津村秀介 異域の死者 上野着17時40分の死者 目 次  序章 宵闇の不忍池  1章 死者の正体  2章 �目撃�の背景  3章 横浜港が見えるホテル  4章 仙台に帰った夫婦  5章 鳥取みやげと伝言電話  6章 十七分の証明  7章 終着駅京都  8章 霧の中の船岡駅  終章 偽りの東北本線  序章 宵闇の不忍池  いまにも雨が降り出しそうな、曇り空だった。  大型台風の北上に伴い、秋雨前線が活発になっている。  黒雲が厚いためか、東京は夕暮れが早かった。  空が暮れると、街は、急に夜になった。  十月三日、月曜日。  広小路《ひろこうじ》辺りの、繁華街の明かりが目立つようになると、上野の森は、都心とは思えない闇に包まれた。  不忍《しのばずの》池《いけ》も、正確に、暗さを増しており、水面を埋める蓮《はす》は、一塊の影となった。  上野公園南部に位置する不忍池は、周囲二キロ。やがて秋が深まり、蓮が葉を落とすと、渡り鳥の季節を迎えるのであるが、その夜の不忍池は、厚い雨雲を反映したかのように、不気味に静まり返っていた。  暗いといっても、まだ時間は早い。ようやく、午後六時になったところである。  池畔をそぞろ歩く人影も、決して少なくはないのだが、雨が近付いているせいで、風景全体が、ひっそりしている。  不忍池は、近江《おうみ》の琵琶湖《びわこ》を模《も》して、造園されたと伝えられている。池の中の島を、竹生島《ちくぶじま》になぞらえ、島には朱塗りの弁天堂が建立《こんりゆう》されている。  島へ通じているのが天竜橋であり、橋からやや離れた池畔の柳の下に、一組の男女がたたずんでいた。  男は長身だが、女性の方は小柄だった。  男女がたたずむ辺りは、街灯の明かりも届かない、深い暗がりとなっている。柳が、大きく枝を垂らしているのである。  しかし、池の端を歩く人影が少なくなかったとはいえ、木陰の男女を、特に意識した人間はいなかった。男女が寄り添っているのは、決して、珍しい光景ではなかったからである。アベックが多い場所だった。  だが、特別注意した人間はいなかったけれども、その男女の会話を、小耳に挟《はさ》んだ男子学生がいた。学生は根津《ねづ》に下宿しており、上野公園を横切るのが、通学の近道になっていた。  後で、上野西署へ通報電話をかけてきたとき、 「女性の方は、泣き声だったような気がします」  と、その学生は告げている。 『ね、冗談よね。本気で、そんなこと言ってるわけではないのでしょ』 『いつまで、くだらない夢を見ているんだ!』  それが、学生の記憶している男女の会話だった。  柳の木陰に異変が生じたのは、(それから後の、別の三人の証言を綜合すると)男子学生が池畔を通り過ぎた直後、ということになる。  一声、女の悲鳴が闇を裂いた。 「た、助けて!」  悲鳴は短くて低かったが、天竜橋の先を通りかかった三人の男女が、それをはっきりと耳にしている。  悲鳴と同時に、柳の下の影が、二つに分かれた。  小柄な女性は、柳の根元に崩れるように屈《かが》み込み、長身の男の方は、文字通り脱兎《だつと》のように駆《か》け出していた。 「早く、早く助けなければ!」  三人の男女が、一瞬|躊躇《ちゆうちよ》しているうちに、大股で走り去る長身の影は、中央通りの方向へと消え去った。  三人の男女は、吸い寄せられるようにして、柳の下へ走り寄った。  一人がライターをつけた。  小柄な女は、左胸から血を流して倒れていた。 「一一〇番だ」 「いえ、一一九番よ」  てんでに口走る声が上ずっていた。  三人の目撃者のうち、ブルゾン姿の男女二人は恋人同士。もう一人のスーツの男性は、ブルゾンの二人とは全く無関係な二十代のサラリーマン。彼はガールフレンドとの待ち合わせで、夜の上野公園へやってきたのだった。  公園下の巡査派出所へ、急を知らせに駆けて行ったのは、スーツを着た若いサラリーマンである。 「女性が刺されました。息も絶え絶えのようです」  そのとき、派出所の掛時計は、午後六時九分を指していた。  メーンストリートは、もちろん、まだ宵《よい》の口である。        *  上野西署のパトカーが二台、上野公園に入ってきたのは、それから十五分と経《た》たないうちである。  パトカーより数分早く不忍池に到着していたのは、救急車だった。  救急車は、しかし、刑事たちを乗せたパトカーが来るまで、現場を離れなかった。被害者の女性は、すでに、完全に絶命していたためである。 「左胸を一突きにされています。ほとんど即死状態です」  救急隊員は、上野西署の刑事課長に向かって報告した。救急車は、緊急出動をパトカーにリレーする形で、引き上げて行った。 「被害者《がいしや》がホトケさんになってしまったのでは、救急車の出番じゃないな」  ぼそっとつぶやいたのは、上野西署刑事課捜査係主任の清水《しみず》部長刑事だった。  清水は四十一歳。拝命以来、ほとんど私服一筋に生きてきた男だが、いわゆるデカらしくない刑事だった。  清水は、態度も、口の利《き》き方もおとなしい。丸顔のせいもあるけれど、刑事というよりは、小商人といった感じを与えることの方が多い。  そのベテランが、三人の目撃者から、異変発生当時の事情を聞いた。三人とも緊張しているだけに、雑談を交えながら聞き出す清水は、正に適役といえる。  清水は街灯の下のベンチで、一人ずつ別々に話を聞いた。  結果は一致していた。 (1) 女の悲鳴が聞こえたのは、すなわち事件が発生したのは、午後六時五分頃。 (2) 闇の中に逃亡した男は優に一メートル八十はある長身で、黒っぽいコートを着ていたらしい。  三人とも、逃げて行く男を、街灯の明かりで、ちらっと目にしている。しかし、その記憶は、男性と女性とでは違っていた。  男性二人は、犯人は眼鏡《めがね》をかけていたようだと言い、女性の目撃者は、眼鏡には気付かなかったとこたえている。  瞬時の目撃ではあるし、暗がりなので、印象が分かれるのは、やむを得ないことだった。  しかし、(1)と(2)の確認が取れたことは大きい収穫だ。  普通の捜査は、これらの割り出しに腐心するのだが、今回は、その最初の手間が省略できたわけである。  しかも、この初動捜査の段階で、もうひとつの幸運が重なった。  殺人事件発生の町のうわさを耳にして、 「もしかしたら」  と、上野西署へ電話をかけてきたのが、根津の下宿へ帰ったばかりの、男子学生だった。  これまた、重要な情報だった。  それは、犯行が通り魔的なものではないことを、裏付けていたからである。 「被害者《がいしや》と犯人《ほし》は、前からの知り合いか」  清水部長刑事は、本署を経由する男子学生からの通報を、不忍池の殺人現場で知らされたとき、 「この事件《やま》は、すぐに片が付くのではないかね」  と、若手の刑事に話しかけていた。  だが、目撃証言には恵まれたものの、鑑識係の方はすっきりしなかった。  初動捜査では、死体の司法検視にも増して重要なのが、鑑識であり、全力投球されるのが、犯人の遺留品収集だ。  しかし、これが、皆無に等しいのである。  まず、凶器が発見されない。心臓を一突きにした傷口から見て、凶器は果物ナイフと思われるのだが、それが、どこにも落ちていない。  犯人には、重要な証拠品となる凶器を、持ち去る余裕があったということか。  恐らく、若干の返り血は浴びているであろうが、 「この時季に黒っぽいコートを着ていたというのが、返り血を避けるための準備工作だったとしたら、犯人《ほし》は、相当に、計画的なやつだな」  刑事課長は、鑑識係の動きを見守りながら、次第に、表情を厳しくさせていた。  犯人が返り血を浴びたコートを脱ぎ、凶器を隠蔽《いんぺい》して、大都会の夜の底へ紛れ込んでしまったら、割り出しは容易ではない。  室内の犯行と違って、指紋も、検出されなかった。  いや、それが計画的なら、池畔の殺人であったとしても、犯人は、手袋ぐらい用意していたかもしれない。  では、足跡はどうか。  屋外の凶行の場合は、足跡が決め手となることが多いけれど、それも駄目だった。現場は舗装こそされていないものの、柔かい泥土ではないので、足跡は一点も採取できなかった。  唯一の手がかりは、柳の下に残された死体ということになる。  被害者の推定年齢は、二十歳から三十歳。やせ型の美人だった。夜目にも白い肌であり、髪が長かった。身長一メートル五十四。  黒と白の、細かいストライプのツーピース姿だった。ヒールの高い靴を履《は》いているのは、小柄を隠すためだろう。  右の腕にはブレスレット、左には腕時計をつけているが、どちらも、一際《ひときわ》目立つ大きめなデザインだった。 「主任」  若手刑事が、清水部長刑事の背後から話しかけた。 「そろそろ廃《すた》れてきたようですが、ボディコン・ギャルってやつですね」 「何だい、そのボディコンって」 「ウエストが、ぐっと絞《しぼ》られているでしょう。ええ、このように、体の線をですね、バストやヒップラインを強調した服装のことですがね」 「なるほど。このホトケさんのような、タイトスカートのことを言うのかね」 「ディスコなんかで、ボディコンはもてるって話です」 「ほう、若いだけに詳しいな」 「もてるってことは、逆に言えば、簡単に、男に許してしまうって意味でもあるらしいのですけどね」 「男に狙《ねら》われ易いタイプ。男性からのアタックを待っている女ってことか」 「そりゃ、一概には言えないでしょうが、ボディコン・ギャルというと、とかく、そうした目で見られているようです」 「確かに、このホトケさんも、男にはもてただろう。これだけの別嬪《べつぴん》だからな」 「主任、本署へ電話をかけてきてくれた学生の情報から推しても、男女関係のもつれが発端じゃないでしょうか」 「私も、そうは思うけど、捜査に先入観は禁物だよ」  ベテラン部長刑事は、背後の若手に向かってそんなふうにことばを返しながらも、視線は、車に乗せられて移送される死者に向けられたままだった。  小柄でほっそりした死者は、左の薬指に金の指輪をはめていた。あるいは、若い人妻なのかもしれない。しかし、最近は、独身者でも薬指にはめている例が少なくないので、指輪だけでは識別できない。  死者はポシェットを所持していた。  たばこ好きだったのか、ショートホープと小さい銀のライター、それと五万円余りの現金が入っていたけれど、直接身元を明かすようなものは発見されなかった。  が、手がかりが、皆無というわけではなかった。  差し出す前の郵便はがきが、一通、ポシェットの中から出てきたのである。 「何だ、これは」  刑事の一人は、はがきを返してみた。  裏面は空白で、一字も記されていない。  しかし、表面のあて名は、ワープロで、明確に印刷されてあった。  仙台市一番町二二八 中阪ビル2F 浅野機器仙台支社営業部第一課長 村松俊昭様  差出人の方は、住所も氏名も、記入されていない。  筆跡を残さないワープロなので、死んでいた女性自身が出そうとしていたはがきなのか、それとも別のだれか(たとえば男性)から、あて名印刷だけを依頼されたものなのか、その点は分からない。  だが、それが、ワープロにデータ処理されている住所録からの印刷なら、殺された女性は、『浅野機器』仙台支社と関係がある会社のOL、ということになろうか。あるいは、『浅野機器』本社の人間かもしれない。  警視庁捜査一課の応援で、上野西署に捜査本部が設置されることになった。  同時に、電話帳で、『浅野機器』が調べられた。  しかし、東京都内に、同名の会社は存在しなかった。 『浅野機器』とは、どういう業務内容で、どこに本社を置く会社なのか。  東京で刺殺された人間が「仙台支社」あてのはがきを所持していたことで、本社は都内にあるのだろう、と、だれもが単純に考えた。  だが、東京に本社もなければ出張所もないとすると、捜査は、「仙台支社」から着手するのが順序となる。  1章 死者の正体  東京警視庁捜査共助課からの要請を受けた宮城県警では、直ちに、聞き込みを開始した。一番町は、JR仙台駅に近い中心地だった。一番町を管轄《かんかつ》するのは、仙台東署である。  地味な背広の中年の刑事が、『中阪ビル』へ向かったのは、東京・上野で殺人事件が発生してから、二時間と経《た》たないうちだった。  仙台の夜も、曇っていた。  本署から『中阪ビル』まで、ケヤキ並木の青葉通りを、歩いて行ける近さだった。  東京と違って、北の都は夜が早い。刑事は、人影が減ってきた舗道を横切り、『中阪ビル』に入った。  午後八時を回るところだった。  七階建ての細長いビルは、ほとんどが貸しオフィスになっていた。すでに、大方の部屋の明かりが消えている。  二階の『浅野機器』も真っ暗だった。  刑事は急な階段を下り、一階の守衛室に寄った。  無駄かもしれないと思ったが、念のために尋《たず》ねてみると、 「浅野機器の村松《むらまつ》課長なら、河原《かわら》町《まち》のハイツ・エコーにお住まいですよ」  雑居ビルの守衛は、村松|俊昭《としあき》を知っていた。『ハイツ・エコー』は、『中阪ビル』と同一経営の賃貸マンションだった。  守衛は交替でマンション管理に派遣されることもあり、それで、村松の入居を承知していたのだった。  所在地は、仙台市河原町三五九。刑事は『ハイツ・エコー』23号室、と、守衛から聞き出した住所を警察手帳に控え、 「ところで、浅野機器は何を扱っている会社ですか」  質問を変えた。それは、上野西署の捜査本部が要請してきた、チェックポイントの一つだった。 「詳しいことは知りませんが、病院などへ医療設備機器を販売している会社だと聞きましたが」  と、守衛はこたえた。 『浅野機器』の本社は横浜であり、『中阪ビル』の支社に勤務しているのは、支社長以下十人前後、ということらしい。  刑事は守衛室を出ると、いったん、仙台東署へ戻った。  パトカーを出してもらった。 「東京の殺人《ころし》が、仙台に飛び火したのですか」  パトカーを運転する制服の巡査は、刑事の目的を聞いて、話しかけてきた。 『ハイツ・エコー』がある河原町まで、国道4号線を南下して、一キロ足らずだった。国道の流れはスムーズである。  パトカーは、広瀬川にかかる宮沢橋が近付いたところで、国道を左に折れた。  この辺りはこの数年、新しいマンションが次々に建って、町の様相を一変している。  敷地を広くとった、昔からのゴム工場があった。 「この近所だと思うのですが」  ハンドルを持つ巡査は、パトカーのスピードを落とした。  新しいマンションが建ち並ぶ先に、在来の東北本線と、東北新幹線が並行して、走っている。  刑事は、たばこ屋のある十字路で、パトカーをとめた。  聞き込みには時間がかかるかもしれない。 「帰りは、バスか、タクシーを拾うから」  と、刑事はパトカーを帰し、人気のないたばこ屋の店先に立った。『ハイツ・エコー』は、すぐに分かった。たばこ屋から、徒歩二分ほどの場所だった。        *  賃貸と聞いたので、小規模かと思ったが、それは茶色いタイル貼りの六階建てで、2DKから3LDKの部屋が七十戸を越える、堂々たるマンションだった。  しかし、その割りには、内外ともに、静かだった。  23号室は、二階の階段に近かった。「村松俊昭・真理」と二人の名前が出ている。ドアチャイムを押しても、応答がなかった。そこで、刑事は隣室、22号室を訪ねた。 「村松さんなら、横浜へいらしてますよ」  と、隣室の主婦は、刑事の質問にこたえて言った。 「ご主人が横浜の本社へ出張されるので、奥さんも、ご一緒されたのですよ。ええ、村松さんの奥さんは、ご実家が横浜でしてね」  出かけたのは、十月二日の日曜日。たまたま、裏の駐車場で出会った隣室の主婦に対して、五日の水曜日には仙台へ帰ってくる、と、言い置いて行ったらしい。 「村松さんは、いつからこちらのマンションにお住まいですか」 「今年の四月に仙台へ転勤になられて、横浜から越してきたのですよ。ですから、ちょうど半年でしょうか」 「ご夫婦、二人暮らしですか」  刑事は、村松夫婦の年齢とか、家族構成を訊《き》いた。 「お二人とも、三十前後だと思います。はい、お子さんはいらっしゃいません。ご主人と奥さんのお二人だけです」  主婦の声が低くなっていた。隣室のこととあって、こたえにくいのだろうが、元々が、口の堅いタイプのようであった。  だが、刑事は、これで引き下がるわけにはいかない。  次に、質問は、村松夫婦の風貌へと移っていった。  上野西署の捜査本部からは、殺された女性の顔写真がファクシミリで送られてきており、刑事はコピーを所持している。  村松夫婦が仙台に不在であるというのは、どちらも、犯行時間に上野公園に現われる可能性があることを、意味していよう。 「これを見ていただきたいのですが」  刑事はコピーを差し出した。おとなしそうな主婦がびっくりするといけないので、もちろん、死者を撮影した写真とは言わなかった。  主婦は写真を一べつし、 「これが?」  どうしたのかといった目で、刑事を見た。  写真の女は、両目を閉じている。ファクシミリで送られてきたものなので、もうひとつ鮮明さも欠いている。  主婦は、写真を手にしたものの、それがだれか、識別はできないようだった。  刑事は、直接的なヒントを出した。 「村松さんの奥さんに、似ているとは思いませんか」 「お隣さん、どうかされたのですか」  主婦はそんなふうにことばを返してきたが、刑事の質問に対しては、肯定も否定もしなかった。  しかし、村松の妻が、人目に立つロングヘアで、化粧が派手であったことは、認めた。万事に派手好みの美人で、小柄だったという。 「ロングヘアで、小柄?」  刑事は口元を引き締めた。死者は髪が長かった。そして、一メートル五十四という小柄な背丈である。 「ご主人はどうでしょう?」  と、刑事が村松の体型を尋ねると、 「旦那さんは背が高いですよ」  主婦は小声ながらも、はっきりと言った。 「長身のご主人に、小柄な奥さんですか」  刑事のつぶやきは、自分自身に向けられたものだった。  仙台の刑事は、上野の刑事とは異なり、ストレートに殺人《ころし》の犯人《ほし》を追っているわけではない。だが、これが偶然の一致だろうか、と、そうした不審が、胸の奥を過《よぎ》っていた。  身長という外観のみから言えば、村松俊昭、真理《まり》夫婦は、不忍池の柳の陰にたたずんでいた男女と、ぴたり同じではないか。  もしも同一人であるなら、夫婦の間には、殺人事件を招来するような、暗雲が漂っていたということだろうか。  これは、思いもかけない、大事な聞き込みになってきた。  夫婦の間に、決定的な対立があったのなら、隣人が気付かぬはずはあるまい。 「村松さんところの、夫婦仲はどうでしたか」  刑事は質問の角度を変えた。 「どうと言われても」  おとなしそうな主婦は、視線を避けた。  玄関先の立ち話に、短い沈黙が生じた。  刑事が、さらに質問をつづけようとすると、リビングルームにいた亭主が立ってきて、 「刑事さん、それは、管理人さんに聞いてください」  と、助け船を出した。  半年前の転居以来、村松夫婦の間には、トラブルが何度かあり、その度に管理人が仲に入って、諍《いさか》いを収めてきたというのである。 「トラブルが何度かあったんですって?」  刑事の顔色が変わった。  刑事は夫婦に礼を言うと、小走りに階段を下りた。        * 「一言で言えば、三角関係ですね。いや、夫婦それぞれに好《い》い人がいるのだから、ありゃ、四角関係っていうのかな」  専従の管理人は、五十歳前後という感じだった。中肉だが、肩幅の広い男だった。  この管理人が休みをとったりしたときに、同一経営の、たとえば『中阪ビル』に詰めていた守衛が派遣されてくるらしい。 「お互いに好きな相手がいるのだから、別れて一緒になればよさそうなものだけど、簡単にはいかない事情ってものがあるんでしょうな」 「村松さんが、横浜本社から仙台支社へ転勤になったのは、今年の四月でしたね」 「半年前に、うちのマンションへ引っ越してきたときから、二人の仲は険悪でしたよ」  名ばかりの夫婦ってやつらしい。 「最近になって聞いた話では、村松さんと奥さんは、生活をやり直すために、だれも知人がいない東北への転勤を希望したということです。でも、仙台は、いまじゃ上野から二時間ですからね」  管理人は、ほとほと閉口という顔をした。刑事の質問に対して、住居人の、いわばプライバシーともいうべき内容を、気安く口にしたのも、度重なる迷惑が前提になっていた。 「愛人って言うんですかね、ご主人の彼女、奥さんの彼氏が、それぞれ仙台までデートにやってくるって話だから、ただごとじゃありません」 「トラブルというのは、そのことですか」 「しょっちゅう、けんかが絶えない夫婦でしたが、あまりすさまじいときは、同じ二階の人たちから苦情がきましてねえ」  それで管理人が飛んでいったわけだ。諍いがエスカレートしたときは、決まって、夫婦どちらかの密会に原因があったという。 「両方で好き勝手なことをしているんだから、あれじゃ、不倫なんてものじゃないですよ。都会には、あんな夫婦が結構いるんですかねえ」 「奥さんの真理さんは、派手好みだったそうですね」 「あの奥さんは、いいとこの娘さんらしいですよ。結婚前はご主人と同じ会社に勤めていて、社長秘書をしていたってことです」 「良家の出で、才媛《さいえん》の奥さんですか」 「小柄だが、きれいな人ですよ。社長の秘書をしていただけあって、確かに頭は切れるし、細かく神経も回る。でも気の強い女性でね、何かというと、ヒステリックな声を張り上げていました」 「そうした奥さんとやり合うようでは、ご主人の村松さんも気性の激しいタイプですか」 「旦那も、旦那でしょ。見た目には、物静かなハンサムだけど、奥さん以外に愛人がいるわけですからね」 「それでも離婚しない。夫婦ってのは分からんものですな」 「時間の問題で、必ず何かが起こる夫婦だと思っていましたよ。刑事さんが、こうして調べてるなんて、一体、何があったのですか」  管理人は、刑事の質問が一段落すると、急に、興味をあらわにした顔になった。        *  あて名だけがワープロで印刷された郵便はがき。  刺殺された女性のポシェットの中から発見された一枚のはがきが、冷え切った夫婦関係をつづける、三十五歳の夫と、三十二歳の妻を、表面に引きずり出した。  池畔で目撃された男女と、体型がそっくりな夫婦。  果たして、被害者が村松真理三十二歳であり、夜の底へ逃亡した殺人犯が、村松俊昭三十五歳なのであろうか。  村松夫婦の年齢と同時に、村松が出張中という『浅野機器』横浜本社の所在地、電話番号などは、仙台東署の刑事が『ハイツ・エコー』で確認した。  こうした聞き込みの結果は、この夜のうちに、東京へ連絡された。        *  翌十月四日、火曜日。  上野西署の捜査本部は、早朝から慌《あわ》ただしい空気に包まれた。夫による、妻殺し。険悪な夫婦関係のつづいていたのが事実なら、 「単純なパターンだが、事件《やま》は、仙台居住の村松夫婦で決まりかな」  と、捜査本部長である署長は、刑事課長に話しかけていた。  刑事たちが、次々と出勤してくる。  朝の捜査会議の席上では、当然、死者と村松真理の対比が、最優先議題となる。そして、村松俊昭は、重要参考人として、事情を訊かれることになるだろう。  幸いなことに、前夜の雨雲は小雨を降らせただけで海上に去り、東京地方は、さわやかな快晴に恵まれていた。 「聞き込みには、持ってこいの日和《ひより》だぞ」 「村松真理の実家は、横浜ですか。浅野機器に問い合わせれば、真理の旧姓と実家の住所はすぐに分かりますね」 「横浜へ出張したのなら、実家には連絡があるのが普通だな」  清水部長刑事と若手刑事は、捜査会議を前にして、そんな会話を交わした。  刑事部屋は二階であり、鉄格子のはまった窓のすぐ先が、高速1号上野線だった。高速道路の向こう側が、上野駅の在来線列車ホーム。  そして、そのずっと左手奥が、上野公園の不忍池となる。  昨夜の事件は、記者発表が遅かったので、朝刊には間に合わなかった。しかし、テレビは、二局が今朝のニュースで報じ、そのうち一局は、はがきの線で関係者として「村松俊昭」の名前を出した。  刑事課に外線電話が入ったのは、テレビニュースが終わって、間もなくである。三階の捜査本部へ向かうために、刑事たちが、机を立ち始めたときだった。  電話は、清水部長刑事がとった。 「何?」  部長刑事は、日頃の彼らしくもない甲《かん》高い声で、交換手に聞き返していた。 「先方は、間違いなく、村松俊昭と名乗っているのだね。よし、つないでくれ」  その一声で、部屋を出ようとした刑事たちが、一斉に立ちどまった。  部長刑事は受話器を持ち直した。 「もしもし」  相手は、改めて自分を名乗った。聞き取り易いはっきりした口調だった。 「ぼくはいま、横浜駅近くのビジネスホテルに逗留《とうりゆう》しているのですが」  と、村松俊昭は言った。  朝食をとるために、一階のレストランに寄ろうとすると、ロビーでマネージャーに呼びとめられた、と村松はつづけた。  マネージャーは、朝のテレビニュースを見たところだった。ニュースの伝える「村松俊昭」が、常連客と同じ名前と知って注進したというわけだ。 「同名だなんて、ぼくも、何か気味が悪いので、こうしてお電話したのですが」 「横浜のホテルにおられるというと、あなたは浅野機器仙台支社で、営業部の課長をしている村松さんですな」 「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。テレビのニュースで報道したのは、このぼくのことですか」  電話を伝わってくる声が、びっくりしたものに変わった。  しかし、驚愕が事実であるのか、演技なのか、ベテランの清水にも、声だけでは判別できない。 「刑事さん、殺人事件に、どうしてぼくの名前が出てきたのですか」 「詳しいことは、直接お会いして、伺《うかが》いたいと思いますが」 「必要とあれば、ぼくの方から出向きますよ。でも、どういうことですか」  村松は早口で繰り返した。  すべてを知悉《ちしつ》していて、自分の方から電話をかけてきたのであれば、�無実�を主張する工作が完備しており、その工作に相当な自信を持っていることになろうか。  いずれにしても村松は、逃げたり隠れたりする感じではなかった。 「村松さん、あなたが仙台のマンションを出たのは、おとついの日曜日でしたね」 「そんなことまで、調査済みですか」 「横浜へは、奥さんと一緒に向かわれたそうですな」 「確かに、途中までは同行しました」 「途中まで? 奥さんは同じホテルにお泊まりではないのですか」 「とんでもない!」  電話の声が、ふいに変わった。仙台東署の刑事が、『ハイツ・エコー』で聞き込んだ通りだった。夫婦の仲は、何とも、とげとげしい感じである。 「女房とは、新幹線を降りたところで、上野駅で別れましたよ」 「奥さんの実家は横浜でしょ。奥さんは実家へ滞在する予定になっていたのですか」 「彼女がどこに泊まるか、そんなことまでぼくは知りません。ぼくの本社出張が終える明日、仙台へ戻ることにはなっていましたがね」  村松はそう言いかけて、 「刑事さん」  また口調を変えた。 「上野公園で死んでいたという女性が、家内の真理なのですか」  ふと気付いた、というような問いかけだが、これまた計算しての質問なのか、そうでないのか、表情を直接確認できない電話では、何とも言えなかった。 「刑事さん、真理が殺された。それで、ぼくの名前が出てきた。そういうことですね」 「恐縮ですが、こちらの、捜査本部へ、ご足労願えますな」 「分かりました。これから関内《かんない》の本社へ顔を出します。朝の打ち合わせが終ったら、上司の許可をとって、すぐに上野へ伺います」 「今夜はもう一晩、横浜駅近くの、そのホテルにお泊まりですか」 「はい、ここは岡野ホテルです」  村松は自分の方から、ビジネスホテルの名前と電話番号を言った。営業課長らしい、回転の速さだった。  清水部長刑事は、ついでに、真理の実家の住所と電話番号を聞き出し、 「それでは、なるべく早いお出でをお待ちしますよ」  と、念を押した。 「横浜の関内から上野までは、JRで一時間足らずです。遅くとも、十時半にはお訪ねできると思います」  村松はそう言って、電話を切った。  清水部長刑事は、電話の経緯を署長に報告し、それから、真理の横浜の実家のダイヤルを回した。        *  真理の旧姓は高峰《たかみね》。実家の住所は、横浜市港北区篠原町。電話をかける部長刑事の背後からメモをのぞき込んだ刑事課長が、 「部長刑事《ちようさん》、これは高級住宅地だよ。東京で言えば、田園調布や成城に匹敵するんじゃないかな」  と、言った。  高峰家の電話は、なかなか出なかった。 (実家の方に、何か異変の知らせが入ったのだろうか)  部長刑事の胸に不審が広がり始めたとき、 「お待たせしました」  ようやく返事があった。中年と覚しき、品のいい女性の声だった。 「村松真理さんのお母様ですか」  部長刑事は先方を確認し、自分の立場を説明した。 「刑事さん? 警察の方が何のご用でしょうか」  母親の声は落ち着いていた。高峰家では異変に気付いていないようだし、さっきのテレビニュースも見てはいないらしい。  部長刑事は、背後の刑事課長をちらっと振り返ってから、受話器を握り締めた。 「もしもし、真理さんは仙台から上京されているのですが、どこへ泊まっているか、お母様の方に、連絡がありましたか」 「は?」  母親は、質問の意味が分からないというような小声になり、しばらくの間を置いてから、こたえた。 「あの子がどうかしたのですか。真理なら、いま家におりますけど」 「家にいる?」  本当ですか! と、言いかけて、部長刑事は語尾を飲み込んだ。  真理は、横浜の実家に泊まっているけれど、昨夜外出から帰るのが遅かったので、今朝はまだ眠っているという。  村松真理は生きているのか。では、池畔で刺殺された女はだれだろう?        *  それから一時間半が過ぎる頃、上野西署の刑事の一人は横浜に来ていた。 『村松真理が生存しているのなら、しかと確認をとっておく必要があるぞ。直接彼女に面接して、問題の夫婦生活がどうこじれているか、聞き出しておくのも無駄ではあるまい』  署長は、朝の捜査会議の冒頭で、それを言った。  命を受けて会議を抜け出したのは、三十過ぎの小太りの刑事だった。本来なら、清水部長刑事が適任だが、清水は捜査本部で、村松俊昭の来署を待たなければならない。  派遣された小太りの刑事は、横浜駅でJRを東急東横線に乗り換え、区分地図帳で確かめながら、妙蓮寺《みようれんじ》駅で降りた。  駅を出ると、ここにも池があった。  落ち着いた住宅地の中にあるそれは、菊名池《きくないけ》という名前だった。静かな水面には、秋の穏やかな日が差している。  池の傍《そば》にある電話ボックスから高峰家へかけると、今度は当の真理が、じかに電話に出た。 「何が起こったのですか。本当に、あたしに関係することですか」  はきはきとした声が返ってきた。  真理は簡潔に、菊名池から実家への道順を教えてくれた。小太りの刑事は、指示された通りに小さい商店街を抜け、坂道を上がって行った。  それは、大きい寺院の先にある高台だった。高台を向こう側へ下ると、道は新横浜駅へ通じている。  高峰家は、広い敷地を持つ和風の二階家で、十月の日に映える瓦屋根が、いかにも重厚な感じだった。  門扉も、がっしりとして大きい。  インターホンに出たのは、お手伝いだった。  その中年のお手伝いが門扉を開け、敷石を踏んで刑事を奥へ案内した。  通された応接室は、玄関脇の洋間だった。たっぷりしたソファに腰を下ろすと、きれいな、芝生の庭が見える。  建坪が広いせいか、住んでいる人が少ないためか、邸内はひっそりしている。  間もなく、屋敷内の静寂を破るような、活発なスリッパの音が、中廊下に聞こえてきた。  真理だった。 「お待たせしました」  電話と同じてきぱきした口調だった。  刑事と向かい合ったソファに身を沈める真理は、背中を覆うほどのロングヘアだった。確かに、殺された女と似ている。が、似てはいるが、真理の方が、少し肉付きがいい感じであり、赤いセーターに黒いタイトスカートが、人妻の色気を漂わせている。  真理は間違いなく生きていた。  刑事が昨夜の事件を、当たり障りのないていどに説明し終えたとき、中年のお手伝いがコーヒーを淹《い》れてきた。  コーヒーをテーブルに載せたお手伝いが、一礼して応接間を出て行くと、真理は形のいい脚を組んだ。 「村松あてのはがきを持っていたのなら、殺されたのは、あの女ではないでしょうか」 「あの女?」 「あたしと似た体型だけど、やせているとおっしゃいましたわね。そう、きっとあの女よ」  真理はコーヒーカップを引き寄せた。「あの女」という言い方に刺《とげ》があった。真理は美人で、頭も切れそうだが、確かに、気が強い性格のようである。 「はがきのあて先は、浅野機器の仙台支社でしたわね。あの女は、村松への連絡を、支社あてにしていたのね」 「奥さんは、殺されていた女性が、失礼ですが、ご主人の愛人ではないか、と、考えているわけですね」 「あたしたち夫婦のことは、もちろん、もう調べがついているのでしょ?」 「仙台東署の刑事が、昨夜、ハイツ・エコーに立ち寄りました」 「横浜を離れた場所で、やり直したい気持ちが、少しはあったのだけど、結局は駄目ね。あたしたち夫婦って、仙台へ移った半年前よりも、もっと悪くなってしまいましたもの」 「しかし今回、ご主人の出張に合わせて、同じ東北新幹線で、上京してきたわけでしょう。明日は、お互いに仙台へ戻られるのではないですか」 「だらだらした関係に、きっぱり、ケリをつけようと思ったのです。それで、その話し合いに、村松の方の出張を合わせてもらったのです」 「談合といっても、そうすぐに、結論が出る性質のものではないでしょう」 「話し合いは、今夜、横浜で開かれる予定でした。ええ、あの女にも同席してもらうつもりでした。でも、ゆうべ殺されたのが、あの女なら、もうその必要もありませんわね」  真理はコーヒーを飲んだ。コーヒーを飲む横顔は、冷めたものだった。  夫婦はお互いに愛人を持っている。その話が事実なら、別れるのが、当然だろう。何が、離婚の障害となっているのか。  刑事は、真理の機嫌を窺《うかが》いながら、それを訊いた。  しかし、刑事が、質問に神経を使ったのは、杞憂《きゆう》に過ぎなかった。真理は、何のためらいも見せずにこたえていた。 「あたしが、貧しい家の娘なら、村松はさっさと別れていたでしょう。いえ、プロポーズなどしてこなかったでしょう」 「ご主人の村松さんは、奥さんのご実家の、財産が目当てだと言われるのですか」 「あたしは一人娘です。父は、現在では実業界の第一線から身を引いておりますけど、出資している会社は、まだ少なくありませんのよ。浅野機器も、その一社です」 「なるほど。奥さんが浅野機器で社長秘書をなさっていたのは、そうしたご縁からですか」 「あれは、あたしの父が、父なりに考える花嫁修業として、あたしを就職させたのでした」  花嫁修業の結果がオフィスラブで、村松と結ばれたということになるのだろうが、 「村松があたしにアタックしてきたのは、最初から意図的だったのですわ」  と、真理は繰り返した。  夫婦は結婚して三年になるが、村松と�あの女�との関係は、結婚前からずっと持続されていたというのである。 「あたしは、財産を乗っ取ろうとする男に欺《だま》されたのです」  だから自分も別の男と親しくなった、と、真理は言いた気だった。  村松の生い立ちは、かなり貧しいらしい。村松は山梨県の出身だが、高校時代からバイトをつづけ、苦学して、東京の大学を卒業した男だった。  真理の父親は、村松の苦労と努力を見込んだが、 「村松が完全な二重人格者であるのは、三年間一緒に暮らしてきたあたしが、だれよりもよく承知しています」  真理は次第に激昂《げつこう》した口調になり、 「刑事さん、ゆうべ殺された人が、あの女なら、犯人は村松でしょう。村松に間違いないと思います」  と、ことばに力を込めた。  夫婦の間に、憎悪しか存在しないことを、その一言が、はっきりと示していた。真理は、夫を犯人と断定する根拠として、 「村松は、今度の話し合いを前にして、あの女からしつこく結婚を迫られていたのですわ」  と、目的が、飽《あ》くまでも、高峰家の財産乗っ取りにあることを指摘した。村松は愛人と高峰家の財産を天秤《てんびん》にかけて、愛人の方を切り捨てたというのである。  愛人を含めての談合を迎えてしまえば、どのような事態が出来《しゆつたい》するか分からない。だから、今夜に予定された話し合いが殺人のタイムリミットとなり、昨夜の決断となったのに違いない、と、真理は言うのだった。 「村松があの女の要求を飲むためには、あたしと正式に離婚しなければなりません。村松に、そんなこと、できるわけがありませんわ」  真理は一気に説明して、コーヒーを飲み干した。  そして、コーヒーカップをテーブルに戻してから、こう言い足した。 「夫が殺人犯と判明し、殺人の動機が、妻の実家の財産乗っ取りであるとすれば、これは立派に、離婚の理由となりますわね」  一瞬、刑事は返すことばを持たなかった。 「恐しいことですわ。こうなったら、離婚は当然ですよね。この次には、あたしの両親とか、あたしの命が狙われるかもしれません」  真理は一方的に、そんなふうにつづけた。話しているうちに、勝手に高ぶってくる性格のようだった。  しかし、真理の発言の裏付けがきちんと取れれば、村松俊昭は、捜査の表面にクローズアップされてくるだろう。  刑事もコーヒーを飲んだ。  コーヒーを飲み終えてから、庭の芝生に目を向けて、尋ねた。 「奥さんは、ご主人の相手という女性に、何度か会っておられるようですな」 「何度なんてものではありません。よく知っています」 「談合は、これまでにも頻繁に開かれていたわけですか」 「いえ、これまでの話し合いは二回だけですが、あの女、二年前まで、浅野機器の経理で働いていましたの」 「同僚でしたか」  それでは、承知しているもいいところだ。嫉妬とか憎悪の度合の深さにも、特殊なものがあるだろう。  宮本淑子《みやもとよしこ》、二十九歳。  驚いたことに、この淑子もまた人妻だった。二年前に『浅野機器』を退職して結婚、宮本姓に変わったのだが、横浜市郊外の農家の娘だという。 「村松があたしを選んだので、あの女はそれから一年経って、お見合いで結婚したのよ。でも、村松もあの女も、ずっと、男と女の関係をつづけていたのですからね、許せないわ」  真理は、自分のことは棚に上げて、声を震わせた。  淑子が、二年前に見合い結婚した相手、宮本|信夫《のぶお》は、今年三十一歳。宮本だけは、『浅野機器』の関係者ではなかった。  宮本は鳥取県の出身だった。鳥取市に本社がある『日東カー用品』という自動車用品を販売する会社に就職。五年ほど前から横浜支店に配属されて、販売課の主任をしているという。 「宮本さんと淑子さんは、どこで所帯を持っているのですか」 「鶴見《つるみ》の、松見というアパートですわ」 「淑子さんと見合いで結ばれた宮本さんという人は、淑子さんと村松さんの関係を知らなかったわけですね」 「宮本さんが、あの女と村松の過去を承知していたかどうか、それは、あたしには分かりません。でも、少なくとも現在は、何も彼も明るみに出ています」  この問題でこれまでにも二度、夫婦は四人で話し合っているわけである。今夜に予定されていた談合にも、宮本は同席することになっていたという。真理が、宮本夫婦のアパートを知っているのは、そのためだった。 「ある意味では、あの女のご主人もだらしがないのよね」  勝手な発言をつづける真理は、そんな言い方さえした。  では、真理自身の相手はだれなのか。村松と離婚して、その男と再婚するつもりなのだろうか。  刑事が、遠回しに、それを口にしかけると、真理は乱暴に脚を組み換え、 「あたしの、そうした個人的な問題が、殺人事件の捜査と関係ありますの?」  ぴしゃりと刑事の質問を遮《さえぎ》った。 「上野公園で殺されていたのが、あの女なら、犯人は、村松に間違いないと思います」  真理は執拗《しつよう》にそれを繰り返し、 「こうしたことで高峰の家に泥を塗られるなんて、あたし、父に合わせる顔がありませんわ」  真理は、もういいでしょうというように刑事の顔を見、ソファから腰を上げた。        *  その頃、焦点の村松俊昭は、上野西署を訪ねていた。  清水部長刑事は、三階の捜査本部ではなく、一階警務課の片隅で、村松と会った。新聞記者の注意をそらすためだった。ベテラン部長刑事は、事件とは無関係な雑談でもしている態度で、簡単に事情を聞き、 「早速ですが、まず、ホトケさんを確認していただきましょうか」  と、署内に出入りする新聞記者たちの目を警戒しながら、村松をうながした。  並んで歩くと、村松の方がずっと背が高かった。一メートル八十を超える長身は、目撃者たちの証言に合致する。  ただ、村松は、眼鏡をかけていない。もっとも、眼鏡をかけていたか、いなかったか、この点は証言も二つに分かれているところだし、普段眼鏡を使用していない男が、犯行時に、変装用の眼鏡をかけることは当然可能だ。 (この男、確かに、外観は犯人《ほし》の条件をそろえているな)  部長刑事は、そんな目で、長身の村松を見上げた。  紺のスーツを着た村松は典型的なサラリーマンタイプで、一見、物静かなハンサムだった。  中廊下を通って、署の裏庭へ抜けると、やわらかい日だまりにジープが待っていた。運転席には、若い刑事が乗っている。  部長刑事は、村松を幌付きのジープに先導し、 「やってくれ」  と、若い刑事に命じた。  行先は、東京都監察医務院だった。  全国唯一の監察医務院は、上野から不忍通りを直進し、地下鉄|新大塚《しんおおつか》駅の手前にあった。一日平均二十体を検視する監察医務院である。  大塚の木立ちに囲まれた建物が近付くにつれて、村松の横顔に緊張が重なるのを、部長刑事は見た。  ジープを降りて、死体安置所へ入るまで、二人は全くの無言だった。  この時点では、まだ、横浜へ行った小太りの刑事からの報告は入っていない。 (真理が生きていたとすると、池畔で刺殺された女はだれなのか)  その見当が、まだ部長刑事にはついていない。  村松とはもちろん内容が異なるけれど、部長刑事もまた、微妙な緊張の中で、死者の前に立った。  監察医務院の係員が、死者の顔から白布を外した。 「え?」  村松の長身が、よろけた。  次の一瞬、両足を踏ん張ると、 「淑子!」  村松は乾いた声で叫んだが、部長刑事が同行していることに気付いて、慌《あわ》てて言い直した。 「宮本淑子さんです。間違いなく宮本さんです。しかし、なぜ彼女が?」  と、言いかけて絶句した。  驚愕の表情は、演技という感じではなかった。  横浜の高峰家の応接間で、村松の妻の真理は、刑事の質問にこたえて、 『村松あてのはがきを持っていたのなら、殺されたのは、あの女ではないでしょうか』  と口走ったが、それがいま、村松によって、直接確認されたわけである。        *  東京都監察医務院からの帰途、池之端《いけのはた》の東天紅の手前で、清水部長刑事と村松はジープを降りた。  不忍池に足を向け、池の中の島を通って、反対側に出た。 「昨夜の犯行現場はここです」  部長刑事が、村松の顔色を窺《うかが》うようにして池畔の柳の下で足をとめると、 「淑子を、いえ、淑子さんを殺したのは、家内の真理ではないでしょうか」  村松は、淑子と自分とのこれまでの関係を、はっきりと認めた上で言った。  冷戦がつづく夫婦は、なぜ、お互いが、お互いを犯人視するのだろうか。しかし、何があろうと、真理が実行犯ということだけは、有り得ない。  大都会の夜の底へ紛れ込んで行ったのは、長身の男性なのである。  背の高い男。これははっきりしている。犯人は、決して小柄な女性ではない。  部長刑事がその点を説明すると、 「刑事さんは、それでさっきから、じろじろとぼくを見ていたのですか」  と、村松は言った。  村松は上野西署へ一歩足を踏み入れたときから、こちこちに堅くなっていたが、注視されていることには、気付いていたのだろう。  が、村松は、部長刑事の新しい説明を聞いても、主張を改めなかった。 「犯人は、やはり真理だと思います。動機の点から考えても、真理なら、ぴたり当てはまります」 「動機は、夫の愛情を奪った女に対する憎しみですか」 「それもあります。もちろんそれもあるでしょうが、本当の眼目は、ぼくを殺人犯に陥《おとしい》れることだったのだと思います」  村松は、大きく垂れ下がる柳の枝に手を伸ばした。  蓮が密生する池には、昼前の、鈍い日が落ちている。 「真理は一日も早く、離婚届に判を押させたかったのです。ぼくが殺人犯なんてことになれば、これはもう、否応なしに離婚に追い込まれるでしょう」 「率直にお尋ねします、奥さんにも愛人がいるそうですな」 「こういう言い方は何ですが、ぼくの場合は、オフィスラブが尾を引いた結果の、浮気です。淑子さんは人妻なのですよ。結婚している同士が、一緒になれるわけはありません。しかし、真理の相手は独身です。真理はぼくを追い出して、その男と結婚しようと本気で考えているのです」 「でも、そのために殺人までするなんて」 「真理は、気の強い女です。彼女は心底から淑子さんを憎悪していました。でも、真理自身に愛人がいるので、夫の背信を正面切って衝《つ》くことができない」  そこで、憎悪の対象である淑子を刺殺し、自分を犯人に仕立てようとしたのに違いない、と、村松は強調するのである。 「刑事さん、一石二鳥ということばがありますね」 「しかしですな、警察は、あなたの心情だけで動くわけにはいかない」 「心情だけ? 刑事さん何を言ってるのですか」  村松は、刑事が仙台の『ハイツ・エコー』を訪ねたのは、明確な手がかりがあってのことではなかったのか、と、死者のポシェットの中から発見された郵便はがきを問題とした。 「ぼくの名前が早々と表面に出てきたのは、そのはがきのためでしょう。それこそ、最初からぼくに疑惑の目を向けさせるための、真理の工作に違いありません」 「なるほど。そう言われてみれば、そういう見方もあるかもしれませんな」  部長刑事は両腕を組み、池の中の朱塗りの弁天堂に目を向けた。  その部長刑事をのぞき込んで、 「こうなってみると、ぼくが犯人に仕立てられようとしている根拠は、もう一つあります」  村松は吐息するようにつづけた。 「刑事さん、犯行時間は、昨日の午後六時五分頃だと言いましたね」 「ええ、これは複数の目撃者の証言からいっても、間違いのないところです」 「その時間、ぼくには、アリバイというものが成立しないかもしれないのです」 「アリバイがない?」 「もちろん、ぼくは犯人ではありません。ただ、それをだれが証明してくれるかというと、だれもいないのです」  真犯人、すなわち妻の真理によって、意図的にアリバイを消されたのだ、と、村松は、さらに大きく吐息した。  村松は、横浜市西区南幸の『岡野ホテル』に、十月二日、三日、四日と投宿することになっていた。予約が取れると同時に、淑子にも、事前にその旨を伝えて置いた。 「二日の日曜日、岡野ホテルにチェックインすると、淑子さんからのメッセージが届いていました。ええ、フロントに電話が入っていたのです」 「それが、あなたの言うアリバイを消されたことと、どうかかわってくるのですか」 「伝言は、デートの約束でした。三日の月曜日、そう、昨日ですね、昨日の退社後会いたいという内容で、時間と場所が指定してありました」  それは、午後五時三十分に、横浜駅西口にあるデパート高島屋一階の噴水付近で待つというものだった。 「無論、あなたは指定された通りに、高島屋へ行かれたわけですね」 「はい。午後五時の終業時間を待って、すぐに会社を出ました。関内駅から地下鉄を利用して、約束の時間よりやや遅れて、噴水前の広場に到着しました」  しかし、いくら待っても、淑子はやってこなかった。現われないのが当然だ。昨日のその時間帯、淑子は上野にいたのだから。 「ぼくは、六時半まで待ちました」 「ほう、そんなに長いこと、来るはずもない淑子さんを待っていたのですか」 「刑事さん、ぼくがそうして過ごしていたのは、正に、淑子さんが刺殺されていた犯行時間でしょ。ぼくが警察にマークされ、この事実を主張しても、だれが、ぼくがそこにいたことを証明してくれるというのですか」  人妻とのデート。いわば不倫の媾曳《あいびき》だ。村松は人目を避けるようにして、たばこ売場の陰にたたずんでいたというのである。  意識的に自分の存在を隠していたのだから、夕方の、混雑したデパートにいたことの裏付けは、まず取れないだろう。村松は、自分が不利な立場に置かれていることを繰り返し、 「岡野ホテルに届いていたメッセージは、偽物に決まっています。電話をかけてきた女性は、淑子さんではなく、真理に間違いありません」  と、ことばに力を込めた。  村松がチェックインする前に、女性からの電話でメッセージが入っていたのは、事実だろう。  しかし、もちろん真理は、電話などかけてはいない、と、否定するだろう。いまとなっては、水掛け論だ。  と、いうことは、その電話は、実は村松がだれかを使ってかけさせた、村松自身の工作という可能性も考えられるのではないか。  死者が淑子と判明したときの村松の驚愕。あれは決して演技ではない。ベテラン部長刑事は、そう感じているのだが、驚愕の内容が、部長刑事が受けとめたものとは異なっていたとしたら、どうなるのか。 「高島屋で一時間余り待っても、彼女は現われない。あなたは自分から、電話をかけるなどして、彼女に連絡をとろうとはしなかったのですか」 「午後六時半といえば、ご亭主が、そろそろ帰宅している時間ですよ。ぼくの方から、アパートへ、電話などかけられるわけはないでしょう」 「今日はどうですか。ご主人の出勤後を見計らって、電話を入れようとはしなかったのですか」 「それは、しませんでした。淑子さんも、近くのコンビニエンスストアに勤めていますし、実は今夜、ぼくたち夫婦は、淑子さん夫婦と、四人で話し合うことになっていましたので」  と、村松の口にしたのが、(横浜へ出向いた小太りな刑事が、高峰家の応接間で真理から説明された)談合のことだった。 「刑事さん、今夜の話し合いは、真理が強く主張した結果ですが、すべてが、ぼくを殺人犯に仕立てるための、計画的なものだったのではないでしょうか」  村松の声が高ぶってきた。 「真理は、ぼくを陥れようとしているのです。真犯人は、絶対に真理です。真理に間違いありません!」 「しかしですな」  部長刑事は、組んでいた両腕を解いた。村松が繰り返す、真理犯人説の動機は、一応の説得力を持っている。だが、動機が、いかに説得性を備えていようとも、小柄な女性である真理が、真犯人ということは、それこそ絶対に有り得ないのだ。  部長刑事が、もう一度それを口にしようとすると、 「ぼくと同じように、背の高い男を連れてくればいいんでしょ」  村松は先回りをして言った。 「いますよ。若い恋人たちに目撃された通りの、長身の男がいます。しかも、この男は、薄い色付きの、キザな眼鏡をかけています」  吐き捨てるような口調だった。言われるまでもなく、その男が、真理の愛人であることを暗示している。 「真犯人である真理に命じられて、あの男が動いたに違いありません。あの男なら、淑子さんも、もう一つ警戒心を欠いていたでしょうからね」 「顔見知り、とでもいうのですか」 「ええ、そうですよ。浅野機器の社長の長男でしてね、常務のポストを与えられている男です」  村松の口調が、一層いまいましいものに変わっていた。  2章 �目撃�の背景 「常務は、手塚久之《てづかひさゆき》っていう男です」  村松俊昭は、上司の名前を、憎しみを込めて呼び捨てにした。 「手塚はぼくより二つ年下の三十三歳。独身でしてね、女たらしの、典型的なプレイボーイです」  と、村松はつづけるのだが、これは、言ってみれば、女房を寝取られた男のことばだけに、割り引いて聞く必要があるだろう。  清水部長刑事は、その村松をうながして、池畔の殺人現場を離れた。 「そうですか」  部長刑事は、砂利道の柳の下を、京成上野《けいせいうえの》駅の方向に歩きながら、 「奥さんが親しくされている男性も、同じ会社の人でしたか」  と、いまや完全に焦点のひとつとなってきた、『浅野機器』について尋ねた。  それは資本金三千万円、従業員百人の同族会社だった。  本社は横浜市中区万代町にあり、工場は神奈川県下の藤沢。そして、支店を仙台、金沢、神戸、高松、長崎に置き、広い規模での営業活動をしていた。  事業内容は、病院、医院の調剤薬局を対象とした、設備機器等の企画製造販売である。 「我社《うち》は、クリーンルームという、手術用無菌室の分野で、大きく進出しておりましてね」  設立以来十二年で、急成長を遂げている会社、ということだった。  しかし、村松自身は、仕事への意欲を失いかけているようだった。こうしたトラブルがつづけば、仕事をする気がなくなるのは当然だ。 「ここで、帰ってもいいですか」  村松はJRのガード下まできたとき、うんざりしたような声で言った。 「そうですな。刑事課長にも会っていただきたいし、恐縮ですが、本署で、もう少し話を伺わせてください」  部長刑事は、飽くまでも下手に出た。  私生活が乱れ切っている男。そして、現場不在の証明が難しいことを、自ら打ち出してきた男ではあるが、村松は殺人事件の被疑者というわけではなかった。  二人は、さっきと同じように新聞記者を避けて裏門から、上野西署へ入った。        *  池畔で刺殺されたのは、宮本淑子、二十九歳と判明した。捜査本部長である署長も、刑事課長も、断定ということばは用いなかった。肉親による確認とか、指紋、血液型などの裏付けが、とれていなかったためである。  淑子の夫、宮本信夫に連絡したのは、本庁捜査一課から応援にきている中年の刑事だった。  横浜市鶴見区佃野町一三六 『松見アパート』5号室  それが、結婚二年になる宮本夫婦の住居だった。夫婦の間に、子供はいない。  アパートは、呼び出し音がつづいても、だれも電話に出なかった。  刑事は、宮本信夫の勤務先、横浜市西区戸部町にある、『日東カー用品』横浜支店にかけ直した。  ちょうど昼休みに入ったところで、宮本は近くの食堂へ出かけていた。  しかし、警察からの問い合わせということで、女子社員が、食堂まで駆け脚で呼びに行ってくれた。  待たされたのは、ほんの二分か三分だった。 「もしもし。東京の、上野西署の刑事さんですって?」  宮本も走り戻ってきたのだろう、息が弾んでいる。  刑事は、改めて、電話に出た宮本の氏名などを確かめ、 「奥さんは淑子さん、二十九歳ですね」  と、死者の容貌を説明して、問いかけた。 「はい、その通りですが、淑子がどうかしましたか」 「奥さんは、昨夜、アパートへ帰っていないのではないですか」 「え? ええ」 「あなたは、奥さんの外泊先を承知しているのですか」 「淑子が、何をしたのですか」  と、反問してくる宮本は、テレビのニュースを見ていなかった。  今更、遠回しな言い方をするような、細かい配慮は必要あるまい。刑事はそう考え、ずばり、昨夜の、不忍池の殺人を話題に乗せた。 「殺された? 女房の淑子が上野公園で殺されたというのですか」  電話を伝わってくる声が、さすがに高ぶってきた。淑子の無断外泊は、これまでにもあったのかもしれないが、殺人となると話は別だ。  淑子と村松との関係に、恐らく手をやいていたであろう宮本も、顔色を変えた、という感じだった。 「確かに、淑子は、今朝になってもアパートへ帰ってきてません。でも、どうして、殺された女性が淑子であると分かったのですか」 『浅野機器』を退社した淑子は、宮本と結婚して現在、京急鶴見《けいきゆうつるみ》駅近くのコンビニエンスストア『浜大』へ勤めている。しかし、これはバイトのようなもので、身分証明書などは交付されていないし、『松見アパート』から歩いていける距離だから、通勤定期券も所持していない。  なぜ、淑子の名前が割れたのか、宮本が疑問に感じるのも当然だろう。 「淑子は、横浜で生まれ育った人間です。東京へなど、滅多に行きません。本当に、淑子ですか」 「浅野機器仙台支社の、村松俊昭さんをご存じですね」 「彼ら夫婦とは、今夜、顔を合わせる予定です。場所は、最終的には決まっていませんが、午後六時に、とりあえず横浜駅西口東急ホテルのロビーで、落ち合うことになっています。淑子も同席する手筈《てはず》です」 「夫婦四人の、談合の件は聞いています」 「ほう? 村松がしゃべったのですか」 「その村松さんがですね」  と、刑事が、淑子の身元確認者が村松であることを告げると、 「何ですって? 村松が死体安置所へ出向いたというのですか。何であの男が、人を出し抜いたまねをしたのですか!」  宮本は怒り声に変わった。        *  宮本信夫が、上野西署へ姿を見せたのは、それから一時間半が過ぎるときだった。  死者の確認が先決である。  宮本は、何はともあれ、刑事の先導で、大塚の東京都監察医務院へ行った。 「淑子です。淑子に間違いありません。どうして、淑子がこんなことになったのですか!」  宮本は、淑子の愛人である村松俊昭と同じような反応で、刺殺されていたのが、妻の淑子であることを認めた。  そうして、うなだれて、上野西署の捜査本部へ戻ってきた宮本を見て、 (この亭主も、背が高いな)  と、つぶやいたのは、捜査本部の一隅で待機していた、清水部長刑事である。宮本は、確かに長身だった。一メートル八十二はあるだろう。  しかも、宮本は、メタルフレームの眼鏡をかけている。  愛人の村松同様、夫の宮本も、その高い背丈において、 (犯人《ほし》と成り得る資格を備えているって、ことか)  ベテラン部長刑事のつぶやきは、そんなふうにつづいた。  宮本から事情を聞いたのは、本庁捜査一課から応援にきている刑事だった。さっき、宮本に電話をかけた、中年の刑事である。  この刑事も、当然なことに、宮本を一目見たときから、その体型が犯人に共通することを感じ取っていた。 「どうぞ、おかけください」  刑事は窓際の机に宮本を案内し、いすを勧めながら、五人の登場人物を思った。これまでに、捜査員の警察手帳に名前を記された五人である。  宮本淑子、村松真理、村松俊昭、宮本信夫、そして、これから捜査員が訪ねることになっている男、村松真理の愛人であり、『浅野機器』常務の手塚久之。女性二人(淑子と真理)は、小柄でロングヘア。男性三人(村松、宮本、手塚)は、いずれも一メートル八十を超える長身。  それぞれの体型が似ているのは、偶然だろうか。刑事は、それを考えながら、宮本と斜めに向かい合う形で、いすを引いた。 「淑子!」  宮本は、突然両掌を握り締めた。 「刑事さん、淑子を地理不案内な東京へ呼び出して殺したのは、村松の女房ではないでしょうか。あの真理って女房なら、やり兼ねません」  宮本は、双方の夫婦四人で談合したときの模様を、刑事に伝えた。これまでに話し合われたのは二回。場所はいずれも、横浜市内のレストランであったが、二回とも真理は、テーブル越しに、淑子につかみかかろうとしたというのである。  談合は二回とも決裂。  二回目などは、 『何よ、ドロボー猫!』  真理は憎々し気に叫び、コップの水を淑子の顔面にかけ、レストランのボーイが、慌てて駆け付けてきたほどだったという。 「あの真理って女房は、育ちのいい美人ではありますけどね。男もたじたじになるほど、おっそろしく気の強い女です。どんなことがあっても、我《が》を通す性格です」 「三回目の話し合いが、今夜ですか」 「あの女房が強引に言ってきたので、そういうことになりました。しかし、何度繰り返したって、第三者の立ち会いがない限り、決裂は目に見えています」 「失礼ですが、あなたも当事者だ。あなた自身は、どう解決しようとしているのですか」 「ぼくはどうでもいいんです」  宮本は、一層力ないまなざしになった。 「どうでもいいというより、どうにもならないんです。村松夫婦から事情を聞かれたのなら、すべてご承知でしょうが、淑子は、ぼくと一緒になる前から、ずっと、村松とつづいていたのですよ。人間の心に、縄をかけて、こっちへ引き戻すことはできません」 「あなたとしては、淑子さんとの離婚を考えていた、ということですか」 「だれがどう悪いんだか知りませんがね」  と、宮本はやけ気味につづけた。 「ぼくは、最初から最後まで、裏切られていたってわけです」 「しかし、それにしてもですよ、あなたが考えるように、村松夫人が犯人だとしたら、三度目の話し合いをお膳立てしたことが、腑《ふ》に落ちません」 「ぼくは聞いていませんが、あるいは淑子が、昨日になって、夫婦同士の話し合いなど、いくら開いても意味がない、といった電話を、村松の女房にかけていたとしたら、どうなりますか」 「淑子さんも、気は強い方ですか」 「そりゃ、気が弱いということはないでしょう。二年間、夫を裏切りつづけてきた妻ですからね」 「するとあなたは、夫婦四人が顔を合わせる前に、奥さん同士が会って、決着を付けたと考えるのですね」 「淑子の方から村松の女房に連絡を取らなかったとしても、村松の女房自身が、談合の無意味に気付いたということも、あるかもしれませんね」 「今度も話はまとまらないだろう、ということですか」  しかし、と、刑事が、小柄な女性が刺殺犯人であるはずはない、と、(清水部長刑事が村松に対したのと同じように)告げると、宮本もまた、村松と同一のことばを返してきた。 「村松の女房の愛人を連れてくれば、事足りるでしょう。ぼくたちの結婚式に、淑子の方の職場の代表として出席したので覚えていますが、浅野機器の常務をしている色男は、背が高いですよ」        *  宮本は、妻を殺されて、確かに動揺している。  だが、動揺はあらわにしても、悲しみの表情が希薄であることを、中年の刑事は見抜いていた。  村松夫婦がそうであるように、宮本夫婦もまた、最後の最後の場へ追い詰められている。妻の突然の不幸を知らされても、涙を流す状況ではなかった、ということだろうか。  しかし今日まで、宮本は淑子を離縁しなかった。妻の自由を束縛することが、宮本なりの怒りの形だったのだろうか。  日本海に面した鳥取で生まれ育ったという宮本は、 「村松のやつ!」  と、憎しみを込めて口走るときでさえ、一種、純朴な面を感じさせた。  いま、宮本の心境も複雑だろう。  刑事は、しばしの沈黙のあとで、口調を改めた。 「奥さんが、昨日上野へきた心当たりは、本当に何もないわけですね」 「ありません。どうして、横浜から東京へきたのか、それは犯人に聞くしかありませんね」  宮本はメタルフレームの眼鏡を外し、ハンカチでレンズをふいた。眼鏡をとると、一層柔和な顔になった。 「奥さんが昨日アパートを出たのは、何時頃か、分かりますか」 「知りません」  宮本の話し方は投げやりだった。ことばの端々に、愛を欠いた夫婦の冷たさがにじんでいる。  しかし、宮本が淑子の外出時間を知らないのは、冷戦だけが原因ではなかった。 「ぼくは、鳥取本社へ出張していたのですよ」  と、宮本は、刑事の新しい質問にこたえて言った。 『日東カー用品』鳥取本社への出張は、九月二十九日木曜日から、十月一日の土曜日までだった。 「あなたは、仕事が終えても、すぐに横浜へ帰らなかったのですか。あ、そうか、あなたの実家は鳥取でしたね。ご両親の元へ寄られたのですな」 「はい、出張中の三日間は実家に泊まりましたが、二日の日曜日は違います」  京都府下に住む、高校時代の旧友を訪ねた、と、宮本は言った。  夫婦関係は好転するどころか、泥沼にはまっていくばかりだった。くさくさした宮本は、帰りに途中下車して、旧友宅に一泊。  昨日の月曜日は年休をとり、夕方、横浜へ帰ってきたという。旧友の住所は、京都府|船井《ふない》郡|園部《そのべ》町だった。 「ですから、昨夜、淑子がアパートに戻らなかったことは承知していますが、ぼくが出張中の、二十九日から二日までの行動は何も知りません」 「四日も留守にしていたのに、鳥取から横浜のアパートへ、電話一本入れなかったのですか」 「刑事さんの前ですが、ぼくと淑子は、もうそんな夫婦ではなかったのですよ」 「これは、念のために伺うのですが」  刑事は、宮本の体型が犯人に共通していることを意識し、犯行時間、昨十月三日の午後六時五分頃、宮本がどこにいたかを尋ねた。 「東海道新幹線に乗っていました。新横浜着が午後六時半頃でしたから、六時過ぎというと、�ひかり号�は熱海辺りを、通過していたでしょうか。想像もつきませんでしたね、その頃、淑子が刺殺されていたなんて!」  実行犯は、真理の愛人である『浅野機器』の手塚常務に間違いない、と宮本は繰り返した。 「でも、何も殺すことはない。ね、そうでしょう。こうなったのも、元はと言えば、すべてあの男、村松のせいです」  その最後の一言には、冷え切っていたとはいえ、生命を奪われた妻に対する夫の、情のようなものが感じられた。  しかし遺体の引き取りについては、素直に応じなかった。 「淑子の家族とも相談して、出直してきます」  宮本はそう言い置いて、捜査本部を出て行った。  その長身の後ろ姿を見送って、 「浮気なかみさんに対する憎悪と嫉妬、となれば、あの亭主にも、殺人《ころし》の動機はあるね」  清水部長刑事は、傍《かたわ》らの若手刑事に向かってつぶやいていた。        *  上野公園不忍池殺人事件を新聞が報道したのは、この日の夕刊である。各紙とも四段から五段抜きの大きい見出しで、社会面のトップに持ってきた。  中には、「人妻密会中の殺人?」といった、煽情的な見出しもあったけれど、各紙とも、内容はそれほど深くなかった。  夕刊の早刷りが街に出回る頃、浦上伸介《うらがみしんすけ》は、新宿の将棋センターにいた。  三十二歳で独身。フリーのルポライターである浦上は、酒を愛し、将棋を唯一の趣味としている男だ。  取材などの予定がないときは無論のこと、週刊誌の仕事が入っていても、文字通り寸暇を惜しんで、浦上は将棋クラブへ通った。  都内の私大に学んでいた頃から、攻め七分の将棋で、現在の棋力は四段。アマチュアとしては強い方だ。  しかし、浦上自身は、攻めっ気の強い棋風とは裏腹に、ファイトを表面には出さないタイプだった。  中肉中背の童顔で、口の利き方も静かだ。将棋を指すときの駒音も、常に一定しており、とても、事件ものを得意とするルポライターのようには見えない。  浦上は、女性誌のコラムを一本書き上げたところだった。  ワープロで打った原稿は、ファクシミリで発信し、浦上は、留守番電話に行き先を吹き込んで、中目黒《なかめぐろ》のマンションを出てきた。  小さいビルの四階にある、新宿の将棋センターは、浦上にとって、学生時代からのホームグラウンドだった。将棋盤が五十面以上も並んでいる大きいクラブは、いつきても、満席のことが多い。  この日も、そうだった。浦上は一局目を相矢倉で落とし、二局目は気分を変えて飛車を振ったところへ、 「浦上さん、『週刊広場』からお電話です」  と、手合係が呼びにきた。  留守番電話の伝言は便利だが、こういうときは、やり切れない。浦上は対局相手に一礼して、渋々と席を立った。 「もしもし、浦上ちゃん、こんなに日が高いうちから将棋|三昧《ざんまい》とは、結構なご身分ですね」  茶化した言い方は、『週刊広場』の編集長だった。 「今週、ぼくはお呼びでなかったはずですが」  と、浦上が言いかけると、 「昼間から酒を飲もうと、将棋を指そうと、そりゃ浦上ちゃんの勝手だ。しかしねえ、売れっ子のルポライターなら、新聞の社会面には、ちゃんと目を通してもらいたい」  編集長の声が徐々に高くなった。これが甲高い声に変わると、良くも悪くも、手に負えなくなる。 『週刊広場』の編集長は、自他共に認めるほど、喜怒哀楽の変化が激しい性格なのである。 「すぐに将棋をやめて、編集部へきてもらいたい」  と、編集長は言った。  浦上の主たる仕事先である『週刊広場』は、大手総合出版社の発行だった。本社ビルは、皇居・平河門に近い一ツ橋だが、週刊誌の方は、神田錦町の分室に入っていた。  七階建て、細長い雑居ビルの三階が編集室になっている。 「新宿から神田へくるまでの間に、一通り夕刊各紙に目を通しておくように」  と、編集長は早口でつづけ、素材《ねた》が不忍池の若妻殺しであることを、浦上に告げた。  編集長が浦上を起用することに決めたのは、事件が横浜|絡《がら》みだったためである。  浦上が神奈川県の取材に強いのは、私大時代のごく親しい先輩、谷田実憲《たにだじつけん》が、神奈川県警記者クラブに、『毎朝日報』のキャップとして、詰めているためだった。  浦上は、週刊誌の立場では限界のあるニュースを、『毎朝日報』横浜支局を通じて、何度も入手している。警察《さつ》回りが聞き込んできたオフレコ話を、そっと谷田から耳打ちされたこともある。  それを承知している『週刊広場』の編集長は、 「捜査本部は上野だが、今回も横浜の谷田さんの力を頼ることになるね」  と、そう言って、電話を切った。  殺人を招いた人妻の情事。  犯人の追及と同時に、不倫の背景を掘り下げることが、特集のテーマとなった。  浦上は『週刊広場』での打ち合わせを終えると、すぐに編集部を飛び出した。神田錦町から上野西署まで、タクシーで二十分足らずである。  浦上が『週刊広場』特派記者の名刺を受付に出したとき、壁の掛け時計は、四時を回っていた。  新しい殺人事件を抱える、夕方の署内は慌ただしい。  副署長は、面会には応じてくれたものの、 「事件が発生したばかりで、捜査はこれからという段階です。記者発表に付け足してお話するようなことは、何もありませんな」  渋い表情だった。  浦上自身も、この時点での警察取材に期待をかけてはいなかった。  記者クラブに所属していない週刊誌の場合、取材は、警視庁の広報課を通さなければならない取り決めになっている。浦上がそれを無視したのは、すでに夕方なので、本庁経由では取材が翌日になってしまうし、どっちみち警察取材では、新聞報道の域を越えることはない、と、考えたためである。 (どうせ顔つなぎに過ぎないのなら、早い方がいい)  浦上はそんな軽い気持ちで、通り一遍の質問を重ね、 「日を改めて出直してきます。そのときはよろしくお願いします」  と、一礼して、副署長席を離れた。  浦上は三階へ上がったが、もちろん捜査本部へ入るわけにはいかない。  浦上は捜査本部の張り紙とドアを写して、上野西署を出た。  夕方の雑踏を横切って、不忍池の殺人現場に立ったのは、午後五時近くである。昨日の犯行時間より一時間余り早いし、昨日と違って東京の空はよく晴れているので、柳の陰の撮影にも、何の支障もなかった。浦上は池の周辺に向けて、何枚もシャッターを切った。 『週刊広場』に掲載される際の、見出し用のカットを意識して、カメラの位置を変え、背景に池の中の島を入れたりもした。  この撮影に、およそ四十分を費やしただろうか。  上野の山は、次第に薄暗くなってきた。池のほとりを行き来する人影は、圧倒的に若い男女が多い。 「あと、三十分か」  浦上は腕時計を見てつぶやき、三十分なら、殺人時間まで、現場で人の動きでも見てやろうと思った。  新しい発見は無理でも、犯行時の雰囲気を味わっておくのは、意味のないことではあるまい。  浦上はキャスターをくわえ、近くの黄色電話の方へ歩いて行った。  動物園のモノレールに視線を投げながら、電話をかけた先は、神奈川県警本部の記者クラブである。  電話はすぐに『毎朝日報』のコーナーにつながったけれど、キャップの谷田が出てくるまでには、少し、間があった。いつもと同じようにである。 「やっぱり、『週刊広場』は食い付いてきたか。きみが担当するのか」  谷田は、浦上の説明を聞いて、 「当然そうなるだろうと思っていたよ」  と、例の太い声で言った。 「で、いつ横浜へ来る?」 「ついでですから、凶行時間まで、宮本淑子が犯人《ほし》とたたずんでいたという、柳の下で、たばこでも吹かして、それから直行します」 「今夜は七時過ぎなら、記者クラブを出ることができる。七時半に関内《かんない》でどうだ」  谷田は、土佐料理屋を指定した。関内駅を降りて、伊勢佐木町《いせざきちよう》寄りの店だった。  浦上は、ぴたり、殺人時刻の六時五分まで現場にいて、不忍池を離れた。  昨日が、今日のような快晴なら、夜の訪れも、もう少し遅かっただろう。目撃証言も、より具体的な線が出たかもしれぬ。  浦上はそうしたことを考えながら、宵の人込みを上野駅まで歩き、大船《おおふな》行きのJRに乗った。        *  上野−関内間は、乗り換えなしで、正味四十八分である。  浦上は、七時十分過ぎに関内駅に降りていた。  浦上の方が先に、伊勢佐木町裏手にある土佐料理の店に入っていた。  三十人ほどで満席になりそうな、店だった。左手の一部がカウンターになっている。まだ、店はそれほど込んでいない。  浦上がためらいながら、奥のテーブルに腰かけると、 「毎朝さんの、谷田キャップのお知り合いの方ですか」  中年の女店員が声をかけてきた。  どうやら谷田から電話が入ったらしい。『毎朝日報』横浜支局が、ひいきにしている店だった。  店員は、男子も女子も、同じ半天姿だった。その、半天を着た女店員が、谷田キープのボトルをテーブルに載せたとき、 「やあ、早かったな」  谷田が、のれんを分けて入ってきた。  谷田は、浦上より三つ年上の三十五歳。中肉中背の浦上に比べて、谷田の方はぐっと大柄である。  浦上は、多分に根暗な部分を備えているけれども、谷田は、声も大きいし、性格も明るい。  谷田は結婚も早かった。すべての面で対照的な、先輩と後輩である。それだけに、逆に気が合うのかもしれない。  共通点は、二人とも酒が強く、将棋を唯一の趣味としていることだった。  谷田も、学生時代から将棋に熱中しており、現在、町のクラブでは、浦上同様四段で指している。 「きみとは、しばらく対局してないね」  谷田は笑顔を見せると、水割りで乾杯し、なじみの女店員に、二人前の皿鉢《さわち》料理を注文した。 「新宿のセンターで指していたところを、『週刊広場』に呼び出されたのだって?」 「留守番電話も、善し悪しですよ」 「それじゃ、うまい言い訳ができる女房でも、もらうんだね」  谷田は高い声で笑い、 「それにしても、今度の事件《やま》は、ちょっとばかし、緒戦の手順が異なっているぞ」  とつづけた。 「ある意味では、定跡無視の駒組みもいいところだな」 「でも、初心者ゆえの、乱暴な序盤とは違うでしょう」 「オレもそう思うんだ。有段者が、あえて定跡を外してきたとなると、この犯人《ほし》は、半端じゃない」  将棋好きの先輩と後輩は、ごく自然なうちに、こうして将棋用語を口にしていることが多い。 「事件関係者の全員が、横浜と深いかかわりを持っているだろ。そこで、警視庁では神奈川県警に協力を要請してきたが、新聞記者《ぶんや》も同じことだ。各社とも、横浜支局が全面バックアップの態勢を敷いている」  谷田はそう言って、取材帳をテーブルに広げた。  五人の名前が書き出してあった。   宮本淑子二十九歳(被害者) 主婦 元『浅野機器』経理課勤務 現コンビニエンスストア『浜大』パート店員   宮本信夫三十一歳(淑子の夫) 『日東カー用品』(本社・鳥取市)横浜支店販売課主任   村松俊昭三十五歳(淑子の愛人) 『浅野機器』(本社・横浜市)仙台支社営業部第一課長   村松真理三十二歳(俊昭の妻) 主婦 元『浅野機器』社長秘書   手塚久之三十三歳(真理の愛人) 『浅野機器』社長の長男で常務 「捜査一課へ寄って、淡路警部に会ってきたのだけどね、殺された淑子の周辺にいる四人は、いずれも、明確な、殺人《ころし》の動機を備えているっていうんだな」  谷田は取材帳を、ぱらぱらとめくった。四人の�動機�を箇条書きにしたメモを、浦上に見えるように置いた。 「まず、淑子の亭主だが、この宮本には、当然、妻の背信に対する憎悪と怒りが渦巻いているはずだ」  宮本は鳥取出身で、純朴な性格だ、と、谷田は説明してつづけた。 「それだけに、内向した怒りが爆発すれば、殺人《ころし》に発展する可能性は十分だ」 「淑子の愛人の村松の場合は、これまでの不倫関係の清算。それが、殺人の動機となるのですか」  浦上は、取材帳の走り書きを読んで、質問した。 「村松が、淑子との関係を清算しなければならないのは、どうしても、女房の真理と別れるわけにはいかないからなんだ」  谷田は、捜査一課の淡路警部から聞き込んだ情報として、村松の狙いが、真理の実家、高峰家の財産に絞られていることを言った。 「財産狙いの話は、東京の刑事《でか》さんに真理が打ち明けたことだが、淡路警部は、これは信憑性《しんぴようせい》も高く、無視できないと考えているようだ」 「なるほど。平気で女房を裏切る男なら、財産目当てに人の生命を奪うことぐらい、何とも感じていないかもしれませんね」 「村松は生い立ちが貧しかったせいか、ともかく、金銭には細かいようだ」 「そんな男が、他人の女房と情事をつづけていたってわけですか」 「こればっかりは別さ」 「真理の�動機�は、村松と離婚するため、と、書いてありますね」  浦上は、もう一度、谷田の取材帳をのぞき込んだ。 「真理が、浅野機器社長の長男、手塚常務と結婚したい気持ちは、本物らしい。手塚と結婚するためには、当然ながら、村松と離婚しなければならない」  谷田はそうこたえて、水割りを口にした。味わうように水割りを飲んでから、 「これは、村松が、上野西署の部長刑事《でかちよう》に漏らしたことだが」  と、前置きして、村松が強調した�一石二鳥�説を浦上に伝えた。 「先輩、真理は夫の愛情を奪った淑子を抹殺し、なおかつ、村松を犯人に仕立てる算段ですか」 「真理は気が強くて、我がままで、そして回転の速い女だ。村松が繰り返したという真理の�動機�も、相当な重さを持っている、と、捜査本部では見ているらしい」 「しかし、いかに気性が激しくても、真理が直接手を下したわけではないですよね」 「そこで登場するのが、真理の愛人である手塚、ということになる。手塚は、どうやら典型的なプレイボーイだが、現在は人妻の真理にメロメロでね、万事、真理の言いなりって話だ」 「すると、実行犯は、宮本、村松、手塚、この三人の中のだれか、ということは、もう決まりと言っていいですね」 「捜査初期の段階で、早々と容疑者が特定された。こんな例は珍しいのではないか」 「あとは、物証とアリバイですか」 「さすがに、その辺りは、淡路警部も口を滑らせてくれなかった」  谷田は苦笑して、新しい水割りを作った。 「直接、自分のところで扱っている事件《やま》とは違うだろ、警部の発言は、いつになく慎重で、神経質だったよ」  と、谷田は言った。  県警本部捜査一課の課長補佐淡路は、谷田が昵懇《じつこん》にしている警部で、浦上も、谷田を通じて親しい交際を持っている。  淡路警部からは、何度か、取材上の貴重なヒントを与えられたことがあるし、浦上の方から、横浜が絡んだ殺人事件の、アリバイ崩しの発見を提供したこともある。 「だが、警察《さつ》の口は堅くとも、容疑者は浮き彫りにされている」 「明日から、われわれの手で、三人の男のアリバイを当たればいいわけですね」 「ターゲットは絞られている。ルポライター浦上伸介の、腕の見せどころじゃないか」 「宮本、村松、手塚。容疑者三人が、いずれも一メートル八十を超える長身なのは、こりゃ偶然でしょうか」 「おい、何を思い付いたんだ? 背の高い男は小柄な女性を好み、小作りな女性が長身の男に惹《ひ》かれるってのは、世間一般で、よく見られる取り合わせだ。今度の五人は、そうした組み合わせが、交錯したってことだろ」 「いや、そうじゃないんですよ」  と、浦上が遠くに目を向けたとき、二人前の皿鉢料理が運ばれてきた。客席も、勤め帰りのサラリーマンたちで、ぼつぼつと込み始めている。 (殺人の現場は、なぜ、公園でなければならなかったのか)  浦上を見舞った疑問が、それだった。過程とか伏線がどうあろうとも、突発的な凶行であるなら、現場はどこでも構わない。  しかし、今回の事件は、最初から殺人が目的で、計画的に、淑子を不忍池へ誘い出したのではないか。  浦上は、さっき時間をかけて撮影した池畔を思い返しながら、言った。 「先輩、長身の三人がそろったのは偶然かもしれませんが、三分の一のひとり、真犯人《ほんぼし》は、その偶然を活用したのではないでしょうか」 「どういうことかね」 「犯人《ほし》は三人の男女に目撃された。あれは目撃されたのではなくて、目撃させたのと違いますか」  浦上の内面に、雲のような疑惑が浮かび、それが、しゃべっているうちに、次第に形を整えてくる。 「カムフラージュ、ということは考えられませんか」  と、浦上は言った。 「真犯人《ほんぼし》は、素顔を見られることなく、長身を印象付けることで、不審を、他の二人にも向けさせようとしたのではないでしょうか」 「それゆえ、宵闇迫る屋外での犯行になったというのか。なるほどね。きみらしい、見方だ」 「やはり、この線でしょうね」  浦上は自分に言い聞かせるようにつぶやいてから、つづけた。 「あの時間帯では、白昼と違って、正確な目撃は無理です。しかし、ポイントは、つかむことができます」 「ポイントは、長身であり、男性であるということか」 「必ず、目撃者となる人間がいる場所で、しかも決定的な特徴までは、いまいち把握されない状況。そして、逃亡に便利な条件を備えているとなれば、宵闇の不忍池は最適です」  浦上は、発見をまとめているうちに、ファイトが高まってくるのを感じた。 「分かった」  と、谷田もうなずいた。 「きみは、あの時間、あの場所を選んだところに、犯人《ほし》の、完全犯罪の意図を見るというのだね」 「この場合の完全犯罪は、自分と似た体型の、他の二人のうちのどちらかを犯人に仕立てることで、自らの安全を確保する、といった内容になります」 「すると、何が何でも、真犯人《ほんぼし》のアリバイは絶対というわけか」 「そうでしょうね。当人の偽装アリバイ工作が完全でなければ、この犯罪計画は成立しません」 「と、なると、アリバイの完璧であるやつが、怪しいってことか」 「淑子の周辺にいる四人の動機が、それぞれの意味で説得性を持って成立するのであれば、これは、アリバイ崩しだけがテーマとなりそうな事件《やま》ですね」  浦上は、改めて、谷田の取材帳に目を向けた。谷田はピース・ライトをくわえ、新しく、水割りを二人前作った。  明朝からの取材を考えて、 「今宵はほどほどに」  と、谷田は笑顔で提案したが、結局は、八分通り残っていた谷田のキープボトルを空にするまで、腰を落ち着ける仕儀となった。  浦上と谷田が、土佐料理の店を出たのは、午後九時を回る頃だった。横浜の中心地は、まだ、人も、車の流れもにぎやかだ。  羽衣町の交差点で、信号待ちをしているとき、 「そうだ、『浅野機器』の前を通って行こう」  と、谷田が言った。  それは、関内駅に面して建つ、東京ガスのすぐ近くだった。四階建てだった。この辺りでは、こぢんまりとしたビルである。  しかし、場所はいい。 「これなら、走れば関内駅まで一分ですね」  浦上は『浅野機器』の本社ビルを見上げた。四階建てのビルは、すでにどの窓も明かりが消えている。  駅には近いが、人気の少ない小路だった。その狭い舗道に、外車が一台、ゆっくりと走り出てきた。『浅野機器』の裏手から出てきたのは黒塗りのベンツであり、くわえたばこでハンドルを握っているのは、細面のハンサムだった。  細面の男は、薄い色付きの、メタルフレームの眼鏡をかけている。 「あの男じゃないですか」  浦上は思わず、谷田の耳元に口を寄せていた。  外車を運転するハンサムを、手塚久之であると確認したのは、翌朝である。  3章 横浜港が見えるホテル  翌十月五日、水曜日。  浦上伸介は、朝七時の目覚まし時計で起きた。  取材でもなければ、こんなに早く起き出すことは珍しい。  夜が遅い浦上は、二重のカーテンを締め切って、昼近くまで、ベッドに潜っていることが多い。  東京都目黒区、東横線中目黒駅から徒歩五分の場所だった。九階建て『セントラルマンション』の三階にある1DK、307号室が、シングルライフを楽しむ三十二歳の住居であり、仕事場だ。  壁面を占める本棚とベッド、そしてスチール製の大きい仕事机で部屋は一杯である。  机の上には、ファックス、ワープロなどが載っている。  浦上はベッドで腹這いになって、キャスターを一本灰にした。  それからシャワーを浴び、コーヒーメーカーで、キリマンジェロを淹《い》れた。夜は、アルコールがなければ一日だって過ごせないくせに、朝はコーヒーを欠かせない体質だった。  コーヒーを味わいながら、朝刊三紙を開いた。  続報はどこにも出ていない。  宮本信夫、村松俊昭、手塚久之。三人それぞれに、確かなアリバイがあるということだろうか。それとも、捜査の手は、まだ、三人の主張の裏付けを取るところまでは、伸びていないのか。  浦上は朝刊を投げ出すと、トーストを一枚だけ頬張って、『セントラルマンション』をあとにした。  昨日と同じように快晴だった。風がなくて、穏やかな午前である。  浦上はいつもと同じように、ラフな出で立ちだった。立てえりの茶のブルゾンに、取材用カメラなどの入ったショルダーバッグ。  浦上は東京周辺を取材するときも、新幹線や飛行機で地方へ出張するときも、ほとんど同じ格好をしている。  東横線を横浜駅でJRに乗り換え、関内駅へ着いたのは、九時少し前だった。折しも、ラッシュアワーである。  谷田実憲との約束は九時十分であり、待ち合わせ場所は関内駅構内の喫茶室となっていた。浦上は勤務先へ急ぐ人波を避けるようにして喫茶室へ入り、トマトジュースを頼んだ。  九時になるのを待って、喫茶室のピンク電話で『浅野機器』にかけてみた。 「仙台支社の村松課長ですか。村松の本社出張は昨日までです。仙台へは今朝戻りましたので、支社には午後から出社の予定です」  電話に出た女子社員の応対は、ていねいで、てきぱきとしていた。  設立以来十二年で急成長を遂げているという会社の、前向きな姿勢が、女子社員の応接からも窺えるようである。 「どちら様でしょうか」  と、女子社員は聞き返してきた。 「ああ、ぼくは高校時代の旧友です。私的な電話なので、あとで仙台へかけ直します」  浦上は咄嗟《とつさ》のうちに、そうこたえていた。どうせ村松に会えないのなら、『週刊広場』を名乗る必要はないわけである。  取材などと切り出せば、余計な警戒を与えることにもなろう。  しかし、村松の旧友と言ってしまったために、 『それでは、手塚常務につないで下さい』  と、つづけるわけにはいかなかった。もっとも手塚の場合は、ある意味では事件の�当事者�ではないので、電話で当たったりせず、じかに訪ねた方がいいかもしれない。 (村松は足どめを食うこともなく、予定通り仙台へ引き返したのか)  浦上は電話を切るとき、朝刊に一行の続報も出ていなかったことを考えた。行動が束縛されていないのは、あるいは、捜査本部によって、意図的に泳がされているということかもしれない。  いずれにしても村松が、予定を変更することなく仙台へ帰った事実は、警察が、決定的なデータをつかんでいないことを意味していよう。  浦上はテーブルに戻ってトマトジュースを飲み干すと、再び立ち上がっていた。  次にダイヤルを回した先は、真理の実家である篠原町の高峰家だった。  浦上は、ここでも面倒を避けて、村松の旧友と名乗った。知りたいのは、真理の動静だけである。  口実は何だっていい。電話口に真理の母親が出てくると、やはり旧友を装って、 「村松くんは、そちらにお泊まりですか」  浦上は、不忍池の事件との関連など、何も気付いていないといった口調で問いかけてみた。 「俊昭さんは、当家《うち》には顔を出していません」  真理の母親は不機嫌だった。 「俊昭さんは、今朝、西口のビジネスホテルをチェックアウトして、仙台へ帰ったはずですよ」 「村松の奥さんもご一緒ですか」 「同行したかどうか存じませんが、真理も今朝、当家《うち》を出て仙台へ向かいました」  母親の声には抑揚がなかった。普通に聞けば何でもない返事の中に、娘夫婦の不和に対する焦燥がにじんでいるのを、浦上は感じ取った。  浦上はもう一度テーブルに戻ると、キャスターをくわえた。その一本のたばこを吸い終わらないうちに構内の人波の中から、谷田が大柄な姿を現わした。        * 『浅野機器』の本社ビルを訪れた浦上と谷田は、二階の応接室に通された。  昼間でも、それほど人通りの多くない小路が、窓のすぐ下に見え、斜め前方には、大きな中華料理店があった。  浦上と谷田は、小さい応接室で、十五分ほど待たされただろうか。  やがて中廊下に靴音が聞こえ、 「お待たせしました」  と、応接室に入ってきたのは、間違いなく昨夜の男だった。くわえたばこで、ベンツのハンドルを握っていた細面のハンサム。  手塚は、いまも、薄茶色の、メタルフレームの眼鏡をかけている。優に、一メートル八十を超える長身だった。  手塚はソファに腰を下ろすと、長い脚を組んだ。 「岸本《きしもと》くんも、とんだことになりました」  手塚は名刺を交換すると、先回りをして言った。岸本というのは、淑子が『浅野機器』経理課に勤務していた頃の旧姓だった。 「岸本くんは化粧は派手だったけど、仕事のできる子でした。あの岸本くんが」  と、手塚は淑子の旧姓を繰り返し口にしたが、浦上たちの視線に気付いたのか、 「あ、失礼しました。その宮本さんですがね」  と、結婚後の名字に言い直した。 「今日のお通夜には、私も伺うつもりですが、こうしたことになるなんて、どうにも信じられません」  昨日は報道関係の取材も相次いだし、刑事も聞き込みにやってきた。 「社長の命令もあって、私がそうした場合の窓口になっているのですがね、社内全体が、何となく落ち着かなくて困っています」  と、手塚は一方的にしゃべった。  新聞記者と週刊誌記者がそろって現われたことで、昨日の取材とは違う、と、警戒を強くしている感じが、ありありと見て取れた。  前日の取材陣の中には、もちろん、谷田配下の『毎朝日報』の若手記者もいた。だが、その時点での取材は、(刑事の聞き込みとは異なり)被害者のOL時代の職場として、『浅野機器』を当たったのに過ぎない。  谷田が複雑な男女関係をキャッチしたのは、その後、捜査一課の淡路警部に食い下がった結果なのである。  新しい質問を用意してきた浦上と谷田は、単刀直入に切り出した。 「手塚さん、あなたは、宮本淑子さん殺害犯人を、だれだとお考えですか」 「何ですって?」  手塚は、なぜそうした質問を受けなければならないのか、というように、むっとした顔をしたが、表情の変化は一瞬だった。  手塚は、二人そろってやってきた記者を前にして、虚勢を張ることの無意味を悟ったのだろう。  手塚はゆっくりとラークに火をつけ、深々と煙を吐いてからこたえた。 「記者さんたちは、岸本くん、いや、宮本淑子さんと、我社《うち》の仙台支社の村松課長との関係をご存じなのですね」 「その村松課長の奥さんと、手塚常務が、相当に親しくしていらっしゃるということも、耳にしています」 「ちょ、ちょっと待ってください。ぼくと高峰くんのことは、この際関係ないでしょう」  手塚は村松真理についても、在社当時の旧姓で呼んだ。  旧姓では呼んだものの、しかし、手塚は、真理との交際を否定しなかった。恐らくは昨日、刑事にじっくりと突っ込まれているためだろう。  否定の代わりに、手塚は、哀願とも抗議ともつかない、神経質な声を出した。 「あなた方は、殺人事件の取材にきたわけでしょ」 「もちろん、そうです」 「何で、ぼくと高峰くん、いや、村松真理さんのことを調べたりするのですか。まさか、記事にするつもりではないでしょうね」 「プライバシーの侵害で訴えますか」 「訴えるも何も、関係ないことじゃありませんか」 「刺殺された淑子さんと村松課長は愛人同士だった。村松夫婦の間には、当然、諍《いさか》いがつづいている。そうした夫婦の、もう一方の愛人が、手塚さん、失礼ですがあなたということになれば、無関係なんてものじゃない。あなたはより太いロープで事件とつながっている、そう言ってもいいのではありませんか」 「愛人なんて目で見られるのは、迷惑です。私は確かに、彼女が社長秘書として、我社《うち》で働いていた当時から憧れていました。しかし私も、小なりとはいえ、百人の従業員を抱える会社の常務です。常識は、わきまえているつもりです」 「後ろ指を差されるようなことは、していないとおっしゃる?」 「そりゃ、そうです。村松課長の浮気の件で、悩みを聞いて上げたことはあります。しかし」  手塚は吸いかけのたばこを、もみ消した。 「彼女との交際は、飽くまでもプラトニックなものです。彼女は部下の妻ですよ。亭主の浮気に悩んでいる部下の妻を不倫に誘うような、そんな真似《まね》は絶対にしていません!」  手塚の語気は強くなった。しかしそれが、どこか空転しているのを、浦上は感じた。 (プラトニックだと? この色男が、そんなタマか)  谷田も、そうした視線を、浦上に送ってきた。  しばらく、沈黙が生じた。  手塚は、沈黙が我慢できないかのように、 「最初の質問ですけど」  と、口を切った。 「確かな証拠もなしに、言うべきことではないかもしれませんが、犯人は、淑子さんのご主人ではないでしょうか。最近も、富山と福島で、似たような事件がありましたね」 「うん、夫婦どちらかが、不倫に走ったケースですがね」  と、谷田が、ことばを選ぶようにして言った。 「確かに、浮気したのが夫の場合、妻は夫ではなく、夫の浮気相手を襲う。そして妻が背信したときは、夫は妻の情事相手ではなくて、妻自身に憎しみの刃を向ける。そういった事例が圧倒的に多いのは事実です。富山と福島の事件は、いずれも、夫が不倫妻を刺したわけですが、今回の場合はどうでしょうか」 「どうとは、どういうことですか。犯人は長身だったというではありませんか。淑子さんのご主人を想定しても、不自然ではないと思いますが」 「真理さんが、村松さんと離婚したがっていたことは、ご承知ですね」 「あなた方は、高峰くんを疑っているのですか」 「そのことについて、刑事さんはどんな質問をされましたか」 「まさか、まさか警察が、他人のプライバシーに触れることを、新聞や週刊誌に漏らすとは思えない。あなた方は、かまを掛けているのですか」 「真理さんとあなたは、お互い結婚の意思を持っているのではありませんか」  谷田は、委細構わずにつづけ、浦上がそれを受けて、核心に迫った。 「一昨日《おととい》の午後六時五分頃、真理さんがどこにいたか、手塚さんはご存じではないでしょうか」  手塚の所在を質《ただ》すべきところを、真理と置き換えたのは、手塚の口を閉ざさせぬ配慮だった。  目的へたどり着く道程は、どのような形をとっても構わない。確認すべきは、手塚の、アリバイの有無だ。  誘導は、うまくいった。  手塚は、それを証明するのは当然、といった面持ちで、浦上の質問にこたえた。 「犯人が男性と分かっているのに、高峰くん、いや、村松真理さんを疑うなんて、ばかげています。第一、彼女は不忍池になど出かけてはいません。一昨日の夜、彼女はぼくと食事をしていました」 「手塚さんがご一緒だったのですか」 「ディナーをとったのは、東京のレストランではありませんよ」  と、手塚の上げたのが、横浜港だった。山下公園に面した『ホテル・サンライズ』のレストランで、手塚と真理は、午後七時前から、フランス料理を食べていたというのである。        *  横浜港も穏《おだ》やかだった。  午前の港は船の出入りも少ないし、海岸公園を歩く人影も多くはなかった。  浦上と谷田は、『浅野機器』本社ビルを出ると、徒歩で『ホテル・サンライズ』へ向かった。 「プラトニックラブの相手と、ホテルでディナーか」  谷田は、いちょう並木がつづく舗道を歩きながら、浦上を振り返った。昨日、上野西署の捜査本部が港北区篠原町の高峰家へ問い合わせの電話を入れたとき、真理は前夜外出から帰るのが遅かったのでまだ眠っている、と、母親はこたえている。  谷田は、その情報を思い返したのだろう、 「真理の帰宅が遅かったのは、当然、色男と一緒だったからだろ。ホテルでフランス料理を食ってから、真理と手塚は、遅くまで何をしていたというんだ」  と、いまいましそうにつづけた。  ま、他人の情事はともかくとして、真理と手塚が、一昨日の午後七時前から『ホテル・サンライズ』のレストランにいたのが事実であれば、二人の氏名は、とりあえずリストから消されることになる。  東京の上野公園から、横浜の山下公園まで、一時間を欠く持ち時間でやってくることは、絶対に不可能だ。  浦上と谷田は、柔らかい秋の日差しを背中に浴びて、『ホテル・サンライズ』に入って行った。  レストランは一階だった。  当然というべきか、すでに昨日、ここにも刑事が現われている。淡路警部は漏らしてくれなかったけれど、捜査は、適確に進行しているようだ。  浦上と谷田は、フロントのロビーで、レストランのチーフに時間を割いてもらった。  刑事の聞き込みが完了しているだけに、取材も容易だった。いちいち思い出してもらうまでもなく、要点は、ボーイたちによって整理されていたからである。 「はい、高峰様のお嬢様は、結婚前からよく存じております」  チーフは、ボーイたちの証言を総括、代弁する形でこたえた。チーフはやせ型で、きちんと、ちょうネクタイを結んでいる。  真理の実家の両親は、月に一度は、この一流ホテルのレストランを利用しているらしい。一昨日も、「高峰」の名前で、真理から二人分の予約が入ったのだという。 「予約は六時半ということでございましたが、実際にお見えになったのは、四十五分頃だったと思います」  と、チーフはつづけた。手塚の言う通りだった。  レストラン側は、しかし、真理が同伴した男性客には面識がなかった。 「背の高いお客様でしたが、ボーイたちも、お顔までははっきり覚えていません」  チーフは、浦上の質問に対して、そうこたえた。 「すると、その客を、いまここへ連れてきても、一昨夜の男性であったかどうか、断定できないというのですか」 「つい二日前のことといっても、午後七時前後と申しますと、レストランは満席です。一日の中で、もっとも混雑する時間帯です。とても、初めてのお客様のお顔までは、記憶しておりません」 「『浅野機器』の関係者が、こちらを利用されることはありませんか」 「昨日、刑事さんからも訊かれましたが、手前どもの顧客《おきやく》様名簿に、『浅野機器』という会社はございません」  結局、真理の同伴者が手塚であることの証明は得られなかった。  真理たちが食事を終えて席を立ったのは、午後八時半頃だったという。        *  浦上と谷田は『ホテル・サンライズ』を出て、いちょう並木の舗道に戻った。人通りは少ないが、車の往来はさっきより激しくなっている。  そろそろ、十一時になろうとする時間だった。 「裏付けがとれたのは、真理のアリバイだけか。肝心の手塚がはっきりしないのでは、どうしようもないな」 「真理のアリバイが確認されたって、どうということはないですよ。真理が実行犯でないことは、初めから分かっています」 「実行犯が手塚だとしたら、真理が男性同伴で、『ホテル・サンライズ』でフランス料理を食ったのは、アリバイ工作ということになるか」 「おとつい横浜にいた背の高い男は手塚の代役、すなわち替え玉ってわけですか」 「替え玉かどうか、真理と手塚の周辺に探りを入れる必要はあるね。真理の周辺からもう一人、一メートル八十を超える長身が出てきたら、問題だ」  谷田は立ちどまった。ブレザーの内ポケットから取材帳を取り出すと、「手塚久之」と書き出した名前に、二重丸を付けた。  一昨夜の男が、実際に替え玉であったら、当然、ホテル従業員の記憶に残らないよう行動しただろう。  だが、完全白紙ではいけない。ポイントはボーイたちに覚えていてもらわなければならない。  それは、たとえば長身の体躯《たいく》とか、高級なスーツを着ていた、といったようなことだ。 「いうなれば、部分的な目撃か」 「不忍池と同じですね。犯罪センスが同じだ」 「突端《とつぱな》から二重丸だなんて、容疑者は限定されていても、これは、先が思いやられるぞ」  ベールに影を映し、ベールの向こう側にたたずんでいる長身は、一体だれなのか。  浦上と谷田は県警本部の前を素通りして、関内駅へ戻った。        *  次は宮本信夫だった。  手塚が淑子の通夜の話をしていたので、鶴見区の『松見アパート』へ、電話をかけてみた。『松見アパート』5号室はだれも出てこなかった。  浦上は勤務先の方へ、電話をかけ直した。西区の『日東カー用品』横浜支店。  支店長と名乗る男性の声が、こたえてくれた。 「葬儀は、お通夜も告別式も、奥さんの実家で営まれることになったそうです」  淑子の実家は、瀬谷区の阿久和町だった。支店長は、阿久和町の岸本家への道順を教えてくれた。  瀬谷へ行くには、横浜駅から相模鉄道へ乗り換えることになる。  浦上と谷田は地下鉄で横浜駅まで出て、ジョイナスのカレーショップで、軽く昼食を済ませた。  相模鉄道に乗る前に、谷田は県警本部記者クラブ、浦上は『週刊広場』編集長へ連絡の電話を入れた。        *  相模鉄道|三《み》ツ境《きよう》駅からバスが出ている。  駅の周辺はにぎやかな商店街だし、商店街を過ぎると、しばらく新興の住宅地がつづいたが、バスが十五分も走ると、風景は畑地が目立つようになった。  淑子の実家、岸本家も農業である。淑子の両親は健在だが、家は長兄夫婦の代になっている。 「淡路警部の話では、淑子の長兄夫婦は造園業にも手を広げていて、実家はまあまあの生活らしい」  と、谷田はバスの前方に目を向けたまま言った。  畑地のはるか彼方には、丹沢《たんざわ》山塊があった。空がよく晴れているので、大山とか富士山がくっきりと見える。  横浜の中心地から一時間とはかからない距離なのに、港の周辺とは全く異質な風景が広がっている。  岸本家は、野菜畑を挟んで、県道の向こう側にあった。  バスを降りて、農道を横切っていくと、前庭を広くとった農家が何軒か並んでいる。人の出入りが多く、葬儀の準備に追われているのは、一番西側の農家だった。  岸本家の前庭にはテントが張られており、葬儀社が、受付場所を設営中だった。白いかっぽう着姿の、近所の主婦が何人か、食器類とか、座布団運びなどを手伝っている。  そうした主婦の一人に案内を乞うと、彼女は玄関につづく土間へ行き、土間の奥から宮本を連れてきた。 「新聞に週刊誌ですか」  宮本は、谷田と浦上の名刺を受け取ると、 「取材なら、犯人のところへ行ってください」  憮然《ぶぜん》とした表情でつぶやいた。  確かに、手塚に劣らない長身だった。そして、手塚と同じようにメタルフレームの眼鏡をかけているが、宮本は、手塚とは対照的な憔悴《しようすい》を全身ににじませていた。  ぽつぽつと弔問客も姿を見せているのに、宮本はノーネクタイのワイシャツ姿だったし、うっすらと、不精ひげなども伸びたままなのである。 「お焼香させてください」  庭先での立ち話というわけにもいかないので、谷田がそう切り出すと、宮本は何も言わずに、来訪者を縁側へ案内した。  縁側の奥は、十畳ほどもある日本間だった。庭に面して祭壇ができている。  焼香を終えると、浦上と谷田は玄関につづく土間の方へ通された。土間を挟んでいくつかの部屋があり、玄関寄りの場所に電話台があった。  浦上と谷田を案内し、上がりかまちに座布団を出してくれたのは、故人の兄嫁だった。  事情を知らない兄嫁は、浦上と谷田のことを『日東カー用品』関係の人間と勘違いしたらしい。宮本は何も説明しなかった。  勘違いしたまま、それらしきあいさつをした兄嫁が、浦上と谷田の前にお茶を置いて引き下がると、 「何を取材するのですか」  宮本はいかにも迷惑そうな顔をし、 「こんなところへまでやってくるようでは、おおよそのことは、ご承知なのでしょ」  と、事件の背景に、自ら触れた。 「嫁に行った娘が、嫁ぎ先ではなくて、実家で葬式を出す。このことからして、まともじゃありませんよね」 「宮本さん、あなたには、奥さんの葬式を出す気がなかった、ということですか」 「病死ならまだしも、情事の果てに殺されたのですよ。遺体を引き取れと言われても、すぐには心の整理がつくわけないでしょう」 「宮本さんは、奥さんを殺した犯人をだれだと思いますか」  浦上は、手塚に対したのと同じ質問を浴びせて、反応を窺った。  宮本は、手塚と違って、ためらいなど見せなかった。 「だれって、犯人は村松の女房に決まっているでしょう。あの真理って女房の命令で、愛人の手塚が動いたのに違いありません」  宮本のことばには、強い感情がこもっていた。さっき、手塚が宮本を名指した場合とは異なり、宮本は、真理と手塚が犯人であることを、本能的に確信しているような口振りだった。 「村松の女房は、いつまで野放しになっているのですか。こんなところへくるより、あの二人を取材したらどうですか」  宮本は、真理のヒステリックな気性と執拗さを繰り返し口にし、 「何でも自分の思い通りにする女です。一度狙いをつけた標的は、何が起ころうと絶対に見逃さない、そういう性格ですね」  と、つぶやいた。  宮本は真理のしつこさの一例として、今回、宮本の出張先へ、二度も電話をかけてきた事実を上げた。  昨日に予定されていた談合の、念押しの電話だった。 「ぼくは、ともかく同席すると前もってこたえて置いたのに、間違いなく四日には横浜へ帰ってくるのでしょうね、と、出張先へまで言ってきたのですよ」 『日東カー用品』横浜支店へ問い合わせて、鳥取の実家へかけてきた電話だという。 「宮本さん、鳥取へは二十九日に出発して、三日に帰ってきたのでしたね。その短い間に、二度も電話が入ったのですか」 「ぼくは、欠席するかもしれないというような、あいまいな返事は、一度だってしていません。それなのに、このしつこさです」  特に、宮本が問題とするのは、二本目の電話だった。  実家へかけてきたのさえ、やり切れないのに、三日の午後の念押しは、宮本の出先へ追いかけてきたものだった。 「二日の日曜日、ぼくは旧友の家に一泊したのですが」 「ほう、その友人宅へかけてきたのですか」 「それだけでも、常識外れなのに、村松の女房が電話を寄越したとき、ぼくはすでに友人の家を出て、横浜へ帰るために駅へ向かっていました」  その乗車駅へ、真理は呼び出し電話をかけてきたというのである。 「異常だと思いませんか。あの女房、自分のことしか頭にないのですよ。亭主と別れて、手塚と再婚することしか、考えていないのです。自分の目的達成のためには、手段を選ばない女です」 「駅まで追ってきた電話も、内容は同じようなものでしたか」 「そうですよ。間違いなく明日の午後六時、横浜駅西口東急ホテルのロビーにきてくれ、というものでした。さすがにぼくもむっとしましてね。分かった、と一言こたえて、電話を切りました」 「しかし、彼女の執拗な電話を考えると、あなたの推理は矛盾してきませんか」  と、谷田が口を挟んだ。 「彼女は四日の話し合いに対する期待が大きかった。期待するものがあるからこそ、しつこく念を押してきたのではないでしょうか。その彼女が、四日の談合を目前にした三日の夜、なぜ、話相手を殺さなければならないのですか」  浦上も同じことを考えた。 「村松の女房は、自分勝手な女です」  と、宮本はこたえた。 「これは、昨日、上野西署の捜査本部でも話したことですが、四日の話し合いを前にして、淑子と村松の女房との間に、新しい対立が生じたのかもしれません。対立が何であるのか、ぼくには分かりませんが、それが村松の女房にとって不利な問題であったとしたら」 「殺しもやりかねないというのですか」 「淑子と村松の女房との間に、一昨日、何が生じたのか、それは時間の問題で警察が解明してくれるでしょう。真相が解明されるとき、あの二人は手錠をかけられるでしょう」 「これは余分なことですが、これから、あなたはどうなさるおつもりですか」 「どうって、淑子のことですか。記者さんにこたえることではありませんが、淑子の籍は抜くことになるでしょうね。淑子はここの、実家の墓へ入ることになります」  宮本の横顔を、新しい焦燥が過《よぎ》った。  浦上は、妻の背信に対する怒りを、宮本が必死に押さえているのを見て取った。  その宮本を前にして、質問を重ねるのは辛いが、不倫妻に対する怒りは、すなわち、宮本にも殺人の動機があることの、強い証明となるのである。 「一昨日の足取りですが」  と、浦上は口調を改めて、要点に移った。 「駅頭で村松夫人の電話を受け、それから、真っ直ぐ横浜へ帰ったのですか」 「昨日、刑事さんにも尋ねられました。ぼくも、その、アリバイってものをはっきりさせなければいけないのでしょうね」  宮本は、妙なこだわりなど見せず、素直にこたえてくれた。取っ付きは悪かったけれど、元々がそういう人柄なのだろう。 「刑事さんに質問されたので、改めて時刻表を当たりました」  と、宮本は前置きして言った。 「日曜の夜、ぼくが一泊した旧友宅は、京都府下の園部《そのべ》町でしてね。乗り降りしたのは、山陰本線の船岡《ふなおか》という駅です。ええ、一昨日の午後、村松の女房が電話をかけてきて、ぼくを呼び出したのも、この船岡駅です」 「すると、京都経由で帰ってきたわけですか」 「そうです、京都から新幹線に乗りました」  改めて時刻表を当たったという宮本は、利用列車の正確な時間を言った。   船岡発 十四時三十二分 山陰本線普通(上り)   京都着 十五時四十九分   (乗り換え=十三分)   京都発 十六時二分 東海道新幹線�ひかり350号�   新横浜着 十八時二十八分  犯行時間(十八時五分頃)は、�ひかり350号�の車中だ。  この通りなら、宮本のアリバイは文句なしに成立する。宮本は何があろうと、犯行に参加することはできない。 「新横浜からは、そのまま鶴見のアパートへ戻ったのですか」 「はい。横浜線、京浜東北線と乗り継いで帰りました」 「それを、証明してくれる人がいますか」 「証明?」 「宮本さん、あなたを疑うわけではありませんが、犯人を絞り込むためには、シロならシロと明確にさせなければなりません」 「途中、知人にはだれも会いませんでした。しかし、船岡駅で乗車した時間と、松見アパートへ帰った時間は、はっきりしています。それが証明になりませんか」  宮本は当初とは違って、次第に協力的な姿勢を打ち出してきた。浦上と谷田の質問に、通り一遍ではない、誠実さが感じられたせいかもしれない。 「ぼくはアパートへ帰るとすぐに、鳥取みやげを、大家さんに届けました」  と、宮本はつづけた。家主は同じ『松見アパート』の一階に住んでおり、宮本が手渡したのは、パックのかご詰め梨だった。 「おみやげを持って行った時間を、証明できるのですね」 「ええ、大家さん夫婦は、テレビを見ながら夕食をしていました」  テレビは午後七時からのニュースを放映していたというのである。 「ニュースを見て、天皇陛下のご容体が話題に出ました。NHKがニュースを放映していたのだから、午後七時は過ぎていましたが、七時半にはなっていませんでした。間違いありません」  宮本は、相変わらずつぶやくような調子ではあったけれど、説明によどみはなかった。        *  浦上と谷田は、通夜の準備に追われる家を出た。  往路とは別の路線バスに乗り、JR戸塚《とつか》駅へ出た。 『松見アパート』の家主に電話を入れたのは、戸塚駅東口の喫茶店で、一息入れてからである。  裏付けは簡単にとれた。  朴訥《ぼくとつ》そうな声の家主は、 「宮本さんの奥さんも、とんだ災難に見舞われたものです。私たち夫婦も、これからお焼香に出かけるところです」  と、丁重に悔《くや》みを言ってから、浦上の質問にこたえた。 「はい、確かにおとつい、鳥取みやげの二十世紀梨を頂戴しました」  その場の状況も、時間帯も、宮本が言った通りだった。  午後七時からのNHKニュースが放映されており、天皇陛下のご容体が話題になった、と、家主は宮本の発言を敷衍《ふえん》した。 「宮本は、二重丸ではないね」  谷田は、浦上の報告を聞いて、うなずいた。  電話を終えて、テーブルに戻った浦上は改めてコーヒーを飲み、キャスターに火をつけた。たばこをくゆらしながら、大判の時刻表を取り出した。  浦上にとって、時刻表は、取材の必需品だ。一眼レフのカメラと一緒に、必ず、ショルダーバッグに入っている。  浦上は、新横浜駅から鶴見駅までの所要時間を当たった。 「鶴見駅から松見アパートまで、どのくらいかかるか、聞いていますか」 「確か、徒歩十分足らずという話だった」 「宮本の主張に、うそはありませんね」  浦上はたばこを消した。  新横浜から鶴見へ来るには、東神奈川で乗り換えるのだが、新横浜—東神奈川間正味九分。東神奈川—鶴見間は正味七分だった。  これに、待ち時間と、鶴見駅から『松見アパート』までの徒歩時間を加えると、(十八時二十八分に新横浜に下車した宮本は)ちょうど、こたえた通りの時間に、家主の部屋へ到着した計算になる。  たった二日前のことなので、家主の記憶違いといった事態も考えられない。 「あとは、仙台へ引き上げて行った村松次第ですが、やはり、真理と手塚の線がクローズアップされてきますか」 「うん、横浜港が見えるホテルのレストランが、でかい意味を持ってくるか」 「レストランは満席だったのでしょ。客の中に、だれかいないのですかね。真理とフランス料理を食べていた長身の男が、本当に手塚であったのか、そうでないのか、ヒントを与えてくれる目撃者が、一人ぐらいいたっていい」 「われわれでは限度があるけれど、刑事《でか》さんがその気になれば、一昨夜の客をチェックすることは不可能ではないだろう」 「そう、真理と同じように、予約の客も結構いたのではないですか。予約客なら、捜し出すのも容易でしょう」 「しかし、ディナーを食ったのが、実際にアリバイ工作なら、さっきも話し合ったように、シッポをつかまれる失敗《へま》はしていないだろう」  谷田は首を振ったものの、 「真理と手塚の線を追うとすれば、正に、『ホテル・サンライズ』のレストランが突破口だね」  と、自分に言い聞かせるように、つぶやいてから、浦上を見た。 「きみは、これからどうする?」 「先輩は記者クラブへ戻りますか」 「ああ、クラブへ顔を出して、捜査一課へ淡路警部を訪ねてみよう」 「真理と手塚の線に探りを入れますか。じゃ、ぼくは、『週刊広場』の編集部で、先輩の取材待ちということにするかな」  浦上は所在無げに、時刻表をめくった。  神田の『週刊広場』へ上がる前に、もう一度、上野西署へ顔を出しておくか、と、考えかけて、浦上は、 「あれ?」  と、低い声を漏らした。目は、時刻表の一点に向けられている。  微妙な発見があった。 「どうした?」 「宮本ですがね、彼は本当に、�ひかり350号�で新横浜へ帰ってきたのでしょうか」 「家主の証明では不満なのか」 「いえ、それは、それでいいのですが」 「何を見つけたんだ?」 「結果的に意味のないことかもしれませんが、一応メモっておくべきだと思います」  と、浦上が口にした発見は、上野駅—鶴見駅間の所要時間だった。浦上は言った。 「もっとかかると思っていましたが、上野から鶴見まで、京浜東北線で、正味三十四分なのですね」 「そんなものだったかな」  谷田も意外な顔をし、 「おい、三十四分しかかからないということは」  と、口元を引き締めた。 「そうです、宮本は犯行に参加できる可能性を残しているってことです」  浦上は時刻表を差し出した。  宮本が�ひかり350号�に乗車していた証明が出てくれば、新発見は一片の価値も持たなくなる。新横浜を素通りしたとしても、東京着が十八時四十八分だから、十八時五分の凶行に間に合うはずがない。  だが、そうした京都からの足取りを一切無視して、単に犯行だけを考えると、宮本は�参加�の有資格者となる。  不忍池から上野駅までの時間、鶴見駅から『松見アパート』までの時間、それに電車に乗るまでの待ち時間を、たっぷり加算しても、(午後六時五分に殺人現場を出発して)午後七時からのニュース放送中に、悠々とアパートへ帰ってくることができる。 「宮本は、二重丸ではないけれど、完全に名前を消すわけにはいかないってことだな」  谷田は時刻表を閉じた。  この微妙な発見は、真理の夫(村松)と愛人(手塚)のアリバイ次第で、あるいは貴重な意味を持ってくるかもしれない。  まだまだ、流動的である。  谷田は、喫茶店を出たところで、浦上と別れて行った。県警本部へ引き返すには、地下鉄の方が便利なのである。  東京へ向かう浦上は、湘南電車へ乗るために、戸塚駅の改札口を通った。  上りは発車したところだった。待ち時間を利用して、ホームの赤電話で『週刊広場』へかけると、 「浦上ちゃん、そういうことなら、ご苦労でも、そのまま仙台へ行って、村松と真理に会ってきてもらおうか」  と、編集長は積極的な姿勢を見せた。 「軍資金が必要だな。よし、だれか若い者に、取材費を届けさせよう。待ち合わせ場所は、上野駅の旅行センターでいいね」  編集長の声が甲高くなっていた。  浦上が、若い編集者から仮払いのキャッシュを受け取り、東北新幹線に乗ったのは、それから一時間四十分の後だった。  上野発十五時ちょうどの、�やまびこ49号�である。  4章 仙台に帰った夫婦  東北新幹線�やまびこ49号�は、十七時三分に、仙台駅へ到着した。  東北の空もよく晴れており、奥羽の山脈に残照があった。  たった二時間三分、特急に揺られただけだが、たそがれどきに着いたせいか、杜《もり》の都は旅愁を感じさせた。  新幹線の車窓を過った遠くの山影も、たとえばさっき、横浜郊外で眺めた山とは、どこか違っているようだった。  浦上伸介は、列車を降りるとにぎやかな駅ビルを歩き、駅前の歩道橋の上に立ってみた。大きくて、しゃれた歩道橋は、もう一つの駅前広場を兼ねている。  浦上は、最初に、村松夫婦の住居を訪ねる算段だった。村松俊昭は、まだ『浅野機器』仙台支社に勤務している時間であろうが、河原町の『ハイツ・エコー』へ出向くのが先、と、新幹線車中で予定を立てた。  何よりも、真理という女を、この目で確かめたい。真理に会って、『ホテル・サンライズ』のレストランに仕掛けがあるのかどうか、匂いだけでも、かいでおかなければならない。  ケヤキ並木がつづく仙台駅前には、近代的なビルが林立している。すぐ左手は、大きいシティホテルだった。  浦上はざっと駅前を見下ろしてから、歩道橋の反対側に下りて、『丸光』の横からタクシーを拾った。  タクシーはJRのガード下を潜り抜けて、市の東側を走った。  私立の学園など、学校の多い町を過ぎると、仙台味噌会社があり、再び東北線のガードを潜ると、大きいゴム工場が見えてくる。  タクシーは十字路で左折し、マンションが建ち並ぶ通りに入った。そして、茶色いタイル貼りの、六階建ての前でとまった。  浦上はタクシーを降りると、六階建てのビルが『ハイツ・エコー』であることを確認してから、階段を上がった。  二階へ行くと、階段の近くに、「村松俊昭・真理」と二人の名前が出ている23号室があった。        * 「あの女が殺されたことで、わざわざ仙台までやってくるなんて、週刊誌ってお仕事も大変ですわね」  真理は、ともあれ浦上を、玄関先には入れてくれた。  中廊下で、ドアを開けたままの対話では、近所の耳というものがあろう。当然なことに世間体を意識する真理は、浦上がドアを締めるのを待って、口調を改めた。 「せっかくお訪ねくださっても、お目当ての村松は、遅くならなければ帰ってきませんよ。どうせ、夜半まで飲み歩いてくるのに決まっています!」  文字通り、吐き捨てるような、話し方だった。  二、三問いかけて分かったことだが、今日、真理が村松と前後して仙台へ戻ったのは、世間のうわさを強く気にする、実家の両親の命令だったのである。真理の意思ではなかった。 「あたしは、もう二度と仙台へなどきたくはなかったのよ。あの女を殺した犯人がさっさと逮捕されれば、あたしも自由になれるんだわ」  と、真理は浦上の質問にこたえて言った。  真理は赤いセーターに、黒いタイトスカートだった。束ねたロングヘアを右肩に垂らしており、化粧が厚かった。  しかも、半端な厚化粧ではなかった。いやいや仙台へ帰り、独り部屋に閉じこもっているうちに、焦燥が倍加したのだろう。それで、ルージュを濃く引いたりすることで、気分を紛らわしていた、と、そんな感じでもあった。 (なるほど。思っていた通りの女だな)  浦上は自分の中で、自分に向かってつぶやいていた。  真理は、前触れもない浦上の訪問に対して、別段驚いているふうでもなかった。持って生まれた気の強い性格もあるだろうし、昨日横浜の実家で、刑事から事情を聞かれているためもあろう。  あるいは、横浜の手塚から、 『週刊誌が、恐らくそっちへ行くだろう』  と、自分が取材された旨の電話が入っていたかもしれない。 (うん、それだな)  と、浦上は思った。『ホテル・サンライズ』のレストランに、実際に仕掛けがあるなら、手塚からは、必ず連絡がきているはずだ。  真理は、改めて電話で手塚と話し合い、警察の捜査とか、報道陣の取材に向けて、新しい対処を用意したのだろうか。『ホテル・サンライズ』が偽アリバイ工作なら、二人は口裏を合わせなければならない。  しかし、玄関先での立ち話は、 「ええ、確かに、手塚さんと、二人でディナーを食べましたわ」  というもので、新しいデータを付加してはこなかった。真理は、突っ込まれもしないことについて、余計なことばは口にしないタイプなのかもしれなかった。  そしていまの浦上は、新しい視点で追及するものを、持っているわけではなかった。 「一昨夜、篠原町のお家《うち》へ帰られたのは、相当遅かったようですね」  浦上は、その辺りから探りを入れてみようとした。 「ホテルのレストランを出てからも、ずっと手塚さんとご一緒でしたか」 「あのあと、横浜駅まで、ベンツで送ってもらって別れました」  と、真理はこたえた。  横浜港に面した『ホテル・サンライズ』は、駐車場が狭い。手塚は中華街東門近くの駐車場に、ベンツを置いていた。  ホテルから駐車場までは、徒歩六、七分だ。真理と手塚は、食後、明治屋ストアの前をぶらぶらと歩いて、東門近くの駐車場へ戻ったという。 「なぜ、お宅まで送ってもらわなかったのですか」 「そんなことまで、週刊誌に言わなければいけませんの? どこで降りようと、あたしの勝手でしょ。おとといは、手塚さんとフランス料理を食べることだけが、目的だったのですから」 「手塚さんとは、どこで待ち合わされたのですか」  これは、ひとつのポイントだった。 「関内のセンタービルの前で、ベンツを運転してきた彼に、拾ってもらったのよ」  真理は、彼、というところに力を込めた。今更、取材記者に対して(殺人事件周辺の人間関係を)隠し立てしても始まらない、と、開き直っているようだった。  センタービル前での約束は午後六時だったが、手塚のベンツは、約束の時間より少し遅れてやってきたという。  遅刻といっても、十分前後のことだ。ベンツを運転していたのが、事実、手塚に間違いなかったら、二人は、不忍池の容疑から一歩遠のくことになる。 「奥さんも、手塚さんとご一緒に中華街東門近くの駐車場まで行き、駐車場から歩いて、『ホテル・サンライズ』へ向かわれたわけですね」 「ええ、そうですわ。往復とも、同じコースを歩きました」 「途中、だれか、お知り合いの方に会いませんでしたか」 「いいえ、だれとも」  真理は、厚化粧の口元に笑みを浮かべた。まだ何か質問があるか、という顔だった。 「もうひとつ、大事なことを伺わせてください」  浦上は、声を低くした。 「奥さんはいまでも、宮本淑子さんを刺殺したのが、奥さんのご主人であるとお思いですか」 「村松には、確かな動機があります。村松は、夫婦四人の話し合いの場に、あの女を出すわけにはいかなかったのです」  夫を犯人と指摘する口調には、激しいいらだちがこもっている。  これが演技なら、相当なものだ。 「このことは、すべて刑事さんに話しました。詳しいことは警察でお聞きになってください」 「村松さんの目的は、奥さんの実家の財産ですか。しかし、村松さんと宮本淑子さんの交際は、お二人とも結婚前からのものでしょう。奥さんの前でこういう言い方は何ですが、村松さんと淑子さんは、想像以上に強い絆《きずな》で結ばれていたのではないでしょうか」 「だからこそ、村松はあたしとの結婚を継続するためには、その強い絆を断ち切る必要があったのではありませんか?」 「しかし」 「村松はそういう男なのよ。三年間一緒に暮らしたあたしが、だれよりもよく知っています。上辺《うわべ》は物静かだけど、人妻となった女性といつまでもつづいていたことでも分かる通り、村松は自分勝手で計算高い人間です」  真理の方から無理に離婚を迫れば、それ相応なものを要求してくる。村松は、そうした性格だというのである。  いずれにしても、それぞれに愛人を持つ夫婦が、ぎりぎりの崖《がけ》っ縁《ぷち》に立たされていたのは、事実だ。 「ところで奥さんは、殺された淑子さんのご主人に、よく電話されたそうですね」 「それほど頻繁にかけたわけではありません。でも、あんな女とはさっさと別れてしまった方がいい、ということは、何度かご忠告申し上げました」  淑子は村松と一緒になりたがっている。これは事実なのだから、たっぷり慰謝料でも取って離婚した方がいい、と、電話で繰り返したというのである。 「あの鳥取出身の若いご主人は、もうひとつ決断力がないのよね」  真理の語調には、あからさまな非難があった。  宮本が早いところ淑子を離縁していれば、淑子はより強く村松にアタックしただろう。と、なれば、必然的に、真理と村松の夫婦生活も終えんを迎える。  無論、そうしたもくろみに立っての、離婚の督促である。 「今回、宮本さんの出張先へ電話を入れたのも、同じ趣旨ですか」 「今度こそ、最後の話し合いにしたかったのよね。きちっとけりを付けて、今日辺りは家裁で、二組の離婚問題が表面化していたはずなのに、同じ�離婚�でも、嫌な結末になってしまったわ」 「宮本さんの出張先へまで電話をかけて、離婚の念押しですか」 「あのご主人、人がいいというのか、何とも頼りないので、こっちが、かっかしてくるわ」 「聞いたところによれば、一昨日は、宮本さんが横浜へ帰る途中の、駅へまで、呼び出し電話を入れたそうですね」 「ああ、船岡という駅のことね」 「そうまでなさるとは、奥さんは、何が何でも、昨日に予定された談合に、すべてを賭けていたわけですね」 「だって、あのご主人、土曜日までの出張だったのに、日曜日はともかく、月曜日、会社を休んで寄り道してくるような人でしょう」 「気が変わって、話し合いをすっぽかされたら困ると心配したわけですか」 「でも、こんな結果になるのでしたら、そうまですることもなかったわ」  真理は肩に垂らした長い髪に手をやった。 「村松はいつ逮捕されるのですか」  完全に、夫を犯人視する、感情的な話し方を真理はつづけた。 「警察では、もちろん内偵してるんでしょ。記者さんはどう思いますか。酒好きの村松は、自分のアリバイについて、出張先の横浜で、一人飲み歩いていたとでも言い張るつもりでしょう」  だが、横浜市内のどこの酒場を探ろうと、裏付けなど取れるわけはない。 「真犯人に、アリバイがあるはずはありませんものね」  真理は、そんな言い方までした。  絶壁に立たされているどころか、すでに、断崖から足を滑らせている夫婦であった。        *  浦上は『ハイツ・エコー』を出ると、十字路まで戻って、たばこ屋の赤電話で『浅野機器』仙台支社へかけた。  営業部第一課長村松俊昭は、退社したあとだった。出張帰りなので、定時に支社を出たという。 「しかし、村松課長の行き先は分かっています」  と、電話を受けた男子社員は村松の居所を教えてくれた。立町の居酒屋だった。村松は、真理が言っていたように、酒でも飲まなければ、マンションへ帰る気がしないのだろう。  浦上が居酒屋へかけ直すと、少し待たされて、はっきりした声に代わった。 「もしもし、『週刊広場』ですって?」  村松は、まだ、それほどにはアルコールが回っていないようである。  浦上がいま仙台にきていることを伝え、『ハイツ・エコー』で真理に会ってきたことを告げると、 「家内はマンションに帰っていましたか」  村松は一瞬沈黙した。  取材を断わられるのかと思ったら、そうではなかった。 「週刊広場なら一流誌だ」  村松はつぶやくようにそう言ってから、 「一流週刊誌の記者さんなら、お会いして、話を聞いておいてもらった方がいいかもしれません」  と、態度を決めた。  浦上は取材帳を取り出して、ボールペンを握った。 「そこへ行くには、タクシーに乗って、どこを目標にすればいいですか」 「そうですね、この店でもいいけど、支社の同僚が何人か一緒なのですよ」  村松はちょっと言い渋り、 「ぼく、ここを出ます」  別の店を指定した。 「そっちなら大きい料理屋だし、分かり易いですよ。一時間以内に伺います」  仙台駅に近い中央の、かき料理の店だった。  浦上は国道4号線まで出て、広瀬川のほとりからタクシーを拾った。  町は完全に暗くなっており、国道は車の動きが激しくなっている。  仙台駅へ戻ったのは、午後六時過ぎである。  今夜は、仙台へ泊まることに決めた。東京へ帰ろうと思えば、帰れないことはない。東北新幹線上りの最終�やまびこ58号�は、仙台発二十一時二十一分だ。  しかし、無理をすることはない。ここがシングルライフのいいところだ。突然の予定変更で外泊が重なっても、だれに気兼ねする必要もない。 「かき料理で、宮城の地酒でも、じっくりと味わうか」  浦上はショルダーバッグをずり上げて、駅ビルに足を向けた。  駅はラッシュアワーだった。東北本線のほかに、仙山線、仙石線などが入っている仙台駅は、東京や横浜に匹敵するほどの混雑を見せている。  案内所は二階だった。案内所も、込んでいた。浦上は十分ほど待たされたが、駅に近いビジネスホテルを予約することができた。  浦上は歩道橋に出た。広い歩道橋も、駅のコンコースと同じように、一杯の人波だった。  灯が入った仙台の中心部は、さっきとは別の貌《かお》を見せている。しかし、灯はついたが、東京や横浜とは違って、町全体が、どこか暗かった。  浦上は歩道橋の片隅に寄り、ケヤキ並木を見下ろして、キャスターを吹かした。一本のたばこが、いつになくうまく感じられたのは、真理との立ち話で、柄にもなく体が堅くなっていたためだろう。緊張から解放されてのたばこがうまい。  真理は本当に、夫の村松が淑子殺しの犯人であると思い込んでいるのか。いや、思い込みを口にしたにしては、激し過ぎる。 (あれは、やはり、手塚と組んだ自分たちの犯行をカムフラージュするためのアピールかもしれない)  浦上は駅前の雑踏を見下ろしつづけた。  一昨日、真理が、関内のセンタービル前で手塚と待ち合わせたと主張しているのも、現在と同じ時間帯である。  横浜の中心、関内駅周辺は、仙台よりも、もっと混雑していただろう。人の出入りの激しさは、しかし、目撃者が多いことを意味しない。混雑は、逆に、そこへ現われた人間を、かき消す役目を担ってしまう場合がある。  真理が、ベンツを運転するだれかと待ち合わせたのは事実だ。真理は背の高い男性と、『ホテル・サンライズ』のレストランで、フランス料理を食べているのだから。  だが、レストランの取材では、長身男性が、手塚であったことの確証が得られなかったわけである。  では、ホテル以外の場所ではどうなのか。  関内駅周辺とか、中華街の東門付近で、真理と連れ立っていた長身の男を、しかと目撃した人間はいないのか。  犯行時間、手塚が横浜にいたことの、確かな証明は得られない。しかし、いなかったことの裏付けも取れない現状では、案外、夫の村松を犯人視するカムフラージュが、捜査の目を惑わす結果になるかもしれない。  カムフラージュを引き剥がせるかどうかは、村松俊昭のアリバイにかかってくる。  浦上は、たばこを吸い終えると、青葉通りに下りた。        * 「真理は、あなたにも、そんなことを言ったのですか」  村松は思い詰めたように、じっとある一点に目を向け、しばらくして顔を上げると、改めて浦上を見た。  村松の説明は、昨日、不忍池の殺人現場で、上野西署の清水部長刑事にこたえたものと、全く同じ内容だった。 「なるほど。奥さんの主張は、すべてうそですか」  浦上は細かくメモを取った。 「あなたは、奥さんの真理さんと、奥さんの愛人である手塚常務によって、殺人犯に仕立てられようとしている、と、おっしゃるのですね」 「真理は、今度の事件を刑事さんから伝えられると、その場で、犯人はこのぼくであると名指したそうです」 「奥さんの目的は離婚ですか」 「亭主が愛人を殺したとなれば、これはもう立派に離婚が成立するでしょう」 「ところで、あなたは、奥さんがご主人を殺人者呼ばわりする、このような状況になっても、なお、奥さんと別れる気持ちはないのですか」 「こうなったら意地です。聞いてください記者さん。そりゃ、ぼくも悪かったかもしれない。しかし、夫婦以外の異性関係を持続させてきたのは、真理も同じではありませんか。なぜ、ぼくだけが糾弾されなければならないのですか。こうなったら、愛情でも未練でもありません。意地です。意地でも、ぼくは真理を自由にはさせません」 「あなたの推察通りなら、殺人犯は奥さんと手塚常務ということになる。すると、奥さんは、いずれ刑務所へ入ることになります。それでも、あなたは、離婚届に捺印しないとおっしゃるのですか」 「当然です。いかなる事態が生じようとも、離婚には応じない。それが、ぼくをこんな目に遇《あ》わせてくれた真理への仕返しです」  村松は、怒りをあらわにしてつづけたが、�仕返し�の奥底には、真理の実家である高峰家の、財産に吸い寄せられた視線があるのかもしれない。  浦上は当然それを考えた。だが、いま、何よりも確認しなければならないのは、村松が真犯人《ほんぼし》であるか、否かということだ。すなわち、一昨日午後六時前後、村松がどこにいたか、という問題だ。  浦上がそれを質問しようとしたとき、二本の大徳利と、かき料理が運ばれてきて、会話は中断された。  五十近いテーブルが並ぶかき料理屋は、ほとんど満席だった。客は、大半がサラリーマンのようである。OLと覚しき、若い女性も交じっている。  広い座敷は衝立障子でいくつかに区切られており、浦上が、長身の村松とテーブルを囲んだのは、一番奥のコーナーだった。  浦上の方が壁を背にしているので、村松は壁と向かい合う形になっている。  最初に出されたのは、殻に入った生《なま》がきのカクテルソースであり、つづいて、卓上ガスコンロにかきの土手鍋が載った。 「ま、どうぞ」  浦上が徳利を差し出すと、 「そうですか」  村松は逆らわず、猪口《ちよこ》を手に取った。  将棋愛好者同士は、相互の職業も年齢も知らない初手合いでも、どこか通じるものがあるけれど、酒飲みの場合にも、一種共通したことがいえるかもしれない。  辛口の地酒は、ぬるめの燗《かん》だった。 「お酒がお好きだそうですね」 「記者さんも、強そうじゃないですか」  そうしたやりとりがあって、話は本題へ戻った。 「記者さんに聞いて欲しいのは、ぼくのアリバイのことです」  村松は、自分の方からそれを切り出してきた。 「もちろん刑事さんにも訴えましたが、ぼくはアリバイを消されてしまったのです」 「アリバイを消された?」 「ぼくを嵌《は》めた人間が、犯人に決まっています。犯人は真理に間違いありません」  村松はそうした言い方で、昨日、清水部長刑事に告げた�不審�を繰り返した。 「分かりました。あなたが岡野ホテルへチェックインする前に、淑子さんの名前を騙《かた》ってメッセージを電話してきた女性が犯人であり、それが奥さんの真理さんだというのですね」 「ほかに考えられますか。事情を詳しく知っている人間でなければ、あのような伝言はできません」  村松と淑子のことを詳しく承知していなければ「午後五時三十分」という時間の指定も、「横浜駅西口高島屋一階噴水付近」という待ち合わせ場所も、思い浮かばないだろうというのである。  五時半なら、『浅野機器』横浜本社退社後、無理なく行ける時間だし、高島屋は、村松と淑子が時折り利用してきた待ち合わせ場所だった。 「そうしたことを勘案し、なおかつ、ぼくを無条件に呼び出せる相手といえば、淑子、いえ淑子さんしかいないわけです」  村松が、偽メッセージは真理と手塚が仕掛けた罠ではないか、と、考える要因はほかにもあった。 「これは今朝、横浜から仙台へ引き返してくる車中で、ふっと気付いたのですが」  と、村松は前置きして、今回の横浜本社出張について言った。 「出張は、会社の仕事よりも、ぼくら夫婦と淑子さん夫婦との談合、いわばプライベートな面を優先させたものでした。いずれにしても、出張の用事はあったのですが、日程も決めたのは、本社の意向ではなく、ぼくの方でした」  もちろん、二組の夫婦の話し合いに積極的なのは真理であり、日程を実質的に決定したのも真理だった。  すなわち、真理の意思で、十月二日の日曜日に仙台を出発して、五日の水曜日に帰ってくる予定が立てられたのだった。  村松が改めて問題とするのは、その出張のことだった。  これまで、支社サイドが立てた出張計画を、本社がすんなり受け入れる例は少なかったというのである。  今回、支障もなく予定が通ったのは、なぜか。 「そりゃ、こっちの計画に、本社がいちいちクレームをつけてくるわけではありません。でも、こうなってみると、今度の場合は、陰で、共犯者である常務の力が動いていたような気がしてなりません」  と、村松はつづけ、 「さらに、いまにして問題となるのは、事件当日のことです」  上半身を乗り出してきた。  出張初日は、細かい打ち合わせなどが重なり、どうしても残業になることが多いのだが、一昨日は違った。藤沢工場に急用が出来《しゆつたい》したという理由で、突然、残業は中止されたのである。 「記者さん、これも手塚常務が動いた結果だとしたら、どうなりますか」 「手塚さんには、それだけの権限があるわけですか」 「そりゃ、そうです。常務は営業担当の最高責任者です」 「村松さんを、問題の時間に高島屋へ行かせるために、残業を中止した、と、そう考えるのですね」 「本社の営業部会議が遅くまで開かれていて、ぼくが出席していたら、それこそ明確なアリバイが成立してしまいます」  村松は手酌で、酒を飲んだ。 「ぼくだけじゃない。常務にとっても、営業会議は中止しなければならなかったでしょう」 「手塚さんが犯人であるなら、そういうことになりますね」 「そうです。淑子さんの心臓に刃を突き立てた実行犯が、横浜にいるわけにはいきません」 「村松さんの推理が事実なら、手塚さんは、少なくとも夕方から、本社にはいなかったことになりますね。この点はどうでしょう」  浦上は『ホテル・サンライズ』のレストランで、フランス料理を食べる一組の男女を思い浮かべた。  村松は、手塚の所在に関しては、 「常務とは部屋が離れているので」  よく分からないとこたえ、 「大体が常務は、社内にいるかいないのか、はっきりしない男でしてね。仕事か遊びか知らないけど、しょっちゅう、くわえたばこでベンツを乗り回しています」  と、憎悪と嫉妬が入り交じったような、複雑な表情を見せた。  かきの土手鍋が煮え始めたこともあって、また、話が途切れた。  広い店内は、大分騒がしくなっている。 「村松さん、あなたも、手塚常務も、殺された淑子さんのご主人である宮本さんも、皆さん背が高い。三人とも一メートル八十を超えているのではないですか。そこで、お尋ねするのですが」  と、浦上が質問の角度を変えたのは、鍋を突っつき、地酒を追加したときだった。  質問の核心は、替え玉のことだった。真理とテーブルを挟んでフランス料理を食べた男が、手塚の代役であるなら、似たような体型の男が、どこかにいなければならない。  浦上は、替え玉の仮説は伏せて、『浅野機器』社内に、あるいは真理の周辺に、三人に共通する背の高い男性がいるかどうかを確かめた。  これは、しかし、あっさりと否定された。 「我社《うち》は社員百人の小さい会社です。支社勤務も含めて、全社員を承知していますが、一メートル八十を超えているのは、ぼくと常務だけです。その二人が、真理を中にしてこんなことになるなんて、長身であることがいけないのですかね。なまじ背が高いばっかりに、ぼくは、いつまでも疑いの目で見られそうです」  そして、真理の私的な交友範囲に、長身がいるかどうか、ということだが、 「真理がいま夢中になっているのは、常務一人です」  と、村松はこたえ、真理の学生時代の仲間とか、高峰家の周囲にも、長身の男はいないと思う、と、顔を振った。  すると、浦上と谷田の話し合った代役説が事実なら、それは手塚の方の交友関係の中に潜んでいることになろうか。 (もしもそうであるなら、ベンツを乗り回す手塚に、尾行でもつけるしかあるまい)  浦上も手酌で飲んだ。地酒の口当たりはいいし、松島産のかきもうまい。しかし、折角の味を、素直には味わうことのできない浦上と村松の対人関係であり、酒席の話題であった。  事前に『岡野ホテル』へ届いていたメッセージによって呼び出された村松は、昨日、清水部長刑事に向かって、 『午後五時の終業時間を待って、すぐに会社を出ました。関内駅から地下鉄を利用して、約束の時間よりやや遅れて、噴水前の広場に到着しました』  と、語り、現われるはずもない淑子を、 『ぼくは六時半まで待ちました』  と、述べている。  午後五時半過ぎから六時半といえば、デパートも混雑する時間だ。  噴水前の、たばこ売場の陰に一時間余りたたずんでいたとはいえ、人妻との人目を忍ぶ密会なのである。  村松は人込みの中に自分を隠していた。隠そうと努めていた。 「記者さん、ぼくは、正に凶行に該当するその時間帯を、自分自身の手で空白にしてしまったのです。いえ、真理の陰謀に乗せられて、一時間、言ってみればブラックホールの中に閉じ込められていたわけです」  村松は、どうしようもないという顔をした。 「こればかりは、ぼくが百万言費したところで、当事者のことばだけでは、通してもらえないのでしょ? 確かに、デパートには大勢の人間がいました。でも、だれ一人として、ぼくがそこにいたことを証明してはくれないでしょう」  村松が、さっき、 『一流週刊誌の記者さんなら、お会いして、話を聞いておいてもらった方がいいかもしれません』  と、浦上の電話にこたえたのは、自分が置かれた状況を訴え、相談したいためだった。 「記者さん、真理のことも、淑子さんとの関係も、すべて包み隠さずに言います。何とか、力を貸していただけませんか」  村松は、本来の目的を口にし、新しい表情を見せた。無実を訴えるその表情を、もちろん、そのまま受け入れるわけにはいかない。自らアリバイを消されたと主張することが、(真理とは違う形での)カムフラージュであるかもしれないからだ。 「唯一の手がかりは、メッセージを届けてきた電話の女性ですね。彼女が淑子さんでないことだけは間違いないでしょう」 「当たり前です。このぼくを高島屋へ呼び出しておいて、何で、彼女だけ上野公園へ行ったりしますか」  村松の面持ちは、確かに、見たところは真剣だ。  しかし、村松が根拠とするところの、「村松と淑子のことを詳しく承知して」いる人間は、真理のほかにもいるではないか。そう、当の村松自身だ。  最初から存在するはずもない「アリバイを消す」ために、ありもしないアリバイの存在に説得性を持たせるために、電話は、村松自身が、どこかの女性を使って仕組んだ事前工作だった、ということはないのか。浦上が、一瞬、上野西署の清水部長刑事と同じ不審に見舞われたのは、当然である。  捜査本部が把握する村松の動機も、決して小さいものではない。その動機が除去されない限り、村松は、真理(手塚)や、淑子の夫である宮本同様に、淑子殺しの、立派な有資格者だ。 「村松さんは、電話をかけてきた女性のことを、岡野ホテルに尋ねましたか」 「もちろんですよ。ぼくだけではなく、刑事さんも当たったようです。しかし、メッセージを中継したフロントが記憶しているのは、女性であるということだけでした」  ことばに地方|訛《なまり》のような特徴はなかったし、年齢の見当もつかない、と、フロントのマネージャーはこたえたという。  それはそうかもしれない。外線電話など、ホテル側は事務的に処理するだけだ。よほどのことでもなければ、覚えていないのが当然だろう。  結局、�電話をかけてきた女�は、含みとして残されることになる。『ホテル・サンライズ』で、真理とディナーを食べた�長身の男の実体�と同じようにである。  長身の男がもう一人いるかもしれないように、電話の女も、村松の周辺に潜んでいるのかもしれない。  が、それはともかくとして、村松のアリバイが成立しないことは分かった。現場不在を証明できないということは、すなわち犯行参加を意味するのか。 「村松さん、これは、あなたのアリバイを確認するために伺うのですが」  浦上はそうした言い方で、テーブルの上に取材帳を開いた。 「会社を出たのは、正確には何時でしたか」 「終業のベルを待っていて、飛び出したのです。ですから、五時ジャストです」 「それは、もちろん証明する人がいるでしょうね」 「当然です。同僚たちへお先に、と、声をかけ、ずいぶん急ぐんだな、と、ことばを返されました」  村松は、『浅野機器』を出ると、地下鉄関内駅へ下りて行ったというのだが、問題は、それから先の行動だ。  会社を一歩出た、そのときから、目撃者は一人もいなくなるのである。 『岡野ホテル』へ戻ったのは、午後十時頃だったという。村松は、(真理が言っていたように)横浜駅西口周辺で酒を飲んで、ビジネスホテルに帰った。  淑子は現われないし、亭主の宮本がいる『松見アパート』へ電話をかけるわけにもいかない。  村松は、念のために『岡野ホテル』の方へ電話を入れてみた。淑子に急な用事ができたのなら、伝言が来ているかもしれないと考えたからだ。  しかし今度は、何のメッセージも届いていなかった。  そこで、酒好きの村松が、夕食を兼ねて酒場ののれんを分けたのは当然だろう。だが、立ち寄った居酒屋とビヤレストランは、いずれも初めての店だったという。これまた、そこにいたことが証明されるのは難しいだろう、と、村松はつぶやき、 「それもブラックホールの延長といえばいいのか。ぼくはついていません」  肩を落とした。 「酒を飲んだのは、どちらも大きい店でしたか」 「ええ、ここのかき料理屋よりもずっと広いし、二軒とも満席でした」 「そのときのレシートは、取ってありますか」 「こんなことになるなら、大事にしておくべきでした。でも、飲み屋の代金など、出張経費から落ちるわけではありません」  村松は、最初からレシートを受け取らなかったという。  村松は午後五時に、関内の『浅野機器』を出た。そして午後十時頃、横浜駅西口の『岡野ホテル』に入った。  存在を証明することのできない空白は、五時間。その五時間の中に、問題の�午後六時五分�が、厳として屹立《きつりつ》している。 「村松さん、その五時間の中から、証人を捜し出すことですね」 「できるでしょうか」 「まだ、二日しか経っていないわけですよ。ご自分がご自分を隠そうと努めていた高島屋の方は無理でも、居酒屋とビヤレストランでどうにかなりませんか」  浦上はそう話しかけながらも、焦点は、やはり高島屋だと考えていた。居酒屋とビヤレストランは、不忍池の犯行後立ち寄ることも、可能だったからである。  上野—横浜間の所要時間が、京浜東北線で正味四十三分であることを、浦上は承知している。昨日、浦上は、上野—関内間を実際に乗車したばかりだ。  犯行後、大雑把《おおざつぱ》に見ても、午後七時半なら、横浜駅周辺の店に現われることができる。と、いうのは、七時半過ぎの存在証明は意味を持たないことになる。  そこで絞り込むべき問題は、村松が主張する�アリバイを消された時間�を、犯行に活用できるかどうか、ということだ。  村松の目の前で、時刻表を広げるわけにはいかない。しかし、いちいちダイヤを確認しなくとも、関内—上野間が正味四十八分であることを浦上は知っている。 (四十八分)  浦上は土手鍋を突っつきながら、自分自身へ刻みつけるように、つぶやいていた。声には出さない自分の中のつぶやきは、 (そうか、この男も、殺人現場に立つ余地を残しているぞ)  という具合に変わっていた。  浦上は、『浅野機器』本社から関内駅まで、急げば一分で行けることを、これまた体験的に承知している。上野駅から池畔まで走って五分と計算すれば、待ち時間なしの正味五十四分で、『浅野機器』本社から不忍池へ到着可能だ。  ちょうど、ラッシュアワーである。朝夕はJRの本数も多い。  電車待ちの時間を、仮に五分と見ても、五時五十九分には、柳の木の下に立つことができる。 (途中、湘南電車を利用する手段もあるが、これは、「横浜」と「東京」二つの駅での乗り換え・待ち時間を加算すると、必ずしも時間を短縮できるとはいえない。また、京浜東北線には�快速�が導入されているけれども、この時間帯には走っていない)  ぎりぎりだが、殺人だけが目的なら、六分あれば十分だろう。いや、�六分�を、別な形で短縮することが可能かもしれない。これは、実地に当たってみなければならないが、(リハーサル済みなら)関内駅で、待ち時間なしで、電車に飛び乗ることができるはずだ。すると、持ち時間は、十一分ということになる。  上野駅と池畔の間も、実際に走ってみれば、五分かからないかもしれない。 (この男も、手塚と同じように、二重丸か)  浦上は、思わず顔へ出かかる不審を隠すようにして、もう一杯、手酌で、猪口をあけた。 (黒い糸は解けるどころか、こんぐらかってきたな)  浦上の、目の動きが複雑だった。  手塚久之、宮本信夫、そして村松俊昭。浦上は今日、この順序で、三人に会ってきたわけである。確かな動機を持つ�容疑者�は、三人とも一応のアリバイが用意されているようでいながら、もう一つ、第三者の証明を欠いている。  すなわち、�午後六時五分�不在の、絶対的な証明を、三人は備えていないのだ。 『ホテル・サンライズ』で食事していたことをアリバイとする手塚は替え玉の可能性を残しているし、東海道新幹線�ひかり350号�経由で、午後七時過ぎに『松見アパート』へ帰ったという宮本と、高島屋での待ちぼうけを無実の基盤とする村松は、時間的に犯行に立ち会える余地を残している。  実行犯は、一体だれなのか。  本格的な取材に着手してから丸一日。わずか一日ではあるが、真理を含めて、四人の関係者全員に当たることができた取材は、それなりに順調だったといえよう。  だが、一人ずつ消して、決定的な最後の一人を残すはずだった消去法は、結果的に何の進捗《しんちよく》も見せていない。�三人�は、結局三人なのだ。 (背の高い男か)  浦上は、改めて、目の前の村松を見た。確かに、殺人後の犯人の逃亡は、目撃されたのではなくて、目撃させたのだと、浦上は繰り返し思った。三人の中に一人でも背の低い男がいたら、それこそ有無を言わせぬ消去法で、容疑者は二人に絞られるのである。  絞り切れないままに、動きを封じられるのか。  上野西署の捜査本部には、進展があっただろうか。  仙台に帰った村松夫婦をこのままにしてあるところから見ると、捜査は停滞しているのかもしれない。 「ま、やりませんか」  村松は、黙りこくってしまった浦上を見て、徳利を差し出してきた。  5章 鳥取みやげと伝言電話  浦上伸介が、仙台のかき料理屋で村松相手に釈然としない時間を過ごしている頃、横浜の谷田実憲は、鶴見区の『松見アパート』にいた。  谷田の住居は、東横線と横浜線が交差する菊名駅近くの、住宅団地だ。子供のいない谷田は、団地三階の3DKで、妻と二人の生活をつづけている。  この夜谷田は、支局へ上がらなかった。記者クラブを出ると、関内から根岸線(京浜東北線)で帰途についた。  東神奈川で横浜線に乗り換えようとして、気が変わった。鶴見は、そのまま京浜東北線に揺られて行けば、東神奈川から二つ目の駅なのである。 (刺殺された淑子と、宮本。夫婦が住んでいたアパートを、この目で見ておくのも、意味のないことではあるまい)  谷田は仙台へ向かった浦上のことを、考えた。真っ直ぐ帰宅して一杯、という気にはなれなくなってきた。  鶴見駅から徒歩十分足らず。『松見アパート』は、佃野町《つくのちよう》商店街の裏側だった。  路地の奥に、似たようなモルタル塗り二階建てのアパートが何軒かあった。『松見アパート』は、比較的新しい感じだった。  家主夫婦の部屋は、一階の取っ付きである。六十過ぎと覚しき夫婦だった。  子供たちは独立して別居しているのか、アパート一階の2DKに住んでいる家主は、二人暮らしだった。 「お通夜といっても、宮本さんの奥さんの実家は、瀬谷の先でしょ。鶴見からは遠いので、失礼して、昼間のうちにお焼香させてもらいました」  と、小柄な家主は女房と顔を見合わせて言った。谷田も昼過ぎに焼香してきたことを告げ、さっき戸塚の喫茶店から電話を入れた浦上は親友であると伝えると、 「そうですか、それはどうも」  家主はある種の親しさを見せて、部屋に上げてくれた。  家主夫婦は、夕食を終えたところだった。二人してテレビの時代劇ドラマを見ていたのだが、テレビを消して、お茶を出してくれた。 「どうして、あの奥さんが、こんなことになったのでしょう」  と、不審と興味をあらわにする家主は、淑子に村松という愛人がいたことを知らなかった。淑子を取り巻く複雑な人間関係は、一切公表されていない。  宵闇の上野公園不忍池で、淑子が、 『ね、冗談よね。本気で、そんなこと言ってるわけではないのでしょ』 『いつまで、くだらない夢を見ているんだ!』  と、男性と会話を交わしていたことは、通りかかった学生の証言で分かっている。その点だけは、記者会見で発表されている。  その上、夫の宮本が鳥取へ出張中だったと知れて、一部の新聞は「人妻の情事?」と書き立てたが、捜査本部は、背景の肝心な点にはほとんど触れていない。  捜査一課淡路警部のオフレコという形で、淑子�周辺の動機�をキャッチした谷田だけが例外なのである。  谷田は、無論その辺りは適当にそらして雑談し、雑談の中で、宮本夫婦の日常を聞き出したが、特別な発見はなかった。 『松見アパート』が新築されたのは、二年前の秋だった。完成を待って入居してきたのが、結婚式を挙げたばかりの、宮本と淑子である。 「うちのアパートには、ほかにも新婚さんが入っています。宮本さんとこも、ほかのご夫婦と変わった様子は見えませんでしたよ」  べたべたするほど仲がよかったというのではないが、言い争いなどをするわけでもない。 「鳥取出身の旦那さんは口数が少なくて、見るからに純朴で、まじめな人です。それに比べて奥さんの方は、お化粧とか服装が派手好みでしたね」  しかし、あの奥さんが旦那以外に男性と情事だなんて、信じられない、と、家主夫婦は口をそろえて言った。  故人をかばって、うそをついている感じではなかった。家主夫婦の目には、実際に、ごく一般的な若妻と映っていたのだろう。 「それでは、男性がアパートへ訪ねてきた、なんてことはなかったわけですね」 「そうしたことは一度もありません」  家主は即座に否定した。否定してから、 「あ、そういえば」  と、言い足した。 「男性がきたことはありませんが、旦那さんの方に、女の人から何度か連絡がありましたよ」 「女性? どんな人ですか」 「顔は知りません。ここんとこつづいて四回ほどだったかな、いずれも電話でした」 「電話なら、宮本さんの部屋にも引いてあるでしょ。何で、大家さんのところへかけてきたのですか」 「ご夫婦とも、まだ帰ってきていなかったので、それで伝言を頼まれたのですよ」  伝言は、いずれも至急電話を欲しいという内容だった。そして、家主は、その女性の名前を覚えていた。 「何の愛想もなく、ぱりぱり用件だけを言う女の人でしてね。ええ、村松さんという方です」 「なるほど」  谷田はうなずいた。  真理という女の執拗さが、目に見えるようである。恐らくは、宮本の勤務先『日東カー用品』横浜支店、あるいは宮本の出先へまで電話で追いかけ、それでもつかまらなくて、アパートの家主に伝言を頼んだ、ということだろう。 「ところで、これは先刻、浦上君が電話でお尋ねしたことですが」  谷田は質問を、一昨日の夜に絞った。  やはり新しい発見はなかった。すべて、宮本が言った通りであり、家主の返事も、さっき浦上の電話にこたえたことと変わる点は、なかった。 「おとつい、鳥取みやげに頂戴した二十世紀梨がこれです」  と、家主は、食卓の右手を指差した。みやげ物用に、梨をパックした手提げかごが、食卓の下に置かれてあった。かごの中には、まだ大きい梨が二個残っている。 「ほう、見事な二十世紀ですね」  谷田はそろそろ立ち上がろうとして、何気なく、梨のかごに手を伸ばした。無為に終わりそうだった訪問を救ったのが、このパック用の手提げかごにほかならなかった。  かごの中に、思いもかけない発見があった。 「ん?」  谷田が不審のつぶやきを漏らしたのは、かごの底へ目を向けたときだった。最後に残った二個の梨の下側からのぞいているのは、小さい短冊だった。 「お願い」と見出しの付いた印刷物だった。谷田が、思わずかごの中へ手を突っ込んで、短冊を取り出していたのは、「福島」という活字が目に入ってきたためである。「お買い上げ誠にありがとうございました。福島特産の二十世紀梨です。万一変質等ありましたときにはご一報ください。早速お取り替えさせていただきます」といった内容であり、欄外に、次のように印刷されている。   福島市飯坂町中ノ内 吉井果樹園 「福島?」  谷田は短冊を手にして、もう一度小声でつぶやいてから、家主夫婦に尋ねた。 「これが、この梨が、宮本さんの鳥取みやげですか」 「梨がどうかしましたか」 「最近おたくでは、同じような梨のおみやげを、宮本さん以外からも、もらっているのと違いますか」 「記者さん、妙なことをおっしゃいますね。みやげに頂戴した梨は、これだけです。ほかにはありません」 「すみませんが、これ、お借りしてもいいですか」  谷田は、かごの底から取り出した短冊を、家主に示した。  家主はそれがどうしたという顔をし、 「お借りしたいって、そんなもの、差し上げますよ」  と、言った。  谷田は短冊を、背広の胸ポケットにしまった。鳥取みやげが、なぜ福島産なのか。鳥取と福島では、逆方向ではないか。  谷田は、鳥取の二十世紀梨は承知しているけれども、福島産には詳しくなかった。 「この梨のかごをもらったとき、包装紙はついていませんでしたか」 「いいえ。むき出しでしたよ」  と、これは女房の方がこたえ、 「現地で販売しているみやげだから、デパートなんかと違って、包装はしていないのではないですか」  と、家主が言い添えた。  しかし、みやげ物用にパックされ、こうした「お願い」の印刷物まで入れておきながら、むき出しということがあるだろうか。  包装紙が付いていれば、当然「福島」産と明示されてあるはずだ。家主夫婦も、不審に見舞われただろう。  包装紙は、宮本が意図的にはがした、ということはないのか。と、したら、その真意は何か。        *  谷田は『松見アパート』を出た。  鶴見駅へ引き返す歩調は速いのだが、どこか、重い感じも与えた。その足元に、整理のつかない混迷が反映されている。  駅の手前に、大きい生《き》そば屋があった。ドアの内側に赤電話があるのを見て、谷田は生そば屋に入って行った。  午後九時に近いが、下町のそば屋は込んでいた。近所のアパートに住む、勤め帰りの独身者の姿が多いようである。  谷田もまだ夕食前だ。谷田は、食事の支度をして待っている妻を思い浮かべながら、 「これも仕事のうちだ」  ぶつぶつつぶやき、入口に近いテーブルに腰を下ろした。  天ざるに熱燗《あつかん》を注文してから、赤電話に向かった。  福島の一〇四番に問い合わせると、飯坂《いいざか》の『吉井果樹園』はすぐに分かった。  谷田はコインを用意して、かけ直した。今度は、先方が出るまでに、間があった。果樹園は朝が早いので、夜も早いのかもしれない。 (明朝にするか)  谷田が短冊に目を落としてそう考えたとき、ようやく相手が出た。  電話に出てきた男の声は、思った通り、眠そうだった。眠そうではあるが、東北の人間は不親切ではなかった。  谷田が夜分電話したことをわびてから、質問に移ると、 「そんなことはありませんよ」  果樹園側は、谷田の疑問を否定した。 「鳥取へ梨を出荷するなんて、そんなことはありません。ご承知だと思いますが、鳥取は有名な梨の生産地ですよ」  質問の意味が、よく分からないという感じだった。確かに谷田の質問は、いきさつを何も説明しないので、手前勝手もいいところだった。  谷田は、それを百も承知でつづけた。 「実は、そちらの果樹園で売り出されているパックのかご詰めについて、お伺いしたいのですが」  と、「お願い」の短冊を口にし、包装紙の有無について質した。  果たして、包装紙が使用されていないということはなかった。形式的だが、ラベルのような小さいものが、上部に被《かぶ》せてあるという。 「もちろん、それには、福島の吉井果樹園と印刷されてあるわけですね」 「はい、色刷りで、福島特産と明記してあります」  問題のパックは七個詰めで千円。駅売りとして納品されたものだった。 「駅売りというと、福島駅ですか」 「福島のほかに郡山《こおりやま》駅で販売しております」 「このかご詰めは、いずれにしても、福島県へ行かなければ手に入らないわけですね」 「お客さんは、どちらの方ですか」 「ぼくは横浜ですが」 「ああ、それでしたら、東京の、上野駅でも売っていますよ」 「上野?」  谷田の顔色が変わった。  谷田はもう一度、遅く電話したことをわびて、受話器を置いた。  テーブルに戻ると、天ざると熱燗が載っていた。 (上野か)  谷田は一口酒を飲んでから、「お願い」の短冊に目を向けた。宮本が、みやげの二十世紀梨を、上野駅で買ったとしたら、問題だ。  宮本は、さっき谷田と浦上に説明した�ひかり350号�には乗っていなかったことになる。宮本が、�ひかり350号�より早い列車で東京へ到着していたらどうなるのか。午後六時五分の殺人を起点として、宮本は余裕を持って、午後七時過ぎに『松見アパート』へ帰ってくることができるのだ。この足取りは、浦上がさっき、きちんと計算している。  宮本は犯行後、上野駅構内でかご詰めの梨を買い、形式的に被《かぶ》せてあったという「福島特産」の包装紙をはぎ取り、鳥取みやげと偽《いつわ》って、『松見アパート』の大家へ届けたのだろうか。  みやげが、鳥取産ではなく、福島産である以上、そういうことになろう。  しかし、上部の小さい包装紙は捨てたものの、かごの底に挟まれた「お願い」の短冊までは、気付きようもなかった、と、いうことか。 (これは、えらいことになったぞ)  谷田はぐいっと、日本酒を飲んだ。思いもかけなかった新発見と、発見のもたらした情報が、微妙な緊張を運んでくる。  鳥取産でもない二十世紀梨を、鳥取みやげと称して、宮本が届けた意味は何か。  鳥取出張後立ち寄ったという、京都府下に住んでいる友人宅から、横浜へ直行したことを強調するためであり、 (不忍池へなど、寄り道していなかった)  と、それを暗黙のうちに主張したかったために決まっている。 (宮本も、二重丸か)  そう、梨パックの操作は、逆な見方をすれば、宮本こそが真犯人《ほんぼし》である、と、示しているのかもしれない。  宮本が京都経由で帰ってきた時間的な問題は、これから再検討するとしても、福島の梨を鳥取産と装ってみやげとした事実、これだけは動かない。  この事実は、仮説を立てる上で、相当な比重を占めてこよう。  が、だからといって、もちろん、他の二人の影が、払拭されるわけではない。他の二人もまた、そのまま、クロい影を引きずっている。  しかし、実際に、淑子の左胸に刃を突き立てたのは、三人の長身の男の中の一人だけである。  実行犯は、一人だ。  三人の中の二人は、殺人《ころし》と直接的なかかわりを持たない。シロなのである。  それなのに、なぜ、三人がそろいもそろって、こうした、あいまいな状況に置かれているのか。  クロい人間がシロの中に隠れている犯罪は多いけれども、今回のような逆の例は珍しい。今度の取材は、犯人捜しでなく、いってみれば、凶行と無関係なのはだれか、という追及である。 (おかしな事件《やま》もあったものだ)  谷田は酒を飲み干し、口元をとがらせた。  三人の目撃者によって、犯人が一人と限定されているからいいようなものの、これが、たとえば室内の殺人で、複数犯の可能性があったとしたら、三人が三人とも捜査本部へ連行、という事態を招いていたかもしれない。 (どいつが真犯人《ほんぼし》なんだ)  谷田を覆う焦燥は、仙台で浦上が感じているのと、全く同質なものだった。谷田は天ざるを食べ残して、生そば屋を出た。        *  浦上伸介は、村松と別れて、仙台駅前のビジネスホテルに入った。  早速横浜へ電話をかけたが、谷田はまだ帰宅していなかった。 「連絡がないから、もう戻ってくると思うんだけど」  と、谷田の妻はこたえた。夫がかわいがっている後輩なので、浦上に対する口調には特別な親しみが込められている。 「それにしても浦上さん、急に仙台出張とは驚いたわ。そっちは寒いんでしょ。夜ふけまで飲み歩かない方がいいわよ」 「先輩の帰宅を、ホテルでおとなしくお待ちします」  浦上はホテル名と電話番号を告げて、電話を切った。  ビジネスホテルなので、大した設備はないが、一階のレストランが午後十一時まで開いており、アルコールを出していることが分かった。  浦上はいったん部屋へ入り、シャワーを浴びてから出直した。  レストランはテーブルが五つに、カウンター席という小さいものだった。意識的にそうしているのだろう、照明が暗かった。  客席は半分ほどが埋まっている。  浦上はカウンターに陣取り、水割りのダブルを頼んだ。  村松とかき料理屋で飲んだ地酒は、半端な酔いを浦上に運んでいた。酔いが半端であるのは、村松に二重丸を付けたことに起因している。村松は『浅野機器』本社から直行すれば、十分、殺人可能なのである。 �高島屋のアリバイ�が、村松の事前工作であるならば、村松は二重丸どころか、三重丸となる。  一刻も早く、この発見を谷田に伝えたい。そして、発見の裏付けをとりたい。そう考えると、地酒も、水割りのダブルも、もうひとつ、浦上を酔わせない。  待っていた呼び出し電話が横浜からかかってきたのは、二杯目のダブルを空にし、三杯目をオーダーしたときだった。  カウンターの端に載っている白い受話器を取ると、 「おい、おかしなことになってきたぞ」  谷田の太い声が、がんがんと響いてきた。 「待ってくださいよ、先輩」  浦上は、性急な谷田を制して、仙台での発見を言った。  レストランの従業員や、客を意識した小声で、 「女房の真理が言う通りで、村松が真犯人《ほんぼし》かもしれませんよ」  と、浦上が強調すると、 「なるほど。それも無視できないか」  谷田の、電話機を伝わってくる口調が、変わった。 「しかし、それは、飽くまでも、仮説の問題だよな」 「何を言ってるのですか。すべては仮説から出発するのではありませんか」 「それはそうだが、オレは物証らしきものをつかんだ」 「らしきもの、とは何ですか」 「福島の果樹園の短冊だ」  谷田は、いささか興奮した声になった。高ぶる自分を抑えるようにして説明したのが、�鳥取みやげ�の正体だった。 「おい、宮本は、何ゆえ、福島の梨を、鳥取産と偽らなければならなかったんだ」 「宮本は、うそをついているのですか」 「宮本の言動が純朴そうだからって、上辺に惑わされてはいかんぞ」 「そんなことは分かっていますよ」  と、浦上はこたえて、谷田に劣らない緊張が、体内に走るのを感じた。  みやげにした梨の操作が事実なら、宮本は、三人の容疑者の中でも、もっとも大きな存在となってくるかもしれない。 「実行犯が宮本なら、不忍池での凶行を終え、上野駅へ引き返したときに、構内で売られていた、梨のかご詰めに気付いたのでしょうね」  と、浦上は言った。  みやげは、キヨスクの梨を見て、場当たり的に思い付いたことだろう、と、浦上が考えるのは、その気なら、事前に用意することが可能だったからである。そう、実際に鳥取の梨を、鳥取からぶら下げてくればいいではないか。  犯行時には駅のロッカーなどへ入れておき、殺人完了後にロッカーから取り出せば、事足りるはずである。 「確かに、�鳥取みやげ�は、先輩が言う通り、京都から横浜へ直行したことを、強調するためのものだったのでしょう。でも、宮本が真犯人《ほんぼし》なら、結果的に墓穴を掘ったことになります」 「なるほどね、思わず知らず目に入って、咄嗟《とつさ》の思い付きで買ったみやげってわけか」 「それにしても先輩、松見アパートまで行って、かごの底から短冊を見つけ出してくるなんて、恐れ入りました」 「幸運は、まだ二日しか経っていなかったってことだよ」 「うん、それはそうかもしれませんね。これが、一週間か十日先の取材なら、かごは残っている方が奇蹟です」 「しかし、オレはいま有頂天で鶴見から帰ってきたけど、きみの仙台での発見も、小さくはないな」  と、谷田はまた口調を改めた。  確かに、そうだった。村松の場合は、関内の『浅野機器』本社を出発してから上野公園へ行く時間と、上野から横浜へ引き返してくる時間を、はっきり想定することができる。  最後までアリバイが裏付けられなければ、この想定が、ものを言ってくるだろう。  だが、宮本の方は、犯行後の、上野−鶴見間のルートは問題ないわけだが、山陰本線から京都経由で不忍池へ行く時間が、まだ分析されていない。 「もう一度、宮本に会わなければなりませんね」 「おい、今夜、深酒はやめるんだな。明日は、できるだけ早く、仙台を発つことだ」 「飲んだところで、ろくに酔えそうもありません」 「オレも明日は、朝駆けで、淡路警部をマークする」 『ホテル・サンライズ』で、真理とフランス料理を食べたのが、手塚の替え玉かどうか、淡路警部が懸命に洗っている、と、谷田はつづけ、 「手塚、宮本、村松。本当にすっきりしないやつらだ。三人それぞれに無実を主張するなら、無実であることの、明確な裏付けを持ってこいっていうんだ」  独白的に、そう言って、電話を切った。        *  翌十月六日、木曜日。  浦上伸介は、食事もとらずにビジネスホテルを出た。仙台駅で鮭はらこめし弁当を買い、缶ビールを一個だけ付けた。  乗車した東北新幹線は、仙台発午前七時の�やまびこ102号�である。  仙台を出ると、福島、郡山、宇都宮、大宮と停車して、上野に着いたのが、九時ちょうどだった。仙台では空席が目立ったが、列車は途中から込み始め、終着上野では座席は完全に埋まり、通路に立つ乗客もでた。  昨日と同様に、風もなく穏やかな日で、秋の空はよく晴れている。  浦上はもう一度不忍池へ足を向けた。殺人現場へ行くのは、一昨日の夕方以来二度目だが、今回は所要時間の測定という目的を持っていた。村松が犯人である場合は、その持ち時間に幅を持たせるための実験である。  浦上はかつて、京浜東北線のホームから東北新幹線の地下ホームまで、構内を走って、乗り換え時間を測定したことがあるけれど、今回も、京浜東北線の1番線ホームが出発点となった。浦上は最短コースを選び、しのばず口から、京成上野駅の前を通って、目的地へ向かった。  道路が込んでいないせいもあってか、小走りの浦上は、四分を切るタイムで、柳の木の下に到着していた。  実験結果は、可も無く、不可も無いというところだった。  朝の上野公園は、当然なことに、夕方とは別な貌を見せている。宵闇の中でアベックがたたずんでいた場所には、犬を散歩させる老人がいた。  一昨日の夕方は気付かなかったが、淑子の刺殺された場所に、ひな菊の花が置かれてあった。コーラの空き瓶に差した白い花である。  取材帳に名前が出ている四人(宮本、村松、真理、手塚のうちのだれか)が、供えたとは思われない。  恐らく、事件とは何の関係もないが、下町の人情が手向《たむ》けさせたものだろう。  この池畔が殺人現場に選ばれたのは、しかるべき人間に、逃亡を目撃させることだけが目的だったのだろうか。  浦上は白い花を見下ろしながら、三日前の宵闇を思った。目撃させるだけなら、場所は、ほかにもあるだろう。  夫である宮本は、一昨日、上野西署の捜査本部からの電話に対して、 『淑子は、横浜で生まれ育った人間です。東京へなど、滅多に行きません』  と、口走り、その後、面と向かった刑事には、こうこたえている。 『淑子を地理不案内な東京へ呼び出して殺したのは、村松の女房ではないでしょうか』  そうしたやりとりの細部を、もちろん浦上が承知しているわけではないが、白い花に目を向けて考えたのは、 (被害者《がいしや》の生活圏からいって、場所は横浜の方が自然だな)  ということだった。  それこそ、『ホテル・サンライズ』に近い山下公園でもいいし、港の見える丘公園でもいいだろう。鶴見から京浜急行を利用して呼び出すなら、野毛山公園だってある。  それぞれに、不忍池同様に、デートを楽しむ若者たちがいるだろうし、散策する人間もいただろう。逃亡姿を目撃させる相手には困らないはずだ。  なぜ、横浜市内ではなくて、東京都内を犯行現場としたのか。  横浜は、犯人にとっても生活圏だ。逃亡を目撃させるだけならまだしも、実際に顔見知りのだれかと擦れ違う危険が、あるかもしれない。  犯人は、万一を警戒したのだろうか。日々、生活している場所であるなら、ことばを交わしたり、あいさつするような仲でなくとも、どこのだれ、と、顔だけは承知している人間がいるものだ。こっちは記憶していないのに、一方的に知られている場合もある。 (しかし、それは考え過ぎかな)  浦上はキャスターをくわえた。  犯人が万一を警戒したのかもしれないということを、含みに残すとすれば、 (狙いは、やはりアリバイ工作か)  浦上は、ゆっくりとたばこを吹かした。横浜に偽アリバイを用意し、横浜にいたのだから、都内の殺人には参加できないという主張。  手塚も、村松も、そして宮本も、�横浜�を無実の根拠としているのである。 (ほかにないか)  浦上はたばこをくゆらしながら、人影の少ない砂利道を、上野駅へ戻り始めた。  もうひとつ、考えられるのは、 (犯人《ほし》にとって、上野は、犯行が容易だったのではないか)  と、いうことだ。そう、推理を、横浜の公園の伝で広げれば、(上野まで連れてこなくとも、生活圏をちょっと離れた場所で)もっと鶴見に近い都内、たとえば六郷のゴルフ練習場とか、多摩川園辺りへ、淑子を呼び出してもよかったはずである。 (やっぱり上野は、犯人《ほし》にとって、犯行がたやすかったということかな)  浦上はたばこを消した。  と、すると、東京の上野は、だれにとって一番都合がいいのか。  浦上は上野駅へ引き返した。  公園の閑静がうそのように、ターミナル駅は混雑している。まだ、通勤ラッシュがつづいているのである。  浦上は構内のスタンドで、アメリカンコーヒーを一杯飲んでから、カード電話の前に立った。かけた先は『週刊広場』編集長の、杉並《すぎなみ》の自宅である。 「あれ? もう東京へ帰ってきたのか。そりゃご苦労さん」  編集長の声には、いつものような甲高さがなかった。どうやら、やっと目覚めたところのようだ。  浦上は仙台の取材結果と、昨夜、谷田が『松見アパート』で発見した�鳥取みやげ�のなぞを報告し、 「谷田先輩は朝駆けで、淡路警部に食い下がっているはずです。ぼくも、これから横浜へ直行します」  と、伝えると、編集長は、 「ゆんべ、デスクと一杯やりながら話し合ったのだがね」  と、前置きして言った。 「浦上ちゃん、三人の中から一人を炙《あぶ》り出す方法は、もうひとつあるんじゃないか」  それぞれアリバイを主張しながら、どうしても、現場不在が証明されない三人。 「だが、繰り返すまでもなく、真犯人《ほんぼし》は一人だ」 「ですから、堂々めぐりを避けて、上野という現場は、三人の中のだれにとって、もっとも殺人《ころし》がやり易かったのか、ぼくはこの一点から切り込んでみようと思うのですが」  と、浦上が池畔で得た新しい推理を、口にすると、 「被害者《がいしや》の方を掘り下げてみては、どうかね」  編集長は命令的な話し方になった。編集長が昨夜、酒を飲みながら副編集長と分析した骨子は、いま、浦上を見舞った不審に共通していた。編集長も、淑子が、都内に土地鑑を持っていなかったことを、問題とするのである。 「彼女はどういう形で、不忍池へ誘い出されたのかね。それが分かれば、ベールの向こう側に、犯人《ほし》の輪郭だけでも浮かんでくる。問題は、淑子を呼び出した口実と、さらに言えば、東京不案内な淑子を、現場まで誘導した方法は何か、ということになるね」  そう言いかけて、 「うん、道案内は不要か」  編集長は自説を自ら否定した。 「いくら何でも、天下の上野公園だ。口で説明しても分かるだろうし、必要とあれば、事前に略図を渡しておいてもいいわけだ」  焦点は、淑子を不慣れな場所へ呼び出した口実、その一点に絞られてこようか。  夫の宮本は、真理を犯人視し、淑子を横浜から連れ出したのは、真理に違いないと言っているのだが、 「愛人の女房ではリアリティーがないよね」  編集長は笑った。浦上もそう思う。  では、三人の男の中のだれなのか。 「机上の引き算は、簡単だ。まず亭主だが、宮本ってことはないだろう」 「そうですね、夫婦の仲は冷め切っていたわけです。淑子が宮本の言いなりになるとは思えません」 「真理につながる手塚でも、不自然だろ」 「すると編集長、残るのは村松ってことになるではありませんか」 「そうなるね。ぼくの消去法では、愛人の村松というこたえが出てくる」 「松見アパートで、谷田先輩が発見した福島産の二十世紀梨|如何《いかん》ですね。宮本が、福島産を鳥取みやげと称して家主に差し出した意味が、事件に無関係と判明すれば、村松に集中できるのですがね」 「それと、『ホテル・サンライズ』でフランス料理を食った男か。捜査本部は、どんな具合に的を絞るつもりなのかね」 「どっちにしても、谷田先輩を訪ねる前に、鶴見で途中下車してみます」 「松見アパートへ行くのか」 「今日は淑子の葬式だから、アパートへ行っても宮本はいないでしょう」 「すると、淑子がバイトしていたコンビニエンスストアか」 「あとのことは、横浜へ行ってから、報告を入れます」  浦上はそう言って、電話を切った。  犯人が淑子を呼び出した口実。  編集長の着眼は、この局面での最善手かもしれない、と、浦上は思った。        *  浦上が鶴見のコンビニエンスストア『浜大』へ現われたのは、午前十時半を、少し回る頃だった。 『浜大』は、横浜を中心にして、この数年、チェーン店をふやしているストアだった。国道15号線に面した鶴見チェーン店は、売り場は広いが、店員の姿は、三人しか見えなかった。  店の前は、適当にスペースが取ってあった。ジュースなどの自動販売機の横に、客のスクーターが何台も駐車されている。  若い客が多い店だった。  浦上に会ってくれた店長も若かった。まだ三十前といった感じの、やせ型の男性だった。店長は、三日前の淑子の行動を、よく覚えていた。 「おととい、刑事さんが見えたときにも、お話しましたが」  レジの前に立つ若い店長は、買い物客に応対しながら言った。  この店で、捜査本部は、何をつかんで行ったのだろう?  コンビニエンスストアは年中無休だが、主婦である淑子は、土、日は休みという契約だった。  月曜日から金曜日まで、昼間の四時間をパートで働いていた。勤務時間は、十二時半から、午後四時半までである。  事件当日も、淑子は、定刻前に店へ入った。態度も、仕事ぶりも、いつもと異なるところは見えなかったという。  変化が生じたのは、呼び出し電話がきてからである。 「電話?」 「ぼくが受けたのですが、ちょうど、宮本さんの休憩時間でした。ですから、午後三時過ぎです。三時十五分頃でしたかね」  三時からの二十分間が、淑子の休憩時間だった。  休憩時間、淑子は必ず、国道の向こう側にあるハンバーガー店へ出かけた。二年間のバイト中、一度も欠かしたことのない習慣だった。 「彼女は、ハンバーガーが、そんなに好きでしたか」 「いえ、宮本さんは愛煙家だったのですよ。店では吸いにくいでしょ。で、休憩時間になると、アメリカンコーヒーを飲みながら、一服やっていました」  と、店長は言った。そういえば死亡時も、淑子のポシェットの中にはショートホープが入っていた、と、浦上は聞いている。 「それでは、三日前の呼び出し電話は、ハンバーガー店へかけ直されたわけですか」 「ええ、電話番号は承知していますがね、先方は言付かった電話なので、宮本さんに伝えてくれればいいということで」  この店長が伝言を聞いたという。これは幸運だった。電話の内容が分かる。  浦上の横顔に緊張が走ったのは、ブルゾンのポケットから、取材帳を取り出して、間もなくだった。 「電話は、宮本さんが結婚前に勤めていた会社の人からでした」 「浅野機器ですか」 「はい、そう、そうでした」 「浅野機器のどなたからですか。男ですか、女でしたか」 「男の人でした。村松課長から頼まれたということでした」 「村松?」  浦上の声が思わず、高くなっていた。電話をかけてきた男は、村松課長の部下のようだったという。 「課長は会議中で、抜けられない。そこで、宮本さんへ伝言依頼のメモを預った、と、話していました」 「その男は、電話口でメモを読み上げたわけですか」 「はい」  極めて事務的に伝えてきた内容は、 『急用ができたので、今夜五時五十分に、上野公園不忍池の天竜橋近くまで、来ていただきたい』  というものだった。  店長は、それをその通りに、ハンバーガー店から戻った淑子に伝えたという。人妻を夜の公園へ呼び出す男性からの伝言。 「あなたは、その電話を、何とも思いませんでしたか」 「別に。宮本さんが、こんな殺され方をしたから言うのではありませんが、一部の新聞に出ていたようなことは、ぼくら、何となく知ってました」 「すると、似たような電話は、以前にもかかってきたことがあるのですか」 「ええ、男の声で、三度ぐらいありましたかね」 「やはり、伝言でしたか」 「どうでしょう。前のときは、いずれも宮本さんが売り場にいましたので、先方を確かめずに、電話を宮本さんに回しました」  相手は分からないが、淑子のことを、さん付けで呼び出したのだから、亭主以外の男性であったことは間違いないだろう、と、店長は言った。  店長は、無論そのことも、刑事に告げている。一昨日、上野西署の刑事が、この店へやってきたのは、夕刊で事件を知った店長の方から、通報した結果だった。 「おとつい、宮本さんはすでに殺されていたのだから、無断欠勤は、当たり前です。しかし、休むときは、必ず電話をくれる人でした。ぼくの方から松見アパートへかけても、だれも出てこない。どうしたのかと思っていた矢先に、あの記事でしょう」  店長は、伝言電話を受けているだけに、慌てた。 「東京の警察の電話番号は分からないのでね、ともかく一一〇番しました」  すると、折り返し上野西署の捜査本部から電話があり、刑事が飛んできたという。 「以前にも、三度ぐらい電話があったと言いましたね。そのときの男性と、三日前の男の声は、同一人の感じでしたか」 「刑事さんにも訊かれましたがね、どうも、別人のようでした。前に受けた電話は、どこかに遠慮があるというか、気兼ねしている感じの話し方でした。それに比べて今度の男性は、最初から最後まで、本当に事務的な調子だったのですよ」  それが、事実村松絡みの電話であるなら、前の三回は直接本人がかけてきたものであり、事件当日の呼び出しは、先方が言ってきた通りの、代人ということになろう。 「あなたから伝言を受けたときの、彼女は、どんな感じでしたか」 「どんな、と言いますと?」 「呼び出し電話を、予測していたようでしたか」 「それは気付きませんでしたが、急に、はしゃいだ感じになったのを覚えています」 「はしゃぐ? 少女みたいにですか」 「いい気なもんだ、不倫かな? って思いました」  店長は若いせいか、故人に対する遠慮がなかった。  そのとき、淑子は、 『ねえ、不忍池の天竜橋なんて聞いたことないわ。どう行けばいいのかしらね』  と、店長に尋ねてきたという。やはり淑子は都内に詳しくないし、デートするのに、不忍池が初めての場所だったことが分かる。 『上野駅の案内所か、交番で訊けばいいでしょ』  と、店長がこたえると、 『じゃ、そうする』  淑子は笑顔でうなずき、三十分の早退を申し込んできたという。  死亡時の淑子は、右腕に大きいブレスレットをし、ヒールの高い靴を履《は》いていたが、ストライプのツーピース同様、それは『浜大』で働いていたときの身なりとは違う。淑子は早退して、着替えに戻ったのだろう。  浦上は、男の呼び出しに応じて、いそいそと出かけて行く若妻の小柄な後ろ姿を思い描き、 (確かに、おかしな男女関係だ)  と、自分の中でつぶやいていた。そして、編集長の着眼は、正に、最善手だった、と、思った。  浦上は谷田と会うために、鶴見駅から大船行きの電車に乗った。  午前十一時を過ぎたところだった。さっき上野駅で味わった混雑がうそのように、車内はがらがらに空いている。  浦上は取材用のショルダーバッグをひざに載せて、脚を組んだ。 (捜査本部は、淑子のバイト先にかかってきた呼び出し電話を、どう処理したのか。あるいは、どのように対処しようとしているのか)  それを知りたい。  もちろん、記者発表は伏せられているし、淡路警部に食い下がった谷田も、『浅野機器』の社員と名乗ってかけてきた�伝言�を、掌握してはいないのである。  名前が出た村松も、事前の出張スケジュールに従って、仙台支社へ帰っている。浦上は、昨夜の村松を考えてみた。  仙台のかき料理屋で、地酒を飲みながら、村松がある種の焦燥に見舞われていたのは当然だが、『浜大』を経由した�伝言�には、全く気付いていない様子だったではないか。  呼び出し電話が村松の工作なら、何も彼も承知していて、素知らぬふうを装っていたことになる。 (違うな)  あれは本当に気付いていなかった顔ではないか、と、浦上は考える。第一、あれが村松の工作なら、『浅野機器』とか自分の名前を出すようなことはしないだろう。  浦上を乗せた大船行きの電車は、東神奈川、横浜と過ぎた。  桜木町駅へ来ると、車窓の左手下に、横浜博覧会のための、みなとみらい21の広い敷地が見えてくる。 (そうか。浜大へ電話をかけてきた、男が問題か)  浦上は、みなとみらい21の一隅に繋留されている帆船、日本丸に目を向けた。  男が、�伝言�を頼まれただけの善意の第三者であるなら、殺人事件が公になった時点で、逸速く、警察へ通報しているはずだ。『浜大』の店長と同じようにである。  男が名乗り出ていれば、村松はシロかクロか、決着が付けられていよう。  仮に、男が自ら通報してこなくても、『浜大』を聞き込んだ捜査本部は、『浅野機器』を当たっている。  捜査の網に引っかからないのは、 (男は『浅野機器』にはいないってことか)  と、浦上がつぶやいたとき、電車は桜木町を発車していた。  しかし、男が『浅野機器』の社員ではなかったからといって、それで、村松がシロとなるわけではない。全然無関係な人間を使っての、村松自身の工作、という余地も残されているからである。  だが、愛人である村松なら、そうした手の込んだまねをしなくとも、容易に、淑子を呼び出すことができるだろう。  すると、手塚(真理)、あるいは宮本ということになろうか。手塚、あるいは宮本が、『浜大』での淑子の休憩時間と、休憩時間にハンバーガー店へ行く習慣を、承知していたと考えても、不自然ではない。  承知していて、休憩時間の留守を狙ってかけた電話なら、第三者という共犯は不要だ。  淑子と直接ことばを交わすわけではないのだから、手塚なり、宮本なりが、じかに、店長に�伝言�を頼んでもいいわけである。完全犯罪を狙うなら、共犯者は少ないほどいいに決まっている。 (浜大へ電話をかけてきた男を割り出せない以上、あいつら三人のシロクロもはっきりしないってことか)  それで捜査本部は、�伝言�を表面に出さず、潜行捜査をつづけているのかもしれない。結局、屹立《きつりつ》する壁は、依然として、どこにも裂け目を生じていないことになる。  浦上は次の関内駅で、電車を降りた。  県警本部記者クラブへ電話を入れると、キャップの谷田は席にいなかった。  浦上とも顔見知りの若い記者が、浦上の電話を待っていた。 「キャップから言付かったのですが、手塚久之だけ、アリバイの裏付けが取れたそうです」  と、若手記者は小声で言った。  谷田はいま、その件で、ひそかに淡路警部に面会しているという。 「裏付けは、毎朝日報さんで取ったのですか」 「いえ、そうではありません。これは警察情報《さつねた》です。淡路警部配下の刑事《でか》さんが聞き込んできたって話です」 「手塚が無実なら、真理もシロというわけですね」 「はい。浦上さんから電話があったら、手塚と真理の名前を消すように、と、そうキャップから言付かりました」 「で、キャップは、いつクラブへ戻ってくるのですか」 「昼食《ひる》までには帰ると言ってました。十二時頃、電話を欲しいそうです」 「分かりました」  浦上は電話を切った。 『ホテル・サンライズ』のレストランで、真理とフランス料理を食べていた長身の男は替え玉ではなかったのか。  すると、残るのは、夫(宮本信夫)と、愛人(村松俊昭)。 �鳥取みやげ�の二十世紀梨と、コンビニエンスストア『浜大』へかかってきた電話の�伝言�が、果たして、決め手を与えてくれるのかどうか。  関内駅の大時計は、十一時二十五分を指している。  谷田が記者クラブへ戻ってくる正午まで、無為に過ごしても、仕様がない。 (無駄で元々だ。やってみるか)  浦上は、つぶやきながら、駅前の信号を渡った。足を向けた先は、もちろん『浅野機器』の本社ビルである。  6章 十七分の証明  捜査一課の淡路警部と谷田実憲は、横浜スタジアム裏の、小さい、目立たない喫茶店にいた。  警部は、谷田ほど大柄ではないが、がっしりした肩幅だった。色は浅黒く、ギョロリとした目に特徴があった。  警部は、その目で谷田を見詰めた。 「なるほどねえ、福島産の鳥取みやげか。細かいところへ注意がいくのは浦上さんの特技だとばかり思っていたけど、先輩のあんたもなかなかやるねえ」  パックの二十世紀梨は、いわば、交換情報として、谷田が持ち出したものだった。  今朝、谷田がそれをちらつかせて、藤沢市に住む淡路の自宅へ電話を入れると、 『ほう、そりゃ詳しく話を伺いたいね』  警部は乗ってきた。  そして、そのとき、警部が電話で返してきたのが、 『浅野機器の手塚常務は、リストから名前が消えたよ』  ということだった。  谷田は一刻も早く、アリバイがどう裏付けられたのかを知りたかった。 「聞き込みには骨折ったけど、証言自体は、簡明なものだった」  淡路は、谷田の説明が一段落したところでコーヒーを飲み、口調を改めた。 「村松真理と『ホテル・サンライズ』のレストランへ立ち寄った男が、本当に手塚久之なのかどうか。いわば替え玉ではないかという意見は、当初から、上野西署の捜査本部でも出ていたんだ」  と、警部は言った。  警視庁からの要請を受けて、聞き込みに際しての、神奈川側の責任者となったのが、捜査一課課長補佐淡路警部である。  谷田と浦上が話し合ったように、三日前のあの夜、『ホテル・サンライズ』のレストランには、真理たちのほかにも、何組かの予約客がいた。  いずれも常連客だった。氏名と連絡先の電話は、その場で分かった。 「十月三日の午後七時前後、あのレストランで食事をした客のうち、身元が判明したのは十六人だった」  捜査一課では、外出時の手塚を隠し撮りし、その写真持参で、あの夜の予約客に当たった。  中には、両親に連れられてきた中学生と小学生の子供も二人いたが、刑事たちは全員個別に当たったという。  手塚の写真だけでは、先入観の下に、相手に妙な思い込みをされても困る。そこで、手塚と同じような長身の刑事三人の写真も用意し、四枚の写真を提示して、 『この四人の中に、あの夜、レストランで見かけた男性はいませんか』  という具合に質問を進めた。 「ホテルの従業員と同じことで、残念ながら、確証は得られなかった」 「手塚の写真を指差した人間は、一人もいなかったのですか」 「はっきりした記憶ではないが、という前提付きで、手塚の写真を取り上げた客は二人いた。しかしだよ、別の刑事の方の写真を指差したのが、五人もいたんだ」 「やはり、人間の記憶なんて、あいまいなものですかね」 「鉢植えにつまずいて転ぶとか、口論をするとか、よほど派手なことをすれば別だ。そうでなければ、なかなか覚えていてもらえない」 「そうですね、前から手塚を知っている人間でなければ、確かな証言は出てこないか。で、警部、どうやってウラを取ったのですか」 「その手塚の顔見知りが、現われたのさ」 「手塚の知り合いが、フランス料理を食っていたのですか」 「うちの捜査員は、私の口から言うのも妙だが、優秀なのがそろっている」 「おせじでなく、ぼくもそう思いますね」 「あの日、中華街の広東料理店で、午後六時半から、三十人ほどの懇親会が開かれていた。手塚がベンツをとめたという東門駐車場の、すぐ近くにある飯店でね、この懇親会のメンバーが、医院の調剤薬局関係者であることを、刑事が聞き込んできた」  と、警部は要点に触れた。  医院の調剤薬局関係者なら、『浅野機器』とも、かかわりが深い。手塚常務は、営業部の最高責任者だ。当然、三十人の中には顔見知りがいるだろう。 「しかも、時間帯が同じだし、懇親会場の飯店は、東門の駐車場とは、つい目と鼻の先だ。乗用車の来会者なら、この駐車場を利用するのが自然だと思うね」  というわけで、三十人の参会者のだれかが、手塚と擦れ違っていないか、ということになった。  同じ時間帯に、何人かが同じ駐車場に出入りしていて、だれも手塚に気付いていなかったとしたら、それはそれで、新しい問題提起となる。 「ところが、ここで、ばっちり証人が登場してきたってわけさ」  聞き込みは、三人目で、早くも反応が出た。薬剤師の一人は言った。 『はい。確かに手塚常務の姿を見かけましたよ。あいさつしようとしたのですが、女性連れだったでしょう。それで、気を利かして、遠慮しましたがね』  証人は、ほかにも四人いた。 『そうですね。六時二十分頃だったと思いますよ』 『ええ、手塚常務は、小柄で髪の長い女性と腕を組むようにして、山下公園の方へ歩いて行きました』  手塚と顔見知りの五人は、刑事の質問に対して、異口同音に、 『あれは手塚常務に間違いありません』  と、こたえた。  無論、口裏を合わせたり、うそをついている感じではなかった。五人もの人間の、別個の目撃証言である。これは、その通りに受けとめていい。 「警部、午後六時二十分に、横浜の中華街ですか」 「六時五分の、不忍池の逃亡者は、どう操作しようとも、手塚じゃない。六時二十分といえば、京浜東北線利用の犯人《ほし》は、いかに急ごうと、品川へも到着していない」 「手塚と、そして真理の名前が、まず、完全に消えますか」  谷田は取材帳を開いた。顔をふるようにして、手塚の名前の上に記した二重丸を、×印に訂正した。  それから谷田は、宮本の捜査内容について、尋ねた。        *  浦上は、『浅野機器』の本社ビルにいた。  受付の近くに、簡単な応接セットがあった。病院の待合室にあるような、横に長いソファに並んで腰を下ろして、浦上の面会に応じてくれたのは、営業部主任の肩書きを持つ三十前後の男だった。  主任は、手塚常務や村松課長とは対照的に小作りな男だった。 「そのことでしたら、ぼくも刑事さんの質問を受けました。あの日、本社にいた男子社員は、全員が事情を聞かれたようですよ」  と、主任はこたえた。  しかし、村松から伝言を頼まれたという該当者はいなかった。男子社員の中の一人がうそをついているのか。 「それはないですね。村松課長の言いなりになって、村松課長をかばう社員なんていません」  小柄な主任は小心そうな顔をしているくせに、上司の悪口を言った。 「電話をかけた相手が、岸本さんでしょう」  と、主任は、昨日の手塚常務と同じように、淑子のことを、『浅野機器』に在社していた頃の旧姓で呼んだ。 「いくら何でも、村松課長と岸本さんの、不倫デートの仲立ちをするようなばかな男は、我社《うち》にはいません」  主任の口調には、怒りのようなものさえ、感じられた。  どうやら、村松と淑子の関係は、社内全体に知れ渡っており、非難の的となっているようだった。  半年前に、村松が仙台支社へ転勤となったのも、「生活をやり直すため」なんてものではなかった。いわば、本社で浮き上がった末の、左遷であったらしい。  そうした状況下での、今回の殺人事件だ。 (浜大へ電話をかけてきた男は、社内にいない。これは、間違いないぞ)  浦上は、そう思った。浦上は小柄な主任のことばを、信じる気持ちになっていた。  男子社員の全員が、刑事から事情を尋ねられているのに、村松はそのことを承知していない。  昨夜、仙台で酒を飲んだときの村松は、どう見たって、警察の動きに関しては何も気付いていない表情だったではないか。  村松は課長というポストは与えられているものの、いまや、そうしたことを耳打ちしてくれる部下の一人もいない、ということなのだろう。  そして、その事実は、『浜大』へ電話をかけてきた男が、『浅野機器』の社員ではなかったことの、裏返しの証明となろう。 「もう一つ伺います。あの日、午後三時過ぎにかかってきた電話は、村松課長は会議中なので、と、言っているのですが、午後、営業部の会議が開かれていたことは事実ですか」 「いいえ」  主任は否定した。 「当社は、よほどのことがない限り、午後の会議はありません。朝の打ち合わせはありますが、午後は大半が営業に出ています。営業部の会議は、会社設立以来、夜間と決まっています」  しかし、あの日は、夜間の会議がなかった。村松が言っていたように、藤沢工場でトラブルが出来《しゆつたい》したために会議は中止になった、と、主任はこたえた。  滅多に開かれることのない、午後の会議を�伝言�の口実としたのは、『浅野機器』の方針をよく知らなかったからであろうか。と、すると、電話は宮本の工作ということになる。  だが、承知していて、逆用した場合もあろう。そう、犯人は完全を意図しているのである。逆用も、十分考慮しなければならない。 「どうも、ご多忙のところをお時間を取らせてすみませんでした」  浦上は礼を言って、先に腰を上げた。 �伝言�に関する捜査本部の動きと、社内における村松の立場。村松が社員たちの強い風当たりを受けていることを知っただけでも、多としなければなるまい。  浦上は一礼し、念のために尋ねた。 「あの日、村松課長は定時に退社されたそうですが、昼間はずっと、本社に勤務されていたわけですね」 「はあ、そのはずですが」 「三日前のことですよ。失礼ですが、覚えてらっしゃらないのですか」 「村松課長の机は、こっちには置いてありません」 「そりゃそうでしょう。仙台支社に配属されているのですから」 「支社や営業所から本社へ出張してきた社員は、分室の方へ詰めています」 「分室? この本社ビルのほかに分室があるのですか」 「はい、こちらが手狭なもので、扇町の先のビルの一室を、三年前から借りています」  夜間の営業部の会議は、もちろん本社ビルで開かれる。しかしあの日、会議中止は早々と決定していたので、村松は午前中の打ち合わせに参加しただけで分室に行き、以後、本社ビルには顔を見せていないという。  昨夜仙台で、浦上が犯行日の手塚の所在を確かめたとき、 『常務とは部屋が離れているので』  よく分からない、と、村松はこたえたが、それは分室勤務という意味だったのか。扇町には『浅野機器』の倉庫があり、分室は倉庫の近くだという。  ついでだ。浦上は分室の所在地を聞いた。 「関内駅前の教育文化センターの先を大通りに沿って行き、四つ目の信号を渡って右折してください。反対側に左折すると横浜スタジアムですから、迷うことはないと思います」  右折して、三つ目の角にある四階建て雑居ビルの四階一番奥が分室になっている、と、営業主任はこたえた。  浦上は本社ビルを出た。分室に、新しい期待を抱いたわけではない。『浅野機器』を訪ねたのと同じことだった。浦上は、谷田と落ち合うまでの時間つぶしていどの、軽い気持ちで、扇町へ足を向けた。        *  繁華街からそれほど離れていないのに、人気の少ない町だった。  雑居ビルが多いせいもあるが、一ブロック先が、寿町などの簡宿街のためでもあろうか。一般の民家とか、商店の少ない通りだった。  浦上は街路樹《プラタナス》の下を歩いて行った。  擦れ違う人はほとんどいなかった。舗道を行く車の動きだけが激しい。  そうした町を反映してか、雑居ビルは建坪が広く、部屋数も多いのだが、どこか寒々とした玄関だった。  低い四階建てのせいか、乾いた感じのビルにはエレベーターがなかった。  浦上は入口横の表札を確認した。各階とも貸しオフィスのようだった。四階の一番奥に、『浅野機器』の社名があった。  浦上は一段ずつ、四階への階段を上がった。町並みもそうであったが、内部にも活気がなかった。  それは、たまたまこうしたビルに分室を借りたのに過ぎないのであろうが、なぜか、同僚たちから背を向けられた村松に、ぴったりな雰囲気のようでもあった。  仙台支社から横浜本社へ出張してきた村松は、この分室に閉じ籠もって、執務をすることになっていたのか。  階段を上がり切った浦上は、長い廊下を歩いて、一番奥の部屋に行った。  分室には、十人ほどの男女社員がいた。ちょうど、昼休みに入ったところだった。昼食へ出ようとしていた三人の男子社員が、お互い顔を見合わせるようにして、浦上の質問にこたえてくれたが、内容は、本社ビルの主任の説明と全く同じだった。 「村松課長はあの日の午後三時頃、どこかへ外出されましたか」  浦上は最後に訊いた。 �伝言�電話が村松自身の工作であるなら、当然、外部の電話を使用したはずだ。あのような電話を、同僚たちの前でかけるわけにはいかない。  しかし、午後三時の外出は否定された。 「村松課長は、昼食に出た以外は、一歩も机を離れませんでしたよ。間違いありません」  若い三人の社員は口をそろえて言った。 「なるほど。そして、村松課長は、五時の終業時間を待って、分室を出て行ったわけですね」 「はい」  と、こたえたのは、三人とは別の、女子社員だった。ドアの近くに机を置く彼女は、終業時のベルを押す係だった。 「あの日、村松課長は、よほどお急ぎの様子でした。十分前には机の上の書類を片付け、五時になってあたしがベルを押すと同時に、飛び出して行かれました」  それは、すでに村松本人から聞いている通りだった。  やはり分室に収穫はなかった。谷田が淡路警部との談合を終えるまでの、時間待ちに過ぎなかった。  浦上は廊下へ戻ると、せっかくだから、分室のドアを撮っておくことにした。  そうして、カメラのシャッターを押したとき、 「待てよ!」  浦上は、自分に向かって、声を出してつぶやいていた。 (村松は真犯人《ほんぼし》ではないぞ!)  つぶやきは、そんなふうに変わって、浦上の内面へ沈澱した。  浦上はカメラをショルダーバッグにしまうと、腕時計を見た。  十二時十六分だった。  浦上はショルダーバッグをずり上げると、突然、雑居ビルの中廊下を走り出していた。一階までの階段を駆け下り、街路樹の下を走った。  いくつかの十字路を通過し、車道を横切って関内駅に駆け込むと、キヨスク横の赤電話を取った。もう一度腕時計を見ながらダイヤルした先は、県警本部記者クラブだった。  すぐに、キャップの谷田が出た。 「おい、うなぎでもおごってやろうと思っていたのに、昼食をずいぶん待たせてくれたじゃないか」  と、大きい声を出す谷田を制して、浦上は言った。 「先輩、村松は淑子を殺すことができません」 「何を見つけたんだ」 「今日は、二回も、時間の測定をやらされましたよ」 「この電話、関内駅からかけているんじゃないのか」 「しかしここは伊勢佐木町側ではなくて、反対の、市役所に近い方です」 「何でそんなところにいるんだ」 「あの日、村松を根岸線に乗せるとすれば、こっちの改札口の方が、ずっと近いからです」  と、浦上は、扇町の先にある分室の存在を、谷田に伝えた。 「村松は五時に会社を飛び出したわけですが、それは本社ビルではなくて、分室の方だったのですよ」 「分室じゃ、都合が悪いのか」 「ぼくが、この赤電話を取ったのは、十二時三十三分でした。分室に近い方の改札口まで、精一杯走ってきても、十七分かかっています」  浦上の内面へ沈澱した発見が、それだった。本社ビルからなら一分の関内駅だが、分室の方は、はるかに離れている。  雑居ビルにはエレベーターがないので、四階から階段を下り、信号がある十字路を、何と七個所も越えなければならないのである。 「ぼくはいま、割りとスムーズにやってきました。信号のない場所を選んで、道路を横断したりもしました。しかし、本当に測定しなければならないのは、午後五時過ぎです。夕方では道路も混雑するでしょう」 「そりゃそうだな。信号を無視して、広い車道を走り抜けることはできない」 「夕方で七つの信号にひとつずつ引っ掛かったら、関内駅へくるまで、どのくらいかかると思います?」 「順調にいって十七分か」 「十七分を、それ以上短縮することは、まず、絶対に無理です」 「それにしても、村松も嫌なやつだな。同じ本社でも、そんな分室があり、そっちへ詰めていたならいたと、最初に打ち明けてくれればよかったんだ」  谷田は勝手なことを言った。  しかし、いずれにしても、最短でも十七分かかるのでは、村松は容疑の圏外へ去ったことになる。  関内—上野間は正味四十八分だから、待ち時間なしで上り電車に飛び乗ったとしても、上野駅1番線ホーム到着が、午後六時五分になってしまう。  それは犯人が、不忍池から逃亡した時間だ。  しかも、これは、実際には不可能といっていい足取りなのである。夕方の信号待ちなどが、正確に加算されていないのだから。  本当は、もっと時間がかかるだろう。たった十七分、という意味では些細《ささい》だが、重大な発見だった。  この十七分の壁は崩れない。正確に待ち時間などを加算して、壁が厚くなることはあっても、薄くなりようはないのである。  村松俊昭は、犯人ではない。 「村松は五時ジャストに会社を出て、関内駅から地下鉄を利用したと言ってたな」 「はい。高島屋へ着いたのは、五時半を過ぎていたという主張です」 「その五時半過ぎを、見落としていたね。こうなってみると、五時半を過ぎていたというのは、意味のある発言だ」 「そうでした。起点が本社ビルなら、横浜駅西口へは、五時半前に到着していなければなりません」 「きみのいまの実験から推しても、村松は、うそをついてはいなかったことになるか」 「妙な形で、アリバイが裏付けられてしまったものです」 「手塚久之の不在証明も、絶対だ。一課の捜査結果を、詳しく話そう」 「うなぎなら、相生町《あいおいちよう》の店が、うまいってことでしたね」 「今更《いまさら》、ゆっくりうなぎを食ってるわけにもいかないだろう」 「宮本信夫ですか」 「淑子の葬式は何時からだったかな。どっちにしろ、急いで瀬谷へ行かなければなるまい」  電話を伝わってくる谷田の声が、また高くなっていた。        *  結局、昼食は昨日と同じことになった。  浦上と谷田は横浜駅で落ち合い、慌ただしくカレーライスを食べて、昨日と同じように相鉄電車に乗った。  二俣川《ふたまたがわ》までノンストップの急行は、買物帰りの主婦の姿が多かった。電車は二俣川から各駅停車となり、それから二つ目の駅が三ツ境だ。  浦上と谷田は昨日と同じように、三ツ境でバスに乗り換えた。二人は、バスの一番後ろの座席に座った。  今日もよく晴れており、郊外の空は、抜けるように蒼い。 「大分振り回されたけど、とどのつまりは、亭主が、不倫妻を刺したって、筋書きに落ち着くのですかね」 「手塚ならともかく、宮本って男が人を殺すようには思えないんだが、オレが、こんなこと言うのもおかしいか」 「決まってるでしょ。人は見かけによらないってのは、新聞記者《ぶんや》としての、先輩の持論でしょうが」 「そりゃそうだ。顔で犯人《ほし》が分かれば、アリバイ崩しも何もあったものじゃない」  谷田は前言を笑声で取り消し、 「コンビニエンスストアへかけてきた呼び出し電話も、宮本なら辻褄《つじつま》が合うか」  と、真顔になった。 「確かに、きみが考えたように、逆用という場合もあるかもしれないが、村松か手塚なら、午後開かれることが少ない営業会議を、まず、口実にすることはないと思うよ」 「そうですね。淑子は浅野機器でOLをしていたのだから、営業会議の開かれるのが、夜間に多いことを知っていたはずです」 「それと、休憩時間に、淑子が向かいのハンバーガー店で喫煙する習慣だ。亭主なら、当然女房の習慣を承知しているだろう」 「宮本が真犯人《ほんぼし》なら、あの電話は、宮本本人がかけたことになりますか」 「もちろんそうだろうな。村松の名前を出せば、淑子は言いなりだ」 「それで、自分と悟られないよう、休憩時間の留守を狙っての�伝言�ですか」 「淑子にしてみれば、翌日に控えていた、夫婦四人の談合に対する心配もあったのではないかね。村松からの�伝言�なら、淑子が呼び出しに応じるのは当たり前だ」 「呼び出された場所は、上野という、言ってみれば遠方なのに、淑子には、�伝言�を疑問視する姿勢などなかったってことですか」 「談合を前にして、それだけ追い詰められていたのではないかな。二組の夫婦四人は、四人とも、きみが感じたように、絶壁から足を滑らせた状態だったと思うよ」  距離を置いて何かを判断する余裕など、すでに持ち合わせていなかったに違いない、と、谷田は言った。 「問題の電話がかかってきたのは、午後三時過ぎだな」 「その時間、宮本がどこにいたか、ということでしょう」  浦上もそれを考えたところだった。 「宮本の主張通りなら、横浜へ帰ってくる列車の中ですね」 「列車の中なら、東海道新幹線からかけた電話か」 「恐らく、そういうことになるでしょうが、と、すると、宮本は、例の�ひかり350号�に乗車していなかったことを、別の形で証明してしまう結果になります」  浦上はショルダーバッグから取材帳を取り出し、昨日、宮本から言われるままに書きとめた、帰浜のルートを、谷田に示した。 「これでいくと、午後三時過ぎの宮本は、山陰本線普通列車の車中です。普通列車に電話は付いていません」 「それでいいんじゃないか。宮本が真犯人《ほんぼし》なら、もっと早い新幹線で東京へ到着しなければ、犯行に間に合わない」 「しかし宮本は、船岡駅で、十四時三十二分発の上りへ乗る直前に、真理からの電話を受けています。と、いうのは、少なくとも、それまでは、船岡にいたってことでしょう。分からないなあ」  浦上は取材帳に目を落とした。 「宮本が言っている、この普通列車に乗ってくると、京都からのもっとも早い接続新幹線が�ひかり350号�なのですよ。これより前の新幹線には乗れません」 「おいおい、電話もかけられなければ、犯行現場に立つこともできないというのでは、宮本までシロになってしまうじゃないか」 「昨日までは全員アリバイがあいまいだったのに、今度は三人、いや四人そろって、しかと現場不在が証明されるってことですかね」 「本気でそんなこと考えてるのか」 「宮本が一泊したという友人宅を当たれば、何か、ヒントが得られるかもしれませんね」 「京都には、確か船岡って山があったな」 「ほら、京都府警の元警官が、派出所の巡査をおびき出して殺害、拳銃を奪ったのが、船岡山公園ではないですか」 「そうか、どうも最近どこかで聞いたと思ったが、そういうことだったか。宮本の友人が住んでいるという船岡は、その船岡山に近いのかね」 「さあ、どうでしょうか」  浦上も谷田も、京都周辺にはそれほど詳しくなかった。 「ところで、捜査本部では、宮本のアリバイをどう見ているのですか」 「淡路警部のさっきの話では、正直なところ、シロともクロともつかず、困っているらしい。それで、オレがゆうべ松見アパートで発見した福島産の鳥取みやげに飛び付いてきたのだが、あの二十世紀梨だって、宮本への疑惑を濃くしても、即、決め手というわけではない」  宮本に関して、捜査員が徹底して聞き込んだのは、新横浜駅周辺の足取りだ。すなわち、宮本が東海道新幹線�ひかり350号�に乗車していたか、否かということである。 「刑事《でか》さんたちは、手塚のアリバイを当たったときと同じように、ひそかに、宮本を隠し撮りしたんだな。隠し撮りした写真持参で、十八時二十八分に、宮本が新横浜で下車しているかどうかを、聞き込んだ」 「シロクロがはっきりしないというのは、少しは、それらしき影がちらついているってことですか」 「そうなんだな。新幹線の車掌も、新横浜の駅員も、明言は避けているものの、三十前後の背の高い男性が下車したことを記憶している」  宮本が乗ってきたと主張しているのは、禁煙車ではない自由席だったというから、3、4、5号車のうちの、どれかということになる。  刑事は、車掌のほかに車内販売員にも当たった。車内販売員も、新横浜で長身の男性が下車したことを認めているという。 「宮本なら、同伴者はいなかったはずですよ」 「ああ。連れのいない背の高い男が、前の客を押しのけるようにして、横浜線への連絡改札口を通って行った、と、そうした証言も出ているそうだ」 「その駅員は、写真を見せられて、宮本かもしれないとこたえているのですか」 「そうじゃないんだな。淡路警部はその辺りをぼかしていたが、警察手帳にメモされているのは、どうやら、三十前後で背の高い男、という一点のようだ」  それはそうかもしれない。�ひかり350号�の乗務員にしても、新横浜の駅員にしても、ちらっと見ただけの相手を、それほどはっきり覚えているわけのものではないだろう。  ただ、ここで問題とすべきは、確証はなかったにしろ、三十前後の長身が、当該列車に乗っていたという事実だ。  しかも、男は(宮本の主張と同じように)横浜線へ乗り換えているのである。  その男が、宮本とは別人であると確認されない限り、宮本の主張は生きている。浦上がそのことを言うと、 「しかしねえ」  谷田は、もうひとつ整理できないままに言った。 「確かに、その長身は宮本であったかもしれないが、一メートル八十を超えるくらいな男は、そう珍しいわけじゃない。人込みで注意すれば、必ず、一人や二人は目につくだろう。珍しくないから、当然、見逃される例も多い」  事実、新横浜駅以降の聞き込みでは、長身を特に意識した証言は出ていないという。新横浜—東神奈川間の横浜線。東神奈川—鶴見間の京浜東北線。 「同じ時間を狙って、一課では捜査員を相当に注ぎ込んだようだ。車掌や駅員ばかりではなく、同一時間帯に帰宅するサラリーマンにも的は広げられたのだが」 「宮本は出てこなかったわけですね」 「はっきりした証言が得られたのは、鶴見へ行ってからだ。佃野町の酒屋の店員が、かご詰めの梨を手にした宮本を見ている」 「アパート近くの目撃では、価値はありませんね」  浦上は取材帳をしまった。酒屋の店員の証言は、いうなれば、すでに『松見アパート』の家主から、取られている裏付けと同じことである。欲しいのは、新横浜—鶴見間の証言だ。しかし、そこに、元々痕跡がないのなら、何も出てこないのが当たり前だ。 「やはり宮本は、不忍池経由で、鶴見へ帰ってきたのですかね」 「手塚のアリバイは絶対だし、村松の方も、きみの発見で、犯行に参加できないことが確定した。残るのは宮本だけだ。残る一人、宮本追及の視点をどう変えればいいのか」  谷田は自問自答する口調になり、すぐに、自らこたえを出した。 「宮本の現場不在証明が、どうしてもあいまいなら、やっぱり、犯行を証明するしかないか」  十四時三十二分に、船岡から山陰本線の上り普通列車に乗った宮本を、十八時頃までに上野公園へ連れてくることが、すなわち、犯行証明だ。 「それと同時に、宮本が午後三時過ぎに、どこで電話をかけられる状況にあったか、それもはっきりさせたいね」  と、谷田は言った。  だが、宮本のこれまで述べてきた足取りが、全部が全部うそというわけではあるまい。 「ポイントは、�ひかり350号�ですね」 「いや、宮本の主張通りの出発では、殺人《ころし》は不可能なわけだろ。やつが真実を語っているのは、午後七時過ぎに、松見アパートへ帰ったことだけかもしれないぞ」 「そうでしょうか」  そうかもしれないが、浦上は、即座には首肯できなかった。船岡駅に真理からかかってきたという電話。これは動かしようもない事実だろう。 「すると、�出発�と�到着�は不動で、トリックはその間に仕掛けられてあるのかね」 「宮本が真犯人《ほんぼし》なら、そういうことになるでしょう」 「ともかく、もう一度じっくりと、宮本の足取りを聞いてやろうじゃないか」  県道の先に野菜畑が見え、バスは目的の停留所に近付いていた。  出棺は終えていた。  葬儀社の人たちが花輪を片付け、祭壇を縮小しているところだった。  白いかっぽう着姿の近所の主婦たちは、火葬場から戻ってくる参列者を迎える準備に追われていた。縁側から見える座敷に食卓が並び、慌ただしく料理が運び込まれている。  待たされることを覚悟したが、宮本は火葬場へ同行していなかった。  宮本は手酌でビールを飲んでいた。昨日、浦上と谷田に相対した玄関奥の上がりかまちに腰を下ろし、宮本はビールを飲みながら、どこかへ電話をかけていた。  浦上と谷田が土間へ入って行くと、宮本は、 「あれ?」  という顔で電話を切った。 「横浜でも、この辺りは古い仕来たりが残っているんですよね。夫は目上だから、先立った目下の妻の火葬には立ち合わない習慣があるのだそうです」  と、浦上と谷田を迎えて、宮本は言った。 「もっとも、籍を抜いて、実家の墓に入る女房ですから、ぼくが骨を拾うこともないわけです」  宮本は、前日にも増して、憮然とした面持ちだった。  それでも、昨日と同じように、上がりかまちに来客のための座布団を出してくれた。そして、 「どうぞ」  と、勧めたものの、すぐに、最初の訝《いぶか》し気な目に戻った。 「ぼくに、まだ用事があるのですか」 「その後、警察から、何か言ってきましたか」 「それですがね、今日は上野西署の清水さんって部長刑事が、ご焼香に見えられましてね、淑子の葬式が終えたら、二、三日中にもう一度ご足労願えないか、というのですよ」  宮本は昨日とは違って、黒いダブルの礼装だった。しかし、ネクタイはゆるんでいる。いつから飲み始めたのか、不審を宿す目に酔いがあった。 「警察は何をもたもたしているのでしょう。村松の女房と愛人の手塚は、いつ逮捕されるのですか。ぼくなんかを捜査本部へ呼んでも、どうにもならんでしょうに」  宮本は昨日と同じように、真理を犯人視している。  憮然とした表情で、アルコールに酔っているとはいえ、鳥取育ちの素朴さを感じさせる雰囲気はどこかに保たれていた。故郷なまりの、ゆるやかな話し方なのである。 (本当に、この男にだけ、アリバイが成立しないのか)  浦上も、さっきの谷田ではないが、一瞬、そうした目で宮本を見た。  こんな状況で酒に酔っているというのも、考えようによれば、(妻を殺害してしまった罪の意識を紛《まぎ》らわせるためではなく)どうにも整理のつかない焦燥ゆえかもしれないのである。  だが、残っているのは、この宮本一人なのだ。  上野西署の捜査本部にしても、期するところがあればこそ、改めて、宮本を呼ぶのであろう。捜査本部は、どこから宮本を攻めるつもりなのか。 (警察《さつ》より一歩先を行ってやる。それがスクープってもんだ)  谷田はそのような目で、ちらっと浦上を振り返り、取り出した取材帳に走り書きをした。福島の『吉井果樹園』のことは伏せておこう、という意味のメモだった。 (諒解)  と、浦上も目でうなずいた。福島産の�鳥取みやげ�は、谷田と浦上にとって、唯一の切り札なのである。確かに、迂闊《うかつ》には口にできない。 「用件を、早く言ってください」  宮本は飲みかけのビールをあけた。 「実は」  浦上も取材帳を取り出し、まず手塚のアリバイの、裏付けが取れたことを伝えた。 「何ですって?」  宮本は、音を立てるようにして、コップを盆に戻した。 「村松の女房の愛人に、アリバイなんてあるわけがないでしょう」 「証人は五人も、そろっているのですよ。しかも確証をつかんできたのは、捜査一課の刑事さんたちです。手塚常務のアリバイは、完璧です」 「それじゃ、犯人は村松ってことになるじゃありませんか。あの男、さんざ淑子を弄《もてあそ》んでおいて、挙げ句の果てに生命まで奪ったというのですか!」  宮本は、浦上と谷田の顔を交互に見た。 「何で、そうまでしなければならないのですか! あの男、夫のぼくのことを何だと思ってるのでしょう。これじゃ、文字通り、踏んだり蹴ったりじゃありませんか!」 「宮本さん、実は村松氏も、あの日、犯行現場へ立つことはできませんでした」  浦上は、自らの実験を、詳しく説明した。 「村松氏の場合、手塚常務のアリバイのような目撃証人はいません。しかし、浅野機器の本社ビルならともかく、扇町の先の分室を五時に出発したのでは、絶対に、犯行時間までに池畔へ到着することは不可能です」 「村松は本社ビルではなくて、分室に勤務していたというのですか。間違いないのでしょうね」 「五時まで分室で執務していたという証人なら、何人もいます」 「待ってください。あなた方は、それじゃ、このぼくを疑っているのですか」  宮本の横顔を、さっと険しいものが過ったかのようだった。 「まさか、さっきの清水って刑事さんも、それでぼくを呼ぶわけではないでしょうね」 「それは知りません。少なくとも、村松氏のアリバイを裏付けたのは、このぼくです。捜査本部も別の形でウラを取ったのかもしれませんが、ぼくの方からはまだ何の連絡もしていません」  浦上は事実をその通りに告げ、 「もう一度、松見アパートへ帰ってくるまでの足取りを詳しく話してくれませんか」  と、取材帳片手にボールペンを持ち直すと、 「刑事でもないあなた方に、なぜ何度もこたえる必要があるのですか。すべて、昨日言った通りです」  宮本の声が徐々に高くなってきた。 「それは越権ってものではありませんか」 「分かってください、宮本さん。われわれは臆測で記事をまとめるわけにはいかないのです」  と、谷田がことばを挟み、浦上が姿勢を変えてつづけた。 「殺人事件の関係者は四人。そのうち三人の犯行不参加がはっきり証明されたとあっては、残る一人の容疑が深まるのは自明の理ではありませんか」 「なぜ、ぼくが疑われなければならないのですか。ぼくは被害者です。村松という男によって女房を奪われ、村松夫婦の勝手な事情によって、女房を殺された被害者です」  宮本の声が、更に高くなって、震えた。怒りが演技なのか、真実なのか、咄嗟《とつさ》には識別できない。  だが、それが、あまりにも激しかったため、座敷と勝手の間を慌ただしく出入りしている、かっぽう着姿の近所の主婦が何人か、顔をのぞかせたほどだった。  宮本は、主婦たちに気付くと、何でもありません、というように手を振り、改めて、浦上と谷田に向き合った。 「そうですね。週刊誌や新聞に、おかしなことを書かれても困る。しかし、昨日話した通りですよ。付け加えることは何もありません」 「京都からの新幹線車中で、だれか、お知り合いに出会っていると文句なしなのですがね」 「それも、昨日、お話したじゃありませんか。だれにも会いませんでしたよ。ぼくは、横浜支店へ勤務になってから、何度も鳥取へ帰っていますが、往復の車中で、知人と顔を合わせたことなど一度もありません」  宮本は、あなた方はどうか、と、逆に質問してきた。 「あなた方は仕事上、取材旅行も多いでしょうが、旅先で知り合いと擦れ違ったことがありますか」 「ま、それはそうですが」 「そうでしょ。だれにも会わなかったからって、いちいち疑われたのでは、かないません。旅先で、知人と出会う方が珍しいのではありませんか」  宮本は、そこで一息入れると、 「村松はどうなのですか」  と、矛先《ほこさき》を転じた。 「手塚と違って、村松を目撃した証人はいないと言いましたね。だったら、ぼくと同じではありませんか」 「しかし、村松氏には、午後五時まで分室に勤務していたことを証明する人間が何人もいます。五時に分室を出たのでは、いまも申し上げたように、犯行時間までに、不忍池へ行くことはできないのです」 「だったら、ぼくも同じだ」  と、宮本は切り返してきた。  浦上と谷田の検討で、そのまま未解決な問題として残っている壁。船岡発十四時三十二分の上り普通列車。 「村松と同じように、よく調べてくださいよ。ぼくが乗ったこの上り列車に、京都で接続している上り新幹線が�ひかり350号�です。犯行時間に間に合わせるためには、もっと前の新幹線に乗車しなければ、駄目なわけでしょう」 「ですから、それを証明したいのです」 「あなたたちも、話が分からないな。あの日、村松の女房が、船岡駅へ電話をかけてきたと言ったはずですよ」 「それは聞いています」 「あのときは、村松の女房のしつこさに腹を立てたけど、ひょんなことで、あの呼び出し電話が、役に立ってきたものです」  納得がいくように、船岡駅へ確認したらどうですか、と、宮本は言った。電話がかかって、若い駅員に呼び出されたとき、 「ぼくは待合室のJRクリーニング店の前に立っていました」  とも言い添えた。  京都のように大きな駅と違って、ごく小さい駅なので、三日前の確認など簡単だろうというのである。  浦上もそう思う。浦上はすでに、別の形で、その裏付けを取っている。昨夜、仙台の『ハイツ・エコー』で、浦上は真理に尋ねている。 『宮本さんが横浜へ帰る途中の、駅へまで、呼び出し電話を入れたそうですね』  これに対して、真理は、 『ああ、船岡という駅のことね』  と、電話をかけたことを認めている。  船岡駅の出発時間は、不動だろう。宮本が犯人であるとすれば、バスの中での谷田の発言のように、�出発�と�到着�の間に、トリックが用意されていることになる。  だが、『松見アパート』の�到着�は確認されているが、船岡駅の�出発�の方は、もうひとつ正確さを欠いている。 �出発�と�到着�の間に、仕掛けがあるのか、どうか、それを浮き彫りにするためにも、�出発�時間の確認は重要だ。 「こんなことで、いつまでも疑われるなんて、心外です。葬式を最後に、ぼくもさっぱりしたいんです」  と、宮本は浦上を見詰め、 「何でしたら、いまここで、船岡駅へ電話をかけてみてはどうですか」  と、背後の電話機を引き寄せた。 「船岡駅の電話番号が、分かるのですか」  浦上は、ずいぶん手回しがいいな、と思い、一瞬、 (アリバイ工作か)  と、不審を感じたが、そうではなかった。  宮本が手帳を開き、メモを見ながらプッシュボタンを押した先は、二日の日に一泊した旧友宅だった。  受話器を手にした宮本は、浦上や谷田から横を向いて、 「もしもし、奥さんですか。このたびは、ご香典を、わざわざご郵送くださってありがとうございました」  というような、あいさつを交わしてから、船岡駅の電話番号を聞いた。 「じゃ、成瀬《なるせ》が会社から帰ったら、よろしく言ってください。ええ、また寄せてもらいます」  宮本はそう言って電話を切ると、いま聞き出したナンバーを押して、 「船岡駅が出ます」  と、受話器を浦上に差し出してきた。浦上は固い表情で受話器を取った。  京都府下とあって、呼び出し音が鳴るまでに、多少の間があった。  呼び出し音が鳴っても、すぐには先方が出なかった。五、六回コールされたところで、 「お待たせしました。JR船岡駅です」  太い男の声が出た。 「お忙しいところを恐縮です。実は、三日前の午後のことで、お尋ねしたいのですが」  浦上が身分を名乗り、用件を切り出すと、 「あ、そういうことがありましたね。あの日、電話を受けた駅員は、いまホームに出ています。下りの発車まで、お待ち願えますか」  と、太い声の駅員はこたえた。  駅員は受話器を机の上に置いたのだろう、駅の騒音が、電話機を通して伝わってくる。  間もなく、列車の到着する音が響き、 「船岡ぁ、船岡ぁ」  と、連呼する駅員の声が聞こえた。列車の到着から発車まで、一分とはかからなかっただろう。ホームを離れる列車の音は、すぐに遠ざかって行く。  浦上は、もちろん実際に下車したことはないが、山陰本線の小さい駅が、目に見えるような気がした。  列車が発車すると、小走りの足音が受話器に近付いてきた。そして、 「遅くなりました」  と、いかにも純朴そうな声を返してきたのは、若い駅員だった。 「はい。よく覚えております」  若い駅員は、浦上の質問にこたえて、話し始めた。  7章 終着駅京都 「あのとき、待合室にいたお客さんは、十人ほどだったと思います」  と、若い駅員はこたえた。 「女の人から駅に電話が入ったのは、二時二十五分頃でした」 「宮本さんを、と、はっきり名指して呼び出してきたのですね」  と、浦上伸介は尋ねた。 「そうです。十四時三十二分発の上りを待っている、背の高い男の人を呼び出して欲しいと言われました」  電話を受けた駅員は、出札口から待合室を見た。 「長身の男性は一人しかいないので、すぐに分かりました。はい、待合室には、売店のほかに、JRになってから始めたクリーニング店があるのですが、宮本さんという男性はクリーニング店の前に立っていました」  それは、宮本が説明した通りだった。  その宮本を目の前にした電話で、若干の抵抗はあったが、浦上は、三日前の長身男性の風貌を確かめないわけにはいかなかった。 「ええ、はっきり記憶しています。ソフトな話し方をする人で、メタルフレームの眼鏡をかけていましたね」  という外観は、まさに、その男が宮本であることを示していた。問題は、電話を受けた時間に、駅員の錯覚があるかどうかだ。  しかし、これは、ダイヤ絡みの証言なので、間違いようもなかった。駅員は、正確な時間によって動かされているのである。 「はい。あのお客さんが乗車されたのは、十四時三十二分発の上りに間違いありません。発車時間が迫っていましたので、私は、電話を急ぐように言いました」  と、若い駅員は明瞭にこたえた。  宮本は手短に電話を終えると、上り列車に飛び乗って行ったという。 「どうも、突然お呼び立てして、すみませんでした」  浦上は礼を言い、念のために、先方の氏名を聞いた。 「私は、JR船岡駅の上田邦夫と申します」  若い駅員は無駄なことはしゃべらず、始終、好感の持てる話し方だった。  浦上は電話を切り、受話器を、宮本に返した。  宮本は、それを背後の電話台に置きながら、 「これで、分かっていただけましたね。あとは時刻表をあたってください。ぼくはどこへも寄らずに、真っ直ぐ鶴見のアパートへ帰ってきたのです。このことは、あなた方から、警察へもよく伝えておいてください」  と、浦上へとも、谷田へともなく言った。気のせいか、宮本の態度全体に、落ち着きが戻っている。 (じゃ、福島産の二十世紀梨は、どう説明するつもりなのか)  浦上は、いまこの場で口にできるはずもない詰問を、自分の中でかみしめた。  そして、最後の質問として聞いた。 「船岡のお友達の名前と、電話番号を教えてくれませんか」  夫婦の対立が絶頂に達しているときに、一夜を共にした旧友ならば、何か、宮本の変化に気付いているかもしれない。 「刑事さんよりも、疑り深いんですね」  宮本はそう言いながらも手帳を開いて、成瀬という旧友の、勤務先の電話番号をこたえてくれた。  それは亀岡《かめおか》の、煉瓦《れんが》会社だった。勤務先の電話番号を教えてくれたのは、 「成瀬は、夜七時過ぎでないと帰宅しないのですよ。早く連絡を付けるのなら、会社の方がいいでしょう」  という配慮からだった。  どこをどう探られても、怪しいことは一点もない。それを、宮本はそうした配慮を示すことで主張しているようでもあった。        *  帰途、浦上と谷田は、昨日と同じように戸塚へ抜けた。  昨日と同じJR戸塚駅東口の喫茶店に寄った。  浦上はコーヒーを注文すると、キャスターに火をつけて、ずばりと言った。 「心証はクロですね」 「オレもそう感じた」  谷田も、ピース・ライトに火をつけた。 「駅員の証言は、あの通りだと思います」  浦上は地方の小さい駅の、若い駅員の素朴な口調にうそはないと思った。  宮本は間違いなく、(宮本自身が強調するように)十四時三十二分に、船岡駅から上り普通列車に乗り込んだのだ。決して、それ以前に船岡を離れてはいない。  しかし、船岡を出発してから、不忍池の犯行時刻までには、ざっと、三時間半の持ち時間がある。  この持ち時間を、活用する手段はないのか。いや、必ずその三時間半にトリックが仕掛けられている。  浦上と谷田の意見が一致したのは、手塚久之と、村松俊昭のアリバイが崩れようもないという、消去法のためだけではなかった。 「宮本はあんな物腰をしているけれど、意外な食わせ者かもしれませんよ」 「見ているところは、一緒だな」  谷田はうなずきながら、たばこを吹かした。浦上の指摘は、宮本が、一見、面倒くさそうな素振りを示しながらも、ポイントは、繰り返しきちんとこたえていたことであり、谷田もまた、 「うん、勿体《もつたい》ぶってはいたが、実際には自己主張をしたくて、うずうずしていた顔だ」  と、ベテラン事件記者のキャリアで見抜いていたのだった。 「この分では、出発点の船岡は駄目だな。成瀬って旧友に電話しても、返ってくるこたえは知れているのじゃないか」 「しかし先輩、出発点は船岡なのだから、一応、成瀬なる友人に当たってから、三時間半の足取りを追うのが順序ではありませんか」  コーヒーがきた。  浦上はコーヒーを飲み、たばこを吸い終えると、テレホンカードを用意して立ち上がった。  カード電話は駅まで行かなければ、なかった。  浦上は構内の人込みの中で、グリーン電話を取った。  亀岡の煉瓦会社は、最初女子社員が出たが、すぐに、当の成瀬に代わった。 「は? 週刊誌の方ですか」  成瀬は、浦上の目的を知ると、驚いたような声を出した。船岡の若い駅員と同じように素朴な印象であり、宮本に共通する、ゆったりした話し方だった。  あの後で、宮本から電話が入っているかと思ったが、それはなかった。 「宮本の奥さんも、えらいことになったものです」  成瀬は、そのことで自分まで取材されるなんて、予想もしなかったと繰り返した。本当に意外という口調である。  成瀬も鳥取の出身だった。高校時代の三年間を宮本と一緒に過ごしたが、成瀬は親類の手づるで現在の煉瓦会社に就職し、その後、入り婿の形で結婚し、園部町に落着いた、という経緯のようだった。  宮本とは、社会人となってからも、ずっと交際をつづけてきたし、お互いの結婚式にも出席しているという。 「宮本の奥さんは、どこか派手だとは思いましたけど、OL時代からの愛人がいたなんて、ひどい話ではありませんか」  成瀬は当然なことに、旧友の肩を持っている。  成瀬が、初めて淑子の素行を打ち明けられたのは、四日前に宮本が一泊したときだった。 「宮本さんは、前ぶれもなく、やってきたのですか」 「日曜日の朝、鳥取の家から電話がありまして、これから横浜へ帰るのだが、寄ってもいいか、と言ってきました」 「最初から、お宅へ一泊するつもりで電話をかけてきたのですか」 「そうではありません。久し振りで会っているうちに話がはずみ、うちの女房が強く勧めたこともあって、泊まることになったのです」  そして、翌三日の月曜日宮本は年休を取ることにして、旧友同士は、一夜語り合ったという。  その限りにおいては、宮本の一泊は計画的ではない。しかし分からない。結果的に、成瀬夫婦が宿泊を勧めざるを得ないよう、宮本の方からそれとなく働きかけたのかもしれないのである。 「結婚して二年なのに、夫婦関係がうまくいかなくて、宮本は落ち込んでいましたね。昔は、あんな男ではなかったのに、ぼくの家で酒を飲みながら、愚痴《ぐち》をこぼしてばかりいました」  と、成瀬がつづけたところで、テレホンカードがなくなってきた。  浦上は、 「すみませんが」  と、いったん電話を切ってもらい、すぐにかけ直した。 「お仕事中申しわけありませんが、もう少し話を伺わせてください」  浦上は事件当日、すなわち、宮本が一泊した翌日へ、質問を進めた。 「はあ、宮本がくさくさしていたので、つきあってやればよかったのですが、ぼくの方はどうしても、会社を休むわけにはいきませんでした」 「すると、成瀬さんは普通に出勤し、宮本さんだけが家に残ったのですか」 「いえ、ぼくがいなくて、家の中でぼくの女房と顔突き合わせているのでは、宮本も気詰まりでしょう。朝、ぼくが出勤するとき、宮本も一緒に家を出ました」 「しかし、宮本さんが横浜へ帰るために乗った列車は、午後でしょう。船岡発十四時三十二分と聞いていますが」 「ええそうですよ。宮本はこのまま横浜へ帰っても仕様がないと言いましてね、気晴らしに、近所の山を歩いていたのです」 「山?」 「山といっても、それほど大げさなことではありません。宮本は高校生の頃から、沢歩きが好きでしてね。あの日も、人気のない川の畔《ほとり》でも歩いて、今後の生活の立て直しを考える、と話していました」 「近くに、格好な川があるのですか」 「ええ、大堰《おおい》川と、園部川、二本の川が流れています」  成瀬は、毎朝七時四十分に家を出るという。亀岡への通勤には軽乗用車を用いており、船岡駅近くの大堰川まで、宮本を同乗させたという話だった。 「宮本は時刻表を調べて、夜遅くならないうちに横浜へ帰ればいいということで、あの上りを決めたのですよ。ええ、もしも会社などから電話があったら、あの上り列車に乗り、京都経由で間違いなく今日中には横浜へ帰ると伝えてくれと、女房に頼んでいました」  それで、成瀬の妻は、真理から電話が入ったとき、その通りにこたえたのだろう。 「そうです。女の人から電話があったことは女房から聞きました。今度の事件が起こってから、宮本に電話して知ったのですが、あの女の人は、宮本の奥さんと関係があった村松という男の夫人なんですってね」  あの女の人も、相当な発展家だそうですね、と、これは半ば独り言のように、成瀬はつづけた。もちろん、宮本に吹き込まれたことだろう。 「大堰川で、宮本さんと別れたのは何時頃ですか」 「家から車で五分ですから、七時四十五分頃になりますか」 「それから、十四時三十二分の上り列車に乗るまで、宮本さんは一人で沢歩きというか、川の畔を歩いていたのですかね」 「あいつは、そういう男なのですよ。本当なら、横浜みたいな都会で暮らす人間ではありません」  成瀬の妻は、その宮本のために、昼食のにぎりめしを用意してやったという。 「宮本は、しかし二時前には、もう川から戻っていたようですよ。うちの女房にお礼の電話をかけてきたのが、二時少し前だったそうです」  宮本は、上流では紅葉が見えたと言い、会社からの電話があったかどうかを尋ねたという。しかし、このときはまだ、真理からの問い合わせは入っていなかったわけである。 『いろいろお世話になりました。では、ぼくは今朝の予定通りに横浜へ帰ります。成瀬によろしくお伝えください』  宮本はそう言って電話を切ったが、 「うちの女房の話によると、朝方より元気な感じだったそうです。やはり、川を歩いたのがよかったのでしょう。しかし、その後に、あのような事件が待っていたなんて、宮本も、つくづく不幸な結婚をしたものです」  高校時代からの親友は、最初から最後まで、宮本を心配する話し方だった。        *  浦上は、長い市外電話を終えて、谷田が待つ喫茶店へ戻った。  浦上は成瀬とのやりとりを報告すると、コーヒーの追加を注文し、キャスターをくゆらしながら、ショルダーバッグから時刻表を取り出した。 「船岡から京都まで、一時間十七分。この普通列車の中では、工作のしようもないでしょうね」  浦上は駅名の「船岡」と、発車時刻の「十四時三十二分」にアンダーラインを引いて、谷田に見えるようテーブルの上に置いた。 「一点、気に入らないことがあるな」  谷田は首をひねったが、それは鉄道ダイヤに関してのことではなかった。 「宮本はどうして、沢歩きだか、川歩きだかしたことを、オレたちに言わなかったのだろう?」  独白のようなつぶやきだった。 「宮本のあの話し方では、成瀬の家を出たのは、午後になってからの乗車間近で、船岡駅へ直行した感じだったではないか。違うかね」  そう言われてみれば、そんな感じもする。 「でも、それはこの際問題とはならないでしょう」  と、浦上は谷田の顔を見た。 「宮本は要点だけを、こたえたわけですから、質問もされないのに、少年時代から好きだったという沢歩きを、特別口にすることもなかったわけです」 「ま、それはそうだ。どっちにしろ、十四時三十二分の出発は、この通りだろう。その間、船岡で、何かが操作できるわけでもないしね」  谷田はいったん口に出した疑問を自ら訂正し、改めて時刻表に見入った。  そして、またつぶやくような口調になった。 「オレは乗ったことないが、この列車は、途中、嵯峨《さが》とか二条《にじよう》にとまって、京都へ着くのか」 「先輩、何か発見したのですか」 「京都の地図は持ってないだろうな」 「必要なら買ってきましょうか」 「終着京都まで行かず、京都市内へ入ってすぐ、嵯峨辺りで途中下車ってのはどうだ」 「何をするのですか」 「嵯峨なら、京都駅より二十五分早く着くだろ。そこで、大阪空港までタクシーを飛ばすって手があるんじゃないか」 「宮本は新幹線ではなくて、飛行機で、東京へ先回りですか」  浦上の口調が思わず引き締まると、谷田は畳みかけてきた。 「時間短縮に、空路は常識だ」 「まずは、京都市内から、大阪空港までの所要時間か」  浦上は、市内—空港間の、交通案内ページを開いた。京都駅南口—大阪空港間は、路線バスで五十五分、と出ている。  それを京都より手前の駅で降りて、タクシーを利用することで、どのていど時間を浮かすことができるか。  これは、旅行社に当たるのが近道だ。 「よし、横浜支局へ出入りしている業者に聞いてみよう」  谷田は気軽く腰を上げた。  今度は遠方ではないので、喫茶店の中のピンク電話で済ませた。  谷田は二分ほどで、テーブルに引き返してきた。苦笑しながら言った。 「土地鑑がないってのは、しようがないもんだな、山陰本線の途中駅で降りると、かえって時間がかかるそうだ」 「結局、終着まで行くのが、早いわけですね」 「京都駅八条口から、タクシーで五十分ということだ」 「山陰線が到着するのは1番線ホームだから、八条口まで、急いで十分かな」 「ということは、正味一時間」 「京都着が十五時四十九分。一時間加えると、大阪空港に到着するのが、十六時四十九分ということになりますね」 「で、どうなる?」  谷田は時刻表を指差し、航空ダイヤのチェックを浦上に命じた。顔に、余裕があった。  確かに、ジェット機は飛んでいる。大阪空港発十七時という、ぴったりの空路�JAL122便�。  しかし、浦上の声は、一転暗いものに変わっていた。 「先輩、こりゃどうしようもありませんよ」 「十一分あれば、搭乗手続きは何とかなるだろう」 「そりゃ、新幹線よりジェット機の方が速いですよ。でもねえ」  出発時間はぴったりでも、東京着が十八時なのである。これでは飛行機を降り、羽田《はねだ》空港のゲートを出るか出ないうちに、不忍池の殺人《ころし》は完了してしまっている。 「ほかにはないのか」 「たとえば、大阪空港へ行く、予想もしないルートですか」 「そういうこと。空港到着を早めれば、搭乗できる便。それがあるなら、京都へ行って実地検証だ」 「いやあ、無理ですね」  浦上は出発時間を確認してから、時刻表を谷田に見せた。 �JAL122便�の一つ前の東京行きは、�ANA30便�であり、これは大阪発が十五時三十五分だった。  谷田が思い付きで口を滑らしたように、京都—大阪空港の所要時間を、常識では考えられない方法で短縮することが可能だったとしても、十五時三十五分発では駄目だ。宮本を乗せた上り列車は、まだ京都に到着していない。 「船岡発十四時三十二分は、終着まで、特急に追い抜かれることもないんだな」  谷田はあきらめ切れないように、もう一度、山陰本線のダイヤを指でたどった。  途中駅で、特急か急行に乗り換えることができれば、推理の構築も変わってくる。京都到着が早まれば、空路ではなく、そのまま鉄道(新幹線)乗り継ぎの手段を、考え直すことも可能だろう。しかし、そうはいかないのである。 「先輩、宮本はどこを、どう帰ってきたのでしょうか」 「この壁を崩さない限り、警察《さつ》だって手の出しようがない」 「ともかく物証のない事件《やま》ですから、宮本を何度捜査本部へ呼んでも、らちは明きませんね」 「だが、真犯人《ほんぼし》は宮本だ」  谷田は自分に言い聞かせるように、繰り返した。  すでに裏付けが取れた手塚や村松のアリバイと違って、宮本の方は、流動的な要素を残している。  三時間半の持ち時間と、福島産の鳥取みやげ。残された一人宮本だけが、犯行現場に立てる可能性と、灰色の疑惑を、深めているのである。  疑惑は、浦上と谷田が共に感じたように、宮本自身の物腰からも、十二分に窺えるのだ。 「おい、成瀬って旧友に、肝心なことを聞き洩らしているぞ」  谷田は、ふいに顔を上げた。 「あの梨が、なぜ福島産であったのか。この疑問をひとまずおけば」  と、谷田は言った。 「宮本は鳥取のみやげと称して、松見アパートの家主に二十世紀梨を届けたんだ。事実鳥取みやげであるなら、成瀬の家に泊まったときも、パックのかごを持っていなければならない」  指摘されてみれば、その通りである。宮本が成瀬宅へ一泊したとき、そのみやげがなかったとしたら、問題は着実に、一歩前進することになる。  その点を確認しなかったのは、迂闊《うかつ》だ。浦上はさっと立ち上がっていた。  喫茶店を出ると、小走りに戸塚駅まで行き、さっきのカード電話に飛び付いた。  成瀬は、二度の電話取材に対して、億劫《おつくう》がらずにこたえてくれた。 「宮本は、ぼくんところへのみやげとして、二十世紀梨をくれましたが、ほかには梨のかごなど持ってはいませんでしたよ」  成瀬のことばは明快だった。  宮本は、身軽な旅装だった。成瀬宅へのみやげを別にして、所持していたのは、薄いアタッシェケースだけだったという。  三日間の鳥取出張といっても、実家に寝泊まりしていたので、着替えなどは必要としなかったのだろう。 「宮本さんは、アタッシェケースのほかには、何も持っていなかったのですね」 「ええ、ほかには黒いコートを手にしていましたね」 「黒いコート?」  池畔から逃亡する犯人は黒っぽいコートを着ていた、と、目撃者たちは口をそろえている。  コートは返り血を避けるための準備工作ではないか、と、捜査本部では見ているわけだが、これは思わぬ証言であり、決め手になりそうだ。宮本に対する疑惑が濃くなってくる。 「黒いコートですか」  電話を切るとき、無意識のうちに、浦上の声が高くなっていた。        * 「宮本が手にしていたのは、アタッシェケースに、黒いコートだと?」 「梨は持っていません。鳥取みやげが、やっぱり墓穴を掘りましたね」 「上野駅だな。あんなもの、なまじ上野で買ったりしなければ、アシがつかなかったのに。偽装工作のやり過ぎってやつだ」 「しかし先輩、そうすると、アタッシェケースが問題となりますが」  浦上は残っていたコーヒーを飲み、考えながら言った。  池畔の目撃者三人は、だれも、逃げて行く犯人が、アタッシェケースを所持していたとは証言していない。小さいショルダーバッグなどと違って、アタッシェケースならば、必ず目につくだろう。  浦上はそれを、疑問として口にしたが、 「上野駅にはいくらだって、コインロッカーがある」  谷田は、その件に関しては、全く問題にしなかった。  凶行後の宮本は、全神経を逃亡に向けている。従って、�鳥取みやげ�は、犯行前に買い調えるのが自然だ。  もちろん、わざわざ梨のかごをぶらさげて人を殺すばかはいない。 「宮本は返り血を避けるための黒いコートを着、アタッシェケースは、梨と一緒に、コインロッカーに入れておいたのに決まっている」  と、谷田は言った。 「そりゃそうですね。殺人《ころし》も逃亡《とんずら》も、身軽でなければならない」  浦上はうなずいて、話を戻した。 「それにしても先輩、これで、先輩の発見入手した吉井果樹園の短冊が、有力な物証として、浮かび上がってきましたね」 「短冊と、黒いコートが物証としてものを言うためには、まず、宮本を上野へ連れてこなければならない」  すべては、山陰本線の終着駅、京都、ということになる。 「オレも京都へ行ってみるか」 「そうですね。いくら毎朝日報でも、今度の場合は、京都支局に取材を頼むネタじゃありません」 「京都駅を中心点に据《す》えて、何が見えてくるか。これは実際に行ってみるしかない」  谷田は両腕を組み、難しい顔をした。  そして、それが、この場の結論となった。  浦上は喫茶店を出ると、谷田と別れた。真っ直ぐ神田へ引き返し、『週刊広場』編集部へ入った。  木曜は校了日なので、編集室は午後から人の出入りが慌ただしい。 「仙台に始まり、京都に終わるか」  長身の編集長は、窓際の机で、パイプたばこをくゆらしながら浦上の報告を聞いたが、 「宮本の鳥取出張と、村松の横浜出張が微妙に重なったのは偶然かな」  と、独り言のようなつぶやきを、漏らした。京都取材は、もちろん、簡単にオーケーだった。 「浦上ちゃん、入稿までにちょうど一週間ある。次号のトップは、不倫人妻殺人事件のアリバイ崩しでいくぞ」  編集長は浦上の実績を全面信頼といった感じで、取材費の仮払い伝票に判を押し、 「毎朝の谷田さんによろしく」  と、新しいパイプをくわえたが、浦上は、改めて厚い霧を感じていた。京都を取り巻く、灰色の霧である。  その霧の中に、果たしてどのようなルートが隠されているのか。        *  翌十月七日、金曜日。  浦上伸介も谷田実憲も、早起きをした。新横浜駅のホームで待ち合わせ、乗車したのは六時五十三分発の�ひかり61号�だった。  谷田の時間が、どうしても一日しかとれなかった。日帰りで取材を済ませるための、早出である。  昨日と同じように快晴で、穏やかな日和だった。  二人は自由席の座席を確保すると、食堂車へ行った。五車両後ろの8号車。  早い時間なのに、自由席も食堂車もほぼ満席だった。コーヒーにトーストを頼み、浦上は用意してきた京都の地図を広げた。 「JR船岡駅は、昨日先輩が話していた船岡山とは、全然別方向ですね。船岡山は市内北区の紫野《むらさきの》の近くですが、船岡駅はもっと北方で、ほとんど兵庫県寄りです」 「この�ひかり�は、何時に京都へ着くのかね」 「九時二十一分です」 「このまま、船岡へ行くか。やはり、船岡駅からスタートするのが順序だろうな」  谷田は地図を引き寄せた。  浦上はショルダーバッグから、時刻表を出した。三十一分の待ち合わせで、福知山《ふくちやま》行きの普通列車があった。 「結構時間がかかりますね。船岡到着は十一時十七分です」 「繰り返しになるが、飛行機の場合は、大阪空港発十五時三十五分の�ANA30便�に間に合わなければ駄目なわけだな。新幹線はどうなる?」 「東京駅から不忍池まで、余裕を取って四十分と見れば、十七時二十分には到着していなければなりませんね」  浦上は時刻表を指でたどり、 「こりゃ、全然話になりません」  うんざりしたように顔を上げた。十七時二十分に東京駅へ着くためには、京都駅を十四時三十七分に出なければならないのである。 「先輩、十四時三十七分といえば、船岡を出発してからわずか五分です」 「五分か」 「宮本を乗せた普通列車は、やっと隣駅園部へ到着したところです」  味気ない朝食になった。新発見でもあれば、コーヒーをビールに切り替えたであろうが、それどころではない。  食堂車が込んできて、空席待ちの客が通路に並んできたせいもあって、浦上と谷田は早々にテーブルを立っていた。  3号車の座席へ戻ると、列車は熱海駅を通過するところだった。車窓左下に、朝の温泉街が広がり、その向こうに見える相模湾が蒼かった。静かな海は、初島を浮かべている。 �ひかり61号�は、新横浜を出ると、名古屋までとまらない。名古屋の次の停車駅が京都となる。  ほとんど、無言の車中となった。  時刻表をいくら引っくり返しても、それは、単なる数字の羅列に過ぎない。ダイヤは何のヒントも、与えてはくれない。  時刻表からの発見は、全く期待できないのである。  空路が不可能で、新幹線も駄目。他に、いかなる手段があるのか。  京都へ行けば、本当に何かが見えてくるのか。何かが隠されているのは間違いないであろうが、巧妙に仕組まれた罠を、果たして見破ることができるのか。  名古屋では、降りる人よりも乗ってくる客の方が多かった。通路に立ったままの客も出てきた。大方が、ビジネスマンのようである。関西への出張に、格好な時間帯なのであろう。  列車は予定通りに、京都駅ホームに滑り込んだ。  古都の空もよく晴れている。最初に、新幹線のホームから目に入ったのは、京都タワーだ。  浦上と谷田は、長い跨線橋を歩いた。新幹線下りホームは14番線、山陰線発車ホームは1番線なので、構内の端から端まで歩くことになる。  二人は乗り換え時間を利用して、案内所へ寄った。 「そうですね、福知山経由なら伊丹《いたみ》下車で簡単ですが、船岡からでしたら、やはり京都駅八条口でタクシーに乗るのが、一番速いですね」  と、係員は大阪空港へのルートについてこたえた。  念を押すための質問であったが、現地で確かめても、新しいデータは出てこなかった。新幹線利用についても同様である。  宮本の主張しているルートが、最短であり、もっとも速いという結論しか出てこない。  1番線ホームに行くと、福知山行きはすでに入っており、何人かの客が乗り込んでいた。朱色の古い五両連結は、いずれも手動式のドアだった。 「福知山経由なら、大阪空港に近い伊丹駅があると言ったね。船岡から、京都へ出るのではなく、福知山を回る逆行は無理なのかね」  谷田は、やがて列車が走り出したとき、古都の町並へ目を向けて、つぶやいた。しかし、そうつぶやいたものの、大して期待はかけていない横顔だった。  浦上にしても同様である。だが、無為に列車に揺られていても仕様がないので、時刻表を開いた。 �逆行�が、思いもかけない解決を運んでくることもある。が、この場合は論外だった。船岡発十四時三十二分の上り列車は、次の園部で、タイミングよく二分の待ち時間でUターン、下り列車に乗り換えることができるけれども、福知山着が十五時五十七分なのである。  さらに、福知山から伊丹までは、一部特急利用で計算しても、正味一時間四十一分もかかる。とてもではないが、大阪空港発十五時三十五分に搭乗することはできない。 「駄目ですね」 「そうだろうな」  と、短いことばが交わされて、ふたたび沈黙が、浦上と谷田の間に距離を作った。  二条、花園と過ぎると、車窓に竹林が見えるようになり、嵯峨野だった。  嵯峨駅からは、十人ほどの船頭が乗り込んできた。  日焼けした船頭たちは、いずれも地下足袋に半天姿であり、半天には「保津峡《ほづきよう》下り」と染め抜かれてあった。保津川を下ってきた船頭が、船はトラックで返し、自分たちは列車で亀岡まで戻って行くわけである。  嵯峨を発車して、嵐山隧道《あらしやまずいどう》を通過すると、列車は鉄橋を渡った。  車窓右手に、保津川峡谷の景観が広がってくる。川を挟んで、山頂と山頂を結ぶ大きい吊橋があった。  雨が少ないせいか、十月の川は流れがゆるやかだった。水かさの少ない流れを、観光客を乗せた屋形船が下って行く。 「山は、まだ紅葉には早いか」  谷田はそう言って浦上を見たが、返事を求める問いかけではなかった。  亀岡を過ぎると、乗客はぐっと少なくなり、沿線の駅も、駅周辺も、ごく小規模なものに変わった。 「おい、これでも禁煙しなければいけないのかい」  谷田は普通列車に乗って一時間が過ぎる頃、三、四人しか客のいないがら空きの車内と、山と畑しか見えない窓外に目を向けて言った。浦上も、そろそろ、たばこに火をつけたいところだったが、京都から園部までは禁煙区間となっている列車なのである。  その園部を過ぎて、浦上と谷田はようやくたばこを取り出した。  一本のたばこを吸い終わらないうちに、列車は短いトンネルに入った。  トンネルを出ると、目的駅船岡だった。  小さな駅で降りたのは、浦上と谷田の二人だけである。  下りの殿田《とのだ》方面にも、前方に短いトンネルがあった。トンネルとトンネルに挟まれた盆地が水田になっており、いまは稲が刈り取られ、すっかり水を落とした枯れ田が小さいホームから見下ろせる。  田圃を二分する単線鉄道は高い土手の上を走っているのである。  土手のすぐ下、駅の片側に何戸か民家が並んでいたけれど、商店は一軒も見当たらない。酒屋らしい店は、枯れ田のはるか彼方に、ぽつんとあるだけだった。  そして、その酒屋の横手に伸びる斜面には、土塀をめぐらした、昔の庄屋ふうの立派な構えの屋敷が、二、三、点在していたが、全く人影のない風景が、ひっそりとそこにあった。  上りと下りが共用しているホームにも、浦上と谷田以外には、だれもいない。 「列車が着いたとき、駅員も、必ずホームに出るってわけじゃないのか」 「それにしても、寂しい山間《やまあい》ですね」  白砂利の敷き詰められたホーム中央に小さい待合室があり、その先に、出口へ下りる階段が、ぽっかりと口を開けている。 「おい!」  谷田が、怒鳴り付けるような声を発して、浦上を振り返ったのは、一足先に階段を下りたときである。 「おい、ここには駅がないぞ!」 「駅がない? どういうことですか先輩」 「ここへ来てみろ!」  谷田は、自分でも整理が付かない口の利き方をした。  しかし、次の一瞬、浦上も、谷田と同じような、虚《うつ》ろな表情に変わっていたのである。  こんなことがあろうか。  短い階段は途中で右折しており、右に下ると、そこはもう土手下の道路なのである。どこにも駅舎がない。谷田が「駅がないぞ!」と、吐き捨てたのは、そのことだった。  出札口も改札口もない、無人駅だったのである。  階段の途中、右折個所には、次のような掲示があった。   当駅は綾部《あやべ》駅が管理しております ご用の方は下記へご連絡ください 電話〇七七三—四二—〇四〇一 綾部駅長  掲示板の下には赤い小箱が置かれてあり、「使用済みの乗車券はこの中へお入れください」と記されてあった。 「きみは、いったいだれと、電話でしゃべったのかね」  谷田はホームと階段だけの駅を出ると、土手の上の線路を見やって、もう一度、 「この船岡駅の、どこに電話があるんだ!」  いらだちをぶちまけるようにして、怒鳴り声を上げていた。  8章 霧の中の船岡駅  周囲に何の人影もなければ、物音ひとつしない山間《やまあい》の小駅。  風景全体に、ぽっかりと、知らない大きな穴が開いてしまったかのようだった。船岡の空もよく晴れているけれど、蒼く澄み切った秋の空が、逆に、空しさを運んでくるかのようであった。  今度の上りは、十一時四十九分だった。ざっと三十分待たなければならない。  浦上伸介と谷田実憲は、所在ないままにたばこを吹かした。  無人駅には、公衆電話一台設置されてはいない。鍬《くわ》を肩にした年老いた農夫が一人、枯れ田の向こうから歩いてきたのは、浦上と谷田が、二本目のたばこを灰にしたときだった。 「この駅かい? この駅ができたのは、戦後だね。ああ、最初からずっと無人駅だった」  と、農夫は、声をかけた浦上の質問にこたえた。  農夫は、都会からきた浦上と谷田を物珍しそうに見て、人気のない畦道《あぜみち》を歩いて行った。  その小さい後ろ姿が山間に消えると、浦上と谷田はホームに上がった。  狭い待合室の中に、発車時刻表と運賃が掲示されてあった。もちろん普通列車しか停車しない船岡駅だが、京都行きの上りは十九本あり、問題の「十四時三十二分」もはっきりと記入されている。  駅もあり、当該上り列車も間違いなく走っている。  しかし、駅員がいない。  浦上の電話に対して、 『私は、JR船岡駅の上田邦夫と申します』  とこたえた純朴な声は、幻聴だったのか。いや、幻聴とか錯覚であるはずはない。  あの上田という若い駅員がホームから戻ってくるのを待たされる間、電話の向こうに聞こえた騒音は、確かに、鉄道の駅のものだった。  列車の到着する音が響き、駅名を連呼する駅員の声が聞こえ、そして、ホームから発車して行く列車の音を、浦上はしかと耳にしているのである。  だが、現実に、船岡駅には駅員もいなければ、電話も敷設《ふせつ》されてはいない。  トリックはこれだ。これしかない。 「宮本のやつ、まさか、オレたちが、実際にこんなところまでくるとは思わなかったのだろう」  谷田が沈黙を破った。谷田は、口元を引き締めてつづけた。 「きみは昨日、電話で、宮本が主張するアリバイの裏付けを取った。しかし、あの電話は、きみがダイヤルしたわけじゃないぞ」 「分かってますよ!」  浦上も、思わず声を荒立てていた。確かに受話器は先方が出る前の、まだ呼び出し音さえ聞こえない時点で、浦上は宮本から手渡されている。 『お待たせしました。JR船岡駅です』  という相手の第一声を聞いたのも、浦上である。  だが、�船岡駅�のプッシュボタンを押したのは、浦上自身ではない。 「先輩、そうすると、成瀬の女房が、アリバイ工作の背後にいることになりますか。宮本は、船岡駅の電話番号を、成瀬の女房から聞き出したのですよ。われわれの目の前で見せたあのやりとりは、当然、芝居でしょう」 「成瀬の女房が共犯というのはどうかな」 「完全犯罪なら、共犯は一人でも少ない方がいいに決まっています。でも昨日、宮本はわれわれの目の前で、成瀬の女房に香典の礼を言い、はっきりと船岡駅の電話は何番かと尋ねたではありませんか」 「宮本が電話に向かって問いかけたのは、事実だ。しかし、きみもオレも、先方の声は聞いていないぞ」 「芝居は芝居でも、宮本の一人芝居だったというのですか」 「うん。あれがアリバイ偽装工作の出発点だ。そうは思わんかね」 「そういうことですかね」 「そこまではだれでも見抜ける、ちゃちな工作だ。問題は、その後だな」  と、谷田が両腕を組んだとき、無人の駅に、いきなりアナウンスが流れた。「上りホームに列車が入ります」というアナウンスであり、それを追いかけるようにして、殿田方向のトンネルから朱色の電車が、姿を見せた。 「へえ、こういうものですかね。駅員がいなくても、テープでアナウンスを流すことができる」  と、浦上が待合室を見回すと、 「案外そういうことかもしれないぞ」  谷田の表情が、また一段と厳しくなった。  上り列車が、ゆっくりとホームに入ってきた。        *  上り列車は、浦上と谷田を乗せると、すぐに小さい駅を離れた。わずかに三十二分の�滞在�だった。  浦上と谷田は、車内で、車掌から京都までの乗車券を求めた。  きたときと同じように、がら空きの車内だった。一両に、せいぜい五人ぐらいしか客が乗っていない。  谷田は靴を脱ぎ、ボックスシートに足を投げ出して、 「これまたちゃちな工作だが、テープを流すという方法がある」  と、無人駅ホームでの発見をつづけた。 「テープって、昨日の電話は、一方的な通話じゃありませんよ。�船岡駅員�は、ちゃんとぼくの質問にこたえています」 「当たり前だ。いまのアナウンスがヒントをくれたのは、背景だよ」 「背景?」 「きみは確かに二人の駅員、正確には二人の男と電話でことばを交わしている。それはその通りだろう。いくらうまくテープを回したって、テープではこっちの質問にタイミングよくこたえられるものじゃない」 「先輩が言うのは、船岡ぁ、船岡ぁ、という駅名連呼とか、列車の音。すなわち、駅の騒音のことですか」 「ああ。調子よくテープをセットすれば、駅の雰囲気にリアリティーを与えることができる」 「そりゃ、ひとつの推理ではありますがね」  浦上は乗らなかった。谷田は直接電話を聞いていないから新しい発見を貴重なものとして口にするが、あれは決して、テープが再生した擬音なんかではなかった、と、浦上は否定する。『週刊広場』の別のルポライターが、カセットテープと電話を組み合わせたトリックに挑戦し、浦上はアシスタントとして、実験に協力したことがある。一年前のことだ。  そのときの体験から推しても、 「あれはテープの音ではありませんよ」  と、浦上は繰り返した。実際の音と再生した音の間には、微妙な違いがあることを、浦上は経験的に承知している。 「二人の駅員にしても、そうですよ。あれが演技だとしたら、相当なものです。素人じゃ、ああはできないと思いますね」 「きみが、それほどまでに言うのなら、このことは宿題として残しておこう」 「宿題ですって?」 「不満かね」 「第一、あれが宮本の仕組んだものだとしたら、宮本は電話工作だけで、複数の共犯を用意したことになりますよ。共犯は一人でも少なくなければならない、完全犯罪のルールに反しませんか」 「宮本が自らプッシュボタンを押した昨日の電話が、アリバイ工作であることは、間違いあるまい」 「ぼくだって、それはそう思います」 「それではきみは、どこのだれと話をさせられたのかね」  谷田は、船岡が無人駅と知ったときの、さっきのショックを、再度顔に出した。 「そう畳み込まないでくださいよ」  浦上は窓外に目をやって、考え込んだ。  上り列車は千代川《ちよかわ》、並河《なみかわ》と過ぎて、ごく少しではあるが、さっきよりは乗客が増えている。浦上は車窓を過る山影を見ながら、昨日の電話を思い返した。  上田邦夫と名乗った若い駅員にしてもそうだが、 『お待たせしました。JR船岡駅です』  と、最初に電話を取った太い声の駅員にしても、不審な個所は何もなかったのである。 (あれは間違いなく、本物の駅員だ)  これまでの取材経験が、浦上の内面でそう主張しており、浦上もそれを信じている。  浦上は視線を戻した。 「どう考えても、あれは、�JR船岡駅�の駅員だと思うのですがね」 「何を寝ぼけたことを言ってるんだ。駅舎もなければ電話機もない無人駅で、だれがどのようにして、横浜からの電話を受けたというのか」 「先輩、JR船岡駅は、もう一つあるのではないですか」  浦上は谷田を見た。発見を整理するよりも先に、思い付きが口を衝《つ》いた、という感じだった。 「おい、船岡という同名の駅がもう一つあって、宮本がプッシュボタンを押したのは、もう一つの方の駅だというのか」 「この場合は電話だけですから、文字は違っても構わない。�ふなおか�と、読み方さえ同じならいいわけです」 「なるほど。よく捻《ひね》り出したもんだ。しかしなあ、浦上、大事なことを見落としていないか」  谷田は両腕を組んだ。  谷田が指摘するのは、宮本が十四時三十二分発の上り普通列車に飛び乗って行ったという駅員の証言だった。 「仮にだよ、仮に�ふなおか�駅がもう一つ別に存在したとしてもだ、ここの船岡と同じように、上り普通列車がぴたり十四時三十二分に発車する、そのような偶然の一致があると思うか」 「そう言われてみれば、根拠があってのことではなし、自信はありません。でも、これこそ、宿題になるのではありませんか」 「もう一つの�ふなおか�駅ねえ」  と、谷田が組んだ腕を崩して、しばらく経ったとき、車掌が回ってきた。  浦上は思わず立ち上がって、車掌を呼びとめていた。 「はあ?」  質問された車掌は、一瞬きょとんとした顔になった。胸のネームプレートに「福知山車掌区」と記されている車掌だった。 「船岡という駅が、山陰本線以外にあるか、というのですか」 「普通列車という言い方をする線ですから、ここと同じように、特急も急行も走っていると思うのですが」 「さあ、聞いたことはありませんね」  車掌は、妙なことを尋ねる客だ、というような顔をしている。それでも、浦上があまりにも真剣だったせいか、 「路線バスも特急とか急行という区分があるのではないでしょうか」  と、首をひねりながら言った。 「バスなら心当たりがあるのですか」 「いえ、そうではありませんが、鳥取県の八頭《やず》郡に船岡という町があるので、ひょっとして関係があるかもしれないと思ったのですがね」  と、車掌はつづけ、 「いずれにしても、JR西日本で船岡といえば、ここの駅だけです。全国的なことを知りたければ、京都駅に着いてから、案内所か、出札窓口でお聞きになってください」  と、アドバイスしてくれた。  もちろん、そうするつもりだ。  しかし、京都へ着くまで待てなかった。車中、他に何をするあてがあるわけでもない。いまは、宮本が仕掛けた電話工作の解明こそ、先決なのである。  浦上は車掌が立ち去ったところで、時刻表の索引地図を開いた。 「こうなったら、全国の駅を、ひとつひとつチェックしてやります」 「京都まで三十分ぐらいか」 「三十分でどこまでやれるか、ともかく当たります」 「よし、オレもやろう」  谷田は時刻表を取り上げると、索引地図の何ページかを、慎重に破った。  実際に着手してみると、これは、文字通り、気が遠くなるような作業だった。全線では、二万キロを越えると言われるJRなのである。  浦上が南から、谷田は北から、一駅ずつ、見落としがないよう、駅名を指で追った。�ふなおか�は出てこない。  そうした浦上や谷田の焦燥など関係ないかのように、列車は一定のスピードで、走っている。  帰途の保津峡は、車窓左手に見えている。  快晴の昼下がりなのに、浦上も谷田も、窓外を流れる素晴らしい風景が、濃い霧に覆われているのを感じた。  船岡駅は、霧の向こうにあった。  保津川を渡り、嵯峨までくると、相当に客席が埋まってきた。  揺れる車内で、小さい文字を追っていると、目が痛くなってきた。 「百科事典のように、時刻表に全国駅名の索引を付けるって着想はないものですかね」  浦上が顔を上げたのは、九州のチェックを、ほぼ終えたときであった。谷田の方は北海道を完了したが、 「そうか、オレも焦《あせ》ったな。ばかみたいに全国の駅名を、隅から隅まで当たる必要はなかったんだ」  と、浦上を見た。 「いまの車掌のことばを信じれば、まず、JR西日本は除外していいわけだし、空港を持たない遠隔地は、捜しても意味がない」 「うん、十八時までに不忍池に立てる距離ですか」 「そういうこと」  谷田は索引地図に目を戻した。  しかし、そう気付いたからといって、追跡が容易になるわけではなかった。結果から先に言えば、車内での作業は徒労に終わった。 「本当に�ふなおか�って駅が、あるのかなあ」 「車掌さんがヒントを与えてくれたけど、バスターミナルってことはないと思いますよ。そりゃ、バスにも急行や普通の区別があるでしょうし、ターミナル名を連呼することもあるでしょう。でも、電話機を通して聞こえてきたのは、自動車のエンジンではありません。あれは間違いなく、レールを走る列車の音でした」 「無人駅の発見ではないけどね、もう一度何か、発想の大きい転換を迫られるのではないかと、オレにはそんな予感がするのだけどね」  谷田と浦上は、そうしたことを話し合いながら、京都駅1番線ホームに降りた。谷田の方は、もう一つの�ふなおか�駅を、半ばあきらめかけているようだった。  二人は長いホームを歩いて、烏丸《からすま》中央口を出た。  コンコースは、修学旅行などの団体客で、ごった返している。  浦上と谷田は、烏丸口の中央切符売り場へ入って行った。  浦上の後ろに従う谷田は、�お付き合い�という感じが見え見えだった。確かに、もう一つの�ふなおか�駅への期待を、捨てた顔である。  出札窓口はどこも込んでいた。乗車券を求めるわけではない浦上は、 「お忙しいところ、申し訳ありませんが」  と、恐縮した口調で尋ねた。 「線名も分からないのですか」  駅員は迷惑そうにこたえたが、不親切ではなかった。回転いすを回し、背後の棚からやけに部厚いファイルを取り出した。  駅員は手慣れたふうに、ファイルのページをあちこちめくり、それを元の棚へ返すと、もう一冊別の、やはり部厚いファイルを引き抜いた。  駅員の回転いすが元へ戻るまで、三分ほどであったか。  駅員は開いたファイルをカウンターに置いて、浦上にこたえた。 「ありましたよ」 「あった?」  大声を発したのは、背後の谷田だった。  谷田は一歩前に出てきた。  谷田と浦上の視線が、カウンターの上のファイルに吸い寄せられた。それは、文字も同じ「船岡」だった。もう一つの船岡は東北本線だった。駅の所在地として、宮城県柴田郡柴田町船岡中央一丁目、と、記されている。        * 「おい、えらいことになったな!」  それは在来線にして、仙台より七つ上野寄りの駅だった。  浦上と谷田は、何度も礼を言って出札口を離れると、何はともあれ、時刻表を開いた。浦上の指先が、どうしようもなく震えていたのは当然だろう。 「先輩!」  その浦上の、口元までが、細かく震えてきた。  あった!  東北本線の船岡駅にも、山陰本線の船岡駅と同じように、十四時三十二分発の、上りの普通があるではないか!  しかし、あることはあったが、そっちは、京都行きの上りとは意味が違う。東北本線の十四時三十二分発は、わずか四分しか離れていない隣駅、大河原《おおがわら》止まりだったのである。  宮本はなぜ、一駅、普通列車に乗ったのか?  何かが見えてきた。 「たった一駅でもいい。宮本は何が何でも、この列車に乗らなければならなかったのだな」 「そうです。これこそが、やつが不在を主張する砦《とりで》にほかならないでしょう」  時刻表を持つ浦上の手に、力がこもってきた。  同じ「駅名」で、同じ「上り普通」で、同じ「発車時刻」。宮本はそれを発見したとき、偽装アリバイが成功することを悟ったのに違いない。 「うん、きみと電話で話した駅員が、列車の行き先を何気なく口にすれば崩れてしまう、綱渡りのようなアリバイ工作だが、現実には、こういうのが盲点になるんだな」 「さっきの先輩のことばではありませんが、われわれ取材記者が山陰本線の普通列車に乗るとは、宮本も想像しなかったでしょう」 「ぎりぎりなところへ仕掛けたトリックでも、手前のガードが固ければ、捜査の手も、すぐにそこまでは伸びない。盲点だよ。盲点は恐い」  と、谷田が繰り返したのは、もう一つの�ふなおか�駅を、いったんはあきらめかけた、照れ隠しの要素もあっただろう。  しかし、こうなると、福島産の鳥取みやげが新しい光芒を放ってくる。『松見アパート』で、あの二十世紀梨を見つけ出してきたのは、谷田だ。 「吉井果樹園の短冊が、物証として、間違いなく、生きてきましたね」  浦上は、照れ隠しが感じられる先輩への配慮を、言外ににじませた。 「宮本は一駅だけ、十四時三十二分発に乗って、次の大河原で後続の上り列車に乗り継いだのでしょうが、在来線から東北新幹線に乗り換えるとすれば、福島ということになります」 「福島か」 「これまた、ぴったりではありませんか。あのパックは上野駅構内でも売っているとはいえ、このルートを採ったに違いない宮本なら、福島駅での乗り換え時に買う方が自然だと思います」 「そうだな。アリバイ工作を完了した余裕に浸《ひた》りながら、宮本は、上野までの新幹線車中で、吉井果樹園の包装紙を剥ぎ取り、福島産の梨を、鳥取みやげに変身させたか」 「最後の追い込みですね」  浦上は、山陰本線の時刻表へ書き込んだように、東北本線の方にも、駅名の「船岡」と、発車時刻の「十四時三十二分」に、アンダーラインを引いた。 「知らなかったよ。鉄道ダイヤには、こうした偶然もあるんだな」  と、谷田がもう一度繰り返すと、 「こっちの船岡の方が、上野に近いことは間違いありません」  と、浦上は言った。 「これなら、十四時三十二分に出発して、楽に、不忍池の犯行に間に合わせることができるのではないでしょうか」 「それにしても、思いもよらないアリバイ工作だな」  谷田はなおも茫然と、アンダーラインが引かれた駅名と発車時刻を見ていた。  浦上にしても同じだった。京都駅構内の騒音が、一瞬、自分から遠のいていくのを、浦上は感じた。  だが、もう一つの船岡駅を発見したからといって、それで、すなわち全面解決というわけではないのである。  宮本の足取りの裏付けを初め、確認を必要とする問題は、まだ、いくつも残っている。 「おい、宮本のトリックが�東北�であることは分かった。しかし、�山陰�から�東北�へ、本当に移動することができるのかい。いわば、両極端だぞ」 「出発時間が違います」  浦上は、本能的に確信を持った。自信は、 (犯人《ほし》は宮本以外にいない)  という、これまでの取材結果に支えられている。  宮本が、成瀬の軽乗用車で、船岡駅近くまで送ってもらったのは、朝の八時前だ。�山陰�出発が午後であることが、ネックとなってきたわけだが、朝の列車で�山陰�を離れていれば、行き先が、東京より先の東北であろうとも、仮説の立て方が変わってくる。 �山陰�から�東北�への移動は、それほど難しい問題ではない。 「外堀から埋めましょう」  と、浦上は言った。 「分かった。とりあえず、昼食《ひる》とするか」  谷田が時刻表から顔を上げたのは、しばらくの沈黙を経てからだった。  今朝は二人とも早起きだった。しかし、口にしたのは一杯のコーヒーとトーストだけだ。霧の中から船岡駅が姿を現わしたために、忘れていた空腹感が、浦上にもよみがえってきた。  浦上と谷田は、コンコースの人込みを縫うようにして、エスカレーターで、京都観光デパートの二階へ上がった。  二階も込んでいた。みやげ物店などが、びっしりと並ぶ狭い通路を歩き、一番奥にあるレストランに寄った。  昼食時とあって、レストランは旅行客で満席だった。しかし、少し待って、窓際の席を取ることができた。  二人ともヒレカツ定食を頼み、 「壁は、ともかく一つは越えたんだ。軽く乾杯といこうか」  ということで、ビールをつけた。  ビールはうまかった。問題がいくつも残っているとはいえ、お互い、難関突破の充実感を覚えているためだろう。 「上田という若い駅員の確認から、始めますか」  浦上は、のどを鳴らすようにして、ビールをあけた。 「電話を入れるなら、成瀬の女房が先かもしれない」  と、谷田は言った。  谷田は、問題が一歩前進したことで、今度は成瀬の家にかかってきたという真理の電話に、こだわりを見せていた。  夫の成瀬は、昨日、浦上の問いかけに対して、 『女の人から電話があったことは女房から聞きました。今度の事件が起こってから、宮本に電話して知ったのですが、あの女の人は、宮本の奥さんと関係があった村松という男の夫人なんですってね』  と、こたえている。 「真理の立場が、どうも釈然としなくなってきた。これは、ひょっとすると、とんでもないことになるかもしれないぞ」  谷田はビール瓶に手を伸ばし、二つのコップに新しいビールを注いだ。浦上も、真理の電話に関して、筋が一本通らないものを、感じ始めていた。  それは、明らかに、もう一つの船岡駅が確認されたことで、付随的に浮かんできた不審だった。 「先輩、真理の電話に関しては、だれかが、うそをついているということでしょう」 「うん、確かに、宮本には共犯がいる」  うそをついている人間が、陰の共犯ということになる。 「やはり、一番先に電話しなければならないのは、成瀬の女房だ」 「成瀬、というよりも、成瀬の女房の方が一枚かんでいるのでしょうか」 「昨日宮本は、きみが成瀬の電話番号を訊いたら、自宅ではなく勤務先の方を教えたな。早く連絡を付けたいのなら、とか何とか理由付けていたが、普通は、勤務先ではなくて、自宅の電話番号を告げるものではないかね」 「ぼくが、成瀬の女房と直接ことばを交わすことを、恐れたのでしょうか」 「そう、十分それが考えられる。成瀬の女房は、真理から問い合わせの電話が入ったとき、電話も設置されていない無人駅の、電話番号など口にできるはずがない」 「山陰本線を装って、東北本線の方の、電話番号を告げたことになりますか」 「駅員は、昨日きみがかけた電話にしてもそうだが、JR船岡駅です、とはこたえても、こちらはJR東北本線船岡駅です、と、いちいち言いはしないだろう」 「電話をかけた真理にすれば、それを山陰本線の船岡駅と錯覚するのも当然、というわけですか」 「無条件に錯覚したのは、きみだって同じじゃないか。何せ、出発時間が、どんぴしゃりの十四時三十二分だからな」 「こんなアリバイ工作は、初めてですね」  と、言いかけて、浦上は手にしたコップを思わずテーブルに戻していた。 「先輩、うそをついているのは、成瀬の女房ではありませんよ」 「何を見つけたんだ?」 「このアリバイは、二つの同名駅の、同一発車時刻に支えられているわけですが、それを証明しているのは、真理の呼び出し電話ではないですか」  真理が船岡駅へ呼び出し電話をかけてこなければ、宮本が「船岡駅から十四時三十二分発の上り普通列車に乗って行った」ことの証明は得られない。  浦上の脳裏をかすめたのが、その一事だった。  成瀬の女房が共犯者だとしたら、それは、真理からの問い合わせの電話が入った時点で、初めて成立する性質《たち》のものである。真理からの電話がなければ駄目だ。いや、実際に、問い合わせの来ることが予想される事態だったとしても、真理が、船岡駅の電話番号を聞き出すとは限らない。  成瀬の女房の方から、誘導的に偽の電話番号を教えたとしても、真理が�船岡�駅へかけ直す保証はないのである。  そんな、あいまいな状況を基盤とするのでは、完全犯罪のアリバイ工作とは、言えないだろう。  船岡駅へ、確実に、真理に電話をかけさせるには、どうすればいいか。真理を共犯者にすれば、話は簡単だ。 「なるほど。これは確かに、思いもかけない結果を迎えるかもしれないぞ。すぐに、成瀬の女房に電話を入れて、ウラを取るか」 「もちろん、電話はかけてみます。でも、確認を取るまでもないでしょう」  浦上の分析は、自然に、そこへ到達していた。  浦上をそこへ誘導したのは、成瀬宅(京都府下)と、船岡駅(宮城県下)の市外局番の相違だった。 「調べてきます」  浦上は気軽く立って行った。  赤電話はレストランを出た所の、階段脇にあった。  浦上は、ほんの三、四分で戻ってきた。  一〇四番へ問い合わせて確認した二つの数字は、浦上の推理を裏付けるだけの、違いを見せていた。 「やっぱり、そうでした」  と、浦上は報告した。 「こんな具合です」  浦上は聞いたばかりの市外局番を、谷田の目の前で、取材帳に書き出した。   京都府園部町=〇七七一六   宮城県柴田町=〇二二四 「これじゃ、間違いようもないでしょう。�〇七七一六�とプッシュボタンを押して、成瀬の自宅へ電話した人間が、同じ町にある駅へかけ直すのに、今度は�〇二二四�と、全く異質な市外局番を押しますか」 「分かるよ。人間の�不注意�に期待するようでは、完全工作とは言えない」 「真理は社長秘書をしていた、回転の速い女性です。電話もかけ慣れているでしょう。しかも、現在は宮城県の仙台に住んでいるのですよ」  仙台の市外局番は�〇二二�だった。�〇二二�と�〇二二四�。 「完全な第三者なら、数字の接近していることを、不審に思わないはずはありません」  と、浦上は言った。 「うん、真理は、それが東北本線の船岡駅と承知で、呼び出し電話をかけているな」 「いがみ合っていた宮本と真理が、陰で手を組んでいたという図式になりますね」  浦上の声が微妙な震えを帯びたとき、ヒレカツ定食が届いた。  食事をするどころではなかった。  浦上はコインを用意して、もう一度赤電話に向かった。        *  成瀬の女房は、成瀬と同じように、素朴な口の利き方をする女性だった。 「はい、女の人から、電話がありました。午後二時過ぎでした」  と、成瀬の女房は、浦上の電話にこたえて言った。 「そのときは、宮本さんの会社の人だとばかり思っていました。わたしは、その女の人に、宮本さんからの言付けをその通りに伝えました」 「宮本さんは十四時三十二分発の上り普通列車に乗って、夜までには横浜へ帰るという伝言ですね」 「女の人は、それなら結構です、と言いました」 「川から戻ったと言って、宮本さんからも電話があったそうですね」 「それは二時前です。女の人の電話より三十分ぐらい前でした。少し早いけど、もう引き返してきた。予定通りに横浜へ帰るという、お礼のお電話でした」 「おや? あの駅に電話があるのですか」  浦上はあえて尋ねてみた。成瀬の女房が、無人駅からの電話に不審を感じていないのなら、改めて、別な視点で彼女を見直す必要が生じる。  だが、それは杞憂だった。 「駅に電話はありませんが、国道まで出れば、酒屋さんに赤電話があります」  というこたえが返ってきた。  酒屋というのは、さっき、枯れ田のはるか彼方に、ぽつんと一軒見えた店のことかもしれない。酒屋は、大堰川から駅へ引き返す道筋にある、と、成瀬の女房は言った。  彼女は、朝七時四十分に出勤する夫の軽乗用車に同乗して行った宮本が、午後まで、園部町にいたことを、疑っていないようだった。  浦上は、最後に念を押した。 「奥さんはその女の人の電話に対して、船岡駅の電話番号を教えましたか」 「は?」  成瀬の女房は、一瞬、聞き違いではないか、というような声を出した。 「何をおっしゃっているのですか。いまも話したように、船岡は電話もない無人駅ですよ。電話もないのに、電話番号など、教えられるわけがないではありませんか」  それは、(浦上の推理を裏付ける)はっきりした口調だった。四日前のそのとき、成瀬の女房が宮本の言付けを伝えると、真理は、 『失礼しました』  と、手短に電話を切ったという。 「いろいろありがとうございました」  浦上も、礼を言って受話器を戻した。  真理が、成瀬宅へ電話をかけてきたところまでは事実だ。これまた、工作に一貫性を持たせるための、筋書きであろう。宮本を追って、鳥取の出張先へまで電話してきたのと同じようにである。  すべては、「船岡駅十四時三十二分発」乗車を、スムーズに証明するための伏線だ。  もちろん、真理が呼び出し電話をかけ、宮本が待合室のクリーニング店前で待っていた、東北本線船岡駅の電話番号は、とうに、真理の手帳にメモされてあっただろう。  ここで、何も知らないまま、偽装アリバイの一翼を担ってしまったのが、事実をその通りにこたえた、本物のJR駅員ということになる。  浦上はレストランに引き返した。 「共犯は、間違いなく、村松真理です」  と、谷田に伝えてから、テーブルの上のヒレカツ定食に口をつけた。 「やっぱりね。宮本が、口汚く真理を犯人視したことこそ、本当のカムフラージュだったか」 「敵対する真理の呼び出しであればこそ、他のだれを連れてくるよりも説得力があるし、重みがあるってことでしょう」 「そういえば」  と、谷田は言った。 『松見アパート』の家主は、谷田の問いかけに対して、何度か、真理から宮本への伝言電話を受けた、と、こたえている。 「あれは、例の夫婦同士の談合のためのものではなく、殺人《ころし》を打ち合わせる電話だったかもしれないな」  意外な協力といえば、意外だが、淑子殺害に至る宮本と真理、双方の動機は、元々、見事に重なり合っているのである。裏で手を結んでも決して不自然とはいえない、奇妙な人間関係だった。 「真理の方は、飽くまでも、亭主の村松を殺人犯に陥れるのが目的か」  谷田も皿を引き寄せ、ナイフとフォークを手に取った。 「単にアリバイ工作といっても、犯人の宮本が自分の�無実�を主張するだけではなく、村松という仕立て上げた�犯人�を用意しているのだから、これは、まさに、完全犯罪が成立するところだったな」 「そうですね。宮本と真理が、どう見てもグルとは感じられなかっただけに、一層効果的でした」  浦上は大きくうなずく。  真理が宮本の敵対者ではなく、宮本と手を組んだ共犯者であってみれば、なぞの部分は、大方が氷解する。  村松を高島屋の人込みに誘い出して、アリバイを消そうと図ったのも、当然、宮本と真理の陰謀ということになろう。 「岡野ホテルに淑子を装って電話をかけ、メッセージを届けてきたのは、これはもう真理で決まりですね」 「考えてみれば、淑子が、岡野ホテルにメッセージを頼むのは不自然だ。村松が仙台から出てきてチェックインをしたのは、二日だろ。宮本は、まだ鳥取出張から帰っていない」 「鶴見のアパートに一人でいた淑子は、夜、何度も、岡野ホテルへ電話をかけることができたわけか」 「うん。メッセージを依頼するなんて面倒なしに、直接村松とデートの約束をするチャンスは、いくらでもあったはずだし、二日の夜に落ち合ってもよかったのではないか。もっと早く、そこに気付くべきだったな」 「ありもしない自分のアリバイをでっち上げ、他人の確かなアリバイを壁の向こうに埋没させる。真理はともかく、宮本も、上辺からは想像もできない、相当なタマですね」 「それだけ、淑子の背信に対する怒りが、激しかったと言えるのだろうな」  こうして、宮本と真理は、村松の名前を早々と表面に出して、疑惑を一点に向けさせる工作をした。すなわち、あて名に、『浅野機器』仙台支社の営業部第一課長、村松俊昭と明記したワープロの郵便はがきが、それである。  あのはがきは、恐らく池畔での殺害直後に、淑子のポシェットへ忍び込ませたものに違いない。  宮本と真理の見落としは、仙台から出張してきた村松が、あの日、浅野機器の本社ビルではなくて、関内駅から遠い分室の方に詰めていたことだろう。 「あの発見は大きかったぞ」  谷田は、浦上の徹底取材をほめた。分室勤務の発見があってこそ、初めて、宮本一人にすべてが集中されてきたのである。  この浦上の発見は、まだ淡路警部には伝えられていない。  しかし、上野西署の捜査本部に協力する神奈川県警捜査一課が、そこへ到達するのは時間の問題だ。  手塚久之、村松俊昭と、二人の名前がリストから消えて、焦点が宮本信夫一人に絞られてくれば、これまた、確実に時間の問題で、東北本線の船岡駅に光が当てられ、必然的に、村松真理が炙《あぶ》り出されてくるだろう。  事実宮本は、上野西署の清水部長刑事から、もう一度、捜査本部への出頭を求められた、と、昨日浦上と谷田に語っていたではないか。  捜査は、どこまで進んでいるのか。 「宮本の落ちるまでが勝負だな」  谷田は食事を終えると、ピース・ライトに火をつけた。『毎朝日報』社会部記者の顔が、急に前面に出ていた。 「警察《さつ》の機動力《パワー》は、オレたちの比じゃないぞ。一度そこへ目が向けば、ぎりぎりの証言で成り立っている偽アリバイが崩されるのは、それこそあっという間だろう」  週刊誌と違って、日刊紙は時間が勝負だ。スクープが確実となってきただけに、県警記者クラブキャップの顔付きも変わってくるわけである。 「事件が解決して、上野西署の捜査本部で記者発表が開かれる頃、すでに我社《うち》の紙面では、�もう一つの船岡駅�が大きい見出しとなっている、と、こういきたいね」 「もう京都に用事はありませんね。だったら新幹線に飛び乗って、宮本の足取りの検討は横浜へ帰る車中で、ということにしますか」  浦上も食事を終えて、キャスターをくわえた。  東北本線船岡駅から、上野駅までのコースは、それほど複雑ではない。足取りの検討といっても、「十四時三十二分」を起点として、時刻表から乗り継ぎ駅での発着時間を書き出すだけの、簡単な作業に過ぎない。 (終わったな)  谷田も浦上も、余裕の感じられる表情で、ゆっくりとたばこをくゆらした。 『毎朝日報』のスクープは約束された。『週刊広場』は、 (殺された宮本淑子と、殺人犯の偽アリバイを陰で支えた村松真理。不倫妻二人が主役の特集になるかな)  と、浦上は編集長への報告内容を、考えていた。  浦上と谷田はレストランを出ると、エスカレーターで、一階へ下り、混雑するコンコースを横切って、電話コーナーへ行った。  新幹線へ乗る前に、それぞれ東京と横浜へ、連絡電話を入れなければならない。だが、さらにその前に、いまこの場でできることで、必ず片付けておかなければならない�前提�があった。船岡の若い駅員、上田邦夫の確認である。  谷田も、そうそれが先だ、という顔をし、 「今度は間違いなく、自分の指でダイヤルするんだな」  機嫌のいい笑い声を立てた。  浦上は改めて一〇四番で問い合わせ、〇二二四−五四−二〇〇一、と、東北本線船岡駅のプッシュボタンを押した。  昨日と同じように、電話は少し待たされた。そして、昨日と同じ太い男の声が、最初に出た。 「JR船岡駅です」  先方は、間違いなくそう言った。太い声の駅員は、助役のようだった。  浦上が昨日の礼を言い、目的を告げると、 「お待ちください」  先方はいったん受話器を置いた。その電話機を通して、「上田君、電話だ」と、呼ぶ声が聞こえ、駅事務室に特有のざわめきが伝わってくる。  それも、昨日、淑子の実家からかけた電話で聞いた雰囲気と同じものだ。  間違いなく、それが、つい三時間前まで、山陰本線と錯覚させられてきた、東北本線の船岡駅である。  そして、その事実を、より一層はっきりと裏付ける若い男性の声が電話を代わった。 「お待たせしました。JR船岡駅の上田です」  聞き覚えのある声だった。正《まさ》しく、昨日の純朴な声だった。  浦上は受話器を持ち直し、 「お忙しいところを、またお呼び立てして申し訳ありません。昨日の質問に関連したことで、もう少し伺わせてください」  と、話しかけながら、横の谷田に向かって、「オーケー」というように、親指と人差し指で丸を作って見せた。  谷田はそれを待って、目の前のグリーン電話に、テレホンカードを差し込んだ。  横浜支局と県警記者クラブへ電話を入れた結果、上野西署の捜査本部にも、神奈川県警捜査一課にも、目下のところ、表立った動きのないことが分かった。 「宮本はどうした? シッポをつかまれてはいないのか」 「警視庁記者クラブの取材によりますと、出頭は明日のようです」 「宮本から捜査本部へ、連絡が入っているのか」 「淑子の葬式は昨日終えたといっても、今日はまだ、後片付けで、ごたごたしているようです」  と、若い記者はこたえた。 「明日か。明日ねえ」  谷田は、しばし自分に向かってつぶやいてから、 「特ダネは、明日が勝負になるぞ」  と、京都で発見した要点を伝えた。 「そんなわけだから、これまでのデータと突き合わせて、予定原稿を書き始めてくれないか」  谷田は若い記者にそう命じると、 「オレは夜までには横浜へ引き返して、支局へ上がる」  力を込めて言った。        *  浦上と谷田は、新幹線ホームで、二本ずつの缶ビールを買った。  浦上と違って地方出張が少なく、かつ妻帯者である谷田は、缶ビールを手にしてから、同じキヨスクで、妻への京みやげとして、樽詰めの千枚漬けを買った。  慌ただしいとんぼ返りだが、充実した帰途である。  浦上と谷田は、京都発十五時一分の、�ひかり348号�に乗った。新横浜着は、十七時二十八分。  横浜へ戻ってから、十分に、一仕事できる時間だ。  自由席は、八分通りの込み方だった。  浦上と谷田は進行方向左手の、二人掛けシートに並んで腰を下ろした。  古都の賑わいはすぐに車窓から消えて、列車は郊外を走った。  缶ビールを飲みながら、早速、時刻表を開いた。  十月三日、月曜日。事件当日の宮本の足取りの中で、正確に証言が得られているのは、三点だ。 (1) 七時四十五分頃=沢歩きをするという宮本を、山陰本線船岡駅近くの大堰川まで、通勤途中の「成瀬」が軽乗用車で送った時間。 (2) 十四時三十二分=上り普通列車に乗って行く宮本を、東北本線船岡駅の「上田駅員」が目撃している時間。 (3) 十九時二十分頃=鳥取みやげと称した福島市飯坂町『吉井果樹園』の二十世紀梨を、帰浜した宮本から、『松見アパート』の「家主」が受け取った時間。  これらの三つの点を線で結び、さらに次の三点、(X)、(Y)、(Z)をぴたり組み込めば、作業は完了する。すなわち、(1)と(2)の間に(X)を、(2)と(3)の間に(Y)と(Z)を挿入すれば、宮本の偽装アリバイは、完全に、崩れることになる。 (X) 十三時五十五分頃=沢歩きを早目に終えたと言う宮本が、成瀬の女房にお礼の電話をかけてきた時間(電話をかけた場所はどこか?) (Y) 十五時十五分頃=『浅野機器』社員を装った宮本が、コンビニエンスストア『浜大』へ、淑子への伝言電話をかけてきた時間(電話をかけた場所はどこか?) (Z) 十八時五分頃=上野公園不忍池で淑子が刺殺された時間(宮本を少なくとも十八時頃までに、完璧な形で池畔へ連れてくることができるか?)  もちろん、(Z)の組み込み作業が最大のポイントとなる。  時刻表のチェックは、浦上が、いわばもっとも得意とする分野だ。浦上は揺れる車内で、慣れた仕ぐさで大判時刻表のページを繰り、スピーディーに数字を書き連らねていく。  最初の点検は(1)〜(2)であり、その間に(X)を挟むわけだが、これは、簡単に運んだ。浦上が予感した通りだった。  七時四十五分頃、山陰本線船岡駅近くの大堰川で、成瀬の軽乗用車を降りた宮本は、川へなど一歩も向かってはいない。無論、そのまま、無人駅のホームに上がって行った、という想定である。  船岡を八時三分に発車する、京都行きがあった。�完全犯罪�は、具体的にはここから出発する。  宮本は各駅停車の車内で、目立たないよう、目立たないように、と、京都までの一時間二十一分を過ごしたことだろう。車掌はもちろん、乗客たちのだれとも、視線を合わさないように努めていたに違いない。 「京都からは大阪へ出て、空路仙台へ向かう。それが常識だろうな」 「ありましたよ!」  浦上は時刻表から顔を上げた。  タイミングのいい�ANA�があった。もちろん、うまいルートを見つけたからこそ、実現した犯罪計画であろうが。  次のようになる。   船岡駅発 八時三分 山陰本線普通(上り)   京都着 九時二十四分   (タクシー=正味五十分)   大阪空港発 十時五十五分 �ANA737便�   仙台空港着 十二時五分   (タクシー=正味四十分)   仙台発 十三時十九分 東北本線普通(上り)   船岡着 十三時五十一分  乗り換え時間などは、たっぷり余裕を取っての計算だ。それでも、午後二時前に、もう一つの船岡駅への到着が可能なのである。  (X)は、もう一つの船岡駅を降りたところで、実現する。 「なるほど。宮本は下車してから、たばこでもゆっくりと吹かし、遠く京都府下まで、成瀬の女房に電話を入れたか」  谷田は、納得、というように浦上のメモを見詰めた。  宮本は成瀬の女房に対して、いま大堰川から戻ったところであり、まだ園部町にいる、と、その点をさり気なく強調したわけである。 「そうして、やつは待合室の中のクリーニング店の前で、およそ三十分、真理からの呼び出し電話を、じっと待ちつづけたって寸法だな」 「ここまでは決まりですね」 「ああ、間違いない。四日前、大阪から仙台へ飛んだ�ANA737便�には、必ず、三十前後の偽名の男が一人搭乗しているはずだ。これは、いずれ淡路警部に確認を取ってもらうんだな」  谷田はさっさと次へ進め、というように浦上を見、浦上へ向けた視線を、そのまま時刻表へずらした。  足取り追跡の作業は、いよいよ本題に入る。 「十四時三十二分発。そこまではどんぴしゃりなんだけど、この列車へ乗ったために、この時間帯の在来線は、細かく乗り継がなければならないんですよ」  浦上は、ぶつぶつつぶやきながら、発車時刻にアンダーラインを引いた。   船岡発 十四時三十二分 東北本線普通(上り)   大河原着 十四時三十六分   大河原発 十四時五十七分 東北本線普通(上り)   白石着 十五時十分 「おい、そこで一時ストップだ」  谷田がことばを挟んだ。これも宮本の計算通りなのか。谷田は、そんなまなざしでうなずき、 「白石駅で、横浜の浜大へ電話をかければ、ちょうどいいじゃないか」  と、言った。 「そうですね。宮本は、嫌でも、白石駅でいったん下車しなければなりません。細かく乗り継いで行く�十四時三十二分発�には、こういう含みもあったのですかね」 「(Y)は白石駅だな。市外電話をかける時間はあるわけだろ」 「十分です。後続の上りまで、二十七分ありますから」  浦上はメモをつづけた。  (Y)の挿入個所確認に対して、浦上も谷田も、特別な表現は示さなかった。二人とも、このようにして、一つずつ解決しながら、終着上野駅へと、収束していくのが当然、という顔をしている。   白石発 十五時三十七分 東北本線普通(上り)   福島着 十六時十四分  不忍池の凶行時間まで、残りおよそ一時間五十分。  時刻表を繰る浦上の指先が、ぐっと慎重になる。  浦上は、福島駅での、在来線から新幹線への乗り換え時間を調べた。時刻表には九分と出ている。この「乗り換えに必要な標準時分」には、多少の余裕が持たせてあることを、浦上は体験的に承知している。  従って、福島駅構内のどこかで、問題の二十世紀梨を購入したとしても、持ち時間に変わりはないと見ていい。 「しかし、それにしても、ぎりぎりです」 「ぎりぎりでも、乗り換え可能な東北新幹線があるんだな。間に合わせることができるんだな」 「ええ、ちょうど十分の乗り換え時間です」  宮本のやつ、よくこんなダイヤを見つけ出したものだ、と、浦上は思った。それとも、実際に探したのは、真理の方だろうか。  そう、仙台転居以来、仙台—上野間を何度か利用しているうちに、真理が気付いた列車かもしれない。   福島発 十六時二十四分 東北新幹線�やまびこ122号�   上野着 十八時 「あれ?」  浦上は最後の数字を書き抜いたところで、ボールペンを投げ出していた。 「何てことだ!」  浦上のつぶやきはそんなふうに変化し、 「先輩、これじゃ(Z)を組み入れるスペースがないじゃありませんか!」  怒ったように吐き捨てていた。  その浦上と、谷田を乗せる�ひかり348号�は、米原、岐阜羽島と通過して、名古屋へ近付いている。        *  東京行きの東海道新幹線に揺られながら、上野行き東北新幹線の分析がつづく。 「先輩、このルートでは、上野駅21番線ホーム到着が、十八時なのですよ!」  十八時には、上野駅地底ホームではなく、地上の公園、不忍池にいなければならないのである。  地底ホームから殺人現場の池畔まで、全速力で走っても、十数分は必要だ。  アタッシェケースとパックの梨をあずけるために、途中、ロッカーにも立ち寄らなければならない。  すると、どう計算しても、十七時四十分には、上野駅新幹線ホームへ、到着していなければならないのである。  十七時四十分が、タイムリミットだ。わずか二十分の相違とはいえ、この場合は、天と地の開きがある。 「福島までは、こっちの読み筋通りに運ばれてきたんだ。二十分ぐらい、何とかならんのか」 「ちょうどいい列車が、ここにあることはあるのですがね」  浦上は時刻表を突き出した。  まさに、タイムリミットの、十七時四十分に、22番線ホームへ滑り込んでくる新幹線があった。�やまびこ16号�だ。  これは福島発車が、十六時十五分となっている。在来線の福島到着は十六時十四分。 「おい、ほんのちょびっとだが、福島で�乗り換える時間�があるな」 「本気ですか。一分ですよ」 「在来線の福島到着が、�やまびこ16号�発車の後なら論外だ。しかし、たとえ一分にしろ、在来線到着の方が早い。そこに、何か仕掛けられないか」  谷田は真顔だった。  だが、標準で九分と明記されている乗り換え時間を、いくら何でも、一分に短縮することは不可能だろう。  今朝早く横浜を発ったとき、推理の中心に据えられていたのは、�京都�だった。�京都�を覆っていたなぞは、無人駅との遭遇で消えた。 「行きの�京都�が、帰りは�福島�に変わったか」 「福島が渦の中心にくるとは、考えもしませんでしたね」 「先行の特急列車に追い付く、アリバイ崩しをやったことがあったな」 「この場合は、それこそ絶対に不可能ですよ。福島には空港がありません。空路が駄目なら、地上でもっとも速く、かつ正確なのは新幹線です。しかし、この場合は、先行も後続も、同じレールの上を走る、同じ�やまびこ�なのですよ」 「また�同じ�か。�同じ�である点に、船岡みたいな、おかしなトリックがあるのかもしれないぞ」 「�やまびこ�という点は同じでも、停車駅は違いますね」  浦上は時刻表を、ひざに置いた。  先行の�やまびこ16号�は、福島を出ると、大宮までノンストップだ。すなわち、福島を発車してからは、大宮と、終着の上野にしか停車しない。  一方、宮本が乗ることのできる、後続の�やまびこ122号�は、大宮の他に、郡山、宇都宮と、二駅余分に停車する。  従って、所要時間も、後続車の方が、十一分余計にかかる計算だ。 「逆なら別ですが、先行車の方がスピードがあるのでは、こりゃ、ますますもって追い付けっこありませんよ」 「しかし、犯人《ほし》は宮本だ。いまさら、宮本以外に考えようもあるまい」 「もちろん、犯人《ほし》が宮本であることは動きません。でも、どうすれば、先行の�やまびこ�に追い付けるのですか」 「追い付くんじゃない。福島で乗り込むんだ」  谷田は話を戻した。 「これに乗車しない限り不可能な犯行なら、犯人《ほし》は、必ず先行の�やまびこ�に乗っている。それが論理ってものだろう」 「そりゃ、そうかもしれませんが、在来線の到着と、�やまびこ16号�発車の間に存在するのは、わずか一分ですよ。一分で何ができますか」 「�一分�に何を仕掛けることができるか、福島へ行ってみるしかないな」  谷田が重い口調でつぶやいたとき、二人を乗せた�ひかり348号�は名古屋に到着し、二分の停車で、名古屋駅のホームを離れていた。次の停車駅が新横浜だ。  車窓から見える秋空が、次第に透明さを欠いて、夕方が近付いている。 「明日は、宮本が上野西署へ出頭する。何としても、捜査本部よりも先に、やつのアリバイを崩したい」  谷田は窓の外へ目を向けたが、移り変わる風景を見てはいなかった。  浦上にしても同様である。  いま、東京へ向かう東海道新幹線に揺られながら、浦上が見ているのは、上野へ向かう東北新幹線の、車窓を過る四日前の風景だった。殺人現場へ直行する、宮本が眺めていた風景。  あの日は、今日のような快晴ではなかった。列車が東京へ近付くにつれて、黒雲が厚くなっていたのである。  宮本は、上野到着を二十分速める、いかなる手段を持っていたのだろう?  京都と同じように、福島へ行けば、霧の中のトリックが見えてくるのか。  列車の進行に比例して、再度、どうしようもない沈黙が、浦上と谷田を覆った。  京都駅頭で感じたある種の充実感など、跡形もなく消えて、行く手に見えるのは、四日前の厚い黒雲だけだった。  終章 偽りの東北本線  翌十月八日、土曜日。  週末の東北新幹線は、始発駅から満席だった。  上野発十一時の�やまびこ41号�は、満員の客を乗せて、北へ向かって走った。途中、大宮、宇都宮、郡山、福島と停車して、仙台に到着する盛岡行きである。  昨日までの穏やかな日和がうそのような、曇り空だった。  東京から東北まで、ずっと切れ目なく、空は雲に覆われている。それは、当然なことに、沿線の風景を暗いものに変えた。 「雨にはならんだろうが、気分のよくない天気だな」 「雲が出たのは、五日ぶりじゃないですか」 「犯行日以来の曇天か」 「完全犯罪を追体験するには、宮本が列車を乗り継いだときと同じ状況の方が、具合がいいのかもしれませんよ」  浦上伸介も、谷田実憲も、寝不足な横顔だった。  最後の最後に現出した壁が、昨夜、二人の眠りを浅いものにした。  上野発十一時の新幹線なら、それほど早く起き出す必要はない。それなのに、浦上も谷田も六時前には目覚め、どちらからともなく、電話をかけ合っていたのだった。 『早出して、ハイツ・エコーに村松真理を訪ねてみるか』  という案も出たが、いまは波風立てないことが、最善手だった。真理が陰の共犯者、というよりも、一方の主犯であることは、もはや動かない。  余分な警戒を与えてはいけない。  想定される宮本の殺人ルートを、その通りにたどる計画は、昨日、横浜へ帰る東海道新幹線の車中で、決めた。  仙台発十三時十九分の、上り普通列車に乗り込むことが、東北からの出発点となる。それを逆算しての、�やまびこ41号�への乗車だった。�やまびこ41号�の仙台着は十三時三分だから、無駄な待ち時間なしに、実験に着手できる。  浦上は当然として、谷田の二日つづけての出張は、無理を押してのものだった。県警本部記者クラブの、キャップという仕事は多忙だ。  キャップ自身が、遠出をすることは珍しい。昨日の京都取材にしても、日帰りを条件に支局長の許可を得たものだった。  しかし、ここまできたら乗りかかった船である。何としても福島駅で、宮本を先行の�やまびこ16号�に乗せなければならない。  乗り換え時間一分の、トリックを見破りたい。  谷田のファイトは、浦上を上回っている。その�一分�に、スクープがかかっているのである。  もちろん、昨夜、京都から戻って横浜支局へ上がると同時に、谷田は福島駅へ問い合わせの電話を入れている。 『無茶ですよ。在来線から新幹線へ、一分で乗り換えるなんてことは、絶対にできません』  福島駅のこたえは、谷田に冷淡だった。 『では、何かの事故で、�やまびこ16号�の発車が遅れたということはありませんか』  谷田は粘った。すぐに思い付くのは、そのていどのことだった。発車が八分遅れれば、無理なく乗り込める計算になる。  だが、これも駄目だった。事件当日、十月三日は、在来線も新幹線も、すべてダイヤ通りに運行されており、トラブルは皆無だったというこたえが返ってきた。  何かが見落とされているのだ。こうなったら、何が何でも、現地を踏むしかない。谷田は、再度支局長を説き伏せた。 「宮本は、上野西署へ入っただろうか」  谷田は、車窓を過る雲の下の風景を見ながら、浦上に話しかける。若手記者に命じた予定原稿は、すでに九分通り仕上がっている。  一点残された空欄が、いかにして、上野着十七時四十分の先行車に追い付くか、ということだ。  上野西署の捜査本部が、宮本の逮捕令状を請求する前に、最後の空欄を埋めたい。谷田は、時間との闘いに、全神経を集中している。それが、痛いほどに、浦上にも伝わってくる。  列車は宇都宮を過ぎ、郡山を発車した。十六分で福島だ。 「しかし先輩、宮本が捜査本部へ出頭したとして、今日中に逮捕、ということになるでしょうか」 「浅野機器の分室が発見されて、村松のアリバイが確定すれば、逮捕の可能性は大いにあると思うね」 「宮本がどう言い逃れようと、警察《さつ》は、電話トリックに引っかかったりはしない、ということですか」 「警視庁からの要請で、京都府警と宮城県警が直接動けば、�船岡駅十四時三十二分�の仕掛けは、一発で破られるのと違うか」 「でも、その捜査本部にしても、福島駅で壁にぶつかるわけでしょう」 「一分の乗り換え時間か」 「捜査陣も、とりあえずは、宮本の自供《げろ》を待つしかない。宮本が、最後の砦を簡単に吐きますかね」 「そうだな。女を締め上げるって手もあるが、相手が村松真理ではね」 「真理は宮本より手強いですよ」  と、そうしたことを話し合っているうちに、左前方に、福島の市街地が見えてきた。  浦上と谷田を乗せた�やまびこ41号�は、予定通り十二時三十七分に福島へ到着し、一分停車で福島駅ホームを離れた。  在来線は、車窓左下を走っている。  昨夜電話で、福島駅へ問い合わせたときの、駅員の返事がよみがえったか、谷田は、 (うん、新幹線と在来線の間には、距離があるな)  という顔で、曇り空の下のレールを見ていた。  しばしの沈黙の後で、仙台に着いた。福島から仙台までは二十五分だった。  仙台駅構内の立ち食いそばで簡単に昼食を済ませると、上り普通列車の発車時間が迫っていた。  土曜日の午後だが、在来線の車内は、それほど込んでいなかった。  白地に、太い緑のラインが入った車両である。山陰本線に比べて、東北本線の普通列車の方が新しくて、きれいだった。  浦上は車内を撮影し、それから取材帳を取り出した。  新幹線なら、仙台—福島間は一駅、二十五分の距離なのに、五日前の宮本は、仙台を十三時十九分に出発して、福島に到着したのが十六時十四分。二時間五十五分を要していることになる。�船岡駅十四時三十二分発�を組み入れるために、そういうことになったのだが、 「こりゃ、時間の無駄使いではないですか」  と、浦上は谷田を見た。  仙台駅を発車した普通列車は、すぐに市街地を出て、畑の中をゆっくりと走っている。 「こっちは、二十分の短縮に、目の色変えているのですよ」 「いやあ、単なる浪費じゃない。現にオレたちは壁にぶち当たってしまったではないか。宮本が電話トリックを組み込んだ本当の狙いは、こっちにあるのかもしれないぞ」 「鈍行を乗り継いで、福島まで引き返したことの証明ですか」  浦上は取材帳を閉じた。  それにしても、物証のない事件《やま》だ。もちろんそれも、完全犯罪のための、必要不可欠な条件ということになろう。  そう、最後の最後に用意されている壁は、物証のないことかもしれない。浦上がそう考えるのも、(ぎりぎりなところへ構築された綱渡りのような一面を見せながらも)犯罪計画が意外と綿密に組み立てられ、探れば探るほど、奥行きを感じさせるためだった。  宮本の足取りをその通りに追って、福島駅での、一分の乗り換えのなぞが、順調に解明されたとしても、いってみれば、論理の上での、犯行証明に過ぎない。  谷田が発見した『吉井果樹園』の短冊も、物証には違いないけれど、それは結果として付随してくるものであって、短冊自体が、直接的に犯人を示唆するというわけではない。 「先輩、宮本は今頃、上野西署の捜査本部でしょうが、容易に落ちないのではないですか」  と、浦上は言った。 「松見アパート5号室を家宅捜索《がさいれ》したところで、凶器が出てくるとは考えられません」 「そりゃそうだ。完全犯罪を意図した人間が、簡単に発見される場所へ、凶器を捨てたりはしない。淑子を刺した凶器は、恐らく永遠に出てこないのではないかな。オレは、そう思う」  しかし、と、谷田は口調を改めた。 「物証が、皆無というわけではないぞ」  谷田の指摘は、成瀬が証言した黒いコートだった。  成瀬の家を訪れた際、宮本が手にしていたコートなら、鳥取を出るときから持っていたはずだ。と、すれば、成瀬のほかにも、黒いコートを証言する人間はいるだろう。 「やっぱり、それが決め手になると思うよ。いくら旅先とはいえ、まだコートを必要とする季節じゃない。捜査本部が睨《にら》んだように、あれは犯行時の、返り血を避ける準備に違いない」  コートが発見されて、ルミノール反応が検出されれば、文句なしだ。 「だが、当然、黒いコートは凶器と一緒に処分されているだろう」 「それはそうですよ。ここまで計画を練った宮本なら、それほどの物証を残すはずがありません」  浦上が、考えている通りのことを強調すると、 「コートがなくなっていれば、ないという事実が、裏返しの犯行証明になるじゃないか」  と、谷田は言った。 「犯行当日まで、所持していたコートだろ」 「しかし、鳥取で証人となるのが、たとえば宮本の家族しかいないとしたら、不利になることはしゃべらないのではないですか」 「きみのよく知っている駅員が、いるじゃないか」 「駅員?」 「JR船岡駅で、真理の電話を取り次いだ若い駅員だよ。彼は、宮本の�十四時三十二分�乗車を見送っている」  谷田は、浦上が口にした�最後の壁�には乗ってこなかった。  飽くまでも、宮本を先行の�やまびこ16号�で、上野へ運ぶことができれば、事件は解決という姿勢だった。        * 「はい、あの人は薄いアタッシェケースを持ち、黒いコートを着ていました。間違いありません」  上田という若い駅員は、谷田の発言を裏付けた。  あの日宮本が手にしていたのは、アタッシェケースのみで、無論、梨のかごなどは提げていなかったとこたえる上田駅員は、電話で話した通りの、純朴な青年だった。  しかし、問い合わせの電話が二度もかかり、その上、記者が二人も取材に現われたとあって、 「あの人、何をしたのですか」  純朴な駅員も、さすがに不審を顔に浮かべたが、浦上は適当にことばをそらして、改札口を出た。  改札口を背にして、待合室の左手にキヨスクがあり、正面に近い方の右側に、宮本がたたずんでいたという、JRクリーニング店があった。  JR経営のクリーニング店を、実際に見るのは初めてだ。 「これが船岡駅ですか」  思わず周囲を見回す浦上は、複雑で、奇妙な感慨に見舞われていた。待合室には、下り列車を待つ女子高校生が四人、いるだけだった。 「先輩、黒いコートの証人は、成瀬夫婦と上田駅員で十分ですね」 「今度こそ、最後にしたいな」 「宮本が、成瀬の女房に電話したのは、あれですかね」  浦上は赤電話を見つけて、指を差した。五日前の、正にこの時間、宮本はここから、京都府下のダイヤル〇七七一六を、回したのだ。  無人ではないが、小さい駅だった。  曇り空の下の駅前には、小型タクシーが一台とまっているだけだ。  真っ直ぐに伸びる大通りがあったが、やはり、人影は、全くといっていいほど見えないのである。  だが、町には歴史があった。 「この船岡は、京都の船岡山と関係があるんですね」  浦上が案内書に目をとめて、言った。 「京都というと、例の派出所の巡査が殺害された、あの船岡山か」 「そうです。ここは原田|甲斐《かい》の城下町なのですね。地形が京都の船岡山に似ているところから、伊達政宗が、命名したそうです」  会話は、それで終わった。  浦上も谷田も、所在なげにたばこをくゆらした。  東北本線船岡駅での、残る�作業�は、十四時三十二分発の、普通列車に乗ることだけだ。それまで、ざっと三十分。  検討とか分析のための会話は、すべて、出尽くしているのである。  浦上と谷田は、先の見えないいらだちの中で、三十分を過ごした。  そして、上り列車が手前のホームに入ってきた。  浦上は、ホームに出てきた上田駅員に会釈をし、谷田をうながして、�十四時三十二分発�に乗った。  やはり、空いた車内だった。  畑を二分して走る列車は、四分で終点大河原だった。  大河原では、二十一分の待ち合わせで、次の上りに乗り継ぐ。この上りは白石行きであり、白石着が十五時十分。  今度は二十七分待って、再度上りの普通に乗り換えて、焦点の福島へと出るのである。  大河原から乗り継いだ列車は、前より少し込んでいたけれど、船岡から白石までの車中、特に発見はなかった。  臨時の季節急行でも走っていれば、話はうまい。しかし、夢みたいな期待が、現出するはずもなかった。  一方に、先の見えない焦燥があるとはいえ、ばかみたいに鈍行を乗り換えていく�追体験�は退屈だった。 「考えてみれば、宮本は、船岡駅でも、�十四時三十二分乗車�を第三者に目撃させている。公園の池畔に殺人現場をセッティングしたのと、同一の犯罪センスだな」  と、谷田がつぶやいたのは二度目の終着、白石駅で下車するときだった。  降りたホームには、電話が見当たらなかった。  浦上と谷田の目は、公衆電話のみを追いかけた。跨線橋を渡って、改札口に行った。 「カード電話なら、そちらに並んでますよ」  改札の駅員は待合室の先を指差した。浦上と谷田は、いったん改札口を出た。  浦上はショルダーバッグから、一眼レフのカメラを取り出した。  タクシーもずらっと駐車しているし、船岡よりは、ずっと賑やかな駅前である。紅いサルビアの、一杯に咲き乱れるフラワーボックスが、いくつも置かれてあった。  広場の向こう側は商店街であり、広場の中央に「国定公園 蔵王連峰」と大きく書かれた時計塔が立っている。  浦上と谷田が電話コーナーの前で足をとめたのは、宮本が横浜のコンビニエンスストア『浜大』へ伝言電話をかけた時間、十五時十五分だった。 「ここの電話機のどこかに、やつの指紋が残っているかもしれませんね」  浦上はそんな冗談を言いながら電話コーナーを写し、フラワーボックスが並ぶ駅前にカメラを向けた。  電話機以外は、無差別な撮り方だった。取材中は特に計算しなくとも、後で利用価値の出てくる場合がある。そこで、構わずシャッターを切るのが、習慣になっている。メモ代わりの意味もあった。 「あれ?」  浦上が奇声を発したのは、谷田がピース・ライトをくわえ、大きい背中を丸めるようにして、火をつけたときだった。 「先輩、あれを見てください!」  浦上の声は、自分でもそれと分かるほどに上ずっている。  浦上は両手でカメラを構え、ファインダーをのぞいたままの姿勢で、つづけた。ほとんど叫び声だった。 「宮本は福島へ行ってはいません!」  浦上のカメラが捉えているのは、カラーの大きい案内板だった。 「畜生! 何でこんなことに気付かなかったんだ! 終盤の大ポカですよ。こんな見落としがあったのでは、王手のかかるわけがない」 「きみ、ついおとといも、東北新幹線に乗っていたのだったな」  谷田の声も、いらだった。谷田は浦上と並んで案内板の前に立つと、火をつけたばかりのたばこを足元に捨て、靴の先で、思い切り強く踏みつぶしていた。  浦上と、そして谷田の視線を吸い寄せたのは、案内板の中央に記された、「現在地 JR白石駅」であり、その斜め左下に見える「新幹線 白石蔵王駅」の標示だった。二つの駅を、バス路線が結んでいる。  できる! さらに二十七分待って、福島まで鈍行で三十七分揺られて行かなくとも、この白石で、東北新幹線に乗り換えることができる! 「白石蔵王ねえ」  浦上は何度も、吐き捨てるように繰り返した。  さっき、浦上と谷田を乗せてきた�やまびこ41号�にしてもそうだし、十月五日、六日と浦上が仙台へ取材のときの新幹線も、往復とも白石蔵王にはとまらなかった。白石蔵王は、東北新幹線の中で、もっとも、停車数の少ない駅であった。  しかも、さっきも経験したばかりだが、それは、福島—仙台、わずか二十五分の間に挟まれた駅なのである。これまでにも、東北取材は何度か経験しているが、走行中、白石蔵王が意識されたことは、一度もなかった。  それほど目立たない駅だった。  しかし、だからといって、終盤での緩手の攻撃は許されないし、そんなことは弁解にも何もなりはしない。 「おい、いつまでカメラをのぞいているんだ!」  谷田は浦上の肩に手をかけた。  駅を背にして、右側にバスターミナルがあった。赤と白の、ツートンカラーのバスが何台も駐車している。 「そうですね、バスで十分前後。タクシーなら五分ってところでしょうか」  バスの誘導員は、浦上の質問にこたえて、白石駅—白石蔵王駅間の所要時間を言い、 「次のバスは、十五時二十三分に発車しますよ」  と、教えてくれた。  バスターミナルの隅っこに、突っ立ったままでの、ダイヤチェックとなった。 「畜生!」  浦上はもう一度舌打ちをしていた。舌打ちは自分に向けられたものだった。  すなわち、ぴったりのルートが、時刻表に示されていたのである。  タクシーを利用しなくとも間に合う、時間の配分だった。  もちろん、横浜の『浜大』へも、十分な余裕を持って、伝言電話をかけることができる。   白石着 十五時十分 東北本線普通(上り)   (『浜大』へ電話=十五時十五分)   白石駅発 十五時二十三分 宮城交通バス   白石蔵王駅着 十五時三十一分   白石蔵王発 十五時四十五分 東北新幹線�あおば218号�   福島着 十五時五十八分   福島発 十六時十五分 東北新幹線�やまびこ16号�   上野着 十七時四十分 「福島駅一分乗り換えのトリックは、宮城交通バスってわけか」  谷田はバスに乗り込むと、空いた車内のあちこちを見回した。  畑の中を走るバスだった。 『毎朝日報』横浜支局と、『週刊広場』編集部への電話は、白石蔵王駅に着いてから入れた。人気が少なくて、清潔な感じの、駅構内だった。 「分かったな。そういうことだ。一刻も早く原稿をまとめて、オレが帰る前に、デスクへ提出しておいて欲しい」  と、若い記者に命じる谷田の怒鳴り声を聞き流しながら、浦上は、 「不忍池経由で、遅くとも午後七時までには編集部へ行きます」  と、編集長に報告していた。  そして、軽い足取りで、ホームへ上がった。  二人は隣の福島駅で�あおば�から�やまびこ�へ乗り換えるとき、(宮本がそうしたように)ホームの売店で、かご詰めの二十世紀梨を買った。  事件発生以来、五日目の収束である。  浦上伸介と谷田実憲を乗せた�やまびこ16号�は、一分も狂うことなく、定刻十七時四十分に、上野駅22番線ホームへ到着した。 (この物語はフィクションであり、現実の事件・団体・個人などとは無関係です。なお、本文中の列車、航空機の時刻は一九八八年十月現在のダイヤによります) 本書は、一九八九年二月、小社より単行本として、また、一九九一年十二月、「講談社ノベルス」として刊行したものです。