結城昌治 修羅の匂い 目 次  脅 迫 者  事件の陰に  擦れ違った顔  血 の 陰 影  修羅の匂い  脅 迫 者     1  三階の大横法律事務所から電話だった。わざわざ事務員に取りつがせて、大横弁護士がもったいぶった声で話すときは眼の前に客がいることを示していた。 「忙しいのはわかってるがね、お客さんを紹介したい。平尾さんといって、ぼくが顧問をしている会社の専務さんだ。これからそっちへまわっていただくが、よろしく頼む。もちろん秘密厳守だ。調査した結果はぼくに知らせてくれなくていい」 「———」  返事をしないうちに、一方的に電話が切れた。  毎度のことだった。民事関係の金になりそうな仕事は大横が引き受ける。あまり儲《もう》からないとみた仕事は後輩の若い弁護士に押しつける。そして、弁護士として煩雑なだけでまったく無益な法律以前の仕事がわたしにまわってくる。しかも調査料の請求は彼の事務所を通す仕組みで、二〇パーセントの天引きだった。競馬の払い戻し率よりいいというが、わたしのほうが仕事にあぶれるよりましな状態なので仕方がなかった。  わたしの部屋は大横法律事務所の半分もない。入口のドアの上部は安っぽい波形模様の色ガラスで、ドアの脇には調査事務所のプレートがいつでも取り外せるようにかかっていた。  わたしはそのプレートのような存在だった。  届出制や認可制の業種は多いが、秘密探偵社や調査事務所は届出も認可も不要だった。電話一本あれば誰でも即座に開業できる。興信所をリサーチ・センターなどと改称しても同じで、警察当局は存在価値を認めていない。一部の調査機関を除けば、やくざまがいの連中が経営しているところが多いせいだった。私立探偵という言い方も不快なようで、実際に公立探偵がいないのに私立探偵がいるというのもナンセンスにちがいなかった。それなら私立刑事か私立捜査員とでもいえばよさそうだが、警察は民事事件にかかわらない方針だし、本職の刑事からみればやはりおもしろくないのだろう。  そこで情報リサーチとかクレジットサービスなどという名称がふえたが、わたしのように組織のない者は調査事務所としてみたところで、個人の信用で客をつないでゆくしかなかった。  入口のチャイムが鳴り、やがて色ガラスに人影が映って、平尾が入ってきた。  中肉中背で年齢は四十歳前後か。わたしよりやや若い。縁なしの眼鏡をかけて、神経質そうな男だった。落ち着かないようすだが、落ち着いていられるくらいなら調査事務所に来るはずがなかった。 「どうぞ——」  応接用のソファに案内した。机とキャビネットがあるだけで、ほかに案内する場所などなかった。  平尾の名刺には専務取締役の肩書がついていた。  しかし、 「会社というほどの会社じゃありません。家内が原宿でアクセサリーの店をやってまして、デパートなどにも品物を卸してますが、私は仕入れ係のようなもので、社長は家内の名前になっています」 「お話をうかがいます」 「その前に約束してください」 「どういうことですか」 「絶対に口外されては困る」 「信用していただきます。わたしが守れるのは依頼者の秘密しかありません。調査報告書は自分でワープロをうちます。コピーは取りません。調査が済んだら、メモ類も残らないようにシュレッダーでこま切れにしてしまう」 「でも、あなたの頭に記憶される」 「それほど記憶力がよかったら、もう少しましな職業についていると思います。信用できないなら、調査員が何十人もいる興信所や探偵社がある。そっちへ行ったらいかがですか。こんな個人の調査事務所なんか信用しないほうが賢明かもしれない」 「いや、そういう大手のところは人数が多い分だけ秘密が洩れやすいと考えたんです。ファイル・カードなどで記録が残るでしょう。それで大横先生に相談したら、こちらを紹介してくれたというわけです」 「信用できないと思ったらお引き取り願います。調査中のトラブルで職業が知れたりしないように、わたしは名刺も持たないことにしています。身元を証明できるのは運転免許証だけで、それでも不足な場合は大横さんの助けを借ります。弁護士の社会的信用は絶大です」  たとえ悪徳弁護士でも、とは言わなかった。 「わたしは警察に表彰されたことはありませんが、刑罰をうけたこともありません」 「ご家族は」 「いません。結婚したことはありますが、大分前に別れました」 「わかりました。実は家内の由季恵のことなんです。近頃なんとなくようすがおかしい。わたしを避けている感じで、愛人ができたんじゃないかという気がして仕方がない。正直な女だから、顔を合わせるのが心苦しいんだろうと思います」 「愛人ができた点について、具体的な心当たりはありますか」 「いえ」 「直接聞いてみたことはないんですか」 「ありません。聞けば話すかもしれませんが、話されたら家庭が壊れてしまう。それが怖いんです。うっかり聞くわけにはいきません」 「結婚して何年になりますか」 「十二年経ちました。子供にめぐまれるのが遅くて、娘の梨香は二歳になったばかりです」 「お子さんは一人ですか」 「梨香だけです。私と由季恵が出かけたあとは私の母が面倒をみています」 「おくさんの写真をお持ちでしょうか」 「いつも持っています」  平尾は家庭的な男のようだ。  パス・ケースから写真を出した。  由季恵と梨香が並んで写っていた。ひとめで母娘とわかるくらいそっくりで、梨香は可愛らしく、由季恵は華奢《きやしや》な感じの美人だった。商売人として遣り手のようには見えない。ふたりとも笑いを浮かべていた。 「娘がいなければ、由季恵の自由にまかせます。ほかに好きな男ができたなら仕方がない。商売のほうは、おたがいに離れてもやっていけます。でも、娘のことを考えたらそうはいかない。夫婦は取り換えがきくでしょうが、梨香の父は私しかいないし、母は由季恵しかいないんです。放っておくわけにはいきません。私は娘を溺愛《できあい》している。その気持は由季恵も同じはずです」 「あなたに対するおくさんの気持は」 「わからなくなってきました」 「あなた自身の気持はどうでしょう」 「愛しています。別れる気はありません」 「愛人がいるとわかっても別れませんか」 「別れません」 「それじゃ調査は無駄です。無駄というより、調査なんかしないほうがいい。おそらく、あなたは余計なことを知ることになる。そしていっそう苦しむだけだ」 「苦しむ覚悟はできている」 「いや、覚悟などなんにもならない。大横弁護士を訪ねたのは、離婚相談のためじゃなかったんですか。おくさんの不貞がわかれば、離婚の際の財産分与があなたの有利になります」 「そんなことなど考えなかった」 「それじゃ考えてください。よく考えて、決心がついたらあらためてお目にかかります」 「調査をしてくれないんですか」 「そうじゃありません。調査はわたしの仕事です。財産分与がどうなろうと知ったことじゃない。えらそうなことを言っていたら干上がってしまう。ただ、あなたは今のうちなら引き返すことができる。余計なことを知らないでいられる。そう言っているだけです」 「知ったら後悔するというんですか」 「後悔したひとを何人も知っています」 「———」  平尾は横を向いて黙ってしまった。  わたしは電話番号を教え、不在のときは留守番電話を利用してもらいたいと言った。     2  依頼を断ったというので大横弁護士は不機嫌だったが、わたしは彼のふくれっつらに馴れていた。  彼は儲かったときしか笑わない。  わたしはほかの弁護士にも仕事を頼まれるが、大横からまわってくる仕事がいちばん多かった。その代わり、裁判の資料集めや彼が表面に出たくないような汚れ役を引き受けることも多いので、おたがいに微妙な利害関係でつながっていた。  わたしは彼のゴルフ焼けした二重|顎《あご》の悪党づらが好きだ。  しかし、彼に笑われると気分がわるかった。六十歳を越えているが、笑った顔は善人のように見える。  それから四日経った。  平尾のことを忘れかけていた。  そこへ、平尾がいきなり現れた。大横弁護士も若い弁護士も外出中なので、それで階段を下りてきたようだった。 「家内が逮捕されました。由季恵が警察に捕まったんです」  平尾は興奮しているせいか吃《ども》り気味で、息を切らしていた。 「なぜですか」 「わかりません。原宿の店へ刑事が来て、由季恵を強引に連れていったらしい。店は原宿ですが、仕入れ専門の建物は渋谷にあります。私は渋谷のほうにいて、店の女の子の電話で知りました。急いで警察へ行ったけれど、取調べ中ということで由季恵に会わせてくれなかった」 「しかし、逮捕したなら容疑を言うはずだ」 「殺人です」 「殺人?」  驚いて聞き返した。 「朝刊を読まなかったんですか」 「読みました」  だが、注意をひく記事はなかった。  わたしはあらためて社会面をひらいた。  殺人事件が一件、被害者は茂山良次という二十三歳の男だった。組織暴力団万沢組のちんぴららしいが、万沢組といえば同じビルの四階に事務所がある。表向きの看板は万沢商会だが、やくざの万沢亀太郎が社長で、不良債権の取立てから競馬のノミ屋、ポルノショップなどをやっている。  大横は万沢の顧問弁護士もしている。  しかし、茂山という男に憶えがなかった。  茂山が絞殺されたのは昨夜で、死体を見つけたのは美保という愛人らしい。  わたしは美保にも憶えがなかった。 「おくさんは茂山とつき合ってたんですか」 「知りません。茂山という名前を聞くのも初めてで、やくざのような男とつき合いがあったなんて信じられません。由季恵はそういう連中を毛嫌いしていました」 「四日前にあなたがきたとき、おくさんは愛人がいるんじゃないかと言っていた。そいつが茂山だろうか」 「まさかと思います。新聞によると茂山は二十三歳。由季恵は三十四です」 「年上の女が好きな男もいる」 「由季恵は年下の男なんか嫌いです。想像もできないと言ってたことがあります」 「愛人問題は別として、夫婦仲は円満でしたか」 「もちろんです。口喧嘩ひとつしたことがなかった。梨香の世話を母にまかせておくのが心配で、店をやめようかと悩んでいたくらいです。由季恵は店より梨香のほうが大事だった。梨香のためにも、浮気なんかするはずがありません」 「しかし、あなたはおくさんを疑っていた」 「———」 「警察では誰に会いましたか」 「馬場という部長刑事です」 「眼つきのわるい、がっしりした体格でしょう」 「知ってるんですか」 「仕事の関係で何度も会っています。ただし相性はよくない。わたしが警察へ行っても玄関払いですね。でも、大横さんならおくさんに会える」  弁護人は警察官の立会いなしで被疑者に会う権利がある。配偶者、父母などの直系親族や兄弟姉妹は、被疑者の意思にかかわりなく弁護人をつけてやることができる。 「大横さん以外に、知っている弁護士はいませんか」 「いません。大横さんとはゴルフで知り合って、何かの役に立つと思って顧問になってもらいましたが、顧問料を払うだけで実際にお世話になったことはありません。こんなことでお世話になるなんて考えていなかった」 「それじゃ大横さんに頼むんですね。裁判所に行ったはずですから、もう戻る頃でしょう。事務所でお待ちになったほうがいい」  本当ならほかの弁護士を紹介したかった。大横ではあまり頼れない。  しかし、そうは言えなかった。 「あなたは何もしてくれないんですか」 「ご依頼があれば調査にかかります。でも、調査の結果おくさんの無実がはっきりするとは限りません。むしろ逆の場合が多い。そのときは沈黙しますが、いずれにしても調査料は同じです。調査が片寄るといけないので、成功報酬は頂戴しません」  わたしは着手金と日当その他の費用の概略を伝えた。安くはないが、結果次第と依頼人の気持次第で安いとも高いとも言える額だった。  調査結果に文句をつけて料金を払わない依頼人がいるので、着手金だけは前払いで直接わたしが受け取ることになっていた。  平尾は迷わずに承知した。 「茂山の死体は昨夜九時過ぎに見つかったらしい。その頃、おくさんはどこにいたのだろう」  わたしは着手金を受け取ってからきいた。刑事事件はアリバイさえあれば簡単にけりがつく。 「帰る途中だったと思います。店は七時に閉めますが、伝票の整理などいろいろと用があって、由季恵の帰りは大抵九時半頃になってしまう。昨夜も同じでした」 「変わったようすはありませんか」 「気がつきません。すぐにシャワーを浴びて、それから私と梨香の三人で晩飯です。食事中、以前は仕事の話ばかりだったけれど、梨香が生まれてから梨香の話ばかりです」 「娘さんはそんな時間まで起きてるんですか」 「ええ。母は先に食事をすませて、私たちが帰ったら、やはり先に寝る習慣なんです。その代わり母は朝が早いし、私たちは宵っぱりの朝寝坊で、梨香もすっかり宵っぱりの癖がついてしまいました。もちろん昼寝のせいもあると思いますが」 「昨夜あなたの帰宅は何時頃ですか」 「八時前に帰ってました。アリバイが必要なら、会社から車で送ってくれた証人がいます。由季恵は運転しますが、私は運転しないので、ときどき社員に送ってもらうんです」 「おくさんの証人も欲しい」 「それは難しいかもしれません。原宿の店は女の従業員が三人いますが、閉店後の仕事は由季恵ひとりでやっているようで、たまに手伝うとすれば私くらいだった。由季恵は几帳面で、他人まかせにできない性質なんです。そういう性質では仕事と育児が両立しません。だから仕事のほうをやめたがっていた。仕事がうまくいっているので踏ん切りがつかないのだと思います。流行の先を見る眼があって、商売の感覚は私などより何倍も上です」 「それだけ商才があれば交際範囲も広くなる。しかし、なぜ茂山のようなちんぴらが紛れこんできたのだろう」 「ふしぎです。どう考えてもわからない」  平尾は暗い表情で、首をひねるばかりだった。     3  四階建ての古ぼけたビルは、四階を万沢商会が占めて、三階は大横法律事務所と税理士の事務所、二階は三部屋にわかれ、わたしの事務所のとなりが結婚相談所で、その向こうは進学塾の分室だった。  一階のスナックは終夜営業でタクシーの運転手のたまり場になっている。地階は喫茶店だ。  わたしはエレベーターに乗らないで、四階へ上がった。  万沢亀太郎は奥の社長室にいた。おだやかそうな丸顔だが、おだやかな性格ではなかった。きちんとした服装はおしゃれではなく、刺青《いれずみ》を隠すためだと言われていた。年齢は四十五、六、もう少し上かもしれない。 「新聞を読みましたか」  わたしは勝手に腰を下ろして言った。 「うん、刑事に会わなかったかい」 「いや」 「それじゃ擦れ違いだな。警察に来いというから、用があるならこっちへ来いと言ってやった。そしたら馬場がすっとんできた」 「怒った顔が眼に浮かぶ」 「あいつを怒らせるのが好きなんだ」 「怒らせると怖いんじゃないかな」 「平気さ。おれは何も悪いことしていない。ぺこぺこするから痛くもない腹をさぐられる。だからおれはぺこぺこしない。今度のことだってそうだ。茂山はうちの若い者じゃなかった」 「しかし、新聞にはそう出ていた」 「でたらめだよ。女のおしゃべりを真に受けて、警察が新聞屋に流したんだ。組はとうに解散したのに、相変わらず組織暴力団なんて書いている。これじゃ警察に呼ばれても、のこのこ出かけるわけにいかない。馬場にもそう言っておいた」 「警察にしゃべった女というのは」 「茂山と同棲していた女だ。そいつが死体を見つけたらしいが、どんな女か見たこともない。茂山も顔を知っている程度で、ひどい迷惑をしている」 「茂山が万沢商会の者じゃないなら、何をやって食っていたのだろう」 「知らんね。札幌で知り合ったということは古川から聞いたが、古川の郷里も北海道なんだ。それで気が合ったらしかった」 「古川?」  思い出せなかった。 「顔を見れば知ってるさ。ばかっ堅いまじめな奴で、うちの系列ホテルのマネージャーをやらせている」 「ホテルの名は」 「なぜ聞くんだ」 「会ってみたい」 「会ってどうするんだ」 「会ってみないとわからない」 「また何か嗅ぎつけたのか」 「気になることがある」 「教えてくれ」 「教えられない」 「あんたは自分の都合で聞きたいことだけ聞いて、おれが知りたいことは全然答えない。いつもそうだ」 「仕事の性質上やむをえない」 「それじゃおれもこれ以上しゃべらない」 「もう大分しゃべってもらった」 「今度の事件に関係があるのか」 「逮捕された女を助けてやりたいんだ」 「なぜ」 「写真しか見ていないが、美人だった」 「おれをからかおうというのか」 「そんなつもりはない」  わたしは社長室を出た。  広い事務室は机が二列に並んでいて、地味なスーツを着た男が七、八人机に向かっていた。女は一人もいないが、外へ出ればふつうのサラリーマンと同じに見えるだろう。  しかし馬場部長刑事の話によれば、彼らの仲間のうち六人が恐喝罪などで服役中だった。     4  茂山がいたアパートは新宿の百人町にあった。木造二階建てで、二階へ上がる階段は部屋別についていた。  二〇三号室。  チャイムを嗚らした。 「どなた——?」  眠そうな女の声だった。 「流木といいます」 「ながれぎさん?」 「茂山さんについてお尋ねしたいことがあります」 「———」  女はドア・スコープからわたしを見ているようだった。  やがてドアがあいた。 「刑事さんなら全部しゃべったわよ。もう、うんざりだわ」 「ぼくは刑事じゃない。調査事務所の調査員です」 「なにを調査するの」 「茂山さんが殺された事件のことで、逮捕された女性の関係者に頼まれた」 「まるで私立探偵みたいね」 「似たようなものです」 「どこが私立探偵と違うのかしら」 「どこも違っていない」 「それじゃ同じじゃないの」 「事務所の名前が違う」 「イメージも違うわね」 「きみは頭が冴えている。イメージを変えたかったんだ」 「あなたの名前、よく聞こえなかったわ」 「流れる木と書いて、ながれぎと読む」 「頼りない名前ね」 「自分でもそう思っている。でも、本名なんだ」 「あたしは吉田っていうの。平凡すぎるわ」 「美保というのはわるくない」 「そうかしら」  美保はうちとけてきた。髪を染めているが、化粧しない肌はきれいだった。下ぶくれの顔もおとなっぽい魅力があった。  しかし、まだおとなになりきれていないようで、どことなく子供っぽさが残っていた。 「腰を下ろしていいかな。立ったままでは話しにくい」 「いいわよ。良次は死んじゃったし、ここはあたししかいないわ」 「茂山良次は病気で死んだんじゃない。殺されたんでしょう」  わたしは上がり框《がまち》に腰をかけた。 「そうね」  美保も腰を下ろし、ジーパンの膝をくずした。 「茂山が殺されていたことは、すぐわかったのかな」 「すぐでもないけれど、首にネクタイが巻きついていたわ。お葬式用のような、黒いネクタイだった。びっくりして、震えちゃったわ。死体なんか見るの初めてよ。口をあけて、恰好《かつこう》のいい死に顔じゃなかったわね」 「いつも恰好がよかったんですか」 「ピンクのスーツが似合ってたわ」 「ばかに派手だな」 「目立ちたがり屋なのよ」 「きみがパトカーを呼んだのか」 「ええ」 「それまで、きみはどこにいたんだ」 「仕事よ。昼間から赤坂のスタジオにいたわ」 「どういう仕事だろう」 「あたしを見たことないの」 「思い出せないが、俳優かな」 「モデルよ」 「ぼくはファッション雑誌に興味がない」 「ファッション・モデルじゃないわ。見せてあげましょうか。あたしの写真がいっぱい載ってるわ」  美保は立ち上がり、タバコに火をつけて、雑誌を数冊持ってきた。  中身は見るまでもなかった。 「この表紙があたしよ」 「すばらしい」  小柄な割にバストが大きくて、形もわるくなかった。ウエストの線もくずれていない。 「本物を見せてもいいわ。ほめてくれたお礼よ」 「いや、間に合っている」 「変わってるわね」 「仕事中は気が散らないようにしてるんだ。この次のチャンスにぜひ見せてもらうが、こういうモデルは収入も多いんだろうな」 「たいしたことないわよ。儲かるのは雑誌をつくる人たちだけじゃないかしら」 「つまり、万沢商会の連中か」 「あたしは万沢商会と関係ないわ」 「しかし、茂山良次は万沢の組員だったんじゃないのか」 「ええ、古川さんと仲がよくて、組に入れてもらったと言ってたわ」 「古川も組員だったな」 「古川さんのほうが先輩ね。良次はずっと札幌にいて、東京にきたのが一年くらい前かしら。古川さんを頼ってきたらしいわ」 「きみが良次と呼ぶからぼくもそう呼ぶことにするが、きみにモデルをやらせて、良次は何をやってたんだ」 「あたしのアシスタント、付き人みたいな役ね。たちの悪いやつにいたずらされないように、良次がいないときは古川さんに付いてもらうこともあったけれど、あたしは付き人なんかいなくて平気。昨日もひとりだったわ」 「それじゃ良次が死んでも影響なしか」 「まだよくわからないけれど、ちょっと寂しい感じね」 「あっさりしてるな。きみたちは夫婦のつもりじゃなかったのか」 「ちがうわ。なんとなく一緒にいただけ。でも、やさしかったし、嫌いじゃなかったわ」 「ところで、きみは平尾由季恵という女を知ってたの」 「写真を見たのよ」  見たというより、茂山良次が財布に入れて置いたのを見つけたのだ。女の顔は横向きだったが、茂山の手が女の肩を抱くように写っていたという。  それで美保が茂山を問いつめ、由季恵との仲を告白させたようだった。 「どこで撮った写真だろう」 「熱海へ行ったときの記念写真ね。写真屋さんに撮ってもらったらしいわ」 「彼女がアクセサリーの店をやってることもしゃべったのか」 「もちろんよ。あたしは焼餅なんか焼かないけれど、おもしろいじゃないの。だから原宿のお店をのぞきにいったことがある。すてきなひとだったわ」 「良次は惚れてしまったのだろうか」 「それほどでもなかったみたい。金持で、商売も繁昌しているから、近いうちに手切れ金をごっそりもらって別れると言ってたわ。そしたら、あたしにも小遣いをくれる約束だった」 「良次は以前から彼女を知ってたのかな」 「ディスコで引っかけたのよ。良次は引っかけるのがうまいの。あたしも引っかかった口かもしれないわ」 「しかし、彼女には亭主がいる」 「亭主なんか無関係ね」 「子供もいる」 「ほんと?」 「女の子で、二歳になったばかりだ」 「子供のことは聞かなかった。良次も知らなかったんじゃないかしら。知っていたら手を出さなかったと思うわ」 「亭主と子供が手切れ金のネタだったということも考えられる」 「良次はそんな悪いやつじゃないわよ。根は気が小さくて、大学を中退するまでは勉強家だったらしいわ」 「なぜ中退したんだろう」 「勉強が厭《いや》になったのよ、きっと。あたしも高校を中退してるから、わかるような気がするの。厭になり出すと、たまらなく厭になるのね」 「きみの年齢はいくつかな」 「十八歳」 「もっと若く見える」 「そうかしら」 「きみの仕事はお父さんやお母さんも知ってるのか」 「もう一年以上帰らないけれど、父も母も再婚したし、あたしのことなど忘れてる頃よ」 「さっきの話に戻るが、良次と平尾由季恵がいっしょの写真を見せてくれないか」 「見つけたとき、その場で破いちゃったわ」 「大事なネタじゃなかったのか」 「そのときは口惜《くや》しかったのよ」 「写真は一枚きりか」 「ええ」 「それじゃ良次の写真だけでいい。ぼくの事務所は万沢商会と同じビルにある。会ったことがあるかもしれない」 「あんまりハンサムじゃないわよ」  美保は立ち上がって、しばらく鏡台の小引き出しなどを探っていた。 「こっちがあたし——」  美保と茂山が並んで写っていたが、美保のほうは説明無用だった。実物が眼の前にいる。  茂山は眼つきが少し暗いという以外に特徴がなかった。  しかし、その眼つきに見憶えがあるような気がした。やはり万沢商会に出入りしていたちんぴらの一人とすれば、エレベーターか階段あたりで顔が合っているかもしれない。  美保の顔は底抜けに明るくて、茂山の陰気そうな顔と対照的だった。 「きみは平尾由季恵が殺したと思ってるんだな」 「ほかに考えられないわ」 「いや、よく考えてくれ。良次はきみのような女性といっしょに暮らしながら、十一歳も年上の女とつき合ってたんだ。それくらいタフな男なら、ほかにも女がいたとみておかしくない」 「良次はタフじゃないわよ。どっちかといえば弱いほうだったわ」 「それは当然さ。何人もの女といちいちタフにつき合っていられない。ぼくがタフと言ったのは総合点だ」 「すると、ほかにも好きな相手がいたというの」 「わからない」 「なぜわからないことを聞くの」 「わからないから聞いてるんだ」 「あたし、難しい話は嫌いよ。頭がこんがらかってきたわ」 「それじゃ話を変える。古川がマネージャーをしているホテルを教えてくれ」 「ちっぽけなホテルよ」  ドリームランド・ホテル、場所は大久保一丁目だった。小さなホテルや旅館が密集している地域だ。 「ひとりで行くところじゃないわ」 「知っている。きみといっしょならいいだろう」 「誘惑のつもりかしら」 「全然ちがう。古川を紹介してもらいたいんだ。ぼくひとりでは警戒される」 「そうね。あたしも、初めは刑事さんかと思った」 「刑事に見られるようじゃ調査員失格だな。警察にぶちこまれたことはあるが、警察から給料をもらったことはない」 「安心したわ」  美保は軽い身のこなしで立ち上がった。     5  外へ出ると、美保が腕を組んできた。  ごく自然な感じだが、他人が見れば親子のようかもしれなかった。わたしは美保と同じ年くらいの娘がいてもおかしくない年齢だった。 「茂山良次と平尾由季恵も、こんなふうに歩いてたのかな」 「そうかもね」 「一度も焼餅を焼いたことがないのか」 「あたしは焼餅というのがわからないのよ。経験が足りないのかしら」 「写真を破いたじゃないか」 「あれはカッとしただけで、破いたらスカッとしたわ」 「それが焼餅さ」 「あなたは焼くの」 「今は焼きたくても相手がいない」 「むかしは相手がいたのね」 「うん」 「おくさん?」 「まあね」 「どうして別れたの」 「逃げられたのさ」 「なぜ」 「ぼくのことより、良次はどうなんだ。焼餅焼きじゃなかったのか」 「良次はあたしと同じ。もし本当に好きだったら、あんな本のモデルなんかさせとかないはずよ」 「同感だな。ぼくもそう思うが、きみは本当に好きになった男がいないのか」 「あたしもむかしはいたわ」 「きみのむかしといったら赤ん坊じゃないか」 「そうね。赤ん坊みたいだった頃の話よ」  美保は急にしんみりした。  黙りがちになって十分くらい歩いた。  旅館やホテルのネオンは明るいが、道は暗かった。その暗い道をアベックが何組も擦れ違った。  やがてドリームランド・ホテルに着くと、美保は一足先に入った。  三階建てのこぢんまりしたホテルだった。 「オーケーよ。良次と仲がよかったので、きょうは古川さんも警察へ呼ばれたんですって」  美保が間もなく戻って言った。 「ありがとう。それじゃここで失礼する」 「あら、あたしはもう用なしかしら」 「別の機会にコーヒーでも飲もう。わるく思わないでくれ」 「わるく思うわ」 「感謝している」 「感謝なんかいらないわよ」  美保はふくれて行ってしまった。  古川は玄関の内側で待っていた。ダーク・スーツに蝶ネクタイを締めて、二十六、七のおとなしそうな男だった。髪を短くカットして、肩幅は広いが、やくざのようには見えなかった。  わたしは待合室に案内された。 「きょうはどの部屋もいっぱいなんです。こんな所で申しわけありません」  古川は名刺を出した。古川時彦という名前で、マネージャーの肩書がついていた。  わたしは名刺を切らしていることにしたが、古川はわたしを知っていた。 「万沢社長のオフィスでお見かけしたことがあります」  そう言われた。  わたしは憶えがなかった。 「早速ですが、逮捕された女性をご存じでしたか」 「いえ、警察でも聞かれましたが、全然知らなかった。驚いてるんです」 「しかし、吉田美保さんは知っていた」 「そうですってね。いま美保に聞きましたが、茂山は妙に水くさいところがあって、美保のことも同棲してから初めて知ったくらいだった」 「茂山と美保さんは、平尾由季恵のことがバレたあともうまくいってたのかな」 「まあ普通だと思いますよ。美保はああいう女だし、同棲したといっても、夫婦になるという感じじゃなかった。気が合っていたことは確かだけれど、成りゆきみたいなものじゃないのかな。茂山自身がそんな言い方をしてた」 「彼女はなんとなく一緒にいたように言っていた」 「それが正解ですね。あの二人はそれでよかったんですよ」 「今度の事件をどう思いますか」 「ぼくはわからないとしか答えようがない。茂山はほんとに平尾由季恵という女に殺されたんですか」 「ぼくもわからないんだ。しかし、殺されるには理由がある。平尾由季恵を除外して考えてくれないか。茂山は吉田美保のヒモのような男だったらしい。そう思っていいのかな」 「最近ぼくが茂山と会うのは麻雀のときくらいだったけれど、ほかで働いているという話は聞かなかった」 「なぜ東京に出てきたのだろう」 「札幌は飽きたと言ってました。いきなり来られて、アパートはぼくが探してやったんです」 「札幌にいる頃から親しかったんですか」 「それほどでもなかった。ぼくも以前はずっと札幌で、雀荘などで会えば冗談を言い合うし、飲みまわったことも二、三回ある。そんな程度だった」 「それじゃ勝手に頼られたんだな」 「ほかに知り合いがいなかったせいですよ。あいつもちょっとグレてましたからね。札幌にいづらいことがあったのかもしれない」 「新聞では万沢組の組員になっていた」 「それは嘘です。いずれ組員になれたと思うけれど、まだ社員バッジをもらっていなかった」 「麻雀仲間でも何の仲間でもいいが、誰かに怨《うら》まれるようなことはなかったろうか」 「知りません。脅しはあいつの柄じゃないし、女のほうもいい加減だった。もしかしたら、女のことなんかで、怨んでるやつがいたかもしれませんけれどね。ぼくの耳には入ってこなかった。つめたいようですが、亭主持ちの女に殺されるなんて、自業自得のような気がする」 「その場合は嫉妬《しつと》か、女を脅してたせいだろうか」 「難しい問題を出さないでくださいよ。ぼくには全然わからない。びっくりして、呆《あき》れ返ってるんです」  古川はわからないと繰り返すばかりで、ほとんど役に立たなかった。     6  わたしはがっかりしてホテルを出た。  由季恵に不利な情況はそろった。  彼女が茂山に脅迫されていたとすれば、殺人の動機は十分だった。  しかし、まだ納得できないものが残っていた。  わたしは事務所へ帰りかけた。  そのときポケット・ベルが鳴った。  留守番電話に電話が入ったというサインだった。  事務所に電話をかけ、受信テープの録音を聞いた。 「——大横だがね、すぐ電話をくれ」  大横弁護士の声だった。  つづけて大横法律事務所に電話をした。 「どこを歩きまわってるんだ」 「あっちこっちです」 「平尾由季恵が逮捕された事件の調査か」 「ええ」 「それならもう用がない」 「なぜですか」 「会ってから話す」  電話が切れた。  急いで大横の事務所へ行った。  若い弁護士も事務員も帰ったあとで、大横が大きな机に太い両足をのせていた。 「どういうわけですか」 「釈放だよ」  大横は自分の腕だと言わんばかりで、機嫌がよさそうだった。 「犯人が捕まったんですか」 「そうじゃない。警察へ行って由季恵夫人に面接したら、もちろん彼女は犯行を否認した。昨日はずっと原宿の店にいて、従業員は七時半頃帰ったが、彼女は九時近くまで残っていたというんだ。見るからに弱々しい彼女に茂山のようなやつを絞め殺せるわけがないしな。そこで刑事課の係長に文句をつけてやった。そばで部長刑事の馬場がにがい顔をしていたが、警察のほうは情況証拠ばかりで、目撃者がいたわけでもないし、彼女の指紋があったわけでもなかった。死体を見つけたというモデルの話を鵜呑《うの》みにしているだけなんだ。馬場が得意の典型的な見込み捜査で、逮捕してがんがん怒鳴れば自白すると思っていたらしい。自白を頼りに証拠を集めようという安易な考えだ。ぼくはただちに釈放を要求した」 「それですぐ釈放ですか」 「そうは簡単にいかないさ。モデルの話で由季恵夫人と茂山の関係がバレている。ふたりで撮った写真の話も警察に伝わっていた。地検へ送る資料はそれくらいで間に合う。あとは十日間の勾留期間中に自白させるつもりじゃなかったのかな。ところが、馬場の部下で垣根という若い刑事がいる。あんたも知っているはずだ」 「知っています」  優秀な刑事だった。  刑事には二通りのタイプがあった。容疑者を逮捕する場合、疑わしい証拠ばかり集めるタイプと、無実の証拠を先に集めようとするタイプがいた。どちらも本来なら真実に近づくはずだが、ともすれば前者は無実の犯人をつくりかねない。  馬場が前者で、垣根が後者だった。 「ぼくと係長がやり合っている最中に、垣根が出先から戻ってきた。そして、ぼくの耳に聞こえないように係長と馬場を部屋の隅へ呼んで、なにやらしきりに話していた。大分深刻なようすだった。さんざん待たされたが、その結果が釈放だよ」 「理由を聞きましたか」 「任意捜査に切り換えると言っていたが、要するにアリバイが立ったのさ。連中は容疑が消えたなんてことは絶対に言わない」 「すると、彼女はもう自宅に帰ったんですか」 「平尾さんが迎えにきた。あんたはまったく無駄に歩きまわっていたことになる。ま、着手金を受け取ったそうだから損もしないだろうがね」 「別の容疑者が真犯人として浮かんだということはないんですか」 「どうかな。とにかく彼女は釈放されたんだ。気の毒だから彼女が茂山と撮った写真については平尾さんに話さないでおいたが、真犯人など知ったことじゃない」 「ぼくは真犯人と交替で彼女を釈放させたかった」 「念のため注意しておくが、あんたはもう歩きまわらんことだ。事件の捜査は警察がやる。あんたの出番は終わった。平尾さんからあんたによろしく伝えるように頼まれたが、良心的な調査員だから日当は請求しないだろうと答えておいた。もちろん、いったん受け取った着手金は返さんでいい」 「大横さんも着手金を受け取ったんですか」 「まあな」  大横は渋い顔をしてみせたが、着手金を受け取らなければ動くはずがないし、成功報酬もせしめたに違いなかった。     7  由季恵の釈放と同時に、依頼人とわたしの関係は切れた。もう調査の必要がないことは大横弁護士に言われるまでもなかった。あっけないほど短時間で片づいたので、割のいい仕事だったとも言える。  しかし、そのあっけなさが気に入らなかった。真犯人がわからないままというのも気に入らなかった。  翌日も翌々日も仕事はあったが、いっこうに気分が晴れなかった。  由季恵が釈放されて三日目。  ノックもしないで美保が入ってきた。段袋のようなだぶだぶパンツに縞馬《しまうま》模様のTシャツを着ていた。 「遊びにきたわ。万沢さんと同じビルにいるって、ほんとだったのね」 「確かめにきたのか」 「四階へいったついでよ」 「ふうん、万沢の仕事をやるのか」 「いけないかしら」 「きみの勝手さ。ぼくはマネージャーじゃない」 「つめたいのね」 「そうつめたくもない。先日のお礼に、プレゼントを考えていた」  わたしは思いつきで言った。 「高級品は勘弁してもらうが、ブレスレットなんかどうかな」 「うれしいわ」 「きみは腕がきれいだ」 「腕をほめられるなんて初めてよ」 「それじゃ早速出かけよう」 「どこで買うの」 「原宿だ。きみが知っている店だから、案内してもらう」 「良次を殺した犯人のお話ね」 「彼女は犯人じゃない。釈放された」 「あら、知らなかったわ」 「その後刑事は来なかったのか」 「来たけれど、釈放したなんて教えてくれなかった。すると、犯人は誰なの」 「ぼくの知ったことじゃない」  わたしは大横の口ぶりを真似た。  ビルの裏の駐車場へまわった。  露天の駐車場だった。 「ずいぶんくたびれた車ね」 「エンジンは新しい。取り換えたばかりだ」 「動くの」 「ぼくが運転すれば動く」 「あたしじゃ駄目かしら」 「駄目だろうな。ぼくの言うことしかきかない」  エンジンをかけ、ギアを入れた。  若い女性を乗せたせいか、いつもよりスタートが軽かった。 「良次の葬式はやったのか」 「しなかったけれど、お兄さんという人が北海道の釧路からきて、お骨を持っていったわ。警察が知らせたらしいのよ」 「良次に似てる男だったかい」 「良次よりハンサムだったわ」 「きみのことを知ってたのだろうか」 「警察で聞いたみたいね。お世話になりましたって、ちゃんと挨拶してくれたわ」 「きみはまだ逮捕された女が犯人と思ってるのかな」 「ほかに思いつくひとがいないのよ。古川さんも見当がつかないというし、手賀さんとか松前さんとか、麻雀の遊び友だちもみんなふしぎがってるわ」 「万沢のところに近頃ごたごたはないのか」 「ごたごたって」 「たとえば、万沢組は雲井組と対立して、以前は始終ごたついていた」 「それは紳士協定がうまくいってるようね。そういう話、あたしは興味ないけれど、朱実に聞いたことがあるわ」 「朱実というのは」 「古川さんのこれよ」  美保は左の小指を立てた。  車の流れがスムーズだった。 「あら、この車、電話がついてるのね」 「なんだ、今ごろ気がついたのか」 「すごいわ」 「少しもすごくない。ぜいたくなようだが、商売道具なんだ。本当はもっと欲しいものがある」 「なにかしら」 「金さ。金があったら、こんな仕事をやらないですむ」 「仕事が嫌いなの」 「きみは好きなのか」 「好きな仕事をしている人っていないような気がするわ」 「これから行く店の経営者がそうじゃないかな」 「そういえば、そうね。羨《うらや》ましいわ」 「しかし彼女にしてみたら、客のほうが羨ましいかもしれない」  話すのが面倒になって、ラジオをかけた。  天気予報だった。昨日の天気も当たらなかったのに、三か月も先の天気を予測していた。  チャンネルを音楽に変えた。  美保は眠ってしまった。子供のような寝顔だった。  表参道に出てから、美保を揺すり起こした。  由季恵の店は美保が憶えていた。広い通りに面して、しゃれた造りの店頭を小さな花籠で賑《にぎ》やかに飾っていた。  十代の女性客が多かった。  わたし一人では入り難い店だ。 「あの紫色のワンピース」  美保が低い声で言った。  言われなくても由季恵はすぐ眼についた。紫色のワンピースにプラチナチェーンのネックレスをして、やや痩《や》せぎすだが、上品な感じだった。 「美人ね」 「うん」 「ネックレスのプラチナ、本物よ」 「彼女がしているから本物に見える」 「あたしがしてたら」 「だれかに聞いてみるんだな」  由季恵は客の応対で忙しそうだった。三十四歳というが、三十歳くらいにしか見えなかった。 「これに決めたわ」  美保がバーゲン・セールの台からようやくブレスレットを選んだ。象牙まがいの安物だが、デザインが変わっていて高級品のようだった。 「きみはセンスがいい」  お世辞ではなかった。  店を出て車に戻った。 「やっぱり、あの経営者が犯人なんて嘘ね」 「ぼくもそう思った。きみの体重を教えてくれないか」 「バストじゃないの」 「体重だ」 「四十三キロ」 「良次は」 「六十キロに減らしたと言ってたわ」 「きみと良次と喧嘩したら、勝てるかな」 「勝てるはずないわよ。なぜそんなこと聞くの」 「今の店の経営者も体重はきみと同じくらいだろう。きみより背が高い分だけ痩せている。つまり、彼女も良次が相手では喧嘩にならない。首を絞めるなんて到底無理だ」 「わかったわ。そういうことを知るためにあたしをつれてきたのね」 「いや、プレゼントはプレゼントさ」 「それなら遠慮しないで、もっと高い物を選べばよかったわ」  美保は寄るところがあると言って、帰りの車には乗らなかった。     8  その翌日の午後だった。  美保がまたノックもしないであらわれた。 「仕事中なんだけれどな」  四階の万沢商会へ行くたびに寄られては困る。 「ご迷惑かしら」 「暇なときなら歓迎する」 「まだ知らないようね」 「なんのことだ」 「いいのよ、知らなくて。どうせ関係ない話。でも、四階は大騒ぎしてるわ」 「火事か」 「ばかね。火事なら消防車がくるわ」 「とにかく聞かせてくれ」 「古川さんが死んだのよ。車に轢《ひ》かれたらしいわ」 「轢いたやつは」 「轢き逃げじゃないの。だから四階に刑事がきて、万沢さんも興奮してるみたいだった」  事故は昨日の深夜、古川は勤め先のホテルを夜勤専門のマネージャーと交替したあと、帰り道をうしろからきた車に轢かれたようだという。 「馬場部長も四階にいるのか」 「いたわね。あの顔は一度見たら忘れない。万沢さんと喧嘩腰で言い合ってたわ」 「なにを言い合ってたんだ」 「万沢さんが犯人をかばってると思ったんじゃないかしら」 「ただの運転ミスによる事故じゃなくて、帰りを待ち伏せて轢き殺したとみてるのかな」  対立している雲井組とのいざこざは、組長同士が警察の手入れを恐れて避けている。  むしろ最近の事件は、同じ組員同士の出世争いのような仲間割れが目立っていた。すでに茂山が殺され、今度は古川だ。  警察が内部抗争とみるのも無理はなかった。 「きみの考えを聞かせてくれ」 「あたしの考えなんてないわ。朱実は泣いてるかもしれないけれど、あたしは仕事がパーになっただけよ」 「古川は朱実のほかに好きな女がいなかったのか」 「いなかったと思うわ。古川さんは堅実一本槍という感じで、間違ってやくざになったようなひとね。朱実がそう言ってたわ。だから殺されたのかしら」 「だからとは」 「なんとなくよ」  なんとなくでは話にならなかった。 「ちょっと出かける」  わたしは腰を上げた。 「どこへ行くの」 「車に乗ってから考える」 「いっしょに行くわ」 「いや、ひとりになりたいんだ」 「勝手なのね」 「きみも勝手にしてくれ」  美保を先にして廊下へ出た。  四階へいって馬場部長に会おうと思ったが、やめた。大横弁護士にも会わないことにした。  美保が車までついてきた。 「茂山良次の顔を思い出したよ。写真を見せてもらったとき見憶えがあるような気がしたが、やっと思い出した」 「なぜ急にそんなこと言うの」 「急に思い出したんだ」  わたしたちは握手をして別れた。  運転しながら、結論を避けている自分に気がついた。  平尾由季恵の店の手前で車をとめたが、まだ結論が出ないままだった。というより、結論が行動を鈍らせていた。  しかし、じっとしてはいられなかった。  日没近いが、店内は相変わらず若い客が多かった。  わたしは由季恵を片隅に呼んで、自己紹介した。彼女が逮捕されたとき平尾に調査を依頼されたことも言った。 「しかしきょうは仕事じゃありません。だれに頼まれたのでもない」 「どういうことでしょうか」  由季恵の眉がくもった。 「ここでは落ち着いて話せません。適当な部屋がなければ、ぼくの車の中でもいい」 「二階が事務所になっております」  由季恵は背中を向けた。  髪をアップにした襟足《えりあし》がきれいだった。  彼女について階段を上がった。 「どうぞ——」  花模様のソファに案内された。  わたしは腰を下ろさなかった。 「あなたの車はどこにありますか」 「この近くの駐車場です」 「あとで拝見できますか」 「なぜでしょう」 「警察が探しています」 「おっしゃる意味がわかりません」 「ぼくはあなたとお嬢さんの写真を見ました。茂山良次の写真も見た。しかし、そのとき気がつくべきことを見落としていた。茂山の眼がお嬢さんの眼に似てたんです。あなたは流行の先を読む勘がするどくて、決断力もあった。だが、それは現在の仕事に通用しても、ほかの社会では通用しなかった。世間には子供なんかいらないという女性も多い。赤ん坊をコインロッカーに捨てる女さえいる。その反対に、どうしても子供が欲しい女性もいます。捨てられた赤ん坊を養護施設からもらって大切に育てる者も少なくありません。  でも、あなたは自分の血のつながった子供が欲しかった。ご主人はやさしくて、商売も順調だった。しかし子供にだけは恵まれなかった。結婚して七年経ち八年経った。一年ごとに若さがうしなわれ、子供が欲しいという願いが遠ざかってゆく。そう思って焦ったのかもしれない。あるいは世間を知らなかったのかもしれない。お嬢さんの歳から逆算すれば約三年前、おそらく、あなたは仕事で出張するふりをして札幌へ行った。そして知り合ったのが茂山良次という学生だった」  まさか茂山が大学を中退し、上京して偶然会うようになるとは想像もしなかったに違いない。しかも彼はグレて、女のヒモのような男になっていたのだ。脅迫されたら、彼の言いなりになるほかなかったろう。  しかし気の小さい彼は、共犯がいなければ恐喝者になるほどの図太さがなかった。美保が見つけて破った写真、茂山と由季恵がいっしょに写っていたという写真は第三者がいた証拠なのだ。もちろんそれは記念写真ではない。記念写真が横向きの顔など撮るはずがなかった。茂山がドリームランド・ホテルで古川に撮らせたに違いない。横向きの失敗作は美保に破られたが、古川は正面から撮った写真を持っていたはずだ。 「あなたは古川に脅迫された。写真をネタに、多額の金銭を要求された。そのとき、あなたはまた焦ってしまった。ご主人に話せば許してもらえたかもしれない。しかしそうは考えなかった。古川に茂山を殺させれば、今度は古川が殺人者の弱みであなたを脅迫できなくなると考えた」  古川は茂山の親友だった。美保のスケジュールもわかるし、茂山の部屋で二人きりになる時間も自由につくれる。  古川は金に眼がくらんだのだ。わたしの想像だが、億単位の報酬を由季恵に約束させたかもしれない。 「古川は欲張りで冷血な男だった。金儲けの仲間を茂山からあなたに変えた。そのほうが儲けが大きい。茂山は彼を親友と思っていても、古川のほうはそう思っていなかった。金のためなら、彼を裏切ることなど平気だった。そうじゃなかったのだろうか」 「———」  由季恵はうつむいていた。ひとことも口をはさまなかった。聞いているのかどうかもわからなかった。 「しかし、古川はあなたが考えたほど甘い男ではなかった。古川が殺人者なら、あなたを共犯に巻き込むことができる。古川は前より強気になった。そこであなたは三度目の間違いをおかしてしまった。古川が甘くなかったように、警察も甘くありません。現場にはタイヤの痕《あと》が残っている。タイヤの痕が消えたとしても、古川を撥《は》ね飛ばした車はどこかに痕跡《こんせき》が残っている。修理工場にだせば、その工場からアシがついてしまう」 「———」 「返事をしてくれませんか。ぼくの言うことがでたらめなら、はっきりとそう言ってもらいたいんだ」 「あなたのおっしゃるとおりです。わたしは孤児でした。父の名も母の名も知りません。だから、どうしても自分の血のつながった子が欲しかったんです。主人にやさしくしてもらっても、寂しくてたまらなかったんです」 「———」  今度はわたしが黙ってしまう番だった。  うつむいている由季恵の眼から、血の色のような赤い絨毯《じゆうたん》に涙が落ちた。その涙は落ちる前から血の色のようだった。 「ぼくは余計なおしゃべりをしたようです。今の話は忘れてください。警察はまだ気がつかないでいます。ご主人は茂山のことを知らないし、もちろんぼくもしゃべりません。あなたはお嬢さんのためにも生きていかなければいけない。わかってくれますか。これから先はぼくのひとりごとです。車を放っておくのは危険です。修理工場も危険です。もしぼくだったら海に捨てる。そうすれば少しは安全かもしれない」  わたしもとうとう由季恵の共犯になっていた。  しかし、由季恵はうつむいたきりだった。     9  事務所に戻ったが、仕事が手につかなかった。ジンを飲んだが、眼が冴えるばかりだった。  それでもジンを飲みつづけた。わたしも血のつながりを知らない者の一人だった。父の顔も母の顔も知らなかった。  そんなことをぼんやり考えているうちに、ソファに横になって眠ったようだった。  電話のベルが鳴るたび眼をさましたが、受話器をとる気がしなかった。受話器をとる代わりにジンを飲み、そしてまたいつの間にか眠っていた。近所に2DKの部屋を借りているが、こんなふうに事務所で寝てしまうことが珍しくなかった。  ようやく体を起こすと午前十時を過ぎていた。電話をかけてきたのは平尾だった。 「昨日の晩から何度も電話をしている。留守番電話のテープにも吹きこんでおいた。聞かなかったんですか」 「聞きません。眠ってたんです」 「由季恵が家出をした。探さないでくれというメモを残していった」 「それじゃ探さないほうがいいでしょう」 「そんなこと言っていて調査員がつとまるんですか」 「わかりません」 「きみは無責任だ」 「調査は終わったはずです」 「あらためて依頼する。由季恵を探し出してもらいたい」 「お断りします」 「なぜだ」 「眠いんです」 「たっぷり眠ったじゃないか」 「まだ眠り足りない」 「きみを見そこなったらしいな」 「いつも見そこなわれています」  わたしは電話を切った。  ほんとうにもっと眠りたかった。眠りつづけて、由季恵のことを忘れたかった。  しかし夜になって、ふたたび平尾がかけてきた電話はわたしを打ちのめした。 「由季恵が死んだ」 「死んだ?」  思わず聞き返した。 「芝浦海岸に車ごと飛びこんで死んだ」 「なぜですか」 「わからないが、探してくれようともしなかったきみにも責任がある」  確かにわたしにも責任があった。  しかし、生きることを望んだので、死なせるつもりはなかった。 「過失じゃないんですか」 「過失なら書置を残すはずがない」 「———」  わたしは何も言えなかった。由季恵の死を予感していたことは否定できなかった。  事件の陰に     1  隣室の結婚相談所は、数年前から結婚相談より離婚相談の件数が多くなったという。所長の塩野はこぼすようにそう言っていたが、相談にくる者の大半はかつて塩野の口車でまとめた縁だから、そのツケがまわってきたようなものだった。初めから無理があったのか、年が経って別れたい事情が生じたのか、結婚、離婚のどっちにしても商売繁昌で、深刻に心配しているようすはなかった。縁談をまとめたからといって、塩野にしてみれば商談の成立と変わりがない。彼自身が三度も結婚に失敗して、もう結婚には懲りているはずなのだ。  しかし、それらの経験は離婚相談に役立っているかもしれなかった。  わたしが頼まれる調査は大横弁護士の法律事務所からがいちばん多いが、塩野もお得意さんの一人だった。 「また仕事だが、頼まれてくれるかな」  塩野がノックと同時にドアをあけ、返事を待たないで入ってきた。いつものことだった。三つ揃いの地味なスーツを着て、ネクタイだけはやたらに派手だが、一見したところは紳士ふう、よく見ればどことなくうさん臭い。ちょびひげなんか生やしているせいかもしれないが、大横弁護士の悪党づらと同様で、わたしは塩野のうさん臭いところが気に入っていた。  塩野は五十五、六だろう。わたしより十歳は年長だ。背がやや低いが、押し出しはわるくない。 「忙しいのか」 「まあね」  あいまいに答えた。一仕事終えたあとだが、足もとを見られたくなかった。職業上の見栄もあった。仕事にあぶれかねないが、こういうときは痩せ我慢だった。 「依頼人が急いでるんだよ。内情をよく知らない探偵社などに頼めないし、流木《ながれぎ》さんのとこなら信頼できると言ってしまった。彼女はもうその気になっている」 「依頼人は女性ですか」 「うん。浦越順子といってね、三十六歳になるが、かなりの美人のほうじゃないかな。青山で美容院をやっている」 「塩野さんが仲人をした女性ですか」 「いや、結婚式の媒酌は新郎の上役にやってもらった。私は女房がいないから、媒酌人まではやれない。しかし、私が世話した縁談にはちがいないので、それで相談を持ちこまれた」 「今度は離婚の相談ですか」 「相談というより、どうしても別れたいというんだ」 「なぜですか」 「亭主の顔を見たくなくなったらしい。新婚当時は浮き浮きしていたのに、たった十年で修羅場だ。よく十年もったと言えんこともないけれどね」  塩野の初婚は一年たらずで破れていた。女房が結婚前から交際していた男とよりを戻したのが原因らしかった。  二度目は結婚後間もなく女房がひどい酒乱とわかり、酔うと刃物を振りまわして暴れるので、危険を感じて別れたと言っていた。  三度目は二年あまりつづいたが、女房に愛人ができて逃げてしまったという。  塩野はよくよく結婚運のない男だった。 「もう少し詳しい話を聞きたい」  わたしは応接セットのほうへ席を移した。それまで塩野は立ったままで、わたしは机に向かっていたが、落ち着いて話し合える場所はほかになかった。  塩野はハッカ入りのタバコに火をつけた。  わたしはタバコをのまない。 「浦越順子の夫の名前は」 「善人の善に太郎、善太郎だ。証券会社の課長で、仕事のほうは相当の遣り手らしい。しかし、十年前に会った頃はまったくそういう感じじゃなかった。いかにもしょぼくれた三十男で、当時は信用金庫に勤めていたが、顔色も冴えないし、趣味はゼロ、遊びといえばパチンコくらいだ。酒もタバコものまないという男だった。第一印象で、これじゃモテるわけがないと思ったよ。好きな女がいても、気が弱くてデートにも誘えないんだな。私の所にくる客の中でいちばん多いタイプだ。まじめ一方で家庭生活に対する憧れは人一倍強いが、女からみれば、おもしろみのない男かもしれないってわけだ」 「順子のほうは」 「初めは似たような印象だった。ちょっと口が大きすぎるが、顔立ちは整っている。しかしどうも暗いんだな。それ以外に縁遠い理由は考えられない。両親はちゃんと揃っているし、美容学校をでて美容師の免状も持っていた。もっとも美容師のほうは資格を取っただけで、その頃は食品関係の小さな会社に勤めていたが、友だちがつぎつぎに結婚するので焦っている感じだった。それに兄が婚約して、彼女は家に居辛くなるという事情もあったらしい。男女の仲なんてものはいっしょになってみなければわからない。正反対の性格がいい場合があるし、似た者同士がいいこともある。そこで見合いをさせたら、おたがいに好意を抱いたようだった」 「それが十年前ですか」 「正確にいうと九年前かな。私がこの仕事を始めたのがちょうど十年前だからね。私の経験でいえば、こういうことは急がないと目移りしやすい。あらが見えたり、ほかから縁談が持ちこまれたりして動揺する。だから三か月後には式を挙げさせた。ささやかながら披露宴もやって、新婚旅行はハワイだった。そして旅行から帰ったときは、二人とも見違えるほど明るくなっていた。あんなに極端に変わったカップルはめずらしい。幸福の絶頂という感じだった」 「子供は」 「いない。子供がいれば、離婚などという話にならなかったと思う」 「しかし、子供なんかいなくても円満な夫婦がたくさんいる。むしろ子供のために苦労が絶えなくて、一家心中なんて話も少なくない」 「まあ浦越順子から直接聞いてくれ。私がしゃべるより、じかに聞いたほうが間違いない。私の事務所で待ちくたびれているはずだ」 「まだ引き受けると言った憶えはありませんけれどね。いったい何を調べるのかも聞かされていない」 「それは例によって例のごとしだよ。べつに難題を押しつけようというんじゃない。善太郎はうだつの上がらない男だったが、結婚して生活に張りがでたのか、それとも株屋の水が性に合ったのか、勤めを替えてからばりばり働いて業績を伸ばし、腕ききの証券マンになって課長の肩書もついた。会社に内緒の仕事もやってるんじゃないかと思うが、とにかく羽振りがよくなったことは確からしい。また順子のほうも、子供がいなくて退屈なので美容院へ勤めはじめ、チェーン店の雇われ店主ながら一軒の美容院を任せられるまでになった。しかしここまでは結構だが、あとがいけない。金まわりがよくなったり肩書がついたりすると、人間というやつはろくなことを考えない。というより、考えもしなかったことを考えるようになる。考えるだけならいいが、つい欲しいものに手が伸びてしまう。そのいちばん手軽なコースが浮気だ。うんざりするくらい月並なコースだ。酒もタバコものまなかった男だが、すっかり変わったらしい」 「浮気の相手はわかってるんですか」 「はっきりしないが、見当はついている」  新宿歌舞伎町のシャルレというクラブの女だった。ビルの地階にあるというから、ディスコなどとちがって、ふりの客が入る店ではない。もちろん、塩野は善太郎に顔を知られているから内偵は無理だ。 「実費がかなりかかりそうですね」 「やむをえない。前払いの着手金も用意させてきた。離婚がうまくいけば、彼女も自分の店を出せると言っている」 「つまり、目的は慰謝料ですか」 「ということになる。善太郎が金を貯めていることは確実らしい」 「とにかく会ってみます」 「ありがたい。よろしく頼むよ。私はこれ以上口を出さない。あなたに全部任せる」  わたしにあとを任せるということは、塩野はもう責任を取らないという意味だった。そのくせ、わたしへの紹介料と離婚がうまくいったときの成功報酬はたっぷり取る計算にちがいなかった。     2  浦越順子は美容院をやっているというので洋装のすがたしか想像しなかったが、縞のきものをきりっと着こなして、確かに口が大きいけれど、その口が魅力のポイントになっていた。十年前に結婚を焦っていたという面影はない。年齢とともに容貌がおとろえる女性がふつうだろうが、まったく逆の女性もいる。塩野の話を信用すれば、順子は後者かもしれなかった。しっとりした落ち着きがあり、やや気丈なようだが、わるい感じではない。  早速話を聞くことにした。 「塩野さんからお聞きと思いますが、わたしは名刺を持っていません。どんな場合でも、調査員ということが知れたら依頼者に迷惑をかける恐れがあるからで、依頼者の秘密は守ります。わたしがひとりでやっているのも秘密を守るためです。仕事に関しては、自分以外の者を信用しません」 「ご家族もいらっしゃらないとうかがいました」 「結婚したことはありますが、大分前に別れたきりです」 「以前は警察にお勤めだったのでしょうか」 「いえ、大学を中退してからいろいろな職業を転々としましたが、どこもわたしに向かなかったのです。いまの仕事も、向いていると思っているわけじゃありません。どうぞ、お話をうかがいます。いつ頃からご主人とまずくなったんですか」 「三年くらい前です。毎晩のように帰りが二時、三時という真夜中過ぎで、わたくしはお仕事のためと思っておりましたけれど、そのうち朝になっても帰らないことが多くなりました。わたくしが美容院の仕事に追われて、あまり主人をかまってやれないでいたのもいけなかったかもしれません」 「ご主人が家をあけたときなど、理由を聞きましたか」 「聞きません。ちゃんとした理由があれば自分で言うはずです。無理に聞こうとして、嘘をつかれるのも厭《いや》でした。主人は隠し事がへたで、すぐ顔色にでてしまいます」 「愛人ということばを使っていいかどうかわかりませんが、そういう女性がいると思っているわけですね」 「はい」 「無断外泊のせいですか」 「それだけじゃありません。初めに気がついたのはマッチです。主人がバーや料亭のマッチを持ち帰ることは珍しくないので、ふつうは気にしないでいます。でも、シャルレのマッチを見たときは箱にボールペンで電話番号がメモしてありました。シャルレは新宿ですけれど、そのメモの局番は目黒でした」 「ご主人の字ですか」 「いえ」 「名前は」 「電話番号だけです。わたくしは疑い深くなっていました。それから何日か経って、主人が酔って寝込んでいる間に、そっと手帳をのぞきました。そしたらシャルレのマッチにメモしてあった電話番号が書いてありました。やはり電話番号だけです」 「名前はわからないままですか」 「はい」 「三年もつづいているとすれば、相当深い仲になっているかもしれない」 「わたくしもそう思います。塩野さんのおかげで、わたくしも主人も幸福をつかんだつもりでした。その頃の喜びは忘れません。毎日が充実していました。でも、貧しかったから励まし合い慰め合うことができたのです。主人が勤めを替え、わたくしも仕事を持つようになってから、だんだん元の他人に戻ってゆくような気がしてきました。お医者さんに診《み》ていただきましたが、子供ができないのはわたくしのせいでも主人のせいでもないそうです。けれど、今は子供がいなくてよかったと思っています。別れることに未練はありません。これ以上いっしょに暮らそうとすれば、憎み合うようになるばかりでしょう。わたくしは三十六歳、主人は四十三歳です。おたがいに今のうちなら出直せます。女の三十六は男の方のようにいかないでしょうが、とにかく独りになりたいのです。もう結婚は懲りましたから、再婚などは考えません。独りきりになって、自分のお店を持ちたいのです」  しかし、そのためには資金が要る。  目当ては慰謝料しかないのだ。別れ話だけなら簡単だろうが、善太郎の異性関係を家庭裁判所に持ちこむ資料が必要だった。  順子は善太郎の写真を用意していた。縁なしの眼鏡をかけて、唇の薄い、神経質そうな顔だった。  わたしは、着手金と日当その他の費用の概略を言った。  順子は着手金を現金で払った。     3  わたしは美保のことを考えていた。ポルノ雑誌のモデルはやめたらしいが、同棲していた男が殺されたのにけろっとしたようすで、その事件以来わたしの事務所にちょいちょい顔を出している。  美保は四階の万沢商会へ行った帰りにわたしの事務所に寄るので、そのたびに助手にしてくれというが、本名も年齢もはっきりしない家出娘を助手にするわけにいかなかった。  しかし自称十八歳、小柄だが、化粧次第でそれくらいに見えないことはなさそうだった。ふだんは化粧をしていない。おとなっぽい魅力と、おとなになりきれない魅力が下ぶくれの顔にあらわれている。  わたしはしばらく考えた。  ほかに知っている女がいないでもなかった。  しかし、美保がいちばん適役のようだった。  美保に電話をしてみた。  留守らしかった。  外へ出た。  日が落ちて、風がつめたかった。  ぶらぶら歩いて、シャルレの前を通り過ぎた。従業員募集の貼紙《はりがみ》が風に吹かれていた。たいして高級な店ではなさそうだ。  いったん戻ることにした。  そのとき、声をかけられた。  美保だった。上下ともジーンズでかためて、ターバンのような帽子をかぶっていた。 「どこ行くの」 「女を探してるんだ」 「あたしのことかしら」 「ことによると、きみかもしれない」 「不まじめな返事ね。いつも不まじめだわ」 「きみこそ、どこへ行くんだ」 「どこへ行こうか考えてたのよ」 「仕事にあぶれたのか」 「ずっとあぶれてるわ」 「それじゃコーヒーでも飲もう」 「流木さんもあぶれてるの」 「どうかな。話に乗ってくれるなら、頼みたいことがある」 「あたしに」 「うん」  肩をならべて喫茶店に入った。  わたしはコーヒーを、美保は腹がすいていると言ってスパゲッティを注文した。 「どんな話かしら」 「きみはバーに勤めたことがあるかい」 「あるわ、バーもクラブもキャバレーも」 「そんなにレパートリーが広くなくていい。バーもクラブも同じようなものだが、この近くにシャルレというクラブがある。知らないかな。一階が小料理屋で、その地下だ」 「———」  美保は細い首を傾けた。憶えがないようだった。 「それじゃ、あとで店の前まで案内するが、従業員募集の貼紙がでていた。三、四日働いてもらえるとありがたい」 「わかったわ。お仕事を手伝わせてくれるのね」 「ぼくのほうから頼んでいる」 「任せてもらうわ。犯人を探すの」 「そういう物騒な話じゃない。きみはホステスになってくれるだけでいい。そしたら、ぼくはきみの客としてゆく。ふりで入ったら怪しまれる」 「そしてどうなるのかしら」 「あとはぼくの仕事だ」 「あたしの仕事は」 「いま話したとおりさ」 「ばかみたいだわ」 「やむをえない。仕事の内容はだれにも言えないんだ。お礼として、きみが店に着てゆく服はぼくが進呈する。吊《つる》しで我慢してもらうけれどね」 「服くらいは、あたしだって持ってるわ。いつから働くの」 「早いほうがいい」 「それじゃ今夜ね」 「うん」 「保証人が要《い》るわよ、きっと」 「保証人は小峰さんに頼む。毎度のことで馴れている」  小峰はわたしの事務所のあるビルの持主で、一階でブラザーというスナックを経営している。親の遺産でビルを建てたらしいが、ちょっと風変わりな男で、年に一度は銀座の画廊で油絵の個展をひらいていた。  ただし、絵が売れた話は聞いたことがない。 「毎度なんてこと知らなかったわ」  美保は不服そうだったが、食欲は旺盛で、スパゲッティをたちまちたいらげた。 「要領はわかってるね」 「もちろんよ」 「きみなら問題なく採用される。ぼくは事務所にいるが、なるたけ遅い時間のほうがいい。退屈したら、マダムのパトロンなどを聞き出してくれ」 「なぜマダムに興味があるの」 「なんとなくだ」  わたしは話をそらした。     4  美保は自分の服を着てゆくというので、シャルレの前を通り過ぎて別れると、ブラザーで小峰に保証人の件を頼み、軽い食事をすませた。  あとは美保の電話を待つばかりだった。  ラジオを聞きながら、一段落した仕事の報告書をワープロで打った。  わたしはソファに寝そべった。  浦越善太郎の愛人がシャルレにいるとすれば、マダム以外に考えられない。三年もつづいた仲で、男が本当に女に惚れているなら、店をやめさせるか、小さな店を持たせるのがふつうだろう。ホステスとして三年も同じ店で働かせておく男は、よほど甲斐性がないことになる。ヒモのような男なら別だが、善太郎は金まわりがいいはずで、やはりマダムしか考えられなかった。  わたしはいつの間にかうとうとした。この数日間寝不足がつづいていた。  電話のベルで眼をさました。 「もう九時半よ。お客さんがこんできたわ」  美保の声だった。張り切っている声だ。ざわめきにまじって男の歌う声も聞こえた。 「万事OKか」 「ママが気に入ってくれたみたい」 「それじゃ、ひげを剃ってからゆく」 「いいわよ、ひげなんか剃らなくても」 「そうはいかない。ぼくはきみの大事な客になるんだ。しかも初めての指名客じゃないか。きみの信用にかかわる」 「そんな心配いらないわ。流木さんは五番目よ。初日から流木さんひとりじゃ心細いと思って、あっちこっちに電話したの」 「まさか万沢商会の連中じゃないだろうな」 「もっと堅いお勤めの人たちばかりよ。ほんとに堅いかどうか知らないけれど、あたしにはやさしいわ」 「ふうん」  憮然として受話器を置いた。  わたしは美保の交際範囲を知らなかった。万沢商会に出入りしているが、いったい何をやっているのか、美保が話したがらないので、わたしも聞かないことにしていた。  シャワーを浴び、ひげを剃った。  服を着替えて、きちんとネクタイもしめた。  塩野の結婚相談所は明りが消えていた。  新宿という街は昼も夜もない。いつも人でごった返している。もっとも都会的なようで、実はもっともいなか臭い街だ。その点は六本木や原宿界隈もよく似ていた。  シャルレの入口は狭かった。  薄暗い階段をおりた。  ドアをあけると、数人のグループが帰るところらしく、見送りのホステスに囲まれていた。  わたしはそれらの連中をかきわけるようにして中へ入った。  タバコの煙が立ちこめていたが、奥のほうの席にいた美保が眼ざとくわたしを見つけ、手を振った。  テーブルが一卓だけ空いていた。美保があけておいてくれたのだ。 「いいのかい、ぼくの席にいて」 「いいのよ。あたしのお客さん、帰ったばかりですもの」 「少し飲み過ぎてるんじゃないかな」 「そうかしら」 「顔色がよくない」 「ライトのせいよ」  美保はブルーのドレスを着て、化粧もアイ・シャドウを濃くして、おとなびた感じになっていた。  カウンターは五、六人並べばいっぱいになる程度、テーブル席が主なようだが、それでも二十人は無理だろう。こぢんまりして、感じはわるくない。繁昌しているが、柄のわるい客もいないようだった。  わたしはウィスキーの水割りで、美保はカンパリを注文した。ひとりで飲むときはジンに氷を浮かべるが、仕事のときはなるたけ印象を残さないようにしている。  浦越善太郎らしい客は見えなかった。  やがてマダムがあらわれ、自己紹介をして、名刺を出した。井森高江という名前だった。もちろん本名かどうかわからない。眼と口の大きな美人だった。口の大きさは順子のほうが上だが、わたしの好みでは器量も順子のほうが上だった。年齢は四十前後だろう。愛想がいいのは商売柄だ。美保を引き立てるように話を運びながら、わたしと美保の関係に探りを入れようとしている。  美保の前歴は小峰のスナック・ブラザーで働いていたことになっていて、わたしはその店で美保を知ったことになっていた。それと、名刺は切らしたことにして済ませるが、職業も画家といえばそれ以上聞かれることはなかった。無名の画家が多いし、画壇で著名な画家でも世間一般で知られている者はきわめて少ない。  ただ、流木という名字はめずらしいので、忘れられやすい名字を適当に使っている。マダムとしては、飲み逃げされなければいいのだ。マダムが席にきたのもその点を気にしたせいで、わたしは現金払いの客だということをさりげなく匂わせてやった。  マダムは間もなくほかの席へ移った。  十一時を過ぎた。  善太郎はまだあらわれない。あらわれるという保証はどこにもなく、わたしが勝手に待っているだけだった。  客はつぎつぎにマイクをとって、カラオケで下手な歌をうたっていた。おそらく、帰宅したら渋い顔をしている亭主たちだ。  日給制の美保は、十一時になれば帰っていい契約になっている。 「ぼつぼつ引き上げるかな」 「今夜は無駄だったみたいね」 「明日また来るさ」 「お勘定、安くないわよ」 「しかし、そんなに高くもないだろう。きみが心配することはない」 「それじゃ、あたしも帰ろうかしら。くたびれちゃった」 「鮨《すし》でもおごるか。先に出ている」  わたしは席を立った。勘定は予測していた程度で、安くはないが、高くもなかった。  待つほどもなく、美保がコートを羽織ってきた。  鮨屋に入った。 「見違えたよ。実にうまく化けた」 「もっと年上にも化けられるわ。ママは若く化けているけれど」 「いくつだろ」 「四十二、三じゃないかしら。自分では三十二って言ってるそうよ」 「パトロンらしい男は見えなかったな」 「あたしも気がつかなかった。でも、パトロンの話は聞いたわ。一人は証券会社の人ね。浦越さんていったかしら」 「ほかにもパトロンがいるのか」 「いるみたいな話よ。材木会社の社長とか、運送会社の重役とか、よくわからないけれど、二、三人ダブっているかもしれない。あのママならそれくらい平ちゃらって感じね。お客さんは社用ばかりだし、ママは女の子の使い方もうまいって評判よ」 「ホステスの間の評判か」 「中学の先生みたいに注意してくれる人がいたの、だから注意しなさいって」 「つまり、その人からみれば、きみはまだ子供で危っかしく見えたのかな」 「でも、あたしは二十歳って言ってあるわ」 「二十歳は無理だろう。せいぜい十八だ」 「そうかしら」  わたしたちはビールを飲み、鮨をつまんだ。  美保は相変わらず食欲がさかんだった。体質のせいか、その割には太っていない。 「マダムのこと、もっと聞いてみてくれないか。住所も知りたい。パトロンについても詳しく知りたい」 「なぜ」 「仕事だ」 「あたしは口を出しちゃいけないのね」 「仕方がない、ぼくは明日の晩もシャルレへ行くが、適当に切り上げて帰る。きみはマダムに気に入られるようにして、最後まで残るんだ。そしてマダムといっしょに帰れば、住所くらいはわかるだろう」 「そんなふうにして、いつまで勤めるの」 「三日間だ」 「たった三日間」 「ふところの都合がある。きみと飲みたかったらほかで飲む。シャルレで飲んだら、ホステス・チャージがつくし、食いたくもないオードブルやフルーツまで勘定にぶちこまれる」 「それでお仕事が済むの」 「済まなかったら、ひとりで行ってバーテンを相手にカウンターで飲む。そうすれば安あがりだ」 「あたしは捨てられるのかしら」 「そういう意味にとられると困る。余分な金を使いたくないんだ。ぼくの金を使うわけじゃないけれどね」 「でも、あたしはあの店が好きになるかもしれない。そしたら、流木さんの用がなくなっても勤めていていいわね」 「きみは十八歳になっていないだろう。バレたらまずい」 「平気よ。一度もバレたことないわ」 「どうかな」  わたしはやましい気持だった。仕事がやましかったし、わたし自身がやましかった。いつもそう思いながら続けている仕事だった。     5  二日目の夜も徒労だった。  三日目はわたしの出足が遅れて、シャルレへ行ったときは浦越善太郎が十分くらいの違いで帰ったあとだった。  しかし、この間まったく無駄なわけではなかった。善太郎がシャルレに通っていることがわかったし、その晩の彼はまっすぐ帰宅したのか、その代わり美保がマダムの井森高江といっしょに帰ることに成功していた。ほかのホステスもいっしょだったが、高江の部屋で午前八時まで麻雀をやっていたという。  翌日は土曜で店が休みだったのだ。  高江は東横線の中目黒に近いマンションの一階に住んでいた。 「同居人はいないのか」 「いないみたい。いたら、あたしたちを呼ばなかったはずよ。五部屋もあって、すばらしいマンションだったわ」  美保は徹夜マージャンの眠そうな眼をして言った。 「きょうは早く帰って、たっぷり眠るんだな」 「明日は」 「きみの自由だ」 「明後日は」 「ずっときみの自由さ。きまってるじゃないか」 「あたしのこと、少しも考えてくれないのね」 「少しは考えている」 「少しって、どれくらいかしら」 「シャルレはやめたほうがいい」 「やめたら、また万沢さんの仕事をしないと食べていけないわ」 「モデルか」 「———」  答えを聞くまでもなかった。万沢の仕事でモデルといえば、衣裳無用のモデルだった。 「考えておくよ。今度は本当に厄介をかけた。けれど、ぼくの仕事は滅多に助手が必要なことがないし、助手を使っても給料を払う余裕がない。別の仕事を考えてみる」  わたしの頭に浮かんでいるのは、小峰のスナックで働けるかということだけだった。しかし、美保のウェイトレスすがたは想像がむずかしかった。  美保を帰らせてから、浦越順子がやっている美容院に電話をかけた。調査を打ち切るとしても、これまでの費用を払ってもらわなければならない。  わたしは費用の概算を告げて、事務所に来てもらうことにした。  待っている間に結婚相談所の塩野が顔を出したが、調査の経過は教えなかった。  やがてドアのチャイムが鳴って、色ガラスに人影が映った。  順子だった。先日のきもの姿とちがって、明るい紺系統の洋装で色調を統一していた。 「どうぞ——」  応接用のソファに案内した。 「電話で申し上げたとおりです。ご不満かもしれませんが——」  わたしは説明を繰り返した。  善太郎がシャルレへ通っていることは間違いない。ホステスにパトロンの一人と見なされているようだし、手帳にメモしてあったという電話番号も高江の自宅の電話番号と一致していた。マダムの名前とともに、マンションのルーム・ナンバーもわかった。  しかしこれだけでは、離婚請求の要件として、善太郎の不貞の決め手にならなかった。 「どうしますか。すでに大分費用がかかっています。これ以上つづけても無駄かもしれないが、ご主人が井森高江の部屋に出入りする姿をカメラで撮れるかもしれない。わたしにはどっちとも言えません」 「しばらく考えさせていただきます。でも、またお願いに上がってよろしいでしょうか」 「結構です」  わたしはシャルレの勘定書などをつけて費用の明細を示した。  順子はきれいな字で、小切手を切った。  順子のうしろ姿を見送ると、わたしはソファに寝そべった。吹っ切れない気分が残っていた。仕事が中途半端なのだ。  しかし、文句を言える相手はいなかった。いつものことだと思い、馴《な》れているはずだと自分に言い聞かせるしかなかった。  それから数日経った。  美保は三日勤めただけでシャルレを辞め、万沢の仕事だと言ってグアムへ行ってしまった。  わたしは時おり順子や高江の顔を思い出して、そのたびに依然吹っ切れない気分を味わっていた。  新聞紙を片手に、結婚相談所の塩野が興奮したように入ってきた。  わたしはまだ夕刊を読んでいなかった。 「これを見ろよ。浦越順子の亭主、善太郎じゃないか。写真もでている。間違いない。住所も渋谷区の西原だ」  新聞は変死と書いているが、他殺の疑いを匂わせていた。死んでいた場所が鶴田のり子という女の部屋で、彼女が死体を見つけたようだった。のり子は銀座のバーに勤めているが、アパートに帰ったら死体があったという。住所は豊島区巣鴨である。 「いったい、どういうわけだ。鶴田のり子なんて女、聞いたこともない」 「ぼくも聞かなかった」 「順子も知らないのだろうか」 「わかりませんね」 「これが井森高江の部屋ならわかる。あなたの調査結果は浦越順子から聞いているが、彼女はしばらく考えたいと言っていた」 「ぼくにもそう言ってました」 「この記事によると、善太郎は鶴田のり子がいる店の客だったらしい。ただの仲じゃないな。善太郎がのり子の部屋にいただけでも、ふつうの仲じゃない。しかも、頭に打撲傷があって、倒れた際の傷かどうかわからないと書いている」 「順子に電話をしてみましたか」 「したけれど、出かけていた。葬式の準備などで忙しいのだろう」 「しばらく考えたいと言ったまま、別れ話はそれっきりですか」 「我慢したいようなことも言っていたが、それっきりだった。こういうのは困るよ。わが社の名誉にかかわる」  塩野はぶつぶつ言いながら隣室へ去った。  新聞を読み返し、三十分くらいぼんやりしていたが、やはりじっとしていられなかった。  ビルの裏の駐車場へまわった。  車で行くことにしたのは、急ぐためではなく、途中でゆっくり考えるためだった。さんざん乗りつくした車で、わたし以外の運転では動かない。  車の流れはあちこちで渋滞していた。  鶴田のり子のアパートに着いた頃は、午後の八時近かった。  のり子は刑事の取調べからいったん解放されたあとで、一睡もしなかったような顔で迎えた。眼のくりっとした、二十歳くらいの女だ。  わたしは善太郎の友だちのふりをして、死体を見つけたときのようすを聞いた。 「ドアをあけたら、浦越さんが倒れていたのよ。びっくりして、口もきけなかったわ」 「すぐ死んでいるとわかりましたか」 「手も足も顔もつめたくて、死んでいると思ったときは、驚いてあたしも死にそうなくらいだった」 「以前からこちらに泊まることがあったんですか」 「刑事さんに正直に言いましたけれど、家に帰りたくないというようなとき、たまにです。鍵は預けていません」 「すると、どうやって部屋に入ったのかな」 「ドライバーか何かで、ドアをこじあけたらしいんです」 「しかし、そんな真似をしなくても、きみに入れてもらえたはずでしょう」 「だから変なので、刑事さんも変だと言ってました」 「昨夜、あなたは勤めに出てましたか」 「ええ、十一時半頃お店をひけて、ちょっと人に会ってコーヒーを飲んだりしていたので、帰ったのは一時半か二時頃です」 「店をひけてから会った人というのは」 「去年までいたお店のママで、偶然会ったんです」 「なんという店ですか」 「シャルレ」 「シャルレなら、ぼくはマダムを知っている。井森高江さんだ。きみはまだ刑事にしゃべらないことがあるんじゃないかな。浦越はシャルレのマダムに惚れてたはずなんだ。きみも去年までシャルレにいたなら、当然それを知っていたに違いない」 「———」 「きみが銀座の店へ移ったことを、浦越は誰に聞いたんだろう。近頃の彼はあまりシャルレに行っていない。きみがいなくなったからだ。その代わり、銀座へ行けばきみに会える。きみは若いし、シャルレのマダムより魅力がある」 「———」 「黙られては困るんだけれどな」 「———」 「きみと浦越の仲を、シャルレのマダムは知ってるのか」 「———」  下を向いて、のり子は黙ったきりだった。     6  シャルレへ行き、マダムの高江に大事な話があると言って、外へ出てもらった。  善太郎の死は店じゅうの話題になったはずで、もちろん高江も知っていた。 「ぼくが画家と言ったのは嘘です。刑事じゃないが、似たような仕事をしている。それであなたについていろいろと調べた。あなたと浦越善太郎は親密な間柄だったらしい。しかし、最近はどうなのかな。疎遠になってたんじゃないだろうか」 「おっしゃるとおりです。なにか勘違いをなさっているようなので、あたしは隠さずに申し上げます。お店の経営が苦しかった頃、浦越さんのお世話になったことがあります。愛し合ったように錯覚したこともありますわ。でも、浦越さんには美しいおくさんがいますし、あたしなどは浮気相手にすぎません。親密な間柄といわれても、短い期間でした」 「ぼくにはそんなふうに思えない。疎遠になりながらも浦越はシャルレへ通っていた。まだ未練があったのか、あなたが放さなかったのか、そのどっちかでしょう」 「やはり勘違いをなさっています。あたしはとうに飽きられた女です。それに、また誤解されるかもしれませんけれど、あたしは男性に不自由しておりません。今はお金にも不自由しておりません」 「浦越夫人に会ったことがありますか」 「いえ、お美しい方とうかがっているだけです」 「浦越は夫人ともうまくいっていなかった。それがあなたのせいじゃないとすれば、ほかに好きな女性ができたのかもしれない。その女性を知りませんか」 「存じません」 「いや、あなたが知らないわけはない。新聞を読んだはずでしょう。死体を見つけたのは鶴田のり子、以前はシャルレにいた女です」 「のり子さんなら知っていますけれど」 「ただ知っているだけですか」 「はい」 「ちがうな。あなたはぼくより嘘が下手らしい。昨夜十一時半過ぎ、あなたは銀座でのり子と会っている」 「それは偶然でした」 「何をしに銀座へ行ったんですか」 「買物です」 「夜の十一時半ですよ。銀座の十一時半は買物という時間じゃない。飲食店のほかは、たいていの店がしまっている。あなたも、よほどの用がなければシャルレにいる時間だ」 「———」  高江は顔をそらした。胸の開いたドレスで、ネックチェーンが金色に光っていたが、寒そうな金色だった。 「あなたは店をマネージャーに任せ、のり子の帰りを待ちぶせていたんだ。いずれ巣鴨のアパートへ帰れば、浦越の死体を発見する。そのとき、のり子に疑われることを警戒したためだ。のり子の部屋のドアはドライバーのような物でこじあけられていたという。だれかがドアをこじあけ、死体を運びこんだにちがいない。あなたは浦越とのり子の仲を知っていた。のり子のアパートも知っていた。車も持っている。なぜ浦越を殺したんですか」 「ちがいます。あたしが殺したんじゃありません」 「それじゃ誰が殺したのかな」 「知りません。さっきは嘘をいいました。疑われるのが恐ろしかったんです。でも、もう嘘はつきません。昨日の夜、いったんお店に出てから、忘れ物を取りに帰りました。そしたら、浦越さんが死んでいたのです。あたしの部屋で、すっかり体が冷たくなっていました」 「あなたの部屋に、どうやって浦越は入ったんだろう」 「鍵を持っていました」 「彼とは切れてたんじゃないんですか」 「ほとんど切れたようなものでしたが、鍵を返してくれないので、錠を取り換えようと思っていたところです」 「すると、浦越は合鍵を使ってあなたの部屋に入り、どこかに頭をぶつけて死んだ。あなたはそれを見つけ、警察に届けたら世間に知れて商売の差しさわりになると思った。それで浦越を奪った鶴田のり子に責任をかぶせようとして、死体を車で運んだ、と考えてかまわないのかな」 「———」 「浦越は浮気な男だったかもしれない。しかし鶴田のり子に惚れ、あなたと疎遠になっていたという彼が、なぜあなたの部屋に入ったのだろう。しかも、あなたが留守とわかっている時間だ」 「———」 「死体を見つけたのは何時頃ですか」 「九時半頃だったと思います」 「また妙な話になりましたね。あなたは十一時半頃のり子に会ってるんですよ。男の重い死体を、人に見られないように気をつけながら、たった三時間で中目黒のお宅から巣鴨まで運び、ドライバーでドアをこじあけてのり子の部屋に放りこんで、それからゆうゆうと銀座にあらわれている。ちょっと無理じゃないかな。ぼくはこのまま引きさがってもかまわないが、警察はぼくのように甘くない」 「お願いです。警察に黙っていてくださるなら、もう少しお話があります」 「話の内容によりますね。ぼくは刑事じゃないが、人助けの道楽もない」 「浦越さんを車で運ぶのは、ある人に頼みました」 「ある人って」 「友だちです。まだ学生ですが、あたしが無理に頼んだので、責任を感じています」 「つまり、死体を見つけたのはあなたが最初じゃなかった。合鍵を持っている男がもう一人いて、そいつが死体を見つけ、店に出ていたあなたを呼んだ。あなたは驚いて部屋へ帰った。そして二人で相談した結果が、巣鴨における死体と、銀座におけるのり子との出会いですか」 「———」  高江は道端にしゃがんでしまった。     7  浦越夫妻の家はブロック塀に囲まれた一戸建てで、弔問客がひととおり帰ったあとらしく、まだ通夜の客が何人か残っているだろうが、ひっそりしていた。  わたしは公衆電話のダイヤルをまわし、電話口にでた男に順子へ取り継いでもらった。 「どんなご用でしょうか」  順子の声は乱れていなかった。 「お目にかかってお話します」 「お願いしたことは済んだはずですけれど」 「だから仕事ではありません。自分の気持にけりをつけたいんです」 「そうおっしゃられても困りますわ」 「それじゃ警察にけりをつけてもらいます。それでもかまいませんか」 「———」 「わたしは今ご近所の公衆電話にいます。お宅から五十メートルと離れていない」  わたしは場所を言って、返事を聞かずに受話器を置き、車に戻った。  十分くらい待った。  月のひかりを背にして、黒い人影が近づいてきた。喪服すがたの順子だった。  声をかけると、びくっとしたように肩をふるわせた。  わたしは車を出た。 「意外なことになって驚いています。ご遺体は解剖されたはずですが、死因などはわかったのでしょうか」 「堅い物で殴られた痕《あと》があるようにうかがいました」 「それじゃ他殺ですね。犯人は遺体を見つけたという鶴田のり子だろうか」 「わかりません。聞いたこともない名前でした」 「わたしはのり子に会ってみました。のり子はシャルレにいたことがあります。ご主人はシャルレでのり子を知り、彼女のアパートへゆくようになったようです。しかし、のり子が犯人じゃありません。遺体は中目黒から運ばれてきました」 「中目黒——」 「おくさんもご存じの、井森高江のマンションです。だが、高江も犯人ではありません。ご主人はほかの場所で殺され、高江の部屋に運ばれたんです」 「ほかの場所といいますと——」 「お宅以外に考えられない。おくさんはご主人の浮気相手を井森高江ひとりと思いこんでいた」 「まるで、わたくしが殺したようなおっしゃり方ですのね。わたくしは主人を殺す理由などありません。愛情がなければ、嫉妬もしません。それなのに、なぜ殺すのかしら」 「愛情がなくても、つい逆上してしまう場合がある。わたしの報告を聞いたあと、わたしはもう無用になった。しかし、いずれはご主人の浮気現場をつかむつもりだったにちがいない。だが、その前に思いがけないことが起きてしまった」 「どういうことかしら」 「おくさんは車の免許証をお持ちですか」 「いえ、ハンドルを握ったこともございません」 「お店の定休日は何曜ですか」 「水曜日です」 「昨日ですね。それですべて辻褄《つじつま》が合う。昨日の昼間、おくさん自身がほかの男と愛し合っている現場をご主人に見つかったんじゃないかな。だから分別をうしなってしまった。犯人はおくさんか愛人の男か知りません。とにかく、ゴルフのクラブか何かでご主人を殴り殺してしまった。当然あわてたと思いますが、そのとき頭に浮かんだのが井森高江の存在だった。暗くなったら高江はシャルレへ行くから、部屋は留守になる。ご主人の鍵束を全部つかってみれば、どれかが高江の部屋の錠に合うと思ってもおかしくない。事実、ご主人は高江の部屋の合鍵を持っていました。ただ、高江が遺体を巣鴨へ運ぶなんてことまでは想像できなかったでしょう。おくさんはさぞかしびっくりしたはずだ。といって、事情を問いただすわけにもいかなかった」 「———」  順子の眼がわたしの後方へ走った。  わたしは振り返った。  若い男が立っていた。背の高い、体格のいい男だった。  しかし、そいつは立っているだけで、動く気配はまったくなかった。 「英ちゃん、あたしたちツイてなかったみたいね」  順子は若い男に向かって、破れた紙風船を投げるように言った。  その翌日。  結婚相談所の塩野がわたしの事務所にきて言った。 「犯罪の陰に女ありとか、事件の陰に女ありなんていうが、近頃は全然ちがうね。事件の陰には男ありだ。離婚したいと言ってくるのも圧倒的に女が多くなった」  塩野はしきりにぼやきつづけた。  擦れ違った顔     1  わたしの事務所は四階建てのビルの二階だった。入口に流木《ながれぎ》調査事務所という小さなプレートをかけているが、調査事務所などは電話一本あれば開業できる。職業別の電話帳をひらくと興信所や探偵社とともに興信業の欄に分類されているが、リサーチ・センターなどと名称を変えても同じで、監督官庁さえないという点は隣室の結婚相談所と似ていた。  しかし、需要が多いことは電話帳をめくればわかるし、わたしのところだけが暇な感じだった。大手の興信所とちがって個人タクシーのようなものだが、といって街へ出て客を拾うわけにもいかなかった。  もちろん、ぼんやりしていたら干上がってしまう。忙しいときはやたらに忙しいが、いったん仕事が切れるといつまで切れているかわからない。  わたしは商売仲間に電話をして、仕事を探そうと思っていた。  そこへ、結婚相談所の塩野が入ってきた。年齢五十五、六、わたしより十歳以上は年長だ。ちょびひげを生やして、一見紳士ふうだが、彼も近頃は暇らしく、憂鬱そうな顔だった。 「弱ってるんだがね」  前置きなしで、いきなり言った。  わたしは返事のしようがないから、彼の派手なネクタイを眺めていた。あまりいい趣味ではなかった。 「ちょっと厄介な問題で、もしかすると警察沙汰になる。そのつもりで聞いてくれないかな。わかっているだろうが、他言は絶対に困る」 「また夫婦喧嘩ですか」  塩野は自分が成立させた縁談のアフター・サービスを売り物にしていて、夫婦喧嘩の仲裁から離婚の相談まで引き受けているのだ。おかげで、わたしは夫婦の一方の浮気調査を何度か頼まれていた。 「そうじゃない。女が殺されたんだ。ただし夫が妻を殺したわけではない。わたしの客が殺したというわけでもない」 「わけがわかりませんね」 「だから、わかるように話す。落ち着いてくれ」 「ぼくは落ち着いています」  まだ内容を聞いていないのだ。 「今、わたしの部屋に西崎という男がいる。四年前に女房を世話してやった男だ。おとなしい真面目な男で、女房もおとなしそうな女だった。だいたいわたしのところにくる連中は弱気で遊びも苦手というのが多いが、とにかくこの四年間、夫婦仲は円満だと思っていた。正月には、毎年欠かさず夫婦そろって挨拶にくるくらいだった。ところが、最近になって亭主の西崎に好きな女ができてしまった」 「やはり夫婦喧嘩じゃないですか」 「いや、西崎の浮気はバレていない。浮気の相手は新橋のバーで働いている小川初美という女で、二十歳になったばかりだ。西崎は魔がさしたと言っているが、とにかく夢中になってしまったらしい」 「西崎はいくつですか」 「三十八だ」 「西崎の妻は」 「四つ下だったかな」 「初美との間にハンディキャップがありますね。西崎はサラリーマンですか」 「結婚した頃は小さな会社の平社員だったが、いまは割合大きな運送会社へ移って経理課長をしている。役職についたせいか、風采も大分よくなった」 「金まわりもよくなったでしょう」 「それが浮気の原因かもしれんけれどね」 「事件の話をしてください。殺されたのは新橋のバーにいた小川初美という女ですか」 「うん、朝刊にでている」 「発見者は」 「西崎だ」  わたしは朝刊を読み直した。  小川初美、二十歳。住所は大田区山王のマンションだった。  しかし、昨夜九時ごろ、死体を見つけて警察に通報したのは古屋辰次という男で、初美の知り合いということになっていた。 「死体発見者の名前がちがってますね」 「それで問題が厄介になっている。初めに死体を見つけたのは西崎だった。ところが、すぐにパトカーを呼ぶか救急車を呼べばよかったのに、怖くなって逃げてしまった」 「自分が疑われると思ったのだろうか」 「それも理由の一つだろうが、事件に巻きこまれて、初美のことが女房にバレたら大変だと思ったらしい。彼の身になってみれば無理もない。彼が現在の会社に移って課長の椅子に坐っていられるのも、女房の親戚にコネがあったからなんだ。女房の伯父というのが会社の重役をしている」 「しかし、西崎が犯人じゃないなら、びくびくしなくてもいいでしょう」 「その通りだが、初美のマンションを出たあと、廊下で一人の人物と擦れ違った。そいつが死体を見つけた古屋だとすれば、顔を見られた可能性が大きい。わざわざモンタージュ写真を作らなくても、初美がいたバーで聞いたら西崎の名前が出てくるんじゃないかな。もう名前が割れているかもしれない」 「そんなに特徴のある顔ですか」 「顔はごく平凡で、額が広くて眼が細いという程度だ。中肉中背、スーツでもシャツでも吊《つる》しのMサイズで間に合うような体格だが、いくら西崎が内緒にしていたって、初美が店の仲間にしゃべっていたかもしれない。近ごろはそれくらいのこと平気でしゃべり合っているのが多いらしいからね。油断はできない」 「初美はそういう連中のような女だったんですか」 「いや、西崎に言わせるとその反対だが、彼のような男は簡単に騙される。会えばわかりますよ。結婚するまで童貞だったようだし、初美を知るまでは浮気したこともなくて、いちばん騙されやすいタイプだ。どっちが遊んだのか遊ばれたのか分かったもんじゃない」 「死体を見つけた古屋はどういう男ですか」 「そいつのことは西崎も知らないと言っている」 「しかし、夜の九時過ぎに女の部屋を訪ねるというのは、普通じゃなさそうですね」 「ことによると、ヒモみたいな野郎かもしれない」 「それで、ぼくになにをやれというんですか」 「それがわからないから相談にきた」 「ぼくに言えることはただ一つ、西崎は警察に出頭してありのままを話すことです。ほかに方法はない。彼が犯人じゃないなら、警察が捜査してくれる」 「そう言い切ってしまっては身も蓋もない。うっかり警察に話せないから弱ってるんだ。警察の代わりに、流木さんに犯人をつきとめてもらえると助かる」 「調査の依頼と考えていいんですか」 「もちろん構わない。そのつもりで着手金その他の支払いのことも話した。支払いは小切手だがね」 「それじゃ、とにかく会ってみます。呼んできてください」 「わたしも立ち会っていていいかな」 「いえ、二人きりのほうが話しやすい。塩野さんはご遠慮願います」  塩野の前では話しにくいことも話させるつもりだった。     2  西崎はスエードのしゃれた帽子を膝に置いて、気の弱そうな細い眼を伏せ、おどおどしているようすだった。茶系統の地味なスーツでネクタイも地味だ。 「大体の話は塩野さんから聞きましたが、昨夜初美を訪ねたのは、約束してあったんですか」 「いえ、一昨日も昨日も店を休んで、風邪を引いたらしいというので見舞いのつもりでした」 「風邪を引いていたら見舞いにゆくような関係だったと解釈していいのだろうか」 「それは困ります。初美の部屋へいったのは昨日の夜で二度目だった」 「一度目は」 「———」 「隠さずに話してください。秘密は守ります。塩野さんにも口外しない」 「約束してくれますか」 「わたしを信用できないなら口約束なんて無駄です」 「わかりました。初めていったのは二か月くらい前です。初美がいた店は新橋のパンサーというバーですが、その店で看板近くまで飲んで、初美を送ったときです。初美のマンションは大森の山王だし、ぼくは蒲田だから、まだ電車があったけれどタクシーを拾って、途中で初美を下ろすつもりだった。ところが、マンションの前まできたら、寄ってコーヒーを飲んでいかないかと誘われたんです。そこでつい誘いにのって、あとはご想像におまかせします。ぼくは誘惑に勝てなかった。初美はおどろくほど大胆でした」 「当然あとをひきますね。その後はどこで会ってましたか」 「大森辺のホテルです」 「何回くらい会いましたか」 「二回か三回——」 「もっと正確に言ってください」 「七、八回です」  たちまち倍以上にふえた。二か月の間に七、八回といえば、週一回の割で会っていたことになる。成りゆきの軽い浮気とは言えなかった。 「パンサーという店はふりの客が入れないような高級バーですか」 「いえ、客はほとんどサラリーマンで、勤めの帰りに気楽に寄れる大衆的な店です。ぼくも会社の同僚につれられていったのが最初で、店員は男も女も大学生のバイトだという話でしたが、初美は短大を一年でやめたと言っていました」 「なぜ中退したのだろう」 「養父母と喧嘩別れしたという話ですが、本当かどうかわかりません。初美と仲がよかったヒロ子という女も同じことを言っていたし、みんな同じようなことを言うように教育されているのかもしれない。深いことは聞かれたくないようすなので、聞きませんでした」 「初美がいたマンションは、どんなマンションですか」 「三階建てで、小さなマンションの二階ですが、ぼくがいるマンションよりぐっと上等です」 「部屋代が高いだろうな」 「知りません」 「昨夜死体を見つけたときのようすを聞かせてください。すぐ死んでいるとわかったんですか」 「いえ、チャイムを鳴らしたけれど返事がなくて、ノブをまわしてみたら鍵がかかっていなかったんです。それで玄関に入りました。明りがついているのに、声をかけても初美が出てきません。おかしいと思ったときと、二本の脚に気がついたのは同時だったような記憶です。それでも、まさか死んでるなんて考えもしません。寝てるのかと思いながら部屋へあがりました。そしたら素っ裸で、仰向けに倒れてたんです。眼をあけたままでしたが、口もあけたままで、生きている人間の眼じゃありません。ぼくは膝が震えてしまいました」 「殺されたと思ったんですか」 「ええ」 「しかし、湯上がりに心臓麻痺か何かで死ぬことがある。病気ということは考えなかったんですか」 「まだ若いし、心臓が悪いなんて聞いていません。それに、新聞に絞殺と書いてあった」 「新聞は警察の発表を伝えているだけで、わたしはあなたが見つけたときのことを聞いている。首に絞殺の痕が残っていたとか、紐《ひも》が巻きついていたというならわかる」 「べつに気がつきません。とにかく事件に巻きこまれたら大変だと思いました。初美のことは家内にも会社の連中にも内緒です。昨夜は頭が混乱しそうになって、逃げることしか考えられなかった」 「しかし一般的に、妻は夫の不貞に対しておそろしいほど敏感だと言われている。疑われた憶えはありませんか」 「その点は大丈夫です。家内は勘が鈍いほうだし、そうじゃなくても育児に夢中で、ぼくが帰るころはたいてい眠っています。といって、夫婦仲がうまくいってないなんて思わないでください。初美のことは小石につまずいたようなもので、後悔しているところでした。ぼくは家内を愛しているし、家庭をなによりも大事にしています」 「お子さんは何人ですか」 「娘が一人で、まだ一歳半です」 「可愛いさかりでしょう」 「だから、娘のためにも警察沙汰になりたくなかった」  身勝手なことを言う男だった。妻子を愛しているなら、なぜ初美と深い仲になったのか。後悔していたなら、なぜ風邪をひいたくらいで初美の部屋を訪ねたのか。 「初美の部屋を出たあと、廊下で擦れ違った人がいるそうですね」 「そいつがパトカーを呼んだ古屋という男かもしれないんです。九時頃という時間が合っている」 「あなたは古屋を知ってましたか」 「名前を聞いたこともありません」 「擦れ違ったとき、相手の顔を見ましたか」 「そんな余裕はなかった。ぼくのほうが顔を見られるとまずいから、帽子をかぶりなおして、急いで通り過ぎただけです。黒っぽい影だったとしか言えません。男だったか女だったか、それもあやふやなくらいです」 「マンションは三階まである。そいつは三階へ行く途中だったかもしれない」 「いえ、擦れ違ったのは階段じゃなくて、廊下でした」 「擦れ違った場所の奥は、いくつ部屋がありますか」 「初美の部屋と、隣のもう一部屋は老人夫婦二人きりです。隣の部屋のことは初美に聞きました」 「それじゃ、擦れ違った相手は老人夫婦を訪ねたとも考えられる」 「実は、その辺をまず確かめていただきたいんです。塩野さんに頼んだら、そういうことは専門外だからこちらにお願いするように言われました」 「初美は金がかかる女でしたか」 「どういう意味でしょう」 「たとえばホテルを利用したとき、あなたが払ったのはホテル代だけで済んでいたかどうか知りたい」 「初美は金を受け取らなかった。帰りのタクシー代くらいは渡そうとしたけれど、初美は決して受け取らなかった。金なら不自由していないというんです」 「すると、小石につまずいたなんてものじゃない。あなたの気持は別として、初美のほうは真剣だったかもしれない」 「そう思うでしょう。ぼくもそう思ったから、つい感激して深入りしたんです。ところが、最近になって金が欲しいと言い出した。しかも大金です」 「いくらですか」 「とりあえず百万円」 「とりあえずで、百万円ですか」 「ぼくのサラリーなどたかが知れています。家計は家内に握られているし、そんな大金を都合できるわけがない」 「金が欲しくなった理由を聞きましたか」 「サラ金の借金に追われて、このままでは体を売ってでも返すほかないというんです」 「勝手に売らせればいい」 「そうはいきません。騙されたと思ったけれど、仕方がないから五十万円だけ都合しました」 「まだ半分残っている」 「残りの半分は経理の帳簿をごまかせば何とかなるはずだと言って承知しません」 「なるほど。経理課長という肩書をちゃんと読んでいる。ただの遊び好きな女じゃない」 「感心されては困ります。どうしても残りの五十万を寄越さないなら家内に談判するという始末でした」 「あなたの弱点を正確につかんでいる」 「こうなったらぼくがサラ金から借りる以外にないし、それで昨夜もパンサーヘ寄ったら、初美が二日も店を休んでいると聞いて気になり、マンションへ行ってみたんです」 「そしたら死んでいた」 「そうです。裸で死んでいました」 「犯人の心当たりは」 「ありません」 「初美のうしろで糸をあやつっているようなやつがいたのかな」 「そうかもしれません。金の要求の仕方が、初美ひとりの知恵じゃない気がします」 「わたしは、廊下で擦れ違った人物の正体を確かめればいいんですか」 「犯人も捕まえてください」 「それは警察の仕事です。あなたを信用した上で、ぼくがやれるとしたら、あなたに有利な材料を探すことしかない。料金が高いと思ったら断って結構です。断られても、今の話は口外しません」  わたしは着手金の額を示した。  もちろん調査の実費は別にもらう。  西崎はしばらく下を向いていたが、ようやく決心したように小切手帳を出した。     3  西崎は当然アリバイがなかった。すでに警察の手が伸びている可能性を考えれば、きょうは会社を早退したというが、帰宅させるわけにいかなかった。  そこで、調査が一段落するまで塩野の結婚相談所で待機してもらうことにした。塩野のところなら安全だろうし、電話連絡にも都合がよかった。  まだ夕方だが、新橋のバー・パンサーはサラリーマンの客が多いので、明るいうちから開店しているという。  わたしはまずパンサーへいった。  馬蹄形のカウンターが主で、テーブルも多く、たしかに大衆的な店だった。  わたしはカウンターに向かってウィスキーの水割りを注文した。  店員は学生らしいカジュアルな服装で、みんな若かった。  時間が早いので客は少ないが、それでも三分の一くらいは入っている。  ツマミを出してくれた女子店員にヒロ子を呼んでもらおうとした。  ところが、その女がヒロ子だった。二十歳前後で、下ぶくれの顔は美人というより愛くるしい感じだが、口のきき方はおとなだった。  わたしは早速初美のことを聞いた。 「刑事さん——」 「ちがう。ちょっと知っていた程度だが、新聞を読んでびっくりした」 「あたしもびっくりしたわ。なぜ殺されたのかしら」 「きみたちも全然知らないのか」 「もちろんよ」 「初美はきみと仲がいいと聞いていた」 「そうね。仲よくしていたほうかもしれない。でも、初美はあたしたちが何を話しても、自分のことは話したがらなかった。水くさいのか秘密主義なのか、だからもう一歩のところで親友という気持になれなかったわ。あたしたちの部屋には泊まったりしていたのに、初美の部屋に呼ばれた友だちは一人もいなかったんじゃないかしら」 「それは男がいたせいじゃないかな」 「初美は男なんかいないわよ。どっちかといえば男嫌いね。男などあてにしないで、いつかブティックのようなお店を持ちたいと言ってたけれど」 「しかし、古屋という男がいたらしいじゃないか。死体を見つけたという男さ」 「あの人も振られていた口じゃないの。今度の事件でわかったけれど、まだ諦めていなかったみたいね。とっくに諦めたと思っていたわ」 「古屋もこの店の常連か」 「古屋さんは初美が以前いた店のお客さん、あたしも同じ店にいていっしょにやめたけれど、古屋さんがこの店にきたことはないんじゃないかしら。憶えがないわ」 「きみはいつ頃からここに勤めてるの」 「四か月くらい前、あたしも初美も飽きっぽいのよ。だから気が合ったのかもしれない」 「初美は二日つづけて店を休んだが、風邪をひいたと言っていたらしい」 「風邪なんて嘘ね。昨日の昼間電話で話したときは、面倒くさくなったと言っていた。やはり飽きたのよ。あたしも飽きてきてるわ」 「しかし、ほかの店へ移っても同じじゃないかな」 「そうね。社用族相手の高級な店は肌が合わないし、といって会社なんかでばかみたいな仕事をさせられるのも厭。いったいどうすればいいのかしら。ディスコなどで遊ぶのも飽きちゃったし」 「結婚という手がある」 「結婚も飽きたわ」 「ふうん、結婚してるのか」 「籍は入れなかったけれど、彼もあたしも一年で飽き飽きした感じね。もう別れたわ」 「また好きな男に出会えば、きみの気持も変わってくるさ。そう悲観することはない。それより、古屋はどんな男だろう」 「カチカチの銀行員、金庫みたいに堅いひとよ。古屋さんが初美とつづいていたなんて、意外だわ。初美も気が弱いところがあるから、情にほだされたのかもしれない。でも、あたしには何も言っていなかった」 「とすると、古屋のような男はほかにもいたんじゃないかな」 「いてもふしぎに思わないわ。初美はきれいだし、あたしなんかよりぐっと人気があった」 「この店の客で、とくに初美に夢中だったような男は」 「わからないわ。みんな夢中といえば夢中、冗談といえばみんな冗談、そういうお客さんばかりよ。お店ではがやがや飲んでいるだけですもの」 「店を出たら、見ざる聞かざるか」 「それがあたしたちのルールね。私生活は関係なし、というより関心がないわ。あたしだって初美に言わないことがあった。あなたにも言わないけれど」 「しかし、初美には殺されるほど惚れた男がいたはずなんだ」 「すごい情熱ね。尊敬しちゃうわ」 「古屋はいくつくらいだろう」 「三十七、八じゃないかしら。初美は若い男が嫌いで、ずっと年上のほうが好きだったみたい。あたしも同じ、若いひとは図々しいから嫌いよ」 「古屋の住所を知らないか」 「聞いてないわ。電話帳で調べればわかるんじゃないの。銀行は干葉か埼玉か、とにかく東京近県の銀行の支店だったと思うけれど、忘れたわね。古屋さんに会うの」 「いや、聞いてみただけだ。会っても始まらないだろう。初美は死んでしまったんだ」 「あなたも初美が好きだったのかしら」 「まあね」 「どこがよかったの」 「どこかな」  わたしは言葉を濁した。ヒロ子の口から西崎の名前が出なかったので、ほっとする思いだった。     4  電話帳を調べた。  古屋辰次の住所は大田区の下丸子だった。初美と同じ大田区でも、山王からは大分離れている。しかし山王なら、新橋からタクシーを拾えば下丸子へ帰る途中だった。  交通事情が西崎の場合に似ていた。  都内の区分地図でおよその見当をつけ、新橋から電車で蒲田へいって、それから目蒲線に乗り換えた。  下丸子下車。  古屋の家は割合簡単に見つかった。静かな住宅地で、家は小さいが一戸建ての平家だった。ただし、かなり古びている。  門灯の明りで表札が読めた。表札の字も古びていた。門の両側の四つ目垣も崩れかかっている。  門を入り、玄関のガラス戸をあけた。  靴やサンダルが乱れていた。  声をかけると、中年の女があらわれた。しかし近くで見れば、中年というより若いようだった。髪をトウモロコシのような色に染めていたが、化粧はしていなかった。 「古屋さんのおくさまでしょうか」  わたしは腰を低くして言った。 「あなたは」  つめたい声が返ってきた。 「友だちです」  わたしはこういう嘘をつくことに馴れていた。 「古屋はいません」 「まだ勤めから帰らないんですか」 「銀行はやめました。あなた、知らなかったんですか」 「知りません。しばらく会っていない」 「それじゃ、急なご用かしら」 「新聞を読みました」 「やっぱり知れてしまうのね。あのひともいい恥をさらしてくれるわ」 「しかし、新聞には名前が載っていただけで、被害者の知り合いとなっていた」 「夜、女ひとりの部屋を訪ねるのがただの知り合いかしら」 「おくさんは小川初美という女をごぞんじでしたか」 「知ろうとも思いません」 「なぜだろう」 「知りたくないからです。でも、よそに好きな女ができたことはわかっていました。うまく隠してくれればいいのに、古屋はすぐボロを出してしまいます。まじめ一方の古屋を駄目にしたのはみんなあの女のせいで、今度こそ眼がさめたと思います」 「銀行をやめたのも女のせいですか」 「古屋はなにも言いません。あたしは銀行の方からうかがいました」 「そのとき、ご主人に聞かなかったんですか」 「聞きました。けれど、返事もしないで出ていって、帰ったときは酔っ払っていました。気が弱くて、強いのはお酒だけです」  奥の部屋から子供の声が聞こえた。まだ幼い声で、しきりに母親を呼んでいた。  だが、古屋の妻は動かなかった。 「古屋に会いたいとおっしゃるなら、たぶん駅の近くの酒場にいます。二軒並んで焼鳥の煙があがっている右側の店で、家にいないときは大抵そこで飲んでいるようです」 「昼間はどこで働いているんですか」 「知リません。古屋に会ったら聞いてみてください。どこに勤めても長つづきしなくて、最近また勤めを変えたようですから」  子供の声が泣き声に変わった。  古屋の妻は初めて振り返った。  首筋が汚れていた。  わたしは子供の泣き声が苦手だった。     5  酒場は粗末な造りだが、広くて、客がいっぱいだった。  赤いタスキをかけた店員が忙しそうに働いていた。  わたしは席を探すふりをしながら、カウンターの隅にあった店のマッチを取ると、そのまま店を出た。  そして近くの赤電話で、まず塩野の結婚相談所にいた西崎と話して昨夜の服装を聞き、それから酒場のダイヤルをまわした。  電話口にでた女に、古屋がいたら呼んでくれと頼んだ。  間もなく男の声と交替した。 「昨日の事件で聞きたいことがある」  わたしはわざと高飛車に言った。  その口調で、古屋は刑事と思ったらしかった。 「全部話しましたよ。もう話すことなんかない」 「もう一度聞きたいんだ」 「何をですか」 「電話じゃ話せない。とにかく、近所まできているんだ。薬局の角で待っている」  わたしは一方的に電話を切った。  やがて、中背の痩せた男があらわれた。きょろきょろと落ち着かないようすだった。 「待たせたじゃないか」  わたしはなおも高飛車にでた。  古屋は黙っていた。酔っているようだが、返事ができないほどではなさそうだった。  人通りが多いので、古屋を先に歩かせて路地を突っ切り、新築中の家の前で足をとめた。夜間作業の姿はなかった。 「昨日の夜、小川初美の部屋へいったときのことを話してくれ」 「またですか」 「何度でも聞く」 「廊下で変な野郎と擦れ違ったんですよ。そいつが犯人に間違いない」 「犯人をあんたが決める必要はない。擦れ違った場所はどこだ」 「だから、廊下と言ったでしょう」 「確かに廊下か」 「くどいな」 「もっとくどくなるから、そのつもりで答えてもらう」 「確かに二階の廊下だった」 「相手の顔をよく見たのか」 「見ましたよ。初美の部屋から出てきた感じでしたからね。気になって見るのが当たり前でしょう。額が広くて、眼の細いやつだった」 「初めて見る顔か」 「ええ」 「服装は」 「茶色い縞《しま》のスーツで、ネクタイも茶系統だが、オリンピックのマークのように輪がつながっていた」 「ばかに詳しいな」 「視力は一・二です」 「ほかに気がついた点は」 「それくらいですよ。擦れ違っただけですからね。年齢は三十七、八だった」 「先をつづけてくれ」 「部屋に入ったら初美が死んでたんです。素っ裸にされていた」 「裸にしたやつは」 「廊下で擦れ違ったやつに決まっている。ほかに考えられない」 「ところが、擦れ違ったやつはあんたの顔を見ていない。あわてていたので、男か女かもわからないでいる。そいつは確かに額が広いが、廊下に出たときは帽子をかぶっていたんだ。それほど額が広くなくても、自分では広過ぎると思っていて、外ではいつも帽子をかぶってたのさ。あんたは余計なことをしゃべりすぎた。帽子をかぶっているのに、額が広いなんてわかるわけがない」 「———」  古屋はようやく失策に気づいたようだった。顔をそむけ、けんめいに返事を探そうとしているようだ。 「初美は恐喝の専門家だった。若いが、あんたのような男を引っかけるのは簡単だったにちがいない。廊下で擦れ違ったという男も同じで、かなりの金を絞られていた。だが、そいつはまだ家庭を壊されるところまで追いこまれていなかった。それで、女房にバレたら大変だと思って逃げた。しかし、あんたはちがう。銀行を辞めさせられるほど金を絞られた上に、家庭もめちゃめちゃになっていた。そうなれば怖いものなしだ。だから平気でパトカーを呼び、犯人の疑いを擦れ違った男になすりつけようとした」 「おかしなことを言わないでくれ。おれは擦れ違ったやつのあとから入って死体を見つけたんだ」 「そのとき、偶然だろうが、死体のほかに生きている人間にも会ったはずだ。そして、あんたはその人間から広い額やネクタイの柄などを教えられ、パトカーを呼ぶ役も引き受けさせられたんだ。いいか。もっと落ち着いて考えろ。自分のためじゃない。子供のためを考えることだ。初美を裸にしたやつと相談したほうがいいかもしれない」 「どういう意味だ。よくわからない」 「擦れ違ったやつにも可愛い子供がいるんだ。だから、額の広い男のことは忘れてもらう。刑事にしゃべったことは前言取り消しだ」 「そんなこと言ったって、あんたが刑事じゃないか」 「おれは刑事だなんて言った憶えはない。額の広い男を知っているだけだ。あんたが彼を忘れるなら、おれもあんたを忘れることにする。だれにもしゃべらない」 「それで済むのか」 「済むかどうか、それを頭のいい女房と相談するのさ。ついでだが、亭主孝行な女房によろしく伝えてくれ。とても芝居がうまかったってな」 「———」  古屋は呆然としたように突っ立っていた。  わたしは背中を向けた。 「ちょっと待って——」  古屋はまだ戸惑っているようだった。  しかし、わたしは待たなかった。この事件のことはもう考えたくなかった。  血 の 陰 影     1  四階建てのビルは古ぼけていたが、外装を塗り替えたら見違えるほどモダンな感じになった。中身は変わっていないけれど、あやしげな雑居ビルの印象が消えて、いちばん喜んでいるのは万沢商会の万沢か、あるいは大横法律事務所の大横だった。二人ともあやしいほうが似合っているからだ。  わたしは一階のスナックでコーヒーを飲んでいた。  万沢商会も入口のドアを改装したし、「流木《ながれぎ》調査事務所」というプレートも新調したほうがよさそうだった。  客の第一印象がよくない。  万沢商会の社長万沢亀太郎がそう言ったが、わたし自身もそう思っていた。  ポケット・ベルが鳴った。  留守番電話に伝言が入ったというサインだった。  一仕事終えたばかりだが、仕事中の習性が抜けていなかった。  事務所の暗証番号をダイヤルして、受信テープを聞いた。 「——四階に連絡してくれ。待っている」  万沢の声だった。なぜか名前を言わないで、いつも四階という言い方をした。暗号めかすつもりではなくて、自分の名を表に出さないで済ませる癖のせいかもしれなかった。敬遠したい相手だが、憎みきれないところがある男だった。警視庁の組織暴力団リストに載っている組は解散したと称し、組長が社長と呼ばれるようになっても、やっていることが同じだということは警察がよく知っていた。それはビルの外装を塗り替えた事情と見合っている。  もちろん、万沢は善艮な市民ではない。  そしてわたしも、警察から同類に近いとみなされていた。  いったん電話を切って、万沢専用のダイヤルをまわした。  すぐに万沢の声がでた。 「どこにいるんだ」 「一階でコーヒーを飲んでいます。しかし暇なわけじゃない」 「頼みたいことがある。四階にきてくれ」 「暇じゃないと言ったはずだけれど」 「あんたは暇でもそう言うのさ。おれの仕事が気に入らないらしいからな。だが、今度は特別と思ってくれ。大横さんにも相談できないでいる」 「どんな話だろう」 「電話では話せない」 「それじゃぼくの事務所で聞きます」 「四階までくるのは面倒か」 「面倒です」 「———」  万沢は無言で電話を切った。  短気な男だった。     2  ゆっくりとコーヒーを飲みほした。  事務所へ戻ると、ドアの前で万沢が腕組みをしていた。 「遅かったな」  機嫌がわるいようだった。ふだんはおだやかそうな丸顔だが、おだやかな性格ではなかった。きちんとネクタイを締めた服装は、刺青《いれずみ》を隠すためだと言われている。  わたしは答えないで、鍵をあけて先に入った。  応接用のテーブルをはさんで向かい合った。ほかは事務机とキャビネットがあるだけだ。 「あんた、酒をやめたんだってな」 「だれに聞きましたか」 「吉田美保だよ」  万沢商会に出入りしているモデルだった。離婚した両親を嫌って家出したらしいが、モデルといっても、衣裳のいらないモデルだ。  しかし、わたしは美保に話した憶えがないから、一階のスナックのマスターに聞いたのかもしれなかった。禁酒したのは胃痛のせいだが、診察はうけていない。 「それじゃ診《み》てもらうんだな。いい医者を紹介する」 「遠慮します」 「おれの紹介じゃ信用できないか」 「そういう意味じゃない。それより用件を聞きますよ」 「この写真を見てくれ」  万沢は名刺くらいのサイズの写真を出した。青いVネックのセーターを着て、黒い髪を肩のあたりで切り揃えていた。 「だれかに似ていると思わないか」 「きれいな娘さんだけれど、憶えがありませんね」 「大学の一年生で、まだ十八だ。気持がやさしいし、頭もわるくない」 「万沢さんの知り合いですか」 「生まれる前から知っている。おれの娘だからな。道子というんだ」  言われてみれば、口もとが似ていないこともなかった。しかし全体にほっそりした感じで、がっしりした体格の万沢とはかなり違っていた。 「母親似で、おれなんかに似なくてよかったのさ。どうかね。美人だろう」 「———」  わたしはうなずいた。確かにきれいだった。 「母親は心臓病で十年前に亡くなったが、おれが再婚しないでいるのも娘のためだ。娘は母親を慕っていた」 「兄弟はいないんですか」 「いない。一人娘だ」 「万沢さんの商売を知ってますか」 「ほとんど知らないと思う。おれは商売に家庭の話を持ち込まないし、家に帰っても商売の話はしないことにしている。だから、娘に事務所に来るような真似はさせない。おれはあんたも知ってるように商売をひろげているが、娘はどこまでも素っ堅気だ。素直で、器量がよくて、勉強もできる。おれは缶詰類の輸入業者ということになっている」  しかし、それは表看板だ。不良債権の取り立てから競馬のノミ屋、ポルノ・ショップにも手を出している。ただしそれぞれ責任者がいて、警察の手は万沢にまで伸びない仕組みだ。たまに警察から呼び出される程度のことはあるが、危い橋を渡ったときのためには大横弁護士がついているし、万沢が逮捕されたという話は聞かなかった。 「それで、娘さんがどうかしたんですか」 「近頃ようすがおかしくなった。もともと引っ込み思案で口をきかないほうだったが、車を買ってやったのが間違いかもしれない。通いの家政婦の話によると、始終電話がかかってきて、車で出かけることが多くなったらしい。好きな男ができたのかもしれん。車で登校することは禁じられている」 「外出は夜ですか」 「昼も夜もだ」 「しかし十八なら、ボーイフレンドがいるくらい当然でしょう」 「当然といえば当然だが、相手によって一生を台なしにされかねない。娘は世間を知らないんだ。中学も高校も大学も女子校で、黴菌《ばいきん》がうようよしていることを知らずに育ってしまった。だから、黴菌にたかられたときの抵抗力がない」  おかしな言い方だった。万沢商会こそ黴菌の巣窟で、その親玉が万沢ではなかったのか。他人の娘を商売のネタにしながら、自分の娘は無菌室に置いておくという考えが身勝手だった。  もちろん親の思い込みは当てにならない。親が気づかない間に、娘はどんどん成長して大人の仲間に加わってゆく。 「ボーイフレンドの名前などはわかってますか」 「わからない。聞いても返事をしないで、自分の部屋に閉じこもってしまう。以前はどんなことでも話し合えた。だが、近頃は違う。おれを避けようとしている。顔色もよくないし、たまには外で会うのもいいと思って食事に誘ったら、食欲がないと言って断られた。こんなことは初めてだ」 「なぜだろう」 「知らん。だから理由を知りたい」 「親ばなれしたい年ごろ、というだけじゃないんですか」 「そう簡単に考えられては困る。男の子なら放っておくが、一人娘なんだ。ぜひ調べてくれ。そのために着手金も現金で持ってきた」 「しかし、調べる手がかりがありますか」 「娘の部屋に盗聴器をつけて、電話を盗聴すれば大体のことがわかるはずだ」 「そういうことならお断りです。ぼくに向いていない」 「どうして——、盗聴器のつけ方を知らないのか」 「いや」  それくらいは知っている。何度か使ったこともある。セットするだけなら三分もあればたくさんだ。おかしなことに、盗聴器を電話機にセットすることは法律で禁止されているが、盗聴そのものを禁止する法律はない。現に盗聴器は市販しているし、日本の製品は優秀なので外国からの発注も多く、年間一万個以上が売れているということも聞いた。産業スパイや労務管理などにも利用されるらしいが、要するに証拠を残さなければ無難なのだ。  ただし、盗聴器の有無を逆探知する機器の開発もすすんでいる。 「もし娘さんが、盗聴以外の方法で知るはずがないことを父親が知っていると気づいたら、親子の信頼は決定的にこわれてしまう。もう取り返しがつかない」 「それは考え過ぎだ。あんたは仕事と思って割り切ればいい」 「とにかく断ります。食うに困ったらやりかねませんがね。いまはそれほど困っていない」 「相変わらず強情だな」 「どうしても盗聴させたいなら、喜んで引き受ける調査機関がいくらでもある。万沢さんも商売柄くわしいんじゃないかな」 「いや、今度の話は商売と別だ。家庭内のことをそういう連中に知られたくない。だからこうして頭をさげている。あんたなら秘密を守る。信用してるわけだ。自分で盗聴器を買ってくることも考えたが、おれは電気や機械類に弱い。たぶん説明書を読んでもわからない」  その代わり、計数に明るかった。抜け目がなくて、度胸もいいと言われている。  わたしが承知しないので、万沢はすっかりむくれたようだった。 「四十過ぎの男がタバコをやめて、女もいなくて、そのうえ酒もやめた。いったい何がおもしろいんだ」 「万沢さんは何がおもしろいのかな」 「おれには娘がいる。娘だけが生甲斐だ」 「それじゃ、そっとしておいてやるんですね。利口そうな娘さんだから、つまらない男には引っかからないと思う」 「娘は男がわかっていない。つまらない男にかぎって女を引っかけるのがうまい。あんたにはわからんだろうがね」 「しかし、父親が万沢さんと知ったら大抵の男はびびって逃げる。放っておいても大丈夫ですよ」 「そんなことわかるもんか。相手がまじめな男なら交際を許してやる。おれは寛容な父親のつもりだ」 「どうかな」 「疑うのか」 「現実になってみないとわからない」 「ふん」  万沢は娘の写真を引っ込めて、むっとした顔で背中を向けた。     3  それから数日経った。  万沢がいきなり入ってきて新聞をひろげた。  社会面に殺人事件の記事がでていた。被害者は赤坂でクラブを経営している岡本邦江の長男伸吉、十九歳、一浪中の予備校生だった。家は北新宿のマンションで、その駐車場に置いてあった車の運転席で刺殺されていたという。死体発見者は母の邦江、昨夜十時過ぎだったらしい。 「この被害者を知ってるんですか」 「いや、全然わけがわからない。会ったこともない男だ。ところが、部長刑事の馬場が部下と二人で道子を探しにきた。たった今、ぶつくさ言いながら帰った。道子を疑っている口ぶりだった」 「なぜ疑われたのだろう」 「知らん。先日、あんたがおれの頼みをきいてくれたらこんなことにならなかった。あんたにも責任がある。今度こそ引き受けてもらうぞ。道子を探してくれ。早く探してやらないと、ますます疑われる」 「しかし、どこを探せばいいのか心当たりがありますか」 「学校は休んでいる。けさの八時半ごろ家を出たきりだ。おれは朝が遅い、起きたときは、道子が出たあとだった」 「昨夜は」 「十二時近く帰ったときは自分の部屋にいた。ノックをしたら、もうベッドに入っているというので、そのまま話をしなかった。家政婦によると、ちょうど十時ごろ帰ったらしい。道子の門限が十時で、家政婦も十時までということになっている。へんに勘ぐられないうちに言っておくが、家政婦は年寄りで、正真正銘の家政婦だ。時間外でも用を頼めるように、近所のアパートを借りてやっているがね。ついでに言ってしまえば、おれの女は別のところにいる。ただし道子には内緒だ」  知っている。万沢の愛人については大横弁護士から聞いていた。かなり年下のようだが、信濃町のマンションに住み、万沢の商売の一つのクラブを任されているらしかった。同棲しないでいるのは道子に対する気遣いのためだ。 「家政婦の話では、道子には片瀬キヨミという仲よしがいる。学校の同級生で、電話がかかってくると、道子は自分の部屋に電話を切り換えて、よく長話をしていたそうだ。おれは会っていないのでどんな女か知らんが、母親の洋装店を手伝っていると聞いたことがある。道子の部屋に住所録があって、それに片瀬キヨミの電話番号がメモしてあった。住所は下落合だ」 「電話をしてみましたか」 「いや、迷っている」 「ぼくが電話してもかまわないかな。場合によっては万沢さんの名前を借りる」 「なぜだ」 「仕事ですよ。着手金を受け取ったらすぐかかります」 「それじゃ山石利男という男にも当たってくれ。やはり住所録にメモしてあったが、電話番号しかわからない。そいつも道子と付き合っていたらしい。岡本伸吉の名前と並んでいたから、仲間かもしれない」 「着手金を用意してきましたか」 「気が早いな」 「急がなくてよければコーヒーを飲みに行く」 「待て。着手金はすぐ持ってくる。しかし、道子は探さなくても帰るような気がする。そのとき着手金はどうなるんだ」 「返しません」 「半分にまからないか」 「まけません」  万沢は不満そうな顔をして去ったが、間もなく道子の写真と着手金を持ってきた。  わたしは一万円札を万沢の眼の前で数え、写真を受け取った。  万沢が四階へ戻っていった。  まず、山石利男に電話をかけた。  応答がなかった。  ついで、母親が洋装店をやっているという片瀬キヨミにダイヤルした。  電話口にでた声がキヨミだった。  わたしは万沢亀太郎に頼まれて道子を探していると言った。しかし、誤解されやすいので調査員という職業は伏せた。万沢の正体はばれているかもしれないが、親類の者ということにした。 「道子がまだ帰らないの」 「学校は休んだらしい」 「あたしもきょうは休んだけれど、もう夕方だわ」 「だから心配しているんです」 「でも、心配するほどの時間ではないんじゃないかしら」 「ある事件が起きた。朝刊にでている」 「岡本くんのことね」 「あなたも岡本伸吉の友だちですか」 「———」  答えなかった。 「お目にかかって聞きたいことがある。道順を教えてくれませんか」 「でも、あたしは事件なんて関係ないわよ」 「もちろんそう思っています」  道順を教えてもらった。  目白通りからやや外れた洋装店だった。     4  夕方のせいで、新宿周辺はどこも車が渋滞していた。  大通りを避け、一方通行の細い道を何度も迂回《うかい》した。目白通りも渋滞していたが、ようやく目印の看板を見つけて左折すると、片瀬キヨミは店の前で待っていたようすだった。  背が高くて、明るい感じの娘だった。美人ではないが、不美人でもない。肌が白いから、化粧をすれば見違えるようになるかもしれない顔だ。  店は洋装店というより若者相手のジーンズ・ショップといったほうが合いそうで、若い女性の客が数人、その奥に母親らしい女の姿も見えた。 「立ち話じゃ邪魔になる」 「平気よ、ここで。道子も疑われてるのかしら」 「朝がた家を出たきり連絡がつかない。きみは疑われたんですか」 「刑事さんに迎えに来られて、警察でしつこく調べられたわ。昨日は学校から帰ったあと、風邪をひいたみたいでずうっと家にいたから助かったけれど、さんざんよ」 「しかし、なぜきみが疑われたのかな」 「警察は教えてくれなかった。岡本くんとの関係とか、昨日の夜どこにいたかなんて聞かれただけ。でも、叔父が新聞社にいるので、少しわかったわ。昨日の夜、岡本くんが殺された車のまわりを歩いていた女のひとがいるらしいの。そのひとの年齢がちょうどあたしくらいに見えたのね。同じマンションのひとが見たんですって。それで道子も疑われてるんじゃないかしら」 「道子が殺したと考えられませんか」 「考えられないわ。いったい、なぜ殺すの」 「ぼくはなにも知らない。きみは道子と同級ですか」 「そうよ。いまは十八、誕生日がくれば十九」 「まるで刑事のように、遠慮なく失礼なことを聞くけれど、気にしないでください。きみや道子と岡本伸吉の関係は」 「ただの友だちね。あたしも道子もラグビーのファンで、ラグビーの試合を見にいって知り合ったの」 「岡本はラグビーの選手ですか」 「岡本くんのような弱虫はラグビーなんて無理よ。来年は合格するつもりの学校の応援に来たと言ってたわ」 「とにかくラグビーの縁で友だちになったわけだ」 「ええ。けれど、岡本くんは一浪して予備校に通っているといっても、ほとんどサボっていたみたい。赤坂でクラブをやっているお母さんが甘いのよ。小遣いを羨《うらや》ましいくらいもらっていたし、改造したりして車にもお金をかけていた。それで昨日の夜も、電話でおしゃべりしているうちに、どこかヘドライブしようという話になって、道子も誘うと言っていた。待ち合わせの約束は岡本くんの部屋で七時半。でも、あたしは体がだるいので熱を計ったら八度三分もあって、あたしだけ中止したの。すぐ道子に電話をしたけれど、道子は出たあとだったわ」 「ドライブの約束はきみたち二人だけですか」 「もう一人、岡本くんの友だちで同じ予備校へいっている山石くん、かれもラグビーのときいっしょに知り合ったの。岡本くんよりまじめだけれど、頼りない感じね」 「山石と道子は約束の時間に行ったのだろうか」 「知らないわ」 「部屋に鍵がかかっていたとすれば、どっちかが先に駐車場で死体を見つけたはずだな」 「どうかしら。わからないわ」 「その後、道子や山石から連絡がないんですか」 「ないわね。それがおかしいといえばおかしいわ」 「岡本伸吉のお母さんの店へ行ったことがありますか」 「———」  キヨミは首を振った。 「伸吉のお父さんは何をやってるんだろう」 「岡本くんが赤ちゃんのころ死んだって聞いたことがある。母一人子一人で、だからお母さんは岡本くんを甘やかしてしまったのよ。お店の仕事があるから面倒をみてやれないし、岡本くんは遊び放題だったみたい」 「すると、女の友だちも多かったんじゃないかな」 「そうね。でも、遊び上手だから深入りしなかったようよ。道子には大分まいっていたけれど、道子のほうがガードが堅くて、あたしなんか感心してたわ」 「しかし、男女の仲はわからない」 「そうかもしれないけれど、道子が岡本くんを殺したなんて、やはり考えられないわね。運転席にいた岡本くんを千枚通しのようなもので突き刺して、心臓まで一突きにやられたって聞いたわ」 「兇器は見つからないのか」 「みたいね」 「助手席に乗せるくらいなら、親しい相手だったことは間違いない」 「あたしもそう思うわ」 「心当たりはないかな」 「———」  キヨミは首を傾けたきりだった     5  山石利男は西早稲田のアパートに一人暮らしだという。自宅が長野なので、東京の予備校まで通いきれないせいだった。  山石もまた、親が甘いのか息子がわがままなのか、いずれにしても遊んでいられる身分のようだ。  山石のアパートは戸塚警察の近くで、キヨミは道子といっしょに行ったことがあるという。  わたしは案内してもらうことにした。 「お母さんにことわってきたほうがいい」 「そうね。ちょっと話してくるわ。もう熱もさがったし、あたしも道子が心配よ」  キヨミは奥へ引っ込み、すぐに戻って、助手席に腰をおろした。  反対方向の車道は渋滞していなかった。 「岡本はどんな車だったのかな」 「スカイラインの2000GT、車が大好きで、いつもぴかぴかに磨いていたわ」 「山石の車は」 「おんぼろのシビック、あれでよく走ると思うくらいよ。でも、この車ほどひどくないわ」 「外見はわるいが、エンジンはしっかりしているんだ」 「電話がついているのね」 「うん」  仕事のためだった。一時間ごとに連絡をする約束をしたので、キヨミを乗せる前に、万沢に電話をしておいた。道子からは依然音信がなく、万沢は帰宅して待つという返事だった。 「きみは車を持ってないのか」 「母が事故を心配して、買ってくれないのよ。そのうち自分でバイトして買うからいいわ。免許証は道子といっしょに取ってあるの」 「道子の車は」 「クリーム色のBMW」 「昨夜は岡本の部屋に集まって、それからドライブの予定だったというが、そういうとききみは誰の車に乗るんだ」 「もちろん道子よ。運転を交替させてくれるし、岡本くんや山石くんの車に乗ったらどこへ連れていかれるかわからない」 「危険か」 「ちょっとね。母に、男のひとの車で二人きりになっちゃいけないと言われてるわ」 「しかし、いまはぼくと二人でいる」 「あなたは安心な感じ」 「なぜだ」 「勘よ」 「ばかにされたようだから話を変える。近頃の道子は父親を心配させていた。学校から帰ったあとの外出が多くなって、顔色もよくなかった。父親と話すことも少なくなったし、きょうも学校を休んでいる。なにかあったに違いない。気がつきませんか」 「気がつかないけれど、この頃の道子が遊ぶようになったことは確かね。以前はいくら誘ってもディスコなんか行かなかったのに、最近は逆になったみたい。岡本くんにつれられて、山石くんなどもいっしょで赤坂のクラブヘ行ったこともあるらしいわ」 「岡本のお母さんのクラブですか」 「ええ、岡本くんもお店には出入り禁止で、だからお母さんに紹介されただけで帰されたと言っていた。あたしたちが踊りにゆくような所じゃなくて、お客は日本人と外人が半々くらい、おとなたちが遊ぶクラブだったのね。岡本くんは見栄を張ったつもりかもしれない。でも、あとでお母さんに叱られたんじゃないかしら。二度と誘わなかったようよ」 「どんなお母さんか会ってみたいな」 「お通夜にいけば会えるわ。今夜八時からお通夜で、告別式が明日の一時から。あたしもお線香をあげてきたいわ」 「道子の父親の会社を知ってますか」 「普通の会社とちがうようね。よくわからないけれど、道子はお父さんの会社を嫌ってたわ。どういう会社なのかしら」 「会社のほうはぼくもよく知らない」  わたしはとぼけて、話を飛ばすことにした。最近の道子が父を避けているのは、万沢商会の正体を知ったせいかもしれなかった。 「きみのお父さんは」 「死んだわ、あたしが中一のとき、交通事故で」  キヨミの父は会社員だったが、事故の賠償金や保険金で母は洋装店をひらいたという。  キヨミは父を思い出したのか、急に口数が少なくなった。  やがて山石利男のアパートに着いた。 「あの部屋よ」  小さなアパートの二階で、明りがついていた。 「警戒されると困るから、いっしょにきてくれないか。そしてぼくを紹介してくれ。以前からぼくを知っているように、道子の親類だと言ってもらえば大丈夫と思う」  キヨミは承知して、先に立った。  木造アパートだが、階段だけはコンクリートで、縁がすり減って丸くなっていた。  山石はキヨミより長身で、体格もよかった。派手な模様入りのトレーナーを着て、短い髪にパーマがかかっていた。しかしキヨミが言ったように、どことなく頼りない感じだ。小心そうな細い眼をしている。  六畳一間きりの部屋は予備校生の勉強部屋らしく殺風景だが、畳に散らかっているのはマンガ雑誌とスポーツ新聞だった。  キヨミはうまく紹介してくれた。  山石も、わたしが警察の者ではないと知って安心したようだった。 「昨日はね、結局岡本に会わなかったんです。言い出しっぺのキヨミが来ないんじゃつまらない。岡本も面倒くさくなったようなことを言っていたし、それで道子さんと二人でドライブすることにした。もちろん車は別々です。箱根から十国峠まで飛ばして引っ返してきた。予定どおり岡本もいっしょにくれば、殺されるなんてことにならなかった。あいつはツキに見放されたのかもしれない。いままでは女にもてるし、おふくろのお陰で金まわりもよかった。ツイてる男だと思って、羨ましかったくらいです。受験は駄目でしたけれどね」 「予備校はまじめに通ってたのだろうか」 「普通だと思います」 「どの程度が普通なのかな」 「普通というのは、普通じゃないんですか」 「それじゃ普通ということにしておこう。ドライブは往復とも同じコースですか」 「ええ、門限の十時までに帰らないと親父さんがうるさいと言うので、ドライブインにも寄らなかった。だから、やたらに飛ばしただけです。ろくに話もしなかった」 「きみと二人きりのドライブに馴れてるのかな」 「いえ、昨日が初めてだった」 「めずらしいわけか」 「ええ」 「なぜ昨日に限って、ということが気になるね」 「どうしてですか」 「その間に岡本伸吉が殺された」 「怪しいというんですか」 「刑事なら疑うと思う」 「冗談じゃありませんよ。ただの偶然を誤解されたんじゃかなわない」 「いや、ぼくはただの偶然と思わない。おそらく、警察もぼくと同じように考える」 「どう考えるんですか」 「偶然というのが気にくわない」 「そう言われたって、事実は事実だ」 「証明されなければ事実といえない。たとえば、十国峠まで飛ばしたなら、有料道路の料金所で金を払っている。その領収書を見せてもらいたい」 「そんな物は捨ててしまった。持っていても役に立たない。捨てるほうが当たり前でしょう」 「当たり前のことが今は重要なんだ。警察はすでに道子を探している」 「なぜですか」 「理由はぼくのほうで聞きたい。きみが知っているはずだ」 「ぼくが知ってるわけがない」 「それじゃ、きみの車を見せてくれないか。どこに置いてあるんだ」 「この近所の、空地みたいな駐車場です」 「ガソリンのメーターを見れば、ほんとに十国峠まで飛ばしたかどうかわかる。満タンにして出発してもかなり減っているだろうし、途中で補給したというなら、ガソリン・スタンドの名前か、せめてどの辺のスタンドだったか答えられなければならない。もちろんスタンドの領収書があればいいが、ないとしたら警察はシラミつぶしに調べる」 「———」  山石は下を向いてしまった。  顔色が変わってきた。 「頼むよ、キヨミちゃん。このおっさんはおれを疑っている。なんとかカバーしてくれ」  山石は哀れっぽい声で言った。 「だめね、山石くん。あんたは嘘をついてるわ。正直に話したほうがいいわよ」 「そのとおりだ」  わたしも言った。 「警察はきみが考えているほど甘くない。きみの嘘は簡単にばれる。警察に見つけ出されたら、道子も同じ嘘をつくかもしれない。しかし、結果は疑いを深くするだけだ。そして警察はここにもやってくる。二人の嘘を較べ合わせるためだ。きみたちは共謀とみなされる恐れもある」 「なんの共謀ですか」 「人殺しさ。ほかにも共謀したことがあるのか」 「とんでもない。それは違う。絶対に違う。ぼくは何も知らなかった」 「それじゃなぜ嘘をついた」 「———」 「返事ができないなら警察を呼ぶ」 「待ってください。もう少し落ち着いてから話します」 「それは逆だ。話せば落ち着く。話すほうが先だ」 「昨日のことでしたね」 「つい昨日のことだ。無理に思い出すような真似はやめろ」 「わかりました」  山石はようやく観念したように言った。 「昨日の夜、約束は七時半だったけれど、その前に岡本から電話があって、キヨミが来られないことは知ってました。でも、とにかく岡本が来いというので行ってみたんです。そしたら、駐車場のそばで道子さんに会った。道子さんは震えているみたいだった」  道子が一足先に着いたらしいのだ。  しかし、岡本の部屋は鍵がかかっていた。チャイムを鳴らしても応答がなかった。  それで駐車場へまわり、車を覗いて死体を見つけたという話だった。 「そのとき、すぐに一一〇番に知らせればよかった。けれど、道子さんは口もろくにきけないようだったし、ぼくもびっくりして、逃げたほうが無難だと思ってしまった」 「きみも死体を見たのか」 「見ません。怖くて、そんな余裕などなかった。道子さんとゆっくり話したのは、しばらく走ってからです」 「アリバイづくりの相談か」 「万一の場合を考えたんです」 「万一なんて考えが甘い。道子はマンションの住人に見られている」 「ぼくもですか」 「きみのことまでは知らない。アリバイの相談をして、それから実際はどこへ行ったんだ」 「第三京浜で横浜へ行って、ぼんやりと海を見ていただけです。帰りは別で、ぼくが先に帰った」 「その後の連絡は」 「ありません。けさの新聞を見て、昨日のことが本当とわかり、ますます怖くなってきました。なぜ殺されたのか見当がつかない。岡本はみんなに好かれていた」 「岡本と道子の仲はどうだったのかな」 「岡本は気があったみたいだけれど、道子さんはわかりません。その辺にちょろちょろしている女と違います。堅い感じだった」 「きょうは道子と会わないのか」 「会いません。電話もしていない」 「すると、だれが岡本を刺したのだろう。かれを怨《うら》んでいるやつはいなかったのだろうか」 「いなかったと思います」 「しかし車の中で刺されたんだ。親しい相手だったにちがいない」 「———」  山石はしきりに首をひねっていた。思い当たる男は浮かばないようだった。     6  山石のアパートを出てから、万沢に電話をかけた。  万沢は帰宅していたが、道子は帰っていなかった。しかし道子から電話があり、今夜は友だちの家に泊まるから心配しないで欲しいという内容だった。万沢は友だちの名前を聞こうとしたが、答えないまま切れてしまったという。  万沢はかなり心配している声だった。  わたしはキヨミを自宅へ送り届け、それから岡本伸吉の通夜へ行った。  北新宿にあるマンションは高級そうな三階建てで、あとで知ったが三階までぶち抜きの造りだった。各戸ごとに立派な玄関がついている。  玄関に花輪などはなかったが、入口に喪章を巻いた男たちが数人、弔問客を迎えるように立っていた。  かすかに線香の匂いもただよっている。  わたしは黙礼して、かれらの前を通った。  室内に入ると、読経の最中だった。一階の奥に祭壇をしつらえ、伸吉の遺影が菊の花にかこまれていた。眉《まゆ》の太いハンサムな顔立ちで、喪主の席にいる女に似ていた。  もちろん喪主は母親の邦江にちがいない。黒ずくめの洋服で、うしろに束ねた髪に銀色の簪《かんざし》を挿していた。年齢は四十前後、やや痩せぎすの美人だった。一人息子の死でさすがにやつれた感じだ。わたしのほうをちらっと見たが、軽く頭をさげただけで眼を伏せた。  それより、喪主側の後部に立っていた部長刑事の馬場と眼が合ってしまった。会いたくない相手だった。わるい人物ではないが、強引な見込み捜査をする古いタイプの刑事で、わたしの職業に好感を持っていなかった。捜査に邪魔なやつとしか思っていないらしい。馬場に言わせれば、刑事事件に民間の調査機関が出る幕などないのだ。  わたしは焼香をすませると、駐車場になっている裏庭へまわった。  伸吉の車は検証のために押収されたようだった。 「なにをしてるんだ」  馬場部長だった。ついてくると思ったが、そのとおりだった。 「なにもしていません。帰るところだった」 「被害者を知っていたのか」 「ほんの少し」 「どこで知り合ったんだ」 「言えません」 「仕事か」 「たぶん」 「そんなことだろうと思った。しかし、こんどはネタがあがっている。隠しても無駄だ。万沢に頼まれたのだろう」 「———」  わたしは返事をしなかった。どう答えても、馬場は勝手に解釈する男だった。 「万沢の娘が姿をくらましている。なぜだ」 「知りません」 「まじめな娘だと聞いていたが、岡本伸吉と付き合っていた。岡本は母親の言うことなんか聞かないで遊び放題に遊んでいたらしい。万沢道子も遊び仲間だった」 「しかし、殺す理由がありますか」 「当人に聞けばわかる」 「道子が殺したというんですか」 「姿をくらましているから疑われる」 「兇器は見つかりましたか」 「そんなこと教えるわけにはいかない」 「でしょうね」 「なにをしにきたのか、わけを聞こう」 「弔問です」 「それだけか」 「馬場さんにも会えると思った」 「おれをからかう気だな」 「———」  わたしは首を振り、自分の車に戻った。  馬場は追いかけてこなかった。  事務所に戻って、万沢に電話をかけた。  道子は依然消息を絶ったままだった。どこにいるかもわからないという。  わたしは酒の誘惑にかられたが、この数日間寝不足がつづいていたので、明りを消してソファに寝そべった。     7  何度も電話のベルで起こされ、そのたびに万沢の心配そうな声を聞かされた。  よく眠れないまま夜が明けた。  道子はとうとう帰宅しなかったようだ。  わたしは一階のスナックで軽い朝食をすませると、まだ聞きたいことが残っていたので山石利男のアパートへ行った。  しかし、山石は出かけたあとだった。予備校をサボったらしく、キヨミに聞いても行方がわからなかった。  わたしはいったん事務所に戻り、黒のダブルに着替えた。仕事専用のつもりではないが、仕事のとき以外に着たことがない。  車で岡本のマンションへいった。  すでに告別式が終わりかかっていて、わたしは弔問の列に並び、焼香の順を待った。  邦江は昨日と違って和装の喪服だった。焼香の客にいちいち目礼を返している。  馬場部長は見えなかった。  ところが、先に焼香をすませて裏口から出てゆく片瀬キヨミが眼についた。  わたしは列を離れた。  玄関から裏口ヘまわり、キヨミに声をかけた。 「あら——」  キヨミは意外そうだった。黒いスーツを着て、昨日のジーンズ姿より大人びてみえた。 「道子がまだ帰らないんだよ」 「警察が怖くて逃げてるのかしら」 「山石は来なかったかい」 「あれっきり会わないわ」 「岡本のお母さん、きれいなひとだな」 「そうね。岡本くんに似ている」 「ぼくは昨日のお通夜にも行った。昨日は洋装だった」 「あたしもお通夜に行ったわ」 「それじゃ擦れ違いだ。岡本のお母さんについて、昨日と今日でおかしいと思ったことがないかな」 「どんなことかしら」 「きみの家はモダンな洋装店だ。装身具もあつかっている」 「———」  キヨミは考え込むように沈黙した。 「ここは人目に立ちやすい。車の中で話そう」  わたしは先に立ち、路上にとめておいた車に誘った。  並んで腰を下ろした。 「ぼくが気づいたくらいだから、当然きみも気づいたはずだ」 「指輪もイアリングもしていなかったわ」  キヨミは含みのある答え方をした。  会葬者は女性が多かった。ほとんどが黒い服で、金ピカのアクセサリーをつけている者はいなかった。それが参列する者の礼儀だ。しかし、真珠のイアリングやネックレスは別だった。真珠は涙の結晶といわれている。 「銀の簪のことかしら」 「うん、洋装には合っていたが、きものには合っていなかった」 「あれは輸入品ね。ヘアピンの一種で、少し形がちがうかもしれないけれど、母の店にもある。デンマークの製品と思うわ」 「告別式が終わったら、岡本のお母さんを呼んできてくれないか。それまでここで待つ」 「でも、告別式のあとは火葬場へ行くんじゃないの」 「どうかな。東京だけの習慣かもしれないが、目下の者が死んだときは、目上の者は家に残っている。出棺を見送るだけだ」 「知らなかったわ」 「知らなくていいのさ。いずれ時代とともにみんな忘れられる。それより、音楽でも聞いていよう。しばらく考えたいんだ。人間の声は聞きたくない」 「FMでもディスク・ジョッキーの声が入るわ」 「それじゃテープをかける」  わたしはテープをセットして、スイッチをいれた。 「へんな音楽ね」 「音楽じゃない。波の音だ。レコード屋で売っていた」 「ロマンチックだわ」 「ロマンチックなもんか。こんな商売をやっていてロマンチックなわけがない」  うっかり口をすべらせた。 「あら、道子の親類じゃなかったの」  キヨミは驚いたようだった。 「口は禍《わざわい》の元だが、重宝《ちようほう》にもできている。しかし、道子さんの親父さんに頼まれたことは本当だ。そのために動きまわっている」 「あきれたわ」 「あやまるよ」 「いいわ、あたしも嘘をついていたから」 「きみも嘘を——」 「まだ内緒。教えられないわ」  キヨミは口を閉じて、眼も閉じてしまった。     8  わたしたちは波の音を聞いていた。  やがて出棺らしいざわめきが伝わり、キヨミは見送りにいった。  わたしは波の音を聞きつづけていた。  霊柩車につづいて、数台の乗用車と小型バスが去っていった。  急に静かになった。  ルームミラーにキヨミと岡本邦江が映ったので、車を出た。  わたしは万沢の使いの者だという自己紹介をして、キヨミにその場を外してもらった。  キヨミはおとなしく従ってくれた。 「道子さんが帰らないので、万沢さんが心配しています。道子さんは警察に疑われている。もう、帰れるようにしてあげてください。お願いします」 「———」  邦江は美しい眉をひそめ、じっとわたしを見つめた。なにかを確かめるような強い視線だった。 「あなたは一昨夜の十時過ぎに伸吉さんの遺体を見つけたという。しかし、十時といえば、お店が忙しい時間でしょう」 「忘れ物を取りにいったんです。そして車で戻ろうとしたら、伸吉が倒れていました。いつもはタクシーを使っていますが、一昨夜は伸吉の姿が見えなくて、駐車場に車が見えたからです」 「ちがいますね。あなたはもっと早い時間にも帰宅している。そのとき車の中で伸吉くんを刺してしまった。十時過ぎにまた帰ったのは不安だったからだ。死体を見つけ、警察に届けなければ不安でたまらなかった」 「わかりませんわ。なぜそんなふうにおっしゃるのかしら」 「銀の簪が喪服に合わないからです。その簪は鋭い刃物のように先が尖《とが》っていて、一突きで心臓に達するほど長い。外国製ならヘアピンの一種でしょう。見せてくれませんか」 「———」  邦江は眼をそらした。 「あなたはそのヘアピンを捨てられなかった。部屋に置くのも、どこかへ捨てるのも不安だった。それで自分の髪に挿していた。もちろん丹念に洗ったでしょう。しかしいくら洗っても、落としきれないものが残っている。警察が血の痕を探し出せるかどうかわからないが、落としきれないものはあなた自身のなかに残っている。あなたは息子を殺したんだ。洗ったくらいで消えるはずがない。なぜ殺したんですか」 「———」  邦江は顔をそむけてしまった。顔色が青白かった。 「ぼくは刑事じゃない。そのヘアピンはあなたが自由に処分してかまわない。それで逃げ通せればいいとさえ思っている。ただ、このままでは道子さんが帰れない。早く帰れるように、それくらいはあなたも考えてやる義務がある」 「わたくしは捨てられた女です。生まれる前の伸吉といっしょに捨てられました」  すでに堕《お》ろすことが危険な体だったのだ。そして伸吉を生み、手切れ金を元にして店をひらき、伸吉を育てた。伸吉には父が死んだと言い聞かせていたが、成長すれば、生まれたときから母親しかいない子だということは戸籍謄本を見るまでもなかった。 「わたくしは伸吉を自分の命のように可愛がっていました。甘やかしたと言われても仕方がありません。けれど、心の底では憎んでいたかもしれないのです。父親を憎む代わりに、わたくしたち母子は憎み合いつづけてきました。伸吉はわたくしの手に負えなくなって、わたくしも伸吉のために一生を棒に振ったと思うことがありました。だから一昨日も、車で出ようとして暴力をふるわれ、ヘアピンが膝に落ちたとき、わたくしは自殺するような錯覚で伸吉を刺していました。殺すつもりはありませんでした。でも、刺してしまいました。やはり憎かったのかもしれません」 「伸吉くんの父親は生きているんですか」 「立派に生きています、万沢商会の社長として——」 「万沢亀太郎ですか」  わたしは愕然《がくぜん》とした。  すると、道子と伸吉は母親ちがいの兄妹ではないか。 「お店で、伸吉に道子さんを紹介されたことがあります。わたくしは恐ろしくてぞっとしました。でも、道子さんは伸吉に誘惑されるような娘さんじゃなかったと思います」 「新聞で事件を知った万沢さんは、あなたの名前をみて気づかなかったのだろうか」 「万沢と交際している頃のわたくしは母方の姓を使っていました。伸吉が生まれたことも教えていません。会う機会がなく、会わせたくもなかったのです」 「余分なことを聞いてしまいました。どうぞ、帰ってください。ぼくも帰ります」 「このヘアピンは——」 「あなたのご自由だと言ったはずです」  わたしは車のドアをあけ、キヨミを呼んだ。 「どこへ行くの」 「帰る」 「その前に、あたしの家へ寄ったほうがいいわ。道子が泊まっているのよ」 「それがきみの嘘か」 「わからなかったかしら」 「みんな芝居がうますぎる」  わたしはギアを入れ、アクセルを踏んだ。  車の中は、まだ波の音が聞こえていた。  キヨミがしきりに話しかけてきたが、わたしは波の音しか聞いていなかった。  邦江は自殺した。銀のヘアピンで喉を突いたようだった。  修羅の匂い     1  一階のスナックで朝昼を兼ねた食事をすませ、ゆっくりとコーヒーを飲んでから二階の事務所に戻った。  留守番電話をチェックすると、大横弁護士のもったいぶった声が入っていた。客を紹介するから至急電話をくれという。  気がすすまないが、仕事を選り好みしていられる身分ではなかった。ほかの弁護士とも契約しているが、大横がまわしてくれる仕事がいちばん多かった。  大横の事務所に電話をした。  事務員が大横に取りついだ。 「どこへ消えてたのかね」  機嫌が悪そうな声だった。たとえ機嫌が悪くても、客が眼の前にいるときはもう少し品のいい口をきく。 「食事です」 「のんきで結構なご身分だ。お客さんは待ちくたびれて帰ってしまった。ポケット・ベルが鳴らなかったのか」 「スイッチを切っておきました。食事中に聞きたい音じゃないし、紐でつながれている犬みたいな気分になる。実際に犬みたいな仕事をやっているせいかもしれない」 「それにしては電話つきの車なんか持ってるじゃないか」 「近ごろはガキでも外車を乗りまわし、ゴルフに熱くなってますよ」 「おれはガキじゃないぞ」 「四階の連中のことです」  話をそらした。これ以上機嫌を悪くされると厄介だった。 「とにかく、こっちに来てくれ。忙しいのは分かっている。暇なのも分かってるがね」  大横は一方的に電話を切った。  彼の身勝手はいつものことだった。  しばらく窓の外を眺めてから、三階へいった。  ノックをしないで、ドアをあけた。  若い事務員が男女一人ずつ、若い弁護士も二人いて、大横はこの事務所のボスだ。若い弁護士は金にならない仕事ばかり押しつけられて、やがて自分の事務所を持つか、仲間と共同で事務所を持つようになる。あるいは他の事務所へ移るが、それまでに一年とつづいた者はいなかった。  大横はそんなことを苦にしているようすなどなかった。  事務所では、女子事務員がワープロを打っていた。  ほかの者は出払っているようだった。  大横の部屋は別室になっていて、応接室も別になっているが、わたしが応接室に通されるのは客を紹介されるときだけだ。  大横の机は牛が昼寝できるほど大きくて、肘掛《ひじかけ》椅子もやたらに大きいが、向かい合いの安っぽい椅子は背もたれしかなかった。 「お客さんは帰ったんじゃないんですか」 「帰ったさ。あんたのような暇人とちがう」  ゴルフ焼けという彼の二重|顎《あご》の悪党づらが、笑ったときの善人そうに見える顔より好きだった。 「これを見てくれ」  大横はふくれっつらのまま、一枚の小さな写真を爪で弾くように滑らせた。  女の写真だった。まるでパスポートに添付するように、胸から上だけ写っている。正面を向いて、きりっと結んだ唇はやや薄いが、切れ長の眼がきつい感じだ。 「美人だろう」 「顔立ちは整っています」 「しかし、と言いたそうだな」 「結婚相談ですか」 「冗談じゃない。結婚相談なら、お宅のとなりにインチキくさい所がある」 「用件をうかがいます」 「この女、いくつだと思う」 「三十六、七ですか」 「もうちょい上、三十九だよ。十八歳の娘がいて美校のデザイン科に通っている。娘の名は麻見、母親のほうは千佳子だ。憶えておいてくれ。明日か明後日か、暇ができたらまた来ると言って帰ったが、ぼくは明日から四日ばかり出張なんだ。それで、直接あんたを訪ねるように言って、この写真を預かった。話を聞けば分かるが、うちの事務所で扱うような話じゃない」 「どんな話ですか」 「まあ素行調査だな。客の名は矢尻節夫、大手の通信機器メーカーの子会社の社長をしている。輸出専門だが、かなり業績がいいらしい。つまり、矢尻節夫は遣り手ということだろうな。まだ四十五だ。あんたとほとんど変わらない」 「年齢だけはね」  わたしは大横の喉まで出かかっている文句を補足してやった。いちいち腹を立てていては大横と付き合えなかった。  大横によれば、矢尻節夫と千佳子が結婚してから約十三年経つ。千佳子は国際線のスチュワーデスをしているとき、海外出張の多い矢尻と知り合った。矢尻は初婚だが、千佳子は前夫と死別している。その前夫との間に生まれた子が麻見だという。 「すると、千佳子は娘を育てながらスチュワーデスをしてたんですか」 「再婚するまでは娘を両親のところに預けていた。その両親は数年前に亡くなったそうだが、ほかに兄弟はいないし、血縁に恵まれない女性らしいな。だから娘が可愛くてしかたがないのだろうが、娘のほうはとうに親ばなれしていて、ワンルームのマンションを近所に借りている。もちろん学費も生活費も親がかりだがね」 「麻見という娘も今度の調査に関係があるんですか」 「いや、頼まれたのは千佳子夫人のことだけだ。近頃ようすがおかしいというんだよ。よくある話さ。どことなく落ち着きがなくて、亭主の視線を避けるようなことがある。気のせいかもしれないが気になるというわけだな。夫婦仲は円満で、心当たりはまったくないという」 「千佳子はいつも自宅にいるんですか」 「子供は手が離れたし、亭主は忙しくて帰りが遅い。それで遊ぶ金にも不自由してるわけじゃないが、友だちのブティックを手伝っている。スチュワーデス時代からの友だちらしいが、どんな店か知らん。くわしいことは矢尻氏から聞いてくれ」 「話を聞いてみて、断ってもかまわないんでしょうね」 「少しくらい無理でも引き受けてもらいたいな。大事な客だからね。こういうときこそ張り切ってもらう。調査料の支払いは間違いないし、着手金を持ってくるはずだ」 「わたしのことはどう話してありますか」 「ぼくが保証したよ。流木《ながれぎ》調査事務所といえば一流中の一流じゃないか」  大横は眼をそらしたが、にこりともしないで言った。  電話一本、机も一つ、調査員一名、同業者の間でもあまり知られていない。  わたしは写真を手に取り、腰を上げた。     2  矢尻節夫が訪ねてきたのは、翌々日の夕方だった。眉が太くて下顎が張っているせいか、いかつい感じだが、小さな眼は伏目がちで怯《おび》えているように見えた。  もっとも、わたしの初対面の客はたいてい落ち着きがなくて、怯えているように見える。そしてしばらく言葉をためらい、信用できる男かどうか値踏みするのだ。  わたしは矢尻の名刺を眺めながら、黙って値踏みされていた。 「こちらより、大横先生にご相談すべきことかもしれません。でも、先生は出張でお留守と聞きました。弱っています」  矢尻は小さい眼をしきりに瞬いて言った。  一昨日大横から聞いた話と違っている。 「どういう相談か知りませんが、わたしは弁護士の資格を持っていない。大横さんの代わりは勤まらないと思ってください。法律上の手助けが必要なら、ほかの弁護士をご紹介します」  大横の何倍も優秀で良心的な弁護士を何人も知っている。 「いえ、その必要はないはずですが、先のことが心配なんです」 「要領を得ませんね。もっと具体的におっしゃってください。さもなければお引き取り願います」 「千佳子が警察に呼ばれました。昨夜おそく刑事さんが迎えにきて、帰されたのは今朝の八時近くです。わたしは家にいたままですが、やはり刑事さんからいろいろと質問されました。牧村という男が殺されたらしいんです。初めて聞く名前で、会ったこともありません」 「おくさんと知り合いだったんですか」 「何度か話したことはある、という程度だったようです。千佳子の友だちでブティックをやっている臼井弓子という人がいます。わたしも知っている女性ですが、臼井さんは一年半くらい前から牧村と同棲していたそうです」 「臼井弓子さんがやっているというブティックは、おくさんが手伝いにゆく店ですか」 「はい、渋谷の道玄坂にあります」 「牧村はどんな人物でしょう、おくさんに聞いたと思いますが」 「もとはアスレチック・クラブの|指 導 員《インストラクター》の|助 手《アシスタント》みたいなことをしていたようです。臼井さんはそのクラブへたまに通っていて親しくなったらしい。アスレチック・クラブへ通っていたのは、仕事の関係じゃありません。千佳子に聞きましたが、もちろん筋肉を鍛えるためではなく、適当に運動して、汗を流し、きれいなスタイルを保つためですね。臼井さんに誘われて千佳子も一度だけ行ったことがあるそうですが、そのとき初めて牧村を紹介されたという話でした。牧村が臼井さんのマンションで同棲するようになったのはそれからしばらく後らしく、電話をしたら、いきなり牧村がでたのでおどろいたと言ってました」 「一年半も同棲していて、結婚する気はなかったのだろうか」 「知りません。牧村はアスレチック・クラブをとうに辞めて、なにも仕事をしていなかったようです」 「臼井弓子さんの収入に頼っていたのかな」 「知りません。競輪とビリヤードが好きで、野球も東京ドームへ見にゆくほど好きだったそうです」 「競輪は儲《もう》かるもんじゃないでしょう。ビリヤードも野球もね」  いったん席を立ち、朝刊をひらいた。  牧村慎也、三十四歳、無職となっている。臼井弓子との関係は知人、昨日午後三時ごろ新宿区百人町のマンションで遺体を見つけ、すぐに警察へ届けたという。死因には触れていないが、他殺の疑いが濃いとしている。顔写真は載っていなかった。  席に戻り、あらためて矢尻を見た。  不安そうな眼が、わたしの動きを追いかけていた。 「臼井さんのほうが牧村より三つ年上です」  矢尻は新聞記事を補足するように言った。 「警察に呼ばれたのは疑われたせいと思いますが、なぜ疑われたんでしょう」  深夜から朝まで調べられたのだ。かなり疑わしい点があったにちがいない。深夜に同行を求めること自体が、ほとんど容疑者あつかいではないか。成りゆき次第では逮捕された可能性もある。 「わかりません。千佳子は、昨日は外出しなかったし、自分は関係がないと言うばかりです」 「あなたはどういうことを刑事に聞かれましたか」 「昨日わたしは夜まで会社にいました。牧村については先ほど申しあげたとおりで、会ったこともないので答えようがないし、わたしたち夫婦の仲は円満なつもりです。わたしは仕事に追われて日曜も休めないことが多い。でも、その代わり日曜じゃなくても、千佳子をレストランに誘って夕食を共にするようにしているし、年に一度は二人きりで海外を旅行します。今年はまだ予定を立てられないでいますが」 「娘さんはいっしょに行かないんですか」 「麻見は親より友だちといっしょのほうがいいようで、それが当然の年頃かもしれませんが、つれて行って欲しいなどと言いません。マンションを借りてやったら、それだけで十分満足しているようです。ひとり暮らしをさせるのは少し心配ですが、しっかりした娘です」 「マンションのひとり暮らしは、麻見さんの希望ですか」 「もちろんです。といって、わたしたちと暮らすのが厭《いや》になったわけじゃない。生まれて半年くらいで父親を亡くしたあとは、千佳子がスチュワーデスの仕事に戻ったので、祖父母の家で育ちました。ですから、わたしたちとの生活は千佳子の再婚後ということになりますが、麻見はすぐわたしになついてくれたし、わたしも自分の娘と同じ感じで可愛がっています。麻見は神経のこまやかな、やさしい娘です。マンションへ移っても、始終家に帰っているようで、泊まってゆくこともありますが、千佳子を安心させるためというより、寂しがらせないように気を配っているんだと思います」 「立ち入ったことをお尋ねしますが、あなたはほかにお子さんがいませんか」 「いません。千佳子との結婚が初めてです」 「話を戻します。ご存じのとおり、わたしは弁護士じゃないし警察官でもない。なにをすればいいんでしょう」 「事実を知りたいのです。千佳子が答えようとしない事実、あるいは答えられないでいる事実を知りたい。臼井弓子さんに会えば、なにか分かると思います」 「見ず知らずのわたしなどより、あなたのほうが聞きやすいんじゃないかな」 「わたしでは遠慮するかもしれない。秘密を守るといえば、第三者のほうが話しやすいこともある。そういう気がします」 「成りゆきによりますが、おくさんにお目にかかれますか」 「わたしはかまいません。でも、そのときは大横先生の名前を使ってください。千佳子にそう言っておきます」 「わかりました」  調査事務所の調査員なんて肩書は、めったに通用しないし、警戒されるのが落ちだった。  それに、わたしの名刺には肩書がついていない。相手を信用させるため肩書が必要な場合は、大横法律事務所の嘱託という名刺を用意してあった。     3  着手金を小切手で受け取り、臼井弓子の電話番号などをメモした。調査料の支払いは大横の事務所を通すことになっていて、そのさい大横に二〇パーセントをピンはねされる。  矢尻節夫が帰った。  もし、一昨日のうちに依頼されて調査を始め、千佳子の動きを追っていたらアリバイを立ててやれたかもしれないし、牧村の死体を見つける役を背負いこんだかもしれない、などという考えは無意味だった。  わたしは考えないことにした。  牧村が臼井弓子と同棲していたという百人町のマンションヘ向かった。高田馬場に近いが、新宿署の管内だ。  マンションは七階建てだった。レンガ色のタイルを張りつめた外装、やや古びているが、安っぽくはない。正面入口を入ると左手に郵便受けが並んでいて、臼井弓子の部屋は四〇三号と分かった。臼井という名字だけで、牧村の名はなかった。  六十年輩の管理人がわたしを見たが、なにも言わなかった。  わたしは紺のスーツ、きちんとネクタイを締めている。目立つような人相ではないつもりだ。  エレベーターで四階へ上がった。  四〇三号室はすぐにわかった。  表札のプレートには、やはり臼井としか記されていない。  玄関ドアの脇ボタンを押して、チャイムを鳴らした。 「どなた——」  女の声だが、たぶんインターホンが故障しかかっているせいで、声が濁っていた。 「矢尻さんの使いです」 「———」  インターホンから雑音が消えた。ドア・スコープをとおして、わたしのようすをうかがっている気配だった。  刑事が来ていたらまずいと思ったが、そのほかの客もいないようで、ロック・チェーンをはずす音がした。 「どうぞ——」  女の声がきれいになった。  わたしはドアを手前に引いた。  臼井弓子はジーパンで男物のようなブルーのトレーナーを着ていた。今でもアスレチック・クラブへ通っているのかどうか、背が高く、スタイルもよかった。彫りの深い顔はつめたい感じだが、そのつめたさに色気があった。  ただし好きなタイプではなかった。十五年も前に、にがい思いをさせられた女に似ているせいかもしれなかった。 「今度の事件のことで矢尻節夫さんに頼まれました」  わたしは大横法律事務所の肩書がついている名刺を渡した。 「なにを頼まれたのかしら」 「いろいろです。立ったままじゃ落ち着いて話せない。警察でも事情を聞かせてもらいますが、その前にあなたからうかがいたいのです」 「いきなり押しかけて来て、ずいぶん勝手なことをおっしゃるのね」 「いつもそう言われます。でも、そう言われることに馴れてるわけじゃありません」 「千佳子は警察から帰されたはずじゃないかしら」 「よくご存じですね」 「———」  弓子はやや大きい唇の端で笑った。  窓に面した居間へ案内された。かなり広くて、ソファもゆったりしていた。壁に沿って洋酒棚やビデオ・デッキ付きの大型テレビ、額縁入りの写真は南欧の都会らしい。本棚は美術関係の本が多いようだ。それに観葉植物はゴムの木か。それらがちまちまと所を得たようにおさまっている。からし色の絨毯、シャンデリアもしゃれた感じだ。いったいに派手な色彩はないが、派手なのは弓子がいれば十分ということか。  いずれにせよ、死体発見現場という痕跡がなかった。検証がおこなわれたという匂いがないのだ。 「牧村慎也さんの遺体を見つけたのはこの部屋ですか」  腰をおろしてから、聞いた。 「なぜ、この部屋なのかしら」  弓子は鉛筆の芯のような細いタバコに火をつけた。マニキュアが赤い。左の薬指のルビー色の指輪は本物かどうか分からない。 「新聞にそう出ていた」 「そんなはずないわ。慎ちゃんの部屋はこの真上よ」 「あなたは彼といっしょに暮らしてたんじゃないんですか」 「おかしな話、だれがそう言ったの」 「矢尻さんに聞いた」 「それじゃ、千佳子がでたらめをしゃべったのね。いかにも千佳子らしいけれど、わたしはひとりが好き、子供なんか欲しくないし、だから結婚なんかも考えたことがない。それなのに、冗談はいい加減にしてもらうわ」 「誤解していたのかもしれない」 「いえ、わざと言ったのよ」 「なぜわざと嘘をつく必要があるのだろう」 「嘘つきって、嘘をつくのが習慣じゃないかしら。人を傷つけるような嘘が、おもしろくてたまらないのね」 「意外だな。あなたと千佳子さんはいちばんの仲よしだと思っていた」 「それこそ誤解だわ」 「としたら、どうしてあなたのお店を手伝っていたのだろう」 「暇をもてあましたせいよ。いつか自分もブティックをやりたいと言って、仕事をおぼえる気もあったみたい。千佳子はスチュワーデスをしていた頃の先輩だし、急に辞めた子がいたりしてちょうど手が足りないときだったので、金土日の忙しい三日間だけ手伝ってもらうことにしたの。それが半年くらい前かしら」  スチュワーデスをしていた仲間の会があって、千佳子と臼井弓子は年に二、三度会っていたという。千佳子が弓子につれられてアスレチック・クラブヘいったのは、その会の流れだったようだ。ブティックを手伝うようになる大分以前らしい。  しかし、気が合っていたから店を手伝わせることにしたのではないか。 「そうね——」  三本目のタバコが灰皿でくすぶっていた。 「はじめはうまくいってたわ。でも、わたしと慎ちゃんの仲を知ってから、少しずつおかしくなってきた。わたしは鈍感なのでなかなか気がつかなかったけれど、慎ちゃんのこと好きになってしまったのね。もちろんわたしたちの仲を承知の上で、ばかなひとよ」 「あなたと牧村の仲がわたしにはよく分からない。二度と誤解しないですむように聞かせてください」 「ご想像におまかせします。アスレチック・クラブでは顔を知っていた程度、そのうち慎ちゃんがこのマンションに越してきた。偶然だったわ」 「それ以来親しくなったというわけですか」 「わたし、ご想像におまかせすると言ったはずよ。くどい話って嫌いなの。憶えておいていただくわ」 「わかりました。こちらに来る前から勝手な想像をしてたんです。千佳子さんが牧村を好きになって、牧村のほうはどうだったのだろう」 「遊び相手をしてあげた程度みたい」 「牧村がそう言ったんですか」 「ほかに言える人がいるかしら。慎ちゃんは浮気っぽいところもあるけれど、体格がいい割に気が小さくて、隠しごとができないの。わたしに対しては特にね。すぐ顔色でバレてしまう」 「あなたに気づかれたことを、千佳子さんは知ってますか」 「わたしは知らんふり。言えば焼餅を焼いてると思われるだけですもの。でも、慎ちゃんが言ったはずよ。わたしはそう聞いたわ、それを理由にして千佳子を突っ放したって」 「いつ頃のことだろう」 「二週間くらい前ね」 「それでけりがついたんですか」 「けりがつかないから、昨日みたいなことになったんじゃないかしら」 「千佳子さんを疑っているように聞こえる」 「千佳子が殺したに決まってるわ」 「なぜ」 「慎ちゃんに冷たくされても、千佳子は諦《あきら》めなかった。としたら、諦めさせるために、慎ちゃんはすべてをご主人にバラすと言ったかもしれない。バラされたらたいへんだわ。娘さんに知られてもまずいし、そこでついカッとしてしまったのね」 「逆上のあまり、精神錯乱状態になって、ですか」 「ほかに考えられないわ」 「あなたも想像力がゆたかですね。刑事にもそう話したんですか」 「いけなかったかしら」 「遺体を見つけたときのようすを教えてください。昨日は水曜ですが、店は休みだったんですか」 「いえ、定休は木曜日。きょうがお休みよ。午前中はお店にいて、お得意さんを二軒まわってから、近くまで来たついでにコーヒーでもいれてもらおうと思って慎ちゃんの部屋へ寄ったの。めずらしいことじゃないけれど、そのときは虫の知らせみたいな感じ。入口の鍵がかかっていないで、慎ちゃんは壁際のヒーターのそばに倒れていた、胃が痛いときのように体を丸くして」 「すぐに死んでると分かりましたか」 「すぐになんて分かるはずないわ」 「時間がかかってもかまいません。なぜ分かったのだろう」 「声をかけても、肩を揺すっても返事がないし、うつむき加減の顔をのぞいたら、眼があいたままで、生きている人の顔じゃなかったし、手が冷たいのでぞっとしたわ」 「血が流れていましたか」 「いえ」 「首に紐《ひも》が巻きついていたというようなことは」 「刑事さんそっくりな聞き方ね」 「その刑事は優秀なんですよ、たぶんね」 「眼つきのわるい、ばかみたいな刑事さんだったわ。あなたも警察にいたことがあるのかしら」 「いや、まったく関係がない。話をつづけてください。死んでいたとしても、殺されたとは限らないでしょう。つまずいて転んだ拍子に頭を打ったのかもしれない。打ちどころが悪ければ死ぬこともある」 「わたしはそんなふうに思わなかった。香水の匂いがして、その香水が好きなひとを知っていたわ」 「だから、刑事に千佳子さんのことを話したんですか」 「当然じゃないかしら」 「あなたも香水をつけますか」 「つけたり、つけなかったり、その日の気分によってほんの少し」 「きょうはどうですか」 「つけていないけれど、なぜ聞くの」 「とてもいい匂いがする」 「うれしいわ、お世辞と分かっていても」 「千佳子さんがつけている香水は、いつも同じですか」 「シヤルマン。フランス語で魅惑的な、という意味かしら。よく飽きないと思うくらい。すばらしい思い出があるのかもしれないわ」 「話を蒸し返すようですが、牧村の死因を刑事に聞きましたか」 「まだはっきりしないんじゃないの。首の骨が折れてるようなことを、ちらっと聞いたけれど」 「彼はアスレチック・クラブを辞めてから、なにをやって食っていたんだろう」 「慎ちゃんはお金持よ。お父さんが遺してくれた土地を売ったお金があって、一生遊んで暮らせる身分だったみたい。インストラクターの助手をしていたのも遊び半分、自分でそう言ってたわ」 「羨《うらや》ましいな。おかげで競輪にビリヤードに野球見物ですか」 「千佳子はそんなことも矢尻さんにしゃべってるのね」 「いけませんか」 「すごい悪意を感じる」 「しかし、競輪もビリヤードもわるいことじゃない」 「余計なおしゃべりよ。千佳子は警察に呼ばれた理由を、なんて矢尻さんに話したのかしら」 「彼女自身わからないんじゃないかな。昨日は外出しなかったし、事件とまったく関係がない。だから帰されたんでしょう」 「それじゃ、だれが香水の匂いを持ってきたの」 「彼女の好きな香水を知っている者がいて、彼女に疑いをかけさせるため、香水の匂いを残して消えたやつがいるかもしれない。とすれば、そいつは男の可能性もある」  もちろん臼井弓子の可能性もあった。  弓子は考えるように、くわえたタバコに火をつけないまま、窓の外を眺めた。シャワーを浴びたあとのように髪を巻き上げて、きれいな首筋だったが、その首筋に年齢があらわれていた。 「心当たりはありませんか」 「ないわ。あやしいのは千佳子だけよ」 「ビリヤードの友だちはどうですか」 「わたしはビリヤードに興味がないし、慎ちゃんがどこのビリヤードでゲームしてるか聞いたこともなかった。慎ちゃんはわたしと同じで、ひとりでいるのが好きなの。孤独好きという意味じゃなくて、ひとりなら自由でいられるから。それでわたしたち気が合ったのね。慎ちゃんは友だちなどいなかったと思うわ」 「アスレチック・クラブでインストラクターをやっていた友だちがいるでしょう」 「寺本さんのことかしら」 「名前は知りません」 「寺本さんよ、きっと。学生時代のサーフィンの仲間ね。卒業後はほとんど付き合いがなくて、どこかでばったり会ってアシスタントを頼まれ、暇つぶしのつもりでその気になったみたい。寺本さんはとうにインストラクターをやめて、郷里の北海道か九州へ帰ったんじゃないかしら」 「北海道と九州じゃずいぶん違う」 「憶えてないの。ひとの郷里なんか関係ないわ。それより、わたし、いらいらしてるんですけれど」 「わたしが長居しているからですか」 「分かっていたのね」 「あなたが魅力的なせいです」 「もうお世辞はたくさん。帰っていただきます」 「またお目にかかれますか」 「———」  臼井弓子は返事をしないで立ち上がり、玄関にむかう通路をあけた。     4  エレベーターは七階から下りてきて、わたし一人乗せて一階に下りた。  エレベーターから出た途端、いやな男に会ってしまった。この世でいちばん会いたくない人物だった。相性がわるいのだ。  新宿署の部長刑事、馬場もそう思っているにちがいなかった。 「おもしろい所で会ったな」  馬場はわたしの前に立ちふさがった。がっしりした体格だ。背が低いわけではないが、胴が太過ぎるので低く見える。 「どこへいってきたのかね」 「仕事です」 「仕事は分かっている」 「それじゃ、質問したって無駄ということも分かってるでしょう。ぼくの信用は口の固さでもっている」 「ふん、ばかに恰好《かつこう》をつけるじゃないか。エレベーターは四階でストップしてから下りてきた。四階で、あんたに関係がありそうなのは一人しかいない。臼井弓子さ。おれは彼女を訪ねるところだった」 「彼女が言うには、馬場さんの眼はやさしいそうです」 「また刑事のふりをしてきたんだろう」 「いえ、大横さんの事務所の名刺を渡しました」 「ろくな弁護士じゃないな」 「ぼくの立場からは賛成できないのが残念です」 「依頼人は誰かね」 「大横さんに聞いてください」 「とにかく、ここでは通る人の邪魔になる。向こうで話そう」  馬場は勝手なことを言って、先に立った。  付き合う義理はないが、わたしのほうも聞きたいことがあった。  狭いロビーを横切って、非常口から庭へでた。  塀の高さと同じ幅くらいの芝生で、建物に沿って細長くのびている庭だった。ところどころに灌木が植えてある。 「昨夜おそく、矢尻千佳子さんを連行したそうですね」 「妙な言い方をしては困る。連行じゃなくて、任意同行だ」 「夜おそく迎えにきて、朝まで調べるなんて任意同行といえない。まるで容疑者あつかいでしょう。逮捕状をとってあったなら別ですがね」  わたしは強気にでた。  馬場は強引な見込み捜査をする古いタイプで、わたしの職業に好意を持っていなかった。 「文句を言いたいのか」  馬場は怒りっぽかった。  彼の顔を見ると、わたしはつい怒らせたくなってしまう。 「文句じゃありません。人権問題ですよ。大横さんに話せばきっと騒ぎ立てる」 「あんたは物事を大げさに言う癖がある。逮捕状なんかとってなかったし、尋ねたいことがあったから任意で来てもらった。帰るときは、ていねいに人をつけて送り届けた」 「ていねい過ぎますね。尋ねたいだけなら、同行を求めなくても、彼女の家で間に合ったはずです」 「おれに参考人のあつかい方を教えてくれるのか」 「そんなつもりはない」 「だったら、おだやかにやろう。臼井弓子に会って何を聞いてきたのかな」 「牧村慎也の死体を見つけたときのようす、その他です」 「その他を知りたい」 「あまり聞かせてもらえなかった。牧村は金持だったというけれど、ほんとですか」 「臼井弓子がそう言ったのか」 「だから働かなくてもいいし、競輪やビリヤードで遊んでいたらしい」 「とんでもないね。彼は弓子のヒモみたいな男さ。もてるのは結構だが、自分の金なんかゼロだ。銀行の通帳もなかったし、部屋代も弓子が払っていた」 「惚れてたんですか」 「だろうな。といって、彼女を疑うのは気が早い。あんたは気が早いから注意しておくがね。この近くに彼女の店の得意先があって、そこへ寄った時間が分かっている」 「パトカーを呼んだ時間も分かってますね」 「もちろん」 「つまり、アリバイがあるというわけですか。しかし、事件は一瞬でけりがつく出来事でしょう」 「その辺は好きなように解釈してもらう。あんたも商売が暇らしいからな。商売の邪魔はしない」 「牧村は首の骨が折れていたということも聞きました」 「おれは知らんよ。知っていても教えるわけにはいかない」  検証をしたときの、およその死後経過時間も教えてくれなかった。 「矢尻千佳子を深夜から朝まで調べたことは大横弁護士に報告しません。その代わり、ぼくの商売にも少しサービスしてください。なぜ千佳子夫人は疑われたんですか」 「しつこいね。彼女に対しては事情聴取したにすぎない」 「なぜ事情聴取したんですか」 「必要があれば、だれからでも事情を聞く」 「どういう必要があったのだろう」 「ほんとにしつこいな。捜査の参考になりそうなことすべてだ。こんなこと言うまでもない」 「それで、参考になりましたか」 「わからんよ。捜査中の事件について、外部の者にぺらぺらしゃべる捜査員がどこにいるか、常識で考えてもらおう」 「それじゃ常識で考えます。警察はわざわざ千佳子夫人に同行を求めて事情聴取した。もし疑いが深まったら、逮捕状を用意していなくても緊急逮捕したにちがいない。有名な馬場部長が担当のようですからね。確信を持って同行したのだと思う」 「おれの忍耐力をためしているつもりか」 「しかし——」  わたしは眼つきが険しくなっている馬場を無視してつづけた。 「千佳子夫人は帰宅を許された。馬場さんより上の偉いさんたちが、緊急逮捕は無理と判断したのかもしれない」 「ふん——」  馬場は荒い息をして、鼻を鳴らした。 「千佳子夫人の疑いは晴れたと思っていいんですか」 「知らんな」 「全然サービスしてくれないんですか」 「せっかくだから一つだけ教えてやる。ちょっと歩くが、その道をまっすぐいって大久保通りを渡ると、左側にビリヤードの看板が見える。ブレークというちっぽけな店だ。牧村慎也は常連だったらしいから、経営者に聞けば何か分かる」 「初めて親切にしてくれましたね」  気持が悪いくらいだった。 「せいぜい客のご機嫌をとって稼ぐんだな。これ以上あんたと付き合っている暇なんかない」  わたしを呼び止めたくせに、馬場は相変わらず勝手だった。 「ぼくも親切のお返しに一つだけ。臼井弓子に会ったら、いい匂いがすると言ってやると喜びます」 「そんなばかなことが言えるか」 「ぼくは言ってやりました。ただし肌の匂いじゃない。香水の匂いでもない。彼女は飲んでいたらしい。かすかにブランデーの匂いがした」 「酔っているのか」 「いえ——、会えば分かりますよ」 「ふん」  馬場はまた鼻を鳴らし、肩を揺すって立ち去った。     5  ビリヤードの所在はすぐ分かった。喫茶店の二階だった。  しかし、喫茶店は明りがついているが、二階の窓は暗かった。 「お客さんですか」  五十がらみの男が声をかけてきた。薄茶色のジャケット、ピンク色のスカーフを巻いている。おとなしそうな男だが、女っぽい感じもした。 「すみません。きょうは休みなんです。定休日なもんで」  月に二度しかない定休日だった。  部長刑事の馬場はそれを知っていたにちがいないが、腹を立てても始まらなかった。  男はビリヤードの経営者だった。 「こちらの客で、牧村慎也をご存じですね。彼についてお尋ねしたいことがありました」 「刑事さんですか」 「うむ」  わたしは曖昧にうなずいた。 「前にお話しましたけれど」 「また聞きたいんです。時間はとらせません。このまま、立ち話で結構です。彼が常連になったのはいつ頃ですか」 「代替わりして、わたしがこの店を引継いだのが半年ほど前ですが、その最初の頃からよくお見えになっていました」 「毎日のように、ですか」 「いえ、週に二、三度でしょうか。お客さんはたいてい友だちといっしょですが、牧村さんはいつも一人きりでした。ふらっと来て、ふらっとお帰りになる、そういう感じです」 「友だちをつれてきたことはないんですか」 「ありません」 「店で友だちになった者は」 「いなかったと思います。いつも一人で、ほかの人たちとは口をきかないで、静かに玉を突いていました。そしてプレーが終わったら、隅のテーブルでウィスキーの水割りを飲んで帰る、というのが決まりみたいでした」 「あなたとも口をきかないんですか」 「少しは話します、世間話ていどですが」 「牧村は玉突きがうまいんですか」 「かなり上手でしょうね。わたしもうまいつもりでいますが、牧村さんにはかないません。誘ってもらったので三回ほどお相手をしましたけれど、三回とも負けてしまった」 「彼と同じマンションにいる女性を知ってますか」 「臼井さんですか」 「そう、臼井弓子という名前です」 「名前は知りませんでしたが、仲よく腕を組んで歩いているところを見かけるので、ご夫婦とばかり思っていました。そうじゃないんですってね」 「ほかの女性と歩いている姿を見たことはありませんか」 「ありません」 「この写真を見てください。見憶えがないかな」  わたしは矢尻千佳子の写真を出して、喫茶店から洩れる明りにかざした。 「きれいな人ですね」  しばらく眺めていたが、心当たりがないようだ。 「まだ新聞などにでていないから内緒にしておいてもらいますが、牧村慎也は殺された疑いが強い。とすれば、なぜ、どんな人物に殺されたのか、あなたの考えを聞かせてください。勘でも想像でもかまいません。ビリヤードの客たちの噂でも結構です」 「———」  ビリヤード経営者の視線は千佳子の写真から離れなかった。しきりに考えているようだが、ほかに見るものがないというだけかもしれなかった。  わたしは写真をパス・ケースに戻した。 「事件のことを聞いて、昨日からびっくりしつづけです。お客さんたちは牧村さんの名前も知らないせいか、ほとんど無関心みたいで、話題にもなりません。牧村さんがうちの店でいさかいを起こしたことはないし、とにかく無口な人という印象だった」 「彼の職業を知ってますか」 「知りません。それとなく聞いてみたことがありますが、浪人中だなんて笑ってました。会社をやめて、あとの勤め先が決まらないでいたんじゃないでしょうか」 「浪人とは羨ましいな。金に困らなければね」 「うちのゲーム代や飲み代なんてたかが知れていますが、金に不自由なようすなどなかったし、いつも仕立てのいいスーツを着ていました」 「それじゃ女性にもてて、もて過ぎたのが事件の原因かもしれない。あなたもそう思いませんか」 「さあ、どうでしょう。ハンサムだし、もてそうなタイプですが、それほどもてたかどうか分かりませんね」 「なぜ」 「どこか暗い感じなんです。とくに眼つきが——」  ビリヤード経営者はわたしから眼をそらして言った。  彼の眼も暗いようだった。     6  千佳子が答えようとしない事実、あるいは答えられないでいる事実を知りたい、臼井弓子に会えば分かる、と矢尻節夫は言った。  わたしは弓子に会い、偶然だが、部長刑事の馬場にも会った。  しかし、何ひとつ分かったという気がしなかった。わたしが知り得たことは、矢尻にとっては千佳子から聞いていることばかりかもしれなかった。確からしい事実の相違は、弓子と牧村は同棲ではなく、同じマンションの上下階に分かれているというくらいだ。結婚を望まない愛人関係など珍しくない。  いずれにせよ、わたしはあまり役に立たなかったようだ。牧村の死が他殺であるとしても、犯人を探すのは警察の仕事で、わたしの出る幕ではなかった。  矢尻の自宅に電話をかけた。あらましを報告して、仕事にけりをつけるつもりだった。  女の声がでたが、矢尻は帰っていないらしく、 「——母に替わります」  と言って「お母さん、お電話よ」と呼ぶ声が聞こえた。たぶん娘の麻見だった。  わたしは気が変わって、千佳子に会っておきたいと思った。  やがて千佳子が電話にでた。娘の声に似ていた。 「お目にかかれるでしょうか」  わたしは矢尻の了解を得ていると言った。  千佳子も矢尻から聞いていたようで、ためらわずに承知した。  家は杉並区の松ノ木だった。  電車で阿佐ヶ谷へ行き、二十分くらい歩いた。地下鉄なら新高円寺か南阿佐ヶ谷が近い。  暗いが、静かな住宅地だった。  時おり犬に吠《ほ》えられた。一匹が吠えると、つぎつぎに吠える。わたしも誰かに向かって吠えたい気分だった。  柾《まさき》などの生垣をめぐらした家が多いが、矢尻家の塀は大谷石で、二階建てのモダンな造りだった。  門の脇のチャイムを鳴らそうとしたとき、待ちかねたように玄関をあけて、若い女が出てきた。  麻見だった。  もちろん待っていたわけではない。来客があると聞いて、一人住まいのマンションヘ帰るところだった。  擦れ違うときさわやかな匂いがしたが、香水の匂いではなく、シャンプーのようだった。肩先までの黒い髪、背が高くて、涼しい眼をしていた。ワンピースは淡い緑色。 「——失礼します」  麻見はていねいに挨拶をして去った。美校生で十八歳。  間もなく千佳子に迎えられ、応接セットを置いた部屋へ通された。  壁にかかっている抽象絵画は誰の作か分からない。シンプルなシャンデリア、小さな書棚など、あまり飾っていないのがかえってしゃれているようで、美校でデザインを習っているという麻見の趣向かもしれなかった。  わたしは自己紹介してから、千佳子が緊張気味なので、その緊張がほぐれるように玄関先で擦れ違った麻見を話題にした。 「うつくしいお嬢さんですね」  お世辞ではなかった。 「そうでしょうかしら」  千佳子は首を傾けて微笑した。  千佳子と麻見はすぐに母娘と分かるほど似ていない。千佳子はほっそりした中背で細おもてだが、麻見は頬がふっくらしていた。  しかし、涼しい眼もとが似ている気がした。写真で見た千佳子の眼はきつい印象だったが、いまは弱々しく見えた。地味な縞《しま》模様のワンピースに幅広のサッシュ・ベルト、左の薬指にオパールの指輪、金色のネックチェーンも派手という感じはなかった。 「麻見さんはこの近くにお住まいと聞きました」 「はい。昼間なら、ここから建物の青い屋根だけ見えます。わがままで、甘えんぼうで、室内《インテリア》デザイナーになるなどと言っていますが、自分の部屋は散らかし放題です」 「矢尻さんはまだ会社ですか」 「さきほど電話がありました。十時までには帰るそうです。仕事が忙しいようで、いつもは十二時近くなります。夜はお客さんの接待が多いようなんです」 「昨日はどうでしたか」 「十一時くらいじゃなかったかしら。ちょうど刑事さんがお見えになっていたときです」 「おくさんは、そのまま警察へ呼ばれていったんですね」 「はい」 「そして朝まで質問をうけていた。なぜだと思いますか。わたしは臼井弓子さんに会いました。その結果は矢尻さんに報告すべきなんですが、その前におくさんの考えをうかがえれば、余計なことまで話さないですみます。初対面で、いきなり信用して欲しいといわれても迷惑なだけでしょう。でも、信用していただくしかないんです。駄目なら、なにも申し上げないで引き下がります」 「いえ。どうぞ、おっしゃってください。お電話を頂戴したときから、わたくしもお話するつもりでいました」 「それじゃ遠慮しません。牧村とはどの程度の付き合いだったんですか」 「牧村さんは時おり弓子のお店にきていました。近所まできたついでに、ぶらっと寄ったという感じです。手がすいていればわたくしも話相手になりますし、弓子もいっしょに向かいの喫茶店でおしゃべりすることもありました。でも、牧村さんと二人きりで会ったことはありません。もし誘われたとしても、わたくしは弓子との仲を聞いていましたから」 「もしではなく、実際に誘われたことがあるんじゃないんですか」 「あります、電話で——」 「何回くらい」 「六、七回でしょうか」 「熱心ですね」 「そのたびにお断りしてたんですが」 「最後はいつ頃ですか」 「半月くらい前です」 「弓子さんに気づかれなかったろうか」 「と思いますけれど、牧村さんのこと好きなんじゃないかって聞かれたことがあります。冗談みたいな聞き方だったので、わたくしも冗談みたいに笑って答えました、まさかそんなことって——」 「しかし彼女は疑っているようです。あなたが牧村と弓子さんの仲を嫉妬《しつと》していて、牧村のほうはそれを弓子さんに気づかれたという理由であなたに冷たく当たった。それでもあなたが諦めないので、牧村はあなたとの仲を矢尻さんにバラすと言った。それが事件の原因ではないかというんです」 「でたらめです。弓子の気持がわかりません」 「あなたと弓子さんはかなり親しかったんじゃないんですか」 「仲がいいつもりでした。だからブティックを手伝うようになったのです」 「手伝うようになったきっかけは」 「弓子が電話してきて、週末だけでも売り場を手伝って欲しいというので、わたくしも興味があったし、承知しました」 「そういう電話をかけてくるくらいなら、あなたに時間の余裕があることを知ってたんでしょうし、それ以前から親しかったと思いますが」 「長電話で無駄なおしゃべりを愉しんだり、映画やコンサートに行ったりしていました。牧村さんとの関係も、弓子から直接聞いたんです。結婚する気はないけれど、いっしょに住んでいるって」 「しかし、同棲とは違うようですね。同じマンションの弓子さんは四階、牧村は五階だったらしい」 「わたくしは同じ部屋と聞いています。行ったことはありませんが、牧村さんのために新しい家具を買ったし、食事の世話もしてあげていると言ってましたから」 「弓子さんは結婚したことがないのだろうか」 「籍が入っていたかどうか知りませんが、二年くらいいっしょに暮らした人がいます。でも、その人はアメリカ人で、アメリカへ帰ってしまいました。たぶん入籍していなかったと思います。友だちの噂では、アメリカにおくさんやお子さんもいたそうです」 「そのアメリカ人は、日本で何をやっていたんでしょう」 「フリーのジャーナリストで、アメリカの新聞や雑誌に経済関係の記事を送っているという話でしたが、その人の書いた記事を読んだことはありません」 「弓子さんが見せませんでしたか」 「はい」 「会ったことがありますか」 「偶然会って弓子に紹介され、コーヒーを飲んだことが一度だけ、若くてきれいな人でした」 「弓子さんより若い男ですか」 「五つか六つくらい若い感じです」  牧村慎也も弓子より年下だった。彼女の好みかもしれない。 「アメリカ人と別れたあと、恋人みたいな男はいなかったでしょうか」 「何人か噂を聞きましたが、噂ですから当てになりません」 「確かなのは牧村ですね。彼は遊んで暮らしていたらしいが、金持だったのだろうか」  弓子の話では、親の遺産がたっぷり入ったようだ。  しかし馬場部長によると、彼は弓子のヒモのような男で、預金通帳もなかったという。 「知りません。弓子は言わなかったし、わたくしも聞きませんでした。友だちでも、聞いてはいけないことがあります。そう思って聞かなかったのです」 「自慢できるような職業についていたなら、弓子さんのほうから話すはずですか」 「———」  千佳子は黙ったが、沈黙もまた回答だった。 「もとへ話を戻します。なぜ警察に呼ばれたのか、弓子さんが告げ口したとしても、単なる告げ口くらいでは警察まで呼ばないでしょう。香水について聞かれませんか」 「聞かれました。でも、昨日は香水をつけません。外で友だちに会うとか、矢尻とレストランで食事をするとか、そういうときだけ、たまにです」 「いつも同じ香水ですか」 「若い頃から好きな匂いでした」 「その香水を弓子さんは知っていますか」 「ブティックで香水も売っていますし、新しい香水が入ると話題になります」 「弓子さんは、牧村が死んでいた部屋で香水の匂いがしたと言っている。それがあなたの好きな香水の匂いだったらしい。そのせいで警察へ呼ばれたのかもしれない」 「わたくしもそう思います」 「しかし、犯人はあなたではない。とすれば、だれが香水の匂いを残していったんでしょう」 「わかりません。刑事さんに香水のことを聞かれたときからずっと考えています。でも、思い当たる人がいないのです」 「臼井弓子のほかは、と解釈してかまいませんか」 「それは困ります。値段はごく普通の香水ですが、ちょっと癖があるらしくて、日本では好きだという人が少ないようです。ですから、牧村さんのお部屋でその匂いを嗅《か》いだとしたら、わたくしが疑われても仕方がないのかもしれません。誤解ですけれど、憎まれても告げ口されても仕方がないという気がします。わたくしは今でも弓子を悪い人だなんて思えないんです」 「香水の名はシャルマンでしたか」 「はい」 「何者かが、その香水の匂いを牧村の部屋に運ぶことは簡単ですよ」 「———」  千佳子はまた黙ってしまったが、今度は考える表情だった。切れ長の涼しい眼が、いつの間にかきつくなっていた。 「警察で、昨日午後三時ごろまでどこにいたか質問されたでしょう。警察で答えたとおり、わたしにも話してください。念のためです」 「おひる過ぎに近くのマーケットヘ買い物に行きましたが、あとは家にいて、編物をしていました。テーブル掛けを編んでいるんです」 「その間に電話がありましたか」 「証券会社のセールスマンから二本ありましたが、株のことは何も知らないし興味もないので、二本ともすぐ切ってしまいました」 「車をお持ちですか」 「わたくしの車は、免許証を取ったばかりの麻見が持っていったきりです。矢尻の車は会社に置いていることが多くて、うちのガレージはたいてい空いています。会社へ行くのは電車のほうが早いし、帰りはお酒が入っていますから、矢尻もゴルフのとき以外はあまり乗らないようです」 「また話が戻りますが、臼井弓子のブティックを手伝うのは金土日でしたね。先週も行ってたんですか」 「いえ、先週は疲れ気味なので休みました。ほかに若い店員が二人いますし、わたくしは適当に休んでいいことになっています」 「繁昌しているんですか」 「と思いますが——」  千佳子は急に気がついたように、コーヒーか紅茶をいれると言った。  わたしは辞退して、帰ることにした。     7  なかなか寝つかれなくてジンを追加したが、そのせいか、起き上がると胃が痛んだ。禁酒は三日しかつづかなかったし、禁酒より胃痛のほうが耐えやすかった。 「顔色がよくないな。景気がわるいなら仕事をまわしてやる」  ビルの四階にいる暴力団万沢商会の社長、万沢亀太郎が擦れ違いに言った。  余計なお世話だった。  わたしは返事をしないで、一階のスナックでコーヒーを飲んだ。  いつもならうまいはずのコーヒーが、うまくなかった。  矢尻節夫に連絡し、簡単な報告書をワープロで打って郵送すれば、頼まれた仕事は一応けりがつく。  しかし仕事のけりはついても、わたしの気持にけりがつくかどうか。多分つかないという予感がした。それでますます胃が痛んでくる。  しばらくぼんやりしていた。  臼井弓子のブティックが気になってきた。  店の場所は矢尻に聞いてあった。渋谷の道玄坂だが、大通りの坂道より少しそれる。  車で行くことにした。  都内の道路はどこも渋滞しているし、駐車できる場所もない。道玄坂の両側は違法駐車の列だった。  パーキング・メーターを見つけて車をとめた。  弓子の店はすぐに分かった。いかにも流行の尖端をゆくという感じの、おしゃれっぽい小さな店だった。バーゲン・セール中らしく、売り台が道路にまではみだし、若い女性が数人明るい声で話しながら品物を物色していた。  店員が売り台に一人、店内にも一人見えたが、弓子の姿は見えなかった。千佳子が休んでいるのは当然にちがいない。  中年の男が入る店ではないが、とにかく入ってみた。  ワンピースやブラウスなどの衣類からネックレス、ペンダントその他のアクセサリー、香水やバッグ、靴にいたるまで、女性が身につける物はなんでも揃っているようだった。  しかし、どことなく活気がない。 「臼井さんはお留守ですか」  弓子は奥の部屋にいるのではないかと思いながら、腫《は》れぼったい眼をした店員に聞いた。 「さっきまでいたんですけれど、出かけました」 「どちらへ」 「知りません。電話がかかってきて、急いでいるみたいでした」 「弱ったなあ。会う約束をしていたのに」  わたしは平気で嘘を言う。 「あたしは先週から勤めたばかり、バイトなの。だから、よく分からないんです」 「忙しいんですか」 「バーゲンの間だけね、きっと。お客さんがこのお店を買うの」  店員は意外なことを言った。 「いや、そうじゃないけれど、ほかにそういう人がきたんですか」 「みたいよ。ラルゴのマスターに聞いたわ」  ラルゴというのは、向かいの喫茶店だった。たぶん、千佳子が弓子や牧村とコーヒーを飲んだ店だ。 「すると、バーゲンをやっているのは店じまいのためですか」 「どうかしら」  知らないわ、と言った。  客が立て込んできた。  ブティックを出て、向かいの喫茶店に入った。  客は女性同士の三人づれが一組しかいなかった。  わたしはカウンターの止まり木に腰をかけ、口ひげの濃い店長らしい男にコーヒーを注文した。まるまるとして、ひげを剃ったら子供に見えそうな顔だった。 「そこのブティック——」  わたしは右の親指で後方をさした。 「もう買い手は決まったんですか」 「———」  店長は身元を確かめるようにわたしを見返した。 「実は噂を聞きかじったという人に頼まれましてね。店の権利金だけでも相当高いでしょうが、別の商売をやるにしても場所はわるくない。それで様子を見にきたんです。差しつかえがなければ聞かせてください」 「差しつかえなんてありません。そういう噂はすぐ伝わりますからね。ぼくも聞いてますが、でも、手放さないんじゃないんですか。あちこちの雑誌に紹介されたりして、せっかく繁昌してるようだし、銀行とうまくいってないというような話が噂のもとみたいですよ。臼井さんはこの店にコーヒーを飲みにきますが、手放すなんて考えたこともないと言ってました」 「しかし、たとい噂であっても、銀行とうまくいかないというのは何か根拠があったわけでしょう。融資を申し込んだが断られたというようなね。とすれば、金繰りに困っているのかもしれない」 「それは考えてもおかしくないんです。臼井さん自身がこぼしてましたけれど、フランスの有名ブランドのニセ物をごっそりつかまされたらしい。ぼくもそのニセ物のバッグを見ましたが、本物そっくりというより、本物より上等みたいだった。あれじゃ騙されてもしかたがありません。よその店へもまわすつもりで大量に仕入れたようで、輸入元が香港の正体不明の組織らしく、大損したんじゃないでしょうか」 「バーゲン・セールはいつ頃からですか」 「先週の末です」 「やはり資金繰りのためだろうか」 「季節の変わり目などにはバーゲンをやってますが、今度はおっしゃるとおりかもしれません、全商品一掃という感じですから。気だてのいいさっぱりした人なのに、ほんとに店を手放すとしたらお気の毒です」 「臼井さんといっしょに、三十四、五の男がこちらに来てませんでしたか」 「話したことはありませんが、顔は憶えています。割合体格のいい人でしょう。その人もニセ物に引っかかったんですか」 「いや、ご主人かどうかと思いましてね」 「臼井さんは独身と聞いてますよ。ご主人という感じじゃなかったけれど、ご主人なんですか」 「そうじゃない。いろんな噂が飛んでいるというだけで、わたしも知らないんです。わたしがこちらにお邪魔したことは、臼井さんに黙っていてください。気をわるくしますからね」  わたしは話を切り上げた。怪しまれないように、千佳子についても触れなかった。  喫茶店の主人は新聞を読まないのか、珍しい事件でもないので読み流してしまったのか、牧村のことは話題にならなかった。 「うまいコーヒーですね」  別段うまくなかったが、ブレンドの要領を聞いた。そして、分からないくせに分かったふりをした。とにかく話をそらせればよかった。     8  弓子のブティックは潰れかかっている。そのことは近所の商店主たちの間で噂になっているようだ。  千佳子も当然知っていたはずではないか。  だが、彼女はまったく知らん顔でいた。わたしが「繁昌しているんですか」と聞いたら、「と思いますが——」と答えただけで、急にコーヒーか紅茶をいれると言い出した。  あのとき、彼女は話を避けたにちがいない。気づかなかったわたしが鈍いのだ。  しかし、なぜブティックの経営不振を隠す必要があったのか。まるで千佳子にも責任があるようではないか。かりに責任があるとしても、牧村慎也の死となんの関係があるのか。  牧村の遺体を見つけたとき、千佳子が愛用している香水の匂いがしていたというが、だからといって彼女が殺したとは断定できない。あの細い体で、体格のいい牧村を首の骨が折れるほど烈しく突き飛ばせるものか。もちろん時の勢いということがあるし、牧村が油断していたなら、彼女の力でも不可能ではない。香水をつけていったのが不自然なようだが、殺意は突然湧いたとも考えられる。  疑い出せばきりがなかった。  余計なことだと思いながら、わたしは引き返せないところへ自分を追い込んでいた。  もう一度千佳子に会うことにした。誰のためでもなかった。わたし自身の仕事にけりをつけるためだった。  車で松ノ木へいった。矢尻家の周辺は昼間もひっそりしていた。夜とちがうのは犬に吠えられないことだ。  チャイムを鳴らした。  応答がなかった。  しばらく待って車に戻り、電話をかけてみたが、同じだった。  応接間の反対方向のビルに、青い屋根が見えた。千佳子に聞いていたとおりだ。麻見がいるマンションにちがいない。  歩いていける距離だが、とにかく車を走らせた。  三階建てのこぢんまりしたマンションだった。  来客用の駐車スペースはないと思って、コンクリート塀沿いに車をとめた。  郵便受けの名札で、麻見の部屋は三〇三号室と分かった。  エレベーターはない。  三階へ階段を上がった。  入口のドアが五つ並んでいて、三〇三号は真ん中だった。  チャイムが鳴らないので、ドアをノックした。  返事はなかったが、ドア・スコープから覗《のぞ》いて分かったらしく、ドアをあけてくれた。 「お母さんがお留守のようだったので——」  わたしは理由にならない理由をつけた。千佳子の不在が麻見を訪ねる理由になるわけがなかった。 「わたしでも済むのかしら」 「たいしたことじゃないんです」 「散らかってますけれど——」  きょうの麻見はジーパンに白いブラウス、黒い髪が肩にかかっていた。  ワンルームの部屋は雑誌類が散らかっていた。ベッドはカーテンで仕切っているようだが、机や椅子、テーブルなどの配置は乱雑だった。それぞれ向きが異なっていて、統一がとれていない。  もっとも、その不統一が室内デザイナーを志している麻見の独創かもしれなかった。 「すごく散らかってるでしょう」 「確かにね」 「このほうが落ち着くんです。どうぞ、お掛けになって——」  麻見は木製の固そうな椅子に腰を下ろし、長い両手を膝の上に揃えた。  わたしは寝椅子《カウチ》の向きを変えてから、麻見と向かい合った。 「お母さんに何か聞きませんでしたか」 「いえ。あれから会っていないんです。何かって、どんなことかしら」 「牧村という男が殺されました」 「牧村さん——」 「知りませんか」 「ええ」 「それじゃ話を変えましょう。この部屋はすてきな匂いがします」  シャンプーの匂いではなかった。 「いい香水の匂いはなかなか消えないんですね。あなたは馴《な》れているから気がつかない。ぼくはすぐに気づきました。たぶん、お母さんの好きな匂いです」 「———」  麻見はわたしを見つめたまま、顔色が青ざめてゆくようだった。 「間違っていたら勘弁してください。お母さんがほかの香水を使わないことを知っているのは、お母さんが手伝っているブティックの臼井弓子とあなたしかいない。そして、臼井弓子は牧村の死体を見つけた部屋で香水の匂いに気づいた。匂いが残ってたんですね。そのため、お母さんは警察に疑われている。一昨日の夜おそく、お母さんが警察に呼ばれたことも知らなかったんですか」 「———」  麻見は黙ったきりで、膝の上の両手を握りしめていた。 「あなたを驚かす気はありません。ぼく自身が驚いてるんです。なぜわざわざお母さんの香水をつけて牧村の部屋へ行ったのだろう。刑事みたいな聞き方になってしまうが、ぼくは刑事じゃないし、あなたに聞いたことを刑事に話すようなこともしません。その点は信用してください。お父さんやお母さんにも話さないですめば、と思っています」 「——母は牧村に脅迫されていました」  麻見はようやく口をひらいた。力のない声だった。 「なぜですか」 「知りません。わたしのことらしいんですが、牧村は教えてくれなかった」 「あなたのことらしいというのは、どうして分かりましたか」 「母が留守のとき、牧村が電話をかけてきたんです。わたしの声は電話で聞くと母に似ているといわれます。それで牧村も母が電話にでたと思ったみたいで、今度すっぽかしたら承知しないと言いました」  前日も同じような電話を麻見が受け取っていたが、麻見はそのことを千佳子に伝えなかったのだ。 「秘密をあたしにバラすというんです」 「お母さんの秘密ですか」 「あんたの秘密、と言ってました」 「その秘密を知りたい」 「わたしも知りたいと思いました。だから牧村の部屋へ行ったんです。わたしが秘密を知ってしまえば、母の秘密が消えて、牧村に脅迫される理由もなくなります」 「それまで、あなたは牧村に会ったことがありますか」 「いえ、名前も知りませんでした。マンションの部屋番号などは念を押すみたいに言いましたが、わたしもあんまり質問すると母じゃないことが知れると思って、適当に電話を切りました」 「一昨日のことですね」 「はい。母は買物に出ていました。わたしは香水をつけませんが、いつも母がつける香水は知っています。母の部屋から使いかけの香水を瓶ごと取ってきました」  そして香水をつけ、牧村を訪ねた。香水をつける要領が分からなくて、たっぷりとつけてしまったらしい。  だが、なぜ香水をつけていったのか。 「矢尻千佳子の娘に間違いないと分かってもらうためです。牧村はびっくりしたようすですが、母の代理で来たと思ったみたいで、金を用意してきたろうな、と言いました。わたしはお金のことなんて聞いていません」  ——とぼけるんじゃないよ。ぴったり一千万さ。ほんとに娘なら、おふくろに聞いているはずだ。  ——いえ。母に無断です。わたしは母のふりをしてあなたの電話を聞きました。わたしにバラすと言っていた母の秘密を知りたいんです。どんなことでもかまいません。教えてください。  ——あんたに教えたって始まらない。  ——なにが始まらないんですか。  ——たいしたことじゃないってこと。  ——だったら、どうして一千万円も出さなければいけないの。  ——おれが欲しいからさ。  ——勝手だわ。  ——みんな勝手に生きている。  ——話をそらさないで。わたしはもう、秘密があることを知ってしまったのよ。教えてくれないなら、母に直接聞くわ。  ——おどろいたね。娘がやってくるなんて想像もしなかった。まだ十八って聞いていたが、おとなと変わらないな。金のことはしばらく忘れてやる。その代わり、着ている物を脱いでもらおうか。 「牧村は気味の悪い薄笑いをして、眼つきが普通じゃないみたいに光ってきました。わたしは乱暴されると思いました。でも、そんなときの用心にナイフを持っていったんです。これがそのナイフです」  麻見は小引き出しに手を伸ばし、ナイフをとってテーブルに置いた。  登山に使うような折りたたみ式のナイフだった。 「しかし、刺したわけじゃないでしょう」  弓子は血を見ていない。 「自分の喉に突き立てたんです、近づいたら自殺すると言って。本気でした」 「つづけてください」 「すごい顔をしていましたが、ようやく諦めたみたいです」 「秘密について話しましたか」 「とうとう話してくれません。母に聞けば分かる、という言い方でした」 「あとは何事もなく帰れたんですね」 「どこへも寄らないで帰りました」 「あなたが牧村の部屋へ行ったことを、お母さんは知ってますか」 「知らないと思います」 「でも、香水の瓶が失くなっていれば、おかしいと気づかないかな。お母さんは警察へ呼ばれて、牧村の部屋に香水の匂いが残っていたことを聞かされている」 「———」  麻見は唇を結んでしまった。 「心配いりません。あなたは牧村のマンションで姿を見られたわけじゃないし、ぼくは今の話を忘れます。忘れっぽくて困るくらいなんです。一時間も経ったら、思い出しもしないでしょう。あなたもきれいに忘れたほうがいい。お母さんはアリバイがあるから大丈夫です。そうじゃなかったら、警察が帰さなかったはずだ」 「それじゃ、だれが殺したのかしら」 「知りません。世の中には知らないほうがいいことがたくさんある。牧村がだれに殺されようと知ったことじゃありません。ぼくは事務所へ戻りますが、あなたは窓をいっぱいにあけて、空気を入れ換えれば気持も落ち着きますよ。香水瓶はダスト・シュートにでも捨ててしまうんですね」  わたしは腰を上げた。  麻見は腰かけたままだった。     9  わたしは外へ出た。  車に戻ろうとした。  そのとき、声をかけられた。  矢尻節夫が放心したような顔で立っていた。 「麻見に会ったんですか」 「ほんのちょっとです。ぼくの思い過ごしでした。ご依頼の件は後日報告しますが、収穫ゼロと思ってください。今はほかの仕事で忙しいんです」  わたしはまだ考えたいことがあった。 「例の事件について、麻見に何を聞いたんですか。お願いです。隠さないでください」 「隠しているのは矢尻さん、あなたじゃないかな。おくさんが警察に呼ばれた理由を聞いているはずです」 「お忙しいのに恐縮ですが、この先に児童公園があります。そこで話しましょう。ここでは麻見が出てくるかもしれない」  矢尻は勝手に歩きだした。  どいつもこいつも身勝手だ。  小さな公園があった。砂場やブランコがあり、子供らが走りまわっていた。  ベンチに並んで腰を下ろした。 「隠したつもりじゃありません。臼井弓子さんに聞いて、事実を確かめていただきたかった。千佳子の話が信じられなかったんです」 「わたしに依頼した理由はそれだけじゃないでしょう。捜査のようすも分かるなら知りたかったはずです」 「やはり、麻見は弓子さんの部屋へ行ったんですね」 「たぶん」 「わたしはそう思っていました。香水の匂いを残したのが千佳子でなければ、麻見しか考えられない。千佳子は牧村に脅迫されていた。それを麻見が知ってしまったにちがいない」 「なぜ気づいたのだろう」 「分かりません。千佳子も分からないでいます」 「麻見さんは牧村の電話を聞いたんですよ。牧村は声が似ているのでおくさんと間違えてしゃべったらしい。しかし、麻見さんが犯人ではない」 「それじゃ誰が——」  と言いかけて、矢尻はわたしを見つめ、顔をそらした。  わたしは黙って、犬と追いかけっこをしている少女を眺めていた。  少女も犬も愉しそうだ。  木の葉が風にさわいでいた。  矢尻も少女や犬のほうを眺め、そしてようやく、ぽつんと言った。 「わたしも脅迫されていました」 「———」  意外ではなかった。麻見の部屋を出るときから、考えていたことだった。 「わたしと千佳子はパリで知り合った。まだ若くて、いまの会社をつくる前です。親会社のパリ支店に赴任していて、その支店の近くに、千佳子や弓子さんがスチュワーデスをしていた航空会社の事務所がありました。そんな関係もあって千佳子と親しくなり、東京の本社に戻ってからも付き合いがつづいていました。疎遠になったり、また親しくしたりで、おたがいに結婚の約束はしていませんが、そのうち千佳子は麻見の父になる男性とめぐり合って結婚しました」 「その後もあなたたちは付き合っていたんですか」 「いえ。きっぱり別れました。たまに会ってお茶を飲むくらいのことはありましたが、わたしからは電話一本しません。でも、麻見の父はわたしたちの仲を疑いました。たまにお茶を飲むことがあった程度でも、信じてもらえなかったらしいです。以前は親しかったのですから、誤解されても仕方がなかったでしょう。いくら潔白を主張しても無駄だったようです。毎晩泥酔するほど飲むようになりました。泥酔しなければいられないくらい千佳子を愛していたのかもしれません」 「なぜ疑うようになったのだろう」 「パリ時代からのことを弓子さんがしゃべったんです。千佳子と仲が悪かったわけでもないのに、嫉妬したのかもしれない。弓子さんは大分誇張してしゃべったらしい。そしてある晩、麻見の父は酔って運転して、芝浦海岸の倉庫にぶつかって死にました。即死だったそうです」 「麻見さんには秘密ですね」 「話せることじゃありませんし、わたしにも責任があります。わたしと千佳子の結婚はずっとのちですが、弓子さんはその秘密で千佳子を脅迫し、ブティックの開店資金を出させました。千佳子から事情を聞いて、金はわたしが出したんです。もちろん、弓子さんはわたしの会社が好調なことを知っていました。だから、脅かせば金になると思ったらしい。そのとおりになりましたが、今後は交際を断つという約束でした」 「しかし、彼女は約束を守らなかったようですね。おまけに、ニセ物の輸入品をつかんで経営がおかしくなった」 「それで牧村を恐喝役に使ったんだと思います。あれは牧村の知恵じゃありません。弓子さんの入れ知恵としか考えられない」 「事件当日の話をしてください。あなたも一千万要求されたんですか」 「はい。わたしは突っぱねていましたが、一昨日は話し合いをするつもりで牧村を訪ねたんです。そしたら千佳子の香水の匂いがしていた。それまでは千佳子まで脅かされていたことを知らなかったし、話しているうちにカッとなってしまいました」 「その結果が首の骨折ですか」 「———」 「弱りましたね。余計なことを聞いてしまった。わたしに調査を頼むなんて、あなたも余計なことをしなければよかった」 「これから、わたしはどうしたらいいか教えてもらえますか」 「無理ですね。わたしは人生相談の柄じゃない。でも、一つだけ麻見さんに約束したことがある。わたしは今度の話を忘れると約束しました。その約束を破るわけにはいかない。おくさんはアリバイがあるようだし、麻見さんも牧村のマンションに出入りする姿を見られていない。いまは警察もまだあなたを疑っていないでしょう」 「わたしは安全というんですか」 「知りません。忘れられるなら、あなたも忘れたほうがいい。わたしは仕事にけりをつけて、ほっとしたいんです」  わたしは一人で立ち上がった。  子供たちの遊びまわる声が明るく聞こえた。  矢尻はあとについてこなかった。  矢尻節夫の死は翌日の夕刊で知った。  交通事故死だった。高速道路の防護壁に激突したようだが、くわしいようすは分からなかった。  〈了〉 〈お断り〉 本作品を「文春ウェブ文庫」に収録するにあたり、一部の漢字が簡略体で表記されている場合があります。 また、差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の書かれた当時の事情を考慮し、できる限り原文の通りにしてあります。差別的意図がないことをご理解下さいますようお願い申し上げます。 単行本 一九九〇年一月 文藝春秋刊 底 本 文春文庫 平成五年三月十日刊