大正文学史 臼井吉見 -------------------------------------------------------------------------------- 筑摩eブックス 〈お断り〉 本作品を電子化するにあたり一部の漢字および記号類が簡略化されて表現されている場合があります。 〈ご注意〉 本作品の利用、閲覧は購入者個人、あるいは家庭内その他これに準ずる範囲内に限って認められています。 また本作品の全部または一部を無断で複製(コピー)、転載、配信、送信(ホームページなどへの掲載を含む)を行うこと、ならびに改竄、改変を加えることは著作権法その他の関連法、および国際条約で禁止されています。 これらに違反すると犯罪行為として処罰の対象になります。 目  次 まえがき 第一章 大正前期 第一節 二つの事件 第二節 『スバル』『白樺』『近代思想』 第三節 観潮楼と漱石山房 第四節 自然主義のひとびと 第二章 大正後期 第一節 「新しき村」と「有島共生農園」 第二節 『新思潮』『三田文学』『奇蹟』のひとびと 第三節 心境小説と通俗小説 第四節 『文芸戦線』と『文芸時代』 第五節 二つの事件 あとがき 大正文学史 まえがき  明治四十三年(一九一〇年)から、昭和二年(一九二七年)にいたる期間を、文学における大正期と考えたい。明治四十三年といえば、自然主義の全盛期であると同時に、これに反撥する青年作家によって、『白樺』『三田文学』『新思潮』の創刊された年でもある。かれらは、やがて大正文学の主流を形成することになるのである。昭和二年に、芥川竜之介が自殺した。それは、原因が何であれ、大正文学の終焉を象徴する出来事であった。  この十八年間を前後の二期に分けるとすれば、大正七年が、ひとつのメドになるだろう。世界大戦の終結した年である。この前期は、田山花袋、島崎藤村、徳田秋声、正宗白鳥、岩野泡鳴、近松秋江など、自然主義の作家をはじめ、森鴎外、夏目漱石をもふくめた明治作家の完成期であると同時に、「白樺」を主流とする大正作家の早熟期でもあった。すなわち、大正五年前後には、前記明治作家の代表作が相次ぎ、七年前後には、大正作家の代表作が、一と通り出揃うことになるのである。  大正作家の早熟性は、明治作家と区別される特色とみることができる。さまざまの個性の、思い思いの好みと解釈に基づく自己主張によって展開された大正文学は、たちまち、それなりの成熟をもたらしたのであるが、全体として、明治自然主義に対する反抗に促されたものであった。だが、かれらの、思い思いの試みが容易に達成されたのは、自然主義の苦闘によって、旧時代の習俗から自己を解放することができたからである。もう一つは、明治文学における、幾多の摸索によって見出された、近代小説の、さまざまの手法が、一応かれらの身についていたことも見のがすわけにはいかない。思い思いの好みと解釈とを身についた手法にもりこむとき、ここに短篇全盛時代の現出したのも偶然ではない。そして、海のかなたの世界大戦は、わが国に未曽有の好景気をもたらし、かれらの文学の早熟にふさわしい平穏な一時期を用意したのであった。  後期になれば、戦争の災禍と影響は、たちまち表面化し、シベリヤ出兵、米騒動、ストライキによる社会不安は深まる一方であった。大正文学の主流は、「白樺」から、「新思潮」系統と、その周辺の作家群に移行するのであるが、早くも行きづまり、社会を拒絶した心境小説に逃避して、プロレタリア文学と新感覚派に結集された次期文学の挑戦に直面しなければならなかった。その意味で、大正十二年の関東大震災以後は、大正文学の萎縮と、昭和文学の発足とのはげしい過渡期とみるべきであろう。  かくて、あわただしく過ぎ去った大正期の文学は、芥川竜之介の自殺に象徴される終焉を迎えることになる。芥川竜之介こそは、日本の伝統文学と明治以来の舶来文学の蓄積とをことごとくとり入れ、換骨奪胎して、近代の感覚と解釈をちりばめ、あらゆる手法と形式を通じて、知的な操作と構成による豊富な短篇小説を提供した。しかも、ついには自分の文学に対する疑問と不安からのがれることができなかったのである。 第一章 大正前期 (明治四十三年——大正七年) 第一節 二つの事件  明治四十三年(一九一〇年)五月十九日、ハレー彗《すい》星《せい》が地球と衝突して、人類最後の日になるだろうとの、アメリカ天文学者の予言に、誰も彼もおびえた目を空に放っていた。日本は、この日晴れわたり、刻々の緊張のうちに暮れて行った。だが、その不吉な不安の消え去った二週間後に、すべての日本人を恐怖と不安のなかに投げこんだ奇怪な事件がおこったのである。六月二日、幸徳秋水が滞在先の湯河原の旅館で捕えられたのをはじめ、次々に社会主義者の一団が拘引された。三日にいたって、記事解禁となったものの、新聞は、「過激党全滅の大検挙」(東京朝日新聞)、「戦慄すべき大陰謀」(東京日日新聞)、「虚無党の陰謀、咄々怪事件」(読売新聞)などと書きたてるだけで、具体的な内容については知らされなかった。いわゆる大逆事件(天皇暗殺被疑事件)の発端であった。桂内閣は、「一人の無政府主義者もゐないことを世界に誇るやうになるまで、あくまでその撲滅を期する方針である」と言明し、東京、大阪、紀州、熊本をはじめ、全国にわたって数百名の社会主義者が捕えられた。  裁判は、公開禁止のまま、年末に結審となり、翌四十四年一月、二十六人の被告中、有期刑二人をのぞく二十四人が死刑の判決をうけた。(うち十二人は、翌日無期に減刑された。)弁護人のひとり、今村力三郎は、「幸徳事件の回顧」のなかで、こう書いている。「私は今に至るもこの二十四名の被告人中には、多数の寃罪者がふくまれていたと信じています。天下の耳目を聳動したあれ程の大事件に、弁護人の申請した証人は残らず却下して全被告を死刑に処したのですから、裁判所は予断をいだき、公判は訴訟手続上の形式に過ぎなかったと、私は考えていました。厳刑酷罪をもって皇室に忠なるものとする固《こ》陋《ろう》な裁判官には、弁護人の弁論なぞ耳に入らないのであります。」——その「固陋な裁判官」にして、なおかつ、判決文のなかで、事件の原因は、社会主義者に対する政府の苛酷な迫害弾圧への反撥によるものと断じ、その近因として、明治四十一年のいわゆる赤旗事件《*》に対する官憲の不当な圧迫を指摘している。 * 六月二十六日、山口孤剣の出獄歓迎会に集った社会主義者たちが、無政府共産と大書した赤旗をひるがえし、革命歌を高唱して街頭に進出、旗を奪おうとして殺到した警官隊と格闘、大杉栄、荒畑寒村はじめ、婦人同志数名をもふくめた十名あまりが逮捕され、調停につとめた堺利彦、山川均も連累、各々一年ないし二年の刑に処せられた。  赤旗事件の直後と思われる時期に、元老山県有朋は天皇に謁して、社会主義者に対する西園寺内閣の取締がゆるやかにすぎる旨を上奏している事実がある。西園寺のリベラルな立場を反映したかと見られる同内閣の取締方針一般に、山県はかねて強い不満を抱いていた。山県の上奏は天皇を動かし、天皇は徳大寺侍従長を通じて、取締を厳重にするよう政府に伝えるところがあった。内相原敬は、天皇に謁し、社会主義対策は、教育、社会改良、取締の三者相まってはじめて効果をあげうることを奏上して、天皇の諒解を求めた。原敬は、その日記のなかで、「山県の陰険なる事今更驚くにも足らざれども、畢竟現内閣を動かさんと欲して成功せざるに煩悶し、此奸手段に出たるならん」としるしている。いずれにせよ、赤旗事件が、西園寺内閣の倒壊と、桂内閣の出現の原因の一つであったことは疑えない。  幸徳事件の秘密裁判を、当時の社会がどう受けとったかについて、石川木は、「A LETTER FROM PRISON EDITOR'S NOTE」で、考察を下している。結局、一般大衆は無論のこと、警察官、裁判官、新聞記者、国会議員、ひとりとして、社会主義と無政府主義との区別すら知らず、事件の性質を理解することができなかった。木が、「某処に於いてひそかに読むを得た」予審決定書にさえ、無知は露骨に現れていた。社会主義には、硬軟二派があり、硬派はすなわち暴力主義、暗殺主義だというのである。木は、次のようにつづけている。  「幸徳が此処に無政府主義と暗殺主義とを混同する誤解に対して極力弁明したといふことは、極めて意味あることである。蓋《けだ》しかの二十六名の被告中に四名の一致したテロリスト、及びそれとは直接の連絡なしに働かうとした一名の含まれてゐたことは事実である。後者は即ち主として皇太子暗殺を企ててゐたもので、此事件の発覚以前から不敬事件、秘密出版事件、爆発物取締規則違反事件で入獄してゐた内山愚童、前者即ちこの事件の真の骨子たる天皇暗殺企画者は、管野すが、宮下太吉、新村忠雄、古河力作であつた。幸徳はこれらの企画を早くから知つてゐたけれど、嘗て一度も賛成の意を表したことなく、指揮したことなく、ただ放任して置いた。これ蓋し彼の地位として当然のことであつた。さうして幸徳及他の被告(有期懲役に処せられたる新田融、新村善兵衛の二人及奥宮健之を除く)の罪案は、ただこの陳弁書の後の章に明白に書いてある通りの一時的東京占領の計画をしたといふだけの事で、しかもそれが単に話し合つただけ——意志の発動だけにとどまつて、未だ予備行為に入つてゐないから、厳正の裁判では無論無罪になるべき性質のものであつたに拘らず、政府及びその命を受けたる裁判官は、極力以上相連絡なき三箇の罪案を打つて一丸となし、以て国内に於ける無政府主義を一挙に撲滅するの機会を作らんと努力し、しかして遂に無法にもそれに成功したのである。予はこの事をこの事件に関する一切の智識(一件書類の秘密閲読及び弁護人の一人より聞きたる公判の経過等より得たる)から判断して正確であると信じてゐる。されば幸徳は、主義のためにも、多数青年被告及び自己のためにも、又歴史の正確を期するためにも、必ずこの弁明をなさねばならなかつたのである。」  幸徳事件とその裁判について、これだけ正確な情報に通じていたものは、特定のもののほかにはなかったはずである。それというのも、木が新聞記者であったこと、前記今村力三郎とともに弁護人のひとりである平出修と親交のあったことをぬきにして考えることはできない。木が予審決定書を読むことのできたのは、平出修のはからいによるものであった。平出修は、『スバル』の同人であるとともに出資者であり、木とならんで、そこへ短歌、詩、評論を発表していた。後には、幸徳裁判に取材した「逆徒」「計画」などのすぐれた小説も書いている。かれは、『スバル』の関係を通じて森鴎外から教えられた、ヨーロッパにおける無政府主義の歴史についての知識をたよりに、幸徳裁判の弁護に当っていたのであった。  幸徳事件が当時及びその後の日本文学に、どのように反映しているかは、「日本プロレタリア文学大系」序巻の、平野謙の解説にくわしい。これは、神崎清をはじめ、多くの人たちの努力によって、主として戦後明らかにされたものである。そこには、鴎外の「沈黙の塔」「食堂」その他、木の「時代閉塞の現状」、永井荷風の「花火」、木下杢太郎の「和泉屋染物店」など周知のもののほか、徳富蘆花の「謀叛論」、三宅雪嶺の「四恩論」、木下尚江の「神・人間・自由」、木の「日本無政府主義者陰謀事件及び付帯現象」「墓碑銘」、前記平出修の「逆徒」「計画」「畜生道」、与謝野鉄幹の「誠之助の死」、佐藤春夫の「やまひ」、荷風の「柳散窓夕栄」、正宗白鳥の「危険人物」、沖野岩三郎の「宿命」、秋田雨雀の「第一の暁」「森林の犠牲」、武藤直治の「甦らぬ朝」、池享吉の「雁の祟」、尾崎士郎の「獄中より」「獄中の暗影」「伝説」「蜜柑の皮」、武者小路実篤の「桃色の部屋」、田山花袋の「トコヨゴヨミ」「残雪」、里見の「雪の夜話」、小林多喜二の「東倶知安行」が挙げられている。以上によっても、幸徳事件が文学者に及ぼした影響の一斑を知ることができる。  わけても、死刑に反対して、桂首相に手紙をおくり、天皇にあてた助命嘆願の公開状を朝日新聞社へ寄せた徳富蘆花は、死刑執行を知って憤激し、二月一日、一高の校友会に招かれて、「謀叛論」と題する講演を行ったが、ために校長新《に》渡《と》戸《べ》稲《いな》造《ぞう》が譴《けん》責《せき》処分をうけるようなさわぎをおこしている。「謀叛論」の草稿は、幸徳事件裁判の暴挙を攻撃して、ただならぬ勇気を示したものであった。「富の分配の不平等に社会の欠陥を見て、生産機関の公有を主張した、社会主義が何が恐い? 世界の何処にでもある。然るに狭量にして神経質なる××は、ひどく気にさへ出して、殊に社会主義者が日露戦争に非戦論を唱へると俄に圧迫を強くし、足尾騒動から赤旗事件となつて、官権と社会主義者は到頭犬猿の間となつて了つた。」と言い、以下のようにつづけている。「せめて××になつたら一滴の涙位は持つても宜いではない乎。それにあの執念な追窮のしざまは如何だ。××の引取り、会葬者の数にも干渉する。秘密、秘密、何もかも一切秘密に押込めて、××の解剖すら大学ではさせぬ。出来ることならさぞ××の霊魂も殺して了ひたかつたであらう。否、××等の体を殺して無政府主義者を殺し得た積りでゐる。……××等は死ぬる所か活溌々地に活きてゐる。現に武蔵野の片隅に寝てゐた斯くいふ僕を曳きずつて来て、此処に永生不滅の証拠を見せてゐる。……何十万の陸軍、何万噸《トン》の海軍、幾万の警察力を擁する堂々たる明治政府を以てしても、数ふる程もない、加之《しかも》手も足も出ぬ者共に対する怖《おび》え様も甚しいではない乎。……」  キリスト教を信奉し、トルストイを尊敬する蘆花が、秘密裁判による集団死刑に対する憤りを投げつけたのであって、彼らの思想なり実行なりに共感したからではなかった。  木は、蘆花とは根本においてちがっていた。幸徳らに死刑の宣告された一月十八日の日記に、「今日程予の頭の昂奮してゐた日はなかつた。さうして今日程昂奮の後の疲労を感じた日はなかつた。……日本はダメだ、そんな事を漠然と考へ乍ら丸谷君を訪ねて十時頃まで話した。夕刊の新聞には幸徳が法廷で微笑した顔を、悪魔の顔とかいてあつた」としるした木は、幸徳事件の衝撃について、ある手紙のなかで、こう書いている。  「……現在の社会組織、経済組織、家族制度……それらをその儘にしておいて、自分だけ一人合理的生活を建設しようといふことは、実践の結果、遂に失敗に終らざるを得ませんでした。その時から私は、一人で知らず知らずの間に Social Revolutionist となり、色々の事に対してひそかに socialistic な考へ方をするやうになつてゐました。丁度そこへ伝へられたのが、今度の大事件の発覚でした。恐らく最も驚いたのは、かの頑迷なる武士道論者でなくして、実にこの私だつたでせう。私はその時、彼等の信条についても、又その Anarchism, Communism と普通所《いは》謂《ゆる》 Socialism との区別などもさつぱり知りませんでしたが、兎も角も前言つたやうな傾向にあつた私、小さい時から革命とか暴動とか反抗とかいふことに一種の憧憬を持つてゐた私にとつては、それが丁度、知らず知らず自分の歩み込んだ一本路の前方に於て先に歩いてゐた人達が突然火の中へ飛び込んだのを遠くから目撃したやうな気持でした……」  もっとも、明治四十二年十一月、「きれぎれに心に浮んだ感じと回想」のなかで、彼はすでに次のように書いているのである。  「長谷川天渓氏は、嘗て其の自然主義の立場から“国家”といふ問題を取扱つた時——一見無雑作に見える苦しい胡麻化しを試みた。(と私は信ずる。)謂ふ如く、自然主義は何の理想も解決も要求せず、在るが儘を在るが儘に見るが故に、秋毫も国家の存在と牴触する事がないのならば、其所謂旧道徳の虚偽に対して戦つた勇敢な戦も、遂に同じ理由から名の無い戦になりはしないか。従来及び現在の世界を観察するに当つて、道徳の性質及び発達を国家といふ組織から分離して考へる事は、極めて明白な誤謬である。——寧ろ、日本人に最も特有なる卑怯である。国家! 国家! 国家といふ問題は、今の一部の人達の考へてゐるやうに、そんな軽い問題であらうか? 啻《ただ》に国家といふ問題許りではない。)  昨日迄、私もその人達と同じやうな考へ方をしてゐた。今、私にとつては、国家に就いて考へる事は、同時に、日本に居るべきか、去るべきか、といふ事を考へる事になつて来た。凡ての人はもつと突込んで考へなければならぬ。又、従来の国家思想に不満足な人も、其不満足な理由に就いて、もつと突込まなければならぬ。私は凡ての人が私と同じ考へに到達せねばならぬとは思はぬ。永井氏は巴里に去るべきである。然し私自身は、此頃初めて以前と今との徳富蘇峯氏に或聯絡を発見する事が出来るやうになつた。」  現在の社会組織、経済組織、家族制度をそのままにしておいて、個人の合理的生活を建設することの不可能なこと、道徳の性質や発達を国家の組織から分離して考えることの誤りであること、幸徳事件の勃発によって、それらの道すじが、いよいよはっきりしてきたこと、——木にとって、問題はそこにあった。「自分の歩み込んだ一本路の前方に於て先に歩いてゐた人達が突然火の中へ飛び込んだのを遠くから目撃したやうな気持」が、そこに基づいていることは明らかである。文学者で、幸徳事件をこのように受けとったものは木のほかにはなかった。  引用した木の言葉の最後に、「永井氏は巴里に去るべきである」というのがある。永井氏とは、無論荷風を指している。荷風がパリから帰ってきたのは、四十一年であるが、大逆事件に触発され、自分の文学者としての態度決定を述べた、随筆「花火」のなかの言葉は、あまりにも有名であるが、あえて引用すれば、  「明治四十四年、慶応義塾に通勤する頃、わたしはその道すがら折々四谷の通りで囚人馬車が五六台も引続いて日比谷の裁判所の方へ走つて行くのを見た。わたしはこれ迄見聞した世上の事件の中で、この折程云ふに云はれない厭な心持のした事はなかつた。わたしは文学者たる以上、この思想問題について黙してゐてはならない。小説家ゾラはドレフュース事件について正義を叫んだ為め国外に亡命したではないか。然しわたしは世の文学者と共に何も云はなかつた。私は何となく良心の苦痛に堪へられぬやうな気がした。わたしは自ら文学者たる事について甚しき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸作者のなした程度まで引下げるに如《し》くはないと思案した。その頃からわたしは煙草入をさげ、浮世絵を集め、三味線をひきはじめた。わたしは江戸末代の戯作者や浮世絵師が、浦賀へ黒船が来ようが、桜田御門で大老が暗殺されようがそんな事は下民の与《あづか》り知つた事ではない。——否とかく申すのは却つて畏《おそれ》多《おほ》い事だと、すまして春本や春画をかいてゐた其瞬間の胸中をば呆れるよりは寧ろ尊敬しようと思つたのである。」  ここには、文学者の責任において、日本国家の組織・性格と、人間性ないし道徳の問題が問われているのであって、このような国家のもとでは、近代の作者たることを断念して、戯作者に韜《とう》晦《かい》するほかない決意を述べているわけである。もっとも、江戸情調のなかに生いたち、若い日に、夢之助と名のって、寄席の落語の前座をつとめたことがあり、四十二年十二月には、「すみだ川」のような作を発表している荷風であってみれば、この決意の悲愴さも額面どおり受けとるわけにはいかないかもしれない。それはそれとして、荷風の「新帰朝者日記」を評して、「あの作には永く東京にゐて金を使つた田舎の小都会の金持の息子が、故郷へ帰つて来て、何もせずにぶらぶらしてゐながら、土地の芸者の野暮な事、土臭い事を、いや味たつぷりな口吻で逢ふ人毎に説いてゐるやうな趣きがある」と言っている木が、「永井氏は巴里へ去るべきである」と断じているところに、荷風と木のちがいが、はっきり示されている。  鴎外もまた鴎外なりに、この事件に対処したことについては、周知のとおりである。  明治四十五年(一九一二年)一月の「かのやうに」以下、「吃逆」「藤棚」「鎚《つち》一《いつ》下《か》」などの共通の主人公、五条秀麿は、大逆事件以来の、いわゆる危険思想に対する鴎外なりの苦慮の生み出した人物とみていいだろう。  「かのやうに」で、鴎外は五条秀麿をして次のような感想を披瀝させている。  「生類は進化するかのやうにしか考へられない。僕は人間の前途に光明を見て進んで行く。祖先の霊があるかのやうに背後を顧みて、祖先崇拝をして、義務があるかのやうに、徳義の道を踏んで、前途に光明を見て進んで行く。さうして見れば、僕は事実上極《ごく》蒙《もう》昧《まい》な、極従順な、山の中の百姓と、なんの択ぶ所もない。只頭がぼんやりしてゐない丈だ。極頑固な、極篤実な、敬神家や道学先生と、なんの択ぶ所もない。只頭がごつごつしてゐない丈だ。ねえ、君、この位安全な、危険でない思想はないぢやないか。神が事実でない。義務が事実でない。これはどうしても今日になつて認めずにはゐられないが、それを認めたのを手柄にして、神を涜《けが》す。義務を蹂《じう》躪《りん》する。そこに危険は始て生じる。行為は勿論、思想まで、さう云ふ危険な事は十分撲滅しようとするが好い。併しそんな奴の出て来たのを見て、天国を信ずる昔に戻さう、地球が動かずにゐて、太陽が巡回してゐると思ふ昔に戻さうとしたつて、それは不可能だ。さうするには大学も何も潰してしまつて、世間をくら闇にしなくてはならない。黔《けん》首《しゆ》を愚にしなくてはならない。それは不可能だ。どうしても、かのやうにを尊敬する、僕の立場より外に、立場はない。」  この小説は、結局のところ、このことを言いたかったのではないだろうか。そのために、五条秀麿という、輪廓だけの人物を利用したのではないかと思われるような、空疎な作というほかない。そして、これは明かに、大逆事件によって、いよいよ強化された「危険思想」弾圧一点ばりの対応策の賢明ならざることを知りぬいていた鴎外が、鴎外なりにたどりついた態度決定を表明するものだったのである。  これは、「藤棚」に、そのまま、つづいている。ここでは、父の五条子爵に対して、「今更のやうに父と自分との間に、時代の懸隔のあることを想はせられ」るような秀麿が登場する。彼の感想というのはこうである。——「……どうかすると信教の自由などと云ふものの無かつた時代に後戻をしたやうに、自分の迷信までも人に強ひようとする。それを聴かないものに、片端から乱臣賊子の極印を打つ。これも矢張毒に対する恐怖に支配せられてゐるのである。幸な事には、さう云ふ運動は一時頭を擡げても、大した勢力を得ずにしまふから好いが、若しそれが地盤を作つてしまふと、気の利いたものは面従腹誹の人になる。人に偽を教へるのである。人を毒するのである。毒に対する恐怖が却つて毒を醸し出すことになる。秀麿はかう考へながら、それを父に打ち明けることが出来ない。打ち開けて、父がどこまで飲み込んでくれるか覚《おぼ》束《つか》なくて、いつものやうに口を噤《つぐ》んでしまふのである。」  「藤棚」の発表されたのは、大正元年(一九一二年)九月の『太陽』であった。鴎外にとって、明治期の最後の作であった。鴎外は、このとき、軍医総監、陸軍省医務局長、仮名遣調査委員会委員であり、五十一歳であった。その鴎外が、父の五条子爵との間に、「時代の懸隔」を覚えずにはいられぬ、青年秀麿に自分をなぞらえているのである。自分の迷信を人に強制し、聴き入れなければ、片端から乱臣賊子の刻印を打つようなやりかたが、無益なばかりか、有害であることを説得してみても、納得できる父でないと考えて、口をつぐんでしまう秀麿に。ここで、われわれはたとえば大逆事件を、秘密裁判を通じて、あのような事件に仕立てた、絶対主義権力の実質的な背景である山県有朋と特別な接触を保っていた鴎外が、同時に、大逆事件の弁護人平出修に、ヨーロッパの無政府主義の歴史について教示した鴎外でもあることを思いうかべるとしても、きわめて自然であろう。「どこまで飲み込んでくれるか覚束ない」父を、ほかならぬ山県有朋におきかえるような読みかたを、拒むわけにはいかないだろう。「妄想」の主人公に、「自分は一切の折衷主義に同情を有せないので……」と語らせてはいるが、「藤棚」一篇には、大逆事件に触発されて態度決定を迫られた偉大な折衷主義者鴎外の面目が傷々しいまでに表明されているのである。父との間に、「時代の懸隔」を感ぜざるをえない秀麿が、以下のような感想を披瀝せざるをえなかったのは、これまた自然といわなければなるまい。——「……自由だの解放だのと云ふものは、皆現代人が在来の秩序を破らうとする意嚮の名である。そしてこれを新しい道徳だと云つてゐる。併し秩序は道徳を外に表現してゐるもので道徳自身ではない。……秩序があつてこそ、社会は種々の不利な破壊力に抵抗して行くことが出来る。秩序を無用の抑圧だとして、無制限の自由で人生の諧調が成り立つと思つてゐる人達は、人間の欲望の力を侮つてゐるのではあるまいか。若し秩序を破り、重みをなくしてしまつたら、存外人生の諧調の反対が現れて来はすまいか。人は天使でも獣でもない。Le《ラ》 malheur《マリヨオル》 veut《ヴヨオ》 que《ク》 qui《キイ》 veut《ヴヨオ》 faire《フエエル》 l'ange《ランジエ》 fait《フエエ》 la《ラ》 b?te《ベエト》 である。さう云ふ人達は秩序を破つて、新しい道徳を得ようとしてゐるが、義務と克己となしに、道徳が成り立つだらうか。よしや欲望と欲望との均斉を纔《わづ》かに保つことを得るとしても、それで人生の能事が畢《をは》るだらうか。人生にそれ以上の要求はないだらうか。只官能の受用を得る丈が人生の極致であらうか。……」  「危険思想」への鴎外なりの対抗が、この程度のものであったことを知る必要がある。これだけのことを語るために、小説「藤棚」を仕組んだのであった。すくなくとも、そう考えるしかないほど、みすぼらしい作といわなければならない。それだけに、鴎外は時代の新たな転換に対し、躍起となって、身を乗り出してきていることがわかる。なお、ここに提出されている「欲望」と「克己」との問題は、「高瀬舟」(大正五年一月)の喜助として血肉化されるのであるが、これは五条秀麿のような木《で》偶《く》ではない。なぜであろうか。鴎外の歴史小説について考える段どりになったが、その前に、別の方面に目を転じなければならない。  以上は大逆事件の文学的反応を、蘆花、木、荷風、鴎外について見てきたのであるが、当時の主流、自然主義はどうだったろうか。  前年の明治四十二年から、この年にかけて、自然主義は最盛期に入っていた。島崎藤村の「家」(明治四十三年一月)、田山花袋の「妻」(四十二年十月)、「田舎教師」(同)、「縁」(四十三年三月)、徳田秋声の「足迹」(同年八月)、正宗白鳥の「白鳥集」(四十二年五月)、「落日」(同年九月)、「微光」(四十三年十月)、岩野泡鳴の「耽溺」(四十二年二月)、「放浪」(四十三年七月)、近松秋江の「別れた妻に送る手紙」(同年四月)——このように見てくれば、それぞれの作家の代表作ともいうべきものが、ほぼ出そろったということができる。同時に、文学運動としての自然主義は、早くも行きづまりに直面して、打開の方向を摸索しつつあった。それは、わけても評論の上に、はっきり現れている。  島村抱月をはじめ、片上天弦(伸)、相馬御風、長谷川天渓にしろ、さては岩野泡鳴にしても、これら自然主義の代表的理論家たちの主張は、最初から自然主義とはちがったものであった。浪漫主義の内容を自然主義の手法ですくいあげようという、奇怪な摸索の試みであったとみるのが正しい。わが国の浪漫主義が、北村透谷に発したままで、たち消えになってしまった事情を考えるならば、自我の確立などは夢にすぎず、まして自然科学の強圧による自我の否定などという、ヨーロッパ自然主義の中心問題は、もともとかれらの関心と理解を越えたものであった。自然主義の名において、浪漫主義が燻《くすぶ》りつづけなければならなかったゆえんである。わが国の自然主義文学者が、作家たると理論家たるとを問わず、自然主義を手法としてしか受けいれることをしなかった理由はここにある。自我を生かそうとする浪漫主義の内容と、自我を否定しようとする自然主義の手法との奇妙な結合、ここにわが国の自然主義の特色があったのである。四十三年になると、片上天弦のごときは、こんなことさえ言い出している。  「自然主義が人生の物質的方面を重視することは勿論だが、文芸の上では、一層深い、一層切実な人生の真味を求めて、焦燥煩悶する徹底的精神が、たまたまその方面に発露したものであることは云ふまでもあるまい。この意味に於いて、文芸上の自然主義は、飽くまでもロマンティシズムの大潮流の連続である。自然主義以後ヨーロッパに発展してきた、ネオ・ロマンティシズムは無論である。自然主義の根柢に横溢する、このロマンティックの精神を閑却して自然主義の文学はない。」(「今日の感想」四十三年二月)  安倍能成が、直ちに次のような疑問を提出したのは当然であった。  「自分の氏に問ひたいのは自然主義の本領は果して物質的自然的の方面にあるか、若しくはロマンチックの方面にあるか、若しロマンチックの方面を以て自然主義の本領とするならば、自然主義は浪漫主義と改名する方がよい。然し氏が自然主義の物質的方面を重視するのは勿論だといつて居られるのを見れば、物質的方面も自然主義の本領であるらしい。然らば物質的方面とロマンチックの方面とを兼ね合せた主義が、自然主義であるか。かくては、自然主義の特色本領が何処にあるか分らなくなる。」(「自然主義に於ける浪漫的傾向」四十三年二月)  安倍能成の疑問は、『早稲田文学』が、四十二年の代表作として、「歓楽」の作者、永井荷風に推讃の辞を贈ったことについての、阿部次郎の批判と軌を一にしている。「自ら知らざる自然主義者」(四十三年二月)によれば、自然主義の立場から永井荷風を推讃するなどということは、自然主義を、現代主義または最広義の浪漫主義と同義語にしなければ、つまり自然主義の特殊の意味を抹殺してしまわないかぎり、できるはずがないというのである。  「自然主義の根柢に横溢する、このロマンティックの精神」などというものをもち出してきた片上天弦が、三年前の「無解決の文学」(四十年九月)では、自然主義の中心生命は所詮事象そのものであり、これは習俗道徳からの判断によっては、解決することのできない人生根本の疑惑、恐怖、痛苦にほかならないことを論じていたのである。この主張は、「未解決の人生と自然主義」(四十一年二月)にいたって、次のように展開された。  「現在の哲学も宗教も生の痛苦悲哀、死の絶望恐怖に対して、何等の解決を与へ得ずと思ふ時、窮極我等は絶望して狂となるか、一転してそこに向上の勇気を起し来るか。恐らくこの二途の外はなからう。狂するものゝ心も哀しけれど、狂し得ざるものゝ心は更に惨《いたま》しい。狂するものも、狂せざるものも、現実生活の苦悶に没頭して、如何にかしてこれを脱せんとする心は一つである。近代の文学は、かくの如き文学である。今の我が文壇の自然主義も所詮かくの如き苦悶を痛切に表白せんとする要求に基いてゐる。」  もはや、自然主義の内容が、生の痛苦悲哀、死の絶望恐怖というような特殊な感情に限定されている。このような主観主義への接近は、自然主義の指導的理論家とみられていた島村抱月をしてさえ、「序に代へて人生観上の自然主義を論ず」(「近代文芸之研究」序・四十二年六月)という著名な論文の結びで、次のように言わしめるにいたった。  「されば現下の私は一定の人生観を立てるに堪へない。今はむしろ疑惑不定の有のままを懺悔するに適してゐる。……虚偽を去り、驕飾を忘れて、痛切に自家の現状を見よ、見て而して之れを真摯に告白せよ。此の以上適当な題言は今の世に無いのではないか。此の意味では今は懺悔の時代である。……斯くの如くして、所謂人生観上の自然主義も私には疑ひの一面たるに過ぎない。」  つづいて、「懐疑と告白」(四十二年九月)では、「何《いく》ら考へても、今日の自分等が真に人間問題を取り扱ひ得る程度は、懐疑と告白の外に無いと思ふ。」と言い、「今の私にとつては、宗教でも哲学でも生きた血の通つてゐるのは其の懐疑の方面ばかりだと思ふ」と述べている。かれらにとって、現実とは、痛苦、悲哀、絶望、懐疑などの主観的情緒にほかならないものになったのである。  ここに、再び安倍能成の批判がある。「自然主義に於ける主観の位置」(四十三年五月)での安倍能成の意見である。天弦がいかに強弁しようと、その所説には、明らかに自然主義的人生観一点ばりでは、とうてい満足できないことを表明している。自然主義的人生観においては、心霊方面の生活が無視されるに堪えない。かれらはこの方面から人生の新しい価値を感得したいと望んでいるのである。もしわれわれが自然主義的に徹底しようとするならば、あくまでも自然主義的人生観にしたがって、世界と人生の機械的なるを認め、無解決なるを認め、意志の自由を否定し、一切の価値判断を撤して、自然力の跳梁に一身をゆだねなければなるまい、というのがその論旨である。そして、天弦こそは、自然主義的思想に不満足でありながら、自然主義の名に執着するものと断じている。だが、このことは、抱月、御風、泡鳴についても同様であろう。  安倍能成や阿部次郎と同じ仲間に属しながら、自然主義の理論的矛盾にもかかわらず、これを積極的に肯定しようとしたものに、魚住折蘆がある。「自然主義は窮せしや」(四十三年六月)で、自然主義が早くも窮したかのごとき見かたに反対し、「社会の実力としての自然主義の存在の理由」を認めざるをえないと言っている。  魚住によれば、自然主義は、現代の科学的唯物的現実的思潮の産物であることはいうまでもなく、したがって、自然主義将来の運命は、これら現代思潮の生命の長さにかかっている。いわゆる現代思潮は、その内容の複雑さにかかわらず、一言でつくせば、客観が主観を抑圧もしくは征服した思潮である。現代のどこに若々しい主観のすがたが見られようぞ。客観主義は科学の精神で、唯物論はその帰結である。自然主義は積極的にこの客観主義を奉じ、人間の動物性を誇示すると同時に、消極的に、この動物生活のわびしさ、味気なさに対する倦怠の情を表白することによって、複雑化されている。現代は憐むべき世紀である。精神の昂揚を許さず、天才の出現しえざる時代である。かくて、自然主義の背景は甚だ堅固といわざるをえない、というのである。  明らかに矛盾としか考えられない自然主義と自己主張との関係、この奇怪な矛盾的結合をも、魚住は、むしろ積極的に肯定しようとする立場を明らかにしている。「自己主張の思想としての自然主義」(四十三年八月)で、矛盾する二つの思想の結合は、「オーソリティといふ共同の敵」に対抗するためだというのである。  わが国の自然主義が、自己拡充精神の一つの現れであり、それゆえに悲哀絶望に変質するという事情も出てくるのであって、この矛盾を見ぬいていたのは、安倍能成や阿部次郎だけではない。桑木厳翼がそうであり、田中王堂がそうであった。だが、かれらは矛盾を矛盾として指摘したにとどまるが、魚住はこの奇妙な矛盾的結合に、木の言葉を借りれば、「今日における我々日本の青年の思索的生活の半面」を明瞭に指摘しているわけである。「婬靡な歌や、絶望的な疲労を描いた小説を生み出した社会は結構な社会でないに違ひない。けれども此の歌、此の小説によつて、自己拡充の結果を発表し、或は反撥的にオーソリティに戦ひを挑《いど》んで居る青年の血気は自分の深く頼《たの》母《も》しとする処である」という暗示的な言葉で、魚住はこの一文を結んでいる。  魚住の主張の不備を指摘し、この問題を魚住の望んでいる方向に発展させることによって、自然主義に決定的な批判を加えたのが、木の「時代閉塞の現状」(四十三年八月)であった。  自然主義は、すでに五年間にわたって、間断なき論争をつづけて来たにもかかわらず、いまなお一般的な定義さえ与えられずにいる。そして、これらの混乱のなかにあって、われわれの多くはその心内において、自己分裂の悲劇に際会している。自己主張的傾向が、数年前われわれが新しい思索的生活をはじめた当初からして、それと矛盾する科学的、運命論的、自己否定的傾向と結合していたことは事実である。しかし、近来観照と実行との分裂によって、両者の溝は決定的となった。この意味で、魚住の指摘は、時機をえたものではあるが、重大な誤りがふくまれている。国家すなわちオーソリティという共同の敵に対抗するために、両者が奇怪な結合をしているという説は、誤謬というよりは虚偽である。なぜなら、日本の青年は、かつて強権に反抗したことはないからである。以上が木の魚住説に対する批判であった。  つづいて、木は、自然主義の内部的な矛盾と混乱について論じている。われわれは、正宗白鳥対島崎藤村、岩野泡鳴対島村抱月のように、人生に対する態度までが全く相違している事実を、いかに理解すればよいのであるか。現実暴露、無解決、平面描写などの言葉に現された科学的、運命論的、静止的、自己否定的の内容が、その後ようやく第一義とか、人生批評とか、主観の権威とか、自然主義中の浪漫分子とかいう言葉によって現される活動的、自己主張的の内容に変って来たことや、荷風が自然主義者によって推讃の辞を贈られたことや、これらをどういう手つづきによって承認すればいいのであろうか。たがいに矛盾するものが、混乱のままで、自然主義という一つの名のもとに結合しているのは、魚住の説とは逆に、両者とも敵をもたなかったことに起因している。一方は敵をもつ性質のものでなく、他方はもつべき敵をもたなかった。そこへ、観照と実行の問題が出てきて、この結合はまったく内部的に断絶してしまった。以上が、自然主義に即しつつ、青年の思索生活について行われた木の内面分析である。そして、次のようにつづけている。  「斯くて今や我々には、自己主張の強烈な欲求が残つてゐるのみである。自然主義発生当時と同じく、今猶理想を失ひ、方向を失ひ、出口を失つた状態に於て、長い間鬱積して来た其自身の力を独りで持余してゐるのである。既に断絶してゐる純粋自然主義との結合を今猶意識しかねてゐる事や、其他すべて今日の我々青年が有つてゐる内訌的、自滅的傾向は、この理想喪失の悲しむべき状態を極めて明瞭に語つてゐる。——さうしてこれは実に時代閉塞の結果なのである。」  木の自然主義批判は、いままでの誰もが試みなかった特色を示している。単なる賛成論でもなく、反対論でもない。理論的な矛盾の指摘でもない。自然主義という強烈な、混乱した思潮のなかにあって、苦しみつつある青年の思索生活にじかにふれながら、当時の日本社会の全体のなかで、その悩みを解決する方向を見出すことによって、自然主義の内的混乱を見事に分析した、決定的、根柢的な批判であった。  すでに見てきたように、自然主義は、あらゆる理論的弱点にもかかわらず、その熱烈な主張には、文壇ばかりか、社会をも衝撃せずにはおかないものがあった。理論的には支離滅裂というほかなかった長谷川天渓などの主張に、かえって多くのひとが、共鳴や同感を覚えさせられたのであった。たとえば正宗白鳥が、「自然主義盛衰史」のなかで、「長谷川天渓の自然主義論は、旧套を打破して人生の真実を見詰めんとする意気盛んで、当時の評論中で異彩を放つてゐた」と回顧しているほどである。島村抱月にしても、田中王堂をして、「もともと統一の乏しくて矛盾の多き、雑《ざつ》駁《ぱく》にして粗《そ》笨《ほん》なる自然主義の主張を網羅して、彼れまでに調和と統一とを立てようとしたには非常な苦心が要つたことと思ふ」と言わしめただけあって、苦心して、理論的な体系を案出したりしたが、「序に代へて人生観上の自然主義を論ず」や「懐疑と告白」などになると、前記のごとく直接告白調がまじってきて、しかもそれが整然たる理論よりも、かえって読者の心に訴えかけたのであった。理論になろうと、なるまいと、そういう告白ふうの訴えに、直ちに呼応するような時代的苦悩が、当時の青年たちの胸底に鬱積していたからである。理論などどんなに支離滅裂であろうと、現実暴露とか、幻滅とか、事象を事象として見るとかいう、かけ声だけで充分だったのである。「要するに自然主義の強味は、その理論的根拠にあるのではない。……その強味は主として今の人の現実感にある。その価値は問はざれ、その美醜は論ぜざれ、その善悪は分たざれ、兎にも角にもこれが人間現在の実状ではないか、現実ではないかといふのが、自然主義の振り回す鉄棒であつた。しかもこの鉄棒の打撃力の強いことは、いかにも認めざるを得ない」(「自己の問題として見たる自然主義思想」)という安倍能成の言葉は、この消息を語るものであろう。なお、「自然主義盛衰史」のなかの、白鳥の次の言葉などは、いっそう当時の雰囲気を髣髴たらしめるものがある。  「『破戒』の出た頃から、誰れ云ふとなく自然主義の名が文壇に現はれだした。いつ誰が最初の発言者であつたか、私も知らないのであるが、これは時代の声であつたのだらう。天に口無し、人をして云はしむると云つてもいゝであらう。……こんなに急速に、力づよく文壇を席捲したものは、今までは無かつたのであつた。藤村と雖も、それに感化されたのだ。かねて漠然と考へてゐた文学観に生気が与へられたのだ。かねて暗中摸索してゐたものを見つけたやうであつたのだ。彼等自然主義作家は、苦痛を凌いで、あゝいふ作品を製作し発表した。それは日本の文学史にも世界の文学史にも、例のないことであつた。貧乏苦とゝもに、人生に対して欠伸《あくび》をすることも、その人を自然主義に共鳴させる動機になるのであつた。」  白鳥の回想は、自然主義をかくあらしめたものを「時代閉塞」の結果に帰した木の批判を、まざまざと思いうかばせずにはおかない。なお、木が「時代閉塞の現状」を書いたのは、幸徳事件の二カ月後であることを忘れるわけにはいかない。といって、木にしても、幸徳事件によって、はじめて「時代閉塞」を覚えたのでないことはいうまでもない。自然主義に対する社会的非難が、いかにはげしいものであったかは、自然主義が出歯亀主義という異名で一般に通用したことを考えるだけで充分であろう。出歯亀事件というのは、四十一年三月二十二日の夜、東京大久保在の植木職で、通称出歯亀こと池田亀太郎という変態性の男が、銭湯がえりの人妻を襲い、無期徒刑に処せられた強姦致死事件のことである。「現実暴露」「旧套打破」「幻滅の悲哀」「無解決」などを標語として、「人生の真」の探求のために、あらゆるものを容赦なくあばき出そうとした自然主義の文学は、従来の道徳観によって、見てはならず、言ってはならぬものとされていた人間醜悪面の描写に中心がおかれるようになってきたことは周知である。そのために、自然主義は、反道徳的な、我慢のならないものという非難攻撃が各方面から一斉に集中されたのであった。  出歯亀事件のおこった四十一年には、生田葵山「都会」、小栗風葉「恋ざめ」、佐藤紅緑「復讐」、白柳秀湖「鉄火石火」、草野柴二訳「モリエール全集」(中巻)、ゾラ「巴里」(後篇)(飯田旗軒訳)など、十二篇が発売禁止になった。四十二年には、宮崎湖処子「自白」、永井荷風「ふらんす物語」、同「歓楽」、森鴎外「魔睡」、同「ヰタ・セクスアリス」、後藤宙外「冷涙」、徳田秋声「媒介者」、小栗風葉「姉の妹」、「モーパッサン短篇傑作集」(三宅野花訳)、アンドレーフ「深淵」(昇曙夢訳)、シェンキウィッチ「二人画工」(内田魯庵訳)など二十三篇。四十三年には、発禁になった二十五篇のうち、水野葉舟は「旅舎」「おみよ」「陰」の三篇、小山内薫は、「笛」「反古」の二篇、木下尚江にいたっては、「火の柱」「良人の自白」「乞食」「飢」「霊か肉か」の単行本がことごとく槍玉にあげられるといったありさまであった。  四十四年五月、桂内閣は東京、大阪に特高警察を設け、およそ「社会」という文字のつかわれるすべてを禁止した。「昆虫社会」という著書が発売禁止になったというような、笑えない話さえ伝えられている。幸徳秋水の人物・思想をむしろ軽侮に近い目で見ていた正宗白鳥が当時刑事に尾行されたのは、文壇からつけられた虚無的とか、虚無主義とかいうレッテルのためだったろうとは、白鳥がしばしば回想している挿話である。  こういう「社会閉塞」の結果が、前述の内的矛盾に直面させられていた自然主義の文学に、どんな変質を迫ったかは、容易に察することができる。魚住らが自然主義の一面に見出していた自己拡充の精神は、急速に悲哀絶望に転化した。「オーソリティといふ共同の敵」に対抗するどころか、自然主義は戦うべき相手を避けることによって、社会という対象をすら見失わざるをえなかったのである。  明治四十五年(一九一二年)七月三十日、明治天皇がなくなった。「其時私は明治の精神が天皇に始まつて天皇に終つたやうな気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、其後に生き残つてゐるのは必《ひつ》竟《きやう》時勢遅れだといふ感じが烈しく私の胸を打ちました」とは、漱石の「こゝろ」の先生の言葉であるが、作者をもふくめて、おそらく明治知識人一般の感慨であったにちがいない。そのただなかに、乃木大将が殉死した。この事件が、当時の人々にとってどんなに大きな衝撃であったかは察するに難くない。わけても鴎外にとっては決定的であった。将軍の異常な死を報ずる号外の鈴を聞き、たちまち筆をとって、「興津弥五右衛門の遺書」を書いて、『中央公論』に寄せたのが五日目であったことは、周知のとおりである。かくて、「阿部一族」から「椙《すぎ》原《はら》品」にいたるさかんな歴史小説の制作がつづけられるのである。鴎外をして真に鴎外たらしめたのが、これらの歴史小説であった。鴎外が、そこで展開したのは、武士道の世界であり、そこで描いたのは、旧日本の支柱であった儒教道徳を悲劇的にまで生きぬいた人々の力強いすがたにほかならない。  ここでは、「かのやうに」「藤棚」などの小説とは、まったくちがった、むしろ逆の世界がひらかれてきたといってよい。いわば五条秀麿の世界から、父の五条子爵の世界への後退・逆転というかたちで現れたとみることのできるものである。固陋な父を説得できかねる子の悩みなどはさっぱりと消えうせ、決然として、父の固陋そのものに執し、それを全面的におし出さずにはおられなくなった鴎外がここにいる。幸徳事件を大逆事件たらしめた山県有朋にむかって、大逆事件の弁護人たる平出修の立場からの説得ともいうべきものが、いわゆる「五条秀麿もの」の主題であったことは前述したとおりである。「興津弥五右衛門の遺書」にはじまる歴史小説において、鴎外は山県との対立をみずから抹殺し去ったとみなければならない。はたしてそうであるか。一面そうであるが、そうでない一面もまた見おとすわけにはいかない。これらの歴史小説が、根本において、武士道的なもの、儒教的なものの肯定であることは論議の余地がない。が、それへの一種の反抗に似たなにものかを同時にふくんでいることも否定できない。鴎外における日本と西洋の問題であり、オーソリティと近代との問題でもある。また、ここが漱石とのわかれ道になるのであるが、それらについては後節にゆずりたい。  鴎外が、急速に迫りつつある「近代」に、日本の精神の危機を感じとったのは、大逆事件によってではない。赤旗事件が、その二年前の出来事であったことを思えば足りる。現に、大逆事件の前年に、鴎外はこう書いている。「今の時代では何事にも、Authority といふやうなものがなくなつた。古い物を糊張にして維持しようと思つても駄目である。Authority を無理に弁護してをつても駄目である。或る物は崩れて行く。」  だが、問題は、大逆事件によって、「Authority といふやうなものがなくなつた」どころか、Authority そのものにぶつかって滅び去った一群の人々によってもたらされた鴎外の衝撃が、どんなに大きかったかということである。それにつづいておこったのが、今度は逆に Authority そのものへの全き献身としての乃木大将殉死の事件であった。この二つの事件が、鴎外にとって、いずれも倫理的なものとしてうけとられたことはいうまでもない。大逆事件と乃木殉死と、相反する倫理にはさまれて、鴎外はみずからを決定したのであった。この二つの事件は、いわば当時の文学の試金石とみることができる。その反応は、われわれに大正文学がどこから出発したかを示してくれるはずである。 第二節 『スバル』『白樺』『近代思想』  鴎外が、五条秀麿を主人公とする一連の小説を書かずにおられなかった直接の動機が、大逆事件の衝撃によるものであったことはすでに書いた。だが、作中の人物たる五条子爵と、その子秀麿に即していえば、それらの小説の書かれない前から、当時の鴎外が、ドイツ留学から帰ったばかりの新時代の青年、秀麿の立場にあったことは疑う余地がない。このことは、大逆事件となんの関係もない。明治三十九年(一九〇六年)一月、日露戦争から凱旋、四十年十一月、軍医総監兼陸軍省医務局長に任ぜられ、再びさかんな文学活動をはじめたときの鴎外は、すでにそれであった。『スバル』の顧問格であり、その精神的支柱でもあった鴎外を思いうかべるならば、このことは容易に納得できるはずである。  ほぼ十年にわたって詩壇に君臨した『明星』が、四十一年十一月、百号記念の特別号を以て廃刊され、その後を承けたのが、『スバル』であったことは改めていうまでもあるまい。与謝野鉄幹の反自然主義宣言をきっかけに新詩社を脱退した七人——北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、長田秀雄、長田幹彦、秋庭俊彦のほか、石川木、平野万里、茅野蕭々、茅野雅子、平出修、三ケ島葭子、岡本かの子など、新詩社のほとんど全員が参加し、小山内薫、永井荷風、高村光太郎、阿部次郎、ややおくれて、佐藤春夫、堀口大学、竹友藻風、谷崎潤一郎、和辻哲郎、後藤末雄、水上滝太郎、久保田万太郎、秋田雨雀、室生犀星らも寄稿している。洋画家の石井柏亭、山本鼎も詩や小品を寄せ、指導格の上田敏をはじめ、与謝野寛、与謝野晶子、薄田泣菫、蒲原有明など客員級の力添えもあり、平田禿木、馬場孤蝶、水野葉舟、小金井きみ子といったところも顔を見せている。  こういう多彩な顔ぶれを集めた『スバル』は、命名者が鴎外、出資者が平出修、はじめのうち、石川木、平野万里、吉井勇、木下杢太郎の交替編集で、明治四十二年一月創刊、大正二年十二月の終刊まで六十冊を出している。和田英作の表紙絵に飾られた第一号の目次を一瞥すれば、この雑誌のおよその性格は知ることができる。 附録 プルムウラ(戯曲) 森林太郎 荒布橋(小説) 木下杢太郎 赤痢(小説) 石川木 嵯峨まで(小説) 故玉野花子 友(小説ヘルマン・ヘッセ) 茅野蕭々 大畑駅(小説) 与謝野寛 起床前(散文) 小山内薫 小品四種(散文) 江南文三 偉なる野の鶏の歌(散文レオパルヂ) 阿部次郎 草笛(散文) 平田禿木 オブロモオヰズム(論文ドブロリュウボフ) 馬場孤蝶 落日(長詩) 蒲原有明 邪宗門新派体(長詩) 北原白秋 胎児外二編(長詩) 栗山茂 粗き調べ(長詩) 平野万里 母(長詩アダ・ネグリ) 上田敏 謎の女(長詩) 薄田泣菫 絃余集(短歌) 与謝野晶子 うすなさけ(短歌) 吉井勇 しづ機(短歌) 茅野雅子 新詩社詠草 北川英美子 新詩社詠草(短歌) 新詩社同人 新渡集(短歌) 昴同人  『明星』の血脈を承けていることは、右によっても明らかであるが、同種の季刊雑誌として、『スバル』より九カ月おくれて出た『屋上庭園』がある。『明星』の三羽烏と称され『スバル』創刊の中心でもあった北原白秋、木下杢太郎、長田秀雄の共同編集によるもので、『スバル』の分身にほかならないが、その耽美主義を集中的におし出したといったふうのものであった。それゆえ、四十二年十月に創刊され、四十三年二月に出た第二号は、白秋の詩「おかる勘平」が風紀壊乱に問われて発売禁止になり、わずかに二号で姿を消し去ったにもかかわらず、明治末期の耽美派の歴史に不滅の一頁を占めているのである。『スバル』と交渉の深かったものとして、ほかに『三田文学』があり、『新思潮』(第二次)がある。『三田文学』は、四十三年五月、鴎外と上田敏を顧問に、荷風の主宰で創刊された三田系の雑誌。最初のころの執筆者として、永井荷風、木下杢太郎、北原白秋、小山内薫、野口米次郎、三木露風、馬場孤蝶、与謝野晶子、茅野蕭々、成瀬無極、長田秀雄、吉井勇、和辻哲郎、後藤末雄などがあげられる。最初のころの表紙絵は、「海潮音」や、「みだれ髪」や、「藤村詩集」の装幀者として知られた藤島武二であった。  『三田文学』に四カ月おくれて帝大系の同人雑誌『新思潮』(第二次)が出ている。谷崎潤一郎、和辻哲郎、後藤末雄、木村荘太、小泉鉄、大貫晶川らが同人であった。  もう一つ、趣味的な美術雑誌とみるべき『方寸』がある。新詩社の同人であった石井柏亭が中心となり、山本鼎、森田恒友など、青年洋画家によって、四十年五月に創刊され、わずか十頁内外の小冊子であるが、四十四年七月の終刊まで、三十五冊を出している。同人として、後に平福百穂、倉田白羊、坂本繁二郎、小杉未醒、丸山晩霞、荻原守衛、黒田鵬心らが加わっている。美術家以外の寄稿家としては、木下杢太郎、北原白秋らがある。  こうしてみれば、多くは二十四、五歳前後の青年芸術家を中心として、明治末期に創刊された上記五雑誌の同人もしくは寄稿者の顔ぶれは、だいたい共通していることがわかる。それというのも、かれらの大部分は、パンの会の仲間だったからである。  パンの会は明治四十一年末、木下杢太郎、北原白秋らが首唱し、『方寸』に拠る美術家を語らい、当時の若い芸術至上派を糾合したもの。詩人、小説家、批評家、画家、彫刻家、音楽家、役者、ジャーナリストなどさまざまであるが、つまりは詩人と画家との交流による一大集団であった。四十二年(一九〇九年)七月、フランスから帰国した高村光太郎が、パンの会の当時の印象を次のように回想している。  「青春の爆発といふものは見さかひの無いものだ。若さといふものの一致だけでどんなちがつた人達をも融合せしめる。パンの会当時の思出はなつかしい。いつでも微笑を以て思ひ出す。本質のまるで別な人間達が集まつて、よくも語りよくも飲んだものだ。自己の青春で何もかも自分のものにしてしまつてゐたのだ。銘々が自己の内から迸《ほとばし》る強烈な光で互に照らし合つてゐたのだ。いつ思ひ出しても滑稽なほど無邪気な、燃えさかる性善物語ばかりだ。あの頃、万事遅蒔な私は外国から帰つて来て、はじめて本当の青春の無鉄砲が内に目ざめた。其が時代的に或る契合点を持つてゐた。前からあつたパンの会に引きずり込まれたのは自然の事であつた。細かい事は大抵忘れた。又忘れてもいいのだ。通り抜けて来た事は私にとつて一つの本能の陶《たう》冶《や》になつた。其が尊い。  爆発は爆発だ。爆発してしまふと、あとはもつと真摯な問題が目をさます。人生のもつと奥の大事なものが幾層倍の強さで顫動し始める。パンの会は自然と退屈なものになつてしまつてお仕舞になつた。私を其の情緒から救つて、私の本然に立返らせたのは智恵子との恋愛であつた。私が私になつたのは其れからの事である。」  この文章は、ずっと後年になってから書かれたものだけに、過ぎ去った青春を「滑稽な」「無鉄砲」として思いうかべているのは、一般の例にもれない。だが、パンの会そのものが「青春の爆発」であり、それが、「時代的に或る契合点を持つてゐた」としているのは、パンの会及びそこに胚胎したかれらの文学の本質を正確に見ぬいていると思われる。本質のちがった人たちをも、「若さといふものの一致」だけで融合させていたところのあったことはたしかである。  隅田川をセエヌ河になぞらえ、その大川端に、会場としてふさわしい、「カフェエらしい」家を探すため、一日中歩きまわったという、東京帝大の医学生、木下杢太郎の記録は、パンの会の性格を端的に語っている。かれ自身も、畢竟パンの会は「江戸情調的異国情調的憧憬の産物」であったとしている。それの由って来たるところが『明星』の伝統であること、いうまでもなかろうが、わけても北原白秋、木下杢太郎らにとって、上田敏の訳詩集「海潮音」は決定的なものであった。  四十二年四月、はじめてパンの会に出席した長田秀雄の回想は、当夜現れた上田敏にむかって、北原白秋、木下杢太郎、長田秀雄ら、パンの会の中心的な詩人であったこの三人が「海潮音」の感激を述べた情景を伝えている。北原白秋は一カ月前に出た最初の詩集「邪宗門」の詩人として脚光をあびており、木下杢太郎は、後に「食後の唄」としてまとめられた詩作を続々発表していたほか、戯曲「南蛮寺門前」の作者としても知られていた。長田秀雄もさかんに詩作を発表しており、ついでにいえば、吉井勇も、やがて「酒ほがひ」に収められる作品によって注目されていたときである。  翌四十三年を回顧して、木下杢太郎は、こう書いている。「……一千九百十年は我々の最も得意な時代であつた。パンの会は毎週開かれた。我々は Rodin の銅像の首の唇に寄せた皺の粘さが何う云ふ情を蔵してゐるかが分るほどになつた。また亜《ア》剌《ラ》比《ビ》亜《ア》物語や近松、三馬などに出て来る青年の心に同情を寄するほどの苦労も覚えた頃である。」  「我々の最も得意な時代」を端的に語っているのは、四十三年十一月二十日、日本橋三州屋で開かれたパンの会の大会に如くものはない。洋行する石井柏亭、軍隊に入営する長田秀雄、柳敬助(洋画家)の三人の送別を兼ね、更に同年創刊された『三田文学』『白樺』『新思潮』の同人をも招待して、特別の大会が開かれた。案内状には世話人として高村光太郎、北原白秋、小山内薫、永井荷風、倉田白羊、森田恒友、木下杢太郎、吉井勇の名がつらねられていた。『新思潮』の同人として、和辻哲郎、後藤末雄、木村荘太、大貫晶川らとつれだって、はじめてパンの会へ出席した谷崎潤一郎は、当夜の思い出を「青春物語」のなかに書いている。それによると、胸をおどらしているかれらの前に現れたものとして、与謝野鉄幹、蒲原有明、小山内薫、永井荷風、石井柏亭、生田葵山、伊上凡骨、鈴木鼓村、木下杢太郎、久保田万太郎、江南文三、吉井勇、北原白秋、長田秀雄、長田幹彦、岡本一平、恒川陽一郎などの名があげられている。このほか、高村光太郎、市川猿之助、南薫造、小宮豊隆、更に『白樺』の武者小路実篤、里見、郡虎彦らが加わったようである。  「青春物語」は、この席上、永井荷風との初対面の感激を述べている。「痩躯長身に黒つぽい背広を着、長い頭髪を後ろの方へ油で綺麗に撫でつけた、二十八九歳の瀟洒たる紳士」が会場の戸口にやってくる。「口元にだだツ児みたいな俤《おもかげ》を残してゐて、黒い服とひよろ高い身の丈とが、すつきりしてゐる反面に、何処かメフィストフェレスのやうな感じがしないでもなかつた。永井さんだと、誰かが私の耳の端《はた》で云つた。私も一眼で直ぐそう悟つた。そして一瞬間、息の詰るやうな気がした。と、永井氏は控へ室の知人と顔を見合はせて、莞爾として、その長い上半身を丁寧に折り曲げつつお辞儀をした。氏のその動作が甚だ優雅に見えた。いいね! と、大貫が私に云つた。いいね! と、私は同じことを云つた。」  これが、しまいには以下の文章につづくのである。「私は思ひ切つて荷風先生の前へ行き、先生! 僕は先生が好きなんです! 僕は先生を崇拝してをります! 先生のお書きになつたものはみな読んでをります! と云ひながら、ピョコンと一つお辞儀をした。先生は酒を飲まれないので、端然と椅子にかけたまま、有難うございます、有難うございますと、うるささうに云はれた。」  谷崎潤一郎はこのときまでに、九月創刊された『新思潮』に戯曲「誕生」を、十月号に戯曲「象」を、十一月号に出世作「刺青」を発表していた。パンの大会で、長田秀雄は、「刺青」を激賞した。なお谷崎潤一郎、吉井勇が二十五歳、木下杢太郎、北原白秋、長田秀雄が二十六歳、高村光太郎が二十八歳、石井柏亭が二十九歳、谷崎潤一郎に二十八九歳と見られた永井荷風は三十二歳であった。  もう一つ、この大会について、書きおとすわけにいかないこととして、「黒枠事件」がある。高村光太郎が、「祝長田秀雄君柳敬助君之入営」と書いた長い旗のようなビラに、わざわざ黒枠をつけたものを会場の壁にはりつけた。これを万朝報の記者が見つけ、同紙の社説は、徴兵制度に対する非難と解するほかないものとして、パンの会を亡国的非国民芸術家の集りと断じ、二日間にわたって攻撃を加えた。長田秀雄など、このため軍隊では非国民として虐待されたそうである。その前にも一度、パンの会は警察ににらまれ、とりしらべられている。牧羊神のパンを麺《パ》麭《ン》の意と考えたらしく、社会主義とのつながりを疑われたためとか伝えられている。ちなみに、前述の大会は、大逆事件の予審決定が新聞に出て間もないときであった。かくて、「我々の最も得意な時代」だった「一千九百十年」も、まもなく暮れて、四十四年になると、パンの会は次第にさびれて行った。四十五年の春ころはまったく消滅した。パンの会を背景にした『スバル』も、文壇の片隅的な存在となり、大正二年十二月、通巻六十冊を出して終った。  このように見てくると、明治四十三年十一月二十日のパン大会は、いろんな意味で、わが近代文学の歴史における、きわめて象徴的な出来事といわなければならない。同年四月に『白樺』創刊、五月に『三田文学』創刊、九月に『新思潮』創刊、それら新雑誌の同人がことごとく招かれて、前述のごとき交歓をつくしたこと、それは文学、美術、演劇の交流の一頂点と見られるものであったこと、それが大逆事件によって強化された政治的、思想的な圧迫をまぬがれるわけにはいかなかったこと、それがきっかけになって衰亡をたどったこと、そして、『スバル』の消えた後をうけて、この大会にはじめて招かれた『三田文学』や『白樺』や『新思潮』の二十代の青年たちによって、新しい性格をもつ大正の文学が展開されることがそれである。  「パンの会は一面放《はう》肆《し》なところもあつたが、畢竟するに一の文芸運動で、因循な封建時代の遺風に反対する欧化主義運動であつた。」  木下杢太郎の言葉である。そのとおりではあろうが、わが国の近代化がつねに必ず西洋化を意味した事情からいえば、近代文学の発生以来、あらゆる文学運動が、「因循な封建時代の遺風に反対する欧化運動」でなかったためしはない。現に自然主義の文学運動がそれであった。  わけても明治の自然主義文学運動は、旧套打破の旗じるしにも現れているように、遅咲きのロマンチシズムの変種であってみれば、パンの会のそれと根本的には対立するものではない。その上、すでに見てきたように、自然主義の自己主張的傾向が強く出てきているのだからなおさらである。だが、明治四十三年前後の自然主義にそれと矛盾する自己主張の一面を見出さざるをえないにしても、本来の客観主義を捨て去ったわけではない。客観の重圧に堪えないゆえのわびしさ、味気なさの主観的表白によって、それが矛盾的に複雑化されていたにすぎない。「現代のどこに若々しい主観のすがたが見られようぞ」として、「現代は憐むべき世紀である。精神の昂揚を許さず、天才の出現しえざる時代である。かくて、自然主義の背景は甚だ堅固と言はざるをえない」と、魚住折蘆が書いたのは、木下杢太郎が「我々の最も得意な時代であつた」とする、四十三年六月であったことを思いうかべざるをえない。「因循な封建時代の遺風に反対する欧化主義」という自己規定は、こうなると、いくつもの条件つきということにならざるをえない。その「反対」がどんな反対であったかということである。それは「堅固」な「自然主義の背景」とはかかわりのないものであったことは容易に察することができる。それは、どこまでも江戸情調であり、ノスタルジアであり、陶酔であり、惑溺であった。肉体の青春に宿った華麗なあだ花であった。もう一度、高村光太郎の言葉を借りれば、「青春の爆発」であった。かれらの自称した「近代的」は、視覚や聴覚にかかわるもの、色彩とリズムのそれであった。北原白秋、木下杢太郎、長田秀雄らの詩作が、それを証してあまりあるが、その美的な享楽や病的な官能が、大逆事件前後の社会的背景において、展開された事実が、その本質を語っている。  信夫清三郎の「大正デモクラシー史」は、明治四十三年にいたって、岡山県、福井県、富山県、島根県、愛知県などにわたり、小作争議の激化したことをしるし、三月九日、国民党の代議士村松恒一郎が、議会で訴えた演説を録している。それを引用させてもらえばこうである。  「この旧暦のいわゆる正月前、すなわち一月の中旬におきまして、私の選挙区の愛媛県のある村落において貧民党というものが起ったのです。その貧民党というのは何であるか。多くの小作人が、すくなくとも、五、六十名が、ひそかにあるところに会合をして、血判をして、いかなることを決議したかといえば、とても今日の状態では無事にこの正月をすごすことができないのである、この大晦日をこすことができないのであるから、おたがいにこれからこの附近の富豪の家にせまって、そうして金銭なり、あるいは食物なりを借りて、そうして正月を越そうではないか、これがためにおたがいにどこまでも一致の行動をとろう、もしまたこのことが行われないならば、全部小作地を返還してしまって、そうしておたがいに自由行動をとろうというがために一つの血判をつくったのは、事実である。この地方においては、かの大逆事件のごときはほとんど知らない辺鄙なところであるけれども、事実、生活上の困難のためにやむをえずかくのごときことを企てるというにいたっては、むしろ私は、かの一部の学説のためにかの大逆事件を企てたのよりも、その動機においては最もおそるべきことであると思うのである。もしかくのごときものが各地方いたるところに起ったならば、その結果は決してかの大逆事件の比ではないと思うのである。」  こういう演説が議会で行われていたころ木下杢太郎は、次のような詩をつくっている。(正確には二カ月後。但し発表は『スバル』明治四十四年一月) 紺の背広の初燕 地をするやうに飛びゆけり。 まづはいよいよ夏の曲、 西《ざい》——東《とう》西《ざい》の簾《みす》巻けば 濃いお納《なん》戸《ど》の肩《かた》衣《ぎぬ》の 花の「昇菊、昇之助」《*》 義太夫節のびら札の 藍の匹《しつ》田《た》もすずしげに 街は五月に入りにけり。 赤の襟《ねく》飾《たい》、初燕 心も軽くまひ行けり。 * 珈琲の中にウイスキーの酒入るるを好み玉うほどの人は、この行のつぎに「いよ御両人待つてました」の一行をこころみたまへ。  昇菊、昇之助というのは当時美貌で人気のあった女義太夫の一組である。だいたい同じ時期に北原白秋にも昇菊を詠みこんだこんな作がある。(『三田文学』明治四十三年八月号) 鳴きそな鳴きそ春の鳥、 昇菊の紺と銀との肩ぎぬに、 鳴きそな鳴きそ春の鳥、 歌沢の夏のあはれとなりぬべき 大川の金《きん》と青とのたそがれに。  その動機において、大逆事件よりはおそるべき小作争議が、どんなにひろがっていても、そういう社会の現実となんらかかわりのない美の世界をくりひろげることが、文学ないし芸術にとってゆるされないなどということはありえない。ただその場合、あくまでも現実に抗するに足るだけの確固ゆるぎない美の世界を創造するのでなくては意味がない。そのためには、なんらかの思想の背景を必要とする。木下杢太郎や北原白秋が、軽《かる》口《ぐち》でうたい興じているのは、たわいもない感覚のたわむれにほかならない。通俗な色彩とリズムへの溺れ。思想の背景をもたない、感覚的な適応性だけで「因循な封建時代の遺風」への反逆などといってみても、言葉だけにすぎない。しかも、あっちが「燕」なら、こっちは「春の鳥」であり、こっちが「紺と銀との肩ぎぬ」なら、あっちは「濃いお納戸の肩衣」である。更に「赤の襟飾」に対しては、「金と青とのたそがれ」である。同じ作者の作でないことを理解することのほうがむずかしい。そこに、かれらの「青春の爆発」がほぼ三年間ぐらいで消え去った根本の理由がある。そして、パンの会でかもし出されたもの、その色彩とリズムにおける近代性は、集団としての運動の退潮後は、それぞれの作家の個性のなかに解消して、時とともに色あせたのは自然のなりゆきといってよい。  しかし、そういういわば青春の生理的反映とみるべき性質のものであったればこそ、パンの会なり、『スバル』なりのもたらしたものは、当時の青年たちにとっては、甚だ魅力的であった。たとえば宇野浩二は、「二十歳前後の文学書生であつた私は、自然主義の作品や評論をずゐぶん愛読しながら、自然主義の反対といはれる文学に心をひかれた」と書いている。「自然主義の反対といはれる文学」とは、つまりはパンの会の仲間のそれを意味しているこというまでもない。つまり、木下杢太郎の詩集「食後の唄」、戯曲「和泉屋染物店」「南蛮寺門前」、北原白秋の詩集「邪宗門」「東京景物詩」、歌文集「桐の花」、吉井勇の歌集「酒ほがひ」、高村光太郎の詩集「道程」、小山内薫の小説「大川端」、谷崎潤一郎の小説「刺青」、水上滝太郎の小説「山の手の子」などのほか、鴎外や荷風の作まで加えれば、ずいぶんはでやかなレパートリーといえよう。その宇野浩二が、つづいて次のように語っているのは興味がある。  「自然主義といふ、よかれあしかれ、土台のしつかりした、そのかはり、融通のきかない、文学がはびこつたために、そのつぎの人々は、読むものも、かんがへることも、おこなふことも、文学的にも、生活的にも、自由になつたのが、自然主義のはんたいの文学の人気のもとであらう。さうして、私などは、(おそらく、私と同時代の人は、)かういふことで、自然主義のはんたいの文学のおかげをかうむつた。さうして、そのなかには、荷風の小説もあり、鴎外の翻訳もあり、『三田文学』や『スバル』や『白樺』に出た作品や評論や翻訳もある。しかし、いま、かんがへると、それらの自然主義のはんたいの文学は、はなやかには見えたが、はかないものが多く、けつきよく、私の頭にいまでものこり、私がいまでも読みたいのは、私が、文学書生時代に、あきたりなく思つたり、いやきがさしたり、した、自然主義文学の代表的な作品であつて、そのはんたいの文学は、いまになるとあきたりないやうに思ふ。」  鴎外は、パンの会に一度も顔を見せていない。だが、パンの会の背景に、鴎外が大きく存在していたことは既述した。パンの会の仲間が、つれだってしきりに観潮楼(本郷千駄木町の鴎外邸)を訪問した。こころみに『スバル』の創刊された四十二年の日記から、関係事項だけを適宜ぬき出してみれば、 一月二日 上田敏、伊藤左千夫、佐佐木信綱年礼に来ぬ。 一月九日 短詩会を催す。斎藤茂吉始て来たり。佐佐木信綱、北原白秋風にて来ず。 一月十二日 昴《スバル》社中の歌を国民新聞に載することを徳富猪一郎に謀りしに略《ほぼ》承諾す。 一月十三日 夕に上野に青楊会を催す。上田敏、永井荷風来ぬ。雪を冒して帰る。 一月十八日 夜太田正雄(木下杢太郎の実名)、平野久保来話す。太田は新作脚本「南蛮寺門前」の稿を持ち来りて示す。 二月十五日 吉井勇、太田正雄共に来ぬ。吉井は初めて作りし脚本を出して示しつ。「半日」の稿を太田に渡す。 三月六日 夜短詩会を催す。石川木東京朝日社に入りしことを報ず。 四月十一日 夜深川永代亭にPanの会あり。これにもえ往かず。 四月十四日 上野精養軒に青楊会を開く。上田敏等十四五人集ひぬ。 四月十六日 平野久保至る。次いで小山内薫市川左団次を伴ひて至る。雑談午に至る。午餐を饗す。 六月十三日 来客多し。……太田正雄、石井満吉、山本鼎、吉井勇、北原白秋、長田秀雄等なり。長田は始て来しなり。 六月二十二日 与謝野鉄幹、平野万里、高浜虚子来話す。 七月一日 Vita sexualis 昴に出づ。 七月二十日 与謝野寛、吉井勇、平野久保の三人来話す。「鶏」の稿本を昴の資料にとて渡しつ。 七月二十五日 高村光太郎巴里より帰りしによりて青楊会を開きて歓迎す。 七月二十八日 昴第七号発売を禁止せらる。Vita sexualis を載せたるがためならむと伝へらる。 八月二十三日 昴の原稿不足なるを伝聞して、発行所に電話す。江南某来て最近独逸脚本梗の一部を受け取り行く。 九月二十日 江南文三「金毘羅」を取りに来たるにまだ出来ざるによりて、「椋鳥通信」を与へて帰らしむ。  ここには、『スバル』同人のために、その歌を『国民新聞』に発表すべく徳富蘇峯と交渉する鴎外がいる。木下杢太郎や吉井勇に乞われて、かれらの新作脚本に批評指導を与える鴎外がいる。一方では、『スバル』の原稿不足を聞き伝え、自分の原稿をそれに充てようと心をくばっている鴎外がいる。  ところで、一月九日と三月六日の記事に見えている「短詩会」というのは、いうまでもなく観潮楼歌会のことである。観潮楼歌会は明治四十年三月にはじまった。会するものは鴎外、上田敏をはじめ、竹柏会の佐佐木信綱、新詩社系の与謝野寛、平出修、平野万里、木下杢太郎、北原白秋、吉井勇、石川木、アララギ系の伊藤左千夫、長塚節、平福百穂、古泉千樫、斎藤茂吉など。その目的については、鴎外がみずから書いている。「其頃雑誌アララギと明星とが参商の如くに相隔たつてゐるのを見て、私は二つのものを接近せしめようと思つて、双方を代表すべき作者を観潮楼に請待した。此毎月一度の会は大ぶ久しく続いた。」(詩集「沙羅の木」の序)  新詩社系とアララギ系とは、結局袂をわかたざるをえず、四十二年夏のころには会合が絶えた。が、両者の接近による相互の影響はすくなくはなかった。斎藤茂吉はのちに、初期『スバル』の歌風に、鴎外の影響による「西洋象徴流」と、『アララギ』の影響による万葉調を指摘しているが、実際はむしろ逆といってよく、『スバル』が『アララギ』にもたらしたものがどんなに大きかったかは、「馬鈴薯の花」(島木赤彦・中村憲吉)、「赤光《しやつこう》」(斎藤茂吉)、「切火」(島木赤彦)が明らかに示している。  鴎外は、このように観潮楼歌会を主宰する一方、同時に他方では、常盤《ときわ》会を宰領していたのである。常磐会は、鴎外が賀古鶴所と語らい、元老山県を主客とし、井上通泰を世話役として、「明治の時代に相当なる歌調を研究する為に」おこしたもの。明治三十九年九月にはじまって、毎月山県の椿《ちん》山《ざん》荘《そう》に参集して開かれ、大正十一年二月、山県の死ぬまでつづけられた。 斑《ぶち》駒《ごま》の骸《むくろ》をはたとなげうちぬ Olympos《オリンポス》 なる神のまとゐに 我は唯だこの菴没羅果《ああむらくわ》に於てのみ自在を得ると丸《まる》呑《のみ》にする 鴎外は、『スバル』へこういう作——斎藤茂吉によれば、「新しい思想的象徴派」もしくは「思想的抒情詩《ゲダンケンリリーク》」ともいうべき歌を発表している一方では、 柴舟のかがり火ささでこぐまでに月こそさゆれ鳰《にほ》のみづうみ こもりゐて見る空黄なる都べの塵の中には入らじとぞおもふ というような旧派の桂園調そのものの作を常盤会ではつくっているのである。  観潮楼歌会と常盤会と、——まったく異質的なものの同時的制作、すでにここに、大逆事件の弁護人平出修に無政府主義を講じつつ、幸徳事件を大逆事件たらしめた原動力たる山県有朋に近づいていた鴎外の、文学的反映をみることができる。これはまた、五条秀麿を主人公とするいくつかの短篇にもつながるものであるこというを俟たない。こういう、あまりにも奇怪な折衷主義の矛盾を一挙につき破ったのが、乃木大将の殉死であった。かくて、鴎外は、自身のなかのパンの会的なもの、「スバル」的なもの、五条秀麿的なものを否定して、決然として、「興津弥五右衛門の遺書」に見られる武士道のイデエの表現に赴いたのであった。  そのころ、『スバル』を中心に、詩歌、小説、戯曲、評論など、あらゆる文学のジャンルが一時に開花したはなやかさは、にわかに色褪せていった。いち早く石川木が遠ざかったほか、やがて木下杢太郎は医学に専念し、平野万里は満洲へ去り、北原白秋、長田秀雄、吉井勇など、それぞれの道をたどるというふうで、急速に文学運動としての実質を失っていったのである。 *  『白樺』の創刊は、明治四十三年(一九一〇年)四月、大逆事件のおこる一カ月前であった。同人のおもなものと、数え年を示せば次のようである。  有島武郎(三十三)正親《おおぎ》町《まち》公《きん》和《かず》(三十)有島生馬(二十九)志賀直哉(二十八)武者小路実篤(二十六)木下利《とし》玄《はる》(二十五)児島喜久雄(二十四)里見(二十三)柳宗《むね》悦《よし》(二十二)郡《こおり》虎彦(二十一)  『白樺』創刊号の「発刊に際して」のなかで、武者小路実篤は、「白樺は大した雑誌ではないが、しかし気まぐれに出来たものではない。又月足らずで生れたものでもない」と書いている。まさにそのとおりであるが、いまになってみれば、当の筆者の考えていたよりも、はるかに大きな歴史的意味をもつものであった。わけても、やがて白樺派の中心的存在となった武者小路実篤、志賀直哉のふたりは、『白樺』の出る前に、すでに、はっきりした自分の文学観をもち、それに基づく作品のいくつかが発表され、もしくは用意されていたのである。  武者小路は、その文学志望が、トルストイの影響に発しているばかりでなく、それによって文学者としての生涯の決定されたことを、しばしば語っている。たとえばこんなふうに。——「自分は、今では、トルストイと根本的な考へ方はちがつてゐると思ふが、トルストイから受けた影響からはすつかりのがれ出たわけではなく、僕の社会や人生についての考への大部分はトルストイの影響を受けてゐるのは事実と思ふ。僕はトルストイのいい弟子だとは思つてゐないが、僕の方ではトルストイを僕の最初の、また最大の恩師だと思つてゐる。僕はトルストイによつて自分の生活が、他人の不幸の上に継ぎ木された生活のやうな気がし、自分の生活が根本的にまちがつてゐることを教へられた。後年新しき村の仕事をはじめ、今日までこの仕事を、一日も休まずつづけて来てゐるのも、トルストイにまかれた種がはえなかつたら、おそらく実現されなかつたと思ふ。」  だが、まもなく上田敏によって、マーテルリンクを知るようになったことは、このトルストイ熱中に、意外な方向をもたらしたのであった。武者小路へのトルストイの影響は、生涯を決定するほどの深刻なものではあったが、トルストイの、霊と肉との二元的葛藤の苦悩には見舞われずにすんだようである。これは、トルストイとともに、一方には、その中和剤ともいうべきマーテルリンクへの強い同感の共存によってもたらされたものであった。「自分の歩いた道」では、当時を回想して、次のように語っている。  「トルストイに息苦しい目にあつた僕は、マーテルリンクによつて、その息苦しいところだけを解除されたといつていいやうに思ふ。それはどういふ意味かといふと、トルストイは相手の年齢も実力も見ずして、真理をつきつける。それはたしかに真理とは思つても、実行力のないものに実行を強ひ、また卒業できてゐないものを一足飛びに卒業させるやうなもので、いくぶん無理がある。マーテルリンクは、その人はその人の運命を自力で開いてゆくことの本当さを教へてくれたやうに僕には思へた。さういつてしまふのは簡単すぎるが、ともかく僕は自分をまづ生かさうと考へるやうになつた。  トルストイといふ大きな木が、五十年、自分を思ひきつて成長させた後で到達した境地に、自己をまだ少しも生かしたことのない僕が、いきなり入らうとするのには無理があつた。またこの世的な未練もあつた。また僕の性格とトルストイの性格のちがひ、ものを見る目のちがひを感じた。トルストイの言つてゐることにはたしかに真理がある。しかし肉体を有することにまた僕は人生の意味があると思ひ、トルストイは偉いが、自然はなほ偉いと思はないわけにはいかなかつた。」  人間が肉体をもっているということは、それだけの人生の意味があるという考え、きびしく真理をかかげるトルストイは偉いが、自然はいっそう偉いという考え、——これが、マーテルリンクから学んだものであり、これによって、トルストイから、「その息苦しいところだけを解除された」のであった。トルストイの戒律に、ほかならぬ自然を対比することによって、人間性のあるがままの肯定、「人間万歳」の思想をつかんだのである。トルストイから、ある意味では、逆のものを引出しながら、「僕はトルストイのいい弟子だとは思つてゐないが、僕の方ではトルストイを僕の最初の、また最大の恩師だと思つてゐる」というところ、トルストイとマーテルリンクとの、こういう結びつけかたに、すでにまぎれもない武者小路の本領が示されているのである。  人間性のあるがままの肯定は、武者小路にとっては、直ちに自己のあるがままの肯定にほかならなかった。したがって、自分に対して、否定的な契機をもたらすものは、片っぱしから断ち切り、捨て去ってかえりみなかった。すべて、自然尊重の全的肯定の立場においてなされたわけである。この考えは、『白樺』創刊号の巻頭に寄せた「『それから』に就て」にそのまま、つながっている。  「『それから』の著者夏目漱石氏は、真の意味に於ては自分の先生のやうな方である。さうして今の日本の文壇に於て最も大なる人として私《ひそ》かに自分は尊敬してゐる。さうして『それから』は氏の作の内でも最も深い大きいもののやうに自分は思つてゐる。自分は氏の前に出たら恐らく『それから』を誠に感心して拝読いたしました、としか云へないであらう。」  この尊敬と共感が、どこから来ているか。「自分は『それから』に顕はれたる思想を以て一種の自然崇拝と見たい。nil admirari の域に達した代助を以てこの自然崇拝家と見たい。作者も代助も、代助の罪を以て人妻を奪はうとした点に認めようとはせず、自然の命に背いて平岡に自分の恋人を譲つた点に認めようとしてゐる」と言っているところに、まずそれが示されている。つづいて、その批評に及んでいるのである。  「自然の力を顕はす方法として恋が書かれてゐる。漱石氏は恋と情慾の区別を明かに知つて居られる。代助をして平岡の恋を恋でないと云はしてゐる。妻君が病気になつた為に遊びたくなるやうな恋はないと代助は思つてゐる。平岡の恋は自然派の云ふ恋である。情慾八分の恋である。代助の三千代に対する恋は八分愛である。漱石氏は代助の恋を通して自然の力を顕はさうとされた。さうして之によつて自然の力の強いことを顕はすことに成功してゐると思ふ。しかし漱石氏はただ代助をして三千代に対して恋のみによつて行動させることを欲しなかつた。ここに多くの道具立をされた。平岡と三千代の間の子を殺した。三千代を病気にさせた。平岡に道楽をさせた、さうして借金させた。このことによつて代助は偏《ひとへ》に三千代を憐み、どうかして助けたいと思ひあせるやうになつた。之によつて読者は代助と三千代に強く同情することが出来た。しかし惜しい哉、之によつて恋の力は弱められた。……」  自然としての恋愛と、社会としての規範とを、もっと純粋なかたちで対立せしめるべきだというのである。「それから」に対する、当時として、最も鋭い、正確な批評だったといえよう。が、つづいて、次のように言わずにはおられなかった。  「終りに自分は漱石氏は何時までも今のまゝに、社会に対して絶望的な考へを持つてゐられるか、或は社会と人間の自然性の間にある調和を見出されるかを見たいと思ふ。自分は後者になられるだらうと思つてゐる。さうしてその時に自然を社会と調和させようとされず、社会を自然に調和させようとされるだらうと思ふ。さうしてその時漱石氏は真の国民の教育者となられると思ふ。」  このむすびの言葉に、武者小路の面目を、はっきり見てとることができる。自然と社会との調和というごときは、漱石にとって、絶望としか考えられないものであった。漱石の苦しんだのは、そこにかかっている。「それから」の代助を狂人のように戸外にとび出させた漱石は、「門」の宗助をして、禅寺の門をくぐらせようとした。だが、それが徒労に終ったとき、人間の自然がエゴイズムにほかならぬことを見出し、やがて、「心」の先生を自殺にまで追いつめずにはおかなかった。「社会を自然に調和させよう」などと考えたものは、武者小路のほかにはない。いや、志賀直哉があり、長与善郎があり、有島武郎をのぞく『白樺』の仲間の大部分がそうであった。かれらは、もともと、社会を自然に対立するものとは考えなかった。最初から自然に調和するものとしての社会しかなかった。つまりは、かれらの前に、社会がすがたを現したことはない。すくなくとも、武者小路においては、そうであった。その意味で、漱石に対する武者小路の尊敬は、漱石の本質とはさしてかかわりのないものだったということができる。あたかもトルストイがそうであったように。  自然の意志にしたがうということは、晩年の漱石にとって、熱烈な念願であった。だからこそ、時代と社会の不安をどれほど痛切に感じて苦しんだかは、たとえば「それから」の第六章によっても、うかがうことができる。武者小路は、漱石から、その「息苦しいところだけを解除され」たのであった。かくて、自分の感受性、趣味、好悪のみを信頼する、不安の入りこみようのない生きかたが、そのまま、自然や人類の意志に合致するという信念がひき出されてくる。トルストイも、漱石も、武者小路にとっては、そういう考えかた、生きかたを強化するものとして、うけとられ、引継がれたのであった。こういう考えかた、生きかたの根本では、志賀直哉にしろ、ほとんどちがいはないということになる。このことを、特定の歴史的社会的事件に対する、かれらの反応のなかにたしかめてみる必要がある。  大逆事件の被告二十四人に死刑の判決のあった翌々日にあたる、明治四十四年一月二十日の日記に、志賀直哉はこう書いている。  「一昨日無政府主義者廿四人は死刑の宣告を受けた。日本に起つた出来事として歴史的に非常に珍らしい出来事である。自分は或る意味で無政府主義者である。(今の社会主義をいいとは思はぬが。)その自分が今度のやうな事件に対して、その記事をすつかり読む気力さへない、その好奇心もない。“其時”といふものは歴史では想像出来ない。」  自分もある意味で無政府主義者であると書きながら、今度の事件に対して、なぜ、新聞を読む気力さえなく、好奇心もないのだろうか。メモふうのもののせいもあろうが、かんじんのところがよくわからない。いずれにしても、無関心もしくは冷淡だったことは明らかである。志賀直哉が、足尾銅山の鉱毒地域の住民に同情して、父親と衝突したことは、広く知られているだけに、奇異な感じがなくもない。だが、これは『白樺』の仲間として、決して例外ではなかった。そのころ、かれらは『白樺』のロダン第七十回誕生記念号の編集に情熱をそそいでいた。志賀直哉自身についていえば、性慾の問題が一番の関心事だったらしい。一月二十六日の日記に、「健康が欲しい。健康なからだは強い性慾を持つ事が出来るから。ミダラでない強い性慾を持ちたい。ゴルキーの話にある老国王も強い性慾によつて、女に愛されてゐたと書いてあつたが、自分は年寄るまで左うでなくていゝが、四五十歳までは左うでありたい。いゝ子孫はそれでなければ出来はしない」と書いている。そこから、短篇「七十五歳」(後に「老人」と改題されたもの)や、「濁つた頭」の構想が発している。二月一日の日記には、「『濁つた頭』を書く時は、性慾の力といふ事を絶えず忘れないやうにして書かねばならぬ。RopsのWeibを見ても矢張り『濁つた頭』は思ふ存分書いて、非売品で出す方がよさゝうである」とある。つづいて、二月十日の日記には、「『七十五歳』といふ老人の性慾に対する不調和の苦みを書く小説を想ふ」と出ている。ところで、明治天皇の死に対しては、七月三十日の日記に、「朝急に帰る事にして、出発、前日天子様が亡くなられたといふ事を其朝聞く。いゝ人らしかつたがお気の毒であつた」とあり、あたかも知り合いの隣人の死でも悼んだかのようである。  乃木大将の殉死については、同じく九月十四日の日記に、「乃木さんが自殺したといふのを英子からきいた時、馬鹿な奴だといふ気が、丁度下女かなにかゞ無考へに何かした時感ずる心持と同じやうな感じ方で感じられた」とある。更に十五日には、「乃木さんの死は一つのテンプテーションに負けたのである」と断じている。かれらの学習院時代の院長は、菊池大麓であり、その後を嗣いだ乃木大将に対して、武者小路にしろ、志賀直哉にしろ、むしろ嫌悪感を抱いていたことは、かれらの回想記にしばしば見えている。わけても、志賀直哉の乃木ぎらいは、はげしかったようである。殉死というごときかたちで現れた封建道徳の「息苦しさ」から、かれら自身はまったく「解除」されていたことはいうまでもなかろう。  ついでにいえば、四十四年二月号の『白樺』に発表した武者小路の一幕ものの脚本「桃色の部屋」は、大逆事件を意識して書かれたものだという本多秋五の説がある。「さすがにトルストイを愛読した人の作らしく、手強い責任感を底にもつてゐる」と本多秋五はいう。だが、その本多秋五も引用しているように、「一人前にならぬうちに他人様のことを考へるのは生意気ですわ」というごときセリフを「桃色の女」に言わせているのである。  志賀直哉の鉱毒問題に対する関心についてはすでに書いたが、武者小路にしても、国家や社会の問題に無関心だったわけではない。現に、「白樺を出すまで」で次のように書いている。  「僕達が高等科(学習院)に居た時分は、日本の思想界の動揺してゐた時分だつた。日露戦争前後で、樗牛が盛んに書いてゐる時分だつた。トルストイの本がかなり訳された。社会主義も盛んだつた、自称予言者が輩出した。木下尚江が『火の柱』や『良人の自白』を出した。自分はこれらのものは大概読んでゐた。『平民新聞』も『無我愛』も毎号よんでゐた。それから内村鑑三のもの、綱島梁川のものなんかを。それから漱石、独歩、藤村などが小説を書き出した。蘆花生が聖地やトルストイの処に巡礼した。学習院では独逸語の先生の片山孤村が『男女と天才』をかいて興奮してゐた。経済の先生河上肇が無我愛に入る前で匿名で社会主義の批評を読売に出してゐる時分で興奮してゐた。」  この回想から察しても、武者小路は社会的関心がなかったどころではない。当時の青年として、むしろそれの強かったほうではないかと思う。ただ、その社会的関心を、生きた社会に即して発展させていくのではなく、いよいよ武者小路の自己流の方向——自然の意志尊重の自己強調の推進力と化した事情こそ重要であろう。次の志賀直哉の日記は、それを側面から明らかにするものとみることができる。  「武者は内村先生(鑑三のこと)のやうにならなければ仕合はせである。……武者の考へにも何所か左う感じを与へる所がある。武者は今は自由になるといふ事が最も必要な事と思ふ。」(明治四十四年三月二十三日)  「何々でなければならぬ、といふ考へは自分は嫌ひである。かういふ意味で固定した宗教、道徳。主義。主張を自分を嫌ひである。人間は一人々々異つたものである。或人には、何々でなければならぬ場合が、或人には、何々であつてはならぬ場合がいくらもある。若し、あらねばならぬといふなら其人一人に左うなのである。其人の其時にと更に狭ばめられやう。自分は全然自由で欲しい。自分は自由で自分を出来るだけ深く掘らうと思ふ。  自分の自由を得る為めには他人をかへりみまい。而して自分の自由を得んが為めに他人の自由を尊重しやう。他人の自由を尊重しないと自分の自由をさまたげられる。二つが矛盾すれば、他人の自由を圧しやうとしやう。」(明治四十五年三月十三日)  『白樺』創刊が大逆事件の一カ月前だったということ、そしてこの事件を、同時に明治天皇の死を、更に乃木大将の殉死をこのように受けとめた新しい文学世代によって創められたということは、注目を要する事実である。個人を生かすことが、直ちに普遍的な「人類の意志」(これは武者小路の常用語であった)に合致し、個が直ちに普遍に直結するという立場から、国家や社会や歴史を捨象した武者小路を中心として、まったく新しい性格の文学が、大逆事件とならんで現れたということ、ここにわれわれは、『三田文学』『新思潮』の創刊とともに、大正文学の出発点を認めないわけにはいかない。総括的にいえば、反自然主義の動きということができる。  自然の意志を尊重して、自己を生かす、という武者小路の根本思想からみて、当時反響のあった田山花袋の平面描写の主張には、賛成できないどころか、腹をたてたというのも当然であろう。  「花袋の『インキ壺』には僕は腹を立てた。それは花袋が平面描写をとなへ、主観的なものを否定してゐたからだつた。つまり僕が文学でやりたいと思つてゐることを全部否定してゐるやうに思はれたからだ。僕は自己を正直に生かしたいために文学の道を選んだのだ。自分の主観を生かすのが目的で、平面描写は僕の一番不得意なものだ。花袋のいふ通りなら、僕は文学者になる資格がない、あつても低級だといふことになる。」  文学の道をえらんだのは、「自分の主観を生かす」のが目的だというのだから、花袋流の平面描写に腹をたてずにはおられなかったのである。つまり、武者小路には、文学者としての出発と同時に、その内的要求に即した手法が、自覚的に決定されていたということである。このことは、「お目出たき人」についてみれば、いよいよはっきりするはずである。  「お目出たき人」は、『白樺』創刊の二カ月前に脱稿されていて、翌四十四年、出版された。『白樺』に発表されなかったのは、創刊当初のこととて、長篇を掲載する余地がなかったからとのことである。一種の青春小説であり、恋愛小説である。わが国には、真の意味の恋愛小説はきわめてすくない。恋愛の観念は、北村透谷によって、明治二十年代にはじめて確立されたとみてよいが、浪漫主義が十分に開花しないうちに、早くも自然主義に移行したために、愛慾や痴情はしきりに描かれたが、恋愛小説にはこれというほどのものがない。ただ、新理想主義とか、人道主義とか呼ばれている白樺派に、恋愛小説が見出されるだろうという予想は理由のないことではない。はたして、文壇的には武者小路の処女作ともいうべき「お目出たき人」は、恋愛小説であった。主人公は、作者の分身とみてよい。この青年が足かけ五年間もひとりの少女を恋し、これに求婚するが、ついに片思いに終るいきさつが描かれている。これという事件があるわけでもなく、単純すぎるほど単純な話にすぎないが、作者はこれによって理想肌の青年の内面を描こうとしているのである。相手の少女が、かねて相思の工学士と結婚してしまっても、「其後暫らくして自分は何時のまにか鶴は自分を恋してゐてくれたのだが、父や母や兄のすゝめで進まずながら人妻になつたのだと理由もなしに思ふやうになつた。さうしてそれから一月もたつた。今は鶴をあはれむやうな気分になつた。さうして鶴の運命が気になり出した。……」というふうで、失恋によって少しも傷つけられず、かえって自分を鼓舞する結果になるなど、作者独特のものである。こういう、いい気な楽天的自己肯定は、自然主義に育てられた目からは、いかにもたわいないものに見えたに相違ない。終始、白樺派の嘲笑者だった生田長江のごときは、白樺派のもっている最大の欠陥は、「お目出たき人」の作者武者小路のごとく、思いきってオメデタイことで、かれらは自然主義を通過しない、その前派にすぎないと非難したことは周知である。武者小路は直ちにこれに応じた。  「氏は僕たちを自然主義前派といつてゐるが、僕達は日本の自然主義が自己を生長さすことに無頓着だつたのは我慢ができずに立つたのだ。自己の主観を生殺しにするのに反対して、自己を生かしきらないでは我慢ができないので立つたのだ。内の要求に立つてゐるのだ。」  更にこうつづけている。  「僕は自分で自分をお目出度いといつた。しかし、それは世間をからかつて言つたのはわかりきつたことだ。世間は僕をお目出度く思ふだらう。長江氏のやうに、その上世間と同じ考へをもつてゐる。しかし見よ、おめでたく思ふ僕こそ実はほんたうの道を歩いてゐるのだ。自分はそのことを事実によつて示せることをあの時から知つてゐた。それで当時一番人にいやがられる『お目出たき人』『世間知らず』といふ名をつけたのだ。生田長江氏も知つてゐるだらう。当時は浅薄な人間が如何に深刻がつたり、馬鹿な人間が利口がつたり、深い経験もない人間がどんづまりの経験をしたがつたことを。そして世間からそれに同感されるのを笑つて長江氏がその題をとつてよろこんで僕をからかふのは、五六年おくれて僕の落し穴におつこつたやうなものだ。」  五六年おくれて云々というのは、この応酬の行われたのが大正五年(一九一六年)のことだからである。これによっても明らかなように、「お目出たき人」という題名からして、自然主義に対する反撥と皮肉から出ていることがわかる。その点からいっても、自然主義前派ときめつけるのは当らない。  自然主義の系統につながる広津和郎は、「お目出たき人」をはじめて読んだとき、その書き出しの無類の奔放さに驚きを禁じえなかったと語っている。その書き出しというのはこうである。  「一月二十九日の朝、丸善に行つていろいろの本を捜した末、ムンチと云ふ人の書いた『文明と教育』と云ふ本を買つて丸善を出た。出て右に曲つて少し来て、四つ角の所へ来た時、右に折れようか、真直ぐ行かうかと思ひながら一寸右の通を見る。二三十間先きに美しい華《はなやか》な着物を着た若い二人の女が立ちどまつて、誰か待つてゐるやうだつた。……」  小説の、こんな無雑作きわまる書き出しというものは、これまで誰もやらなかったし、思いつきもしなかった。宇野浩二もまた、武者小路の小説の奔放自在の文体について、「武者小路氏の驚くべき文体が、私小説の或意味での元祖だと考へるのである」と言っている。  宇野浩二によれば、従来の私小説の見地からすると、ケタはずれの無茶な私小説ともいうべきもので、「自分」とか、「俺」とかいう独特の一人称で書いてあるものを読むと、これまでの自然主義の一人称のものと、ひどく趣のちがっているのに驚かされた。これまでの一人称小説では、その一人称の人物と作者との間が、かなり離れていたし、作者もそのように心がけていたようである。つまり三人称の小説を書くのと同じ態度であった。武者小路の小説にいたっては、小学校や中学校の作文を思わせるようなもので、文中の「自分」という主人公は、一読直ちに作者その人と思われるものであった。この「自分」という言葉は、私小説の発達と何等かの因縁があるかもしれないというのである。  このように、文章、手法からみても、書かれている内容そのものから言っても、ケタはずれに個性的、独創的なものであった。小、中学生の作文を思わせるところもあるが、おとなでいえば、日記とみるべき性質のものということができる。平面描写に腹をたてた根拠が、はっきり示されているわけである。重要なのは、これがまた、『白樺』創刊以前に属するということである。  志賀直哉についても、変るところはない。志賀直哉の的確で、緊密な文章のリズムが、生活自体のリズムにほかならないことは、改めていうまでもないだろう。文章というよりは、作品そのものが、その日記に直接つながっているといってよい。志賀直哉の青年時代の日記を一読すれば、このことは明瞭である。作品を決定し、それを内面から支えているのは、明らかに日記にしるされている作者の人間的生活的内容そのものである。生活そのものの忠実な記録などというのではない。仮構された主人公の場合でも、その感受性はまさしく作者自身のそれであり、作者はその感受性に信頼しきっている。日記に即してみればこうなる。——いま、試みに、手あたり次第開いた明治四十五年(一九一二年)四月二十八日の項には、自由劇場の「道成寺」に、「堪らず不快を感じた」ことが書かれている。五月四日は、「不快な日である」という書き出しで、「生田調《まま》介が新小説に出した小説に自分の事も書いてあつたのには不愉快を感じた」とある。つづいて、「自分は自分の周囲を書きつゝある事から周囲の人間が自分に不快を感ずる不快を我慢するか、又周囲を書く事をヤメルかしなければならぬといふやうな気がした。それが一層不快である」とある。五月七日には、有楽座の「マグダ」を見て、「不愉快を感じ」ている。翌八日には、帝国座を見物し、「面白くなかつた」と書いている。十日には「稲生は心細い気でゐるらしいが、それに自ら抵抗する為めのイヤにヒネくれてゐる点が、不快に感じられた」とある。稲生は友人の名前らしい。十四日は、太平洋画会に出かけているが、「彫刻を見ると不快に思つた」とあり、「無声会も百穂を除いては不快」とあり、表慶館の仏画には、「愉快」を感じたが、三越へまわって、そこの洋画には、「不快」を感じている。十七日には、「溜池のイヤナ牛肉屋へ行く」とある。十八日には、土曜劇場を見て、役者の人物に対するインタープリテーションの安価なのが、「愉快でなかつた」とある。二十日には、友人を訪ね、「前夜の父君の話、今朝の有島の話をきく。笑つたが不快」とある。二十四日の項には、「不愉快な日をつゞけてゐる事に対する不快を味はふ」とあり、翌二十五日には、「考へれば下らない一日に相違なかつた。然し不快のない一日であつた」とある。二十九日は、「長与の手紙に珍らしく自分と心持よく話したといふ事が一寸書いてあつたのが、非常に自分を不快にした」とある。三十日は、友人関係を考えると、「半パな不快に堪へられない」とある。——ざっと一カ月見ただけでこうである。どこまで行っても同じである。「不快」という言葉の出ないのは、記事そのものがすくなく、二、三行の日にかぎられている。こんな日記というものは、おそらくほかにあるまい。自然と人間、そのあらゆる接触関係において、「快」と「不快」のいずれかを嗅ぎわけて生きている、この異常な潔癖で、エゴイスティックな感受性、それに信頼することが生きることのすべてであるかのような生きかた、——志賀直哉の文学そのものが、それと切りはなすことのできないものである。  志賀直哉の文章が、体言型であることは広く承認されているが、体言といっても、具体的な場所の名、人の名、あるいは普通名詞が多く、抽象的な言葉はいたってすくない。更に、志賀直哉の文体的特徴として、言語学者の小林英夫は、「拘泥」もしくは、それと同類の語の頻出を指摘している。これは広津和郎の「志賀直哉論」で言及しているところでもあるが、この種類の語《ご》彙《い》をひろってみると、「不愉快」「不快」のほか、「拘泥」「愉快」「愉快でない」「厭」「嫌悪」「たまらなくなる」「堪へられない」「不安を感ずる」「気がとがめる」「気がさす」「気にかかる」「気になる」「気にならない」「苦しむ」「心を苦しめる」「いい気持」「晴々した気持」「不満」などの語彙がしきりに出てくる。また、「思ふ」「感じる」などもきわめて多い。こういう特殊な用語例が、しかも頻々と出てこない作品は、ほとんどないといってよい。このことが、さきに見てきた日記と、そのまま、直接のかたちでつながっていることがわかる。つまり、感受性が、そのまま文学に化しているのである。  志賀直哉が、回覧雑誌『望野』のために、短篇小説「或る朝」を書いたのは、明治四十一年(一九〇八年)一月であった。主人公の少年は信太郎という名前になっているが、作者の日記ふうのものとみることができる。正確にいうならば、明治四十一年一月十三日の朝の日記というべきものである。祖父の三回忌の法事の行われる朝のことで、七十三になる祖母は緊張して、家事の宰領をしている。孫の信太郎は昨夜おそくまで小説を読んでいたために、なかなか起床できない。祖母がいらいらして、幾度か起しにくる。信太郎はふてくされて起きようとしない。祖母はとうとう怒り出して、「不孝者」としかる。「年寄の云ひなり放題になるのが孝行なら、そんな孝行は真つ平だ」と信太郎はやりかえす。祖母は涙をふきながら、はげしく唐紙をあけたてして出て行く。もう起しに来まいと思うと、楽々と起きる気になれた。そして、あしたから、諏《す》訪《わ》あたりへ氷すべりに行ってやろうかしらなどと考える。諏訪なら、この間学生が落ちて死んだ。祖母は新聞でそれを知っているはずだから、心配するだろうなどと考える。そこへ祖母がやってきて、押入れの用箪笥から筆をとり出し、「これでどうだらう」という。「何にするんです」信太郎はむっとしている。「坊さんにお塔婆を書いて頂くのつさ」「駄目さ。そんな細いんで書けるもんですか。お父さんのはうに立派なのがありますよ」「さうか」祖母は素直にそう言って、元どおり筆をしまって出て行く。信太郎は急におかしくなる。苦茶々々にしてあった小夜具や敷蒲団をたたんだ。祖母のもたたんでいると、涙が出て、ポロポロ頬へ落ちて来た。間もなく涙はとまった。彼は胸のすがすがしさを感じた。……  「或る朝」の、おおまかな筋がきである。仲間との回覧雑誌に発表した、この短篇について、長々と書いたのは、ほかでもない。この一篇に、志賀直哉の文学全体の根本性格が、はっきり示されているからである。志賀直哉の文学は、どこまで行っても、この一篇に決定されたワクを出ない。「時《とき》任《たふ》謙作の阪口に対する段々に積もつて行つた不快も阪口の今度の小説で到頭結論に達したと思ふと、彼は腹立たしい中にも清々《すがすが》しい気持になつた」という書き出しではじまる「暗夜行路」も、例外ではない。  「或る朝」は、実際の日記だったら、「明治四十一年一月十三日。つまらぬことで祖母と衝突して不快。しかし直ちに和解できて快。」とでも出ているのではないかというのが、ぼくの推量であった。そこで、念のため日記をみると、「一月十三日。月。朝起きない内からお婆さんと一と喧嘩して午前墓参法事、午后、正親町訪問、夜、林来る、Cへ手紙と、十円だけ送る」とある。翌十四日は、「朝から昨日のお婆さんとの喧嘩を書いて、(非小説、祖母)と題した」としるされている。つまり、癇性の強い神経で、些細なことから祖母と衝突して不快だったのが、ふとしたきっかけで気持が直って、すがすがしさを覚えたという、私生活の一コマをとらえて、「不快」から「快」へのプロセスを書いたのが、「或る朝」であった。  宇野浩二が、武者小路について言ったように、これもまた、小、中学校の作文ふうな性格のものといえるが、この方式は、志賀直哉の、ほとんど全作品にわたるものであることは前途のとおりである。父との衝突から和解へとたどった「和解」も無論それであるが、これは「或る朝」の祖母とのいきさつのように、衝突の動機も単純でなかったから、和解に達するプロセスも容易でなかった。そのことが、「和解」をして、「或る朝」よりは、充実した作品たらしめている最大の理由とみていいだろう。しかし、「和解」に描かれたような、長期間にわたる根強い衝突、対立というものは、志賀直哉の私生活において、そんなに幾度もあるはずはない。そうなると、創作の動機と方式に根本的な変化がおこらないかぎりは、「和解」を越える作品は期待できないことになる。「暗夜行路」のような、作者にとって唯一の長篇であり、代表作でもあるものが書けたのは、主人公の出生の秘密というごとき宿命的な大問題が設定されたからである。しかし、作品そのものは、結局、志賀直哉の私生活における個々の「快」「不快」の総合ともいうべき性質のものである。主人公の出生の秘密という設定は、結果からみれば、その総合のための手がかりであり、条件にすぎない観がある。現に「阪口に対する段々に積もつて行つた不快」から書き出されていることは、象徴的といっていいほどのものである。「続創作余談」のなかで、作者自身が、「主人公謙作は大体作者自身、自分がさういふ場合にはさう行動するだらう、或ひはさう行動したいと思ふだらう、或ひは実際さう行動した、といふやうな事の集成と云つていい」と語っているが、その「行動」の実質内容は、その場、その場における作者の「快」「不快」にかかわるものに限定されている。これだけの長篇をくりひろげながら、つまりは、志賀直哉という一個人の「快」「不快」しか描かれていないということになる。どんな人物にしろ、主人公に「快」か、「不快」か、いずれかをもたらすものとしてしか、その面しか描かれていない。したがって、これらの作品には、厳密な意味で、独立した人間としては作者ひとりしか存在しない。本質的に人間の劇を欠いており、社会がぬきになっているということができる。  作者の感受性だけに終始して、他者との関係が正しく入りこむ余地のないところに、倫理はありえない。あくまで自己の感受性に執し、その意味での自己に忠実で、結局はエゴイズムがそのまま、倫理的と見えるまでの緊張を保っているとみられるふしがある。戦後の作品であるが、「蝕ばまれた友情」は、この事情を露骨なまでに示している。  里見の初期の作品に、「君と私と」がある。『白樺』の大正二年(一九一三年)四月号から、七月号にわたって連載された、志賀直哉との交友を中心にした自伝ふうのものである。明治四十三年ころ、つまり『白樺』創刊直前ころの志賀直哉が書かれているが、こんな一節がある。  「第一君は以前から善悪といふ言葉を余り使ひたがらなかつた。電車のなかなどで酔つぱらひがはたの人に無理でも云つて居るのを見たりすると、君は心から怒つて了つて、電車から引きずり下ろしても喧嘩する方だが、それほど正義の念の強い生れだが、それがいつも君のは自分の好悪の感情から出て居た。君の嫌なものは何んでも悪いものだつた。さう云ふ我儘な、私の考へて居た善悪などとはまるで別のものだつた。私のは貨幣のやうにどこへ持つて行つても通用するかはり、私の肌の浅さほどにも深い所から出て来るものではなかつた。私の心とは没交渉に鋳《い》られた型へ私は何んでも入れて見て居た。  私はもう泣きつ面ばかりはして居なかつた。泣き言も聞かせなくなつた。そのかはり、今まで大切にして居た貨幣を見失つてしまつた。」  好悪の感情がそのまま善悪の判断にむすびつく、というのは、周知のように、「暗夜行路」のなかの時任謙作の言葉であるが、すでに大正二年(一九一三年)に、里見がそれを志賀直哉について言っているのである。志賀直哉の倫理観がどういう性質のものかは、もはや贅言する要はあるまい。里見の、やがて『白樺』から離れて行った事情がこのあたりに根ざしているかを思わせるものがある。ともかく、このはげしい爆発性をもつ感情に基づく志賀直哉の文学は、やがてどんな道をたどるだろうか、それを危惧すべき可能性の問題として指摘したのが、前記の広津和郎の「志賀直哉論」であった。  「『クローディアスの日記』『范の犯罪』の時代から較べると、近頃の作『好人物の夫婦』『ある親子』等の底に流れてゐる氏の心持には、余程の変化が見られる。その心持の変化、推移は理解出来ないことはない。烈しい性格の爆発性に加へて、ああした鋭い感覚と神経とを持つてゐる氏に取つては、この人生のあらゆる事象は、喜びよりも寧ろ苦しみを与へる事が多いに違ひない。快よりは不快を与へる事が多いに違ひない。眼を見開けば、見えるものの多くが不快の種であり、憤りの種であるに違ひない。——氏はさうした不快や憤りから起る爆発の火に、みづからを焼くことの苦痛を余りに知り過ぎたに違ひない。氏はさういふものをなるたけ見たくないに違ひない。見ないで済めば、それだけ平穏な気持で過すことが出来るからである。実際、今や氏の見たいと望むものは、さういふものとは全然反対のものであるらしい。醜でなくて美、不調和でなくて調和、不自然でなくて自然、戦でなくて平和、動でなくて静……そしてこの要求から、氏には一種のセンチメンタリズム、複雑を通り越して単純を求める一種独特の志賀直哉的なセンチメンタリズムが湧いて来たのである。」  広津和郎の「志賀直哉論」の書かれたのは、大正八年(一九一九年)である。志賀直哉についての定評ともいうべきものは、これによって決定されたといえる。その後、現在まで、さまざまの志賀直哉論が書かれているが、根本的にはこの論を出るものはない。その無類の長所と、それの内包する弱点を明らかにして、あますところがない。このころになると、「剃刀」(明治四十三年六月)、「老人」(四十四年十一月)、「正義派」(大正元年九月)、「クローディアスの日記」(同)、「清兵衛と瓢箪」(大正二年一月)、「出来事」(二年九月)、「范の犯罪」(二年十月)、「赤西蠣太」(六年九月)、「小僧の神様」(九年一月)のようなすぐれた、本格的な短篇小説は、次第に書かれなくなって、本質的には生活記録に類する作品が多くなり、しかも、それの実質が、広津和郎の指摘したごとき変化を見せるようになって行ったのである。  以上のことは、たとえば「和解」について、「父と自分との間に実際起り得る不愉快なことを書いて、自分はそれを露骨に書く事によつて、実際にそれの起る事を防ぎたいと思つた」と語っていることを考え合せるならば、いよいよ納得できるはずである。この私小説家は、私生活の危機を克服した経験を再現するにとどまらず、私生活に決定的な危機のおとずれるけはいのあるときは、先まわりして、自分の文学を危機回避に利用することさえ、あえて辞さない生活人だということである。こういう「用意周到の警戒性」が、その文学に「独特の風格と強味」をもたらしていると同時に、「一種独特の志賀直哉的なセンチメンタリズム」の潜入してきたことも広津和郎は敏感に指摘しているのである。この「用意周到の警戒性」が極端に達した場合を、「邦子」にみることができる。妻に自殺された夫の手記というかたちのこの作品は、作者のいうように、「存分に作つた小説」にちがいないが、作者の私生活とつき合せてみれば、「山科の記憶」「痴情」などに書かれた作者身辺の経験を、極端に変形したものであることは明瞭である。それを、夫の情事を知った妻の自殺、それに対する夫の後悔というかたちで書いているのである。こうなると、「用意周到の警戒性」どころではない。この作りものの私小説の酷薄なまでのエゴイズムにはおどろかざるをえない。徳田秋声の「仮装人物」を思い合せれば、それとこれとは、そっくりうらはらの性質のものということができる。私小説の創作動機が、これほど対蹠的な性格を示している例はあるまい。  年齢による人間的円熟と、作家的成功による環境の変化によって、志賀直哉の「快」「不快」が、漸次はげしさを失っていくのは当然のなりゆきであり、一方、「用意周到の警戒性」を思えば、小説家であるより前に生活人であり、感受性にたよって思想の抽象性を排除してきた私小説家にとって、このことが何を意味するかは明瞭であろう。  志賀直哉にくらべると、武者小路は、すでに見てきたような共通の面をもちながらも、一面大きなちがいを見せている作家であることを認めないわけにはいかない。志賀直哉が、その本質において生活人だとすれば、これは夢想家とでもいうべきであろう。武者小路の小説、戯曲、詩、随想は、本質的には区別することのできないものがあるが、その基礎となっているのは対話であり、全作品がそのまま巨大な「対話篇」になっているとは、亀井勝一郎の説である。これはある意味では文学の原始形態であり、武者小路という思想詩人にとっておそらく必然の形式ではないかというのである。これは、文学、哲学、宗教などの未分状態、いわば根源的なものを表現するにふさわしい形式であって、そういう意味での原始性が武者小路の文学の根本特徴ではないかと言っている。この特色は、戯曲において縦横に発揮される。近代劇のわずらわしいリアリズムから解放され、単純化された狂言形式を駆使して、天馬空をゆくごときその脚本は武者小路独特のものである。「人間万歳」は、天使が「神様」と呼びかけ、「なんだ」と神様が答えるところから幕があげられる。これがすでに武者小路の世界である。問題は作品が対話的というようなところにあるのではなく、武者小路の発想そのものが対話的なところにある。武者小路の対話の相手は、あるときは自分であり、あるときは神様であり、天使であり、釈迦であり、だるまであり、ロダンであり、レンブラントである。社会、時代、民族にかかわりなく、時空を越えての対話である。その人間的成熟とともに、これらの対話が妙を加えてくるのは当然であろう。志賀直哉の傑作の多くが青年期に書かれているのに対して、武者小路のそれが必ずしも青年期にかぎられず、たとえば、はるかに戦後、「真理先生」のような作品のあるのは偶然ではない。  もとより思想というようなことになると、格別新しい展開を示したとか、新たに何かが加わったとかいうものではない。もともと武者小路の思想なるものは、思想といえるかどうかさえ疑問であろう。おどろくばかり楽天的な人間肯定は、否定的な面の強い近代思想からみれば、あまりにも異質的である。また、単純というなら、これほど単純なものはありえないといってよい。だが、古井戸に水絶えず、汲めども湧いて、いよいよ澄み、いよいよ豊富である。時代、環境がどう変ろうと、いささかの変りもない。周囲が急速に変っていくので、変化のないのが、逆に新しいといったふうの印象が、ついてまわるのである。その長い文学的生涯において、何度となく、時代の騒音のなかに忘れ去られたことがあったが、うつろい易い時代の好尚が過ぎ去ると、ふたたび新しい生命感をもってよみがえってくるのであった。この生得の夢想詩人は、半世紀以上にわたって、自分の世界を歌いつづけて飽きることがない。このことは無名の一青年の「お目出たき人」が、そもそもそういうものだったことについてはすでに書いた。あたかも、相前後して、同じく無名の一青年が、仲間うちの回覧雑誌に発表した「或る朝」が、志賀直哉の文学の原型であったように。そして、いずれも『白樺』創刊以前の出来事であった。  ここで、もう一度くりかえすならば、『白樺』の創刊は、明治四十三年四月であった。その二カ月前には、「お目出たき人」が脱稿されていた。二年前の四十一年四月には、単行本「荒野」が自費出版されていた。そのなかの評論、「人間の価値」には、「この文章は学校で演説しようと思つて書いたものです」という但しがきがつけられている。それは、次のようにはじめられている。  「この演題は余り大きすぎます。もし自分があと百年生きられたら、百年の間この問題について考へたいと思つてゐます。千年生きられても矢張りこの問題について考へたいと思つてゐます。そして考へた結果をあらゆる方法を尽して世間に知らせたいと今の私は思つてゐます。されば自分は今後幾年生きるか知りません。しかし生命のある間この問題に就て考へ、その結果を世の中に発表したい、言葉を換へて云へば人間の価値を人に知らすことを自分の天職にしたいと思つてゐます。この問題について私の今日語り得る処は誠に憐で御座いませう、しかしこの問題に対する私の態度は何処までも真面目であると云ふことを承知してください。……わかり易く云へば良心の命ずる処をふむことによつて真の快楽を得る、即ち真の利己を謀ればそれが人類の為になるやうに人間が作られてゐる処に人間の価値があるのですと。」  評論「人間の価値」と、小説「お目出たき人」と、ここに、はっきりと武者小路がおり、その文学がある。これは現在のそれと本質的に変りはない。志賀直哉の「或る朝」が、四十一年一月の作であったことはすでに書いた。同年八月には「網走まで」を書き、九月には「速夫の妹」、十二月には「荒絹」を書いている。四十二年一月「子供四題」、二月「鳥尾の病気」を書き、四十三年四月、『白樺』に二年前に書いた「網走まで」を発表している。ここに、厳として志賀直哉がおり、その文学がある。これも現在まで変るところはない。これはおどろくべきことである。  このおどろきがどんなものかを知るためには、『白樺』の創刊された明治四十三年の日本文学をもう一度ふりかえってみるだけで充分であろう。すなわち、島崎藤村「家」、田山花袋「縁」、岩野泡鳴「放浪」、徳田秋声「足迹」、正宗白鳥「微光」、近松秋江「別れた妻に送る手紙」、森鴎外「青年」、夏目漱石「門」、長塚節「土」、谷崎潤一郎「刺青」などが発表された年であった。鴎外、漱石を一応除外すれば、谷崎潤一郎のほかは、自然主義の作品によって占められているといってよい。こういうなかで、『白樺』が創刊されたのである。自然主義文学の最盛期をかざるこれらの諸作に抗して、宇野浩二のいう、小中学校の作文ともみられる「或る朝」や「お目出たき人」が自信をもって対置されたことこそ新しい文学の出発にほかならなかった。  『白樺』のおもな同人は、さきに書いたとおりだが、やがて、郡虎彦と同級だった長与善郎、一高からは小泉鉄が加わった。つづいて、岸田劉生、千家元麿、おくれて近藤経一、犬養健、尾崎喜八、倉田百三らが仲間入りした。更に『白樺』周辺に集った西洋美術家としては、有島生馬、児島喜久雄、岸田劉生のほか、高村光太郎、山脇信徳、南薫造、斎藤与里、梅原竜三郎、富本憲吉、津田青楓、木村荘八、河野通勢、中川一政、椿貞雄、バーナード・リーチなどを数えることができる。『白樺』が文芸雑誌であると同時に、美術雑誌でもあったことがうなずけよう。こういう多彩な顔ぶれを集めながら、全体として、新鮮な個性をもちえたところに、『白樺』の特色があった。その統一の中心が武者小路であったことは周知である。  「自分の一番自信のあるのは、人間としての自分である。特殊な人間、専門的人間とせず、たゞあたりまへの人間として、つまり幸福な楽天家としての自分に自信がある。」  武者小路が、「自画像」でこう書いているように、天性無類の楽天家であり、自信家である武者小路が中心人物だったことは、『白樺』にとって決定的なことといってよい。「自分の人生観は二十六七歳の時から変化はしてゐない」とは、武者小路の六十歳近いころの言葉であるが、二十六七歳どころか、明治四十年(一九〇七年)、二十三歳で書いた前記「人間の価値」で、「真の利己を謀ればそれが人類の為になるやうに人間が作られてゐる処に人間の価値があるのです」と書いて以来、変りはない。武者小路の人生観というのは、自己を生かすということ、それが直ちに「人類の意志」に合致するということ、そのように「人間が作られてゐる」ということである。武者小路にとっては、個性即人類であった。「食ふことを卒業した」かれらにとって、人生とは自由に思索し、鑑賞し、表現し、恋愛することにほかならなかった。個性を生かすとは、このように考えられた、かれらの人生を全幅的に実現することを意味する。それが同時に、「人類の意志」を生かすことでもあった。個と全体との調和を、これほど素朴に信じたものはほかにはない。「個人とか、個性とかを通して人類の意志を生かすなぞと云ふことは今の人の見当もつかない点だと思ふ。しかし其処がわからないでは白樺の運動のことはわからない」とは、同じく武者小路の言葉であるが、まったく今の人の見当もつかないことにちがいない。だが、大正四、五年から八、九年にかけての日本の社会は、白樺派の運動が展開されるにふさわしい条件をそなえていた。個人を生かすことが、そのまま、「人類の意志」に合致するというごとき、底ぬけの楽天主義に基づく文学運動が、社会から孤立するどころか、その徹底的な自己肯定と自我充足のゆえに危険視され、むしろ社会運動でさえありえた事情を見のがすわけにはいかない。第一次世界大戦による未曽有の好景気のなかで、成金という新語が氾濫した。社会の安定が半永久的に保証されているかのごとき錯覚は、「時代の閉塞」に目を掩わしめるに充分であった。国家も社会も民族も捨象して、個人が人類に直結するという夢想が、社会的な地盤をもちえた時期ということができる。  「白樺」の運動について知ろうとする場合、かれらのヨーロッパ近代美術への傾倒を見おとすわけにはいかない。その一端を知ろうと思えば、『白樺』大正七年(一九一八年)一月号の厖大なロダン追悼記念号を一瞥するに如《し》くはない。あるいは、大正八年三月号に出た次号予告に目をやるだけで充分かもしれない。それにはこうある。  「挿絵の方は今迄白樺で出して来た人達の中の二十一人の芸術家の作品を一つ宛と外に文学者の肖像を十二人だけ入れることにした。絵画及び彫刻の方はフラアンジェリコとデューラーとゴオホの三人のものを着色版にし、其他ジオット、マンテニア、ボッチチェリ、レオナルド、ミケランヂェロ、ティントレット、ドナテロ、ファンアイク、グレコ、ルーベンス、レムブラント、ブレーク、ゴヤ、ドラクロア、ミレー、シャヴァンヌ、セザンヌ、ロダンの十八と、肖像ではワグネル、ベルリオ、ヘッベル、ユーゴー、イブセン、ホイットマン、ドストエフスキー、トルストイ、ストリンドベルヒ、ヴェルハアレン、メーテルリンク、ロマン・ロランの十二人の予定になつてゐる。」  普遍的教養のおどろくべき拡大であり、コスモポリタニズムへの熱烈な信仰を語るものにほかならない。  もっとも、「人類の意志」などを説いたのは、白樺派のなかでも、武者小路のほかにはない。「白樺」の運動についての上記の規定は、あまりに武者小路自身に即しすぎたきらいのあることは否定できない。同人のなかでも、志賀直哉、長与善郎、有島武郎、里見と挙げてくれば、武者小路とまるでちがった個性をもつ作家であることはいうまでもない。だが、「白樺」の運動という場合、いきおい武者小路が中心になるのは、この運動が武者小路の個人的魅力と、その実践力に大部分を負っているからである。志賀直哉は運動そのものには積極的でなく、有島武郎は批判的であり、里見は大正五年ころには、仲間を遠ざかり、やがて久米正雄、吉井勇らと『人間』を創刊するのである。武者小路を中心とするこの運動の進行につれて、これらの作家たちは、それぞれの個性を成熟せしめたのである。武者小路が「新しき村」を創設したのは、大正七年であるが、そのころまでの、かれらの作品のおもなものをあげれば、次のようである。  武者小路では、前出のほか、「世間知らず」(大正元年十一月)、戯曲「わしも知らない」(三年一月)、同「その妹」(四年三月)、同「或る青年の夢」(五年三月—十一月)など。  志賀直哉のものでは、同じく前出のほか、「大津順吉」(大正元年九月)、「城の崎にて」(六年五月)、「好人物の夫婦」(同年八月)その他。  長与善郎には、一女性に対する真摯な恋愛を描いた自伝的小説「盲目の川」(大正三年四月)のほか、戯曲「項羽と劉邦」(大正五年九月)の大作がある。これらによってうかがえる、その正義派的、意志的な資質は、武者小路とならんで、彼を白樺派の闘士たらしめた。代表作としては、後年の長篇「竹沢先生と云ふ人」(大正十三年四月)を挙げるべきであろう。  里見は、「善心悪心」(大正五年七月)によって、独自な作風を確立した。放蕩生活に甘んじえない気持を抱きながら、いよいよ耽溺せざるをえない自己嫌悪を描いた自伝的な小説、「妻を買ふ経験」(六年一月)は、白樺派の有力な支持者、和辻哲郎をして、「日本一の心理作家」と激賞せしめた作である。ほかに、「銀二郎の片腕」(六年二月)、「三人の弟子」(同年三月)の好短篇があるが、代表作ということになれば、のちの「多情仏心」(大正十一年十二月—十二年十二月)であろう。  有島武郎は、のちに改作改題して、「或る女」前篇(大正八年三月)となった「或る女のグリンプス」を、明治四十四年から大正二年へかけて、『白樺』に連載した。ほかに、「宣言」(大正四年七月—十二月)、「カインの末裔」(六年七月)、「迷路」(同年十一月)、「小さき者へ」(七年一月)、「生れ出づる悩み」(同年四月)などが、この時期に書かれている。 *  乃木大将の殉死を「興津弥五右衛門の遺書」というかたちで受けとった鴎外については、さきに書いたとおりである。その「興津弥五右衛門の遺書」が、『中央公論』に発表されたのは、大正元年(一九一二年)十月であった。ついでにいえば、同じ雑誌の九月号に、殉死した乃木大将を「馬鹿な奴だ」ときめつけた志賀直哉が、「大津順吉」を寄稿、はじめて稿料をもらった。  鴎外の歴史小説の第一作が発表された大正元年十月に、一方では、大杉栄、荒畑寒村らによって、『近代思想』が創刊された。のちに自伝「ひとすじの道」(昭和二十九年刊行)のなかで、荒畑寒村は、次のように回想している。  「七月の初め、私は大杉から雑誌発行の相談をうけた。いかに圧迫が酷いからといつまでも無為には過せない、徒《いたず》らに運動復興の機運をまつよりもむしろ進んでその時期を創るべきだ、自由に時事問題を論ずることはもとより困難だが、せめて文芸や思想の抽象的な問題を論ずる雑誌を発行して、同志が再起する中心を作ろうじゃないか、と云うのである。私に不承知のあろうはずがない、創刊の費用は大杉が才覚して九月発刊の準備を進めている間に明治天皇が崩じ、改元して大正元年十月一日にやっと第一号を出した。題号は『近代思想』、保証金を入れない非時事雑誌で、三十二ページ、定価金十銭という薄っぺらなものではあったが、とにかく大逆事件以後、沈黙雌伏を強いられていた社会主義者が運動史上の暗黒時代に、微かながらも初めて公然とあげた声であった。  『近代思想』の寄稿者には、堺(利彦)、高畠素之、小原慎三らの社会主義者もあれば、安成貞雄のような社会主義的文芸批判家もあり、新劇の伊庭孝、上山草人。早稲田派の生方敏郎、佐藤緑葉、相馬御風。慶応出身の和気律次郎。歌人では土岐哀果、若山牧水、安成二郎。大家の上司小剣、久津見蕨村。廃刊号の誌上には小山内薫や岩野泡鳴までが一文を寄せている。  堺さんがショウ劇の翻訳や解説を発表したのも、安成二郎君が、〈豊葦原のみずほの国にうまれ来て米が食えぬとは嘘のよな話〉のような、今日では既にほとんど古典化している秀歌を発表したのも、『近代思想』の誌上であった。顔ぶれが多彩のように誌面も雑色で、思想的な統一のある筈もなかったが、しかし清新な意気と批評的な精神とは、文壇の時流をぬく特長をなしていたのである。『近代思想』には当然、大杉や私の書いたものが多くのったが、特に大杉の発表した論文には、生の拡充とか、生の創造とか、自我の自由と解放のための社会的闘争というテーマが、彼の強烈な個性に裏づけされていた。彼は後にその論文集を『生の闘争』、『社会的個人主義』と題したように、その主張は非常に個人主義的な色の濃い、むしろスティルナー流のアナーキズムに傾いていた観がある。  個人の自由とか解放とかいう観念は当時の文壇の顕著な一傾向であって、雑誌『青鞜』いわゆる新しい女のグループが個性の完成を唱えたのも、相馬御風氏が自我の生命の燃焼などを唱えたのもその現われだと思えるし、『白樺』派の傾向にもそれが窺えると思う。私たちはもとより文壇のこういう傾向に同情を吝《おし》まなかったが、しかしこれらの人々が社会と個人との関係について深い認識を欠き、社会制度の改革の外に個性の完成や、自我の拡充が可能だというような古くさい、二元論的な、個人主義的な観念を脱しないのには、失望せざるをえなかった。私たちの批判が彼らの抽象的な、観念的な主張に向けられたことは勿論で、私は多くの小説についてその社会的関心の欠如を攻撃するし、安成は精緻鋭利な論法で特に御風君などの精神主義に批判を加えたため、文壇の一部には多少の衝動を与えたらしい。」  荒畑寒村によるこの回想は、『近代思想』についてのすべてを語りつくしている。もとより文芸雑誌の発行が目的だったのではなく、大逆事件をきっかけに息の根を絶たれたにもひとしい社会主義運動復興の機運をつくり出すために、「せめて文芸や思想の抽象的な問題を論ずる雑誌」を出すことによって、同志再起の中心をつくろうというのである。そういうやむをえない方便からではあったが、かれらの文芸に対する理解が透徹していたため、文芸雑誌の仮面をつけた運動の機関誌ではなく、結果として、文芸運動としての歴史的な役割を担う意味をもちえたのである。  大杉栄は赤旗事件で四度目の入獄中であったため、あやうく大逆事件連坐をまぬがれた。早くからクロポトキンの影響が強く、無政府主義の立場を持していたが、獄中でトルストイやドストエフスキーなどロシヤ文学にも親しんでいた。白樺派に対しても、支持すべき一面と、批判すべき他の面とをはっきりさせることによって、自分の批評的立場をおし出しているあたり、白樺派についてみても、広津和郎とともに、もっとも正確な理解を示している。志賀直哉の「大津順吉」や「正義派」、武者小路の「世間知らず」など、白樺派初期の作品に、いち早く共感を示したひとりであった。大正七年(一九一八年)の「最近思想界の傾向」では、生田長江その他の白樺派攻撃を批判しつつ、こう書いている。  「白樺派の諸君は、最初から其の熾《し》烈《れつ》な個人主義的感性と共に、人道主義的熱情を併せ持つてゐた。そして此の後者は今回の大戦の勃発以来頓《とみ》に其の色彩を濃くして来た。斯くして白樺派の諸君が人道主義者の名を以て呼ばれるやうになつたのは一昨年か一昨々年の頃からである。  此の人道主義には謂はゆる人道主義者等の明確な主張があつたのでもない。又彼等を推奨し若しくは罵倒した人々の間にも謂はゆる人道主義に就いての明確な概念があつたのでもない。人道主義の代表者と目せられる武者小路実篤氏すらも、『人類の運命を狂はせない為めには個人が守らなければならない道があることを信じ、この道にはずれないで生きることを人間に(自他ともに)要求する主義だと思ひます』と云つてゐるに過ぎない。要するに此の人道主義は、一個の主義主張と云ふよりも、寧《むし》ろ一個の主義主張に成長せんとする一精神である。  然るに此の人道主義を一精神として見ないで、一主義主張と認め、其の幼稚と単純と曖昧とを罵つた多くの人々がある。生田長江氏は『自然主義前派の跳梁』によつて其の代表者とも視らるべき人であらう。……此の生田氏に及び其の他の多くの人々に白樺派の人々の謂はゆるおめでたさが、馬鹿気切つたものに見えた事には、無理はない。しかし人道主義者等の云ふ正義や人道は決して生田氏及び其他の多くの人々の云ふが如き単なる言葉ではない。それは確かに一個の精神である。  生田氏及び其他の多くの人々にも人道主義的な精神はある。しかし其の精神は、武者小路氏のそれに比して、果してどれだけ明確な主義主張としての成長があるか。」  こう論じた上で、「武者小路氏の正義とか人道とかを解剖する事が今の文壇の急務だ。これは武者小路氏自身にとつても急務だ」という広津和郎の説を引用している。要するに武者小路を代表とする人道主義者たちは、精神を握ったことは確実だが、それの内容をほとんどまったく明確にしていないというのである。  大杉栄は、『近代思想』に接近し、もしくはその周辺にあった多くの作家、評論家——小川未明、秋田雨雀、生田長江、馬場孤蝶、安成貞雄に対しても、これと同様の態度で、柔軟性のある鋭い批判を加えた。わけても、自然主義の論客でありながら、前節でみてきたように、いち早く内的な矛盾と動揺をおおいえなかった相馬御風にもたらした大杉栄の影響は甚大であったらしい。  大正二年(一九一三年)十一月の『読売新聞』に、相馬御風は、「人間性の為めの戦ひ」という一文を寄せたが、それは小川未明の新著「廃墟」を批評することによって、最近の自分の主張をおし出すというかたちのものであった。「廃墟」は、「物質力と暴圧力の為めに極度に虐《しひた》げられつつある哀れな人間の叫び声」、つまり、「主観的には物質以外に彼等の生活を導く何物もなく、客観的には物質生活の労苦以外何者もなき、現代の最も烈しく圧迫された階級の苦しいうめき声」を表現したものだというのである。そこから、現代の社会組織は、誤ってつくられたものであって、これとの戦いがすでにはじまっている、まさに時が来たのだ、として、「廃墟」の作者に、「今や一刻も早く進み出でて此の新しい戦に参加しなくてはならぬ」と警告しているのである。明治四十年には、「主観と客観との融合」などという一種の心境にはまりこんでいた自然主義理論家が、こういうところまで進出してきたことは、大正二年三月、近代思想社の晩餐会に島村抱月と一緒に招かれ、「芸術と実行」という問題をめぐって、議論を戦わしたこと、同年八月号の『早稲田文学』に発表した御風の「生命力の霊感」が、翌月の『近代思想』で荒畑寒村によって批判されたことなどをぬきにしては考えられない。  こういう御風に対して、大杉栄は、翌大正三年一月の『近代思想』に、「時が来たのだ」と題して、激励的な批判を加えた。小川未明への批評に示された主張の根本は、「此の根本的な個人革命と同時に、吾々は更に現代のあやまりつくられたる社会組織に向つて根本的な革新を要求する。物質の力を人間性の力以上に置かうとしてゐる現代の社会組織の革新を要求する」というところにあるが、この点にこそ、「僕の喜びと疑ひ」が存するというのが、大杉栄の意見である。結局は、個人革命と社会革命との同時遂行という問題にほかならない。これは、大杉栄が『近代思想』で、力説してきたテーマであって、「鎖工場」(近代思想・大正二年九月)「生の創造」(同・三年一月)など、その代表的なものとみることができる。だから、この点で、御風のなかに、「友人」を見出した喜びを感じないわけにはいかないというのである。自我の尊敬とか、生の創造とかいうことは、このころの思想界や文壇の論議の焦点となったかの観があるが、その「自我」や「生」の内容にいたっては、甚だあいまいであった。だが、一代の精神が人間の根本にむかってきたということは、大杉栄によれば、「僕等自我論者にとつて、歓喜に堪へない現象」だというのである。同時にまた、これら自我論や創造論やが、ほとんど流行的に主張された原因の一面に、「僕等の平素最も嫌悪する逃避的態度」を見出さざるをえないところに、大杉栄らの疑問と不満があったわけである。いま、相馬御風は、そういう、あいまいな地点から、一歩をふみ出したかに見える。それというのも、「恐らく君も、社会革命を無視した所謂個人革命の遂に仇花に終るべき事を知つたのであらう」が、それにしては、現代の社会組織が、「物質の力を人間性の力以上に置かうとしてゐる」とか、この原因を、「近代に於ける物質的文明の急に拠る進歩が主なる原因であるか、或は人間の物質的欲望の過度な増大と云ふ事の方が第一の原因であるか、その何れにしても……」というような、依然としてあいまいなところにとどまっているのはおかしい。「本当に時が来たのだ。未明君がもつと明るみへ出なければならぬと同時に、君も『黎明期の文学』や『第一歩』から、真昼間の生の闘ひの中に、第五歩第六歩の中に踏み出さねばならぬ時が来たのだ。御風君、僕が君の中に見出した友人は、本当に僕の友人なのだらうか。僕が君に聞きたいのはこれだ。」  これに対してふたりの間に再度応酬が交されたが、結局は、双方とも同じことのくりかえしに終った観がある。だが、この論争が御風に与えた影響は決定的であり、御風を通じて、抱月や本間久雄、片上天弦など、早稲田派の、かつての自然主義論者に及ぼした影響も見のがすことはできない。正宗白鳥の「文壇五十年」によれば、御風が故郷の北陸糸魚《いとい》川《がわ》に隠退したのは、「アナキスト大杉栄などの仲間にまき込まれる事を恐れたためではあるまいか」とみているようである。  『近代思想』については、理論家としての大杉栄のほかに、作家としての荒畑寒村の活動を逸するわけにはいかない。寒村は、『近代思想』にほとんど毎号短篇小説を発表しているが、なかでも、大正元年十二月号の「艦底」は、まとまった好短篇である。横浜に生れ、造船工をしながら独学して、社会主義の運動に加わって行った作者の、青年時代の体験に取材したものであろう。少年労働者の疑問と反抗が、観念的なものにとどまらず、生活に密着した実感のなかにとらえられているために、いまでも読むに堪えるだけの現実感をもっている。軍艦の艤装工事で肺をわるくし、郷里へ帰っていく少年労働者を点出しているところに、後年のプロレタリア文学とは、おのずから別種のおもむきを示している。  大正二年九月の『生活と芸術』創刊号に発表した「逃避者」は、大逆事件につづく反動時代における転向者、非転向者の群像のスケッチともいうべきもの。堺利彦、山川均、大杉栄、守田有秋らがモデルとみられている。  なお、赤旗事件や大逆事件を回想したすぐれた私小説「冬」(大正三年一月)、「夏」(同年九月)のほか、「光を掲ぐる者」「父親」などの作がある。  『近代思想』に載った小説としては癈兵慈善事業の偽善を暴露した荒川義英の「癈兵救慰会」(大正三年七月)のごとき作のあったことも忘れてはなるまい。  ところで、大正二年七月号の『近代思想』で、木や土岐哀果の短歌を評した寒村は、最後にこう書いている。  「革命の軍歌としての文学詩歌、僕はそんなものは信じない。必要だとも思はない。社会革命は労働者の力だけで沢山だと思ふ。だから、木と哀果とが、(と云つても、一人はもう居ないが)更に進んで全然アナーキスチックな詩人になつたとしても、若し単に文学の上、思想の上、文字の上だけのアナーキストに止まるならば、何の関係もないと思ふ。然し木の此の歌を見、彼の詩を読んだ僕は、木がもう些《すこ》し生きて居たならば、文学に満足する事能《あた》はずして、吾々の間に来るか、若くは単独でか真に革命運動を起したらうと思ふ。……」  また、大正三年五月号の同誌巻頭には、大杉栄の「智識的手淫」なる一文が発表された。  「読者諸君の多くもご同様の事だらうと思ふが、寒村と僕とはもう、此の雑誌のやうな intellectual masturbation(こんな英語があるかないか知らんが、訳すれば知識的手淫とでも云はう)にあきあきして了つた。吾々の情慾の、しかも極めて強烈な情慾のある以上、それは何等かの方法をもつて、常にもらされなければならぬ。masturbation も時によつては、必須事である。けれども僕等は、僕等に取つての此の不自然事に、つくづく厭気がさして来た。僕等の自然事に帰らなければならぬ。  此の意味から、僕等はもはや、今のままの『近代思想』の発刊を続けて行く事が出来なくなつた。形式も内容もまるで一変させなければ、もう承知が出来なくなつた。bourgeois 青年を相手にして、訳のわからぬ抽象論をするかはりに、僕等の真の友人たる労働者を相手にして、端的な具体論に進みたい。  なつかしき、しかしけがれたる此の『近代思想』は、第二巻を以て其の最後としたい。そして来る十月から、違つた名の、違つた性質の、新しい雑誌として再生させたい。……」  いずれも文学に対する不信の表白である。「個人革命と同時に社会革命を主張する」という立場からの文学運動が、『近代思想』を中心にして、もっと積極的に広く展開されたら、おそらく大正文学は現在とはちがったものになったのではなかろうか。『近代思想』によって企てられた「芸術と実行」との独自な統一は、早くも分裂し、文学の新しい可能性はつみとられたのである。かくて、「個人革命と社会革命」の問題は、三十年あまりを距てて、第二次大戦後の、荒正人、平野謙らの『近代文学』によって、そのままのかたちで引継がれるのである。  大正元年(一九一二年)十月創刊の『近代思想』は、かくて、大正三年九月まで、二十三冊を刊行して廃刊となった。大正四年十月、宮島資夫を発行人として、復刊されたが、発禁の連続で、大正五年一月、四号で廃刊された。なお、『近代思想』創刊のとき、大杉栄は二十八歳であった。すなわち、第二次西園寺内閣が倒れ、桂内閣の成立によって、憲政擁護運動がおこり、議会での政府弾《だん》劾《がい》に呼応し、院外では群衆と警官が衝突した。政府支持の新聞社が焼打され、軍隊の出動を見た。大正二年二月、桂内閣の後をうけた山本権兵衛内閣は、大正三年一月、シーメンス事件でつまずき、群衆は警官隊と衝突、流血の惨事をおこし、軍隊の出動によって辛うじて鎮撫された。七月には、世界大戦が勃発した。かくて、大杉栄、荒畑寒村らは、「僕らの自然事」に帰って、十月十五日、月刊『平民新聞』を発行した。四六倍判十ページ、定価三銭五厘という小新聞であったが、初号から連続発売禁止になった。  『近代思想』廃刊号に載った相馬御風の評論「人間主義」は、大杉栄に呼びかけたものであるが、『近代思想』の文学運動の性格を正しく伝えているように思う。その結論とみられる部分を引用すれば、  「……君が若し人類全体の幸福とか共通善とか云ふやうな空漠な縁遠い義務的観念の為めに社会革命などを叫び廻る人であつたなら、僕等は君の言説が如何に現実的に見えてもそれには決してだまされなかつたであらう。併し君は君の評論集『生の闘争』を自覚し、之れを肯定し、その絶えざる闘争の緊張そのものを味ひつゝ生きることそのことに、君自身の生活の最大価値を認めて居る、強い自我主義の上に立つた本当のリアリストである。君の社会批評なり、社会革命の主張なりが、単なる観念的言説でないのは、その為めである。手段と目的とを区別したり、結論と過程とを別にして考へたりするやうな旧式な社会改良家でない点に、君の本当の強味がある。社会革命家としての君がソーシャリズムよりはアナーキズムを、アナーキズムよりはセンヂカリズムにより多くの親しみを持つのは、その為めではないか。君の歩む生活の一歩々々が、同時に全体の君の生活であるべき事が、君の求むる緊張生活であると僕は思ふ。而してその故にこそ闘争を以て生の本体となすところの君の主張が僕等に強き共鳴を与へるのだと思ふ。その点に於て君は実にリアリストであると同時に、アイデアリストである。充分なる意味に於ける人間である。僕は此の最も積極的な人間主義を君のうちに見出した事を、何より愉快に思ふ。」  大杉栄、荒畑寒村らが、文学を去って実行へ赴くにつれて、御風のいう「社会思想」流の「人間主義」を文学の上に実現する可能性が絶たれ、「人類全体の幸福とか共通善とか云ふやうな空漠な縁遠い義務的観念」に立脚する武者小路を中心とする白樺派の文学が主流となるのであって、ここに大正文学の性格が形成されたのである。  なお、『近代思想』廃刊号に、月刊『平民新聞』、生活と芸術の一体化を目ざす、土岐哀果らの『生活と芸術』、婦人解放を標語とする『青鞜』、武者小路をはじめ長与善郎、千家元麿、岸田劉生ら白樺系の『エゴ』——いずれも共通する一面をもちながら、それぞれのちがいのある、この四誌の広告の出ているのは、世界大戦のはじまった直後の、日本文学の一面をうかがうことができて興味がある。 *  大正五年(一九一六年)前後の、宮島資夫、宮地嘉六らを中心とするいわゆる労働文学の出現は、『近代思想』の影響なしには考えられない。宮島資夫は、東京に生れたが、少年時代から、あらゆる職業を転々、放浪生活をつづけるうち、露店で見つけた『近代思想』によって、大杉栄らに接近し、強い影響をうけた。宮地嘉六は、佐賀市に生れ、佐世保海軍工廠の見習工になって以来、諸所の造船工場や鉄工場を転々した。呉の海軍工廠で、社会主義と文学を知ったが、ストライキに関係して、広島監獄に捕えられたこともあった。その後、東京へやってきて、白柳秀湖を知り、『近代思想』を知り、広津和郎らの『奇蹟』にも近づいた。そのうち、宮島資夫と共同生活をするようになり、たがいに小説を書きはじめたのであった。  宮島資夫の「坑夫」の書かれたのは、大正三、四年ころと推定されるが、単行本として刊行されたのは、大正五年一月である。明治末期ころの茨城県の、小さな鉱山の生活を、個性的な一坑夫を主人公にして展開したもの。作者は、そこの事務員をしていたことがあるが、体験に即した私小説とせず、別個の主人公を設定して、本格的に鉱山労働者を描いたのである。階級的自覚をもたず、反抗と憎悪と自暴自棄に生きるほかない坑夫を描き出して、力強いリアリティをもたらした佳作であるが、直ちに発売禁止になった。  宮地嘉六は、すでに大正四年、短篇小説「佐吉」を発表しており、「免囚者の如く」(大正七年四月)、「煤煙の臭ひ」(七年七月)のほか、作品の数はすくなくない。代表作といえば、「或る職工の手記」(八年九月)、「放浪者富蔵(九年一月)であろう。いずれも、放浪職工としての体験を描いた私小説である。  宮島資夫、宮地嘉六のほか、新潟県に生れ、大宮の鉄道工場の職工見習となった平沢計七は、やがて友愛会の運動に加わったが、戯曲「工場法」(大正五年六月)のほか、「死」(六年三月)、「赤毛の子」(七年五月)などの短篇小説を発表している。  これらの、いわゆる労働文学は、本間久雄の「民衆芸術の意義及び価値」(五年八月)をきっかけにして、さかんな論議をまきおこした。いわゆる民衆芸術論に呼応する文学的な動きとみられるものである。 第三節 観潮楼と漱石山房  鴎外の「興津弥五右衛門の遺書」は、次のような書き出しではじまっている。  「某儀今年今月今日切腹して相果候事奈何にも唐突の至にて、弥五右衛門奴老耄したるか、乱心したるかと申候者も可有之候へ共、決して左様の事には無之候」  この歴史小説の第一作は、乃木大将殉死が直接の動機になって、突嗟の間に書かれたことは前述した。大正元年(一九一二年)九月十八日の日記に、「午後乃木希典の葬を送りて青山斎場に至る。興津弥五右衛門を艸して中央公論に寄す」とある。一気呵成の書きあげと言い、この書き出しと言い、乃木殉死の衝撃が、そのまま、反映しているとみることができる。(この作品は、大正二年六月発行の単行本「意地」に収められたとき、根本的に改作、増補され、書き出しなども、まるでちがったものになっている。)  この作品のかたちをとって現れたイデエは、古くから鴎外の胸中に存したものであるが、乃木殉死にうながされ、自分のなかの五条秀麿的なものを否定することによって、鴎外は一挙に本来の面目をおし出したのである。幼い鴎外が両親から厳しくしつけられたのは、「侍《さむらひ》の家に生れたのだから、切腹といふことができなくてはならない」ということであった。きびしい自己否定の倫理であった。大学の医学部に在学中、政治家になるため文科に転じようと考えたこともあったが、結局は父の要求にしたがって医学を専攻したのもそれであった。ドイツ留学から帰国した後を追って、鴎外と結婚するつもりでやってきた碧眼の一少女を苛酷に斥け去ったのも、母親はじめ周囲への随順からであった。それは生涯を通じての鴎外のなかに強く潜在したものであった。  「興津弥五右衛門の遺書」は、題名のごとく、細川三斎公十三回忌に殉死した弥五右衛門の遺書というかたちになっている。若いころ、弥五右衛門は、主命によって、香《こう》木《ぼく》を買うため、相役の横田と長崎へ赴いたところ、仙台の伊達家からもそれを求めにきていたものがあり、価格がせりあげられた。そのとき、香木などに大金を出すのはおろかしい、安い末《うら》木《ぎ》でよいというのが横田の意見であった。主命を絶対とする弥五右衛門は、横田の「奈何にも賢人らしき申条」をしりぞけ、口論となったが、一刀のもとに横田を斬り捨て、高価な本《もと》木《ぎ》を手に入れて帰国する。相役を殺したからには、切腹するつもりであったが許されず、また三斎公死去の折にも事情あって思うにまかせなかったが、いま公の十三回忌に宿願の殉死を決意した弥五右衛門は、心静かに遺書をしたためるのである。  この小説は、殉死という行為そのものよりも、主命とあれば、いかに些細なことであろうと、相役を斬っても達成せずにはおかなかったという事件のほうにむしろ主眼がある。高価な本木は伊達家にゆずり、たかが四畳半で焚くもの、末木でさしつかえないという横田の考えは、「奈何にも賢人らしき申条」であるだけに、一そう許すことができなかった。弥五右衛門の言い分はこうである。——「それは奈何にも賢人らしき申条なり、乍《さり》去《ながら》其《それがし》は只主命と申物が大切なるにて、主君あの城を落せと被仰《おほせられ》候《さふら》はば、鉄壁となりとも乗り取り可申、あの首を取れと被仰候はば、鬼神なりとも討ち果し可申と同じく、珍らしき品を求め参れと被仰候へば、此上無き名物を求めん所存なり、主命たる以上は、人倫の道に悖《もと》り候事は格別、其事柄に立入り候批判がましき儀は無用なりと申候。」  絶対への無条件の随順、そのためにはみずから腹を切ることさえ辞さなかった武士の倫理が高くかかげられたわけである。それは、この小説によって、間接に、乃木大将の殉死を、当時の有力な学者たちの批判から弁護しようなどというはからいによるものでは決してなかった。鴎外自身の態度決定であり、鴎外自身の倫理的宣言であった。この小説が、五条秀麿ものに見られなかった結晶度の高さ、切迫感に貫かれているのは、もっぱらここからきている。自分の信ずるイデオロギーのために死を辞さないという大逆事件の提出した倫理に、真正面から対決するものにほかならなかった。  しかし、次に書かれた「阿部一族」(大正二年一月)になると、同じく細川藩の事件で、殉死を扱ってはいるが、「興津弥五右衛門の遺書」のごとき純粋なイデエ小説ではない。殉死の無条件の肯定、讃美というものではなく、殉死に対する人間的、心理的な解釈と批判が主となっている。倫理としての殉死というよりは、武士気質の一面ともいうべき意地としての殉死が描かれている。「興津弥五右衛門の遺書」と、「阿部一族」と、「佐橋甚五郎」とを収めた単行本に「意地」と題したのは、この場合、きわめて暗示的である。思想小説にはじまって、早くも心理小説へ移行したのは、興味ある問題であるが、殉死という特定の条件のなかで、人間心理を分析観照した名作、「阿部一族」のくわだてにしても、「興津弥五右衛門の遺書」のイデエを前提としたものであったことをぬきにしては考えられない。  「阿部一族」には、主君細川忠利の死をめぐる群臣たちの殉死が描かれている。最初は内藤長十郎である。家族との最後の杯をすませた長十郎は居間にひきこもって一眠りする。「母は母の部屋に、よめはよめの部屋に、弟は弟の部屋に、ぢつと物を思つてゐる。主人は居間で鼾《いびき》をかいて寝てゐる。開け放つてある居間の窓には、下に風鈴を附けた吊荵が吊つてある。その風鈴が折折思ひ出したやうに微かに鳴る。」  彫りあげたような簡浄な描写で、武士的倫理に生きるひとびとのすがたが描き出される。同時に、長十郎の殉死は、それを当然と考えている周囲から促された点があり、殉死によって遺族が優遇されるという期待と安心の存していることも見のがしていない。「興津弥五右衛門の遺書」とのちがいが、早くも出ている。長十郎のいさぎよい死に、殉死をゆるされず追腹を切った阿部弥一右衛門が対置され、周囲から冷かに見られている遺族の様子を伝える。堪えかねた長男が、主君の一周忌に髻《もとどり》を切って位牌にささげ、縛首にされる。かくて阿部一族は自家にたてこもり、ことごとく討死して果てる。——武士気質の生んだ悲劇が冷かに観照されているのである。  つづいて「佐橋甚五郎」(大正二年四月)、「護持院原の敵討」(同年十月)、「大塩平八郎」(三年一月)、「堺事件」(同年二月)、「安井夫人」(同年四月)と、さかんな創作力を見せたが、なかでも「護持院原の敵討」がすぐれている。酒井雅楽頭《うたのかみ》の大《おお》金《かね》奉行、山本三右衛門が殺され、その子宇平、娘りよ、故人の弟で、兄妹の叔父にあたる山本九郎右衛門、仲《ちゆう》間《げん》文吉の四人による敵討の物語である。りよは江戸の留守宅に残って、あとの三人がゆくえの知れぬ敵をさがして、ほとんど全国を歩きまわる。敵のありかは杳《よう》として不明、手がかりさえ見つからない。宇平は、あてのない敵さがしに、疲労と疑問を覚えるようになる。もともと、宇平は、おとなしい性《たち》であるが、「柔い草葉の風に靡《なび》くやうに、何事にも強く感動する。そんな時には常蒼い顔に紅《くれなゐ》が潮して来て、別人のやうに能弁になる。それが過ぎると反動が来て、沈鬱になつて頭を低《た》れ手を拱《こまぬ》いて黙つてゐる」ような青年である。江戸を発ってから二度目の年が明けて、路銀も使いはたし、再び大阪の木賃宿にたどりついたとき、宇平は九郎右衛門に問いかける。  「をぢさん。あなたはいつ敵《かたき》に逢へると思つてゐますか。」  「それはお前にも分かるまいが己にも分からんのう。」  「さうでせう。蜘蛛は網《い》を張つて虫の掛かるのを待つてゐます。あれはどの虫でも好《い》いのだから平気で待つてゐるのです。若し一匹の極まつた虫を取らうとするのだと、蜘蛛の網は役に立ちますまい。わたしはかうして僥倖を当にしていつまでも待つのが厭になりました。」  宇平は、膝を進めて更に問いかける。  「をぢさん。あなたはどうしてそんな平気な様子をしてゐられるのです。」  「さうか。さう思ふのか。よく聴けよ。それは武運が拙《つたな》くて、神にも仏にも見放されたら、お前の云ふ通《とほり》だらう。人間はさうしたものではない。腰が起てば歩いて捜す。病気になれば寝てゐて待つ。神《しん》仏《ぶつ》の加護があれば敵にはいつか逢はれる。歩いて行き合ふかも知れぬが、寝てゐる所へ来るかも知れぬ。」  (宇平の口角には微《かす》かな嘲るやうな微笑が閃《ひらめ》いた。)  「をぢさん。あなたは神や仏が本当に助けてくれるものだと思つてゐますか。」  (九郎右衛門は物にも動ぜぬ男なのに、これを聞いた時には一種の気味悪さを感じた。)  「うん。それは分からん。分からんのが神仏だ。」  宇平はそのまま、ゆくえ知れずになる。約半年の後、りよ、九郎右衛門、文吉は、首尾よく敵にめぐり合い、江戸神田門外の護持院原で本懐をとげる。かんじんの宇平が居合さなかったのはいうまでもない。  この小説で、九郎右衛門と宇平は、このように対置されている。絶対服従の倫理を信じてゆるがぬ封建武士と、感じやすく動揺しがちな懐疑的な近代人との対置にほかならない。図式的にしぼれば、日本と西洋の問題に帰するだろう。鴎外の生涯を通じて、対決を迫られた問題である。徳川期の武士階級の倫理体系は、鴎外によっていくたびか疑われはしたが、鴎外にとっては、所詮それなくしては「生命を保つことの不可能な血の如きもの」ではなかったか、というのが木下杢太郎の考えである。つづいて、鴎外における日本と西洋の問題について次のように言っている。きわめて示《し》唆《さ》的で、透徹した意見と思うので、煩をいとわず引用すれば、  「先生の壮時、欧羅巴《ヨーロッパ》精神として指摘せられた“美と自由との認識”といふものには、先生も同感して居られたことと考へて可いと思ひます。個人の生涯に在つては、職業、配偶の選択などは尤も此“自由の認識”に基いて行はれるべきものでありませう。泰西の文学の主題の甚だ多くは、此自由の為めの努力を叙するものです。  所が先生の場合に是等のものには自分の意志が少しもはたらいておりません。はたらかぬのみならず、其意志は屈げられたやうであります。それは何故であるかと云ふと、是等の事柄には全く怙《こ》恃《じ》の意志を通したからであります。  別言すれば東洋に於ける道徳の根原たる孝道の完成に比すれば、欧羅巴の“美と自由との認識”は下位に在るべき価値だと判断せられたからであります。……此問題が之れほどはつきりと意識せられて、之れほど確かに断言せられたことは、欧羅巴文明の輸入以来未曽有の事であつたのです。」  つづけて、  「大正、昭和の批評家は、森先生は外国の文学哲学を祖述、紹介したのみで、自分は何等の問題を提供しなかつたと断じました。問題の提供者は坪内逍遙、高山林次郎、長谷川天渓だつたと云ひます。然し文学の形式論でない、描写の方法論でない、もつと人性の根本に横《よこた》はる大問題を提供したものが、果して森先生以外に有つたでありませうか。  森先生は声を大にして、現在に此問題を創作評論の表面で怒号しはしませんでした。此問題は寧《むし》ろ心のうちに提起せられ、心のうちで解決せられました。そして其創作、その評論は此結論の上に立てられたものであります。  然しながら此解決は決して容易《たやす》く行はれたと考へることが出来ません。恐らく其為めに魂は傷き、血を出したのでありませう。胸に繃帯して凱旋する勇士に之を譬《たと》へることが出来ないでせうか。  而も後の自然主義者の如く己が戦場の苦闘をば吹《ふい》聴《ちやう》せず、世間はそれほどの勇士でないやうにこの傷ける勇士を迎へたのではなかつたでせうか。  先生の創作、評論を読んだあとに感ぜられる一抹の哀調は、この負傷に由来する、匿《か》くすことの出来ない呼気のやうなものではなかつたでせうか。」(「森先生の人と業と」昭和三十一年七月)  鴎外は、「護持院原の敵討」で、九郎右衛門と宇平という、生きた血肉の人物を創造することによって、この問題に迫ったのである。結着はすでに「興津弥五右衛門の遺書」によって示された。それは突嗟の衝撃による結着であって、結着を結着としておし出したものであった。それの冷静な実験は、「護持院原の敵討」によって、はじめて果たしたものということができる。この場合、敵討は、実験装置にほかならない。つまり、宇平のごとき人物は、「興津弥五右衛門の遺書」や「阿部一族」には、登場する余地がなかった。ところで、鴎外は、宇平を単に否定さるべき人物として、きめてかかっているのではない。宇平の出現の必然性は知りすぎるほど知っている。今後の日本が宇平によって支えられなければならぬ運命にあること、よかれあしかれ、宇平の時代に突入したこと、九郎右衛門の時代は遠く過ぎ去ったことを知っている。宇平の精神と肉体の隅々にまで、理解と観照の及んでいるゆえんである。それがわかっているだけに、宇平を肯定できなかった鴎外の苦痛は深かったのである。  その後、「山椒大夫」(大正四年一月)、「ぢいさんばあさん」(同年九月)、「高瀬舟」「寒山拾得」(五年一月)、など、美しい結晶を示した名作が相次いで書かれた。宇平の妹りよにおいて、おそらく鴎外が理想とする、献身的、意志的で、やさしい日本の娘が描かれていると思われるが、「安井夫人」の女主人公にしろ、「山椒大夫」の安寿にしろ、りよの変形にほかならない。「高瀬舟」の喜助が、九郎右衛門の変形であることはいうを要しない。  なお、明治四十四年九月から、大正二年五月まで、『スバル』に連載され、残余を書き加えた「雁」が刊行されたのは、大正四年五月であった。高利貸の妾と医科大学生の可憐な恋を冷静な構図のなかにあざやかに描いた名作である。  これらの諸作を経て、大正五年(一九一六年)一月十三日から五月十七日まで、『東京日日新聞』と『大阪毎日新聞』とに連載された「澀江抽斎」にいたって、鴎外の文学は、俄然新たな領域へ進出した。これまでの「歴史離れ」(「歴史其儘と歴史離れ」)の小説と、「歴史其儘」の史伝とのちがいということもある。だが、それにとどまらない。鴎外は自分が理想とする人物、すくなくとも共感しうる人物は、歴史小説のなかで、歴史を越えた場所に、自分で創り出すほかはなかった。いま、ゆくりなくも鴎外はそれをかつて実在した人物のなかに見出した。弘前医官澀江抽斎との出会いがこれである。鴎外のはじめた武鑑蒐集が機縁になって、自分よりも先にそれにうちこみ、透徹した断案を下している考証家の先輩として、澀江抽斎の存在を発見し、驚喜する。かくて、あらゆる方策を講じて、異常な親近感と尊敬を抱かしめずにはおかぬ人物の実体を明らかにしようとする。ようやくのことで、その手がかりが見つかる。大正四年八月十四日の日記に、「中村範(弘前)幣原坦(広島)柏村保(弘前)に書を遣る」とあるのをはじめとして、十月十五日に「澀江終吉に復す」、同月十九日に「澀江保の書を得て復す」と見えるころから、大正五年一月になると、ほとんど二、三日おきに澀江保との間に通信を往復している。二月九日には、「澀江保来局す」とあり、同月二十八日には、「澀江保を訪ひて、金品を贈る」とある。つまり、一月十三日からは、すでに「澀江抽斎」の新聞掲載がはじまっており、一方では、しきりに抽斎についての調査につとめていたことがわかる。その調査発掘の過程がそのまま叙述され、次第に澀江抽斎なる人物の輪郭が明らかにされていくのである。こういう方法がいかに独創的であったかはいうを要しない。親愛し畏敬しうる人物を発掘しつつ、その邂逅の心のときめきが、「澀江抽斎」にはこめられている。「内《うち》徳義を蓄へ、外《ほか》誘惑を卻《しりぞ》け、恒に己の地位に安んじて、時の到るを待つてゐた」「進むべくして進み、辞すべくして辞する、その事に処するに、綽《しやく》々《しやく》として余裕があつた」しかも、「医者であつた。そして官吏であつた。そして経書や諸子のやうな哲学方面の書をも読み、歴史をも読み、詩文集のやうな文芸方面の書をも読んだ」更に、「曽《かつ》てわたくしと同じ道を歩」んだばかりか、「其健脚はわたくしの比ではなかつた」——これが澀江抽斎であった。この発掘こそ、鴎外が情熱と精根を傾けたゆえんであり、「澀江抽斎」が鴎外の本領を発揮した、独自の文学作品たりえたゆえんである。  鴎外は、大正六年十月、「澀江抽斎」執筆当時の感懐を、「観潮楼閑話」(一)で、こう語っている。  「わたくしは文壇に何等の接触を有せない。余《よ》所《そ》ながら見れば今日のパルナッソスには『白樺』の人々が住んでゐるやうである。……わたくしは蟄《ちつ》伏《ぷく》してゐた間に文壇の人々には忘れられてゐる筈だ。独り文壇ばかりではない。世間の人も穴の中のわたくしを顧る筈はない。……わたくしは目下何事をも為してゐない。只新聞紙に人の伝記を書いてゐるだけである。」  つづけて、  「何故に伝記を書くかと云ふに、別に廉《かど》立つた理由は無い。わたくしは或時ふと武鑑を集め始めた。そして昔武鑑を集めて研究した人に澀江抽斎のあることを知つた。それから抽斎が啻《ただ》に武鑑を集めたのみでなく、あらゆる古本を集めて研究したことを知つた。それからその師友に狩谷斎があり、伊沢蘭軒があり、小島宝素があり、森枳園があることを知つた。わたくしはこの人々の事蹟が、斎を除く外、殆ど世に知られてゐぬことを知つた。そしてふとその伝記を書き始めたのである。わたくしは度々云つた如く、此等の伝記を書くことが有用であるか、無用であるかを論ずることを好まない。只書きたくて書いてゐる。……わたくしは此の如きものを書くために、此の如く世に無用視せらるるものを書くために、殆ど時間の総てを費してゐる。」  かくて、大正五年六月から翌六年九月にわたって、「伊沢蘭軒」が書かれ、同年十月には、「北条霞亭」の新聞連載がはじまり、二回の中絶があって、『アララギ』大正十年十一月号にいたって完結した。鴎外が世を去る前年であった。  これら史伝の執筆に没頭していたとき、「わたくしは文壇に何等の接触を有せない」と言い、「文壇の人々には忘れられてゐる筈だ」と言い、更に、「わたくしは目下何事をも為してゐない。只新聞紙に人の伝記を書いてゐるだけである」と言っているところに、鴎外の文壇に対する皮肉、批判、自信が示されている。さきに見てきたような、明治末期における、パンの会の耽美的な若い詩人たちにかこまれていた鴎外、文壇を二分して、反自然主義の陣営の中心にかまえていた鴎外のすがたは、ここにはない。乃木殉死に触発されて、鴎外が鴎外の道を歩み出したのは、文壇から孤立することであった。誰も後を追うものはなく、追えるはずもなかった。鴎外が、「澀江抽斎」以下の伝記に熱中したのは、これらの「世に無用視せらるるもの」を書くことが、当時の文明に対する根本的批判を意味していたのであるが、文壇がそんなことに気づくはずはなかった。当時の文壇は鴎外の批判しつつあった文明そのものの子であったこというまでもあるまい。「澀江抽斎」などは、文壇からは、「高等講談」として見られていた。  かつてパンの会の俊秀が集ってきた観潮楼の雰囲気は一変した。澀江抽斎をさぐる手がかりをえて、「中村範(弘前)幣原坦(広島)柏村保(弘前)に書を遣る」としるした大正四年八月十四日の翌十五日の日曜に、鴎外は小田原の山県公のもとへ出向いている。日記にはこうある。 「陰。朝小田原古稀庵に往く。常磐《ときは》会なり。午餐晩餐の饗あり。当座題古稀庵  静けさはかはらさりけりをりをりは憂《うき》世《よ》の風のおとろかせとも」  ついでにいえば、同年二月二十一日(日)には、「晴。午前九時三十五分東京停車場を発して小田原古稀庵に往く。山県公と倶に小峰の梅を看る。午後十一時三十分家に帰る。」とあり、翌二十二日には、「山県公の言を大島中将健一に云ふ。山県公に葉書を遣る。」と出ている。元老山県公と、いよいよ深く接触しつつ、一方では、澀江抽斎の発掘という「無用」なわざに精根を傾けていたわけである。  だが、澀江抽斎は所詮過去の人物である。また興津弥五右衛門の殉死を倫理的に肯定する現実の地盤はなく、九郎右衛門を支える社会も、もはや存在しない。どこを見ても、宇平の時代というほかない。文学でいえば、宇平を主人公とする文学——大正文学が活溌に動き出している。菊池寛の「ある敵打の話」は、いわば宇平を主人公とする物語である。封建社会の最高の倫理であった敵討が、いかに愚劣なものであるかを嘲笑した作品にほかならない。宇平の立場から、九郎右衛門を冷やかしたものといってもよい。そんな生《きつ》粋《すい》の大正作家が、文壇の将来を担って、出現してきている。  鴎外の悲劇がここにあった。これを克服する道は、現実社会の変革以外にはない。元老山県の権力に接近して、鴎外が何を考えていたか、のちの章でしらべることにする。 *  鴎外と上田敏の推輓によって、永井荷風が慶応義塾文学科主任となり、兼ねて『三田文学』の編輯を依嘱されたのは、明治四十三年(一九一〇年)二月であった。荷風がフランスから帰ったのが明治四十一年、翌年上梓された「ふらんす物語」と短篇集「歓楽」は、発禁となったばかりでなく、後者に『早稲田文学』が推薦の辞を献じたことをめぐって、阿部次郎と相馬御風との間に論争が交わされるなどのこともあって、鮮明強烈な個性をもつ新進作家として、一世の注目を集めていた。パンの会で顔を合せた荷風に、『新思潮』の谷崎潤一郎が、どんな傾倒ぶりを見せたかについては、すでに書いた。当時を回顧した佐藤春夫の言葉は有名である。曰く、「明治四十年代のわれわれの文学は、すべての飛禽啼鳥を悉《ことごと》く鶏にして了《しま》はなければおかなかつた。……この呪はれた朝を告げるだけの鳥に、啼声を与へたのが永井荷風の出現だつた」と。  「明治四十年代のわれわれの文学」とは、自然主義を指しているわけであり、明治四十二年(一九〇九年)はその最高潮に達したときである。そのとき、その牙城『早稲田文学』によって、「歓楽」が推薦されたのである。文壇の季節が、いかに急速に移りつつあるかを語るものにほかならない。荷風が慶応義塾の講壇に立ったときは、久保田万太郎が、予科一年から二年に進むときであった。それより一級下の佐藤春夫や堀口大学らは、まもなく荷風を慕って入学してくるのである。久保田万太郎より二級上の理財科に在学中だった水上滝太郎は、荷風を迎えたことで文学志望を決意した。荷風来講ときいて、「こんな大へんなうそのやうな、目のくらむやうなことがあつていいのだらうか?……」と考えたというのは久保田万太郎の回想であり、「永井先生の出現は、新たなる星を発見したやうな喜びであつた」と書いているのは水上滝太郎である。そして、荷風の主宰した『三田文学』が世に出した作家は、このふたりである。佐藤春夫は『スバル』創刊号に早くも登場しているのである。因《ちな》みに、慶応義塾に迎えられ、『三田文学』を創刊したとき、荷風は三十二歳であった。水上滝太郎が二十四歳、久保田万太郎が二十二歳、佐藤春夫が十九歳であった。  その後の荷風の作品の大部分は、『三田文学』に発表されたが、短篇小説と随想のほか、のちに「珊瑚集」(大正二年四月)に収められた訳詩がおもなものであった。それらの短篇小説の基調は、「新帰朝者日記」(明治四十二年十月)で示された現代日本への反撥につながるものである。明治の社会は、結局のところ、「旧態の美を破壊して一夜作りの乱雑粗悪を以て此れに代へた」ものだとする荷風の文明批評の根幹は、「新帰朝者日記」で確立されたとみてよい。それがあるいは激越な罵倒となり、あるいは虚無的な冷笑となり、または世をすねたあきらめとなる。それらが、荷風のこのころの小説制作の手がかりになっているばかりでなく、作中の人物をして、直接そういう感懐を吐露させているといったふうのものが多い。西洋で本《ほん》物《もの》に接してきた目には、浅薄な模倣の西洋化には堪えられないという、ヘソまがりのポーズである。木をして、「永井氏はパリへ去るべきである」と書かしめたものにほかならない。明治四十五年四月号の『朱欒《ザンボア》』に寄せた「妾宅」は、置こたつでぬくまりながら、歌麿、北斎、京伝、春水など、「手錠をはめられ板木を取壊すお上の御成敗を甘受してゐた」封建の世の浮世絵師や戯作者たちに思いをはせ、「形ばかり西洋模倣の倶楽部やカフエー」で、「恐れ多くも天下の御政事を云々したとて何にならう」と考える人物が主人公になっている。こうなると、荷風を迎えて歓声をあげたパンの会の若いグループとは、むしろ逆なことを考えているものとみてよい。パンの会の江戸情緒へのあこがれは、西洋の代用品としての異国的なものであった。「妾宅」は、結果として、パンの会への皮肉と見られなくもないものをふくんでいるのである。  「妾宅」から短篇集「新橋夜話」(大正元年十一月)へは、一とつづきの世界である。現代の破壊からまぬがれた「旧態の美」の残存している唯一の世界——花柳界に詩情を求めたところに、この作品は成立している。だが、この残された社会にも、悩むべき「現代主義」が侵入しないわけにはいかない。やがて「腕くらべ」(五年八月−六年十月)の生れるゆえんである。  大正五年三月、慶応義塾を去ってから、荷風は、これまでの短篇にあき足らず、本格的な長篇小説の制作にむかった。「腕くらべ」が最初のそれである。舞台を新橋の花柳界にえらび、駒代、菊千代、君竜なる三人の芸者が、肉慾と物慾との腕くらべを演ずるが、駒代は旦那を肉慾に奪われ、恋人を物慾にとられて、都落ちを覚悟するが、抱え主の急死によって、その後を嗣ぐというのが大筋である。だが、それを語るだけが目的ではない。この大筋にからんで、芸者家の亭主や、客など、さまざまの人物もふくめ、容貌、風姿、言語、動作を通じて、作者の辛辣な文明批評が照し出されているのである。これらの人物は、ことごとくといってよいほど、対照的に組み合せられている。昔気質の芸者らしい芸者としての駒代と、ちゃっかりした新時代の芸者菊千代、不良少年の滝次郎と、古風な趣味と人情に生きる釈師あがりの父の呉山、作者の分身と見られる、偏屈で旧式な文人倉山南巣と、厚顔で無学な新進の青年文士山井要、尾花屋の亭主呉山と、ぬけ目ない新型の事業家の宝家の亭主など。これらの組合せは、同時に時代的、風俗的な対立として、様式的にとらえられているわけである。駒代、呉山、倉山南巣、尾花屋の亭主らが旧時代の代表者とすれば、菊千代、滝次郎、山井要、宝家の亭主らが、新時代の代表者であることはいうまでもない。前者によって、支えられていた「旧態の美」の世界が、後者の侵入によって、くずれ去り、ここも変りのない人間慾望の修羅場と化しつつあるさまがにがにがしい感慨を通して活写されているところに、一篇の眼目がある。草市の前後から冬にかけての季節の推移、演芸界や顔見世狂言など、冷酷な写実のなかに抒情を点じたあたり、荷風の本領を遺憾なく発揮した名作である。  私家版では、閨房の秘事が描かれているが、荷風の冷酷な人間観察は、そこまで及ばざるをえなかったのである。ゾラやモオパッサンに学んだ近代小説の精神を、渾《こん》然《ぜん》たるかたちで、日本の伝統のなかに定着した点は、わけても見のがすわけにはいかない。佐藤春夫が、後年、この作品を評して、「この一篇を浮世絵絵巻風の風俗小説と見るか文明批評流の近代小説とするかに迷ふのである」と書いているのは、この点を指摘したものにちがいない。  「腕くらべ」につづく大作といえば、「おかめ笹」(大正七年一月−九年四月)である。前者が新橋の花柳界を舞台にしているのに対し、これは富士見町を中心とする格式の劣った待合をえらんでいるところに、作者の意図が示されている。この作品には、「腕くらべ」の南巣や呉山のごとき、作者の分身とおぼしき人物なぞ、ひとりも登場しない。知事の古手の大須賀にしろ、帝室技芸員の内山にしろ、すべて俗物ばかりである。かれらの娘、妻、伜にしても、愚かで、意地わるで、あるいは放蕩で、ろくなものはいない。主人公とみられる画家の鵜崎巨石は、内山の門弟であるが、これまた小心翼々の小人物である。一篇の要点は、内山一家を中心とする富裕家庭の内幕を冷酷滑稽に描破しつくしているところにある。「先生がゾラの徒弟であつた当時の面影をしのばせるところが多い」という佐藤春夫の意見も、うなずけるが、ゾラに見られない滑稽化の手法とニヒリズムの潜流がある。  「おかめ笹」を書いた大正七年といえば、荷風四十歳のときである。以後、昭和六年十月の「つゆのあとさき」、同九年八月の「ひかげの花」あたりまで、長い休息期がつづき、大正の新文壇から忘れ去られたかの観があった。このことは、慶応義塾を退いた当時、「われは主張の芸術を捨てて趣味の芸術に赴かんとす。……われは今自から退きて進取の気運に遠ざからんとす。幸ひにわが戯作者気質をして所謂現代文壇の急進より排斥嫌悪せらるる事を得ば本懐の至りなり」(大正五年四月「けふこのごろ」)と言っていることでも明らかなように、永井荷風みずから求めた道にほかならない。大正文学の主流たる「主張の芸術」は、この偏屈な文人をおき去りにして展開されたのである。  第二次『新思潮』の三号に「刺青」が発表されたのは、既述のように、明治四十三年(一九一〇年)十一月であった。谷崎潤一郎は、この一作によって、鴎外や上田敏に認められ、翌年一月から、その作品が『スバル』に載るようになった。「刺青」は、時と所を江戸末期にえらび、刺青師《ほりものし》の清吉を主人公として、変態的な享楽の世界を描き出したもの。自分の入魂の技を揮《ふる》うに足る美女の肌を求めていた清吉が、念願かなって、その背中いっぱいに女郎蜘蛛を彫ったところ、それまで臆病のように見えた女が、打って変って伝法肌の女に化して、清吉を悩ますという筋立てである。  女体の魅力を知った男は、永久に女性拝跪の弱者とならざるをえず、女は逆に強者となるというのは、谷崎潤一郎の文学を貫ぬく中心思想である。「痴人の愛」(大正十三年三月−十四年七月)はいうに及ばず、「鍵」(昭和三十一年一月−十二月)にしても変りはない。それが、「刺青」に、はっきり刻印されているのである。  当時、荷風は、「明治現代の文壇に於て今日まで誰一人手を下す事の出来なかつた或は下さうともしなかつた芸術の一方向を開拓した」ものとして激賞した。しかし、この作品に不満を表明した小宮豊隆の批評もあった。「余りに陽気である。又余りに現世的である。更に又余りに元禄的で」あって、「其完成は上手と云はるゝ落語家の話し振に似たる完成」であるとして、「望むらくは現世的なる楽天主義を棄てて今一歩『肉』を味ひ、『肉』を批評し、『肉』の裏に背景をなす『人生』を観じて貰ひたい」と言っている。蓋し、当時において、きわめて正当な批評であった。  谷崎潤一郎には、荷風の「現代」否定はまったく見られない。むしろ「現代」讃美がある。谷崎潤一郎が、「腕くらべ」を評して、題材からいっても、花柳界という古めかしい世界に限られていて、その「現代離れのした気味合ひ」に不満をもらしているが、ここに両者のちがいがはっきり出ているのである。荷風が、「腕くらべ」で芸者をえらんだのは、新時代の好みが芸者から女優へ移りつつあったからであるとは、「荷風随筆」の語るところである。荷風は、つねに、衰えゆくもの、亡びゆくものを写しとる。谷崎潤一郎は、すくなくとも「蓼喰ふ虫」(昭和三年十二月)にいたるまでは、新しいもの、モダンなもの、先端的なものへの興味と関心を示している。「痴人の愛」の作者が、荷風の「現代離れ」に不満をもらしたのは、決して偶然ではない。両者の文学には、本質的なちがいが存する。いずれにしても、「刺青」で、その文学の根幹を示した谷崎潤一郎が、その文学を円熟完成させるには、昭和年代のはじめまで待たなければならなかった。「お艶殺し」(大正四年一月)、「異端者の悲しみ」(六年七月)、「金と銀」(七年五月)、「小さな王国」(同年八月)など多くの作品が見られるが、これというほどのものはない。  大正五年一月、『文章世界』で、赤木桁平はこう書いている。  「最近の文壇に於ける最も著しい現象として、そぞろに哀感を催ほさせるのは、雑誌三田文学の凋落である。永井荷風氏の眼醒ましい活動の下に、水上、久保田の諸君が華かな奮闘振を示した時代は蓋し三田文学の黄金時代であらう。然るに現在では荷風氏創作の筆を折つて、深く文壇の表面より韜晦してゐるばかりでなく、その配下に一人の俊秀あつて、一世の視聴を鍾《あつ》めるものもない。今昔の感に堪へずとも云ふべきか、余りといへば悲惨である。」  その赤木桁平が、同年八月、『読売新聞』に発表した「『遊蕩文学』の撲滅」は、『三田文学』を中心とする、文壇の享楽主義的傾向に加えた攻撃であり、常識的な非難であっただけに、大きな反響と論争を呼びおこした。直接に攻撃をうけたのは、長田幹彦、吉井勇、久保田万太郎、後藤末雄、小山内薫、近江秋江らであった。長田幹彦は、明治十四年十一月の『スバル』に、北海道放浪に取材した「澪《みお》」の連載をはじめ、これが出生作となったが、その後、「祇園夜話」(大正四年四月)、「雪の夜話」(同年十一月)の二つの作品集に収められた諸短篇の作者として、遊蕩文学の旗がしらのごとく見られていただけに、甚大な攻撃をこうむった。  赤木桁平の挙げた遊蕩文学の作家のなかに、荷風の名の見えないのは、荷風のものを、長田幹彦なみの遊蕩文学とは見なかった見識によるものか。あるいは、「腕くらべ」の書かれるまでの二、三年間はこれという作品がなかったためかもしれない。  赤木桁平の一撃によって、三田文学系の凋落は甚しく、間接には、すでに大正三年(一九一四年)ころからそのきざしを示していた白樺派の「主張の芸術」をして、いよいよ大正文壇の主流たらしめるに役だったことは争われない。  現に同年十二月号の『文章世界』に、同じ論者による「新進作家論—白樺派の諸作家」が発表され、白樺派に対する好意ある批評が行われたことを考え合せるべきであろう。これは、おもに武者小路実篤、志賀直哉、里見、有島生馬について論じ、長与善郎、有島武郎、小泉鉄にも論及しているが、理解と鑑賞の行きとどいた好評論であって、こんにちからみれば、立論の正しさが証明されたといってよいものである。  武者小路については、その態度のあくまで確信的で、躊躇逡巡の態なきは、一種敬《けい》虔《けん》の念を抱かしめるだけの力があるが、その芸術の有する何物かの前に跪くことのできないのは、「氏の芸術の包含する内容が、予め与へられたる内容であり、且つその獲得が否定に基く肯定を意味してゐない」からであるといっている。つまり、「武者小路君の神は、先天的に武者小路君自身の素質に運命づけられたる神であつて、武者小路君自身の意識的な戦ひが齎しえた神ではない」というのである。すなわち、その作品に、「深く人間性に根《ねざ》した現実味の活動が乏しい」ことの不満を述べている。  これに反して、志賀直哉には、ほとんど無条件の讃辞をおくっている。『白樺』創刊号に載った「網走まで」は、小説として非常に単純な題材を捕えたものにすぎないが、「なほ運命に対する淡々しい哀愁と、人格を貫く仁慈《ヒユーマン》な情緒とが、人の心に滲み入るほど力強く現はれて」いることを指摘し、しかも、構想が整一で、筆致の清鮮なことを挙げている。  つづいて、「剃刀」「彼と六つ上の女」「濁つた頭」「老人」「正義派」「クローディアスの日記」「速夫の妹」「不幸なる恋の話」など、そのころまで書かれた志賀直哉の、ほとんどすべての作品にふれた後、次のように言っている。  「従つて志賀君はあらゆるものの前に眼を閉ぢることなく、すべてを容認することに於いてすべての『悪』なるものを否定し、人生の究極に残されたる肯定への階段を昇り尽さうとする。現在の氏は明かにその道途の半ばにある。  惟《おも》ふに現在は武者小路君の時代であるかも知れない。併しその後に来るものは当然志賀君の時代であらねばならない。志賀君は目下のわが文壇が有する一個の謎語である。予はこの謎語が如何に解決され、如何に解釈されるかと云ふことに非常な興味を持つ。」  広津和郎の「志賀直哉論」の書かれる三年前に、すでにこういう論の現れていたことは注意されてよい。広津和郎のそれは、この論をうけついだものとみることができる。  里見については、「母と子」「晩い初恋」「夏絵」について論じ、「作者の倫理的意識が兎に角中途半端な人情的道徳に堕して、毫も深刻なる懐疑と否定との洗礼を受けてゐない」ことを不満としている。有島生馬は、自然人事の変遷推移のなかに詩を見出そうとしているが、その詩は、個性に胚胎した世界観的信仰ではなく、単純な芸術的感興の所産にすぎないと言っている。長与善郎、有島武郎について論ずることのすくないのは、まだかれらの作品の数がすくなかったからであろう。  そんなわけで、「腕くらべ」の書かれたころには、荷風の目ざすところは、その礼讃者であった三田文学系のひとたちとは無縁のところにあった。その「現代」否定の点で、倫理と美とのちがいはあっても、「澀江抽斎」の稿を進めつつあった鴎外に通ずるものがあったのである。「澀江抽斎」の影響によって成ったと見られる「下谷叢話」(大正十三年二月−七月)のごとき著作を荷風が残しているゆえんである。 *  乃木殉死は、鴎外をして「興津弥五衛門の遺書」を書かしめたが、漱石も、この衝撃をモティーフとして、「こゝろ」を構想した。  「こゝろ」の主人公の先生は、自分を信じて疑わなかった友人を裏ぎることによって、愛する女との結婚に成功した。そのため、友人は自殺した。長い間、その罪に責められてきた先生は、乃木殉死に触発されて、自分も自殺するのである。  乃木大将の遺書によれば、明治十年(一八七七年)の西南戦争で、敵に軍旗を奪われたとき、死をもって罪を謝すべきであった。三十五年間生きながらえてきたのであるが、いま、それを決行する機会をえたというのであった。漱石は、これを「こゝろ」の先生の自殺に適用した。軍旗を奪われた責任と、友人を欺いて自殺せしめた罪とは、もとより倫理的に同質ではない。だが、先生の遺書の一節にはこうあった。  「夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。其時私は明治の精神が天皇に始まつて天皇に終つたやうな気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、其後《あと》に生き残つてゐるのは必竟時勢遅れだといふ感じが烈しく私の胸を打ちました。」  先生の感慨は、おそらく作者漱石のそれであったとみて、あやまりはあるまい。鴎外と漱石と、すべてにおいて対蹠的な、ふたりの文学者の精神の、意外なまでの共通性をここに見出すことができる。乃木殉死についての、志賀直哉の日記を思いうかべるならば、このことは、いっそう明らかであろう。  だが、「興津弥五衛門の遺書」に示された、イデエの切迫性に対して、「こゝろ」のそれはくらぶべくもない。小説の主人公の苦悶の深刻さを、そのまま、作者のそれと混同するわけにはいかない。「こゝろ」の提出しているのは、倫理的な問題であり、問題が問題として扱われているきらいがある。このことは、「それから」以後の、漱石のほとんどすべての作品についていうことができる。「それから」で、追求した倫理的な実験は、自分の本心を欺いて、愛する女を友人にゆずったのは誤りであったという結論に達した。では、本心のままに行動したら、どんなことになるか。その結果は、友人を自殺せしめた、自分の内なるエゴイズムに戦慄し、自分もまた自殺することになる。これが、「こゝろ」の主人公である。「それから」にはじまる倫理的実験は、「門」や「行人」を経て、「こゝろ」の絶望にまでぶつからざるをえなかった。だが、倫理的実験といっても、問題は、最初から、抽象的に提出され、展開されているのであって、人間的現実の生きた表現のなかに、おのずから見出されるごときものではない。提出された問題がさきにあって、それに応じた人間関係や、心理、行動が導き出されるというふうで、一種のテーマ小説というべきものになっている。そのテーマにしても、いたって単純で、主人公は、すべて過去のあやまちを負った人間として設定されている。その点、「行人」は例外といってよい。「行人」の主人公の一郎について、Hさんの手紙は、こう説明する。  「兄さんの苦しむのは、兄さんが何を何《ど》うしても、それが目的《エンド》にならない許《ばか》りでなく、方便《ミインズ》にもならないと思ふからです。ただ不安なのです。従つて凝《ぢつ》としてゐられないのです。兄さんは落ち付いて寝てゐられないから起きると云ひます。起きると、ただ起きてゐられないから歩くと云ひます。歩くとただ歩いてゐられないから走《か》けると云ひます。既に走け出した以上、何処迄行つても止まれないと云ひます。止まれない許なら好いが刻一刻と速力を増して行かなければならないと云ひます。其極端を想像すると恐ろしいと云ひます。冷汗が出るやうに恐ろしいと云ひます。怖くて怖くて堪らないと云ひます。」  「兄さんは鋭敏な人です。美的にも倫理的にも、智的にも敏鋭過ぎて、つまり自分を苦しめに生れて来たやうな結果に陥つてゐます。」  こういう人間を主人公として、自分が苦しむとともに、妻をも苦しめ、「死ぬか、気が違ふか、夫《それ》でなければ宗教に入るか。僕の前途には此三つのものしかない」と言わしめるにいたる内的苦悶を描こうとするところに、「行人」の主題の存することはいうまでもない。これは、過去のあやまちを負った人間というような、特殊な条件設定とはちがって、自意識の強い人間の心底にひそむ悲劇を、夫婦という連帯関係のなかに追求しようとしているだけに、一個の倫理的問題が、現実の人間を離れて、抽象的に提出されているごときものではない。Hさんという、解説者の説明に多くをたよっていて、主人公の苦しみをさながらに描き出しえていないうらみはあるが、「こゝろ」などにくらべれば、はるかに人間性の現実をとらえているといわなければならない。「それから」にはじまって、「こゝろ」にいたる、いくつかの作品のなかで、「行人」が格段にすぐれているゆえんである。  「行人」の主人公、長野一郎の孤独は、人間性そのものに内在する根源的なものであって、設定された情況などではない。それとして指摘できる原因など、なにひとつあるわけではない。日本の近代作家にとって、孤独は誇るべきものであった。それは、愚劣な社会や他者と自己を区別する。唯一の保証にほかならなかった。失ってはならないものであり、自己の実生活の、いかなる犠牲においても、獲得されなければならないものであった。長野一郎にとって、孤独は始末におえないものであり、自己を苦しめ、他者を傷つける、いわば生得の病毒にほかならず、渇望する愛の不毛を意味するものであった。したがって、孤独に苦しむことは、いよいよ他者を意識することであり、他者に苦しむことは、いっそう孤独を意識することにほかならない。孤独とは本来そういうものであり、そのほかのものではありえない道理であるが、こういうものとして、孤独をとりあげ、それによって人間を描いたのは漱石であり、その代表的な作品といえば、「行人」のほかにはない。  「行人」は、大正元年(一九一二年)十二月から、『朝日新聞』に連載され、胃潰瘍による中絶を経て、翌二年十一月完結した。これに次ぐ「こゝろ」は、大正三年四月から八月まで、同じく『朝日新聞』に連載された。「行人」を書き終えた作者が、つづいて「こゝろ」を書いたことは、文学的には、後退を示すものであろう。「こゝろ」の先生の孤独と自責は、人間性に内在するものではない。自分のあやまちと、叔父の不正に基づくもので、原因はすべて過去にある。そして「行人」の一郎も、あえてしなかった自殺によって、問題の解決をつけている。しかも、その自殺は、乃木殉死という外的なものにうながされたものであって、内なるものに追いつめられたからではない。乃木大将の自殺は、軍旗を奪われたという過去の責任に基づくと同時に、その責任の発する根源たる天皇の死に、より深くかかわりをもっている。そういう封建的自己否定の外なるものを、内なる近代的自己否定の契機に転化することによって、「こゝろ」のモティーフを成立させているのである。明治天皇の死と乃木大将の殉死とを、全面的にうけて立ったところに、「興津弥五右衛門の遺書」が成立したことについては、くりかえすまでもない。「こゝろ」の場合は、それを作品構想の手がかりにしたにとどまる。だから、主人公の先生を、「行人」の一郎の後身と解するのは当らない。先生は、一郎よりは、乃木大将もしくは興津弥五右衛門に近い人間ということができる。やはり、「最も強く明治の影響を受けた」ものであり、「時勢後れ」でもあろう。「こゝろ」は、主題の明確、構成の簡潔に加えて、作者の把握がたしかだから、まとまりのある作品ではあるが、「行人」には、及ぶべくもない。  「こゝろ」につづく作品が、「道草」である。大正四年六月から、九月まで、『朝日新聞』に連載された。漱石が唯一の自伝的小説の執筆を思いたったのは、一つには、自然主義の影響もあろうし、小宮豊隆のいうように、姉の死によって、病臥中の漱石の頭の中に動いた、姉の思い出、自分と姉との関係、姉婿と自分との交渉などもあったかもしれない。「硝子戸の中」で書いた幼年時代の追憶が、「道草」の構想を呼びおこしたであろうことは推察にかたくない。だが、直接の動機が何であれ、死か、狂か、で終った「行人」から、「こゝろ」にいたって、主人公の先生を自殺させてしまったことは、これまでのような実験的操作による小説を書きつづける可能性を失ったことを意味する。事実また、その種類の小説は書かなかった。「道草」はいうまでもなく、「明暗」にしても、これまでの作品とは、まったく異質なものである。  「それから」にはじまって、「こゝろ」にいたる、実験的な作品群のなかで、「行人」が随一の秀作であることはすでに書いた。「こゝろ」の構想は、乃木殉死という偶然的な事件に教えられたもので、実験の結果であるべき自殺は、最初から与えられていたものである。だから、「こゝろ」を一応除外して考えると、「行人」から「道草」へ進まざるをえなかった事情が、明瞭になってくる。「行人」の一郎の孤独は、人間性に内在するものときめられているのであって、きびしい検証の結果によるものではなかった。しかも、妻や弟や友人による、外からの観察によるもので、孤独の実体そのものが描かれているというふうのものではない。ここで、漱石は、これまでのフィクショナルな実験的操作を捨てて、私生活の場での自己検証の道に進み出たのである。単に、過ぎ去った生活の回想でもなく、記録でもない。  「道草」が、「吾輩は猫である」を書いた当時の作者の私生活に取材したものであることは周知である。だが、「道草」で描かれているのが、そのまま、当時の作者の私生活だったのでは決してない。ここには、多くの省略がある。雑誌『ホトトギス』や大学を中心とする交友関係をはじめ、大学における生活や見聞など、すべてはぶかれている。もっぱら家庭生活に限定され、人間関係は、家族をはじめ、血縁関係、もしくはそれに準ずるものにかぎられている。「行人」の主題を、私生活の場で自己検証の方法によって追求しようというからには、純粋にそれに必須な条件と材料がえらばれなければならないからである。この小説の冒頭が、十五、六年も会わなかった義父との邂逅からはじまっているのも無論それである。主人公健三にとって、義父の出現は、健三の暗い出生にまつわる忌まわしい過去を目の前につきつけられただけではなく、健三や家族をおびやかすものにほかならなかった。しかも、そのときの健三は、家庭内にあって、妻のお住との、はてしのない対立葛藤に、神経をすりへらしている。そこへ、養父が、幼年時代の不快な関係を楯に、金をねだりにおしこんでくるのである。健三から、金をせびりとろうとするのは養父だけではない。養母がそうであり、兄や姉も同様である。官僚として羽ぶりのよかった妻の父も、公金使いこみで破産すると、これまでみくびっていた健三のところへ金を借りにやってくる。家庭内での、健三とお住との、なまぐさい、もつれ合いのなかへ、それらの血縁関係が闖《ちん》入《にゆう》して、いよいよ堪えがたいものになる。  お住は、昔ふうの倫理観にとらわれるほど、厳重な家庭に育てられたのではない。政治家の父は、教育に関しては無定見であり、母はきびしく子供をしつける性質ではなかった。彼女は生家で比較的自由な空気を呼吸した。小学校を出ただけで、筋道の通った頭はもっていなかったが、野性的に感じとるところがあり、存外新しい点がある。健三については、こんなふうに考えている。——「単に夫という名前がついてゐるからと云ふ丈の意味で、其人を尊敬しなくてはならないと強ひられても自分には出来ない。もし尊敬を受けたければ、受けられる丈の実質を有つた人間になつて自分の前に出て来るが好い。夫といふ肩書などは無くつても構はないから。」  学問をした健三は、この点で、かえって旧式だった。自分は自分のために生きて行かなければならないという主義を実現しなければと考えているのに、あらゆる意味で、妻は夫に従属すべきものという考えを捨てることができない。夫と独立した自己を主張しようとする細君を見ると、不快を感じないわけにはいかない。女のくせに、と思い、何を生意気な、と思う。だから、お住の腹には、いくら女だって、という挨拶がいつも用意されている。そういう妻にむかって、健三の言い分はこうである。——「女だから馬鹿にするのではない。馬鹿だから馬鹿にするのだ。尊敬されたければ尊敬されるだけの人格を拵《こしら》へるがいゝ。」これに次の叙述がつづくのである。——「健三の論理《ロヂツク》は何時の間にか、細君が彼に向つて投げる論理と同じものになつてしまつた。彼等は斯くして円い輪の上をぐるぐる廻つて歩いた。さうしていくら疲れても気が付かなかつた。」  漱石は、「文学論」(明治三十六年)や、「私の個人主義」(大正三年)という講演などで、しばしば、「自己本位」の立場を語ってきた。だが、はたして、自己本位が社会的に可能であろうか。自己本位が可能であるためには、他我の自己本位を認めることが前提でなければならない。自己本位の立場を貫きながら、他我の自己本位を認めることが、はたしてできるであろうか。自己本位なるものの根源をたしかめること、「道草」の自己検証の課題はこれであった。「行人」のフィクショナルな実験は、「道草」にくらべれば、はるかにリアリティの稀薄なものといわざるをえない。一郎の孤独は、外からの観察であって、孤独の実体が描き出されたというふうのものではなかったことは、すでに書いた。「行人」の一郎には、妻の直が配されているが、最初から、その本心の知りがたいものとしてであって、一郎と対立抗争する存在として描かれているのではない。「道草」の健三とお住は、それぞれ自己本位に執して、はてしもなく対立抗争して、たがいに傷め合ずにはすまされない夫婦関係において描き出されている。孤独の実体が、決して静的なものでなく、なまぐさい対立葛藤の地獄図として活写されている。しかも、その抗争には、のっぴきならぬ金銭関係が入りこみ、健三は神経衰弱に、お住はヒステリーになって、いがみ合いながら、打開の道を見出しえないのである。  「世の中に片附くなんてものは殆どありやしない。一遍起つた事は何時迄も続くのさ。たゞ色々な形に変るから他《ひと》にも自分にも解らなくなる丈の事さ」と、吐き出すように苦々しくいう健三に、「おお好い子だ好い子だ。お父さまの仰しやる事は何だかちつとも分りやしないわね」と赤児をあやしているお住を対置した「道草」の結末は、この一篇を象徴する描写といってよい。  藤村、花袋、秋声、白鳥など自然主義の作家たちには、暗い家庭と、救いがたい家族関係を描いた大作がすくなくない。だが、そこには、夫に全面的に対立する、独立の人格として、妻の描かれたことは一度もない。その対立抗争として、夫婦関係の描かれたことはかつてなかった。「それから」以後、いくつかの夫婦関係をとりあげた漱石にしても、「道草」にいたって、はじめてそれを描いたのである。家庭をそのような夫婦関係の場としてとらえることによって、「道草」は、これまでのあらゆる小説のくわだて及ばなかった深さと的確さにおいて、日本社会の現実を表現しえたのである。  こう見てくると、「明暗」への展望をさえぎるものはひとつもない。「道草」の自己検証によって、我執対立の荒涼たる世界を確認しなければならなかった漱石は、自伝小説の束縛を捨てて、「明暗」の純粋な文学的想像に向ったのである。「道草」の家庭を、広い社会のなか、血縁につながるものにかぎることなく、一般的な市民の対人関係のなかで、全面的な展開をくわだてたところに、「明暗」の創造が生れたのである。  『東京日日』、『大阪毎日』の両新聞に掲載中の鴎外の「澀江抽斎」が完結したのは、大正五年五月十七日であった。「明暗」は、それから九日目の、五月二十六日から、十二月十四日まで、東京、大阪の両『朝日新聞』に連載され、百八十八回をもって、未完のまま終った。作者は、十一月二十二日に発病、十二月九日、五十歳で死んだ。小説は、作者の死後も、五日間発表されたのである。  主人公の津田と、妻のお延は、「道草」の健三とお住に代るものではあるが、自伝的な限定を脱して、緊密な構成による市民的な状況のなかにおかれている。夫婦関係を通ずる、両者の我執の対立抗争を軸としていることは、「道草」と変りはない。だが、お延は、お住にくらべれば、はるかに知的な女性であり、それだけに、我執の内容も複雑であって、さまざまの知的操作を通じて、発せられる我執が、内側から描き出されている。彼女は、夫の津田とだけ対立するのではない。お秀との、女同士の対立になると、俄然凄烈をきわめてくる。たとえば、百二十六回以下の、ふたりのやりとりなど、これまでの日本の小説が描きえなかったリアリティをもって、ふたりの女の対立を描く。燃えさかる女の情念のからみ合いを、執拗で、明晰な心理のなかにとらえることによって、その対立を全人的に描いていく。「お秀の口を洩れた意外な文句のうちで、一番初めにお延の耳を打つたのは『愛』といふ言葉であつた。此陳腐な有《あり》来《きた》りの一語が、如何にお延の前に伏兵のやうな新らし味をもつて起つたかは、前後の連絡を欠いて単純に突発したといふのが重《おも》な原因に相違なかつたが、一つにはまた、そんな言葉がまだ会話の材料として、二人の間に使はれてゐなかつたからである。」  百二十六回は、こんなふうにはじまる。お延にくらべると、お秀は理屈っぽい女である。お延は、自分の理屈を行為に移すたちなので、議論をする必要のない女であった。その代り、ひとから注ぎこまれた知識は、大した貯えはなく、女学生時代に読んだ雑誌さえ近頃は手にしたこともない。それでいて、自分を貧弱と認めたことはない。虚栄心の強い割に、その方面の慾望が刺戟されずにすんでいるのは、自分に大した不足を感じないからである。お秀は、これとちがって、読書は彼女を彼女らしくしているすべてであった。すくなくとも、そう考えさせられてきた。いきおい、本と自分とは離れ離れになるほかなく、柄《がら》にもない議論を主張することになる。問題は、ある雑誌に発表された諸家の恋愛観からはじまった。お秀は、まだ読んでいないことを自白したが、そのとき、彼女の好奇心が突然おこった。そして、この抽象的な問題を、どこかで思いどおり生かしてやろうと決心する。ここで、漱石の筆は、次のようにつづけられる。  「お秀の口にする愛は、津田の愛でも、堀の愛でも、乃至お延、お秀の愛でも何でもなかつた。たゞ漫然として空裏に飛揚する愛であつた。従つてお延の努力は、風船玉のやうなお秀の話を、まづ下へ引き摺り卸《おろ》さなければならなかつた。  子供が既に二人もあつて、万事自分より世帯染みてゐるお秀が、此意味に於て、遙かに自分より着実でない事を発見した時に、お延は口ではいはい向ふのいふ通りを首肯《うけが》ひながら、腹の中では、焦慮《じれつ》たがつた。『そんな言葉の先でなく、裸で入らつしやい、実力で相撲《すまふ》を取りますから』と云ひたくなつた彼女は、何うしたら此議論家を裸にする事が出来るだらうと思案した。  やがてお延の胸に分別が付いた。分別とは外でもなかつた。此問題を生かすためには、お秀を犠牲にするか、又は自分を犠牲にするか、何方《どつち》かにしなければ、到底思ふ壺に入つて来る訳がないといふ事であつた。相手を犠牲にするのは困難はなかつた。たゞ何処からか向ふの弱点を突ツ付きさへすれば、それで事は足りた。其弱点が事実であらうとも仮説的であらうとも、それはお延の意とする所ではなかつた。単に自然の反応を目的にして試みる刺戟に対して、真偽の吟味などは、要《い》らざる斟《しん》酌《しやく》であつた。然し其所には又それ相応の危険もあつた。お秀は怒るに違なかつた。所がお秀を怒らせるといふ事は、お延の目的であつて、さうして目的でなかつた。だからお延は迷はざるを得なかつた。  最後に彼女はある時幾を掴《つか》んで起《た》つた。さうして其起つた時には、もう自分を犠牲にする方に決心してゐた。」  長い引用をあえてしたのは、この一節によっても、「明暗」全体の性格を理解することに、さして困難はなかろうと思うからである。「明暗」に登場する人物のなかで、最も精彩を放っているのはお延であるが、平凡な中流家庭の婦人を、その意識と心理の内側から、これだけ全人的に描き出した作品はほかに類がないといってよい。「明暗」は、救いがたいエゴイズムを描出した作品などというものがある。それはそうかもしれない。だが、エゴイズムをエゴイズムとして、とり出したといったふうのものではない。虚栄、嫉妬、憎悪、反感など、人間の根柢にひそみ、なにかのきっかけで燃えあがる、もろもろの情念に支配される人間の実相を描いているのであって、エゴイズムの糾弾などではない。それは、人間に対する強烈な関心と、徹底した洞察とによる体験の深さに基づいている。「道草」は、自伝的な作品であるだけに、エゴイズムの葛藤に堪えかねた作者自身の悲鳴のごときものがまじっている。「明暗」には、そういうものがまったくみられない。家庭を中心にした広い社会的地盤のなかで、とらわれない目でとらえた、人間の劇が展開されているのであって、そこが「道草」とちがう点である。  主人公の津田は、病院のベッドに寝たままである。彼はお延と結婚する前に、清子を愛していた。吉川夫人が二人をむすびつけたのである。が、清子は突然、別の男と結婚してしまった。お延は結婚してからも、そのことを知らなかった。ところが、津田の旧友の小林がお延に暗示を与え、お延は津田の過去に疑惑をもつようになる。津田の妹のお秀から聞き出そうとしたが成功しない。津田は退院し、温泉場へ静養にいく。そこには、清子がひとりで湯治に行っていた。そのことを津田は吉川夫人に聞き、そのすすめで出むいたのである。二人は宿の一室で向かい合った。……  未完のまま終っている「明暗」のプロットは、単純なものである。主人公をベッドに横たえたなりであることからしても、そうならざるをえない。それだけに、構成は緊密に仕組まれている。単純なプロットと、緊密な構成とによって、作家がつかみとってみせているのは、日常の市民生活を営んでいる人間の実相にほかならない。たがいにあらそい、傷つけ、虚をねらおうとする情念の火花と、それを駆使する操作をとらえるには、綿密に計算された方法によらざるをえない。「明暗」はそれの見事な成功を示す作ということができる。  人物でいえば、津田、お延、お秀の三人が主軸であるが、ほかに吉川夫人とか、小林とか、わけても小林のごとき、これまでの漱石の実験的な作品には登場せず、させる必要もなかったごとき人間が入りこんできたところに、「明暗」の世界の広さがでているように思われる。従来、実験室のなかの小説であったものが、市民社会の小説になりえたということである。  清子のごときも、いままでの漱石の小説には登場しなかった女性である。「草枕」などの初期の浪漫的な作品は別として、すくなくとも、「虞美人草」以後の作品には、清子のごとき肯定的な女性は見られない。ほとんどが、作者にとって、不信と憎悪の対象としての女性といってよい。そこで、「明暗」にはじめて登場した清子に、重大な意味を見出そうとする考えかたが出てくる。とくに、津田の過去と深いかかわりがあり、退院した津田と温泉宿で顔を合せるというはこびなのだから、そこに意味ありげなものが感ぜられるのも無理はない。したがって、津田が、我執をもたぬ清子との邂逅によって、心機一転する精神更生が「明暗」一篇の主題であり、ねらいであろうという解釈の出てくる余地もないわけではない。また、お延と清子を対決させることによって、お延を「教育」しようともくろんでいる吉川夫人の目的が達せられるという見こみも引出せないものでもない。ともすれば、漱石の小説を問題的に解しがちなむきにとって、「明暗」に、津田やお延の精神更生や自己救済を見出したく思うのはわからないことではない。そういう解釈の裏づけとして、例の「則天去私」が格好な役割をはたしていることはいうまでもない。「則天去私」を漱石が最後に到達しえた悟達境として、そこから、エゴイズムの救抜を思いめぐらしたのが「明暗」であるという解釈である。漱石の参禅の事実や、作品や随想中にちりばめられている語録めいたものをつき合せれば、そんな解釈におちつかないものでもない。そんな解釈をゆるす余地も「それから」以後の実験的諸作の主題をたどってくると、漱石の文学にふさわしい帰結とも考えられる。だが、それらはすべて、かんじんの「明暗」の表現をぬきにした解釈にすぎない。しかも、そういう解釈は、単に「明暗」だけでなく、漱石の文学全体を不当にゆがめた、甚しい過小評価といわなければならない。  「明暗」の結末がどうなるか、作者が一言も語っていない以上、わかろうはずがない。だが、清子との邂逅による、津田の精神更生というごとき奇蹟が、突如としてもたらされるというごとき安易な結末は、作品そのものが拒否している。「明暗」に描かれているのは、わずか十日間ぐらいのことにすぎない。津田はベッドから離れない。しかも、小説は百八十八回をかさねている。描かれているのは、津田、お延の夫婦、それをめぐる人々の、虚栄や嫉妬や自尊心のたたかいであり、もつれである。それが隅から隅まで描きつくされている。吉川夫人のはからいにしても、嫉妬をまじえた意地のわるいおせっかいであって、中年の女の実体が見事にとらえられている。津田やお延のために、精神更生の手引をしようなどというのではないのである。  これほどまでに、我執の世界を体験していたからこそ、「則天去私」というイデエに、はげしく呼びかけられざるをえなかったにちがいない。「則天去私」は、漱石の到達した心境などとは、およそ逆のものであった。  漱石は、「明暗」において、近代心理小説の傑作をもたらしえたのである。そして、これは、観念的な実験小説の「行人」から、「道草」の自伝小説を経て、しかもその枠を越えることによって、はじめて可能であったのである。  漱石が早稲田南町の借家で死んだのは、大正五年十二月九日であった。「いま、死んじやこまる。いま死んじやこまる。ああ苦しい。ああ、苦しい」というのが、最後の言葉であったという。小宮豊隆の、詳細をきわめた「夏目漱石」では、この臨終の言葉はすべて削られている。「則天去私」の境地に達した漱石が、死に臨んで、世の凡俗とちがいのない言葉をはくはずがないというのが、この忠実な弟子の信念からだったに相違ない。  十二月十二日、青山斎場で葬儀が行われた。そのときの受付係だった江口渙は、式場に姿を見せた鴎外の印象を、次のように回想している。  「鴎外は大がたの名刺を私の前においた。『森村太郎』とあるだけで、ほかに何もない。私は名刺をそっと芥川(竜之介)の前におきかえた。芥川の眼が名刺と鴎外の顔とを見くらべた。と、思った瞬間、するどい緊張感が顔一めんにあふれ、そのひとみは異常な光をはなって鴎外の顔を見つめた。われわれも丁重なあいさつをかえした。だが、それっきり私も芥川もしばらくものをいわなかった。そして、鴎外のうしろ姿がやや遠のいたとき、芥川がはじめていきをはずませてはなしかけた。  ——あれが森さんかあ。  ——そうだよ。森さんだよ。君、いままでしらなかったのかい。  ——うん。はじめてだよ。いい顔をしているな。じつにいい顔だな。  芥川は指をひろげて長い髪の毛をぐっと一つかき上げると、感嘆おくあたわずという風に、何度も同じ言葉をくりかえした。」  芥川竜之介は、その年の二月の『新思潮』に発表した「鼻」について、漱石から、次のような手紙をもらっていた。当時、芥川は卒業を前にひかえた、二十四歳の無名の一大学生であった。  「拝啓。新思潮のあなたのものと、久米君のものと成瀬君のものを読んで見ました。あなたのものは大変面白いと思います。落着があつて、巫《ふ》山《ざ》戯《け》てゐなくて、自然そのものの可笑味《をかしみ》がおつとり出てゐる所に上品な趣があります。夫から材料が非常に新しいのが眼につきます。文章が要領を得て能《よ》く整つてゐます。敬服しました。ああいふものを是から二三十並べて御覧なさい。文壇で類のない作家になれます。然し、『鼻』丈では恐らく多数の人の眼に触れないでせう。触れてもみんな黙過するでせう。そんな事に頓着しないでずんずん御進みなさい。群衆は眼中に置かない方が身の薬です。」  芥川は、漱石の推挙によって、その年の九月の『新小説』には「芋粥」を、十月の『中央公論』には「手巾」を、十一月の『新小説』には「煙管」をというふうに、次々に斬新な短篇小説を発表し、新進作家として、文壇の注目を集めていたのである。  江口渙の回想「夏目漱石の死」は、鴎外の会葬を叙したくだりにつづけて、安倍能成、森田草平、鈴木三重吉、内田百、和辻哲郎、小宮豊隆らの悲しみにうちひしがれた姿を伝えている。ほかに野上豊一郎も加わっているが、いずれも漱石の大学講師時代の学生であり、寺田寅彦は、熊本の五高教授時代の教え子であった。文字どおり師弟としての結合であって、江口渙の言葉を俟つまでもなく、「ひたすら漱石の人間と文学とに純粋に傾倒した人たち」にほかならない。師弟関係による、これだけ広範な仲間が文壇で現れたのは、これが最初で、おそらく最後であろう。  漱石をめぐる、これらの古い弟子たちのほか、『新思潮』の芥川竜之介、久米正雄、松岡譲、江口渙などの若い仲間が、面会日にきめられた木曜日には、漱石山房へ集った常連であった。漱石が、前記の手紙にみられるような、大きな期待を、一大学生の芥川竜之介にかけたのは、江口渙によれば、古い弟子たちに対する失望からだったという。漱石の唯美主義の一面だけをうけついで、もっと神経質で感傷的な、そして、もっと純粋なものにしようと努力してきた、「千鳥」(明治三十九年五月)、「小鳥の巣」(四十三年三月−十月)、「桑の実」(大正二年七月−十月)の作者、鈴木三重吉は、当時、すでに動きのとれない状態に達していた。また、「煤煙」以来、さまざまの問題で漱石を煩わした森田草平も、停滞の兆いちじるしいものがあった。野上豊一郎を通じて、同じく漱石周囲の女流の新進として嘱目されていた野上弥生子も、唯美主義から、理想的な作風へ進み出ようとする転機に臨んでいて、「新しき生命」(三年四月)、「運命」(五年七月)などの作はあるが、これというほどの代表作は見せていなかった。そこへ、漱石が去った後の東大の英文科の学生が、「鼻」の作者として現れたのである。 第四節 自然主義のひとびと  漱石の死んだ年(大正五年)の七月、島崎藤村は三年間のフランス滞在を終えて帰国した。  「新生」に描かれている事件のおこったのは、大正二年(一九一三年)一月で、藤村は四十二、節子のモデルになっているこま子は二十一の年を迎えたときであった。藤村がその秘密に追われるように、フランスへ脱出したのは、その四月のことだった。翌三年には、欧洲大戦がはじまった。ドイツ軍の迫りつつあったパリからリモオジュへ難を避け、国運を賭して戦うフランスのすがたを藤村なりにうけとったことは、「仏蘭西だより」に語られている。戦うフランスの愛国主義の声に耳をかたむけるにつけても、藤村の思いは、日本に帰って行った。これより先、パリにおける藤村は、明治年代とか徳川時代とかいう区切りを越えて、日本の十九世紀を全体として考える必要を痛感していた。本居宣長あたりからはじまり、明治の開化期を経て、「若菜集」の現れるころまでの十九世紀の日本の展望のなかに、慶応三年パリへやってきたことがあり、藤村が青年時代に教えをうけた栗本鋤雲のことなどが、まず思いうかべられた。開化期の先達、福沢諭吉の生涯の意味が、改めて考えられた。「福沢氏は明治の歴史の中でも日頃自分等の尊敬する先達者の一人であり、種々な人物を生んだ親であるとは思ひますが、今日のやうな社会生活の分裂、その不調和、実際生活と思想生活との離反、斯る傾向は先づ氏などの思想に胚胎したものではないでせうか」というのがそれである。  このことは、「海へ」の最後で、「少年の時分からのお前の旧《ふる》馴染《なじみ》が復《ま》たお前の懐裡《ふところ》へ帰つて来た」という、隅田川への呼びかけ、——「お前の岸にある不思議な不統一。私はそれをお前に問ひたい。お前が眼のあたり見た驚くべき大改革とは人の心に『推移』をば齎したらう、しかしながら人の奥に『改革』を齎したらうかと。それを思ふと私は言ひ難い幻滅の悲哀に打たれる。」——に、そのまま、つながっている。  おそらくは、北村透谷が、「明治文学管見」(明治二十六年)のなかで問題にしている「変遷の時代」なども、このとき、思いうかべられたものと思われる。——われわれは、相敵視する二大潮流のなかにいる。「公共的の自由を経験と原理とによりて確認し且握取せる共和思想」と、「各個人の自己に各自の中心あることを認めざる族長制的思想」とがこれである。つまり、一方は西洋近代思想であり、他方は東洋封建思想にほかならないが、この思想的混乱のなかに、国民を率いるものに、福沢諭吉と中村敬宇がいる。福沢諭吉は大改革者ではあるが、外部の改革であって、国民の理想を嚮導するものとはいえない。中村敬宇は改革者というよりは適用家であり、旧世界と新世界とは、かれのなかで、奇異な調和を保っているにすぎない。  以上が透谷の論旨であるが、福沢諭吉の外部の改革を内部の改革たらしめようとしたところに、かれの苦闘があった。つまりは、日本の西洋化・近代化の問題である。漱石が、明治四十四(一九一一年)八月、和歌山市で行った講演、「現代日本の開化」で、絶望的な空虚感を吐露した「外発的の開化」の問題にほかならない。透谷は、その犠牲となって悲劇的な生涯を閉じ、漱石もまた、神経衰弱を昂じさせたのであった。  藤村は戦時下のフランスの愛国主義に触れて、透谷や漱石とは逆の方向で現代日本の再認識を迫られたのである。当然、そこから、平田篤胤の学燈を継ぎ、「黒船の幻影」におびえて死んで行った父、島崎正樹の生涯が、新たな光をあびて思いうかべられることになる。かくて、「夜明け前」の青山半蔵は、在仏中の藤村の胸に宿った人物であった。第二次世界大戦のなかではじめられた未完の絶作「東方の門」の構想も、遠くこのときに根ざしたものとみるべきであろう。その意味で、三年にわたる藤村のフランス滞在は、直接には、世間の眼からの逃避が目的であったにしても、その後、死にいたるまでの主要な仕事の根源が見出されたことを見のがすわけにはいかない。パリの客舎まで携えて行った「桜の実の熟する時」の稿が書き継がれたり、「仏蘭西だより」「海へ」「エトランゼェ」など、藤村の全作品のなかでも独自な意味をもつ紀行文学がもたらされたにとどまらない。  だが、フランスにあって、藤村のこころに思いうかべられたのは、父や父の時代だけではなかった。もっと手前の、より切実なものとして、フランスへ脱してきた当の原因、こま子との問題があったことは、ことわるまでもない。そして、この場合もまた、亡父正樹への回想につながるものだったのである。「父上、あなたの御生涯のなやましかつたやうに、私の半生もなやましいものでございました。」という、「エトランゼェ」のなかの呼びかけがそれであった。  ここでふれている、父の生涯のなやましさというのは、藤村が「新生」の事件で、身をもって経験したそれと共通するものであった。「新生」には、岸本が父の発狂の原因について思いめぐらす条がある。若い時に想像したような、ロマンチックなものとは逆に、「もつと簡単な衛生上の不注意」によるものという、きわめてプロザィックで実際的なものとして示されている。「仮りに父の発狂が左様した外来の病毒から来て居るとしても、そのために父に対する心はすこしも変らなかつた。恐い、頑固な、窮屈な父は、矢張自分と同じやうな弱い人間の一人として、以前にもまさる親しみをもつて彼の眼に映るやうに成つた。」  次の個所などは、いっそう見のがすことのできないものである。  「民助は弟の反省を促さうとするやうな調子で、今迄誰にも話したことの無いといふ父の生涯の隠れたるものを岸本の前に展《ひろ》げて見せた。民助に言はせると、あれほど道徳をやかましく言つた父でも誘惑には勝てなかつたやうな隠れた行為があつて、それがまた同族の間に起つて来た出来事の一つであつたといふ。……最早この世に居ない父の道徳上の欠陥が末子の岸本にまで伝はり遺つて居るのを悲しむかのやうな口調で言つた。」  モデルに即して考えれば、岸本を藤村、民助を長兄秀雄とおきかえてみることはゆるされるだろう。そうなると、民助が岸本の前に展げて見せたという、「今迄誰にも話したことの無いといふ父の生涯の隠れたるもの」とは何か、ということである。それは、「あれほど道徳をやかましく言つた父でも誘惑には勝てなかつたやうな隠れた行為」であり、「同族の間に起つて来た出来事の一つ」であり、それはまた、「末子の岸本にまで伝はり遺つて居る」「道徳上の欠陥」なのである。それが、藤村の父正樹を狂わしめた前述の「病毒」にかかわりのあるものか、そのほかにもあるのか、詳しくはわからない。ところで、あれほどまで肉親関係、わけても父について多くを書いてきた藤村が、母にふれている量はきわめてすくない。昭和二十六年十月刊行の新潮社版島崎藤村全集第十九巻「書簡集」で、三兄友弥の註(おそらく藤村の三男、島崎蓊助の手によるもの)として、「この人は藤村等兄弟の中で一人だけ片親が異ると伝へられてゐる」とあり、さらに島崎家の親戚にあたる西丸四方によって明らかにされた、藤村の母の秘密——父正樹の上京中、母縫子は、馬籠の隣家、稲葉屋の主人との間に不義の子を生んでおり、それが三兄友弥だということ——を考えるならば、この事実は、あまりに深刻すぎるため、生涯藤村の胸底に秘められていたものにちがいない。父の道徳的欠陥という場合、おそらく母のあやまちがかさなり合っていたのではなかろうか。それら父母の秘密については、「新生」に描かれているように、このとき秀雄によって、はじめて知らされたのではなく、とっくの昔から知っていたに相違ないのである。小説の最初の試作とみるべき「うたたね」(明治三十年十一月)をはじめ、友弥と思われるモデルの扱いのなかに、それを察することができる。かくされた父母の秘密は、自分に伝わる血の秘密、血の恐怖として、青年時代から、藤村をおののかせつづけてきたものであった。しかも、「家」に描かれているように、小諸での新婚時代、藤村には橘糸重なる秘密の恋人があり、妻の冬子にも、夫にかくした男があった。小説の第一作、「旧主人」(明治三十五年十一月)には、田舎医者と若妻の姦通が描かれ、それは藤村が勤めていた小諸義塾の塾長木村熊二の先妻の秘事をとりあげたものとして、モデル問題をおこしたが、実は「ボヴァリー夫人」を手本にして、作者自身の家庭の秘密をなぞったものであった。同じくモデル問題でさわがれた「水彩画家」にしても、友人の丸山晩霞に仮託した、作者夫婦のたがいの秘事にほかならなかった。さらに、「破戒」にしても、「わが胸の底のこゝ」に棲む「ひめごと」を、「罪と罰」を手本にして、なぞってみたものであることは、「旧主人」の場合と変るところはない。つまり、「落梅集」でうたい、「旧主人」で描き、「藁草履」「水彩画家」で試みたところを、「破戒」では、構想を一変して、一見、社会的な構図のなかで描こうとしたものにほかならない。部落解放というごとき、社会的な関心や抗議からの作ではない。あくまで個人的なひめごとに促されたものである。「旧主人」や「水彩画家」とちがうのは、「破戒」になると、藤村夫婦のひめごとが、父母のひめごとに、そのままつながるという、血の恐怖を新しく呼びおこしている点である。  「破戒」は、冒頭から、丑松をして、血の秘密と恐怖におののかせている。烏《え》帽《ぼ》子《し》山《さん》麓《ろく》の牧場の父への回想は、丑松の出生の秘密を物語っているのではあるが、そこに動く作者の意識は、おのれ自身の血の不安であり、恐怖である。こういう秘密の不安と恐怖をいだいている人物でさえあれば、丑松は必ずしも部落出身者たるを要しなかったのではないか。藤村は、自分と共通の秘密を担うものとして、丑松に部落出身者たる条件を設定したにすぎない。丑松は、藤村自身にほかならない。  われわれの文学が、「破戒」から、「春」「家」の私小説的方向へ「屈折」することなく、まっすぐに「破戒」の社会小説の方向に進んだならば、日本の近代文学史は、現在とは別のかたちのものになったろうということ、そして、その「屈折」の根源に、田山花袋の「蒲団」を位置づけようとすることが、どんなに思いつきの錯覚であるかは、もはや、いうを要しない。もともと、社会小説などとは無縁な「破戒」は、「春」「家」の方向へしか進みえないものなのである。「破戒」から、「春」以後の自伝小説への道は、一貫したひとすじ道にほかならないが、小説概念の上からいえば、一応の断絶を認めないわけにはいかない。「旧主人」にしろ、「水彩画家」にしろ、「破戒」にしろ、胸底のひめごとを仮構に託しているのであるが、「春」「家」となると、直ちに作者自身を思わせる人物として登場してくる。丑松は藤村にほかならぬとしても、岸本捨吉や小泉三吉とは、おのずからちがいがある。「春」以後、正面きった自伝小説として、おし出すようになったのは、なぜであろうか。それ以前は、不可解なモデル問題を、次々におこしてまで、自分の秘密を恩人や友人に仮託して描かなければならなかったのは、なぜであろうか。これは、たとえば、坪内逍遥の「小説神髄」の言葉——「小説の主人公は実録の主と同じからで、全く作者の意匠に成たる虚空仮設の人物なるのみ」という小説観が、当時のすべての作家と同様に藤村をも支配しており、自分の体験をぶちまけることで小説になるなどという考えは思い及ばなかったからである。近代小説が、自分の内部体験を吐露すべきものであることは、海外の近代小説との接触によって知っていたであろうが、同時に、小説である以上、その主人公は、「虚空仮設の人物」でなければならぬという考えに変りはなかったはずである。いわゆる私小説の見本など、どこにもなかったからである。逍遥の「模写」を超える対象肉薄の方法として、「モデル」と「スケッチ」を見出した藤村が、二葉亭のいわゆる「自分の有つてる抽象的観念」を造形しようとして、恩義のある先輩や友人を、あえてモデルにせざるをえなかった苦衷は、以上の事情において納得することができる。私小説と紙一重というところまで来ていたのであるが、小説の主人公は「虚空仮設の人物」という小説観のゆえに、手軽につき破れるものではなかったのである。  そうなると、「破戒」から「春」への紙一重が、なぜ破られたかが問題である。花袋の「蒲団」に教えられたとする通説の誤りであることは、「蒲団」の発表以前に、「春」の腹案の熟していたことによっても明らかである。藤村の書簡が、それを実証している。この問題は、おそらく花袋とは無縁であろう。「並木」では、馬場孤蝶、戸川秋骨などの友人をモデルにするとともに、藤村自身も高瀬として登場している。モデルにされた友人の抗議に対して、一言も答えず、いっそう大がかりに『文学界』の仲間をモデルにとりあげつつ、藤村自身主人公のモデルとして登場せざるをえなかった。胸底のひめごとを、くりかえしかたちを変えて、仮構に充填しているうちに、「並木」「黄昏」から「春」へとつづく進展のうちに、仮構そのものをはらいのけざるをえない道がひらかれてきたのである。かくて、自分の体験、自分の秘密を、そのままのかたちで、描き出すという方法が、「家」においては、大きな幅と奥行とをもって、実現したといってよい。自分のことを、友人や知人に仮託して描くというようなことが、もはや藤村におこりえなかったことはいうまでもなく、その以後の最大のモデルは藤村自身であり、さらに血縁をさかのぼって、父にまで及ぶのである。  こうなると、「家」から「新生」へは、これまた、まっすぐな、ひとすじ道であることがわかる。藤村も、この間の事情を別の面から語っている。  「私の創作上の経験によれば一の長篇は他の長篇を喚び起すもののやうである。私が『破戒』を書いてゐるうちに『春』は既に私の内部に芽ぐんで来た。それから『春』を書いてゐるうちに私は『家』を書くことを思ひ立つてゐた。ところが『家』を書き終る頃になつても、第四の長篇が胸に浮んで来なくなつてしまつた。あの時は私も淋しい思ひをした。」  「家」は、「旧主人」以来の諸作の内実を、すべて包含させ、大きな構成のなかに、新しい綜合をくわだてたものである。  「旧主人」「水彩画家」「破戒」で、仮構に託したものが、ここでは、小泉三吉とお雪の家庭という自伝的な枠のなかに、とりこまれているばかりか、お雪の留守中に、「不思議な力は、不図、姪の手を執らせた。それを彼は奈何することも出来なかつた」という、新しいひめごとさえも加っている。実在のモデルに引き直していえば、この姪のお俊は、「新生」の節子とは別人である。前者は藤村の長兄秀雄の長女いさ子であり、後者は前述のように、次兄広助の二女こま子である。いさ子は、こま子より六つ年長であった。小説についていえば、節子はお俊の後身ではなく、節子が「根岸の姉さん」と呼んでいる愛子が、往年のお俊の後身にほかならない。実際に即していえば、藤村は「ひとたびは長兄の娘の手を握り、数年ならずして次兄の娘に懐姙させたのである」という、以上の事実を指摘したのは、平野謙であった。  父母からの血におののきながら、自分もまた同じ罪を犯さずにはいられなかった藤村が、これまでの作の綜合としての「家」をかき終る頃になっても、次の長篇が思いうかばなかった事情は、容易に察しがつく。いさ子との関係は、大事にいたらず解決し、こま子とは、まだ手を握るにいたらなかったからである。  だが、次の長篇の思いうかばないことに「淋しい思ひ」をする必要はなかった。藤村の奇怪な宿業は、やがて、「新生」の事件をもたらさずにはおかなかった。自分の血に対する、これまでの不安と恐怖は、奇怪きわまるかたちで、現実化された。藤村文学の唯一最大のテーマと、私生活において直面することになったのである。したがって、この事件の作品化は、藤村として、のっぴきならない文学的要請にほかならなかった。  だから、藤村が「新生」を書いた最大のモティーフとして、「恋愛の自由と金銭からの自由といふ現実的作因」をひき出して見せた平野謙の洞察は、一面的すぎるきらいがある。そう考えられてもやむをえないものを、「新生」自体が内包していることは、平野謙の、綿密で鋭い分析の示すとおりであるが、作品の最大のモティーフということになれば、藤村の一貫した文学的要請とみるべきであろう。そのなかに、平野謙のいう「現実的作因」なるものが、結果的に介入していることは、認めざるをえない。事件の実際の処理において、藤村が残酷きわまるエゴイズムを発揮したに相違ないことは、逆に作品自体が示している。だが、「新生」のモティーフを、事件の実際的処理に利用したとみるのは、行きすぎであろう。  それにしても、平野謙の「新生論」は、すぐれた力作であり、この作品の奇怪な性格を照し出してあますところがない。捨吉が、事件の責任から逃げて、外遊を決意した夜、捨て去っていく節子にむかって、「好い事がある。まあ明日話して聞かせる」とささやく一場面だけでも、読者を唖然たらしめずにはおくまい。この場合、藤村自身がこういう憎むべき老獪ぶりを演じたとしても、ほかならぬ作品において、そのまま肯定して疑わないというのは、おどろくべきことというほかはなく、作家としての資格さえ疑わざるをえないものがある。まして、全篇を通じて、作者は、節子の心のなかをのぞいてみようとさえしていないのである。「新生」という題名からしても、告白による自己救済に、焦点を合せていることは察するに難くなく、実際問題としては、そのとおりであったろうが、作品そのものは、およそ告白文学とは無縁である。主人公のポーズが、それをちらつかしているにすぎない。もともと、この事件を三年間のフランス滞在から帰って、こま子との間に、再び「縒《よ》りが戻つて」新しい紛糾のはじまった時期に、強引にも、新生という立場から作品化したところに、根本的な錯誤があったといえよう。近代日本文学のうち、最大の問題作である。  「新生」上巻は、大正七年(一九一八年)五月一日から十月五日まで、『朝日新聞』に連載され、下巻は、書きおろし単行本として、大正八年十二月に刊行された。 *  藤村の、フランスから帰国したのが、大正五年七月であったことは、すでに書いた。田山花袋の書きおろしの大作「時は過ぎ行く」の刊行されたのは、その二カ月後のことである。明治初年から、この作を執筆中の大正のはじめころまでの二つの家の歴史を背景に、封建道徳のなかに生い育った、善良で、誠実な、ひとりの人間が、変転する時代の激流におし流されるように生きてきたすがたを描いている。花袋の叔父にあたる横田良太の残した日記を材料として、その生涯を時代の変遷のなかで、とらえようと試みたものであった。しかし、はげしい時代を生きる人間よりも、人間をおしつつんで変遷する時の流れが、むしろ主人公であるかのような作である。藤村は、古い僚友の新作に、次のような批評を加えた。  「……田山君の特色はこの新著によつていよいよはつきりして来た。君が人と人との葛藤を描き出す作家としてよりも、寧《むし》ろ自然の力を本位として、そこから生じて来る人間の悲劇的な位置を写すに長じた作家であることは、『生』以来の君が無数の作物によつて証せられる。死—本能—性欲—無関心な自然—そこに冷厳な事実を凝視した作家は、『時』の力を描き出すまでに其領分をひろげて来た。この作では作家は左程凝視的でもない。寧ろ私の前には眼を瞑つて自然に対するやうな作家がある。作家が眼を開いて物をよく見やう見やうと努めた頃に出来た作物の精髄はどちらかと言へば、暗いものであつたのに、瞑目した作家の前には反つて明るみの多い自然が展けて来た。『時』は老いて孤独なお幾といふ女の心を砕いた、頑《かたくな》な彼女の心が此作の主人公なる良太夫妻に結び着けられて行くあたりは、最も私の心を引いた。この作では、『時』は人間をふみにじる暴君でなくて、巨人の如くに歩み行く力である。過去に於いて然るが如く現在に於いても然りである。そこに私はある物足らなさを感ずる。何故に作家は歩みゆく巨人の足跡のみを辿らうとしたであらうか。何故に作家は『時』の力を頼まうとする人間の最期の望みやあきらめや哀れみやを写さうとはしなかつたであらうか。……」  のちに、「夜明け前」の作者となった藤村が、時代と主人公との、はげしい噛み合いを避けているとみて、そこに、この大作に対する不満を感じたのは、うなずけることである。藤村は、この批評の最後で、「欲を云へば作家の物の観方がもつと智力的であつて欲しい」ともいっている。これがまた、一面では似通った題材をとらえながら、「夜明け前」と「時は過ぎ行く」とのちがいでもある。  翌六年には、「一兵卒の銃殺」(一月)、「ある僧の奇蹟」(九月)、「残雪」(十一月)などをはじめ、多くの力作が現れ、「生」「田舎教師」などの明治末期に次いで、花袋は、生涯の最もさかんな制作期を迎えたのである。  「一兵卒の銃殺」は、生れつき誘惑に弱い、郵便局長の息子が、軍隊で、帰営におくれ、恐怖のあまり脱走彷徨中、ある宿屋で、むかし自家にいた女中とめぐり合い、関係する。しかし、宿賃に窮し、金がほしくなって、宿屋に放火し、捕えられて銃殺されるまでの経緯を描写した作である。  宮城県岩沼におこった事件に取材したのであるが、軍隊と個人生活という面でとらえようとしたものではなく、無気力と性慾とのために身を亡ぼす人間の心理と行動を描いている。当然、社会小説となるべき題材をとりあげながら、結局は、こうしたものに終っているところに、花袋流の自然主義の特色が見られる。その意味で、「一平卒の銃殺」は、「時は過ぎ行く」とならんで、花袋中期の代表作たるを失わない。  「残雪」は、作者が恋愛から宗教へ志向する心境を告白ふうに書いた作ではあるが、この傾向の代表作としては、「ある僧の奇蹟」をあげるべきであろう。主人公の僧侶の経歴は、作者のそれを投入したもの。この僧が、幾多の試錬をへて、宗教的更生に達することが描かれている。「私の心の転換期に立つた時の作である。この作で、私は内面的に一飛躍をした。人間心理の奥底にひそむ不壊の心を摘発して見せたつもりだ」とは、作者自身の言葉である。しかし、愛慾を通じての宗教への心理推移が、読者を納得せしめるまでに活写されているとは言いがたい。花袋は、このころ、宗教への志向を見せた作品を、相次いで書いている。「遺伝の眼病」(七年一月)、「強い心」(同年八月)、「山上の雷死」(同年十月)など。これは、「残雪」のなかの、「人生の再現は可なりであるが、芸術家は、その雰囲気を更に深く破つて、その底にかくれてゐる法身を再現しなければならないのである。そこに至つて、初めて立派な芸術だと言ふものが出来た。其処に至れば、世間の共鳴すると否とは、最早問題とするにも足りないのであつた」という述懐につながるものであろう。  以上のことは、花袋の、自然主義からの脱却を示すものであるが、これは単に花袋にだけ見られたものではない。当時の、かなり一般的な傾向であった。これは、『白樺』を中心とする、反自然主義的、理想主義的文芸思潮のかもし出したもので、武者小路実篤、有島武郎、倉田百三らが、その先駆であった。それらは、正統的な宗教文学というよりは、宗教的素材のなかに、人間主義を見出そうとしたもので、大正文学の特質の一面を示すものである。当時の江馬修なども、この傾向に属する新作家であった。最初の長篇、「受難者」(五年九月)は、ひとりの美しい女性を愛することによって、宗教的な高さにまで醇化されていく主人公の心的経過を描出したものであるが、自己探求ふうな真摯な作風は、当時の若い読者層に迎えられた。親鸞を主人公として、「歎異鈔」の思想に、自由恋愛を織りこんだ倉田百三の戯曲、「出家とその弟子」が、『白樺』の仲間の、千家元麿、犬養健らとはじめた同人雑誌『生命の川』に発表されたのも、大正五年十二月であった。西田幾太郎の「善の研究」と、西田天香の「一燈園」の思想とを、人道主義的思想のなかに、調和的にとりこみ、これに文学的表現を与えた倉田百三が、圧倒的に迎えられたところに、当時の風潮の一端をみることができる。キリストの人間的な面を強調するとともに、反逆者ユダのなかに、むしろ人間性を見出そうとした、「新約」(大正十年)の作者、江原小弥太の出現も、この風潮の余波の生んだものであり、さらには、賀川豊彦のキリスト教社会主義によって、当時の労働問題に解決点を見出そうとした、「死線を越えて」(九年十月)のような、体験を通俗小説のかたちで綴ったものが、読書界空前の歓迎をうけたのも、ひとつづきの現象とみるべきであろう。自然主義の最も果敢な主張者であった花袋が、宗教への志向を示す諸作を次々にかいたことは、こういう風潮と決して独立ではなかった。藤村の「新生」が、題名の示すような立場から書かれた事情も、これらと無縁ではなかったのである。  だが、花袋は、そのまま、宗教への道をおし進めたわけではない。宗教的心境はそれとして、「再び草の野に」(八年一月)のごとき、一小駅の出現とその撤去によって、一たび栄えた場所が、再び草の野に戻るいきさつを利根川沿岸の自然のなかにくりひろげ、「蒲団」のヒロインや、「田舎教師」の主人公までも、登場させて、「野の花」(明治三十四年)以来、変らぬ詠嘆をにじませた大作を、一方では書いているのである。この作品をつらぬいているのは、藤村のいう、「巨人の如く歩み行く『時』の力」に対する詠嘆であり、抒情である。のちに、同じく藤村が、花袋を評して、「田山君と云ふと、世人はすぐ自然主義を聨想する程、その方の代表者のやうに考へられて来たが、然し、私の見るところでは、君は主義の人であるよりも、もつと詩人であつたと思ふ」といっているのは、知己の言というべきであろう。  しかし、花袋への批評は、同時にまた、藤村自身の本質をも語るものともいえよう。藤村にしろ、花袋にしろ、その本質は、もともと、反自然主義的な、抒情詩人であった。かれらが、身をもって、自然主義文学をうちたてようとした努力は、自己の本性に反した痛ましい苦業であった。自然主義のもつ内的矛盾に、かれらほど苦しんだものはない。それは、当然、かれらの私生活を蝕ばまずにはおかなかった。「ある僧の奇蹟」や、「新生」は、極言すれば、自然主義の犠牲者としての、この両大家の苦悶の告白ともみることのできるものである。大正四、五年以後、反自然主義の『スバル』や『三田文学』に拠った芸術至上主義的耽美的系統の文学が急速に退潮して、もうひとつの反自然主義的な「白樺」系統の理想主義ふうの文学が、文壇の主流になりつつあったこと、同時に、すでに書いたように、抱月、天渓、天弦、御風など、理論家たちの活動が、自然主義への反省を志向しつつあったこと、これらの風潮が、花袋、藤村をして、資質的に相容れなかった自然主義からの脱却を敢行せしめたのである。自然主義の拘束からのがれて、かれらは、その資質の命ずるままに、ふるまうことのできる時期を迎えた。といって、彼らに宿った自然主義の毒は、ぬぐい去るべくもなかったのである。 *  花袋とならんで、徳田秋声もまた、この時期——大正四、五年ころまでに、その代表作のいくつかを書き終えている。「足迹」(明治四十三年八月)、「黴《かび》」(四十四年八月)、「爛《ただれ》」(大正二年三月)を経て、『読売新聞』に、「あらくれ」の連載のはじまったのは、大正四年二月であった。「黴」などでは、自然主義のいわゆる「無技巧の技巧」への忠実のもたらした、全体の散漫と弛緩が見られなくはなかったが、「あらくれ」になると、作者の技巧は、きわめて自由無《む》礙《げ》のものになってきている。多くの批評家が、「艶《つや》消し」などとたたえているのがそれであるが、このことは、技巧が技巧として、独立に磨かれた結果ではない。人間観照の自在な深まりに伴って生れて来たそれであることを見のがすわけにはいかない。「爛」では、愛慾の世界にふみこみ、頽廃のなかに、人間性を追求しようとしたところに、自然主義の特質をおし出したものであったが、「あらくれ」になると、もっと人間を全体的に観照しようとする、広いところへ出てきている。そして、かんじんなのは、自然主義の否定的な構えから放たれて、主人公のお島という女を、広く深い愛情で見据えていることである。むろん、お島をめぐって、次々に情痴の世界が展開する。しかし、この情痴は、彼女の生活の全体からきりはなされて、独立に描かれているのではない。愛慾をもふくめた全体の生活が描かれているのである。「足迹」「黴」「爛」とくらべて、題材としては、さしてちがった世界ではなく、また決して明るい題材ではないのに、これらの諸作のみじめで、わびしい暗さとちがって、何か一種の明るさ、一種の健康なものが見られるのは、このためであろう。  生活の全体的な営みのなかに、人間を追求しようとした結果、「あらくれ」の主人公お島は、「足迹」のお庄、「黴」のお銀、「爛」のお増のような、寄生的な女ではなく、自分で自分の運命をひらいていくような、勝気で、野性的で、ときには、義理人情もふり捨てて生きていく女として描かれている。養家にだまされての最初の結婚を破って、逃げ出してから、鑵詰屋に嫁ぐが、夫に情婦ができたりして、そこもとび出してしまう。山国の小さな町にいる兄の手助けに行って、そこの宿屋の若主人と関係ができるが、東京につれ戻されて、洋服屋と一緒になり、亭主を引きずりまわすほどの働きのおかげで、店は相当に繁昌して、若い腕のいい裁《た》ち師を雇うが、お島は、その男が気に入って、別の店をやることを考える。——大まかに梗概をたどれば、こういうものであるが、お島は、どんな事態にぶつかっても、頽《くず》れることなく、いつも積極的に自分の運命をきりひらいて行こうとする。しかし、彼女を待ちうけているのは、生きにくい、現実の人生そのものである。この作品の明るさとか、健康なものとかいったものは、こうした不愛想な、現実の人生そのものを、自分の智慧と力とをつくして、生きぬいて行こうとする、ひとりの巷《ちまた》の女の人間的追求からきているのである。この点に、そのころ、ようやく文壇の支配的潮流となりつつあった白樺派の影響を指摘する片岡良一の見かたもありうるわけである。  かくて、「あらくれ」に、秋声文学の成熟を見ようとする通説は、まちがいないといっていいだろう。だが、同時に、問題の主体的なとりあげに伴う、対象の批判的態度は、ここには見出すことができない。「あらくれ」にその成熟を見た自然主義は、そうした初期の特色を失い、ここには客観的な観照主義の深化としてのそれが示されている点を見のがすわけにはいかない。 *  正宗白鳥も、大正四、五年ころに、その文学の完成期に達したのは、花袋、秋声らとまた同様である。作品でいえば、「入江のほとり」(四年四月)、「牛部屋の臭ひ」(五年五月)、「死者生者」(同年九月)などがそれである。  「入江のほとり」は、瀬戸内海地方の旧家の兄弟姉妹六人の性格と生きかたを描きわけている。旅行好きの長男に対して、この地に資本を投じて、一仕事おこそうともくろむ次男がいる。無口な人間嫌いで、代用教員をしながら、英語の独学をしている三男が中心人物であるが、彼の性格のなかには、作者のそれの一部が投入されているものと見られる。東京に出ての勉学を念願している長女には、時代に目ざめた、若い女の一面が写されている。それぞれの性格による、それぞれの生きかたが示されているのに、隣村まできている電燈をひくには、柱や鴨居を損《そこな》わねばならぬことを苦慮して、ひたすら古い家を守ろうとする老父が対比されている。解体しつつある旧家のさまを、客観的につきはなして描き出している点で、藤村の「家」に通ずるものがある。  「牛部屋の臭ひ」では、漁村を背景として、牛小屋に住む醜い女や、盲目の母親などの、乞食のような一家の暮らしがとりあげられている。女は、情夫と逃げようとして、牛小屋の持主の家へ、盗みに入り、母親に見つかってしまう。貧困と無智のなかに、食慾と性慾の本能のままに生きている男女のすがたが、冷やかに描き出されている。  漁村の旧家や、貧しい牛小屋のなかに、うごめく人間のすがたを構想した作者が、その場所を市井の一隅の八百屋一家に移したとき、「死者生者」が生れたのである。病気で寝たままの亭主の清吉をかこんで、若い女房のおきく、清吉の弟で田舎から呼びよせられた信造、醜い女中などの、利己的な動きにひそむ、それぞれの心底が、的確にあばかれていく。おきくは病む亭主を嫌って、若い信造を誘惑しようとする。女中もまた、信造に露骨な慾情を感じている。信造にも病気の兄をいやがる気持がつのってくる。病人の清吉は、それらのけはいを感じて、いらいらしながら、生への執着に悶《もだ》える。病人と健康な人間との気持の隔たりが、いよいよ、はっきりしてくる。——市井の、いたるところに見られる、ありふれた小市民の一家をとらえて、そこにうごめく人間めいめいの、利己的な醜い生きかたが、冷然と凝視されている。以上の三作のうちでも、この一作が一段とすぐれている。  白鳥は、のちに「文壇的自叙伝」(昭和十三年十二月)のなかで、次のように語っている。  「私は、早稲田の学堂で坪内先生の沙翁講義を謹聴してゐた時、沙翁は全く自分を離れて、さまざまな世間の有様やさまざまな人間の行為を客観的に現はしてゐると云はれるのを、文学の極致として心に留めたのであつたが、しかし、自分を没却して他人の事ばかり写すのは詰らないぢやないかと、窃《ひそ》かに疑つてゐた。……それで、有るがまゝ描写を正しい小説作法として心掛けながらも、私の作品は、自己の主観に支配された勝手な産物であつた。だから、世の中の真相を冷静に如実に描写してゐると、明治文学史などに定評を下されてゐるのを読むと不思議な感じがする。擽《くすぐ》つたく思ふこともある。かつて小川未明君が突如として、君はロマンチストだよと云つたことがあつたが、ロマンチストか否かは知らず、過去の私の作品は、客観的分子には乏しく、むしろ主観的傾向のものであつたと、私は心の中で自作自評を試みてゐる。」  制作の事情に即していえば、これが真相であろう。引用の文章につづいて、「私の抽象的懐疑・妄想的疑惑」という言葉が出てくるが、白鳥は、終始一貫、この「抽象的懐疑・妄想的疑惑」をいだきつづけてきた作家である。そして、たえずその抽象的観念を確かめ、試《ため》してきた作家といえよう。それが、ほかの自然主義作家たちと区別される特色である。 *  岩野泡鳴が、その思想運動を積極的に展開しようとして、『新日本主義』を発刊したのは、大正五年一月であった。前年八月には、第二の妻と別居し、のちに第三の妻となった女と同棲した。しかも、最初の妻と、妾にしていた女との、かつての醜い争いを、「毒薬を飲む女」(大正三年六月)で赤裸々に描いたばかりか、「半獣主義」や「刹那哲学」を唱え、婦人共有を説いていたのだから、社会的に大きな非難、攻撃をまきおこした。しかも、相手は離婚を承諾せず、訴訟問題にまで発展した。泡鳴は、騒然たる攻撃と非難に真向うから対抗し、「僕の別居事実と諸家論議」をはじめ、「三度妻を換へた話」「各方面から観察した男女の貞操」「自由恋愛の意義と社会関係」など相次いで所信を披瀝した。  「僕の刹那燃焼説から云へば、」と泡鳴はいうのである。「一人格が他の人格又は他の凡ての人格を吸収征服するところに最も高潔な生活若しくは道徳、乃ち、優強者の道徳が実現するのである。そしてかかる努力が僕の革命家としての主義であり、行為であり、また生活である。(中略)貞操が人格観念の確立にあるとしても、男女が互ひに尊敬し合ふと云ふやうなことは空想上の美言だ。そんなことを信じたり、分つた顔をしたりするのは女学校の生徒か、在学中の教へしかあたまに持つてゐない妻君連の気取りかであらう。事実上、肉までさらけ出しながら、本に書いてあるやうな単純な尊敬が男女どちらからでも持てようか? 僕は断言するが、この問題も矢張り吸収征服的人格、乃ち、優強者の無遠慮な、然し誠実な実力が中心になつてゐる。両方に理解を以つて吸収し吸収される両方の自覚を貞操若しくは恋愛の姿と云ふ。だから、その吸収被吸収の強烈性に興ざめて来ると、もう、貞操はなくなるのだ。僕等の別居に至る場合もさうであつた。(中略)僕が僕自身の生活要求から革命家として世の因襲的な思想や習慣を破つて行くことを自制がないとか、わが儘だと云へようか? そしてまた僕が生活要求の向ふところを自覚して、そこに突進するのを、直ちに情慾の趨《おもむ》くが儘に任せるとは云へないのである。」(「僕の別居事実と諸家の論議」)  ニイチェ思想の独善的な解釈ともみるべきものであろうが、理論と実行が完全に一致し、その意味では、首尾一貫した行動に貫かれているのである。そして、このことは、同時に、泡鳴の文学そのものの性格を語るものでもある。  「毒薬を飲む女」(この作品は単行本出版の際「毒薬女」と改められた。)に次いで、五部作最後の「憑き物」を書き終えたのは、大正七年四月であった。明治四十三年(一九一〇年)七月、書き下ろしの「放浪」が出てから、足かけ九年目に、「五部作」が完成したわけである。五部作に描かれているのは、明治四十一年五月から、四十二年十二月にいたる、泡鳴の私生活そのものである。したがって、制作順とは別に、素材による順序で「五部作」を配列すれば、「発展」(明治四十四年十二月)、「毒薬女」(大正三年六月)、「放浪」(明治四十三年七月)、「断橋」(四十四年一月)、「憑き物」(大正七年五月)ということになる。  明治四十一年五月、泡鳴は父の死によって、家業の下宿屋を引き継ぐが、もっぱら妻の手にまかせ、自分は若い女を妾にして、家によりつかないような日をおくっていた。その女というのは、職を求めて、紀州から上京、泡鳴の下宿屋に滞在中のものであった。女は泡鳴から病毒をうつされて苦しみ、妻は嫉妬で狂気のようになる。十二月、四男死亡、この年、大倉商業学校の教職を退くが、このあたりまでが「発展」の題材になっている。翌年六月、下宿屋を抵当にして金をつくり、蟹の鑵詰事業をはじめるため、樺太に出かけていく。しかし、型どおり失敗して、北海道へたどりつき、放浪生活がはじまるのであるが、樺太へ出発するまでの妻と女との醜悪な争いを中心にして、泡鳴の友人と関係を生じた女が毒薬自殺をくわだてる顛末を描いたのが「毒薬女」である。樺太で失敗し、たまたま知った妓楼の女を相手に刹那の生の燃焼に生きようとして、のたうちまわるさまを描いたのが「放浪」。東京の女が後を追って札幌までやってきたいきさつを描いたのが「断橋」。女と心中をはかって未遂に終り、盛岡で途中下車し、ようやく女への未練を失って、自分だけがさきに帰京するまでが、「憑き物」で描かれている。  五部作を通じて、泡鳴自身は田村義雄、相手の女はお鳥という仮名にはなっているが、全部が全部、事実のままに描かれている。だが、客観的に、花袋のいう平面描写ふうに書かれているのではない。泡鳴の人生観、文学観の強烈な裏づけによって、描かれているのである。人間は、つねに刹那刹那の全人的な充実感に生き、その悲痛に堪えなければならぬ。文学は、その刹那の充実感に生きる自己表現にほかならぬというのが、泡鳴の信条であった。だから、これらの小説に、愛慾にひきまわされている自分のすがたが、他人の目には、どんなに愚かしく、無茶苦茶に見えようとも、これがもっとも正しい生きかたであり、それの表現が文学にほかならぬという、強い自信に支えられていたのである。文章にも粗雑なところがあり、会話などむしろ拙劣であるが、白鳥が、「傍若無人の自己暴露の小説」と呼んだ、これらの作の独特のおもしろさは、主人公が、一瞬一瞬を本気に生き、主人公である作者がそれを本気に描いているところからきている。 *  泡鳴の五部作の第一作、「放浪」が書かれた明治四十三年には、自然主義系統の作家たちの名作が、いくつか現れたことは既述したが、近松秋江の「別れた妻に送る手紙」(のちに「別れた妻」と改題)もそのひとつであった。別れた妻に対する男の未練執着が綿々と綴られているが、これは、作者が当時の自然主義の傾向にあきたらないで、故意に情緒的なものを書こうとしたとは、秋江自身の言葉である。だが、白鳥とは対蹠的な資質の作家であって、故意に情緒的であろうとしたところで、これだけ切実に男の執着が書けるものではない。「疑惑」(大正二年九月)は、この続篇ともみられるもので、離婚後二年を経ての回想というかたちになっている。主人公の甲斐性なさに愛想を尽かした妻が、家に間借りしていた若い学生と通じて、すがたをかくしたのを探しに、日光まで出かけ、宿屋を一軒一軒まわって、宿帳をしらべて歩く。これほど徹底して、男の未練、執着の愚かしさを描いた作はこれまでになかった。  「舞鶴心中」(大正四年一月)のように、若旦那と女中の心中を美化して、近松の世話物を思わせる作もあるが、やはり自分の体験をあけすけに描いた「黒髪」(大正十一年一月)が、作者の代表作であろう。だまされているとわかっていても、女への未練が絶ちきれず、愚かしい狂態をつづける人間情痴の神髄を描いたものということができる。作者の友人だった白鳥は、この女に対する秋江の惑溺ぶりを、「一種の壮観」だったと言い、ケチな秋江が、売女の誓いなどを本気にして、苦しい金を送りつづけたのは、人生の奇蹟だったと語っている。この小説のすぐれているのは、女の魅力を、はてのはてまで追いつづけて悔いない誠実な愚かさを、冷静綿密に描き出した点にある。なりふりかまわぬ痴情の惑溺者でありながら、同時に、冷静な観察者でありえたところに、この稀有の痴情小説が生れたのである。  大正期になってから、秋江に共通する作風を見せたものに、上司小剣がある。「木像」(明治四十三年五月)あたりでは、風刺や皮肉をまじえた理智的な傾向を示していたが、「鱧《はも》の皮」(大正三年一月)、「お光壮吉」(四年四月)、「巫女殺し」(五年九月)などになると、情話作家としての活動を見せ、一面では、「下積」にみられる、下層社会への同情と関心を示した傾向も現れてきている。  このほか、「少年行」(明治四十年五月)、「星湖集」(四十三年)以来、農村に取材した写実的な短篇を多く書いている中村星湖、処女作「恭三の父」(明治四十三年七月)にはじまって、「厄年」(四十四年四月)、「手負の鴨」(大正三年九月)、「迷児」(七年六月)、「世の中へ」(同年十月)など、平凡で善良な、北陸の漁村の典型的人物として、作者の父母の生涯を根気よく書きつづけた加能作次郎の存在も見のがすわけにはいかない。  以上みてきたように、明治の自然主義は、めいめいの作家の資質に定着することによって、それぞれの文学を成熟せしめ、代表作をもたらしたのが、いずれも大正四、五年前後であったことがわかる。このことは、抱月、天渓、天弦、御風など、自然主義の代表的理論家が、明治末期に及んで、早くも、現実暴露と自己否定の主張から、生の充実と緊張を求める方向に転じて、その理論的拘束力を失ったこと、そのことが、作家の資質に応じた創作活動をうながした事実を語るものであろう。さらにまた、『スバル』や『三田文学』を中心とする、異国ふうの耽美的な傾向が退潮して、白樺派が大正文学の主流になりつつあった事情が、いっそう、かれらの活動を容易ならしめたのである。いずれにしても、自然主義の作家の質実で地味な作風は、感覚的で、色彩の豊かな、耽美的な傾向の支配していた時期に、のびのびと発展できなかった事情は、容易に察することができる。  鴎外にしろ漱石にしろ、荷風にしろ、また藤村、花袋、秋声、白鳥、泡鳴らの自然主義のひとびとにしろ、いずれも明治の作家であることに変りはない。その意味で、大正前期の、もっとも大きな意味は、『白樺』『新思潮』『三田文学』など、やがて大正文学を形成する反自然主義の動きが、はっきり出てきたこと、同時に、以上みてきたように、すぐれた明治作家のかがやかしい収穫期であったということである。海のかなたで、大きな戦争が戦われていたとき、日本の社会は、その余波で栄え、これら新作家のためには、自己の生命感を阻む旧時代への反抗を、明治作家のためには、それぞれの個性に応じた充実と完成のための平安な一時期を用意したのであった。だが、この平安は、戦争の終結とともに、たちまち根柢から、ゆり動かされるのであるが、それについては、次の章にゆずることにしたい。 第二章 大正後期 (大正七年——昭和二年) 第一節 「新しき村」と「有島共生農園」  武者小路実篤が、その思想をきわめて独自なかたちで実現したのは、「新しき村」であった。長篇自伝小説「或る男」(大正十年八月—十一年十月)のなかに、かれが二十二歳のとき、「新しき村」に似たものを空想したことが出ている。一九〇六年十一月二十日の日づけであるから、明治三十九年である。そこにはこうある。——「これはトルストイの影響をうけてかいたものらしい。そして彼が新しき村の仕事を始めた時より十二三年前にかいたものだ。彼が新しき村の仕事を始めだす前に十何年の間、たえず何処かでさう云ふ仕事をしたいと考へてゐたことは、之でもはつきりすると思つてゐる。彼にとつては文学をやらうと思つたのと、新しき世界を生み出したいと思つたのは、殆んど同時である。それは彼の雙生児である。新しき村は彼の胎内には十何年ゐた。人類の胎内には何千年、何万年ゐたか、彼は知らないが。」  「新しき村」によって、武者小路の全面目のうかがえるのは偶然ではない。「新しき村」の建設に着手して、彼が同志と日向《ひうが》に出かけたのは、大正七年(一九一八年)八月であった。『白樺』同年十二月号に、十一月十六日附の武者小路の通信が出ている。  「僕達が今度住まうと云ふ処は日向の児湯郡木城村石河内字城と云ふ処だ。参謀本部の五万分ノ一の地図の尾鈴山と云ふのを見ると、小丸川にそつた処で石河内と云ふ処がある。其処の斜向ひに川が彎曲して半島のやうになつた処がある、其処全部が自分達のものになつたわけだ。見たい人は見てほしい。その川の水が非常に美しい。そしてある処は深い淵をしてゐる。天正時分の城あとで、其処には冬猪や鹿が出、おしどりがやつてくるさうだ。」  この「新しき村」について、武者小路は何をもくろんだか。小説「土地」(大正九年四月)を除き、「新しき村」についての、論文、感想のすべてを収めたものに、「この道を歩く」(昭和三十三年十月刊)がある。だが結局は単純平明な夢想的感想のくりかえしである。単純なことのあくなきくりかえしに、新興宗教めいた説教的性格が示されている。  「自分達は何をしようと云ふのか、新しき社会をつくらうと云ふのである。其処では皆が働ける時一定の時間だけ働くかはりに、衣食住の心配からのがれ、天命を全うする為には金のいらない社会をつくらうと云ふのだ。その上に自由をたのしみ、個性を生かさうと云ふのだ。」(小説「土地」)  「新しき村の仕事は、一方真心が真心にふれる喜びを味はふことであり、又、人類に個人をむすびつける仕事であり、又すべての人が真の意味で兄弟になれる道を人々に示すことであり、個人が人類及び他の個人に対していかに生活すべきか、そして自己の生命をいかに生かすべきかを万人に示す仕事である。」(「新しき村に就て」・大正七年九月)  「僕達は現社会の渦中から飛び出して、現社会の不合理な歪《いびつ》なりに出来上つた秩序からぬけ出て、新らしい合理的な秩序のもとに生活をしなほして見たいと云ふ気もするのだ。つまり自分達は今の資本家にもなりたくなく、今の労働者にもなりたくなく、今の社会の食客的生活もしたくない、さう云ふ生活よりももつと人間らしい生活と信じる生活を出来るだけやりたいと思ふのだ。」(「新しき村の小問答」・大正七年六月)  こういう理想郷をつくるための土地買入れに成功して、武者小路がよろこびの通信を『白樺』あてに書いた大正七年十一月に、第一次世界大戦はおわった。前年十一月には、ロシヤに革命政権が成立した。大戦のもたらした好景気は、物価の暴騰をうながし、一方には、一夜成金の続出があり、他方民衆の生活難は急激に悪化した。七年夏には、富山県の女房一揆をきっかけに米騒動が全国的にひろがり、各地で軍隊の出動を見るにいたった。米価の天井知らずの暴騰——インフレーションによる一般物価高、米の生産費高、供給の不足、地主の売り惜しみ、商人の投機に対する政府の抑制失敗など、暴騰のためのあらゆる条件が熟していた米価を、七年七月中旬から決定的に奔騰させたものは、ロシヤ革命を顛覆するためのシベリア出兵の決定であった。一方、ストライキや炭鉱の暴動が各地におこり、翌年の川崎造船所、翌々年の八幡製鉄所の二大ストライキにまで発展する。こうして、大正八年に好景気は絶頂に達したというのに、翌九年には、早くも恐慌がはじまったのである。  「新しき村」がつくられたのは、こういう社会情勢のなかであった。かつては、大逆事件を契機とした政治的反動のなかで、あらゆる社会思想とは無縁に、独自な思想に基づいて、『白樺』をはじめ、いままた、大戦後の騒然たる労働攻勢と、アメリカ輸入のデモクラシーの昂揚のなかで、それらとはなんのかかわりもなく、「新しき村」創設にとりかかったのである。  個人を生かすことで、人類の意志に叶わしめるというプログラムを、適当な労働の基礎の上にうちたてることによって、この理想の生活を、いまは万人にもたらす道を求めずにはいられぬというのが、「新しき村」の趣旨にほかならなかった。再びいえば、ロシヤ革命と、シベリア出兵と、米騒動と、ストライキと、デモクラシーと、——世界と日本との騒然たる叫喚のなかに、「彼の胎内には何十年ゐた。人類の胎内には何千年、何万年ゐたかは知らない」という理想国を、九州の一角に実現しようというのである。 *  「新しき村」については、世をあげての批判と冷笑と、一部の共感とが、武者小路という、ほがら顔の騎士に注がれたのであった。  それらのなかで、足もとから、もっとも注目すべき批判的理解者として現れたのが、『白樺』の同人、有島武郎であった。有島武郎の大正七年(一九一八年)八月の日記に、次のような記事が見える。  「八月十二日(月)ひどい靄の中を六時に東京に着く。……京都、大阪、名古屋、神戸等に暴動が勃発した。  八月十四日(水)晴。昨夜東京に暴動が勃発した。……  八月十五日(木)晴。……政府は暴動に関する記事を一切掲載禁止した。馬鹿げた考へだ。……  八月二十日(火)晴、風。昼は大変暑い。「旅の心」及び武者小路へ公開状を書く。……」  記事中の「暴動」は、米騒動を意味するこというまでもない。武者小路への公開状はいくつかあるが、ここでは、『中央公論』七年七月号の「武者小路兄へ」と題する、批判の一文を引く。まず、「戦争と平和は結局資本家といふ少数者の手によつて勝手に左右されてゐます」と言い、如何なる権力がこれを被ひ隠さうとしても被ひ隠す事の出来ない程平明な現象です」と言い、「姑息な弥縫をして一時を凌《しの》いではゐられない回転期が到来してゐます」という前提に立って、次のように結論している。  「私はあなたの企てが如何に綿密に思慮され実行されても失敗に終ると思ふものです。失敗に終るのが当然だと思ふのです。……若し今の世の中でかゝる企てが成功したやうに見えたら、それは却つて怪しむべき事であらねばなりません。そこに人は屹《きつ》度《と》妥協の臭味を探し出すことが出来るでせうから。要するに失敗にせよ、成功にせよ、あなたの方の企ては成功です。それが来るべき新しい時代の礎になる事に於ては同じです。日本に始めて行はれようとするこの企てが、目的に外づれた成功をするよりも、何処までも趣意に徹底して失敗せんことを祈ります。  未来を御約束するのは滑稽かも知れませんが、私も或る機会の到来と共に、あなたの企てられた所を何等かの形に於て企てようと思つてゐます。而して存分に失敗しようと思つてゐます。」  翌月の『白樺』で、武者小路は、こう答えている。  「武郎さんと僕とのちがひが今更にはつ切りしたやうに思つた。矢張り武郎さんは武郎さんだと思つた。他の人よりはずつと理解してくれてゐることは云ふ迄もないが、武郎さんに何か云はれて確信が爪のあか程でも動くと武郎さんが本当に思ひ込んでゐるならばそれは少し自惚《うぬぼ》れすぎてゐる気がする。武郎さんが百人出て来ても、そして何を云つても僕は自分の確信は動かないし、勇気は一毛もひくまらない。その点は安心してほしい。しかし武郎さんが所謂立派な失敗をして見せてくれる時のくることをのぞんでゐる。その時は武郎さんの精神をはつ切り自分に知ることが出来ると思つてゐる。その時は尊敬すべきことに心から尊敬したく思つてゐる。」  有島の批判は、「新しき村」の企てが人類の夢想なるがゆえに、いよいよ夢想の純粋性に徹底することを期待し要求したものであって、批判的理解の徹《とお》ったものといわなければならない。だが、夢想を夢想と考えぬ武者小路にとっては、有島の真意は、とうてい理解しがたいものだったことは、その答えがひどく感情的なことによって察することができる。これに対して、有島武郎は、さらに、「読者に」という一文を、『白樺』と『新しき村』両誌の九月号に発表した。それによると、さきの武者小路の答えが、あまりに感情的なので、不思議に思い、私信で真意をたずねたところ、「僕の不服は僕と云ふ人間に対して君は一言も信頼を示さず、僕のする仕事をたゞ仕事としてのみ認めて、一般の場合として、文士の仕事として尊敬してくれた事です」とあったという。有島武郎は、これについて、「僕に取つてはあの感想は武者君といふ人間に対して徹頭徹尾言つてゐる積りだ」という。さらにつづけて、ある会合で、失敗するにきまっていることをはじめた武者小路は、馬鹿な真似をするものだと、その愚を憐れむように言っている人を見て、それに自分は反感を覚えた。「新しき村」の仕事を、成否の点からのみ批評する人の多いのに気がついたから、あの感想を公開状のかたちで発表したのだと言っている。  ところで、「未来を御約束するのは滑稽かも知れませんが、私も或る機会の到来と共に、あなたの企てられた所を何等かの形に於て企てようと思つてゐます。而して存分に失敗しようと思つてゐます」と有島武郎が、武者小路にあてて書いた「或る機会」は、四年後の大正十一年に到来した。その七月十七日、北海道狩太の有島農場、四百五十町歩を六十九戸の小作人に無償譲渡するという農地解放を断行したのであった。(有島農場は、小樽函館間の鉄道沿線に狩太というところがあり、東々北に蝦《え》夷《ぞ》富士がそびえている。その裾を流れる尻別川に沿うた高台が、有島が父から相続した有島農場である。「カインの末裔」の背景がここである。有島の父は、自分の子供が、とにかくそこへ行けば食いはぐれることはあるまいという考えからつくったものという。明治三十一年、実業家として知られた有島武郎の父は、この土地を政府から無償貸附をうけたのであった。)  有島武郎の「小作人への告別」は、次のごときものであった。「この土地の全体を諸君全体に無償で譲り渡します。……かう申したとて誤解して貰ひたくないのは、この土地を諸君の頭数に分割して、諸君の私有にするといふ意味ではないのです。諸君が合同してこの土地全体を共有するやうにお願ひするのです。誰でも少し物を考へる力のある人ならすぐ分ることだと思ひますが、生産の大本となる自然物即ち空気、水、土地の如き類のものは、人間全体の使ふべきもので、或はその使用の結果が人間全体の役に立つやう仕向けられなければならないもので、一個人の利益ばかりのために、個人によつて私有さるべきものではありません。それ故にこの農場も、諸君全体が共有し、この土地に責任を感じ、互に助け合つてその生産を計るやうに願ひます。」  従来の小作人全体の共有農場として、その組織・経営は、北海道大学の農業経済の教室にたのんで、作製してもらった案によるという方針であった。これによって、有島武郎自身は、地主という特権的地位から自己を解放することができたのであるが、農民にとっては、これが根本的解決とはなりえないことを、かれは、最初から知っていた。四年前、武者小路にむかって、あなたの企てられたところを、自分もなんらかのかたちにおいて企てようと思っていると言い、そして存分に失敗しようと思っていると言ったかれであってみれば、当然といえよう。だから、その将来の見通しはこうであった。——「私はこの共生農園の将来を決して楽観してゐない。それが四分八裂して遂に再び資本家の手に入ることを残念だが観念してゐる。武者小路氏の新しき村はともかく理解した人々の集まりだが、私の農園は予備知識のない人々の集まりで、しかも狼の如き資本家の中に存在するのであります。しかし現在の状態では、共産的精神は周囲がさうではない場合に、その実行が結局不可能で自滅せねばならない、かく完全なプランの下でも駄目なものだ。」(「農場解放顛末」)この談話筆記のなかに、「共産的精神」という、あいまいな言葉があり、解放農地を共産農園と名づけたかったが、周囲の反対で、共生農園とした旨が語られてはいるが、無論、有島武郎は共産主義者どころか、社会主義者でもなかった。だが、既述のように北海道大学で、農政を専攻し、アメリカに留学して、クロポトキンの著作を読んで、「物の所有といふこと」に疑問を抱くようになり、自分の農場の小作人の生活をみるにつけても、資本主義社会の不合理を痛感していたかれが、米騒動やストライキをめぐる社会情勢のなかで、まず自分の農場の問題と対決せずにはおられなかったのである。野性的本能的生活のなかに、理想と現実、霊と肉との二元的相剋を越えるものを求めようと摸索した「カインの末裔」や「或る女」の作者が、ここでは、社会主義への志向のなかに、上層階級出身の理想主義者としての、良心的な苦悶の解消をくわだてたものとみるべきであろう。 * 共生農園のたどった道を調査研究したものとして、青山孝行の「有島農場開放問題の帰結」(昭和三十一年八月、「国語と国文学」)がある。そのなかの次の一節は、有島武郎を考える場合、きわめて示唆に富むものというべきであろう。  「武郎は『小作人への告別』で土地と云う概念を空気や水や火と同じ概念で扱った。問題の出発はそこにある。これ程、真実な話はない。神は土地を空気や水と同じ次元で創造したに違いない。しかし、問題はそれ以後にある。その神の創造を人間は素直に同次元で受けとったかと云う事である。確に空気と水は平等であった。未だ空気の私有と云う言葉を聞かない、水の問題にしてからが、土地程一般的な利害関係を生まない。しかし、土地の場合は、全く人間の力が加わっていた。あからさまに云うならば、土地は当時の封建資本主義経済の利潤を代表していた。だから土地の共有による開放は、丁度空気の個別の私有を宣言するのと同様な空虚なものであったのだ。それにもかかわらず武郎の宣言は公開された。そして、それは一体何を為したであろう。武郎の理想のために現実の農民が犠牲になると云う事実が生まれた。まわりの制度と逆行する方向を強いたのは武郎であり、その逆行する苦痛を現実の問題の上に味わなければならなかったのは農民自身である。たとえ、まわりの制度が悪く、武郎の開放が良心的なものであったにしろ、農民の背負った犠牲に変わりはない。良い道を方向づけたのは武郎であっても、その道に苦しんだのは農民である。これを当時の指導的インテリゲンチャアの社会主義思想の限界と云った甘い言葉で批判するには武郎の場合あたらないのではあるまいか。すでに平民社会主義のエポックを通じ、クロポトキン・サンデカリズムをへた彼である。私はむしろ、この余りにもヒューマニックに見える宣言の後に、その時すでに生まれていた虚無の背景を感ぜずにはいられない。……『カインの末裔』の仁右衛門と農場主との対決の意味することが、武郎のこの農場開放で試みた資本主義制度との対決と同様な形で処理されている事に気付くであろう。仁右衛門が農場主に決定的な敗れを意識すると同じ様に武郎は資本主義制度に同じ様に決定的なそれを感じるのである。そして武郎がここで試みた資本主義制度への改革は仁右衛門の本能的な姿にも似ていた。それほど激しく、それ程勇しく、それ程幼稚で、それ程エゴイスティックなものだったと云う意味で、仁右衛門の余りにも本能のままにふるまった自然と制度への敗れは、そのまま武郎の無秩序な資本主義への抵抗に似ていた。この意味においても、武郎にとって、『カインの末裔』は、まさしく“自己を表出したに外ならない”ものであった。」  現に、昂揚した社会問題、労働問題に対する有島の態度決定は、有島農場を解放した半年前の大正十一年一月、『改造』に発表した「宣言一つ」が、明白にこれを語っている。来るべき時代の文化は、第四階級のものであることを信じている。それ以外の階級に生れ、育ち、教育をうけたものは、第四階級に対して、無縁の衆生にすぎないという、インテリゲンチャの敗北を宣言したものであった。インテリゲンチャは、労働者の先達であり、指導者であるとの、誇らしげで無内容な態度から、多少の覚醒はし出しているものの、なお労働問題の根本的解決は自分の手で成されるべきものとの考えから脱しきっているとは思えない。労働者も、こういう考えかたに魔術的な暗示をうけている。しかし、この迷信からの解放は、いま成就されようとしている。このことは、日本にとって、最近勃発した、いかなる事実よりも重大だというのである。そして、そこから、急速に結論がひき出されている。  「私は新興階級になることは絶対に出来ないから、ならして貰はうとは思はない。第四階級のために弁解し、立論し、運動する、そんな馬鹿げ切つた虚偽も出来ない。今後私の生活が如何様に変らうとも、私は結局在来の支配階級者の所産であるに相違ないことは、黒人種がいくら石鹸で洗ひ立てられても、黒人種たるを失はないのと同様であるだらう。従つて私の仕事は第四階級者以外の人々に訴へる仕事として終始する外はあるまい。(中略)どんな偉い学者であれ、思想家であれ、運動家であれ、頭領であれ、第四階級的な労働者たることなしに、第四階級に何物をか寄与すると思つたら、それは明らかに僭上沙汰である。第四階級はその人達の無駄な努力によつてかき乱される外はあるまい。」  「宣言一つ」について、広津和郎は、「相変らず有島武郎式な、窮屈な考へ方」として、「ブルジョアとプロレタリアと云ふ二つの言葉に、余りに脅やかされ過ぎてはゐないかと思ふのです。さういふ言葉の対立が、今のやうにはつきりして来たがために浮んで来た考へに過ぎないのではないかと思ふのです」という批評を加えた。  「怒れるトルストイ」(大正五年十二月)で、晩年のトルストイの Discord による「焦燥」が、いかに生の自然をそこなうものであるかを論じた広津和郎が、「宣言一つ」に示されている有島武郎の考えかたに、「窮屈」な不自然を感ぜざるをえなかったのは自然であろう。これに対して、有島武郎は、「広津氏に答ふ」で、抗議した。  「私は何んといつても自分がブルジョアジーの生活に浸潤し切つた人間である以上、濫《みだ》りに他の階級の人に訴へるやうな芸術を心がけることの危険を感じ、自分の立場を明かにしておく必要を見るに至つたものだ。さう考へるのが窮屈だといふなら、私は自分の態度の窮屈に甘んじようとするものだ。」  自己変革などということを信用できなかったのである。安易な自己変革の危険をおそれているのである。明日の歴史の担当者としての「第四階級」に対して、「無縁の衆生」であることの敗北的な確認であった。  だが、やがてはじまるプロレタリア文学運動は、「宣言一つ」の提出した問題などには一顧も与えず、多くの文学者の安易な左翼化を伴って、はげしく進行したが、やがて、ことごとく転向した。「宣言一つ」の意味するものは、決して小さくはなかったのである。  その上、この敗北的な告白は、誇り高い特権意識に根ざしている白樺派の自己主張に対する内部批判としてうけとることができる。  「白樺の人は殆んど全部、食ふことに困つたことがない。少年時代に於て、頭の一番かたまる時代に於て、何事の印象も一番強く感じる時に於て、食ふことに困らなかつた。それで白樺の人のかくものは、食ふに困らない人が多い。だから食ふことを卒業した人で始めて本気になれることが彼等のかくものの主題になりやすい。」  「食ふに困らなかつた彼等は、純粋に何にも恐れずに愛し得るものを愛した。」  いずれも武者小路の言葉である。彼には、また、次のような詩もある。  「我は今の日本に/悲観すべき理由を認めず。/今の日本を以て/最も面白き国と思ひ居るなり。/日本が思想上偉大なることをなし得る時は/この五十年の内なるべし。/我はしか信ず、しか感ず。/日本にゲーテ、シルレル/エマーソン、ホイットマン/ドストエフスキー、トルストイ/イブセン、ビヨルンソン/メーテルリンク、ベルハーレンの/生れるは今なり。/若き国、目覚めつゝある国/オーソリチーのなき国こそ/楽しけれ。」  こうなると、同じ『白樺』の仲間ではあっても、有島武郎とのちがいは、決定的といってよい。  一方、すでに大正十年(一九二一年)二月には、かつて武者小路の身辺にあった小牧近江や金子洋文らによって、社会主義に立つ文芸雑誌『種蒔く人』が、秋田県土崎港において創刊され、昭和初頭のプロレタリア文学運動を用意しつつあったのである。  なお、同年五月の『読売新聞』に、平林初之輔の武者小路批判が現れ、それをきっかけにして、平林初之輔、前田河広一郎と武者小路との間に、論争が行われた。  「僕がなぜ文学者の社会主義的傾向を嫌ふか。それは社会主義と云ふものは一種の実際運動で、過渡期の主義で、やがて過ぎ去る為に存在する主義だからと思ふ。……真に文芸を要求するもの、生み出さないではゐられないものにとつては、文芸界にまで社会主義的傾向を入れないと気がすまないものをよろこばない本能をもつてゐる。このことは、いづれ黙つてゐてもわかることである。社会主義については僕は門外漢だ。しかし、新しき村の仕事が成長するに従つて、社会主義とどう云ふ関係をもつてゐるかは、学者と云ふ種類の人にまかせる。自分は、自分が人間はかう生きるのが本当だと思ふ通りに生きられるだけ生きて見るつもりだ。それが資本主義や、社会主義とどう云ふ関係になつてゐるかは自分は知らない。」  武者小路は、こういった武者流の答えをくりかえしているにすぎない。つまり、大正十年になると、白樺派の代表者たる武者小路が、社会主義と直接に対決しなければならなくなったということが重要である。そして、二年後の関東大震災とともに、『白樺』が終刊になったことは、きわめて暗示的である。有島武郎が情死したのは、その三ヵ月前であった。  大正十四年、武者小路は新しき村を去った。翌十五年十一月には、新しき村出版部の曠野社に、二名の馘首者を出したことから、争議がおこった。「単に馘首問題に対する経済闘争の機関ではなくして、更に我々の闘争分野を拡大し、観念上に於ける闘争、換言すれば、曠野社といふ人道主義の仮面を被つた資本主義組織に対抗し、その正体を白日の下に暴露するため」、昭和二年(一九二七年)一月には、曠野社問題対策委員会が組織された。上記の引用は、その声明の一部である。武者小路は、「曠野社の事件について」なる弁明を書き、自分は、今度の問題は何も知らなかったと言い、「僕が不当に悪口を云はれたことについては、反《かへ》つてよかつた。僕には戦ふ気が出て来たし、自信をますことが出来たから」とも言っている。  これについて、青野季吉は、「武者小路氏の態度を論ず—曠野社問題について—」を発表し、「人道主義の精神によつて結ばれた兄弟達が、その生存上、生活上の仲間の紛議を解決するのに、集団運動のゲワルトによる外はなかつたといふことは、人道主義にとつての此上ない恥ではないか」と書いた。  新しき村は、武者小路の夢であるばかりでなく、人類の夢である。だが、その夢想が、これほど純粋で、それにこれほどひたぶるに生き通した精神というものは、いかなる批判によっても消し去ることはできない。たとえ、新しき村の実体と失敗が、どのようなものであったにせよ、そこにつないだ夢の切実さを笑うことはできない。こんにちいよいよできないであろう。  こういう反現実的な夢想が、ひとつの文学運動たりえた特殊な一時期が、おおまかに言って、大正時代であったということができる。大戦の好景気による安易な生活感覚が、民衆を支配し、「文化」と「教養」の名において、真の文化批判を忘れ去った時代であった。「白樺」の文学運動は、こういう「文化」や「教養」とは、根本的にちがったものでありながら、それらの批判となりえなかったどころか、それらと調和しうるものとして、またそれらに支えられるものとして、大正期の代表的主潮たりえた。そして、その根本性格を、もっともよく理解していたのは、有島武郎であった。その夢想を託した共生農園が、彼の死後、いかに「存分に失敗」したかは、すでに書いたとおりである。 *  世界大戦が終り、武者小路が新しき村をはじめた大正七年から、有島武郎の自殺につづき、大震災で東京が焼野原になった大正十二年にいたる数年間における、白樺派の活動は、多くの名作を残している。  武者小路には、「友情」(八年十一月)、「出鱈目」(後に、「第三の隠者の運命」と改題。十年一月—十一年十月)、「或る男」(十年八月—十一年十月)、「人間万歳」(十一年九月)がある。  志賀直哉は、前期のすぐれた短篇を、「夜の光」(七年一月)、「或る朝」(同四月)の二つの作品集に収めたほか、「和解」(六年十月)、「十一月三日午後の事」(八年一月)、「流行性感冒と石」(八年四月)、「ある男、其姉の死」(九年二月)、「真鶴」(同年九月)などの短篇をへて、十年一月からは、代表作「暗夜行路」に着手した。前篇の完結したのは、同年八月であった。  長与善郎は寡作で、「陸奥直次郎」(七年五月)、「青銅の基督」(十二年一月)の二作にすぎないが、十三年四月には、代表作「竹沢先生と云ふ人」にとりかかっている。  里見は、「潮風」(十年一月—四月)、「直輔の夢」(十一年九月)につづいて、十一年十二月から一年間にわたって、『時事新報』に連載した「多情仏心」は、作者の代表作となった。  有島武郎は、「小さき者へ」(七年一月)、「生れ出づる悩み」(同年四月)、「星座」(十年五月)のほか、八年三月の「或る女」前篇にひきつづき、同年六月、その後篇を刊行した。  「或る女」の作者は、肉体の奥深く潜む性の悩みに、生涯苦しみぬいた作家と思われる。キリスト教の信仰を求めたのも、そのためであり、信仰を捨てたのも、主としてそのためだったと考えられる。つまり、霊か肉か、というのが、有島武郎にとって、生涯の問題だったのである。「或る女」は、この問いに作者みずから答えようとした作品とみることができる。主人公葉子のすさまじい性の跳梁に対する、作者の執拗な追求は、ここに根ざしている。「葉子は生の喜びの源を、まかりまちがへば、生そのものを蝕ばむべき男といふものに、求めずにはゐられないディレンマに陥つてしまつた」という叙述が、前篇に見出されるが、このあたりに、作者の意図を、うかがうことができる。また、別の文章で、こう書いている。——「『或る女』の主人公の如き女が、永い年代の間、男性による圧迫から、かもし出された男性に対する反逆心に駆り立てられ、男性との調和の道を奪はれながら、しかも男性に対して本能の命ずる執着をも捨てることができず、知らず知らず、進んで悲劇を演ずるに至るその経路に着目して読んで下さるなら、現在の女性が誰でも多少は感ぜねばならぬ悲しい運命に対する本然の姿を、いささかなりともあの作品が語りはしないかと思ふのです。」  この小説の読み方について、作者の希望・要求が語られているのであるが、それだけのものをこの作品は、りっぱに表現している。ただ、体当りの反抗に生きた女主人公の悲劇的な敗北を、霊か肉か、信仰か本能か、という対立のかたちでつかんでいるところに多少の疑問がある。もっと広い社会的な視野のなかで追求したら、と思われる点がある。しかし、女の精神と肉体を、これだけつっこんで描いた力強い作品はほかにはない。  ところで、木部孤のモデルが国木田独歩であり、女主人公葉子は、独歩と結婚して五カ月で失踪した佐々城信子がモデルであることは周知である。ほかに内村鑑三を思わせる内田、作者自身らしい古藤というような人物も登場する。しかし、作者は、モデルの興味などにひかれているのではなく、キリスト教を捨てた作者の深い虚無感が、この作品の内的動機になっているのである。モデル小説でありながら、いわゆるモデル小説を脱して、本格的な名作たりえた根本は、ここにあるのである。  これらの作品群は、白樺派がその成熟期を迎えたことを語っている。わけても、「友情」、「人間万歳」、「和解」、「暗夜行路」、「竹沢先生と云ふ人」、「多情仏心」、「或る女」は、それぞれの作家の代表作であるばかりでなく、大正の代表作でもある。(なお白樺派の周辺にいた野上弥生子には、「海神丸」(十一年十月)、中条百合子には、「伸子」(十三年九月—十五年九月)の代表作がある。)そして、このことは、大正五、六年ころが、鴎外、漱石、荷風、藤村、花袋、秋声、白鳥、泡鳴、秋江ら、明治の作家の完成期であったのに対し、それにつづく数年間が、早くも、大正の主流とみるべき白樺派の成熟期にあたるわけである。鴎外、漱石、藤村、花袋らが、長い作家経歴を通じて、作風に幾変転を見せてきたのにくらべると、白樺派の作家たちが、同人雑誌の習作時代において、早くも、生涯を通じて変らない個性的表現を示したことは、すでに見てきたとおりである。このことは、一般に、大正の作家が、明治の作家にくらべ、さらに昭和の作家にくらべて個性の自覚と、その表現において、自由、かつ容易であったといえるのではなかろうか。これは、明治の作家たちの困難な摸索によって、近代文学の観念と手法が明らかにされたこと、外国文学との直接の接触が容易になったこと、世界大戦の終結によるデモクラシーの思潮が、文学者の精神を解放する上に役立ったことなどによるものであろうか。 第二節 『新思潮』『三田文学』『奇蹟』のひとびと  大正七年(一九一八年)以後になると、明治の作家による目ぼしい作品が、急速にすくなくなってくる。七年では、荷風「おかめ笹」、藤村「新生」前篇。八年では花袋「再び草の野に」、露伴「運命」、藤村「新生」後篇。九年では、白鳥「毒婦のやうな女」、泡鳴「憑き物」。十年では、荷風「雨《あめ》瀟《しよう》々《しよう》」、藤村「ある女の生涯」、白鳥「人さまざま」のほかには、これというほどの作品はない。そのかわり、大正の作家の活動が、にわかにさかんになってきている。つまり、前節の白樺派のほかに、「刺青」でたちまち脚光をあびた谷崎潤一郎、『スバル』『三田文学』に早くから詩や評論を寄せた佐藤春夫、北原白秋の推挽によって、同じく『スバル』に詩作を発表した室生犀星、『三田文学』の久保田万太郎、同人雑誌『奇蹟』の仲間の広津和郎、葛西善蔵、相馬泰三、彼らに親しい宇野浩二、『新思潮』第三次の山本有三、豊島与志雄、同四次の芥川竜之介、菊池寛、久米正雄らが、はなやかな活動をはじめたのである。かれらは、それぞれのグループに属しながら、同時代作家としての意識にむすばれていた。  こころみに、大正七年における、これら大正作家の年齢は、有島武郎(四十一)、志賀直哉(三十六)、武者小路実篤(三十四)、谷崎潤一郎(三十三)、山本有三(三十二)、葛西善蔵(三十二)、菊池寛(三十一)、里見(三十一)、長与善郎(三十一)、久保田万太郎(三十)、室生犀星(三十)、豊島与志雄(二十九)、広津和郎(二十八)、宇野浩二(二十八)、久米正雄(二十八)、芥川竜之介(二十七)、佐藤春夫(二十七)ということになる。  上記の大正作家のなかで、芥川竜之介とともに最年少の佐藤春夫は、大正七年には、「月かげ」を『帝国文学』、「李太白」を『中央公論』、「指紋」を同じく『中央公論』、「田園の憂鬱」を『中外』、「お絹とその兄弟」を三たび『中央公論』に発表し、第一創作集「病める薔薇」を刊行し、一挙に独自な作家的地位を確立した。  同人雑誌『星座』に発表した「西班牙犬の家」(大正五年十一月)という幻想的な作品を処女作と言いたいとは、作者自身の言葉であるが、それより早く、大正二年、二十二歳ころには、早くも「スバル」系の詩人として、その才華を発揮した。それらの一部は、「殉情詩集」(十年七月)に収められているが、清新繊細な抒情詩であった。萩原朔太郎の批評に答えて、この詩人は、自分の詩作について、こういっている。  「僕のものは恐らくアアネスト・ダウスンとともに千八百九十年代のものであらう。多分三四十年以上以前のものであらう。僕自身はそのつもりである。それ故、僕は貴君が僕の詩を目して今日のものでないと言はれたのに一向不服はない。さうして貴君が揚言されるよりももつと古いだらうといふ自覚を持つてゐる。注意していたゞきたいのはこの点だ。……和漢朗詠集の今様と箏唄と藤村詩集とは僕の詩の伝統である。僕は純粋な日本語の美に打たれることが折々ある。言葉とはつまり霊のことだ。さうして近代人ではなく、世界人でもない自分の魂を凝視して溺愛することがある。僕は折ふしのさういふ時間にだけ歌ふ。……即ち僕は僕のなかに生きてゐる感想が古風に統一された時に詩を歌つてゐる。……僕の詩は稀で、大てい古語で綴られてゐるのはこの理由による。実に僕は古典派の詩家である。しかし僕はダダの詩人をもエスプリヌウボオの詩徒をも愛好する。……しかもその自由で溌剌とした精神を、詩人たる僕は受入れない。たゞ散文家佐藤春夫は甚だしく好事家でもあり、今日の青年でもある——つもりだ。昨日を愛することが、どうして今日を愛し、今日を生きることの害になるだらうか。昨日の思ひ出に僕は詩人であり、今日の生活によつて僕は散文を書く。詩人は僕の一部分である。散文家は僕の全部である。」  自分のなかに生きている感覚が古風に統一されたときだけ、詩を歌うというように、自分の詩にはっきりした限界を与えているのである。この詩人の場合、古風な統一がきわめて純粋であっただけに、抒情詩人と共存しながら、近代的な小説家が誕生することは、やさしいこととは思われない。明治末期に、『スバル』の詩人として出現しながら、作家として世の注目をあびるようになったのは、大正七年であったことは、この事情を語るものだろう。それだけに、小説家としての出現は、溌剌として個性的であった。豊饒な個性が、一度に溢れ出たかの観がある。  「田園の憂鬱」は、最初の部分が「病める薔薇」という題名で雑誌『黒潮』に出たのは、大正六年(一九一七年)であり、続篇が『中外』に発表されたのが、七年九月であるが、その後、幾度か書き改められ、書き加えられて、いまのかたちに完成したのは、八年六月であった。この豊かな資質にめぐまれた作家が、一篇の制作に、これだけの苦渋をかさねたことは、再びいえば、古典派の詩家という自己限定のなかから、近代的な散文家の誕生が、どんなに困難だったかを示すものであろう。この作家は、詩的精神とは、秩序ある均衡、統一、調和であるとし、散文精神とは、無秩序、不調和、混沌そのものだと言っている。佐藤春夫にとって、小説を書くということは、胸裏のこの無秩序、不調和、混沌そのものに、精確な表現を与えることにほかならなかった。「西班牙犬の家」を幻想した村に住んで、「ひとりの女と二疋の犬と一疋の猫とチウブばかりになつた(!)絵具と、十冊(!)の書物と二枚の着物」とでくらしながら、ぬけ道のない青春の憂鬱に表現を与えることであった。そのことは、創作とは自己を越える作業にほかならぬという、近代文学の原理の実践を意味するものであった。多感な詩人に、いちはやく訪れた青春の危機からの自己回復の道は、このほかにはなかったのである。混沌とした青春の内奥の危機は、見事な表現を獲得することによって、そのまま精神の回復に転化せしめられたのである。自然主義系統の作品が、実生活の破綻もしくは解決の報告・記録としての性格をもつとすれば、それのまさに逆の関係が見られるわけであって、ここに、佐藤春夫の文学の独自な出発があった。  「お絹とその兄弟」は、農村の平凡な一女性の生活の変転をとりあげ、淡々たる聞書きの形式と写実的な方法との素樸な調和を示した短篇であって、「田園の憂鬱」とは、まったく異質的な作品である。「田園の憂鬱」になると、古来東洋文芸の伝統的な主題を、近代ヨーロッパ文芸の手法で描いたものだとは、作者自身の語るところであるが、伝統的な主題もさることながら、ここに描かれた憂鬱な詩情は、アーネスト・ダウスンとともに、世紀末をくぐってきたものである。主人公の内的心象が、そのまま外部の自然風景に化しているのであって、風景が独立に風景として描かれているのではない。その点で、パンの会ふうな、色彩と神経だけで構成した異国趣味ふうのものとは、まったくちがったものである。だが、佐藤春夫が、『スバル』から出発したことは、その資質の自覚と成熟にさいわいしたであろうことは疑うわけにはいかない。  「田園の憂鬱」とともに、昭和二年の「神々の戯れ」、同五年の「更生記」の三つの長篇は、いずれも作者の代表作である。詩人としての独自な詩情とともに、いかに知的な洞察と分析の批評的能力に恵まれているかは、「更生記」一篇が、これを証する。この作以前には、誰も手をつけたことのない新領域であって、その野心的な手法が見事に成功した佳作である。これは前年の「陳述」(昭和四年四月)で、鋭い人間洞察と、周到な心理分析とを両刀のごとく使いこなして、特殊な形式にもりこんで成功した実験的方法を、特異な恋愛事件の渦中にある一女性に適用して、心理の深淵を開いて見せたものである。  こういう高度の知的操作による諸作の前に、「佗しすぎる」(大正十一年四月)、「厭世家の誕生日」(十二年六月)、「窓展《ひら》く」(十三年十月)、「秋立つ」(十四年十月)などの憂愁な詩情をたたえた心境小説の一系列がある。  なお、広津和郎とともに、大正期を通じて、多くのすぐれた文芸批評の業績を残したことも見のがすことはできない。 *  『新思潮』に載った「鼻」によって、漱石に認められ、年少にして世に出た芥川竜之介は、佐藤春夫とならんで、大正文壇における、最もはなばなしい存在であった。『新思潮』の仲間の菊池寛や久米正雄が、中途から通俗小説へ転向したことによってもわかるように、気質の上からも、また、創作態度の上からも、かれらよりは、佐藤春夫、室生犀星、宇野浩二に、親近感をいだいていた作家である。だから、この場合、新思潮派というごとき出身同人雑誌による分類や、新現実派、新理智派というごとき呼称による分類によって、芥川竜之介、菊池寛、久米正雄らを同一のワクでとらえる整理法ほど、あいまいなものはない。  芥川竜之介は、「芸術その他」という感想のなかで、芸術家は、何よりも作品の完成を期しなければならぬ、完成とは分化発達した芸術上の理想のそれぞれを完全に実現させることだ、さもなければ芸術に奉仕する意味がないとし、いっさいの芸術活動は意識的なものであることを強調して、次のようにつづけている。——「芸術活動はどんな天才でも、意識的なものだ。と云ふ意味は、倪《げい》雲《うん》林《りん》が石上の松を描く時に、その松の枝を悉《ことごと》く途方もなく一方へ伸したとする。その時その松の枝を伸したことが、どうして或効果を画面に与へるか、それは雲林も知つてゐたかどうか分らない。が、伸したために或効果を生ずる事は、百も承知してゐたのだ。もし承知してゐなかつたとしたら、雲林は、天才でも何でもない。唯、一種の自働偶人なのだ。」  これが書かれたのは、大正八年であり、芥川は二十八歳であった。このころまでに、かれは、「羅生門」「煙草と悪魔」「傀儡師」の三つの作品集を出しているのであって、「羅生門」「鼻」「虱《しらみ》」「芋粥」「手巾」「煙草と悪魔」「尾形了斎覚え書」「或日の大石内蔵助」「戯作三昧」「蜘蛛の糸」「地獄変」「開化の殺人」「奉教人の死」「枯野抄」などの作者でもあった。その絢爛たる個性的な作風は、文壇をはじめ、読者の注目を一身に集めていた。「『傀儡師』を出した頃は、芥川の全盛時代の一つであり、芥川がもつとも競《きほ》つてゐた時の一つであつた。いひかへると、この頃(つまり、大正八年のはじめ頃)は、芥川の短い一生の中でもつとも張りのある時代の一つであつた」と、宇野浩二は、その著「芥川竜之介」で語っている。だからといって、当時の芥川が、驚異と感嘆だけで迎えられていたわけではない。作家や批評家の間では、その作風の技巧的衒学的であるのを非難する声のほうが、むしろ大きかったといってよい。自然主義ふうの文学観が、根強く生きつづけていたのだから、こういう非難の発せられたのに不思議はない。キリストの信仰と密接にむすびついていた近代ヨーロッパ文学の告白というものが、明治の自然主義によって、どんなに通俗化してうけとられたかは周知であるが、これらの作品で、王朝の物語をパロディ化したり、南蛮の異国情調のなかに、異様な幻想をひろげたり、江戸や明治開化期の人物に近代人の心理をちりばめたり、機智と諷刺と冷笑を縦横に駆使しながら、決して作者自身をあけすけに語ることをしない芥川の作風に、あきたらぬ思いをいだいていたばかりでなく、それを口にし、筆にしたものの多かったのは事実である。芸術家の唯一の目標は、作品の完成にありとし、芸術活動は、本質的に意識的であることを強調したのは、以上のような有形無形の不満非難に対する挑戦であり、防衛でもあった。  芥川の小説が、意識的に計算された緻密な構成と、効果的に選択された独自な文体とをそなえていたことは、上記のどの一篇についてもいえるだろう。すみずみまで効果の計算された知的操作による制作の方法は、初期であろうと、晩年であろうと、一貫して変るところはなかった。すべての芸術活動が、意識的かどうかは知らない。俳諧などの特殊な文学、ある種の絵画や音楽などには、意識的なはからいを捨て去った、おのずからの流露と結晶によるものがないわけではない。しかし、そこに見られるのは、意識をつくしきったところに現れる、無意識の境にちがいない。だが、小説は、あらゆる芸術のなかで、その方法がもっとも意識的なものである。わけても、凝縮したかたちで、人生の断面を見せるはずの短篇小説の方法が、高度の知的操作を要するものであることは当然である。  さっきもいったとおり、芥川の小説における、人物と舞台の選択は、時間的空間的に奔放自在をきわめている。古今を問わず、東西にわたっている。王朝期あり、江戸期あり、開化期あり、大石内蔵助あり、滝沢馬琴あり、松尾芭蕉あり、鼠小僧次郎吉あり、素《すさ》戔《のお》嗚《のみ》尊《こと》あり、ツルゲネーフあり、盗人あり、殺人犯あり、姫君あり、将軍あり、……文体もまた、客観描写体、独白体、書簡体、談話体、問答体など、あらゆる種類を駆使し、あるいは欧文脈、南蛮語調、翻訳調、談話調など、時により、場合に応じ、変幻の妙をつくしながら、しかも、歴として、芥川自身の文体をつくり出している。形式としては、童話、散文詩、スケッチなど、およそ、これほど奔放自在な知的操作による多種多様な形式の小説というものは、これまでに例を見ないといっていいだろう。なにも初期の作品についていうのではない。晩年の諸作、「点鬼簿」(大正十五年十月)「玄鶴山房」(昭和二年一月)「蜃気楼」(同年三月)「河童」(同年四月)「西方の人」(同年八月)「歯車」(同年十月)「或阿呆の一生」(同年同月)などいうまでもなく、「或旧友へ送る手記」(同年七月)の遺書にいたるまで、このことは一貫している。一つとして、同一の文体はない。  芥川は、性急に自然主義的な文学観に立って、あけすけに私生活をぶちまけたり、深刻な表情で、通俗な告白をするようなことは、あえてしなかったが、だからといって、かれの作品が、皮肉と修辞の智慧のあそびにおわるものではない。文壇的には、処女作とみられている「羅生門」や、つづく「鼻」にしても、すでにかれの厭世的な人生観を強く出していることは、これまた、晩年の「歯車」などと変るところはない。「羅生門」や「鼻」が智慧のあそびであって、「歯車」にいたって、作者の真実を吐露した作とするようなのは、あまりに私小説ふうな考えかたに偏しているのではなかろうか。  「もつと己れの生活を書け、もつと大胆に告白しろ、とは屡々諸君の勧める言葉である。僕も告白をせぬ訳ではない。僕の小説は多少にもせよ、僕の体験の告白である。けれども諸君は承知しない。諸君の僕に勧めるのは僕自身を主人公にし、僕の身の上に起つた事件を臆面もなしに書けと云ふのである」とは、「澄江堂雑記」のなかの言葉である。そういう意味では、「歯車」であろうと、「或阿呆の一生」であろうと、「或旧友へ送る手記」であろうと、自分自身を主人公にして、自分の身上におこった事件を臆面もなくかいたというようなものではない。かれは、事実の記述、私生活の記録を小説と混同するようなことはなかった。そういう点についていえば、芥川竜之介は、最後まで小説をつくるという意識を失わなかった。かれの初期もしくは中期の諸作と、晩年の作品とを対比して、後者がひどくちがったものになってきたという考え、そこから、両者の文学上の評価の問題まで引き出してくるような鑑賞の基準には疑いなきをえない。ちがってきているものよりは、一貫して共通するもののほうがはるかに多い。ちがっているのは、他に対する諷刺や冷笑が、自分自身に対するそれへ転じてきた点である。このちがいは重大ではあるが、初期の作とて、それが前提になっていなかったわけではない。なお、他に対する諷刺や冷笑が、自分自身へ転じてきたときでも、告白のかたちをとったことはついになかった。告白のふくむ感傷に我慢がならなかったにちがいない。そして、告白には、自分への諷刺、冷笑を容れる余地がない。だから、たとえば、すでに死を決意している自分の戯画を「河童」のなかで描いて見せる。かれは、この独特の形式によって、人生・社会・芸術・思想・文化百般の問題を批判したばかりでなく、自分の死後のもろもろの関心事、——死後の名声のこと、全集のこと、女性の友人のこと、遺児たちのことまでも、機智と諧謔まじりに語っているのである。痛ましいまでの自己分析と、自己冷笑とにもかかわらず、最後の最後まで、そのものに最適の形式と文体とをつくり出す努力を怠らなかった。このことを、芥川は、ついに本音をはかず、自分をはだかにしなかったと非難がましくいうものが多かったし、いまも多い。作家として、致命的な弱点のように評するむきさえある。本音とはなんであろうか。表現者としての作家にとって、自分をはだかにするとは、どういうことであろうか。痛いとき、痛いと叫び、苦しいとき、苦しいと訴えることであろうか。もし、そうならば、誰であろうと、本音をはかないものはない。  「或旧友へ送る手記」を、「誰もまだ自殺者自身の心理をありのままに書いたものはない。それは自殺者の自尊心や、或は彼自身に対する心理的興味の不足によるものであらう。僕は君に送る最後の手紙の中に、はつきりこの心理を伝へたいと思つてゐる」と書き出したかれは、自決にいたるまで、作家的精神は、いよいよ旺盛をきわめていたのである。 *  「一般に、文壇にもつとも花やかな初見参《デビユウ》をしたのは、まづ谷崎潤一郎であり、つぎは芥川竜之介であつた、と云はれてゐる。が、私の知るかぎりでは、里見の出方もずゐぶん花々しかつた。」宇野浩二の言葉である。  里見は、芥川竜之介が「鼻」の一作によって、漱石の知遇をえた大正五年(一九一六年)には、「題をつけない小説」(二月)、「俄あれ」(五月)、「善心悪心」(七月)を発表したほか、最初の短篇集「善心悪心」を上梓したのも、この年の十一月であった。六年には、「妻を買ふ経験」(一月)、「銀二郎の片腕」(二月)、「三人の弟子」(三月)、「ひえもんとり」(四月)、「恐ろしき結婚」(同)、「或る年の初夏に」(五月)、「幸福人」(八月)というように、この作家の短篇の代表作とみられるものが、出そろっている。  つまり、芥川竜之介の登場した、大正五、六年のころには、里見は、すでに有力な中堅作家として、旺盛な制作活動をつづけていた。当時の里見を目して、和辻哲郎が、「日本一の心理作家」と激賞したことは、すでに書いた。といって、単に知的な心理解剖の興味に終始していたのではない。その心理解剖には、つねに、この作家独特の人間主義の情熱と意志が伴っていた。その点、明らかに、白樺派に共通する血脈を伝えているのであって、わけても、志賀直哉の影響を思わせるものがある。  「妻を買ふ経験」は、「晩い初恋」「夏絵」などと連作の関係をもち、大阪芸妓と結婚するまでの経緯を描いた自伝的な作品であるが、初期のものに共通する自己嫌悪と、その後の作品に全面的に展開される「まごころ哲学」の原型ともみるべきものが、同列に存在している。「まごころ哲学」というのは、よそ目にはどれほど放蕩無頼の生活に見えようとも、自分の本心を偽らず生きていくことがほんとうの生きかただというくらいの、人情的常識的な、自己弁護気味の人生観である。自分の本心を偽らないことが、もっぱら男女関係や遊蕩生活の範囲にかぎられているところに、この作家の特色が示されているのである。こういう「まごころ哲学」が強化されるにしたがって、自己嫌悪が、自己肯定もしくは自己讃美に転化されるのは自然であって、その後の作品系列は、そのプロセスを示している。  七年以後も、その作品活動は、いよいよさかんで、短篇、中篇、長篇を通じ、それぞれすぐれたものを多く残している。「父親」(大正九年六月)、「潮風」(同年九月—十年三月)、「おせつかい」(十一年四月)、「直輔の夢」(のち「敗荷図」と改題。同年九月—十一月)など、そのおもなものであるが、代表作ということになると、十一年十二月二十六日から、十二年の大《おお》晦日《みそか》まで、一年間にわたって、『時事新報』に連載された「多情仏心」をあげるべきであろう。連載中、関東大震災がおこり、一時中絶したが、三百回、二千枚に及ぶ大作となった。  弁護士の藤代信之は、麹町に大邸宅をかまえ、一生食うにこまらぬ財産があった。役者や劇作家など、大勢の取巻きにかこまれ、思いのままの遊蕩生活をおくっている。次々に、さまざまの女たちと関係をむすび、よそ目には放蕩無頼の徒と見えようとも、自分ではまごころのままに生きているという自信で支えられていた。  自分の金を詐取して逃げた劇作家三好に対しても、彼がまごころから、自分の恋に生きようとするためだったことがわかると、気持よく許してやる。信之の関係した不良少女の仲間で、かれをゆすりにきたことのある不良青年、西山普烈が、外人の妻、美弥子と密通し、それがばれると相手を殺し、彼をたよって逃げこんでくる。信之は、この不良青年の本気な愛情を認めると、進んで公判の弁護に立つことを決心する。  こんなふうに、この小説は、作者里見の「まごころ哲学」の化身とみるべき主人公、藤代信之の、好色遍歴を中心として、さまざまの男女の、濃艶なぬれ場が、目まぐるしいほどに展開する。その享楽的な場面における男女のさまざまのしぐさ、とりわけ、芸者、めかけ、人妻、女給、不良少女など、大正末期の、さまざまの女性の色っぽい姿態と、いきいきした会話が、精彩ある描写を伴って、丹念自在に描かれている。その、みがきあげられた技巧の冴えには、舌をまかせるものがある。この小説のすぐれているのは、もちろん、そこにあるが、なまめかしい色恋の世界を、例の「まごころ哲学」で包んでいるところに、作者の特色がみられるわけである。  信之は、西山普烈の弁護のため、法廷に立って倒れ、ひそかに懸《け》念《ねん》していた癌腫のおきたことを自覚するが、大勢のとりまき、関係した女たち、家族など、ことごとく枕もとに集め、子どもたちに、「なんでもしたいことをするがいい。ただしたいことの本体をしつかり握つてからしたがる習慣をつけないといけない」と遺言し、一同にむかっては、「よく、あたしのやうなものを愛して下さいました」と礼を述べ、女たちが泣き出しそうにするのを、「しつかり、しつかり、死ぬ俺がこれくらゐおちついてゐるんだ」といって、晴々しい顔で、うまそうに水を飲んで死んでいく。大正十二年九月一日、関東大震災の日が、静かに明けつつあった。——  「多情仏心」の最後の場面である。「まごころ哲学」で、しまいまで貫ぬいていることがわかる。これは、一方には、プロレタリア文学が、ようやくさかんになろうとする時代の転回期に抗して、この作者が、意地になってふりかざしていた、あまりに肯定的、楽天的な人生観であるが、それが、この作の弱点になっていることは争われない。この人情的、常識的な「哲学」が、好色生活の情趣化、理想化の役割をはたしているのであって、同じ世界を描いても、たとえば荷風が、非情な批評的な目で対しているのとは、大きなちがいがある。ともかく、さまざまの男女の愛慾の種々相を活写して、現代の色道の修業を説いているあたり、大正期の「好色一代男」の観がなくもない。そして、後続の章で述べるように、関東大震災をはさんで、いよいよ激化してくる階級対立に伴う新興文学の進出を目撃した既成作家と既成文学が、底しれぬ不安と動揺に見舞われているとき、こういう「まごころ哲学」の世界を、これだけ全力的にくりひろげて見せたところに、里見の本領の存することは、ことわるまでもあるまい。「朱き机に凭りて」(十一年九月)という随想集の巻頭で、「まごころ哲学」を説き、「これが、平凡な、ただし動かすことの出来ない、いまの私の道徳だ。生活の根本だ」と揚言しているゆえんである。  「多情仏心」とならんで、代表作のひとつである「安城家の兄弟」は、昭和二年(一九二七年)二月からはじまって、あれこれの雑誌に分載され、単行本となったのは昭和六年三月である。この長篇は、作者自身を思わせる加島昌造を主人公として、身辺におこるもろもろの出来事を、昌造の「まごころ哲学」による解釈を加えつつ、描いていくという仕組みになっている。その一節に、文吉という、有島武郎を思わせる長兄が、軽井沢の別荘で、婦人記者と情死したときの遺書について、主人公昌造の感想がかきこまれている。——「……ここにでも、然し昌造は、光つたもの、烈しいもの、強いもの、——総じてぴーんと心に響いて来る何物にも出会はなかつた。死が、外界からの圧迫によつて促されたのではなく、二人嬉《き》々《ゝ》として十全の満足のうちに逝く、といふやうな章句にしても、その主観には些の嘘《いつは》りをも感じられなかつたとは云へ、謂ふところの外界に対する認識の不足、従つて主観の狭さ、浅さが、頑固に昌造の感激を阻んだ。また加茂に宛てた一通を、自分たちの死骸は恐らく腐爛して発見されるだらうと結んであるのなどでも、死んで行く者として誠に余計な憎まれ口で、清澄なるべき最後の心境に、一道の溷《こん》濁《だく》が流れ出してゐる点も見《み》《のが》せなかつた。……」  小説のかたちにはなっているが、ここに、長兄の情死、それに示された有島武郎の作家としての生きかたに加えた、「多情仏心」の作者の疑問と批評を見ることができる。愛人の夫が、妻の不貞を種にして、金銭を強要するのを拒絶し、恋愛を守ろうとして情死した有島武郎の、あまりにもセンチメンタルな考えかたに、大阪芸妓を安く買いたたいて、これと結婚したいきさつを描いた「妻を買ふ経験」の作者が、「ぴーんと心に響いて来る何物」も感じなかったとしても当然であろう。  武者小路、志賀直哉、有島武郎、長与善郎とみてきて、いままた、里見を加えれば、白樺派の包含していたものが、かなり複雑で、幅のあるものであることがわかる。「善心悪心」「妻を買ふ経験」など、里見の初期の作品の心理解剖の裏に、志賀直哉に通ずるもののあることはさきに書いたが、「多情仏心」その他の「まごころ哲学」の自己肯定、自己讃美の談義癖に武者小路に通ずるものを見出すのである。その意味では、大正五年ころから、すでに『白樺』を離れ去った里見も、決して白樺的なものを失ってはいないのである。  だが、大正文学の全体を考える場合、一応、白樺派とは別個に里見をあつかうのが、正しい見かたであろう。大正八年(一九一九年)に、久米正雄、吉井勇、田中純らと雑誌『人間』を創刊、その編集責任者となり、『スバル』『白樺』『新思潮』系統の作家の作品発表機関としたことからみても、大正中期以後の、これら三系統の交流の位置におくのが適当であろう。 *  佐藤春夫とならんで、『スバル』『三田文学』系統の作家として、早くから世に出たものに、久保田万太郎がある。浅草に生れ、浅草に育ち、江戸の伝統的な文化と情緒の残っている郷土浅草を背景に、旦那、親方、宗匠、芸人の生活を描いて、高い完成度を示している。完成した作家として、終始ゆるぎのなかった点では、同時代のいかなる作家も及ばない。それだけに、取材が限定されていることは認めないわけにはいかない。亡びゆく、市井の伝統的な秩序と美、義理と人情の世界に生きぬくひとびとに、強い共感を寄せるといったふうの作品であるが、感傷的な抒情詩人のごとく見るのはあやまりである。かれの好んで描く人情の世界は、決して現実社会から孤立したものではない。虚俗や執着や我慾のうずまく現実の人間生活そのもののなかに見出された人情の世界であって、リアリストの目を欠いているわけではない。が、どこまでも情緒を主とする作家であることはいうまでもなく、鋭い知的分析や思想性を望むわけにはいかない。写実的描写と会話の妙手で、その点、里見と一脈通ずるものがある。両者とも、初期の作品が泉鏡花に認められて以来、特殊な美と芸の世界を樹立した。この先輩作家への共通の尊敬をもちつづけてきただけあって、芸を重んずる技巧派としても共通するところがあり、里見の「まごころ哲学」にしても、つまりは、人情の変形であることを考えると、両者の親近性はいっそう濃厚のように思われる。芥川竜之介や佐藤春夫の世紀末的な憂鬱とは無縁な点も、思いのほか共通している。  この時期及びその前後の代表作として、「末《うら》枯《がれ》」(大正六年八月)、「九月《かや》」(八年十一月)、「寂しければ」(十三年九月—十四年六月)があり、戯曲では、「心ごころ」(十一年一月)、「短夜」(十四年一月)がある。 *  これまであげてきた大正作家中の先輩格たる谷崎潤一郎については、『スバル』の項で略述したが、ここでもう一度考えてみたい。  「牡丹の花のやうな絢爛な色彩を有《も》つた芸術家は、古来日本には乏しいので、明治以来では、紅葉山人でなし、泉鏡花でなし、里見でなし、佐藤春夫でもなし、やはり、谷崎潤一郎である。」  正宗白鳥の言葉であるが、つづいてこう言っている。  「派手なものは早く凋《てう》落《らく》するのを例としてゐるのに、谷崎君の芸術は、我々の予想に反して凋落しなかつた。数多の作品を発表しながら、読むに堪へないやうな駄物は、殆んど一つも出してゐないのは、他の作家に例のないことである。だが、平凡な群作家の間に立つて鬼面人を脅かしてゐた趣きもあつた。華多くして、まことの乏しい憾《うら》みがあつた。人工の妙天工を奪つてゐるとも云へるが、谷崎君の初期の作品は、技巧の力で嘘をまことらしく描いたといふよりも、嘘を嘘らしく描いてゐると思はれることがあつた。佐藤君の純情的作品とは違つてゐた。」  大正期を通じての谷崎潤一郎の作品は、だいたい白鳥の右の批評に尽きている。大正七年以後のおもな作品をあげると、「金と銀」(七年五月)、「小さな王国」(同年八月)、「富美子の足」(八年六月)、「或る少年の怯れ」(同年九月)、「鮫人」(九年一月—十月)、「AとBの話」(十年八月)、「神と人との間」(十二年一月—十三年十二月)などである。これらは、いずれも、「素材とその手法ばかりではなく、主題自体が自然主義の泥土に委《ゆだ》ねてゐた美と徳と詩とをはつきりと把握し構成し宣揚してゐる」という、佐藤春夫の「刺青」評のあてはまるものといってよい。同時にまた、「近年私の趣味が、素直なものよりもヒネクレたもの、無邪気なものよりも有邪気なもの、出来るだけ細工のかかつた入り組んだものを好くやうになつた」という、「饒舌録」の谷崎自身の言葉でもわかるとおり、あくまで趣味の世界であって、人間洞察の結果が、必然的に、ヒネクレたもの、入り組んだもののかたちをとらざるをえないのとはちがっている。なお、「饒舌録」の書かれたのは、昭和二年であるが、翌年の「卍《まんじ》」は別として、それ以後は、むしろ、これまでの強いて、「ヒネクレたもの」「有邪気なもの」「細工のかかつた入り組んだもの」であろうとした偽悪的なポーズを捨てようとしつつあったときであり、「饒舌録」のこの感想は、大正期のこれまでの作品について語ったものとみるべきであろう。  佐藤春夫は、「谷崎潤一郎・人及び芸術」のなかで、初期の作「異端者の悲しみ」を評して、その作にもその人のなかにも、異端者の面影は乏しく、むしろ、この作には、骨肉に対して懐いているかれの暖い深い情愛の方が説かれずして現れていると指摘している。「母を恋ふる記」(大正八年一月)を思い合せるならば、このことは、いっそう明らかである。骨肉への暖い愛情を胸に秘めながら、芸術家としては、偽悪的な悪魔趣味に執しているところに、大正期の谷崎文学の特色を考えることができる。  なお、上記の小説のほかに、この時期には、戯曲に異常な熱意を見せ、わけても十年以後は、「愛すればこそ」(大正十年十二月)、「お国と五平」(十一年六月)、「本牧夜話」(同年七月)、「愛なき人々」(十二年一月)など、多くの戯曲を書いている。それより前、九年五月から十年十一月まで、大正活映の脚本部顧問として、映画の脚色製作に熱中したこともあった。要するに、谷崎潤一郎の資質と才能は、ほかの大正作家とちがって、容易に定着成熟することなく、大正期は、もっぱら奔放な才能の彷徨のままに、試作品を残したという結果になっている。この作家なりの完成は、やはり「蓼喰ふ虫」(昭和三年十二月—四年六月)以後の昭和期を待たなければならなかった。その意味で、大正期の到達を示すものは、「痴人の愛」(大正十三年三月—十四年七月)であろう。  「私は、此れから、あまり世間に類例がないだらうと思はれる私たち夫婦の間柄に就いて、できるだけ正直に、ざつくばらんに、有りのままの事実を書いてみようと思ひます。……此の頃のやうに日本もだんだん国際的に顔が広くなつて来て、内地人と外国人とが盛んに交際する、いろんな主義やら思想やらが這入つて来る、男は勿論、女もどしどしハイカラになる、と云ふやうな時勢になつて来ると、今まではあまり類例のなかつた私たちの如き夫婦関係も、追ひ追ひ諸方に生じるだらうと思はれますから。……」  主人公が、このように語り出すところから、小説がはじまる。主人公の名前は河合譲治、月給百五十円をもらっている電気会社の技師で、当時二十八歳の青年。質素で、まじめな、田舎育ちの無骨者。異性との交際など、まったく経験がなく、娯楽といえば、せいぜい「活動写真」を見るくらいのもの。そういう堅《かた》物《ぶつ》の前に、浅草のカフェーの女給見習だった、数え年十五のナオミが現れるということになる。ざんげ話をしている現在から、八年前のことである。  顔だちが、アメリカの映画女優、メリー・ピクフォードに似ていて、日本人ばなれのしたところが、気に入ったというのである。かれは、ナオミを引きとって、西洋人の前へ出しても、肉体的な魅力において、ヒケをとらないような、自分の好みの女に仕立てあげることに熱中する。自分が馬になり、彼女を背中に乗せて、部屋のなかを這いまわるような狂態もしでかす。譲治のあらゆる計画をこらした刺戟によって、ナオミは、自分のなかの娼婦性に目ざめ、見る見るその肉体があやしい魅力を発揮するにつれ、彼女自身もまた、マントの下に一糸もまとわないというような大胆奔放な行動に出るようになる。彼はナオミの肉体の魅力に酔いしれ、彼女の淫蕩な支配に甘んずることに、無上の喜びを感ずる。  やがて、かれらは夫婦になるが、ナオミは娼婦性の赴くままに、次々にほかの男と関係を生じ、彼を悩ますようになる。彼はナオミと別れようとつとめるが、その魅力からのがれようがなく、屈辱的な同棲をつづけ、親からの遺産を彼女の好みの生活に注ぎこみ、その娼婦生活の保護者としての役割に、むしろ生きがいを見出すようになる。  「此れを読んで、馬鹿々々しいと思ふ人は笑つて下さい。教訓になると思ふ人は、いゝ見せしめにして下さい。私自身は、ナオミに惚れてゐるのですから、どう思はれても仕方がありません。ナオミは今年二十三で、私は三十六になります。」  こういう告白で、この小説は終っている。  女が、ひとたび、自分の性的魅力を自覚するにつれ、男に対する支配力を発揮し、男はそれに甘んじ、拝《はい》跪《き》するほかはない。しまいには、男を破滅にまで追いやらずにはいない。  こういう男女関係は、谷崎潤一郎が、処女作「刺青」以来好んで描いてきたもので、のちの「春琴抄」(昭和八年六月)の春琴と佐助にも、そのまま通ずるものである。人間というものは、なんといったところで、性の暴力に引きずりまわされている存在だという思想は、谷崎潤一郎という作家にとっては根本的なもので、かれの作品の大部分は、この思想から生み出されたものである。このことは、主人公譲治を、わざわざ、きまじめな、堅物にしていることによっても、はっきりうかがうことができる。たとえば、世之介のごとき生れながらの好色漢とは、まるでちがっている。そして、女の性的魅力におぼれ、その犠牲になりながら、むしろそれを男の幸福と考えているところに、この作者の特色が見られるのである。  「痴人の愛」は、単に眼前の新しい男女風俗を写しとったというふうのものではない。ナオミのような女は、いまでは格別珍しくはないが、この作品の書かれた大正十三年ころは、きわだって目新しい存在であった。ナオミを色どっているのは、アメリカの映画や女優を通して、ようやく、わが国にも一般化しつつあった、アメリカ趣味の浅薄な受け入れを示すものにはちがいない。だが、それによって、ナオミのような女体をつくり出したのは、この作者本来の思想にほかならない。  荷風は、眼前の現代に反撥し、意識的に、つむじまがりの、皮肉な時代おくれになることを決意したが、谷崎は、その逆で、すくなくとも、そのころまでには、荷風の憎んだ、軽薄で雑駁な現代の礼讃者めいたところがある。ある点では、同じような傾向の作家でありながら、こういう根本的なちがいのあることを見おとすわけにはいかない。  「痴人の愛」を書いた前年の、十二年九月、箱根滞在中に、関東大震災に遭った谷崎潤一郎は、同月末、一家をあげて関西に移住した。「痴人の愛」は、関西移住後の最初の長篇であった。 *  佐藤春夫、芥川竜之介、里見、久保田万太郎、谷崎潤一郎——こう挙げてくれば、大正文学のこれらの花形作家に共通するものとして、おおまかに芸術派と呼ぶことができるかもしれない。菊池寛、久米正雄、山本有三、豊島与志雄、広津和郎、葛西善蔵らを生活派として概括する、おおまかな分類に対するもので、もとより便宜的な、あいまいな区別である。そして、両者の間に、室生犀星、宇野浩二を位置づけることができるかもしれない。  室生犀星は、早くから、北原白秋、萩原朔太郎、山村暮鳥らと識って、詩作に熱中した。処女詩集「愛の詩集」(大正七年一月)に次いで、第二詩集「抒情小曲集」(同年九月)が世に出てからは、萩原朔太郎とならんで、特異の資質をもつ詩人として注目された。一方、佐藤春夫、芥川竜之介との交友を通じ、小説にも筆をとり、大正八年に処女作「幼年時代」(八月)につづいて、「性に眼覚める頃」(十月)、「或る少女の死まで」(十一月)を発表し、たちまち、新進作家の地位を確保した。翌九年には、「結婚者の手記」(二月)、「蒼白い巣窟」(三月)、「美しき氷河」(四月)、「古き毒草園」(六月)、「香炉を盗む」(九月)と、一気に溢れ出すような制作ぶりを示した。以上八篇のうち、「蒼白い巣窟」が『雄弁』に載ったほかは、ことごとく『中央公論』に発表されたことによっても、小説家として、いかにはなばなしい登場であったかがわかる。当時の『中央公論』は文字どおり、文壇の檜舞台であったからである。  「幼年時代」、「性に眼覚める頃」、「或る少女の死まで」は、特異な感受性の成長の自伝的な連作で、前者は小学校を出るころまでの幼年期を扱い、後者は十七歳ころ、高等小学校を中退、詩作に熱中しはじめた少年期を題材にしている。「或る少女の死まで」は、上京後の青年期の生活がとりあげられている。「或る少女の死まで」「蒼白い巣窟」は、虐げられた都会生活のなかに、素樸な人間的親愛感を見出した作品で、散文詩集「愛の詩集」に見えているドストエフスキーへの共感につながるものである。「或る少女の死まで」には、二人の少女が描かれているが、酒場に働くひとりに、作者は「罪と罰」のソーニャを夢みているのである。ドストエフスキーの影響といっても、思想的なものではなく、貧しい庶民の生活感覚としてとらえているところに、この作者の資質をみることができる。  あくまでも感受性に執し、官能を歌う作家であっただけに、幼年期や少年期に取材した作には、完璧な表現がもたらされたのであるが、社会のなかで人間をとらえる段になると、感受性だけで手に負えるはずはない。しかし、その解決のため、現実処理の新しい題材と手法を見出すには、昭和九年七月の「あにいもうと」まで待たなければならなかった。それまでに多くの作品を書いてきたが、この一作によって、独自なリアリストに変貌する。そこにいたって、室生犀星は、自分のなかの詩人と小説家をはっきり自覚的に区別する。そのやや強引と見えるひき裂きかたが、その小説に、歪みや誇張をもたらし、表現が題材をつつみきれない。七十歳を越えても、なお遂に未完成な作家として世をさったという感じである。その意味で、大正作家のなかでは、異例な存在であった。 *  宇野浩二が、「蔵の中」の一作で世に出たのは、大正八年(一九一九年)四月であった。この思いきって破格な小説は、女と着物に凝り性の近松秋江が、ありったけの着物を質に入れたばかりか、いま着ているものまで入っている、という話を友人の広津和郎から聞いて、それに作者の体験をつきまぜ、あとは全部空想で書きあげたという。  この風変りな一作は、よかれあしかれ、一挙に文壇の視聴を集めた観があった。さまざまの批評があったが、菊池寛が、文芸時評で、大阪落語の感じがある、と書いたので、作者は、さっそく、「蔵の中」に落語の感じがあるとすれば、君の「忠直卿行状記」には、張り扇の音がすると速達で一矢報いたというような挿話を、作者は、しばしば語っている。「蔵の中」に、大阪落語を感じた菊池寛の鑑賞は、決して見当はずれのものではない。おどけた庶民の笑話を、それにふさわしい軽やかな語りくちで、おもしろおかしく語って見せたというふうの、この小説は、当時として、まさしく型破りであった。庶民的なユーモアと、軽妙で饒舌な話術と、——異様なストリー・テラーの出現であった。  「僕はいつでも小説を楽しんで書く。又しばしば詩人の心持のやうになつて、歌ふやうな喜びで書く。これまでも、これからも。」——改造社版「現代日本文学全集」の「宇野浩二集」に書かれた作者の言葉である。作者は、「歌ふやうな喜び」で、一気に語りつづける、読者は耳を傾けているうちに、笑うに笑えない、人の世のあわれさがくりひろげられてくる。——そういう独自の作風は、「蔵の中」の一作によって、確立されたのであった。  「そして私は質屋に行かうと思ひ立ちました。私が質屋に行かうといふのは、質物を出しに行かうといふのではありません。私には少しもそんな余裕の金はないのです。といつて、質物を入れに行くのでもありません。私は今質に入れる一枚の着物も持たないのです。そればかりか、現に今私が身につけてゐる着物まで質物になつてゐるのです」と、「蔵の中」は語り出す。一篇の小説が、「そして」というような接続詞ではじまることは、いまでは珍しくないが、描写一点ばりの当時の小説一般のなかでは、これもまた破格であった。「といつて」とか、「そればかりか」というように、語りつがれ、話題が話題を生み、しばしば脱線し、道草を食い、ようやく元へ戻ったかと思うと、また脱線する。こういう語りくちが、独特の文体をつくりあげている。これがのちになって、高見順の綿々たる饒舌体を生み出すモトになっているのである。「長い恋仲」(大正八年十月)のように、全篇を通じて、大阪弁で終始している例もある。  作者は、これを「我流の変則な文章」と呼んでいるが、そもそもの処女作とともに、自然に発生したものらしい。腹にいっぱいたまっていることを、夢中で語りつづけるなかから、無意識のうちに出てきたものであろう。作者自身も言っているように、「若気のいたり」というべきところもあって、反感を招いたむきもあるが、武者小路の創始した率直な文体とならんで、現代の文章に及ぼした宇野浩二の影響は、意外なほどに大きいのである。  「蔵の中」については、菊池寛の批評をもふくめて、毀《き》誉《よ》褒《ほう》貶《へん》相半ばしたが、この間の事情について、広津和郎は、次のように書いている。  「相当非難もあつたが、又注目もされたものであつた。所謂無名作家の作としては、恐ろしく大人びてゐた。人生の酸いも甘いも噛みしめて来た大年増が、いきなり披《ひ》露《ろ》目《め》をしたと云つたやうな感じであつた。所謂新進作家らしい初々しさを期待する者にとつては、顔をそむけたいやうな、すれつからしの感じをこの作から受取つたらしい。そこがこの作が非難された所以であつた。併し巣立ちした最初から無名作家らしい嘴の黄ろさの少しもないといふ事は、何と云つても文壇人の目を瞠らせるに十分であつた。これに続いた『苦の世界』によつて、彼ははつきりと文壇的地位を獲得したが、これも亦『蔵の中』に劣らず人を食つた面魂の作物だつたので、是認者も無論相当ゐたが、非難するものも多かつた。併し賞められながら消えて行く作家の多い中にあつて、悪口を云はれながら、ぐんぐんのし上つて行つたといふ事は、作家宇野浩二の強みであつたと云つて好いであらう。」  もう一つ、書き加えなければならないのは、宇野浩二が、「蔵の中」を書いていた大正七年(一九一八年)という時代についてである。大正七年といえば、すでに書いたように、米騒動のおこった年である。かれは、ある回想のなかで、意外なほどこまかに米騒動の顛末を書いている。それにつづけて、「私が、下宿屋からいつ追ひ出されるかと、ときどき、心にかけながら、ふだんは、そんな事をきれいに忘れて小説を書きたいと胸ををどらしてゐたのは、その米騒動の飛び火が、暴行と襲撃の形になつて、東京市内のあちこちを、さかんに、荒らしてゐた頃であつた。私は、あらひざらした手拭浴衣をきて、ときどき、一ぱいのコオヒイを飲むために、銀座に出かける事があつたが、その銀座の大きな商店の飾り窓の大きなガラスに、石を投げられたらしい、大きな穴が、ところどころに、あいてゐた。さうして、さういふ店がいたる所にあつた。」  ところが、内乱を髣髴させるような騒然たる光景を綿密に叙述しながら、これにつづけて、「が、米が高くなつても、安くなつても、心配にならないほど貧乏であつた私には、米騒動がおこしたさういふ無惨な有り様を見ても、ほとんど何の感じもおこらなかつた」と書いているのである。これはおどろくべきことである。そして、こういう騒然たる時代の激流のなかで、貧乏とヒステリー女とに悩まされた浮世の人情ばなしを、「歌ふやうな喜び」で、綿々と語りつづけたのであった。  宇野浩二は、こういう破格な資質を、どこで、どう育てたのであろうか。それは、生いたちと深くつながるものがあるらしい。生れは福岡であるが、生いたったのは大阪であった。大阪の宗右衛門町には、十年ほど住んでいた。四歳で父を失い、大阪人の母といっしょに、この花柳街の十軒路地の伯父の借家にくらしていた。そのころのことを、「十軒路地」で描いている。この十軒路地に生を営むさまざまの変った男たちと女たち、色と金とをめぐるそれらのくらしむき、——若い孤独な感受性に強く刻印されたのが、この市井の小さな一画であった。そして、この十軒路地こそ宇野浩二にとっての社会であり、人生であった。かれの小説に登場する、あらゆる人物は、ことごとくこの十軒路地の住人にほかならない。  さらに、大阪の生んだ近世の小説家、井原西鶴の影響がある。「苦の世界」の最初の二話は、「蔵の中」より前に書かれていて、文字どおりの処女作であるが、わけても、その手法において、「世間胸算用」や「日本永代蔵」の、影響というよりは模倣を指摘することができる。十軒路地と西鶴、これを宇野浩二の文学の源流とみていいだろう。  おもな作品をあげれば、前記のほか、「甘き世の話」(大正九年九月)、「八木弥次郎の死」(十年一月)、「空しい春」(同年三月)、「夢見る部屋」(十一年四月)、「山恋ひ」(同年八月)、「子を貸し屋」(十二年一月)などであるが、その多作ぶりには目を見はらせるものがある。「長い恋仲」というのは、恋物語というには、あまりに風変りである。恋愛につきものの熱情なり、陶酔なり、絶望なり、懊悩なり、そういう激情的なものを伴わず、一種の人情化した不思議な恋が描かれているが、この作者の描く恋は、おおかたこの種類に属している。そして、この作のおもしろさの大部分は、さきにふれた大阪弁の話術に支えられているのである。  「夢見る部屋」は、家庭や友人にかくれて、アパートの一室を借り、その壁に、日本と西洋の山の写真をかかげて眺め、夜になると、写真の引伸機を利用して、いろいろの山の写真を壁に写し出して楽しむといった、風変りな男の、風変りな生活を語ったもの。一見、私小説のごとく見せて、その実、すべて空想の所産だというが、作者の内奥の秘密である孤独と夢想は、この一作によって、充分うかがい知ることができる。なお、体験をそのまま描いたものはすくなく、体験を空想で加工した作品の多いのも、宇野浩二の文学の特色である。このことは、「蔵の中」から、すでにそうであった。  この作の前後には、信州諏訪の芸妓ゆめ子を女主人公とする、一聯のロマンティックな作品が相次いでつくられたが、その代表作が、「山恋ひ」である。ここにくりひろげられた作者の夢想は、古風なまでに人情的であり、純情である。「子を貸し屋」は、友人から聞いた話——浅草にプロスティテュゥト相手に子を貸す商売をしているものがあるというだけの話からヒントをえて、まったくの空想によって構想されたものだという。写実家としての本領を遺憾なく発揮した、作者の代表作のひとつである。  「蔵の中」「長い恋仲」「八木弥次郎の死」などは、いわば「風変り」なところ、「変則」なところに、おもしろさを見出そうとした作であったといえないこともない。「山恋ひ」あたりから、そういうものが影をひそめるようになり、「千万老人」「如露」のような、好ましい結晶を見せた短篇の佳作をへて、「軍港行進曲」にいたって、いっそう自然な、広い人間の世界に出てきたといった感じである。けれども、この作の書かれた昭和二年(一九二七年)は、作者にとって重大な年であった。その年の六月、極度の神経衰弱にかかり、爾来、長期にわたって、作家活動を中止するのやむなきにいたった。昭和八年一月の「枯木のある風景」が、その復活後の第一作であるが、これをさかいにして、宇野浩二は、おどろくべき変貌を遂げた。ストリー・テラーから冷厳な写真家へ、「歌ふやうな喜び」で書く作家から、句読点のむやみに多い苦渋な作家への変身であり、やがて、自然主義の窮極を示すごとき名作、「枯野の夢」(昭和八年三月)、「子の来歴」(同年七月)が現れるのである。 *  宇野浩二と古くから親交のあった広津和郎は、葛西善蔵、相馬泰三、谷崎精二らと、同人雑誌『奇蹟』から出発し、自然主義で育てられた。小説を書き出す前に、評論家として活動した。透徹した理解によって、つねに作品を通して作者の対人生の態度にまでふれていく、その犀利な批評は、容易に他の追随をゆるさなかった。さきにふれた「志賀直哉論」や「怒れるトルストイ」、アルツィバーセフを論じた「生の論理・死の論理」(大正六年四月)などは、その代表的なものであるが、現在読んでも、昨日書かれたように新鮮で、そこに指摘されている問題は、いまなお生きている。武者小路実篤、谷崎潤一郎、佐藤春夫、菊池寛など、それぞれ新進作家として登場したころに、いち早くかれらを論じた時評的な文章が、いまにしてみれば、かれらの現在までの歩みを予見しているかのようである。たとえば、佐藤春夫の「田園の憂鬱」が出たとき、「尠くとも、今年になつて私が読んだ各作家の作物の中では、此位私の胸を打つたものは他にない」と言いながらも、この「才人」と彼の「本体」とが、はたして相育て合っているのかどうかに不安を表明している。多くの批評家によって、新文学の代表者と目されていた谷崎潤一郎について、「潤一郎氏の出現の抑《そも》々《そも》の初めから、私はこの作家をほんたうの意味で新しい作家と思つたことは一度もなかつた。現在でも、氏を白鳥氏よりも新しい作家であるとは私には思へない」として、「頭で発見した感覚や神経を平然として直ちに文字に表すまでに、自分で自分を疑つて見た事が少しもないやうにさへ見える」と評したのは、谷崎潤一郎がもっとも絢爛たる存在だった大正七年のことであった。武者小路に対する批判的理解の深さも、いま読んでみて、他に及ぶもののなかったことがわかる。広津和郎のそういう批判的態度の根柢を知るには、「怒れるトルストイ」にしくはない。あまりに高い理想をかかげることで、人生に範疇を作らずにいられないトルストイ、そのため現実と理想のへだたりに、いらだっているトルストイに抗議しているところに、とらわれない、自由な心と眼を希求している、この聰明な批評家の本領を見ることができる。この点は、気質的にも、志賀直哉に似通うものがある。広津和郎は、そういう態度を、主としてチエホフと、チエホフ以後のザイツェフ、ソログーブ、アンドレーフなどに学んだものである。チエホフの真の偉さは、範疇をつくらなかった点にあるとして、「彼は聰明であつた。驚くばかり聰明であつた。彼は人間の喜劇をも悲劇をもあるが儘に見た。それのどん底までも解剖し、而もそれを常に愛を以て描いてゐた」と言っている。広津和郎が、自分に要求した文学の態度が、これであった。  大正四年に書かれた「チエホフの強み」のなかで、「現代露西亜の最大不幸は性格の破産だ!」というチエホフの言葉を引用して、「性格の破産! これはチエホフの見た当時の露西亜の堕落の病原菌だつたのである」と断じた広津和郎は、つづけて以下のように論じている。——「チエホフの見た人間には統一された性格の厚みはなかつた。チエホフの作中に出て来る人物は、男も女もみんなしつかりした性格を持つてゐない。彼等は唯神経の暗示のままに動いてゐた。神経の暗示のまま、泣いたり、笑つたり、悲しんだり、喜んだりして、さまざまの悲劇喜劇を演じてゐる。」  この性格破産者という観念を日本の社会に移して、小説化を企てた代表的な作品としては、処女作「神経病時代」(大正六年十月)、「二人の不幸者」(七年五月)、「死児を抱いて」(八年四月)がある。ほかに、愛情のもてない女と結婚した男の懊悩を描いたものに、「師崎行」(七年一月)、「やもり」(八年一月)、「波の上」(同年四月)がある。その後、大正末期にいたるまで、小説の作は、いたってすくない。上記の諸作にしても、性格破産者を扱ったものは、観念が肉化しないうらみがあり、ほかの作も、平明にすぎて陰翳とふくらみに乏しく、大正期における広津和郎は、小説よりも批評活動において、より高く評価されるべきであろう。 *  葛西善蔵の出世作「子をつれて」が、『早稲田文学』に発表されたのは、大正七年三月であった。あちこち金を借りちらし、だれからも絶交同様になり、家主からは立退きを迫られている。郷里へ金策にやった妻からは音沙汰もない。わずかの家財道具を売りはらい、家を明け渡して、夜の街へ子どもをつれ出す。そして、ふらふらと食堂へ入り、子どもらに、エビフライとエダマメをおごってから、結局Kの下宿へころがりこもうとするが、あき間がないといって、ことわられる。かれらは、あてもなく電車にのる。疲れきった子どもらは、腰かけへ坐るなり、たがいの肩をもたせあって、いびきをかきはじめた。……  「子をつれて」は、作者三十一歳の作である。三十一の青年が、こんな老人めいた愚痴や泣きごとを綿々と綴って、それが出世作になったところに、大正期の文学の特色をはっきり見てとることができる。私生活をあげて文学の犠牲に供するという私小説の方法の実践者として、葛西善蔵の文学は、実質以上の評価を獲得した。自分を苦しめ、傷つけることで、創作衝動をかりたてるというやりかたは、ついには、口述小説の方法にまで、この作者を追いつめたのである。以下は、「椎の若葉」(大正十三年七月)の口述筆記に当った、『改造』記者、古木鉄太郎の回想記である。  「あれは午後の三時頃から始め、翌朝の午前三時頃までかかつたものだ。談話の中途で、葛西さんは何べんも小便に立つやら、墨をすつて唐紙に大きな字を書いてみたり、いよいよ酒が廻つてくると、四つん這ひになつて、犬の小便する真似をして部屋中を這ひ廻つたり、それかと思ふと、お国の岩木山に登る年中行事の時の唄を口ずさんでみたり、千変万化の振舞をされるのだつた。」  後期の代表作とされている「湖畔手記」(大正十三年十一月)は、同棲中の愛人と喧嘩して、金策のため下宿をとび出したまま、六年も別居している郷里の老妻へあてて書く気持で、身辺の風物に託して心境を吐露した作である。  「白根山一体を蔽うて湧き立つ入道雲の群れは、動くともなく、こちらを圧しつけるやうに寄せ来つつある。そして、湖面は死のやうに憂鬱だ。自分の胸は弱い。そして痛む。人、境、倶《ともに》不奪《うばはず》——なつかしき、遠い郷里の老妻よ! 自分は今ほんたうに泣けさうな気持だ。山も、湖水も、樹木も、白い雲も、薄緑の空も、さうだ、彼等は無関心過ぎる!」  こういう感傷的な詩情をこめた一節もあるが、結局、「酒の狂酔と自己麻酔剤」によって、刀折れ、矢尽きた感じで、「俺は何もかも欲しくないのだ。妻子も欲しくないし、極端に言へば、俺自身も欲しいと思はない。俺はもはや生活にへこたれ始めたらしい」と嘆息する。こういった作品である。  こういう感傷的な、たわいのない詠嘆が、葛西善蔵一代の傑作のごとく考えられ、深刻視されたところに、まざまざと、大正文壇の風潮をうかがうことができる。豊富な逸話として伝えられている生活破壊の「伝説」が、この種の作を傑作たらしめたのである。  「飲んだくれに有勝ちの、瓢逸さ、多少身に帯びてゐた仙骨が、彼れの暗鬱鈍昧な作品に、芸術の光を差させてゐる」と、正宗白鳥は言っている。だが、葛西善蔵の佳作としては、「子をつれて」「湖畔手記」のさわりの多いものよりは、田舎者の無知な慾を描いた「馬糞石」(大正八年七月)など、むしろ私小説ならぬ二、三をあげるべきかもしれない。 *  「菊池君を論ずるのは、現代を論ずることである。この雑多紛々の現代に於て、ある一人を以て現代の標本とすることは困難であつて、範囲を文壇に限つても、現代を背負つた標本的な人物はそこらに散在してゐるやうであつて、特に一人を選び出すことは困難である。しかし、今日の私は、多く躊躇するところなく、菊池君をもつて好個の現代の代表者としようと思つてゐる……外形も精神も今の日本に生きてゐると云つた感じが生々としてゐる人である。彼の述作は、さういふ感じの率直な表白である。」  正宗白鳥が、こう書いたのは、昭和三年(一九二八年)三月であった。そのころの菊池寛は、初期の戯曲、歴史物・現代物・自伝物にわたる多くの短篇小説、「真珠夫人」以下の新聞小説・通俗小説の成功の上に立って、文芸春秋社の経営に成功し、功成り名遂げた社会的名士として、文壇の中心的存在となっていたのである。  菊池寛は、「半自叙伝」のなかで、「高瀬舟」や「高野聖」を高く買いながら、それらの作者である鴎外や鏡花が、「坊ちやん」や「金色夜叉」を残した漱石、紅葉ほどには後世に残るまいと言い、「父帰る」によって、自分もまた「相当後世に残るだらう」と言っている。「金色夜叉」から「坊ちやん」をつらねる線の上に、自分の仕事を位置づけたところに、菊池寛の面目がある。「金色夜叉」や「坊ちやん」の大衆性が、軽蔑さるべきものとなったのは、自然主義以後のことである。自然主義は、新しい文学の観念をうち立てるために、それ以前の文学の多くのものを失いもし、捨てもしたが、大衆性のごときは、そのなかでの最大のものであろう。  出世作「父帰る」(大正六年一月)は、戯曲ではあるが、「金色夜叉」「坊ちやん」の延長の上に立ちつつ、時代即応の大衆性を獲得した作品である。二十年前、妻子を捨てて、情婦と出奔した父親が、うらぶれて帰ってくる。長男は、自分たちに父親はない、一家が生きてきたのは自分の力だといってはねつける。——こういう一応の近代個人主義からの批判も、ついには肉親の情によって解消する。悄然と立ち去る父親の後を、たまりかねた長男が追うところで幕になるのである。長男の父親拒否が、家族制度の疑問にまでつき進むようなことは決してない。一応の合理的批判の納得の上で、結局は昔ながらの人情を容認する。ここに大衆の共感を獲得する根源があった。いわば条件つきの批判が、そのまま、条件つきの妥協に転ずるところに、大衆のより大きな共感を獲得したのである。菊池寛の批判は、近代個人主義の立場から、もっぱら残存する封建的なものにむけられたが、それはどこまでも、大正期の小市民生活を、より合理的、より快適にするための前提でなければならず、現実への批判の裏には、つねに現実への妥協が用意されていた。かれは、そういう意味での現実主義者であり、それはつねに功利主義を離れることのできないものであった。  「ある敵《かたき》打《うち》の話」で、封建社会の最上の道徳とされた敵打が、いかにばかばかしいものであったかを語り、「忠直卿行状記」(七年九月)では、周囲の阿諛追従によって、一個の人間として遇されることのなかった権力者の人間的苦悩をとりあげて、歴史上の暴君に人間主義的解釈を与え、「恩讐の彼方に」(八年一月)では、恩讐を越えた人間力への共感と讃美を語り、一方では、「大島が出来る話」(七年六月)や、「出世」(九年一月)のように、しがない小市民の生活のなかにもたらされる、それ相応の希望と充足とを語ってみせることを忘れない。こういう現実適応主義が、人間的不正に対する批判・糾弾となって現れるのも自然であろう。この場合、糾弾される人間的不正が、主としてエゴイズムであることも、また自然である。未開拓の蘭学研究に礎石を据えた杉田玄白の異常な学問的情熱と刻苦のなかに、醜いエゴイズムをとり出して見せたのが、「蘭学事始」(十年一月)であり、落目になった侠客の運命にからませて、偽りによって自分の地位を保とうとする者と、その者に偽って阿諛する者との重複したエゴイズムの醜さを描いたのが、戯曲「入れ札」(十年二月)であった。こういうエゴイズムの糾弾は、菊池寛の現実適応主義を擁護するためには、欠くことのできない自己批判であった。つまりは、封建道徳の蔑視と、エゴイズムの自己批判とに支えられるところに、菊池寛のモラルがあったわけであり、そこに、「恩讐の彼方に」の人間讃美や、「出世」の現実肯定の世界が築かれるのである。すべて、あれこれの場合における人間の性格・心理・行動に、近代合理主義の解釈を与えるのが、菊池寛の文学上の仕事であった。  菊池寛にとって、最も重要なことは、大正後半期の小市民大衆の、文字どおりの文学的代弁者たりえたことである。およそ、かれの文学ほど、当時の広い社会と調和的に成立したものはすくない。単に作品のみにかぎらず、かれの人間そのものが、大正市民の典型であったといえるのではないか。自然主義の作家でさえ脱することのできなかった文学者気質などは、根柢からかなぐり捨てて、あけすけに、無造作に、しかもぬけ目ない態度で文学を制作し、同様の態度で世に訴えた。かれにおいて、文学作品の商品化が完全に果されたのは当然であった。  「大正十年頃の私は、作家として黄金時代であつただらう」という「半自叙伝」の言葉は、正しいといわなければなるまい。菊池寛は、大正期における自己完成者の一つの典型であるが、その完成の性格は以上のごときものであった。  青野季吉によれば、菊池寛は、進歩的であるとともに、保守的であり、そこに、小市民の二つの異った層群の特性が結合されているという。そして、菊池寛において、その二つの層群の特性が結合されていたこと、その階級性が、彼をして、大正七、八年期において、文壇の地歩を固めしめ、大正末期から昭和へかけて、通俗作家へ転向せしめ、彼のポピュラリティーを累加し、ついに時代の寵児たらしめるにいたったところの、基本的要素にほかならぬとして、こうつづけている。——「謂ゆる大衆——雑階級的な意味の——は、時代は、文学と文壇を背景として歩み出る人物において、かかる結合型の人物を物色し、彼が一方において自由主義者として、しつかり自己に歯止めを食はせ、他方において、プロレタリアートの文化的脅威と対抗せんことを要求し、その前に跪坐し、かく歩み出るものを喝采せんと、まち構へてゐた。而して菊池寛は、よくこの待望に副つたのである。」 *  かくて、菊池寛を中心とする『新思潮』の仲間たち——菊池寛、芥川竜之介、久米正雄、山本有三らは、大正八、九年以後、それまでの白樺派に代って、文壇の主流的地位をしめた。  第一次『新思潮』は、小山内薫によって創刊された綜合学芸誌であったが、第二次は、東京帝大文科系の文芸雑誌として、小山内薫、谷崎潤一郎、和辻哲郎、木村荘太、後藤末雄、小泉鉄らが同人であった。そこから、谷崎潤一郎が文壇に登場したことはすでに書いた。大正三年に出た第三次には、久米正雄、柳川隆之介(芥川竜之介)、豊島与志雄、草田杜太郎(菊池寛)、山本有三、秦豊吉らが集った。第四次は、久米正雄、芥川竜之介、菊池寛、松岡譲、成瀬正一の五人によって、大正五年二月創刊された。  第三次『新思潮』では、芥川竜之介や菊池寛には、これというほどの作がなく、小説家の豊島与志雄、戯曲家の山本有三、久米正雄が文壇におくり出された。大正三年(一九一四年)三月、第三次『新思潮』に発表した久米正雄の戯曲「牛乳屋の兄弟」は、その年の秋、新時代劇協会によって、上演された。大学二年在学中のことである。戯曲としては、ほかに、「地蔵教由来」(六年七月)、「三浦製糸工場主」(八年七月)などがあり、社会劇作家としての力量を示した。小説の第一作は、芥川竜之介の「鼻」とならんで、第四次『新思潮』の創刊号に載った「父の死」で、ひきつづき同誌に発表した「手品師」(五年四月)、「競漕」(同年六月)のほか、「受験生の手記」(七年二月)、「虎」(同年五月)、「和霊」(十年四月)、「墓参」(十四年一月)などがあるが、思想的な深みもなく、人間把握も常識的で、決定的な代表作はない。早熟の才能は衰退もはげしく、早くから通俗小説に転じ、昭和期になってからは、菊池寛とともに、文壇を代表する社会的名士として活動した。  山本有三は、緊密な構成と第一義的な問題の追及によって、日本の近代劇を代表する力作のいくつかを書いている。「津村教授」(大正八年二月)、「生命の冠」(同年十一月)、「嬰児殺し」(九年六月)、「坂崎出羽守」(十年九月)、「同志の人々」(十二年三月)、「熊谷蓮生坊」(十三年六月)がこれであるが、小説を書き出したのは、昭和になってからである。  豊島与志雄は、第三次『新思潮』の創刊号に発表した「湖水と彼等」(大正三年二月)が、中村星湖に激賞されて、いち早く文壇に出たが、はなやかな存在にはならなかった。代表作「野ざらし」(十二年一月)は、当時の知識人の倦怠と懐疑を表現したもの。知的で心理的な作風をうかがうに足る作品である。  以上に挙げた作家たちのほか、『スバル』から出発して、その後『三田文学』を主宰し、生涯を通じて会社員と作家の二重生活をつづけながら、「大阪」(大正十一年七—十二月)の代表作をもつ水上滝太郎がある。大正七、八年ころから、十一、二年ころの数年間、はなばなしい活動をつづけ、若い人たちの間に広く愛読者をもっていた吉田絃二郎がある。人道主義的な愛の作家であると同時に、宗教的な思索者とも見られ、自然詩人ともうけとられた一面を兼ねそなえていた。「島の秋」、「芭蕉」、「ダビデと子たち」のほか、「人間苦」、「無限」、「白路」の長篇など、作品の数はきわめて多い。その人生観照の眼には、いつも涙がたたえられ、詠嘆と情緒への陶酔を見せていた作風は、大正文学の一面を示すものである。「初年兵江木の死」のほか、軍隊に取材した多くの短篇と、「極みなき破局」、「悩める破婚者」などの作で知られ、のち『文芸戦線』の陣営に投じた細田民樹、処女作「空骸」で世に出て、「死を恃む女」、「牧師のボーイ」、「遁れた女」、「罪に立つ」などを書いた細田源吉、早稲田大学在学中、新聞の懸賞に当選した「涯なき路」で出発し、「三月変」、「物質の弾道」などの短篇集のほか、「青春」、「巴里」の長篇をもつ岡田三郎も逸するわけにはいかない。芥川竜之介に師事し、菊池寛、久米正雄とも親しく、「夢ほどの話」、「春の外套」、「天の魚」、「南京の皿」などの、繊細巧緻な短篇集をもつ佐佐木茂索、『白樺』の感化で作家生活に入り、作品集「一つの時代」に収めた、清純な気品をもつ短篇のいくつかを残した犬養健——その後、作家活動を中絶したこの二人など、いかにも大正作家らしい特色をもっている。 第三節 心境小説と通俗小説  昭和二年(一九二七年)一月から、谷崎潤一郎は、数カ月にわたって、『改造』に「饒舌録」と題する文芸随想を連載した。自分の抱懐する小説観を大胆率直に吐露したものであったが、それは、当時の文壇の支配的な傾向に対する反抗によるものと見られた。  「いつたい私は近頃悪い癖がついて、自分が創作するにしても他人のものを読むにしても、うそのことでないと面白くない。事実をそのまま材料にしたものや、さうでなくても写実的なものは、書く気にもならないし読む気にもならない」とか、「近年私の趣味が、素直なものよりもヒネクレたもの、無邪気なものよりも有邪気なもの、出来るだけ細工のかかつた入り組んだものを好くやうになつた」とか語っているが、これが、「饒舌録」の全体を貫ぬいている小説観にほかならない。「近頃悪い癖がついて」と言い、「近年私の趣味が」などといっているが、これは、処女作「刺青」以来終始変らぬ谷崎潤一郎の「癖」であり、「趣味」であることはいうまでもない。もともと、そういう作風によって、はなばなしく文壇へ登場したはずのものだが、いまごろになって、わざわざそれを強調したのは、当時の既成文壇の支配的な思潮が、かれの「癖」や「趣味」とは、まるで逆の方向に動きつつあったからである。つまり、一方には、プロレタリア文学の急激な進出があり、他方には、これに対抗する新感覚派の動きがあって、明治自然主義の作家も、白樺派も、それにつづく『三田文学』『新思潮』『奇蹟』のひとびと——大正文壇後期の主流を形成したこれらとりどりの個性的な作家たちも、一様に既成文学という否定的な名で総括され、はげしい時代の推移に、とり残されそうに見えたとき、その到達した境地を洗練深化することによって、意識的であれ無意識的であれ、これら両種の新文学の挾撃に対抗すべく身がまえたところに現れた傾向である。いわゆる心境小説の主張は、それを端的に示すものであった。  心境小説という名称は、久米正雄の命名によるものと、かれ自身が書いている。心境というのは、「俳人の間で使はれた言葉で、作を成す際の心的境地と云ふ程の意味に当るであらう」とも言っている。久米正雄が、積極的に心境小説を主張したのは、大正十四年(一九二五年)一、二月の文芸春秋社刊行「文芸講座」の「私小説と心境小説」においてであった。自他ともに通俗小説家と認めていた久米正雄が、なぜ、心境小説の主張者になったかは、それに先んずる「純文学余技説」が語っている。「私は、今、通俗小説を職業とし、ゴルフを道楽とする者であるが、夜半夢醒めた心身寒き時、自ら沁々として、『余技』としての純文学を考へる」というのが、「純文学余技説」の書き出しである。日本のすぐれた純文学は、余技的なものが多い。志賀直哉の作品などは、純文学の最高峯で、まさに余技ではないか。「浮雲」が男子一生の余技になったのはいうまでもなく、「書生気質」は早大教授の余技であり、「猫」「坊ちやん」は帝大教授の余技であり、「蒲団」「一兵卒の死」が『文章世界』主幹の余技であり、「塵労」が読売新聞美術批評家の手に成り——このごろの正宗白鳥の小説は「批評家」の余技である。プロレタリア文学でも同じで、葉山嘉樹の或る作、徳永直の或る作が価値があったのは、労働者の余技であったときだけで、文学を本業としてからのかれらの、いかに「惨めなるザマ」であったか。一つの存在理由ある生活者の、他から強要されずに「心境」を描いたものが、純文学なのである。結局、文学というものは、「生活の救抜」を目的としたもので、その本式の形は、「余技」であって、「職業化」されてはならない。そのかわり、大衆文学、通俗小説は、もうすこし専門的に勉強して、もっと技術的にも上達すべきではないか。——「純文学余技説」のあらましは、以上のごときものであった。  一種の放言ではあるが、通俗小説を本業とする者の、「夜半夢醒めた心身寒き時」の実感に支えられた説であることは疑えない。これは、本格小説か、心境小説か、というような、従来の視点から提起されたのではない。小説は、すべて本質的には通俗小説と変りはなく、純文学とは言いがたい。純文学は、生活者の余技としての心境小説のほかにはないというのである。「私小説と心境小説」にいたって、このことは、いっそうはっきりする。  「私はかの私小説なるものを以て、文学の、——と云つて余り広過ぎるならば、散文芸術の、真の意味での根本であり、本道であり、真髄であると思ふ。」なぜなら、芸術が真の意味で、別な人生の「創造」だとは、どうしても信じられない。芸術はたかがその人々の踏んできた、一人生の「再現」としか考えられない。たとえば、バルザックが、さまざまの型の人物を生けるがごとく創造しようと、自分には、結局、作りものとしか思われない。「戦争と平和」も、「罪と罰」も、「ボヴァリー夫人」も、高級は高級だが、「偉大なる通俗小説」に過ぎない。結局、作り物であり、読み物である。すべての芸術の基礎は、「私」にあるが、問題は、その「私」が、はたして如実に表現されているか否かということにかかっている。それには、「私」を、「コンデンスし、——融和し、濾過し、集中し、攪拌し、そして渾然と再生せしめて、しかも誤りなきを要する。」  かくて、真の意味の私小説は、同時に心境小説でなければならないというのである。  広い複雑な社会的関係のなかで確かめられ、社会を批評し、道徳を批評する主体としての「私」から、かんじんの実質内容をぬき去って、経験的日常的な「私」の心境に後退限定しようというのである。心境という言葉は、俳人の間で用いられているところから思いついたという事実は、象徴的である。俳諧的心境を絶対視する立場からすれば、「戦争と平和」も、「ボヴァリー夫人」も作り物で、「偉大なる通俗小説」に見えるのは自然であろう。別の言葉でいえば、「戦争と平和」や「ボヴァリー夫人」が、作り物の通俗小説と見える視点まで、小説の概念を変質後退せしめたということである。小説の本質である虚構《フイクシヨン》に対する全面的不信である。近代小説の主体としての「私」の否定であり、小説の方法としての虚構の否定である。つまりは、近代小説というジャンルそのものの否定にほかならない。ここまで後退すれば、傾向的なプロレタリア文学など気にかける必要はない。心境が絶対ということになれば、これに対抗できるのは、短歌・俳句・随筆のほかにはないからである。  久米正雄のいう心境小説に相当するものは、これまでにも、あれこれの作家にいくつも見られるものであった。だが、それが心境小説と命名され、このような特殊な理論づけがされるようになったのは、関東大震災の大正十二年(一九二三年)以後であることは注目を要する。それには、二つの理由が考えられる。一つは、大震災が既成作家にもたらした直接の不安・動揺である。  震災直後、菊池寛は、こう書いている。——「地震は、われわれの人生を、もつとも端的なすがたで見せてくれた。……われわれは生命の安全と、その日の寝食との外は何も考へなかつた。われわれはそれ丈で十分満足してゐた。一家が安全に、この災厄を切りぬけようと祈念する外は、何の心もなかつた。それ以外のものは、われわれに取つて、凡て贅沢だつた。人は、つきつめるとパンのみで生きるものだ。それ以外のものは、余裕であり贅沢である。」(「災後雑感」)また、当時、東京を去ろうとしたことについて、別の文章で、こう書いている。——「震災当時、自分は一念発起してもつと正しい生活をしたいと思つた。どんな時代が来ても俯仰天地に恥ぢない生活をしたいと思つた。それに、自分で食ふ丈のものを自分で作りたいと思つた。田園に去つて、武者小路氏の如く、百姓をしたいと思つた。自給自足して後、芸術に親しんでも遅くないと思つた。」(「落ちざるを恥づ」)  菊池寛において代表的に見られる、作家生活の根柢に対する不安・動揺が、震災をさかいとして出てきた心境小説論議に、大きなかかわりがあるにちがいない。芥川竜之介もまた、以下のように書いている。——「災害の大きかつただけにこんどの大地震は、我々作家の心にも大きな動揺を与へた。我々は、はげしい愛や、憎しみや、憐みや、不安を経験した。在来、我々のとりあつかつた人間の心理は、どちらかといへばデリケエトなものである。それへ今度はもつと線の太い感情の曲線をゑがいたものが新に加はるやうになるかも知れない。……また、大地震後の東京は、よし復興するにせよ、さしあたり殺風景をきはめるだらう。そのために、我々は在来のやうに、外界に興味を求めがたい。すると我々自身の内部に、何か楽しみを求めるだらう。すくなくとも、さういふ傾向の人は更にそれを強めるであらう。つまり、乱世に出合つた支那の詩人などの隠栖の風流を楽しんだと似たことが起りさうに思ふのである。……前の傾向は多数へ訴へる小説をうむことになりさうだし、後の傾向は少数に訴へる小説をうむことになる筈である。」(「震災の文芸に与ふる影響」)  芥川は、菊池のように、端的に自分を語らず、客観的な予測を述べているにすぎないが、それ以後、いわゆる保吉物の心境小説を書き、やがて谷崎潤一郎の「饒舌録」の小説観に、志賀直哉への絶望的な尊敬に基づく「話らしい話のない小説」を対置して、これまでの自分の作風を否定するかのような論争を展開したことを考えれば、その由ってきたところは明らかである。  心境小説の主張の基づく一つが震災の直後の影響とすれば、もう一つは、かれら自身どの程度意識していたかは別として、プロレタリア文学の急激な進出に対抗するものであったことは前述のとおりである。震災をさかいにしてはじまった心境小説論議は、葛西善蔵の存在をいよいよ決定的なものにしたことは当然というべきであろう。一般的な意味での私小説ということになれば、明治四十年代にはじまり、大正期を通じて確立成熟し、現在、日本の小説の過半数を占めるものになっている。その意味では、私小説は大正文学の一つの帰結とも見られよう。だが、本章であつかおうとするのは、その意味の私小説ではない。その意味での私小説が、久米正雄によって、異常なまでに限定され、特殊化された心境小説についてである。その場合、実際の作家なり、作品なりに即していえば、誰しも、葛西善蔵を思いうかべたであろうことは推察にかたくない。現に、宇野浩二は、「『私小説』私見」(大正十四年十月)で、心境小説は「私小説の進歩したもの」であるが、日本人の書いたどんなすぐれた本格小説でも、葛西善蔵が心境小説で到達した位置まで行っているものは一つもない。「湖畔手記」や「弱者」は、東西の文学において独特無類であって、小説も、この良さ、この境地にまで達したなら、他の多くの小説は、なんらかの意味で通俗的といえなくもないといっている。明らかに久米正雄への同調を示すものとみてよい。それにしても、葛西善蔵に対する過大評価には、おどろくべきものがある。「湖畔手記」その他については既述のように、創作事情は甚だ異常ではあるが、作品そのものは、感傷的なさわりをまじえたひとりよがりのもので、佳作どころではない。「朝詣《まい》り」(十一年二月)あたりになると、何も書くことがなく、何も書けないこと、何の感興も見出しえないことが小説の題材になっている。つまり、善蔵をして善蔵たらしめている作品といえば、酒と女と貧乏と病気で、自分を追いつめて行った、その経過報告の出来ばえ如何よりは、破滅にまで自分を追いつめたということ、そのことへの感傷的な神聖視をぬきにして、宇野浩二の、この評価は生れるはずがない。こんにちの読者には見当もつかないことにちがいないが、これは宇野浩二にのみ見られる特殊なものではなく、当時の既成文壇では、ある程度一般的な雰囲気であった。芸道修行についての幾多の善蔵伝説が伝えられ、その伝説と独立に、かれの作品が鑑賞されることはなかったのである。  かくて、心境小説=文学本道説と、善蔵伝説とは、相倚り相扶《たす》けて、大正の終りから昭和のはじめへかけての既成文壇の主潮を形成したかの観がある。したがって、当時の作家・批評家で、心境小説の問題について発言しなかったものはなかったといっても過言ではない。大正十五年(一九二六年)六月になって、『新潮』が、「心境小説と本格小説の問題」と題する特輯号を出していることによっても、この問題が容易に消え去ったものでないことを語っている。この特輯号には、徳田秋声、田山花袋、藤森成吉、正宗白鳥、千葉亀雄、近松秋江、生田長江が執筆しているが、否定論とみるべきは生田長江ひとりである。心境小説否定論者には、ほかに中村武羅夫があった。かれは、あくまで本格小説を主張し、心境小説が決して小説の本道ではないことを論じたが、作家がその身辺事を描いて足れりとする悪傾向に対する攻撃であって、心境小説の本質についての理論的な否定ではなかった。  長篇「源義朝」(十三年十一月)のような歴史小説の作を見せていた田山花袋は、「もつと飽くまでも心境的の筆を本格的に利用して貰ひたいと思つてゐる。さうでないと、折角今まで長い間努力して勉強した筆が何の役にも立たないことになつて了《しま》ふからである。東洋的穽に陥ちて小さく固まつて了ふからである」と言っているのは、さすがである。  徳田秋声といえば、葛西善蔵の師匠であり、大正十二年以後の作品からいっても、「籠の小鳥」(大正十二年六月)、「ファイヤガン」(同年十一月)、「不安のなかに」(十三年一月)、「花が咲く」(同年四月—五月)、「未解決のままに」(十四年四月)、「折鞄」(十五年四月)、「逃げた小鳥」(同年七月)、「元の枝へ」(同年九月)、「暑さに喘《あえ》ぐ」(同)、「春来る」(昭和二年四月)など、佳作の多くを発表して、典型的な心境小説家のごとく見られていた。だが、その秋声にして、心境小説を小説の本道などとは、決して考えていなかった。上記の『新潮』特輯号で、秋声は、心境小説を否定しないまでも、「芸術修行としては心境から入つて大なる客観の世界に出て行くことが必要だ」とはっきり書いている。「花が咲く」「折鞄」「元の枝へ」などの心境小説の名作をかいても、秋声はこれを小説の本道とは考えていなかった。「あらくれ」の作者の絶作が、「縮図」であるゆえんがここにある。当時、心境小説の作の多かったのは、生活の必要上、地方新聞や婦人雑誌などに連載小説を書いていて、この種の短篇をかくほか、時間の余裕がなかったことは、秋声の日常を知る徳田一穂の語るところであり、これは秋声の目標が、一貫して、大きな客観小説にあったことを知ることのできるものである。  正宗白鳥は、大正末期から昭和初年にかけて、精力的な評論の仕事の上に、「人生の幸福」(大正十三年四月)、「安土の春」(十五年二月)、「光秀と紹巴」(同年六月)などの戯曲の名作を書き、人間の底知れぬ不気味さ、目に見えぬ力に動かされるいらだたしさ、実行家の生の不安と芸術家の生の不安に見事な劇的表現を与え、大正四、五年に次ぐさかんな活動を見せていた。「私が製作に当つて、芸術的燃焼を心に覚えたことが一度でもあつたとすると、この戯曲に筆を執つてゐた時であつたと云つていゝ」とは、白鳥自身の回想である。そういう白鳥だけあって、心境小説についても、正確に問題の所在を指摘している。「幻想を燃立たせるには現実の薪をどしどしくべなければならない。ダンテの空想には現実の焔が燃えてゐた。空想の所産らしい仏や神にも過去の人類の生存の歓喜や苦悶が深く印せられてゐるのだ。西遊記、水《すい》滸《こ》伝《でん》には、日記小説よりも、人間の現実が強烈に現はれてゐるのだ。今日の所《いは》謂《ゆる》心境小説なるものにあまり拘《かか》はり過ぎると、人間も芸術も次第にいぢけてしまふであらう。しかし、この頃文壇にやかましくなりかけた心境小説非難の声に動かされて、柄にない本格小説を、思慮もなく捏《こね》上《あ》げようとすると、大失敗を来たすであらう。」  久米正雄、芥川竜之介、宇野浩二らと同時代で、わけても芥川と親交のあった佐藤春夫は、心境小説について、決してかれらに同調はしなかった。「心境小説と本格小説」(昭和二年三月)で、心境小説を規定して、「甚だ変態的なもので、その趣きはまた変則的な美観である。寧ろそれは抒情のかはりに心理描写を以てしたといふ方が適切のやうに思ふ」と言っている。そして、何が故に心境小説がかくのごとく旺盛であるかの理由は、わが国の作家の実生活に基づくものとしている。  わが国の作家は、ほとんど二十五から三十までの間に、一個の作家として擡頭している。しかも、大部分は、中産階級の子弟といってさしつかえない。せいぜい学校生活と恋愛生活と、それに詩的空想と又自己反省的心理解剖とが、かれらの生活の大部分である。かれらの文学は、こういう基礎の上につくられている。そこから、次のような結論がくる。  「僕は心境小説の隆盛をわれわれ当年の青年作家の止むを得ざる多産と生活的狭《けふ》隘《あい》とまた無意識の偸《とう》安《あん》から来る早老と、しかしまだ磨滅しつくされずに残つてゐる才能との奇妙な混血児ではないかと考へるのである。僕の観察は余りに己れを以て他を類推するに過ぎるだらうか。ともあれ、所謂心境小説は余りに個人的であり、同時に心理にのみ終始し、さうして微妙な陰影をのみ求めるのを見て、僕はこれらの小説作品を早老者の詩だと考へるのである。また芥川竜之介氏が近頃発表したところの所謂筋のない小説の説も、一個の新時代の俳文とも称すべきもので、これもまた余りに早老的な浪漫主義の一面ではなからうかと思つてゐる。」  おびただしい心境小説論議のなかで、正宗白鳥と佐藤春夫の説が、もっとも透徹した、正確な見解であった。  田山花袋、徳田秋声、正宗白鳥の明治自然主義の代表たちは、否定的な人生観に基づく自然主義の末流と、肯定的な人生観を奉ずる白樺派のもたらしたものが、たがいに浸透して大正後期の私小説の地域がひらかれ、そこに見出された特殊な心境小説を、決して小説の本道とは考えなかった。だが、心境小説を頭から否定していたわけではない。いずれもすぐれた心境小説のいくつかを書いてきており、心境小説的理念が、多かれ少かれ、しみこんでいた作家たちである。心境小説を早老者の詩と定義した佐藤春夫にしても、「厭世家の誕生日」(大正十二年六月)、「旅びと」(十三年六月)、「窓展く」(同年十月)など、心境小説の佳作に乏しくない。こういう一時期の風潮の上に立って、久米正雄の心境小説即文学本道説が出てきたのである。  そこへいくと、谷崎潤一郎という個性は、とうてい心境小説を容認することなどできるものではなかった。「饒舌録」はそれに対する全面的な抗議であり、小説の構造的美観を強調して、自己の小説観を対置したものであった。ほかに、永井荷風がいる。荷風は、すでに「新帰朝者日記」のなかで、「美辞麗句を連ねて微妙の思想を現はす事」を虚偽だとか、遊戯だとかいって卑《いや》しんだ当時の自然主義を嘲笑して、文学の真髄は、「虚偽と遊戯」の二つよりほかはないと断じて、次のようにつづけている。——「人間の作つた言語文章が完全に真実を伝へ得ると思ふのが大なる誤《ご》謬《びう》である。文学の興味は、人間の知識が凡そ不完全な言語をもつて、虚偽と不真実を何れ程真実らしく語り得るかと云ふ其の手腕を見るのにある。この滑稽な遊戯が乃《すなは》ち文学と称するものだ。」これは文学、わけても小説そのものの本質論である。潤一郎と言い、荷風と言い、大正後半期の文学的主流のなかで、いかに異質的な作風であったかがわかろう。潤一郎が、昭和三年の「卍」(三月—五年四月)、「蓼喰ふ虫」(同年十二月—四年六月)にはじまり、荷風が、昭和六年の「つゆのあとさき」(十月)、同九年の「ひかげの花」(八月)にはじまって、それぞれの文学の最終の成熟を示すことで、既成文学復活の先駆を果しえたのは理由のないことではない。  こうしてみると、大震災につづく、現実社会の混乱のなかで、心境小説などに足をさらわれたのは、大正後期に文壇の主流を形成した『新思潮』(第四次)や『奇蹟』のひとびとが中心であったとみることができる。かれらの人間主義が、社会に根をはったものでなかったゆえんである。  ところで、心境小説の名において、文学から追放された小説の本来の条件や要素は、どこへいくか。通俗小説のほかにはない。大正後半期は、純文学の作家たちによる心境小説と通俗小説が、相ならんで繁栄したのは偶然ではない。ここに大正文学の一つの帰結をみることができる。菊池寛の新聞小説「真珠夫人」(大正九年六月—十二月)の成功は、純文学の作家の前に通俗小説の道を用意したことにほかならなかった。通俗小説を「本業」とする久米正雄によって、大胆きわまる心境小説論が提唱されたのは、その意味で、象徴的な出来ごとといわなければならない。  佐藤春夫は、「文芸家の生活を論ず」(大正十五年七月)で、「僕は人々に清貧を強ひた覚えは少しもない。また自分自身清貧に安んじようと誰にも宣言した覚えはない。しかしただ、文学の事業といふものは、飽くまでも精神的な業であり、——かういふ言ひ方が窮屈だと言ふならば、尠《すくな》くとも商業主義と提携すべき性質のものでないことだけは信じてゐる。……今日一流の文学者は普通世間で伝へられてゐる稿料の三分の一、或ひは二分の一を支払はれてもまだ過分であらうと思ふ。どうして過分かといふ事を知りたいと思つたならば、諸君はただ虚心に諸君の努力を考へ、また他の職業者の努力を考へ合せ、更に各々が受けてゐる物質的報酬に就いて虚心に考へて見さへすればいい。理由なき過分の報酬を受けることによつて、若し文学者が卑俗な商業主義の走狗となるやうなことがあつたならば、さうしてさういふ人々が文芸家の名を僭称する如きことがあつたならば、さうして文芸家全体がそれを黙認するが如き事があつたならば、まことに一代の文運衰へたりと謂はざるを得ない。」  こういう事実が一方にあったことが、心境小説のひき出されてきた現実的根拠なのであった。葛西善蔵に対する過大評価も、無論、ここにつながっている。 第四節 『文芸戦線』と『文芸時代』  大正十三年(一九二四年)六月創刊の『文芸戦線』については、「日本文学大辞典」(新潮社版)に次のように出ている。執筆担当は、『種蒔く人』の創始者であり、『文芸戦線』でも中心的存在のひとりであった小牧近江である。  「一面『種蒔く人』の更生であると共に、他面日本プロレタリア芸術運動が、目的意識的闘争組織への質的転換をなす重大な契機をなした母胎である。この飛躍・発展が具体化したのは、同人青野季吉の『目的意識論』(大正十五年九月)である。この論文はプロレタリア芸術家が自然成長的な観方や気分の中に閉ぢこもつてゐる傾向を否定し、創作活動に於ける目的意識性の必要を強調したものである。本誌は当時、日本プロレタリア芸術運動の唯一の機関であつたが、大正十四年十二月、グループ以外反ブルジョア作家・批評家・左翼的無名青年作家を網羅し、『日本プロレタリア文芸聯盟』を結成した。昭和二年六月、指導理論の相違から青野季吉・前田河広一郎・金子洋文・小牧近江らが聯盟を脱退し、『労農芸術聯盟』を組織して依然『文芸戦線』を発行した。更に数ケ月にして又も指導理論上の大衝突から、藤森成吉・村山知義・蔵原惟人・佐々木孝丸等が脱退、『前衛芸術家聯盟』を組織したが、残留組はなほ同誌を発行、昭和七年六月まで継続し(昭和六年一月以降「文戦」と改題)、『左翼芸術家聯盟』(機関紙「レフト」)に発展解消した。『目的意識論』によつて従来の非政治意識を打破し、後年のプロレタリア文芸運動の礎石となつたと共に、狭義の政治闘争の埒内に解消せしめんとする極左政治主義を清算し、山川均・荒畑寒村等の『共同戦線党論』を支持し、福本主義と闘ひ、労働者・農民等の生活意識に根ざし、而も全無産階級運動の進展と歩調を合一したプロレタリア・リアリズムの大道に立脚し、多くの作家・批評家を産んだ。」  また、『文芸戦線』の前身ともみられる『種蒔く人』については、同一の辞典に、同一の筆者によって、左の解説がある。  「第一次と第二次にわかれる。(一)大正十年二月、秋田県土崎港に於て創刊、三号にして休刊。同人は小牧近江・金子洋文・今野賢三・近江谷友治・畠山松治郎・山川亮等。(二)大正十年十月、東京に於て創刊、同十二年九月の関東大震災直前まで続刊。同人として村松正俊・佐々木孝丸・柳瀬正夢・松本弘二、次いで平林初之輔・青野季吉・前田河広一郎・中西伊之助・佐野袈裟美・津田光造・武藤直治等新たに参加し、執筆家として内外著名の進歩的思想家が名を列ねた。普通『種蒔く人』と称する場合、第二次を指すのである。『種蒔く人』以前にも、反ブルジョア文学の萌芽はあつたが、反ブルジョア文学者・思想家を最初に総動員し、組織を与へ、また『種蒔く人』の事実上の創始者たるクラルテ運動の日本代表者小牧近江の、第三インターナショナルの解説・宣伝に早くも示されてゐるやうに、日本のプロレタリア文化運動に、インターナショナル精神と、アンチ・ミリタリズム精神とを植ゑつけた最初の名誉ある功績を担ふものである。『種蒔く人』の出現のこの両精神の宣布の役割を終へ、共産主義的・無政府主義的・民主主義的・自由主義的な混成を止揚し、自然発生的なプロレタリアートの文化欲求から、マルクス主義への理論的方向をもつ契機を作つた。」  『種蒔く人』についても、『文芸戦線』についても、辞書的解説として、結果的にみた要約であって、実際としては、さまざまの曲折や陰影をともなうものであったことはいうまでもない。『文芸戦線』創刊号(十三年六月)に青野季吉が、種蒔き社解散、『文芸戦線』創刊前後の事情を書いて、読者への報告に代えている。(一)種蒔き社は団体としての統制を失ってしまったこと。(二)『種蒔く人』の経済的方面が、震災後、まったく行きつまったこと。小売店への干渉、官吏や小学教員の読者への圧迫、相つぐ発売禁止など。(三)行動の一単位としての意義をもっていた種蒔き社は、次第にそれを不便と感ずるようになり、文芸方面で、新しい共同戦線をつくろうとしたこと。——種蒔き社解散、『文芸戦線』創刊にいたる事情は、あらまし以上のごときものであった。  新しく結成された文芸戦線の綱領は、二項目から成りたっていた。(一)我等は無産階級解放運動に於ける芸術上の共同戦線に立つ。(二)無産階級解放運動に於ける各個人の思想及行動は自由である。——当面の運動を文芸上の共同戦線に限定したところに特色があり、圧迫をそらして、種蒔き社よりは、はるかに後退した地点で、文芸運動をはじめようというのである。小牧近江の解説には出ていないが、かくて創刊された『文芸戦線』も、十四年一月号を出したまま休刊、十五年六月、復刊された。復刊したのは四六倍判二十四頁という形のもので、片々たる雑文や、ブルジョア文壇・文士を皮肉ったゴシップ記事で埋めたのは、当時の『文芸春秋』の模倣であって、これが日本文学における画期的な役割をはたそうとは信じられないほど低俗なものであった。同年十月号から、菊判六十四頁にきりかえられたが、そのころから、プロレタリア文学運動の唯一の拠点として、重要な存在になりつつあったのである。  十四年十二月には、『文芸戦線』が中心になり、『解放』『文芸市場』『文党』『原始』その他の同人を糾《きゆう》合《ごう》して、日本プロレタリア文芸聯盟を結成した。さらに、十五年十一月には、文学のほか、演劇・美術・音楽の三部門を加え、村松正俊、小川未明、中西伊之助、壺井繁治らのアナーキストが去り、マルクス主義者だけで固めた日本プロレタリア芸術聯盟として改編された。以後、東京帝大のマルクス主義芸術研究会に属していた林房雄、中野重治、鹿地亘、久板栄二郎、谷一らの急進的な学生の参加によって、理論闘争を通じて、さかんに「分裂昇華」がくりかえされるようになるのである。その「分裂昇華」の第一歩としてのプロレタリア芸術聯盟への改編は、山川均の「無産階級運動の方向転換」(十一年八月)によって促された政治闘争の反映であり、同時に、直接には、青野季吉の「自然生長と目的意識」(十五年九月)に基づくものであった。この論文は、レーニンの「何をなすべきか?」の政治理論を文学運動に適用したものといわれているが、論旨は、いたって簡明なものであった。すなわち、プロレタリア文学とプロレタリア文学運動とをはっきり区別して、前者はプロレタリア階級の成長にともなって自然に発生するもの、後者は自然発生的なプロレタリア文学に対して、目的意識を植えつける運動であり、それによって、プロレタリアの全階級的運動に参加する運動だというのである。  平林初之輔が、これまでの漠然たる「民衆芸術論」に対して、はっきりと階級のための文学を論じた「第四階級の文学」(大正十一年一月)や、「階級闘争の局部戦」として、文芸運動を規定した「文芸運動と労働運動」(同六月)などの諸論をうけついだ青野季吉の「自然生長と目的意識」は、明らかにプロレタリア文学運動の方向と性格を決定した。かくて、「宣言一つ」を発表し、農場を開放し、翌十二年(一九二三年)六月には、みずから生命を絶った有島武郎などには一顧だに与えようとしないインテリゲンチャによって、プロレタリア文学運動は急速におし進められたのである。  以上のような、プロレタリア文学運動の理論と実践の急激な展開に呼応して、このころまでには、新しいプロレタリア作家たちが続々出現して、理論を裏づける、すぐれた新しい作品を発表したことが、運動に大きな力を加えたのである。  『種蒔く人』の発刊以前に、いわゆる労働文学の作家として、「或る職工の手記」(大正八年九月)の宮地嘉六、「放浪者富蔵」(九年一月)の宮島資夫をはじめ、「馬を洗ふ」の内藤辰雄、「怒れる高村軍曹」の新井紀一らの活動があり、小川未明、秋田雨雀、江口渙、藤森成吉、坪田譲治らの社会主義への接近もあったが、わけても、中西伊之助の「赭土に芽ぐむもの」(十一年二月)、「死刑囚とその裁判長」(十一年十月)、前田河広一郎の「三等船客」(十一年十一月)、金子洋文の「地獄」(十二年三月)などは、平林初之輔、青野季吉らの理論と相俟って、この陣営にいっそうの自信を加えるものであった。  「赭土に芽ぐむもの」は、日韓併合後、日なお浅いころの朝鮮を舞台にして、日本の収奪と搾取によって、無抵抗なあきらめのなかに堕ちていく朝鮮民族の悲劇を描いた長篇である。スケールの大さに比して、構成力が弱く、平板をまぬがれないうらみはあるが、これだけ意欲的な主題に体当りでぶつかった作品は、これまでに見られなかったといってよい。「三等客船」は、アメリカで失敗して、日本へ舞い戻ってくる移民たちの船内における生活を集団的に描き出した中篇。描写が粗雑で、洗練を欠く点はあるが、さまざまの人間の醜さ、あさましさを集団の心理を通して、即物的に描き出すことで、異常な迫力を示している。  かれらにつづいて、新しい労働者出身の作家、葉山嘉樹の出現は、既成文壇を圧倒するに足る新鮮な魅力をもたらした。十八歳のとき、カルカッタ航路の貨物船の水夫見習になったが、世界大戦がはじまって、マドロスに景気が出たので、戦時手当を目当てに欧洲航路を希望したが、乗ったのは室浜の石炭船だったという。そこでストライキをやって勝ったが、その後、さまざまの職を転々し、大正八年(一九一九年)ころには、労働組合の組織に専念し、三菱川崎造船所の争議、横浜ドックの争議を応援した。大正十二年、二十九歳のとき、治安警察法の容疑者として、名古屋刑務所に入れられ、「海に生くる人々」「淫売婦」は、そこで検閲をうけながら書きあげた。そのうち巣鴨刑務所へ移されたが、十四年出所したとき、妻子は行方不明になっていた。「淫売婦」や「海に生くる人々」を、友人を通じて青野季吉にあずけておいて、木曽の水力発電所の工事で働いていた。「淫売婦」は、十四年十一月の『文芸戦線』に発表された。どん底におちこんだ、みじめな淫売婦と、下層労働者たちとの間にむすばれた、ほのぼのとした人間的共感をとらえた作品で、反逆的なマドロスとしての経歴をもつ作者の浪漫的な心情と、たくましい現実感との微妙なまじわりが、独自な味わいを加えている。つづいて好短篇「セメント樽の中の手紙」(十五年一月)と、長篇「海に生くる人々」(同十一月)とによって、作家的地位を確立した。「海に生くる人々」は、室蘭・横浜通いの石炭船に乗組んでいる船員たちが、きびしい労働条件のなかで、次第に人間的階級的に目ざめる過程を描いて、生命感に溢れた名作である。この作品の出たことで、当時のプロレタリア文学運動が、どれだけ自信と激励を与えられたか、はかり知れぬものがあった。  葉山嘉樹と前後して、『文芸戦線』は、里村欣三、黒島伝治、林房雄など、個性的な新作家をおくり出した。里村欣三は、各地を放浪、職工、人夫、電車従業員、土方など各種の職を転々した。代表作「苦《クー》力《リー》頭《がしら》の表情」(十五年六月)にしろ、つづく「疥癬」にしろ、ルンペン・プロレタリアのどん底生活を描いて放浪者の屈託のない明るさと、野放図な夢をただよわせているところに、この作家の気質を見ることができる。  黒島伝治は、瀬戸内海の小豆島の貧しい農家に生れた。村の鰯網の網引をやったり、醤油工場で働いたりしたが、大正七年文学を志して上京、働きながら小説を書いていた。徴兵検査に合格し、衛生兵として入隊中、動員令が下り、大正十四年四月、シベリアへ派遣された。肺患のため、翌年送還となり、除隊した。はじめて『文芸戦線』に載った作品は、「二銭銅貨」(大正十五年一月)であった。これが好評だったので、ひきつづき、「豚群」(同十一月)を発表、その質実で緊密な写実風の作品は、プロレタリア文学陣の有望な新作家として注目された。これらの農民小説とは別に、シベリア出兵の体験に取材した反戦小説のいくつかがある。「橇」(昭和二年九月)と、「渦巻ける烏の群」(三年二月)の二篇は、その代表作とみるべきもの。「橇」は、厭戦気分のきざしている兵隊たちの、人間的な自覚がよびおこされていく経路が、シベリアの冬の自然のなかに、手がたい写実でうつしとられている。「渦巻ける烏の群」は、大隊長の嫉妬の犠牲になって、一個中隊が雪中に全滅する顛末を描いているが、構成がしっかりしていて、全篇すこしのゆるみもない。作者の澄んだ眼と、正確な筆は、ひとりびとりの兵隊のこころのなかまでも入っていき、かれらの息づかいをさながらに伝えている。むらがる烏の群を点出した最後にいたるまで、テーマに即して次第にスケールがひろがり、広大なシベリアの自然のなかで、人間の劇が進行し、最後に自然の底知れぬ沈黙にひきこまれていくあたり、さながら一篇の叙事詩のおもむきがある。かれの文章と作風には、チェホフと志賀直哉の影響のあることが、多くのひとによって言われている。この作家は、自分の肉体のふれたものでなくては、描こうとしなかった。描かれているものは、すべて手がたい実感に支えられている。  これらの新作家とともに、東大法学部の学生であり、マルクス主義芸術研究会の中心メンバーであった林房雄が、これまでの左翼文学には見られなかった派手な才筆をもって加わり、「林檎」(大正十五年二月)、「繭」(同年七月)、「絵のない絵本」(同)のごとき、軽妙な寓話的作品を発表することによって、『文芸戦線』は、いよいよ多彩な新作家を擁するという印象を強めたのである。前田河広一郎、金子洋文、中西伊之助、葉山嘉樹、里村欣三、黒島伝治、林房雄——大震災を前後とする、三、四年のうちに、これらの新作家たちが、『文芸戦線』を中心に続々集ってきたことを考えるだけでも、文壇はまさに新しい転機に直面していることをまざまざと感じさせるものがあった。 *  『文芸戦線』の創刊が、大正十三年(一九二四年)六月であったことは、すでに書いた。四カ月後の十月に、『文芸時代』が創刊された。同人として名前をつらねたのは、伊藤貴麿、石浜金作、川端康成、加宮貴一、片岡鉄兵、中河与一、今東光、佐佐木茂索、佐々木味津三、十一谷義三郎、菅忠雄、諏訪三郎、鈴木彦次郎、横光利一の十四人で、二号からは岸田国士、南幸夫、酒井真人が加わり、翌年には今東光が脱退し、翌々年には稲垣足穂、三宅幾三郎が加わった。すべて、『文芸春秋』の菊池寛につながりをもつ新進作家の大同団結であった。同誌創刊の翌月、『世紀』第二号所載の千葉亀雄の文芸時評によって、かれらに与えられた名称が、新感覚派であった。この時評、「新感覚派の誕生」は、『文芸時代』の若い作家たちの傾向として、技巧と官能の重視という点を指摘し、その特色を論じたものであった。  「いかに好んで特殊な視界の絶巓に立つて、その視野の中から、いかに隠れた人生の大全面を透射し、展望し、具象的に表現しようとするか、だから人生の全面を正面から真正直に押して行かうとする純現実派から見て、それがケレンであり、あまりに態度の技巧に享楽するといふ非難をうけることは免がれまい。けれども、これはまた立派にこれでよいのである。現実を、単なる現実として表現する一面に、ささやかな暗示と象徴によつて、内部人生全面の存在と意義をわざと小さな穴からのぞかせるやうな、微妙な態度の芸術が発生するのも自然の約束なのである。さらば、なぜ、彼等が人生を表現するに、わざわざ小さな穴を択ばねばならぬかとならば、彼等が大きな内部人生を象徴させるために使つた、その小さな外形は、有りやうは、彼等が端的に刺戟された、刹那の感覚の点出に過ぎないからである。」  そんなわけで、かれらは、今日まで現れた、どんな感覚芸術家よりも、ずっと新しい語彙と詩とリズムの感覚に生きている。息苦しい、圧迫された既成文壇の空気のなかにあって、「何ものかの新しい若芽の醗酵期」の徴候として、かれらの動きに、関心を寄せざるをえないというのである。  千葉亀雄が関心を寄せた『文芸時代』同人の作風は、後になってみれば、このとおりと思われるものであるが、当時としては、横光利一あたりに見られる傾向にすぎなかった。しかも、それまでに横光利一の発表した作品といえば、「日輪」(大正十二年五月)、「蠅」(同)、「碑文」(同年六月)、「マルクスの審判」(同年八月)、「落された恩人」(同年十一月)ぐらいのものであった。川端康成には、「招魂祭一景」(十年四月)、「会葬の名人」(十二年五月)などの作があっただけで、これらは、「ささやかな暗示と象徴によつて、内部人生全面の存在と意義をわざと小さな穴からのぞかせるやうな、微妙な態度」と評するには、必ずしもふさわしいものではなかった。川端康成にそうした作風が強く出てきたのは、最初の創作集「感情装飾」(十五年六月)所収の諸作品であって、それらは、千葉亀雄によって、新感覚派と名づけられて以後、正確にいえば、『文芸時代』十三年十二月号の「短篇集」以後のことに属する。中河与一、片岡鉄兵、今東光などについても、ほぼ同様であった。だから、千葉亀雄による新感覚派という命名は、かれら自身がまだ自覚していなかった潜在中の作風を、早くも察知したものということができる。千葉亀雄による指摘と命名が、摸索中のかれらを鼓舞し、その傾向への自覚的な強化となって現れたとみるべきであろう。  まだ数個の短篇しか発表していなかったにしても、横光利一だけは、まぎれようもない独自の作風を示していた。千葉亀雄の関心も、主として、横光利一によって促されたものであろう。その意味で、新感覚派に対する賛否が、横光利一の作品に集中された観のあるのも自然といわなければならない。といっても、かれらの支持者は、若い読者であって、いわゆる既成文壇の態度は、笑殺もしくは黙殺のかたちであった。千葉亀雄の「新感覚派の誕生」の翌月発表された、片岡鉄兵の「若き読者に訴ふ」(大正十三年十二月)は、側面から、この事情を語っている。  片岡鉄兵は、ここで、「或る新進作家」のある作品のなかの、一行の文章をぬき出し、座談会の席上で、これを非難したという「或る既成作家」に抗議し、その批判を読者に求めているのである。この場合、片岡鉄兵は、両者の名前を伏せて、その非難をかれに伝えたという広津和郎の名前だけを挙げている。これは、問題の性質上、固有名詞を用いる必要を認めない、つまり、個人に対して抗議するのを目的としないからだという。「或る既成作家」の非難もしくは反感は、かれらのいう既成文壇全体の声を代表するものと考えられたからである。また、そう考えるだけの雰囲気のあったことは否定できない。片岡鉄兵が、既成文壇に対する抗議として、これを「若き読者に訴」えた理由は、ここにある。  問題の一行というのは、「特別急行列車は満員のまま全速力で馳けてゐた。沿線の小駅は石のやうに黙殺された」というのである。「或る既成作家」の非難というのは、いたずらに奇をてらったもので、奇抜な表現をもって、新時代を誇称するものだというのである。  これについて、片岡鉄兵は書いている。  「或る新進作家の斯くの如き表現に対して、或る既成作家が斯くの如き批評を下した。此の事実は、私をして自ら堪へ難い微笑に酔はしめる。此の事実は、私をして自ら愉快な心躍りを覚えしめる。此の微笑と此の心躍りとを以て若き読者諸君よ! と先づ呼び掛くる今日の機会の何たる明るさであらう! 若き読者諸君よ、私は今日を最初の機会として諸君に何を訴へようとするのか? 否、私は今日を最初の一歩として、後日、若き読者に大なる物を訴へんとする出発をなすのである。」  こういう、浮々した調子で、問題の一行のねうちを説き、擁護しようというのである。こころみに、その一節を引用すれば、  「彼は、急行列車と、小駅と、作者自身の感覚との関係を、十数字のうちに、効果強く、溌剌と描写せんと意思したのであつた。効果強く、溌剌と! 爾《しか》り、汽車といふ物質の状態を表はすに、感覚的表現の他の何物が能く溌剌と効果強き表現と成り得よう。物質のうちに作者の生命が生き、状態のうちに作者の生命が生きるための交渉の、最も直接にして現実的な電源は感覚である。その他の何物でもない。」  片岡鉄兵の説明は、縷々としてつづくのであるが、要するに、問題の一行が示しているように、「物にぶつ付かつて火花の如く内面に散るポエムを、外面的に光輝せしめる」方法と、「科学者の五官に標準を採つた写実主義に於て自然主義と同様の平面上にある日本のリアリスト」の方法との間に、新進と既成との根本的な相違が存するというのである。  片岡鉄兵の論に対して、広津和郎は、「片岡鉄兵に与ふ」という副題をもつ「新感覚主義に就て」(大正十三年十二月)を書いた。片岡鉄兵の論中に、自分の名前の出されていることに黙っていることができなかったのである。広津和郎は、まず、読者のために、その新進作家は横光利一で、その作品は「頭ならびに腹」であること、それを非難した既成作家というのは、宇野浩二であることを明らかにした上で、次のように論じている。  「感覚的享楽の人生観を提げ、獅子吼しようとするためには、人生のもろもろの活動についての、もつと深い考察がなければならない。そこまで行かなければ、感覚的享楽の人生観に力は湧いて来ない。唯その主張の下に集まつて来るのは、怠惰者と、生活力の弱い、人生に直面出来ない人間ばかりだらう。イイジイゴオイングなフィリスティンだけだらう。日和見な、享楽的オッポチュニストのための弁護に、君の雄弁を役立ててはいけない。」  新感覚派の中心人物とみられた横光利一は、「感覚活動」(大正十四年二月)で、新感覚派の理論づけをこころみた。それによれば、新感覚派の「感覚的表徴」は、「自然の外相を剥奪し物自体に躍り込む主観の直感的触発物」であり、「少くとも悟性によりて内的直感の象徴化されたもの」だという。これによっても、横光利一としては、広津和郎のいう、「感覚的享楽の人生観」とはちがった考えをもっていたことがわかる。単なる官能本位の享楽主義とはちがって、認識活動による知的直感において、感覚の役割を重んじようとの主張であった。  しかし、新感覚派に対する批判と嘲笑は、いよいよはげしく、生田長江の「文壇の新時代に与ふ」(十四年四月)は、その代表的なものとみることができる。これは、前年に堀口大学の訳で出た、フランスの戦後作家ポオル・モオランの小説「夜ひらく」の否定的な批評であった。これによって、生田長江は、新感覚派批判をはたそうとしたのである。堀口大学訳の「夜ひらく」の表現技巧が、新感覚派に強い影響をもたらしたからである。たとえば、この翻訳小説には、生田長江も引用しているように、  「水を飲み飽きた歩道に沿うて、不具の並木が風に吹きさらされてゐた。」  「口からは鎖を吐き出し、尻尾は振子になつてゐる習慣といふあの獣を……」  「スウプのやうに湯気を立たせてゐるあの停車場」 といったふうの直喩、擬人法、聯想的暗示がしきりに用いられている。新感覚派が、その名を呼ばれるのは、もっぱらこの種の表現技巧の使用によるものであった。生田長江によれば、「夜ひらく」の表現の新しさに驚異の叫びをあげているのは、俳句的表現を知らないからであって、この小説には、新しい感覚というような何ものもない。ないはずである。そこには、近代ヨーロッパ的な一切のものに対する、如何なる嘔吐感も見出されず、新しい生活と社会とに対する如何なる憧憬も見出されないからだというのである。ひきつづき、生田長江は、「序にもう少し新しく」で、新感覚派攻撃を加えた。曰く、「ポオル・モオラン的感覚は、いかにそれが新しくはないとは云へ、尚ほ且つその人自身の生活から出て来た実際の感覚である。単に文芸上の表白手段として装はれただけのものではない。単なる借り物ではない。」  だが、新感覚派の感覚にしても、「装はれただけ」の「単なる借り物」と断じ去ることのできないものがある。装われた、借り物めいたところが、決してなくはなかったが、同時に、かれら「自身の生活から出て来た実際の感覚」でもあったことを見のがすわけにはいかない。新感覚派は、揶揄的に「震災文学」とも呼ばれたが、まさしく「震災文学」としての歴史的意義を担うものである。大震災による破壊は、かれらに、旧時代に挑戦し、既成文学を根柢から否定する勇気と自信を抱かしめたのであった。  ずっと後になってからであるが、片岡鉄兵は、現代の特色を語って、「機械文明爛熟と云ふ事実から発生した時代的特色であり、センセエションであり、それらの渦中にある生活意識である。新感覚派はその生活意識が決定する所の価値の上に建つものである」(昭和二年四月)といっているが、ここには、明らかに新しい自己認識がある。大正文学とは異質的なものを、かれらの生活意識自体のなかに確認している。新感覚派の誕生・展開は、ヨーロッパの前衛芸術が、続々、輸入・紹介されつつあったことと無縁ではなかった。中川紀元、古賀春江、神原秦らのアクション運動、ドイツからもち帰った構成主義理論に基づく村山知義の多方面の活動、築地小劇場が異常な成功を収めたドイツ表現派の戯曲、「海戦」や、「朝から夜中まで」の上演など、いずれも、震災前後の出来事であるが、新感覚派の運動も、これらと本質的に共通するものがあり、相互に親近性を感じていたのである。読者・観客のがわからみても、事情は同じであった。それらは、いずれも旧時代に対する挑戦であり、否定であった。その点で、世代的な共通性によって強く結ばれていた運動であった。このことは、プロレタリア文学運動についても同様である。片岡鉄兵、伊藤永之介、金子洋文、今東光、村山知義、ややおくれて武田麟太郎、藤沢桓夫などの動きには、新感覚派とプロレタリア文学との間に、現在では想像も及ばないような世代的共通性を感じていたことがわかる。かれらの多くは、新感覚派からプロレタリア文学の陣営に投じたひとたちであるが、思想的な転向というよりは、既成文学への反抗という点で、きわめて容易に移行できたのであった。  新感覚派の特色としては、前記のように、ポオル・モオランの「夜ひらく」に触発された、感覚的構成の特殊な表現を挙げるべきであろうが、その本質は、必ずしもそこにあったのではない。問題は、かれらの人間観にある。わけても横光利一の作品に、それを明瞭に見出すことができる。横光利一の初期の短篇に、前記「蠅」がある。この作品は、いろんな客の乗りこんだまま、馬もろとも崖から顛落する馬車と、それまで馬の腹にとまっていた「眼の大きな蠅」が、悠々と青空をとんでいくすがたとを、対照的に描き出したものである。一匹の蠅よりも無力な人間の集団を皮肉にとらえて、その奇警な見立てを誇って見せた作品である。  同じく横光利一に、「ナポレオンと田虫」(大正十五年一月)という作品がある。ナポレオンが、近隣の諸国を次々に征服し、しまいには、ロシア遠征のような無謀をくわだてたのも、かれの腹にはびこった田虫の痒《かゆ》さに対する怒りからだったというのである。蓋世の英雄ナポレオンも、その腹に巣食った田虫にあやつられて、生涯を破滅させたという、これまた、あまりにも奇警な着想が、この作品のすべてだといってよい。  このようにみてくると、大正前期の主流であった白樺派、わけても、確固不動の自己、自主的な人間の強烈な自信に支えられた志賀直哉の文学とは、まさに対蹠的といわなければならない。  だが、横光利一の文学とて、突如として出現したわけではない。あきらかに先《せん》蹤《しよう》とみられるものがある。たとえば、芥川竜之介、菊池寛、さらに宇野浩二、佐藤春夫など、かれらの文学の一部には、横光利一によって、拡大され、誇張され、歪《わい》曲《きよく》された原型とみられるものが存在する。芥川竜之介の「鼻」は、自分の鼻の恰好に支配される人間の滑稽が語られていたし、同じく初期の作品、「虱《しらみ》」では、一匹の虱が原因で、果たし合いに及ぶ二人の武士の滑稽なすがたが描かれていたはずである。敵討という、封建道徳にあやつられて、青春を空費した人間の愚かさを主題にした菊池寛の「ある敵打の話」も、同じ系列の作品とみることができる。質屋へ出かけて、質草になっている自分の着物を虫干ししてなつかしがっているうち、そこの出戻り女と知り合い、さんざんそのヒステリーに悩まされる浮世話をかいた宇野浩二の「蔵の中」にしろ、自分にできることといえば、一本のネクタイの選択ぐらいだという人間の無力と退屈な生活を抒情的に描いた佐藤春夫の「侘しすぎる」にしろ、前記諸作と共通するものがある。もっとも、宇野浩二や佐藤春夫のそれには、生活的な裏づけがあるが、芥川竜之介や菊池寛になると、知的な着想と構成によるものというちがいは無視するわけにはいかない。その点で、横光利一は芥川竜之介や菊池寛、わけても芥川竜之介の一部を、知的に構成された感覚のモザイクで、誇張し、歪曲して受けついだものとみることができる。  新感覚派が、「旧時代」の作家・批評家から「震災文学」と揶揄され、嘲罵・冷笑をあびせかけられようとも、真に「震災文学」であることにおいて、歴史的意味を担うものでありえたのである。  かくて、「目的意識」に基づくプロレタリア文学と、「震災文学」としての新感覚派とによって、昭和文学が発足するわけであるが、この両派の挾撃をうけた大正文学は、すべて「既成文壇」の名で一括され、「旧時代」の文学として規定されるにいたったのである。そして、「新時代」に属する両派の文学が、どんなに粗野であり、軽薄であろうと、未来を担うものとして、多くの若い読者の共感を獲得することのできた事実こそ重大であった。それだけに、「既成文壇」も、それなりの反省と苦悶をまぬがれなかった。それらは、当時の相次ぐ論争が端的に語っている。  菊池寛と里見との間に交わされた、文芸作品の内容的価値に関する論争、広津和郎と生田長江とで行われた散文芸術についての論争、前節でみてきた心境小説をめぐる論争、青野季吉、正宗白鳥の文芸批評の方法についての論争など、いずれも、「既成文壇」の不安と動揺のあらわれにほかならない。  「私の理想の作品と云へば、内容的価値と芸術的価値とを共有した作品である。語を換へて云へば、われわれの芸術的評価に及第するとともに、われわれの内容的価値に及第する作品である。……芸術のみにかくれて、人生に呼びかけない作家は、象牙の塔にかくれて、銀の笛を吹いてゐるやうなものだ。それは十九世紀の芸術家の風俗だが、まだそんな風なポーズを欣《よろこ》んでゐる人が多い。文芸は経国の大事、私はそんな風に考へたい。生活第一、芸術第二」と書いて、里見から、嘲笑的な批判を加えられた菊池寛が、「内容即表現説は、近世美学の常識である。里見君などに今更らしく教へられるものではない」として、次のように応酬した。  「芸術は表現である。現霊術である。それ以外の何物でもない。それと同時に、私はどんな芸術でも、芸術丈けでは、満足しないのである。一寸見れば、パラドックスのやうに、見えるだらうが、かうした見方が、芸術に対する最も徹底した見方だらうと些か自負してゐるのである。  芸術丈けでは満足しない。それは真に芸術の外道である。里見君が、それと察して、面汚しであるなどと云つてゐるのはまぐれ当りの至言である。私は芸術丈けで満足してゐる人を羨ましく思ふのである。里見のやうな人を羨ましく思つてゐる。」  こうなると、単に菊池寛の常識論などということで片づけられるものではない。無論、菊池寛本来の資質に即して語られてはいるが、時代の動きがもたらした、既成文学の代表者による内的な動揺の率直な吐露とみないわけにはいかない。この論争の行われたのは、震災の前年、大正十一年(一九二二年)であった。  広津和郎が、「自我の精神の生活力」を素直に信頼し、不自然な、背のびした生き方のために、個人の生命力を害するのを警戒したことは、「怒れるトルストイ」で、みてきたところである。それだけに、私生活と周囲との間隔などには、まったく無関心で、自分の芸術に没入できるような、芸術至上主義的な境地を否定して、私生活と周囲との間に、ある合理的な関係を見出さなくては、芸術すら生み出しえない立場を、現代の芸術家の正当な態度と信じていたのである。この態度を積極的に主張しようとして、芸術一般、文芸一般のなかから、特に散文芸術をとり出し、多くの芸術ジャンルのなかで、「直ぐ人生の隣りにゐるもの」として、その独自な性格を強調せざるをえなかったところに、過渡時代に直面した広津和郎の面目と姿勢をうかがうことができる。広津和郎の指摘した散文芸術の位置、いわゆる人生に隣りしているという意見は、生田長江の批判によるまでもなく、ひとり合点ふうのところがなくはない。だが、広津和郎をして、こういう発言をなさしめた、当時の文学のおかれていた情況を考えないわけにはいかない。ロシアに革命がおこり、世界大戦が終って、すでに数年が過ぎている。日本の経済には、深刻な恐慌がはじまっている。ひっきりなしにストライキが行われ、階級対立が深まりつつある。デモクラシーに立つ民衆芸術論が、階級的な目的意識によるそれに、とって代られようとする時期になりつつある。他方では、世界大戦による日本の資本主義の急速な繁栄が、文学にも安易な調和と平和をもたらし、国家や民族や歴史を捨象した白樺派の文学や、反抗の対象を見失った自然主義系統の文学が、心境的な私小説の概念を成熟せしめつつあったとき、文学を政治と心境への逸脱と逃避とから、同時に防ごうとした広津和郎の必然的に要求したものが、その散文芸術論の主張だったのである。透谷や木はもとよりのこと、かつての自然主義よりも、はるかに後退した地点で、小説独自の領域を、政治と心境との双方から守ろうとした姿勢の現れとみるべきであろう。大正十三年から、十四年へかけての出来事である。  広津和郎の散文芸術論が、意識的にせよ、無意識的にせよ、プロレタリア文学の進出によって促された既成作家の反省とみることができるとすれば、久米正雄を中心とする心境小説の主張は、同じくプロレタリア文学への対抗とみられるものであったことは、すでに書いた。広津和郎の「散文芸術の位置」が発表されたのは、大正十三年(一九二四年)九月であり、久米正雄の「私小説と心境小説」は、十四年一月—二月であった。十五年になると、青野季吉は、プロレタリア文学の代表的理論家として、精力的な活動をはじめている。大正十五年における日本文学の最前衛は青野季吉であった。  前記「自然生長と目的意識」の担った役割は大きかったが、プロレタリア文学内部の問題であっただけに、その外にいる既成作家たちの関心にのぼるまでにはいたらなかった。だが、たとえば、「新批評時代へ」(大正十五年八月)で、藤村の、「嵐」は、自作農の「安定と永続性」を前提としているが、自分は、「不安定と一時性」しか考えられないとして、文芸批評の根柢に、現実把握の対立と闘争とを指摘するに及んで、既成文壇からの非難は、ようやく青野季吉に集ってきた。それらの非難に共通するものは、裁断的ということであった。それについて、青野季吉に言わせればこうである。——「私は与へられた文芸作品を一つの見地から、唯一の見地から、批判する。すなはち階級闘争の立場から批判する。与へられた作品がかく階級闘争の立場から批判される限り、その階級価値の決定において、裁断的となるのは自然である。」(「文芸批評の立場に就いての若干の考察」十五年九月)  これより先に、青野季吉は、「現代文学の十大欠陥」(大正十五年五月)なる一文を発表して、(一)材料がきわめて身辺印象的であり、個人経験的であること。(二)思想がないこと。(三)新しい様式が求められないこと。(四)一般に享楽的であり、無苦悶的であること。(五)技巧に堕していること。(六)ヨーロッパ文学の模倣に熱心であること。(七)読者本位に商品化されていること。(八)ヒステリー的傾向のあること。(九)虚無的であること。(一〇)以上を総括していえば、今日の文学に世界を変更せんとする意志のないこと。——以上を現代日本文学の欠陥として列挙したのであった。これは裁断的批評の見本ともいうべきものであったから、既成文壇から、はげしい反撥と非難を招いた。わけても、正宗白鳥の反撥は、徹底的で辛辣を極めていた。「批評について」(十五年六月)がこれで、要するに、青野季吉の論は、「溌剌たる生命も芸術味もない乾《ひ》涸《から》びたもの」で、「何時の世にも通じさうな空疎な批評学といふやうなもの」から割り出されたものにすぎない。芸術の批評に、検事や判事のように、威厳を保ったつもりでいるのを見ると、「滑稽感を通り越して、公等の面憎むべしと思ふことがある」と断じて、次のようにつづけている。  「批評家はよく現実に立脚せよとか、現今の世相を見よとか云つて、それは尤《もつと》もなことであるが、評家自身は作家以上に現実離れしてゐるのである。たとへば、青野氏は世界を変更せよと云つてゐるが、これなど一見甚だえらさうであるが、随分空疎な言葉ではないか。今の小説に批評がないと云つただけでは、教育家や政治家や軍人の文学評らしくて、いかにも素人臭く思はれる恐れがあるので、社会的の現象なり、現実なりを批判し考究して得た一個の生きた観念がないのを云ふのだと、ひねくつて説明してゐるが、生きた観念とはどういふことであるか。現実の人間を生きいきと表はせよと云ふのなら、それを現はすのが文学の技巧である。氏自身の嫌つてゐる技巧である。……今日の志士的批評家は、我々の文学をある主義やある思想の宣伝書たらしめようと強要するのであるか。かういふ批評家は、馬琴を読んで、その勧善懲悪主義に感心するのと同じである。馬琴の作中に勧懲的批判が露骨に現はれてゐるところを見ると、思想ありとして感奮するのと心理状態が同じである。坪内博士の『小説神髄』以前の感じがする。」  青野季吉は、直ちに、「正宗氏及び諸家の論難を読む」を書いて、これを論駁した。要約すればこうである。自分のあの考えが、「何時の世にも通じさうな」という意味で非難されるならば、「本当の評論はその批評家の実態の現れであり、批評家の体験に基く可きもの」とする白鳥の考えも、「何時の世にも通じさうな」ものとして非難さるべきではないか。問題は、その批評がいつの時代にも通用するかどうかではなく、その批評が、いかに適切に時の芸術にあてはまるかである。なお、今日の文学に、世界を変更せんとする意志のないことを非難したのに対して、一見甚だえらそうで、随分空疎な言葉だといっているが、自らその要求のない場合には、どんな新な要求にしろ空疎なものとして映ずるものである。自然主義文学運動の、ありのままに自然を観よ、という標語にしても、その要求のない前記ロマンチックの人々には、一見甚だえらそうであるが、随分空疎な言葉としてうけとられたにちがいない。白鳥は、人生世相を巧みに描くことを芸術上の立場としているが、問題は、そんないつの世にも通じそうなところにあるのではない。人生世相を巧みに描くため、どんな視点から、どんな心構えで把握しなければならぬかということである。ある立場がなければ、人生世相の真相はつかめるものではない。今日の社会現象の真相を把握しうる立場は、無産階級のそれのほかにはない。白鳥をはじめ、多くの芸術家の作品を読み、その言説を聞くとき、おのれらのみ人生世相をつかんだごとき顔をしているのに、「滑稽感を通り越して、公等の面憎むべし」と思うことがある。  正宗白鳥と青野季吉との間には、再度応酬が交わされたが、青野季吉は、のちになって、「未完成自画像」(昭和二十五年五月)で、当時の論争を回想して、こう書いている。——「わたくしが評論を書き出した頃、正宗白鳥は、わたくしを青年に通有の青年の夢といふもののまるでない、何か畸型的な存在のやうに論じて苛烈に非難した。……しかし、難者の文学も混へた自然主義から出発した青年としてのわたくしに微塵も理解が示されなかつたことが、大いに不満であり、憤懣の激情さへ込み上げてくるのを感じた」と言い、言葉をつづけて、「わたくしのやうな『畸型』的な青年の出現の責任が、もつぱら自然主義文学にあるといふのではない。責任はあくまでも自分に——青年らしい夢を深く傷けられながらも、青年らしく育て上げなかつた自分にあるのは分り切つてゐる。しかし自然主義文学者に、それを鞭《むち》打《う》ち、苛烈に叩きのめす資格があるであらうか」と抗議している。  正宗白鳥は、大正十五年(一九二六年)一月以来、『中央公論』に文芸時評を連載し、そのいわゆる実感的な私批評なるものを縦横に展開していたのであって、青野季吉との論争も、その一部にほかならない。大正十五年という、この転換期に、最も精力的な批評活動をつづけたのが、正宗白鳥と青野季吉とのふたりであった。一方は、既成文壇の大家であり、他方は、新進気鋭の『文芸戦線』の指導的理論家であった。このふたりの、真正面からの論争に、転換期の実相を、如実にうかがうことができる。 第五節 二つの事件  大正十二年(一九二三年)九月一日の関東大震災は、東京だけで、焼死者十万余、被害世帯四十万戸を出し、関東一帯惨憺たる焦熱地獄を現出した。二日夜成立した山本権兵衛内閣は、翌三日、関東に戒厳令を布くこととなり、その司令官に福田雅太郎大将が任ぜられた。そして、焼跡にバラックの建ちはじめた九月二十日、突如、陸軍省によって、戒厳司令官の免職が発表された。  「東京憲兵隊麹町分隊長甘粕正彦は、九月十六日職務執行の際違法行為あり、ために二十日軍法会議に附せられたり。同時に関東戒厳司令官陸軍大将福田雅太郎は本職を免ぜられ、憲兵司令官陸軍少将小泉又一、東京憲兵隊長陸軍憲兵大佐小山竹蔵は何れも停職となれり。」  戒厳令下の検閲制度のため、新聞は、この正式発表以外は書けなかった。こえて二十四日、陸軍法務部長によって、左のごとき発表があった。  「陸軍憲兵大尉甘粕正彦に左の犯罪あることを聞知し調査予審を終り本日公訴を提起したり。  甘粕憲兵大尉は本月十六日夜、大杉栄外二名の者を某処に同行し之を死に致したり。右犯行の動機は、甘粕大尉は平素より社会主義の行動を、国家に有害なりと思惟し居たる折柄、今回の大震災に際し、無政府主義者の巨頭たる大杉栄等は、震災後秩序未だ整はざるに乗じ、如何なる不正行為に出づるやも測り難きを憂へ、自ら国家の蠹《と》毒《どく》を芟《さん》除《ぢよ》せんとしたるものの如し。」  大杉栄外二名というのは、妻の伊藤野枝と甥の橘宗一(七歳)で、三人は外出先から帰宅する途中を甘粕大尉らに呼びとめられ、大手町の東京憲兵隊に連行され、同夜、甘粕によって次々に扼殺され、隊内の古井戸に投げこまれたのであった。  大杉栄は、大震災の前年、フランスから帰り、淀橋柏木に住んでいたが、大正七年ころには、江東亀戸の労働者街に移って、和田久太郎、久板卯之助、渡辺政之輔、近藤憲二らの同志と、『労働新聞』を創刊、サンジカリズムの運動に没頭した。同年八月の米騒動については、すでに書いた。ストライキは、全国の鉱山、製鉄所に及んだ。大杉栄らはストライキ煽動の理由で投獄されたが、かれらの培《つちか》った運動の芽は、日本経済の恐慌化につれて、急速にのびて行った。  かくて十二年六月五日、労働運動の政治化を恐れた内務省は、全国の特高警察を動員、思想運動に大弾圧を加えた。堺利彦、野坂参三、渡辺政之輔、山本懸蔵をはじめ、早大教授の猪俣津南雄、佐野学、大山郁夫らも取調べをうけた。そこへ大震災がおこったのである。  大杉栄の殺される十日あまり前、すなわち震災直後の九月三日夜、亀戸警察署は、江東地区の尖鋭な労働者八百余名を検挙し、留置場は割れかえるようなさわぎであった。同署は、この収拾を、同地方担当の戒厳部隊—習《なら》志《し》野《の》近衛第十三聯隊騎兵隊に依頼した。亀戸署へ急行した部隊は、直ちに平沢計七以下主謀者とみられた十名を裏庭へ引出し刺殺した。亀戸事件と呼ばれるものがこれである。甘粕大尉による大杉殺害は、これと一連の事件とみることができる。  これをきっかけにして、その後数年、ひきつづき血なまぐさい事件が、次々とおこった。同年十二月二十七日には、議会開院式へ出かける摂政宮に仕込杖銃で発射した難波大助の事件があった。明けて十三年一月五日、朝鮮独立運動の結社、義烈団に属する金《きん》祉《し》《しよう》が、手榴弾三個を忍ばせ、二重橋前を徘徊中、捕えられた。安全弁をぬかずに投弾したため、三弾とも不発に終った。当時の戒厳司令官福田雅太郎大将が、和田久太郎によってピストルで撃たれ、危うく助かったのは、大震災の一周年記念日のことであった。本富士署で、和田久太郎の取調べ中、爆弾が投げこまれたのが九月三日夜であった。六日に、福田雅太郎大将宅に届けられた小包は、それが解かれた瞬間、爆発して、破片は天井を貫ぬいた。八日夜には、銀座尾張町の電車交叉点に爆弾が投ぜられた。十四日未明、これら相次ぐ爆弾事件のアジトであった市外大井町の二軒長屋が、警視庁の武装隊によって包囲され、大杉栄の同志であった村木源次郎と古田大次郎が捕えられた。大阪、京都へ乗りこんでいた同志たちも、次々に捕えられた。  無政府主義に対する脅威は、ついに治安維持法の公布となった。大正十四年の震災記念日も過ぎて、古田大次郎には死刑、和田久太郎には無期の判決が下った。村木源次郎は獄死した。かくて、大杉栄門下三羽烏といわれた、これら無政府主義者は、いずれもすがたを消し、その後、無産階級運動は、マルクス主義の全盛を迎えることになり、プロレタリア文学運動も、離合集散をかさねつつ、その政治闘争に沿って、急激な展開を見せることになるのである。 *  関東大震災の前年、大正十一年七月九日に、鴎外は六十一歳で死んだ。死の四日前、賀古鶴所に遺言を口述、筆記せしめた。その一節にこうある。——「死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ奈何ナル官権威力ト雖此ニ反抗スルコトヲ得スト信ス余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス。云々」  こういう肩をいからした遺書というものは滅多にあるまい。右の一節について、唐木順三は、石見人とは、長州、薩州などの藩閥に縁なきことを意味するものであり、同時に、官権威力に対して、一種被害妄想を抱いていたのではないかと言っている。そして、そこから、元老山県を中心とする勢力によって、秘密裡に社会革命を目論んでいたらしいいきさつをたどっている。唐木順三は、まず、大正七年十一月十五日、帝室博物館総長兼図書頭であった鴎外が、奈良の出張先から、賀古鶴所に宛てた手紙を問題にしている。この四日前に、世界大戦が終結し、更にその三日前には、ドイツに革命がおこり、社会民主党の政府が成立した。鴎外の手紙には、こうある。  「……今や帝王の存立せるは日本と英吉利とのみと相成候。於是乎政党内閣(議会政治 Parlamentalismus)は必然の結果として生じ来るべく、普通選挙(allgemeines Wahlrecht)も或は避くべからざるに至るべきかと忖《そん》度《たく》仕候。勿論米大統領が勝戦の勢を借りて、民政主義 Demokratie を世界に弘通せしめんとするは此方向の有力なる後援となり可申候。此状況を考ふれば平和会議の利害くらゐは小事たるかの感有之候。幸か不幸か我々は実に非常なる時に遭遇したる者と奉存候。老公などは定而御心痛之事と拝察仕候。只今よりの政治上の局面は下す所の石の一つ一つが帝室の運命問題に関するを覚え候。小生輩は金馬門の隠居所(東方朔)より政治家諸君の御手腕を拝見可仕と存居候。……」  だが、こう書いた鴎外も、「政治家諸君の御手腕を拝見」してばかりはいられなくなってきた。問題の核心は、労働問題である。八年十二月二十四日には、同じく賀古鶴所に宛てて、こう書いている。  「御話申上候社会制策猶細密に申上度近日又々参上仕度存居候。名をつくれば『国体に順応したる集産主義』(Collectivismus なり、即ち共産主義 Communismus の反対なり)とでも謂ふべきか、又『国家社会主義』(国家が生産の調節をするゆゑに)と云ふものに近けれど、世間に唱へ居るは同盟罷工や群集の示威運動にて成功せんとするものゆゑ、全く別に有之候。猶研究中に御座候。」  九年一月三日の手紙では、『太陽』新年号に出た与謝野晶子の社会政策なるものを批評している。「五十年前に武士が自ら武士階級を棄てたやうに、資本家は自ら資本家階級を捨てるがよい。そして将来は工業を労働者の自治に任せるがよい」という、与謝野晶子の議論の要点にふれて、「学者の気が付かぬところに女は直覚的に気が付いた。しかし女だけに、労働者の自治などと出来ぬ事を言ふ。資本の器械(工場)を労働者にまかせたら、直ちに工業はゼロになるだらうと思ひます」と鴎外は書いている。  翌四日に、首相原敬は、「国民並に労働者」に対する「戒告」を発表した。鴎外は、六日の手紙で、「……どちらも義務に服して権利を主張せずに居れば天下泰平なるべく候。しかし同盟罷工は大事にて、革命の端緒たるおそれあり、之に反して工場閉鎖は小事にて、工場で一番旨い汁を吸ひ居る資本家が、之を閉鎖して労働者をへこまする事は不可能に可有之候。あれでは無意味なる声言にて、解決にはならずと被存候」と書いた。  十日に、また書いた。この日、学習院長として乃木大将の前任者であった山口鋭之助の訪問をうけ、「帝室を保存して〔四字削除〕を行ふ。其方法を法律を以て企業株を二種に分けさせる。甲は現在通りにする。乙は小株にして売買を許さず、之を労働者に持たせる。そして段々に労働者を資本家仲間に入れて行く。旧資本家は段々に衰へて死に絶えさせる。貴族は段々特権を取り上げる。そして帝室だけを保存する。人民が直接に皇室の藩屏になる」という社会政策を打ち明けられた鴎外は、「僕は只帝室保存の社会策には賛成だとだけ云つて置いた」と賀古鶴所に報じている。なお、「世界中で労働者をもてあましてゐるが、日本だけで労働問題の解決をつけたいものだ」という山口鋭之助の意見に、「僕はそれも賛成だと云つて置いた。なかなか面白いではないか。君の評は奈何」と言っている。  鴎外の目論んでいた革命の基本方針が、「国体に順応したる集産主義」であったことは明瞭である。しかし、極秘のうちに事をはこぶことを考えていたらしく、「当分万事沈黙に若《し》かず候」としばしば書いている。上京した山県有朋に面会すべく出かけたところ、「門外に二人たゝずみ居り、小生の顔をのぞき込候。警衛の方のものか、又は探偵の方のものか不存、なんにせようるさき事に候」と報ずるようなこともあった。だが、鴎外が、革命実行の中心人物と頼んでいた山県有朋は、十一年二月一日、八十五歳で死んだ。おくれること五カ月、鴎外は、革命の具体的実行について語り合った唯一の友人賀古鶴所にむかい、肩をいからして、遺書を口述した。  関東大震災のおこったのは、鴎外が死んで一年あまり後のことであった。そして、甘粕大尉による大杉虐殺は、鴎外の考えていたものとは別個に、もっとも単純野蛮なかたちで、「世界中でもてあましてゐた」労働問題の解決をはかろうとしたものであった。 *  芥川竜之介が、機智と諷刺と諧謔と冷笑の仮面をとって、素顔を見せたかと思われるような作として、「あの頃の自分の事」(大正八年一月)、「蜜柑」(同年五月)、「トロッコ」(十一年三月)、「保吉の手帖から」(十二年五月)その他がある。とりわけ、「蜜柑」はスケッチふうの小品であるが、人生に対する明るい微笑を思わせるものとして、この作者のものでは珍しい。「秋」(九年四月)や「トロッコ」など、比較的素直に人物の心理をたどってみせた作もある。「トロッコ」は、おそらく志賀直哉の「真鶴」を思いうかべての作であろう。二つをならべてみると、芥川竜之介として素直な作であっても、「トロッコ」は、より意識的な作であり、「真鶴」は、より無意識的な作である。芥川竜之介の志賀直哉への傾倒は、ずいぶん早くからであったらしく、大正六年、「戯作三昧」執筆中、「和解」を読んで、自分の小説を書きつづけることが嫌になった旨の手紙を友人に書いている。志賀直哉の「沓掛にて」を読めば、この二人の作家の資質上のちがいは明瞭であり、これほどまでに異質の作家を尊敬せずにはいられなかった芥川竜之介に痛ましさを感じないわけにはいかない。「兎に角私が会つた範囲では芥川君は始終自身の芸術に疑ひを持つてゐた」と志賀直哉は書いている。  「人生は二十九歳の彼にはもう少しも明るくはなかつた。が、ヴォルテエルはかう云ふ彼に人工の翼を供給した。彼はこの人工の翼をひろげ、易《やす》やすと空へ舞ひ上つた。同時に又理智の光を浴びた人生の歓びや悲しみは彼の目の下へ沈んで行つた。彼は見すぼらしい町々の上へ反語や微笑を落しながら、遮るもののない空中をまつ直に太陽へ登つて行つた。丁度かう云ふ人工の翼を太陽の光りに焼かれた為にたうとう海へ落ちて死んだ昔の希《ギリ》臘《シヤ》人も忘れたやうに。……」——「或阿呆の一生」のなかの一節である。二十九歳で人生は少しも明るくなく、人工の翼を借りて昇天するほかなかった芥川竜之介が、強靱な生活者たる志賀直哉を尊敬しつづけたことは、まさに悲劇というほかない。だから、芥川竜之介としては、自分の人工の翼を太陽の光に焼かれるほどにまで、高々と羽ばたくことはなしえなかった。かれは、たえず自分の人工の翼に疑いをいだいていた。肉体の衰弱にも原因していたにちがいない。「話らしい話のない小説」にあこがれ、志賀直哉に絶望的な羨望の眼《まな》ざしを投げかけたのは、自殺に先だつ数カ月前のことであった。そのことから、「素直なものよりもヒネクレたもの、無邪気なものよりも有邪気なもの、出来るだけ細工のかかつた入り組んだもの」をよしとする谷崎潤一郎との間に論争が行われたことは前述した。もともと、芥川竜之介こそ、「話らしい話」の小説の名手であり、「細工のかかつた入り組んだもの」を手がけてきた作家だったことは周知のとおりである。すでに自殺を決意していたかれが、決行の数カ月前に、自分の芸術上の資質に根本的な疑いをいだくようになったことは、あまりに痛ましい。芸術活動の意識的であることを揚言したのは、十年前のことであったといって、これをとり消したのもこのときである。「お時儀」(大正十二年十月)、「海のほとり」(十四年八月)、「年末の一日」(同年十二月)、「蜃気楼」(昭和二年三月)などは、この迷いと動揺から生れた作である。  「蜃気楼」を書いたころ、昭和二年のはじめには、肉体的にも精神的にも極度に衰弱して、ひどい不眠症に悩まされ、狂気に近いふるまいさえ見せていたという。そういう状態のなかで、前年の秋には、「点鬼簿」を、年末には、「玄鶴山房」に着手した。年を越えて、「玄鶴山房」を完成したほか、前記「蜃気楼」「河童」を脱稿した。「河童」の朗笑は、こういう惨憺たる生活のなかから、生み出されたのであった。  衰えた肉体と、傷ついた精神に鞭うって、「玄鶴山房」の緻密な布置と設計に基づく本格的な作品を完成してから、あやしい戦慄をこめた「歯車」で、「この世の地獄」へおちた自分のすがたを描いて見せた。つづいて、「闇中問答」「或阿呆の一生」「或旧友へ送る手記」「西方の人」「続西方の人」と、憑かれたように、仕事をかさねて行った。自殺の前夜、昭和二年七月二十三日までかかって、「続西方の人」を書き終えたのであった。  芥川竜之介の数多い作品のなかで、宇野浩二と室生犀星は、「玄鶴山房」を第一等の作としているが、「歯車」をあげるひともすくなくない。宇野浩二著「芥川竜之介」によれば、「歯車」は、葛西善蔵が褒め、広津和郎が褒め、川端康成も、「すべての作品に比べて、断然いいと思ふ」といっているという。正宗白鳥は、「文壇人物評論」のなかで、芥川竜之介の代表作として、「地獄変」と「一塊の土」をあげている。志賀直哉も、「沓掛にて」で、「一塊の土」をあげているほか、「点鬼簿」と、「題は忘れたが停車場で始終会ふ女に淡い愛情を感ずる短篇」(「お時儀」か)に感心したといっている。滝井孝作は「蜃気楼」「海のほとり」を推し、久保田万太郎も「海のほとり」と「年末の一日」を推している。久米正雄は、「蜃気楼」を「鬼気にも富んでゐるし、深い暗示を含んだ作品」として、これだけ力のある作は、全作を通じてないとしている。佐藤春夫もまた「蜃気楼」を芥川文学の最上の作として「あの詩美は死と戯れ遊んだといふ晩年の芥川以外の何人にも書けない不思議な美しさを文字の隅々から行間紙背にまで漂はせにじみ込ませ」ていると云っている。日夏耿之介は、「羅生門」「開化の良人」「戯作三昧」など、初期の作を推賞している。芥川竜之介自殺の報に接して、神戸から上京中の谷崎潤一郎は、車中談として、第一作品集「羅生門」の短篇が、いちばんいいと語っている。このように、同時代の作家たちのあげるかれの代表作が、いずれもまちまちであって、ほかの作家たちのように、これという衆目の一致した代表作のないところ、極言すれば、どの一篇もその多様な特色を発揮した作家というものは、これまでにひとりもなかった。ここに、芥川竜之介という作家の独自性がある。かれは、あらゆる形式、あらゆる作風をこころみ、それぞれ、すぐれた出来ばえを示した。  「ぼんやりした不安」というような、ぼんやりした言葉を残して、芥川竜之介は自殺した。かれの自殺については、いろんなひとが、いろんな解釈をし、それぞれの意見を発表した。  「芥川のあの自殺、自由主義が次のものに転換しなければならない、その転換を前にして、このチャンピオンの自殺は、結局、過去の文化の重荷に動きの取れない、それ故に神経のすりへつて行く、或る一団の作家達の苦悶の最も顕著の現れだつた。『点鬼簿』から『歯車』に至る、彼の最後の諸作は過去の文化の地獄篇である。」——こう書いたのは、広津和郎であった。  だが、芥川竜之介の自殺は、過去の文化の重荷に堪えかねたというよりは、かれの拠って以て立つべき文化の空虚さをかれなりに感じとり、それに堪ええなかったのではなかろうか。ともかく、その原因はなんであれ、芥川竜之介の自殺が、「或る一団の作家達の苦悶」を象徴するものであったことは否定できない。  芥川竜之介は、大正期という一時代の文学精神を一身に具現した文学者であり、その「伝承的完成と出発する何物もない点」で、まさに大正の象徴的人物だというのは、佐藤春夫の意見である。このことは、芥川竜之介をそれほど偉大と思うからでなく、大正期を象徴する作家として、「手ごろな存在」と考えるからだという。  佐藤春夫によれば、大正という時代は、明治のような大きな時代とは思わないが、明治に蒔いた、さまざまなものをとり入れて、明治だけの大きさはないにしても、質的には軽蔑できない時代であり、そういう時代を代表するには、谷崎潤一郎や菊池寛よりも、芥川竜之介がふさわしい。その、「あまりにも老成したやうな一面」のほかに、「どこかしら幼い、大人になりきつてゐないといふ風な一面」、つまり、「発育不全的な純真」を併せ有していることが、かれを悲劇的人物にしたのかもしれない。その意味で、芥川竜之介の作品は、ことごとく、「老熟した青年の作品」であり、かれ自身は、青年から成人になろうとする精神の孤独に堪えぬ苦悶を克服しえないで死んだのではなかろうかという。そして、次のようにつづけている。  「彼は一個の人間の蛹《さなぎ》、老文学青年として、昭和二年三十六歳で、“ぼんやりした不安”のなかで死んだ。しかし明治以来六十年の近代日本文学のすべて——その外国文学からの影響も、古典からの摂取も、新しい文体の成熟も、明治大正を一時代とするこの時代の文学は、芥川竜之介のなかに見事に結実を示し完成した。明治の発芽し開花したものは、大正で結実して芥川の一身とともに地に墜ちた。芥川が“ぼんやりした不安”と称したものは、夙《つと》にその兆顕著に、直ぐ彼の時代の後に起らうと待ちかまへて彼の身辺にゐた有為な青年、中野重治や窪川鶴次郎などのプロレタリア文学にも関聯しては居なかつたらうか。芥川はその鋭敏な時代感覚と博学とによつて、彼の直後に起らうとしてゐるものが、彼とは全く絶縁体の新文化である事に気づいて、それに対する不安なども、その“ぼんやりした不安”の重要な一部分をなしてゐたのではないだらうか。」  自決に先立って、芥川竜之介は、わが誄《るい》を読む者こそ汝だと知れという友情の一語を、論者佐藤春夫に残したというだけあって、更に、その二十二年後に、誄を読むつもりで草したというだけあって、この「芥川竜之介論」は、透徹した理解と批評につらぬかれていて、数ある芥川竜之介論のなかで、卓抜したものである。  芥川竜之介こそは、日本の伝統文学と明治以来の舶来文学の蓄積とをことごとくとり入れ、すべて換骨奪胎して、近代の感覚と解釈をちりばめ、あらゆる手法と形式を通じて、知的な操作と構成による豊富な短篇小説を提供した。しかも、ついには自身の文学に対する疑問と不安からのがれることができず、かつて、「人生は一行のボードレールに如かない」と書いたかれが、「架空線は不相変鋭い火花を放つてゐた。彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかつた。が、この紫色の火花だけは、——凄まじい空中の火花だけは命と取り換へてもつかまへたかつた」(「或阿呆の一生」)と書かずにはおられなかった。そして、このときの芥川竜之介の眼に、その年の春、大学を卒業したばかりの中野重治のすがたが、おそらく一種の圧迫感と信頼感とをまじえて映っていたと考えられるふしがある。その中野重治は、当時、こう書いた。  「僕は朝七時ごろ街を歩いて居てはじめて氏の自殺を知つた。幾つかの新聞を買つて電車に乗つたが、眼ぶたの熱くなるのを覚えた。僕は自殺した氏を大そうかはいさうに思つた。今でも思つて居る。」  キリストのなかに、一個のジャーナリストを見、芭蕉のなかに一個の大山師を見出さずにはおかなかった芥川竜之介が、乃木大将について、「無論俗人ぢやなかつたでせう。至誠の人だつた事も想像出来ます。唯その至誠が僕等には、どうもはつきりのみこめないのです」と、小説のなかの青年に語らせたのは、大正十年であった。  鴎外を尊敬し、小説のつくりかたについて、もっとも多くを鴎外に学んだ芥川竜之介は、所詮、鴎外とは無縁であった。鴎外は、生涯を通じて、オーソリティのために献身した。あらゆるオーソリティを軽蔑した芥川竜之介は、自身の無力感のなかで敗北した。乃木大将と芥川竜之介と——この二つの対蹠的な自殺の間に、十七年が過ぎた。これが大正という一時代である。  大正期の文学は、その前期において、自然主義系統の作家をはじめ、鴎外、漱石らの完成期をもたらし、それに踵を接して、「白樺」を主流とする大正文学の早熟期を迎えたが、後期は、「新思潮」系統とそれに近い作家群を主流とするものに移ると同時に、早くもその行きつまりと、次期文学の発足を見なければならなかった。大正文学ということになれば、さまざまの個性が思い思いの好みと解釈に応じて、それぞれの自己主張を試みたところに生れ、全体として、明治自然主義に対する反抗に促されたものということができる。それらの、さまざまの試みが可能であったのは、自然主義を中心とする明治文学によって一応習俗から自己を解放したこと、小説のさまざまの手法が一応把握されたことのおかげといわなければならない。大正文学の、個性に応じた、思い思いの自己主張の試みが、形式の上では短篇小説の全盛となり、内容的には心境小説に高い評価を与え、結局次期文学の前に、空しい無力感に陥らざるをえなかったのである。  かつて、『近代思想』の示した文学的可能性をみずから捨て去って政治運動に赴いた大杉栄の虐殺と、大正文学の象徴的作家というべき芥川竜之介の自殺と——この二つの事件に象徴されたものによって、大正文学の終焉と、昭和文学の発足がきびしく規定されることになるのである。 あとがき  本書では、自然主義、白樺派、プロレタリア文学、新感覚派などのほかは、なるべく、通用の流派名を用いまいとした。ヨーロッパの文学史に見られる名称を、気軽に、わが国の近代文学に適用するほかに、いくつかの新奇な呼び名まで案出して、後続の流派が、つねに先行のそれを克服し去ったかのような叙述のもたらす弊を痛感するからである。自然主義にしても、生活体験派とでも呼ぶほうが、実情に即しているかもしれない。そして、それらが重層的に雑居しつつ、あわただしく推移したところに、わが国の近代文学の特色を見ることができるように思われる。更に、たとえば、谷崎潤一郎というたったひとりの作家に、耽美派、悪魔派、ネオ・ロマンチシズムなど、あれこれ呼びたてるようなことは、もうやめてもいいだろう。「鴎外と漱石」とせず、「観潮楼と漱石山房」のごときあいまいな章名を冠したのも、そこに由来する。本書は、そういう肩をいからせた、きまじめな枠をとりはらうことからはじめたのではあるが、納得のいく整理ができたとは思っていない。大方の叱正をえて、更に考えてみたいと思っている。  なお本書は「現代日本文学全集」(筑摩書房版)の別巻「現代日本文学史」のために書かれたものであるが、独立の一冊となったのはありがたい。 一九六三年六月 著 者    臼井吉見(うすいよしみ) 一九〇五年、長野県に生まれる。編集者、評論家、小説家。松本高校を経て東京帝大国文科卒業。教員生活の後、古田晁、唐木順三、中村光夫らと一九四〇年、筑摩書房を創立。戦後、『展望』を創刊し編集長として論壇に新風を送る一方、自らも評論、小説に健筆をふるった。一九八七年七月没。 本作品は一九六三年七月、筑摩叢書として刊行された。 なお、電子化にあたり口絵、年表、索引は割愛した。 大正文学史 -------------------------------------------------------------------------------- 2002年3月22日 初版発行 著者 臼井吉見(うすい・よしみ) 発行者 菊池明郎 発行所 株式会社 筑摩書房 〒111-8755 東京都台東区蔵前2-5-3 (C)TAKASE USUI