫か、おい」  廊下を通る彼等の囁《ささや》きは、居間で再び寝ようとする私の耳にしっかり届いた。  やがて奥から小さな騒音が聞こえ始めた。私は起き上がって急いで身仕度をした。 「用があるので出掛けます。取付けが終るまでに私が帰らなかったらお先にお帰り下さい。お疲れ様でした」  手近にあったシーツに大きくそう書くと、それを風呂場の前に広げ、足音を忍ばせて家を出た。穏やかな春の日差しを四肢に心地よく浴びて、大通りまで歩いた。  四階建のビルは各階布で埋もれている。つるつる光る床をきゅっきゅっと鳴らし、一階から順にうろついた。教室にきちんと並ぶ机のように陳列棚が整然と並び、どの棚からも色があふれていた。制服を着た高校生や子供を抱えた主婦たちが、目的を持った目の色をして私と擦れ違っていった。  部屋を海の底に沈めるような美しい青を探していた。様々な色と素材の青があった。私はのろのろと青を探し、四階まで行ってまた一階まで戻り、長い時間ビルの中を彷徨《さまよ》っていた。  結局五種類の青を買ってビルを出た。陽はまだ高く、ビルの前の道路は歩行者天国で大勢の人が行き来している。空を見上げ、近くにデパートはないかと頭を振った。  通りに面して口を開いた入り口を潜ると、すっと冷たい空気が私を取り囲む。広いフロアはかなり混んでいた。入り口に立ち尽くし、辺りをそうっと見回してみる。あちこちにディスプレイされたものたち——目の前には金や銀のアクセサリーが、後ろを振り向けばカウンターに色鮮やかな化粧品が並び、左にはモノトーンシックなブティックが、右にはカラフルでポップな帽子やストールがじっと私を待っている。万歳をして足を踏み鳴らしたいほど私はハイになる。きちんと整列させられたものたちは私を興奮させ、同時に安心させる。それら一つ一つに応《こた》えるため、大股《おおまた》で売り場から売り場を駆け抜ける。カードを渡し商品を受取り、サインする間も惜しかった。買い物を楽しむ何人かとぶつかり、何人かは迷惑そうな顔を投げかけていた。やがてそれらも見えなくなり、私は得体の知れない空気の塊とぶつかり品物に辿《たど》り着くのだ。段々白に染まり始める頭の中の、その空白を研ぎ澄ませ私は品物の呼ぶ声を聞こうと努める。  エレベーターで五階まで行き、ふと足を止めた。箸《はし》やまな板やステンレスのざるが並んでいる向こうに、こちらを見つめる赤を見つけた。私を呼ぶものがここにもあったかと急いでエレベーターを降りる。陳列棚と客の合間をすりぬけ、私はその赤に近付いた。  それは、朱塗りのお弁当箱だった。丁寧で上品な赤は私の心を引いた。両手に小さな重みを感じながら、私はしっとりとした赤に見とれた。それを手にとりレジに向かった。  デパートから出ると、空は橙《だいだい》と薄紫の混じり合った色をしていた。歩行者天国は通常の道路に戻り、行き交う人の賑《にぎ》やかさを吸い込み、それ以上の騒々しさを吐き出していた。昼間のほてりを冷ますコンクリートに荷物を下ろし、空車の赤ランプを探した。  家に戻ると工事人たちは帰っていた。妹はいなかった。父もいなかった。あちこちに秩序なく転がったものたちが私を迎えた。  その夜、夢を見た。  私はどこか見知らぬ場所に立っていて、周囲はすべて白っぽいグレイっぽい中途半端な色で塗り込められている。そのうち足の裏がひんやり冷たいなと感じる。波打ち際に立ったときの、あの波が引くような感じ——立っている場所がぼろぼろと崩れて行く感覚。動こうと思う間もなくいつしか水は胸を濡《ぬ》らし肩を濡らし、私はすっぽりと水に呑《の》まれる。ふわり、と足が浮く。膨大な洪水の中で浮遊する。苦しいわけでもなく、かといってそれほど楽しくもない。ただ、投げ捨てられた紙切れのように浮いている。そのうち私は、自分を包む周囲が澄んだ青であることに気付く。どこまでも青い世界は、どこか私を切なくさせ心地よくさせ、安心させ悲しくさせる。ぐるぐると胸の中で渦巻く色とりどりの感情の、しかしどれにも染まることなく、私は渦巻く気持ちをそのままにして浮いている。  目覚めてシーツの感触を懐かしく味わった。長い船旅から地上に降り立ったときのように、ぼうっとベッドの中で目を開けていた。光を吸いこむ窓を見、ベッドの傍に広げられた青い布地を見た。ああこれだったのかと思い、ようやくベッドから下りた。  散らかったキッチンで、長い時間をかけて弁当を作った。開け放した窓から柔らかい風が入り込んで額の汗を拭うほど、私は熱心に弁当を作った。作り終えるとすぐ弁当箱の蓋《ふた》を閉め、青い布地を持って妹の部屋に行った。朝方は日の当たらない彼女の部屋は天蓋《てんがい》つきベッドが捨てられたように寝そべっているだけで、かつてのマモちゃんの部屋のように閑散としていた。  薄暗い部屋で私は黙々とミシンを踏んだ。針を通された青い布地はするすると床に落ち、茶色い床を青に染めた。  大きな音でレコードをかけ、曲に合わせて家中のカーテンを引き剥《は》がしていると、昨日と同じ顔ぶれの三人の男たちが来た。彼等を風呂場に通し、私は構わずカーテンを剥がし続けた。すさまじい音を立てて布地は破れ、止め具がぱらぱらと落ちる。賑やかな歌声に合わせて、私はリズミカルにカーテンを引っ張り続けた。一つカーテンを引き剥がすといちいち高い青空が現われ、私を愉快な気分にさせた。  結局、飽き性の私が自分で縫った青いカーテンを取り付けられたのは、居間の窓だけだった。窓を開けてカーテンを閉めると、青い布は陽光を吸収してたっぷりと輝き、細長い日光を青く染まった部屋に幾筋も投げかけた。私はそれを見つめながら、一人弁当を食べた。  それにしても父も妹も、一体どうして帰ってこないのだろう。父は東欧秀作ビデオシリーズを二巻目までしか見ていないはずだし、妹も浴槽買っちゃったと無邪気に笑い、工事が始まるのをあんなに楽しみにしていたというのに。それでもきっと二人とも、この高い空の下のどこかで、今もはめを外して笑い転げているだろう。そう考えると、乱雑な家で一人弁当を食べる行為も限りなく面白いことに思え、私は一人|秘《ひそ》かに笑った。  ポストを開けて夕刊と何通かのDMを取り出し、私は区立図書館に向かった。住宅街を歩きながら、一通一通に目を通す。夏の新作ご紹介もラストスプリングセールも充分私を喜ばせた。その中に一枚葉書が入っていた。AIR MAILの判が押され、見慣れない綺麗《きれい》な切手の貼られた葉書を私は取り出した。私|宛《あて》の名前の下に、たった一行書かれていた。 �しばらく休暇を取って旅行を続けます。おまえも好きなことをしなさい�  父からだった。  試験の時期なのか、閲覧室は制服を着た学生で混んでいたが、三階のオーディオルームはがらんとしていた。オレンジに色付いた日だまりだけが静かに細長い机に坐《すわ》っている。受付でレコード名を書き、提出する。窓際の席についてヘッドホンを耳に当てた。差しこむ日が作る変形した四角は、私の上半身をすっぽりと包みこみ、乾いた色で私を染めた。  ヘッドホンから小さな雨の音が聞こえてくる。そして静かに、曲が始まる。とっくに死んでしまった黒人歌手は、泣くような声で歌う。私は机に両肘《りようひじ》をつき、異国の切手のはりついた葉書を眺めた。それから丁寧に、美しい切手を切り取った。  曲と曲の合間に、館員たちの微《かす》かなおしゃべりが聞こえる。  だって魚が臭いって、洗剤で洗おうとするのよ。  若い子って、分からないわよねえ……。  また歌い始める哀しい声が、その後の話を消していく。私は目を閉じて、歌声と日だまりの中に丸くなる。  図書館を出るとき、ふと気がついて銀行に走った。父の通帳で残高照会をすると、案の定、ゼロが二|桁《けた》少なくなって記入された。まだ余裕はあったが、あの風呂の代金が引かれるのはいつだったろう。あれだけじゃない、昨日の買い物も、おとといのも、その前のも……。胸の奥がどきどきした。三人で浮かれて騒いだ日々が頭をよぎった。それからうら寂しい曲を流し口を閉めるデパートの大きな扉も頭に浮かんだ。誰もいないキャッシュコーナーの中で、私は通帳を見つめたまま立ち尽くしていた。      2  電話で教えられた通り訪ねていくと、着いた場所は普通のマンションだった。エレベーターの中は目がちかちかするほど鮮やかな緑で、床には固まったチューインガムがへばり付いていた。  その部屋は表札が何も出ていなかったので入るのがためらわれたが、確かに七〇三だと聞いたので、インタホンを押した。いやに頭をてからせた長身の男がドアを開け、私を中に招き入れた。通された部屋は十畳ぐらいのリビングで、ソファには女の子がひとり坐っていた。私には目もくれず、すらりとした足を組んで雑誌に目を落としていた。 「今コーヒー入れてくるからちょっと待っててね」  頭のてかった男は言い、別室に姿を消した。私はしばらくの間、紫のソファに腰かけその女の子を観察した。萌黄《もえぎ》色のスーツから伸びた足には金のアンクレットが光っている。艶《つや》やかな髪は腰まで伸び、髪の間から大きな金のピアスが覗《のぞ》いていた。顔をよく見ようと前屈みになったとき、さっきの男がティーカップを手に戻って来た。 「ねえ聞いていい?」  いやにひらべったい声で男は聞く。 「大学生でしょう? 二十歳って本当? 何か困ってんの?」  彼は私の細部、ヘアスタイルから顔、首筋、肩、胸、足や腰のくびれ、一つ一つを手に取って値段を確かめるように見つめる。私がものを買うとき、こんな表情をしているのだろうかと思う。 「浴槽買っちゃって」  彼に気に入られるように、わざと馴々《なれなれ》しく答えた。 「来月辺り口座から落ちるんだけど、ちょっと足りないみたいだから」 「へええ」  彼は私の答えを右耳から左耳へ通し、マネージャーの佐原と名乗った。仕事の説明をしてくれる彼の口元を見ながら、やけにべたべたした男だと思っていた。説明の最中に一台の電話が鳴り、サハラが応対し、髪の長い女が出ていった。それからサハラはお金の話を始めた。仕事をすればするだけ面白いほど儲《もう》かるとサハラは言った。 「一時間で二万五千円。あなたの取り分は一万五千円。単純計算で一日三人相手したとするっしょう、週休二日で一年もすればマンションも買えちゃうって訳」 「別にマンションは欲しくないんですけど」 「いやだなあ、たとえじゃん、たとえ。それくらい儲かるって話。何に使おうとそちらの勝手よ、もちろん」  サハラは私の足を叩《たた》いて大袈裟《おおげさ》に笑い、ポケットベルを私に渡した。 「それからこれ持ってて。仕事が入ったら呼び出すからさ、鳴ったらここに電話入れてよ。そうそう、出来るだけ普通のかっこしててよ、今日みたいな感じの」  そこまで言ったとき電話が鳴り、サハラが出、紙に何かメモしていた。受話器を置くと私を振り返り、言った。 「行ってみる? 今日はパスなら他の子呼ぶけど」 「じゃ、行きます」  私は答えた。  メモに書かれたホテルの部屋を訪ねると、カーテンを閉め切った暗い部屋に小肥《こぶと》りの男が背中を向けて坐っていた。扉を開いたクローゼットにはスーツが掛かり、片隅に革のトランクが置いてあった。 「初めまして。田中鈴子です」  何を言っていいか分からず、私はとりあえず偽名を使った。男は振り返って私を見る。満員電車に乗ったら二十人は見つけられそうな、中年男の顔をしていた。 「私、今日仕事始めなんですよね。実は短大の二年生なの。英文科でね。来春卒業でしょ? 留学したいんだけど、でも父も母もいないから、自分で稼がなきゃならなくって、何が一番儲かるかなって考えたときに」  べらべらと思いつきでしゃべる私を、男は思い切り抱き締めた。きついムスクの香りが鼻をついた。男は一秒でも惜しいように私をベッドに押し倒し、一体どんな早業なのかしゃべり続ける私のブラウスをいつの間にか剥《は》ぎ取り、自分も下着を脱ぎ捨てていた。 「父と母がいないって言ったでしょう、私、叔父《おじ》夫婦の家に世話になってるの。彼等はものすごくお金持ちなんだけど恐ろしくけちなの。あの人たちが私を留学させることより、それこそらくだ[#「らくだ」に傍点]が針の穴を通るほうが可能性があるの。でもさ、あの人たち死んだらあの莫大な貯金はどうなるのかしら。宙に浮くのよ。だって他人に取られるくらいなら豚にやったほうがまだましって人たちだもの」  男は白い脂肪をぐいぐいと私に押し付けた。薄い頭の真上で、余りにきつい匂いのため私は顔をそむけて話さねばならなかった。 「留学のこと、彼等にまだ言っていないの。言ったら私の貯めたお金だって取り上げるに決まってるわ。叔父も叔母《おば》も、お互いを愛してるんじゃなくて、その間にある貯金を愛して一緒にいるのよ、ねえ不思議ね」 「黙れっ!」  男は初めて声を出した。野太い、どこか訛《なま》った声だった。私はびくんと飛び上がって口を噤《つぐ》んだ。男の掌《てのひら》が私の身体中を這《は》い回った。野太い声とは裏腹に、掌の感触は非常に優しいものだった。薄い頭髪や、黄色い染みの浮き上がった額や、毛のびっしり生えた白い腹が時々アップになった。それらは今までに見たことのない種類のものであり、無気味で、そしてどこかおかしかった。込み上げる鳥肌と嘔吐《おうと》感と笑いから逃れるために、私はぐっと息を呑《の》み、固く目を閉じた。あのデパートの店内と同じく、見えない空気の塊が私を揺さぶる。これでいいのか、と、私は見えない塊にしがみついた。目を閉ざすと、ぴっしりと口を閉ざしたデパートが、微笑むように口を開くのが頭に浮かんだ。適当に声を上げながら、うっすらと瞼《まぶた》を持ち上げて、カーテンの透き間から細長く切り取られた表を見た。  遠いネオンサインが見えた。緩やかに流れる雲の合間から細々と光を放つ星が見えた。笑い零《こぼ》れるように滲《にじ》んだ月が見えた。  近所のスーパーでさえ、巨大デパートに負けぬくらいの興奮を私に与えた。カートに足をかけ子供のように走り回りたい気持ちをぐっと堪《こら》え、私はゆっくりと床を踏みしめた。  出来るだけ実用的でないもののほうが良かった。埃《ほこり》を被りひっそりと売り場に佇《たたず》むことに慣れてしまった品物たちをそうっと取り出す。急速冷凍容器や、長老のようにそこに居座る氷かき。硝子《ガラス》のバター入れや、冴《さ》えないデザインのスパイスラック。そのうち用のあるものとないものと、選ぶ基準が分からなくなり、とりあえず目を引くものをすべてカゴに投げ入れる。カゴの中ではかぼちゃの下に草花培養土が、じゅん菜と白髪染めが並びあう有様だった。  あちこちの棚の前で屈み、奥の商品に手を伸ばしながら私は妹の声を思い出していた。 「今度の週末、家で焼き肉パーティしよう。マモちゃんと三人で」  家で彼女に会いたかったので、わざわざマモちゃんのアパートに電話を入れたのだった。いいわよ、と彼女は素気なく答えた。その素気なさがひどく私を緊張させ、日取りだけ決めただけで、一緒に買い物に行こうとも風呂《ふろ》が完成したとも言えず、受話器を置いたのだった。それでもマモちゃんと彼女が家にやって来ることは嬉《うれ》しく、私は重くなり続けるカートを力一杯押して歩いた。  家に帰って十匹の野豚が食べ尽くすほどの肉類を冷蔵庫にしまってから、テーブルの上に積まれたものを踏み潰《つぶ》して坐《すわ》り、足下に落ちていた本をめくって彼女たちをもてなすサイドメニューを考えた。じゅん菜の味噌《みそ》汁、蟹《かに》の錦糸《きんし》巻き、鰺《あじ》の南蛮漬、ひりょうず、かぼちゃの宝蒸し、ページをめくり、目に留まった料理をそのへんの紙袋に書き込んでいく。  私は思い切り立ち上がり、テーブルの上に積まれたものをすべて床の上に落とした。ものともののぶつかるすさまじい音がした。何かが割れる音もしたが、かまっている暇はなかった。なにしろ明日は妹とその恋人がやって来る。明日までに完璧《かんぺき》な下拵《したごしら》えをしておかなければならなかった。  サイドメニューのための材料を、あるだけテーブルの上に広げ、私は一人下拵えをした。蟹缶を開け昆布のだしを取り豆腐を裏漉《うらご》しし鰺のゼイゴとえらを取り干し椎茸《しいたけ》を戻し木耳《きくらげ》を微塵《みじん》切りにした。机の下にしゃがみこんでボール箱をひっくりかえし、揃いの箸《はし》置きセットと小皿を探した。  額に汗がにじみ、窓を開けた。淡い闇の中で、庭にぽつんと打ち捨てられた古い浴槽がぼんやり輝いていた。  しかし翌朝我が家を訪れたのは、妹だけだった。 「やっぱり」  ドアを開けると開口一番、妹はそう言った。彼女は日曜大工に勤《いそ》しむようなジーンズ姿で立っていた。 「マモちゃんは?」  私は彼女の後ろを覗《のぞ》き込んだが、平和な春の日差しが降り注いでいるだけだった。 「床の色が見えない」  私の問いを無視して部屋の中を眺め、妹は言った。 「マモちゃんはどうしたのよ」私は繰り返す。 「ねえ、ちょっと考えてみて。この家、普通の状態だと思う? まるでいかれちゃった人の隠れ家じゃない。こんなところで落ち着いて食事ができる? 材料一緒に運ぶから、マモちゃんの部屋でやることにしましょうよ」  上がりかまちに腰掛けた妹の手を引いて、キッチンに連れていった。キッチンはごった返していたが、テーブルの上だけは片付けておいたのだ。三人分のナフキンがきちんと並べられ、揃いの箸置きに箸は休んでいる。乱雑な部屋の中でそこだけ不自然な程ぽかりとスぺースが開いていた。 「大丈夫よ、ほら」  私はそのテーブルを自慢げに妹に見せた。彼女は何も言わず、私を振り返る。 「材料を用意して。一緒に運ぶから」 「何言ってるの、この家の中のもの、三分の一はあんたのよ。私だけが悪いみたいに言わないで」  自分で驚くほど大きな声を上げていた。妹は私をまっすぐに見つめ、一言言った。 「じゃあ私のものは捨てるわ」  そして引き出しの奥から黒いビニール袋を一パック取り出すと、それを片手に家中をうろつき始めた。私は彼女の後を追い、「それは私のだ」とか「これもあんたのよ」といちいち口を出した。  穏やかな日差しを吸い込んで寝そべった宝の山を掘り返し、彼女は真剣な表情でものをビニール袋に押し込み続けた。  真っ赤なエルメスのケリーバッグも、黒いラム革の手袋も、カシミアのクラシックデザインコートも、動物柄で統一されたテーブルウェアもすべて捨てた。金のリーフネックレスも、様々な柄を揃えたセリーヌのスカーフはまとめて丸められ、クリスタルボトルに詰まったフローラルの香りも、スケートシューズも鴨のデコイも、アンティークドールもフォーマルシューズも、顕微鏡もローラアシュレイのパンツスーツも、色とりどりの化粧品も三十着も揃えたヴェルサーチのドレスも、トルコ石のネックレスも巨大なミッキーマウスもコードレスのアイロンも、すべて黒い袋に呑み込まれていった。パズルも世界原色花図鑑もあしたのジョー全巻も帽子もガウンも置物も同様。薄紫の地に桜の花びらが舞う訪問着も、麻のタペストリーも地球儀もラップトップワープロも伊万里の火鉢さえ黒い袋で包んでしまった。ぱんぱんに膨れ上がったビニール袋は、あちこちにごろごろと転がった。  それはゲームのようだった。妹の後を追い、真剣な彼女の後ろ姿を眺め、私もごみ袋を手にした。封を開けてもいない紙袋やボール箱の中身を確かめもせず、散らばった洋服のデザインを見もせず、妹と同じようにごみ袋につっこんだ。捨てる——ということは、また買える、ということだった。妹もそう思っているのだろうと思った。彼女も私と同じように口を開けたデパートの店内を考え、胸を膨らませてごみ袋を満杯にしているに違いない。私はこの沈黙のゲームに集中した。笑い出したいのを堪え、妹をまねて真剣になった。破けそうに膨れ上がった黒い袋がこの家を満たすとき、彼女は私を振り返って笑い出すだろう。そのとき充分に笑えるために。  しかし彼女は笑わなかった。柱時計が大きく鳴って三時を告げると、ふと顔を上げ、言った。 「信じられない。まるで片付かないわ。もう諦《あきら》めてマモちゃんちへ行こう」 「え?」  私は顔を上げて彼女を見つめた。額に玉の汗が光っていた。 「材料を用意して。一緒に運ぶから」 「——いいわ。私、外出るの面倒だし。材料渡すから二人でやって」  私は言った。  妹が姿を消した後、新しいビニール袋の口を開け、昨日下拵えしただし汁や鰺やじゅん菜や丸ごと茹《ゆ》でたかぼちゃや裏漉しした豆腐を、投げ捨てた。  区立図書館のオーディオルームからは、霧に霞《かす》んだ高層ビルが夢の中みたいにぼんやり見渡せた。重いヘッドホンを耳に当て、いつも彼が歌いだす前に始まる雨の音をじっと聞く。何かの儀式に参加しているようにどきどきする。彼が歌いだす前、針が傷をなぞる何秒かの間、私の気持ちは張りつめる。なぜか妙に切なくなる。ここだと思った丁度その瞬間、彼は歌いだす。泣き声にも怒鳴り声にも似た、独特の声で。ぴりぴりと尖《とが》った神経を、彼の歌声がじんわりと溶かしていくのを感じる。私はほっとして、机の上の日だまりを指でなぞる。  斜め前のテーブルでは、あどけない顔の少女が同じようにヘッドホンをかけ、涙を流していた。流れる涙をハンカチで押え、持っている本に目を落とし、窓の外を眺め放心したようにまた涙を流していた。退屈そうな図書館員は、ちらちらと彼女を盗み見ている。彼女の手にしていた本が「入試必勝 英文法」であることに気付き、何となく私は穏やかな気持ちになった。  梅雨が来る前に、引っ越してしまおうかと考える。実際、ごみ袋の数が幾つ増えても部屋の中は大して綺麗《きれい》にならないし、そこに妹が帰ってくることはもうないようにも思えた。そしてあの家で、何か一つのものを探しだすことは非常に困難であることに気が付いた。私はあの朱塗りの弁当箱をなくし、一晩かけて探してもそれは出てこなかった。どこかの透き間に入り込んで、ひっそりと息をしている弁当箱を何度も想像し、大きく溜息《ためいき》をついた。  その日ポケットベルが鳴ったとき私は家の中にいた。事務所に電話をかけると、都合が良ければ行ってくれと、渋谷《しぶや》の喫茶店を指定された。  狭い店内で周囲を見渡すと黒いハンチングをかぶった男はすぐ見つかった。私が前に坐《すわ》っても、男は顔を上げもしなかった。ストローをくるんでいた薄紙に、細かい文字を書き連ねていた。こんにちはと声をかけると少しだけ顔を上げて私を見たが、ペン先に視線を戻し、何かを書き込み、ぶつぶつと小声で独り言を言っていた。小柄な男はまだ若く見えた。  そのうち男は何か呟《つぶや》きながら立ち上がり、それが聞き取れぬまま私も立ち上がって後に続いた。着いた場所は裏通りのラブホテルだった。黒と赤の奇妙なアーチを潜り、退屈そうなフロントの中年女と男が会話を交わすのを私はぼんやり眺めていた。  カーテンを閉め切った暗い部屋に私たちは入った。安っぽいインテリアは黒で統一され、カーテンとベッドカバーは赤だった。男はベッドサイドに腰掛け、一点を見つめてぼそぼそしゃべり続ける。シャワーを浴びるかと声を出すと、暗い目の色でちらりと私を見たが、また視線を戻してしゃべり続ける。反対側に腰掛け、耳を澄まして男の声を聞いた。交信だの宇宙だの組織だの狙われているだのといった言葉が、とぎれとぎれに耳に届いた。私は彼に後ろ姿を向けたまま、ぼんやりと暗い部屋に視線を泳がせた。  男は不意に言葉を切った。また偽名を使おうかと考えていると、いきなり男は振り返り、私に手を掛けた。彼は私の衣類をすべて剥《は》ぎ取り、赤いベッドの上に横たわらせた。ぶつぶつとしゃべりながら、ショルダーからマジックペンを取り出す。黙って見ていると私の体中の黒子《ほくろ》を探し、一つ一つを線で結び始めた。猫の舌みたいな感触を味わい、私はされるがままでいた。彼は私を横にし、俯《うつぶ》せにし、丁寧に黒子を探した。体中に奇妙な線が這《は》って行く。男にふざけている様子はなく、かえって何かを真剣に求めているようであった。何か大きな組織から追われていて、異星人からの交信を待っている——彼の聞き取りにくい独り言からそんなことが何となく分かった。  彼は黙って私の体中の線を眺め、「だめだ」と一言言った。「代わってくれ」と続けて呟く。どうやら私の黒子が、彼の中の何かと結び付かなかったらしい。私は黙って服を着た。 「でもあなた、脱がせたんだから代金は支払うべきよ」  呟き続ける男に言ってみた。彼は黙ってショルダーバッグに手を突っ込み、札束をベッドの上にばらまいた。 「あんたチェンジされてから、あたし行ったのよ。何? あの男。体中に悪戯《いたずら》書きされたわよ」  事務所を出るとき、一緒に帰ろうと車に乗せてくれたハルミは、片手でブラウスを上げ、肩に伸びた黒い線を見せてくれた。 「チェンジされた?」 「一発やられたわよ」 「じゃあ合致したのね、黒子が」  ヘッドライトが道路の両側に並んだハナミズキの列をぼうっと照らしだして通り過ぎていく。ハルミは洋服の話や男の話をしきりにして、人なつこく笑った。 「ね、どこ住んでんの? これまっすぐ行っていいの?」 「次曲がってまっすぐ。何か悪いわね」 「いいのいいの。買ったばかりだから運転したいのよ。彼氏も迎えに行ってやるときあるんだから。あんたは車乗らないの?」  ハルミは高い声で笑い、大きく右折した。 「免許持ってないし。それより、引っ越ししたいな」  流されていくハナミズキの白い花が闇に沈んでいくのを見送り、私は言った。 「へええ。それならサハラに頼むといいよ。知り合いにいるんだってさ、不動産屋。あたしもあの人に頼んだんだよねえ」  それからハルミは部屋の間取りを説明し、一緒に暮している男の子の話をしてくれた。  家に着く前に彼女の車を降り、黒いアスファルトを踏んで歩いた。星はのっしりと重い雲に押し遣《や》られ、一粒も見えなかった。ヒールを脱いで歩いてみた。ひんやりとした足の裏の感触が疲れを癒すように心地よかった。車の流れが途絶えたことを確認し、そうっとアスファルトに横たわる。頭の上の濃紺の空は、仰向《あおむ》けになった私の真上一杯に広がった。細かい緑の葉を零《こぼ》れるほどつけた大木が私を見下ろしている。葉は一枚も動かず、ふと自分が道路に埋め込まれてしまったように感じる。明りを縁どる小さな窓が、あちらこちらから私を見ていた。微《かす》かに、雨の匂いがした。  通り過ぎるタクシーの運転手に怒鳴りつけられ、私は飛び起きて隅を歩いた。裸足《はだし》のまま、びっしりとものの待つ我が家へ向かった。      3  ドアを開いた私を迎えたのは、やけに老けた男だった。その部屋は、寒いほど涼しかった。窓辺に腰掛けた男は、私を見るとにこやかに笑い頭を下げた。この人、何か勘違いしてる——私はとっさにそう思った。それを口に出すべきか、どうやって説明すべきか、私は少しの間悩んだ。彼は年老いていた。恐らく私を見ても、ここで私が服を脱ぎだしても、何も感じないだろう。電話ボックスにびっしりと貼られたあの小さな紙切れは、ヘルパー提供でもお友達紹介でもなく、性欲処理のSOSだと彼は知らないに違いない。 「何か、話して下さい」  彼は突然口を開いた。顔を上げるとにこやかに自分の前の椅子を勧めている。私はそっとその椅子に近付いた。 「あなたのこと、何でもいい」彼は続ける。  私はしばらく考えてみた。 「じゃあお客さんの話をしてあげる。興味あるでしょ、そういうの。この前会った、ものすごく可哀そうな子の話」  彼の思惑が分からぬまま、私は話し始めた。半ば開いたカーテンから、模型のような街が見えた。グレイの建物が居並ぶ中央がすぽんと抜け落ち、その空間が学校であることに気付く。茶色いグラウンドと青いプールが灰色の中にきちんと確保されていた。青いプールには次々と、小さな黒い生物が飛び込んでいく。 「どうやって代金を支払うのかとこっちが心配になるような、若い子だったの。最近は取り締まりが厳しいらしくて、最初喫茶店で落ち合うのね。ほら若い人が公衆電話からかけてくるじゃない、そしたらすぐ近所の喫茶店に入ってくれって言うのよ。それでこっちはそこへ行くの。何だか薄汚い喫茶店の片隅で、その子はぽつんとビールを飲んで私を待ってたの。私が前に坐ると、少しここで話をしようって言うのね。その子は簡単に自己紹介して、私にもそうするように言うの。名前とか、年とか、どこに住んでるかとか、そんなこと。それでね、話しながら、どうしてこんなことするか分かるって言うの、こんなことってつまり自己紹介みたいなことよ。さあって答えたら、シミュレーションだよ、って言うの。僕は君の名前を知って、幾つなのかを知って、何をして暮してるのか、趣味は何なのか知って、そして僕の中で君という人を作り上げる。実際の君とちょっとずれててもいいんだ。さっきまで知らなかった君という人が僕の中で生きてくる。僕はずっと君を知っていたような気持ちになる。分かる? 愛し合ってるみたいな気持ちになれるんだよ。そう言うの」  彼は濁った目で私を見つめ、微かに笑みを浮かべて静かに私の話を聞いていた。 「私たち恋人同士みたいに額をつきあわせて、ビール飲みながら話をしたの。専門学校生だってその子は言ってた。東京に実家があるけど独り暮しで、どこそこに住んでて、独り暮しの理由は何でって、こと細かく話してくれるの。それであなたは? って聞くから、私はその場で思いついた嘘をたくさん話したの。アル中の恋人がいて、もうぼろぼろなんだけど私は彼がものすごく好きで、どこが好きって酔っぱらったその人が好きで、象が飲み干すような量の上等なアルコールを用意しなくちゃいけないから、こんなふうに働いてるのって話してあげたの。へええってその子おとなしく聞いてたわ。  それから喫茶店を出て、私たち腕を組んでホテルに向かったの。ホテルに行く途中で、初々しいカップルみたいにブティックに顔突っ込んだりしながらね。ものすごくたくさん歩いて、言いようもなく寂れたホテルにようやく入ったの。ご休憩が二千円ぐらいのところなの。一緒にお風呂《ふろ》入ったんだけどさ、それがもうすばらしく汚いお風呂なのよ。タイルは全部|黴《か》びてるし、いやな匂いはするし、第一シャワーを出してても急に水になったりするのよ。その子、体中私に洗わせといて、急に僕はただやりたいためだけにここへ来てるわけじゃないよって言いだすの。そんなのつまらない、僕は愛し合ってるということを前提としなきゃいやなんだって。私、何だか変な話だと思ったわ。だって愛し合いたいなら恋人を作ればいいんじゃない。見たところ恋人ができないような子でもないしさ、今簡単じゃない、恋人作るのって。それがたとえ本当に愛しててもそうじゃなくても、少なくとも愛し合ってるふりなんてしてる人たちは大勢いるじゃない。でもね、そう思っても、思ったこと口に出すのがいいことかっていうとそうじゃないのよ、仕事柄。いろんな考えの人がいて、いろんなふうにしてて、私はそれが間違ってるとかこうするべきだとか指図するのが仕事じゃないわけだから。だから私、じゃあそうしましょうよって言ったのよ。私もあなたのこと愛してるように思うわって。象が飲むくらいのアルコールを飲み干した後の恋人だと思い込むわ。あなたも私を一番好きな人だと思えばいいわって。そしたら彼ものすごく喜んでね、自分の子供時代の話をし始めたの」  TVもベッドサイドのラジオもベッドもベージュの毛布もしんと息を潜め、時計だけが堂々と時を刻んでいる。彼は眠るように目を細め、私の話を聞いている。私は秒針と競うように言葉をつなげた。 「その子のお母さんは何か間違いで妊娠させられて、気が付いたらもう堕《お》ろせない状態で、仕方なく子供を産んだんですって、それが彼らしいんだけど。でね、父親も、もちろん本当の父親じゃないんだけどさ、母親も彼のことすごく憎んでたんですって。幼稚園くらいのとき、家の中に一人置き去りにされて、二人は何日も旅行行っちゃったりするんだって。食べるものもなくて、何か買うにもお金もなくて、水飲んだり歯磨き粉なめたりしてたらしいの。  それからもっと可哀そうなのが、彼、昔遊園地で捨てられそうになったんですって。ぐるぐる回るコーヒーカップに乗せられて、最初は嬉《うれ》しくて笑ってたんだけど、ふと気が付いたら右も左も分からなくなってて、周りで手を振るいろんな大人たちもすべて知らない顔ばかりで、降りたくても降りられないのよ。止めて下さいって叫んだらしいんだけど、あの耳にまとわりつく賑《にぎ》やかな音楽が消し去ってしまうの。結局彼はね、ちゃんと住所を覚えていたから、お巡りさんに送ってもらって夜遅く帰れたらしいんだけど」  私は話を止めたくなかった。そのため、事実に手を加えてほんの少し引き伸ばさねばならなかった。口は滑らかに言葉を吐きだし続けた。口を出て空気に触れた言葉は、それが嘘でも本当でも、目の前の老人の前に薄い現実となって舞い降りているように思えた。 「その子の話を聞きながら、私嘘じゃないかって思い始めたの。だって出来すぎた話じゃない。この子はどういう理由でか知らないけれど、初対面の女と愛し合うというゲームに興じていて、そのゲームをうまく続けるためにそんな嘘を用意したんじゃないかしらって。  ところがね、その子、ものすごくキスがうまかったの。本当に、びっくりするくらい。それこそキスだけでイッちゃいそうになるほどうまいの。私そのとき、その子の話全部ほんとだわって何だか思っちゃったのよ。だってあんなにキスのうまい子、いないもの。きっとたくさん練習したのよね。愛してもらうためにさ。  シャワー浴びて出てきたら、もうその子はいなかったの。いろんなこと言ったわりには簡単なんだなと思いながら私も帰ったのね。帰り道に買い物しようと財布を開けたら、何も入ってないのよ。取られてたの。キャッシュカードだけは残ってたからまあ不幸中の幸いなんだけど。  でもね、私眠るとき思ったの。キスうまかったからなって。もしあの話が全部嘘で、ああして泣いたのも演技だったとしたら、それこそお金取るほどうまかったからね。そう思ったら、いやな気持ちにならずにゆっくり眠れたのよ。ね? いろんな人がいるでしょう」  話はとうとう終ってしまった。私はこっそりと彼の顔を盗み見た。しかし彼の表情は何も変わらず、ただじっと、濁った目を私に向けているだけだった。感想も何もなかった。  しばらくして彼は私の頬に手を伸ばした。それから頭をゆっくりと撫《な》でる。固い、冷たい掌《てのひら》だった。  部屋の中はひどく冷え切っている。彼方《かなた》の空は群青がかり、透けた月を張り付けている。青く小さなプールは闇に埋もれ、灰色の建物のかわりに星に似た明りが点々と街を覆っていた。 「また、会いませんか。あなたは今日のように何か話をしてくれるだけでいい」彼は言った。 「また会えるなら、いいことを教えてあげよう」 「私もまた会いたいわ」私はすぐ答えた。  私と彼は並んでベッドに横たわった。秒針の音がいやに大きく響く。彼の言う「いいこと」というのは死をイメージして眠りに就くということだった。 「私はいつもこうして眠る。目を閉じ、もうこれが最後だと思う。もうおもしろおかしいことはないだろう、そのかわりもう永遠に苦しいこともないだろう、私の体は冷たい棺《ひつぎ》に打ち捨てられる——だれも思いだしてもくれない、だれも涙してくれない——私は一人でひっそりと死んでいくのだ——」  ぽつりぽつりと彼は話した。彼と同じように胸で手を組み、そうっと呼吸をし、ぽそぽそした彼の声に耳を澄ませた。 「そうするとね、とても楽に眠れる。すうっとどこかに溶けるようにね。実際、どこかに溶けていってしまうのかもしれない。朝の目覚めは格別だ。そのかわり、真剣に思い浮かべなくてはならない。自分が死んで行く図を」  彼は言葉を切り、ゆっくりと息を吐き、そして吸った。私は一生懸命自分は死ぬんだと考えた。今日会ったばかりの老人の隣で、こんなに冷え切った部屋で、こんなに冷たい毛布にくるまれて、死んでゆくのだ——。  私がその老人の言うとおり、死んでいくと想定しながら眠りに就いたのは、単に「よく眠る」ためだった。老人の息はやがて定期的な寝息に変わり、私は体中が痺《しび》れるような眠さの渦に巻き込まれて行くのを感じた。眠りの部厚く透明な膜が、秒針の響き渡る部屋に横たわった私たち二人をそうっと包んで行くのを感じた。  目覚めた時、隣に男はいなかった。連絡先を書いた紙切れだけが置いてあった。野田草介という名前を、私はそっと口ずさんでみた。  新しい部屋からは吹き零《こぼ》れそうな八重桜が見える。すべての荷物を家に置き去りにし、体一つで引っ越したので部屋はがらんとしていた。しばらくのあいだ闇に光を放つ八重桜を眺めていたが、それにも飽きて、私は部屋の中をぐるぐると回り必要なものを数え上げた。段々何が必要か、まるで分からなくなってくる。電話は草介からの連絡を待つために必要だった。しかしTVは要らないような気がする。冷蔵庫もベッドも部屋を彩る絵画も、何一つ要らないのではないかと思い始める。私は急に不安になり、時計を見あげる。十二時三十分だった。後十時間たてば、街はざわめき店は色付いて腕を広げるだろう。どこでもいいから店に駆け込みたくなる。そうすれば、何が必要かと考える前に、私の手に取られることを待ち望んでいる品物が私を呼ぶのだから。  玄関のチャイムがけたたましく鳴り出し、私は飛び上がった。じっと耳を澄まし、妹だとすぐ思い付いた。私は、飛んで行ってドアチェーンを外した。そこに立っていたのは、ハルミだった。 「サハラに聞いたのお、引っ越しおめでとう」  ハルミはしなだれかかるように倒れ込んだ。ひどく酔っている様子だった。ただしそれが酒によってでないことは匂いで分かった。ハルミは甲高く笑いながら部屋中を歩き回る。 「何にもなあい、おっかしい、何にもないのお」 「彼氏と喧嘩《けんか》でもしたの」  やかんもティカップもないこの部屋でどうやってもてなしていいか分からずに、そんなことを口に出してみた。違う違うとハルミは大きく手を振り、また笑った。 「引っ越し祝い持って来たのよお、ありがたく思ってえ」  ハルミは窓際に坐《すわ》り込み、藤色のハンドバッグから煙草ケースを出した。煙草に似た不格好な細い筒を私の掌に載せる。私はじっとそれを見つめた。 「あんたってちっとも遊ばないのよねえ。何のために働いてんだかわかんなくならなあい? 働くって言えばあんた最近あまり仕事してないんだってねえ。だれか出来たあ?」  だらだらと語尾を伸ばしてハルミはしゃべった。ありがとうと礼を言い、私はその細い筒に火をつけ、そっと吸ってみた。ハルミは嬉しそうに私を覗《のぞ》き込み、自分も新しい一本に火をつける。私は息の続くかぎり、それを吸い続けた。ハルミはゆっくりと吸い、火のついたほうを口にむけて深く吸い込んでいる。喉《のど》の奥がひりひりした。それからハルミの真似をして、ゆっくりと煙を吐いた。ハルミはけたたましく笑い続けた。  何もない部屋に、ぽつりと黄色い染みが見えた。何だろうと目を凝らす。染みはいくつか増えていた。もっとよくそれを見ようと筒を口につける。思い切り吸い込む。ハルミの笑い声が段々遠のき、黄色い染みは増え続け、そして壁一面に現われた。黄疸《おうだん》だと気付く。びっしりと黄疸の現われた壁から目を逸らし、天井を見上げる。天井も床も、硝子《ガラス》も窓の外さえも、すべてが正確な間隔をとった黄疸で埋め尽くされていた。それらは段々私を圧迫するように近付く。私は気味の悪い斑点《はんてん》から逃れようともがき、ハルミに助けを求めた。ハルミは完全に決まっていて、叫ぶように笑って私を見下ろしていた。 「あんた、決めすぎよお」帰り際、床に丸まった私を見下ろしてハルミは楽しそうに言った。 「あのさ、バッドな状態のときはだめなのよ、あんたなんか落ちこんでんじゃない、それ先に言わなきゃ。いつでも言ってよ、売ってあげるから。楽しまなきゃだめよ、働いてんだからあたしたち。じゃあねえ、また来るねえ」  笑い声とともにハルミが姿を消すと、部屋の中は急に静まり返った。電気を消すと遠くの街のネオンサインが、八重桜と同じ位の明るさで浮かび上がる。私はそれを目の裏に残し、瞼《まぶた》を閉じた。これが最後だ——野田草介が教えてくれたようによく眠ろうと思う。もう何もないだろう、楽しいことも悲しいことも苦しいことも胸が躍ることも——物音一つしない部屋で私はじっと眠りが手を引くのを待った。耳の奥で微《かす》かに雨の音がしていた。      4  明日こそ大学に行こう、行こうと思ううち、雨雲の間から太陽が久し振りに顔を出し、街は子供達であふれ始めた。前期の試験もレポートのこともすべて忘れ、私は事務所とマンションを往復し、言われたホテルに行き、時間が空くとデパートやブティックや雑貨屋や家具屋を見つけては飛び込んだ。何もない時間は野田草介のために話す話を考えていた。客のこと、恋人だった男のこと、大学のこと、子供の頃のこと。季節が変わり始めていることにも気付かずにいた。  何一つなかったマンションの一室は、その頃になるとすでにもので埋め尽くされつつあった。洗面所で歯を磨きながら振り返ると、見覚えのないワンピースや下着や帽子、意味不明の絵画やオブジェ、悪趣味なライトスタンドやドレッサー、形の違う椅子があちこちで入り乱れて眠っている。それらをじっと見つめていると、次第に私はいらいらしだした。ほかの品物に囲まれてディスプレイされているときは、あれほど必死に私に呼び掛け手に取ってもらうことを望んでいたはずのものたちが、望みどおりここへ運んできた途端《とたん》眠りに就いてしまう。どんなに色鮮やかなものでもまるで死んだようにひっそりと、色褪《いろあ》せた姿で息を潜めてしまうのだ。  これらすべてを家に運び込んでしまおうと決めた。業者には頼みたくなかった。自分の手で運びたかった。しかしそれには、車が必要だった。散らかったものを足でよけ、窓辺に寄り掛かってアドレス帳をめくった。大学のクラスメイトの名が次々と目に入る。どの字面にも覚えはあったが、どの名前もはっきりした顔を連れてこなかった。一生懸命思い出そうとしたが、どれも水の中でふやけたパンみたいにぼんやりと膨れ上がるばかりだった。それはまるですべて夢だったんじゃないかと疑いたくなるほど気味悪かった。今は夏休みなんかではなく、私が大学生であることも、地下鉄を乗り換えて大学に通っていたことも、大教室の重たい扉を開けたことも、すべてどこか別の世界で今も進行していて、私一人カーテンの閉め切られた奇妙な透き間に入り込んでしまったのではないか——それ以上考えるのを止め、結局ハルミに頼むことにした。  しかし約束の日、マンションを訪ねてきたのは見知らぬ男の子だった。 「生理だって」  ドアを開けるとその男の子は、ぼそりと言った。 「は?」 「ハルミ。腰上がんないからかわりに行ってくれって」  それでようやく、その男の子はハルミがよく話していた彼女の恋人であることが分かった。彼は思ったより小柄で、抱きかかえられそうな程|華奢《きやしや》な身体つきをしていた。私はごった返したままの部屋に彼を招き入れた。 「この部屋のもの全部、運び込みたいんだけど——なんか、ごめんね」 「いいよ別に」  ジーンズのポケットから手を出し、彼はいきなりその辺のものを掻《か》き集めて両手に抱える。  両手に持てるだけ持つと、彼は足でドアを開けてエレベーターに乗った。彼の抱える荷物の中から、黒いシュミーズやオレンジのパンティストッキングが覗いているのがどこかおかしかった。彼がそれらに何も感情を持たぬ様子なのは、ハルミと暮しているからだろうか、後ろ姿を見送ってそんなことを考え、私も急いで散らばったものを掻き集めた。  下の道路に止めたハルミの車と五階の部屋を八回も往復し、ようやくハルミの恋人が運転する車は出発した。まっすぐ伸びる空いた道路は白く浮かび上がり、木々はおろしたてのシャツのように真新しい緑を自慢げに揺らしていた。開け放った窓から夏の匂いが入り込む。 「学生って本当」運転しながら彼が聞いた。 「あんまり行ってないけど、籍はある。あなたは?」 「紫のライトに照らされて、太ったばばあと腰つけて踊ったりしてる」面白くなさそうに彼は答えた。  彼は白い腕を軽くハンドルに載せ、始終面白くなさそうにしていた。しかし何か聞けば答えてくれ、特別怒っているふうではなかったので、そういう人なんだろうと思った。つまり、実際すべて面白くないのだと。  門の前に車をつけ、私は先に降りて鍵《かぎ》を開けた。ドアを開けると、すべて私が出て行ったときのまま、時を止めたように何も変わっていなかった。彼と私は黙ったまま、後部座席とトランクに押し込んだ荷物を運び入れた。 「神様が多いな」不意に彼が口を開く。私は荷物を抱えて振り返った。 「何?」 「これ、マリアじゃん、観音さん、キリストにブッダ、これもどっかの神様だろ」  服や布に紛れて転がっている飾り物を一つ一つ手に取り、私に見せる。 「よく知ってるのね。私ただのオブジェだと思ってた」  彼は何も答えずごっそり神様を持ち、家の中に入って行った。  居間に入ると、黒いごみ袋は大量に床に転がり、相変わらずものが散乱して部屋を圧迫し、ただ一か所取り付けた青いカーテンがだらりと垂れていた。その上に私の荷物をすべて放り投げても、大して何も変わらなかった。クーラーをつけると、涼しい風と一緒に埃《ほこり》っぽい匂いが部屋中を掻き回した。 「今日はどうもありがとう」缶ジュースを手渡して言った。  ベルリンの動物園の写真集とシルクのガウンと狐のショートコートと豹《ひよう》柄のショルダーバッグを下敷きに坐る彼は、うんと小さく頷《うなず》いた。私たちはしばらく黙ったまま缶ジュースを飲んだ。カーテンは部屋に微かな青を落とし、ものに囲まれた私と彼を夏から隔離しているようだった。 「偶像なんか揃えなくても、救われる方法教えてやろうか」  両手で空き缶を弄《もてあそ》びながら、そっと彼が呟《つぶや》いた。 「救われるってどういうこと」  彼はゆっくりと視線を移し、私を見据える。 「あんたハルミにハッパもらったろ、最高だと思わなかった?」 「まあね」私を圧迫する黄疸だらけの壁を思い出しながら、いい加減に答えた。 「あれ、ずっと続かねえかなと思ってさ、でもそれだけのハッパ揃える金もない、あれがなくてもおれ、自分をあれくらいまで救ってやりたいと思ってさ。いわば、永遠の救いってやつ。そういうの、暗中模索してるんだよね」  私と手の先の空き缶を交互に見つめ、彼はぼそぼそとしゃべった。 「だから?」 「だからさ、神とかクスリとか、そんなもんに一切頼らず救われる方法。それ、何となく分かってきてさ、教えてやろうかって」  缶から滴る水滴が指先に触れるのを感じた。私が揃えた人形がすべて神様だったのはただの偶然で、それらに救いを求めていたわけではなかったが、彼の言葉には興味を覚えた。 「教えてみてよ」私は言った。  彼は少し沈黙をおき、クーラーの回る音に混じって、ひっそりと言葉をつなぎ始めた。 「神は自分だって、思うんだ」彼は言った。「神は自分なわけだからさ、何でも自分にいいように存在してるんだ。自分の運命はすべて、自分を幸福にするためだけに作られてるはずなんだ。幸福ってのはつまり、超ハイな状態だよ。永遠に持続するぶっ飛んだ状態のことだよ。それはおれの最終目標の場であって、おれを取り巻くすべてのものはおれをそこに行かせるためだけにあるのさ」  ハルミの恋人がなぜ、いかれちゃった人の家だと妹が言った部屋に平然と坐《すわ》り、今日初めて会った私に幸福について話しているのか不思議に思いながらも私は頷いていた。 「そこに行くためには、出来るだけ自分を悲惨な状況に持っていったほうがいい。おれはハルミを愛してない、それどころか嫌悪してる。でも、べたべたした愛情を押し付けて薄汚い股《また》おっぴろげるその女と一緒に暮してる。仕事といえば紫のライトと染みの浮き出たばばあだ。垂れた胸を押しつけられて踊り、コールが掛かりゃお付き合いだ。へど吐いて帰ってきたってあいつはおれを一人にしてくれない。だらだらとまとわりついて離れない。最低だよ。普通のやつなら気が狂ってる。でもおれは、わざとそうしてるんだ。わざと好きでもない女と一緒に暮し、わざと好きでもない仕事をしてる。眠るときは一人だ。眠りに落ちるときは完全に一人になれる。そのとき、最低の暮しを胸の中で何度も思い、それから頭を白くする。すっからかんにする。自分は神だと繰り返す。段々分かってくる。段段おれの行きたい場所が、永遠の至福が見えてくる。もうすぐなんだ、もうすぐおれは完全に救われる」  彼は言葉を切った。クーラーの回転する乾いた音がいやに大きく響いた。カーテンの合わせ目から、とろりとした橙《だいだい》の太陽が覗《のぞ》いていた。 「分かる?」彼は私を見た。笑っていた。 「あんまりよく分からない。あなた完全に救われたらどうなるの」  彼は笑顔のまま私を見つめ、 「何も関係なくなるだろうと思うよ。感情が肯定しかなくなると思うから。ハッパでイッてるときってそうじゃん。ゲロの海で寝てようと、笑っちまうだろ」  そう答えた。  久し振りに家の風呂《ふろ》に入った。キッチンに転がっていたビデオを二、三本持込み、温《ぬる》めの湯に浸かって再生する。何か映画が始まるだろうという予測に反し、大画面に映しだされたのは私と妹だった。私と妹は部屋の中に作られた仕切りに入り込み、次々に着替えてビデオの前に登場し、ふざけあって派手な笑い声をばらまいていた。父が撮ったホームビデオだった。次にビデオは私の手に渡り、光沢のある下品な緑のスーツを着た父と妹が映しだされる。彼等はキッチンを走り回り、シャンパンの瓶を振り回し、大声を上げてコルクを抜いた。銀色の泡が飛び出し、妹にも父にも画面にも水滴が飛び散る。歓声のあまりの騒がしさに私はスイッチを切る。  やんわりとしたお湯の感触の中で、ハルミの恋人が言った言葉を思い出し、私は神だと呟いてみた。何度呟いてみても、特別自分の気持ちに変化は訪れなかった。  頭の中を白くするんだ——帰り際彼は教えてくれた。頭の中をからっぽにして、皮膚という枠組を取り払うことに集中するんだ。いつか腕も足も、外界と自分を隔離する皮膚という皮膚すべてが空気に溶けるだろう、そしてどこまでも広がり続ける自分を知り、神である自分に納得がいくだろう。私はそれも試みたが、頭の中に浮かぶ様々なものを追い出すことはかなり難しく、結局|諦《あきら》めて風呂から出た。  窓の外はぼんやり曇っていて、朝だか夜だか分からない色合だ。海の近いらしいこの街には来たこともなかったが、仕事が終ったら海にでも出てみようか。運んでもらったコーヒーを飲みながら考えていると、ドアが開いて野田草介が入ってきた。 「すまないね、遠いところ」椅子を引いて言う。 「ううん。こんなことでもないと、私、外出ないから」  野田草介は微《かす》かに笑い、胸ポケットから煙草を出しテーブルの上に置く。窓から外を見下ろすと、半袖《はんそで》シャツの男たちが大股で列を作って歩いてゆく。それで今が朝のかなり早い時間だということが分かる。ほとんどが傘を持って歩いていた。 「何だか不思議。こんな遠くの町にもたくさんの人がいて、自分の生活を守ってる。今日はじめじめしていていやだなあとか、雨が降りそうだなあとか」  彼が返事をしないので私の言葉は独り言になる。 「でも全然関係ないのね、私がいて、あなたがそこにいて、みんな窓の外を通りすぎていく。天気やラッシュのことなんかを気にしながら」 「それで気がついたらこんな齢《とし》だ」  野田草介がぽつりと言った。それで、が、どこにつながるか分からなかったので、私は何も言わなかった。冷めかかったコーヒーを口に含み、彼に向かって仕事を始めた。 「病院と教会って似てると思わない。何かを必要としている人だけが行く場所。選ばれた人だけが行ける場所。この前、寝ようとして寝られなくて、そんなことを思いついたの。静かで、どこか厳しくて、あまり楽しいものではないわね、両方とも」  話しながら、私はこの人と会ってどのくらいになるのだろうとふと思う。もう随分前に会ったような気がするのは、暇があると彼に話す話を考えていたせいだろうか。 「私の母親は私が高校二年のとき入院したのね、随分長い入院生活だった。入院の日、まるで旅行に行くみたいに、パジャマやタオルや時計やガウンをボストンバッグに詰めてね、父が車を運転して、母が助手席に乗って、私と妹は後ろの席。本当、ピクニックに行くみたいだった。いつもジャンケンでそれぞれの好きなテープをかけるのに、その日は母の好きなものばかりかけてたの。  だけど着いたのは、緑生い茂る草原じゃなくて、広大な駐車場を持つ大きな白い建物だったの。何だか急にみんな黙って、車を降りて建物に向かったの」  野田草介は少し目線を上げ、「あ」と発音するように細く口を開いている。糊《のり》のきいたYシャツが呼吸に合わせてゆっくり動く。 「駐車場から病院に向かって緩い坂になっていて、病院の入り口から見下ろすと、広い駐車場に止まった車が奇妙な模様を描いていたのを覚えてる。それで、自動ドアを潜り抜けた途端《とたん》、私たち病院の匂いを嗅《か》いだのよ。あのどこか人を拒絶するような、偽物くさい清潔な匂い、エスカレーターがあって子供が走り回っていて、デパートに似ているんだけどあの匂いがデパートみたいに胸が躍るところじゃないよってはっきり教えてるの。先頭を歩いていた父がぐるりと振り向いて、まだ時間がある、飯を食おうと言い出したの。それで私たち、来た道を引き返して病院の前のレストランに入ったの。病院の前にはかなり広い庭があって、その向こうに、レストランと花屋と本屋が一軒ずつ並んでた。食べ物と花と本よ。何て不自然な組み合わせだと思ったわ。  レストランで父が母にさ、病院の食事なんてきっとまずいだろうから、今のうち思う存分食べておけって言ったんだけど、母はランチの野菜を少し食べただけで、私も妹もなんとなく食べられなくて、父が一人でたくさん食べてたわ。  たかが入院なのに、何か変な雰囲気だと思ってたの。それは何もあの病院の匂いを嗅いだからじゃなくて」  私はコーヒーを一口すすった。冷めてなんの香りもしなかった。 「いよいよ病院に入ると、まっすぐ続く長い廊下があって、迷路みたいにたくさん曲がり角があってたくさん階段があった。外来窓口は賑《にぎ》やかだったのに、病棟に足を踏み入れた途端人気がなくなって、しんとしていたわ。夏だったように思うけど、ものすごく寒かった。すべてが偽物くさいの。廊下の窓は大きくて、たっぷりと日が差し込んでいるんだけど、ちっとも暖かくなくて冷え冷えとしているし、髪の毛一本落ちていないみたいに磨き込まれた床も、現実じゃないくらいに清潔なの。そんな嘘くさい場所を歩きながら私、地下の霊安室を想像してたの。巨大な冷凍庫のもうもうとした煙の中に、薄紫の足が何本も並んでいる様子。すべてが現実とかけ離れてる中で、その霊安室だけ妙にリアルに思えたの。だからこんなに寒いんだって思ったわ。  母は迷わず歩き、エレベーターに乗った。私たち三人はそれぞれ荷物を持って、黙って後を歩いたの。着いたのは四人部屋で、ドアを開けると一気に賑やかになった。『おばさん』て職業みたいな中年女と、おさげを編んだ女の人が週刊誌を見て大声でしゃべってて、若い女の子は小型TVに見入ってたな。皺《しわ》一つない隅のベッドに荷物を置いて、私たち四人は周りの人に挨拶《あいさつ》したのよ、新入生みたいにね」  野田草介はそっと手を伸ばし、話し続ける私の手を握った。ひどく冷たく、固い掌《てのひら》だった。野田草介はそんなふうによく、話し続ける私の手を握り、私の頬に掌を当てた。私は彼の掌の感触を味わいながら話した。 「それから三人で帰って行ったの。病院が綺麗《きれい》でよかったねとか、かわいい看護婦がいたよとか、同室に意地悪な人はいなさそうだねとか、テープをかける間もないくらいに三人でしゃべり続けたの。家に帰ると母の匂いがほんのりとして、いないってことがいやにはっきり感じられた。柱時計もソファもTVも冷蔵庫もガスレンジも、全くいつも通りなのに、どこか変なのよ。全部が全部、今日からしばらく母がいないってこと、ちゃんと知ってるみたいなのよね。すごく居心地が悪かった。  お風呂上がりに父がみんなを集めて、神妙な顔でキッチンのテーブルに坐《すわ》り、母はこのまま帰ってこないだろうと言ったの。私それを聞いたときから、母の匂いを家から追い出そうとしたの。つまりいないってことをいちいち確認しなくてもいいようにさ。母は厳しい人で、家にはしてはいけないことが山のようにあって、私、部屋に帰ってその一つ一つを思い出して、もう全部してもいいんだわって思ったのよ。ハンカチは毎日替えなくちゃいけない、長電話もいけない、男の子と必要以上に仲良くしちゃいけない、ゼリービーンズはおなかに虫が湧くから食べちゃいけない、帰ったら手を洗わなくちゃいけない、お店で出されたパセリは食べちゃいけない、お祭に行っても露店で買い食いしちゃいけない、一日の終りには神様にお祈りしなくちゃいけない、嘘をついちゃ絶対にいけない、その一つ一つ、全部してもいいんだって思ったの。  でもね、できないの。してもいいんだと思ってもできないの。だって母は完全にいないわけじゃない、やっぱり留守なだけだもの。あのなにもかもが白い病室で料理の本を眺めたりクロスワード解いたりウォークマンでテープ聞いたりしてるんだもの。  しばらくして私、毎日変な夢を見るようになったの。あんまり変わった夢ばかり見るから、枕元にノート置いて、起きてすぐ書き付けたの。あるときはね、子供の私が出て来て、浴衣《ゆかた》着て縁日に行くのよ。一人でね。袂《たもと》がぎっしり重くて、重い重いって、縁日の明りに向かって歩いて行くの。縁日の明りが近付いてくる頃、私、何が入ってるんだろうと袂を覗《のぞ》き込むの。両方の袂に数え切れないくらいの百円玉が入ってるのよ。縁日ではさ、夜店が一つしか出ていないのよ。綿菓子屋でも射的でもなくて、ひよこの店なの。色つきひよこの店。袂にぎっしり詰まってる百円玉を全部出して、私は色つきひよこを買い占めるの。お家に帰るでしょ、色つきひよこが歩き回る中で眠るの。生温かいパステルカラーがわさわさ動き回るのを満足げに眺めながらね。そして起きると、全部死んでるの。床はびっしり、いろんな色で埋まってるのよ」  雨が降りだした。細かい水滴が磁石に吸い付く砂鉄のように窓|硝子《ガラス》を覆う。窓の下の道路も買い物|籠《かご》を下げた女たちも、霞《かす》んでぼやけた色になる。 「夢日記は一か月くらい書いてたの。学校で作文の提出があって、夢日記を提出したの。先生は真剣な顔で私を呼び出して、『これは本当に君が見る夢の話か』って聞くの。そうですと答えたら、『夢を書いてるといつか気が狂うぞ』って教えてくれた。私、狂えばいいと思ったの。だってそれはすごく簡単なことでしょ。何でもOKになるんだもの。長電話しても嘘ついても、ゼリービーンズを食べてもお味噌《みそ》汁の中に髪の毛落としても、してはいけないことをすべてやっても、気が狂ったって言えば済むんだもの。でも私はどこまでも正気で、してはいけないことは出来なくて変な夢ばかり見続けてた。白い部屋の母に悪い悪いと思いながら」  話の続きはまだあったが、私はそこで口を閉ざした。疲れていた。野田草介と死んだようにぐっすり眠りたいと思った。  私の話が終ったことを知ると草介は立ち上がり、決まり切った儀式を繰り返すようにベッドに横たわった。私たちは並んで死を空想した。この閉ざされた部屋で、私が彼にした様々な話とともにすべては消え入るように終ってゆく——。  雨も海も、時間もどうでもよかった。もう起き上がることはないのだから。そして今日の話の続きを、もしこの世でないどこかの場所で野田草介に会うことがあったら話してあげようと、ぼんやりし始めた頭で思った。      5  電話のベルで起こされて、もう朝かと窓の外を見るとまだ暗い。受話器を取って時計を見た。十一時にもなっていなかった。 「突然夜分にお電話して申し訳ありません。ずっとかけてたんですが、いつもいらっしゃらないものですから」  受話器の向こうで聞いたことのない声がする。朦朧《もうろう》とした頭の中で夢だろうと思う。 「野田草介の家内です。主人がお世話になっております」  私はしばらく黙り、見知らぬ声が言った言葉を一つ一つ頭の中でつなげた。 「ああ、こちらこそお世話になっております」  言ってから、寝ていて良かったと思った。頭の中に残った眠気のせいで、私はびっくりしたり動揺したりしなくてすんだ。 「初めてお電話を致しまして、こんなことを申し上げるのは恐縮なんですが、あなたにお会いしたいんです」  落ち着いた声だった。はい、と私は言った。 「会って下さいますか」 「はい」 「いつが宜《よろ》しいでしょうか」 「私は暇ですからいつでもいいですが。学校も休みですし」  じゃあ、と彼女は場所と時間を告げた。私は手近にあった紙切れに言われた日時を書き込んだ。これが夢だったら、野田草介に話してあげよう——そう思いながら瞼《まぶた》を閉じた。  朝食の用意をしたとき、床に投げ出された紙切れを見て、夢じゃなかったんだと思い出した。風呂《ふろ》場の窓を少しだけ開けて、高い空を見ながら風呂に入った。溶かしたように薄い雲を目で追いかけ、私は少し先のことを想像してみた。野田草介の妻は何を着てくるだろう。彼女に私はどう映るだろう。彼女は私に何を言うのだろう。それからハルミの恋人を思い出し、すべて自分を取り巻くものが自分の幸福のために用意されているとしたら、野田草介や、その他私を買った男たちや、今度会う野田草介の妻が私にもたらすであろう幸福とは何だろうと考えてみた。何も分からなかった。のったりと高い空を這《は》い回る薄い雲を、私はただ目で追い続けた。  エレベーターで最上階まで上がり、屋上に出た。子供たちが歓声をあげて駆け回り、父親たちはベンチで煙草を吸っている。昆虫大安売りと垂れ幕が掛かり、たくさんの虫カゴがきらきら光って並んでいる。強烈な日差しがそれほど広くない屋上を隈なく照らしている。時折吹く生温かい風に白いブラウスが膨らむ。私は隅のベンチに腰掛けて、腕時計を見た。約束の時間まであと五分あった。野田草介の妻らしい女を捜したが、すぐ隣に立つビル群が太陽を反射し、視界を白く染めるのでなかなかうまくいかない。目を細めてきょろきょろしていると名前を呼ばれた。振り向くと和服姿の小さな女性が、私を見下ろしていた。 「野田、さん、ですか」  彼女は微笑み頷《うなず》いて、私の横に坐る。刺繍《ししゆう》の入った白い日傘を畳んで、膝《ひざ》の上に置いた。骨張った細い指には、銀のリングが鈍く光っていた。野田草介と同じ濁った目をし、白髪が頭を覆い、掌に血管が浮いていた。 「いいお天気ですこと。このところ全然雨が降りませんのね」  彼女も目を細め、屋上をぐるりと見渡している。私は視界の隅で彼女を観察した。 「今日わざわざ来て頂いたのはね、あなたにお礼を言いたかったんです。そしてこれからも宜しくと言いたかったの。もちろんあなたという人をこの目で見たいという気持ちもありましたけど」  私を見ずにそう言って、白い手を口に当てて笑った。綺麗《きれい》な人だと、私は思った。 「学校はお休みっておっしゃっていたけれど、学生さん?」 「ええ」 「何をお勉強なさっているの」 「別に何も。専攻は美術史ですけど」  そう。彼女は私を覗き込んで頷く。この人は違う。匂いが違う。早く話を終えてこの場を去りたくなる。 「こんなこと、何度もあったんです。私もね、いろんな人に会いました。だけどあなたのように若い人は初めてなのよ、うまく話せるか心配だわ」  何が楽しいのか彼女はまた笑う。早く去りたいという私の思惑に反して、彼女は話し続ける。 「あの人はどこか遠いところにいるみたいだと、私いつも思ってきましたの。六畳一間に膝を突き合わせて坐っていても、私にはあの人が近くにいるように感じられないんです。初めてお会いする方に話すには、あまりにも恥ずかしい話なんですけれどね。でもいつからか、あなたのこと勝手に想像して、しょっ中考えていましたから、何だか初めてお会いしたという気がしないのも確かだわ。あの人、そんなふうに捉《とら》え処《どころ》がなくて、まるで地面から数センチ浮き上がって歩いているみたいで、そのくせ私の知らないところにちゃっかり女を作って。若い頃はね、私も死に物狂いでその女を捜しだして会いに行くんです。懐に包丁忍ばせてね。別れてくれ、できなきゃ死にますなんて」  彼女はまた笑う。遠足の思い出を話すように楽しそうだった。その笑顔を見て、私はつい言葉を挟んでしまった。 「それは幸せでしたね」 「幸せ? 面白いことおっしゃるのね。どうして?」  彼女は優しい目で私を覗き込む。 「だって、とても充実してるもの。それだけ好きで、好きだと実感しながら生きていけるなんて、幸せなことだと思います」  そう言いながら、そうして生きていくことは野田草介が絶対にできないことだと考える。 「そうね。そういうふうに考えることも出来るわね」  彼女はハンカチを出して額を拭《ふ》いた。 「でもね、段々分かってきたんです。夫婦というものが、愛するということがどんなことか。あの人はあなたのこと、一言だって口に出しません。でもね、私はちゃんと分かるんです。あの人が何も言わなくても私はあなたという存在を探り当て、こうしてちゃんと会いにだって来れる。そしてあなたという人がどんな人なのかも、何も聞かなくても私には分かる。ええ考えていたとおりの人だわ、あなたは。エレベーターで上がって来てあそこの入り口に立った時、ここに坐《すわ》っているあなたを見て自分を褒めたい気分でしたの。あまりにも私の推理が当たっているから。あの人が何も言わなくても、そういうすべてを私が分かってしまうこと、これは本当に誇らしいことだと思うんです」  額に吹き出る汗がたまらなく気持ち悪い。風がブラウスを揺らす度、汗で濡《ぬ》れた腋《わき》の下がひんやりとする。虫カゴを下げた子供が目の前を走り、後ろから母親が捕まえてガーゼで顔をこすっている。子供は気が狂ったように笑い続ける。 「あの人が私によってでなく、あなたという若い娘さんによって活気づいている。ある意味で健康で、そして幸せでいる。それはちっとも悲しいことではないって、ようやく分かってきましたの。そんなことより、私がこうしてあの人の裏を、放っておいても知ってしまうことのほうが大事だわ。それこそが私の望んでいた夫婦なんじゃないかしら。そしてあの人が誰によってでも健康であり、幸せでいられることを、心から感謝していますの」  彼女は私を見ずに一人でしゃべる。私は彼女の襟元の、刺繍の入った半襟を見つめていた。白く浮き上がった鎖骨が小さく上下運動を繰り返す。 「こうして会いに来たからって、あの人ともう会うななんて言うつもりは毛頭ないんです。私はすべてを認めていますから。——本当に、どんな女だっていいんです、どんな女だって同じこと。あなたも含めて、私が会って来た何人もの女たち、みんな私のあの人を活気づけて下さって来たのよ。つまりね、まるで知らない大勢の女が、間接的に私を幸福にしてくれているの。入れかわり立ちかわり、私の靴を磨いてくれるようなものですもの」  思わず覗きこんでしまう程高い声で彼女は笑い出した。 「だから、だからね、あの人をどうぞ宜しく。あなたにとってはただの金持ちの老いぼれかもしれませんけれど」  彼女はくっくっと喉《のど》を鳴らし、ハンドバッグから小さな包みを出した。 「暑いところ本当に申し訳なかったわ。これは私の気持ちよ。受け取って頂戴ね」  私は彼女の白い手から包みを受け取った。彼女は嬉《うれ》しそうに微笑み、下に降りて冷たいものでも飲まないかと言った。 「いいえ、結構です。これから行くところがありますから」  私は答える。 「まあ、お忙しいのに悪かったわ」  彼女は日傘をさし、立ち上がる。ありがとうと何度も頭を下げ、坐ったままの私を残して歩きだした。子供の笑い声に混じって、彼女の小さな後ろ姿が遠ざかって行くのを私は見送った。  大きく溜息《ためいき》をつく私を、子供が不思議そうに見上げる。今まで隣にあった上品な顔立ちを思い浮かべる。放っておいても彼のすべてを知ってしまうあなたには、だけど一つだけ分からないことがある。私と野田草介がどんな時間を過ごしているか。あなたは私たちの時間に永遠に入り込めない。そして永遠に野田草介を遠くに感じ続けるのだろう。それは確かに悲しいことじゃない。あなたは幸福がどんなものかを自分で決めることができるから。浮かんだ白い顔に向かって、心の中で呟《つぶや》いた。  小さく折り畳まれた白い包みを日に透かすと、福沢諭吉がぼんやり重なって見えた。私はそれをポケットにしまいこみ、昆虫大安売りを横切ってエレベーターに乗った。三階で降り、あちらこちらにディスプレイされた服を見て歩く。不思議と、飾られた品物のどれも私の目を引かなかった。買うべきものがまるで分からなくなる。私は焦り始めた。いつもならとっくに何着もの服で埋もれているはずの両腕は、白い包みを握り締めたままだらりと垂れている。  えいっとかけ声を掛けて視線を移し、硝子《ガラス》の中に飾られた白いワンピースに焦点を合わせ、店員にそれを取ってもらい、試着室で着替えそのまま逃げるようにデパートを出た。  カードに三枚のレコード名を書き、いつもの席に着く。糊《のり》のきいた白い襟をいじりながら、針が落ちるのを待った。オーディオルームは相変わらず人気がない。隅の席に薄いカーディガンをはおった女の人が坐っているだけだった。彼女はヘッドホンを耳に当てカバーを掛けた文庫本に目を落としている。太陽は位置を変え、私の机から少し離れたところに変形四角を描いていた。  やがてヘッドホンの奥から、微《かす》かな音が流れ始める。私は手を組んで机の上に置く。彼が歌い始める前のこの雨に似た音は、微かなくせにいろんなことを伝える。彼が確かにこの世にいたこと。何かを経験し何かを感じ、こうして歌っていること。彼がもう随分前に、私の知らないところで麻薬に溺《おぼ》れ、一人で死んでいったこと。時はそれらすべてを呑《の》み込み、こうしてレコードに傷をつけている。  やがて流れ出るいつもの歌声に、私はやっと安心する。見慣れない白い服も、私の身体にしっくりとなじむ。  いつもの図書館員たちはまたおしゃべりに興じている。手を振ったり腰を曲げて笑う彼女たちを、私はぼんやり見つめていた。彼の歌声がその声を私の耳に入り込ませるのを防いでいるが、もしかして、ヘッドホンを取っても彼女たちの声は私には聞こえないのではないだろうかとふと思う。怒りと悲しみ、執着と諦《あきら》め、強さと弱さの共存した彼の歌声が、私をどこかに連れて行ってしまう気がする。彼女たちの声が届かないどこか——。  神にも薬にも頼らない救い。ハルミの恋人が言った言葉を思う。頭の中を白くする。自分は神だと繰り返す。  目を閉じて、頭の中を白くしようとつとめた。それは非常にイメージしにくかったので、グラウンドを想像してみた。どこまでも広く、照りつける太陽の下で色を失いただ白く輝くグラウンド。それならたやすく思い描けた。白い鎖骨も胸元の刺繍《ししゆう》も、野田草介の曲がった指も固い掌《てのひら》も、私の運び込んだ荷物でまた膨れ上がった居間も、忘れようとつとめた。グラウンドは頭の中でとめどなくあふれ続ける。果てのない空の空間に、泣くような彼の声がぽっかりと漂っていた。      6 「この前の続きを話して下さい」  部屋に入って向かい合った途端《とたん》、野田草介は私を見て言った。 「うん」  返事をし、カーテンから外を覗《のぞ》く。すぐ下に駐車場が広がっていた。照り返る灰色が、白や赤やグリーンの車で埋まっている。 「あのね。夢日記をつけていたところを話したのよね。一か月間続いた夢日記のこと。どうして夢日記が一か月で終ったかって言うとね。夢を見なくなったの。それどころじゃなくなったの、家全体が。  彼女の入院は思ったより長引いた。もちろんそれ、最初は父にとっても私たちにとっても喜ばしいことだったのね。でもね、長すぎたの。私が高校三年に進級して、夏休みが始まってもまだ入院してたんだもの。私が追い出そうとした母の匂いはそのまま家に何だか亡霊みたいに残ってた」  野田草介の妻のことを思い出す。絽《ろ》の着物をきちんと来た上品な顔立ちは、骨張った指の銀のリングは、目の前でじっと耳を澄ます野田草介にどうしても重ならず、彼女の影は段々遠ざかる。彼女に会ったこと自体、野田草介に話すために私が想像したようにさえ思えてくる。 「最初は四人部屋だったでしょ、次に二人部屋に移されてそれから個室。高三の夏休みに入る頃は、父がもう本当に最後だから、特別な部屋にいれたの。小さなキッチンがあって、簡単なソファがあって、少しばかり綺麗《きれい》な部屋なのよ。でもね母は生き続けたの。私たち何度も、病院からの電話で夜中だろうと早朝だろうと駆けつけたのよ。避難訓練みたいに必死で、車に乗り込んで、ソレッて病院に向かうの。でもその度に点滴の数が増えてたり部屋に大きな機械が入ったりしてるだけで、母は生きてるの。でもね、起き上がれなくなって、口がきけなくなって、意識もはっきりしなくなって、手すら上げられなくなってるの。心臓は止まっていないの。止まらないようにするんだもの。心臓だけは生き続けてるのよ。生きさせられてるの。  ところが父は普通の会社員で、椅子に坐って週刊誌めくって月に何百万と転がり込んでくるような人じゃないし、私も妹も私立の高校へ通ってて、しかも私は私立の大学に進みたかった。母の心臓を止めないためだけに、私と妹の月謝プラス父の月収、みたいな馬鹿げた金額が必要だったの。三人で、気が狂ったみたいに働いたわ。父は毎日残業を繰り返し、妹はファーストフードで、私はファミリーレストランで。  それはいつの間にか、病院で動かない母を一日でも長くそのままにしておくため、というより、私たち三人が同時に生きるためみたいになってた。深夜になって、職員入り口から三人で病院を出るでしょう。駐車場への真っ黒い坂を下りながら、どろどろに疲れてて、あれ何の匂いかしら、病院の匂いか死の匂いか、小さなキッチンにもソファにも染みついて、病室中に充満してる甘酸っぱい腐った果物みたいな匂い、あれがまとわりついて、ふっと思うのよ。『何やってんだろう』って。学校に行って予備校サボッてファミリーレストランへ行って病院へ来て、奇妙な匂いに取り囲まれてまるで動かない母を見つめて機械の音を聞いて。すべて消え失せてくれないかって思うの。……それ、私だけじゃないって気付くの。横を歩く父も妹も、みんな同じこと考えてるって。そしてそれを放っておいたら父はハンドルを切り損ねるだろうから、私は気持ちを持ち上げる。明日のお昼のパンのことや、ファミリーレストランの大きな窓硝子のことなんかを考えてるの。それでなんでもいいから口に出す。『今日こんなお客が来たの、頭に来たよ』その一言で他の二人も、落ちかけた穴蔵から目を上げるのよ」  サイドテーブルに置かれたコーヒーはもう冷めていた。私はその黒い液体を喉に流し込みたかったが、それを抑えて話し続けた。 「馬鹿な看護婦がいてね、そうやって綱の上を歩いてる哀れな父子三人を呼び止めて言うのよ。『お母様がどんなご病気か知ってらっしゃるんでしょう。だったらもっと来てあげて下さい』って。新米看護婦が目を血走らせて、初めて泥棒捕まえたポリ公みたいに、同情や正義感を全身にみなぎらせて、私たちを睨《にら》みつけるのよ。病院へ来ないで父が若い女といちゃついてるって言うの? 私がB・Fはべらせてディスコのお立ち台でノッてると思う訳? でもその時は誰も口を開く元気さえなくて、三人で顔を見合わせて苦笑したの。まるで『死んでいく人間なんてどうでもいいんですよ』って言うみたいに。  ミニスカートの制服来てメニュウ持って笑顔振りまいて習った通りの台詞《せりふ》を言って、二番が二人連れで十一番が五人子供含むなんてやって一時間八百円。何にも意味がないのよ。一時間で八百円稼いでも母は瞼《まぶた》さえ開かないし、時折開いたって私の顔なんて分かりゃしないんだから。  でもね動かない母よりもっと怖かったのはお金よ」  私は野田草介を見つめ、声を潜めた。野田草介は目を逸らさず、私を見つめ返す。何を思っているかをまるですっぽり隠してしまう底無し沼のような灰色の目だ。底無し沼の底を探り当てるように私は彼の目を覗き込んで話す。 「それまでわりと普通の家庭で、私も妹も物質的には案外恵まれてきたほうなの。それがいきなり何もなくなっちゃうのよ。上履きに穴が開きました、お金頂戴って言えないのよ。私、学校からファミリーレストランに向かう途中、少しでも時間があると街をうろつき回ったの。特別必要なものなんか何一つなかったけど、気が狂うほどお金を使いたかった。何の価値もない偽物のアクセサリーや、骨董品やずらりと並んだ食器や、読めもしない哲学の本、綺麗な色の帯留からラッピングペーパーからいい香りのポプリ、何から何まで眺めて一つ一つを手に取って値段を確かめるの。ありとあらゆる値札をあんまり見すぎて、小さな紙に書き込まれている金額がもうただの数字にしか見えないの。八万五千九百円のワンピースなら八、五、九。私はその数字を見て心の中で、一生懸命お金の価値を思い出そうとするのよ。このワンピースは私が百時間働かないと手に入らないんだなってね。すべてそう。世界の名著NO・51キルケゴールなら二時間。チェックのハンカチなら〇・五時間。ロレックスのダイバーズウォッチなら五百時間。藍《あい》色のキャンドルスタンドは十時間。硝子《ガラス》細工のブローチなら六時間。そうして歩いていくうち段々、自分の中で物欲が形づいていくのが分かる。何に対しての物欲か、それはまるで分からなかった。はっきりと、これがどうしてもほしいっていう品物はないの。ただ、何かがどうしてもほしいって気持ちがむくむくと現われてきて、次第に渦巻きながら心の中で大きな石になるの。  その石が始末できなくて、献金袋を盗んでみたのよ。毎日の礼拝で献金袋集めるの。集める係が出席番号順に回ってきて、私自分の番号が来る日をどきどきしながら待ったわ。讃美歌《さんびか》歌いながら献金袋集めて、その後すぐ感謝の祈りでしょ。その時みんな目をつぶるから、こっそり袋をすり替えたの。その日、いくらでもないんだけどさ、そのお金を持ってデパートを一階から順に見て回ったの。でも何一つ買いたくなかった。ただ焦りにも似た物欲がころころ胸の中で転がってるだけ。  もちろんそれ、すぐばれたの。職員室に呼ばれて、どうしてそんなことをしたのって聞かれたの。本当だって、そのときになって自分がどうしたいのかまるで分からないことに気が付いたの。私は先生のブルーのアンゴラセーターを眺めながら何を言おうか考えた。新しい聖書を買いたかった、B・Fとデートがしたかった、先生の期待通りの言い訳は幾つでも思い付いたけど、私は何も言えなかったの。だってほら、嘘ついちゃ絶対にいけないって、今は病院で寝ている母が言い聞かせてきたから。  そんなふうに、私だけじゃなくてみんな少しずつ変になってきちゃったの。父は父で、帰り際駅のガード下で声をかけられた占い師に捕まって、なぜか母のこととか洗いざらいしゃべって、五百万の水晶玉を売りつけられそうになったの。これ持っていれば絶対奥さん良くなるからって。父はそれ信じ込んで、買おうと思ったのよ。おもちゃみたいな石ころをね。でもお金がないじゃない。あるだけ掻《か》き集めて質屋にも行ってさ、親戚《しんせき》中にも貸してほしいって頼んだの。でもみんな断わってたわ。当たり前よ、普通に考えれば騙《だま》されてるってすぐ分かるもの。気休めにしちゃ五百万は高いしね。父はローンの何とかから借りようとして、私と妹が必死で止めたの。だって借りたって絶対返せっこないんだもの。その水晶玉がほんとか嘘か言う前に、電気消して暮したりパンの耳|齧《かじ》ったりするようになるのが嫌だったの。みんな疲れすぎたのよ、きっと。そうやってみんなが疲れて変になっていくのに比例して、母はどんどん壊れていったの。濡《ぬ》れた傘みたいに痩《や》せたと思ったら薬の副作用で今度はぶくぶくに膨れ上がっちゃって、何か伝えるために文字板が用意されてるんだけど、もう腕が持ち上がらないの。そのうち鼻にも口にも妙な管突っ込まれて、点滴の数もどんどん増えた。それでね、最後は両手をベッドの脚に縛り付け始めたのよ。喉《のど》に突っ込んだ管が苦しいから、病人が無意識にむしり取っちゃうんですって。むしり取ったら死んじゃうから、白い布切れで手を縛りつけるの。母の膨れ上がった手に、赤い輪が何重にもできてた。  病院を出た後、駐車場へ向かう坂の途中で立ち止って、時々父が振り返るの。ぼうっと聳《そび》える高い建物の明りはすべて消えて、ぽつぽつと青い光がにじんでる。その淡い光に向かって、父は手を振るのね。お父さんだれに手振ってるのって、喉まで出かかって聞けなかった。振り返ることも出来なかった。青い光に包まれて、ぶくぶくに膨れ上がった母が立っているような気がして。  私たちそのうちね、母はもしかしてもう生きていたくないんじゃないかって思い始めたの。だって、意識があったって苦しいだけだし、しゃべれないし、手は縛られてるし。それである晩、私と妹は相談して、夜中の病院に忍び込んだの。緊急患者の家族のためにいつも職員入り口は開いていたから、そこからそっと入ったのよ。  夜中の病室は嘘のように美しかった。この世じゃないみたいだった。長く続く廊下が窓から差し込む月の光で真っ青に染まってて、物音一つしない。遠くに点々と、非常口の緑のランプが灯《とも》ってるの。天国のクリスマスみたいだねって、妹と言い合ったくらい。まるで大冒険だったわよ、私と妹は足音を忍ばせて九階分の階段を上がり、特殊病棟に忍び込んだの。すべてのドアが少しずつ開いてて、一つ一つのドアから青く染まったシーツが同じ角度で覗《のぞ》いてた。そのシーツの中にいる人はみんな、もう死と手をつないでいるのよ、だからあんなに美しいんだと思ったわ。いよいよ母の病室に辿《たど》り着いた。ほかの病室と同じに月光に晒《さら》されて、彼女は相変わらず点滴をぶち込まれた腕を縛られたまま、苦しそうな顔で横たわってた——。  簡単なことなの、縛り上げられた両手の布切れを解いてあげればいいの。そうすれば彼女は自分で無意識のうちに鼻と口に差し込まれたチューブを抜き取るだろうし、それが抜き取られたらもう一人で息も出来ないんだから朝には冷たくなってるわ。きっと母もそれを望んでいるに違いないって、私と妹は月の光を吸い込んだ白い布に手をかけた——その瞬間、母は笑ったのよ。微笑んだの。自分で呼吸すら出来ない人が、瞼さえ自由に動かせない人がよ! 私と妹は凍りついて手を止めた」  私は言葉を切った。耳を澄まし、記憶の糸を手繰り寄せる。 「違う。違うわ。そうしようとしたのは父なの。父は本当に母を愛していたから、美しく動き回っていた母を本当に愛していたから、冗談みたいに膨れ上がった顔や全身や両腕を縛られた母の姿がたまらなく悲しかったのよ。青く冷たい廊下を音を立てずに歩いたのは父だったの。父は病室にそっと入り込み、横たわった青い顔の母に近付いて、さよならって手を握ったの。そしたら母はその手をぎゅっと握り返したの。父はひどく驚いて彼女を見たの、母は静かに目を閉じていた。だけど母は握った手を離さなかったの、朝までね。父はだから死なせてあげることができなかったの————」  私は深く息を吸った。 「いいえ、それは嘘。彼女を死なせてあげようとしたのは、そのときも私だった。私は二回も、あの人を殺そうとした。海の底に沈んだような青い廊下を、私は何回もうろつき回ったの」  野田草介は使い古したスポンジのように私の話をすべて吸収する。私は自分の記憶の箱がごっちゃになっていることにふと気が付いた。事実の棚、空想の棚、信じたい棚、信じたくない棚、嘘の棚、それらすべてが入り乱れている。私は確かに夜中の病室に入り込み、彼女を死なせてあげようと何度も試み、実際布切れを解いてしまったのかもしれない。いや、私はドアの陰に隠れ、父が同じことをしようとしているのを見守っていたのかもしれない。疲れすぎた私たちが起こしたその行動の源が何であったのか、自己防衛であったのか、母への愛だったのか、それともすべてただの妄想に過ぎないのか。いや、それ以前に、私と妹は静まり返った廊下を本当に歩いたのか、私は献金袋を盗んだのか、一体母はどのくらい入院していたのか——それすら雨曝《あまざら》しの絵の具のようにぼやけている。  乱しているのはこの静かな老人だ。老人の沈黙だ。幼児虐殺、火事から盲人を救った盲導犬、春一番の桜、老人の孤独死、保険金をかけた殺人——淡々と流れ続けるニュースのように、私の記憶は彼の前で流れ続け、彼の中で薄い現実になる。もっと美しいものを、もっと悲しいものを、もっと残酷なものを、もっと面白いものを——私の中に流れる記憶は嘘も空想も取り込んできちんと陳列棚に納まり、彼の手に取られるのをじっと待っているのだ。そして私の内部で彼の前に出ることをより多く望むものが彼に呼応する。  私は冷め切ったコーヒーを口に含み、呼吸を整えた。それが嘘でも真実でも、とにかく話し続けるために。 「彼女が死んだ日、すべての手続きを終えてから、私たちは病院の地下にある大きなレストランに行ったの。思いっきり食べようって父が一言言った。茸《きのこ》ソースのオムレツ、鴨のパテ、帆立《ほたて》のスープ、空豆のスープ、甘海老《あまえび》のサラダ、牛肉のパイ皮包み、鱈《たら》のポワレ、私たち散々食べ尽くしたの。母がいなくなったことはものすごく悲しかったけれど、もうお財布の中身を気にしながら駅前のパン屋で立ち止らなくてもいい、お湯も電気もじゃんじゃん使える、電話もかけられる。足を棒にしながら汚れた皿を洗わなくていい、クラスメイトが帰りに何か食べようと言ってもうんと言える。そんなことは確かに私たちをほっとさせたのよ。  でもちょっと右手のナイフを止めて立ち止ると、それってものすごくひどいじゃない、母が死んだのに安心してるだなんて。そうやって立ち止るともうだめなの。もう手を動かせなくなるの。コーヒー牛乳みたいな色をした大量の血や、膨れ上がって黄疸《おうだん》だらけの腕や、あの甘酸っぱい独特の匂い、点滴の後の紫色の点々……それらが子供の持った水鉄砲のように飛び出してきて、もう食べられなくなる。『手を休めちゃいけない』と父は言ったわ。『思い出すことは他にもある』って。多分父はこんなときが来るのを予想していて、九階の九〇三号室で数少ない美しいものを探していたんだと思う。例えば染み一つないシーツや、シーツの上にできる変な形の日だまりや、開かない窓の外の緑や、母の足の爪、母の気に入りだったマグカップの優しい色合。毎日毎日確かめるようにそういう一つ一つを探し、見つめ、心を静めてきた。それはきっと訓練だったの。いつか今日のことを思い出す日が来るだろう、いつか自分は後に残りそういうすべてを受け取らなくてはならない日が来るだろう、そのときすべてを休止しないために……条件反射でこれらを思い出せるように……頭の中に引き出しを二つ作るわけね。父は一つの引き出しに、母の爪の形や白いシーツやマグカップなんかを詰めこんだのよ。そのとき私と妹は、テーブルの上に並んだ料理すべてを平らげるために、父にならって必死にもう一つ引き出しを作ったの。  でもね引き出しはもう一つあったのよ。それから保険金だの何だので、一時と比べたら信じられないくらいお金が来て……心配性の母は若い頃から自分で幾つも保険に入っていたらしいの。寝耳に水どころか寝耳に洪水よ。そうして働く必要が何一つなくなったとき、みんなふっと、それぞれもう一つの引き出しがあったことに気が付いたの。それはね『ひとけのない九〇三号室に立っている、おかしくなった自分』なの。もしかしたらこの人はもう生きていたくないんじゃないか、苦しいだけなんじゃないのか、こんな暮しはいつまで続くのか……理由は何であれみんな、一度は母を死なせてあげようと思ってきたのよ。自らの手で母を殺そうと。そして母のかわりにやって来たのが莫大なお金でしょう?——私たちね、もちろん暗黙の了解のうちで、三人で力を合わせて、軋《きし》む引き出しを、イチ、ニの、サンでバン! と閉めたのよ。母に関わる引き出しを全部ね。  その日からパーティが始まったの。私たち三人で毎日のように派手にお金を使いまくったのよ。家中の電気つけ放しにして、毎日ご馳走《ちそう》並べてさ、明け方までレコードかけてTV見て、父も人呼んで酔っ払ってどんちゃん騒ぎするの。私は今まで胸の中に転がってた物欲を鎮めるために、街を歩くでしょ、気が狂ったみたいに服や雑貨を買うのよ。そうすると少し心が落ち着くの。私と妹、学校帰りに待ち合わせて、真鍮《しんちゆう》のベッド買ったり、着もしないパーティドレス買ったり、コルビジェのテーブルセット買ったり本物の犬は死んでしまうからってでかい陶器の犬の置物買ったりしてたの。制服でよ? 何だかギャグみたいでしょ、制服着た子供が二人、このシステムキッチンいいと思わないなんて、ドイツのシステムキッチンの前で、これ全部下さいなんてやってんのよ? そのときはものすごくおかしいんだけどさ、二人でバスに乗って帰るとなんだかしょぼくれちゃうの、意味なくね。私たちそういうのがいやで、もうたくさんだったの、意味なく疲れたり意味なく悲しくなったりするの、だからバスの中で明日はどこに行こうっていっぱい話すのよ。明日は家にある食器を全部捨てて、サザビーですべて統一しよう、品川のショールームに行こうって決めたりして、それで明日までわくわくした気持ちが延びるの。  そんな派手などんちゃん騒ぎは、随分続いたの。その間に私は推薦で受かった大学に行って、妹も高校を卒業して、私たち一年以上も騒いでたのよ。そしたらある日ね、父が休暇を取って旅行に行っちゃったの。妹はB・Fの家に入り浸りになって、あの家は騒ぎの余韻を残したまま放置され始めたの。私、ゼリービーンズをどっさり買ってきて、誰もいなくなった家でこっそり食べてみたの。おなかに虫が湧くからって、あれ食べるの禁止されてたでしょう、口に入れるときはものすごく緊張したの。パステルカラーの一粒一粒をゆっくり口に含んでいきながら、おなかに虫が湧いて、その虫が繁殖して私を食い尽くしてしまうのを想像したの。それでも私は手を止めず、仕舞いに吐き気すら覚えるまで口に放りこみ続けたの。でもね、死ななかった。翌朝なんでもなく目が覚めたの。してはいけないことが何も、本当に何もなくなったことを、そのとき知ったのよ。みんなそう。多分みんなそうだった。だから旅行に行ったり男の子と同棲《どうせい》まがいの暮しを始めたりしたのよ。  それで私、あるときふっと、『終ったな』って思ったの。パーティが、じゃなくて、お金が、でもなくて、何かわかんないんだけど、何かが確実に終ったなって、いやにはっきり実感したの。私は終らせるのがいやだった。もちろんお金なんて底を突き始めてて、でも終らせたくない、私一人でも終らせないようにしようって、何だか思っちゃったのよ。やってはいけないことなんて何もないのよ。私はとりあえずパーティを続けようと決めたの」  私は口を閉ざし、しばらく視線を泳がせて次に続く言葉を探した。 「疲れたな」  それを言葉として選び取る前に、私の口はそう呟《つぶや》いた。そして急いで、付け加えた。 「眠りたい」  バスルームでシャワーを浴びてくると、野田草介はベッドに横たわっていた。私はその隣に潜り込む。シーツは冷たく、痛いほど糊《のり》がきいていた。 「あなた、もう分かったでしょう」  静かな呼吸の合間から野田草介が囁《ささや》くように言葉を挟んだ。私は黙って白い天井を見つめ、その掠《かす》れた声を聞いた。 「死を願って眠り、どうして安らかに眠れるかを。魂が彷徨《さまよ》い出てどこへ辿《たど》り着くかを」  答えるかわりに私は目を閉じ、さようならと呟いた。錆《さび》付いた棺《ひつぎ》の扉が蓋《ふた》を閉じるのを思い浮かべる。紫色の唇に何匹もの蟻がよじ登るだろう。緩やかに曲がって固くなった指に、みみずが湿った体を押し付けるだろう。完全な闇に私は閉じ込められるだろう。毛布の下で野田草介は私の手をまさぐり、確かめるように強く握った。冷房は消えているのにひどく寒かった。野田草介の身体は死体のように冷たかった。      7  地下鉄の階段を上がり、空を見上げると淡い桃色だった。大通りに出て空車の赤ランプを探したが、なかなか見つからないので歩いて帰ることにした。塩素の匂いを漂わせる、髪の濡《ぬ》れた子供たちと擦れ違った。遠くで校庭の閉門を知らせる赤とんぼのメロディが流れていた。通りかかったスーパーの前に日用雑貨がせり出されて並んでいた。足を止め、それらを見つめる。一輪挿しとグラタン皿と銅の鍋《なべ》を買った。果物屋で立ち止り、梨とネーブルとキウイを買った。寂れた宝石店に立ち寄り、王冠をかたどったプラチナのブローチとカラフルな石をはめ込んだピアスを買った。声をかけられた魚屋の店頭で、イサキと鮑《あわび》を買った。金物屋の角を曲がるとき、鈍い金色の卵焼鍋と薄刃包丁を買った。郵便局で記念切手を三枚買い、花屋で背の高いゴールドクレストを買った。洋品店で三足千円の靴下を買い、電気屋でハンディビデオを買った。薬屋でビタミンAからEまでを買い、きれいな瓶に詰まったシャワーソープを買った。雑貨屋で黄色い工具箱を買い、清水焼きの急須《きゆうす》を買った。段々荷物の重さに両腕が痺《しび》れ始めるのを感じながら、私はただひたすら待った。思考という思考がすべてどこかへ押し遣《や》られ、頭の中が徐々に霞《かすみ》がかかりやがて真っ白になってしまう瞬間を。そのときが来れば、選ばなくても品物が私を呼ぶ声で頭の中が一杯になるだろう。まるで宴会の一番盛り上がった瞬間のように、根拠のない興奮の渦中で私は踊り続けるだろう。  しかし頭の中はまるで平静にすかんと冴《さ》え、スーパーの一輪挿しから始まって順に買ったものを数え上げることができるほどだった。やがて桃色は藍《あい》に呑《の》み込まれ夕方は夜になった。  マンションの部屋の前には、ハルミの恋人が立っていた。大荷物を抱えて帰ってきた私を見て彼は笑い、 「中、入れてよ」と一言言った。  ドアを開け、抱えていた荷物を床に下ろす。見捨てられたごみのように、ビデオやネーブルや靴下は静止した紙袋から顔を出した。 「分かってきた?」  湯を沸かす私にハルミの恋人は話しかける。 「何が」 「救われるってことが」 「あんまり」  私は部屋の隅に坐《すわ》った彼を見下ろして聞いた。 「それで何? 私を救ってくれるために、教えを施しに来てくれたの?」 「そう」彼は笑わずに頷《うなず》いた。 「あんたはきっとおれみたいに救われたがってるんだ。だから助けに来てやったんだよ」  どこかで小さくポケベルが鳴った。洋服|箪笥《だんす》の中に納まったどれかの服の中から聞こえる。私はその音を無視してお茶をいれた。 「あなたって面白いのね。自分の恋人は救ってあげないの」 「あいつは救われる必要がないもの。馬鹿なのが救いだよね」 「で、私は救われたがってる、って」 「そう。目で分かる。自分と一緒だって」  向かい合ってお茶を飲みながら、私は彼の話を聞いた。自分は段々救われ始めた、と彼は言った。なぜなら何も感じなくなり始めている。前はたまらなくいやだったことも、特に何も感じなくなってきた。もうすぐ、悲しいことも辛《つら》いこともいやなこともなくなるだろう。自分は神になり、永続的な幸福の中に入り込むだろう。私はじっと彼の目を見つめ、彼の手を取った。 「似たようなことをお客さんに教わったの。修行みたいなもんだわ。試してみる?」  私は彼をベッドの上に連れて行った。彼は捨て犬みたいにおとなしくついてきた。明りを消し、私とハルミの恋人は並んで布団に潜り込んだ。窓の外で鮮やかに煌《きらめ》く遠い明りが浮かび上がる。枕に頭を埋め、すぐ近くにある彼の顔に向かって私は囁いた。 「私たち、死ぬのよ。もう死んでいくと思うの。私たちの死体は冷たい棺に放り込まれていて、誰からも見捨てられているの。そのうち肉体が腐り始める。蟻やなめくじや蛭《ひる》や、そんなものだけがからっぽの肉体を求めて擦り寄ってくる。自分は死んだと繰り返し思うの」  彼は黙って私を見つめていたが、嬉々《きき》として起き上がり、蝋燭《ろうそく》はあるかと聞いた。 「蝋燭?」 「蝋燭の明りでそういうのやろうよ。もっと雰囲気が出るよ。儀式みたいじゃん」  彼は浮き浮きした気持ちを抑え切れないように早口でしゃべった。私はキッチンの引き出しをすべて開け、スプーンやフライ返しや箸《はし》置きをひっくりかえして一本のちびた蝋燭を見つけた。彼は皿の上に蝋燭を固定して部屋の真ん中に置く。彼のはしゃいだ気分が私にも移ったのか、私は俄《にわ》かに面白くなってきて、箪笥の奥から蓮《はす》の香を取り出して火をつけた。私たちはもう一度ベッドに横たわった。 「一人ぽっちの葬式って感じがする」  彼は満足げに呟いた。蝋燭は香と並んでまっすぐ細い煙を上げ、時折クーラーの風に揺れて黒い煙を吐いた。 「死ぬのか」彼は小さな声で言った。私は彼の横顔を見た。蝋燭の淡い橙《だいだい》に照らし出された彼の横顔は、驚くほど美しかった。この睫《まつげ》がゆっくりと白い肌に落ち、軽く開かれた唇はそのまま凍りついて蒼《あお》みがかり、透けるような肌の白が段々濃くなり、冷たく固い乾いた殻になるのを想像した。 「救われる感じがする?」  私は彼の横顔に聞いた。 「まだ分からない」  息で彼は答えた。私はじっと動かない彼の体を見つめた。冷たくなっていくのを、硬直していくのを確かめるように、私は彼の体に手を這《は》わせた。その白さと不釣り合いに、彼の体は温かかった。不意に私の手を取り、彼は目を開けた。一人ぽっちで棺に放り込まれたはずの男は、上半身を起こして私を抱いた。首筋を桃色の唇が這い、それは不自然に生温かかった。  蝋燭が燃え尽きてしまうと、窓の外で闇はどろりと窓|硝子《ガラス》に凭《もた》れ掛かった。私は横になったハルミの恋人を見下ろし、白く浮かぶ額をそっと撫《な》でた。それは冷たいどころか、うっすらと汗さえ滲《にじ》ませていた。 「好きでもない女と暮して、いやでたまらない仕事して、寝たくもない女と寝て、それで頭の中をからっぽにして眠る。私もあなたを救うために一役買ったことになるのかしらね」 「別にそんなつもりはないよ」目を閉じたまま彼は言った。「あんた、好きだよ」  生え際の柔らかい髪を弄《もてあそ》び、私は思わず吹き出した。 「あんた一生救われないわ。それがあんたにとっての救いよ」  彼はその言葉を掬《すく》い取り、窓の外の闇にぶつけるような大声を上げて笑った。私もつられて笑ったが、笑いたくはなかった。蓮の香りと笑い声が、闇の中にすとんと切り取られた部屋の中で行き場なく渦巻いていた。  今にも落ちそうな曇り空は、オーディオルームの窓からビル群を隠す。図書館員は一人で、退屈そうに漫画を読んでいる。離れた席で男の子が一人、ヘッドホンを耳に当て小刻みに体を揺らし、レポート用紙に何か書きこんでいた。  私はいつもの歌声に身を任せ、ぼんやりと灰色の空を見つめ、図書館で借りた本を開いて目を通し、夏休み後に提出するレポートを書いていた。ペンが止まると本を閉じ、今度は野田草介に何を話そうかと考えてみる。何かを組み立てる作業が面倒で、それもストップしてしまうと、両腕を机に投げ出し顔を埋めた。彼の歌声の後ろでぷつぷつと流れる音は雨に似て、雨が降りだしたかと顔を上げる。しかし曇り空は雨の一粒も絞り出さず膨らんでいる。そんなことを何回となく繰り返した。  そうして自分が眠ってしまったことを、いつもの青い水の中で気付いた。真っ青なその場所は適度に暖かく適度に涼しく、非常に心地よかった。海藻のように髪が揺れ、白いスカートが柔らかく浮いて足をくすぐる。聞き慣れた歌声が、青い水を通して私に届く。私は目を閉じ、優しくまとわりつく水と歌声に囲まれて漂っていた。永続的な幸福ってこんな感じかしらと、目を閉じた私は考える。全身の力を抜いて、身体の下で緩やかに水が流れるのを感じていた。  あなたの声はとても綺麗《きれい》ね。  冷たく哀しく響き続ける彼の歌声に向かって私は言った。密《ひそ》やかに水が揺れる。  あなたはどこか、現実とは違う、もう一つの場所を知っていたのね。そしてずうっと、そのもう一つの世界なんてここにはないってことも、いやになるくらい知っていた。だからそんな哀しくて美しい声で歌えるのよ。  歌声はどこから聞こえてくるのか、私の声は届いているのかいないのか、分からずに続けた。私の呟《つぶや》きは、どこまでも広がる青にうっすらと波紋を作った。  目が覚めた。私の周りは青ではなく、のしかかるような灰色だった。夢の中で言っていた、もう一つの場所という言葉を思い出す。私は何を思ってその言葉を使ったのだろう。レコードは耳の奥で回り続けていた。  野田草介に話す話が見つからぬまま、タクシーに乗った。ビニールの匂いが濃い車内で、流れて行く町並に視線を泳がせて私はまだ考え続けていた。  今日の図書館。背の高い本棚の間を何度も往復した。高校生が肩を並べて自転車を引いていた。去年プールに行ったこと。子供たちの間を縫って平泳ぎをしたこと。水着の跡が今年の春ごろ消えたこと。初めて付き合ったB・Fのこと。彼が肩に触れ唇を重ねたとき、私は目を開けて夕焼けと夜の中間の、中途半端に色付いた空を確かめたこと。母親が枕元で聖書を読んだこと。だれもいなくなった家で、一人庭に下りて聖書を焼いたこと。ハルミの恋人とやった葬式ごっこ。ハルミの恋人が私を抱いたこと。  記憶の箱から一つ一つを拾い上げ、続くようなものはないか、真実らしい脚色の入り込む隙を持ったものはないか、眺めてみる。一つ一つはいくらでも思い浮かんだが、どれもつながらない。糸の切れたネックレスのようだった。  窓に顔を付けて見上げると、曇り空の合間から白い太陽が顔を出していた。厚い雲に縁どられた太陽は、ただの穴ぼこみたいに白いだけだった。  思い浮かぶネックレス玉の一粒一粒は、確かに自分の記憶であるのに、どれも嘘っぽく、口に出して空気に触れさせた途端《とたん》、自分でいやになるくらい汚らしくなりそうに思えた。もっと面白いものを、もっと真実に近いものを、もっと悲しいものを、もっと美しいものを、もっと残酷なものを——私は焦り、ことことと靴を鳴らした。  タクシーはホテルの前で止まり、何も思い浮かべずにいる私にドアを開いた。  いつも通り椅子に坐《すわ》った野田草介を目の前にしたとき、私は泣きたい気分になった。 「まだ暑いが、大分静かな暑さになった」  そんな私に気付かず、野田草介は穏やかに言う。 「そういえばそうね。いつも夏の最中は、この暑さが永遠に続くように感じるけど、いつの間にか風が涼しくなってるのよね」  一体外が暑いのか涼しいのか、今日は何月なのかまるで分からずに私はしゃべった。それから野田草介と向かい合って坐り、窓の外を眺めた。いつかと同じ、ビルの合間に学校とプールが見えた。プールは水が抜かれ、ところどころ剥《は》げた偽物くさい青さがぽっちりと見えた。そして私が口を閉じると秒針の音が冷たい空気を震えさせた。 「大英博物館展やってるでしょう。あそこに行ってなんでもいいから興味を持ったものについて、二十枚のレポートを書けっていう宿題があるの。今日行こう今日行こうと思いながら、まだ行っていないのよ」  言葉が続かなくなり、私は少し考えた。 「インコを飼ってたの。随分慣れて、鳥籠《とりかご》の入り口を自分で開けて私たちの方へ来たりしたのよ。こう、嘴《くちばし》で。——あるとき自分で入り口を開けて逃げて、それきり帰ってこなかったの。私たちは随分待ったけど、とうとう」  野田草介はじっと私を見つめている。私は目を逸らし、遠い剥げたペンキの跡を見た。 「友達の恋人がハッパの常習犯でね、ずっとハッパを吸い続けてるような状態、それが自分にとって永遠の幸福だって言うの。彼はもうすぐその永遠の幸福とやらに辿《たど》り着くらしいのよ、私にはあまり分からないけど」  積み上げる石ころがすべて崩れ落ちるみたいに思えた。丁度、冴《さ》えた頭で買い物をしている気分だった。私は苛立《いらだ》ち、腹立ち、泣き叫びたくなる。 「何も、何も思い浮かばないわ。変ね、————ははは」  一体何回会ったのか覚えていないほど、私は彼を前にしていともたやすく数多くの言葉をつなげてきた。何も思い浮かばないときはその場ででたらめの話を作り上げ、あるいは先週作ったアップルパイについて、パイ型や泡立て器や小麦粉を買うところから始め、パイ生地をこね一人で平らげるところまで、こと細かく話すことができた。私は今、彼の前に言葉を失っている。何もしゃべりたくなかった。草介はじっと私を見つめている。その目は相変わらず表情を隠すかのように濁り、目の前で言葉を失った私に驚く様子も咎《とが》める様子もなかった。沈黙はひどく長く感じられた。 「幻覚剤を飲み続けたら、どこかへ行けるんでしょうかね」  秒針の音を打ち消すように野田草介は言葉を放った。 「たとえばあの、無愁天子のように——己の時間を停止させて、昼も夜もなく遊び続けていたら、この世でもなくあの世でもなく、丁度私たちが眠りに落ちるようにどこかへすとんとはまり込むんでしょうか。彼はそれを望んでいるんでしょうか」  曲がった指が煙草を抜き取る。 「ムシュウ?」 「愁うこと無き天子ですよ。哀情の入りこむ隙もないほどに、昼に遊び夜に遊び、ついに遊びはエスカレートして生身の人間を切り裂き観察し——彼のようにね、時間も罪も己の死も存在しない場所へ」 「そんな人が実際いたの」 「大昔の中国にね」  草介が言葉を切る。沈黙が広がる。ウレウコトナキテンシ——心の中で繰り返すその言葉が沈黙に溶け込む。 「でもその人にも終りは来たのね。そのときその人、どう思ったかしら。ああやっぱりって思ったかしら、こんなはずじゃないって思ったかしら。あるいはそろそろ疲れていて、これで楽になるって思ったかもしれないわね」 「私にもいつか、そんな日が来るのだろうと思う」不意に草介が言った。 「そんなときが来たら、私のことをさっぱり忘れて構わない。——一度くらい思い出してくれてもいい。病院の廊下みたいに、青い光の中で手を振ったお母さんみたいに、夢みたいに思い出して下さい。それだけでいい。私もきっと、あなたのことを思い出す。そう、夢の中のようにね……」  野田草介の真意は理解できず、しかし私は急に彼を抱き締めたいと思った。その曲がった固い指を、染みの浮き上がった頬を、弱々しい足を。  手を伸ばし、彼の頬に触れる。凍った果実のように冷たく固い頬だった。掌《てのひら》の温《ぬく》もりを確かめてゆっくりと目を閉じる草介を見ていたら、なぜか涙があふれた。眠るような野田草介と皺《しわ》のないベッドカバーが、遠い世界に在るようにぼんやりと霞《かす》んでいた。  肌触りのいい毛布の上に、私たちは並んで横たわった。ゆっくりと休みましょう、独り言のように草介はつぶやいた。 「無愁天子はどう感じたんでしょうね」ハルミの恋人を思いながら私は呟いた。  野田草介はしばらく黙って私を見つめていたが、やがてゆっくりと体を起こした。革の鞄《かばん》から何かを取り出して毛布の上に置く。小さな白い包み紙と剃刀《かみそり》だった。 「これはお守りみたいなものでね。随分前からずっと持ち歩いていた。これを使う時を待ち望んでいるわけじゃあない。こういうものを持っていると、ただ持っていると安心する。こういうことをしていると、何だか自分が現実で生きていないような気がする。そしてその方が自分に最も近く生きられるような気がするんだな、不思議なことに」  私は白い包み紙と一本の細い剃刀をじっと見つめた。毛布に薄く影ができていた。  少しだけだらしなく開いたカーテンの向こうには夜が見えた。ほのかに白い明るい夜だった。私は青い夢を思った。笑い転げたハルミの恋人を思った。ものの積み上げられたからっぽの家を思った。マンションの窓から見えた、闇の中でぽってりと明るい八重桜を思った。ぐるぐると胸の中で回る何のつながりもない一つ一つの画面をそのままに、私は洗面所へ行き透明のコップに水を注いだ。それを草介に差し出すと、彼は特別何も感じないような濁った目で受け取った。 「生憎《あいにく》一人分しかない。眠り薬を半分ずつ飲もう。半分なら致死量じゃない。ただやんわりと眠れるだろう。意識が遠のくその一瞬前に、お互いのここを切ればいい」野田草介は親指と人差し指で左右の顎《あご》の下を押えた。「力を入れることはない。頸動脈《けいどうみやく》にすっと一筋入れればいい」  私たちはしばらく刃を紙で包んだ剃刀を見つめていた。野田草介は何も言わず、紙包みをほどき半分を水で飲み、私に渡した。私は白い粉を飲み下した。そして静かに、いつも通り仰向けに横たわった。私と野田草介は同じリズムでゆっくりと呼吸をした。  今までに感じたことがない程の、深い深い穴に落ちていくような静けさだった。目を閉じた私の周りには何もなく、ただ私の手に野田草介の掌だけが軽く絡まっていた。どこかへ吸い込まれるように——隣に横たわる野田草介の呼吸も、時計の針の音も、固い掌の感触さえ遠ざかっていく——。  夢が私を覆い始めた——。青い水。浮く感覚。生温かい水の感触。飽きるほど見慣れた場面。しかし、何かがいつもと違う。色だ。青い水を貫いてほのかに緑の光線が舞い降りている。月の光——私はゆっくり上を見上げる。顎をなぞって泡が上へと流れる。緑の光線が舞い降りてくる方向へ手を伸ばしてみる。水の抵抗は思ったより少なく、腕は軽やかに動いた。ここまで光を投げかけるこの月は、三日月だろうか満月だろうか——そんなことを不意に確かめたくなって、私は水を掻《か》き始める。  気が付くと私はベッドの上で上半身を起こしていた。全身がベッドに縫いつけられているのかと思うほどだるかった。野田草介のことも何をしようとしていたのかも忘れ、私は無我夢中で薄く光る剃刀を握り、カーテンを開いて窓を開けようとした。はめ殺しの窓は開かなかった。私は剃刀だけを手に、ドアに体当たりする勢いで部屋を飛び出した。  回転扉を通り抜け、私は走りだした。走るうち、カーテンを閉めたあの部屋のベッドと私を、ぐるぐる巻きに縛り付けていた糸がぷつぷつと切れ始めたように、重たかった身体が軽くなってきた。どこまでも走れる気がした。走りながら、今が夜更けであることに気が付いた。裸足《はだし》であることに気が付いた。強く握り締めた剃刀の刃が食い込み、掌から生温かい血が流れていることに気が付いた。異臭を放つ黒いビニール袋が山と積まれたごみ捨て場に剃刀を放り投げ、走り続けた。そして確かめるように、街を覆う夜を見回し、靴を履いていない自分の足を見下ろし、流れる血の色を見た。ところどころに立つ電灯を見、明りを放つコンビニエンスストアを見、黄色に変わる横断歩道を見、足の裏に続く道路のひんやりした感触を味わった。まるで知らない街だった。めちゃくちゃに角を曲がったおかげで、どうすれば車の流れる車道に出られるのか分からなくなっていた。  闇の中で真っ青に染まった銀杏《いちよう》の群れの中で、私は足を止め、大きく呼吸をした。目の前に、中途半端に太った月が見えた。三日月だったのか——そんなことを確かめようとしていた自分が急におかしくなって、私は笑いだした。声は掠《かす》れていた。  とめどなく血を流す掌で顔を拭《ぬぐ》った。ぬるりと温かい液体が私の顔を染めるのを感じた。大きく息を吸い込むと、血の匂いの混じったしめやかな夜の匂いが鼻をついた。  呼吸が落ち着くと私は腰を屈め、道路の真ん中でスタートのポーズを作った。ようい、どん! 大声を張り上げ走り出す。  この銀杏の群れに沿って走っていれば、いつか見覚えのある道にぶつかるだろう。きっとどこかに出られるだろう。ここがどこか分かるだろう。  ほかに何も考えず、私は阿呆《あほう》のように心に浮かんだそのことを、繰り返し繰り返し考え続けた。  いつかどこかのホテルで聞いた、いやに大きく響く秒針の音が、耳の奥でひっそりと鳴っていた。 [#改ページ]   銭 湯      1  自動ドアを抜けてすぐ番台があり、そこで勘定をして赤い暖簾《のれん》を潜る。それは番台というより受付といった感じで、なるほど新しい銭湯だと八重子は思った。  桔梗《ききよう》湯が新装開店準備中、八重子はもう少し先の花の湯に通っていた。そこは昔ながらの銭湯で、男湯と女湯に分かれてから番台がある。脱衣所を仕切る壁の端に番台があるから、勘定をする男性客がひょっと頭を持ち上げれば女性の脱衣所が見えるはずだ。八重子は一度下着に手を掛けたとき、入ってきた男の客と目が合ったことがあって、それから着替える間はいつも気が気ではなかった。花の湯は古くさく、脱衣所は雨の日の下水のような匂いがした。蒸気で曇った硝子《ガラス》戸を開けて湯殿に入っても、いつつぶれるか知れぬというほど客は少ない。その分八重子はのびのびと体を洗えたが、番台の位置がどうにもいやで、早く桔梗湯が開店しないかと心待ちにしていた。  勘定を済ませてから男女が別々の入り口に入るシステムに心の底から安心し、八重子は投げ捨てるように硬貨を置いた。 「いらっしゃいませエ」  無表情のまま、妙に語尾を伸ばして受付に坐《すわ》る中年の女は言った。八重子は女湯と染め抜かれた赤い暖簾を乱暴に潜る。しかし脱衣所と洗い場の光景を見て、八重子はしまったと思った。客が多いのである。泡|風呂《ぶろ》、座風呂、電気風呂、サウナを設備した新しい銭湯に、もの珍しさで足を運ぶ客が多いのは考えれば当り前のことであった。そういえば新装開店と派手な文字で書かれ、それはどんなに素晴らしい銭湯であるかが大袈裟《おおげさ》な文章で書かれたちらしが随分前からアパートのポストに入っていたことを、八重子は思いだした。あの調子でちらしを配れば、家に風呂のある人でさえ、そんなにいいものかと足を運びたくなるだろう。この光景を見るかぎり、多くが店をたたむという銭湯事情はどこか遠いところのものに思えた。  しかし入ってしまったから仕方がない。開いているロッカーを見付けて、八重子は着替えた。子供たちが走り回り、老人たちが長椅子に腰掛けて話に花を咲かせている。ここは病院か、吐き捨てるように八重子は思い、洗面器を抱えて湯殿に通じる硝子戸を開けた。ずらりと並んだ裸の透き間に、空いているカランを見付けて八重子は入り込んだ。曇った時計を見あげると八時半、ご家庭の銭湯タイムだ。もう少し残業すればよかったと八重子は思った。  右のカランを押すときは熱湯が隣の人に掛からぬよう、左のカランを押すときは冷や水が左隣の人に掛からぬよう、八重子はびくびくしなければならなかった。真新しい木桶《きおけ》にためたお湯をかぶるときでさえ、それが周囲の人に飛び散らぬように細心の注意を払う。混んだ銭湯では、八重子はくつろげないどころか、緊張してまともに体も洗えないのだった。  恐らく友達同士で来たのだろう、二人の若い女が大声ではしゃぎながら電気風呂に入っている。あそこの野菜は高過ぎると論議をしながら体を洗う主婦たちもいる。その中に八重子は見付けた。熱心に肌を磨く女を。年の頃は八重子と同じ位で、大体八重子が来るといつも来ている。桔梗湯が店を閉めている間は、花の湯でよく会った。八重子が入っていくと体を洗っているくせに、八重子が出る段になってもまだ入っている。あんまり熱心に体を磨きあげるものだから、八重子はその女を覚えてしまった。台の上にシャンプー、リンストリートメント、ボディシャンプーに何なのか分からない洒落《しやれ》た瓶を幾つも並べ、ボディブラシにへちまに垢擦《あかす》り、思い付くかぎりすべての風呂用具を見事なまでに駆使している。自分を磨きあげることのその熱心さに驚き、八重子はとてつもない美人を想像した。銭湯の一角をまるで自宅の風呂みたいに使う女に興味を持ち、八重子はあるときその女の顔を覗《のぞ》きこんだ。大した顔ではなかった。どちらかといえば平凡な、道で擦れ違ったらすぐ見失ってしまうような顔立ちだった。八重子は半ばがっかりし、そして同時に何故かほっとした。その女が丁寧に磨きあげる背中にしてみても、下腹にしても乳房にしても、特別に美しいこともなかった。ただ、印象の薄い顔のなかに納まった二つの瞳《ひとみ》が、いやに勝ち気そうで、それが八重子の気に入った。  その女は真新しい桔梗湯で、こんなに混んでいるというのに、いつも通りのんびりと構え、右腕を丁寧に泡立てている。彼女の周りだけ透明のカプセルが見える気がした。彼女には、ほかの裸体など見えていない。湯気で曇った鏡に何度も湯をかけ、そこに映る自分の裸体しか見ていない、いやそれしか存在しないのだろう。緩い曲線を描く肩、高く上げた髪からこぼれ落ちた後れ毛をぺたりと張り付ける白い背中、洗い場を見回せばどこにでもある平凡な体が、彼女にとっては極上の美であるようだ。彼女を見つめれば見つめるほど、小さくなっておどおどと湯をかける裸の自分がよりはっきりと八重子には見えてくる。それでも八重子は、斜め後ろに腰掛けたその女を盗み見ずにはいられなかった。  三種類の湯舟のうち、真ん中がいやに泡だった風呂に八重子は入った。そっと片足を差し入れ、それほど熱くないので安心した。花の湯の湯舟は熱湯に近いくらい熱く、端に付いた水道の蛇口を捻《ひね》ればいいものを、八重子にはそれすらできないのだった。いつだったか熱い湯舟を水で薄める若い女を老婆が見咎《みとが》め、「最近の若い人は困るねえ」と嫌味《いやみ》を言っていたのを聞いたことがあるからだった。八重子はいつも苦痛に顔を歪《ゆが》めながら、熱湯の中に体を沈め、五秒もしないうちに飛び出ていた。だから新しい桔梗湯の湯舟がぬるいことは、万歳をしたいほど嬉《うれ》しいことだった。  湯につかり、男湯から流れてくる音程の危うい演歌に耳を傾けつつ、何か足りないと八重子は思った。そうだ、山だと八重子は思い付く。花の湯で、あるいは改装前の桔梗湯で、ここにあったはずのばかでかい看板がない。大きな富士が堂々と寝そべるはずの部分は、硝子だった。窓の向こうは何だろうと、蒸気で曇った硝子に八重子は掌《てのひら》を当てた。八重子の作った小さな四角の中に、日本庭園風の小さな庭と、レトロじみた電燈と、出歯亀防止の高い塀が見えた。きっと銭湯の主人のささやかな演出で、早い時間には日の光が、夕方には夕暮れ空が、夜には星と月の代わりに電燈の光が、窓から滑り込み湯舟に溶ける具合にしてあるのだろう。  そうだった、あのぺったりとしたいかにも偽物くさい、それでいてやけに堂々としたペンキの富士山がないのだ、湯舟から立ち上がり八重子はうなずく。こんなたよりない音程の歌声には、あの富士山はとても似合うのに。  八重子がカランの前に戻ると、右隣にいた若い女の姿はなく、代わりに小さな老婆がひょこんと坐っていた。その老婆を見た途端《とたん》、しまったと八重子は二度目の後悔をした。銭湯でよく会うこの老婆の横に、八重子は偶然とはいえ何度も隣り合わせたことがあった。老婆はしきりと喋《しやべ》り続けている。それが誰に対するものなのか、それとも独り言なのか分からない。しかし誰も聞いていないのだから独り言の類に入るのだろう。八重子は必死で無関心を努め、老婆の声を耳にしないようにし、スポンジを泡立てて体を洗い始めた。八重子が右のカランを押したとき、熱いっと老婆は声を上げた。思わず八重子は目を上げ、鏡の中で目が合ってにっこりと笑う老婆に、三度目の後悔をした。しまった、罠《わな》に掛かった。八重子の反応が老婆にはよほど嬉しかったのか、鏡の中の自分に向いた八重子の視線を握り締めるように、老婆は口を開いた。独り言ではなく、明らかに、八重子に向かって。 「新しい銭湯はいいねえ、ここんちはさ、桶に檜《ひのき》をつかったでしょ、あたしゃそりゃいいアイデアだと思うの。どこもプラスチックで、味気ないもん」  そうですねと、仕方なく八重子は曖昧《あいまい》に笑う。 「それよりさ、年寄りは、おいしいもんたくさん食べるもんじゃないよ。ああ胃が痛い。年寄りなんてさ、不味《まず》いもんをチョボ、でいいんだね。バチが当たった、ああ痛い」  後ろで微《かす》かな笑い声がする。振り返ると、主婦が体を寄せて老婆を見ている。それから「捕まったわね」という哀れむような一瞥《いちべつ》を八重子に投げた。  かなり有名な老婆らしく、本人がいないとき銭湯の常連たちがこの老婆の話をしているのを八重子は何度も聞いた。 「あの人には困ったもんよ、昨日なんかさ、本木さんいるじゃない、あの人捕まっちゃって優しいもんだから帰れなくて、夕飯作れなかったんですってさ」  そんな話を聞くにつけ、八重子は一番の被害者はその本木さんではなく自分だと心の中で主張するのだった。  老婆はゆっくりと鬘《かつら》を外す。生まれたての皺《しわ》のようなほわほわした頭髪を載せた禿頭《はげあたま》が現われる。老婆はお湯に浸したタオルを絞って頭に載せ、気持ちよさそうに目を細める。八重子は老人の裸を見るのが大嫌いで、タイルに溶けてゆきそうな小さな体から目を逸らした。肩、腕、胸、腹と力一杯スポンジを擦《こす》り付ける。老婆は自分の話の聴衆が一人確保できたことを満足そうに微笑み、八重子に向かって話し始める。 「孫がね、孫がいてね、東大の二年生」  知ってます知ってますと、八重子は心の中で言う。中学時代は学級委員で、高校時代はトップクラスの生徒会長で、現役ストレートで東大にいった孫でしょう。八重子はこの話を何度も聞いている。老婆の方では話の聴衆に区別はないから、もちろん八重子のことを覚えているわけではない。いつも話は序章から始まる。 「その孫がさ、夕方になって突然、おばあちゃん焼き肉食べに行こうって言い出したの、せっかくだからさ、あたしはさっぱりしたもんが好きなんだけどせっかくだから、行ったの、孫と、焼き肉食べにさ」  序章が終り八重子が頭を洗い始めると、ようやく本題に入った。老婆は薄っぺらいタオルに石鹸《せつけん》を擦り付け、首を八重子のほうに曲げたまま、構わず話し続ける。 「なんだろねえ、家の孫は。今の若い人ってさ、宴会だのデエトだので忙しいじゃないの、なのにさ家の孫は、おばあちゃんおばあちゃんて、そりゃ優しいの、息子に似たんだね」  老婆の話は、孫と家を出て、バスに乗って、美味《おい》しいと評判の店に着いて、料理が運ばれてきて、それを食べ出し、延々と続く。八重子は頭も顔も洗い終え、それでも老婆の話が終らないから立ち上がることができなかった。老婆はいらいらするほどゆっくりと、泡立てたタオルで体を擦っている。八重子は立ち上がるチャンスを窺《うかが》って、気が気ではない。その八重子の心情を知ってか知らずか、老婆の声は甲高くなり、いよいよ背中を丸めて八重子を逃すまいと覗き込んでいる。  八時半に風呂《ふろ》に入ったのに、八重子が脱衣所に戻ったのは十時近かった。老婆が湯舟に浸かりに行った隙に逃げ出してきたのだ。老婆の話はまだ途中で、孫と家に戻ったら嫁が出てきて嫌味を言ったところだった。話の続きをしに老婆が追ってこないよう、八重子は湯殿を見ながら大急ぎで体を拭《ふ》いた。銭湯に行くためにわざわざ着替えてきた服に八重子は袖《そで》を通した。派手な色彩のカットソーと、ずたずたに切り裂いたジーンズ。おどおどした表情の八重子の裸体はそれらをまとった瞬間、幾分別人めいて見える。服と一緒に仮面も張りつけて、八重子は気取って歩き、暖簾《のれん》を潜る。おどおどした裸の自分を洗い場に置いてきたかのように。 「ありがとうございましたア」  受付に坐《すわ》った中年の女が言う。その声を無視し、老婆から逃れられたことに安心して八重子は靴を履いた。  辺りがすっぽりと闇に包まれても、まだ蒸し暑かった。昼間の間に吸い込んだ熱を、地面が一斉に吐き出しているようだ。時折吹く風はねっとりと八重子に纏《まと》わり付いた。  部屋の電気をつけると、正座したTVやステレオやベッドが浮かび上がる。テーブルの上に投げ出された白い封筒をちらりと目にし、八重子はTVのスイッチを入れた。今日一日の出来事を告げる淡々としたアナウンサーの声を四角い部屋に響かせ、風呂道具を片付ける。白い封筒の中の文字が勝手に飛び出し、八重子の頭の中を駆け回る。昨日着いた、母からの手紙だった。 [#ここから1字下げ] 「ヤエコへ  元気ですか。こちらも随分と暑くなりました。今年の夏は厳しそうですね。  あなたと小学校で一緒だった桜井久美さん、覚えていますか、先週お式だったのですよ。久美ちゃんは東京の学校を出てこっちに戻ってきて、あっという間に結婚してしまいました。昨日お母さんがいらして、お式の写真を見せて下さったのだけれど、それはかわいらしい花嫁さんでした。」 [#ここで字下げ終わり]  八重子の母は毎週きっちりと手紙を送ってよこすから、週に一度は否《いや》が応でも八重子は母親と接することになる。母の手紙はいつも、こうした他愛のない世間話から始まる。 [#ここから1字下げ] 「あなたも来月で二十三になりますね、そろそろ、といっても遅すぎるくらいですが、先のことをしっかり見据えたほうがいいと思います。自由|気儘《きまま》にやれるのは、大学を卒業した時点で卒業しておかねばならないのではないでしょうか。自分の幸福というものについて、考え始めてもいいと思います。今のような暮しを続けて後三年先、果たしてあなたは幸福に暮していられるでしょうか。」 [#ここで字下げ終わり]  幸福、幸福、幸福、手紙に飛び散ったその一言が八重子の頭の中で散乱する。それらを集めることもせず、化粧水をはたきながら押し入れを開け、明日着ていく服を選ぶ。丸まって隅に追いやられたブラウスを引っ張り出し、アイロン台を用意する。 [#ここから1字下げ] 「かあさんはこの町を出ず、また出ようと思ったこともありませんでしたが、それなりに平和な幸せを手に入れてきたと思っています。ここでできなくて、東京でできることって一体なんでしょう。自分の天分というものを考え、それに見合った暮しをすることが幸福なのだと思っています。あなたから見るかあさんの暮しはつまらないことでしょう。でもね八重子、特別何の才能もなく大層な目的もないかあさんにとって、それは一番の幸せなのです。それが地味でも、つまらなそうに見えても。」 [#ここで字下げ終わり]  シュワッという音とともに、アイロンは白い湯気を吹き出す。TVの画面は大袈裟《おおげさ》な音を放出してCMを流す。ブラウスの皺を一つ一つ伸ばしながら、八重子は額を伝う汗をそのままにした。  去年の夏を思い出す。大学内がスーツで埋まる頃、私は就職しないと八重子は母に断言した。実際そのつもりでいた。大学一年のときに飛び込んだ学生劇団の仲間たちと、ずっと芝居を続けて行こうと決めていた。  自分の天分に見合った幸せという言葉が八重子の頭の中を旋回する。八重子の視線は音を立てずに実家の廊下をつたう。西日の差し込む和室は黄金色に光り、その黄金色に晒《さら》されながら隅でひとり背を丸め、幸福という文字を綴《つづ》る母の姿が見える。あるいは暗い廊下を辿《たど》ってゆくと、蛍光灯の光を放つ台所にぶつかる。一人の食事を終え汚れた皿をそのままに、上半身を机に付けるようにして文字をしたためる母の姿がある。  針金のハンガーに白いブラウスを掛け、アイロンのスイッチを切る。カーテンを閉め、TVから流れる歌声を背に、寝巻に着替える。TVの光だけ残った部屋で八重子は目覚し時計を手に取り、セットした時刻を確かめる。六時四十五分。半年経ってもまだその時刻に慣れず、眠るときにいつでも八重子は緊張する。  一年前——就職しないと息巻いた夏が過ぎると、八重子はふと恐怖を感じ始めた。就職しない、芝居を続けていく、八重子の抱き続けた自信は、根拠のない恐怖に揺り動かされた。特別才能のあるわけでもない自分がこのまま芝居を続けて、たとえば十年後、一体どうしているのだろう。考え始めたら、自信はもろくも崩れていく。バイトで食い繋《つな》ぐ恋人からの借金の申し入れ、二十六になり結婚すると故郷に帰った先輩、仕送りを止められ劇団ノルマを払えないと夜のバイトを始めた友人、今まで何とも思わなかった彼等の姿の中に、恐怖は増殖した。  秋になりクラスメイトが次々と内定を手にする頃、八重子はこっそりスーツを買った。母の言う「自分の天分に見合った」行動への言い訳を増殖する恐怖に包んで、一足遅い就職活動に奔走した。小さな食品会社に内定が決まってしまうと、あんなに執着していたはずだった芝居も劇団も、握り潰《つぶ》せる程度の点になっていた。  窓を開けたまま、八重子はベッドに潜り込む。カーテンを引くと、靄《もや》のかかった月が見えた。目を閉じると瞼《まぶた》の中にもう一つの月が泳ぐ。霞《かす》んだ月を見て月が泣いているとだれか言っていたけれど、あれは泣いているのではないと、八重子は思う。月は笑っているのだ。  声——笑い声が響く。八重子は慌てて辺りを見回す。白いだけの箱のような部屋に人影はなく、ただ大勢の笑う声だけが背の高い壁に反響しあう。白い箱で右往左往する八重子を見ている自分に、八重子は気が付いた。その自分はどこにいるのか——どうやら箱の中ではないらしい。これは夢だと、八重子は気が付いた。しかし笑いの渦に巻き込まれている八重子はそれに気付かず、触覚を切られた蟻のように途方に暮れて動き回っている。  大丈夫、夢だから、大丈夫。——八重子は必死に叫ぶが、箱の中の八重子に伝わる術もない。  動き回っていた八重子はふと足を止め、壁の一面にゆっくり近付いてゆく。つるりと白い壁に小さな茶色い染みが浮き上がっている。微《かす》かな染みに手を延ばしそっと触れる八重子を、もう一人の八重子はじっと見守った。八重子の指がその点に触れた瞬間、ひどく大袈裟な音を立てて壁は倒れた。八重子の目の前に細い道が現われる。グリーンの壁に囲まれつるつると光る道は、社内の廊下に似ていた。笑い声は限りなく高まり、八重子は逃れるようにつるつるとした道を歩きだす。  行っちゃいけないと、外の八重子は強く思った。しかし八重子は、薄暗い廊下の先の白い光に向かって真直ぐ足を進め続ける。  暑すぎる気温に八重子は目を開けた。暗闇の中に、光を放つ十二の点が浮かび上がる。三時二十三分。扇風機に手を延ばし、タイマーにして再び横になる。  またあの夢か。夢の中に現われた緑の壁と、薄暗い廊下と、廊下に足を踏み出したとき感じた痛いほどの冷たさを、八重子は噛《か》み締めるように思い出す。  高校二年の冬だった。下校時間の過ぎた放課後、八重子は会議室に呼びだされた。緑の壁に囲まれた暗い廊下には八重子の足音が冷たく響いた。会議室は廊下の突き当たりで、ドアに張り付いた窓がいやに白く光っていた。  ドアを開けると、教師たちがずらりと並んでいた。奥が学年主任、担任、副担任、その配置を八重子は今でも覚えている。彼等の前の椅子を引き、八重子は腰掛けた。 「修学旅行の二日目、あなたは笹原さんのお部屋にいましたね」隅の顔が言った。 「はい」 「笹原さんはそのとき、お酒と煙草を所持していましたね」 「はい」  目の前のテーブルクロスに珈琲《コーヒー》をこぼしたような薄茶色い染みがあった。それが次第に色濃く見えるほど、八重子はその一点を凝視したまま答えた。 「あなたも一緒に、お酒を飲んだんでしょう」 「いいえ」染みを見つめたまま八重子はきっぱりと言った。「飲んだのは笹原さんと山口さんだけです。煙草もそうです。私は関係ありません」  とっさに浮かんだのは一年後の受験のことだった。そして次に、母の泣く顔がぼんやりと浮かんだ。 「私は止めろと言ったんです。私は関係ありません」  目を上げず、八重子は執拗《しつよう》に繰り返した。  窓の外では相変わらず滲《にじ》んだ月が町を見下ろしている。  ——笑ってる。私を笑ってる。八重子はカーテンを閉める。笑っているのはもう一人の自分。就職が決まった時に作り上げ、頭の中で生活させているもう一人の「ヤエコ」だ。そのヤエコは気楽で気紛れで、恐怖なんて感じることなく芝居を続けて、「やりたいように生きるの」と母親に宣言している。ヤエコはたとえば——ハイヒールは履かないし、老婆の自慢話に耳など傾けない。すがる母親の涙声にさえ唾《つば》を吐き、友人と一緒に酒を飲んだと言い切るだろう。洗面台の上にあらゆる道具を並べ、大して美しくない自分の容姿に恍惚《こうこつ》とし、他のすべてを退け満足できる。そう、あの女。笑っているのはもう一人のヤエコであり銭湯で見かけるあの女だ。  瞼の裏に残る月の笑いを感じながら、八重子はまた眠りに吸い込まれていく。      2 「どういうことですかぁ?」  壁際から、花田妙子の甲高い声が聞こえてくる。書類から目を上げ、八重子は彼女の席をちらりと見た。椅子に浅く腰掛け、上半身を思い切り反らせ、血管の浮き上がった手を電話のコードに絡ませ妙子は話している。その表情に、えもいわれぬ快感が張りついているのを八重子は読み取った。 「困るんですよね、おたく、大阪だし。送って下さるんですか? どのくらいかかるんです?」  これは彼女の趣味だ。他社の食品を買い漁《あさ》り、欠陥商品を見付ける。たとえば今日は、「炭焼|焙煎《ばいせん》 インスタント珈琲」だった。五つ重なった紙コップに、顆粒《かりゆう》のインスタントコーヒーと砂糖とミルクが各々別の小袋に詰められて、五袋ずつ入っている。彼女が昨日買った炭焼焙煎には、砂糖のパックだけ入っていなかった。早速会社の電話を使って、大阪の広報部に電話をかけ、粘りのある声を転がしている。  この点に関して、何にでも天才はいるものだと八重子は発見した。ヒステリーを起こすくらいしか特技がないような妙子は、実はこういった欠陥商品をつかむ大天才である。一週間に少なくとも一度は、どういうことぉ? をやっている。  それは裏返せば、四十九になる妙子が未《いま》だ独り身で、スーパーに入ってあらゆる食品を(それは大体インスタント食品である)買うわびしい生活を送り、こんな小さなことに象徴されるほど妙子はスカを引くのが実にうまく、恐らく何においてもスカ人生を送ってきたのではなかろうかという推測にもなる。その推測も、妙子の行動や仕事ぶりやつまり一挙手一投足が、まんざら外れていないことを物語っていた。  八重子は快感にうっすらと微笑む妙子からデスクに視線を戻した。この点に限って言えば、その孤独そのスカ人生を「全国広報部荒らし」という趣味に昇華してひとり楽しみを見出した妙子は、八重子にとって称賛に値した。  八重子はチェックし終った書類をまとめ、コンピュータの前に坐《すわ》った。書類と画面を代わる代わる見つめ、八重子には意味のない数字を打ち込んでいく。  入社してから半年が経ったが、八重子はまだ自分の仕事を理解してはいなかった。コンピュータに打ち込む数字が、商品のパッケージに使われる素材の単価であり、登録ナンバーであることは分かっていたが、それがどこに渡され、どういう経路をたどって一つの商品に関わっていくのか、まるで分からなかった。頼まれるコピーが何であるのか、押す判が何の証明になるのか、前例を元に作ってゆく文書が何を言っているのか、さっぱり分からなかった。理解しようともしなかった。ただ一つ理解しえたこと——それはこの小さなビルが長い長いベルトコンベアーであり、ここに坐る自分をだれかと交換しても何も変わらないだろうという、絶望的な事実だけだった。  八重子は数字から目を上げ、視線を資料の詰まったキャビネットに流し、壁をじっと見つめる部長の薄い脳天を経由して、感情のまるでないような光を放つ蛍光灯まで引っ張り上げ、そして闇で塗り潰した。  自分の歩く道、というものが八重子には見えていた。それはこのビルの廊下のように障害物を含まず真直ぐ延び、虚《むな》しいほど適度な明るさで、白々しいほど眩《まばゆ》い光沢を塗り込めている。それがはっきりと見えてきた高校生の頃から、自分の足元から延びるその道を八重子は嫌悪した。そこには、念入りに消されてはいるが、一筋に続く足跡があった。  八重子は幾度も、その道を逸れようと試みた。八重子が大学に入って芝居を始めたのはそんな理由からだった。部室である校舎傍の掘っ建て小屋は薄暗く酒の匂いが染み付いていて、つるつる光る八重子の道の障害物にいかにもなり得そうだった。  しかし四年間、八重子は演出家やほかの劇団員に非難を浴びても、汚れたジャージ姿のまま稽古《けいこ》を抜けて授業に出た。どんなに疲れても試験前には徹夜し、成績表に秀を並べた。掘っ建て小屋の中では八重子はかえって異端児だった。早々と進級を諦《あきら》めて芝居に没頭する仲間や、除籍処分を受けても稽古をしに大学に通う先輩や、何年経っても一年生のままの先輩の間で、順調に進級して行く八重子は、幾分|嘲笑《ちようしよう》を込めて「奇跡の子」と呼ばれた。  薄暗く酒臭い部室に同化したように体を丸める時、酒を飲みながら息を潜め部室で何人かと夜を過ごす時、着飾った大学生の間を縫ってマラソンをする時、八重子は自分の足元から目を逸らすことができた。自分の道を外れて、全く別の道を歩き始めたことを確かに感じた。足跡のない道。自分で方向を決められる道。  しかし進級が決まる度、つるつるした一本道は再び八重子の前に現われ、八重子は溜《た》め息をついた。その溜め息はいつも、その道にしっとりと吸い込まれ、光沢を増していく。  就職が決まり一段落付いた時、母親から電話があった。どうするの、本当に就職しないつもりなの、聞き飽きた質問に、就職先決まったわよと八重子は心の中で言ってみた。しかし口はそれを裏切って、勝手に喋《しやべ》っていた。 「何度言ったら分かるの、私は就職しないわ。このまま芝居を続けるの」  その語気の強さに、八重子自身が驚いた。  どうしてと繰り返す母親を相手に、可能性なんて幾つも転がっていて、そして輝く未来のために就職は宜《よろ》しくないと思う旨を説明し、私は就職しませんと八重子は夢中で喋った。母親は幾秒かぽかんと言葉を失い、意識を取り戻して、暮すということ、食べるということがどういうことか分かっているかと言った。芝居を続けるというその芝居自体母親には理解できず、芝居といえば宝塚を思う母親は、わが子がまるで夢の話をしているとしか思えないらしかった。八重子の言う芝居というものを母親に説明する気にもなれなかったし、実際芝居なんて八重子の中では説明するにも足らない小さな染みに過ぎなくなっていた。八重子はしばらく口を閉ざした。母親は壊れた噴水のように言葉を連射し、気の狂い始めたらしい娘を説得にかかった。働くことこそが全うな道であり、自分に見合った平凡こそが幸福であり、月々お給金をいただけることこそが輝かしい未来のはずである。——。 「芝居をやるの。やりたいように生きるの」自分の中でとっくに錆《さ》び始めたそのフレーズを、八重子はただ繰り返した。ライトを浴び、BGMを吸い込んで叫んだ、きらめく台詞《せりふ》のように。  大学を出て、習得したユング哲学や宗教史や古典文学を燃えないごみの日に捨てて、お茶電話コンピュータお茶、の生活は、果たして輝く私の未来なのであろうか、そう考えて八重子は目を開ける。突然入り込んだ蛍光灯の光に目が眩《くら》む。いや、そうであるはずだと八重子は思い直す。  この毎日は、輝かしい未来に繋《つな》がるはずである。それを八重子自身信じているから、毎日定時に起きて混んだ電車に乗りこみ同じ場所に向かうのである。  母親が言った輝かしさ、八重子が手にしようとしている輝かしさ、それはもしかして、窓のないこの部屋の、けばけばしくも薄っぺらい、偽物くさくて安っぽい蛍光灯の如き輝きなのかもしれない——眩《まぶ》しさに目を細めながら、八重子はぼんやりと考えた。 「高沢さん」  呼び止められて振り向くと、軽く上半身を反らすようにして妙子が立っていた。 「今、何時? 今週の当番、あなたじゃなくて? どうしてあなたはいつも、そうぼんやりしているの。半年も経つのに、学生気分がまだ抜けないの」  八重子は時計を見あげた。三時三分過ぎである。 「すみません」  たかが三分じゃないかと思いながら、八重子は立ち上がった。同僚の香織が、哀れむような目付きで妙子に捕まった八重子を振り返っているのが、視界の隅に映った。その視線が、昨日老婆に捕まった八重子を見ていた見知らぬ主婦たちの同情的な視線と重なり、部屋を出るとき八重子はこのままつるつるした廊下を歩いて帰りたくなった。  部の人数分麦茶を注ぎ、メーカー先から頂いた菓子を添えて八重子は運んだ。部長から順に、麦茶と菓子を配って歩く。その様子を妙子がじっと見守っていた。また何か言われるかと、八重子はびくびくしてぎこちない動作を繰り返した。  妙子の席にコップを置くと、妙子はそれをじっと見つめた。八重子は動けなくなる。 「ねえ高沢さん。これ、麦茶のパック、幾ついれた」 「一つです」  妙子は目を見張って八重子の顔を見つめた。見開かれた瞳《ひとみ》の縁の睫毛《まつげ》は、丁寧にくるりと上を向いている。一つ一つの皺《しわ》にまでファンデーションがしつこく塗りたくられている。八重子は目を伏せ、妙子の首筋に絡まったアクセサリーを見た。喋る度に、喉《のど》に浮き上がった骨が小さく組体操するのを見て、何を飾る必要があるのだろうとぼんやり考える。茶系の口紅を付けた唇が、嬉々《きき》として動いた。 「先月、あなたが当番だったとき、わたし言ったじゃない。一パックじゃ薄いのよって。聞いていなかったの」  八重子は記憶を辿《たど》った。そんなことを言われた覚えがない。しかし妙子のきつい視線に合うと言われたような気になってしまう。やはり自分がぼんやりして、聞き逃したのかもしれないと思ってしまう。 「すみません」 「すみませんすみませんって、鸚鵡《おうむ》みたいにそんなこと繰り返してるから、人の話を聞き逃すのよ」  妙子は立ち上がると、八重子が配ったコップを集めて回った。八重子が唖然《あぜん》として立っていると、 「飲めやしない、入れ替えてくるわ」  盆を持った妙子はそう言い捨てて出て行った。 「今日はあんたがマトね、先々週わたしだったじゃない、当番。そのときは、一パックでいいって、会社の金だからって無駄にするなってほざいたのよ、クソババア。頭がおかしいんだから、気にすることないわよ。何、あのワンピース、黄色に緑の水玉よ? キレてるわ、完全に」  立ち尽くす八重子に近付き、慰めるように香織がそう囁《ささや》いた。 「全く、どうして麦茶のパックでわたしたちが頭使わなくちゃいけないの」  周りの社員に聞こえるように言うと、香織は席に戻って行った。八重子はのろのろと、所在なげにパソコンの前に戻った。先輩社員と目が合うと、彼は仕方ないよと視線に含んで苦笑した。  これから一週間は、三分遅れと麦茶のパックで妙子に嫌味《いやみ》を言われ続けることを考えて、八重子は果てしなく暗い気持ちに襲われた。言葉を連射する妙子と向かい合った時、どうしても目が行ってしまう妙子の弛《ゆる》んだ肌や、顔と色の違う首や薄緑の血管、それらが八重子には真っ黒い穴に思えてしまう。ひくひくと動く喉の骨は、八重子をもその穴に引きずり込んでしまうように思えた。  お茶について、当番について、机の拭《ふ》き方について、ファイルの綴《と》じ方について、キャビネットの整理について、そういった仕事そのものでなく仕事の周辺に対して、妙子は異常な程固執した。しかもその固執には一貫性がなく、日によって違う主張を繰り広げる。それらには正しいも間違いも存在しないような問題で、この部の主である妙子の一言によって決定し、それについて誰も何も言えないのだった。  この部に配属になり、妙子のヒステリーに近い小言を初めて目にしたとき、その異常性に八重子はぞっとした。たとえば時間ぎりぎりに出社してくる新入社員を捕まえて、約一か月彼女のルーズさについて責めあげた。デスクの上が汚いと、どこで調べたのか育ちから家族のことから出身校まで持ち出され、それらを机の上の汚さにこじつけて責められた同僚もいた。給湯室で泣いていた彼女を通りかかった八重子は見た。香織が言う通り、確かに精神的に破綻《はたん》を来した人だと八重子は信じていた。  しかし三か月ほどたって、その異常な固執性のわけを、何となくだが八重子は知った気がした。家に帰っても話す相手もいない、頼る相手もいない、四十九の女。かといって仕事が彼女を支えるほど、彼女が大きな仕事をしているとは思えなかった。一応主任という肩書きを持ってはいるものの、妙子が何の主任であるのか八重子は半年経っても分からずにいた。やり終えた書類は妙子の目を通すようにということになっているようだったが、上のだれもがそんな面倒なことをせず処理していくので、八重子もそうしていた。それでも妙子は念入りに化粧をし、とんでもなく時代錯誤な格好で身を飾り、毎日ここへ来る。入社してから三十年、妙子が繰り返してきたお茶のくみ方、机の拭き方、ホチキス芯《しん》の位置、それらは妙子がひとり築いた城であり、妙子が守るべき最後の砦《とりで》なのではないかと、八重子は考えた。そう考えると、麦茶が一パックだ二パックだと騒いで人を動かし満足する妙子の勝ち誇った表情も、理解はできないが納得はいった。  まだ研修期間だったとき、洗面所で喫煙していて妙子にしつこく咎《とが》められた同期入社の芳恵は、妙子のヒステリーを笑った。 「すごーい。あんな人、本当にいるのね、漫画と週刊誌の中だけだと思ってたあ」  無邪気に笑った芳恵は、広告部に配属された。永遠にこの恐怖と関係のない場所で、笑っていられるのだ。時々彼女は八重子と帰りが一緒になると、妙子の話をねだるのだった。 「ねえ、あの変な人の話してよ、何か面白いことない」  意味のない数字、窓のない部屋、蛍光灯の明り、異常な先輩、それらがすべて現実だとしつこく告げるかのように正確に時を刻む壁に掛かった時計。正体不明の気味の悪いぐにょぐにょした太い腕に、心臓をぐっと掴《つか》まれて揺さぶられている気持ちになり、八重子は吐き気を覚えた。  だらだらと仕事をし、八重子が会社を出たのは八時過ぎだった。エレベーターで一緒になった隣の部の木村が声をかける。 「こんな時間まで仕事じゃ大変だね、どう、メシ食いに行かない」  木村の首の下に垂れ下がったネクタイを見つめ、何と断わろうかと考えながら八重子は曖昧《あいまい》に笑った。咄嗟《とつさ》に思い付いた断わる口実をそのまま言う。 「あの、銭湯にいけなくなりますから」 「えっ、銭湯なの、高沢さんて」大袈裟《おおげさ》なくらい驚いて木村は言った。「珍しいね、今時。うちの給料、そんなに安い?」 「学生の時から引っ越していないんです、面倒で」  銭湯通いだと言う時、八重子は少しばかり誇り高い気持ちになった。それは学生時代の、自分の道を逸れたと錯覚した時の、唯一の名残のように思えた。しかし、珍しいねと繰り返す木村の驚く顔を見ていると、さすがにきまり悪くなる。 「気持ちいいですよ、結構。ユニットバスってだめなんです。夏は毎日行かなきゃ気持ち悪いから、ちょっと大変ですけどね」  きまり悪さを隠そうと、八重子はわざと声を上げた。エレベーターが口を開けると、「失礼します」逃げるように八重子は立ち去った。  汗の染み込んだブラウスをランドリーボックスに押し入れ、ストッキングを脱ぎ、太腿《ふともも》があらわになるミニスカートをはいた。タンクトップに袖《そで》を通し、鼻唄《はなうた》混じりで風呂《ふろ》に行く用意をする。姿見は見ない。足の太さも、年齢に不釣り合いなミニスカートも、鏡は正確に描写するから。 「いらっしゃいませエ」自動ドアを潜ると、録音したような声で女主人が言い、脇に立った中年女と話を続けた。 「やり方よね、つまりは」カウンターに肘《ひじ》を載せ、頭にタオルを巻いた女は言う。八重子は五百円玉をカウンターに置いた。目線を中年女に向けたまま、女主人は機械的にお釣りを出す。 「つぶす前に、ちょっと考えりゃいいのよ。そりゃマンションにすれば儲《もう》かるんでしょうけど、代々続いたところじゃない、そんなに簡単にさ」 「罰が当たるわよ、そんなに簡単に止めちゃったら」  八重子はつんとすまして暖簾《のれん》を潜った。よかった、今日はそんなに混んでいないと思いつつタンクトップを脱ぐ。ミニスカートを下ろす。色の白い子供がつるつると頬を光らせて素っ裸のまま八重子を見上げている。母親らしき女も裸のままクーラーの前に立ちはだかり、気持ちよさげに目を閉じている。  裸になった八重子はそろりと湯殿の戸を開けた。白い湯気が待ち構えていたように八重子を包む。八重子はぐるりと見回し、人気の少ない排水溝側に椅子を置き、離れた場所に置いてあるオレンジ色の洗面器を見付けた。見覚えのあるそれは、あの女のものだ。台の上に並んだいくつもの瓶を見て、八重子はそれを確信する。  頭上のシャワーを捻《ひね》り、八重子はうつむいて背中を当てた。足下を通る細い溝に、向こうから流されてきた髪の毛や垢《あか》が揺れ動いて流されていく。それを見つめる八重子の耳に、甲高い声が響いた。 「今日はいなくて安心よぉ」  声のほうに視線を投げると、あの女が勝ち気そうな目を輝かせて隣り合った女と大声で話している。 「悪いけど、ほっとしちゃうわねえ」低い声で、隣の中年女は答えている。 「あのばあさんがいるとあたし全身の毛穴から血が吹き出そうになるの、いらいらして」  桶《おけ》にためた湯をざぶざぶと浴び、彼女は鏡を見据えたまま言った。横の女は声を上げて笑う。 「だってさあ、喋《しやべ》り通し、汚いじゃない、唾《つば》飛ばして。それも自慢ばっかり。変よ、あの人」 「聞いてる方はたまんないわよねえ」  二人のうしろを通りかかった老人が、「お先に」と頭を下げる。「お休みなさい」二人はにこやかに答えた。 「ほらほらあのさ、新婚さんいるじゃない、あの人なんか、話つきあわされて、閉店までばあさんの横に素っ裸で坐《すわ》らされてさ、夏風邪ひいたって。馬鹿らしいよねえ」  生意気そうな顔に似合わず、鈴のような声だと八重子は思った。常連と軽口を叩《たた》ける女が八重子にはやはり羨《うらや》ましかった。そういえば自分はこの広い洗い場の中で一度も声を出したことがないと、八重子はふと気が付いた。自分の声は湯気の中、どんなふうに響くのだろうか。八重子は横目で女を盗み見ながら、皮膚が剥《は》がれるくらい力を入れて体を擦《こす》った。湯の張った桶にスポンジを浸すと、泡と一緒に白い垢が浮かび上がる。湯に浮かび排水溝を流れて行く、自分の落とした垢を見るのが八重子は好きだった。それは今日一日の自分、嫌な出来事、そして纏《まと》わり付く母の頼りない手紙の文字に思えた。削りはがれ落とし、いつしか体が軽くなってあの女のようになれる気がした。自由に振る舞い鏡の中の自分を凝視し、湯殿を甲高い悪口で満たすことができるあの女のように。  八重子の視線に気付かないで、彼女は執拗《しつよう》に腹を泡立て、夢中で話し続ける。一つ一つの動作を覚え込むように、八重子はじっと彼女を見つめた。 [#ここから1字下げ] 「かあさん。」 [#ここで字下げ終わり]  ミニスカートの足を放り投げ、八重子はペンを握った。 [#ここから1字下げ] 「手紙をどうもありがとう。何度も言いますが、私の方は心配いりませんから、そう何度も手紙を送らなくて結構です。」 [#ここで字下げ終わり]  アパートの近くを走る環七から、車の流れる音が絶え間なく八重子の部屋に届く。雨の音にとてもよく似ている。それと調子を合わせるように、首を振る扇風機がぶーんぶーんと規則的に音を奏でる。この二つがぽっかりと浮かび上がり調和するほど、しんと静まり返っていた。 [#ここから1字下げ] 「ぜいたくはできませんが、暮せる程度にはバイトをしています。好きなことをして暮せるということは、幸せなことだと思っています。  秋の公演も決まり、今は稽古《けいこ》の毎日です。小屋を借りたり、大道具や衣裳《いしよう》を揃えるため、一人五万ほどノルマとして支払わなければなりません。でも、たとえ冷蔵庫の中にキャベツが一つしか入っていなくても、私はこの暮しを手放したいとは思わないのです。  稽古では、そりゃあうまくいかないこともあるし、演出家に怒鳴られることもありますが、舞台に立って与えられた台詞《せりふ》を言い与えられた役を演じることは、私にとって最高の幸福なのです。それは私の表現方法です。生きていく上でどうしても必要なものなのです。」 [#ここで字下げ終わり]  いくらでも文字は現われた。ペンが止まらない限り、八重子は眠りに落ちる瞬間のように満たされていた。頭の中で自在に動く架空のヤエコを描写し続ける間は、意味のない数字も、常に変わらない蛍光灯の明るさも、麦茶のパックも、遠い彼方《かなた》の出来事だった。付け放しのTVが流すドラマの筋と変わりがなかった。車の流れと扇風機の組曲に包まれ、八重子はじっと頭の中で息をしていた。  ドアがノックされた気がして、八重子はペンを置いた。耳を澄ます。とんとんと、確かにドアはノックされている。どちら様ですかと声を出す前に、聞き慣れた声がドアの向こうから滑り込む。 「俺だけど」  八重子は急いで便箋《びんせん》をしまい、取り繕うように簡単に辺りを片付けると、ドアに駆け寄った。半年も前に別れた恋人に対して愛情など消え失《う》せていたが、無性に気持ちが華やいでいた。 「何、こんな時間に」  時計を振り返って八重子は言う。 「今度の公演のさ、チラシあがったから……持ってきた」  それがただの言い訳だろうということが八重子には分かっていた。就職祝いだ、会いたくなった、台本見せに来た、弱音と愚痴と、あるいは金を借りたいの一言を何かしらの言い訳に包んで、かつての恋人はしょっちゅうここへ来た。だから蛇のようにこずるい京市の目を見据えたままチラシだけ受け取り、追い返しても良かった。しかし八重子は言った。 「どうぞ。上がって、散らかってるけど」  当然のように京市は靴を脱ぐ。ぶつからぬよう頭を下げて鴨居《かもい》を潜る。そんな仕草を一つ一つ見ていると、八重子は一瞬現実を脱ぎ捨てることができた。現実の八重子と架空のヤエコの境界線がぼやける。あの頃と変わらぬ京市。あの頃と変わらぬ汚れたTシャツにジーンズ。あの頃と変わらぬ芝居の話。そしてそんな京市を迎え入れる、タンクトップにミニスカートの自分。この男だけが、就職した八重子と関係のないところにいた。 「麦茶しかないけど」 「うん。麦茶でいい」 「相変わらず汚いかっこして」八重子は笑った。 「今、道具作ってるから。ペンキだらけだろ」  京市は所々色の付いた両手を広げて見せた。八重子はキッチンに立ってコップに氷をいれた。からからと澄んだ音が響く。 「どう、稽古は」  さっきこの部屋で自由に動き回っていたヤエコが、ふっと自分に舞い降りた気が、八重子にはしていた。 「それがさあ」京市は喋り始める。「今日CMとったんだよ、営業の仕事が来てさ、ラジオCM」 「へえ、すごいじゃない」 「滝さんの知り合いが広告会社にいてさ、そこから来た話なんだけど」  テーブルの上にコースターを敷き、コップを置く。京市は足を投げ出し、蛍光灯を見上げた。 「暑いなこの部屋。引っ越せば? 給料いいんだから」  八重子は黙って扇風機を彼に向けた。 「�今日、僕は手紙を書いた。宛先《あてさき》は、もちろんあの子。このペンで書くと、不思議に正直になれる。�くだらねえ台詞」  京市はおどけてCMの台詞を喋る。八重子は笑った。 「ギャラいくらだと思う? 七万だよ、七万。三十秒喋って七万。いやになるよな」 「へえ、高いのね、CMって」 「でさ、今回ノルマ分が六万で、楽勝だと思ってたんだよ。そしたら滝の奴、劇団収入だって全部取り上げやがった。ま、うちの赤字も深刻なのは分かるけどね、それにしても」  八重子は立ち上がってキッチンに行った。意味もなく水道の蛇口を捻《ひね》り、両手を冷やす。京市は背中を向けたまま話し続けていた。  打ち合わせとリハと収録で拘束されたこと、従って最近はバイトができなかったこと、体調がよくないこと、言いたい一言を幾重もの説明に包んで、京市はたらたらと喋った。八重子はそっと振り返り京市を見た。大きな背中は、故郷でTVの前に坐り込む父親と重なった。  今すぐ帰ってほしい——激しく思いすぎて鼓動が高鳴る。騒ぐ心臓を抱え、帰ってと口の中で呟《つぶや》く。八重子は流れる水の音に耳を澄ませ、冷たい感触を味わい続けた。      3  部屋の一角が、四角い形に白く浮かび上がる。朦朧《もうろう》とした意識の中で、ああ出口が見え始めたと八重子は四角を見上げる。ああよかった。助かった。ここから出てゆける。立ち上がろうとして急に意識がはっきりする。白い四角は、朝日に晒《さら》されたカーテンだった。  ——朝か。八重子は目覚しを手に取る。六時四十分。目覚しの鳴る五分前に必ず目が覚める。八重子は顔をしかめて洗面所に向かった。  かんかんとやかましく鳴り続ける遮断機の前で、八重子は足を止めた。八重子の隣に立った男は、上がらない遮断機と腕時計を交互に見て舌打ちをする。前の女はコンパクトを開けて化粧の最終チェックをしている。八重子たちの前を、細長い窓にびっしり人を張りつけた急行電車が駆け抜けてゆく。轟音《ごうおん》と共に頭の中に散らばる文字を、八重子は丁寧に拾い上げた。 [#ここから1字下げ] 「ヤエコへ  元気ですか。時子おばさんが昨日取れたての苺《いちご》を沢山持って来て下さいました。八重子にも少し送ります。一人でいるときっと、果物なんて食べないでしょうから——」 [#ここで字下げ終わり]  頼りない筆跡の一つ一つを覚え込むほど繰り返し読んだ、母からの手紙だった。 [#ここから1字下げ] 「加藤さんのところのおばあちゃん、覚えていますか。とうとう老人ボケが来たようで、おとついは家の庭でおせんべを齧《かじ》っていたんですよ。まだ六十を過ぎたばかりですって。こうなるとかあさんも分かりませんね。父さんは相変わらず出歩いてばかりいるし、たった一人のこの家でかあさんは狂っていくのだろうか、死んでゆくのだろうかと思うと、とても心細くなります。」 [#ここで字下げ終わり]  太陽は斜めに高い。八重子はハンカチを出して額を拭《ぬぐ》った。遮断機がゆっくり上がる。潜り抜けようと身を屈め、何人もが駅に駆け出す。遅れをとらないように、八重子もハンカチを握り締めて走った。ヒールで蹴《け》りつけるコンクリートがくつくつと笑い声を立てているように思えた。 [#ここから1字下げ] 「一人——この家にたった一人なのです。一人分の食事は作る気も起こらず、八重子がいた頃のことばかり思い出してしまいます。お膳には幾つも料理が並べられ、笑い声が絶えなかった食卓。とても幸せだったと思います。分かりますか、八重子。幸福ってそういうものです。平凡はいやだとか、人と違ったことをしたいとか、そういうのじゃないんです。言葉を交わす子供がいること、毎日その子のために料理を作ること、そんな何も起こらない日々の積み重ねこそが、女の幸せなのだとかあさんは思います。」 [#ここで字下げ終わり]  ぎっしり詰まった人と人の間のわずかな透き間からクーラーの風がやっと流れてくる。右腕にくっついた男のワイシャツが汗で滲《にじ》んでゆくのを感じながら、八重子はじっと車内広告を見つめた。八重子の脇の下をくすぐるように汗が流れる。  新宿に着くと乗客は、我れ先にと出口に押し寄せ、出口を潜ると走り出す。八重子も必死で後に続いた。 [#ここから1字下げ] 「パート先の奥さんがたの話を聞いていると、かあさんには本当に何もないなあと思うのです。旅行、編物、着付け、皆何かしら趣味を持っているんですもの。かあさんには本当に何もない。結婚して、働いて、あなたを育てて、そうしているうちにあれを捨ててこれを捨てて、何かやりたいなんて気持ちすらも捨ててしまって、だけど八重子がいるからいいって生きてきました。あんな父さんと一緒にいたのだって、あなたの為なんです。そのあなたは、何か知らないけれどいつまでも夢のようなことばかり言ってふらふらしている。私は一体何をして来たんだろう……考えることがないから、そんなことばかり考えています。かあさんはこうしてひとり取り残されるために、必死で働いて来たのだろうか、なんて。」 [#ここで字下げ終わり]  地下鉄の駅構内はむんとした空気で溢《あふ》れていた。ただでさえ狭いホームを、まっすぐ歩けないほど狭くする人の列の後ろに八重子は並んだ。出口から零《こぼ》れそうな人の固まりを、駅員が必死で押し込んでいる。八重子の素足から汗が吹き出し、ストッキングを密着させる。毎日のことながら、八重子はその場で大声を上げたい衝動に駆られる。 [#ここから1字下げ] 「こんなもん、そう思います。かあさんの人生なんて、こんなもんなのだと。」 [#ここで字下げ終わり]  窓の外を轟音をたてて灰色の壁が流れてゆく。車両に詰まった人々の汗も息も思惑も懸念も話し声も吸収せず、しかしはねつけることもせず複雑に絡み合い決して溶け合わない薄闇。  膨大な時間、膨大な空白にひとり身を沈める母の姿が、小さく八重子の瞼《まぶた》に張り付いていた。  高沢、高沢、高沢、……インキが滲むシャチハタを押しながら、この文字が永遠に続くのではないかと八重子は考えた。八重子には、どうして今自分がこの仕事をしているのか分からなくなりそうだった。  二日前に作成した書類は、判この位置が違うと今朝部長から突き返された。部長の判こより二、三ミリ低い位置に自分の判こを押すものだと部長が叫んでも、八重子はぽかんとしていた。部長の太い指が指す、「三上」の斜め上の「高沢」の判を八重子はじっと見下ろしていた。そのまま部長の説教は約一時間続いた。説教のテーマは判この位置からホチキスの位置になり、そこから電話の切り方を経て、半年も経つのに八重子が仕事を理解していないことに及んだ。そこで結論が出されるのかと思いきや、論点は大きく翻って服装の話になり、意外にも挨拶《あいさつ》の問題に移り、××大出は生意気だという終焉《しゆうえん》を迎えた。まるで幼稚園の砂場みたいに、大人の詰まったこのビルにも出身大学による派閥があるのかと思うとおかしかったが、それにほくそ笑むほど八重子は冷静になれなかった。頭は禿《は》げ上がり皮膚は脂ぎった男の前に一時間も立ち尽くし、ホチキスの位置や電話の切り方で叱られている自分が情けなかった。そしてそれに従うだろう自分、従わざるをえない立場を考えると指が震えた。  部長に説教を食らった八重子を見ていたのか、今日の妙子の「マト」は八重子ではなかった。一時間叱られた八重子にわざわざマトを当てることなく、八重子より二つ上の治美のデスクに寄り添って嫌味《いやみ》を言い続けているところを見ると、妙子にも少しは慈悲の心が残っているのだろうか……新しい書類に判を押しながら八重子はぼんやりと考えた。  八重子はそっと席を立ち廊下に出た。廊下の突き当たりに大きな窓がある。八重子はその傍に立ち、下を見下ろした。横断歩道の白線を、小さな人の姿が消してゆく。高く昇った太陽は歩道にくっきりと陰影を描き出している。母親に手を引かれ風船を持った子供が微《かす》かに見える。そこだけくっきり浮かび上がる赤い点を八重子は目で追った。ゆるゆる進んでいく赤い点の周りが、ぼうっと灰色に霞《かす》んでいく。  時折走る車が砂埃《すなぼこり》をたてた道は、八重子が中学生のときに舗装された。しかし舗装されたのは大きな道路だけで、ついと曲がると八重子の引く自転車が砂埃を上げ、白いソックスは薄く黄ばんだ。その町には高い建物はなかったから、東京より日陰が少なかったように思う。沈む夕日は何にも邪魔されず、きっちりと川向こうの山に身を落とした。  砂埃の道の両脇は雑草が生い茂り、夏になるとぽつぽつと蛇苺が赤かった。右側には水田が広がり、左には様々な野菜を実らせる畑が、異なった緑を誇示している。いつの頃からか八重子はその光景を嫌悪し、田畑に囲まれた細い道を歩くときはいつでも息苦しかった。匂いたつ緑の鮮やかさも、一面鏡になった水田に影を落とす人の姿も、夕暮れ時に一斉に金色に輝く平坦《へいたん》な広がりも、たまらなく八重子を不快にした。  ときたま家に帰る父は、TVにかじりついていつも背中を見せていた。父の背中を見ながら八重子と母は夕食をとった。母は、沈黙とTVの音を消し、後ろ姿の父と俯《うつむ》く八重子と自分を結び付けるように、絶えずはしゃいで喋《しやべ》り続け、意味もなく笑った。近所の噂話、今日の出来事、パート先の話、大体そんなところだった。「話題の絶えない明るい家庭」と無邪気に信じているらしい満足げな母の笑顔から目を逸らし、八重子は黙ってそれらの話を耳に通していた。母の話はこの町の小ささを、母の世界の狭さを、よりくっきりと描き出していく。点々とある商店と、すべて知人の町内と、バスと、パート先。精々広がってバスの終点が連れていくデパートだった。途切れることのないTVの音、母の声、網戸に張り付いた闇が絞りだす縷々《るる》とした虫の音、子供の頃に果てしなく広いはずだったその場所は、ある日突然低い囲いを被せられ、狭く区切られた。  畳の上にはビールを注いだコップから滴る水滴が丸く円を描いた。TVの前には無数の円があった。八重子は畳をみないように注意して歩いた。  ベッドに入ると、三日に一度は叫び声が響いてきた。二、三軒先に平屋建てのアパートがある。その中の一部屋について、母が近所の主婦と眉《まゆ》をひそめて話しているのを八重子は聞いたことがあった。ある時はあの奥さんは日本人ではないと言い、ある時は精神病院から抜け出してきたらしいと言い、土地の人じゃないからと話は落ち着く。ぼそぼそと低い男の声が聞こえ、甲高い女の叫び声が続いた。何を言っているのか分からない女の声は確かに異国語にも聞こえ、気が狂っているようにも聞こえた。八重子は布団に潜り込み、耳を塞《ふさ》いだ。  ここのすべてがいやだった。この町、この場所、父の生活、母の生活、幸福の神話で満ちているこの家、風景、淡々と流れる時間、自分がここで生まれ育ったという事実、ここにいるという現実、すべてを捨てて火をつけたいと切実に願ったのは八重子が高二の時だった。  八重子は頭を振って、目の前に広がってゆく光景をふるい落とした。横断歩道の白線が、点滅する青信号が、連立するビルが色をつけて動き出す。  捨てるように置いてきたそれらは、母の声でずるずると引き出されてくるのだと八重子は思った。毎週送られてくる手紙から浮かび上がる母の声で。  置いてきたはずの場所に、まだ自分は立っているのではないか。逃げ切ったつもりで、いつも先回りされて取り囲まれるような気が八重子にはした。  ヒールを鳴らして八重子は窓を離れた。 「直してよっ!」  その大声に、思わず八重子は入り口で足を止めた。その部屋にいた全員が声の飛んできた方を振り向いた。自分に集まる視線を気にもとめず、妙子はキャビネットの傍に立って小刻みに震えている。 「何がどこにあるのか全然分からないわ! さあ、今すぐ直してッ」  妙子は地団駄《じだんだ》を踏んで叫んだ。彼女の震える指は、まっすぐキャビネットを指していた。キャビネットはいつも雑然とし、使いにくいと八重子たちは文句を言っていたが、その日のキャビネットは図書館のように整然としていた。妙子の前に立った治美は食い入るように妙子を見つめ、 「使いにくかったものですから」  尖《とが》った声を出した。 「分からないわ、前はちゃんとどこに何があるか分かったのよ、こんなんじゃどうしようもないわ」  妙子はなおも声を張り上げる。一人二人と彼女から目を逸らし、自分の仕事に戻ってゆく。八重子は入り口に立ったままぽかんと口を開け、小さく体を震わす妙子の顔の上で、うっすらとした皺《しわ》が虫のように蠢《うごめ》くのを眺めていた。 「だれがここを整理しろと言ったの、自分の仕事だけやってりゃいいのよッ」  妙子の守る砦《とりで》の中に、あの雑然としたキャビネットも含まれていたのだ。妙子にとってそれは自分の聖域であり、利用する以外だれも触れてはいけない場所だったらしい。妙子はまるで、砂場で作った小さな山を踏み付けられ泣き叫ぶ子供だった。 「直してッ! 早く!」  満身の力を込めて妙子が叫ぶ。彼女をじっと睨《にら》んでいた治美はみるみるうちに顔を赤くし、つかつかとキャビネットに歩み寄るとファイルをすべて床にばらまいた。不規則なその音にまた部屋中が振り向く。壁の仕切りから顔を覗《のぞ》かせる隣の部の人間もいた。それらの視線を潜り抜け、入り口に立った八重子に体当たりするように治美は部屋を出て行った。奇妙な静けさがそこに残った。  八重子は、治美の出て行った空間を戻りながら、ヤエコならやはりこうするだろうと考えた。頭の中で自由に動くヤエコなら、気持ちのままに怒りをぶつけて出てゆくだろう。書類も判こも投げ出して、できれば八重子も治美の後を追いたかった。  三十分後に赤い目をして戻ってきた治美は、黙って床に散らばったファイルを片付けていた。元通り、ぐちゃぐちゃと積み上げてゆく。すべて片付けると治美は妙子のデスクの傍に立ち、部屋中に聞こえるような声で、 「申し訳ありませんでした」  と頭を下げた。妙子はつんとすましてそっぽを向いている。頭を上げると治美はコンピュータの前に戻り、また黙々と規則的な音を響かせ始めた。視界の隅に治美の動作を見ていた八重子は、心の中で舌打ちをした。  ——つまらない。戻ってきたりしちゃだめなのよ。謝ったりしちゃ。ヤエコだったら、あのまま二度と戻ってこないだろう、ヤエコだったら……。  音を立てて崩されたファイルの山にも、妙子にも治美にも部の雰囲気にも、全くいつも通りの時間が戻ってきて、そして全員いつも通りの囲いの中に落ち着いた。まるで何事もなかったかのように。昨日と変わらぬこの場所に、すべてがぴたりとはまり込んでいた。  判こ押しは四時まで続いた。書類を部長に差し出すと、「判こに一日」ぼそりとそう言って八重子を見あげた。それからぼんやりとコンピュータを打ち、八時になって八重子は社を出た。  エレベーターに乗り込むと、後ろから妙子が走って乗り込んだ。扉が閉まる。さっき声を張り上げて足踏みをしていた女が自分の背後にいると思うと、八重子は何だかぞっとした。 「あなたも遅くまで大変ね」  声をかけられ、八重子は振り向いた。妙子は穏やかな顔で笑っている。淡いピンクのブラウスは、どう見ても不釣り合いだと八重子は思った。 「駅まで一緒に帰りましょ」  エレベーターが開くと、妙子は笑いかけた。八重子は曖昧《あいまい》に微笑む。 「まだまだ暑くなるわねえ」  自動ドアを潜ると、熱気のこもった濃紺の空気が二人を包む。そうだ今は夏だったんだと八重子は思いだす。利き過ぎる冷房にカーディガンをはおるビルの中には四季がない。 「猫が増えたの」  子供のように上目遣いで八重子を見、妙子は口を開いた。 「猫」 「わたしの部屋は一階でね、庭に野良猫が集まるのよ。シロ、チャ、ミケ、……名前をつけててね。昨日、見知らぬ子が来てたのよ」  一瞬の沈黙も埋めるように妙子は喋り続ける。口に当てた妙子の手に浮き上がった薄緑の血管を八重子は眺めて相槌《あいづち》を打った。 「茶と白と、少し銀の混ざった綺麗《きれい》な猫。わたし庭に餌《えさ》置いてるんだけど、他のに混じって、でも遠慮がちに近付いてきて、ソッソッと食べるのよ。その様子がかわいくて」両手を口に当てて、少女のようにくすくすと妙子は笑った。「すぐギンて名前付けてね、『ギン、明日もおいで、ギン』ってね、餌を余計に置いとくの。そうすると大将のクロが図々しく食べちゃうのね」  疎《まば》らな人影の透き間に地下鉄入り口の白いネオンが見え、八重子はなぜかほっとした。 「あなた今年入ったのよね。あなたも独りでしょ? 大変ね」 「……ええ、そうですね」 「幾つ? 二十三?」 「八月で二十三です」 「へえ……。いいわね、若くて」  ええ、と答えるのも何か変だなと思い、八重子は黙った。 「まだまだ先があるものね、白紙の未来が」  喋り続けた妙子はそう言うと、ふと口をつぐんだ。車の流れる音が八重子の耳元で急に大きくなった。 「わたしなんか、つまらない人生だもの。羨《うらや》ましいわ、若い人が」  地下鉄入り口の階段を下りる時、ぽつりと妙子は付け足した。  ——つまらない人生。八重子は心の中で繰り返す。掌《てのひら》に載せた一握りの米の、一粒一粒が明確に見えるように、まるで知らない妙子の「つまらない人生」が網膜に張り付くように見えた気がして、八重子は一瞬目をつぶった。  背を丸め集まる猫に餌をやる骨張った小さな体、地団駄を踏む歪《ゆが》んだ妙子の顔、欠陥商品を指摘する時に電話コードに巻き付けた白い指、……。コップの跡の付いた畳、喋り続ける母の口、安かったのと広げられる母のセーター、砂埃の細い道、パートに出かける母の後ろ姿、甲高い叫び声、——。  一粒一粒は、いつしか故郷の光景にすり変わっていた。  駅のキオスク、バスターミナル、小さな商店街、住宅街入り口のちっぽけなラブホテル、すっと明りを落とした住宅街の道、いつもと変わらぬ表情のそれらをぼんやり目で追いながら八重子は歩いた。  生臭い空のスチロールケースが店の前に転がっていた。制服にしてはひどく短いスカートをはいた女の子たちが笑い声をまき散らして擦れ違う。ネクタイを緩め、ハンカチで汗を拭《ぬぐ》いながら銀縁眼鏡の男が八重子を追い越してゆく。空を見上げると、輪郭をくっきりさせた星が様々な角度から八重子を見下ろしていた。  横断歩道を渡り、少し歩いたところで八重子は足を止めた。「ホテル アダムとイブ」という文字が、控え目に頭上で光っている。ご休憩三千八百円より、ご宿泊六千五百円より、表示の下に四隅の黄ばんだ紙が貼ってあった。 「パート急募 三時—十二時 時給 千円」  紙の汚れ具合や、剥《は》がれかかったセロテープの黒さから、この貼り紙が随分前から張り出されていたことが窺《うかが》えた。ホテルの前を通るとき、いつも目を伏せていたことを思い出す。目を伏せていた昨日とは違うのだというように、八重子は料金表の前に立った。  たとえば——貼り紙を見つめて八重子は考える——可能性が幾つもあるとするならば、私はここで明日からでも働けるんだ。ホチキスや判この位置と、叫びたくなるラッシュと、妙子のヒステリーと、意味のない数字と、それから「ここ」にいること、すべて捨てることができるのだ。  ぼんやり立ち尽くす八重子の肩に、ぽんと誰かが手を置いた。振り返ると赤い顔の男が笑っている。 「何してるの、入ろうか」  ふわっと酒臭い息が八重子を包む。肩に置かれた手を払い除け、八重子は急いで歩きだした。夢中で歩いて額の汗を感じる頃、そっと振り返って男の姿を探した。男はどこにも見当たらなかった。両側の明りから弾《はじ》き出される皿と皿のぶつかる音、開け放たれた窓から流れるロック、散らばったそれらの間を、安心して八重子はゆっくりと歩き始める。  鍵《かぎ》を回し、ドアを開ける。朝のままの、昨日のままの部屋が八重子を迎える。この部屋には「つづく」マークが満ちているようだと八重子は思う。鍵を閉めて「つづく」。鍵を開ければ「つづく」の文字は消え、まるで同じ状況からスタートする。永遠に繰り返されるホームドラマ。ドラマらしい展開も、事件もクライマックスもない「つづく」の部屋。  窓を開け扇風機のスイッチを入れる。急に掻《か》き回される生温かい空気の中で、八重子はへなへなと坐《すわ》り込んだ。机の上に開かれた便箋《びんせん》に目をやり、八重子はペンを握る。 [#ここから1字下げ] 「母さん  今度の公演のチラシができたので送ります。今日は、このチラシを束にして喫茶店や飲み屋を回りました。チラシの束をお店に置かせてもらうのです。ふと目にしたお客さんが、来てくれるかもしれないでしょう。大学の近くの喫茶店には、こういうチラシが山ほど置いてあります。それだけ多くの小劇団があるのです。そういうチラシを見ると、何かを目指して頑張っている人が沢山いるんだなと嬉《うれ》しくなります。  ところで私は、昨日までのバイトを止めました。稽古《けいこ》や制作の仕事で忙しくなり、定時で働くのが難しくなったからです。でも安心して下さい。近所のホテルでのバイトを早速決めてきました。こっちは時間が自由だし、時給も少しいいのです。ホテルなんて言うと母さんは眉《まゆ》をしかめるでしょうね。だけどやりたいものの為に何かをするのは当然のことだし、私は何とも思いません。」 [#ここで字下げ終わり]  耳元で蚊が羽を擦り合わせている。それにも気付かず、八重子はひたすらペンを走らせた。ペンの音が静かな空気に溶けてゆく。 [#ここから1字下げ] 「母さん。本当に可能性なんて腐るほどあるものです。私たちにできることは無限にあって、できないことは無に近いのです。  私はあなたのように、それらのあふれ返る可能性を捨ててしまいたくはありません。可能性を捨てて来たからこそ、『こんなもん』そう思うのでしょう? 幸せだと言う自分の人生に『こんなもん』などと言ってしまうのでしょう? それとも、こんなもんの人生こそが幸せだと、まだ主張するのですか。そしてその繰り返しを私に押し付けるのですか。『こんなもん』を受け継いでくれと。  たとえば後三十年後、私はもしかして一人かもしれません。目指すものまで辿《たど》り着けないかもしれません。だけどきっと、こんなもんの人生だったとは決して言わないでしょう。」 [#ここで字下げ終わり]  八重子はペンを止め、自分の書いた「可能性」という文字を見つめた。就職しないという可能性。芝居を続ける可能性。辞表を出す可能性。ラブホテルで働く可能性。何かしらの変化を求めて、さっきの酔っ払いと勢いでアーチを潜ってしまう可能性。  ——可能性なんて、何一つないじゃないか。たとえ可能性が溢《あふ》れかえっていたとしても、私が選ぶのはいつも一番退屈でありきたりな一つ。私は必ずそれを正確に選り抜き柔順に選び出す。それはもう決まっていることだ。可能性なんて、救われない人間が考え出した幻想だ。あるようでいて何一つありはしない。選び取る答えは最初からすべて決まっている。多分|臍《へそ》の緒を切り離されたときから。  八重子は便箋の一番下にヤエコよりと乱暴に書き殴り、封に入れた。突然鳴りだした電話の音に八重子は飛び上がる。振り返り受話器を取ろうとし、その手を止めた。  ——京市だ。京市に違いない。鳴り続ける電話に手を置いたまま、八重子は確信する。しばらく手を置いていたが、受話器を上げずに八重子は立ち上がる。  鳴り続ける電話を無視し、スパッツの上にTシャツをはおり、八重子は風呂《ふろ》に行く支度を始めた。  可能性があるとするならば、この小さな頭の中だけだ。いくらでも自由に振る舞えるヤエコのいるところだ。八重子は実感する。ヤエコはその小さな世界から決して出てくることは出来ない。派手な色合いのTシャツを脱いでしまえば、現われるのは紛れもない八重子の肩であり貧相な乳房であり見慣れた腹であり、つい周りを気にしておどおどしてしまう八重子の態度なのだから。  電気を消す。暗闇の中鳴り響くベルに一瞥《いちべつ》を投げ、八重子は外に出た。      4  いつもなら大勢の足音に混じって走っているはずが、八重子はふらふらと駅のベンチに腰掛けた。一体どこからあふれだしてくるのかと思うほどの人の波が瞬時に押し寄せては、滑り込む電車に吸い込まれていく。熱気と喧騒《けんそう》の中、八重子はぽつんと一人、空色のベンチに腰掛けてそれを見ていた。動きを止めるものが一つもない場所に坐っていると、自分自身が空色のベンチに同化してしまったように感じた。  天井近くに付けられた時計が針を動かす度、八重子は自分に号令を掛けた。行かなくては、立たなくては。次の電車に乗らなくては。しかしせわしなく動くのは頭だけで、体のすべてが機能を停止したようにぴくりともしなかった。  溢れては吸い込まれていく人の固まりと、走り去る黄色い電車を眺めながら、八重子は「あの女」のことを考えていた。  この前の日曜のことだった。買い物に出た八重子は、銭湯で見かける「あの女」とすれ違った。瞬間気付かず通り過ぎたが、ふと立ち止って振り返ると、その後ろ姿は確かに何時間も体を磨くあの女だった。八重子は買い物袋を下げたまま、そっと彼女の後を歩いた。  見かけるときはいつも裸体だったから、服を着ていると妙に不自然に思えた。女は八重子にまるで気付かず、髪をいじったりショートパンツのポケットに手を突っ込んだりして歩いてゆく。音の鳴るビニール袋を手で押え、八重子は息を潜めて歩いた。存在しえないもう一人の自分、頭の中で自由に動くヤエコがいるならこんな女だと八重子はいつも思っていた。  高く結んだ髪の先が足取りとともに揺れ、ちらちらと覗《のぞ》くうなじははっとするほど白かった。この女が念入りに体を洗う姿を八重子は思いだす。何分もかけて擦《こす》り上げ、風呂から上がるとまた同じ位の時間をかけて化粧水をすりこんでいた。それが終ると乳液である。一体どのくらいの時間を銭湯に費やしているのだろう。ショートパンツから伸びた足は、夏のさなかでは不安定に感じられるほど白く、足が地に着く度に、脛《すね》の筋肉がきゅっと持ち上がった。いかにも軽やかなその足取りが、八重子には羨《うらや》ましく感じられた。彼女の後ろ姿と一定の距離を保ちながら、八重子は彼女について想像した。とてもOLには見えないが学生だろうか、自由業だろうか。もしかして実際頭の中で作り上げたヤエコのように、アルバイトをしながら芝居をしているのかもしれないとなぜか胸を躍らせる。それとも、あの体の磨き方からいって、どこかのホステスだろうか。コールガール。クラブの歌手。何にしても恐らく自分の立つ場所にはいない人に違いない、選べない可能性の向こう側にいる人に違いない、そんなことを考えながら、八重子はただ後ろ姿を見守って歩いた。どこに行くのかどこに住んでいるのか、後を付けて知ろうと思ったのではなく、銭湯で彼女の裸をつい眺め回してしまうように、ただ目が離せなかった。  桔梗湯前を通り過ぎ、細い路地を曲がる。溢れ返る蝉の声で、細い路地は閑散と静止していた。陰と日向《ひなた》を縫いつなぐように彼女は歩いてゆく。すとんと陰に染まりまたふっと白く現われ、八重子の視界には彼女しか存在しなくなる。  何度か角を曲がったところで、八重子は立ち止った。丁度目の前にあった電信柱に体を付け、透き間からじっと目を凝らした。  いくらか太くなった道路沿いに、古びたポスターを硝子《ガラス》一面に張り付けた美容院や、看板の黒ずんだ中華料理屋、小さな店が点々とあった。その中に、両脇の建物に寄り掛かられるようにして建つ一軒の惣菜《そうざい》屋があった。道路に面したショーウインドウの中に、煮物やおにぎりや揚物がきちんと並んでいる。その店の脇のドアに、あの女は入っていった。ぷつぷつと光る煮物を見つめて八重子は息を殺した。 「ただいまア、おかあさん、いないの、おかあさーん」  確かにあの女の、鈴を鳴らすような声が聞こえる。やがて、エプロンをつけ三角|巾《きん》で頭を巻いたあの女が奥から出てきて、ショーケースの向こうに腰掛けた。相変わらず生意気そうな顔をしてふてぶてしく腰を下ろすと、漫画を広げる。何種類ものトリートメントで保護された髪は白い三角巾の中に納まり、女がうっとりと磨きあげた体は汚れたエプロンに包まれていた。 「何、休みだったって、あんた手ぶらで帰ってきたの」  声を上げ奥から出てきたエプロン姿の中年女は、女の隣に腰を下ろす。漫画を読む女の横で、ぼうっと真夏の空気を見つめている。女を太らせ、年を取らせた顔をしていた。よく似た二つの顔を交互に眺めて、八重子はその場に立ち尽くしていた。  果てしなく続くように思われた人の波は、相変わらず沸き起こってきたが、人の数は随分と減り始めた。八重子は顔を上げ、九時五分過ぎを指す時計盤を確かめた。  こんな時、ヤエコならどうするだろう。自由|気儘《きまま》に生きる彼女は、「平気平気、一日くらい」「それが何?」そんなふうに笑ってふらりと出かけるだろう。  今日は休もう。八重子は決めた。有休だってまだ一日も手を付けていない。会社に電話をして、具合が悪いと言おう。今日一日、ゆっくりと過ごそう。  空色のベンチにべったりと張り付いていた心は、そう決めたとたんふわりと軽くなり、今まで動きを停止していた手足もすんなりと動いた。  ぽつぽつと集まってくる人の波を掻《か》き分け、滑り込む電車の轟音《ごうおん》を背に、軽い足取りで八重子は進んだ。空気は確実に暑くなっていたが、脇の下の汗もストッキングを足に張り付ける糊《のり》のような汗も気にならなかった。まだシャッターを下ろしたままの人気のない商店街を歩きながら、空白の一日についてわくわくと八重子は考えた。街に行って買い物をしよう。映画を見よう。髪を切ろう。大学へ——大学へ行こう。その思い付きが素晴らしいものに思え、八重子は勢いよく方向転換してターミナルに向かった。自由に歩き回って、校舎の屋根裏から屋根に上がって空を仰ぎ、安い定食屋で食事をし、稽古《けいこ》場に行ってみよう。次第に怒りを増すかのように激しく照り付ける太陽が、十字路の大きな道路や走る車の頭を真っ白く染める。その白に自分も溶けようと八重子は目を細めた。狭まった視界の縁で小さな光がちらちらと輝いた。  鏡の中に、見慣れないショートヘアの自分が立っている。後ろの木の腰掛けには、老人が四人背中合わせに坐り、ぼそぼそと話し合っている。細い腰掛けは息を止めた止まり木のようだった。開店したばかりの、午後三時の銭湯は閑散としている。  姿見の中の自分を見つめ、八重子は今日一日のことを思い出した。  緑の生い茂る大学は、半年前八重子が卒業した時と何一つ変わってはいなかった。懐かしいわけでもなく、八重子がそこにいるのが当然であるかのようだった。しかし何かが、八重子をすっぽりと包むのを拒んだ。だから八重子は安らぎも安堵《あんど》も感じることができなかった。妙に噛《か》み合わない疎外感を抱きながら、所在なげにうろうろと歩き回った。八重子が過ごした四年間、自分が立っている場所、背中に降り積もる故郷の思い出をまるで忘れ去り自由に闊歩《かつぽ》していた時間は、用のない冬服みたいにしまわれ、その箪笥《たんす》には鍵《かぎ》が掛かっていた。それは当り前のことだと八重子は思った。  校舎の隅の掘っ建て小屋、四年間共に過ごした部室の前に立った時も、同じだった。愛《いと》しさも懐かしさも安心感も、八重子の胸には這《は》い上がってこなかった。さっきから感じ続けている「噛み合わない感覚」だけが色濃く胸に広がった。  ドアを開ければ部室特有の陰気臭い、酒と汗と暗闇の混じった匂いがあふれ、その中に人影を見つけられるだろう。授業を放棄した仲間かもしれない、ここしか行く場所のないかつての恋人かもしれない、……そう考えながら、八重子は足早にその前を立ち去った。  待っていたものを捕まえられないまま八重子は門を潜った。中庭で練習をするチアガールのかけ声が、高い空に遠く響いた。  それから八重子は通りかかった美容院に入り、短く髪をカットした。勢いよく切られ滑り落ちる髪の束が、不必要でありながら自分の周りを取り囲んでいたものに思えた。見下ろすと、まだ湿っててらてらと光る髪が、そこだけ真っ黒く床を覆っていた。床の上に落ちた黒い自分の分身を見下ろし、八重子は小気味よく感じた。首のあたりに慣れない涼しさを感じながら何処へ行こうか考え、結局部屋に戻ってきた。窓に肘《ひじ》を突き蝉の声を浴び、ねっとりと動かない庭先の緑を眺め、開店を待って銭湯に来た。 「何も付けないとね、夏でも顔が突っ張るの。これはいいわよ、冬はだめだけど」 「へぇ……。冬はさ、クリーム状がいいわよね」  一つの瓶を手から手へ回し、老婆たちはぼそぼそと話し合う。話し声を背に、八重子は着ているものを脱いだ。 「すごくいいの。すべすべして。使ってみる?」 「私はね、今さ、お医者さんにもらってんのよ。秋山さんとこの」  鏡の中に現われ始める裸体は、ショートヘアが不自然なくらい見慣れた体だった。  脱いだものを脱衣|籠《かご》に押し込むと、八重子は湯殿に行った。老婆たちはまだ熱心に話し合っていた。  天井に近い窓から日がたっぷりと差し込み、湯殿は清潔に光っている。客は八重子のほかに三人しかいなかった。いつもなら裸体に目を這わせてあの女を捜すところだが、八重子は天井を見上げた。あの女を見たくなかった。高い天井には躍り上がる湯気が楕円《だえん》形に渦巻き、薄いマーブル模様を描いていた。  さっき美容院で痛い程よく洗ってもらった髪を、八重子はもう一度よく洗った。  髪を切れば何か変わると信じて一体何度髪を切っただろうか。首筋にすっきりとした喪失感を感じながら、まだ自分でいることに、まだ「ここ」から抜け出せずにいることに、何度失望してきただろうか。  髪を切り私は一体何処へ行こうとしているのだろう——八重子は考え続ける。私は何から逃れようとしているのだろう。コップの跡のついた畳からか、むせ返る緑からか、黄ばんだソックスからか、夜になると響く女の叫び声からか、意味のない数字からか、「つづく」のあふれる部屋からか、いつも選び取る決まった答えからか、母親からか、自分の内部に密《ひそ》かに脈打つ「繰り返し」からか、——それとも。  からりと戸を開けて、新しい裸体が鏡の中を通り過ぎる。垂れて幾重にも重なった腹の肉、くの字に曲がった細い脚、縦横無尽に走る青白い血管、萎《しな》びた果実のような乳房。八重子から少し離れて坐《すわ》った丸い背は、いつか見た母の裸体と重なった。八重子は急いで目を逸らす。視線はまた別の裸体にぶつかった。染みとそばかすの競演する背中、ぐにゃりとタイルに落ちた白い尻《しり》はつきたての餅《もち》にも見えた。老人の体は、八重子には穴蔵に思えた。一筋に伸びた可能性を柔順に選び取り、辿《たど》り着いた深い穴蔵。そこから一歩も出ることができず、息を潜め目を閉じ、可能性などなかったかのようにその場に甘んじることしかできない——母のように妙子のように。八重子は再び目を逸らした。いくらか張りのある足が目に入る。桃色に染まった足に拙《つたな》い足取りの少女が必死でしがみつく。 「マアちゃんのお人形さんも、お人形さんも洗うの」 「ほらもういいから来なさい、頭洗うのよ」  喋《しやべ》り続ける少女を、桃色の太い腕が持ち上げる。  八重子を取り囲むどの裸体もが、母と重なり妙子と重なり、そして八重子に重なった。それは未来の姿なんかでなく、あたかも明日の自分の姿に思えた。茶色い染みを浮き上がらせた、矯正した茄子《なす》のように丸い背中は、あまりにもぴったりとかつての食卓にはまり込む。それはまるで知らない裸体だったが、いまにも振り返りパート先の話を始め、庭に集まる野良猫の話を始め、安かったのとセーターを広げて見せ、不釣り合いなピンクのブラウスをはおり、丸い円が無数に描かれた畳を跨《また》いで歩く気がした。振り払うように八重子は立ち上がり、湯舟に浸かった。のけぞると硝子《ガラス》戸の向こうに雲のない空が高い。青を目の中に残すように、八重子はゆっくりと瞼《まぶた》を閉じた。入り口のドアが開き、新しい客が加わるのが聞こえる。 「ああ暑い暑い。夏はいやだねえ、本当に」  その声に八重子は目を開いた。あの老婆だ。彼女が体を流している老人を捕まえ、隣に坐って話し始めたことに八重子はほっと一息ついた。 「孫がさ、旅行に行っちゃってさ、おばあちゃん一緒に行こうって言ってくれたんだけど、この暑さでしょ、この齢《とし》じゃねえ」  老婆はゆっくりと鬘《かつら》を外し、しきりと喋り続ける。運悪く隣り合わせた老人は、いやな顔をせず穏やかに相槌《あいづち》を打つ。八重子はその声を無視し、カランの前に坐った。  八重子は鏡に映る体半分の老婆を見た。小さな丸い背中を見て、八重子はふと思い付く。あの老婆には、孫も息子もいないのではないか。母|宛《あて》の便箋《びんせん》にいもしないヤエコの生活を綴《つづ》る自分と同じ、幻の孫、幻の息子を作り上げ、存在しないもう一人の自分を演じているのではないだろうか。  その思い付きは八重子の鼓動を激しくさせた。八重子は夢中で体を擦った。手を止め、中途半端に泡立てた腹に手を当てる。自分を取り囲む弛《ゆる》んだ裸体に、自分から出た見えない糸がまっすぐ繋《つな》がっている気がした。その糸の先はすべて萎びた肌の後ろ姿で、自分はその糸を手繰って生きてゆくのかもしれないと八重子は思う。時には爪をたて糸を傷付け、背を向けてみたりしながら。八重子は腹を押えた片手を上げ、臍《へそ》の辺りで二、三度振った。所在なげに掌《てのひら》は太腿《ふともも》に落ち、太腿に張り付いた水滴は掌の下でじわりと広がった。  さっきの子供が珍しそうに八重子を見、ゆっくりと歩み寄ってくる。三歳ほどの少女で、右手に人形をつかみ、桃色の全身を光らせている。つるんとした性器に目を遣《や》り、八重子は思わず顔をほころばせた。それを見ると子供は安心したように、八重子のそばで笑いかける。 「マアちゃんね、今日誕生日なのよ」  舌足らずに彼女は言った。 「そうなの、それはおめでとう、マアちゃん」  八重子は言った。声は湯気に湿って小さく響く。 「ハッピバースデーツーユー、ハッピバースデーツーユー」  不安定な音程で、彼女は自分で歌いだした。湯舟の後ろの大きな硝子戸から入りこむ日は、湯の上でゆらゆらと踊り光を放ち続ける。 「ハッピバースデーディアマアちゃん」  八重子は小さく、少女の声に声を重ねた。ここで声を出すのは初めてだと気付き、おかしくなる。八重子はこみあげる笑いを押え切れず、歌う声が微《かす》かに震える。少女もつられて笑い出し、ハッピバースデーとまた頭から繰り返す。八重子も一緒に繰り返した。  一枚一枚に光を宿すタイルに声は跳ね返り、涼やかな自分の声が八重子の耳に入る。八重子は大声で笑い出したくなった。  うふふふ、歌い終えると少女は照れたように笑い、脱衣所の方へ走って行った。何を思ったか途中で足を止め戻ってくる。 「あのね」両手を後ろに組み、出っ張った腹を見つめて彼女は八重子に聞いた。「また来る?」 「うん」八重子は答えた。「来るわ」 「来なかったら、おしりぺンよ」  八重子の尻を叩《たた》くふりをして笑うと、少女は小走りに去った。差し込む光に透けるような小さな裸体を見送りながら、八重子はふと思った。  ——出せなかった手紙、引き出しにぎっしり詰まった母宛のあの手紙、すべて燃やしてしまおうか。  カランごとに備え付けられた長方形の鏡は日を反射しあい、各々映した疎《まば》らな裸体を柔らかい光で包んでいる。一つ一つの鏡を、八重子はゆっくりと覗《のぞ》いていった。 角川文庫『幸福な遊戯』平成15年11月25日初版発行            平成17年5月20日6版発行