TITLE : 紅葉坂殺人事件 講談社電子文庫 紅葉坂殺人事件 津村 秀介 著  目 次  第1章 雨の強奪  第2章 社長の過去  第3章 殺人の夜  第4章 アリバイのない容疑者  第5章 福岡の失踪者  第6章 “あさひ104号”のアリバイ  第7章 新潟着最終便  第8章 姉と弟 紅葉坂殺人事件 第1章 雨の強奪  黒雲が、西から東の空へと広がっていた。今にも雨を呼びそうな、暗くて、厚い雲である。  大塚貿易の社長大塚国蔵と営業部員長井紀雄は、神戸を引き上げるところだった。  三宮町のシティホテルのレストランは四階にあった。ビジネスホテルのレストランとしては天井も高いし、テーブルの配置もゆったりとしている。  遅い朝食を終えた社長と営業部員は、雨雲の下の山手通りを見下ろしてモーニングコーヒーを飲んでいた。神戸の中心部から新神戸駅へとつづく加納町の緩(ゆる)い坂道は、朝から車の動きが激しい。 「名古屋の協進工業と矢吹商事の手配は、昨夜の予定通りだな」 「はい、土曜日ですが、担当者を残しておいてくれる手筈になっています。今朝も電話で念を入れておきました」 「名古屋を片付けたら、今夜、横浜へ帰るぞ。秋田へ出張した小泉はどうしたかな。無論、仕事は順調にいっているだろうな」 「ホテルをチェックアウトするとき、横浜へ電話を入れてみましょうか」 「うん、そうしてくれ」  大塚はでっぷりした体格で、顔の大きい男だった。声もドスが利いたように大きいし、口調はだれに対しても乱暴だった。  五十九歳という年齢よりずっと若く見えるのは、精力的ともいえる、血色のよさのために違いない。  長井の方は、対照的にやせ型の男だった。大塚が強引に自分の主張を通すタイプであるだけに、紺のスーツが似合う二十五歳の若い社員は、なおのこと、おどおどとした印象を与える。  長井はテーブルの下のアタッシェケースを両脚で、しっかりと挟(はさ)むようにしている。二千五百万円もの現金が入っているのだ。アタッシェケースの取り扱いについて、ワンマン社長が口うるさいのは当然だろう。ホテルのロビーで電話をかけるようなとき、アタッシェケースからちょっとでも手を放していようものなら、 「おい、注意が足らん。事故が起きてからでは遅いぞ!」  すぐに、ば声(せい)が飛んでくる。  周囲にだれがいようと所構わないのだ。英国製チェックの高級スーツを着ていても、成り上がり者の一面は隠せない。元はといえば、闇市のブローカーを経て、町の自動車修理工場経営者から身を興した男だった。  社長といっても、横浜市中区に本社を置く大塚貿易は資本金五百万円、社員十人足らずの、小規模な同族会社に過ぎない。  しかし、十五年前の設立以来、業績は年を追って伸びている。規模が小さいだけに、ワンマン社長の神経が隅々にまで行き届いているためだ。  大塚は若い頃から、飲む、打つ、買うと人一倍の極道(ごくどう)をしてきたが、仕事の手を抜くことはなかった。むしろその逆で、取引上の辣腕(らつわん)は他の追随を許さなかった。  現在では年商七億円を越え、横浜市内に二つの貸しビルを持つようにもなっていた。貸しビル業は別会社として、長男の昇一を社長に据え、次男の広二には大塚貿易専務の肩書を与えていた。昇一は二十九歳、広二は二十八歳の若さだが、きちんと将来への布石をしておく堅実さが、大塚の身上ともいえた。何人もの女と深い関係を結んでも、遊びと仕事のけじめは、はっきりしている男だった。  大塚貿易は長男に任せた貸しビルの三階に本社を置いているわけだが、営業主体は、中近東方面への建設機械の輸出だった。ファクシミリで注文を受け、国内の商社から買い付けた機械類を発送するのである。  今回の神戸・名古屋出張も、その買い付けのためのものだった。  こうしたとき、大塚は現金を用意するのが常だった。札束を積み上げて安く買いたたくのが、大塚一流の遣(や)り口(くち)であり、アタッシェケースの中の二千五百万円が、すなわち、その軍資金にほかならない。  ビジネスホテルの投宿客は朝が早い。九時半を回った今、四階のレストランにいるのは、大塚と長井のほかには三人の男性客だけだ。三人とも朝定食をとりながら、書類に目を通したりしている。 「協進工業は午後二時、矢吹商事は四時の約束だったな」  大塚がセブンスターに火をつけたとき、 「横浜の大塚貿易様」  と、呼び出しのアナウンスがあった。電話が入っているので、近くの受話器を取ってくださいという指示だった。  長井が立っていき、すぐテーブルに戻ってきた。 「会社の藤沢さんからでした」  藤沢和子は経理課員だが、小さい会社なので、大塚社長の秘書のような仕事もしている。 「名古屋の明和設備から、電話が入ったそうです。資料がそろったので、午後一時半過ぎに立ち寄って欲しいということです」 「一時半なら、ちょうどいいじゃないか。で、秋田へ出張した小泉のことは確かめたか」  小泉は買い付けの下折衝で、農機具会社回りをしている。 「秋田からも今朝、電話が入ったそうです。仕事は予定通りに終え、今夜、会社へ戻るという伝言でした」 「よし、行くか」  大塚はたばこをもみ消して立ち上がった。堂々とした体格である。  対照的にやせ型の長井は、アタッシェケースを大事そうに手にして、社長のあとにつづいた。  十月六日、うっとうしい、曇り空の土曜日だった。  大塚と長井が乗車したのは、新神戸発十一時四分の“ひかり112号”だった。新幹線の東上に連れて、雨雲は一層厚くなった。天気は西から変わるのが普通だが、この日は逆だった。  大阪、京都と過ぎて、左手に小さく琵琶湖が見えてくる頃、本格的な雨になった。米原を通過する辺りから、車窓を打つ雨脚が強くなった。  米原はがらんとした、殺風景な駅だ。線路の右手に大型トラックが往来する国道8号線が走っており、その向こうに赤土の露出した山肌が見える。雨のホームに、発車を待つL特急が止まっていた。金沢行きの“加越”であろうか。  ノンストップの“ひかり”は米原、岐阜羽島と過ぎて、水田を二分する単調な風景の中でスピードを上げた。  車窓の左前方に、市街地が開けてくると名古屋だった。雨が、さらに激しくなっている。  名古屋到着は十二時二十九分だった。  名古屋駅西口に降りると、長井は大塚社長をコンコースに待たせて、駅前のレンタカー営業所へ向かった。  出張先で、市内の何ヵ所かを歩くときは、いつもレンタカーを利用している。神戸でもそうだった。  タクシーより能率的だし、大金を所持しているだけに、安全性の意味からもレンタカーの方がいい。こんなふうに強い雨ともなればなおさらだ。  しかし、大塚のことだ、料金の高い車は敬遠する。長井は一番安いレンタカー、六時間四千八百円の、3ドアのファミリアを頼んだ。手続きを済ませてコンコースへ戻ると、最初の訪問先である明和設備へ出かけるまでの時間つぶしに、構内の喫茶店に寄った。  中二階の喫茶店は旅行客で込んでいた。 「きみは明和設備へ行ったことがあるかな」 「直接訪ねたことはありません」 「名鉄犬山線の、西枇杷島(びわじま)駅の近くだ。駅を目標に車を走らせてもらおうか」  と、そんなことを話し合っただけで、あとは無言のまま三十分余りを過ごした。若い長井にとって、独裁的な社長と向かい合ってこうした時間を持つのは、気詰まりもいいところだった。  大塚は遊び人の一面があるくせに、仕事をしているときは、ほとんど余分な口を利かない。特に、自分の会社の社員とか、身内の前ではそうだった。  こんなときの大塚は部厚い唇をかみしめて、買い付け折衝のための次の作戦を練っているのである。  長井にとっての重苦しい三十分が過ぎて、大塚はようやく腰を上げた。 「おい、カバンに気をつけろよ」  大塚は強い雨を避けてレンタカーに乗るとき、もう一度繰り返した。  車の中では大塚が、足元にアタッシェケースを置いた。  長井が運転するレンタカーは名古屋駅裏手の太閤通りを走り、中村区役所の先を右折して、国道22号線の方角に向かった。雨にたたかれる街路樹も不ぞろいで、雑然とした、古いしもた屋が多い一画だった。  長井は、明和設備へ行くのは初めてだが、大塚のお供で大幸町の協進工業、東山元町の矢吹商事へは何度か来ているので、名古屋市街地のおおよその地理は承知している。  料金が安いせいか、古いレンタカーはハンドルが重い。  国鉄と名鉄犬山線が平行する場所へくると、後部座席の大塚が道順を指示した。庄内川を渡り、名鉄が国鉄と離れて右にカーブすると新興の住宅街があり、住宅街を抜けると、庄内川沿いに大きい工場の並ぶ一帯があった。広い敷地を備えた毛織物工場や、染色工場が並んでいる。  名古屋の中心部同様、ここも道幅は広いが、激しい雨のためか人影は見えず、車の往来もほとんど絶えている。  長井の腕時計は一時二十五分を回るところだった。ちょうどいい時間だ。 「その小公園の先を左に曲がると、四階建てのくすんだビルがある」 「社長も行かれますか」 「資料を受け取るだけだから、わしが立ち寄ることもないだろう。わしは車の中で待っている。きみ、一走り行ってきてくれないか。事務所は二階だ」  古いレンタカーは雨に濡れた舗道で、軽くスリップしながら止まった。そこはビルの横手で、角を折れた所が明和設備の入口になっている。  長井は横なぐりの雨の中へ飛び出して行った。  大塚は足元のアタッシェケースに目をやり、セブンスターをくわえた。  大塚がくわえたたばこに火をつけようとしたとき、雨の中から男が現れた。それまでどこに潜んでいたのか、男はこの強い雨なのに傘をさしていないし、コートも着てはいなかった。  男は濃紺のスーツの襟(えり)を立て、黒っぽいサングラスに白いガーゼのマスクといういで立ちだった。黒い手袋を着用し、左手をスーツのポケットに突っ込んでいる。  大塚が、先に雨の中の男に気付いていたら、ドアの錠をロックするとか、運転席に飛び移って車をスタートさせるなどの警戒をしていただろう。どう見ても、雨の中の男は変装と分かる服装だ。  しかし、発見が遅れた。  サングラスの男は、バックミラーにも映らないよう、死角を歩いて乗用車に接近してきたのだ。  大塚がゆっくりたばこのけむりを吐いたとき、車のドアが唐突に開けられた。 「だれだ」  大塚が怒鳴るのと、 「静かにしろ!」  男の右こぶしが大塚の顔面に飛んできたのが同時だった。  火のついたたばこが、前の助手席に飛んだ。強い力が、大塚の太い首を押さえ付けた。 「何者だ」 「静かにしろと言ってるんだ」  無理に押しつぶしたような声だった。サングラスとマスクで自分を隠した男は、実体を悟られないよう作り声を出しているのに違いなかった。 「何の用だ!」  大塚は一層高い声を出した。大塚は五十九歳とはいえ、気丈な男だ。若い頃は腕力にも自信があった。一発なぐられたくらいで、ひるみはしない。  大塚は顔を押さえ付けられたまま、懸命に相手の右腕を取り、脇の下へ抱え込もうとした。だが、抵抗は、一瞬のうちに封じられていた。  男の左手が、スーツのポケットから抜かれたためだ。男の左手は大きいガーゼをつかんでいる。  その湿ったガーゼが、大塚の顔面を覆(おお)った。 「う」  大塚は必死にガーゼを払いのけようとしたが、闖入者(ちんにゆうしや)の工作から逃れることはできなかった。  ガーゼを押し当てられているうちに徐々に力が抜け、やがて、がくん、と、大柄な体は前のめりになった。  その間、五分と経ってはいなかっただろう。大塚の顔面は軽くただれたように赤くなっている。ガーゼに染み込んでいたのが、クロロホルムであることの証拠だった。  雨の中から現れた男がサングラスと白マスクを外したのは、静かに車をスタートさせてからだった。  3ドアのレンタカーは何事もなかったように人気のない広い工場街を走り抜け、庄内川を渡った。そして、国道22号線の、混雑する車の群れの中へ紛(まぎ)れて行った。  明和設備にとって、大塚貿易社員の来訪は予期しないことだった。 「何かの間違いじゃないですか。電話はかけていませんよ」  応対に出た社員は、長井に向かって怪訝(けげん)な顔をし、 「一応社長に聞いてきます」  と、奥へ引き込んだ。  結果は同じだった。手渡すような資料はそろっていないし、だれも、横浜へ連絡電話を入れていないという。  長井にしても釈然としないが、それなら、帰るしかないわけだ。資料を受け取るだけなら五分とかからずに済んだであろうに、長井が明和設備で十五分以上を過ごしたのは、こうした経緯があったためだ。 「おや?」  舗道へ戻った長井は横なぐりの雨の中で足を止めた。  レンタカーが消えている。  社長は運転ができる。しかし、断わりもなく車を移動させるだろうか。  人気のない、広い工場街を見回す長井の横顔に、不審が浮かんできたのは当然だ。 (偽電話だ。偽電話で呼び出されたんだ)  長井は慌てて明和設備へ駈け戻った。 「社長と、二千五百万円入りのアタッシェケースが消えてしまいました!」  長井は一一〇番をかけたとき、最初にそれを言った。  レンタカーは名古屋駅中央口近くの、伏見通り裏に乗り捨ててあった。ビルとビルの間から名古屋城が見える場所だった。  ビル街の中に大きい駐車場があり、駐車場に続く舗道に3ドアの乗用車は停められてあった。  最初に不審を抱いたのは、駐車場の初老の管理人である。そこは駐車禁止区域だった。  駐車禁止の路傍に、レンタカーは二時間以上も置き去りになっていた。プレハブの管理人詰め所から、ちょうど目の届く場所であった。  管理人はレンタカーが裏通りへ走り込んできたときから目撃している。 「はっきり覚えていますよ。二時ちょっと前でした。うちの駐車場の前でスピードを落としたので、うちを利用されるのかと思いました」  と、管理人は、あとで所轄署の刑事に証言している。  だが、レンタカーは駐車場には入ってこなかった。  濃紺のスーツの男が車を降り、アタッシェケースを抱えて、広小路通りの方向へ駈け出して行った。  走り去って行く男は見るからに慌てていたけれども、そのときは、管理人に不自然な印象を与えなかった。雨が強かったためだ。激しい雨で傘を持っていなければ、だれだって駈け出すだろう。  広小路通りは名古屋駅中央口へつづいているわけだが、途中には雑居ビルも多い。アタッシェケースを抱えた男は近くのビルに用事があり、用事はすぐ済むので、それで駐車場を利用しなかったのだろう、と、管理人は思った。 「でも、男は一時間過ぎても、二時間経っても帰ってこないのですよ。それによく見ると、フロントのワイパーがかけっ放しになっているではありませんか」  管理人は傘を手にして雨の中へ出た。その管理人によって、レンタカーの後部シートでぐったりしている大塚社長が発見されたのだった。  生命の無事であったことが、不幸中の幸いといえよう。 「現金(か ね)は、アタッシェケースはどうした?」  大塚は焦点の定まらないまなざしで口走った。その一言で、事件の起こったことが明確となった。管理人は雨の中を引き返し、プレハブの詰め所から一一〇番をかけた。  長井の通報で、すでに捜査は開始されている。時を移さずに、国道22号線の北と南から二台のパトカーが走り込んできた。  パトカーを追うようにして、救急車と、鑑識係らを乗せた車も現場に到着した。  初動捜査は型通りに進められていった。しかし、大塚は、犯人を全く記憶していなかった。 「中肉中背の男だったと思います」  これでは特徴とはならない。年齢も二十代なのか三十代なのか、はっきりしない。はっきりしているのは、二千五百万円入りのアタッシェケースが、煙のように消えてしまったことだけだ。  犯人のものと思われる指紋も検出できなかった。男は、もちろん最後まで手袋を外さなかったのだろう。  だが、犯人とおぼしき男を、西枇杷島町まで運んだタクシーを突き止めることはできた。男は名古屋駅中央口のタクシー乗り場でその車を拾い、まっすぐ現場へ向かった。駅からタクシーに乗ったということは、男が旅行者であることを意味するかもしれない。 「工場街で下車したのは、一時二十分前後です」  と、タクシー運転手は運転日報を確認して刑事にこたえた。 「雨が強かったでしょう、男はどこかの工場へ入って行ったのですか」 「いいえ、あっしが車をUターンさせたときは、電柱の陰に立っていましたよ」  無論、そのときの男は、サングラスもマスクもしてはいなかった。が、意識的に運転手の視線を避けていたのだろう、運転手も男の顔を覚えていない。 「犯行時の男は傘を持っていなかった。この雨なのに、傘もささずに立っていたのですか」 「傘は持っていましたよ」  駅のキヨスクなどで売っている、透明なビニールの傘だったという。  そこで現場付近を調べると、染色工場敷地内の植込みの中からそれらしいビニールの傘が発見されたけれど、やはり指紋は検出されなかった。  しかし、物証が皆無というわけではなかった。  唯一の物証、それはスーツのそでのボタンだった。濃紺で縁取(ふちど)りされた白いボタンが一つ、大塚の掌の中に残っていたのだ。大塚が犯人に顔を押さえ込まれたまま、懸命に相手の右腕を抱えたとき千切れたものに違いない。  唯一の物証は、記者会見では発表されたものの、報道は差し控えられた。これは、捜査を進める上での常(じよう)とう手段だ。  それにしても、鮮やかな犯行だった。  犯人の現場到着が一時二十分前後。レンタカーに乗り込んできたのが一時三十分。そして二時前には伏見通りに車を乗り捨てて、男は二千五百万円とともに雨の向こう側へ消えて行ったのだ。走り去った方向から推して、行き先は名古屋駅だろう。 「プロの手口だな」  と、つぶやくベテラン捜査員もいた。犯人(ほ し)がプロであるなら、指紋から身元が割れる前科(ま え)持ちということになろうか。 第2章 社長の過去  浦上伸介は、昼近くに自室で目をさました。一人暮らしの二十九歳。フリーの立場で週刊誌のルポライターをしている、浦上の日常は不規則だ。  常連執筆者(レギユラー)の一人として寄稿している『週刊広場』の「夜の事件レポート」は、先週木曜日の締め切り分で三回連載を終え、今週は仕事の予定がなかった。 「渋谷のクラブで将棋でも指すか」  パジャマ姿の浦上はそんなことをつぶやきながらインスタントコーヒーをいれ、トースターにパンを挟んだ。  東横線中目黒駅から徒歩で五分。九階建てのマンションの三階にある1DKが、一人暮らしの住居であり、仕事場であった。二重カーテンを開けると窓の下はいつも自動車が渋滞(じゆうたい)している山手通りで、その向こうに目黒川が見える。都心の河は汚れている。  浦上はコーヒーを飲み、マイルドセブンに火をつけながら、見慣れた風景に視線を投げた。  浦上は、仕事はできるが目立たない男だった。中肉中背の童顔で、服装も言動も派手なこととは無縁だった。アルコールは強いが、酔っても乱れることはなかったし、女性に深入りするタイプでもなかった。  将棋が趣味といっても、学生時代からずっと三段止まりであることでも分かる通り、仕事を投げ出してまで熱中するわけではなかった。  トーストができた。  机の上の電話が鳴ったのはそのときだ。スチール製の大きい机は見開かれたままのスクラップとか、新聞の切り抜きなどで雑然としている。 「もしもし」 「お、浦上ちゃんいたのか」  がんがんとよく響く声は、『週刊広場』の編集長だった。マンションにいなければ、渋谷か新宿の将棋センターへかけ直すつもりだった、と、編集長は言った。 「先週の原稿にミスがありましたか」 「そうじゃない。三日前の名古屋の二千五百万円強奪事件だ。あれをやってくれないか」 「あの事件(や ま)を、『夜の事件レポート』で採り上げるのですか」  浦上が定期的に寄稿しているそれは、未解決の事件を、捜査(あるいは犯行)と同時進行の形で連載するのを呼び物としている特集だ。婦女暴行とか結婚詐欺、連続放火事件といった内容が多い。  時には事件解決まで、四週でも五週でも企画がつづけられるわけだが、名古屋の現金強奪事件が、それに当てはまるとは思えない。 「これは続発する犯行ではないでしょう」 「視点を変えれば使えるのじゃないかな」 「同じ犯人による共通した犯罪が、他の場所で起こるとは思えませんがね」 「新聞を詳しく読んでいないのかい? 事件物を得意としている浦上ちゃんにしてはおかしいじゃないか」  犯人は内部の人間以外に考えられない。そこに光を当てる、と、編集長は言った。 「アタッシェケースの中の二千五百万円を知る人間といえば限られてくるのじゃないかね」 「大塚貿易内部のほかに、取引先もありますか」 「そう、名古屋市内大幸町の協進工業と、東山元町の矢吹商事へも探りを入れる必要はあるだろうな。だが、何といっても問題となるのは、大塚貿易内部だろう。協進工業に午後二時、矢吹商事へ四時に立ち寄るスケジュールを知っている者で、なおかつ、大塚貿易と明和設備との関係を承知している人間でなければ、大塚社長たちを一時半に明和設備へ呼び出すことはできない」手初めは大塚貿易だ、と、編集長は言った。 「犯人が内部の人間であるなら、続発の可能性は十分あり得る。ここはどうしても、神奈川県警の記者クラブに顔が利く浦上ちゃんに出馬してもらうしかない。また『毎朝日報』キャップのお世話になるね」 「分かりました。将棋センター行きは中止して、横浜へ出かけます」  浦上はそう言って受話器を置いた。  神奈川県警記者クラブに詰めている『毎朝日報』のキャップ谷田は、浦上の大学時代の親しい先輩だ。酒が強く、将棋が好きな点も浦上に共通している。  横浜取材に際しては、これまでにも何回となく便宜を与えてもらっている。谷田から入手した情報(ね た)を主体として、「夜の事件レポート」をまとめたこともある。  浦上はトーストをほお張りながら、神奈川県警の記者クラブへ電話をかけ直した。  谷田はクラブに出勤した矢先だった。 「やはりかかってきたか。そろそろ電話がくる頃だろうと思っていたよ」  と、親しげな太い声はこたえた。昼間は取材の先約で満杯だが、夜、酒でも飲みながらどうだ、と、谷田は言った。 「馬車道に『カンナイ』というビヤレストランがある。関内駅北口の近くだ。六時には行けると思う」 「先輩の方でも大塚貿易に探りを入れているのですか」 「大塚社長というのは、取材欲をそそる男だ」  太い声はふくみ笑いに変わった。 『カンナイ』は四階建て雑居ビルの一階にあった。二階も三階も四階も飲食店が入っている細長いビルだ。『カンナイ』は前金のチケット制。広い客席はスタッコの白壁で、若者の姿が目立つレストランだった。南欧風インテリアの明るい店内は一階と中二階とに分かれており、壁面にはスペインやイタリアなど、地中海の風景写真が何点も飾られている。  客は八分通りの入りだった。横浜のビジネス街に近いせいもあって、一日の勤めを終えたサラリーマンやOLが多い。  浦上は、たばこのけむりが充満する店内を目で追った。一番奥にナポリ港の大きい写真が掛けられており、額の下のボックスに谷田が座っていた。谷田は浦上とは対照的に肩幅が広く、大柄な男だ。  谷田は取材帳に目を落とし、生ビールを飲んでいる。 「先輩、早かったですね」  浦上が前に立つと、 「取材が予定より早く終わったのでね、先に飲ませてもらっているよ」  と、向かい合ったいすをすすめた。 「午後は何をしてた? 渋谷で将棋を指してきたのか」 「いえ、新聞の切り抜きを整理していました」 「名古屋の事件(や ま)は、確かに週刊誌向きだな」 「大塚社長が、取材欲をそそられる人間というのはどういうことですか」 「あれほど評判の悪い男はいない。あの社長をよく言う人間は一人もいなかった」 『毎朝日報』横浜支局は、中部本社社会部からの依頼で、大塚貿易とその周辺を洗っているのだという。  雨の中で現金強奪事件が発生したのが十月六日、土曜日。今日は火曜日だから、三日が過ぎたわけである。  谷田をキャップとする『毎朝日報』の県警記者クラブでは、月曜、火曜と、二日間の取材で、大塚貿易の大半を探り出していた。関係社員の顔写真なども隠し撮りしたという。 「社長以下、社員九人の会社だ、二日もかければ取材は十分だ」  と、谷田は言った。無論、今日の午後もそれで動いていたわけである。『毎朝日報』中部本社も谷田も、『週刊広場』編集長同様、犯人内部説を採っていた。 「それは常識だろう。だが、大塚貿易の全社員を洗ったところ、全員が遊び駒のように見えるんだな、どこから王手を掛けるのか、寄せの構図がさっぱり浮かんでこない」  と、谷田は首をひねった。  将棋好きの先輩と後輩は、二人だけのときは将棋用語で話を進めることが多い。遊び駒。それは攻めにも守りにも参加していない駒のことを言うのである。全員が遊び駒なら、社内に容疑者はいないことになる。  ボーイが、混雑する店内を縫ってやってきた。浦上は大ジョッキと愛飲のギネスを頼み、谷田も大ジョッキをお代わりした。  注文のジョッキがテーブルに乗ったとき、 「大塚貿易は社員の出入りが激しい会社なんだよ」  谷田は取材帳を繰(く)った。 「社員たちの腰が落ち着かないのは、人使いは荒いのに待遇が悪いせいだ。これが大塚社長のすべてを物語っている。社員なんていくらでも差し替えが利く消耗品としか思っちゃいない。一事が万事で、商法もこの上なくあくどいし、裏では影の仕事もしているらしい」 「非合法な仕事ですか」 「例の明和設備は、大塚貿易の取引会社ではなかった」 「偽電話で呼び出した内容は、資料がそろった、ということでしたね」 「うん、それは新聞発表の通りだ。しかし、資料の授受というのは、会社とは無関係に大塚国蔵個人の仕事だった」 「どういうことですか」 「我社(う ち)の中部本社記者がつかんできた事実だ。明和設備は、社名は工務店みたいだが、実体は違う」  三十年前に設立された当時は、社名通りの建設会社だった。だが中堅企業の下請けをしていたのは当初の五年ほどで、その後は何種類かの業界紙を発行しているという。 「この業界紙がクセモノなんだ。読者がついているとは考えられないし、それほど広告収入があるとも思えないのに、旬刊で、いずれも定期刊行がつづいている」 「脅しですか。企業の弱みを握っての脅しに、大塚社長が一枚かんでいるというのですか」 「明和設備も、大塚貿易同様社員十人そこそこの規模だが、社長が、一時、総会屋として鳴らしていた男なんだ。岡倉というこの社長と大塚が第二次大戦当時の戦友でね、ともに上海の諜報機関で働いていたことがあるらしい」 「話のスケールが大きくなってきましたね」 「いや、諜報機関に在籍したといっても、当時の岡倉と大塚は二十歳(はたち)前後だ。上海では走り使いに過ぎなかったのじゃないか。ただ、現在の影の仕事が事実だとしたら、上海時代の経験が、何らかの形で影響しているということは言えるだろうな」  岡倉は愛知、大塚は福岡の出身だった。敗戦後、二人はそれぞれの故郷に引き揚げた。大塚は博多で闇ブローカーに転身。年齢は若いのに羽振りはよかったようだ。  しかし、大塚は九州でじっとしている男ではなかった。 「どっちがどう声を掛け合ったのか知らんが、大塚が名古屋へきて岡倉と組んで仕事をするようになったのが朝鮮動乱の直後あたり、ということは取材済みだ。大塚が名古屋で貯め込んだ金も相当に手を汚したものに違いないけどね、今更三十年前の被害者が名乗り出てくるわけではない。これは時効ものだ」 「大塚は今でも、その業界紙の仕事に手を貸しているのですね」 「例の“資料”というやつを追及していくとそういうことになる。それが、すなわち大塚の影の仕事だ」  大塚は名古屋で最初の結婚をしている。最初の妻との間にできた子供が、現在貸しビル業大塚住販の社長に据えられている長男の昇一と、大塚貿易専務のポストを与えられている次男の広二だ。  大塚が名古屋から横浜へ移住した経緯ははっきりしていない。だが、中古自動車の修理・販売業を始めたのは、結果的には貿易会社を持つためのワンクッションに過ぎなかったようだ。  こうして、十五年前に大塚貿易が設立されたのである。  十五年間、大塚はあくどい商法で資産を増やしつづけてきた。  昇一も広二も、まだ二十代の若さなのに妻帯して元町の豪華マンションで暮らし、大塚社長自身は横浜市内の一等地、中区山手町の高台に住居を構えている。二百坪近い敷地に五十坪を越える建坪。見るからに重厚な二階建てだ。 「時価にして何億になるか知らないけどね、総ひのき造りの和風建築で、枯山水の広い庭も凝ったものだ」  と、谷田は説明する。吐き捨てるような口調だった。一代であれだけの生活を手にするなんて、まともな仕事をしている人間ではとても不可能だ、と、谷田はそう言いたげだった。  それは横浜の中心街を一望にする場所だった。大塚は六年前に妻をガンで亡くし、今はその豪邸に後妻を迎えている。二十歳も年下の後妻は、関内の高級クラブで雇われママをしていた女だという。そうした点も、谷田にとっては無条件に気に入らないらしい。 「大塚の場合は悪漢色を好む、というやつでね、福岡で闇屋をしていた頃も、名古屋で岡倉と組んでの業界紙時代も、もちろん横浜へ移ってからも、私生活は乱脈なんてものじゃない。あの男に泣かされた女性は、数え上げたら、それこそ制限(き り)がないと思うよ。社員を酷使するのと同じことで、女性に対しても利用価値があるうちはちやほや扱うが、必要がなくなれば文字通り紙くずのように捨てて振り向きもしない。大塚ってのは冷たい男だ」  無論、女性に産ませた子供の面倒だって、満足に見てはいない。これでは、谷田が「取材欲をそそられる」のも当然だろう。 「山手町の邸宅には通いのお手伝いがきているけどね、お手伝いも長続きしたためしがない。オレはそのうちの二人に当たってみたが、お手伝いたちの評判も、極め付きと言っていいほど悪いんだな」 「しかし」  浦上は反論した。 「私生活の乱脈ぶりはともかくとして、今回、大塚社長は被害者です」 「要するに、大塚に恨みを抱く人間は、公私両面に渡って、掃いて捨てるほどいる、ということを強調しておきたいのさ」 「恨みを持つ者の犯行、と、言いたいのですか」 「大塚の被害に同情する人間など、一人もいなかった。関係者の大半が、今回の犯行に対して、内心では拍手喝さいしているのじゃないかな」  若い人の姿が目立つ店内は、さらに込んできた。四人掛けのボックスを二人で占領していた浦上と谷田は相席を求められた。そうした、大衆的なビヤレストランであった。  軽く頭を下げて同席した二人連れも、若いサラリーマン風の男だった。  浦上と谷田の検討はいったん中断された。しかし、ジョッキを手にした先方の二人が、こっちを無視するような声高でしゃべり出したので、事件追及の会話も元へ戻った。 「先輩、全員が遊び駒というのはどういうことですか」  浦上は『週刊広場』編集長の指摘を敷衍(ふえん)する形で、二千五百万円の所在を知る人間は何人いたのか、と、その点から核心に入った。 「アタッシェケースの中身を承知していた関係者は少なくとも五人いる」  谷田は取材帳を確認して言った。  大塚社長本人、社長に同行していた長井紀雄、社長の次男である専務の広二、経理担当で社長秘書のような仕事もしている藤沢和子、それに、当日秋田へ出張していた小泉保彦という社員も今回の買い付けに関係しており、事前の打ち合わせ会議に加わっているという。 「外部の人間はノーマークでいいのですか。神戸とか名古屋の取引先は、大塚が現金を積み上げて買いたたくことを何度も経験しているわけでしょう。二千五百万円という金額まではつかんでいなくとも、大塚が大金を所持していることは分かっていたのではありませんか」 「いや、やはり犯人は内部にいる。神戸や名古屋の取引先は、明和設備と大塚国蔵とのつながりを知ってはいないのだよ。この点は名古屋の捜査本部でも念を入れて聞き込んでいるし、我社(う ち)の中部本社社会部で慎重に取材した結果だから間違いない。聞いたこともない明和設備を騙(かた)って偽電話をかけるのは不自然だ」 「今名前が出た大塚貿易社員は、明和設備を知っているわけですね」 「大塚の影の仕事に気付いているかどうか、その点は不明だが、名古屋からは大塚へ定期的に連絡が入っているので、ほとんどの社員が、明和設備が社長と親しいことを聞いている。でも、“資料”という一言で大塚が動くことを知っており、なおかつ当日の名古屋でのスケジュールを承知している人間というと、やはり、今の五人に限定されてくるんだな」  大塚と長井を雨の工場街へ呼び出した偽電話は、だれがどこからかけたのか。  浦上はジョッキをテーブルに戻した。 「電話をとったのは藤沢和子でしたね。偽電話は、本当に横浜の本社へかかってきたのですか」  藤沢和子の一人芝居ということはないのか。受けてもいない電話で大塚を呼び出したとすれば、和子が隠れた主犯あるいは共犯ということになってこよう。浦上の脳裏をそうした疑問がかすめたが、疑問はあっさり否定された。  問題の電話を最初に受けたのは、別の社員だったのである。それは、出張先での社長の行動を詳しくは知らされていない、若い女子社員だった。偽電話はその新入社員が和子に中継したわけであり、 「低い、男の人の声でした」  と、新入女子社員は神奈川県警の刑事にこたえている。  三日前の朝、電話は、間違いなくどこからか大塚貿易に入っていたのである。 「犯人内部説は動かないだろうが、いずれにしても、この五人の中に実行行為者はいない。実際にアタッシェケースを奪った男は、あの強い雨の向こう側に隠れている」  谷田は、取材帳を浦上の目の前に置いた。谷田は背広の内ポケットから赤いボールペンを取り出し、最初に被害者大塚国蔵の名前を消した。 「雨の中から現れ、雨の中へ消えた犯人が男性であることは間違いない。藤沢和子も×点を付けることになるね」  専務の広二は、犯行時刻、大塚貿易で執務していたことがはっきりしている。小泉保彦という社員は、名古屋とは逆方向の秋田へ出張中であり、秋田市内のビジネスホテルから、その朝、横浜の大塚貿易へ連絡電話を入れている。 「広二も小泉も、名前を消すことになる」 「残るのは社長に同行していた長井ですか。だが、そのとき長井は、明和設備社内で、明和設備の社員と会っていたわけですね」 「ああ、長井の犯行も不可能だ」  谷田は赤いボールペンを持ち直した。しかし、長井紀雄の名前を消そうとはしなかった。  谷田はボールペンを浦上に突きつけるようにして、大柄な上半身を乗り出した。 「内部の人間が利用したにしろ、利用されたにしろ、直接犯行に手を下した男は別にいる。犯人(ほ し)が別にいるのなら、この連中のアリバイの有無など問題とはならない。では、大塚社長を除く四人の、だれが実行行為者と黒い糸で結ばれているのか。オレなら、まずこいつから洗うね」  谷田はもう一度ボールペンを持ち直し、長井紀雄に丸印を付けた。四人の“容疑者”の中で、犯行時、大塚社長のもっとも近くにいたのが長井だ。  それが、谷田が長井に丸印を付ける根拠であり、同じ意味で、捜査本部でも、長井紀雄を重点的にマークしているという。 「その場にいた長井ならば、実行行為者との連絡もとりやすかっただろう。別な見方をすれば、真犯人が長井以外のだれかであったとしたら、大塚社長と密着行動をしている長井によって、犯行を阻止される可能性もあるわけだ。仮に長井の方では犯罪計画に気付いていなかったとしても、いったん明和設備へ向かった長井が、何かの事情でふいにレンタカーへ戻ってきたりしたら、犯行は未遂に終わってしまう。逆に、現金強奪が完了するまで、タイミングよくレンタカーを離れていれば話は別だ。自分の意志で、それのできるのが長井だ。こう分析してくると、社長に同行していた長井から崩すのが順序じゃないかね」 「長井の手引きですか」 「今も言ったように、大塚に恨みを持つ人間は多い。手引きしたというよりも、恨みを抱く人間によって、手引きを強要されたのかもしれない」 「大塚に遺恨を持つ人間の、一人一人に当たってみますか」 「そいつは大変な作業だぞ」 「しかし、先輩はそこへ的を絞っているのでしょ」 「必ずしも、恨みを抱く者の犯行と断定はできないだろうが、大塚の過去が過去だけに、オレには匂ってくるんだな」  谷田はぐいっと生ビールを飲み干し、 「河岸を変えて飲み直そう」  と、腰を上げた。話すべきことはすべてしゃべったぞ、というまなざしだった。 「ありがとうございました」  浦上はきちんと頭を下げた。親しい先輩なので、日頃はそんな堅苦しいあいさつはしない。しかし、取材のときは別だ。浦上にしてみれば、谷田先輩のお陰で、二日も三日も、取材日数が短縮されたわけである。  翌十日は体育の日だった。  浦上は朝食もそこそこに済ませて中目黒のマンションを出た。東横線で武蔵小杉まで行き、国電の南武線に乗り換えた。  祝日とあって、電車の混雑もどこか和やかだ。乗客は家族連れが多い。  浦上が降りたのは鹿島田(かしまだ)だった。川崎の三つ手前の駅である。  踏み切りを渡り、細い路地を曲がって行くとアパートが立ち並んでおり、アパートに軒を接して町工場が点在するような一画であった。小さい工場のいくつかは、祝日でも操業をつづけている。  長井紀雄の住所は、鹿島田駅から徒歩で十五分ほどの所にある古い団地だった。浦上は、もちろん地図で確認して出かけてきたわけだが、路地でバドミントンをしている小学生たちの姿を見かけて足を止めた。 「あそこのたばこ屋の先を右へ行けば、すぐに分かるよ」  と、小学生の一人は、ラケットで路地の先を示した。  市道に出ると歩道一杯に商品を置く下町風の商店街があり、スーパーマーケットの先をもう一度右折すると、県公社の団地が見えてくる。古いけれど陽当たりのいい四階建てが並んでいる。ベランダには、どこも申し合わせたように、布団が干されてあった。  長井紀雄 二十五歳 未婚 母親と二人暮らし 東京都内の私大を卒業して大塚貿易入社は二年前  と、浦上の取材帳には記されている。これまた、谷田先輩から得た知識だ。昨夜『カンナイ』を出て二軒の居酒屋をハシゴしたとき、谷田はこう言った。 「長井が実際に黒い糸と結ばれているのかどうか。結ばれているとしたら糸の先にはだれがいるのか。明日は全員、休日返上で洗い出してやる」  浦上も負けてはいられない。午前中からの聞き込み取材は、谷田にハッパをかけられた結果でもあった。  しかし、『毎朝日報』の記者は、まだ団地を訪れてはいないようだった。 (先輩はどこから糸をたぐり寄せるつもりなのかな)  浦上はそんなつぶやきを漏らしながら、枝振りの悪い並木の下を歩いた。  各棟の出入口にはだらしなく自転車などが放り出されてあり、やたらと大声を出して駆けずり回る子供の姿が多かった。外壁は染みが浮き出たようにくすんでいて、窓枠などもさび付いている感じの建物だった。  団地を取り囲む形の、並木の下の陽だまりで立ち話をする中年の主婦がいた。その三人の主婦が胡散臭(うさんくさ)そうな視線を向けてきたので、浦上は頭を下げた。 「ちょっとお尋ねしますが」  と、長井の住所を伝えると、 「二つ先の西側だけど、今行ってもお留守ですよ」  と、小太りの一人がこたえた。 「さっき奥さんと息子さんは一緒に出かけたわ」  長井はジャンパー姿だったから休日でどこかへ遊びに行ったのだろうが、 「奥さんはお勤めですよ。そこのスーパーのレジで働いています」  と、もう一人が口を添えた。  浦上はその三人と立ち話をする結果になった。主婦たちはもちろん名古屋の現金強奪事件を承知しており、浦上のことを勝手に新聞記者と思い込んでしまったようだ。それならそれでいい。改めて『週刊広場』特派記者の名刺を差し出す必要はなかった。 「かわいそうに、あのおとなしい息子さんがとんでもない事件に巻き込まれてしまったものね」  と、三人は口々に言った。  長井は口数も少なく、女性的ともいえるほどの内向性で、物静かな青年だという。母と子は十年ほど前、空き家募集に当選して、この団地へ引っ越してきた。  長井の父親は、長井が幼い頃病死した、と、主婦たちは聞かされていた。 「奥さんは苦労したらしいわ。でも、さっぱりした、いい人よ。息子さんと同じように控え目なタイプでね、息子さんを育てるために一時は水商売で働いていたなんてうわさする人もいるけど、わたしはそうじゃないと思うわ。器量よしだから、いろんなうわさが出るのよ。あの奥さん、そうしたタイプとは違うわ」 「こちらへ移ってからは、ずっと今のスーパーで働いているわけですか」 「スーパーが開店したのは、六年か七年前なのよ、それまでは川崎のどこかの工場で事務員をしてたって話ね」  長井は高校時代から、新聞配達などのアルバイトをしていたらしい。無論、大学に入ってからもバイトはつづいた。母子家庭の、一般的な生活が、そこにあった。  立ち話は、小一時間にも渡っただろうか。事件に直接関係ありそうな話題は出てこなかった。  主婦たちは、ただ長井に同情するだけだった。  浦上を捕らえたのは、長井が気弱で、引っ込み思案な性格ということだった。少年時代からの長井をよく知る三人の主婦が口をそろえるのだから、それはその通りなのだろう。 (そんな内気でおとなしい男が、どのような経緯で黒い糸と結ばれたのか)  浦上は団地をあとにするとき、自分の中でつぶやいていた。  商店街へ戻ってから、一応スーパーをのぞいてみた。私鉄系ストアのチェーン店だが、売り場はそれほど広くなかった。  レジは四台だった。中年女性は一人で、他の三人はいずれも若い女店員なので、すぐに長井の母親の見当はついた。色白で小柄な女性だった。薄く口紅は引いていたけれども、三人の主婦が語っていたように、一目で、控え目なタイプであることが分かった。  その母親を通して、口数が少なくて引っ込み思案だという長井紀雄が、二重写しに浦上に見えた。  浦上が大塚貿易を訪ねたのは、翌日の昼過ぎである。  長男の昇一が社長をしている大塚住販ビルは、横浜スタジアムの近くだった。赤れんが風なタイルで外装された雑居ビルは七階建てで、一階はレストラン、地下は高級クラブ、二階から上が商事会社などのオフィスになっていた。  浦上はエレベーターで三階に上がった。三階を、大塚貿易と大塚住販のオフィスとが分けている。  ドアを開けると、電話交換台を兼ねる受付があった。 (問題の偽電話は、最初、ここで受けたのだな)  浦上は受付の若い女子社員を見て、そう考えた。 「大塚社長さんと、営業の長井さんにお会いしたいのですが」  浦上は『週刊広場』特派記者の名刺を出した。  受付係は、名刺を手にして奥へ立って行った。  神経質過ぎるほどに、きれいに整とんされたオフィスだった。出版社の乱雑な編集部に比べると、冷たい印象すら与える室内だった。無駄というものがおよそ感じられないのだ。  浦上は改めて、大塚という男の一面を見たと思った。数人の男女社員が、静かに机に向かっている。例の四人もこの中にいるのだろう。だが、受付越しにじろじろと見つめるわけにはいかない。  受付係に代わって別の女子社員が出てきた。 「応接室で、しばらくお待ちください」  と、浦上を廊下へ先導し、隣の小部屋へ案内した。  ゆったりしたソファで、窓ぎわにゴムの大きい鉢植えがあった。 「どうぞ」  と、ソファをすすめる女子社員は、色白で小柄なせいか若くは見えるが三十前後という感じだった。藤沢和子に違いない。 「失礼ですが」  と、浦上が当人かどうかを確かめると、 「はい、経理の藤沢です」  はきはきしたこたえが返ってきた。回転が速く、意志の強そうな女だった。ハイミスに多いタイプだ。  応接室を出て行こうとする和子を、浦上は引き止めた。  偽電話の一件を口にすると、 「明和設備さんの電話はよく受けていますが、あの朝は聞き覚えのない声でした。無条件に伝言を信じてしまったあたしが、いけなかったのですわ」  和子は目を伏せた。 「電話の相手は、どんな感じの人間でしたか」 「男の人、という以外、はっきり覚えていませんわ」 「ことばはどうでしょう? 愛知なまりでしたか」 「特別ななまりはなかったと思います」 「今度の事件で、何か思い当たることはありませんか」 「詳しいことは社長にお尋ねになってください」  和子は事務的にことばを返し、一礼して出て行った。相手は週刊誌の記者だ、余計な口を利かないのは当然かもしれない。しかし浦上は、きっぱりと一線を画している和子の態度にも、大塚社長の意思が細かく反映しているのを感じた。  直接関係者に当たるのは取材の定跡(じようせき)だが、 (仕掛けのタイミングが悪かったかな。がっちり駒組みするのが先だったか)  と、浦上は将棋用語でつぶやいていた。駒組みとは、開戦前の陣形整備を指すのだが、今の場合は警察関係の取材を意味する。  浦上は、たっぷり三十分は待たされただろう。お茶一つ出されるわけではなかった。嫌でも歓迎されない訪問者の立場を思い知らされた。 (門前払いを食わなかっただけでも、よしとすべきかな)  浦上は自分に言い聞かせながら、窓ぎわにたたずんだ。  三階から見下ろすオフィス街は、街路樹が葉を落とす季節だった。こんな風にして街路樹を眺めるのは初めてだ。  舗道を挟んだ反対側のビルは大手弱電メーカーの横浜支社で、一階が広い展示場となっている。展示場の方は、こちらの雑居ビルとは違って人の出入りが激しかった。  眼下の風景にも見飽きた頃、ノックもなしにドアが開けられた。大塚と長井が連れ立って応接室に入ってきた。  浦上にとっては、大塚よりも長井を、しかとこの目で確かめるのが主目的だ。大塚は、ソファにでんと腰を下ろした。巨体、という初印象だった。  長井の方は、しばらくは社長の背後に立ったままだった。視線を避けていたが、だれに対してもそうするタイプのようだった。ほっそりした横顔で、肩幅も狭い。 (なるほど、団地の主婦が話していた通りの男だな。でかいことのできる人間じゃない)  浦上がそう考えたとき、 「こんな事件が週刊誌ダネになるのかい」  大塚が割って入るように言った。太い声だった。 「週刊誌ってのは、女が絡んでいなければ面白くないのと違うか。これは色気も何もないただの強奪事件だ」 「でも、計画的な犯行です」 「ま、大塚貿易を週刊誌でうまく宣伝してくれるのなら別だが、面白おかしく書かれるのではお断わりだ。わしにとっても名誉なことじゃない」 「失礼ですが、今度の出張が決まったのはいつですか」 「そんなことは警察で聞いたらいいだろう。きみが知りたいことは、すべて刑事にしゃべってある」  大塚は部厚い唇をへの字に曲げたが、しかし要点だけは話してくれた。ともあれこうして面会に応じたのだから、満更非協力的というわけではなかった。冗談ともつかずに漏らしたように、大塚貿易を宣伝する、というような下心も少しはあったのかもしれない。  取材慣れのしている浦上だが、容易に肚の中が読めない相手だった。 「警察ではうちの社員をマークしているらしい」  大塚は苦笑するように言ってピースをくわえた。長井がさっと横からライターの火をつけ、それを機に長井もソファに腰かけた。  すでに谷田から聞かされている四人の“容疑者”を大塚は口にし、出張計画が十日前の九月二十五日に決定し、五日前の十月一日になって変更したことを打ち明けた。当初の予定は十月三日だったらしい。 「決定、あるいは変更の時点で、名古屋の協進工業、矢吹商事などへも連絡したわけですね」 「そりゃそうだ」  しかし、電話は入れたが、訪問時間までは正式に決めていなかったという。最初の出張先である神戸の有吉商会との折衝が、流動的だったためである。  名古屋のスケジュールが決まったのは前日、十月五日の夜だった。交渉は横浜本社経由で行われ、経理の和子が、先方に電話をかけたという。  すると、犯人が「午後一時半、明和設備」を決定したのも、十月五日の夜以降ということになる。 (やはり共犯は内部にいるな)  浦上は一層強くそれを感じた。  だが、前夜の決定なら、四人の中から小泉は除外することになろう。小泉は秋田へ出張していたのだから、神戸からの大塚の指示とか、和子が名古屋へかけた電話の内容は知らないはずだ。 「小泉さんの秋田行きも、早くから決まっていたのですか」  浦上はついでに訊いた。 「まあ、同じ九月二十五日の会議でな。行き先は逆方向だが、買い付けの内容は同じだ」  農耕具も、中近東方面からの一括受注だった。  直接の買い付けに際しては、今回の神戸・名古屋出張と同じケースで、大塚自身が現金持参で乗り込むことになるが、その下折衝として小泉を秋田へやらせた、と、これまた、谷田を通じて浦上が承知している内容を大塚は言った。 「秋田出張の日程は、社長の命令で決定したわけですか」 「無論そうだ。しかし、わしとしてはもう二、三日早く行ってもらいたかったんだ」  二、三日早い出張の目的は、社内問題なので大塚は説明しなかったけれど、秋田での下折衝を踏まえた上で、神戸と名古屋へ向かいたい意味があったらしい。 「だが、小泉が風邪で熱を出して、会社を休んでしまってな、それでやむを得ず予定変更して同じ日の出張になった」  同日といっても、大塚が長井を同行して新横浜駅を出発したのは事件前日、五日の朝だが、小泉の方は四日の夜行で上野から秋田へ向かっている。 「こんなことを調べてどうするんだ? 小泉君は事件が発生したとき、秋田から横浜へ帰る途中だった。それこそ事件とは無関係だろう」 「しかし、二千五百万円の動きは知っているわけです」  浦上は、小泉は除外するしかないと自分の中で考えながらも、そうこたえると、 「ばかなことを言うな」  大塚はたばこをもみ消し、ぎょろり、と、目をむいた。 「冗談じゃないぞ。きみまで、うちの社員が犯人だと言うのか。うちの会社にそんな人間はおらん。わしは社員に対して、それほど示しが付かない男とは違う!」  大塚は気が短いのか、太い声が更に大きくなっていた。これ以上癇(かん)にさわるような質問を続ければ、立ち上がって、実際に怒鳴りつけてきそうだった。  そのとき、応接室の隅に置かれた電話が鳴ったので、会話は中断された。浦上はほっと一息入れることができた。 「もしもし、はい分かりました」  長井が受話器をとり、卓上メモに走り書きをした。ボールペンを持つ手つきが、ぎごちなかった。 (この場の雰囲気に呑まれているのかな)  社長とか、招かれざる客である週刊誌記者を目の前にしての応答なので、それで長井は緊張しているのかと浦上は思ったが、それだけではなかった。  長井は左利きだったのである。左利きで、ボールペンを掌で握るような格好で持っているので、なおのこと、ぎごちなく感じられるのだ。  それにしても、電話にこたえる口調が、固くなっていたことは疑いない。団地の主婦たちが語っていたように、気の弱い感じだった。 (こんな男が、犯罪者と手を組むだろうか。長井はシロだな)  浦上の確信が深まっていた。もちろん論理的な裏付けはない。いってみれば、長年事件物の取材をしてきたルポライターの勘だ。  長井は電話を終え、走り書きしたメモを大塚に示した。  大塚はメモを一(いち)べつし、 「用事ができた。帰っていただこうか」  と、浦上に言った。社員に対するのと同様、命令的な語調だった。大塚は、浦上が何か言いかけるのを無視して、腰を上げ、 「あることないこと書いて記事にする暇があったら、一つ、きみの手で本当の犯人を捕まえてくれないか」  本気とも冗談ともつかずにそう言い残して、応接室を出て行った。  長井も、浦上に向かって頭を下げると、大塚のあとに従った。  結局、長井に対しては何一つ質問できなかったわけであるが、 (あの男の顔を見ただけで十分さ)  浦上はそう感じていた。  しかし、小泉と長井をリストから消すと、残るのは経理の和子と、専務の広二ということになる。黒い糸と結ばれているのは、秘書的な立場にいる和子なのか、それとも、社長の実子である広二なのか。 (がっちり駒組みしてから出直そう)  浦上はそんなつぶやきをかみ殺して、大塚住販ビルを出た。  結果を、谷田に報告するために、県警記者クラブへ電話を入れたのは、遅い昼食をとりに立ち寄った、弁天通りの古いレストランでだった。いったんテーブルにつき、ハンバーグ定食を注文してから、レジの横の電話を借りた。 「きみは、気が弱そうだとか、内向的な性格だとか、そんな理由で容疑者を整理するのかね」  谷田は、浦上の説明を真向から否定してきた。 「虫も殺せないような女が、亭主を殺した例だってあるじゃないか」 「それは怨恨などの強い動機がある場合でしょ」 「長井にはその動機があるのだよ。今朝、それをつかんだ。中部本社経由のサツネタだが、これは相当な動機だ」 「金ですか」 「今なら体があいている。めしを食ったら記者クラブへやってこないか」  弁天通りから県警本部まで、歩いて十分とかからない距離だった。  谷田は記者クラブを出て、中華街裏手の小さい喫茶店へ浦上を誘った。 「川崎の団地へ行ったのだろ。長井の住民票を当たったか」  谷田は二人のコーヒーを注文すると、本題に入った。  浦上はマイルドセブンに火をつけた。 「昨日は祝日で休みだったせいもありますが、市役所へ行くことまでは考えませんでしたね。長井の戸籍を、調べる必要があるのですか」 「長井は、旧民法でいうところの私生子だ」 「父親は彼が幼い頃に病死した、と、聞きましたが」 「実の父親は健在だよ」  と、つぶやくように言ってから、谷田もセブンスターをくわえた。これからの説明を強調するために一息入れる、と、そういう感じだった。  中華街裏の路地は曲がりくねっており、喫茶店の小さい窓から見える路地の突き当たりはホテルの裏口だった。外資系の、新しい大きなホテルだ。ホテルに出入りする従業員に混じって、中国服の老女が、買物かごを手にしてのんびり歩いている。 「長井は、東京の私大を卒業して、ストレートに大塚貿易に入社したわけではない。一時、神田の予備校で事務員をしていた」 「講師ではなく、事務員ですか」 「きみはあの男を内向的だというが、事実、能力も大したことはなさそうだ。卒業した私大も、こう言っちゃ悪いが三流だし、神田の予備校にしても、名の知られていない小規模なものでね、長井の社会人としての第一歩は、うだつの上がらないスタートだった。そうした長井に声をかけて、自分の会社へ引っ張ってやったのが、ほかでもない大塚国蔵だ」 「先輩、大塚社長が、長井の実父だというのですか」  浦上の考えがそこへ行きつくのは、大塚の過去が過去だけに当然だ。しかし、一方では、釈然としないまなざしでもあった。  谷田は、深々とたばこのけむりを吐いた。 「結論を先に言えば、そういうことになる」 「あれが、実の親子ですか」  だれがどう見たって、そんな風には感じられないのではないか。大塚は全くそんな素振りなど見せなかったし、長井にしても同様だ。浦上は、大塚がピースをくわえたとき、さっとライターの火をつけた長井を思った。  長井の母親は、川崎市内堀之内町の小料理屋で働いていた過去があった。団地のうわさは、根も葉もないことではなかったわけだ。堀之内町は戦前からの歓楽地で、現在はソープランド街で名を売っている。  長井の母親は、この盛り場で働いていたときに父無し子を出産した。 「警察が当時の朋輩を当たったところ、大塚国蔵の名前が出てきたのだな」 「捜査本部は、隠れた関係を早くからつかんでいたのですか」 「長井が大塚の隠し子と判明したことで、名古屋の捜査本部では、より強く長井をマークしていたんだ」 「なぜですか。大塚は、うだつの上がらなかった長井の面倒を、それなりに見てやっているわけでしょう」 「本気でそう考えるのかい」 「ぼくだって、もう一つ釈然とはしませんがね」 「大塚は、長井を実子として認知したわけじゃない。財産の一部を分け与えたわけでもない。面倒を見るというより利用しているだけではないか、と、中部本社の社会部では言っている。捜査本部と同じ見方だ」 「あんな男に、どのような利用価値があるのですか」 「一昨夜も言ったように、大塚貿易は社長の人使いが荒いし、待遇が悪いので社員が定着しない。たとえば、これはオレんところの若手記者の取材だが、社長秘書のような、いわば重要なポストにいる経理の藤沢和子にしても、入社してから一年にしかならないし、秋田に出張していた、例の小泉保彦は、まだ四ヵ月足らずなんだな。社長と専務を別にすれば、入社二年の長井がもっとも古いことになる。設立後十五年の会社だよ、こんな例は少ないのではないかね」 「社員の出入りが激しいので、飼い殺しとして、自分の血を引く隠し子を引き取ったというのですか」 「長井の母親の方から泣きついたのかどうか、その辺りはまだ聞き込んではいないがね、いずれにしても、大塚の目的ははっきりしている。言いなりになる社員として、長井を利用しているだけさ。今更、大学を出るまで放っておいた子供の、面倒を見るような男じゃない」  確かに、大塚の言いなりになる社員として、長井は格好な対象といえよう。あの性格では、一度得た職場を、自分の方から捨てることもしないだろう。 「だが、転職の決断がつかないような優柔不断な男でも、不満は高じていると思うよ。それは大塚の身近で生活することによって、一層強まっているのではないか」  と、谷田は言う。  谷田の指摘は、大塚の戸籍上の実子である、大塚住販社長の長男昇一、大塚貿易専務の次男広二との比較だった。元町の高級マンションに住む実子とは対照的に、長井は川崎の古びた団地暮らしなのだ。  スーパーで働く母親にしても、大塚にもて遊ばれた揚げ句、ぽいと捨てられたのにも等しい。 「長井には立派に動機があるぞ。実父が幻の存在であったなら、恨みは、内向しても現実的な形は持たなかったかもしれない。しかし、実の子供なのに、一般社員同様の冷たい仕打ちを繰り返されていれば、ちょっとしたきっかけで、怨念に火がつくのではないかね」 「火をつけた男が、雨の中に消えた実行行為者ですか」 「そこで、愛知県警からの依頼で、神奈川県警では、長井の交遊関係を徹底的に洗った。だが、目下のところ、該当するような人間は浮かんでいないということだ。大体、長井は人とつきあわないタイプらしい」 「物証はスーツのそでボタンだけですか。ねえ、先輩、新聞報道を差し控えているのは、そでボタン一つですか」 「ほかには、大塚と長井の隠れた関係ぐらいなものかな。これは被害者のプライバシーだから、派手に書くわけにはいかない」  いずれにしても長井は、もっとも犯行に加担しやすい立場にいたわけだ。その上、動機までが、こんな風に説明付けられてくると、浦上といえども、心証のみで長井をシロと断定することはできなくなってくる。  コーヒーが運ばれてきた。  一口、コーヒーを飲んでから、 「それはそれとして、残る三人はどうでしょうか」  浦上は視点を変えた。広二と和子と小泉。三人の名前を完全に消すことができれば、どのような影の工作がなされていようとも、長井が本犯人(ぼ し)となる。 「うん、三人についても一応は整理したよ」  谷田は取材帳を取り出した。整理とは、谷田をキャップとする記者クラブでの、検討の結果だ。 「まず小泉だが、これは、きみの大塚貿易取材で裏付けられたように、除外してよさそうだな。名古屋のスケジュールが前夜決定したというのでは、秋田に滞在していた人間が犯行計画を立てるのは無理じゃないかね」 「アリバイの点はどうですか。長井は明和設備の社員、広二と和子の場合は大塚貿易社員、と、何人もの証人がいるけど、小泉はどうでしょう」  小泉の犯行は、不可能とは思う。だが、確かな証人があれば、それに越したことはなかろう。  犯人は大塚に顔を見られていないのだから、秋田から名古屋へ行くことができれば、小泉を雨の現場へ立たせることも不可能とは言えないのだ。 「きみの疑問は当然だ。オレの方でも探りは入れてある」  谷田は一昨夜の『カンナイ』のときと同じように、親しい後輩の前に取材帳を開いて置いた。 「小泉は五日の夜、秋田駅近くの『山峡館』というビジネスホテルに投宿。そして、六日の朝八時頃、ホテルをチェックアウトしたことのウラは取れている」 「六日も、秋田で農機具会社との折衝に当たったわけですか」 「いや、仕事は前夜遅くまでかかって終えているという話だ」 「小泉が横浜へ戻ってきたのは夜ですよ。真っすぐ帰れば、そんなに時間はかからない。こりゃ変ですよ」 「小泉は新潟の出身なのだよ。新潟駅で、羽越本線から上越新幹線に乗り換える。その間を利用して、小泉は故郷へ立ち寄っているというんだな」  それが事実なら、小泉もまた、実行行為者とはなり得ない。 「人間、だれでも大金は欲しいだろう。しかし、金銭欲を別にすれば、小泉の場合、長井のような裏の動機もなさそうだ」  と、谷田は言った。  広二、和子の二人にしても同様だった。  事件発生以来五日になるが、当初の二日間というもの、長井はほとんど終日、刑事の質問攻めに遭っていたという。 「なるほど、それで一層おどおどしていたのかもしれませんね」  と、浦上が、大塚貿易応接室での長井の印象を口にすると、 「それも、やつが一枚かんでいることの証明かもしれないぜ」  谷田はうなずいた。 「影の男は、やはり長井と同じ境遇の人間、ということになりますか」 「そうかもしれんな。大塚は福岡、名古屋時代から、そこらの女に何人も子供を産ませている男だからな」  長井は大塚と顔も似ていないし、内気で、おとなしい性格だ。しかし、大塚の性格をそのまま受け継ぐような気の荒い隠し子が登場したらどうなるか。 「出現の可能性は十分考えられるね」  谷田はもう一度、大きくうなずいた。  結論は一致した。  捜査本部でもその点の抜かりはないであろうが、谷田は『毎朝日報』の中部本社はもちろん、西部本社の社会部とも連絡を取り合って大塚の隠し子の線を探ることにし、浦上はもっと直截的(ちよくせつてき)な方法を採ることにした。すなわち、長井紀雄の尾行である。 「徹底的に食い下がれば何か出てくるでしょう。早速今夜から始めます」  浦上はそう言って立ち上がった。 第3章 殺人の夜  大塚貿易の退社時間は午後五時半である。急用が出来(しゆつたい)した場合とか、月末の一週間を別にして、午後六時には完全にオフィスの明かりが消える。  浦上伸介は、それを事前に確認した上で、大塚住販ビル近くの街路樹の陰にたたずんだ。退社時のオフィス街は、当然とはいえ、ほとんどの人が一方に向かって歩いている。浦上は、関内駅へ急ぐサラリーマンやOLの姿を事新しいもののように見やりながら、たばこをくゆらした。  目指す相手が雑居ビルを出てきたのは、二十分ほどが過ぎたときである。 「おや?」  浦上はたばこを足元に捨てた。  長井紀雄には同行者がいた。  それが、藤沢和子だったのである。同僚だから一緒に帰途についても不自然ではないが、時が時だけに、緊張が浦上を過(よぎ)った。  浦上は尾行を始めた。  夕暮れの街は人の動きが多い。尾行は楽だった。  前を行くやせ型の長井と小柄な和子は、何かしゃべりながら歩いている。気のせいか、親しそうな感じでもあった。  十字路の赤信号で立ち止まったとき、和子は、さっき浦上に対したときとは違って、長井を見上げて微笑さえ浮かべている。 (二人の間に同僚を越える交流があったとしたら)  これは問題だぞ、と、浦上はつぶやいたが、しかし思い過ごしであったかもしれない。関内駅北口まできたとき、長井と和子は特に足を止めたりもせずに別れた。  和子の小柄な後ろ姿は、人込みに紛れて改札口を通って行った。  長井は駅の構内を通り抜けて、伊勢佐木町に向かった。ぶらぶらと、雑踏を歩く背中に翳(かげ)があった。和子が同行していたときとは別人のような印象すら与える翳だった。目的を持って歩いているようにも見えるし、そうでないようにも感じられる。  やがて長井は表通りを右に折れ、福富町の居酒屋に寄った。入口に、大きい水車が飾ってある店だった。  店内は広いし込んでいたので、居酒屋での監視も苦にはならなかった。  長井はカウンターで飲み始めた。だれかと待ち合わせている雰囲気ではなかった。  浦上は、たっぷり二時間はつきあわされただろう。  長井は早いピッチで、しょうちゅうのお湯割りを重ねた。ろくなつまみもとらず、コップを手にする長井は、ただひたすら酔いを求めている感じだった。回りの騒音など全く無視して、しょうちゅうを口へ運ぶのである。 (あの男、こんなにアルコールが強いのか)  浦上はつぶやいた。浦上も酒好きな点では人後に落ちないが、今は酔うわけにはいかない。日本酒をちびちびと飲みながら、長井の動きに細心の注意を払った。  カウンターに片ひじをついた長井は、ほとんど体の位置も変えずに飲みつづけている。壁に向けられた長井の視線は、一体なにを見ているのか。  正常な状態でないことは一目瞭然だ。長井は実際に犯行に加担しており、なおかつ刑事の追及が厳しいために、それで怯えているのか。それとも、無関係なのに容疑をかけられたことで、生来の気の弱さからノイローゼ気味となっているのか。 (あの男の性格では、どっちとも言えないな)  浦上は首をひねった。  長井は二時間余りの間に、何杯のお湯割りを飲んだであろうか。酔いが回っても、長井の沈んだ表情は変わらない。  やがて、長井はカウンターから腰を上げた。はた目にも分かるほどに酔っていた。支払いをするためレジの前に立ったときは、全身が前後に揺れるほどだった。  長井は文字通りの千鳥足で、夜の街を歩き始める。  浦上がそのあとにつづく。  何も起こらなかった。だれも長井に接近してこない。  長井は関内駅から京浜東北線の上りに乗車し、川崎駅で南武線に乗り換え、鹿島田の団地へと帰って行った。  浦上の尾行は団地入口の並木までだった。 (長井は捜査の進展を警戒して、それで、陰にいる男との接触を避けているのだろうか)  浦上は鹿島田駅の小さなホームに戻ったとき、自分の中でつぶやいていた。  浦上にとって、長井を尾行することが日課になった。飛び込みのリライトとか、レギュラーで引き受けているコラム原稿などは昼間の内に片付け、夕方になると横浜へ出かけた。仕事の主体は、あくまでも『週刊広場』の「夜の事件レポート」だ。  しかし、その後、捜査に目立った動きが見られないように、四日、五日と過ぎても、長井の周辺に変化は生じない。  長井は毎晩必ず、独りで酒場へ立ち寄り、決まって泥酔するほどに、しょうちゅうを飲んだ。酒場は桜木町駅付近のこともあるし、横浜駅西口の場合もあるが、退社後の時間のとり方は一定していた。  独り酔いつぶれ、国電を乗り継いで、母親と二人暮らしの古びた団地へと帰って行くのである。  なぜか会社を出るときの長井は和子と一緒のことが多いけれども、浦上が最初に尾行したとき同様、和子とは関内駅、あるいは横浜駅などで別れ、酒を飲む場所まで同行することはなかった。  退社後の長井はだれとも会わないし、電話一本かけはしない。 (こんなことで「夜の事件レポート」をまとめることができるだろうか)  尾行の方法に誤りがあるのではないか、と、浦上は考えた。影の男との連絡は会社の昼休み、あるいは帰宅後、電話などでとっているとしたら、夜の尾行は全く意味のないものとなる。  そう、長井が実際に黒い糸とつながっているのだとしたら、繁華街で接触を持つような危険なまねはしないだろう。それに、谷田と話し合ったように、大塚の別の隠し子が登場するとしたら、必ずしも横浜に居住しているとは限るまい。  隠し子は、大塚の名古屋時代の可能性もあるわけだ。それなら現金強奪時の土地勘もあるし、名古屋在住と考えるのが自然かもしれない。  浦上はそう思ったが、『毎朝日報』の調査は、浦上の考えを裏付けてはくれなかった。名古屋で発見された隠し子は二人いたけれど、二人とも女性だった。しかも、二人とも今は平凡な主婦であり、犯行に関係していることは、まず考えられないという。 「でも、大塚のことだから、名古屋のどこかに、別の隠し子がいるかもしれませんね」  浦上は、谷田からの電話連絡を受けたときに言った。 「もちろん、その可能性はある。だが、何分にも古いことだ。その点は、捜査本部でも壁にぶち当たっている感じだね」  谷田はそうこたえてから、大塚の福岡時代の調査結果を伝えた。  大塚は博多で闇ブローカーをしていた頃も複数の女性と関係しているが、判明したのは、一時期同棲していた、加部信江という飲み屋の女だけだった。 「信江との間には二人の子供がいる」 「男ですか」 「上が女、下が男という話だ」  しかし、当の加部信江は三年前に死亡。姉と弟は行方不明だという。  姉は加部光子、三十二歳、弟は卓郎、三十歳。無論、大塚はこの二人も認知してはいない。 「行方不明、というのはどういうことですか」 「姉と弟は、それぞれの職場をやめて、福岡から姿を消した。これが一年半前だ。住民移動届が出ていないので、どこへ行ったのか、探りようがないんだな。関西方面という人もいるし、東京で暮らしているらしい、と、口にした知人もいるが、いずれもうわさの域を出ない」 「行方不明というのは引っ掛かりますね」 「オレも、姉弟そろってどこかへ行ってしまったのは妙だと思うよ。それが今回の事件に関係してくるのかどうか、なんとも言えないな」 「その卓郎という弟が、名古屋辺りに潜んでいれば、おあつらえ向きですがね」 「黒い糸の先にいるのが加部卓郎かどうか、やはり長井からたどって行くしかないね」  話もそこへ戻った。  浦上は、妙案が浮かばないままに、その夜も、長井の退社時間に横浜へ出かけた。犯行からちょうど十日が過ぎていた。十月十六日の火曜日である。  この日も、長井は和子と連れ立って雑居ビルを出てきた。  二人は関内駅から一緒に国電に乗り、横浜駅の改札口を出たところで別れた。 (今夜は西口で飲むのか)  浦上は距離をおいて改札口を通った。  地下通路を上がった長井は右に折れ、岡田屋モアーズ前の人込みを歩いて行く。なぜか、独りになると、ふいに頼りない歩調に変わるのはいつもの通りだ。  長井は土曜日と同じ酒場に寄った。信託銀行とか旅行社などが入っているビルの一階。  長井は混雑する広い店内を勝手知ったように分けて行き、壁ぎわのテーブルに座った。大きい楕円形のテーブルで、そこには、すでに何人ものサラリーマン風の男が酒を飲んでいる。長井は隣席の男に軽く会釈すると、しょうちゅうのお湯割りを頼んだ。これまた、この数日間と同じことだった。  長井の泥酔の仕方は確かに異常と言えるが、こうして独り飲んでいるだけでは、浦上にとって何の収穫ともならない。  しかし、この夜は、初めて動きがあった。いらいらとしながら、小一時間が過ぎる頃だった。  離れたテーブルにいる浦上の前にも、おちょうしが三本並んだとき、サラリーマン風の男が現れたのだ。三十歳前後の男だ。  浦上は長井にばかり注意を向けていたので、たばこの煙と騒音に満ちた広い店内に、その男が入ってきたことを、最初気付かなかった。中肉中背、これといった特色はないが、まばたきもせずに、じっと相手を見つめる男だった。 (あれ?)  浦上が体の向きを変えたのは、男が楕円形の大きいテーブルの傍まできたときだ。男は長井を確認するようにしばらくたたずみ、長井がふっと顔を上げ、男を意識するのを待って、笑みを投げた。笑みを浮かべても、男の鋭い眼光は変わらない。 (あいつか? あれが影にいる男か)  浦上は本能的に、男のスーツのそでのボタンに目を向けていた。だが、この男が犯人であるなら、いつまでもボタンの失せたスーツを着てはいないだろうし、距離があるので、実際には確かめようもなかった。それに、男のスーツは濃紺ではなかった。上下とも薄い茶色だった。  男は、自分の方から長井の隣席に腰を下ろした。目付きは険しいが、物腰は静かな感じだった。  男も、長井に同調するように、しょうちゅうのお湯割りを頼んだ。長井とは違って男は何点かのつまみを注文し、ついでに自分の伝票で、何杯か、長井のしょうちゅうの追加を取ったりした。あとからきた男の方が、気を遣っている感じだった。  何かと話しかけているのも男の方だ。 (あの男が実行行為者だとしたら、実権を握っているのは長井ではなくて、あの男だな)  浦上はそんな目で二人を見やりながら、日本酒をお代わりした。  長井と男は腰を落ち着けた感じである。それならそれで、こっちもゆっくり飲むしかあるまい。  時間の経過とともに、浦上も酔ってきた。これまでの尾行では極力セーブしていたのだが、長井に変化の生じたことでピッチが上がった。  男が入ってきてからたっぷり一時間は過ぎ、浦上の腕時計は八時を回った。長井も浦上も二時間は飲みつづけたことになる。長井はいつものように、深酔いしてきたようだ。当初は男の視線を避けて下を向いていたのに、自分の方から顔を上げて、何か話しかけるようになっている。男は、しきりに長井にしょうちゅうをすすめている。  長井の、顔の締まりがなくなってきた。 (やつら、何をしゃべっているんだ?)  浦上は離れた席にいることが堪え難くなってきた。長井が初めて他者と接触したのに、会話の内容をメモることができないなんて、あとで谷田先輩に何を言われるか分からないぞ、と、そう考えた浦上は、意を決したように立ち上がった。  酒の酔いもあったが、テーブルの上の伝票を手にして、浦上はそろそろと奥のテーブルに近付いた。 「おや『週刊広場』の記者さんじゃないですか」  長井の方から目を向けてきた。  泥酔した長井は、大塚貿易の応接室で、社長の背後に控えていたときとは別人のようだった。  内向的な性格はどこかに散らついているけれども、ぐっと冗舌になっている。 「記者さんも酒豪のようですね。お住まいは横浜ですか」 「いえ、東横線の中目黒です。でも親しい先輩が横浜にいるので、横浜で飲むことは多いですね」  浦上は、もちろん出会いが偶然であることを装った。 「偶然ですって?」  長井は薄ら笑いを浮かべて手を振った。 「本当にそうですか」  酔いは隠しようもないが、目の動きが違っている。長井はつづけた。 「うちの会社へ取材にきた夜、伊勢佐木町裏の飲み屋でも一緒だったじゃないですか。ほら、入口に大きい水車がある居酒屋ですよ」 「ええ、伊勢佐木町でもよく飲みますよ」  と、こたえる浦上の声が上ずった。この男、こんな顔してるくせに、尾行に気付いていたのか!  緊張が、じわじわと浦上の内面に広がってくる。 「記者さんはぼくを疑っているのですか。ぼくは刑事につけられたこともあります。刑事の尾行がなくなったと思ったら、今度は週刊誌だ。ぼくなんかを洗っても、何も出やしませんよ」  長井はべらべらとしゃべった。確かに、昼間とは別人のようだ。それにしても、これほど神経が回る男とは意外だった。  では、あとから入ってきて同席したこの男はだれなのか。二人の間に、黒い糸は介在しているのか、いないのか。  男の方は、浦上が大塚貿易を取材する週刊誌の記者と知ったせいか、やや強張った表情に変わっている。長井と話し合っていたときの笑顔は消えて、浦上を見るときは伏目勝ちだった。  この男は、今話題に出た“尾行”をどのように受け止めているのか。浦上としては、尾行に気付かれていたこともショックだが、何よりも知りたいのは、同席者の身元だ。  今更、へたな弁解は無用だと思った。浦上は酔いにまかせて、二人と向かい合ういすに座った。  浦上は席が変わったことを店員に伝え、伝票を示して新しいおちょうしを注文した。  長井の方から切り出してきた。 「ちょうどいい、紹介しておきましょう、こちらは、うちの会社の小泉さんです」 「小泉さん?」  影の男とは違うのか。浦上は、ひょいと肩すかしを食った気がした。 「あの日秋田へ出張されていた、小泉保彦さんでしたか」 「小泉さんもマークされているのでしょ」  長井は先回りするように言った。こうした会話を交わしながらも、長井はぐいぐいとしょうちゅうを飲んだ。さらに酔いが深まり、呂律(ろれつ)も怪しくなってきた。  浦上は尾行を指摘されたことで、酔いも中断、という格好だが、指摘した長井の方はいい調子になっている。  長井は本当に事件と無関係なのだろうか。それとも、酔いを支えとしての弱者の開き直りなのか。  小泉の方は酔っているのか、そうでないのか、一目では見当もつかなかった。長井にしゃべりかけていたときとは逆に、ぐっと口元を引き締めている。無駄口は一言も利かないという感じだ。時折、浦上に向けてくる視線に、険しい翳があった。  その小泉が正面切って浦上を見たのは、浦上が『週刊広場』特派記者の名刺を手渡したときである。小泉も大塚貿易営業部と肩書のついた名刺を返して、こう言った。 「早く犯人が逮捕されないと困ります。会社全体がぎすぎすしていますし、第一、長井さんが気の毒ですよ。長井さんを尾行したのは、警察と同じ観点に立ったからですか」 「そうじゃありません。会社ではお話を聞けなかったので、リラックスした場所でいろいろお尋ねしたかったのです」  浦上が苦しいこたえ方をすると、 「本当かなあ」  長井が酔ってどろんとした目を向けてきた。テーブルに片ひじをついているのだが、それでもおぼつかないように、上半身がふらふらしている。 「だったら、さっさと話しかけてくればよかったじゃないですか」 「そうおっしゃるけど、お独りで飲んでいるときの長井さんは近付き難くて、声をかけるのをためらっていました」 「ぼくは何もしていないんだ。知ってることは何でも話しますよ。さあ聞いてください」 「日を改めた方がいいのではないですか」  小泉が仲に入った。 「今夜の長井さんは酔い過ぎていますよ」  浦上も同感だった。日を替えて、そのときは小泉に同席してもらってもいいな、と、思った。  小泉はまなざしが厳しくて、どこかに翳のあるような男だが、言動は物静かだし、実際に話し合ってみると、それほど感じの悪い人間でもなかった。  それから三十分ほどして、三人は一緒に酒場を出た。  長井は、もはやしゃべっていることも支離滅裂だし、一人では満足に歩けないほどに酔っていた。この数日間の中で、もっとも激しい酔いどれ振りだった。  小泉という同僚と一緒になったので、寄りかかる気持ちになったためでもあろうか。気のせいか、浦上がまともに接近したので、こんな具合に酔いの底に沈んだようでもあった。そう、どうしても酔わなければいられない感情が、長井の内面で渦を巻いているのだろう。  渦巻くものの実体を、追及しなければならない。 「これでは、一人じゃ帰れませんね」  浦上は小泉に話しかけた。小泉は長井に肩を貸し、抱きかかえるようにしている。 「今夜はぼくのアパートに泊まってもらいます」  と、小泉はこたえた。 「アパートはタクシーで二十分足らずですし、ぼくは一人暮らしなので気兼ねは要りません」 「近いうちお電話しますよ。今度はこんなに酔わないときに、三人でお会いしたいですね」  浦上は駅前のタクシー乗り場で別れるとき、小泉に向かって繰り返した。  小泉の手を借りてやっとタクシーに乗った長井は、崩れるようにして、正体もなく後部座席へ倒れ込んだ。  翌日は雨になった。久し振りの雨である。  午後、浦上は神田の『週刊広場』編集部へ出かけた。 『週刊広場』は大手総合出版社の発行で、編集部は、本社ビルがある一ツ橋から徒歩で十分ほどの、錦町の分室にあった。七階建て、細長い雑居ビルの三階である。  捜査は行き詰まったままだ。浦上は、すぐにも小泉と長井に電話を入れたかったが、昨日の今日というのも気がひける。尾行も、必然的に中断ということになる。  浦上が編集部でそうした経緯を報告すると、 「原稿にする段階じゃないね」  長身の編集長は渋い顔をした。編集長は愛用のパイプたばこに火をつけ、 「それじゃ、横浜と名古屋の動きを注意しながら、別の特集を一本やってもらおうかな」  と、話題を変えた。  素材(ね た)は、三角関係のもつれによる愛欲殺人。あまり気乗りもしなかったが、場所が山口県の下関市と聞いて、浦上は、編集長が示す地元紙の切り抜きに手を伸ばした。 『週刊広場』の締め切りは木曜日だ。今日が水曜なので、これは当然来週の入稿ということになる。  時間はたっぷりある。 「下関の取材を終えたら、福岡へ回ってもいいですか」  浦上はざっと切り抜きに目を通してから言った。 「三十年前の博多を、ついでに探ってくるというのかね」 「大塚国蔵の隠し子が二人、行方不明になっているのですよ」  と、谷田から得た情報を説明すると、 「よし、決まりだ。浦上ちゃんの都合で、明日でも明後日でも、好きなときに出かけてくれ」  編集長は一も二もなく、オーケーを出した。  朝から降りつづく雨は、夜になってさらに強くなった。  浦上は取材費の仮払い請求など、旅立ちの準備をして、新宿へ回った。  将棋センターへ立ち寄り、時間をかけて二局を指した。二局とも一手違い、惜しいところで勝ちを逃したが、気分は軽やかだった。何日か振りで駒を持つことができたのと、納得のいく相矢倉を戦うことができたためである。  将棋センターをあとにしたのが、午後十時頃だった。  雨は一段と激しく降りつづいている。 (今夜は仕事を離れて、じっくり飲むか)  浦上はこの数日間の“尾行”を思い返しながら、ネオン街へ足を向けた。  下関へは明日夜までに到着する予定を立てていた。取材は明後日からという段取りだ。正午近くに、新幹線で東京を出発すれば十分だろう。  浦上は雨を避けるようにして靖国通りを横断し、歌舞伎町のバーへ入って行った。『週刊広場』の連中とたまに立ち寄る、女気のない地下のバーだった。店は、細長いカウンター形式になっている。  雨のウイークデーで、早いとはいえない時間だが、料金の安いバーは馴染み客で込んでいた。  浦上は席を詰めてもらい、入口近くのカウンターに腰を据えると、水割りを注文した。  雨の横浜で、異変の発覚したのがその頃である。  現金強奪事件が発生した十一日前の名古屋と同じような強い雨が、舗道を濡らしていたのは偶然だろうか。  横浜市西区紅葉(もみじ)ケ丘。桜木町駅から徒歩で十分余りの場所であった。横浜の中心地に近いが、夜ともなると、ほとんど人通りの絶える坂道だった。  道の片側には、県立青少年センター、図書館、婦人会館、横浜職業訓練所などが立ち並んでいるので、昼間は人の出入りも多いが、夜は別世界のようにひっそりとする一角だった。舗道の反対側は、伊勢山皇大神宮の裏手で、大きく枝を広げた老木が石段を覆っている。  石段を上がって表に出れば横浜港を一望の中に収めることができるけれども、裏側は真っ暗な木(こ)の下闇(したやみ)だ。  しかし、国道1号線方面への近道なので、夜がふけても、タクシーなど車の往来だけは絶えることのない坂道であった。  その乗用車は、伊勢山皇大神宮裏手の、石段近くに止まっていた。黒塗り、大型の外車である。  この夜、紅葉坂を通りかかった、タクシー運転手の何人かの証言を総合すると、外車は午後八時半頃から停車していたらしい。すなわち、異変が発見されるまで、二時間近く、外車は強い雨の中で放置されていたことになる。  発見者は二十一歳と二十歳のアベックだった。人目を避ける若い二人は、人気のない雨の坂道を上がってきた。いったん黒塗り車の横を通り過ぎてから、 「おかしいぞ」  男が足を止めた。本能的に抱いた不審だった。  乗用車の運転席には男性が一人乗っていたが、ハンドルに寄りかかる影が、身動き一つしないのだ。こんな時間に、こうした場所で仮眠ということもなかろう。 「急に体の具合でも悪くしたのかな」 「いいから、いきましょうよ」  女はかかわりあいになるのを避けたが、男は車の傍へ戻った。 「こ、殺されてる!」  男が甲高い声を発したのは、傘を片手に、火をつけたライターをフロントガラスに近付けたときだった。死んでいると言わずに、 「殺されてる!」  と、叫んだのは、血塗られた刃が、男の左胸に突き刺さっていたためである。  大柄な男だった。 「きみ、一一〇番だ!」  発見者の男は、連れの女の手を取り、青少年センター前の電話ボックスに向かって、雨の坂道を走った。  翌十月十八日の朝、浦上はぐっすり眠っているところを、電話で起こされた。壁の四角い時計を見ると、午前五時五十分だ。  前夜は歌舞伎町の細長いバーで、徹底的に飲んだ。タクシーで中目黒のマンションに帰ってきたのは、深夜の二時近くだった。その浦上にとって、午前六時前といえば、夜半にも等しい。  ウイスキーの酔いも残っている。 (こんな早くからだれだろう)  浦上は寝ぼけまなこでつぶやき、毛布をかぶった。  電話は止まらない。 「全く非常識なやつだ。こっちは普通のサラリーマンとは違うんだ」  浦上は声に出してつぶやき、それから受話器を取った。 「朝帰りか」  いきなり太い声が飛び込んできた。 「昨夜、何度も電話を入れたんだぞ」  谷田だった。浦上は慌てて受話器を持ち直した。 「おい、大塚国蔵が死んじまったぞ」 「死んだ?」  浦上ははっきりと目覚めた。 「殺されたのだよ。刃渡り二十三センチの柳刃包丁で、心臓を一突きだ」 「朝刊には間に合ったのですか」 「各紙都内版がやっと、というところだ。参考になるような記事は載っていない。勝負はきょうの夕刊だね」  朝、六時からテレビのニュースがあるだろう、テレビを見てからオレの家へ電話をかけ直してくれ、と、谷田は一方的にしゃべった。  浦上は受話器を戻すと、とりあえず水を一杯飲んでから、テレビのスイッチをひねった。  ニュースは、昨夜の大塚国蔵殺害事件をトップに持ってきた。雨の夜の紅葉坂が写し出され、黒塗りの大型外車がクローズアップされた。一、二年前から大塚が愛用している乗用車だった。  浦上はテレビを見ながら取材帳を開き、ボールペンを手にした。職業からくる、無意識の行為だった。  県警捜査一課の応援を得て、紅葉坂殺人事件捜査本部は、昨夜のうちに所轄の戸部署に設置された。  ニュースは、凶器の柳刃包丁が真新しいものであること、司法解剖の結果、死亡時刻が午後八時半前後であることを報じた。大塚は即死状態だったという。  最後に、関連事件として、十二日前の名古屋の現金強奪事件をニュースは伝えた。 「殺人(ころし)の犯人(ほ し)も、例の四人、広二、和子、長井、小泉の中の一人でしょうか」浦上は無我夢中で電話をかけ直すと、そう切り出した。  谷田は夫婦二人暮らしだった。横浜市港北区、東横線と横浜線が交差する菊名駅近くの、団地の三階に入っている。電話口には、待っていたように谷田が直接出た。 「まだ表面には現れない、影の男の凶行かもしれない。だが、いずれにしても、問題の四人とつながりがあることは間違いないだろう」 「先輩、きょうは何時に記者クラブへ出るのですか」 「昨夜は半徹夜だよ。これから一眠りして、じかに大塚貿易へ行ってみるつもりだ。同行するかね」 「お願いします」  横浜駅西口で、正午に落ち合うことにして電話を切った。  こうなったら、下関出張どころではない。浦上は『週刊広場』編集長の自宅へ電話を入れて、横浜取材を優先させることを伝えた。 「分かった。で、浦上ちゃん下関はどうするかね、だれかピンチヒッターを立てるか」 「いえ、ぼくがやります。下関というよりも、福岡へ行かなければならないでしょう。行方不明の二人の隠し子を、どうしても探ってきたいと思います」  浦上は、大塚国蔵が殺されたことで、昨日よりもさらに強く、姉弟の行方を追及する必要を感じた。取材は横浜優先とはいえ、福岡も軽視できまい。具体的なデータは示されていないが、そう考えるのはルポライターとしての本能だった。  二日酔い気味で食欲がない浦上は、インスタントコーヒーを二杯飲んで、中目黒の『セントラルマンション』307号室を出た。一眼レフの取材用カメラを手にしただけの軽装である。昨夜の雨は上がって、朝日がまぶしい。昨日の朝は長井もひどい二日酔いだっただろうな、と、思った。一昨夜の長井の酔い方は、昨夜の浦上の比ではなかった。 (待てよ)  浦上は桜木町行きの東横線に乗ったとき、思わずある一点に目を向けていた。ひょっとして、一昨夜の異常ともいえる長井の乱酔は、昨夜の大塚殺しと関連があるのではないか、というようなことを考えたのだ。長井は、事前に、明日(すなわち昨夜)の大塚殺害を察知する立場にいて、それであのような酔い方をしたのではないか。  長井みたいな気弱な男に、柳刃包丁を振りかざしての殺人ができるとは思えない。だが、犯人たちが殺害計画を話し合った場に、同席していた可能性がないとは言えまい。長井はその秘密を守るために緊張し、予定された殺人計画の影に対する怯えが、ああした酔いとなって表れたのではないだろうか。  きょうは、何が何でも、あの男に会う必要がある。  しかし、最初に捜査本部を訪ねるのが順序だった。浦上は横浜駅で京浜急行に乗り換え、下りで一つ目の戸部駅で降りた。  国道1号線沿いに建つ戸部署へは、取材で何度かきたことがある。  受付に名刺を通すと、広報担当の次長が面会に応じてくれた。次長席は一階大部屋の一番奥である。次長を取り囲んで新聞記者が三人、なにやら雑談していたが、受付係の婦人警官が浦上の名刺を持って行くと、その名刺を次長の肩越しに無遠慮にのぞき込み、 「もう週刊誌がきたのか」  と、そんな顔で、三人の新聞記者は次長席から離れて行った。  小太りな次長は五十年配だった。眼鏡をかけており、頭髪が薄い。 「名古屋に関連しての取材ですかな」  次長は、横のソファを浦上にすすめた。  記者クラブに所属する新聞記者に対するのとは違って、週刊誌記者に対しては、事務的な返事しかしない次長が多い。この次長が笑顔で応対してくれたのは、その人柄のせいもあろうが、かつて連続婦女暴行事件を取材したときの紹介者が『毎朝日報』の谷田だったために違いない。  浦上を覚えていた次長は、笑顔でこたえてはくれるものの、しかし内容は、テレビニュースの域を越えなかった。 「本格的な捜査会議はこれからでしてね、捜査本部長の記者会見も午後になるでしょう」  と、次長は言った。これでは粘りを身上とするルポライターも食い下がりようがない。  次長は三十分ほどつきあってくれたが、浦上にとっては顔つなぎに終わった。  署内はなんとなくざわついている。私服の動きなども慌ただしい感じで、私服刑事の何人かが、そっと次長に耳打ちをしていったりした。  捜査会議に備えての緊張した空気が、所轄署全体を占めている。 「お忙しいところをすみませんでした。また寄せていただきます」  浦上が頭を下げて立ち上がると、小太りの次長も腰を上げ、急ぎ足で、二階の刑事課へと向かって行った。  浦上は収穫のない戸部署を出ると、建物をカメラに収めた。所轄署を撮影するのは取材の常識だ。  谷田との待ち合わせまで、たっぷり一時間はあった。  浦上はタクシーを拾い、とりあえず犯行現場の紅葉坂へ向かった。伊勢町を上がり、戸部郵便局の先を左へ下って行くと、現場はすぐだった。急な坂道は、夜とは違って車も人の往還も多い。  すでに、黒塗りの乗用車は片付けられていたが、制服の警察官が二人、伊勢山皇大神宮裏手の石段の辺りに立っていた。浦上はタクシーを待たせて、何枚かシャッターを切った。  坂道を下り切った先はガードで、東横線と国電の根岸線が並行して走っている。ガードの向こう側が“よこはま21世紀プラン”の中核的プロジェクトである“みなとみらい21”のための広い用地で、その先が横浜港となる。  浦上はファインダー越しに風景を捉えながら、大塚国蔵のふてぶてしい態度を思った。会ったのは一度だけだが、脂切って大きな顔をした大塚は、強烈な印象を残している。  横浜駅西口は、いつものようににぎやかだった。駅ビルの中二階にある喫茶店へ、谷田は十分ほど遅れて、大柄な姿を見せた。若い客が多い、明るくて広い店だ。 「すまん、すまん」  谷田は手を振って入ってきた。まぶたが厚く、まだ眠そうだった。 「一足先に戸部署へ寄ってきました」 「特に動きはなかっただろう」 「署内全体がぴりぴりしていました」 「そりゃそうだ、殺人(ころし)の捜査本部が置かれれば、どこだってそういうことになる」  谷田はコーヒーを注文し、浦上と同じようにブラックで飲んだ。  浦上が、本来なら下関へ出張する予定だったことを伝えると、 「福岡が眼目か。そりゃ行かずばなるまいな」  谷田もうなずいた。 「姉弟行方不明の経緯はなんでしょうかね」 「今回の犯行に直接関係なかったとしても、大塚が殺されてみると、大塚の血を引く実の子供だけに何かに使えるね。特に週刊誌の特集なら、記事に厚みが出る」 「大塚の死が報道されたことで、名乗り出てくるでしょうか」 「シロなら現れるだろう。しかし、ひょっとして、姉弟は大塚国蔵が実の父親である事実を知らされていないのかもしれない」 「無関係なら無関係でいい。行方だけはつかんでおきたいですね」 「で、いつ出かける?」 「下関の締め切りは来週木曜日です。ネタはありきたりな三角関係だし、取材は簡単に終わるでしょう。締め切りまで時間もあるので、横浜の動きとにらみ合わせて行動します。それにしても、大塚は、なぜあんな場所で犯人と遭遇したのでしょうか」 「夜の紅葉坂へ行ったことがあるかい? おまけにあの強い雨じゃ、アベックの通りかかったのが不思議なくらいで、滅多に人通りなどありゃしない。坂道を走り抜ける車だって、路傍に停車している乗用車をいちいち注意したりはしないだろう。その意味では、犯行に都合のいい場所とは言える」 「名古屋と同じ手口で、呼び出されたのでしょうか」  と、浦上が一昨夜長井と小泉に接近したことを報告し、長井の泥酔振りに関しての疑惑を口にすると、 「ああ、計画的だとは思うよ」  谷田も肯定し、セブンスターに火をつけた。 「しかし今度の場合は、呼び出されたのではなくて、大塚の方から相手を呼び付けたのかもしれない」 「凶器の柳刃包丁は大塚が用意したというのですか」 「そう飛躍されては困る。ただ、大塚はその経歴からも分かる通り、独得な嗅覚を持っている人間だ。現金強奪犯について、大塚は、捜査本部やわれわれの気付いていない何かを突き止めたのかもしれない」  犯人内部説が動かないのなら、外部の人間よりも大塚の方が、ぐっと有利な立場にいるのは自明の理だ。  しかし、何かを発見したのなら、まず捜査本部へ通報するのが、常識ではないか。 「あの男は、過去にいろいろあるわけだろう、第三者に知られたくない部分と二千五百万円事件がつながっているとしたら、自分で解決しようとしたかもしれない。そのくらいな実行力は備えている男だ」  だが、大塚は、何かをつかみかけたのかもしれないが、結果的には死体となって発見されたのだ。  死体を残して、またしても雨の中に消えた犯人。  犯人は、すでに、浦上や谷田の前にちらっとでも姿を見せているのだろうか。 「正体もなく酔いどれていたという長井に、オレも、きみが感じたのと同じ意味で新しい興味がわいてきたよ」  谷田は駅ビルの喫茶店を出るとき、重い声でつぶやいていた。  大塚貿易には、二日間臨時休業の張り紙が出ていた。七階建ての大塚住販ビル全体がひっそりとしている感じだった。部屋を借りているほかの会社のオフィスも、目立った動きは差し控えているのだろう。  谷田と浦上がエレベーターで三階へ上がり、大塚貿易のオフィスに入って行くと、ちょうど二人の刑事が帰るところだった。刑事にあいさつしているのは、藤沢和子と小泉保彦の二人だ。それから察するに、刑事は、和子と小泉の聞き込みにきたのに違いない。  長井紀雄と、専務の大塚広二はどうしたのか。室内には和子と小泉を入れて五人の社員がいたけれど、長井と広二の姿が見えない。捜査本部に呼び出されているのかと思ったら、そうではなかった。  大塚住販も含めて、ほとんどの社員は山手町の社長邸に詰めているという。和子や小泉たちも、外部への連絡を終えたら、駈けつける段取りだった。午後六時から通夜が営まれるのである。  てきぱきとした口調で、それをこたえたのは和子だった。今オフィスにいる社員たちの指揮を取っているのも、社長秘書的な立場にいる和子のようであった。  谷田と浦上は、改めてお悔やみを言った。 「私たちも、これからお焼香に伺うつもりですが、その前に、一、二お話を聞かせてくれませんか」 「こんな矢先に困りますわ」  和子は、大柄な谷田を見上げて言った。色白の小柄だが、気の強そうな話し方だ。こうした点を、大塚社長に買われていたのかもしれない。 「さっきも、ほかの新聞社が見えたけど、帰っていただきました。それに、あたしたちが承知していることは、今の刑事さんに全部お話しました」 「捜査員にしゃべったことの繰り返しでいいんですよ。お願いします」  谷田と浦上は粘った。  少なくとも、大塚がだれかに呼び出されたのか、大塚の方で“相手”を呼び付けたのか、その辺のヒントだけでも欲しい。捜査本部経由ではなく、直接、関係者の口から聞き出すことが大事なのだ。じかに確認を取ることで新しい発見を得る例は多い。 「昨日の夕方、大徳開発さんからお電話をちょうだいしました」  和子が渋々と切り出したのは、五分ほどのやりとりがあってからだった。谷田と浦上の粘りに屈した形である。  何かをこたえなければ動こうとしない取材記者に、手を焼いたという感じで、 「大徳開発さんからの電話は、社長へのお誘いでした」  と、和子は言った。もっとも、その内容自体は、刑事から口止めされているような事柄でもないし、故人のプライバシーに触れるようなことでもなかった。  大徳開発は同業の貿易会社で、大塚住販の顧客の一社だった。大塚住販は横浜市内にもう一つの雑居ビルを持っているわけだが、大徳関発ではその一室を借りることになっていた。 「賃貸契約の打ち合わせで、お会いしたい、と、電話が入ったのです」  本来なら大塚住販の仕事だが、先方は大塚国蔵と個人的に懇意にしているので、それで声をかけてきたのだという。 「では、社長は大徳開発へ出かけられたのですか」 「いいえ、指定されたのは紅葉坂です」 「昨夜の事件があった、あの場所ですか。なんであんな所へ?」 「大徳開発の社長さんは、紅葉坂の県立青少年センターへ出かけていらしたというのです」  昨夕、県立青少年センターでは、古典芸能鑑賞会が開かれており、「義経千本桜」が上演されていた。 「閉演が午後八時半なので、その頃センター内の喫茶室へお越しいただけないか、という社員の方の伝言でした」 「先方は直接社長さんがかけてきたわけではないのですか」 「社長さんはお出かけということで、昨日の場合は伝言でした」 「しかし妙ですな。そんな時間に、そうした場所で賃貸契約を話し合うなんて常識では考えられません。その点について、刑事さんは何か言ってませんでしたか」  和子はこたえなかった。 「どう考えてもおかしいですよ。あなた方はそう思いませんか」  谷田が繰り返すと、 「そのことですが」  遠慮勝ちに口を挟んだのは小泉だった。小泉は言いにくそうに説明したが、大塚と大徳開発の社長は、同業者であると同時に、遊び仲間でもあった。二人は連れ立って、よく高級クラブなどへ出入りしていたらしい。  昨夜の誘いも、遊びの方に重点がおかれていたのではないか、と、小泉は遠回しに言った。大徳開発の社長は自分では車を運転しないので、外車を乗り回している大塚に声をかけることが多かったようだ。 「なるほどね」  谷田はうなずいた。  和子は、谷田に誘導された結果とはいえ、そんなことを話してしまった小泉に対して、ちょっと不機嫌な顔をした。そう、それこそ故人のプライバシーに属する事柄であり、捜査員でもない相手に、こたえる必要のない内容だ。  それにしても、和子の態度は何だろう? 単に社員として社長をかばっているのか。いや、和子には、殺された大塚とどこかで密着している部分がありそうだ。浦上にはそんな気がした。  が、いずれにしても、この呼び出し電話には問題があった。  名古屋の場合と同じことで、電話をかけてきた先方は大徳開発の社員と名乗ったが、和子は、やはり聞き覚えのない声だったというのである。 「電話はこの前と同じように、ここを中継して受け取られたのですね」  浦上は受付の交換台を指差した。 「最初に電話を受けた社員も、先方の声に聞き覚えがなかったのですか」 「いえ、交換台ではありません。電話は社長と経理専用の、直通受話器へかかってきたのですわ」  直通電話なので、直接、和子が取ったのだという。 「失礼ですが、名古屋の事件があった直後なのに、あなたは聞き覚えのない声に疑問を抱かなかったのですか」  浦上が口調を変えて問いかけると、和子は一瞬、視線を避けた。 「今になって考えればそうですが」  と、しばらくの間をおいてこたえた内容は、小泉の説明に共通するものだった。大徳開発の社長が大塚の夜の遊び仲間であることを、和子ももちろん承知していたのである。昨夜のような形での呼び出しは、よくあることだった。  その上、相手のかけてきたのが、親しい人しか知らない社長直通の電話だったので、なおのこと特別な不審は感じなかった、と、弁解されれば、浦上としても納得せざるを得ない。  だが、昨夜の場合は明らかに偽電話だ。大徳開発の社長は、横浜にはいなかったのである。呼び出しの伝言など指示するわけがなかった。  当人が三日前から、夫人同伴で伊豆高原の別荘へ出かけていたことを、今朝、和子自身が確認している。和子からの市外電話を受けた大徳開発の社長は、今、横浜へ向かっているところだという。 「大徳開発では、実際にはだれも電話を入れてないわけですね」  浦上は腹が立ってきた。電話が偽と判明していたのなら、最初からそう言えばいいではないか。  初めて会ったときから、和子はいい印象を与えなかった。今、偽の呼び出し電話について持って回ったこたえ方をしたのは、伝言をうのみにしたことの責任回避の意味があるらしい。 (嫌な性格だ)  と、浦上は考え、 「名古屋の場合と同じだな」  谷田は自分に言い聞かせるように繰り返した。大塚と大徳開発社長の交遊を熟知している内部の人間でなければ、この呼び出し電話はかけられない。  ほかの理由での誘い出しなら、当然、電話を受けた社員が疑惑を覚えるはずだ。いや、当の大塚自身が、そんな場所へ出向いて行ったりしないだろう。  偽電話で誘い出しておいて襲う。車を利用した手口も名古屋の犯行に共通している。 「名古屋のときの電話は、まだ覚えているでしょう。どうですか、今回と同じ声でしたか」 「違います」 「無論作り声でしょうが、どこか似ているような点は感じられませんでしたか」 「全く別人ですわ。だって昨日の電話は、女性でしたもの」 「女性?」  一味には女性もいるのか。  犯人は二千五百万円を強奪し、今度は大塚国蔵の生命を奪った。 (動機は、やはり私怨だな)  それがはっきりしてきた、と、浦上は思った。  大塚は、(谷田が思い付いたように)独得な嗅覚を働かせて犯人を突き止めたのではなかった。間違いなく、殺害されるために誘い出されたのである。こうなったら、一刻も早く長井に会わなければなるまい。  あの泥酔の背景には何があるのか? 何もないのなら、何もないことをはっきりさせる必要がある。浦上と谷田の前に提示されている手がかりは、長井だけなのだ。  谷田と浦上はみなと大通りへ出て、横浜公園の前からタクシーを拾った。  山手町の大塚邸まで、十五分の距離だった。タクシーは元町の先を右折する。  急な坂を上り切って、広い舗道へ出ると教会があった。  広い敷地を持つ、豪壮な和風二階建ては、教会と斜めに向かい合う場所にあった。横浜の中心地を一望の下に見下ろす一等地だ。付近は大きいヒマラヤ杉などを植えた洋風建築が多いので、大塚邸の特色のある枯山水の庭が目立った。  大谷石の長い塀に沿って、陽当たりのいい広い舗道に何台もの乗用車が停車している。高級車の中に二台、パトカーの混じっていることが、一般の弔問と違った。  浦上はタクシーを降りると、二台のパトカーを入れて、大塚邸をカメラに収めた。何枚かシャッターを切っているうちに、ファインダーの中に見覚えのある顔が浮かんだ。  肩を落として、高い冠木(かぶき)門の下から出てくる痩身は長井紀雄だった。しかも、長井の両脇には一目で刑事と分かる二人がおり、長井の両手には手錠がかけられているではないか。 「先輩!」  浦上ははっとしたように、カメラから顔を離した。  谷田は浦上より一足先に、連行されてくる長井の前に立った。 「殺人容疑です」  年かさの方の刑事が谷田に言った。刑事は谷田と顔見知りだった。  しかし、 「どういう事情ですか。物証はなんですか」  と、せき込む谷田の問いかけに対しては、 「詳しいことは、捜査本部長の記者会見のときにしてください」  と、こたえるだけだった。 「浦上さん」  長井は足を止め、初めて浦上の名前を口にした。今にも泣き出しそうな表情だった。 「浦上さん、絶対にぼくじゃありません。ぼくは人殺しをするような人間じゃありません」  泥酔していた一昨夜とは違って、消え入りそうな沈んだ声だった。  長井は、二人の刑事に促されてパトカーに押し込められるとき、もう一度、必死に訴えるまなざしを浦上に向けてきた。  パトカーは高級住宅街を配慮してか、サイレンも鳴らさずに走り出した。パトカーは港の見える丘公園の方角に向かい、外人墓地の手前を左折して行った。  浦上はパトカーが視野から消えるまで、大塚邸の門前に立ちつくした。さっき、戸部署内の空気が慌ただしかったのは、このためだったのか。次長はなにも打ち明けてくれなかったけれど、あの時点で、すでに長井の逮捕令状は請求されていたのだろう。  だが、長井が黒い糸でつながっていることは想像できても、殺人(ころし)の犯人(ほ し)とは意外だった。信じられない気がした。 「あの男から、何かを聞き出すことは不可能になりましたね」  浦上が、パトカーが消え去った方向に目を向けたままつぶやくと、 「警察(さ つ)が、決め手もなしに連行したりはしないよ。長井には動機もある」  谷田は浦上の肩に手を置いた。 「隠し子による実父殺し。これはでかい見出しになるぞ」  谷田はそんなふうにことばをつづけた。 第4章 アリバイのない容疑者  各紙夕刊に長井紀雄逮捕の一報は出たが、詳しい記事は無理だった。捜査本部での記者発表が、午後四時を過ぎていたためである。記者会見は一時間に渡った。  浦上伸介は、戸部署一階正面玄関の長いすで、いらいらしながら記者会見が終わるのを待った。発表の場に同席できるのは、記者クラブに属している新聞記者だけだ。  長いすの前は交通課だった。運転免許証を更新する人たちが次々にやってきて、視力検査などをしていたが、午後五時を回ると訪れる人も少なくなった。  浦上はマイルドセブンをくゆらし、 (本当にあの気弱な男が犯人なのか。長井の逮捕ですべての決着がつくのだろうか)  と、繰り返し考えていた。  やがて、小太りの次長が、二階の捜査本部から自分の席へ戻ってきた。  それを機に、新聞記者たちがぞろぞろと階段を下りてきた。階段を下りながらも、取材帳にボールペンを走らせている記者もいるし、声高に話し合う連中もいる。 『毎朝日報』からはキャップの谷田のほかに、二人の若い記者が出席していた。谷田は正面玄関まで戻ってくると、立ち止まって配下の記者に細かい指示を与え、それから浦上の前に立った。 「待たせたな」  と、谷田は話しかけ、やはり長井が本犯人(ぼ し)だ、というように首を振った。  戸部署を出て、国道1号線沿いにある小さい喫茶店に寄った。  コーヒーを注文したが、谷田も浦上も口をつけなかった。 「あまり時間がない。細かい検討はあとにして要点だけ話そう」  と、谷田は言った。谷田はこれから支局へ上がって、出稿に立ち会うわけだ。浦上は先輩の好意に感謝しながら、取材帳を取り出した。 「長井は自供したのですか」 「いや、全面否認だ。さっき、パトカーに押し込められるとき、きみに訴えた通りだよ。否認のまま送検されるらしい」 「決め手から伺います。物証はなんですか」 「凶器の掌紋だ」 「大塚の心臓を一突きにした柳刃包丁。あれから長井の掌紋が検出されたのですか」 「乗用車の指紋はきれいにふきとられていた。だが、かすかではあるが、凶器には掌紋が残っていた。これが、照合の結果、長井の右掌と一致したんだ」 「名古屋のときは手袋をしていたのに、今回は素手ですか」 「あの強い雨で、手袋を濡らしてしまったのかもしれない。濡れた手袋では凶器を振りかざすときに支障をきたすのではないかね。それで、やむを得ず素手で立ち向かったのではないか。捜査本部ではそう解釈しているようだ」  実父を一突きに殺害したあとで、車内の指紋をふき取っている長井の後ろ姿が、浦上に浮かんだ。いや、思い浮かべようとしたが、どうしても、その後ろ姿が長井とは重なり合わない。  人を殺害した直後、狭い密室ともいうべき乗用車の中で、指紋をふき取る余裕があの男にあるだろうか。 「きみはそう言うけどね、人間、だれしも二面性を備えているのと違うかね。凶器に残る掌紋は絶対の物証だ。その上、長井には動機がある。現金強奪事件のときも、側面から、犯行に加担できる立場にいたわけだ。捜査本部では、それらの点も重視している」  しかも長井には、犯行時、昨夜午後八時半頃のアリバイがなかった。  アリバイがないどころか、その時刻、長井は犯行可能な場所にいたのである。 「夜の八時半といえば、長井はどこかの酒場で酔いつぶれているはずですよ。日曜日を別として、ぼくが尾行したおとといまでの五日間、彼は例外なく深酔いしていました」 「それが、昨夜は違うんだな。おまけに、アリバイを偽造しようとした形跡がある」 「アリバイの偽造?」 「本犯人(ぼ し)でなければ、そんな必要はないわけだろ」 「酒も飲まずに、実際には犯行現場の近くにいたというのですか」 「長井は、きみが尾行した五日間とは全く別の行動をとっている。確かに昨日、長井のスケジュールがいつもと異なっていたのは事実だ」  長井は、一昨夜は前後不覚に酔って小泉のアパートに泊まった。小泉のアパートは地下鉄吉野町駅の近くだ。そして昨日は、日帰りの出張で、浜松市内の建設機材会社へ出かけたという。  横浜へ戻ったのが、午後八時頃である。これは出張先の建設機材会社の証言もあり、浜松出発時間から計算しても、関内着が八時前後であることは間違いない。  すでに大塚貿易は、全社員が退社したあとだ。長井も、浜松を出るときに報告電話を入れてあるので、帰社の必要はなかった。 「じゃ、それから酒場へ寄ったのでしょう」 「飲むことは飲んだが、長井が酒のある場所へ行ったのは、九時二十分頃なのだよ。午後八時頃から九時二十分頃まで。これが長井の空白の時間だ。この一時間二十分、長井の所在を証明する人間がいない」  まさに、犯行時刻にぴったりだ。 「その間、長井は関内周辺にいたと主張しているんだが、考えてもみたまえ、関内から紅葉坂までは、道路がどんなに込んでいても、タクシーで七、八分もみれば十分だろう」 「その一時間二十分、長井は何をしていたのですか。何をしていたと主張しているのですか」 「八時半に、関内駅で、人と待ち合わせることになっていたというんだ」 「それが、言うところのアリバイ工作ですか」 「違う。これはアリバイ偽造に失敗したための言い逃れ、と、捜査本部は見ている」  待ち合わせの約束が八時半なので、八時に関内駅に着いた長井は、伊勢佐木町の書店をのぞいたり、立ち飲みのコーヒーショップへ寄ったりして三十分をつぶした。  待ち合わせ場所は、関内駅の伊勢佐木町寄り、マリナード地下街の入り口。 「長井は午後八時半から九時過ぎまで、マリナード入り口付近にたたずんでいたと言い張っている。だが、どうしてもウラが取れないんだな」 「雨が強かったせいでしょうか」 「ウラが取れないだけじゃない。大体、この主張自体がおかしいよ。あの雨の中で、三十分も四十分も人を待つと思うかい」 「長井なら分からないでもありません。あの男はそうした性格です」  粘りではない。優柔不断な性格だ、と、浦上は思う。 「待ち合わせの相手というのは、架空の人間ではないでしょうね。実在するのでしょうね」 「それが、なんと藤沢和子だ」 「大塚貿易の、藤沢和子ですか」  浦上は和子に好感を持っていない。むしろ、その逆と言っていい。やはりあの和子も、どこかで黒い糸とつながってくるのか。和子なら事件の表面に出てきても唐突な感じを与えない。  和子の名前が出てきた辺りから、アリバイ偽造工作の匂いが濃くなってきたのだという。 「長井は何の目的で、四十分も、雨の中で和子を待っていたと言っているのですか」 「二人は恋愛関係にあるらしい。少なくとも、同僚の域を越える親しい立場にいることは事実のようだ」 「あの二人がですか」  意外な気もするし、そうでないような気もした。浦上が意外と感じるのは、長井と和子の性格が対照的に異なっていることであり、反面、意外ではないと考えるのは、退社時の二人を、何度も目撃していたためだ。  和子は、浦上に対していたときとは別人のような笑顔で、長井に話しかけていたではないか。そう、お互いが意識しているからこそ、二人は連れ立って会社を出てきたのだろう。 「で、結局四十分以上待っても、和子は現れなかったのですか」 「待ち合わせ場所が違っていたというんだな。デートは、長井が浜松の建設機材会社から横浜の大塚貿易へ報告電話を入れたとき、電話を受けた和子が、仕事の話を終えたあとで持ち出したのだそうだ」 「昨日決めたデートですか」  和子は、長井が八時頃には帰浜(きひん)できることを確かめ、 「それじゃ、八時半に関内で待っているわね」  と、告げたという。  それまでにも、何度もマリナード入り口で待ち合わせたことがあるので、長井は関内と聞き、勝手にいつもの場所を想定して市外電話を切った。 「ところがあの雨だし、いつもより遅い待ち合わせ時間なので、和子の方では別の場所を考えていた、と、刑事にこたえている。ほら、この事件(や ま)で、オレときみが最初に話をしたビヤレストランがあるだろ」 「馬車道の『カンナイ』ですか」 「和子と長井は、『カンナイ』へ、一、二回寄ったことがあるそうだ。和子は電話でデートを切り出したとき、端(はな)から関内駅北口に近いビヤレストランのつもりで話していたというのだよ」 「なるほど、トリックの匂いがしますね」 「そうだろ。不自然だよ。この証言は説得力を持たない」  長井は九時過ぎまで、マリナード入り口で待っていた。一向に和子が現れない。それで、 (もしかしたら)  と、ふと思いついて、馬車道の『カンナイ』をのぞき、五十分も待っていた和子と出会った。それが、長井、和子、双方の説明だ。 「しかし先輩、和子が長井の恋人かどうかはひとまずおくとしてもですよ、犯行に一枚かんでいるとしたら変じゃありませんか。和子は、長井のアリバイ工作に、十分加担できる立場にいたのではないですか」  ビヤレストラン『カンナイ』は、前金のチケット制だし、その時間帯なら、広い店内は若いサラリーマンやOLたちで、相当に込んでいたに違いない。犯行時刻、和子は長井と同席していたと偽証することが可能だったはずだ。  長井が全く姿を見せなかったのなら別だが、やがて、長井は和子と一緒に飲んだのだから、『カンナイ』の店員たちも、長井が立ち寄ったことを証言するだろう。その場合、店員たちが細かい時間まで記憶しているかどうかは疑問だ。 「それが、やつらの狙いだよ、それがアリバイ偽装工作さ。当初はその予定だったと考えるのが、常識だろ。長井と和子は計画通りの行動をとった。長井は横浜に帰ってから『カンナイ』に現れるまでの一時間二十分を、無為に過ごしてはいない。偽電話で呼び出した大塚を、雨の紅葉坂で待ち伏せ、殺人を完了する、そして、手筈通り、和子が待つ『カンナイ』にやってきた、と、捜査本部では見ている。しかし、和子は長井のアリバイを偽証することができなかった」 「何があったのですか」 「あろうことか、小泉保彦が、九時過ぎにぶらっと『カンナイ』へ入ってきたのだ」  その小泉を追いかけるようにして、大塚貿易の同僚である岸信男という若手社員もやってきた。小泉と岸も、『カンナイ』で待ち合わせていたのである。 「偶然ですか」 「和子はびっくりしただろうな。店が込んでいたので、小泉と同僚は、和子が長井を待っているテーブルに同席してしまった」 「すると、長井が『カンナイ』に姿を見せたときも、小泉と同僚はそのテーブルにいたわけですか」 「そういうことだ。長井が九時二十分に『カンナイ』へ入ってきたというのは、小泉たち二人の証言だ。これじゃ、アリバイ工作はぶち壊しもいいところだ」 「それで軌道修正、“関内”駅とビヤレストラン“カンナイ”を錯覚した、と、長井と和子は口裏を合わせているのですか」 「今となっては、言い逃れはそれしかない。関内駅北口で何度かデートしていたという説明も、軌道修正の段階で考えついたことではないかね。こんな子供だましが、通用すると思うか」 『カンナイ』の一件がなければ、アリバイの面ではこれほど追及されることもなかっただろう、と、谷田は言った。アリバイを持たない市民はいくらだっている。  しかし長井は、凶行を終えてからの経過時間にぴったりと解釈できる九時二十分に、『カンナイ』へやってきた。しかも、その証人が二人も登場したことによって、逆に、もう一つの偽アリバイを用意することが不可欠となったのである。 『カンナイ』を舞台とした工作が、逆効果となった。 「きみが長井の性格をどう分析しようと、物証もあるわけだし、長井に対しては捜査本部同様、オレの心証もクロだね。もちろん和子にしても同様だ」  昼間、大塚貿易で、刑事が和子と小泉を聞き込んでいたのは、その辺りの感触を確認するためだったのだろう。 「当然、これからは和子が重点的にマークされることになるね。和子の背景を洗い出し、長井を締め上げれば、現金強奪の実行行為者を絞り出すのも時間の問題だろうな」  記者会見の概要はそんなところだ、と、そう言って谷田は取材帳を伏せた。  浦上は谷田と別れ、横浜駅東口までぶらぶらと歩いた。十五分ほどの距離だった。  国道1号線は車の往来が激しいけれど、歩道は、車道とは対照的に人影もまばらだった。街路樹のプラタナスが、暮れなずむ歩道に枯れ葉を落としている。  谷田が中継した記者会見の内容は理路整然としている。どこにも落ち度はなさそうだ、と、考えながら浦上は歩いて行く。  アリバイを持たない被疑者には動機がある。しかも、凶器に残る掌紋という物証まで出てきたし、偽アリバイ作りを試みた形跡濃厚というのでは、弁解のしようもない。  それにしても、長井と和子の、つながりの実体は何だろう? (金か)  と、浦上がつぶやいたのは、退社時の長井と和子の親しそうな会話は目撃しているものの、もう一つ、納得できるものがなかったからである。長井と和子が同僚の域を越える交流を持っているのであれば、なぜ、これまで、二人は一緒に酒を飲まなかったのか。  長井は現金強奪事件で警察の厳しい追及を受け、半ばノイローゼ気味となった。恐らくは、そのいらだちを鎮めるために、長井は酒に逃避したのだ。  長井が深酒で自分を紛らすとき、和子が、恋人、あるいはそれに近い関係にあるなら、同席するのが自然ではないだろうか。浦上が尾行した五日間、和子はそれをしなかった。二人は、会社からは一緒に帰ってくるものの、いつも、関内や横浜の駅頭で別れている。  長井と和子は、本当に恋人同士なのか。 (いや、違うかもしれない)  浦上は自分に問いかけるようにつぶやく。二人のつながりの基点が“犯罪”であるなら、長井が、雨の中で四十分も和子を待っていたという主張は、やはり偽証ということになる。  当初予定したアリバイ工作に失敗したがゆえに、慌てて補修したもう一つのアリバイ工作である事実を、さらに強く裏付ける結果となる。  長井と和子の接点が、二人を結び付けているものが“犯行”であるなら、主導権を持つのは和子ということになろう。性格から推しても、そう解釈するのが妥当だ。名古屋のときも、和子はその中心にいたのだ。中心とは、偽呼び出し電話の、中継者の立場を意味する。  名古屋のときは、会社の交換台を経由した電話だった。交換手を兼ねる受付係は、男の声を耳にしている。  今回は直通電話だ。和子が直接受話器をとって、大徳開発からの伝言というのを、大塚社長に告げたことになっている。 (今度の場合、大塚を呼び出す偽電話は、実際にはかかっていなかったのかもしれない)  和子が犯行の中心にいるのなら、和子の一人芝居でそれができる。こういう伝言があった、と、和子が大塚に報告することで、大塚貿易に電話を入れる七面倒な“電話役”も不要となる。  と、すれば、偽電話が女性の声だったという和子のこたえも、捜査を混乱させるためのものであったかもしれない。そして、そう考える浦上の推理が事実なら、逆に、一味には和子以外の女性はいない、ということを示唆しているともいえようか。  今回、名古屋で現金を強奪した男の影はちらついていないが、見えないところで助力はしているだろう。  だが、和子が中心人物であるとすると、新しい疑問が生じてくる。すなわち、動機は何か、ということだ。 (金だろうか)  浦上はもう一度それを考えたが、現金が目的なら二千五百万円強奪の説明はつくとしても、大塚の生命まで奪ったことが解せない。  あるいは、長井は私怨、和子は現金という異質の目的が、犯行という一点で結実したのだろうか。  その場合は、計画を持ちかけたのは、無論和子の方だろう。和子は長井と大塚の隠れた関係を察知し、大塚に対する長井の心情を知って、利用したのに違いない。  あるいは、あの大塚のことだ、秘書的立場にいる和子に手を出した、というような背景も、十分考えられよう。手をつけておきながら、他の多くの女性に対したのと同じように、冷たく突き放した、というような経緯があるなら、そこにも一つの動機が成立する。 (今度は、一丁あの女を尾行(つ け)てみるか)  浦上は高島町の先を左に折れて、万里橋を渡った。  朝方の二日酔いは完全に消えていた。慌ただしく事態が進展したせいもあるだろう。横浜駅東口の地下街『ポルタ』に着いたとき、浦上は空腹を感じた。 『週刊広場』へ連絡電話を入れる前に、ラーメン屋に寄った。ラーメンにビールの小瓶を一本つけ、ぐいっと飲み干したとき、疑問が、また一点に戻っていた。 (長井に殺人(ころし)ができるのか)  自分の中で何回繰り返しても、 (できる)  というこたえは出てこなかった。手錠をかけられた長井が、パトカーに押し込められるときに見せた必死に訴える表情も、演技とは思えない。 (裏に何かある。きっと何かがあるはずだ)  と、浦上がその一点にこだわるのは、浦上なりに知悉(ちしつ)する長井の性格が大前提となっているわけだが、それだけではなかった。浦上は、長井の生い立ちに、ある面で自分に共通する暗さを見ていたのである。  浦上は過去を語らない男だ。  現在の浦上の生活範囲の人たちは、だれも浦上の少年時代を知らない。親しくしている谷田先輩にしてもそうだ。浦上が都内の私大を中退、夕刊紙の社会部記者を経て、事件もの主体のフリーのライターとなったことは承知していても、その過去にまで踏み入った人間はいない。  浦上自身も、自分の中の暗い部分は彼方へ追いやったままだ。その追いやった部分に、奇妙に照応してくるものを、長井紀雄という男の二十五年の人生が持っていた。  浦上は、しかし、その照応の背景を整理しようとは考えなかった。自分の過去を見つめるためには、まだまだ時間が必要だった。浦上はただ、長井が本犯人(ぼ し)であるなら、自分なりに納得できるものが欲しいと思った。 「浦上ちゃんの心情は分からないでもないがね、それだけデータがそろっていれば、ひっくり返りようもないだろう」 『週刊広場』の編集長は、浦上の報告電話に対して、そうこたえた。谷田とも共通する判断だった。  浦上の思惑は無視された。 「問題は名古屋の現金強奪だな。雨の中に消えた男を呼び戻さなければ、原稿は完成しない。それと、藤沢和子がいつ共犯として逮捕されるのか」 「これは、『夜の事件レポート』としては、今までと形の違うものになるかもしれませんね」 「やはり、被害者に焦点を絞ることになるだろう」 「大塚国蔵の五十九年の人生ですか」 「そのためには、長井以外の隠し子にも登場してもらわねばなるまい。差し詰め興味があるのは、福岡から行方不明になっている加部光子と卓郎。この姉弟は欠かせないだろう」  行方を絶っているということは、それだけでも読者の関心を呼ぶ。編集長はその点を繰り返し、 「事件と無関係ならそれでもいい。大塚をクローズアップする意味でも、行方不明の背景を『夜の事件レポート』に書き加えたい」  と、谷田や、昨日の浦上の主張と同じことを言った。電話は長いものになった。  用意したコインがなくなり、電話はいったん切れた。横浜駅コンコースの赤電話である。  浦上はキヨスクでたばこを買って千円札を細かくし、今度は百円玉が使用できる黄電話で東京へかけ直した。 「事件は、しかし意外に早く決着がつくかもしれないな」  編集長は待っていたように言った。 「そこでだ、雨の中に消えた男とか、和子が逮捕される前に福岡へ飛んでもらいたい。ご苦労だが、明日にでも出発してくれるか。往復、飛行機を使っていい」 「下関の三角関係も、打ち合わせ通りに進めるわけですね」 「そっちはピンチヒッターを送ろう。事件がこんな風に進展してみれば、二本立てじゃ無理だ。浦上ちゃんは来週木曜の入稿をめどに、これに専念してくれ。それまでに、仮に共犯者が逮捕されなかったとしても、来週締め切り分から連載を開始しよう。浦上ちゃんが福岡から帰ってくるまで、戸部署は手のすいた連中に取材させる」  編集長はてきぱきとした口調で言った。元々声は大きい方だが、その声がさらに高くなっていた。 (これでいける)  と、確かな手ごたえを感じている証拠だった。  翌、十月十九日金曜日、浦上は朝一番の日航機で福岡へ飛んだ。羽田発午前七時の“351便”で、福岡着は八時四十分。  東京も雲一つなかったが、福岡もよく晴れた朝だった。福岡上空へきて、着陸態勢に入ったジェット機が左に大きく旋回すると、志賀島(しかのしま)や能古島(のこのしま)を浮かべる福岡湾の蒼い海面が、斜めに、飛行機の窓一杯に見えた。  浦上は機内サービスのキャンデーを口に入れ、足元のショルダーバッグから取材帳を取り出した。  福岡市西区片江。 『毎朝日報』西部本社社会部で調査した、所番地が控えてある。加部光子、卓郎姉弟の住民票に記された住所は、片江の石井アパート内、と、なっている。  浦上はいつもの伝で、事前に地図で見当をつけた。片江は、福岡から佐賀へ通じる国道263号線と樋井(ひい)川に挟まれた辺りで、福岡大学の近くだった。  浦上は、西部本社社会部への紹介を、谷田に頼まなかった。一応調査済みの素材を、週刊誌の立場でほじくり返しにやってきたのだ。  地元記者の調査結果は詳しく谷田から聞いているし、この時点で協力してもらうのは、勝手なことを言えば、ありがた迷惑でもあった。手がかりを、掘り起こしてもらっただけで十分だ。 “351便”は、予定通りに福岡空港に着陸した。国際線の滑走路のはるか前方に、三機、陸上自衛隊の大型ヘリコプターが見えた。  一時間四十分の空の旅は快適だった。浦上は空港案内所で片江への道順を確認して、ターミナルビルを出た。  福岡へ足を伸ばすのは、もちろん初めてではないけれど、今日のような取材は例がなかった。事件もの専門のルポライターは、どこへ出張しても、警察からスタートするのが順序だ。  普段なら、目的地が近付くにつれて、新聞の切り抜きを読み直し、警察取材のポイントを再点検するわけだが、今回は違う。浦上は、何人もの女を泣かせた大塚国蔵の、脂切った大きい顔を思い返しながら、市内行きのバスに乗った。  バスは十五分で博多駅に着いた。福岡は、国内の空港の中で、もっとも市の中心部に近い場所に位置しているのである。バスは込んでいた。  博多駅前バスセンターの、地下連絡路は商店街になっている。浦上は商店街を歩いて、福大病院行きのバスに乗り換えた。  ちょうど通勤のラッシュアワーで、バスセンターも連絡路も混雑していたが、逆行の福大病院行きのワンマンカーはがらがらにすいていた。浦上は行き先を運転手に告げて、一番前の座席に腰を下ろした。  新しいビル街を走り抜けて、三十分ほど行くと、周囲は郊外の住宅地に変わった。団地や建て売り住宅の向こう側には畑地や雑木林が残っており、沼や古池の多い一帯だった。  樋井川の小さい流れを越えると、 「お客さん、次のバス停ですよ」  と、運転手が親切に声をかけてくれた。  石井アパートの家主は、小さい雑貨店を営んでいた。  バスを降りて五分ほど歩くと、県道を挟んで神社と小学校が向かい合っていた。小学校の並びに、米屋や酒屋と軒を接して、石井雑貨店があった。  アパートは、店の裏手にあるモルタルの二階建てだ。 「二人がうちを出て行ってから、もう一年六ヵ月になりますな」  家主は、浦上の質問にこたえて言った。六十は過ぎているだろう。小柄で、小さい顔はしわだらけだった。  家主は店の奥の丸いすを浦上にすすめた。家主の方は、上がりかまちにきちんと正座しての応対である。 「あれきり、何の音沙汰もありません。どこで、どのような暮らしをしているのやら」  家主はつぶやくような低い声でつづけた。つぶやきには、家主の立場を越える、ある種の感情がこもっていた。  浦上が、敏感にその点に留意すると、 「親せきではありませんが、あの姉弟が幼かった頃からの古いつきあいです」  と、家主は説明した。家主の義兄は市内の六本松で旅館を経営しており、光子、卓郎姉弟の実母加部信江は、その旅館で仲居をしていたのだという。交際は二十年以上もつづいていたという。  そうした背景があるなら、この家主を通じて、姉弟の別の一面をつかむことができるかもしれない。  谷田を経由した『毎朝日報』西部本社社会部の調査に、この家主のコメントはなかった。一流新聞の記者が見落とすとは思えない。 「何日か前に、ぼくと同じことを尋ねて、新聞記者がやってきたでしょう」  浦上がその点の疑問をただすと、 「ああ、そのようですな」  家主はうなずいた。  そのとき、家主夫婦は墓参りに出かけていて、店にいなかった。新聞記者の質問にこたえたのは、次男の嫁だった。次男夫婦は同じ敷地内に住んでおり、嫁が、時折雑貨店を手伝っている。  嫁は、家主夫婦と姉弟の死んだ母親信江との交際について、詳しいことを聞かされていなかった。  姉弟がこのアパートに移ってきたのは二年前、すなわち、失踪の半年前である。嫁は、わずか半年間の顔見知りに過ぎないので、姉弟に関しての知識もほとんど持っていなかった。  浦上はそれを聞いて納得した。次男の嫁は新聞記者に対して、表面的なこたえしかできなかったのだ。  新聞記者が、そこにもう一つの奥行きがあることを考えなかったとしても、やむを得まい。大塚国蔵の三十年前の生活をたどり、加部信江という、下川端町の安飲み屋で働いていた女を洗い出しただけでも相当な収穫だ。  新聞記者は信江が三年前に胃ガンで他界したことを聞き込み、さらにその二人の遺児、光子と卓郎の転居先である、このアパートまでチェックしたのである。光子と卓郎の一年半前の失踪を確認した時点で、新聞記者の追及は終わった。いや、新聞記者は、姉弟が行方不明になった当時の交遊関係を当たり、二人が東京、あるいは関西方面にいるらしいという風聞も、一応メモしているのである。  浦上は、新聞記者に落ち度はないと思った。むしろ、こうして家主からの証言を得ることのできる今回の取材は、 (中盤で、思わぬ駒得になったな)  という感じだ。将棋の場合、中盤での駒得は、終盤の収束をぐっと有利にする。事件に直接関係してくるものを取材できなかったとしても、被害者の大塚国蔵サイドに立ってまとめる特集は、間違いなく、ふくらみを持ってくるだろう。  無論、長いことルポライターをしていれば、逆の場合もあるわけだ。他の週刊誌と競い合った、一年前に仙台で発生した幼女殺害事件では、取材のタイミングが半日早かったために、編集長から大目玉を食うほどの、苦い特落ちを経験している。  浦上は、純朴そうな初老の家主を刺激しないように、さりげなく取材帳を取り出した。 「大塚国蔵さんが殺された事件は、ご存じですね」 「大塚さん?」 「一昨夜、横浜で発生した事件です。福岡でもテレビや新聞で報道されたでしょ」 「言われてみれば、そんなニュースを見た気がします。でも、大塚さんなんて人は知りませんな。その人が、あの姉弟に関係あるのですか」  家主は、本当に知らないという顔をした。  浦上は、家主も大塚の事件を承知していればこそ、二十年前を説明するような、こうした話の切り出し方をしたのだろう、と、勝手に決めてかかっていた。それだけに、意外な気がした。  家主が大塚の名前を知らないというのは、加部姉弟も実の父親の本名を聞かされていないということだろうか。光子と卓郎が、大塚国蔵を承知していないのなら、二人の行方不明は、一連の犯行とは無関係、ということになるのか。  家主は、姉弟が一年半消息を絶っていることの原因について、全く心当たりがないと言った。 「六本松で旅館をなさっているという義兄の方はどうでしょう? やはり、なにも聞かされていないのですか」 「そうだと思いますよ。姉弟は福岡を出るとき、一応、あいさつには立ち寄ったようですがね」  光子と卓郎は知らない土地で生活をやり直す、と、語ったが、未知の町がどこであるのか、そのことには一言も触れなかったという。 「こうして話を伺っていると、姉弟の仲は非常によさそうですね」 「ええ、そうでしたよ。姉弟の結び付きは、度が過ぎるほどに親密でしたな。それも父(てて)無し子のせいでしょう」  と、家主はすらすらとこたえていたが、ふと思いついた、というように、浦上の顔を見直した。 「あの姉弟に、何があったのですか。警察からは何とも言ってきませんが、新聞記者や週刊誌の記者さんが見えたのは、二人の身の上に何かが起こったためでしょ」 「実は」  浦上は包み隠さずに事情を打ち明けた。大塚国蔵の人生を中心にして話した。 「そういうことですか」  家主は考えるまなざしになった。 「横浜で殺された人が、姉弟の実父だったのですか。知りませんでした。わたしは初耳です。でも、新聞記者の人がうちに見えたのは、その人殺しの前ですよね。一体、何が起こっているのですか」  家主はつぶやくように口走ってから、 「今初めてお聞きしたことなので、無責任な言い方になりますが」  と、前置きして、こうつづけた。 「二人の実父は、最後には殺されるような、そういうお人だったのですな」 「その点で思い当たることが、おありですか」 「わたしよりも、六本松の義兄の方が詳しいことを知っています。三年前に信江さんが胃ガンで入院したとき、人づてに、実父へ連絡をとったのだそうです。あなたのお話によれば、それが、おとつい殺された大塚さんということになりますな」  実父、すなわち大塚国蔵の反応は冷たかった。家主が強調するのは、その点だった。 「見舞い金どころか、電話一本かかってこなかったそうです」  しかし、連絡がとれているのなら、姉弟は実父(大塚国蔵)の存在を承知していたことになる。“行方不明”は新しい意味を持ってくるかもしれない。 「連絡をつけた仲介者は、福岡にお住まいですか」 「昔、信江さんと一緒に飲み屋で働いていた女の人ですよ」 「その女性は、光子さんや卓郎さんが生まれた頃のことも、よく知っているわけでしょうね。どなたですか」  浦上はボールペンを持ち直した。 「わたしは、直接その人を知らんのですよ。義兄に聞いてください」  家主は、義兄が経営する六本松の旅館名と、旅館への道順を教えてくれた。  家主は親切だった。話が一段落したところで、先方に電話を入れてくれた。  浦上は何度も礼を言って、小さい雑貨店をあとにした。  天明旅館は、大濠(おおほり)公園の近くだった。国道202号線沿いに、かたまって何軒かの旅館があった。  天明旅館は、その中ではもっとも前庭が広いが、言ってみれば二流どころの旅館だった。古い、木造の二階建てである。玄関に、公務員関係の指定旅館という看板が下がっていた。  痩せた男が帳場で、和服の仲居と何か打ち合わせをしていた。それが天明旅館の主人だった。主人も和服姿である。  やはり、六十は過ぎている感じの白髪だが、雑貨店を営む義弟とは違って、和服の着方もきちんとしているし、髪のくしあともすっきりしていて、清潔な印象を与える老人だった。 「さ、どうぞ」  主人は帳場から見える応接室へ浦上を通した。ソファの横に、懸(けん)がいづくりの菊が飾られてあった。  仲居がお茶を運んできた。  天明旅館の主人も、大塚国蔵の名前を正確には知らなかった。 「ええ、二人の実父が横浜で、貿易商として成功している話は聞きましたがね」  主人にそれを伝えたのは、三年前に大塚に連絡をつけた仲介者、中村清子である。清子は、アパートの家主が語っていたように、三十年も昔、下川端町の安酒場で、姉弟の母親加部信江と一緒に働いていた女だ。  旅館の主人は、信江を介在として清子を知ったが、信江の死後、特に親しくしているわけではなかった。清子は現在も下川端町におり、今では自分で一軒、小さいが焼き鳥屋を開いているという。三十年前の信江の生活を、もっともよく知っている人間だ。  三年前に信江が胃ガンで倒れたとき、清子は八方手をつくして、大塚国蔵の行方を追った。  そして、ついに、横浜の大塚国蔵を突き止めた。だが、電話連絡をとった清子に対して、大塚は、 「今更何の言いがかりをつけるんだ」  と、けんもほろろのあいさつしかしなかったという。 「三十年も昔に手が切れている女だ。死のうと生きようと、わしの知ったことか」  大塚は大声でそう言い、一方的に電話を切ったという。 「信江さんがうちの旅館で働いてくれるようになったのは、あとで思えば、その大塚さんという人に捨てられてからですね。まじめに働いてくれました。光子さんと卓郎君、二人の子供を抱えて苦労は絶えなかったと思いますね」  心労がたたっての信江の発病だった、と、主人は言う。  光子と卓郎、二人の子供は高校を卒業して就職した。母子の生活は安定化へ向かったともいえるが、狭いアパートの三人暮らしは、まだまだ豊かさとはほど遠かった。女手一つで二人の子供を育てるために、借金も重ねていた。  借金を返し切らないままに、信江はガンに倒れた。  清子はこうした実状を大塚に訴えたが、 「それがわしと何の関係がある! ばかな電話など二度とかけないでくれ!」  大塚は怒鳴りつけてきたというのだ。二人の子供まで産ませたとはいえ、捨てた女の借金に手を差し延べるような男ではなかった。  光子と卓郎が、そうした父親に激しい怒りを覚えたことは容易に想像できる。  母親の死後、姉弟は天明旅館の縁で、雑貨店主が経営するアパートに移った。母親が金を借りた債権者から逃れる、という意味もあったようだ。しかし、このアパートに住んでいたのは、わずか半年だ。  光子と卓郎は、そろって福岡から姿を消した。知らない土地で生活をやり直す、とはどういうことなのか。 (これは、何が何でも二人の行方を追及しなければならなくなってきたな)  浦上は、更に強くそれを感じた。  浦上は中村清子と会うために、下川端町へ回った。  六本松からバスを乗り継いで三十分余り、那珂川の河口に近いごみごみした一角だった。やっと正午を過ぎた時間である。軒を接する小さい飲み屋は、どこも、まだ雨戸を下ろしたままで、無人という感じだった。  近くの八百屋で尋ねると、清子は内縁の夫との二人暮らし。店の二階に住んでいるという。  浦上は狭い小路を抜けて、裏口へ回った。  何度かドアチャイムを鳴らすと、やっと返事があり、髪を乱した太った女が、 「うるさいわね。何よ」  と、顔を出した。  ドアを開けたところが、急な階段になっている。  清子は五十代半ばという年齢であろうか。流行遅れの派手なワンピースを着ており、化粧のない顔は肌の荒れが目立った。  浦上が自分を名乗り、訪問の目的を告げると、 「大塚、殺されたんだね」  清子は吐き捨てるように言った。さすがに、アパートの家主や天明旅館の主人とは違った。 「ね、ひょっとして、大塚を殺したのは光子と卓郎じゃないの?」  清子は真顔でつづけた。  浦上が一瞬ためらっていると、 「あんただって、そのために福岡までやってきたのでしょ」  あの姉弟、横浜にいるのと違う? と、清子は反問してきた。 「憶測でそんな判断をされては困ります」 「憶測なんかじゃないわよ。大塚は紅葉坂とかって所で殺されたっていうじゃないの」  清子は、新聞で紅葉坂の文字を見て、ぴんときたというのだ。 「紅葉坂? 紅葉坂に意味があるのですか」  浦上の口元が引き締まった。 「詳しくお話を伺わせてください。その辺でコーヒーでもいかがですか」 「喫茶店へ行くこともないでしょ。わたしならここでいいわよ。たばこ、ある?」  清子はドアの前の階段に腰を下ろした。段ボールなどが乱雑にちらかっている、狭い三和土(たたき)だった。浦上はマイルドセブンを差し出した。清子に火をつけてやってから自分も一本くわえた。  浦上は、三和土に突っ立ったままで質問をつづける結果となった。 「天明旅館のご主人から、おおよそのことは聞きました。光子さんと卓郎さんは、あなたから見ても、実父である大塚を殺したいほど憎んでいたのですか」 「信江さんがガンで倒れるまでは、あの子たちに大塚のことは伏せていたのよ。信江さんにしても、背を向けて行った男のことなど、忘れたかったに違いないわ。信江さんから固く口止めされていたので、わたしも、大塚の名前をあの子たちに打ち明けなかった。暗黙のうちに、お父さんは死んだ、ということになっていたらしいのね」  しかし、死亡ではなかった。姉弟の戸籍に、最初から父親は存在しなかった。父親欄は空白になっている。  こうした隠された事実は、何となく、人から人へと伝わっていくものだ。光子と卓郎は、成長するにつれて、父親がいないことで学友たちから疎外されるようになった。この点、子供たちは残酷だ。  母親の信江にしても、元飲み屋の女で、当時は旅館の女中。  しかも、一家三人、六畳一間のアパート暮らしとあっては、何かと学友たちから迫害を受ける対象となった。そうした生い立ちが、二つ違いの姉と弟を、世間からは想像もできないほどに固く結び付けたのかもしれない。 「姉弟仲がいいなんてものではなかったわね。あの子たちは、考え方まで、全く同じなのよ」  と、清子も肯定する。  出生の暗さと、非情な世間への抵抗が、姉弟の思考の形さえ、一つに絞ってしまったのに違いない。姉と弟は、実の父親を恨んで育った。不幸の、すべての原因が父親にあることを疑わなかった。  死んだと聞かされて育ったその父親が、生きていたのである。しかも、二十数年間自分たち三人を振り向いてもくれなかったその父親が、貿易商として成功していると知ったときの光子と卓郎のショックは、どれほどであっただろう? 「信江さんが死の病いに倒れたのでなければ、わたしだって余計なことはしなかったわ。でも、あのままじゃ、あんまりかわいそうだわ。信江さんはね、大塚が博多で闇屋をしていた頃、本当につくしていたのよ。大塚との結婚を夢見ていたのね。短い間だけど同棲したこともあったわ。けど、大塚は、女なんか紙くずのように捨てることができる男なのよ」  清子は、思い出しても腹が立つようだった。大きく、たばこの煙を吐いた。  信江の生活は最期まで貧しかった。貧困の中で信江は息を引き取った。熊本在の、農家の六女だったという。  光子と卓郎の怒りは、健在であることを知った父親、大塚国蔵に向けられた。豊かな日常を過ごしているのに、一円の見舞い金を送ってくれるでもない実の父親。 「こんな親ってあるか! あんな男、ぶっ殺してやる!」  卓郎が、積年の恨みをぶちまけるようにして、何度もそう繰り返していたのを、清子も耳にしている。信江の、ささやかな葬儀の場でだった。  卓郎は酒を飲み、いつもの卓郎からは想像もできないほどに荒れた。光子は、その卓郎を制止しなかった。 「しかし、だからと言って、それがストレートに殺意に結び付くとは思えませんね」  浦上は、強く引っ掛かってくるものを感じながらも、あえて、反対意見を出してみた。 「一時の激情に駆られて、ぶん殴ってやるとか、ぶっ殺してやるとか口走る例は珍しくないと思います」 「わたしだって、お葬式のときの話だけならそれほどとも思わないけどさ、一年半前に、博多を出て行くときもそうだったのよ」 「大塚を殺してやる、と、そう言って出て行ったのですか」 「二人ともお酒に酔った上で、うちの店へきてね、さらに飲んだ上で、横浜へ電話を入れたのよ」 「相手は大塚社長ですか」 「わたしが電話番号を教えてあげたのよ」  死んだ信江が残していった借金、サラ金などから借りた負債の一部が、姉弟の力ではどうしても返せないまま、雪ダルマ式に増えていた。卓郎はセメント工場、光子は合成ゴム製造会社の事務員として働いていたが、借金を完済する余裕はなかった。  借金は利子も含めて、総額で百五十万円を越えていた。大塚なら問題とする額ではないだろう。しかし、姉弟にとっては大金だ。ぼちぼち返済していたのでは利息に追われて、いつまで経っても元金が減らない。 「で、大塚へ泣きついたわけですか」 「わたしは、無駄なことはおよし、と、忠告したけどさ、あの子たちにすれば、ともあれ実の父親だから、甘える気持ちもあったのでしょうね」 「二人の感情は分からないでもありません。だが、借金の肩代わりを申し込むなんて、ある意味では虫がいいですね」 「わたしも、それを言ったのよ。大塚がどんな人間かってことは、信江さんがガンで倒れたときに連絡をとったわたしが、一番よく知ってるわ。大塚は三十年前にも増して、冷たい男になっていたのよ」  姉弟も、それはよく承知している。承知していればこそ、信江の葬儀の場で、 「ぶっ殺してやる!」  と、繰り返したのではなかったか。 「普段はそんなことを口走る子じゃないわ。姉弟は、二人とも、細かい計画を立てて、地道に実行するタイプよ。さすがに、たった一人の親を亡くした、あのときは違ったわね」  と、清子は言う。  しかし、それから半年、一年と過ぎて、幻の父親に対するなつかしさが先に立ったのかもしれない。清子と違って、大塚の血を引く自分たちが直接電話をかければ、大塚も別の顔を見せるだろう。母親を亡くしてから時が流れて、光子と卓郎は淡い期待を抱くようになっていたのかもしれない。  だが、期待は満たされなかった。 「わしの子供だと?」  電話に出た大塚は、がみがみと怒鳴った。 「この間も、そんな言いがかりをつけてきた女がいたな。お前たちもあの女の仲間か」  大塚は声を張り上げ、 「加部信江だと? 昔の女の名前などいちいち覚えておらん。今度、こんな電話をかけてきたら、警察へ突き出すぞ!」  がちゃん、と、電話を切ったという。 「姉弟が大塚の隠し子であることは、間違いないのでしょうね」  浦上は訊いた。 「二人とも大塚と顔は似ていないけど、絶対にあの男の子供よ。信江さんは浮気するタイプではないわ。大塚に捨てられてからは、ご承知のように下川端町の飲み屋をやめて、天明旅館に職を変えたのよ。死ぬまで、だれも男を寄せつけなかったわ。それだけにいじらしいし、姉弟の怒りも、余計強まっているのではないかしら」 「殺したいほどの怒りが燃え上がったとして、光子さんと卓郎さんが、実際に殺人に着手すると思いますか」 「あの子たち、信江さんが亡くなってから、すっかり人間が変わったわね」  大塚に直接電話をかけて、冷酷に突き放されたその夜、二人は清子の店で浴びるほど酒を飲んだ。姉の光子も卓郎と同じように、いや、弟以上に乱れて、酔いの底に沈んだという。  光子と卓郎は、前後して勤務先をやめた。二人が福岡の知人たちの前から姿を消したのは、乱酔した夜から半月と経たないうちである。  清子は、姉弟が酔いどれた一年半前を慎重に思い起こすようにして話してから、もう一本、たばこをねだった。二本目のマイルドセブンに火をつけて、 「わたしだって、あの子たちが本当に人殺しをするなんて、思いたくないわよ」  と、小声で言った。奥歯に物のはさまった口調であり、ことばとは裏腹に、殺人の可能性を肯定するまなざしだった。姉弟は細かい計画を立てて地道に実行するタイプ、と、清子は言った。  幼い頃からの光子と卓郎をよく知っている清子は、姉弟のそうした性格が犯行に向けられる可能性を、本能的に嗅ぎ取っている感じだった。  いや、本能だけではなく、裏付けがあった。それが、ほかでもない“紅葉坂”である。  清子は、テレビニュースで、犯行現場が紅葉坂と聞いて、 (あの子たち、ついに大塚を殺(や)ったのだわ!)  ぴんときたという。  清子は遠くへ目を向けるようにして、ゆっくりと二本目のたばこを吹かした。遠くへ向けられた視線がたどっているのは、三十年前の、坂のある風景だった。 「信江さんは大塚と深い仲になってから、吉塚駅近くのアパートを借りたのよ。うん、大塚と同棲するためだったわ。光子ちゃんも卓郎ちゃんも、吉塚の、そのアパートで生まれたのよ」  だが、光子が生まれ、信江が卓郎を身ごもる頃、大塚の足は完全に遠のいていた。大塚は信江も福岡も捨てて、名古屋に新天地を求めたのである。  母子三人が吉塚のアパートを出たのは、光子が小学校へ上がる年だった。過去を知られていない場所で、子供たちを育てたいとする信江の配慮からだった。  その後、母子三人は市内のいくつかのアパートを転々とするが、馴染みの薄い新しい住居とは違って、吉塚には親しい人たちが多い。母子三人は、折にふれて、吉塚へ遊びに出かけていたようだ。  それだけに、光子や卓郎にしても、自分たちが生まれ育ったアパートは印象深く刻み込まれているはずだ、と、清子は言う。吉塚のアパートで、母親と大塚が、ほんの短い期間とはいえ、同棲していた事実も、母親の死をきっかけにして、表面に出た。 「今はもう取り壊されてしまったけどさ、そのアパートはだらだらとしたゆるい坂道の、途中に建っていたのよ」  だれも、坂道の正式な呼び名は知らない。しかし付近の住民たちは、三十メートルほどのその坂道を、俗に、紅葉坂と呼んでいるというのだ。 (福岡にも紅葉坂があるのか)  浦上は顔を上げた。 「坂の下り口に、秋になるときれいに紅葉する大きいカエデの木があるのよ。それで、そう呼ばれているのだと思うけど、吉塚駅を降りて紅葉坂を尋ねれば、すぐに分かるわ」  清子は、“紅葉坂”に力を込めた。 (紅葉坂の意味がそれか)  浦上もまた、清子と同じことを考えたのは当然だろう。“紅葉坂”で捨てられた姉弟が“紅葉坂”で復讐を果たした、と、そういう図式になろうか。 「あの二人だからこそ、ぴんときたのよ。慎重に計画を練る姉弟だし、恨みは骨髄に徹しているのだもの、最後には“紅葉坂”を口にして大塚を殺したのかもしれないわ」  清子は、もちろん長井紀雄逮捕の報道を承知している。承知していながら、“長井逮捕”を無視したようにつづけるのも、“紅葉坂”との関連ゆえだった。 (彼女だろうか)  浦上の脳裏に浮かんでくる、一つの顔があった。  名古屋のときも、紅葉坂のときも、電話を中継した女、藤沢和子の気の強そうな横顔である。  光子と卓郎の行方は判然としないが、二人が実際に犯行に加担しているとすれば、何らかの形で、大塚貿易周辺に存在しなければならないし、事件の周囲に出没していなければなるまい。その場合、卓郎が、名古屋で現金を強奪した影の実行行為者であると想像するのは容易だ。  では、光子はどこにいるのか。  浦上が、会ったこともない光子に、大塚貿易の藤沢和子を重ね合わせたのは、谷田から得た情報も一つのヒントになっている。  谷田は言った。 「大塚貿易は社長の人使いが荒いし、待遇が悪いので社員が定着しない。経理の藤沢和子にしても、入社してから一年にならないし、秋田に出張していた、例の小泉保彦は、まだ四ヵ月足らずなんだな。社長と専務を別にすれば、入社二年の長井がもっとも古いことになる」  入社一年ならば、一年半前の失踪と符節も合ってこよう。  浦上は、色白で小柄な藤沢和子の特徴を思い返しながら、姉弟の容姿を訊いた。 「そうねえ、卓郎ちゃんは中肉中背。光子ちゃんは小柄で色の白い子だったわ」 「すみません、二人の写真はありませんか」 「どうかしら。アルバムをきちんと整理しておく暮らしじゃないものね。それに、写真なんかあまり撮らなかったのと違う?」  と、清子は首をひねり、 「そうだわ、光子ちゃんが小学校に上がったときの写真なら、確か、うちにもあったと思うわ」  と気軽に腰を上げ、とんとんと急な階段を上がっていった。  浦上は十分ほど待たされた。二階も乱雑にちらかっているのだろう。  やがて清子は、古い白黒の手札写真を指に挟んで、階段を下りてきた。  母親の信江を中にして、右に卓郎、左側にランドセルを背にした光子が写っている。信江も小柄な女性だった。背景は、小学校の正門のようである。  浦上はじっと古びた写真を見つめたが、加部光子と藤沢和子が同一人であるかどうか、二十年以上も前の黄ばんだ写真から見定めることは不可能だった。しかし、同一人であることの可能性は否定できないと思った。容姿の特徴は一致しているのだ。 「この写真を、しばらくお貸しいただけませんか」 「いいわよ」  水商売が長い清子は、物事にこだわらない人柄のようだった。  だが、浦上が礼を言って帰りかけると、 「あの子たちが犯人だったとしても、悪く書かないでね」  と、初めて、感情のこもった表情を見せた。 「悪いのはあの子たちじゃない、殺された大塚の方なのよ」  清子は念を押すように言った。  浦上はタクシーを拾って吉塚へ回った。  清子が言っていたように、紅葉坂はすぐに分かった。小さい坂だった。坂の下り口には、確かに、大きいカエデがあったけれども、坂は三十年前の面影を残してはいなかった。ゆるい坂の両側には、新しい、きれいな二階建てが並んでいる。  浦上は、古いアパートが建っていたという坂の途中と、大きいカエデをカメラに納め、待たせておいたタクシーに戻った。  浦上は、西鉄福岡駅前でタクシーを降りた。  天神は博多の中心である。人も、車の動きも激しい。  道路の一方には、夜になると飲み屋の店を開く屋台がずらっと並んでいる。  浦上は十字路のデパートに立ち寄り、六階の食堂で遅い昼食をとった。  ヒレカツ定食のチケットを買い、生ビールの大ジョッキを追加したのは、今日の取材はこれで一段落、と、考えたためでもあった。ランチタイムを過ぎたデパートの大食堂はすいていた。母子連れが、チョコパフェを食べていたりした。  浦上は窓際のテーブルを選んだ。中洲の繁華街が一目で見渡せる場所である。那珂川沿いに、近代的なホテルや、広い庭を持つ料亭が立ち並んでいる。  ゆっくりと生ビールを飲みながら、清子から借りてきた写真をテーブルに乗せた。 「ん?」  両の瞳に光が走ったのは、視点を変えて写真を見たときだ。  さっきは、関心のすべてが光子に向けられていた。  だが、改めて写真を見つめ直すと、母親の信江を挟んで、光子とは反対側に立つ卓郎にも、見覚えのあるような気がしたのだ。これまた、断定できるわけではなかったけれど、 (もしかしたら)  と、浦上は自分の中でつぶやき、藤沢和子が加部光子であるなら、あの男が卓郎であっても不自然じゃないな、と、自分の中のつぶやきをつづけた。  あの男とは、名古屋での現金強奪事件が発生したとき、秋田へ出張していた大塚貿易社員、小泉保彦のことだ。どこがどうと、はっきり指摘はできない。しかし、言動は物静かだが、なんとも言えない翳を感じさせることのある小泉が、写真の中の少年の日の卓郎の面影を、どこかに残しているような気がするのである。  気のせいかもしれないが、鼻筋と口元の辺りが似ている。 (藤沢和子と小泉保彦は偽名なのか。二人は姉弟なのか)  今は何の裏付けもないが、この発見は浦上の緊張を倍加させるのに十分だった。 (あの二人が、一年半前に失踪した大塚の隠し子だったとしたらどうなるのか)  のんびり生ビールを飲んでいるどころではなくなってきた。  浦上は写真を手にして、大食堂のレジに立っていった。  レジで五千円札を崩し、コインをたっぷり用意して、入り口の青電話に手を伸ばした。神奈川県警本部記者クラブヘかけ、『毎朝日報』を呼び出した。 「なるほど“紅葉坂”か。面白いことになってきたな」  谷田は太い声でこたえた。 「今まで夢想もしなかったが、藤沢和子と小泉保彦が姉弟なら、ストレートに協力できるし、動機の点でも、逮捕されている長井紀雄と一致してくるな」  谷田は浦上の発見に乗ってきた。 「よし、早速、これからだれか若手を走らせて、和子と小泉の実体を洗わせよう。で、きみはいつ帰る?」 「ぼくも、こうなったらすぐに戻りますよ。めしを食ったら空港へ行きます」  浦上はそうこたえながらも、手札の古い白黒写真に目を向けていた。 第5章 福岡の失踪者  東京へ帰る飛行機は込んでいた。週末、金曜日のせいだろう。  キャンセル待ちの浦上は、三便目でやっと席をとることができた。  浦上は羽田空港着十八時十分の368便で戻ってきた。慌ただしい日帰り出張だが、取材が新しい進展を見せているだけに、一刻も早く“発見”の裏付けをとりたかった。  羽田空港の到着ロビーから『週刊広場』編集部へ連絡電話を入れた。 「そうか、それでトンボ返りか。ポイントは横浜だね」  校了日で、いつもならかっかしているはずの編集長が機嫌のいい声で、 「浦上ちゃん、ご苦労さん」  と、言った。編集長も長年の勘で、取材の深化を肌で感じたようだ。 「ところで、今日一日、戸部署の方は特別な動きもなかった。長井は否認をつづけているし、新しい逮捕者も出ない」  と、編集長は捜査本部の動向を伝えた。動きのない方がいい、と、浦上は思った。今、藤沢和子が連行されたりしては、せっかくの新情報が、特ダネでなくなってしまう。  浦上はいったん電話を切り、神奈川県警記者クラブへかけ直した。 「意外に早く着いたな。九州と東京はそんなに近いのか」  と、太い声を返してきた谷田は、浦上の帰浜(きひん)を待っていた。 「明日でもいいが、よかったら真っすぐこっちへこないか」  藤沢和子と小泉保彦の資料は、捜査一課の淡路警部の手元に全部そろっていた。だから、調査に時間はかからなかった、と、谷田は言った。 「やはり、二人は姉弟ですか」  浦上は急(せ)き込んだ。  谷田は直接的なこたえは避け、 「きみの“発見”を煮詰めようじゃないか。日帰りの出張で疲れているだろうけど、例の『カンナイ』でどうだ」  と、含みのある言い方をした。それは、もう一つ釈然としないが、なにかをつかみかけたときの谷田の癖だった。  浦上に異存のあるわけはない。 「分かりました。これから直行します」  と、浦上はこたえた。羽田空港から横浜駅東口までは、高速道路利用の直通バスで、わずか三十分の距離に過ぎない。 (加部姉弟が犯罪の表面に出てくるとしたら、現金強奪事件同様、殺人(ころし)の方も直接の下手人は卓郎ではないのか)  それが、高速道路を突っ走るバスの中で浦上の念頭を占めた。いや、卓郎が現在の小泉であるとすれば、二千五百万円強奪の実行は無理だ。小泉は、秋田に出張していたのだから。  その辺りは、それこそ谷田先輩と会ってから煮詰めるとしても、浦上には、あの気弱な長井を、殺人現場に立たせることがどうしてもできなかったのである。 (必ず、なにか仕掛けがある)  浦上は自分に向かって繰り返していた。薬殺とか、崖から突き落とす、というような犯行なら、まだしも納得がいく。  刃渡り二十三センチの柳刃包丁を振りかざし、心臓を一突きにするなんてことが、あの男にできるだろうか。  しかも、犯人は、犯行後、死体と化した大塚がハンドルに寄りかかっている狭い車の中で、冷静に指紋をふきとっているのだ。あの長井に、そうした沈着にして大胆な行動がとれるとは思えない。  だが、凶器には長井の掌紋が残っている。アリバイを偽造しようとした(と、だれもが判断できる)事実も動かせない。  仮に、加部姉弟に巧妙に利用されたのだとしても、長井の送検は決定的だ。 「きみが長井の性格をどう分析しようと、物証もあるわけだし、長井に対しては捜査本部同様、オレの心証もクロだね」  と、きのう谷田は言った。共通したことは『週刊広場』の編集長からも指摘されている。 (違う!)  浦上が、それでもなお反発するのは、自分の中の暗さに照応してくるものを、長井に感じるためであろうか。  暗さ、という点からいえば、加部姉弟の生い立ちにあてはまるはずだが、姉弟に対して照応する感情を抱かないのは、二人を、藤沢和子と小泉保彦に重ね合わせようとしたことからくる偏見であろうか。  そうかもしれない。小泉の場合はともかく、和子に対しては、徹底して悪感情が先に立っている浦上だった。  一年前入社の和子が、大塚社長にうまく取り入ったとすれば、その後(四ヵ月前)の小泉の場合は、採用に際して和子の強力な口添えがあったのではないか、と、浦上はそんなことまで考えているのだ。そう、二人が実の姉弟ならそういうことになろう。  福岡の中村清子は、姉弟は綿密な計画を立てて実行するタイプだと言った。姉弟そろって大塚貿易の社員となることが、一連の犯行の出発点と考えてもいいはずだ。  直行バスは、川崎から鶴見にかけての工場街を、高速道路の下に見ながら走っている。  浦上はブレザーの内ポケットから、二十数年前の黄ばんだ写真を取り出した。  小柄な母親を中心にして、姉と弟がぴったり寄り添っている。仲のいい母子と見ればそれまでだが、こうなってくると、お互い掌を握り合うようにして寄り添うことで精一杯に生きてきた、一種いじらしいものをさえ感じさせる。  それから二十年余を経た姉と弟を改めて思い描くと、古ぼけた一葉の写真の向こう側に、再び大塚の大きい顔が浮かび、吉塚の紅葉坂が見えてくる。 (あの強欲な男が、すべての原点か)  浦上の胸の奥を、そんなつぶやきが流れた。 『カンナイ』は、初めて谷田と待ち合わせた日のように、勤め帰りのサラリーマンやOLで込んでいた。  谷田はあのときと同じテーブルで、浦上を待っていた。一番奥のコーナーで、壁にはベスビオ火山を背景とする、ナポリ港の大きい写真が掛かっている。  谷田のテーブルには、すでに大ジョッキが乗っている。浦上も生ビールのチケットを求めて、席についた。つまみは、アサリの酒蒸しにした。 「きみの“発見”は貴重だ。しかし、藤沢和子と小泉保彦は、ストレートには“姉弟”になってくれなかったよ」  谷田はそう言って、二通のコピーをテーブルに置いた。捜査一課の淡路警部から得た資料だった。 「このコピーは和子と小泉が赤の他人であることを示している。だが、きみの“発見”を聞いて、こいつらの向こうに見え隠れするものが色濃くなってきた、と、そんな気はするんだな」  谷田が電話で煮詰めたいと言ったのは、その点だった。  谷田は順序として、二通のコピーから説明した。犯人内部説を採る捜査陣は、名古屋の事件の直後に、大塚貿易の全社員に履歴書の提出を求めている。 「社長以下社員九人の会社とはいえ、和子も小泉もアルバイトじゃない。コピーを見たまえ。履歴書には、ちゃんと戸籍謄本も添付されている」  示されたコピーを、浦上は指でたどった。 藤沢和子 茨城県筑波郡伊奈村小板橋二十八 小泉保彦 新潟県西蒲原郡分水町三十  和子は二十八歳、小泉は二十九歳。和子と小泉の場合は、加部姉弟とは逆に、小泉の方が一つ年上だった。 「それに、履歴書を眺めているうちにふと考えたのだが、和子と小泉が大塚の実子であるなら、第三者はともかくとして、当の大塚が気付かないのは変じゃないかね。福岡から中村清子の問い合わせがあり、光子と卓郎からも電話が入っているのだよ。それだけに、ちょっとでも引っ掛かるものがあれば、究明するのが大塚の性格だと思う。実子なら、自分に似ているとか、死んだ加部信江の若い日に似ているとか、必ずどこかに共通点があるはずだ。大塚のような男がそれに気付かないのは妙じゃないか」 「長井もそうですが、中村清子の説明によると、姉弟は大塚とは似ていないそうです。あるいは、なにもかも承知して姉弟を雇い入れるということはありませんか。もう一人の隠し子である長井を採用したのと同じことで、大塚なりの計算がなかった、とは言えないでしょう」 「ああ、それも考えられなくはない。そんな風にして隠し子を入社させることもあるかもしれないが、和子と小泉の場合は当てはまらないね。二人は福岡の隠し子とは違う」  谷田はコピーを指先でたたいた。浦上ももう一度、謄本に目を落とし、 「じゃ、加部姉弟はどこへ行ったのでしょう」  力の抜けた声になっていた。 「姉弟は、実の父親を殺したいほど憎んでいたのですよ。彼らの失踪の目的は、大塚殺害以外に考えられないじゃありませんか」  しかも、“失踪”の先には、実際に“殺人”が発生しているのである。絶対に、姉弟が無関係なわけはない。浦上は、力の抜けた声ではあるが、何度も自分に言い聞かせるように繰り返した。 「どこに潜んでいるのかは分かりませんが、彼らは必ず、事件(や ま)の周辺にいるはずです。先輩はそう思いませんか」 「思うよ」  谷田はあっさりとうなずき、 「和子と小泉の向こう側に見え隠れするものを、オレも感じる」  と、言った。  結果的には、赤の他人というデータを示されたわけだが、二人が失踪した姉弟ではないか、と、一瞬にしろマークしたことで、新しく見えてきたものがあると谷田は言うのだ。 「最初から、小泉と和子の二人は、犯人(ほ し)に成り得る条件を備えていたわけだろ。姉弟ではなかったとしても、犯行の上で、和子と小泉が、肉親に近い関係になったと考えてもいいのではないかね。和子、小泉姉弟説を、きみの福岡からの電話で知らされたとき、真っ先に浮かんできたのがこの店だ」 「この店? 『カンナイ』のことですか」 「これは、長井の無実を主張するきみの立場を、側面から支持する結果にもなるがね」 「どういうことですか」 「小泉にも、大塚を殺す“時間”があった、ということだよ。もちろん、小泉のアリバイ確認が先決だが、殺人(ころし)が発生した一昨夜、小泉が『カンナイ』で同僚の岸信男と待ち合わせた事実を問題にしてもいいのではないか。小泉が岸に指定したのは、午後九時過ぎだ。約束の時間に、小泉は岸と前後して『カンナイ』へ現れた。そして、その“偶然”が、長井のアリバイ工作を崩してしまった、と、捜査本部もオレたちも見ているわけだが、小泉が岸と九時過ぎに『カンナイ』で待ち合わせたのは“殺人”を前提としての意図的なものであった、と、解釈することはできないかね」  九時過ぎなら、八時半の凶行後、楽々と紅葉坂から『カンナイ』へやってくることができる。  谷田の新しい発見がそれだった。凶器の掌紋など、解明しなければならない問題は残るが、凶行時間の小泉のアリバイがあいまいならば、 「あの男を、すんなり除外するわけにはいかなくなってきた」  と、谷田はことばに力を込める。  小泉のアリバイ確認を、すでに配下の若手記者に命じてあるという。 「さすが手早ですね、先輩」 「名古屋の場合も恐らくそうだと思うが、今回も、光子、卓郎姉弟は、陰で有効な働きをしているのに違いない」 「和子と小泉が、姉弟のロボット的役割をしていることになりますか」 「犯人内部説を動かせないとすると、そういうことになるね」 「先輩、その仮説に立って、無駄かもしれないけど、和子と小泉を徹底的に洗ってみますか」 「無駄なものか。オレはそれが最短コースだと考えるね」 「逮捕されている長井はどうなりますか」 「それが分からない。間違いなくクロだと思ってきたが、こうなってみると本当は灰色なのか、実はシロなのか、何とも言えなくなってきたな」 「長井が無実の立場で犯人に仕立てられているのだとしたら、やはり、影の姉弟の力でしょうか」 「そりゃ、そうだろうな。長井は、光子、卓郎姉弟とは違う。同じように認知されていない隠し子とはいえ、長井は、大塚から一応の面倒を見てもらっているではないか。姉弟にすれば面白くない対象だ」 「積年の怨念とは、そうしたものですかね。これじゃ、大塚の息がかかった人間は全員抹殺、なんてことにもなりかねません」 「オレもそれを考えてみた。姉弟の遺恨が底知れないほど根深く形成されているのなら、いずれは、大塚の長男である大塚住販社長昇一、大塚貿易専務広二が襲われないという保証は、どこにもない。大塚の後妻だって狙われるかもしれない」 「それほどまでの恨みつらみと、和子、小泉を結んでいるものは何でしょう?」 「それも分からんね。単純に説明がつくのは現金(か ね)だな。名古屋で奪った二千五百万円が、殺人協力の報酬かもしれない」  浦上は、改めて、コピーに手を出した。茨城出身の和子は二十八歳。都内の短大を卒業後、上野にある小川商事という会社の、やはり経理課に勤務していたが、昨年小川商事が倒産。一ヵ月後に大塚貿易に転職という履歴だった。  新潟出身二十九歳の小泉の方は、地元の大学を卒業して、東京に職を求めた。中野にある安田産業という会社だ。営業部員として働いていたが、半年前に退職。二ヶ月のブランクのあとで、大塚貿易に採用されたという経緯だった。  それぞれ、小川商事、安田産業に数年間在社している。光子、卓郎姉弟が福岡を出たのは一年半前だ。数年間在職していたのでは、その点でも、和子と小泉は光子、卓郎と重なり合わない。 「和子は職安の紹介。小泉は就職情報誌による大塚貿易入社らしい」  と、谷田が補足した。 「茨城と新潟では、福岡との接点はなさそうですね」 「姉弟は相当巧妙に、和子と小泉に接近したことになるな」 「先輩、名古屋で現金強奪事件があったあの日、小泉が秋田へ出張していたのは偶然でしょうか」 「なにを考えているのかね」 「小泉は風邪を理由に、社長命令の出張を三日延ばした、と、大塚はぼくに語っていました。本当に風邪だったのでしょうか」 「計画的に出張を延期したというのか」 「長井が殺人犯に仕立てられたのだとしたら、あの日、長井が、犯行のもっとも近い場所にいたことも、だれかの作為があってのこと、と、そう考えることはできませんか」  もっとも身近にいたからこそ、長井は現金強奪事件でも一役買っているのではないか、と、疑いをかけられてきたのである。その一事を裏返して考えると、一番安全な場所にいたのが、すなわち、犯行不可能な秋田へ出張していたのが、小泉ということになる。  その辺に隠されたものはないのか。事態がこのように進展してみると、浦上が新しい視点で、あの日の小泉を分析しようとするのは当然だ。 「先輩、そこらに突破口があるのではないでしょうか」 「そりゃ、われわれの気付いていない寄せ手順はあるかもしれない。しかし、これで詰むかな。隠されたトリックはあるかもしれないが、小泉に二千五百万円を強奪させることは、まず無理だろう」 「強奪犯は、スーツのそでボタンを遺留していますね」 「ああ。ボタンの写真は今ここにある」  谷田は背広の内ポケットから記者手帳を取り出し、手帳に挟んであるカラー写真を、浦上に手渡した。犯人逮捕まで報道管制が敷かれているけれども、新聞記者ならだれもが承知している、現金強奪事件の唯一の物証だ。  濃紺で縁取りされた白いボタン。犯人のスーツが濃紺ということは分かっている。ボタンから察するに、しゃれたデザインで、しかも上物ということになりそうだ。浦上はカラー写真を食い入るように見つめた。 「先輩、漠然とこのボタンの持ち主を追いかけるのは無理です。言ってみれば、大海原で一枚の木の葉を捜すのにも等しいでしょう。だが、相手を小泉一人に絞れば、話は別ではありませんか」 「小泉? 何度も繰り返すようだが、実行犯が小泉ということはないだろう」 「突破口の可能性が、少しでもあるのならやってみます」  いずれにしても不可能犯罪なのだ。現状では、黒い糸につながる姉弟は浮かんでこない。だったら、どのように些細な手がかりにでも、アタックする必要があろう。  壁に立ち向かうことで、別の新しい血路が開けてくるかもしれない。 「和子と小泉を洗い直すということは、具体的には、二人の尾行から始めるわけでしょう。ぼくは小泉を重点的にマークしてみます」 「きみはそれほどまでに、長井をかばうのか」 「先輩だって、手錠をかけられてパトカーに押し込められたときの長井の顔は忘れないでしょ。懸命に訴えた、あの顔にうそがあったと思いますか」 「それと、小泉の現金強奪実行は別だ」 「裏には何があるか、ともかくやってみます」  浦上はそでボタンのカラー写真をテーブルに置いた。  ぐいっと生ビールを飲んで、取り出したのが中村清子から借りてきた二十数年前の黄ばんだ写真である。 「ぼくにヒントを与えてくれたのが、これです」  浦上は少年の日の卓郎を指さした。 「なるほど。そう言われてみれば、似ているな」  谷田はつぶやくようにこたえてから、顔を上げた。両の目に、今までとは異質な光があった。新しい何かを考えるまなざしだった。  谷田は言った。 「おい、似ているということは、小泉は大塚のもう一人の隠し子じゃないのか」 「あの小泉がですか」 「相手は大塚だ。突飛な連想ではないと思うよ」 「それじゃ、和子はどうですか。藤沢和子の出生にも秘密があったとすれば、光子、卓郎姉弟と、和子、小泉は一本の連帯感の下に手を結ぶことができます」 「大塚は茨城や新潟で暮らしたことはなかったな。小泉と和子が、大塚の隠し子としての可能性ありとすれば、相手の女性、すなわち小泉と和子の母親が、名古屋あるいは横浜で生活していたことになるか」 「二人の本籍ははっきりしているのですから、調査は困難ではありませんね」  戸籍謄本の表面に不審は見当たらない。和子も小泉もきちんと両親の名前が明記されている。  和子は次女、小泉の方は三男として記されている。光子、卓郎姉弟の戸籍とは違う。問題は、この謄本の裏面に隠されたものがあるかどうか、ということだ。 「オーケー。それもオレの方で念を入れてみる。今夜のうちに支局と通信部に連絡をつけよう」 「ところで、愛知と神奈川、二つの捜査本部は、大塚の隠し子たちについて、どの程度の探りを入れているのですか」  特ダネ意識が先に立つ浦上が、その点を気にすると、 「心配することはない。目下はオレたちの方が一歩先行している」  谷田は胸を張った。  谷田のことだ。その辺の抜かりはなかった。谷田は親しい淡路警部にさりげなく問いかけ、その感触を得ている。 「捜査本部では、長井紀雄が隠し子の一人であることはいち早く洗い出した。しかし、三十年前の大塚の福岡時代は、まだ表面化していないようだ」  犯人内部説は不動といえる。捜査本部が重点的に追及しているのは、二千五百万円の動きを知る大塚広二、藤沢和子、小泉保彦の三人だった。洗い出しに全力を投入しているのは、逮捕した長井と、二千五百万円の所在を知る三人とのつながりだった。  捜査本部では、彼らとの関連から、影の現金強奪犯を浮き彫りにしようとしているわけだ。 「本来なら、長井逮捕で戸部署の捜査本部は解散するはずだが、縮小しての継続が決まっている。それも、愛知への協力態勢を維持するためだ」  と、谷田は説明する。長井を逮捕したことで、こっちの捜査本部はほっと一息ついている。谷田の説明には、そうしたニュアンスが感じられた。 (違う。殺人(ころし)の本犯人(ぼ し)は長井じゃない)  浦上は、再度自分に言い聞かせていた。  いずれにしても、「夜の事件レポート」の第一回目の入稿は、来週木曜日と決定しているのだ。水曜日の夜には原稿を書き始めなければならない。取材はぎりぎりでも正味五日間だ。それまでに目鼻をつけることができるだろうか。 「これからどうする? 河岸を変えてもう少し飲むかね」 「明日からの取材に備えて、今夜はほどほどにしておきます」 「それもそうだな。オレも支局へ上がって、もう一踏ん張りするか」  谷田と浦上は、生ビールを飲み残したまま腰を上げた。アルコール好きな二人にしては珍しいことである。  翌、十月二十日、土曜日、浦上は中目黒の1DKのマンションで、いつもよりずっと早く、八時には目を覚ましていた。  無理が利く二十九歳の若さとはいえ、福岡の日帰り出張はさすがにこたえた。全身が疲れ切っている。  しかし、将棋の終盤で秒読みに追い込まれたときのように、神経は微妙に冴え返っているのである。  明け方、二回も眠りを妨げられた。二度とも、実際にはまだすれ違ってもいない、光子、卓郎姉弟と夢の中で会っていた。夢の中の二人から現実に引き戻される感じで、目覚めたのだった。  三度目もそうだ。そして、そのまま、浦上はベッドを抜け出した。  パジャマ姿でたばこを一本灰にし、特大のカップにインスタントコーヒーをいれて、机の前に座った。  スクラップブックなどが、乱雑に積み上げられた机である。取材用のショルダーバッグも投げ出してあった。バッグから一眼レフのカメラを取り出し、昨日博多で撮影したフィルムを抜いた。取材帳を確認しながら、吉塚の紅葉坂など、写真のキャプションをメモし、これからの取材予定をあれこれと考えた。  最初に電話をかけたのは、小泉が半年前まで勤めていたという、中野の安田産業だ。和子が昨年まで働いていた上野の小川商事は倒産しているので、電話一本で済ませるわけにはいかないが、安田産業の方はそれなりの動静を探ることが可能だ。  電話を入れた上で不審があれば、直接中野へ出かけていけばいい。浦上は九時が過ぎるのを待ちかねるようにして、安田産業のダイヤルを回した。  浦上は人事の担当者を呼び出し、小泉の縁談を口実とした。こうした電話取材のとき、興信所を装うのは常とう手段だ。 「朝早くから、申しわけありません」  浦上が低姿勢に出たせいもあろうが、相手も丁寧にこたえてくれた。いかにも人事担当者らしく、きちょうめんな印象の、中年男性の声だった。  しかし、応答は親切だが、週刊誌記者にとって得るところは少なかった。それは谷田を経て入手した、小泉の履歴書を裏付けるにとどまった。  小泉は履歴書に記載されている通り、新潟県西蒲原郡の出身であり、半年前の四月に、一身上の理由で安田産業を退社しているのである。 「退職後の小泉さんが、会社へ遊びにきたことはありませんか」 「一度ありました。あれは、退社後間もなくでしたが、広告の集金取りにきたことがあります」 「広告の集金、と、言いますと」 「小泉君の卒業した西蒲原郡の小学校が、この十一月に創立四十周年を迎えるとかで、その同窓会名簿に、一ぺージ広告をつきあわされたのですよ。社員の申し出なので、引受けました」  その後、小泉は退社したわけだが、安田産業では約束通りの出稿をしたという。その、母校の同窓会名簿のための、小泉の集金であった。 「小泉さんの退社の際の一身上の理由が何であるか、耳にしていますか」 「伯父さんの仕事を手伝う、と、聞いたような気がします」 「小泉さんは、その後、横浜の貿易会社に転職されているのですが」 「横浜の貿易会社ですか」  意外、という感じが声に伴った。  親切な人事係は、いったんことばを切った。近くにいる別の社員に、小声で何か問い合わせているのが聞こえる。  返事はすぐに戻ってきた。 「もしもし、我社(う ち)をやめるときは、やはり伯父さんの仕事を手伝うという話だったらしいですよ」  小泉の伯父さんは、千葉県下でファミリーレストランを何店か経営している。レストランの一軒を任せられたのだ、と、いったことを、退職時の小泉は口にしていたという。 「千葉県下のどこですか。何というファミリーレストランですか」 「さあ、それは聞いていませんな」  と、先方はつぶやき、 「退職理由は、はっきり言わない人間も少なくないのですよ」  と、ことばを濁した。  あるいは、現状に不満があるとか、似たような職場へ移るために、正確な事情は打ち明けにくかった、というようなこともあろう。 「実は、小泉さんの今のお勤め先は大塚貿易というのですが、おたくの会社とお取引はありませんか」  と、浦上は質問を変えた。  人事担当者はすぐに否定した。社名は安田産業となっているけれど、海外取引をするような商社とは全く関係がないというのだ。 「ご存じなかったですか、当社はチェーン店で薬局を経営しているのですよ」 「これは失礼しました」  浦上は認識不足をわびた。  電話を切る前に、念のために訊いてみた。 「そちらの会社に、藤沢和子さんという女性が働いていたことはありませんか」 「いいえ」  これも否定された。  男女の臨時アルバイトは数多くいるので定かでないが、藤沢和子という女性を正社員として採用したことはない、と、人事担当者はこたえた。  浦上が、ふとあることに気付いたのは、受話器を戻してからだ。新しいコーヒーをいれ、電話の要点を一応メモしたときだった。  安田産業の業務主体はチェーン店の薬局、と、走り書きして、浦上の目の色が変わった。 (薬局に勤務していたのなら、小泉はクロロホルムの入手が容易ではないか!)  脳裏にひらめいたのがそれだ。名古屋の犯人は、現金を強奪したとき、クロロホルムを使用している。 (よし、真っ向から小泉にぶつかってやる!)  浦上はメモをとるボールペンを投げ出した。再び電話器に手を伸ばした。ダイヤルを回した先は、谷田の菊名の自宅だった。  浦上は午後二時に、神奈川県警記者クラブへ出向いた。時間は、谷田の指示である。 「遅くとも午後一時までに、新潟支局と、茨城県筑波郡の通信部から、小泉と和子に関する問い合わせの返事がくることになっている。二時なら見通しがついていると思う。小泉の十七日のアリバイも、それまでには確認がとれるだろう」  大塚貿易を当たるのはそのあとの方がいい、というのが、電話での谷田のアドバイスだった。  谷田は『毎朝日報』の機動力をフルに活用して、着実に、しかもスピーディーに焦点を絞っていた。  早目に中目黒のマンションを出た浦上は、関内駅前センタービルのレストランで、昼食をとった。一人暮らしは偏食しがちだし、夜は飲んでしまうので、昼食を奮発することが多い。  浦上はサーロインステーキにサラダを付けた。ゆっくりと食後のコーヒーを飲み、時間を見計らって県警本部へ行った。あえて大塚住販ビルの前は避け、日本大通りを歩いた。  土曜日の午後のせいか、記者クラブはすいていた。他社の記者も、一人か、二人しかいない。 「今日は記者クラブでいいだろう」  谷田は『毎朝日報』のコーナーへ浦上を案内した。  壁面の棚には、びっしりとスクラップが詰まっていた。スクラップと向かい合う机で、二つ横に並べられたいすだった。ほとんどひざを接するようにして腰を下ろすと、 「きみのつかんだネタの方が大きいな」  谷田は小声で切り出した。 「小泉にクロロホルム入手の可能性ありとすれば、やつの影はまた一段とクロくなるか」  谷田はたばこをくわえ、浦上にもすすめた。 「先輩、小泉が安田産業を退社したのは四月です。犯行に使われたクロロホルムが、事実、小泉の手を経由したものだとしたら、小泉は半年も前から、十月の現金強奪を想定して、クロロホルムを準備していたことになりますね」  その場合は、加部姉弟の失踪が一年半前だから、和子や(少なくとも)小泉の大塚貿易入社以前から、四人は手を組んでいたことになろうか。 「それはどうかな」  谷田は首をひねった。 「これは、和子と小泉が大塚貿易の内部にいたからこそ、成功した犯罪じゃないかね。小泉が安田産業在社中クロロホルムを手に入れた目的は別にあったのかもしれないし、確かな目的もなく手にした薬物だったかもしれない。いずれにしても、クロロホルムがそこにあることで、犯行計画は具体性を持った。そう考えられるのと違うかね」 「そうかなあ」  浦上は同意しなかった。  光子と卓郎をよく知る福岡の中村清子によれば、姉弟は綿密に計画を練って実行するタイプということになっている。 「和子と小泉は、加部姉弟に協力して大塚貿易に転職した、と、見ることはできませんか」 「それは考え過ぎじゃないか。いくら社員の出入りが激しいとはいえ、年商七億を越える貿易会社だよ。何の手づるも持たない、外部の人間の計画通りには運ばないと思うよ」 「じゃ、和子も小泉も入社まで、大塚貿易、いや、大塚国蔵と無関係だったのですか」 「そういうことだ」  谷田は固い表情で、『毎朝日報』の取材結果を口に出した。 「藤沢和子も、小泉保彦も、大塚国蔵の隠し子ではなかった」  と、谷田は言った。一段と低い声になっていた。 「通信部と支局は、今朝一番でそれぞれの村役場と町役場を当たってくれたが、二人とも、間違いなく、戸籍に登録されている両親の子供だった。原本の操作もなさそうだ」 「記者は実家にも足を向けたのですか」 「実家へ行くまでもなかったようだ。顔見知りが多い小さな村や町のことで、藤沢家、あるいは小泉家をよく知る連中は何人もいる。そうした住民たちも、和子と小泉がそれぞれの両親の実子であることを、はっきり証言しているのだよ。双方の両親とも土地の人間で、土地を離れて暮らしたこともないそうだ」  家族を直接訪ねないで事実が証明できたのなら、それに越したことはない。和子と小泉に警戒心を与えないためにも、裏付けは、当人たちに気付かれないように、間接的にとった方がいい。 「それにしても、大新聞ですね。われわれ週刊誌じゃ、とてもではないけれど、こんなに早く結論は出ません」 「週刊誌には週刊誌のよさがあるさ」  谷田は下唇をかんだ。 「いずれにしても、オレの連想は、結果的には突飛だったことになるか。四人が隠し子なら、そこから何か開けてくると思ったのに、文字通り、一夜の夢に過ぎなかった」  では、和子、小泉と、光子、卓郎姉弟はどこでどう結びついているのか? 名古屋の事件からちょうど二週間が過ぎる今、影も形も表面に現れてこない姉弟は、どこに潜んでいるのか?  浦上と谷田の話し合いも、必然的にそこへ戻った。 「先輩」  浦上は短い沈黙のあとで、二本目のたばこに火をつけた。 「捜査本部では大塚の隠し子について、それほど探りを入れていないと言いましたね」 「ああ、長井は別格だ。少なくとも加部姉弟をマークしている気配はなさそうだ」 「二つの事件(や ま)は、光子と卓郎がいなければ実行できなかったものでしょうか」  浦上は、裏付けもないままに浮かんできた思い付きを言った。 「ぼくたちは隠し子を強く意識する余り、迷路に入り込んでしまった、ということはないでしょうか」 「じゃ、何かい、きみが九州まで飛んで行ってつかんできた加部姉弟の怨念とか殺意は、一連の犯行と無関係というのかい」 「そうは思っちゃいません。こう話しながらだって、加部姉弟を犯人視していることに変わりはありませんよ。でも、失踪者が、どこにも現れてくれないのなら、嫌でも視点を変えざるを得ないのではありませんか」  しかし、浦上の仮説には、少なからぬ無理があった。  浦上は、長井紀雄をシロと主張する立場だ。長井が無実で、加部姉弟が“不在”となると、現金強奪事件はともかくとして、殺人事件の方の説明がつかなくなる。  谷田がその点を指摘するのは当然だが、浦上にしてみれば、無理は承知の仮説だ。  浦上はこんなふうにつづける。 「殺人(ころし)の背景は、あの時点で先輩が言ったように、実は、大塚の方から犯人を紅葉坂へ呼び出した、と、考えるのはどうでしょうか」  殺人の翌日、谷田は浦上に向かって言った。 「大塚はその経歴からも分かる通り、独得な嗅覚を持っている人間だ。現金強奪犯について、大塚は、捜査本部やわれわれの気付いていない何かを突き止めたのかもしれない」  現金強奪犯(今の浦上の仮説でいくと小泉)が、大塚に犯人と気付かれたための隠蔽(いんぺい)工作。 「その場合は、和子が直通電話で受けた大徳開発からの呼び出しというのは、無論フィクションです。実際には電話もなければ、和子から大塚への伝言もなかったことになります」 「その伝でいくと、小泉が大塚社長に呼び出された時点で、殺人の青写真が完成。浜松へ出張していた長井を殺人犯に仕立てたことになるか。話の上での、つじつまは合う。だが、大塚が、なぜ、小泉を呼び出す場所として、人気のない夜の紅葉坂を選んだのか、その点があいまいだね。詰問するだけなら、会社だってできるじゃないか」  逆に、大塚が小泉を殺そうとしていたのなら、話は違ってくるけれど、と、谷田は言った。  浦上は引き下がらなかった。ある意味では、自分自身を整理、納得させるための反論でもあった。 「犯行場所の説明がつかないのなら、それは和子の証言通りで、大塚の方が呼び出された、と、話を戻してもいいのではないですか。大徳開発からの伝言というのは、この前話し合ったように和子の一人芝居として、和子が大塚にありもしない伝言を中継したのはその通りだったのかもしれません」 「なるほど。二千五百万円強奪事件の犯人が小泉である、と、大塚社長に発覚しそうになったので、それで和子と小泉が共謀。大塚を雨の紅葉坂へ呼び出して殺した。動機は、あくまでも“名古屋”の隠蔽か」  谷田は独り言のようにつぶやいたが、身を乗り出してはこなかった。 「“紅葉坂”が重みを持ってきたのは、きみの福岡取材の結果じゃないか。加部姉弟、というよりも加部母子三人が、二十数年前、無情に大塚国蔵から捨てられたとき住んでいたアパート。母子の暗い出発点となったアパート。そのアパートの建っていたのが、吉塚の通称紅葉坂だったという事実を、きみは無視できるのかね。隠し子でもない小泉の犯行では、その点の説明がつかなくなる。福岡の中村清子が発見し、きみが飛び付いた“紅葉坂の怨念”を捨てるのか」  谷田はたたみかけてきた。  浦上はことばに詰まった。浦上にも見えていたのだ。 「“紅葉坂”を覚えているか。三十年前の“紅葉坂”を忘れはしないだろう。同じ紅葉坂で死んでもらう!」  恐らくそうしたことを口走りながら、積年の怨念をたたきつける黒い影が、浦上にも見えていたのだ。  黒い影は、長井でも小泉でもない。あくまでも、加部卓郎でなければならなかった。卓郎の背後には、光子がいなければならない。  姉弟はどこに潜んでいるのか。どのような方法で“犯人内部説”を遠隔操作しているのだろうか。 「“紅葉坂”を重視することに誤りがないとすれば、殺人(ころし)の犯人(ほ し)は二人、ということも考えられるかな」  谷田も、自分の中で錯綜する混迷を整理するようにして新しい意見を出した。 「犯人(ほ し)の一人は長井だ。これは物証の点からも動かない。そして、雨の夜の紅葉坂には、もう一人、主導権を握る犯人がいた。そいつが加部卓郎ではないか」 「卓郎の直接的な指示で、長井が動いたと判断するのですか」 「主犯の卓郎が紅葉坂に登場してくれば、きみがこだわる長井の内気な性格というのも、納得できるじゃないかね」  そういうことだろうか。浦上は壁のスクラップに目を向けた。  殺人前夜、横浜駅西口の酒場で、長井が前後不覚に酔いどれたのは、(すでに浦上が考えたように)加部姉弟から打ち明けられた殺人計画が、翌日に迫っていたための焦燥ゆえ、ということになるのか。逮捕された長井が、自分は人を殺したりはしない、と、必死に浦上に訴えたのも、雨の殺人現場には立っていたものの、実際には手を汚していなかったため、ということになるのか。  長井は実父を殺してはいない。大塚国蔵の心臓を一突きにしたのは、壁の裏側から出てきた加部卓郎だ。  なるほど、そう整理すれば、谷田が言うように説明はつく。そして、それは、長井シロ説を繰り返す浦上の主張に対して、一種助け舟的な仮説ともなるが、浦上にはまだ抵抗があった。  それなら、長井は、どうして実際の殺人者が他にいる“事実”を訴えないのか。なぜ、加部姉弟をかばい立てするのだろう? 「その辺りの究明も、これからの問題点となるかな」 「ことは殺人(ころし)ですよ。長井は殺人事件の犯人として手錠をかけられたのですよ。そこに卓郎がいたのなら、卓郎の名前を出すのが当然じゃないですか。長井は、なにゆえそれをしないのですか」  浦上はそう言いかけて、やはり、長井は無関係ではないのかと思った。 「先輩、長井は、やっぱり殺人現場にはいなかったのだと思いますよ」  不在だったからこそ、ただ否認するだけなのだ。長井は訴えるべきものを何も持っていない。浦上はその点を強調してみたが、 「凶器に残した掌紋はどうなる? あれは動かせないぞ。立派に裁判を維持できる」  谷田は一貫して、物証優先の立場を変えなかった。  もう一つ確かなデータがないので、浦上と谷田の推理は平行線をたどるが、しかし、本質において、二人の分析はそれほどかけ離れてはいなかった。  見えない何かを発見するための仮説の提出であり、いつもながらの、二人の問答の形式でもあった。将棋の場合もそうだ。難解な詰め将棋を検討するとき、本筋はあとに残して、あえて反対意見を出しながら、無理筋から消していく。それが二人の遣り口だった。  話はクロロホルムに戻った。 「きみがつかんだネタを掘り下げよう。小泉にクロロホルムの入手の可能性ありとすれば、詰めの第一手は、やっぱりこれだ」  谷田がそうつぶやいたとき、配下の若手記者がクラブヘ帰ってきた。  長身、やせ型、神経質な感じの若手記者は浦上とも顔見知りだった。  若手記者は、 (浦上さんの前でもいいのですか)  というように、目で谷田キャップに問いかけてから、取材結果を報告した。 「十七日夜の小泉のアリバイは、ウラがとれませんでした」  若手記者は、いすを持ってきて、腰を下ろした。クラブに残っている他社の記者を意識して、低い声で言った。 「葬儀のあとで社内はごたごたしていましたが、一応、話を聞くことはできました。十七日、小泉は残業をしています。残業は長井の浜松出張とも関係があるらしいのですが、藤沢和子も、小泉と一緒に午後七時半まで、会社に残っていました」  ここまでは間接的な聞き込みだ。残業を終えた小泉と和子は前後して会社を出た。  そして、和子は八時半、小泉は九時過ぎに、ビヤレストラン『カンナイ』へ姿を見せたわけである。  午後七時半から九時過ぎまで、小泉はどこにいたのか。 『毎朝日報』の若手記者は、大塚社長の当夜の行動を探る、という口実で、小泉に迫った。事前に、谷田キャップと打ち合わせた通りの取材方法だった。  小泉は質問にこたえて言った。 「社長は、ぼくが帰るとき、まだ会社に残っていました。八時過ぎに人と待ち合わせているので、それまで、もう少し仕事を片付ける、と、そう言ってました。今にして思えば、その待ち合わせる相手が犯人だったのですね」 「小泉さんは、藤沢さんを経由した大徳開発からの呼び出し電話をご存じなかったのですか」 「そのときは知りませんでした」 「ところで、あの夜、小泉さんは会社を出てからどこへ寄られたのですか」  さり気なく質問を変えると、 「岸くんとの『カンナイ』での約束は九時過ぎだったので、それまで羽衣町でパチンコをしていました」  小泉はすんなりとこたえた。同僚の岸との約束を九時過ぎとしたのは、当初は九時まで残業するつもりだったからである。ところが、仕事は予想外に早く終わった。岸は定時に退社しているので連絡のとりようもない。そこで、約束の時間がくるまでの一時間半近くを、パチンコ店で過ごしていたというのである。  記者は羽衣町のパチンコ店を当たった。関内周辺でも一、二を争う大きい店だった。 「店が広過ぎますよ。店員たちは振りの客などいちいち覚えちゃいません」 「小泉はその一時間半、だれかとすれ違ったということはないのか」 「だれも、知人とは会わなかったそうです」  パチンコ店でも、記億に残るような特別なトラブルもなかったらしい。  普通ならそれでいい。  退社後のサラリーマンが、パチンコ屋で一時間半をつぶした。その間の確かなアリバイがなくともやむを得ない。ある意味では立証できない方が当然なのだ。一般市民は、アリバイを用意して行動したりはしない。  しかし、この場合は別だ。 「可能性の問題だが、面白いことになってきた」  と、谷田は浦上の考えを代弁するようにつぶやいた。  空白の時間が待ち合わせのためであったという説明は、長井の、事件当夜の主張と似ている。うそをついているのはどっちなんだ?  いずれにしても、小泉のアリバイが立証できないというのは、その一時間半、小泉が雨の紅葉坂へ出向いたことを、あるいは“紅葉坂”に陰から協力したことの可能性を否定できなくなってきたわけだ。 「先輩、やはり小泉が血路を開いてくれるのではないでしょうか。こうなったら小泉に、加部姉弟のところへ連れて行ってもらいます」 「動機は“怨念の紅葉坂”に絞るのだな」 「小泉のアパートに、忍び込んでみますか」 「何だと?」 「例のそでのボタンですよ。濃紺で縁取りされた白いボタン。同じボタンのスーツが、やつの洋服だんすの中にあるかどうか。この目で確かめてやります」 「ばかなことを言うな。そんな泥棒みたいなまねができるか」 「ぼくは刑事(で か)じゃありません。この際だから、ある程度のことは大目にみてもらいたいですね。それに、何かを盗み出すわけでもない」 「住居不法侵入罪を知らんのか」 「万一逮捕されたら、先輩の顔でもらい下げていただきます」 「きみ、冗談は一まずおくとしてもだよ、小泉のスーツということはないだろう。何度も言ったが、小泉はあの日、名古屋とは逆方向の秋田へ出張していたんだ」 「証拠のスーツを発見したら、秋田から名古屋へ行くコースを、改めて検討します」  浦上は腰を上げた。  決して冗談ではなかった。なんとしても加部姉弟の行方がつかめないのなら、その突破口を小泉に見出すためにも、やつのアパートに忍び込んでやる。浦上は本気でそう考えていた。  何年前になるか、殺人事件の被害者の顔写真がどうしても入手できないので、焼香と称して被害者宅へ上がり込み、家人のすきをみて仏壇の写真を複写してきた、というような経験も持っている浦上だ。  あのときに比べれば、今度の方が抵抗感も少ない。 (小泉はどっちにしろ、黒い糸と結ばれているんだ)  浦上は自分自身に向かってつぶやいていた。谷田は、 (あきれたやつだ)  というように、その後輩を見た。 「『週刊広場』は一流誌だ。あまり常識はずれなことはするなよ」  オレの方は、小泉と和子のつながりに光を当ててみる、と、谷田は言った。  浦上は地下鉄を利用して吉野町へ回った。早速、アパート下見のつもりだった。下検分をするなら、もちろん当人が留守の方がいい。  時計は午後三時半を過ぎたところだ。小泉はまだアパートには帰っていないだろう。土曜日でも、大塚貿易の就業時間は午後五時半までとなっている。  地下鉄を降りて、殺風景な地下道を上がると十字路に出た。  たばこ屋で尋ねると、 「向かいのお風呂屋さんの裏ですよ」  アパートはすぐに分かった。  浦上は十字路を渡った。八百屋があり、八百屋と大衆浴場の間の小路を入って行くと、市場のように小さい商店が並んでいた。角にクリーニング屋があった。  小泉保彦が住むプレハブ二階建てのアパートはクリーニング屋の棟続きだった。猫の額ほどの狭い玄関先に、八つ手が一本植わっている。  路地を挟んで、アパートの前は食料品店と駄菓子屋だった。こちらは古い平屋だ。ペンキがはげて、壊れかかった古いトタンの看板が屋根に乗っている。  ごみごみとした一角で、路地は人の出入りが多い。 (小泉の部屋はどこだ?)  浦上は周囲を見回し、アパートに視線を投げた。こりゃ簡単に忍び込めそうにもないな、と、思ったが、その通りだった。アパートの前にたたずんでいたのは、十分足らずに過ぎなかったのに、路地で遊ぶ子供たちが、無遠慮にじろじろと浦上を眺めていたし、やがて、 「アパートにご用ですか」  クリーニング屋のおかみが、窓から顔を出してきた。四十歳前後の化粧のない女だ。おかみはアイロンを使いながら、窓ガラス越しに、じっと浦上を見ていたのだ。  浦上が路地に入ってきたときから、注意していたらしい。見知らぬ訪問者に対して、無論ある程度の不審も感じたのであろうが、それだけで声を掛けてきたのではなかった。下町のおかみは、気さくで、親切な一面を備えていた。  棟続きのアパートは、クリーニング店の所有だったのである。たまたま、空き室ありの張り紙を、アパートの玄関に出した矢先でもあった。  浦上は一瞬迷った。しかし、なまじ隠し立てするより、ストレートに切り出した方がいいだろうと思い返した。  浦上はクリーニング店の引き戸を開けて、中へ入った。 「アパートを借りにきたわけではありません。実は」  と、小泉保彦の名前を告げると、 「そうですか。それで見えられたのですか。小泉さんの会社、大変なことになったのですね」  おかみは興味を全身に表した。下町のおかみはおしゃべりだった。 「で、あなたは新聞記者さんですか」  さすがに刑事とは思わなかったらしい。商店のおかみだけに、刑事と記者の違いは何となく分かるのだろう。  浦上はあいまいにうなずいただけだ。特に自分を名乗らなかったけれど、おかみはアイロンのスイッチを切り、手を休めてべらべらと話し始めた。 「小泉さんの会社の社長さんを殺したのは、同じ社員だったのね。新聞には社長さんの隠し子と出ていたけど、信じられないわ。しかも、その長井という人、社長さんを殺す前の夜、うちのアパートヘ泊まっているのですよ」  おかみは迷惑そうな顔をした。  あの前夜、横浜駅西口で浦上と別れたときの長井は、前後不覚の乱酔振りだった。そのまま寝込んでしまえばいいが、途中で起こされたりすると、酔っ払いは妙に抵抗するものだ。  小泉の部屋へ連れてこられてから、長井は周囲のひんしゅくを買うような大声でも発したのかもしれない。浦上はそう考えたが、正にその通りで、タクシーを降り、路地に足を向けたときから、長井はろれつの回らない怒声で、わめき散らしていたのだった。 「アパートヘ入ってからも、いつまでも騒がしいので、うちの主人が注意に行ったほどでしたわ」  やはり、あの夜長井は、酔う前から正常さを欠いていたのだろう。 「朝、酔いが覚めてから、おわびのあいさつにきたときはしょんぼりして、まるで別人のように気が弱そうだったけど、人殺しをする男って、皆、ああした二重人格なのかしら」 「小泉さんは、友人をアパートヘ連れてくることが多かったですか」 「いいえ、あのときが初めてでしたわ」 「だれかが訪ねてきたことはありませんか」  これは加部姉弟、あるいは藤沢和子を想定しての質問であった。 「小泉さんは、うちのアパートヘきて四ヵ月にしかならないのですよ。だれも訪ねてきたことはないと思います」  おかみは否定した。呼び出し電話なども、一度もかかってきたことはないという。光子、卓郎姉弟は、ここでも、影も形も姿を見せていなかった。一体どのようにして“大塚貿易内部”へ連絡をつけているのだろうか。  小泉のアパートに限って言えば、長井紀雄が、最初の来訪者ということになる。だが、家主にすれば、この唯一の来客が問題だ。あの泥酔振りで、泊まった翌々日には、殺人者として逮捕されているのである。 「小泉さんは、事件とは関係ないのでしょうね」  おかみが、長井に関連して、小泉に対してもまゆをひそめるのは当然かもしれない。入居四ヵ月といえば、身元も人柄もそれほど詳しくは分かっていないわけだし、親しさにも欠けているだろう。  そのとき、店主が得意先回りから帰ってきた。目立たない中年男で、おかみとは違って口数も少ない。しかし、女房にも増して、紅葉坂の殺人事件と、店子の小泉に関心を寄せていた。 「詳しいことは知りませんがね、大塚貿易って、けっこうな会社なのでしょ」  店主はそんな言い方で、興味を表面に出した。クリーニング店の夫婦は、アパートの所有者とはいえ、(たとえば藤沢和子などとは違って)小泉サイドの人間ではなかった。むしろ、長井が介在したことで、その逆の立場にいるともいえよう。  口にこそ出さないが、なんとなく胡散臭げに、小泉を捉えているようである。これは、聞き込む浦上にとっては有利だ。持って回った尋ね方をしなくてもいいということである。 (しかも、職業はクリーニング屋ではないか)  浦上は、これはついていたかもしれないぞ、と、自分の中でつぶやき、ブレザーの内ポケットから問題のカラー写真を取り出した。現金強奪犯の遺留品。谷田から借りておいた、濃紺で縁取りされた白いボタンの写真を、浦上は夫婦に渡した。 「話は違いますが、このボタンに見覚えはありませんか」 「写真のボタンがどうかしたのですか」  夫婦はけげんな顔をした。突然の話題変更なので、質問の意味が解せないのは当たり前だ。 「派手なボタンね」  おかみがつぶやき、主人は黙って写真を手に取った。  浦上が思った通りだった。職業柄、夫婦の関心は、世間一般の人よりは強かった。 「このデザインは、去年辺りから出回っているかな」 「焦げ茶色は多いけどさ、紺の縁取りは珍しいんじゃない?」 「焦げ茶なら、ブレザーは白地で、薄茶のしま模様かな」  といったことを、夫婦は話し合っている。 「写真のボタンの場合、背広は濃紺です」  と、浦上が口を挟むと、 「そう、濃紺でしょうな」  主人はうなずき、おかみが顔を上げた。 「記者さんは、小泉さんの取材に見えたのではないですか」 「それですがね、小泉さんが、このボタンの付いたスーツを持っていると思うのです。ご記憶ありませんか」 「さあ、そう言われても」  店主は首をかしげ、 「小泉さんは茶系統が多かったのではないかしら」  と、おかみがことばを次いだ。  浦上も覚えている。殺人事件の前夜、西口の酒場で出会った際の小泉は、上下とも薄茶色のスーツだった。  しかし、年がら年中茶系統ということはないだろう。 「思い出してください。小泉さんは紺地のスーツを着ていたことがある。必ず着ていたことがあると思うのです」 「背広が事件に関係あるのですか。犯人はうちのアパートヘ泊まった酔っ払いでしょ。小泉さんは犯人ではないのでしょ」 「もちろんそうです」  浦上は力を込めて、店主の発言を肯定した。これまた、こうした取材での“定跡”だった。王手をかける“寄せ手順”がはっきりしないうちに、聞き込みが、妙な具合に小泉に伝わっては困る。 「ちょうど二週間前の土曜日、今月の六日、小泉さんは秋田へ出張していたのですが、覚えていませんか」 「そういうことがありましたな。二日ほどアパートをあけました」 「そう、四日から六日までだったかしら。新潟の笹もちをお土産にもらいました。小泉さんは新潟の出身なのよね。出張の帰りに故郷へ寄ってきたと話していましたわ」  夫婦は、小泉が出張から帰った日と、名古屋の現金強奪事件が同日であることには、関心を寄せていなかった。紅葉坂の殺人事件だけがクローズアップされていた。 「秋田出張のとき、小泉さんは紺のスーツを着ていたと思うのですが」 「覚えていませんな」 「それに、出張へ行くときはコートを着ていたのではないかしら。そうよ、わたしがお店でアイロンをしているときに声をかけていったのだけど、あのときは小さいスーツケースを提げて、コートを着ていたわ」  だから、なおのこと、スーツの色は記憶していない、と、夫婦は口をそろえた。  質問はそこまでだった。 「いろいろありがとうございました」  浦上は礼を言った。 「きょう伺ったことは、小泉さんにはご内分に願います。何か思い出されたら、お電話いただけると助かるのですが。実は、ぼくはこういうものです」  改めて、『週刊広場』特派記者の名刺を取り出した。自宅マンションの電話番号を名刺に走り書きして、浦上はクリーニング店を出た。 (やっぱり、やつの部屋へ忍び込むしか手はないか)  浦上は地下鉄の駅へ戻ったとき、再度、自分の中のつぶやきを繰り返していた。  翌十月二十一日は日曜日だった。ルポライターという生活が不規則な人間にとっては、休日は関係ない。原稿の締め切り日だけが問題なのだ。  朝、九時過ぎに目覚めた浦上はコーヒーを入れ、パジャマ姿のまま、取材の整理に没頭した。  中心に、何を据えて書き始めればいいのか。読者へのアピールという点から言えば、もちろん加部姉弟ということになる。“紅葉坂の怨念”を第一回でたたきつけるか。それとも、含みとして残しておくか。  前面に出したいのは山々だが、二人が消息不明のままでは、いかにも弱い。谷田先輩との検討に誤りはないと思うが、万に一つ、光子、卓郎姉弟が事件に無関係であったとしたら、どうなるか。  匿名で扱ったところで名誉棄損問題が派生してくるであろうし、なによりも、人気連載である「夜の事件レポート」の信用が失墜してしまう。もちろん、フリーのライターである浦上の、今後の仕事にも響いてこよう。  浦上は机に両ひじをつき、両掌をほおに当てた。  そうかといって、犯行の再現から入る定跡通りの執筆は気が進まない。福岡まで足を伸ばし、大塚国蔵の三十年前と、姉弟の怒りを探っているだけに、なおさらだ。 (吉塚の紅葉坂は、他誌には嗅ぎつけられていないネタなんだ)  最初に特ダネをぶっつけて、読者を惹きつける。足で書くルポライターとしては、何をおいてもそうしたいところだ。カエデが写っている福岡の坂の写真も使いたい。  取材のタイムリミットは、水曜日の夕方である。ぎりぎりまで粘るのはいい。だが、これほど巧妙に姿を隠している姉弟が、これから三日やそこらの取材で素顔を見せてくれるだろうか。 (失踪者はどこにいるんだ?)  和子と小泉を締め上げるのが早道だが、その手段が思い浮かばない。 (小泉のアパートは、ちょっと忍び込めそうもないしな)  思考は堂々めぐりをして、結局、出発点へ戻ってくる。  浦上は新しいコーヒーをいれた。  電話の鳴ったのがそのときだ。 「もしもし、浦上さんですか。児玉ですが」  なじみのない女性の声だった。児玉という名前にも記憶がない。 「どちらの児玉さんですか」  浦上が問いただすと、 「あら、ごめんなさい」  先方は笑い声で言い直した。 「わたし、吉野町のクリーニング屋ですよ」 「こりゃどうも。昨日は失礼しました」 「早速ですがね、きのう尋ねていらした小泉さんの背広のことですが」 「なにか分かりましたか」  浦上の声が思わず高くなった。 「はい。小泉さんは、写真と同じボタンが付いた濃紺のスーツを持っていますよ」  クリーニング屋のおかみは声を低くした。笑い声は消えて、真剣な口調になっていた。 第6章 “あさひ104号”のアリバイ  クリーニング屋のおかみの“発見”は、つい三十分前だった。  おかみは店の前の路地を掃除していた。そこへ、アパートから小泉が出てきた。 「おはようございます」  小泉の方から声をかけてきた。普段は、どちらかといえば愛想のない小泉だが、 「これから鎌倉へ遊びに行ってきます」  と、おかみが尋ねもしないのに、しゃべった。なにかうれしいことでもあるようだった。  四日前の社長の不幸とか、同僚の長井が社長殺しの犯人として逮捕されたことなどは、全く無縁といった顔付きである。 「小泉さんも社長さんのお通夜や、お葬式で大変だったでしょう。今日は気晴らしのデートですか」  おかみが笑顔で応じると、 「デートなんて、とんでもない。ぼくにはガールフレンドなどいませんよ。なんとなく海を見たくなっただけです」  小泉も笑みを返した。  小泉は白いタートルを着ていた。いかにも、休日を楽しむといった感じの軽装である。きちんとネクタイを締めている出勤時の印象と異なるのは当然だが、それでも、どこか感じが違う。  珍しく自分から話しかけてきたり、笑顔を見せたりしているためだろうか。  おかみはそう考えたが、次の一瞬、 (あ!)  と、自分の中で小さいつぶやきを発していた。タートルの上に着ていたのは、いつもの茶系統のスーツではなかったのである。  浦上のマンションに電話をかけてきたおかみは、緊張した声で言った。 「小泉さんが着ていたのは、きのう話に出た濃紺のスーツだったのですよ」 「本当ですか!」  浦上は受話器を持ち直した。 「で、ボタンも確かめてくれたのですね」 「間違いありませんわ。きのう写真で見た、あのボタンです」  自信に満ちたこたえだった。一般の主婦とは異なり、クリーニング屋を営む人間の証言だけに重みがあった。  浦上は、そでボタンの一つが紛失していなかったかどうか、と、問いかけようとしてやめた。これは店主夫婦には打ち明けていなかったし、現在は、まだ表沙汰にはしたくないことだったからである。  小泉は遺留品と同じボタンの、濃紺のスーツを持っている。今はその情報だけで十分だ。自分にも判然としない熱いものが、背筋を這い上がってくる。  机に両ひじついて、思い悩んでいたのがうそのようだ。水曜日の夕方までに加部姉弟が出てこないのなら、それもいい。 (第一回目は小泉の線で行こう)  浦上は自分の中でつぶやき、クリーニング屋のおかみに礼を言った。 「昨日も申し上げたことですが、ぼくが取材していることは、小泉さんにはご内分に願います」 「それは構わないけど、わたし、小泉さんに悪いことしているわけではないでしょうね」 「そんなことはありません。今は言えませんが、決して迷惑をかけるようなことはしません」  浦上はそう繰り返しながらも、思考は新しい一点に飛んでいた。 「何だと?」  谷田の声も高くなった。浦上が菊名の団地へ電話を入れると、日曜日とあって、谷田はまだ床の中にいた。  朝寝を楽しんでいるところを妻に起こされた谷田は、最初不機嫌な声だった。しかし、浦上の説明で、完全に目覚めたようである。電話の声に張りが出てきた。 「クロロホルムに濃紺のスーツか。オレも、考え方を変える必要がありそうだな」 「そうです。視点を変えて、小泉の秋田出張を検討してみます」 「うちへ来ないか。めしでも食いながらどうだ。きのう、あれから一課の淡路警部に会ってね、ちょっとしたネタももらっている」 「分かりました。すぐに伺います」  浦上は受話器を置くと、慌てて差替えを済ませた。  東横線に乗って、菊名の団地へ着いたのが十一時過ぎだった。やわらかい陽差しの午前で、ベランダには布団を干している部屋が多い。  小学生たちがキャッチボールをする中庭を横切るとき、ふと、長井母子が住む川崎の団地を思った。それは、この菊名とは違って、古い、薄汚れた団地であった。  長井紀雄は、今、捕われの身だ。長井は身柄を送検されてからも、無実を訴えつづけている。  凶器の柳刃包丁に残した掌紋には、どのようなトリックがあるのか。背景が解明されない限り長井の無実は証明されない。  長井は人間を刺し殺せるような人間ではない、と、浦上がいかに強調しても、それは心情論に過ぎない。長井には、アリバイ偽造の形跡も見てとれるわけだし、浦上の主張が裁判で通用するはずはないのだ。 「こいつが本犯人(ぼ し)だ」  と、加部姉弟、あるいは姉弟につながる和子と小泉を、逮捕する確証が必要なのだ。真犯人を突きつける以外に、長井を救出する方途はない。  浦上は団地の階段を上がった。夫婦二人暮らしの谷田の部屋は、見晴らしのいい三階だ。 「いらっしゃい。お待ちしてました」  谷田の妻が笑顔でドアを開けた。  数多くの書籍にうずもれている3DKだった。右手の六畳間には三人分の昼食が用意されてあり、テレビの前には五寸盤が置かれてあった。  テレビはちょうど将棋番組を放映中で、谷田はテレビの実戦を五寸盤に再現していた。 「タテ歩取りの終盤だ。投了まで一緒に見ないか」  谷田はちょっと振り返ったが、すぐに視線をテレビに戻した。  結局二十分ほどつきあい、テレビ将棋の決着(け り)がついてから食事になった。  食卓には手作りのてんぷらが出され、谷田の妻はビールをあけた。 「浦上さん、たくさん召し上がってくださいな。今朝も、食事抜きだったのでしょ」  いつきても、後輩をあたたかく迎えてくれる夫妻だった。  浦上はビールを一口飲んで、本題に入った。 「捜査一課の淡路警部から手に入れたネタを伺いましょう」 「名古屋の捜査本部からの依頼で、一課が、大塚貿易の関係者を徹底的に洗ったことは前にも話した通りだ。きのうオレがチェックしたのは、和子と小泉のつながりだ。もちろん、オレたちの取材結果は伏せて、遠回しに尋ねてみたのだがね。一課の内偵では、和子と小泉の間に特別なパイプはないらしい」 「だが、あの二人が組まなければ、背後にいる加部姉弟への協力は無理でしょう」  呼び出し電話は、名古屋の場合も、紅葉坂のときも、和子が中継している。和子なら“呼び出し”に操作を加えることが可能だ。 「そんなことは分かっている。分かってはいるがね、和子と小泉の社外での交流は皆無ということだ」 「一課の内偵は万全だったのでしょうか」 「きみは長井逮捕には一石投じるし、今回、妙にサツに対抗するね」 「現金が強奪された日の朝、秋田にいた小泉からも、大塚貿易本社へ連絡電話が入っていますね。和子と小泉は、その電話で、二千五百万円の強奪の最終打ち合わせをしたのではないか、と、ぼくは考えるのですがね」 「犯人(ほ し)を、小泉一本に絞るのだな」 「壁の向こう側にいる加部姉弟の役割りは不明です。どのような手段で“大塚貿易内部”と連絡をとっていたのかも依然として分からない。現状では、クロロホルムと濃紺のスーツが与えてくれた暗示を、追及するしかありません。あの朝、和子は神戸のビジネスホテルヘ電話を入れて“明和設備からの伝言”というのを、告げ、一時半という訪問時間を念押ししています。これこそ、強奪決行の、隠れたゴーサインではなかったでしょうか」 「それほどの和子と小泉が、社外での交流を全く感じさせないのは変だな」  谷田は新しいビールを双方のコップについだ。  和子は、横浜駅西口からバスで十分足らずの、浅間町のアパートに住んでいる。大塚貿易に採用された一年前から入居しているのだが、この一年間、和子を訪ねてきた人間は一人もいなかった。 「アパートへ呼び出し電話がかかってきたこともないし、郵便物などもほとんどこない、と、アパートの家主は証言しているそうだ」  似ている、と、浦上は思った。それは、小泉の場合と全く同じではないか。この点の共通は、単なる偶然だろうか、と、浦上は吉野町のクリーニング店での取材を思い返した。 「和子と小泉が、社外での交際を持たないのは、一種のカムフラージュではありませんか。それぞれのアパートでの二人の対人関係はゼロ。この共通点は、なにかを隠しているはずです」  と、浦上は自分の考えを述べて、ふと、あることに気付いた。浦上は、逮捕されている長井と、和子が、恋人同士、もしくはそれに近い関係にあった、ということについて当初から半信半疑だったが、長井も和子のアパートを訪ねていないのか、と、その一点に小さい引っ掛かりを覚えた。  何度もデートしているほどに親しいのなら、長井が和子のアパートへ全く足を向けないのは不自然ではないか。独り暮らしの和子は小娘とは違う。たまには相手を自宅へ招く、といったことがあってもいいのではないだろうか。  和子と小泉を黒い糸で結び付けてみると、長井の方は間違いなく浮き上がってしまう。“恋愛”が、和子から持ちかけたものであったとしたらどうなるのか。  和子と長井の性格から判断しても、交際は、和子が主導権を持っていたに違いない。和子がリードした、“恋愛”は長井を犯人に仕立てるための偽装であり、罠であった、と、見ることはできないか。 「先輩、これが罠であったとしたら、殺人事件の方でも、和子と小泉は主要な役割りをしていたことになります」 「十七日、雨の中で四十分も和子を待っていたという長井の主張は、その通りだというのかね」 「凶器の掌紋同様、時間にもトリックがあるのではないでしょうか。犯行時間の長井のアリバイがあいまいなのは、二人の意のままに踊らされた結果ではありませんか」  と、浦上は新しい発見を言った。和子が長井に言い寄ったのは、長井を嵌(は)めるための伏線に違いない、と、それが浦上の念頭に上がってきた。  ビヤレストランの『カンナイ』を利用してのアリバイ偽装など、最初からありはしなかったのだ。偽装があったように見せかけたのは、あれは長井の容疑を不動のものとするための、真犯人たちの裏工作だ。  それなりの動機があり、物証もあり、しかもアリバイを持たない男。その上、アリバイを偽造しようとした形跡が表面化したとあっては、長井は後ろ手にされて、がんじがらめに縄を打たれたのにも等しい。 「長井に関内と『カンナイ』を錯覚させたのは、和子の誘導に決まっています」 「そして、長井の時間が空白であったことを“証明”するために、小泉が『カンナイ』へ登場してくるという段取りか」  大塚貿易の同僚岸信男は、なにも知らないまま、裏工作に一役買わされていたことになる。そう、岸は無関係なのだ。岸は善意の第三者でなければならない。  黒い企みは、慎重に練られたものであったとしても、あとで、予想外の問題が発生しないとは限らない。刑事の目が、裏面の操作に向けられた場合に備えての善意の第三者。  あの時間に小泉がふらっと立ち寄ったのだとしても、証言はそれなりの重みを持つだろう。しかし、偶然同席したというのでは弱い。同僚との約束で『カンナイ』へ出かけた、と、そうした方が説得力がある。  しかも、長井遅刻の目撃者が二人ともなれば、証言の重みも一段と増すわけである。 「長井じゃありません。小泉にアリバイのないことこそ問題にすべきです」  浦上はことばに力を込めた。 「小泉保彦と藤沢和子か」  谷田も思い詰めたようにつぶやき、 「そうそう、きみに渡すのを忘れていた」  と、通勤用のショルダーバッグを持ってくるよう、妻に命じた。  バッグから取り出したのは、キャビネに焼き付けた四枚のモノクロである。現金強奪事件の直後、犯人内部説が最初に打ち出された時点で隠し撮りした、大塚広二、長井紀雄、藤沢和子、小泉保彦の写真。  いずれも横顔だった。退社時間を狙い、望遠レンズを使用したもので、四枚とも、もう一つ鮮明さを欠いている。写真の背景となっているのは、見覚えのある大塚住販ビルだ。  しかし、明確ではなくとも、四人、それぞれの特徴は捉えられている。 「和子と小泉の写真が役に立つかもしれないね」  谷田はビールをあけて言った。  そう、小泉と和子の写真使用は必至だろう。その場合、警察からもらってくる平凡な顔写真よりも、動きのある特写の方が迫力を増すのは当然だ。 「連載第一回目で、この写真を使えると最高ですがね」  浦上は、必ずそうしてやると考えた。礼を言って、四枚の写真を背広の内ポケットにしまった。  それにしても、光子、卓郎姉弟はどこに潜んでいるのか。どのような方法で小泉と和子を引き入れ、どこから指示を出しているのだろう? 「いずれにしろ“紅葉坂の怨念”は動くまい。一連の犯行は、まだ完了してはいないはずだ」 「次のターゲットは、大塚国蔵の長男と次男、ということになりますか」 「うん、それが怨念だ」  しかし、今は、小泉から崩すのが順序だった。谷田はショルダーバッグから取材帳を取り出し、自ら立って行って、隣室の書棚から大判の時刻表を持ってきた。  新しい検討は、昼食を済ませてからになった。  コップを二つだけ残して、食卓は片付けられた。谷田の妻は新しいビールをあけて、座を外した。  窓のはるか向こうに、古い寺があった。寺の裏手は墓地であるらしい。北側に大きいケヤキが並んでいる。浦上はその枝振りのいい大木を見て、福岡の、小さい坂の下り口にあったカエデを思った。  吉塚のカエデは、まだ紅葉を迎えてはいなかった。間もなく、秋は深まる。加部姉弟の三十年前を知るあの大きいカエデは、どのような彩りを見せるのか。 「小泉の十月六日の足取りはこういうことになっている」  谷田は原稿用紙を食卓に広げ、いかにも新聞記者らしい手早さで、要点をメモしていった。捜査一課の、淡路警部からもらってきた資料だった。 八時 秋田駅近くのビジネスホテル『山峡館』をチェックアウト 八時二十九分 秋田発 羽越本線L特急“いなほ4号”に乗車 十二時三十分 新潟着  午後 西蒲原郡分水町の実家を訪問 十七時五十五分 新潟発 上越新幹線“あさひ104号”に乗車 十九時四十分 大宮着 二十時一分 大宮発 新幹線“リレー48号”に乗車 二十時二十七分 上野着 「小泉は上野駅から、大塚貿易へ連絡電話をかけている。そこで名古屋の異変を知らされ、真っすぐ会社へ向かった。横浜のオフィスに入ったのが、午後九時半頃という話だ」 「小泉は、本当に西蒲原郡の実家を訪ねているのでしょうか」  いや、実際に列車で新潟を通過しているのか。小泉はアパートの家主に土産の笹もちを持ってきたが、最近では、地方の名産はどこのデパートでも手に入る。直接、現地を踏む必要はないのだ。 「一課では『山峡館』と小泉の実家へ電話を入れている」 「ビジネスホテルはともかくとして、こうなったら、家族の証言は論外です」 「小泉と口裏を合わせての偽証だというのか」 「偽証の線で検討してみましょう。少しでも不審点が出たら、ぼくは新潟へ行きます」 “実家訪問”を除外すれば『山峡館』を出発した午前八時から、上野駅で大塚貿易に電話を入れたという午後八時半頃まで、小泉は全く自由に時間を使うことができるのだ。いや、上野駅で電話を入れたというのも、小泉の主張だけで、証人がいるわけではない。すると持ち時間はさらに伸びて、午前八時から午後九時半まで、十三時間半ということになる。 「十三時間半もの時間があれば、何だってできるでしょう」  浦上は、時刻表を調べるまでもないと思った。 「淡路警部に連絡して、小泉のアパートを家宅捜査(がさいれ)してもらったらどうでしょう。濃紺のスーツを押収すれば、少なくとも名古屋の事件(や ま)は完了です。小泉を締め上げて、一刻も早く、陰にいる光子、卓郎姉弟をあぶり出したい」 「その点はオレだって同じだ。淡路警部に連絡するのもいい。いや、報告する必要があるだろう。だが、納得がいくように、小泉の足取りをきちっと洗い出しておくのが先じゃないかね」 「分かりました。ぼくが記入します」  浦上は原稿用紙を引き寄せ、ぱらぱらと時刻表をめくった。 「二千五百万円を強奪した犯人は、伏見通りにレンタカーを乗り捨てた。これが十四時前。小泉の帰浜が二十一時三十分。持ち時間はざっと七時間半ですね。名古屋—新横浜間は、新幹線こだま号利用で二時間三十二分に過ぎないのですから、これは楽々と間に合います」 「そうだな。犯行後の逃亡時間は分析する必要はないだろう」  しかし、と、谷田は口調を変えた。 「小泉の自由にできた時間が十三時間半といっても“犯行後”をカットすれば、午前八時から午後一時半まで。この五時間半が実質的な持ち時間になるな」  八時に秋田のビジネスホテルを出た小泉を、十三時三十分までに名古屋へ連れて行くことができるかどうか。 「当然、空路利用でしょう」  浦上は、谷田の杞憂(きゆう)を払いのけるように、さらりと言ってのけた。  浦上の視線がたどっているのは、時刻表の最終ページに掲載されている市内—空港間の交通案内欄だった。秋田空港までの所要時間がバスで一時間であることを確認して、浦上はページを戻した。  連絡バスの待ち時間とか、搭乗手続きに、仮に三十分の余裕を見るとして、九時半以降の出発便を確かめればいいわけだ。  しばらくして、 「こりゃまずいな」  浦上は重い声で、ぼそっとつぶやいた。楽観に影が差した、という感じである。  浦上の視線と指先は、慌てて別のダイヤを追った。  時間をかけて、あっちこっちたどっていたが、 「先輩、駄目ですね。飛行機がありません」  浦上はボールペンを投げ出した。さっきまでとは別人のような沈んだ表情になっている。  秋田空港には、全日空と東亜国内航空の二本が入っている。全日空は東京と名古屋、東亜国内航空が札幌と大阪行きの直通便を飛ばせている。 「名古屋行きは始発が十三時二十五分です。名古屋到着は十四時四十分だから、問題になりません」 「大阪、あるいは東京経由も無理なのか」  谷田も時刻表をのぞき込んだ。  大阪行きは十時二十分だった。搭乗はできるが、大阪着が十二時三十五分。大阪—名古屋は定期便が飛行していないので新幹線利用となるが、空港から新大阪駅まで直通バスで二十五分。トラブルなし、乗り換え時間なしで計算しても、新大阪駅着が十三時だ。新大阪—名古屋間はひかり号で一時間七分を要するのだから、とてもではないが、十三時三十分までに、現金強奪現場へ到着することはできない。 「札幌行きは逆方向だし、残された希望が東京便ということになるか」 「それが駄目なのですよ」  心地よく回っていたビールの酔いが一遍に覚めた、という顔付きだった。浦上はボールペンを持ち直して、秋田発東京行き全日空の時刻を、原稿用紙に書いた。  始発は九時五分発、十時十分着の、“872便”。次は十一時二十分発の“876便”で、東京着は十二時二十五分となる。利用できるのはこの“876便”だが、 「羽田から浜松町まで、モノレールで正味十五分ですよ。さらに浜松町から東京駅まで六分。乗り換え時間を加えると、新幹線ホームに立つのが十三時になってしまいます。これまた、絶対犯行に加担することは不可能です」  と、浦上は説明する。 「東京からも、大阪同様に名古屋へ行く航路はなかったね」 「一便も飛んでいません。成田からなら一便ありますが、出発が十八時四十五分です」  浦上は吐き捨てるように言った。  短い沈黙がきた。  浦上はそれでもあきらめ切れないように、秋田発の時刻表をみつめ、 「あの日、小泉がビジネスホテルを出た時間は確かなのでしょうね」  と、話題を変えた。 「午前八時のチェックアウトに、間違いはないはずだよ」  と、谷田はこたえた。電話確認だが、捜査一課では、『山峡館』の三人の従業員から証言を取っている。 「小泉の出発時間を早めれば、なんとかなるのか」 「九時五分発の“872便”に乗せれば、犯行が可能となります」  十時十分の東京(羽田)着なら、東京駅十一時発の“ひかり7号”に乗車することができる。名古屋着は十三時一分。 「これならぴったりです」 「ほう、光はまだ消えてはいないな。ねえ、きみ、ビジネスホテル出発の八時は動かせないとして、空港までの所要時間を短縮する方法はないかね。時刻表に載っているのは、バスの時間だろ。タクシーを飛ばせば、当然所要時間は短くなる」 「それはそうですが」  どうかな、というように浦上は首をかしげた。浦上も考えてはみたのだ。  タクシーを拾う時間とか、搭乗手続き、そして搭乗までの時間は、ぎりぎりにみても二十分は必要だろう。すると、四十分か四十五分で突っ走らなければならない。 「バスで二時間も三時間もかかる場所なら、スピードアップの操作もできるでしょう。しかし、正味わずか一時間の距離を、二十分も短縮できるでしょうか」 「ほかにルートはないのだろ。小泉を名古屋へ連れて行くには、それしかないじゃないか」  だったら、三十分早くホテルをチェックアウトすればよかったではないか。なぜ、小泉はそうしなかったのか。 「それは、あとで考えるとしてだな」  と、これまでとは逆に、谷田の方が身を乗り出してきた。時間短縮の有無について確認を取ったらどうか。念のために秋田へ電話を入れてみたまえ、と、谷田は新しい提案を言った。 「一応やってみますか。秋田の空港へかけますか」 「いや『山峡館』の方がいいと思う。ホテルなら空路利用の客もいることだし、その辺のところは詳しいのではないかね」  それに、小泉のチェックアウトタイムを、じかに確かめるのも悪いことじゃない、と、谷田は言った。  電話は、玄関の下駄箱の上だった。  浦上は市外局番案内係へ問い合わせてから、0188、と、秋田のダイヤルを回した。 「はい、先日警察の方にも申し上げましたが、小泉さんは朝八時にお帰りになりました」  と、東北なまりでこたえてくれたのは、マネージャーと名乗る男だった。すぐに電話を代わったところから察するに『山峡館』はそれほど大きいビジネスホテルではないらしい。 「失礼ですが、八時というチェックアウトに間違いはないでしょうね」 「はい、これははっきり覚えています」  その日、盛岡からの団体客のマイクロバスが、八時に出発することになっていた。小泉が会計を済ませて出て行ったのは、ちょうど、マイクロバスが定時に出発する矢先だったので間違いない、と、マネージャーは言った。  浦上はうなずいた。マネージャーがそれほどまでに明言するなら、出立の時間に疑義を抱く余地はないだろう。  質問は本題に移った。  すると、マネージャーはあっさりとこたえたのだ。 「一時間ですって? 空港までそんなにかかりませんよ」 「時刻表には、バスで一時間と出ているのですが」 「ああ、あれは市役所前からの時間でしょ。市役所前、交通公社前、秋田駅前、木ノ内前、それから相互銀行前と停車して空港へ向かうので時間がかかるのですよ」 「そちらのホテルは、秋田駅の近くですよね」 「駅は歩いて五分とかかりません」 「そちらのホテルから空港まで、タクシーなら、どのくらいな時間で行けますか」 「そうですね、うちからなら、道路が込んでいても、四十分もみれば十分でしょう」 「四十分?」  計算通りではないか! 浦上は、受話器を持つ掌に汗がにじんでくるのを感じた。 「で、あの時間、朝の八時頃、タクシーをすぐに拾えますか」 「タクシーは、駅前へ行けば何台も客待ちしていますよ」  東北なまりのマネージャーは、事もなげにこたえた。  礼を言って電話を切るとき、浦上の全身は、はた目にも分かるほど軽やかだった。 「先輩、やりましたよ!」  隣室にいる谷田の妻がびっくりするような大声で、浦上は言った。 「小泉は“872便”に搭乗することができます! 午後一時半に犯行現場へ立つことができます!」  日頃物静かな浦上からは想像もできない、高い声だった。  残る作業は、仮説の裏付けを取ることだ。 「よし、淡路警部に連絡しよう。“872便”の偽名搭乗者の洗い出しなどは、これは警察の力でなければ無理だ」  今度は大柄な谷田が立ってきて、下駄箱の上の電話器に手を伸ばした。  それから一時間が過ぎる頃、浦上と谷田は藤沢にいた。  淡路警部の自宅が、藤沢駅から徒歩で二十分ほどの場所だった。 「浦上さんという週刊誌の方に引き合わせてもらいましょうかな」  警部は、谷田からの長い電話を受けたときにそう言った。日曜日で、警部は自宅でのんびりしているところだった。 「いつぞやの婦女連続暴行事件のときも、浦上さんからは貴重なご意見をうかがっている。よかったら、一緒にどうぞ」  と、警部は誘った。谷田と親しい淡路は、谷田がかわいがる後輩に対しても好意的だった。  谷田にも浦上にも、異存のあるわけがない。警部が制服を脱いだ場所での話し合いなら、予想もしなかった収穫を期待できるかもしれない。浦上にとっては、今後の顔つなぎの意味もある。  湘南電車を降りた谷田と浦上は、江ノ電デパートで手土産のスコッチを買った。  谷田は一ヵ月前にも淡路の自宅を訪ねているのだが、鵠沼(くげぬま)の高級住宅地へ続く路地は入り組んでおり、何度か迷いそうになった。やがて、小路が砂地の感触に変わり、枝振りのいい松が目立つ辺りにくると、きれいな生け垣が多くなった。  淡路の家は白いスタッコ壁の、こぢんまりとした二階建てだった。広い敷地の一隅である。 「庭の向こうの母屋が、奥さんの実家なのだよ」  と谷田は説明し、 「やはり“紅葉坂の怨念”はもう少し伏せておこう」  ドアチャイムを押すときに言った。特ダネは最後の最後まで掌中にしておきたい。それが記者の本能だ。 「そうしましょう」  というように、浦上もうなずいた。  休日の警部は和服姿だった。 「やあ、よくきてくれたね。呼びつけて悪かった」  淡路は、特徴のあるギョロリとした目で、二人の記者を迎えた。四十代の半ば、色の浅黒い警部は、中背だが、がっしりした肩幅だった。  谷田と浦上は玄関脇の応接間へ通された。ソファのキャビネットの上に、警部には似合わない、清楚(せいそ)な、白菊の一輪ざしが飾られてあった。 「家内と子供は出かけている。ま、ゆっくりしていってくれないか」  淡路はブランデーをテーブルに載せた。気さくな感じだった。浦上との間で初対面のあいさつが済むと、 「また、君たちに一歩先を行かれたな」  警部は、この前の婦女連続暴行事件の話題を繰り返し、今回のクロロホルムと濃紺のスーツの発見を評価した。 「安田産業が薬局のチェーン店を経営しているとは知らなかった。正直言って、初耳です」  警部は、谷田と浦上が小泉保彦を追及するのは当然という顔をした。  しかし、淡路宅での談合は、最初の段階で壁にぶち当たった。  壁を、警部が示した。 「必要とあらば、小泉が今朝着ていたというスーツは、いつでも提出を求めるし、場合によったら、強制的に押収もしましょう。いや、ぼくもそうしたい。だが、小泉が、名古屋で二千五百万円を強奪することは不可能なんだな」  淡路はブランデーを、三つのグラスについだ。 「君たちのユニークな取材結果をいろいろうかがいたいし、ぼくも、さしさわりのない程度に情報を提供する。そんな心づもりでご足労願ったわけだが」  と、警部は切り出した。  すでに、十月六日の小泉の足取りは、きちんと洗い出されていたのである。名古屋の捜査本部から協力要請がきた、二週間前の時点でだった。 (さすがだな)  と、浦上は思った。  警部はつづける。 「さっきの電話をもらってから、ぼくもあれこれ考え直してみた。君たちの発見は貴重だし、今後、捜査の上で必ず役立つと思う。だけど、やはり小泉は、名古屋の犯行に直接参加することはできない」 「あの日、全日空か東海道新幹線に、トラブルがあったのですか」 「名だたるルポライターの浦上さんなら、崩せますかな」  警部は口元に笑みを浮かべたものの、真顔で言った。 「君たちが詰めたように、秋田にいた小泉を、名古屋へ連れて行くことはできるかもしれない。いや、恐らく可能でしょう。だが“名古屋経由”では、小泉は、午後九時半までに横浜へ帰ってくることはできない」 「どういうことですか」  浦上が、犯行後の持ち時間が七時間半もあることを強調すると、 「それは関係ないですよ」  警部は、黒い警察手帳を開いた。谷田の電話を受けてから、一人で再検討していたらしい。手帳に視線を落として、警部は言った。 「あの日、小泉は西蒲原郡の実家へ立ち寄った。小泉がそう主張していることは、ご存じですな」 「聞いています」  しかし、親族の証言など、うのみにはできない。浦上の確信はさらに強くなっている。確信を大前提として、小泉保彦を追及してきたのだ。  警察は電話聞き込みだけで、小泉の主張を認めるのか。やり方が甘くはないか。浦上が疑問を口にしかけると、 「小泉が新潟経由で帰浜したことのウラは取ってあります」  警部は浦上の心を見抜いたように言った。小泉はあの日、主張通り、新潟発十七時五十五分の上越新幹線“あさひ104号”に乗車していたというのである。“あさひ104号”の専務車掌に小泉の顔写真を確かめてもらうと、 「間違いありません。このお客さんは大宮まで乗車していました」  と、はっきり証言したという。 「待ってくださいよ、警部。新幹線の車掌が、乗客の顔をいちいち覚えているものですか」 「いや、こういうことなんだ」  西蒲原郡へ立ち寄った小泉は、バスを乗り継いで新潟駅へ戻った。途中道路渋滞が激しく、駅へ到着したのは“あさひ104号”の発車直前だった。特急券を買い求める余裕がない。  そこで、入場券で乗車し、車内で精算したというのである。 「車掌の話によると、当日、上りの新幹線はがらがらにすいていたそうです。その上、入場券で乗車した客は、小泉一人だった。そんなわけで、明確に小泉を覚えていたのですな」  小泉の方から、 「土曜日なのに、いつもこんなにすいているのですか」  と、車掌に話しかけてきたという。車掌は、しばらく、小泉と雑談もしている。小泉は秋田へ出張した帰りだ、というようなことをしゃべった。  大宮で下車するとき顔が合うと、小泉は車掌に会釈して行ったという。 「あの小泉がですか」  浦上は口元をとがらせた。なにか、匂ってきはしないか。  谷田も、浦上と同じ疑問を覚えたらしい。谷田が口を挟んだ。 「小泉は、自分から積極的に話しかける性格ではないと思いますが」 「わざと、車掌の印象に残るように振る舞ったというのかね」 「普通に切符を買って、黙って座席に座っていれば、小泉はだれにも気付かれなかったわけでしょう」 「ぼくも引っ掛かります」  浦上は首をひねった。 「小泉ってのは、一見物静かですが、どこかに翳のある男で、酒に酔っても、自分から他者に接近して行くタイプではありませんよ」  浦上は、紅葉坂殺人の前夜、長井を尾行して小泉と同席した、横浜駅西口の酒場でのやりとりを思い返しながら言った。 “あさひ104号”車内での小泉の言動が、意識的なものであったらどうなるのか? 「考え過ぎではないですかな」  警部は公平な立場を崩さなかった。 「そりゃ、小泉のアリバイ工作だったという方が、確かに面白いでしょう。しかし、小泉があの日、主張通り“あさひ104号”に乗車していたのは動かすことのできない事実です。車中での小泉の言動に不審を抱くのは第三者の勝手だが、小泉は間違いなく、上り新幹線の車内にいた。ポイントはこの一点にあるわけですな。いくら検討しても、名古屋での犯行を終えた人間が、新潟まで戻って、十七時五十五分発の新幹線に乗車することはできない」 「警部、小泉は本当に新潟から乗ったのですか」  浦上は食い下がった。小泉が終着の大宮で“あさひ104号”を降りた、と、車掌が証言するのなら、それはその通りだろう。しかし、小泉が新潟から乗車したことを証明する人間がいるのか。 “あさひ104号”は、途中、長岡と高崎に停車する。小泉の乗り込んできたのが、たとえば高崎だったとすれば、なんらかの工作が可能となろう。  高崎—大宮間は二十九分の距離だ。名古屋から高崎までなら、上野経由で、引き返すのも容易ではないか。  警部は顔を振った。 「新潟での証人はいない。証人を捜す必要は感じていません。車掌が検札に回ったのは、長岡を出た直後ですからな。長岡発車直後に、小泉は料金を精算している」 「すると少なくとも、長岡以前には食い込む余地があるわけですね」  しかし、そうは言っても、新潟—長岡間は新幹線でわずか二十二分に過ぎない。 「どう分析しても、小泉が二千五百万円を強奪することは無理です。不審があれば、あとでお二人に、直接時刻表を確かめてもらいますかな」  要点はこうなる、と、警部は警察手帳の別のページを開いた。  第一は当然、空路だ。名古屋—新潟間は全日空が飛んでいる。だが、二便だけだ。名古屋発八時三十分と、十二時十五分。二便とも、十三時三十分の犯行時間前に離陸していることになる。 「あとは秋田行きがありますな。これは名古屋発が十五時十五分だから、搭乗は可能だが、秋田着が十六時二十五分。秋田から新潟へ戻る直行便はないし、列車利用では、到底十七時五十五分までに新潟駅へくることはできない」  空路がなければ鉄道だ。  犯人が名古屋駅中央口近くの、伏見通り裏にレンタカーを乗り捨てたのは、 「午後二時ちょっと前でした」  という、駐車場管理人の目撃がある。 「二時ちょっと前という証言に、多少の幅を持たせて、時刻表と突き合わせてみたのだが」  警部は警察手帳を繰った。三つのルートがメモされている。  警部は手帳の内容を、谷田と浦上に見えるようにテーブルに置き、 「君たちとしても、納得せざるを得ないと思いますよ。いずれも、小泉の不在証明だ」  指でたどりながら、説明を加えた。  最初に示したのは、中央本線、篠ノ井線、飯山線、信越本線と乗り継いで行くコースだった。 「十四時に名古屋を出発するL特急、“しなの1号”がある。長野着が十七時十九分。長野から長岡行きの急行が出てはいるけれど、最終急行“野沢”の長野発車時間は、“しなの1号”到着時間より四十四分も前の十六時三十五分。とてもではないが、乗り換え不可能です。途中、車を飛ばすなどなんらかの手段があったとして、“野沢”に乗り移ることができたとしてもだよ、“野沢”の長岡到着は十九時三十九分なんだ。問題の“あさひ104号”は、これまた二十分も前の十九時十九分に長岡を発車している。この線は放棄せざるを得ませんな」  次は、東海道本線、湖西線、北陸本線を利用するルートだ。 「名古屋発十四時十五分の下り新幹線“ひかり373号”に乗車して、京都着が十五時五分。京都からのもっとも早い列車は新潟行きのL特急ですが、駆け足で十五時十二分発の“雷鳥25号”に乗り換えても、新潟に着くのが二十一時五十四分になってしまうのですな」  問題外もいいところだ。午後九時五十四分といえば、小泉は、とっくに、横浜の大塚貿易へ帰社している時間ではないか。これは、いわば念を押すために、警部が二人の記者に見せたデータだった。  やはり、東海道と上越、二つの新幹線をつなぐのが、最短ということになる。 「濃紺のスーツを着た犯人(ほ し)が、雨の伏見通り裏でレンタカーを乗り捨てたのが、“二時ちょっと前”ですな。今も言ったように、“ちょっと前”という目撃者の証言を拡大解釈して、名古屋発十三時五十五分の上り新幹線“ひかり162号”に乗せたとしても駄目です。“ひかり162号”の東京着が十五時五十六分。上野発十六時十七分の新幹線“リレー3号”の大宮着が十六時四十三分。接続の下り新幹線は、大宮発十七時五分の“あさひ105号”ということになるが、新潟着は十八時五十分です。問題の上り新幹線“あさひ104号”の発車後、五十五分も過ぎてからの到着ですな」  淡路警部は、どう検討しても、これ以上速く、名古屋から新潟へ行くことはできない、と、嘆息まじりに言った。  浦上が中目黒のマンションに戻ったのは、午後七時過ぎだった。  淡路警部の自宅でごちそうになったブランデーの酔いが心地よく全身に回っていた、と、言いたいところだが、酔いは屈折している。“あさひ104号”のアリバイは、どのように視点を変えても崩れない。  夕方まで、二つの犯行全般に渡って、谷田と浦上が警部に質問する形での話し合いは続いたけれども、新しい発見はなかった。浦上は、絶えず、加部姉弟の存在と、姉弟の“失踪”を話題にしたい誘惑に駆られた。  その都度、浦上の気配を察した谷田が、 (警部に打ち明けるのは、もう一本、はっきりした線が出てからにしよう)  と、目で制した。 「六時には家内と子供も帰る。一緒にめしを食わないか」  と、警部はしきりに引き止めたが、談合が一段落したところで、谷田と浦上は腰を上げた。  警部は、散歩がてら、藤沢駅まで二人を見送ってくれた。谷田と浦上は、駅と四つのデパートをつなぐ歩道橋の上で、警部と別れた。  普通なら横浜で途中下車して飲み直すところだが、浦上は真っすぐ、湘南電車、東横線と乗り継いだ。  谷田は菊名で、先に東横線を降りて行くとき、 「敵玉は、こっちの角筋に入っている。こっちの角が敵の玉営を睨んでいるのに、角道が二重三重に遮断されているんだな」  と、別れのあいさつ代わりに言った。  角筋を止めているのは、敵の守備駒ばかりではなかった。味方の攻め駒も、攻撃に参加しているはずなのに、角の動きを自ら重くしている感じだ。 (しかし、当面は、小泉を攻める以外にないじゃないか)  マンションに戻った浦上は、ブレザーを脱いでベッドの上にほうり投げ、冷蔵庫から缶ビールを取り出して机に向かった。  淡路警部が明示した三つのルートのメモを読み返し、背後の書棚に手を伸ばして大判の時刻表を机に広げた。  一課の分析は正確だった。慎重に時刻表を突き合わせても、警部のメモに疎漏(そろう)などあるわけはなかった。  それでもなお、名古屋での犯行を終えた犯人(小泉)を、十七時五十五分までに新潟へ連れて行かなければならないのである。今更、小泉が偶然犯人と同じ濃紺のスーツを持っていたとか、犯人にスーツを貸した、などということは考えられないし、考えたくもなかった。  今は、犯行後の犯人を“あさひ104号”に乗せること。それだけがすべてなのだ。飛行機が不可能で、鉄道も駄目。 (やつは、どうやって、名古屋—新潟間の空間を埋めたのか)  数字の羅列である時刻表は無表情だ。穴のあくほど見詰めても、数字は何も語ってはくれない。  いや、小泉保彦が、名古屋には不在であったことの証明を、冷たく、しかも絶対の確かさで示しているだけだ。  浦上は缶ビールをあけた。  あき缶がいくつか机の上に並ぶと、屈折しているとはいえ、酔いが広がってきた。浦上は時刻表を手にして、ベッドに潜った。  小さい発見があったのは、翌朝である。九時過ぎに目覚めた浦上は、マイルドセブンをくゆらしながら、再び時刻表を手にした。 「おや?」  つぶやきが漏れたのは、改めて、大宮発新潟行き“あさひ105号”と、新潟発大宮行き“あさひ104号”の、長岡での発着時間を見比べたときだった。  名古屋からの犯人を乗せることができる下りの長岡着が、十八時二十六分。一方、小泉が乗車していたと主張する上りの長岡発は、十八時十九分となっている。 「たったの七分違いか」  浦上のつぶやきは、そんなふうにつづいた。小泉の“長岡以前”には確かな証人がいない。料金を精算したのは、“あさひ104号”が長岡を発車してからだ。  と、いうことは、(新潟駅の入場券をどのようにして手に入れたか、という問題は残るとしても)犯行後の小泉は、新潟ではなく、長岡まで引き返せばいいのではないか。長岡で、下り新幹線から上り新幹線に乗り換えることはできないか。  数字的には無理だ。下り到着の七分前に、上りは発車しているのだから。しかし、時刻表をたどっていたのでは分からない何か、背後に隠されたトリックはないのだろうか。  三十分や一時間の時差とは違う。 (わずか七分じゃないか)  到着列車は速度を落とし、出発列車はまだスピードを上げていない。ゆっくりとすれ違う上りと下りの間に、工作はできないものか。 (長岡へ行ってみるか)  地方取材が多い浦上だが、新潟県ははるか以前の真冬、飯山線で雪深い十日町へ出張したことがあるだけだった。小さい駅に、駅員の家族が住んでいた記憶が残っている。浦上はまだ、上越新幹線には乗っていない。  時刻表の裏側にあるものを探るには、実地に足を伸ばすしかあるまい。  浦上はインスタントコーヒーを入れ、谷田の自宅へ電話をかけた。 「なるほど、七分のトリックか。きみも粘るねえ」  と、電話の谷田は一瞬考える口調になり、 「しかし、無理な着想だと思うけどな」  浦上の発見に対して、否定的な見解を述べた。  午後、浦上はマンションを出た。『週刊広場』で、執筆の打ち合わせをするためだった。谷田は疑問を投げたが、編集部での話し合いによっては、新潟出張を編集長に申し出る腹づもりだった。 「夜の事件レポート」第一回の締め切り日まで、月、火、水曜と、取材日程は三日間しか残されていない。取材に着手する時点では余裕があると思ったのに、日にちはぐんぐん過ぎて行く。  浦上は渋谷で、東横線を国電に乗り換えるとき、念押しだけはしておこうと考えて構内の案内所に寄った。 『週刊広場』特派記者の名刺を示して相談すると、係は新幹線総局に問い合わせ、担当に電話を回してくれた。 「そうですね、上りの検札は長岡辺りからになりますね」  と、先方は最初の質問にこたえた。 「ところで、今月、十月六日ですが、上り“あさひ104号”と、下り“あさひ105号”に、何かトラブルはなかったでしょうか」 「と、言いますと?」 「具体的には、列車の発着に乱れがなかったか、どうかということですが」 「この半月余り、そうした報告は入っていなかったと思いますよ。お待ち下さい」  電話の声はいったん途絶えた。先方は周囲に聞き合わせてから、改めて浦上に答えた。 「六日の“あさひ104号”と“あさひ105号”は、二本ともダイヤ通りに運行しています。一体、何を取材されているのですか」 「つかぬことをうかがいますが」  と“七分のトリック”を口にすると、 「無理ですな」  それまで丁寧だった相手の口調が、心なしか高くなった。 「走行中の下りから走行中の上りに乗り移るなんて、そんなことは絶対にできません」  何をばかな質問するのか、と、そんな感じさえ、ことば尻ににじんでいる。先方の立場からすれば当然だろう。しかも、当日の運行に何の支障もなかったというのでは、なおさらだ。 (駄目か)  浦上は自分の中でつぶやき、礼を言って電話を切った。 第7章 新潟着最終便 『週刊広場』編集部での打ち合わせは、時間がかかった。  編集長の机は、大部屋奥の窓ぎわである。  机の横に小さい応接セットがあった。談合には、浦上と編集長のほかに、次長も参加した。  三人それぞれに意見を述べたが、容易に結論がまとまらない。 「連載第一回目で、加部姉弟を出すことができれば、最高だ。しかし、いくら容疑が濃厚とはいえ、失踪したまましっぽもつかめないとあっては、これはお手上げだな」  長身の編集長は愛用のパイプを取り出し、たばこを詰めた。 「小泉にしてもそうだ。光子、卓郎姉弟が駄目なら、小泉に登場してもらうのが一番いい。だが、小泉の容疑も、現状では浦上ちゃんの推理の域を越えないわけだろ。事件をヒントにした犯罪小説ならともかく、ホットな特集では、仮名でいっても問題が出る」 「エアポケットに入っちゃったのかな」  浦上は独り言のようにつぶやいた。データは何もかも提示されているのに、重要課題の要点だけを見落とす、という例は過去にもあった。詰め将棋と同じことで、逆の筋から読み始めると、棋力三段の浦上が、初級問題にまごつくこともあるのだ。  森を見て木を見ない、というやつだ。  目下のところ、小泉の“名古屋”のアリバイは一応成立した形になっているけれども、大塚国蔵が殺された十七日午後八時半頃のアリバイはない。  アリバイがない方の犯行には、長井紀雄という、物証付きの被疑者が上がっている。だが、“名古屋”のアリバイは偽造で、“紅葉坂”の犯人は身代わりに決まっているのだ。これまでの取材内容を総合すればするだけ、浦上の確信は強まってくる。  編集長も、その点には疑義を挟まない。当初は、 「浦上ちゃんの長井擁護は感情論に過ぎないよ」  という立場を譲らなかった編集長も、 「有無(うむ)を言わさぬ証拠が欲しいな」  と、そうした態度に変わっている。 「どうでしょう、スタートを、一、二週先に延ばしますか」  と、提案したのは次長だった。長身の編集長は、入稿日ともなると一日中、編集室中に響く甲高い声を張り上げ、わけもなく殺気立ってくるが、次長はその女房役にぴったりという感じの、物静かなタイプだった。 「福岡の“紅葉坂”にしても、長井紀雄の性格分析にしても、浦上君の取材は相当なものだと思いますよ。これを生半可(なまはんか)な形で使うのは惜しい」 「そりゃそうだが、他誌(よ そ)に先を越されることはないだろうな。ぼくとしては、やはり、来週やりたいね。浦上ちゃんが福岡へ行くとき話し合ったように、とりあえず、大塚国蔵の五十九年の人生に焦点を絞ったらどうかね」 「加部姉弟はどう扱うのですか」 「送検された長井は、大塚の隠し子である事実を公表されている。だから、隠し子としての関連で、暗示的に、福岡の“紅葉坂”を紹介してはどうだろう」 「長井を出すとしたら、無実が前提になります。その点に触れないのでは、とてもペンをとる気にはなりません」  浦上は感じている通りのことを言った。  編集長はパイプたばこに火をつけた。 「一回目は当たりさわりなく逃げる、ということはできないか。浦上ちゃん、物証を否定するのは、それだけで一本の特集になるテーマだぜ」 「でも、『夜の事件レポート』の連載開始となったら、いずれ突っ込まないわけにはいかないでしょう」 「なぜ、凶器の柳刃包丁に長井の掌紋が残っていたのか。浦上ちゃんの仮説を聞かせてもらいたいね」  編集長は妥協案を示す、という感じで言った。編集長にも迷いがあった。 「仮説に説得力があれば、手のすいている連中を総動員して、取材に当たらせてもいい」 「長井に面会することができれば、なんとかヒントを得られるかもしれないのですがねえ」  浦上は手詰まり状態であることを率直に言った。  他者からの強制によって付着した掌紋であるなら、長井はそれを主張するはずだ。主張することで、強制した人間が本犯人(ぼ し)として浮かび上がってくる。  何も気付かないうちに、指紋や掌紋を残すなどということは、あり得ないのである。コーヒーカップとか、ウイスキーグラスといった物ならともかく、刃渡り二十三センチの柳刃包丁を、何気なく手にするなんてことが、あるはずはない。 「意識を失っていたら、どうですかな」  と、慎重派の次長がことばを挟んだ。 「小泉を犯人とすれば、名古屋のクロロホルムがまだ残っていた、と、考えてもいいのではないですか」 「しかし、きみ、クロロホルムなんか嗅がせれば、長井に不審を抱かれるだけだろう。どのように工作しようと、そうした事実があれば、長井は逮捕されたとき、捜査本部で訴えるはずではないか」 「ええ、だからこれはあくまでも仮説ですがね、“名古屋”との関連で考えてみたわけです」 「いや、仮説じゃありません!」  浦上が割って入った。  浦上ははっとしたように顔を上げていた。これだと思った。もう間違いないぞ! 「畜生! どうしてそんなことに気付かなかったのか!」  浦上は握りこぶしで、二つ三つと額をたたいた。 「編集長、長井はやはりシロです。あれは作られた物証です。仕掛け人は小泉です。これで小泉が本犯人(ぼ し)であることが、更に、一層はっきりしてきました。長井も、小泉のことを犯人と疑いをかけていれば、とうに気付いていたでしょうに」 「飛躍しないで説明したまえ」 「次長が指摘したように、“名古屋”も“紅葉坂”も手口は同じです。同じ発想の犯行であることがはっきりしたと思います。長井はクロロホルムを使用される代わりに、泥酔させられたのです」  浦上の脳裏に、殺人前夜の横浜駅西口が浮かんできた。信託銀行とか旅行社などが入っているビルの、一階にある広い酒場。長井はその店で、前後不覚ともいえる酔い方をしたのであるが、長井のペースを乱したのが、ほかでもない、小泉ではなかったのか。  小泉は長井のあとから、酒場に顔をのぞかせた。長井の酔いが回り始めた頃だ。 (あれは作為的だったのかもしれない)  いや、必ず、意図的だったに違いない、と、今、浦上は考える。  偶然の出会いのようにして立ち寄った小泉が、自分の伝票で、長井のしょうちゅうを何杯も追加注文していたのを、浦上は目撃している。  小泉はあの夜、浦上が長井を尾行していたことには気付いていなかった。気付いていなかったからこそ、(小泉が長井にしょうちゅうをすすめるテーブルに)浦上が接近したとき、伏目勝ちで強張った表情を見せていたのだ。長井を泥酔させることは、第三者には知られてはいけない秘密だったのだ。 「小泉はあの夜、計算ずくめの上で、長井を泥沼のような酔いの底に沈めたのに違いありません」  浦上は、編集長と次長の顔を交互に見て言った。 「吉野町の自分のアパートへ長井を泊めることは、最初からの計画だったはずです」  あのプレハブアパートの一室で、意識もうろうとした長井に、刃渡り二十三センチの真新しい柳刃包丁を握らせる小泉の後ろ姿が、浦上に見えてくる。  万に一つも、推理に間違いはないはずだ。そして、間違いなく、藤沢和子が一枚かんでいる。  掌紋付着に成功したことで、和子は、翌十七日“大徳開発からの伝言”という偽電話で大塚国蔵を夜の紅葉坂へ誘い出し、長井の容疑を不動なものにするために『カンナイ』を舞台とした一芝居を、打ったことになる。 「編集長、小泉と和子の二人が、加部姉弟と黒い糸で結ばれていることは、もはや明確です」  浦上の両の瞳に、新しい光がみなぎってきた。 「よし、一息入れるか」  編集長は、コーヒーを三つとるよう、女子事務員に命じた。  浦上はその間を利用して、神奈川県警本部記者クラブへ電話を入れた。  渋谷駅案内所での電話取材の結果を報告し、掌紋付着の過程について説明すると、 「なんだ、そんな単純なことを、オレも見落としていたか」  谷田の舌打ちが、受話器を伝わってきた。 「ばかげたトリックだ。泥酔した長井の右掌に、しっかと柳刃包丁を握らせた。それだけのことか」 「右掌?」  浦上はおうむ返しに言って、 「しまった。ぼくもうっかり聞き流していました」  と、口調を改めた。  長井逮捕直後の、捜査本部での記者発表を谷田から中継されたとき、浦上は確かに聞いている。  谷田はあのとき、戸部署近くの喫茶店で、こう説明した。 「乗用車の指紋はきれいにふきとられていた。だが、かすかではあるが、凶器には掌紋が残っていた。これが、照合の結果、長井の右掌と一致したんだ」  そう、谷田は右掌と言ったのだ。  浦上がそこに意を止めなかったのは(その後も特に反すうしなかったのは)、長井が“現場にいたこと”を証明する掌紋の検出が、なんとも信じ難かったためである。 (そんなことがあろうか)  浦上の意識は、ひたすらその一点に向けられていたのだ。あの時点では、右も左もそれほどの違いはなかった。物証の提示されたことだけが問題だった、と、言っていい。  だが、推理が進展した今は、そうはいかない。  長井は右利きではなかった。間違いなく左利きではないか。初めて大塚貿易を訪ねたとき、大塚社長に同席した長井が、ぎごちない手つきで電話のメモをとっていたことを覚えている。  最初は、小心ゆえの緊張のせいかと思ったが、そうではなかった。左掌で、ボールペンを握るような格好で持っていたので、それで、ぎごちなく感じられたのを浦上は忘れない。左利きの長井が、右掌の掌紋を残していた。これは、水も漏らさぬ犯行計画を立ててきた犯人側にとって、たった一つのエラーということになるか。 「長井の無実は完全に証明されましたね。左利きの男が、右手で人を刺すでしょうか」 「なぜ、それを早く言わなかったのだ!」  谷田は、左利きの説明を聞かされて、怒ったように声を出した。谷田自身の“単純ミス”に対するいらだちを、むき出しにしているようでもあった。 「おい、こんなことでは、ほかにもでかいものを見落としているんじゃないか」  谷田は電話を切るとき、一層大きい声で言った。  浦上も同感だった。  ここまで構築した推理にはそれなりの自信があるとはいうものの、どうも今回は、ポイントのところで微妙に乱されている。加部姉弟のせいに違いないと思った。  一連の犯行の中で、強い存在感を示しながら、実際には幻影のように、黒いベールの向こう側に身を潜ませている大塚国蔵の福岡の隠し子。姉弟を浮き彫りにしない限り、これからも、微妙にペースを乱される状態は続くのだろうか。  注文のコーヒーがきた。編集長も次長も、浦上と同じように、コーヒーにはミルクもサトウも入れない。  ブラックで飲みながら、慎重派の次長が口を開いた。 「ぼくも浦上君の言う通りだと思います。でも、物的な確証はありませんね。これまた、推理に過ぎない」 「しかし、これだけの検討を淡路警部に伝えれば、あとは警察が処理してくれるのではありませんか。水曜の夕方ぎりぎりまで追及して、第一回目は小泉に焦点を絞ってみましょう」 「小泉が本犯人(ぼ し)なら“名古屋”のアリバイも崩れなければならない」  次長が考えながら言うと、編集長もうなずいた。 「ここまで追い詰めたのだ。最後のところも、われわれの力で決着をつけようじゃないか。“名古屋”のアリバイを破れば、加部姉弟が表面化しなくとも、原稿はずっと書きやすくなる」 「崩れますかね。淡路警部がくれたデータは、絶対ではないでしょうか。ぼくが思いついた“長岡駅の七分”などは、言うなれば一笑の下に否定されてしまったわけだし、ほかに突破口があるとは考えられません」 「浦上ちゃん、絶対なんてものは存在しないよ。今の掌紋発見と同じことで、思考が迷路に入っているのではないか」  編集長は谷田の電話に共通することを言った。 「出口のない道に迷い込んでしまったのなら、もう一度、入り口に引き返してやり直すしかない。どんな唐突な提案でもいい。何かないか」  何もありはしない。  掌紋遺留のトリックだけでも、いけるのではないか。浦上はその点を繰り返したが、編集長は、首を縦には振らなかった。 “名古屋”のアリバイは破れない。分析すべきことは、昨日、藤沢の淡路警部の自宅で、すべて出尽くしている、と、浦上は言った。浦上には何も浮かんでこない。  だが、ベテラン編集長は、警部とは別の視点を備えていた。一呼吸入れてから、編集長に応じる形で、次長がつぶやいた。 「突飛な思いつきなら、なきにしもあらずですな。ぼくが劇画の編集者なら、ヘリコプター使用を、作者に注文します」  次長はコーヒーを飲み干してつづけた。 「名古屋の小牧飛行場は、民間航空と航空自衛隊の併用だったはずです。ま、あまりリアリティーはないけど、航空自衛隊の大型ヘリコプターなどをうまく利用する、なんて手段はどうでしょうか」  確かに現実感は希薄だ。しかしそうした思いつきでも軽く口にできる点が、週刊誌の編集部なのだ。  そして、夢想だにしなかった血路は、現実感を伴わない仮説から開けてきたのである。 「いずれにしても、空路しかないだろうな」  編集長は低い声でつぶやき、ふいに浦上の顔を見た。 「警部の資料には、欠落があるじゃないか」 「欠落?」 「名古屋が駄目なら、東京から飛行機を利用したらどうか。“ひかり162号”の東京駅着は十五時五十六分だ。うまい便があれば、十七時五十五分までに、新潟駅へ到着できるのではないかね」  駆け出しの頃、YS1で新潟へ取材に行ったことがある。飛行時間は一時間ぐらいだったと思う、と、編集長は言った。 「当たってみます」  浦上は、淡路警部がミスするわけはないと考えながらも、背後の電話器を取った。交換台に羽田空港を申し込んだ。  これが、谷田の言う“でかい見落とし”ということになるか。時刻表でもチェックできるのに、空港へ問い合わせることにしたのは、ひょっとして臨時便なども出ていたかもしれないし、当日の運行を直接確かめたいと考えたからだった。  電話はすぐにつながった。  浦上はメモ帳を手元に置いて、 「もしもし」  勢い込んで話しかけた。  しかし、次の一瞬、がくん、と、肩を落とし、 「そう、うまくはいきません」  浦上は編集長と次長を振り返った。 「現在、東京—新潟間に民間機は飛行していないそうです」 「何? 航路がなくなったのか。それはうかつだった」  編集長も重い口調に変わったが、収穫はその直後にきた。 「あ、待ちたまえ」  編集長は電話を切ろうとする浦上を、慌てて制した。長身の編集長はソファから立って、電話器を受け継いだ。空路以外に打開策が思い浮かばないのなら、そこを衝(つ)かなければなるまい。編集長はそう考えたようだ。 「もしもし、実は新潟駅発午後五時五十五分の上越新幹線に乗りたいのです。新潟空港での適当な連絡便はないでしょうか」  角度を変えての問いかけだった。浦上は、編集長は何を言い出すのかと思った。電話の相手も同じ疑問を抱いたらしい。逆に質問されて、 「妙なことをうかがって恐縮ですが、搭乗は東京とは限りません」  と、編集長はこたえている。 「どこから飛行してきた便でも結構です。午後五時四十五分頃までに、新潟駅へ行くことができると好都合なのですが」  編集長はメモを走り書きしながらつづけた。応答は五分ほどで終わった。 「おい、飛行機があったぞ!」  ソファに戻った編集長は、メモを、どんとテーブルに置いた。 「浦上ちゃん、時刻表だ。小泉をこの飛行機に搭乗させることができれば、やつはなんの支障もなく、“あさひ104号”に乗車できる」  原稿締め切りの木曜日のように、広い編集室中に響く、甲高い声になっていた。  盲点、といえば、これまたある種の盲点であったかもしれない。 発着を逆にたどったことで表面に出てきたのは、東亜国内航空の最終“797便”であった。  大阪空港発十六時五分—新潟空港着十七時十五分 「新潟の空港から駅まで、タクシーで二十五分も見れば十分だそうだ」 「すると、この便を利用したとすれば、十七時四十五分前後には、新潟駅へ着いていたことになりますね」 「特急券を買う余裕が、あるじゃないですか」  と、ことばを挟んだのは次長だ。  時間があるのに、小泉はなぜ入場券で改札口を通ったのか? 間違いなく新潟から乗車したことを、そして、そのまま“あさひ104号”で大宮まできたことを、車掌に証明してもらいたかったからに違いない。  なにゆえの証明か。 「“名古屋”には不在であったことを、立証しなければならなかったわけですな」 「裏返せば、小泉は本犯人(ぼ し)であると名乗ったようなものですね」 「問題は、小泉をこの“797便”に乗せることができるかどうか」  次長はあくまでも慎重だった。  浦上は、震える指先で大判の時刻表を繰った。将棋用語では、勝ち筋が見えてきたときの緊張を「震えが入る」というけれども、正にその通りだった。  編集長と次長も、額をくっつけるようにして時刻表をのぞき込んだ。  確認に、時間はかからなかった。 「ありましたよ! ありました!」  浦上は、編集長にも劣らない高い声を上げた。  熱いものが、足元からはい上がってくる。震えは、新しい形を伴った。  今、時刻表は、無表情な数字の羅列ではなかった。数字は、はっきりと、小泉の犯行を指示していたのである。  こういう具合になる。 十三時三十分 二千五百万円強奪 十四時前 伏見通りでレンタカーを乗り捨て 十四時十五分 名古屋発 下り新幹線“ひかり373号”に乗車 十五時二十二分 新大阪着 空港までタクシーで正味二十五分 「小泉は大阪発十六時五分の、新潟行き東亜国内航空“797便”に搭乗可能です」  と、浦上は言った。しかも、この下り新幹線なら、淡路警部が示した上り新幹線とは違って、犯行後の時間経過にも無理がない。  警部自身が語っていたように、上りの十三時五十五分に乗車するのは、レンタカー乗り捨てを目撃した駐車場管理人の証言を拡大解釈しなければならないが、下りの十四時十五分発なら、その必要もないわけだ。 「大阪経由だったとはな」  編集長は、パイプに新しいたばこを詰めた。  名古屋から新潟へ引き返すには、東上、あるいは北上するはずなのに、小泉は逆方向、西下のコースを採った。これまた王手をかける側にとっては、一つの陥穽(かんせい)だったといえよう。  あとは加部姉弟の割り出しだ。 「横浜へ行ってきます」  浦上は立ち上がっていた。  浦上は関内駅で谷田と待ち合わせ、大塚貿易に向かった。午後四時近くだった。  道すがら、小泉と和子に対する質問の形式について打ち合わせた。ストレートに、アリバイ打破の要点をぶっつけるか。それとも外堀を埋めるか。 「やはり、ワンクッション置いた方がいいだろうな。逮捕されている長井の取材を口実にしよう」  大柄な谷田は、浦上を見下ろすようにして言った。  谷田が慎重に構えるのは、これまでの“でかい見落とし”が、念頭を占めていたために違いない。いずれにしても、寄せの構図ははっきりしてきたのだ。直接王手を掛けるよりも、詰めろに持っていくための縛り(初心者が言うところの待ち駒)が大事なのだ。王手を連発するよりも、有無を言わさぬ絶対的な縛りこそ、有段者には不可欠だ。 「最初に専務に当たろう。それから和子、小泉とさりげなく探りを入れてやろうじゃないか」  浦上にも異存はない。  王手は、追う手と言われる。浦上も谷田も、王手王手と追いかけて、逆転された苦い経験を持っている。今の場合、アリバイの崩壊を匂わせると、相手に次の手段を与えることにもなる。言い逃れのできない確信をつかむこと。それが先決だ。  小泉は風邪と称して、秋田出張を予定より三日遅らせている。もちろん風邪は言い訳で、現金強奪に的を絞っての、出張延期であったに違いない。  外堀を埋めるには、その辺りの経緯から聞き込むことになろう。そして、大塚貿易での最後の取材を完了したら、淡路警部に連絡、という段取りになる。 「濃紺のスーツを押収するときには、ぼくも同行させてもらいたいものです。自分のカメラであのスーツを撮りたい」  浦上はそうしたことまで、言い出す始末だった。勝利の二字がそこに見えている。  大塚住販ビルにきた二人は、エレベーターを使わなかった。どちらが提案したわけでもないのに、三階まで一歩一歩、足に力を入れて階段を上がった。最後の局面に備えて、心を鎮める必要があった。  大塚貿易には、数人の社員がいた。しかし、目指す小泉と和子の姿がなかった。 (まさか逃げられたわけじゃないだろうな)  谷田と浦上は、本能的に胸騒ぎを覚えたが、不在に意味はなかった。二人とも社用で市内に出かけており、 「四時半頃には戻ります」  と、受付の女子社員がこたえた。  オフィスにいる数人は、それぞれが机に向かって執務しているのだが、なんとなく落ち着きがなかった。 「今日から正常業務です」  と、専務の広二は言うが、ワンマン社長が殺された後遺症は隠しようもなかった。  谷田と浦上は、隣の応接室へ案内された。小部屋だがゆったりとしたソファで、この前浦上が立ち寄ったときと同じように、窓ぎわにゴムの大きい鉢植えがあった。 「長井が、あれほどまでに強情な男とは思いませんでしたよ。人は見かけによらないとはよく言ったものです」  広二は、そんなふうに質問にこたえた。取材の真意に気付いていない広二は、腹違いの兄弟に対して憎しみをあらわにした。 「長井は頑として、親父を殺していないと言い張っているそうですね。こうなってみれば二千五百万円強奪も長井の手引きに違いないのに、あいつは知らぬ存ぜぬの一点張りだそうじゃないですか。あの大金を、一体だれが隠しているのでしょう」 「事件は、間もなく全面解決すると思いますよ」 「あなた方が改めて取材に見えたというのは、そういうことでしょう。警察からは何とも言ってきませんが、長井のやつ、自供を始めたのですか」 「ぼくらの口からは、何も申し上げられませんがね」  谷田は当たりさわりのない話し方をしたが、 (実はおっしゃる通りです)  と、それを言外に匂わせるようにした。相手を誘導する、この辺りのタイミングの取り方のうまさは、浦上より一枚も二枚も上だった。谷田は、長井取材を強調して、問題を絞っていく。 「前にもお尋ねしたことですが、出張計画が決定したのは、九月二十五日でしたね」 「そうです、最初は十月三日に名古屋へ行く予定でした」 「それが今月、十月一日になって、六日出張と変更されたのでしたね。どういういきさつからですか」 「神戸の有吉商会と下折衝した結果、神戸は五日、名古屋が六日と変更になったわけです」  なるほど、それで小泉は、風邪と偽って秋田出張を延ばしたのであろう。狙いは、あくまでも名古屋での現金強奪だ。 「有吉商会との下折衝には、亡くなられた社長が自ら当たられたわけですか」 「いえ、これは藤沢君の担当でした」  簡単なスケジュール調整のような交渉は、いつも、社長秘書的な立場にいる藤沢和子の分担だったという。 「すると、今回の神戸、名古屋、そして秋田出張も、日程は藤沢さんが立てたわけですか」 「最終的な決定は、もちろん親父が下します。しかし大体が藤沢君一任でしたね」  広二は事務的にこたえたが、ふっと視線を交わす浦上と谷田の内面に、新しい波紋が生じた。  和子が組み立てるスケジュールなら、いくらでも、犯行計画に合わせての操作が可能ではないか、事前に偽アリバイのための青写真を描き、その基本線に沿って、それぞれを出張させればいいわけだ。  広二に対する取材はこの程度でいい。  谷田は念のために、と、断わって神戸の有吉商会の電話番号を控え、 「夕方でお忙しいところを申しわけありませんが、藤沢さんと小泉さんからも、少しお話をうかがいたいのですが」  と、本題に入った。 「いいでしょう。二人とも間もなく帰社します。ここでお待ちになりますか。ぼくは仕事があるので失礼しますが」  と、広二は腕時計を見て腰を上げた。 「長井が自供すれば、二千五百万円は返ってくるわけですね。長井のやつは、死刑が当然でしょうね」  広二は捨てぜりふのように言い置いて、応接室を出て行った。血のつながりがあるだけに、怒りと憎しみも、かえって倍加されるのであろう。  だが、憤怒と憎悪を、本当にぶつける対象は長井紀雄じゃない。それは、黒いベールの向こう側に潜んでいる光子、卓郎姉弟であり、姉弟と黒い糸で結ばれている、小泉保彦と藤沢和子なのだ。  浦上は、中廊下へ出て行く広二の後ろ姿に向かってそう繰り返していた。  応接室、というよりも雑居ビル全体が森閑としている。大塚が殺された翌日に訪ねたときと同じ感じだった。  五分経っても、十分過ぎても、小泉も和子もやってこない。  谷田は広二の前で形式的にメモした取材帳に目を落としていたが、 「ぼんやりと待っていても仕様がないな。神戸の有吉商会へ電話してみる」  と、ソファから立ち上がった。無論、大塚貿易の電話を借りるわけにはいかない。  谷田が電話をしてくる間、浦上が小泉と和子の帰りを待つことにした。  浦上は窓ぎわに立って行き、マイルドセブンをくわえた。  たばこをくゆらしながら舗道を見下ろしていると、大柄な谷田が街路樹の下に現れ、舗道の反対側にある電話ボックスに入って行くのが見えた。  街路樹は、ほとんどが葉を落としている。枯れ葉が、電話ボックスの横に吹き寄せられている。  谷田が電話ボックスから出てきたのは、浦上が一本のたばこを吸い終わらないうちだった。  さっきは大またでゆっくり歩いていたのに、今度は早足になっている。 (先輩、何かつかんだな)  浦上はたばこをもみ消した。 「おい、読み筋通りか知らないけど、妙なことになったぞ」  三階の応接室に戻ってきた谷田は、ぐっと声を落として言った。 「出張の予定を変更したのは、有吉商会じゃない。和子の方だ」 「やはりそうでしたか」 「有吉商会では十月二日の線で準備していたのに、一日になって和子から電話が入り、五日を指定してきたというんだな」 「どういうことですか」 「分からん。分からないけれど、和子の指示であるということは、アリバイ偽装工作と太い線で結ばれているはずだ。あるいは『週刊広場』で発見した、大阪発新潟行きの、東亜国内航空“797便”の予約がとれなかったので、それで変更したとも考えられるかな」 「小泉の風邪と同じですね」 「どっちにしろ、和子の裏工作であることは、これではっきりしたな」  谷田と浦上は、思わず顔を見詰め合った。  応接室のドアが静かにノックされたのは、それから更に五分余りが経ってからである。姿を見せたのは小泉一人だった。和子は出先で新しい用事ができた。帰社が一時間ほど遅れるという話だった。  それならそれでいい。当面の狙いは、小泉なのだ。  小泉は、浦上が横浜駅西口の酒場で同席したときと同じ、薄茶のスーツだった。谷田と浦上が、さっと小泉のスーツに目を向けたのは当然である。  谷田は広二に対したときと同様、長井取材を口実にし、差し障りのない質問から始めた。 「長井さんが犯人だなんて、いまだに信じられません。信じたくもありません」  小泉は物静かな口調でこたえた。怒りをたたきつけてきた広二とは、対照的だった。 (何を言いやがる)  浦上は自分の中で、つぶやきをかみ殺した。物静かな言動であることが、今となっては、逆に、奥行きの深い企みを感じさせる。口数も少ないが、時折鋭い目を見せることがあり、どこかに翳のある印象を与えるのも、酒に酔っていたあの夜と同じだった。  この翳を感じさせる部分が、小泉を加部姉弟に結びつけたのだろうか。  谷田は、一通り“取材らしき”ことを終え、ことのついで、というように、十月六日の小泉の足取りを尋ねた。 「ぼくが秋田へ出張していたことは、ご存じでしょう」  なぜそんなことを質問するのか、と、いうように、小泉は谷田と浦上の顔を交互に見たが、こたえそのものを拒否するわけではなかった。 「あのとき、刑事さんにも言いましたが、ぼくはL特急の“いなほ4号”で新潟へ出ました」  と、小泉は話し始めた。淡路警部からもらったメモ、そのままの順序だった。そんなことはどうでもいい。  小泉が新潟を経由したことを証明する人間は“あさひ104号”の専務車掌以外にいない。その点をはっきりさせたいのだ。すでに何度も話し合ってきたように、小泉の実家の証言などは、完全無視するつもりの谷田と浦上であった。  谷田は笑顔を見せながら質問を重ねる。 「新潟着は十二時半ですね。そして、新潟を出発されたのが夕方。この間、ずっと実家にいらしたのですか」 「ぼくに、何か不都合がありますか」  小泉は、さすがにむっとした顔つきになった。 「犯人は長井さんでしょ。ぼくは信じたくありませんが、二千五百万円を強奪したのも長井さんが陰の主犯ではないか、と、会社では皆が、うわさしています」  小泉は広二と同じことを言った。 「それなのに、新潟にいたぼくが、どうしてそんなことを訊かれなければならないのですか」 「お気に障ったらお許しください」  谷田はぐっと低姿勢になった。アリバイを崩したことを、悟られてはいけないのだ。 「実は似たようなことを、専務さんにもお尋ねしました。二千五百万円の所在を知っている社員の方々の足取りを併記した方が、読者にも説得力を持つと考えたものですから、それで失礼を申し上げました」  谷田の説明は一貫して穏やかだ。しかし、申し開きができるなら言ってみろ、と、そういう慷慨(こうがい)が語感ににじんでいるのを浦上は感じた。  そう、足を向けてもいない故郷の分水町には、一人の証人だって、いやしないのだ。 (家族の証人じゃ駄目だぞ)  浦上も自分の中で繰り返していた。  小泉は、しかしすぐに、静かな口調に戻った。  乱れのない表情で、小泉は意外な事実を口にした。それは、浦上と谷田の推理を根底から覆す事実だった。  谷田と浦上の顔色が変わったのは、それから五分と過ぎないうちである。  小泉は言った。 「あの日、実家にいたのは、一時間足らずだったと思います」 「分水町に、行かれることは行かれたのですね」 「もちろんです。分水に用事がありました。それで、出張を利用して足を伸ばしたわけです」 「おさしつかえなければ、用事の内容を、お聞かせ願えませんか」 「さしつかえなんかありませんよ。小学校時代の同窓生と会合を持っていたのです」  本当か?  浦上は、思わず、全身が前へのめりそうになった。  小泉の母校が十一月に創立四十周年を迎える、その記念祝賀会の打ち合わせのための集会を、土曜の午後に開いたのだという。  浦上も知っている。創立四十周年記念のことは、安田産業へ電話取材したとき、耳にしている。安田産業では同窓会名簿のための一ページ広告を出稿し、退職後の小泉が、その集金にきたという話だった。  小泉は同窓会の役員に推されていた。東京周辺に在住する同窓生の、幹事ということになっている。  打ち合わせの会合といえば、出席者も少なくなかったであろう。 (本当か。本当に小泉は集会に出ていたのか)  浦上の口元が震えた。  ここにきて、小泉が見えすいたうそを口にするとは考えられない。それが事実なら、大阪空港経由のアリバイ偽造も何もあったものじゃない。  浦上は顔色の変化を気取られないよう努力するのが精一杯だった。谷田にしても同様であっただろう。メモをとる指先が、ふいに力ないものに変わった。  いったん手にしかけた勝利の二字が、ぐんぐんと遠のいていく。  谷田はさらに二、三、その場を取りつくろうための形式的な質問を続け、礼を言って、ソファを立った。  谷田は歩いて記者クラブへ戻った。浦上が同行したけれど、日本大通りのイチョウ並木の下を歩く二人は、全く対話を奪われていた。全身の力が抜ける、というのは、こうした状態を指すのに違いない。『週刊広場』へ、電話を入れる気にもならない。 「だが、まだウラを取ったわけじゃないぞ。絶望することはない」  谷田はクラブに上がったとき、半ば、自分に言い聞かせるようにつぶやいていた。夕方の五時を回る時間だった。  各社のコーナーとも、それぞれの記者が忙しそうに机に向かっている。大声で支局と連絡を取り合う記者もいた。  谷田も若手記者との打ち合わせに入り、浦上は三十分ほど待たされた。  待たされる時間、浦上は広間にある各社共通のソファで、大判の時刻表をぱらぱらとめくった。  まだ訪ねたことのない分水を、指でたどった。  新潟から吉田乗り換えの越後線で、一時間五十分ほどの距離だった。何本かある直通も、所要時間は似たようなものだ。  意外に時間がかかるのだな、と、考えながら、見開きのページの反対側の時刻表を見たとき、 (あれ?)  小さいつぶやきが、浦上の口を衝いて出た。分水からは、やはり吉田乗り換えで、燕三条へ出るルートがある。  分水から吉田まで十一分。吉田から燕三条までは弥彦線で十二分だ。越後線も弥彦線も列車の本数が少ないので、うまく利用できるかどうか、その点に一考の余地はあるが、小泉は分水からの帰浜に際して、なぜ弥彦線を使わなかったのだろう?  燕三条には上越新幹線が入っているのだ。新潟より一つ大宮寄りで、長岡との中間にある駅だ。小泉が乗っていたと主張する“あさひ104号”は通過するけれど、その一本前の“あさひ540号”は燕三条停車で、十七時二十五分発となっている。  分水から一時間五十分もかけて新潟へ戻るくらいなら、所要わずか二十三分の燕三条の方が、便利だったのではないか。十七時五十五分新潟発の“あさひ104号”と違って“あさひ540号”の燕三条発車時刻は、三十分早いわけだが、分水からの所要時間を考えれば十分間に合うはずだ。  もっともあの日、小泉はバスを利用して、新潟駅へ向かったと主張している。道路渋滞でバスが遅延し、そのために特急券を買うことができなかったという説明だが、バス路線にしても、新潟へ引き返すより、燕三条へ出る方がずっと早いのではないか。  浦上はページを戻し、索引地図を開いた。時刻表の地図は正確ではないが、それでも、分水からは、燕三条の方が、はるかに近距離であることが分かる。 (変じゃないか。やつはどうして遠い駅から乗車したのか)  と、浦上は自分に向かって問いかけ、 (そうか。小泉は新潟駅でなければ、新幹線に乗ることができなかったのだ)  と、自分にこたえていた。  なぜか。名古屋駅での犯行を終え、大阪空港から新潟へ、東亜国内航空の最終便で飛行してきたためだ。 (あいつは、やはり分水町にはいかなかったんだな!)  分水から新幹線駅までの、所要時間の発見は浦上に新しい光を運んだ。浦上は、まだまだ絶望することはないぞ、と、思い直した。  と、なれば、小学校の同窓会を使ったアリバイ工作は、やはり偽装ということになる。偽アリバイに決まっている。  新しいデータが出れば、その都度、黒い色彩を濃くしてくる男。 (必ず崩してやる!)  浦上は時刻表をほうり投げていた。  谷田の手がすくまで、じっと待っているわけにはいかない。浦上は『毎朝日報』のコーナーへ入って、電話を借りた。  市外局番を問い合わせ、分水の町役場へかけ直した。  夕方五時を過ぎているので、電話に出たのは宿直だった。十一月に創立四十周年を迎える小学校と尋ねると、すぐに分かった。  小学校でも、電話を受けたのは宿直だった。宿直は、名簿を作成したり、祝賀会の準備をしている同窓会の動きは承知していたが、十月六日の午後、実際に会合が持たれていたのかどうか、そこまでは知らなかった。 「同窓会の会長さんに、問い合わせたらどうでしょうか」  先方は会長の電話番号を言った。会長の家は分水駅前で、代々旅館を営んでいるという。  浦上はいったん電話を切り、02569、と、もう一度分水町へのダイヤルを回した。指先の微妙な震えが自分に分かった。 「もしもし」  浦上は、それでも万一を警戒して『週刊広場』とは名乗らなかった。安田産業を電話取材したときと同じように、興信所を装った。口実は小泉の“結婚”だ。  電話には、最初おかみが出た。しばらく待たされて、主人に代わった。  おかみもそうだが、同窓会の会長を務める旅館の主人も、えらく素朴なことば遣いだった。越後なまりはどこか女性的で、やさしい響きを与える。  浦上は当たり障りがないようにそれらしき質問をし、最後に、ことのついで、というように尋ねた。 「ところで今月の六日、そちらで小学校同窓会の役員会があったそうですね」  小泉さんも出席されたのですか、と、つづける一言に力がこもった。  先方のこたえは、しかし、浦上の期待をかなえてはくれなかった。純朴な声は、即座に言った。 「もちろん来てましたよ。小泉さんは東京周辺在住会員の責任者なので、無理をして時間を作ってくれました」  小泉と口裏を合わせている感じではなかった。うそをつくような声ではなかった。東京在住のもう一人の責任者は、文京区本郷に住む坂本照江という主婦で、照江も同席したという。  出席の時間帯も、小泉が主張している通りだった。 「ええ、うちが旅館をしているもので、会合はうちで開いたのですがね」  出席者は二十人を越えていたという。  では、二十人を越える人間が、十月六日の午後、小泉が分水町に立ち寄ったことの証人となるのか。二十人に偽証させるなんてことは考えられない。  トリックは何だ? 分水町は何を隠しているのか。  浦上は思いつくままに、質問を重ねた。 「その役員会は、十月六日、土曜日の午後に間違いないでしょうね」 「小泉さんに、何かあったのですか」  同窓会の会長は、大塚貿易の二つの事件を知らないようだった。小泉が、転職先を特に告げていなかったのかもしれない。あるいは、小泉は同窓会名簿のために安田産業の一ページ広告をとってきたりしているので、そのまま安田産業に勤務していると思い込んでいるのかもしれない。  その辺のところは、質問しても説明しても話が込み入るので、浦上は省略した。  では、どこから攻めればいいのか。 (小泉は十月六日の午後、分水町にはいなかった)  それを大前提としての質問だが、会長は、日時も間違いないし、小泉は確かに、二十人を越える役員と一緒に同席していた、と、明言するのである。浦上がどのように繰り返しても、こたえは変わらない。 (ほかに考えられることはないか)  浦上は送受器を持ち直した。脳裏で、めまぐるしく思考が錯綜する。簡単に浮かんでくることと言えば、人間のすり替えだ。戸籍には登載されていないけれども、小泉に双子の兄弟がいる、というような事実はないのか。突飛とは思ったが、浦上が質問の角度を変えると、 「小泉さんの縁談に、何か支障が生じたのですか」  先方は訝(いぶか)しげに言い、昔から家族ぐるみでつきあっているが、小泉家に双子はいない、と、これまたはっきりと否定された。 「もう一度だけお尋ねします。六日の午後出席されたのは、本当に小泉保彦さんでしたか」 「気味の悪いことをおっしゃいますな。小泉さんが同席していては、困る事情でもあるのですか」 「失礼ですが、出席者が大勢いたので、だれか別の人と保彦さんを見間違えた、ということはありませんか」  浦上は、くどいとは考えたが、どうしても電話を切る気にはなれなかった。  物静かな相手も、さすがに感情を害した声になった。 「年齢はわたしの方がひと回り上ですが、保彦さんのことはよく知っています。小泉さんの実家は、うちのすぐ裏なのですよ。東京へ出てからも盆暮れには必ず帰郷していますし、最近は同窓会の打ち合わせで、しょっちゅう顔を合わせています。冗談じゃない。彼を見間違えるなんてことは絶対にありませんよ」  納得できないのなら、ほかの列席者に聞いたらどうか、と、同窓会長は言った。巨大な壁にも等しい返事だった。  浦上はもう一人の東京在住役員、坂本照江の電話番号をメモして、長い電話を終えた。  谷田は若手記者との打ち合わせを済ませ、途中から浦上の電話取材を見守っていたが、 (やはり駄目か)  というように、消沈した浦上の顔を見た。 「もう一本だけ念を押してみます」  浦上は独り言のようにつぶやいて、再び電話に手を伸ばした。かけた先は文京区の、坂本照江の自宅だ。  しかし、こたえは、同窓会長と全く変わらなかった。照江もまた、十月六日の午後、小泉が新潟の分水町にいたことを、明確に証言するだけだったのである。 第8章 姉と弟  浦上は翌朝、もう一度坂本照江に電話を入れた。  越後の分水町には必ず、表面からは分からない工作があるはずだ。トリックがなければならない。  だが、いくら考えても、何も浮かんでこないのだ。こうなったら、新潟を訪ねるしかないだろう。福岡へ出張して“紅葉坂”を発見したように、自分の足で直接分水町を歩けば、裏面に隠されたものが見えてくるかもしれない。  しかし、手ぶらで出かけても意味はない。当日のおおよその輪郭をつかんでおこう、と、そう考えての、照江への電話だった。  電話で済ませるのではなく、照江からじかに話を聞きたいと思った。  照江は昨日と同じように、快く応じてくれた。照江は、午後新宿のカルチャーセンターへ通うので、その前ではどうですか、と、新宿駅西口の、デパートの中の喫茶店を指定してきた。 「よろしくお願いします」  浦上は礼を言って電話を切ると、トーストにインスタントスープという、いつもながらの簡単な朝食をとった。  トーストをほお張りながら、小泉と和子の顔写真を、食卓の上に並べて置いた。『毎朝日報』で隠し撮りした写真だ。谷田先輩からもらったこの二枚の写真を、なんとしても連載第一回目に使ってやるぞ、と、改めて自分の中でつぶやいた。  浦上は中目黒のマンションを出るとき、新潟の分県地図に二枚の写真を挟み、カメラと一緒にショルダーバッグに入れた。場合によったら、このまま新潟へ出かける心づもりだった。 『週刊広場』編集長には、照江の話を聞いてから、電話連絡をすることにした。  指定された喫茶店はデパートの七階だった。窓の下に、新宿駅西口のバスターミナルが見える。  浦上は約束の十一時より十分早く着いたが、坂本照江は、すでに姿を見せていた。それほど広くない店内を見回すと、窓ぎわのテーブルにいた照江の方から視線を合わせてきた。  三十歳前後。小柄な女性だった。ショートカットで赤いセーターに白いパンタロンという服装のせいか、見るからにスポーティーな感じだった。口の利き方もはきはきしている。  質問は、前日の電話の繰り返しに始まった。照江はきのうと同じようにこたえた。 「小泉クンは間違いなく顔を見せていましたわ。ええ、お仕事が忙しいので、早目に引き上げることは前から聞かされていました」  十月六日の会合は、一ヵ月前から決まっていたのだった。当日、祝賀会の打ち合わせが一段落すると、小泉は予告通り、皆より一足先に退席した。照江の方は、実家に一泊して、東京へ戻ったという。 「小泉さんは、秋田へ出張した帰り、という話をしていましたか」  浦上は注文のコーヒーがテーブルに乗ったとき、それを言った。昨日の電話では尋ねなかった新しい質問だ。  照江は下唇をかむようにして、考え込んだ。 「秋田ですか。そんなことは口にしていませんでしたよ。ううん、そうじゃない。小泉クンは日帰りでやってきた、と、皆にしゃべっていましたわ」 「日帰り? 祝賀会の打ち合わせのためにわざわざ分水町へきた、と、そう話していたのですか」 「そうですよ。それで会計係が、片道の足代ぐらい同窓会で持たなければ悪いかな、と、冗談言っていたのを覚えています」  おかしいではないか。小泉は、大塚貿易を休んで横浜から帰郷したわけではない。会社の出張を利用して立ち寄ったのだ。  トリックを解くキイはその辺りに潜んでいるのだろうか。  しかし、その点に関しては、照江が、間髪を入れずといった感じで、明快に説明した。 「小泉クン、本当はほかの用事に引っ掛けて出席したのかもしれませんわ」 「でも、日帰りで直行したとはっきり言ったのでしょ」 「前にもそういうことがありました。小泉クンって、恩着せがましいところがあるのよ。いつだったかしら、親類の法事で分水へ帰ったのに、やっぱり同窓会のためにわざわざ出かけてきた、と、皆にしゃべっていたことがありましたわ」  小泉はそういう性格なのか。どこか翳を感じさせる男だけに、照江の説明は、浦上にも説得力を持った。  だが、それが事実だったとすれば、小泉が風邪と称して出張を延期したのも、実は同窓会の集会に合わせるためだった、ということにもなってこようか。 (冗談じゃないぞ)  浦上は、すぐには次の質問をすることができなかった。小泉の出張延期は、名古屋の現金強奪にタイミングを合わせたものでなければならない。  それなのに、こんな具合に説明付けられてしまっては、小泉の立場をますます有利にするだけではないか。  小泉の主張には、一つ一つ、それを裏付ける人間が登場してくる。  それに対して、こちらの推理は、あくまで仮説に過ぎない。仮説に誤りはないと思う。しかし、いくら新発見がつづいても、物証もなければ証人もいないのだ。 (東亜国内航空の、大阪発新潟行き最終便のスチュワーデスに、小泉の顔写真をたたきつけてみるか)  浦上の胸の奥をそうしたつぶやきが走った。だが、事実が浦上の推理通りであったとしても、(いや、推理通りならなおのこと)小泉が機内で顔を知られるミスは犯さないだろう。二千五百万円強奪事件同様、マスクをしたり、サングラスをかけるといった工作をしていたに違いない。  では、どうすればいいのか。  照江がこれだけはっきり証言するのだから、実際に分水町へ行っても、絶対的な確証は得られないかもしれぬ。浦上は本能的にそれを感じた。第一線のルポライターとしての直感だ。 (畜生! こんな形の敗北があるか)  浦上はショルダーバッグを引き寄せた。小泉が崩れないなら、和子の方から肉薄することはできないか。  浦上はそのような祈りにも似た気持ちで、小泉と和子の写真をテーブルに置いた。 「分水町には関係ないと思いますが、この女性に心当たりはないでしょうか」  浦上は、和子の写真を指で示した。 「この人は小泉さんと親しくしている女性です」 「小泉さんの婚約者ですか。存じませんわ。小泉クンって、自分のことはあまり話さないタイプなのですよ」  照江はちらっと見ただけで、和子の写真を手にとろうともしなかった。  照江が、意外なことを口にしたのはその直後だ。 「もう一枚の写真の男性はどなたですか」  照江の発言の意味が、一瞬、浦上には理解できなかった。  しかし、聞き違いではなかった。照江は繰り返した。 「失礼ですが、何を調べていらっしゃるのですか」 「ある事件があって、十月六日の小泉さんの足取りをはっきりさせたいのです。最初に申し上げた通りです」 「ですから、何度も言ったように、小泉クンはあの日、日帰りで分水へ見えました。間違いありません。そのことと、この写真の女の人や男の人が、どういうかかわりを持つのですか」 「何をおっしゃるのですか。これは小泉保彦さんの顔写真ではありませんか」 「小泉クン? あなたはだれか別の男性を追いかけているのとは違いますか」 「そんなことはありません。小泉さんは自分の口から、はっきりと、分水の小学校の同窓会へ出席したと言っています」 「この写真の人がですか」  そんなことってないわ、と、照江は頭を振った。  照江は、しばらくの間を置いて断言した。 「この男の人は、分水の小学校を卒業した小泉クンではありません」  小泉じゃない?  そんなことがあろうか。小泉は分水町の会合に列席したと主張している。日にちも、時間も、照江や同窓会長が言う通りにだ。小泉はあの日、故郷に立ち寄っている。二十人を越えたという出席者も、小泉が分水町にいたことを、証明するだろう。  小泉保彦は二人いるのか! 浦上の脳裏に混乱が生じた。混迷は、しかし、すぐにほぐれた。  同じ人間が二人存在するわけはないのだ。どちらかが偽物でなければならない。と、すれば『毎朝日報』が隠し撮りした男、大塚貿易社員の小泉保彦こそ、偽物ということになる!  浦上が新しい質問に入るためには、呼吸を整えるための、しばらくの時間が必要だった。 「坂本さんは同窓会の同じ役員だから、もちろん、小泉さんの横浜の住所をご存じですね」 「ご質問の主旨が、途中からよく分からなくなりましたわ。小泉クンは横浜に移ったことなどありません。前の勤め先である安田産業を退社してから、ずっと船橋に住んでいます」 「千葉県の船橋ですか」 「そうですよ」  小泉は船橋で、伯父が経営するファミリーレストランの店長をしている、と、照江は言った。浦上も、安田産業を電話取材したとき、人事担当者からそれを聞かされている。 (あいつは、小泉ではなかったのか)  浦上は一点を見詰めた。  六日の午後、越後の分水町に存在したのが別人なら、真犯人は名古屋での犯行を完了し『週刊広場』解明のルートで、大阪空港から新潟へ飛行してくることが可能になる。隠されたトリックが、それか。 (あの野郎!)  浦上は、思わずテーブルの上の二枚の写真を握り締めていた。自分にも判然としない奔流が、全身で音を立てた。 (もう逃がさないぞ!)  黒いベールの向こう側に潜む姉と弟が、はっきりと浦上に見えてきた。  それから一時間が過ぎる頃、浦上は船橋にいた。船橋市役所近くの、国道1号線沿いのファミリーレストランで、店長である本物の小泉保彦と向かい合っていた。本物は小太りの丸顔で、人の好さそうな男だった。坂本照江は、恩着せがましい一面があると言ったが、一見したところ、そんなふうには感じられない。  ランチタイムだが、広い店内は空席が目立った。浦上はレジの前のボックスで話を聞いた。  浦上の期待は、今度こそ裏切られなかった。写真を提示すると、店長は即座にこうこたえたのである。 「この男は加部君ですよ。加部卓郎君です」 「間違いありませんね!」  浦上の声が震えた。胸の中で熱いものが渦となった。 「すみませんが、この女性の写真も確認してください」 「これは加部君のお姉さんじゃないですか。そう、お姉さんですよ。加部君のアパートヘ行ったときに会いました」  質問の要点は最初に終わった。  浦上はマイルドセブンに火をつけた。  あとに残っているのは、付帯的な地固めの作業だ。ここまできたら、なまじ隠し立てしても始まらない。浦上は加部姉弟が置かれている立場を説明して、本物の小泉の協力を求めた。 「分かりました。気持ちが悪い話ですね。加部君はぼくの戸籍を騙(かた)り、ぼくに成り切って就職していたというのですか」 「加部とはどこで、お知り合いになったのですか」 「安田産業に勤めていたときです」 「同僚だったのですか」 「同僚と言っても、彼は一ヵ月ごとに契約を更新するアルバイトでした」  営業部所属の、配送員だったという。安田産業に男女の臨時アルバイトが数多くいる話も、電話取材のとき、浦上は人事担当者から耳にしている。 「加部は一年半前に福岡を出ています。安田産業でバイトするようになったのは、その頃からですか」 「そんなものですね。それほど長いつきあいではありません」  長くもないし、親しい交際でもなかった。加部が改まって近付いてきたのは、小泉が安田産業を辞めてからだ。  それは、その通りだろう。小泉の戸籍利用を目的としての、接近だ。  小泉が加部のアパートに招待されたのも、退職直後であった。今のファミリーレストランを手伝うために、船橋への転居準備をしている頃だった。  下落合のアパートで、その頃姉弟は二人一緒に住んでいたという。 「そういえば、あのときですね」  と、目の前の小泉は半年前の記憶をたどった。  すきやきをごちそうになり、ビールの酔いが広がった頃、姉弟は、しきりに、小泉の生い立ちとか新潟の家族のことを聞こうとした。自分たちの生活はほとんど話さないのに、根掘り葉掘りといった感じで、小泉の本籍などを尋ねてきた。  今にして思えば、適当な話題を間に挟んでの、それと気付かせないほど巧妙な誘導だったという。 「出身の小学校が、四十周年を迎えることもしゃべりましたか」 「もちろん言ったと思いますよ」 「そのとき、ビールの酔いは相当に回っていたのですね」  浦上は、発想が同じだと思った。  現金強奪時のクロロホルム。長井の掌紋を凶器に付着させた際の、しょうちゅうのお湯割りと同じではないか。  相手の意識をまひさせておいて、目的を達成する。それが、光子、卓郎姉弟の一貫した手口、ということになろうか。  光子が“藤沢和子”の戸籍を盗用したのも、大同小異の手段であったに違いない。姉弟は他人に成り済まして大塚貿易に入った。“紅葉坂の怨念”を晴らすために、大塚国蔵に接近した。  無論、目的完遂までの、他者の戸籍盗用であろうが、大塚貿易が、社員の出入りの激しい会社であり、入社が容易であることも、姉弟には有利だった。  光子と卓郎は、藤沢和子、あるいは小泉保彦本人と偽って、茨城の村役場と新潟の町役場へ、恐らくは郵送で戸籍謄本を請求したのに違いない。相応の料金と、切手を貼った返信用封筒を同封しておけば、役場の戸籍係では依頼通りの処置をとってくれる。  郵送されてきた戸籍謄本を履歴書に添付して、大塚貿易に提出する。こうして、姉弟は別人として採用され、ひそかに協力仕合って、社内に食い込むことが可能となる。  光子と卓郎は顔が似ていないし、福岡の中村清子が指摘してきたように、実父の国蔵の面影も残してはいない。三十年間の虐げられた生活が、容貌をも変えてしまった、と、解釈できるかもしれない。  そうした点も、復讐計画を実行する姉弟にとって有利に作用したわけだ。  何らかのはずみで国蔵が不審を覚えたとしても、国蔵が暮らした福岡、愛知、神奈川とは全く無関係な茨城と新潟の戸籍がしかと用意されていれば、疑念も、ある一線以上の広がりを見せなかったであろう。  姉弟が他人に成り済ましたのは、もちろん、大塚国蔵に身元を察知されないためだ。しかし、同時に、完全犯罪の伏線ともなっていたのである。  中村清子は、 「姉弟は、二人とも細かい計画を立てて、地道に実行するタイプなのよ」  と、浦上に語っている。  今回の場合も、光子と卓郎は慎重に計画を練って二千五百万円を強奪し、大塚国蔵の胸に刃を突き立てたのだ。 (“名古屋”の犯行も、“紅葉坂”の殺人も、谷田先輩たちと煮詰めた推理通りに決まっている)  浦上は改めて自信を持った。  たった一つの、しかも最大の失点は、目の前にいた加部光子と卓郎を、姉弟と見抜けなかったことだ。この発見を告げたら、谷田先輩はどんなにびっくりするだろうか。 「すみません。もう少しだけお時間をください」  浦上は裏付け調査を急いだ。同窓会を利用したアリバイ工作であるなら、姉弟は、現在も本物の小泉に接触していなければならない。  これまた、予想通りのこたえが返ってきた。 「一方的ですがね、加部君はたまに電話をくれます」  一方的にかかってくるという電話は、勝手に戸籍を盗用していることが発覚していないかどうか、その辺りを探る意味合いもあるだろう。 「四十周年記念祝賀会の準備で、六日に分水町へ帰郷される話もしましたか」 「確かにしています。いろいろ陰の事情を伺ってみると、これまた、加部君にうまく誘導されてしゃべった、ということになりましょうか」  人の好さそうな小泉は、落ち着かない顔をした。  浦上は、六日の会合が一ヵ月前に決定していたことを、さっき坂本照江から聞いている。小泉が、卓郎からのさりげない問いかけに応じて、六日の会合を口にしたのも、開催日時が決定した直後だったという。 「ぼくはごらんのように、このレストランを任せられているので、二日も三日も休むわけにはいきません。それで、日帰りで行ってくる、ということも加部君に話したと思います」 「それだな」  浦上はつぶやきながらメモをとった。  その時点で現金強奪の青写真が描かれていたとは思えない。その後、大塚社長の神戸・名古屋出張と、小泉の秋田出張が具体化したことで、アリバイ偽装に同窓会の利用を決めたのだろう。  卓郎は風邪と偽って、秋田出張を遅らせた。そして、大塚社長の神戸出張が予定より三日延期されたのは、有吉商会に対する和子、いや光子の下工作であることがはっきりしているのである。 「最近は、いつ、加部から電話がありましたか」 「ええと。そうそう、分水へ日帰りした翌日だから、七日の日曜日でした」  故郷の秋はどうでしたか、というような、やはり問いかけの電話であり、小泉は、日帰りはきつかった、と、こたえたという。卓郎は小泉が船橋へ帰り着いた時間も、それとなく探りを入れたようだ。  アリバイ偽装工作に疎漏があるかどうか、念を入れるための電話であったに違いない。小泉の日程が予定通りであったことを確認して、加部姉弟は胸を張ったことだろう。  本物の小泉保彦の行動を利用した、二人一役のトリック。  本物がそこにいたのだから、どのように攻めても“新潟不在”が崩せなかったのは当然だ。  浦上は、蛇足とは承知しながら、最後に尋ねないではいられなかった。 「分水町から東京へ戻るとき、上越新幹線はどこで乗車されるのですか」 「どこから、と、言いますと?」 「あなたを装った加部は、分水町から新潟駅へ出た、と、刑事にこたえているのですが」 「そりゃ遠回りですよ。そんな無駄なことはしません。燕三条駅の方がずっと近い」  と、本物の小泉は言った。  浦上の全身に、もう一つの充実感が、じっくりと広がってくる。浦上を“敗北”から救ったのが、燕三条駅にほかならなかったからである。新潟駅と燕三条駅。分水からのそれぞれの所要時間の相違を発見したことが、結果的には、坂本照江の貴重な証言を引き出したと言えるだろう。 「ありがとうございました」  浦上は何度も頭を下げて、ファミリーレストランを出た。  浦上は船橋駅まで戻った。『毎朝日報』記者クラブ、『週刊広場』編集部の順に、報告電話を入れた。  殺人、その他の容疑で、加部光子、卓郎姉弟の逮捕状が請求されたのは、その日の夕刻である。  十月十三日、火曜日。現金強奪から数えて十七日、紅葉坂の殺人から六日目にして、すべての決着がついた。  浦上と谷田は、馬車道の『カンナイ』にいた。姉弟逮捕の一報を、殺人事件の隠れた舞台であるビヤレストランで待つ段取りだった。提案したのは浦上であり、谷田も、一も二もなく応じた。  明日の朝刊は、もちろん『毎朝日報』の独走ということになる。すでに予定稿は完成しているし、若手記者が二人、他社に気付かれないよう、さりげなく捜査本部へ出かけた。  加部光子が藤沢和子の戸籍を盗用していた事実も、時を移さずに洗い出されていた。当局が本物の藤沢和子を突き止めたのは、浦上が『毎朝日報』へ電話を入れてから、三時間と経たないうちである。  本物の和子は、千葉県柏市のデパートに転職していた。刑事が写真の確認を求めると、 「上野の小川商事で、半年ほど一緒に働いていた加部光子さんですわ」  本物の和子は、よどみなくこたえた。浦上が考えるまでもなく、卓郎の場合と全く同じ手口だった。 「言ってみれば簡単なトリックだが、ものが戸籍謄本だけに、惑わされたのも、やむを得ないかな」  谷田は、何はともあれ大ジョッキで乾杯したとき、ぼそっとつぶやいた。  浦上は、釈放されてくる長井紀雄を思った。今回の体験は、あの男のこれからの人生にどのような翳を落とすのか、と、考えていた。浦上の中の、今は振り返りたくもない暗い部分に、奇妙に照応してくるものを持っている男。 「長井もそうですが、あの二人が加部姉弟と知って、なんとも気が重くなりました」  浦上は感じた通りのことを口に出した。事件を解決した快感とは全く裏腹な、重い感情だった。姉弟逮捕が目の前に迫って、暗いものがさらに強くなってくるのを浦上は覚える。  福岡での取材を終えたとき、中村清子は、 「あの子たちが犯人だったとしても、悪く書かないでね。悪いのはあの子たちじゃない、殺された大塚の方なのよ」  と、浦上に向かって言った。  そして、吉塚の“紅葉坂”に立ったとき、浦上は、光子、卓郎姉弟に対して浦上なりのイメージを抱いたのだが、今は違う。“藤沢和子”と名乗り、“小泉保彦”と偽っていた姉と弟は、“紅葉坂”のイメージからかけ離れている。  すべての根源が大塚国蔵にあるとはいえ、光子と卓郎にとって、長井は異母弟ではないか。吉塚の“紅葉坂”を、一生払拭(ふつしよく)できないであろう光子と卓郎。その二人に、こうした罠が仕組めるのだろうか。同じ境遇の異母弟を陥穽に突き落とし、拘置所に送り込むなんてことが、どうすればできるのか。  長井紀雄が殺人犯として逮捕されたとき、この『カンナイ』を舞台にして手が込んだ工作をした姉弟は、一体どんな顔をして、自分たちの企みの成功を見ていたのだろう? 大塚国蔵の血を引く人間は、見境なく憎悪の対象となったのか。 「谷田様、お電話が入っています」  と、呼び出しアナウンスがあったのは、二杯目のジョッキを注文しようとするときだった。  谷田が『カンナイ』にいることを承知しているのは、クラブの若手記者だけだ。若手記者から電話が入ったというのは、加部姉弟逮捕を意味する。 (終わったな)  谷田はそんな顔付きで、入り口に近い電話コーナーに立って行った。 「大塚国蔵は、結局、自分自身に殺されたことになるか」  浦上は声に出してつぶやいていた。 注 本文中の列車、航空機の時刻は昭和五十九年十月のダイヤによる。         * 本電子文庫版は、講談社文庫版(一九八七年九月第1刷刊)を底本としました。 紅葉(もみじ)坂(ざか)殺人(さつじん)事件(じけん) 電子文庫パブリ版 津村(つむら)秀介(しゅうすけ) 著 (C) Shusuke Tsumura 2000 二〇〇〇年一一月一〇日発行(デコ) 発行者 中沢義彦 発行所 株式会社 講談社     東京都文京区音羽二‐一二‐二一     〒112-8001     e-mail: paburi@kodansha.co.jp 製 作 大日本印刷株式会社 *本電子書籍は、購入者個人の閲覧の目的のためのみ、ファイルのダウンロードが許諾されています。複製・転送・譲渡は、禁止します。