[#表紙(表紙.jpg)] あしたはうんと遠くへいこう 角田光代 目 次  How soon is now? 1985  Walk on the wildside 1987  Nothing to be done 1990  I still haven't found what I'm looking for 1991  Everything flows 1992  Calling you 1994  Divine intervention 1995 ㈰  Divine intervention 1995 ㈪  Headache 1996  No control 1998  Start again 2000 [#改ページ]    How soon is now? 1985  レコード針を手動で上げ下ろしする音がテープに入ってしまわないよう、慎重に録音していく。ものすごく疲れる。スミスの「How soon is now?」を録音してちょうど九十分テープの半分が終わり、休憩することにして、台所へいく。家のなかは静まりかえっている。インスタントのコーヒーをいれて、自分の部屋へ戻った。  あと五分で十時になる。こんなことばかりしている場合じゃない、コーヒーをすすってあたしは本気でそう思う。それなのに、たった今録音したばかりのテープを巻き戻して、ちゃんとしたしあがりになっているか確かめるために聴いていく。一曲目をエコー&ザ・バニーメンにしたのは正解だった、と我ながら感心するころには、こんなことしてる場合じゃないことをすっかり忘れている。  窓ガラスの向こうは真っ暗闇で、ガラスには輪郭の薄いあたしが映る。あたしはきれいだろうか、野崎修三に好かれて当然なくらいきれいだろうか。きれいじゃない、とも思うし、けれどそんなにひどいわけでもない、とも思う。テレビはもちろん、学園のアイドルにもなれないけれど、整形手術を真剣に考えなければならないほどでもない、ということ。それにしてもこの先あと何百回くらい、こういうことを考えなければならないんだろうか。つまり、あたしはきれいなのか? だれかに好かれるくらいにはきれいなのか? それとも見向きもされない? という、たとえば、鮮魚売場の、刺身用の鰺《あじ》みたいなことを、だ。  窓ガラスから顔をそらす。こういうことを考えはじめると、きまって明けがたになってしまう。それに、野崎修三は人を顔で判断するような男ではない。たぶん。だって、あたしが好きになった男だもの。  テープのB面にとりかかる。さんざん迷って、ニュー・オーダー「The Perfect kiss」を一曲目に決めた。十時二十八分。三十分近くも窓ガラスに映った自分の顔を眺めていたことになる。ああもう本当に、こんなことをしている場合じゃないのに。  夏休みの前に、野崎修三のことはすっかり忘れようと決めた。自分の人生計画をたててみて、結局のところ、野崎修三はあとまわしにしてもいいんじゃないかと思ったのだ。高校を卒業してもまだ彼のことが好きだったら、それから行動に移せばいいのだし、それよりも、すべての大学にこけて、もう一年この町、この家にいるはめになることのほうが悲惨だと、あたしはしみじみそう思った。だから、野崎修三のことを考える時間があったら、英単語を覚える。文法を覚える。年号を覚える。そう決めたのだ。  しかし無理だった。考えまい、考えまい、と思えば思うだけ、思い浮かぶのは野崎修三にまつわることばかりだった。野崎修三の横顔、控えめな曲線の耳、筋張った手の甲、たいらで大きな足、張りのある、よく通るあの声。それだけならまだいい、野崎修三のロッカーから数ミリはみ出していた体操着とか、彼が休み時間に投げ棄《す》てたコーヒーの紙パックのつぶれ具合とか、そんなものまで頭に浮かんできたときは、さすがに、これはやばいのではないだろうかと思った。  二年前、ダイエットしたときがちょうどこんな感じだった。甘いもののことを考えるのはやめよう、やめよう、と思っているうち、夜中に夢遊病者のように起き出して、冷蔵庫のジャムをなめていたんだった。結果、あたしはダイエット宣言をしてから五キロ太った。  そうやって禁止事項で自分を追いつめ、さらに事態を悪化させるくらいなら、と悩んであたしが考えた解決策は、「修三|瞑想《めいそう》時間」だった。夏休みのあいだ、一日に一時間半、縁側に座って物思いにふける。その時間内だけは、野崎修三のことをどれだけ考えても、また、どんなこと——恥ずかしくて口に出せないことでも、現実味も突拍子もないことでも考えて可、とした。そしてあたしはそれを、午後三時半から五時まで、と決めて、毎日実行した。縁側で座禅を組んだり正座したり、ときには寝そべったりし、徐々に傾いていく強い陽射しを浴びて、汗をだらだら流しながら、一秒の隙間もなく修三のことを考え続けた。修三とあたしの未来、現実編、パニック編、ファンタジー編、駆け落ち編、外国編、あたしたちの共有しうる未来の可能性をとめどなく考えだし、アイディアが尽きると、修三の細部を思い浮かべた。親指の第一関節からペンケースのひびわれまで。あたしが唯一自分に禁じていたのは、変質者だとか欲求不満だとか自分で自分を厳しく追及することで、だから何を考えてもよく、毎日あたしはその一時間半、本当にしあわせだった。完璧《かんぺき》だった。  夏休みが終わって、修三瞑想時間も終わった。実際のところその時間を持ったほうが勉強がはかどったが、学校へいきながら瞑想時間をやっていると、本物の野崎修三と接するのに弊害が出ることに気づいたのだ。本物の野崎修三を目にするたびどこかでがっかりするはめになったし——瞑想の時間の野崎修三は鼻毛なんか出ていないのだ——、彼と言葉を交わすときは瞑想時間に考えたことを見透かされそうな気がして、異様なくらい赤面しなくてはならなかった。そしてやっぱりあたしは、瞑想のなかで、鼻毛のない野崎修三にうっとりしている自分を嫌悪していた。とても女子高生的だと思った。それはあたしが心から忌み嫌っていることだ。  ようやくテープを作り終えたのが十一時四十八分だった。あたしが今一番好きな、ペイル・ファウンテンズでテープは終了。テープのB面を聴き返しながら、でる単を覚えるべく机に向かってみたのだけれど、単語をいくら走り書きしてもつぶやいても、何一つ頭に入ってこなかった。結局あたしはノートもペンも放り出して、ふたたびコーヒーをいれるために階下へおりていった。  家のなかはまだ静かだ。なんの気配もしない。流しの上にある小さな蛍光灯だけつけて、薄暗い台所で湯をわかす。ガスの光がまるく広がって、去年の林間学校のキャンプファイヤを思い出す。流し台の隅に、セブンスターがおいてある。封が切ってあって、半分くらい残っている。うちの家族は全員喫煙者で、家のあちこちにこうしてたばこが放置されている。一本抜き出して、ガスに顔を近づけて火をつけた。ゆっくり吸いこむと、細い白い煙がまっすぐ上に線を引いていく。あたしはときどき、本当に指折り数えるくらいだけれど、こうして放置されているたばこを吸うことがある。おいしいとも、まずいとも思わない。ただ、最初は線を描きながら上昇して、だんだん人の顔や花びらや、ドラゴンみたいに広がっていく煙はすごくきれいだと思う。  あたしの吐き出した煙は、やかんの放出する大量の湯気にまぎれて見えなくなる。しゅんしゅんとやかんは音をたてる。たばこの煙を思いきり吐き出してから、たすけて、とあたしはつぶやく。  たすけて。そう言うと、反射的に涙がにじむ。たばこをもみ消し、ガスの火をとめ、カップにインスタントコーヒーの粉を入れて、たすけて、ともう一度つぶやき、冷蔵庫からミルクを取り出して注いでいると、右目から、ぽろりと涙が落ちる。流しの上の蛍光灯を消して、ミルクを冷蔵庫に戻すついでに、扉を開けっ放しにして橙色《だいだいいろ》の光を浴びて、ウィンナや卵やジャムやそんなものをしばらく眺め、たすけてともう一度口のなかで言ってみると、左目からもちゃんと涙がこぼれ落ちる。  これはあたしの遊びだ。最初は遊びのつもりじゃなかった。今年の春、高校三年にあがったばかりのころ、風呂《ふろ》で湯船に浸かっていてあたしは突然、たすけて、と思ったのだ。だれに、何から助けてほしいのか、秩序だった理由なんかなんにもなくて、もしくは思い浮かばなくて、ただ本当に、ああ疲れた、とか、おいしーい、とか、思わずつぶやいてしまうように、たすけて、と思った。それでその一言をそっと舌にのせてみた。たすけて。驚いたことに、その一言が呪文《じゆもん》だったみたいに、両目から涙がぽろぽろこぼれた。あたしは泣いた。湯船のなかで、膝《ひざ》を抱えて泣き続けた。泣くのはものすごくひさしぶりだった。悲しいこともつらいこともとくにないはずだったけれど、理由なんかは考えなくてもあたしは泣き続けることができた。そして、風呂から出てみると、短時間のダイエットが成功したみたいに気分も体もすっきりしていたのだ。それ以来、あたしはときどき、たすけて、と口に出す。そう言うと本当に泣ける。泣けると気持ちよくなる。だからこれは遊び。ひょっとしたらこれも女子高生的なことなのかもしれないけれど、遊びだ、とあたしが自覚している時点でまだましなんだと思う。  コーヒーをすすりながら部屋に戻ると、かけっ放しのテープは|B《ビツグ》 ・ |A《オーデイオ》 ・ |D《ダイナマイト》を流していた。音量をあげて部屋の電気をスタンドライトだけにする。部屋が音で膨張していく感じがして気持ちいい。目を閉じると、膨張していく部屋のなかにあたし自身も溶けこんでしまうみたいだ。よけいなことがなんにもなくなる感じ。受験も卒業も進路指導も、成績も不安も模擬試験も全部。  野崎修三にこのテープを渡すとき、できたら深夜、勉強に疲れたときに、部屋を暗くして、できるだけ音を大きくして、部屋の真ん中に突っ立って目を閉じて、ぶっ濃いコーヒーを飲みながら聴いてほしい、というメッセージを添えよう。きっと彼もあたしの感じるこの心地よさを感じることができるに違いない。言葉やしぐさなんかで説明せずに、まったく同じことを感じられるなんて、やっぱり音楽は偉大だ。  テープのB面が全部終わって(つなぎ目もきちんときれいだったし、音質も悪くない)、今度は野崎修三がはじめてこれを聴く気分でもう一度A面をかけながら、一緒に渡す手紙の文面の下書きをはじめた。一時二十五分。しょうがない。今日はすべての勉強をあきらめる。そのぶん明日がんばればいいんだ。  インデックスを書き、テープをラッピングし、手紙を清書して、これらすべてが終わって時計を見ると二時五十三分。大急ぎで顔を洗って歯を磨いてあたしはベッドにもぐりこんだ。家のなかはまだ人の気配がしない。慣れているからあんまりこわくはない。むしろ気持ちがいい。耳のすぐ近くで虫のなく音が聞こえる。野っ原に寝ている気分。母と姉は今日は泊まりがけで東京にいっている。二人はタカラヅカフリークで、月に一度か二度はかならず外泊する。二人が眺めていたパンフを見て、気色悪っ、と思わずつぶやいてしまったのはあたしが小学生のときだったんだけれど、もちろんそれ以来、二人は絶対にあたしを誘うことはないし、また誘われたくもない。東京にはいきたいと思うけど。  寝入るまでのつかの間、テープを受け取って喜ぶ野崎修三の図を想像していたら、階下から父親が帰ってきた物音が聞こえてきて、だいなしになった。そうっと鍵《かぎ》をまわして静かに玄関の扉を開け、忍び足で台所へ向かう。いつもそうだ。今日は母も姉もいないのに、いつもそうしているから、この泥棒みたいな帰りかたは癖になってしまっている。家族を起こさないよう気遣っているんだろうけど、あんまりにもびくびくしているからよけい気にさわってあたしは耳をそばだててしまうのだ。自分の家なのに。あたしたちのために働いているのに。どうしてそんなに遠慮することがあるんだろう?  あたしは頭からふとんをかぶって、ラジオをつける。父親の気配のなかでは眠れないけれど、ラジオを聴きながら眠ることはできる。暗闇のなかに、カルチャー・クラブが小さく広がる。まぶたの裏で像を結んでいた野崎修三の笑顔は、水に映った満月みたいにぶれて暗闇にとけていく。幾度も幾度もパターンをかえて想像したみたいに、あたしはいつか野崎修三と手と手をとりあって、この小さな世界を抜け出すことができるんだろうか?  父親は母に出会って道を踏み外した。本人同士はそうは思ってないみたいだけれど、あたしがこどものころ、近所の性悪|婆《ばば》あたちがそううわさしているのを何度も聞いたことがあるし、自分の頭でいろいろ考えられるようになってみて、やっぱりあたしも、婆あたちの言っていたことはまんざら間違いでもない、と思いはじめた。  三つ上の姉もあたしもこの温泉町で生まれて、この町しか知らずに育ったが、ここは父親とも母親とも縁のない場所だ。二人は駆け落ちしてこの町で生活をはじめた。母方の祖父母に会ったことはあるが、父方の祖父母には会ったことがない。生きているのか死んでいるのかも、どこにいるのかすら知らない。彼はまだ許してもらっていないのだ。  どこそこの娘がヨネヤマスーパーで万引きしたとか、だれそれが東京から戻ってきたのは不倫してそれが会社にばれたからだとか、どちらかというと、負のうわさばかりがものすごいエネルギーで渦巻くこの小さな、退屈な町で、駆け落ちしてきて温泉旅館で働きはじめた若い夫婦はかっこうの話題を提供し、かつ、ヨソモノという名前のスケープゴートになっただろうことは、母の誇張気味の思い出話を聞かなくても簡単に想像できる。もう二十年もたってさすがに、あたしたちのことをヨソモノとうしろ指を指す人はいないのだが、母親なんかはいまだに、酒屋と八百屋があたしの悪口を言っていたとか低次元のことを言って父親に八つ当たりしている。そりゃあ、目の上を青く塗ってパールで光らせ、スパンコールの縫いつけられたへんな服の女がバスに乗りこんできたら、それが東京へいくための、いとしのスターに会うためのめいっぱいのおしゃれなんだと知らない町の人々はみんな、どぎもを抜かれるに決まっているのに、母親にはそれがどうしてもわからない。  ともかく、父親はこの母親と二人の娘を食わすために、そして彼女と上の娘が好きなだけタカラヅカに金をつぎこめるように、ばかみたいに働いている。あたしたち三人が彼の存在を忘れてしまうくらい、いつも。自分のシャツ一枚、レコード一枚買えないっていうのに。  それが約束なんだそうだ。なんの心配ごともなく、お金のことなんかこれっぽっちも考えず、好きなように暮らしたいだか、暮らさせてあげるだか、どっちが言い出したのかは忘れたけれど、とりあえず、それが父が母と結婚するためにした約束らしい。あんたのおやじ、ありゃ骨抜き、女ってのはこわいやね、というのは、十にも満たないあたしに駄菓子屋のおばあちゃんが言った言葉。たぶん父親は母に出会わなかったら違う生活を送っていたに違いない。自分の親に許されず、見ず知らずの場所で、暗いうちから起き出して新聞を配って、一日じゅう温泉旅館の掃除をして、そのあと飲み屋で深夜まで働いて、土日はクリーニング工場に通う、そんな暮らしがこの世に存在しているなんて、想像もしなかったんじゃないか。しかし彼はその暮らしをまだやめようとしないのだから、彼らの約束はまだ有効なのだ。彼の恋はまだ有効なのだ。そのことはときおり、あたしをぞっとさせる。  その日の放課後、野崎修三は掃除当番のグループだったから、彼がひとりになるのをあたしは待つつもりだった。教室から野崎修三がひとりで出てくることを願いながら、廊下に並ぶロッカーの中身をかたづけるふりをしていた。野崎修三が出てくる気配はまったくなくて、彼はほかの男子生徒数人と、タイガース優勝の話でもりあがりながら、ほうきと雑巾《ぞうきん》で野球ごっこをして騒いでいる。ときおり人の気配がしてふりむくが、それはヤマダだったりゆかだったりし、「いずちゃんバイバーイ」なんて言ってロッカーをいじっているあたしに手をふっていく。教室のなかから野崎修三の馬鹿笑いが聞こえる。  このテープさえ渡してしまえば、あたしは野崎修三から解放されるはずだ。今日からそれだけに集中して、受験勉強ができるはずなのだ。そうしないとあたしはまた一年、あの家ですごさなければならなくなる。  だれかが教室から飛び出してきて、ふりむくとそれは野崎修三だった。ひとりでスチールのゴミ箱を抱えている。ゴミ捨て係らしい。奇跡だ、と思った。この奇跡を無駄にしてはならない。野崎修三はそこに立つあたしにちらりと一瞥《いちべつ》をくれて、すぐに背を向け廊下を進んでいく。あたしはテープを握りしめて彼を追った。 「あの、あのさ、野崎」声が裏返らないよう気をつける。野崎修三は面倒そうにふりむく。「これさー、テープ、作ったんだけど、もしよかったら聴いてよ」  野崎修三は両手でゴミ箱を抱えて、あたしの差し出したテープをしばらく眺めていた。 「あの、なんてゆーか、夜とか、勉強するときなんかに」  あたしは言う。  野崎修三がゴミ箱をおいてテープを受け取るのと、しゅうぞー、おれもいくー、と声をはりあげて中村が教室から飛び出してきたのと同時で、中村はあたしたちを交互に見、彼の手のなかにあるテープを見て、 「何それ? 明菜の新譜?」  と野崎修三に訊《き》いた。彼はあたしの渡したテープと手紙をポケットに押しこんで、無言でゴミ箱を抱える。おれも持つよ、中村がゴミ箱の一方を持ち、彼らはゴミ箱をぶらさげてあたしに背を向ける。 「何今の」小さな声で中村が彼に訊く。「知らねーよ」「告白? もてるねえ」「ていうか、こえーよ」「え?」「あいつなんかこえーよ」彼らが抑えた声で交わす会話は全部あたしに筒抜けに聞こえる。中村はちらりと肩越しにふりかえり、あたしがそこに立っているのを見てぎょっとした表情をし、 「早く終わらせて帰んないと夕やけニャンニャン見れねーじゃんよー」  わざと声をはりあげて野崎修三にケツキックをくらわし、彼らは馬鹿笑いの声をはりあげて廊下を走っていく。  げた箱で町子があたしを待っていた。靴をはきかえるあたしをのぞきこんで、どうだった? と訊く。こえーって言われた、とのどまででかかったが、そう言ったらその場で声をあげて泣いてしまいそうだったので、 「渡すには渡せた」と答えた。 「よかったじゃん」町子は言って、あたしにケツキックをした。鼻の奥がつんとした。  町子の自転車に二人乗りして、あたしのウォークマンのイヤホンを片耳ずつ押しこんで、エコバニを聴きながら川へ向かう。「The Cutter」が流れる。渡したテープのA面の一曲目。 「これ終わったらあたしのテープ聴くからねっ」ペダルをこぐ町子が声をあげる。 「いやー、スターリンなんか聴きたくないー」あたしは背をのけぞらせ、薄いガラスみたいな空を見上げて笑う。  商店街でコロッケ、お茶、たこ焼き一パックを買ってからあたしたちは川縁におりる。夏のあいだ、暴力的に生い茂っていた緑の雑草は色あせて、もの哀しい風情でやわらかな風に揺れている。あたしと町子は川沿いに、並んで腰かけた。 「あたしさ、今日から心をいれかえんの、今日から死にもの狂いで勉強するよ」  自分に言い聞かせるようにあたしは言う。あいつこえーよ。遠くで野崎修三の声がする。 「それ、腐るほど聞いてるんだけど」コロッケを食べながら町子が言う。「あんたもさ、そんなことばっか言ってないで、推薦ねらったら? 勉強しなくていいんだよ」  町子とは中学から一緒だったけれど、仲よくなったのは高校に入ってからだ。中学生のころあたしは町子のことをたけのこ族かどこかのレディースの一員だと思っていた。あたしはなぜか不良に好かれやすいたちだったから、町子にレディース入りを誘われたら困る、と思って避けていた。町子はスターリンの熱狂的なファンという珍しい一面を持ってはいるが、しかしレディースでも暴走族でもないと高校生になってから知った。彼女の長い髪が茶色いのも、眉毛《まゆげ》が薄いのも歯並びが悪いのも、目つきが悪いのももとから、つまり、彼女の生まれつきの風貌《ふうぼう》がかぎりなくヤンキーくさい、というだけのことで、実際の町子は(素行がいいという意味ではなく)真面目で、心根のまっすぐな、気さくな女の子だった。「町子、あたしって、こわいかな」  ぬるくなりはじめた缶入りのお茶をすすり、何げなさをよそおって訊いた。 「こわいってどんなふーに?」町子はあたしを見る。 「どんなふーにか、わかんないけど」 「うーん」町子はそれだけ言って、たこ焼きを食べ、ウォークマンに自分のテープをセットして川原に寝そべる。耳の奥にねじこむような一曲目がはじまると、うーん、かっこいい、とつぶやいて目を閉じてしまう。あたしも寝転がる。空が遠い。冬の朝、バケツにはった氷みたいに薄べったい空。テープを見下ろしていた野崎修三の顔が淡く浮かぶ。野崎修三のことは極力考えまいと、あたしはその顔を自力で消す。さっきの彼の対応のことを町子に話したかったけれど、やっぱり言わないでおくことにした。町子はおそらくあたしの話を聞けば、「あの猿顔のおニャン子ファンのださださのちびのどこがいいわけ?」などと毒舌をまき散らすにきまっている。あたしはどんな状況でも、いやとくに今、野崎修三の悪口を聞きたくなかった。  町子は推薦で女子大にいく。だからもしあたしが大学に受かれば、一緒に東京にいけることになる。町子がいなかったらもっと不安だったと思う。あの家を出て、あの町ともうなんの関わりも持たずに、東京で町子と暮らす、いや町子と一緒には住まないけれど、一緒に買い物をしたり一緒にご飯を食べて好きなだけくっちゃべる生活、というのを思い浮かべると不安なんかこれっぽっちもなくなる。けれど、あたしはときどきどうしようもなくかなしくなる。たとえばこうして、町子と並んで音楽を聴きながら川原に座っているときなんかに。 「町子」呼ぶと町子は横になったまま首を傾けてこっちを見る。「あのさー、あたしたち、一緒に東京いけたとしてもさ、こんなふうにしたりは、もうできないんだろうね」  町子はしばらくあたしを見ていた。何も言わないので、言っている意味がわからなかったのだろうかと思い、つけくわえる。 「こんなふうにって、こうしてたこ焼き食べながら川見たりとか、川見ながらスターリン聴いたりとか。野崎修三にテープ作ったりとかもね」 「いずちゃんさあ」町子が口を開く。「あんたのその、ドラマチックっていうかロマンチックっていうかとにかく、へんな思いこみにひたる、みたいの、やめたほうがいーよ」 「へ?」町子の言っていることはなんとなくわかったし、町子のこういう、遠慮のないずけずけしたところもあたしは好きなんだと再確認したが、町子の言うことをそのまま受け取る度胸がなくてそう聞き返した。何もわからないふりをして。 「あたしはそういうこと考えたりするのが嫌い。だってどうってことないことだもん、こんなの。東京にいったらもっと楽しいことあるって。川っぺりで冷えたたこ焼き食うより、ずーっと」  町子は言って、油の浮いたコロッケの包み紙をまるめて遠くに投げた。 「あたしいずちゃんのことこわいなんて思ったことないけど、そーゆーこと言われると、こわいってのちょっとわかるなー。だってあんたどうせ、英単語とか覚えながら、いつのまにかノートに野崎泉とかびっしり書いたりしてるんでしょー、ほわーとした顔して」 「何よう、そこまで言う? 書いたよ、野崎泉って、書いてみたよ、いいじゃん、それくらいー! 書くくらい自由じゃんか、町子なんかスターリンのライヴで鶏の内臓とりあってればいいんだ」  あたしは町子におおいかぶさって長い細い髪をぐちゃぐちゃにしてやった。町子も負けずに手を伸ばし、あたしの脇腹のあたりをくすぐってくる。ちっともくすぐったくないのに笑いがとまらず、おなかが痛くなる。あたしたちはじゃれあいながら気が違ったみたいに笑い続けた。  町子の言うことは本当はよくわかる。だからあたしは、こんなに仲のいい町子に、たすけてとつぶやく遊びのことや修三|瞑想《めいそう》時間のことは絶対に言わない。  居間では東京から帰ってきた母と姉が、タカラヅカのパンフレットやポスターなんかを床一面に広げて、お菓子を食べながらかしましく話していた。通りかかったあたしを母が呼び止め、 「いずちゃん、湯島天神で合格のお守り買ってきた、キッチンのテーブルの上」と言い、 「合格鉛筆と合格まんじゅうもあるよー」顔をあげずに姉が言った。  インスタントのコーヒーをいれて、テーブルにおいてある様々な合格グッズを抱え、あたしは自分の部屋へいく。コーヒーをすすりながら部屋じゅうをうろつき、合格、合格、合格、とか、勉強、勉強、なんて単語を呪文《じゆもん》のようにくりかえしてみる。だんだんやる気になってくる。テープを渡して、たしかにあたしの恋は終わったんだ。これからは受験勉強だけに専念できるんだ。猿顔の、おニャン子ファンの、ちびのあの男なんか、どうしていっときだって好きだと思ったんだろう。テープを受け取ったとき彼がありがとう、なんて言わなくてよかった。あいつ、こえーよ、という一言が筒抜けに聞こえてよかった。これからあたしは野崎修三のことなんかさっぱりと忘れて、死にもの狂いで勉強して、この町とこの家を出ていくんだ。野崎修三もおいていくんだ。  コーヒーを飲み終えるころには、額に合格と書いたはちまきでもしばりたいほどハイになっていて、一番好きな英語の参考書を開いてあたしは英文を訳しはじめる。この参考書は、受験勉強なんかしない、と早々と決めた町子が「いずちゃんは洋楽好きだから」と言ってくれたもので、タイトルが『カーペンターズで覚える英語』という。「ビートルズで覚える英語っていうのもあったんだけど、あたしはビートルズは知ってるけどカーペンターズは知らないから、知らないほうにした。どんな曲か今度教えて」町子はそう言っていた。カーペンターズはあたしも知らなかったから、貸レコード屋で借りてきて聴いた。町子にもテープを作ってあげたけれど、パンク派の彼女は少しばかり聴いて、一言「げげっ」と言っただけだった。 [#ここから2字下げ] ひとりごとを言って年寄りになったみたいに感じて ときどきどっかいっちゃいたくなる いやなことなんか何もないのに 何かとつながっている気が全然しない [#ここで字下げ終わり]  あたしはいつのまにか野崎修三のことを考えている。ひょっとしたら彼は今ごろ、テープを聴いているかもしれない。テープを聴いて、栗原泉も今この音楽を聴いているかもなんて、ぼんやり考えているかもしれない。ばーか、夕やけニャンニャン見てるにきまってんだろ、と町子の声が耳の奥で聞こえて、あわてて参考書に目を落とす。  いずちゃん、ごはん、と階下から母親の声がする。はあいと答えて窓の向こうがすっかり暗いことに気づく。ガラスのなかの輪郭のぶれたあたしと目があう。あたしはたぶん、そこに映る自分の顔も体も声もだいっきらいなのだと気づく。町子の言う「思いこみにひたる」ところも、野崎修三が言う「こえー」ようなところも、あたしはたしかに持っていて、そういうところもおんなじくらいきらいだ。たすけて、と、心に思い浮かぶけれどあたしはそれをつぶやかない。いずちゃーん、ごはんだってばあー、母が叫び、ごめーん、すぐいくー、と答え、たすけて、と言ってしまわないように注意して立ち上がる。  あたしはいつか、本当に、この小さな場所からどこかへ出ていくことができるのだろうか? [#改ページ]    Walk on the wildside 1987  アパートの数メートル先には酒もたばこも売っているコンビニエンス・ストアがあって、あたしはよく夜中に部屋を出て、そこへいく。夜中といっても一時、二時くらいなのだけれど、コンビニが無人のことはまずなくて、都会だなあと、そんなとき思う。  あたしの住むアパートは駅からきっかり十二分歩いた住宅街のなかの、古い木造の二階建てだ。もちろん、予算が予算だからテレビドラマに出てくるような部屋に住めるとは思っていなかったけれど、最初はちょっとがっかりした。もう慣れてしまったけれど。  今度の四月でまる二年住んでいることになるその部屋には、テーブルからスプーンひとつまで、自分で選んだものしかおいてないのに、ときおり——決まって深夜だ——、あたしはまだあの家にいるような気分になる。階下の住人が帰ってきた音を父親だと思って目を覚ましてしまったり、窓の外に自分の家の庭があるような気分でいたりする。そんなとき、ぎくりとする。それであわてて、ジーザス&メリーチェインや、ペイル・ファウンテンズなんかのテープをかけて、極力何も考えないようにするのだけれど、このアパートでは大きな音で音楽を聴くことはできない。ヘッドホンをしてしまうと電話の呼び出し音が聞こえない。だからしかたなく音量を下げて音楽を聴いているのだけれど、そうしているとものすごく窮屈な気分になって、結局あたしはあの家を出ることにしくじったような気持ちにすらなって、それでコンビニにいく。お菓子の棚を目的もなく見たり、雑誌を立ち読みしたりする。そうしているとなんとなく落ち着く。あたしみたいに、店内をぶらついている若い男や女はつねに二、三人いて、髪を金色に染めたレジのおにいちゃんはとくにあたしたちに注意を払わない。あたしも彼らも、まるで家に帰りたくないこどもみたいだ。  ああ、あたしは家を脱出して、たったひとりでここにいるんだ、あたしが生まれ育ってそこしか知らない町と今はなんのかかわりも持たなくていいんだ、そう思うことの快感を百パーセント味わえる瞬間が唯一あって、それは、のぶちんが歌っているのを聴いているときだ。  本当は今日だってジロキチへくる必要は何もなかった。あたしは何一つ楽器ができないし、したがってバンドにも属していない、今日はあたしたちのサークル内の三つのバンドがライヴハウスを借り切ってライヴをやるけれど、バンドメンバー以外の部員はまったくといっていいほどこない。あたしがいったって使い走りをやらされるだけだとわかっているのに、それでも、のぶちんのバンドを聴きたくてきた。そんなことはだれにも言わず、近所だからきただけだという顔をするけれど。  しかし案の定、三つのバンドがだらだらとリハーサルをしているあいだ、会場設営やら買い出しやらであたしはこき使われ、へとへとになって隅に座っていたのに、一年の北村エチカから「ストッキング買ってきてもらえますかあー」なんて頼まれて、師走《しわす》の商店街を走りまわって彼女の指定する「エロっぽくてでも派手じゃない網タイツ」を捜しまわっている始末だ。だいたい純情商店街にエロっぽくて派手じゃない網タイツ、なんて気のきいたものが売っているのだろうか。 「あれ、くりちゃん、何してんの」  声をかけられてふりむくと、コンビニ袋をぶらさげたミナが立っていた。ミナは今日最初に出るバンドのキーボードをたたいている、あたしと同期の女の子だ。 「ミナこそ何してんの、準備とかいいの」 「村瀬に頼まれてさーのど飴《あめ》と、禁煙パイポ買ってきた。くりちゃんは?」 「あたしなんか一年に頼まれてんの」 「あーエチカでしょー、あの子ねー、しょうがないよねー……まあ体育会じゃないから厳しいことは言えないけどあれはちょっとねー。あんたもふらっとくるからさー、使われちゃうんじゃん」 「だって暇だし、部屋にいても」 「まーね」ミナは言って、あたしがストッキングを捜すのを手伝ってくれた。商店街にエチカの言うようなストッキングを売っているはずがないと言い、さっさとあたしの手を引いて北口の古着屋を何軒かまわってくれた。三軒目の店で網タイツを買った。このあたりに詳しいのかと訊《き》いたら、数えるくらいしかきたことがないと言う。古着屋とか中古レコード屋に関しては土地勘があるのだと彼女は笑ったが、あたしは隣の駅に住んでいても古着屋のある場所なんか知らなくて、こういうとき、自分は東京という場所にやんわりと拒絶されている気がする。 「でもさー、のぶちんのバンド、BO、あたしけっこう好きだな。同じサークルじゃなくても、聴きにくるかも」  言ってから、言い訳をしているみたいだと思った。 「あー、声いいよねー、でもバンド名よくないよ、ビーフとオレンジでしょ、時事ネタって言ってたけどおもしろくないもん、それ。それよっか、さみー」  ミナは言って、あたしの腕に腕をからめ、信号の点滅している横断歩道をかけて渡った。あたしたちはなんとなく声をそろえて笑った。息が白い。二人とも着ぶくれていて、しっかり腕を組んで寄り添って走っても、相手の体の感触が感じられず、それがおかしくてあたしは笑い続け、つられてミナも笑っていた。  去年、大学に入って何にもなじめず、自分は完全に乗り遅れている、と夏前になって気づいた。しょっちゅう電話をかけてきて、ドライブや映画に誘ってくれるクラスの男の子と何回か食事をしたけれど、楽しくもなかったし、それ以上親しくなることもなく、友達もできないままでいた。夏休みに入る直前に、あわててサークルを物色した。  現代音楽研究会(略してMMC)、というから、音楽を聴いてああだこうだとしゃべるサークルなのかと思って選んだのだけれど、そうではなくて、バンド活動が主な普通の音楽サークルだった。もちろんどのバンドにも属さず飲み会だけくる人もいるし、サークルに入ってから楽器をはじめた人なんかもいて、あたしみたいに楽器ができないからといって部外者みたいに扱われることもなく、毎日のように部室のある学生会館に顔を出していれば、それなりに必要な人材にはなってくる。ライヴハウス捜しやライヴ告知なんかをすべてまかされる、なかば便利屋のような存在だとしても。そして実際、サークル活動はあたしに大学生らしい気分をようやく与えてくれた。  ミナやのぶちんも含めて、サークル内にあたしの同期は十三人くらいいて、そのうちよく顔を合わせるのが七、八人、会えばだれとでも言葉を交わすし、ときどき一緒にご飯を食べたりするけれど、本当に仲のいい子、つまり、高校のときの町子みたいな存在をまだ見つけられないでいる。大学に入ってもう二年たつのに、あたしはときどきこんなふうに、高校のときと今をつい比べてしまう。  会場はそこそこ埋まっていた。半分くらいはバンドメンバーの知り合いだと思うけれど、残りの半分はきっと純粋なお客さんだと思う。あたしは隅っこでずっと立って見ていた。最初がミナのいるバンドで、次がエチカのバンド、最後がのぶちんのバンドだった。今回はのぶちんたちはコピーしかやらない。一曲目はガンズの「Welcome to the jungle」で、のぶちんの声がライヴハウスに広がった瞬間、自分が体を持っているんだということがわからなくなるくらい、意識が遠くに浮き上がる。歌うのぶちんは、しびれるくらいかっこいい。かすれて、甘くて、もろくて、それでいて突き放すような冷たい声。  のぶちんを見て、のぶちんの歌を聴いていると、あたしは本当に、あたしの生まれた町、あの家、父親や母親や、あたしの顔を映した自室のガラス窓、あたしをずっと追いかけてきているような気がどうしてもしてしまうそれらと、ことごとく、完璧《かんぺき》にきっぱりと訣別《けつべつ》できた、切れた、そう思えて、体が信じられないくらい軽くなる。あたしはたった一人でここにいて、そしてそれはこわいことでもさびしいことでもなくて心から気持ちのいいことなんだと思えるのだ。のぶちんの声はあたしをそういう気分にさせる力を持っている。もしのぶちんがバンドでなくて、倉持ノブテル教という宗教だったとしたらあたしは迷わず入信するだろうな。  ラストの、「Lust for life」はあたしの個人的な思い入れを差し引いてもずいぶんもりあがった。飛びはねたり叫んだりしている聴衆の何人かは、あたしと同じように、切り離されたい何かから逃げおおせた気分を味わっているんだろうか。家とか、わかれた恋人とか、忘れたい過去とか、思い出とか、そんなものから。  みんなそれぞれあとかたづけがあるから、結局打ち上げ会場をあたしが捜さなくてはならないことになって、ふたたび師走の町を走りまわる。この町は嫌いではないんだけれど、飲み屋を捜すのは難しいからいらいらする。五軒飲み屋があったらそのうちの四軒は、入口に「金髪、もしくは色のついた髪のかたお断り」「ロック関係者お断り」「楽器持ち込み不可」だのといった貼《は》り紙がしてあって、部員のほとんどは色つきの髪だし、見るからにロック関係者で楽器を抱えているのだから、なかなか店を見つけることができない。十一時近くなってようやく、屋根つき商店街のなかの居酒屋を確保できて、ライヴハウスに電話して彼らに場所を説明する。あんまりにも疲れていたからあたしは先に上がりこんで、ビールを頼んで一人で飲んだ。耳の奥にまだのぶちんの歌う声が残っている。本物のスライやガンズがどんな声だったか、思い出すことがもうできない。  きょうはのぶちんの隣に座れるだろうか。たとえば高校のときに好きだった男の子なんかに比べたら、全然緊張せずにのぶちんと話すことはできるし、あたしたちはじゃれあってキスをしたこともある(というか、のぶちんは酔うとよく女の子にキスをする)。けれど、一番大事なこと、一番言いたいことを言えないでいるのは、やっぱり高校のときと同じまんまだ。もちろんノートに倉持泉、と書いたりはもうしないけれど、それでもあたしはときどき、「のぶちん瞑想《めいそう》時間」にひたる。  町子にのぶちんのことを話したら、「音楽サークルに入ってドレッドに恋するなんてわかりやすすぎる」と笑われた。不倫ドラマがはやっているときに不倫しているのはわかりやすくないのか、とは返せなかった。実際町子の事情はあんまりよく知らないのだし。  十一時をまわってからどやどやと部員たちはやってきて、飲み会ははじまった。のぶちんはずいぶん離れたところに座っていた。ほかの人たちと言葉を交わして飲みながら、のぶちんがこっちに席を移してきて、またふざけ半分でチューをしてくれないかな、なんてあたしは考えていたが、そんな気配はなくて、のぶちんは離れた席で馬鹿笑いをしている。席を立ち、居酒屋の薄汚い和式便所でしゃがみ、頭上にある窓からのぞく十五センチ四方ほどの夜空を眺め、こういう場でいつも調子に乗るハダの騒ぎ声がここまで響いてきて本当にうるさいし、のぶちんを待っている自分も哀れな老犬みたいでかなしいので、帰ろうかと思って立ち上がる。足元がふらついて、ずいぶん酔っていることに気づく。  トイレを出ると男子用から出てきたのぶちんと出くわした。おう、あたしは言う。のぶちんはかがむようにしてあたしの頭に鼻先を押しつけ、 「すげーいーにおい」と言って笑う。どきどきする。 「ばっくれよーぜ」のぶちんが言い、あたしは耳を疑う。 「ハダ、うるせーよ。むかつく。ばっくれねえ?」 「じゃ、じゃあさ、あの、コートとってくるよ」  どもっている自分が恥ずかしかった。けれど何が起きているのか、起きようとしているのか理解できない。ただひとつわかるのは、どもっても混乱してもとにかく、このチャンスを逃したら絶対にいけないということ。 「あっ、のぶちんのコートも、持ってくる」 「じゃ、出てる」のぶちんは言ってふらついた足取りで店を出ていった。  だれにも見つからないよう、荷物置場になっている一角を掘り起こして自分とのぶちんのコートを捜し、荷物をまとめ、そうっと出口へ向かう。耳がびっくりするくらい熱くなっているのがわかる。ラフィンのライヴで死んだのおれの友達の弟の知り合い、と、酔うといつもする話をハダが大音量で話していて、でもだれも聞いておらずあちこちからかん高い笑い声がわきあがっていた。自動ドアを出ると、かちかちに冷たい空気があたしを包む。少し先で背をまるめて白い息を吐いていたのぶちんは、あたしが近づくと、あたしの手をとって、そのまま走りだした。 「おれさーじつは金ねーの、だからばっくれ」 「でっでもさ、だれも追ってこないよ、走ることないよ」 「だってさみーじゃん、走んないと凍傷になりそう」  あたしたちは手をつないだまま、商店街を抜け、環七にでて、環七ぞいを走り続けた。車はひっきりなしにあたしたちのわきをすり抜けていき、ずっと先に、ぼってりしたれもんみたいな月がひっかかっていた。  足が痛えとかゲロ吐きそうとか、ときおりそんなことをのぶちんが叫んで、あたしたちは気が狂ったみたいに笑いあった。心臓が口から飛び出ていきそうなほど早く鳴るのは、走っているからなのか、興奮しているからなのか、たぶんどっちともなんだろうけれど、それがいろんなことの現実感を薄っぺらくしていた。信号の緑色や、環七を走る車の列や、つないだ手の感触や散らばっていくあたしたちの笑い声が、ひどく遠く感じられた。  蚕糸の森公園に出たときには走りすぎて、酔いは完璧にまわり、息はあがり、足は痛み、額は汗ばんでいた。のぶちんは公園の入口でしゃがみこんで少し吐いた。  缶コーヒーを二本買って、静まりかえった公園に足を踏み入れる。公園のアスレチック・コーナーに、木で組み立てられた屋根のない小屋があり、あたしたちはそこにへたりこむように座り、コーヒーを飲んだ。缶に口をつけて夜空を見上げると、濃紺の空は冴《さ》えていて遠く、幾つも星が見えた。向かいに座ったのぶちんの息づかいが聞こえた。呼吸がもとどおりになっても、汗がひっこんでも、心臓は相変わらず存在を主張するみたいに無様に動いていた。  自分で選んだ家具や食器に囲まれていながらどうしてまだ家にいるような気分になるのか、のぶちんのゲロを吐いたばかりの荒い呼吸を聞いてふと気づく。ひとりで暮らして一年半以上たっても、世界はあたしの前でまだ重い扉を閉ざしている、そんなふうに感じてしまうからだ。あの小さな町の、ひとけのない深夜の家の台所で、世界は小さくて、そこから出ていくための扉がひどく頑丈に思えたみたいに。 「もうすぐさ、昭和って、終わっちゃうかな」のぶちんがつぶやく。 「じじーばばーになって、昭和生まれって言われるの、やだね」  コーヒーは掌《てのひら》のなかですぐにぬるくなる。あたしは必死で平静を装う。いつも、部室でみんなと軽口をたたいているときみたいにふるまう。緊張しないよう、どもらないよう、心臓がやばいくらい鳴っているのを気づかれないよう。 「エチカって美人だと思うなー」  吐いたのにまだ酔いが残っているのか、酔っぱらいのうわごとのようにのぶちんは言う。 「でもむかつく。あたしにストッキング買いにいかせるんだもん」 「いーじゃん、美人だから」 「そういうことを言うから、あーゆー女があーゆー性格になるんだって」 「うわ、栗原センパイこわーい」  のぶちんは作り声で言って、猫みたいにすばやく近づいてキスをした。のぶちんの舌はあたたかくてうそみたいにやわらかかった。 「ゲロチュー」  そう言ってキスをしながら笑った。月はまだ目の前にあって、笑うと溶けていくように揺れた。幾度も幾度もキスをして、何回目かのキスのとき、あたしは突然、世界の扉が開いていくのを感じた。この子といれば——祈るような気持ちであたしは思った——この子と手をつないでこの子の歌声を聴いてこの子とキスをしていれば、あたしはもう二度と、あの家に閉じこめられているような気分を感じないのではないだろうか。  のぶちんは体を離して小屋の柵《さく》にもたれかかり、ポケットから皺《しわ》くちゃになったマルボロを取り出して火をつける。 「一本ちょうだい」あたしが言うと、 「へー、吸うんだ」のぶちんは言ってよれよれの一本に火をつけてくれた。 「うちの家族の人みんなたばこ吸ってたの、なんか話し合ってみんな同じ銘柄にしてたなー。でさー、台所にいくといつもおいてあって、ときどき吸ってた」 「へー、話し合ってって、何にしたの、銘柄」 「セブンスターとかそんなやつ。ね、髪さわらして」 「それ、十人のうち九人は言うよね」 「手入れされてない犬みたい。ドレッドにしたの今年だよね」 「すげー時間かかるの、八時間以上かかったかな。犬はねーよ犬は」  ポケットに手をつっこんでも、コートの前をしっかりとしめても、体を小刻みにゆらしても、信じられないくらい寒かった。それでもあたしはそこに居続けたかった。のぶちんとアスレチックの小屋で、話したりキスをしたりし続けていたかった。凍死したとしても。 「なんか聴く?」あたしは言ってウォークマンを出す。 「おー、聴く聴く」  イヤホンの片方をのぶちんの耳に、もう片方を自分の耳につっこむ。高校のとき、毎日のように川原で町子とこうしていたことを思い出した。その日々が急に遠のいていくのを感じた。 「何これ、ベガーズ・バンケット? これおれ、一番好きなの、栗原ストーンズも聴くんだ」  そう言ってのぶちんは小さく口ずさむ。あたしはストーンズはあんまり好きじゃない。のぶちんがコピーするから聴くようになったのだ。このアルバムがたぶんのぶちんのお気に入りなのではないかと踏んでいたが、その勘はあたった。ご褒美《ほうび》をもらった犬みたいな気分になる。あたしたちの吸うたばこの先端が、蛍みたいに強く光ったり淡くなったりしている。 「おれ、今のバンドあんまりおもしろいと思えねえんだな」 「今のバンドって、のぶちんの?」 「うん、好きになれねえっていうか、つまんねー」 「そうかな」  どきどきする。目の前にいるこの男の子が、何かを思っていること、それをあたしにだけこうして言っていることが、信じられなくてどきどきする。 「あたしはいいと思うけど」そうして、そんなことしか言えない自分に軽く失望する。 「つまんねーから、最近コピーとかしかやりたくなくてさ。コピーつまんねえって、モトなんかは言うけどな」  それきり口を閉ざし、コートの襟にあごをうずめるようにして、のぶちんは小さくストーンズを口ずさむ。そうしている彼は、無力な幼いこどもみたいに見えた。のぶちんがあたしにとって特別な存在であるように、あたしもあなたにとって特別になれるんだろうか? すべてのつまらないこと、かったるいこと、いやなこと無駄なこと、それら全部からあたしはあなたを守ってあげる、そのつもりがあるんだということを、体をまるめている彼にどうやって伝えたらいいんだろう。そんなことを考える。 「なあ、まじでここにいたらおれたち凍死するかもよ。移動しよーぜ、移動。栗原んちって、どこ?」 「うち、|阿佐ヶ谷《あさがや》だよ」 「そーなんだ。おれ中野。うーん距離的にはうちが近いけど、うち殺人的に汚ねーから、栗原んちいこう」 「いいの?」  おもわずあたしは言った。世の中にこんなことがあってもいいんだろうか。あたしの人生にそんなことが起きてもいいんだろうか。神様、あたしはここですべての運を使いはたしてもいい。宝くじの三千円レベルだってあたらなくていいし、来年度の体育の抽選に外れて柔道なんかをやらされるはめになってもかまわない。 「いいのって、普通さー、それ、おれのせりふだっちゅうの。その前に、ラーメン食ってこ、まじで死にそう」  あたしたちはまた手をつなぎ、あまりの寒さのために飛び跳ねたり、小走りになったり、抱き合ったり、体当たりしたりしながら公園を出て、深い眠りの底にあるような町を歩いた。青梅《おうめ》街道沿いにあるラーメン屋に並んで座り、にんにくのたっぷり入ったラーメンを食った。ブルーハーツが小さな音で流れていた。のぶちんはひっきりなしに鼻水をすすりながら、四年生のエンちゃん先輩の話なんかをした。エンちゃん先輩はたぶんのぶちんがサークル内で一番好きな人で、容貌《ようぼう》もギターの弾きかたもキースに似ている。似ているというか、真似しているのだろうけれど。エンちゃん先輩が夏に北海道にいって種を持ち帰ってきたガンジャが美しく育ったとか、そんな話だった。  ラーメンを食べ終えてから、遊歩道を通って阿佐ヶ谷へ向かう。コンクリートを踏むあたしたちの足音しか聞こえない。ときどき立ち止まって思い出したようにキスをした。 「さっきのラーメン屋ぜったいおれたちの話聞き取ろうと必死だったぜ」 「アルバイトの人ー? 金髪の」 「北海道いくね、来年」 「でものぶちんでかい声でガンジャガンジャ言うからさー、あたしびくびくした。金髪はいいけど、奥のおっさん、ちらちら見てたし」 「おっさんにガンジャなんて単語わかんねーよ。しかしブルハはいいね。久々いいバンドだと思うな」 「あー、あたしも好き、わりと」  あんまり長いこと手をつなぎすぎていて、あんまりたくさんのキスをしすぎて、あたしはもう、どこまでが自分でどこまでがのぶちんなのかがわからなくなりかけていた。あたしたち二人のにんにくくさい息みたいに、自分の体も魂ものぶちんのそれと混じり合って、きりっとした冬の夜の闇に溶けていってしまうような気がした。この日のことをたぶん、死ぬまで忘れないだろうと思った。死ぬとき、たったひとりで、空腹で、寒くて、どうしようもなく馬鹿げた事故にまきこまれて、そんなような悲惨な状態だったとしても、あたしは今日のことを思い出して、しあわせにつつまれてうっとりと死ぬだろう。  イヤホンはまだあたしたちの耳につっこまれたままだったが、いつの間にかテープは終わっていた。のぶちんは小さく、スライの「Family affair」を口ずさんでいた。だからあたしは、自分が音痴なことも忘れて、コーラス部分を重ねて歌った。あたしたちの歌声はたよりなく、眠りこけ静止した路地に吸いこまれていく。  あたしはたぶん、今日処女じゃなくなるだろう。やりにげされるのかもしれない。明日になったら何もなかったように軽口を交わして、どこかの飲み屋でのぶちんがほかの女の子にふざけて抱きついたりするのを、また視界の隅で見るような、そんな日々が続くのかもしれない。  いやひょっとしたら、隣を歩く、ウォークマンと掌で今あたしとつながっているこの男と、つきあうことになるのかもしれない。恋人。彼氏と彼女。のぶちんと意味もなく視線をあわせて笑い、そんなことを思ったが、しかしその考えも言葉の響きも、思ったよりもあたしをしあわせな気分にはしなかった。それどころか、黒い小さな猫みたいに、いやな予感がちらりとあたしの頭のなかを横切った。  たぶん——胃のなかのラーメンがどんどん温度を下げていくのを感じるみたいに、冷静に考えた——あたしの指に指をからめているこの男とかかわりを持つことによって、かなりのやっかいを背負うはめになるだろう。たしかに彼といれば、世界は重たい扉を開く。どこにも閉じこめられていない解放感を覚えることはできるし、今日みたいに、完璧だ、と思える瞬間も味わうことはできるだろう。それでもあたしは、ひょっとしたら見なくてもいい、知らなくてもいい、触れなくてもいい、味わわなくてもいい何かと、決定的に向き合うことになるだろう。本当にかすかに、そんなことを思った。完璧な幸福をおそれる臆病《おくびよう》なあたしの、これはただの思いすごしだろうか、それとも、恋愛のまえで、あたしたちはたった一匹で生きる狼みたいにある種の本能が働くのだろうか。 「なー、あと何分歩かなきゃなんない?」 「ねー、あたしたち、なんでこんなことになってんの?」  好きだからじゃん、なんて言葉をどこかで期待しながらあたしはのぶちんに訊《き》くけれど、もちろんのぶちんがそんなことを言うはずもなく、 「くりちゃあーん、疲れた、おぶってえー」  かったるそうに言ってあたしにおぶさってくる。 「あれ歌ってよ、あのさ、ワイルドサイドを歩け」 「もう歩きたくねー」 「歌ってればすぐつくって」  どんなふうに押してもまったく動こうとしない、頑丈な世界の扉を呆然《ぼうぜん》と眺めて、あたしをそこから連れ出さないだれかと映画を見たりドライブをしたり、電話で話したりしているくらいなら、この男を、やっかいごと共々引き受けたほうが絶対にいいに決まっている。ふざけておぶさるのぶちんを引きずるようにして歩きながら、あたしはそんなことを思う。 「ワイルドサイドを歩くよ」小さくつぶやいた。 「何、それ」のぶちんは笑う。  右手にずっとれもんの月はついてきていて、前方に、あたしの住むアパートの屋根の部分が見えてくる。 [#改ページ]    Nothing to be done 1990  目の前の男はぼさぼさ頭で、銀縁の眼鏡をかけていて、去年つかまった連続幼女殺人事件の男にちょっとだけ似ている。でもきっと、悪い人ではないんだと思う。だって私のことを褒《ほ》めてくれているのだから。  たぶん、この人は私に仕事をくれようとしているんだと思う。けれど私は、男の話をちゃんと聞くことができない。こんな状態は、去年からずっと続いている。  去年の終わりから、何人かの人が私に会いにきたり、電話をくれるようになった。先輩の紹介で、音楽誌にCD評を書くアルバイトをはじめたのは三年のときで、それをきっかけに、ほかの雑誌からも依頼がくるようになった。名前を聞いたこともないような音楽誌や、若い子向けのマイナー・ファッション誌、マタニティ雑誌や無料で配られるPR誌、音楽の紹介ページなんてだれもちゃんと読んだりしないだろうな、と思うような雑誌ばかりで、かなり好き放題に書いていた。アルバイトだけれど、きた依頼はほとんど断らなかった。日本のポップスでもロックでも歌謡曲でも、洋もののハードロックだろうがアノラックだろうが民族音楽だろうが、なんでも書いた。仕送りをもらわなくても生活できるようになりたかったのだ。  四年のときには、もちろん仕送りを完全にもらわないでいることは無理だったけれど、それでも額は一年のときの三分の一ですむようになった。これで祝日くらいは父親に休みができるといいと思ったのだが、三分の二は、結局父親を素通りして母親と姉経由でタカラヅカに流れているかもしれない。ほとんど連絡をしていないから、実際のところはわからない。  去年の秋に、これも先輩のつてだったんだけれど、だれもが知っている音楽誌に、名前いりでコーナーをもたせてもらえるようになって、それでたぶん、いろんな人が会いにきたり電話をよこしてくるようになったのだろう。就職しなかった私にとって、それはとてもありがたいことなのだと思う。きちんと話を聞いて、きちんと考えて、仕事を受けたり断ったりして、これからのことをちゃんと決めなければいけない。頭ではわかっている。わかっているのに、目の前で話している人の話がよく聞こえないし、仕事を受けるとか受けないとか考えることができない。もうずっとこんな状態で、しかもそれは日に日にひどくなる。けれど、相手が私を褒めている部分だけはちゃんと聞いているのだから、ずいぶんあさましい人間だと思う。  私の書くCD評のどこがいいかと言えば、CD評らしくないところだと男は言った。それはまるでひとつの完成したエッセイのようだし、けれどエッセイを読んでいるとどこからか音楽が聞こえるのだと言った。それで読み終えてみれば、そこに提示されたアルバムを聴いてみようか、という気分になっているから不思議だと。うれしいっす、そんなこと言ってもらえて、と心のなかで文章にしてみるが、すぐさまのぶちんの声がそれを遮る。エッセイふうなのは単にいずみに知識がないからで、ファッション誌やマタニティ雑誌なんかにはわかりやすくてうってつけだと思うけど、ちゃんとした音楽誌に書くのはどうかと思うな、おれは個人的に言えばああいうべたべたしただれかの内面とか事情なんかは読みたくない、音楽について話しているときはなおさらね。  たしかに私には知識はない。知識も、素養も、感性もなくて、ただ好きか嫌いかを言うしかなく、好き、嫌いと一言で終わらせることができないから、個人的な事情だの内面だの記憶だの、ひとつの曲で浮かび上がるそんなあれこれをひっくりかえしてつなぎあわせて文章にしているだけだ。 「そういうわけで、ぜひ、一緒におもしろいことしましょう。いい返事期待してます」  連続幼女殺人犯にどことなく似ている男は、見かけとは裏腹にはつらつとした声でそう言い、勘定書を手にして立ち上がった。話を何ひとつ聞いていなくてごめんなさいと、先を歩く男の背を見て心のなかでつぶやいた。  家にのぶちんはいなかった。窓を全部開け放って、パステルズを大きな音でかける。雑誌やシャツやテープやギターの弦で散らばった床に寝転ぶ。去年のぶちんと引っ越してきたこの鉄筋アパートは築三十年で、私より八つも年上ということになる。昔のアパートらしく間取りは奇妙で——台所と六畳と四畳半がコの字型に並んでいる——、ひどく頑丈で隣や階下の音がほとんど聞こえないから、音楽はずいぶん大きくかけることができる。  考えたくもないことだけれど、ここへ引っ越してきてから私たちの関係は悪化している。のぶちんとつきあっているだけではけっして得られなかった安心感を、ともに暮らせば得られるだろうと思っていたがそんなことはなく、かえって私は飢餓感を覚えるようになった。近づけば近づくほど遠く感じられる彼のような男がいるなんて、考えたこともなかった。世の中は——というより男と女は、もっとシンプルなんだと思っていた。一緒にいれば満たされて、離れていれば飢えるようなものなんだと。  実際のところ何がどうということはない。悪化していると思っているのは私だけで、表面的に見たらきっと私たちはどこにでもいるカップルに違いない。ときどき喧嘩《けんか》をするけれど、それでも一緒にいるごく普通のカップル。けれど、ひょっとしたら人には飢餓感の許容量というものがあって、私のなかで飢餓感はもう許容量オーバーなのかもしれない。  だから、何も決めることができなくなってしまった。仕事をくれそうなだれかの話をちゃんと聞くことも、先のことを決めるのも。何かおいしいものを食べようと思うことも、新しい服を買おうと思うことも。なかば機械的にアルバイトをこなし、風呂《ふろ》に入り、適当なものを口につっこんで咀嚼《そしやく》し、振込みやらなにやらをすませている。けれどきまって、ある行動とある行動の合間に、たとえば銀行にいき、駅へ向かおうとしたそのときに、飢餓感や不安ややりきれなさや、それからたぶん、倉持ノブテルを失いたくないという強烈な欲求、そんなようなことがきつい偏頭痛みたいに襲ってきて、自分がどこへいこうとしているのか、いや、どこかへいくために歩いているということすらわからなくなってしまう。  そんなとき、自分が大学で過ごした四年間という時間が、倉持ノブテルという、一度だって安心させてくれたことのない男で形成されているような気がして、愕然《がくぜん》としてしまうのだ。 「自分再発見」私は言って笑おうとしたが、笑う気分になれなかった。乾いたため息をひとつ漏らして、送られてきたCDの見本盤を見るともなく眺め、結局、パステルズのCDを止めてカーペンターズをかける。  開け放った窓の向こうで空は高い。高層ビル群が小さく見える。カーペンターズを聴くといつも、深夜、闇に沈んだような静かな部屋で、現在だとかこの先だとかを考えて、不安と焦燥ではちきれそうになりながら、英単語や年号を覚えていたことを思い出す。あのころの私は、何ひとつ知りはしなかったんだ、と思う。あの場所から出たくてたまらなかったくせに、そんな自分を思い浮かべると、いとしささえ感じるようになった。何ひとつ知らない、ぶあつい扉に閉じこめられた、無力で自意識過剰のしあわせな高校生。  ドアの向こうで、幾人かの遠慮のない話し声と笑い声が聞こえ、続いて鍵《かぎ》をまわす音が聞こえ、私はあわててカーペンターズを止める。時計を見ると七時を過ぎていた。ついさっきまで、部屋のなかは楕円形《だえんけい》の日だまりだらけだったのに。 「何電気もつけないで」のぶちんの声がして部屋のなかは明るくなる。のぶちんのバンド仲間が遠慮なく部屋に入ってくる。モト、牧原くん、それから北村エチカ。 「おなかすいちった、なんか食べるものなーい」エチカは言って、部屋にあがりこむなり冷蔵庫を開けた。「ぎゃー、キャベツと調味料しか入ってなーい、信じらんなーい」 「ここはおまえの実家かっちゅーの」モトは苦笑して彼女の背後を通りすぎ、六畳間に足を踏み入れる。CDケースや雑誌や衣類で散らかっていた部屋は、彼らの持ちこんだギターやベースやキックやスネアでさらにふくれあがる。 「ピザとる? あと中華デリバリーもあったけど」のぶちんがその上にさらに出前のちらしをばらまく。 「すいません、いつも。あの、ミーティングまた終わんなくて」一番年下の牧原くんが私に向かって言い、それでようやく、私はだれの目にも見えないわけじゃないんだと理解する。 「あーくりちゃん、最近何、忙しいの? こないだ見たよ、くりちゃんのページ。ソニック・ユースだったかな、紹介してたの。あのアルバムいーよな」  モトはのぶちんのギターをカバーから出して抱え、私に話をふる。 「あはは、恥ずかしいから読まないでよ、よくわかってないで書いてるんだから」  答えるが、モトはすでにギターを抱えて弾くことに没頭している。台所ではエチカとのぶちんが冷蔵庫を一緒にのぞきこんで言葉を交わしている。今年三年生になった牧原くんは遠慮がちに正座して、近くにあった雑誌を手にとる。関係性がよくわからなくなる。私たちの、彼ら同士の、彼らと私の、私とのぶちんの。いや、関係性、というか、意味だ。わからないのは私がここにいることの意味。 「でさー、ジャニスならジャニスでもあたしはいいんだけどー、でも、ああジャニスねえって思われたらださださじゃん。それだったらもうコピーしたらいいって話でさあ」  六畳に入ってきたエチカはCDラックを物色してブロンディをとりだし、デッキにおさめて音量つまみを思いきりまわす。デボラ・ハリーのフェロモン声が部屋じゅうに広がる。 「おれさー、コピーやなの、一時期のぶちんコピーばっかだったけど、正直つまんなかったし」 「ちがうって、エチカはコピーやりたいって言ってるんじゃなくて、もろパクリはかっこ悪いってことだろ?」「それにあたしべつにジャニスとか好きじゃないもん。パティ・スミスのほうがいーな。あっ、たばこある?」「好き嫌いの話じゃねーよ」「っていうかエチカの声、似てるんだよ、だから意識してなくても似てるように聞こえちゃうんだよ、曲自体」「こないださーむかついた、屋根裏の客、ジャニス真似すんのって定石だしださいって、知らねーよそんなこと」「じゃーこの際、アノラック路線でいってみたらどうすか、ヴァセリンズ系で」「それ、意味なくねえ? おれらがバンドやってる……」  彼らは大音量の曲のなかで散弾銃を打ちまくるみたいに話す。いつものことだ。近所で練習して、飲み屋やファミリーレストランにいく金を節約してうちでミーティングをする。深夜に解散することもあるし、朝まで続くこともある。  のぶちんは壁にもたれかかり、モトのベースをいじりながら話している。のぶちんの髪は、一か月くらい前に私が切った。平日で、晴れていた。ベランダにいすを出して、缶ビールが陽の光にちかちか光っていた。部屋のなか、つけ放しのテレビでは、ベルリンの壁が壊されるところを映していた。飽きるくらい見たそれを眺めながら、私たちはビールを飲み、ときどき笑って言葉を交わした。切った髪はベランダに敷いた新聞紙の上に落ち、ときおりやわらかな風に飛ばされた。光の反射のせいで色のとんだテレビ画面を見て、「エチカ壊れた壁見にいってやんの、持って帰ってきて高く売るんだと、ばかだよなーあの女」とのぶちんが言った。エチカの名前が出るまで、私は水のなかを漂っているみたいにおだやかでしあわせな気持ちだった。  早死にして、ずっとかわいいままでいるの、と、デボラ・ハリーが歌っている。私は立ち上がり、四畳半の部屋にいって窓を開け放った。空気は冷たくもなくあたたかくもなく、中途半端になまぬるい。駅ビルの明かりが見える。反対側では日本酒の広告ネオンが点滅している。夜空は紫色だ。ここから見える夜空はけっして暗くならない。 「ねーまじおなか空いた、のぶちん、なんか作ってよ」 「おこのみしようぜ、ホットプレートで」 「じゃ、金出して、買いものいってくっから」 「くりちゃんにいってもらおーよ、そのあいだミーティングできるじゃん。ねーくりちゃん、くりちゃーん」  エチカに呼ばれて私は隣の部屋にいく。円座した彼らの真ん中に、千円札や百円玉が散らばっている。すっごく悪いんだけどお、お買いものいってきてくれるう? エチカが言い、投げ出された小銭を拾い集めて玄関へ向かった。のぶちんが玄関先までついてくる。 「今日会うっていってた人、どうだった? いい話だった?」 「あーうん、なんだかよくわかんなかった。新しい雑誌を作るらしいけど、どんな雑誌だか私にはよくわかんなかった」 「ふうん」  口のなかで言って、のぶちんはちらりと私を見る。本気でびっくりしてしまうほど、それはつめたい目つきだ。近ごろ、のぶちんはこの目つきでよく私を見る。道端にひっついてそのままひからびてしまったミミズを見るような目つきだ、と私は思う。 「買いもの、悪いな、よろぴくー」けれどそれは一瞬で、つぎにはのぶちんは笑顔を作り、ピースサインを出してみせる。「イカのおせんべ忘れないでねえ」  だからきっと、本人も、自分があんな目で私を見ていることは気づいていないんだと思う。私がどうして言葉をのみこんでしまうようになったのかも、理解していないんだと思う。  四階ぶんの階段を降りて、横断歩道を渡り、駅の方向に歩くと五分足らずでスーパーマーケットがある。ショッピングカートを押して、店内を歩く。閉店間際で、ずいぶん混んでいた。魚の値引きを知らせるだみ声や、特売品を告げる声があちこちにこだましていて、買いものかごをさげた女や男たちがわさわさと陳列棚の合間を移動している。お好み焼きにすると言っていた。キャベツと、もやし、葱《ねぎ》、山芋も買っておこう。これからは女性ボーカルの時代だとかなんとか言って、モトやクロや原田くんとやっていたバンドをやめ、エチカはすげえ、ホンモノだと絶賛し、彼女をボーカルにした新しいバンドをのぶちんが作ったのは去年の秋で、あの部屋が彼らのミーティング室になったのもそれからだし、たぶん、のぶちんが私をあんな目で——徹底的に見下げたような軽蔑《けいべつ》したような哀れむような——見るようになったのもそれからだと思う。私の飢餓感許容量がオーバーしてしまったのも。豚肉と、安くなっているから海老《えび》も買おう。それからイカのあげ煎餅《せんべい》。チーズ。生麺《なまめん》も買えばモダン焼きもできる。生麺。生麺はどこだっけ?  太った中年女がぶつかってきて舌打ちをし、前方から風船を持って走ってきたこどもが私のカートにぶつかって泣きだす。制服姿の高校生たちが群れになって歩き、缶詰コーナーのトマト缶が転がり落ちる。たすけて。その一言はあぶくみたいに胸のなかに浮き上がってきて広がる。たすけて。たすけて。カートに顔を埋めて泣きだしたくなる。  出たくてたまらなかった家を脱出した、窮屈だった世界は重たい扉を開いて向こう側を見せた、多くはないが自分が食べられるくらいなら稼げるようになった、しかもそれほど苦痛ではない仕事で、認めてくれる人もいる、そして一番好きな男と一緒にいる、それなのに、私は何度、この一言をつぶやいただろう。舌にのせるだけで反射的に涙が出てくる、なじみ深いこの一言を。  店内にピアノ演奏の蛍の光が流れはじめて、買いもの客たちは倍のスピードで動きはじめる。中年女もこどもの手を引く若い母親もカップルも、しつこくくりかえされる蛍の光も、何もかも私から遠い。埃《ほこり》まみれのガラス戸の向こう側みたいに。  町子の部屋は古いアパートの最上階にあって、1DKの部屋より広いベランダがついている。ベランダにレジャーシートを敷き、寝転がって缶ビールを飲みながら、春先の、まだ弱々しい陽の光を浴びる。紺色の制服を身につけて、川原でやっぱりこうしていたことを思い出すけれど、それはとても淡い光景で、自分の記憶というよりは、ずっと昔に見た映画の一場面を思い出すのに似ている。 「それってさー結局、あのドレッドがエチカのこと好きなのかもしれないって、そんで自分がふられるかもしれないって、それだけの話でしょ?」  出かけるときの町子は完璧《かんぺき》な化粧をし、ブランドものらしいスーツなんかをぱりっと着こなすけれど、部屋にいるときはかならず色あせたパジャマか、袖口《そでぐち》がほつれていたりウエストのゴムが伸びきっていたりするジャージ姿だ。中間というものがない。 「そーやって要約したらそれだけの話かもしんないけど、私のなかでは、もっと大きな深刻なことなんだけど。それから訂正しておくけどのぶちんはもうドレッドじゃないよ」 「大きな深刻な、ねえ。まーねー、色恋|沙汰《ざた》ってだいたいそーゆーもんよねえ」  肩から毛布をかぶった町子はさっき茹《ゆ》でた冷凍の枝豆を口に放りこんで、寝そべったままビールをすすり、陽に透かすように両手をかざす。細く白い町子の指。高校生のときはしょっちゅうこうしていたのに、町子の指がこんなに白くて細いなんて気づかなかった、と思いながら、 「町子はどうなのよ」私は訊《き》いた。「エンドーさんとどうなの」 「どうもこうもない。ずっとおんなじ。おんなじだから私は慣れたし、いずちゃんみたいに、飢餓感がどうの安心がどうのなんて考えない。こーゆーもんだって思ってるし」 「ほんと? 本当に? ほしいと思うものが充分にもらえなくても、それでも平気なの?」 「ほしいと思うものって何? 愛情? 時間? 約束? 保証? それともその人個人? 個人は手に入らないことくらい、もうわかってるお年ごろよねえ、私たち?」  そう言う町子の声が何かを拒否しているように聞こえたので、私はそれ以上訊くのをやめた。エンドーさんは妻とこどものいる三十男で、町子は十代のころからこの男と恋愛をしている。不倫ドラマの流行が終わっても、町子の恋は終わらなかった。 「ねえ、あそこにでっかい木が二本あるでしょ、あれ区の保護指定なんだけどさ、見ててみ、太陽がね、きっかり二本の真ん中に沈んでくんだよ、そりゃアシッドな光景なの」  町子は毛布にくるまったまま起き上がり、足をルの字に折って座り彼方を指差した。遠く、低く連なる屋根の合間から、杉だろうか、すっとまっすぐな大木が空に向かってそびえている。町子は毎日、橙《だいだい》の太陽が二本の木の合間をじりじりとすべりおちていくさまを、ベランダや部屋のなかからひとり眺めているのだろうかとふと思った。 「でも私、あのドレッドといずちゃんはあってると思うよ。雰囲気が似てると思うもん」  前方を見つめたまま、つぶやくように町子が言い、 「町子、のぶちんはもうドレッドじゃないってば」  短く笑って言いながら、私は町子のその言葉が、神様のそれだったらいいのに、と思った。  ZZトップはカウンターとテーブル席が二、三あるだけの狭い、薄暗い飲み屋で、ひとりでも入っていける。うら若い女がひとりで酒を飲む、という行為がかっこ悪いのは重々承知だけれど、のぶちんたちのミーティングがとくに白熱しているときなんかは私はよくここにくる。ファミリーレストランだと明るすぎて落ち着かないし、ファストフード店だと勘違いした若者にからかわれたりかまわれたりする。  ハーパーをソーダで割って四杯飲んだ。十一時半だった。少し考えてから、おかわりとセブンスターを頼む。町子は強いのだと思った。日にちがかわる前にはかならず帰っていくエンドーさんと、正月だのクリスマスだの国民の行事も無関係でつきあっていて、安心なんて言葉を考えたこともないと言うのだから、町子はきっと強いのだ。いや、町子は私のように思いこみに浸らないしウェットでもない。わりきることができるのだ。これはこれ、それはそれ。私のものと、そうでないもの。手に入れることのできるものと、永久に手には入らないもの。  今朝のぶちんと言い合いをした。原因はどうでもいいようなことで、アルバイトへいくのぶちんが私に封筒を渡し、郵便局にいってこれを送っておいてほしい、と言ったことからはじまった。封筒の中身はライヴハウス宛に送る彼らのバンドのデモテープだった。私は昼間家にいるのだから、ここから五分とかからない郵便局へいくことはそう難しいことではないのだけれど、なんだか妙に気にさわって、まだ午前も早いうちだというのに、私はあなたがたのバンドとは無関係であり、だから巻きこまれるのは迷惑だとわめき、私のCD評に知識がないのセンスがないのとけちをつけるのはかまわないが、だからといってくだらないおつかいで仕事の邪魔をするのはやめてくれ、と、自分で何を言っているのかわからないままにどなり散らしたのだった。それから少しのあいだ言い合いをし、のぶちんは時計をちらりと見て、例のあの、ひどくつめたい視線を私に投げて軽く笑った。「なあ、いけない[#「いけない」に傍点]って、一言言えばすむことだろ?」うんざりした口ぶりで言って出ていった。  十二時をとうに過ぎて、私は勘定をすませておもてに出る。頭のなかは酔っていなかったが頬や耳たぶが熱く、湿り気を帯びて冷えた空気が気持ちよかった。通りにひとけはなく、通り沿いに並ぶアパートの、いくつかの窓が蛍光灯や白熱灯で静かに光っていた。そんなに酔っているつもりはないのに足元がふらつき、近くにあった自動販売機に手をついてからだを支え、ついでに缶ジュースを買った。ジュースを飲むために首を伸ばすと、頭の上にゆがんだまるい月があった。私は物乞いみたいだと思った。のぶちんの前で、自分のみじめさを最大限にアピールしながら、掌《てのひら》を差し出していくばくかの愛情を求める、老いた醜い物乞いみたいだと。  部屋の鍵《かぎ》は開いていた。のぶちんは六畳間で一人、テレビと向き合ってゲームをしていた。ついさっきまでみんないたのだろう、灰皿は山盛りで、目が痛いほどたばこの煙が充満し、テーブルにはビールの空き缶や、何かを食べたあとの汚れた皿なんかが散乱している。パティ・スミスが小さく流れている。エチカの好きなパティ・スミス。 「最近こればっか。ストーンズとかガンズとか聴かないんだね」 「飲んできたの」  のぶちんはちらりと私を見上げて訊く。私は部屋じゅうの窓を開け放ってまわる。入りこむ空気はやわらかい水のような感触だった。 「だって帰りづらいんだもん、いつだって話しこんでて、それも私にはまったくわかんない、ひぐまと月の輪熊の生態の違いみたいな話だしさー、なーんかみんな、ここが私の家でもあるってこと忘れてるみたいでいづらいんだよね、うるさいし」  とげとげしい自分の声が耳に届く。どうして私はこんなことを言っているんだろう? 「だから二部屋あるところを借りたんじゃん、そーゆーことを話し合って決めて」 「ねえじゃあ訊くけど、こっちの部屋でモトはベースいじる、のぶちんはギター鳴らす、エチカはフルボリュームでCDかけてて、しかもあーだこーだってわめきながら話しこんでて、ふすま閉めた向こうで寝たり、仕事したり、できると思う?」  のぶちんはゲームを消し、窓際に立った私を見上げる。 「じゃあさ、これからべつのところでミーティングするよ、それでいい? あんたが言いたいのはそういうこと?」 「そんなこと言ってるんじゃない、私は、あの人たちが自分の家みたいにどたばた入ってきて冷蔵庫あさったり、私を買いものにいかせたりするのがいやなの、ミーティングなんかいくらでもやったらいい、でも私もここにいるんだってことを、ちゃんと知ったうえでやってほしいんだってば」  そうじゃない。私がここにいる[#「私がここにいる」に傍点]んだってことを知ってほしいのは彼らにではない、のぶちんにだ。  のぶちんはざらざらと灰色の模様を流すテレビのスイッチを消して、部屋の真ん中に横たわって大きくため息をつく。 「ねー、いやだって一言言えばすむ話なんじゃないのかなー? 朝のこともそうだけど、冷蔵庫いじるな、買いものなんかいきたくねーって、そう言えばいいのに、なんで言わずにめんどくせー話にすんのー?」 「冷蔵庫や買いもののことだけを言ってるんじゃないよ、たとえばさ、エチカがものすごい音でCDかけるでしょ、あれだってやだし、こーゆーふうにさ、汚れた皿をこのままにしておくのもいやだし、言えばいいってのぶちんは言うけど、そんなこと、姑《しゆうとめ》みたいにひとつひとつ言うのもいやなんだってば!」 「じゃーやっぱ、うちでミーティングすんなってことじゃん」 「そうじゃなくて……」  ふいに自分が、どうしてもほしいものがあって、どんなことをしてもあきらめきれそうもなくて、それで、デパートのつるつるした床に寝転がって手足をぶんぶんふりまわして泣き叫んでいる、小さなこどもであるような気がした。 「私が言いたいのはあんたたち、のぶちんもみんなも私のことばかにしてるってことだよ、だからむかつくの、私の音楽評とかセンスとかそーゆーのばかにしてるじゃん、でも自分たちは大層なことやってるつもりであれこれ言ってるじゃん、ここで、ばかみたいな大声で」 「ばかになんかしてねーよ」  のぶちんは心底面倒そうな顔つきで言う。  言葉はなんて便利で嘘っぱちでやさしいんだろう、と、涙がこぼれてこないように、開け放った窓の外、紫がかった夜空をにらみつけながらそんなことを思う。私の言っていることに本当のことなんかない。町子の言うとおり、本当のことなんて、とてつもなくありきたりで安っぽくてばかげたことだ。こどもがアンパンマンのハンカチがほしいとデパートの床に寝転がって決死の駄々をこねるようなことだ。エチカじゃなくて私を見て、私を認めて、すげえって私に言って、私を必要として、私がここにいるんだってことをいつも知っていて。つまりそんなことで、のぶちんにしても、彼が私に向けて言っていることの皮を全部|剥《む》いてみたら、きっと転がり落ちるのは、「てめえうざいんだよ」とかそんなたぐいの至極シンプルな気持ちに違いない。だから私《たち》は、わかりやすくてばかげていてひどく残酷な感情を、どうでもいい、それらしい言葉で幾重にもくるんで、静まりかえった夜更けに言い合いなんかをしてみるのだ。そして言い合いじみたことをしていさえすれば、私たちはおそらく、ごくごく普通のカップルに見えるのだと思う。ときどき喧嘩《けんか》をするけれど、それでも一緒にいる普通の。だから私は信じてもいない言葉をつなぐ。 「あのさー、のぶちんは、私にとって扉みたいなもんなんだよ、だからさ、のぶちん最近ずっとバンド一色じゃん、話すことなんかも、頭んなかも。私のバイトのこともどっかで見下してるっていうか……そうすっと私は全部扉がしめられたみたいな気分になって」 「あーちょっとおれ、たばこ買ってくるわ」のぶちんは私を遮ってがばりと起き上がり、ジーンズのポケットに両手をつっこみ、背を丸めて玄関へと向かう。パティ・スミスはとっくに終わっている。 「そーゆーの、あんた本当にやめたほうがいいよ、音楽評のこと、だれも何も思ってねーんだから好きなよーにやったらいいんじゃん? てゆーか、あんたはあんたのやりたいことすりゃいいんだよ。扉とか、おれそーゆーのわかんないしどっちかっちゅーと苦手」  スニーカーに足を押しこみながら彼は早口でそう言って、部屋を出ていく。  今まで彼がそこに寝そべっていた空間を私はしばらく見つめて、それから窓の外に視線を移す。アパートの下には横断歩道がある。信号機が周囲の夜の空気を赤や青に切り抜くように染めている。しばらくして、横断歩道を渡るのぶちんの姿が小さく見える。きっとたばこを買いにいくのではないだろうと思う。玄関を出て四階ぶんの階段を駆けおりて、彼のあとをこっそりつけていきたい衝動にかられるが、そんなことをしたら、きっと彼だけにでなく、自分自身にも私はこっぴどくきらわれるだろう。  のぶちんは背をまるめて、小走りに信号を渡りきる。歩行者用の青信号は点滅をはじめる。彼から目をそらすために、夜空に月を捜す。奇妙に明るい夜空に、しかし月はどこにも見あたらない。UFOが、こないかな、と、思ってもいないことを小さくつぶやいて夜空に視線をさまよわせる。 [#改ページ]    I still haven't found what I'm looking for 1991  スーパーマーケットではU2が流れている。この国のスーパー、洋服屋、ファストフード店、音楽を流すたぐいの店の七割はU2をかけていて、残り三割はきまってシンニード・オコナーだ。客はカートを押しながら「Desire」を口ずさんでいる。巨大スーパーのあちこちに、クリスマスの飾りがそのまま残っている。飾り文字や、金と銀の紙の輪や、天使やサンタの飾り。クリスマスを過ぎたクリスマス飾りはどうしてこんなにさびしい雰囲気をかもし出すのだろう。  パスタとトマト缶、ベーコンと牛乳を買いものかごに入れる。それからパン、じゃが芋も買っていこう。それにしてもじゃが芋の種類の豊富さにはびっくりする。違いがまだ私にはわからない。  スーパーを出て自転車の鍵《かぎ》をまわしていると、年配の女に声をかけられた。彼女は早口で、何を言っているのか半分くらいしか聞き取れなかったけれど、たぶん、ほかの人たちとおんなじことだと思う。あなたのこと新聞で見たわ。すばらしいと思うわ。がんばって、応援しているから。私はその勘違いを訂正しない、求められるまま握手もする。  彼女が去ってから、自転車にまたがってイヤホンをし、ポール通りをアパートに向けて走った。人通りはほとんどない。昼ごろは晴れていたのに、三時過ぎに空は灰色になり、アパートへつくまでに細かい雨がふりはじめる。この国の、気分屋のこどもみたいな天候の変化には慣れたけれど、それでもこうして雨に濡《ぬ》れることになるといつも舌うちをしてしまう。  アパートは閑散としている。この学生アパートに住んでいるのはたいがいが近くの大学に短期留学しているアメリカ人、もしくは語学学校に通うヨーロッパ人で、大学や学校が冬休みに入るやいなや、みんな帰省してしまった。私のルームメイトである、三人の女の子たち(二人の生真面目なアメリカ人と若く無口なドイツ人)もはやばやと帰っていった。  手紙はきていなかった。自分は落胆していないと言い聞かせるために、鼻歌をうたう。暖房をつけて、テレビをつけて、キッチンに立つ。湯をわかし、トマトを刻む。  この学生アパートに落ち着いて三週間目になる。アパートに住むことは予定外だった。けれど実際問題として、この寒さのなかでテント生活をするのは不可能だった。冬のあいだだけでも学生アパートに入居しようと決めたとき、敗北感に似た感情を味わわないでもなかったが、例の、勘違いな新聞騒動で疲れてもいて、正直どうでもよくなっていた。  旅に出る、テントを背負ってアイルランドを自転車で一周する、と言ったとき、町子は漫画みたいにあんぐりと口を開けて、数秒後に一言、あんたって、まじで頭がおかしいわ、とつぶやいた。町子は私がどういう経緯でそういう結論に至ったのかをよく知っていた。  夏のあいだに、仕事は全部断った。もったいないとだれもが言った。ファクシミリでやりとりすることも可能だと言ってくれた人もいた。けれど私はすべてを断った。二人で割っていた家賃をひとりで払い続けるのは不可能だとのぶちんが言うから、アパートは引き払い、彼はもう少し安い部屋を借りた。私の荷物はほとんど捨て、冷蔵庫や洗濯機はのぶちんに預けた。  自分でもばかみたいだとは思った。何をしようとしているんだろうと、そうして、自転車で一周したからって何がどうなるんだろうと、幾度も幾度も考えた。けれどほかに、何も思い浮かばなかった。私はのぶちんに捨てられたくなかった。きらわれたくなかったし、見下げられたくなかった。認められたかった。  旅に出る前の私たちの関係は最悪だった。のぶちんは一週間のうち四日は帰ってこず、顔を合わせればかならず喧嘩になった。のぶちんが私の何を嫌がっているのかとてもよくわかっていた。彼がいなければ何もできない私が本当に嫌で、しかし実際のところ私はのぶちんがいなければ何もできない状態になっていた。  のぶちんが私から離れていく、そう思うと、現実感がどんどん希薄になった。平衡感覚がおかしくすらなった。ガス代を払いにいって銀行の封筒を意味もなく何枚も持ち帰ってきたり、生理用ナプキンを買いに薬屋へいって口臭消しの錠剤を万引きして帰ってきた。駅へ向かう道がゆがみ、上り線と下り線の区別がつかなくなった。仕事だけはちゃんとやった。というよりも、仕事があることが救いだった。仕事をしているあいだは、自分がのぶちんを失いはじめている、ということを考えなくてすんだ。  そうして、そういう状態をやばいと感じていたのは、だれよりも自分自身だった。自分自身がこわれていく恐怖を私ははじめて感じた。  場所はどこでもよかったのだ。のぶちんから遠く離れていさえすれば。会いたいと思ってもその気持ちをやり過ごすしかないくらい遠い場所。自転車でなくてローラーブレードだってよかったし、徒歩だってよかった。今までの自分がやりそうにないことなら、そしてすべて終わったあとに何かを克服した気分になれるのだったら、なんでもよかった。  アイルランドを選んだのは、たまたま音楽評を頼まれていたCDがアイルランドのグループのもので、その響きが驚くほどからだに浸透したからだった。実際、私はそれを幾度も聴き続けて、今サウナにいっても汗の一滴も出ないかもしれないと思うくらい、泣いた。  自転車とテントというのは真似にすぎない。オーストラリアをそうしてまわった女性がいると何かの雑誌で読んだことがあったのを、たまたま思い出したのだ。  九月のあたまにダブリンに降り立ち、自転車を用意し、一般道と国道でウィックロウを通過し、ニューロスを過ぎ、ときおり海沿いを走りながら、タイタニック号が最後に寄港したというコーブ港のあたりで、季節は本格的な冬を迎え、これはもう無理だと判断した。幸い、学生街が近かったので学生用の家具つきアパートを借りることにした。  それにしてもこの国は自転車でまわることのじつに不向きな場所だということは、ついて数日後にわかった。まず天候だ。一日のうちに、晴れ、曇り、雨、天気予報で聞く単語が全部ある。濡れずに走れる日なんてほとんどない。夏を過ぎてのキャンプは一般的ではないらしく、キャンプ用の食料や道具をそろえるのも一苦労だった。スーパーもファストフードもなくてもパブだけはいたるところにあり、ときおり、食料品が底をつくと、パブで食事がわりに黒ビールを飲まなければならなかった。  十一月の中ごろ、私は取材を受けた。知り合いになった大学生が作っている、学生新聞の取材だった。パブで、学生たちはビールをおごってくれて、それがギャラだった。この国へきて三か月近くたっていたといっても、ほとんど私は一人で自転車をこいでいるだけだから、言葉はほとんどわからなかった。彼らも私の言っていることなんか半分くらいしかわからなかったと思う。  いったい何のために自転車でこの国をまわろうと思ったの?  何のために? そりゃ愛だね、愛のためだよ。  愛? どういうこと?  私が心から必要としているもののことだよ。私が必要なそれを、ほしいだけ手に入れることができるように、祈りながら自転車をこいでいるの。愛のための苦行だよ。  言葉がわからないなりに、身振り手振りや、筆談も交えて、酔っ払ってふざけ、笑いながらインタビューはおこなわれた。学生新聞に載ったその記事は、メジャーな新聞にとりあげられることになった。私の言った、愛、祈り、という言葉が、宗教的なものとしてとりあげられても、この国ではしかたがないことだった。「WHEN LOVE'S COMING TO TOWN」という、国民的バンドU2の歌をもじった見出しで、だれもが得られる愛と平和を訴えて走っている、東の果てからやってきた使者のような扱われかただった。写真は不鮮明だったが、その記事を読んだ人ならだれでも、自転車に乗っている東洋人を簡単に見つけることができた。  愛のために。それは間違っていないのだ。私はのぶちんのためにこんな馬鹿げたことをはじめた。のぶちんを失わないために旅に出たのだ。一年間、じゃが芋とU2の国を走って走って、のぶちんに頼らなくても平気な強さを身につけて、そしてふたたび彼と向かい合うために。  頭がおかしい、そう言った町子は、それでもテントを買うとき一緒についてきてくれた。それまでいったこともない、アウトドアショップを私たちはぐるぐる歩いた。こんな店が世の中にあるのね、と、インスタントの親子丼やら持ち運びに便利な携帯食器なんかを見て町子が言い、私も大きくうなずいた。  そのとき、私の髪はひどく短かった。テント生活をするなら、女だとわからないほうがいい、短くしてキャップをかぶっていれば男だと思われて安心だと言って、のぶちんが切ってくれたのだ。かつて私がそうしたように、アパートのベランダにいすを出して。私の髪を切りながら、こんなことをあんたがやろうとするなんて思っていなかった、とのぶちんは言い、何かしなくてはこわれる、私は言った。祈ってるよ、無事でいることと、何かを得ることを、毎日祈っていると彼は言った。静かに話をするのは、本当にひさしぶりだった。アウトドアショップで私はその話を町子にした。失うために彼から離れるんじゃない、得るために離れるのだと。 「まるで犬」町子は真顔で言った。「あんたってまるで犬。ごほうびを待つ犬じゃん。せめて、人間になって帰っておいで」  学生アパートは四人で共同だが、個別のベッドルームがついていて、家具も調理用具もテレビもすべてそろっている。一か月五万円足らず。台所の隅にある丸テーブルで、作ったばかりのパスタを食べる。リビングのテレビを見るともなく眺める。クイズ番組をやっている。早口の英語はほとんど理解できない。玄関のブザーが鳴り、ドアを開けるとラウラが立っていた。私は彼女を招きいれる。 「パブにいかない?」ラウラは言う。  彼女は二十五歳のスペイン人で、このアパートに住んで語学学校に通っている。私とほぼ同レベルの英語をしゃべる。ボキャブラリーが似ているために、会話自体は少ないけれどおたがいが言わんとしていることはよく理解できる。 「待って、ご飯食べてるから、終わったらいこう。でも開いてるかな?」 「オーニールズが開いてたよ。さっき前通ってきた」  ラウラはリビングのソファに腰かけてテレビを見る。なんというのか、いくら聞いても覚えることができないが、フランス国境に近い「それはそれはど田舎」の町から彼女はここへやってきた。ダリの生まれた町が近くにある、それが唯一人に通じる説明だと彼女は言った。アクセサリのデザイナーになりたくて、あの町にはもう二度と帰りたくなくて、ベビーシッターのアルバイトをしながら語学学校へ通い、一年たったらロンドンへいくつもりらしかった。生まれ育った場所にはもう二度と帰らないつもりだと彼女は何度も言う。たしかに、冬休みがはじまっても、クリスマスが過ぎても、ここに居残っているのは私と彼女くらいだ。  アパートを出て、近くのパブまで私たちは腕を組んで走る。笑いがこぼれるくらい寒い。 「カートからカードはきたの?」  カウンターに並んで座り、スタウトを飲みながら私は彼女に訊《き》いた。 「年が明ければくると思う、それに今って、郵便局も休暇中じゃないの?」  ラウラは指輪だらけの指でパイントグラスをなぞる。彼女が恋をしている相手は、やはり同じアパートにいる大学生で、冬休みがはじまって早々、故郷のミネソタだかアリゾナだかに帰っていった。私はこの男が好きではない。数回しか会ったことはないが、いい印象を持っていない。口臭に気をつかいいつもさわやかに笑っているが、私とラウラの知能が小学生並だと思っている。私たちの使う英語と、私たちの脳味噌《のうみそ》がまったく同じだと思っているのだ。私たちが母国語であれこれ考えているなんて、これっぽっちも想像したことがないに違いない。だから彼はやさしい。小学生を相手にするくらいには。 「イズミの恋人からは手紙が届いた?」 「届かない」私は言い、笑う。ラウラも笑う。 「私昨日、ソニアの話思い出して眠れなくなっちゃった、新しいホテルの幽霊の話。幽霊なんか信じてなかったんだけど、私の学校の先生たちはみんな、あのホテルの幽霊は絶対に本当だって言うのね、それで今、がらーんとしてるじゃない、アパートが。いろいろ考えてたらこわくてこわくて」 「まあね、だいたいこの国の人たちは、幽霊だとかそんなこと言いすぎだと思わない? 大の大人が、口をそろえて言うもんね」 「私眠れなくて悔しくなってきて、イズミの部屋の玄関のブザーを鳴らして逃げてこようかって、真剣に考えちゃった。イズミも起きてると思えば少しは気も晴れるでしょ」 「それ絶対にやめてね、絶交するよそんなことしたら」  鼻の赤い、太った店主がカウンターの向こうで雑誌を読んでいる。私たちのほかに客はいない。私たちはふと黙って、思い思いの場所を見つめたまま静かにパイントグラスを口に運ぶ。ピートが静かに燃える古びた暖炉や、壁にかけてある色あせた写真なんかを眺めて、私もラウラも、あるひとつのものごとを考えている。私たちはそれを口に出して長々としゃべりたくなるけれど、そのものごとをどんなふうに言葉にしていいのかよくわからない。だから結局何も言わず、もっと語学力があればなあなんて、たぶんおたがいそんなことを考えるのだけれど、たとえ私たちが同じ言葉を使っていたとしても、私たちの抱えているあるひとつのものごとは言葉にはなりようのない種類のものだ。 「大学、いつはじまるんだろ」ラウラはぽつりと言う。 「カートに訊かなかったの? カートはいつ帰ってくるって言ってたの?」 「一月中には、って、それだけ」 「私のルームメイトの子も彼と同じ大学だよね? 彼女たちは一月末に帰るって言ってたような気がするけど? カートに手紙を書いてみたら?」 「ねえ、ギネスをもういっぱい飲もうか、それともドラフトにしようか?」ラウラは話題を変えて、私をのぞきこんで笑顔を作る。そばかすの散った彼女の顔が、ひどく幼く見える。  老人がひとり店に入ってきて、私たちに軽い笑顔を見せ、店主にウイスキーを頼む。私たちは黙って、自分の前のグラスを見つめる。茶色い泡がグラスの内側に模様を描いてすべり落ちていく。  パブを出て、私たちはしっかりと腕を組み、静まりかえった町中を早足でアパートに向かう。大通りを抜けると川が流れていて、静かな川面に橙色《だいだいいろ》の街灯が映り、光の帯が幾筋も流れている。人通りはまったくない。私たちの靴音だけがあたりに響く。 「クリスマス前はにぎやかだったけど、新年近くは本当に静かだね」 「そろそろ食料を買いだめしておかないと、スーパーは全部閉まるでしょ?」  夜になり、町の明かりが落ちて、橙の街灯だけが夜を照らすころ、この町全体は甘いにおいにすっぽりと覆われる。しつこくはない、かすかな、やわらかい、どこかなつかしいにおいで、それが、町の隅にある巨大なビール工場から漂うものだということをラウラに教えられてはじめて知った。黒ビールの甘いにおいのなかを泳ぐように私たちはアパートを目指す。  意味もなく笑って門の鍵を開け、B棟の入口の鍵を開けてなかに入り、おやすみ、おやすみ、と言いながら私たちは一瞬真顔で見つめ合う。私たちが同じように何かに飢えていて、それについて言葉を尽くして語り合いたいと思っていることをおたがいに察知し、あわてて笑顔をつくり、また明日、そう言ってわかれる。  部屋に戻って濃い紅茶をいれ、暖房器具のときおりぼこりと鳴る音を聞きながら、キッチンのテーブルで私はガイドブックをひっくりかえす。毎晩のように私はこうして計画を練る。三月、ひょっとしたら二月の終わりにはここを出て、キラーニーへ向かおう、ケリー周遊路をゆっくりまわろう、もしくは、三月末まで、ラウラの通う学校に私もいこうか? 一週間から入学を認めてくれると言っていたから、それもいいかもしれない。眠気が訪れるまで、私は毎晩こうして、ひっきりなしに現実的なことを考え続ける。とりあえず明日は食料品の買いだめをしよう。起きたらそのリストをつくろう。  こうして、明日のこと、一か月後のこと、二か月後のことをこと細かく考えていれば、遠く東の果てで、ひとりの男と女がどうなっているのかなんて想像しなくてすむ。私の手の届かないところで勝手に進んでいく流れに目を凝らさないですむ。  のぶちんから手紙がきたのは二週間ほど前だった。簡単な近況が書かれた手紙と、テープが一本入っていた。テープには、ブルーハーツやボ・ガンボスや、日本の曲が数曲入っていて、のこりはエチカがボーカルの、自分たちの曲が録音されていた。去年からのバンドブームのあおりで、ひょっとしたらCDを出せることになるかもしれないと、手紙にはそんなことばかり書いてあった。最後に一言、がんばれ、と書いてあった。私にはその四文字が、自転車で走っていて踏んづけた、羊の糞《ふん》みたいに思えた。  エチカの好きなパティ・スミスとのぶちんの好きなテレヴィジョンのトム・ヴァーレインがいっときつきあっていたことがあると聞いたとき、私はばかな中学生みたいに嫉妬《しつと》した。彼らのようにすぐにこわれてしまうにしても、エチカとのぶちんもそんなふうに魅《ひ》かれ合っている気がしたのだ。少しだけ、自分たちの好きなミュージシャンを気取りながら。そうして実際、九時間の時差がある遠い場所で、エチカは私の冷蔵庫を開け洗濯機を使い、私たちがかつて一緒に寝ていたベッドで眠っているのかもしれない。私がのんきにパブでビールを飲んでいるあいだに。——放っておくとこんな具合に、私の想像力は、私自身をこっぴどく、徹底的にやっつけにかかる。  明日ラウラを昼食に誘って、語学学校の話を聞いてみよう。何もせずここで足止めを食らうよりはいいし、もう少し言葉がしゃべれたら勘違いなインタビュー記事に恥じ入ることもないだろう。ビュリーズにいってみよう。開いていれば、の話だけれど。とっくにさめた紅茶をすすり、現実的なことだけを考え続ける。手の届くことだけを。シンプルで、理解できることだけを。強くなりたい。私は腕のなかに顔を埋める。強くなりたい。三か月でついたふくらはぎの筋肉みたいに、シンプルで、理解可能な強さがほしい。静かに濃さを増していく夜のなかで、呪文《じゆもん》のように私はその言葉をくりかえす。  二日前に新年になった。深夜、中庭に突っ立ってたばこを吸い、四つの棟を眺めまわしたが、明かりがついているのはラウラの部屋と私のところだけだった。大《おお》晦日《みそか》の夜、イングリッシュ・マーケットのエスニック屋で買っておいたインスタント麺《めん》を、ラウラを呼んで一緒に食べた。十二時ぴったりに、近くの教会の鐘がひっそりと鳴った。ハッピー・ニューイヤー、と、私とラウラはどうでもいいことのように言い合った。  裏通りはもちろん、大通りにも開いている店はなく、人の気配もまったくしない。人の姿だけ消してしまうウィルスにおかされたような町を、私は目的もなく歩きまわる。川に棲《す》むかもめは流れのままに川面をすべり、黄色やブルーやピンクの外壁の家々が川面に正確に映る。頭上を猛スピードで雲が流れ、隙あらば晴れを曇りに、曇りを小雨に、どしゃ降りに、ふたたび晴れにかえようとしている。風が驚くほど冷たく、歩いていると鈍く腰が痛む。急ぐわけでもないのに半ば小走りで、大通りを進み、グランド・パレード通りを過ぎて、リー川の支流にぶつかり、川沿いを急ぎ足で歩き続ける。  まるで犬、と町子は言った。まったくだ、と、閑散としたグレイの町を歩きまわりながら私は思う。こうしている私はまるで、帰る家を失った犬だ。いったいなんだって、こんなところをほっつき歩いているのだろう? いったいなんだって、自分となんのかかわりも持たない遠い異国をうろついているんだろう? いや、そうしたことは考えないはずじゃなかったのか。疑問はやばい。想像と同じくらいの力で私をとっちめにかかる。小雨がぱらつきはじめる。町は急にかなしげな、泣きだしそうな表情になる。  アパートは四階建てで、中庭をはさんでロの字のかたちに建っている。中庭に面したリビングの壁は、巨大スクリーンみたいに一面ガラスばりになっていて、向かいのD棟が見える。ほとんどすべての部屋にロールカーテンがおろされている。  テレビをつけ放しにしたまま、ロールカーテンを全開にして窓ガラスを眺める。雨粒がガラスにあたり、様々な速度で流れ落ちながらまじり合い、奇妙な線で図形をつくっていく。門を抜けて、急ぎ足で中庭を横切るラウラの姿が目に入った。びしょ濡《ぬ》れの彼女は窓ガラスのこちらがわに立つ私に気づいて手をふり、今からいく、とジェスチャーで告げる。部屋に入ってきてラウラはソファに腰をおろし、リモコンを手にしてせわしなくテレビのチャンネルをかえ続けた。まとめあげた髪から水滴がしたたっている。 「ねえラウラ、学校に通って三か月だっけ? 今、テレビでしゃべってること全部聞き取れる?」湯をわかしながら私は訊く。「そこにあるタオル、使っていいからね」  リビングでラウラは何か言うが台所の私には聞こえない。紅茶の葉をポットに入れ、マグカップを用意する。 「何ー? なんて言った?」 「もともと正確ではなかったしこないときだってあったのよ」  ラウラは少し大きな声で言い、それは聞こえるが何について話しているのかがわからない。 「なんのこと? 学校? 学校、あんまりよくないの?」 「食生活なんかぜんぜん違うわけじゃない。芋ばっかりだし、野菜の種類なんて極端に少ないでしょ、魚なんか私、どれくらい食べてないだろう」 「何よ、買いだめしわすれたの? 私のところ、お米ならあるけど?」  声をはりあげて言う。湯が沸騰し、ガスを止める。あたりは少し静まりかえる。遠く雨の音が聞こえる。 「だからこなくてもあたりまえだって思ってたの。普段から遅れがちなんだし、いろいろ、悩んでいたりもしたから。そういうの関係するって言うでしょ」 「ねえ、なんなの? カートから手紙がこないの?」  マグカップをふたつ手にして、ようやく私は彼女の隣に腰かけ、サイドテーブルにそれを置く。頭からタオルをかぶったラウラは私を見ない。狂ったようにリモコンでチャンネルをかえ、そうしながら、 「生理がこないの」例文を読むような口調で言った。「赤ちゃんができたんだと思う」  私はまじまじと彼女を見る。茶がかった金色の、落ち着きなくカールした髪。頬のそばかす。上を向いたまつ毛と、ビー玉みたいな鳶色《とびいろ》の目。上を向いた美しい鼻筋と、鼻に刺さった銀色のピアス。 「だれの?」言ってから、私はばかだ、と思う。ラウラはちらりと私を見て、 「アパートの管理人のパトリックよ、とでも言うと思う?」と言い、ヒステリックな笑い声をあげる。 「こないって、どのくらい? ちゃんと調べたの? 病院はいったの?」妊娠判定薬、と言おうとして、英語でなんと言うのかわからず、私は口を閉ざす。 「私生みたい。赤ちゃん生みたい。あの子の赤ちゃんがほしい。でも、そしたら私は帰らなきゃね。ここで生んで育てることなんかできないし、ロンドンなんかいけるわけない」 「でも、ちゃんと調べなきゃわかんないでしょ? それにひょっとしたら、カートがなんとかしてくれるかもしれないじゃん」  言いながら、そんなわけがないと自分で思っている。笑顔がさわやかで、歯と口臭に異様なほど気をつかい、たばこを癌と結びつけてとことん憎み、それでもマリワナはけっしてやめようとしないあの男が、なんとかしてくれるはずがない。  ラウラはリモコンをいじるのをやめ、テレビを消し、私を見てかすかに笑う。そしてゆっくりと——先生にあてられた生徒みたいに、ゆっくりと言葉を選んでしゃべるときは、意味合いが正しく伝わることを切望しているときだ——言葉を押し出していく。 「私は二度と帰りたくないと思っていたあの町に帰って、アクセサリ・デザイナーにもならずに、こどもを生んで、いろんなうわさをたてられながら育てて、退屈だって口癖のように言って、ぶくぶく太っていくのかもね。私の母親みたいに。そんなの、一番いやだったのに」それから言葉を切って、紅茶をすすり、ぽつりと言う。「ねえイズミ、たった数か月かそこらで、人の運命ってびっくりするほどかわることもあるのね」  数か月じゃない、人の運命を大きくかえるできごとが起きるのは、たった一日あれば充分なのに違いない。  自分とまったくかかわりを持たない、この西の果ての小さな島国で、自転車に乗った東洋の女と、故郷を捨てたはずのスペインの女は、言葉も習慣も違うくせに同じような場所に立たされ、同じような光景を眺めている。たったひとりで。帰る家のない犬みたいに。  私たちは何ひとつ望んでもいないし、何ひとつ欲張りを言ってもいない。自分の手の届く範囲で一日一日をやりすごし、明日もできればいい日になればいいと願っている、どちらかといえば単純で、小心で、図太くもなく、控えめといってもいいくらいの人間だ。くりかえされるその一日のあるときに、だれかをただ好きになっただけのことなのだ。  だれかを好きになるという、ささやかな、無邪気で罪のない、こどもみたいにまっすぐで役たたずの感情が、突然私たちの日々に入りこんできて、信じがたい腕力でいくべき方向を捩《ね》じ曲げる。 「赤ちゃんを育てるのはきっとうまいわよ。この三か月、ベビーシッターでこき使われてきたのは、自分のことの予行演習だったのかもね。そう思わない?」  ラウラは笑おうとして顔をゆがめるが、それは笑顔にはならずに、彼女は静かに泣きはじめる。 「こんなのってばかみたい。私はこんなふうに、しかもこんなことで泣くためにここへきたわけじゃないし、勉強してきたわけじゃない。ばかみたい。私、避妊に失敗したクラスメイトを、笑っているような高校生だったのに。私はもう二十五歳なのに。今までずっと、うまくやってきたのに」  ラウラはふたたび笑おうとして、今度は成功する。彼女は涙を流しながら笑う。私は思わず彼女の手を握りしめて、窓の外に目を向ける。  雨粒は音もなくガラスにぶちあたり、様々な速度で流れ落ちる。向かいのD棟の、等間隔の窓はすべてカーテンがおろされて、ぼんやりと暗い。四角い空洞が無表情にここにいる私たちを見ている。ここから見える長方形の空の彼方一点は晴れていて、雲の合間から金色の光が指している。けれど雨が降りやむ気配はない。 「私いったい何をやってるんだろう? こんな場所で」  ラウラは静かに言う。疑問はやばい。想像はやばい。私たちは、自分自身からも身を守らなくてはいけない。強くなりたいという一言が波紋みたいに音もなく広がるが、心のなかのその響きが、自分が発したものなのかラウラのそれなのか判別がつかない。  私の手のなかで、ラウラの掌《てのひら》は瀕死《ひんし》の小さな鳥みたいだ。何か言いたくて、何も言えず、私はテレビのスイッチをつける。音楽ビデオが流れている。ボノがうたっている。  愛というもののなかに、まだ何かあるのかよ? 愛という名前のなかには、ほかにまだ何かあるんだろ? と、うたっている。 [#改ページ]    Everything flows 1992  目を開ける。窓からさしこむ白っぽい光に、見慣れない天井が浮かびあがっている。ゆっくりと首をまわして部屋のなかを見る。何もかも見知らぬもので満ちている。本棚、ステレオ、テレビの上にずらりと並んだアメリカン・コミックのフィギュア、壁にかかった時計、ベッドの下にまるめて投げ捨てられたトレーナー。目を閉じてもふたたび眠りがおとずれる気配はなく、私は起きあがって、ベッドの下に下着を捜す。  服を着ながら、ベッドの隅で、壁にくっつくようにして眠っている男の名前を思い出そうとしてみる。サトウ・トシユキじゃないし、カトウ・タダユキでもないし……。  男の名前は思い出せず、六畳の和室と続いている台所へいく。空気は冷えきっていて、ガスストーブをつける。台所も私の見知らぬもので満ちている。ギターやフライパンや壁に貼《は》られたポスターや。ガスストーブに両手をかざし、彼はあんまりきちょうめんな性格ではないんだな、と思う。六畳間も、この台所もものがあふれかえっていて、床じゅうに散らばっている。すぐ目の前に散乱しているテープから適当に一本を取り出し、自分のウォークマンにセットする。テープはニルヴァーナだった。テープの下に葉書が落ちていて、男の名前が「イトウ・タカユキ」であることに気づいた。いや、気づいたとしても、それがサトウ・タダユキでもカトウ・トシユキでもなんのかわりもないのだが。  男とは昨日|下北沢《しもきたざわ》のクラブで知り合った。私たちは一緒に酒を飲み、踊り、抱き合って笑い、手をつないで一緒に彼の部屋へ帰ってきた。先週もそうやって、だれかと、どこかの町のどこかの部屋へ一緒に帰った。その町の名前もその部屋へのいきかたも、手をつないでいた男の名前も忘れてしまうくせに、そうして見知らぬ部屋へ向かうときは、ひどくなつかしい気持ちになる。ずいぶん前からそうしていたような。  男の台所の窓にはカーテンがつけられていない。窓にペたりとはりついた濃紺の夜は、徐々に淡く色合いをかえる。ガスストーブに手をかざし、ニルヴァーナを聴きながら、私は長方形の窓を見つめる。淡い青が白みを帯びていくのを眺めながら、今日が自分の誕生日であることに気づく。二十四になるのだ。 「Hello, hello, hello, how low?」  カート・コバーンとともにうたいながら、男のギターに手を伸ばす。ギターの穴のなかにガンジャが隠してあるのを昨日知った。テープではりつけてあるビニール袋をひきちぎり、リズラのペーパーを捜して一本つくり、残りはポケットに押しこむ。火をつけて、ゆっくり深く吸いこみ、息を止める。いつつ数えて、細く細く煙を吐き出す。長方形の窓はやわらかそうな水色で、眺めているとどんどん白く染まっていく。時間が見えるみたいだ、と思う。  一本吸い終わったところで立ち上がり、ガスストーブを消しておもてに出た。薄っぺらい昨日の記憶をたどりながら、駅へ向かう。だらだらとゆるい坂道を下る。住宅街は静まりかえっていて、空はまだ朝になることを拒否しているみたいな中途半端な色合いだ。  駅へは迷わずにたどりつけたが、電車は出たばかりで、次発は三十分近く待たねばならなかった。だれもいない駅のベンチに腰かけ、ポケットに手をつっこんで、ウォークマンのニルヴァーナがまた一曲目をくりかえすのを聴き、これから二時間半かけて自分の家へ戻ることが急にいやになる。しばらく迷って、結局、駅の公衆電話からキョージに電話をかけた。 「おいっす、いずちゃん?」  朝の五時だというのに、キョージは一回目の呼び出し音で電話に出た。声が聞き取りにくいほどの大音量で音楽がかかっている。 「あのさあ、今からいってもいいかな?」 「え? 何?」 「音、少しおさえてよ。何それ、ポーグス聴いてんの?」 「ちょっち待って、で、なんだって?」キョージの背後で音量は少しだけ小さくなる。 「今からいってもいい? 今日私の誕生日でさ、しかも私、ガンジャ持ってるよ」 「まじ? きてきてきてー、待ってるっす。あっ、プリンと牛乳買ってきて」  逆側のホームから下り電車に乗りこんで、そこから二駅先のキョージのアパートを目指す。コンビニの袋をぶらさげ、まだ眠ったままの商店街を通り抜け、さっきおりたのとよく似たゆるい坂道を今度はあがる。有刺鉄線で囲われた空き地があり、葉のすべて落ちた大木があり、自転車の二台とめられた芝生の庭がある。  アイルランドを自転車で走っていたことが、ずいぶん昔のことのように感じられる。実際帰ってきたのは去年の十月だけれど、ふくらはぎの筋肉は徐々に脂肪に戻りつつある。記憶が日々にまぎれていくのとよく似ている。  アイルランドから帰ってきたら住む場所がなくなっていた。私はのぶちんのアパートに転がりこむつもりでいたのだが、そこにはエチカがすでに転がりこんでいた。西の果てで私がときおり想像していたように、私の冷蔵庫を使い、洗濯機を使い、私とのぶちんがかつてともに眠っていたベッドで腹を出して寝ていた。あまりにも最悪の事態すぎて、泣くこともわめくことも彼らをなじることもののしることも、何もできなかった。私は何も見なかったように、そのまま自分の生まれ育った家に帰った。そこもまた帰る場所には思えなかったが、日本へ帰ってきてまでテントをはるのはうんざりだったし、無料で寝る場所と食事が供給されるのは、そこしか思いつかなかった。  一人で暮らす部屋を都内に借りられるほどの金はたまらず、結局私はまだ実家にいて、アルバイトをして小銭をためては都内へ出てきて、クラブで知り合った男の子の家を転々としている。  そういう暮らしをはじめてから、ずいぶんいろんな町を知った。町はどこも似ている。みんなそれぞれ親しげなふりをして、よそよそしい。くるものは拒まないような顔の裏で、どこかとりすましている。ピアノの音色もカレーのにおいも母親がこどもを叱る声も、どこか遠く嘘くさい。私の育った町と同じだ。  けれどそれらの合間を私はずっとうろついている。アイルランドの学生街でそう感じたように、いまだ私は、帰る家を失った犬なのだ。  実家に戻ってから、一度だけのぶちんに会った。渋谷で昼飯を食べて、カラオケボックスに連れていってもらった。カラオケボックスという場所をはじめて知った。私はあまりうたわず、ものめずらしげにいろんなものを眺めまわした。のぶちんは次々とうたった。ニルヴァーナをうたい、レニー・クラヴィッツをうたい、ストーンズをうたい、ガンズをうたった。彼がうたう声を本当にひさしぶりに聴いた。けれどその声はもう、私をどこかに連れ出してはくれそうもなかった。  カラオケボックスを出てから、だらだらと歩いてラブホテルにいった。サービスタイムで、夕方まで四千三百円だった。部屋にもカラオケがあった。私がいないあいだに、この国は一億総歌手化してしまったらしい。あんまり話もせずに、のぶちんと寝た。  性交はあんまりよくなかった。私の上にいるのぶちんは知らない男みたいだったし、そのせいで、なにか仕事としてこうしているような気分を味わった。ああ本当に終わったんだとそのとき思った。それでも、性器が濡《ぬ》れているのが不思議だった。家も金もなくて、どうしようもなくなったとき、私は自分を売ることができるんだなあと、天井の鏡を見ながら考えていた。  夕方になってラブホテルを出て、私たちは缶ジュースを飲みながら駅を目指した。ラブホテル街を抜けると人でごったがえした繁華街で、その合間を縫うように、私たちはのそのそと歩いた。どこかで見たことのあるカップルが向こうから近づいてくると思ってよく見ると、目の前にあるファッションビルのショーウィンドウに、並んで歩く私とのぶちんが映っているのだった。  六年間ずっと好きで、三年間一緒にいた。世界はこの男で形成されていて、町も人も現実も、彼の向こう側に見えた。これから私は何度だって恋をするに違いない、いっとき一緒に住んだ男のことも次第に忘れていく、けれどこんなふうに人を好きになることはもう二度とないだろう。だから、——そのとき私は幾度もくりかえし考えた、だから、いつか長い年月がたっても、私たちは本当はわかり合ってもいなかったし、たがいを求めてもいなかったなんて思うのはやめよう、一緒にいた時間のことを、ほんの少しでも疑うのはやめよう。私も彼も、同じくらいたがいを必要としていた時間がたしかにあったのだと信じていよう。のぶちんと駅でわかれ、一人電車に乗りこんでから、私は泣いた。あれほどつらいと思った時期があったのに、のぶちんのことで泣くのははじめてだった。  キョージのアパートで、台所の床に座って一緒にガンジャを吸った。スピーカーからは大音量でマイ・ブラッディ・ヴァレンタインのアルバム「Loveless」が流れている。頭のなかがぐらんぐらんして、私たちは意味もなく笑いあう。プリンを食べ、その飛沫《しぶき》をふきだして笑い、顔を近づけて舌が溶け合ってひとつになってしまうようなキスをしてまた笑った。  キョージは数か月前にクラブで知り合った、どことなくりすに似た二十三歳の男の子だ。大学五年生なのだと言っていた。イトウ・タカユキだかカトウ・タダノリだかとまったくかわらない。ほかの男の子たちより気が合い、気安く、親切で、電話番号のゴロがよくて覚えやすいから、泊まるところがなくなれば彼の部屋にくる。ガール・フレンドの一人が先客だったとしても、彼は私の来訪を拒まない。床に眠る私の隣で、ベッドをきしませて彼らは性交をする。夕方五時とか夜の八時とか、とんでもない時間に目覚めて私たち三人は一緒に朝食を食べる。四人会ったことのある彼のガール・フレンドのなかで、ちさとちゃんという女の子が私は一番好きだ。ごはんを作るのも彼女が一番うまい。もちろん、ガール・フレンドがだれもきていなくて、どちらもドラッグを持っていないとき、私とキョージは性交して一緒に寝る。キョージというのが本名か私は知らない。その人を知るよりも、体を重ねることのほうが簡単だ。  薄い、薄い、と言いながら彼はハシシを出してきて、パイプを交互に吸った。何度吸っても私はこのにおいが好きにはなれない。それでも思いきりパイプを吸って、呼吸を止めて、ゆっくりと吐き出す。私たちは床に寝転がって笑う。手を伸ばしてキョージの性器をつかむと、それは空気の抜けた風船みたいにぐんにゃりしていて、私たちは涙を流して笑い続ける。マイブラの「Sometimes」がうねりながら脳味噌《のうみそ》を直撃してくる。 「なあ、腹へらねえ? 甘いもの食いたくねえ?」キョージが言う。 「食べたい! 何がある?」 「あっ、誕生日なんじゃん、ケーキでもあればいいんだけど、今何時? まだ駅前の不二家は開かねーよなー、あっ、ホットケーキの粉があるはずだよ。ちさが買ったって言ってたよ、たしか」  ハシシできめているにもかかわらず、誕生日にケーキという発想が出るなんて、やっぱりキョージはやさしいと思う。ガール・フレンドがたえまなくでき続けるのも理解できる。 「うへえー、なんかマイブラやばめになってきた、CDかえて、景気のいいのにしてよ」  私はそのへんに落ちていたCDを適当に拾いデッキにセットする。ビースティ・ボーイズが流れはじめる。 「焼こうよホットケーキ。焼いてさあ、蝋燭《ろうそく》たててくれる?」 「ねーよ、蝋燭なんか」キョージは言いながら、流しの下の棚に上半身をつっこんでホットケーキ・ミックスを捜している。 「あるはずだよー、だってあんたこないだ言ってたじゃん、れいこって子がじつは女王さまでえらいめにあったってー」 「そーだけどさー、いずちゃんあんた、誕生日にプレイ用の蝋燭なんかたててもらってうれしいか? あったあった、何々、牛乳とー、卵をー」  ボウルにホットケーキ・ミックスをぶちまけるようにして入れ、足元がよろめいてキョージはボウルごとひっくりかえしてしまう。床も私もCDも彼も粉で真っ白く染まる。 「ぎゃーはははははははははははは」私たちはのたうちまわって笑う。  粉だらけのまま、こどもみたいに抱き合ってキスをする。うっすらと甘い粉の味がする。 「ユガタファイッ、フォヨーライッ!!」  唇を離し、ビースティ・ボーイズとともに叫び、粉まみれのまま笑い続ける。  待ち合わせのレストランはやけにきどりすましていて、入るのがためらわれたが、このまま帰ってしまうわけにもいかない。入口で私を値踏みするように眺めまわすウェイターに、エンドーさんの名前を告げると、彼は店の風貌《ふうぼう》と同じくきどりくさったしぐさで私を座席まで案内した。数組の客が食事をしていて、通りすぎる私にちらりと視線をなげる。先端のはげたラバーソウルは、たしかにこの店の絨緞《じゆうたん》には不釣合だ。  町子とエンドーさんは先にきていて、やけに細長いグラスで、小さく泡立つ透明の酒を飲んでいた。  お飲物は何か、と言いかけたウェイターを遮って、 「あ、ビール、ビールお願いしまーす」私は言った。  乾杯をして、メニューを広げる。私は完全に浮いている。だらんと長いパッチワークのスカートも、毛玉だらけのカーディガンも薔薇《ばら》の刺繍《ししゆう》のインナーも、すべて古着屋でそろえて気に入っていたけれど、ここで見るとひどく貧乏くさい。いかにも金のかかっていそうなスーツを着たエンドーさんと、どこのブランドか知らないがかっちりしたツーピース姿の町子に向き合っていると、自分がこれから彼らに引き取られていく、貧しくかなしいみなし児の気分になる。そんな歌があったっけ、みなし児じゃない、子牛だ、ドナドナと追いたてられどこかへ連れていかれる子牛。 「ひさしぶり。アイルランド、どうだった?」  注文を終えたあとで、エンドーさんは私に訊《き》く。町子の恋人の、この妻子持ちの男にはじめて会ったのはアイルランドにいく直前だった。そのときは、銀座で寿司《すし》をおごってくれた。当分食べられないだろうから、と言って。 「えーとあの、まあ、寒かったっす」  何にたいしてかはわからないが私は緊張している。店の雰囲気にか、ひさしぶりに会うエンドーさんにか、彼といるとまるで見ず知らずの女みたいに見える町子にか。私の答えを聞いてエンドーさんは笑う。 「寒かったって、それ、いずちゃんらしいな」  彼は私をいずちゃんと呼ぶ。町子がそう呼ぶからだ。しゃべりかたがやわらかく、本当にやさしそうな顔で笑うエンドーさん。 「今はそんなことないけど、帰ってきたときのいずちゃん、そりゃたくましかったんだよ、マドンナみたいだったんだから」町子が言う。 「へえ、なんか想像できないけど。見てみたかったなあ」 「今日はしてないけど、マフラー、おみやげにもらったの。すごくあったかいの」  オードブルが運ばれてくる。エンドーさんはワインを注文する。私はビールを飲み干して、もう一杯頼む。早く酔ってしまいたい、と思っている。 「脳死って、このあいだ認められただろ?」テリーヌを切りわけながらふいにエンドーさんが言う。「昨日雑誌読んでいたら、そのことで作家と医者が対談していて、興味深かったな」 「へえ、どんなこと言ってたの?」町子は手を止めて彼を見る。 「医者っていうのは結局、人をどこかパーツでしか見ていないようなところがあってさ。臓器移植をしたいがために脳死を死と認めたんだろうと言われてもしかたないと思ったね。でも作家はもう少しウェットでさ、胃も心臓も、指先も足の一本も、みんなそれぞれ魂を持って共存しているというわけね、それを切り離してどうこうするのは、マルクス主義に通じるものがあるって」 「ふうん。私はどっちかっていったら後者に賛成だな。でも、臓器移植で助かる人もいるんだって思うとなんとも言えないけど。生きることって最優先だと思うし」 「でもそうしたら、脳死が死だというのと、矛盾することにならないかな?」  私は交互に彼らを見る。こいつらはいつでも、こんな話をしているんだろうか? いったい何になりきっているつもりなんだろう? この端整な顔立ちの妻子持ちが、一度だって自分の言葉でしゃべったことがあるか、町子は疑問に思わないんだろうか?  メインディッシュが運ばれてくるより先に、私は席を立ち、トイレの個室に閉じこもった。便座に腰かけ、ポケットからたばこケースを出して、たばこではなく、ハシシのパイプに火をつけて、深く吸いこむ。頭の奥が鈍くしびれる。パイプに口をつけて、ゆっくり数を数えて、それから呼吸を止める。唇をとがらせて、細く細く煙を吐く。たすけて。心のなかでそうつぶやくが、その言葉の響きとは裏腹に、妙に心地よくなってくる。町子とその恋人が脳死を話題にフランス料理を食べているときに、古着姿の私が便所できめていることが、ものすごくシュールな、滑稽《こつけい》なことに思えてくる。売られていくさびしい子牛の歌が、狂ったように頭のなかでくりかえされていて、よけい私をおかしくさせる。 「何にやにやして歩いてきて」  席に着いた私に町子が言う。 「なんでもない。思い出し笑い」 「やーね、へんなの。何思い出してるんだか」 「あのさあエンドーさん」メインは運ばれてきていた。牛肉のまわりに散らばっている色とりどりのソースや野菜が、幼椎園児の描いた絵を連想させる。注いであったワインを一気に飲み干して続ける。「エンドーさんてできちゃった結婚だったんですよね? お子さん、今いくつですか?」  エンドーさんはゆっくりと私を見て、動揺なんかしていないといった表情で、やわらかく答える。 「ああ、六歳になったよ。今度小学校だね」 「それってえ、町子とつきあってる年数ですよねえ? ってことはさあ、二人のあいだの時間が、かたちとしてわかるってことだよねえ? だってほら、ふつー五年だの六年だの、あっという間って言うでしょ? でも、赤ん坊が小学生になるくらいは、長い時間だと思うのね、それが実感できるってわけじゃん? 成長というかたちで、よ」  町子の顔が視界に入る。町子は舌平目のなんとかソースを食べている。うつむいていても町子がどんな表情でいるかがわかる。笑いだすのとよく似た泣きそうな顔。町子の耳が赤いのは酔っているからではない。突然、私はあざやかに思い出す。すっぴんで、そばかすが鼻のまわりに散って、歯並びが悪くて、ヤンキー顔をくしゃくしゃにして笑っていた、紺のセーラー服姿の町子。自分の姿は思い出せないのに、中学生のときの町子が、まるですぐさっき会ってきたみたいに思い浮かぶ。 「いずちゃん」ワインを一口飲んで町子は静かに言う。「じゃあ私も訊くけど、あんたは週に平均何回、見ず知らずの男とやってるの? かたちにならないセックスをさ」 「八回」私は町子を遮る。「エイト・タイムズ・ア・ウィークっすよ、まさに」  私は言う。牛フィレ肉のワインソースは驚くほどおいしかった。 「げっ、激うま! やっぱ『びっくりドンキー』とは違うよねー」  私は言って笑うが、だれも笑わない。あたりまえだ。私は何がしたいんだろう? いったいだれをどんなふうに傷つけたいんだろう?  エスプレッソを飲んでいるときエンドーさんが席を立った。彼の席に置かれた、淡いピンクのナフキンを見ているうち、急激にハシシの酔いがさめていく。ケーキの皿にこびりついたチョコレートを、人さし指ですくってなめる。 「私はあんたのことを大切な友達だと思ってるし、ずっとそうでいたいと思ってるんだ」うつむいてデミタスのコーヒーカップをいじりながら、町子が小さな、でもきっぱりした声で言う。「だから、私たち、おたがいの恋愛のことについて話すのはもう二度とやめよう」 「町子、本当にあの男が好きなの? 私たちもう二十四だよ? いいのそれで?」私は言う。あの男がトイレから戻ってくるのが視界の隅に映る。 「話すのはやめようって、たった今言ったじゃん」町子は言い、ナフキンで口を拭《ぬぐ》い、エンドーさんに笑いかける。  店を出て、彼らはタクシーをとめ、乗りこんで去っていった。エンドーさんが会計をしているあいだも、タクシーを待っているあいだも、町子は一度も私を見なかった。彼らの乗ったタクシーのテイル・ランプが遠ざかるのを見守ってから、ガードレールに寄りかかり、たばこを一本吸った。ビルのデジタル時計が、十時二十八分と告げている。ここからならたぶん五分も歩かずにMIXにいける。それともタクシーに乗って恵比寿《えびす》まででようか。金曜日だし、カラーズならきっとだれか知っている顔が見つけられるに違いない。もしくは六本木方面。運が良ければ顔見知りのだれかがエクスタシーをわけてくれるかもしれない。  どこへいくか決められず、次のたばこに火をつけて歩道橋をわたる。真ん中あたりで立ち止まり、橋の下をすべるようにして流れていく車の列をぼんやり眺めた。赤や、銀や、黄の光が闇のなかを流れていって、なんだか自分が川の真ん中に突っ立っているように感じられた。冷たい水につっこんだ両足をふんばって、川底をじっと見つめているような。  ウォークマンを取り出して、イヤホンを耳にねじこむ。ティーンエイジ・ファンクラブが「Everything flows」をうたっている。どこにもいきたくなかった。最寄りのクラブにも、恵比寿にも六本木にも。ゆっくり眠りたかった。  車の流れの向こうに電話ボックスがあり、それはそれ自体が闇のなかで白く発光しているように見える。歩道橋の手すりを人さし指でなぞりながら、電話ボックスを目指して歩く。腕を組んだ恋人同士とすれ違い、声高に何かを語り合う女の子づれに追い越される。覚えている電話番号を口のなかでくりかえす。やっぱりキョージの電話番号が一番覚えやすい。  イヤホンを抜いて、耳に受話器を押しつける。一回目の呼び出し音でキョージがでる。いつもと同じように、大音量で音楽がかかっていて、私をむやみにほっとさせる。 「これからいってもいーい?」私の声は、今さっきまでエンドーさんたちと食事をしていたことが嘘みたいに、ばかっぽく明るく、意味もなくハイだ。 「あーほんだらねー、今ちーぽきててこれからごはんだからー、あれ? 何作るんだっけ、ちーぽ?」背後の音に負けないようにキョージは電話口でどなり、だれかに受話器を渡す。もめている気配がする。私はそれに気づかないよう、彼の部屋で響いている音楽に耳をすませる。きっとピクシーズだ、と思った直後に受話器から女の声がする。 「あっ、いずちゃん? あんねーカレー作るからあ、カレーの材料買ってきてくれる?」 「ちーぽって何? ちさとちゃんのこと? なんだよかった、ハロハロー。カレーって銘柄何? ハウスバーモント? ゴールデン?」 「違う違う、ルーじゃなくて、カレー粉でいいよ、あと具ね、ぐっ。あとねーいずちゃんに誕生日プレゼントあるよー」 「うっそ、まっじー? うれぴー」  電話を切って駅へ向かう。しだいにわくわくしはじめる。キョージとちさとちゃんはおそらく、私から電話がくる以前は何かでもめていたんだろう。キョージの女関係かもしれないし、もっと簡単に、どちらが買いものにいくかとかそんなことかもしれない。それでも関係ない。そんなことに気づかなかったふりをしていれば、私たちはうまくやれる。みんなでぎゃあぎゃあ騒ぎながらカレーを作って、床に並べて一緒に食べることができる。楽しむのなんて簡単なことだ。町子は間違っている。金のかかったスーツを着てこじゃれた店で向き合って、何かの核心に触れまいとこっそり努力しつつ、脳死だの臓器移植だのについて、永遠にどこかで見聞きした他人の言葉で語り合っていればいい。  キョージのアパートにちさとちゃんはいなかった。玄関付近で数少ない食器のほとんどが割れていて、奥の六畳間には、レコード盤やCDがぶちまかれたように散らばっていた。その真ん中に、背中をまるめるようにしてキョージがぽつんと座っていた。静まりかえったキョージの部屋は、見知らぬ国にひっそりとある、強奪後のちっぽけな店みたいだった。 「あれ? ちさとちゃんは?」  キョージは何も答えず、近づいた私を急に押し倒して唇をなめまわし舌を差し入れてきた。 「何、何よ」 「ちーぽちゃん、なんか激怒りででてっちゃった。なんでだろー?」 「なんでって、なんでよー? ひょっとして私、関係あり?」 「えーそんなんわかんないよー、あのヒス女、まじこわかったー」 「こわいってあんたさー、ちさとちゃんはまじなんだよ、まじであんたのこと好きなんだよ」 「好きだったらあんな怒るか? レコード割るこたねーじゃんよー、皿なんかはいいけどさあ、レコードはねえよ、まじで、レコードはよう」  キョージは私のカーディガンをまくりあげ片手でブラジャーを外す。なんの感慨も持たないように私の乳首をなめて、片手をスカートのなかに入れ太ももをなでる。私はなぜかついこのあいだコマーシャルで見た、ファジー炊飯器とやらを思い出す。そのように作られ、そのようにセットすればそのようにごはんを炊《た》きあげる器械。キョージは、乳の揉《も》みかたも股間《こかん》のいじくりかたも、それから彼という人自体も、かぎりなくその最新炊飯器に似ているのだと、首筋に舌を這《は》わされながらそんなことを考える。 「カレー作ろうよう。ねー、ちさとちゃん戻ってくるかもよ」  パンツを脱がされながら私はそんなことを言う。さっきデザートのケーキまで食べたのになぜか腹が減っている。 「戻ってきたら三人でやろーぜ」キョージは私の胸の谷間に顔を埋めてくぐもった声で笑う。二人の体の合間に手を差し入れて、彼のジーンズのベルトを外しながら、ちさとちゃんの誕生日プレゼントは何だったんだろう、と思い、町子が私の誕生日をすっかり忘れていたことに気づく。 「ねえ、だれかをすごく好きになりたいと思う?」私はキョージに訊く。彼はトレーナーを脱ぎ捨てることに夢中で答えない。 「こんな年になってもまだだれかを大好きになれたりするのかな? そうなりたいような気もするし、まっぴらごめんとも思うな……」  つぶやく私の口に彼は舌を差し入れてきて、そうしてゆっくり、自分の性器を挿入しようとする。台所の壁にはられたポスターの、レニー・クラヴィッツが私たちを見下ろしている。 [#改ページ]    Calling you 1994 [#ここからゴシック体] 『宇宙、というものを漠然としたイメージとしてとらえず、たとえば、すぐそこにあるもの、と思ってください。すぐそこに、手の届くところに、かたちとしてあるもの。庭にある一本の梅の木でもいいし、散歩道の途中の家で飼われている、毛並みのいいゴールデン・レトリバーでもかまいません。宇宙とはそうした、身近な何ものかなのです。そして宇宙は、あなたをじっと観察しています。いつもそばにいて、観察し、あなたが必要とするエネルギーを与える準備をしています。けれど、忘れないでください。そうする価値のないものに、宇宙はけっしてパワーやエネルギーを分け与えることはしません。  まず、自分で自分を好きになること。あなたが好きでないものを、いったいほかのだれが好きになりますか? 野に咲く花を単純に美しいと思うように、夕焼け空に淡く光る一番星を単純に愛しいと思うように、あなた自身を認めてあげましょう。  では、どうすれば自分を好きになれるか考えてみましょう。まず、自分自身によけいな贅肉《ぜいにく》がたっぷりついていることを自覚してください。身のまわりのシェイプ・アップをしましょう。てはじめに、惰性でそのままになっているものを捨ててみませんか? 色あせた型の古いワンピース、膝《ひざ》に穴のあいたジーンズ、たいして意味もなく着ているTシャツ、それから、昔のボーイ・フレンドにもらった悪趣味なぬいぐるみ、子供時代から使っている学習机、あなたが心の底から欲しているもの以外は、一度すっぱり捨て去ってみませんか? もちろん、ものだけではありません。恋愛関係友人関係、こだわりも習慣も、あなたが大切に抱えているそれらは、本当にあなたのためになっているか、一度じっくり考えてみませんか?』 [#ここでゴシック体終わり]  ジャスミンの香をたいて、エンヤのレコードをエンドレスで流し、本から顔をあげ、部屋のなかを見まわす。私が心から欲しているものが、何かひとつでもここにあるとは思えない。  実家から都内へ遊びにくるような暮らしを十か月近く続け、ようやく都内にアパートを借りるだけの資金がたまり、ふたたび一人暮らしをはじめたのが去年のことだった。敷金やら礼金やらを払ってしまうと残金は限りなく少なく、まにあわせのようにカーテンやら電化製品やらをそろえた。今思えば、あわててそろえた安物のそれらに、趣味のいいものなんか何ひとつない。  そのうえ、実家から必要もないがらくたを運び出してここに持ちこみ、さらに、住んで一年しかたっていないというのにもう不必要なもので部屋は狭苦しくなっている。  時計を見るともう十二時を過ぎていたが、私は猛然と立ち上がり、部屋の整理をはじめる。惰性でそのままになっているものをとことん捨てなければならなかった。自分自身をシェイプ・アップし、宇宙に愛されなければならなかった。  読まない本や雑誌を紐《ひも》でくくって玄関に置き、みずからの趣味ではなく倉持ノブテルに影響されて集めたCD——ガンズやイギーやブラック・クロウズや——と、彼と一緒に住んでいたときの旧タイプファミコンを一緒にゴミ袋につっこみ、友達の結婚披露宴でもらったくだらない皿や、クラブめぐりをしていたころに盗んできた大量の灰皿だのカトラリーだのもかたっぱしから捨てていく。ぬいぐるみも、使っていない口紅も、壁にはっていたポストカードも、五百円で買ったスリッパも、すべて。  汗が体じゅうからふきでて、フローリングの床にしずくが垂れる。エアコンの温度を二十度まで下げる。ひとつの世帯がエアコンの温度を一度上げれば日本じゅうがどうたらとコマーシャルで言っていたが、温暖化なんて知ったことじゃない。温暖化が食い止められたって私が宇宙に愛されなければ意味がない。  燃えるもの、燃えないものを合わせてごみ袋は五つになった。部屋のなかは少しだけがらんとした。体重計にのって、八百グラム減っているような気分だった。午前三時、ジャスミンの香りとエンヤの歌声と、ごみ袋に囲まれて私は眠りを待つ。  私が都内へ引っ越してきたばかりだったから去年のことだ。よく一緒に遊んでいたキョージのガール・フレンドのひとりが、薬物所持でつかまったといううわさが流れた。それと同時に、よくいっていたクラブに知っている顔はほとんど見られなくなり、キョージのアパートを訪ねても彼はそこにはいなかった。だから、そのうわさが本当かどうかたしかめる術《すべ》がなかった。つかまったのが、四人いた彼の女友達のうちのだれなのかもわからなかった。部屋でガンジャを栽培していたのを恋敵に密告されたとか、アジアからLを持ち帰ってきて空港でぱくられたとか、どうでもいいようなうわさばかり耳にした。ちさとちゃんじゃないかと私は思った。キョージのためにそれらを手にいれようとしていたんじゃないかと。  けれど、ほとんど名前しか知らない彼らの姿を捜す気もなかったし、つかまったのがはたしてちさとちゃんなのか調べる気もなかった。とたんに自分のやっていることがつまらなく思えた。いくつかのクラブを梯子《はしご》して、友達とは言えない顔見知りを捜し、ドラッグ情報や現物をやりとりし、その日に会った男の子の家に、宿泊代がわりに性交をして泊めてもらうような暮らしが、ひどく色あせて見えた。そして自分が、どうしようもなくくたびれて薄汚れている、型崩れした中古車みたいに感じられた。 [#ここからゴシック体] 『だれしも、若いときは、自分が店頭に並べられたなすやかぼちゃのように感じられたのではないでしょうか? もちろん買い手は、かたちのいい、見栄えのいいなすやかぼちゃを選びます。あなたもきっと、選ばれるために、髪形を幾度もかえ、服やアクセサリで着飾り、鏡をくりかえしのぞきこんで自分をチェックしたことでしょう。  けれども、あなたはなすでもかぼちゃでもないのです。くりかえし言います。あなたは、なすでも、かぼちゃでもありません。  美しさの意味を取り違えたままでいると、あなたはいつまでもなすでありかぼちゃでしかありません。選ばれるかどうか、選ばれないのではないか、こうした考えかたは、あなたから美しさの芽を奪い去っていきます。そして宇宙は、美しくないものには目もくれません』 [#ここでゴシック体終わり] 「宇宙っすかあ」  声がしてふりむくと、ポチが私の背後から本をのぞきこんでいる。 「栗原さん、そーんな本読んで、しかも店長がいないあいだはエンヤかけっぱなしにして、あれっすか? ヒーリング系? それともチャネラー系?」 「うるさいねー、のぞき見しないでよ人の本」  私はあわてて本を閉じ、ポチの頭を軽くたたいてCD磨きの作業に戻る。 「でもあれっすよねー、栗原さんて最初ここにきたときはセックスドラッグロケンロールかっこ情念系かっこ閉じ、みたいな感じだったのに、今じゃエンヤに宇宙系だもんなー」  ポチは私の隣に立ち、私がCD盤を磨いているあいだ、空いているプラスチックのケースを拭《ふ》く。彼はもう二年もこの中古CD屋でバイトをしているフリーターの男の子で、店では私のほうが新米なのに、私のほうが四つ年上だ、というだけで敬語を使う。店長がポチと呼ぶので自然に私もそう呼ぶようになった。去年、三年生のとき急にむなしくなって大学をやめた、とポチは言っていた。いい大学だったのにやめちゃってさ、バイト暮らしって、そっちのほうがむなしくないのかね、うちは助かるけどね、と、店長は言っていた。秋葉原の駅前広場で、バイト以外の時間は毎日スケートボードをやっていると、それも店長から聞いたが、スケボーに興味がないから本人にそれを確かめたことはない。  店じゅうに水のようにあふれるエンヤの「Angeles」の合間を、ひそやかに、数人の客たちが移動してCDを物色している。髪を短く切った顔の小さな女の子が、カウンターにコーネリアスのCDを置く。ポチがレジを打ち、私が袋に詰める。 「宇宙系じゃないよべつに」彼女が自動ドアの向こうに消えてから私は言った。「私さあ、ポチ、恋人ができないんだよね、もう一年も」 「へっ? 恋人? ダーリンて意味?」ポチは私の顔をのぞきこむ。 「それで自分がなんかすごくみじめなだめ女になった気分でさ、ちゃんとしたいの」 「へっ? ダーリンがいなくて宇宙系? まじすか? じゃーおれ栗原さんのダーリンになってもいい?」 「私は今まであまりにも何も考えずに生きてきたって思うんだよねー、さっきあんたの言ってた情念系セックスドラッグロケンロールもべつに自分でそうしたくてしてたわけじゃないっていうか……そう見られてるとも思わなかったし……」  CD盤にはかすかに傷が入っている。薬品を吹きつけて、傷のまわりを丁寧に拭く。もちろんそれで傷が消えることはない。 「ちょっと、栗原さん、無視しないでくださいよー、おれじゃだめかなあ? ニューダーリン」  エンヤが終わり、カウンターの下のデッキからCDを抜き出して、今度は私物のベリーをかける。「Stay」という曲が流れはじめる。オタクじみた恰好《かつこう》のカップルがべったりとはりついたまま何も買わずに店を出ていき、すれ違うように、学生風の茶髪カップルが笑いながら入ってくる。この世はカップルばかりだ。みんないったい、どこでどのようにして知り合って、どんなふうに恋に落ちるんだろう? 「ねー栗原さーん、おれで手打ちにしたら? 宇宙なんか何もしてくれないよ」  遊びたくてたまらない年ごろの犬みたいに私をのぞきこんでポチはなおもくりかえす。もう一度頭をひっぱたこうかと思ったが、手を止め、私は彼をまじまじと見返した。 「なんで? なんでそーゆーことを言うの?」 「なんでって、おれ本気っすけど?」 「じゃーなんで私の恋人になりたいわけ?」 「だって栗原さんて、かわいいじゃん」  ばーか、と言い返そうとして、それより先に自分の顔が赤くなっていることに気づき、何も言えなくなる。ポチの軽い調子の言葉を本気にするつもりは毛頭ないのに、かわいい、という一言に、私は照れている。  うつむき、顔を赤らめて、無言でCDを磨く女に、おまえだれだよ? と、自分自身でこっそり問い詰める。どこかで手に入るドラッグを片っ端からやって、毎日違う男の子の家を泊まり歩いて、名前と顔の一致しない無数と避妊もせずに寝て、生理が遅れてびくびくしながら産婦人科でまたを開いて、何ごともなく安心してふたたび見知らぬだれかと眠る暮らしをくりかえしていた女が、四歳年下の茶髪男の、かわいいという一言にどうしてこんなに動揺しなくてはならないのか? しかもそれは、かぎりなく冗談に近いからかいの言葉なのに、赤くなるなんてどうかしている、と、私は自分を恥じる。早く何か言い返さなければ照れているのがばれる、焦れば焦るほど言葉を失い、そうしてふと、ずいぶん長いあいだ、いやそんなことがあったのかあやぶまれてしまうほど、私は男の子に褒《ほ》められていないのだ、と気づく。路上で交わした長いキスや、朝がくるまでくりかえした性交の、ひとつひとつを思い出してひっくりかえしてみても、きれいだとか、好きだとか、私に向けられた褒め言葉は何ひとつ出てこない。そうしたものにびっくりするくらい飢えている、そのことを、恋愛対象でもない男に思い知らされるなんて。 「栗原さん見てると、なんか段ボールにつまった捨て犬思い出すんだよなー、おれあんまりかわいそうで一回拾って帰ったことあるんすけど、小学校一年のときかな?」  ポチは続けてそう言い、私はかなりがっかりし、同時にがっかりしている自分に腹がたち、思いきりポチの頭をたたいた。 「捨て犬と一緒にすんな、へぼ中退」 「えーなんでなんで? 捨て犬って例が悪いけど、おれまじ、栗原さん見てるときゅんとすんの、あーもう、連れて帰りたーいって思うんすよー」 「きゅんとしてるんじゃねーよ、ぼけっ」  あのう……、と声をかけられて顔をあげるとスーツ姿の男がカウンター越しに立っていて、オリジナル・ラヴのCDを遠慮がちに差し出している。私たちはあわてて、いらっしゃいませと声をそろえる。みっともないくらい耳が赤くなっているのがわかる。  区のコミュニティ・センターの無機質な部屋の壁には、ファンタジックかつ精巧ないるかの絵と、曼陀羅《まんだら》と、写真だか絵だかよくわからない銀河系の図柄が、金色の額縁に入って飾られている。私はそれらを一枚一枚くりかえし眺めて、壇上で話している女の声を聞くともなく聞いている。壇の前にはパイプ椅子が並べられ、生真面白そうな男や女たちが私と同じように座り、女の話に相槌《あいづち》をうったり、メモをとったりしている。しかし、ファンタジックであるということと、精巧であることは矛盾するのではないか。深い青を基調に描かれたいるかの絵が不気味なのは、だからではないのか。海面から躍り出たようないるかの背後には、おそらく地球だと思われる球形が描かれているが、ところで、いるかと地球を結びつけたがる人が多いのはなぜだろう? 「宇宙のパワーを身につけるためのワークショップ」という会合がおこなわれると知ったのは、ニューエイジ系の本屋に立ち寄ったときで、私は迷わずそのチラシを抜き取り事務局に電話をかけ、参加を申しこんだ。降りたことのない駅で降りて、ひとけのあまりない人工的な町を歩いて、その催しが開催されるコミュニティ・センターをめざした。会議室Gに向かい、受付で会費を払い、部屋のなかに入ったとき、何か間違ったような気がした。それというのも、ぱらぱらと集まりはじめていた人々はみなどこか共通した雰囲気をただよわせていて、しかも似たような服装をしており、私一人、場違いであるように思えたのだ。アニメのコスプレショーに紛れこんだ普通の主婦みたいな。もしくは、神聖なミサに突如乱入したシリアル・キラーみたいな。  ワークショップというものがどんなものか知らなかったが、ただ中年の女が壇上でしゃべるだけだった。宇宙が無限のエネルギーを秘めていること、方法を覚えてしまえばそれを少しずつ得ることが可能であること、エネルギーをうまく得られればほとんどの希望や願望がかなうこと、要約すればそんなことを女はしゃべっていたのだが、私はあまり集中して彼女の話を聞くことができなかった。話のあとに参加者の質疑応答があり瞑想《めいそう》の時間があった。静かな音楽を聴きながらそれぞれ好きな恰好で瞑想をする。どうしていいのかわからず、私は椅子に座ったまま薄目をあけていた。床に座ってあぐらをかいている人もいたし、椅子に正座している人もいた。  瞑想が終わると、無機質な会議室は一転してバーゲン会場のようになり、壇上でしゃべっていた女と、スタッフらしき数人が、水晶玉や、いるかのペンダントや、不気味ないるかの複製画や、宇宙のパワーが得やすくなるためのブレスレットなんかを、たたき売りのように売りはじめ、数人が競って買いだした。買うべきなのか迷ったが、ほしいと思えるものが何もなく、私は目立たないようにそっと席を立ち、急ににぎやかになった会議室を出た。  あの、あの、と弱々しい声が背後から聞こえていたのだが、それが自分に向けられているとは気づかず数メートル歩いて、肩をたたかれてようやくだれかに呼び止められていたことに気づいた。ふりむくと、線の細い、小柄な男が立っている。 「なんでしょう?」私は訊《き》いた。 「今、今、ワークショップで一緒だった内藤と申しますが」男は私の足元のあたりに視線をただよわせて小さな声で言う。「お茶、お茶でも飲みませんか」 「え? なんで?」 「なんでって、なんでってあの、できれば、今日の会の意義とか、あと、あと、アストラル界のこととか、話、話したいなと思って」 「は? アナル何?」 「いや、いやだな、はは、あなた、あなたあれでしょ、悩んでるわけでしょ、何か」  私は男をまじまじと見た。真夏だというのに、長袖《ながそで》のシャツを着て、シャツの裾《すそ》をジーンズにたくしこみ革ベルトをしめている。彼はどうやら、私の悩みを聞いてやる、と言っているようだった。ジーンズに革ベルト男に私は何か心配されているらしかった。汗が額からしたたり落ちてこめかみにいやな感触を残す。何も言わず、私は彼に背を向けて駅へ向かった。あの、あの、と、弱々しい声は背後でしばらく聞こえていた。  そのままアパートに帰る気がせず、デパートにいこうか、映画でも観ようか、このまま山手線に乗り続けていようか、しばらく考えていたのだが、次は秋葉原だというアナウンスが聞こえて、何か考える前に私は電車を降りていた。  今日はバイト先が休みなのでひょっとしたら駅前広場にポチがいるかもしれない。彼をつかまえていつものようにからかったり頭をたたいたりすれば、さっきから感じ続けているこの軽い失望が消滅していくような気がした。  秋葉原の駅前では、幾人かの男の子がスケートボードに興じている。みんな同じような服装——だぼだぼのTシャツに太い軍パンかジーンズ——で、目深にキャップやニット帽をかぶっていて、そこにはたしてポチがいるのかどうかわからない。少し離れた場所にあるベンチに座って、三日月形にくりぬかれていたり、階段状になっていたり、三角形になっていたりする、巨大な積み木を並べたような場所で、似たような男の子たちがボードごとジャンプしたり回転したりするのをぼんやりと眺めた。彼らはときおり派手に転んで、見ているこちらをぎくりとさせるが、何ごともなく立ち上がってまた同じ技をくりかえす。彼らを目で追いながら今しがた自分が参加していた、奇妙な会合のことを考える。私もあんなふうにジャンプして空き缶を飛び越えたり、階段の手すりを器用にすべりおりたりできたら、美しさとか、宇宙とか、パワーとかエネルギーとか、考えなくてすむのかもしれない。 「栗原さーん、なにー、見にきてくれたんすかーっ」  遠くから私の名前を呼びながら、ボードを脇に抱えて一人の男の子が走ってくる。ほかの子とまったく見分けがつかなかったが、近づくにつれそれがポチだとわかる。 「見にきたわけじゃないよ、電気屋見にきただけ。あんたがここでスケボーやってるって、本当だったんだ」  できるだけ興味のなさそうな口ぶりで私は言う。 「見て見て、オーリー、うまいっしょ、あとね、あとね、見ててね、フリップすっから」  私の言うことなどまるで聞かず、興奮しきった犬のように目の前で飛び上がったりボードを回転させたりするポチが、急ににくたらしくなる。 「かーえろ」私は立ち上がる。「このくそ暑いのに猿回し見てらんないっすよ」 「えー帰るの? まじすか? じゃーさー、待ってよー、アイスおごるからー」  駅に向かって歩きはじめる私のあとを、ポチは小走りに追ってくる。 [#ここからゴシック体] 『ものごとはただそのままそこにあるだけです。意味をつけるのはあなたです。ネガティブな意味は、ことごとくあなたから美しさの芽を摘みとります。そして、いったんネガティブな意味をつけてしまったら、ものごとはその思考どおり、ネガティブな方向へと、オレンジが坂を転がるように進みはじめます。  同じことでもポジティブな意味に変換させましょう。恋人がいないことを嘆くのではなく、今はすてきな恋人を待つ充電期間だと考える。友達がいないと悲観するのでなく、自分は本当に気の合う人としか話す気はないのだと考える。やりたい仕事ができないと愚痴るのではなく、本当にその仕事がやりたいのかと、疑問を持ってみる。毎日が退屈なのではなく、無制限の時間があなたには与えられているのだと考えるのです。  考えかたひとつです。ポジティブな考えかたは美しさの種をあなたの細部に植えこみ、そして、すべての望みの実現に宇宙は大いなる力を貸してくれるでしょう』 [#ここでゴシック体終わり] 「ねー栗原さーん、帰んのー? どこいくのー? 時間、少しならあるっしょー?」  背後でポチが大声を出している。アイスクリームは食べたかったがふりかえるのが癪《しやく》で、無視してそのまま歩き続ける。  いったい私はどこへいきたいのだろう?  男、女、男、と、交互に座り、ほう、これが正統的な合コンか、と、最初から感心していて、それで思い返してみれば、大学生の時分から私は一度も合コンなどやったことがないのだった。二十六歳にして初合コンというのも情けない話だが、さらに情けないことに、だれも私に話しかけてこようとしない。広告代理店勤務という二人の男たちは、サチホにばかり話をふっているし、サチホと大学の同級生だったという、編集プロダクション勤務の男は、サチホが連れてきた赤塚さんというコンサバ系の女としっぽり話し合っている。通りがかりのウェイトレスにビールのおかわりを頼み、首都高へ流れこむ車の、闇のなかを泳ぐようなランプを眺める。上空に月が出ている。夜空にナイフを入れたみたいな、ずいぶん細い月だ。  実家に住んでいたとき遊ぶ金が必要でやっていた、スーパーの試食品配りのバイトで一緒だったサチホとは、最近ほとんど会っていなかったが、先週合コンのメンツが足りないと電話がかかってきた。参加を即刻承諾したのは、私に足りないのは美しさだの宇宙の後ろだてだのではなくて、単純に出会いではないのか、と思ったからだった。  隣の座席にはOLふうの女が四人座り、たえまなくしゃべり、たえまなくものを咀嚼《そしやく》し、たえまなくビールを流しこんでいる。あたしビアガーデンて今年初だわ、でもビアガーデンというわりにはおいしいよね? それにしても水不足、深刻よねー。何その、どうでもいい話題。どうでもよくない、うち実家旅館だもん、料理出せなくて急遽《きゆうきよ》素泊まりのみでさ、深刻よー。隣の話に混ざっていたほうがよほど居心地がよさそうだけれど、この場を離れるわけにもいかない。 「ねえねえ、栗原さんってひょっとして元ヤン?」  広告代理店勤務の、相原だか相沢だかいう男が、黙っている私に気をつかってかそんなことを訊いてくる。 「えーべつに違いますけど」私は答える。声がこれ以上ないほど不機嫌になっていることが自分でもわかるが、ピンク色のシャツにど派手なでかいネクタイをした、あるアイドルのコマーシャルをとったことが唯一の存在証明であるかのような、軽薄そのものの男に愛想よくすることができない。 「それ、失礼ですよー、しかも相沢さんて仕事今ふうなのに言ってること古いですよー、いずちゃんみたいなのはグランジっていうんですよー」 「ところで純粋な疑問なんだけど、グランジっていうのと、あと、単純に若い子がこ汚い、あっ、これ栗原さんのことじゃ断じてないですよ、ほら若い子がお金なくて薄汚いのと、おれ区別つかないんだよなー」  と言うのは、相沢という男と同じ会社で働いている、赤く太い縁の眼鏡をかけた男で、彼もまた、自己紹介のように大物ミュージシャンの名をあげつらね、身内のようにこきおろしてみせた、名刺を取りあげたら同時に名前も顔も失ってしまうようなタイプだった。私は無視してジョッキを飲み干し、店員の姿を捜してふたたびおかわりを頼む。 「いずちゃんて升《ます》を通り越してざるなんですー」  と、赤太眼鏡にしなだれかかるようにして言うサチホを見て、心から後悔する。やっぱり合コンなんかにのるんじゃなかった、出会いなんかに頼るんじゃなかった、自分自身が自信を持って凛《りん》としていればそれに見合った男があらわれる、それが宇宙的法則だというあの本の言葉を信じているべきだった。  二次会にいくという彼らとわかれ、地下鉄乗り場の前にある電話ボックスに入る。むんと煮詰まった熱気のせいで汗がふき出してくる。ずいぶん酔っていた。電話ボックスの外の喧騒《けんそう》が遠く響き、たったひとり水槽に入っている気分になる。あと数分で十一時だ。アドレス帳を出してポチの電話番号を押す。ポチは今日遅番だったがもう帰っているはずだった。赤眼鏡やらでかネクタイやら、あんな男たちなど相手にしたくないが、自分がまったく相手にされず、されないどころかばかにすらされていたことに、実際私は傷ついている。だれかに、軽口でもいいし冗談でもいいから、必要とされているようなせりふを言ってほしかった。  呼び出し音を八回数えたあとで、ポチの声が聞こえた。今まで寝ていたような声で、 「あれー栗原しゃん、めずらしいっしゅねー」と言う。 「おせーよ、電話出んの。寝てんの?」 「いやー、今起きましたー。なんすかー?」 「これから遊ぼーよ」 「ええー? いーんすか? どこでー?」 「今赤坂|見附《みつけ》にいるから、きてよ、三十分以内に」 「見附ーっ? まじすかー?」 「なんだっけ、ファストフードあるじゃん、地下鉄出たところに。そこにいるからね。三十分以内だよ」  私は言って電話を切る。受話器から、それじゃピザ屋だー、と叫ぶポチの声が聞こえて、私はうつむき、笑いをかみ殺す。  店のなかは涼しくて、あっという間に汗は引いたが、薄いコーヒーを二杯飲んでもなかなか酔いはさめない。二階席は空いている。テーブル席で一組のカップルが上半身を折り重ねるようにして眠っているほかは、私しかいない。小さく有線が流れている。たしか映画「バグダッド・カフェ」のテーマ曲だった歌がくりかえし流れている。窓際のカウンター席に座って、地下鉄の階段をのぼってくる人々の群れを眺めていたが、なかなかポチの姿はあらわれず、バッグから本を取り出して目を落とす。 [#ここからゴシック体] 『宇宙が完璧《かんぺき》であるということを知るべきです。この場合の知る、とは、信頼する、と置き換えてもいいかもしれません。宇宙が用意するものに偶然や成り行きはありません。そしてあなたの魂もまた——』 [#ここでゴシック体終わり] 「ひー間に合ったー、二十八分! おれ完璧!」  背中を思い切りたたかれてふりむくと、顔じゅうに汗をしたたらせたポチがいた。  どこへいくでもなく、ポチと並んで外堀通りを延々歩く。ポチは私の隣で、ひっきりなしにしゃべっている。スケボー友達のこと、今日のバイトのこと、客のことテレビ番組のこと。紫じみた夜空にただよう細い月は、ここからの脱出口みたいに見える。細い切りこみのような月に両手を差し入れれば、そのまま夜空がべりべりと裂けていきそうだ。 「今日は最悪だったー、合コンで恋に落ちるなんてどだい無理だね。おとぎ話だよね」 「へっ? またニューダーリンの話? だからおれでいーじゃん。何が不満よ?」 「だってポチってばかっぽいんだもん」 「えっ、それひでーよ、そりゃないっす」 「年下だしー、チビだしー、声でかいしー、色黒いしー、タイプじゃないんだね、つまり」 「へーきへーき、おれまいんち牛乳飲んでるもん、背、これから伸びるっす」  ポチは言って、いきなり私の手を握る。ふりほどくのも面倒で、私たちはそのまま手をつないで歩く。高速道路の下をくぐりぬけてさらに歩くと、次第に歩く人はまばらになり、無数の小さな窓に明かりを灯《とも》した背の高いビルが、私たちを見下ろしている。自分たちがひどくちっぽけに思える。見知らぬ場所をさまよう地図を持たない迷子みたいに。 「あーあ、なんかさー、海のそばに住みたいなー、毎日余計なこと考えずに、海ばっか眺めてさー」酔いは次第にさめてきているが、私は酔っているふりをする。 「じゃーさー、引っ越そうぜ、ほんで海のそばで一緒に暮らそうよー、おれたちうまくいくに決まってんじゃーん」 「おれたちとか言ってんじゃねーよ」私は言ってポチにケツキックを食らわす。ポチはこどもみたいな声で笑う。「ポチ、私のことが本当に好きなの?」 「好き好き、んもうだあーい好き」ポチは叫ぶように言う。 「まじすか?」私はポチの口癖をまねる。 「まじまじ、だだだ、だだっ、だあーい好き。栗原さんのためにもっと牛乳飲むっす」  ポチはふと立ち止まって握っていた私の手を引き、人なつこい犬みたいなしぐさで私の唇に舌を差し入れる。こんなことは何度もしてきたはずなのに、情けないくらいどきどきしている。顔を離して笑いかけるポチが突然、なんだかかっこよく見えて、自分がまだ十代であるかのような錯覚を抱く。  私がほしかったのは宇宙のエネルギーなんかじゃなくて、好きだという一言だったに違いない。そう言ってくれるだれかに、なんの力も持たない小さなこどもみたいに甘えたかった。ずっとそう思っていた。気づかないふりをしていたそのことを認めてしまうと、急に泣きだしたくなる。泣かないために、私は笑う。 「えー何、何?」  ポチが私をのぞきこんでくりかえす。のけぞって笑うと、ビルの真上で細い月が揺れて、一緒に笑っているみたいに見える。 [#改ページ]    Divine intervention 1995 ㈰  スポーツジムのカフェテラスは知っている人に見られてなんとなくいやだ、とシノザキさんが言うから、隣の駅——そこは私の住む家の最寄り駅だ——の前にある喫茶店で待ち合わせることにした。純喫茶マリリン。マリリンはないだろう、と思うが、このあたりにはこじゃれた茶店のひとつもない。  待ち合わせは四時だ。ジムのサウナに入って、パウダールームで慎重に化粧をする。あーら、今日はずいぶん丹念ねえ、デートお? と、顔なじみのおばさんが訊《き》く。そんなんじゃないですよう、なんて答えながら、私は得意絶頂の気分を味わう。私はこれから、あんたたちのアコガレの、シノザキコーチとデートをするのよ! 純喫茶マリリンで! 心のなかで私は叫ぶ。  ジムを出てから隣の駅に向かう途中、ずっとウォークマンでカーディガンズを聴いていた。桜はとうに散ってしまったが、木々の緑は徐々に濃さを増してきて、寒くもなく、暑くもなく、気分を不快にする要素は何ひとつない、そんな気になって、「Carnival」のメロディラインをなぞりながら、いつもはかならずうんざりする退屈な車窓の風景を眺めた。  純喫茶マリリンに十五分遅れてシノザキさんはやってきた。照れたように笑って私の向かいに座り、トマトジュースを注文する。健康的に日にやけた肌。白い歯。広い肩。厚ぼったくて大きな掌《てのひら》。トマトジュースという選択。健康食品のコマーシャルみたいな感もなくはないけれど、それらは何ひとつとしてポチの持っていないものだ。ああそうだ、男の人というのは私よりもずいぶん大きくて、近くにいたら自分がか弱いような気持ちになる存在なんだった、と、シノザキさんに会って思い出した。  シノザキさんは水泳のことについて話す。私のフォームの改善について。リカバリーのときはもう少し肘《ひじ》を高くあげたほうがいい、腕を動かすんじゃなくて肩で肘を押し出す感じで、あと、もしできるなら2ビートキックでやってみたらどうかな? 長く泳ぐのがぐんと楽になると思うんだけど。ほとんど意味のわからないそんな話を、私は上の空で聞いている。  純喫茶マリリンに、私たちのほかに客はおらず、窓からさしこむ斜めの陽の光を浴びて、カウンターの奥、店主の老婆がうとうととまどろんでいる。金色の陽射しのなかを埃《ほこり》がゆっくり上下しているのが見てとれる。  五時を少しまわったころ、飲みにいきませんか? とシノザキさんが言う。 「えっ、シノザキさんでも酒を飲むんですか」思わず言ってから、酒、じゃなくて、お酒、と言うべきだったとちらりと後悔するが、シノザキさんはそれにはかまわず、 「ストイックなだけというのはかえって体によくないんだよ。たまにはそうしてほころびを作らないとね」  そう言ってさわやかに笑った。ほころび、という、私にはない奇妙なボキャブラリーの余韻を味わいつつ、いきましょういきましょう、と私ははしゃぐ。  駅前ロータリーにあるさびれた駅ビル地下の、養老乃|瀧《たき》に向かう。初デートで養老乃瀧はないだろう、と思うが、この町にはこじゃれた飲み屋もまた存在しないのだ。  駅ビルの入口に並ぶ公衆電話を見て、ポチに電話しようかと一瞬思うが、すぐにそれを打ち消した。結婚しているわけでもあるまいし、私が食事を作らなければならないと決まっているわけでもない、飲みにいくのにわざわざ断る義理はないはずだ。  まだ六時にもならない居酒屋の店内は空いていて、そろいの制服を着た従業員たちが隅でおしゃべりに興じていた。窓のない店は飲み屋にしては異様に明るく、いつも水着姿のシノザキさんと服を着て向き合っていることが気恥ずかしくて、私は急いで酔ってしまおうと養老ビールを次々に流しこむ。 「栗原さん、どこに住んでるの? ジムの近所?」  上唇にビールの泡をはりつけてシノザキさんが訊く。 「じつはこの駅から通ってるんです」 「へえ、そうなんだ」と言ったあとで、シノザキさんは突出しの煮物を箸《はし》でいじくり、 「栗原さんて、ここいらの出身じゃないでしょう?」と訊いた。 「違いますよ、引っ越してきたのはジムに通いはじめる三か月くらい前で、その前は東京に住んでました、東京の出身でもないんですけど」  どうしてここに引っ越してきたのか訊かれたら面倒だな、と思っていたが、シノザキさんは自分のことを話しはじめた。 「東京かあ、ぼくも大学は東京だったよ、でもずっとここから通ってた。ここって、ぼくんちはジムから車で十分もしないところなんだけどね。大学までいくのに、乗り継ぎ悪いと二時間近くかかっちゃうから、東京で部屋を借りてもよかったんだけど、なんだか東京って好きになれなくて。ここいらに住んでいる人と、顔つきが全然違うでしょう、びっくりするよ。みんななんであんなに疲れた顔をしているんだろうって、いつも思ってたな」 「うんそうですよね。たしかに、このへんの人はみんな、顔に余裕があるっていうか」  引っ越してきて半年、東京近郊の地味な町が持つ、独特の中途半端さに早くも辟易《へきえき》しているくせに、私はしんみりと相槌《あいづち》を打ってみせる。頭を金に近い茶色に染めた若い女の子が注文をとりにきて、私たちはビールの追加を頼む。 「かつての同級生たちは、みんな東京東京で、高校出てすぐそっちいったけど、最近だね、やっぱりちらほら戻ってきつつあるよ。やっぱりこっちのほうが落ち着くんだろうね」 「でも、ここだって二時間しないで東京にいけるんだし、それほど違うわけじゃないですよね」 「いや違うよ。水が違うし、空気だって違う、それに何より、人の顔が全然違うんだ」 「ああまあ、それはね」  四杯目か、五杯目になるビールを半分くらいまで飲んだところで、そりゃあ違うさ、東京にはオープンテラスのカフェがあるし、ちゃんと発売日の朝に種々の雑誌が並ぶ本屋があるし、好きなだけ試聴できるばかでかいCD屋があるし、イタリアン、エスニック、もつ煮やら炭火焼きやら、和だろうが中だろうが、飲もうと言ったらまず選択に頭を悩ませるくらいの飲み屋があるさ、養老乃瀧が一軒あるきりの町とはそりゃあ違うわい、そんなことを心のなかで思ってみるが、あわてて自分でそれを打ち消す。そうじゃない、シノザキさんの言うとおりだ。たしかに自分でいれるコーヒーは以前よりおいしい気がするし、星だってたくさん見える、何を着るかに頭を悩ませなくてもすむ、シノザキさんはやっぱり正しい。 「考えると老ける、急ぐと老ける、やりたくないことをすると老けるって言うでしょ? ぼくそれは正しいと思うなあ。東京の人はみんな考えすぎ、急ぎすぎ、やりたくないことをしすぎなんだよ、だから、東京に住んでる高校の同級生とかにたまに会うと、本当、びっくりするよ。おまえいいのかよそんなに年とっちゃってって、言いたくなるんだよ」 「シノザキさんはおいくつなんですか」 「三十。今度の夏で一になる」  三十。ポチより七つも年上だ。大人に見えるはずだ。シノザキさんが中学にあがって女の子にバレンタインのチョコなんかをもらっていたころ、ポチは鼻水も小便もたらしっ放しのただのガキだったんだ。 「お休みの日って何なさってるんですか、やっぱり体動かしているんですか」 「ぼうっとしてるかな。それより、ぼくはここ五年くらい、三か月四か月働いて、ばん!と休みをとる、ということを続けていてね。このあいだは、三週間、カナダにいってた。テントかついで、向こうでカヌーを用意してさ。カヌーで、ずっと川を下っていくんだ」 「へえカヌー。カヌー趣味なんですか」 「っていうか、なんでもやるよ。その前はやっぱり一か月近く、スイスでスキー漬け。今度は秋くらいに、ネパールで、ラフティングツアーに参加しようと思ってる」 「ラフ?」 「一か月くらい、ずっと同じメンバーで野宿しながら、ラフティングしていくツアーがあるらしいんだ。そういうのって、すごいよね、欧米人が考えたツアーなんだろうけど、そういう感覚は、やっぱ日本人にはないよね」  いつのまにか店は混みはじめている。まだ高校生くらいにしか見えないグループ連れが座敷席で騒ぎ、水商売みたいな派手な恰好《かつこう》をした女同士や、スーツにネクタイをしめた中年男が数人、おとなしく酒を飲んでいる。私たちのテーブルに並んだ料理は、ほとんど手をつけられていないまま冷めはじめ、表面が乾きはじめている。 「カナダでカヌー」  小さな蠅がジャーマンポテトにとまるのを眺めて、私は口のなかでつぶやいてみる。まるでそれが秘密の呪文《じゆもん》だったように、いきなり、驚くくらいの解放感を覚える。カナダでカヌーに乗っている私とシノザキさんや、一緒にテントをはっている私とシノザキさんや、橙《だいだい》の夕陽を眺めて夕食の準備をする私とシノザキさんの姿が、まるで真新しい記憶のように次々に浮かびあがる。もちろん私はカナダにいったことがなく、カヌーという乗りものもなんとなくしか思い描けなかったが、とりあえず空想のなかの私たちは、カナダ的な場所でカヌー的な乗りものに乗って、とんでもなく自由で、しあわせそうだった。  十時近くになって店を出た。駅前ロータリーのほとんどの明かりは消えていて、深夜のように静まりかえっている。しっとりとした夜の空気は森のなかを歩いているときに漂うものととてもよく似ていた。  家まで送るとシノザキさんは言い、私はその響きにうっとりして、思わずお願いしますと言いそうになったが、よく考えてみれば家にはポチがいるはずで、あわてて私はその申し出を断る。 「歩いてすぐだし、大丈夫です、今日は本当に楽しかった」 「本当、ぼくもとても楽しかった。栗原さんみたいな人がジムにきてくれてうれしいよ」そう言って私をしばらく見つめ、「また誘っても迷惑じゃないかな」と続ける。 「迷惑なわけないです、うれしいです」私は言う。 「本当に送らなくて大丈夫?」 「平気です、本当、大丈夫なんで、また飲みましょう!」  私は言って、なかば逃げるようにしてその場を離れる。ふりかえると、駅ビルの白い安っぽい街灯の下で、シノザキさんは大きく手をふっている。  私の家は駅から歩いて二十分近くかかる。街灯も少ない、人の気配はまったくしないがとにかく虫の声がはんぱでなく響く、寂しいけもの道を延々と歩かなければならない。いつもは十分を過ぎたところでかならず無意識に舌うちしているが、今日はその遠さがうれしかった。両耳にイヤホンをして、カーディガンズを大音量で聴きながら、シノザキさんの言葉を幾度もくりかえして歩く。また誘っても迷惑じゃないかな。本当に送らなくて大丈夫? また誘っても迷惑じゃないかな。本当に送らなくて大丈夫? 自分がとても大切にされていて、そうされるべき価値のある女の子に思えて、アスファルトを踏んで歩いている気がしない。  去年、海のそばに住みたいと思ったのは本当だった。中古CD屋でアルバイトをして気楽に暮らすのはけっしていやではなかったが、いつもどこかに違和感があって、何もかも全部白紙にして何もないところからはじめたい気持ちはたしかにあったのだ。それから、ポチをかっこいいと思ったのも本当だし、どうしようもないくらい大切だと思ったのも本当だった。あのときポチが私に言ったこともきっと本当だったのだと思う。  ぜったいのぜったいのぜったいにだいじにする。まもる。と、ポチは言った。だから、あなたの言うとおり、二人で海の近くで一緒に暮らそう。なんにも心配させないし、なんにもこわいことないよ。私は大事にされたかったし守られたかった。それで二人そろってバイトをやめて、おたがいになんのつながりもなかったこの町に引っ越してきたのだ。  ここへくるまではなにもかもが本当のはずだったのに、この場所で生活をはじめてみると急にすべてが嘘くさく感じられた。海の近くとか、大事にするとか守るとか、愛とか恋とか、私たちはいったい何になりきったつもりで言い合っていたのだろう? そんなせりふを垂れ流す二人が主演の昼メロだったら、視聴率は確実に低迷して打切りに違いないだろう。  この町で仕事を捜すのはかなり大変だった。引っ越して一か月過ぎて、ようやく私はパートを見つけることができた。ポチの自転車で田畑に囲まれたのどかな道を三十分走ったところにある、水産物の缶詰工場がパート先だ。あれほど夢中でやっていたスケボーに飽きたらしいポチは、これからはサーフィンだと言ってボードを買ったが、使ったところをいまだ見たことがない。もっとも、近場の海にはサーファーの姿もない。  三か月近くのらくらして彼はやっと、急行の停まる駅の飲み屋でアルバイトをはじめた。それも週三回、夕方五時から十二時まで。昼間のあいだ、彼はほとんど活動的なことはせず、最近はずっとテレビをつけて、カルト宗教を追いかけるワイドショーばかり熱心に見ている。  家賃は東京に比べれば格段に安かったが、パート賃金も比例して安く、おまけにポチの稼ぐ金額がおそろしく少ないから、以前よりずっとお金のことを考えるようになってしまった。ティッシュペーパーや大根一本が、どこがどこより三十円安いとか高いとか。赤坂ブリッツでライヴがあるけれど交通費やその他の出費をチケット代にプラスするといく価値があるかないか、とか。  引っ越してからただの一度だって私たちはデートをしていない。旅行なんてとんでもない。海まで歩いて十分もかからないが、最近は二人で歩くことすらしなくなった。私は毎日理由も考えずに自転車をこいで缶詰工場へいき、十円二十円安い食材を血眼になって捜す。これがつまり、「ぜったいぜったいだいじにされる、まもってもらえる」はずの暮らしというわけだ。  スポーツジム通いをはじめたのは、憂さ晴らしでもなく体力作りのためでもない。月々の出費はかなり痛い。けれど、パートが休みの木曜と日曜、家にいるとポチと四六時中顔をつきあわせていることになる。彼のアルバイトは金曜と土曜、それに水曜なので、二十四時間一緒にいなければならないのだ。それがいやで、出費が痛いのは重々承知のうえ、通いはじめたのだった。  ほの白い街灯の先に私の家が見えてくる。家賃五万円管理費二千円の、古ぼけた平屋の一軒家だ。暗闇のなか、隣の増田さんちのばか犬が私に向かって狂ったように吠《ほ》えまくる。 「あああーーーっ、飲んでる、飲んでるうーっ! ずりーの、ずりいいいいーーーの、だれと? だれと飲んでたのよ?」  帰ると居間の床に座ったポチが、テレビから顔をあげて、大声で叫ぶ。テレビの音量は消されていて、かわりに、オアシスのCDがかかっている。私のCDだ。ポチはポテトチップスを食べている。つぶれたビール缶が、三本転がっている。結局、今の生活が、ここへくる以前に描いていたそれとかなり違う、悲惨なくらい違う、そう思っているのは私だけなのだ。 「それ、晩ごはん?」ポテトチップスを指して私は訊《き》く。 「だあーって買いものいくのたりいしさー、いずちんはいないしさあー」  床に寝転がってこどものように手足をぶんぶんふりまわして言うポチをちらりと見る。食事がわりにスナック菓子を食べるという行為は、私がもっとも憎んでいるもののひとつだ。みじめったらしいし、だらしがない。それにこの部屋。このあいだの土曜にかたづけたばかりなのに、無気力な不登校児童の部屋みたいに散らかっている。たたんでいない洗濯物、脱ぎっ放しの衣類、貸出し期限を過ぎたビデオテープ、散乱している私のCD、空になったペットボトル、開いたり閉じられていたりひん曲がっていたりする雑誌類、吸い殻の山盛りになった灰皿。そしてそこに寝そべって私を見上げているポチ。 「ねーだれだれだれ? だれとどこで飲んでたのー? わかった、缶詰工場の、主任でしょ? 主任と駅前の養老で飲んでたんでしょーっ」 「っていうかさー、その前に部屋なんとかしろよー、クソポチよう」  さっきまでの解放感や至高感はことごとく消え去って、やっぱり私はカナダでカヌーなんかに乗れるはずがない、この男とこの狭い汚い一軒家で暮らすしかないんだと、現実に閉じこめられた気分になって、空のペットボトルを蹴《け》りあげる。 「あーあしたあしたあしたやるっ。ねえー、だれと? だれと飲んでたのって」 「あんたさ、いくつだっけ?」  私は突っ立ったまま寝そべっているポチを見下ろす。 「七月で二十四でちゅ」ポチはまっすぐ私を見上げて素直に答える。 「ふーん、二十四ねえ。私が二十四のときには」そこで言葉をきり、ポケットからたばこを出してくわえ、火をつけて煙を吐く。「アイルランド走ってたもんなあ。そうだよねえ、ばかかりしころって感じだもんねえ」 「えっ何それ何それっ」ポチは上半身を起こす。「いずちん外国いったことあんの? じゃあパスポートもってんの?」 「二十四じゃあねえ……」 「あっ! 今! だれかと比べたっしょ? おれわかるもんねそーゆーの、いやだなー、あーいやだなー、すうーぐおとなぶるしさあー。おれが若いのはおれのせいじゃないっすよ」  ポチのこのモードには慣れている。いつもそうだ。言い合いのたびに、ポチは勝手に何かのコンプレックスを感じ、勝手にすねはじめて、勝手に怒りだし、けれどその怒りを私に向けることができずに、何かを投げたり蹴ったりする。けっして壊れないものを。たとえばティッシュの箱だとか、枕だとか脱ぎ捨てたジーンズだとか。 「おれ待ってたんだよねー、今日はスーパーまるかわでカルビ特売でさあ、いずちんたぶん四時にはジムから戻るからー、季節いいしさー、庭で肉とか焼く? とか思ってさー」  言いながら、ポチはポテトチップスの袋を投げる。残りかすがそこいらじゅうに散らばる。酔いはいっペんに醒《さ》めて、私のなかで、何かがぶっつりと音をたてて切れる。頭がずきずきする。体じゅうの血が脳味噌《のうみそ》に集結しはじめる感じだ。 「でてけっ!!」声を限りにして私は叫んだ。「何が! 何が大事にするだよ! スーパーまるかわっ、まるかわのっ、とくっ、特売なんてっ! そんなの、考えずに生きてくことだってできたんだっ! 何が庭で肉焼く? よ! そんなこと一回もしたことないくせにっ! 肉焼く? って何よ! 文章しゃべるとき無駄に疑問符使うなっ! とっ、特売なんて! カルビ特売なんて! 私はそんなこと考えたくなかったよっ」  ポチは床にあぐらをかいたまま、後ろ手を使って上手に少しずつあとずさりし、ちらりちらりと私を見る。私がポチのすねモードに慣れているように、彼もまた私の怒髪《どはつ》天を衝《つ》くモードに慣れている。彼がすることはただ、私の「でていけ」がどの程度本気なのか見定めること。本気度十から六十なら彼はおとなしくそこにいればいい。ポテトチップスのかすと、部屋を少しだけかたづけて、私の機嫌をとればいい。本気度が七十を越えているならさっさと言うとおり出ていったほうが身のためである。四時間か六時間か、長くても半日かそこら、どこかで時間をつぶして戻ってくればいつものいずちんに戻っているはず。そんなことをポチはもう充分に学習している。そのことが、さらに私をいらつかせ、絶望的なくらい怒らせる。 「でてけっ」私はふたたび叫ぶ。きっと、増田さんちでは家族そろって耳を澄ませ、数十メートル先に住むカップルの痴話|喧嘩《げんか》に聞き入っていることだろう。「でてけっ! でてけっつってんだろ!」  本気度七十以上、と判断したのだろう、ポチはそうっと音をたてないようにして、居間を出、廊下を歩いて、玄関から出ていく。自転車の鍵《かぎ》を外す音が聞こえ、続いて、きーこきーこと、錆《さび》の出はじめた自転車をこいでいく音が聞こえてくる。きーこきーこ、きーこきーこと、笑うような、すすりなくようなかすかな音は次第に遠ざかっていく。  ポチはきっと、自転車を四十分近く走らせて、国道沿いの、特攻服姿の暴走族がときおりたむろしているファミリーレストランにいくのだろう。おかわり自由の薄いコーヒーを何杯も飲んで、窓ガラスの向こうが白んでいくのを眺めるのだろう。急にかなしくなる。なんでだろう? なんでこうなるんだろう? ポチのことが嫌いなわけではないし、傷つけたいわけでもない。ここへ引っ越してくる直前のころみたいに、じゃれあったり笑ったり、ばか話をしたり眠い目をこじあけて朝までしゃべったり、そんなふうに暮らしたいのに。  とっくに終わっているオアシスのCDをかたづけて、スマッシング・パンプキンズをかけ、音量を小さくして、散らかった部屋のなかに膝《ひざ》を抱えて座る。目をかたくつむると、涙が出てきた。私はわざとしゃくりあげて、もっと涙が流れやすくなるようにする。涙はきちんと流れてくるが、自分がどうして泣いているのかわからない。酔いがまだ残っているのかもしれないし、スマパンの曲にうっとりしているのかもしれない。ポチに冷たくしたことを後悔しているのかもしれず、あるいはポチが私を大事にしてくれないことに傷ついているのかもしれない。  ティッシュの箱を引き寄せて鼻をかみ、それを部屋の隅に投げ捨てたのを合図のようにして電話が鳴った。シノザキさんだった。 「無事帰れた?」  今までだれかとどなりあっていたことが理不尽な夢だったような気がするほど静かな声で、そんなことを訊く。 「あ、大丈夫です」私は言う。「今日はなんだか久しぶりに楽しかった、ありがとうございました」 「あれ? 声、へんだけど」 「ああ今、ちょっとビデオ観てて、泣けるやつだったから」あわてて私は嘘を言う。 「へえ、何?」 「えーと、あの、バーディ」つい先週観たばかりのビデオ名を口にする。 「バーディ?」 「うんあの、鳥になりたい男の子の話なんだけど」 「えっ、鳥に? それ泣けるの? 笑えるんじゃなくて?」 「いい話なんですよ、これ、本当に」 「ふーん」シノザキさんは興味なさげに言い、「でもほら、栗原さんちどのへんなのかよくわかんないけど、けっこう暗い道多いでしょ? やっぱり送ればよかったって、帰ってきて思ってさ。女の人ひとりで帰らせて、何かあったらね」  女の人。何かあったら。いちいち私はくりかえす。自分がか弱い女の人で、心配に値するのだということを、何度も何度も聞きたいと、貪欲《どんよく》なほど思っている自分に気づく。 「明日、くる? ジム」 「ああ明日は……私は木曜日と日曜日しかいってないんです」 「そうか、そういえばそうだったね、じゃあ今度は日曜だね」  そう言ってシノザキさんは黙る。私も黙る。増田さんちのばか犬が、短く鳴いて、やっぱり黙る。 「じゃあ明日、いこうかな、夜になるけど。たしかジム、十時までですよね」 「うん、おいでよ」 「はい、いきます」  電話を切って、膝を抱えた姿勢のまま、スマパンにあわせてハミングをして、あちこちに散らばっているポテトチップスの細かいかけらを、人さし指の先につけて口にいれる。何気なく顔をあげた先にガラス戸があり、紺色の夜のなかに私が映っている。私はしばらくそのままの姿勢で、数メートル先でこちらを見ている自分を見つめる。  私はいったい何ものなんだ?  純粋な、混じり気のない疑問がふと浮かびあがる。  好きで一緒に暮らしている男の子に、ペットボトルを蹴りつけて出ていけと《たぶん》ものすごい形相でどなり、その数分後に、はい、いきますなんてきどりすました声を出して、か弱い女になった気分でにやついて、それでなんの矛盾も感じず混乱も生じず、平気でしゃがみこんで落ちたポテチのかすをなめているというのは、どこかおかしいのではないだろうか?  一瞬そんなことを思ってみるが、今日使った水着を洗っていないことを思い出して、そんなことはどうでもよくなる。ガラス戸のなかの自分から顔をそらして、雑誌や洗濯済みの衣類を踏んづけて歩き、洗濯機に水を入れる。  パートが終わるのが五時、明日ポチはアルバイトでいない、それからいったん家に帰ってくれば水着は乾いているはずだ、軽く食事をしてそれからジムにいけば六時、六時にはシノザキさんに会えるだろう。シノザキさんは今日、私のフォームについて何か言っていたけれど、あれはいったい何を言っていたのだろう?  肩をまわすというところだけ覚えている。腕ではなくて、肩をまわす。  ぐるぐると水のまわりはじめる洗濯機の横で、私はクロールのフォームを練習する。腕ではなくて、肩をまわす。肩をまわす。なんとなく早く泳げる気分になってくる。洗濯機の水音を聞きながら上半身だけクロールのフォームをくりかえし、ちらりと、ファミリーレストランでコーヒーをすするポチの姿が浮かんでは消えるが、私はもう罪悪感や疑問などは抱かずに、ただ夢中で泳いでいる気分になりきって、一秒でも早く進めるよう、向こう側にあるはずの、架空のコンクリートの壁を目指してがむしゃらに両腕で交互に空をかき続ける。 [#改ページ]    Divine intervention 1995 ㈪  メランコリーそして終わりのない悲しみ、というのは、このあいだ発売されたスマッシング・パンプキンズの二枚組みCDのタイトルで、そのCDもかなり気に入っているが何よりそのタイトルの言葉がいい、と思う。  歩道橋の真ん中で立ち止まって、バッグからたばこを取り出し、火をつけ、ゆっくりと吸う。シノザキさんといるとき、いつもたばこを吸わないでいるから、わかれてから吸うと最初の一本でいつも頭がくらくらする。そのくらくら感は、心地よくて、どことなくもの哀しい。煙をそっと吐き出して、メランコリーそして終わりのない悲しみ、と私はつぶやく。けれどその言葉とは反対に口元が勝手ににやついてしまう。  今日、私ははじめてシノザキさんと寝た。この一か月のあいだ、シノザキさんと八回デートをして、六回目でキスをして、八回目の今日、ラブホテルにいった。まっとうなはじまりかただ、と思う。  気になることは多々あった。養老乃|瀧《たき》デートと同じく、記念すべき初ラブホテルが、スポーツジムから車で二十分ほど走った、国道沿いにある「気まぐれ天使」というとんでもなくさびれたホテルだったことや、映画だの音楽だのの話がどうやらシノザキさんにはほとんど通じないと最近気づいてきたこと、それから、シノザキさんの性交が怪しんでしまうくらい下手だったこと、など。いや、下手、という言いかたはおかしい、あわてて私は打ち消す。下手、なのではなくて、相性がよくない、と言うべきなのに違いない。  相性がよくない。歩道橋の下にはまっすぐ、どこまでも続くように見える灰色の道路が延びていて、あんまり車が通らない。木々は騒々しいくらいの葉をつけて、暮れはじめてきた空の下で静止している。数十分の性交のあいだ、満たされない気分を、滑稽《こつけい》にも必死な想像でおぎなわなければならないほど、それは心地よくなく、けれどそれよりもっと驚いたことに、性的相性のよくないシノザキさんをそれで嫌いになるかといったらまったくそんなことはなく、かえって、彼の過去をも手に入れたような満ち足りた気分になっているのだった。  たばこを靴でもみ消して、歩道橋を降りる。あたりは次第に金色の薄い紗《しや》をかけられたように染まりはじめ、私の幸せな気分をいっそう盛り上げる。  帰るとめずらしくポチが家を掃除していた。タオルを頭に巻いて、しゃがみこんで雑巾《ぞうきん》がけをしている。私は彼に飛びついて首筋に唇を押し当てる。 「いい子じゃーん、ポチ、どうしたの、掃除なんかして、めずらしい」  ポチはおとなしくされるがままで、 「いずちん、なんかいいにおい」と言う。 「あー、ジムでシャワー浴びてきたからね。それよっか、今日なんかおいしいもの食べにいかない? おごるよ、私」 「えっ、まじすか?」 「まじっすよ、まじっす、何にする? 焼き肉? 蟹《かに》? しゃぶしゃぶにしようか。ほんじゃあさー、早く着替えて出かけよっ」  ポチの頭を軽くたたいて寝室へいき、押し入れを開けて着ていく服を選ぶ。いつのまにか私はかん高くうたっている。トゥナイーーー、トゥナアアアーーーイ、ソーブラアーイ、帰り道聴いていたスマパンの曲。  自転車に二人乗りして、国道沿いのレッドロブスターを目指す。さっきまで橙《だいだい》だった空はすみれ色で、高い建物がないぶん、ずいぶん広くたいらに見えた。ポチの肩越しからずっと延びる灰色の道路の先に、ホテル「気まぐれ天使」があって、そこで数時間前に素っ裸になって違う男と抱き合っていたことがなんだか空想のなかのできごとみたいに思えた。スピードをあげてグレイの車がわきを通りすぎていく。後部座席から犬が顔を見せている。 「見て見て、ポチ、犬がこっち見てるー」 「よっしゃ、あれ追い抜こうぜ」  ポチは背中を丸めて、ペダルを踏む足に力をこめる。  シノザキさんとデートをした日は、ポチと私は気味が悪くなるくらいうまくいった。私たちがうまくいく、ということはつまり、私がポチにたいしてやさしくできる、ということにほかならず、結局、喧嘩《けんか》をふっかけるのはいつも私で、関係がぎくしゃくする根源はつまるところ私であると気づかざるを得なかった。そう気づいてみても、シノザキさんと会わない日はなぜか私はポチに腹がたってしかたなく、大小のいさかいを阿呆《あほ》みたいにくりかえしてしまう。ひょっとしたら私たちがうまくいくにはシノザキさんが必要不可欠なのかもしれない、と、なんとなく私は思い、それならそれで何も問題はない、などと妙にすっきりした気分になる。私は心のままにシノザキさんと会い、それでポチも穏やかな日々が送れるのなら、こんなにいいことはないじゃないか。 「あのさーいずちん」自転車をこぐポチのうしろ姿が言う。 「はいはい」 「おれさー、バイト増やそうと思って。明日からまたちゃんと捜すよ」 「こりゃまたなんで?」 「飲み屋バイト、週三日じゃしょうがないし、近場で捜そうと思うからよくないんで、もう少し離れたらいろいろあるんじゃん? 肉体労働でもいいしさー、カテキョでも、小学生レベルなら平気だと思うしさー、選ばなけりゃなんかしらあると思うんだよね」  ポチの声はめずらしくまじめで、私は瞬間ぎくりとする。何かばれているのかもしれない。さっき抱きついたときの「いいにおい」が、ジムのボディソープではなくてラブホのそれだと気づかれたのか? 素知らぬふりを装って、わざとおちゃらけて訊《き》く。 「勤労青年を目指すのお? どうしたの、キリストが出てくるようなやばい夢見た? それともなんか電波届いちゃった?」  ポチは笑わない。笑わず、しばらく間をおいて、静かに答える。 「今日は蟹おごってもらうけど、おれおごられるんじゃなくておごりたいの。あんたに蟹食わせてやりたいの。しゃぶしゃぶでも焼き肉でもなんでも。特売カルビじゃなくてさあ、特上カルビ買ってやりたいんだ」  ポチのそのせりふを茶化そうとして、私は言葉をのみこむ。このせりふはどこかで聞いたことがある。 「缶詰工場、いやならやめさせてあげたいしさ。好きなことだけさしといてあげたいしさ。おれ、まじであんたになんかしてやりたいの。ほんとの本気で言うけど、こんな気持ちになったことおれないの」  きーこきーこと錆《さ》びついた自転車は音をたて続ける。ポチのその言葉がうれしいとか、ありがたいとかいうより先に、そんなようなせりふをどこで聞いたのかが気になって、私はあいまいに相槌《あいづち》をうつ。 「おー、見えてきた、レエエッドロッブスタアアーー! 今日はいずちんにおごられおさめ、まじで食うっすよ」  ポチが中腰になって立ちこぎをはじめ、もうすっかり藍色《あいいろ》に染められた通りの向こうに、ぽつんと灯《とも》る赤いネオンサインが見えてきて、ようやく私はそのせりふをどこで聞いたのか思い出す。父親だ。結婚する前父親が母に言った言葉だ。母がくりかえし思い出しておさない姉と私に聞かせた、近所の性悪|婆《ばば》あがちょっとした悪意をこめて姉と私に漏らした、高校生の私をぞっとさせたあの一言。  ポチのうしろ姿に顔を埋めると、彼のトレーナーは汗ばんで生暖かく、なぜだか、食パンの焦げたようなにおいがほんのりとした。  クロールのキックは6ビートでなく2ビートで。体全体のローリングでストロークも呼吸もスムーズに。電車で一駅の家からジムまでは、いきはLSDで、帰りは四百のインターバルで走る。マウンテンバイクを買うのは少々勇気が必要だったが、思い切って一か月分の給料の三分の二をつぎこんで買い、缶詰工場までは遠まわりをしながらそれでいくことにした。基本のフォームをつねに意識して、コーナリングのときにできるだけスピードを殺さないようにすること、坂道をダウンせずのぼれるようになってきたらダンシングをマスターすること。  二年前までLSDといえばあの、苺《いちご》だのパンダだのの絵のついたちいさな紙切れだったが、今同じ単語を聞いてもそんなドラッグは思い浮かばず、すぐさま、ロング・スロー・ディスタンスのことだと理解できる。  けれど実際のところ、マウンテンバイクだのLSDだの、トライアスロンという競技自体に興味なんてさらさらなくて、当初の目的は毎日シノザキさんに会うこと、それだけだった。それまで週二日いっていたジムに毎日通うには、同居人のポチにも、うわさ好きで嫉妬《しつと》深くて世界の激狭なジムのおばさん隊にも、何かしら言いわけが必要だった。そんなとき、テレビでたまたまトライアスロンという競技を見て、これだ! とひらめいたのだった。  図書館へいって調べてみると、二か月後に神奈川県で大会があるらしく、参加資格は問わず、初心者でもそれほど厳しくないようだった。正直、そんなものにまったく興味は持てず、参加するつもりもなかったが、とりあえず、なぜ毎日くるようになったのかと訊かれたときのため、トライアスロンに挑戦するのだ、二か月後に大会に出ることにしたのだと言うことにした。そうして実際、詮索《せんさく》好きのジムのおばさん隊はそう訊いてきたし、ポチもそれで納得したようだった。私とシノザキさんの関係を疑う人はだれもいなかった。それだけでなく私はひそかに、シノザキさんの私にたいするポイント・アップもねらっていた。カナダでカヌーをし、スイスでスキーをする男に、トライアスロンか、栗原さんもなかなかやるね、と言われたかったのも確かだ。  ホテル「気まぐれ天使」でともに寝たあとも、実家住まいのシノザキさんとポチ連れの私が毎日好きなだけ会うことはむずかしく、だからせめてジムで毎日シノザキさんに会うためだけに、私は必死で本を読み、すべてに対するカモフラージュとして自己流の練習をはじめたのだが、それがしゃれになっていないことは数日ですぐにわかった。  退屈で、向上心も目的もなく、ただ数グラムの脂肪落としに通う中年女がほとんどのこのジムで、だれかがトライアスロンの大会に出場するというのはよほどの刺激だったらしく、幾人かが自分も挑戦したいと言いだし、幾人かが応援にいくと言いだし、旗まで作ると言いだし、ジムにいるコーチの幾人かが発奮して、ラン、バイク、それぞれ専門のコーチが私専属のようについた。つまり、あれよあれよという間に、私を先頭にして、「N市Yスポーツクラブトライアスロンチーム」ができあがり、そればかりでなく「Yスポーツクラブ応援部隊(のちに、Yチア・ウィメンズという痛々しい命名までなされることになる)」まで構成され、それまで、井戸端会議場でしかなかったさびれたスポーツクラブがにぎわいだしたのだった。けれど悪いことに、トライアスロン宣言のおかげで私がシノザキさんと二人でいられる状況はどんどん少なくなった。ジムにいってから帰るまで、つねに私のまわりにはだれかしらがいた。マシンのコーチだったりバイクにくわしい人だったり、チームに熱中している中年女たちだったり。  その日もシノザキさんと話す機会はなく、私はただ遠くから彼の姿を眺めて、中年女たちと軽口を交わしながらシャワーをあび、国道と畦道《あぜみち》と自動販売機が一台あるきりの薄暗い道をひたすら走って家を目指した。シノザキさんと二人になる機会のなかった日は、いったい自分はなんのためにこうして走っているのかとくりかえしくりかえし考えてしまう。数台の車がヘッドライトを路上にすべらすように流して通りすぎていき、はっ、はっ、ふっ、ふっ、と呼吸をくりかえしながら、その考えは次第に、螺旋《らせん》状に過去へと落ちていく。  好きな男に認められたいがゆえに、英語もしゃべれないくせにアイルランドヘいって、一年のあいだ自転車を走らせていた私はいったいなんだったんだろう? それで帰ってきてみれば、その男はほかの女とくっついていたじゃないか。高校生のときだってそうだ。好きな男の子の趣味も知らずに勝手にテープを作って、しかもとんでもない労力をテープ作りにかたむけて、それで私がもらった言葉といえば、栗原はこええ、と、それだけだったじゃないか。今、好きな男に一秒でも多く会うために、トライアスロンに挑戦すると嘘をついて、その嘘が本当になっていくのを食い止められず、こうして走ったり泳いだりしたあげく、肝心の好きな男と言葉さえ交わせなくなるばかげた状況というのは、あの高校生のときからまったく何も変わっていないのではないのか? 恋愛がからむと私はまともな判断能力さえ失うのだろうか? いや、恋愛だけでない、生きていることすべてにおいて、無駄が多すぎるのではないか? 缶詰工場で働きたいと、成長過程において一度でも思ったことがあっただろうか?  家にたどり着くころには思考はかなり底辺のあたりをさまよっており、そのせいでいつもの倍は疲れていた。ところが部屋はあいかわらず散らかっていて、雑誌だの洗濯ものだのコンビニ弁当の空き箱だのの中央にポチがおり、ポチはいつもとかわらずテレビの深夜ニュースを見ていて、私を見上げ、 「ねーねーいずちーん、このジョーユーギャルたちさあ、頭おかしいと思わねえ?」  と、最近そればかり流れているカルト宗教団体のニュース画面をさしてのんきな声を出す。シノザキさんと話ができなかったときにいつも私を襲う、例のコントロール不可能の怒りが猛スピードで私を襲い、 「頭がおかしいのはおめーだっ! おめーだよ、わかってんのかよっ」声をふりしぼるようにして私はどなっている。「疲れて帰ってくればいつもいつもいつもいつもテレビ見ててさあ! バイト捜すってどの口が言ったわけ? 蟹食わせてくれるんじゃないのかよ?」  ポチは目をまるくして私を見上げているが、ふっと口元がゆがみ、彼は笑い声を漏らす。 「何よっ、何で笑ってんのっ」 「いやーごめん、でもなんか、今の会話、いずちんがこの家の亭主でさ、おれがばか妻みたーい、なんて思っちゃって、新世代夫婦、くっくっくっ」  ポチの笑い声で怒りは沸点に達し、でていけとどなるために体じゅうに力を溜《た》めこんでいると、電話が鳴った。「でていけ」を察知したらしいポチがすばやく受話器に飛びつき、かなりずさんな応対をしたあと、 「シノザキって男の人ー」つまらなそうな声で言って私に受話器を渡す。  飛び上がりたいのをこらえて神妙に子機をうけとり、台所へと場所を移す。 「こんばんは、いつもごめんね、うちの弟ばかだからあんな応対しかできなくて」  シノザキさんには、弟と同居していると嘘をついている。 「あはは、いいよ、明日さ、バイトお休みの日でしょ? どこかいかない?」 「えっ! いいの? いくいく!」 「じゃあさ、森林公園でもぶらぶらしようか、弁当作ってきてくれる?」 「メニューのリクエストは?」 「まかせるよ、適当でいいからさ」  台所と居間を仕切る扉の向こうから、テレビの音声が低く聞こえる。シノザキさんと言葉を交わしながら冷蔵庫を開け、弁当のメニューをすばやく考える。ビタミンとカルシウムの豊富な献立。胚芽米で俵のおにぎりを作ろう、それから、帆立とほうれん草のミニグラタンもいい、持続力にいいという豚レバーで何かいいメニューはないだろうか、明日の朝一番でスーパーまるかわにいかなくては。  電話を切ったあと、さっきでていけとどなりかけたことなどすっかり忘れて、鼻歌をうたいながら明日のための下拵《したごしら》えをはじめた。冷蔵庫に入っていたかぼちゃを茹《ゆ》でて、その合間に、トマトやピーマンを入れてマリネ液を作る。マリネ用の鰺《あじ》は明日買いにいけばいい。 「何、何してんの、おれ夕飯たべちゃったよ」かぼちゃを裏漉《うらご》しする私の背後に立ってポチが言う。 「あんたのなんて言ってないよ、明日ね、ジムの人たちと、ほら、トライアスロンチーム作ったって言ったじゃん? その人たちと公園いってミーティング兼ピクニックするの」  私は最近頭で何か考えなくてもすらすらと嘘を言えるようになった。そして、頭で考えた嘘でなければ、罪悪感は生じないのだと知った。 「まじ? それ、おれもいっていーの?」 「そんなこと言ってねーよ」私は言ってポチを叩《たた》こうとするが、両手にはつぶしたかぼちゃがこびりついていて、つい笑ってしまう。ポチも笑う。やっぱりシノザキさんは私たちの緩和剤だ。ポチは台所の床にうずくまり、私が料理の下拵えをするのをじっと眺めている。 「バイト、今日も捜しにいったんだけどなかなかなくてさ」上目遣いで私を見てポチはささやくように言う。「ヤスダがさあ、あ、ヤスダって昔のスケボー友達、やつが掃除バイトならあるって言うんだけど、やっぱそれのろうかな。そうするとバイト先は都内でさあ、でもまあ、二時間ならいけないこともないしね。でもそうすっと飲み屋バイトのほうはやめなきゃでしょ?」 「まあべつにゆっくり捜せばいいんじゃないの? 家賃が払えないほど切羽詰まってるわけでもないんだし」 「そうかな」 「私のバイトだけど、あと一か月くらいでたぶん給料ちょいアップだからさあ、アップっつっても時間五十円か、それくらいだと思うけどね、まあそれでもアップなんだし」  私はそんなことを言っている。シノザキ効果が切れるまでは、私は限りなくポチにやさしくできるらしい。  かぼちゃの茶巾《ちやきん》が黄色、鰺のトマトマリネが赤、グラタンが白、緑が足りない。冷凍いんげんを解凍して、ごまよごしにしよう。それは今日作っておいても大丈夫だろう。ポチは立ち上がり、背後から私の手元をのぞきこむ。 「いずちんて、料理うまいんだね」  ポチは言う。私はスマパンの曲を鼻歌でうたう。 「ってゆーか、料理するんだね」  ポチはさらにつけたして言う。それはひどくかなしい響きで私の耳に届き、私は鼻歌をやめる。ふりかえり、すぐそばに立っているポチをまじまじと眺める。 「人って簡単にわかりそうでわかんないよね、だっておれ、はじめていずちんに会ったとき、体動かすような人には見えなかったもん、それが今じゃ、トライアスリートだもんな」ポチは言い、笑って私の頬を指でなぞる。「弁当作ってるし」  たとえば性交ならポチのほうが相性がいい。キスだってポチのほうがうまい。ポチは今は家でごろごろしているだけだけれどそれでもたぶん、とてもわかりやすく私を必要としてくれる。他意のない愛情表現をしてくれる。映画や音楽の話ができる。弁当や食事を作れと言ったことなどただの一度もない。それなのになぜ、シノザキさんを前にすると、私は何かしてあげたくてたまらなくなるのだろう? ポチには絶対にしてやらないことを。 「あはははは」  わざと声を出して私は笑った。ポチは両手で私の頬をつつんで顔を近づけ、ゆっくりと唇を重ねてくる。私は目を閉じ、シノザキさんを思い浮かべてポチの舌をなめる。  あいにく朝から曇りで、あと一か月もすれば夏だというのに薄ら寒かった。ブルーのクルーネック・セーターにチノパンを合わせている私を見て、「ジムの人に会うときはなんかいい子ぶってる」とポチは言ったが、シノザキさんはおとなしめの恰好《かつこう》が好きなのだ。セーターの首元にスカーフを結ぼうとしたら、背後で見ていたポチに大笑いされ、それはやめておいた。  シノザキさんの車で森林公園に向かった。助手席で天候復活をずっと祈っていたが、空の色合いはどんどん暗くなっていく。それでも私たちは、巨大な公園内を手をつないで散歩し、フリスビーをし、売店で売っていた安っぽいバドミントンセットで遊び、くたくたになって芝生で弁当を広げた。シノザキさんは帆立とほうれん草のグラタンを食べ、かぼちゃとチーズの茶巾を食べ、じゃこのおにぎりを少し食べて、それきり弁当には箸《はし》をつけなかった。 「ひょっとしてまずい?」ポットのコーヒーを続けざまに飲むシノザキさんに私はおそるおそる訊《き》いた。 「いや、そんなことはないんだけど、なんか寒くて」  そう言われてみればたしかに、さっき走りまわっていたときにかいた汗が引かないまま冷えてきて、芝生に座っていること自体が酔狂に思えた。公園にひとけはない。生い茂る木々も、芝生も、ぶっくりとふくれあがったような曇り空を映して、どんよりして見えた。 「移動する? どこか暖かいところにいこうか」私はシノザキさんをのぞきこむ。 「うーん、でもせっかく作ってきてくれたのに」シノザキさんは言い、 「いいよいいよ。たしかに寒いし、冷たいお弁当食べてるともっと寒くなるでしょ」私は言って弁当箱のふたを閉めた。そうしながら、今の姿をだれに一番見られたくないかと言ったら、ポチだ、と、そんなことを思っている。どこかからポチが私を盗み見ていたとしたら、シノザキさんとデートしているそのことよりも、まるで二重人格者のような私の口ぶりについてまずつっこみを入れるだろう。たしかに、シノザキさんといるときの私は、あの、高校生の私をいつもいらだたせた父親を思い出させる。なんでもする、なんでもするからここにいて、と母に懇願するような父の態度。本当に、私はあの父親と母親のこどもなんだと皮肉混じりに思ってみるが、苦笑する気にはなれない。  雨が降ってしまうとすることもなく、私の提案で映画を一本観たあと、海岸沿いのイタリアン・レストランに入る。 「シノザキさんは、レザボア・ドッグスは観た?」注文を終えたあとで私は訊く。 「え? 何それ」 「今観た映画と同じ監督の映画。私はわりと好きだったな」 「ふうん。今の、ぼくは何がなんだかよくわからなかったな」シノザキさんは笑う。白い歯がのぞく。「やたら暴力シーンが多くてさ」 「ああ、じゃあレザボア・ドッグスは嫌いかもしれない。トゥルー・ロマンスならきっと楽しめるよ、タランティーノは監督じゃなくて脚本だけど」 「栗原さんはくわしいね」  そんなことはだれでも知っている、と言おうとして私は口を閉ざす。前菜の盛り合わせが運ばれてくる。店内は空いていて、従業員の女の子たちが隅でひそやかに話しこんでいる。空はきかん坊のこどもみたいにぐずぐずと雨を降らしては気まぐれにやみ、ふたたび降る、ということをくりかえして夜になりはじめている。大きなガラス窓には細かい雨粒がはりついたまま、乾きもせずしたたりもせず、おもての照明に照らされて、はかなく豪華な水玉模様を描いている。 「暴力シーンの多い映画やビデオがこどもや若者に及ぼす影響についてどう思う?」  シノザキさんはそんなことを言いだす。 「ひょっとしてあの映画、気分悪かった? 観ようなんて言ってごめん」 「いや、そうじゃなくてさ、いろんな問題あるだろ? オウムのこととかさ、連続殺人とかさ、ああいうのってやっぱり、映画なり漫画なりに影響されていると思わない? 東京にそういう事件が集中しているのは、やっぱり都心には情報が集中しているからだとどうしても思っちゃうんだけどな」  シノザキさんは魚介のコンキリエ、私は四種のチーズのパスタ、コンキリエとはいったいなんだ、と思っていたら貝殻のマカロニだった。イタリアの国旗を飾ったガラスばりの店は、やけに力が入っているように見えたけれど、そんなにおいしいわけじゃない。まずいということもないんだけれど、レトルトの味によく似ている、だれの口にも合うかわり、だれからも特別には愛されない。そしてやたらに量が多い。量が多いのがウリなんだろうか。けれど店内の雰囲気はいい、空いているし、照明は適度に薄暗く、テーブルも充分な間隔をとって置かれていて、何より音楽がないのがいい、こういう店にポチとくることはまずないだろう、私が勘定を持てばべつだろうけれど、と、さっきから私はそんなことをぐるぐると考えてフォークを使っている。  シノザキさんはなぜか憎しみに近く東京を嫌っていて、いったん東京を悪く言いはじめたら当分そのテーマで話し続けるのだが、私はその、「シノザキ氏東京を斬る!」のコーナーがあんまり好きじゃない。きっとそれは私が田舎を憎んでいる田舎者だからだろう、と思う。けれど、「東京を斬る!」の話が好きではない、ということは、シノザキさんを好きだと思う気持ちとなんら矛盾しない。性交の相性がよくない、とか、話が今ひとつ合わない、とかと同じく、私の抱く恋愛モードにまったく水を差さないし、そればかりかときとして、彼をいとしく思う要素にすらなりえる。 「それ、残すの?」そう言われて、顔をあげるとシノザキさんが私の皿を指している。 「だって食べちゃったらメインが入らなくなりそうだし、それに私、ちょっとダイエットしてるの」 「ダイエット? なんで?」 「ほら、トライアスロンの……もう少し体重落としたほうが、走るのとか楽かなと思って」 「食べなよ。悪いじゃない」  そう言われればそんな気もし、私は残ったパスタをあわてて口に入れる。まだ食べられそうだし、ダイエットは明日からにすればいい。  しかしさすがに、メインの肉料理をたいらげることはできなかった。私はあきらめ、ナイフとフォークを投げ出して、シノザキさんが子羊のロースト特製ハーブ添えだかなんだかを食べるのを見守る。 「ねえ、残すの?」皿から顔をあげ、シノザキさんがまた訊く。 「もう降参。本当に食べられない。これ以上は一ミリも無理。量が多すぎる」 「そんなこと言って、デザートは別腹とか言って食べられるんだろ? 食べなよ、申しわけないよ」  シノザキさんは躾《しつけ》の厳しいおうちで大切に育てられたんだろうなあ、と思いながら私は正面の彼を見つめる。申しわけない、という言葉が聞き慣れず新鮮で、 「だれに申しわけないの?」私は訊いた。  まずいことを訊いてしまったのだろうか、と思わせるほどの沈黙のあと、シノザキさんは不機嫌なこどものような顔で答えた。 「農家の人」  冗談を言っているのだろうと思って私は笑ったが、彼は笑わず、 「いいから食べなよ、悪いだろ」と、怒りを含んだ声で続けた。「だいたいトライアスロンだってそんなにがんばる必要ないよ。ジムのやつら、何浮かれてんだって思うよ。暇つぶしのおばちゃんたちが集まって、何がアスリートだよ、笑っちゃうよ」  車を走らせながら、シノザキさんはさっきとは別人のように上機嫌で話し続けている。いつもおんなじところにいくというのも恥ずかしいかな、でも向こうはこっちの顔なんかきっと見てないもんだよね、どうする? 別のところを捜す? インターの近くならいくつかあると思うけど……でも面倒だからいいか、いつものところで。  無理に押しこんだ食べものが喉《のど》の上までぎゅうぎゅうに詰まっていて、苦しいばかりか気分まで悪くなり、私は何も答えることができずに、フロントガラスの水玉模様を眺めている。対向車が雨粒の水玉を赤や黄色に浮かびあがらせてすれ違っていく。  私の弁当を残したくせにレストランの食事を無理に食べさせたり、とりあえずは一生懸命トライアスロンをしようとしている私たちをばかにしたり、シノザキさんのそんなすべてを何か大きく食い違っていると思ったとしても、私は彼に弁当を作れと言われれば喜んで作るだろうし、これから向かういつものさびれたホテルで性器をくわえろと言われればひざまずいてそれを口に含むだろう。  だれかを好きだという気持ちの出所はいったいどこだ。嫌いな点や食い違っている点を幾つあげても嫌いになれないのはなぜだ。私じゃない、だれか、たとえば神様みたいな人が、そうしむけているに違いない。そのだれかが、もういい、もう終わっていいと言うまで、私は熱に浮かされたようにきっとこの男を好きでいる、そうするしかできないのに違いない。  ラブホテル「気まぐれ天使」のネオンサインが湿った暗闇の向こうに見えてきて、シノザキさんがかけたラジオからは江東区の花田洋子さんほかからリクエストされたジャミロクワイの「Space Cowboy」がかかり、私は幾度めかにこみあげるオリーブオイル臭の吐き気をぐっとこらえる。 [#改ページ]    Headache 1996  駅を降りて、そこから続く商店街を抜けてしまうと、住宅が広がり、コンビニエンス・ストアも、レンタルビデオ屋もなく、等間隔に並ぶ街灯と、家々の軒先の明かり、立ち並ぶアパートの窓から漏れる細い明かりだけになる。仕事中は家に帰るのがいやでぐずぐずと残業を引き延ばすが、結局商店街を抜けたところでいつも、どうしてもっと早く帰ってこなかったのかと後悔するはめになる。CDウォークマンの音量を目一杯あげ、フランク・ブラックを口ずさんで歩く。この歌のタイトルはたしか「Headache」だった。皮肉なことに、帰り道はいつでも頭が鈍く痛む。  さっきから背後をだれかが歩いている。ふりかえる。コンビニの白いビニール袋をさげた男が数メートルうしろを歩いている。ウォークマンの停止ボタンを押し、足を速めた。男の足取りも速まる気がする。ちらりとふりかえり、それが彼[#「彼」に傍点]であるような気がしてさらに私は先を急ぐ。  私の背後を歩いていたのはあの男ではなく、まったく見ず知らずの通行人で、私があまりにもふりかえったり足を速めたりするので腹をたてたらしく、不快感をあらわにして小走りに私を追い抜いていく。追い抜きざま、舌打ちをしていった。舌打ちをされても、うぬぼれんなブス、と小声でののしられても、背後を歩いているのがあの男ではないかぎり私は心底ほっとする。  アパートに着く。あたりをうかがいながら階段を上がり、切れかけた蛍光灯がけいれんを起こすみたいに点滅するなか、ゆっくりと奥の部屋に進み、私はそこで立ちすくんだ。ドアノブにコンビニの袋がぶらさがっているのが見える。それは闇のなかでいやに白く浮かびあがって見える。まただ。またきたのだ。  あたりを見まわし、ひとけがないのを確かめて、ドアノブに近寄る。白いビニール袋に手をかける。まるめた布切れみたいなものが入っている。私はそれを持ったまますばやく部屋に入り錠をおろし、玄関の明かりをつけて布切れを取り出してみる。それは水着だった。水着は乳房の部分と股間《こかん》と尻《しり》がまるく切り取られている。白いパイピングの入ったアリーナの紺の水着は、私がスポーツクラブで身につけていたのとまったく同じデザインだ。  玄関から身動きできず、靴をはいたまま私は水着を見つめる。自分の吐く息がふるえているのがわかる。奥の部屋で電話がなり、さらに私は体を硬くする。三回の呼び出し音のあと留守番電話が流れはじめ、ピーという信号音に続いてしばらくの沈黙、それからゆっくり声がする。 「おかえり。おそかったじゃない。今日こそ連絡ください、待ってるよ」  彼はどこにいるんだろう。どこかから私を見ているのだろうか。私のすぐ近くにいるのだろうか。足元から徐々に寒気が走り、薄い布地を一枚羽織ったように私は全身鳥肌をたてている。  かつてずっと待っていた声。私を落ち着かせ、満ち足りた気分にさせ、価値のある女である気分にさせ、なんでもすると思わせたあの声が、今ただひたすら私を恐怖のどん底にひきずりこむ。  会社を一時間ほど遅刻させてもらって寄った警察で、しかし私が言われた言葉は、 「警察は介入できない」、それだけだった。  七月から一日平均五回はかかってくる無言電話と、一言メッセージを録音した留守番電話のテープ、送りつけられた手紙、直接部屋に届けられる「贈り物」——切り裂かれた水着、腹を裂いたぬいぐるみ、顔の部分だけすべて私の写真のコピーをはりつけたエロ雑誌、等々——をすべて持参して事情を話した。背の高いぬぼっとした若い警官と、腹の突き出た初老の警官は興味ぶかげに私の話を聞いていたくせに、すべて聞きおえると困ったように顔を見合わせ、 「警察の管轄内じゃないんじゃないかなあ」  と言った。でも、と言いかけるのを初老の男が遮って、 「だってあなた相手がだれだか知っているんでしょ? だったらなんとかできないの?」  あからさまに迷惑そうな顔で言う。 「なんとかできないからここへきてるんです。警察の管轄内じゃないって、じゃあ私がどこかでまちぶせされて、部屋のなかにひきずりこまれて首しめられて殺されたとしても、それはそれでしょうがないって言うんですか?」  私は言った。声が震えているのが自分でもわかって、落ち着け、と心のなかでつぶやく。 「殺されるって」若いほうが笑う。 「ねえ、その人はあなたを殺したいんじゃなくて、よりを戻したいわけでしょ?」私をのぞきこむように上目遣いで見て、年をとったほうがさとすような口調で言う。 「つまりさあ、簡単に言っちゃうと、イロコイザタなわけでしょ?」  道路沿いに植えられた木々が先を黄色く染め、半年もこの道を歩いていたのに、この木々が銀杏《いちよう》だと気づかなかったことに思いあたる。十二時近くなると林立するビルからスーツ姿の男や、私たちとよく似た恰好《かつこう》の女たちがあふれ出てきて、そこここにあるレストランの軒先に出されたランチの品書を値踏みして歩く。 「くりちゃん、何ぼうっと歩いてんの、早くしないと並ぶはめになるよ」  名前を呼ばれて私はあわてて彼女たちのもとに走った。  数分並んでようやくテーブル席につくことができ、私たちはメニュウを広げて、女子高校生のようなにぎやかさで言葉を交わす。 「やっぱすき焼き定食だよね」 「えーでもこの、海鮮丼もひかれない?」 「ばかじゃないホシノ、ここはすき焼きがウリでしょ」 「ねえねえビール飲んじゃおうか」 「生の小ならいいんじゃない」 「でもナカっち顔赤くなるからばれるんじゃない?」 「くりちゃんも飲むよね? ってゆーかくりちゃん今日異様におとなしくない?」 「ひょっとして今日の遅刻と関係ある? ひょっとして望まない妊娠? なんちって」  四月に入った編集プロダクションで、だいたい年齢の近かった四人の女たちと私はすぐに親しくなった。彼女たちはきどらず、飾らず、大学生がサークルに興じるようなのりで仕事をし、サークル仲間同士のようなうちとけかたでたがいに接した。毎日顔をつきあわせ、毎日こうしてともに昼飯を食べ、ときにみんなで飲みにいき、終電近くまで仕事のことや恋愛や、どうでもいいことを切れ目なく話し、そうしながら私は、こういう世界があると、まったく知らなかったことに愕然《がくぜん》とした。西の果ての国を一年旅してそのあげくふられたり、男がいないと思い悩んでニューエイジ本にはまってみたり、缶詰工場でアルバイトをしてほとんど稼ぎのない男を食わせていたり、その小さな世界でたまたまかっこいいと思った男と二股《ふたまた》をかけたり、私がそんなことに全身でかまけているあいだに、彼女たちは日々仕事を覚え、こなし、それぞれの分野で腕を磨き、プライベートをコントロールしながらささやかな貯金をし、海外旅行をしたりブランドものを買ったりしていたのだ。けれど、いや、だからこそ、どんなに打ち解けても私は彼女たちにシノザキさんのことを話すことができない。かつてどうしようもないくらい好きだった男に、つけまわされいやがらせをくりかえされているなんて——そうじゃない、逆だ、現在つきまとわれているストーカー男に我を忘れるほど恋していたなんてことを、とてもじゃないけれど話せない。 「ねえねえ、ヤマダさんが紹介した新しいライターの人いるじゃん? あの人、ちっといいと思わない?」ビール半杯ですでに顔を赤くしたナカっちが言い、 「でもああいうかっこばっかの人っていい仕事しないよね」今年三十になるユキノが答える。「ヤマダがいい例だよ。ヤマダの書くものは、軽い。ココロがない」 「えー私はヤマダさんの書くもの好きだけど。映画コラムにココロとかタマシイとかこめられて重くされたら観たいものも観たくなくなる」キョウちゃんは飲んでいようがいなかろうがいつもぴしゃりとした意見を言い、 「すき焼きもいーけどさーもうそろそろ生肉食べたいなー、O157ひっぱりすぎじゃないー? ユッケとかレバ刺しとかなつかしーい」ホシノが中和剤のようにすっとぼけたことを言いだす。  店内は満席で、店じゅうに反響する人々の声の合間をせわしなく従業員が歩きまわる。大きなガラス窓の向こうで陽射しはおだやかに降り注ぎ、色を変えはじめた銀杏の葉はそれを受けてちらちらと輝いている。きっと今ごろ私の部屋の電話は鳴り響き、留守番電話の信号音のあと無言で切られる、それをくりかえしているんだろうとちらりと思う。  ビールを飲んだせいでいつもの倍は満腹感を覚えて仕事場に戻ると、ついさっききたらしいライターのヤマダさんが私を手招きする。「あーヤマダきてたのー、あんたの噂してたの、今」ユキノが声をあげる。 「くりちゃんになんの用ー? ひょっとして愛の告白とかー? いやーん、私ヤマダのファンなのにいー」すでに酔っ払っているナカっちがふざけてみんなを笑わせる。けれどヤマダさんは笑わず、私は彼について会議室に入る。 「昼休みのあいだ、こんなファックスがきてさ」  ヤマダさんがそう言って私に差し出した紙切れを受け取り、次の瞬間、貧血を起こすときみたいに、文字通り血の気が引いていくのがわかる。 「おれさっき寄ったばっかでさ、ファックス待ってたから、たまたまおれしか見てないんだけど。なんか意味わかんないしばかげた冗談なのかもしんないけど、おふざけにしちゃヤな感じだろ? だから一応————」ヤマダさんの声が遠くで聞こえる。耳のあたりで無数の羽虫が飛んでいるみたいだ。「あいつらに見つかると何言って騒ぐかわかんないからさ。ちょ、ちょっと栗原平気?」  しゃがみこんだ私の腕をヤマダさんがつかむが、その感触もずいぶん遠い。私はその場に座りこんだまま、薄っぺらいファックス用紙のワープロ書きの文字を凝視する。 『貴社にお勤めの栗原泉氏は異常なほどの性欲の持ち主で、とくに男のモノをくわえるのが好きでたまらない御様子です。性欲が満たされない場合は金を払ってでも男のモノをぶちこみたがりますし相手を選ぶような余裕もございません。男の性欲処理には金もかからずちょうどいい女ですが一旦手を出しますと多大なる執着心で性的関係を迫り続けますのでくれぐれもご用心を。それでもとりあえずは処理に御利用される場合、栗原泉氏の性感帯は耳の穴|臍《へそ》の穴尻の穴あとはまんこ(しょういんしん)でございます、そのあたりをいじってやりますと身悶《みもだ》えして悦《よろこ》びこちらの要求はなんでも聞き入れますので便利といえば便利でございます』 「しかしさあ、へったな文章だよなあ、こいつそうとう頭悪いべ」  どうして私の仕事先がわかったのだろう。いったい彼はどこにいるのだ? どこから私を見ているのだ? 「栗原こいつのこと相手にもせずにこっぴどくふったんだろ? ふって正解だよ、ちょっとたち悪すぎ。電波入ってるよ」  ヤマダさんは私の握りしめたファックス用紙を取りあげ、破いて屑《くず》かごに放りこむ。 「ヤマダさんおうち久我山《くがやま》だったよね? うちさ、うち永福《えいふく》なの。あのね、あの、こんなこと言って誤解しないで、迫るとかそんなこと絶対にないから、もし、もし今日夜までここで仕事あるんだったら一緒に帰って。お願い」  私は言う。いったい、どこから、何をどんなふうに間違えたのだろうか。昨日水着を広げたときからずっと手がふるえている。すき焼き定食のしらたきを箸《はし》でつかむのが大変だった。手がふるえていることをみんなに気づかれたくなくて食後のたばこも吸わなかった。 「ばーか栗原に迫られたってこわくねーよ、おれ七枚今日じゅうにアップなの、ここで仕事するからさ、一緒に帰ろうぜ」  ヤマダさんの声はやっぱり遠くのほうで、どこかから紛れこんできたラジオ放送みたいに聞こえた。  たとえば七十歳まで生きたとして、もういろんなことを諦観《ていかん》していたとして、それでも、あれは私の人生で最大の失敗だったと思うことがらが、だれにでもあるに違いないと最近思うようになった。ある人は博打《ばくち》的な転職を悔やむかもしれず、ある人は焦りだけで選んだ結婚を挙げるかもしれない。そうして私の場合は、シノザキさんを好きになった、そのこと自体が最大の失敗であり、これ以上の失敗はおそらく今後の人生にもありえないだろうと思う。  去年はじめて出場したトライアスロンで、初心者にしてはかなりいい成績を私が得たあたりから、シノザキさんの態度はかわりはじめた。まず私にトライアスロンをやめさせ、毎日私に弁当を作らせて昼間ジムまで届けさせ、髪型からファッションから口出しするようになった。ジムに毎日通い続ける私を、シノザキさんは自分の業務が終わるまで待たせ、そこが自宅であるかのようにラブホテルに寄ってから帰った。そう認めるのも思い出すのも今では苦痛だが、私はそれでいいと思っていた。あれをしろ、これをしろと直接的に男に命令されるのは新鮮だったし、言うことをそのままきいているというのは、それがどうしてもいやなことではないかぎり、じつに日々を簡潔にした。明日何時にこいと言われればいく。ハンバーグが食べたいと言われればハンバーグの弁当を作る。私自身は何も考えず、何も決めずにいてよかった。  一緒に暮らしているのが弟ではないとシノザキさんにばれるのは時間の問題だった。もちろん、ほかに男がいるとポチにばれるのも。自分でもあのときは狂っていたと思うほかないが、心のどこかで、私はそれでも許されると思っていたのだった。  男と暮らしていたことについてシノザキさんはさんざん私をなじり、罵《ののし》った。すでに会員のようになっていたラブホテル「気まぐれ天使」の一室で、売女《ばいた》だの淫乱《いんらん》だの、聞き慣れない言葉で私を罵倒《ばとう》し、洗面所の鏡を割り、気まぐれ天使のロゴ入りバスローブを引き裂き、トイレのスリッパで私に殴りかかってきた。そんなシノザキさんを見ていて、憑《つ》きものが落ちたみたいに私は彼に対する興味を失った。彼がそうしろと言うので土下座して幾度もごめんなさいとくりかえし、彼がようやく静かになったとき、会うのはもうやめようと告げてホテルから帰ってきた。彼とかかわっていた期間、酩酊《めいてい》していることすらわからないほど強烈なドラッグを飲んでいた気分だった。その有効時間が過ぎてみれば、いったい自分が何を見ていたのか、まるでわからないのだった。  気まぐれ天使から備品破損弁償の請求書がきて、有り金全部をはたき、それですべて終わるはずだった。今までのいきさつを説明し、ここでの暮らしが思っていたものと違いすぎたことを言いわけのように口にし、土下座はしなかったが幾度も謝って、東京に戻ろうと私はポチに言った。東京で暮らそう。一からはじめよう。  しかしポチは私の提案を受け入れなかった。ポチは何も言わなかった。私を責めもしなかったし、怒りも泣きもあきれもせず、数日のうちに黙って荷造りをし、電化製品も自転車もふとんも置いて出ていった。あっという間だった。最後に一言だけポチは言った。  あんたのこと大好きだったよ。けんかばっかしだったし自分でもなんでかわかんない、でも、ほんとのほんとに大好きだったんだ。  それから数週間私は家に閉じこもって過ごした。ジムにもいかず、アルバイトもやめた。毎日カーペンターズを聴いていた。高校生のときによく聴いていたあの曲、ひとりごとを言ってずいぶん年寄りになったみたいに感じて、ときどきどっかいっちゃいたくなる——幾度もそれを口ずさみ、ポチが帰ってくるんじゃないかと小さな物音に耳をすませ、ときおりくる無言電話にいらついて電話線をひっこぬき、ジャージ姿のままコンビニエンス・ストアで弁当を買い、そうして、ふとんにくるまって架空の人生についてくだらない考察を重ねたりした。もし私がシノザキさんと会っていなかったらポチと平和に暮らしていただろうか。いや、ポチと会っていなかったら東京でちゃんとした仕事を捜していただろうか。それをいうならもっとさかのぼって、倉持ノブテルに会っていなかったら? 上向きになりつつあった仕事を放棄するようなまねはせず、音楽ライターとして、金を稼ぐなり名を成すなりしていただろうか。  しかしだれとも恋愛せずにそこにいる自分というものがうまく思い描けず、最後にかならず同じ疑問にいきつくのだ。私はいったい何ものなんだ? それは自分捜しなんて大袈裟《おおげさ》な言葉ではなくて、音楽評でも自転車一周旅行でもトライアスロンでも、髪型や服装や言葉遣いや、買うCDや観る映画やおいしいと思う食べもの、何から何まで好きになった男の影響を私は多分に受けており、それら抜きで自分というものを頭に描こうとすれば、浮かんでくるのは正体不明の書き割りみたいな女でしかないのだった。  一か月待ってもポチは戻ってこず、そこで暮らす意味自体なくなって私は東京に戻ってきた。敷金礼金を用意できなくて、町子のアパートに転がりこんだ。町子に会うのはずいぶんひさしぶりだったが、町子は私の一時的な同居を驚くほど喜んでくれた。年末はいつもさびしいから助かるのだと町子は言った。クリスマス、大《おお》晦日《みそか》、正月と、この十年ずっと一人だったのだと言って笑った。町子はまだエンドーさんと続いていたのだ。  仕事とアパートが決まるまでの三か月間、私たちは高校生のときに夢見ていたような日々を送った。毎日深夜まで、レコードを大音量でかけて話しこみ、大騒ぎしながら二人でごちそうを作り、着飾ってデパートに出かけ試着をくりかえして半日を過ごし、呂律《ろれつ》がまわらなくなるまで酔っぱらって同じ部屋へ帰った。私たちはもうたがいの恋愛事情についてさぐり合わず、意見もしなかった。だからときおり、自分たちがまだ高校生であるかのような錯覚を抱いた。何も知らず、知らなくて許された、膨大な未来だけを抱えた十代であるかのような。  私を誹謗《ひぼう》中傷したファックス——今度は「栗原泉の性的使用方法」とタイトルがついていた——は翌週の月曜日にもう一度きて、それはキョウちゃんが見つけ、グループの女たちにも、会社のほとんどの人間にも知られることになった。いつも一緒に昼飯を食べる彼女たちはしかし、ワープロ書きのいかがわしいファックスを読み、大爆笑した。文章の下手さを笑い、古くさい紋切り型の言いまわしを笑い、怪ファックスという手段を笑い、ふられた男の女々しさを笑い、そうして、そんないやがらせを受け続け、真剣におびえている私を笑った。「○○的使用方法」は職場で流行語になった。そして彼女たちのあっけらかんとした笑いは、手のふるえを止めはしなかったが精神的に私を救った。  週に一度昼飯なり夕飯なりを私がおごるという約束で、ヤマダさんは毎日私を家まで送り届けることになり、無言電話のひどいとき、しゃれにならない「贈り物」が玄関先に届けられていたときはだれかの家に泊まるという取り決めを私は女友達四人と交わし、かなりの出費を覚悟で携帯電話を買い、何かあったらすぐさまヤマダさんと連絡をとる——彼が私の家のもっとも近くに住んでいたし、体力がないわりにヤマダさんはがたいがでかかった——と決めた。  そうして職場の友達や知り合いが、ストーカー男から私を守る知恵を出し合ったり力を貸してくれたりするたびに、ありがたいと思うよりさらに強く私は自分を恥じた。たすけてと、言い慣れた言葉が口をついて出そうになるたび、私はそれを打ち消した。いったいだれにどうしてほしいのか。白いきれいな馬に乗った王子があらわれて、私を何不自由ない場所へ連れていってくれると、まだ信じようとしているのか。白いきれいな馬の王子を見上げて、彼が望むとおりのだれかを私はまだ演じようとし続けるのか。  シノザキさんが私にあたえる恐怖は、中身のない書き割り女のまま、三十を間近にした自分に向けられるものととてもよく似ており、ときおり自分が何をこわがっているのかすらわからなくなるのだった。  送ってもらいがてら、新しくできた焼き肉の店でヤマダさんに夕食をおごった。私とヤマダさんは横に並び、卓上に設置された七輪にせっせと肉をのせていく。 「べつにさあ、本当、おごってくれなくてもいいんだよ、そんなに遠まわりしなきゃならないわけじゃないんだし」  ヤマダさんは言う。 「でもやっぱりなんかしないと私の気がおさまらないよ。今まいんちうちの会社きて仕事してくれてるでしょ?」 「あーでもおれそっちのほうがいいみたい。家だと、逃避対象がありすぎてさー、実際今のほうがはかどってるもの」 「何? ゲームとか?」 「そうそう。トゥームレイダースはまりまくり。あとはテクノね。聴いちゃうの、一日」  向かいの席ではカップルが肉をつついている。電話線みたいなパーマの女と短髪を緑に染めた男は二十代半ばくらいで、二人の座る距離の近さ具合からつきあって半年くらいだろうな、と私は思う。焼き肉を食べてコンビニでビールとお菓子を買って、ビデオ屋で新作を借りてどっちかのアパートに帰るんだろうな、そのうち、くだらないことで喧嘩《けんか》して、仲なおりしてもなんとなく気まずさが残って、どちらか——たぶん女の浮気で終わるんじゃないか、あと一年くらいのちに、そんなことをぼんやり考えている自分に気づき、ずいぶん年をとったような気がする。 「ヤマダさんの彼女は気分悪くしてないかな? その、今栗原110番みたいになってるじゃん」  ヤマダさんの骨っぽい手が網にミノを並べていく。ちりちりと肉は縮む。 「あー平気平気、あいつそーゆーの全然平気なんだよね、事情も話してあるしさ、あいつちっとフェミ入ってるから、逆にもっとちゃんとケアしたほうがいいとか言ってるよ」 「大人だなー」 「あー大人大人。おれ前よくユキノと飯一緒に食ったりしてたんだけど、そんなのも全然へっちゃら、おいしい店あったら教えてー、だもんな。しかもそこ一人で食いにいくし。たまにゃーだれとご飯食べてたの? くらい訊《き》いてほしいよなー」 「ふーん、いいねー、そういうの」 「いいかあ? お、栗原これもう食えんぞ」  ヤマダさんによくできた彼女がいることは社内じゅうに有名で、だからこそ彼は栗原110番として適任だったわけで、実際ヤマダさんといると恋愛の絡みそうな妙ないろっぽさというものがまったくない。私は単純にヤマダさんのことを人として好きだと思い、その好意は恋愛に発展するような代物ではけっしてなく、それはひどく心おちつくことだった。  目の前のカップルはいつの間にかいなくなっていて、新たに客が座る。地味な雰囲気の若い女と、典型的な中年男だった。若い女はちらちらと私たちのほうを見、目が合うとあわてて目線を下に落とす。彼女から見たら私たちもカップルに見えるんだろう。これから手をつないでコンビニに向かい、あれこれと言い合いながら買いものをしてどちらかの部屋に向かう、数か月、数年後はわかれていたとしても、今は、永遠にしあわせだと信じているような恋人同士に。  住宅街の夜は、ネオンやコンビニの明かりがないぶんすっきりとした紺色だ。十月だというのに冬のはじまりのように冷えきって、息を吐くと白く広がる。恋人同士でない私たちは両手をポケットにつっこんで歩く。 「そういやさー、栗原、ひょっとして五年くらい前、音楽雑誌になんか書いてなかった?」唐突にヤマダさんが言い、 「えっ」前科をあばかれたように私は体を硬くする。 「いやー、こないだ資料捜してて昔の雑誌見てたら、栗原と同じ名前がけっこう出ててさ」 「やだ、それ内緒にしてよ」私は言う。 「やっぱそうなんだ、なんでさ? 普通自慢できるんじゃないの?」 「なんかさ」夜空を見上げる。どこかからこどもの泣く声が細く聞こえる。「いろんなことがんばってやっても、結局全部自分のものになってなくて、今につながるものがなんにもないって、ものすごく情けないことと思わない?」 「え、なんかまじじゃん、どしたの栗原」 「三十近いとまじになるっすよー」  たばこの自動販売機で右に曲がり、駐車場を過ぎてアパートの階段を先に上がりかけたヤマダさんが動きをとめ、数段下にいる私をふりかえる。 「だれかいる」小声で言い、隠れていろと手振りで示す。言われるまま私は後退《あとずさ》り、階段のわきにある自転車置場で立ちすくむ。冗談みたいに足がふるえ、近くにあった自転車で体を支える。低くおさえたやりとりが頭上で聞こえ、続けてヤマダさんの怒鳴り声とともに、ものすごい勢いで階段を駆けおりる物音が続いた。自転車置場から飛び出してみると、路上でヤマダさんに背中をつかまれている男の姿が見えた。かつて視界のなかにいるだけで私を喜ばせた男の姿を、ここ数か月影のように私をおびやかし続けた男の姿を、私は街灯の細い明かりの下に見る。それはかかわりのない他人にしか見えず、こんな男が好きだったのかとふたたび私は胸のうちでくりかえし、自分自身にどうしようもなく失望する。  彼はヤマダさんをつきとばし、暗闇のなか、背を向けて逃げていく。つきとばされて尻《しり》もちをついたヤマダさんは私を見上げ、私たちは一瞬見つめ合ったあと、怪物を退治した童話の主人公みたいに笑いだす。おたがいにそうとう緊張していたのだろう、こらえることができずに私たちは気が違ったように笑い続け、アスファルトに膝《ひざ》をついて私は笑い、ふと、手のふるえがおさまっていることに気がつく。 [#改ページ]    No control 1998  町子が車の運転をできるなんて知らなかった。ファミリアという白い車は去年の秋に買ったのだと言う。私の隣でハンドルを握る町子は知らない女みたいだ。べっ甲の縁の眼鏡をかけて、色あせたTシャツに下はスウェット地の短パンという、おしゃれにまったく関心のない田舎のおばさんみたいな出で立ちで、町子はフロントガラスに顔をくっつけるようにして、真剣な顔つきで高速道路を走る。車に縁のない私は安全運転か否かなどまるでわからないが、そんな表情で運転されると、なんだか心配になってくる。町子のかけるテープだけが車のなかで唯一威勢がいい。No control と幾度もくりかえしている。  後部座席をふりかえる。ショウコという名前のこどもは上半身をシートに横たえて眠っている。薄く開いた桃色の唇から涎《よだれ》が垂れてシートを少し汚していた。 「寝ちゃったみたい」私は町子に言う。 「ああそう」町子は前を向いたままそっけなく言い、「それで、どこまでいったっけ、さっきの話」いくぶん明るい声を出す。 「さっきのって——ああ、不発弾の?」 「不発弾はもう聞いた、そのあと、旅行いくことにして、ってとこ」 「ああ、そうだった、それで、まあ仕事やめて、一か月でも三か月でもいいから、休養しようと思ったわけ。それで昔の友達もいるからってんでスペインにいったの、とりあえず」 「友達ってあれ? アイルランドのときの」 「そうそう。何年ぶり? えーと、七年か八年ぶりよ、おたがいクリスマスカードだけはやりとりしてたけど、それだけでさあ、どうなってるのかなんてまったくわからなかったんだけど、なんとかたどり着いたのよ、その子のとこに。そしたら、びっくりした、結婚してんの、普通の主婦。太っちゃってさあ、英語なんかもう全然忘れてて、会話に苦労したわ。結婚相手はお菓子工場で働いているスペイン人だとかで、昔あれだけ好きだった男のことなんか、ほとんど忘れてんのね。上の子はじつはその男のこどもなんだけど、そんなことも忘れてるみたい。……ま、忘れてるふりなのかもしれないけどさ」  ダッシュボードの上に放り投げた町子の携帯電話が鳴りだし、私たちは体を硬くする。三回ほど呼び出し音を聞いたあとで、町子は片手を伸ばし電源を切ってしまう。片手がハンドルから離れると、車は少々斜めに走った。 「携帯電話ってのは、人間が考えだした必要悪を凝縮した小道具だよね」  町子は言い、フロントガラスの上を流れていく空を見つめて私はいいかげんにうなずく。空は重たい灰色で、水気をたっぷり含んだ布地みたいに低く垂れこめている。高速は空いていた。けれど町子は左端の車線を六十キロほどの速度で走り続けている。 「そんなことより、私が聞きたいのは男の話。今の男、その旅行で会ったんでしょ?」  町子は言うが、フロントガラスから視線を外さない。緊張しているのがわかる。車の運転に、それから今の状況に。緊張を和らげるために、とにかく私に何かしゃべっていてほしいのがわかる。だから、私はリラックスしているのだと彼女に伝えるためにシートを倒し、両足をダッシュボードの上にのせ、わざとたらたらした口ぶりで話した。 「スペインからポルトガルにいったんだけど、その前にね、スペインの南の端からモロッコにいく一日ツアーがあって、それに参加したのよね、ツアーメンバーは六人で、スウェーデンの若いカップルと、アメリカの、ちょっとヒッピー入ったような夫婦、それと日本人の男の子と私だったの、そうすると自然、カップルが三組みたいになるじゃん? それでまあ仲よくなって、一日ツアー終わっても一緒に飲んで、その日からずっと一緒に旅してさー」 「何してる子なのよ、それ」 「もちろんそのときはなんにもしてなかったよ、一年オープンでチケットとって、お金が続くかぎり世界じゅうまわる予定だったんだって。私が会ったときその子の旅はちょうど半年過ぎたところだったの。それで結局一緒に帰ってきちゃったから、その子は世界じゅうまわれずに旅を終わらせちゃったんだけどねー」  ふーん、と言ったきりまた町子は黙りこむ。あう、だか、おん、だか、言葉にならない声を後部座席のショウコが漏らし、私たちは一瞬顔を見合わせて、どちらともなくテープの音量を落とした。テープはグリーンデイからPJハーヴェイにかわる。ずいぶん元気のいい曲ばかりのつまったテープだ。  私だって町子に訊《き》きたいことはある。実際、のんきに私の新しい恋人について町子は訊いている場合じゃないのだろうし、私だってのほほんと答えている場合ではない。けれど私は町子に何も訊けない。緊張しているのは町子ばかりではない。私も何がなんだかわからないのだ。  どうしよういずちゃん、とせっぱ詰まった声で電話がきたのは昨日の深夜近くだった。どうしよういずちゃん、こんなつもりじゃなかったの、なかったんだけどどうしよう、よっぽど動転しているのか町子は電話口でしどろもどろに意味不明のことを言った。  エンドーさんのこどもを誘拐した、と理解するまでに十数分かかった。どこから電話をかけているのか、町子の携帯の電波はときおりとぎれて私をいらつかせた。町子が言わんとしていることを頭では理解したが、町子が何をしようとしているのか、何をしてしまったのか、まるでわからなかった。  とにかく会おう、私はそう言って、終電はもうとうに終わっていたので、車で移動しているらしい町子に近所まできてもらった。玄関先で私を見送った同居人の山口は、私が浮気をしているんじゃないかと疑っているらしい言葉を漏らしていたが、町子の動転が私にも感染《うつ》り、彼が具体的に何を言ったか覚えていない。私が何と答えたのかも。  待ち合わせ場所のファミリーレストランで、ボックス席に座った町子とこどもは、しかし仲のいい親子にしか見えなかった。そのうえ、エンドーさんのこどもはもう中学も近いくらいの年齢だと思っていたのだが、まだ幼児といって差し支えなく、それも私を混乱させた。町子はおかしくなったのではないか、あのこどもはじつは町子がこっそり生んだエンドーさんの子ではないのか、彼女たちの席に向かいながらそんなふうに考えていた。  エンドーショーコです、と私に向かってにこやかにあいさつしたこどもは、今度の夏に六歳になる、下の娘だった。上のこどもは四月に六年生になるらしい。ショウコと町子は幾度も会ったことがあるらしかった。エンドーさんと三人で遊園地にも動物園にもいき、町子の家に遊びにきたこともあるし、とにかく彼女は町子をひどく好いているらしかった。  その日も町子とエンドーさんとショウコは三人で会っていた。千葉にある水族館にいって、時間が余ったのでディズニーランドにいこうとし、エンドーさんがチケット売場の列に並んで、町子とショウコは入口から少し離れた場所で、おしくらまんじゅうをして体を温めながら待っていた。エンドーさんはなかなかこず、町子は、何かあたたかいもの飲みにいこうか、とショウコに言っていた。彼女は元気よくうなずき、二人で駅方面へと向かって歩いた。喫茶店はなかった。そうしてふと、町子はその場から消えてしまいたくなった。エンドーさんを待っていることもいやだったし、ディズニーランドのアトラクションで長い行列の最後尾につくのもうんざりした。それでそのまま電車に乗った。旅行にいこうと町子はショウコに言ってみた。いこう、いこうと、ショウコははしゃいだ。  それだけ。それだけなのよ。この子をどうこうするつもりなんかまるでなかったし、今もないよ。千葉から電車に乗ってうちに戻ってきて、車に乗って、デパートで買いものして、夜にはエンドーさんを呼び出してこの子返すつもりだったの。だけど——だけどなんだかばからしくなっちゃって。すべてのことが。  町子はとうに冷えきったコーヒーをちびちびすすりながら小さな声で言った。ショウコはときおりとんちんかんなあいの手をいれて私たちを笑わせた。  ばからしくなっちゃって、という町子の声を聞きながら私はあたりまえのことに気づいた。ショウコというこどもが今五歳であること。上のこどもが成長するのを待ってすぐに離婚するだの、妻とのあいだに愛はないだのとほざいていた男が、町子と会い続けながらこどもを作っていたということ。  白々しい明かりの店内で、まるい時計は二時過ぎを指していた。このまま逃げちゃおうかな、町子はおもての闇を見つめてつぶやいた。  逃げよう、私は言っていた。逃げようよ町子。この子つれて逃げちゃおう。だいじょうぶ、私も一緒にいくよ。 「135号線って書いてある。ねえもう降りていいのよね?」  町子に訊かれ、あわてて私は地図を読むふりをして、うん、いいのいいの、と答える。地図なんかまったく読めないが、私たちに目的地なんかないのだ。迷ったってかまわない。 「しかしさー、あんたもいろいろ忙しい人だよねえ。アイルランドいったり海沿いの田舎に住んでみたり、ひとりで出かけてって男つきで帰ってきたりさー」  うまく高速を抜け、国道を走りながら町子は言う。ファミリーレストランをいくつか通りすぎ、やがて左手に海が見えてくる。私は捜す。黙っていたら不安に向けて下降していく気分を、ただ盛り上げるためだけの会話を。 「でもね町子、今はうまくいってるよ、山口と会ってそのまま約一か月旅行続けてさ、そのまま帰ってきていっしょに住みはじめて、とりあえず半年のあいだうまくいきました。でもね、なんか最近、私さあ、自分占いみたいなことやってるのに気づいて」 「自分占いー? 何それ」 「だれかとつきあいはじめるでしょ? ああこの感じ、のぶちんのときと似てる! とか思うわけ。もしくはさ、ポチと似てるー、とかあのときの彼に似てる、とかさ。相手の人柄がじゃなくて、二人の関係性がね。そーすっと、どんなふうに終わるか予測ついちゃうんだよねー、あー私が夢中になりすぎてだめんなるなーとか。こりゃ二人とも相手以外とやりまくって自然消滅、とかね。自分の経験のなかで占ってることに気づいたりする」 「なんか悲観的じゃん? 終わるのを前提としてるってことでしょ?」 「そーだなー。私、今月末で三十になるじゃん。でも結婚願望もないしさ、そうすっと、行き場がないでしょ? 行き場っていうのかー、目的地っていうのか。二人でどうこうしようっていう気持ちがどこにも向かわないような」 「行き場ね」町子は自分に言い聞かせるようにうなずく。「行き場ないってあるよね」  私はそっとふりかえる。ショウコは後部座席に完全に体をのせ、蛙みたいに足を広げ仰向けに寝ている。口元がうっすら笑っている。 「私はあんたと違ってエンドーさんしか知らないと言っていいけど、でも最近わかったことあんの。男の子にね、なんであの人と結婚したのとか訊くでしょ? じつに多くの男が、あいつは弱い、って言うのよ妻のこと。弱いから一緒にいなきゃと思った、って。で、同じことを女に訊くじゃない、そうすると、彼は信用できると思った、だから彼を選んだって言うの。だけどね、この世の中に、弱い女なんてものは存在しないし、おんなじように信用できる男なんてものも存在しないと思わない? 彼女は弱いって言う男は自分が弱いんだし、彼は信用できるって言う女は自分が人を裏切らないたちなのよ。人は、相手のなかに自分を見つけたいんだよ」  町子は抑揚のない声で、正面を見据えながらそんなことをしゃべった。私は窓を開け、たばこを吸う。左手にはずっと海が続いている。海は空を映して濁った色で、水平線のあたりは空に混じるようにかすんでいる。背をまるめた老婆が小さなこどもの手を引いて歩道を歩いている。ヤンキー車が大音量で流行歌を流しながら、町子の車を追い抜いていった。 「テープかえて」町子が言い、私は足元に散らばったなかの一本をデッキに押しこむ。ひどくなつかしい曲が流れてくる。「Brand new Cadillac」。 「おお、クラッシュ」思わず言うと、町子は照れくさそうに笑った。「ひょっとしてそのうち、スターリンとかかかるかも?」 「あはは、じつは最近思い出してさ。私はこーゆー曲が好きだったんだって。エンドーさんなんかサティだよ? 我ながらよく耐えてたもんだわ、おサティなんかに」  町子はそう言って大声で笑い、ふいに黙りこむ。ずいぶん長い沈黙のあとで、夢を見ているみたいにつぶやいた。 「こーゆー曲を聴きまくってたころは、自分がどんなになるかなんて、思ってもみなかったな」  その日の夜は、海沿いに建つ国民宿舎に泊まった。こんな寒い季節に海にくる客はいないのか、ほかに泊まり客はいないようすだった。  ショウコは家に帰りたいとぐずることもなく、泣いたり駄々をこねたりもせず、まるで私たちのこどものようにその場になじんでいて私を驚かせた。チェック・インする前にコンビニで買ったキティちゃんの歯磨きセットをうれしそうに何度も眺め、大浴場に興奮して奇声をあげて喜んでいた。パパやママに会いたいと思わないの? という質問が幾度も喉元《のどもと》まででかかったが、そのたび私はそれをのみこんだ。  夕食は部屋でとった。刺身の盛り合わせと天ぷら、鍋料理とステーキという、組み合わせのめちゃくちゃなメニューだったが、ショウコはごちそうと言ってはしゃぎ、ままごとをするようにいじくりまわしながら食べた。私と町子は絶え間なくビールを飲み、ビールに飽きて焼酎《しようちゆう》を一本追加し、水や氷で割らずにそのままで飲み続けた。飲みたくてというより、酔いたくてそうしていたのだが、なかなか酔いはまわらなかった。私たちはいつかつかまるのだろうか? 町子は誘拐犯で、私はその共犯者として。その場合、いったいどのくらい刑務所に入るのだろう? 山口は犯罪者の私からきっと離れていくだろう。そうしたらまた新しいだれかと一から恋愛をしなくてはならないのか——そんなこどもじみた考えが幾度か頭をよぎり、しかしその次の瞬間には、ひょっとして私たちは逃げ続けられるかもしれないと、酔った頭で思うのだった。  旅先で会った山口と今はうまくいっている。私より一つ年下の山口は物静かで、博識なのに博識ぶらず、素直に人と向き合い精神的に自立している。職はあるし浮気をする気配もない。山口は一刻も早くこどもがほしいのだと言っていた。結婚はどうでもいい、自分のこどもがほしい。そうでないとまたどこかへいってしまいそうだと。そして私は今、こどもを生むつもりなんか毛頭ない。今はいい。けれどきっといつか、こういう食い違いは大きくなる。私たちはうまくいかなくなる。だから、そんないっさいを放棄してしまって、このまま逃げてしまうのはどうだろう。町子と二人でショウコを育てる。どこか、知らない場所で町子と暮らし、ショウコを学校へ通わせ、やばくなったらどこかへ逃げて、三人で暮らす。それもいいかもしれない。もうだれかを好きにならなくてすむ。好きになった相手との諸問題に悩まなくてもすむ。 「ショウコはねえ獅子《しし》座なの、ほんとは乙女座がよかったんだけど、生まれたのがちょっと早かったの、でもね、ソーちゃんは牡羊《おひつじ》座だからショウコとは相性がいいって、すみれ先生が言ってたの、だから獅子座でよかったのかも。ねえいずちゃんは何座?」  ショウコはまるで屈託なくしゃべる。浴衣《ゆかた》をはだけてだらしなく飲み続ける私たち二人に、星座の相性のこと、保育園の人間関係、恋愛関係などをつらつらとしゃべり、そのままこたつで寝てしまった。 「この子家のこと何も話さなかったね」私は言った。 「嫌いなんじゃないの、家が」町子は吐き捨てるようにつぶやく。 「でも五歳だよ? ふつう、恋しくなるじゃん」 「ふつうじゃないのよ。私も幼稚園のとき、家出したもん。一か月くらい、おばあちゃんちに居ついてた。家、恋しくならなかった。ふつうじゃない子なんかいっぱいいるよ」  おばあちゃんと血のつながりのないどこかのおねえさんとは違うだろう、と思ったが、私は何も言えず、立ち上がって障子を開けた。海はどす黒い闇に沈み、波の音だけが聞こえる。 「この子もさー、あと二十年たったら、すっごくへんな色恋問題で悩んでんのかもね」  ふりむくと町子はショウコの額にやわらかく指をはわせている。二本目の焼酎がすでに空になろうとしていた。 「気の毒にねー」 「ははは、気の毒にねえ」  私たちは言い合い、おかしいことは何もないのにどちらともなく笑いだした。笑いはなかなかおさまらず、やはり酔いはまわりはじめているらしかったが、頭の奥の一点はずっと醒《さ》めている。 「おしっこしてくる」  私は言って立ち上がり、部屋を出て入口わきのトイレに入った。トイレの四角い小窓からおもての闇が見えた。用を足すためにしゃがむと、小窓にあてはめたみたいに月が見えた。満月より少し欠けた楕円《だえん》の、飴玉《あめだま》みたいな黄色い月だった。  月を見上げているうち、なじみのある言葉が口をついて出て私を驚かせた。たすけてと、私は小さくつぶやいていた。幾度ものみこんだ言葉。言うたびに落ちこんだ一言。けれどその一言をもう一度舌の上にのせてみると、呪文《じゆもん》のようにそれは私を安堵《あんど》させた。高校生のとき、風呂場《ふろば》でそうしたように私は幾度もその言葉をつぶやいてみた。わざとらしく、あわれっぽく、月に向けて祈るように。かつてそうしていると、何もしなくても涙が流れて私をすっきりした気分にさせたが、今、こぼれるのは涙ではなく笑いだった。笑いながらパンツをずりあげ浴衣の乱れをなおす。  だれも助けてくれない。だれかにひっぱられるように見覚えのない場所へいってしまっても、だれも帰り道を指し示してはくれない。そんなことはわかっているが、それでもやっぱり私はこの一言をつぶやかずにはいられないのだ。だったらいくらでも言えばいい。だれにも向かわないその一言を、口のなかで転がし続けていればいい。 「町子、町子、トイレの窓から月が見えたよー」部屋に戻り、私は町子に抱きついて大声で笑う。「それがさー、しゃがむとそこにばっちり月が見えるの、すごいよ、額縁みたい」 「ちょっとーやめてよー酔っぱらい、手洗った? きたないなーもうー」 「ねーねー、明日京都までいこう? 修学旅行でいったじゃん、あのさー縁結びの寺。あそこいこーよー」 「何よ、あんた今彼氏いるんだからいらないじゃんそんなの、それに、ナビもろくにできないのに何が京都だよー」 「あはは、あんた、スターリン好きだったねえ」 「何よ、野崎泉。野崎修三の妻になりたかったくせに」 「ぎゃー、やめてえ」  私たちはたがいを小突きあい、じゃれあい、畳にひっくりかえって笑う。ショウコはまるい小さな顔をこたつから出して、すこやかに寝息をくりかえしている。  車で通りかかった商店街で凧《たこ》を見つけ、それを買い、海岸に戻って私たちは凧あげをした。正月の売れ残りなのか、歌舞伎男優のような絵柄の凧は、色あせて薄く埃《ほこり》をかぶっていた。ショウコは凧をあげるのがはじめてらしく、町子と私がはしゃいで海岸を走りまわるのを遠目に見ていた。町子が凧を持ち、私が凧糸を持ち、町子が手を離した瞬間に私は全力で走る。凧はすぐに砂浜に落ちてくるくると不恰好《ぶかつこう》に転がる。今度は私が凧を持ち、町子が走る。散歩中の犬が鎖をほどかれて、一緒になって走りまわっていた。  凧がうまく空を舞いはじめると、たまらなくなったのかショウコは町子に近づき、凧糸を持たせてもらっていた。私は砂浜に座り、凧あげに夢中になっている町子とショウコを眺める。  かがみこんでショウコと目線をあわせ、凧糸を片手で引くように教えている町子と、肩まで伸びた髪を風に逆立てて、町子の言葉に懸命にうなずいている小さなこども。二人はどこにでもいる親子にしか見えない。  どこにでもいる親子でも不思議はないはずなのに。もし町子とエンドーさんのあいだに何も問題がなかったら、とうに二人は結婚して、これくらいのこどもがいたかもしれない。父親が仕事にいっている昼間、町子はこうして私を誘い、三人で海辺に凧あげにきたのかもしれない。——エンドーさんのこどもを勝手に連れ出したなんて町子の真っ赤な嘘で、じつはこれはそうした普通の日常のひとこまなんではないかと、幾度も思いそうになった。そう思いたかった。  ショウコは一人で凧を持ちたいと言いはり、手を離して町子は私のもとにかけてくる。気持ちいいねー、と笑う町子の顔は、しかし私に今の状況を何よりも強く理解させる。私たちは他人のこどもをことわりもなく連れ歩いているのだ。 「ねえあの子、おかしくない? ふつうじゃないというより、異常なんじゃないの? まる二日、ママでもないしパパでもないし、帰りたいとも言わないなんて」  そのことを町子にも自覚させるため私は言う。町子は私を見ず、海の上に漂う凧を見ている。昨日とうってかわって空には雲一つなく、海はペンキを流しこんだように青く、白い波の色を際だたせている。 「朝ね、あんたがトイレいってるときあの子、もっとどっかいきたいって言ってたよ」 「まじ? それで、つれてくつもりなの?」 「急に気づくのよ」町子は足元の砂をつかんでは指のあいだから流し、それをくりかえしている。「急に自分が大人になったみたいに感じられて、もっと先に、もっと先に進みたいって、帰りたい気持ちがないわけじゃないけどでも進むことのほうが優先で、それであるとき、ふっと気づくんだよね。まわりに、見慣れたものが何一つないことに。全然知らないものにぐるりと取り囲まれてて、そのときはじめてこわくなって、帰りたいって思うんだよ」  町子がいったい何の話をしているのかわからなくなる。ショウコのことだろうか、それとも町子の、私たちのことなのか。 「あー寒くなっちゃった。おしるこ食べたいな。あの子汗かいてたけど、もうそろそろあったかいとこいかないと風邪ひいちゃうよね」  町子は言って、両足をふんばって凧をあげているショウコのもとへかけていった。  エンドーさんから私の携帯に電話がかかってきたのはその日の午後、ゲームセンターで遊んでいるときだった。町子とショウコはダンスをするゲームで一緒に笑い転げながら遊んでいた。  あなたの番号、調べるのたいへんだったんだ、エンドーさんは疲れきった声でまずそう言った。おおごとにしたくないから、警察に連絡する前にあなたの携帯の番号を調べたんだよ、町子がどこにいるのか知っているんだろう?  私は何も言わなかった。冷たい銀色の小型電話を耳に押しあてていた。  町子のやつ、とんだことをしてくれたよ、奥さんは一昨日から半分錯乱状態なんだ……ねえ、町子はどこにいるの? きみには連絡しているんでしょう?  入口付近のゲーム台に町子はいる。ショウコの両手を持ってのんきに踊っている。  ねえ、町子の居場所がわからないんだったら警察に頼むしかないんだよ? そんなこともわからないの? 町子を犯罪者にしたいの? きみ、ことの重大さをわかっているの?  私が何も言わずにいると、エンドーさんはいらだたしげに早口で言った。浜松の手前のゲームセンターにいる、そう教えることは簡単だ、教えてもいいからそのかわり、町子をなんとかして。町子があんたのこどもを連れ出したりしなくてもすむようにして。ずっと昔みたいに、セーラー服を着ていたときみたいに無邪気に笑わせて。言葉は喉元まででたが、私はそれをのみこむ。腐った食べ物を喉に押しこんだ気がした。私は吐き気をこらえながら、今いる場所を告げる。  携帯を切ってから、対戦格闘ゲームの前に座った町子のところへいった。町子は私に何か言おうと笑顔で見上げ、私の表情を見て口を閉ざす。 「町子、ごめん」  私は言った。町子は何か言いかけた唇を薄く開いたまま、今にも泣きだすような、あるいはほっとしたような顔で私を見ている。  首まわりの延びきったTシャツ。糸のほつれた短パン。化粧気のない顔。確実に年齢を重ねている顔。私を見上げ続ける町子は、電源を切られダッシュボードの上に転がされた、彼女の携帯電話みたいに見えた。  国道沿いのファミリーレストランに、たぶんあと数分のうちにエンドーさんはくる。私たちは入口付近のボックス席に座って無言でコーヒーを飲み、客がきたことを知らせるチャイムが鳴るたび、大きくふりかえってその客を見る。ショウコだけがチョコレートパフェを目の前にしてはしゃいでいた。 「あのねーあのねーショウココアラ見たいなー。コアラってね、すごーいへんな声で鳴くんだって、ももちゃんが言ってたの、ももちゃんは見たんだってコアラ、でもショウコそれうそと思うなー。コアラ、鳴かないと思うの。ねえ、コアラ見れる?」  町子も私もショウコに笑いかけるだけで、何も答えなかった。  青一色だった空が次第に薄桃色を帯びるころ、エンドーさんはきた。チャイムにふりかえった私と町子はエンドーさんの姿を認めて立ち上がろうとしたが、それより先に、ショウコが立ち上がって、足の速い動物みたいに駆け出していた。パパーッ、と叫び、店じゅうに響き渡るような声で泣きだしながら。平手で思いきり頬を殴られた気がした。  少し離れた席でエンドーさんと町子が話し合っているのを、私とショウコはもとのボックス席で待っていた。ショウコはすでに泣きやみ、鼻をすすりあげながら空になったパフェのグラスをスプーンでいじっている。  向き合った町子とエンドーさんは、どこにでもいる少々くたびれたカップルに見えた。町子があまりにも申しわけなさそうにうつむいているものだから、彼らのあいだに割りこんでいって、エンドーさんに何か言ってやりたかった。一番悪いのはあんただと、ドラマで友達をかばう役みたいにわめきたかった。けれど私は動かなかった。だれも私を助けることができないのと同様、だれも町子を助けることはできない。私も、エンドーさんも。  向かいの席でショウコが鳴らす、スプーンとガラスのぶつかりあう耳ざわりな音が、いつまでもあたりに響いている。 [#改ページ]    Start again 2000  テレビでも冷蔵庫でも、鉢植でも窓辺の猫の置物ですら、なくなったものは何ひとつないというのに、ひとり人間が減ったというだけで、部屋は隙間だらけのように思える。ところどころぼこりと抜け落ちた、足りないものばかりのがらんどうに思える。山口が出ていって二か月が過ぎようとしているのに、私はまだこのがらんどうに慣れることができずにいる。さっきからアイヴィーのMDだけが、その隙間を漂うようにくりかえし流れている。  台所のテーブルについて、コンピュータが立ち上がるあいだ、私はぼんやりと部屋を見まわす。西に向いた台所の窓から、ときおり山口は外を眺めていた。夕暮れの色合いがあんまりきれいだと私を呼んで隣に立たせた。私たちはよくあの窓の前に並んで立ち、ほうけたように、夕暮れの淡い桃色が次第に紺にかわっていくのを見ていた。大喧嘩《おおげんか》をしたのは冬の日だった。山口はけっして声を荒らげない男だった。怒りでも疑問でも、なんでものみこんで、自分の内で解決してしまおうとするのだ。だからめったに喧嘩をしなかったが、ときにその山口の静けさが私を無性にいらだたせ、あの冬の日、一緒に作った鍋料理を私は床にぶちまけたんだった。みぞれ鍋だった。二人でしゃがんであとかたづけをしているうち、なんとなく仲直りをして、ラーメンを食べにいった。山口は料理といえばカレーしか作れず、それでもずいぶん凝ったカレーを作った。あれはおいしかった。幾度か作りかたを教えてもらったが、私が作るといつもこくのない、ただ辛いだけのカレーになってしまう。山口が出ていってから、あのカレーが食べたくて三回は挑戦した。結局作れなかった。ただ辛いだけのカレーを、ここでひとり、テレビと向き合ってひたすら食べた。  亡霊のように部屋じゅうに山口の影が漂っている。背をまるめて野菜を刻む、鏡に顔を近づけて髭《ひげ》をそる、あぐらをかいてテレビゲームをする、私を抱きかかえて耳元で笑う。  暗い部屋のなか、台所のテーブルでコンピュータが白い光を放つ。エアコンがからからとかすかに音を立てている。私はぼんやりとコンピュータの画面を見て、あの冬の日の喧嘩の原因は何だったっけと考えている。ああ、うどんだ。山口が間違えてうどん玉ではなく焼きそば用の麺《めん》を買ってきていて、それが発端で喧嘩がはじまったんだ。なんてばからしいんだろう。あなたはいつもそうやって私の言うことをいいかげんにしか聞いていないなんて、たかがうどん玉のことでどうしてあんなに真剣に泣き叫べたのだろう。まったく、なんていとしいばかばかしさなんだろう。  メールは二件、一件は昔の同僚のユキノ、もう一件は町子。いつもどおりどちらもたいして中身のない近況報告である。こちらもまた中身のない返事を書こうとして、けれど私の指はネット検索をはじめる。スリランカまでの格安航空券の値段を調べはじめる。調べるまでもない、もう何度も何度もくりかえして、すっかり覚えてしまった。一番安いのはマレーシア航空、クアラルンプール乗り継ぎの七万七千円、クアラルンプールで一泊しなくてはならなくて、コロンボに着くのは夜の九時。画面のその文字を私はじっと凝視する。まるでそうしていれば、画面の向こうに山口の生活が淡く浮かんでくるかのように。  海外に人材を派遣するボランティア団体の、採用試験を受けて受かった、行き先はスリランカ、期間は二年、そう聞かされたのは梅雨の時期だった。あんまり驚かなかったような気がする。けれど、そのとき私がどんな返答をして、どんな質問をして、山口がどんなふうに答えたのか、なかなか思い出せないということは、やっぱり動揺していたのだろうか。七月にいくと平然と山口は言った。来月だった。もっと前に決まっていたんだけれど、きっと反対されるだろうと思って、直前まで言わずにいたんだと言った。反対も何も、山口がだれかの意見で何かを決めたりかえたりするはずがないと私が一番よく知っている。でも七月に、恐怖の大魔王が空から降りてきて人類は滅びちゃうかもよ、何と言っていいかわからず私はそんなことを口にした。それ去年の話だよ、地球は滅びなかったじゃない、山口は笑わずに答えた。  一か月間、口をきかなかったりいやな態度をとり続けたり、必要以上にいちゃついたり眠らずに話し合ったりした。煮詰まってしまったのだと山口は言った。仕事にも生活にも、恋愛にも、何かをしたいとか何になりたいとかそういう気持ちにも。あなたのことは好きで、結婚しなくても問題はないという意見にも賛成で、仕事はそれなりに順調で、お金にも困っていない、でもそれだけなんだ。そのバランスを崩さないために毎日同じことをくりかえしているだけって気がしちゃうんだ。どこにも行き着けないって思って、窒息しそうな気分になるんだ。  山口の言うことはよくわかったし、反対するつもりもまったくなかった。出発する前に気持ちの整理はつけたつもりだった。空港で見送ったあとひとり成田エクスプレスに乗って、どこかほっとしている自分に気づきもした。山口が自分にとって最高の男だとは思わない、私たちは神様の気まぐれみたいな偶然で出会って、一緒にいた期間、相手のことが狂おしいくらい必要だったというよりも、その運命的といっても差し支えない偶然に頼る気持ちのほうが大きかった。私はまたすぐにだれかを好きになる。性懲りもなく恋をする。そう思っていた。いや、今もそう思っている。ただ部屋のそこここの隙間にまだ慣れずにいるだけだ。  コンピュータの電源を落とし、部屋の明かりをつける。放置しているからいけないんだ。山口が出ていったそのままにしておくから隙間だらけの気がするんだ。部屋をかえてしまえばいい。最初から、ひとりでここに住んでいたと思えばいい。  ゴミ袋を広げ、私は部屋じゅうを歩きまわる。山口と買った電化製品も置物も、彼が残していったCDもゲームも、全部全部捨ててしまおう。明日は土曜、カーテンを買いにいこう、スリッパも買い替えよう、トイレの座椅子カバーも、やかんも、皿も、全部捨てて、ぱんと散財して、自分の気に入ったもので部屋を埋め尽くそう。  燃えるものと燃えないものを分別しながらゴミ袋に放りこんでいって、袋が二つ、三つ部屋の隅に転がるころ、エアコンの温度は二十度なのに汗は絶え間なくしたたり落ち、私は手を止めて部屋の真ん中にぽつんと立ちつくす。隙間だらけでがらんどうなのは、部屋ではなくて私自身なのだ。  かつて私は思った。恋愛抜きで自分を思い描こうとすると、情けないくらい正体不明ののっぺらぼうしかあらわれてこない、と。あれから数年たち、恐怖の大魔王が地球を壊さず日々が続いているというのに、私は何もかわっていない。山口がいなくなってみれば、いったい自分がどんなふうに毎日を過ごしていたのかさえわからなくなりかけている。  部屋のインターホンが突然鳴る。時計を見ると九時八分、こんな時間に連絡なしで訪ねてくるような友達はいない、ひょっとして山口が帰ってきたのかもしれないと、私はかけていってドアアイに顔をひっつける。  小さなレンズには意外な男が映っていた。父である。いぶかしみながら私はドアを開ける。 「あ、おお、元気だった、突然ごめんね」父はかわらず、たよりない、細い声でぼそぼそしゃべる。数年前の正月に会ったのが最後だったが、あまりかわっていなかった。 「どうしたの、突然」 「いや、あの、ほれ、いずちゃん、どうしてるかな、と、思ってさ。はは」  父はうかがうように部屋に視線を向け、 「あ、掃除中? 迷惑だったかな、こんな時間に」申しわけなさそうに頭をかく。 「汚いけど、どうぞ、あがって」  内心、迷惑だと思っていた。父がこうして私のアパートを訪ねてくることなんてただの一度もなかったし、二人で顔を突き合わせたって、何か話があるわけでもない。玄関先にスリッパをそろえたが、しかし父は部屋に上がろうとせず、もじもじとその場に突っ立っている。 「あのさ、ごはん、食べた? あはは、食べたよね、じゃあさ、ちょっと、飲まない? いや、パパお腹すいちゃってさ、はは、ここくる途中、何軒か飲み屋さんあるでしょう、けっこういいところ、あってさ、いや無理にとは言わないけれど、はは、やっぱ東京はすごいね、九時なのに、どこも閉店してないもんね」  父は昔からこうだ。娘に対しても、母に対しても、びくついて遠慮して、こちらの機嫌をうかがうように話す。そういうふうにしか、話せない。  アパートの数軒先にある居酒屋みよしには、山口と何度もきた。値段が安いわりにつまみがおいしくて、話題がないときは二人そろって、店の奥に設置してあるテレビをぼうっと眺めて酒を飲んだ。山口とつい三か月ほど前に座った同じ席に、私は父と腰かけて酒を飲んでいる。シュールな夢みたいだ。 「東京に用があったの?」私は訊《き》いた。 「いや、用なんて、ないんだけどね」父は左隣の客に煙が向かないよう、注意深くたばこを吸いながら小声で話す。 「あのさ、工場と旅館、勤続三十年とかで、同時期にお休みくれたのね、はは、けどさ、なんにもすることなくてさ、ママたちは東京いっちゃって」 「タカラヅカ?」 「はは、まあそうだね、いっしょにいこうかと思ったけどママいやがるしさ、はは、ほんと、することないの、なあんにも。それで、いずちゃんどうしてるかな、と思ってね」 「ふうん」気の毒な男だと思った。「はじめてだね、一緒にお酒飲むの」 「はは、そうだね、忙しかったからな。このもつ煮、いけるね」  私たちはそれからしばらく無言で酒を飲んだ。早く酔ってしまいたかった。素面《しらふ》のまま、この気まずさをやり過ごす自信はなかった。父も同じことを思ったらしく、私たちはほとんど料理を口にせず、競うように日本酒を頼む。テレビ番組が砂時計のように流れ、ときおりコマーシャルがけたたましく響き、幾組かの客が帰り、幾組か新しく客が入ってきた。店の引き戸が開くたび、夏のなごりのむっとした空気が店のなかに入りこんで冷房にかき消される。 「あ、あのさ、連れ出しちゃったけど彼氏は平気? 今一緒にいるんでしょう?」  五杯目の久保田を注文して父が訊く。私は酔鯨を飲み干し、同じく久保田を頼み、横に座る父を見る。父は鼻を中心に顔を赤くして、目を細めて私を見ている。突然、私の何もかもをこの男は理解してくれるかもしれないという、奇妙に揺るぎない期待を私は抱く。 「おとーさん大学いかせてくれたよね」皿にあふれた酒をコップに移し、背をまるめ私はつぶやく。「月謝とか入学金がいくらだったのか私はいまだに知らないんだけどさ、きっとものすごーく高かったんだよね、私立だもんね。それがさー、その大学で、私何してた? 男追っかけてただけだよ、本当。文学部、日本文学科ってとこ出てさ、なんか役にたったかってーとナッシング、私今三十二歳ね、本厄中。そんで大学いった意味ナッシング」  父に何かを打ち明けることほど恥ずかしいことはなく、しかしそうせずにはいられず、わざとおちゃらけて私は話す。そうすればいくらでもしゃべれそうに思えた。 「あ、おにーさん、今度これください。春鹿。でね、そーそー、彼氏よ、彼氏と二年か? 一緒に住んでてさー、私ね、今あれ、映画雑誌つくってるとこで働いてんだけど、契約だからね、残業ないのね、あー何が言いたいかってーと、ま、七時には家着くわけ、そんで、ビール飲みながらごはんつくんの、で八時前か、遅くても九時に山口が帰ってきてさ、一緒に食べんのね、ビール飲んでー、テレビ見てさー。休みの日は二人で洗濯したり、掃除したりで一日終わって、そのくりかえし。主婦。主婦の暮らしよまさに。それがさー、私、それでよかったの、こんなことがしたかったんだって、ずっとこうしたかったんだって思ってんの」  私の隣でうん、うんと父はうなずく。春鹿が運ばれてきて、父も同じものを頼む。 「でもさ、山口、出てっちゃったんだなー、ボランチアすんだって、そんなー、よそのだれか助ける前にここにいる私を助けろよ、とか思ったけどさ、人が何かやりたいっつってんのとめられないじゃん。とめられないよ、わかるもんそーゆーの」 「いずちゃんも一緒にボランティアするというのは、ないの?」  かなり酔っているようなのに父はやはり遠慮がちに訊く。私は父を正面から見つめた。まるい鼻、小さな目、てっぺんが薄くなりつつある頭髪。 「それ、それ考えた。簡単なことだと思った。でもさー、私、こわいんだよ。だってわかるんだもん。どこだっけ、インドパキスタン、違う違うスリランカ、スリランカくんだりまで追いかけてってよ? まーしばらくは安泰だわなー、でもねおとーさん」目の前に置かれた透明の液体を私はすすりあげる。客たちの談笑する声がどこか遠くで聞こえる。「私はまたきっとだれか好きになる。スリランカにいたってどこにいたっておんなじだと思う。山口が煮詰まって海外いくこと選んだように、関係が安定すると私はなんでかぶちこわしたくなる。ばか面下げてまたばかみたいな恋してさ、全部だいなしにして、そんで、主婦的な生活が好きだなんてよく言えたもんだ、よくそこまで山口好みの女を演じられたもんだ、なんつって、また違うだれかを演じんの、もうわかってんの、わかってんだったらスリランカなんていき損、追っかけ損でしょ?」  父はうん、うんとうなずきながらもろきゅうを口に入れ、噛《か》みくだく。かつて私の大嫌いだった父の噛み音。父と一緒に食卓につくのがいやで、学校に遅刻したこともあった。 「中身がないのが悪いってわかってるけどー、もう遅すぎる。そーいやさー、私こどものころからなかったもん、あれなりたい、これなりたいっての。花屋、お菓子屋、スッチー、よめさん、考えたけど何かになった自分なんか、そーぞーできなかったもんな、まるきし」  私の隣の席に、新しく入ってきた客が座る。私は横目でちらりとその客を見る。若い男だった。好きなタイプではなかったが、酔った頭で私はその見知らぬ男とつきあうことを想定してみたりする。好きだと言い合ったり、泣いたり騒いだりするところを想像し、すぐにばからしくなってやめた。 「ははは、おれね」コップ酒を両手で包み、私と同じように背をまるめて突然父が口を開く。おれ。聞き慣れない一人称に私は小さく笑い、父はかまわず続ける。「自分が大嫌いでさ、朝目覚めて、自分であることにうんざりしてね、ああ、おれ松原だったらよかったなあとか、松原ってのは高校んときの親友だけどね、そんなこと毎日思ってたんだよね」  ひとりごとをつぶやくようにしゃべる父を見ていると、ついこのあいだまでそこに座っていた山口の姿と重なる。私は父から視線を外し、冷めきったもつ煮をつつきながら話を聞く。もつ煮はいつもより異様に味が薄かったが、味覚が狂うくらい酔っているのかもしれなかった。 「自分ていうのが柵《さく》でさ、おれは何がしたかったってその柵の向こうにいきたかったんだな、でも自分がやることなんかわかりきってるわけね、結局柵の内側で、大学出て食品会社に就職して、言われることおとなしくやってね、失敗もないかわり大きな手柄もないってわけ。こんなこと、ずっとわかってたよって、毎日また落ちこむんだよね。いろいろ考えたんだ、小型船舶の免許とろうかとかさ、司法試験受ける勉強しようかとかさ、はは、わけわかんないだろうけど、とにかく、自分というね、柵の向こうにいけそうなことならなんでもよかったんだけど、まあ、それができないから自分なわけでさ」  父は口を閉ぎして手元の酒をじっとのぞきこむ。それから唐突に、リョウコさん、と母の名をつぶやいた。 「リョウコさんに会ったのがそんなとき。省略するけどとにかくおれらは恋に落ちたわけ。はは、照れるな。結婚はでもこっぴどく反対されてねー、リョウコさん水商売やってたしさ、おうちにちょっと問題あってね、今じゃなんでもないことなんだろうけどそういう時代だったしさ。でねえ、そんときさあ」  父は言って、くふふふふ、と笑った。こんな男だったっけと私はこわごわのぞきこむ。父は続ける。 「ほんと、そんときだねえ、一瞬我を忘れてさあ。そんなのほんと一瞬、一瞬なんだけどさ、あきるほど見慣れた自分と、ぜんぜん違うことができるって、そう思ったんだよね、どうしても認めてもらえないならこの女と一緒に逃げる、逃げても一緒になる、そうした決意は、つまり今まで目ざわりだった柵の前に置かれたさ、ちょうどいいジャンプ台だったわけね。夢中だったな、小型船舶だの司法試験だの、まったくかなわないほどのチャンスだよ」  店はだいぶ空きはじめている。アルバイトの男の子は隅でテレビに見入り、女店主はカウンターでぼうっと大鍋をかきまわしている。私たちはどちらともなく春鹿のおかわりを頼み、店内に響くテレビの音声に耳を傾ける。 「実際、全然違ったなあ」父は言う。もはや私を見ず、自分の掌《てのひら》のコップ酒に話しかけるように。「旅館で住みこみなんて考えられるか? 工場で日がな一日プレス機いじってるなんて、それまで想像したこともなかったよ。あの人と一緒になるってことはさ、ほんと、柵の向こうにいくってことだったんだな。ときどき思うんだ、八丁堀にあったあの食品会社でさ、そこそこ出世して、部下連れて酒飲みにいったり、郊外に家買ってローン払ってたり、必死にゴルフ覚えたり、そうしている自分がまだいるんじゃないかって。柵のなかで生きてるおれが通勤電車やタクシーに揺られて想像しているのが、じつはここにいる自分なんじゃないか、なんてさ」  そういうあなたが私はとても嫌いだったと心のなかでつぶやく。過ぎてしまえばひとつの経験でしかなかったであろう恋愛のためにそういう暮らしを選んで、選んだ暮らしを手放さないようびくびくしながら守っているその姿が本当にいやだった。 「はは、二十歳ちょっと過ぎたころの、どこにでもある恋心でさ、思わぬところへいっちゃったんだなあ。いずちゃんじゃないけど、こどものころは飛行機のさ、操縦士になりたかったのにさあ。六十んなってもさ、旅館の風呂磨いて、他人のものアイロンかけてさあ」  次第に父の呂律《ろれつ》がまわらなくなっている。店のなかがやけに蒸し暑い。引き戸が開け放しになっている。見まわしてみれば私たちのほかに客はいない。もう店仕舞なのだ。 「だけどねいずちゃん。ときおりさ。ズボンの裾《すそ》まくって風呂ぴかぴかに磨きながらさ、腰伸ばして開け放たれた窓の外とか見るとさ、青い空がばあって広がってて、なんていうのか、外国にきちゃったみたいな気がしたんだなあ。すげえなおい、って思うわけ。すげえな、おい、こんなとこまで、おれたったひとりできちゃったよ、ここ、いったいどこなんだよって」父は笑う。私を見る。「おれはさあ、おれのものじゃない一生を生きたって、そう思ってんの。柵の向こうで生きたって」  蒸し暑すぎる。引き戸を開け放しにしておくのは私たちに早く帰れと無言で要求しているのだろうか? 店員を捜すがアルバイトの男の子も女主人も見当たらず、見上げるとテレビは灰色の光を放っている。おとうさん、今何時? 訊こうとして隣を見るとだれもいない。あわてて立ち上がり、——  目が覚めた。飲み屋の喧騒《けんそう》も父の話し声もまだ耳に残っているのに、蛍光灯がつけ放しの部屋は異様な静けさだった。冷房はタイマーが切れ、MDも再生をやめ、居間に寝転がった私は全身汗ばんでいる。よだれを拭《ぬぐ》い立ち上がると、床の上に寝たせいで体じゅうが鈍く痛んだ。部屋じゅうに転がっているゴミ袋をよけながら台所へいき、水を飲む。  どうりでおかしいはずだった。もつ煮込みはみよしの冬場限定のメニューだし、どの酒もみんな同じ味がした。それに父、父はあんなにしゃべる人じゃない。酔ったら寝てしまうし、ワンセンテンス以上話すのを聞いたことがない。それに——そうだ、今ごろ気づいて私は短く笑う。そうだった。父は去年死んだのだ。  参列客のほとんどいない、地味な葬式だった。喪主は母だったが、泣いているだけで何もしないので、実務的なことは私と姉がすべてやった。かなしいとか、もっと生きてほしかったとか、そういったことは何ひとつ思わなかった。私は淡々と——近所の暇な婆《ばば》あたちが、涙も見せないとひそひそ話をするほど事務的に葬式をすませ、後悔も惜別もなかったが、ただ、唯一、私は知りたいと思っていた。父が自分自身を、彼が作り上げた暮らしを、いったいどう思っていたのかを知りたかった。生きていたって訊けなかっただろうが、そこにいないのならその機会すらないのだと、それだけを強く思っていた。  だからきっとあんな夢を見たのだ。そう答えてほしいと私が願う言葉を父にしゃべらせるために。  午前三時をまわったところだった。燃えないほうのゴミ袋をゴミ捨て場まで運び、顔を洗って歯を磨き、歯ブラシを口につっこんだままティーンエイジ・ファンクラブのCDをかけ、洗面所にいこうとして、しかし私はそのまま台所でコンピュータの電源を入れていた。  何か考えようとしたが無理だった。頭のなかは真っ白で、眠気だけが綿みたいにつまっていて、手だけが勝手に動いた。電話線をコンピュータにつなぐ、インターネット画面を出す、履歴からさっきまで見ていた旅行代理店を呼び出し、二週間後の、マレーシア航空コロンボいき片道切符の予約手続きをとっていた。乗り継ぎのためにマレーシアで一泊しなければならず、自分でも驚くほどの素速さでクアラルンプールの中級ホテルを検索し、数秒のうちに検討し、やはりここでも予約を済ませ、Tシャツに歯磨き粉がしたたり落ちてようやく、歯を磨いている最中だったことを思い出した。ティーンエイジ・ファンクラブが「Start again」をうたっていた。まるで話しかけるように。隣に座った父が語りかけていたみたいに。  今まで幾度も思ったことだが、がらんとした部屋を借りて、あれこれと荷物を運びこみ、足りないものを買いそろえ、部屋が自分のものらしく整うのはひどく時間がかかるのに、捨ててしまうのは一瞬といっていいほど素速く終わる。まだ新しい家具や電化製品は業者に引き取ってもらい、残りは粗大ゴミに出した。CDと本はすべて中古屋に二束三文で売り払い、ほとんどの服は捨てて、真新しいものは町子やユキノに譲り、そうしてしまうと、あっけないくらい何もなくなった。部屋にものがなくなってしまうと、自分が何ものでもないような解放感を覚える。何ものでもない、つまり何にでもなれる気分は、これまで幾度か味わってきて、それが錯覚だと知っているにしても、ダイエットに成功したような身軽さを感じずにはいられない。  何もなくなった部屋を隅々まで雑巾《ぞうきん》がけし、たえまなくしたたり落ちる汗を拭って部屋の真ん中に立つ。和室の畳はところどころ陽にやけて、台所の壁はうっすらと黄ばみ、食器棚や冷蔵庫のあった部分だけやけに白い。リノリウムに残った焼け焦げはふざけていて山口が落としたたばこのあとで、ふすまに残った赤い染みは友達がこぼした赤ワインだ。そんな具合に、生活の痕跡《こんせき》はあるが部屋のなかは下見にきたときと同じく何もない。まるで私みたいだと思う。新しく詰めこんで、うっすらと記憶を残しながらまたがらんどうに戻り、ふたたび新たなもので埋め尽くされるのをただ、待っている。けれど、こうして何もなければ隙間なんて言葉すらも思いつかないのだと、そんなことに改めて気づき、ずいぶん大きな発見をした気分になる。  窓の外には彼方まで連なる屋根と、ところどころに突き出た広告看板、幾筋もの電線、それらを覆うようにペンキじみた青空がある。幾度も幾度も見慣れてきたその光景に蓋《ふた》をするよう窓を閉じ、私は部屋を出る。  早朝の電車は出勤する人々で混んでいる。つい数日前まで私もこのなかの一員で、自分の場所を確保するため必死で人を押し遣《や》っていたのに、その混雑とささやかな戦闘にいらいらしている。MDのイヤホンを耳に入れることもできないほどの混みようで、気分をまぎらわすため、わざと心のなかで毒づいてみる。私はこれからこんな混雑と関係のないところにいくんだ。朝起きて仕事にいくあんたがたとは、まったく違うことをするんだ。どうだうらやましいだろう。  けれど新宿で電車をおり、空港いきのホームに向かうため彼らの群れから離れると急激に、どうしようもない心細さと、さみしさと、不安が私を襲う。家財道具を処分したときや、何もなくなった部屋から窓の外を眺めたときに感じた解放感はことごとく薄れ、次から次へと後悔にも似た感情があふれ出てくる。私はいったいどこへいくのだろう。どこへ向かおうとしているのだろう。  予約した電車が到着するまで三十分近くもあった。駅構内のファストフード店に入り、立ったままコーヒーを飲む。アイルランドヘ向かうときとも、目的もなくスペインに向かうときとも違う、高揚感もなく期待感もない。帰ってくる自分が思い描けない。すべて自分で決めて行動しているくせに、私はどこかでそんな自分にあきれている。  ひたすら下降していく気分をまぎらわすため、私はあわててナップザックからMDを取り出し、イヤホンを耳にねじこむ。店内に騒々しく流れていた、陽気な若い女たちの歌声が遠のき、ティーンエイジ・ファンクラブが静かにはじまる。  MDは昨日、泊めてもらった町子のアパートで編集録音した。洋服も洗面用具も必要最小限よりさらに少なかったが、MDだけは持っていくつもりだった。自分がどこにいるかわからなくなっても、その場にいる意味がわからなくなっても、自分で選んだ音楽を聴けばとりあえず持ちこたえられるような気がした。 「あんた前もこうしてテープ作ってたね」編集作業を見守りながら町子は言った。「野崎サル三に。おニャン子ファンのちび男にさ。どうしてるかなあ、野崎サル三」 「もういいかげん忘れてよ、若き日の恋はさ」 「そーいやあんた前もさー、わけわかんない理由で海外逃亡したよね、キャンプ用品一緒に買ったじゃん。どうしてるかなーのぶちん。あとエチカって女。エチカってインディーズで二枚くらいCD出してたよね、すぐ名前聞かなくなったけど」 「ぎゃはは、もういいって。それにしても町子、よく知ってるじゃん。私よかくわしいんじゃない?」 「まーそりゃ、あんたから男を奪った女だしさ、気にはするわな、って、いつから私こんな情念系なんだろ?」 「町子はもともと情念系だよ、同じ男と十年以上くっついてられたんだから」 「まーねー。だからきっとあんたが阿呆面《あほづら》下げて帰国するころ、私はこのしぶとい情念でニューワンをゲットして、巣作りに励んでると思うよ」 「だといーけどね」  シャック、プッシュ・キングス、アイヴィー、スポーツ・ギター、気に入りの曲を全部詰めこんで、三枚のMDを作り終えたのは午前一時近く、あわてて私と町子は枕を並べて部屋の明かりを落とした。なかなか眠りは訪れなかった。 「でもね、野崎サル公のためにテープ作ってたあんたが、自分のためにMD作ってさ、ちっとは進歩してるってことだよきっと」暗闇のなかで町子はそんなことをつぶやいた。 「あはは、気をつかってんの町子?」 「ううん、そう思っただけ。もう寝よ、明日早いでしょ」  それからしばらく私たちは黙った。目を閉じても眠れず、暗闇にぼんやり浮かび上がる、町子の部屋の見慣れた天井を眺めていた。 「椎名|林檎《りんご》は入れなくていいの?」町子は寝言のように言い、 「それはあんたの趣味でしょ」私は思わず笑いだした。  コーヒーを飲み干し、電車の発車時間が間近になっていることに気づき、急いで私は店を出る。背中のナップザックは軽くて、三十二歳になった自分が背負っているものはこれほどちっぽけだと告げられているような気がした。  電車が走りだし、座席について、地下を抜けてビルの林立する景色を見送ると、耳にねじこんだイヤホンから大音量でバイク・ライドの曲が流れだす。「Here comes the summer」という曲で、夏は終わろうとしているけれど、この電車がふたたび夏に向けてまっすぐ走っている気がしてくる。そうだ、これからいく場所はうんと暑いところなのだ、私はその暑さの種類を知らないし、そこで山口がどんなふうに笑ったり落ちこんだりしているのかも知らない。山口の顔を思い浮かべようとしてみるが、もはや彼の顔は薄ぼんやりした輪郭だけしか浮かばず、彼に会いにいくという実感が持てない。ただ私は、どこか遠くにある自分自身の中身をこれからとり戻しにいくような気がしている。不安や失望や心細さや疑問や、そんなものの合間をすり抜けて、電車はフルスピードで私を、どこか遠く、想像すら及ばない場所へと連れていく。 角川文庫『あしたはうんと遠くへいこう』平成17年2月25日初版発行