皆川博子 旅芝居殺人事件 目 次  水底の祭り  牡 鹿 の 首  紅 い 弔 旗  鏡の国への招待  鎖 と 罠  水底の祭り     1  M**湖から、屍蝋《しろう》があがった。  そのニュースは、地元である東北の県内では大きく報じられたのかもしれないが、東京の新聞には、社会欄のすみに、埋め草のように載っただけだった。  店はあけてあったが、宵の口なので、まだ客はなかった。  ママのミツエが、やにで黄色く染まった指で煙草をくゆらせている傍《そば》で、わたしはその記事に目をとおしていた。  U字型の小さいカウンターの隅では、森戸が、別の新聞をひろげていた。森戸は、ミツエの叔父であり、この店の出資者なのだから、客とはいえない。  わたしが、新宿歌舞伎町のビルの地下にあるバー�シェゼル�で働くようになってから、三カ月。  いつものように、ものうい、奇妙に暗い雰囲気だった。  客が来はじめて、店の中が活気づく前の一刻《いつとき》、ミツエは、癇の強い馬が、疲れはてて苛立《いらだ》っているような、荒々しい不きげんさをむき出しにすることが多い。それが、ミツエの素顔だった。客の相手をするときは、ひどく高調子になり、かえって客を疲れさせるようだった。白い部分の少ない切れの長い目は、目尻が少し上がり、激情的で、しかも感情の起伏のはげしい性質をのぞかせている。ミツエは、他人を疲れさせた。わたしも、ミツエといると疲れた。  ミツエの正確な年をわたしは知らないが、おそらく、三十前後だろう。  森戸は、四十五だということだが、鬢《びん》のあたりはかなり白く、それが品のいい感じで、わたしには好ましかった。ものしずかで、憂鬱な翳《かげ》があった。森戸は、週に二、三度のわりで、店に顔を見せる。森戸がドアを押して入ってくると、わたしは、わけもなく、胸がさわいだ。  明るい、いきのいい、無邪気な女の子、と森戸はわたしを思い、そこが気にいっているらしいので、わたしは、彼の前では、つい、実際以上にはしゃいだ態度をみせてしまうのだった。  わたしは一度は同棲して別れた経験もあるというのに、森戸はわたしを十六、七の小娘扱いした。そうすることで、わたしが彼に傾斜していくのをさえぎっているようでもあり、わたしは、はがゆかった。 「屍蝋って、ミイラのようなものでしょう」  わたしは、夕刊から目を上げて、ミツエと森戸のどちらにともなく言った。 「屍蝋? 突然、妙なことを言いだしたものね」 「湖の底から、屍蝋になった水死体が上がったんですって。水の中にいたら、腐ってしまわないのかしら」 「死体が水中や土中にあるとき」と、森戸がやわらかく口をはさんだ。森戸の荒い声を、わたしは聞いたことがない。「空気と接触が断たれると、脂肪酸ができて、それが土や水のカルシウム、マグネシウムなどと結合して、蝋状になる。石灰分の多い土質だったりすると、腐らないで、屍蝋になることがあるんだよ」  森戸の本業が金融業、いわゆる高利貸だと聞いたとき、わたしは驚いたものだった。森戸には、何か、生きることを半分下りてしまっているような感じがあって、抜けめなく強引でなくてはやっていけないであろう高利貸という仕事には、およそ、そぐわない気がした。しかし、取りたてる金は、あくまで冷静に事務的に取りたて、中途半端に情けをかけたりすることはないらしかった。  わたしは、新聞の記事にもう一度目をやり、「東北の、**県の、M**湖ですって。ママ、知ってますか」  ミツエの言葉には、かすかな東北|訛《なま》りがあるのに、わたしは気がついていた。叔父と姪の間柄だというが、森戸には訛りがなかった。 「M**湖……」  ミツエが息をのんだ気配に、わたしは目を上げ、はっとした。ミツエと森戸は、激しく、凝視しあっていた。まるで、互いの眸《ひとみ》の奥にうつる自分の顔をみつめるように。  憎悪なのか、悲哀なのか、このとき二人の表情にあらわれたものを、わたしは理解することができなかった。ただ、その激しさが、わたしをおびえさせた。 「ママ……」  森戸とミツエは、みつめあったまま、ほとんど同時に、新聞に手をのばした。森戸の指が先に新聞に触れたが、奪いとったのは、ミツエだった。ミツエは、こめかみを痙攣《けいれん》させ、記事にすばやい一瞥《いちべつ》をくれたが、急に投げやりに、「だから、どうしたっていうのよ」新聞を放り捨てた。  森戸は、ゆっくり手をのばし、新聞をとって読み、たたみ直して、わたしに返してよこした。押えた表情からは、何もよみとれなかった。 「ママ……」  切れの長いミツエの目は、激しい光を帯びていた。瞼《まぶた》の下の隈が濃さを増し、化粧やけし  た肌が鉛のようだった。  そのとき、客が入ってきたが、ミツエは、凍りついたような表情を動かさなかった。 「冷えるぜ」客は、コートの衿《えり》をたてたまま、スツールに腰を下ろした。「ここも、そろそろ、暖房をいれた方がいいんでないの」  ミツエは、指の関節が白くなるほどに拳《こぶし》を握りしめていた。ヒステリーを起こす寸前だと、わたしは見てとった。  ボトルを棚からとって、客の前に置き、 「ほんと、急に冷えてきましたね。ちょうどいいときって、ないのねえ。ついこの間まで、ものすごく暑かったのに」奇妙に険悪な空気を感じさせまいと、わたしは、調子はずれに明るい声をあげた。  兇暴なものが胸の中でふくれ上がるのを、必死にこらえているような、ミツエの表情だった。  ミツエが、この村田という客をきらっているのに、わたしは気づいていた。村田は、気のいい、朴訥《ぼくとつ》な感じの男で、なぜミツエが毛ぎらいするのか、わたしには納得がいかなかった。酔って執拗にくどくこともなく、水割り三、四杯できげんよく高笑いし、他愛ないことをしゃべって帰ってゆく、世話のやけない客なのだ。金払いもきれいだった。こんな客を大事にしなかったら、罰があたる。  森戸は、ひっそり坐っていた。座をはずしたいのだろうと、わたしは察した。以前、ミツエが荒れかけたとき、森戸が帰ろうとした。ミツエは、逃げるの、と、いっそう荒れて、くってかかった。そんなことがあったので、森戸は、ミツエを刺激しないよう、そっとしているのだろう。  ミツエは神経を病んでいるのではないかと、わたしは思った。こんなふうでは、この店は長くもちそうもない。  しかし、わたしは、ミツエを嫌いではなかった。ずるがしこいところや、とりつくろった小意地の悪さ、そういうものを感じさせなかったからかもしれない。 「村田さん、このところ、みえなかったじゃない。ああ、そうか、出張だったわね」 「ンだ、ンだ」と、村田はふざけたが、村田もミツエのただならぬ様子を感じとったのか、ぎごちない口調だった。  ガラスの砕ける音がした。ミツエが、床にコップを叩きつけたのだ。 「悪いけど……今夜は、だめだわ」ミツエは、限界にきていた。それでも、叫びだしそうなのを辛うじてこらえ、「すみません、村田さん。今夜は店をしめるわ」 「どうしたっての? ママ、欲求不満か。ぼくではだめ?」  村田の軽口は、通用しなかった。ミツエは、目を宙に据え、拳を胸の前で握りしめていた。  興ざめして、さすがに不愉快そうに、村田は荒々しく出て行った。  わたしは、外に本日休業の札をかけ、ドアを閉ざした。ミツエは、爆発した。身もだえし、歯ぎしりし、拳であたりのものをなぐりつけた。わたしは、茫然と、はじめて見るミツエの発作的な荒れようを眺めていた。  ミツエは、自分の狂乱を自分でもてあましているようだった。 「悠子ちゃん、帰りなさい」森戸が、ささやいた。  わたしは、急に躰《からだ》がふるえだした。とめようと思っても、とまらなかった。ミツエの狂乱に、まきこまれてしまった。わたしは、いきなり、倒れかかるように森戸の腕に躰を投げ出した。このまま、二人をおいて帰ったら、わたしだけ、はじき出されてしまう。そんな気持が、潜在意識にあった。わたしが去ったあと、森戸がミツエを抱き、なだめ……それが、いやだった。  叔父と姪という血の絆《きずな》を越えて、二人の間には、何かしら男と女のなまぐささが感じられた。それは、禁忌を犯した肉の愛ともまた違っていた。  ——ふつう、叔父というのは、あんな目で姪を見ないものだ……。  愛人同士では決してないようにみえる。だが、もし、二人が肉親ということを知らなければ、憎悪と深い疲労、そうして、どうしようもない一体感で絡《から》みあわされた夫婦、そんなふうに、わたしは思ったかもしれない。  森戸の関心を、わたしは、ミツエでなく、わたしだけにひきつけておきたかった。 「怖いわ……」森戸にしがみついて、わたしはふるえていた。  森戸は困惑したようにわたしの背を撫《な》で、「大丈夫だから、大丈夫だから」と、小さい声で言った。  ミツエの発作は、じきにおさまったが、その間に、わたしは、森戸の腕に抱かれる快さに、酔ったような気分になっていた。このまま、いつまでも、森戸の肌を感じていたかった。  森戸がそっとわたしを押しやって離そうとしたとき、わたしは、しがみついた腕に力をいれた。ひと思いに森戸を専有したかった。  強い力が内からわたしをつき動かした。わたしは、森戸の首に腕をまわし、大胆に、彼の唇に唇をあわせた。  甲高い声があがった。 「何よ、悠子、あんた、この人に惚れていたの」  喘《あえ》ぐような声で、ミツエは嗤《わら》った。  森戸は、静かに、だが、強い力で、わたしを押し離したが、その前に、わたしは森戸の舌を味わっていた。森戸も、その一瞬、力をこめてわたしの舌を吸い、その力は、舌の付根に痛みを感じるほどだった。  わたしは、力づけられた。どんなに、この人に愛されたかったか。ミツエと森戸が血のつながった叔父と姪であるなら、ミツエがわたしに嫉妬する理由はない。森戸は独身だった。わたしの愛を森戸は受け入れてくれた。そう、わたしは信じた。  わたしは森戸にすがりついていた。腕を離したら、森戸の心は、すうっとわたしから遠ざかっていってしまいそうな気がした。  森戸は、わたしの躰を抱きかかえるようにして離した。 「帰りなさい」と、森戸は言った。  わたしは、頬に血がのぼった。落ちついてくると、ひどく恥ずかしく、哀しくなった。怒りもあった。あからさまに、行動で、わたしは森戸に好きだと告げたのに。  ミツエと森戸を二人だけ残して帰るのは、どうしても、いやだった。  頑丈に閉ざされた樫《かし》の扉を乱打するように、わたしは森戸の胸を叩いて、好きなの、好きなの、と、叫びたかった。  ミツエはやがて立ち上がり、床に散ったガラスの破片をかたづけはじめた。わたしも手を貸した。  ヒステリーというのは、伝染するのだと、わたしは、みじめな気持で、ガラスを屑籠《くずかご》に捨てた。しかし、森戸はわたしを嫌ってはいない。それどころか、愛してくれている、本能的に、わたしはそう感じていた。  ミツエが少し落ちついたので、わたしたちは、三人揃って店を出た。通りは賑やかだった。ビルとビルの間の細い空は、濁った灰色だった。夜になっても、街の空は、ネオンの光で白夜のようだ。 「送って行こう」と、森戸はミツエに言った。そのとき、わたしは、森戸の計算を感じとった。気がたっているとき、ミツエはいつも、森戸の言葉に逆らうのだ。それは、ミツエ自身制御できない心の動きらしかった。だから、森戸は、ミツエがきげん悪いときは、黙っていた。指図がましいことは、いっさい口にしなかった。  いま、送って行こうと言ったのは、ミツエが拒絶するのを計算にいれてのことだと、わたしは思った。一人で帰れと突っ放せば、ミツエは、逃げるの、と、絡んでくるはずだった。案のじょう、ミツエは、うるさそうに首を振り、タクシーを拾って、さっさと乗りこんだ。  わたしは、森戸がわたしを送ってくれるものと期待した。だが、彼は、「悠子ちゃんのアパートは、十二社《じゆうにそう》だったね。まっすぐ帰るには、早すぎるんだろう」と、わたしが遊んでいくものと決めこんでいるように言い、タクシーに手をあげた。車がとまると、「じゃ」と短く言って、自分だけ乗った。森戸は放心しているようにみえた。     2  しつっこくつきまとえば、かえってうとまれることは、わかっていた。しかし、理性では押えきれないほど、わたしは昂《たかぶ》っていた。なりふりかまわず、森戸につきまとわずにはいられなかった。  どれほど深く、森戸に愛されたいと願っていたか、このときになって、わたしは自覚した。わたしは、森戸のことは、ほとんど何も知らない。わかっているのは、彼の職業が金融業であること、ミツエの叔父であり、シェゼルの出資者であることぐらいなものだった。  恋は、突然襲いかかる暴力に似ている。わたしは森戸を恋していたけれど、これまで、自制の箍《たが》をはめていた。その箍が、ミツエの狂態にまきこまれたとたんに、はじけとんでしまった。森戸にいきなり抱きつき唇を求めた自分の姿が、フィルムの影像のように浮かんだ。  ——ああしないではいられなかった。あれが、わたしにとって、一番自然な行動だったのだ。  森戸が辟易《へきえき》したとは思えなかった。  それでも、わたしは、森戸のタクシーにむりに乗りこめば、彼はわたしをアパートに送り届け、そのまま立ち去ってしまうのではないかと思った。森戸の乗った車が走り出してから、わたしは、もう一台のタクシーを拾った。  最初会ったときにもらった森戸の名刺を、わたしは持っていた。  先に走り出した森戸の車は、じきにみえなくなった。わたしは、運転手に、森戸の名刺にある住所を告げた。  中年の男の持つ、脂ぎった生活のにおい。わたしは、森戸からそれを感じとれない。  わたしは、森戸に、天の重みを肩で支え、全精力を、耐えるという一点に集中しているアトラスを、思い描いた。神経を病んでいるような激しいミツエを、がっしりと支え……それが、森戸の耐えている重みなのだろうか。  シェゼルで働くようになる前に、わたしが同棲していたのは、小幡という二十五になる男で、雑多なアルバイトをしながら、仲間といっしょに、十六ミリ映画の製作にうちこんでいた。活字世代は自己表現の場として、同人誌活動をやるが、わたしたちには、映像が、何より一番ぴったりくる表現手段だった。しかし、それは、おそろしく金をくった。  小幡を中心に、わたしたちの作ったシナリオは、危険な場面の連続だった。わたしたちは、わけもなく、死や、破滅や、炎や、崩壊のイメージに酔っていた。オートバイを暴走させる場面で、仲間の一人、里見が、転倒し、燃え上がる炎に包まれて焼死した。ガソリンタンクを股間に抱きしめて突っ走る気分がこたえられないと、いつも言っていた。わたしたちは、反逆と死を詩のように描こうとしたのだが、目の前に見た現実の死は、むごたらしく、無意味だった。映像は、実際の死の前に、力を失ってしまった。わたしたちは、生命を保護している肉体といううつわのもろさに、茫然とした。映画の製作は中止、わたしたちは解散したのだが、そのとき、小幡は、取調べの係官の前で、自分の立場をよくすることしか考えていなかった。わたしは、小幡と別れた。それはわたしにとって、何かの終わりであった。  小幡との日々を思い出すことは、ほとんどない。ふとしたときに脳裏に浮かぶのは憑《つ》かれたような目でマシンをとばす里見であり、一度だけ躰をかわした里見との一刻であった。 「この裏の方だね」タクシーの運転手が、前をむいたまま言った。青山通りを車は走っていた。 「そうだと思うわ」 「どの辺から入るのかな」 「あたしも、道はよく知らないんだけど」 「困るね」運転手は舌打ちした。  そのとき、細い露地から、一台のタクシーがバックで出てきた。表通りに出ると、右折して、渋谷の方に走り去った。その車に、見おぼえがあった。森戸が拾った車だった。 「ここで下りるわ」わたしは言った。  表通りから一筋入ると、住宅地になる。そのところどころに、マンションが侵入してきていた。高層のマンションの裏、落ちくぼんだ谷間のようなところに、木造の古びた平屋があり、玄間わきに、森戸商事と記した表札が、門灯に照らし出されていた。  玄関前にコンクリートを敷き、自家用車が一台おいてあった。  シェゼルの付近には駐車場がないので、森戸はいつも、タクシーで来ていた。  まるで何かにせきたてられるように、熱にうかされたような気分でここまで来てしまったけれど、わたしは、逆上から醒めはじめていた。ブザーを押すのが、ためらわれた。ひどく愚かしいことをしているように、森戸の目にうつらないだろうか。  愛していると告白したのに、森戸は、わたしを突き放して一人で去ったのだった。淋しいみじめな気持で、わたしは、車にもたれていた。家の中から、灯がもれていた。  わたしがブザーを押したわけではないのに、玄関のドアが開いた。森戸が出てきた。外出するつもりか、コートを着ていた。わたしに目をとめ、森戸は軽い声をあげた。 「どうしたんだ」  そのとき、家の中で電話のベルが鳴った。わたしに気をとられて、森戸は、うしろ手にドアをしめた。電話の音はとじこめられた。森戸は歩み寄ってきた。 「だって……」わたしは、言葉が出なくて、森戸の胸に頭を寄せるようにして立っていた。森戸の手が肩にふれ、わたしを抱き寄せかけた。しかし、その手は途中でとまり、なだめるように肩を軽く叩いただけだった。 「ママのところに行くんですか。行かないでください。行かないで」 「今からミツエのところに行くくらいなら、家まで帰って来たりはしない」 「それじゃ、どこへ」  森戸は、一呼吸おいて、「きみには関係ない」と言った。 「わかるわ」わたしは叫んだ。「ママのところでなければ、M**湖ね。わかりたくないけれど、わかってしまうの。あなたを好きだから。屍蝋のことが気になるのね。気がついていたわ。ママがヒステリーを起こしたのは、M**湖で蝋化した水死体があがったという記事を読んでからだわ」わたしは、うわ言のように続けた。「森戸さん、あたし、怖いわ。ママは、どうして、あの記事でヒステリーを起こしたの。考えられることは、一つしかないじゃないの。ママは、誰を殺したの」はげしい震えが、また、全身をとらえた。わたしは足の力が抜け倒れこみそうになるのを、森戸の胸にすがることで支えた。 「きみは、少し昂奮しすぎている。ミツエのヒステリーのおかげで、きみまで、おかしくなってしまったね」 「森戸さんを……好きなの。だから……」  もっと気のきいた、上手な愛の告白というのは、いくらもあるはずだった。わたしは、まるでぶざまに、森戸をうっとうしがらせるようなやり方しかできない自分に腹をたてていた。でも、ほかに、どうすることもできなかった。 「あなたがママをかばうのなら、あたしも、誰にも言いません。ただ、あなたとママの秘密を、あたしにもわけて」  森戸は、わたしをみつめ、ふいに決心したようだった。車のドアを開け、助手席にわたしを坐らせて、運転席についた。エンジンをかけた。 「M**湖は、たくさんの水死体を抱きこんでいる湖だ」森戸は、発進しながら言った。 「遭難し、湖底に沈んだ者は、数多い。めったに、遺体があがることはない。一箇所、水死者たちが流れ集まり、水底に群がっていると言いつたえられている淵がある。蒼黒《あおぐろ》くよどんだ淵の底に深い裂けめがあって、水面はしずかだが、その下に渦巻く湖流が、死者を呼び集めるというんだ」 「M**湖のことを、よく知っていらっしゃるのね」 「あの近くに住んでいたことがある」  青山通りに出て、車はスピードをあげた。 「M**湖の湖底は、水死者の集《つど》う墓場だ。不意の嵐にくつがえった釣船から放り出された漁師。自殺者。更には、数百年昔、合戦に敗れ、湖水に追い落とされた落武者。大正期に一度、蝋化した水死体が浮かび上がったことがあるそうだ。沸き立つ波に、底の方からすくい上げられたらしい」  森戸の声を耳にしながら、わたしは、光のささない湖底に、青白い死者の群れが、より集うて、ゆらめいているさまを思い浮かべた。それは妖しく、もの哀しい光景であった。それから、少しはやまった推察をしてしまったのかもしれないと気がついた。ミツエが、M**湖の水死者の記事に錯乱したのは、彼女が誰かを突き落とし殺したからとはかぎらない。ミツエの親しい人物が——たとえば、恋人が——M**湖で遭難し、水死して、その遺体がこれまで上がることがなかった、というような事情があったとすれば、そうして、それが、今にいたるまで、ミツエの心に深い傷口をあけているとすれば、湖底から上がった屍蝋が誰のものともわからないとしても、ミツエが、瞬間、死者が立ち戻ったような、あるいは、過去の中にひき戻され、とじこめられたような、錯乱をおぼえたのも、当然といえた。  森戸は、深夜営業のガソリン・スタンドの前で車をとめ、ガソリンを満タンにした。本当に、M**湖までとばすつもりらしい。七、八時間はかかるだろう。徹夜で走らせるつもりだろうか。  森戸は、再び発進した。 「新聞に出ていた屍蝋が、何百年、いや、ひょっとすると、千年も昔からM**湖が墓場に抱きこんだ数多い死者の、誰のものかは、わからない」森戸は言った。「いずれ、時代や性別、年齢などは、調査の上、発表されるのだろうが、それが、ぼくが殺した倭子《やすこ》だという確率は、皆無に近い。ぼくは、その罪の発覚を怖れているのではない。ぼくがM**湖に行くのは……」 「ちょっと待って」わたしは、悲鳴のような声でさえぎった。「いま、何ておっしゃったの。わたし、聞きちがえたみたい」 「古い話だ」森戸は、続けた。 「死刑になるような罪でも、人間の決めた法律は、たった十五年で時効。なかったことにしてくれる。だが、ぼくが倭子《やすこ》の生命を奪ったという事実は、二十年たとうと、五十年たとうと……決して、なくなりはしないのだ」 「森戸さん! それを、あたしに言うの? 信じられない。嘘? あなたがそんな……」  わたしは思いもよらない森戸の言葉に混乱し、激しく首を振って叫んでいた。 「M**湖までは、長いドライヴだ。きみに、その話をしよう」 「どうして……どうして、M**湖に行くの、いまさら。屍蝋を見ることは、できないわ」  森戸は、フロント・グラスを透して、前方をみつめていた。わたしの方を見ようとはしなかった。 「きみに、こんなことを言うのは、残酷だと思う。だが、やはり、言わなくてはならないだろう。シェゼルできみを見たとき、ぼくは、きみに好意を持った。きみがぼくに好意をもってくれていることもわかった。……実際、残酷なことをぼくは口にしているが、一度だけ、言わしてもらう。ぼくは、きみがかわいかった」  わたしの目から泪《なみだ》が溢れだした。わたしは、しずかに、彼の手を待っていればよかったのだ。それなのに、わたしは、ミツエにひけをとらぬ狂態を見せてしまった。  かわいかった、と、森戸は、過去形を使った。 「三十年経ったのだ。もう、許されてもいいのではないか。ふと、そう思ってしまった。倭子の死を、心に抱きつづけてきたため、ぼくはこれまで、結婚したことはなかった。恋をしたこともなかった。できなかったのだ。だが、きみがぼくに強い好意を寄せていてくれるのに気づいたとき、ぼくは……」  愛しているわ、と、わたしは言いたかった。しかし、わたしの舌は、こわばった。三十年昔といえば、森戸は、まだ十五歳の少年。だが、殺人という言葉は、どうしようもなく、わたしの心に突き刺さった。  へえ、殺人? かっこいいじゃない。  以前のわたしたちなら、そうして、自分に関わりない他人のことなら、わたしたちは、気軽に、そう言っただろう。  黒くちぢかんだ里見の死体が、脳裏にあった。炭化した皮膚がひび割れ、赤い肉がのぞいていた。死は、どんな形であれ、吐気をもよおすほど、いやらしかった。 「この少し奥が、ぼくが子供のころ住んでいたところだ」  森戸は、語調をかえた。西麻布三丁目のあたりを、車は走り過ぎようとしていた。 「今は、殺風景な町名に変えられてしまったけれど、戦前は、笄《こうがい》町と呼ばれていた」  しゃれたウィンドウ・ディスプレイのビルが並び、イルミネーションが明るい。 「空襲で焼けてから、すっかり変わったが、ぼくが子供のころ、ここはもっと狭い都電通りで、その裏は、樹の多い、仄暗い住宅地だった。ぼくの父は、今のぼくと同じ金融業者でね、父と母、姉の倭子《やすこ》、ぼく、の四人家族だった」 「倭子さんというのは……お姉さん」  それでは、あなたは、お姉さんを……。 「過失だったのね。そうね。何かのはずみで……」  森戸は、首を振った。 「過失ではない。殺意があった。悠子ちゃん、人間の気持というのは、自分自身でさえ、一瞬先を予測できないものだよ。ぼくは、その瞬間まで、姉を殺そうなどと思いもしなかった。……姉もぼくも、空気が重くよどんで、陽のさしこまないその家が気にいっていた。二人とも、内向的というのか、自分の世界の中にひっそり閉じこもっているのが好きだった。その性質は、生まれつきのものもあるが、あの古びた、子宮の中のようにしずかな家が与えた影響も大きかったのかもしれない。姉とぼくは、七つも年が離れていたから、子供のころ、ぼくの目には、姉は、肉親というよりは、ある距離以上近づけない、美しい異性という気がしていた」     3  ぼくと姉が二人だけ、笄町の家を離れ、M**湖に近いT**という町にうつったのは、昭和二十年、米機の本土爆撃が、熾烈《しれつ》をきわめた三月のはじめだった、と、森戸はつづけた。  洗いざらい、わたしに話してきかせようとしていた。わたしにというより、自分自身に、過去をもう一度みつめさせているようだった。  この人も、傷口からこぼれた臓物のように、戦争の傷をひきずっているのかと、わたしは、やりきれない気持になった。戦争の話になると、わたしたちは、口をつぐむほかはない。わたしたちには、敗戦も、関東大震災も、明治維新も、似たような距離をもった歴史上の事実としか感じられない。今の、この息苦しい時代を作り上げたのは森戸たちなのに、彼らは、戦争の被害者意識の中に埋没している。わたしは、森戸との年齢の差を、まざまざと意識しないわけにはいかなかった。  森戸が過去の追憶の中に入っていくとき、わたしは、彼が不透明な影に包まれ、わたしとの絆が薄れるような気がした。  里見が焼死し、グループが解散し、小幡と別れたのは、一つのエンド・マークだった。FINという文字が、スクリーンの奥からクローズ・アップされ、消えた。里見の死も、小幡に対する幻滅も、決して虚構のものではなく、エンド・マークの出たあとも、厳しい事実として残っているのだけれど、わたしは、その悔恨《かいこん》の中に埋没するのはいやだった。  あのときの、小幡の指示を越えた里見の凄じい暴走が、雌の前できらびやかに尾羽根をひろげる孔雀《くじやく》、たてがみを逆立てライバルに躍りかかる雄獅子だったとしても、だからといって、あの炎を、くり返し嘆き悔んで、何になるというのだろう。  森戸に惹かれたのは、彼が、わたしたちの仲間とはまるで異質の大人だったからではないかと思うのだが、わたしは今、森戸を見失いそうだった。 「そのころ、ぼくは、旧制中学の一年、姉は高等女学校を卒業し、女子挺身隊員として、工場で働いていた」  記憶は、絵になって、森戸の眼前にあるようだった。  二月二十四日、本格的な焼夷弾爆撃により、麻布のあたりは無事だったものの、下町方面が全焼した。前から子供たちだけ疎開させようという案は出ていたが、父親は東京生まれで地方に郷里を持たず、母親の実家も、母の従兄《いとこ》の代になっていて、交際は親密ではなかった。被災地の惨状が、両親に疎開の決意を固めさせた。  M**湖に近いT**町は、背後にモリブデンを含有する輝水鉛と、銅を産出する鉱山をひかえた、気風の荒い土地柄だった。  母の従兄にあたる当主は、T**で小さい温泉旅館を経営していた。旅館といっても、近在の湯治客を相手のごく小さなもので、しかも、戦争末期のことで、営業は休んでいた。しかし、当主は、近隣のモリブデン鉱山の採掘権を持っていたので、旅館の建物の大部分は、その営業事務所に転用されていた。自営の田畑もあり、町会議員をはじめ、二、三の公職につくなど、なかなかの活動家で、暮らしむきは楽な方だったようだ。  森戸雄策も姉の倭子《やすこ》も、人なつっこい性質ではなかった。どちらも内向的で、一見おとなしく見えるが、芯に強情なところがあった。繭《まゆ》の中のような、どんよりよどんで静謐《せいひつ》な家の空気を好んでいた二人は、荒っぽい鉱山町になじめなかった。  疎開は、当初の計画では、雄策一人の予定だったが、彼が、倭《や》っちゃんといっしょでなくてはいやだと、言いはったのである。空襲でぼくが危いなら、倭っちゃんだって危いではないか。彼は、いっぱし、姉の保護者きどりであった。倭子は、あまり頑健ではなく、ずっと年下の雄策の目からも、どこかはかなく、頼りなげなところがあったからだ。もっとも、倭子を同行させたのは、両親の心づもりでは、倭子に雄策の身のまわりの世話をさせて、親類の者に迷惑をかけないようにということであった。  母の従兄を、ほかに適当な呼びようがないので、伯父さん、と、雄策たちは呼ばされた。  雄策は、地元の中学に転校した。倭子も、遊んでいることは許されないので、朝夕一本ずつ通るバスで、三十分ほど奥に入った鉱山の診療所に勤務することになった。正看の免状を持っているわけではないので、会計事務を受け持たされた。  伯父の家は、人の出入りが多かった。事務所にあてられただだっ広い土間では、長靴を履いた男たちが、だるまストーヴのまわりで談笑していた。家族の居住区間と営業所で働く雇用人との間に、けじめはなかった。台所も便所も、みな共用だし、事務の女の子が、奥の家族の部屋で香のものをつまみながら茶を飲んでいたりした。  食事どきには、十数人の顔が並んだ。雄策と倭子は、奥まった六畳間を一室与えられたが、そこは便所への通路になっていたので、たえず、襖が開き、家人が行きかった。  この家からも、長男と次男が出征していた。長男は大陸、次男は南方の部隊にいるということだった。  二人がT**におちついて間もなく、東京は大空襲を受け、ほとんど壊滅した。焼失家屋二十六、七万戸、罹災者は百万を越え、十万に及ぶ死傷者を出した。麻布一帯も灰燼《かいじん》に帰し、両親の消息は絶えた。死亡したものと思わなくてはならなかった。倭子は、いったん東京に帰り、家が焼け落ちたのを確認して、また戻ってきた。家が、なくなってしまった、と、倭子は青い顔で雄策に告げた。  伯父たちは、冷酷ではなかった。調子のいい慰めは言わないが、食物だけは十分与えてくれた。  そのころのことを思い出すと、雄策は、当時、感情の一部が麻痺していたのではないかというような気がする。泣いた記憶がないのである。両親が焼死した、孤児になったという悲愴《ひそう》感も気負いもなく、黙って、自分の置かれた状況を受け入れていた。  彼の日常は、地元の少年たちの重圧をはねのける努力だけで、せいいっぱいだった。それは、彼が一人で立ち向かわなくてはならない戦いだった。地元の少年たちは、はじめ、東京者をどう扱ってよいのか、とまどっていたようだが、雄策が喧嘩が苦手で腕力が弱いとわかると、ぶんなぐる路線を決定した。一度パターンがきまってしまうと、くつがえすのはむずかしい。  少年小説などによると、ボスから目の敵にされ、いじめられるときは、かなわぬまでも、徹底的に抗戦するのが、最良の方法らしかった。それによって、周囲の尊敬をかちえられるというのである。  しかし、雄策は、それらの少年小説によれば、たいそう卑しいとされている方法を選んだ。姉が、ときたま、診療所に特配があったといって、飴《あめ》などをくれることがある。飴は、貴重品だった。彼は、唾をのみこみ、その舌のしびれるような宝物を、半分、ボスにやった。賄賂《わいろ》は、一時的には効果があった。  雄策が中学に通う途次に、高い金網の塀で囲った一画があった。金網の上には、更に、鉄条網がはりめぐらされていた。古い木造の建物が数棟並び、門には歩哨《ほしよう》が銃を持って立っていた。  兵舎かと雄策は思ったが、中庭にたむろする男たちの服は、日本の兵隊の軍服とは違っていた。  学校へは、家の近い者が一団となって、集団で登校する。金網塀の前を通るとき、生徒たちは、いっせいに、はやしたて、唾を吐き、石を投げこんだりした。塀の中の男たちが怖ろしい形相で歩み寄ってくると、おびえた声をあげて逃げた。  あれは、何だ。雄策の質問に、地元の生徒は、軽蔑したように鼻に皺《しわ》を寄せ、「捕虜の収容所だ」と言った。  塘沽《タンクー》収容所から華北労工協会を通じて、強制的に日本に連行された中国人たちであった。彼らは、労働力、生産力として、敵国の鉱山や工場で働かされるため、送られてくるのだった。  T**の収容所には、およそ百六、七十人はいたようだ。三班にわかれ、交替制でバスに詰めこまれ、鉱山に通わされていた。天気のよいときは、収容所の中庭の陽だまりで、無気力に虱《しらみ》をつぶしている姿などが見られた。  日本の兵隊なら、絶対、捕虜にはならねえべ。生徒たちは、彼らを嘲笑した。  彼らは、正確に言えば、�捕虜�ではなかった。八路軍兵士も混っていたが、過半数は、日本軍の�労工狩り�によって、むりやり拉致されてきた農夫たちだったのである。しかし、そのような実情は、子供たちの耳には入らなかった。大人でさえ、彼らを軍事捕虜と思っている者が多かった。  子供というのは、時に、鋭く大人の嘘を見抜くこともあるけれど、一面、怖ろしく教条的でもある。雄策も、身近な大人の偽善を感じることはあっても、強制連行された中国人に対しては、教えこまれたとおりの意識しか持っていなかった。彼が、他の少年たちに同調して石を投げたり唾を吐きかけたりしなかったのは、捕虜に対して明確な認識や同情を持ったからではなかった。  直接の被害を受けていない相手に、それほど激しい敵愾《てきがい》心は湧かない。それなのに、いっしょになって捕虜をいびるのは、何か、少年たちに媚びる行為のようで、いやだったのだ。賄賂を送ることにそれほど抵抗感はなかったが、わいわいと賑やかにはやしたて石を投げる仲間に加わる気にはならなかった。  学校では、授業は週に二日しか行なわれず、他の日は、松の切株を掘りかえす作業を、生徒たちはやらされていた。二抱えも三抱えもある松の根に鍬《くわ》を打ち込み掘りかえす重労働は、心の中に鬱屈するものを発散させる役にたった。  授業の行なわれる日、教室に入った雄策は、黒板に、�疎開の姉さんは非国民だ�と書きなぐってあるのを見た。�疎開�というのは、彼の呼び名であった。雄策は、眉をしかめ、黒板の宇を消した。倭子は花柄の和服をつぶして作ったもんぺを着ていて、それが、土地の人の目には、いかにも華美にうつるらしく、かげ口をきかれているのを、雄策は知っていた。  生徒たちは、彼の方を横目で見ながら、互いにささやきかわした。彼に、面とむかってはっきり言う者はいなかった。聞こえよがしに、何か言いあうのだが、はっきり意味がとれなかった。あからさまに彼を指さし、顔を寄せて、ささやきあい、彼が近寄ると、口をつぐんだ。それは、単に、着物が派手だというような内容ではないらしかった。  そのささやきが次第に大きくなり、一つの意味をなしたとき、彼は、手近にいる少年になぐりかかった。     4 「疲れたか」と、森戸は訊いた。  疲れるとすれば、神経を配って運転しながら語りつづける森戸の方だろうと、わたしは思った。  わたしは、疲れてはいないけれど、淋しかった。森戸の過去は、わたしには関わりないものだった。森戸が過去にのめりこんで行けば行くほど、わたしとの距離は遠のいてゆくのだった。 「どうして、急に、M**湖までとばす気になったの。あなたは屍蝋がお姉さまのものである可能性はほとんどないと言ったわ。それなのに……」 「ぼくにもわからない。過去に呼ばれた……そういうことだろうな」  森戸は黙った。疲労の色が見えた。深夜の国道は、時をさかのぼる道のようだった。 「のどがかわいたな」と森戸はつぶやいた。深夜営業のモーテルの前で、「休んで行こうか」と森戸は言い、わたしはうなずいた。  部屋においてある魔法びんの湯で茶をいれた。安っぽい番茶は、薄く色がついただけで香りも何もなかったけれど、よほどのどがかわいていたらしく、森戸は、うまそうに飲んだ。  カヴァーをかけたままのベッドに、靴もぬがず、森戸は躰をのばした。わたしはそのかたわらに横たわった。森戸は、わたしの躰を求めていなかった。ストイックなのか不能なのか、わたしにはわからなかった。  モーテルを出て、再び車に乗る。震動が、眠気をさそった。みたされない気持のまま、わたしは眠った。  眼がさめたとき、わたしは、頭がぼんやりしていて、なぜ、森戸といっしょに車に乗っているのだろうと、一瞬、いぶかしんだ。  車は、豪雨の中に突入していた。ワイパーがいそがしくぬぐっても、はげしい雨足が、たちまち、フロント・グラスをしぶきで濡らした。  わたしは時計を見た。モーテルを出てから、五時間も、わたしは眠りこんでいた。そろそろ、夜が明けてもいいころあいだった。陽は地平線をのぼっているのかもしれないが、雨が束になって叩きつけ流れ落ちる窓越しに視界は灰色にとざされていた。  車はひどく揺れた。舗装されてない山道を、ぐいぐい上っているのだった。  わたしが眠っている間に、車はすでに**県に入りこんでいた。 「一つのものを共有しあうということは、たとえ、それが空洞めいた孤独感であっても、切り離され、まったく一人であるよりは、はるかにいい」森戸の言葉を、わたしは、彼がわたしを伴なったことの理由づけかと思った。しかし、彼は、あいかわらず、過去のことを語っているのだった。眠っているわたしを傍に、森戸は、ずっと喋りつづけていたのだろうか。そんな気がしたのは、森戸が、「眼がさめたのか」とか「よく眠っていたね」というような言葉は何一つかけず、話をつづけたからだ。わたしは目ざめたけれど、それは、森戸の悪夢の中にさまよいこんで行くことであった。「姉といっしょにいると、ぼくは、ひどく淋しかった」森戸は言った。「二人の心の中に、同じような空洞があって、それが共鳴しあっているような感じだった。だが、ぼくは、姉の空洞が、他の人間によってみたされているのを知った」  それを告げたのは、同じ学級の生徒たちの、悪意をこめたささやき声であった。  姉さん、ひどいデマをとばすやつがいるんだ。嘘だよな、そんなこと。  伯父の家では、いつ、誰に聞きとがめられるかわからない。雄策は、姉を湖畔に誘って、強い口調で訊いた。 「デマ?」 「姉さんが」と言ってから、雄策は息をのみ、一思いに吐き出すように、「捕虜と……何か、あやしいっていうんだ」  倭子の表情が固くなった。倭子は視線を遠くにむけた。 「嘘だよな」  倭子は黙りこんだ。姉がいったん口をつぐむと、強情になるのを、雄策は知っていた。父や母に叱られたとき、弁解もせず、あやまりもせず、黙りこくってしまうのだった。明らかに自分が誤っていると認めているとき——たとえば、茶碗を割ったというような単純なことなら、すなおにあやまるが、自分の方に理があると思うときは、それを他人に説明しようとはせず、殻の中に閉じこもる。ふてくされているように見えるが、倭子は、そういうとき、言葉を失って混乱してしまっているのだった。  雄策もまた、徹底的に言葉を尽して相手を責めることができない性分だった。年は離れているが、妙なところで二人は似ていた。あまり似すぎているために、何も言わなくても、わかりあってしまうのかもしれなかった。  少年たちが投げつけた悪罵は、もっとはっきりした形をとってあらわれた。  診療所の事務局長が、伯父のところに来たのである。事務局長は、猫背の小柄な男で、獅子頭のような立派な金歯がぞろっと揃っていた。金製品はすべて供出を命じられていたが、この男は、分厚い上唇のかげに、一財産かくし持っているようだった。  ストーヴは取り払われる時候になっていた。局長は、伯父とは顔見知りの仲らしく、縁先に腰を下ろし、気さくな調子で話していた。姉のことらしいと思ったので、雄策は、石燈籠のかげの蟻地獄をのぞいているようなふりをして、庭先にかがみこんでいた。倭子のことなら、当然、自分に聞く権利があると思った。伯母が、「雄ちゃん、あっちさ行かい」と手で追った。雄策は、家のかげに廻って、耳をすませた。  切れ切れにきこえる言葉の断片から、倭子が親しくなった相手が、楊という青年であること、楊が監督の制裁を受けて怪我をし、診療所に通っている間に倭子と知りあったことなどがわかった。  とんでもない話だ、さっそく、倭子は診療所をやめさせる、と伯父は言い、「あんたの方でも、捕虜の監督をしっかりやってくれなくては困る」と荒い声を出した。 「捕虜の監督は、収容所の所長の仕事だべしさ」 「恥さらしなこんだ」 「こったら話がひろまれば、あんたも、町会議員さ止めねばなんねえの」  漠然とした噂は、楊という名前をもった、一人の人間になった。  収容所の金網塀の前を通るとき、雄策は、その中の人間を一人一人、目で追わずにはいられなかった。誰もが同じような顔に見えた。十二歳の少年の目には、個々の顔と、それぞれの苦悩、過去の生活を持った別個の人格ではなく、灰色の重苦しいマッスとしてしか感じられなかった。どの男が楊であっても彼には同じことだった。倭子は、このマッスの中から、一人の人間だけを特に選んで愛したのだけれど、雄策は、灰色の集団が姉をその中に取りこんでしまったように感じた。  収容所の前を通るとき、生徒たちは、あいかわらず、唾を吐きかけ、石を投げた。雄策は、彼らが石を投げ終わったあとで、鋭く尖った石くれを投げつけた。石は、金網にあたってはね返った。  伯父の言葉どおり、倭子は診療所づとめをやめさせられた。伯父と伯母から強い叱責を受ける間、倭子は、一言も口をきかなかった。倭子は、伯母が会長をしている婦人会の仕事を手伝わされるようになった。女たちは、虜囚を、まるで不潔な獣のように罵った。そして倭子を獣姦でもおかした女を見るような目で見た。  都会地では、空襲はますます激しさを加えていた。東京は、三月の大空襲につづく五月の爆撃で壊滅した。名古屋、浜松、岡山と、西の方の都市も軒なみに焼き尽され、攻撃の目標は、東北にまでひろがりつつあった。  T**でも、これまでめったに聞かれなかった警戒警報が、人々をおびやかすようになった。     5  倭子は、伯父の前にひきすえられた。禁止を破ってひそかに逢引きをつづけていたことが、露見したのである。戦局が悪化するにつれて、収容所内の規律がゆるんでいた。衛兵の中には、日本の敗北を動物的な本能で予感して、俘虜《ふりよ》に追従《ついしよう》的な態度に出るものがいたらしい。夜、楊は、金網を越え、倭子と収容所の傍の廃屋になっている古倉庫で逢い、また所内に戻るということを続けていた。  倭子が夜しばしば家をあけることは雄策も気づいていた。彼は、どうすることもできず、はらはらしていたのだった。彼には踏みこむことのできない、姉の世界だった。  倭子と楊は、密会しているところを村の者に見咎められ、楊は収容所の衛兵に引き渡され、倭子は駐在所に連行された。駐在所に一晩留置されてから、伯父が引きとりに行ったのである。  収容所長のはからいで、事は公にはされなかった。公になれば、所長が譴責《けんせき》されるからである。  しかし、伯父は激怒した。倭子を正坐させ、物差しで、背といわず、肩といわず、打ちたたいた。かたわらで、伯母が憎悪のこもった目をむけ、恥さらしなことをして、と罵った。雄策は、伯父の剣幕のすさまじさに気をのまれ、茫然として、この事態を眺めていた。細く開いた襖のすき間から、家の者の目がのぞいているのも気づかないほどだった。  倭子は黙って打たれていたが、やがて、苦痛の声を上げ、躰をくねらせた。  雄策は、そのとき、姉が打たれるのを当然のこととして傍観していたような気がする。  今になって思い返せば、なぜ、身をもって姉をかばうか、かなわぬまでも、姉のために伯父に詫《わ》びをいれるとか、しなかったのかと思う。だが、一方、あのとき、姉が憎かったのだ、嫉妬していたのだと、今になって、思いあたる。そのときは、嫉妬を自覚していなかった。伯父が彼に味方して姉を折檻《せつかん》しているような気がした。  倭子が強情にあやまろうとしないので、伯父は、打擲《ちようちやく》の手を止めるきっかけがなく、いつまでも打ちつづけた。  傍で罵っていた伯母も、しまいには、ただ青ざめてみつめていた。物差しが肌を打ちすえる音だけが、規則正しく続いた。  彼の胸の中で、大きな塊りがふくれ上がり、のどをしめつけた。息がつまった。ふくれ上がったものが炸裂《さくれつ》し、彼は、わあっと泣き出した。そのとたんに、物差しが折れた。  その夜、彼は、姉が打たれる場面をもう一度、まざまざと夢に見、はじめて夢精した。翌朝、彼は自分を恥じた。姉の顔がまともに見られなかった。伯父に折檻されたとき、姉の味方をしなかったことで、姉からうとまれるのではないかと思うと、たまらなく怖ろしく、淋しくなった。  楊の死によって、事件は終止符を打たれたかにみえた。楊は、公には処罰されなかったかわり、収容所の衛兵と、仲間と、両方からそれぞれ無惨なリンチを受けたのである。  楊の死に対する責任の追及は、うやむやにされたらしかった。そのことのために処罰されたものは、どちらの側にもいなかった。倭子にとっては絶望的な恋も、他の者には、迷惑で厄介な事件にすぎなかった。  彼は、姉が打ちのめされるだろうと思い、今度こそ、姉の力になり、はげまし、慰めてやろうと思った。  しかし、倭子は、彼の目に、ひどく図太くうつった。いくらか肉がつき、頬は丸みを帯びた。彼は、再び姉に裏切られたような気がした。倭子は、急に食欲を増した。食事は十分に与えられているとはいっても、居候だった。盛りつけられた菜《さい》は、育ち盛りの雄策には不足と感じられるときがあり、それでも、もっとくれとは言えなかった。姉は、いつも、自分の皿から彼にとりわけてくれていた。  それを、倭子はしなくなった。盛りわけられた分量はきれいに平らげ、まだ物足りないような様子だった。どうかすると、彼の皿にまで箸をのばしかねないので、雄策は、うす気味悪くなった。  伯母が倭子を責めたてている言葉から、雄策は、姉の躰の中に、新しい細胞が増殖しつつあることを知った。  彼は、悪寒をおぼえた。  姉の腹のふくらみが目立つようになると、伯父と伯母は、倭子を一室に閉じこめ、外出することを厳禁した。おそらく、伯父たちは中絶させたかったのだろうが、手遅れになっていたのに違いない。また、その後の倭子の様子からみて、たとえ、中絶を強制されても、倭子は承知しなかったことだろう。  倭子は、おとなしく部屋にこもっていたが、雄策の顔を見ると、食物をねだった。細い躰の、腹だけがふくらみ、肩で息をしている姉を見ると、雄策は、逃げ出したくなった。何か、食べるものを持ってきて、ということしか、倭子は言わなかった。  東京にいるころ、倭子は詩や絵が好きで、時たま、雄策に詩の一節を暗誦してきかせたり、複製の画集を大切そうにめくってみせたりした。雄策には理解できない深い世界を持っているような気がして、雄策は、そんな姉が好ましかった。  いま、倭子は、食べることしか念頭にないようだった。  東北のこのあたりでは、暮、正月でなくても、何かというと、よく餅をついた。  つきたての餅にすりつぶした胡桃《くるみ》をからませたのを食べるとき、倭子は、満足そうに目を細めた。舌にのせ、ゆっくり咀嚼《そしやく》し、こくっと白いのどを動かして飲みこんだ。  雄策は、自分の皿から一口ぶん箸でとって、姉の口もとに差し出した。倭子は、それは柔和な微笑を見せて、その餅を舌で受けた。  太陽がぎらぎらと暑い日、日本が降伏した。  そのときから、T**の町は、平和を失った。他の都会地とは逆であった。  東京をはじめ、他の都市が、空襲の恐怖から解き放たれ、瓦礫の中で、安堵の息をついているとき、T**の人々は、生命の危険にさらされるようになった。  虜囚をまるで檻《おり》にとじこめた野獣と同等の扱いをしたことで、T**の人々だけを責めるのは酷なことかもしれない。虜囚に対し、かわいそうにと同情の言葉を洩らしただけで、袋叩きにあうような時世であったのだ。彼らに人間の尊厳を感じることは、罪とされていた。雄策は、ずっとのちになって、欧州戦線での捕虜の脱走を扱った映画を見て、娯楽映画であるがゆえに、ことさら明るく作られた面はあるかもしれないけれど、とにかく両者が対等の人間として対峙していることに感動をおぼえた。  日本でも、日露戦争のころ、松山収容所での、露兵捕虜に対する取扱いは、冷酷なものではなかったらしい。  T**の収容所にとじこめられていた男たちは、自由を得た。彼らを拘束する権限は、誰にもなかった。  鉱山で、敵国の利益のために重労働を課せられ、酷使され、屈辱と怒りをためにためていた男たちが、解放されたのである。  彼らを残酷に取り扱った収容所の衛兵や鉱山の職員が、まっさきに報復を受けた。スコップでなぐり殺された者もいた。  彼らは町に溢れ出し、家に押し入り、食物を奪った。暴行を受けた女もいた。家々は、昼間から戸をとざした。雄策たちのところにも、数人の男が押し入ってきた。伯母は、倭子と雄策がいる部屋にかけこんできた。倭子の腕をとると、男たちの前に突き出した。  言葉は通じない。伯母は、唇をふるわせながら、倭子を自分たちの前に立たせ、何度も頭をさげた。  そのときの伯母の心理状態は、雄策にもよくわからない。犯すのなら、この女を、というつもりだったのか、それとも、倭子が何とかとりなしてくれると思ったのか。  男たちの表情からも、明確なものはわからなかった。哀憐ともとれるような、いくらか和《なご》んだものになった。男たちの中に、死んだ楊の友人がいたのかもしれない。男の一人が、何か気持を伝えようとするように、倭子の肩を軽く叩き、他の者をうながして、立ち去って行った。男たちが乱暴をしそうになったら、すぐにもとびかかる気がまえでいた雄策は、ほっと肩の力をぬいた。  たぶん、彼らが他の者に言い含めたのだろう。倭子のいる伯父の家は、報復を受けることがなかった。  そのためか、伯父たちの倭子に対する扱いは軟化した。  他の地区に収容された米、英、濠などの捕虜は、即時帰国したのに、中国人の帰還はすぐには行なわれなかった。  長い間の虜囚としての屈辱、怒りの爆発は、やがておさまり、彼らは秩序をとり戻したが、送還が長びいたため、再び、警官との衝突が起こった。  数カ月後、彼らは帰国した。  人々は、自分たちが虜囚に加えた虐待は忘れていた。彼らの報復行為によって受けた被害に対する怨嗟《えんさ》ばかりが、強く残った。怨みをぶつける何よりかっこうの対象が、手近なところにあった。倭子の妊《みごも》った相手が誰か、T**で知らない者はなかった。  倭子の細い躰は、巨大なボールを飲みこんだようにみえ、躰を動かすのも大儀そうになった。まるで、爪楊枝に大福を突き刺したようなかっこうだと、雄策は思った。  彼は、東京に帰ることを考えていた。  伯父も伯母も、雄策に不親切なわけではなかった。彼は中学に通わせてもらったし、食物も与えられていた。しかし、倭子は、明らかに、彼らにとって不愉快きわまりない存在だった。  年が明けて、二月。雪が深く降り積っていた。どんよりと灰色に濁った空は、重みにたえかねたように、時折、雪を降りこぼした。伯父は旅館業を再開したので、倭子は土蔵に移された。そこで、出産した。  そのころのことで、雄策には、思い出したくない記憶の一つがある。  学校から帰ると、雄策は、いつも、土蔵をのぞき、姉に声をかけるようにしていた。なるべく傍についているようにもつとめた。  雄ちゃん、ありがとう、と倭子が弱々しい微笑をみせると、報われたような気持になった。  そのころでは彼も、中国人がどのように強制的に日本に連行されてきたか理解するようになっていた。戦時中の国のやり方を批判する文章を目にする機会が多かった。しかし、理屈ではわかっても、直接自分に与えられた危害に対する恨みは根強い。T**の人々の、かつての虜囚への憎悪と怨恨《えんこん》は、少しも減じてはいなかった。  学校でも、何かというと、倭子をひきあいに、彼に制裁を加えようとする者も多かった。しかし、彼も、転校当時のようにひ弱ではなくなっていたし、友人もできていた。食物を貢《みつ》いでごまをする手段に頼ることはなくなった。  その日、彼が帰宅して土蔵に入ると、赤ん坊の床の前に、伯母がかがみこんでいた。雄策の足音に、びくっと肩を動かしてふりかえった。それから、そそくさと立ち上がり、出て行った。  姉は眠っていた。赤ん坊は、掛蒲団に埋まっていた。眼の上の方まで、蒲団がかぶさっていた。雄策は、蒲団を少しずらして、顔を出してやった。  そのときは、わからなかった。あとになって、思いあたったのである。  不用なもの、邪魔なものは、切り捨てて、人間は生きてゆくのだなと、乾いた気持で思い、言いようのない淋しさ怖ろしさにとらえられた。  はじめのうちは、倭子の乳の出はよかった。赤ん坊が飲むだけでは飲みつくせず、乳がはって、こりこり固くなり痛んだ。倭子は自分で揉みほぐしていたが、自分では痛さに負けて十分にほぐせないので、雄策に、指で圧してくれと頼んだ。雄策は拒んだが、夜、倭子の乳首を口に含む夢を見た。  出産の後、倭子は肌が蒼く透きとおるような感じになった。太陽にあたらないせいかもしれなかった。  床上げをすると、倭子は母屋に戻り、嬰児の世話をしながら、台所を手伝いはじめた。  公職追放で、伯父は町会議員の役を退き、旅館業に専念するようになった。しかし、機《おり》があれば、また返り咲く意志は十分持っていて、その方の工作も怠りなくすすめていた。倭子と嬰児の存在は、伯父の足をひっぱるようなものだった。  働きはじめると、倭子の乳の出はとまった。米や野菜はあっても、牛乳や粉ミルクは手に入らなかった。嬰児のある家に貰い乳に行って、罵倒され、上間に坐りこんで頭を下げつづけたということを、雄策は、数日あとになって聞いた。噂話となって、伝わってきたのである。  牛を飼っている家はあったが、それらはみな役牛で、乳牛ではなかった。  山羊《やぎ》を飼っている家も何戸かあった。倭子は、それらの家をたずねてまわったが、冷たい拒絶に会った。その中には、収容所の男たちに暴行を受けた人妻もいた。  右手に嬰児を抱え、左手に空のバケツをさげて、ふらふら歩きまわる倭子に、子供たちが石を投げた。雄策は、倭子といっしょに歩き、ぎごちなく、山羊の乳をわけてくれと、頭をさげてみた。  いくらか気の毒そうな顔をする者もいたけれど、承知してはくれなかった。 「あんたの姉さん、少し、ここがおかしいんでないの」頭をさす者がいた。  そう言われて、雄策は、倭子が極端に口数が少ないのにあらためて気がついた。  以前から、無口な方ではあったけれど、ちかごろでは、必要最小限のことしか言わない。乳をください。それだけだった。それでも、ちゃんと山羊を飼っているところを見わけて訪《おとな》うのだから、頭がおかしいというのはあたらないと思った。  雄策は、みじめな気分におちいるまいと、気をはった。  それから数日後、雄策は、白い液体を三分の一ほどみたしたバケツをさげて歩いている倭子をみかけた。走り寄って手を貸そうとして、倭子の異様な表情にぎょっとした。本当に狂ったのかと思うほど、焦点のさだまらない眸《め》をしていた。その後、何度か、倭子は山羊乳を手に入れてきた。倭子は生気をよみがえらせた。山肌の雪が消えはじめていた。     6  いつか、雨は止んでいた。豪雨の地帯を走り抜けたのかもしれなかった。しかし、濃い霧が視界をはばんでいた。  森戸は、車をとめ、サイド・ブレーキをかけた。  彼がドアを開けると、冷気が吹きこんだ。  森戸は、一人で車を下りた。わたしに下りろとは言わなかったが、わたしも下りた。  かなり高度は高いらしい。風は氷のようだった。一面、濃い霧にとざされていた。 「M**湖だ」森戸は言った。  はるか目の下の方に、厚い霧の底に穴があいたように、蒼黒い水面があった。湖畔の風景は、すべて、霧の中だった。湖面は、風に湧き立ちかえっていた。この底の方に、いくつもの屍蝋が、ゆらめきながら寄り集まっているのだと思うと、わたしはからだが震えた。しかし、森戸の腕にすがる気にはなれなかった。もう、これ以上、森戸の話を聞きたくなかった。小幡たちと映画づくりに夢中になっていたことが、奇妙に暖かく思い出された。 「抱きとめるつもりだったのだ、ぼくは」  わたしは、思わず二、三歩あとじさった。白刃のような波頭をみせ、とぐろを巻く湖面にひきずりこまれそうな気がしたのだ。  霧に包まれた空間に、一箇所だけ、森戸の過去が蒼黒く姿をあらわしている、それが、この荒涼とした湖面だった。 「姉は、ミツエを抱いて、ここに立っていた」  死ぬつもりだ! 森戸は、直感した。夢中で、走り寄った。 「抱きとめるつもりだったのだ……」  山羊の乳を手に入れる代償に、倭子が躰を与えている、それを彼に教えたのは、級の中で数少ない友人の一人だった。好意をもって忠告してくれたのだが、彼は、かっと腹をたてた。 「そんなことがあるものか! 嘘だ」 「嘘なもんけ」相手も怒った。「今度、証拠をみせてやる」  二、三日後、友人は、彼を自分の家に誘った。屋根裏に蚕室のある農家だった。  隣家の納屋の裏に、友人は彼を導いた。もうじき来るから、息をつめていろ。  足音がきこえ、納屋の戸が開き、閉まる音がした。板壁のすき間からのぞいてみろ、と友人は目でうながした。  目が薄闇に馴れるまでに、少し時間がかかった。それから、徐々に、おぼろな影のりんかくが明らかになった。薄闇に仄白く、脚がうごめき、その間に、黒い男の後姿があった。脚は、男の腰をしめつけ、男は、たくましい律動をくり返していた。あおのいた女の顔がみえた。  彼は、板壁をなぐりつけようとした。友人が、羽交《はが》いじめに、その腕を押えた。  倭子が淵をのぞむ崖に立っているのを見たのは、その数日後だった。 「ここだ」と、森戸はくり返した。「ここに、姉は立っていた。ミツエを抱いて」  姉が、死のうとしている……とっさに、そう感じた。  いくたびとなく、好きでもない男に躰を与えて乳を手に入れる、その行為にたえきれなくなって!  彼は走り寄った。  倭子が、ふりむいた。  そのとたん、戦慄に似た感情が、彼の全身を走った。  死の翳《かげ》りは、倭子の表情になかった。倭子は、けげんそうに、血相変えた雄策を見た。  姉は、ただ、何気なく、ここに立っていただけなのだ。あの行為は、何の傷も、倭子に与えていなかったのか。男に躰を与えることが、苦痛ではなかったのか。  姉が嗤《わら》ったようにみえた。  その瞬間、意識が命じる前に、彼の手は、倭子の背を突いていた。憎しみをこめて。哀しみをこめて。  高速度撮影の画面を見るように、彼は、そのときの倭子の様子を思い浮かべることができる。  前にのめりながら、倭子の上体はねじ曲がった。腕をのばした。両腕に抱えていたものを、力をこめて、雄策の腕に投げかけた。  倭子は、墜ちていった。どこまでも、はてしなく。     7  わたしは、かすかに、エンジンの音を聞いたような気がした。次第に大きくなり、止まった。 「伯父の家で、ミツエが、どんな扱いを受けて育ったか、想像がつくだろう」森戸は、重い声で言った。 「ミツエは、T**の人たちにとって仇敵にあたる虜囚の血をひいていた。倭子の死は、自殺として扱われた。ぼくが疑われることはなかった。  その当座は、ぼくはまるで気が抜けたようで、罪の意識すら持てないほどだった。ぼくの手が姉を突き落としたということが、信じられなかった。  だが、それは事実だった。ぼくは、裏切られた怒りと憎しみのすべてをこめて、姉を突き落としたのだ。  伯父をはじめ、T**の人たちから白い眼で見られるミツエを、ぼくはかばった。だが、ミツエを見るのは辛かった。何も知らないミツエがぼくにまつわりつくたびに、ぼくは、姉を殺したという事実をつきつけられるような気がした。ときどき、ぼくは、ためていたものが爆発するように、ミツエに辛くあたった。それでも、ミツエは、ぼくを慕った。ぼくが、唯一の味方だったからだ。  どうにか中学を卒業すると、ぼくは、家出同様にして、東京に戻った。  ぼくには、財産があった。家は焼けたが、麻布の土地は、ぼくのものだった。焼け出された人が、かってにバラックを建てていたので、立退いてもらうのに、だいぶ、ごたついた。父の友人で、やはり金融業をしている人に助けてもらって、ぼくは土地を取戻した。その人のところで働き、仕事のやり方をおぼえた。麻布の土地は値上がりした。それを資本に、金貸しで食って行けるようになった」  霧の中から、黒い人影が近づいてくるのを、わたしは見ていた。 「ミツエが、ぼくを頼って上京してきた。それまで、ぼくは、ミツエに送金していたのだ。ミツエは、そのとき、十五だった」 「ママは……あなたのしたことを、知らないの」 「ミツエは、ぼくに頼りきっていた」と、森戸は、わたしの言葉がきこえないように、話しつづけた。 「ミツエは、T**で、子供たちからは石を投げられ、唾を吐きかけられ、家の者には下女扱いされて育ったのだ。ミツエをおいて上京してしまったぼくを恨みもしたらしい。だが、東京に来て、ぼくと暮すようになり、ミツエは……ぼくを愛した。ミツエにとって、ぼくは……。ミツエが、女としての感情でぼくを愛してしまったと知ったとき、ぼくは、告げずにいることはできなかった」 「それで……ミツエさんは」  森戸は、コートの前をひろげ、黒いセーターの裾をシャツといっしょにめくった。肋骨の下に、傷痕が走っていた。 「そうよ。私は、この人を刺したわ」近づいてきたミツエが言った。「でも、そのあとで、あなたは、私を愛してくれたわ。私たちは、倭子という女の死の中にとりこめられてしまって、二人で生きて行くほかはなかったのだわ」 「やはり、ここに来たのか」 「来たわ」ミツエは言った。「来てみないでは、いられなかった。あなたと同じように。あなたに電話をかけたの。誰も出なかった。私は車を走らせて、あなたの家に行った。門の前にはあなたの車の轍《わだち》の跡が残っているだけだった。M**湖だと、わかったわ」  ミツエは近づき、からだを少しかがめて、森戸の傷に唇をつけた。それから森戸のセーターを下ろし、わたしの腕を握った。わたしの手を、服の下に導き入れた。ミツエの乳房の下に、ひきつれた傷を、わたしの指はさぐりあてた。 「森戸さんが」  ミツエは、うなずいた。  ぼくは、疲れた、と、森戸は呟くように言った。 「私は、疲れはしないわ」昂然ときこえる口調で、ミツエは言った。「これから、お店を大きくしていくわ。あなたを愛して、憎んで、生きていくわ。あなたに対する憎しみが、生きる力を沸き立たせるわ」  ミツエは、肩をそびやかすようにし、森戸と並んだ。  足を踏みすえ、激しく流れる霧の中で、のしかかってくるものをはねのけるように、ミツエは立っていた。  わたしは少しずつあとじさった。  霧は塊りになって流れ、二人の姿をかくし、また、あらわした。  不透明な厚い霧が、わたしと彼らの間をさえぎった。霧の中に、凄じい青さをたたえた空洞をわたしは見た。湖面が湧き立ち、波頭が牙をむいた。一瞬薄れた霧のむこうに、森戸とミツエは一つの炎のように寄りあって立っていた。  二人の姿はたちまち霧にとざされ、白い壁に、燃えあがる炎の残像があった。ガソリンタンクを股間に抱きしめた里見……。わたしは走り寄ろうとして、踏みとどまった。  渦巻く白い闇の中で、わたしは立ちすくむ。  牡 鹿 の 首  銃声がひびいた。長い尾羽根が空を切って、鳥は墜《お》ちた。  沢の両側の急斜面には、人の背丈を越すスズタケが密生し、トチの巨木が、透明な硬質の初冬の空に、葉の落ちた枝を交錯させていた。  猟犬の四肢《しし》が地を蹴《け》る。  やどり木の黄色い実が、猟犬の背に散る。熊笹《くまざさ》を踏みしだく男たちの足音がつづく。     1  タクシーを下りると、風が冷たかった。麻緒は、ホテルPの回転ドアを押した。ロビーのなま暖かい空気が、麻緒を包んだ。大理石の薄板を貼《は》った柱を円形に取り巻くソファに腰を下ろし、コートは、フロントにあずける手間をはぶいて、膝《ひざ》の脇に置いた。  バッグから煙草のケースを出し、一本抜いて深々と喫《す》い、それから、ゆっくりあたりを見廻した。外人が多い。観光客だろう。  結婚式に列席するらしい留袖《とめそで》や振袖《ふりそで》の群れが、エレベーターの方に歩いて行く。  厚い絨毯《じゆうたん》が足音を吸い、ロビーは静かだが、活気をひそめている。  躰《からだ》の中に荒々しくうずく血を押えこんで、麻緒は目を閉じた。周囲のざわめきは、波のように麻緒を揺すった。  お一人ですか。少し訛《なま》りのある英語で話しかけられ、目を上げた。南欧系らしい、三十前後の男が、前に立って腰をかがめていた。  あなたのために、何か飲物をとっていいでしょうか。  ノー サンキュー。麻緒は、首を振った。男は、しつこくは誘わず、笑顔を見せて去った。  米人の団体がマイクロ・バスで到着し、フロントはいっとき賑わい、また、静かになった。  お茶でもどうですか。これは、日本人の中年の男だった。いいえ。麻緒は首を振った。いいじゃないですか。一人なんだろう、あんた。けっこうですわ。男は、唇をゆがめ、もどって行った。  麻緒は、二本めの煙草に火をつけた。  ソファのクッションが揺れた。隣りの空席に腰を下ろした者がいた。麻緒は目だけ動かした。まだ十代の少年だった。十一月も半ばというのに、躰にはりついたような薄いTシャツ。脚を開き、膝頭《ひざがしら》に肘《ひじ》をついて前かがみになり、おちつかない様子で、親指の頭をこすりあわせている。  ——おびえなくてもいいのよ。  麻緒は、声をかけてやりたくなったが、黙っていた。  前にも一度、この場所で見かけたことがある。あとになって自分でも意外に思ったほど、強く印象に残っていた。額が広く顎《あご》が細い。少し受け口の厚い下唇。薄い眉《まゆ》。切れの長い細い目。蒼《あお》い肌。  今日がはじめてというわけではないのに、まだ馴《な》れないらしい。ホテルの従業員の制服が傍《そば》を通りかかるたびに、びくっと躰をかたくする。  少年は、うつむいたまま、ときどき、上目遣いに視線をあたりに走らせている。  少し離れたソァに腰かけて、英字新聞をひろげていた男が、新聞をテーブルに置き、緩慢な動作で立ち上がった。さりげなく、近寄ってくる。灰色に近いブロンドの髪は短く刈りこまれ、猪首《いくび》で、腹が突き出ている。五十代の男である。少年の躰が、それとわかるほど、こわばる。組みあわせた手に、力が入る。視線を床に落としている。男は、少年の前に立ち、甲にうぶ毛の生えた手を肩にまわし、ささやきかける。少年は立ち上がる。いっしょにエレベーターの方に歩いて行く。  麻緒は、何となくほっとし、かすかな痛みも胸に感じる。  ——あの子は、いやがっていた。いやなら、他の仕事で金を稼《かせ》げばいいのに。  隣りの空席は、まもなく、ふさがった。白いタートルネックのセーターを着た青年だった。 「一人ですか」 「ええ」  麻緒が視線をむけると、青年は、心得顔で微笑した。 「お茶、ごちそうしてくれませんか」  麻緒は、うなずき、立ち上がる。コートを肩にかけようとすると、青年は手を貸し、その手を、軽く腰にまわした。あまりなれなれしくもなく、ほどよい間隔を保っている。  タクシーに乗りこみ、麻緒は、「シャトー・T」と命じた。「食事はしないんですか」青年が訊《き》く。麻緒は首を振る。 「オードヴル抜きで、いきなりアントレか」独《ひと》り言《ごと》のように、青年は言う。ずいぶん、がつがつしていますね。声には出さないが、そう続けているのが、麻緒にはわかる。ムードはいらない。麻緒が求めているのは、擬似恋愛ではなかった。  バス・ルームに備えつけられたビデで男の体液を洗い流し、ふたたびベッドに横たわると、「どうでした?」青年は訊いた。麻緒が毛布を胸のあたりまでひきあげたので、彼の胸もかくれた。「よかったら、定期契約でも……」 「あなた、学生?」 「そうですよ」 「どこ?」 「東大」  麻緒は苦笑した。「おかしいのね。みんな、東大っていうわ。立教だの慶応だの、ときには拓大や国士館だっていてもいいと思うのに」 「ぼくは、本当に東大ですよ。学生証見せたっていい」 「社交辞令で訊いただけよ」 「あなたは、女医さん?」 「どうして?」  男は、麻緒の手をとり、自分の鼻先に近づけてみせた。 「におうの?」  うなずいて、「消毒薬みたいね」男は言った。  麻緒は、自分でも嗅《か》いでみた。彼女の嗅覚《きゆうかく》は、馴れすぎて麻痺《まひ》しているとみえ、フォルマリン臭は感じられなかった。死臭は、指先からではなく、彼女の意識の中でただよっていた。  男の手を導きながら、「もう一度、どう?」「連チャンですか」OKと、青年は、感情のこもらない声で応じた。  シャトーを出る前に、青年に数枚の札を渡しながら、——コジュケイ二羽ぶん。麻緒はつぶやき、あの少年は、もう、解放されただろうか、——ふと、思った。     2  ビーグル犬に吠《ほ》えたてられ、野兎は、寝屋をとび出した。いっきに、二、三メートルもはねとぶ。散弾銃をかまえ、彼はあわてない。いそぐことはないのだ。野兎は、奇妙な習性を持っている。どれほど敏捷《びんしよう》に逃げようと、その逃走経路は一定していて、必ず、一周してもとの寝屋にもどってくる。だから、兎のもどってくる通路を予想し、射撃に適した場所を選んで、じっと待機していればよいのだ。  ビーグルの追い鳴きは、次第に遠ざかる。鳴き声で、どれほど獲物に接近したか、また引きはなされたか推測できる。兎は、持久力がない。犬を引きはなすと、安心して、一休みする。においをたどって追ってきた犬は、たやすく追いつく。兎は、はね起きる。石づたいに沢を渡り、雑木林を抜け、丘を駆け抜け、ふたたび、沢を渡る。彼は、想像する。兎と犬のかけ引きのさまを。早く、もどってこい。見逃すな。追いつめろ。  茂みがざわめく。枯葉色の毛玉が、眼前を駆け抜けようとする。  ホー! ハンターは、大声をあげる。一瞬、兎は足をとめる。猟銃が火を吹く。  車の止る音がし、階段を上がってくる足音が聞こえた。予感がした。案のじょう、足音は麻緒の部屋の前で止り、ドアがノックされた。  のぞき窓から相手をたしかめ、麻緒は扉を開けた。 「どうです」と、天堂は、右手に提《さ》げた野兎を突き出した。天堂の息は、少し酒くさかった。 「おあずかりします」受けとろうとすると、「冷たいねえ。長いお顧客《とくい》さんじゃないの。ちょっと一服させなさいよ」土間に立った天堂は、もう、長靴を脱ぎかけていた。  入口の土間につづいた板敷きの部屋がダイニング・キチンで、その奥が麻緒の仕事場兼寝室。一人住まいだから、これで十分な広さである。  天堂は、死後硬直がとけてぐんなりした野兎をテーブルに投げ出すように置くと、さっさと椅子を引き寄せて腰を下ろした。サイドロックの水平二連銃はテーブルにたてかけ、腰の弾帯をはずした。 「リュウは、車の中ですか」 「そうだよ」 「それじゃ、あまり待たせては、かわいそうですね」  リュウは、天堂の猟犬の名である。ビーグル種のリュウと、他に、ポインターを一頭、天堂は持っている。兎猟にビーグルは欠かせないが、鳥猟には、ポインターの方が適している。 「なに、待つのは、猟犬の仕事の一つだ」  天堂は、あっさり、かわした。天堂は、本職は葬儀店の店主だが、不動産の取引きもやれば、アパートの経営にも手を出している、地元の、ちょっとした顔役である。麻緒が一室を借りているアパートも、彼の持ち家の一つである。四十代の半ば、高小卒で、その後腕一本でのし上げてきた男の、働き盛りの精気が、筋肉質の四肢にみなぎり、麻緒は、彼に近寄られると、息苦しさを感じる。彼の店は、アパートからバスの停留所に出る道筋にあるので、麻緒はしばしばその前を通るが、葬儀店というイメージから想像されるような陰鬱さは、かけらほどもない。白木の棺桶《かんおけ》も、壁にたてかけた黒白の花輪も、店の発展ぶりを示す活気の象徴なのだ。  葬儀屋という仕事柄、彼は、警察とは縁が深い。署の所轄《しよかつ》管内で変死体が発見されたとき、鑑識とほとんど同時に現場に呼ばれるのが彼である。変死体を解剖のために運搬する、その棺桶を現場に届けるのである。署員とはほとんど顔なじみだし、署長とは狩猟仲間で、なあなあの間柄だ、おれが署長に一言いえば、下っぱの首を一つ二つとばすのは、わけはないと、常々豪語している。  麻緒は、剥製師《はくせいし》である。標本製造販売の会社の下請け仕事が多いが、ハンターと直接取引きもする。この方が、中間|搾取《さくしゆ》がないから、いい収入になる。 「この前、おあずかりしたヤマドリ、できていますよ」  天堂をダイニング・キチンに残し、麻緒は、隣室に入った。  六畳の和室にビニールの敷物を敷き、窓ぎわに仕事机。璧に寄せて鉄パイプとキャンバスの簡易ベッド。  仕事台の上や、棚には、メス、はさみ、ピンセット、やすり、きり等のおさまった道具箱、石膏末《せつこうまつ》の入った缶《かん》、硼酸末《ほうさんまつ》、明礬末《みようばんまつ》、亜砒《あひ》酸末、フォルマリン等の薬品類、大小さまざまな義眼の入った箱等が、整然と並んでいる。製作中の剥製は、その段階別に分類されて置かれてある。洗浄して乾燥中の獣皮。煮沸ずみの頭骨。仮台に止められ、ととのえた尾をボール紙ではさまれた数羽の小鳥は、まだ眼球が入っていない。  天堂から依頼されたヤマドリは、室内に鮮やかな彩《いろど》りを与えていた。つややかな赤銅色《しやくどういろ》の羽毛。背、胸、腹に散在する斑紋。何にもましてみごとなのは、十節以上もある長く鋭い尾であった。  剥製師は、生命のぬけがらを材料にして、生前の生態を迫真的によみがえらせることに誇りを持ち、そのために創意工夫をこらす。しかし、麻緒は、どれほどなまなましい迫力を持つ製品を仕上げ得たときでも、いや、製品が剥製として完璧であればあるほど、虚しさを押えきれない。虚しく、淋しい。たぎりたつ肉の力を、躰の中に欲しくなる。  台に固定した木の枝にとまらせたヤマドリを、麻緒は、ダイニング・キチンにはこんだ。  よくできた、と、天堂は満足そうだった。 「あんたの作ってくれるのは、何かこう……おとなしくないんだね。ばねをたわめて、躍動する寸前という感じがする」 「形をまねしているだけですわ」麻緒は、熱のない声で言った。「剥製には、エネルギーはありません。なかみは、針金と綿だけです」  麻緒のそっけなさを、天堂は、自分への非難ととった。「あんたも、狩猟は動物虐待だなどと青くさいことを言う一人なんだな。一度、自分でやってみなさいよ。これほどすかっとするスポーツはないから。ゴルフなんて、みみっちくて、まず、めじゃないね」  天堂は、話しながら、手をのばし、麻緒の手を握りこもうとした。麻緒は躰をひいた。 「もっとも、鉄砲うちと称して、水鉄砲なんか射ちに行くのもいるがね」 「水鉄砲って、何ですの」 「あんた、一人立ちで仕事をしているわりには、箱入りだね。もっと、さばけなさいよ。固苦しくかまえていたって、つまらんじゃないの。おれんとこなんか、おれはおれ、嬶《かあ》ちゃんは嬶ちゃんで、適当にやっているよ。たがいに、相手にばれさえしなければ、浮気は勝手ってことでね」  麻緒は、聞えない顔で、剥製に紙をかけた。 「しかし、嬶ちゃんはカンがいいね。女から電話がかかってくると、|それ《ヽヽ》のときは、ピピッと感じて、顔がこうなるね」  天堂は、話題を転じた。「近く、鹿射ちに行くんだが、どう、来てみないですか。仲間が五、六人いっしょだ。鳥や獣の生きているところを見るのも、仕事に役立つんじゃないかね。むこうで、地元のグループと組んで、勢子猟《せこりよう》をやることになっている。豪快で、おもしろいこと、この上なしだ。生き物を殺すのはかわいそうだなんて、うじうじしたヒューマニズムは、いっぺんに吹きとんじまう」  客のために茶をいれながら、麻緒は、心が動いた。剥製製作の仕事に対する嫌悪感を、ふっきってしまいたかった。猟銃で射ち殺された小動物を見る痛みもないわけではなかったが、それ以上に、死骸の感触と、完成したときの虚しさに、なじみきることができないのだった。  麻緒は、かつては、画家を志していた。高校のころ、天分があると周囲におだてられ、自分でもそのつもりで、美術学校に入学した。入学してみて、自分が特殊な才能の持主というわけではないことを、思い知らされた。彼女程度に描けて当り前なのであった。そこから抜きん出た個性、独自の感覚、——あたしはだめだ……。自信を失いかけたころ、アルバイトに、剥製師の手伝いを紹介された。動物の生態を剥製師のためにスケッチする仕事であった。スケッチ画を届けに通ううちに、剥皮、除肉、縫合《ほうごう》など、剥製作りの仕事も手伝わされるようになった。はじめのうちは、興味があった。剥製師は数少ないので重宝がられ、いつか、本職になっていた。  死骸の腹を裂き、内臓を取り出す仕事は、決して快くはなかった。しかし、その不快感の中に、死骸をもてあそぶ快さがひそかにしのびこんでいることに気づいたとき、麻緒は、はじめて、自分の仕事を嫌悪した。  それとともに、剥製が、製作過程に従って完成されてゆくにつれ、かえって生命感を失い、おもちゃじみた縫いぐるみに化してゆくことにも気づいた。絵筆を持ってキャンパスにむかうときのような、創造のよろこびはなかった。  剥製にくらべたら、死骸の方が、まだ、生きている……。  ——でも、絵では、食べていかれない……。 「みごと大物を仕止めてみせるぜ」天堂のはずんだ声が、麻緒の思いを断《た》ち切った。「そうしたら、あんたに、首を剥製にしてもらう。鹿は、仕止めたらすぐ食っちまうから、首だけ、その場であんたに処理してもらおう」     3  死骸を扱った指が冷たい。麻緒は、ロビーのソファに躰をしずめ、声をかけてくる男を待っている。兎は、背をまるめ、物音におびえて聞き耳をたて、全身に緊張をみなぎらせた姿で硬直させられた。  ——あれは、ただの縫いぐるみだ、と、麻緒は思う。剥製の製造は、学術的には意義のある仕事だろうし、ハンターには、猟の勝利の記念となる。しかし、私にとっては、洗って干して、少しこびりついた肉をこそげ落して、亜砒酸末の軟泥《なんでい》で防腐処理した皮に詰め物をしただけの縫いぐるみだ。  麻緒は、指先を鼻孔に近づける。何もにおわない。他人には、フォルマリンの残臭が嗅ぎとれるのだろう。  今日、ロビーは閑散としている。  男たちは、誰も来ないのだろうか。ホテル側から警告でもされたのだろうか。  組織があるわけではないらしいが、性を売る男たちのたまりは、いつか決っていて、ホテルPの、ロビーも、その一つである。  あとあとまで尾を引くような面倒な関係は持ちたくない。この前の自称東大生とも、名前も訊《き》きあわなかった。他に誰もいなければ、彼でも来ないかと思った。べたつかないところが、悪くない相手だった。  標示灯がともり、エレベーターの扉が開いた。下りた客の中に、見おぼえのある顔があった。外人相手の商売をしていた少年である。ジーンの上衣を肩に羽織り、唇がまっ白で、目が据《す》わっていた。腹痛でもするように、躰を少し斜め前にかがめ、走り出したいのをむりに押えているような、せかせかした足どりで、回転ドアの方に歩いて行く。麻緒は立ち上がった。少年の表情にただならぬものを感じ、我知らず、後を追っていた。  客待ちしているタクシーに、ちらと目を走らせ、少年は、そのまま、早足で歩いて行く。外の通りに出ると、走り出した。躰がますます、前かがみになる。肩が揺れる。  横断歩道を突っ切ろうと車道に足を踏み出したとき、歩行者用の信号が青から赤に変った。  一瞬ためらって、少年は、そのまま、走り渡ろうとした。麻緒は、駆け寄って、腕を掴《つか》んだ。発進しかけた車が、急ブレーキで止り、怒声とクラクションを浴びせて、走り去った。 「はねられるところだったわよ」  少年は、麻緒の手をふりもぎろうと躰をよじり、そのまま、かがみこんで、地面に片手をついた。麻緒は、空タクシーを呼びとめた。ジーンの上衣のかげで脇腹を押えた少年の腕が、紅《あか》く濡《ぬ》れていた。  電話口に最初に出るのが、妻の方でなく、天堂自身であればいいと願いながら、麻緒は、仕事部屋に備えつけた電話のダイヤルを廻した。少年は、麻緒のベッドに横になっていた。 「どうしたんだね、こんな時間に。山行きの決心がついたのか」天堂の声だった。 「お医者さんをよんでほしいんです。外科の」 「怪我したのか? メスで指でも切ったのかね」 「私じゃないんです」 「医者なら、知り合いは何人かいるが、夜の往診はいやがるぞ」 「あの……喧嘩などで怪我した場合、お医者さんは警察に届けますか。届けないよう、天堂さんから口止めしてほしいんです。天堂さんは」暴力団、と言いかけて、言葉を考え、「刃物で喧嘩して怪我したとき、警察沙汰にしないですませてくれるようなお医者さんをご存知でしょう」 「あんた、かなり、あつかましいことを言っているね」天堂の声が返ってきた。「傷害事件をうやむやにしたら、あとでばれたとき、こっちが警察にしぼられるんだぜ」  麻緒は、唾《つば》をのみこんでから、「怪我をさせたの、私なんです」男の好意につけこむずるい計算があった。  天堂は興味をもち、詳しくわけを話せと言った。 「道で男の子を拾いました」暗誦《あんしよう》するように、麻緒は言った。「遊びたくなったんです。でも、男の子はいやがって、私、おもしろ半分にメスで脅《おど》したら、男の子が本気にして、もみあっているうちに、刺してしまったんです」こんな話で、信用するかしら。天堂は、笑いだした。「話があべこべじゃねえの。女に誘われていやだという男がいるかね。ホモと違うか、そいつ」「ええ、そうなんです」「そんなでたらめが通用すると思っているところが、おもしれえやね。男が挑《いど》みかかってきた。あんたが身を守ろうとして、過剰防衛で男を刺してしまった。そういう話なら、わかるがね」少年に、強姦未遂などという汚名をかってにつけるわけにはいかない。「まあいい。で、傷はどの程度なんだ」「わかりません。一応、布で縛って止血してあるんですけれど」おれがみてやろうと天堂は言い、麻緒が言葉を続ける暇もなく、電話は切れた。 「蚤《のみ》に食われたようなものだ」と、天堂は傷口を見て吹き出した。「皮のところを掠《かす》ってるだけじゃねえか」おれが若いころなんざ、と、天堂は、黒いセーターの裾《すそ》をシャツといっしょにめくり上げ、盛り上がった傷痕《きずあと》を示した。医者にみせもしなかったぜ。晒《さらし》でぎりぎり巻いて、それだけだ。「縫わなかったんですか」「そんな、しゃらくせえことをするかよ」くだらないという意味で、しゃらくさいを使っているらしかった。天堂は、少年の傷口にガーゼをあて、晒を巻き、膿《う》まなければいいんだ、サルファ剤でも飲ませておきな、と言って、麻緒の腰に手を巻きつけ、抱き寄せようとした。少年の視線を、麻緒は感じた。 「やめてください」 「只《ただ》働きさせようってのか」 「お礼はします」 「金かい?」天堂は軽蔑したように笑った。 「あんたの鼻くそみてえな収入《みいり》を巻き上げたって、あと味が悪いだけだ」 「やめてくださいってば」 「往生ぎわの悪い姐《ねえ》ちゃんだ。今どき、十やそこらの女《あま》っ子だって、夜中に男を一人呼び寄せるってなあどういうことか、心得ているぜ」 「お医者を頼んだんです。あなたを呼んだわけじゃ……」  ふざけるな! と、どなりかけて、天堂は、ふと気を変えた。「山へ来いよ」麻緒を見下ろして言った。「あんたの方から膝をついて、抱いてくださいと泣きこむようにしてやる」余裕をもって、天堂はせせら笑い、出て行った。  タクシーの中で、医者に行こうという麻緒に、少年は、必死に首を振ったのだった。「どうして? 怪我しているじゃないの」「いいんだ。たいした傷じゃない」運転手の耳に入らないよう、声をひそめていた。「あんた、おれをパクらせたいのか」それじゃ、うちに来なさい、と、麻緒はささやき返した。  簡易ベッドに寝せ、傷口を縛りながら、「どうして医者に見せないの。悪いことをしたの?」「刺しちまった」と、少年は言った。言ってしまってから、怯《おび》えた顔になった。「あなたの商売、察しがついているわよ。でも、刃物はいらない商売でしょう」「あんまり変なことをやらせようとするからさ」おれ、毛唐の相手は、ちっとも好きじゃないんだ。しつっこくって、いやらしくて。「ナイフを持ち出したのは、むこうなんだ」  とっさに嘘をつくのは、むずかしいものだ。天堂に事情を訊かれたとき、麻緒は、その外人客に自分をなぞらえて喋っていた。 「相手は……死んだの?」 「まさか。うんうん呻《うめ》いていたけれど……。パクられると、おれ、やばいんだ。前科《まえ》があるから」たいしたことじゃない、万引、と少年はつけ加えた。喋っている間も、巻いた布に血がにじみひろがるので、麻緒は、気が気ではなかった。天堂に笑いとばされて、ほっとした。「何しろ、刺された場所が腹だろう。おれも、もうだめだ、なんて思っちゃって」まるで失神しそうだった自分の醜態を思い出したのだろう、天堂が帰ったあとで、少年も、間が悪そうに苦笑した。 「あいつ、密告しないといいけど」 「大丈夫でしょう」と言ったが、麻緒も、はっきりした自信はなかった。「その外人のことが、ニュースにでも出なければ。外人は、ホモ・セクシュアルの行為に対して罪悪感が強いし、自分も傷害を与えているんだから、公にはしたがらないんじゃないかしら」  翌日の新聞にもTVニュースにも、外人観光客が刺傷を受けたという記事は報道されなかった。麻緒の希望的観測があたったようだ。少年が怯えたほどにはひどい傷ではなかったのだろう。彼にとって、刃傷《にんじよう》沙汰ははじめてだったので、ショックの方が大げさすぎたというのが、実情らしかった。  レン、と、少年は自分の名を告げた。  どういう字を書くの?  むずかしくて、忘れちまった。健康保険の康という字に似ていたな。めんどうだから、仮名にしている。  廉だろうと、麻緒は思った。  鹿狩りの日程が確定したと、天堂が知らせてきたのは、それから数日後だった。廉は、まだ居続けていた。  あんたも来るんだよ。命令するように、天堂は麻緒に言った。  ことわれば、少年の刺傷を警察に告《つ》げられる怖れがあった。天堂は、そう、におわせた。警察とは親しいのだということを、麻緒に思い起こさせた。おれの口のきき方一つでは。廉は怯えていた。今度警察沙汰になったら、少年院送りだ、何度もパクられてるから。  医者を天堂に頼めば、彼に借りを作ることになる。最初から覚悟していなくてはならないことだった。しかし、脇腹から溢《あふ》れしたたる血に、麻緒は、度を失っていた。ぐずぐずしていたら助からないと慌《あわ》て、先のことまで考える余裕がなかった。男に対する認識の甘さもあった。天堂のような男とかかわれば、彼が次に何を要求してくるか、予測がつくところだが、麻緒は、彼女の意志を無視して一方的に挑まれる場面は思いつかなかったのだ。  山に同行すれば、当然、天堂は麻緒の躰を求めるだろう。  麻緒は、廉を見た。——ベつに、かまわないわ。投げやりに、そう思った。したいのなら、やらせてやればいいんだわ。たいしたことじゃない。  二泊の予定で出発するとき、廉は、まだ、麻緒の部屋にいた。留守中に出て行きたくなったら、鍵《かぎ》は隣りにあずけていって。ああ、と、廉はあいまいにうなずいた。  ずっととどまっていろと強制したら、少年は、かえって出ていきそうだった。好きなようにしろと言った。おそらく、ここにとどまっているだろうと、麻緒は内心期待した。     4  細いせせらぎに沿った杣道《そまみち》は、かなり急な上り坂で、雑草やイバラ、シダにおおわれ、松や杉、檜《ひのき》、それに樫《かし》、椎《しい》などの落葉樹もいりまじって、頭上に太い枝をさしのべる。  岩に堰《せ》かれた谷川の清冽《せいれつ》な水に、楓《かえで》の落葉が溜まり、そのかげを出入りする小魚の背が光る。  川の対岸は切りたった崖《がけ》で、イワヒバやノキシノブが生い茂り、ときどき、断崖の岩を洗う小さな滝があらわれる。  犬は連れていない。犬は、勢子が獲物を追いたてるのに使う。ハンターは、それぞれの待ち場で待機する。鹿の通りそうな要所要所の待ち場は、タツマと呼ばれる。地元の猟友会のメンバーが勢子をつとめる。前日、勢子長と勢子が、足跡や餌食《えは》みの状態を調べて、鹿の群れのいることや休み場所を確認し、天堂たち七人のハンターにタツマを割り振って決めてあった。  空気は鼻孔を刺すように冷たいが、麻緒は汗ばんでいた。  杣道の右手の崖をおおった熊笹の茂みのかげに、何か青黒いものが、ぬめっと光った。麻緒は、足をとめた。息が切れていた。山歩きは多少の経験はあるが、ライフルを肩にした天堂の、ぐいぐいと早い足について行くのは骨が折れた。  好奇心にかられ、棒切れで熊笹の葉をわけてみて、麻緒は悲鳴をあげた。天堂が振り返り、戻ってきた。 「蛇玉だ」と、天堂は、こともなげに言った。岩のくぼみに、大小さまざまな蛇が、からみあって、直径五、六十センチはある玉を作り、首だけ外に出している。「冬眠中だ。この中に手を突っこむと、金持ちになる」  さっさと歩いてくれ。勢子鉄砲にまにあわなくなる。  杣道は、急な岩崖にさえぎられた。よく注意して見れば、岩のわずかな出っぱりやくぼみ伝いに、かすかな踏跡《ふみあと》が続いている。天堂の手が、麻緒の手をがしっと握って引きあげる。更に、ほとんど道のない熊笹の斜面を、笹の根や木の張り根をたよりによじ登る。羽音をたてて、鳥が舞い立つ。  谷間の下流の、みの屋という小さな旅人宿を根拠地に、前日、全員が集合し、一泊して、朝八時に出立し、途中、それぞれのタツマにむかって分散した。すでに、二時間近く登りつづけて来た。もうすぐだ、と、天堂が振り返って言った。狩りの時を目前にして、彼は、麻緒を女として扱うことは念頭にないようだった。しかし、山に来れば、あんたの方から抱いてくれと膝をついて頼むようになると言った天堂の言葉が、わかるような気がした。天堂のなまぐさい精気は、山の荒々しい空気にふさわしかった。  ゆるやかな斜面の中腹、岩のかげに、天堂は、ライフルを下ろして、息をついた。彼に割りあてられた場所である。 「いいタツマだ」  それ弾丸《だま》がはねかえるような木立や岩が射程距離内にない。 「獲物《ゲーム》を射ち損じても、弾丸は、土が受けとめてくれる。こういう土の場所を、安土《あづち》というんだ。もっとも、おれは、射ちそこなうことは、まず、ないがね。五十から八十ぐらいの距離が、一番射ちやすい。ねらいどころは、アバラ三枚め。つまり、前肢のつけ根あたりだ」  絶対に動くな。声をたてるな。くしゃみも咳《せき》ばらいも厳禁だ、と、天堂は注意をくり返した。  ときどき、鳥の鳴き声が聞えるほかは、ひっそりと静かだった。他のタツマに待つ天堂の仲間の気配も感じられない。鳥の声は幾種類もあるようだが、麻緒には、一々聞きわけられなかった。  銃声が一発、遠くで聞こえた。勢子と犬が行動を開始した合図の、勢子鉄砲だ。天堂の表情がひきしまり、ライフルをかまえた。  犬の吠え声。山は、いっせいにざわめき立つ。麻緒は、胸に、痛みに似た感覚をおぼえる。鹿射ちは、熊や猪相手とは違う。ハンターの身には何の危険もない、一方的な殺戮《さつりく》のゲームだと、麻緒は感じる。血を流したければ、男どもが、たがいに射ちあい殺しあえばいい。物を言わず、自ら苦痛を訴えることもしないおとなしい獣は、麻緒にとって、傲慢《ごうまん》で自信にみちた人間の男より親しみやすい。麻緒は、部屋に残して来た廉を思い出す。一人前の男より、むしろ、小さいけものの方に近い感じがする少年だった。麻緒は、自分より優位に立つ男が怖かった。金で肉体を買える男なら、その金額に相当するぶんだけ、彼女にやさしい。  勢子の追い立てる声、犬の吠えかわす声が近くなる。  天堂は、脚をやや開き、左肘をあげてかまえている。  麻緒は、矛盾した気持にとらわれる。鹿が射ち殺されることに痛みをおぼえていたくせに、次第に、殺戮の瞬間を目撃したくなる。鹿がほかのタツマにあらわれて、他のハンターに射殺されたら、さぞ、物足りないことだろう。自分の目の前で殺されてほしい。いや、逃げてほしい。二つの気持が交錯する。  吠え声は、耳を聾《ろう》するほどになる。  遠い木立の間で、何か動く。とび出してくる。弧を描いて跳躍しつつ、天堂が待つタツマとの距離が、みるみる縮まる。美しい跳躍。牡鹿《おじか》である。鋭い角《つの》が刃のきらめきをみせる。強靱《きようじん》な肢《あし》が地を蹴る。麻緒は、頭の中が空白になる。うつろになった脳裏に、鹿は突き進んでくる。すべてのものが眼前から消える。青い透明な空間と、跳ね進む一頭の鹿だけを残して。  耳もとで轟音。麻緒は、耳を押え、思わずよろめく。鹿の姿が、宙にそり返る。首を長くのばし、前肢が空を掻き、高くはねとんで、地に倒れる。四肢が痙攣《けいれん》し、胸骨が大きく波打っている。  麻緒は、立ちつくす。犬が、そして、男たちが、集まってくる。やったな。お手柄、お手柄。そんな言葉が、麻緒の耳の傍を通り過ぎる。足がふるえるのをこらえて、麻緒は、倒れている牡鹿に近づく。地に横たわった躰は、思いのほか、重量感がある。胸に一箇所、小さな孔《あな》があき、細くしずかに、血が流れ出ている。男たちは、ロープで四肢を一束に縛り上げる。 「首は、あんたにまかせるぜ」  男たちの一人が、麻緒の肩を強くたたいて言った。麻緒は目を閉じる。轟音。はね上がって地に墜《お》ちた鹿。同じ光景、同じ音が、際限なく繰り返される。牡鹿の黒い目に、何の脈絡もなく、廉の顔がかぶさる。廉は、少しも鹿に似てはいないのに。     5  森にいるようだな。廉は思う。  アカツグミ、ホシムクドリ、ヒゴロモガラス、ユキホオジロ……  一々名前を知らないけれど、ベッドに寝ころがった廉を見下ろしている鳥たちだ。どうして、あの鳥たちは目がないんだろう。目玉を入れてやったら、歌いだすだろうな。廉は口笛を吹く。かすかな鳥の羽搏《はばた》きがきこえるような気がする。  宿の庭で、焚火《たきび》が燃えていた。  炎の明りをたよりに、麻緒は、地面に横たえられた鹿の首の付根に線を引き、鋭利な刃物を、首に突き立てた。一瞬、ずん、と、何かが躰の中を走った。線に沿って、鋭利な刃物で皮を切り廻し、更に頸部《けいぶ》を背|剥《は》ぎにしてから、切断は男たちにまかせた。  鹿に背をむけ、炎にむかって立った。鋸《のこぎり》が骨をひき切る音を、背に聞いた。躰の中に、うずくものがあった。痛みだと思った。躰の中が熱かった。炎に煽《あお》られるせいだと思った。麻緒の脳裏で、牡鹿の頸は、少しずつ、切り口をひろげていった。瞼《まぶた》の裏で、紅く、炎がゆらめいていた。  男たちに声をかけられ、振り返った。頭部は、胴と切り離されていた。黒い血だまりが、炎を反射して、銀色に光った。  麻緒が角《つの》の座の斜めうしろにメスを入れ、頭皮をはがしにかかる間に、男たちは、胴の皮を剥ぎはじめた。狩りに活躍した犬どもが、おこぼれにあずかろうと、周囲をうろついていた。  麻緒は鹿の口をこじ開け、歯ぐきの奥を切り廻し、下顎を少し剥いだ。  赤裸にむき終わった胴の腹を裂き、男たちは、内臓をひきずり出す。自分たちのご馳走《ちそう》と、犬どもは心得ている。  目と瞼の間の薄膜を切り離す。鼻の軟骨を切り離すと、頭皮は頭骨からはなれる。  男たちは、肉を解体し、金串《かなぐし》に刺して、焚火のまわりに突き立てる。  剥ぎ終えた頭皮に、麻緒は粗塩《あらじお》をすりこむ。たたんで桶《おけ》に入れ、重石をのせる。ビニールの上に置かれた頭骨。琥珀《こはく》色の角。麻緒は、頭骨から脳を掻き出す。犬が寄ってくる。空洞になった頭骨に、塩をまぶす。これらの作業を、麻緒は、黙々と、機械のように正確に、すすめていく。私は、気を失っている、と、麻緒は思う。思考力の助けを借りず、手だけが動いている。  肉の灼《や》けるにおいがただよい、犬どもが、甘えた声を出した。  車座になった酒宴の男たちを残し、麻緒は、先に自分の部屋にひきあげた。麻緒は一人、六畳間を割りあてられている。平炉《へいろ》の炭火の上に金網をかぶせ、更にやぐらをのせた炬燵《こたつ》が暖房具である。蒲団《ふとん》の裾の方に、炬燵の蒲団が重なっていた。  風呂には入らず、山歩きで汚れた服を、別のシャツとスラックスに着かえただけで、麻緒は床に入った。もし挑まれれば、無抵抗で天堂の躰を受け入れるほかはないとは思っていた。たいしたことじゃない。やりたければ、やればいい。どうってこと、ないじゃないか。しかし、自ら隙《すき》を作ってやることはない。  炬燵の火で足の方から快くぬくめられながら、麻緒は、廉の躰を抱きしめる自分を想像した。少年の躰は、しんなりと骨が細く、腕の中でたわみそうだった。  まどろみかけたとき、夜具がはねのけられた。強烈な酒のにおいがした。  ベルトをはずされ、スラックスをはがされかけて、麻緒は、目ざめた。  予期していたつもりだった。  しかし、男の手が肌に触れたとたんに、こらえようのない嫌悪感が、悲鳴となって、のどを突き上げた。天堂の舌で、叫び声は封じこまれた。天堂の唇は、濡れていた。鹿の脂だと、麻緒は思った。そのとき、麻緒は失神した。ヒステリーの発作を起したように、躰が動かなくなった。意識の一部だけが醒《さ》めていた。男の躰が麻緒を踏みにじり、離れ、さらに他の男が彼女をおおうのを、麻緒は識《し》っていた。しかし、それに対するすべての反応感覚は消失していた。麻緒は、少年の躰を抱いた。彼は応えなかった。麻緒の腕の中で、人形のように、ひっそりしていた。彼女に悦びを与えるのは、すがやかな牡鹿であった。胸に少年を、背に牡鹿を感じながら、麻緒は闇の中に消えた。  翌日、男たちは、何ごともなかったような様子をつくろっていた。その方が、麻緒にとっても、よかった。それでも、妙に機嫌をとる者や、なれなれしくする男もいた。麻緒は、きっと、顔を上げていた。怒りと嫌悪が、麻緒をささえていた。天堂の目には、子供じみた怒りとうつるだろうと、麻緒は思った。承知の上でついてきたんじゃねえか。え? おぼこじゃねえんだろう。——私は、男たちに踏みにじられることを、心の中でひそかに……いいえ、そんなことはあるものか。いやな男は、金輪際、いやなのだ。男にも二種類あるのだ。肌にあうのとあわないのと。ものにしてしまえばなびくようになるなどというのは、男のでっち上げた迷信だ。  天堂は、妙にまぶしそうな目で、麻緒を見た。送って行こう、と、珍しくやわらかい声で言った。天堂が近づくと、麻緒の躰は、かっと火照《ほて》った。麻緒は、無言で、他の三人連れの車に同乗した。駅まで送らせ、鹿の頭皮と頭骨の包みをかかえて、一人、列車に乗った。ビニールの包みから、角だけが突き出ていた。     6  包みから突き出た角を見て、廉は、「すげえや」と、嘆声をあげた。「威厳があるね。迫力あるね」しかし、包みをといてあらわれたのが白骨だったので、顔をしかめた。「気持悪い!」さらに、塩漬けの頭皮を麻緒がひろげると、「チンケ! これが鹿かい」  夢想の中でいとおしかった少年は、顔をつきあわせると、皮膚のささくれた、あつかましい、ちびだった。しかし、少年の存在は、麻緒を娯《たの》しませた。  麻緒が皮と頭骨を清水に浸し塩出しするのを、はじめ、少し気味悪そうに見ていたが、やがて、いたずら半分に手伝いはじめた。  塩抜きした皮は明礬《みようばん》液に漬けこむ。ときどき反転させながら、四、五日漬けておく。その間に、アルミ板で耳の芯《しん》をつくり、頭骨の芯巻き、肉づけにかかる。  夕方になると、廉は、じゃあね、と言って、出て行こうとした。  帰るの?  いてもいいのかい? 上目で、さぐるように見た。  いいわよ。  鉄パイプとキャンバスの簡易ベッドは、二人が横たわると、躰を寄せあっても、窮屈だった。麻緒の手が触ると、くすぐったい、と躰をよじって、廉は笑った。麻緒は、唇を近づけた。ごめんよ、と、廉は顔をそむけた。  棒状の木に頭骨と頸座を固定し、金網を巻いて下地を作る。木片で作った鼻軟骨の代用品をとめつける。木綿で肉付けをし、糸で巻きつけてゆく。麻緒の手もとを見つめる廉の目が、熱を帯びてくる。前もってスケッチしてある実物の寸法にあわせながら、麻緒は、丹念に肉をつけてゆく。 「だんだん、生きてゆくね」 「生きないわ」麻緒は、しらけた答えを返す。  夜、二人は、抱きあって寝る。腕をたがいの躰にまわし、腿《もも》を触れあい、ただそれだけだけれど、何となく、安らぐ。少年も、くつろいでいる。「全然、女の人に興味ないの?」一度、何気なく訊いた。咎《とが》めるつもりも、まして、さげすむつもりもなかった。稚《おさな》い子を懐ろに抱くような夜は、麻緒にとって、不愉快ではなかった。しかし、瞬間的に、廉の形相が変わった。「うるせえな。よけいなおせっかいだ」いきなり背中から斬《き》りつけられでもしたように、廉の声は、悲鳴に似ていた。廉の背後につながる生活の極微量がのぞけたような気がしたが、廉は、すぐ、けろっとした顔になった。こらえたのか、たいした傷と思っていないのか、麻緒にはわからなかった。  明礬液から引き上げた皮は、こわばっている。部分的に一センチも厚みがあるのを、内側を削って、三ミリ厚さにならす。水洗いして、亜砒酸末をどろどろに溶いたのを、まんべんなく、すりこむ。防腐用である。 「気をつけてね。猛毒だから」 「本物の毒薬?」 「そうよ」 「魅力!」  廉の指が素早く動いて、亜砒酸の小びんをジーンズのポケットにしまいこむのを、麻緒の目はとらえた。 「返しなさい」 「少し、くれない?」 「冗談じゃないわよ」  廉は、しぶしぶ、びんを返した。 「おれ、少しは役に立ってる?」  麻緒が笑って、とても、と言うと、それじゃ、ここにいても、いいね。もちろんよ。廉もてれたような笑顔をみせ、「おれ、何をやっても長続きしなくてね。でも、ときどき、思うんだよね。しっかりしなくちゃ、なんて」殊勝なことも、たまには言う。「麻緒さんの弟子にしてもらって、剥製師になろうかな」「根気がいる仕事よ。レンには、むりね。あんたは、楽して食べることしか考えていないんだもの」「お説教かい?」「する柄じゃないわね」「おれの職業、ちっとも楽じゃないって、知ってる?」「あれが本職?」「ほかに、いろいろ」 「手をよく洗っておきなさい。口に入ると、死ぬわよ」 「麻緒さん、山から帰ってきたとき、怖い顔をしていたよ。全身が刃物みたいだった」水道の水を出しっ放しにして手を洗いながら、廉は言った。カンはいい。天堂からは、何の音沙汰もない。 「明日、皮着せして縫合して、それで、一応できあがりよ。完全に乾燥するまでには一カ月かかるけれど」  夕方、廉は、ふらりと出て行った。夜ふけて帰って来ると、「前祝い」洋酒のびんをテーブルに置いた。「ばかね。ウイスキー欲しければ、買うお金ぐらい、あるのよ」「だって……、おれの、こころざし」知ってる? 万引するときって、なぜか、立つんだぜ。自分でも不思議なんだけど。 「もう、帰って来ないつもりかと思ったわ」「これも、おみやげ」廉は、ジーンズのポケットから小さい紙包みを出して、テーブルに置いた。 「レン、それよりも、あたしに返すものがあるでしょう」  廉は、あれ? と、とぼけた。 「早く返しなさい。あんなぶっそうな物を持っていては、だめよ」 「もう、ないんだよ」と、廉は、少しふてくされた。 「どうしたの?」 「あんたに関係ないんだよ。怒らないでくれよ。おれ、ほんとに、まじめにやってみようと思ってさ。でも、仲間を抜けるには、それ相当の仁義ってものがあるじゃない」 「亜砒酸で自由を買い戻してきたっていうわけ?」 「まあ、そんなとこ」と言ってから、廉は、屈託なく笑った。「と言えば、ちょっと、かっこいいけれど、そんなオーバーなんじゃないよ。べつに、暴力団とかヤー公とか、そういう組織と関係あるわけじゃない。自由を縛られていたなんてんじゃないんだ。平和な仲間だよ。抜けるのは、かってさ。ただ、黙ってフケるのは、おれとして不本意だったから。ああいう薬って手に入れにくいから、みんな喜んだよ。持ってると、偉くなったような気がするじゃない。出どこは話してないから、麻緒さんが気にすることないよ」  話のピントが、少しずれていた。手に負えなくなりそうだと、麻緒は、かるく悔んだ。少年は、麻緒の意のままになる人形ではなかった。彼の陰の部分は、麻緒よりはるかにしたたかなのかもしれなかった。甘い夢想で彼を飾りすぎていた。麻緒の不機嫌な顔を見て、「飲む?」と、廉は洋酒びんの蓋《ふた》に手をかけた。「二日酔いでは仕事ができなくなるから、いらないわ」「それじゃ、明日、完成祝いに飲もう」  廉は、木綿を巻きつけられて、いくらか形がついてきた頭骨に目をやって、はずんだ声で言った。     7  天堂から電話がかかってきた。 「どうだい。鹿はできあがったかね」  その声を聞いたとき、汚水を浴びせられたような不快感とともに、かすかな懐かしさもおぼえたのに気づき、麻緒は、自分の心の動きに愕然《がくぜん》とした。憎んでいたはずではなかったか。やはり、肌をあわせた男のことは忘れられなくなるのか。そんなはずはない。いままで、何人もの男と、金で割り切って遊んだではないか。あの粗野な男に、指の先ほども惹《ひ》かれてたまるものか。  牡鹿の首の剥製は、今日中に仮仕上げが終る予定であった。 「あと、仮仕上げだけでも、五、六日はかかりそうですわ」 「いやに手間どるじゃないか」 「大物ですから、丁寧にやっているんです」 「あんた、怒っているわけではないんだろう」  からかうように、天堂は言った。 「そっちも気分出していたんだからな」  受話器を叩きつけて、麻緒は電話を切った。  ダイニング・キチンでパンに厚切りのチーズをのせ食べていた廉が、驚いて手を止めた。 「さあ、仕事よ。手を洗ってきなさい」 「そうキンキンしなさんなって」  廉は、口のまわりのパン屑《くず》を手でぬぐい、その手を紙ナプキンでこすって、立ち上がった。汚れた手をズボンでぬぐったりしないのは、おしゃれなところがあるからだろうか。  目の高さに頸座を据え、麻緒は、顎や眼のくぼみに粘土をつめるところから始めた。廉は脇に立って、みつめている。  切開線に沿って小孔を開けた頭皮をかぶせる。廉が手を貸す。廉は、かすかに息をはずませている。  麻緒は、三角針で縫合してゆく。廉の喘《あえ》ぎが大きくなる。鼻頭を粘土で形づくり、唇の部分にも粘土をつめて厚みを作る。  ああ——と、廉は小さく呻《うめ》いた。 「廉、義眼の箱をとって」 「待って、麻緒さん。眼だけ、おれに入れさせて」 「だめ。むずかしいのよ、眼は。これで、表情がきまるんだから」  そう言いながら、麻緒は、もし廉がたってと言えば、教えながらやらせてみるつもりになっていた。  廉は棚から義眼の入った箱を取って、麻緒の傍に置いた。麻緒が眼球を選び出すと、横から手をのばして、ひっさらい、握りこんだ。 「乱暴にしないで」 「やらせてくれるだろ」  それじゃ、やってごらん。麻緒は、少しいじ悪い気分になり、口をつぐんだ。アドバイスしないで廉にまかせた。おかしなやり方をしても、粘土が乾かないうちなら、やり直せる。  廉は、ちょっと考えていたが、針を使って瞼を開き、義眼を押し入れ、ピンセットと針で、器用に瞼の形を修正した。ほうっと溜息をついた。 「生きたねえ」角が、動くみたい。  ばか言わないで、と、麻緒は廉を軽く押してどかせ、細かい部分を修正した。 「生きてるよ。きれいだ。目が、光ってる」  麻緒は、廉が少し泪《なみだ》ぐんでいるのに驚いた。この子は、何を見ているのだろう。レンの見ているものを、私も見たい。 「まだ、これで仕上がりではないのよ。乾燥させている間に、たえず形の狂いを直さなくてはいけないし、角の根元の皮がちぢんでくるから、そこも修正しなくてはならないし」  廉の陶酔を醒ますように言ったが、廉は、すごいよ、まるで生きてるよ、と譫言《うわごと》のように繰り返した。  生きてはいないわ。麻緒は、天堂の銃口の前に躍り上がった鹿の姿態を思い浮かべた。あれこそ、生きていた。剥製は、あの、美しい、しなやかな跳躍力を持った牡鹿の、なれの果てだ。塩漬けの頭皮と白骨を見ることからはじまった廉には、これが本物のように生き生きと見えるのだろう。まさに、甦《よみがえ》ったと感じられるのだろう。 「剥製をいじってはだめよ、絶対に。まだ粘土が乾いていないんだから。さわると、ゆがんでしまうからね」  その辺をかたづけておきなさい、と命じて、麻緒は手を洗いにダイニング・キチンに立った。侘《わび》しさが胸を噛んでいた。一仕事終えた虚脱感もあるのかもしれないが、いつに変らぬ、剥製作りの虚しさであった。  仕事場に戻ると、廉は、かたづけはそっちのけで、床に坐りこんでいた。あぐらをかき、背を丸め、頭は持ち上げて、視線を牡鹿の首に釘づけにしていた。両手が動いていた。 「廉!」  麻緒は、少年を胸に抱きこみながら、床に倒れこんだ。肌着をとった。少年の熱い肉を躰の中に感じた。 「ああ……首だけだから……首だけだから、いいんだよ」  廉は、うっとりとつぶやいた。床にしっかり固定された脚や胴がついていれば、想像は飛翔《ひしよう》をはばまれる。廉は、首につづく、かるがると野を駆ける姿態を思い描いているのだろう。 「レン」  麻緒は、唇をあわせた。牡鹿は息づいていた。麻緒は、背に牡鹿の肉を感じた。いつか、それは、背後から抱きすくめる天堂であった。声をあげて、麻緒は廉を抱きしめた。はげしく脈打つ音が、自分の血管を流れる血の律動か、少年の鼓動か、想像の男のたくましい躍動か、区別がつかなくなった。  音は、ドアを打ち叩くノックに変っていった。  牡鹿は消えた。麻緒は躰をすべらせて廉からはなれた。廉は、そのまま躰をくの字に折り曲げて、床に寝ころがっていた。身づくろいを直し、麻緒は、ダイニング・キチンに行って、入口のドアを開けた。  天堂は、まじまじと麻緒をみつめ、破顔した。「あんたよ、指人形なんか使わなくたって、一言それと言えば、おれがすぐ、慰めに来てやるのによ」  靴を脱いで、上がりこんできた。 「一応は、できているんだろう」 「まだですわ」 「嘘つくんじゃないよ。おれだって、狩猟を長年やっていれば、剥製の知識も、一通りはおぼえるからね。日数からいって、もう、仮仕上げはできていなくてはおかしい」 「まだ、動かせないんです。乾いていませんから」 「なに、車でそっと運ぶから大丈夫だ。今夜、署長が飲みにくるから、みせびらかしてやろうと思ってね」 「待ってください。本当に、まだ、できていないんです」  天堂は、ずかずかと立って行って、境の襖《ふすま》をひき開けた。 「ああ、なかなかよくできているな。ここまで仕上がっていれば、十分だ」  天堂の声は、平静だった。彼の目は、できのいい剥製しか見ていなかった。  それが当然なのだ。——あたしの方が、おかしい。麻緒は思う。  廉が、剥製の首から、疾駆《しつく》する鹿の幻を描くのは、当然だ。彼は、まだ、一塊の石くれから壮麗な伽藍《がらん》を思い浮べ、一枚の木の葉に森のざわめきを聴くことができる年齢なのだから。でも、あたしは……。  あたしは、さっき、牡鹿を肌に感じた。おかしいんじゃないかしら。どこか狂っている。剥製は剥製だ。廉は生きていると言ってくれた。でも、それは、廉が彼自身の内側を鹿に託して視《み》ただけだ。すぐれた彫刻や絵画は、観《み》る人の心をうつ。剥製には、そんな力はないはずだ。 「ひとまず、持って行くから」天堂は、鹿の首をそっと抱え上げようとした。 「どうするんだよ」足もとから、廉がはね起きた。 「なんだ、あんた、まだ、こんなのを置いていたのか。蚤《のみ》に食われて大騒ぎした小僧を」  廉の頬が染まった。畜生、と呻いた。 「あんたの相手は、指人形ではなくて、こいつか」よしな、よしな、こんな狆《ちん》コロ。  泥棒! と、廉はわめいた。天堂はとりあわなかったが、廉がむしゃぶりついて剥製を取り戻そうとしたので、なぐり倒した。  廉は、口をつぐんだ。起き上がりざま、無言で、天堂にとびかかった。  天堂は、剥製を麻緒に渡した。廉がとびかかり、天堂がそれをあしらって突き倒す音を背に、麻緒はダイニング・キチンにひき下がり、剥製をテーブルにのせ、ぐあいを調べた。ゆがんではいなかった。  いっとき、これに命を宿らせたのは、少年の感受性だった。しかし、廉の怒りは理不尽だ、と、麻緒は思おうとする。これは商品で、天堂のものなのに、あの子は、物事を自分に都合のいいようにしか解釈しない。そう思いながら、愛するものを奪われまいと、とても勝ちめのない相手に立ち向った廉を咎《とが》める気にはなれなかった。  鈍いうめきが聞えた。隣室に目をやって、麻緒は、廉が天堂を刺したのを知った。  部屋の中には、天堂と麻緒と、二人だけだった。  傷口を止血しながら、「行きなさい」と、麻緒は廉に言ったのだ。 「黙っていてあげるから、早く行きなさい」 「でも……」こいつが、おれの鹿を盗《と》ろうとしたからだ、と昂然としていた廉の表情が、おびえたように変った。虚勢がくずれかけた。 「おい」と、天堂が、呻き声といっしょに、「そいつを逃がすつもりか」 「そうよ」 「おれが黙っていると思うのか」 「大人のお話をしましょうよ。あなたが私に挑んだ。私が過剰防衛で刺してしまった。そういう話なら、わかるんでしょう」 「ばかにするな」と天堂は顔をゆがめ、躰を起した。麻緒が意外に思ったことに、天堂はそれほど腹を立ててはいないようにみえた。廉のメスは、天堂の肩から腕を切り裂いていたが、天堂にとって、身動きできないほどの傷ではない。その気になれば、なお、廉のような非力な少年に対する攻撃力は十分残っているはずだった。廉は、すでに、血に濡れたメスを捨てていた。 「山で、こういう事態になってもいいところだったのよ。少し遅れて起こっただけ」 「ほんとうに、逃げてもいいのかい」廉の声が、いっそう、おずおずとなった。 「いいわ。鹿を持っていらっしゃい。これを守りぬきたかったのでしょう」 「い、いらねえよ」廉は尻込みした。「そんなでかい物を持ったら、目立って、逃げられやしねえ」  ドアを開けて、廉は外にとび出した。階段を駆け下りる足音が続いた。  は、は、と、天堂は、傷にひびかないよう、力を入れない声で笑った。 「あんたもおれも、あのちんぴらに、してやられたな」  まったく、そうだった。麻緒の感傷は、廉の裏切りであっさり打ちくだかれ、こっけいな一人《ひとり》角力《ずもう》になってしまった。一番の犠牲者が、一番たくましいはずの天堂であった。 「傷はどんな?」 「蚤より、ちょっとでかいな。南京虫《なんきんむし》にかじられた程度か」 「救急車を呼ぶわ」 「おれの知っている医者にしろ」  天堂の言う数字どおりにダイヤルを廻し、麻緒は来診を依頼して、受話器を下ろした。 「ぎりぎり惚《ほ》れこんで、どうでも欲しいというものを、躰をはってでも奪い取ろうとする奴ってのを、おれは嫌いじゃない」天堂は言った。「だが、あいつは、結局、ただの薄汚ないちんぴらだったな」 「そうね」麻緒は、泣き笑いのような顔で、テーブルに置かれた鹿の首に目をやった。毛並は艶がなく、エナメルで着色したガラスの義眼は、いかにも安っぽかった。 「廉のことを怒らないの?」 「怒るというのは、もう少しまともな奴を相手にしたときだ」  麻緒も、腹は立ってはいなかった。あの子は、怖かったんだわ。しかたがない。あれが、あたりまえなんだ。あたしが勝手に、ドラマティックなヒーローの像を、あの子の上に描いただけだ。  テーブルの上の小さな紙包みが目にとまった。廉が、みやげだよと言ってよこしたものだ。とりまぎれて、そのままになっていた。  麻緒は包みを開いた。煙草が一本だけ入っていた。煙草に似ているが、素人の手巻きらしく、不細工だった。  見るのは、はじめてだけれど、  ——これが、マリファナ煙草か……。  麻緒は、その一本の煙草を口にくわえ、火をつけた。深々と、喫いこんだ。  紅 い 弔 旗     1  ここ数日、弓雄は、彼の夢想を奈々に語らなくなった。縛《しば》ってくれとも言わなくなった。  今、弓雄は、舞台の袖に立っている。  舞台は暗い。海の底のように、碧《あお》みをおびて暗い。袖は、いっそう暗い。すぐ傍に立った奈々の目にも、弓雄の表情は、はっきり見えない。しかし、彼の、男にしてはいささか細すぎる肩が緊張に震えているのを、奈々は感じる。  舞台の下手に陣どったブラス・ロック・バンド〈サラマンダー〉の、ソリッド・ギターも、エレキ・ベースも、ピアニッシモに音を押え、ドラムもワイヤブラシのささやきかけるようなリズム。フルートだけが、テーマのヴァリエイションを観客の心にしみこます。  奈々の隣には、寒河江貢《さがえみつぐ》が、スツールに腰を下ろし、膝の間に一升びんを抱えこんでいる。びんの中身は、すでに、三分の一ほど減っていた。寒河江の表情も、薄闇の中で、さだかではない。規則正しい、だが、喘息《ぜんそく》患者のように荒い呼吸の音だけを、奈々は感じる。弓雄の緊張と、寒河江のそれとは、全く異質のものだ。それは、弓雄と奈々だけが知っていることだ。  もうじき、舞台正面奥のホリゾントの裾《すそ》に、細い薔薇色の筋が見えるだろう。闇の裂けめのような筋は、三日月型に光をはらみ、光茫《こうぼう》をはなち、半円にひろがり、やがてホリゾントは光まばゆい無限の蒼穹《そうきゆう》と変じ、そこに、上半身をあらわにした滝田一衛《たきたかずえ》が、静かに、ゴンドラで下りてくるだろう。滝田のたくましい半裸の躰《からだ》は、ライトに黄金色にふちどられ、突如、ドラムが轟《とどろ》く。ロック・ミュージカル〈イターニティ〉のクライマックスである。  しかし、舞台は、まだ暗い。  弓雄は、何度も、縛ってくれと奈々に訴えた。「手だけでいいんだよ、奈々さん。でないと、おれ、本当に……」  まさか、まともに彼の訴えをききいれるわけにはいかなかった。弓雄は、身もだえ、床に頭を打ちつけ、縛ってくれと哀願した。禁断症状が起きるのを予知した麻薬の中毒患者と似ていた。それも、何とか中毒と縁を切り立ち直りたいと願いながら、次の瞬間、制御しがたい兇暴な発作におそわれるであろう自分自身に怯《おび》えているものに。  奈々が弓雄と出会ったのは——というよりも、弓雄が滝田と出会ったのは——およそ、三カ月ほど前のことであった。  いつものように、寒河江と滝田は酔っていた。新宿の細い路地を、右に左によろけ、通行人にぶつかりながら、  もう、明日からは、いっさい、おまえとは、つきあわねえからな。  ああ、止めろ、止めろ。とっとと、出て失せろ。  奈々は、ときどき、あんまり大きな声出さないでよ、と、笑ってたしなめる。  寒河江を中心とするロック・ミュージカル・グループ〈海賊船〉は、何度も空中分解しそうになりながら、これで六年続いてきた。グループ結成以来動かないのは、寒河江と滝田、それに奈々の三人だけだった。他のメンバーは、めまぐるしく入れかわった。家出少年、家出少女のたまりのようなものだ。  寒河江は、台本を書き、演出し、振り付ける。滝田は、舞台で、寒河江の意図を彼の肉体と肉声をもって表現し、ときに楽器をプレイし、また、作曲も行なう。奈々は、完全な裏方であった。マネージメントと、雑用いっさい引き受け係。発足当時、彼らは、プロのミュージシャンではなかった。まともに楽器を扱えるのは滝田だけであり、寒河江が高校時代素人演劇にちょっと関係したことがある程度だった。それでも、とにかく、三人は、〈何か〉やりたかったのだ。  六年間、寒河江と滝田が酔わない日はなく、泥酔のあげく口論からつかみ合いの喧嘩に発展しない日は少ない。奈々は、馴れっこになっていた。  しかし、アルマイトの岡持《おかもち》をさげてバーの裏口から出て来た少年は、二人の剣幕に、色を失った。岡持を取り落とさんばかりに、立ちすくんだ。少年の驚きようの激しさの方が、奈々を驚かした。  滝田が寒河江の胸倉を掴《つか》んでねじ上げたときだった。勢いこめて突きとばそうとする腕を、奈々は押えた。 「お止めよ、滝ちゃん。ほら、ラーメン屋の男の子が、びっくりしてるわよ」  滝田の腕の力がゆるんだ。寒河江はその腕を振り払い、大きく吐息をついた。少年と滝田の視線が合った。少年は、掠《かす》れた悲鳴をあげた。長く息を呑みこみ、それが声になった。唇が白く変わり、二、三歩、後ろにたたらを踏んだ。 「何をオーバーに驚いてんだ。幽霊でも見たような面《つら》しやがって」  少年は、岡持を地面に置いた。丸めた躰をそのまま、滝田の下腹にぶつけてきた。股間にまともに頭突きをくらい、滝田は、ぎゃっとぶざまな声をあげて、尻もちをつき、呻《うめ》きながら屈みこんだ。寒河江は、笑いころげた。 「ざまあねえや、滝」  岡持はそのままに、走り出そうとする少年の衿首《えりくび》に、起き上がった滝田が猿臂《えんぴ》をのばした。つかまえて引き寄せ、手刀をくらわせる。蹴り上げる。一瞬だった。少年は、地面にのびた。薄く開いた瞼《まぶた》の間に白眼がのぞき、唇のはしから涎《よだれ》が糸をひいた。滝田は、歩き出そうとした。 「放って行くの、この子?」  奈々は滝田を呼び止める。寒河江は、少年の頭の脇に突っ立ち、見下ろしていたが、 「おい、手を貸せ」  抱き上げようとした。 「放っとけよ。おねんねさせとけ。そのうち気がつく」 「いや、こいつ、使える。さらって行こう」  奈々は、寒河江の傍にもどり、あらためて、仰向けに倒れている少年の顔を眺めた。  繊細な蝋《ろう》人形を思わせた。すんなりととおった細い鼻梁。柔い、幼女のようなくちびる。  滝田も少年に目をやった。かるくうなずき、腰をかがめると、正体のない躰に手をまわした。奈々と寒河江も手を貸す。肩にかつぎ上げ、ちょっとふんばって、立ち上がった。「行こう」さっさと歩き出した。滝田は二メートル近い長身である。沖仲仕のバイトをしていたこともある。華奢《きやしや》な少年の躰は、滝田の肩に二つ折りにかけられ、藁《わら》しべのように頼りなく揺れた。  表通りに出てタクシーを拾い、〈海賊船〉の事務所と三人の塒《ねぐら》のあるアパートにむかった。 〈海賊船〉のウィーク・ポイントは、観客動員力を発揮し得る花のあるプレイヤーに乏しいことだった。マスクもいいし歌えそうだと思うようなのは、仲間に入ってきても、じき、もっと収入の得られそうな、あるいは、もっと有名になれそうな場所にうつってゆく。商業演劇ともTVとも無縁な〈海賊船〉は、若いメンバーを満足させるだけのペイはできない。外部から頼むバンドに支払い、ホールの借賃や仕込みの費用をさし引くと、メンバーの手に渡るのは、ほんの小遣い銭ぐらいのものだ。アマチュアの、自己満足のための仕事なら、公演のたびに持ち出しでもかまわないだろうが、寒河江は、グループが一個の企業体として成り立つことを望んでいた。  公演の際、一応名のとおったプレイヤーを外部から借りて、表看板に立てることもあるが、動員力のある知名度の高い者は、彼ら自身のスケジュールがつまっていて、長期間|拘束《こうそく》することはむずかしいし、ギャラも高い。  滝田は、一人で舞台をひきしめるだけの魅力はあった。固定したファンもついていた。しかし、〈海賊船〉の観客は、ミドル・ティーンが多かった。あと一年で三十になろうという滝田は、彼らが自分たちのアイドルとするには、大人すぎた。 「リズム感覚ゼロのでくの坊だったら、どうしようもないがな」  壁に躰を押しつけ、怯《おび》えた上目遣いでこっちを窺っている弓雄に目をやって、滝田は言った。 「なに、|でく《ヽヽ》だっていい。まわりでカバーしてやる。それに、この頃の奴は、まがいものにしろ何にしろ、ロック風ポップスを肌にしみこませて育ってきているから」 「もうちょっと、こう……」品さだめするように、滝田は弓雄を眺めまわし、「ピッとシャープなところが欲しいな。テレビのかわい子ちゃん歌手とは違うんだぜ。〈海賊船〉の客は、ああいうのは、むしろ軽蔑している」 「といって、ザッパや、シルバー・ヘッドでは、なまぐさすぎて、日本では定着できない。ここは、ロンドンじゃない。そのへんが、ちょうどいいところだ」と、寒河江は顎《あご》で弓雄をしゃくった。 「白塗りにして、かなりわいせつに迫らせてみろ。受ける」     2 「ばかやろう。おれが十分で書いたせりふだ。十分でおぼえろ」  寒河江の台本は、稽古中に、しじゅう変更される。初稿は、ほとんどアウトラインだけの、雑なものだ。稽古しながら、書き加え、削《けず》り、順序を入れかえ、次第に形づくられてゆく。役者は大変だ。苦労しておぼえた長ぜりふをばっさり削られ、別のせりふを、その場でおぼえることを要求される。  区民会館の一室を借りての稽古だった。プレイヤーは、七人。弓雄のほかにもう一人、最近入ってきたアイという女の子がいる。そのほかは、生え抜きの滝田を別として、ここ一、二年、〈海賊船〉に腰を据えている連中だった。滝田以外は、みな若い。十七、八から二十一、二。〈イターニティ〉は、すでに去年一度上演していて、今度は再演だが、寒河江の台本は、例によって、容赦《ようしや》なく変わってゆく。  ——弓雄は、スタープレイヤーになるには……。  少し陰気すぎる、と、奈々は思う。  テーブルの上に、音入れしたテープをかけたレコーダーが置いてある。稽古の進行にあわせ、奈々は、スイッチをONにし、OFFにする。タイミングよくやらないと、寒河江の罵声《ばせい》がとぶ。昂奮してくると、罵声に、平手打ちが加わり、もたついている役者はつきとばされる。  ——マスクも歌も悪くないけれど、もう一つふっきれた華やかさが欲しい……  稽古は、ダンスと歌のナンバーに入っていた。滝田をのぞいた六人が、激しいボディアクションと共に、マイクを手に歌う。マイクといっても、練習中は本物ではない。短い棒きれを代用にしている。稽古の間はいらないようなものだが、手ぶらでやると、本番のとき躰の動きが違って、まごつく。  稽古が終われば、また、飲むことになるのだろうけれど、今日は、かなり荒れそうだ、と奈々は、椅子に馬乗りにまたがり、改変されたせりふの抜き書きをおぼえこもうとしている滝田に目をやる。滝田は、明らかに、このせりふが気にいっていない。——甘すぎる、と、奈々も思う。あまりに、ストレートに感傷的だ。感傷を逆手にとって、滑稽化してしまうのならいいけれど。  しかし、滝田は、稽古中は、いっさい寒河江に反抗しない。演出家であり作者である寒河江をたてている。そうしなければ、若い連中がめいめい勝手なことを言いたてはじめて収拾がつかなくなるということを心得ているからだ。そのかわり、稽古中にたわめられた分が、あとのフリータイムに、凄じい爆発となる。  ばしっ、と、平手打ちの音がした。頬を押えて立ちすくんだのは、弓雄だった。又、マイクがわりの棒を落としたのだ。右から左にす早く持ちかえる。そのときに、弓雄は、しばしば棒を落とす。運動神経はかなりいい方なのに、と、奈々も歯がゆい。 「やり直しだ。ユミ、おまえだけ」  奈々がテープを巻き戻し、ナンバーの頭を出す。弓雄の声は少し細いが、悪くはない。ヴァイブレーションがきいて、ロックより、ソロで演歌調の歌をうたった方がむいているのではないかと奈々は思うが、〈イターニティ〉に演歌はいらない。  リズム感覚はすぐれている。ワン、ツー、スリー、フォー、で、持ちかえる。落としはしなかったが、わずかに、テンポが乱れた。 「ばかやろう! くたばっちまえ」  ユミ、と、滝田が冷静な声で、寒河江の怒声をさえぎった。「手をみせてみろ」  弓雄の汗まみれの顔が、少しこわばった。かくすように、左手を背にまわした。その手を寒河江がつかんで引き寄せた。棒を持たせた。 「これ以上、曲がらないのか?」  奈々も、立って近づいた。中指と人さし指が、十分に棒を握りこんでいなかった。マイクをささえるのは、わずか、小指と薬指の二本と親指なのだ。小指というのは、力をいれにくい。落とすのも、むりはなかった。  よく見ると、動きの不自由な二本の指には、ひきつれのような傷跡が、かすかに残っていた。 「どうしたんだ?」  寒河江の問いに、弓雄は無言だった。 「ミスはミスだ」寒河江は厳しい声を出した。「舞台で、一々、指が不自由だから落としましたなんて言いわけはできないぞ。おまえ一人、あとで、自分で練習しろ。絶対落とさないようになれ。テンポもくずすな。落とすたびに、ビンタだぞ」  稽古は再開された。  ——陰気な感じがするのは、指のせいかしら……?  あのくらいのことで、男の子が、挫折感を持ったりするとは思えなかった。もともと、内向的な性質なのかしら……。  再び、平手の音がとんだ。打たれたのは、弓雄ではなかった。アイが、頬を押えてはねとんだ。はじめてひっぱたかれたアイは、床に平たく坐りこみ、きょとんとした顔で寒河江を見上げた。腫《は》れぼったい瞼。小さい目。丸い低い鼻。十人並みというにもほど遠いが、せりふと演技は達者で、一人で長丁場を持たせる力がある。 「迫力ありますね、寒河江さん」アイは、けろっとした顔で感嘆し、それが、寒河江の熱気をはぐらかしたようにきこえ、滝田が笑いだした。「いいぞ、アイ」  滝田がアイを誘い、アイが弓雄に声をかけたので、帰途飲み屋に立ち寄ったのは、寒河江と奈々を混え、五人になった。  アイは、一人でよく喋った。少し訛《なま》りがあった。 「……わたしね、かなり深刻に悩んでるんですね。わたし、一生、男にもてるってことないんじゃないかって。これ、かなりきついですねえ」 「大丈夫だよ。そのくらい、でけえおっぱい持ってれば」滝田は、アイのゆたかにはった乳房を、セーターの上から鷲掴みにした。アイは、意外に純情に真赤になり、それでも口だけは達者に、「そう、顔じゃないよ、からだだよって、わたしもそう思ってるんですけどね」 「そのせりふ、いれよう」寒河江が言いかけると、「陳腐《ちんぷ》だよ」滝田がさえぎった。 「貢さん、あんた、そんな小手先のところをいじくりまわすより、もっと根本的なところで考え直すべきだよ。手を入れれば入れるほど、あんたの台本《ほん》、ますます甘ったるくなっていくぜ」 「なに!」 「観にくる客がティーンエイジャーだからって、それに調子あわせて話を甘ったるくするこたないだろう。おれもあんたも、来年は三十だぜ。おれたちの芝居をやろうよ。三十の声で語り、三十の心で歌うような」 「きいたふうなことを言いやがって。なんでそう、年にこだわるんだ」 「年にこだわってるんじゃねえ」わからねえのかと、滝田は舌打ちし、あとは、いつもどおりの口喧嘩だった。  六年前、デーモンに憑《つ》かれたような勢いで〈海賊船〉が旗揚げしたときは、寒河江も、滝田も、奈々も、たしかに若かった。鬱屈したものが噴出するように、寒河江はジェット機のスピードで台本を書き上げ、滝田は溢れるものを曲に叩きつけた。  寒河江は学生であり、滝田は定職を持たず日雇いの肉体労働で稼いでいた。  熱気のみなぎった時代だったと、今、奈々は思い返す。新宿の西口広場には、フォーク・ゲリラによる解放区が出現し、アンダーグラウンド演劇が、旧来の新劇の観念をぶちこわし、東大が燃え上がり、——何かが始まる……という期待があった。  飲み屋でたまたま隣り合わせた寒河江と滝田、それまでは全く見ず知らずの他人だった二人が、意気投合した。芝居の本質はミュージカルだと寒河江が言い、音楽とは即ちロックだと滝田が言い、その頃から寒河江と同棲していた奈々と三人、金もないのに、おれたちのミュージカルをやろう。おれたちが叫ぶとき、それは、必然的に歌になるのだ。音楽になるのだ。ふやけた商業演劇に何ができる。  今、奈々は、立ち止まる。振り返る。見廻す。一握りの観客。下降する観客の年齢層。層の薄い日本の芝居人口。たえず流動するメンバー。ふくれ上がったかと思うと、たちまち数人に減る。歌と踊りの基礎訓練期間に乏しいから、いつまでたってもアマチュアの集団のようだ。  五、六年前日本中にみなぎった熱い空気は、消えてしまった。あのときの熱気は、商業資本の中に吸収されてしまったのだろうか。 「お銚子」滝田のどなり声に、奈々がふと気がつくと、滝田と寒河江の論争は、いつのまにか、立脚点が逆転していた。滝田は、大衆を広く動員できるような芝居でなくてはだめだ、これでは素人のマスターベーションだと言い、寒河江は、やりたいことをやらねえで、客に迎合《げいごう》するのかと、どなっていた。  論理は飛躍し、言葉尻をとらえて揚げ足をとり、 「表へ出ろ」  もつれあって外に出る。小雨が降り出していた。  寒河江が、いきなり、むしゃぶりつくのを、滝田が突き放した。もう一度とびかかろうとする寒河江に、アイがすがりついた。 「止《や》めてくださいよ、寒河江さん」  滝田は、弓雄がひきとめていた。細いからだが滝田の腰にはりつき、「ああ、滝さん……」うわずった声をあげた。  TVや映画の格闘シーンのように、激しい技《わざ》の連続ではない。二人の喧嘩には波があった。にらみ合う。罵《ののし》りあう。一方がとびかかる。突きとばす。ふたたび罵声の応酬。半分馴れあいで娯《たの》しみながらやっているような面もあるのだから、奈々は、いつもはしいて止めなかった。止めに入ればかえっていきり立つ。仲裁には汐どきがある。  ——でも、今日は……。滝田は、大衆を広く動員できるような芝居でなくてはだめだと言った。あれは、寒河江の口ぐせだ。あの噂は、本当なのだろうか。あとで滝田にたしかめなくては。六年前、〈海賊船〉は出帆した。行きつく岸辺のない大海にのり出したのだ。死ぬまで、帆をはって、さすらいつづけるか、あるいは、たちまち破船となって、海底《うなぞこ》に沈むか、二つに一つの船出をしたのだ。  アイが、寒河江の腕をひっぱっていた。 「止《や》めてくださいよ、寒河江さん。ねえ、滝さん、止《や》めましょうよ」  そうして、弓雄は……。滝田は、ふと、あきれた声を出した。 「おい、ユミ、何だってんだよ。おまえ。うすっきみ悪いやつだなあ。さかりのついた狆《ちん》コ口みてえにおっ立っちまいやがって。手を放せよ」  弓雄は、滝田のスリムのジーンズにつつまれた脚に、自分の片脚をぴったり絡《から》ませ、顔を相手の背に埋め、喘いでいた。弓雄の右手は、固く拳に握られ、滝田の柔い脇腹に、ぐいぐい、くいこんでいた。  滝田は、吸いついた弓雄のからだを振りもぎろうと、身をよじった。弓雄は、滝田が振り放そうとすればするほど、いっそう絡みつかせた手足に力を入れた。あっ、あっ、と小さな声が洩れた。 「おい、こいつ、ひっぺがしてくれよ。気色悪い」 「ユミ」と、奈々は、できるだけ静かな声で呼んだ。弓雄の耳には入らなかった。滝田は、弓雄をしがみつかせたまま強引に歩き出し、弓雄の体《たい》がくずれたところで、足払いをかけた。弓雄は濡れた地面にころがり、うずくまった。肩が震えて、すすり泣いているように見えた。     3  働いていたラーメン屋には、やめると電話をいれておいたが、バイトをしなくては食べていかれないので、弓雄は、駅前で週刊誌と新聞の立ち売りをやっている。きちんとしたつとめ口では、からだを一日中|拘束《こうそく》されるので、芝居ができない。  住まいは、寒河江の借りている部屋にころがりこんで同居しているのだが、 「驚いたな。あいつ、ホモチックな顔をしているとは思ったが、まさか本物とは知らなかった」 「あんた、迫られなかったのか」  寒河江と滝田は、奈々の部屋で飲み直していた。  木造モルタルの安アパートである。離ればなれに三部屋借り、寒河江の部屋は、事務所も兼ねている。奈々は一時寒河江と同棲していたが、この頃では部屋を別にした。目の前で寒河江が他の女と進行するのを見るのは、あまりいい気持ではないからだ。寒河江は、幾度か、他の女たちと関係を持ち、中絶させている。「人生ってのは、芝居だよな」寒河江は陳腐なことを言う。「女にさ、やさしい声出して、おろせよ、きみ、なんてせりふ言うとき、ぞくっとするな」  アイは友だちと二人で借りている安下宿に帰り、弓雄は、寒河江の部屋で一人寝いったころだ。 「ずっといっしょなのに、全然、ホモっ気はみせなかったぜ」 「男にももてねえんだな、貢さんは」 「男|には《ヽヽ》、だ」と、寒河江は訂正した。 「ユミは、滝ちゃんを前から知っていたんじゃないの?」奈々が訊いた。 「おれは、ホモの知りあいはいねえよ」 「そうかな。ユミが、はじめて滝ちゃんを見たときの、あの、驚いた顔……驚いたというより、怯えたみたいだったわ」 「一目惚れしたんだろう、あの瞬間に」うう、気色悪い、と、滝田は大げさに身震いしてみせた。  寒河江が便所に立った間に、奈々は、滝田にささやいた。 「話したいことがあるの。貢といったん、ここを出てから、もう一度、一人でもどってきて」 「何の話だ。貢さんの前じゃ言えねえことか」  奈々はうなずいた。 「女の話……じゃねえな」 「違うわ」奈々は、くちびるの形だけ笑った。 「おれは思うんだが……あんた、貢さんを、もっと、がちっと縛りつけた方が、おたがい、いいんじゃねえのかな」 「めんどくさいわ」  違うのよ。話したいのは……。  寒河江が戻ってきたので、話は中途でとぎれた。  そろそろ寝るか、と、滝田は寒河江をうながした。 「あのホモ野郎とベッド・インか。ぞっとしねえな」 「大丈夫よ。ユミは貢には気がないらしいから」 「あいつを逃がすと、初日の幕が開かなくなる。滝、せいぜい、かわいがってやってくれ。何なら、そっちにあずけるぜ」 「まっぴらだ」  都内では、わずか三日間の公演である。それから、大阪で三日やる予定になっている。会場難で、ホールは一年も前から予約しておかなくてはならない。都合が悪くなったからといって、簡単に日時は変えられない。  寒河江といっしょに出て行った滝田は、二十分ほどして戻ってきた。 「話って?」  奈々は、小型冷蔵庫からゆでた枝豆を出した。 「なんだ。さっきは、かくしておいたな」 「忘れてたのよ」  冷えた枝豆は、口当たりがよかった。 「省子《せいこ》さんと、うまくいってるの?」 「そんな話をするために、おれを呼び戻したのか?」  滝田は、左手に枝豆を鷲掴みにし、右手でつまんでは、歯の間を、左から右に一直線にしごく。しごき終わったとたんに、次の豆をつまむのと、からの皮を捨てるのがいっしょだった。きれいに揃った歯並みがたくましい。顴骨《かんこつ》と上顎《うわあご》が、がっしりはっている。水割りを流しこむピッチは、さすがに少し遅くなっていた。  省子は、滝田のなじみの飲み屋で働いている。お千代というその店に、滝田は、寒河江や奈々を伴うことを好まない。省子は十八だといっている。年をいつわっている様子はない。水商売はお千代がはじめてで、イモだ、と嗤《わら》っていた滝田だが、その、イモだという口調に、いつか、やさしさがにじむようになった。 「シアター・Bの、オーディションで……」  奈々は、ちょっと言いよどみ、滝田の強い視線を感じた。 「滝ちゃんをみかけたって……」  誰が? と、滝田は問い返さなかった。タンブラーに氷塊を足し、ゆっくりゆすった。 「貢は、まだ、知らないわ」 「受けたよ」と、滝田は答えた。 「力をな、試してみたかった」それから、急に、熱っぽい口調になった。「〈海賊船〉では、たしかに、俺は、芯《しん》になっているよ。だが、いったい、おれの歌が、演技が、外の世界でどの程度通用するか……」  それだけだ、と言って、滝田は奈々のタンブラーに洋酒を注ぎ足した。  奈々は、ラジオに手をのばした。FMのスイッチを入れようとすると、滝田は首を振った。 「たまには、音のない夜にいよう」 「静かすぎるわ」 「おれたちのやっているのが、本当にミュージカルか。奈々、考えることないか」  奈々は、ゆっくり首を振った。 「ろくな歌も踊りもできない連中をかき集め、速成のレッスン」  奈々、俺たち、来年は三十だぜ。 「だから、どうだっていうの?」 「一つの集団が、六年ももてば、たくさんだ」滝田は、奈々の腕をつかんで引き寄せた。抱きこむと、押し倒した。ここしばらく、ないことだった。何カ月ぶりかで奈々は、滝田の躰に接した。奈々も燃え、滝田は、揉みしだくように、手荒く奈々を扱った。 「なにが|永 遠《イターニテイ》だ」呻いて、滝田は、奈々の乳首を強く吸った。  シアター・Bは、大興行資本系の一環として、四月にオープン予定の新しい劇場である。こけら落としに、新作のロック・ミュージカルを予定している。ウォード・ジャストの小説〈戦士は革命に生きる〉を脚色したもので、キャスティングは、最近よく行なわれるオーディション形式を採用した。応募の資格は、プロ、アマチュアを問わない。結果のわかるのは、二週間ほど先のことであった。  原作の舞台は、南米の、架空の共和国である。外国資本に搾取《さくしゆ》されるインディオ。十二人のゲリラが、立ち上がる。同胞に決起を呼びかけるために、放送局占拠を企てる。一人の米人神父が、それに参加する。骨の太い、男性的な舞台になりそうだった。しかし、オーディションは、この頃しばしば行なわれるためか、あまり話題にとり上げられてはいない。 「イターニティは、〈戦士は……〉より魅力ないと思うの?」  性欲を燃焼しつくしたあとのけだるさに浸っている滝田の、ぼうっとした瞳に表情がこもった。 「演《だ》し物の問題じゃない」  それから、声をやわらげた。 「俺自身を試してみただけだ。それだけだ。忘れろよ」  イターニティは、成功するよ。させてやる。畜生。それにしても、寒河江は、愛だの永遠だの、甘い抽象語が好きだな。     4  お千代ののれんの前で、奈々は、少し、ためらった。省子に会っても、何の役にも立たないだろうとも思う。しかし、ただ、手をこまねいているのも怖い。足もとから炎で焙《あぶ》られるような焦燥感があった。  イターニティの初日は、あと一週間に迫っている。そうして、明日が、シアター・Bのオーディションの、結果決定の日であった。  滝田は、あれ以来、オーディションのことを、一言も口にしない。奈々が言いかけると、忘れろと言ったはずだ、と、低い声で断ち切った。二度と、奈々が口に出せないほど、強い声だった。  奈々も、滝田を問いつめるのが怖かった。イターニティは、おりる。そう、滝田が一言いえば、それで、万事は終わってしまう。いったん明言したら、ひるがえす滝田ではないという気がした。いや、オーディションにパスしても、イターニティは、おりないかもしれない。公演の日時は、ずれていた。しかも、〈海賊船〉の公演は、東京、大阪、あわせて六日。シアター・Bは、一カ月の長期公演だった。  パスすると、決まったものでもない。十数倍の競争率だったときいている。どうしてこんなのが応募したのかと思うようなずぶの素人も混っているが、キャリア十分のベテラン歌手や、新劇団の若手なども、多数、応じている。  俺も、来年は、三十だぜ。  滝田の声が、耳につく。  試してみただけだ、俺自身を。 〈海賊船〉は、ままごとじみていると、滝田は思いはじめたのだろうか。それよりも、台本作者であり演出家である寒河江の才能に、見切りをつけたのか。演出家は、気に入らなければ役者を変えることができるけれど、無能な演出家にがんじがらめに縛られた役者は、死ぬよりほかはない。  滝田がオーディションに応募したことは、寒河江の耳にはまだ入っていなかった。滝田が関係者に口止めしたのかもしれない。奈々も、寒河江の耳に届かないよう、気をくばっていた。  省子に訊いたら、わかるだろうか、滝田の真意が。私よりも省子の方に、滝田は気を許しているはずだと、奈々は思った。それは、胸の中が煮えるような思いでもあった。滝田も寒河江も、常に奈々の身近にいて、幾度も性のかかわりを持ったけれど、それ以上ではなかった。  ——私は、まるで……。  首筋にかかる長い髪を、手でさっと払い、奈々は、店の中に入っていった。  まだ、時刻が早かった。カウンターにいる客は、一人だけだった。それが寒河江と知って、奈々は、驚いた。寒河江は、もう、だいぶ酒がまわっていた。相手をしているのは、省子だった。 「いらっしやい」  省子の頬に微笑が浮かんだ。それは、奈々の、さわやかな微笑を映し返したものだった。ときに、だだっ子のように荒れ狂い、陽気に騒いでいるかと思うと、一転して絡みだし、たえず、狂熱的に自分を駆りたてずにはいられない寒河江と、より直情的に、簡単に起爆する滝田の間にあって、奈々までが激しやすくては、三つ巴《どもえ》に燃えつきてしまう。  奈々は、冷静に、さわやかに、ならざるを得なかった。たぎるものが、ないわけではないのだ。しかし、それをぶつけて、受けとめてくれる相手がいない。  省子は、すぐに、困惑した顔になった。微笑は、一瞬、奈々のそれを照り返しただけだった。訴えるように、奈々を見た。寒河江がくどいている最中だと、察しがついた。  やわらかく受け流そうとつとめながら、省子は、まだそのテクニックが身につかないで、ひどく、ぎごちなかった。省子の下瞼に、蒼《あお》い翳《かげ》りを、奈々は見た。  省子に絡む寒河江を、ころを見はからって、外に連れ出した。 「奈々」寒河江は、奈々の肩に頭をのせた。  初日が近づくと、寒河江は、いっそう神経質にいらいらしはじめる。虚勢をはった狂躁《きようそう》と、沈滞の落差が激しくなる。  ——六年間。私も、いいかげん、すり切れてきたみたい……。  お千代の並びのバーの一つに寒河江を送りこみ、少し相手をしてから、「じゃあね」奈々は立とうとした。「なんだよ。つきあわないのか」「うん、ちょっとね」このままいっしょに飲んでいたら、奈々の方が、わめき出しそうだった。奈々は、これまでに一度も、逆上して我れを忘れたところを寒河江や滝田の前にさらしたことがなかった。奈々が爆発する前に、二人の方がホットになってしまうのだ。「いいから、坐ってろって」ひき止めようとする寒河江の腕をかるくたたき、奈々は外に出た。今、私は、はたから見たら、ひどくさわやかに微笑しているのだろう、と思った。  ——何とかしなくては……。  何もできるわけがない。むりに滝田をひきとめて、その先、どうなるのだろう。〈海賊船〉は、龍骨《りゆうこつ》にひびが入り出した。いや、思いすごしだ。イターニティが成功すれば……。  ——〈海賊船〉は、私にとって何なんだ。  いけない、と、奈々は頭を振る。こういうことを考えはじめたら、おしまいだ。  無意識に、アパートに向かっていた。奈々が立ったのは、自分の部屋ではなく、滝田の部屋の前だった。  ——黙っているのが一番いい。  そう思いながら、手は、ドアを押し開けていた。  鍵はかかっていなかった。  ドアを開ければ、一目で見渡せる六畳一間である。  裸体がもつれあっていた。  おおいかぶさっている逞《たくま》しい躰は滝田だが、組み敷かれた相手が誰だが、とっさにはわからなかった。  部屋の隅に、もう一人、立ちすくんでいた。その顔を見たとき、それが弓雄だとは、すぐには気づかなかった。くちびるが真紅にいろどられていた。ただ一つのその色彩が、青白い弓雄の顔を、不気味なまでになまめかしく変えていた。  奈々の気配に、滝田に組み敷かれた躰が、起き直ろうとした。滝田は、その動きを封じ、振り返った。滝田の腰の律動が止んだ。  滝田に抱かれているのは、アイだった。 「そのお化けを、連れて行ってくれよ」  滝田は顎をしゃくった。アイは、坐り直して、躰の前半分に服をかけた。  よろめきながら、弓雄は部屋を出て行こうとした。奈々は、そのあとを追った。弓雄の表情に、ただならないものを見たからだ。——絶望……と、その表情を、奈々は読みとった。 「中学を卒業してすぐ……」くちびるの紅を拭き落とし、弓雄は、ぽつりぽつり喋りはじめた。奈々の部屋だった。「自転車屋に住みこんだんです。東京じゃない。N市です」  ぬぐっても、弓雄のくちびるは、まだ、わずかに紅かった。滝ちゃんがいたずらしたの? そのお化粧。奈々の問いに、弓雄は首を振り、過ぎた日のことを喋りはじめたのだ。〈海賊船〉に参加する少年や少女たちは、たいてい、職を求めて地方から上京したり、家出したりしてきた連中である。それぞれ、語らせれば身の上話は持っているけれど、奈々は、自分から訊きただしたことはなかった。 「販売もするけれど、修理の方が主なんです」  弓雄のほかに、二人、住み込みの修理工がいた。一人は弓雄より一年早く中学を出てこの店に住みこんだ小田という少年で、もう一人、中津というのは、二十七、八だった。 「中津さんは、はじめ、あまりぼくのことをかまってくれませんでした」  仕事を教えてもくれないし、声をかけてもくれない。意地が悪いわけではない。そのうち、弓雄は、中津の視線が、たえず彼の肌を這っているような気がしはじめた。 「きみ悪かったです」  弓雄は、内気でおとなしかった。まじめに仕事をおぼえようと、一生懸命だった。 「技術身につけたら、食いはぐれがないですからね」投げやりな口調で、弓雄は、その言葉を口にした。  弓雄がつとめはじめて半月足らずで、小田が店をやめ、他に移っていった。前からやめたがっていたのだが、かわりがみつかるまでと、主人に引きとめられていたのだった。  小田は、色の白い、やや才槌《さいづち》頭の少年だった。やめるとき、弓雄に何か話しかけては言葉を飲み、結局、何も言わないで出ていった。  部屋に二人きりになった夜、中津の手が、躰に触れた。弓雄は声を上げそうになった。しかし、声は出なかった。悪夢の中にいるように、躰を動かすこともできないでいた。  主人に告げようか。主人も、弓雄には、まだ、なじみが薄かった。中津を信用しているようにみえた。  次の夜、弓雄は、躰に毛布をかたく巻きつけて寝た。眠れなかった。毛布の上から、中津の指を感じた。毛布越しに指が触れてきたとき、怖いくせに、充たされたような気もした。まるで見むきもしてくれなかったら、少し物足りない思いがしたかもしれない。しかし、弓雄は、毛布のはしをしっかり躰の下に踏み敷いて、はぎとられないようにしていた。中津は、それ以上の行動に出ようとはしなかった。低い笑い声を聞いたような気がした。  翌日、弓雄は、店の土間で、客からあずかった自転車のチェーンのぐあいを直していた。  傍に、中津が近寄った。弓雄は、仕事に熱中しているふりをした。中津の視線が邪魔になった。目を上げなくても、彼の視線が注がれていることは、肌でわかった。  中津の足が、何げないように、ペダルにかかった。故意か偶然か、その足に、力が入った。ペダルが、ぐっと踏みこまれた。チェーンが廻った。弓雄の指は、吸いこまれた。チェーンとギヤの間に、楔《くさび》のように喰いこんだ。  ギヤは指を噛んだ。引き抜こうとすると、骨のくだけそうな激痛が走った。中津の足は、ペダルを踏んだままだった。更に力を入れ、チェーンは、弓雄の左手の指を二本噛んだまま、廻りかけた。弓雄は苦痛の声を上げた。中津は、いきなり、ペダルを逆にまわした。ギヤに引きちぎられそうになりながら、指は、拷問《ごうもん》器から抜け出した。  血がしたたった。傷口から盛り上がり、左手を染め、手首に流れた。  中津は、あやまらなかった。手を押えて屈みこんだ弓雄を、ひきずるように立ち上がらせた。  壁の柱に、細長い鏡がかかっていた。開店祝にどこかから贈られたものが、十年来、そこにぶらさがっていたので、隅の方は、裏の水銀が剥《は》げかけていた。  弓雄を鏡の前に立たせ、指からしたたり流れる血を、中津は、自分の指に受けた。紅いねっとりした液体に染まった指で、弓雄のくちびるをなぞった。  鏡の中の顔が、とたんに、変貌した。その背後で、中津の目が、微笑した。  痛みは、腕から肩の方までひびいた。しかし、弓雄は、鏡の中の自分に見惚れずにはいられなかった。心臓の鼓動にあわせてうずく痛みに、恍惚と惹きこまれていく快さがしのびこんだ。その快さに、弓雄はさからおうとした。 「医者に行って来い」はじめて、中津が口をきいた。怪我の原因を他人に喋るなとは言わなかった。口止めしなくても、弓雄は口外しないと自信を持っているようだった。自分でもはじめて知った自分の中の異常なものを、中津の方が先に見ぬいていた。そのことで、弓雄は、中津を憎んだ。しかし、医者には、自分の不注意で怪我をしたと言い、その帰途、弓雄は、安い口紅を一本買ってしまった。  主人の目をしのんで、中津は、弓雄のくちびるに紅をぬった。そうして、抱いた。 「でも、ぼく、どうしても、芯から好きにはなれなかった。いけないことだってわかっていました」 「とんだサディストにみこまれたものね」  奈々は、あきれて言った。紅をぬってやるだけなら、まだ、わかるけれど、わざわざ指を傷つけて、その血をぬるなんて。 「逃げ出しました」少し間をおいて、弓雄はつづけた。「とうとう、がまんできなくなって。東京なら、人目につかないから……。あっちこっち、職、かえました」  似てるんです、と、弓雄は、しゃくりあげるような声を出した。 「滝田さん。そっくりだったんです。ぼく、はじめ、見まちがえてしまった。怖かった」  弓雄の話は、少しおかしいと、奈々は思った。 「だって、ユミは、滝ちゃんを好きなんでしょう」 「ええ。好きです。だって、滝さんは、中津じゃないもの。似てるけど、違うもの」  躰の中から溢れる思いに耐えかねるように、弓雄は、両手で自分の躰を抱きしめて、身震いした。「好きです。でも、滝さんは、いやらしい狆《ちん》コロだって」  何とか滝田の気を惹こうと、弓雄は、それまで自分に禁じていた紅を、ふたたびぬった。しかし、それは、滝田の嫌悪感を煽《あお》り立てたにすぎなかった。  くちびるに紅をさし、滝田の部屋で、弓雄は待っていた。入ってきた滝田は、アイを伴っていた。  ばかやろう。滝田はどなりつけた。滝田は酔っていた。アイも酔っていた。セックスってのはな、こうやってやるもんだ。よく見ていろ。弓雄をその場に釘づけにし、滝田は、アイを抱いた。 「顔じゃないぜ、躰だぜって、滝さんは、アイちゃんを抱きながら、そう言いました。アイちゃんにじゃない、ぼくに、そう言ったんです」 「忘れてしまいなさい、そんなこと」奈々は言った。「ほかに、ユミを好きになってくれる男の人はいるわ、たぶん。滝ちゃんは、いやらしいって言うかもしれないけれど、ユミが、べつに、ひけめに思うことはないわ。罪悪でも何でもないもの」  弓雄は頭を振った。はじめゆっくりと、それから、だんだんに激しく。     5  オーディションの結果は、新聞などに公表されるわけではない。本人に直接知らされるだけである。関係者に問いあわせることもできたけれど、奈々は、滝田が何か言うかと、一日待った。決定の翌日になっても、滝田は黙っていた。フェイルかと、奈々は思った。パスしているのかもしれない。パスしても、〈海賊船〉の中で喜び騒いで発表できることではない。  滝田と寒河江は、連れ立って出て行った。伴奏を頼んであるロック・バンド〈サラマンダー〉と打ち合わせのためである。お千代の省子に問いただしてみようと、奈々が部屋を出ようとしたとき、ドアが叩かれた。  弓雄が入ってきた。熱にうかされたような目の色だった。 「奈々さん」弓雄は畳に跪《ひざまず》き、両手を前についた。「助けてほしい」 「どうしたの」 「おれ……ぼく……もう、だめなんだ。とても、押えきれそうもない」  縛ってくれよ、奈々さん。弓雄は絶叫した。躰を前に投げ出した。  重い気持で、奈々は、一人、お千代に立ち寄った。省子は出てきていなかった。 「気分が悪いから、休むっていうのよ」  お千代のママは、ごめんなさい、と軽く頭をさげた。  翌日、奈々は、滝田に直接ぶつかった。オーディションの結果を、問いただしたのである。  滝田は、奈々をまっすぐみつめ、「パスした」と、ぶっきらぼうに言った。 「試しただけね。滝ちゃんの実力が、外部でも通用すると証明されたのね。おめでとう」 「奈々、話がある」と、滝田の声は、少し弱くなった。 「言わなくてもいいわ……」いいえ、言って。話がある……。シアター・Bを蹴るつもりなら、話があるなんて言い方はしないわね。はっきり、あなたの口から言って。 「省子と結婚する」  耳を叩かれたような気がした。 「結婚するって……。だって、もう……」 「籍を入れて、きちんと形をつけるってことだ」  子供ができた。 「だって、今までだって……。おろさせたじゃない」  ——滝ちゃん。あなたは、私にも、おろさせたわ。 「生ませる。俺は、省子に惚れている。他人に喋くることでもないが、奈々には、仁義をきっておくよ」 「イターニティをおりるの?」 「いいや。やるさ」 「シアター・Bは」 「やる」 「そのあとは? 〈海賊船〉は?」たたみかけるように、奈々は、早口になった。 「言わなくても、もう、奈々、俺の気持はわかっているだろう」  叫びだしたいのを、奈々はこらえた。そうだ。わかっていたことなのだ。予感はあった。信じまいとつとめてきただけだ。滝田は、とっくに、〈海賊船〉の仕事では物足りなくなっていたのだ。  寒河江の才能に見切りをつけていたのだ。六年間、やってきたじゃないの。寒河江は、だめなんじゃないわ。だめなら、とっくに、つぶれているわ。  心の中で反駁《はんばく》しながら、奈々にも、その疑念はあった。寒河江は、だめなんじゃないのか。あの、子供だましのような甘ったるい台本《ほん》。はじめのころは、そうじゃなかった。寒河江の脚本には、未熟ではあっても、訴えかける力があった。観客の年齢が下降するのと、寒河江の作品が甘くなるのと、どちらが先行しているのかわからない。観客の年齢に芝居を合わせているのか。芝居の内容に見あった客が集まるのか。  飲んでいなくては立っていられないような寒河江の日々は、彼自身、自分の仕事に疑問を持ちながら、それを他人の目にさらすことができず、自信ありげに振舞っていなくてはならない苦痛のためか。 「イターニティが打ち上げになるまで、貢さんの耳には入れたくない。俺は、とにかく、イターニティを成功させようって気持はあるんだ」  拳を握りしめることで、奈々は耐えた。少しひきつったけれど、微笑さえ浮かべた。  あのとき、叫ぶべきだったのだと、あとになって思った。大声をあげて叫び、滝田の胸を拳で叩き、あたしたちを置いていかないで。滝ちゃん、あたしたちは、三人で、一人だったじゃない。めいめい勝手なことをしているようで、でも、肝心なところで、しっかり結ばれていたじゃない。〈海賊船〉はどうなるの。このまま、難破させてしまうの? それでは貢がかわいそうよ。あたし、貢を愛している。滝ちゃん、あなたを愛している。あなただって、よく知っているのに。あたしは今まで、あんまり物わかりがよすぎたんだわ。でも、あたしだって叫ぶ。滝ちゃん、行かないで。  そうするかわりに、奈々は、やはり、物わかりのいい、少し哀しそうな笑顔になってしまったのだった。叫びは、心の中に、たわめられた。  クライマックス・シーンを少し変えない? と、奈々は寒河江に提案した。  公演がはじまってからでさえ台本の一部が変更されたことはしばしばあるから、上演まぎわの変更も、珍しくはないけれど、変えるのは、いつも、寒河江の考えによっていた。これまで、奈々が台本に口出ししたことはなかった。  寒河江は、濁って充血した目を奈々にむけた。頬がげっそりこけ、瞼はむくんでいた。一升びんを、ラッパ飲みにしていた。 「滝ちゃんの役は、いわば、祭祀《さいし》の贄《にえ》でしょう?」  寒河江は、虚をつかれたような表情になった。彼としては、そこまでは意図していなかったのだ。 「クライマックス・シーンを変えることによって、ドラマの主題がよりいっそう的確になると思うのよ」喋りながら、奈々は、他人の声を聞くように、自分の声を聞いていた。     6  舞台は暗い。海の底のように、碧《あお》みをおびて暗い。袖は、いっそう暗い。  縛ってくれよ。奈々さん。弓雄は、あのとき、絶叫した。 「刺してしまうよ。縛ってくれよ。おれの手が動き出さないうちに」  奈々は、呼吸をととのえた。 「ユミ、落ちついて。刺してしまうって、どういうこと? あんた、今、何も手に持っていないじゃないの」 「奈々さんをじゃない。あの人を。滝さんを。いやだ、人殺しはいやだ。でも、こらえきれなくなりそうなんだよ」  奈々は、少し気味悪いのをこらえて、弓雄の両手をとり、抱き寄せるようにひいたのだった。 「そんなに滝ちゃんが憎いの? アイちゃんとのセックスをみせつけられたから? 悔辱されたから? でも、しかたないのよ。ユミだって、わかっているでしょう。ふつうの男の人は、いやがるもの。だから、忘れなさいって言ったでしょう」 「違うんだよ。憎いんじゃない」 「好きなのね。好きだから……」 「奈々さん、おれは、知ってるんだよ。あのときの気持。経験してしまった。ナイフがね、腹の中にめりこんでゆく。そのとき……ああ、奈々さん、口では説明できないよ。まるで、からだ全体が一つの性器になって、やわらかい傷口の中にのめりこんでゆくようなんだよ。からだじゅうが、ねっとり甘い粘液に包まれる。おれは、忘れようとした。もう、決して、思い出すまいとした。紅をぬることもやめた。それなのに……」 「中津という男を……刺したの?」誰も聞くものはいないのに、思わず、奈々の声は低くなった。弓雄は、小さくうなずいた。 「わからないんだ。中津が、好きなんだか、憎いんだか。ひどいことをされた。いろいろ。それに馴れてゆくのが、怖かった。馴れるだけじゃなくて、好きになってゆくのが。逃げたかった。逃げたいけど、逃げられないんだ。中津に呼ばれると、もう、からだが熱くなって……。とうとう、刺してしまった。そして、知ったんだ。あの気持」  ナイフだけじゃない。手が、手首が、腕が、中津の躰の中にのめりこんでゆく。肩が、からだが、全身が……。暖い。やわらかい。まといつく肉。  はっとわれに返った。逃げた。つかまったら、傷害致死だ。 「死んだの!」 「わからない。……東京で、一生懸命、働いていたんだよ。そうしたら、滝さんが……墓場から生き返った中津! すぐ、違うってわかったよ。滝さんは、滝さんだ。中津の野郎じゃない。滝さんは、すばらしい。中津みたいにいやな奴じゃない。そのくせ、中津みたいに、ぼくのからだを惹きつける。奈々さん、おれは、殺人狂じゃないよ。人間を刺したいなんて、あれ以来、一度も思わなかった。だけど、思い出してしまった。思い出させられてしまった。怖いんだよ、奈々さん、自分が。縛ってくれよ、おれの手」 「ユミ」奈々は、弓雄の手を自分の手の中に包みこんだ。じっとりと汗ばんで、体温を失ったように冷たかった。  今、袖に立つ弓雄の右手には、小道具のナイフが握られている。  寒河江は、奈々の提案をいれて、クライマックス・シーンを、よりドラマティックに、より効果的に変更した。  奈々の意図を、寒河江は知らない。彼は、滝田が〈海賊船〉を見捨てて行こうとしていることさえ、気づいていないのだ。イターニティが終わるまで、寒河江に知られないようにしてくれと、滝田が関係者に頼みこんだからだ。何も知らず、寒河江は舞台をみつめながら、一升びんを口にあて、かたむける。一日中、ほとんど何も食べない。アルコールの他は胃に入れない。おそらく、アルコール中毒におかされはじめているのだろう。  ——貢、あなたのために、滝田を処刑するのよ。  奈々は、心の中で呟く。——あなたを裏切り、〈海賊船〉を破船させようとする者の処刑よ。  しかし、奈々は、知っている。自分の本心を。省子に子供を生ませ、籍を入れ、滝田が、その辺にころがっている平凡な中年の父親になってゆく。私たちは、そういう日常性を拒否してきたのではないの。それが、私たちの芝居をささえる、骨になっていたんじゃないの。だから、私は、子供を生まなかった。肉の芽は掻《か》き捨てた。悔《くや》んではいないつもりだった。滝ちゃん、あなたと寒河江が傍にいてくれるかぎり、私は、自分の生き方に自信が持てた。  今も、悔《くや》むまいと思う。あなたを憎むまいと思う。憎んだら、私の人生はみじめなものになる。でも、さわやかな微笑の仮面には、ひびが入ってしまった。  私は、あなたを憎まずにはいられない。  奈々は、賭けた。その賭けがどっちにころんだかは、奈々は、まだ、見きわめていない。  弓雄の手にあるのが、ジュラルミン製の無害な小道具か、それとも、鋭い刃を持った本物のジャックナイフか、奈々は、まだ、見ていない。  奈々は、ただ、弓雄を解き放しただけなのだ。無言で、彼に、絶好の場を与えてやった。弓雄がその誘惑に耐えぬくか、内心の強烈な衝動に、ほろび去ることを承知で身をゆだねるか。縛ってくれと、弓雄は言わなくなった。黙ったときが危険なのだ。口に出して言うのは、まだ、決心がつかないときだ。  おそらく、この子は狂っている、と、奈々は思う。それでも、衝動を押えきるだけの理性が残っているだろうか。  ホリゾントの裾に、薔薇色の亀裂《きれつ》が入りはじめた。薔薇色から、天穹《てんきゆう》の青へ。  ゴンドラが下りてくる。  弓雄が身がまえる。寒河江が、一升びんを床に下ろして、うなずく。  ゴンドラは下降する。滝田が舞台に下り立つ。それと共に、弓雄が走り出る。右手に、目を射る鋭い光。  ドラムが炸裂《さくれつ》する。 〈海賊船〉のメイン・マストに、真紅の弔旗がひるがえる。  奈々は微笑する。さわやかに。  鏡の国への招待     1  何かが、砕け散った。その音は、私の脳髄《のうずい》の中でひびいた。深い睡《ねむ》りの闇からひきずり出されたように、網膜にうつったものが実体となった。  これは、いったい……何なの……。  私の足もとに、鋭く散ったガラスの破片。ただのガラスではない。鏡のかけらだった。大小の、尖《とが》った切先《きつさき》。立ちすくんで見下ろす私の眼が、床から私を見返す。  寿命のつきかけた蛍光灯の光が、弱々しくまたたいて反射する。  私は、目を上げた。私の前に立ちふさがっているのは、壁面いっぱいに貼られた鏡。  鏡が、私のいる場所を示している。板敷きの床。両側の板壁に、水平にとりつけられた棒《バー》。  次第に、私はのみこめてくる。  ここは、梓野《あずさの》明子バレー研究所の稽古場だ。  梓野明子は……もう、いない。死んでしまった。三カ月も前に。五十三歳で。  私は、きくっ、と、しゃっくりした。自分の息がアルコールくさかった。  正面の鏡に、私の姿は……うつっていない。私は、ちゃんと立っているのに。  私の姿がうつるべき部分にあるのは、黒い穴。亀裂にふちどられた背後の板壁。  私は、思い出す。そこに、私は、見たのだった。かさかさに涸れた女の顔。明日は五十になる、私の顔。  床に、スツールが横倒しになっていた。  闇の中から、アルコールの海をわけて、記憶が戻ってくる。  新宿のバーで、私たちは飲んでいたのだった。私と、市瀬頼子《いちせよりこ》と、若手の、まだ舞台を踏んだことのない須田英二と三人で。  いつもは、行儀のいい酒しか飲んだことがないのに、この夜、私のピッチは早かった。底のない空洞に吸われるように、液体はのどに流れこんだ。  ——今日で、私の四十代が終わる……。  須田をはさんで、私と頼子は腰かけていた。須田のかすかな体臭で、私は埋《うず》み火をかきたてようとしていた。 「相浦《あいうら》さん、いいでしょう? 来てほしいわ。助かるのよ」  頼子は躰をのり出して、須田を越えて、私に話しかける。須田はいくらか身をひいて、私たちが話しやすいようにする。  頼子は、もう、私を先生とは呼ばない。頼子も、梓野明子の門下生の一人だった。数年前、二十七歳の若さで独立して、自宅の一部を増築し、小さいバレー・スタジオをひらいた。周囲から、ずいぶんそねまれた。  内側から輝き出るような頼子の若さが、私にはまぶしかった。でも、頼子にしても、死んだ梓野明子の名声を越えることは不可能なのだ。梓野を離れてしまうと、大舞台に立つ機会には恵まれなくなる。頼子も、結局は、二流三流の、無名のバレー教師で終わるのだろう。十九歳でQ新聞主催のバレー・コンクール新人賞を獲得するなど、将来を嘱望《しよくぼう》されていたのだが、梓野明子は、後継者を育てる熱意は持たなかった。独立する者は反逆者であり、優秀な弟子は、ライヴァルなのだった。 「助教をやってくだされば、梓野先生のときと同じくらいのお礼はお払いしてよ」  頼子の声に、私への憐憫《れんびん》を感じたのは、私のひがみだろうか。 「もう、くたびれたわ」私は、投げ出すように微笑した。カウンターの上に置いた左手の甲に、青く太く浮き出した静脈から、目をそらせた。「三十年以上……」言いかけて、口をつぐんだ。若い須田の前で、みじめな泣き言は口にしたくなかった。  ——今日が、私の四十代の最後なのだ。  水割りのコップを目の高さに上げ、ゆっくり、ゆすった。ゆすりながら、私は、梓野バレー団が、日タイ親善という名目で招待され、バンコックで公演を行なったときのことを思い出していた。十年近く昔のことだ。そのとき、私は、あわただしい日程のあいまに、一人で蛇園を訪れてみた。観光客に大蛇を抱かせて、写真師が記念写真を撮っていた。私も物好きに、蛇を抱いてみた。しゃがんだ膝に、直径五十センチはありそうな重い太い蛇の胴が、どさりと置かれた。写真師は、蛇の首のところを持っていろと身ぶりで示した。両手の指をいっぱいにのばしても、指先がとどかないくらい太い蛇だった。そうして、何という無気味な感触。冷たく、ぬめぬめと滑って……。私は、しっかりと掴んでいた。掴んでいるつもりだった。それなのに、滑らかな蛇の肌は、いつとなく私の手をすりぬけて、気がついたとき、蛇の口もとが私の手にとどきそうになっていた。私は、悲鳴をあげて、大蛇を膝から放り出した。 〈時〉の無気味さが、その、蛇に似ていた。私の手からぬめぬめと滑り落ち、五十という年が、私をがっきとくわえこもうとしている。  私は梓野明子の影になるその第一歩を踏み出してから、二十七年。そうして、はじめて明子の舞台を観、幕が下りてからもしばらくは椅子を立つこともできなかった少女の日から数えれば、三十年。ほんの、五、六年前のこととしか思えない。 「相浦さん、どうしたの。もう、できあがっちゃったの? まだ宵の口なのに」  黙りこんだ私を、頼子がのぞきこんだ。私は、ふいに、ひどく酔いがまわったような気分になった。カウンターに肘をついて、額をささえた。頼子と須田が、目で、もうひき揚げようかと合図したのが見てとれた。須田が私の肩をかるく叩いた。その手を肩越しに握って、私は、泥のように重い躰を椅子からひき上げた。  コンクリートのせまい階段を上って地上に出ると、「拾います?」須田が訊いた。 「相浦さん、大丈夫?」頼子の声に、私はうなずいて、大きくよろけた。須田の手が私の背をささえ、私は、頼子のひそかな嗤《わら》いをきいたような気がした。  下手な芝居を、頼子は見すかしていると思い、私は、恥ずかしさにいたたまれなかった。頼子に憎しみをおぼえた。  須田の腕のささえを借りようとする私のさもしさを見抜くことはできても、頼子には、私のどうしようもない寂寥《せきりよう》感まではわからないのだ。  頼子は心の中で残酷に私を嗤い、その上、おせっかいにも、タクシーが停まると、「須田くん、送って行ってあげて」開いたドアに、私と須田をまとめて押しこんだ。 「先生のアパート、中目黒の方でしたね」  須田が訊いた。  私は、窓に頭をもたせかけていた。あまり須田にまつわりついて、うるさがられたくなかった。 「いいえ。今夜は、私の�|贅沢な夜《ゴージヤス・ナイト》�なのよ」  私は、つとめて明るい調子で、うたうように言った。それも、須田を警戒させないためだった。 「ゴージャス・ナイト?」  梓野バレー研究所に入所してまもなく、主宰者の明子の死に会い、身のふり方に困っている須田は、私のひそやかな贅沢を知らなかった。須田ばかりではない。ほとんどの人が、それを知らない。淋しさは、他人に語るものではない。  一月《ひとつき》か二月《ふたつき》に一度、六畳一間のアパートの暮らしが、あまりに侘しくなると、私は、思いきって、ホテルの広い部屋を一夜借りるのだ。乏しい私の収入にとって、一夜の出費は莫大だった。しかし、自虐的に、私はその贅沢を飲み干すのだ。  ダブルベッドを置いたゆたかな部屋で、私は、いっそう孤独になる。  髪を肩まで垂らし、少女のような淡い花柄のネグリジェをまとい、スプリングのきいたゆったりしたベッドの左はしに躰を寄せて、私は横たわる。私の手が、私の髪に触れ、胸に触れる。  性に倫理と道徳の枷《かせ》をはめた時代に育ち、私は、男と気軽に遊ぶすべを知らなかった。戦後、自由な時代になっても、梓野明子は異性との関係には、神経質なほど潔癖で、私はその影響を強く受けてきた。  古風な性の倫理感は、私をがんじがらめに縛り上げていた。異性に対して、私はひどく臆病だった。  梓野バレー団には、ふだんは、男っ気はほとんどなかった。主宰者が女性なので、団員も研究所の生徒も、女性ばかり。たまに男性が入所しても、女ばかりの集団の異様な雰囲気に辟易《へきえき》し、その上、男性専門の更衣室もなく、女たちの、からかうような、さぐるような視線にさらされて服を着かえなくてはならない状態、何げない親切が、すぐ求愛と誤解されるわずらわしさに嫌気がさして、他にうつってしまうのだった。女たちは、誤解するのが実に上手だった。公演のときは、ほかのバレー団から男性を借り集めてこなくてはならなかった。須田は、明子の名声にひかれて入所してきたが、彼女の死がなくても、早晩退所したことだったろう。  そんな雰囲気の中で、私は、烈しい恋愛の機会もなく過してきた。若いときは、結婚など考えもしなかった。三十を過ぎ、明子も年若い夫を迎え、私は身辺に淋しさをおぼえるようになったが、周囲には、恋の対象も結婚の対象になるような相手もいなかった。  タクシーの運転手に、私は、いつも行くホテルの名を告げた。四十代の最後の日を、侘しいアパートで過す気になれず、この日、私はホテルを予約していた。  須田の表情が、ちょっと動いた。  ホテルの前で車がとまったとき、私は、思いきって須田の手を握った。 「部屋まで送ってきて」  私は、須田の顔を見るのが怖かった。軽蔑の色を見たら、私は、みじめさのあまり、叫びだしてしまったかもしれない。  それでも、少しは恃《たの》むところがあった。バレーで鍛《きた》えた私の四肢は、年よりははるかにすこやかで、若々しいはずだった。一人で街を歩いているとき、「お茶を飲みませんか」と背後から声をかけられることもあるのだ。そのたびに、汚水をかけられたような不快感に襲われ、足早に立ち去ったけれど。  私はもう、足もとがさだまらないふりをして須田によりかかるのさえ、恥ずかしかった。小娘のようなしおらしい恥じらいではない。いかにもさもしく物欲しげなのを、須田にけどられるのが恥ずかしかったのだ。  フロントでキーを受けとり、エレベーターで七階にのぼる。私は、遊びなれた女のようにふるまおうとし、ひどくぎごちなく笑ったりした。  部屋まで送りとどけると、須田は、「じゃ、これで」と、帰るそぶりを示した。  私は、ベッドに腰かけ、どうしたらいいかわからないでいた。映画で何度も情事のシーンは目にしているけれど、自分がそのヒロインのようにふるまうのは、気恥ずかしかった。ひどくこっけいなのではないか。須田が笑い出してしまったら、ひっこみがつかないではないか。 「須田くん……おひやちょうだい」  須田は、うしろ手にドアを閉め、ベッドに近寄ってきた。ドアはオート・ロックである。私たちは、二人きりになった。  私は、須田という青年をほとんど知らなかった。彼が入所してから、明子の死、バレー団の解散まで、一月《ひとつき》となかった。今夜は頼子に誘われ、彼女のスタジオの助教をしてほしいとたのまれたわけだが、そこに、彼もいっしょに来あわせていた。頼子と親しい仲なのかもしれない。私はまた、肌が熱くなった。恥辱感のためだ。若い頼子は、異性とのつきあいは、私から見ると怖ろしいくらい奔放だった。彼は、私のぎごちない誘いを、あとで頼子と笑いあったりしないだろうか。 「ずいぶん豪勢な部屋ですね」  須田の態度が、目にみえてあつかましくなった。 「ときどき、ここを利用するんですか」 「ええ、そうよ」私は、虚勢をはって答えた。 「それで、今夜のお相手には、ぼくが選ばれたってわけか。光栄だな」皮肉っぽい声だった。  須田の誤解を、私は訂正しなかった。広いベッドに一人で寝て孤独を噛みしめているざまを、悟らせるものか。 「でも、意外だったな。相浦先生って、すごい純情な人だと思っていた。ヴァージンじゃないかなんて、誰か言ってたけれど、まさか、中年のヴァージンなんて、うすきみ悪いですよね」  ここでぼくは、男のミサオを守って部屋を出て行ってもいいわけだけど、と、須田はくずれた笑いをみせた。「まあ、いいや。お相手しましょ」  私は、サイドテーブルのスイッチを押して灯りを消した。  須田の手が、灯りをつけた。私は、うつ伏せになって、両手で顔をおおっていたが、泪《なみだ》は出なかった。どこもかしこも涸れている、と、払は心の中でつぶやいた。  涸れている……涸れてしまった……私の躰は、枯れ木のようなものだった。  須田がベッドから立って身仕舞いをなおす気配が感じられた。私は、わずかばかり顔を上げ、須田を盗み見た。須田と、視線があってしまった。彼は、苦労人じみた苦笑を唇のはしに浮かべ、鏡の前で髪をときつけ、部屋を出て行った。  私は、枕に顔を埋めた。このまま窒息すればいいというように、強く、顔を押しつけた。  須田が、嗤ったり、罵《ののし》ったりしてくれた方が、まだましだった。彼はまるで、いたわるような憐むような表情をみせたのだ。  やりきれない。私は、声に出してつぶやいた。  あ、あ、あ、と、私は泣き声をあげた。それでも、泪は出てこないのだった。声だけで、私は泣いていた。それから、じわじわ泪がにじんできた。  私はベッドから下り、備えつけの冷蔵庫の扉を開けた。スタミナ・ドリンクやビール、ジュースなどが冷やしてある。私は、ウイスキーの小びんを抜きとった。  それから、どうして、ここに来てしまったのだろう。  私には、おぼえがなかった。だだっ広い部屋で、冷たいベッドで、一人で夜を明かすことにたえきれなくなり、ホテルを出て……タクシーに、ここの名前を告げてしまったらしい。  おぼろげに思い出せる。梓野明子バレー研究所。白地に黒く記した看板のペンキがまだらに剥げ落ち、建物のモルタルの壁も亀裂が入って、雨のしみが、もとはクリーム色だった壁を皮膚病の犬のように変色させている。この建物の前で、私は、タクシーを下りた。稽古場も、同じ敷地内にある明子の住居も、近日中に取りこわしがはじまることになっている。そのあとには、八階建てのビルが建つ予定だ。いま、住居の方には、明子の夫の謙介と、明子の姉、汐子が住んでいる。  私は、合鍵を使ってドアを開け、中に入った。電灯をともした。  稽古場の鏡が、がらんとした部屋と、そそけた髪の女をうつし出した。くぼんだ瞼《まぶた》。物欲しげな、そのくせ、若い手に触れられても、うるおうことのない躰。私の手が、かたわらのスツールをつかんで……振り上げ……。 「まあ、相浦さん」  住居に通じるドアが開いて、声がした。明子の姉の汐子が驚いた顔で立っていた。     2 「大きな音がしたから、びっくりして」  汐子は、ぼってりした手を胸にあて、肩で息をしている。明子と六つ違いの汐子は、肉の厚い鈍重な顔立ちで、贅肉を鑿《のみ》で剥ぎ落としたような神経質な明子とは正反対だが、目鼻の配置に濃い血のつながりを思わせるものがある。 「稽古場には誰もいないはずでしょう。私、もう、すっかり怖くなってしまって。謙介さんは、外出したまま、まだ帰ってこないし、よっぽど、一一〇番に電話しようかと思ったんですよ。でも、もし、ねずみが物をひっくり返したぐらいのことだったら、大騒ぎしてはみっともないですものね。おそるおそる、様子を見に来ましたの。ドアを細くあけてのぞいたら、相浦さんなんですもの。よかったですわ、警察に電話なんかしないで」  汐子は、二、三歩部屋に入りこみ、 「あら、あら、鏡が……。まあ、相浦さん、けがはなさらなかったの」  危いですよ、そんな物、素手で持って! と声を上げた。私は、いつのまにか、鋭く光った破片を手にしていたのだった。 「すみません、うっかり、椅子につまずいて鏡を割ってしまって」 「けががなくて、何よりでしたわ。どうせ、近いうちに取りこわすんですから、気になさらなくていいのよ」  汐子は人のいい笑顔をみせた。 「何か御用だったの?」 「いいえ……べつに、用ではなかったんですけれど……。ここが、まもなく取りこわしになるかと思うと、つい、なつかしくて」 「そう」汐子は、ゆっくり何度もうなずいた。 「よかったら、母屋の方にいらっしゃいな。今夜は、謙介さんの帰りも遅そうだし、私、淋しくていたんですよ」 「ええ。でも、もうこんな時間ですから」 「泊まっていらっしゃればいいじゃないの。ここは、あなたには自分の家も同様なところなんですもの」  汐子は片手をのばして壁にふれ、躰をささえながら、母屋に通じる廊下を歩きだした。足を進めるたびに、腰が、がくん、がくん、と揺れた。  二十年あまり昔、大けがをした名残りである。でも、そのけがは、明子の名声のかげにかくれて、誰からも注目されることなくひっそり生きてきた汐子の、唯一つの華やかな生のあかしのようなものではないかと、私は思う。 「謙介さんはどちらへ?」 「貸しビルを建てるとなると、あの人も、いそがしくてね。毎日、あっちこっち、出歩いているわ。建築にとりかかる前に、なるべく借り手を決めておきたいのでしょう。今夜は、その話で人に会うとかって」  壁についた汐子の手の指に、きらっと、指輪が光った。  稽古場と鉤《かぎ》の手に続く母屋の居間で、汐子は私に椅子をすすめ、 「少しお酒が入っていらっしゃるのね、相浦さん」 「ええ。でも、もう、さめましたわ。今日、頼ちゃんと会って……。頼ちゃんが、自分のスタジオの助教をしないかと誘ってくれたものですから」  私は、こめかみを押えた。ずきずきと、頭の芯が痛かった。みじめな情事の失敗を思うと、私は、汐子の前で、つい目を伏せてしまうのだが、汐子は何も気づかぬ様子で、 「まあ、それはよかったですね」真情のこもった声だった。「明子が急にあんなことになってしまって、相浦さん、この先どうなさるのかと、私も心配していたんですよ。私どもでは、十分なことはしてあげられませんしねえ。相浦さんは、あんなに明子のために働いてくださったのに。お紅茶になさる? コーヒー?」 「何もいりませんわ。おひやをいただければ」 「むしますね。夜になっても」と、汐子は、庭に面したガラス戸をひき開けた。「虫が入るかしら。網戸もなくて」  私が腰を降ろした籐椅子は、肘かけの籐がほつれ、竹の芯が露出していた。世界的にも名のとおった梓野バレー団といえば、いかにも華やかにきこえるけれど、その内情は、戦前からの家具を買いかえることもできないほど、経済的に逼迫《ひつぱく》していた。  開け放したガラス戸のむこうの庭は、手入れがゆきとどかないので、庭樹の枝は逆立ち、住む人のない廃園のように、雑草が生い茂っている。戦前は整然と手入れされていた庭の、築山《つきやま》やこわれた石灯籠が、わずかに昔日の繁栄の名残りをとどめている。石灯籠の笠はころげ落ち、その割れめからも、雑草が勢いよく伸びていた。  地所は三百坪と広い。戦前は、六百坪ほどあったということだ。新作公演の赤字|補填《ほてん》のため、何度か切り売りした。バレーは長期興行はうてない。都内でせいぜい二日か三日。その間劇場が満席でも、仕込みの費用はペイできない。民音などで観客を動員してくれる公演と、生徒をかき集めての月謝で、何とかやりくりしてきた。  梓野明子。日本バレー界に君臨した女王、ということになっている。父親が九州の炭鉱王の一族で、財力に恵まれていた。幼時、一家が上海にいたことがあり、その地でフランス人のバレー教師に手ほどきを受け、才能を認められ、十代で、パリに留学した。そのときは、母親が付き添って、つきっきりで世話をした。その間、汐子は、九州の祖母の家にあずけられていた。帰国後、バレー団を組織したが、まもなく戦争が激化し、活動は一時中断した。戦後、父親が他界し、財産税をとられ、経済的には苦しくなったが、次々に新作を発表し、旺盛な舞台活動を展開した。  明子の葬儀には、日本舞踊家連盟、各新聞社、音楽関係、舞台美術、それに厚生大臣からまで、花輪が並ぶ賑々しさだった。  新聞にも、明子の輝かしい軌跡が書きつらねられた。  しかし、ひとしきり持ち上げて騒いだあと、梓野バレー団は、忘れ去られてしまった。五年ほど前から、舞台活動は行なっていなかった。明子にも、肉体の限界がきていたようだ。  バレーは、年輪によって円熟みを増す他の芸術とは異なる。内面が充実し、心の深みを表現し得るようになるころは肉体の衰えがくるという、二律背反の宿命を持っている。明子は強引にその宿命を踏みにじり、踊りぬいてきたけれど、やはり、体力の衰えをカヴァーしきれなくなっていた。  明子の死は、睡眠剤の誤用ということになっているけれど、自殺かもしれないと、ふと、私は思った。遺書はなかった。 「それで、頼ちゃんの方は、いつから?」  汐子は、水をみたしたタンブラーに、レモンの輪切りと氷片を浮かべて、手渡してくれた。その手の指輪が、私は気になった。ダイヤモンドだった。私がこれまで目にしたことのない品だ。 「まだ、はっきり引き受けるとは言ってないんですよ。頼ちゃんの話はありがたいけれど、けっきょく、助っ人ですものね。頼ちゃんは、自分のスタジオだからはりきっているけれど」  それでも、頼子の申し出を引き受けないわけにはいかないだろうと、私は思った。貯えらしいものは何もない。食べるためには、死ぬまでトウ・シューズを履きつづけなくてはならないのだろう。     3  梓野明子の舞台をはじめて観たのは、敗戦の翌年の正月、まだ、東京は焦土のにおいがたちこめ、都心は瓦礫の荒野、天気のいい日は丸の内から富士山が見とおせるというころだった。  あのころの食糧の乏しさ、餓え、については、もう言いつくされ、書きつくされている。  食物にも餓えていたけれど、それと同時に、いや、それ以上に、私たちは心も餓えていた。仙花紙の薄っぺらな雑誌を奪いあって読み、外側のみ焼け残って、中にはありあわせの木のベンチを並べただけの映画館は、どこも超満員だった。甘美なアメリカ映画が、荒涼とした外の生活を、一刻忘れさせた。映画館から一歩出れば、翌日の食糧を確保するために、米の買出しに狂奔しなければならないのだった。  そんな世相の中で、バレーの合同公演という、この上なく贅沢な催しが行なわれた。  戦前からすでに一家をなしていた、日本のバレー界のトップ・クラスといわれるバレー・ダンサーたちが、それぞれの利害や確執《かくしつ》を越えて団結し、各自の団員をひきい、豪華きわまりないキャストを組んでの公演であった。  私はそのころ、少女歌劇団に籍をおいていた。戦前、女学校を二年で退学して、少女歌劇団に入団した。踊ることに惹かれていた。それなのに、私が舞台に立てるようになったころは、国策路線に沿うということで、少女歌劇の舞台でさえ、軍需工場の工員が一心に生産にはげむというような話ばかりで、それすらじきに禁止になり、実際の工場で働かされるようになった。  敗戦後は、食糧事情の悪さや結婚問題などもあって、東京に帰っていた。家は焼け、父は北支から帰還せず、焼け残った伯父の家の物置を借りて、母と弟と三人で住み込んでいた。  そんな境遇の私に、バレー観劇などという贅沢が許されるわけはなかった。しかし、町で見たポスター、白いチュチュをひるがえしたオデットに、私は夢中になった。  合同公演の演《だ》し物は、『白鳥の湖』だった。もっともポピュラーでキャストを組みやすいものを特に選んだのだろう。  稚《おさ》なかったせいもあるし、他に娯楽らしいものが何一つない殺風景な時代だったせいもある。一枚の入場券が、何としても、私は欲しかった。手に入らないとなれば、なおのこと、その舞台は夢幻の魅力で私を誘った。今は、音楽も踊りも、スイッチ一つひねればTVの画面から茶の間に溢れてくる。あのときは——何もなかった。私は酔いたかった。交錯するライト。華麗な虚構の世界。そうして、見た目には優雅この上ないけれど、それを舞う者の、人間の能力の限界をつきぬけるほどの、厳しいテクニック。  巷には、米兵に躰を売るひとが溢れていた。私は、憑《つ》かれていた。一枚の紙きれを手に入れるため、私は、彼女たちをおずおずと、まねようとした。彼女たちは、食べるために、家族を食べさせるために、売春していた。私は、心の餓えをみたすという贅沢のために、米兵に声をかけた。  米兵は私にチョコレートを一枚くれた。そのときMPが通りかかったため、米兵は、そのまま立ち去った。もし、という仮定法は、意味のないことだけれど、もし……と、私は思ってしまう。もし、あのときMPが通りかからず、米兵に躰を売っていたら、そのあとで、私は、果して舞台を見に行っただろうか。汚辱《おじよく》感にいたたまれず、舞台見物どころではなかったのではないか。たとえ劇場に足をはこんだとしても、あの汚辱感の前には、舞台の魅力も色褪せて、私をああまでとりこにしなかったのではないか。そうして、私のその後の人生は、今とは違ったものになったのではないか。それとも、その傷をもぬぐい去るほどの力が、あの舞台にあっただろうか。  公演の当日、私は劇場のまわりを乞食のようにうろついた。ダフ屋がプレミアムつきの切符を売っていた。  楽屋口では、守衛が出入りの人をチェックしていたが、一人一人には目が届かない。出演者のような顔をして堂々と入れば、思いのほか簡単に守衛の目をごまかせるということがわかった。私ぐらいの年ごろの娘が大勢群舞で出るので、ごまかしやすかった。私は楽屋の通路を抜けて客席に入り、暗くなるのを待って客席内通路の階段に腰を下ろして舞台を観た。  終演後、私はオデットを踊った梓野明子の楽屋にかけつけた。その場で弟子入りを頼もうと思うくらい、のぼせ上がっていた。月謝は払えない。だから、女中がわりに置いてくれ、報酬のかわりにレッスンを受けさせてくれと頼みこむつもりでいた。しかし、楽屋に入ることはできなかった。私は追い出された。  その後、私は母や伯父の反対を押し切って、歌劇団に戻った。ここでも、レッスンや公演が再開されはじめた。しかし、私は、何となく物足りなかった。舞台は、プレイヤーと見巧者《みごうしや》の客が一体になって、はじめて、最大の魅力を発揮し得る。少女歌劇の客は、目当ての二枚目が出さえすればいいのだった。  三年め、梓野明子が、私たちの舞台の振り付けを担当した。私は即座に明子に弟子入りを頼み、それと同時に、歌劇団を退団した。  私は、明子の家に住みこんだ。明子の母と姉の汐子が同居していた。女中同様に働きながら、レッスンをうけた。下地はあったので、じきに、バレー団の〈助教〉として生徒たちを教えるようになった。近所のアパートの一室に移ったのは、十五年前、明子の母親が死に、明子が謙介と結婚した直後である。  当初、日本のバレー界は、興隆期にあった。梓野バレー団も、『白鳥の湖』から『ペトルシュカ』『ジゼル』『くるみ割り人形』と、古典大作を矢つぎ早に紹介し、更に、ほとんど毎年、新作を発表した。研究所の生徒も増えた。しかし、経済的には、バレー団はいつも崩壊寸前を辛うじて持ちこたえている状態だった。バレー団をささえる助教たちに支払われる給料は、小遣い程度のもので、独立した生計をいとなむには程遠かった。  その上、梓野バレー団は、梓野明子ただ一人のためにあるということを、私は思い知らされないわけにはいかなかった。  明子は、自分のために公演を持ち、観客もまた、明子を観るために、集まった。秀れたバレリーナであることと、優秀なバレー教師であることは一致しない。梓野バレー団は、他のバレー団のように後継者を育成することに力を注がなかった。若いバレリーナ志願者は、梓野明子の名声に惹かれて入団し、じきに失望して他のバレー団に移るか結婚してしまう。自分が明子を盛り立てるための踏台にすぎないことに気づくからだ。その上、すぐれた素質を持つ者は、明子からライヴァルとみなされ意地の悪い仕打ちを受ける。それに耐えて明子を凌駕《りようが》しようという気力のある生徒はいなかった。だいたいが、経済的にもゆとりのある家庭のお嬢さん育ちが、ちょっと娯《たの》しみにと習いにくるのが多いのだ。ハングリー・スポーツのような凄絶な気魄に欠けている。  私は——私も、ついに、梓野明子の影に過ぎなかった。明子の名は、あまりに大きすぎた。梓野バレー団が公演するとき、どんなささやかな地方公演でも、プリマは明子でなければ観客が承知しない。私は、ほとんど明子に恋していたから、彼女の影であることに甘んじてきた。しかし……。     4 「ほんとに、相浦さんには、明子もすっかり助けていただいてねえ」汐子は、しみじみした口調になった。「でもね、相浦さん、あなただって、御自分の決めた道を、一筋につらぬいていらしったんだから、これは、貴いことよ」汐子は、紋切型の文句を、熱心な表情で言った。  私は、いつだったか、汐子が、このごろ私は脂っこいものは食べないようにしているんですよ、と言ったことがあるのを思い出した。年に逆らわないで、ゆっくり枯れていった方が、死ぬときに楽ですもの。なるべく、物欲を減らすようにしているんですよ。そう言って、口もとをすぼめ、私たちを見て微笑した。  そんなことは、八十歳ぐらいになってからおっしゃってよ、お姉さま。明子は、癇癪を起こしたような声でさえぎった。  あなたたちは、静かに年をとるということができないのね。そう、汐子は言った。いつも卑屈なくらいおとなしい汐子が、そのときは珍しく、明子の神経を逆撫でするような言い方をしたのだった。  いま、汐子は、静かに枯れるどころか、奇妙に生き生きとしてみえた。年下の謙介と二人で暮らすようになったからだろうか。汐子はもう五十九であり、謙介は四十二だった。  汐子は、珍しく小ざっぱりした身なりをしていた。若いころから、どんな服を着ても垢ぬけない野暮ったさがあったのだが、二十代のころは、いくらか服装に気をつかっていた。それでも、だらしがなくて、洋服を着てもボタンやスナップがとれたままになっていたり、食物のしみで服を汚したりしていた。華やいできれいなものを身につけたのは、一時期、バレー団に入所した青年に恋をしていたころだけである。汐子の歩行が不自由になったのは、その青年との心中未遂の結果であった。  やかましく言う母親が十五年前に死に、最近では、汐子は、すっかりだらしなさをまる出しにして、着物の下前をひきずり、長襦袢の破れた裾が、ぼろ布のように垂れ下がってのぞき、帯も、窮屈だからといって、細紐や伊達巻しか締めないというありさまだった。それが、半幅の帯をきちんと締め、髪も見苦しくないていどに櫛目を入れている。 「お姉さま、何だか、おしあわせみたいね」 「あら、いやだわ、相浦さん」汐子は、大げさな身ぶりで口もとを手でおおって笑った。 「あなたなんか、まだお若いんだから、これから、いいことがありますよ」 「若いって、お姉さま、私四十九ですよ。それも、今日が最後」 「明日、お誕生日?」 「ええ。いやですね。この年になって誕生日なんて」 「まだ、若いわよ」汐子は、にこにこしてうなずいた。はれぼったい瞼の間に、細い目がかくれた。六十に手のとどく汐子の方が、私よりはるかに、活気にみちていた。  私は庭の方に目をやった。雑草は、地下から噴き出すような勢いで繁茂している。廃園、と私は思ったけれど、これは、どこよりも生命力に溢れた庭なのかもしれなかった。  汐子は、青年を自動車にのせ、無理心中をはかったという荒々しさを取り戻しているようにみえた。  二十年も昔となれば、女で車の免許をとる者は、まだ少なかった。汐子は、明子の行動半径を増すために、母親にしいられて、免許をとり、自家用車を運転していた。明子の運転手がわりだった。もともと気のきかない、いくらかのろい性質《たち》の汐子を、気の強いてきぱきした母親は、あんたは、ぐずだ、のろまだ、と、他人の前でも叱りとばし、明子の付人のようにこき使っていた。汐子は、あいまいな笑いを浮かべ、決してさからわなかった。しかし、運動神経が鈍いので、汐子は自動車の運転だけは嫌っていた。車庫入れをすると必ず三十度ぐらい曲がり、右折しろというとあわてて左にハンドルをきってしまい、上り坂ではエンストした。それでもスピード違反は絶対しないから、その点では安全だった。道路も、いまのように殺人的な混み方ではなかった。  母親は、汐子を結婚させることは考えていなかった。人並みより少しのろいから、自分の監督を離れて一人で家庭の切り盛りはできないと、決めているのだった。こんな娘を他人《ひと》さまに差し上げては御迷惑でございます、と言ったが、自分の老後の世話を汐子にさせようという冷たい計算もあったらしい。  明子が公演で名古屋に行き、汐子はあとから、古藤というその青年をのせて、次の便にまにあわせようと、東京駅にむかって車を走らせているときだった。遮断機のない無人踏切で、汐子は、進行してくる電車の前に車を突っ込んだ。  車はひしゃげ、古藤は脳漿《のうしよう》を撒《ま》いて即死したが、汐子は命をとりとめた。骨盤から大腿骨にひびが入り、足の動きが不自由になった。  汐子が警鐘を聞き落とした不注意による事故だろうと、最初は思われた。しかし、病院に収容された汐子が、うわ言で、�古藤ちゃん、ごめんなさい��いっしょに死んで�などとくり返すのを、医師や看護婦が耳にした。面会の許可が下りるようになってから、係官が取調べ、汐子はかたくなに口を閉じていたが、やがて、古藤を愛しているのに結婚の望みはないから、心中しようとしたのだと、告白した。  汐子は実刑は受けなかった。どのような処罰を受けたのか、私は知らない。いずれにしても、古藤の実家への詫び料、汐子の入院費と、汐子の母親が多額の金を払わされたことはまちがいない。母親は、汐子をそこまで追いつめた哀れさは思わず、愚かなことをしたと、事あるごとに、汐子を責めた。  汐子は、いっそう無口になり、仕事を命じられると、どぎまぎして、へまをやった。うまくやろうと緊張するあまり、かえって失敗してしまうのだった。  それでも、心中未遂という事件は、かなりドラマティックないろどりを汐子に添えた。それも、やがて忘れられ、汐子はただ、不かっこうな歩きぶりを人目にさらすだけの存在となった。  私は、汐子を嫌いではなかった。母親が思っているほど、汐子は鈍くはなかった。音楽に対する感受性はすぐれていた。しかし、彼女は、受身に、音楽を享受することはできても、自分で創造し表現する才能は持たないようだった。持たないと、自分も周囲も、決めてかかっていたのかもしれない。明子が、あまりに偉大すぎた。明子は、天性のスターだった。舞台に立っただけで人を惹きつける。極く少数の恵まれた者だけが持つ華やかさを、生まれながらに備えていた。それは、容貌の美醜とはあまり関係がない。明子も、美人の範疇《はんちゆう》からははみ出していた。鼻梁が彎曲《わんきよく》し、小鼻がいかり、唇は厚く大きかった。そのいかつい顔が、舞台で可憐なオデットやジゼルを踊るとき、あどけない愛らしさと威厳をたくみに表現するのだった。     5 「業《ごう》っていうものですかねえ」  汐子が、しみじみした声を出した。 「え?」 「あなたもそうでしょうけれど、踊りなんかにとり憑《つ》かれた人間は、最後まで、何かやっていないと、だめなのね。過去にどれだけ大きな仕事を残していても、現在、もっとすぐれた仕事に手をつけていなければ、敗残者のような気分になってしまうのね」  私は、業とか因縁とか、抹香くさい言葉で何かをくくってしまう言いかたは嫌いだった。しかし、体力が衰え、ここ五年間、舞台活動を停止していた明子が、焦燥感と挫折感に苛《さいな》まれていただろうということは、私も感じていた。 「明子さんもねえ、もう、やるだけのことはやったんだから、おとなしく……」  汐子の言葉は、ブザーで中断された。 「謙介さんよ」  汐子は若やいだ声で言い、足をひきずりながら玄関に立って行った。 「むしますね」と、ハンカチで首筋をぬぐいながら、謙介が入ってきた。汐子は、冷たいおしぼりを冷蔵庫から出してきて、謙介に手渡した。私にはしてくれなかったサービスだ。故意ではなく、気づかなかったのだろう。 「しばらくですね」と、謙介はあいさつした。女たちばかりに囲まれて長年過してきたためか、物腰がおだやかだが、決して柔弱な男ではなかった。 「お元気ですか」 「ええ、何とか」 「ここも、いよいよ、今月末には取りこわしにかかりますよ。ぼくとしては、梓野バレー団の名前を残して」  と言いかけて、謙介は、話をそらせた。ビルの一部に稽古場を置き、助教たちが協力してバレー団を続けてはという謙介の提案があったのだが、私たち助教の意見が一致せず、結局、バレー団は空中分解してしまったのだった。  謙介は、明子と結婚したとき、二十七だった。十一歳年下である。公認会計士の仕事をしていた。明子と結婚したのも、母親の死後、金銭の出入りにはまるでうとい明子を見かねて、彼女の後援者の一人が謙介を紹介しバレー団の経理を担当させたのがきっかけであった。それまでは、母親が会計を見ていたのである。結婚のお膳立てまでもっていったのも、周囲の関係者たちであった。明子は社会人としてはひどく未成熟なところがあり、一方、謙介は、一見三十代の半ばにみえるほど老成していたから、十一の年齢差が、それほど不自然ではなかった。謙介は、美丈夫という言葉で形容されるような、体格のいい、おおどかな印象を与える青年であった。  彼は、経理の面以外では、バレー団のメンバーとあまり接触しなかった。やはり、女ばかりの雰囲気がわずらわしかったのだろう。作曲家の川津晃充とか、バレー団に出入りしてタイツやトウ・シューズの注文をとりに来る男のように、女好きで、生徒や団員にかこまれるのを嬉しがるのもいたが、四六時中顔をつきあわせていると、うんざりしてくるのかもしれない。ここはまるで、蝿取菫《はえとりすみれ》の群落だな、と謙介がつぶやいたのを耳にしたことがある。  しかし、バレー団が解散した今、たまたま訪れた私に、謙介は親切だった。私と汐子のとりとめないお喋りに、辛抱強くあいづちを打っていた。  その夜、私は、汐子の部屋に蒲団を並べてもらって、泊まりこんだ。  あの、電灯をつけても闇が部屋の隅々にうずくまっているような孤《ひと》りの部屋に、今夜はもどらなくていいのだった。  私は、稽古場の鏡の前でガラスの破片を手にして立ちすくんでいた自分を思い出した。あのとき、汐子が声をかけなかったら、私は、鋭い破片のきらめきの誘惑に魅入られていたかもしれないと思い、さらに、梓野明子も、睡眠剤を手にしたとき、もう一包余分に飲む誘惑に克《か》てなかったのではないだろうかと思った。過去の業績が輝かしいだけに、なおのこと、自分の老いと創造力の枯渇に直面することが苦しかったのではないか。  漠然とそんなことを考えながら、私は、今日汐子と語りあったとき、何か心にひっかかったことがあったのを思い出した。  汐子は、少し口を開け、かるいいびきをかいている。  ——明子に関してのことだった。汐子が明子のことを何か話しかけ……そうだ、謙介が帰って来たので、その話は中断され、そのままになってしまったのだった。  明子さんもねえ、もう、やるだけのことはやったんだから、おとなしく……。  汐子も、明子の焦燥を感じとっていたので、あんなことを言ったのだろうか。そのときの口ぶりが、何か、もっと違うものを私に感じさせた。  いや、気になったのは、そのことではない、汐子の指にあったダイヤの指輪だ、と私は思った。謙介の気を惹くために、老いを忘れての汐子の奢《おご》りかとも思ったのだが、どう考えても、汐子が今さらあのような高価なものを買えるわけはなかった。梓野明子の装飾品の中にもなかった品であった。     6  ほんのちょっと心にひっかかったそのことが、もっと大きな疑惑となって心を占めたのは、市瀬頼子のスタジオで、作曲家の川津晃充に会ったときだった。  私は結局、頼子の申し出をありがたく受けて、彼女のスタジオに通ってくる生徒のうち、学齢前の幼児を集めたベビー・クラスの指導を受け持つことにしたのだ。そのほかに、収入の道がなかった。幸い、須田と私のいきさつを、頼子は知らないようだった。あのあと、須田とは会っていない。須田が他人のみじめさをかるがるしくふいちょうするような人間でなかったことは意外だったけれど、いくらか私の救いになった。  梓野バレー団で研究所の助教をつとめていたときも、私は、幼児のクラスを受け持っていた。ベビー・クラスの指導は、誰もがいやがる。バレーのレッスンというよりは、まるで保育園の保母のようなものだ。  四つ五つの、まだ右手と左手の区別もろくにつかないような子供に、厳しい訓練をしても、どうせ長続きしない。ものになるのは、十年の間に一人いるかいないかという程度だ。付添いの母親たちも、私は好きではなかった。言いあわせたように虚栄心が強く、自分の子供だけが特別に芸術的な才能があると思いこんでいるような手合いばかりだった。  それでも、彼女たちは、バレー団の大切な財源だから、粗略に扱うことはできない。私は、母親たちの間ではわりあい評判がよかった。温厚な教師ということで通っていた。それは、私がヒステリーを外に発散させることができない性質《たち》だからに過ぎないのだが。私の同僚で、厳しいレッスンをするという大義名分のもとに、生徒たちをぴしぴし、ひっぱたくのがいた。さぞせいせいするだろうと、私は少し羨ましい気がするくらいだったが、母親も生徒も、またオールド・ミスのヒステリーがはじまったと、かげで嗤っているのだった。  頼子のところでも、また、同じような仕事が続くのかと、私は内心うんざりしていた。芸術的な創造などとは、およそ縁遠い仕事だった。  梓野明子は、幼児だからといって手を抜いたレッスンをすることは許さなかった。頼子も、それを踏襲していた。  頼子は、西欧の人種のように、脚が長く腰がしまって、理想的なプロポーションだった。足の甲が高いのも、バレーにむいていた。  数年前、頼子がまだ梓野バレー団にいるとき、地方の小さい市民会館のこけら落しに『白鳥の湖』を演《だ》したことがある。オデットはもちろん梓野明子だが、私は頼子と、もう一人の若手とともに、�三羽の白鳥�を踊った。みじめだった。頼子を小さいときから仕込んできたのは私なのに、私は、自分の躰をあつかいかねていたのだった。かろやかに踊る若々しい頼子と並んで、私は、いかにも重苦しかった。  しかし、そのときでも、梓野明子は、私より年長なのに、舞台では年を感じさせなかった。若い頼子ではどうしても身につけることのできない、観客をひきずりこむ魅力があった。  頼子のスタジオで会った作曲家の川津は、梓野バレー団とは長いつきあいだった。明子の新作の作曲は大部分彼にゆだねられ、公演の際のオーケストラの指揮も、彼がとっていた。  レッスンを終えたあと、私たちは頼子の居間でくつろいでいた。 「そりゃ、今すぐは無理ね。でも、頼ちゃん、やりなさいよ。ぼく、だいたい構想はまとまっているのよ」途中から会話に加わった私には、何の話題かわからなかった。  私が梓野バレー団に入団したころは、まだ音楽学校を出てまもない少壮の指揮者だった川津は、髪が半白になり、孫も一人いる。いくらかアルコール中毒の気があるのか、煙草を持った右手の指先が、少し震え、奥歯が欠けたままなので、頬がすぼまっていた。しかし、川津は、ひどく楽天的な明るい表情だった。老いの淋しさとは縁が無いのか、それとも、他人の前で明るくふるまうだけ、その分、孤独の根は深いのかもしれないと、私は思ったりした。しかし、男は、鏡を見て老いに苛まれたりすることはないのだろう。男の五十五、六は、働き盛りか。それとも、彼らは、若いときから、もっと孤独とのつきあいは深いのかもしれない。 「何をやれって言ってるの、川津さんは」私は話に割りこんだ。他人といっしょのときは、私も、気のいい楽天的な女の顔をしている。 「ホフマンの『黄金宝壺』をバレー化して上演しようという話」頼子がこたえた。 「梓野さんから話があってね」と川津が、 「ぼくも、なかなかいい企画だと思ったのよ。でも、具体化する前に、梓野さんはああいうことになってしまって」川津は、冥福を祈るような表情を見せ、「心残りだったろうな。もっとも、睡ったままなくなったのでは、心残りを覚えるひまもないか。ぼくとしても、残念なのよ。このごろ、バレーは沈滞しているからね。梓野明子が新作の大作をばんと一発出せば、かなり評判になったと思うな」 「『黄金宝壺』って、蛇の精か何か出てくる話だったわね」私は、うろおぼえの記憶をかきまわして言った。 「そう。蛇といっても、サラマンダー、火蛇ね」と、川津が、「万物は、地水火風の四元素に分れる。地の精がコボルト、水の精はウンディーネ、風はバレーにもあるシルフィードね、そうして、火の精が、火蛇、サラマンダー。若い学生が、火蛇の王の娘と恋におちいり、現実と夢幻の間を彷徨《ほうこう》する話だが、芸術家の悩みみたいなものを象徴しているとぼくは思うんだな」 「とても、私にはむりね」頼子は首を振った。「むりというのは、経済的な面のことよ。舞台装置など、相当大がかりにして、群舞も揃えてやらなくては、おもしろみがないでしょう。私はむしろ、個人のリサイタルをやりたいわ。装置や美術、衣裳の助けなど借りないで、タイツだけで、黒い幕をバックに、純粋に私の踊りだけを見てもらう。これからの創作バレーに、甘ったるいストーリーは不要よ。肉体で何を表現し得るかよ」  頼子の言葉は、昂然としていた。上昇期にあるものの、誇らかな言葉だった。それは、梓野明子のやり方に対する批判にもなっていた。 「川津さんの望むような舞台は、商業資本でなくてはむりよ」  きっぱりと切り捨てるような頼子の言い方に、川津は鼻白んだ。 「肥満したバレー団の組織が、舞踊家としての梓野先生のお荷物になっていた面もあると思うわ」  頼子はそのつもりではないのだろうが、私は、かすかな皮肉をその言葉に感じた。梓野バレー団の体質は、たしかに老朽化していた。でも、私や、他のすでに老齢に足を入れた助教たちが、ただ、お荷物にすぎなかったとは言わせない。  私たちは、役者馬鹿という言葉を借りるなら、踊り馬鹿だった、と私は思い、そんな月並みな言葉の中に逃げ込もうとする自分に嫌悪を感じた。私が覇気を失ってしまっていることは、たしかなのだ。  しかし、明子は、もう一度、新作を世に問おうとしていたのだろうか。  川津は、頼子の仮借《かしやく》ない物言いに、気を悪くしたようだった。じきに座を立ち、帰ると言うので、私もいっしょにスタジオを出た。 「ちょっとつきあわない、相浦さん」と、川津は、駅前の小さなスタンド・バーの前で誘った。川津と二人で飲むのははじめてのことだった。今までは、バーに入ることはあっても、いつも、バレー団の仲間が数人いっしょだった。そうして、私は、行儀のいい飲み方しかできなかった。ぶざまなところを見せたのは、この間、須田と飲んだときだけだ。 「残念だなあ」と、川津はカウンターにもたれて、ぐちっぽく言った。 「バレー音楽ってのは、誰かが舞台にかけてくれなくては陽の目を見ないんだからな」 「もう、だいたいでき上がっているんですか」 「いや、まだ手をつけたわけではないんだけれどね。女主人公の、火蛇の娘のテーマだけは浮かんでいるんだ。あれは、小説によると、娘が歩くとき、澄んだ鈴の音がするんだよ。それに対して、父親である王のテーマは、こう、暴風雨のような烈しいイメージでね」 「梓野先生は、本当にそれを上演なさるつもりだったの?」  明子の死は、自殺ではなかった。私が懶惰《らんだ》に意気沈んでいるとき、明子の中では、創作欲が燃えさかっていたのだ。 「誰に台本を頼もうかと、ぼくと話しあっていたんだ。具体化まで、もう一歩というところだった」 「私たち、何もきいていなかったわ」 「もう少し案がかたまったところで発表するはずだった」どうしたの、と、考えこんでしまった私の顔を、川津はのぞきこんだ。  明子さんもねえ、もう、やるだけのことはやったんだから、おとなしく……。  汐子の言葉は、これを指していたのだと思いあたった。汐子の口調は、明子を非難していた。新作の公演は、汐子にとって望ましいことではなかったのだろう。  ただでさえ金がかかるのに、スペクタクルの要素を持った舞台となれば、仕込みに莫大な費用がかかる。一カ月もロング・ランを打つ商業演劇のショウと違い、個人の力で二、三日上演するだけなのだから、赤字は目に見えている。これまでは、地所を切り売りしたり、持っている地所建物を抵当に借金したりして賄《まかな》ってきた。その借金を返済するのに、謙介など、ずいぶん苦労したようだ。それでも、明子が元気で活躍している間は、自転車操業でも、なんとかやりくりがついた。  今度はおそらく、かかえきれないほどの莫大な借金を背負って、しかも、明子にとっては最後の公演となることだったろう。  私は、怖ろしいことを想像している自分に気がついた。  まさか、汐子が……と思った。でも、払えるあてのない借金をかかえこんだ老後というのは、それはもう、耐えられないほど心細いことなのではないだろうか。ことに汐子のように独立した生計の道を持たない者にとって。自分で稼ぐことのできる私でさえ、もし病気になったらどうしようと思うと、慄然とするのだ。考えてもしかたのないことだから、意識のすみに押しこめているけれど。 「外国のバレー界が羨ましいよな、相浦ちゃん」川津は、一人で飲み、一人で喋っている。 「国家がめんどう見てくれるんだからな。どんなにでも金をかけて凄い舞台を作り上げられる。頼子はあんなことを言っていたけれど、バレーってのは、総合芸術だろ、あんた。スペクタクルだ、ケレンだって、ばかにしちゃいけないよ。梓野明子は、よくやったよ、ここまで。女の細腕一本で。国なんて、あんた、税金をふんだくっていく一方で」  私は、明子が死んだときのことを思い出していた。謙介は、大阪に行っていた。明子の門下生の一人が大阪にスタジオを開いている。一応、梓野バレー研究所の関西支部という形をとっているので、その経理の監査に出張したのだった。  家には、明子と汐子の二人だけだった。明子は、不眠症なので睡眠剤を常用している。警察で発表したように過失死かもしれないけれど、汐子が飲物に薬を混入して致死量まで増やすことはできるのだった。  でも、その辺のことは、警察でも十分調べただろうと思い返し、それでも、警察が、バレー団の経済事情や、新作発表のこと、それに伴う資金の捻出《ねんしゆつ》の問題など知らなかったとしたら、汐子には明子を殺す動機がないと思うかもしれない……。  私は汐子が明子に殺意を持ったなどということは、考えたくなかった。あの、おとなしい、いつも割りの悪い人生ばかり歩いてきた気の毒な人が……。  割りの悪い人生を歩いてきたからこそ、明子を憎んでいたかもしれない。  おとなしい内向的な人間が、ときには思いきった行動をとる。汐子の心中未遂事件が、私の心にあった。走ってくる電車の前に自動車を突っこむ。ふだんの汐子からは、とても想像のつかない激越な行動だった。  私は、何の証拠もないことを、あれこれ思いわずらっていた。 「『黄金宝壺』ってのはね、傑作になるのよ、相浦ちゃん」川津の酔いは、ますます深い。 「チロ、チロ、という鈴の音が……その火蛇の娘の鈴が何をあらわすかというと……」 「チロチロじゃなくて、レロレロじゃないの」カウンターのむこうから、ママがからかった。  私の瞼の裏で、何かが光っていた。汐子の指のダイヤの指輪だった。  汐子ではなく、謙介の犯行だと考えると、ダイヤの指輪の持つ意味がわかるような気がした。それも、私には怖ろしい考えだった。血なまぐさい事件は、しじゅう新聞にあらわれているけれど、自分の周囲にはそんなことは起きないという気があった。——心中未遂という惨事がかつて起こったのに……。  明子の新作公演の計画、汐子の不相応に贅沢な指輪、それを、明子の抹殺という犯行に結びつけてしまったのは、私が酔っていたためか。  しかし、翌日酔いが醒めてからも、その考えは、執拗に私の頭から離れなかった。  明子が死んだとき、謙介は東京にいなかったけれど、睡眠剤を常用のものよりずっと強力なものにすりかえておけば、その場にいなくても行なえる。たとえば、同じバルビツール酸系の睡眠薬でも、フェノバルビタールなどは、耳かき一杯にもみたない量で昏睡状態におとしいれることができる。外見はもっと弱いものと見わけがつかない。  明子の死によって謙介が利益を得るのだから、警察でも、汐子以上に念入りに謙介のことは調べたはずだ。私が考えつくくらいの睡眠薬のすりかえは、とっくに、係官も考えついたにちがいない。  しかし、汐子を犯人に擬したときと同様、警察が、明子の新作公演の計画、ひいては、あの土地建物が借金の抵当流れになるかもしれない経済的な危機、そういう切羽つまった事情を知らないのだとしたら、謙介の動機は弱いと思うだろう。  私は、川津に電話をかけた。二日酔いとみえて、川津は機嫌の悪い声で応答した。 「警察に? 梓野さんが死んだとき、ぼくは何も警察から訊かれたりはしなかったよ。いやだね。どうして、ぼくが警察から訊問されなくちゃならないの」 「謙介さんや汐子さんは、その新作のことを知っていたかしら」 「知っているよ。二人のいるところで、ぼくは明子さんと相談したもの」  なぜ、明子の死後、汐子も川津も、その計画については一言も語らなかったのだろう。思い出話の合間、話題になってもよさそうなものなのに。昨日、汐子は口をすべらせかけたけれど……。  でも、川津に口止めしていないのだから……。 「謙介くんからは」と、川津の声が受話器から、「この新作の話は、当分喋り散らさないでくれと釘をさされた。だが、もういいだろう、三カ月もたったんだから」 「どうして、謙介さんがそんなことを」 「梓野さんの亡くなった直後は、バレー団の内部は、ごった返していただろう。そんなとき、この話を訊いて、昂奮したあなたたちが、残った者だけで上演しようなんて言いだすと厄介だと思ったのね。女の人は、その場の感情で事を決めてしまうからね。ぼくとしては、頼ちゃんをプリマに、あなたたちにも協力してもらって、いつかは上演したいんだが」  電話を切って、私は憂鬱だった。しかし、少し気特にはりがでてもきた。まるで目標を失ってしまったような毎日だったのに、一つ、目的ができた。  明子のためなのだ、と私は思うことにした。でも、実際は、明子の死、という一つの事実を絆に、明子と謙介と汐子が結ばれているその関係に、私も介入したかったのだ。ガラスの破片に死の誘惑を感じ、須田のような若い男に躰を投げ出そうとしたあの淋しさを思えば、殺人者と脅迫者の間に割りこんでゆくという行為は、私にとって活力剤のようなものだった。他人との間に介在するものが、たとえ憎悪であろうとも、冷え冷えとした無関心よりは、はるかにましだ。私は謙介を憎もうと思ったが、素朴な正義感は、私の中にはもう残っていなかった。  脅迫することで、汐子は謙介と密接に結ばれている。それを暴《あば》く行為で、私は、三角形の一つの頂点として、彼らと強靭な稜線で結ばれる。私は、孤りではなくなるのだった。     7  荒地野菊の白い綿毛をつけた種子が、風に舞っていた。庭の雑草は、ますます猛々しい。荒地野菊の茎は丈高く伸び、庭樹には紫がかったヤブガラシの蔓がからみついている。  汐子は、臆病な小動物が本能で身の危険を察知するように、私の再度の来訪に不穏なものを嗅ぎとったようだ。 「このごろは、アパートのお家賃、高いんですねえ。驚いてしまいました」  ぎごちない微笑で、汐子はティー・バッグをいれたカップに、ジャーの熱湯を注いだ。 「移転先は、お決まりになりましたの?」 「まだなんですよ。謙介さんがあちらこちらアパートを探してくれているんですけれど」  私の視線を感じ、汐子は、手をそっとテーブルのかげに下ろした。 「凄い指輪をしていらっしゃるのね、お姉さま」 「え、ええ……」  汐子は、みせびらかしたいのと隠したいのと、半々の表情だった。いつも嵌《は》めているのは、やはり、嬉しくてたまらないからだろう。 「いつ、お買いになったの。少しも知らなかったわ」  私は、じわじわと網を絞った。汐子と謙介の共犯ということは考えられなかった。共犯の報酬として与えられたものなら、人目につくように指に飾ったりはしていないだろう。 「まるで、エンゲージ・リングのようね」 「まさか。いやですよ、相浦さん、エンゲージ・リングだなんて」  小娘のように、汐子はしなをつくって、くすくす笑った。笑いながら、腫れぼったい瞼のかげの小さな目が、落ちつかなく、私のようすをうかがっている。 「何カラットぐらいあるのかしら」 「さあ……」  拝見させて、と言うと、汐子は、おずおずと手をテーブルの上にのせた。その指を強くつかんで、 「謙介さんにおねだりなさったの?」  汐子は、つりこまれたように、うなずいた。  私は、獲物の網をゆるめた。 「そう、よろしいわね」とだけ言って手を離し、話題をかえた。  汐子は、安心したように表情をやわらげた。  謙介が帰宅するまで、私は居坐った。謙介は私をみて、よく来るなというような顔をしたが、むしますね、と、この前と同じあいさつをした。  汐子が台所に立ったとき、私は謙介に、 「汐子さんが白状なさったわ」と言った。 「何をですか」と、謙介は動じない。 「梓野先生のこと。謙介さんは、今さら梓野先生が新作を出されても、無惨な失敗に終わるとわかっていらっしゃったのね。ぶざまな舞台で過去の光輝を汚すよりはとお考えになったのね。それで、梓野先生を」  ほう、という表情を謙介はした。目が光っていた。 「それに、財産のこともあるわね。汐子さんは、あなたのしたことに気づいて、それで、おねだりを」  謙介が平気な顔をしているので、私は、せきこんだ。 「でも、指輪というのは、あなたに損のいかないなさり方ね。現金なら、汐子さんがつまらない使い方をしてしまうかもしれないけれど、貴金属なら、財産としてあとに残りますもの。汐子さんがなくなってから、あなたはそれをまた取り戻すことができるんだわ」 「つまり、相浦さんの言いたいことは、こうですか」謙介は、ゆっくりと、 「ぼくが明子を殺した」  殺したという言葉は、ひどく、どぎつく私の耳にひびいた。 「それで汐子がぼくを脅迫した」 「そうよ。まさか、婚約のつもりであの指輪をプレゼントなさったわけではないでしょう」  謙介は、煙草に火をつけた。 「梓野先生は、もう、昔のようには踊れなかったわ」 「それで、彼女の名声を守るために、ぼくが明子を?」  謙介の目が、いっそう笑いをみせ、 「相浦さんは、汐子さんより親切な見方をしますね。汐子さんは、ぼくが明子を憎んで、強い睡眠剤を飲ませたと言った」  台所の方で、カタカタと食器の触れあう音がした。 「汐子さんは、そう信じたかったんですよ」  謙介は言った。 「明子が死んだのは、事故です。睡眠剤の量が多すぎたのですよ。新作のことで、神経を昂ぶらせていましたからね。いつもの量では効かなくて、かってに増やして飲んだためです。それは、医者がくれた薬の残量を調べてわかりました。だから、警察でも納得したんですよ」 「それでは、どうして汐子さんに指輪を……」 「彼女がぼくを脅迫したからです。あなたが見抜いたように」 「だって、そんな……」  私は、謙介に、いいようにからかわれているような気がした。 「汐子さんが、どんなに明子を怨《うら》んでいたか知っていますか。明子は、姉のささやかな虚栄をむしりとってしまったことがあるんですよ」  汐子さんの心中事件を知っていますね、と謙介は言った。  汐子の不注意だったんですよ。はじめ皆が思ったとおり、汐子は、ぼんやりしていて警鐘を聞き落とし、電車と衝突してしまった。  薄ぼんやりの汐子。のろい、ぐずの汐子。  汐子は、必死で、メロドラマの主人公に自分を置きかえた。さすがに、合意の上の心中だと、皆を言いくるめることはできないと、自分で知っていた。  うわ言じゃない、汐子の、一世一代の芝居だったのです。いっしょに死んで……という言葉を医者や看護婦に聞かせたのは。  汐子の哀しい見栄と自己|欺瞞《ぎまん》ですよ。汐子は古藤を恋していた。もちろん片想いで、古藤は何も知らないことだったけれど。その古藤を、自分の不注意で死なせてしまったと考えるのは、辛すぎたんですね。でも、その擬態は、灰色の彼女の人生の、ただ一つの彩りになった。古藤くんが死んだあと、汐子は、自分でもほとんど、あれは自分の一途にしかけた心中だったと信じこみそうになっていた。  明子は、だまされなかった。ぼくと三人でいるとき、あの事件が話題にのぼった。ぼくが、いたからでしょう。明子は、汐子を嘲笑し、からかい、問いつめ、とうとうあれがただの不注意から起きた事故だったことを白状させてしまった。  でも、汐子は、妹に何一つ仕返しすることができなかった。おとなしい人ですからね。  明子が死んだとき、やっと彼女はまた新しい夢をみつけたんですよ。明子の結婚生活は、決して幸福ではなかった。夫は、明子を憎んでいた。財産を明子の公演のために食いつぶされてはかなわないと、冷酷な夫は妻を殺した。 「それで、あなたは、汐子さんの妄想を受け入れておあげになったの?」  謙介は微笑してうなずいた。 「あなたの言うとおり、指輪なら、ぼくの財産を彼女に保管してもらっているようなものですからね。ぼくには何の実害もない。子供の嘘っこ遊びにつきあってやるようなものです」 「明子さんを愛してはいらっしゃらなかったのね」私はつぶやいた。「愛していらっしゃったら、いくら汐子さんの淋しさを慰めるためでも、そんな妄想を受け入れることはできないわ」  謙介は、ただ微笑していた。どのようにでも、かってな想像をめぐらせろと言っているようだった。 「でも、汐子さんは、おしあわせね」私は、吐息と共に小声で言った。  そのとき、私は、ほとんど謙介に恋していた。  それから十日あまり後、汐子が死んだ。建物の取りこわしの日取りが決まり、アパートに引越すことになった前夜だった。睡眠薬を飲み、ガス管を開いていたので、この先の孤《ひと》り暮らしの淋しさに耐えかねての、老人性ノイローゼからきた自殺ということになった。  私は思い惑った。汐子の脅迫は、やはり、真実謙介の犯行を見ぬいていたのではないか。それで、謙介が……。  汐子は、あんなに生き生きとしていた。奇妙な関係ではあるけれど、謙介との間に連帯の絆が結ばれて。その汐子が、自殺を計るだろうか。  私は、はっとした。この間、謙介が私に語った言葉を、汐子は聞いていたのか。彼女の夢が、うすっぺらな絵にすぎないことが、私の前に明らかになってしまった。私は彼女の大切な妄想をこわしてしまったのか……。  どっちでもよいと、吐息をついて、私は思った。  真相を見きわめるのは、警察の仕事だ。  私はただ、汐子の行動をひきつげばよいのだ。そう思ったとき、ふと、たのしくなった。  謙介が私を愛してくれるわけはない。でも、謙介は、潔白でも、汐子にみせたようなやさしさを、私にも与えてはくれないだろうか。  たとえ虚構の糸でも、私はあなたと結ばれていたいのだ。お金が欲しいのではない。私があなたを脅迫したら、たとえ嘘でも、あなたは、私を脅迫者と認め、つきあって遊んでくれるだろうか。  もし、彼が本当に殺人を犯していたとしたら……脅迫者と彼との絆は、いっそう強いものになる。そのかわり、私は彼に命を狙われるかもしれない……。  私は手帖をめくって、謙介の仮住居の電話番号を探した。  何度もためらった。電話機のダイアルは、手をのばせば、すぐ届くところにある。  電灯がついているのに、部屋の中にしのび寄る夜の気配を、私は肌に感じた。闇を背にした窓ガラスに、頬のそげた、私の顔がうつる……。  鎖 と 罠     1  小さい渦を巻いて、木枯しが吹き上げた。地下のディスコティクに通じる階段に、靴痕のついた新聞紙が舞いこみ、入口に佇んだ黒人女のコートの裾がひるがえった。薄闇に、裏地の紫色が、一瞬、鮮明だった。  歓楽の街ソーホーが、今、戦時下のように暗い。ショーウィンドウの照明やイルミネーションの点灯を、政府から制限されたためである。炭坑ストライキと中東戦争が、ロンドンの燃料不足、ひいては電力不足を招いている。  黒人女が早い足どりで雑踏の中にまぎれ去ったあとへ、より激しい風が——若者たちの一団が、走りこんできた。数人は、手に、ポップコーンの山盛りになった紙コップを持っている。性急な手つきで口に運ぶ途中で、ポップコーンは足もとに散った。  金属的な音がひびいた。彼らが腰をひねるたびに、ジーンズのベルトにさげた自転車のチェーンが鳴るのだ。歯の間できしませるメロディーと、階段を駆け下りるリズミカルな足音に、チェーンは、パーカッションのスタッカートを入れる。 「いやな奴らがきた。メイ、出よう」  逃げるの? と、相手は、少し訛りのあるアクセントで訊いた。 「おれは、踊りに来ているんだ」  喧嘩はきらいだ、と、ロディは、弁解がましく言った。  むかいあった相手は、ロディの胸のあたりに頭がある。明るいオレンジ色のヤンピーのパンタロン。白いシャギーのセーターの毛足がよれて、薄黒い毛玉になっている。  シャギーでふっくらとみせているけれど、水をかけたら、バスタブに落ちたテリアの仔のように、貧弱な躰の線があらわれるだろう。まだ見たことはないけれど、手触りで、ロディは相手の胸のふくらみが薄いのを知っていた。  顔は、仔犬というよりは、鳥の雛を連想させた。皮膚の薄い、眼球にはりついたような上瞼、きまじめな印象を与える、まっ黒い丸い眼などのせいだろうか。  一月ほど前、このディスコティクで、はじめて知りあった。やはり、オレンジ色のヤンピーのパンタロンに、白いシャギーのセーターを着ていた。  一人だった。カウンターの隅で、まるで、誘拐されてきたとでもいうように、細い躰をこわばらせ、目だけは熱心に、肩をぶつけあい揉みあって踊る群れを眺めていた。  チャイニーズ?  ノウ、ジャパニーズ。  何か、飲む?  隣りの止まり木に、ロディがひょいと腰を下ろすと、相手は、自分の前のグラスを、ちょっと持ち上げてみせた。透明な液体がまだ三分の一ほど残り、さくらんぼの実が沈んでいた。  こういうとき、誰もがかわすような、意味のない会話を二、三かわしたあとで、名前を訊いた。  五月生まれだから、メイと呼んでくれればいいわ、と相手は答えた。  本当の名前は?  日本人の名前って、発音しにくいでしょ。教えたって、どうせ、あなたにはおぼえられないわ。  ここいらで、あまり、見かけないね。  はじめて来てみたの。  一人で?  ええ。  踊ろうか。  ぎごちない踊りぶりだった。そのくせ、すぐ、酔っぱらったような表情になった。 「|EXCITING《エクサイテイング》!」掠《かす》れた声をあげた。  踊っているうちに、はぐれてしまった。放ったらかして、ロディは、ほかの仲間といっしょになった。  次のウィークエンドにも来ていた。ロディをみかけると、保護者にめぐりあった迷子のように、表情の乏しい顔に、いっぱいに笑いを浮かべた。ロディは、侠気《おとこぎ》をだしてせいぜいエスコートしてやった。キスした。ほかの男たちもメイにキスし、メイは、はじめおずおずと、それから急に大胆になって、誰かれとなくキスを返した。ふと、ロディをみて、はにかんだ笑顔になり、弁解するように、 「EXCITING!」と呟いた。 「送っていってやろうか」と言うと、いいの、と断わって、十二時前に消えた。  先週は来なかった。  そして、今日——。  四人編成のバンドが演奏するロックは、アンプで最大限に増幅され、四方の石壁に反響し、話し声や笑い声といっしょに、棍棒の一撃となって、耳をぶちのめす。  ハーイ、ロディ。  メイと向きあって、激しく腰を振りながら、ロディは声のした方に振り向き、 「やあ、ナン」  首をのばして、声をかけてきた娘の口のわきに唇をつけた。  ナンは、腰をねじって、ロディの耳に口を寄せ、声をはり上げて、 「ロッカーズ」  目で、階段を下りてくる連中を示した。大声を出さなくては、声は、わんわん響くロックに呑みこまれてしまう。 「ああ」 「あんた、どうするの? まだ、ねばる?」 「いや、出るつもりだ」  出ると言ったけれど、ただ一つの出入り口である階段には〈ロッカーズ〉の面々が群れていた。  ここに集まるのは、ロディもそうだけれど、お洒落《しやれ》で音楽好きの、いわば、軟派の連中が多い。モーターバイクを乗りまわすのと喧嘩沙汰が好きな硬派のロッカーズとは肌が合わない。 「まいちゃいなさいよ」  と、ナンは、少し声を落とした。 「え?」 「そのジャップ。あたし、おなかがすいたの。ティコティコに食べに行こう」 「You and I」二人だけでさ、と、ナンは軽く片目をつぶった。  ロディは躰のむきを変え、ナンと向かいあった。  ナンはアイリッシュで、アイルランド島北岸の漁村の出身であり、ロディも父の時代からロンドンに移り住んでいるけれど、同じアイリッシュ系である。店に集まってくる若者たちに、生粋のアングロサクソンは少ない。アイリッシュ。スコッチ。スパニッシュもいれば、イタリー系の移民の子も多い。しなやかな長身で、ひときわ鮮やかなツイストをみせるのは、アフリカンである。  日本人は数が少ないし、中華レストランのウェイターをしているチャイニーズたちと見わけがつかないけれど、メイのほかにも、ちらほら、いないことはない。日本料理店の従業員などが週末を楽しみに来るくらいで、留学生はあまり訪れない。メイは、労働階級の者のようにはみえなかった。  いくつぐらいかな、あの女。  生き生きと上気した、ナンの艶のいい頬と、メイの頬を、ロディは心の中で比較した。  肉の薄い躰つきから、最初、少女のような印象を受けた。しかし、  ——違うな……。  話の内容。態度……。  人種の違いによるものだけではない、違和感。いくらかきまわしても、水に溶けきらない油の粒子。  メイは、躰をゆすりながら、あたりを見まわしている。ロディを探しているのだろう。上唇に沿って、汗のすじが光っている。小さい口ひげのように見える。  ロディは、本物の口ひげを生やしている。二十にみたない年だけれど、せいぜい大人っぽくみせようと、近ごろ、生やしはじめた。  視線があった。メイは、ほっとしたように、内気そうな微笑を浮かべ、手を大きく振って、人ごみをかきわけ、寄ってこようとする。ナンは、舌打ちした。  階段の方では、小ぜり合いがはじまっていた。  ペットが甲高く、煙草の煙に濁った空気を裂いた。コーラのびんの砕ける音がした。     2  ロンドン西郊、ヒースロー空港。  一八時四五分、パリ、オルリー空港を飛び立ったBEA709は、定時きっかりに到着した。  到着時刻、同日、一八時四五分。ロンドンとパリでは、ちょうど一時間の時差があるので、二つの空港間を飛翔するのに要した一時間は、数字の上では消えてしまう。  予定どおりいかなかったのは、ヒースロー空港に、迎えの専用バスが来ていなかったことである。現地で待機しているはずのガイドの姿もみえなかった。 「風見くん、どうなっているのかね、これは」  大日本旅行社と記した腕章をつけた風見伸二は、声を荒らげる客たちより、いっそう、いらだっていた。  一八○センチに近い長身。逞《たくま》しい肩。ちょっとした動作が、ボクサーかサッカー選手のように敏捷だが、風見伸二は、大日本旅行社から派遣された添乗員だった。  若くはない。大学出なら、そうして年功序列のはっきりした大手の会社なら、課長ぐらいの役づきになって、デスクワークにおさまっている年齢である。鼻梁の短い、顎の丸い童顔と、贅肉のない筋肉質の体躯のため、実際の年齢よりいくぶん若くみえるが、神経質にせわしなく動く小さな目に、中年男の小心さ、小ずるさがうかがえる。客の罵声に、卑屈に腰をかがめ、手を揉みあわせる。躰つきが逞しいだけに、かえって、みじめっぽい。  彼がひきいて来た団体は、三十二名。商店の主人たちの親睦旅行である。パリで二泊し、ロンドンに着いたところであった。 「たぶん、道が混んでバスが遅れているのだろうと思います。もう少しお待ちください」 「そりゃ、待つよりほか、しかたないが、あんた、大丈夫なんだろうね。手配は、ちゃんとできとるんでしょうね」 「連絡はとれないんですか、こっちのガイドに」  夫婦づれで来ている客の、女の方が口をはさんだ。 「あ、そうでした。電話をかけてみます」  風見は、ばねがはじけたように、公衆電話に向かって駆け出した。  その、丸く前かがみになった背に、 「だから、私、あんな小さな旅行社に頼むのは心配だって言ったんですよ」  夫に当たり散らしている女の声が突き刺さった。夫を詰《なじ》りながら、その言葉は、風見にむけられていた。 「少しぐらい高くついても、信用のある大手に頼んだ方が、どれほど心丈夫かわからないのに。パリのホテルだって、ひどかったじゃありませんか」 「私の部屋、シャワーしかついとらんのですよ。二晩も風呂ぬきで、往生しましたわ」  他の客が同調し、不平の声が高くなる。  男たちの中には、パリのキャバレーでもらった紙製のカンカン帽を、まだ後生大事に頭にのせているのも、何人かいる。 「風見くんに言うて、部屋をかえるようフロントに交渉させたんだが、あかんね、あの男。フロントにへいこら頭さげよって、強いことは、よう言えんのだわ」 「ずいん頼もしそうにみえたのに、みかけだおしでしたね」  ——てめえら、赤ゲットのくせしやがって……。  勝手なことばかりほざきやがって、と口の中で罵りながら、風見は、聞こえよがしの声を無視して、慌しくメモ帳をくり、電話番号を探した。指先が細かく震え、ページをひきちぎりそうになった。緊張したり昂奮したりすると、すぐ手が震えてくる。頭が熱くなる。  大日本旅行社は、社名こそ雄大だが、もぐりに近い小さいエイジェンシーである。これまでは、国内旅行の下請けを主にやってきた。海外旅行を独自に企画するのは、はじめてである。風見伸二は、しかも、正式の社員ではない。臨時雇いであった。小さい旅行社に、その都度、臨時に雇われ、外人の日本国内観光のガイドをつとめるのが、最近の彼の仕事である。二十年近く前、英語の実力を試すかといった軽い気持で国家試験を受け、取得したツーリスト・ガイドのライセンスが、このごろになって、役立っている。海外添乗は、はじめての仕事だった。  大手の旅行社は、それぞれ専属のガイドを、多数、嘱託として抱えているし、海外旅行には正社員が添乗するから、風見の働き口はない。彼に仕事の口をかけてくるのは、大日本旅行社のような泡沫会社に限られていた。  弱小旅行社が、知名度と信頼度の高い大手に対抗して客を獲得するには、費用の低廉なことが何よりの武器になる。しかし、無理に費用を切りつめれば、どこかに皺寄せがゆく。ダイヤルを廻しながら、風見は、不安感が増大するのを押えきれなかった。海外旅行のパッケージ・ツアーの場合、現地の旅行社とタイ・アップして、ホテルの予約、ガイドや専用バスの手配などは、現地側に委託することが多い。交渉は、顔をあわせたこともない相手と、電話、テレックス、あるいは手紙のやりとりなどで行なわれるのである。大手の会社なら、現地に支店もあって、めったに間違いは起こらないが、それでも、行き違いが生じることがある。まして、こちらが不馴れ、相手もまた、えたいの知れない弱小業者であった場合、最初から計画的に、前払金だけ詐取してどろんをきめこまれることが皆無とはいえない。大日本旅行社がタイ・アップした相手がどの程度の業者か、臨時雇いである風見は知らなかった。  ——有利な条件を持ち出されれば、コストを安くあげるために、信用度の低い相手とでも……。  発信音は聞こえているが、相手は出なかった。風見は、団体客がいらいらした顔を並べているところに走り戻り、まだ迎えが来ていないのを認めた。 「どうなっているのですか」 「ただ今、調べておりますから」  再び、公衆電話に。  やはり、相手は出ない。気ぜわしく切って、また、同じ数字を廻す。  ふと、別な危惧が心に浮かんだ。  彼は、宿泊を予定しているホテルの電話番号を廻した。  時間に余裕があれば、日本を出発する前に |確 認《コンフアメイシヨン》 を行なうのだが、今回は、ホテル側の回答が届く前に出発の日が来てしまったということで、コンファメイションはとれてなかった。  ——昨日のうちに、パリから電話を入れてコンファームしておくべきだった。  一応ホテルに送り届けることができれば、この場はおさまると思ったのだが、ホテル側の返事は無惨だった。彼のかすかな危惧が適中した。 「予約は受けておりません」  今から予約できないかと、せきこんでたずねる。満室です、と、返事はそっけなかった。  風見は、無意識に、親指の爪を噛んだ。  指の節が目に入る。人並はずれて節が高く、ひきつれのような痕が残っている。指先は瘤《こぶ》状に変形している。巻藁を突き、瓶に詰めた小砂利に突き刺し、瓦を打ち割って鍛えた名残りである。空手に熱中した青春前期のかすかな痕跡とでもいうべきか。肉体の攻撃力のまったく通用しない社会に、彼は、すでに長年棲息してきた。  ——もしかしたら……。  予定を変更し、別のホテルに予約したのかもしれない。迎えが遅れているのは、車のラッシュのせいだろう。  そう思うことで、気を楽にしようとした。 「連絡はついたのか、きみ」  客たちの方に戻って来ると、早速、たずねられた。 「いえ、どうも……。しかし、もう、まもなく来ると思いますから、このままで少々お待ちください」  せいいっぱい愛想のいい笑いを浮かべたつもりだが、こめかみに青筋がたち、神経質にひくひく動く。度を失っているのが客たちにも一目でわかる。  ふと、度胸が坐ってくる。  ——いざとなったら、こんな奴ら……。  慌てて、その考えを振り払う。今までも、それで失敗してきた。もう、そろそろ、人生のやり直しはきかない年になってきた……。  彼は、床に置いたスーツケースの上に腰をおろし、背を丸め目を閉じた。知らず知らず、親指の爪が口もとにゆく。爪を齧《かじ》るのは、いつのまにか身についた、彼のいじけた癖だった。  二十分、三十分と、いたずらに時が過ぎる。他の便から降り立った客の群れが、通関手続きをすませ、彼らの脇を足早に通り過ぎる。出迎えの人間と声高に笑いあったり、肩を抱きあったり、その明るい声が、いっそう彼らを苛立たせる。  たまりかねたように、風見の肩を小突いた客の一人が、はっとたじろいだ。下から掬《すく》うように上目遣いで見上げた風見の目に、陰険な表情を見たからだ。ほんの一瞬、厚い雲の切れめにきらめいた閃光に似て、すぐに風見は卑屈な笑いを取り戻した。  風見は、腕時計を見、壁のデジタル・クロックに目をやり、立ち上がった。 「ちょっと待っていてください。ここを動かないでください。いいですか」  両手をひろげ、客たちを押えつけるようなジェスチュアをし、案内所の方に歩いて行った。これ以上時間の浪費はできないと腹をきめたのだ。時が遅れ、ホテルがどこも満室というようなことになったら、目もあてられない。  係の若い女に、ホテルの予約を頼んだ。 「三十二名だから、ツインで十六室。なるべく一箇所でとれることが望ましいのだが」 「無理だと思います。何箇所かにわかれないと」 「今、シーズン・オフでしょう。ホテルは空いているんじゃないですか」 「いい所は、ほとんど満室です。高級なところほど早くふさがりますから」  Nホテルに二室、Pホテルに三室、と、ばらばらに分宿になるのは止むを得なかった。その一々に自分が付き添って行って、チェック・インしてやらなくてはならない。 「あの行列の最後に並んでください」  ホテルの予約をすませた風見は、客たちに、市内エア・ターミナル行きのバス・ストップを示した。  一般のバスに乗るように言われて、客たちは、また怒り出した。 「専用バスは来ないのか」 「せめて、タクシーぐらい手配したらどうだ」  空港から市内まで約一時間。バスなら一人五十ペンスだが、タクシーを使ったら、一台四ポンド(約二千八百円)。団体客全部を運ぶには、二万円以上の金がかかる。それを自分がたてかえさせられるのでは、かなわない。自分が払ってしまったら、会社は、はたして気持よく弁済してくれるかどうか、心もとない。自分の損得勘定に関しては、風見の計算は、す早かった。これまで、押すべきところを押しきれず、損ばかりしてきたと思っている。 「エア・ターミナルに着きましてから、皆さんによく事情を説明いたします。とにかく、このバスに乗ってください」  ——もう少し、空港で待つべきだったろうか……。  みれんがましく、不安が残る。  ——早まって、こっちが発ってしまったあとへ、迎えが来て……。  いや、ホテルの予約がとれていないくらいだから、詐欺にあったにきまっている。営業のやつ、どじりやがって。結局、俺が矢面に立って、客の非難を受け止めなくてはならないじゃないか。俺は、大日本旅行社に、それほどの義理はないぞ。被害者は、こっちだ。  ホテルの宿泊費、ロンドンに於ける観光のための費用、全部、客に二重払いさせなくてはならない。全額たてかえるほどの金は風見は持っていない。会社から電報為替で送金させるにしても、あのけちな会社が、おいそれと応じるだろうか。風見は、無意識に、親指の爪を噛む。  ひところ同棲していた由子は、彼の爪を噛む癖をひどく嫌った。最初の妻の美知は、彼のいじけた癖を気にかけなかった。結婚したとき、風見が十九、美知が十八。ままごとじみていた。風見は家を出て、ベース・キャンプのハウスボーイをしながら夜間高校に通っていた。他人より二年遅れたのは、学業を中断した時期があったためである。美知は同じキャンプのハウスメイドで、結婚したといっても、所帯を持ったわけではない。肉体関係を持ち、これで結婚したと思っていた。一年足らずで切れた。美知がキャンプを辞め、米兵のオンリーになったからだ。風見は、実家に戻った。  兄の啓一はその頃国立大学に通っていた。  深く噛んだ爪のはしを喰いちぎり、風見は顔をしかめた。  バスの窓の外は、すでに暗い。オレンジ色の外灯の列が流れ去る。  風見伸二は、ポケットを探り、メモ帳をとり出した。住所録をくって、電話番号を探した。     3  束京から客が訪れて来るたびに、風見啓一は、接待にとび廻らなくてはならない。  会社の上司が出張で来る場合もあれば、大切なとくい先の家族の観光旅行もあった。  空港まで車で迎えに行き、ホテルに送り届け、滞在中つきっきりで、タワー・ブリッジ、バッキンガム・パレス、ロンドン塔、ウェストミンスター・アベイ、とガイドする。客は初めて訪れる場所だから一つ一つ感嘆の声をあげるが、こっちはうんざりしている。それでも、顔色に出すわけにはいかない。  この日の客は、社の専務の妻とその娘の二人連れであった。三日前にロンドンに到着し、啓一は、連日、観光ガイドをつとめさせられている。前もって綿密なスケジュールをたてておいた。一日めは市内見物、二日め、大英博物館とショッピング。  三日めの今日は、ストラトフォード・アポン・エイボンを訪れる予定であった。シェイクスピアの生誕地で、生家や、記念劇場などがあり、なだらかな丘陵とエイボン河の流れが美しい。  市内から、ほぼ一四五キロメートル。ドライヴで日帰りもできるのだが、啓一は、二人の女のために、もっと興味深いだろうと思われるプランを選んだ。エバン・エバンズ社が主催しているツアーで、十八世紀風の馬車に乗り、三日がかりでロンドンからストラトフォードまで行くのである。途中、観光名所を訪れたり、古い旅亭《イン》に泊まったりする。丁度ウィーク・エンドだから、自分も同行するとしても、事務所の仕事は月曜日一日休むだけですむ。帰りは鉄道を利用すれば、所要時間二時間二十分。二人とも、乗り気になっているようだった。しかし、ホテルに迎えに行くと、風向きが変わっていた。  パレス・S**の切符をとっていただきたいわ。  娘の方が命じた。  今夜の。  ストラトフォードヘはお出でにならないのですか。  シェイクスピアに会えるわけでもないんですもの。それに、考えてみると、三日も馬車で揺られるのなんて、かなわないわ、まだるっこしくて。  娘は、有名なミュージカル・プレイの名をあげた。  パレス・S**で上演しているってこと、どうして、もっと早く教えてくださらなかったの。あたくし、これが見たくてたまらなかったのよ。日本でもやっていたけれど、日本人のタレントでは、全然さまにならなくて、だいなしだったわ。是非とも、切符、手に入れてくださらなくては。  二人とも、他人に命じなれていた。恩恵を施すような調子で物を頼んだ。  気のきいた金のかかった服と、凝ったメークアップにささえられて、二人とも、かなり垢ぬけて見えた。その数倍美人だったとしても、啓一は、やはり腹立たしさを押えきれなかっただろう。しかし、表情には出さなかった。  あなたもいっしょに来てくださるのよ、もちろん。  娘が言い、母親も口を添えた。誘えば啓一が喜ぶものと決めてかかっている。  プレミアムつきの切符を苦労して手に入れた。  ドア越しに、玄関のブザーの音が、かすかに聞こえた。  ちょっと眉をひそめ、「待っていてね」目でほほえみかける。眠っているらしくて、返事はない。風見|笙子《しようこ》は、ベッドサイドを離れ、階段をいそぎ足で降りた。 「どなた?」  ドアを開ける前に声をかけた。深夜に近い。 「ぼくです。伸二ですよ」 「伸二さん?」  ハロー、ハウ アー ユー、と、酔った声といっしょに、風見伸二は、大げさに両手をひろげ、前のめりに室内に入ってきた。  二年ぶりに顔をあわせる遠来の客としては、ぶざまで唐突な訪問ぶりであった。 「ヨーロッパの街というのは、便利ですね。ストリートの名前と番号を言えば、はじめての家でも、すぐ、タクシーの運ちゃんにわかる」  握手された手をそっと抜いて、 「いつ、お着きになったんですか」  どうぞ、と請じ入れた。伸二は、トレンチ・コートを脱ぎ笙子に手渡すと、まるで何度も訪れたことがあるような、ためらいのない足どりで、アームチェアの方に進んだ。  夫の弟伸二が、団体客の添乗員としてロンドンに来ることは、笙子も伸二からの簡単な葉書で承知していたが、その文面には、正確な到着時刻は記してなかった。 「やあ、すみません、突然押しかけてしまって。電話したんですよ。しかし、留守だったらしく誰も出ないので、それからしばらくパブで時間をつぶしましてね。もう一度電話をかけようと思ったんですが、外に出たら、ちょうど、空タクシーが通りかかったので……」  屈託のない明るい口調である。テレビドラマなら、気さくな大学生といった役どころの喋りかただった。 「せっかく来てくださったけど、啓一さん、留守ですのよ」  笙子も、ドラマのせりふをそらんじるように言った。 「東京から会社の関係の方がみえて、お接待ですの。今夜は帰らないはずですわ」 「そうですか。それはどうも。義姉さん一人のところに、悪かったですね」  伸二は、アームチェアに心地よさそうに腰を下ろし、股をひろげ、脚をのばした。床に敷きつめた絨毯《じゆうたん》の毛足に、伸二の靴の痕が残った。伸二は、視線を室内に走らせた。 「豪勢な住まいですね。東京だったら、大会社の社長邸宅というところだな」  東京に帰れば、これで、社宅の2DK住まいですのよ。こちらにいる間だけですわ。  会話は、当然、そんなぐあいにつながるべきなのに、笙子は、ぎごちない薄笑いを浮かべただけだったので、話はとぎれた。 「ひどい目に会っちまったんですよ」  早口に、押しつけがましく、伸二は事情を説明した。 「……やっと、客を分宿させたのはいいんですが、ぼく、自分のための部屋を勘定に入れるのを忘れましてね。シングルを頼めば、とれないこともなかったのですが、客といっしょに泊まると、かなわんのですよ。やれ、バスの湯が出ない、鍵を部屋に置き忘れて外に出たので、ドアが開かなくなってしまった。一々、ぼくのところに持ちこんでくる。なにしろ、サンキュー一つ満足に言えない連中ですからね」  お客さんを放り出して、添乗員がよそに泊まるなんて、無責任この上ないじゃありませんか。  笙子は、そうは言わなかった。何も言わなかった。  背のびして大人の相手をつとめている小学生のように、かしこまって、ソファに腰かけている。義姉さん、と呼んでいるが、伸二の方が十歳近く年上だった。  会ったのは、これで二度めである。初対面は、兄と笙子の結婚式のときだった。二年前。兄は再婚であり、笙子にとっては、はじめての結婚ときいた。  最初の妻とは、啓一は、結婚後まもなく別れている。  笙子と式をあげたのは、ロンドン赴任が決定した直後であった。  式場ではじめて笙子を見たとき、伸二は、ふと、思い出したことがあった。年月の堆積の下に埋もれていた記憶が、鮮明に浮かび上がった。  春の遅い信州。ざくざくと霜柱がたった、寺の裏庭。深夜、素裸で、直立不動の姿勢で池のふちに立っていた、十歳の少女。  顔だちが似かよっていたわけではない。十歳の少女を、廊下に腹這い、八ツ手のかげからのぞき見していた伸二も、また、十歳の少年であった。いまでは、その少女の正確な目鼻だちは、ほとんど記憶に残っていない。笙子の花嫁姿に、なぜ、唐突に、昔の一場面が重なったのか、その脈絡はさだかでないが、笙子の、年齢のわりに未成熟な印象のせいであったろうか。  池のある裏庭をかこんで、廊下が鉤の手にのび、突き当たりが便所になっていた。夜半、便所に行こうとして、伸二は、その光景を目撃したのであった。  十人近い少女たちが、池を背に立った裸の少女を半円形に取り巻いていた。その少女以外は、みな、寝巻の上からセーターを羽織ったり、もんぺを穿いたりして、それでも寒さをこらえかねるように、足踏みし、両腕で自分の躰を抱きすくめていた。  裸の少女が、ふだん、アワちゃんと呼ばれるのを、伸二は耳にしていた。このときは、周囲の少女たちは、粟田さん、と、あらたまった呼び方をしていた。教師や大人たちに気づかれないよう、少女たちの罵声は低く、しかし、仮借のない厳しさがこもっていた。  アワちゃんの鳥肌だった胸は、肋骨が浮き出し、その一番下の骨が少し反《そ》っていた。  アワちゃんは、泣いてはいなかった。そのかわり、洟水が垂れ、たえず、すすり上げていた。拭くための紙もハンカチも——袖口すら——持っていないので、上唇まで垂れてこないうちに、ちょっと口を開けては、せっせとすすり上げていた。泣き声を上げようとすると、だめッ、ひそめた強い声で叱られ、同時に、つねられたり、肩を小突かれたり、髪をひっぱられたりするので、アワちゃんは、泣くに泣けず、ただ、洟をすすり上げているのだった。  便所の手水鉢《ちようずばち》のわきに、八ツ手の植え込みがある。伸二は、廊下に平たく伏せ、植え込みに躰をかくすようにした。床板は冷たかった。氷より冷たいと、伸二は思った。腹が痛くなりそうだった。  少女たちが口々に罵る言葉の断片をとおして、教師の一人が、地元の人からもらった餅の一片を、その少女にだけ内緒でわけ与えたことがばれ、私刑にかけられているのだとわかった。少女たちは、かわるがわる、手をのばしては、ちっ、と、す早くアワちゃんの腕をつねった。  事情がわかると、伸二も、アワちゃんに軽い憎しみを感じた。自分の口に入らなかった餅の一片に対する愛着は、少女への同情心を上廻った。食べ終わったとたんに空腹感が増すような食事しか与えられていなかった。薄い雑炊。芋のくき。一切れか二切れの南瓜。食い物は、疎開学童にとって、唯一の、そうして最大の、関心事であった。  アワちゃんの、ぴったりつけた腿の合わせめに、やや黄色みを帯びた透明な液体が盛り上がり、脚の間をつたって、流れた。素足がのった石を濡らし、じわじわひろがってゆくのを、伸二は見た。少女たちは、指さして、声を殺して笑った。  その結果がどうなったのか、伸二はおぼえていない。最後まで見とどけずに自分の部屋にこっそり立ち戻ったらしい。それとも、少女たちの方が、先に引きあげたのだったろうか。  翌日、アワちゃんは、昂然としていた。自分をひいきにしてくれた教師にこれみよがしにまつわりつき、他の少女たちを無視した。  伸二は黙っていたけれど、話は、アワちゃんに同情的な形でひそかにつたわっていったらしい。石島という六年生の男生徒が、子分をひきつれて、アワちゃんをリンチにかけた女生徒のボスを難詰するという事件が続いたが、そのとき、伸二は、一学年上——六年生の啓一と共に、集団疎開の場から東北の親類のもとにひきとられるところであった。父に召集令状がきて、母は、東京に残る必要がなくなった。それで、長野に集団疎開に出してあった二人の息子を連れ戻し、親子三人で縁故疎開することになったのである。  寺に迎えに来た母は、ごく薄くではあったが、化粧していた。もんぺは、真新しく、のし目がきっちりしていた。二人の息子の肩を抱きかかえるようにして、寺の門を出た。二、三の教師以外、誰も見送る者はいなかった。そのかわり、木の茂み、塀の破れめ、そこここに、伸二は、彼をみつめている疎開仲間の目を感じた。     4  芝居がはね、厄介な二人の女客をブルック・ストリートのクラリジェス・ホテルに送り届けたあと、風見啓一は、車を自分の家の方に向けた。  途中、思いついて居酒屋《パブ》に立ち寄った。劇場でも幕間《まくあい》にバーで飲んだけれど、快く楽しめる酒ではなかった。  初めての店だった。先客が数人いた。彼らは顔なじみらしく、マスターも交えて、談笑していた。  隅のスツールに腰を下ろし、啓一はスコッチを注文した。  なじみの店にすればよかった、と、まもなく、彼は後悔した。日本人の商社員ばかりがよく集まる店があった。まるで方角違いなので、わざわざ廻り道する気にもならなかったのだ。  男たちの体臭が鼻についた。ロンドンに赴任して二年にもなるのに、彼は、ついにこの臭いに馴れることができなかった。  男たちは、話の内容が彼の耳に届くのを意識して喋っていた。  中年から初老の、身だしなみのよい男たちは、啓一が入ってきてから、話題を戦争のことにかえた。  日本兵の残虐ぶり。占領して知った日本の女の味。戦後の鉄面皮な復興ぶり。  話の内容は、聞き流すことができた。日本人に対する反感と、有色人種に対する蔑視の根強さは、もう十分身に滲みていた。今さら一々聞き咎め腹をたてるほどのことはない。  しかし、不愉快な気分になるのは押えきれなかった。  狭いパブの中にみちた脂っこい体臭が、彼に生理的な苦痛を与えた。  すぐに席をたつのは、彼らのとげのある話しぶりにいたたまれなくなって逃げ出すようでしゃくだった。彼はつまらない意地をはり、不快感をこらえながら、グラスを重ねた。  スツールから躰をひきはがし、外に出た。小雨が降りはじめていた。  運転席につく。フロントグラスに、街路灯のオレンジ色が滲む。  ワイパーのスイッチを入れながら、  ——酒は、帰っても飲める。  啓一は、ポケットに左手を入れて、戸棚のキーの冷たい手ざわりを確かめた。 「良いスコッチが並んでいますね」  伸二は、戸棚に視線を流した。戸棚そのものも、時代がかった、値のはりそうなものだった。目の肥えた者なら様式を言いあてるであろう精緻な彫刻が、縁まわりを飾っている。材質は樫らしかった。 「家具付きで借りているんです」  笙子は、まるで、贅沢を咎められでもしたように、いそいで弁解した。 「中の酒びんは、借り物じゃないんでしょう」 「違います」  はじめて、笙子は笑った。 「ご馳走してもらえないかな」 「だめなんです」  鍵がかかっているんです、と笙子は言った。この稚《おさな》げな女《ひと》でも男をからかったりするのかと、伸二は意外に思ったが、 「本当なんです」  と、笙子は、少しきまり悪そうに繰り返した。 「鍵? また、どうして鍵なんか。開けられないの?」 「だめなんです。……啓一さんが、鍵持っているんですもの」 「義姉さん、アル中ですか。それとも、兄貴の留守中に、かってに自分の客に飲ませていたのが露見したのかな」  冗談口を叩いてから、案外、そのどちらかが真実かもしれないと思った。自分の客、と婉曲な言い方をしたけれど、この場合、夫の承諾を得られない内緒の客、——浮気の相手かな、などと想像をめぐらす。 「ロンドンの生活は、どうですか」  話題を変えた。 「どうって……」  ぼんやりしているところを、急に教師に指名された小学生のように、笙子はうろたえた。  目を宙にあげ、一生懸命、喋る内容をまとめている。唇が、暗記でもしているように、小さく早く動いたが、声は出なかった。 「アングロ・サクソンて、どう? 日本人を軽蔑しているんじゃないの? 感じませんか、それ」 「さあ……。あんまり、よその方とおつきあいしていないものですから」 「やはり、日本人同士かたまってしまうわけですか。この隣りは、日本人?」  啓一と笙子の住まいは、街の郊外地に多い、セミ・ディタッチト・ハウスと呼ばれる、一つの建物を中央で二つに仕切った、いわば、二軒長屋といった形式の建物である。長屋といっても、石造りのなかなか宏壮な建物で、室内の設備調度もゆきとどいている。かつては泥炭《ターフ》が燃えていたであろう暖炉は、今は使われず、スチーム暖房にかわっているが、昔ながらの頑丈な鉄製の火掻棒が、気のきいた装飾品の一つとして、煉瓦でふちどられた暖炉のわきにかかっている。  壁は、花模様のクリーム色の壁紙。現代的な感覚ではないが、落ち着いた快いムードがある。左手の隅に二階に通じるゆったりした階段がのび、反対側が客用食堂、奥はダイニング・キチンに通じている。 「いいえ、お隣りは、イギリスの方です。でも、あまり、よく知らないんです」 「義姉さん、便所貸してください。GENTSっていうのか、こっちでは」  伸二がふいに立ち上がると、あ、と、笙子は小さな声をあげた。 「二階?」 「え、ええ……」 「他人の家で便所を借りるのは、失礼なんだそうですね。プライベートな部分に属しているから。でも、生理的欲求、いかんともなしがたしでね」  どっちですか、と、伸二はもう、階段に足をかけていた。  御案内します、と笙子は先に立って階段をのばった。のぼりきったところにやや広いスペースをとり、ドアが三つ、L字型に並んでいる。その一つが、夫婦の寝室に通じていた。  寝室の奥の、淡いピンクのペンキを塗ったドアを、ここです、と笙子は示した。  ドアを開けると、床に絨毯を敷き、壁に花模様の壁紙を貼った三坪ぐらいの部屋が続き、一方の壁面に大きな鏡が取付けてある。隅にある便器に目をやらなければ、とても便所とは思えない小ぎれいな部屋だった。ガラスの間仕切の向こうがバスになっている。  寝室に戻ると、笙子はドアの外で待っていた。 「何だ、義姉さん、帰り道ぐらいわかりますよ。いくら広い御邸宅といったって」  子供のいない夫婦にはもったいない広さだなと、伸二は、大仰に溜息をついてみせた。 「ぼくの住んでいるアパートなんて、六畳|一間《ひとま》ですからね。ここの便所に毛が生えたくらいの広さだ。その上、はるかに汚らしい。ひがみたくなるな」 「あの……」先に立って、早い足で階段を降りながら、笙子は、「いい家に住まないと……こっちでは、それぞれ、格式があるんです。階級制がやかましいですから」  舌足らずな言い方だが、言わんとしている内容は、伸二にも察しがついた。それぞれの社会的な地位、階級に即した生活をしないと、ここでは異端者扱いされるということなのだろう。一流商社のロンドン支店ジェネラルマネージャーである風見啓一には、それにふさわしい生活様式が、きっちり定まっている。 「ウイスキー戸棚は鍵つきでも、義姉さん、コーヒーぐらいは御馳走してもらえるんでしょう」 「あ、ごめんなさい。私、いつも気がきかなくて」  伸二に催促され、笙子は、少し赤くなって、キチンに立っていった。  その後ろ姿に目をやって、伸二は、久しぶりにアワちゃんを思い出していた。どこか似ていた。アワちゃんの姿は、疎開生活の記憶につながった。  集団疎開の仲間から離れ、東北の山村に縁故疎開した。ここでも空腹感はついてまわった。地元の小学校に転校した伸二は、じきに土地の子供たちとなじんだが、兄の啓一は孤立していたようだ。伸二は兄をかばい、自分の方が年長の保護者になったような気がした。  敗戦——。ほどなく、伸二たちは東京に帰った。他人に貸しておいた家は、焼けずに残っていた。借家人と同居しなくてはならず、狭苦しかったが、自分の持家があるというだけでも、たいした贅沢だった。父も帰って来た。食糧はあいかわらず腹をみたすに足りなかった。しかし、買出しは母の仕事だった。伸二には伸二の生活があった。  以前通っていた小学校に復学した。校内は閑散としていた。信州に集団疎開した生徒たち——それは全校生徒の大部分だった——が、まだ帰京してきていなかった。  人気《ひとけ》のまばらな校庭は、すばらしく広く見えた。砂塵の舞う校庭を、伸二たち、縁故疎開からいち早く引きあげてきたほんの一握りの学童は、我が物顔で走り廻った。教師の数も少なく、授業はろくになかった。  やがて、木枯し。そうして、ある日、登校してみると、学校の様子が一変していた。  校庭にも教室にも廊下にも、生徒たちがみち溢れていた。  伸二は、嬉しくなって、声をかけた。 「やあ、帰ってきたの!」  少年たちが振り向いた。いっせいに、伸二をみつめた。その目が、落ちくぼみ、残忍に光っていた。 「縁故疎開《えんこ》だ! エンコだ!」  やっちまうか、と、一人がうすら笑った。  虱《しらみ》と蚤《のみ》に喰い荒らされた痕が膿みただれ、かさぶただらけの、瘠せこけた少年たちが、じわじわと、伸二を取り巻いた。  エンコだ。こいつ、エンコだ。  その日から、学校は、楽しい遊び場ではなくなった。国と国との戦争は終末を迎えたが、より苛酷な、いっそう直接的な少年たちの戦いがはじまった。  餓え。教師たちの裏切り行為。親の庇護からもぎ離された苦痛。縁故疎開の奴らは知らないだろう。そう、はっきり分析して憎んだわけではないだろうが、伸二たち少数の縁故疎開派は、ことあるごとに集団疎開帰りの連中に痛めつけられた。  伸二は、太い釘を線路に置き電車に轢きつぶさせたやつを、ズボンのポケットにしのばせて登校した。いざというとき、相手を威嚇する武器であった。息子たちが顔に黒あざを作り、服を破り、すりむき傷だらけになって帰って来ても、母は気にとめなかった。大人は、その日その日の食糧を確保するのにせいいっぱいだった。伸二も啓一も、親に告げる気はなかった。思いつきもしなかった。  集団疎開から帰った群れの中に、アワちゃんはいなかった。東京の家が空襲で焼けたので、父の郷里に移り住むことになったのだと聞いた。     5  お待ちどおさま、と笙子がポットとミルク壺、コーヒーカップなどを銀盆にのせて戻ってきた。  カップに、まずミルクをたっぷり注ぎ、それからコーヒーを注ぐ。 「ほう、妙な入れ方をしますね」 「くせになってしまって……」  笙子は、いくらか伸二に気を許してきたように、珍しくやわらかい微笑をみせた。 「こっちでは、皆さん、こうやって入れるんです。ブラックの方がよかったでしょうか」 「いや、いいです」  うまくはなかった。コーヒーの味には、伸二はうるさい。パリのコーヒーもまずかった。酸味がなくて、こげくさいばかりだ。 「日本の食事が恋しくなりませんか」 「おさしみでも、おそばでも、何でも、材料はこちらで買えるんです。少し高いですけれど」 「鳥料理のうまい店があるってきいたんですがね。鶏ではなく、山鳥です。ハンティングで仕止めた散弾が肉の中に残っているというやつ。客の有名人、誰それが噛んだ散弾というのが、店に飾ってあるとか」 「さあ……啓一さんなら知っているかもしれませんけれど、私は……」  伸二は、ホテルに置き去りにした客たちのことを心の隅に押しやった。笙子との会話が楽しくなってきていた。笙子の喋り方は、……ですのよ、……ですわね、といった、世なれた人妻のやわらかい語尾を持っていなかった。子供の相手をしてやっているようで、気がおけない。  客たちには、すでに、さんざん吊し上げられた。丁寧にあやまって客たちを納得させるのが、面倒になった。こういう気分に陥ることは、ときどきあった。ふいに、何もかもが面倒くさくなり、勝手にしやがれと、ふてくされる。もっと悪いときは、衝動的に腕力を振るってしまう。  あきらめていた。  ——俺はこういう性質なのだ。損をするようにできているのだ。  それと同時に、肉体の力に対する自負も、捨てきれずに残っていた。  力がものをいった時期もあった。  やくざ、愚連隊といった組織の中にのめりこまず、辛うじて社会人としての生活に入ったのは、理性のささえによるというよりは、根が坊ちゃん育ちの臆病さが、逆に、彼をためらわせ、組織とかかわりを持つことからひきとめたのであった。  そのために、彼の生活は宙ぶらりんになった。体力を誇示しても甲斐のない場所で、彼は、自分の優位を腕力で示さずにはいられなかった。仕事口を幾つかしくじった。  ロディが、階段を降りてきた。     6 「大丈夫なの?」  伸二の目をはばかるより先に、笙子は、ロディに対するいたわりと気づかいのこもった声をあげた。 「よく眠ってしまった」  ロディは、のびをしかけて顔をしかめ、伸二を見て、「Your husband?」小声で訊いた。 「夫の弟。伸二」  伸二には、「ロディ」と、簡単に笙子は紹介した。  喧嘩の痕が、ロディの顔に残っていた。  笙子は、ロディの脇に腰を下ろし、ひとしきり、伸二の存在を忘れたように、こまめに傷の具合をしらべたり、ささやきかけたりした。急に生き生きとしてきた。 「何か飲む?」  ロディはうなずき、笙子は、走るような足どりで階段をのぼっていった。  伸二と二人取り残され、ロディは、少しもじもじして、ハロウ、と言った。  まきこまれてしまったのだ。ロッカーズの連中は、最初から喧嘩を売るのが目的で押しかけてきたのだから、乱闘は避けられなかった。ドラムのセットが蹴倒された。アンプで増幅され、爆雷のようなすさまじい音となって、スピーカーから轟いた。スチール・ギターの弦がはじけた。ブォーンといううなりが、叫び声や悲鳴に混った。  腹を突かれてうずくまったロディを、メイが助け起こした。間を縫って逃げた。地上に出ると、メイはタクシーを拾ってロディを乗せ、続いて自分も乗った。 「——ストリート、28」  ハイドパークの北の、ちょっとした高級住宅地の名を告げるのを、ロディは痛みをこらえかねてうめきながら、耳にした。  二階に隠しておいたスコッチのびんを持って笙子が階下に降りてくるまでに、ロディと伸二は、けっこう調子よく話をあわせるようになっていた。  こいつ、何者だろう? 伸二はいぶかしんだけれど、問いただしもしなかった。  ロディの上唇の傷痕を見て、喧嘩でもしたのかと伸二が訊き、  ああ、ちょっとね。  それから、いつか、話がカラテのことにうつった。空手なら、昔、やったことがあると伸二が言うと、ロディは、尊敬と憧憬の色をあらわした。  伸二は、立って、空手の組手の型をやってみせた。 「クミテというのは、試合《マツチ》のことだ」  突手が右手で逆突してきたら、右手刀でさばく。それと同時に左手で……。  架空の相手の右脇腹を、ぐっと突いた。  相手の左拳が水月にあたった。型を教えるだけだから、実際にぶちこむ寸前でとめるべきなのだが、相手も口で自慢そうに言うよりは腕が未熟なため、みぞおちを突かれ、伸二はうめいた。相手は、予科練くずれのやくざであった。 「ばか。右手で防げ」  予科練くずれは、自分の失敗を棚にあげてどなった。  教室には、火の気がなかった。風が、砂塵を窓ガラスに叩きつけた。紙テープで目張りした窓のすき間から、砂まじりの風は容赦なく吹きこみ、窓ぎわに坐った生徒の頬を斬った。  鐘が鳴り終わるのを待たず、教師は、せかせかと教室を出ていった。教員室には、全校で唯一の暖房器具であるダルマストーヴが置いてある。燃料の質の悪い石炭だから、臭くて火力も弱いけれど、凍えた指先に血を通わせるだけのぬくもりはあった。早く行かなくては、同僚たちにストーヴのまわりを占領される。  教師の足音が遠ざかる。生徒の一人が、後ろの席から、のっそり立ち上がった。  群を抜いて大きい。集団疎開派のボスの、石島である。教壇に進む。数人の仲間が、あとに従う。石島は、左手に、鉄鎖を巻きつけて垂らしている。どこで拾ったのか、彼が常に携帯している武器であった。 「来い」  石島は、命じた。命じられたのは、風見啓一であった。啓一は、六年二組でただ一人の縁故疎開者だった。  啓一が唇をひきつらせながら席を立とうとしないのを見ると、石島は、鎖のはしで、教卓を叩きつけた。その響きは、少年たちをいちように竦《すく》ませた。啓一は、しぶしぶ立ち上がり、前に進んだ。 「やれ」石島の短い命令が続いた。  啓一は、机と机の間に立ち、両手を机にかけて躰をささえ、足を宙に上げた。  ほれ、ほれ。  掛け声と共に、石島は、鎖を教卓に打ちつけて鳴らす。石島の仲間たちが、  ほれ、ほれ。  いっせいに、はやす。  掛け声にあわせて、啓一は、宙に上げた足を自転車のペダルをこぐように動かす。  掛け声は、次第に速くなる。啓一は喘《あえ》ぐ。体重をささえる腕がしびれてくる。がくん、と躰が倒れる。 「やり直し!」「まだ、まだ」「足をもっと高く上げろ」石島の拳が横面《よこつら》にとぶ。  通りすがりに、廊下の窓から、伸二はその光景を目のはしに捉えた。  ——あ、また、やられてる。  声をかけることも、止めることもできない。伸二にとっても、危険な場所だ。はやく立ち去ってしまわなくてはならない。  まにあわなかった。石島の子分の一人が、目ざとく、伸二を見咎める。 「エンコだ、エンコだ」「風見の弟だ!」  伸二は駆け出した。エンコ——縁故疎開者——という呼び名は、忌わしい病気の名のようにひびいた。後を追う足音が続いた。数人の六年生につかまえられ、なぐられた。なぐり返した。ねじ伏せられ、ズックの靴底が顔を蹴った。これが、毎日の生活だった。  自転車こぎのかわりに、水のいっぱい入ったバケツを両手にさげて廊下に立たされている啓一を目撃したこともあった。教師から体罰を受けたのではない、命じるのは、石島をはじめとする集団疎開派のボスたちであった。縁故疎開の少数派は、集団疎開せざるを得なかった少年たちから見れば、いわば、戦時中の特権階級であったのだ。しかも、後になって、伸二は思いあたったのだけれど、啓一と伸二は、彼らの目の前で、群れから脱け出てエンコになるという裏切り行為をおかしたのだ。憎む方も憎まれる方も、そこまで理屈づけていたわけではない。えたいの知れない憎悪だった。条件反射のように、石島たちは襲い、伸二は、無我夢中で逃げた。同じクラスで石島たちと顔をつきあわせている啓一は、伸二のように逃げまわることはできない。石島の不当な処刑に甘んじるほかはなかったのだ。  燃えちまえばいいんだよなあ、あんな学校。  ひとり言のように、啓一は言った。自宅で、啓一は勉強机にむかい、伸二は畳に寝そべって手垢で汚れた古い少年雑誌を読んでいるときだった。  え? と、伸二は目を上げた。 「燃えちまえばなあ。さっぱりするよな」  啓一は、首をゆっくりまわした。啓一の視線が伸二を捉えた。 「燃えちまえばなあ。な、伸二、そうだろ」  伸二は、声をあげそうになった。啓一の陰鬱な表情が、伸二をおびえさせたのだ。 �燃えちまえばなあ�と、啓一は言ったが、それは、�燃しちまえばなあ�という言葉と同様に、伸二の耳にはきこえた。たしかに、啓一の意図するところはそうなのだと、伸二は悟った。それどころか、�燃せ�と、啓一は命じているのだ。言葉で明らさまに言われなくても、伸二にはわかった。  ときどき、啓一は、そういう婉曲な命じ方をした。疎開中、腹をへらしているとき、 �あの吊し柿をとって食ったら、うまいよなあ、伸二�  それは、伸二に、吊し柿を盗って来いということなのだ。だが、柿泥棒が露見したとき、折檻されるのは伸二ひとりだった。啓一は、盗って来いと、はっきり言ったわけではないのだ。兄ちゃんに命令されたと言えば、嘘になる。�そうだ。きっと、うまいぜ。ぼくがとって来てやるよ、兄ちゃん�。会話は、どうしても、自然にそう運んでしまうのだ。伸二の方が、啓一より背が高く、骨組もがっちりしていた。年子の兄弟は、躰つきだけ見れば、伸二の方が年上にみえた。もっとも、顔だちと態度は、啓一の方がはるかに大人びているので、見まちがえられることはあまりなかった。  燃えちまえばなあ。な、伸二。顔を近寄せ、絡みつくような声で、もう一度啓一がくり返したとき、 「いやだよ、そんなの」  伸二は甲高い声で叫んだ。 「放火なんて、怖いよ!」  啓一の顔が、すっと無表情になった。 「放火?」けげんそうに啓一は聞き返した。 「ばか、伸二、おまえ、放火なんてするつもりなのか」  伸二は黙った。どう言い返してよいか、わからなかった。 「伸二、おまえ、このごろ、升源《ますげん》の兄貴にかわいがられてるって?」  啓一は話題をそらせた。升源というのは、近くの乾物屋で、そこの次男が伸二と同級だった。数少ない縁故疎開帰りの一人なので、わりあい仲がよかった。升源の長男は予科練に入っていたが、敗戦で家に帰って来た。ぐれてやくざの仲間入りをしているという噂だった。伸二がときたま遊びに行くと、気がむいたときだけ、からかい半分に遊び相手になってくれた。 「あいつ、ちんぴらやくざだっていうぞ。あんな奴と遊ぶと、お母さんに叱られるぞ」 「遊んでるんじゃない。カラテ教わっているんだ」  伸二は、起き直って、やっ、と身がまえてみせた。兄の顔から怖い表情が消えたので、ほっとしていた。伸二は、かまえた拳を、左、右、と、す早くくり出した。啓一がねたましそうな顔をしたので、少し得意になった。 「暖まるのよ」  コップにウイスキーを注ぎ、更に熱湯で薄めて、笙子は言った。飲み干すと、すぐ、注ぎ足した。  室内は、スチーム暖房で十分に暖かい。笙子の目は、うるんだようになった。頬にわずかに紅みがさした。 「呆れたな。義姉さん、強いんだね」 「メイ、メイの本当の名前は、ネエサンというの?」  伸二が日本語で笙子に話しかけた言葉から一語拾い出して、ロディが笙子に問いかけた。 「違うわ。ネエサンというのは、sister のこと。あたしは、メイよ」 「メイというのは、姪《ニース》のことだ」  伸二が英語で混ぜかえした。一度醒めかけた酔いが、また快く血管をまわりはじめていた。ロディは、こんぐらかったような顔をした。 「あんたの英語は、アメリカ訛りがあるね」  ロディは伸二に言った。あるかないかのさげすみを、ロディの口調に、伸二は敏感に感じとった。 「メイの英語は、完璧なキングス・イングリッシュだ」  何気ない一言が、伸二を、むっとさせた。大人気ないと思うゆとりがなかった。  英語が達者に喋れるということは、伸二が他人に対して優越感を持てるごくわずかなことの一つだった。英会話と、肉体的な攻撃力。他のことでひがみや劣等感が強いだけに、この優位性は彼にとって貴重なものであった。優越感と劣等感が、きわどいところで均衡を保っている。一方は、ちょっとしたきっかけで、容易に他方に転じる。  彼の英語は、ベースキャンプでハウスボーイをしていた時期に身につけたものだった。 「義姉さん、この野郎、何者だい」  今ごろになって、訊いた。 「友だちよ」 「へえ、ただの友だちですかね、兄貴に内緒のおトモダチじゃないの」 「そうよ」  笙子は、あっさり肯定した。伸二は、思わず、笙子の顔を見直した。悪びれた様子はない。無邪気なのか、ふてぶてしく居直っているのか、見当がつきかねた。 「つまり、浮気の相手?」  正確な返事の言葉を探すように、笙子は、ちょっと間をおいて宙を探る目つきをした。 「とても楽しいの。ロディといっしょにいると」 「だから、浮気をしてもかまわないという理屈ですか」 「あの……あんまり、浮気って感じしないんだけど」 「そういうのを浮気っていうんですよ、世間では」  笙子は、理由がよくわからないのに大人から難詰された子供のように、口をつぐんだ。  自分には意味のとれない言葉のやりとりに、ロディは、二人の顔をかわるがわる見くらべているだけだ。 「どの程度進んでいるの」  ロディに通じないのをいいことに、伸二は露骨に訊いた。笙子は顔を赤らめもしなかった。 「いっしょに踊ったりお酒を飲んだり。今日でまだ、三度会っただけ」 「それじゃ、まだ、寝てない?」 「まだなの」  笙子は、けろっと答えた。ロディは、意味のない薄笑いを浮かべて、日本語で話しあう二人を眺めている。  ——ばかみたいに見えるな、言葉のわからない場にいる奴は。  あまりに笙子が平然としているので、伸二は話の継ぎ穂を失って、スコッチをあおった。最初の印象では〈いじめられっ子〉といった風情だったのに、意外にあつかましい。  仲二は、皮肉な口調をロディに向けた。 「おまえさんたち英国人《ブリテイツシユ》は……」 「英国人《ブリテイツシユ》じゃない。俺はアイリッシュだ」  ロディはさえぎった。  福岡生まれの者が、日本人と言われて、違う、俺は九州人だ、と言い返したようで、伸二には奇妙に聞こえた。 「同じことだろう。ブリティッシュだろうとアイリッシュだろうと」 「ノウ!」 「アイルランドはアイルランドよ」  笙子が口をはさんだ。 「アイルランドは、独立国家よ。ずっとイギリスの植民地だったけれど、独立したのよ」  英語だったから、ロディは、イエス! と大声で言って、笙子の頬に唇をつけた。 「だからって義姉さん、その独立野郎にそんなまねをさせていいんですか」 「何の話?」  どなりつけかけて、伸二は笑い出した。 「いい度胸だよ、あんた」  やくざっぽい口調になっていた。 「兄貴の前じゃ、さぞしおらしく猫かぶっているんだろうな」     7  過失傷害致死。  十一歳のときに、伸二は、この罪名を負った。もちろん実刑にはならなかったし、少年院送りにもならなかった。保護観察処分ですんだ。中等少年院に一年ぶちこまれたのは、中学を卒業した年のことだ。  過失ではなかった。殺意を持っていた。むき出しの荒々しい殺意。  ぶち殺しちまえ。ぶっ殺せ。  甲高い叫び声。  過失の二字をつけたのは、彼の年齢を慮《おもんぱか》っての係官の温情だったろうか。  係官の前で、彼は弁明しなかった。できなかったのだ。状況を冷静に分析し、自分に有利なように大人に説明するのは、十一歳の彼の手にあまった。  思いがけない箔がついた。中学でも、教師からマークされ、同級生からも敬遠された。しかし、一方で、彼を崇拝する者もあった。  傷害致死として刑事事件となった決闘は、伸二が小学五年生の二月、集団疎開派と縁故疎開派の対立がピークをきわめたさ中で行なわれた。  教師の一人に、音楽教育に熱心な吉村という男がいた。  荒《すさ》みがちな子供たちに情操教育をほどこす。そういう名目で、生徒の中から希望者を募り、彼は課外に器楽合奏の指導を始めた。  メンバー、二十数人。ハモニカと木琴、カスタネットなどを主体とし、他に小太鼓一人、アコーディオン二人、という幼稚園なみの貧弱な編成だが、楽器を持たないためにメンバーに加われない子供たちからは、羨望の目で見られた。腹の足しにならない楽器を子供に買い与えてやれる家庭は少なかった。  啓一と伸二は参加した。母は金が無いと言い暮らしていたが、長男に中古のアコーディオンを、次男にハモニカを買ってやる余裕はあったらしい。  毎日、放課後、特訓が行なわれた。練習は非常に厳しく、急ピッチでレパートリーを増やさせられた。カム カム エヴリボディのような単純なものから、フォスターの曲などに進むと、幌つきの米軍のトラックが、彼らを迎えに来るようになった。  占領軍の慰問であった。米軍の傷病兵が収容されている聖路加病院などに、しばしば連れて行かれた。父兄の中に、占領軍の通訳をしている男がいた。マネージャーのような顔をして、子供たちの楽団について廻った。子供たちは、自分たちの演奏が金に換算され得るとは思ってもみなかったので、かげでどのような金が誰の手に渡っているか、いっさい無関心だった。  出演料のかわりに、  カム オン、ペット。  チョコレートやガムが、床に投げ与えられた。  傷病兵たちは、退屈しのぎに子供たちをからかい、あやした。気を許して傍に寄って行くと、うるさそうに追い払われたりした。  縁故疎開と集団疎開の対立に、エリート意識をひけらかす楽団メンバーと、それから外された多数者の反目が重なった。  慰問演奏が終わると、トラックでまた学校まで送り帰される。解散して家に帰るころは陽が落ちていた。薄暗い小路で、襲撃がしばしば繰り返された。ポケットをふくらませたガムやチョコレートは強奪された。  二月。楽団は、珍しく、ベース・キャンプに運ばれた。  べース・キャンプを慰問するのは、ほとんど、プロやセミ・プロのバンドである。病院廻りばかりやらされていた子供たちが起用されたのは、腕を見こまれたのではなく、急にキャンセルになったバンドがあり、その穴埋めであった。  キャンプの周囲の裏通りには、けばけばしいペンキを塗りたくり横文字の看板をあげた小さいバーがひしめいていた。  キャンプに入ると、濃厚な臭いが鼻をうった。葉巻、スパイス、肉。それらのにおいが兵隊たちの脂っこい体臭と入りまじり、キャンプ全体に漂っていた。  ブンチャッ、ブンチャッ、という幼稚な演奏は、兵隊たちの騒々しい話し声や笑い声に消されがちだった。まじめに聴いている者はほとんどいなかった。いっぱしの演奏家のつもりだったから、子供たちは、かなりみじめな気持になって、仮設舞台を降りた。チョコレートの貰いも少なかった。  帰りのトラックの手配が、どういうわけか、少し遅れた。  カマボコ兵舎の裏の陽だまりに、子供たちは肩を寄せ、一塊りになって、教師の指示を待っていた。風が冷たかった。待ち時間が長すぎた。子供たちは、勝手に散りはじめた。物珍しく兵舎の内外を見物し、兵隊や日本人の従業員にどなられた。庭の片隅で、スピーカーから流れてくるバンドの音楽にあわせ、巨大な体躯の黒人兵が、一人でタップを踏んでいた。伸二を見ると、分厚い紫色の唇が笑み割れた。人なつっこい笑顔になった。  教師が声を嗄《か》らし走りまわって、子供たちをかき集めた。  整列、前へならえ、と、体育用の号令で規律を取り戻させる。生徒の人数が、一人、不足していた。  啓一は、学校で泣いたことがなかった。石島らの制裁を受け、苦痛に泪を滲ませることはあっても、みじめったらしく泣きくずれたりはしなかった。傲慢ともとれる顔つきで、暴力を加える相手を見くだしていた。彼をささえるものが何かあった。優等生の矜持《きようじ》とでもいうべきか。相手を軽蔑することで、彼は耐えていた。  教師に半ば抱きかかえられ、半ばひきずられるようにして群れに戻ってきた啓一は、ぐしょぐしょに泣き濡れていた。服がだらしなく乱れ、ベルトのはずれた半ズボンを片手で押えていた。教師は、気づいて、いそいでズボンのボタンをはめてやり、ベルトをきちっと締め直した。  学校で、啓一が、チョッチョ、チョッチョ、とはやされているのを、伸二は耳にした。  お前の兄貴、兵隊にチョッチョされたってな。同級生にも言われた。  チョッチョ?  相手は、鼻の付根に皺を寄せ、ヒヒッと笑った。  言葉の意味はわからなくても、卑猥なからかいであることは察しがついた。  チョッチョの弟、と伸二も揶揄《やゆ》されたが、伸二にとっては、それほど深い傷にはならなかった。兵隊の対象になったのは、彼自身ではなかったからだ。  教室の前の廊下で、チョッチョ、チョッチョ、と騒ぎたてながら、少年たちが折り重なって、何かを押えつけているのを、伸二は目撃した。はだしの足が群れの間から床にのびて、弱々しくうごめいていた。ズボンをひきずり下ろされた兄の肌の色が、目に灼きついた。兄のために義憤を感じるよりも、いたたまれないような恥ずかしさが先に立った。目をそむけて傍を走りぬけた。ぐずぐずしていれば、自分の方が襲われる怖れもあった。  伸二は、次第に、兄に近寄るのをためらうようになった。理屈では、そんなことはないとわかっていても、兄の躰にまつわりついた何かおぞましいものが、彼にも伝染しそうな気がしたのだ。  その日、放課後、伸二は石島に呼び止められた。  川っぷちで待っているぞ。  石島は言った。感情をあらわにしない大人びた声だった。  暗くなったら、来い。  何の用だい。  伸二は、おびえを見せないよう、肩に力を入れた。  自分の胸に聞いてみろ、と、石島は一人前のやくざのような言い方をした。  伸二は、家に帰ってから、ひそかにポケットの中の潰し釘をあらためてみた。  校舎の裏手を、どぶ川が流れている。校舎と反対側の岸が草っ原で、〈川っぷち〉といえば、そこを指した。  す枯れた雑草を踏みしだいて、伸二は、胴ぶるいしながら立っていた。  いつも目をつけられ、いじめられてはいるけれど、なぜ、この時、特に一人だけ呼び出しを受けたのか、はっきり納得がいかなかった。  背後から足音が近づいた。覚悟していても、思わず、背筋を悪寒が走る。  振り向いた伸二の前に、石島が立った。石島の手には、例の鎖があった。先端を長く垂らし、ぶらりぶらりと振り廻している。鎖の音がみぞおちに響いた。伸二は、頭から血がひいてゆくような気がした。  ——来なければよかった。石島のやつ、やっぱり、ぼくをやっつけるつもりなんだ。だけど、どうして……。  兄の前では、時おり、勇ましく、  飛び蹴りってのは、こうやるんだ。  空手のさまざまな型を示して得意になったこともあるけれど、実戦に役立てるにはほど遠いことは、自分でもよくわかっていた。  ——来るんじゃなかった……。  しかし、呼び出しに応じなければ、翌日学校で、とっつかまってひどい目にあわされるだろう。 「なんの……なんの用なんだい」  そう言いながら、伸二は、手の中の釘を握りしめた。  石島の背後の芒《すすき》が丈高く生い茂ったかげに人の姿が動いた。  ——兄ちゃんだ。加勢に来てくれた!  兄には決闘のことは話してなかった。顔をあわせる暇がなかったのだ。  伸二の、かたく握った拳の間から釘の先端が突き出しているのに目をとめて、石島は苦笑した。 「捨てろ。おれも素手でやる」  石島は、ゆだんなく伸二の手の動きをみつめながら、鎖を足もとに落とした。同時に、伸二の手から釘が落ちた。     8 「この男は誰だ」  伸二の挨拶を受けるより先に、啓一は、妻に詰問した。  スコッチのびんは、一本空になり、二本めがすでに三分の一ぐらいに減っていた。  笙子は長椅子に、ロディと並んで坐り、腕を相手の肩にまわしたまま、充血した目で啓一を見上げた。 「出て行け」  押し殺した声で、啓一は、若い男に命じた。笙子は、ロディの肩にまわした手を離さなかった。  これで二人めだった。  最初の男のとき、啓一は、別れようと言った。内心では、このまま傍にいてくれた方が便利だと思った。ヨーロッパの社交生活には、夫婦揃っていた方が、何かとぐあいがいい。パーティでも、すべて夫婦いっしょに招待されるし、大切な客は自宅に招いて妻ともどももてなすのがエチケットになっている。  このままでいいわ、と、笙子は言った。  スキャンダルは困るのだ、と啓一は低い声で言った。  ロンドン勤務は出世コースだ。足をひっぱろうと狙っている奴は大勢いる。  もう、こんなこと、しないわ。  がまんできるのか、ぼくとの生活に。  一人きりになるのは、怖いんですもの。  笙子は、白い細い、労働をしたことのない自分の指を眺めた。  あたし、あなたのこと嫌いじゃないわ。  あなただって、あたしがいた方が、つごうがいいんでしょう?  言葉の内容はふてぶてしいが、子供のような無邪気な口調だった。  彼は、結婚前に女に触れる機会がなかった。潔癖な性分で、商売女と遊ぶ気になれなかった。だから、結婚して、初めて、女の躰を抱いても自分の男性の機能が働かないのを知ったときのショックは大きかった。自慰行為は可能なのだから、機能は正常なはずだった。医者に相談し、それが、少年時の体験に根ざすものだと説明され、自分でもそうかと納得したが、だからといって、萎えた力が甦ってくるわけではなかった。妻とは別れた。会社の同僚や上司をはじめ周囲の者に、秘密を知られないよう気をつかった。支店長として海外に赴任するのに独身では不便だからと、上司から縁談をすすめられたとき、断わる口実がなかった。実質的な欠陥はないのだ、相手によっては、ひょっとしたら……と、淡い期待もあった。  いいの。あたし、こういうこと、ちょっと気持悪い感じがするくらいだから。  無理に躰を燃え立たせようと苦悶する啓一に、笙子は、そう言った。三十近くなるのにまだ、男を知らない躰だった。胸が、幼女のように薄かった。  啓一は、その言葉を信じようとつとめた。肉体の接触に、少女期からの嫌悪や不潔感を持ちつづけている女もいるのだろうと思った。その解釈は、彼にとって、たいそう好都合なものだった。  しかし、笙子は、いつのまにか、肉体の快楽を知ってしまった。むりにひきとめておくことは不可能だろうと思った。他の男との交情を黙認し、そのたびにみじめな気持を味わうのは、彼のプライドが許さなかった。  別れよう、と申し出たのに、このままでいいわ、と同居を主張したのは、笙子の方なのだ。社会的な地位と経済的に保証された生活を持続する代償に、肉体の悦びを断つことを、笙子は承知したのだ。  だが、笙子は再び、裏切った。  酔いが、啓一の自制のたがをゆるめていた。 「伸二、この男を放り出せ」  ほう、という顔をして、伸二は、にやにや笑いながら頭をかいた。 「伸二」  啓一は、声を高くした。 「伸二、やれ!」  甲高い声が、芒のかげでわめいた。啓一の声だった。伸二の神経は、眼前に立ちはだかった相手に集中されていた。呼吸が荒く乱れた。  石島の躰が、大きくのしかかってくるようにみえた。 「空手が達者だってな、おまえ」  一対一なら、俺なんか、めじゃないってな。  ——相手が喋っているうちは、大丈夫だ。 「おまえ、ふき廻っているってじゃないか。俺と一本どっこで……」  ふいに、石島が、顔を両手で押えた。小石まじりの土くれが顔に当たったのだ。投げつけたのは、啓一だった。いつのまにか、伸二の背後にまわってきていた。  ——このすきに逃げよう。  そう思っても、とっさには足が動かない。  石島は、無言でとびかかってきた。  胸倉を掴もうとする両手を、伸二は、自分の腕でさえぎった。四つの腕がからみあった。力ずくで相手を押し倒すよりほかにない体勢となった。伸二は、相手の顔に唾を吐きかけた。悔辱するためではない。目つぶしになればと思った。届かなかった。腕を押えこんだまま、石島が唾を吐き返した。まともに目に入った。腕から力が抜ける。とたんに、押し倒され、組み敷かれた。馬乗りになった相手は、伸二の両腕を地面に押えつけたまま、腰を浮かした。はね起きようとする腹の上に、ずしん、と、石島の全体重が落ちかかった。ずしん、ずしん、と、石島は、伸二の腹の上ではねた。苦い汁が咽喉から噴き出した。  伸二は、泣きわめきながら、もがいた。その手に、固い物が触れた。  地面に落ちた潰し釘を、啓一が拾い上げて伸二の手もとに放ったのだ。はじめは届かなかった。啓一は棒きれを拾い、それを使って、手のそばに釘を押しやった。伸二の手が釘をつかんだ。  武器を手に入れたものの、手首を押えられているので、身動きがとれない。  石島は、伸二が釘を掴んだのに気づくと、それを奪おうとした。手首を押えた力がゆるむ。伸二は、やみくもに釘を突き出した。石島の腕を掠った。痛ッ、と石島はとびはねて立ち上がり、傷口を押える。視線は、少し離れて逃げ腰で立った啓一を捉えた。啓一の手に、石島の鉄鎖があった。 「それをよこせ」  石島は命じた。啓一は、躰をこわばらせ、鎖を握りしめていたが、石島がもう一度、強く、よこせ、と言うと、鎖を投げ捨て、背をみせて走り出した。伸二もつられて逃げようとする。石島が、身を屈めて鎖を拾おうとする。伸二の方が、先に地面に手をのばした。一々考えて行動する余裕はない。これを石島に拾わせたらおしまいだ。本能が、そう命じた。釘で手の甲を傷つけられた石島は、最初の、からかいぎみのゆとりを失っていた。本気で怒り猛っていた。一本の鎖に、二人が取りついた。石島は握った鎖をたぐり寄せる。伸二より落ちついていた。  ——手を離して逃げようか……。  喧嘩はな、先に怖《お》じけづいた方が負けだぜ。  伸二に空手をしこんでくれている予科練帰りが、しじゅう言うことばだ。  相手にのまれたら、それでアウトさ。  悲鳴とも叫びともつかぬ奇妙な声をあげて、伸二は、鎖を掴んだまま、相手のふところにとびこんだ。手首に噛みついた。鎖は、彼一人の手に残った。伸二は、鎖の垂れたはしを、相手にむかって叩きつけた。 「伸二」  啓一がうながした。  伸二は動かなかった。野次馬の気分で、成行きを見守っている。 「GET OUT!」  ドアを指さし、啓一は命じた。 「メイ、この男がきみのハズバンド?」 「そう。名前だけのね」  笙子は、ロディの肩に頭をもたせかけ、片手でロディの頬を撫でていた。 「名前だけ?」 「そう。男じゃないの、この人。何もできないの」  ロディは、げらげら笑いだした。のけぞって、咽喉の奥がのぞけるほどに大口を開け、足を踏みならした。  肉塊が、幼い啓一を包みこんでいた。黄金色のうぶ毛にふちどられた赤い唇が、大きく開いて目の前にあった。逃れようのない強い力で、肉塊は彼を抱きしめ、むさぼり食った。  ロディは笑いつづけた。伸二までが、笑い声をたてた。ロディの口もとを、力いっぱい、啓一は、なぐりつけた。拳がしびれ、ロディの唇は血に濡れた。  がつっ、という手応えは、伸二をぞっとさせた。石島は、呻き声と共に、左腕を押えて躰をかがめた。伸二は、思わず、鎖を投げ捨て走り出した。原っぱを抜けきらないうちに、うしろから抱きすくめられた。強い力が彼をねじ伏せた。顔を地面にこすりつけられ、息がつまった。  ごめん……ごめん……。  泣き声になる。石島は容赦しなかった。  鼻孔にも口の中にも、泥まじりの草の葉先が入る。頭を押えた手にぐっと重みがかかると同時に、背が軽くなる。頭を押えた手をささえに、石島が腰を浮かしたのだ。再び、どしん、と尻を落とす攻撃がはじまる。背骨が折れたかと思う。口から胃液が溢れ、草を濡らす。  兄ちゃあん……。助けを呼ぶ。声は出ない。  耳もとで、鉄鎖の音。ぐわっ、と、鈍い衝撃。石島の躰が横たおしに倒れる。 「伸二、腹をなぐれ。なぐれ」  鉄鎖は、啓一の手にあった。  啓一は、鎖を伸二の手に握らせた。 「なぐれ。叩きのめせ」  立ち上がると同時に、ロディは、啓一の腹に拳をぶちかませた。啓一は、辛うじて横に逃げた。腰を落とし、ロディは、じりじりと啓一につめ寄る。啓一は、後ろにさがる。 「兄さん、危いぜ。うしろがない」  アームチェアに腰かけ、脚をのばした伸二の声は、笑いを含んでいる。壁ぎわに、啓一は追いつめられた。手が、暖炉のわきにかけられた火掻棒に触れた。 「なぐれ。なぐれ」  啓一の声が、伸二の腕をつき動かす。伸二は、腕を振り上げ、振り下ろす。  うつ伏せに倒れた躰の後頭部から流れ出した血が草を黒く染めている。 「叩きのめせ。でないと、おまえが殺されるぞ」  啓一は、キーキー叫んでいる。  そうだ。なぐる手を止めたら、こいつ、また起き上がって……こんどは、本当にこっちが殺される……。  腕は、伸二の意志をはなれ、ひとりでに動いている。腕が落ちてくるたびに、柔い、気味の悪い手応え。  憑かれたように、伸二の腕は、単調な動作を繰り返す。石島の躰は、巨きななめくじのように、ぐんなりしている。  なぐれ……なぐれ……啓一の声が、だんだんかすかになる。伸二は気が遠くなる。  啓一は、手に触れた火掻棒を握りしめた。それまで余裕のあったロディの表情がひきしまる。腕をのばして、火掻棒を奪い取ろうとする。ふいに立ち上がった伸二が、ずかずかと近づいて、うしろから足払いをかけた。ロディは、床に倒れた。したたか躰を打ちつけたとみえ、起き上がれない。 「なぐれよ、兄貴」  伸二は笑った。冷ややかな笑いだった。 「ぶんなぐって、ぶち殺してやれよ、そのあつかましい小憎っ子をさ」  伸二の声に誘われて、啓一は、火掻棒を振り上げる。ふと、伸二と視線があった。 「ぶち殺せよ」  伸二は薄笑いを浮かべながら続けた。 「それとも、また、俺にやらせるのか。あんたの敵を、俺にぶっ殺させるのか」  伸二の口調が、啓一をたじろがせた。次の瞬間、彼は、悟った。啓一は、うめいた。  ——こいつは、知っていた。あれが、あの石島との決闘が、俺の仕組んだ罠だということを……。  屈辱と、肉体の苦痛から逃れる方法を、啓一は、必死に考えたのだ。自分にむけられる石島の攻撃を伸二に転嫁させ、あわよくば、伸二の空手の力で石島を打ちのめさせる……。啓一は、伸二の攻撃力を過信していた。体力の乏しい啓一の目には、空手の技を習得したと自慢する伸二は、いかにも逞しく見えたのだ。  それとなく、噂をひろめた。風見の弟が、いばりまくって、ふきまわってるぜ。一本どっこなら、石島なんか、めじゃないって。奴は、空手の達人だとさ……。  子供じみた思いつきだが、それは、予想以上の成果を上げた。石島は、死んだ。  伸二は知らなかった。兄にそそのかされたとは、そのときは気づかなかった。係官に取り調べられたときも、兄をひきあいに出すことは思いつかなかった。喧嘩の最中に、危険な武器を使って、相手を死にいたらしめてしまったのは、伸二であった。啓一ではなかった。  思いあたったのは、ずっと後になってからである。十何年ぶりかで小学校の同窓生に会った。思い出話のあいまに、石島に挑戦するような言葉を吐いたという噂が、自分の知らないところでひろまっていたのを知った。  噂をひろめた張本人が誰か、大人になった伸二には、簡単に推察がついた。しかし、今ごろそれを知っても、遅すぎた。  ロディが、顔をしかめて起き上がった。  啓一は、うなだれ、手にした火掻棒を、おぞましい物を投げ捨てるように、床に落とした。ロディは、ほっと躰の力を抜いた。  ロディは、部屋をぐるりと見渡した。笙子は、目を床に落としていた。  酔いは、誰からも消え去っていた。  大きく息をついて、ロディは、戸口の方に歩み寄った。ドアを開けると、雨まじりの風が吹きこんだ。  吹きこんだ風は、すぐに断ち切られた。ロディが、大股に外に踏み出し、うしろ手にドアを閉めたのだ。  啓一は、無言で、二階に上がって行った。  ともすれば前こごみになる背を、むりにしゃんとのばしているようにみえた。  ドアの閉まる音がした。  笙子がゆっくり立ち上がり、 「お休み」  伸二の方を見ようとはせず、つぶやき、階段をのぼって行った。  ——あの二人は、抱きあうこともしないのだろうか。  伸二は、長椅子に仰向けに寝そべった。  笙子が、父親に抱かれる子供のように、啓一の腕を枕に一つベッドで眠っている情景が、ふと浮かんだ。肉体の接触を持たないといっても、あの二人には、どこか馴れあい許しあっているような感じがあるように、伸二には思えた。  伸二は、床に目をやった。  頭を打ち割られ血まみれになり、床の上に長々と横たわったロディの躰。床の上の血だまり。その傍に、紅く濡れた火掻棒を手に、茫然と立ちすくんだ啓一。  長くのびた石島の躰。茫然と立ちすくんだ幼い伸二。  幻影は、一瞬浮かんで、消えた。  兄の手を汚させるチャンスは失せてしまった。黙って、兄の狂気が猛りたつのにまかせておけばよかった。よけいな一言が、兄を醒めさせた。偶然恵まれた、この上ない復讐の好機だったのに。  ——結局、何も変わりはしないな。  夜が明ければ、また、重苦しくわずらわしい一日がはじまる。肉体と心の傷をみごとにつくろい隠して、兄は、陽当たりのいいコースを歩き続けるだろう。俺は……。  急に、女の躰が欲しくなった。  二階に行って、あの女をひっさらって来ようか。そう思いながら、躰を起こすのがおっくうだった。伸二は、懶惰《らんだ》に寝そべったまま、股間に手をのばした。猛々しい力が手に伝わった。 「ざまみろ」  口にしてしまうと、すべてが、ひどく虚しい気がした。  伸二は立ち上がり、コートをひっかけた。ドアを開け、闇の中に踏み出した。  ロンドンの街にも、娼婦はいるはずであった。  〈了〉 〈お断り〉 本作品を「文春ウェブ文庫」に収録するにあたり、一部の漢字が簡略体で表記されている場合があります。 また、差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の書かれた当時の事情を考慮し、できる限り原文の通りにしてあります。差別的意図がないことをご理解下さいますようお願い申し上げます。 単行本 昭和五十一年六月文藝春秋刊 底 本 文春文庫 昭和六十一年十二月十日刊