皆川博子 聖女の島  目 次   プロローグ 1 修道女《マ・スール》1 2 修道女《マ・スール》2 3 藍《あい》 子《こ》 4 破 局   エピローグ   プロローグ  暖かい陽射しを浴びて、めざめた。  窓から射し込む光の束《たば》は、デスクにむかってのび、そこに置かれた淡紅色の封書を浮かび上がらせていた。  小さい鋏《はさみ》は光の破片を降りこぼしながら、封を切った。  中の紙片も淡紅色で、書かれた文字は読みにくく歪《ゆが》み、光の中に流れ消えそうだが、あなたの助けが必要だ、という意味が読みとれぬほど不明瞭ではなかった。修道女は、立ち上がった。   1 修道女《マ・スール》1     1  夕陽を背後から浴び、黒々と浮き出た島は、紫金色のコロナにふちどられた。 �黄昏《たそがれ》、陽が沈んでゆく�  わたしの呟《つぶや》きは、エンジンの音と烈風に消される。操縦するのは本土の漁師で、島への定期船はなかった。  島。あれが、島と言えるだろうか。 �だが、それは絶望した人間の最後の夕べのように、恐怖的なたそがれである。空は炎となり、フィヨルドは血の海となってうねる。橋、欄干《らんかん》、家、人の姿、すべて火炎のなかでゆらめく。固いものは溶け、溶け流れるものは凝固する。大気は粘《ねば》り、厚い。地面は足の下でもち上り、沈む�  ムンクの『叫び』を言葉にあらわしたイェンス・ティイスの文章を、わたしは諳《そらん》じる。 �叫びがひびきわたる。死の奈落のきわに立たされた人間の叫び�  遠い汽笛を、わたしは聴いた。島が発した悲鳴のように、それはきこえた。  たとえば、砲弾に打ち砕かれ、坐礁し、そのまま化石となった巨大な軍艦。わたしの目前に近づきつつある島の姿は、それであった。  更に近づくと、島は、壊滅した城砦のような崩れた壁やねじ曲った鉄骨をくっきりと見せはじめた。  舳先《へさき》を半ば宙に浮かせ、わたしを乗せた船は、夜に追われ向い波追い波にもまれながら疾走《はし》った。 �声は地獄のように赤い夕映《ゆうば》えからひびき返る。否《いな》、この叫びは、ひとりのみじめな人間が死に面してあげた叫びではない。叫んでいるのは大自然である。海であり、大気であり、大地である。昼が、今、夜にのみこまれようとして、断末魔の声をはりあげているのだ……�  島は、今、わたしの前にそそり立った。  島の東側に舟が進むと、東シナ海から吹きつける風は島自体にさえぎられ、波はややしずまった。  十メートルを越えるコンクリートの絶壁で、島の周囲は人工的に固められ、近づくにしたがって、波が打ちつけるその壁以外は視野に入らなくなった。  桟橋《さんばし》に船は接岸した。わたしの到着を待つように、女が、桟橋に立っていた。夕陽の光はここまで届かず、女の顔は薄墨を塗ったようだ。乳白色のビニールのコートが風にはためき、躯《からだ》の輪郭《りんかく》をかくしていた。  女の背後に石積みの岸壁がそびえ、トンネルが黒い穴をあけていた。このトンネルのほかに、島の内部への通路は見当たらない。  船を下りるわたしに漁師は手を貸し、それから、身のまわりのものを詰めたバッグを手渡してくれた。修道会の灰色の制服の裾《すそ》は汐に濡れ、脚にまつわる。  女はわたしに近づいた。わたしも歩み寄った。視線があったとたん、驚愕《きようがく》と憎悪が、女の顔を醜《みにく》く歪《ゆが》めた。そう、わたしは感じた。  女は、わたしを突きとばし、方向を転じ、トンネルに駆けこんだ。わたしは仰向けにころびかけ、辛《かろ》うじて踏みとどまった。船はすでに桟橋を離れていた。  トンネルをのぞく。中は漆黒だが小さい灯がちらちらしながら遠ざかってゆく。点灯した懐中電灯を持った女は、逃げながらわたしを導く結果になった。  トンネルの中の道路は、ゆるやかなのぼり坂を作っていた。  前を行く灯がふっと消えた。道がカーヴしていたのだ。道なりにわたしも曲がると再び灯が目に入った。  闇の中を二、三百メートルも歩いたかと思われるころ、行く手が明るみ、切りとられた弱い逆光の中に人影は黒くあらわれた。  トンネルを抜けると、いきなり烈風が叩きつけた。わたしは両足を踏み開いて、風に逆らった。  左手にコンクリートの四層のアパートの廃墟。右手は下の方に崩れかけた木造の小屋があった。  南北に細長い島の背骨にあたるような道の、南の端にトンネルの口はあいているのである。  道をはさんで東側は巻揚塔や倉庫の残骸が並ぶかつての鉱業場、西側は、コンクリートの崩れかけたアパートが密集する今は無人の居住地域である。  わたしに背を向け、女は、石段を上り、坂道を風に吹きとばされそうにふらふらと小走りに行く。乳白色のビニールのコートがはためき、女の躯の輪郭を曖昧《あいまい》にする。  うなじのあたりで短く切った髪が舞い乱れ、頭のまわりに逆立つ。  およそ五百メートルも、女のあとを追って行く間に、夕闇は海と空と灰色のアパート群を一つに溶かしこみはじめた。東側の旧鉱業所も薄闇に沈み、何か宙に架けられた道を行くような感じである。  足もとを、何かがよぎった。小さい豚《ぶた》の仔《こ》であった。  アパートは、採鉱夫や鉱山職員とその家族の宿舎として建てられたものがほとんどである。  南北四百八十メートル、東西百六十メートル、面積六・三ヘクタール、周囲約一キロメートルというこの小島は、ひところは、海底炭田の採鉱場として繁栄し、最盛時は五千人を越える人々が密集して暮らしていた。  最初は小さな岩礁であった。炭鉱のズリで埋立てひろげ、この大きさになった。というような知識は、わたしに備わっている。  道の突き当たりの九階建ての建物に、女は入っていった。女の手にある小さい灯りを目当てに、薄闇の中をわたしも続いた。  三階までのぼり、女は通路を左に折れ、一つの鉄扉を開け、中に入っていった。扉は閉ざされた。  わたしは、その扉の前に立った。光は乏《とぼ》しいが、鉄扉が疥癬《かいせん》でも患《わずら》ったように錆《さ》び、表皮が斑《まだら》に剥《は》げ落ちているのは見てとれる。のぞき窓と、郵便受けのスロットと、二つの細い開口部があり、のぞき窓は内側に鉄の蓋が下がっている。  ノックすると、内蓋がもち上げられ、女の猜疑《さいぎ》のこもった落ちつかない小さい眼がのぞいた。  わたしを見さだめるように、女は、しばらく視線を動かさなかった。眼がやわらいだ。  鉄扉は細めに内側に開いた。 「マ・スール!」  女は、歓喜の声でわたしを迎え入れた。 「お寒かったでしょう。よく来てくださいました。あらあら、裾がぐっしょり濡れて。お召し替えにならないと。ストーヴを焚《た》いていますから、すぐお乾きになるとは思いますけれど。まあ、わたしったら気がきかない。外にお立たせしたままで。早く、お入りになってくださいな。すぐ熱いお茶をおいれしますわ。まあ、靴も濡れておしまいになったのね。おみ足が冷たいでしょ。ストーヴの前にいらっしゃって。そのソファにお坐りになっておみ足をのばすと、ちょうどようございますわ。足台をここに置きますから。このくらいでよろしいかしら。クッションをね、背にお入れになって。あの……あの子たち、悪さはいたしませんでした? ええ、あの……、燃してしまったものですから。ひどいこと。本当に。信じられないくらいひどいことですわ。ローズ・ティーがございますのよ。あの子たちを、ときどきここに招《よ》んでね、ご褒美《ほうび》にお茶をいれてあげて……。たくさん持ってきましたの。まだ残っているはずですわ」  聞きとれぬほど早口で脈絡《みやくらく》のないことを絶え間なく喋《しやべ》りながら、女は、台所と居間の間をめまぐるしく行き来する。 「お恥ずかしいと思いますわ。こんなことになってしまって。自家発電の装置がここにはございますから。石炭はまだ豊富で暖房にはこと欠きませんし。ほんのちょっと助けていただけたら、きっと、また、うまくいきますわ。あの……わたし、お客さまをもてなすのが、ほんとに好きですの。さっきは、失礼しましたわ。わたしったら、馬鹿ですわね。姉と見まちがえてしまいましたの。でも、マ・スール、似ていらっしゃるわ。まさか、お姉さまじゃないわよね。ごめんなさい。違いますわ。マ・スール、あなたは威厳《いげん》のあるお顔をしていらっしゃるわ。姉が修道女の服を……わたしったら、ほんとに、何を考えたんでしょう。姉は宗教心なんてこれっぽっちも持ち合わせちゃいません。俗世の事しか頭にないひとです。マ・スール、お笑いになります? この年で、わたくし、いまだに……。お茶がはいりましたわ。おなかがおすきじゃないかしら。すぐに仕度《したく》しますわ。パンも、わたし、自分で焼きますのよ。もちろん、ご飯も炊けますけれど。ええ、食糧は大丈夫なんです。明日、倉庫をお目にかけます。鶏も飼っています。野菜も、あなた、菜園がありますのよ。舟着場からいらっしゃったらほとんど土がないみたいに見えるでしょうけれど、こちらの窓からごらんになれば、見えますわ。もう、だめね、暗くて。この島が炭鉱町だったころは、日に二回、本土から船便があって、野菜でも肉でも、はこんできたのだそうですわ。五千人もの人が暮していたのですものね。今は……。  わたしね、子供たちにすべて作らせることにしましたの。野菜も何もかも。いえ、それは、修道会の方針ですもの。あなたに御説明することはいらないわね。労働は、すばらしい療法。あの子たちは労働が嫌い……。  あの、生肉だけがね。いえ、鶏は別として」 「豚をみかけました」  わたしが女の饒舌《じようぜつ》をさえぎってそう言うと、女は小さい眼をいっぱいに見開いて、あれはあの子たちのペットなのです、と言った。  女は、いくぶん窶《やつ》れて頬がこけ稜角がとがっているが、本来は丸顔であることを輪郭が示している。頬に肉がついたら、愛らしいとさえ言えるだろう。小心そうな小さい眼、きわだった特徴のない鼻、醜くはないが魅力的ともいえぬ口もと。会って別れたら、十分後には思い出せなくなりそうな、とらえどころのない平凡な顔立ち。絶え間ないお喋りは、逆上しきっているためだ。愚鈍《ぐどん》ではなかった。 「靴下、おぬぎになります? 濡れていて気持悪いんじゃありません? お茶、濃《こ》すぎまして? ああ、あなたが来てくださって、どれほど……。あなたを姉だなんて、どうして見まちがえたのかしら。似ていらっしゃるわ。あなたは、もちろん、姉をご存じじゃありませんわよね。ごめんなさい。姉の話は、もうやめますわ」  淡いグレイの地味なセーターとタータンチェックのスカートは、眼尻に少し皺《しわ》のある女を、流行に無関心なきまじめな女子学生のようにみせていた。  住まいは、二Kの造りである。入口に続いて板敷の三畳ほどの台所、その奥に並んだ六畳と四畳半の二つの和室は間の襖《ふすま》を取り払って一つづきにし、化繊らしい毛足の短い絨緞《じゆうたん》を敷きこんで洋風に使っている。四畳半の方に丈《たけ》の低いベッド。わたしが通された六畳にはソファと小さいティー・テーブル。隅にライティング・デスク。家具はどれも一目で安物と知れる。二つの部屋をわける敷居のあたりにブリキを貼った台を置き、今ではめったに見ることのないダルマ・ストーヴが据えられ、石炭が燃えさかっていた。ストーヴの上の薬缶《やかん》はさかんに湯気をたてていた。デスクの脇の書棚には、シモーヌ・ヴェイユの著作集、ピカートの『神よりの逃走』、エーリヒ・フロムの『悪について』、マレ=ジョリスの『夜の三つの年齢』などが並んでいた。  デスクの前の壁に、フェルメールの『ヨゼフと少年イエス』の複製画が額に入れてかけられてある。  デスクの上の電気スタンドは、ピンクの布張りの笠をかぶせた、古くさいデザインのものだ。あまりに平凡なたたずまいは、女が禁欲的であろうとする意志のあらわれなのか、きわだった嗜好《しこう》を持たないせいなのか。 「水は不自由しないんですの」と女は話題を変えた。 「井戸は水質が悪くて、飲めないんです。炭鉱が栄えていたころに本土から海底水道をひいたのが、まだ使えるので助かっているんですよ。今はこんなにひどい状態ですけれど、炭鉱町だったころは、その頃としては最新の技術が投入されて、いろいろな設備を作った、それがまだ使用可能なものが多いんです。修道会がここに施設を作るとき、壊《こわ》れているものは整備しなおしてくださいましたし。あの……お風呂、いっしょに入ってくださいますわね」  女は、ふいに縋《すが》りつくような眼を向けた。 「お恥ずかしいんですけど、ずっと入っていませんの。怖くて。トイレはここにあるんですけど、お風呂は共同浴場なんです。これも炭鉱時代の遺物ですわ。あの子たちも、入りに来るんです。ええ、わかっています。わたしは、あの子たちを怖がってはいけないのよ。それではつとめを果たせませんもの。でも、わかってくださいますわね。わたくし、孤《ひと》りなんです。あの子たちは……。わたくしが裸で入っているところに、あの子たちが入ってきたら……。もちろん、女の子たちですもの。ひどいことは……。でも、あなた」  言いざま、女は窓に近づき、カーテンをひき開けた。外は、すでに闇。何を抱くとも知れない。 「焼きつくしたのよ。火を放ったんです。あの子たちのための家に。木造の、かわいい家。修道会でわざわざ建ててくださった……。あそこに。あの広場に」  悪い子じゃないんです、と女は強《し》いて口調《くちよう》を変えた。 「みんな、かわいい、いい子なんですよ」 「家を焼いて、それがいい子?」 「お姉さま!」女は叫んだ。「ごめんなさい。あなたの眼が、いま、姉のように見えてしまった。わたし、どうかしているんだわ、ほんとに。そういうことって、ありますでしょ。並べて見れば、まるで似ていないのに、別々だと、こんがらかってしまう。あの……何を召し上がります? パンでよろしいかしら。もし、おいやでなければ、パンを召し上がっていただきたいのよ。わたくし、今朝、いっしょうけんめい焼きましたの。ああ、きっと、今日あたり、来てくださるわ。わたくし、助けを求めたのですもの。わたくしは修道女ではないけれど、ずいぶん忠実な……。いえ、あの、パンのお話ね。焼きたてですと、香ばしくて、もっとおいしいんですけど、残念だわ。わたくし、お料理が好きなの。それも、好きな方に食べていただくのが。子供たちに食べさせるのも、たのしかったわ。でも、規則がありますから、あまりかってなことは、ね。それぞれの家に、お父さんとお母さんがいますでしょ。もちろん、偽《にせ》のですけど。でも、家庭的、ってことが、あの子たちには大切なんですもの。わたくし、子供って、ほんとにかわいいと思うのよ」 「女の子しかいない�家庭�ね」 「ええ、それは、そう。でも、男女いっしょということになりますとね、どうしても……。男の子って、どうしようもなく暴力的ですもの。手に負えませんわ。秩序正しい、穏やかな……。まず、それが大切なの。ね、わかってくださいますでしょ。男の子を排除しているわけではありません。ある期間の隔離《かくり》。すべての悪、すべての誘惑から。マ・スール、信じられます? 中学生の女の子が、セックス以外のことが考えられない状態にあるなんて。かわいそうな、かわいそうな子供たちですわ。でも、わたし、怖いの。ごめんなさい、取乱して。冷静に。そう、いつでも落ちついていようと……。こんなことになるなんて。わたしは、自分が救われるために……。パンでしたわね。トマトを入れたオムレツ、召し上がっていただけるかしら。まるで朝食みたいなメニューですけれど。以前はね、魚を釣りましたのよ、小舟を出して、みんなで。そりゃあたのしかったですわ。舟を全部、あの、処分してしまったものですから。しかたなかったんです。小さな釣舟で本土に渡ろうとして、舟がひっくり返って溺死したものが……。ええ、脱走兵です。女の子を�兵�と言っては、おかしいかしら。でも、あの子たちを、戦う兵士にたとえるのは、ちょっと気がきいているとお思いになりません?」  女は、高い細い声で笑った。 「自分の内なる悪と戦う兵士、という意味ですわ、もちろん。わたくしは、その指揮官というわけ。あなたは、将軍よ。強い……。策戦をたてましょうね。まず、呼び集めなくては。ジャングルに散った猿を呼び集めるみたいなものだわ。餌で釣る。何を餌にしたらいいの。あの子たちは、わたしが与えようとするものは何一つ欲しがらない。いいえ、必要なものは、とったわ。笑顔で。その笑顔が、嘘っ八。ああ、あなた、ひどい裏切りよ。愛情。何よりも大切なのは。無償の愛」  歯のあいだから、女は何かひどい罵《ののし》りの言葉を吐きかけ、うろたえたように自制した。 「オムレツを作りますわ。キャベツは無農薬栽培よ。わたくし、自分がキャベツを作れるなんて、思わなかったわ。あの子たちは、労働が嫌い。大地の恵みはこんなにすばらしいのに」  女はせかせかと台所に戻り、食事の仕度にとりかかる。  三畳ほどの板敷の台所は、小ぎれいにかたづいていたが、前住者が住み荒らした痕跡は消しようがないらしく、換気ファンも戸棚も壁も、油汚れを癇性に削りとった努力が塗料までこそげ落とし疥癬病《かいせんや》みの犬の肌を思わせた。  ボールに卵を割り入れながら、女は、沈黙の重みを恐れるように、喋りつづける。 「ここに初めて着任したのは、夏でした。設備はすべてととのっていました。わたしを待ち受けるように。子供たちのためには、三棟の新築の小屋。いえ、小屋だなんて。家。そうですわ。ホーム。玄関があって——ふつうのうちと同じような、玄関。お父さんの部屋、お母さんの部屋。子供たちの部屋が三つから四つ。一つの部屋に三人ずつ。ま新しい畳。ベニヤ貼りの壁は安っぽいけれど、贅沢《ぜいたく》はここでは必要ないんですもの。質素で、質実で、しかも暖い。わたし、待ちましたわ、子供たちの到着を。力仕事やボイラー焚きのための雑役夫が二人、事務をとる職員が一人、そうしてわたし、四人がいっしょに先発したんです。わたしが、子供たちの家に住まないで、ここにひとりで住むことにしたのは、一つには『本部』が必要なのと、もう一つ、子供たちに不公平にならないためです。どのホームからも等距離な位置に、わたしはいなくてはいけませんもの」  女の手は庖丁でトマトを刻む。手もとにちらちらするトマトのつややかな朱が、目に鮮やかだ。 「わたし、待ち焦《こが》れました。ああ、マ・スール、この島を取り巻く夏の海の、何てすばらしかったことでしょう。灼熱する真昼の陽。わたしは船着場に立って、子供たちを乗せた船を待ちながら、歌さえくちずさんでいました。夏の火焔のなかにさまよい出、失神するわたしの歌声。蜜色の光にまぶされた子供たちが海を渡ってくる。  でも、子供たちが到着した日、あいにく、雨でしたわ」  女は苦笑し、フライパンに流しこんだトマト入りの卵を菜箸《さいばし》の束でかきまわした。 「まあ、きれい。黄と赤が。わたし、物に色彩《いろ》があることを、ずっと忘れていました。ここは、まるで、色が無いんですもの。灰色。建物も、地面も。白茶けた石の廃墟。無理よ。こんなところで、女の子に情操教育を。それも、並一通りの女の子たちじゃないわ。売春。盗み。恐喝。九つから十三、四よ。義務教育。修道会の本部は……」  はっとしたように女は口をつぐみ、流れ出てしまった言葉のゆくえを追うように怨《うら》めしげな眼をさまよわせ、 「オムレツって、火加減が、ね。プロパンですから、火の調節がちょっと都市ガスとちがうんですの。はじめのころ、失敗しましたわ」  オムレツを半分に切りわけて二枚の皿にのせ、女は流しの下の籠《かご》からしなびたキャベツを出した。葉を二、三枚むしりとり、蛇口の水を丹念にかけ、細く刻んでオムレツの脇に添え、ティー・テーブルにはこんできた。 「ケチャップを切らしましたの。お願いすればよかったわ。ついでに持ってきてくださるように。ああ、あたしったら! ケチャップどころじゃないのよ。まず、家! 子供たちの。でも、もう、わたしは厭《いや》!」  激しかけ、女は自制した。  朝食のように簡単な夕食のあいだ、女は話題を探し快活に喋ろうとしてはどうしても気がのらないというふうに投げ出し、とうとう黙りこんだ。ひどい疲労が、眼もとの皺《しわ》を深くした。  窓の硝子《ガラス》戸が音をたてた。何か大きなものがぶつかったような音だ。しかし、女は——怯《おび》えきっているような女は——意外に平然としている。 「海猫ですわ。ときどき硝子にぶつかるんです。馬鹿ね」  と、ほほえみさえした。  皿を洗うのを、わたしは手伝った。 「さあ、お風呂」  重大な決意をして自分をはげますように女は言い、 「洗面用具、お持ちになりました? 足りないものがありましたら、お貸ししますわ」  ご心配なく、とわたしは言った。 「そうですわね。ごめんなさい、よけいなおせっかいを言ってしまいました」  女は、のろのろと、台所の戸棚の抽出しからタオルを出し、下の開き戸を開けてそこからは石鹸の入ったプラスティックの桶《おけ》を出した。そうして、デスクの前の椅子に坐りこみ、桶を膝にのせた。その動作は、何だかいくぶん放心しているようにみえた。 「夏でも、海の上で雨に打たれつづけたら、腹が立つくらい寒くて、不愉快になりますわ。子供たちは、皆、不きげんでした。  子供たちといっしょに、お父さん、お母さんも、ポンポン船に乗っていました」  ポンポン船て、かわいい呼び名ですわね、と女は笑い、 「もちろん、偽のお父さん、お母さん。ホームは三つですから、お父さんもお母さんも、三人ずつ。修道会から選ばれてきた人たちです。そうして、三十人、いいえ、正確には、三十一人だったわ、三十一人の子供たち。少女。今は、二十八人です。三人、死にました。誰と誰が死んだか、わたしはまだ、修道会に報告はしていません。やり直させていただきたいのよ、始めから。あの子たちを呼び戻して。死んだ子たちのことじゃありません。死んだ者を呼べるわけは……。ええ、�永遠の生命を信じます�と、わたし誓いましたわ。洗礼を受けるときに。でも、それとこれは……。お風呂に行かなくちゃ。でも、その前に、マ・スール、あなたに承知していただいておいた方がいいかと……。  二十八人、いいえ、三十一人の子供たち。  ああ、五十人いようと、百人いようと、あの子は、目につきますわ。すらりと背が高くて、そうして、あの眸《め》! 何かとんでもない不幸が、あの子をああまで美しくしたのではないかと……。  わたしの姉も、小さいときから、きれいな子と言われていました。いいえ、あのひとは、水ぶくれの……。ごめんなさい。あなたは、姉に似ているけれど、すばらしく魅力的です。あの子とはまた違った美しさですけれど、どう違うか、説明する言葉をわたしは持ちませんわ。  一番、年かさです、あの子。来たときは、十四でした。今年の六月で十五になりました。誕生日、六月七日です。はっきりおぼえています。  濡れそぼった子供たちは、船を下りると一かたまりになって、わたしに視線を向けました。敵意のこもった視線の束《たば》が太い棒になって、わたしをなぐりつけました。わたしは、笑顔をつくりました。待っていたんですもの。たのしみに。もちろん、不安もありました。あの子は、最後に下り立ちました。そのとき、お父さんの一人が、あの子に手を貸そうとするのを、わたしは見ました。あなた、一番年かさの、体力だってある、しっかりした子ですよ。手を貸すなら、もっと小さい子に。そうじゃありませんこと。最年少は、九つでした。その年で、もう、矯正の必要な犯罪者ですよ。神さまは、何て不公平な……」  女は、こぼれた言葉をかくそうとするふうな身ぶりを、無意識にだろう、した。 「手を貸そうとしたお父さんは、山部国雄《やまべくにお》です。わたしは、山部とあの子は別のホームにしなければ、と、すぐに思いました。でも、籖《くじ》でしたから。ホームの割りふりは。子供たちは年齢の配分がかたよらないように三つにわけ、それぞれ最年長のリーダーが、1、2、3、と番号をしるした籖をひいたのです。  お父さんとお母さんは、頭字のアルファベット順に、1、2、3、です。  お父さんは、青山総三《あおやまそうぞう》、加藤守也《かとうもりや》、山部国雄。お母さんは、福原芳枝《ふくはらよしえ》、石井純子《いしいじゆんこ》、木島《きじま》けいです」  女は、よどみなく名を並べあげた。 「もちろん、籖引は、集会所に皆集まって、自己紹介やら何やらすませてから、しました。集会所も焼けましたけれど、これは半焼ですみました。使おうと思えば使える状態です。明日、ごらんになってください。  そういうわけで、山部国雄は、ナンバー3なんです。そうして、梗子《きようこ》は、3の籖を引きあてました。  桔梗《ききよう》の梗と書きます。あの子の名前です。  浅妻《あさづま》梗子。  マ・スール、ご存じではないでしょうね、『浅妻船』を。琵琶湖の東の岸に朝妻の渡しというのがあったのだそうですわ。そうして、浅妻船は、遊女をのせる売色船の別名でした。  あの子に、何てふさわしい姓でしょう」  女がお喋りをつづけている間に、わたしはバッグから着替えの下着やらタオルやらを出し、用意をととのえていた。  突然、話を打ち切り、 「まいりましょうか」  女はタオルの端が垂れたプラスティックの桶をかかえて立ち上がった。  そうして、わたしに眼を据えて、 「もちろん、ご存じと思いますけれど、わたくしは、矢野藍子《やのあいこ》と申します」と名乗った。     2  藍子の持った大型の懐中電灯で足もとを照らしながら、階段を下りた。わたしの靴は水がしみているので、藍子はサンダルを貸してくれた。空洞の壁を叩くような足音がひびいた。 「滑《すべ》りますから、お気をつけになってね。あの……修道会の方針に批判的なことを申しますようですけれど、わたくし、外灯は完備すべきじゃないかと思いますの。できるだけ自然のままの生活をさせることが望ましいと、上層部はお考えのようですが、この島自体が、きわめて人工的なものでございましょう? たとえば、信州の高原地帯などでしたら、自然のままの暮らしということも、ある程度可能かと思います。でも、あなた、鉄と石の廃墟。ここでの自然って、本質的に、何なんでしょう。ここを子供たちの矯正施設の場としてお選びになったというのは……。  子供たちが、この場所から感じとるのは、�隔離�です。まるで手に負えない伝染病患者みたいに……。  ええ、あの子たちは、たしかに、隔離が必要です。いろいろな誘惑から隔離しなくちゃいけないわ。麻薬、犯罪、性、酒、煙草、度を越えた陶酔。ある期間強制的に隔離することによって、治癒させる、という処方は正しいと思います。  でも、この闇は、いけません。いけませんよ、あなた」  藍子は、さっきの哀願するような声音《こわね》とはうってかわった、断定的な口調で言った。 「わたくしの部屋をあそこにしましたのはね、ホームや集会場のある広場を一目に見わたせて掌握するのに都合《つごう》がいいからでもあるんです。もっと、きれいに保存されている棟《むね》もあるのですけれど、広場から離れすぎていては困りますので。お父さんお母さん以外の三人の職員は、集会所にそれぞれの部屋を持っています。今も、そこを使っています」  藍子は、少し急《せ》きこんで言葉をつづけた。 「放火のこと、子供に死者が出たこと。なぜ、すぐに連絡しなかったのかと、お責めになるでしょう。ええ、わかりますわ。それについては、後でゆっくり御説明します。時間は十分にありますものね、わたしたち」 �わたしたち�という言葉が、藍子は気にいったようで、 「わたしたち、ごいっしょにお風呂に入るのね」  と、笑顔を向け、再び、道に迷った子供が助けを求めて縋《すが》りつくような表情をみせた。  建物に沿って、藍子は、光の輪でわたしの足もとを照らしながら進む。わずかな距離の間に、道は、崩れた石段になったり、坂をのぼったり下りたり、めまぐるしく変る。  建物が密着した細い路地を、壁に躯《からだ》を這わせるようにしてすり抜ける。 「暗くておわかりにならないでしょうけれど、昼間、この辺《あた》りをごらんになったら、びっくりなさるわ。ゴースト・タウン。建物の死骸。いえ、建物が、かってに生き始めたんだわ」  西から吹きつける風は、きしるような音をたてて建物の間を吹き抜ける。  甲高い悲鳴のような音が、わりあい規則正しい間隔をおいて聴こえる。 「硝子よ」と、藍子は言った。 「割れてぶらさがった硝子が、窓に残った硝子を、風が吹くたびにひっかくんです。シンバルを叩くような音は、小屋の屋根からはがれたトタン板が風に煽《あお》られているんです。島は賑《にぎ》やかですわ。昼も夜も、無機物がこうやって合奏しています。不愉快な音楽。人間のリズムを無視した。人間とは違う生を、島は生き始めたんだわ。人間が廃棄したそのときから」  この建物の地下に、と藍子は言った。 「共同浴場は、あるんです」  入口を照らす懐中電灯の光は、その脇に生《は》えた羊歯《しだ》の白茶けた一群らを捉《とら》えた。 「ボイラーマンが、毎晩、お湯を沸かしていますの。それが、ボイラーマンの仕事ですから。コークスは倉庫にいっぱいあります。最後の審判の日までお風呂を沸かしつづけることができるくらい」  冗談めいた言葉を、きまじめに藍子は口にした。ユーモアは、この女から欠落していた。 「中は三つに別れています。二つが男風呂、一つが女風呂。使っているのは、小さい女風呂だけです。あの子たちが来ていないといいけれど……」  この建物の地下に下りる階段には、豆電灯がともっていた。  下りきったところの広い土間の両脇に、棚を仕切っただけの下駄箱が作りつけられている。履物《はきもの》はおいてないようだった。藍子は、ほっとしたような笑顔をみせた。  がらんとした脱衣所は、蛍光灯がついていた。木製のロッカーが壁付に備えてある。わたしたちは服を脱ぎロッカーにおさめた。  藍子の躯は肉づきがよかった。肩と胸は小さいが腹から腰にかけてなだらかにふくらみ、つつしみ深い言動を裏切るように皮膚の下で気まぐれに繁殖した肉が、虚《むな》しい媚態《コケツト》を誇示していた。  ゆったりと広い湯舟に肩まで身を沈め、藍子は満足の深い吐息をついた。眼を閉じ、躯が享受している愉楽の饗宴に浸りこんだ。  湯の面には、天井の蛍光灯がうつって揺れていた。 「久しぶり。久しぶり」と、流し場で躯を洗うときになって、藍子はようやく声を出した。 「放火の後、あの子たちとお風呂でいっしょになったとき、わたくし、……ほら、温泉でありますでしょ、猿が野天風呂にいっしょに入っている、あんな気がしちゃったわ」 「向うも、あなたといっしょに入って、そう感じたかもしれないわ」  わたしの皮肉を、藍子は敏感に受け止め、 「あの子たちを猿にたとえたからって、おとしめて言っているわけではありませんのよ」  と、抗議した。 「了解不能の異質な存在、という意味ですわ。わたし、理解しようとつとめました」  喋りながら、タオルを持った手は丹念に泡まみれの躯をこすっている。 「ホームを焼いて、あの子たちは、群れそびえるアパートの残骸のあちらこちらに散って……」  わたしと藍子は、洗い場をはさんで背を向けあい、それぞれの蛇口の前に腰を据えている。水銀がまだらに剥《は》げた鏡が、蛇口の上の壁面に貼られ、向かいあった鏡に、わたしと藍子の顔が、無限にうつっている。  藍子は、桶の湯を肩からかぶり、躯の輪郭をふくれあがらせた泡を流すと、ふいに、わたしの隣に寄ってきて、ひそめた声で、 「あとで、いろいろお話ししますわね」  と囁《ささや》き、もとの場所に戻った。  そして、躯を丸め、髪を洗いはじめた。  背を向けあったわたしと藍子の間を、人の通りすぎる気配《けはい》がした。鏡に白い躯がうつった。  ふりむくと、少女が湯舟の方に歩いてゆく。  皮膚の下を乳と蜜が流れているかと思えるような、滑《なめ》らかさ、白さだ。湯舟のへりをまたぎ越し、躯を浸《ひた》した。わたしも、湯に入り、少女と眼を合わせた。  少女は、わたしに笑いかけた。好意がこもっているのか、儀礼的な笑顔かわからなかった。白桃のような頬に、うすく血がさしはじめていた。少し赤みを帯びた長い柔い髪を頭の上に巻き上げ、ピンでとめている。細い首にまつわったおくれ毛が胸乳の方までのびている。  湯の面の下で、少女の胸や腹は蒼白くゆれた。  わたしが先に上がり、脱衣所で躯を拭いていると、そそくさと藍子が上がってきた。  濡れた短い髪は頭にはりついていた。  藍子はわたしに肌が触れるほど近づき、 「あれは、蓮見《はすみ》マリという子です。あれで十四。ませているでしょ。おなかに分娩のあとの筋《すじ》があるの、見ましたか」  と囁いた。     3  灰をかぶった石灰を藍子が火掻棒《ひかきぼう》で突きくずすと、赫《か》っと内側が輝いた。黒い石炭を手でつかんで、藍子は三つ四つ投げ込み、蓋《ふた》を閉めた。 「贅沢《ぜいたく》ですわね、石炭の暖房。この赤い火が好き。わたしがここで耐えていられるのは、この火のせいかもしれませんわ」  そう言って、藍子は大きく息を吸いこみ、 「ああ、湯上がりのにおいも好き」  とつづけた。 「こんな小さなことが、ほんとに、わたしを倖せにしてくれるわ。ね、マ・スール」  いくらか、藍子は気分が鎮《しず》まっているようにみえる。 「さっきお約束したことを、お話ししますわ。聞いてください、マ・スール。とっくに報告しなくてはいけないことを、わたしは黙っていました」 「蓮見マリという子、きれいですね」  わたしは言葉をはさんだ。 「きれい?」  藍子は苛立《いらだ》たしげに眉をひそめた。 「きれい? ああいうの、きれいっていうのかしら。それはまあ、かわいい顔だちかもしれませんけれど、ざらにあるんじゃありません? わたしの姉だって、あの子より。マ・スール、あなたの方が、蓮見マリとはくらべものにならないほどすてきです。すてき、って、安っぽい言い方ですわね。あなたは、御自身を明確に把握しているという勁《つよ》い感じがありますわ。姉も強かったけれど、あのひとは、ただ、我儘《わがまま》で癇癪《かんしやく》もちなだけ。でも、かわいげのあるきれいな子だったから、誰も、姉の欠点には気づかなかったわ。母でさえ……母というのは、継母《ままはは》ですけれど……。あんなにいじめられながら、姉の悪意にはなかなか気がつかなかったのよ。父はもう、姉を溺愛して……。  マ・スール、こういううたをご存じ?」  そう言って、藍子は、詩とも俚謡《りよう》ともつかぬ詞をくちずさんだ。   姉は血を吐く 妹は火吐く   可愛いトミノは宝玉《たま》を吐く 「異教の悪徳を秘めたようなうたですわね。その後、こう続きますの」   ひとり地獄に落ちゆくトミノ   地獄くらやみ花も無き   鞭《むち》で叩くはトミノの姉か   鞭の朱総《しゆぶさ》が気にかかる   叩け叩きやれ叩かずとても   無間《むげん》地獄はひとつみち  轟々《ごうごう》と石炭は燃えさかりはじめ、放心したような眼を火に投げる藍子の顔を赤くゆらめかす。   暗い地獄へ案内をたのむ   金の羊に、鶯に   革の嚢《ふくろ》にゃいくらほど入れよ   無間地獄の旅仕度   春が来て候《そろ》林に谿《たに》に   くらい地獄谷七曲り   籠にゃ鶯、車にゃ羊   可愛いトミノの眼にゃ涙   啼《な》けよ鶯、林の雨に   妹恋しと声かぎり   啼けば反響《こだま》が地獄にひびき   狐牡丹《きつねぼたん》の花が咲く   地獄七山七谿《ななやまななたに》めぐる   可愛いトミノのひとり旅 「子供のとき、読みおぼえたうたですけれど、�姉�を�母�といれかえたら、わたくしにぴったりだなあと、子供心に思いましたのよ」 �母�は、�継母�です、と、また藍子は言いそえた。 「生母は、わたくしが三歳の春、死にました。結核だったそうです。入院はせず、自宅の離れで療養していました。付添い看護婦として住みこんでいたひとを、母の死後、父は後妻にしたのです。そのとき、六つだった姉と三つだったわたくし、そうして父自身の世話をさせるためにね。継母は、それを光栄だというふうに感じるひとだったんですわ。  姉は、亡くなった母にそっくりだと、皆言います。わたしは写真の母しか知りません。母の病室にわたしは入ることを許されなかったようですわ。  写真の母は、きれいです。�あえかな�という形容詞がよく似合う。華奢《きやしや》なからだつきではないんですのよ。どちらかといえば大柄で骨の太い、それなのに、どうしてあんなにひっそり淋しげな……。淋しくて、しかも華《はな》やかな。大輪の白い芙蓉《ふよう》。マ・スール、こんな話は、ご退屈かしら。花だの芙蓉だの、気恥しいような言い方ですけれど、わたしの語彙《ごい》は貧弱で、こんなありふれた形容しか思いつけませんの。でも、ありふれた言葉というものは、誰にでも通じ、共通のイメージを喚起させるキーワードではありませんかしら」  藍子は再び沈黙の中におちいった。 「ですから」と、突然、言った。 「わたくし、失敗したままで終わらせることはできないの」  途中の脈絡《みやくらく》を欠いていた。  母が三歳のとき、死んだ。継母が、きた。父は亡母に似た姉を溺愛した。  そのことと、現在の仕事を失敗に終わらせることはできない、ということの間の欠落。  了解不能な欠落ではなかった。 「去年の夏から、短い間に、いろいろなことがありました。死者も……。それを一々報告したら、わたくし、免職になりますわね、当然。やり直させてください」  赫《か》っと輝く火をみつめながら、藍子は呟くように言った。  やり直させてください。やり直させてください。 「マ・スール、あなたは、助けを求めるわたくしの願いに、即座に応《こた》えてくださいました。何も訊《き》かずに。とにかく、来てくださいました。わたくしを救ってくださいませ。やり直すこと。もう一度最初から。ホームを作り直し、あの子たちを集め……。  最初からというわけにはいきませんわね。死んだ三人の子供は取りかえしがつかない。  中断したことの再開。  そう、続きを始めさせてください。  三人は、脱走しようとして、小舟を盗み、舟がくつがえって死にました。  もう、それは、どうしようもない事実。その先を、続けさせてください。  子供たちを救うことが、わたくし自身の救いになるんです。このまま解任されたら、わたくしは、もう……」  執拗《しつよう》に訴える藍子は、狡猾《こうかつ》な子供が、甘えられる相手を見さだめると、ききわけなく言いつのるさまと似ていた。  しかし、藍子が溺れかけているのだと、わたしにはわかる。助かるためには、死にもの狂いで、手に触れるものにしがみつく。  藍子の狡猾さは、自分が狡猾であることを全《まつた》く意識しないところから生じていた。  わたしが一言も咎《とが》めないと見てとると、藍子は活気づいた。 「修道会に連絡して、もう一度、ホームを建て直していただけます? 簡単な小屋でいいんですわ。ごく質素な、たとえば、飯場のプレハヴ小屋のようなものだって……いいえ、木造の方が、暖かみがあってよろしいわ。まわりがこんなに殺風景《さつぷうけい》なんですもの。せめて……。三人のお父さんと三人のお母さんも、それを望んでいます。明日、ご紹介します」  藍子の声が、少し自信無げな様子になった。  すぐに、気をとりなおしたふうに、 「本部から視察の人をよこしたりしないように配慮してくださいませ。お願いします。この現在のありさまを見たら、わたくしはその場で解任されます。それは、わたくしに、生きる価値は無い、と宣言なさるのにひとしいわ。おまえは、�無�だ。おまえは、�無�だ。おまえは、空のずだ袋だ。  誰だって、最初は、失敗するんじゃないでしょうか。試行錯誤を重ねて、少しずつ、理想に近づいてゆく。  あの子たちだって、今のままで満足しているはずはありません。人には、放縦《ほうじゆう》をのぞむ気持と同時に、律せられたいという感情もあるんですわ。向上していきたいという感情が。規律のある暮しの方が快《こころよ》いということに、あの子たちも、気づき始めているころです。  ここに、十分な資材さえあれば、本部に救援を求めなくとも、わたしたちの手で小屋を建て直す努力をするところです。本土からはこんでもらわなくては……。  でも、たとえ資材がここにあっても、わたしには、マ・スール、あなたが必要でした。  あなたのように、ゆるぎない意志と信仰を持った方の力添えが、わたくしには。  わたくしは、洗礼は受けましたけれど、あなたのように徹底することはできず、俗界にとどまっています。一すじ、退路を残しておくようなやり方。自信がないのです。  あなたが、いてくださる。今度は、うまくいきますわ。成功させなくては。  あの子たちに必要なのは、愛情。  わたくしね、愛情がどんなに必要なものか、それだけは、身にしみて知っています。  だからこそ、与えることもできる。  明日から、又、始まる。また、わたくし、始めることができる。  憩《やす》みましょう。明日に備えて。  マ・スール、ベッドをお使いになってください。わたくしは、ソファで寝ます。あなたもわたくしも、贅沢《ぜいたく》な快楽はいらないのよね。  眠りは誰にでも平等に訪れますわ。あのかわいそうな継母《はは》も、眠っているあいだは……。悪夢? ええ、もちろん。でも、一晩じゅう見ているわけじゃない。夢のない眠り。眠りと死は兄弟だって。言い古された言葉。わたし、死については考えないわ。考えようと考えまいと、死は必ず、眠りと同じように」  とめどなく、藍子は、意味のないお喋りをつづける。夜が更ける。  人の、気配。遠く、かすかではあるが、群れ、ざわめき、ひそひそ囁き、笑い……。風の音に混って。ああ、たのしそうな。     4 「ねえ、どれがいいとお思いになって?」  朝食のあと、藍子は、寝乱れをととのえ直したベッドの上に、テーブル・クロスを三枚、それぞれ半ひろげにした。  六畳の押入の下段に、三尺幅の押入箪笥が嵌《は》めこんである。クロスはその抽斗《ひきだし》から取り出された。  三枚とも、似たりよったりのデザインで、どれを選ぼうと大差はない。中央を白くあけ、縁《ふち》に薔薇《ばら》の連続模様をクロス・ステッチしたものである。手作りだと、藍子は言った。  わたしは、窓の外を眺めていた。  藍子が使用している部屋は、コの字形の建物の東北の隅にあり、ちょうど、広場を見下ろすことができる。  島の最東北端を占める広場は、北と東を防波堤で海とわかたれ、西は病院棟、南は小中学校の建物で仕切られ、その西南の隅に藍子が使っている建物の東北の一劃がくいこんでいる。病院棟も学校も、もちろん、廃墟である。  広場の中央には、ホームの残骸だろう、焼け焦《こ》げた木材の山があった。たいした量ではない。建物が三棟もあったとは思えないほどだ。左手に、半焼の建造物が残っている。石造りなので焼け落ちないですんだのだが、火の痕が壁に黒く這っていた。 「ねえ、どれがいいかしら」  藍子がまた言うので、いい加減にまん中のを指すと、 「そう、やはりこれね。わたくしもそう思ったわ。きっと、これをお選びになる、って」  あとの二枚を抽斗にしまい、わたしが選んだ一枚を、いそいそと、というふうに抱え、 「まいりましょう」  と藍子はうながした。  一晩ストーヴのそばに置いたので、靴は乾いていた。  並んで階段を降りると、藍子の頭はわたしの肩より少し上にあった。  背中をきりりとのばしてお歩きになるのね、と藍子は感心したように言った。羨望と嫉妬がかすかにかくされていた。膝の裏をのばしたわたしのためらいのない歩きかたをまねようとし、藍子はすぐにあきらめて、もちまえの猫背の姿勢になった。  窓から見下ろせば、広場はすぐ目の下にあるのに、密集する荒廃したアパート群のあいだの迷路のような道を廻って行かなくては、たどりつけないのである。  ほとんどが七階、九階といった高層の建物であり、それらが雑然と林立する間を、汐をふくんだ重い風が壁をゆるがせ、わずかに残っている窓硝子をきしませて通り抜ける。  夜の闇がかくしていた荒廃を、朝の光はあざやかにきわだたせていた。空は、切れ切れに切りとられ、廃屋の隙間に貼りついていた。地をおおったコンクリートの割れ目からのびた羊歯《しだ》は、猛々《たけだけ》しかった。  建物をつなぐ、空中のブリッジ、錯綜《さくそう》した階段、青黒い錆《さび》が苔《こけ》状に盛り上がった鉄扉、道を曲ると突然あらわれて行手を遮《さえぎ》る岩盤、それらは、監獄めいた印象を与えた。  そう、この荒寥《こうりよう》とした建物群がわたしに思い起こさせたのは、十八世紀の画匠ピラネージが残した『幻想の牢獄』と呼ばれる一連の銅版画であった。  ピラネージの牢獄は、石の見た悪夢ともいうべき、時と空間の歪《ゆが》みによって生じた廃墟である。裂けた岩、砕けた煉瓦、崩れた丸天井、張り出して宙吊りになった梁脚《りようきやく》、たどりつく場所のない虚《むな》しい梯子《はしご》、それは強迫観念の産物のように幾重にも繰り返されて架け渡され、上るものは眩暈《めまい》の空間に突き放されるのだ。もつれ乱れた回廊もまた、天空が即《すなわ》ち奈落であることを示す役にしかたっていない。鉄鎖、綱、滑車《かつしや》、巻揚機、木挽台、これらの建設用具は、ある悪意の浸透により、すべて一種の拷問具に変貌させられている。  大雨が降った後なのか、水たまりだらけだ。泥水をはねとばして、小さい動物が目の前を走り過ぎた。仔豚らしい。 「おかしいわ」  藍子はついに立ちすくみ、とほうにくれた表情をみせた。  しかし、切羽つまった様子ではなかった。 「大丈夫。やり直せばいいのよ。わたし、ときどき道がわからなくなるの。高いところから見下ろせば、一目瞭然でしょう。わたくしの部屋の窓から見下ろしたら、広場はついそこにあるでしょう。ところが、地面に下りると、ほら、こんなに、壁が行手をさえぎって、今立っている足元しかわからなくなってしまうんですもの。ところどころに地図を貼り出して、現在地、ここ、という印でもつけなくちゃと思うくらいよ。でも、もとの所に戻って、やり直せば。原点に戻る、って、よく言うじゃありません。抽象的な意味に使われる言葉ですけれど、現実の行動においても、そうなのよ。基準になるポイント。それをしっかり把握していさえすれば、何も心配はないんだわ。試行錯誤。道は、必ず、あるのよ。  わたし、子供たちに、よく、それを言いますの。あなたたちは、やり直せばいいのよ、って。一番、基の地点に立ち戻ってごらんなさい。地点というのは、継続した時間のある一点、という意味ですけれど」  藍子のとりとめない饒舌が、また始まった。  喋りながら、藍子は道を引き返す。片手にテーブル・クロスを抱え、あいた片手はいつかわたしの手を握っていた。弾力のある、ずんぐりした指だ。 「ほら、ここで間違えたんだわ。同じような建物、同じような路が並んでいるから、いつも間違えてしまう。ここに住んでいた人たちは、よく間違えなかったものだわ。でも、人が大勢住んでいたころは、建物は、画一的に造られていても、それぞれ、独特の体臭といったものを放《はな》っていたのだと思いますわ」  視線を、わたしは感じない。子供たちは、今、このあたりの建物にひそんではいないらしい。 「三棟のホームも、全く同じ造りなのに、生活がはじまったら、それぞれ貌《かお》が違ってきました。おかしなものね」  泥まみれの仔豚が走り過ぎた。  西岸の岸壁に沿った道に、わたしたちは、いつか出ていた。  桟橋や鉱業場、広場のある東岸にくらべ、西岸はいっそう荒れすさんでいる。  高い防波壁にさえぎられ、海は見えないのだが、鈍《にぶ》いが底深い音と共に、壁に打ち当たった波しぶきが、アパートの四階、五階の窓にまで降り注ぐ。 「反対側に来てしまったわね」  わたしが言うと、藍子は、具合が悪いのをごまかすような笑いを見せた。 「あなたが、わたしと二人で歩いていたいものだから、道が果てしなくのびるんですよ」  わたしの言葉に、藍子は、すてきな冗談をきいたというふうに、少女のような声をたてて笑った。 「ほんと。マ・スール、よく見抜いていらっしゃるわ。わたし、たぶん、職務に戻るのがいやなのよ。こんなことを言ってはいけませんわね。わかっています。でも、いつもいつも立派なことばかり言ってはいられないわ。時には、何もかも放り出したくなります。実りのない……。一人で静かに……。でも、それも地獄。軽々しく口にしてはいけない言葉ね。マ・スール、あなたと二人で歩くのは、快いわ。いつまでも、こうして歩いていたい」 「だからといって、行きつかない道を歩きつづけるわけにはいかないのでしょう。あなたは、やり直すと言った」 「そう。ええ、そうなの。……ああ、子供たちより手古ずるのは、お父さん、お母さんたちよ」  藍子は防波壁の裾にうずくまり、頭をもたせかけた。 「この石の感触が好き。守られている、という気持が強まるわ」  狭い石段が、壁の上部にのびている。 「父は、よく書斎で仕事をしていたの。子供のころ、ドアをノックするでしょ、姉がノックすると、父は、『お入り』と言うの。ノックするのがわたしだと、『何の用だね』。用がないことだって、あるわ。何となく父の顔を見たいとか……。何の用だね。わたしはドアの外で立ちすくんで……」  わたしは、裾をたくし上げ、石段を上った。 「堅い樫《かし》のドアだったわ。マ・スール! 止めて! お止めになって。危いわ」  壁の厚みは、六十センチほどある。上に立ったとたんに、しぶきと風が叩きつけてきた。  六十センチという幅は、歩行に十分だ。平面に六十センチ幅の平行線をひき、その中を線を踏まずに歩くのは、何の困難もない。  烈風が、いささか危険を加えた。吹き落とされないために、反対側に少し重心を移さねばならない。風は海から陸に吹きつけてくるのだから、重心は海側におくことになる。  風は呼吸している。強く、弱く、リズムを持って。  危険なのは、弱まったときだ。吹きつける強い力にささえられたバランスが崩れ、躯は海にのめる。  ほどよい緊張感を快く味わいながら、わたしは防波壁の上を歩を進める。藍子はそれに従って下の道を歩みながら、「マ・スール、マ・スール」と、感嘆の声をわたしの足もとにまつわらせる。  波もまた、風と共に呼吸していた。低い波が数度続いた後に、突如、防波壁も乗り越えそうに盛り上がり、壁をゆるがして砕け、しぶきは視野を覆う。一瞬、水中にあるような錯覚を与える。  睫毛《まつげ》を濡らした雫《しずく》を払ったとき、鏡の前に立ったように、わたしの前方に、人の姿が向かいあっていた。  わたしと同じように壁の上に立ち、こちらに歩み寄ってくる。  波しぶきは二人の間を遮《さえぎ》り、また引いた。遮られ、顕れるたびに、人影は大きく鮮明になった。  フードのついた灰色のコートを着た少女であった。コートは、修道会からホームの少女に支給された制服である。フードはかぶらずうしろに垂らしている。 「梗子《きようこ》! 下りなさい」  藍子が命じた。これまでに聞いたことのない、威厳と落ちつきを備えている。逆上しやすい小心な女の咽《のど》から出た声のようではなかった。  しかし、浅妻梗子の冷静さと威厳は、藍子を凌《しの》いでいた。そう、わたしの目には見えた。  浅妻梗子とわたしの間の距離は狭まり、高く上がったしぶきが去った後、二人は、手をのばせば触れ合うほどのところにいた。  梗子の浅黒い額に濡れた髪が貼りついていた。梗子の顔は、奇妙にアンバランスだ。いたずらっ子めいた表情ゆたかな眼と、意志の強さを示す角ばった顎が、不釣合なのだ。微妙な曲線を持った唇は、鋭い警句や皮肉やユーモラスな冗談を吐くのにふさわしく見えた。  わたしは、左手で裾をたくし上げたまま、右手をさしのべた。  梗子の眼は快活に笑ったが、口元は不信感を消さず、少し間をおいてから、右手をのべた。  二つの手は、風に邪魔されて、ふらふら動き、それから握り合わされた。  しぶきが、かかった。  わたしは、握手した手と裾をたくし上げた手を入れかえた。そうして、躯を道の方に向けると、梗子もすぐに悟って呼吸を合わせた。  わたしたちは、とび下りた。  下り立つと、梗子はすぐに手をはなし、廃墟の迷路に去っていった。 「梗子、お父さんは、小会議室に行きましたか」  藍子が大声で呼びかけた。返事はなかった。梗子は見えなくなった。 「梗子、皆に……」  と言いかけ、藍子は言葉をのみこんだ。無視されるとわかっている命令を口にするのは屈辱だ。  無表情なアパート群を右手に防波壁の内側の道を行くと、道は北端でカーヴし、ほどなく、ホームの残骸が散る広場があらわれた。  半焼けの建物は、集会にも使われていた礼拝堂で、ホームと同様、修道会が建てたものである。  建物の正面の扉は木製だったために焼失していた。島の建物は鉄筋コンクリートだが木材を使った部分が多い。窓枠や手摺、廻廊などは皆、木である。鉄は、塩分に腐蝕され、じきに役に立たなくなるのだった。しかし、鉄より強い木も、島が無人になって以来の年月のうちに朽《く》ちはて、落下し、廃墟のそこここに廃材の山を作っている。  礼拝堂は、新築なのだが、火を浴びた今は廃墟としっくりなじんでいる。  礼拝堂の裏に、集会室、職員会議室、事務室、職員の私室などが付随している。  礼拝堂の部分は火が入り、祭壇などは焼けくずれ、使用に耐えない状態である。 「だいたい、あまり宗教色を強調しない造りになっていましたのよ。子供たちの中には、宗教の押しつけを非常に嫌うものもいて、逆効果を及ぼしかねませんから。それも、本部の方針でしたわね。ずいぶん柔軟なことだと、わたくし驚いたものですわ」  高窓の硝子《ガラス》は割れ、コンクリートの床に水が溜まっていた。  焼ける前はどんなふうだったのか、想像力で復元するのがむずかしいほどだ。何にしても、欧羅巴《ヨーロツパ》の礼拝堂に見られる荘重さ、神秘感は、望むべくもない。風土になじまぬものを、形だけ辛《かろ》うじてととのえ、根づかせようとしているのだ。  奥の通路は、途中から床板が残っていた。焦《こ》げた部分は取りのぞいてある。そこでわたしたちは靴を脱いだ。  通路の右手、礼拝室の裏にあたる部分が、小会議室で、職員たちが集まっていた。  中央の楕円形のテーブルに、藍子は、クロスをひろげた。雰囲気を和《なご》ませるという藍子の意図は、ほとんど効果がなかった。  殺風景な教室のような部屋に、クロス・ステッチのテーブル・クロスは、ただ不似合なだけであった。  八人の職員が、無表情に、黙って、わたしたちを迎えた。  上座に二つあけてあった椅子を、わたしと藍子は占めた。 「わたしたちの窮状を、助けにきてくださったのです」  と、藍子はわたしを紹介した。 「皆さんに自己紹介していただきましょうか」  藍子が言うと、 「矢野さんに名前を言ってもらえばいいですよ」  一人が長めの髪をかきあげながら苦笑まじりに言った。自己紹介など大袈裟《おおげさ》だと思っているふうだ。 「青山総三さん」  藍子は口早にひきあわせ、更に、 「加藤守也さん、木島けいさん、福原芳枝さん、石井純子さん、お父さんとお母さんです。山部さんは、だめなのね。お父さんが一人欠席です。それから、事務の小垣《こがき》ふじ子さん」  皆に湯呑をくばっていた小垣ふじ子は、わたしに愛想のいい笑顔で目礼した。 「力仕事やボイラー焚きなどをしてもらっている串田剛一《くしだごういち》さんと半崎勇《はんざきいさむ》さん」  二人の雑役夫は、他の職員から少し椅子を離し、股をひろげていた。 「たいそう、よいお知らせです」  と、藍子は幼稚園の教師が幼児に何か�いいこと�を告げるような声音《こわね》で言った。 「本部では、わたしたちがやり直すことを認めてくださいました。早速《さつそく》、ホームの再建にとりかかってくださるそうです。わたしたちは協力して困難に当たってきました。再び、始めから、やり直しましょう。散った子供たちを集め、辛棒強く、愛情を持って、教え導き、健全な社会人として、社会に帰してやりましょう」  神という言葉を、藍子は口にしなかった。職員のなかには、洗礼を受けていないものも半数以上いるのである。     5  船が、資材を運びこんできます。  マ・スール、夢のようですわ。この活気。わたくしは、実は、絶望しておりました。もう、二度と、やり直すことはできないと。土台は、もとの物を使えますから、工事の進捗《しんちよく》の早いこと。  細い柱と、ベニヤ合板の安直な工事。しかたありませんわね。焼ける前の建物も、こんなものでした。  でも、本心を言いますと、わたくし、石の恒久的な建物の方が好ましいと思います。ええ、木造の方がやわらかく暖かみがあっていいと、申しましたわ、わたくし。でも、あの子たちに、不変、永遠、という観念を持たせるには、石の家の方がいいのだと、考えが変りました。いえ、前々から、不朽の建物が望ましかったのですが、本部の方針に従うために、自分の気持をいつわっていたのです。  ——わたし、しじゅう、嘘をついたわ。子供のころから。  マ・スール、あの子たちが、集まってきて、ホームの建設を眺めているじゃありませんか。あの子たちだって、嬉しいんです、自分たちのホームをまた持てることが。  大丈夫、あの子たち、戻ってきますわ。ホームができあがったら。そうして、新しい畳の上に蒲団《ふとん》を敷いて、のびのびと休むでしょう。  海を渡る風が、暖かくなってきたとお感じになりません?  ホームが完成するのは、春ですわ。  ここには、春の証《あか》しとなるような花樹も草花もありませんけれど、風が和《なご》むのでわかりますわ。花壇を作らせようかしら。いいえ、やはり、野菜を作る方が。  マ・スール、ずっと、ここにいてくださいますわね。少くとも、運営が再び完全に軌道にのるまで。  浅妻梗子と山部国雄が姿を見せませんけれど、あの二人だって、あらわれますよ、ホームができあがったら。  二人だけで隠れ住むことはできませんもの。  あらわれたら、わたし、何も言わずに、一言も咎《とが》めだてせずに、二人を受け入れてやるつもりです。  だって、何もかも、元のとおりにしたところから、やり直さなくてはいけませんもの。  生の軌跡は、修正できます。その意志さえあれば。  ああ、やり直しのきかないことも、そりゃあ、ありますわ。  死んでしまった三人の子供たち。  わたしに完璧を要求なさらないでください。  試行錯誤の過程では、犠牲もでます。やむを得ません。一つの失敗で、全部が失敗と断定なさらないでください。  失敗は、わたくしを賢くします。二度と、子供たちに舟を入手させません。  資材と人夫を運びこむ船に、子供たちがしのびこんで逃亡することのないよう、厳重に監視しています。  気骨の折れることですわ。  三十一人の少女たちを、身心ともに健《すこ》やかな、 「三十一人?」と、わたしは聞き返した。 「二十八人でしたわ」藍子は言い直し、とめどないお喋りをつづける。  身心ともに健やかな、社会に適応できるものに作りかえ、わたしは彼女たちを社会に復帰させます。子供たちには、明日があります。未来があります。 「あなたも、かつては子供だったのよね」  と、わたしは遮《さえぎ》った。 「そのときの明日、そのときの未来が、�今�なのよね」  藍子は、聴こえない顔をしたが、口もとがわずかにこわばった。  舟着場は、わたしが上陸した桟橋を含めて三つあり、二つは閉鎖されていたのだが、小屋を建設する間は、開けられた。  子供たちの脱出を防ぐために職員が交替で常時監視に立っている。  脱出することはないでしょうとわたしが言うと、彼らは、わたしが何もわかっていないという顔をする。  子供たちは、今の暮しが本土の暮しより気に入っていますよ。  まさか、と彼らは嗤《わら》った。  今の暮し。廃墟のあちらこちらに散らばって、かって気ままに、野蛮人のように暮しているのですよ。倉庫に食糧をとりに来たり、共同浴場に風呂に入りに来たりするから、つかまえようと思えばつかまえる事はできます。しかし、まとめて収容する施設がないから、ホームができるまで野放しにしているのです。ホームが完成しても、集めて閉じこめるのが骨ですな。以前は、広場の外にかってに行けぬよう、建物がとぎれて通路になる部分には金網をはって、完全にこの一部だけを区切っていたのですが。金網も補修しなくては。  そんなことを、お父さんお母さんたちは話した。  子供たちは集まってくるでしょう。ホームは再開されるでしょう。  わたしが言うと、  予言者のようですね、あなたは。あなたが子供たちを集めてくださるのですか。  お父さんの一人が言った。  いいえ、子供たちを集め、ホームを再開させるのは、矢野藍子園長の�意志�です。  わたしは答えた。  わたしの気に入りの場所は、浅妻梗子と出会った西岸である。更に言えば、西岸の防波壁の上である。  そこに、わたしは上って腰かけ、脚を壁の外に垂らす。  凪《な》いでいる日はほとんど無い。高波が壁に激突し、しぶきを天に噴き上げる。絶えまなく海は天に呼びかけているかのようだ。  わたしの傍に、浅妻梗子が腰かける。わたしたちは、何も喋らない。語りあうのに、言葉はもっともよけいなものだ。  目の前にあるのは、波と空だけである。おごそかに、淫蕩《いんとう》に、波と空は、在る。  わたしたちは、からだがあることを忘れ、防波壁の上に置き去られた石ころのように、居る。     6  爪をたてんばかりに、藍子はわたしの腕を握りしめる。怯《おび》えた横顔が、並んで立ったわたしの眼の隅にうつる。 「数えてみてください。マ・スール。お願い。わたし、何度も数えてみました。三十一人います」  建物と金網によって区切られた広場は、島の東北のほんの片隅である。三十数人の人間が棲息するのに十分な広さだと、本部は判断したのであろう。  島じゅうに散っていた少女たちが、集合していた。  職員が拡声器で呼びかけもしたのだが、それ以前に、少女たちは、新築なったホームの前に寄り集まって来たのである。あたかも、それが彼女たちの宿命であるかのように。  修築された礼拝堂が北の端に建ち、その手前に三棟のホームが並列し、南は少し空いている。少女たちは、その空地に三列に整列していた。 「二十八人のはずなんです。だって……。マ・スール、数えてみてください」  藍子は、動揺を他の者に悟られまいとするように、正面を見据えたまま、早口でささやく。 「右の端の列に十人。真中にひい、ふう、十一人、左に十人。わたし、数えちがえているのかしら、同じ子を二度数えているのかしら」 「顔でわからないんですか」  わたしは、ささやき返した。 「海に墜《お》ちて死んだ三人の顔が」 「わからないんです」  藍子は、高くなりそうな声を押し殺した。 「一人一人の顔を、全部はおぼえていません」 「それは怠慢ではないの」 「仕方ありませんわ」 「たった、三十一人よ」 「どの子も同じように見えますもの。よほどきわだった子をのぞいては」 「二十八人。それが、三十一人いる」 「いやだわ!」 「でも、あなたは、始めからやり直したいのでしょう」  わたしの声に、藍子の首すじは鳥肌立った。 「何もかも、最初から、同じようにやり直すのが、あなたの願いでしょう」 「子供たちが最初に来たのは、夏でした。ポンポン船に乗って、来ました。雨が降っていました。夏なのに肌寒いくらいでした」 「今は、春だから、違うというの? 少しぐらいのずれは、がまんなさい。季節はずれているけれど、子供たちの数は最初と同じ」 「だって、三人は、死んだのよ!」 「あなたの願望が、全員を呼び集めたんですよ」 「死人のくせに、生きているようなふりをして混りこんでいるのは、どの子なの!」 「名簿とつきあわせたら、わかるでしょう」 「名簿は焼けてしまいました。焼けてしまったんです、何もかも。あの子たちは、小鬼のように、事務室を襲い、書類を火に投げ込んだのよ。あの子たちの過去の汚点は、炎の中で、ひるがえり、よじれ、嬉々として燃え消えていったわ。記録がなくなれば、過ぎた時も空白に清浄になるとでもいいたげに」 「でも、あなたはそれを許さない。始めから、またやり直そうというのですものね。死んだ三人の名前もおぼえていない?」 「マ・スール、わかってください。もう、それは大変な事の連続だったの。何から何まで頭の中に整理しておくことはできません」  列の中に、わたしは浅妻梗子と蓮見マリの顔を見出した。浅妻梗子は右の列、蓮見マリは左の列の、それぞれ最後尾にいた。身長順に並んでいる。 「もう一つ、始めのとおりではないことがあるわね。山部国雄お父さんがいないわね」  わたしが言うと、 「恥ずかしくて、顔を出せないんだわ」  藍子は歯をきしませるようにして罵《ののし》った。 「わたし、寛大なつもりですけれど、あの人だけは許せません」 「式をお始めなさいな」  わたしは言った。  台の上に上り、藍子は少し高いけれど平静な声で、いささかの威厳さえ添えて、三十一人の少女たちに訓示を与えた。 「海と空、このすばらしい自然に囲まれ、私たちもまた、身も心も、この自然のように、健やかに清々《すがすが》しくなりましょうね」  月並な言葉で、藍子の訓示は始められた。  海と空、すばらしい自然。まるで、ポスターの文句だ。灰色のコンクリートの残骸群は、藍子の表現から抜け落ちていた。そうして、海と空がどれほど兇暴無惨な力を持つかということも、海と空には感情が全く無い、ということも。 「あなたたちがこれまでにしてきたことは、ここでは、いっさい問われません。あなたたちは、新しく生まれたのです。生まれたての赤ちゃんを知っていますね。……」  熱意のこもった藍子の言葉は、少女たちの耳の外を滑り落ちてゆく。   2 修道女《マ・スール》2     1 「山部国雄が、欠けています。  夏に始まったことなのに、今は、春。  始めからやり直すといっても、これだけ違いがあるわ」  凄《すさ》まじい風と波の音に、藍子の呟《つぶや》きは消されがちになる。  窓の外は漆黒の闇だ。少女たちのホームも灯を消している。十一時を過ぎた。  藍子が淹《い》れたローズ・ティーの香りが漂っている。  ティー・ポットには、藍子の手製のカヴァーがかぶせてある。入念にクロス・ステッチで飾ったものだ。  今も、喋りながら、藍子の手は刺繍針をはこんでいる。 「クロス・ステッチ、好きなんですのよ。単純な動作の繰り返し。それが、油絵のように重厚で複雑な色彩の図柄を描き出す。辛抱強くなくてはできないことなの。ね、わたくしたちの仕事と似ているとお思いになりません?」 「死んだ子供が三人」  わたしが言うと、藍子の手はびくっと痙攣《けいれん》して、針先が指を刺した。  ほとんど無意識に藍子は血の粒の浮いた指をしゃぶり、 「死んだはずの……。その話は、おっしゃらないで。山部国雄が戻ってこないことの方が大変なのよ。お父さんのいないホームでは、無意味ですもの」 「世間には、父親のいないホームは、たくさんありますよ」 「�家庭��ふつうのうち�という意味で、ホームとおっしゃったのね。マ・スール、あなた、わかっていらっしゃるくせに、わざと意地の悪い言い方をなさる。ふつうの家庭には、子供が十人もいませんわ。それも女の子ばかり。たしかに、変則的なホームよ。でも、お父さんお母さんが揃っているのは、いいことよ。そうじゃありませんこと? わたしね、すばらしいと思うのよ。両親がいて、和《なご》やかな、暖かい」 「偽《にせ》家族」  と、わたしは続けた。  藍子は強情《ごうじよう》に、 「偽家族だって、本当の家族よりましな場合がありますわ」  と言いはった。 「マ・スール、あなたは、家族をお捨てになったのね。わたしも、捨てましたわ。だれ?」  藍子は、びくっとしたはずみに、また指を針で刺した。  ノックの音がきこえたのだ。 「だれ? だれなの。名前をおっしゃい」  ドア越しに、太い男の声が、 「私です」  と応《こた》えた。 「私ではわかりません。名前をおっしゃい」  藍子は厳然と言い、小声でわたしに、 「死んだ子供じゃなかった。職員の誰かよ。あの声……。いいえ、まさか」 「名前を名乗らなくては、ドアを開けてもらえないんですか。まるで、戒厳令下の司令室だ」  藍子は立ち上がった。膝から布が落ちたのをかがんで拾い、テーブルに戻して、ドアに近寄った。 「山部お父さんね。悔《く》いあらためて、出てきたのですね。よろしいわ。お入りなさい」  そう言ってから、藍子はわたしに向かい、小声で、 「まさか、害意は持っていないと思うのよ。あなたとわたしを傷つけたって、意味のないことですもの」  と、自分自身を安心させるように言い、ノブをつかんでひねった。  入ってきた山部国雄は、巨漢であった。  髪も肩も濡れていた。 「畜生」と、歯の間から罵《ののし》り、山部国雄は、濡れた髪をかきあげた。  わたしに目を向け、 「失礼、マ・スール。あなたに言ったんじゃない。波しぶきが防波壁を越えてね、頭からかぶっちまった。汐水だからべとついて始末が悪い。矢野園長、腰かけてもよろしいでしょうね」 「どうぞ」  藍子は、警戒心を目の奥から消さない。 「やり直しがはじまりましたね。結構なことだ。協力します。何度でも。もう一度、子供たちを、叩きなおし、やきを入れ」 「ちょっとお待ちになって」  藍子はさえぎった。 「知らない人を誤解させるような表現はやめていただくわ。やきを入れる、とは、何というひどい言い方をなさるの。やくざの集団のような」 「知らない人を誤解させる。知らない人とは、マ・スールのことですか。マ・スールなら、知らない人じゃない」  山部国雄は、わたしに共犯者めいた目くばせをし、 「やくざの集団。まさに、ここはやくざの集団じゃないですか。淫売《いんばい》。すり。つつもたせ。傷害犯。殺人犯」 「やめなさい!」 「殺人犯」と、山部国雄はもう一度はっきり言い、わたしに笑顔をみせた。  顎《あご》ががっしり張った山部国雄は、歯も白く大きい。 「最初からやり直しましょう。園長、あなたは、ぼくを誤解していたな、最初は。もう一度、思い違いしてください。マ・スール、このひとはね、ぼくを偶像視したんですよ、最初。ほら、こういう更生施設を扱った〈青春小説〉とか、映画なんかに、よく登場するじゃありませんか。いささか柄《がら》は悪く乱暴だが、根はお人好しの熱血漢。徹底的に子供たちを信用し、官僚主義の指導官に楯《たて》ついて、結局は、子供たちをぐあいよく矯正し、更生させちまう。何十年来、お決まりのパターンです。  このての更生施設には、必ず、そういう役まわりの人物がいると、園長は単純に思いこみ——この人は、なかなか、単純な人じゃないんですがね——ぼくをその救世主的人物と、みなしたんですな。みてくれは、適役だ、たしかに。そうして、園長自身も、非の打ちどころのない、子供たちの味方。二人が力を合わせたら、どんな�悪い子�も、更生させることができる、と。更生。耳ざわりな言葉だな。マ・スール、どうして、そういう正義の熱血先生が、施設を扱ったお話や映画に必要か、わかるでしょう。安心するんだ、みんな。最後はめでたし、めでたしでね。自分たちの属する社会は、正しい。ここに適応できることが、何よりの正義」 「山部お父さん」  藍子は、やさしい声で呼びかけた。 「あなたは、偽悪家なのよ。わざと、悪ぶっていらっしゃる。わたしを、よほど頑固なわからずやだと思っていらっしゃるのかしら。わたしだって、あの子たちが——少くとも、あの子たちのうちの何人かが、子供ではない、すでに女だということは承知しておりますよ。そうして、あなたをはじめ、お父さんたちが男だということも。でも、あなたをはじめお父さんたちは、自制する力を持った完全な大人よ。そうでしょ。わたし、あなたを信頼していますよ、山部お父さん。あなたが戻ってきてくださったのは、すばらしく嬉しいわ。今度は、失敗しないで、やり直しましょうね」  山部国雄は苦笑して、濡れた髪をかきあげた。 「無垢《むく》な小羊」  藍子の呟きを耳にとめ、山部国雄の苦笑に吐息が混った。死んだ三人の子供については、話題にのぼらなかった。藍子はその話を避けていた。 「山部お父さん」  と、藍子は、右手をさしのべた。いくぶん芝居じみた仕草《しぐさ》であった。山部国雄は、ちょっと迷ったような間をおいて、握手に応じた。 「がんばりましょうね」  と、月並な言葉を、藍子はつけ加え、山部国雄は、意味のない笑い声をたてた。     2  鍬《くわ》の刃先に、春の陽射しがたゆたい、油に浸したような光を与える。固い岩石だらけの土は、鍬をはね返す。  六時起床。洗面。身仕度。朝礼。朝食。学習。休憩。学習。昼食。休憩。学習。自由時間。集合。反省。夕食。休憩。団欒《だんらん》。入浴。就寝。  子供たちの、日課である。 〈学習〉の時間には、農作業も含まれていた。  九つから十五歳までの少女たちは、反抗の気配はいっこう見せず、さだめられた日課に従っていた。まるで、この集団生活に興味を持っているようにさえみえた。 「よォし、皆がんばってるな」  山部国雄が、それこそ〈青春ドラマ〉的な声を上げる。自分から口にした、いささか柄《がら》は悪く乱暴だが、根はお人好しの熱血漢、というステロタイプを、山部国雄は、嬉々として演じている。演じているという意識もないようで、これは、山部国雄が持っている生来の気質の一部なのだ、と、わたしは察した。 「これだけ掘っくりかえしたら、石炭が出てくるかもしれんぞ」  山部国雄の冗談に、子供たちは笑いを返さなかった。  そのかわり、青山総三お父さんが、 「鉱脈は海底にあるから、ここに畑を掘ったくらいでは、石炭は採れない」  と、冷笑的に言った。山部国雄の冗談を、無知から出た言葉に意地悪くすりかえたのだが、このとき、子供たちはいっせいに笑った。  山部国雄は、ちょっとどぎまぎした。  笑い声はすぐに止み、子供たちはまた、作業に専念した。  子供たちの動作は、感情がこもっていなかった。怠《なま》けてはいない。正確に鍬を振り上げ、打ち下ろす。  お母さんの一人、木島けいが、わたしと藍子の方に歩み寄ってきた。何か言いたそうにしたのだが、すぐ思い直したふうで子供たちの方に戻りかけ、二、三度ためらって、ようやく、藍子の傍に来た。 「うまくいっていますわね」  先手を打つように藍子は言い、木島けいは、ええ、とうなずいた。  そのとき交された言葉は、それだけだった。  子供たちが寝《しん》に就《つ》いた後、三人のお母さんが、藍子の部屋に集まった。  不定期に催される、職員と矢野藍子園長のお茶の会であった。  全職員が集まっての懇談会やら反省会やらはしばしば行なわれるのだが、藍子はその他に、種々の組み合わせによるお茶の会をひらく。  三人のお父さんだけを招《よ》んだり、お母さんたちだけを招んだり、あるいは、お父さんお母さんをペアで、ホームごとに別々に招んだりもする。そういうときは、ホームは両親が揃って留守になるわけだから、他のホームから誰か一人、監視に行く。もちろん、監視という言葉は、ここでは認められてない。  藍子は、香りの高いローズ・ティーを、それぞれのカップに注ぎわけ、すすめた。 「このお部屋に来ると、島にいることを忘れますね」  色白で肥り肉《じし》の福原芳枝が言った。  三人のお母さんは、顔立ちも気質も違うが、物事の判断の基準が社会の良識にのっとってゆるがないという点では、みごとに一致している。  窓枠をゆする風の音、絶え間ない波の音が、ここが島であることを瞬時も忘れさせないのだけれど、聞き馴れてしまうと、その音も耳を素通りするのだろう。わたしの耳の奥には、いつも、脳髄にまで達する波の音、風の音がある。 「いまのところ、すべて順調なようですね」  にこやかに、藍子は三人の顔を等分に見て言う。 「ええ、すばらしく順調」  鼻にかかった声でそう応じた石井純子は、三人の中では一番年長で、五十に近い。しかし、世間知らずの品のいいお嬢さんが、そのまま皺だけ増えたというふうで、この厄介《やつかい》な仕事についた動機も、汚れなきお嬢さんの使命感といったものらしい。シモーヌ・ヴェイユに傾倒してもいる。両親が修道会といくぶん関わりを持っているのだそうだ。結婚し、夫に死別した後実家に帰っていたが、やがて、この非行少女矯正の仕事につくようになった、という経歴である。骨ばった長身で、痩せすぎた背を少し丸めている。  色白の福原芳枝は、ふくよかな肌がいつもしっとり汗ばんでいる。四十二歳。結婚歴はない。人は好いのだが、お嬢さん育ちの石井純子には、育ちの点で、木島けいには頭のよさの点で、コンプレックスを感じているようなのだ。しかし、そのために二人を敵視するほどの闘争心は欠けていた。 「でも、順調すぎるという気もしますね」  石井純子は、そうつけ加えた。お嬢さんではあるけれど、それだけに、物事の本質に直進する勘が機能することもある。子供たちの静かさを、石井純子は楽観視してはいなかった。  木島けいが、わずかにうなずいて同意の色をみせた。三十七歳の木島けいは、離婚し、夫やその両親と争った末、子供を手もとにひきとった。子供は保育所にあずけつとめに出ていた。つとめの帰りに保育園に寄り、子供を連れて帰宅する途中、子供がバイクにはねられて死亡した。木島けいはその後しばらく精神の安定を欠き、入院した。わたしが聞いた彼女の経歴は、そういうことであった。 「子供たちは、無気力すぎるようです」  木島けいは言った。 「規則には従順で世話がやけません。まるで、模範生ばかり集まった寄宿舎のようです。これでいいのかしら」  でも、反抗の牙を抜くために、ここに収容したのでしょう。  わたしは、声に出さず、言った。  今のようにおとなしくさせることが、ここの目的なのでしょう。過程抜きで、結果が先にあらわれてしまっては、困るのね。  たきつけて、騒ぎを起こさせて、それから、叩くの? 「おとなしければ、それに越したことはないわ」  福原芳枝が人の好い笑顔で言い、 「おいしいわ」  と、丸っこい指でクッキーをつまんだ。藍子の手作りである。つられたように、石井純子も手をのばした。 「わたし、夜はいただかない方がいいのよね。また太ってしまう。青山さんたらね、こんなところにいて、こんなものを食べていて——あら、クッキーのことじゃないんですよ、このクッキー、おいしいわ、園長先生、お仕事の選び方をおまちがえになったわね——あら、また、変なこと言ってしまったかしら。あの、ふだんのホームの食事、こんなのを食べていて太るのは奇蹟だって言うのよ、青山さん。ひどいわね」  福原芳枝は首をすくめて笑い、 「食べだすと、きりがないわ。止まらないのよ。石井さん、羨ましいわ。どうしたら、そんなにスマートでいられるのかしら」 「わたしは痩せすぎ」  石井純子は、おっとり応じた。 「これで、おなかには贅肉《ぜいにく》がたっぷりついているのよ。胸は平らなのにね。浅妻|梗子《きようこ》だの蓮見マリだのを見ると、羨ましくなっちゃうわ」 「蓮見マリなんて、胸がこうよ」と、福原芳枝は身をのり出した。「ウエストはきゅっとしまって。あれで十四なんだから。浅妻梗子も、いい躯をしているわ」  石井純子は、あまり好ましい話題ではないと途中で気づいたふうで、相槌《あいづち》を打つのをやめたが、福原芳枝は、下世話な話をひとしきり楽しげに続けた。  木島けいはうんざりした表情を露骨にみせた。 「木島さん、あなた、さっき、何か話したいことがあるようだったわね」  藍子が言うと、 「あ、いいんです」  木島けいはそっけなく答えた。 「子供たちがおとなしすぎる、と言おうとしただけです」  とりとめない雑談をかわし、やがて三人は辞去した。福原芳枝は、ちょっと名残《なご》り惜しげに、小綺麗にととのえられた室内に眼を投げてから、出て行った。  二人だけになると、風の音が強まった。  藍子は汚れたティー・カップを洗ってかたづけ、急にソファに躯を放り出すように坐り、手に顔を埋めた。 「疲れるわ。あの人たちの相手をしていると。ことに、福原お母さん。どうして、あんな俗っぽいことしか頭にないのかしら」  ノックの音がした。まるで、藍子が名をあげたことで呼び戻されでもしたように、福原芳枝が戻ってきたのであった。 「ごめんなさい。まだお休みになっていませんでした? ああ、よかった。あの……ほかの人がいるところでは、ちょっと言いにくくて。入ってもかまいません?」  すみません、と首をすくめて恐縮しながら、福原芳枝は椅子に腰かけた。さっき坐っていたのと同じ椅子である。そこが自分の定席と心得たふうだった。 「お話って、何かしら」  藍子は辛抱強く、穏《おだ》やかにうながす。 「あの……すごく勝手だとわかっているんですけれど、わたし、がまんができないんです。青山さんとの組み合わせを変えていただけませんか」 「どうして?」 「あの人、わたしを馬鹿にして、皮肉だの意地の悪いことばかり言うんです。青山さんは、木島さんか石井さんと組みたいんですよ。木島さんは頭がいいから、青山さんと話がよくあうんです。二人ともむずかしい本を読んでいるし。石井さんも感じがいい人でしょ。わたしでは青山さん、気にいらないんです。だから、わざと、意地悪をして。これでは、わたし、子供たちにも馬鹿にされて、しめしがつきません。石井さんか木島さんと、ホームを変えてください」 「意地悪って、具体的に、どんなふうなの」  幼稚園か小学校の教師が子供の訴えをきくように、藍子はたずねた。 「具体的にって言われても……あの、一つ一つとりあげたら、小さなことだし、人に言ってもわからないと思うんです。言葉の調子とか、そんなことですから。わたしが太っていることを、青山さんは子供たちの前で笑いの種にするの。それも、ほんとに冗談みたいにして言うから、まともに怒るこっちが馬鹿みたいなものですけど。わたしが結婚していないことも……。そんなことをしていると、お母さんみたいにお嫁にいけなくなっちゃうぞ、なんて子供たちに……」  わたしったら、と、福原芳枝は、少し笑った。泣き笑いのような顔になった。 「こんな……おかしいですわね。いい年して。でも……」 「一度決めてしまった組み合わせを変えるのは、ちょっとまずいと思うのよ」  藍子はなだめた。 「何があったのかと、子供たちは詮索したくなるでしょうし。子供たちだって、集団生活で、気の合ったもの同士ばかりが一つのホームにいるわけじゃないと思うのよ。皆が、あの人といっしょはいやだ、ホームを変えてくれ、同室者を変えてくれ、と言いだしたら、収拾がつかなくなるでしょう」 「ええ、そうなんですけど、お父さんとお母さんがとげとげしいのも、よくないんじゃないかと思って……」  福原芳枝の語気は少し弱くなった。自分でも、いささか子供じみていると気がひけるのか。 「青山お父さんが何を言おうと、気にしないで聞き流していらっしゃいな。からかわれてあなたがむきになると、相手はいっそうからかいたくなるものなのよ」 「ええ、わかっています。わたしだって子供じゃないんですから。気にしないようにつとめてきましたわ。でも、我慢するのも限度があるって思うんです、わたし。子供たちの前で爆発しちゃったらいけないと、にこにこしているんです。そうすると、青山さんはよけいいい気になって。園長先生にこんなお願いをするのは、よくよくのことだとお思いになってください」  次第に、声が激昂してくる。 「わかりました。でも、早急には決められませんから、もうしばらく様子をみましょうね。青山お父さんには、わたしからそれとなく」 「いいえ、いけませんわ。わたしが告げ口したなんて青山さんが思ったら、それこそ、やりにくいことになります」  はい、はい、と藍子は笑顔でうなずいた。  青山さんがいつまでもあの調子なら、わたし、爆発するかもしれません、と捨てぜりふのように言い残して、福原芳枝は帰っていった。 「このお部屋はいいですね。ホームは殺風景」と、去りぎわに、また、部屋を見わたした。 「子供より始末が悪いってお思いになる?」  ソファに躯を投げ出し、藍子はわたしを見上げた。 「でもね、わたし……わかるの。意地悪い仕打ちを、具体的に一つ一つあげれば、とるに足りない小さいことだ、って福原お母さんは言いましたでしょう。そうなのよ。傷つけている方は、傷つけているという自覚もないような小さなことの積み重ね。それが、とり返しのつかない傷を作ってゆく。傷つけられる方の恨みは……」  でも、わたしには、あなたがいらっしゃる、マ・スール。藍子は縋《すが》りつくようにわたしを見た。 「姉がわたしに何をしたか……。マ・スール、あなた、もう少し違う顔をしていてくださるとよかった」  そう言って藍子は笑った。 「むりですわね。まあ、わたしったら愚かしいことを。あなたが姉に似ていらっしゃるので、つい、つまらないことを……。最初、あなたを桟橋《さんばし》に出迎えたとき、わたしったら、お会いしたとたんに、あなたを突きとばしたんでしたわね。本当に失礼なこと。姉と見まちがえて……。ええ、わたし、姉に小さいときから……。それこそ、一つ一つをとりあげて他人《ひと》に話しても、そんな些細なこと、ってはなであしらわれるでしょうね。たとえば……姉は短大出でした。だから、わたしは、大学に行きたかったけれど、短大しか受けることを許されなかったの。父に学資の負担を四年もかけることはいけない、と姉はいうのよ。いつも、�父のため�というのが、姉の大義名分だったわ。本当は、姉よりわたしの方が学歴が高くなるのが、姉はがまんできなかったのよ。父は国立大学の助教授だったんですけれど、学校内部の派閥争いに巻きこまれて、退職したの。その後は私学の講師をしたり、物を書いたり。おかねはないけれどプライドは極度に高いというのが、わたしの家の家風でした。  母が早くになくなりましたでしょう。継母《ままはは》はおかねのことにルーズで、家計をまかせられないと、姉は早くから思いさだめたのね。高校のころから、うちの経済の主導権は、姉が握っていました。姉が主婦。継母は女中よ。お父さまにこれ以上おかねの苦労をかけないで。姉は口癖のようにそう言ったわ。  大学は四年。短大は二年。だから、姉は短大に進んだ。高卒で働くというのは、姉のプライドが許さなかったの」  藍子はまた笑った。 「折衷案《せつちゆうあん》というところね。学問も好きじゃなかったんですわ、あのひとは。お小遣いをね、いつも、父や継母の手からではなく、姉から、わたしは貰わなくちゃなりませんでした。短大の受験の日、わたし、電車賃がなかったの」  そこまで言いかけて、 「やめましょうね、こんな昔の話」  突然、藍子は話を中断した。 「子供たち……。みんな、何かしら傷を抱えこんでいるんだわ」  悲鳴のような声がつづいた。 「でも、わたしは、子供たちが大嫌い!」  はっとしたように、藍子は口の前に指を立て、 「いま、わたし、何て言ったの」  眼を宙に投げてつぶやいた。  福原芳枝の訴えは、ペンディングされたまま、日が過ぎた。藍子に喋ったことでいくらか気が晴れたのか、福原芳枝は、配置転換をその後口にしないでいる。  子供たちは、ますます模範的だ。不気味なほど、と職員たちは時たま口にしたが、そのうち穏やかさに馴れた。  月に二度ほど、船が本土から必要な物資をはこんでくる。  学習は、年齢によって三つのクラスに編成され、藍子とお父さんお母さんが、教師のかわりをつとめている。  九歳一人、十歳二人、十一歳五人、十二歳八人、十三歳八人、十四歳六人、十五歳一人。  重ったるい晩春と爽《さわ》やかな初夏が汐風に入り混る夕暮、西岸の防波壁にわたしはもたれている。  波がコンクリートの壁にぶちあたり、鈍《にぶ》いひびきをわたしの躯につたえる。  福原芳枝が、あたりを見まわしながら、小走りに走ってくる。  わ、と声をあげて立ち止まり、それから、近寄ってきた。 「マ・スールですわね。巌が立っているみたいに見えてしまいました。夕陽のせいですね。吉川|珠子《たまこ》をおみかけになりませんでした? 反省の時間が始まったのに、いないんです」 「吉川珠子?」 「一番小さい、九つの。あの子が、一番、たちが悪くて眼が離せないんですよ。九つでここに送りこまれてきたくらいですから。こっちに来られるはずはないんですけれど。道路の入口はふさいでありますから。でも、あの子は躯が小さいから、どこかからもぐりこんだかも。マ・スール、お手数ですが、みかけたらつかまえて、ホームに連れてきてください。ほんとに世話がやける。でも、マ・スール、気をつけてくださいね。あの子は兇暴ですから。子供なんてものじゃないわ。噛みつきますよ」  早口に言って、福原芳枝は走り去った。  姿がみえなくなったのを確かめ、長い灰色の裾をわたしが少し持ち上げると、猫のように小さい仔豚が走り出て、つづいて吉川珠子がスカートのかげからとび出して仔豚を追い、つかまえて抱き上げた。 「ありがとう」とわたしに笑いかけ、福原芳枝とは反対の方角に走り、すぐに見えなくなった。  福原芳枝が言ったとおり、ホームのある広場から、共同浴場への通路だけを残して、迷路のような道の入口は、有刺鉄線をからめた柵や板戸などで通行止めにしてある。柵の向うの闇の迷路は、あたかも存在しないもののように藍子たちによって無視され、ただ一すじの�正しい道�が、広場と共同浴場をつないでいるわけだ。  板戸には錠前をかけ、その鍵は職員が持っている。職員と子供たちとでは、行動できる広さが違うのだが、子供たちは抜け道を幾つも知っているようで、あまり痛痒《つうよう》は感じていないらしい。  壁を越えた波しぶきが、わたしの顔や肩を濡らす。  別の人影が近づいて来た。  わたしは微笑で迎えた。  浅妻|梗子《きようこ》は、わたしと肩を並べた。長身だが、わたしよりわずかに低い。  黒い剛い髪がわたしの頬に触れた。  浅妻梗子が髪をかきあげたので、頬と頬がついた。頬をつけたまま、ほんの少し、互いに顔を向けあうと、唇が触れた。  浅妻梗子の唇はわたしの唇の輪郭をなぞるように動き、舌の先が唇を割った。  小さいやわらかい戯《たわむ》れ。  浅妻梗子のホームも、反省の時間である。  食事前の空腹時は、あまり適当ではないのではないか、食後のくつろいだ時間をあてた方がよいのではないか、という意見も、タイム・テーブルを決めるとき出たが、食事前の方が精神が緊張していて、よい、という結論になったのだそうだ。わたしが来る前からのやり方を、再開後も踏襲《とうしゆう》している。  わたしと浅妻梗子は、やがて、ほとんど同時にキスを解《と》いた。  白いブラウスと灰色のスカート。制服は、梗子に似合っていなかった。  梗子の褐色の滑《なめ》らかな肌の下に、熱くなった蜜が流れていた。  わたしたちはもう一度唇を近づけ、小鳥のようにつつきあった。  梗子はわたしの胸の間に顔を押しつけ、つと離れ、手を振って走っていった。  相手はわたしでなくともかまわないのだ、と、わたしは知っている。梗子の躯が、ひたすら、みたされることを求めているのだ。飢えた小鬼のように、欲望は梗子を衝《つ》き動かす。  わたしは、藍子の部屋に戻った。  内側から鍵がかかっていた。  反省が終わって夕食になる時間だ。反省も夕食もそれぞれのホームで行なわれる。  藍子は、ホームが再開されたはじめの頃は、順ぐりにホームに行き〈反省〉や〈夕食〉や〈団欒〉を共にしていたが、この頃は部屋にいることが多い。  藍子は皆と親しく溶け合おうとつとめていたが、何となくぎごちなく浮いてしまうのだった。それを自分でも悟《さと》り、むりに親しむ努力を怠《おこた》るようになったかにみえる。  ノックをくり返すと、ようやくドアが開いた。  藍子はひどくうろたえたような、とろりと眼がうるんだような顔をしていた。 「お夕食ね。ごめんなさい。閉め出してしまいましたわね。手を洗いますから、ちょっとお待ちになって」  そう言って藍子は、頬から耳たぶまで、まっ赤になった。  洗面所で長い時間をかけて丁寧に手を洗い、石鹸のにおいをさせて台所に戻ってきた。 「一昨日の船で、新しい野菜が届きましたから、サラダをたっぷり作りますわ」  子供たちの菜園の収穫は、あまりゆたかではなく、結局本土からの補給に頼らなくてはならないでいる。  レタスやチッコリーを手でちぎり、布巾《ふきん》にくるんで叩きつけるようにして、藍子は水を切った。乱切りのトマトとボールの中で混ぜ、ボールごとテーブルに置いた。 「ドレッシングは、適当におかけになってね。誰か来たのかしら」  藍子は耳をすませた。ノックの音にしては不規則だ。 「風でドアがばたばたするのかしら」  立っていってドアを開けた藍子は、  うわァ、ア、と、叫び声をあげ、尻もちをつきながらドアを閉めた。 「豚。あなた、巨《おお》きな豚」  ようやく息を鎮《しず》め、藍子は立ち上がった。 「そりゃ、知っていましたわ、子供たちが仔豚をペットにしていたことは。でも、ホームには連れこまなかったから、わたし、すっかり忘れていました。あの仔豚が育ったのかしら。こんな巨きな。ああ、驚いた。逃げていったみたい。いやだわ。……豚。あの子たち、どこかで内緒で飼っているのかしら。ちゃんと、許可を得て飼えばいいんです。禁止する気はないわ。でも、内緒事は困ります。少くとも、わたしには、すべて打ち明けてくれなくては。わたしは、万事を把握していなくてはいけない。そうでしょう。知らなくてもいいのなら、何も知りたくはないわ。でも、それではいけないのよね。そうだわ。そうなのよ。豚」  藍子は皿にサラダをとりわけ、ドレッシングをたぶたぶとかけた。 「猫か犬ならともかく、よりによって、豚。仔豚はいったい、どこから手に入れたのかしら。きいてないんですよ、密輸のルートは。まさか、一頭だけですよね。番《つが》いだったりしたら、とんでもないわ。いえ、豚舎を作って飼わせてやってもいいんですけれど、豚じゃ、困らないかしら。殺して食べるわけにもいきませんでしょ。増えたら、業者がひきとってくれるかしら。もう、あの子たちのすることときたら……。あなた、こんな巨きな豚でしたよ。残飯をやっているのかしら。残りものが出るような不経済なことをしてはいけないと、お母さんたちは承知しているはずなんですけれどね。  わたし、生きものを飼うのは嫌いなんです。いいえ、わたしが冷淡だからじゃありません。どんな飼い方をしたって、生きものに無理を強《し》いていることになるのよ。それが嫌なんだわ。子供のころ、ハムスターを飼っていたことがあります。手ざわりがよくて、かわいいと、最初は思ったのよ。友だちから買ったんです。友だちは、ハムスターを増やして、ペット・ショップに持っていくと、買ってくれるといいました。自分もそうやってお小遣いかせぎしているって。わたし、中学一年だったかしら。姉にハムスターを買うおかねをくださいとは言えませんから、父の古い本を内緒で売りました。  番いで飼いましたら、あなた、ハムスターの雄ってね、あの、することしか考えていないんですよ。一年三百六十五日発情しっぱなしで雌のうしろを追いかけまわしているの。うしろからのしかかろうとしては、雌に噛みつかれるの。雄の毛皮はぼろぼろ」  藍子は、ひとりでくっくっ笑った。 「雌は、仔を産んで……何度も産んで……ペット・ショップに持っていっても、おかねはくれなかったわ。売れるかどうかわからないからって、厄介《やつかい》ものをひきとってあげるというふうに恩着せがましく、只で取っちゃうのよ。雌は、うんざりするくらい仔を産んで、さっさと死んじゃったわ。その後、雄は、じきに老衰して、あまり身動きしなくなったわ。そして、内臓がどうかしたのかしら。躯が水を入れたビニールの毬《まり》みたいにまん丸にふくれあがって、きみ悪かった。ああ、いや! ふくれあがって、ごろんところがったまま、なかなか死んでくれなかったわ。  あら、サラダだけでは、おかずが足りませんね。ハムを切りましょう」  冷蔵庫からハムの塊《かたま》りを出し、藍子は豚の尻に似た形のそれを、大型の庖丁でスライスした。 「切れ味が悪くなったわ。磨《と》がなくちゃ」  食事のかたづけがすんでから、藍子は流しの下から砥石《といし》を出し、刃物を磨ぎにかかった。  砥石は粗砥《あらと》から仕上げまで、三種類揃っている。 「刃物を磨ぐの、好きなんですよ」  藍子は機嫌よく言う。 「継母は下手でね、いつも、わたしが磨いであげていました。砥石って、とてもやわらかくて、石鹸みたいね」 「あなたは、器用なのね」  わたしが言うと、藍子は褒《ほ》められた子供のように、嬉しそうになった。 「器用で、根気がいいのね」 「そうですか?」 「刺繍《ししゆう》も上手だし」 「上手だかどうだかわかりませんけれど、好きですわ」 「お料理も好きなのね」 「材料がもっと豊富でしたら、いろいろ作ってさしあげるのに、残念だわ」 「子供たちを招《よ》んで、ご馳走してあげる、ということは考えたこともないの?」  藍子は、ちょっと眉をひそめ、それは、お母さんの仕事に干渉することになるから、と言った。 「子供たちが、それぞれ自分のホームのお母さんの料理を、何より一番おいしいと思ってくれないといけませんでしょ。ホームの食事よりわたしの招待を楽しみにするようになっては困りますから」 「お客さんごっこも、時には気が変るでしょうに」 「マ・スール」と、藍子は居住《いずま》いを正し、「わたしのやり方がお気に召しません?」と詰問口調になった。 「わたしは、何も口出しするつもりはありませんよ。わたしは、ただ、あなたの傍にいるだけです」 「ええ、マ・スール、あなたがいてくださるだけで、わたくし、どれほど心強いことか。……でも、時々、あなたが怕《こわ》い。あなたはあまりに姉に似すぎていらっしゃる。  専制君主だった姉。どうして、あのひとの命令に、わたしは反抗できなかったのかしら。姉の前では、わたし、否《ノー》という言葉を口にできなかったわ。父の前でも……。継母の前では、継母がかわいそうで、言えなかった。わたしがいやだと言えば、困るのは継母だったんですもの」 「もう、お姉さんの話は、おやめなさい」  わたしは、ぴしゃりと言った。  藍子は、はっと身をすくめ、口をつぐんだ。そうして手もとに目を落とし、刃物磨ぎに専心した。 「あなたのお喋りは、いつも、自己弁護と愚痴ばかり。わたしは倦《あ》き倦きしました」 「ごめんなさい」  目を伏せたまま、藍子は小声で呟くように言った。刃の上に揃えた両手は砥石の上を往き来する。藍子は、無言でその動作をつづけた。止《や》める時を忘れたように、磨ぎつづける。 「先に寝ますよ」 「お風呂は?」 「今日は入りません」 「ああ、マ・スール、あなたでも、月のがおありですの。何という……。あなたでも、あのわずらわしさから逃れられないんですの。不要じゃありませんか。結婚もなさらない。子供も産まない。マ・スール、性は、あなたには罪悪なんでしょうか。わたしは、嫌い。性などというものが、なかったらいいと思うわ。両性具有というのがあるけれど、わたしは、無性の方が好き。男でも女でもない存在。あなた、天使は、ノン・セックスかしら」  刃物に水をかけて洗い流し、布巾で拭《ぬぐ》い、藍子は流しの下の扉を開けた。裏に庖丁掛けがついている。刃物をそこにさしこみ、扉を閉じ、藍子は居間に来てソファに腰かけた。赤くなった指をぼんやり眺めた。おそろしく淋しそうな顔つきであった。     3  磔刑《たつけい》は、誰の手によってか、ひそかに行なわれた。  それをわたしに告げに来たのは、第3ホームのお母さん、木島けいであった。むやみに騒ぎ立てない分別を、木島けいは持っていた。  藍子に報告せず、まずわたしに告げたのは、藍子の脆弱な部分に気づいていたからだろうか。藍子は、職員の前では、わたしに見せるのと全く違った平静で愛情こまやかで包容力のある態度をとっていた。自分を偽って演技しているのではなく、それもまた、本然の藍子の相《すがた》であるのだ。  わたしは、気に入りの場所、つまり西の防波壁にもたれ、波しぶきを浴びながら落日に見入っていた。 「マ・スール」と、木島けいは呼びかけた。 「恐ろしいものを見てしまいました。どうしたものか、わたしには判断がつきません。来ていただけますか」 「わたしに見せたいのですか」 「御指示を仰ぎたいのです」 「園長ではなく、わたしの?」 「はい」  少しためらってから、木島けいは、そう言ってうなずいた。  廃墟と化したアパート群が作る迷路に、木島けいはわたしを導いた。  コンクリートの建物をこうも破壊しつくしたのは、塩である。塩が鉄を腐蝕する。錆《さ》び腐った鉄は膨《ふく》れあがり、コンクリートを内奥から崩壊させる。  嵐が烈しいとき、波浪は島の上を越える。岸壁の南西部の上端には、船の舳《へさき》のように、波返しの反《そ》りがもうけてある。反りにぶち当った波は空中に舞い、巨大な海水の塊りとなり、横なぐりに島を襲う。  島の西側に密集したアパート群は、波しぶきを絶えずかぶるので、かつて、この島が炭鉱町として機能していたころは、汐降り町と呼ばれていたそうだ。  無人のスラムの、建物をつなぐ道路は、岩盤の斜面にテラスのようにはり出していたり、木の橋を架けたりしてあり、その路面に穴があいて、はるか下の地面がのぞくところもある。 「わたくしは、時々、この一帯を点検しているんです」  急ぎ足に歩きながら、木島けいは言った。 「子供たちは、こちらには来られないようにしたはずなのですが、どうも、抜け道を作って出没しているのではないかと疑われるふしがあります。莨《たばこ》を喫《す》っている形跡があるんです。職員の中に喫煙者は四人いますが、子供たちの前では喫いません。そうして、わたくしが発見した吸殻《すいがら》は、職員の常用しているものとは違う外国製品でした。子供たちの持物やホームの中をしらべましたが、莨は発見できませんでした。立入禁止地区に隠してあるのではないかと、わたくしは思ったのです。名前をあげて、個人を非難するのは心苦しいのですが、わたくしがホームをあけることがあります。園長にお茶に招ばれたり——お茶! 優雅すぎますわ、こういう状況に於ては。イギリスのマダムじゃあるまいし——、そういうとき、山部さんと子供たちだけになります。山部さんは、子供たちのかってな行動を黙認しているのではないかと思うのです。それは、寛大なやり方の方が、子供には好まれます。しかし、それでは、何のための施設か、収容の意味がなくなります。社会に危険な存在だから、ただ隔離しておく。島では何をしようがかまわない、というのでは、子供たちを可愛がっているようで、実は、絶望し見放していることになります。手のほどこしようのない、病人。医者に死期を宣告されているから、残る時間は好きなことをして生きろと、そういうのと同じです。死刑囚じゃありませんよ、子供たちは。社会に復帰させるのが、わたくしたちに課せられた仕事です」  木島けいはブリッジの穴に足をとられ、ころびかけ、手摺《てすり》につかまって身をささえた。朽ちた手摺は崩れ、転落しそうになった木島けいの腕を、わたしはつかんでひき戻した。  ブリッジや石段や崖上にはり出したテラスのような路を上り、下り、建物の隙間を通り抜け、そのあいだ、絶えず、トタン板がシンバルのように風に鳴り、硝子《ガラス》が甲高いきしんだ音をたて、わたしのスカートの裾は風をはらんでふくらんだ。道はしばしば、廃材の山で塞《ふさ》がれ、廻り道を余儀なくされた。  かつて住んでいた人々が閉山によって立退くとき捨てていったがらくたは、そこここにいまだに散乱している。古い革靴、ゴム長、鍋、笊《ざる》、箒《ほうき》、テレビやラジオもころがっている。それらの中には、形だけとどめて風化しているものもあり、触れると崩れて粘りけのある砂になった。 「木島さん」  わたしは呼びかけた。 「子供の数が増えているのでしょう?」  木島けいは、ふりかえり、 「いいえ」  と言った。 「収容者は三十一人。正確です」 「死者は?」 「いません」  建物の一つの中に、木島けいはわたしを導いた。  硝子の破れた窓枠の外に板戸が嵌《は》めこんであるので、薄暗い。  木島けいは、小さいペンライトを点《つ》け、壁を照らした。  板羽目に、それは貼りついていた。竹の棒が何本か突き出ている。先端をとがらせた竹を犬釘のかわりにして、打ちつけてとめたらしい。磔《はりつけ》になっているのは、仔豚であった。 「木島お母さんは、そんなに丹念に、あの地区を点検していたのですか」  わたしから話をきいた藍子は、まず、それを問題にした。 「そんな入り組んだ奥の方まで。どうしてでしょう」  わたしの答えをうながすように、ちょっと間をおき、 「一人きりで……」と、つけ加えた。 「子供たちの隠《かく》れ処《が》を捜すため。そう、木島お母さんは言ったんですね。それにしても、熱の入れ方が度を過ぎているとお思いになりませんか、マ・スール。たかが、莨《たばこ》……」  莨! と、はっとしたように、藍子はくり返した。 「どこに隠しているかより、どうやって手に入れたのかということの方が重大ですわ。何という銘柄の莨ですか。莨を喫うのは、青山お父さんと、ボイラーの串田剛一、半崎勇、事務の小垣ふじ子の四人だけです。青山お父さんはピース、串田剛一と半崎勇はハイライト、小垣ふじ子はマイルドセブンです。物資運搬の船が入るとき、カートンで買い溜《た》めています。外国たばこは、船は運んできません。いつ、誰が持ちこんだのでしょう。喫殻というのは、わたしは見ていません。木島お母さんは、喫殻をまず、わたしに見せるべきでした。おかしいわね。どこから……」 「豚の磔は気にならないの?」  わたしは訊いた。 「羽目板に、そぎ竹で打ちつけてあった豚は」 「何てひどいいたずらでしょうね。でも、マ・スール、それは、この島の中だけのことですわ。密輸のルートがあるらしいということの方が、大変です。あの子たちは、アルコールだの莨だの、セックスだの、そういうものに目が無いのよ。麻薬中毒からようやく脱けた子もいるのに、そんなものがまた持ち込まれているとしたら。収拾がつかなくなります。木島お母さんをここに呼びましょう。善後策を講じなくては。いいえ、あまり大きい騒ぎにはしたくありません」  第3ホームに、藍子は電話をかけ、「お茶を飲みにいらっしゃい」と誘った。施設の建物間だけに通じている内線電話《インターフオン》である。  緊張した顔の木島けいを、穏やかな笑顔で迎えた。 「莨の銘柄は何でした?」  藍子は、そう、きりだした。 「何か名前は忘れました。たいそう強い、フランスの……」 「ジタン?」  わたしが言うと、 「ええ、それです、たしかそんな名前でした」  木島けいは、たてつづけにうなずいた。 「あなたは、莨を喫わないでしょ。どうして銘柄がわかったの」  藍子は、にこやかに、しかし、じわりとした力をこめて訊《き》く。 「山部さんに喫殻をみせて、たずねたんです。山部さんは自分は喫いませんが、名前は知っていました」 「すると、山部お父さんも、子供たちが莨をかくれのみしていることは承知なのですね」 「ええ。でも、莨のことより、大変なのは、豚じゃないでしょうか。残酷だわ。園長先生もごらんになってください。胸が悪くなります。さわるのもいやなので、そのままにしてきました。あんなことをするのを放ってはおけません」 「ペットに飼っていた豚ですか」 「犠牲《いけにえ》にするために飼っていたんですね、きっと」 「マ・スールにも申し上げたのですが、豚よりも、莨の方が重大です。木島お母さん、あなたは、問題の軽重をとりちがえていますよ。外との交流の秘密のルートを子供たちは持っているのでしょうか」 「どうやって交流するのでしょう」 「物資を運搬する船が、禁制品を……」 「でも、船荷の受け取りに、子供たちは関与させていません」 「こっそり、受け取っているのですよ。監視を厳重にしなくてはいけません。マリファナや覚醒剤まで持ち込まれるようになったら、どうします」 「全職員に通達なさってください。子供に甘い人がいるので、わたくしはやりにくくて困ります」 「わかりました。わたしから厳《きび》しく言いましょう」 「豚は、どうなさるのですか。わたしは、あれがあそこにあると思うだけで鳥肌がたちます。でも、福原さんなんか、あれを見たらヒステリーを起こしそうだわ。任務を放棄して本土に逃げ帰りそう」 「内密に処分しなくてはいけませんね」 「子供たちを叱責なさらないのですか」 「誰がしたことか、わからないでしょう。何も知らない子供にこの事を教えるのは、眠っているのを起こすようなものだと思いませんか。子供たちの誰かが、わたしたちを挑発しているのではないでしょうか」 「挑発なら、もっと目につくところに置くと思います。あんな奥まったところに、こっそり……」 「あなたはまた、そんな奥まったところまで、よく捜索なさったのね」 「莨などの秘密の隠し場所と、抜け道を探していたのです。まさか、あんなものにぶつかるとは思いませんでした」 「とりのぞくには、男手が要りますね。山部お父さんに」 「いいえ、あのひとは、だめです」  木島けいは、強い口調でさえぎった。 「子供に甘い職員というのは、あのひとのことです。あのひとは、子供たちに喋ってしまいます。ボイラーの串田さんが適任ではないでしょうか。串田さんは、無口で、頼もしい人です」 「わかりました。串田さんを呼んで、頼みましょう」  雑役夫の串田剛一を呼び寄せる口実も、「お茶を飲みにいらっしゃい」であった。  四十一歳の串田剛一は、大学中退の学歴を持っている。大学時代、かなり過激な闘争活動をしたらしい。米大使館に乱入し逮捕され退学になった。背が低く、盛り上がった両肩の間に首がめりこんだような体躯である。 「力仕事を頼みたいのです。いっしょに来てください」  藍子は戸棚から大型の懐中電灯を出した。木島けいも串田剛一も懐中電灯持参である。陽が落ちると、懐中電灯なしでは歩けない。  藍子にうながされ、木島けいは、 「わたしも、また行くのですか」  と、渋った。 「あなたが案内してくれなくては、道がわかりません」  そう命じるときの藍子は、穏やかで威厳があった。  懐中電灯の明りが、羽目板に打ちつけられた豚に集中した。  腐臭がかすかに漂いはじめていた。濃密な甘ったるさに、脂《あぶら》っこい悪臭が綯《な》い混った臭いである。  四肢の付根の皮膚をのばしてそこにそぎ竹が打ちこまれ、腹を羽目板につけた形で、豚ははりつけられていた。十分に成熟しきらない仔豚であった。不自然な形をとらされているので、皮膚が醜くたるんで皺をつくり、ある部分では小さい切れ目を入れたら即座にはじけかえりそうにひっぱられている。 「明りを消して」  藍子が低く短く命じた。 「蔭《かげ》にかくれて」  足音が聞こえたのである。一人ではなかった。  藍子の命令が口をつくのとほとんど同時に、あるいはそれより一瞬早く、串田剛一は懐中電灯のスイッチを切り、木島けいもそれにならった。藍子はもちろん、命じるのと消す動作がいっしょだった。  闇が視界を閉ざした。暗黒の中で、わたしたちは物蔭にひそんだ。  弱い灯影が宙にちらちらと揺れ、見えかくれしながら近づいてくる。  懐中電灯ではない。蝋燭《ろうそく》か何かの火のようだ。灯が三つずつ、ほぼ規則正しく三角形をつくり、それが間をおいて、五組。  ようやく、姿がおぼろげながら見えてきた。白っぽい布をかぶって顔がかくれるように垂らし、頭に輪を嵌《は》め、火をともした蝋燭を三本ずつ立てているのであった。  五人が一列になって進んでくる。その傍に、小さい懐中電灯を持った人物がつき添うように並んで歩いている。  蝋燭の光が届く範囲はごくわずかなので、足もとの方は闇に溶けこんでいる。  五人と一人は豚の前に立った。一人ずつ、豚の前に進み、何か仕草をする。固い物が触れあうような音がする。  五人は順にその動作をし、懐中電灯の人物だけは加わらなかった。  やがて彼らは、来たときと同じように、しずしずと去って行った。闇に呑《の》みつくされたように灯影はみえなくなり足音も消えた。 「串田さんの懐中電灯だけ点《つ》けてください。わたしのは光が強すぎて、気づかれるといけないから、点けません」  藍子が指図し、串田の弱い灯をたよりに、わたしたちは豚の前に佇《た》った。  串田が、豚を照らした。光の輪の中にあらわれるのは、豚のごく一部分である。  釘が打ちつけてあった。  わたしは、失笑した。何という遊びだろう。丑《うし》の刻《とき》まいりごっこ。それも、集団で。 「何の凄みもありませんね」  藍子の部屋に戻ってから、わたしは、一言だけ感想を言った。 「馬鹿げているだけだわ」  ただ一人、激情につき動かされ、なりふりかまわず深夜の道を走り、呪詛《じゆそ》怨念を釘に託して叩きつける女の姿であれば、凄愴《せいそう》の気も漂うが、集団で形だけまねた遊びは、いっそほほえましいくらいのものだ。  しかし、藍子は激昂していた。 「不問に付すわけにはいきません。グロテスクで不健康はなはだしい。たとえ、遊びでも、だれか呪殺の対象はあるわけです。藁《わら》人形がわりの豚に釘を打ちこんで、誰を呪おうと……」 「おれたちに決っているじゃないですか」  串田剛一が、ぼそりと言った。 「あれらから見たら、この島の職員は、全員、呪殺の対象です」  そのくらいのことがわからないのか、というように、串田は、顎《あご》を突き出すようにして、皆を見まわした。しかし、その視線は、わたしをそれていた。串田が嘲笑まじりに話しかけた相手は、藍子と木島けいの二人であった。 「禁止しても無駄ですね。呪殺ごっこを禁止すれば、また別の遊びを考え出します。行為を禁じても、心の中に憎悪怨恨を抱くことまでは禁じられません」 「串田さん、あなたも、子供たちを甘やかすのですか」 「やりたいようにやらせておいた方が、悪のエネルギーが小出しに消化されて安全だという、簡単な理屈です。正論ですよ、これは」 「何か他のことで、そのエネルギーとやらを発散させる方法を考えた方がいいと思います」  木島けいが言った。 「子供たちといっしょにいたのは、山部お父さんでした」  藍子は言った。 「顔は見えませんでしたが、わたしは確信します。あなたは、どう思います、木島お母さん」  藍子が苗字の下にお父さんとかお母さんとかつけるたびに、串田剛一は、うんざりした表情をみせる。他の職員は、子供たちの前では、決まりにしたがってだれだれお父さん、だれだれお母さん、と言うが、子供のいないところでは、苗字だけを呼ぶ。藍子は、強情《ごうじよう》に、お父さん、お母さんをつける呼び方をやめない。一人でがんばっていれば、他の者もおのずと従うようになると思っているふうだった。 「たぶん、そうだと思います」 「たぶん、ではありません。あれは、山部お父さんでした。串田さん、あなたも、そう認めるでしょう」  わかりかねる、と表情で串田は答えた。 「山部お父さんが、いっしょになって、こんな馬鹿馬鹿しいことをするなんて」 「少くとも、山部さんは、それによってあれらの呪殺の対象になることは免れる……と、そう、あの人は思っているんじゃないかな」  串田剛一がそう言うと、藍子は吹きだした。 「それでは、まるで、山部お父さんが、あの呪いに効きめがあると思っているみたいじゃありませんか」 「子供たちに憎まれないですむ、という意味でしょう、串田さんが言うのは」  木島けいが言った。 「いや、豚の呪いだって、効きめがないとは言えませんよ。あれらは、丑の刻参りと犬神の呪法をまぜこぜにしているようだな。丑の刻参りは言うまでもないが、藁人形を呪う相手の形代《かたしろ》にしている。藁人形の胸を釘で打つのは、相手の胸に釘を叩きこむことを意味している。犬神は……正確にはおぼえていないが、犬を首だけ出して地中に生き埋めにするのだったと思う。犬は飢えと涸《かわ》きと苦痛に苛《さい》なまれ、怒りと呪いに錯乱する。その首を、刎《は》ねるんだ。そうして、犬の凄まじい呪いが相手にふりかかる。  犬のかわりに、豚ですよ。豚に極限の苦痛を与え、その怒り、呪いを、相手に向かわせる。あれらにとっての相手とは、つまり、我々だ」 「わたしは、子供たちを愛しています」  藍子は言った。 「貧しい乏しい愛かもしれませんが、ありったけを、あの子たちに注《そそ》いでいます。呪いだの犬神だの、くだらない話は時間の無駄です。わたしたちが討議しなくてはならないのは、この問題をどう処理するかということ。もう一つは、莨などをこっそり運び入れているルートの糾明《きゆうめい》です」 「あれらは、�豚の刻参り�と呼んでいますよ」  藍子の言葉を聞いていなかったように、串田剛一が言った。 「串田さんは、知っていたんですか!」 「薄々は」  串田剛一は言った。 「なぜ、早く報告しなかったんです」 「意味がわからなかったんですよ。小耳にはさんだだけだったので。このことだったんだと、やっとわかった」 「山部お父さんをどうするか……。木島お母さん、あなたホームに帰って、山部お父さんにここに来るように言ってください。あなたは、ホームに残ってください。串田さんはここにいてもらいます。証人が必要ですから。木島お母さん、子供たちには、まだ、何も言わないように」 「お茶ですか」  と、山部国雄は部屋に入ってきた。 「気まぐれティー・タイムだな。今夜のお茶は、何のお叱言です」 「どういうつもりなのですか」  藍子は冷ややかに言った。 「あなたは、子供たちを指導し監督するつとめは放棄したのですか」  あっけにとられたように、山部国雄は藍子に目を向けた。 「何の話です」 「豚です。豚ですよ」  藍子の声に苛立《いらだ》たしさがこもった。 「何か考えがあってのことですか」 「豚? 豚がどうかしましたか」 「すっかり、わかっているのです。わたしが自分で見たのですから。豚の刻参りと、子供たちは呼んでいるそうですね」 「豚の刻参り。まんがみたいだな」  山部国雄は笑った。 「何です、それは」 「時間稼ぎはやめてください。あなたに釈明の機会をあげているのです。どういうつもりで、子供たちにあれを許したのか、しかも指導者のあなたが行動を共にしたのか、まさか、子供たちのご機嫌とりのためではないでしょう。教育的配慮があってのことだと思います。あまりにユニークすぎる配慮だとは思いますが」 「待ってくださいよ。何のことやら、さっぱりわからない」 「わたしばかりではない、串田さんも目撃しているのですよ。ね、串田さん」 「私は、顔は見なかったね」  串田剛一は言った。 「暗くて見えなかった」 「串田さん!」 「残念ながら真実ですよ。そうじゃありませんか。蝋燭の光は、顔まで照らしてはくれなかった。あの人物が持っていた懐中電灯も、自身の顔を照らしたりはしなかった。暗い中では、光源を持ったものは闇に沈んでしまうのですよ」 「あなたまで……」 「山部さん、ホームに戻って、木島さんと話しあってみるといいと思うよ。子供たちにはきかれない方が、まあ、いいだろうと俺も思うがね」 「命令は、わたしがします。串田さん。あなたの考えは、あなたの胸にしまっておいてください」 「園長から何の説明も得られないのなら、ぼくは串田くんの言うとおり、ホームに帰った方がよさそうだな。木島さんは何か知っているんだね」  最後の言葉は、串田剛一に向けられた。 「あなたは何も知らないと言うのですね、山部お父さん」 「知りませんね」 「信用しましょう」  藍子は小さい吐息をつき、目撃したことを話した。串田剛一がそれに補足した。 「男性職員が一人、つき添っていました。わたくしは、あなただと思いました。しかし、あなたではないのなら、青山お父さん、加藤お父さん、ボイラーの半崎さん、この三人のうちの誰かということになりますね。串田さんはわたくしたちといっしょにいたのですから」  藍子は、何かを追い払うように、目の前でちょっと手を振った。虫などはいない。意味のない仕草であった。 「一人の人間が同時に二箇所にいられるのでなければね」  串田剛一の冗談に、山部国雄は気のない笑いで応《こた》えた。  藍子は串田剛一の言葉を無視し、きまじめに、 「三人に問いただし、三人とも、山部お父さんのように否定したら……」 「藪《やぶ》の中ですな」  串田剛一は、また、ふざけた口調で言った。 「一度、全員で会議を開き、検討しなくてはなりませんね」  藍子は言い、表情を押さえこむように眼を閉じた。  わたしと二人だけになると、藍子はソファに躯を沈めた。 「わたしは、子供たちを愛しているわ。お父さんたち、お母さんたちを信頼しているわ。それなのに、わたしが見たあれは……何なの。……豚は捨てなくてはいけないわ。それを串田さんに言うのを忘れた。捨てさせるために、串田さんを同行させたのに、あんなものを見たので、忘れてしまっていた。  捨てなくちゃいけないわ。海へ。海はすべての痕跡を消してくれる。何もなかったことにしてくれる。  でも、子供のときに受けた傷は、一生残るものなんだわ。割れた陶器と同じ。継いだって痕は残るし、手荒に扱えば、また同じところから割れるわ。海だって、癒《いや》すことはできない」 「お休みなさい」  わたしは言った。  翌日は丁度土曜日なので、子供たちの学習のない午後の時間、会議が開かれた。福原芳枝と事務の小垣ふじ子が子供たちの監督にあたり、二人をのぞいた全職員が、会議室に集められた。福原芳枝に監督係を割りふったのは、昂奮して感情的になり、議事を混乱させる可能性が大きいと藍子が判断したからである。統率者として、藍子は決して無能力者ではなかった。  あの儀式に同行していた男性は誰かと、会議の席で糾明《きゆうめい》することを避けたのも、藍子の賢さであった。該当者がしらをきりとおした場合職員の間に、疑心暗鬼が生じることを、藍子は慮《おもんぱか》ったのである。  莨の件と、豚をはりつけにして、子供たちが丑の刻参りのような不愉快な遊びをしていたことだけを、藍子は告げた。青山総三、加藤守也、雑役夫の半崎勇の三人の中に、子供たちの共謀者がいれば、藍子に知られたと気づくはずである。 「やみくもに禁止したり、あれをやっていた五人を焙《あぶ》り出して罰を与えたりするのは、百害あって一利なしだと、ぼくは園長に言ったのですよ」  山部国雄が言うと、 「ぼくはその話は今初耳なんだが、山部さんは、前もって園長から相談を受けたの?」  青山総三が、切りこむような質問を投げた。 「まあね」 「山部さんにだけ、特別に前もって相談があったというのは、あまり愉快ではないですが」  加藤守也が言った。加藤守也はわずかに吃《ども》る。ほとんど人に気づかれぬほどだが、言葉の出だしが滑《なめ》らかではない。しかし、気どりのない、粗野ぶりもしない人柄と、ひけらかしはしないが博識な点で、職員の間で好感を持たれ、子供たちも彼にはあまり敵意をみせない。もっとも、子供たちは今のところ、どの職員にも、一定の距離をおき、特に親しまず、特に反抗的な態度もとらないというふうなのだが。 「禁止や罰で対処しない方がいいという山部さんの説には、ぼくも賛成です。豚は、まだそのままですか」 「そうです」藍子が答えた。 「廃棄しましょう。そうして、そのことには触れず、子供たちの関心を何か他のことに集中させるのが上策だ」  加藤守也がそう言うと、木島けいが、 「わたしも賛成です。健康的な、子供たちの心身の育成に効果のある、そうして、子供たちを夢中にさせるようなこと」 「畑仕事がそれに相当すると思ったのですが、今の子供たちは、土に関心を持ちませんね」  藍子が言い、 「今の子供とは限らないでしょう。昔だって、土いじりの好きなのも嫌いなのもいた。一律に、土に親しむのはよいことだ嫌うのは悪だと決めつける方がおかしい」青山総三が逆らった。 「何がよろしいでしょうね。ここでは、遠足というわけにはいきませんし」 「海釣」  そう言ったのは、加藤守也である。 「いいえ」藍子は即座に遮《さえぎ》った。 「釣はいけません。船に子供たちを乗せるのは危険です。波が高すぎますし、逃亡の手段を暗示するようなものです。それも、成功の可能性はないのに、夢を持たせるような手段」 「運動会。それしかないな。園長、最初からそのつもりなのでしょう。健康的で、心身育成の効果があって、子供たちが熱中できるようなもの、といったら。自分から提案せず、ぼくらの発案というふうにもってゆく。なかなか、策士だ」  青山総三は、褒《ほ》めているのかくさしているのかわからない言い方をする。 「三十一人で運動会ですか」  加藤守也は言い、 「ま、それしかないか」と、うなずく。 「四十一人です」石井純子が訂正した。 「職員も加わります」 「わたくしは、競技はしませんよ」藍子は言った。 「不公平になりますから」 「常に、中立ですね」青山総三が言う。 「審判長とでもいうことにしてもらいましょう。マ・スールは、もちろん、加わりません」 「決はとってないのに、運動会をすると決まってしまったようですな」山部国雄が口をはさむ。 「前にやったとおり、なるべく、同じように。少しのずれは、やむを得ないわ」  藍子の呟きが、わたしの耳に入った。 「たった四十人の運動会。いそがしいですな」 「山部お父さんには活躍していただきますよ」  藍子はやわらかく微笑し、 「豚の除去は、串田さんと半崎さんにお願いしましょう。運動会の具体的な条項については後日あらためて決めるとして、次に、さし迫った問題の検討にうつります。莨の喫殻が発見された件です。発見者は木島お母さんです。銘柄はさっきも言ったようにジタンです」 「それなら、わたしですが」と、半崎勇が頭をかくようにして名のり出た。 「半崎さんはハイライトじゃなかったの」 「この前、船で物を運んできたのが持っていましてね、わけてもらったんです。あんな強いのを、女の子はいくら何でも喫いませんよ」 「子供たちの手に渡っていることはありませんか」 「ないでしょう。我々も注意しているし、船の連中も心得ています。荷おろしに、子供たちは参加させないし」 「それでは、この問題は解決ですね。串田さん、半崎さん、あの不潔なものの始末をよろしく」 「誰を信用したらいいのか、わからないわ」  部屋に戻ってくると、藍子は長椅子のクッションを振り上げ、床に叩きつけた。 「子供たちより、職員の方が手に負えないくらいだわ。誰か、子供たちと手を組んでいるのよ。ごきげんとりをして。莨。半崎さんがジタンを喫っているのを、いっしょにいることの多い串田さんが知らなかったなんてこと、あるかしら。それなのに、串田さんは何も言わなかった」 「半崎さんが自分から言うと思ったのでしょう」  わたしは言ったが、藍子はそんな言葉では鎮《しず》まらず、床に落ちたクッションを踏みにじった。クロス・ステッチの薔薇が足の下でよじれた。     4  気に入りの場所に、わたしは、来た。  浅妻梗子《あさづまきようこ》が来ているかと思ったが、姿はなかった。午后の学習が終わり、反省時間までのごくわずかな空白。その自由時間にも、職員の誰かしらの監視の眼は注がれている。  ここがいわば監獄であることを思えば、当然のことなのかもしれない。  子供たちは、現在の社会の秩序、モラル、制度を無視するという、〈最大の罪悪〉を犯している。そう、社会が憎み制裁を加えるのは、秩序、法律の無視、それだけだ。  十四で性に惑溺する少女はとほうもない罪人のように見られるけれど、十四、十五が結婚の適齢期だった時代もある。  浅妻梗子のかわりに、吉川|珠子《たまこ》が防波壁の上に、道に背を向け腰かけていた。小さい躯は風に吹きさらわれそうに儚《はかな》くみえた。 「落ちないように」  わたしが声をかけると、 「落ちても、べつに、どうってことはないわ」  吉川珠子は、愛らしい笑顔で言った。 「死んでいるから」 「死んでいるの?」 「そう。殺されたの。園長先生に」  吉川珠子は言った。  運動会の日程と種目が検討され、決定した。  四十人が紅白二組にわかれ、勝敗を争うことになる。見物したり応援したりする余裕はない。全員が幾つかの競技にたてつづけに参加する以外に、やり方はなかった。  結局、対抗リレーと棒倒しの二種目が選ばれ、最後にフォーク・ダンスを踊って終わるという、ごく簡単なスケジュールが決まった。  棒倒しは女子にはむかない競技だけれど、エネルギーの発散にはもってこいだと、山部国雄が主張し、いつも一言文句をつける青山総三が珍しく、それはいいと賛成した。  フォーク・ダンスを提案したのは、その青山総三であった。 「近ごろの子はフォーク・ダンスなんてやらないでしょう。ディスコですよ」  小垣ふじ子や石井純子は言ったが、男性職員が全員、フォーク・ダンスに熱を入れた。  彼らは、年齢に多少の差はあるが、ほぼ、男女共学がまだぎごちなさを残しているころに中学、高校生活を過し、運動会の最後をしめくくるフォーク・ダンスに懐《なつか》しさをおぼえる世代であったというのが、原因らしい。 「前もって練習させなくてもいいんですよ。人に見せるためじゃないんだから。その場で、指図に合わせて踊ればいいんだ。ボン・ファイアをやりましょう」  山部国雄が言いかけると、 「焚火《たきび》はいけません」  藍子が甲高《かんだか》くさえぎった。 「対抗リレーと棒倒し、フォーク・ダンスだけでは、二時間もかからず終わってしまうでしょう」  小垣ふじ子が言った。 「もっとたっぷり、子供たちをたのしませてやることはないかしら」 「たのしませる必要はないでしょ」  福原芳枝が割りこんだ。 「ここは、懲戒と矯正の場所なのよ。たのしく遊ぶ楽園じゃないわ。ここの生活がおもしろくて、いつまでもいたいと思うようになるのでは困ってしまうわ。修道会の費用で、非行の子供たちに娯楽を提供するなんて。汗を流させればいいんです、要するに。どうしようもない……はっきり言って、屑《くず》ですよ、あの子たちは。皆さんだって、心の中ではそう思っているでしょ。口に出しては言わない、言えば非難されるのはわかっているから。でも、屑ですよ。ふつうの子供なら、あんなことはしません。矯正と言ったけれど、本当は矯正のしようもない毒麦ですよ。だから、隔離しているのよ。そうでしょ。この点は、わたしたち、はっきり認識しておく必要があるわ。社会に戻したら、何をしでかすかわからない。子供によって、程度の差はあるわ。だから、これなら大丈夫と見きわめのついた子は、社会復帰の可能性も」 「おやめなさい」  藍子が厳然と命じた。 「子供たちを、健全な、社会に順応できる人間に育成して、親もとにお返しするのが、わたくしたちのつとめです。福原お母さん、あなたには認識をあらためてもらわなくてはなりません。それで、小垣さんの提案ですが、たしかに、対抗リレー、棒倒し、フォーク・ダンスだけでは、あっけなさすぎますね。何かよい案は?」  誰も発言しないと、 「仮装パーティーはどうかしら。ボン・ファイアのかわりに」  藍子は自《みずか》ら提案した。 「子供たちには、気晴らしが必要です。それがみたされないから、あんな変な遊びが生まれてしまいます。こちらから、先手をとって、おもしろい遊びの中に導き入れてやりましょう。実は、これは、子供たちの心の中をさぐり見るのにも役に立つのです。それぞれが、何に扮するのを選ぶかによって、秘し匿《かく》している内心が視覚化されます。今後の、各自に即した指導の手がかりになります。あの子たちは、今、あまりに一律に、平穏な仮面をかぶっています。それでいて、蔭では、あんな不気味なことをやっているのですから、わたしたちは、穏《おだ》やかな微笑の仮面をとりはずして、その下の素顔を直視する必要があります。素顔は、好きな仮面をつけさせることによって、明らかになります」  藍子の提案は、可決された。  木島けいは反対はしなかったが、仮装などというのは、浮わついた、あまり好ましくないことだと思っている様子がみてとれた。  夜、部屋でわたしと二人だけの時を過しているとき、藍子は、 「競技というのは、つまり、敵愾心《てきがいしん》を煽《あお》りたてることじゃありません?」  と言い出した。 「一方で、協調の大切さを教えながら、他方で、敵を叩き潰《つぶ》す闘争心を養わせる。矛盾《むじゆん》していると、わたくしは思いますわ。勝つためには、チームは協調しなくてはなりません。でも、その協調は、敵を倒すため、野獣の本能を満足させるため。運動会というのは、戦いのシミュレーションですわ」  あなたは、反対することもできたのですよ、会議の席で。などとわかりきったことを口にする気にもならず、わたしは黙っている。  子供たちは、従順に、運動会のプランを受け入れた。ただ一つ、子供の側からの提案があった。浅妻梗子が皆を代表して、その意志を藍子たち指導者に伝えた。  四十人を二組にわければ、二十人ずつで、数の上では公平なようだが、実際は、大人が九人、子供が三十一人と、それぞれ奇数である。これを、不公平にならぬようにわけるのはどうするのか、という疑問を、浅妻梗子は、まず、つきつけた。  職員たちは、子供たちが積極的になったことを喜び、まじめにその問題をとりあげた。  大人九人は、更に分類すれば、男性五人、女性四人である。男性を一人、不参加にすれば、男二人、女二人と、公平になる。青山総三が、走るのはあまり得手ではないからと辞退を申し出た。  子供の方は、最年少の吉川珠子を競技からはずす。珠子には気の毒かもしれないが、そのかわり、スタート合図のピストルを鳴らす役を与えれば、子供のことだから嬉しがるだろう。  そういうことでどうか、と、職員の方から提案した。  はい、と浅妻梗子は承知し、走者の順序はどのようにするのかと訊いた。  年の順にしましょうか。藍子が言うと、浅妻梗子は、お父さんお母さんたちが、先ず、走ってください。それから、子供たちが、小さい順に走ります。わたしと蓮見マリがアンカーをつとめます、と言った。その提案は、即座に可決された。  浅妻梗子と蓮見マリが、全力疾走で争うさまは、どれほど美しく魅惑的なことか。加藤守也がそういう意味のことを呟き、他の者が何人か、共感をこめてうなずくのを、わたしは見た。  運動会の前日は、あいにく雨だった。子供たちは自発的にテルテル坊主を作った。仮装パーティーの準備もひそかになされているようだった。  当日、雨はあがったが、土がぬかるんでいた。 「延期した方がいいかしらね」  藍子は迷ったが、子供たちが、やりましょう、とせがんだ。 「よかったわ」と、藍子はわたしにほほえみかけた。 「やっと、子供たちが意欲的になってきました。ほっとしましたわ。無気力《アパシー》はいけません」 「延期すると、気が抜けてしまいますものね」  傍にいた石井純子が話に加わった。 「ささやかな、まるで僻村《へきそん》の学校の運動会のような催し」藍子は、呟いている。誰にきかせるつもりもない、我れ知らず唇からこぼれた一人言だった。「いえ、どんな淋しい村の運動会でも、村の人たちが総出で応援に集まり、祭りのような賑《にぎ》わいをみせるものだわ。見物人は、ここには一人もいない」  正面の号令台に藍子は立って、月並みな開会の辞をのべた。子供たちの間から浅妻梗子が進み出、凜《りん》とした声で宣誓した。正々堂々とたたかいます、というあれである。  入場行進をしただけで、子供たちの脚は、泥沼から這い上がったように汚れた。  すぐに対抗リレーが続いた。見物人は、零《ゼロ》ではなかった。わたし、藍子、そうして競技に参加しない青山総三である。吉川珠子は、ものものしい顔でスタートラインの脇に立ち、ピストルの銃口を上に向けた。  紅組は山部国雄、白組は加藤守也が、それぞれ第一走者として位置についた。 「On your mark! Get, set」  吉川珠子の高い愛らしい声。そうして、合図の轟音。  二人の走者は、地を蹴って競《せ》りあった。  串田剛一と半崎勇が、位置について待機する。  わたしは、気づいた。  声をからして声援しているのは、二組にわかれた女子職員ばかりで、子供たちは、いたって冷静に、走者を眺めているのである。ときどき、「がんばれ!」と声をあげるのだが、それは、走者を揶揄《やゆ》しているようにしかきこえない。  藍子も、感じとったようで、青山総三とわたしの表情をうかがい見た。しかし、藍子は、すぐに自分をごまかすことに決め、はしゃいだ声で、「どちらもしっかり!」などと叫んでいる。  風が少しずつ強まってきた。汐のにおいがなまぐさい。  山部国雄がわずかに早く串田剛一にバトンをわたし、一拍おくれて加藤守也は半崎勇にバトン・タッチした。  半崎勇は、背を丸め肘《ひじ》を曲げた腕を小きざみに振る不恰好な走り方だが、スピードは速く、串田剛一との差を縮め、次の走者小垣ふじ子に渡したときは、一足追い抜いていた。  串田剛一からバトンを受けとった石井純子は、きれいなフォームでスピードをあげ、小垣ふじ子を抜いた。 「強靭《きようじん》だな、あいつら」  青山総三の呟きは、藍子やわたしの耳を、はっきり意識していた。 「強靭ですって?」  藍子が、たちまち聞き咎《とが》めて、問い返した。 「あいつら、って、誰のことです」 「子供たち。決まってるじゃありませんか。デッド・ヒートを、完全に無視ですよ。�がんばれ�なんて、言うだけ空ぞらしい。ふつう、熱狂してくるものですよ。三十人もいるわけでしょう。中に、一人や二人レースに冷淡なのがいても、大半は、いつのまにか夢中になって応援しているものじゃありませんか。強烈な意志が、子供たちを統一している。あれです」  と、青山総三は、目顔で浅妻梗子を示した。白組のアンカーの浅妻梗子は、風を受けて爽《さわ》やかに佇《た》っていた。  石井純子は小垣ふじ子を三メートル以上ひき離して、福原芳枝にひきついだ。しかし、福原芳枝はバトンを受け損なって落とした。わたし肥っているから走るのは遅いのよ、困ったわ、いやだわ、と、福原芳枝は走る前から言っていた。  福原芳枝がまごついているあいだに、木島けいは小垣ふじ子からバトンを受けとり、ダッシュした。  木島けいと福原芳枝との差はぐんぐんひろがった。木島けいが子供の走者にバトンをわたしたとき、福原芳枝は半周近くおくれて走っていた。  子供たち同士の競走になった。 「一生けんめい走っているじゃありませんか」  藍子は、安堵したように言った。 「ほら、ごらんなさいよ、夢中で走っているわ。あれでなくちゃ」  福原芳枝のミスがたたり、紅組は半周近い差をなかなかとり返せない。  白組は、アンカー浅妻梗子の手にバトンが渡った。  浅妻梗子は、その位置に立ったままだ。  やがて、紅組のアンカー蓮見マリが、ようやくバトンを受けとった。  二人は、笑顔をかわした。  バトンを、高々と投げ捨てた。  吉川珠子が二人の傍に立ち、ピストルを上にかまえ、引金をひいた。  二人は走り出した。  子供たちの声援に、たのしげな熱が、はじめて、こもった。 「団体競技を、あいつら、個人競技にすりかえてしまった」  青山総三が言い、 「予定の行動だわ。前々から計画をたてていたのだわ。陰険なやり方!」  藍子は歯をきしませるようにして呟いた。  浅妻梗子と蓮見マリは、抜きつ抜かれつしていた。わたしには、浅妻梗子が力を加減しているようにみえた。  青山総三が、それを、声に出して指摘した。 「浅妻は、時々、わざと蓮見に抜かせている」  やがて、二人は、更に藍子たちを裏切った。  二人肩を並べ、リズミカルに足どりを合わせ、ゆっくりと走り出したのである。子供たちの声援は、二人の歩調に合わせた手拍子にかわった。そうして、揃って走り戻ってきた二人を、拍手で迎え入れた。 「やってくれるじゃないか」  青山総三が言った。 「棒倒しは、どういう手で反逆してくるのか、興味があるというものだ」  その呟きをはぐらかすように、子供たちは、棒倒しには熱狂した。  棒の根元を護《まも》るものと、攻撃するもの。チームは、それぞれ二つの役割にわかれる。男性職員が防禦のメンバーに加わり、女性職員は攻撃軍に加わっている。  青山総三は、公平を期するために、やはり競技には参加せず、藍子やわたしといっしょに見ていたのだが、 「ああ」と、大きな吐息をついた。  子供たちは、決して、子供たち同士では闘っていなかった。職員に集中攻撃をかけていたのである。 「まあ、子供たちの気晴らしにはなっているでしょうな」  青山総三は、前を向いたまま藍子に聞こえるように言った。  これもあらかじめ計画してあったように、浅妻梗子と蓮見マリがそれぞれ敵の棒によじのぼった。  そうして、敵も味方もなく、子供たちは二人がよじのぼるのを助け、妨害しようとする職員をよってたかって妨《さまた》げた。  棒にのぼった浅妻梗子と蓮見マリは、笑顔をかわし、同時に、てっぺんにとりつけられた旗を抜きとった。棒をささえていた子供たちは、いっせいに倒す方に力を貸した。男性職員の力ではささえきれず、棒はかしぎ、浅妻梗子と蓮見マリは、旗をかざしながら、とび下りた。子供たちの拍手が起きた。 「いいや、満足していない子もいるはずだ」  そう、青山総三は言った。 「今のところ、職員を敵とすることで、子供たちは団結している。しかし、全員が浅妻と蓮見に心服しているわけじゃない。打つ手はありますよ。まず、二人に反感を持っているものをみつけ出す。それから、あの二人を徹底的に反目させあうことだな。仲間割れを起こさせ、団結にひびを入らせ、それから、こっちにとりこむ」  青山総三は、藍子に向き直った。 「やらなくてはいけませんよ、園長。このままでは、何のための矯正施設かということになる。分断は子供たちのための手術です」  昼食、休憩となる。職員はテントの下に集まった。子供たちといっしょに食べてもかまわないのだが、何となくはじき出されたように、彼らは一箇所に寄り集まったのだ。子供たちは、幾つかのグループを作り、弁当をひろげはじめている。 「ひどい目にあったわ」  福原芳枝が肘《ひじ》の擦《す》り傷にマーキュロを塗りながらぼやいた。 「頭を踏んづけて上っていくんですもの。ああ、痛かった」 「総攻撃をかけられたんだものな」  青山総三が言うと、福原芳枝は、 「こっちだって、総攻撃したわよ」  と、見当はずれな答を返した。 「わかっていないんだな。職員が、連中に総攻撃された、っていうこと」 「やはり、そうだったのか」  加藤守也がうなずいた。 「どうも、おかしいと思った。こっちは棒をささえるのがせい一杯で、まわりの状況はよくわからなかったんだが、どうも、様子がおかしかった」  他の職員たちも、「そう言えば」と、思いあたるふうにうなずきかわした。 「うっぷん晴らしをされてしまったわけか」  加藤守也の声に苦笑が混る。 「笑ってすませられることじゃないわ」  福原芳枝が声をあげ、はっとしたふうで、子供たちの方をふりかえる。少女たちは和《なご》やかに弁当を食べている様子であった。 「いいんじゃないですか」  と、石井純子が、 「一度発散してしまえば、あとは、素直になるんじゃないかしら」 「舐《な》められていますよ。絶対、よくないわ。何とかしなくちゃ」 「何とか、って、具体的にどうします?」  青山総三が、皮肉っぽく訊《たず》ねた。 「どうしたらいいか、それは皆で考えることでしょ」  福原芳枝は言い返す。 「棒倒しのときは、乱戦の中にいたからわからなかったけれど、リレーのときの状態を思いかえしてみると、浅妻梗子が、全員を掌握しているようですね」  木島けいが、そう言葉をはさんだ。 「ぼくも、そう思う」青山総三が、木島けいには、皮肉な声音を消し、まじめにうなずいた。 「さっきも、園長に提案したんだ。あの団結を、まず、壊《こわ》さねばならん。一人一人は、弱小ですよ。一枚岩のようになると、子供といっても侮《あなど》れない力を持つ」 「どうやって壊すの」  さっきのしっぺ返しのように、福原芳枝が逆襲した。 「浅妻梗子への信頼を失なわせる」  青山総三は答えた。  何人かの職員の表情に、わたしは、反対の色を見た。しかし、彼らは言い返しはせず、青山総三の次の言葉を待つ。青山総三は、それ以上は何も言わなかった。  午后のフォーク・ダンスはきわめてスムーズに進んだ。山部国雄がハンド・マイクで指図するとおりに、前進し、後退し、ターンし、スキップし、スピーカーから流れるテープの音楽にあわせて、整然と子供たちは踊った。 「棒倒しで発散したからよかったのでしょうね」  藍子はわたしに囁《ささや》いたが、声音にいくぶん不安がひそんでいた。  閉会後、子供たちは共同浴場で汗を流し、ついでに泥まみれになった運動着の下洗いをする。洗濯機は各ホームに備えてあるのだが、いきなりぶちこむわけにはいかない汚れようであった。その後、ホームで一休みする。  そのあいだに、藍子と小垣ふじ子は、集会室にパーティーの設営をした。昨日から、子供たちに手伝わせ、ほとんどの下準備はととのえていた。紙皿だの紙コップだのは舟便で運ばれてきていた。五目ずしの具も煮上がっており、各ホームで炊《た》いたご飯が炊飯器ごと会場に持ちこまれてある。  藍子とふじ子は、飯を飯台がわりの板にひろげて酢をふり、煽《あお》ぎさまし、具を混ぜ、大皿に盛りわける。サンドイッチを手早く作る。  机を並べ、藍子の手作りの、クロス・ステッチをほどこしたクロスがかけられた。  五目ずし、サンドイッチ、サラダ、フルーツポンチ、という和洋折衷《せつちゆう》のメニューである。  満足げに、藍子はテーブルを見渡した。  小垣ふじ子は、左手に包帯を巻いている。棒倒しのとき、転んだ手の上を子供の誰かに踏みにじられ、「骨折はしていないと思うんですけれど」、明日になっても痛みがひかなかったら、医者に行きたいと言っている。  医者にみせるためには、舟で本土に戻らなくてはならない。男手が一人とられることになる。モーターボートの操縦ができるのは、山部国雄、青山総三、串田剛一、半崎勇の四人だけであった。  五時には女子職員が設営の手伝いにくることになっているのだが、十分過ぎても一人もあらわれない。 「くたびれて、子供たちといっしょに昼寝しているのかしら。呼んできましょうか」  小垣ふじ子が申し出た。藍子は壁の掛時計に目を上げ、 「半まで待ちましょう」と、鷹揚《おうよう》に言った。  パーティーの開始は六時の予定である。五時半になっても、木島けい、福原芳枝、石井純子の一人として姿をみせないので、藍子もしびれをきらし、 「小垣さん、ご苦労ですが、お母さんたちを呼んできてください」と命じた。  小垣ふじ子が出ていった後、藍子は手近なスツールに腰を下ろした。 「小さな反抗はありましたけれど、マ・スール、運動会は成功とみなしてよろしいのよね。フォーク・ダンスは、きちんとやったのですもの。棒倒しって、もともと、本質的に、兇暴性を誘い出す競技ですわ。でも、あれで、思いっきり発散しちゃったから、結果的にはよかったのよ。皆、おなかをすかせているでしょうね。五目ずしって、何かとても、�家庭的�って感じがしません? わたくしもおなかがすいちゃったわ」  くすっと藍子は笑った。  外が賑《にぎ》やかになった。笑い声をたてて、子供たちが入ってきた。テーブルのまわりに腰を下ろす。  藍子は見まわす。職員が一人もいない。  浅妻梗子と蓮見マリが最後に入ってきた。  二人は藍子に近づき、両側から挟《はさ》むように立ち、藍子は絶叫した。浅妻梗子と蓮見マリは、両側から洋庖丁を藍子の脇腹につきつけていた。  ほかの子供たちが、藍子をロープで縛り上げた。背もたれのある椅子に腰かけさせ、椅子ごと縛って身動きを不可能にしたのである。  藍子の顔は驚愕と恐怖で、おそろしく醜くひきつり、一声叫んだ後は、声も出ないふうだ。  子供たちはテーブルのまわりに腰を下ろし、浅妻梗子と蓮見マリをみつめ、二人がうなずくと、「いただきます」と、まことに躾《しつけ》のよいあいさつをし、五目ずしを紙皿にとりわけ、サンドイッチをとり、和《なご》やかに食べはじめた。 「マ・スール、マ・スール!」  藍子はようやく声を発した。  子供たちが、「いただきます」と日常的な月並な礼儀を守ったのがおかしくて、わたしは少し笑っていた。 「マ・スール、解《と》いてください。あなたは、どういうつもりなの。黙って見ているんですか。解いてください。痛いわ。梗子、マリ、ロープを解きなさい。何てことをするの」  子供たちに尋ねなくとも、わたしには視《み》える。第3ホームでは、浅妻梗子が、木島けいに庖丁をつきつけ、木島けいを人質にして山部国雄の行動の自由を奪い、二人を縛り上げたのだ。各ホームで同様のことが行なわれた。  小垣ふじ子、串田剛一、半崎勇、みな、縛り上げられている。 「そっちのサンドイッチ、とって」 「スープ、お代わりいるの、だれ?」 「マ・スール。あなた、黙って見ているの? なぜ? なぜ? あなたは……あなたは……嘘! いいえ、いいえ、そんな……」  身もだえながら、藍子はわたしをみつめ、その眼が、眼窩《がんか》から突き出そうに大きく見開かれる。  藍子は失神した。その寸前、  お姉さま……、  呻《うめ》き声が、こぼれた。   3 藍《あい》 子《こ》     1  深い沈黙《しじま》の底の安らぎから、引きちぎられるように、目覚めた。  悪夢の中に陥ち込むような感覚を伴なった覚醒であった。  マ・スールはベッドの傍の椅子に腰を据え、私に感情を見せぬ眼を放っている。  束《つか》の間《ま》の倖せな失神から、耐え難いほど不愉快な島の日常に、私は連れ戻されたのだ。  私の部屋であった。失神したのは集会室だから、誰かが私をここに運んだのだ。職員は子供たちに縛られ監禁された。運んできたのは、マ・スールだろうか。子供たちが手を貸したのか。  水から揚った鮪《まぐろ》のような躯を何人もの子供たちに神輿《みこし》のように担《かつ》ぎ上げられた姿が眼裏に浮かび、屈辱と憤《いきどお》りに身の内が熱くなった。  憤怒が私に力を与え、私は、マ・スールを睨《にら》みつけた。  姉……ではない。  似てはいるけれど、決して、姉ではない。  かすかな目眩《めまい》をこらえて私は起き直った。  私を窮状から救い出すために修道会から派遣されてきたはずなのに、この女は、一言の助言すら与えてはくれず、いくぶん面白そうに私を見ている。  姉は、いつも、私が困るのを面白がっていた。たとえば、短大の入試の日、私は試験場に行く電車賃がなかった。月々、わずかな小遣いを姉の手から渡されていたけれど、それは必要最低のものを賄《まかな》うにも足りないほどで、受験当日、財布の中みが、ほとんど空《から》になっていた。姉に頼むと、私の金づかいの荒さ、計画性の無さを、姉は責めた。試験に遅刻しそうで、私は半泣きになった。継母も、手もとに自由に使える金は持っていない。金銭の出納《すいとう》はすべて姉が管理している。父には言えなかった。お姉さまが電車賃をくれないなどと父に告げたら、父は、私の告げ口根性が卑《いや》しいと叱るだろう。私はますます父から疎《うとん》じられるだろう。  姉に言わせれば、私はたいそう厄介《やつかい》な、世話のやける気むずかしい子供であったそうだ。  私は周囲の者をてこずらせた記憶はない。逆に、自制してきた、耐えてきた、という思いばかりが鮮烈なのだ。  父は、母が中学生のころ家庭教師に来ていたのだそうだ。子供のころから、母は、少し淋しげでしかも華やかな美少女だった。家庭教師をやめてからも交流はあり、父の目の前で母は匂やかに成長した。母の両親や親族の反対を押し切って、父は母を妻に迎えた。母の実家は富裕な商家で、固い、そうして経済的には恵まれない学者の卵とでは育った環境が違いすぎるというのが、実家が反対する理由であった。  母は早世《そうせい》した。亡母の実家の人々は、亡母に生きうつしの姉を、いつくしんだ。しばしば、姉は亡母の実家に泊りがけで招《よ》ばれ、家に帰ってくるときは、新しい服を着け、よい匂いを漂わせていた。クリスマスには、子供の身の丈ぐらいありそうな西洋人形だの、本物のお茶が飲めそうなままごとセットなどが姉に贈られた。愛娘を奪いとり貧窮の中に死なせた——と実家では思っている——父に顔立ちが似た私が、亡母の実家の人々の気に入られないのは当然だった。 「マ・スール、お父さんやお母さんたちは、縛られたままなのですか。子供たちは、どうしていますの。まだ集会室で騒いでいるのですか」  突然、今おかれている立場を思い出し、私は叫んだ。自室で、ぼんやりと過去の破片をつづり合わせている場合ではないのだった。  自分で見て来なさい、というように修道女は顎《あご》をしゃくった。その仕草も、何と姉に似ていることだろう。姉は、油紙に火という形容がぴったりな早口でまくしたてるときと、口をきくのも馬鹿らしいというふうに仕草で命令したり蔑《さげす》んだ表情を言葉の代りにしたりするときがあった。  私が姉を話題に持ち出すと、修道女は、うんざりした顔をみせ、時には、おやめなさい、とぴしゃりと言うようになったので、ことさら口に出すのは控えているけれど、姉のことを心から追い払うのは不可能だ。 「見に行くのは、怕《こわ》いのです」  正直に私は言った。  子供といっても、数は三十一人もおり、しかも年長の者は体力も強い。浅妻梗子《あさづまきようこ》は、子供たちを自在に操《あやつ》っている。人質に刃物を突きつけ、男子職員の攻撃を封じ縛り上げるという悪辣《あくらつ》な手段さえとっている。私も縛り上げられた。  子供とは呼べない。  悪魔だわ。私は思わず口走り、こぼれた罵言をいそいで拾いかくそうとした。  悪魔。あの子供たちが悪の権化《ごんげ》であるなら、私は、何なのだろう。 「ああ、マ・スール、子供たちのこんな行為を、もし他人からきかされたら、信じる人はいないでしょうね」 「今、子供たちは全員、集会室に集まっているのですよ」  ほとんど冷淡にきこえる声で、修道女は指摘した。  私は、笑いだした。 「ほんと。やっぱり子供ですわね。することが抜けているわ。——でも……罠《わな》ではないかしら」  そう言ったとたんに、鳥肌が立った。  各ホームには、それぞれ職員が縛られたまま放置されている。なぜ、マ・スールを縛らなかったのだろう。  救出したければ、かってにどうぞ、と言っているふうだ。  職員の拘束を解いたら、今度は子供たちが手ひどい罰を受ける番だ。  手ひどい罰……。彼らがすでに、罰としてこの島に監禁されている事実に、私は思い当った。  単なる刑罰ではない。更生のための収容施設である。彼らの牙《きば》を抜き、社会に順応できる子供に変質させることが、私たち職員の責務なのである。体罰は、彼らの反抗心、敵愾心《てきがいしん》を激化させ、結束を固めさせるばかりだ。  子供たちを愛し、子供たちから愛される。それが、理想だ。愛し、そうして愛される。私は、子供たちを愛そうとし、愛されたいと願った。不幸な私であるからこそ、できると思ったのだった。  愛されない苦痛を知りぬいている私だから、愛されぬために傷ついた子供たちを愛することができる。子供たちの傷を理解できる。子供たちも、私には心をひらいてくれる。そう思い、私はこの仕事を引き受けた……。  子供たち一人一人は弱小だが、一枚岩のように結束すると侮《あなど》れない力を持つ。団結を、まず、破壊せねばならない。そう青山総三は主張し、その具体的な方策まで口にした。子供たちを掌握している浅妻梗子への信頼を失なわせる。そのためには、蓮見マリと浅妻梗子を敵対関係にしろ。  浅妻梗子を犠牲にすることで、他の子供たちを救え。  青山総三の言葉が意味するのは、それだった。  よりよいやり方は、浅妻梗子を手なずける事だと、私は思う。手なずけるというのは不穏当な表現だ。浅妻梗子を職員の側に立たせ、私たちの意図どおりに子供たちを動かさせる。  だが、それは、不可能だ。浅妻梗子は、私たちに心服することは、決して、ない。彼女は、あらゆる点で、私たちよりすぐれている。そう、私は内心認める。美貌。才気。自分よりすぐれたものを周囲に見出だせなかった、それが、浅妻梗子の不幸なのかもしれない。  そうして、万一、彼女が職員の側につくことがあったら、子供たちの大半は彼女を見捨てるだろう、ということも、私には予測がつく。徹底して、私たちより上位に立っているがゆえに、そうして私たちを侮り、蔑《さげす》み、敵対しているがゆえに、子供たちは彼女を統率者と仰いでいるのだ。そう自覚するしないに拘《かかわ》らず。  一人を犠牲にすることで、三十人が救われる。  いいえ、そのうち三人は、すでに死者……。  しばらく意識から離れていたことが、くっきりと思い出された。  私は混乱し、両手に顔を埋めた。  浅妻梗子への子供たちの信頼を失なわせる。  その言葉だけが、頭の中で鳴っていた。 「マ・スール」  私は顔をあげて呼びかけた。 「許されることでしょうか。いいえ、あなたが禁止なさっても、私は、青山お父さんの提案を、採りますわ。職員会議にかけた上でのことですけれど。汚ないやり方だと非難なさいますか。それでしたら、もっとよい方法を教えてください、具体的に。子供たちを愛せよとおっしゃるのでしょう。愛していますわ、わたくし。ですから、こんな島に、他のすべてをなげうって、来ました。子供たちと共に暮らそうと。  かわいそうな子供たち。たしかに、世間の目からみたら、手のつけようのない非行。不良。福原お母さんなんか、あからさまに屑《くず》と。私は、そんなことは言いません。子供たち、一人一人、事情があるのです。そうしてまた、生まれついての性格も。マ・スール、性格というものは、人間が負わされた十字架ですわ。そうじゃありませんこと。生まれたときは、どの赤ん坊も同様にまっ白な紙のように清らかで無垢だ、なんてことはありません。白紙が環境や何かで後天的に染めわけられてゆくんじゃないんです。生まれつき、人に愛される性格の子と、愛されない子。ひがみ屋。楽天家。独自の色を持っている——神さまに持たされている……。神さまが、一番不公平なのよ。性格は、その子の責任じゃありませんわ。そういうふうに生まれてしまったんですもの」 「おやめなさい」  修道女が言ったが、私はひるまず続けた。 「だから、ここにいる子供たちは、かわいそうだと、私は言っているんです。あの子たちのせいじゃない。そういうふうに生まれついた。愛していますわ、子供たちを。でも、このままでは、だめなのよ。子供たちに、私たちを頼らせなくては。愛させなくてはとは言いませんわ。愛は強要できるものではありませんもの。でも、せめて、頼らせなくては。子供たち、一人一人は弱い存在なのだと自覚させ、教え導くものが傍にいることに気づかせなくては。そうしなくては、この施設は機能しません。マ・スール、わたくしは、浅妻梗子を犠牲にします。あの子を、子供たちの偶像の地位から転落させます。浅妻梗子は、立ち直れない打撃を受けるでしょう」  ——自殺するかも……という考えが、心に浮かんだ。浅妻梗子はプライドを打ち砕かれる結果になるのだから。  浅妻梗子の自殺。心の底に、私は、快哉《かいさい》の声を聴いた。  決して、他人には言えない言葉。しかし、私は、私自身を欺《あざむ》くことはできない。  浅妻梗子の破滅は、私には、この上なく快い。私に欠けているすべてを持っているあの少女を、私は、妬《ねた》み、憎んでいる。何とも浅薄な卑《いや》しい、たわけた言い草だけれど、ごまかしようのない事実だ。  優《すぐ》れているというだけならまだしも、浅妻梗子は、自分でも優れていることを知っており、私には目もくれない。  もし、彼女が、自分の優位に気づかず、私に心を開いたら、ああ、どんなにか、私はあの子を愛するだろう。  修道女は黙って私をみつめていたが、ほとんど感情の動きを見せない眼に、このとき、瞋《いか》りの色が仄《ほの》見えたように、私は感じた。  懐中電灯で足もとを照らしながら、私はホームへいそいだ。修道女は、十歩ぐらい後を歩いている。  子供たちはパーティーを続けているとみえ、集会室の窓は明るいが、ホームは三棟とも闇に沈んでいた。  第3ホームに入り、灯りをつけた。  山部国雄は台所の椅子に腰かけていた。山部国雄を椅子に固定したロープは調理台の脚に更にくくりつけられていた。 「まあまあ、山部お父さん、何という恰好《かつこう》でしょう」  私は、ころころとはずんだ笑い声をたて、縛《いま》しめを解きにかかった。  さるぐつわははめてないのだが、ぶざまな姿を恥じてか、山部国雄は無言である。しかし、私の声を聞きつけたのだろう、奥から、「園長先生!」と木島けいの声がきこえた。 「先生! ご無事だったんですか」 「今まで、園長はどこにおられたんですか」  手首に残る縄目のあとを撫でながら、ようやく、咎《とが》めるような声音《こわね》で、山部国雄はたずねた。  私は返答につまった。 「園長は襲撃されなかったんですか」 「縛られたけれど、マ・スールが助けてくださったのです」  私は早口に説明した。 「山部お父さん、子供たちのことですが、処分は慎重に考えましょうね。いま、皆さんの縄を解きますが、その後、すぐに子供たちに報復の体刑など与えないでください。会議を開き、方針を決めましょう。行動はその後です」  てきぱき指図して、私は山部国雄の質問を封じた。 「山部お父さんは、第2ホームへ救出に行ってください。私は木島お母さんの縄を解き、それから第1ホームに行きます。あなたはその後、小垣さんたちを救出してください。そうして、全員、第3ホームに集まってください。単独で子供たちに何かしないでください。いいですね。必ず、ここに集合してください」  山部国雄は、かがみこんで、自由になった両手を使い足首の縄を解いた。  私は木島けいが縛られている奥の部屋に向かった。修道女は、手は貸さず、眺めている。行動には一切《いつさい》関知しない、と決めているように。 「……子供たちが、なぜ、マ・スールが私の拘束を解くのにまかせたのか、わたくしにも理由はわかりません。わたくしは、気を失ない、気がついたら、自分の部屋にいました。そんなわけで、みなさんの救出が遅れたのです」  私に注がれる職員たちの眼に、私は不信の色を読みとる。修道女がその間何をしていたかということは、誰も問題にしない。彼女はただそこにいるだけで手は貸さないということを、皆、暗黙のうちに容認しているふうだ。  私は、はっと気づき、言葉をつけ加えた。 「皆さんは、わたくしが子供たちと何か気脈を通じているのではないかと、疑っていらっしゃる。わたくしがすぐに救出にかけつけなかったからです。  なぜ、わたくしをすぐに自由にしたのか、理由がわからないと言いましたが、今、わかりました。皆さんの疑いの眼を見て、わかったのです。それです。それこそ、子供たちの狙いだったのです。わたくしを疑わせる。わたくしに対する不信感を皆さんに持たせる。わたくしと皆さんを離反させる。  おそろしい悪知恵です。一筋縄ではいきません」 「だからといって、あのまま放っておくのですか」  青山総三が苛立《いらだ》たしげに膝をゆすった。 「いいえ。もちろん、対策を立てます」 「わたしは、いや!」  福原芳枝が、悲鳴のような声をあげた。 「もう、止《や》めさせてもらいます。本土に帰るわ。こんな怖ろしい……」 「そうはいかないよ」  串田剛一が、薄笑いを浮かべた。 「途中で任務を放棄して逃げ帰ることはできませんよ」 「子供たちをつけあがらせます」と、木島けいが言葉を添えた。 「自分たちの力を過信させます。後に残るものが、やりにくくなるわ」 「だって、殺されるかも……」  福原芳枝が言うと、串田剛一は、また、くすくす笑った。 「全《まつた》くだ。奴ら、おれたちを殺すこともできたんだよな。蟻の群れがライオンを喰い殺すみたいにな。ある種の蟻は、耳の鼓膜を噛み破って躯の内部にもぐり込み」 「止めて!」 「殺せるのに、殺さなかった」福原芳枝の悲鳴を無視して、串田剛一は続けた。 「殺さないどころか、園長は拘禁せず、我々を救出するのにまかせている。これは、つまり、奴らは遊んでいるんだ。殺さないまでも、我々全員の自由を奪えば、島を脱出することもできる。連絡用のポンポン船を、年長の奴なら操《あやつ》れるだろう。奴らは、逃亡の意志はない」 「遊び!」石井純子が、呆《あき》れたように、「これが遊び。とんでもない危険な遊びだわ。今度は、わたしたち油断しませんもの。園長先生、まじめな話、あの子たちの処分をどうします。二度とこんな事態を起こしてはなりません」 「厳重な処分」と、半崎勇が割り込んだ。 「ボイラー係の私が口を出すのは越権かもしれないが、先生たちのやりようは、なまぬるすぎるよ。思いっきり、がんとやらなくてはだめだ。指導者が舐《な》められちゃあおしまいだよ。全員縛り上げて海に漬け半殺しにするくらいのことを、一度はやらなくちゃ。怖がって逃げ出すなんて、もってのほかだ」 「徹底的な体罰。皆さんも、それに賛成ですか」私は職員を見まわした。 「わたしは、反対です」  木島けいが言った。 「ここは、監獄ではありません。愛の実践の場です」 「それは理想論よ」きいきいと、福原芳枝はさえぎった。「今まで、わたしたち、愛してきたじゃないの、子供たちを。やさしく、寛大に。役目を分担しましょう。強い、時には怖い父親。やさしい、忍耐強い母親」 「ぼくたちにぶんなぐらせ、その傷を母親が手当てしてやって、子供たちの歓心を獲得しようというわけか」青山総三が皮肉に笑った。 「憎まれ役は、必要なのよ」福原芳枝は言いはった。「まさか、わたしたち女性に暴力をふるわせ、慰め役を男が引き受けようなんて、思わないでしょ」  私は、青山総三が�子供たちの団結を壊《こわ》す�案をむしかえすのを待った。私から言い出すのは得策ではない。私は、決を与える立場である。私が一方的に命令するより、職員の間から方策が提案される方が望ましいのだ。  幸い、福原芳枝が、思い出して口にした。 「青山さん、ほら、子供たちの団結を壊すと言っていたじゃないの。あれは、どうなのかしら」  青山総三は、うかがうような視線を山部国雄にまた走らせ、その目を私に向けた。  私は無言で、誰かが口を切るのを待った。 「団結を壊す」と、話に加わったのは、山部国雄だった。「たしかに、青山くんはそんなことを言っていたな。具体的に、どうやって」 「山部さんの気にいらない方法だよ」挑《いど》むように、青山総三は言った。 「どういう方法です。具体案があるんですか」  口数の少い加藤守也が訊いた。 「山部さんが反対するのが目に見えているから、言いづらいな。しかし、ほかの皆さん、どうですか。ぼくの案にまさる案を山部さんが提出すれば別だが、代案のない場合、事を大局からみて検討してもらえるでしょうね」 「何だか、ひっかかる言い方だな」山部国雄は不快そうな表情をみせた。 「山部さんのお気に入りにかかわるやり方なのでね」 「ぼくのお気に入り?」 「リーダーを失なえば、団結はくずれる」 「リーダー」と、山部国雄は意味もなく繰り返した。誰を指すか即座に悟《さと》った顔色だ。 「浅妻梗子ですか」石井純子が念を押した。  潔癖に反論するかと私は思ったが、石井純子は、私の予想に反し、納得《なつとく》したようにうなずいた。木島けいも、非難の色は見せない。気づかわしげな表情を浮かべたのは、加藤守也であった。浅妻梗子は、同性には目障《めざわ》りな存在なのだ。 「石井さん、反対しないの?」青山総三は、皮肉な口調で、「あなた、信者だよね。一匹を救うために、九十九匹を放ったらかす、という有名なたとえ話があるな。ぼくは、その反対のことを提案したんだよ。三十人を救うために、一人を犠牲にする」  私が修道女に言ったのと同じことを、青山総三は口にした。 「具体的な方法は?」  そう、木島けいが言った。     2  私は、恐ろしい空無の中にいる。  虚無から生まれ虚無に還《かえ》る風が吹く。紗幕を透《すか》して視《み》るように、私の目に、燃えさかる炎が視える。炎はなつかしく私を呼ぶ。  私は死せるもののように風に漂い、やがて、炎は黒い灰と化し、修道女が私に背を向け、窓辺に佇《た》っていた。  又、目覚めてしまったのだ。地獄色の日常に。  マ・スール。  ほとんど声には出さず、私は呼びかけた。  暖かく抱きしめてくれる腕が、私は欲しかった。  修道女は、私の方に向き直った。 「お早うございます」  朝の爽《さわ》やかであるべき挨拶に、吐息が混る。  私は、あなたの寝顔を見たことがない。 「マ・スール」  呼びかけたものの、言葉は続かなかった。  泣き出すか、叫ぶか、のど元まで溜《たま》っている力を、私は押しこらえた。  島の日常は、再び、一見平穏なものに戻っている。  あの乱脈な一日は、私たち職員が見た悪夢であって、実在はしなかったとでもいうように、子供たちは、以前と同じ従順さで日課をこなしている。  あれは、何だったの。私が叫びたくなるのも、当然ではないか。  あの暴動を無視してみようと決めたのは、たしかに、私たち職員の側だった。子供たちの結束を砕くという計画をその陰にひそめてはいるのだが。  子供たちは、私たちのやり方に歩調を合わせた。苛立《いらだ》たしいほどの従順さ。あの暴動を咎《とが》められないのを、少しも不思議がらないような態度。 「何か、おかしいわ」  私は呟《つぶや》く。  日常の時間にぽっかりと穴があいていて、そこに楔《くさび》を打ちこんだような手応《てごた》えのなさだ。  大地はすかすかに鬆《す》が入っている。踏み出した足の下で霜柱のように砕け、空洞に墜《お》ち込む。目眩《めまい》が私を襲う。 「マ・スール、救《たす》けてください」 「救けています」  修道女は、私のかすかな呟きに、明晰《めいせき》に応《こた》えた。  私は跪《ひざまず》き、修道女の右手を両手でつかんだ。空《くう》をつかむのではないかという不安が一瞬心をよぎった。修道女の手は、木を彫《ほ》ったもののように固く、暖かみを欠《か》いていた。私はその手に唇を押しあて、祈るように額《ひたい》に押しいただいた。 「救けてください」  泣いてしまったら、楽になるだろう。しかし、涙は出なかった。  お姉さま。私は呟いた。  姉の強い力を、私はこの時、求めていた。  姉であったら、こんな場合、どのように対処するだろうか。もちろん、姉はヴォランティアに身を挺するような人ではない。自分の利益しか考えなかった。しかし、あの力が、いま私に備わっていたら……。  握りしめていた手の力を抜くと、修道女は、又、私に背を向けた。  私はベッドの脇に行き、そこに膝をついて、両手を組み頭を垂れた。祷《いの》りは、自然に、私に訪れた。私は無力なのです。救けてください。でも、御心のままに。最後の言葉も、自然に口をついた。私の瞼《まぶた》は湿りかけ、すぐに乾いた。     3  穏やかな日が、苛立《いらだ》たしく続いている。単調な日課。従順な子供たち。凄《すさ》まじい風と波しぶきさえ、単調なリズムの繰り返しに堕落している。  しかし、うわべの従順さに、もう瞞着《まんちやく》されはしない。おとなしい仮面の陰で、彼らが何を企《たくら》んでいることか。  素早い目くばせ。しのび笑い。背後に、私は幾度もそれを感じる。  そして、私たちも、企んでいる。 「正しい道を進んでいるのでしょうか」  私は、修道女に問いかけた。言葉で答えてはもらえないと承知しながら。 「でも……前にも、同じやり方で失敗した。そう思うのです。子供たちを分裂させようと、前にも試《こころ》みた。そうして、失敗した。そうではなかったでしょうか。あなたはご存じない……。ああ、やはり、浅妻梗子を犠牲にするのは……。しかし、他にどんな方法が」  ノックの音がした。かろやかなノックだが、鉄扉は慄《ふる》えて赤い錆《さび》をこぼした。 「お入りなさい」  訪問者は、蓮見《はすみ》マリである。私が�お茶�に招《よ》んだのだ。 「お掛けなさい」  私は、やわらかい声で椅子をすすめた。  浅妻梗子と蓮見マリを対立させる。そのために、私は、蓮見マリを手なずけ、浅妻梗子に対する敵愾心《てきがいしん》をかき立てなければならない。  ——何という愚劣な、醜悪な、卑劣な手段。  最初から承知の上で、止むを得ないと割りきったつもりであった。そうして、最も卑劣な役まわりは私がすすんで引き受けた。  しかし、あどけない美貌と豊潤な躯を椅子にくつろがせた蓮見マリの視線にからめとられたとたんに、私は言いようのない深い自己嫌悪に捉《とら》われた。  売春と美人局《つつもたせ》の常習犯、十四歳の娼婦は、私たちの卑《いや》しい策略を見抜き、嗤《わら》っていた。  薄く嗤いながら、ローズ・ティーのカップを口もとにはこぶ。  わたしが指導矯正を委《ゆだ》ねられた子供たちは、何か異様なものに変質している。  あまりにも、冷静すぎる。  泣きわめいたり、悪態をついたり、反抗したり、そういう感情の動きが、この子供たちには欠落している。  子供たちはさんざん、反抗し、暴力をふるい、それが何の役にも立たぬことを思い知らされ、自らの意志でか、あるいは必然的にか、感情を鋼鉄化してしまったのだろうか。  この間の暴動が、なつかしいくらいのものだ。しかし、あの暴動も、狂熱的なオルギーにつき動かされたものではなく、妙に整然と冷静で秩序正しかった。  浅妻梗子一人の統率力によるものではない、子供たち自身が、私たちの常識を越えた、何か変に冷やかなものに変ってしまっていたのだ。  従順ではあっても、萎縮してはいない。 「おいしい?」  まるで媚《こ》びているような自分の声に、私の嫌悪感は強まった。 「はい」  模範的な礼儀正しさ。今すぐ社会復帰させても、何の問題もないような。しかし、決して、悔い改めてなどはいないのだ。  私は、以前目にした、女子少年院を素材にした劇画を、この時思い出した。手のつけられない反抗的な少女を、教官が躯を張って更生させる物語であった。逃亡して、前にいた暴力団員のもとに少女は走る。教官はそこをたずねて行き、暴力団員に半殺しの目に会わされる。血まみれになりながら少女を返してくれと団員に訴える教官に、少女は心をうたれ改悛し、みごとに更生する、というような物語であった。  私の子供たちは、感情のほとんどをこわされつくしている。そう思ったとき、 「帰りなさい」  絶望的な声が、私の咽《のど》から迸《ほとばし》った。 「帰りなさい、帰りなさい、出て行きなさい」  私はテーブルに顔を伏せ、拳が板を打ち叩いた。 「出て行きなさい」  ひっそりした気配に、私は打ちひしがれた目をあげた。  絶叫が咽をついた。  私の目の前で椅子から立ち上がろうとしているのは、人の姿には見えぬ、何か焼け爛《ただ》れた棒杭に、目鼻が辛うじて流れかかりながら固まってついている、といったふうなものだった。  ちらりと見ただけで私は突っ伏してしまったのだが、それは瞼《まぶた》の裏に焼きつき、しかも、溶け流れかけた眼は、明らかに、笑っていた。私に向けた微笑ではない。私を越えて、私の背後にいるマ・スールに……。  目を閉じているのも、開けるのも怖ろしい。  目をつぶり突っ伏していれば、その異様なものが襲いかかってきそうだ。しかし、瞼を開けば、あれが見えてしまう。私は夢中で椅子を滑り下り、テーブルを楯に、ようやく相手に目を向けた。  蓮見マリが愛らしい微笑を浮かべ、会釈《えしやく》して部屋を出て行くところであった。  蝶番《ちようつがい》をきしませ、錆びた鉄扉は開き、閉まった。  テーブルの脚をつかみ、床に腰を落とし、私は胴震いが止まらなかった。 「マ・スール。これは、夢の中? わたしが見たのは、何?」  修道女は、ローズ・ティーの入ったカップを私に差し出した。唇のはしからこぼしながら、私は飲み干した。 「幻を……視てしまった。わたし、頭がおかしくなりかかっているのかしら」  香りの高い紅茶は、少しずつ、落着きをとり戻させた。  三人、死んだ子が混っている、ということを私は思い出した。  蓮見マリがその一人だというのだろうか。  そんな筈はないわ、と、私は自分に答えた。  緊張を強いられる重責を担《にな》った毎日は、私に、過ぎた時を忘れさせる。ホームが再建される以前のことを思い出そうとすると、記憶がひどく曖昧《あいまい》なのだ。穴だらけのぼろ布。虫に喰われた地図。  姉との葛藤《かつとう》、家族と暮していた子供のころの記憶は、描きたての漆絵のように隅々までこの上なく鮮やかなのに。  島で、子供たちが三人死んだ。そのことだけは、くっきり記憶に刻まれている。しかし、誰が、どのようにして、ということは欠落しているのだ。  私は、自分の記憶が曖昧なのを認めるのが怕《こわ》かった。他の職員にそれを知られるのもいやなので、その事実から強《し》いて目をそむけてきた。  三人の死者が、子供たちに混っている。  それを、他の職員たちが問題にしないのは、なぜだろう。私は今まで、そのことを彼らに確かめることもしないできた。  なぜ?  とたんに、私は、笑い出した。  つまり、死者なんて、いなかったのだわ。  死んだ子供なんて、いないのだ。  私の何か思い違いだ。欠落した記憶もあれば、後から作られた偽《にせ》の記憶も混っているということなのだ。  死んだ子供なんて、おりはしないのだ。誰一人、そんなことを言って騒ぐものはいないじゃないか。  それでは、今、私が視たあれは、何?  極度の疲労が作り出した幻覚。  冷静に、現実的な話を、私は口にしようとつとめた。  しかし、現実は、やりきれない状況なのだ。 「わたしがあの子を丸めこもうとしたことを、あの子は見抜いたわ。白い手、愛らしいくちびるに、私はもう少しでキスさえするところだった」  わたしに触れられるのをいやがって、蓮見マリは、あんな幻を私に視せたのだろうか。  およそ非現実的な考えが、頭を掠《かす》めた。私はその妄想を笑い捨てた。 「子供たちは、もう、決して私を信頼することはない」  それでも、私はやらなくてはならない。  私は、理性的な、分析的な言葉を喋りつづけた。 「一つ、気がついたことがあるの。マ・スール。わたしのあの子たちは、たぶん、まわりが望んでいるような人間になるためには、自分自身であることを止めなくてはならない、そういう子供たち……。生き生きと、本然の姿で生きようとすると、まわりの型からはみ出してしまう。叩かれ、削られ、それでも妥協して、向うの型に自分を嵌《は》めることはできないとなったら、壊《こわ》れる以外にはないわ。浅妻梗子は頭がよすぎた。蓮見マリは年齢より大人の女でありすぎる。ほかの子供たちも、それぞれ……」  私はベッドに腰を下ろした。 「社会にとって都合のいい型。それに嵌まっているのが正常な子供。ああ、いやだ」  修道女の眼が、私に向いた。 「マ・スール、姉の話をくどくど喋るのをあなたは制止なさった。だから、こらえてきましたけれど、今夜は喋らずにはいられないわ。躯の中に手に負えない猿がいて、のどを突き上げたり引掻いたりして、喋れ喋れとけしかけるのよ。姉と父が、継母を追いつめたのよ。まず、それを納得《なつとく》してくださらなくてはいけないわ」  修道女は、窓ぎわの椅子に腰かけ、静かにローズ・ティーをすする。  喋ろうとすると、呼吸《いき》がつまった。  話させまいと阻止する力が、私の中にある。 「だめだわ。喋れない」 「お姉さんを突き落としたこと?」 「違います! 突き落としたんじゃないわ!」  なぜ、姉が墜《お》ちたことを修道女は知っているのか。  最初から執拗につきまとっている疑惑が、またよみがえる。  マ・スールは、姉に似すぎている……。 「お願いがあります。マ・スール。しばらくの間、わたしを、一人にしてください」 「私が外に出た方がいいの?」  そう問いかけた修道女の声には、私がはじめて耳にするやさしさが籠《こも》っていた。——そう、私は感じたのだが、これも錯覚だろうか。  修道女は、影のように部屋の外に出て行った。扉のきしむ音を聴きながら、私は、ほうっと深い息をついた。  姉と修道女が同一人であることは、あり得ない。  姉は、死んだのだから。  でも、島に三人の死者が……いいえ、それは私の記憶の間違いだと、今、思ったばかりではないか。  私は迷信深いたちではない。むしろ、理に合わぬことは認めぬ方だ。理屈っぽいと、姉は私を非難した。父も、私が理屈を言うのを嫌った。言葉では咎《とが》めないが、かすかに眉をひそめ、私を無視した。継母は私が理屈をこね出すとすぐに、あたしは頭が悪いから藍子《あいこ》さんの言うことはわからない、と逃げるのだった。  原理的に。根本的に。というのが、あなたの口癖ね。いやな癖。かわいくないわ。  姉は私にしかめ面をみせて、そう言うのだった。 「かわいくないわ、あんたって」  継母が、私にそう言った。 「見たんでしょ」 「見ない」  私は、言いはった。 「見たなら、見たでいいのよ」  二階からいそいで下りてきた継母は、少し息を切らしていた。  私はそのとき、庭にいた。夏草が茂っていたのをおぼえている。短大に入った年の夏休みで、私は、朝顔の添え竹をたて直していた。土をいじるのが、私は好きだ。あまり質のよくない庭土を掘りかえし、肥料を鋤《す》きこんだり球根を植えたりするのは、うちじゅうで、私一人だった。  姉はすでに短大を卒業して、銀行に就職し、そのときは夏休みをとって、一週間の予定で海外に旅行に出ていた。  家は古い木造の二階建で、姉は二階に自分の部屋を持っており、夏の夕方など庭を見下ろす出窓に腰かけて涼むのが姉は好きだった。  その窓から、継母が躯をのり出しているのに、私は気づき、驚いた。父以外の者が——つまり、私や継母が、部屋に入るのを、姉は絶対に許さなかったからである。  継母は手に茶色い硝子《ガラス》のびんを持っていた。  蓋《ふた》を開け、中の液体を出窓の手摺《てすり》の隅に注いでいるのを、私は見た。鼻孔を刺すような臭いがかすかに漂った。  見上げている私と継母の目が合った。継母は私を凝視し、唇が白くなり、——藍ちゃん、あんた、いたの……、掠《かす》れた声で呟き、窓のかげに顔がかくれた。  そうして、ちょっと間をおいて、息を切らした姿を縁側にあらわしたのであった。  外出するって言ったじゃないの。継母は、子供が地団駄を踏むような口調で詰《なじ》り、見たんでしょ、と言った。見ない。私は言ったのだった。  姉が墜《お》ちたときも、私は庭にいた。海外旅行から帰った翌日の夕方であった。窓を開け、姉は出窓に腰を下ろし、洗い髪をドライヤーで乾かしはじめた。古い木製の出窓は、姉の体重を支えきれず、壊《こわ》れた。姉の躯がのけぞった。  骨折ぐらいですむ高さだったが、墜ちた場所に、鉄のレーキが櫛《くし》のような刃先を上にして放置されていた。  レーキをそこに置き忘れたのは、私であった。  姉の墜死は、出窓の手摺が腐蝕しているのに気づかないで凭掛《よりかか》ったための事故と認定された。誰も継母を咎《とが》めるものはいなかった。塩酸などによって人為的に腐蝕を早めることができると考える者もいなかったのである。  父に叱責されたのは、レーキを置き忘れた私であった。しかし、ありふれた不注意である。父も、姉の死を私のせいにすることはできなかった。その翌日、姉が観光地で投函した絵葉書が届いた。  葬儀の日、継母は弔問客の前でしきりに哭《な》き、その後はのびやかになった。  私も解放感をおぼえ、少しの痛恨もないことが、私を苦しめた。  レーキを、刃先を上にそこに置き放したとき、かすかな期待がなかったとは言えない。  夕食の膳に、継母は、うっかりしたように姉の食器を並べることがあった。そうしては、父の反応をたのしんでいるふうであった。  継母が子供を生むことを父が許さなかったという話を、私は中学に入った年に継母からきかされている。継母は一度中絶させられ、その後、不妊手術をほどこされた。孕《はら》んでは飼主が困る雌猫のように。中絶も不妊手術も、父の従兄である医師が行なった。中絶のとき、父の依頼で、麻酔はかけなかった。麻酔を使わない方が躯の恢復が早いという理由による。継母に寝こまれるのは、不便なのだ。  私の心の中に石のような硬い無感動な部分ができたのは、その話をきいて以来である。  姉の死から一月あまり経って、私は、継母が食器を洗いながら小声で歌をくちずさんでいるのを耳にした。生まれてはじめてきいた継母の歌声であった。  私は、旧教系の教会に通うようになり、入信した。しかし、何も変ったようには思えなかった。良心の痛みが訪れぬことに、私は絶望的な苦痛をおぼえるのみであった。  私が結婚に興味を持たず、教会の母体である修道会のヴォランティア活動に専心するのを、父は厭《いや》がった。姉の死で私の不注意をきびしく責めたために、私がそんなふうになったと、父は思ったのだ。  旧《ふる》い記憶の底から、死んだ姉がたちあらわれるなど、あり得ないことだ。  しかし、姉の意志が、あの修道女を動かしているということは、考えられないだろうか。 �憑《つ》く�という現象は、私は否定しない。  そうであれば、マ・スールは、私を救けるためではなく、姉の復讐の具として、ここに来たということなのか。復讐者と、私は、寝室を共にしているのだろうか。  そんな馬鹿げたことはない、と私は笑い捨てようとした。  修道女が姉に操《あやつ》られているのであれば、とっくに、私をもっと苦しめているはずだ。報復のために、姉があらわれたのであれば。  マ・スールは、冷やかに手を拱《こまぬ》いて傍観しているだけだ。それとも、行為にはあらわさなくても、悪の意志を島に及ぼしているのだろうか。子供たちのあの暴動。あれは、姉の悪意のあらわれか。  我儘《わがまま》で自分かってで、自惚《うぬぼ》れが強いだけであった若い娘を、死は、何かとほうもない本質的根元的な、悪の原理を持つものに変容させたとでもいうのか。  そう思ったとき、奇妙なことに、恐怖が薄れているのに私は気づいた。  恐怖は、相手の正体がわからない、意図もわからない、というところからくる。  死んだ姉は、今や、私にとって、恐怖の対象ではなかった。  生きている私の方が、死者となった姉より強い。  まるで天啓のように、そういう考えが浮かんだ。  強がりではなかった。むしろ、少しも恐がっていない自分を、私は訝《いぶか》しんだのだ。  幼いころから姉に押さえつけられ、姉には絶対服従であることを習慣づけられた私。  船で島を訪れた修道女をはじめて見たとき、姉が出現した、と思い、恐怖のあまり海に突き落とそうとした。  子供たちに縛られる私を冷然と見すえている修道女に姉の貌《かお》を認め、失神した。  それほど、怯《おび》えていたのに、今、このとき、なぜ恐怖におののかないのか。  私の方が、今や、姉より、強い。  この島を支配しているのは、私なのだ。  それも、当然湧いた想念であった。  人一倍臆病で、自信がなくて、何事にも消極的な私が、なぜ、�島を支配しているのは私だ�などと……。  それどころか、事態はきわめて悪い。最悪といってもいいほどだ。  蓮見マリに、彼女を手なずけようとする私の卑《いや》しい意図を見抜かれてしまった。浅妻梗子と対立させようという計画まで悟ったかどうかはわからないが。  子供たちは、私を信頼していない。冷やかに心を閉ざしている。  職員も、私に心服してはいない。  救いを求める必死な呼びかけに応じてあらわれてくれたマ・スールは、救助どころか、ひょっとしたら、姉の悪意の具現者かもしれない。  こんな閉塞的《へいそくてき》な状況にあって、�島の支配者は私だ�などという楽天的な考えがどうして生じたのか。 �支配�。それは、私からもっとも遠い言葉であった。  私は、父に支配され、姉に支配され、他人に支配されるのに狎《な》れていた。支配される側に先天的にいるのだと認めてしまえば、気分は楽だ。しかし、意識下に、抑圧されるのと同等の——いえ、それ以上に強い力で、支配したいという願望も起きていたのだろうか。  だからこそ、私は、問題児矯正施設の長を志願したのだったろうか。自分では、社会奉仕のへりくだった心からと、これまで、思っていた。  とにかく、今、私は、死んだ姉に優越感を持ち、親近感さえ抱きはじめている。  死んだ姉を、生きている私が支配してみせる。  そう昂《たか》ぶって思う一方で、なぜ? と、もう一人の私が訝《いぶか》しんでいる。弱虫でひっこみ思案の私が、姉に勝つだの島を支配するだの、まるで誇大妄想狂だわ。  私は、気が狂いかけているのだろうか。  狂うのなら、完全に狂ってしまいたい。狂ったおかげで、強く、そうして安らかになれるのであれば。  島を支配する。姉に勝つ。  一点の疑念もなくそう信じこめれば、それは当人——つまり私——にとっては幸福な事実になるではないか。客観的にはどうであろうと。  突然、私の意志・思考とはほとんど無関係に生じた妄想めいた考えの肥大を、私は待ちのぞんだ。  そうよ。私は支配者だわ。  ——これは、まるで、姉の思考の型ではないか。  姉がとり憑《つ》いているのは、マ・スールではなく、私か。  島を支配する、などとうそぶいているのは、私——矢野藍子——ではなく、姉なのか。  姉に勝つ。いえ、私にとり憑いた姉が、すべてに勝つ、と言っているのだろうか。  私の心は、死んだ姉に侵《おか》されつつある、ということだろうか。  姉のように美しく、姉のように強かったらと、ずいぶん思ったことはあった。  しかし、消極的で臆病でいじけていようと、私は、姉より、事象の本質を見究《みきわ》めたいという欲求の強さ、いわば、�求心力�に於て、すぐれている。それが、私の自負であった。  その私の力と姉の力が合体したら、それこそ、島を支配するくらいたやすいではないか。  そう思ったとき、またも、唐突な考えが浮かんだ。  死んだ姉に、私は招《よ》びかけてさえいた。  お姉さま。死んだお姉さま。お継母《かあ》さまの仕掛けた細工《さいく》と私が用意した凶器の罠《わな》によって殺された、哀れなみじめなお姉さま。  私にとり憑きたいのなら、そうなさるがいいわ。  あなたは、私に利用されるだけよ。  あなたの力を使って、私は、あなたを越えた強者になるわ。  美しくもなるわ。  強い人間は、美しい。  マ・スール!  私は、呼んだ。  声を出したかどうか、自覚はない。心に思っただけのような気もした。  修道女は、入ってきた。  帽子の前を低く下げ、修道女の顔は影の中に沈んでいた。 「わたくし、もう、あなたを恐れませんわ。あなたの助けがなくても、やってのけられます。結局のところ、あなたは、何もしてくださらなかったわ。ただ、見ているだけ」  もちろん、と私は言い添えた。 「あなたがいてくださる——わたしを見守ってくれる誰かがいる——ということは、たいそう心強くはありました。でも……」 「私がいなくなった方がいいの?」 「ああ……いいえ、ええ……」  私は口ごもった。  力強く、あなたなど要《い》らない、と言い切るには、まだ、狂いが足りない。  生来の弱気が首をもたげる。 「魚の鱗《うろこ》にマニキュアを塗って、腿《もも》に貼っていたわね、あなた」  修道女が言った。 「三つか四つのころ。人魚になるのだと言って」 「そんな小さいときのこと、憶えていませんわ」 「頼りない記憶の持主ね」  と言って、修道女は少しのどをそらせた。笑っているように見えた。 「この島に、初めて着いたときのことぐらいは憶えているでしょうね」 「もちろん」と私は言ったが、情景は視えてこなかった。  修道女は、私の記憶が不確実なことを言いたてて、私が指導者として失格であると認めさせたいのだろうか。 「子供たちと、船で来たんですわ。波が荒くて、酔う子もいました」 「いいえ、あなたは、開園の前に、責任者として三度、来ているのよ。最初は、何もない、荒寥《こうりよう》とした、廃墟だった。ユダの荒野のよう、と、あなたは呟いた」 「ええ、ええ、そうでした。もちろん、そうよ」 「ユダの荒野を、見たこともないくせに」  姉を思わせる口調で、修道女は言った。 「写真で見たわ。荒野といっても、砂漠ではないのよ。岩山だらけなの」 「写真で見たのよね。あなたって、いつも、そう。自分の眼で見たんじゃないのよね。複製《レプリカ》。偽《にせ》もの。まがいもの。あなたの、偉そうな苦悩。自分だけが敏感でデリケートで、世界の苦しみを共苦しているとでも言いたそうな」  姉の声で、相手は言いつのる。  声ばかりではない。私の前には、姉が、腰かけていた。 「あなた、私に勝つんですって」  姉は笑った。黒い美しい大きい眼が、挑戦的な光を帯びた。 「私より、あなたの方が強いんですって」 「私は、あなたを殺したわ。殺した者と殺された者と、どっちが強いか、子供にだってわかるわ」 「私が、あなたに殺された? 冗談じゃないわ。私が殺された、だって」 「あなたは、死人じゃないの。私は、生きている」 「どうして、そう言えるの。生きているのは、私。あなたが、死人。そうは思わないの?」 「思わない。思わない。私は生きているわ」 「さあ、どうかしら。あなた、何も思い出せないんでしょ」 「思い出せるわ。子供のころ、私ったら、魚の鱗にマニキュアを塗って……だれがマニキュアなんて持っていたのかしら……。継母《はは》は、そんなおしゃれじゃなかったわ。姉だって、子供だったはずよ。マニキュアをするような年頃じゃなかった」 「ほら、ごらんなさい。あなたは、人の話を鸚鵡《おうむ》のようにくり返しているだけ。あなたは、からっぽなのよ。虚《うつ》ろなのよ。何も実体は無いの。兎《うさぎ》より臆病で、兎ほどの能力もない。そのくせ、傲慢《ごうまん》なのよ。自分の虚ろを、宝玉みたいに錯覚して。あなたに、殺人なんてできるものですか」 「でも、私は……」 「置き忘れただけじゃないの、レーキを」 「でも、あなた、それで死んだんでしょ。私が用意した凶器で、あなたは死んだ」 「死んでいるのは、あなたよ」 「比喩的にはね。たしかに、私は、生き生きと生を謳歌するような生き方は、したことがなかった」 「それでいて、子供たちには、�健康的に、前向きに、明るく、たくましく�と要求するのよね」 「それは、あなたじゃないの。俗っ気のかたまり。鼻持ちならない俗物。見栄《みえ》とていさいだけ。からっぽなのは、あなただわ。永遠、神性、そういうことについて、ちらりとでも考えたことがあって?」 「わざわざ考える必要はないの。私は、私のままでいて、祝福される存在なのだから。あなたのように、何もないみじめな人が、何か高尚ぶったことを口にして、それで自分をごまかし、慰めているのよ」 「もう、たくさん。消えてちょうだい」 「消えるのは、あなたよ」  姉は、笑った。私は全身に鳥肌が立ち、声にならぬ叫びをあげた。  地獄の日常に向かって、私は、めざめた。  昂揚した気分は、消えていた。かすかな残滓が、心の底に残ってはいたが。  修道女は、私の傍の椅子に静かに腰を下ろしていた。  どこまでが現実でどこから夢に入りこんだのか、私にはわからなかった。めざめている今が夢であり、姉と罵《ののし》りあっていたあれが、現実ではないのか。姉を殺したというのも夢に過ぎず、現実の私はまだ、無力な少女で、父と姉と継母の、きりきりと肌にくいいるような絆《きずな》にがんじがらめにされているのだろうか。私は、虚《うつ》ろな穴のような笑顔を、修道女に向けた。     4  夏の陽に黄色く焼かれるグラウンドを、自室の窓から私は見下ろしている。  三十一人の子供たちが、山部国雄の指図でリズム体操の最中だ。  修道女は傍の椅子にいる。威圧感、圧迫感をあまり受けなくなった。彼女の存在をほとんど気にかけないでいられる。  浅妻|梗子《きようこ》に対する子供たちの信頼を砕く。  それは、とらなくてはならない手段なのだわ。  修道女に向ってではなく、自分自身に、私は語りかける。  蓮見《はすみ》マリと対立させる。  子供たちを分断する。  そうして、私たちが掌握する。  プログラムの骨格はできているのだが、具体的にどうしたらいいのか、私は未《いま》だに見当がつかない。  職員も、悪辣《あくらつ》な方策を考えつくには、人が好《よ》すぎる。皆、策士ではなかった。  私たちの思惑には無頓着に、子供たちは再び穏やかな日々を送っている。  今も、山部国雄の笛の合図に合わせて、九歳から十五歳までの女の子たちが、一つの糸につながれたように、統一された動きをみせている。  しかし、もう、だまされはしない。仮面の下から剥《む》き出された兇暴な顔。  浅妻梗子と蓮見マリは、いたって仲が好い。  目立つほど親密なわけではないけれど、不和の影は毛先ほども見えない。  これは、私たちの常識に反していた。  両雄並び立たず、という諺《ことわざ》は、真理をついている。蓮見マリは、浅妻梗子を凌《しの》ぎたいはずだし、浅妻梗子は蓮見マリの擡頭《たいとう》を許さないはずだ。  はずだ、と思っても、現実はそのとおりに動いていなかった。  子供たちが仲好く生活し、問題を起こさなければ、それに越したことはない。最良の状態だ、と、知らぬ人は言うだろう。子供たちの過去、そうしてこの間の暴動を、知らぬ人たちは。  単調な動きを、笛の合図に合わせて、子供たちは繰り返している。  浅妻梗子と蓮見マリを、いがみ合わせなくては。  その考えは、執拗《しつよう》に、私の頭を占めた。  何のために闘わせるのか。それが、善なのか、悪なのか、それらのことは、私の脳裏からぬけ落ちた。  金属的な笛の音は、短かく断続して、一定のリズムを持って私の脳を打った。  浅妻梗子と蓮見マリが、争う。闘う。たてがみを振り乱した二頭の獣のように。  その情景を私は思い浮かべ、陶然とした。息づまるほど、それは、美しい光景にちがいない。  争いは、突然、起こった。眼裏の情景が現実になった。映像が肉体を持ったかのように。  子供たちが、何がきっかけだったのか、隊形をくずし、とっ組み合いをはじめたのである。  山部国雄が、何か体育の授業の一環として、レスリングごっこでも命じたのかと、私はとっさに思った。  しかし、そうではないようだった。山部国雄も、あっけにとられて、子供たちを眺めている。  山部国雄の眼に、次第に、陶酔感があらわれはじめた。  子供たちは、自《おの》ずと、それぞれの年齢に見合った相手とつかみ合い、なぐり合っていた。それが、二組、三組ともつれ合い、めちゃめちゃに入り乱れた乱闘になっていた。  ホームや事務室から、職員たちが出てきた。  彼らも、少し離れたところに立ち止まり、手を束《つか》ねて眺めている。  どうしようもない。  手がつけられない。  やりたいだけやらせれば、自然に、疲れてやめるだろう。  そんな口実を、めいめいがもうけているのが、私には感じられる。  しかし、彼らは、ひきこまれて眺めているのだ。  コロシアムの底で血みどろで傷つけあう戦士たちを見物するローマの貴族を、私は連想した。  中でも、きわだって猛々《たけだけ》しいのは、浅妻梗子と蓮見マリの決闘であった。  施設に送られる前、ズベ公として名を売っていたという浅妻梗子は、剽悍《ひようかん》な攻撃をかけ、長い脚が弧を描いて蓮見マリを蹴りつける。美人局《つつもたせ》であげられた蓮見マリは、軟派専門の経歴に似合わぬ果敢《かかん》で身軽な応酬をした。身をすくめ、かいくぐって襲撃をはずし、浅妻梗子の脚をすくいこもうとする。とび跳《は》ねて、梗子は、マリをのめらせ、上からおおいかぶさった。組みあって、二人は地をころげた。  荒ら荒らしいが、二人の動きは、むしろ優雅にさえみえた。  幼い子供たちは、じきに格闘に疲れた様子で、へたばりこみ、息を切らしている。  他の者がみな争いをやめても、浅妻梗子と蓮見マリの決闘はつづいていた。  二人の手に匕首《あいくち》を持たせたいと、私は思った。擦《す》り傷や掻き傷、そんななまぬるいものではない、刃物による鮮烈な血こそ、二人にふさわしかった。切り裂き、切り裂かれ、血の網目模様に彩《いろど》られ、やがて、夕日を浴びて斃《たお》れ、朝日と共によみがえる。  串田剛一が、長いホースをひきずって、二人に近づいた。ホースの先端からは、烈しい勢いで水が噴き出している。  それを、二人に向けた。先端を指で押しつぶしたので、扇形にひろがった水は、いっそう烈しさを増した。  水を浴びせられ、その滝のような流れの中で、二人はなおしばらく、闘いつづけた。  それから、別れ、しりぞいた。そのとき、二人が握手をかわすのを、私は、見た。  ——あれは、何だったの。  結局のところ、私たちは、子供たちにからかわれただけだったのだろうか。  あの闘争は、私たち職員の、他人には明かされぬ内面をひき出してしまった。子供たちの喧嘩を、陶然と眺めている教育者など、あっていいものか。  私たちは誰一人、教育者の資格はない。  しかし、陶然とさせる、奇妙な魔力めいた力を、子供たちは持っていたのだ。そうも、言える。  人間は誰しも、普遍的に、本質的に、嗜虐《しぎやく》性を持っており、凡庸《ぼんよう》な常識の典型のような福原芳枝でさえ、例外ではないということか。  夜、ベッドに横たわりながら、私は自問した。  浅妻梗子と蓮見マリが、壮絶にみえる闘争のあと、握手して別れ、その後子供たちは、昂奮の余波にいくぶん頬を紅潮させながら各ホームに戻り、就寝までの時間を平静に過した。 「おちょくられたようなものですな」  半崎勇が感想を述べたほかは、職員は、この事に言及したがらなかった。酔ったように暴力沙汰を見物していた自分自身が信じ難い様子だ。忘れたい、と、誰しも思ったのではあるまいか。  私も、理性は、とんでもないことだ、と言う。しかし、快い陶酔感は、ベッドに横になっても消えなかった。  性の極致の甘美な悦《よろこ》びは、こういう感覚ではないのだろうか。  私は、実際にその感覚を男から与えられたことはなかったが。  だからといって、私が常に、血の惨劇に性の悦びをおぼえるというわけではない。レーキの刃に貫かれた姉の骸《むくろ》は、私に、解放感を与えはしたが、肉体の快楽《けらく》を味わわせはしなかったのだ。  血は、闘争は、美しいものと結びつかねば、性の愉悦とはなり得ないのだ、と、私は気づいた。  この発見は、私をおののかせた。今、はじめて気づいた血の悦びは、私をとんでもない方向に駆り立てそうだ。……いえ、はじめてではない、と囁《ささや》く声がある。  はじめてではないでしょう。  その声が、誰かに囁かれたのか、心の中で生じたのか、私にはよくわからなかった。  この奔馬《ほんば》にうち跨《またが》ったら、私は自滅する。  識《し》ってはならぬ悦びだ。  私は、呻《うめ》いた。苦痛と悦びの混った呻きであった。  傍に気配を感じて目を開くと、修道女が立って私を見下ろしていた。私は薄笑いして、 「何でもありませんわ」  と言った。  修道女の表情は、感情をうかがわせなかった。  まったく唐突な、子供たちの乱闘。あれは、何だったのだろう。  職員をからかったのか。しかし、それにしては、子供たちは真剣だった。からかうために、あんな、自分たちの肉体をいためつける手段をとるとは考えられない。  私は、思いあたった。  あのとき、私は、執拗に、浅妻梗子と蓮見マリが闘うことを希《のぞ》んでいた。妄想に浸っていたと言ってもいい。  私の眼裏には、くんずほぐれつする二頭のしなやかな獣の姿があった。  それが具現したかのように、乱闘は生じた。  二人だけではなく、子供たち全員を捲きこんでのことではあったが。  私の欲望が——あるいは、妄想の力が——グラウンドに波及し、子供たちに影響したのではあるまいか。  私が思いあたったことというのは、それであった。  もちろん、常識で考えたら、あり得べきことではないかもしれない。しかし、私はすでに、姉の力が私に備わった、——あるいは備わりつつある——と、認めたのだ。これとて、ふつうには、あり得べからざることであろう。  人の潜在能力は、えたいの知れぬものだ。常識の枠組など、その力にくらべたら、ほんの一小部分に過ぎない。  そう、私は思った。  私の力が、彼らを操《あやつ》った……。  だが、彼らは、単純に操られてはいなかった。  彼らもまた、集団の意志を持っていた。  浅妻梗子に統率され操られた意志かもしれないが。  彼らは、私の力がひき起こした闘争を利用し、職員の内面の醜悪さを暴露《ばくろ》させた。痴呆のように恍惚と、闘争にみとれていた大人たち。  私も、彼らによって、悖徳《はいとく》的な性感を知った。私にとっては、それは、よかったのだ。このような悦びの感覚を知らずに生きることにくらべたら。この快楽は、善なのだ。悪魔にとっての、善《よ》きこと。  浅妻梗子と蓮見マリは、最後に、握手をかわしあった。彼らの勝利をよろこぶように。彼らは、闘いあってみせることで、私たちに闘いを挑んだのだ。  私は、そう、結論した。     5  私の意志が、現実に、島を支配しつつある。  まだ完璧な強さを持たぬゆえに、私の意図するところより幾分|歪《ゆが》んだ形で顕現するのではあるけれど、そうして、対抗する力に押されがちではあるけれど、もし、この直感が誤っていなければ、私は、力を強めるべくつとめよう。  そう、私は己《おの》れに語りかけながら、視線が注がれる気配を感じ、振りむいた。修道女が薄い笑いを含んで、私に目を放っていた。 「あなたは、きまじめなのね」  修道女は、囁くような声で言った。その声音《こわね》にも、笑いがあった。底意地の悪い笑い、と私は感じた。姉が私に向ける笑いには、いつも、この見下《みくだ》したような優越感があった。——いえ、修道女は、姉ではない。 「つとめる、ですって。まるで優等生の言い草ね」  あなたは、姉ではない。姉ではない。  私は、意志力をその言葉に集中した。  姉の力は、私が利用するのだ。邪悪な力が備わったとき、人は、神を超える。神は、無力で、ひがみっぽくて、いくじなしで、できそこないのものしか造れない造物主だ。 「私が祷《いの》っていますから」  修道女は、脈絡のない言葉を口にした。  姉であれば、�祷る�などという言葉を口にすることはあり得ない。  何もできない、無能な助力者。ただ、突っ立っているだけの、でくのぼう。それが、この修道女だ。何のために来てくれたのやら。  そう思いながら、私は、修道女に、あなたは不要だ、とは言えなかった。今、修道女が去ったら、私は、肉の一部をもぎとられるような欠落を感じるのではあるまいか。  私は修道女に、いくらか尊大な笑顔を向けた。あなたを受け入れてあげますよ、という気持を含めて。居候《いそうろう》に向ける寛大な女主人の笑顔とは、こういうものだろうか。  来なさい、と、私は念じた。  夜に呑《の》まれようとしているホームを見下ろし、浅妻梗子を思い描き、私のもとに来なさい、とひたすら命じる。  夜の闇は烈風をはらんで膨《ふく》れあがり、銀の条目《すじめ》が亀裂を走らせる。  実験であった。私の思念が、はたして、どこまで効力を及ぼし得るものか。  浅妻梗子は手強《てごわ》すぎるのではないか。そう、逡巡《しゆんじゆん》する気持がある。すると、�大丈夫よ�姉の声が私の中でせせら笑った。  私は、思わず、マ・スールに目を向けた。  マ・スールは姉ではない。そう打ち消しながら、私はまだ、一抹《いちまつ》の疑念を捨て切れないでいたのだ。  姉は一人の修道女に憑《つ》いてここにあらわれ、そうして今は、私にうつり憑いた。私と姉は合体した、と私は思うのだが、修道女はいったい、何を考え、どのように感じているのだろうか。  私はすぐに、雑念を追い払った。  浅妻梗子をここに呼び寄せ、愛撫し、凌辱《りようじよく》する。  いったい、こんな考えは、私の深層の願望なのか、姉のあくどいいたずらか。  生前の姉は、俗物だった。美と通底する醜行など、思いつきもしない人だった。すると、これは、私自身の欲情か。  このような疑念は、妄想の集中力を弱める。  窓からホームを見下ろし、  おいで、私は呼ぶ。  梗子、来なさい。一人で。ためらわず、まっすぐに。私の腕の中に。  ホームには、テレビは置いてない。有益と職員が判断した書物が備えてあるだけだ。   姉は血を吐く……  忘れていた俚謡の詞が、ふと口にのぼった。   妹は火吐く   可愛いトミノは宝玉《たま》を吐く  こんな不健全な詩句をのせた書物は、ホームには置いてない。愛とヒューマニズムの勝利の物語。  笑いが、私の口を衝《つ》いた。   ひとり地獄に落ちゆくトミノ   地獄くらやみ花も無き  そう、地獄に落ちたわ。  私は呟く。   鞭で叩くはトミノの姉か   鞭の朱総《しゆぶさ》が気にかかる   叩け叩きやれ叩かずとても   無間《むげん》地獄はひとつみち  このうたは、悪を魔を誘い出す呪文のようだ。  お姉さま、あなたに叩かれなくても、私は無間地獄の一つみちを……来たわ! 出て来た。  青ずんだ薄闇の中にあらわれた小さい影を私は俯瞰《ふかん》する。   暗い地獄へ案内をたのむ   金の羊に、鶯に   革の嚢《ふくろ》にゃいくらほど入れよ   無間地獄の旅仕度  影は、暴《あら》い汐風に吹きちぎられながら、歩いてくる。   春が来て候《そろ》林に谿《たに》に   くらい地獄谷七曲り  やがて、視界から切れた。   籠《かご》にゃ鶯、車にゃ羊   可愛いトミノの眼にゃ涙  影は見えないが、確実に近づきつつあるのだ。   薔薇《ばら》色と神秘なる青ほのめく一夜   われらかたみに交《かわ》さなん ただひとすじの稲妻を  風に軋《きし》む鉄扉を打ち叩く音を、私の耳が捉えた。——別離の思い堪えがたき長き歔欷《しのびね》さながらに…… 「お入りなさい」  私は迎え入れるべく扉を開け放った。 「あの……たしか……夕食の後で来なさいと、昼間言われていたと思うのですが……」  珍しく自信なげに浅妻梗子は言った。 「ええ、そうよ」  わきたつ声を強《し》いて鎮《しず》め、私はソファに浅妻梗子を導いた。 「何の御用でしょうか」 「お坐りなさいな。私とあなたと、二人だけのお茶の会よ」  警戒を解かない顔つきで、浅妻梗子はソファの端に腰かけた。  少し浅黒い肌の滑《なめ》らかさ。唇のかげの白い歯とやわらかい舌を、私は思った。 「お父さんやお母さんたちとは、よく、お茶の会をするんですよ。あなたたちともね、一人ずつ、くつろいでお喋りする時を持とうと思って。ローズ・ティー、好きかしら」 「わかりません」 「飲んだこと、なくて?」 「ありません」 「それじゃ、わからないわねえ。いい香りでしょ」  この次は、睡眠剤を溶かしこんだお茶をふるまおう。  ひところ、睡りから見放されていたときに医者から貰った薬剤を、私は冬ごもりする栗鼠のように貯えてある。  眠らせて、死んだような躯を愛撫する。その悪徳の極《きわ》みこそ、快楽の極みだと、私は、なぜか識《し》っている。  どうして、こんな悪徳を私は思いついたのだろう。姉だって、考えもしなかったはずだ、生前は。姉はデカダンスとは無縁の人だった。  レーキの刃に貫かれ、血にまみれて倒れていた姉の骸《むくろ》は、私に性の悦びを教えはしなかった。骸は醜悪でみじめであり、手を触れたくもなかった。ただ、それだけだ。  浅妻梗子が眠りに落ちたら、私は服を脱がせ、まだ少し固い乳首を口に含むだろう。胸から腹に手を滑らせるだろう。  ティー・ポットの紅茶をカップに注ぎながら私は思い、溢《あふ》れこぼすような失態はせず、どうぞ、とすすめた。 「お砂糖は?」 「いりません」 「そう、その方がいいのよ、もちろん」  私は浅妻梗子の隣に並んで腰を下ろした。スカートをへだてて、腿がふれあった。  そのとき、私は、こちらに目を向けているマ・スールに気づいた。彼女の表情は、うとましそうにも、哀れんでいるようにも見えた。  次に私がとる行動が、私には視えた。だが、ノックの音が、幻影を消した。  訪問者は、山部国雄であった。  浅妻梗子は、ほっとした気持をあらわに見せ、立ち上がった。 「お迎えが来ましたから」  と、浅妻梗子は言い、山部国雄の腕に軽く手をかけた。 「もう、用事はすんだの?」 「すんだようです」  二人は、私に会釈《えしやく》し、出て行った。 「マ・スール、わたしは恥ずかしい」その叫びがのど元までふくれあがったが、私は歯をくいしばって声を洩らさなかった。 「この次は、もう少し……。今日は手始めですもの。まだ馴れていないんだわ」 「悪に?」マ・スールが言った。 「いいえ、快楽に。善と悪ではないのよ。禁欲と享楽だわ」 「あなたはこれまで、禁欲の生を生きてきた?」 「すべて、押し殺してきたわ。でも、今、わかりかけている。わたしの快楽への欲求は、とほうもなく大きい。浅妻梗子の血と、蓮見マリの血の味の違いを、わたしの舌は予感しているわ。思っただけで、躯が慄《ふる》えるわ。わたしだけじゃない。誰だって、快楽への欲望は隠し持っているんだわ。持っているということさえ気がつかない人も多い。死ぬまで気がつかないですめばね。でも、わたしは気づいてしまった」  私は窓辺に佇《た》ち、外の闇に眼を放った。  稚《おさな》い子ののど首に歯をたてる感触が、私をうっとりさせた。     6  吉川|珠子《たまこ》を、私は膝にのせ、あやしている。  もっと幼い子が欲しい。九つの吉川珠子は、幼児の無邪気な肉づきを、すでに失ないはじめている。  姉をレーキの刃で貫いて以来、私は、結婚と出産を自分に禁じた。勝利のよろこびを味わっていると私は認めず、贖罪《しよくざい》を、己れに課した。  防波壁の上に腰かけ、私が膝に抱いているのは、あるいは私も持てたかもしれない、やわらかい生きものだ。 「珠子ちゃん」  意味もなく呼びかけ、私は珠子の髪を撫でる。指でかきあげてもかきあげても、汐風が乱す。  吉川珠子は、背骨をしゃんとのばし、ぎごちなく私の膝に腰かけている。私は、くにゃりと寄りかかってほしい。幼児が全身を母親にゆだねるように。 「珠子ちゃん、お母さん、て呼んでみて」  珠子は唇をきゅっと結んでいる。 「珠子ちゃんは、ここ、楽しくて?」 「いいえ」 「楽しくないの? 困ったわね。どうしたら楽しくなるかしら。してほしいことを言ってごらんなさい」 「何もないわ」 「何もないの? そんな筈は」 「みんな、あなたが取り上げてしまったわ。あたしは今、何も持っていない。なんにも」 「そんなことはなくてよ。あなたの欲しいもの、本土から取り寄せてあげましょう。お人形? 本?」 「あたしは、何も持っていない。名前もない。あなたが奪ってしまった」 「あなたの名前は、吉川珠子、よ」 「いいえ。あたしの名前は、奪われちゃった。あなたは、何でも持っている。あたしは、持っていない。名前もない」  強情《ごうじよう》に、吉川珠子は言いはった。  私は少しおどけて、脅《おど》すように人さし指をたて、吉川珠子の鼻の先で振った。 「悪い子。そんなことは言わないものよ」 「言っても言わなくても、同じことだわ」 「珠子ちゃん、お母さんが欲しいでしょ。ホームのお母さんは、偽《にせ》のお母さん。わたしが本当のお母さん」 「お母さんは、人殺しだわ」 「どのお母さんのこと? 珠子ちゃんを産んだ、本土にいるお母さん?」 「あなたよ」 「わたしが、人殺し?」  強い風が吹きつけた。風が吉川珠子の顔から、子供らしいやわらかい頬や、小さいつんむりした鼻や花びらのような唇を、攫《さら》い奪った。珠子の顔が、髑髏《どくろ》めいた影を帯びたのである。錯覚は一瞬で、愛らしい顔立ちが、すぐに戻ってきた。 「あなたは、また、あたしを殺すわ」 「殺すものですか、こんなかわいい子を」  丸みを帯びた唇を、私は吸った。継母は、妊《みごも》る機能を、父と姉に奪われたのだ、と、私はこのとき連想した。私と姉の世話に専心させるために。  正確に言えば、姉はそのときはまだ子供だったのだから、父に加担したわけではないのだけれど、父と姉は、一体だった。姉の死によって、父は、無力な並の初老の男になり下ってしまった。 「わたしは、あなたを特別かわいがってあげるわ。あなたは一番小さいんですもの」 「でも、殺すのよね」 「いいえ」 「あなたは、殺したのよ。又、殺すわ」  吉川珠子は強情だった。  私は親指の腹で吉川珠子ののどを撫でた。少し力をこめれば、子供の細い首の骨は折れるだろうし、その快楽の予感は私を掠《かす》めたけれど、私は、やさしいくちづけを額《ひたい》に与えただけで、獲物《えもの》を膝から下ろした。  ——私は、殺したのかしら。  珠子は消え、かわりに、マ・スールが隣りにいた。 「わたし、思い出せないわ」  私の口調は、何かたどたどしかった。 「ホームを再開する前、どんなふうだったのかしら」 「知らない人が今のあなたを見たら、倖せそうと思うかもしれませんね」マ・スールは、防波壁にもたれて言った。高みに腰かけた私は、地にとどかぬ足をぶらぶらさせながら、笑った。快《こころよ》い笑いであった。 「ええ、わたし、何だかたのしい気分よ。たのしいことがいろいろ起こりそう。浅妻梗子と蓮見マリの血の味をくらべてみるわ。吉川珠子にわたしのお乳を、ああ、今、吸わせてあげればよかった。そうすれば、あの子も喜んだでしょうね。きっと、ここがたのしくなったに違いないのに。今度、吸わせてやりましょう」 「あなたは、少し思い出す努力をしてみたら」 「部屋に戻るわ」  私は防波壁から身軽にとび下り、歩き出した。マ・スールは、背後から語りかける。 「思い出しても何の役にもたちはしないし、あなたは、そうやって、痴呆状態に退行した方が楽でしょうけれど、私は放っておくわけにもいきません。思い出そうとしてごらんなさい」  そう言いかけ、無理にはすすめませんけれどね、とマ・スールはつけ加えた。 「わたし、思い出していますよ。いいえ、思い出すどころか、いっときだって忘れたことはないわ」  しばらく、黙って、私たちは歩いた。部屋に入り、窓を背に、私はマ・スールの方を振り向いた。 「いっときだって、忘れたことはないわ。わたしは、姉を殺した。そう思うたび、大声をあげて笑いたくなるわ。姉はもう、何もできない。骨と灰よ。わたしは、姉に勝ったのよ」  長椅子に腰を下ろしたマ・スールは、感情をあらわさない声で、 「そうして、あなたも壊《こわ》れた」と言った。「壊れないように、わたしは力を尽したのだけれど」 「レーキの刃は、姉の躯を突き抜けて、その刃先は少し汚れていたわ。太陽が降り注いでいた。たいそう静かだった。虻《あぶ》の羽音。いえ、陽の光が注ぎかかる音だったのかしら。血を吸った土は玉虫色だった。蟻《あり》が地に貼りついてもがいていたわ。血に溺れたのかしら」 「島に来てからのことを思い出してごらんなさいと言っているのです」 「模範的なヴォランティアじゃありませんでした? でも、過ぎたことを思い出して何になりますの。それより、未来に目を向けなくては。明日に。明日、わたしは、小さい子供たちを……」  私の眼に、部屋の情景と重なって、幻が視えた。首をひきちぎられた吉川珠子が、人形のように床にころがっていた。  修道女にそれが見えないように、私はごまかし笑いをして、床の上を手でおおう仕草をした。  こんなことを、私は願っているのかしら。  おお、いやだ。まさか……。 「わたし、残酷なことは大嫌いですわ。もの静かで、穏やかで、でも芯はしっかりした、そういうのが一番好もしいと思います」  そう言いながら、私は、床に落ちている子供の腕を拾い、放り上げ、受けとめた。床に坐りこんで腕にかぶりついている小鬼の姿が視えたので、しっ、しっ、と追い払った。小鬼は、理不尽《りふじん》に叱られた子供のような恨めしげな眼で私を見上げ、膝に這い上がってきた。彎曲《わんきよく》した長い爪が腿にくいこんだ。 「そんなのと遊ぶのはおやめなさい」  修道女が言った。 「これは、かってにあらわれた幻ですのよ。現実のものじゃありません。マ・スールは、これが見えるんですか」 「島に来てからのことを、思い返してごらんなさい」  私は首を振った。そうして、マ・スールの傍に歩み寄り、床に横坐りになって、膝に頭をもたせかけた。 「あなたは、もしかしたら、わたしの本当のお母さまなのではないかしら。そうでしょう? お母さまが来てくださったのでしょう。もう、わたしはどうにもならないの。疲れてしまったの。わたし、せいいっぱい、努力したわ。何とか、すべての事がうまくいくようにと。子供のころから、つとめてきたわ。継母を、わたしはかばってあげなくてはならなかった。父も姉も、継母にひどいことをするんですもの。わたしが子供だから、何もわからないと思って。でも、子供の眼って鋭いのよ。わたし、継母が気の毒で、いっしょうけんめい慰めてあげたわ。味方になってあげた。でも、その継母は……姉を殺したのよ。出窓の手摺に細工《さいく》して。そうして、地面にレーキを刃を上にして置き放しにしておいた。父には、わたしがレーキを置き忘れたと言ったわ。継母をかばうために。いじらしいこと。でも……一度口にしてしまうと、それが事実になるんだわ。姉を殺したのは、わたし。ええ、せいせいしたわ。わたしは姉を殺した。それなのに、少しも心が痛まない。わたしは、そんな自分が怖くなった」 「レーキを置き放しにしたのは、誰なの。継母? あなた?」 「わたしよ。でも、どうでもいいんだわ。どっちでも。わたしは継母の共犯者。わたしは、入信した」 「あなたの追憶は、傷のついたレコード。いつも同じことの繰返しで、そこから先へは進まない」 「その後は�現在�になるのですもの。思い出す必要はないわ」  と、私は修道女の言葉を断ち切った。そうして、生母のにおいを深い記憶の底からよみがえらせようとした。三つの年まで、私は生母のにおいに触れていたのである。それは、私のどこかに、今もなお、在《あ》るはずであった。     7  夢ともうつつともつかぬ心地よい退行。生母のにおいの中への埋没。しかし、夢にはめざめがあり、私は強引に立ち直らされた。無責任な無為から、全責任を負った統率者へ。夜から昼へ。  つまり、私は、唐突に覚醒したのである。睡《ねむ》っていたという自覚はなかった。むしろ、憑《つ》きものが落ちたといった方が適切かもしれない。  私は、正常な気分に立ち戻ったのである。  夜から昼へ、というのは比喩にすぎず、現実の時刻は、黄昏《たそがれ》を過ぎ、まさに�夜�になろうとしている。  私を覚めさせたのは、ノックの音であった。  福原芳枝が、いまにもヒステリーを起こしそうな取乱した様子で入ってきた。 「吉川珠子が、いないんです。また、どこかに隠れちゃって」  吉川珠子。私は、ぞっとして思わず室内を見まわした。四肢のちぎれた子供の姿など、もちろん、床の上にころがってはいない。あれは、私の視た幻だ。  しかし……、防波壁の傍で遭《あ》ったのは……。  私の脳裏に、思いもよらない光景が、ふいにくっきりと視えた。  私の手が、吉川珠子を、海にむかって突き落としたのだ。  そんなことは、あり得ない。  しかし、私の手もまた、やわらかい小さい躯を突きとばした感触を、まざまざと感じた。  助けを求め、私は眼をさまよわせた。窓ぎわに佇《た》ち、窓の外の夜に顔を向けている修道女を、見た。  ——あいかわらず、あのひとは、ここにいるだけだ。私のために何もしてくれはしない。 「島じゅう、探しましたか」  私が言うと、福原芳枝は、感情を爆発させた。 「無理だわ! 島じゅうなんて、探せっこないじゃありませんか。廃墟のジャングルだわ、ここは。金網でかこって、私たちの目のとどく範囲から外には出られないようにしてあるはずだけれど、どこかに抜け道があるのよ。子供たちは、かってに出たり入ったりしているのに違いないわ。吉川珠子だって、放っておけば、また戻ってくるに決まっています。だって、いつまでもひとりではいられませんもの。ほかの子供たちが、こっそり食物をはこんでやれば別だけれど。でも、何のために、そんなことをするの。ただ、わたしたちを困らせるため? 困らせておもしろがっている。たちが悪いわ、ほんとに。根性曲り。どうしましょう。放ったらかしておいてみましょうか。でも、万一、何かあった場合、わたしの責任になるし」 「福原お母さん、施設が再開される前のことを、おぼえていますか」  私が訊くと、福原芳枝は、けげんそうに私を見、そんなことは、今、問題ではない、という意味のことを、ぶつぶつ言った。 「わたしが怖いのは、これをきっかけに、また子供たちが何かひどい事を……」そう、福原芳枝は続けた。 「青山さんだの加藤さんだの、男子職員が手わけして吉川珠子を探しているんです。女子職員だけでは、子供たちの押さえがききません。わたし、怖くて……ホームに残っていられなくて……。また、刃物をつきつけられたら……」 「それで、ここへ?」  私の声音に皮肉を感じとったのか、福原芳枝はいっそう激昂した。 「ええ、そうよ。逃げて来た、っておっしゃりたいんでしょ。わたし、逃げてきたのよ。あなたになら、子供たちは、ひどいことはしませんもの。この前だって、あなたは大丈夫だったじゃありませんか。どういうことなの。園長が、まさか、子供たちを煽動してるわけじゃないんでしょ。そう言う人もいるんですよ。わたしは、まさか、って言っているのよ。でも、園長先生は、何も、手をうたない。浅妻梗子と子供たちを分裂させるなんて、口先ばかり。あなたは、無能なんだわ」  言いすぎたと気づいたように、福原芳枝は丸っこい手で口を押さえた。 「わたしは、無能ですか」  自分でも異様なほど冷やりとした声が、私ののどから出た。  福原芳枝の眼が大きくなった。醜く顔をゆがめ、叫び声をあげて福原芳枝は後じさり、一気に部屋をとび出していった。  私は呆《あき》れ、それから壁にかかった鏡をのぞいた。常にかわらぬ私の顔が、あった。  長椅子に私は腰を落とした。  私が吉川珠子を海に突き落としたなど、そんな妄想に捉《とら》われてはならない。私は、無能な統率者ではないし、まして、理由もないのに愛らしい子供を海に突き落とすような兇暴な殺人鬼でもない。  そう思うのだが、子供を突き落とした感触は、まぎれもない明瞭さで、私の手によみがえってくる。  厚い忘却の雲がふいに破れ、裂け目から記憶が輝き出た。しかし、明瞭な記憶はごく一部に過ぎず、手のひらによみがえった記憶の他は、あいかわらず雲の中だ。 �あなたは、また、あたしを殺すわ�  防波壁のところで吉川珠子が口にした言葉が、耳に残っている。 �また�と、吉川珠子は言った。 �あなたは、殺したのよ。また、殺すわ�  私は、先に一度、吉川珠子を殺した、というのか。  焼け落ちたホームが再開される前、三人、死んだ。その記憶は、私の中に残っていた。でも、子供の数が減っていないのを誰も怪しまないから、私は、自分の記憶違いだと思い直し、自分を安心させていたのだった。  それなのに、吉川珠子は、私に殺されたと言う。  私は狂っているのかしら。  そう認めてしまえば、何もかも納得《なつとく》がいく。  どんな奇妙なことが起ろうと、それは、私が狂っているからだ。事実が、いびつなレンズを透して視るように、ゆがんで私の眼に映《うつ》るからだ。あるいは、眼に映ったものに、脳がゆがんだ認識を与えるからだ。  しかし、狂人は、自分が狂っているという病識は持たないものなのだそうだ。  狂っていると怯《おび》える私は、正常な人間ということになる。奇妙なパラドックス。  常識ではあり得ないことを、認識の歪《ゆが》みとして除去すれば、正常な事実が明らかに見えてくるのではあるまいか、と私は思いあたった。  死者が、子供たちの中に混っている。そのために生じる人数の食いちがいを、職員の誰もが無視している。  これは、あり得ないことだ。  故に、以前に子供たちが三人死んだという私の記憶はまちがっている。  死んだ子など、いはしない。  故に、吉川珠子は死者ではない。彼女が私に殺されたと言ったのは、吉川珠子が故意についた嘘——私をからかうつもりだったのか——、あるいは、防波壁のところに於る珠子との場面は、私の夢。  私の唯一の異常は、記憶にあいまい、あるいは不明なところがある事と、夢と現実の区別が往々にして混乱する。この二点だけだ。  これほど論理的に自己分析できる私は、狂者ではない。  結論が出て、私は気分が晴れ晴れした。 「マ・スール」  私は爽《さわ》やかに呼びかけた。 「お茶にしませんこと」 「吉川珠子の行方不明を、本土の警察に届けるつもりはないのですね」  修道女に訊ねられ、 「ありません」  私は応《こた》えた。  そのとき、私は、子供のころに読んだ童話を思い出した。アラビアン・ナイトのなかの一話である。私が読んだのは、子供向きに書き直された他愛ないものではなく、重厚な装幀の、完訳の全集であった。よほど古い版とみえ、伏字だらけでしかも旧仮名遣いというおそろしく読みづらいものだったが、革表紙に金の箔押しで題字と唐草《からくさ》模様を浮き出させたそのデザインだけでも、独特な異界に私は誘いこまれるのだった。  物語の中で物語が語られ、その中に更に別の物語があるという、入れ子細工の迷宮を私はさまよい歩き、そのなかでもとりわけ心を惹《ひ》かれたのは、下半身が石になっている若い王子の物語であった。  いえ、私は思い違いをしているのだろうか。半身石になったのは、巨大な黒人だったろうか。  その全集は父の蔵書であり、物々しい書棚に並べられ、私は手を触れることも禁じられていた。わずかな隙に盗み読みしたので、気に入った話があっても繰返し読み直す暇はなかった。素早く一瞥《いちべつ》しただけなのである。濃密な完訳に触れた後では、子供向きのものはあまりに味気なく、私はその後児童書のアラビアン・ナイトは見向きもしていないので、石になった王子——あるいは黒人——の話も再読していない。  そのために記憶は曖昧《あいまい》だが、私がふいにこの物語を思い出したのは、私自身が石化しつつあるような感じを持ったからである。  躯は、柔軟に動いている。決して、硬直したわけではない。しかし、感情が石化しつつある。 「大胆になったんですわ。何も怖くない」  私は、マ・スールに言った。 「吉川珠子が行方不明。それが、どうだっていうんでしょう。たいした事じゃないわ」 「そう?」  短く、マ・スールは応じた。 「最初から、そんな子供はいなかったと思えばいいのよ。もてあましものだった子供よ。親も学校の先生たちも手を焼いて、見捨てた子よ。その子供一人のために、ここが閉鎖されることになってはいけないわ」 「わたしは、あなたを見捨てませんよ」  マ・スールは言った。 「何が根本的に終極的に最も重要な問題かといえば、私が、この仕事をやり抜く、という事なんだわ。意志の問題よ。強固な意志は、他の感情を鈍麻《どんま》させ、石に変える。私は、戦闘の指揮官にもなれるわね。至高の目的に邁進《まいしん》するために、犠牲者が出ても心は痛まない。石ですもの。私は傷つかない」  あなたは、突き落としたのよ。  耳もとに囁《ささや》く声を聴いた。修道女だろうか。  私は彼女に目を向けた。視線が合った。先に目をそらせたのは、私だった。 「私は、ここに、子供たちの楽園を作るの。のびやかに、生き生きと暮せるような。犯罪者であろうと、ここでは受け入れられるのよ。私は、すべての子供を、おおらかな愛情で包むわ」 「あなたは、支離滅裂ね」  私は手をのばし、修道女の口をふさぐ仕草をした。 「子供のころ、そんな場所があったらどんなにいいだろうと切望したわ」 「修道会は、あなたに期待をかけたのよ。信頼もしたようね。あなたは、思慮深く、やさしく、そしてしっかりしているようにみえたから。でも、無理に作った姿勢だったのね。あなた自身さえ、自分をそういう人間と錯覚《さつかく》していた」 「期待に応《こた》えなくては。私を、修道会は、信頼してくださったのよ。私を認めてくださったのよ。私は無能じゃない。そうでしょ?」 「ええ、あなたは、一生懸命やったわ。自分が壊《こわ》れてしまうほどに」 「ありがとう。でも、まだ、終わってはいないのよ。私は、今、やり直しているの。一度は失敗した。今度は失敗しないわ。子供たちを愛し、おおらかに、愛し、……すてきじゃないこと。海。自然。空」  廃墟、と、また囁く声があった。 「子供たちは、ここで、自然を愛することを知るんだわ。都会の悪に蝕《むしば》まれた子供たちが、子供らしいのびやかさを取り戻すのよ。あの子たちを蝕んだセックス。ゆすり。賭博。ああ、セックス……」  私は波立ちかけた気分を、そらせようとした。何か兇暴なものが、海面下のうねりのように騒ごうとしているのを感じかけたのである。私は戸棚からやりかけのクロス・ステッチを出した。針に刺繍糸を通そうとすると、手がふるえた。 「吉川珠子をどうするの」  忍耐強く、マ・スールが言った。 「放っておきましょうよ」 「皆が探しているわ。でも、吉川珠子を発見することはできない。あなたが海に突き落としたんですものね」 「嘘!」 「本当よ」 「いいえ。私は、姉の躯に突き刺さったレーキの刃はおぼえている。でも……」  私は、はしゃいだ声をあげた。 「無い事にしちゃえばいいのよ。さっきから、わたし、そう言ってるじゃありませんか」 「ほかの人が、納得《なつとく》すると思うの」 「忘れさせます。わたしが奇妙な支配力を持っていること、ご存じでしょう。ある程度は、わたしの思いどおりになるのよ。まだその力を使いこなせないから、完全にうまくはいかないけれど、徐々に上手になるわ。力も強くなる。お父さんお母さんたちの意識を、わたしは、支配できるのよ。忘れなさい、と命じるわ。吉川珠子など、存在しなかった」  そう言いながら、私は少し不安になった。  姉と一つになったと実感するとき、私は、強くなる。しかし、その力が常時あらわれるわけではないのだ。 「本土に連絡することは、絶対、いけないわ。ここを、警察だのマスコミの人たちだのに荒らされてはいけないのよ。マ・スール、それはわかってくださるでしょう」  修道女は私をみつめただけであった。  扉が叩かれ、鉄錆が散った。今度は、女子職員が三人、顔を揃えていた。木島けい、石井純子、そうして二人の後ろに福原芳枝もおずおず従っていた。 「ほら、何でもないじゃないの」  木島けいが振り返って福原芳枝に小声で言った言葉を、私は聞きとった。 「福原さんからお聞きになったと思いますが」  木島けいは三人を代表して、私に言った。 「吉川珠子が、姿が見えないのです。今、青山さんたち男子職員が探しています」 「ええ、さっき、聞きました」 「まだ、みつかりません。どうしましょう」 「そのうち、戻って来ますよ」  私は明るい声で言った。 「この島の中なら、何も心配はいりません。猛獣がいるわけではないし」  冗談さえ、口を出た。 「ええ。でも、足を踏みはずしそうな危険な場所はあります」と、石井純子が言い、木島けいがすぐに続けた。 「仕切りの中にいれば安全なんですが、子供たちはどうも、抜け道を通って、かってに出入りしているらしく、時々、いないことがあります。でも、食事には顔を揃えますし、こんなに暗くなっても戻ってこないことは……。壊れたブリッジから落ちて、足腰を痛めて動けないでいるようでしたら、放ってはおけません。ひどい怪我をしていたら、手遅れということも考えられます」 「そうね。探しましょう。といっても、皆で騒ぎたてると、子供たちを不安にさせます。不安は暴挙の引き金になります。お母さんたちは、ホームに帰って、平静にしていてください。探索はお父さんたちに任せましょう。わたくしも、探します。あなた方は、子供たちを動揺させないようにつとめること。よろしいですね。早くホームにお戻りなさい」 「園長先生は、落ちついておられますね」  石井純子が感心したように言ったが、福原芳枝は、まだ疑わしげな怯《おび》えたような表情を目から消していなかった。さっき、私は、よほど凄《すさ》まじい異様な形相《ぎようそう》を福原芳枝に見せたのだろうか。  三人はひきあげた。 「マ・スール。教えてください。私は、本当に、吉川珠子を殺したのでしょうか」 「過失といえるでしょうね」  修道女は言った。失神が再び私を襲った。  ほんの一瞬の意識|喪失《そうしつ》であったようだ。くらりと眼球がひっくり返ったような感覚をおぼえ、次の瞬間、床に倒れている自分に気づいたのである。  吉川珠子を、私が、殺した。  修道女は、そう明言した。過失、と言ったように思うが、それは私が絶対認めたくないことだ。私には、吉川珠子を殺す理由がない。  しかし、私は、先ほど視た無気味な幻を思い返さずにはいられなかった。首のちぎれた子供の影など、今の私には嫌悪感をもよおさせるばかりだ。それなのに、あのとき私は、壊《こわ》れた人形をもてあそぶ子供のように、それとたわむれていた。私の中に、吉川珠子への憎悪が潜在していたのだろうか。  憎んでいる、と、かすかに肯《うべな》うものがある。  吉川珠子ばかりではない、子供たちすべてを、そうして、職員のすべてを、私以外のすべての人間を、私は憎んでいるのでは、ないだろうか。すべての人を愛し、そうして愛されたいと、これほど願っているのに。  愛したいのではない。愛されたいのだ。それにもかかわらず愛されないゆえに、憎むのだ。 「そうですわね」  修道女に向かって、私は呟いた。 「でも、どうしようもない堂々めぐり。私は本当に、吉川珠子を殺したのでしょうか」  同じ質問を、呆けたように、私は繰り返した。修道女は、殺した、と、すでに答えたのだ。二度めの質問に、いいえ、殺してはいません、という答が返ってきたところで、私は疑念に悩まされるだけだろう。一つの質問に相反する二つの答は、何も答えないのと同じことだ。  私が到達した結論は、もう一度、意志による支配力を試《ため》してみよう、という事であった。  多少の歪《ゆが》みは生じるかもしれない。そうして、その歪みを、小ざかしい子供たちにまた利用され、変な騒ぎになるかもしれない。  それでも、吉川珠子を捜索するために本土から人を呼ぶなどという事態になるよりは、はるかによい。  私は無能ではないという事を、誰よりもまず、私自身に証《あか》しせねばならないのだ。ここの運営が軌道に乗り、成功と自他ともに認め得るようになるまで、不祥事は隠しとおさねばならない。 「あなたは、つまり」  と、修道女が言った。 「自分の救いだけを考えているのね。他人をそのために利用しているわけね。あなたは、ひところ、軽度の精神障害を持つ人の施設でヴォランティアをしていた。弱い人たちといっしょにいると、気が楽だから。優越感を保てるから。自分はあの人たちよりは倖せだと確認できるから。でも、自分では、そういう人たちを利用し踏みつけにしているとは少しも気づかないで、自分の傷つきやすさを自慢にさえ思っている。そういう、傲慢《ごうまん》な愚者なのよ、あなたは。頭のいい莫迦《ばか》なのよ」 「あなたはそうやって、ただ私を責めるために、ここに来たの?」  私は嘲笑《あざわら》った。しかし、マ・スールと喧嘩したくはなかったので、すぐに表情をとりつくろった。見すかされただろうなと思いながら。 「わたしは、吉川珠子のことを皆が忘れるように、意識支配をしなくてはならないの。手を貸していただきたいわ」  私は窓ぎわに佇《た》ち、闇に沈むホームを見下ろした。小さい灯りが滲《にじ》んでいた。  長い思念の後に、灯は静かに消えた。   4 破 局  麦藁《むぎわら》細工の人形のように、子供たちは、見える。職員の命ずるままに動いてはいるものの、生気も覇気《はき》もみられない。職員たちも、何だか妙に個性を失ない、決められた日課のとおりに躯を動かしている。  吉川珠子の不在を気にかけているものは、一人もいないようだ。  つまり、私の意志が島を支配したと言えるのだけれど、私が望んでいるのは、こんな無気力な、幽霊がうごめいているような状態では、ない。  一糸乱れぬ統率。それはもちろん、私が望むところであるけれど、活力と笑い声にみちたものでなければ、いけない。  生き生きと、汐風に髪をなぶらせ、頬を上気させ、走りまわる子供たち。静粛になるべき時には、ぴたりと、ストイックに静まる。  そうでなくてはならないのに、子供たちは、命令に従って、立ち、坐り、歩き、走っているだけで、内にひそむ起爆力さえ消失しているようなのだ。  表面従順ではあるが、いつ攻撃を始めるかわからない恐ろしさ。それが、感じられない。  躯の中には、血や肉のかわりに木屑でも詰まっているみたいだ。問いかければ、答える。あたりさわりのないことを。突っこんだ質問をすると、�わかりません�、愚鈍な返事が返ってくる。少しにこにこしながら。  これも、子供たちの叛逆の一手段なのだろうか、と私はかんぐるのだが、もしかしたら、取り返しのつかぬほど、子供たちを壊《こわ》してしまったのだろうかという怯《おび》えもふとおぼえる。  支配力を強めすぎ、子供たちを生ける屍《しかばね》にしてしまっては、大失敗だ。  力の加減というのは、何とむずかしいのだろう。  だからといって、子供たちが最初にホームに送られてきたころの、あの粗暴で反抗的で陰湿で、言いようのない無法状態……と、私は思い返し、とぎれていた記憶が、突然、その部分だけ鮮《あざ》やかなのに驚いた。  ホームが焼け落ちる前の事は、なぜか混沌としている。よほどひどい衝撃を私は受けたのだろうか。肉体的にか精神的にか、それすらもさだかではないのだけれど、強い衝撃が記憶の一部を不明にするのは、ごくありふれた当りまえのことらしい。  子供たちがホームに放火した、三人の子供が死んだ、辛《かろ》うじて意識にあるのは、それぐらいだった。子供の死は、どうやら私の記憶違いらしく、吉川珠子は、今度、初めて死んだのだ。——それも、何だか私が海に突き落としたらしい……まさか。  三人の子供が死んだ、と私が思いこんでいたのは、これから起きる事の予兆を感じとっていたのだろうか。つまり、あと二人、これから、死ぬ……。  ともあれ、子供たちが初めて島に着いたときの情景がくっきり視えたことを私は喜んだ。  これをきっかけに、記憶の上におおいかぶさっている忘却の厚い壁がくずれ落ち、すべてが明瞭になってくれれば……。  思い出せなくても、施設の運営にそう不自由はないし、私は職員の眼をうまくごまかしているらしくて、誰も私を怪しみはしないのだから、このままでもかまいはしないのだけれど。  整列せよと命じても、子供たちは、ふてくされたようにそっぽをむき、隊列をととのえようとはしなかった。所持品は全部検査したはずなのに、子供たちの中には煙草をかくし持っている者がいた。私たち職員の目の前で、どこからか一本抜き出した煙草をくわえ、ライターで火をつけた。  男子職員にも、暴力を行使することは私は絶対に禁じていた。  ひとりの職員が——どのお父さんだったろうか——ライターをとり上げた。煙草もとろうとすると、子供は、後ろにはねとんでその手を避けた。私は近づき、煙草を消しなさいと、静かに命じた。子供は私をみつめていたが、火のついた煙草を、さしのべた私の手のひらにねじりつけて、消した。そのとき、私は、ひそかに喜びを感じたのだったと、思い出した。この痛みは、必ず、報《むく》われる、これによって、私は子供たちと心を通わしあうことになるだろう、そう思い、微笑さえ浮かべていた。  私は、一途《いちず》に、この仕事に自分を賭けていたのだった。  男子職員の前で肌を見せ、秘所まで見せて誘惑しようとしたのは、誰だったろうか。  私は、手古ずり、時には押さえきれぬほど烈《はげ》しい怒りをおぼえ、卑《いや》しい小狡《こずる》い子供たちを嫌悪《けんお》し、それでも、愛した。無償の愛以外に、この子供たちを救うてだては、 「救う?」  修道女が、皮肉な笑いのこもった声で言った。 「ええ、そうよ」  私は言い返し、せっかく開《ひら》けかけた記憶の水路は、また閉ざされた。  しかし、私は、その堰《せき》を何とか切り開けようとつとめた。  かすかな手がかり。ほんのちょっとしたヒント。  修道会の上層部は、私を深く信用してくれていた。自分の救いのために弱者を利用していると修道女はずいぶん辛辣《しんらつ》なことを言ったが、私は誠実であり真摯《しんし》であり、邪念はなかった、と、誰はばかるところなく言える。よしんば、窮極の願いが自らの救済であろうと、私が子供たちを救おうとすることに、咎《とが》められるような邪心はない。 「いいえ、あなたは、怖がっている。自分が救われることのない存在だと認めるのを。そのために、あなたは、救援を求め、ホームを再建し、やり直し、最初の失敗はなかったことにしてしまおうと、やっきになっている」 「子供たちを立直らせるのに成功するのは、悪いことじゃありませんでしょ。でも……こんなふうではいけないわ。どうしたらいいのかしら。マ・スール、救《たす》けていただきたいのよ。あの子たちを、快活な、健康な、社会に順応できる、よい子に」 「鋳型《いがた》に嵌《は》めて、JISマークを捺《お》すのね」 「わかっています、あなたの言うことは。でもね、結局、求められるのは、順応、それだけなのよ、にこにことね、何の疑いも持たず……」 「健気《けなげ》にね」 「そう健気に」  私とマ・スールの苦《にが》い笑いが、はからずも、一致した。  私だって、無理な要求だと承知している。でも、それを否定したら、破滅しかないじゃないの。 「健気印《けなげじるし》が社会のJISマークなのね」  私は言い、私の背中にも、そのマークが焼きつけてあるのだろうなと思った。  しかし、私は、斜にかまえて何もせずに薄笑っているわけにはいかないのだ。健気印と嗤《わら》われようと、子供たちに野放図《のほうず》な放埒《ほうらつ》も無気力な従順も許すわけにはいかない。中庸。ほどよいバランス。正常な社会人とは、まるで、綱渡りの曲芸師だ……と内心思っても。 「目にあまるんです」  憤激した声で、福原芳枝は訴える。  この激昂は、いくらか好い徴候なのではないかしら。私は、あまりに空虚な平穏、無為に、うんざりしていた。 「石井さんや木島さんとも相談して、二人とも、やはり園長先生にお話しした方がいいと言うもんですから」  そこまで言って福原芳枝は言葉を切り、あとを続けろと促《うなが》すように、木島けいを見る。木島けいは、石井純子と目顔を交《かわ》した。積極的なのは福原芳枝一人で、あとの二人は、あまり気が進まないようだ。 「ね、ちょっとひど過ぎるのよね」  福原芳枝は、二人に話しかける。  木島けいが、しぶしぶというふうにうなずいた。 「何がひどいんですか」  私は福原芳枝に目を向けて訊《たず》ねた。  木島けいと石井純子は、けだるい様子で椅子の背にもたれている。  まるで、島じゅうが、子供も職員もいっせいに躁鬱《そううつ》病の鬱状態になっているみたいだ、と私は感じる。  福原芳枝の活気が、いっそ頼もしいくらいのものだ。 「山部さんと浅妻梗子です。他の子供に悪影響を及ぼします。でも、わたしたちの口からは注意できませんわ。妬《や》いているのかなんて思われたら、嫌《いや》ですもの」 「以前にも、あの二人は、問題を起こしたんじゃなかったかしら」  私がそう呟《つぶや》いたとき、窓ぎわに佇《た》ったマ・スールの眼が、強く光って私の方を見た。しかし、マ・スールはすぐにまた暗い窓外に目を放った。 「人目につかないところで、二人は抱きあって、あの、あの、キスまでしているんです。困ります。子供たちの風紀を取りしまらなくてはならない立場なのに」  ホームが焼ける前——第一次ホーム期とでも呼ぼうか——の情景が、又一つ、視えた。  子供たちが本土でつきあっていた男たちが島に、船でこっそり忍んで来たことが、何度かあった。  子供たちは実に巧みに職員の眼をごまかし、抜け道を通って廃墟のアパートに入りこみ、男——といっても、ごく若い、十五、六から七ぐらいの少年たち——と逢いびきし、躯をかわしあう時を持った。それを職員から知らされ、私は、現場にそっと行き、目撃した。女の子と少年が、半裸でもつれあう姿は、私を逆上させた。  その一人が、幼い吉川珠子だった。  そう思い出したとき、私は、声をあげた。  珠子を海に突き落とそうとしている私の姿が視えたのである。  そんなはずは、ない。子供たちは、船で脱出しようとして溺《おぼ》れたのだ。思い違いか。私の意識が、かってにでっちあげた偽《にせ》の記憶だろうか。 「園長先生、どうします?」 「わたくしが善処します」  私は、強く言い、三人を帰した。  山部国雄と浅妻梗子。この森閑と半《なか》ば睡《ねむ》ったような島で、二人は、行動を起こした。  何か起これと望む私の意志が、この事態をひき起こしたのか。それとも、以前に一度起こったことが、再び形をとったのだろうか。  たしか、二人は、問題を起こしたことがあったのだ、と私は思ったが、はっきりした情景は見えてこなかった。  何にしても、好ましいことだ。これを利用して、島を活性化できる。そう、私は思った。  今度は、失敗すまい。子供たちのエネルギーを、上手に善導し、活き活きとした、しかも秩序ある共同体を作り上げよう。  浅妻梗子と山部国雄が愛しあっている。 「けっこうなことだと思いますわ。ねえ」  マ・スールに私は言った。 「愛。何よりも大切なのは、それですわ。山部お父さんは、子供たちに、美しい恋愛のお手本を見せてくれると思います。そうして、出産ということになったら」 「おやめなさい」  修道女は、さえぎった。 「どうして、いけませんの?」 「あなたは、自分が何を言っているのか、わからないのですよ」 「いいえ、よくわかっています。愛。どうして、この言葉を口にしてはいけませんの」 「あなたに必要なのは……」  言いかけて、修道女は口を閉ざした。  翌日、私は、第3ホームに行ってみた。ここしばらく、ホームには足を運んでいない。各ホームに干渉がましく私が顔を出すのはよくないと自制したつもりなのだが、もしかすると、責任を回避したかったのだろうか、という気がしてきた。  日曜日で、学習は休みである。こういうときこそ、子供たちはのびのびと羽をのばし、お父さんお母さんを困らせるくらいであってほしいのに、事態は私の想像以上に悪化していた。  蛹《さなぎ》になりかかった虫のように、子供たちは壁にもたれて足を投げ出したり、寝ころがったりしており、皆をリードして活気づけなくてはならない木島けいまでが、何かぼんやりと座卓に頬杖をついている。 「まあまあ、あなたたち」  私は、せいいっぱい明るい声をはり上げた。 「外はすばらしいお天気なんですよ。もったいないじゃありませんか。うちの中にひきこもって。風は少し強いけれど、それだって気持いいくらいです。さあ、外に出て遊びましょうよ。私もいっしょに遊ぶわ。ほかのホームのひとたちも、みんな、こんなふうに閉じこもっているの? よくないわ。みんなで遊びましょう。鬼ごっこ? 陣取り?」  誰か一人ぐらい、そんな子供っぽい遊びはいや、とか、気持の悪い猫撫で声は出さないでよ、とか、反抗しないものか、と私は思った。  そう、以前、子供たちがよく毒づいた言葉だ。  ばばァ、うるせえや。あんたなんか、何も知らないお嬢さんのなれの果てじゃないか。男とやったこともないんだろ。しゃぶの味も知らないで偉そうな口をきくなって。  そっちはわたしたちのおかげで自分の存在理由をやっとみつけているんだ、と生意気な口をきいたのは、浅妻梗子だった、たしか……。  ああ、私は、ずいぶんいろいろなことを思い出しはじめている。  子供たちの悪罵《あくば》に私が小ゆるぎもせず対等に、いえ、むしろ上位に、立っていられたのは、姉を殺した悪人で、私も、あるからだ。  あなたたちの悪事、そんなものが何なの。賭博、不純異性交遊、ゆすり、つつもたせ、かわいいものじゃないの。  姉殺しの記憶を持たなかったら、私はとうに逃げ出していた、いえ、そもそも、この仕事につくことなど考えもしなかっただろう。 「浅妻梗子さんがいませんね。おや、山部お父さんは?」 「知りません」  木島けいがのろい声で言い、躯をひきずり上げるようにして立ち上がった。 「皆さん、外に出ましょう。いいお天気です」  子供たちは、見えない糸でつるし上げられたように立ち上がり、入口の方に行く。下駄箱からめいめいの靴を出し、外に出て行った。  私は隣の部屋をのぞいた。浅妻梗子と山部国雄は、そこにいた。二人の姿勢は奇妙なものだった。離れて腰を下ろし、畳についた片手に躯の重みをかけ、互いの方に少し身をのり出しながら、そこで躯の動きをとめていた。硬直したように。  しかし、石化してしまったわけではなかった。私が声をかけると、二人はゆっくりと首を私の方に向けた。 「抱き合わないの」  私は焦《じ》れて、足を踏み鳴らした。 「抱き合って、キスをしなさいよ。山部さん、あなたはそうしたいんでしょ。浅妻、おまえも、山部に抱かれたいのでしょう。思いどおりにしたらいいじゃありませんか。あなたたちが前に何をしていたか、私だけではない、皆知っています。あなたたちは、廃墟のアパートの一室で、心中した」  あっ、と私は悲鳴をあげた。とんでもない言葉が口からとび出したのに、あっけにとられたのだ。  心中。三人の死人、と、記憶に刻みこまれていた、そのうちの二人は、これなのだろうか。  誰がどのようにして、と、それが判然としないまま、三人の子供が脱走しようとして溺れた、と、かってな記憶を作り上げていたのだろうか。  スキャンダルを揉《も》み消そうと、職員の考えは一致した。子供たちは幸い、気がついていなかった。私たちは、二人の骸《むくろ》を海に埋葬した。そうではなかったろうか。確かに、そうだった。  ホームの運営が強固なものになるまで、こんな不祥事を公《おおやけ》にはできない。子供たちには、二人は事情があって本土に戻ったと話した。浅妻梗子が、島に来る前に起きた事件の参考人として本土の警察に呼ばれた、山部お父さんは付き添っていった。そう、話したのである。  本部には、もう少し後で、二人が誤って海に落ちたと報告する。いま、子供たちを動揺させる事は避けましょう。職員会議で、そう決めたのではなかっただろうか。 「あなたたちは、死人。そうなの? あなたたちは、心中したの? いいえ、私の間違いね。何とかおっしゃい。あなたたちが心中したという私の記憶は、嘘ね」 「わたしたちが心中?」  二人は、うっすら笑って言った。 「してほしいんですか」  山部国雄の口調が、私の記憶をまたあやふやにした。  二人が心中した。そうであったら、他の職員が、二人を怪しまないわけがない。  妄想だ。おかしな偽《にせ》の記憶が、私を混乱させる。 「心中しろと、命じるんですか、あなたは」  山部国雄は言った。 「いいえ」  私はあわてて言った。私は、島を支配しかけている。うかつな事は言えない。私の言葉がそのまま形をとるとしたら。 「山部お父さん、あなたは、浅妻梗子を愛していらっしゃる」  私は二人の傍に横坐りになった。 「美しいことね」  羨《うらや》ましいことと言いそうになり、言いかえた。 「ぼくは苦しみましたよ」  山部国雄は言った。彼が自分の言葉を喋りはじめたので、私は少しほっとした。 「ぼくは、ここの子供全員を善導する責任がある。一人の少女を愛することは、ここでは、悪だ」 「わたしは、誰でもよかったのよ」  浅妻梗子が言った。 「たまたま、彼が一番積極的だった。それだけ。ほかの男たちも、わたしを抱きたがっていた。わたしと、蓮見マリちゃんをね。ほら、何ていったっけ、フェロモン? あれが、わたしとマリちゃんは濃厚なんだって。わたしは、セックスは別に好きじゃない。でも、絶対いやってほどでもないわ。どうでもいい。どうせ、同じようなものよ。何がどうだって」  単調な熱のない声で浅妻梗子は喋り、ちょっと視線を泳がせた。 「マ・スールはいないの? わたし、あの人は好きよ。男にキスされるより、あの人にキスされる方が気持がいい」  浅妻梗子の言葉が耳に入らないかのように、山部国雄は続ける。 「梗子に、一目で、ぼくは惹《ひ》かれた。完全に、女だ、この躯《からだ》は。しかも、少女の残酷、少女の清冽、それを兼ね持った躯だ。これ以上のコケットリーがありますか。しかし、ぼくは自制した。この恋情を、ちらりとものぞかせまいと努力した」 「まるみえだったわよ」  浅妻梗子は言った。 「絶えず、わたしは聞いていたわ。好きだ、愛してくれ、ってこの人が言うのを。わたしだけじゃない、みんな、聞いていたわ」 「そう。でも、愛されるというのは、好いことよ」  わたしはうなずいて言った。 「非行は、愛情の欠如《けつじよ》から生じるのだわ。山部お父さんは」 「その、誰だれお父さん、誰だれお母さんて、偽善ぽい声で言うの、やめてくれないかな」浅妻梗子は言った。「鳥肌が立つわ。ここで、何が厭《いや》ってね、あんたのその話しぶりだよ。猫撫で声。お茶を淹《い》れましょう、だの、テーブル・クロスをどうとかだの。やめてほしいわ。みんな、言ってるよ。吐き気がするほど厭だって。偽善者」 「ああ、やっと、以前のようになってきましたね。その反抗的なところから、やり直さなくてはいけないのだわ。反抗のエネルギーというのは、若い人には大切なものよ。決して、失なってはいけないのだわ」  うんざりしたように、浅妻梗子は肩をすくめた。 「ホームのお父さん、お母さんの」 「うるせえや」梗子はどなった。「今度、その偽善者声を出したら、ぶっ殺してやる」 「梗子」すがりつくように、山部国雄は、浅妻梗子の腕をつかんだ。梗子は静かに、山部国雄の手をひきはがした。  そうして、すっと立ち、部屋を出て行った。戸口で振り返り、 「心中じゃないよ。教えてやらあ。あたいは、その男に殺されたんだ。心中なら上に無理がつくやつだよ」  捨てぜりふを残した。  山部国雄が、後を追った。  ひどいでたらめ。  後にとり残された私は、苦笑した。  無理心中だって。まあ、何という事を言うのでしょう。子供のくせに。  子供というものは、明るく、前向きに、健康的に、未来への希望に溢《あふ》れて、強く、正しく、清潔に、生きるものなのです。二十一世紀をになうのは、彼らではありませんか。  呪文のように、私は呟きつづけた。明るく、前向きに、と、空虚な言葉を。  私はホームを出、二人を探した。山部国雄が建物のかげに入って行くのを見た。  閉ざしても、閉ざしても、破れた笊《ざる》のように、子供たちはどこかしらに抜け穴を作る。  私の心の奥底に、それをおもしろがっているところがあるようなのだけれど、私はいそいで、その不謹慎な気分を封じこめた。  釘を打ちつけて通路をふさいだ板が、押すとはずれた。  前に、子供たちが豚を殺して壁に釘で打ちつけ、変な儀式をやっていた、あれも、この道を通ったのではなかったかしら。  私は思い出していた。あれは……豚の儀式は、以前にも、ホームが焼ける前にも、やっていた。子供たちがやっていることを知り、私は不愉快さ不気味さにほとんど逆上した。  そうして、それからほどなく、浅妻梗子と山部国雄の骸《むくろ》を……。  思い出したくない事が、ヴェールをはいで牙を剥《む》く。  豚の儀式を禁じた後、私は、始終、ほかに抜け道はないかと廃墟をしらべてまわるようになり、あるとき、二人を発見したのだった。  そうだ。場所は、わかっている。私は、足を速めた。  錆びた鉄扉が半開のまま動かないアパートの一室。  浅妻梗子と山部国雄はそこに倒れていた。  山部国雄の手に刃物があった。二人の躯は血を流しつくしたように蒼黒く、ふやけ波打った畳はその血をことごとく吸いこんでいた。かすかな腐臭。  私は、混乱してきた。この死、いえ、殺害、は、いつ行なわれたというのか。  今ではない。しかし、ホームが炎上する前にあった事としては、骸はまだ腐敗が少なすぎる。  とにかく、何がどうであれ、私は失敗したのだ。その証《あか》しである二人の骸。  いいえ、まだ、やり直せるわ。そう、二人は本土に戻ったことにして。何とか糊塗《こと》して。  私は、失敗するわけにはいかない。無能な人間だと認めてしまったら、もう私は……。  姉を殺しながら、穏やかな暮しを父と営《いとな》んでいる継母を、私は思い浮かべた。私が、罪を負い滅亡する役まわりをひき受けねばならないのですか。  いやだ、と私は拒否した。  やり直そう。やり直そう。最初から。  どんなことがあっても、挫《くじ》けてはいけない、と言ったのは、父ではなかっただろうか。  私は、根気がないと、しばしば父に叱られたものだった。学校の教師も、それが私の欠点だと言った。図画や工作の時間に、作品を最後まで完成させず、途中で捨ててしまうからだ。  根気がないのではない。私は、不完全なものが嫌いなのだ。美しく完成された姿は脳裏にあるのに、私の手は醜い不完全なものしか作り出さないから、私は絶望して途中で投げ出していたのだった。念入りに、綿密に、精魂こめて作るのだけれど、そのために時間内に間にあわなくなる。あとはざっと仕上げて提出しなさいと教師は言い、私は未完の作品を叩きつぶす。図画であれば、画用紙をくしゃくしゃに丸める。ふだんはおとなしくて従順な生徒なのに、そのときは、手がつけられない強情《ごうじよう》を発揮していたようだ。  他人に誤解されると、言い開きをせず、心の中で相手を蔑《さげす》む。それも、幼いころの私であった。  小学校の一年のときだった……と、二人の骸を後に、アパートを出、西北岸を歩きながら、遠い、些細《ささい》な記憶がよみがえる。どうでもいいような事ばかり、どうしてこうも明瞭なのだろう。色紙を蝶の形に切り、画用紙に貼ることを、工作の時間に命じられた。  私が提出した作品を一目見て、教師は、もっとていねいに貼りなさい、と、つっかえした。  翅《はね》の両端に糊《のり》がついていなかった。  私は、蝶の翅だから、ひらひら動くようにと工夫したのだった。教師の目の前で、私は画用紙を破った。説明する事を思いつかなかった。  手に負えないひねくれた子供だったなと、今になれば思う。  失敗を他人の目にさらすのも、極度に嫌だった。  生まれついての性格は、一生、なおらない。  防波壁にもたれると、波しぶきが頭にかかった。  そうして、私は、はっきり思い出した。私の手は、たしかに、吉川珠子をここから突き落とした。  ホームが燃える前の事を、私は言っているのだ。  二人の骸を発見し、茫然と、私はここを歩いていた。そのとき、吉川珠子と行き合ったのである。  子供がいるべきではない場所である。珠子の方でも、はっとして身をひるがえし、逃げようとした。私は、追った。逃げる鼠を猫が本能的に追うように。  すばしこい珠子の動きは、私の怒りを誘発した。それでなくても、浅妻梗子と山部国雄の死は私を逆上させていた。  吉川珠子は、石段を身軽に駆け上がり、壁の上に立った。そのとき、私は石段の下まで追いついていた。夢中で石段を上り、途中から手をのばして、吉川珠子の足首をつかんだ。  吉川珠子は私に目を向け、怯《おび》えた表情で、私の胸を指し、 「血!」  と叫んだ。  そのとき、更に数歩上った私を、眼球がくるりとひっくり返って周囲が空白になる感覚が捉《とら》えた。  私の手は、珠子を海に突き落としていた。  二人の骸に触れてついた血を、見咎《みとが》められた。そう思ったとたん、私の手は反射的に動いていたのだ。  私は逆巻《さかま》き泡立つ海をとても見下ろしてはいられず、地面にくずれるように坐った。  私には、許されるべき、一かけらの余地もなかった。  幼い子供と無力な生き物の受苦だけは、絶対に、許せない。許容できない。そう、私はいつも思っていたではないか。自分が子供のとき苦しんだから、子供の苦痛は、人一倍、我が事のように体感できる。子供を苦しめる事には、どんな弁明も通用しない。そう、身にしみて思っていた私が、吉川珠子を……。  浅妻梗子と山部国雄の骸を発見して、私は錯乱しきってはいた。しかし、それは弁解にはならない。理性の手綱《たづな》が切れたとき、私の本性が牙《きば》を剥《む》き出したのだ。自衛本能が猛然と行動を起こした。自衛本能ばかりではない。それまでに圧《お》しかくされていた激しい力のすべてが、あの瞬間に結集し、炸裂した。  波が岸壁を打ち叩いた。  明らかになった記憶に打ちひしがれながら、私はホームに足を戻した。  まだ、やり直せるのではなくて……と、弱々しく呟きながら。  三人の死者を出し、ホームは子供たちによって焼かれたけれど、私はとにかく、ここまで再建したではないか。マ・スールの助けを借りて。  ホームは潰滅《かいめつ》はしないわ。  何とか、考えよう。しかし、何と困難なのだろう。子供たちは、すっかり生気を失なってしまっている。職員も。彼らを活気づかせなくては。  あたりが薄昏いのに、私は気づいた。  もう、日没か。ずいぶん速く時が経つ。  それとも、私はよほど長い時間、自失していたのだろうか。  廃墟のアパート群の間の、迷路じみた道を、私は歩く。風が鋭い唸《うな》りをあげて、壁の間を吹き抜ける。亀裂《きれつ》の走る壁の一部が、欠け落ちてくる。四ツ角では木屑がつむじ風に舞っている。  足もとは闇に沈みはじめた。  ホームは、三棟とも、森閑《しんかん》としていた。灯さえともっていない。夕食の時間だろうに。  第3ホームに入り、電灯をつけた。子供たちは、部屋の畳の上に棒きれのように眼を開けたまま、横たわっていた。木島けいも、同様である。  私は声を上げて呼び、揺り動かした。反応はなかった。  第2ホームに行ってみる。ここでも、子供も職員も眼をぽっかり開けて横になっていた。第1ホームに足を運ぶのが、私は怖ろしかった。先に、事務室をのぞく。ここでも、事務の小垣ふじ子と二人の雑役夫が虚《うつ》ろな眼を開け放心していた。最後に第1ホームをのぞき、島じゅうの全員が、私一人を除き、手のほどこしようのない、深い無為に陥《おちい》っている事を知った。  どのように物音をたててもゆさぶっても、彼らを覚めさせることはできない。私は、バケツを棒で叩いたり、わめいたり、こっけいな努力を続けた。  台所におかれたライターが、私に最後の手段を思いつかせた。第1ホームの台所の紙屑籠に、私は食用油を注いだ。それから、ライターで火をつけた。火事。この恐怖こそ、彼らを活気づけ、行動に駆り立てるに違いない。火事よ! と叫びながら、私は第2ホームに走り、放火した。更に、第3ホーム、そうして事務室にも火を放った。  外に出て、待った。  闇は島を暗黒に塗りこめ、炎が美しく火柱を噴き上げた。  誰一人、走り出てくる者はいない。  炎に照らし出されて、マ・スールが、私の向い側に立っていた。 「どこにおられたの。あなたの助けが必要です。何とかしてください。このままでは、皆、焼け死んでしまいます。私は、皆を、奇妙な沈滞《ちんたい》から脱け出させようとして、火をつけたのに」 「そうだったかしら」  修道女は、私をみつめた。私と修道女の眼はからみあった。 「そうだったかしら」  修道女は、深い声でくり返した。  悲鳴が、のどを衝《つ》いた。 「あなたは……」 「ええ。私は?」 「あなたは……」  風に煽《あお》られ、火勢はいっそう強まった。  火の粉が黒い空に燦爛《さんらん》と散り、流れ、舞った。火柱は、風に吹きなびき、右に左にゆらいだ。  島全体が炎と化したように見えた。 「本土からも、この火は見えるでしょうね」  修道女は言った。  再び、私は叫んだ。 「あなたは……」 「お言いなさい。私は?」 「あなたは、私」  私は叫んだ。ようやく、私は、楽になった。息苦しくかぶさっていたものが、すっぽりとれたように。 「あなたは、私なのね」  修道女は、ゆっくりうなずいた。 「私は、あなた」  私は、地に膝をついた。私のした事は、明白になった。  手に負えない子供たち。確執《かくしつ》の絶えない職員。理想的な楽園であるべきホームは、混乱と喧騒《けんそう》と紊乱《びんらん》した風紀の巣《す》となり果てつつあった。子供たちのもとの仲間は、時々本土から船でしのび込み、それを発見し追い返すのに手を焼いた。私は絶望しながら、くずれ倒れようとする家屋を一人で支《ささ》える努力をしているつもりだった。  そんな中で、浅妻梗子と山部国雄の骸《むくろ》を、私は発見したのだった。山部国雄が浅妻梗子に心を奪われ理性を失ない、兇行に及んだものらしい。廃墟のアパートの一室に血溜《ちだま》りに伏した二人を見た。それにひきつづき、逆上した私は、吉川珠子を海に突き落としてしまった。いえ、壁の上にいるのを抱き止めようとして……ああ、そのときのことは、よくわからない。抱き止めようとして、はずみで珠子が落ちたと、思いたい。  始めから、やり直したい。子供のころ、描きそこなった画用紙をくしゃくしゃに丸めたように。失敗したきびがら細工を叩きこわしたように。私の思考は、一瞬の間に、子供に退行した。  しかし、大人の悪知恵も、私には備わっていた。夕食のスープに私は睡眠薬を溶かし入れて給した。そうして、全員が睡りこんだホームに、火を放った。  それが、これだ。  熱風を浴びながら、私は切望しつづけた。  もう一度、やり直せたら。始めから、やり直せたら。  助けてください。あなたの助けが必要です。助けてください。  人は誰でも、意識の下に、表面にあらわれた自分とは正反対の自我が存在している。私の必死の呼びかけに、それは、応《こた》えた。  私の前に、あらわれた。燃える炎を前に、私の意識は、島の再建を私に描いてみせた。  一度起こった事が、少し歪《ゆが》んであらわれたに、それは、すぎない。  やはり、起きてしまったことは、起きてしまったことなのだ。やり直しはきかない。それでも、なお、私は祈らずにはいられない。  助けてください。もう一度、やり直させてください。  マ・スールの姿は消えていた。  やがて、この火を遠目に見た本土から船が来るのだろう。そうして、私は、現実の獄に投ぜられるのだろう。  その前に、もう一度、やり直させてください。今度こそ、うまくいくのではないでしょうか。私は、自分の愚かさを知りました。卑劣な弱さも知りました。でも、子供たちを愛そうとした事も真実です。かつて姉を殺害した私には、すべての救いはあらかじめ失なわれているのでしょうか。  もう一度、意識の中の幻影の世界でけっこうです、やり直させてください。子供たちが、明るい無邪気な笑顔で私に手をさしのべるホームを作らせてください。  助けてください。あなたの助けが必要です。助けてください。   エピローグ  暖かい陽射しを浴びて、めざめた。  窓から射し込む光の束《たば》は、デスクにむかってのび、そこに置かれた淡紅色の封書を浮かび上がらせていた。  小さい鋏《はさみ》は光の破片を降りこぼしながら、封を切った。  中の紙片も淡紅色で、書かれた文字は読みにくく歪《ゆが》み、光の中に流れ消えそうだが、あなたの助けが必要だ、という意味が読みとれぬほど不明瞭ではなかった。修道女は、立ち上がった。 Fin 文中の詩は、西条八十「トミノの地獄」から引用させていただきました。(作者) 本書は、一九八八年八月に、小社より刊行されたものです。 本電子文庫版は、本書講談社文庫版(一九九四年一〇月刊)を底本としました。