[#表紙(表紙.jpg)] 角田光代 夜道の家族 小泉今日子主演で映画化された『空中庭園』のみじかい続篇。あの頃ミーナは、京橋家の息子コウの家庭教師/父(タカぴょん)の愛人だった。それから3年、ミーナの家に深夜、ファクスが届いた。「ミーナ先生へ。 突然のファクスごめんね。本日午後四時すぎ、母、木ノ崎さと子が永眠いたしました。」ぴょん妻からの、葬儀の知らせだった。あの家族、今はみんなどうしてるんだろう? 好奇心で訪れた郊外の斎場でミーナが見たものは……これって希望なんだろうか? [#改ページ]    夜道の家族      小説『空中庭園』続篇  暗闇のなか、電話のディスプレイが突然光り、私はびくりとして上半身を起こした。呼び出し音はしかし鳴らず、自動的にファクス機能に切り替えられ、じじ、じじ、というかすかな音とともに、用紙がゆっくりと排出される。ディスプレイのちいさな明かりに照らされたその白い紙を、私はじっと見つめる。隣で寝ている重谷くんは目覚める気配がなく、口を半開きにして眠っている。唇のわきが涎で透明に光っている。吐き出された紙は動きを止め、ファクス兼用の電話機は眠ったみたいに静まり返る。  ベッドから片足を下ろす。床はひんやりと冷たい。暗闇にぼんやり浮かび上がる紙切れが、喜ばしい類のものではないと直感的にわかる。たぶんその反対だ。私を傷つけ落ちこませる内容が書かれているに違いない。そう思うことで私は自分を防御する。夜中の連絡が喜ばしいものでないことなんか、ずっと昔から知っている。  ベッドから下り、ゆっくりと電話機に近づく。ファクス紙を取り上げる。暗くて読めない。眠る重谷くんを起こさないように、台所に移動して、流し台の上の蛍光灯だけつける。  ミーナ先生へ。  一番上に書かれた文字が最初に目に飛び込んできて、ぎくりとする。ミーナ先生。私のことをそんなふうに呼ぶ人は限られている。三年前に関わった奇妙な家族。そのあとに続く子どものような書き文字を、私はゆっくりと読み上げる。  ミーナ先生へ。  突然のファクスごめんね。本日午後四時すぎ、母、木ノ崎さと子が永眠いたしました。  おばあちゃんのことを、覚えている? いつか誕生会をいっしょにやった、マナとコウのおばあちゃんです。生前はミーナ先生にもたいへんお世話になりました。死因は癌でした。三年前に手術で除去したはずの癌が、肺にも転移しちゃっていたの。  下記の通り、通夜と告別式を執り行いますので、もしお時間があれば、ぜひいらしてください。おばあちゃんに最後のお別れを言ってあげてほしいの。家族みんなで、待ってます。  その下に、日時と場所、葬儀場のかんたんな地図が記されている。一番下には、京橋絵里子と署名があった。  ぴょん妻。ひそかに呼んでいたあだ名が真っ先に思い出され、なんだかおかしくなる。馬鹿みたいな恋愛をしていたタカぴょんよりも先に、ぴょん妻の顔が思い浮かぶ。ベテランの女優みたいに、いつも完璧な顔をしていた。完璧な笑顔、完璧な慈悲深さ、完璧な理解、完璧な幸福。彼女を見るといつだっていらいらした。その完璧さが、他者の侵入を防ぐ分厚い盾みたいで。何を話したってどう関わったって、彼女が盾を下ろし素顔を見せたことはない──彼女たちと関わっていたあいだ、ぴょん妻について、私はずっとそんなふうに思っていた。  それにしても、ずいぶんとアンバランスな文章だ、と目の前でファクス紙をひらひらさせて私は思う。敬語とため口、堅苦しい言いまわしと馴れ馴れしいもの言いがごっちゃになっている。しかも、なんだか高校生が書くようなまるみを帯びた文字。  自分が安堵していることに気づく。真夜中のファクスが、私を傷つけるに足らないものであることに、安堵している。そうだ、よく知りもしない婆さんの死なんかで、私は傷つきも落ちこみもしない。明日の天気は曇りのち晴れという天気予報を聞く程度のことでしかない。  だいたい、なんでこんなものを私に送って寄こすわけ。薄っぺらい紙切れを、人差し指でぴんと弾く。関係ないじゃない。私があの婆さんの何を世話したってわけ。誕生会で一度同席して、ラブホテルでやっぱり一度、鉢合わせしただけじゃない。家庭教師をしていた期間は一年にも満たないんだし、二十七歳の冬には、京橋家の頼りない大黒柱、タカぴょんともすっぱり別れた。別れてすぐ都内に引っ越して、最初のうちはマナやコウが遊びにいきたいとメールを送って寄こしたけれど、無視していたらそれもとぎれた。今の今まで、あのコップ男のことも不気味なくらい整然とした郊外の町も、ぴょん妻の完璧な幸福も何かを切望するように知りたがっていた中学生の息子も、前世の記憶くらい忘れ去っていた。  いくわけないじゃん。ちいさくつぶやく。いくわけないよ、葬式なんて。  うう、と背後で声がする。驚いてふりむくと、眠る重谷くんの寝言にもならないうめき声だった。流しにファクスを置いたまま、明かりを消してベッドに戻る。のぞきこむと、重谷くんは悪夢でも見ているのか、眉間に皺を寄せ泣きそうな顔でもう一度、うう、とちいさくうなった。額が汗で光っている。額に指でそっと触れ、私はベッドに横たわる。窓から入りこむ、階下のコンビニエンスストアの明かりで、天井が白く浮かび上がっている。つるりとした白い平面を、私はぼんやりと眺める。  うち、逆オートロックだからなあ。  天井に、そう言っていたコウが淡く浮かび上がる。家のなかにもう一個見えない扉があってさ。こっちの扉は、絶対開けないっていうか。暗証番号も教えないし。たった十四歳で、そんなことを言っていたコウ。  あの人たち、どうしているんだろう。学芸会みたいなあの家で、まだ学芸会ごっこをしているんだろうか。ティッシュの花でリビングを飾り、手作り料理をテーブルいっぱいに並べ、みんな笑顔でせりふを言い合うように、言葉を交わしているのか。  いくわけないじゃんと、もう一度胸の内でくりかえしつつ、喪服がクリーニング済みかどうか思い出そうとしている自分に気づく。 「三奈、暑い」  目をさましたのか、重谷くんがうめくように言う。ベッドサイドに手をのばし、リモコンを取ってスイッチを入れる。静かに冷房がまわりはじめる。  そもそも私が京橋家と関わりを持つに至ったのは、見てみたい、という気分だった。そのとき交際していた、優柔不断と無責任がごっちゃになって、なぜかやさしさという美点になっている妻子持ちの男の、その家庭の中身を見てみたい。そう思って私は彼の息子に近づいたのだった。  そうして今また私の背中を押しているのは、それとまったくおなじ、「見てみたい」という気分である。このくそ暑いさなか、喪服を着て黒いストッキングをはいて、黒い日傘をさし私は郊外の町に降り立ち、なかなかこないバスを待っている。  見てみたい。ぴょん妻は今もヒステリックに幸福を演じているか。タカぴょんは隠れてだれかと恋愛をしているか。マナとコウは、さめた目線を隠して今も無邪気な子役に徹しているか。そうして、あの口の悪い婆さんは、棺にどんな顔で横たわっているのか。どんな学芸会が待ち受けているのか。私はそれを見てみたい。  黒いハンドバッグの中身がちいさく振動する。携帯電話を取り出すと、重谷くんからメールが届いていた。  無事着いた? 帰り電話して。  重谷くんとは半年前からいっしょに暮らしている。ひとつ年上の独身男だ。結婚する気のまったくない私にとって、妻子のいる男がいちばん都合がよかったんだけれど、タカぴょんと別れたあと、なんだかどっと疲れてしまって、以来妻子持ちは慎重に避けている。  まだバス待ってる。暑くて死にそう。帰り遅くなりそうだから、ごはん先食べててよ。  そう打って返信する。  文房具メーカーの営業をしている重谷くんとは、専門学校時代の子に招かれた合コンで出会った。一年ほどつきあって、同棲することになった。重谷くんも、ほかの男と同じく、将来的には結婚を考えているみたいだった。だから、いっしょに暮らしはじめるときに釘をさしておいた。私は家族を作る気持ちはまったくないのだと。いっしょに暮らしてみて、そこにいたければ意志でいればいいんであって、出ていくことを紙切れが止めるような生活はしたくないのだと。以来、重谷くんは結婚だの子どもだのと言わない。私たちは意志のもとにいっしょにいる。いたければいて、出ていきたければ出ていく。  派遣社員で事務仕事をしている私は、ほとんど残業がないので、平日は夕食を作って重谷くんの帰りを待っている。土日は、ごろごろ寝て夕方ごろ飲みにいくこともあるし、重谷くんが料理を作ることもある。結婚しているのとかわらないじゃないの、と友人は言うけれど、でも、違うのだ。私たちの生活は意志の上に成り立っている。いわば、京橋家と対極のはずだ。いたくないのにそこに居続ける彼らとは、まったく違うのだ。  そんなことを考えていると、ファクスに記されたのと同じ行き先のバスがようやく到着した。念のため、「ホープメモリアルホールにいきますか」と運転手に確認する。まだ若い運転手は無愛想にひとつうなずき、私はバスに乗りこんだ。  バスが走り出し、私は窓に額をくっつけて流れ去る町を凝視する。愛着がなくてもなつかしさというのは喚起されるらしい。遠くにかすむ書き割りみたいなマンション群。ぽつりとあらわれ、やがて雨後の竹の子みたいに林立し出すラブホテル。私は目を凝らしホテル野猿をさがす。新装開店したラブホテルばかりが目立って、野猿は見つけられなかった。ラブホテルを通りすぎると、巨大なショッピングセンターへとバスは向かう。この町の唯一の娯楽場所。私もかつて、ここで買いものをしていた。服も家具も食材も薬も。  ラブホテルの何軒かは新しくなっている。ディスカバリーセンター内の日用雑貨の店は百円均一ショップに変わっている。けれど、なんだかこの町は、時間の流れをせき止めているように私の目に映る。なんにも変わっていない。時間とともに流れる世界の、外側にぽつんとあるようにすら思えてくる。  ディスカバリーセンターが後方に遠ざかる。窓の外には田畑が広がりはじめる。そうだった、大型ショッピングモールの後ろには、田園風景が広がっているんだった。この町に引っ越してきた当初は、繁華街と田んぼという組み合わせがひどくちぐはぐで、気持ち悪かった。渋谷の東急本店の裏に水を張った田んぼが延々続いていたら、だれだってぎょっとする。ここはそんな感じなのだ。けれど今、ディスカバリーセンターを過ぎて続く田園風景は、やっぱり不思議となつかしい。郷愁なんかこれっぽっちもないのに。むしろ嫌悪感しかないというのに。  田園風景のなかを延々走って、不安になりはじめるころ、「次はホープメモリアルホール前」とアナウンスが響いた。  バスは私を降ろし、土埃を舞いあげながら遠ざかっていく。バス停の前には薄汚れた自動販売機と、開いているのか定かでない暗い蕎麦屋があった。地図を確認しなくても、ホープメモリアルホールはすぐにわかった。抜けた歯みたいに点在する商店と民家のまんなかに、三階建ての真新しい建物が飛び出していた。時間を確認する。四時四十五分。通夜は五時半からで、まだ早いけれど、ほかに時間をつぶせそうな場所もない。  ホープメモリアルホール。すごいネーミングである。ディスカバリーセンターにしろ、この町はあくまで人の営みというものを軽んじようとしているとしか、思えない。ホープと名づけておいて、人の死をこんな町はずれに、隠蔽するように追いやるのも、なんだかひどくこの町らしい。いや、なんだかひどく、京橋家らしい。私はつい、そんなことを思ってしまう。  エントランスには、タクシーが二台ほど停まっているほかは、人の気配がまるでない。建物を覆うように茂った木々のあちこちで、蝉の鳴く声が響いている。緑は色濃く、どちらかというと黒に近い。アスファルトにひとつ、乾いた蝉の抜け殻が落ちていた。陽はまだ高い。日傘をくるくるとまわしながら、私はゆっくり入り口に向かう。  建物の入り口の案内板には、木ノ崎さと子をはじめ数人の名前が書かれていた。名前の上に、部屋の名称が書かれている。マーガレットの間。パンジーの間。ローズの間。いったいどこまで人をおちょくっているんだろう。自動ドアをくぐると、冷たい空気に安堵のため息が出る。木ノ崎さと子の通夜が行われる「ポピーの間」をさがそうと歩き出したとき、 「ミーナ先生!」  名前を呼ばれた。声の主をさがすと、右手にある喫煙所から、こちらに向かって走ってくるマナの姿が見えた。久しぶりに見るマナは、髪を伸ばしパーマをかけていた。黒い服を着ているせいで、ずいぶんと大人びて見える。あのとき高校一年生だったから、もう卒業しているはずだ。 「きてくれたんだ、ミーナ先生。遠かったのに、ごめんね」  マナは私に駆け寄ると、三年前と同じ人なつこさで私の腕に触れる。 「マナちゃん。元気だった? 今は大学生? それともお仕事しているの」 「やーだー、ミーナ先生ったらなんか大人っぽーい。緊張しちゃう。パパー、ミーナ先生だよ」  どきりとする。私の腕をつかんだまま、マナは私を喫煙所に連れていく。ソファが並んだ喫煙所には、数人がたむろしていた。明かりは白熱灯の間接照明だけで、明るい外から入ってきた目にはその一帯が沈みこむように暗い。だれかが立ち上がる。目を凝らす。ようやく見えてくる。京橋タカシ。私の恋人だった男。小心者で、やさしくて、中身のすべて見えてしまう透明のコップみたいな男。 「や、どうも、わざわざすみません」  タカぴょんはやけにかしこまって言い、深々と頭を下げた。禿げちゃって、腹も出てて、さぞやみっともない男になっているだろうという私の読みは外れ、三年前とまったく変わっていなかった。ディスカバリーセンターみたいに。 「このたびはどうもご愁傷様でした」  私もかしこまって頭を下げる。顔を上げるとタカぴょんと目が合った。タカぴょんは恥ずかしそうに笑い、私の胸のあたりに目を逸らした。本当に、中身もなんにも変わっていないんだろうなあ。風景に感じたのと同じなつかしさを私は覚える。 「ちょっと早く着いちゃったかな」  居心地の悪さをごまかすように私は言い、ソファに腰かけてバッグから煙草を取り出した。タカぴょんも安心したように座りなおす。喫煙所のコーナーにいるのは、見知らぬ人たちばかりだった。みな低い声で会話しながら、白い煙を吐き出している。 「おいマナ、おまえあっちいってろって。ママのそばにいてやれよ」 「えーだって、せっかくミーナ先生と久しぶりに会ったんだし。ねえ先生、元気? 彼氏いる? 結婚したりした? 今何してるの、ファクスがちゃんと届いたってことは、引っ越してないんだよね」  マナは私の隣にぴったりとはりついて、矢継ぎ早に言う。 「いいから、あっちいってろって。体に悪いだろ、自覚を持てよ」  タカぴょんがめずらしく強い口調で言い、マナはおとなしく立ち上がった。 「ああもう、じいちゃんはうるさいなあ。わかったよ、あっちいくよ。ね、先生、控え室あっちだから、あとできてね。コウも会いたがってたから」  笑顔で手をふって、マナは奥へと去っていった。その後ろ姿を見送っていたタカぴょんが、 「あいつ、コレなんすよ」  煙を吐き出しながら、困ったような顔で笑う。コレ、と言うとき、片手でおなかを覆う仕草をして見せた。 「えっ、コレって、妊娠?」素っ頓狂な声を出してしまい、数人がこちらをふりかえる。私はあわてて声をおさえる。「マナちゃん、妊娠してるの? だってまだ、十八かそのくらいでしょう」 「あの馬鹿、どうしても大学いきたいっていうからいかせたのに、都内まで遠いから終電がなくなったとか、しょっちゅう外泊してて。蓋開けてみたら、四月にできた男のところに半同棲状態で。今、三カ月。まったくねえ、子ども作るために大学いかせたんじゃないっつうの」  話しているうち、タカぴょんがリラックスしてきたのがよくわかった。あのときとまったく同じだ、京橋家で家庭教師をしていたとき。私がなんの害も持ちこまないと理解するやいなや、全身が安心で満たされるのだ。ともあれ、リラックスしたタカぴょんは、つきあっているころを思い出させた。ディスカバリーセンターのコーヒーショップや、平日の動物園で笑っていた姿が、喪服を着た彼にだぶる。 「ああ、逃げてえなあ」  しかもそんなことまで言うから、思わず笑ってしまった。笑った私を見て、タカぴょんはあわてて話し出す。 「だって考えてもみてよ、こんなことになったから延びちゃったけど、まあ近いうち籍入れるわけね、でも相手学生よ? マナもマナで、大学は出ておきたいなんて言い張るから、休学して産むわけでしょ、どうしたってこっちに負担かかるじゃん。もう、逃げてえって思っちゃうよ。まあ、うちもそのくらいで生んでるからね、血筋だって言われればそれまでだけど」 「タカぴょん、変わらないねえ」私は思わず言った。タカぴょんはタカぴょんと呼ばれてますます安堵したのか、眉毛をぐっとさげた、あのなつかしい顔で笑った。 「ミーナもあいかわらずきれいだよ。おっぱいもちっとも垂れてない」  調子に乗るところも変わっていない。 「馬鹿」  私は言い捨ててソファから立ち上がった。  白い菊に囲まれて、あの婆さんがこちらを見ている。めいっぱい引き延ばしたのだろう、輪郭のぼやけた顔は、笑ってはいなくて、挑むようにこちらを見ている。高い位置にあるから、弔問客を見おろす格好になって、なんだか見下されている気分にならなくもなかった。  五十席ほどあるが、いくつか空席がある。きているのは老人ばかりだった。老人たちは、読経のあいだもお焼香のあいだもずっとくっちゃべっている。いちばん後ろに座る私まで、その声はよく聞こえてきた。あともう少し生きていられれば曾孫さんが見られたっていうのに……えっ、おめでたなの、お孫さん……あの髪の長い女の子? まだ若いじゃないの、高校生? まあ大学生? なんていうか……ニレモトさんが泣き崩れたって……まあ、何かあったの、あの二人? そういえばなんだか……しっ、聞こえるわよ。  ありがちな噂話ばかり。  私は首を伸ばし、連なる白髪の向こうに目を凝らす。親族席に座っている面々をひとりずつ眺めていく。喪主の夫婦はたぶんぴょん妻の兄とその妻だろう。それから見知らぬ爺さん婆さんが数人いて、京橋家は後列に座っている。うつむき、沈んだ顔をしているタカぴょんの隣には、退屈そうなマナ、その横に知らない顔が座っている。短く刈った髪を金色に染め、いかにも借り物といったふうなスーツを着ている。あれがマナの赤ん坊の父親なのか。金髪男の隣に、学生服のコウがいる。また背がのびて、前よりもがっしりしている。表情の読みとれない顔で、祭壇を見ている。そしておかしなことに、ぴょん妻がいない。コウの横には、だれも座っていない椅子が置いてあるだけだ。 「あのー、娘さん、絵里子さんは……」  さっきからずっとしゃべっている前列の老婆二人組に、馴れ馴れしく訊いてみる。 「ああ、絵里ちゃん。あのね、控え室から出てこないの」 「さっき様子見にいったんだけど、たいへんだった」  老婆たちは私が何ものであるかなんてまるで頓着せず、わくわくした顔で答える。 「たいへんって?」 「泣いちゃって泣いちゃって」 「さっきなんかね、暴れる始末」 「そらショックよねえ、おとうさんも亡くなってるわけだから」 「いったん落ち着いたみたいだけど」 「でもいないっていうのもねえ」 「ショックなのもわかるけど」 「やっぱり気力ふりしぼって出てこなきゃ」 「おかあさんのお葬式なんだもの」  老婆たちはもはや私にはかまわず、雀のように顔を寄せ合って夢中で話しはじめる。私はそっと席を立ち、会場を抜け出した。  通夜の行われているフロアのわきに、細い通路がある。控え室の矢印が出ているので、通路を奥に進んだ。突き当たりのドアに、「木ノ崎家控え室」と貼り紙がある。ドアをノックしようとしたとき、 「ミーナ先生」  またもや名前を呼ばれて辺りを見まわし、ぎょっとした。  通路右手がお清めの席らしく、宴会場のような和室になっている。長テーブルが並び、座布団が整然と並んでいる。テーブルにはすでに、ラップのかかったすし桶と煮物ののった大皿が並び、どの席にも、コップと小皿と割り箸がセッティングされて、客を待つばかりである。そのだだっ広い和室の真ん中に、ぴょん妻がひとり、座っていた。目の前のグラスにはビールが半分ほど入っており、彼女の前のすし桶はラップが外されている。それは脱ぎかけのパンツみたいに、桶の端に丸められていた。 「あの、こんにちは。今回はあの、まことにご愁……」 「いいっていいって。あがってくださいよ。お寿司、食べてちょうだいな。みんなくると、うにとかトロとかすぐなくなっちゃうでしょ。今ならいくらもトロも食べ放題」  ぴょん妻は笑顔で言う。片手で手招きをし、片手で寿司をつまみ口に放りこむ。泣いて暴れているとばかり思ったのだが、ひとりで寿司を食らっていたとは。 「ね、先生、お経なんて退屈でしょう、飲みましょうよ一緒に」  しつこく手招きされ、私は靴を脱ぎ畳にあがった。ぴょん妻の向かいに座る。ぴょん妻は片手でビール瓶を持ち上げ、私にグラスを取るよう仕草で促す。逆さに置いてあるグラスを手に取ると、ぴょん妻は勢いよくビールを注ぎ、泡がグラスの縁からあふれた。急いで口をつけそれをすするが、泡はぼたぼたとテーブルに垂れた。ぴょん妻はそれを見て、キャハハッ、と少女みたいな声で笑い、「すみませーん、新しいビールと、あと布巾お願いしまーす」奥に向かって叫ぶ。このときようやく、彼女がずいぶん酔っぱらっていることに気づいた。 「大丈夫ですか?」 「ぜーんぜん大丈夫。はい先生、お醤油。どうぞ、好きなの食べちゃって。あっ、この桶のいくらは私が全部食べちゃった。あはは、好きなの、いくら。こっちの桶からもらっちゃおう。変わりにタコとか詰めておけばわかんないよね」  ぴょん妻は中腰になり、隣の桶のラップを外し、いくらとトロを選んで、目の前の桶のたまごとタコと、入れ替える。隣の桶のラップをていねいにかけると、私を見て、ちいさな子どもみたいに笑って見せた。奥から、紺色の制服を着た中年女性があらわれ、いぶかしむような顔で瓶ビールと布巾を置いて去っていく。 「連絡、ありがとうございました」私は言った。 「ううん。きてくれてありがとう。きてくれると思わなかったから、うれしいわ」ぴょん妻は手酌でグラスを満たし、あおるようにそれを飲み干した。  どうして私を呼んだんですか。訊こうとして、同じ問いを口にしたことを思い出した。あれは誕生会だ。ねえ、なんであんたの家族が私の誕生日を祝ってくれるの? と、あの日私はコウに訊いたんだった。逆オートロック。それがコウの答えだった。 「突然で、驚きました。私が会ったのはずいぶん前ですけど、おばあちゃん、私よりお元気に見えたし。さみしくなりましたね」訊くかわりに、そう言った。驚いてなんかいないし、この女がさみしかろうがなかろうが、知ったこっちゃないのだが、そう言うべきときにきちんとそう言う大人らしさを私はこの三年で身につけた。  くふふふ。ぴょん妻は鼻を鳴らすように笑った。そして目の前の、米粒の残った醤油皿に目を落とし、ゆっくりとほほえんだ。ぎくっとした。あのマンションの一室で彼女が見せていた完璧な笑顔より、それはよほど完璧に見えたからだった。仮面でも盾でもない、奥底から完璧な笑顔。 「終わっちゃったわ。ぜーんぶ終わっちゃった」ぴょん妻は歌うように言い、また、くふふふふ、と笑った。私は何も言わずビールをすすった。 「先週の金曜日にねえ、あの人、意識不明になったの。それでね、お医者さんがね、言うわけ、意識はないですが声は聞こえているから、呼びかけてあげてくださいって。それで私たち、交代で、声がかれるまで話しかけ続けたの」ぴょん妻は、私にというより、目の前の醤油皿に向かって言い聞かせるようにして話した。そうしてふと顔を上げ、「すみませーん、日本酒ってないの?」また奥に向かって怒鳴る。さっきと同じ女性が、今度は完全に非難するような顔つきで、徳利を二本、ぴしゃりと私たちの前に置いていった。ビールの泡がまだ残るグラスに、ぴょん妻は日本酒を注ぐ。 「月曜日の数時間だけ、私、病室にひとりになったの。タカちゃんは会社で、マナは検診にいってて、コウはうちに荷物取りにいってて。おにいちゃんたちは日曜に帰ってからしらんふりだし。病室は個室だったから、私とあの人だけ。ね、声は聞こえるっていうんだから、言いたいこと、今全部言っちゃえ、って思ったの。それ聞きながら死ねばいい。思う存分言ってやる、最後なんだから、きちんと聞けよって、私、ベッドの手すりにつかまって、酸素マスクあてて、手も顔もむくんじゃった、今にも死にそうなあの人に向かって、罵詈雑言の限りを尽くすために口を開いたの」  薄い笑いを浮かべながらぴょん妻は話す。グラスに指を突っ込んで、いたずらするみたいにそれをなめるぴょん妻を見ながら、おとなしく弔問席に座っていればよかったと後悔する。通夜はどうなっているのか、まだだれもお清めの席にあらわれない。 「ねえ、そうしたら、私の口から、どんな言葉が飛び出したと思う? 楽しかったね、って、私、そう言ってたの。おかあさん、楽しかったね、って。いろんなことあったね、馬鹿みたいなことも、腹のたつことも、うまくいかないことも、どうにもならないことも、逃げ出したいことも、うんざりするくらいたくさんあって、うまくいくことなんかいつだってほんのちょびっとで、それでも、なんていうかすごく、すごくね、楽しかったよねって」  ぴょん妻の声はみるみるうちに湿り、そっと彼女を見ると、酒の入ったグラスを握りしめて、ほたほたとテーブルに涙を落としていた。あまりにも威勢よく落ちるから、それは涙には見えなかった。びしょ濡れの布巾を絞っているみたいに見えた。 「そんなわけないじゃんって、自分で自分につっこみ入れたの。あんた嫌ってたでしょ、憎んでたでしょ、この女から離れたいばっかりに子ども作ったんでしょ、この女みたいにならないって決めてたんでしょ、今さらひよるなよ。きれいに終わらせようとすんなよ。死ねクソババアって言ってやれって、心のなかでもうひとりの私がけしかけるのよね。だけど、だめだった、口を開いても開いても、出てくる言葉は、それひとつだったの。楽しかった。あんたと暮らしたあの家は、ジェットコースターに乗ってるみたいだった、って」  そうしてぴょん妻は、天井を仰ぎ、大きく口を開き、両手を畳に放り出し、うわあああああああん、と吠えるような声をあげて、泣いた。うわああああああん。うわああああああん。道に迷った子どものように。人混みのなかで、親の姿を見失った幼子のように。  運のいいことに、そのときちらほらと人々がやってきた。ここで寿司を食らいビールで飲んだくれていた姿が、弔問客に見られなかったことに私はなんだかほっとしていた。儀式を終えて通路にやってきた人々は、天井を仰いで泣くぴょん妻にたじろぎ、だれもお清めの席にあがってこようとしない。ざわめきが遠く聞こえる。うわあああああん。ぴょん妻の声がそのざわめきも消してしまう。  人波を押し分けて、タカぴょんが駆けつけるのが見えた。マナとコウもそのあとに続いている。金髪青年も、おろおろしながら見ている。タカぴょんは靴を脱ぎ捨てて和室にあがり、背をそらしすぎてひっくり返りそうになっているぴょん妻を、うしろから抱きかかえるようにして支えた。 「わかったわかった。わかったから。な、みなさんそこにいるから。かなしいのはわかったから」  タカぴょんはなだめるように小声でささやく。 「ママ、あんまり泣くとみっともないよ、あとでゆっくり泣きなよ、ね。ていうか、お寿司食べちゃったの? 数の子もうないじゃん」  マナはぴょん妻の隣にぴたりとはりつき、すし桶と泣く母親とを交互に見ている。  マナの隣にいるコウと、目があった。コウはかすかに口の端を持ち上げて、笑った。先生がいたときと、うちはなんにも変わってないよ。コウの、コンピュータを前にささやかれていた、あの冷静な声音が聞こえた気がした。  私は正面で泣く母親と、彼女を抱きかかえる父親と、寄り添う子どもたちを見る。みな黒い服を着て、青白い顔をしている。誕生会のときに思ったことと、まったく同じことを思う。学芸会。学芸会とそっくり同じだ。  ぴょん妻からゆっくり視線をコウに戻すと、コウはふと目を逸らし、すし桶に手を伸ばしてたまごのにぎりをひとつつまみ、ひょいと口に入れた。そして上目遣いに私を見て、にっと笑った。 「すみません、みなさん、どうぞご遠慮なく食べていってください。故人も喜びますから」  タカぴょんが、通路でおろおろしている人たちに声をかける。その場でかたまっていた老人たちは、顔を見合わせ何かささやき合い、互いの背を押し合うようにして和室に上がりはじめる。がらんとしていた和室は、あっという間にさほど多くない人たちで埋まる。紺色の制服を着た女性が数人を引き連れ、ビール瓶を配ってまわる。まま、どうぞどうぞ。どうぞお先に。あちこちから、宴会とまったく変わらない陽気なつぶやきがあふれてくる。声をあげて泣いていたぴょん妻は、落ち着きを取り戻したのか、マナの差しだすティッシュで思いきり鼻をかみ、うつむいてすんすんと鼻を鳴らしている。タカぴょんが見知らぬ老人たちのグラスにビールをついでまわっている。  たしかにこれは学芸会だ。ティッシュの花を飾りハッピーバースデイと歌ったあの日と大差ない。けれど、けれど不思議なことに、長テーブルの和室に、奇妙な空気が満ちるのを私は感じる。奇妙な空気──何か、とてつもなく大きなものに包まれているような感覚だった。私はなんの宗教も信じたことはないけれど、ひょっとしたら、信者でごった返す教会の内部には、こんなような空気が満ちているのではないだろうか。もし持っているもの一切合切を失ったとしても、ここにいれば大丈夫。それはそんなような安心感で、その得体の知れない空気の正体を見極めるために、宴会場と化しているお清めの席を私はぐるり見渡す。  とくべつなことは何も起きていなかった。ただ、老人たちと京橋一家が、寿司をつまみ酒を飲んでいるだけだった。酒をつぎ合い、赤い顔で笑ったり泣いたりしているだけだった。白けるくらい、それはなんということのない光景だった。 「ほら、ミーナ先生、食べないとこの馬鹿たちに食べられちゃう」  鼻水と涙でぐちゃぐちゃの顔でほほえみながら、ぴょん妻が私の小皿に寿司を入れる。いくらと、まぐろと、甘エビを。その瞬間、私は耳元でなつかしい声をはっきりと聞く。  ねえミナちゃん。おかあさんの甘エビあげる。ミナちゃん甘エビ好きだもんね。じゃあおかあさんの好きなものもとってよ。じゃあたまご。たまごなんか好きなの? いいよ、好きなのとりなよ。いいの、おかあさんはたまごで。お、じゃあとうさんも、ミナに甘エビ。えー、そんなに甘エビばっかりいらないよ。そうか? じゃあ、うにをやろうか。おとうさん、うに好きでしょ。おかあさんのうにを食べていいよ。じゃあタコと交換するか。  そうして私は、すとんと理解してしまう。理解したくもないことを、瞬間、深く理解してしまう。  父があんな死に方をしてから、私がずっと抱いてきた嫌悪と恐怖。家族という謎の団体について私がずっと抱き続けていたそれらの正体が、怒りだった、ということを。父が秘密を持ち続けたこと、父の守るものが私たちだけではなかったこと、母がそれに気づかなかったこと、ともに暮らしていさえすれば家族だと単純に言い放てること、そしてなんの後始末もせず父が世界から消えたこと──そのすべてに猛烈な怒りを覚えていた。そう、私は嫌っていたのでもおそれていたのでもない、ただ、怒っていた。家族というものの不完全さに。  ぴょん妻が小皿に盛った寿司は、みるみるうちに醤油を吸い上げ、白米が茶色く染まる。私はそれを立て続けに口に入れた。うにもマグロも一緒にして咀嚼した。さほどわさびはきつくないのに鼻の奥がつんとした。 「ねえねえミーナ先生、この人、私のダーリン」  ぴょん妻の隣に座ったマナが、テーブルに身を乗り出して言う。隣に座った金髪青年は、えへへ、と笑って軽く会釈した。タカぴょんによく似ていた。気弱そうに笑うところ、笑うと眉毛がさがるところ。 「結婚するの?」マナがついだビールに口をつけ、私は訊く。 「だって、できちゃったから」マナが唇を尖らせる。 「まったく、あんたが若いころから、ちゃんと避妊のことを教えていたってのに、一発目で失敗するんだもん」化粧のすっかり落ちてしまったぴょん妻が、横から口を出す。 「一発目じゃないよ、正確には、二十八発目」 「えー何それえ。どうして二十七回平気だったのに二十八回で失敗するのよ」 「ちょっと聞いてよパパー、ママったら、おめでたのこと『失敗』なんて言うよ。じゃあ私たちは失敗作なのかっていうんだよ」 「おうおう、成功おめでとうよ、失敗はないよなあ、立派な成功だ。性交が成功、なんちって」 「うわ、パパ、さむー。つーか、痛いよー」 「じゃあ訊くけど、マナ、おなかの子の出生決定現場はどこなの」 「ママったら野猿のくせに何得意げに訊いてんの。あのね、大城くんのアパート。野猿よりはぜんぜんロマンチック」 「何がロマンチックだよー、どうせ風呂無しトイレ共同だろ。あ、おいマナ、ビール飲むなよ。大城くんも、飲ませるなよ妊婦に」  大城くん、と呼ばれた青年は、テーブルの上で交わされるあからさまな会話に、戸惑ったような顔であいまいに笑う。 「変わらないでしょ」いつのまにか、隣にコウが座っている。 「うん、変わってないね」私は笑った。 「先生、いつでもきてよ。この安手のドラマが見たくなったら」  コウはにやりと笑うと、私のグラスにビールを満たした。泡は一瞬盛り上がり、けれどあふれずにじっと表面で動かない。  そうだった。私は確かに見たかったんだった。この人たちの滑稽な家族ごっこ。家族を「する」のだという、滑稽なほど強い意志。その覚悟を。  彼らを見ている私の目は、けれど、自分より大きなケーキを食べているだれかを見る、子どもの目なんじゃないかとふと思う。そうだ、認めるべきだ。私は彼らを、三年前は鼻で笑った彼らを、今、うらやましいと思っている。恥ずかしげもなく学芸会を演じられる彼ら。なんの疑いも持たず、あてがわれた役割をこなすように妊娠する娘。メンバーを替えながら、連綿と続いていく学芸会。その疑いのなさを、その無邪気な受け入れ方を、私は今、うらやましく思っている。 「あなた、木ノ崎さんのお孫さん、おめでたなんですってねえ」  さっきから、ちらちらとこちらをうかがっていた老婆グループが、背後からマナに話しかける。 「そうなんですー、おばあちゃんに見せたかったな」 「そうよねえ、そりゃあそうよ、木ノ崎さんも、もう少しがんばればねえ」 「あんたダンナさん? ずいぶん若いのねえ、木ノ崎さんには会えたの?」 「ああ、はい、会いました……」大城くんが、もそもそと答える。 「頼りなく見えるけど平気なのかって、おばあちゃんが」 「木ノ崎さん、言いそうね」 「ほんと、言うわね、あの人なら。本人の前で」老婆たちは口をすぼめて笑い合う。 「この子がね、妊娠したって報告した次の日に、母の意識がなくなって」口のわきに米粒をつけたぴょん妻が、話に割って入る。 「まあ、そりゃ安心したんだねえ」 「あんた、親孝行したよ。ああ、婆孝行か」 「でもよかったよ、木ノ崎さん、いい冥土のみやげができて……」  すると今まで平静を取り戻していたぴょん妻が、みるみるうちに目から水滴をあふれさせ、ぐずぐずと鼻を鳴らし、また、泣きはじめる。今度は天井を向いてではなく、突っ伏して泣いている。 「ほら、わかったから、泣くな」タカぴょんがふたたび妻の肩を抱いている。 「コウくんも変わらないね」彼らの様子を目の端で追いながら、私は言った。 「そうかな」コウは不満そうな顔をした。そして指の先をじっと見ていたが、ふと顔を上げ、「ねえ、おばあちゃん、見る?」と訊いた。  死んだ婆さんなんか見たくなかった。なのに私は、 「うん、見る」と答えていた。  煙草の煙が充満するにぎやかな席を、コウと二人で抜け出す。  棺の上にのっている刀をずらし、顔の部分だけ開くようになっている窓を開ける。  白い枕に頭をのせた、あの婆さんがいた。鼻にティッシュを詰めこみ、口と頬に、やけに明るい色の紅がのっている。写真と同じく、唇を引き結び、おだやかさの欠片もない不機嫌そうな顔つきだった。実際、不機嫌に死を迎えたんだろうと思った。悟りの境地なんかほど遠く、恨みや執着を握りしめていたんだろう。死んでたまるか。まだまだ生きるんだ。婆さんの、そんな声が聞こえるような気がした。 「ぼく、死体ってはじめて見たんだよ」  ささやくようにコウが言った。コウが言葉を放って気がついた。死んだ人間がこんなにも静かであることに。 「私は二度目」  集中治療室で、そういえば、私も言われたのだった。患者さんもがんばっているのだから呼びかけてあげてください、と。けれどあのとき、私は眠る父に何も言わなかった。背後にいる女がだれなのかが気になって、何が起きたのかもよくわからずに、ただ父を見おろしていた。もしあのとき、ぴょん妻のように父と二人きりになる時間があったら、私は彼になんと言っただろう。ずるい、となじっただろうか。あんた何やってんの、と問いつめただろうか。起きてもめごとの後始末して、と責めただろうか。それとも、楽しかったと叫んだだろうか。すごく楽しかったね、と。 「家、出るんだ。大学受かったら」  棺のなかで目をつぶる婆さんを見つめて、声をひそめるようにしてコウは言った。 「大学いくんだ。どこ受けるの?」 「芸大にいって建築のこと勉強したい」 「まだ興味があるんだ」驚いた。私が持っていった雑誌や本を、コウはまだ眺めているんだろうか。 「まず落ちるだろうな。でもそしたら、浪人してまた受ける」 「浪人したら家、出られないね」 「だから今がんばってんだ。こんなにがんばるのはじめてだよ」 「建築を勉強してどうするの」  死んだ婆さんの顔の上で、将来について話しているのは不謹慎なような、場違いなような気もした。コウはしばらく婆さんの顔を見つめて、答えた。 「まったく新しい住宅を作るんだ。南向きじゃなくても、窓がなくても、緑がなくても、全部うまくいくって住む人が思えるような、すごく新しい家を作ってみたいんだ」  聞いたか婆さん。まだ死にたくなんかなかっただろうけれど、安心して三途の川を渡るといいよ。生まれ変わりがあるのかどうかわからないけれど、あんたがもう一度目を開くときには、コウの言う、まったく新しい家とやらを、きっとあちこちで見ることができると思うよ。 「帰ろうかな」  私は言った。 「先生に会えてよかった。きてくれてありがとう」  コウは野太い声で言って、ゆっくりと棺の窓を閉めた。  送らなくていい、と言ったのに、京橋家の面々はバス停まで私を見送りにきた。ぴょん妻はさっきよりだいぶ落ち着いていたが、飲みすぎて足元がふらついていた。タカぴょんとマナが両側から支えている。ときどき、ケタケタと意味のない笑い声を響かせている。  建物を出ると、あたりは闇に沈んでいた。ぐるりと植えられた木々はみっしりと黒かった。見上げると、星がくっきりと見えた。ひっきりなしに虫が鳴いている。街灯が白くたよりない光を落とす道路に出る。店はみな闇に紛れるように暗く、自動販売機がぼんやり光っている。時刻表に顔を近づけたが、ほとんどの文字がかすれていて読めなかった。 「ミーナ先生もここに泊まっていけばいいのに」  マナが言った。京橋一家は今日の夜、控え室に布団を並べて眠るらしい。 「ろうそく番の時間が短くなるって思ってるんだろ」コウが茶化すようにマナに言う。 「やだね、あんたってすぐそういうひねくれたこと言う。私は先生ともっと話したいの」 「あんなところに寝泊まりさせちゃ迷惑でしょ。今度うちに泊まりにきてもらえばいいじゃない」  タカぴょんとマナに抱えられるような格好のぴょん妻は、そんな姿勢で母親らしいことを言う。呂律はまわっていなかったが。 「こいつも今、自宅にいるんで、ほんと、きてくださいよ」  タカぴょんが言う。ねえ、あんたをチョロQとなじった女はどうしているの。今もだれかとでれでれつきあってるの。訊きたかったけれど、私はただ、ありがとうございますと頭を下げた。 「私、つわりひどくってー。それで今もあの家にいんの。産まれるまでそうするつもり。それがさあ、ダーリンもなんか入り浸っちゃって」 「あんな狭いところに五人だもんなあ」タカぴょんが笑う。 「産んだら出ていってよね、赤ん坊まで出てきたら人口過密よ。だいたいあの大城はさあ……」  ぴょん妻はふいに言葉を切り、二人の腕をふりきって数メートル離れたところに走っていってしゃがみこみ、「ゲエエエエ」と大声を出しながら、吐いた。 「おいおいおいおい」タカぴょんが走りより、背中をさすっている。グエ、グエエエ。ぴょん妻の吐く音が、静まり返った夜のなかに響いた。 「あー、みっともないったら」 「それより、バスこないね」  私は道の先に目を凝らした。バスはおろか、乗用車がくる気配もない。夜はただみっしりと色濃く、私たちを閉じこめる膜みたいに虫の声が響き続けている。  ずっと見続けていた道の先に、ぼわりと白い光が広がった。 「きた」コウが言った。  白い光は、闇を飲みこむようにどんどん近づいてくる。光のなかに、やがてバスの輪郭があらわれる。 「じゃあ、今日はありがとうございました。お先に失礼します」  数メートル先にしゃがみこんでいるタカぴょんとぴょん妻に、声をはりあげる。タカぴょんは深々とお辞儀をし、ぴょん妻は片手だけあげて、ふらふらとふった。  闇のなかを走ってくるバスは、内側が明るいせいで、なんだか浮いているみたいに見えた。バスは私の前で停まり、ドアが開く。 「先生、またね」 「赤ん坊見にきてね」  マナとコウが口々に言う。ステップを一段あがったところでふりかえり、 「マナちゃん、言うの忘れてた。おめでとう」  私は言った。マナは笑顔でうなずいた。  扉は閉まり、バスは走り出す。乗客は私以外、だれもいなかった。いちばん後ろの席に座り、ふりむいた。ずっと続くアスファルトを、並んで歩く四人家族が見えた。母親を父親と長女が支え、少し離れたところをぶらぶらと長男が歩いている。母親は数歩歩いてまたしゃがみこみ、父親が背中をさすっている。ふらふらと立ち上がり、ふたたび歩き出す。街灯に照らされた四人の姿はどんどん遠ざかっていく。  私は前に向きなおって座り、バッグから携帯電話を取り出した。  今、バスに乗ったとこ。これから電車の駅までいくから、帰りは十二時過ぎちゃうかもしれない。先に寝てていいよ。  メールを打ち、恋人にあてて送信する。一分もせず返事がきた。  お疲れ。腹減ってたらごはん用意してあるよ。葬式はどうだった?  とある。私は幾度も幾度もその文字を見つめ、そうして、  あのね、すごく、  そこまで打って私は指を止め、それからゆっくりと、  楽しかった。  そう打って、返信ボタンを押した。  ふりかえると、四人の姿もホープメモリアルホールももう見えず、ひっそりとしたアスファルトの一本道が、ずっと彼方まで続いているだけだった。  初 出 映画『空中庭園』パンフレット(リトルモア) 〈底 本〉リトルモア 映画『空中庭園』パンフレット 平成十七年十月十七日刊