角川e文庫    幽剣抄 [#地から2字上げ]菊地秀行   目 次  影女房   茂助に関わる談合  這いずり   千鳥足  帰ってきた十三郎   子預け  似たもの同士   稽古相手  宿場の武士     影女房      1  下城の途路、|徒《かち》|目《め》|付《つけ》|大《おお》|堀《ぼり》|進《しん》|之《の》|介《すけ》は、もと同僚の|榊原久馬《さかきばらひさま》の家へ寄った。  久馬は|伯《ほう》|耆《き》流抜刀術の天才児として藩内でも名高かったが、それが災いして|禄《ろく》を失い、いまは近所の子供たちに剣や書を教えて生計をたてている。その腕が|錆《さび》つくのを惜しんで、同僚は上司に、上司は藩の上層部に、たびたび復職を訴えたが、さすがに居合の教授を求めた若殿をさんざんに打ちのめした罪は重く、いずれも成功していない。  ましてや、その久馬、二十四歳という若さで老人並みに偏屈なところがあり、同僚が、時節を待てといえば、おれは何も待ってはおらん、安っぽい同情などするなと追い返してしまい、上司の目付役|荘司《しょうじ》|伴《ばん》|内《ない》がひそかに勘定方と謀って月十両の待機手当というのを強引にでっち上げ、久馬の同僚に届けさせたところ、おまえたちの志なら受けるが、藩の職を追われた者が、藩の金を受け取れるか、帰れと|喚《わめ》き、それならと同僚が気持ちを包むや、貴様らおれを|憐《あわ》れむかと鯉口を切るありさまで、いつしか、しばらく放っておけという話になったのである。  しばらくというのがこの若者らしいところで、放置は期限つきなのである。ほとぼりがさめたら、またみんなでうるさく世話を焼いてやろうということで、どうやら少なからぬ人望があるらしい。  しかし、人望と長い間のひとり暮らしは別である。まして、久馬は身の|廻《まわ》りを構わない男と定評があった。  |十《とう》|矢《や》町にある久馬の家を訪れた同僚の話によると、玄関に立っただけでぷん、と汗の匂いが鼻を刺し、現われた久馬の風体は|髭《ひげ》ぼうぼうの着たきり雀。顔も着物も|垢《あか》じみて、通された部屋は万年床を囲む|埃《ほこり》まみれの書物の海——|這《ほう》|々《ほう》の体で逃げ出したという。  嫁がいれば問題はない。現に剣の技と長身|白《はく》|皙《せき》の男ぶりを買って、一時期は縁談が引きも切らなかったのである。中には大層な良縁もあった。|近習頭《きんじゅがしら》杉沢|主水《も ん ど》の娘|冴《さえ》は、町を歩けばどんな男もふり向くといわれた美女だったが、久馬は食わせていけぬと断わってしまった。同僚の|佐橋恭輔《さはしきょうすけ》の妹など、漢籍を|繙《ひもと》く|才《さい》|媛《えん》で、早くに亡くなった母の代わりに家事万端をこなすと言われたが、この断わり方が|凄《すご》かった。  兄の恭輔は久馬に引けをとらない美丈夫であった。久馬は彼に言った。おれよりいい男の妹が貰えるか。いつも兄が上、兄が上と念仏を唱えられるのは眼に見えている。この答えに、偏屈男の愛される理由が|揺《よう》|曳《えい》しているだろう。  同僚が集まれば、 「榊原に|娶《めと》らせねばならん」  とみなが腕を組み、 「しかしなぁ」  と、二つの前例を出して終わるのであった。  実は家を出ていることからもわかるように、久馬には以前、嫁がいた。この偏屈の眼に|適《かな》ったのはどんな奇矯な女かと、藩中が関心を寄せた。  にもかかわらず、嫁は平凡な娘だった。美女でもなく、漢籍も読まない。それなのに久馬との間に波風も立てず三年を送った後、病を得て亡くなった。久馬が二人目を貰わないのは、よほどその嫁が気に入っていたのだとみな|瞑《めい》|目《もく》した。  それが、 「榊原の家に女がいるらしい」  とひとりが言い出したのは、半月ばかり前のことであり、半月のあいだに|燎原《りょうげん》の火のごとく同僚たちの間に広まったのであった。  ところが、どんな女だ、となると、 「いや、おれの聞いたところでは、十七、八の町娘で、頬が桜のように紅いそうだ」  とか、 「噂によると、|丸《まる》|髷《まげ》の似合う|年《とし》|増《ま》で、どこぞやの家から離縁された寡婦だというぞ」  とかで、まるっきり当てにならない。  今日、大堀進之介が久馬のもとを訪れたのは、この一件の真実を明らかにするためであった。  意外にも、すぐに当人が現われ、 「何だ、貴様か」  と言った。露骨に迷惑そうな様子が、|却《かえ》って大堀の気分を明るくした。顔こそ著しく面やつれしているが、表情は明るい。髭もあたり、髪も洗っているようだ。 「用向きは何だ? さっさと言って帰れ」 「そう言うな。近くで飲んで|喉《のど》が渇いた。水でも貰おうか、上がるぞ」  こう出ると、久馬は引っ込む。藩中、榊原を扱うなら大堀だ、と|謳《うた》われたのは決して|伊《だ》|達《て》ではない。 「飲み助め」  と|罵《ののし》りながら、大小を腰から抜いた大堀を見てあきらめたか、奥座敷へ通した。  ひと目見て、  ——本物だ  と大堀は胸の中で|唸《うな》った。  ここまできれいに整えられた男の部屋というのを見た覚えはない。  布団は畳まれ、書籍はきちんと部屋の隅に積まれて、畳には|塵《ちり》ひとつ残っていないように見える。  お前がしたのか、と口を衝きそうになり、あわてて止めた。おお、とでもいわれたら、おかしく[#「おかしく」に傍点]なりかねない。 「立っておれ」  と久馬は命じた。 「いま、水を汲んで来てやる。飲んだらさっさと出て行け」  台所へ向かう後ろ姿を見送りながら、大堀は思案した。  この家に女がいるのは間違いない。いまは留守らしいが、|整《せい》|頓《とん》ぶりを見れば、その存在は疑いようもない。久馬の迷惑ぶりは少し異様にしても、あの性格からすれば、いつの間にか一緒に暮らしている女房を改めて紹介するなど、打首、獄門に勝る恥辱だろう。  ——もう用はない。水を飲んで帰ろう  久馬はひしゃくに水を汲んで戻って来た。  受け取ってきゅう[#「きゅう」に傍点]と|飲《や》り、 「ああ、うまい。酒で|爛《ただ》れた腹が元に戻る」  と言って返した。 「何がおかしい?」  |咎《とが》める久馬へ、にやにやと、 「隅に置けんじゃないか。この色男」 「何処の隅へだ? おかしな言いがかりをつけると許さんぞ。とっとと帰れ」 「見たぞ」  と大堀は自信たっぷりに言った。負ける気は全然しない。 「——何をだ?」 「おまえが来る少し前、そっちから廊下を通って台所の方へ消えた。横顔をちらりと眺めただけだが、美女だなあ。|衣裳《いしょう》からして町娘か。是非とも挨拶をさせてくれ」 「ここに女はおらん」  と久馬は断言した。 「またまた。残念ながら、おれは見てしまったのだぞ」 「何を見たか知らんが、多分、夢だ。帰れ。帰らんと」  刀掛けの方を向いたので、大堀はあわてた。 「わかった。帰る。しかし、女と暮らしているならいるで、一刻も早く我らに紹介した方がいいぞ」 「余計なことを——」  ついに、久馬の長身が刀掛けへと走ったので、大堀はあわてて玄関へ出て、きちんと草履をはいてから逃げ出した。  友人の足音が遠ざかるのを確認してから、念のため外へ出て確かめ、久馬は閉じた障紙をもう一度開けて、台所の方へ、 「|小《さ》|夜《よ》」  と呼んだ。 「はい」  返事は背後でした。  ふり向くと、部屋の隅に、異様に青白い顔の女が立っていた。  すらりとのびた|鼻梁《びりょう》だけで美女と断定しても構うまい。だが、いつからそこにいた[#「そこにいた」に傍点]のか、この美女は? 「邪魔者は去った」 「良かった」  女は答えた。言葉遣いは町人のものだが、陰々たる声であった。顔は少しも笑っていない。 「そろそろ人目に付きはじめた。消えておれ」 「昼の間はそうしてます。ですから、さっきもあの方には見られませんでした」 「見たと言っておる」 「たまにそういうこともあるようです」 「たま[#「たま」に傍点]でも困る。人の口から出た言葉は、どこまで広がるかわからん。大目付にでも知られたら厄介だぞ」  腕を組む天才剣士へ、小夜と呼ばれた娘は、青白い生気の乏しい顔を、さらに青白くさせて、 「ご安心下さいませ。私を成仏させて下さるまでは、どなたにも邪魔なんかさせません」  冷たい水が背中に貼りつくような声で応じた。  だが、大堀の意に反して、榊原家の新しい女房の話は、それ以上広まらなかった。大堀自身が止めたのである。  翌日、出仕した大堀は|朋《ほう》|輩《ばい》の田村忠明から、ひょっとしたら、と思わせるような話を耳にした。 「大川|縁《べり》に出るという噂があった女の幽霊な。このところ姿を見せんらしいぞ」  |徒《かち》|目《め》|付《つけ》は目付を補佐して、家中の|瑕《か》|疵《し》を探るのが使命だが、必然的に町人を含む世俗の事情にも詳しくならざるを得ない。その女幽霊の話を最初に城内へ運んで来たのも、田村だった。耳にした同僚の半数は面白がり、半数は眼もくれなかった。大堀は後者のひとりだが、どうやら、本当だったらしい。  二人の同僚で、雷神心鏡流の遣い手|蜂《はち》|谷《や》|孫《まご》|九《く》|郎《ろう》が川原へ赴いた。ふた月ばかり前の話である。そこで何があったのかはわからない。翌日から十日間、蜂谷は出仕しなかった。十一日目に顔を出したとき、別人のようにやつれ果てた姿に、居合わせた全員が総立ちになった。  その原因については誰も尋ねなかった。わかっていたからである。その夜、みなで飲み屋へ入った。居合わせた|小《こ》|普《ぶ》|請《しん》組の|八《や》|須《す》|本《もと》|伝《でん》|兵《べ》|衛《え》という飲み助が、酒の力を借りて、川原の一件を問い|質《ただ》した。みな、息を呑み——聞き耳をたてた。  蜂谷孫九郎の答えは短かった。 「——出た」  他の客もいるのに、店内は静まり返った。  蜂谷はそれから加持|祈《き》|祷《とう》に頼り、どうやら効験あらたかだったらしく、事件からひと月ほどで尋常の風体に戻った。  それが、また休んだ。大堀が久馬の家を訪れた四日後である。前のこともあるので、上司が見舞いに行った。  そこで彼は、青ざめた蜂谷がこう言うのを聞いたのである。 「あの女——榊原の家におる」  蜂谷の歯は、とめどなく鳴っていた。  上司は、大堀に榊原の家の探索を命じた。 「愚かな真似という気がしないでもないが、一応は家中のものに生じた怪異だ」  蜂谷の家は榊原家の近くというわけでもないが、たまたま、知り合いがおり、そこを訪れた帰りに久馬宅の前を通って、庭に立つ女を目撃したのだという。 「蜂谷は本復した報告と礼とを告げに知り合いのところへ行っていたのだ。それが、帰ったら元の|木《もく》|阿《あ》|弥《み》。皮肉というしかない」  大堀は黙って頭を下げた。      2  大堀の取った策は、徹底的な監視だった。  六日の間、女の姿は全く見られなかった。他の者ならともかく、大堀にとっては異常な事態である。あの整理された部屋、身ぎれいな久馬——それには女がいなくてはならないのだ。  昼は近所の子供たちが書道と剣術を学びに訪れ、庭で竹刀や木の枝をふり廻しているし、時折り久馬も出かける。大堀はその間に二度、旧友の家へ忍びこんだ。  猫の子一匹いない。  久馬は奥の八畳間を手習いに使っていた。帰った後はやはり汚れている。しばらく待ってみた。半刻たっても家の中で動く気配はなかった。女は何かの用事で実家に帰っているとも取れる。  十日ほど見張り、帰った気配のないのを確かめて、子供たちが来た翌日、もう一度侵入した。  久馬の寝床のみが乱れているだけで、他は、姿なき家事のこなし手の存在を如実に示していた。  大堀は結論を出さざるを得なかった。姿こそ見ていないが、女はいる。そして、夜しか現われない。  彼が久馬のもとを訪れたのは、さらに二日を経た深更であった。  不愉快そうな久馬の表情が、大堀を見た途端、一変した。  あきらめの顔つきに、ばれたか、と貼りついているのを大堀は読んだ。  奥の座敷で|対《たい》|峙《じ》すると、 「いま、見たぞ」  と大堀は言った。|遁《とん》|辞《じ》は許さんという気迫をこめた。ついに庭先に立つ女の姿を目撃したのである。その場から乗り込んだわけだ。 「うむ」  久馬は無愛想に認めた。 「確かに美しい|女《おな》|御《ご》だが、あの美しさはこの世のものではあるまい。肌などまるで血の気がない。——亡霊か?」 「おれより、当人に|訊《き》け」 「おお、そのつもりだ。どこにいる?」 「おまえの後ろだ」  身も世もない|恰《かっ》|好《こう》で、徒目付はふり返った。  眼の前に青白い女の顔があった。  うお、と叫んで右膝の脇に置いた刀を|掴《つか》んだ。 「よせ、斬れぬ」  と久馬は止めたが、すぐに、 「いや、斬ってみろ。その方が幽霊の有無をおれが百万言費すより早い」 「そう言われて斬れるか」  大堀は、鳴り出そうとする歯を必死に抑えた。  女は|美《び》|貌《ぼう》をうつ向け気味にして、やや上眼遣いでこちらを見上げている。大堀の女房もよくやる。何か|怨《うら》みがましいときの顔だ。ただし、万倍も怖い。 「知り合いか?」  やっと訊いた。刀は手から離さない。——というより離れないのである。 「いや」 「——では、何故、ここにいる? おぬし、まさか——」 「ふざけるな。おれは人など斬ってはおらん」  久馬が血相を変えたのには訳がある。二年ほど前、城下で辻斬りが激発し、七人ほどが斬られた。武士もひとりいて、これが十手術の名手として知られる同心だったから、腕が立つと評判になった。道場剣術に飽きて生身の人間を斬りたくなったのだというものもいれば、手に入れた刀の斬れ味を試すためだというものもいて、藩でも異例の探索を行ったが、犯人はいまだに捕まっておらず、|或《ある》いは藩の上層部の人間ではないかという風聞も広がったのである。 「わかった。——しかし、ならば、なぜ、おまえの家に出る? おまえに恋焦れて死んだとでもいうのか?」 「だったらどうする?」 「そうなのか!?」 「冗談だ。|莫《ば》|迦《か》|者《もの》」  久馬は|古《ふる》|馴《な》|染《じ》みの友人にだけ許される|罵《ば》|倒《とう》を口にした。それから、胸の中の凝塊をすべて吐き出してしまったみたいな、疲れた表情になって、 「だが、いまの言葉、ある意味で正しい。この女はその辻斬りに斬られた身の上なのだ」 「へえ」 「小夜と申します」  女は眼を伏せて名乗った。大堀は、はた、と膝を打った。 「覚えておるぞ。|蘇《そ》|我《が》町の織物問屋の娘であろう。——五人目の犠牲者だ」 「左様でございます」  刀を掴んだ手が楽になるのを大堀は感じた。 「ひとつ訊く。おまえは幽霊か?」 「はい」  うなずいた。妖気漂う声である。|人《ひ》|間《と》に出せぬこともないだろうが、鼓膜をゆするたびに、冷たいものが体内に広がっていくのが違う。 「榊原久馬に怨みがあって成仏できぬ身か?」 「いいえ。怨みなどございません」 「では、何故、ここにおる? 家に|憑《つ》いているわけでもあるまい」 「おまえ——大目付さまに告げ口をするか?」  久馬が業腹な内容を口にした。 「告げ口ではない。使命の結果を言上するだけだ」 「とにかく、しゃべる気か?」 「事情を聞かせろ。すべてはその後だ。本来なら何もかも包み隠さず申し上げるべきだが、もと|徒《かち》|目《め》|付《つけ》榊原久馬は女の幽霊と日々暮らしております、左様か、というわけにはいくまい」 「旦那さま」  小夜が、ぽつりと言った。 「この方が私のことを言上なされば、大目付さまは何をなさるでしょうか?」 「そうだな。手勢を集めて討ち取らせるというわけにはいくまい。おまえに刀剣は役に立たぬ。まずは、坊主かな。天林寺の和尚の読経は効き目があるそうだ」 「そのような。いけません」  小夜はよろめいて片手を畳に突いた。普通の女でも色っぽいが、幽霊がやると、ずっと|艶《なま》めかしいものだな、と大堀は妙なことを考えた。  妄想は、すぐに吹っとんだ。  小夜が、きっとこちらをにらんだのである。大堀は総毛立った。 「おまえさま、どうしても私のことを告げ口なさる気か?」  両眼に陰火が燃え立った。これが亡霊というものか、大堀の顔は、みるみる青ざめていった。  小夜はふらりと立ち上がった。足はある。 「どうしてもそうなさるつもりなら、私も身を守らなくちゃあなりません。いまここで、おまえさまを取り殺すしかありませんが、よろしいか?」 「おのれ、亡霊の分際で、生ある者を脅かすか」  大堀は大刀を左手に移し、右手を|柄《つか》にかけた。斬れるだろうかと思った。 「二人ともよせ」  久馬がうんざりしたように制した。 「進之介よ、報告したければせい。おまえをどうこうする気はない。ただ、小夜の願いを聞き届けるまで待っていてはくれぬか?」 「願い?」 「左様。小夜を無惨に斬り捨てた男を見つけ出し、断罪するまでの期間だ。それさえ約束してくれるなら、すべて話そう」 「話せ——約束できぬ」  小夜が、じろりと|一《いち》|瞥《べつ》して彼の血を凍らせ、久馬はにやりとした。左の肩をひとつ叩いて、 「相変わらずの石頭だな。よかろう、こういう事情だ」  大川|縁《べり》の亡霊の話は、ふた月前に久馬の耳に入った。  普通の武士なら|歯《し》|牙《が》にもかけないか、面白半分に|覗《のぞ》きに行くかするくらいだが、久馬は違った。本気で、  ——退治してくれる  と思ったのである。かといって|狐《こ》|狸《り》、妖怪、|変《へん》|化《げ》の|類《たぐい》を信じていたわけではない。おかしなもの[#「もの」に傍点]がこの世を脅かしているらしいから斬る、という程度の認識であった。おかしなものを信じてはいないが、存在するとなると許せないのである。幸い無役だ。我が身にどんな不都合があっても藩には迷惑がかからない。  で——ひと月ばかり前、幽霊が頻繁に目撃されるという川原の一地点に下りた。  初秋の風は涼しいが、まだ冷気と呼べるものは含んでいない。  月光の下に川の音ばかりがとめどなくつづき、水面は銀色のかがやきを放っていた。  川をはさんだ土手上の家々は寝静まり、遠い遊戯町のあたりに幾つかの明りがまたたいているばかりだ。  |佇《たたず》んでいるうちに、長い音が聞こえた。八つ(午前二時)を告げる|浄庵《じょうあん》寺の鐘である。  ——そろそろか  こう思って周囲を見渡したとき、背後——上流の方に人影が見えた。  白い着物を着た女だ。顔は青白い。ここまで認めてから、ぞっとした。女との距離は七、八間あるのに、額のほつれ毛まで見えるのだ。女は|提灯《ちょうちん》ひとつ持っていない。月光のおかげというには、あまりにも鮮明な印象であった。  ——あれだな  提灯を置いて鯉口を切った。一瞬、幽霊を斬れるのかと思ったが、たちまち闘志に変わった。  女がこちらに向かって歩き出したのだ。それが小走りになり、すぐに裾も乱した全力疾走に移った。  乱れた合わせ目から生々しい|太《ふと》|腿《もも》がのぞく。  川原の小石も蹴散らして迫るその姿に、  ——鬼か  と頭をかすめた|刹《せつ》|那《な》、二人は激突した。  伯耆流の一撃に仕損じはなかった。刀身は女の胴を割った。  にもかかわらず、久馬は|愕《がく》|然《ぜん》となった。|手《て》|応《ごた》えがなかったのである。 「変化め」  |呻《うめ》いてふり返ると、なおも川原を走り去る後ろ姿が青白く見えた。  尋常の場合なら、坊主を叩き起こして念仏を唱えてもらうか、厄落としに一杯|飲《や》るかだろうが、久馬はさっさと帰って寝ることにした。  ——今度出たら、叩き斬ってやる  気味が悪いとすら思っていなかった。  ところが、寝所に入って|行《あん》|燈《どん》を|点《つ》け、ひょいと右方を見ると、さっきの女がぼう[#「ぼう」に傍点]と正座しているではないか。  腰を抜かしてもおかしくない状態だが、久馬は跳びのいて抜き打ちの姿勢を取った。 「よくぞ参った。そこへ直れ」  女はうつ向き加減であったが、その姿勢を崩さず、 「いまの私は斬れません」  と言った。幽霊にしても正しい指摘である。久馬にもそれはわかっていた。 「もっともだ」  と言って刀身を収めてしまった。 「待っておれ。今、坊主か拝み屋を呼んで来る」  と背を向けたら、眼の前に女が腰を下ろしている。  変化がどうとかではなく、腹が立った。 「邪魔をいたすな」  いきなり蹴りつけると、何もない。障紙を開いた。廊下に坐っている。 「どうしても、行くんですか?」  伏目がちに|訊《き》かれた。 「無論だ。何なら実家で一杯飲ってきてもいいが、その間に消えているか?」 「それはできません」 「なら、坊主しかあるまい。迷惑だ」 「この御方ならと、お願いがあって参りました。話だけでも聞いて貰えませんか?」  すがるような口調を聞き分けて、久馬は女を見下ろした。娘といえるほど若い。十六、七の町娘である。それは物言いと服装でわかる。髪も|奴島田《やっこしまだ》だ。たたる理由もない相手のところへ出て来たのだ、それなりの|事情《わけ》があるのだろう、と考えた。偏屈の偏屈たる|所以《ゆ え ん》だ。 「その前に、名を聞こう」  幽霊の|表情《かお》も明るくなるということを久馬は知った。 「小夜と申します」 「親は存命か?」 「はい。蘇我町で織物問屋を営んでおります。私はそこの長女でございました」  話を聞いてもらえると知ってか、丁寧な口調に変わっている。  久馬は座敷の方へ向き直って言った。 「廊下で身の上話も何だ。奥で聞こう」      3  久馬が最も知りたいのは、亡霊と化した小夜が縁もゆかりもない自分のもとを訪れた|理由《わけ》であった。当人の口から明らかにされたそれを聞いて、彼は何度も太い首を傾げ、分厚い眉の下の細い眼を|瞬《しばたた》いて、 「おかしな娘だ」  と言った。的を射た評といえる。  小夜が殺されたのは|一昨年《おととし》の秋口である。  横木町にある友だちのお常の家へ行った帰りに襲われた。辻斬りは供の小僧をやり過し、小夜が通りすぎるとき、隠れていた横町から死神のように現われて、|袈《け》|裟《さ》掛けの殺人剣をふるったのだ。  だから、顔もわからない、と言う。  どうやら、化けて出れば憎い相手のところ、とはいかないものらしい。 「出る場所も違うな」  と久馬は問い詰めた。小夜が斬られたのは、町なかの路上だ。そこに出没すれば、幽霊の正体はすぐさま判明したはずだ。川原へ出る羽目になった理由は小夜にもわからない。  あなたのように腕の立つお侍さまを待っていたのでございます、と小夜は打ち明けた。  私には五つの頃から想い交わした|男《ひと》がおりました。同じ町内で、うちよりもずっと小さな店をやっている和平という男でございます。自分たちが一人前になったら一緒になろうという子供の頃の約束を、両親も笑って応援してくれましたが、いざ和平さんが奉公先から戻り、自分の店を開きますと、あんな小さなところに大事な娘はやれないと、私の願いなど爪の先に引っかけてもくれません。それでも私は頑張りました。和平さんも何度も居留守を使われ、店先で追い返されても|諦《あきら》めず、両親の説得に日参してくれました。  何度頭を下げても許してくれない両親の前で、とうとう私が|笄《こうがい》で|喉《のど》を突こうとしたとき、必死で止めて、何度でもお許しが出るまでお願いしようと言ってくれたのも和平さんでした。両親の態度が変わったのはそのときからでございます。  やがて許しは出た。嬉し泣きする小夜に、父親は|依《い》|怙《こ》|地《じ》になっていた父さんと母さんを堪忍しておくれと頭を下げた。 「私が殺されたのは、その三日後でございました」  ためいきをつく久馬に、あなたさまの剣で私の|仇《かたき》を討って下さいましと小夜は申し込んだ。 「しかし、相手もわからぬのに無理だろう」  と返すと、 「顔はわからずとも、剣の腕前はわかります。私の身体が覚えておりますから」  声と同時に小夜が背を向けるや、帯がゆるみ、着物が両肩からずり下がった。  血の気はないが、若い女の生々しい肌に久馬の眼は吸いついた。その右の首すじから左の肩甲骨の下にかけての肉が、ざっくりと割れ、鮮血が|溢《あふ》れ出した。  |驚愕《きょうがく》の叫びをこらえて、 「こら、畳を汚すな」  と|喚《わめ》くと、小夜は着物を戻した。血は少しも|滲《にじ》まず、畳にも|血《けっ》|痕《こん》ひとつ残っていなかった。 「剣には素人の私でも、あのときの発狂するような痛みは覚えています。不思議に腕前もわかります。あれほどの腕前のお武家さまが、この藩にさほどいるとは思えません。あなたさまにお心当りはございませんか。なくても、藩内の剣術の御名人方に、ひとりひとり会って下されば、私の方で見つけます」 「しかし、顔を知らぬのであろう」  当然の疑念に小夜は答えず、 「あなたさまの剣では、私を殺した御方に勝てません。これから、ご鍛錬下さい」 「待て。わしはおまえの仇を討つなどと言ってはおらんぞ。迷惑だ」 「あなたさまはお武家さまでございましょう。自分より腕の立つ御方がいて、|口《く》|惜《や》しくはないのですか?」 「別段、口惜しくなどないな。おまえも、他人の力を借りて成仏したいのであれば、他の人間を捜せ。わし以上の剣を遣う者は他にもおる」 「私は伺えません」 「では、仕方がない。川原で待つことだ。そのうち、わしのような酔狂者がやってくるかも知れん」 「来ないかも知れません。私も毎晩、出られるわけではないのです」 「なら、諦めろ」  言ってから、久馬は異常を感じた。身体が急速に冷えていく。 「おい、何をする?」 「あなたは私を斬ろうとなさいました。その前にもひとり、お侍さまが参りましたが、そちらは面白半分でした。今では半病人でございます。あなたには、もっと|酷《ひど》い運命を与えて差し上げます」 「おい、それは筋違いだろう。わしのところへ出られるなら、おまえを斬った奴のところへも行けるはずだ。そいつを取り殺せ」 「あなたに斬っていただきたいのです」 「どうしてだ?」 「あのお武家さまは、自分より強い者が許せないお人でございます。私たちを斬ったのもその腕を磨くための、いわば試し斬り。そのような人間は、他人の剣の前に、絶望に|苛《さいな》まれながら死んでいくのが当然の報いではございませんか」 「かも知れぬが、わしの役ではないよ。お前の胸の|裡《うち》もわかる。気の毒だとも、無理もないとも思うが、その|怨《うら》みを晴らすために、そいつと生命のやり取りをする気はない。他の人間を当たれ。そうだ、お前の|許婚者《いいなずけ》だという和平とかいう男、あれに事情を話せばよかろう」  沈黙が落ちた。ひどく間の悪い沈黙であった。 「……できません」  そう言った小夜の眼から涙がこぼれ落ちた。  ——鬼の、いや、亡霊の眼にも涙か  光るすじを|凝《じっ》と見やる久馬の耳に、いままでの声音など笑い声としか思えぬ、無限の怨みをこめた声がやって来た。 「和平さんは、この世におりません。七人目——私の仇を討とうとして、最後に斬られたのが、あの人だったんです」  翌日、大堀進之介は上司の下へ行き、謹んでこう報告した。 「探索をつづけておりますが、榊原の家に特定の女人が出入りしている気配はありません。一、二の目撃例は、家事のために雇われた近所の女房と思われます」  奇妙なことになったと、久馬は内心、頭を抱えている。 「わしが仇を討つとは約束できんが、仇を捜す手伝いはしてやろう。それが不満なら取り殺すなりなんなりせい」  こうまで妥協したのは、久馬なりに小夜の運命に同情を感じたからである。  将来を誓い合った若者たちの片方を無惨に斬り捨てた。それも女を闇夜に後ろからである。剣に身命を削った男の所業ではなかった。七人目——和平の死に様は風聞だが耳にした。  古道具屋で買い求めたらしい道中差しを手に夜ごと、辻斬りが|徘《はい》|徊《かい》しそうな町筋を歩いてついに斬られた。傷は三ヶ所あった。いずれも|深《ふか》|傷《で》である。奉行所に縁あって検視を頼まれた町道場の師範は、 「この腕ならひと太刀で殺せたものを——|嬲《なぶ》り殺しだな」  と断言した。  和平の刀身は|鞘《さや》に収まったままであったという。恋人の仇にせめてひと太刀とすがった得物は、何の役にも立たなかったのだ。それを抜こうとしながら、実直な織物屋は三度も殺された。  下手人に対する義憤は、さしもの偏屈屋の胸にもある。だが、斬り合いとなると別だ。父も弟の数馬も出仕している。幽霊に助勢して人を斬ったと言って、彼らの|禄《ろく》と榊原の家名を奪い去ることは許されない。  加えて、相手が藩内でそれなりの地位にある人間だという意識が強かった。  辻斬りが大層な剣の|手《て》|練《だれ》だというのは、藩の誰もが認めていたことである。半ば公然と遣い手の名が幾つも挙げられた。  中でも頻繁に人の口に上った——怪しいといわれたのは、江戸詰めの際、小野派一刀流を学んで以前とは格段に腕を上げたといわれる番頭の鈴木省八と御旗組の桜井右門だった。桜井は城下の|据《すえ》|木《き》道場で体捨流の奥義を究めた男である。鈴木が三十九歳、桜井は四十歳だが、剣は円熟の域に達している。  疑惑の三人目は榊原久馬であった。出会い頭に勝ちを決める抜刀術は、尋常の剣を学ぶ者たちから低く見られがちだが、久馬の場合はあくまでもその技の切れと人間性が、軽視を許さなかった。ところが、いざこういう事態になると、 「榊原な、あいつは怪しい」 「あの偏屈ぶりなら、夜ごと外へ出て人を斬って歩くかも知れん」  類似の秘語が幾つも交わされ、おかしな眼で見る者も出て来た。その誰もが、その場で久馬に一喝され、抜くかと言われて口をつぐんだ。  以上の三名に匹敵する遣い手は、御小姓組の|森《もり》|脇《わき》|左《さ》|藤《とう》|次《じ》と小普請組の|世《せ》|良《ら》|摩《ま》|久《く》|米《べ》がいたが、久馬は最初からこの二人を除外していた。|徒《かち》|目《め》|付《つけ》時代に、藩主の|佩《はい》|刀《とう》が行方知れずになるという事件が|出来《しゅったい》し、内々に二人を調べ上げたことがある。どちらも辻斬りなどという陰湿な行為にふける若者ではなかった。  そして|現在《いま》、藩の組頭を務め、次期中老職は不動といわれる|垂《たる》|水《み》|嘉《か》|門《もん》こそ辻斬りの真犯人ではないかと、榊原久馬が推定したのも、前述の二人と同じ理由で身辺を洗った数年前の結果によるものであった。  嘉門は若い頃から影心明智流の道場に通い、十七歳で師範代を務めるほどの|天《てん》|稟《ぴん》を示した|麒《き》|麟《りん》|児《じ》であったが、半年で師範代を降ろされた経緯がある。  久馬はこれを大堀進之介から聞いた。彼の|叔《お》|父《じ》が嘉門と同じ道場に通っていたのである。  嘉門は常に、剣の妙技は人を斬らねばわからぬと言い、師範代でいるとき、路上ですれ違ったやくざたちの手が鞘に触れたという理由で三人を斬殺した。生き残ったやくざは、鞘になど触れなかったと主張したが、これはいわば水かけ論で、藩士たる嘉門の主張が通った。師範の佐治原流斎が師範代の地位を解いたのは、しかし、それが理由ではなかったと言われる。  後に嘉門は剣よりも政事の方で頭角を現わし、農政における政策が藩主の気に入られて、加増につぐ加増、五十石の家禄は現在、四百五十石にまで達して揺るぎがない。  これでは、辻斬りの容疑をかけられていると耳に入っただけで、大目付の首が飛びかねないし、久馬の名前がちら[#「ちら」に傍点]と出ただけで、榊原家は改易の断を下されるに違いない。辻斬り事件のとき、誰もが胸に垂水嘉門の名を浮かべ、ひとりとして口にしなかったのは、このせいであった。  ——それでもいいが  と久馬の体内に|蠢《うごめ》く偏屈が、ぶつくさ言う。  ——現在のおれの抜刀術で、垂水さまに及ぶかどうか  嘉門が激務の合間を見ては、影心明智流道場の現師範を家へ呼び、剣の精進を欠かしていないのは周知の事実だった。噂では師範と五分、良くすれば三本に二本は取るという。  ——勝てぬなあ  と久馬も思わざるを得ない。その点で小夜の指摘は正しかったのである。  小夜は会えば辻斬りの犯人がわかるというが、いくら何でも幽霊の証言を信じて組頭に縄をかけるわけにはいかない。辻斬りの証拠も二年も経っていては|掴《つか》むのが難しく、また掴んでも握りつぶされる恐れが多分にある。  ——まずは、小夜と垂水を会わせることだが、はて      4  中々に踏ん切りのつかないうちに、久馬の生活はますます変わっていった。  小夜は非常に世話好きだったのである。  |仇《かたき》を討つとは約束できんが|云《うん》|々《ぬん》の返事を聞いた後、小夜は別段、感激した風も見せなかったが、亡霊の内心では恩に着ていたらしい。  陽が西の空に|滲《にじ》む頃になると|忽《こつ》|然《ぜん》と現われ、せっせ[#「せっせ」に傍点]と久馬の身の廻りの世話をするようになった。  万年床、書物は散らし放題、汚れた食器は台所に積まれ、歩けば|埃《ほこり》が舞い上がる——誰の眼にも改善の余地なしと映る廃屋が、一夜のうちに人の住む家に変わった。しかも、家人のうちのひとりはきれい好き[#「きれい好き」に傍点]であった。  朝、眼を|醒《さ》まして口をゆすいでいると、朝食の膳が出来ている。それ以前から漂う味噌汁の匂いに、久馬はふと、何もかも母にまかせて心配いらなかった実家にいるような錯覚に|捉《とら》われた。  食事のとき、小夜は給仕もする。幽霊によそって貰った飯を最初に口にしたときは、ささやかな決意を必要としたが、別段、おかしなところはなかった。  膳の前に着く折、 「おまえ、お天道さまの下にも出られるのか?」  と|訊《き》いてみた。 「そんなときもあります」  と返ってきた。後にわかったことだが、逆に夜現われない場合もある。成程、幽霊に人間の常識は当てはまらんのだな、と久馬は納得した。  |夕《ゆう》|餉《げ》も申し分なかった。唯一の欠点は給仕する姿も、そばで控えているときも、青ざめた死人そのものに見えることで、どうにも陰気臭い。 「一緒に食わんか?」  と言っても、いいえと首をふり、うつ向き加減に久馬の終わるのを待っている。確かに幽霊に飯は必要あるまい。  一度、紅でもつけぬかと冗談半分で口にしたら、|凄《すご》い眼つきでにらまれ、断念せざるを得なかった。  昼の間、久馬は近所の子供たち相手に書道と剣術の稽古をつける。|糧《たつき》の道である。その剣の腕を惜しんで、道場からも声がかかるが、そのたびに、 「ならばなぜ、お役御免になったとき言ってこなかった」  と偏屈が顔を出す。子供相手の場合も同様で、よせよせと自分でも思いながら、下手に達者な習字を見ると、欠点ばかりをあげつらって悪いのを誉めてしまう。  自信のあった子は泣き出し、途中で家へ帰ると次からはもう来ない。おかげで一時期、子供の数が激減した。これが、小夜が来てから変わった。  相も変わらず言論が偏屈という名の馬に乗って、暴走を開始する。泣きじゃくる子供が部屋を飛び出してしまう。ここまでは同じだが、しばらくするとその子は戻って来て、妙に素直な顔で席に着く。  帰り支度をしているとき、何があったのかと訊いた。泣きながら表へ出た女の子を、丁度通りかかった町娘が慰め、話を聞いて、その先生は少し|臍《へそ》が曲がっている。いいもの[#「もの」に傍点]はけなし、悪いものを誉める癖がある。自分もあの先生に教えを受けて、今では習字の塾を開いている。けなされた方がいいんだ、と励まされて戻る気になったという。  一発で小夜とわかった。家の外で娘を捕まえたのは、家の中だと子供の口からおかしな噂が広まるからだろう。  その話を聞いてから、久馬も子供相手には抑えるように心掛けたせいで生徒の定着率は随分と良くなった。  剣の稽古ともなると、道着は汚れるし、それを買う余裕のない子供たちの衣服も裂けたり破れたりは日常茶飯事である。  ある晩、小夜が、次からは衣類を置いていかせなさいとささやいた。翌日、それを告げると、山のように集まった汗臭い塊を、夜を徹して水洗いし、翌朝、物干し竿にかけてある。破れ目も丁寧に繕ってあるのを見て、久馬は舌を巻いた。人間技ではない。子供たちの中には、裕福な家の者もおり、こちらの先生は男の身で母親のような気遣いをして下さると、親や使用人がつけ届けをするようになった。|饅頭《まんじゅう》や菓子の|類《たぐい》は子供たちと一緒に食い、酒類はひとりで|飲《や》り、たまにある金子はびた一文残さず返却した。 「なぜ、返すんですか?」  と小夜に訊かれたことがある。 「ひとり暮らしなら、書と剣の謝礼で十分だ。おまえは金がかからん」  小夜は、例の血も凍る上眼遣いで久馬を見つめ、 「おかしな方」  と言った。  ——おまえに言われたくはないわ、この幽霊め  久馬は内心でののしったが、無論、口には出さなかった。  外出時の身仕度も小夜はこなし、久馬の顔を見ては、|髭《ひげ》をあたれ、髪を洗えと指図めいた言辞を|弄《ろう》するようになった。  不気味な迫力に押されて従ったものの、どうにも面白くない。明日から思いきり髭も|月代《さかやき》ものばしてやろうと決心して帰りかけると、偶然出会った顔|馴《な》|染《じ》みの大工が、 「奥さまでもお貰いなさったんですかい。けれど、あれですね、あっしらにはやっぱり、前の、こう不精な感じの榊原さまの方が」  それから毎日、久馬は髭と月代の手入れをするようになった。  現実問題として、小夜の存在は大いに久馬の日常に潤いを与えたが、その姿が時折り目撃されると、以前からの懸念どおり厄介な事態に遭遇する羽目になった。  大堀進之介の訪問もそのひとつだが、女がいるという噂を聞きつけて、実家の母が飛んで来たのである。  整理された家の中をひとめ見るなり、 「どちらの娘御ですか?」  と眼を光らせた。  久馬もお互いの人間性を|知《ち》|悉《しつ》しているから、隠しても無駄と、 「近所の左官屋の女房に来てもらっています」  嘘をつくことにした。 「嘘おっしゃい」  と母は一喝した。 「私の耳に入ったのは、十六、七の町娘ということです。文代さんのことも忘れて、おまえときたらもう」 「いや、誤解です」  文代とは病死した前妻の名前である。顔は人並みだが気立ての良いやさしい女だった。久馬も忘れてなどいない。だからこそ——|無《む》|禄《ろく》のせいもあるが——新しい女房は貰わずに来たのだ。  しかし、久馬は母の言にひたすら従順な態度を取った。ご無理ごもっとも、一刻も早くお帰り下さいを採用したのである。窓の外では陽が沈みかけている。  たっぷり一刻——二時間——の説教を済ませて、母は最後に意気揚々と、 「おまえも榊原の総領——まだこれからの身です。くれぐれも身を慎んで、おかしな女などに心引かれぬようになさい」 「心得ております」 「いらっしゃいませ」  背後からかけられた女の声に、母は|愕《がく》|然《ぜん》とふり向き、久馬ははじめて絶望を味わった。 「あなたは?」  丁寧にお辞儀をする小夜への問い|質《ただ》しには、少しの|怯《おび》えも含まれていなかった。 「小夜と申します。久馬さまには女房同様のお情けを|頂戴《ちょうだい》しております」  憤然と母が帰った後で、久馬は|呆《あき》れ果てたように、 「なぜ、あんなところへ出て来た? 何もかも首尾よく終わったものを」  となじった。 「だって|口《く》|惜《や》しいじゃありませんか」  小夜は、いつもより強い意志を感じさせる声で反論した。 「私は我慢します。でも、久馬さまを、まるで、見境のない色狂いのように」 「なに?」  久馬は思わずしげしげと、青白い|怨《うら》めしそうな顔を|覗《のぞ》きこんだ。 「わしがなじられたので怒っておるのか?」 「いえ」  と答えて、小夜は眼をそらせた。  気まずいくせに心地良い空気が二人を厚く包んだ。  先制攻撃をかけたのは、久馬であった。 「母上はおまえの正体に気づかなかったな。何故だ?」 「わかりません。時折り、ああいう方がいます。神仏の御加護が強いのでしょう」  母は天台の猛烈な信者である。 「しかし、あの様子では、また来るぞ。これで気楽な暮らしだったが、どうやら終わりらしい」 「お母さまは、私を追い出すおつもりでしょうか?」 「そうなるだろう。おまえの|実家《さと》へ行かせるわけにもいかんしな」  久馬は腕組みをし、難しい表情になった。 「おまえ、あれ[#「あれ」に傍点]とうまくやれるか?」 「自信はありません」  と答えてから、小夜は——幽霊にしては——明るい表情になった。 「私——ここにいてもよろしいのでしょうか?」  この女にも気がねがあったのかと、久馬は驚いた。 「今更何を言っておる。そうか、母上に頼んで坊主を呼んでもらえばいいのだな」 「どうして、そんな意地の悪いことを言うんですか?」  町娘そのものの言葉遣いになって、小夜は抗議した。 「決まっておる。厄払いだ」 「私、負けません」  身を震わせて言った。部屋の空気が音をたてて冷えていくような気が久馬にはした。  母は翌日から毎日やって来た。久馬の読みは適中したのである。 「昼の間はいないのですか?」  とか言いながら、子供たちが帰るとそそくさと衣類を洗いはじめる。  六十を越しているから、久馬も泡を食い、 「母上、左様なことは小夜がいたします」  と言ってしまった。想像どおりのことが起こった。 「あのような若さだけが取り得の町娘に何ができます。まして、おまえのように、一から十まで母の手をわずらわせていた子が、それで満足できるはずもない。私は文代さんにも不満でした。夜しか来ない幽霊のような娘ならそれでもよろしい。ですが、おまえの身の|廻《まわ》りの世話は、当分、私がいたします」 「いや、それは困ります。この|年《と》|齢《し》で母上の世話になっていては、面目が立ちません」  母親に世話を焼いてもらう偏屈ものでは、確かに様になるまい。  自分がどうこうよりも、母は小夜に敵対したいのだと久馬にもわかっている。  夜になって小夜が来ると、早速、母が洗った衣類を見て、 「|揉《も》み洗いが足りません。ご無理をなさいませんように」  と言えば、母の方も、 「では、味付けを拝見しましょう」  と小夜に夕食を作らせ、 「お塩が濃すぎます。武士の家では、もっと品のよろしいお味付けを好みます」  ひと口で|箸《はし》を置いてしまう。  すると、 「では、久馬さまに決めていただきましょう」  となって、二人の女の眼に貫かれた久馬は、腕組みして宙を仰いでしまう。置かれた状況を考えれば、母に味方した方が利点が多い。そこで偏屈の虫が眼を|醒《さ》まして、小夜につけと命じる。しかし、そうなると、母は小夜の身元をとことん調べ上げ、幽霊だと知ったら、それこそ坊主の千人も引っ張って来かねない。小夜と和平の人生を奪った犯人を、何とか断罪してやりたいという気持ちは久馬にもあった。  ふうむと立ち上がり、ふうむふうむと|唸《うな》りながら、部屋を出て行ってしまう。後にはそっぽを向き合った新旧二人の女が残される。  母が昼間だけ来てくれればいいのだが、張り合うのが目的だから夜まで居坐る。小夜が朝飯もつくってくれると|洩《も》らすと、では、と七つ——午前四時——に乗り込んできて、干物を焼き飯を炊く。ついに出足の遅い小夜の仕事は失くなってしまった。  母が干し物を畳み、夕食の仕度をするのを、部屋の隅でじいと眺めている。幽霊だからもともと|怨《うら》めしそうなのに輪がかかって、まともな神経の女なら逃げ出したくなるところだが、久馬の母はびくともしない。敵の怨みは勝利の美酒だとばかり、ますます世話焼きに拍車がかかっていく。 「私、口惜しい」  母が来てからひと月ほど経った晩に、小夜はぽつりと|洩《も》らした。 「私のしていたことが、みいんなお母さまに取られてしまう。|仇《かたき》を捜してもらう御礼もできません」  そりゃしめたと思いながら、久馬はまた正反対のことを言ってしまう。 「何だ。だらしのない。幽霊が生身の人間に負けていてどうする? いい手があるだろう、|祟《たた》れ祟れ」  自分の母親に祟れというのも相当なものだが、これは小夜が母には歯が立たないというのを見越しての発言である。  はたして、小夜は、 「やってみます」  幽霊とは思えぬ激しい決意を浮かべてうなずいた。  これはしまった、目算が外れたと久馬はあわて、翌日の早朝、無事に訪れた母の姿にとりあえず胸を|撫《な》で下ろした。  そのくせ、小夜が反撃に移らなかったとは思えず、 「昨夜から、何か変事はございませんでしたかな?」  と怖る怖る|訊《き》いてみた。 「何も」  と台所で仕度を整えながら答える声は平然たるものだ。 「そういえば——夜半に女のすすり泣きのようなものが聞こえたり、先刻、ここへ来る途中、石につまずいてころびかけましたが……おお、そうだ、すれ違う者がみな、私の方をおかしな眼で見ていたようですが、顔に何かついておりますか?」  いえ、後ろに、と久馬は言いたかった。朝から背中に青白い女亡者を貼りつけて道を行く武士の妻を、通行人たちは心の臓も止まる思いで見つめたに違いない。 「お加減はいかがですか、長歩きで疲れたとか、胃の具合がおかしいとか」 「何も。あの娘が呪いでもかけぬ限り、私は無事ですわ」  呪いねえ、と胸の中でつぶやいたとき、|竈《かまど》の前に|屈《かが》んでいた母が、急に尻餅を突くや、腰に手を当てて後ろへ引っくり返った。  痛たたた………つぶれたような苦鳴も、この母が上げるとなれば悲鳴と同じだ。 「母上」  久馬は駆け寄った。腰を痛めたに違いない。勝利の後に|陥《かん》|穽《せい》が待っていたのである。 「|驕《おご》る平家は久しからず、か」  |呻《しん》|吟《ぎん》する母を運ぼうと身を屈めながらつぶやいたが、 「何ですと」  と|質《ただ》され口をつぐんだ。中々、しぶとい。  寝間に布団を敷いて休ませたところで気がつくと、枕もとに小夜が正座し、じっと母を見下ろしていた。  背すじに冷たいものが流れた。 「おい——まさか、おまえが?」  何とか青白い肌と区別がつくだけの唇に、心なしかうすい笑みが走ったような気がした。  小夜はかぶりをふって、 「とんでもない。お腰を痛められましたので?」 「そうだ。もう|老齢《とし》だからな」 「驕る平家は久しからず」  眼を閉じて痛みに耐えていた母が、きっと上を見て、 「何ですと?」 「いえ、何でも——痛みます?」 「………」 「横をお向きになられますか、お|揉《も》みいたしましょう」  久馬は声を出しかけてやめた。|寵愛《ちょうあい》を奪われた正室の呪いが、若い側室の乳房に手形となって貼りつき、地獄の苦痛を与えるという怪異談を想起したのである。  だが、|杞《き》|憂《ゆう》だったようだ。  久馬も手を貸して横にさせた母の腰に、小夜の手が触れると、 「おや?」  驚きと喜びの入り混じった声が上がった。 「何と冷えて気持の良い。おや、おや、痛みが引いていきますぞ。あなたは、よほど、御両親を揉み慣れていらっしゃるのでしょう」 「はい。二人とも腰に病を抱えておりまして、日に三度ずつ揉んでおりました」 「そうでしょう。でなくては、こうはいきません。おお、私が頼んだどんな|按《あん》|摩《ま》よりも巧みな。これは手と指の技ばかりではありません。心がこもっていなくては、こうはいきませんぞ」 「それがしも随分とお揉みいたしましたぞ」  心外に思って久馬は|嘴《くちばし》を入れた。母はうっとりと小夜の指に身を|委《ゆだ》ねたまま、 「おまえのは荒々しいばかりで。お父さまもそうでした。家の男たちは力ばかりを頼んで、女の身体というものを理解しておりません。そもそもおまえはお父さまと——」  久馬はそそくさと座を立った。  隣で耳を澄ませていると、四半刻ほどして、|襖《ふすま》の向うから安らかな寝息が聞こえてきた。 「お|寝《やす》みになりました」  背後に小夜がいた。 「脅かすな。——母上は無事だろうな」 「何か誤解なさっていませんか?」 「ふむ」 「おかあさまにお年齢を聞きました。うちの母と二つ違いでございます。母を揉んでいるような気持になりました」 「母御のところに出てやったらどうだ? 幽霊とはいえ嬉しかろう」 「出来ません」  小夜は眼を伏せた。幽霊の都合があるのだろう。悪いことを言ったと久馬は|詫《わ》びた。 「——で、私と和平さんを斬り捨てた下手人の手がかりは?」 「いま少し待て」  と久馬は|呻《うめ》いた。  垂水嘉門については、大堀進之介に頼んで探索してもらっている。辻斬りの件がはっきりしない限り、容易に手は出せないのだ。次期中老の席を目前にした大物がたとえ下手人だったとしても、よしんば、小夜が|怨霊《おんりょう》の力をもって仇を討ったとしても、父母に累が及ぶのは耐え難い。小夜の姿は蜂谷にも目撃されているし、他にも見た者がいないとは限らない。万がいち、久馬が断罪されれば父母も無事では済むまい。それだけは避けたかった。いや、いまの母を見ていたら、避けねばならないと思った。 「じきに結果が出る。いま少し待っておれ」  小夜の方を見ずに繰り返した。  大堀が訪れたのは、その深更であった。辻斬りの証拠は見当たらん、と彼は言った。 「ただ、性癖に異常を持っておられるのは、確かだ。去年、下男の忠三というのが暇を出されたが、これが故郷の三登部村へ帰る途中で殺害されておる。一応、|物《もの》|盗《と》りの仕業で決着がついたが……」 「口封じか」 「恐らく。|袈《け》|裟《さ》掛けのひと太刀と奉行所の記録にある。辻斬りの手口だ」 「垂水さまの剣は?」 「相手の攻撃を下段から地ずりで跳ね上げ、袈裟掛けに。——こうだ」 「合うなあ」 「合う。だが、二年前の事件とは結びつけられぬ。おれの感触では無理だ」  すると、直接、小夜を垂水に会わせるしかないか。久馬は時期が来たと思った。 「ところで——おれの報酬だが」  と大堀が固い声を出した。 「済まぬ。今日は用意しておらん」 「わかっておる。だが、おれもかなり危ない橋を渡っている。女房の具合もある。わかってくれ」 「無論だ」  大堀の家では、三つ下の女房が胸を病んでいた。医者は温泉への療養を勧め、今なら完治すると保証した。大堀がはなはだ危険な役目を引き受けたのは、久馬との付き合いの他にそれ[#「それ」に傍点]もある。今の彼には友情よりも金子の方がより重要なのだ。  三日以内に用意すると言って大堀を帰してから、久馬は下腹のあたりがずっしりと重くなっているのを感じた。約束した金子はかなりの額である。そのときは何とかなると思ったのだが、当てにしていた実家へ無心に行くと、あっさりと父に断わられた。女房も持たず、浮草のような生き方をしている|倅《せがれ》に与える金はないと、一刻者の父は鬼の顔をつくった。  やむを得ず、あれこれ|伝《つ》|手《て》を求めたが、目下のところ半分しか集まっていない。それを渡して残りは後日、などというのは久馬の誇りが許さなかった。  どうしたものか、と思案中に、 「お話を聞かせていただきました」  と小夜がまた背後で言った。母についていろと命じておいたのに、立ち聞いていたらしい。 「無礼者——手打ちにいたすぞ」 「お受けいたします」  と言い合い、顔を見合わせて笑った。久馬は母を起こさぬ程度に、小夜は不気味に——しかし、どちらも明るかった。知らぬ間に、そんな感情を交流できる段階に達していたらしい。 「みな忘れろ」  と久馬は命じた。小夜はかぶりをふって、 「金子の件はまかせて下さい」  と言った。 「余計な気を廻すな。|閻《えん》|魔《ま》にでも借りるつもりか」 「それよりも、その垂水嘉門——その御方が下手人なのですね」 「まだ、わからん」 「私が会えばわかります。会わせて下さい」 「いずれ、な。何もかも一気に運ぶには相手が大物すぎる」 「ご迷惑はかけません」 「おまえは成仏すればいいが、残る者はこの世の|掟《おきて》に従わねばならぬ。簡単にはいかん」 「じゃあ——いつ?」 「近々だ」 「わかりました」  とうなずく娘へ、 「まだ、|怨《うら》みを捨てる気にはならんのか?」  小夜はうつ向いたきりだ。 「約束を忘れないで下さいまし」  これほど不気味な声を聞くのははじめてだった。久馬は凍りついた。 「もしも、|違《たが》えたら、あなただけではなく、奥のお母さまも、榊原の一族ことごとくを取り殺してやる——お忘れなく」  そのとき、苦しげな母の声が流れて来た。 「小夜さん——腰が痛みます」 「はい、ただいま」  と|襖《ふすま》の方を向き、小夜はにっ[#「にっ」に傍点]と笑った。手はじめに母親を——そんな怨霊の意志を感じて、久馬は|戦《せん》|慄《りつ》した。      5  晩秋までにすべての準備を整えた。このひと月、久馬はひとり剣の修錬をつづけていた。  居合は最初の一撃が実はすべてではない。受けられ、かわされた場合の型も備わっている。それでもなお、抜き打ちの|一《いっ》|閃《せん》は居合の神髄であった。  速さの勝負だ。それは休みない鍛錬でしか身につかない。逆にいえば鍛錬でどうにかなる。問題は遣うまでの状況が整うのを待つ——その間の恐怖の克服であった。居合と知れば、相手は何とか抜かせようとするだろう。狂気のごとく、|或《ある》いは冷静に斬りかかってくるかも知れない。その刃を受けてはならないのだ。かわし、避け、頭頂に肩に太刀風を感じつつ一瞬の斬撃の機会を待つ。  本来なら道場へ通えばいいのだが、後難を考えるとそれは不可能だ。久馬は単身で心と技を完成の域まで持っていかなければならなかった。  ひと月前、小夜はついに垂水嘉門を見たのである。  久馬はまず、城下で小夜の出現できる場所を確かめ、それに垂水嘉門が下城帰宅するまでの道筋を照合させた。道を調べたのは大堀進之介である。彼に約束した金子は小夜が何処からか工面してきた。 「後で消えたりはしないな?」  と久馬が念を押すと、 「|狐《こ》|狸《り》の|類《たぐい》ではありません」  とにらまれてしまった。それなら何処からと|質《ただ》すべきだが、久馬は無視することに決めた。  垂水嘉門の帰宅順路に小夜の出られる場所はなかった。だが、大堀はそれ以外の道順も調べて来ていた。  嘉門は決まった日に茶屋へ寄り、それから|川《かわ》|縁《べり》を歩く。川風に当たって酔いを|醒《さ》ますのである。家にいる母親が酒の匂いを極端に嫌う、と大堀の書きつけにあった。小夜の人生を奪い取った男のかたわらを流れる川が大川だと知ったとき、久馬は運命を感じざるを得なかった。  月が|冴《さ》える中秋の晩であった。二人は堤の上に植えられた柳の木の陰で嘉門を待ち構えた。  四刻半とかけずに、嘉門が川原をやってくるのが見えた。  藩の重鎮の身でありながら供もつれぬひとり歩きである。剣への自信がそれを支えているのだった。 「参ります」  背後で小夜の声が聞こえた。  久馬は眼を凝らした。名月の光が有り難かった。  彼の真下に当る位置を十歩程通り過ぎたとき、嘉門の足が止まった。  その後ろ一間程のところに小夜が立っていた。  ふり向いた嘉門は、すぐに緊張を解いて小夜に何か言った。小夜は動かない。じいと嘉門を見つめているばかりだ。|愛《いと》しい者同士の|邂《かい》|逅《こう》に見えて、土手上の久馬にもわかる妖気が二人を取り囲んでいた。  そして、嘉門にもわかった。全身を別人のようにこわばらせ、彼は二歩下がった。右手が一刀にかかり、水面の光とは別の光が生じた。変化め、という叫びが久馬の鼓膜をゆすった。  嘉門は右八双に構えて打ち下ろした。酔い且つ|怯《おび》えている。それなのに見事な太刀筋であった。  刀身は、しかし、雪でも斬るように小夜の身体を走り抜けた。  消えた、と思ったとき、久馬の背で、 「同じところを斬られました。間違いなく、あの男です」  小夜の声はいつもと変わらなかった。幽霊はこんな場合何を考えるのか、と久馬は思った。 「行こう」  と声をかけてから、久馬は白々とつづく夜道を歩き出した。少し行ってから川原を見下ろした。嘉門はふり廻した剣をぶら下げ、肩で息をしていた。だが、その剣技は、あなたでは斬殺者に勝てないと言った小夜の指摘を、正しいと納得させるに十分なものを持っていた。  ひと月の間、久馬は汗を流しつづけた。意外なことに、居合の腕は鈍っていなかった。二日ほど抜き打ちを繰り返すと元に戻った。だが、恐怖は消えなかった。恐怖の|素《もと》は川原で垂水嘉門のふるった八双の剣だった。  あれをかわすか受けるかして一刀を|迸《ほとばし》らせる自信はなかった。黒い怯えが下腹部に腰を据えていた。それを立ち去らせるための修錬であった。 「久馬」  呼ばれたのに気がつき、|柄《つか》から手を離してふり向いた。  庭に面した廊下に母が立っていた。小夜の|按《あん》|摩《ま》を目当てに、またやって来たらしい。  |呆《あき》れたことに、いまだ小夜の正体に気づいてはいない。小夜の給仕で食事を|摂《と》りながら、顔色が勝れないのは、生まれつきですか、などと言っている。そのうち、久馬を呼んで、 「お上がりなさい、話があります」  向かい合うと、 「おまえは、いつまで小夜を通わせるお積りです?」  生真面目な表情で切り出した。 「は?」 「は、ではありません。外聞もはばかられるし、小夜の家でも気が気ではありますまい。悪い侍に|弄《もてあそ》ばれていると勘ぐられても仕方がありません」 「はあ」 「縁を切れとは申しません。私はあの娘を気に入っております。私がこれまでに見たどんな武家の娘よりも好ましい。そこで、品田の|伯《お》|父《じ》上にお願いして、養女の口を捜してもらいました」 「母上」  品田の伯父というのは母の兄で、藩の組頭を務めている。その息のかかった、弓組で百二十石取りの|内《ない》|藤《とう》|幡《はん》|五《ご》|郎《ろう》殿の家に貰われることになりましたと、平然と母は言う。 「それは——無理です」  さすがに久馬は身を乗り出して否定した。母はびくともせず、 「何が無理なのです。あの娘に、何か不都合でもありますか?」 「いや、不都合も何も」  幽霊なのである。二人が親しみを増しているのは知っていたが、ここまでとは。それでいて、相手の意見も親の都合も考えず、勝手に養女の口を捜してしまうとは。久馬の怖れていた母が、ついに現われたらしい。 「明日にでも、小夜の家へ人をやってその件を伝えます。おまえも今日じゅうに話しておきなさい」 「いや、明日は無理です。いくら何でもそんな」  母もその辺は理解できるらしく、 「では、いつならよろしい?」  いつも何も、久馬はその小夜のために、藩の重鎮を斬ろうと修錬を重ねているのである。 「しばらくお待ちを」 「しばらくとはいつです。はっきりと|仰《おっ》しゃい」 「あとひと月——あとひと月のご猶予を」  母は、二言はありませんねと念を押した。  久馬は、はあと応じるしかなかった。 「——というわけで、あとひと月のうちに、垂水嘉門を斬らねばならなくなった。しかし、わしは彼を斬るという約束はしておらん」  その晩、久馬は小夜と向かい合って伝えた。 「だが、わしは斬る。おまえと和平を|不《ふ》|憫《びん》と思う気持もあるが、それ以上にあのような人間を生かしておくわけにはいかぬからだ」  小夜は深々と頭を下げ、ありがとうございます、と言った。 「ひと月と言って下さった、そのお気持が嬉しゅうございます。御礼に精一杯尽させていただきます」 「礼、か」  小夜が首を傾げてこちらを見た。  久馬は自分の言葉に動揺した。わしはこの女に何を望んでいるのだ。  それは隠さねばならない想いだった。彼は立ち上がり、寝るぞと言って、寝所の|襖《ふすま》を開けた。  柔らかい肉の重みが、久馬の眼を開かせた。すぐに女体だとわかった。|剥《む》き出しの|腿《もも》が両脚を割って入りこんでくる。この家に女はひとりしかいない。  ——幽霊なのにあたたかい 「和平さんにはお|詫《わ》びを言いました」  小夜の声はひどく近くとも、また遠くとも聞こえた。 「あなたさまと過した日々、小夜は幸せでした。そして、もうひと月、幸せは延びました」  動かした久馬の右手に、重く熱い肉が触れた。乳房に違いなかった。  もう片方を背に廻した。くびれのような筋が指先を|弄《いじ》った。肉を裂く切創であった。よそうと思ったが、手は止まらなかった。傷に沿って指を|這《は》わせていくと、生あたたかいものが|溢《あふ》れてきた。 「こうやって、私は殺されました」  生身の身体で殺され、亡霊になっても生身。 「痛かった、苦しかった」  そうだろう。口惜しかろう。血まみれの女体を、久馬は強く抱きしめた。ふと、前の妻のことが|憶《おも》い出されたが、顔は浮かんで来なかった。  残る思案は、いつどこで垂水嘉門を斬るか、であったが、ひと月の刻限が切れる三日前の晩、解答が久馬の家を訪れた。  それは、垂水嘉門の家士|出淵新十郎《いずぶちしんじゅうろう》と佐川誠吉の名前と形とを備えていた。 「我が主人が、貴公の日常に不審な点が多々あると申し、問い|質《ただ》したいとの意向である。ご同道願いたい」  どちらも大した遣い手なのは、立ち方でわかる。発狂した|徒《かち》|目《め》|付《つけ》蜂谷の口から城内に広まった小夜の一件が、嘉門の耳に入ったのであろう。 「藩命でなければ断わる」 「藩命にしたいのか?」  と佐川がうす笑いを浮かべた。 「そうなれば、榊原一族と藩とのことになる。よろしいか?」 「いいとも」  と応じかけ、久馬は自制した。しばらく待てと言うと、 「女がいるはずだ。連れて行く」  と出淵が家を|覗《のぞ》き込みながら言った。 「左様なものはおらぬ」 「家捜ししてよろしいか?」 「よかろう。だがいなければ、二人とも斬るぞ」  本気であった。小夜を危険な目に遭わせたくないのだと知って、久馬は苦笑した。幽霊を|庇《かば》って何になる。  二名の家士は顔を見合わせた。佐川が、 「よかろう」  とあきらめた。無理強いは止められているのだろう。嘉門も小夜の正体は知っているはずだ。  久馬は奥座敷へ入った。これで終わりか、という気がした。唯一の救いは、大目付や藩主の指示ではないらしい点である。書き付けも所持していないようだ。いずれにせよ、嘉門に名前が知られた以上、久馬と榊原の家の運命は窮まったといっていい。  徒労感はあったが、愚かな真似をしたという気は湧いてこなかった。久馬がしたことも、これからしようとしている行為も、天に|唾《つば》するものでは断じてない。  身仕度を整え、太刀を差しているところへ、小夜が現われた。  久馬は眼を|剥《む》いた。小夜の着物は上半身が黒血にまみれていた。 「垂水嘉門のところへ行くんですね。私もお供します」 「無駄だ。嘉門の家は、おまえの出て来られる場所にない」 「では——途中まで」  すがるような眼に、うなずくしかなかった。  二人は家を出た。数歩遅れてついてくる小夜を、二人の家士は見ることができないらしかった。  |駕《か》|籠《ご》もない。  佐川誠吉が先頭、出淵新十郎が最後尾についた。はさみ打ちの形で南の方へ歩いた。四つ半——午後十一時を少し廻った頃である。月はない。二人の家士の持つ|提灯《ちょうちん》が、ささやかに闇に跳んでいるばかりだ。  屋敷町を抜け、花夜町へ入る頃に、小夜は|忽《こつ》|然《ぜん》と消えた。出現していられる限界に来たのである。これが別れか、と思った。  わしがどうなっても、垂水は|斃《たお》す。運が良ければ|冥《めい》|土《ど》で会えるだろう。それまでの別れだ。  |木《き》|曳《びき》町の通りを西へ折れたとき、不審な思いがした。嘉門の家なら反対側である。  しかし、佐川誠吉は黙々と先頭を行き、出淵新十郎も黙ってしんがりを守っている。  川の音が聞こえてきた。 「大川か」  思わず口を衝いてしまった。  すると、垂水嘉門は、小夜の亡霊と遭遇した地点で久馬を処分しようというつもりか。  ——殺すなら自宅の方がよいはずだが  それなら他人に目撃される心配もないし、死体の処理も容易だ。何を|企《たくら》んでいるのかと思った。  細い辻を左へ曲がると、見慣れた土手の道へ出た。  川向うの家々にまたたく灯が、銀蛇のような川筋の線をかろうじて網膜へ結ばせてくれている。  腕を組んだ武士が川原に立っていた。提灯もない。  土手を下りて近づいた。佐川の提灯が、ようやく垂水嘉門の顔を浮かび上がらせた。  背中に剣気を感じた。  左へ跳びつつ、久馬は出淵新十郎の悲鳴を聞いた。  一刀を抜きかけた彼の前に、白い着物を着た女が立っていた。 「化物」  と叫んで出淵は斬りかかった。何もない空間を斬って大きく姿勢を崩したところに、久馬の|一《いっ》|閃《せん》が走った。  斬り離された首は、皮一枚残して胴につながっていたが、倒れた衝撃か噴出する黒血の勢いかによって、川原を転がった。 「おのれ」  低く放って佐川誠吉が前へ出た。 「垂水さま、下がっていられませ」  庇うべき主人を背後に廻して、こう告げた|刹《せつ》|那《な》、垂水嘉門は抜き打ちの刀身を佐川の肩に食い込ませた。噴き上がる悲鳴が迷惑だとでもいうように、正確に|喉《のど》を刺し、一気に|頸《けい》動脈まで斬り裂く。 「何をする?」  と久馬は|訊《き》いてしまった。これは|質《ただ》さざるを得ない。  答えもせずに、嘉門は剣先を地に触れるほど下げた。  その重厚さ、その自信に、こみ上げる苦鳴を|嚥《えん》|下《か》しつつ、久馬は、しかし、まぎれもない血の|雄《お》|叫《たけ》びを聞いていた。  袖口で刀身を|拭《ぬぐ》い、|鞘《さや》に収めた。 「参る」  とだけ言って地を蹴った。小夜のことも垂水への義憤もない。生と死を分かつ権利が彼にはあった。  嘉門の剣先のみを見ていた。  それが跳ね上がった。ゆるやかな動きに見えた。右へ跳ぼうとした。自分の動きはさらに鈍かった。  左の|内《うち》|腿《もも》に鋭い|痛《つう》|痒《よう》が食いこんだ。思いきって体重を右足へ移して止まった。前のめりになるのをかろうじてこらえる。  嘉門は地ずりから斬り上げた剣を上段にふりかぶったところだった。  がら空きになった胴が久馬の胸を歓喜に|昂《たか》ぶらせた。  二つの気合がひとつに重なり、左横へとたぎり落ちる剣と風とを意識しつつ、久馬は|伯《ほう》|耆《き》流抜刀術の粋をこめた刀身で、嘉門の胴を存分に割っていた。  |凄《せい》|惨《さん》な声が川原に流れた。水音が呑みこむまで大分かかったが、地面にあてた一刀にすがる久馬には、とどめを刺しに行くこともできなかった。呼吸はできず、喉が無性に渇いた。  激しく上下する肩にあたたかい手が置かれた。それは、久馬の呼吸が尋常に戻るまで離れようとはしなかった。 「小夜」  |嗄《しわが》れ声が出た。 「行くのか」  離れてゆく柔らかいぬくみを久馬は眼で追った。  黒々と地に伏した垂水嘉門の向うに青白い男女が立っていた。小夜の右隣の若者は、実直そうな笑みを久馬に向けていた。小夜はそれを愛したのだ。 「和平さんです」  と小夜が言った。  嘉門の狂乱と戦いのすべてが、それで久馬には理解できた。  小夜が久馬のもとを訪れたように、和平は彼を殺害した者に取り|憑《つ》いていたのだ。嘉門がわざわざこの川原を暗殺場所に定め、家士を斬り殺した理由もそれで知れる。 「久馬さま、これを知っている人間は、この三人だけでございます。一刻も早くお立ちのき下さい」 「わしの——勝手だ」  久馬は久々に自分らしさを感じた。 「おまえたちこそ早く成仏せい。二度とこの世へなど戻るな。戻ってもわしのところへなど出るな。迷惑だ」  恋人たちは顔を見合わせた。小夜の口もとに結ばれた苦笑が、姉がやんちゃな弟に与えるようなそれ[#「それ」に傍点]が、久馬に|寂寥《せきりょう》を抱かせた。  小夜のつくった熱い味噌汁と白い飯が|瞼《まぶた》の裏にかがやいて消えた。 「迷惑千万な日々であった。消えろ」  吐き捨てるように言ってから、久馬は眼を閉じた。いつまでそうしていればいいのかわからなかった。今度開けたら、小夜だけが残っているかも知れないと思った。  誰もいなかった。  川の音と夜風と死体だけがそのままだった。 「清々した」  偏屈を全うし、久馬は太刀にすがって立ち上がった。  小夜に逃げられたと告げると、母は、 「この親不孝者」  とののしって去った。二度と家の敷居をまたいではなりません、とつけ加えるのを忘れなかった。  垂水嘉門と二人の家士の死は、日頃から異常の気があった嘉門が二人を川原に誘い出し、相討ちになったとの判断が下された。嘉門の異常ぶりも、佐川の剣に彼の血がついていたという検視の結果と同じく、和平の仕業かも知れなかった。  がらんとした家の中で、久馬はそろそろ嫁を貰おうかと考えはじめている。唯一気にかかる噂は、蘇我町にある織物問屋の手文庫から、ある日、大枚の金子が消えてなくなっていたというものだ。      茂助に関わる談合  湯島天神の近く、|同《どう》|朋《ほう》町に住む直参館林甚左衛門の家へ|甥《おい》の喜三郎がやって来たのは、十月半ばの深更であった。  奥座敷で迎えた甚左衛門は、まず、こんな時刻にどうしたと|訊《き》いた。  返事は奇妙なものであった。  甚左衛門は半月ほど前に、自分のもとで奉公していた若党をひとり喜三郎の家へやった。  喜三郎の妻おねいは生まれつきの病弱で、常日頃、奉公人を欲しがっていたのである。  送り出してから数日後、喜三郎とおねいが揃って訪れ、いい若党を世話していただいたと高価な菓子折りを礼に置いて帰った。  若党の名は茂助という。 「あれ[#「あれ」に傍点]を何処からお雇い入れになりましたか?」  と喜三郎は訊いた。  甚左衛門は首を|捻《ひね》ったが、すぐに、 「よく覚えておらん。わしも|耄《もう》|碌《ろく》したな。何か不始末でもやらかしたか?」  と言って苦笑した。内心は厄介なことになったと思っている。こんな時間に若党風情のことで一家の|主人《あ る じ》が駆けつけるなど、余程のことがあったに違いない。殊によったら、成敗してから正気に戻り、もともとの雇い主だった自分のもとへ尻を持って来たのかと考えたのである。  だから、 「あれは、|人《ひ》|間《と》ではござらん」  と喜三郎から告げられたときも、五十七歳にしては|皺《しわ》の少ない顔で、よくわからんという表情をつくった。 「|人《ひ》|間《と》ではない?」  と訊き返したのは少し後である。 「左様で」 「では何じゃ?」 「わかりません。|人《ひ》|間《と》に|非《あら》ざることだけは確かでございます」  喜三郎は、下男が運んできたお茶をひと口飲んだ。二人いる女中の片方は母親がみまかったと|実家《さと》へ戻り、もうひとりは一度眠ると雷が鳴っても起きない。  湯呑みを置いて、 「証拠はあるのか?」  熱いお茶のせいか渋い声になった。 「ございます」  喜三郎はうなずいて、この半月に生じたあれこれを語りはじめた。  苦い顔で聞いていた甚左衛門は、最初の話で表情を変え、全部が終わる頃には血の気を失っていた。 「まさか、左様なことが。——本当ならば、おまえ——おまえ」 「喜三郎にございます」 「そうだ、喜三郎——それなら絵草子に描かれた怪異が」 「左様でございます」  甚左衛門は腕組みをした。夜は深深とふけている。 「信じ難いことじゃ」  と言ったとき、下男が障紙の向こうから、喜三郎さまの奥さまがおいでになりましたと告げた。  こんな時刻に奥方までが何事だ、と喜三郎に尋ねても、|俯《うつむ》いたきり返事もなく、甚左衛門としては通せと命じるしかなかった。  おねいは今年二十六になる|小《こ》|普《ぶ》|請《しん》組百石大矢田|英《えい》|之《の》|進《しん》の次女である。いつものように足音もたてずに入って来て、喜三郎の後ろに着座した。  何事だと喜三郎が問いもしないので、甚左衛門が肩代わりすると、 「いえ、何も」  と答えて俯いたきりである。  何もないのに草木も眠る深更に一家の妻女が家を空けて来るとは、それだけでも|只《ただ》|事《ごと》ではない。 「喜三郎に用事があったのではないのか?」  と訊いても、いいえと口をつぐんでしまう。  温厚で知られる甚左衛門もやや腹を立てて、夫の方へ、 「おねいはどうかしたのか?」  半月ほど前から|気《き》|鬱《うつ》の病を患っております、と喜三郎は答えた。  それにしても、目下の行状は|只《ただ》|事《ごと》とは思えない。深夜、夫のいる|叔《お》|父《じ》の家へ女ひとり駕籠を飛ばすなど、気鬱な女にできることではあるまい。そして夫には何の用事もないと言い、夫も気鬱の病で済ましてしまう。  茂助より女房の方が問題ではないのか、と甚左衛門は思った。 「とにかく|由《ゆ》|々《ゆ》しきことだ。明日にでもわしが参って|直《じか》に茂助を問い|質《ただ》してみよう」  半ば切り上げたくなってこう言った。喜三郎は動かず、 「もう、おりません」  と言った。 「いない?」 「|一昨日《おととい》、暇を出しました」 「なら、それで良いではないか。もう暇をだした若党のことで、こんな刻限に来訪したと申すのか?」 「左様でございます」  外はすべて闇である。それが廊下を埋め尽くし、障紙一枚を隔てて座敷へ入り込む隙を狙っているような気が甚左衛門にはした。 「では——どうせいと申すのじゃ?」  破れかぶれの気分であった。 「茂助の実家の在所をお教え下さいませ。拙者が始末に参ります」 「斬るのか?」 「放っておけばあれは別の家に奉公いたすでしょう。それは防がねばなりませぬ」 「しかし、実家にいるという保証はあるのか?」 「ありません。茂助は別の場所におりまする」  甚左衛門はじっ[#「じっ」に傍点]と喜三郎を見つめた。確かに子供の頃から第一に可愛がってきた甥に間違いない。 「それは何処じゃ? また何故実家へ行こうとする?」 「老いた父母がいると|彼奴《き ゃ つ》から聞き申した。斬って捨てに参ります」 「………」 「あのようなもの[#「もの」に傍点]を生んだ両親も|人《ひ》|間《と》ではございますまい。また、人間としてあ奴を生んだだけでも万死に値すると心得ます」 「実家か」  甚左衛門は確か耳にした覚えのある地名を捜した。 「|憶《おも》い出せぬな」  喜三郎は沈黙した。  そこへまた下男がやって来て、今度は御子さまがと告げた。  甚左衛門は二人を見つめたが、父も母も何ら反応を示さなかった。  喜三郎の|倅《せがれ》の三五郎は今年八歳になる。この二人は|莫《ば》|迦《か》になったのではないかと甚左衛門が恐怖したほど、夫婦の|溺《でき》|愛《あい》ぶりは度を越していた。  |袴《はかま》をはいたその姿は、礼儀正しく母の隣に正座して俯いた。 「|父《てて》|御《ご》も母御もおらぬ家が寂しうなったか。無理もない。こら、おまえたちは|呆《あき》れ果てた愚か者じゃぞ。このような子を女中だけに預けての深夜の|訪《おとな》いを何とする?」 「女中は暇を出しました」  と喜三郎は言った。  いつじゃ、と訊きかけて中止し、甚左衛門は親子をじっと見た。そして、ようやくあることに気がついて、それを訊いた。 「喜三郎、おまえ、何ゆえ俯いておるのじゃ?」  すると、三人はすうっと立ち上がり、 「これにて退出いたします」  と喜三郎が告げた。甚左衛門に頭を下げる必要はなかった。  甚左衛門は下男を呼ぼうとしたが、名前が出て来ぬうちに三人は|昏《くら》い廊下へ出て行った。  閉め切る寸前に障紙を止めて、喜三郎は、 「茂助は叔父上におまかせ致します」  と言った。  得体の知れぬ親族といえども三人が座を占めていた室内は、急にがらんとして寒々しく感じられた。  無性に一杯|飲《や》りたくなって、甚左衛門は下男を呼ぼうとした。  今度は名前がすっと出た。 「おい、茂助」  茂助は別の場所におります。  茂助は叔父上にまかせます。  昨日彼を雇い直したことを、甚左衛門はようやく憶い出した。 「御用で?」  障紙の外から聞き慣れた声がした。|戦《せん》|慄《りつ》が甚左衛門を|捉《とら》えた。 「いや、用はない。下がって|寝《やす》め」  何とか平静を装おうとした。必死だった。  茂助はそれを感じ取ったらしい。 「いいえ」  こう言って障紙が開いた。     這いずり      1  藩の勘定方を勤める|地《ち》|次《つぎ》|源《げん》|兵《べ》|衛《え》ほど偏屈な男はまずあるまい。  金蔵を預る勘定方ともなると、太平のこの世では、武家の|内部《なか》の商人として、肩で風を切る権勢に恵まれていたし、現にほとんどの者は、城の内外でもそれを誇示して隠そうとしない。  役向にかかわらず、上司に|媚《こ》びて下位の者を見下すのが世の常だが、勘定方ともなると上にも強い。勘定奉行の|佐《さ》|久《く》|間《ま》|主《しゅ》|膳《ぜん》は、家老たちに表面はへり下りながら、どこかに横柄さを示すし、他の者も他役の同格クラスには同じ態度を取る。従って、彼らを嫌う者も随分と多い。  ところが、地次源兵衛は上へも下へも同じ態度を取るのに、|朋《ほう》|輩《ばい》より激しく嫌悪された。  彼の偏屈は度を越していたのである。上司にも下役にも笑顔ひとつ見せず、|愛《あい》|想《そ》ひとつ言わない。  この世に面白いことなどない、というより、|愉《たの》しむという感情を失って生まれてきたような顔で、黙々と|算《そろ》|盤《ばん》を|弾《はじ》き、帳面をつけている。あんまり面白くなさそうなので、新任の勘定方が、地次と同期の上司に、あの方はいつもあのような顔つきをなさっているのですか、と|訊《き》くと、二十年間、ずっとじゃと返ってきた。地次源兵衛は今年三十八歳になる。  公私という言葉があるように、下城の太鼓が鳴ったら、がらりとくつろぐ者がいる。城の門をくぐった途端、への字に曲がっていた口をレの字に替えて、盃を示す仕草をする者もいる。  源兵衛にはまるで変化がなかった。春夏秋冬、詰まらなさそうな表情を崩さない。  その顔を向けられるや、春|爛《らん》|漫《まん》の桜もたちまち白い花を散らせ、夏の|蒼《あお》|空《ぞら》はかき曇り、黄金の稲穂は腐り果てて、降りつづく雪は氷塊になって落ちてくる、と言われた。  当然ながら、人間関係はうまくいかない。上司に笑顔ひとつ見せず、同輩と酒も飲まず、下役と口もきかないのだから、みなうんざりしてしまう。いまや、下城時に一杯、と誘う者もいない。源兵衛は黙々と面白くもなさそうな顔で登城し、同じ顔で家路を|辿《たど》るのであった。  あまり評判が悪いので、大目付の本村省蔵のもとへ、中老の|中須良伯《なかすりょうはく》から素行探索の依頼があったほどである。  探索には目付の|羽《は》|田《だ》|信《しん》|作《さく》が当たった。  後日、その結果を中須に伝えた本村は、地次源兵衛をひとこと、 「|人《ひ》|間《と》嫌いでございますな」  と評した。 「人間嫌い?」 「左様。それも筋金入りでござるよ。そもそも、世にいう人間嫌いとは後天的なものが多い。元来は人を嫌いなのではなく、その性質、|風《ふう》|貌《ぼう》等からそうさせられてしまった者、そうならざるを得なかった者が圧倒的に多い。しかるに、この地次とやらは、根っから人間が嫌いなのでござる。この報告書には、七つの時分から、他人がそばに来るとさっさと離れてしまったとある。親が近寄っても同じだったらしい。親族が来ても挨拶に出ず、これで行末はどうなるのか、一族郎党の悩みの種でござった。三十八にもなるのに嫁を貰っておらぬのもそのせいでござろう。いや、金を相手にする勘定方でようござった」 「ふむ。仕事だけは群を抜いておるらしいからな」  中老は|曖《あい》|昧《まい》な感想を|洩《も》らした。大目付に探索を命じたのも、訴人があったわけではない。城内の評判があまりにもきついので、暇だったらと、いわば個人的な依頼であったといっていい。その結果は、地次源兵衛という一個の際立った個性の確認に終わったわけである。  しかし、どのような理由であれ、大目付が動いたとなれば、そして、このような人間性が明らかになれば、人事は動かざるを得ない。  見えざる巨大な力を抑えたのは、藩の経済を預る者としての源兵衛の能力であった。  使い慣れた算盤から弾き出される数字には、二十年間一度の間違いもなかった。それは他人の過ちや不正を自然に|焙《あぶ》り出す役目も果たしたのである。  十五年ほど前、側用人の|三鷹周助《みたかしゅうすけ》が城下の米問屋と結託し、藩の古貯蔵米に法外な値段をつけて引き取らせ、私腹を肥やしたとき、巧みに粉飾された届書をひと目で見抜いたのは地次源兵衛であった。  他にも幾つかの小さな不正が源兵衛の手で白日の下にさらされ、いっとき、彼の名は勘定方に地次ありと鳴り響いたのである。  源兵衛はこれに|溺《おぼ》れなかった、どころか、同僚たちがこの話を持ち出すと露骨に迷惑そうな表情をつくった。  源兵衛をうとましく思う者たちにとって、この性格は、彼を陥れるのにもってこいであった。彼に暴かれた不正は、数名の上士を閉門、追放に追いこんだが、関係者すべてが罰せられたわけではなかった。獄に送られるべき人物が、そしらぬ顔で同じ地位に|留《とど》まる例もあった。多くは沈黙したが、暗い思いを|熾《おき》|火《び》のように燃やしつづけた者もいた。  やがて、源兵衛に対する中傷が城のみならず藩内を駆け巡りはじめた。あの年齢で女房を貰わないのは、城下に|妾《めかけ》を囲っているからだ。そのために、彼は帳簿を|改《かい》|竄《ざん》し、複数の女の生活費に充てている——佐久間主膳は意にも介さなかったが、日頃、彼の性質を良く思っていない同僚が騒ぎ出しては無視もできなくなった。  彼は直々、源兵衛の仕事を吟味し、驚くべき事実に息を呑んだ。  その日のうちに探索方が城下へと走り、源兵衛が世話をしている二人の女の素性を明らかにした。黒い噂は本当だったのである。  直ちに査問会が開かれ、源兵衛はひたすら平伏した。そして、すべての非を認めたのである。査問中、彼が口にした言葉は、ひとこと——仰せのとおりでございます、のみであった。  |沙《さ》|汰《た》は追って、と家老の|鴨《かも》|枝《えだ》|茂《しげ》|房《ふさ》が言い渡しても、彼は沈黙していた。このとき、ようやく、座にあった人々は、地次源兵衛が意識を失っていることに気がついた。席についてから平伏しっ放しだった彼は、持病の腰痛を悪化させ、その痛みで失神したのである。  半月後、藩主から沙汰が下りたが、源兵衛はまともに動けなかった。先祖代々の広い屋敷にやって来た使者を、彼は虫のように|這《は》いずって迎え、追放の言い渡しを聞いたのである。  しかし、事態はこれで終わらなかった。  源兵衛、這いつくばったまま、 「承服いたしかねる」  と言った。  二名の使者は眼を|剥《む》いた。 「何と申す?」  気色ばむ彼らに、 「地次源兵衛——二十と一年、殿のため、藩のためお仕え申し上げた。そもそも、十四年前、小金木村の|一《いっ》|揆《き》を抑えた新田開発の費用は誰が|捻出《ねんしゅつ》したか——この地次源兵衛が過去五十年の金番帳簿、控えを改め、金利の安い江戸商人の名を見つけ出したからではござらぬか——」  それから彼は、十指に余る自らの功績を材料に抗弁した。それは使者に、藩主に、藩に対する反抗であった。  青すじを立てて激怒する使者に、 「それだけの功ある家臣に、ささやかな横領さえも許さぬ藩の下知になど服しはせぬ。地次源兵衛——かくのごとき身体になろうと、手向い致す。天地が裂けてもこの家から離れぬぞ。それが不服なら、好きなだけ、討手をお寄越しになるがよい。血の海の中を這いずりながらでも、ひとり残らず血祭りに上げてくれる」 「その言葉忘れるな」  と叩きつけて、使者たちは戻った。  藩では慎重な協議を重ね、討手を出すことに決めた。源兵衛の二十年の忠勤を口にする者は誰もいなかった。彼らが胸に留めていたのは、自分たちが何を話しかけても、迷惑そうにそっぽを向いた源兵衛の姿であった。  討手は五名——源兵衛の状態を考えるとそれでも多すぎると思われた。その中のひとりに、羽田信作がいた。大目付の指示を受けて源兵衛の人となりを探った男である。三十になったばかりだが、江戸詰めの折り一刀流を学んで、その実力には定評があった。使者の退去から四日後の早朝、五人は斬りこんだ。  一介の勘定方のものとは思えぬ広い屋敷には|婢《はしため》と老僕がひとりずついたが、使者が去ってから源兵衛は暇を出していた。  源兵衛は居間で見つかった。  腰は少しも快方に向かった風はなく、干からびた顔に眼ばかり光らせ畳に伏した姿は、人の形をした醜い巨大な虫を思わせた。  ——無惨な  羽田がそう思ったとき、討手の中では最も年長で|苛《か》|烈《れつ》な性格の持ち主である新村善助が、おれにまかせろと言って前へ出た。  藩の設立になる武芸道場「明光館」で、無念流の目録を収めた新村にしてみれば、それこそ虫でも串刺しにするくらいの余裕があったろう。だが、事態は思わぬ展開を見せた。  地に這った男へ切先を向けたとき、新村は自分の不利を悟った。低すぎる。直立してふるうよう作られた刀と刀法に、地次源兵衛は、はじめての特異な相手となったのである。  新村はそれでもあわてず、源兵衛の背後に廻ろうと歩を移した。相手の構えは、刀法の|如何《い か ん》によるものではない。障害によるやむを得ざる姿なのだ。ほれ、見ろ——動きは——  その足を白光が|薙《な》いだ。信じられぬ速度で身体を半回転させた源兵衛の刀身は、全く無防備な新村の両足首を、きれいに両断してのけたのである。  血の噴水と化してのたうつ同僚の姿に|愕《がく》|然《ぜん》となった討手たちも、次の瞬間、刀身をきらめかせて殺到したが、続けざまにふられる源兵衛の地を這うがごとき斬撃に、容易に近づけず、ついに彼は開け放してあった|襖《ふすま》から東側の廊下へ這いずり出た。 「わしらにまかせて、おぬしは新村を見い」  次の年長者に言われて、羽田は|却《かえ》って|安《あん》|堵《ど》した。|朋《ほう》|輩《ばい》ひとりを瞬く間に|斃《たお》されながらも、彼の|精神《こ こ ろ》にはなお自らの行為に対するひけ目があった。  血の帯を引きながらのたうつ新村の足を|手《て》|拭《ぬぐ》いで縛り、今回のために藩から支給された塗り薬を塗って血を止めるまで、長いことかかった。半狂乱の新村がいっときも動きを止めなかったせいである。励まし、|罵《ば》|倒《とう》しているうちに、源兵衛を追った三人のうち二人が戻ってきた。  釈然としない表情に、まさか、という思いがこみ上げ、羽田は彼らの刀身へ眼を這わせた。  血がついているが、さしたる量ではなかった。 「仕止められたか?」  と|訊《き》いた。  新村を見ろと指示した日垣という上級藩士が、 「斬った」  とうなずいて見せた。羽田ではなく、自分自身を納得させるためのような動きであった。 「三人で十五、六太刀は浴びせたはずだ。奴は廊下を北の端へと這いずって行き、そこから下へ落ちた。いま、俵が捜しておるわ」 「見つからないのですか?」  日垣はそっぽを向いたが、——もうひとりの討手——関根橋蔵が、ああとうなずいて見せた。 「わしらも捜したのだが、何処へ行ったものか、落ちた場所に血の痕はあるのに、そこからは全然だ。地に溶けでもしたか」 「よさぬか」  と日垣が止め、三人掛りで新村を起き上がらせたとき、最後のひとり——俵が戻って来て、やはり見つかりません、と告げた。      2  真実を報告したため、負傷した新村を除く四人は、それから数日にわたって徹底した取り調べを受けた。結託して源兵衛を逃がしたのではないかと疑われたのである。源兵衛の背後には金の力があった。  その間に、藩では源兵衛の家とその近所を徹底的に捜索したが、|瀕《ひん》|死《し》の状態にいるはずの勘定方は、ついに発見されなかった。  廊下に残った血の痕も、その気になれば獣の血を用意できると、討手たちの主張の正当を支える根拠にはならず、尋問は|執《しつ》|拗《よう》につづいたが、羽田は早々に疑惑の輪から外された。現場にいなかったと全員が証言したからである。  解放された翌日から城勤めも許され、大目付の本村からも|慰《ねぎら》いの言葉があって、前と変わらぬ日常が戻ってきたものの、羽田は|鬱《うつ》|々《うつ》と|愉《たの》しまなかった。  源兵衛の奇怪な消失を|慮《おもんぱか》ったのではない。彼は唯一、源兵衛から酒に誘われた男であったのだ。  いつ頃から、坂下町にある「のけ屋」という店で盃を交わしはじめたのか、記憶にはない。  けじめのある出会い方ではなかったのだろう。ただ、源兵衛の方から誘ったのは確かだ。  |旨《うま》い酒ではなかった。羽田は決して暗い性格ではないが、やはり、酒の味は相手による。源兵衛の飲み方は、ただ黙々と飲む、それだけだ。羽田は突き出しを口にし、焼き魚も食すが、源兵衛はそれもやらない。ひたすら、縁の欠けた|茶《ちゃ》|碗《わん》でぐびぐび[#「ぐびぐび」に傍点]飲む。ちっとも旨そうに見えないのは、やはり性格だろう。  そのままいけば、|不《ま》|味《ず》くても、自分も酒を飲んだし、で済むのだが、|敵《かな》わないのは後があるからである。  地次源兵衛は、八つも下の探索方を相手に愚痴りはじめるのだ。愚痴というのは本来暗いものだが、源兵衛が愚痴るともっと暗くなる。しかも、時間が経つにつれて眼が据わり、|呂《ろ》|律《れつ》は廻らなくなって、それでも|延《えん》|々《えん》と愚痴るものだから、彼の周囲には一種|凄《せい》|惨《さん》な雰囲気がたちこめてくるのであった。  その|殆《ほとん》どは霧の|彼方《か な た》だが、羽田が鮮明に覚えている言葉もあった。皮肉にも愚痴ではなかった。  ——おれは地を|這《は》いずるようにして生きてきた。|莫《ば》|迦《か》な上役に頭を下げて帳簿を見てもらい、小さな墨の痕がけしからんと、すべて書き直しを命じられたこともある。また、半年がかりで調べた藩成立以来の上納金とその出先を記した帳面を、上司が失くしてしまったものだから、もう一度、作り直せと言われたこともある。そんな理不尽な目に|遇《あ》わされる理由は、おれの性格だ。奴らは、おれという人間が気に入らない。そばにいるのも嫌なのだ。だが、追い出せはしない。おれはそれだけのことをしてきたからな。だから、そんな風にいびりまくる。それでいいのか。おれはただ、人づき合いが苦手というだけだ。それだって、部屋へ入れば同僚に挨拶もする。仕事もやる。これで十分ではないか。仕事の場で、|人《ひ》|間《と》を仕事をやり遂げる力以外のもので測るのは間違っておる。  羽田もそのとおりだと思う。だが、こと地次源兵衛になると、事態は別の様相を呈してくるのだ。そんな胸の|裡《うち》を知ってか知らずか源兵衛はこうつづけた。 「人づき合いが悪い以上、人に好かれるなどとは思っておらん。好かれようとも思わん。そんな男なら、こうひたすら頭を下げて生きるしかあるまい。世間はおれのような男に、必ず|復讐《ふくしゅう》しようとするものだ」  それから、必ず上目遣いに羽田を見て、 「これは単なる愚痴だ。他人には何も愉しくはあるまい。わかろうともしまい。右から左へ忘れてくれて差し支えない。だが、羽田氏、おぬしだけはわかるはずだ。たとえ、忘れてもわかるはずだ。おぬしはおれと同じ|類《たぐい》の人間なのだ。だからこそ酒に誘ったのだよ」  ありがたい話だと、羽田はそのたびに苦笑を押し殺した。  しかし、いま考えてみると、源兵衛の誘いを一度として断わった覚えはないし、彼との接触を避けようと努力したこともない。必ず付き合い、必ず同じ人間だと言われた。結局は愉しかったのだろうか。  ——そんなはずはない  断固、拒否するものが下腹に湧き上がってくる。  地次氏には悪いが、彼は到底、それがしと同じ人間ではあり得ぬ。それがしには友もいる。妻も母も健在だ。強いていえば、身分と格式だけが似ているか。  地次の家は五十石、羽田家は四十石の軽輩だが、生活環境を考えれば、地次の方が格段に恵まれている。ひどく孤独だろうが、地次にはもってこいの環境であったろう。  ——しかし、おれはあのような人生とは無縁だ。地次はなぜ、おれを仲間扱いにしたのか  迷惑だ、とはっきり思った。それでも、何度か酒を飲んだというだけで、地次源兵衛への哀れみは黒い濁り水のように胸に|澱《よど》んだ。  源兵衛の家へ斬りこんでから半月ほどたった深夜、羽田は大目付宅へ呼ばれた。|冴《さ》えた月光が風を冷たくする初秋の晩であった。  本村のほかに中老の中須、組頭の後藤が顔を揃えていた。  どこかで見たような表情をしていると思ったが、判然としないまま、羽田は下座に控えた。座布団が並んでいるところからして、自分がいちばん早かったかなと思っていると、待つほどもなく、四人の男たちが加わった。やって来た顔は、関根橋蔵、日垣長十郎、俵|保《たもつ》である。もうひとりは、はじめて見る顔だった。  三人の上司の顔を彩る表情がようやく|掴《つか》めた。あの討ち入りの日、地次がいなくなったと告げたときの日垣のそれと同じものなのだ。 「よく来た——紹介しておこう」  と組頭の後藤が五人のそれぞれの名と所属を告げた。新顔は|梨《なし》|本《もと》|桔《きっ》|平《ぺい》。小普請組に勤める二十二歳の男であった。  紹介されたとき、一刀流を遣います、と自らつけ加えたのをみると、腕には自信があるらしい。  ともに地次家へ討ち入った顔触れも、所属はそれぞれ異なり、日垣が郡代補佐、関根と俵は|近《きん》|習《じゅ》組である。  五人の中で、やはり梨本だけが浮いていた。種々の工事や修理を担当する小普請組は、藩内で最も酷使軽視される部署である。本人もそれを意識してか、妙に肩ひじを張り、胸をそらして座り、挨拶も重々しい。 「おぬしらを呼んだのには、少々変わった|理由《わけ》がある。少なくとも四人は察しがつくであろう」  羽田以下三名の表情が変わった。どの顔も、まさか、と言っていた。 「地次源兵衛の廃屋に、出るらしいのだ」  四人は顔を見合わせた。梨本は黙っていたが察しはついたようである。 「出る、とは、地次が見つかったのですか?」  日垣が四人を代表して|訊《き》いた。  後藤は次の言葉を出していいものか、という風に列席の二人を見た。どちらも無表情である。今夜の会合の全ては、後藤が負わなければならないのだ。  彼はあきらめて、視線を五人の下士へ戻した。淡々と告げた。 「四日前の晩、地次の家に三人のこそ泥が入った。なぜそれがわかったかというと、全員両足首をこうきれいに切断され、翌朝、家の門前でこと切れているのが発見されたからだ」  家からそこまで這いずっていって、血を失い、力尽きたらしいと後藤はつづけた。  両手で土を|掻《か》きながら、わずかな生の希望へ擦り寄ろうとする泥棒たちの姿を思い描いて、羽田は無惨だと思った。彼らは暗黒の中で死んだのだ。 「——で、地次は?」  日垣がたたみかけるように訊いた。その殺し方だけで、間違いないと決めつけた声である。 「その日から三日のあいだ、町方の役人が捜索に当たった。藩では特に人を出さなかった。地次は処断したと外には伝えてあるのでな。役人はこそ泥どもの仲間割れに遣い手の浪人が絡んだと見ておる。いや、見ておった」 「違うので?」  思わず羽田は口にしてしまった。日垣がふり向いてにらみつけた。代表は自分だということだろう。  羽田は返事を待った。彼は地次は死んだものと考えていた。自分たちの眼を逃がれ、邸内に設けた秘密の場所に身を潜めたまま、人知れずこと切れたのだ。こそ泥どもの死は、偶然そのような刀法を使う人物が仲間にいたに違いない。それを後藤は違うと言う。 「役人は改めて邸内の大捜索を行ったが、下手人は見つからなかった。で、昨日、彼らが退去した後、藩から三名人を出してみた。全員、町の道場では遣い手で通る連中だ。昼間は何事もなかった」 「…………」  深夜に到り、三人のうちひとりが後藤の家へ戻った。|只《ただ》ならぬ出来事との遭遇を告げるかのように、全身は|粟《あわ》|立《だ》っていた。  その話によると、昼間は何事も起らず、五ツ(午後八時)頃になって、家の中を大きなものが這いずるような音がしはじめた。三人とも上意討ちの結果は知らされている。白刃を手に邸内を|隈《くま》なく調べて廻ったが、このときは何も発見できなかった。  何処へ現われても見逃すまいと、三つの部屋にひとりずつこもって待った。はたして、四ツ半(午後十一時)頃東側の廊下を同じ音が移動していった。まぎれもなく布ずれの音であった。  さてこそ、と跳び出した三人が見たものは、廊下にくっきりと残る墨汁のごとき血痕であった。  その主がどこにも見えないことで、三人は混乱した。  帰還したひとりは、下だと叫んで廊下から庭へ下りた。血の痕を捜したが見つからず、彼は|朋《ほう》|輩《ばい》を呼ぼうと廊下の方を向いた。  二人が絶叫を放ったのは、その|刹《せつ》|那《な》であった。相次いで倒れるその足首から先が失われているのを見た瞬間、庭の男は門へと走り出した。 「彼を|侮《ぶ》|蔑《べつ》してはならぬ。朋輩が二人|斃《たお》されたら、敵の正体が判明するしないにかかわらず戻れと、彼らには命じてあったのだ」  後藤が|庇《かば》うのは、それを命じたのが彼だったからだろう。 「——して、二人を斃したものの正体は?」  と日垣。 「彼らの足下を一瞬、黒い影が走ったような気がすると申しておるが、それだけだ」 「——それでは犬死にではございませんか」  日垣が声を荒らげた。三人のうち二人が他愛もなく足を奪われ、下手人の正体も特定できなかった。何のために人をやったのかという思いが強い。 「死んではおらぬ」  今まで黙っていた中須が、面白くもなさそうに口を開いた。|皺《しわ》だらけの大仏みたいな顔をしている。藩の執行部では随一の切れ者との定評がある中老だ。一同は沈黙した。 「知らせを受けて人が駆けつけたときは、まだ息があった。自分で血止めをしたらしい。健在じゃ」 「して、その二人は何と?」  羽田は身を乗り出した。はっきりと地次源兵衛を意識していた。切り刻まれて廊下を逃げた男は、生きているのか、死んだのか。 「ひとりは何もわからぬうちに足首を断たれたが、その後で斬られたふたり目は、もの|凄《すご》い速さで足下へ滑り寄る人影を見たそうじゃ」 「確かに人でございましたか?」 「それは確かめた。あまりに速いのと、斬られた痛みと驚きで顔までは確かめられなかったが、服装はわかった。地次に間違いない。おまえたちに斬られたとき着ていた服と同じで、しかも、あちこちが裂けていたという」 「服装のことは——誰から?」 「新村じゃ」  羽田は胸中ああと|呻《うめ》いた。 「で、問題だが、彼らの足を断った者が地次か否かはどうでも良い。|彼奴《き ゃ つ》があの屋敷におって、訪れる者に危害を加え、なおかつ今回斬られたひとりが、断じて|人《ひ》|間《と》ではなかったと証言しておることじゃ」 「|人《ひ》|間《と》ではない?」  五人は互いの顔を見合わせた。最初、後藤は出た[#「出た」に傍点]と言った。あれはこの意味か。 「一瞬にして二人——というより四本の足を骨ごと断った剣の|冴《さ》え、そして、襲いかかり走り去る速さ——どうでも人間ではないと言って譲らぬ」  中須は手にした扇子の柄を膝に突き刺すようにした。穏やかな口調も表情も偽りだと、食い込んだ扇子が語っている。 「そこで、おぬしらが選ばれたのだ」  この座にあって、ただひとり沈黙を守っていた大目付本村省蔵が、はじめて全員に申し渡すような言い方をした。      3  五人は二組の黒い塊となって道を急いだ。  左右は上士たちの家の塀である。二組とは四人とひとりではなく、三人とふたり——羽田は梨本と一緒だった。意図的なものではない。自然と羽田は梨本にくっついたのである。  理由はわかっている。梨本も自分と同じ軽輩の気を漂わせていた。他の三人は百五十石以上——日垣に到っては二百石の家柄である。四十石の羽田は太刀打ちできない。三人もあえて彼を自分たちの中に入れようとはせず、黙々と先を行く。 「しかし、中須さまも無理を言われる」  吐き捨てるような日垣の声が、一間半ほどの間を置いて歩く羽田の耳にも届いた。 「人とも|妖《あやかし》ともつかぬものを斬れと。あれは妖以外の何者でもあるまい。目付どのが言われたように、地次が生きているのではないわ」 「——では、|怨霊《おんりょう》で?」  これは関根の声だ。 「他に案があるか? わしは斬られた二人を知っておる。どちらも白坂道場で五指に入る遣い手だ。どんなに油断していようと、たったひとりに為す|術《すべ》もなく足を断たれるような連中ではないわ。それを、向うが斬れる以上はこちらも斬れるはずだ、五人掛りともなればおさおさ引けを取るまい、とな。もう生きては帰れぬぞ」  闇がそこだけ凝固し、三人を締めつけたような気がして、羽田は思わず、 「それはわかりませぬ」  と声をかけてしまった。日垣はともかく、まだ二十代半ばの関根と俵が哀れだった。 「ほう——言うのお」  日垣が足を止めてふり向いた。他の二人も準じた。——ただし、困惑の風がある。 「すると何か、おまえなら、地次の怨霊が退治できると申すのか?」  まずいことになったと、羽田は心中嘆息した。 「ですから、それ[#「それ」に傍点]が地次どのの霊とは断言できません」 「おまえ、新村の足を斬ったときの彼奴を見なかったのか。そうか、まだ知らぬのだな。地次はあれで、十年以上前、無坂町の波堂流道場に学んだことがある。師範代を務めるほどの腕であったというぞ。おい、探索方——知らぬのか?」 「いえ」  と答えざるを得なかった。本村の要請で源兵衛の人となりを調べたときは、そこまで|遡《さかのぼ》らなかったのである。最初から彼と剣とのつながりを無視した愚かな男がここにいた。弁解のしようもない失態であった。  日垣は|嘲《あざけ》りを隠そうとしなかった。 「それでよくお役が勤まるものだな。達人の亡霊が、地面すれすれに斬りつける。人外の剣をふるう。誰が防げるものか。ほう、その眼は何だ。おまえ、まだ地次が健在と思っているな。そうとも、おまえは肝心なときに討手に加わらなかった。地次を斬ったのはわしたちだ。逃げまどう奴の背を刺しまくり、背骨を割った。俵は頭も裂いたはずだぞ。地次は、まさしく虫けらのように|這《は》いずって逃げた。これまでの奴の生き方のようにな」 「もう、およしなされ」  胸中にこみ上げた熱いものを、羽田は声に乗せた。もうひとつ残っていた。それを外へ放出するのは、日垣と剣を交えるときだとわかっていた。  日垣は、ほう、と言って、しげしげと羽田を見つめた。 「前から感じていたことだが、おまえ、地次に同情をしておるな」 「左様なことは——」  ない、とは言えなかった。彼は一度たりとも源兵衛の誘いを断わらなかったのだ。 「いいや、気脈を通じておる」  日垣は見抜いていた。これまでにはない、|嘲笑《ちょうしょう》が面長の顔に浮かんだ。 「無理もない。お互い、這いずりの身では、な」  関根と俵が息を呑む気配があった。  羽田の胸の中の塊りが震えていた。  最初の努力で噴出をこらえ、 「どういう意味ですか?」  と|訊《き》いた。 「聞いたとおりの意味よ。おまえも地次も藩では生涯我らに頭の上がらぬ身。一生、地を這う虫けらのごとく——」  右手が大刀にかかるのを羽田は意識した。  羽田、と俵が叫んだ。日垣のそばから彼と関根が離れた。 「ほう——やるか」  日垣が鯉口を切った。彼も遣い手と聞いている。羽田はゆっくりと右手を|柄《つか》の方へ動かした。闇は殺気という名の一本の糸を紡ぎ、二人をつないでいた。  それから半刻(一時間)ほどして戻ると、八重はまだ起きていた。  手伝わせてくつろいだ衣類に着替える間も、気は安まらなかった。茶の間に|胡坐《あ ぐ ら》をかいて、ようやく覚悟ができた。  八重は何か言いたそうだった。 「どうした?」  と訊いた。 「お|義母《かあ》さまが——」  と八重は切りだした。愚痴ではない。それなら、怒りにしろ、うんざりにしろ、感情に支えられている分、救いはある。母のとき[#「とき」に傍点]に関する八重の訴えは、能吏の経過報告であった。感情のこもっていない言葉の羅列は、羽田の気分と家の雰囲気を、どうしようもないほど暗くさせた。  八年前、十八の歳に嫁いで来た頃は、口数は少ないがやさしい娘だった。とき[#「とき」に傍点]も気に入っていた。八重は彼女が選んだのである。  恐らく、頭のいいとき[#「とき」に傍点]は、自分が倒れた後のことも考えて、八重を嫁にしたのに相違ない。だが、五年前、痛風がそれを強いたとき、彼女は自分の変化を計算に入れてはいなかったのである。寝こんだきりの身に定期的に襲いかかってくる激痛は、とき[#「とき」に傍点]を気難しく、口うるさい老婆に変えた。  家事万端から自分の世話まで、八重が糾弾されぬ日はなかった。根は陽気な娘が、徐々に口の重い、険のある女に変わっていく様を、羽田はある種の怖れをこめて黙視しなければならなかった。  母に言っても、その途中で必ず痛みの発作が起こった。じきに彼は妻の運命を|諦《てい》|観《かん》するしかなくなった。その結果、日ごと夜ごと、今夜もまた義母をなじる八重の声を聞かざるを得ない。  だが、謡の一節を無感情に吟ずるような妻の文句を、彼は途中で遮った。  生命のやり取り寸前の緊張感が、ようやく溶け出したところである。こうるさい女の愚痴など耳に入れる気分ではなかった。 「どうなさいました?」  八重もようやく夫の変化に気がついた。 「実はな——」  羽田は事情を話した。中老に命じられた地次家探索の日は三日後である。戻って来られぬ場合、八重がひとりですべてを処置しなければならない。当日では怒るであろう。もっとも、戻れぬ羽田がその怒りを買うことはないが。 「梨本さまは、いい御方でございますね」  聞き終えてから、八重は珍しく素直な口ぶりで、評価をした。  羽田と日垣の闘いを、間一髪で防いだのは梨本であった。  羽田の右手が柄にかかる寸前、彼は肩に手をかけ、およしなされと力強く言った。それは双方ともに、眼を|醒《さ》ませという警告であった。  さらに、おふた方もお止めして、と促された関根と俵が、左様、おやめ下されと加勢するに到り、羽田も日垣も怒りの矛を収めざるを得なかった。  立場上、丁重に|詫《わ》びると、日垣は無言で去った。関根たちが後を追い、羽田と梨本が残った。  礼を言った。梨本はなん[#「なん」に傍点]の、と手をふって、あの中ではそれがしが最も羽田氏に近いようですからと笑った。  微笑して別れたものの、羽田は少々落ちこんだ。梨本は見るからに軽輩らしい、どことなく|荒《すさ》んだ、貧しい身なりをしていた。見たところ二十石あたりだろう。その男に、仲間扱いされた。——自分もあんな風に見えるのだろうか。せめて八重が怒ってくれるかと思ったが、|却《かえ》って梨本を誉めている。  黙っていると、少しして、 「その探索のお話——切り捨てでございますね」  と言った。  冷たい口調より、自分に向けたうす笑いのような口もとが、羽田の気落ちを一層増進させた。 「そのとおり、斬り捨てに行くのだ」  |憮《ぶ》|然《ぜん》と答えると、 「そういう意味ではございません。中老さまは、あなた方を得体の知れぬもの[#「もの」に傍点]の手にかけ、|禊《みそぎ》を済ませるおつもりです」 「どういう意味だ?」 「地次さまを討ちに向かい、しくじったのは、あなた方五人です。新村さまを抜かして四人。私なら、地次さまの|怨《うら》みは、あなた方に注がれているとみます」 「つまり、我々を斬れば——晴れる、と?」 「左様でございます」  冷え冷えとうなずく女房こそ、怨霊のような気が羽田にはした。 「あのお宅でいつまでも人死にがつづけば、地次さまはよほど藩の仕打ちを|怨《うら》んでいらっしゃる、にはじまり、藩が悪い、殿様が良くないと言い出すのが、人の常でございます。中老さまは、そんな悪い噂が立つ前に始末をつけたいのでございましょう。地次さまの怨霊も、あなたさま方も。梨本さまは世間の眼を|逸《そ》らすために選ばれたのでしょうが、お気の毒と申し上げるしかございません」  腕組みをして眼を閉じた羽田へ、八重はたたみかけた。 「他の方たちが斬られても、あなたは逃げておいでなさいませ。でなければ羽田家は絶えまするぞ。たとえ、四十石とはいえ、その責を負うのはお嫌でございましょう」  またか、と思いつつ、強い怒りを羽田は感じた。よくもこれだけ、口を開くたびに嫁いだ家を中傷できるものだ。八重の家は彼女の祖父の代まで郡奉行を勤め、四百石を受けていた。とき[#「とき」に傍点]が倒れるまで、八重はそれを鼻にかけたことは一度もない。  地次源兵衛探索に赴くまでの二日間、羽田は四十石という言葉を何度となく耳にする羽目になった。おかげで、指定された日は、むしろ|清《すが》|々《すが》しい気分で迎えられた。      4  日垣たちとの約束の刻限は、七ツ(午後四時)であった。羽田は少し早目に地次邸へ着いた。  何もかもかすませてしまうような夕暮れの光を浴びて、ひと組の男女が門前に立っていた。  丁度、角を曲がったところで羽田は足を止め、二人を観察した。  髪型と服装からして、商家の若夫婦か婚礼間近の|許婚者《いいなずけ》同士に見えた。  娘の胸もとに、穏やかな色合いがまとまっていた。  二人はじっと、竹を交差させた地次家の門を見上げていたが、不意に厳しい表情で周囲を見廻した。羽田は素早く身を引いた。二人の視線は彼に触れずに通り過ぎたようだ。  ふた呼吸ほど置いて顔を|覗《のぞ》かせると、娘は身を|屈《かが》め、門と潜り戸の間の壁に抱いていた花をそっとさしかけた。  ほっそりとした|可《か》|憐《れん》な横顔の寂しさが、羽田を混乱させた。この娘は何処で何をしているのか、わかっているのだろうか。娘が立ち上がり、一歩下がって、男ともども両手を合わせたとき、羽田は一間の距離まで近づいていた。  声をかける前に二人とも気づいた。  はっきりと|怯《おび》えの表情を固着させて凍りつく。 「よい。|安《あん》|堵《ど》せい」  と羽田は声をかけた。穏やかな口調に、二人の表情が和らいだ。 「ここは上意によって討たれた者の家じゃ、承知か?」 「はい」  と二人同時に答えたのは、顔を見合わせてからである。 「その花は何だな?」  羽田は、ずばりと核心へ入った。 「その——」  男が話しかけようとしたが、声は出なかった。羽田は無視した。花を|捧《ささ》げたのは娘の方なのだ。 「娘——どうじゃ?」  しばらく、三人を沈黙が包んだ。娘が決意を固めるための沈黙であった。  何かを呑み込んだように、娘は|喉《のど》を鳴らした。 「地次さまは討たれたと聞きました。この花はせめて墓前にと」 「おまえたちは何だ?」  羽田は問いをやや中心から引き離した。 「へい」  今度は男が|揉《も》み手しながら応じた。  二人は花影町にある小間物屋「岡田」の若夫婦であった。娘はお|蔦《つた》、男は壮吉と名乗った。  夫婦になったのは半月前である。だが、その前に大きな障害が立ちはだかった。「岡田」が借金のかたになりかけたのである。  壮吉の父栄吉は、|倅《せがれ》が店を継いでから安堵したものか、酒と|博《ばく》|打《ち》の|愉《たの》しみを覚えた。律儀で小心者の性格は|知《ち》|悉《しつ》していたし、新しい愉しみに出かけるときもその旨を告げるような父親だったから、壮吉もさして心配はしなかった。少々負けて痛い目を見るくらい、博打と手を切るいい薬だと思っていた。だが、その薬には二百両近い金が必要だったのである。  店の金に手を出す度胸のない栄吉は、胴元から借りた。担保は店と土地である。金は幾らでも出た。そして、壮吉とお蔦の祝言まであと半月というときになって、貸証文の束を手にした男たちが店先に立った。 「親父は床についてしまい、わたしは金策に走りましたが、ちっぽけな小間物屋に出来る額なんて知れてます。で、これ[#「これ」に傍点]にも祝言の延期を申し出たんですが」  お蔦は理由を聞かせてと言った。納得できる理由なら、あたし[#「あたし」に傍点]いつまでも待っていると、壮吉をゆさぶった。気丈な娘だった。  結局、彼女がすべての危機を救ったのである。  お蔦の勤め先は、右河岸にある飲み屋だった。そこへひとりで飲みに来る陰気な武士が大層貯め込んでいるよ、高利で金を貸しているよという話を、彼女は別の武士たちから聞いていたのである。 「地次はそんなことをしていたのか」  失望と怒りに|翳《かげ》る羽田の顔の前で、お蔦はあわてて違います、と言った。 「あたし、ここへ来て、お金を貸して下さいと頼んだんです。理由は何だと|仰《おっ》しゃいますから、隠さず申し上げますと、地次さまはうなずき、必要な額は用立ててやると言って下さいました。あたし、女ですから、安心するとすぐ、利息のことが気になりまして、それもどれくらいかと伺ったんです。そしたら、そんなもの一切受け取らん、と」 「………」 「あたし、念には念を入れて、本当に取らないのかと|訊《き》きました。だって、よくある話なんです。いざ、返すってときになって、利息のことを口にしなかったのは、おまえがわかってくれてると思ったからだ、とか言って——」  壮吉が袖を強く引き、お蔦は興奮から|醒《さ》めた。 「いえ、違うんです。あたしたちの間じゃ、そういう奴がよくいるっていう話で。地次さまは、何度お|訊《たず》ねしても、強く首をふられました。自分は武士だ。困っている人間には己れの|貯《たくわ》えの中から出来る限り用立てよう。返却はそれ以外は一切不要じゃ。恩に着る必要もない。期限までに返せばよい、って。あたし、それではあんまり申し訳ないから、少しくらいなら利息もお払いしますと言ったんです。でも、地次さまは、よいと言ったらよい——若い娘が余計な|斟酌《しんしゃく》をすると、早くに老けるぞ、とお笑いになりました。お城の方に討たれたって、どんな事情があったのか、あたしたちにはわかりません。でも、あたしたちを助けて下すった方に、花ぐらい手向けたっていいじゃありませんか。親兄弟や親戚中がそっぽを向いたとき、地次さまだけが笑って助けて下すったんです。おかげで、あたしたち二人でこうやって生きてます」  お蔦の頬を涙が伝わっていった。 「手向けていかんとは言っておらん」  羽田はひどく|冴《さ》え|冴《ざ》えとした気分を味わっていた。 「置いて行け。地次も喜ぶだろう。彼の気持ちを無駄にせぬよう、仲良う達者に暮らせよ」  羽田は静かに退去を命じていた。二人もそれに気づいた。お蔦は涙を|拭《ぬぐ》って、二人で頭を下げた。背を向けて歩き出し、先の角を曲がるところで、申し合わせたようにふり向いて、また礼をした。それから——夕暮れの光の中に、羽田と花だけが残された。  胸中を占めていた粘っこいものが霧消していることに羽田は気がついた。  門の向うに潜んでいるものが生き延びた地次であろうとも、悪霊であろうとも、どうでもいいことだった。  人を嫌い、人に疎まれ、|謀《はか》り事をもって世を追われた男が地次源兵衛であった。その罪に異議を唱える者はひとりとしてなく——しかし、門前には|可《か》|憐《れん》な花が手向けられていた。 「待っていろ、地次さん——おれが引導を渡してやる」  晴れ晴れと門の|彼方《か な た》に呼びかけてから、羽田は背後の足音に気づいた。  俵と関根が肩を並べてやってくるところだった。後の二人もじきにつづくだろう。  羽田は花束を手に取ると、二人に挨拶してから夫婦の消えていった角を曲がり、花束を塀の下に立てかけた。日垣が眼にしたら捨てろと言い出すに決まっている。  地次家の方へ戻ると、門前に立つ二人の後ろから歩み寄る日垣の姿が眼に入った。  全員揃うのを待ち構えていたかのように、闇は急速に降ってきた。  羽田は梨本と奥の間につめた。新村が地次の反撃で両足を失った座敷の畳には、血の痕が墨でもぶちまけたように、黒々と広がっていた。  日垣は寝間と書斎を兼ねた右隣りの十畳、関根と俵は二人で廊下を廻っている。地次邸の廊下は、玄関部分だけを除いて、ひとつづきに家を取り囲んでいた。  鐘の音が遠くから響いてきた。 「四ツ半(午後十一時)ですな。出るとすれば、そろそろだ」  梨本が庭に面した障紙に眼をやってから、黒い足首を手で叩いた。妙な音がした。羽田が眼をやると、彼は|袴《はかま》の裾を膝までめくり上げた。ひとめで|鎖帷子《くさりかたびら》とわかる黒い筋が|膝《しっ》|下《か》から足首までを覆っている。 「鋳物屋に頼んで鉄の板を、とも思いましたが、いくら薄くてもあれは重い。動きが鈍くなっては困ります。これなら軽いし、家でも作業ができましたのでね」  若いだけに血の巡りがいい、と羽田は素直に感じた。だが、細い鎖だけで、地面から|迸《ほとばし》る|裂《れっ》|帛《ぱく》の一撃を防げるか。  新村の足を見たが、人間業とは思えぬ滑らかな切り口であった。肉だけならともかく、骨まで、だ。まさに生死を|賭《か》けた一撃は、人間に人間以上の|膂力《りょりょく》を与えるらしかった。 「他にも、念のため、下段の斬り込みに対する策を練ってはみましたが、なにしろ、こう水平に斬る技などないので、いや、苦労しました。羽田どのはいかがで?」 「——何も」  と答えた。嘘だが、嘘でもない。そもそも、地面から足首を水平に|薙《な》ぐ刃に対する方策など、どんな流派にもありはしないのだ。相手の動きを読んでかわす——跳びのくしかあるまい。だが、相手の姿も見ぬうちに、神速でそれをふるわれたら、正直おしまいだと観念するしかなかった。  家の庭で、跳びのいてから踏み込んで斬る一動作を繰り返してみたが、|所《しょ》|詮《せん》はつけ焼刃としか思えない。 「おぬし——何流だ?」  |愛《あい》|想《そ》がないのも、と思って|訊《き》いてみた。  梨本は白い歯を見せて、 「真光一刀流でござる」 「遣えるか?」 「少々」  自信は|体《たい》|躯《く》から|溢《あふ》れんばかりである。  そこへ足音がして、俵と関根が戻ってきた。取りあえず無事、といった|安《あん》|堵《ど》の表情は隠せない。室内と異なり、夜気にじかに当たる廊下廻りは不気味に決まっている。  黙礼してから、 「何も?」  と羽田は訊いてみた。 「変わったことは、な」  と関根がうなずいた。すでに全員|襷《たすき》がけである。 「そうそう、草むらを動く気配があるので、|小《こ》|柄《づか》を打ってみたら野良猫であった」  と俵が苦笑を浮かべた。  互いにお辞儀を交わして、羽田と梨本は部屋を出た。  風ははっきりと秋を|孕《はら》んでいる。  二人は北向きの廊下まで歩き、互いに一礼して背を向けた。ここから羽田は東向きの廊下を端まで戻り、また帰ってくる。一方、梨本は西に面した廊下で同じ行動を取る。  この地点ですれ違い、互いの無事を確かめてから、今度は逆に羽田が西向きの廊下を|辿《たど》り、梨本は東を担当する。一応、全員で打ち合わせたやり方だが、廊下の長さは東向き西向きともに六間ほど(約十一メートル)しかない。|蝋《ろう》|燭《そく》の二本も立てておけば十分に見渡せるし、現に三ヶ所で光の輪がゆらめいている。  本来なら四方に眼を配らなければならないのだが、羽田は前後の床にだけ注意を集中した。  地次はその人生のように|這《は》いずって消えた。日垣にはああ言ったが、とうに死んでいるだろう。いま、家に潜んでいるとすれば|怨霊《おんりょう》に違いない。ならば——というのもおかしな話だが、襲撃は地を這って行うはずだ。その屈辱の生を姿に|留《とど》めたまま。      5  玄関までは何事もなく、廊下を半ばまで戻ったとき、背後で障紙の滑る音がした。ふり向くと日垣が立っていた。 「異状はないか?」  相も変わらず脅すような口調である。 「いえ、何も」  無愛想に応じると、無言で部屋へ戻った。障紙が後を追うように閉じた。  北の廊下には先に梨本が戻っていた。 「出たか?」 「いえ。今のところは」 「気をつけろ、特に灯火の薄いところは要注意だ」 「承知しております」  声からも気負いが感じられた。この若者は手柄をひとり占めにしたいのだろうと羽田は考えた。それは中老からの褒美はもちろん、うまくいけば、|加《か》|禄《ろく》にも結びつく。腕自慢で功名心に燃える若者には願ってもない晴れ舞台だ。  不安の種は、しかし、ひとつだけあった。  西側の廊下を玄関へと向かいはじめて、羽田は不意に|厠《かわや》へ行きたくなった。  絶叫が|迸《ほとばし》ったのは、そのときだ。  日垣の声だ、と判じるより早く、手は障紙にかかっていた。開いて跳びこんだ。俵と関根が立ち上がったところだった。  日垣の座敷とは|襖《ふすま》で隔てられている。 「ご免」  と放ち、二人を押しのけるようにして襖を開けた。唐の山水を描いてある。  足下を何かがかすめた——ような気がした。勢いにまかせて、彼は十畳間へ三歩踏みこんだ。  ぴゅうぴゅうと血を噴く両足をそのままに、断末魔の|痙《けい》|攣《れん》の|虜《とりこ》となった日垣を認めた——その背後で、またも絶叫が、今度は二つ重なった。  さっき足下を、と思いつつ、羽田は風を切ってふり向いた。  丁度、敷居のところに関根が、その背後に俵が崩れ落ちるところだった。苦鳴が垂直に落ちていった。どちらも両足首から先を失い、右の|肋《ろっ》|骨《こつ》の下あたりを押さえた指の間から、鮮血がしたたっていた。  ——殺すつもりか  背すじを冷たい水が這った。  地を這うものは火のような殺意を抱いていた。その前には、屈強な剣士も若い功名心も、廊下に置いた蝋燭もすべて無駄なような気がした。 「羽田どの」  背後から梨本が呼びかけた。羽田はふり向いて、 「みなを見ろ。いや、その前に障紙を閉じるのだ。奴が入ってくる」  虫の息の関根と俵をよけつつ東の廊下まで行き、障紙を閉めた。  |閃《ひらめ》くものがあった。  日垣が殺されたのは、ついさっき障紙を開いたからだ。奴は廊下に潜んでいたのだ。そして、日垣が開けた|刹《せつ》|那《な》、この部屋へ跳びこんで——  俵と関根もそうだ。血に飢えた殺人鬼に羽田が襖を開けて、犠牲者への道を|拓《ひら》いたのだ。  戸口を閉じてさえおけば、奴は入れない。理由もなく羽田は確信した。廊下からの出入りは、他人の手で障害物を排除してもらわなくてはならないのだ。  すぐに関根と俵の脈を取り、|瞳《どう》|孔《こう》を調べた。こと切れている。肋骨の下から斜めにさし込まれた刃が心臓に達したに違いない。 「日垣どのはどこだ?」  返事はない。せわしない息つぎが聞こえるが、日垣のものではなさそうであった。  ふり向いて、やはりな、と思った。  梨本は障紙に身体をもたせかけ、その場にしゃがみ込んでいた。障紙が激しく鳴っている。彼の震えに合わせているのだった。 「三人も——三人もいっぺんに殺された」  泣くように放った。放心状態に陥りかけている。道場での剣は達者でも、人死にの現場ははじめてなのだ。 「あとは……我々ふたりだけ……嫌だ……おれはもう……嫌だ。出ていくぞ……一緒に逃げましょう、羽田どの」 「そうもいくまい」  と羽田はやや強い口調で言った。 「ここで逃げては、お役不始末で切腹を言い渡されかねん。何とか踏んばってみよう。朝になれば城から人も来る。そう手配済みだ」 「それまで、ここで待つのですかあ!?」  梨本は絶叫した。 「たったふたり——ふたりきりで?」  羽田の懸念はこれであった。自らの自信がひとりに対する五名という数の優位にあることを、自信過剰の若侍は理解していなかったのだ。五引く三の答えは、彼を限りない臆病者に変えた。 「おれは嫌だ。待っていられない——いま、人を呼んで来ます」  両手を障紙にかけて立ち上った梨本へ跳びかかろうとしたが、二つの死体が遮った。  のばした指の前で障紙が閉まった。 「梨本、よせ!」  障紙を開くまでの間は、数瞬に過ぎなかった。それなのに、彼は絶叫を聞いた。断末魔の叫びであった。  廊下へ跳び出したすぐ右方で、梨本の身体が死の痙攣を体験中であった。両足は他の連中と同じところで断たれ、致命傷は右手で押さえた肋骨の下端。  羽田は障紙を閉めて梨本に近づいた。手遅れなのはわかっていた。彼が身を|屈《かが》める間に、痙攣は小さくなり、ふっと消えた。同時に、梨本の|口《こう》|腔《こう》がゆるみ、鮮血をいっぱいに吐いた。 「若い者が先に死ぬか」  羽田は梨本の足首を見た。|鎖帷子《くさりかたぴら》は難なく切断されていた。  彼は立ち上がり、東廊下に出た。そこも歩いて、廊下の端——玄関に最も近いところまで行くと、こう呼びかけたのである。 「聞いておられるか、地次氏——探索方の羽田でござる。またお宅へお邪魔しておるぞ」  応答はない。声は闇に呑まれていく。それでも羽田はつづけた。 「こうなった以上、何を話しても無駄だろう。それがしを残しておいてくれたのは、貴公の好意だと思っておく。だが、|朋《ほう》|輩《ばい》四名を死なせて、それがしひとりがおめおめと戻るわけにも参らぬ。貴公も武士ならわかろう。これから、それがしは北へと進む。その間に仕掛けてくれ。それがしも全力で迎え討つ。結果は軍神摩利支天のみがご存知じゃ、よいか?」  鯉口を切って、返事を待たず、 「参るぞ」  と歩き出した。  半ばまで何も起こらなかった。|点《とも》しておいた三本の蝋燭のうち一本は消えている。足下の闇が濃い。  全神経を集中していたはずなのに、右の足下で、小さく、しかし、はっきりと名前を呼ばれた。  落とした視線は|驚愕《きょうがく》に彩られた。  地次源兵衛の青白い顔が、床の上から彼を見上げていた。首から下は黒々と床に|這《は》っていた。右手の白刃は背中に廻している。 「地次氏」  走り出そうとした。とにかく離れたかった。  |袴《はかま》が引かれた。  |堪《たま》らず前へ倒れた。両手を下にして衝撃を和らげ、ふり返った。  眼の前に地次の顔があった。  青白いだけのはずだったのに、今は——血まみれだ。 「羽田ぁ……おれを斬れ……おぬしなら……斬れる。おぬしは……おれと同じなのだ」 「違う——違う。嫌だ」  羽田は右手をふり上げた。門前で会った娘と——花束が浮かんだ。あの花を戻さなくては。ふり下ろした。手は信じられないほど滑らかに動いた。  位置からして不可能なはずなのに、刀身は地次源兵衛の首に食いこみ、一気に斬り落としていた。  羽田は激しく|咳《せ》きこんだ。どこまでも深い穴に沈んでいくような感じが全身を覆っていた。  地次の死体に近づき、あることに気づいて眼を閉じた。  それは死後長い時間を経た姿をとどめていたのである。腐臭が鼻をついた。  疲れが身体を駆け巡った。  地次の声が|甦《よみがえ》った。  おぬしは、おれと同じだ。  別の声が加わった。  それがしが最も、羽田氏に近い。  もうひとつ——  たとえ四十石とはいえ、その責を負うのは——  違う、違う。おれは、地次や梨本とは別の人間だ。  別の考えが忍び寄ってきたのは、廊下の死体と血のせいだろうか。  十五、六のとき、羽田は下士たる身分を憎悪し、同じ境遇の若者たちと徒党を組んで荒れ狂った。城勤めをはじめ、探索方として働き出してから、誰からも、驚くほど変わったと言われた。母は泣いて喜んだ。  違う。おれは変わりはしなかった。それは、はっきりとわかる。あのとき、おれは、ただ|諦《あきら》めたのだ。哀れっぽく羽田家の将来をかきくどく母も、親類も、いや、羽田の家さえどうなっても良かった。何もかも捨てきって、自分を高く売れるなら、喜んでそうしたろう。だが、おれの力で家も藩も捨てて生きていくことなど出来はしなかった。世の中はそんな大それた異人を許しはしない。反抗の代わりに与えられるしっぺ返しが、おれは怖かった。だから、すべてを諦め、実直な一探索方として生きることに決めた。地次もそうだったのではないか。  彼は胸の中の炎を抑えつけて二十年を生きた。おれも同じだ。ああ、地次は正しかったのだ。  門前の娘の顔を|憶《おも》い出そうとしたが、うまくいかなかった。  |怨《おん》|念《ねん》は消えはしない。それは受け継がれる。ひっそりと、地の底を這いずるように生きながら、理不尽な死を強制された者の|怨《うら》みを、おれは伝えなければならない。  羽田は右手の一刀を握りなおした。二度と|鞘《さや》に収めることはしまい。  この家へ|人《ひ》|間《と》が訪れるたびに、彼らは両足を断たれ、地に這わねばならないのだ。新たな地次——羽田が見つかるまで。  しばらく待つことにして、羽田は座敷の方へ歩き出した。自分がさっきから一度も立ち上がらずにいることに彼は気づいていない。  とりあえず、夜明までだ。  城から人がやってくる。  羽田は一刀を手に、虫のように這っていた。      千鳥足  秋田の某藩で馬廻り役を勤める大辻玄三郎は、神伝流居合の名手として藩中に名が高かった。居合の成否は力や速度よりもタイミングで決まるが、玄三郎は|膂力《りょりょく》で決するのである。  三歳の頃から大人用の素振り刀を日に千回ずつ振っていた|体《たい》|躯《く》は壁のようであり、木の枝で打っても骨まで斬るといわれた。裂けるでも砕けるでもない。斬れるのである。  藩の道場でふたりを打ち殺したとき、流石に斬断は無理だったが、肉は裂け|肋《ろっ》|骨《こつ》は折れていた。  そんな彼に「千鳥ヶ淵」の話を最初に耳に吹き込んだのが誰かはわかっていない。  どんな結果になるか想像はついても、その重大さにまでは思い到らない軽薄な|朋《ほう》|輩《ばい》であったろう。  とにかく、藩祭も近い初秋の一夜、玄三郎は「千鳥ヶ淵」を巡る細道をひとり歩く羽目になったのである。 「千鳥ヶ淵」の怪異は玄三郎も|知《ち》|悉《しつ》していた。  百年も昔の戦国の世は、今の藩土一帯も人馬と|刀《とう》|槍《そう》の国にせずにはおかなかったが、「千鳥ヶ淵」近くの草原でも、流れた血のせいでそれから十年間草木一本も芽吹かなかったといわれる|凄《せい》|惨《さん》な戦いが繰り広げられたのである。  勝者と敗者が生まれた。  勝ち組に追われた武者のひとりが戦場を逃がれ、とある農家に救いを求めた。情に厚い農夫は彼を先導して国境へと向ったが、途中、「千鳥ヶ淵」を左手に見る道の上で数名の敵と遭遇し、|命乞《いのちご》いも空しくともども首を落とされた。  この際、斬られた武者は、雨の夜この淵を歩くな、と言い残したという。彼の首が地上から見たものは、|篠《しの》つく雨と運命のような黒い天だったのだろう。  それから現在まで、「千鳥ヶ淵」を巡る道の上に首のない武者が現われたとか、何人もの旅人が何かに引きずられるように淵へ入りこむのを見たとかの噂が立ったものの、百年の間に生々しさは失われ、何処の土地にも残る平凡な伝承のひとつと化していたのである。  そもそも「千鳥ヶ淵」という名称自体、ここ十年の間につけられたもので、以前は名前などなかった。それも千鳥が舞い飛び舞い下りる風雅な趣きによる名称ではなく、近くの盛り場でかなりきこしめした武士たちが、十指に余るほど足を滑らせ、黒い水に吸い込まれたためという|些《いささ》か情けない命名だったのである。  それなのに、藩随一の遣い手が乗り出す羽目になった。  玄三郎が耳にした怪異とは次のようなものである。  ふた月ばかり前の土砂降りの日暮れ時、藩の|祐《ゆう》|筆《ひつ》組|友《とも》|納《の》|八《はち》|左《ざ》|衛《え》|門《もん》と酒田清一郎が淵近くの飲み屋で盃を交わし、小降りになるまでお|留《とど》まりなされと止める店主もふり切って帰宅の途についた。「千鳥ヶ淵」は盛り場から北へ小半刻ほどのところに静まり返っていたのである。  時の流れのせいで広さこそ半分に削られたものの、周囲の竹林や草地には伝承に今も生命を与える荒涼さが色濃く漂っているし、町の灯が点々と望める夕刻過ぎまでならともかく深更ともなれば、黒い水のほとりには犬の子一匹近づかない不気味さが|漲《みなぎ》っている。  そんなところに二人の武士は出向いたのである。生き残った酒田清一郎の話によると、飲み屋を出る間際に「千鳥ヶ淵」の言い伝えが舌に上り、頃合いも空模様も良し、ひとつ歩いてみるかという方向へ進んだ。酔いも廻っていた。  軒先から降りを見て、酒田は正直腰が引けた。もう少し小降りになるまで待とうかと、|喉《のど》まで出かかったのである。  友納の勢いがそれを止めさせた。飲み屋で借りた傘を大仰に広げて、彼は泳ぎに行くぞ、とひと声、雨の中を歩き出したのである。傘が激しく鳴った。やむを得んと腹を|括《くく》って酒田も後を追った。  傘の端を触れ合うようにして歩くうちに、飲み屋で借りた|提灯《ちょうちん》の頼りない光の中に、黒い水を|湛《たた》えた淵が見えてきた。  友納はあくまで強気で通そうとしてか、小唄を口ずさみはじめた。酒田の倍は飲んだので足取りはやや覚束ない。  道は淵を巡るが、真っすぐ突き抜けて良岸院という寺の裏に出ることもできる。酒田はそのつもりでいたし、友納も同じだと思っていた。  道の半ばほどで友納が急によろけた。おっ、という声が聞えた。大丈夫かと|訊《き》いても返事はない。  酔いがいきなり足に出たような歩きぶりで、傘と左手で必死に姿勢を整えようとするうちに、すうっと淵の方へ寄って、酒田があっという間もなく傘から先に水の中へ落ちた。  跳びこんで救い出すのが本当なのに、酒田はそうしなかった。「千鳥ヶ淵」の言い伝えが彼を金縛りにしていたのである。後日、この件で彼は切腹を命じられ、一部始終を検分の上士に語った上で見事に腹を切った。  これだけなら単なる臆病者の弁明で終わったのだが、以後、今日まで既に三名の武士が全く同じ状況で黒い水に姿を消し、全員浮かび上がって来ない。 「あの淵には何かいる」 「いや、偶然だ。呪いがかかっているにせよ、百年も前の話だぞ。なぜ今頃になって」  武士町人を問わず、意見はふたつに分かれた。  家中の武士たちには、藩からこの件について一切他言無用とのきつい指示が出たものの、噂は|燎原《りょうげん》の火のように拡大して、ついには淵に潜む|河童《か っ ぱ》のしわざだと言い出す者まで出た。  藩随一の遣い手が担ぎ出されるまでかくの如き事情が存在したのである。  さて、当日——つまり、雨の日——になるまで、玄三郎は本気ではなかった。  剛胆な武士の常で怪異など信じていなかったのである。 「河童とやらが出て来たらおれが退治してくれる。武将が迷っているなら、武士のくせに女々しい真似はよせと一喝してやろう」  彼は笑いながら言った。  その日は晩秋で、朝から肌を刺すような氷雨が町を閉ざしていた。 「千鳥ヶ淵」では雨音がひときわ高く響き渡るようであった。  二人の同僚とやってきた玄三郎は、道が淵にさしかかったところで手をふり、同僚を止めてから歩きつづけた。  玄三郎に異変が生じたらすぐにも駆けつける心算で、二人は勇士を見送った。  玄三郎の壁のような背が雨に煙っていく。  道半ばでその足が大きくもつれた。同じ条件ということで、彼は十数本の|銚子《ちょうし》をあけていた。そこまでしないと酔わなかったのである。二人は走り出そうとしたが、玄三郎は千鳥足ながら微妙なバランスを取って道を進んでいく。ひと声かけてもそれを崩しかねない不安が二人を硬直させた。  一度ならず玄三郎は道の端までよろめいたが、氷のようになった二人の見守るうちに、何とか道の向うへ|辿《たど》り着き、寺への脇道に一歩踏みこんだ。  途端に彼は、すっくと|屹《きつ》|立《りつ》したのである。  おっかなびっくり二人が駆け寄ると、彼はなぜか傘を畳んだり開いたりしながら、 「戻ろう」  と言った。  三人は良岸院の境内を通って町へと戻り、別の居酒屋へ入った。  そこで玄三郎は事件の真相を語ったのである。  千鳥足になった原因は、傘にあった。  何か、ひどく重い塊りが突如、傘の上に出現したのである。  玄三郎はそれを落とさなかった。落とせなかったのである。頭上に重さを感じた|刹《せつ》|那《な》、彼はそいつがこう言うのを聞いた。 「落としてみれ」  農夫も首を斬られていたことを玄三郎は|憶《おも》い出した。  背後で同僚が何か叫んでいたが、返事もできなかった。二人には傘の上のものが全く見えなかったのである。  傘の上に乗っている不安定なものが、農夫の首にせよ何にせよそれを落としてはならなかった。傘の上でそれは激しく揺れ動き、彼は片手で必死に傘を操った。左手が動かなかった理由はわからない。落とせば前の武士たちの後を追うことになるのは明白であった。  寺への道へ入ったとき、|安《あん》|堵《ど》のあまり、それこそ酔漢のようにへたり込みそうになった。右腕と足の筋肉は筋が切れる寸前まで張りつめていた。 「百年も残る|怨《うら》みとは、農夫の一念も見事というべきかも知れんな」  こう言って盃を上げかけ、玄三郎は苦笑して止めた。 「千鳥ヶ淵」の謎は解けたが、農夫の霊が百年も経ってから出現し、武士たちを黒い水に引きずり込んだ|理由《わけ》は彼にもわからなかった。  数日後、彼と二人の同僚は千鳥ヶ淵を訪れ、奇怪なものが傘に乗った場所に花をたむけて帰った。     帰ってきた十三郎      1  宵宮良介のもとへ、この冬義姉になる高橋世津がやって来たのは、赤とんぼが通りを軽やかに渡る初秋の夕刻であった。  良介は驚いた。世津がはじめて家へやって来て以来、しっくりといかないものを感じていたのである。本質的に合わない——向うもそう感じていたらしく、以後、訪問のたびに、家族に向ける笑顔も、良介にだけは、それとわかるほど白々しい。  とうとう兄の勘吾が、 「おまえ、何かあったのか?」  と問い詰めた程である。 「何もない。兄者の嫁だが、おれには合わんのだ。おれは何とか抑えてるつもりだが、向うははっきりと顔に出る。人間性の問題だ。|如何《い か ん》ともし難い」  こう答えると、 「ふむ、おまえ、世津殿が気に入らんのだな」  腕組みして、それなら考えがある、と言わんばかりの眼つきと口調になったものだから、おいおいと否定しかけた途端、 「わかった。なら、世津殿の来訪時に、おまえは一切顔を見せてはならん。よいな、しかと申し付けたぞ」  えらそうに言い渡されてしまった。  次男坊の良介は、庭の離れに寝起きしている。いわゆる部屋住みである。親から小遣い銭を貰い、婿養子の口でも見つからない限り、一生そこで暮らす身の上だ。義姉になる人物と折り合いが悪くては、どんな日々がこの先待っているのか眼に見えている。  そんなこんなで、兄貴の祝言などつぶれてしまえと内心毒づきながら日を送っていたところへ、いきなり、当の世津が現われたのだから、驚くまいことか。しかも、 「お願いがあって参上いたしました」  と来た。  こういう場合、肌合いが合わぬと思っていたのは、実は勘ぐり過ぎで、向うは兄貴よりおれに気があったのではないか、と普通考える——かどうかはわからないが、良介はそう考えた。  願いなら兄に言えばいい。それを自分のところへ来たのは、気があるからに違いない。それでも、ちらちらと母屋の方へ眼をやって、 「兄者は何をしておるので?」  とまず|訊《き》いた。あの堅物の|逆《げき》|鱗《りん》に触れて、家を追われては元も子もない。 「同役の緒方様に用があると言って、お出かけになりました。私は待たせていただいております」 「しかし、いや、その、兄者の|許婚者《いいなずけ》が、こういう場所へ来るのは、少々不都合ではありませんか?」 「ご両親に許可はいただいております」 「さよか——いや、左様か。で、願いとやらは、どのような?」  世津の表情が急に変わった。もともと月に照らされた白木の面みたいに冷たい|美《び》|貌《ぼう》だったのが、陶器のようになった。  ——厄介事だな、こりゃ  良介は胸の中で嘆息した。  ——しかし何故、合わぬおれに? 「他言はせぬと、まず誓って下さいまし」  光る眼で見つめられ、良介は柄にもなく、胸中にときめきを覚えた。性格はともかく、その美貌と着物に包まれた肢体の豊かさは、初対面以来、良介の男を刺激しつづけて来たのである。 「誓おう」  言ってから、しまったと思った。しかし、その後の世津の言葉で、それどころではなくなった。 「人を斬っていただきたいのです」 「はぁ?」 「殿方をひとり。名は進藤十三郎。三年前まで、私がお慕い申し上げていた御方でございます」  良介は訳がわからなくなった。兄の留守に弟の部屋へやって来て、人を斬ってくれと言う。これだけでも破天荒なのに、それがかつての恋人と来た。  |呆《ぼう》|然《ぜん》とする|髭《ひげ》の濃いいかつい顔を、うす笑いを隠しもせずに見据えて、怖るべき兄嫁予定者は、細かい事情を語りはじめた。夕暮れに近い光が、白い着物に包まれた姿を、何とか自分の中に溶けこませようと焦っていた。  進藤十三郎が世津と出会ったのは、三年と半年ほど前——世津が十六のときである。当時から世津の美貌は注目の的であり、縁談が引きも切らなかった。そのどれにも世津のこころは動かなかったが、当時、藩の|番頭《ばんがしら》を務めていた父の|朋《ほう》|輩《ばい》が訪れ、 「|近《きん》|習《じゅ》役を務めおる|倅《せがれ》でござる」  と紹介した若者をひとめ見て、我を忘れた。 「そう、身の丈は六尺余り、金剛力士のような立派な身体つきなのに、女のような優しい顔をお持ちでございました」  月のごとき美貌にゆれる笑みが、世津の過去の想いを運んできた何者かのように見えて、良介は、思わず、ほうと|唸《うな》った。|蒼《あお》|味《み》を帯びはじめた光を味方につけた義姉は、それくらい美しかったのである。  ——しかし、用心せねばいかん。これはのろけ[#「のろけ」に傍点]だ  こう思ったとき、 「——十三郎様は、兄上様よりあなたに似ておりました」  こうも言われて、良介の用心は火に|焙《あぶ》られる|飴《あめ》になった。さすがにこれではいかんと思い直し、 「そのような方を、何故斬れと仰せられるか?」  と訊いた。 「兄者との祝言を知って、苦言を呈して来られたのですか? いや、その方はいま何処にどうしておられる?」  恋の話は厄介だ、と良介は重い胸の|裡《うち》で考えた。二人で落ちて、一緒に|醒《さ》め果て、脱け出せればいいが、落ちるのが片方だけとなると、殺傷|沙《ざ》|汰《た》になってもおかしくない。世津は終わったつもりでも進藤十三郎にはそうではなかったのであろう。ひょっとしたら、世津は兄との婚礼が決まってからも、その男と——  こんな良介の胸中を読んだか、 「誤解なさいませぬよう」  と世津は、刺すように言った。 「十三郎様とは半年でお別れいたしました。あの方は、江戸の大道場で剣を磨くと言い|遺《のこ》して、国を出ていかれたのでございます。お帰りになってからのことは、何も|仰《おっ》しゃいませんでした」  たとえ、どのような約束が二人の間にあっても、藩へ出す婚礼届けが、藩主直々に許諾を言い渡されてはどうしようもない。十三郎が恋人の不実を責めようと、宵宮勘吾と高橋世津の婚礼を成功させるために、一藩の全システムが稼動しはじめている。それはもとの恋人の異議申し立てすらも断じて許さない。  良介は世津の顔から眼を離さずに記憶を|辿《たど》ってみた。  |禄《ろく》を|食《は》む武士である以上、剣の修業にも藩主の許可が要る。しかし、それを取得するのは容易とはいえなかった。藩にも道場が存在する。それらを捨てて江戸へ赴く以上、十三郎の剣は藩の誰よりも|手《て》|練《だれ》でなければならなかった。  良介の記憶|遡《そ》|行《こう》は、それほどの|強《つわ》|者《もの》が藩内にいたかどうかを探る試みであった。  いない。良介も夢想神明流を|手《て》|解《ほど》きする藩内の道場に通い、他に三つある他流の道場とも交流試合をした。強者の名前なら大抵は聞いているし、顔もわかる。進藤十三郎はどこにも該当しなかった。  近習役、と言われても無役の彼には別の世界だった。  ——いまの殿は衆道の気が強いらしい。女のような優しい男か。ふむ。|妾《めかけ》に店を持たせるために、どこかへ修業にやる|大《おお》|店《だな》の主人の気分だな。  頭の中を読まれれば、切腹間違いなしの妄想に陥ったとき、近くで世津の声がした。 「進藤様はそれきり戻りませんでした。いえ、江戸へは着かなかったのでございます」  大望を抱いて旅立った若侍は江戸の藩邸に到着しなかった。供の若党ひとりと一緒に、途中、|忽《こつ》|然《ぜん》と消えてしまったのである。  江戸の藩邸から不着の連絡が届き、藩の方でも多人数を繰り出してその行方を追ったが、出立して三日目に、とある宿場に宿を取ったと判明したのが最後で、以後の消息は、深山の霧にでも巻かれたか、神隠しにでも遭ったかのように知れなかった。進藤十三郎の旅は三日で終わったのである。 「しかし、それだけの大事なら、いかに無役の浪人といえど、それがしの耳にも入るはず。いま、はじめて知り申した」 「捜索はすべて、殿の上意で内々に行われたと、父から聞きました」  やはり、衆道の口かと、良介は納得した。 「斬ってくれと仰しゃる以上、その進藤殿は帰って来られたのですな」 「はい」 「そして、あなたと兄者との祝言を知り、抗議してきたと」 「いえ」 「どういうことです?」  良介は、眼の上の部分がきつく固まるのを感じた。 「帰ってはいらっしゃいましたが、実家へは戻ってはおられません。抗議もしては来られません」 「………」  光が最後の力をふり絞ったかのように、かがやきを増して世津を呑みこんだ。それに溶け込む寸前、良介は無機質な美貌の表面に、はじめて恐怖の|翳《かげ》が渡っていくのを見た。 「十日ほど前、気がつきました。大善寺へ祖父の墓参りに出掛けた帰り、背中に妙なものを感じてふり向きますと、十歩と離れていないところに、あの方が立っておりました。左手をこう胸に当てて、羽織も|袴《はかま》もぼろぼろの旅仕度で、顔は|埃《ほこり》まみれでしたが、私にはすぐわかりました」  進藤様、とつぶやくと、それが耳にでも入ったのか、若侍は二歩、世津の方へ歩を進め、突然身を翻して、背後の四つ辻を右へ折れた。  意外な遭遇が奇妙な別れで締めくくられたため、世津は訳もわからず|呆《ぼう》|然《ぜん》と立ち尽していたが、じきにふり返った。  道具箱を肩にした|鳶《とび》らしい男が、鼻唄まじりの軽い足取りでこちらへやってくるのが見えた。男の後ろにも四つ辻があって、さっきまで姿は見えなかったから、左右どちらかの辻から現われたのだろう。  世津は進藤家へは行かなかった。懐しさよりも驚きよりも、何故か、肌が粟立つような恐怖が残っていた。それから三日間、外へ出ず、人をやって進藤家の近所からも話を集めたが、十三郎が帰宅した様子はなく、父も何も言わなかった。  ようやく、あれは気のせいだと思い切れたのが三日目で、世津は坂下町に住む|伯《お》|母《ば》の家へ用向きで出掛けた。その帰り、三台神社の秋祭りに|賑《にぎわ》う境内で、 「また、同じような気配を感じてふり向きますと、進藤様が立っておられたのでございます」  三日も経っているのに、全く同じ格好なのが、世津にはひとめでわかった。三年もの間、この人は何をしていたのだろうか。家にも帰らず、三日の間、何処で何をしていたのだろうか。それよりも、自分を見つめる|虚《うつ》ろな表情は何だろう。嬉しいでもない、|口《く》|惜《や》しいでもない、見つめられていると身体中の血が凍ってしまいそうなあの|眼《まな》|差《ざ》しは?  世津は必死で、かつての恋の想いを|甦《よみがえ》らせようと努力した。|微《み》|塵《じん》も湧いて来なかった。 「なぜ……なぜ…」  と飴屋の屋台の前で、彼女は|痴《ち》|呆《ほう》のようにつぶやいた。 「なぜ……帰って来たのです?」  途端に気が遠くなった。十三郎が、にやりと笑ったのだ。  よろめく耳に、自分の名を呼ぶ女の声が聞こえ、世津はかろうじて踏みとどまった。救い主は十三郎の背後から彼女を見とめた坂下町の伯母であった。十三郎の姿はなかった。|香具《や》|師《し》や皿廻しの芸人の口上が遠くで生き生きと世津を呼んでいた——。  その世津がいま、三間ほど先を行く。  着物の下の大柄な肢体から、女の芳香が匂い立つようで、良介は、しっかりしろと自分に言い聞かせた。部屋住みの身で何が出来るかと考えれば、飯を食う以外には、酒と|博《ばく》|打《ち》と女になる。藩でも組頭を務める父の甚内は、厳格な割りに|放《ほう》|蕩《とう》|者《もの》の次男に甘く、辞を低くして請えば、遊びに困らないだけのものはくれる。その分、勘吾がうるさいが、良介は馬の耳に何とやらを決めこんでいた。  その金で茶屋の女たちとも随分遊んだ。眼を覆いたくなるような女も、ほお、と|唸《うな》る女もいた。だが、眼の前の世津ほどの官能を|撒《ま》き散らすのは皆無だった。  ——正面から見ると能の面だが、後ろは|凄《すご》い。やはり女だな。おれが責めるとしたら、まず——  不謹慎な妄想に熱くなっていた頭が不意に冷えた。      2  二人が歩いているのは、ほぼ南北に領内を貫通する|鳥埠《ちょうふ》川の支流——その西側の土手の上である。左方は崖になっている。この先にある妙見寺は紅葉の美しさで名高く、盛りには見物人で身動きもできなくなるが、風が冷たさを含んだばかりの今は人通りも少ない。  ひと気のないところをひとりで歩いていただきたい。それがしは離れてついて参ります、と良介が提案し、ならばここと決めたのは世津であった。  結局、良介は世津の依頼を受けたのである。  ただし、新しい恋人との祝言の邪魔だからというだけでは首を縦にふりはしなかった。世津は、良介に奇怪な、信じ難い事柄を打ち明けたのである。 「あの方は生きている|人《ひ》|間《と》ではございません」  あんぐりと口を開けた良介に、彼女は実は|一昨日《おととい》、人を雇って自分の後を|尾《つ》けさせたと言った。今日のことは、すでに実験済みだったのである。はたせるかな、林蔵町のひと気のない林の中を歩く世津の背後に、三度、十三郎は現われた。 「進藤さま——お懐しうございます」  と一礼し、顔を上げると、眼の前に立っていた。  ひっ、と声が出るのをこらえ、祝言をあげる旨を伝えた。  十三郎は左の|拳《こぶし》を胸乳と胸乳との間に当てて聞いていたが、彼女が言い終えると、不意に右手でその手首を|掴《つか》んだ。 「氷のような手でございました」  彼は無言で世津を引いて行こうとした。  ——何処に行かれるのでございます。あなたが行かれるところに私はお供できません  二人は争った。  そこへ三人の浪人が現われ、周囲を取り囲んだ。家に出入りの商人の|伝《つ》|手《て》で集めた食いつめ者たちに、世津はずっと自分を尾けさせていたのである。  十三郎は、じろりと世津を見た。その表情と眼差しのあまりの不気味さに、世津は意識を失った。そして遠くから全てを眺めていた商人にゆさぶられて気がついたとき、彼女の周囲には一太刀で致命傷を負った浪人たちが、血の海の中で|喘《あえ》いでいた。いかに凄い剣技の遣い手を相手にしたか、世津にも、その傷の|凄《すさ》まじさから想像がついた。三人はまさしく死神と相対したのである。  死体は商人が片づけることにし、世津はすぐその場を離れた。 「あなたにお願いする理由もこれでお判りでございましょう」  世津は、この女、少しおかしいのではないかと思いはじめている良介を見据えた。 「あのような魔剣を遣う御方には、当藩随一と言われる剣の名人をぶつける以外にはございません。是非とも聞いていただかねばなりません。お礼も致します」  世津は身を|屈《かが》め、右手をのばして、良介の膝に触れた。作意が見え見えのあざとい行為であったが、良介はすでに|闘《や》る気になっていた。  死霊や死人が人を斬る道理はない。十三郎は生きているに違いなかった。彼は浪人たちと同じやり方で、十三郎の出現を待ち、現在の境遇を問い|質《ただ》した上で、やむを得ぬ場合に限って剣を抜くと、世津に告げた。世津も認めた。十三郎を死人だとは言ったが、深いところではそう信じていないのかも知れない。死人相手に浪人を雇いはすまい。  ——すると、世津殿は、単に兄者との祝言の邪魔になるからといって、進藤の家にも知らせず、十三郎殿を抹殺しようとしていることになる。浪人はただ、十三郎と話をする際の護衛として雇ったのだというが、なに、当てになるものか  とんでもない女だ、と思った。男を食い物にする魔性の女郎|蜘《ぐ》|蛛《も》だ。そして、その|妖《あや》しい色香に惑わされて自分も蜘蛛の巣に捕われてしまったらしい。  良介は足を止めた。  先の寺には紅葉だが、|川《かわ》|縁《べり》には桜の木が植えてある。その一本の陰から、ふらりと旅姿の武士が現われ、良介と世津の間に入りこんだのである。いつから待ち構えていたのか。どうやって二人がここへ来ると知ったのか。  動かない。世津も足を止めた。ふり向いた。|美《び》|貌《ぼう》がこわばっている。救いを求めるような眼差しを良介に投げた。  進藤十三郎がふり向いた。世津の話どおりの姿であり、表情であったが、死人とまでは思えない。足下には影がちゃんと落ちている。左手の拳を胸のまん中あたりに当てているのが奇妙といえば、奇妙だった。 「進藤氏でござるな。拙者は当藩組頭を務める宵宮甚内の次男にて、良介と申す。実は少々、貴公と世津殿に談合の機会を与えたいと思って、こちらへ参上した。許されよ」 「私が嫁ぐ御方の弟殿でございます」  と世津がつけ加えた。  余計なことを、と良介は世津をにらみつけた。これからというときに、相手を逆上させる気か。  はたして、進藤十三郎の左手が胸を離れた。生まれつきその形だったものを、無理矢理もぎ離すようなぎこちない動きで、一刀の|鞘《さや》を掴み、鯉口を切った。 「待ちなされ。拙者は貴公に敵対するものではない。あくまでも、世津殿と貴公に穏やかな談合をしていただくために、同道いたしたまでだ」  十三郎は一刀を抜いて、青眼に構えた。その眼だけで、良介は話し合いなど無駄だと悟り、その構えを見ただけで、ここへ来て良かったと思った。  これなら、剣を|生《なり》|業《わい》にもしていない浪人など十人束になっても同じことだ。しかし、進藤十三郎は江戸にも行かず、何処でこのような剣士に成長したものか。  十三郎が地を蹴ったときには、良介も青眼を取っていた。  良介の寸前で十三郎は刀を右に引き、|凄《すさ》まじい突きを放ってきた。  横へ移動しただけでは足りない。良介は刀身を|弾《はじ》いた。びくともしなかった。逆に跳ね返された。凄まじい|膂力《りょりょく》というしかない。  数歩下がって必死にバランスを整えるところに、右八双で突っかけてきた。 「糞」  良介の声は下方へ流れ、その肩先へ叩きつけたつもりの刃が空を切った|刹《せつ》|那《な》、進藤十三郎の右膝は横に割られていた。  ——人間だ  |手《て》|応《ごた》えから良介は確信した。  糸が切れた人形みたいに右方へ崩れた十三郎の姿が、ゆっくりと持ち上がった。左足だけで崩れかける身を支えたのである。  右足を引きずりながら、彼は神社の方へと走り出した。途中で立ちすくむ世津を見た。何もせず、何も言わずに走って、道を曲がった。  世津が駆け寄る前に、良介は立ち上がっていた。全身が|瘧《おこり》にかかったように震え、刀身を収める気にもならなかった。 「お怪我は?」 「大丈夫だ。はじめての殺し合いに、身体が正直に反応しておる。次からは慣れるだろう」 「やはり——見込んだとおりの御人でした」  よせやい、と良介は言ってやりたかった。勝ったとは到底思えなかった。刀身を跳ねられたとき、体勢を立て直すのに拘泥していたら、肩先から鎖骨——肺までを斬られていたに違いない。そのまま倒れろと命じたのは本能であった。それが彼を救った。 「とにもかくにも、進藤氏が生身の人間であることは明らかになりましたぞ」  彼は路上へ目を落とした。土の上に鮮やかな血の花が幾つも咲いている。 「死人も|怨霊《おんりょう》も生血は流しますまい」  良介は同意を求めて世津の方を見たが、彼女はゆっくりとかぶりをふって、 「いいえ」  と言った。老婆のような声であった。  良介はためいきをついて、刀身を収めた。震えは消えていた。世津がそばに来たせいかも知れなかった。 「こうなった以上、黙っている訳にもいきますまい。あの手傷は生命にも関わる。気が触れた進藤氏が戻られて、祝言を中止せよとあなたに付きまとった、あなたは進藤家の家名が汚れるのを見るに忍びず、ひとりで話し合おうとしたが、危険を感じて拙者を同道した。嘘もあるが辻つまは合う」 「進藤様は、ご実家には戻りませぬでしょう」  世津はこの女には珍しい沈んだ声で応じた。 「あの方が現われるのは、私の前にだけ。その姿も見ずに、ご実家が今のような話を信じるとお思いですか? それにやはり、あの方は生きているとは思えません」 「しかし——血が」 「死人が、霊が血を流さぬと、誰が決めまして?」  良介は絶句するしかなかった。  世津が家へ戻るのを見届けてから、良介は大分歩いて、美良町へ出た。  藩内随一と言われる盛り場である。彼が|辿《たど》り着いた頃はまだ陽が高かったが、茶屋や飯屋や飲み屋が軒を並べる通りには人が|溢《あふ》れていた。 『|睦《む》|月《つき》楼』と看板の出た茶屋へ入ってすぐ、店の者を呼び、あることを依頼した。  結果は、十本目の|銚子《ちょうし》を空にする前に現われた。  後ろ手に|襖《ふすま》を閉めて、渋い茶の羽織を着た男は畳の|縁《へり》を踏まぬよう正座し、深々と頭を下げた。裕福な商家の主人にしか見えない。 「お久しぶりでございます」 「全くだ。固い挨拶は抜きにして、まず一杯いこう。それから頼みたいことがある。親分でなきゃできねえ仕事だ」 「よして下せえ」  良介が差し出した湯呑み|茶《ぢゃ》|碗《わん》を両手で受け取り、なみなみと注がれた酒を一気に空けてから、男はひと息吐いて、|手《て》|拭《ぬぐ》いで口を|拭《ぬぐ》った。 「相変わらず、いい飲みっぷりだな」 「怖れ入ります。口が汚ねえだけでさ。で、旦那、御用と|仰《おっ》しゃいますのは?」 「親分の力で、ある侍の行方を捜して欲しいのさ。名前は——」  年格好と服装を伝え、三年半ばかり前に江戸へ|発《た》ったが、三日で消えちまったと、その宿場の名も教えた。 「藩の方でもあれこれ手は廻したらしいが、|所《しょ》|詮《せん》はお固いお侍さまのやるこった。裏の裏に広がる闇の中までは見透せねえよ。親分にはそこを|覗《のぞ》いて欲しい」 「承知いたしやした」  四十年配の男は、それまでの人生を自ら明らかにする|精《せい》|悍《かん》な表情で破顔した。右頬に走る深い傷跡が蛇のように|歪《ゆが》んだ。  それを見てすくまない|破落戸《ご ろ つ き》はいない。      3  翌日、城から戻った兄へ、 「実は昨夜、近習役の進藤|某《なにがし》が帰参したという話を耳にしたのだが」  と振ってみた。彼はきょとんと不肖の弟を眺めてから、幽霊でも見たような顔つきになって、 「貴様、なぜ、進藤殿のことを知っておる?」 「ほ、内緒かな?」  と良介はとぼけた。藩主の衆道絡みだ。すべては極秘ではじまり、極秘で終わるに違いない。 「おまえ、何を知っておる?」 「何も——いま申し上げたとおりのことしか」 「誰から聞いた」 「某氏で」 「よいか、いまお前が口にした名前は、我が家の運命に関わる。決して余人に聞かせるな、いや、一切口外はならぬ」 「はあ」 「誓え」 「はあ?」 「誓わねば、成敗いたすぞ」  顔つきを見て、これは本気だと思った。 「承知いたしました」  |恭《うや》|々《うや》しく一礼すると、兄の全身が|蛸《たこ》みたいにくねった。緊張し切っていたらしい。たかが男好きのする若造ひとりに、と良介は吹き出したくなるのをこらえた。  兄はまた身を硬くして、 「おまえ、進藤殿を見かけたのか?」 「とんでもない」 「その|某《なにがし》とやらは?」 「さて、わかりませんな」  兄は怒気の|漲《みなぎ》る|眼《まな》|差《ざ》しを良介に向けてから、眼を閉じた。この件を上司に報告すべきかどうか考えているのだなと良介は踏んだ。おかしな忠義立てをされると厄介だが、そうはすまいという自信があった。  当った。兄は眼を開け、 「今のおまえの話、わしはすべて忘れる。おまえもだ。誰にも——」 「話しませんし、話してもおりません。誓います——ところで進藤殿は、帰参なされたのか?」 「|莫《ば》|迦《か》を申せ」 「かたじけない」  一礼して、良介は兄の下を去った。  進藤十三郎が城に戻っていないのは、兄の返事で明らかになった。あの|服装《み な り》では家にも帰ってはいまい。一体何を考えているのか。良介は困惑した。  その晩、加賀見町にある夢想神明流の道場に顔を出すと、師範代の相馬金兵衛以下の門弟たちが歓声で迎えた。  一年前、他道場との勝抜き戦を行った際、見事、勝利の栄誉にかがやいた良介は、彼らの|憧《あこが》れと賞讃の的だったのである。対戦相手は十二名——すべて一本勝ちであった。 「どういう風の吹き廻しで?」  にやつきながら、相馬が声をかけてきた。 「汗を流しに来た。悪いか」  身仕度を整えて道場へ出ると、よく顔を知った数名が、稽古をつけてくれと申し出た。 「おお、腕を上げたか?」 「はっ。いささかは」  一斉にうなずく後輩たちに、良介は|清《すが》|々《すが》しいものを感じた。  だが、一方で、無邪気なものだ、と思わざるを得ない。生死の闘いを経た結果の感慨であった。ここ三年——城下では数件の斬り合いしか起っていない。二十年間、竹刀や木刀をふるよりも、一度の斬り合いを経験した者の方が、剣に|凄《すご》|味《み》が出るのではないか。相手を殺すと意識するのは一種の狂気だ。その狂気の度合が強ければ強いほど、|躊躇《ちゅうちょ》なく人を斬れる。  三人の挑戦者をまさに秒殺した後で、良介は師の光城左門に呼ばれた。竹刀を飛ばされた挙句に面や小手をこっぴどく決められた三人は、訳がわからないという表情で首をひねっていた。 「見ておった[#「見ておった」に傍点]——おぬし、人を斬ったな?」  光城は単刀直入に斬り込んだ。 「先生の眼は[#「眼は」に傍点]ごまかせませんな」  良介は笑った。この師ばかりはたばかれ[#「たばかれ」に傍点]ない。左門は六年前から盲目であった。 「あの三人、いつどうやって打たれたか想像もつかんのだ。打たれるのと斬られるのと、大きな差があるが」 「人を斬りましたが、膝だけです。生命まで奪ってはおりません」  光城は|白《はく》|髯《ぜん》を|撫《な》で撫で、閉じた眼を良介に向けていたが、やがて、 「ふうむ。誰とやり合った?」  と訊いた。 「若侍ですが、|手《て》|練《だれ》でした」 「ふうむ——道場へ出ろ」 「は?」  いま呼んでおいて、と思ったが、光城は盲人とは思えぬ動きで戸口へ行くと、板戸を開いて、全員、道場を出て庭で稽古するよう言い渡し、決して|内部《なか》を覗いてはならんとつけ加えた。  驚いた良介が何事ですと|訊《き》いても答えず、さっさと羽織を脱いで、たすき掛けになると、刀掛けの一刀を|掴《つか》んで先に道場へ出た。  もともと多くを語らず、身体で覚えろ主義の師であるから、良介も普段なら、またか[#「またか」に傍点]くらいで収まるのだが、今日は大分違う。|只《ただ》ならぬどころか不気味でさえある。  森閑とした道場で光城と|対《たい》|峙《じ》すると、異様の感は一層強まった。  木刀ではない。師が本身を手にした以上、良介も真剣だ。このために、門弟たちを追い出したのかとも思った。今年七十歳を数えて、その動きには一片の無駄もなく、受けるよりかわして相手を斬る。それも肩や胸や腰ではなく、|頸《けい》動脈を狙うという、ある種いやらしい技を究めて、良介もこれだけは五本に三本は受けられない。  冗談じゃないかと様子を|窺《うかが》っても、そうではなさそうだ。第一、冗談で真剣をふり廻すような光城ではない。  死ぬかなと思った。  道場へ立ってからはひとことも言わず、光城は『|地《ち》|雲《うん》|足《そく》』の構えから下段、対して良介は中段『早船』の構えから発した。  攻め手は良介。  全体重を足指に乗せて、じりじりと右へ移動していく。光城は動かない。  声もかけずに良介は突いて出た、その刀身をよけて、光城は右へ身体を開いた。 「やめ」  と言った。 「まだ遠慮がある。斬り捨てるつもりで来い」  それから二度、同じ|叱《しっ》|責《せき》を受け、良介が絶望的な気分に陥ったとき、光城は無造作に右手をふった。全くの不意打ちで、良介は間一髪でかわしたものの、頬にびり[#「びり」に傍点]と走った。 「次で最後だ」  光城が刀を下ろしてから頬に触れると、生あたたかいものが良介の指先を|朱《あけ》に染めた。  四度目の突きは別人の突きであった。光城は|弾《はじ》こうとしたが、逆によろめいた。その肩先へ一刀を送りながら、あることが良介の脳裏に|閃《ひらめ》いた。  光城の身体が床に沈み、右膝に冷たい剣気を感じた|刹《せつ》|那《な》、良介は、 「まいった!」  と絶叫していた。  息ひとつ乱さず立ち上がった光城へ汗まみれの一礼を送ったときにはもう、何が起きたのかわかっていた。  すべては、攻守を逆にした進藤十三郎との戦いの再現であったのだ。事前の打ち合わせもなく、師はそれをやってのけた。不可解、奇怪としかいいようのない数瞬であった。 「先生」  眼にかかる前に汗を|拭《ぬぐ》った。光城は貫くような眼でじっと彼を見つめてから、 「おかしな相手と仕合ったの」  こう言って窓に寄り、外の弟子たちに入って来いと声をかけた。 「一緒に汗を流して来い」  それは良介を置き去りにするという意味であった。  玄関から上がってくる足音を聞きながら、 「やはり——死人ですか?」  と良介は訊いた。  耳には届かなかったようだ。|恰《かっ》|幅《ぷく》のよい光城の背中はいつもと変わらぬ和やかさで奥へ消えた。  それからしばらくの間、帰って来た十三郎が世津の前に姿を現わすこともなく、日が過ぎた。  冷たさが心地良さと同義だった風も、やや人々の顔をしかめさせるようになり、青葉は紅葉に化身して、町や村を飾った。城下を囲む|安《あ》|積《づみ》山、鹿峰山、白竜元山、|黒竜弐《こくりゅうに》山は全山燃え上がって、赤く染められた森が本当に火を噴いたといわれる伝説を、さもありなんと、見物する者すべてに納得させるのだった。  宵宮勘吾と世津は互いの家で何度か会い、彼女がやって来るたびに、良介はなんとなくいらつき、その日は外出するようになった。  今度の一件で、世津が更に気に入らなくなったのである。のみならず、その色香に迷った自分の好きごころにも腹が立った。 「生きていようと死んでいようと」  自室で、飲み屋で、ひとり盃を傾けていると、彼は必ずこうつぶやいた。 「いやしくも、もとの恋人ではないか。それを誰にも知らせず、闇から闇へ葬ろうなどと、婦女子のすることではない。よしんば、兄者との祝言と家名を守るためといえど、だ。あの女は、十三郎を死人だと見抜いたから、内密に処理しようとおれを頼ってきた。しかし、血を流す死人や霊がいるものか。それを知っても、あの女はおれに口止めをした。まあ、それを聞いてしまったおれにも罪がある。さて、問題は十三郎だ。あれで世津をあきらめたとは思えん。必ずまたやって来る。そのとき、おれはあの妖剣に勝てるだろうか」  斬り合ってから十日目の昼少し前、良介は外出した。夜、寺町で盆が開かれる。それまで盛り場をぶらつき、|馴《な》|染《じ》みの茶屋女をからかう心算であった。  三台神社の出店で、その女への土産に安物の|簪《かんざし》を一本買った。  背後から名を呼ばれたのはこのときだ。いつも世津に付き添っている小者であった。世津が良介に会うために外出し、神社の境内で待っている、と小者はささやいた。人の耳がある。良介は美良町の『睦月楼』の名を挙げて、そこで待つと言った。  半刻ほど後、二人は茶屋の一室で互いの眼の奥を|覗《のぞ》きこんでいた。  あれから十三郎は現われません、と言われて、良介はそれは重畳、とぶっきらぼうに返した。 「また来るでしょうか?」  世津の声には嫌悪が表われていた。男は損だなと良介は苦笑を押し隠した。 「進藤家の様子はいかがです?」 「戻ったふうはありません」 「何処ぞやで、傷の手当てでもしているのでしょう」 「まだ、あの方が生きているとお考えですか?」 「正直、わかり申さん。ただ、怪力乱神を語らぬのが武士でござる」  世津はうつむいて、長い息を吐いた。それにこめられたものが、自分の境遇に対する疲れか、進藤十三郎への感慨か、良介はふと、知りたいと思った。  長いこと、世津は顔を伏せたままだった。|憐《あわ》れみの情が良介の口を開かせた。 「乗りかかった船です。今後、外出なさるときは、必ずご一報下され。背後からお守り申し上げる。世津殿の身に何かあっては、兄者が哀しみますで」  世津の顔が上がった。|美《び》|貌《ぼう》なだけに、ある表情は険が目立つ。怒りがその代表であった。彼女は義弟になるべき男をにらみつけた。 「私——昨日も良介様が外出なさるのを平作ともども外でお待ち申し上げておりました」  良介は、はあ、としか言えなかった。いきなりこんな場面に遭遇すると、手も足も出なくなるその道の達人がいるが、彼もそのひとりであった。  世津は|躙《にじ》り寄って良介の手を取った。途方もなく大胆な行為である。 「あなた様にお会いしたかったからです。でも、私から声をかけていいものかどうか迷い、美良町まで来てしまいました」 「なぜ、それがしに?」 「この前の御礼を差し上げたいと存じまして」 「いや、もう|頂戴《ちょうだい》しておる」 「あれは|生命《い の ち》懸けの斬り合いでございました。あの程度のお礼では私の気が済みません。それに、差し上げたいのは、お金ではありません」  良介が制止する暇もなく、美しく熱い肢体が膝にもたれかかってきた。  ——こんな|筈《はず》はない  ——この女は、何を考えておるのだ  ——やはり、おれに気があったか  虫のいい思考が幾つも交錯し、女あしらいにはいささかの自信がある良介を困惑させた。 「良介さま」  世津が呼んだ。|呻《うめ》き声であった。昨日も待っていた、と言った。いまの自分の姿を|妖《あや》しく想起していたのだろうか。良介は肩を抱こうとする手を何とか抑えながら考えた。      4 「お客さま」  |襖《ふすま》の向うからの声に気がつくと、世津は反射的にこちらへ背を向け、胸前を合わせた。うすい|襦《じゅ》|袢《ばん》の布が豊かにふくらんで、さっきから覗いていた良介をまたも|昂《たか》ぶらせた。 「何用だ?」  迷惑そうに|訊《き》いた。 「進藤十三郎様が、おいでになりました」  世津の身体が石のように固まった。  枕下の大刀を引き寄せ、鯉口を切ってから、良介は、 「いつ来た?」  と訊いた。 「はい、たったいま。そこでお待ちです」  良介は襖を見つめた。その向うにいる。進藤十三郎がいる。自分と世津が何をしているか知り尽して待っている。 「良介様……」  世津は震えていた。  少し待て、と襖の向うに言いかけ、良介は口を閉じた。待たずに押しかけられるのが怖かったのである。 「いま、行く」  身仕度を整える時間が、これほど長いとは思わなかった。かたわらで、世津も手を動かしていた。  世津が終えたのを確かめ、呼吸を整えて襖を開けた。  進藤十三郎は少しも変わらぬ姿で、狭い廊下に立っていた。左手は胸の真ん中で見えない何かを握りしめている。  良介は反射的に右の膝を見た。|袴《はかま》は横に裂けて、裾まで赤黒く染まっていた。だが、尋常な立ち方であった。 「不粋な男だな」  こんな声をかけられたのは、十三郎の様子から斬り合うつもりはないと見たからだ。 「いつから——」  |尾《つ》けていた、と訊く前に、十三郎は背を向けて戸口の方へ歩き出した。右足を|庇《かば》う様子もない。十日足らずで治癒する傷とも思えなかった。 「これは——世津殿が正しいか」  彼を追おうと通路へ出た背中へ、 「行ってはなりません」  世津の悲痛な声が当たった。  本心からの叫びであった。良介の胸に穏やかなものが満ちた。 「ご案じめさるな」  と声をかけて、彼は襖を閉め十三郎の後を追った。 『睦月楼』の前に十三郎はいなかった。左右を見ると、右方二間ほどのところを、三台神社の方へと歩く後ろ姿が見えた。良介はあわてず歩を進めた。  十三郎とすれ違う町人たちは、必ず行き過ぎてからふり向いて彼を見た。 「おれだけに見える幽霊ではないらしい」  良介は|安《あん》|堵《ど》した。少なくとも互角の斬り合いはできるわけだ。三台神社の鳥居をくぐって、二人は境内へ入った。風は冷たく、陽当たりのぬくみまでも吸い取ってしまったようだ。  十三郎は社務所の脇を抜けて見えなくなった。良介も廻ると、裏手の広い空地に立って、こちらを眺めていた。片側は森である。 「ひとつ尋ねたい」  と良介は、用意しておいた|襷《たすき》をかけながら言った。 「貴公——生きておるのか、それとも、死んでおるのか? 三年の旅から戻られたのは、剣を究められたからか、世津殿への妄執か?」  返事はない。自然に垂れていた十三郎の左手がゆっくりと刀に触れて鯉口を切った。  こちらも抜き合わせつつ、 「どうやら、世津殿よりも、拙者に興味が移ったとみえる。結構だ」  二条の刀身が光を跳ね返した。訳もなく良介は身が冷えるのを覚えた。眼前の敵は憎悪に|猛《たけ》る剣鬼だった。  何度か斬りつけ、斬りつけられ、かわされかわして、打ち合いもした。外見からは想像もつかぬ十三郎の力に押されて、バランスを崩したところを突かれもした。  忘我の状態にありながらも、左の|肘《ひじ》と|腿《もも》から熱を帯びた痛みが感じられた。誘いもかけたが乗ってはこない。前回の敗北から大いに学んだとみえる。  浅手しか与えられないまま、出血のせいか身体が冷え、息が上がってきた。  長時間の戦いは無理だ。良介は思い決して打ち合いに出た。骨にまで刻みつけた技を刀身にこめた。  三合目で、十三郎の左肩を割った。噴き出す鮮血が、さらに一歩を踏み込ませた。してはならない行為だった。十三郎の姿が流れるように右へ廻り、心の臓が止まるほどの恐怖は、|灼熱《しゃくねつ》の激痛と化して右の腿へ潜りこんできた。  よろめく首すじに死の剣気を意識しつつ、良介は叫んだ。 「世津殿はいい女であった」  視界いっぱいにふくれ上がった十三郎の顔が激しく動揺した。  それが怒りに変わる数十分の一秒の間に、良介は、決して満足とはいえぬ突きを、十三郎のがら空きの|鳩尾《みずおち》に刺し通していた。  顔を激しくのけぞらせ、刀身から我が身を引き外しつつ、十三郎は無造作な一撃を放った。左の肩がぱっくりと開く感じがあった。これで終わりかと良介は思った。  そのとき、人の声が聞こえた。  何している、とか言ったと思うが、はっきりとはわからない。  わかるのは、十三郎が森の方へと走り出したことだった。  息せききって駆けつけた神主の耳に、崩れ落ちる武士が、 「|変《へん》|化《げ》め」  と言い放ったひとことが|灼《や》きついた。  家に戻ると、煮えくり返るような騒ぎとなった。  父と母は血相を変えて医者を呼べと叫んだが、良介はすでに縫合も済ませ、白布を巻いた傷口を示して、心配御無用といった。  眼を白黒させる両親に、 「水茶屋で|馴《な》|染《じ》みの女といるときに、ささいなことから隣席の浪人者と口論になりましてな」  と嘘をつき、後は真実を語って、 「幸い、神主も手当てをしてくれた医者も|博《ばく》|打《ち》の仲間でして、この件は一切口外しないよう言質を取りました。つきましては、双方に五両ずつ——兄者の婚礼に傷をつけぬための費用と思って、よろしくお願いします」  その晩から高熱が出て、丸二日二晩、人事不省に陥ったが、家では医者を呼ばなかった。良介自身が固く止めた後、意識を失ったのである。  もとから体力はある。三日目の朝に眼を|醒《さ》ましたときは、熱も下がって、家人相手に軽口を叩きはじめた。夕刻に下城したばかりの勘吾がやって来て、 「おい、おまえ、すべて遺漏なきよう手配りしたと言ったな?」 「おお——それがどうした?」  誰かに斬り合いでも目撃されたかと思った。世津とはあれきり会っていないが、両親が何も言わない以上、無事に帰宅したのだろう。後は余計な目撃者だ。 「昨日から家の前を、おかしな男がうろついておる。顔は見なかったが、旅仕度で|埃《ほこり》にまみれておった。昨日も今もおれと会うと、そそくさと立ち去ったが、あれは家の中を|窺《うかが》っておったに違いない。——何をした?」 「何も」  いつもの勘吾なら、苦虫を|噛《か》みつぶしてあきらめるのだが、今日は違った。 「いま、面倒を起こしたらどうなるかわかっておるのか?」 「それはもう」  良介の声には力がない。十三郎が来たことが、彼を身体の芯から|戦《せん》|慄《りつ》させていた。兄に正体を明らかにしてやれれば、いっそすっきりするのにとまで思った。  心ここにあらずと見て、勘吾は高橋家との婚礼で、宵宮家の利になる事柄を挙げ、藩主、家老群、組頭に迷惑がかかる、悪くすれば閉門だと脅した。両家の婚礼は、主君の命で行われる形を取る。それに傷をつければ、身分上の最高位に傷をつけたと同じことである。|只《ただ》では済むまい。  兄の文句を良介は黙念と聞いていた。世津との間のことに気づかれてはまずいと思ったが、それは出なかった。世津はよほど巧みに自分への心情を|隠《いん》|蔽《ぺい》しているのだと納得し、良介は皮肉な気分になった。  言うだけ言って疲れたか、気が済んだのか、知り合いなら何とかせいと浴びせて勘吾は立ち去った。十三郎が乗りこんできたらどう対処しようかと良介は考えた。  どうやら茶屋での密会を|嗅《か》ぎつけてから、十三郎は|嫉《しっ》|妬《と》の炎に身を|灼《や》いているらしい。ついに家まで来た。自分だけならまだしも、家族にまで累が及ぶとなると、世津の場合以上に気を入れて守らねばならない。幸い、右手は使えるが、足のほうはまだしばらくかかる。  いくら鈍い勘吾でも、それなりの用心はするだろう。しかしあの奇怪な男の侵入を防げるかとなると、かぶりをふらざるを得ない。  ——おれだけ、どこかへ移るか  それしかなさそうであった。  ——明日にでも家を捜させるか  出入りの商人や大工に聞けば何とかなるだろう。そう決めると気が楽になった。  ところが、それでは遅すぎたのである。深夜、家中の|襖《ふすま》や障紙を吹きとばすような悲鳴が上がった。母の房であった。家人が来るのを待てず、足を引き引き良介が駆けつけると、父に抱き起された母が、激しく|痙《けい》|攣《れん》する手で枕元を指し、 「ここに男が。じっと、私を見下ろして。あの顔が」  こう繰り返しているところだった。  勘吾が、じろりと良介をにらみ、 「その男——旅仕度で?」  母は悲鳴を上げつつうなずき、意識を失った。 「誰だ、それは?」  父が|白《はく》|眉《び》を寄せたが、勘吾は何も言わず、邸内を見廻れと部屋の外の者たちに命じただけで部屋を出て行った。  それから五日間、進藤十三郎は頻繁に良介の家に姿を現わすようになった。  昼ひなか庭先にいるのを下女のお品が見つけて悲鳴を上げたし、小者の庄助は廊下を曲がりしなにぶつかり、腰を抜かした。父など書見をしている最中、気配を感じてふり返ると、庭に面した障紙を開けて入ってくるところだったので、無礼者と叫んで斬りつけるや、あっさりとかわして出て行った。その際、きちんと障紙を閉じていったので、勢い余った父が頭から突き破るというおまけまでついた。駆けつけた兄弟に、父は、 「あれは|人《ひ》|間《と》に違いないが、ただの人間ともいいかねる」  と言って腕を組んだ。  当然、勘吾の追及と|叱《しっ》|責《せき》は厳しさを増し、良介も片足を引きずりながら邸内の探索と警護に努めたが、侵入者とは一度も出食わさなかった。  これは、おれに対する嫌がらせだ、と良介は確信した。世津と|同《どう》|衾《きん》したのが余程頭へ来たらしい。ま、無理もないが。  五日目の晩に、空き家捜しを頼んでおいた商人から連絡が入り、美良町の西の外れに当たる梅林に、格好のもの[#「もの」に傍点]が見つかったと言ってきた。  歩くのに不自由もなくなったし、六日目の早朝、身の廻りの品を担いだ小者ともども良介はそこへ移った。  春の生命を待つ梅の裸木が寒々しくつづく向うに、安積山の雄姿が望め、満更悪い場所でもないなと良介は気を良くした。  空き家は梅林の所有者が監視用に建てた小屋で、築後五年を経ているが、|理由《わけ》あって所有者の|甥《おい》が住むことになり、本格的に修理と改築が施されて、五人家族が十分雨風を|凌《しの》げるだけの広さと強度を保っているという。  運んで来た品をふさわしい場所に収めさせてから小者を帰し、良介はようやくのびのびと朝の空気を吸いこんだ。  いつでも来いという気分だった。  すると、四半刻も経たぬうちに世津がやって来たのである。  供も連れず、ひとりであった。こんなところへ入るのを他人に見られたら、どんな噂をたてられるかもわからない。世津らしからぬ振舞いに、それほどおれを、と|自《うぬ》|惚《ぼ》れたのも|束《つか》の間、良介は兄の|許婚者《いいなずけ》の、|蝋《ろう》みたいな顔色に気がついた。 「どうなさった?」 「進藤様が家に——私の部屋へ参られました」  世津自身が死人と化したかのような口調であった。問われもせぬまま、一刻ほど前に、ふと眼が|醒《さ》めると、枕元に進藤が立ち、ある方角を指さしている。悲鳴を上げようとしたが、その姿を見ていると頭がぼんやりして、こんなことをしてはいけないと思いつつ、身仕度を整え、彼に導かれるまま家を出たのだという。 「帰らなければ、戻らなければ、と思っても、前をゆくあの方にはそれがわかるらしく、そんな思いが強くなると、必ずふり返って手招きをするのです。すると、私はまた頭に厚い|靄《もや》がかかったようになって、ふらふらと誘われるまま歩き出す。それを何度か繰り返して、いまここへ|辿《たど》り着いたのです」  どうやら、世津の意見が正しかったらしいと、良介は認めざるを得なかった。  進藤十三郎は何もかも知っていた。彼は良介と小者がここへ来るまで、ずっと|尾《つ》けて来て、それから世津の寝所へ入り込み、同じ場所へと招き寄せたのだった。そこまでする以上、狙いは明らかだ。  ——最後の戦いだな  良介は刀の下げ緒を外して、世津を見つめた。進藤十三郎はおれを殺してから、世津を奴と同じところ[#「ところ」に傍点]へ連れて行くつもりだろう。それだけは防がねばならん。もう単なる義姉と義弟とはいえない仲なのだ。しかし、何故、いま[#「いま」に傍点]なのだ。 「良介様」  世津がすがりついて来た。 「ご案じめさるな。あなただけは必ず、無事に兄者の下へ帰して差し上げる」 「進藤様のことは、三年の間に忘れ果てておりました」  良介は世津の肩に右手をかけて押し放そうとした。女は動かなかった。 「勘吾様との婚礼も親の決めたことでございます。私の胸がときめきましたのは、弟殿をはじめて見た折りでございました」  良介は、良心の|呵責《かしゃく》もなく、腕にこめた力の方向を逆にした。部屋住みで生涯を終わるはずの自分に、突如、世津という冷たい美しい女との縁談が持ち上がり、この梅林の家で暮らすことになった。——そんな気がした。  板戸を叩く音が、それを一場の夢だと告げた。 「進藤殿か?」  彼は世津を抱きしめたまま|訊《き》いた。音は|熄《や》んだ。世津の身体が小さく震えた。  そっと押し放し、良介は板戸まで歩いた。右足に力を入れると、傷の跡に嫌な痛みが走った。満足に使えそうもない。  板戸の向うに黒い土が広がり、その奥に梅林と安積山の|稜線《りょうせん》がくっきりと控えていた。進藤十三郎は、左の|拳《こぶし》をいつもの位置に当てて立っていた。  良介を見るや、彼は一刀を抜いた。  早いな、と良介は朝の冷風に似た異和感を感じた。  世津をここへ招いたのは、良介の死に様を見せつけるためだろう。だが、何故、こんなにも急に?  ——焦っているのか?  何気ない風に左手を添え、上段に構えてから、彼は進藤十三郎の顔から内心を読み取ろうと努めた。  それならそれで助かる。こちらから攻撃を仕掛けなくても済む。これだけの|伎倆《ぎりょう》の敵を相手にした場合、待つ方が楽だった。  案の定、十三郎は右八双から突進してきた。  良介によける気はなかった。一、二度はかわせても、この手足ではすぐに斬られる。しかも報復はできまい。  自分が斬られた|刹《せつ》|那《な》、上段からの一撃で十三郎も|斃《たお》す。良介は最初から相討ちしか考えていなかった。ある意味で、それは刀同士の戦闘の|醍《だい》|醐《ご》|味《み》でもあった。  良介は十三郎の|虚《うつ》ろな顔だけを見つめた。  必殺の気を一刀にこめてふり下ろす瞬間、|凄《せい》|絶《ぜつ》な表情が浮かぶ。そのときが勝負だった。  視界いっぱいに十三郎の顔が占めた。  それが|歪《ゆが》んだ|刹《せつ》|那《な》、良介は爪先立ちの姿勢から一刀をふり下ろした。  刀身は予想外の角度まで深入りし、予想外の部分に食いこんだ。骨の|手《て》|応《ごた》えが伝わった。そのまま斬り抜いた。  首を失った十三郎の身体は、勢いよく鮮血を大地へふり|撒《ま》きながら、足下へ倒れ伏した。  良介は|呼吸《いき》をしていなかった。  強敵の奇妙な状況に思い到ったのは、全身の震えが止まり、停止していた呼吸が正常に戻ってからだった。激しく|嘔《おう》|吐《と》した。死を覚悟していた肉体の機能は、正しく死んでいたのである。  世津が走り寄ってきて、その身体を抱いた。さぞや近づき難かったであろう。 「なぜだ?」  良介は、なおも血を噴く胴の、右肩のそばに転がっている十三郎の|首級《し る し》に問うた。秋の冷たさが肌に|滲《にじ》んできつつあった。  八双から叩きつける寸前、突如として十三郎は左手を離して胸の上に置き、前方へのめったのだ。首と肩との間を狙っていた良介の刀身は、そのせいで|頸《けい》|部《ぶ》を直撃したのである。  何がこの不思議な帰郷を遂げた武士の身に起こったのか。 「わからん」  とつぶやいた良介へ、 「いいえ、わかっております。進藤十三郎様は、今お亡くなりになりました」  お亡くなりになりました、と世津は四度繰り返した。  この一件が本当に終わったのは、翌々日の晩だった。  梅林の家へ訪ねてきた男は、 「お宅の方に伺いまして」  と恐縮した。自分を訪れるものがあったらここへ寄こしてくれと、良介は小者に伝えてあった。 「御苦労だったな、親分、一杯飲むか」  美良町のいきつけ[#「いきつけ」に傍点]へ入り、座敷を借りた。  引戸をうすめに開けて立ち聞く者がいないのを確かめ、男は探索の成果を話しはじめた。 「裏も裏——あそこまで手間暇かかったのは、はじめてでさ。ま、無理もねえ。四年近くもあんな姿で放っておいちゃ、斬った奴らも、さぞや寝醒めが悪かったでしょうよ。口止めは、徹底しておりました」 「すると、やはり進藤は?」 「宿場を仕切っている組の若い奴らに懐ろのものを狙われたんでさ。着いた日に、よしゃあいいのに、仲居に財布の中味をお披露目したら、この仲居が悪だった。早速てめえの|情人《いろ》に知らせて、色仕掛けでと話がまとまり、翌日の朝、宿を出た進藤様を、近くにある|洞《どう》|窟《くつ》へ連れてったんですよ。別れ際に抱いてとでも言ったんでしょう。その仲居はもう別の悪事が露見し、所払いになっちまってましたが、そりゃ大層色っぽい女だったと、どいつも口を揃えておりやしたよ。お供は宿で待つ間に、これも悪どもに殺されました」  一体全体、どんな手を使ってそんな真相を聞き出したのか、良介は進藤十三郎の死霊でも見るような思いで、頬に傷のある壮漢へ|銚子《ちょうし》を差し出した。 「気の毒なこったな。剣の修業に行く途中、ろくに剣も遣わぬやくざどもの|餌《え》|食《じき》にされるとは。——で?」  そのとき、男の眼が急にぼやけた。焦点が良介から外れて別のものに合わさってしまったのだ。——過去に 「進藤様はまだ洞窟にいましたよ」  と男はつづけた。良介は驚いた。男の声は明白な|怯《おび》えを伝えていた。 「ひでえことをしやがる。奴ら、背中からひと太刀浴びせてから、好きなように斬り刻み、|止《とど》めに|竹《たけ》|槍《やり》で胸の真ん中を背中まで刺しとおしてったんでさ。洞窟の壁にがっしりと一尺も食いこんでましたよ」  ふと、良介は訊いた。 「彼はその竹槍をこう、左手で握りしめていなかったか?」 「そのとおりで」 「そうか——いや、何でもない。しかし、おれが斬った進藤は、では何者だ?」 「どう処理なさいました?」 「兄に頼んで来てもらい、穴を掘って埋めた。顔を見て素性はわかったらしいが、何も言わなんだ」 「そらあ、お家が大切でございますからね。しかし妙な話だ。後で掘り返してみましょうか」 「いや、もうよかろう。何にせよ、進藤が帰ってきた理由はわかったような気がする。そんな死に方をしては、死んでも死に切れなかったんだろう」  男は、妙な眼つきで、そのとおりでさ、と言った。 「その上、彼は世津殿を想っていた。世津殿は別れたと言っていたが、男は果たしてそう思っていたか。世津殿と兄者の婚礼の儀が整ったと知って、彼は戻って来たのだ」 「へえ」 「何にせよ、これで終わった。三年間も放置されていた|亡骸《む く ろ》は、親分、始末してくれたんだろうな?」 「へい。ですが、先程から申し上げようと思ってたんですが、宵宮様はひとつ勘違いをなさってますぜ」 「なに?」 「何とも怖ろしい話なんで、あっしも中々に言い出せなかったんですが、いや、人間の執念て奴は確かに|凄《すさ》まじい。あっしが見つけたとき、進藤様は死んじゃいなかったんでございますよ」  良介の全身から音をたてて血が引いていった。 「あの朝の光がさしこんでてもうす暗い穴の奥で、|痩《や》せ衰えたあの方が、口をばあくばあくと開け閉めしながら、何か言ってなさるんで。ええ、死ぬ思いで近づいて聞きましたとも、——せつ[#「せつ」に傍点]、せつ、と繰り返してらっしゃいました。あの方は四年近くもずうっとその名を呼びながら、虫みてえに縫い止められたまま、生き長らえてらしたんで」  良介は頭をふって、闇の中で串刺しにされた武士の姿を追い払った。 「あんまり|酷《ひど》いんで、あっしは槍を抜いてやりましたよ。そうしたら——」  地べたへ倒れた進藤の身体は、腐り果てたもののように、ばらばらに砕けてしまったという。それをどうこうするのは男にもできなかった。洞窟を出て、近くの寺の住職に|死《し》|骸《がい》のあり場所を告げてから、帰途についたのである。 「そのとき——親分が竹槍を抜いたのは、朝の——」  時刻を告げると男はそうだと保証した。洞窟へ入るとき、宿場町が旅人用に依頼してある夜明けを告げる寺の鐘が鳴った。間違いない。  良介はその符合ぶりに、ある感慨を抱かざるを得なかった。十三郎の必殺の八双が崩れたのは、その時刻だったに違いない。 「そうだ」  ひょっとしたら、いつにない彼の焦燥ぶりは、自らを救ってくれる男の接近を感じたためではなかったろうか。成仏よりも、十三郎は恋敵を|斃《たお》すことを望んだのだ。そしてあの魔剣も、三年間、誰も知らぬ洞窟の中で思案し抜いた結果ではあるまいか。 「女か剣か——いや、女と剣か。男とは厄介なものだな」  彼ははじめて、進藤十三郎という若侍に別の感情を抱いた。  宵宮勘吾と高橋世津の婚礼は、白雪の舞いも小休止した一月の吉日に滞りなく行われた。  あの朝、良介と別れてからも、世津は宵宮家を何度か訪れたが、二度と離れには寄らず、外で会うこともなかった。  良からぬ目的で外出するたびに、良介は背後をふり返ったが、冷たい|美《び》|貌《ぼう》の主は何処にもいなかった。  最後に世津を見たのは、婚礼の式場である。そのときも、世津は良介と眼を合わせなかった。 「女は怖い。進藤なんて、いじらしいもんさ」  世津が正式に義姉として宵宮の家へやって来た日に、良介は家を出た。  しばらくの間、美良町や門前|界《かい》|隈《わい》をぶらつく彼を見たという者もいたが、半年ほどでそれもなくなった。 「困った奴だ」  舌打ちする勘吾に、美しい妻はいつも無表情に、 「全くでございます」  と答えるのだった。      子預け  城から戻った時刻も気分もいつもどおりだったのに、妻の状態は違った。  刺すような眼で五郎太を見る。爆発寸前の無表情というのがあるならこれだ。 「どうした?」  話を聞いて五郎太は、 「まさか」  と口を衝いた。  八つ(午後二時)ごろ、|御《お》|高《こ》|祖《そ》|頭《ず》|巾《きん》を|被《かぶ》った武士の妻女としか思えない女が、|金《きん》|襴《らん》のおくるみに包んだ赤子を抱いて訪れ、応待に出た妻に、 「この子は、ご主人さまの御子でございます」  と、一方的に押し付けて|去《い》ったらしい。 「きれいな御方でございましたわよ」  その中に含まれた皮肉さえ凍りつきそうな妻の声に震え上がるより先に、五郎太は過去に想いを|辿《たど》らせた。男として数回の心当たりはあったからである。  その表情から全てを読み取った妻は、さっさと奥へ行ってしまい、まだ往生際が悪いままの五郎太の前にその子を連れて来た。  そのおくるみの|豪《ごう》|奢《しゃ》さに五郎太は眼を|剥《む》いた。金糸銀糸をふんだんに使った布は、到底彼のような百五十石取りではまかなえぬ品であったからである。  ——少なくとも千石以上  と考えたとき、 「御子をご覧なされませ」  と妻が冷ややかに言った。 「ほれ、可愛い顔をして眠っておりますぞ。そう言えば、この眼元あたりはあなたさまに瓜ふたつのような」  ここでようやく声が出た。 「おれは何も知らん。誤解だ。言いがかりだ」 「ですが」 「そもそも、おまえもおかしい。そんな理非もない言いがかりを真に受けて他人の子を預かるなど軽率もいいところではないか」  五郎太は一矢を報いたのである。妻は表情を乱して、 「それは——仰せのとおりでございますが」  と言った。  その女と向かい合っているうちに、何故か声が出なくなった上、金縛りにでもあったかのように手足が重く感じられ、黙って赤ん坊を受け取り、去っていく女も見送らざるを得なかったのだという。 「|化物《もののけ》ではないのか、その女」 「昼から出る化物がありますか。私も憎らしいから眼を凝らしました。あれは生身の人間に間違いございません。あなたはそんな|出《で》|鱈《たら》|目《め》を|仰《おっ》しゃって逃げようとなさってはいませんか?」  ここまでは我慢できたが、恥を知りなさいと言われて切れた。 「おれは無関係だ。その女も赤ん坊も身に覚えのないこと。それほど主人が信じられぬというなら離縁でも何でもすればよかろう。いつでも離縁状なりと書いてつかわす」  えらそうに宣言して奥へと入ってしまった。それでも腹は収まらず、 「今日から別の部屋で寝るぞ」  と客用の八畳間へ移り、自分で布団を敷いて大の字になった。  古い家のせいか一日中絶えることのない天井裏の小さな足音を聞きながら、女房の愚か者め、いつだっておまえはおれの非ばかりを責めたてる。そのうち手打ちにしてくれるぞ——などと考えているうちに、疲れていたのかぐっすりと寝入ってしまった。  その深更、五郎太の部屋から|凄《すさ》まじい悲鳴が聞こえたので、下男と妻が血相変えて駆けつけると、彼は布団の上に上体を起こしたきり、|瘧《おこり》にかかったように震えていた。  どうなさいましたと|訊《き》いても、 「悪い夢を見た」  としか答えない。どんな夢かは覚えていないが、剣を持たせては藩中に比類無しといわれる五郎太がこの様とは、余程恐ろしいものだったに違いない。  恐ろしいといえば、悪夢はその後もつづき、以後五郎太は毎晩同じ時刻に悲鳴を上げて跳び起きるようになった。妻はどんな夢を? と訊き、彼はわからぬと答えつづける。  とにかく、身寄りがない赤ん坊の上、今まで欲しくても授からなかった妻は、最初は女中に命じて乳を含ませていたものを、いつの間にか自分で与えるようになった。  おかしな噂をたてられても困るので藩に届けたところ、そちらで面倒を見てくれるなら問題ないとの返事であった。  妻は赤ん坊に|光《みつ》|正《まさ》という名を付け、なるべく人目につかぬよう育てていたが、やはり何人かに事情を訊かれた。それに答えるのも|愉《たの》しそうであった。  唯一の心配は丸々と太っていながら食の細いことで、妻は不安がり乳母さえ雇ったものの結果は同じであった。それがやがて気にならなくなる程、光正はいつも丸く|林《りん》|檎《ご》のような頬を保っていた。  光正が来てから半年が過ぎたある日の夕暮れ、妻は五郎太に呼ばれ、驚くべき事実を聞かされた。 「あれは|人《ひ》|間《と》の子ではない」  と五郎太は断言した。  予想どおり、妻は人間に非ざるのはあなたです、といった目付きで証拠を見せろと迫った。 「まず、第一に物を食わぬこと——なんの事はない、家中の鼠を食い尽くしたら腹も減るだろう。近頃、天井がめっきり静かだと思わぬか?  次に今さらながらだが、おれの夜ごとの悪夢よ。一度だけ、お前たちが駆けつける前に足下に小さな頭を認めたことがある。闇の中でじっとおれを見ておったぞ。お前たちと入れ違いに消えてしまったが、あれはお前の開けた|襖《ふすま》の隙間から|這《は》い出ていったものだろう。気がついたか? それほど素早い動きのできる赤ん坊が世におるか? 何よりもおれの悪夢が光正が来てからはじまったのが証拠よ」  その言い分に対して、妻は真っ向から歯を剥いて反対したものの、五郎太の|只《ただ》ならぬ様子に気づいて、あなたさまの言うことが正しかったらどうするおつもりなのですか? と訊いた。 「|化物《もののけ》の子を育てるわけにも行くまい。自分では気づいておらぬらしいが、ここ半年のおまえのやつれ方はひどいものだぞ。捨ててこい。さもなくばおれが斬る」  なんということを、と妻が|柳眉《りゅうび》を逆立てたとき、下男が駆けつけて、先日のお内儀がやって来ましたと告げた。  妻が玄関へ出ると、確かにあの女であった。  女は前とは打って変わって恐縮の体で、実は相手を間違えたのだと|詫《わ》びた。  武家屋敷に住む上士にここ[#「ここ」に傍点]と同姓の家がある。そこと勘違いしてしまいました。お許し下さいと頭を下げ、赤ん坊を受け取って去った。まだ陽の高い九つ半(午後一時)の頃である。  五郎太は暮れ六つ(午後六時)に戻った。前より元気になった風に見える妻が、どうでしたかと膝を進めると、 「確かにその屋敷に入り、手ぶらで出て来おった。それから一刻も後を|尾《つ》けたが、その間休みもせず、しかも、おれより足が速い。最後にはついに見失ってしまった」 「やはり、化物だったのでしょうか?」 「多分、な」 「すると、そちらのお宅では、御主人がその化物と……」 「それはわからん。あの女はそうやって、わしの場合のように時にしくじりながらも、眼をつけておいた家々を訪問し、ある期間、他人の力で子供を育てているのかもしれん。|不如帰《ほととぎす》を思え」  妻は眼を|瞠《みは》った。それから不気味な眼つきでしげしげと夫を見つめて、 「眼をつけられたお家では、みな私のように受け入れてしまうのでしょうか? 怖い」  五郎太は首を振った。妻よりも、その場で、捨てて来い、自分には覚えがないと断言できる男がいないであろうことの方が怖いと思えたのである。|勿《もち》|論《ろん》、口には出さなかった。     似たもの同士      1 「先生——いますかい?」  と|訊《き》いたのは、力の入れ具合をちょっと間違えただけで外れてしまいそうな板戸を、きれいに開けた後だ。声の主は、この家を訪れるのに慣れている。 「見てのとおりだ」  すり切れ果てた畳の上で、|陣《じん》|吾《ご》|行《ゆき》|久《ひさ》は、|糊《のり》をつけた|刷《は》|毛《け》を持つ手を止めて応じた。  まだ夏の盛りの熱と湿気を|留《とど》めた部屋は、油紙を張られたばかりの傘が、奇妙な植物みたいに咲き誇っている。十本もあるだろうか。それだけでも|鬱《うっ》|陶《とう》しいのに、|主《あるじ》の陣吾が六尺五寸の大男で毛むくじゃらといった夏向きではないから、暑くるしいことこの上もない。 「良いところに来た、手伝え。二百本につき一本進呈しよう」 「よして下さいよ」  男は土間への下り口に腰を下ろして、顔をしかめた。立ち込める糊の匂いを手をふって散らし、 「こんな|埒《らち》もねえ仕事とは、当分おさらばできそうな雲行きですぜ。たったひと晩、いいや、半刻もかからず十両の仕事だ」 「十両?」  ふたたび傘の骨に糊を塗りはじめた刷毛をまたも止め、陣吾はゆっくりと男を見た。——いや、にらみつけた。信じていない。疑う癖がついているのだろう。 「才助」  と呼んだ。 「へえ」 「からこうているのではあるまいな?」 「とんでもねえ。——あっしが|生命《い の ち》の恩人をどうして? 半端な|破落戸《ご ろ つ き》ですが、恩義を忘れたこたあありませんぜ」  この長屋の南へ二丁ほどいったところに、|帝釈天《たいしゃくてん》を|祀《まつ》る久尾神社がある。冬以外の祭日には縁日が出て|賑《にぎわ》う。それを仕切っているのが、自称|侠客《きょうかく》の平五郎というやくざで、才助はその代貸を務めていた。三十半ばの|凄《すご》みのある顔が、笑うとひどく人懐っこく見える。連れられていった飲み屋の女たちが、才助が顔を出した途端、|嬌声《きょうせい》を上げ頬を染めるのを陣吾は目撃していた。  当然のように、二年ほど前、飲み屋で|悶着《もんちゃく》を起こした。女のひとりが才助にばかりかかり切りなのが、この女目当てで通っていた別の破落戸の|癇《かん》に触ったらしい。  表へ出ろという話になり、近くの路地で|匕首《あいくち》が|閃《ひらめ》いた。一対一なら「絶対に負けねえ」才助も、五人相手では不利に決まっていた。  何ヶ所か手傷を負わされた後で両腕を取られ、|殺《や》られる、と思ったとき、声をかけたのが陣吾だった。  それ以来、才助は何かにつけて先生、先生と、薄汚い松代町の裏長屋に寄っては、色々な仕事や米や酒を置いていく。最初は米と酒と金だったものが、それはよせ[#「よせ」に傍点]と言われて、今では仕事がもっぱらだ。|賭《と》|場《ば》や裕福な商人の用心棒が大半なのは、才助の商売柄やむを得まい。  一度だけ、上田町の敬神一刀流の師範代という真っ当なのが舞いこんだが、これは断わった。|手《て》|強《ごわ》い道場破りが来た場合、そこの師範と師範代替わりに呼ばれる役である。 「この面で、やっとお[#「やっとお」に傍点]の方はからきしでな」  と手をふったとき、才助は驚いた。 「そんな。あっしを助けて下さったときは、見事なものだったじゃねえですか。刀も抜かず投げとばしちまった」 「まぐれだよ。手足をふり廻していたら、あいつらが勝手につまずいたり、自分からぶつかったりしてくれたのだ。それに、すぐ人が来た」  記憶をひっくり返すと、言われるとおりだったような気もして、才助はそれ以上強くはすすめなかった。それでも、勢いよく吹っ飛んだ破落戸どもの姿は、いまも鮮やかに頭の隅の、いつでも取り出せる部分に残っている。あれが、まぐれか、とんでもねえ——とは思いながら、せっかくの侍らしい仕事の口をあっさり断わるところを見ると、才助の倍もありそうなごつい身体も、|鬢《びん》から|顎《あご》先まで流れる太く黒い|髭《ひげ》も、何とはなしに、気の弱い部分を|隠《いん》|蔽《ぺい》するための演出みたいに思えるのだった。  あれ以来、やっとお[#「やっとお」に傍点]関係の仕事を持ちこんだことはない。 「けど、先生——実は依頼主の方では、二十両まで出してもいいと|仰《おっ》しゃってるんでさあ」 「に」  陣吾は絶句し、才助の顎細りの顔を見つめた。次第に|訝《いぶか》しげな眼つきになった。 「嘘ではあるまいな?」 「あっしの眼をご覧なすって」 「血走っておるが」  才助は唇を|歪《ゆが》めたが、すぐに苦笑を浮かべて、 「事情を話したら、引受けていただけますかい?」 「二十両だぞ」  苦笑は深まった。 「なんとか交渉してみまさあ。おまかせ下さい」  仕事は確かにうまくいった。  上の娘が、いかがわしい茶屋で男と会っているのを見た。相手の名前も知っている。こう言って、藩でも一、二を争う材木商「|木《き》|声《ごえ》屋」をゆすろうとした男は、眼つきばかりが異常で貧相な身体つきの博徒であった。  待機していた陣吾が出向くと、その髭だらけの仁王様みたいな顔を見た途端、色を失った。  それでも、体裁はあるらしく、素早く懐ろに忍ばせた匕首に手をかけたものの、 「死にたいか?」  重い脅しと、鯉口を切る仕草だけで、凍りついてしまった。 「これ以上、店に出入りをしてみろ。翌日、首と胴が別のところでみつかる。何処かへ逃げても、必ず見つけ出して斬る。旅費は『木声屋』どのが面倒を見てくださるしな」  博徒の前で硬くなっていた「木声屋」の主人の顔に、ようやく生気と自信が湧いてくるのを確かめ、陣吾は退出した。  その晩、才助が満面破顔して、 「上出来ですぜ」  とやって来た。二十両のかがやきをしばらくみつめてから陣吾は、助かる、と頭を下げた。 「おーとっと、仮にもお武家様が、あっしみてえな|者《もん》にそんな真似をなすっちゃあいけません。こいつぁ、先生がその手でお稼ぎになった金でさあ」 「いや、お前の分もある。好きなだけ持っていけ」  それから、あわてて、いや、半分、と言った。才助はのけぞるようにして笑った。 「あっしゃ、先生のそんなとこが好きですよ。なに、こっちの懐ろに入る分は、ちゃあんと『木声屋』から|頂戴《ちょうだい》しておりますよ。ささ、お納め下さい」  何となく済まなさそうに包紙に包み直す陣吾を、才助は好まし気に眺めていたが、その後、どうです、と盃を傾ける真似をしてみせた。 「もちろん、あっしの|奢《おご》りで」 「いや、済まぬ」  長屋から小半刻の距離にある佐良町まで行くと、飲み屋が軒を連ねている。客のほとんどは町人だが、浪人の姿はよく見かけるし、藩士たちも|馴《な》|染《じ》みの店へ顔を出す。  |銚子《ちょうし》を十本近く空けてから、才助は勘定を払って、あっしゃこれ[#「これ」に傍点]んとこへ、と小指を立てて笑った。 「|馳《ち》|走《そう》になった」  店の前で別れ、陣吾はぶらぶらともと来た道を歩き出した。  火照った肌に夜風が心地よい——と言いたいところだが、飲み屋にいる間に酔いは|醒《さ》めていた。  何気なく店内を見廻したとき、その眼に出会ったのである。いっぺんに酔いが醒め果て、次に何を飲んでも効きそうにない眼であった。すぐにそらしたが、眼は離れなかった。  店を出るときも、それはついて来た。  いまも来る。  月明りで足下はよく見えた。いっそ暗ければ向うもあきらめるだろうにと思って、陣吾は気が重かった。  左右が空地になった一角まで来た。長屋まで半分の距離である。  家まで来られては面倒だ。この辺で、と思ったとき、 「もう良かろう」  と声がかかって、陣吾の胸を軽くした。六尺近い長身は壁のような幅と厚みを備えていた。飲み屋で眼を合わせた男に間違いなかった。やはりと納得すると同時に、陣吾は困惑した。  どう見ても真っ当な武士だ。羽織|袴《はかま》が似合っている。三十歳の陣吾より四、五歳は上に見えた。闘争心がはっきり顔に出ている——腕には自信があるだろう。 「何の御用か?」  と向き直ってから|訊《き》いた。 「『木声屋』の件だ」  武士は低い声で言った。  あのやくざ者が雇ったのか。しかし、この男は陣吾とは違う。れっきとした武士だ。普段、やくざ者などと接点があるとは到底考えられなかった。 「木声屋」の口封じ——と浮かんだが、これは一瞬で消えた。ああいう店にゆすりたかりは珍しくあるまい。そのたびに口封じとはあまりに突飛すぎる。 「二十両が多過ぎたかな」  とつぶやいたとき、 「それがしは、浅見東介と申すもの。『木声屋』とは、いささか|昵《じっ》|懇《こん》の間柄でな。今日出向いた折り、貴公のことを聞いた。海千山千のやくざ者を、刃も抜かずに震えあがらせたそうな」  何かとんでもない間違いが起きているような気がした。陣吾は右手を上げて男——浅見東介を制した。 「いや、貴公は誤解なされておる。あのやくざは、この面に怖れをなしただけのこと。それがし、こちらの方はからきしでござるよ」  と右手で頬を|撫《な》で、左手を|柄《つか》にかけてゆすったが、闇の中にそびえる男は何の反応も示さなかった。 「『木声屋』の主人は、いかに貴公が鬼神のごとく見えたか、口を極めておった。ただの面相の為せる技ではあるまい。内なる|実力《ち か ら》が|巧《たく》まずして露見したと、それがしは見たが」 「いや」 「その腕が見たい。理不尽と思われようが——抜かれい」  声と同時に鯉口を切って、すらりと抜き放たれた刀身が月光を吸いこんだ。 「おぬし——何故?」  制止の努力を続けようとして、陣吾はあきらめた。八双に構えた浅見の立姿は、揺るがぬ殺意から出来ていた。  理不尽とはまさしくこれだ。富裕な商人の依頼で、ゆすりたかりのやくざ者を威圧し放逐した。礼金はその結果だ。正味数分にも満たぬ陣吾の行動に、やましさは一点もない。それなのに、飲み屋から|尾《つ》けて来た男は、自身、見聞したわけでもない陣吾の剣の腕を、それも見たわけでもない商人の話だけを聞いて判断し、抜いてみろと挑んでいる。  抜けば斬り合いだ。浅見の気迫からして、|塩《あん》|梅《ばい》を見て刃を収めるなどとは思えない。どちらかが|斃《たお》れるまでやるだろう。これだけでも理不尽なのに、この身が斬られたら理不尽もここに極まれりだ。 「参る」  鋭く気合のように放って、浅見は前へ出た。  闇に美しい響きが流れた。陣吾が受けたのである。|競《せ》り合いはせずに、浅見は後方へ跳んだ。陣吾は追わなかった。いきなり背を見せて走り出した。  動揺の空白めいたものが遠去かり、そこから、待たれいと聞こえても、陣吾は止まらなかった。異様に冷たい汗が身体中を濡らし、歯はせわしなくがちがち[#「がちがち」に傍点]と鳴っていた。  それは長屋へ戻る少し前に|熄《や》んだ。  手探りでようやく|点《つ》けた|行《あん》|燈《どん》の光だけが救いのように思え、陣吾は何度も呼吸を整えようと努めた。——久しぶりの斬り合いで、あんな化物に出会うとは。  構えを見たときから、いかん、と思った。浅見の理不尽な要求を支えているのは、|凄《すさ》まじい剣の腕だった。  初太刀を受けられただけでも|僥倖《ぎょうこう》といえた。  ——あんな説明では納得できん。あれでは狂人だ。  だから背を向けて逃げた。ああいう手合いには関わり合わぬのがいちばんだ。  ひと息つくと、急に一杯|飲《や》りたくなった。今こそ飲みどきだと思ったが、外へ出る気力は残っていなかった。 「こういうときは、眠るに限る」  汗臭いせんべい布団の上に転がったのは、さらに|時間《とき》が経ってからである。  幸い、酒は向うからやって来た。  誰かが戸を叩いたのである。  陣吾は|震《しん》|慄《りつ》した。  刀を引き寄せ、黙っていると、 「頼もう」  浅見の声だった。どう応じようか決まらぬうちに、板戸が開き月光が土間に流れこんだ。その量が少ないのは人影がつぶしているからだった。 「ここは『木声屋』から聞いてあった。先程は失礼した。これは|詫《わ》びの印だ」  影が高く揚げた手の先で、大ぶりな徳利が、ちゃぽちゃぽと嬉しい音をたてて揺れた。      2  翌日、陣吾は半刻も歩いて寺町近くにある一軒家を訪ねた。深更である。以前飲み屋で借りたままにしてあった|提灯《ちょうちん》に、黒い板塀に囲まれた|洒《しゃ》|落《れ》た門構えが浮かび上がった。|潜《くぐ》り戸を抜けた。庭の造作も|粋《いき》である。小唄か何かを教えているといえば、いちばんしっくり来るだろう。  玄関先に人影が立っていた。月光でわかる。家は闇に塗りつぶされていた。  提灯を向けながら近づくと、すぐに浅見になった。黙礼した。浅見も返して玄関の木戸を開いた。  陣吾が|三《た》|和《た》|土《き》に入ると、彼はすでに上へ上がって、廊下に置いてあった|燭台《しょくだい》に火をつけた。 「人に会ったか?」  と訊いた。 「いえ」 「ひとつよろしく頼む」  すでに提灯は消してある。ゆれる火影を顔に|留《とど》めた浅見は、幽霊のように見えた。  廊下を渡って二人は奥の座敷へ入った。|内部《なか》は意外に広く手入れも行き届いている。使用人の二人くらいは置いているに違いない。  陣吾も察しはついていた。|妾宅《しょうたく》であろう。だが、女は何処にいるのか? 斬るべき相手はここに? これから来るのか?  千々に乱れる思考のまま、陣吾は床の間を背にした位置に座布団をすすめられた。  二刀は左脇に置いた。浅見がいるとはいっても、いつ敵が襲いかかってくるかわからない。作法通り右方に置くのは死を意味した。ここは敵の巣と思った方がいい。  しばらく待たれい、と言いおいて浅見は出て行った。|行《あん》|燈《どん》の光と陣吾だけが残された。  何が起こるのか想像もつかなかった。待つしかない。来なければ良かったかと、後悔が胸に小さな歯をたてた。  昨夜、浅見と過した一|刻《とき》のせいだ。あの夜が今の夜とつながっていた。  土間から座敷へ上がりこんできた浅見は、別人のように穏やかな雰囲気を備えていた。 「貴公——使えるな」  と口にしたときも、眼を光らせたのは陣吾ばかりで、当人は春の野のように屈託なく笑った。 「いや、隠さずとも良い。それがしの一刀を受けられたのがその証拠。正直に言いなされ、やむを得ず抜き合わせたのではあるまいよ」  浅見は見抜いていた。驚きの風が陣吾の|面《めん》|貌《ぼう》を打った。胸の一点に烈々たる闘志を感じつつ、彼は抜いたのだ。 「勝てぬ、と思ったわけではあるまい。それがしは貴公と刃を|噛《か》み合わせてみて、ぞっとした。何たる鋭さだ。|直《じき》|心《しん》|影《かげ》流と見たが、まずは免許皆伝」 「…………」 「背中を見せたのも、それがしに|怯《おび》えたばかりではなかろう。ひょっとしたら、斬られるよりも斬ってしまうかも知れない。そんな思いから逃げたのではござらぬか?」  すでに浅見は手酌で何杯かやっている。|茶《ちゃ》|碗《わん》は陣吾の前にもあった。浅見が勝手に土間から持ち出したものである。酔っている風には見えなかった。  すべては彼の口にしたとおりだった。陣吾は浅見を怖れたわけではなかった。怖いのは剣をふる自分だった。長屋へ戻る間じゅう全身が震えていたのも、恐怖ではなく興奮のせいであった。身体の芯で、|精神《こ こ ろ》が歓喜の|雄《お》|叫《たけ》びを上げていた。  ここまで見抜かれていては、とぼけようもない。陣吾はそれまで手にしていなかった湯呑み茶碗に手をのばした。  浅見が笑顔で徳利を手に取って注いでくれた。陣吾が飲み干すのを待ってうなずき、 「まだ、それがしの勘も鈍ってはおらなんだ。『木声屋』の話から直感しただけだが、まったく、想像したとおりの御仁。その腕を見込んで——」  頼みがある、と言ったとき、はじめて、浅見の眼が底光りを放った。  断わる、と即座に陣吾は返したが、浅見はそこを何とかと頭を下げた。人助けだと思って引き受けて貰いたい。これが礼金だ。  懐ろに入れられた手が破れ畳の上に|拳《こぶし》を置き、それが離れると紫の|袱《ふく》|紗《さ》に包まれた、いかにもそれ[#「それ」に傍点]らしい塊が残った。  布がほどかれると白い紙包みが現われた。 「二十五両。これで人助けを願いたい」  急速に気持ちが浅見の申し出に傾いていくのを感じ、いかんぞ、と陣吾はいましめた。木声屋からの二十両は、今日のうちにもなくなる。そして、新らしい二十両は天が気まぐれでも起こさぬ限り、まとめて入手などできはしまい。傘張りと用心棒と人足仕事がどこまでも続く日々を思い描いて、陣吾は嘆息した。  遠くで誰かが、して? と促した。  彼自身の声であった。 「明日の夜九つ半(午前一時)、ある家まで御足労願いたい。そこで人をひとり斬って欲しいのだ。ご案じめされるな。貴公には断じて迷惑はかけ申さぬ。すべてはこの浅見東介が|磐石《ばんじゃく》の処理を致す。無論、他人にお願いする以上、すべては夜陰に乗じて行われる|類《たぐい》のことだ。それは明日、その家にてご説明申し上げる。曲げてお引き受け願いたい。その二十五両、是非ともお納め下され」  そして、少しの間、自分の眼の光を移すように陣吾の眼を見つめてから、 「ひとつ申し上げておく。斬って貰いたい相手の|技倆《うで》は、まずそれがしと互角かやや上じゃ。お引き受け下さるなら、それを承知で願いたい」  陣吾の気分が本気で傾いたのは、そのときであった。浅見は殺人を申し出ていた。それでいて、陣吾に匹敵する相手の実力を隠そうともしない。少なくとも、生命を|賭《か》ける者に最も肝心な情報を与えようとはしている。金もいま受け取っていいと言う。 「なぜ、いま、事情をお聞かせ願えぬのか?」  と陣吾は|訊《き》いた。 「万にひとつも他人の耳に入れてはならぬことなのだ」 「貴公が自ら手を下さぬ理由は?」 「相手の技倆はそれがしと同等——それが理由でござるよ」 「拙者が金だけ取って|遁《とん》|走《そう》したらどうなさる?」 「あきらめる他はござるまい。それがしに人を見る眼がなかったというだけのことだ」  陣吾は腹をくくった。 「お引き受け致そう。ただし、この金子はお引き取りなされ。依頼が果たせたときに頂戴する」 「しかし——では、半額をお持ち下され」  ややあわてた様子に、陣吾はようやく親しみを感じた。  床のきしみが伝わってきた。  |襖《ふすま》の向うで止まり、正座するだけの間を置いて、失礼いたしますと女の声が挨拶した。若くはない。二十四、五だろう。|儚《はかな》げな響きが少し気になった。  入って来た女は、陣吾の目を|瞠《みは》らせた。  |双《ふた》|布《の》一枚しか着ていない。腰のくびれをつくる|細《ほそ》|紐《ひも》が豊かな肉に食いこんでいるように見えた。  頭を下げてから、女は襖の右隅に着座した。  |先《さっ》|笄《こう》|髷《まげ》の下の、肉感的な|美《び》|貌《ぼう》と盛り上がった胸に陣吾の眼は吸引された。そこへもうひとりの女が入ってきた。  こちらは島田に結った、いかにも武家の妻女らしい品のある顔立ちと風情の女だが、身にまとう品は最初の女と等しく、年もそれ程離れていないようであった。  明らかに最初のどこか|莫《ばく》|連《れん》風の女より雰囲気が硬いし、表情もこわばっているが、陣吾の眼には、|羞恥《しゅうち》や怒りのそれではなく、純粋に緊張の——たとえば、何やら競技か試合に出る前のような——せいだと思われた。  女は、襖の左側に正座した。  これから何が起きるのか、陣吾には見当もつかなかった。  最初の肉感的な女が、この家の主人——囲われ者だろう。もうひとりは浅見の妻か。まさかこの二人の両方、ないし片方を斬れというのではあるまい。ここに斬殺すべき人物が現われ、さらに浅見まで加わったら、一体どうなるというのか。  陣吾とは異なり、二人の女は事情を呑みこんでいるのか、こちらを向いたまま身じろぎもしない。|対《たい》|峙《じ》しているだけで、陣吾は息が詰まりそうであった。  話すなとは言われていない。訊いてみるか、と思ったとき、 「殿さまより、話はみな伺っておりますよ」  と最初の女が三つ指をついて頭を下げた。この家で長唄の師匠をしているおしぎ[#「おしぎ」に傍点]だと名乗ってから顔を戻した。 「殿さまからは、何かとご厚意をいただきまして、本日など、こちらの奥さまと同じ席に着かせていただけるんでございますよ」  声に含まれた皮肉——というより毒に、陣吾は隣りの女へ視線を移した。女は無表情に、 「浅見の妻の|早《さ》|苗《なえ》でございます」  と言って黙礼した。  陣吾はその名を口の中で|反《はん》|芻《すう》した。 「主人から、本日、こちらへお招きした理由を説明せよと言い付かっております。よろしうございましょうか?」 「よしなに」  と陣吾はうなずいた。  おしぎに比べ、早苗はやや細身で|清《せい》|楚《そ》な面立ちを残していた。声もそうだった。 「主人は、生まれながらにして不気味な、罪深い性癖を持っておるのでございます。呪われた、と言ってもようございましょう。大事なもの愛するものを無性に斬りたくなってくるのでございます」 「………」 「お信じになられませぬか。ですが、この世には、考えられないくらい多くの人たちが生きておられます。その中に何人か、人よりも|化物《もののけ》に近い方々がおられても、おかしくはないと存じます」  それが浅見だというのか。初対面で斬りかかってきた理不尽さと、徳利を手酌でやる屈託のない笑顔とを陣吾は|憶《おも》い出した。 「主人の父親は主人が七つのときに、何者かに斬られて亡くなりましたが、母親は無事でした。主人は母と全くそりが合わなかったそうです。また主人には弟と妹がひとりずつおりましたが、妹は主人が十三歳の年、これも辻斬りに遭ってみまかりました」 「弟どのと浅見氏の仲は——」 「犬猿と聞いております」 「——では?」  早苗の顔に|凄《せい》|惨《さん》な表情が浮かんだ。声は臨終の者のようにしぼんだ。 「私たちのどちらかひとりを斬る前に、主人を斬っていただきます」  早苗は眼を伏せた。何と応じたらいいのか、陣吾にはわからなかった。  そのとき、 「殿さま——確かに変わっているわよねぇ」  と人を|小《こ》|莫《ば》|迦《か》にしたような声が響いた。  早苗がにらんで、おしぎはしまったという風に口に手を当てて、 「ごめんなさいましよ、つい、親しい物言いが出てしまいましてね。いえね、殿さま、本当にいい方なんだけれど、あたしにも思い当たることがあるんですよ」 「——それは?」  と陣吾は促した。相手は浅見の疑いが濃厚になってきた。それならそれで話は聞いておかねばならなかった。 「いえね、奥さまもご存じでしょうが、この家を用意して下さったとき、女ひとりじゃ不用心だからと、犬を一匹飼うことにしたんですよ。これが妙に殿さまになついて、殿さまも、そりゃもう、殿さまは昔御子さまを失くしていて、その魂が犬に化けて出て来たんじゃないかと思うほどの可愛がりようでした。四日程前、あたしが出先から帰ってみると、庭先で殿さまが犬の首を撫でてやってるんですよ。殿さまも犬も|本《ほん》|当《と》に幸せそうで、あたしゃ、|妬《や》いちまったくらいです。ところが、そこで何が起こったと思います? にこにこしてた殿さまの形相が、さあっと、まるで鬼みたいに変わったかと思うと、いきなり立ち上がって、犬の首を抜き打ちに斬り落としてしまったんです。一度、きゃん、と鳴いただけでございましたよ」 「………」 「あたしゃ、そらもうびっくりして、声も出ずに立ちすくんでおりました。ひょっとしたら、このお方は殿さまじゃないんじゃないか、いえ、確かに殿さまでした。いきなり気が触れなさったんだ、今度はあたしの番だ。血のしたたる刀を手に、殿さまが、じろりとあたしの方を見たときにゃ、もういけないと気が遠くなったくらいです。ところが、何も起こりませんでした。いえ、考えてみれば、それは百倍も薄気味の悪いことでした。殿さまは刀の血を懐紙で|拭《ぬぐ》ってから、達者に過しているかと笑顔でお訊きになったんです。斬り落とした犬の首を撫でていたときと同じ表情でした。一体どうしてこんな|非《ひ》|道《ど》い真似を、と訊きましたとも。そしたら殿さまは、ふむ実はなと打ち明けなすったんです。自分は生まれつき、|惚《ほ》れ込んだもの、心底好きになったものを斬らずにはおれぬのだ、と。子供の頃飼っていた別の犬も、近所の飼猫も斬った。理由はわからぬ、ただ、|愛《いと》しゅうて愛しゅうてならぬものを、斬らずにおれぬのだ、許せよ、おしぎ——あたしは、いいえってお答えしましたよ。それから、身の毛がよだちました。犬のことじゃないんだ、許せよってのは、あたしのことなんだって」 「四日前と申したな?——それから今まで、逃げようとは思わなかったのか?」  おしぎは、ええ、と小さく言って笑った。眼は早苗を見ていた。|蔑《さげす》みの笑いだった。 「だって、好きな御人の刀の|錆《さび》になるなんて、女|冥利《みょうり》に尽きるじゃありませんか、ねえ」  やはり、と陣吾は浅見の美しい妻に沈痛な思いを抱いた。ここまで立場の違う女が二人居て、穏やかな状況を望めるはずがなかったのだ。  露骨すぎて当てつけともいえぬおしぎの言葉に、早苗の頬がかすかに震えたが、それっきりだった。夫と家に守られて来た武家の奥方と海千山千の長唄の師匠では、同じ歳でも役者の格が違いすぎる。|貫《かん》|禄《ろく》負けは早苗も意識しているのだろう。そこで無礼者と斬りかかれればまだ救われるが、童顔の妻の落ち着きどころは、沈黙しかなさそうであった。  しかし、浅見はなぜ二人の女をここへ呼んだのか。おしぎを愛しいと思うならば、彼女ひとりを斬殺すればいい。ある|戦《せん》|慄《りつ》すべき考えが、陣吾の胸に芽生えつつあった。  それを明白な形にする前に、|襖《ふすま》が開かれた。      3  入ってきたのは浅見だった。静かに微笑している。この場所以外のどこでも陣吾は笑い返していただろう。だが、彼は一刀を|掴《つか》んで跳ねるように立ち上がった。 「ならぬぞ。浅見氏」 「邪魔をいたすな」  浅見は静かに言った。やさしい声であった。陣吾の背に冷たいものが流れた。彼は鯉口を切った。 「これが貴公の望みであったぞ」  浅見の右手が|柄《つか》にかかるのを認めざま、陣吾は一歩前に出て抜き打ちに胴を払った。  甘い、と思った。昨夜の人懐っこい男の笑みが胸のどこかに残っていた。  浅見は大きく後方へ跳んだ。襖にぶつかるのも計算の上であったろう。  襖を倒して彼は廊下へ出た。  二撃目を送ろうとして、陣吾は踏み出す足に制動をかけた。浅見が抜いたのだ。それは唯一の機会を逃がしたことを意味していた。  浅見が踏み込んできた。その足が襖を貫いた、と見た|刹《せつ》|那《な》、陣吾は畳を蹴った。足底の違和感が浅見に招く一瞬の動揺こそ最後の勝機だった。  ふり下ろした剣の先から浅見はすっと遠去かった。  読まれていたか。  |愕《がく》|然《ぜん》と刀身をすり上げようとした左肩を|灼熱《しゃくねつ》が裂いた。苦鳴が|洩《も》れた。陣吾は夢中で足の位置を変えた。  右手だけで次の攻撃に備えるのは、ほとんど絶望的だった。  間が空いた。  青眼に構えて、浅見が破顔したのである。 「やるのお」  と言った。 「奴[#「奴」に傍点]め、いい刺客を選んだ。いや、おい、それがしを斬るよう依頼したのは、それがしか?」  陣吾は眉をひそめた。この状況で、奇妙な疑念がその胸を叩いた。  この男は、浅見ではないのではないか。だが、どう眼を凝らしても、別人と思える部分はひとつもなかった。 「そうだ」 「臆病者めが。しかし、それもやむを得んか。おれはおれを斬れぬでな」 「おぬし——浅見氏か?」 「どう思う?」  浅見はからかうような笑い声をたてた。 「いずれそれがし[#「それがし」に傍点]も行く。ひと足先に|冥《めい》|土《ど》で首を洗っておけ」  来る。——陣吾は夢中で柄に左手を加えた。浅見が巨人に見えた。 「旦那さま」  かたわらの早苗に、陣吾はやっと気がついた。 「斬るなら、私を」  止める間もなく、妻は陣吾と夫との間に立ちはだかった。のみならず、身にまとった一枚を脱ぎ捨てた。白い肢体は外見からは想像もできない豊満さを誇っていた。 「どけ」 「いいえ、私に決まっています[#「決まっています」に傍点]。いまこの場でお斬り下さいませ」 「冗談おっしゃっちゃいけません」  陣吾の背後から前方へと、おしぎの声と姿が移動していった。すでに裸体であった。陣吾は甘い匂いを|嗅《か》いだ。女の肉の芳香であった。 「殿さまに斬られるのは、このあたしです。さ、殿さま、あんなに可愛がって下すった女を真っ先に斬って下さいまし」 「どけ」  と浅見は繰り返した。 「どかぬと、どちらも[#「どちらも」に傍点]斬るぞ」 「お斬り下さいませ——私を」 「斬って下さい。あたしを」  陣吾は|愕《がく》|然《ぜん》となった。二人の女は、本気で斬殺を願っていた。それは切ないまでに|真《しん》|摯《し》な願いであった。 「いいや、二人とも斬る。お前たちの問いに答えはなく、お前たちの願いは永久に|叶《かな》えられぬ」  女たちを動揺の糸がつないだ。  浅見が破顔した。わずかな油断は、二人を押しのけざまにふるった陣吾の片手突きをかわさせなかった。  右胸を貫いた刀身から、彼は跳び下がった。白い刃が抜けていった。  身を翻して、浅見は廊下を玄関の方へと走り出した。 「旦那さま」 「殿さま」  陣吾を引き止めたのは、悲痛な女たちの声ではなく、袖口まで重く濡らす左手の出血であった。  玄関の木戸を開けて走り去る足音を確かめてから、陣吾は片膝を突いた。  女たちのどちらかが救助の手を差しのべてくれるのではないかという期待があった。  気配がかたわらを抜けていった。向かいの部屋の襖を開けて、次々に消えていく。  襖が閉まってから、陣吾は立ち上がり、もとの部屋へと戻った。  左肩を探ると、指が二本、ずっぽりと肉に沈んだ。  部屋の隅に|焼酎《しょうちゅう》の瓶とさらしの束が置いてあるのを、来たときに見ておいた。浅見の気遣いであろう。  さらしは適当な長さに切ってある。血を|拭《ぬぐ》い、焼酎を吹きつけた。うす明りの中を低い苦鳴が渡っていく。深いが後でどうこうはなさそうだ。明日医者へ、と思い、金が、とあわててから、|安《あん》|堵《ど》した。  痛みがひとつのことだけは保証してくれた。  ——夢ではないらしいな  何重かに巻いたさらしで血止めを完了したとき、待っていたかのように襖が開いた。 「無事か?」  と浅見が|訊《き》いた。 「もう一度、やりますか?」  嫌な闘志が湧き上がって来た。斬られた憎しみに違いない。|精神《こ こ ろ》は浅見の斬殺を願っていた。 「それがしを斬れなかったか」  浅見は苦渋の表情をつくった。しばらく眼を伏せてから陣吾へ戻した視線は穏やかなものであった。 「勝手な言い分だが、何も申されるな。貴公にお願いしたことは、これで終わりました。約定どおり、今夜のことは余人に知られてはならぬ。また、貴公とそれがしは、たった今から顔も名前も知らぬ他人でござる。よろしいな?」  自分の生命を守る以外は、すべて浅見の言に従うとの約定が陣吾の胸をくつろがせた。  翌日、恒常的に訪れる才助が肩の傷に気づいてあれこれ訊いて来たが、陣吾は口を濁した。  何かが起こりそうな予感が彼を苦しめ、血刀をひっさげた浅見に斬りかかられて絶叫すると、暗い寝床の中であった。  あの晩、この世にありながらこの世のものではない場所へと入りこみ、何とか脱け出したものの、陣吾はそこからのびた黒い手に肩を|掴《つか》まれているのだった。この手を斬り離さぬ限り、平凡な日常には戻れまい。  おかしなことに、陣吾は酒にも女色にも|耽《たん》|溺《でき》しなかった。忘却を求めて彼が精を出したのは、本業たる傘張りであった。あまりの熱心さに、近所の山の神どもが陣吾を見ると互いの耳に口を寄せ、ひと月後、思い決したらしいひとりが、 「どうかしたんですか?」  とわざわざ尋ねに来たほどである。さらに差配の耳にもおかしな形で入ったらしく、鬼瓦みたいな顔をにこにこさせながら、 「ご新造様が決まったらしいですな」  とやって来て、陣吾を驚かせた。  夏風が冷風に変わりはじめた頃、才助が彼らしい仕事の口を持ってきた。胸中に絶えず吹いていた暗い不安の風もようやく鎮まりかけたところであり、陣吾は引き受けた。  ただし、才助ともどもしたたかに酔っていたという問題があった。  翌日、またやって来た才助に行きましょうと促され、行先を訊いて陣吾は眼を|剥《む》いた。花紋町にある飯塚道場の道場破り要員だと、才助は平然と告げた。  前にも言った。師範や師範代が留守や急病、|或《ある》いは腕に自信がない場合の|助《すけ》っ|人《と》である。 「それは困る」  と逃げ腰になっても、 「こちらへ伺う前に道場へ行き、確かにお連れしますと約束しちまったんで。いえ、あっしに話を持って来たのは、そこに入門しているさるお武家の若さまなんですが、直接道場と関係ねえとはいえ、あっしもここで駄目でしたとはいえません。でえいち、先生、昨夜はその胸をどんと叩いて、まかしておけと|仰《おっ》しゃったじゃありませんか。お|願《ねげ》えしますよ。相手は今日の昼八つ(午後二時)に来る。あと半刻もねえんで」 「しかし、才助。わしは剣などからきしと——」 「それにしちゃ、お肩の傷——|大《てえ》したもんじゃござんせんか」 「なに?」 「あっしは、やっとおの心得はねえが、切ったはったは多分、先生より場数を踏んでおります。あれだけの傷をこさえて無事なのは、相手にそれ以上の手傷を負わせたか、仕止めたかに決まってまさ。どっちにせよ、先生は道場の竹刀や木刀の型踊りたあわけが違う。この仕事も、それが頭にあったから引き受けましたんで——へい、何分、よろしく」  道場へ着くと、師範代らしい男と、才助が若殿と呼んだ武士が迎えに出た。  名乗り合い、男が|中《なか》|園《ぞの》|右《う》|衛《え》|門《もん》、若侍が|幸《こう》|田《だ》|八《はっ》|平《ぺい》とわかった。  座敷ではなく、すぐに脱衣場へ通された。余計なもてなしがない分、陣吾は気楽だった。  着替える間に、中園はよしなに[#「よしなに」に傍点]と言い残して出て行き、幸田が事情を話してくれた。  道場破りは|真《ま》|木《き》|輪《わ》|伴《ばん》|内《ない》という旅の武芸者で、自ら編み出した稲火流なる剣法を遣う。二日前ふらりと現われ、居合わせた師範代や古手の道場生が|総《そう》|舐《な》めにされた。中園は留守であった。  師範の飯塚正一郎も立ち合いを求められたが、後日と逃げた。真木輪伴内の刀法は、細かな技と、その|膂力《りょりょく》を存分にふるった力まかせの打ちこみが自在に交錯する。六十を過ぎた飯塚の刀法では、真木輪の刀に対抗できないと見たのだろう。本当は期日も|曖《あい》|昧《まい》にしたかったのだろうが、真木輪は今日を指定して譲らなかった。弟子たちの手前、飯塚もそれ以上の|遁《とん》|辞《じ》を|弄《ろう》することはできなかった。  一昨日戻った中園は、惨状を聞いて怒り狂った。必ず道場の汚名を晴らすと息まく彼より、飯塚は冷静であった。 「おまえには無理だ。|他《ひ》|人《と》を捜せ」  中園は日頃目をかけている三人ばかりの門弟にこれを打ち明けた。そのひとりが幸田だったのである。  陣吾を見る幸田の眼には期待と不安が相半ばしていた。修羅場を積んだやくざが吟味した人物という評価と、陣吾の|髭《ひげ》だらけ、ぼろの着衣という外見による判断が入り乱れているのだ。道場へ連れてきたのは自分だという責任感もあるだろう。普通なら、強そうだ、頼もしいとなるところだが、良家の若殿の判断基準は別にあるらしかった。 「大丈夫ですか?」  と問う彼に、陣吾は、 「わからぬ」  と答え、ますます不安にさせた。  戦いは|呆《あっ》|気《け》なく終わった。  いかにも武芸者といった感じの気迫に満ち|溢《あふ》れた相手だったが、|対《たい》|峙《じ》してみれば幾らも隙が見つかった。  一、二度木刀を合わせただけで、刀身を引いてから構え直す数瞬の空白を陣吾は見抜いた。無意識の動きだし、それなりの遣い手でも気づかぬほどの短時間の空白だが、陣吾には勝敗を決める隙に見えた。  三合目に離れると見せ、真木輪が引いた|刹《せつ》|那《な》、大きく踏み込んで|咽《のど》を突いた。二度と道場破りをする気にさせず、死なせもせず、後の|怨《うら》みを買わない程度に押さえる——理想的な難剣を彼は見事に使った。  真木輪の身体は道場を横断して羽目板にぶつかり、動かなくなった。  試合後、陣吾は奥座敷に通され謝礼を受けた。中園が|饗応《きょうおう》を申し出たが辞退した。面倒臭いのは真っ平だったし、中園の丁重な態度と物言いにも、おぬしの用は済んだとの意識が|仄《ほの》見えていた。幸田は素直に感嘆の眼で陣吾を包んでいたものの、陣吾の意識は彼らの少し後で茶と菓子を運んできた女性に吸引された。  彼の凝視を避けるように|俯《うつむ》いた|美《び》|貌《ぼう》は、|可《か》|憐《れん》な白い花を思わせた。数ヶ月前の深夜、|長《なが》|唄《うた》の師匠の家で見かけた裸体の主とは別人のようであった。 「道場の|主人《あ る じ》——飯塚正一郎の孫、早苗でございます」  と娘は折目正しく挨拶した。  ——早苗と陣吾はひそやかにつぶやいた。      4  少し陣吾さまとお話をと早苗が申し出たとき、中園と幸田は驚きを隠さなかったが、その顔に似合わぬ強い眼で促されて渋々と出て行った。  足音が消えるのを確かめ、 「またおめにかかることになるとは思いませんでした」  と早苗ははっきりと切り出した。あの晩の出来事を|隠《いん》|蔽《ぺい》するつもりはなさそうであった。どうしてと疑う前に、陣吾は気に入った。  彼の胸中を読んだかのように、 「ここは、私の実家でございます」  と早苗は続けた。  両親は早くに死に、二人の兄のどちらも剣に興味はないため、道場は門弟たちの間から人を選んで継がせる予定だという。 「今日は久々の里帰りでございました。まさか、あなたさまに——」 「全くです」  と陣吾は低頭した。忘れかけていた異常な夜が、いま、折り畳んでいた黒い翼を広げて二人を取り込もうとしているように思えた。無駄でも拒絶した方がいい。  別れを告げようとしたとき、 「お怪我は?」  と|訊《き》かれた。女の生真面目な表情が無視を許さなかった。 「大したことはない。もう完治致しました。おかしなところは何もござらん」  早苗は眼を閉じて深いためいきを|洩《も》らした。良かったとつぶやいた。  あんな夜に加わるべき|女性《にょしょう》ではなかったと、陣吾は考えた。それは痛切な確信だった。  |諦《てい》|観《かん》が彼を促した。 「浅見氏には、その後、何もござらんか?」  早苗は眼を伏せ、すぐに上げた。ひたむきな表情が、聞いてもらえるかと尋ねていた。陣吾はうなずいた。 「あれから、私はすぐ家に戻りました。あの家から少し離れたところに、夫が|駕《か》|籠《ご》を用意しておりましたので」 「すると、あなたを斬るつもりはなかったのですか?」 「いえ、駕籠は一|挺《ちょう》だけでございました。夫が帰るときに使うつもりだったのです」 「結局、ご主人はあなた方のどちらも斬りはしなかったのですか?」 「はい」  それについては、まだ|愛《いと》しさが極まっていないからだと、浅見は説明したという。 「ではなぜ、あの晩それがしを?」 「あの人も段取りを間違ったそうなのです。自分では愛しさの高みを極めたつもりなのに、どうしても、剣を|掴《つか》んだ手が動かない場合がある、と」  それで、どちらも斬るとの脅しになったのか。 「すると、お二人は今も待っておられるのか?」  早苗は、はいと答えた。陣吾が眼を見るとすぐに|俯《うつむ》いた。  夫に斬られるのをひたすら待つ——それが愛されているという|証《あかし》を求めての行為なら、あまりにも悲惨といえた。夫には|妾《おんな》がいる。その妾は自分が奥方より愛されていることに絶大な自信を抱いている。だが、それもこの女房には当然のことなのか。  別れる潮どきだと、陣吾は自分に言い聞かせた。 「息災にお過しなされ」  こう言って立ち上がったとき、声がした。 「夫があの|女《ひと》を斬ったら、私は生きておりませぬ」  口に含んだ何かを|噛《か》みちぎりながら洩らすような声であった。  もう遠いのだと、陣吾は納得しようと努めた。  早苗と幸田が玄関まで送った。  別れを告げて門を出るまで、作法どおりふり向かず、そのまま道を歩き出した。  別れ際に早苗が洩らした言葉のうち、死にます、のひとことだけが、長いこと耳について離れなかった。  次の角までくると、左の塀と塀の間から、才助が現われた。 「先生の腕前は信頼しておりますが、やはり勝敗は時の運てえやつで。——少し気になりましてね」 「かたじけない」 「よして下せえよ。そんな真面目に。どうも先生は堅くっていけねえ」  才助の誘いに乗って、二人は寺町の飲み屋に入った。  才助は上機嫌だった。幸田と一緒に道場へ来ていた小者から、結果を聞かされたのである。 「やっぱり、あっしが見込んだとおりのお方だ。先生、こうなりゃ同じような仕事を幾つもめっけてめえりやすが、あっし以外の奴が詰らねえ|賭《と》|場《ば》の用心棒の口なんざ持ち込んで来ても、お引き受けになっちゃいけませんぜ」  わかったわかったと答えた。久方ぶりの剣法試合の後で、精神も肉体も|弛《し》|緩《かん》を要求している。酒の回りも早い。なのに酔わなかった。  ——生きてはおりませぬ、か  胃の|腑《ふ》に酒が|沁《し》み渡るたびに、このひとことが|甦《よみがえ》った。|銚子《ちょうし》ばかりが白い木のように数を重ねた。 「大丈夫ですかい、先生?」  と才助がさすがに不安な声をかけてきたとき、戸口をはさんで反対側の卓についていた武士が立ち上がり、二人のところへやって来た。 「お楽しみのところをお邪魔しても何かと今まで控えておりました」  三十前と|思《おぼ》しい武士はこう挨拶して、 「それと、中々に切り出しかねる話でござってな。ただ、いまお話ししておかねば、次にお目にかかれる日はいつになるやも知れぬと参上した次第で。——拙者は」  武士は才助へ眼をやった。 「これは——お二人でごゆっくり」  と才助は顔をめぐらせて別の席を探した。 「済まぬな」 「とんでもねえ」  白い歯を見せて才助は離れた席へと移り、 「座敷でよろしいか」  と武士に勧められるままに、陣吾も立ち上がった。  座敷へ上がると、若侍はまた丁重に礼をし、 「拙者、飯塚草平と申します。先刻の道場主の孫で、早苗の兄でござる」  逃げられぬのか、と陣吾は胸中で大息した。  驚いたことに、浅見の奇怪な性癖について、草平はみな心得ていた。陣吾については、道場での試合の最中に、早苗からあの晩の[#「あの晩の」に傍点]ことを含めて打ち明けられたと言った。次男の彼は、一室をあてがわれる部屋住みの身分だが、幼少時からとりわけ早苗とは仲が良く、嫁いだ後でも、たまさか里帰りする折りには、他の兄姉に話せぬ苦労話を打ち明けてくるという。  その中に、浅見の一件もあったのである。 「正直、信じられませんでしたが、妹の言葉に嘘はないと、拙者にはわかり申した。おれからお|祖《じ》|父《い》さまに話す、おまえは家へ戻ってはならぬと申しましたが、早苗が言うには、嫁いだときから夫となるべき方に生命を|捧《ささ》げた身。お祖父さまにも喜平兄さまにも何も|仰《おっ》しゃらず、お兄さまの胸に|留《とど》めておいてくれと」 「立派なお覚悟だ」 「拙者はそうは思わんのです」  草平は不意に強い声を出した。 「あれ[#「あれ」に傍点]は——早苗は間違えておる。早苗だけを慈しみ、その結果斬るというのなら、百歩譲って拙者もこらえよう。しかし、浅見には別の女もいます。聞けば五年以上も囲っているとのこと。そのような|売《ばい》|女《た》と妹を|天《てん》|秤《びん》にかけ、どちらか愛しい方を斬る、他方はあきらめよなどとのたわごと。妹はあきらめても、拙者は断じて許さぬ。承服いたしかねる」  自分の興奮を抑えかねたのか、草平は言葉を切り、握りしめた|拳《こぶし》を両膝の上に置いた。膝は激しく震えた。浮き上がったこめかみの血管が切れはしないかと、陣吾は気になった。この兄と妹の間には、他家へ嫁いだという以上に強い|絆《きずな》が存在するのだった。それはそれで新たな悲劇の幕開けになりはしないか。 「失礼ながら、どうなさるおつもりか?」  こう|訊《き》いたのは、草平の興奮が去ってからである。 「あなたなら、どうなさる?」  逆に訊かれた。 「やむを得まい。夫婦の間のことだ」 「あなたは妹のために剣をふるった。その上でそう仰せられるか?」 「誤解なされるな。それがしが浅見氏を斬ろうとしたのは、彼に雇われたからです。はっきり申し上げて金のためにすぎぬ。浅見氏も自らの|性質《さが》に苦しみ、その所業を憎んでいるとそれがしには感じられた。それを信じて、二人にすべてをまかされてはいかがか?」 「妹は愛しいがゆえに斬られると申す。長らえれば、それは浅見の心に妹がいないことを意味する。妻にとって、これは死に勝る恥辱ではないのか。あれは——きっと、自死を選ぶでしょう」  私は生きておりませぬ。 「拙者は、浅見を斬るつもりでいます」  草平は虚空の一点に眼を据えて低く言った。老人のような声だった。 「およしなさい」 「いや。——これは|剣《けん》|呑《のん》なことを申し上げた。お忘れ下さい」  たったいま洩らした熱鉄の決意など忘却し去ったような明るい口調で、草平は銚子を取り上げた。  陣吾の宿命観にとどめを刺すかのように、浅見本人が長屋を訪れたのは、飲み屋での飯塚草平との|邂《かい》|逅《こう》から五日後の晩であった。  雨戸を叩かれ才助かと思ったが、相手は浅見だと名乗った。用向きを尋ねると、追われているという。陣吾の住いが近くにあるのを|憶《おも》い出して|匿《かくま》ってもらいに来た。  半ばやむを得ずの気分で開けると、浅見は緊張感のまるでない、にやにや[#「にやにや」に傍点]笑いとともに入ってきた。  それでも、素早く雨戸を閉め、その前に外を|覗《のぞ》いた様子は、無体な訪問理由が嘘ではない旨を告げていた。  座敷へ上げてから、 「相手は誰です?」  と陣吾は訊いてみた。 「わからん。それがしの|提灯《ちょうちん》目当てに追って来たのでな。それより早苗に聞いたが、あれの実家で、道場破りを貴公見事に破ったそうだな。腕を上げた——いや、実力が出たか」 「………」 「そう|怖《おっ》かない顔をするな。それがしも、おしぎ[#「おしぎ」に傍点]の家で見たのが貴公の実力だとは思っておらぬよ。どうだ、もう一度?」  |行《あん》|燈《どん》の炎のゆらめきを忠実に映し出す顔を見つめながら、陣吾は、 「ひとつ伺いたき儀がござる」  と切り出した。 「何だな?」 「浅見氏は二人おられるのか?」 「………」 「|行《あん》|燈《どん》の光も貴公の座る位置も前と同じ。それでようやくわかり申した。初見の浅見氏といまの浅見氏とは別人でござる」  細い眼が陣吾をみつめている。その他の部分は何故か闇に沈んでいる。  この疑いがおしぎの家で芽生えていたことを陣吾は憶い出した。  あのとき肩に受けた一刀の流れは、初対面の折りに受けた刀法とは明らかに別ものであった。もうひとつ——あの晩の浅見は|衣裳《いしょう》が違った。玄関で陣吾を待っていたときは鼠色の。最初に部屋へ現われたときは、より青味の勝った羽織と|袴《はかま》をまとい、死闘の後、ふたたび陣吾の前に出現した衣裳は、玄関先と同じものであった。加えて、この浅見には手傷を負った風が|微《み》|塵《じん》もなかったのである。あのときは浅手だったと陣吾は自分を納得させたのであった。  最初は双子の兄弟かと思った。だが、それなら自分を斬ってくれと偽る必要もあるまい。たとえ、何らかの理由が介在するにせよ、飯塚道場で会った早苗の口からも、双子の件など片言|隻《せき》|句《く》も洩れはしなかった。  だとすると、何とも不気味な結論を導き出すしかない。 「浅見東介という侍は実は二人いて、互いに相手を|厭《いと》うておるのではないか。確かに、もうひとりの自分など近くにおられては、一向に気も休まらぬし、長所も欠点も隠し立てなく見せつけられては|堪《たま》るまい。ましてや、その片方に|愛《いと》しい者を|殺《さつ》|戮《りく》せずにはおられぬ習性があるとしたら、たとえ自分といえど[#「自分といえど」に傍点]生かしてはおけますまい。成程これなら、自分を斬ってくれと言うしかない。真実を話しても、誰も信じてくれはせぬ」 「貴公は間違えておる」  浅見が畳の上の大刀を|掴《つか》むのを見て、陣吾も手をのばしたが、相手は何もせず立ち上がって、 「浅見東介は、ひとりしかおらぬよ。太刀筋から判じたというのなら、太刀筋でその間違いを正してやろう。参られい」      5  誘われるままに、陣吾は外へ出た。半月が明るい晩である。いつ斬りかかってくるかと気になったが、浅見は殺気のかけらも見せずに長屋を出て、近くの神社へと向う道を歩き出した。  石段の前まで掲げていた提灯は、尾行される途中で消して折り畳んでおいた品だろう。 「しばらく待たれい」  と声をかけ、道の左右を見廻していたが、風ばかりが吹き過ぎていくと、いきなり、 「浅見東介はここにおるぞ」  と声を限りに叫んだ。陣吾は顔をしかめたが、割れんばかりの大音声は|熄《や》むことなく空気を震わせた。付近の人家がみな寝静まっているのは言うまでもない。  狂人と来たか、と思いはじめた頃、四方を見廻しながら声をかけていた浅見が、おっ、と鋭く放って西の方を向いた。  月光の下の細道を男がひとりやって来るのが見えた。  こちらに気づいても歩幅を変えず、浅見の前方——二間ほどの距離で立ち止まった。さすがに息が荒い。長いこと浅見を捜して歩き廻っていたのだろう。男は飯塚草平であった。  ひとつ嘆息してから、陣吾は、 「飯塚氏——およしなされ」  と声をかけた。こわばった若い顔をひとめ見たときから、無駄だとわかってもいた。|諦《てい》|観《かん》は怒りに変わりつつあった。浅見が彼を招いたのは、これを見せるつもりだったのだ。 「|一昨日《おととい》より後をつけ、ようやく掴んだ好機にござる。邪魔は無用に願いたい。これは双方納得ずくの遺恨試合です」  草平は、見知らぬ者への伝言のような冷たい声で言った。 「拙者が斬られても、余計な|斟酌《しんしゃく》は無用。そのまま捨て置かれよ」 「よい心掛けだ」  浅見は羽織を脱いだところだった。草平も脱いだ。下には|襷《たすき》をかけている。  月光の下でふた振り、|白《はく》|刃《じん》が|閃《ひらめ》いた。  どちらも青眼から発し、草平が仕掛けた。上段からの豪壮な打ちに軽く合わせて、心地よい金属音とともに浅見は後じさった。その構えは|磐石《ばんじゃく》の不動を保っていたが、草平はよろめいた。浅見の一見軽やかな受けは、恐るべき崩し技だったのだ。  草平が姿勢を整えるまで、彼は仕掛けなかった。それが若者を怒りで盲目にした。  悲鳴のような叫びは、浅見と交差した|刹《せつ》|那《な》、苦鳴に変わった。  五、六歩走り過ぎて刀を落とし、草平は人間ではないような格好で打ち伏した。地面がわずかにゆれた。  陣吾はすぐに駆け寄って脈を取った。  死を確かめると、最前からの怒りが限界まで膨れ上がっているのを意識した。 「義理とはいえ、|義弟《おとうと》に刃を向けた兄。当然の処置であろうが」  浅見は血を|拭《ぬぐ》った刀身を収めた。声が笑っている。不思議なことに、この瞬間、陣吾の|脳《のう》|裏《り》に浮かんだのは、足下の若侍の無惨な死体ではなく、白い|儚《はかな》げな|美《び》|貌《ぼう》だった。  生きてはおりませぬ。 「刀を収めるのが早うござるぞ」  と陣吾は右手を|柄《つか》にかけて言った。 「その刀法、それがしの知るいまひとりの浅見氏とは、やはり別人でござる——ならば、ここにいるのは浅見氏をかたる[#「かたる」に傍点]|妖《よう》|怪《かい》変化」  烈々たる闘志をこめて、陣吾は鯉口を切った。 「世のため人のため、この場で退治致してくれる。抜くがよい」 「浅見をかたる、と申したな?」  浅見は静かに陣吾を見た。|凄《すさ》まじい殺気を受けて動じる風もなく、一刀を構える気配もない。 「この世にそれがしが二人いるという貴公の珍なる言い分が正しいとして、では、そのどちらが本物でどちらが仮の姿か、貴公に、いや、世の誰に判じられる?」 「………」 「そもそも、何故にそれがしを仮[#「仮」に傍点]の者と断じた? もうひとりのそれがしに先に会った[#「先に会った」に傍点]からというだけの理由ではないのか? |或《ある》いは、それがしが貴公と刃を交え、いまここに義理の兄を|斃《たお》したからか? それが虚実を見極めるどんな理由になる?」  陣吾の全身から力が抜けていった。  眼の前の浅見の言い分が正しいにしろ、彼の怒りの対象が浅見自身であることだけは間違いなかった。 「——とはいえ、貴公が立腹しておるのは確かにそれがしだ」  浅見は陣吾の胸中を読んだかのように、 「であるからして、そうだな、後日もう一度、貴公の家へお邪魔するとしよう。これからしばらくは、それ[#「それ」に傍点]の死の後始末で、二つの家は煮えくり返る騒ぎであろう。その後で必ず参上する。よろしいか?」  何故、うなずいてしまったのか、陣吾にもわからない。  お優しい貴公の気が済むまいから当方が処分すると、草平の死体を担いで浅見が闇に消えても、しばらくの間、彼はそこに立っていた。胸に途方もなく|昏《くら》く、深い穴が|穿《うが》たれた気分だった。それは浅見という奇怪な男や、白く|俯《うつむ》きがちな妻女や、|艶《つや》やかな長唄の女師匠が開けたもので、彼は凝視する他ないのだった。  草平のやって来た方角から何人かの声が聞こえ、ようやく家への道を|辿《たど》りはじめても、昏い穴は彼の意識からいっかな離れようとはしなかった。  飯塚家と浅見家のことは、かなり詳しく陣吾の耳に入ってきた。通報者は才助であった。どこまでも顔が広いらしいこの男は、飯塚家の下女とつながっていると言った。 「草平さまのご実家じゃあ、浅見の殿さまを疑ってるらしいですぜ。何でも、あの御方にゃあ昔からおかしな性癖があって、そのせえ[#「せえ」に傍点]で使用人がしょっ中変わるらしいんで。奥方さまは、そりゃ気立てのいいおきれいな方だという話ですが、ご亭主がそんな風ですから、いつも沈んで、まるで美しい水中花のようだと近所の評判です」 「おかしな性癖についてだがな」  改まった陣吾の口調に、才助は両膝を閉じて、へえと言った。 「こんな噂はないか。——浅見の殿さまには、瓜ふたつのご兄弟がいるらしい、と?」  なんだ、そんなことか、というような手のふり方を才助はした。 「そんな話は一向に。ただ、ご気性の波が相当に激しい殿さまだとは聞いておりやすよ。昨日、下働きの|老《ろう》|爺《や》あたりにまでにこにこと|労《いたわ》りの言葉をかけていたかと思うと、今日は青すじをたてて下女を|打擲《ちょうちゃく》するってえありさまだそうで。まるで、同じ顔した人間がふたりいるみてえだと」  才助とのこんな会話から十日ほど経った日に、浅見家から人がやって来た。  平作と名乗る老爺は、明日の夕の七つ(午後四時)に|明《あけ》|宮《みや》町の「千石茶屋」で、浅見の妻が会いたがっていると告げた。陣吾は承諾した。気が重かった。その妻を守ろうとして、兄は彼の眼の前で斬り伏せられたのだった。 「千石茶屋」は明宮町にある何軒かの店の内では上級で通っている。「|朱《あけ》|絹《ぎぬ》」や「|蓬《ほう》|莱《らい》茶屋」といった女たちが客と|同《どう》|衾《きん》するのを|秘《ひそ》かな売りものにしている場所とは違って、上級藩士が会合に使ったりする場合も多い。  奥まった一室の窓外には、手入れの行き届いた京風の庭が広がっていた。  陣吾を招いた女はその景色の前にすわって、窓の向うのそれをさらに典雅にもの哀しく見せていた。  白い|貌《かお》を向けられただけで言葉が出なくなり、陣吾はぶっきら棒に一礼しただけで、小卓をはさんで対座した。  店の女がお茶を運んで来た。陣吾がそれをひと口|飲《や》ったとき、 「兄が死にました」  と早苗が切り出した。陣吾は|茶《ちゃ》|碗《わん》を置いた。 「あなたさまが道場へ見えた日に、その後をつける兄を見た小者がおります。——何かお話でもなすったのでしょうか?」 「いや」  即座に答えた。ここへ来る前は包み隠さずに話すつもりでいたのが、早苗の姿を見た途端、何も言うまいと決めた。兄を斬った犯人が夫ではあるまいかと疑っているのはわかる。それを確実にしても、一層、その|幸《さち》うすそうな妻を苦しめるだけだろう。 「兄上とは会ったこともありません。お亡くなりになったこともいま伺い申した。お気の毒です」 「そうですか」  早苗は肩を落とした。よく見ると細い肩だった。  他に何か聞かせることがありそうな気もしたが、陣吾には何も浮かばなかった。  終わりだと思った。この白い貌の人妻に自分は何を見ていたのだろう。はじめから、交わす言葉などなかったのだ。 「ご期待に添えず、相すまん」  立ち上がっても早苗は何も言わなかった。彼女の願いは、いま、陣吾が打ち砕いたばかりだった。  |襖《ふすま》に手をかけ、彼はもう一度ふり返った。身じろぎもせず小卓の上を見つめる女がそこにいた。彼は女を知っていたが、女は彼のことなど知りもしないのだった。  陣吾は無言で襖を開けて外へ出た。  だが、浅見の言葉はなおも彼を|呪《じゅ》|縛《ばく》していたのである。  無性に飲みたい気分だったが、何とか抑えて長屋へ戻った。  家の前に人だかりが出来ていて、そのうちのひとりが気づいて走り寄って来た。三軒右隣りの左官屋の女房だった。  おめでとうございます、と言われて陣吾は驚いた。 「仕官が決まったんですね。大層な身なりのお武家さまが先刻からお待ちですよ」  暗い座敷で黙礼したのは浅見東介であった。 「もう一度、おしぎの家へ来てもらいたい」  と申し込まれたとき、陣吾はにべもなく断わった。 「失礼ながら、貴公はどちらの浅見氏か?」  浅見の顔を苦笑が|歪《ゆが》めた。 「——それがしは貴公に女ふたりの救命を依頼したそれがしにござる」 「真者か偽者か?」 「それはわからぬ。それがしは自分が真の浅見と思っておるが、向うもそうらしい」 「話し合うことは?」 「できぬ。向うが出ている間、それがしには意識がない。その間は他人の眼には触れぬらしい。そもそも、もうひとりの自分がいると気づいたのは家人の話からだ。彼らはみな、向う[#「向う」に傍点]もそれがし[#「それがし」に傍点]だと信じておる」  ふたりの浅見東介は、生まれたときから同時にこの世にいたのだと、彼は言い切った。  乳母も老爺も、もうひとりの浅見を浅見と信じていた。  ふたりの浅見東介だけが、ふたりの自分がいると知りつつ人生を送って来たのだった。 「使用人の中にも、時折り勘の鋭い者がおってな。変な眼で見られた覚えもある。両親も或いは気づいていたかも知れぬが、何も言わなんだ」 「もうひとりの貴公は、どうしても奥さまをお斬りになるご所存か?」  陣吾は核心に入った。浅見は沈痛な面持ちになってうなずいた。 「それがし[#「それがし」に傍点]は、今度こそ|愛《いと》しさが募りに募ったと早苗に告げたそうな」  そうして、おしぎの家で再び同じ惨劇が繰り広げられようとしている。  いまひとりの浅見に斬られれば早苗は満足の中で死に、斬られなければ自ら生命を断つだろう。死はひとつでは済まない。 「それがしが貴公にあらぬ貴公を斬れば、貴公はどうなる?」 「わからぬ。それがしが真物ならばこの世に|留《とど》まるかも知れぬが、そううまくいくかどうか。断わっておくが、それがしは死や破滅を怖れてはおらぬよ。むしろ興味を抱いておる」  ひどく残忍な怒りが胸にこみ上げてきた。浅見の答えのどこが気に入らなかったのだろうか。 「いっそ、お二人とも斬れば厄介なことはなくなりそうですな」  浅見が、おうと|呻《うめ》いて身を乗り出した。 「では——引き受けて下さるか?」 「もうひとつ伺いたい」 「何なりと」 「奥さまはもうひとりの浅見氏によって愛しさを測られ、斬られるか或いは自害の道を選ばれる。それについてはどうお考えなのか?——自分のしたことではないと奥さまに申し上げるのか? ともに逃げようとはお考えにならなかったのか?」 「それがしに、その権利はないのでござるよ」 「何と?」  総毛立つ思いだった。浅見は|呪《じゅ》|詛《そ》のように冷たく、 「早苗を貰ったのは、あ奴[#「あ奴」に傍点]です」  と言った。 「………」 「夫が二人いることに、いつしか早苗は気づいていたと思う。だが、それがしには何も言いませなんだ。自分の夫がどんな人間かは知っている。そして、その分それがしを慕って参ったのでござるよ。ある晩、早苗は寝所でこう言ってすすり泣いた。なぜ、あなたではないのです、と。そのとき、それがしは何をおいてもこの女を守ってやろうと思ったのでござる。なあ、陣吾氏、それがしにはいまでもわからぬのだが、早苗はそれがしの妻なのか、それとも人妻なのか?」 「女は多分——女を愛しく思う男のものでござる。それでよい。しかし——」  ある考えが、陣吾の胸中に芽生えつつあった。それがお引き受けしようと答えさせた。 「かたじけない。貴公に頼むのは早苗を自分の妻と思うからでござる。あ奴が生きている間、それがしは何ひとつできぬ身なのだ」 「あれ[#「あれ」に傍点]は、いつ出て来るのか?」 「わからぬ。それを|掴《つか》んでいれば、このような苦労は——」  先は言わず、浅見は明晩同じ時刻に、と告げて去った。  山の神たちのざわめきも消えた。  心地よい風が陣吾の胸を吹いていた。彼はひとりではなかった。何かが一緒にいた。それは闘志だった。いまの浅見がひどく|憐《あわ》れに思えた。闘志を熱くしているのはその思いだった。  ——必ず斬る  その結果がどのような運命を浅見家の一党や自分にもたらすかはわからなかったが、最初から怪奇な|闇《あん》|黒《こく》に包まれているような一件には、それもふさわしいだろうと思った。      6  前回と等しい月夜の晩の怪事は、前回同様のだんどり[#「だんどり」に傍点]で進んだ。  開いている|潜《くぐ》り戸、玄関前で待つ浅見、奥座敷に端座した陣吾のもとへ訪れる二人の女。まぎれもないおしぎと早苗であった。数ヶ月を経ているのに二人の女の|精神《こ こ ろ》の状態が寸分も変わっていないらしいことが、陣吾を暗い気分にさせた。  |仄《ほの》|光《びか》りの中でもおしぎは自信に満ちており、早苗はひっそりと|俯《うつむ》いていた。一刻も早く早苗の夫[#「夫」に傍点]が現われるよう陣吾は祈った。  |襖《ふすま》の向うに気配と足音が湧いたのは、これだけは前より半刻も遅れた。その間おしぎは退屈したらしく、陣吾にあれこれ話しかけ早苗にあてつけを言ったが、二人は無視を通した。  襖が開いたとき、陣吾は立ち上がった。 「おしぎとやら——浅見氏を愛しく思っているか?」  と|訊《き》いた。 「|勿《もち》|論《ろん》でございます」  おしぎの顔も肌も|妖《あや》しく上気していた。 「奥さまはいかが?」  浅見が入ってきた。左手に一刀を掴んでいる。陣吾を見てにっ[#「にっ」に傍点]と笑った。 「やはり、それがしに雇われたか」 「殿さま」  とおしぎが薄ものの前をはだけてせがんだ。 「お斬りになって——あたしを」 「おお——今こそ斬るぞ、愛おしい」  浅見の右手が|柄《つか》にかかるのを見た|刹《せつ》|那《な》、陣吾はすり足に出て抜き打ちを放った。  |鞘《さや》ごと受けて、浅見は下がらず右へと廻りこんだ。 「愛しくていらっしゃるか、亭主どのが?」  浅見の青眼に対して右下段に構えつつ、陣吾は訊き残した答えが知りたかった。 「愛おしくとも、そうでなくとも——行かれい。どちらも斬らせはせぬ」  それだけが早苗を救う道であった。  短い吐息とともに浅見が突っかけてきた。  浅い突きが誘いなのはわかっている。左へかわしてやり過し、陣吾は次の攻撃を待った。冷静なのが嬉しかった。呼吸に乱れはない。 「貴公——おれが草平を斬ったとき、そばにいたことを早苗は知っているのか?」  早苗が|愕《がく》|然《ぜん》とする気配が伝わってきた。心の臓が震えた。それを見通したように浅見が斬り込んできた。  最初の突きは受けたが、横殴りの一刀が右の肩に食い込んで裂いた。  ——ひるめばやられる  |閃《ひらめ》いた。決したと見たか八双に構え直す浅見の刀身の動きを眼で追いながら、陣吾は大きく前へ出た。  この場合——浅見が驚き陣吾が笑うべきであった。だが、驚愕したのは陣吾だった。浅見が笑ったのだ。  いかん、おかしい、と頭の何処かで叫んでいた。陣吾の突きは十分な力と安定とを備えて浅見の|鳩尾《みずおち》のやや上を貫き、背中まで抜けた。  刺された刹那、浅見は肺の息をすべて吐き、直進する陣吾に押されるまま壁にぶつかった。  思いきりねじってから陣吾は刀身を抜いた。浅見の身体はそれにすがるように前のめりになり、抜き終えるや倒れた。  ふた呼吸分ほどのわずかな沈黙の後で、あなた、殿さまと女の声が交錯した。  おしぎが駆け寄り、浅見の落とした一刀を両手でひっ掴んだ。 「畜生——殿さまの|仇《あだ》|討《う》ちだ」  突いてくるのを、陣吾は軽く半身でかわし、左手で|肘《ひじ》のあたりを巻いた。おしぎは動けなくなった。  なおも抗戦の叫びを上げる女へ、 「よせ」  畳の上から苦しげな声が止めた。 「殿さま」  浅見は右手を|顎《あご》の下に入れて顔を上げた。眼は眼前の二人とは別の影を追っていた。  早苗は襖の前に棒立ちになって、夫とその身体の下から広がりつつある黒い染みを見つめていた。おしぎは駆け寄り、彼女は立っていた。 「あなた……」 「殿さま——どっちを?」  おしぎは泣き声であった。陣吾が手をゆるめると、刀を落としてゆるゆるとその場へへたり込んだ。 「……どちらを……|愛《いと》しんだかは……言うまい」  浅見の|嗄《しわが》れ声は、徐々に確実に力を失っていった。 「いや……陣吾氏には……わかるであろう……な。それがし……は……」  急に|瞳《ひとみ》が濁った。彼は首を落とした。力が抜けた。その身体は陣吾もはじめてみるような形に崩れた。  その寸前浅見はある名を呼んだ。呼応するかのように、二人の女が小さく、しかし雷鳴のようにあっ[#「あっ」に傍点]と叫んだ。  隙間から吹き込む風には冬のきつさが乗っていた。  外はじき夕暮れを迎えると、戸口と窓からの光が教えたが、陣吾は傘張りをつづけた。  浅見家で早苗がどんな日々を送っているのかを考えただけで、激しい焦燥めいた感情が襲ってくる。  少なくとも、もうひとりの浅見東介は優しく妻を|庇《ひ》|護《ご》しているに違いない。陣吾が斬った浅見東介が、あの日、夢のように透きとおって消滅した光景を早苗は目撃している。夫から[#「夫から」に傍点]の脅威は去っていた。おしぎは訴え出ると|喚《わめ》きたてるのを、右耳を打落とし、浅見の家から五十両出すことで口をつぐませた。  あの後またも現われた浅見[#「現われた浅見」に傍点]からまた二十五両を受け取り、陣吾は家を離れた。早苗の顔は一度も見ず、声もかけなかった。今もそのままである。  訊きたいことは幾つもあったが、考えないことに決めた。どうでもいいことだ。早苗の面影もいつか忘れられる。  生命の炎が尽きる最後の瞬間に、浅見が洩らした名前は東介[#「東介」に傍点]であった。人は|畢竟《ひっきょう》自分しか愛し得ぬものなのか。わざと陣吾の一刀を受けたとき、彼は真の「愛」を成就したのかも知れなかった。  板戸が叩かれた。静かな叩き方が陣吾の|脅《おび》えを募らせた。  返事をする前に|襷《たすき》がけの武士が入ってきた。見覚えがあった。 「|中《なか》|澤《ざわ》が来たか」  といった。懐しさが声に出た。 「大井も|須《す》|田《だ》もおるぞ」  男の声は冬の海のようであった。 「藩は脱藩者を許さぬ。ましておまえは早苗どのを斬って逃げた身だ。こんなことを今さら言っても|詮《せん》ないが、武内は自害した」  不倫が発覚した妻を、弁解も許さず斬殺した瞬間、陣吾は自分が妻をどれほど愛おしんでいたかに気がついた。  このところ入ってきた金子はすべて、|遺《のこ》された両親のもとへ極秘に送っていたが、討手はそこから今の住居を探り当てたのかも知れなかった。  大人しく一刀を手に外へ出た。  長屋の者たちが遠巻きに眺めている。どの顔も不安をこびりつかせていた。最後に見る顔がこれではやり切れないとも思ったが、自分の過去を思えばやむを得ないともいえた。  外にはあと二人の他にもうひとり、顔を知らぬ藩士が待っており、囲むような形で陣吾をあの[#「あの」に傍点]神社の境内へと導いた。早苗の兄が|斃《たお》れた場所で陣吾も生を終える運命らしかった。  境内には、さらに四人がいた。 「じきに日が暮れる。早く片づけよう」  中澤の声に八人が抜刀した。  抜き合わせながら、陣吾は早苗の顔を思い出そうとしたがうまくいかなかった。どちらの早苗か、自分でもよくわからなかった。  夕光を跳ね返しつつ八本の刀身が迫ってきた。      稽古相手  主人のことでいらしたのでございますね。ずっと江戸にお住まいの方がわざわざ雪深い|国《くに》|許《もと》まで足を運ばれるとは、さぞやきつい奥州路でございましたでしょう。  ですが、何度お目にかかっても、二十年もたちますのにどう考えたらいいものか、私にはいまだに見当もつきません。——え?……左様でございますか。それはお気の毒に。……そのように長患いの身でいらしたとは思いの外でございます。  わかりました。これほど長きに|亘《わた》ってあの事件を心にかけていただいていたとは、驚きのほかはありません。  当時の上士——江戸家老の大曾根さまも、組頭の織部さまも中峰さまも、揃ってご他界あそばしました。存命の方もことごとく家督を譲られ隠退なさいました。もうご迷惑はおかけいたしますまい。あなたの残り少ない日々への香華として、私の知る限りのことをお話し申し上げましょう。  二十年前、あなたさまが疑っていらしたように、主人の死は尋常なものではございませんでした。ええ、あの斬り合いの背後に潜んでいたのは怪異だったのでございます。  ほほ、そう力まずにお聞きくださいませ。そういえば、幾つにおなりですか? まあ、それは——五十を過ぎてもお若いこと。|鬢《びん》など白髪一本ございませんものね。あの件を忘れずにいられたのもそのせいなのでしょうね。そう言えば、はじめて私の話を聞きにいらしたときも、そんな風に力が入っていらっしゃいましたわね。  無理もございません。出府して二日にしかならぬ主人が、はじめて出た上野のお山で見ず知らずの他藩の方といきなり斬り合いをはじめ、どちらも死んでしまった。  あれは夏の盛り——とても暑い日だと覚えておりますが。——そうでしたわ、あなたもひどく汗をかいていらっしゃいましたもの。  |徒《かち》|目《め》|付《つけ》のおひとりとして、あなたはそれから何度も私のもとを訪問なされましたが、その度に苦悩の色を濃くしていくのが私には良くわかりました。いくらお調べになっても、斬り合った|山《やま》|際《ぎわ》|大《だい》|学《がく》さまとやらと主人との間には何のつながりも発見できなかったでございましょうから。——まあ、そのような怖い眼でご覧にならないで下さいませ。あのとき、これから申し上げるようなことをお聞かせしても、あなたは到底信じては下さらなかったでしょう。いいえ、取り調べに当たられた藩の方々もひとりとして。  あの日、同じく出府した御同役お二人と上野の山へ出掛けた主人は、人混みの中に山際さまを見つけ出すと、御同役に声もかけずに突進しいきなり斬りかかりました。ところが山際さまの方も同時に抜刀し、二人は積年の|怨《うら》みをはらさんばかりの勢いで刃を合わせたのでございます。それはまるで、その日のその時間にその場所で矛を交えようと前もって約束してあったかのような極めて自然な事態だったと、二人の御同役も周りの方々も口を揃えておりましたわね。  先に倒れたのは山際さまでございましたが、主人も結局はその場でみまかりました。煩雑なところはお|赦《ゆる》し下さいませね。あなたさまより十も上になりますと、細かい部分をいちいち|憶《おも》い出さないでは話が進みません。  後はご存知のとおりでございます。主人の遺体は奉行所へ運ばれた後、すぐ藩邸へ引き取られ、事の真相は徒目付たるあなたさまに|委《ゆだ》ねられました。  ですが、半年余のお取り調べの結果、目付の水野さまがお出しになった結論は、主人と山際さまは出府の途中で知り合い、|仲《なか》|違《たが》いを起こし、その凝塊が上野で相まみえた折りに爆発して惨劇の原因になったというものでございました。  あなたが私に|仰《おっ》しゃったように茶番でございます。主人と山際さまが同じ頃江戸へと参ったのは事実でございますが、主人は|陸《む》|奥《つ》から、山際さまの御一行は肥前から出府したものが、どこで顔を合わせるというのでしょうか。  ですが、ご存知のとおり私は何も口をはさみませんでした。目付さまのご判断ならばと全面的に受け入れ——外に道はなかったのでございます。恐らく、山際さまの方でもおなじだったことでしょう。  庭をご覧下さりませ。あの|楠《くすのき》の下が主人の鍛錬場でございます。この家に生まれ物ごころついたときから、最初は木の枝で、それから竹刀、木刀を手に剣を学んできたと誇らしげに申しておりました。  私を|娶《めと》ってからも、ひとり稽古は一日たりとも欠かしたことがございません。それこそ雨の日も雪の日も、悪い風邪をひいた日も、高い熱に顔を|腫《は》らしながら木刀をふるっておりました。  その|甲《か》|斐《い》あってか藩の道場では無敵、私的に通っておりました町の道場でも敵は無く、どんなに腕に覚えのある方でも主人の名を聞くと、あの男だけには|敵《かな》わぬと頭を|掻《か》いたそうでございます。  主人の稽古にますます熱が入りましたのは、そんなことも一因だったに違いありません。  東の空がようやく青ざめて来る頃から起きて出仕まで木刀をふるい、帰城の後は食事まで、食後は深更を過ぎてもひたすら稽古に打ち込む姿は、この私が、嫁いで来たのは間違いだったのではないかと思い悩んだほど、鬼気迫るものがございました。  いつでしたか、深更の稽古が終わりましてから、息も絶え絶えの主人に、道場だけでは足りませぬのかと|訊《き》いたことがございます。 「どちらも師範さえ、わしには及ばぬのだ」  との返事でございました。  それではこれ以上の上達は望めないのではと思いましたが、胸に収めておりますと、主人はまるでそれを読んだかのように、にやりと笑い、 「それよ。必要なのはわしに匹敵する稽古相手だ。いなければわしが勝手に捜すしかない」  そうは申しましても、主人ほどの遣い手はやはり見つからないのか、家での稽古は孤独でございました。それが変わったと私が気づきましたのは、江戸詰めのご|沙《さ》|汰《た》が下る一年ほど前でございましょうか。  家事の折り折りに聞こえる主人の声にまるで相手がいるかのような、来い、とか、まだまだとかの言葉が混るようになったのでございます。そのような方を連れて来てはおりませんから、様子を|窺《うかが》うと、やはり主人ひとりしかおりません。  相手がいると見たてての稽古はいつものことでございましたから、それが|昂《こう》じたのかと気にも止めておりませんでした。  別の折りに、 「よいお相手は見つかりましたか?」  と半ばからかうつもりで言うと、主人は大きくうなずき、 「おお、良い相手がな。まさにわしと互角。十本勝負で五本ずつ、五本勝負なら二本と二本で一本は引き分ける。これで稽古にも身が入るというものよ」  その眼の中に明らかに強敵に対する真実の闘志をみたような気がして、ぞっ[#「ぞっ」に傍点]といたしましたのをよく覚えております。  闘志はそのまま純粋に燃えはしませんでした。  日が経つにつれて、主人は見えない稽古相手に憎しみを募らせていったのでございます。  好敵手と申します。心ゆくまで打ち合えば気心も通じると申します。嘘でございます。自負が強ければ強いほど、自分に匹敵する実力を備えた相手は憎しみの対象になるのではないでしょうか。  ある|朝《あさ》|餉《げ》の席で主人は血走った眼を屋外に据えて、 「|彼奴《き ゃ つ》、怖ろしい技を身につけよった。わしはかわせなかった」  血を吐くような声で申しますと、|呆《ぼう》|然《ぜん》とする私など知らぬげに、 「だが、見ておれ。わしの技も完成に近づいておる。剣の恥辱は剣で返さずにはおかぬぞ」  そのような相手はいないのでございます。何度様子を窺っても、夫はひとりで木刀をふるっているのでございます。湯あみをしてもどこにも|痣《あざ》ひとつ見つからないのでございます。なのに、見えぬ相手は容易に夫の|膝《しっ》|下《か》に屈せず、夫とともに剣の腕前をあげていくようでございました。 「木刀ではどうしても互角」  と夫は怒りと絶望に身を震わせて申しました。 「だが、見ておれ、真剣ならば——」  その日が訪れる前に夫を医者に見せねばと、私は決心いたしました。剣以外のことに関しては何の|瑕《か》|瑾《きん》もない夫なのでございます。ですが、手をこまねいておりますうちに江戸出府のご|沙《さ》|汰《た》が下り、やがて、あの事件が起こったのでございました。  もうお判りでございましょう。理解はなさらなくてもお判りでございましょう。  上野の山で、主人はその方[#「その方」に傍点]にあってしまったのでございます。自分が頭の中で作り上げた強敵がそこにいたのでございます。何をすべきか、何ヶ月も前から主人にはわかっていたのでしょう。  え? それでは相手のことが納得できないと?  |仰《おっ》しゃることはよくわかります。山際大学さまはれっきとした百石取りの小普請組頭。主人の妄想の産物などとはとんでもございません。  ですが——そうですとも、そのお顔の色。もうおわかりでございますね。あなたが教えて下すったのでございますよ。山際さまもまた、藩では並ぶ者なき剣客であったと。城勤め以外の時間は剣の修業にすべて|捧《ささ》げていたと。  山際さまの稽古相手が主人ではなかったと、誰が言えるでしょう。     宿場の武士      1  秋が来た、と頭上の鰯雲を確かめたくなるような風の吹く夕暮れ、お里は|旅《はた》|籠《ご》の裏で水森大助を見つけた。  粗末な夕食の膳を運びに来た彼女を、賄いの女たちが血相変えて、裏庭へ通じる戸口を指差しながら迎えたとき、背筋に冷たい水が流れた。 「どうして、ここへ?」  昼の握り飯だけでは飽き足らず、何かをつまみにと思ったが、行き倒れの状態で発見されたとはいえ、やはり武士である。出された食事を|摂《と》る風にも身についた格調と節度があり、どう見ても八分で止めている。飢え死にしても、そんなみっともない真似をするとは思えなかった。  何よりも、 「水森さま、あのお侍の後を|尾《つ》けて来たんだよ」  という賄い女の言葉が、それを保証した。 「上で会っちまったんだねえ。何にもなきゃいいけど」 「やだよ、もうひとり、あんなお侍が増えるなんて」  秋風とは別の震えを背中に感じつつ、お里は戸口をくぐった。  息を呑んだ。ひっ、と|洩《も》れるのを、お里は必死にこらえた。すぐ右方に大助の幅広い背がそびえていた。  地面に打ち込まれた分厚い平石をお里は連想した。押しても引いても揺るぎもしない圧倒的な不動が、大助の姿を借りているのだった。  声をかけるのも|憚《はばか》られ、お里は彼と同じ方角へ眼をやるしかなかった。  そこには怖ろしいものがあった。  その[#「その」に傍点]前で、ひとりの武士が迫る夕暮れを待ちかねているかのように、一刀を構えていた。  |両《もろ》|肌《はだ》脱ぎの上半身には、力自慢だったお里の父や兄にも劣らぬ筋肉が盛り上がり、着古した|袴《はかま》と草履の爪先にまで力が|漲《みなぎ》っている。 「|凄《すさ》まじい」  眠そうとも取れる感嘆の声を大助の唇が絞り出したとき——武士が動いた。 「素晴らしい」  大助の唇が前と等しい感嘆の声を絞り出したとき、武士の動きは止まっていた。跳ねのけられた夕闇が、ここぞとばかり滑り寄って、一刀を|鞘《さや》に収めるその輪郭を、さらに濃い色で塗りつぶした。  はっとひと息吐いて、お里は自分がこれまで最低限の呼吸しかしていなかったことに気がついた。  酸素の欠乏した頭でぼんやりと考えた。  今のは何だったのだろう。  大助に視線を移そうとした眼の隅で、武士がこちらを向いた。  焦点を合わせたとき、武士はすでにこちらへ一歩を踏み出していた。|大《おお》|股《また》だ。右手に一刀を引っ提げている。  来る。 「水森さま」  お里は立ち尽くす大助の右腕にすがりついていった。 「お里か」  ようやく気づいたらしい。 「行きましょう、水森さま。あの方と関わり合ってはいけません」  お里は大助の前に廻り、|掴《つか》んだ左腕を押すようにして台所の戸口へと突き進んだ。  何をする、と大助が叫んだが、気にはならなかった。武士はなおもこちらへ向かっているだろう。その刃が届く距離から、一生涯離れていなければ。  何かを感じたのか、さして抵抗もせず、大助は台所へ連れ戻された。|只《ただ》ならぬ事態に気づいた賄いたちが左右に散った。幾つかの悲鳴が残った。  あと一歩で草履を脱ぐ位置——大助は急に動かなくなった。  よりかん高い悲鳴が上がった。それは戸口から二人のところまで、合唱のように伝わってきた。  人影が戸口を|塞《ふさ》いでいた。人型の輪郭と戸口との隙間から、|蒼《あお》い闇が見えた。  裏庭の武士を見てはならなかったのだ。そういう|掟《おきて》だったのに、お里はいともたやすく破ってしまった。  と——両手が前へ引かれるのを感じた。指に力を加える前に、指の下のものはゆっくりと出ていった。 「いけません、水森さま」 「どこのどなたか存ぜぬが」  と大助は人影に切り出した。落ち着いた声である。 「途方もない技を見せていただき眼福でござった。拙者、水森大助。剣の道を究めたいと願っております。よろしければ、|今《こ》|宵《よい》、武士と剣と世間とについて貴殿と語り明かしたいと思うが」  居合わせた誰もが息を詰め、二人の武士を見つめている。  炊き上がった飯と焼き魚と味噌汁の匂いが強く鼻を衝いて、お里はふと、いま誰かが声を出したら、みんな死んでしまうと思った。  間違いだったようだ。 「無用」  のひと声に、賄いたちの小さな悲鳴が重なったが、人影が不意に背を向け、夕闇の世界へ歩み去っても、こと切れた者はひとりもいなかった。  高鳴る胸を|安《あん》|堵《ど》の|証《あか》しと聞きながら、お里は大助が、蒼く塗りつぶされた戸口へ、まばたきもせぬ視線を注いでいることを知っていた。 「お里」  と声が降ってきた。二人の身長差は、大助の頭と肩の分だけある。 「はい」 「これから飯か? 早くしてくれ」  他の客は商人が三人きりで、|夕《ゆう》|餉《げ》の膳を片付けると、お里は大部屋へ床をのべた。  そのとき、大助が、 「何処かで話がしたい」  とささやき、 「竹林の間で」  と、お里は個室の名を告げた。|鸚《おう》|鵡《む》返しだったのは、期待していたからである。刻限は深夜に決まっていた。  お客のための仕事をすべて終え、残り湯でも浴びようかと女中部屋へ戻ると、部屋の前で主人の彦兵衛に呼び止められた。 「ちょっと、おいで」  と主人らしくない貧相はひと気のない廊下の隅へ十六歳の女中を連れて行き、 「あの厄介者——いつ出ていくんだね?」  嫌悪を隠しもせずに|訊《き》いた。強欲とはいわないまでも、それなりの性格がはっきりと|滲《にじ》み出た顔が、大部屋の方を向いている。無理はないと納得しているものの、お里は胸が痛んだ。 「店の前に倒れているのを見つけてから、もう五日だよ。まともなお侍なら、一文も払わず只飯食らうのがいい加減恥ずかしくなって、とっくに夜逃げをしてるもんさ。なのに、やけに堂々と居坐ってるじゃあないか」 「旦那」  哀願にも、お里は力を込めた。  彦兵衛は、はっと彼女を見て、硬い表情をゆるめた。 「まあ、おまえが宿代と飯代を給金から引いてくれっていうんだから、本当はいつまでいてもいいようなもんだけど。けどさ、いいのかい。家じゃおまえの給金、当てにしてるんだろう」  お里は顔を伏せ、また上げた。 「そうですけど、あたし、これまでの倍働きます。だから、何とかもう少し居させてあげて下さい」  彦兵衛は、ためいきをついた。こんなときだけ、使用人思いの主人に見える。 「そらいいさ。お代はちゃんと貰ってるんだ。わたしが心配しているのは、おまえとおまえの家族だよ。ま、納得してるんなら、気の済むまで施しておやり。武芸者なんて名乗られて、ぽうっとなるんじゃないよ」 「そんなんじゃありません」  |凜《りん》としたお里の物言いに、彦兵衛は、何だい人が心配してやってるのに、と明らかに顔に出して、 「好きにするがいいさ。その代わり、明日から言葉どおり倍働いてもらうよ。やれやれ、家じゃみな、おまえの身を案じているだろうに。わたしの気遣いがわからないのかね」  歩き去る主人の、ちょっと風が吹けばよろめきかねない細い後ろ姿を追いながら、お里は胸の|裡《うち》で舌を出してやった。  彦兵衛が使用人の身を気遣うなど、この近在で信じる者はひとりもいない。猪だって笑うだろう。彦兵衛のような|吝嗇漢《りんしょくかん》は、誰であれ、他人のために何かをするという行為が業腹の対象なのであった。 「谷屋」は、鈴鹿の|山《やま》|脈《なみ》を北に見ながら走る枯骨のような街道上に、|瘤《こぶ》みたいに貼りついた小さな宿場町のひとつ——そこに軒を並べる四軒の|旅《はた》|籠《ご》のうちの一軒であった。  近在の村を相手の行商人が主な客筋だから、どの旅籠も相部屋、大部屋が主な稼ぎ所だが、たまさか訪れる武士や富裕な商人のために個室の備えもある。  お里が「竹林の間」を密会の場所に指定したのは、小さな旅籠で、誰の目にもつかず耳にも入らず話し合えるところが他にないからだ。  どんな話があるのか、お里には予想がついていた。  それは適中した。悪い予想とは当たるものなのだ。 「あの御仁は何者か?」  闇に閉ざされた部屋で、障紙の向うから廊下を渡ってやってくる月明かりのみを頼りに、大助は切り出した。 「一刀を手にこちらに向かってくるのを見たとき、正直、足がすくんだ。いや裏庭へおりられる前に廊下ですれ違ったとき、只ならぬ気配を感じて、つい後を|尾《つ》けたのだが、見たか、あの剣技。断言しても良いが、あれは古今を通して、そうは並ぶ者なき|手《て》|練《だれ》じゃ。わしなど一生かかっても及ばぬ境地に達しておる。世の中は広いの、お里。このような寂れた田舎の宿場に、あのような御仁がおられるとは」  大助の眼はかがやき、唇の端には泡が溜まっていた。  武芸者とはどういう人間か、お里にはわからなくなった。五日前の早暁、この若者が行き倒れ状態で「谷屋」の店先に転がっているのを、お里自身が発見したのである。  抱き起こすと、頬骨がくっきりと浮き出た顔が、それが意味するとおり、 「飯を……」  と|洩《も》らした。  下働きの手を借りて大部屋へ運び、話を聞いて不機嫌の塊になった彦兵衛から、何とか許可を得て食事をさせた。まず重湯を与えて胃をならし、人心地がついたらしいところで、彦兵衛が尋ねると、男は、水森大助、兵法修業のため廻国中と告げた。十日ばかり前、宿で路銀を盗まれ、侍の手を借りる仕事も見つからず、水だけを飲んで|凌《しの》いできたものの、遂に「谷屋」の前で力尽きたのだという。 「行き倒れのまま放置されても致し方のないところ、屋根ある家に上げていただき、かように面倒まで見てもらって相済まぬ。一両日中には体力も戻ろう。それまで置かせてはもらえぬか。その礼は、|薪《まき》|割《わ》り、|水《みず》|汲《く》み、何でもいたす」  この申し出は、大助の状況を考えれば無理のないものであったが、彦兵衛にとっては、虫のいい言い草以外の何物でもなかった。  みるみる不愉快そうに|歪《ゆが》むその顔へ、旦那と呼びかけて、お里は意外な申し込みをした。 「お武家さまともあろう方が、お腹を空かせて倒れるなんて、あまりにも人目を|憚《はばか》ることでございます。『谷屋』の前でお倒れになったのも何かのご縁。こちらの宿代は、あたしの給金から引いていただいて、お身体の具合が戻るまで、あたしに面倒を見させて下さい。決してお店に迷惑はおかけいたしません」      2  大助はもちろん、彦兵衛もひどく驚いた。彼はそれでいいのかと何度も念を押した。お里は近在の農家の長女だが、一年と少し前に父が病死し、もとから身体の弱かった母もそのせいで床に就き、この二人よりも早くに亡くなった長男を除く次男と妹ふたりが家と畑とを守っている。  大助はこの兄に似ているのだとお里は言うのだった。  娘の決意が固いと見た彦兵衛は、その場はひとまず、おまえがそう言うんならと収め、大部屋を出るとすぐ、お里を帳場へ呼んだ。こう叱るためである。 「おまえもうちへ来て一年になる。客筋を見極める眼もできたろうに、なんであんな食いつめ者に肩入れするんだね。武芸者なんて言ってるが、行き倒れた挙句、|只《ただ》|飯《めし》まで食わせてもらって、武芸もへちまもあるものか。故郷へ人をやって送金して貰えと言っても、故郷は捨てて来たそうだ。悪いことは言わない。今日の飯と宿代だけ面倒みて、さっさと追い出してしまいな」  彦兵衛の言い分は、旅籠の主人としてはもっともなものである。大部屋の隅に|痩《や》せこけた武士がいつまでも寝こんでいては、他の相客が嫌がる。他の旅籠にでも洩れたら、「谷屋」には|云《うん》|々《ぬん》と、客引きのいい材料にされるだろう。根っからしみったれの彦兵衛には我慢のできぬ悲劇なのであった。 「そこを何とか——お願いします」  とお里は唇を|噛《か》んで何度も頭を下げた。本人の気持ちと両親の育て方が良かったらしく、素直で気立てもよく、普段は物静かで、骨惜しみをせずに働く娘だが、誰にでも好かれる明るい|天《てん》|稟《ぴん》が備わっていると、彦兵衛はすぐに見抜いた。働き出してひと月もしないうちに、|朋《ほう》|輩《ばい》の女中や下働きのまとめ役になったのも、多少の工作を含めた彦兵衛の思惑どおりであった。ただひとつ——まことに痛切な誤算に、彦兵衛はじき|臍《ほぞ》を噛むようになる。いったん唇を噛み締めへの字に結ぶと、この娘は|梃《て》|子《こ》でも動かぬ頑固者へと|変《へん》|貌《ぼう》するのだった。  主人と雇い人である。本来なら、出て行けと一喝すれば済む。それができないのだ。日頃眼にするお里の働きぶりと、不平不満だらけのはずの使用人たちの団結した精勤さが、人間性がさほど悪くも良くもない彦兵衛に、伝家の宝刀を使わせないのだった。  今回も、彼は前掛けの端に指を巻きつけて丸め、思いきり苦虫を噛みつぶした表情で、 「仕様がない。好きにおし」  と結論を出すしかなかった。  それから四日間、お里は、気心の知れている女中仲間でさえ、頭がおかしくなったのではないかと疑うほどの|甲《か》|斐《い》|甲《が》|斐《い》しさで水森大助に尽くした。  大助が空腹のあまり、栄養失調を起こしていたこともある。  四方の|訝《いぶか》しげな視線は三日目で感嘆と共感に変わった。  あたしゃとっても真似できないよ、あそこまでしてもらえるなんて、あのお侍は幸せ者さ。みんな、おかしな目でみるんじゃないよ。もちろんさ。  これで大助が侍の正体を表わして、最初の感謝を忘れ、|傲《ごう》|慢《まん》横柄な振舞いを見せれば、極めて、|剣《けん》|呑《のん》な状況が生じるところであるが、この若い武芸者は、お里と彦兵衛に聞かせた礼の言葉を忘れなかった。  彼はうす暗い大部屋の片隅に横たわり、お里の運ぶ食事には必ず、|馳《ち》|走《そう》になると頭を下げ、そのくせ決して卑屈にはならなかった。敬遠していた他の女中や相部屋の商人たちにも気さくに話しかけ、良く笑った。誰もがこういう人ならお里ちゃんも尽くし甲斐があるよと納得し、これじゃあ武芸者になるのは無理だと確信したことであった。  そんな大助が、いま、お里の気持ちが千々に乱れるほどの|凄《すさ》まじい武士らしさを露呈し、こう尋ねる。 「あれは何処の何という御仁だ? おれが動けずにいる間も、何度か廊下を渡るのを見た。もうここに長いのか?」 「あたしは——何も」  お里は眼をそらした。この娘には珍しい行為に、大助は膝を進めた。 「迷惑はかけぬ。おまえにもこの宿にも。それをするなと言うならせぬ。これを|訊《き》くなと言うなら訊かぬ。だがな、あの御仁は尋常ならざる何かが、剣技の他にも表れておる。賄いたちの反応を見ても、この宿へ滞在するのは、はじめてではあるまい。解せぬのは、おまえと彼らの|脅《おび》えぶりじゃ。あの御仁はこの宿で何をした?」  熱意が噴き出してくるような問いにも、お里はますます身を硬くして答えなかった。大助は最後の手を使うことに決めた。 「実は——ついさっき、ここでおまえと会う前に、あの御仁が『|芙《ふ》|蓉《よう》の間』へ入るのを見かけた。裏から戻ったものだろう。そこで|訪《おとの》うてみたのだ」  こう聞いた途端、お里はふり向くどころか跳び上がった。声も出せず自分を凝視する|剥《む》き出しの眼を、むしろ|愉《たの》しげに眺めてから、大助は硬い表情をつくった。 「ところが、いくら声をかけても返事は|頂戴《ちょうだい》できぬ。眠っておられるかと思ったが、確かに気配はある。思い余って障紙を開けようとした」 「水森さま……」  とお里は小さく|呻《うめ》いた。  障紙は、しかし、開かなかった。 「あれは何で押さえてあるのか。このおれが幾ら力を入れてもびくともせなんだ。縦にも横にも一分と動かん。しばらく試してみたが、そのうち、うす気味悪くなってやめた。あれも剣の技の|裡《うち》か。だが、お里、おれはあきらめんぞ。必ずあの御仁と膝を交えて語り合う。そして、剣法の教えを|乞《こ》う」  話しているうちに、大助は当初の|目《もく》|論《ろ》|見《み》を忘れた。それでも、目的は果たせた。 「やめて下さい」  月光の中で、お里は畳に額をこすりつけた。 「何故だ?」 「それは——言えません」  哀しみのためか恐怖のあまりか、小刻みに震える娘を見下して、大助は、 「ならば、やむを得ん。おれは生涯の剣の師を見つけた。理由も解らぬまま、黙視しているわけにはいかん」  紛れもない剣への情熱が、彼を傲慢で崇高で残酷な人間にしていた。お里は観念した。顔を上げて、 「あのお侍は、普通の人ではありません。いいえ、人でもありません。あたしは『谷屋』に奉公して一年にしかなりませんが、去年の秋、働き出して二日目に、あの方がみえました」  彦兵衛にいわれて|濯《すす》ぎ桶を運んだ相手は、長い道をやって来たらしい|埃《ほこり》まみれの|袖《そで》|無《なし》羽織に|裁寸袴《たっつけばかま》をつけた中年の武士であった。その足を洗いながら妙に寒々とした空気を感じたことを覚えている。まるで来て欲しくない客だと|旅《はた》|籠《ご》中の人間が無言で訴えている風な。  彼はそれから五日間、「芙蓉の間」に宿泊し、古参女中のお|重《しげ》が世話係りに当たった。 「芙蓉の間」へ膳を運び、持ち帰ったときのお重の表情を、お里はよく|憶《おぼ》えている。|憶《おも》い出すだに背筋が寒くなる。  つい、別の女中に、そのことについて質問してしまった。女中は声をひそめて言った。 「ここへ奉公に来て、あたしは十五年、お重さんは二十一年になるけれど、あの人、かれこれ二十年も、あのお武家さまのお世話をしているのよ」  武士は二十年間も「谷屋」へ通いつづけているのか。お里が素直に眼を丸くするのを見て、先輩女中は、無知な者に対する|蔑《さげす》みの視線を浴びせ、あのお侍は、そのずっと前——この宿場が出来てからずっと、実に四十年以上も前から、ここ[#「ここ」に傍点]を訪れているのだと言った。名前も何処から来るのかもわからない。以前、女中のひとりが番頭に尋ねたら、頭ごなしに怒鳴られた。仕様がないから、みんな、あのお侍、お武家さまと呼んでいる。 「あたしもお重さんも、もう大分前に亡くなった女中頭に聞いたんだけどさ、『谷屋』がここに店開きしたのは、ざっと三十年前、その前の十年は『金子屋』という旅籠が建っていたらしい。あのお侍、そこへも来てたと言うんだよ」  自分の話が怖くなったのか、鳥肌の立った腕をさする女中を、お里は想わず笑ってしまった。  あのお侍はどう見ても三十代はじめだ。四十年も前から通って来られるはずがない。生まれたばかりの|嬰児《みどりご》が、二刀を携えてはいはいしながら土間へ入ってくる姿を連想し、お里はまた笑った。  叱られるかなと思ったが、女中は不愉快そうな顔をしただけで、声を荒らげたりしなかった。  あたしだって信じられないのさ。でもね、と彼女は無表情に言った。もう十五年、毎年この時期に、あたしはあのお武家さまを見ている。ちっとも変わっていないんだ。ずうっと、あんたが今見てる三十半ばのままなんだよ。  彼の部屋を訪れる際のお重の表情が、それで理解できたとお里は思った。 「あたしも最初は信じられませんでした。でも、この一年、あの方が来てから、二度も不気味なことが起きたんです」  何もかも打ち明けようと決心しても、声の震えはどうすることもできなかった。お里は二度、|咳《せき》払いをした。 「二度」  と、大助が|噛《か》み締めるように口にしたとき、月光がつい、と|翳《かげ》った。  障紙の向こうを流れるように過ぎる人影は、少しの音もたてなかった。右手に提げた大刀を、お里は眼で追った。 「ああ、夜中も裏へ行かれるんだわ」  それに気づいたのは、大助も同じであった。  昨夜は明け方まで眠れず、以後の眠りも浅かったのに、眼も頭も熱く|冴《さ》えていた。血の|疼《うず》きのせいに違いない。  夕暮れまで障紙の向こうに|閉《へい》|塞《そく》していた、旅籠の誰もその名を知らぬ|古《ふる》|馴《な》|染《じ》みの客は、大刀を手に台所へ行き、そこから裏へと出た。賄いたちは彼がいないように振舞ったが、うまくいったとはいえなかった。  武士が大部屋の前を通りすぎると、大助はその後を|尾《つ》けた。前日のこともある。用心しているかと、こちらも用心せざるを得なかったが、武士は裏庭へ出るまで、そのような気配もそぶりも見せなかった。それは忘却というよりも、昨日の日暮れから早暁にかけての出来事は、すべて大助の見た夢にすぎなかったというような、徹底した虚無と恐怖とを感じさせた。  日中に姿を見せず、|蒼《あお》い夕闇とともに現われる男なら、そういうものかも知れない。  また剣をふるうかと思ったが、彼は真っすぐ、庭の真ん中に黒々とそびえる恐ろしいものの前へ直行し、木戸を開いて、その内側へ消えた。木戸が戻る|蝶番《ちょうつがい》のきしみを聞きながら、あれも武士以外の誰にも開けられないのだろうと、大助は確信した。  恐ろしいものとは、離れである。  小さな町道場ほどの大きさで、屋根には一枚の瓦もなく、見るからに頑丈だが、ひどく古い建物だ。雨風の浸蝕を防ぐために、壁板や天井板の表面は黒く焼いてある。  お里が聞いた話によると、武士が来る前から今ある場所にあったという。「金子屋」の誰かが建てたものだろうが、武士のためにこしらえたのか、別の目的のためのものを武士が使用するようになったのかは不明である。「金子屋」がつぶれ、店が引き倒されてもこれだけは残った。そして、鈴鹿の里に秋風の吹く頃にひとりの武士が訪れる。四十余年、宿の者とひとことも交わさず、食事を|摂《と》り、夕暮れまで決して部屋を出ぬ武士が。道場に酷似した離れに入ったきり、遅い|夕《ゆう》|餉《げ》まで現われず、深夜、ふたたびその扉を開ける武士が。  宿の使用人たちは、彦兵衛から武士に構うなと言い渡されている——とお里は告げた。あの御方が何をしても放っておけ。それに、あの御方は何もしやしない。ただ、滅多に姿を見せず、現われては黒い離れに消えていくだけだ。そこで何が起こっているのか誰も知らない。  知ろうとしても、たやすくはわかるまいと、大助は納得した。  離れには、ひとつの窓もないのだった。      3  裏庭には緊張が張りつめていた。旅籠の台所や別の場所で息を殺している使用人たちの醸し出すものに違いない。  庭といっても遠くに生垣や竹林の|名《な》|残《ごり》が|窺《うかが》えるだけの、池も飾り石もない黒土の広がりである。  ——稽古には理想的な場所だ  こう思いついた途端、大助は不思議な思いに|捉《とら》われた。  庭には一本の雑草も見えない。徹底した手入れと草むしりがされている。  あの侍が四十年もの間年を取らないのは、彦兵衛にも、その前の主人にも、否、「金子屋」ですら知っていたに違いない。彼らはなぜ、そのような不気味な存在を迎え入れるのか。  来訪に応じて部屋を与え、食事の世話をし、裏庭の使用を許し、なおかつ、その邪魔をするなと命じるのか。  短い滞在を終えて、やって来た場所へと武士が戻った後、彦兵衛は宿中の者に庭の手入れを命じるのだ——あの|凄《せい》|絶《ぜつ》なる剣のために。  しばらく戸口で耳を澄ませ、音と気配を窺っていたが、黒い離れから伝わってくるのは静寂のみであった。  大助は歩を進めた。お里はどうしているかと思った。  十二、三歩目で、かすかな響きが大助の鼓膜を震わせた。  |鳩尾《みずおち》に熱いものが生じた。身体中に羽虫の襲来のごとく熱が広がってくる。  まぎれもなく、刃の打ち合う音であった。  大助の足は速まった。  式台のつもりか、厚く平たい石の上に武士の草履が爪先を外に向けて置かれている。  大助は道場と化した離れの周囲を廻りはじめた。木戸を開けなかったのは侍のたしなみによる。声もかけず、指一本触れず、声をかける気にもなれなかった。  あの武士が、あの神技を駆使して打ち合っているのかと思うと、|羨《せん》|望《ぼう》のあまり、握りしめた|拳《こぶし》の指が肉に食いこんだ。竹刀でも木刀でもない鋼の刃をふるっていることも、大助の血をたぎらせた。あの武士ならそうする。あの技は刃の下で肉と骨とを断たれる恐怖に発狂しつつ身につけたものだ。  見たい——痛切に願った。あの境地に及ばぬまでも見たい。それができるのなら、生命を捨ててもよい。自分はそのために、廻国の旅に出たのではなかったか。  |逡巡《しゅんじゅん》が|弾《はじ》け飛んだ。  木戸へと走り、大助は拳をふり上げた。  その手首を背後から、ぐいと|掴《つか》んだものがある。  |愕《がく》|然《ぜん》とねじ向けた顔の前で、 「なりませぬ」  と彦兵衛が低く重く告げた。 「この離れに入ってはなりませぬ。ここは、別の世界でございます」 「邪魔だていたすか」  二人は|揉《も》み合った。大助の体力は戻っている。兵法者に|憧《あこが》れ、幼少から鍛え抜いた力もある。それなのに彦兵衛は互角に戦った。必死とも言うべき思いが、|痩《や》せこけた|旅《はた》|籠《ご》の主人に武士に劣らぬ|膂力《りょりょく》を与えていた。  彼はなおも低く重く言った。 「この離れには誰もおりません。私は三十年間、監視して参りました。あの方以外、誰ひとり入ったものも出て行ったものもありません。それなのにあの御方が到着なすった晩から、相手ができるのでございます」  大助の全身から力が抜けていった。それこそがお里の口にした恐怖のひとつめ[#「ひとつめ」に傍点]であった。急速な脱力がめまいを導いた。彦兵衛に支えられなければ、その場に|昏《こん》|倒《とう》していたかも知れない。  ようよう|訊《き》いた。 「誰なのだ? あの御仁は? いま彼と打ち合っているのは?」 「こちらへ」  彦兵衛の腕に力が加わると、大助は抵抗もせずに母屋の方へ移動しはじめた。  大助を奥の座敷へ上げ、大きな机をはさんで坐ると、彦兵衛はその手もとに、手文庫から五枚の小判を出して置いた。 「何も言わずにお納め下さい。そして、一刻も早く、この宿場からお立ち|退《の》きなされませ」  万事丸くという腹づもりだろうが、少し遅すぎた。大助もあっさりと首肯するわけにはいかなかった。彼は見て、聴いてしまったのだ。あの離れについて、武士について、そして、あの内部にいる誰かについて彼は問い|質《ただ》した。  彦兵衛は、お役人の力を借りてあなたさまを追い出すこともできるのですよと脅し、ついには、離れの住人について語ったことも否定したが、彼は退かなかった。  押し問答と沈黙が何度か繰り返され、あまりの剣呑さに女中が|行《あん》|燈《どん》の火を入れに行くのも|憚《はばか》っているうち、玄関先から若い女の悲鳴が届いた。  座敷の外を足音が入り乱れた。  彦兵衛が立ち上がり、|暖《の》|簾《れん》から顔を出して、どうしたねと訊くと、玄関の方から番頭が走り寄ってきて、何やら耳打ちをした。 「さっさと追い出しておしまい」  と彦兵衛は吐き捨てた。 「うちの店先で死人でも出されちゃ迷惑だ。早いとこお役人をお呼び」  戻ってきた彼に、何があったのかと大助は尋ねた。宿場の端にある|賭《と》|場《ば》から、女房をかたに取られそうになった旅の|夫婦《め お と》者が逃げ出してきたのだと彦兵衛は答えた。  土地のやくざ者が狭い宿場で賭場を開くのは珍しいことでもない。|賄《わい》|賂《ろ》を握らされた役人が見逃すのもよくある話だ。旅人が|蜘《く》|蛛《も》の糸にかかった虫のような境遇に落ちるのは、どうだろう? 「路銀の足しにとでも思ったんですかね——いいや、|賭《か》け事に首を突っ込むような男は、最初からそれが好きなんです。身ぐるみどころか女房まで取られるなんて、素人が踏みこんじゃいけねえところまで踏み込んじまったんだ。自業自得でございますよ——水森さま、出ちゃあなりませんよ」  釘を刺されるまでもなく、大助にどうこうしようという気はない。  ごたごたの現場に首を突っ込むどころか、一刻も早く通りすぎる、やり過ごすのが武士の定法である。主家に|禍《わざわ》いが及ぶのを防ぐためだ。  それでも、|流石《さ す が》に気にはなって、何事か話しかける彦兵衛もよそに耳を澄ませていると、幾つもの粗暴な怒号が切れ切れに鼓膜を叩き、不意に消えた。  救いを求めに駆け込んだ夫婦とやらは情け容赦もなく追い出され、やくざ者に連れ去られたのだろう。それとも気乗りもしない宿場役人が駆けつけたのか。  足音が廊下を叩き、番頭が獣に追われているような勢いで顔を出した。  旦那さま、と叫んだ。 「あ、あの方が、先五郎一家の若い衆と」  夫婦者の夫が道中差しを抜き、やくざたちも抜き合わせた。そこへ、あの武士が割って入り、自分が話を聞こうと言った。いま、外へ——。背中にそんな声が当たった。大助が先に土間へ到着し、 「草履を持て」  と叫んだ。武士は裸足で地面へ下りることを許されていない。隅で若い旅姿の男女が抱き合って震えていた。  草履を手にしたお里が走り寄ってくる。  外から男の悲鳴が上がった。驚きの声だ。やくざとあの武士——どちらかが抜いたに違いない。  式台に出された宿の草履を突っかけ、左足から踏み出した瞬間、悲鳴と同じあたりから、はっきりと苦鳴が噴き上がった。 「しまった」  暖簾を押し分け、通りへ出た。  思ったより近かった。右方へ向かって五十歩ばかりの路上に闇よりも濃い塊が二つ転がっている。  もうひとつ——両足を大きく開いて白刃を構えた人影は、ひどく無惨に見えた。ひっひっと聞こえた。泣いてるような|呼吸《いき》つぎである。激しくゆれる刀身のかがやきで、大助は月が出ているのを知った。  武士は刃の前方にいた。切先と切先とが触れるほど近い。青眼であった。  突け、と誰かが言った。大助に大助の声で。  やくざは思いきりふりかぶり、ふり下ろした。そのままの姿勢で前のめりに倒れた。あまりに自然な動きなので、すぐに起きあがるかと思ったが、それきり動かず、武士は刀身を|鞘《さや》へ収めた。  立ちすくむ大助に|一《いち》|瞥《べつ》も与えず旅籠へ戻ると、土間に集まった彦兵衛以下の者へ、 「向こうが抜刀いたした上、斬りかかってきたので処断した。宿場役人にはそう伝えい」  これだけ言って、さっさと|室《へや》へ行ってしまった。土間に額をこすりつけ、有り難うございますと繰り返す夫婦者の方は見向きもしなかった。 「芙蓉の間」の前で、大助は追いついた。  障紙へ片手をのばした武士へ、 「お待ち下さい」  と声をかけた。無視されるかと思ったが、彼はふり向いた。  大助は|見《み》|栄《え》も外聞もなく床の上に平伏した。  名を名乗り、 「剣にて身を立てんものと廻国修行中のところ、この地にて生涯の師と会い申した。|何《なに》|卒《とぞ》お弟子の端にお加え下さいませ」  後は沈黙して待った。 「貴公、わしの技を見たな」  と武士は言った。意外ともの静かな口調であった。 「はい」 「ならば学びたいと思うよりは、関わり合いたくはないと感じるのが尋常と申すもの。よいかな、あれは人間の技ではござらぬのだ」 「なれば——なればこそ、ご伝授いただきたい。剣を志す者にとって、人に操れぬ剣を身につけることこそ理想でございます」  武士は障紙にかけたままの手を離し、身体ごと大助の方を向くと、 「人は人の道を究めればよい。おわかりか?」 「わかります。ですが、私はもうひとつ上の境地を見てしまいました。人の道では——もはや我慢がなりませぬ」  こう言って、大助は|呼吸《いき》を呑んだ。武士の顔が突如、黒く——漆を塗ったかのように見えたのである。それが、ひとつの|凄《せい》|絶《ぜつ》な表情をこしらえるための筋肉の|歪《ゆが》みによるものだと知るには、数瞬を要した。 「貴公——わしが何者か、まだわからぬのか?」 「いえ」 「わしだからこそ、おぬしが見た剣を操れる。その意味がお判りか?」 「………」 「人の操れぬ剣を操るものは、人以外のものということだ」  大助は胸から胃にかけて大きな穴が空いたような気がした。 「そのものは、人の|精神《こ こ ろ》を持ってはならぬ。人を好いてはならぬ、人を憎んではならぬ、|憐《あわ》れんでも、同情しても、怒ってもならぬ。眼の前に|物《もの》|盗《と》りの手にかからんとする女子供がいても、胸中に波ひとつ立てずに見捨てなければならぬ」 「で、ですが」  大助は必死で抗弁した。 「あなたはあの旅人夫婦をお救いになったではありませんか」 「そのとおりだ。それについては、いずれ罰が下ろう。水森氏、二度とわしに近づいてはならぬ。よろしいな」  大助が返事もできずにいるうちに、武士は障紙を開いて室内に入ってしまった。  闇に閉ざされた廊下に、大助は両膝を突いたまま、月光よりも闇の重さを感じていた。宿場役人が来たとお里が告げに来たのは、それから少し後のことである。  事件の目撃者だというので、大助は当然、番所へ呼ばれた。彦兵衛と番頭と例の若夫婦、それに、鈴木先五郎と呼ばれる博徒の頭が一緒だった。  ここでも大助は、あの武士が宿場の人々に及ぼしている不気味な影響を身に|沁《し》みて感じる羽目になった。  役人は、まず先五郎を尋問した。すると、いかにも凶暴な面構えの博徒の頭は、この上なく神妙に頭を下げ、誠に申し訳ない、すべては自分の不徳の致すところであり、お武家さまに刀を向けた子分は斬られて当然、若夫婦には何も求めず、|胆《きも》を冷えさせた「谷屋」の人々には、それなりの|詫《わ》びをすると申し出たのである。  驚くべきことに、役人は調書の筆を置いた。そして、 「いまの先五郎の証言をもって、この件は落着とする」  こう宣言したのである。  他の連中が退出した後で、大助は役人に、吟味無しの理由を問い|質《ただ》した。そこから役人の手を借りて、武士の正体に迫ろうと試みたのである。しかし、 「貴公、吟味されたいのか?」  といわれては、口をつぐまざるを得なかった。  混乱しきったまま、彼は外へ出た。その手で|掴《つか》もうとするすべてが消え|失《う》せていく。取り巻く闇は絶望からできていた。      4  武士は六日目に去る。  この鉄の事実が存在するからこそ、「谷屋」の人々も自分を失わずに過ごせたといえる。  それ故に、彼らは|脅《おび》えていた。  五日目——その夕刻。武士の最後の滞在日を|司《つかさど》る穏やかな|時間《とき》の流れに、ある愚か者が一石を投じるのではないか、と。  だが、朝と昼は何事もなく過ぎた。二人の武士のうち、片方の部屋は主人を呑んだまま静まり返り、もうひとりの大部屋の|主《あるじ》は、|朝《あさ》|餉《げ》をすませると同時に宿を出て、夕刻まで戻らなかったのである。  やがて、片方の武士は裏庭の離れに入り、二刻ほど後に現われた。  それきり何事も無く、夜の闇は深さを増し、鈴鹿の峰々は月光にかがやいた。  その深更、武士は裏庭に出た。最後の稽古[#「稽古」に傍点]であった。  黒い道場の前で彼は足を止めた。木戸の前に大助が平伏していたのである。 「二度とわしに近づくなと申し上げたはずだが」  陰々たる声に、大助は顔を上げ、 「私——宿場の外れにある空き地へ参りました」  と言った。声も表情もひたむきであった。 「そこで、あなたは明日の払暁、ひとりの武士と戦われるとか。そして、それは四十年——否、その|遥《はる》か以前より行われている、儀式にも似た行為であるとか」  それがお里の怖ろしいことのふたつめ[#「ふたつめ」に傍点]。 「私にそれを教えてくれたのは、先夜の博徒——先五郎でございます。彼の父と祖父とは、どちらも物ごころついたときから、あなたの戦いぶりを目撃しておりました。あなたはそのことごとくに勝利なされた。そのための人外の剣か。そのための長い長い訪問であるか。  その武士は——武士たちは、当日あなた同様、宿場の外から訪れ、その空き地で一敗地にまみれては、宿場役人の手で片付けられる——彼らは何者でございます? もしあなたが敗れたときは、同じ剣をふるう御仁がまた宿場を訪れて刃を交える。そうして、勝った場合は敗北まで年を取ることもなく、この宿場を訪れ『谷屋』に宿を取り、やはり絶えることなく訪れる新たな敵と試合うのでございますか?」 「どかれい」  と武士は言った。 「どきませぬ」  と大助は答えた。 「何のためにそのような、時に挑むがごとき真似を?——いや、それはどうでもよい。あなたの姓名もお国も目的も問いませぬ。知りたいとも思いませぬ。私の願いは、ただひとつ——その剣でございます。人間に年を取ることも許さぬ剣——それだけが、私の胸の中で、|愈《いよ》|々《いよ》黒いかがやきを増しまする。たとえ、私にどのような|運命《さ だ め》が待っていようとも、何卒一手——ただの一手をご伝授くださりませ。武芸に志した者の|精神《こ こ ろ》を何卒、お察し下さいませ」  地に頭をすりつけながら大助は、自分が眼の前の武士よりも不毛な行為にふけっているような気がした。 「——人の願いに耳を傾けてはならぬ」  武士はこう言った。 「しかしながら、|先《せん》に申し上げたとおり、私は罰を受けねばならぬ」  大助は驚きのあまり顔を上げ、 「どなたにでございます?」 「我が師に、だ」 「師? あなたにお師匠が!?」 「生身のわしに人外の剣はふるえぬ。すべては師匠から授かった技だ」 「その方は——何処に?」  武士は前方を見ていた。大助の背後の黒い家を。彼は知った。 「師はその中におられる。わしの技が|錆《さび》つかぬよう、毎年相手をして下さる」  大助は首をねじ向けたが、闇色の道場からは何の気配も感じられなかった。 「わしの剣を学びたければ、師に学ぶほかはない。貴公にその資質が備わっているかどうか。判断は師におまかせしよう」  大助は立ちあがって向きを変え、道場の方に頭を下げた。彼は武士の言葉をすべて信じた。その上で胸中に燃えさかるのは、純粋な剣への執念であった。  どれくらいの時間が流れたか。闇の中で、大助は|蝶番《ちょうつがい》のきしむ音を聞いて顔を上げた。  木戸はゆっくりと開きつつあった。 「師が認めた」  武士の声が遠く響いた。  長方形の戸口には闇が詰まっていた。大助は立ち上がり、式台で草履を脱ぐと、その中に入った。武士のことは忘れ果てていた。  足裏がひどく冷たい。床は木だ。それだけはわかる。  背後からの月明かりが、そのとき、ぎい[#「ぎい」に傍点]と|翳《かげ》っていった。  反射的に戸口へ走り寄ろうとして、大助は立ち止まった。その足下へひとふりの木刀が投げ出されたのである。  師は認めたのだ。  立ちすくむ背後で木戸は閉じた。闇が世界と化した。  大助は、しかし、もう怖れなかった。彼は手さぐりで木刀を取り上げ、待った。深く濃い闇の中で、情熱だけが燃えていた。  部屋の前で武士は足を止めた。  障紙に寄り添うように正座したお里が、彼を見つめていた。 「何をいたしておる?」  お里は床に手をつき、頭を垂れた。奇妙に慣れた動きだった。 「水森さまに——剣をご教授下さいませ」  土砂降りの中を飛ぶ蚊の羽音のような声は、しかし、強い意志を伝えた。  月光が粗末な着物からのぞくうなじ[#「うなじ」に傍点]を青く照らしている。 「——人の願いを聞いてはならぬ」  と武士は言った。 「だが、わしも人に|堕《お》ちた。その願い——聞いてやろう」  彼は障紙を開き、先に部屋へ入った。  お里が続くと、触れもしないのに障紙は閉じた。  翌日、幾つかの出来事が小さな宿場の|内側《なか》で生じた。  まず、ここ四十年間、秋ごとに五日だけ「谷屋」に宿泊していた中年の武士が、早朝、宿場外れの空き地で切腹しているのが発見された。彼のいちばん怖ろしい事実を知っている人々は、その顔が少しも変わらぬことに当てが外れたらしく、正体が、と何度もつぶやいた。  次に、武士と同時期に「谷屋」に寄宿中の若侍が、大小以外の荷物を残して|失《しっ》|踪《そう》した。誰かが、宿の女中の給金を吸い上げるのに気がとがめたのだろうと言い出し、そういう結論になった。しかしながら、「谷屋」の主人の彦兵衛と女中のお里にだけは、別の意見があるらしかった。  奇妙なことに、数名の者が若侍を目撃している。  もはや宿場の誰も知らぬ過去のある日から、目的もわからぬまま連綿とつづけられてきた町外れの空き地での死闘——早暁に何処からともなく訪れた旅の武士を相手に斬り合い、斬り伏せたのがその若侍であったと、雨戸の隙間から|覗《のぞ》いていた住人の証言にある。ただし、検視役の宿場役人は何も言わず、書き残してもいない。四十年間に及ぶ早朝の立合いに関する記録は何ひとつ残っていないのである。  素性不明の武士の死体は、例年どおり、役人が処分した。  一年後の秋、実家に帰っていたお里は、いつもの五日間をある感慨を抱いて過ごした。  翌日は朝から小雨が降りつづき、これくらいの雨ならと弟妹は揃って畑へ出て、お里ともうひとりだけが家にいた。  あの宿場と「谷屋」での何もかもが遠い夢のように思われ、それでもお里は、自分の|精神《こ こ ろ》をいっとき甘くざわめかせ、ひと言も残さず消えていったある若者のことを、懐かしく|憶《おも》い出していた。  |何《なん》|時《どき》なのか、雨戸が叩かれた。弟妹たちが戻ったのかと土間へ下りると、固くかけておいたしんばり棒が外れ、大きく開かれた戸口から|洩《も》れる光と雨とを遮るかのように、長身の人影が立っていた。  あの若侍だった。  立ちすくんだのも一瞬、その名を呼んで駆け寄ったお里は、自分を見つめる相手を別人と悟った。  顔は同じだ。しかし、彼は別人であった。  運命を感じてへたりこんだお里へ、若侍は、 「いま、宿場で敵を斬ってきた」  と告げた。 「じゃあ……じゃあ、あなたが?」  歯の根もあわぬ口でそう|訊《き》くと、彼はうなずき、 「あの方の跡を、私が継いだのだ」  と言った。その顔はひどく暗く、やはり別人に見えた。 「一年前私はあの道場で望みの剣を身につけた。その剣をふるって|斃《たお》した相手が何者か、何のために左様なことがつづいて来たのかは言うまい。ただ、私たちが戦わねば、そして、私が勝ちつづけなければ、この国に|未《み》|曾《ぞ》|有《う》の危機が訪れるのだ。それは防がねばならん」  そんなことはもう、どうでもよかった。お里は何より肝心なことを訊いた。 「どうして——ここへ?」  若侍は、身の毛もよだつ眼つきになって、板の間の方を見た。家にいるもうひとりの泣き声が聞こえたのである。二ヶ月ほど前にお里が生んだ赤ん坊であった。 「あれは、あの方の|児《こ》だな。|不《ふ》|憫《びん》ながら、生命を貰わねばならぬ。死にたくなければ邪魔だていたすな」  若侍の左手が一刀の鯉口を切るのを見て、お里は彼の前に立ちふさがり、どうしてですと叫んだ。何もわからなかった。「谷屋」での一年も不可思議の中にいた。それでも人間は生きられるとわかったが、不可思議に変わりはなく、それはいま、彼女と赤ん坊とを追って来たのだった。  どうして、どうしてあの児を、と|喘《あえ》ぎ喘ぎ彼女は後じさり、若侍は無言で歩を進めた。  昼すぎに戻ってお里の死体を眼にした妹の悲鳴は、村中に|轟《とどろ》いたといわれる。赤ん坊の姿はなかった。  若侍が何故、彼の前任者ともいえる中年の武士の子を連れ去ったのか、それまでどこでどうしていたのかは、鈴鹿の小さな宿場町に伝わる多くの謎同様、解き明かされることはなかった。  ちなみに、宿場での決闘が|終焉《しゅうえん》を見たのは|嘉《か》|永《えい》五年と、住人のひとりの手記にある。どちらが勝ったのかはわからない。唯一の記録だ。  翌嘉永六年六月三日——浦賀沖に四隻の黒船が出現する。捕鯨船の薪、水、食糧を要求して訪れたという彼らの真の目的とその結果は、歴史が語りつづけている。   本書は、平成十三年十一月小社より刊行された単行本を文庫化したものです。 |幽剣抄《ゆうけんしょう》  |菊《きく》|地《ち》|秀《ひで》|行《ゆき》 平成12月9日 発行 発行者 田口惠司 発行所 株式会社 角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp (C) Hideyuki KIKUCHI 2005 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『幽剣抄』平成16年8月25日初版発行