湖畔の殺人 津村秀介 著  目 次 殺意の沼地 月下の未遂 陥穽《かんせい》の青春 暗黒の九月 深夜の影男 野獣の分担 無援の出所 湖畔の殺人 殺意の沼地    1  沼は、月明かりの陰になっていた。  昼間なら、浦賀水道を見下ろすことのできる場所であったが、丘陵は夜が早く、東京湾も、暗く沈んでいる。  その人気のない沼のほとりで、執拗に絡み合う、二つの影があった。  小柄な中年の男と、定時制高校に通う十八歳の少女。  ポニーテールの少女のほうが、男より背が高かった。  張りつめた胸のふくらみなどは、とても十八歳とは思えない。  わずかに、その口の利き方とか、男の愛撫を受けるときの、ちょっとした仕ぐさに、彼女の若さがのぞいたけれど、第三者には、それを確かめることができなかった。  小さい沼を覆うようにして、雑木林が広がっており、びっしりと、夏草が、生い茂っているのである。  沼の一隅には、付近の段々畑で栽培されるダイコンなどの、農作物を洗うための足場ができていた。  しかし、土地の人間でなければ、間道を通って、水辺まで下りてくることは少ない。  その人気のない夏草の中で、中年男は、少女のスカートの内側に、分厚い掌を這わせていた。 「ほんとに、おまえはいい子だ」  と、ささやく声が粘っこい。  少女の白い肌が、電流でも触れたかのように、ぴくんと動いたのは、男の太い指が、下のものに密着したときだった。  少女は半身をそらそうとしたが、男の力は、それを許さなかった。  男の髪には、すでに白いものが混じっており、それでなくとも小柄なのに、意外とも言えるほどに、力が強い。 「おまえも、オレの教えることが、分かってきたようだな」  男の声は低かった。  すると、その男に反応するかのように、少女の形のいい唇から吐息が漏れた。  かすかに吹いている夜の風が、少女の髪を乱そうとする。  男は、そうした少女を冷ややかに見詰めながら、何かを楽しむようにことばをつづけたが、少女には、そのことばの意味が聞きとりにくくなっていた。  少女をまさぐる男の指先は、さらに位置を変えているのである。  十八歳の少女の裡《うち》で、もう一つ目覚めていないものを、引き出そうとするかのような、執拗な指の動きであった。 「もうやめて!」  乾いた叫びが、無意識のうちに、少女の口を衝《つ》いた。  少女は、激しく首を左右にふり、垂れた長い髪を、前歯でかんだ。  少女の内面では、戸惑いが、大きい渦を巻いている。  未知なものに憧れる「本能」と、好色な男の愛撫を嫌悪する気持ちとが、ごっちゃになってできた渦である。  少女は、常にその灰色の渦を感じながら、この中年男の、強引な誘いに従わされてきたのだった。 「やめるのか? ここで、やめるわけにはいかんだろう」  男の口調は、しかし、相変わらず無表情だった。  好色な男は、少女の叫び声を、別の意味に解釈した。  愛撫のさ中で口走る女のことばを、そのとおりに受け取る男はいない。  この男も、当然、女の「反応」を数多く経験している。 「おまえみたいないい子は、初めてだ。おまえは、オレの宝ものだよ」  男は、脂ぎった顔で、歯の浮くようなことを言った。 「オレが、オレの手で、オレの好きなような女に育ててやる」  男は、少女の背中に回した左手を抜くと、少女の顔に垂れている髪を払い、その分厚い唇を押し当てていた。  たばこの匂いが、不快に染みついた唇である。 「やめてよ!」  少女のことばは、「うそ」ではなかった。  少女は本能的に、中年男の体臭を避けていた。  少女の内面で、錯綜する灰色の渦が広がり、嫌悪感だけが、表面に押し出されてくる。  いつもはそれほどではなかったのに、この夜に限って、男の体臭が、何ともいたたまれなかったのは、なぜだろう?  あるいは、毎月少女を見舞う、体の変化とも関連があったのかもしれない。 「ねえ、お願い。お願いだから、手を離してよ」  このとき、少女が、男の前では決してしゃべってはいけない一言を口にしたのも、体の変調のためであったろうか。  それとも、ハイティーンの少女に特有の、微妙な感情が、前後の関連もなく口を衝いたのか。  夏草に額を押しつけるようにして、少女はつぶやいたのだ。 「言うことを聞いてくれなければ、ママに言いつけてやるから」 「おい、おい。冗談にも、そんなことを口にするものじゃない」 「冗談じゃないわよ。おじさんが、本当にあたしを好きなら、おじさんのほうから、ママに打ち明けてちょうだい」 「何だと!」  スカートの下の、男の手の動きが、とまった。  少女の「訴え」が、その場のはずみで出てきたのではないことを、男は少女の口調から感じ取ったのに違いない。  月明かりの陰で、男のやせた頬に、歪んだ笑みが浮かんだ。 「おまえは、勝手な子だね。おまえだってママの血を引いているくせに」 「嫌だってば!」  少女は態度を硬化させる。  男のねちねちとしたつぶやきは、さすがに、 『おまえだって、おふくろの血を引いて、好きなくせに』  とは言わなかった。  だが、男のことばの裏側にあるものは、少女にも分かった。 「あたし、本当に、ママに言いつける」  少女はもう一度口走った。  月の空はよく晴れているが、少女と男との間に、目に見えない、不吉な黒雲の漂い始めたのが、この瞬間からである。  さっきとは異なる沈黙が二人を覆い、夜の風が沼の表面を流れていった。    2  男は、人気のない沼のほとりで、少女に対しては大胆な行動をとっているくせに、実は、小心な性格だった。  顔に浮かべた、歪んだ笑みが、(少女の態度同様)次第に強張《こわば》ってくるのが、自分に分かった。 (オレとこうしていることを、おふくろに打ち明けるだと?)  まさか、と、男は自分の中でつぶやき、 (いや、この子は、実際にそうした行動に出るかもしれない)  と、考えると、それなりに保っていたはずの落ち着きが、信じられないほどの速さで、遠のいていった。  少女がそれを口にしたのが、初めてではなかったせいもあろうか。 『いつまでも、あたしにこんなことするなら、警察に駆け込んでやるわ。もちろん、ママにだって言いつけてやるから!』  と、少女が泣き叫んだのは、二ヵ月前の夜である。  そのときも、 (本気か)  男は一瞬慌てた。  しかし、その後、少女は、今夜を含めて四回も、男の誘いに従って、暗い山道へ足を向けたのだ。 (何を言ってやがる。どうせ、高校生らしい気まぐれだろう)  男は、少女が泣き叫んだことの意味を、勝手に決めつけて、 (本心は違うんだ。おふくろと同じように、オレに抱いてもらいたくて仕様がないんだ)  と、少女への愛撫を繰り返してきた。  だが、いまは違う。  いまの少女の「拒否」は、二ヵ月前とは比較にならないほどの強さを、男に感じさせる。  何かに戸惑いながら受ける愛撫が、どうにも堪え難くなったという印象なのである。 (事情はよく分からんが、こいつは本ものかもしれないぞ)  男は、少女の肌に力を抜いた掌を置いたまま考えた。 (冗談じゃないぞ。いまおふくろさんに打ち明けられたら、何も彼もが、滅茶滅茶になってしまう)  男は、自らを落ち着かせるように、大きく、肩で呼吸《いき》をした。  少女は、徐々に、全身を堅くしている。  少女の肌に置いた掌の感触を通じて、少女の変化が、微妙に、男に伝わってくる。  男の名前は、松岡周三といった。  五十二歳である。  三年前に北海道の旭川から、東京へ流れてきて、その後間もなく、神奈川県の横須賀に移った。  現在は京浜急行・横須賀中央駅近くの家具店に勤め、配送員として働いている。  少女は野口美知子。  父親は不動産屋だった。  一時は羽振りがよかったけれど、美知子が小学生だったころ、商売仲間と遊びに行った先の東南アジアで、交通事故に遇って、あっけなく世を去った。  以来、美知子は、母親の千代との二人暮らしをつづけている。  母子家庭とはいえ、生活は貧しくなかった。  死んだ父親が、何軒かのアパートを、都内に遺して置いてくれたためである。  そうしたアパートの一軒が、大田区大森北にあった。  京浜急行・大森海岸駅の近くだ。  母と子は父親が遺したアパートに住み、美知子は世田谷区内にある定時制高校に通った。  母の千代は、一人娘が夜の高校へ通うことに反対だったが、美知子がそれを押し切ったのは、多分に、千代のほうに原因があった。 『どこへ進学しようと、それは、あたしに選ぶ権利があると思うわ』  と、美知子は反抗の姿勢を見せたのだが、母親の千代のほうの原因というのが、「松岡周三」にほかならなかった。  美知子は「おじさん」と呼んでいるけれども、美知子と松岡の間に、姻戚関係はなかった。  もちろん、血縁であるわけもなかったが、松岡と美知子は、義理の父と娘に似た間柄に置かれていた。  松岡と千代が、深い関係に陥っていたためである。  すべてに敏感な思春期の少女の前で、男と女の関係は、いつまでも隠し通せるものではなかった。  現在では、松岡と千代の結び付きは、公然の秘密、ということになっている。  千代は四十二歳。  しかし、松岡は、千代の肉体だけが目的なのではなかった。  未亡人の千代は、男性を知り尽くした女の魅力を備えている。  だが、女高生の、文字どおりぴちぴちした若さのほうが、松岡の好みに合っているのである。  松岡は、千代の肉体を自由にすることで、千代の資産に、狙いを定めたのだった。 (いま千代を怒らせたら、オレは一生、家具屋の配送員だ)  松岡は舌打ちをし、不安気なまなざしを、月明かりの陰になっている沼に向ける。  沼は、飽くまでも暗い。  何の「表情」も感じさせない、暗い沼は、松岡の半生を反映しているようでもあった。  母親の目を忍んでその一人娘を口説いたことの反省など、松岡が持ち合わせるわけもなかった。  松岡は、こんなふうに考える。 (美知子も、勝手過ぎる。オレに抱かれるのが嫌なら、今夜は、最初から断わればよかったじゃないか)  スカートの下から手を抜こうとしながら、小さい逡巡が、松岡を見舞っていた。  口先ではああ言ったものの、その一方では、美知子は、やはりオレの愛撫を待っているのではないか。 (いや)  あれは、美知子が自分を納得させるための口実に過ぎないのであって、実際には、少女なりに燃え上がる情欲を、このままではどうにもできなくなったのかもしれない。  松岡の脳裏を、勝手な解釈が過《よぎ》り、美知子のやわ肌に置いた掌が、じっとりと汗ばんできた。 「いつものように、時間をかけて、オレが楽しませてやる」  松岡はふいに語調を代えると、ふたたび、指先に力を込める。  しかし、美知子の嫌悪感は、上辺だけのものではなかったのである。  初めはいつものように、セックスに対する好奇心が先に立って、横須賀のはずれにあるこの沼へついてきたのであったが、松岡から愛技を加えられているうちに、 (ママもこうして、同じことをされているのか)  そう考えると、どうにもいたたまれなくなってきた。  松岡が、もう一度、女性の敏感な部分を攻めようとしたとき、美知子は、自分でもおやっと思うほどの力で、男の指先を払いのけていた。 「今夜こそ、本当に、警察に電話してやるから」 「一一〇番をかけるのか。一一〇番で何を言うつもりだい」  松岡は、一語ずつ区切るような話し方になった。 「断わっておくけどな、オレとおまえは、もう三ヵ月も、こうして愛し合ってきたんだぜ。いまさら警察に泣き込んだからって、オレが何の罪になるというんだ? オレは、おまえを脅《おど》したわけでもない」 「おじさんが、何の目的で、ママやあたしに近づいているのか、あたし、知ってるのよ!」  美知子は、松岡をはねつけるように口走った。  深い考えはなかったようだ。  その場のはずみで、口を衝いたことば、ともいえようか。  だが、隠れた目的を持ち、しかも神経が太いほうでない松岡にとって、美知子の一言が、不安を運んでくるのに時間はかからなかった。  不安は複雑に揺れている。 「知っているって?」  松岡は顔を上げた。 「言ってみろ。おまえが、何を知っているというんだ!」  月明かりに見るその横顔は、急に、別人のように、くろずんでいる。  根が小心なだけに、にじみ出てくる焦燥を押さえ切れないのだろう。  松岡の内面に、悪魔のささやきが聞こえてきたのは、それから間もなくである。 (やれ!)  黒いささやきは、そんなふうに聞こえた。    3  都内の夜は、浦賀水道を見下ろす丘の上とは違って、蒸し暑かった。  まして、賃貸マンションとか、アパートの建ち並ぶ一角は、なおさらである。  風の動きはほとんど感じられない。  野口千代は、管理人室を兼ねる玄関脇の部屋にいた。  千代はテレビの歌謡番組を見ながら、ビールを飲んでいた。  アルコール類が、特に好きというわけではなかった。  ビールの酔いを覚えたのは、松岡を知るようになってからであり、松岡を迎える夜は、いつともなくビールを用意する習慣が身についていた。  もちろん、ビールは、松岡が現われてから、一緒にあけるのが常だった。  この夜は、松岡の来訪が約束よりも遅いために、千代は一人で飲み始めた。  千代はランジェリー姿で、だらしなく、ひざを崩している。  しかし、汚れた雰囲気はなかった。  夫を失った当座は、十歳も老け込んだ表情を見せていたが、アパート経営も順調であり、次第に、平常の落ち着きといったものを取り戻したようである。  特に、松岡と深い関係を持つようになってからというものは、化粧も目立って派手になってきた。  四十二歳という実際の年齢よりも、ずっと若く感じられることがあった。  千代は、娘の美知子とは違って、小柄だった。  色白で小柄であるために、なおのこと、若い印象を与えるのかもしれない。  とても、高校生の娘を持つ母親とは思えないほどだった。 (未亡人だからといって、ひっそり暮らす必要はないんだわ。親戚が何を言おうと、いまは時代が違う)  千代が、自分の中で繰り返したのは、松岡から言い寄られたときだった。  一緒に、カラオケスナックへ出かけるようになったとき、それを考えた。  だが、このごろでは、そうした自己弁護も必要ではなくなっている。 「急な用事でもできたのかしら」  千代はコップのビールをあけると、だれかに話しかけるようにつぶやいて、掛け時計を見た。  十一時に近い。  松岡は泊まっていくつもりだから、それで、ゆっくりしているのだろうか。  それにしても、遅い。 「電話ぐらい寄越せばいいのに」  千代は同じ口調でつぶやき、二本目のビールをあけた。  クーラーを強風にしても、容易に、蒸し暑さは遠のかない。  しかし、ビールの心地よい酔いが全身に回り、それが、ある種の疼《うず》きとなって、背筋を走るのを、千代は感じていた。  松岡が約束の時間に姿を見せないことで、余計に高まってくる欲情があった。  すでに、千代の体は、松岡に慣らされていたというべきだろうか。  松岡の過去は詳しく聞かされていないし、その風貌も職業も、決して魅力があるとは言えないけれども、「男」の評価が外観で左右できないことを、千代は、松岡によって知った。 『横須賀の汐入町に、バーの売物が出ている。こいつを買って、一緒にスナックを経営しないか』  と、松岡が持ちかけてきたのは、七月中旬だった。  権利金は千五百万円、改装費などを含めると、二千万円の資金が必要だろう。  松岡が、出資の全額をあてにしていることで、最初はためらいが先に立った。  しかし、半月、一ヵ月と過ぎるうちに、アパートの一軒を抵当にして、信用金庫から金を借りてもいい、という具合に、千代の気持ちが傾き始めた。  松岡の執拗な愛撫が、千代にそれを納得させたかたちでもあった。  夫と死別して七年。  千代は、松岡という五十二歳の男によって、初めて、女の本当の歓びを教えられたのだ、と、つぶやくときがある。 (今夜は、スナックを始めることを約束して、あの人を喜ばせてやろう)  千代は、自分に言い聞かせる。  それは、完全に、セックスの欲望と一本に結ばれたつぶやきだった。  所在ないようにテレビを見ながら、ビールを飲む千代は、しかし、そうした自分を隠そうとしなかった。 (あの人の過去が何であれ、あたしは、もうあの人から離れられやしない)  ビールの酔いが、千代の思考をさらに大胆なものに変える。  男の足音を、ひそかに待っているこんな一刻には、苛立たしさと期待とが交じり合う、複雑な感情があった。  今夜、美知子が、大磯の親友宅に外泊することは、前から決まっていた。  中学生当時のクラスメートの家だった。  かつて近所に住んでいたころは、親類同士のように、親しい交際をしていた家族であった。  その一家が、大磯に家を建てて移り住んでからというもの、美知子は、少なくとも月に一回は、泊まりがけで、出かけるようになっている。 『たまには、あたしのいないほうが、ママものんびりできるでしょ』  美知子は、少女らしからぬ笑みを残して、家を後にすることもあった。  松岡との仲が、表面に出て、母と娘の間に、小さい争いが生じるようになっていた。  外泊する高校生の娘を、たしなめることができないばかりか、むしろ美知子の留守を願い、松岡と「水入らず」で過ごす夜を待ち望む千代は、すでに、母親として失格であったというべきだろうか。  しかし、千代には考えられないことであった。  美知子が、大磯の友人宅へ足を向けるとき、ひそかに横須賀へ寄り道をして、松岡に抱かれていたなんて、千代には考えられるわけもなかった。  事実は、母親の想像を超えていた。  それは、相手構わぬ松岡の欲望と、母親の浮気に対する美知子の反抗心とが、奇妙なかたちで結び付いた関係であったといえる。  そして、その「関係」には、いま、はっきりと一つの決着がつけられていたのだが、それもまた、千代の与り知らぬことだった。  ランジェリーから、白い肌をのぞかせた千代は、松岡のことだけを思いながら、ビールを飲んだ。    4  松岡も酔っていた。  横須賀中央駅から京浜急行を利用して、大森海岸駅で降りた松岡は、まっすぐ、千代のアパートへ行く気にはなれなかった。  松岡は大森海岸駅付近の安酒場で、コップ酒を重ねた。  月明かりの沼のほとりでの痕跡をとどめるように、ズボンには赤土が付着しており、松岡のやせた頬は蒼ざめている。  全身にアルコールが回っても、どうしても酔えないものが、松岡の脳裏に広がっている。 (オレは、ついに殺《や》ってしまった)  だが、ああするより仕方がなかったのだとつぶやきながら、松岡は安酒場の丸いすから腰を上げた。  支払いをするとき、うっかり、左のポケットのサイフを取り出して、 (いけねえ!)  松岡は慌てた。  それは一見して少女物と分かる、美知子の赤いサイフだったのである。  松岡はふらふらする歩調で、人気の絶えた商店街を歩き、入り組んだ路地に折れた。  松岡は、八月の夜の蒸し暑さを、感じなかった。  松岡は酒臭い息を吐きながら、 (まったく、若い女の子ってえのは分からんな)  と、小柄な背中を丸めるようにして、つぶやく。  しかし、ああするより仕方のなかったことだろうか。  つい三時間前の、沼の周辺のできごとを、松岡はいま、筋道立って思い返すことができない。  生来の小心さが裏返しされたように、前後の見境もなく、美知子の首を締め上げた自分を覚えている。  だが、それから後の記憶は、すべて、月光のベールに覆われてしまっている。 『さあ言え! おまえが何を知っているというんだ!』  美知子の細い首を締め上げながら、押し殺した声で叫んだことも、やがて、ぐったりとした美知子から所持品を奪い、衣服を脱がせ、その生死も確かめずに沼に投げ込んできたことも、松岡の記憶の中では統一がなかった。  ただ、松岡の内面にはっきり残っているのは、沼に沈んだ美知子の全裸が、月光の下で、不気味なほどに白く感じられたという一事だけである。 (身元がばれる手がかりはないし、オレが殺《や》ったという証拠もない)  落ち着け、落ち着くんだ、と、奇妙な酔いの中で松岡はつぶやく。  無意識のうちにサイフはズボンのポケットに入れたが、その他のものは、すべて、途中の林の中へ捨ててきたし、目撃者も、一人もいないはずである。  沼のできごとは忘れるのだ。  千代に出資させて自分のものとする、新しいスナックのことだけを考えればいい。  松岡は自分の中で繰り返しながら、路地を歩いて行く。  美知子の若い体には未練があったけれど、女の代わりはいくらでもいる。  いまは、千代から二千万円を引き出すことが先決なのだ。  そのために、美知子の生命を絶つ結果となったのであるが、松岡がこれほどの小心でなかったら、別の解決方法もあったはずだ。  しかし、すでに五十代であり、今後の生活の保証を持たない松岡にしてみれば、時間をかけて、美知子を説得するだけの余裕がなかった。  松岡の半生は、あまりにも、乱れ過ぎていた。  生まれは、新潟の農家の三男であったが、地元の中学校を卒業すると、遠縁を頼って北海道に渡った。  牧場に住み込んだのが、皮切りだった。  一定の職業に長続きがしなかったのは、多分に、松岡の性格に原因があったようである。  松岡は富良野の牧場を振り出しに、十数種の職業を転々とした。  その間、酒と女におぼれることを覚えた松岡は、一度も、正式の結婚をしなかった。  女房のようなかたちで同棲した女は、二人ほどいるが、長つづきはしなかった。  松岡の女癖が原因で、彼女たちは一年足らずのうちに同棲を解消して、松岡の元を去った。  そして、ふと気付いたとき、松岡は、四十代も半ばを過ぎていたのだった。 (何とかしなければ)  と、思うことはあっても、いまさら、人生のやり直しはきかない。  松岡の前に、ひとつの偶然が訪れたのは、悶々とした毎日を過ごし、安酒に浸っていたころである。  当時、松岡は、旭川の商人宿で住み込みの番頭をしていたのだが、駅裏で一杯飲み屋を経営する未亡人と親しくなった。  その女は、千代とは違って美人ではないし、年齢も五十を過ぎている。  酒好きの松岡は、何となく、駅裏の酒場へ通っていたのに過ぎないが、どういうわけか、女のほうが熱を上げた。  特に、肌の関係を持ってからというもの、女の接近の仕方が激しくなった。 『おまえさん、傍目とは違って、たくましいんだねえ』  女は、松岡が飲みに行くたびに、奥へ誘うようになった。 『いっそのこと、わたしと一緒にならないかい』  女は松岡にしなだれかかった。 『こんなお店だけどさ、二人で暮らしていくぐらいな稼ぎはあるんだよ』  しかし、松岡がいくら女好きだからといって、五十代の後家さんと、毎日顔を合わせる気持ちにはなれない。  その女とは結ばれなかったけれど、女のしつっこい誘いが、松岡にひとつのヒントを与えた。 (そうか。女を利用するという手があったな。旭川のような小さな町ではなく、札幌か、いや、いっそ東京へ行ってみよう)  松岡は、そう考えて、上京してきたのだった。  十代か二十代の若者ならともかく、人生も半ばを過ぎた男がとる行動ではなかった。  だが、定住の場を持たない松岡にしてみれば、旭川も東京も、大した差はなかった。  むしろ、大都会のほうが、さまざまな可能性が転がっているだろうと思った。  そうした松岡の探り当てた相手が、千代に他ならない。  東京にやってきた松岡は、まず、その足がかりとして、未亡人が経営するアパートを捜した。 『旭川で荒物屋を経営していたのですが、妻に先立たれましてね。子供もいないので、店を売って出てきたのですよ』  松岡は、下町の不動産屋を当たるとき、そんな言い方をした。  そして、千代のアパートを紹介されたときのふれこみは、 『東京の空気に慣れたら、どこかに小さい店を買って、文房具屋でも開きたいと考えています』  というものだった。  が、うそはすぐに発覚した。  店を買うどころか、三ヵ月と経たないうちに所持金は失せ、その日の生活にも追われるようになったためである。  しかし、化けの皮がはがれることなど、問題ではなくなっていた。  松岡の手は速かった。  すでにそのころ、松岡は、娘の美知子の目を盗んで、千代との関係を結び始めていたためだ。  夫と死別以来、乾き切っていた未亡人の肉体を燃え上がらせるのに、時間はかからない。 『ねえぇ、あなたって、いったいどういう人なの?』  千代は、そんなつぶやきを繰り返したことはあるが、松岡の「過去」を深追いしようとはしなかった。  松岡が、知らず知らずのうちに身につけていた夜のテクニックが、千代の口を封じたともいえようか。  だが、無収入で、遊んでいるわけにはいかない。  やがて松岡は、千代の古い知り合いを頼って、横須賀の家具店へ勤めるようになった。  横須賀は京浜急行で、大森と一本に結ばれている。  松岡は、定期的に大森へ出てきては、千代との関係をつづけた。  千代の肉体をまさぐりながら、もうひとつのチャンスが訪れるのを、松岡は辛抱強く待った。  そして、ようやく、そのときがきたのだ。 (美知子のことは忘れるんだ。死体の身元が、仮にばれたとしても、オレと美知子を結び付ける人間はいない)  松岡は、胸の奥で何度もつぶやきながら、千代が待つアパートのドアを開けた。    5  愛欲を前提とする男と女の交際に、余分なことばは不要だった。  千代はクーラーを強くしてから雨戸を締めた。 「ビールをたっぷり冷やしておいたのに、どこで飲んできたのよ」  苦情というよりも、あまえた話し方になっている。  松岡はものも言わずに、千代の白い肌を抱き、乱暴にランジェリーを脱がせ、下のものを取った。 「どうしたのよ? あんた、いつもと違うみたい」 「今夜、いやにきれいだよ」 「信用金庫に、お金を借りるよう申し込んだわ。スナックを始めたら、あたしもお店番に行く必要がありそうね」 「決まってるじゃないか。もちろん、そうしてもらうつもりだ」 「美知子が何と言うかしら。あの子、このごろ反抗期でね。いちいち、あたしに食ってかかるのよ」 「スナックを開店する話、美知子ちゃんに打ち明けたのかい」  と、そう言いながら、松岡は視線を避けていた。  視線を避けるために、千代の首筋に唇を押し当て、唇の位置を徐々にずらしていく。  美知子を抱いた後で、千代の肌を責めるのは、今夜が最初ではない。  美知子が、大磯の友達の家へ出かける夜を狙って訪ねてくるのだから、必然的にそういう順序になった。  美知子を誘ったきっかけは、美知子が大磯へ行く途中を回り道して、千代の用事で、横須賀の家具店へ松岡を訪ねてきたことに始まる。  その夕刻、松岡は、ことば巧みに、例の沼へ、美知子を連れ出したのだった。  美知子にしてみれば、母親と関係を持っている松岡が、まさか、自分にまで変なことはしないだろうという、ある種の安堵感もあったかもしれない。  だが、それこそが、松岡の付け目だった。  松岡は人気のない雑木林の中で、強引に、十八歳の少女を犯した。  美知子は泣きじゃくった。  激しく泣きじゃくったけれども、すべてが終わったとき、 『このこと、ママが知ったらどんな顔をするかしら』  と、虚脱した目を向けてきたのを、松岡は忘れない。  それは、そのことを母親に言いつけるという意味ではなく、母親への「反抗」だけが感じられるまなざしだった。  そう、だからこそ、それからの三ヵ月間、千代に隠れた時間を持つことが、可能だったのだともいえよう。  美知子は大磯へ泊まりに行くたびに横須賀を訪ね、それから松岡は、打ち合わせどおりに大森へやってくる。  娘を抱いた後で、その実の母親の肌を責める。  そこには、飽くことのない、興奮があった。  それにしても、さっき美知子は、なぜ急に態度を変えたのだろう? (いや、美知子のことは、もうどうだっていい)  松岡は、月のベールに包まれた沼の記憶を振り払うようにして、強く、千代の肌を吸った。  じっとりと汗ばんでくる白い肉体は、男の力を拒否するように、細かく左右に揺れたが、それが、「相手」を受け入れるときの前兆であることを、松岡は知っている。 (考えてみれば、美知子がいなくなれば、だれに気兼ねすることもなく、千代は、オレを引き入れることができるわけだ)  と、そんな勝手な理屈をつけながら、松岡は体を重ねていった。  アパート前の、路地を行く足音も途絶える時刻だった。  壁に映し出される二つの裸形の動きだけが、果てることを知らないように、いつまでもつづいた。    6  翌日も朝から蒸し暑かった。  先に目覚めた千代は、松岡のズボンに付着する赤土を見て、 「あら? ゆうべは気付かなかったけど、あんた、どこを歩いてきたのよ」  ブラシをかけようとした。 「余計なことをするな」  慌てて寝床から這い出した松岡は、千代の手を制した。 「仕事着なんだ。ブラシなどかける必要はない」 「おかしいわよ。このズボンを穿いて、横須賀まで戻るのでしょ。電車の中で変に見られるわ」 「そんなことより、信用金庫の手続きは大丈夫だろうな。今日中に、済ませてくれるんだろうな」  つい、本音が出た。  いま、考えなければならないのは、それだけだ。  昨夜の酔いが遠のいて、松岡は、また落ち着きを失いかけている。  松岡は、千代の手からズボンをひったくるようにした。  その一瞬だった。  美知子の赤いサイフが、ズボンのポケットから滑り落ちた。 「あ、これはね」  松岡が乾いた声を発するよりも速く、千代は赤いサイフを拾い上げていた。 「これ、美知子のサイフでしょ」  母親は敏感だ。 「あんた、何か隠してるわね」  千代が、思わずそう口走っていたのは当然である。  ズボンをひったくるときの、松岡の慌てかたも不自然だったし、何よりも、そのサイフが「発覚」したことで、松岡の顔面が蒼白に変わっている。  しかし、松岡の隠蔽しているのが、我が子の死体だなんて、千代に考えられるはずもなかった。  それが表面に出たのは、気まずい空気の中で、朝食を始めたときである。  横須賀から、二人の刑事が訪ねてきた。  付近の農夫によって、早朝、沼に浮かぶ美知子の全裸死体が発見され、別の農夫が、松岡の捨てた美知子の所持品を、雑木林の中から見つけ出したのだった。  正確には農夫の連れていた犬が、美知子の「遺品」をくわえてきた。  学生証明書があったために、死者の身元は簡単に割れた。 「美知子が?」  泣きかけて急にやめたような、こわばった表情を刑事に見せた千代は、その顔を、そのまま松岡に向けた。  松岡は気の弱い男だ。  千代のまなざしに克てるわけはなかった。 「ともかく、遺体を確認していただきます」  と、刑事はつづけた。  刑事は、一緒に朝食をとる松岡と千代を夫婦、つまり、美知子の両親と思ったらしいが、そうでないことをすぐに察したようである。  刑事は松岡と千代の間に、一歩踏み込んできた。 「雑木林を捜索した結果、遺品は大体発見されました。しかし、サイフが見当たらないのです」  と、説明する刑事の声を、はるかに遠いもののように、松岡は耳にしていた。 月下の未遂    1  奇妙に、静か過ぎる夜であった。  鋭い月の光が、雪を残した路上に落ちている。  午後から、夕方にかけて降った雪である。しかし、三月の雪は、それほど激しくなかった。  雪は、町中では、ほとんど跡形も見えなかった。  郊外の住宅地だけが、屋根も街路も、うっすらと白い色に覆われている。  月は、雪が上がり、夜がふけてから、東の空に出た。  横浜市緑区青葉台は、新興の住宅地である。二十年ほど前から、次々と、畑が宅地に変わった。  マンションがあり、マンションの周辺には一戸建ての、高級建売り住宅が並んでいる。  そこは、東急田園都市線青葉台駅から、徒歩二十分ほどの場所だった。  きれいに区画された高級住宅地は、夜が早い。  長津田行きの下りも、すでに、終電を過ぎる時間だった。  家々は寝静まり、広い舗道には月光だけが生きている。  かすかに積もった雪の上を、弱い北風が吹いた。  雪の路面に黒い影を落として、長身の男がひとり、街路樹の下を行ったり、来たりしている。 (あの野郎、ずいぶんと、待たせてくれるじゃないか)  男は、ハイライトに火をつけた。月明かりの下で、腕時計に顔をつけるようにして、時間の経過を確かめた。 (こんなに寒い場所で、一体、いつまで待たせるつもりだ)  男は、足元の雪をけった。  男のつぶやきには、どこかに岡山なまりがあった。  黒いダスターコートの、えりを立てた男である。  男は、黒いコートの内側に、日本刀をしのばせていた。  コートのボタンが外されているのは、日本刀が、かさ張るためであった。  しかし、付近の住宅は、大方が、明かりを消して、寝入っている。住民たちは、だれひとりとして、どこからか現われた、この長身の男の存在に気付かなかった。  苛立ちの感じられる歩調で、男が行ったり来たりしているのは、檜葉垣《ひばがき》が多い一角だった。  男は、足元の雪を踏みにじったりしながらも、意識は、絶えず、五メートル先の十字路に向けられている。  十字路の西側の角に、大谷石の門柱の家があった。その家だけ、まだ門灯がついており、家人のだれかが、帰宅していないことを示していた。  長谷博之。  大きい表札にそう記されていることを、男は、三日前に、さりげなく確認してあった。  いま、雪上がりの月光の下でも、念のために、もう一度、表札の文字を確かめた。 (眼鏡をかけた、背の低い、小太りな奴だと言ったな)  男は自分に言い聞かせるようにつぶやき、火をつけたばかりのたばこを、雪の路上に捨てた。  それから、さらに十五分ほども過ぎたときであったろうか。  男が、コートの外側から日本刀の重みを確かめたとき、十字路の先に、自動車のエンジンの音が聞こえた。  青葉台駅の方向から、乗用車のヘッドライトが見えてきた。 (あれだな)  月光を受けた男の横顔に、ぞっとするほど冷たい笑みが浮かんだ。  男は、野獣のように敏捷な身ごなしで、街路樹の陰に隠れた。内ポケットから取り出した、黒い、大きめのサングラスをかけた。  じっと一点を見詰めて、日本刀を抜き放った。  そうして、自らを引き締めるようにして、 「よし!」  足元の雪を踏み締めたが、この男には、呼吸の乱れひとつ、感じられなかった。  月光の下を走ってきた乗用車は、プレリュードのレッドだった。  二人の、中年の男が乗っている。  ハンドルを握っているのは横田康司であり、後部シートにいるのが、長身の男に見張られていた家の当主、長谷博之であった。  横田と長谷は、東京の私立大学に籍を置いていた当時からの親友だった。お互い、四十五歳になる。  二人は十八年前に共同出資して、横浜市内に、『白山電気商会』という、家庭電気製品の販売店を開いた。  業績は順調に伸びた。当初は、家庭電気製品が専門であったけれど、やがて、オーディオ、ワープロ、パソコンから、時計、カメラなども手広く扱うようになった。  最近では、新横浜駅近くの本店のほかに、相模原、平塚、小田原と、神奈川県下に三つのチェーン店を構え、社員は百人にふくれ上がった。  年間の売り上げも五十億円を超え、『白山電気商会』は、株式組織に改められた。長谷博之が社長、横田康司が専務取締役におさまっている。  すべてに慎重な長谷と、決断と実行力の確かな横田は、同業者の間でも、名コンビと評価されている。  十八年来、長谷と横田は、一緒に行動することが多かった。  横田の家は、青葉台の先の緑山なので、夜が遅くなると、横田が長谷を送ってくる。それが、習慣になっていた。  この夜は、ワープロの大口の引き合いがあった。  社長と専務の二人が、折衝に当たっての帰りだった。  客を案内して、元町のクラブを、二軒回った。  車を運転しているせいもあるが、元来、酒の飲めない横田に比べて、後部シートに深々と身を沈めた長谷は、相当に酔っていた。取引先を接待するときは、いつも、こんな具合になる。  その点でも、二人は、名コンビと言えるかもしれない。  社長の長谷が、座を和らげながら、相手に酒を勧め、その間に、専務の横田が、てきぱきと事務的な問題を、処理していくのである。  横田は、月光の中で、ゆっくりとブレーキを踏むと、 「だいぶ酔っているようだな。玄関まで送っていこうか」  と、後ろの座席を振り返った。  いつもなら、門の前に車を横付けにし、そのまま十字路を通り抜けて、横田は緑山の自宅へ戻って行くのだが、この夜、車がとまったのは、長谷の家より三軒ほど手前だった。  雪でスリップするといけない。それが、ハンドルを持つ横田の説明だった。 「大丈夫だよ。心配するなって。そんなに酔っていやしない」  長谷は、横田が手を貸そうとするのを、振り切った。勝手にドアを開けて、乗用車を降りた。  月の光を受けて、長谷の眼鏡が、きらりと光った。  横田は、長谷が家に入るのを、見届けなかった。 「じゃ」  横田は、長谷が雪の路上に出ると、すぐにプレリュードを発進させた。 『社長は、確かに、いつもより酔っていました。でも、家はすぐ目の前です。万に一つも間違いはないと思いました』  横田は、後に所轄の青葉台署から事情を訊《き》かれたとき、こうこたえている。 『人影ですか? 気が付きませんでしたねえ。あの時間帯ですと、あの辺りは、真夏でも人っ子一人いないことが多いのですよ』  だが、思いもかけない事件は、横田の運転する乗用車が、国道246号線方向へ遠ざかった直後に起こったのである。  長谷は、薄く積もった雪に足を取られたりしながら、ふらふらと我が家にたどり着いた。そして、門柱のチャイムを、押そうとしたとき、 「やめな」  黒い影が、邪険に、長谷の手を払った。 「長谷博之さんだね」  長身の男は、岡山なまりの押し殺した声で、相手を確かめた。 昨年、三月四日のことである。    2 「ああ、ぼくは長谷だが」  長谷は両足を踏ん張った。  一瞬、一条の風が、街路樹の枯れ枝を震わせて、過ぎた。 「こんな夜ふけに、ぼくに何の用かね」  長谷が、黒ずくめの男を見直したのと、長身の男が、抜き身の日本刀を振りかざしたのが、ほとんど同時だった。 「だ、だれだ、きみは!」  長谷の動作は、深酔いのために緩慢もいいところだ。  長谷が本能的に身がまえようとするよりも速く、不気味に月光を浴びた刃が、小柄な長谷の左肩口に振り下ろされていた。 「ぎゃっ!」  長谷は前によろけた。  激痛というよりも、炎を突きつけられたような熱さが、肩口から背筋にかけて走った。  救いを求めようとしても、ことばにはならない。 「う!」  長谷は低いうめきを漏らすと、全身を丸めるようにして、雪の路上にうずくまった。  襲われた長谷にしてみれば、全く、身に覚えのないことであった。  しかし、相手は、低いがよく透る声で、はっきりと、つづけるのである。 「おまえさんには、死んでもらわなければならない」 「何をするんだ。ぼくは白山電気商会の長谷だ」  何かの人《ひと》間違いだ、と、訴えるつもりが、やはり声にはならない。  だが、長身の影の方では、長谷の意を受けるかのように口走るのだった。 「オレは、長谷博之社長を待っていたんだ。長谷さんには、死んでもらわなければならない」  男は冷たく口走り、うずくまった長谷を目掛けて、ところかまわずに、斬り付けてくるのである。  返り血が、男の黒いコートにはねた。月明かりに見る路面の雪が、どす黒い血の色に変わる。 「た、助けてくれ!」  長谷は、やっと、振り絞るような声で叫んだ。  しかし、それも、ほんの一声だった。  長谷はそのまま、わずかな呼吸だけを残して、身動きもしなくなった。 「おまえさんには、何の恨みもない」  男は、うずくまった長谷を靴の先で、けった。 (これでいい)  長身の影は無表情に長谷を見下ろすと、血塗られた日本刀を雪でぬぐって、さやにおさめた。  その間、五分とはかからなかったはずである。  ようやく、門前の異変に気付いて、長谷の家族が、玄関先へ出てくる頃、長身の男は、影のようにかき消えていた。  男は、足音も立てずに、国道のほうへ去った。  翌朝早く、長身の男は、新横浜駅下りホームにいた。  新幹線岡山行き�ひかり号�の、発車ホームである。 (当分の間は、岡山でひっそり、暮らすことになるか)  男は、暗いまなざしでハイライトをくわえ、フィルターをかみしめてから、ライターで火をつけた。  よく晴れた朝である。  新横浜駅前に林立する新しいビルに、冬の朝日が当たっている。  空が蒼く晴れ渡っているだけに、寒い朝であったが、男は、寒さも感じないかのような、表情を欠いた横顔だった。  男の名は、杉崎英次といった。二十七歳である。  前夜とは打って変わって、明るい色調の紺のブレザーを着、白っぽいダスターコートを手にした杉崎は、一見したところ、中堅企業の、若手サラリーマンといった感じを、与える。  まともな会社員と異なるのは、たばこの吹かし方と、眼光の鋭さだった。  実は、杉崎は、二年前まで大阪のミナミで暴力団の構成員と深い交流を持っていた男なのである。  杉崎は人込みの中でハイライトを吹かしながらも、注意は、絶えず、ホーム中央の階段に向けられていた。 (何してるんだ。すぐに列車がくる)  杉崎はそんな目で周囲を見渡し、吸いかけのたばこを足元に投げ捨てると、苛立たしげに靴の先で、踏みつぶした。  背後から肩をたたかれたのは、�ひかり号�の発車時刻が近付いて、ホームのガードフェンスが、自動的に開いたときである。 「おい、いつまでも何してたんだよ。遅過ぎるじゃないか」  杉崎は、振り返りざま、不機嫌な声を出した。 「分かってくれよ。われわれの関係は、だれにも知られるわけにはいかないんだ」  と、杉崎をなだめるのは、肩幅の広い中年の男だった。  周囲の視線を避けるように、キヨスクの陰にたたずんでいるので、すぐ近くにいる人々にも、その男の識別はできない。  そう、中年男は、明らかに、発車間際の慌《あわ》ただしい時間を狙って、杉崎に接近してきたのである。この男は、さっきからキヨスクの横にたたずんでいたのだ。  男は、意識的にうつむいたまま、小声でつづけた。 「とりあえず、二百万円だけ用意してきた。これを持って、岡山へ帰ってくれ」 「二百万円? 話が違うじゃないか。オレはこの話を、六百万円で引き受けたはずだぜ」 「しかし、六百万円の仕事はしていない」 「何だと?」 「白山電気商会の社長は、家族に発見されて、あれからすぐに、病院へかつぎ込まれた。生命は、取り留めたんだ」 「本当か」 「うそをついて、どうなる」 「仕事だけやらせておいて、報酬のほうは肩透かしってわけじゃないだろうな」 「新聞を見るんだね。事件は、今日の夕刊には報道されるだろう。どこを読んでも、死んだとは出ていないだろうよ」 「やり直しか」 「ともかく今日のところは、これだけ持って新幹線に乗ってもらいたい」 「それじゃ、あいつの入院した病院にオレを乗り込ませて、息の根をとめてから、残額分を払うというのか」 「おい、声が大きいよ。場所柄を考えろ」 「病院はどこだ? あの社長の入院した病院だ」  と、杉崎が口調を改めたとき、�ひかり号�がホームに滑り込んできた。 「いずれにしろ、ここまでやってくれたんだ。約束は守る」  中年男の声が、さらに低くなった。 「岡山市富田町の、渡辺ひとみといったな。彼女のアパートへ、残り四百万円の小切手は一ヵ月以内に送金する。間違っても、横浜へ連絡なんかしてくれては困る」 「ま、仕様がないだろう」  杉崎は、ハトロン紙に包まれた現金、二百万円の札束を、無造作に、ダスターコートのポケットに突っ込んだ。  発車のベルが鳴った。  肩幅の広い中年男は、顔を伏せたまま、逃げるようにホームを離れ、エスカレーターを下りて行った。  杉崎は、その男の姿を目で追いながら、吐き捨てるようにつぶやいた。 「あいつも、悪党だな」  二百万円を杉崎に手渡した肩幅の広い中年男。この男の、陰の行動と目的が、容易に浮かび上がってこなかったために、青葉台署の捜査は難航した。  一年後の解決を見るまで、動機のはっきりしない、なぞの殺人未遂事件として、迷宮入りのような形となるのである。  岡山行きの�ひかり号�は、何事もなかったように、新横浜駅ホームを離れた。  杉崎英次は、ダスターコートのポケットの上から、二百万円の厚さを確かめた。 (それなりに、ケリがついたってことか)  杉崎は、冷ややかな笑みを浮かべて、指定の座席に腰を下ろした。  直接の加害者である杉崎英次と、被害者長谷博之との間には、一点のつながりもないし、手がかりとなるような、遺留品も残ってはいない。  その上、杉崎は、長谷とは何の関係も持たない、岡山の住人なのである。  襲われた長谷のほうは、根っからの、横浜の人間だった。 (どう転んでも、アシがつくことは絶対にあり得ない)  杉崎は小田原を通過する頃、八両目の食堂車へ行った。  ビーフシチューを頼み、腰を落ち着けて、ビールを飲んだ。  左手に広がる相模湾も蒼かった。静かで、平穏な海である。 (とりあえずは二百万円だが、一週間の横浜出張で二百万とは悪くない。今夜は、ひとみと、錦町辺りを派手に飲み歩くか)  杉崎は、一週間ぶりの岡山の夜に、思いを馳せた。  横浜にいたこの一週間は、ずっと、東神奈川のビジネスホテル泊まりだった。  目立ってはいけない、滞在だった。遊びに出るのも、アルコールを飲むのも控えてきた七日間である。  若い、頑健な体は、欲求不満もいいところだ。 (今夜は、たっぷり、ひとみをかわいがってやろう)  杉崎はビールをぐいっとあけて、不敵で冷ややかな男とは思えない笑みを浮かべた。  とてもではないが、昨夜、日本刀を振りかざした人間とは思えない。  まだ二十七歳の若さだが、大阪のミナミで暴力団の構成員と交流していた頃、傷害の前科を四つも重ねている男なのだ。杉崎は、二十七歳とは見えない、ふてぶてしい落ち着きを備えている。    3  杉崎英次を乗せた新幹線�ひかり号�が、新大阪を発車し、一路岡山に向かう頃、四十五歳の長谷博之は、緑区内の救急病院で、全身の激痛に堪えていた。  長谷が肩や顔、腕などに負った傷は、六ヵ所を数えた。  全治三ヵ月の重傷だった。 「ご家族の発見が、三十分遅れていたら、ご主人は雪の路上で、息を引き取っていたでしょうね」  と、医師は言った。  急を知って、病院には次々と、見舞い客がきた。 『白山電気商会』の幹部も顔をそろえたし、取引先の人々も多かった。  そうした見舞い客に、丁寧にあいさつしているのが、専務の横田康司であり、病室の前に張り込んでいる所轄青葉台署の二人の刑事が、さりげなく、被害者との関係を尋ねたりしている。 「一体どういうことなのですか。長谷さんが、こんなことになるなんて」  見舞い客は、だれもが、一様に意外だという顔をした。  中には、間違って襲われたのではないか、と繰り返す人も多かった。  考えられないことではなかった。  襲撃犯人が、長谷を別のだれかと錯覚したのではないか。  青葉台署の刑事課でも、一時、そうした意見が大勢を占めた。  金銭とか、オメガ・シーマスターの高級腕時計など、所持品は何も奪われていないのだから、物盗りの犯行とは違う。  横田の証言によれば、昨夜は、いつもとは異なって、長谷は自宅からやや離れた地点で、車を降りている。犯人側が、人違いをしたのではないかと考えるのも、あながち不自然ではなかった。  だが、この推測は、長谷が意識を取り戻したときに破られた。  長谷は、はっきりと自分の氏名を確かめられた、と、述べた。 「しかし、思い当たることは、何もありませんな」 「訳の分からないことです」  横田を始め、家族たちも、関係者はすべて、申し合わせたように、不審な顔付きをした。  長谷には、高校と中学に通う二人の女の子がいた。  妻の証言によれば、長谷はマイホーム型の夫で、人に恨まれる覚えはないということだった。  これは、その後の調べでも、妻の証言を否定するような事実は現われなかった。  とすると、残る一点は、『白山電気商会』の関係ということになる。  が、このほうの捜査でも、疑点は現出しなかった。  長谷は社員たちの受けもいいし、取引先でも、その人柄のよさは、高く買われているのである。  その上、『白山電気商会』の営業内容は順調だった。メーカー側の信用も、絶大といっていい。 (手がかりなしか)  青葉台署の刑事課捜査係主任の部長刑事《でかちよう》は、病院の控え室で、再度横田から事情を聞いて、渋い表情をした。 「人には、それぞれプライベートな、隠れた一面があると思うんです。捜査の秘密は、絶対に厳守します。思い付いたことがあったら、何でも打ち明けてくれませんか」  部長刑事は、横田を前にして、粘った。 「はあ、社長は酒好きではありますけれども、学生時代から、これといった道楽も持たない、ごくごく平凡な人間です」  だれかから生命を狙われるような人間ではない、と、横田は繰り返した。  長谷と二人きりのときの横田は、学生時代と同様に、「おまえ」「おれ」と呼び合っているのだが、改まった場所では、長谷のことを「社長」と口にするようになっている。 「社長は」  と、横田はつづけた。 「社長は、学生時代から、だれにも好かれる人柄でした。それにしても、弱りました。今年は、大々的にワープロを販売する予定でした。県下だけでも、相当数引き合いに入っていた矢先のいま、社長に倒れられたのでは、営業にも響きます」  当の長谷博之は、それから二日後に完全に意識を回復したが、長谷の証言も、横田や家族のそれと大差はなかった。 「犯人に見覚えはありません」  日本刀で襲撃される覚えなど、全然ないというのである。 (だれかが、事実を隠している。すでに事情聴取した関係者の中に、真実を承知している人間がいる)  捜査陣は、だれしもがそう考えた。  だが、依然として、手がかりは皆無なのである。  現場百遍の格言通り、初歩的な段階から捜査をやり直しても、新しい線は浮かんでこなかった。  たとえば、月賦の支払いに困っている客が、何人かいた。しかし、それもせいぜい十万円ていどだった。  そのくらいな負債で、長谷を襲うとは考えられなかった。  仮に、社長である長谷を殺したところで、(小さな個人商店ではなし)残金の支払いが、帳消しになるはずもなかった。  こうして、どうしようもない壁を捜査陣が意識する頃、ふと、部長刑事《でかちよう》の第六感に、ぴんと響いてくるできごとがあった。  三月も下旬となり、ようやく春めいてきたある日だった。  病院の院長が、長谷の治療経過を説明したあとで、専務の横田と、居合わせた部長刑事に向かって、今後の見通しを語った。 「一応全治三ヵ月と診断しましたが、退院しても、前のように働くのは無理だと思われますな」 「困ったことになった」  横田は目を伏せた。  が、口調は沈痛だが、院長の説明が終わったとき、ある表情が横顔に浮かんでくるのを、横田は、消すことができなかった。  横田のその微妙な変化を、ベテラン部長刑事は見逃さなかった。 『困った』  ということばとは全く裏腹な、躍動してくるような、隠し切れないある種の表情を、部長刑事は捕らえていたのである。 (何だ、これは?)  部長刑事はひとりごちた。 (白山電気商会の中に、内紛でもあったとすれば、問題だぞ)  部長刑事は、肩幅の広い横田を、盗むように見た。  横田の身辺が、本格的に洗われるようになったのは、この一瞬からである。  しかし、それは飽くまでも、状況証拠だった。  刑事の第六感に過ぎない。  結着を見るまでには、長い時間が必要だった。    4  横田康司は、岡山県|新見《にいみ》市の、農家の三男だった。  神奈川県警は、岡山県警に対して、身元照会の協力を要請した。  横田は、地元の中学校を卒業すると同時に、故郷を出ていた。  倉敷市の紡績工場の、住み込み工員となったのである。  人一倍向学心に燃えていた横田は、定時制高校に通った。成績は、常に三番とは下らないほどに優秀だった。  横田は、最初から、紡績工場の工員で満足できる男ではなかった。  高校の卒業を待って東京に出た。  宅配便トラックの助手、喫茶店のボーイ、ビルの清掃係など、アルバイトをつづけながら、私大の経済学部に籍を置いた。  長谷博之と知り合い、親しくなったのが、東京の学生時代である。  長谷は、横田とは対照的に、生活に恵まれていた。横浜市郊外の、地主の次男であった。  長谷の家族も、横田には好意を抱き、物心両面で、力になってきたようだ。  やがて大学を卒業した長谷と横田は、そろって、大手弱電メーカーの『M電器』に入社。営業部員として働いたが、五年目に独立を図った。 『初めは小さな小売店でいい。ともかく、自分たちの城を持ちたい』  と、話を切り出したのは、長谷のほうであったが、 『よし、頑張ろう』  横田は、長谷以上に積極的だった。  名目上共同出資とはいえ、資金は、すべて長谷におぶさる形でのスタートだった。『M電器』の系列店として、東横線大倉山駅前に店を開いた。  間もなく、新横浜駅近くに移り、この頃から業績はぐんぐん上昇した。  この間に、長谷も横田も妻帯している。横田も緑山にマイホームを入手したし、子供もできて、生活も安定した。  横田は、資金面では長谷に頭が上がらないけれども、実行力は、自分のほうが上だという確信を持っている。経営が順調に伸びてきたのは、ここ一番というときの、自分の決断力が大きくものを言っている。  横田は、強く、そうした自負を抱いているようだった。  これは、刑事が、『白山電気商会』を細かく聞き込んで、判明したことである。 (なるほど。社長に代わって、専務が実権を握る。動機としては、弱い線ではないぞ)  刑事課長も、横田康司の追及に積極的な姿勢を見せるようになった。  だが、何といっても、状況証拠だけなのである。  凶器が発見され、直接手を下した犯人を突きとめない限り、横田康司の逮捕状を請求することは困難だ。  日本刀を振りかざした、影の下手人はどこにいるのか。  それとも横田は、実際には、犯行と無関係なのだろうか。  捜査陣の疑心暗鬼と苛立ちの中で、二ヵ月、三ヵ月と、月日は過ぎていった。  世間の人々は、月下の雪を、血に染めた事件を忘れた。  新聞の続報も消えた。  そして、九月の臨時株主総会では、長谷に代わって横田が、正式に、『白山電気商会』社長の座におさまった。  総会といっても、ごく内々の、形式的なものであったが、ともかく長谷は、非常勤の平取締役に降格されたのだった。  長谷は退院はしたものの、日常生活にも不便をかこつ体となっていた。院長が、横田に説明した通りだった。 「心配するな。二人で発展させてきた会社じゃないか。一生、きみや、きみたち家族の面倒は見させてもらうよ」  横田は、長谷の家を訪れると、必ず、そう繰り返した。  三月の事件をきっかけにして、完全に、二人の立場が逆になっていた。  長谷は、横田の激励を文字通りの友情と受け取っていたようである。判然としない事件に巻き込まれた不合理を、横田に重ね合わせたりはしなかったようだ。  しかし、横田の瞳の奥には、友情とは異なる、黒い輝きが宿っていたのである。 (あとは、少しずつ株を買い占めていけばいい。時間の問題で、白山電気商会はオレのものになる)  横田は、胸の裡《うち》で、冷笑を浮かべていたのだ。  間違いなく、横田康司が、殺人未遂事件の真犯人であった。  長谷が生き残ったことを別にすれば、計画は、すべて、横田が意図した通りに運ばれたのである。  いや、生き残ったといっても、長谷は廃人同様なのだから、息の根をとめてしまうよりも、気が楽というものだ。  刑事の執拗さを知らない横田は、表面上の追及が消えたことで、すべての片がついたと思い込んだ。 (これからは、オレの天下だ。だれにも口を挟ませないぞ)  横田は、じわじわと本性を現わした。  さらにチェーン店を増設し、長谷が慎重な性格ゆえに実現を見なかったプリント組み立ての下請け仕事なども始めてみたい、と、考えたりした。  だが、火は完全に消えていなかった。燃え残った熾《おき》は、岡山から燻《くすぶ》り出したのである。  横田が念願の社長の座についたことを、杉崎英次が、風の便りに聞いたのは、秋も終わろうとする頃だった。 (年商五十億の社長さんにしては、六百万円は安過ぎやしないか)  杉崎はそう思った。  確かに、残金の四百万円は、あれから間もなく、杉崎の情婦ともいうべき渡辺ひとみあてに送られてきた。  だが、杉崎もひとみも、職を持たずに遊び暮らしているのである。  六百万円ていどの現金が、いつまでももつわけはなかった。 「事情はよく知らないけどさ、その社長さんとかから、絞り取れるものなら、もっと絞り取ったらいいのと違う?」  ひとみは、杉崎の話を聞きかじって、無責任にけしかけた。  ひとみはまだ十八歳の少女であったが、杉崎の前にも、桑田町で、テレクラで働く男と同棲していたことがある家出娘《やさぐれ》だった。  白い肌で、かわいらしい顔立ちをしているのに、罪を罪とも思わない点においては、杉崎以上、といえるかもしれない。罪の意識などとは、無縁の日常だった。 「ねえ、あたし前から東京に憧れているの。横浜なら、東京に近いわね。今度、恐喝《かつあげ》に行くとき、あたしも連れてって」 「あきれたやつだ」  杉崎は、満更でもない口調でことばを返すと、ひとみの背中に手を回した。  そのとき、杉崎とひとみは、柳町のラブホテルにいた。  回転ベッドと、ミラー・ルームが売り物のホテルだった。    5  円型のベッドは、ゆっくりと回転している。回転に合わせて、B・G・Mが静かに流れている。  ミラー・ルームでは、直接的にお互いを見ることは少なかった。  鏡に映る相手の裸体を眺めたほうが、興奮の高まることを、杉崎もひとみも、いままでの経験で承知している。  ひとみの名義で借りた富田町のアパートがあるのに、わざわざラブホテルへやってくるのも、刺激が欲しいからであった。  杉崎とひとみの好みの部屋は、壁も、天井も、一部分を除いて、すべてが鏡になっている。  どのような体位をとっても、鏡に映る自分と、そして相手を見ることができる。 「その社長さん、あと、どのくらい出してくれるのかしら」 「恐らくは、こっちの言う通りさ。二千万円とでも吹っかけてやるか」 「あんた、一体どんな弱味を握ってるの?」 「それを聞いて、どうする?」  杉崎がひとみの耳元に、熱い息を吐きかけると、 「どうもしないけどさ」  ひとみは、くっくっと声を立てて笑った。鏡の中で、ふたつの裸体が、波を打ってもつれた。  筋肉質な浅黒い長身と、白い、小柄な裸身。  ひとみは、時折、放心したような表情を見せるが、視線は、鏡の中のある一点に、じっと向けられたままだった。  そのひとみを意識すると、新しい欲情が、杉崎の内面から噴き出してくる。  じわじわと、お互いの肌に汗がにじんでくる。  杉崎は、ひとみの細かく震える肌に力を込めながら、 (明日にでも、横田に連絡をとるか)  と、本気になって考えていた。  犯行が計画通りに運ばれ、すでに半年以上も過ぎてしまったことが、杉崎を大胆にさせた。  岡山へ帰った当初は、確かに、追われる不安があった。  だが、一度だって、影の足音は聞こえてこないのである。  横田も『白山電気商会』の新社長として、一定の軌道に乗り始めたようである。  が、横田は何をしたのか。 (危険を冒したのは、オレのほうだ。オレだけだ)  という思いが、日増しに強くなってくる。 (それにしては、報酬が、安過ぎやしないか)  杉崎は、ひとみの白い裸身の向こう側に、あの夜の、月光を見ようとした。  杉崎英次は、横田康司同様、岡山県新見市の出身だった。  しかし、年齢が離れているので、交流はなかった。  幼馴染みとして、横田と交際を持っていたのは、杉崎の長兄だった。杉崎は、長兄を通じて、同郷の横田を知った。  今回の犯行の二ヵ月前、正月でふらっと実家へ戻ったとき、杉崎は、長兄の小学校時代の友人である横田に引き合わされた。 『早く、まともな職業についてくれないと困るんだが』  長兄はそのとき、そうした紹介の仕方をした。  長兄は根っからの農夫だった。都会へ出て成功した幼馴染みの横田に、ぶらぶらしている末弟の、就職を依頼したいとする下心があった。  しかし、横田のほうでは、別な受けとめ方をしていた。横田が関心を寄せたのは、夜の底で流されてきた杉崎の過去だった。  杉崎が、ひそかに計画を打ち明けられたのは、正月休みを終えて、横田が横浜へ帰る前夜だった。 『理由は聞かずに、仕事だけ、黙って引き受けてくれないか』 『オレも、相当に悪さをしてきたつもりだけど、殺人《ころし》だけは、まだしたことがない』 『二百万円。いや、秘密な仕事をしてもらうんだ、六百万用意しよう。もちろん、即金で払う』  六百万円、と聞いて、杉崎の心が動いた。まともに就職する意思など、これっぽっちも持たない男だった。  社長の長谷が他界すれば、順序として、専務の横田が、『白山電気商会』の実権を握ることになるのか。  杉崎は一瞬それを考えたが、杉崎みたいな男にとって、そんなことはどうでもよかった。目の前にぶら下げられた、六百万円という現金だけが大事だった。  凶器は、横田が鑑賞品として最近手に入れた、日本刀を使用することにした。  犯行計画は、すべて横田が立てた。  深夜、社長の長谷をプレリュードで青葉台の自宅まで送り届けた横田は、杉崎の凶行完了を、国道246号線脇で待つという手筈だった。  殺人後、杉崎は横田が待つ乗用車へ急行。血塗られた日本刀とか、返り血を浴びたコートなどの処分を横田に一任。  何食わぬ顔で東神奈川のビジネスホテルに戻り、翌朝、岡山に帰るという、取り決めだった。  長谷の息の根をとめられなかったことが、小さな手違いとはいえ、ともあれ、横田の目的は完遂されたのである。 (横田だけ甘い汁を吸うなんて、確かに、六百万では安過ぎらあ)  杉崎は、ラブホテルの回転ベッドで、ひとみの激しい反応の中に自分を沈めながら、もう一度はっきりと、胸の奥でつぶやいていた。  杉崎は、十万、二十万、と、横田に金をせびり出した。  これが、昨年の十一月辺りからである。  当初は電話による強要だったが、送金が度重なるにつれて、脅迫はエスカレート。杉崎は、ひとみとともに、東京移住を決めた。 「横田が社長でいる限り、オレたちは、一生おもしろおかしく暮らしていける」 「あんたって、すごい金づるをつかんでいるのね。カッコいいわ!」  ひとみは、憧れの東京に住めることで、有頂天だった。  こうして、二人は、東京にやってきた。横浜に近い、大田区久が原に古いマンションを借りた。  月下の犯行から、丸一年が過ぎていた。  社長のポストを射止めた横田にとっては、もっとも危惧する事態となった。  杉崎とひとみは、久が原のマンションに移住した翌日の午後、早くも、新横浜駅近くにある、『白山電気商会』の社長室に乗り込んできたのである。 「約束が違うじゃないか」 「ばかなこと言っては困る。横田さんとこで扱っている電気製品だって、アフターサービスがあるだろ」 「昨年の秋からだって、もう、百万を超える余分な現金を送っている」 「社長室ってのは、こういうものですか。気分いいものでしょうね」  杉崎はソファで脚を組み、じろじろと内部を見回した。  ミニスカートのひとみも、これ見よがしに脚を組んだ。ひとみは、にたにた笑いながら、口を開けて、チューインガムをかんでいる。  どう見ても、二人の雰囲気は、異様だった。社員の何人かが、仕事にかこつけて、社長室を心配そうにのぞきにきた。  横田は気が気ではなかった。警察を呼ぶわけにはいかないのである。 「どうすればいいというのかね」 「一時金で払ってもらうか。毎月、いただくか。そこんところは、横田さんのご都合で結構です」  杉崎は、決して声を荒立てない。こうした出方のほうが効果があることを、杉崎は、大阪で暮らした頃の経験で知っていた。  まとまるはずのない�談合�は、二時間余りもつづいて、夕方の退社時間となった。  恐喝は成功しなかった。  それは、脅《おど》す側と脅される側、双方にとって、妙な形での結末を迎えるのである。  たまりかねた幹部社員の一人が、事情も分からないままに、一一〇番のダイヤルを回してしまったのだ。  パトカーが社員通用口に横付けされ、警察官が二階の社長室へ駆け込んできたとき、思わず身構えるようにして立ち上がったのは、脅迫者の杉崎でも、ひとみでもなかった。 「た、大したことではありません」  慌ててソファから立ち上がった横田は、手を振って、警察官を遮《さえぎ》った。 「この人は、ぼくの旧友の弟でしてね。岡山から出てきた矢先なのですよ」  横田の声は上ずっていた。話自体に何の意味もなく、見る間に、全身の血の気の失せていくのが分かった。  制服警察官の背後に、一年前の殺人未遂事件を扱った、青葉台署の、部長刑事《でかちよう》が立っていた。  杉崎とひとみは連行されていった。  杉崎の自供により、殺人未遂容疑で横田康司が逮捕されたのは、翌日の早朝である。  緑山の自宅へ踏み込んできた部長刑事によって手錠をかけられたとき、横田は、崩れるように、玄関先に座り込んだ。  事件発生以来、丸一年ぶりで仮面をはがされた横田の素顔は、別人のように、くろずんでいた。妻や子供たちの前で、恥も外聞もなく、いまにも泣き出さんばかりだった。  一方、事実を知らされたときの、長谷の変化は複雑だった。 (やはり横田だったか)  ぼそっと口を衝《つ》いたつぶやきが、それだった。  あの夜、路面に雪が残っていたとはいえ、乗用車がスリップするほどではなかったはずである。長谷は病床で、ずっとその一事を考えてきた。  それなのに、横田は、スリップの危険を口実に、いつもより手前で、長谷を降ろしたのである。  長谷はこの一年間、自分の中に生じた不審を消そうと努めてきた。友情が、すべてに優先すると考えたからだ。  しかし、不審は現実となった。 (やはり横田が、あいつが陰で仕組んだことだったか)  長谷は、横田の逮捕を聞かされて、他のことばを奪われたかのように、ひとつのつぶやきを繰り返した。  自宅のソファに身を横たえる長谷は、宙を見るような、虚ろなまなざしだった。  二人で始めた店が、ここまで大きくなったことに遠因があるのか。 (それにしても)  と、長谷はつぶやく。二十五年を超える友情を、こんな形で裏切られたことが、何とも信じ難いようであった。 陥穽《かんせい》の青春    1 「今夜、あたし帰りたくないナ」 「給料が入ったところだ。ディスコへでも行くかい」 「ううん、ここに、いつまでもこうしていたいの」 「千佳って、急に子供みたいなことを言い出すんだね」 「そうかナ。星がこんなに、きれいなんだもの、ずっと星を見ていたい」  四月初旬とは思えないほどの、なま暖かい微風が吹いていた。  桜も、すでに、散り急いでいる夜だった。  月は見えなかったけれど、一面の星空だった。  星明かりのベンチに、吉原千佳と滝川昇治は、肩を寄せ合って座っている。  横浜・野毛山公園の一隅。  伊勢佐木町から関内へかけての、横浜中心地のネオンを、はるかに見下ろすことができる場所だった。  ネオンの彩りの、さらに向こうに見える明かりが、横浜港である。  港では、高島町から桜木町へかけて、横浜スタジアムの三十五倍もの広い敷地をとって、横浜博覧会が開催されたところだ。会場の上空は、市街地を上回るほどに、一段と明るい。カラフルなパビリオンが並ぶ会場の中でも、一際目立つのが、世界一の高さと言われる大観覧車だ。  横浜博覧会は、三月二十五日のオープン以来、連日、予想をはるかに超えるにぎわいを見せている。  県外からの来訪者も多い。  しかし、博覧会場とも、繁華街とも離れた野毛山の夜は、ひっそりしている。  起伏の多い公園だった。  水銀灯が一定の間隔を置いて並んでいるが、だれかがいたずらでもしたのか、たまに、明かりの消えている個所があった。  さっきから、千佳と昇治が腰を下ろしているベンチの横の水銀灯もそうだった。  暗い場所へ、自然と足が向くのは、若い恋人同士の通例である。  吉原千佳は十九歳、滝川昇治は二十歳だった。  二人とも、南区の製菓工場で働いている。  昼間は画一化された白い作業服を着ているが、夜の町をデートするときの二人は、ヤングらしい服装に変身する。  千佳は白いジャケットにジーンズ、昇治はスポーティーなブルゾンが似合った。  二人とも、背は高いほうである。  昇治は、右手を千佳の肩に回し、左手は、ジャケットの上から、千佳の胸に触れていた。  千佳は、胸のふくらみも豊かだった。  いかにも十九歳の若さを象徴するかのように、ちょっと触れただけでも、敏感に、昇治の指先に反応してくる弾力があった。  だが、若い昇治はもちろんのこと、当の千佳さえも、女性の体の本当の魅力がどこにあるのか、当然のことに、まだ分かってはいない。  千佳なりに、夜、若い疼《うず》きを覚えることがあった。  しかしまだ、異性によって肉体を目覚めさせられてはいなかった。  千佳と昇治は、年齢は一つ違いだが、製菓工場への入社が同期だった。  当初は、お互いに同じ東北出身ということで、親しくなった。  故郷を遠く離れて暮らす二人にとって、その親しみが男女の愛情に変わっていったのは、当然の帰結とも言えようか。  だが、千佳と昇治は、本当の意味での愛の形を知らない。  いまもそうだ。  愛している昇治が長い指を伸ばしてくるから、そっとそれに応じる。  千佳にはそうした気持ちのほうが強かった、とも言える。  一月下旬あたりから、ペッティングの度が激しさを増したとはいえ、千佳と昇治は、一度も、直接的な肌の関係を持ってはいないのである。  ほとんど二日おきくらいに、工場の帰りをデートに当てているのだが、現代のヤングとして、昇治と千佳は、健全な部類に属するだろう。 「オレたち、いつになったら結婚できるのだろう? 一緒になっても、当分は、共稼ぎだな」 「夢みたい」  千佳は昇治の腕の中でつぶやく。  夢みたいというのは、恋を知ったことを指すのではなかった。  結婚などということばを、口にすることが、千佳には、 「夢みたい」  なのであった。  お互い就職しているだけに、一人前の社会人のようなつもりでいるが、二十歳と十九歳の若さは、将来を語り合うことばの端々にもにじみ出た。  年輩の第三者が耳にしたとしたら、その幼いとも言える恋の語らいに、微笑を感じたかもしれない。  昇治も千佳も幸福だった。  仕合わせであると思っていた。  春の夜の野毛山公園を埋める、数多くの他のカップルと同じように、昇治と千佳の服装は都会的ではあるけれども、地方に生まれ育った純朴さは、どこかに尾を引いている。 「東北も、そろそろ桜が咲くかしら」 「オレの村は咲いたようだが、千佳のほうはまだじゃないか」  昇治の故郷は福島、千佳は岩手。  ともに、農家の出身だった。  地元の高校を卒業すると、二人は前後して横浜へ出てきたのだった。  いずれも、職安の紹介である。  都会生活に慣れると、職場を変える地方出身者が少なくないが、昇治と千佳は違った。  勤め先の製菓工場のムードは悪くなかったし、寮の設備も整っている。  しかし、それにも増して、元々二人は、一ヵ所で長く辛抱するという姿勢を備えていた。  あるいは、そうした共通点が、二人の間に恋を芽生えさせたのだ、と言えるかもしれない。 「今度の日曜日、三浦半島へでも行ってみようか」  昇治は、千佳の乳房をまさぐる指先に、力を加える。  昇治の意識は指先に集中されており、「三浦半島行き」を口にした、ことばそのものに大した意味はなかった。  それも、純朴な若さゆえだろうか。  いまの行為、すなわち愛撫とストレートに結び付く内容を、話題にできる性格ではなかった。 「三浦は、横浜よりも暖かいんでしょ」 「弁当を買って行って、海を見ながら食べるか」  昇治の指先が、じわじわと、移動している。  やがてそれは、白いジャケットの下に向けられ、下着の裏側を這《は》った。  昇治の熱い掌が、じかに、千佳の胸のふくらみを包み込む。  弾力があって、そして、なめらかな肌であった。  千佳はじっとしている。  いや、自分でも気付かないままに、少しずつ、上半身が、昇治の胸にしなだれかかってくる。  ベンチの背後には、桜の大木があった。  枝を広げたその大木と同じように、二人の影も一つになる。  いつともなく、二人の間から、会話が遠のいている。  二人が腰かけたベンチの前を、足音を忍ばせるようにして歩いて行く男女がいた。  昇治の掌が、下に移動してきた。  千佳は体の向きを変えると、ジーンズのファスナーを緩《ゆる》めた。    2  昇治はさり気なくブルゾンを脱ぐと、体を寄せ合ったひざの上に、それを置いた。  いつもの順序だった。  こうして、千佳の肩から外した右手を、ジーンズの中へ滑り込ませていくのである。 「千佳が欲しい」  昇治は、ペッティングがエスカレートしていくにつれて、何度、それを口にしかけたかしれない。  もしも、 「それだけは結婚するまで待って」  と、千佳が首を振ったら、それはそれでいい。  だが、夜の公園などとは違う二人だけの部屋で、千佳のすべてを目にしたい。  セックスが駄目なら、ペッティングだけでもいいのだ。  こうした人目を忍ぶ愛撫とは異なり、二人だけの部屋で、すべてをさらけ出してみたいと思った。 「千佳のヌードを見たいな」  しかし、その一言を口にできないのは、昇治の人柄だった。  軽薄にセックスを楽しむだけの交際ではなく、意識の上で、はっきりと結婚を前提としているがゆえに、なおのこと、慎重になるのだろうか。  いまの交流は、大事にしなければならないのである。 「好きだよ」  昇治は、複雑に錯綜してくる想念を振り払うようにして、それだけを言った。  右手の指先は、昇治のためらいとは逆に、下部へ下りていく。  千佳の肌にぴったり食い入るように密着している下着。  その内側に差し込まれた指先は、じっくりと、恥ずかしい個所の周辺を探り当てようとする。  こうして、星空の下の時間が過ぎると、直接的な性体験を持たない千佳の肉体にも、変化があらわれ始める。  千佳の吐息が、粘り付くような感じに変わっている。 (こんなときの千佳の全裸を、だれもいない二人きりの部屋の中で目にすることができたら、素晴しいだろうな)  昇治の内面で、そんなふうにささやく声が高くなる。  すると、指を這わせている部分に、直接、唇を押し当てたいような衝動が昇治を見舞った。  二人だけの部屋の中であるならば、それができるのだ。  日曜日に三浦半島へ行ったら、その帰りに、思い切って誘いをかけてみようか。  千佳が断わるわけはないと思った。  自分が決断さえすればいいのだろう、と、昇治は考える。  また一組、肩を抱き合ったアベックが市立図書館のほうから上がってきて、水銀灯の向こう側へと消えて行った。 「寒くないか」  と、昇治は言った。  寒いどころか、暖か過ぎる夜であるのに、一瞬、ことばが見つからなかった。  ことばには逡巡があるけれど、昇治は千佳の白い指を取ると、自分のほうへ誘導していた。  昇治の変化も、千佳に劣らなかった。  そこに触れさせると、千佳は一瞬ためらったけれど、しかし、手を引っ込めようとはしなかった。  いつもと同じだった。  昇治の指先が千佳の中に差し込まれていくと、千佳も、恥ずかしさを漂わせながらも、力を込めてくる。  影のような二人は、もう何の動きも見せはしない。  二人以外のだれにも知られないところで、じわじわと力が加えられ、そして、タイミングを計るように、力が外されていくだけだ。  眼下に広がる、横浜中心部の夜の彩りも、次第に二人から遠くなっていく。 (幸福だわ)  千佳の胸の奥を、滅多に使ったことのないことばが流れるのは、こうしたときである。  ペッティングそのものが、幸福なのではなかった。  ペッティングの向こう側にある、心と心の結び付きが大事だった。  千佳は、このようにして愛を確かめ合っていることに、たまらない充実感を覚えるのである。  千佳も、昇治と同じように、いま指の先で触れている部分に、自分の唇を当ててみたいと思うことがあった。  性の欲望ではなかった。  もっともっと、昇治の愛の中へ沈んでいきたかったのだ。  肉体を通して、昇治の愛を自分のものにしたいと考えた。  それは健全な男女の、まともな恋愛の過程というべきだろう。  いま、星空の下の野毛山公園には、セックスを、単なる悦楽としてしか捉えていない男女も多いはずだ。  しかし、飽くまでも、昇治と千佳は違った。  二人の交わりの彼方には、何年先になるか分からないが、「結婚」という新しい生活が、約束されているのである。  昇治の指先が、さらに千佳の内奥を確かめ、思わず知らず千佳が反応を示し、それがまた千佳の指の動きとなって、昇治に返ってくるとき、二人は、性の欲望を超えて、お互いの心を自分のものにしようとした。  ベンチの上で、ひとつの影と化したまま、長い時間が過ぎた。  周囲のすべてが、完全に、二人からは隔《へだ》たったものとなっている。  やがて、若い恋人同士は、充実した感情に浸りながら、公園の砂利道を下って行くだろう。  いつもと同じようにだ。  日ノ出町から京浜急行に乗り、井土ケ谷まで戻る。  井土ケ谷駅近くのハンバーガーショップで空腹を満たし、昇治は、女子寮の傍まで千佳を送って行くだろう。  そして、口笛を吹きながら小学校の前を横切って、軽い足取りで男子寮へ帰って行くだろう。  しかし、この夜、昇治と千佳は、いつものコースで戻って行くことを許されなかった。  停止した時間の中に沈む昇治と千佳は何も気付かなかったけれど、その一部始終を、息を詰めて目撃する、二人の男がいたのだ。  山下和也二十六歳と、長沢信明二十二歳である。  派手なマフラーを首に巻き、そろって革ジャンパーを着込んだ山下と長沢は、一見、チンピラふうな印象を与える。  昇治と千佳が腰かけたベンチの背後は、なだらかな傾斜地になっている。  桜の大木の陰で、草むらに這いつくばった山下と長沢は、頬杖をしていた。  山下と長沢は、昇治と千佳がベンチに腰を下ろしたときから、じっと、その動きを見詰めていたのである。    3  春先から初夏にかけて、痴漢が多いことは常識となっている。  夜の公園などで、アベックの密会をのぞいたり脅したりする男が、パトロールの網に引っ掛かるのも、桜が花ひらく春先から増えてくる。  長かった冬が去り、自然が活動を始めると、人間の欲望も表面に出てくる。  これは昔から言われていることだが、しかし、山下と長沢の場合は、季節の移ろいには関係がなかった。 「たまらねえな。あのスケ、いい体をしてるぜ」 「おまえ好みのグラマーだな」 「兄貴だって、細いのより太い女のほうが好きなはずだ」 「それにしても、あいつら、いつまでいちゃいちゃしてやがるんだ」 「見物させてもらっただけで別れるには、惜しいスケだぜ」 「ガンづけしてみるか」  山下は口をあけてチューインガムをかみながら、にたりと笑った。  山下と長沢は、四つ違いということもあったけれど、山下が「兄貴」と呼ばれているのは、年齢差だけが理由ではなかった。  二人とも、どこかの組に所属した経験はなかった。  ただ、横浜駅西口周辺とか、野毛とか伊勢佐木町の盛り場などを、おもしろおかしく遊び歩く仲間《だち》に過ぎなかった。  しかし、山下のほうが、けた外れに金回りがよかった。  夜の町を遊び回る山下と長沢が、これまで、金銭を巻き上げるといったような恐喝事件を一度だって起こしていないのも、山下のふところ具合がよかったためである。  山下は、戸塚区内では代々つづいた、大地主の三男だった。  先祖伝来の土地は決して手放さないと頑張っていた老父が、周囲の勧めに負けて姿勢を変えた。  老父は、山林や農地を、次々と大手不動産会社に売却し、財産を三人の子供たちに分け与えた。  山下は、いわば典型的な、「土地成金の息子」だったわけである。  高卒後勤めていた、舞岡町のガソリンスタンドもさっさと辞めた。  山下は、赤いスポーツカーを乗り回すようになった。  足繁く、歓楽街のポーカーゲーム店などへも出入りするようになった。  両親が大金の魔力に気付いたときは、もう手遅れだった。 「オレの金を、オレがどう使おうと勝手だろ。オレはもう子供じゃない。家を出て独立する」  山下は、職もないのに、そう言い残して戸塚の家を出た。  国道1号線に近い天王町に、2DKのマンションを買った。  家族から離れ、天王町のマンションに移ってからは、一層、遊びに明け暮れる毎日となった。  普通の所帯持ちばかりが住むマンションの中で、山下だけが異質だった。  ポーカーゲーム店で長沢と知り合い、長沢を弟分のようにして連れ歩くことで満足する、奇妙な虚栄心も表面に出てきた。  遊興費は、もちろんそのすべてを、山下が札びらを切った。  キャッシュがたっぷりあるから、女にも不自由しない。  女の体を抱きたくなれば、ソープランドとかクラブのホステスなどのいわばプロを、現金で口説けばいいわけである。  こうした無軌道な男たちに特有の、婦女暴行といったような行為を、実際に引き起こしていないのもまた、金銭に余裕があったがゆえと言えるだろう。  しかし、この夜は違った。  昇治と千佳の執拗なペッティングを見せつけられているうちに、かつてない刺激が、山下と長沢を衝《つ》き上げてきたのである。  金で買った女からは得られない興奮が、そこに展開されている。  いつもだと、こうしたのぞきの後の山下と長沢は、福富町のソープランドへでも直行するのだが、いつもとは異なる欲望が渦を巻き始めている。  昇治と千佳にとって、山下と長沢にのぞかれたのが偶然なら、千佳が、山下と長沢の「好み」の体形であったことも、不幸な偶然だった。 「兄貴よお、オレ一度でいいから、トウシロのスケをやってみたかったんだ」 「野郎のほうを片付けて、女をオレのマンションへ連れ込むか」 「悪くないね。あれだけの体なら、痛め甲斐もあるってものさ」 「ふん、おまえも一端《いつぱし》の口をたたくじゃねえか」  山下も長沢も、実際には暴力団とは全く無縁であるのに、知らないスナックなどへ飲みに行って、組員を気取ってみせるような一面があった。  もっとも、実際にやくざ者らしき男たちが現われると、手のひらを返すように表情を変えてしまうのが常であったけれど。  いずれにしても、そんなことで歪《ゆが》んだ見栄を満たしているというのも、日常生活を見失っている乱れの反映と言えるだろう。  十代の若者ならともかく、山下のほうは二十代も後半なのである。  それも、労せずして思わぬ大金が転げ込んできた結果なのだ。  ねじれた青春だった。  そうした二人の男に見詰められているとも知らずに、堅実な明日を夢見る千佳と昇治は、いつまでも、お互いを確かめ合った。 「そろそろ帰ろうか」  昇治がそう言って、千佳のジーンズから手を抜いたのは、午後九時を回る頃だったろうか。  昇治自身の一隅には、もうひとつ満たされないものが残っているけれど、それを夜の公園で発散させるわけにはいかない。  次の日曜日の、三浦半島行きに期待しようと自らに言い聞かせた。  昇治はそっと千佳に唇を重ね、それから立ち上がった。 「日ノ出町の駅まで、遠回りして帰ることにしようか」 「うん」  千佳は逆らわなかった。  それもいけなかった。  いつもなら、坂道を下り、市立図書館の横を右に折れ、自動車の往来が多い大通りを帰るのだが、この夜の昇治と千佳は違った。  逆に公園内の坂道を上がり、野毛山動物園の裏手を通り、市営プールへとつづく道を選んだのだ。  近くに人家はあるけれど、昼間でも人通りの少ない一角に出た。  山下と長沢、尾行を開始した二人のオオカミどもにとっては、正におあつらえ向きの場所へ、昇治と千佳は足を向けてしまったわけである。  革ジャンパーの二人が、ひそかに後をつけてくるとも知らずに、いや、そんなことは全く考えられるわけもなく、千佳と昇治は公園の中の広い舗道を上がった。  上がり切ったところで、公園を抜けた。  左に道をとって、人気のない急な坂を下り始めた。  何かに酔ったようにして、そぞろ歩く昇治と千佳の顔を、なま暖かい風がまともに吹き上げてくる。 「おい待ちなよ。待てってば!」  背後の錯綜した靴音が、足早に接近してきたのはそのときである。    4  坂道は、崖の中腹を曲がりくねって、下の大通りへつづいている。  崖の上は市営プールであり、崖下は住宅地になっているが、すでに、どこも雨戸を下ろしている。  舗装はされているけれども、坂道は細かった。  左へ、急に折れる辺りに、外灯がひとつあった。  その外灯を背にして、山下と長沢は千佳と昇治の前に立ちはだかった。 (なかなか、いかすじゃねえか。こんなカワイ子ちゃんなら、文句ねえや)  山下は、外灯に照らし出された千佳の全身を、じろじろと見詰めた。  ドスの利いた声で睨《にら》みつけたのは、長沢のほうである。 「おい、おまえたち、公園を何だと思ってやがるんだ!」 「は?」  昇治と千佳は、思わず掌を握り合った。 「やい、いい気になっていちゃつきやがって、オトシマエをつけてくれるだろうな」  一人前の、やくざ者を気取った口調になっている。  もちろん、こうしたところへ本物の組員が通りかかったりしたら、山下と長沢は顔色変えて逃げ出したに違いないのだが、昇治と千佳がまんまとその脅しにかかってしまったために、長沢はいい気になった。 「オレたちは、関西からきた一家のもんだ。こっちの兄貴は、ハマでは知られた代貸しさんだ」  と、口から出まかせを並べ立てた。  やくざ映画のシーンを、適当につなぎ合わせたせりふに過ぎない。  ついつい調子にのって、 「この場で指を詰めてもらおうか」  というようなことまで言っている。  これには、後で取り調べに当たった野毛署の刑事も、口をあけてあきれかえったものだが、昇治たちが、山下と長沢の実体を見抜けないのは、やむを得ないことであった。  地方出身の昇治と千佳は、大都会の暗い部分に無知だった。  それに、山下と長沢のことばの中に、仮に不自然なものを発見したとしても、脅されているのは、事実なのである。  充実した空気をふいに割ってきた、革ジャンパーの山下と長沢が、ただ不気味だった。 「指を詰めるのは、かわいそうだな」  と、人気のない周囲を見回してから、山下がことばを挟んだ。  昇治と千佳が、畏縮し切ってしまったために、山下の口調にも余裕が出ている。  山下は思いつくままに言った。 「いくら持っているんだ?」 「ぼくたちは、ただ公園を歩いていただけです」 「ふざけるな! 金だよ。指を詰めるのが嫌なら、金で話《なし》をつける以外にねえだろう。違うか!」  もちろん、金が欲しいわけではない。  昇治と千佳の分断の方法を、ふと思い付いたまでだ。  後の自供によると、これも、やくざ映画の影響であったらしい。  昇治と千佳は、合わせて六千円足らずの現金しか持っていなかった。  山下はその全額を受け取ると、待っていたというようにつづけた。 「冗談じゃないぜ。せめて、あと一万円はそろえてもらわなければな。これだけでは、うんとは言えない」  五万とか十万という金額は、相手の服装から推して、無理かもしれない。  だが、一万円ぐらいなら、どこかで借りてくることができるだろう。  昇治の若さを見、瞬時にそれを「計算」した上での「要求」であった。  昇治が現金を都合してくる間、喫茶店かどこかに、千佳を待たせておくという筋書きもその場で思いついた。  無論、昇治が姿を消せば、そのまま千佳を拉致《らち》するつもりだった。  この辺の計算と間の取り方は、一端の悪党ぶりと言えようか。  そして、ことは、そのもくろみ通りに運ばれたのである。  昇治が要求を拒否できるはずはなかったし、昇治は昇治で、一万円を用立ててくると見せかけて、交番へ駆け込めばいいのではないか、と考えを巡らしていた。 「いいか。おかしな真似をすると、カワイ子ちゃんが痛い目に遭うぞ」  山下は、坂道を下りると、日ノ出町駅前の喫茶店を指差して、 「オレたちはあそこで待っている」  と、うそぶいた。  千佳は、口も利けないほどにおびえ切っている。 (心配することはない。すぐに戻ってくるからな)  昇治は千佳に目で告げると、日ノ出町駅に向かった。  山下と長沢の視線が背中に注がれているような気がして、この場で巡査派出所へ足を向けるわけにはいかなかった。  昇治は隣の黄金町まで、一駅だけ京浜急行に揺られると、走って駅の階段を下りた。  しかし、警察官と一緒に駆けつけた日ノ出町駅前の喫茶店に、千佳の姿はなかった。  もちろん、革ジャンパーの二人の男もそこにはいない。 「さあ」  そうした三人連れはこなかった、と、ウェイトレスは首をひねった。 「お願いします。早く千佳さんを捜してください」  昇治は、いまにも泣き出しそうな顔を警察官に向けた。 「あいつら、やくざなんです。関西からきた一家だと言ってました。このままでは、千佳さんがどうなってしまうか、分かったものではありません!」  その頃、山下が運転する赤いスポーツカーは、久保町の坂道を下って、国道1号線を横切ると、天王町のマンションへと向かっていた。 「おとなしくするんだぜ。さっきの野郎の十倍もかわいがってやるからよ」  長沢は後部シートで、舌なめずりを繰り返していた。  そう言いながらも千佳の右腕をねじ上げるようにして、ひざの上に組み伏せているのである。    5  山下の部屋は、マンション六階の一番東側だった。  駐車場へつづく裏口から入ったために、管理人の目はごまかすことができた。  しかし、エレベーターの中で、同じ六階に住む主婦と一緒になってしまった。 (まずいな)  山下は、長沢と顔を見合わせて、舌打ちをした。  だが、次の瞬間、山下は開き直っていた。 (オレが何をしようと、オレの勝手ってもんだ)  これはオレのプライバシーだ、と胸の中でつぶやき、千佳の肩を抱き寄せて、ささやいた。 「静かにしていれば、すぐに帰してやる。でもなあ、下手に騒ぎ立てたら命はないぞ。いいな」  それから、不気味な沈黙がきた。  気味の悪い沈黙の中で、エレベーターは六階へ直行し、千佳は山下の部屋に連れ込まれた。  握り締めた千佳の両掌が、じっとりと汗ばんでいた。  千佳は、エレベーターで同乗した主婦に、何度救いを求めようとしたかしれない。  しかし、恐怖が先に立ち、千佳は口を開くことができなかった。 「最初に、公園であの男がやっていたのと同じことを、してやろうか」  長沢は、部屋に入って後ろ手にドアを閉めると、千佳の肩を小突いた。  べたべたと、所構わず、大きいヌード写真が張り出されている部屋だった。  気ままに暮らしている日常を反映して、室内は乱雑だ。  ウイスキーの空き瓶とか、インスタントラーメンの容器などが転がっている。  その汚れてちらかったカーペットの上に、いきなり千佳を押し倒したのは、長沢のほうだった。 「おまえ、いつもあんなことをしているのか。ボーイフレンドは何人いる?」  長沢はにたにたと笑った。 「何するんですか」 「何するだと? あの男と同じことをしてやると言ったはずだぜ」 「お願いです。帰してください」 「ほう、おまえ、そんなに立派な口が利けるのか。でもな、ここでは、泣いてもわめいても無駄だ」  長沢は革ジャンパーを脱ぎ捨てた。  それが発火点となった。  山下と長沢は、文字通り飢えた野獣のように、千佳に襲いかかった。  ジャケットを取り、ジーンズを脱がせ、やわらかい肌にぴっちりと食い込んでいる純白の下着までも、外しにかかった。 「やめて! やめてください! だれか、だれか助けて!」  千佳はむき出しになった胸のふくらみを押さえて、叫んだ。  自分でも無意識のうちに、口を衝《つ》いてきた絶叫であった。 「助けてください。だれか、だれかきて!」  体を守ろうとする処女の、本能が発した悲鳴とも言えようか。  千佳の悲鳴は、ドアを通して中廊下にも流れた。  これを耳にしたのが、先ほどの主婦だった。  この主婦は、髪を乱して土気色の顔をした千佳に普通でないものを感じた。  当然だろう。  定職にもつかず、ぶらぶらしている山下に対して、前々から疑惑の念を抱いている住人は多い。  主婦はエレベーターを降りると、いったん自分の部屋に入ったものの、どうにも気になって、改めて中廊下へ出ると聞き耳を立てていたのだ。  そこへ聞こえてきた絶叫である。  主婦は自分の部屋へ取って返すと、ためらわずに一一〇番のプッシュボタンを押した。  そうした主婦の行動を、山下と長沢が知るはずもなかった。 「いくらでも、わめけ。ここはオレの城だ。泣いても叫んでも、だれもきてくれるものか!」  山下は、引き千切るように、千佳の下のものを外すと、その白い肌に、分厚い唇を押し当てた。 「本当に、いい体をしている。想像していた以上だ」  長沢のほうはそんなつぶやきを繰り返しながら、ふくよかな乳房への愛撫をつづけている。  千佳は懸命に体をよじろうとしたが、男の力にかなうわけもなかった。  大の男が二人して、上半身と下半身を押さえつけているのである。  千佳は下唇をかんだ。  だれにも見せたことのない肌を、昇治にさえも見せたことのない体を、見も知らない男の自由にされている。  そう考えると、苛立ちと口惜しさのにじんだ涙が、頬を伝わってきた。  昇治とは違って、二人の野獣の、指の動きは乱暴である。 (どうして、こんなことになってしまったのかしら)  千佳は、次第に、声を出すこともできなくなっている。  一時間前の、公園でのあの幸福な一刻が脳裏を過《よぎ》ると、また一筋、新しい涙が頬を伝わった。 「もういいだろう」  山下が長沢に話しかけたのは、どのくらいが経《た》ったときであろうか。  しかし、それで千佳が解放されるわけではなかった。  山下と長沢は、ぐったりしている千佳を見下ろして、ジャンケンを始めた。  一方的な、強烈なペッティングの後で、本番への順序を決めようというのである。  それを知ったとき、恐怖と怒りの入りまじった、複雑な感情が、千佳の背筋を這い上がってきた。  血を吐くような思いで、千佳は叫んだ。 「やめて! あたしを帰して!」 「静かにしなよ。怒鳴っても無駄だと言ってるのが分からねえのか」  長沢が目をむき、山下はにたりと笑った。  山下のほうが、ジャンケンに勝ったのだ。  山下は改めて、千佳の裸身に手を伸ばしてきた。 「何を震えているんだ。こんないい体をしていて、初めてというわけじゃないんだろうに」  チャイムが連打され、ドアが激しくノックされたのが、そのときである。  主婦の通報で駆け付けた、二人の警察官であった。  千佳は危ないところを救われた。  山下と長沢は、恐喝、不法監禁、婦女暴行未遂容疑で、逮捕された。  山下と長沢にとっては、万事が「完全」に運ばれたはずだった。  こうした場合、被害者が訴え出ることは少ない、ということを、遊び仲間から聞いてもいた。  エレベーターで同じ六階に住む主婦と擦れ違ったことが、山下と長沢にとっての「完全」に、裂け目を生じさせたことになる。  警察官が踏み込んできたそのとき、千佳は無我夢中で衣服をまとったけれど、ジーンズを穿《は》き、ジャケットに腕を通すと、改めて、悲しみと怒りがよみがえってきた。  千佳はその場に、わっと泣き崩れた。  十九歳の千佳が受けた傷は、昇治にも想像できないほど、深かった。  それから五日が過ぎて、岩手地方にも桜が花ひらく頃、千佳はだれにも告げず、そっと故郷へ帰って行った。  そして、山下と長沢は身柄を送検され、昇治も、次のあてもないままに、製菓会社を辞めた。  四人それぞれの前に口を開けていた、青春の陥穽《かんせい》、と言えばいいのだろうか。 暗黒の九月    1  八月下旬にしては、しのぎ易《やす》い夜だった。  夕方から、風が出たせいだろう。  和田紀夫は酔い過ぎていた。  会社恒例の納涼大会が、中之島のホテルで開かれた。  毎年、夏の終わりに開催されるパーティーは、秋の販売促進月間に向けての、決起大会の意味もあった。  納涼会は午後三時半からだったが、その後、二次会、三次会と誘われるままに、キタのバーやクラブを飲み歩いた。  和田は四十二歳。  大証二部上場の『光洋物産』で、第二営業課長を務めている。  年に一度のことなので、部下たちの誘いを無下《むげ》に断わるわけにもいかない。 「課長、これから仕上げにもう一軒、道頓堀へ行きましょう」  と、粘る部下たちを振り切って、大阪駅に戻ったのは、午後十時を回る頃だった。  和田の家は西宮である。  阪急神戸本線を利用する毎日だった。  阪急梅田駅へ向かうために、和田はJR大阪駅の広い構内を横切った。  途中、電話コーナーを見つけると、人込みで足をとめた。  遅くなったときは、電車に乗る前に自宅へ電話を入れるのが、いつもの習慣だった。 「ああ、ぼくだ。これから帰る。若い連中のペースに巻き込まれてね。すっかり酔わされてしまったよ」  カード電話の前に立つ足元は、ふらふらしている。  夜がふけても、真夏の駅は、人の動きが減らなかった。  和田は受話器を置くと、マイルドセブンをくわえた。  若い女性が、ふっと和田の前に立ちはだかったのはそのときである。  瞳の大きい女性で、笑みを浮かべた口元に特徴があった。 「あら?」  笑みを浮かべた女性は、いかにも親しげな表情を見せた。  大きな赤いカーネーションがプリントされた、女の白いTシャツを、和田の酔った目が捕らえた。  記憶がなかった。  知らない女だ。  人違いをされているのに決まっている。  しかし和田は、ライターの火をつけながら、女を見返していた。  女は、オフホワイトのジョッパーズが似合う若さだった。  肌も白いし、唇の形が何とも言えずセクシーだった。 (OLだろうか)  口の利き方は水商売の女を思わせるが、ほとんど化粧はしていないし、服装は、むしろ地味と言っていい。 「どなたでしたかね」  マイルドセブンの煙を吐きながら、和田が思わずそう問い返したのは、酔い過ぎていたためである。  普通の状態であったなら、たとえ、相手がどのように美貌の女性であろうとも、和田はことばを返すような性格ではなかった。  和田は、公私ともに、徹底したマジメ人間で通っている。  順調に出世コースを歩んで、課長のポストも得たし、定年までローンが残っているとはいえ、マイホームも手に入れた。  西宮市の自宅には、パートで働く妻と、小学校へ通う二人の男の子が待っている。  和田は仕事に熱中し、そして、家庭を大切にする平均的なサラリーマンであった。  そうした和田の日常を承知しているのかどうか、 「今夜、お会いするのは、これで三度目ですわね」  若い女は、つぶらな瞳を、じっと和田に向けてきた。  そう言われても、やはり、和田には見覚えがない。  だが、その一言で、彼女が人違いしているのでないことだけは分かった。 「どこかの、バーかスナックで、ご一緒したのですかな」  と、和田は言った。  和田は数人の部下たちと飲み歩いた、堂山町や梅田など、キタのバーを思い返そうとした。  花金《はなきん》とあって、どの店も込んでいたし、自分たちの話に熱中していたので、周囲にだれがいたか、細《こま》かいことは何ひとつ覚えていない。  カラオケにしてもそうだ。  マイクを握った記憶はあるが、何を歌ったのか、定かではなかった。  要するに、和田は、それだけ深酔いしていたのである。 「課長さん、ずいぶん酔っていらっしゃるわ」  若い女は、新しい笑みを浮かべた。 「大丈夫ですか。足がふらふらしているわ、課長さん」 「課長だって?」 「皆さんが、そう呼んでいたじゃありませんか」  女は、バーで同席したことを、暗示する口調になった。  しかし、この若い女性は、酒を飲む場所へだれと出かけたのか。  和田たちが繰り込んだバーやクラブは、若い女性が一人で立ち寄るような店ではない。  いま、彼女に連れのいる気配はないし、こんな遅い時間に、だれかと待ち合わせをしている感じでもなかった。 「ねえ課長さん、ご一緒にお食事でもしません?」 「食事?」  和田は、一瞬、聞き違いではないかと思った。 「こんな時間に食事をするというのかい」  複雑な気持ちで問いかけると、 「どこかへ連れて行っていただきたいの」  女は、和田を見詰めたままで言った。  とても、そんなことを切り出してくる女性のようには見えない。  この女も酔っているのだろうか。  だが、聞き違いではなかったのである。  若い女は、一歩、和田に近付いた。 「あたし、今夜はだれかとお話がしたくて仕様がないんですの」 「そう言っても、きみ」  和田は、口先では常識的なことばを返したものの、このときすでに、内面に迷いが生じていたのだった。  マジメなサラリーマンとはいえ、和田も四十二歳の男であった。  もちろん、酔いがいつも以上に深まっていたことも、理性を不安定にする要因となっている。  逡巡に見舞われた和田に対して、決断を促すように、女はつづけた。 「あたし、天王寺に、遅くまでやっているお店を知っているの。課長さん、一緒に行ってくださるわね」 「そうだねえ。これも、何かの縁かもしれないな」  和田の心は動き始めていた。  しかし、電話コーナーを離れるとき、和田は、大阪駅構内の人込みに、さり気なく視線を投げるのを忘れなかった。  名の通った会社に籍を置く、商社マンとしての習性が、そうさせるのかもしれない。  見知った顔はなかった。  いや、仮に知人がいたとしても、それを見定めることもできないほどに、和田は酔っていた。  八月二十五日のことである。    2  そのとき、小池久乃は、自動出札口の傍にたたずんでいた。  電話コーナーとは、斜めに向かい合った場所である。  和田と若い女の会話は聞こえなかったけれども、二人の動作は、手に取るように分かった。  久乃は、和田に話しかけた女よりも年かさだった。  二十八、九という感じである。  前の女とは対照的に、やせた女で、肌も白くはなかった。  短いヘアスタイルのせいもあって、後ろから見ると、男性のような印象も与える女だった。 (ふん、あの酔っ払いのオジン、ひっかかったようだナ)  と、漏らしたつぶやきも、男性的だった。  この久乃もまた、アルコールの酔いの中にいた。  久乃はキャスターを吹かしながら、じっと、先方の動きに注意を向けている。  双方の間には、絶えず人が往来しているのだが、久乃の視線は、電話コーナーの前の男女から離れない。 (ジュンメンみたいな顔しちゃってさ、あの子も結構やるじゃないか)  久乃は、男のような仕ぐさで、たばこをくゆらした。  ジュンメンというのは、レズの用語で、男性にしか興味のない、普通の女の子のことを指すのである。 (でも、このまま話がすんなりいくと思ったら、大間違いよ)  久乃は、前の二人を見詰めて、そんなつぶやきを口に出した。  和田と、若い女との話のまとまったのが、ちょうどそのときである。  前の二人は、構内の人込みの中を歩き始めた。  二人は中央コンコースを歩いて、南口へ出た。  しかし、南出口のタクシー乗り場には長い列ができていたので、和田と若い女は、手前の階段を下りて、地下鉄東梅田駅のほうに向かった。  地下通路も、まだ人の流れが多い。  その人込みの中を、久乃は、黙って、和田と若い女の後を尾行《つけ》た。  二人は東梅田駅の改札を通り、久乃が、一定の間隔を置いて、それにつづいた。  八尾南行きの、地下鉄が滑り込んできた。  久乃は、前の二人とは別のドアを選んで、同じ車両に乗った。  地下鉄も込んでいる。  前の二人は何事か、話に熱中しており、まったく、背後を振り向こうとはしなかった。  二人は顔をくっつけんばかりにして向かい合っており、若い女は、久乃のほうに背を向けている。  久乃に見える和田の顔は、さっきよりもだいぶ和らいでいる。  というよりも、何かを期待する中年男に特有の表情が、にじみ出ているようでもあった。 (普段はいくらマジメそうな顔していても、男なんか、皆、嫌らしいわ。特にジュンタチの嫌らしさったらありやしない)  久乃の両の目に、暗い光が宿った。  ジュンタチというのもまた、レズやホモの用語だ。  女性にしか関心のない、普通の男性をそう呼ぶのである。  こんなつぶやきを繰り返す久乃は、もちろん、レズの世界に身を置いている一人であり、その風貌からも察しられるように、プレーのときは男役をつとめるのが常だった。  地下鉄は四天王寺前を過ぎ、天王寺に近付いている。  酔っ払いの、帰宅姿が目立つ車内だった。  和田と若い女は、さっき、初めてことばを交わしたようには見えない。  酔いが、妙な親近感を深めるのであろうか。  二人はもう長いつきあいをつづけており、今夜もずっと二人だけで、だれにも知られない時間を過ごしてきた、と、そういう感じだった。  和田を誘った若い女性の名前は、志水昭子といった。  二十四歳である。  しかし昭子は、こんな場合、身元を名乗る必要がないことを知っていた。  そうした経験を、いくつも持っている女であった。  若さには自信があった。  かつて、昭子の微笑を拒否した中年男性はいなかった。  一定の目的を持つ昭子は、同世代の若い男性には見向きもしなかった。 (今夜も、きっとうまくいくわ)  昭子がそっと下唇をかんだとき、電車が揺れて、和田が話しかけてきた。 「あんた、大阪市内のどこかへ勤めているんでしょう?」 「どんなふうに見えて?」 「学生さんとは思えないけど」 「そんなこと、どうだっていいわ。ねえ、課長さん、あたし、日常生活の煩わしさから脱け出したくて、それで、課長さんをお誘いしたのよ」 「なるほど、それが、若い人の考え方というのかな」 「あら、嫌だわ。課長さんだって、若いじゃないですか」  と、たわいのないことを、しゃべり合っているうちに、電車のスピードが落ちた。  天王寺駅だった。  和田は、家がある西宮とは、まったく逆方向へ誘い出されてしまったわけである。  天王寺は関西本線とか阪和線、そして南海電鉄などの乗り換え駅なので、乗降客が多い。  和田と昭子は、人波に押し出されるようにして、ホームに降りた。  どちらからともなく、腕を組み合っていた。  和田にしてみれば、自宅とは逆方向へ来た、解放感もあっただろう。 (ふん、いい気なものだわ)  と、つぶやいたのは、一緒に天王寺で下車した久乃のほうである。  久乃は、前を行く二人を、相変わらず、見え隠れに尾行した。  二人は地下鉄の駅を上がると、天王寺のステーションビルとは反対側の舗道に出た。  天王寺公園に沿って右折すると、梅田周辺とは違って、急に人通りが少なくなる。 「どこへ行くのかね」 「すぐそこよ」  昭子は、和田と組んだ腕を引っ張るようにして歩いた。  しばらく行くと雑居ビルがあり、ビルの地下にスナックがあった。  スナックの入口に当たる、舗道脇の階段に看板が出ており、『シルバーレイク』と読めた。 (あんなに酔っているくせに、まだ飲むつもりなのかしら)  と、尾行者の久乃は眉をしかめた。  和田は昭子の肩にしなだれかかるようにして、ふらふらする足取りで、地下への階段を下りて行く。  もちろん、その二人は、少なくとも和田は、尾行者の存在に気付いていなかった。  いや、顔が合ったとしても、何とも思わなかっただろう。  和田にとって久乃は、見知らぬ女性に過ぎない。 『シルバーレイク』の薄暗い照明の中に立ったとき、和田がふと考えたのは、 (ここは高そうな店だな)  ということだけだった。  だが、心配することもないだろう。  背広の内ポケットには、七万円近い現金が残っているはずだった。 (たまには、アバンチュールを楽しむのもいい)  と、和田は自分に言い聞かせた。  酔いが日頃の慎重さを奪い、和田を大胆にしていた。  こんな経験は、和田にとって、本当に初めてなのである。    3 『シルバーレイク』は、同伴客が多いスナックだった。  和田と昭子は、一番隅のボックスシートに、並んで座った。  昭子は何やらカクテルを注文し、和田にも同じものでいいか、と、訊《き》いた。 「ああ、ぼくは何でもかまわない。あんたに任せるよ」  と、和田はこたえた。  酔い過ぎているために、カクテルを選《え》り好みする段階は過ぎている。  しかし、このとき、和田は考えた。  食事をしないか、と誘いながら、昭子は、地下のこの薄暗いスナックへ直行したのである。 (これが、客引きというのだろうか)  和田の思ったのが、それだった。  だが、天王寺のスナックの客引きが梅田まで出向いて行くということはないだろうし、店内の同伴客にも、ことさら目立つ不自然さは感じられない。 (まさか、暴力スナックというわけでもあるまい)  和田は胸の奥でつぶやいた。  仮に怪しげな店であったとしても、シートに腰を下ろし、飲みものを注文したいまとなって、引き返すわけにはいかない。 「課長さん、何考えているの? 当ててみましょうか」  昭子は、ピンク色のカクテルが二つ運ばれてきたとき、つぶらな瞳を、さっきと同じようにじっと和田に向けて、笑みを浮かべた。 「奥さんのことが、心配になってきたのと違う?」 「つまらないこと、言うものじゃない」 「本当? でも駄目よ。今夜、課長さんを帰さないから」 「ところで、あんたの名前を、まだ聞いていなかった」 「あたしだって、課長さんのお名前を知らないわ」 「ぼくはね」  和田は、背広の内ポケットから名刺入れを取り出した。  普段は人一倍の小心というか、几帳面な性格なので、むやみに社用の名刺を配るようなことはしない。  昭子の微笑が、和田の一瞬のためらいを消していた。 「あら、光洋物産なの? こんな一流の会社なら、そこらの課長さんとは、格が違うわけね」  昭子は、照明が暗いので、名刺を顔に近付けるようにしてから言った。 「ほう、あんた、光洋物産を知っているの?」  と、和田はカクテルグラスをとった。  自分が勤める会社名を知られているというのは、悪い気がしない。  だが昭子のほうは、自分の名前だけは和田の耳元で口にしたものの、身元までは明かさなかった。 「OLとも学生さんとも言わないのは、ぼくとこうして飲んでいることを、だれかに知られると困るからだね」  と、和田がやや不満そうに言うと、 「別に隠すつもりなんかないわ」  昭子は頬を寄せてきた。 「それが証拠に、もし課長さんさえよろしかったら、これから、あたしのマンションへ来てもらってもいいのよ」 「あんたのマンションへ?」 「ここからなら、歩いても十分とかからないわ」  昭子の白い指先が伸びてきて、和田の指を誘った。  昭子の掌は汗ばんでいる。  思わず、和田がその指先を握り返すと、昭子は、ふいに考えついたように口走った。 「ねえ、あたしのマンションへ行きましょうよ。あたしの部屋にも、スコッチぐらいあるわ」  昭子は、和田の耳元に熱い息を吐きかけて、マンションへこないか、と、繰り返した。  和田の体の一部に、若者のような変化が生じ始めていた。  こんなに酔っているのに、こうなることは、最近例がなかった。  どこまで計算しているのか分からないが、昭子のもう一方の手が、和田のズボンの上にやってきた。  あるいは、本能的にそうするのか、細い指先が、微妙な動きで、和田のズボンを這《は》い始める。  昭子は、いつともなく横向きになっており、片方の手で和田の指を誘導し、残る右手が、付かず離れずに、ある部分を探ろうとしているのである。 (この女も、同じように酔い過ぎているのだろうか)  誘われた指が、昭子のジョッパーズのファスナーを下げたとき、和田ははっとしたように力を抜いた。 「課長さんて、純情なのね」  ふたたび、熱い息を吐きかけるようなささやきが、和田の耳元をくすぐる。 「このままじゃ、嫌だわ」 「しかし」 「ここまで来て、このまま放り出すつもりではないでしょうね」  昭子は、その胸のふくらみを、ぐっと押しつけてきた。  和田は家族のことを忘れた。  昭子の力を、はね返すことができなくなっている自分を知った。  いまになってそれができるくらいなら、さっき、あのまま、梅田から阪急電車に乗っていただろう。  二人は、もう一杯ずつカクテルのグラスを重ねて、『シルバーレイク』を出た。  暴力スナックどころか、料金はむしろ安いくらいだった。  支払いの安かったことが、和田の内面でかすかに尾を引いていた不安を、吹きとばした。 (フィーリングということばが、はやったことがあったな。われわれの世代が、余計な取越し苦労をする必要はないんだ)  和田は自らを納得させるように、自分に向かってそんなつぶやきを漏らした。  和田はもう一度昭子と肩を組み合って、夜ふけの町を歩き始める。  その二人を尾行していた久乃の姿は、いつともなく消えていた。    4  賃貸マンションは、新今宮の近くだった。  商店街の裏側に位置する五階建てで、昭子の借りている1DKは二階の、階段を上がってすぐの部屋だった。  手前がダイニング、奥が六畳間。  六畳間にはベビーだんすと座り机があり、机の上に小さい三面鏡が載っている。  室内には、男の匂いが、まったく感じられなかった。  それで、それが当然なのであろうが、和田はなぜかほっとした。 「いい部屋だね」  意味もなく、そんなことを言って、背広を脱いだ。  昭子はクーラーをつけた。  和田は『シルバーレイク』で、さらに酔いを深めたせいか、空想の世界にいるような気もした。  見知らぬ若い美女に声をかけられて、ことが、こんな具合に進展するなんて、和田の日常生活からは、およそかけ離れている。 (いいじゃないか。一夜のアバンチュールなんだ)  と、和田は酔いの中で繰り返した。  そして、それは、まったく夢の中のできごとのように、運ばれていったのである。  マジメ一方の半生を送ってきた和田のような男にとって、妻以外の女性の中に身を沈めるのは、初めての経験だった。 「思ってたとおりだわ。課長さんて、見かけによらずスゴイのね」  昭子は床の中で、大胆に、白い裸身をさらけだした。  見かけによらないのは、その昭子のほうである。  大阪駅の構内で、和田の前に立ちふさがって、ほほえみかけてきたときの昭子は、男女のことなどろくに知らないような表情ではなかったか。  二人だけの時間が過ぎていくたびに、昭子は、その本能をあらわにしてくる。 「嫌よ、そんなに強くしちゃ嫌。ねえ課長さん、こうするのよ」  昭子は自ら注文をつけ、そして、激しい反応を示した。  白い肌は異様にほてり、熱を帯びるたびに、体全体が引き締まっていく。 「あんた、素晴しい女性だ」  和田は意味もなく、というよりも、他にことばも浮かばないままに、一つことをつぶやきつづけた。  商店街の裏側とは思えないほどに、周囲は静かだった。  八月の夜とはいえ、人びとは、眠りにつく時間である。  隣室でかけているのか、ラジオの深夜放送の音だけが、小さく聞こえている。  昭子は和田を離そうとしなかった。  和田が全身に力を込めると、背中に爪を立ててくる。 (これが、いまの若い女性なのか)  クーラーはつけたはずなのに、和田の体は汗ばんできた。  妻からは決して得ることのできない反応の激しさが、じわじわと、和田を絶頂感に導いていく。  だが、昭子はこのとき、決して、満たされていたわけではなかったのである。  男の胸の中での吐息は、六分通りが演技だった。 (男って、だれでもが、皆、こういうものなのかしら)  と、考える、意外な冷静さが、脳裏の一隅にあった。 (いちいち、あたしのほうから注文をつけなければならないなんて、気乗りがしやしないわ)  昭子も、実は、レズの世界の魅力を知ってしまった一人なのである。  昭子に秘戯を教えたのが、さっきまで二人を尾行していた久乃に他ならなかった。  昭子は和田に抱かれながら、久乃の、飽くことのない愛撫を思った。 『昭子《あき》、勘違いしちゃ駄目よ。男なんか、金を取る手段でしかないのよ』  それが、久乃の口癖だった。  比べてみるまでもなく、昭子もそのとおりだと思う。  昭子は、かつて一度も、異性に満たされた経験を持たなかった。  男性を知る前に、久乃によってセックスの歓《よろこ》びを教え込まれてしまったことが、いけなかったのか。  昭子にとって久乃は、姫路市内の高校での先輩に当たった。  年齢が離れているので、在学中はお互いを知らなかったけれども、二人とも、ウラバンを張っていたことがある。  前後して大阪の会社に就職し、大阪在住者で同窓会が開かれたとき、昭子と久乃は初めて顔を合わせた。  そして、お互いのウラバンの過去を知ったことで、人一倍、親しい交際を持つようになった。  昭子も久乃も、性格は派手なほうである。  秘密の時間を共有するようになってからは、どこへ遊びに行くのも一緒だが、食事をするにしても、高級レストランを選ぶことが多かった。  だが、お互いOLに過ぎない二人の給料では、そうそう派手に遊び回るわけにはいかない。  そこで思いついたのが、金のありそうな中年男性への恐喝《ゆすり》だった。  暗いセックスに歪《ゆが》められた日常と、ウラバンを張っていた過去が、昭子と久乃にその計画を実行させた、とも言えようか。  昭子が翔んでるOLを装って中年男性を誘い、後から登場する久乃が、実姉と称して脅《おど》す。  それがお定まりの、二人の手口だった。  そして、この夜までに、すでに三回の成功を収めていた。  回数が重なるごとに、度胸もすわってくる。 『ねえ昭子《あき》、今度は百万ぐらいゆすって、二人でグアム島へでも行ってみない?』  久乃はさっき、梅田のバーで、カモを見付けたとばかり、昭子にささやいた。  二人は、夏の、いわゆるバカンスの大移動期は避けて、九月に入ってから年休を取ろうと話し合ってきた。  そうした矢先、梅田のバーで、数人の部下に囲まれて、いい気になってしゃべりまくっている和田を、逸早く目にとめたのが、久乃だった。 『あのオジン、おとなしそうだし、だいぶ酔っている。ああいうのをモノにしなければ』  と、久乃は言った。  それから二人の尾行が始まり、大阪駅構内の電話コーナーで、昭子がうまい具合に食らいついてからは、尾行者が久乃一人に変わった、というわけである。  久乃は間もなく、昭子が住む1DKへやってくる手筈だった。  久乃が借りているマンションは阿倍野だが、昭子のマンションへは常に出入りしているので、久乃も合かぎを持っている。  男と昭子が全裸で抱き合っているときに、唐突に訪ねてくるほうが効果的だ。  だから、別な見方をすれば、昭子はそれまでの時間を保つために、演技を交えて、必死に、和田の愛撫を求めていたとも言えるのである。  とてもではないが、夢心地なんてものではない。  だが、何も知らない和田は、完全にそのペースにはまり込み、若い女体の匂いに溺れ切っていた。  ノックもなしに、ドアが開けられたのは、それから十五分とは経《た》たないうちである。    5 「何てことよ! あんたたち、一体何してるのよ!」  久乃は、部屋に入ってくるなり、高い声で叫んだ。  事前の打ち合わせどおりである。  しかしこのとき、演技と異なる複雑な表情が、久乃のやせた顔に浮かんでいたのも事実だった。  嫉妬。  そう、嫉妬の感情がなかったと言えば、うそになろう。  自分の手でセックスの歓びを教え込んでやった昭子が、半ば演技とはいえ、中年男にすべてを任せているのである。 「妹に何てことするのよ! 妹には、れっきとしたフィアンセがいるのよ! こんなことがフィアンセの耳に入ったら、どうなると思うの!」  セリフ自体は、手筈どおりだ。  しかし、久乃の態度は、あながち、芝居とばかりは言えなかった。  過去三回の場合もそうであったが、両の目が、異様に光っている。  びっくりしたのは、和田だ。 「あんた、お姉さんと一緒に暮らしていたのかい」  慌てて上半身を起こしながら尋ねたが、昭子は一言もこたえない。  部屋の中に、何とも言えない、不気味な空気が流れるのを、和田は感じた。  酔いの中で、急に生じた不安感が、黒い、大きな穴をあける。  和田は床から這い出して、下着に手を伸ばした。  その和田の身支度が終わるのを、久乃は突っ立ったまま、冷ややかに見詰めている。  そして、一瞬視線をずらすと、何事か、昭子と目配せをした。  和田は、その目配せに気付いていない。  和田は、ネクタイを外したまま背広に腕を通すと、気が動転しているままに、財布の中から五枚の一万円札を差し出した。 「何よこれ。妹にこんなことしておいて、お金で片をつけるというの」 「申し訳ない。今夜、ぼくは酔い過ぎてしまったようだ。そんなことは弁解にもならないけれど、それでつい」  和田は、自分でも何を口走っているのか分からないままにそう言うと、逃げるようにマンションを出た。 (何てことだ)  自嘲的なつぶやきを漏らすと、天王寺駅近くまで戻って、タクシーを拾った。 「西宮へお願いします」 「阪急沿線の西宮でっか?」 「駅まで行ったら、後の細かい道は指示します。チップははずみます。ともかく急いでやってください」  全身に、びっしょりと汗をかいていた。  その和田の内面に、もうひとつの不安が広がってきたのは、タクシーが深夜の町を走り抜けて、高速道路に差しかかったときである。 (しまった! オレはあの女に名刺を渡している!)  こんな失敗が会社に知れたら、せっかくつかんだ課長のポストはどうなるのか。  だが、あの二人は、会社まで押しかけてくるだろうか。  自分は、ともあれ五万円を置いてきたではないか。  あれでいい。  などと、不安が乱れたつぶやきとなって、胸の奥で錯綜した。  しかし、もちろん五万円で済むわけはなかった。  さっき、久乃と昭子が目配せをしたのは、和田の身元確認の有無についてだったのである。  そして、早くもその翌日、久乃と昭子の犯罪計画は、第二段階へと向かって行ったのだった。    6  翌八月二十六日は、土曜日だった。  週休二日制で、会社は休みだ。  和田はまんじりともせずに朝を迎え、二日酔いの重い脳裏で、悪夢のような昨夜を思い返していた。 (何も起こらないように)  と、祈る気持ちに、水を差すような電話がかかってきたのは、正午過ぎである。  久乃と昭子は、朝、和田の名刺を持って、堂島浜の『光洋物産』本社に出向いた。  会社は休日でも、当然、守衛もいるし、日直も詰めている。  久乃と昭子は遠縁の者と偽って、営業部第二営業課長和田紀夫の住所と、自宅電話番号を聞き出した。 「昭子《あき》、こういうことは、早いほうがいいのよ」  時間が経てば、相手はそれなりに心の準備をする。  その前に押しかけよう、と、久乃は言った。  これまで三回の犯行のときも、そうであった。  久乃と昭子は、堂島浜からタクシーで梅田へ出ると、阪急電車に乗って西宮へ来た。  高級住宅地を控えた西宮駅前は、人通りが少なかった。  久乃が和田の自宅へ電話をかけたのは、駅前のボックスからである。 「もしもし。え? 何だって?」  電話を受けた和田は、自分の顔色が変わるのを知った。  二日酔いがもたらす頭痛など、一気に、どこかへ吹きとんだ。 「はい、妹も一緒です。奥さんにもお話を聞いていただいたほうがよろしいかと思います。これから伺います」  と、久乃の無表情な声が電話に伝わってくる。  抑揚を欠いた口調が、不気味だった。  二人が何を要求しようとしているのか、言われなくとも分かった。 「西宮の駅前まで来ているのですね。分かりました。ぼくのほうから出向きます」  和田は、背後にいる妻の視線を気にしながらこたえた。  何とか妻を言いくるめて、家を出た。  坂道には、八月の真昼の陽差しが強かった。  しかし和田は、直射日光を暑いとも感じず、むしろ、強い光に虚しさを感じていた。  和田が、久乃と昭子を駅裏の喫茶店に誘うと、 「これ、お返しするわ」  久乃は、ポシェットから五枚の一万円札を取り出して、テーブルに載せた。 「お金でケリがつく問題ではないと思います。婚約中の妹は、それこそキズモノにされてしまったのですからね」  久乃は電話と同じように、抑揚を欠いた冷たい口の利き方をした。  昭子のほうは、じっと、下を向いたままである。 「奥さんにもお会いしたいし、会社の重役さんにも、ご相談に乗っていただきたいと思います」  と、久乃はつづけた。  とても、OLとは思えない、脅迫ぶりだった。 (誘ったのは昭子のほうではないか)  その一言が口元まで出かかっているが、和田は何も訴えることができない。  それでなくとも精神状態が不安定になっている和田は、傍目《はため》にも分かるほどに、テーブルの下で握った掌が震《ふる》え始めている。  嫌な沈黙がきた。  店内には、家族連れなどの明るい談笑があった。  プール帰りと思われる、若い人たちもいた。  それらを、遠い世界のもののように、和田は感じた。  しかし、結局は金だった。  頃合いを見計らって、和田がおずおずとそれを切り出すと、 「そうねえ」  久乃は平然と吹っかけてきた。 「そんなに言うなら、手を打ってもいいわ。百万円でどうかしら」 「百万?」 「奥さんや、重役の方にお会いして、すぐにでも訴えるつもりでいました。でも、課長さんのほうで誠意を示してくれるのなら、考え直してもいいと思います」  明らかに、恐喝だった。  しかし、脅しと分かっていても、和田にはそれをはね返すだけの、心の余裕がない。  和田の脳裏で、平穏な家庭と、充実した職場を思う感情が、めまぐるしく交錯した。 「言うとおりにしましょう」  そうこたえる以外になかった。 「だが、そんな大金では、ポケットマネーでというわけにはいきません」 「大金かしら。たった百万円ですよ。八月中には片をつけていただきたいですわ。課長さんだって、暗い気持ちで、秋を迎えたくはないでしょう」  月曜日に会社へ電話する、と、言い置いて、久乃は席を立った。  昭子は黙って、その後につづいた。  翌々日の月曜日、和田は考えた末に、曾根崎北署へ足を向けた。  三日つづけて眠られない夜を過ごした和田は、頬が、げっそりとやつれていた。  会社へ出勤したものの仕事は手につかず、そっと、所轄署へ訴え出たのだった。  ただちに、新今宮のマンションへ、刑事がとんだ。  管理人に当たったところ、昭子の勤務先は判明し、昭子と久乃が姉妹でないことも確認された。  まず、昭子が逮捕され、昭子の自供により、久乃も勤め先から、曾根崎北署へ連行されてきた。  昭子は東住吉の食品会社、久乃は阿倍野の不動産会社で働いており、職場における二人は、変哲のないOLに過ぎなかった。 「なぜ、あたしたちが逮捕されなければならないのよ!」  取調室での久乃は、どうしようもないほどに、係官をてこずらせた。  久乃には、罪の意識など一片もなかったようである。 「いくら声をかけられたからって、夜半に女性のマンションに上がり込んで、女性を抱いた男の人は罪にならないのですか」  と、口走る始末だった。  一方、昭子は、ただ、久乃と同じ留置場に入れてくれ、と、泣きわめくばかりだった。  その昭子を追及した結果、二人のウラバンの過去と、二人のレズビアンの関係が、明るみに出た。  なぜか毎年、夏の終わりに、この種の犯行が多い。  だが、レズによる美人局《つつもたせ》は、異例といえよう。  グアム島旅行の�夢�が破れた昭子と久乃は、留置場の中で、暗い九月を迎えた。  暗いのは、和田も同じことだ。 『光洋物産』は、全社挙げての販売促進月間に入ったのに、この事件が表沙汰となって、和田の人生は一転。  和田は単身、札幌営業所勤務を命じられた。 深夜の影男    1  いまにも雨を呼びそうな厚い雲が、夜の空を覆っている。  黒い雲の下の路地裏を、小走りに行く一つの影があった。 「あの女、あれで、二十五にはなっているかな」  と、影はつぶやく。  男の動きは、事実、影そのものであるかと思えるほどに敏捷だった。  寝静まった夜ふけの路地を急ぐ男は、足音一つ立てなかったし、小走りの状態がつづいているのに、呼吸も乱れてはいない。  やせた男だった。  背丈も、あまり高くはない。  男は短い髪型で、青色の、スポーツウェアふうパジャマを着ていた。  付近には、モルタル塗りのアパートが密集している。  もしも、この男が電柱の横に立ちどまって、たばこでも吹かしていたとしたら、アパートの住人が寝苦しさに堪えかねて、狭い一室を抜け出してきたのだと、思われたかもしれない。  梅雨どきに入ったせいもあるが、特にその夜、六月十六日は、そよとも風がなくて、蒸し暑かった。  土曜日ということもあってか、いつまでも明かりのついている部屋が、少なくなかったようである。  しかし、そうした明かりが、一つ二つと消えていき、やがて、付近のアパートの大半が眠りに落ちる頃、この小柄な男は、自室を後にした。  男はそっとアパートの階段を下り、戸外へ出てきたのである。  男は、最初から、ぴたりと目的を定めていた。  さり気なく周囲を窺《うかが》いながら路地を行く男は、パジャマ姿には不釣り合いな、スニーカーを履いている。  パジャマのポケットには、作業用の手袋、白い軍手を忍ばせてあった。  影のような男は、勝手知ったように細い道を右に曲がり、左に折れた。  完全に人気は途絶えていたけれど、それでもなお、人の視線を意識するような、男の歩調であった。  言ってみれば、だらしのない寝着姿であるのに、その小柄な背中には、隠しようもない緊張があった。 「久し振りだな。今夜はたっぷりと味わわせてもらうぜ」  男はつぶやきを繰り返した。  つぶやくことで、緊張を持続させている感じでもあった。  外灯のない路地裏は、厚い雨雲と同じように暗かった。  この影のような男の動きに気付いた人間など、だれ一人いなかったし、もちろん、その目的も知られるわけがなかった。  名古屋市千種区向陽町。  名古屋駅から東山公園を経て藤ケ丘へとつづく、地下鉄東山線の、池下駅に近い一角である。  この辺りは、商店などの並ぶ通りでさえ入り組んでいる。  まして、路地裏ともなれば、迷路にも似ている。  男の歩調が、やや緩《ゆる》やかになったのは、路地の先に、たばこ屋の看板が見えてきたときである。  男はす速く左右を見回し、たばこ屋の手前を右に曲がった。  そこは、アパートとアパートが軒を接しており、人間二人がすれちがうのも、困難なほどの狭さだった。  二階建てのアパートは、どの部屋も明かりを消している。  軒下や出窓に、洗濯物などの見える部屋もあった。  その突き当たりに、影の目指すアパートがあった。  路地から直接二階へ通じる、鉄製の階段がついている。  その階段に足をかけるとき、小柄な男は、もう背後を振り向いたりはしなかった。 (あの女、どんな色のネグリジェを着ているのかな)  と、そう考えると、緊張感とは裏腹な欲情が、背筋を衝《つ》き上げてくる。  階段を上がり切ったところに四つ、部屋が並んでいた。  年齢も名前も知らないが、その女の部屋が、階段から一番離れた東側の隅であることを、男は承知している。  この半月の間に、三回も尾行を繰り返して、確かめたのだ。  男は、女の部屋のドアの前に立って、白い軍手をはめると、ノブに手をかけた。  そっと回してみた。  室内の明かりは消えており、ドアには錠が下りている。  もちろん、施錠は、男の計算に入っていることだった。 (やっぱり、別の入口か)  男は自分の中でつぶやき、左手に回った。  左手は、ブロックの高い塀になっている。  男はアパートの外壁に手を置いて、ゆっくりと、塀の上を歩き始める。  男は十年間、電気工事店に勤めてきたのだ。  足場の不安定な高所を移動するのは、お手のものだった。  こうして、ブロック塀の上を渡り歩いて行くと、ドアの反対側、女の部屋の窓際に出ることも、計算の上だった。  アパートの二階に住む人間は、(何度注意されても)窓にはかぎをかけないで寝《やす》むことが多い。  影の狙いもそこにあった。  もしも、窓にもかぎがかかっていれば、それまでだ。  が、この半年間、影が無言の拒否に遇ったのは、わずか三回に過ぎない。  男は息を詰めた。  窓に辿《たど》り着いた。 (おや?)  窓わくに手をかけたところで、男の動きがとまったのは、かすかに、ラジオの音を耳にしたためだった。  真暗な女の部屋の中に、深夜放送が流れている。 (彼女、起きているのか)  明かりは消えているので、床には入っているのであろうが、布団の中で、女はまだ目を覚ましているのだろうか。  男は聞き耳を立てた。  こうしたとき、この男は、飽くまでも慎重だった。    2  深夜の町を、所轄署の、二人の私服が歩いている。  ベテランの刑事と、向陽町一帯を管轄する派出所の、若手巡査だった。  二人とも、黒っぽいズボンに、オープンシャツを着ている。  このとき、二人は、影のような男が息を殺して内部の気配を窺っている、問題のアパートのすぐ近くにいた。  パトロールが強化された目的は、その影の男を逮捕することにあったのだが、二人の私服は、付近で発生しかけている犯罪に気付かなかった。  それも当然だろう。  いくらパトロールが強化されたといっても、アパートが立て込む路地裏を、万遍なく見て回るのは、不可能に近い。 「蒸し暑いけれど、静かな夜ですね」  と、若手が言い、 「しかし、油断はできんぞ」  ベテラン刑事は、暗い路地のあちこちに視線を投げた。 「そろそろ、奴は動き始める頃だ。性的犯罪というのはな、取り締まりが強まったからといって、そういつまでも押さえられるものじゃない」 「最後の犯行から数えて、今夜で十六日目ですね」  一体、どんな男なのか、と、若手がつづけると、軽業師みたいな奴だな、と、ベテランがこたえる。 「電柱が一本あれば、そこから二階の窓へ忍び込むことができるのだからな」  二人の私服は、寝静まった路地裏を、注意深く歩いて行く。  影の男が、深夜の町に出没するようになったのは、五ヵ月前の、一月中旬からである。  これまでに届け出があっただけでも、被害女性は二十一人を数えていた。  いずれも、アパート二階の、一人住まいの女性が襲われている。  すべて、かぎのかけていない窓からの侵入だった。  犯人は、まず、寝ている女性の肉体を奪い、半裸、あるいは全裸の被害者を後ろ手に縛り上げる。  そして、現金と、必ずパンティーなどの下着類を頂戴して、今度は堂々と、入口のドアから帰って行くのである。  手口は、常に一定していた。  だが、暗がりの中のできごとなので、相手が小柄な男というのは分かっても、被害者は、だれも、犯人の顔を確かめていない。  その上、痴漢は、決して指紋を残さなかった。  女性を後ろ手に縛るときも、部屋の中の有り合わせのタオルとか、シーツなどを引き裂いて用いるのを常とした。  要するに、物的証拠となるものを、何も置いていかないのである。  こうした慎重さから考えられるのは、前科者の線だった。  しかし、変質者の前歴を持つ人間で、土地勘のありそうな男を当たっても、問題の影のような男は浮かんでこなかった。  影の男は、警察の動きをせせら笑うかのように、犯行を重ねた。  特に、五月下旬から六月上旬にかけては、相次いで、三人もの被害者が出た。  パトロールの、一層強化されたのが、この時点からである。  すると、ぷっつりと犯行がとまった。  だが、ベテラン刑事の体験が言わせたように、変質的犯行というものは、ある日を境にして、ふいに中断されるということは有り得ないのである。 「これだけ、新聞でも報道しているのだから、皆、戸締まりをきちんとしてくれるといいのですがね」 「交通事故と同じさ。実際に被害にかかるまでは、自分だけは別だと考えるのが、人間の本能というものらしい」  ベテラン刑事は、重い吐息を漏らした。  二人の私服は、影の男が潜んでいる一角から、次第に離れて行った。  二人は右にカーブする路地を歩き、さらにアパートの立て込んでいる辺りで、左に折れた。  ところで、一連の被害者に関して、地元の新聞記者は、ある共通点を発見していた。  それは、年齢が二十五歳前後のOLということであり、どちらかといえば小作りで、色白の美人であるということだった。  そう、美人でない女性は、一人も含まれていないのである。  それはアパートの下見と同時に、犯人が、ターゲットとなるべき女性を、じっくりと選定していたことを意味する。  女性であれば、だれでも構わずに襲う、という犯人ではなかったのである。  これは、変質者の犯行としては、異例ともいえよう。  が、それはともあれ、いま、影の男に狙いを定められたのは、光永葉子、二十四歳である。  葉子は、名古屋の中心、新栄の教材販売会社に勤めるOLであり、小柄で、色が抜けるように白い。  過去、二十一人の被害者に、まったく共通するタイプであった。    3  葉子が、寝床で深夜放送を楽しむのは、学生時代からの習慣だった。  葉子は四人きょうだいの三女。  生家は岐阜県|瑞浪《みずなみ》市で陶磁器店を営んでおり、葉子は高校を卒業すると名古屋に出て、短大に通った。  そのまま名古屋で就職し、アパートでの一人暮らしをつづけているのである。  しかし、学生時代と違って、深夜放送を楽しむのは、休日前夜に限定されていた。  葉子には、まだ恋人がいなかったけれども、瑞浪の両親は縁談を進めており、葉子は見合いのために、近く、生家を訪れることになっている。 (でも、もう少し、シングルライフをエンジョイしたいナ)  葉子は結婚にあこがれる反面、そんなふうにも考える。  見合いもいいが、一方には恋愛結婚への願望があったし、木造アパートを脱出して、おしゃれなマンションに住みたい夢があった。  葉子は、親しいボーイフレンドこそ持たないけれど、それなりに充実した青春を過ごしていたと言えよう。  青春の花を咲かせるのは、これからである。  そうした葉子にとって、いま、黒い魔手がすぐそこに迫っているなんて、想像できるわけもなかった。  文字どおり夢見心地の中で、葉子は、ラジオから流れる音楽を耳にしていた。  そのまま、眠ってしまうこともあった。  このときも、葉子は、半ば眠りに引きずり込まれていた。  暗い部屋の中の気配を、男は十分余りも窺っていたであろうか。  男の影は、いつの間にか、窓わくにぴったりと吸いついていた。  蒸し暑さのためであろう、アルミサッシの窓の片側が、一センチほど開いている。 (お誂《あつら》え向きじゃないか)  男は呼吸を整える。  あとは、飛び込んで行くタイミングを計るだけだ。  たとえ、相手が目を覚ましていたとしても、一気に押さえ込んでしまえば、こっちのものだ。 (この女、まだ男を知らないはずだぜ。オレの目に狂いはない)  影のつぶやきは、陰湿だった。  町で葉子を見かけ、それから慎重な尾行をつづけてきた男は、改めて、葉子のすらりとした後ろ姿を思い浮かべた。  葉子の部屋は、四畳半に台所がついているだけの、狭いものだった。  こうした場合は、そのほとんどが、窓際に床をのべることを、男はこれまでの経験で承知している。 (この窓ガラスと、カーテンの向こう側に、あの女が寝ている)  と、そんなふうにささやく声が、男の内面にあった。  すると、不安定な足場の上にいるにもかかわらず、男の肉体の一隅に、変化が生じてくる。  いつもそうだった。  そういう男であった。 「よし!」  男は、自分に発破《はつぱ》をかけるようにつぶやき、窓の隙間《すきま》に手を差し込んだ。  静かにガラス戸を引いた。  かすかにレースのカーテンが揺れ、部屋の中の空気が揺れた。  葉子は気付かない。  水玉もようのネグリジェを着た葉子は、眠りに落ちていきながら、ラジカセから低く流れる音楽だけを追っている。  葉子が微妙な異変に気付いたのは、男が音もなく部屋の中に入り込み、窓ガラスを閉め直したときである。  葉子が目覚めていないことを確認したためか、それとも、スムーズな忍び込みに成功したせいか、窓を閉め直すときの影は、動きが、やや乱暴になっていた。  それにしても、男の影がすぐ頭上に迫っているなんて、葉子の想像を超えている。  千種区内で、連続して発生した変質者の事件のことは耳にしているが、それは、このときの葉子の脳裏にはなかった。  異変に気付いたと言っても、夢うつつのことであり、葉子は、ただ寝返りを打っただけである。  葉子は蒸し暑さのために、毛布をけ飛ばす格好になり、ネグリジェの下から白い肌がのぞいた。  そう、顔形までは見極められないけれども、闇に慣れた目には、その白い肌の動きがはっきりと分かった。 (きれいな体をしてるぜ)  と、そんなつぶやきが、再び男の内面を流れたが、それもまた、意味を持つことばではなかった。  男の息遣いが、知らず知らずのうちに高ぶっている。  男は、そうした自分を隠そうとしなかった。  土足のまま上がり込んだ男は、スニーカーの上から、パジャマのパンツだけを取った。  そして、葉子の寝息を窺いながら、脱いだパンツを、彼女の顔の上に落とした。 「あ!」  低いが、しかし鋭い声が、葉子の口から漏れた。  葉子は本能的に上半身を起こした。  しかし、葉子の次の叫びは、声にならなかった。  男の右手が、逸早《いちはや》く葉子の口に当てられ、たったいま脱ぎ捨てた汗臭いパジャマを、口一杯に差し込まれていたためである。 「静かにするんだ。命まで取ろうとは言わないぜ。しばらくの間、お互いに楽しもう。それだけのことなんだ」  押し殺したような、男の声であった。  男は一方的に口走ると、葉子の反応を見定めようとはせず、いきなりネグリジェの胸倉をつかみ、激しい往復びんたを食らわせていた。  百の説得よりも、一つの往復びんたが、女を服従させるのに効果があることを、男は知っていた。  この半年間の経験で身につけた、悪のテクニックであったと言うべきかもしれない。  果たせるかな、その一撃で、葉子の抵抗の力が抜けた。    4  抵抗の方途を奪われた葉子は、両脚をそろえて、ただ、全身を固くする以外になかった。  もしも、口の中にパジャマを押し込まれていなかったとしたら、恐怖と怒りで、叫び声を上げていただろう。 「何も、そう固くなることはないさ。取って食おうというわけじゃない」  男の口調には、余裕があった。  何となく、相手が思いどおりになったところからくる余裕であり、葉子の怯《おび》え切っていることが、なお一層、男の欲情を広げようとする。  男は、懸命に合わせようとする葉子の脚の間に右手を差し込み、強引にそれを開いていた。  じっとりと、汗ばんでいる掌であった。  そして、そのままの姿勢で葉子を横倒しにすると、首筋の辺りに、その分厚い唇を押し当てた。  葉子は必死にもがいたけれど、ふいを衝いてきた乱入者の力に勝てるわけはなかった。 「いい匂いだな」  男は差し込んだ手の位置を、じわじわと上部に移動させながら、考えているとおりのことを口にした。  できるなら明かりをつけて、こんなときの女の表情を確かめたいと思った。  しかし、そんなことをすれば、自分の顔も見られてしまう。 「おまえは、オレがだれだか知らないだろう。知らないほうがいいんだ」  男は調子に乗ったようにつづけて、引き千切らんばかりの勢いで、ネグリジェを外しにかかった。 「おまえはオレを知らなくても、オレのほうでは、おまえをよく知っている」  男の声が、さらに低くなる。 「おまえは中華料理が好きらしいな。会社の帰りに、地下鉄駅前の食堂に寄るのを、オレは知っている」  もう一度、葉子の力の抜けるのが、分かった。  一方的に、自分を知られていることほど不気味なものはない。  もちろん、そこまで計算した上での、男の話しかけであった。  そして、その中華料理店で、偶然この男とすれちがい、狙いをつけられたことが、葉子にとっての不幸の始まりとなったわけだが、もとより葉子が、その過程を知るはずもなかった。  ラジカセから流れる音楽が、葉子から遠くなる。  異性を知らない、むき出しの柔肌を、男の汚れた掌が撫《な》で回した。  その右手は、軍手を外したが、左は、はめたままである。 「おまえも、いずれは嫁さんに行くのだろう。今夜のことは、いつまでも忘れられない、いい思い出になるぞ」  男の口元から、そうした残酷なことばが流れたのは、どのくらいが過ぎてからであっただろうか。  男の土足が、情容赦もなく、純白のシーツを乱しており、影の目には、どうしようもない濁りが浮かんでいる。 「ふん、それでも、おまえさえ黙っていればよ、男なんてものはバカだからな、自分の嫁さんがこんなに素晴しい思い出を持っているなんて、一生気付きはしないんだ」  これは、半ばひとりごとのようになっていた。  男は、葉子の豊かな乳房に、両方の掌を置いた。  影の横顔が、どうしようもないほどの歪みを帯びてきた。  セックスに対する欲望と、そして女性に対する憤りが、奇妙に入り交じっている横顔だった。  だれも知るはずはなかったけれど、この複雑な感情こそが、男を犯行に駆り立てている原因にほかならなかった。  男は、女に愛された過去を持たなかった。  二十八歳になる今日まで、彼の中にあるのは、異性に裏切られた記憶だけだ。  入野克男。  それが、影の名前だった。  入野克男は、二回の結婚に失敗した男であった。  二度とも、妻の男性関係が原因で、離婚に追い込まれた。  最初の妻は、入野が電気工事店へ出勤した留守に、化粧品のセールスマンと情を通じて、切れない仲になった。  二度目の妻には、入野と結婚する以前からつきあってきた妻子持ちの男がいた。  入野が不審に思って、問い詰めても、最初の妻も二度目の妻も、決定的な証拠を突きつけられるまで、知らぬ存ぜぬで、押し通そうとした。 『あなたって人は、自分の妻を、そんなに信じられないの!』  二人とも申し合わせたようにそう叫んで、背信を、平然と隠そうとしたのである。  問い詰める入野のほうが、逆に責められている感じでもあった。 (何てことだ、畜生! これからは、もう一生結婚なんかするものか!)  入野は、二度目の破局を迎えた夜、べろんべろんに酔いどれた。  元来が酒は弱いほうであり、仕事一途な、まじめな性格であったが、酔いの底に沈んでいく顔は、別人のように黒ずんでいた。  このときを境にして、入野克男は�変身�を遂げたのだ、と言えるかもしれない。  昼間の仕事はいままでと変わることなくつづけたが、夜が違った。  外で食事を済ませて、夜、アパートに帰ってくると、妻がいなくなった部屋には、ただ、苛立《いらだ》ちだけがあった。  それに、何といっても、まだ二十代の若さである。  だれもいない部屋で酒に酔うと、別れていった妻に対する憤りと、セックスへの欲望が複雑に交じり合って、二十八歳の体内を走った。 『女か! ふん、女なんて動物と同じじゃないか!』  入野は、焦燥を鎮めることのできない、乱れた状態のままで叫んだ。  そして、そうした乱れが、そのまま、一連の婦女暴行事件につながった。  五ヵ月前の、最初のそれは、二度目の離婚から、二ヵ月とは経《た》たないうちの、犯行であった。  被害女性に共通する、小作りで色白というのは、別れていった二人の妻との、類似点にほかならなかった。  しかし、犯罪のきっかけに、どのような理由を見出すことができようとも、それはそれである。  すでに二十一人の若いOLを犯し、二十二人目の葉子の肌を探っている現在の入野には、女性を暴行するという、そのことだけが、目的に変わっていた。    5  葉子は、こうなったら、影の力のままになるより仕方がなかった。  入野の息遣いが次第に激しくなり、ラジオの音が遠くなったとき、葉子の体の一隅を、強い痛みが走っていた。  初めて経験する痛みだった。 「どうだ、いい気持ちだろう」  葉子の苦痛の反応を楽しむかのような、入野のつぶやきが、すぐ耳元にあった。  そこで入野は、葉子の口中に差し込んであるパジャマを取った。 「真っ暗な上によ、満足に声も聞こえないのでは、楽しみも半減するからな」  入野は勝手なことを言った。  いまさら、葉子が騒ぎ立てるはずもなかった。  口からパジャマを外されても、葉子の息苦しさは変わらない。  男の、汚れた汗のにおいを避けるようにして、葉子は半泣きの口調で言った。 「お願い。何でも言うことを聞くから、あたしを離して」 「女は、皆うそつきだ。女のことばを聞く耳など、オレは持っちゃいない」 「あんただれなの? どうしてこんなひどいことをするの?」 「それを聞いてどうなる? オレがだれだっていいじゃないか」 「あ! やめて!」  葉子の低い叫びが、部屋の中の闇を流れた。  入野の、軍手をしたほうの左手が、その口を封じた。 「がたがた騒ぐことはないぜ。男と女は、こうなることに決まっているんだ」  入野はさらに葉子の肌に力を込め、葉子の中の激痛が広がっていく。  暗闇の下の、嫌な時間は、どのくらいつづけられたであろうか。  アパートは密集しているのに、何の物音もしない静か過ぎる夜だった。  葉子にとっては、この上もなく長い時間であった。  初めて知る男の体臭と、激しい痛みが、葉子の思考を奪っている。  男に対する怒りまでが遠くなり、判然としない悲しみと焦燥だけが、葉子に残った。 「音楽を聞きながらってのも、悪いもんじゃないな」  入野は、長い時間が過ぎて上半身を起こしたとき、すっかりいい気になっていた。  そして、手探りで葉子のベルトを見付けると、むき出しの葉子を、そのまま後ろ手に縛り上げた。  いつもと同じ手口だった。 「悪く思うなよ。オレが完全に遠ざかるまで、一時間ほど、そうやってじっとしていてくれればいいんだ」  抑揚を欠いた、話し方だった。  葉子の太股には一筋、尾を引くものがあったけれど、入野はそこに向ける注意を持たなかった。  入野は、これまでの犯行と同じように、葉子のポシェットを引き寄せて、現金を抜き取った。  それから、入口横の、ベビーだんすの前に立った。 「下着類は、どこの引き出しに入っているのかな」 「え?」 「今夜の記念に、何枚かもらっていこうってわけさ」  暗闇なので確かめることは、不可能だが、入野の横顔に浮かんでいるのは、間違いなく、歪んだ表情だけだった。  そこには、妻に裏切られた不幸な男というイメージはなかった。  そうなのだ、犯行の出発点が何であれ、いまの入野は、�婦女暴行魔�以外の何ものでもなかった。  葉子がためらっていると、入野は勝手に引き出しを探った。  入野は、ブラジャーとパンティーストッキングを取り出していた。  そして、それらをパジャマの下に巻き付けると、平然と、表のドアから、外廊下へ出て行った。  入野はさり気なく周囲に気を配りながら階段を下りて、路地に抜けた。  奇妙な充実感が、影の小柄な全身に広がっている。  過去の二十一件同様、今夜も、黒い計画は予定どおりに完了されたのである。  しかし、今夜の葉子は、これまでの二十一人のOLとは違っていた。  これまでの被害者は、後ろ手に縛られたロープなどを、ほどくことのほうを優先させた。  若い女性とすれば、それが当然かもしれない。  半裸の恥ずかしい姿のまま救いを求めるなんて、なかなかできないことだ。  従って、警察への届け出が遅れ、影の男の逃亡を助ける結果となってきたのだが、葉子は違った。    6  影の足音が路地に消えたとき、恥じらいを上回るほどの怒りが、葉子の内面を衝き上げてきたのだった。  葉子は後ろ手に縛られたまま、受話器に近付き、一一〇番をプッシュした。 「助けてください! 強盗です! すぐに来てください!」  日頃の葉子からはとても信じられないような、甲高い叫び声になっていた。  不意の闖入《ちんにゆう》者は去ったが、恐怖の渦が、簡単に消えるはずはない。 「お願いです。早く助けに来てください!」  葉子は、ぶら下がった受話器に、口だけを寄せて叫んだ。  この葉子の敏速な行動が、�犯人逮捕�を有利に導いたのは、言うまでもなかろう。  県警通信指令課からの指令は、二分と経たないうちに、所轄の派出所へとんだ。 「小柄な男だな。今夜こそ、絶対に逮捕してやるぞ」  何組かのパトロールが、静かに、現場周辺へ急行した。  その中には、さっきの、ベテラン刑事と若手巡査のコンビもいた。  特にこの二人は、犯行時刻と前後する頃に現場周辺を歩いているので、緊張感も一入《ひとしお》だった。  そして、結局この二人の私服が、入野克男の影のような姿を発見したのであるが、最初は、それが当の犯人であるのかどうか、半信半疑だった。  何と言っても、パジャマ姿ということが意外だった。  被害に遭った女性たちはいずれも取り乱しており、犯人の服装の確認はとれていなかった。  逸早く一一〇番通報した葉子にしても、影の着衣は記憶していない。  確かに、パジャマが一つの盲点だった。 「あ、ちょっと」  刑事はすれちがった入野を呼びとめたものの、それは入野に対する�誰何《すいか》�というよりも、だれか不審者を見かけなかったかという話しかけに過ぎなかった。  もちろん、寒い季節の入野は、パジャマの上にコートを羽織っており、 『たばこを切らしたので、自動販売機へ買いに来た』  というような口実を用意していたわけであるが、この夜の入野は、 「こう蒸し暑くては、とてもアパートなんかでは眠れませんや。ちょっと夜気にあたりに出てきたのですよ」  刑事の質問にこたえて、ずばり、そう言った。  これもまた、事前に考えてきた�説明�であった。 「しかし、戸外《そと》も風がなくて蒸し暑いですね。まったく、梅雨ってのはかなわない」 「いくら寝苦しいとはいえ、こんな真夜中に散歩とはね」  刑事は、念のために、パジャマ男の住所氏名を尋ねた。  入野は自分を隠さなかった。  堂々と本名を名乗り、実際に住んでいるアパート名をこたえた。  偽名を口にしなかったせいもあってか、このときの入野の態度は、あまり不審を感じさせなかった。  もちろん、軍手も外している。  刑事は、怪しい男を見かけたら通報して欲しい、と、逆に協力を依頼しかけたほどである。 (危ない、危ない。こんなところで捕まってたまるもんか)  入野は、何気ない素振りで、その場を離れた。  これまでの経験から言っても、今夜の犯行が、すでに発覚しているとは思えなかった。  それだけに余裕もあった。 (あの女は、ベルトをほどこうとして、夢中になっている頃だろう)  入野はいつの場合も、それほど強く締め上げないのを常とした。 (彼女、そろそろ自由を取り戻して、半べそでスカートを穿《は》いているところかもしれないな)  と、そう考えると、征服欲を満たしたところからくる歪んだ快感が、入野の背筋を走った。  新しいターゲットが見つかるまで、しばらくはじっとしていよう、とも思った。  深夜の雨雲の下で、入野は、それと気付かれないように、歩調を速めた。  二回路地を折れると、路地の先に外灯があり、自分の住むアパートが近付いた。  その外灯の下へ来たときだった。 「待ちたまえ!」  ふいに、背後に声を聞いた。  びっくりして振り返ると、さっきの二人の私服の姿がそこにあった。 (尾行《つけ》られたのか)  入野がそう考えるよりも一瞬速く、若手の巡査が行く手を遮るように前方に回り、ベテランが改めて話しかけてきた。 「ずいぶん遠くまで、涼みに出かけたようですな」 「え? ええ。あてもなく、ぼんやり歩いていただけですが」  口調の上ずっていることが、自分で分かった。  刑事の視線が、鋭く、自分の足元へ向けられているのを、入野は見た。 「夜半だから、パジャマ姿なのは分からぬでもありませんが、パジャマにスニーカーですか」 「ま、まさか、ぼくを疑っているわけではないでしょうね」 「パジャマの下が、えらくふくらんでいるようですな。何が入っているんです?」  と、これは若手が言った。  いったんは入野を放したものの、何か割り切れないものが残ったのは、刑事の本能でもあっただろうか。  尾行は、ベテラン刑事の発案だった。  そして、そっと入野を尾行《つけ》てきた二人は、判然としない不審が、一つの確信に変わるのを感じた。  外灯に映し出された入野の表情の変化が、何よりも雄弁にそれを語っている。  さっきは暗がりなので見落としたが、軍手を隠しているためにかさ張るポケットも不自然だ。 「近くの派出所まで、同行していただきましょうか」 「な、なぜですか! 寝苦しくて外に出たからって、それが罪になるのですか!」 「それではここで、そのパジャマの下を見せてもらおうか!」  刑事の声が高くなった。  入野は思わず左右を見回した。  落ち着きを、完全に奪われているまなざしだった。  入野克男が自供に追い込まれたのは、それから三十分と経たないうちであった。  軍手と、葉子の部屋から持ち出したパンストなどが、動かぬ証拠となった。  渋々と派出所に連行された入野は、葉子の逸早い通報が逮捕につながったことを知って、がっくり肩を落とした。 (畜生、何てことだ)  そんなつもりはなかったけれども、届け出が遅れるだろうという入野のもくろみを狂わせた意味で、葉子もまた、入野を裏切った女の一人と言えるかもしれない。  容疑は、もちろん、強盗と婦女暴行の二つであった。 野獣の分担    1  十二月の空は、くっきりと、蒼く晴れ渡っていた。  午後の陽差しを浴びる姫路城は、蒼い空を背景として、その白い城壁をきれいに浮き立たせている。  美しさは、季節に関係なかった。  白鷺城と呼ばれるこの建物は、いつ、どこから眺めても見事だ。  その日、播州姫路の城下町には、強い北風が吹いていたけれども、五層の天守閣は、いつもと変わることのない落ち着きを見せている。  山陽本線姫路駅は、ちょうど城と向かい合う場所に位置している。  大手門から、大手前通りを一直線に一キロほど進むと、姫路駅だ。  駅の横手、北条町に、『カメルーン』という喫茶店があった。  雑居ビルの二階にある、目立たない喫茶店だった。  夜になるとバーに衣替えする『カメルーン』は、喫茶店というよりも、酒場のムードのほうが強かった。  壁の一方はカウンターになっており、カウンターに面して、高い衝立《ついたて》で区切られる、いくつかのボックスシートが並んでいる。  明るいうちは、いつも客足が少ない店だった。  その一番隅のボックスで、渋谷久男は、三宅圭子と向かい合っていた。  ここからも、窓ガラス越しに、巨大な姫路城の白い天守閣が見える。  渋谷と圭子の会話は、周囲にはほとんど聞こえない。  しかし、どう見ても、二人の取り合わせは妙だった。  渋谷は、見るからに、チンピラふうなのである。  額には剃りが入っているし、革ジャンパーの着方も、どこか崩れている。  対照的に圭子は、まじめなOLのおとなしさが、そのまま表面に出ている。  ふてぶてしい表情でラークをくゆらす渋谷の前で、圭子の白い横顔は、かすかにふるえているようでもあった。 (この怯《おび》えてるところが、たまらんな。このまま手放すには、惜しいスケやで)  渋谷の両の目に、何かを楽しむような、歪んだ光が宿っている。  圭子のほうは掌を握り締め、じっとうつむいたままだった。  最初から、コーヒーにも手をつけようとしない。 「いつまでも黙ってばかりいたら、分からんやないか」  渋谷はたばこをもみ消すと立ち上がって、圭子のシートに並んで座り直した。  圭子は本能的に身構え、ミニスカートからのぞく格好のいいひざを硬くした。  渋谷は、無遠慮に、ミニスカートへ目を向けてつづける。 「何度も言ったように、オレとおまえは、もう他人やないんやで」 「お願いです、定期入れを、あたしの定期入れを返してください」 「ああ、もちろん返してやる。定期を返すために、こうして、おまえを電話で呼び出したのや」  だが、これからも、ずっとつきあってくれると約束しなければ駄目だ、と、渋谷は繰り返した。 「ほかのことなら何でもします。ですから、それだけは」 「何でもする?」  渋谷の口元に、歪んだ笑みが浮かんだ。 「ほな、この身分証明書と定期券を、百万円で買い戻してもらおうか」 「百万?」 「こういう話は、即金でなければ駄目だ。ローンってわけにはいかないぜ」 「そんな大金、あたしなんかが持ち合わせているはずもないでしょう」 「じゃ、どないする?」  渋谷はねちねちと迫ってくる。 「こうなったら、しゃあない。この間の網干《あぼし》にドライブした一件を、おまえの会社の連中に、バラすくらいのことは、させてもらわなあかんな」 「そんな。もう許してください」 「そうはいかん」  渋谷は新しいラークに火をつけた。 「おまえがどんな格好をして、オレに抱かれたか、詳しく、会社の連中にしゃべってやるで」 「あたし、警察へ行きます」  圭子がいまにも泣きそうな声になると、渋谷は火をつけた矢先のたばこを消した。 「サツか。それもええやろ。だがな、裁判沙汰になって恥をかくのはオレじゃない、おまえのほうやで」  渋谷は声を落とした。  そして、横座りのまま、圭子のミニスカートに手を伸ばしてきた。  高い衝立で仕切られているので、店の従業員は、渋谷の行為に気付いていない。  いや、気が付いたとしても、干渉しない雰囲気が、この店にはあった。  渋谷は、それを承知していればこそ、女たちとの話し合いの場として、昼間は客足の少ないこの『カメルーン』を、いつも利用してきたのである。  いまの低い会話からも想像できるように、この場合の�女たち�というのは、渋谷が、自ら犯した相手だった。  乗用車を使って、ことば巧みに、若いOLをハントする。  強引に関係を持つと、身分証明書などを取り上げ、後日、それをネタにじっくりと威《おど》しにかかる。  それが、彼ら、渋谷久男とその仲間である西田長治の、常套手段だった。  大概は、なにがしかの現金でケリをつけるが、ときにはいまの圭子に対するように、さらに、その肉体を求めようとすることがあった。 (これだけの体は、そうざらにあるものじゃない。もう一度、たっぷりと味わわせてもらわなけりゃ)  今日の渋谷は、最初からそのつもりで、圭子を呼び出したのだった。 「な、ええやろ」  渋谷は慣れた仕ぐさで、スカートのファスナーを外すと、そこに、長い指先を忍び込ませた。 「あ」  圭子は、思わず上半身を折り曲げようとしたが、 「いいじゃないか」  渋谷の力は、それを許さなかった。  長い指先は、スカートの裏側でスリップをめくり、下のものに触れてきた。 「そないに、心配することはあらへん。いくらオレだって、こんな喫茶店の中では何もでけへんわ。ちょっとばかし、楽しませてもらうだけや」  渋谷は、完全に、圭子の人格を無視していた。  すでに、半年にもわたって、こうして若い女性を辱《はずかし》めてきた自信が、そうさせるのであろうか。 (このスケも、結局は言いなりになって、泣き寝入りするだけや)  渋谷は不敵な微笑さえ見せて、さらに、圭子の奥深いところを探ろうとする。    2  そのとき、圭子が、声ひとつ立てられなかったのはなぜだろう?  客に対して、いくら不干渉であるとはいえ、喫茶店の中には、ボーイもいるし、ウェイトレスもいる。  少ないながら、若い男女の客も、何人かは雑談をしていた。  救いを求めれば、当然、だれかが飛んできたに違いない。  しかし、圭子は、渋谷の長い指先が恥ずかしい部分を押し分けてきても、声を立てるどころか、むしろ、全身を硬くさせているのに過ぎなかった。 「どうや、おまえさえその気なら、この前みたいな乱暴はしなくともええんや。今度は気持ちよく、どっかのモーテルで、オレに抱かれてみたいと思わないか」  渋谷は休みなく指先を動かしながら、勝手なことを言った。  そのたばこ臭い息遣いが、圭子には何とも堪えられなかった。  だが、怒りや憎しみよりも先に、恐怖を伴った羞恥のほうが先に立っている。 (あの夜のことは、だれにも知られるわけにはいかないわ)  圭子は、小さい胸を締め付けられた。 (あんなことを、会社の同僚や家の近所の人に知られてしまったら、あたし、もう生きていけない)  小さい胸の中は、灰色の不安だけで一杯だった。  圭子は来月成人式を迎えるが、現在はまだ十九歳である。  高校時代からのボーイフレンドは何人かいるものの、実際には、恋愛の経験もなかった。  初めての性的体験が、見知らぬ男によるレイプとは、十九歳の女性にとって、これほどの焦燥が、他にあるだろうか。  しかも、いま、内面の苛立《いらだ》ちとは裏腹に、渋谷に触れられている部分には、微妙な変化が現われ始めているのだ。  渋谷は、そうした圭子を確認した上で、残る片手でコーヒーを飲みながら、押し殺した声で言った。 「今日のところは、このくらいにしておいてやるよ」 「あたしの定期入れ、いまここで、返してくれるのね」 「あんまりじらしても、かわいそうやさかいにな」  渋谷はにたりと笑って、 「だが、今日ここで手渡すってわけにはいかないぜ」  ドスを利かせてきた。 「今度の金曜日、会社を終えたら、まっすぐ、このカメルーンに来るんだな」 「二度と、そんなことできません」 「できないことはないやろ。このつづきを、モーテルへでも行って、ゆっくり楽しもうと言ってるんやで」  渋谷は圭子の肌に手を押しつけたまま、命令口調になった。  渋谷の本心がどうであれ、圭子には逆らえるはずもなかった。  一刻も早く、定期入れを取り戻してこの店を出たい。  しかし渋谷は、ジャンパーのポケットから片手で、圭子の定期入れは取り出したものの、スカートの中の指先は、簡単には抜こうとしなかった。 「おまえの家は、太市《おおいち》駅の近くだったな。商売でもしとるんか」 「そんなこと、関係ないでしょ。どうして家のことなんか訊《き》くの?」 「後々のためだよ。何でも知っておいたほうがいいのと違うか」  と、またしても渋谷は、あの夜のことを、場合によったら隣近所の人たちにも言いふらしてやるぞ、と、ことばに力を込めてくるのだった。  実際には、暴力団組織の末端にさえ、顔を突っ込んだこともないのに、威《おど》しのタイミングは、十二分に心得ている男だった。  それは、それほどの度胸もないくせに、その筋に憧れて、やくざ映画を見過ぎた結果かもしれなかった。  圭子のような萎縮し切っている相手に対しては高飛車に出るが、本ものの地回りなどを見かけると、逸早《いちはや》く身を隠す術も心得ている男であった。  渋谷は注意深く、店内の他の客たちを見回してからつづける。 「男と女の間ちゅうもんはな、うまくやれば、だれにも知られやしない。オレの言うことを、おとなしく聞いていれば、間違いはあらへん」 「あたし、今日はまだ勤務中なのよ。いつまでも、こうしているわけにはいかないわ」  圭子は、懸命に体の向きを変えながら、やっと、それだけを言った。  知らない間に、髪が乱れていた。 (こんなことが、一体、いつまでつづくというのか)  あの夜と同じように、圭子は下唇をかみ締めていた。  家族や、親しい友人の顔が、重なり合って胸の奥を流れる。  しかし、その中の、だれにも訴えられない事柄であった。  あの夜、渋谷の仲間である西田の運転していたのが、ガンメタリックの乗用車であったことは覚えている。  乗用車のナンバーも、必死に、脳裏に刻みつけた。  だから、野獣二人の正確な氏名とか住所を知らなくとも、警察に届けて、二人を逮捕してもらうことはできるだろう。  しかし、圭子は、警察署の石段を上がることができなかった。  それどころか、一一〇番をプッシュする勇気さえもなかった。  すべてに先立つのは羞恥であり、灰色の焦燥だけが内向していく。 「いいな、デートは次の金曜日やで。間違えるんじゃないぞ」  渋谷がそう言って、ようやくスカートから手を抜いたのは、レジの横のピンク電話が鳴り、渋谷を呼び出す電話だったときである。  圭子は、慌てて、スカートのファスナーをとめた。  圭子は乱れた髪を直そうともせずに、うつむいたまま、『カメルーン』を出た。  そして、まるで転がるようにして、雑居ビルの階段を下りて行った。  渋谷は、圭子の後ろ姿を目で追いながら、ゆっくりと受話器を取った。  電話は、西田からだった。 「おい、話は、うまくつけることができたのだろうな」  と、西田は尋ねてきた。 「あの女、家がよさそうだったじゃないか。親に泣きつかせれば、まとまったキャッシュを期待できるかな」 「悪いけどな、圭子というスケは、オレがもらうで」 「おいおい、また、おかしな癖を出すつもりか」 「そういうこと。現金を巻き上げる前に、たっぷり楽しんでやることに決めた」  渋谷は受話器を持ち直した。  特に小声というわけでもないので、電話の内容は、レジの店員に筒抜けだ。  しかし、そうしたところに神経を使う男ではなかった。  この男が盛り場で注意するのは、地回りの姿だけだ。 「あのスケ、すっかり怯え切っていたで。当分はこっちの言いなりや」 「じゃしようがない。彼女はおまえに預けるとして、今夜辺りどうだい」  西田は口調を改めた。 「今日なら、兄貴の車もあいている」 「おまえも好きやな。ほな、忘年会代わりということでいこか」 「忘年会とは、恐れ入った。それじゃ、いつもの手筈でな」 「おい、せいぜいカワイ子ちゃんで、色っぽいのを頼むぜ」  渋谷は、いまのいままで圭子に触れていた右の指先を見やって、にたりと笑うと電話を切った。  渋谷は『カメルーン』を出ると、革ジャンパーのえりを立てた。  そして、何事もなかったかのように、師走の雑踏に紛れ込んで行った。  これが、十二月十七日である。  城下町の商店街は、どこも歳末大売出しで、ごった返している。  しかし、渋谷は、そうした日常生活とはまったくかけ離れた場所にいた。  ナンパを生き甲斐とするスケコマシには、暮も正月もありはしない。    3  姫路市は、瀬戸内海の方角から、暮れ始める。  広峰山から見下ろす内海が、すっかり夜の闇に覆われると、市街地の明かりが目立ってくる。  雨は多くない土地柄であるが、市街地の周辺には、広大な水田がつづいている。  もっとも、とうに稲の刈り入れは終わり、いまは、いずれも枯れ田と化している。  が、いずれにしろ、市街地の明かりと、闇に覆われた周辺との対照は際立っており、いかにも、地方都市という感じだった。  闇と言っても、しかし、完全なる闇夜ではなかった。  午後から吹きつづけた北風が雲を流して、満天の星空であった。  その星明かりの県道を、ガンメタリック、4ドアのセダンが走っていた。  広峰山から白国へと下り、姫路市内へ通じる県道である。  運転席でハンドルを握っているのは、一見、大学生といった感じの、若いハンサムな男だった。  いかにも育ちのよさそうな、柔和な横顔の青年だ。  白いタートルネックに、紺のブレザーがぴたり似合っているのは、おとなしい髪型のせいかもしれなかった。  要するに、表情といい、ヘアスタイルといい、この若者は、まじめ一辺倒の学生という印象なのである。  強いて相違点を挙げれば、そのハンドルさばきが、ものすごく、乱暴であることだろうか。  若者は、ハンドル片手に、ラークに火をつけた。  たばこを吹かしながらも、力一杯にアクセルを踏みつづけ、カーブにさしかかっても、まったくスピードを落とそうとはしないのである。  このガンメタリックのセダンが、姫路市内に入り、一定の速度で、駅前の大手前通りまできたのは、駅の大時計が、午後八時半を指す頃だった。  男は、大通りをちょっと左にそれた、コンビニエンスストアの横で車をとめると、舗道に降りた。  しかし、車を離れようとはせず、助手席のドアに寄りかかった。  男は、しばらくすると、ドライバー用の革手袋をはめたまま、新しいラークをくわえ、しゃれたライターで火をつけた。  大通りをそれているとはいえ、この辺りは姫路の中心だ。  間もなく午後九時になるというのに、歳末の人の動きは絶え間がなかった。  忘年会の流れらしい、酔った男たちの姿も多い。  どこの店でかけているのか、一際ボリュームを上げたジングルベルが聞こえてくる。 (イラクで何が起ころうと、日本は、みんな結構な景気じゃないか)  若い男は、吸いかけのたばこを足元に捨てた。  物静かな横顔とは裏腹に、つぶやきには下品な響きがあった。  そして、その視線は、間断なく、付近を通る若い女性に向けられているのである。  おとなしそうな学生を装っているこの男こそ、渋谷久男の仲間、西田長治にほかならなかった。  西田もまた、組織の準構成員にさえ加わったことはないけれども、無軌道な生活に憧れている男の一人だった。  西田は、渋谷と違って、家庭には恵まれていた。  渋谷は両親が離婚しており、中卒後、工員などを転々としてきたのであるが、西田は広峰山の付近で、一応地主として知られる素封家の三男だった。  しかし、西田は中学生の頃からぐれ出して、高校を中退してからというもの、一度も正業についたことがなかった。  年齢は渋谷と同じ二十六歳だが、西田はいまだにぶらぶらしており、夜になるとこうして、長兄の乗用車を持ち出したりして、市街地へ下りてくるのが常だった。  しかし、服装に留意し、もっともらしく大学生を装うのは、�ナンパ�のときに限られている。  初対面の女性に対して、�学生�が無言の信用を与えることを知ったのは、夜の町での遊びを覚えてからである。 『オレは脅しには向いているが、女に声をかける柄じゃない。その点、おまえは女好きのするハンサムだ。おまえが声をかければ、スケは、ほいほいついてくるのと違うか』  と、渋谷がハント計画を持ちかけたときにも、西田が大学生を装うという点では、すぐに意見の一致をみた。 『朝から晩まで、工場で油に汚れて働くなんて、ほんま、くそおもしろくもねえや』  と、渋谷は言った。  未知の女性の警戒心を避けるため、ハント役は一見おとなしそうな西田が受け持ち、後日の脅しのほうが、渋谷の分担ということになった。  そして、女性を車に誘い込んだ当夜、渋谷は、県道沿いのファミリーレストランなどで、待ち伏せているという段取りだ。  渋谷と西田が、黒い企みを初めて打ち合わせたのは、半年前の六月中旬だった。  二人は、その夜のうちに、早くも第一回目の犯行を成功させている。  夜の町で知り合った二人は、�ナンパ�に関して、ぴたり息が合っていたと言える。  だれにも気付かれない夜の裏側で、二人の犯行は重なった。 『見ろよ。だれ一人として、サツに訴えるスケなんかいやしない。思ったとおりや。表沙汰になって困るのは、スケのほうなんやからな』 『相手さえ慎重に選べば、半永久的に楽しめるってわけか』 『そうや、嫁入り前の、おとなしそうな娘だけを狙うんや』  すでに、渋谷と西田が犯した相手は、二十人を超えている。  犯行を重ねるたびに、二人とも、奇妙な度胸がついた。  度胸のついたことが、渋谷と西田を調子づかせた。 (ちえっ、こんな寒い風の中でいつまで待たせるんだ。早く、かわゆいカモが現われないかな)  セダンに寄りかかった西田は身勝手なつぶやきを漏らし、また一本、新しいラークに火をつけた。  それから十五分が過ぎる頃、そのおとなしそうな西田が、実はオオカミであるとも知らず、不用意に、コンビニエンスストアの横を通りかかる二人連れのOLがいた。  長谷川文江と田口幸子の二人である。  二人とも二十一歳。  会社の忘年会の帰りだった。  文江も幸子も、お互いカクテルを飲んでいた。  ここちよくカクテルの酔いが回っていることと、二人連れである点に、ひとつの陥穽《かんせい》があった。    4 「あれ、こんなところで珍しいな、佐々木さんじゃないですか」  西田は、口から出まかせを言って、二人を呼びとめた。  二人のうちの、どちらを「佐々木さん」とも特定しない呼びかけだった。  どちらでもいい。  これで、少しでも相手が反応を示せば、それで話のきっかけはつかめるのである。  先方が、呼びかけを無視したら深追いはしない。  これが、終始一貫した、オオカミの手口だった。  しかし、そんなことなど知るはずもない文江と幸子は、何気なく足をとめたのだ。  文江も幸子も、ほっそりした美人であり、その色白な顔には、育ちのよさそうな表情が見える。 (二人一遍は初めてだが、こりゃ、文句なしだぜ!)  西田の内面で、快哉《かいさい》を叫ぶ声があった。  そうして、後はいつもの筋書きどおりに運ばれた。  まず、人違いで声をかけたことをわび、どこへ帰るのかと尋ね、帰る先がどこであろうとも、 「ちょうど、ぼくも、同じ方向へ戻るところなのですよ」  と、調子を合わせ、無理|強《じ》いをしないていどに、同乗を勧めるのである。  手段は飽くまでも単純だが、問題は、それを切り出すときのタイミングにあった。  車に乗せてしまえば、こっちのものだ。  それまでは、何があろうと、一片の不審も抱かせてはならない。 「遠慮することは、ありませんよ。さ、さあどうぞ」  と、西田は静かに言った。  文江と幸子の家が、同じ竜野であったことも、この場合、不幸の遠因と言えるかもしれない。  文江にしろ、幸子にしろ、一人では、見知らぬ男の車になど、決して乗りはしなかっただろう。 「でも、悪いわ」  と、先にことばを返したのは、幸子のほうだった。  もちろん、そうこたえたのは、乗せてもらうということを意味している。  咄嗟《とつさ》のうちに返事の内容を見抜いた西田は、胸の奥で、 (よし!)  と、赤い舌を出した。  通行人たちは、だれ一人として、三人のやりとりに気付かなかった。  だれが見ても、親しい友人同士と感じるだけであっただろう。  背後に何が隠されていようと、そこには、若い男女のみが持つ、特別なムードが醸《かも》し出されている。  文江と幸子を乗せたガンメタリックのセダンが、そっとスタートしたのは、西田が声をかけてから十分と経《た》たないうちだった。 「いい車ですのね」 「竜野へ帰るバスは遅れることが多いので、本当に助かりましたわ」  後部シートに腰を下ろした文江と幸子は、口々にそんなことを言った。  西田は、バックミラーに映るその二人を、ちらっちらっと見遣《みや》って、 (どっちも美人だが、さて、オレはどっちを頂戴しようかな)  淫《みだ》らな空想にふけった。 (二人とも、せいぜいご機嫌にしていればいい。すぐに、渋谷の野郎が乗り込んでくるんだぜ)  車は姫路城の手前を左に折れ、国道179号線に入った。  この国道の先の、田圃《たんぼ》の中に盛り土してオープンしたファミリーレストランで、渋谷が待っているのである。  今夜は、たまたま方向が同じだから、文江にも幸子にも不審を抱かれずに済んだが、市街地を出外れてしまえば、否も、応もなかった。  誘った女性の帰途が、逆方向だったとしても、渋谷を乗せないわけには、いかないのである。  このファミリーレストランの前で、一時停車するとき、西田は、特に説明を加えたりしなかった。  仮に、かすかな不安を相手が感じ始めていたとしても、それが決定的なものでない限り、水田に二分される暗い町外れまできて、彼女たちが車を降りるはずもなかった。  渋谷は、西田の運転するセダンが近づいたとき、三本目のビールを、あけたところだった。  渋谷は革ジャンパーのえりを立て、いつものように、入口に近いカウンターに浅く腰を下ろしている。 (へえ、意外と早かったやないか)  打ち合わせどおりに、ヘッドライトが三回点滅を繰り返し、店の前の植え込みの横に車がとまると、渋谷は、思わず指を鳴らしていた。  渋谷は慌てて会計を済ませて、ファミリーレストランを出た。  小走りに車に近寄り、黙って助手席のドアを開けたとき、 (こりゃ驚いた。西田の奴、二人もくわえ込んだのか)  渋谷の目には、昼間、『カメルーン』で圭子に見せたのと同じ、歪んだ光が過《よぎ》っていた。  西田とはおよそ対照的な、その渋谷が、大きい顔をして助手席に腰を下ろし、乱暴にドアを締めると、初めて、文江と幸子の胸に不安が生じた。 「あの」  ここのファミリーレストランで降ろしてください、と、文江と幸子は異口同音に話しかけた。  しかし、西田は、無表情に車を始動させていたのだった。  文江と幸子の不安が、ほとんど絶頂に達したのは、それから三分とは経たないうちである。  渋谷が、にたりと笑いながら後部シートをふり向き、 「お二人とも、なかなかきれいな顔してる。美人だ」  と、ビールに酔った吐息を、無遠慮に吐きかけてきた。 「あんたら、……したことあるかい」  渋谷は、むき出しの、鄙猥《ひわい》なことばを並べた。  そうしたことを口にし、文江と幸子の反応を窺《うかが》うことで、歪んだ楽しみを倍加させている感じでもあった。  しかも、まじめな学生とばかり思ってきた運転台の西田は、背中を向けているだけで、渋谷をとめようともしない。 「降ろしてください。ここで、ここで車をとめてください」  文江と幸子は、同時に叫ぼうとした。  だが、恐怖が先に立って、ことばは乾いた喉《のど》に絡まるだけだった。  ガンメタリックのセダンは、暗い星空の下の国道179号線で、次第に、スピードを上げている。    5  セダンは、宮脇の先で左へ折れ、県道に抜けた。  どこをどう走っているのか、文江にも幸子にも、まるで見当がつかなかった。  県道は徐々に淋しくなり、道幅も狭まってくる感じだ。  行き交う車もなければ、農家の明かりなどもまったく見えなくなっている。  夜の底で広がっているのは、枯れ田と、雑木林だけだ。  ここでは、いくら叫び声を上げたところで、だれにも聞こえはしないだろう。  しかも車は、さらに人気のない場所へと進んで行くのである。  セダンが急停車したのは、姫路市内を出てから一時間が過ぎる頃であり、そこは、揖保《いぼ》川の河原だった。  下流には作業場が点在しているけれど、いま河原を占めているのは、依然として吹きつづけている北風と、静かな川の流れと、星明かりのみだった。 「おい!」  助手席の渋谷が、ふいに後部シートに転がり込んできたのは、西田がサイドブレーキをかけるのと同時だった。  そして、次の一瞬、幸子が、西田によって助手席に引きずり込まれていた。  いつもなら、まず順番を決め、一人は車から離れているのを常としたが、今夜は違うのである。  渋谷と西田はいま、文字どおり動物のように、狭い車内で、同時に、文江と幸子を犯そうとしている。  二人の男は、ただ飢えていた。  西田が、ものも言わずに、幸子の乳房に手を伸ばすと、渋谷のほうは、文江のミニスカートを引きちぎるようにして脱がせ、パンティーストッキングに指をかけていた。 「やめて!」 「離してください!」  羞恥を伴う悲鳴が、車内に満ちた。  そして、それが、一層、渋谷と西田の欲情をかきたててくる。 「静かにするんだ」 「たっぷり、かわいがってやると言ってるじゃねえか」  二人は、相手のやわらかい肌を抱き締めながら、そんなことを口走った。  が、こうした経験を何度も重ねていると、別の興味も湧いてくる。  完全に無抵抗な女よりも、多少は暴れる相手のほうが、刺激も強いのである。 (そう言えば、あのスケも、ほんまに困るほど泣きよったな)  と、金曜日のデートを約束させた圭子の横顔を思い浮かべながら、渋谷は文江の恥ずかしい個所に分厚い掌を密着させ、彼女の細い指を、自分の部分に誘った。 「いまさら、恥ずかしがっても無駄だぜ。ケリがつくまでは、帰すわけにはいかないんだよ!」  さっきまでとは一転した口調で、脅しつけているのは西田だった。  西田は強引に、幸子の唇を開いていた。  自分の相手よりも、お互いの相手の反応が、かつてない興奮を、渋谷と西田に与えようとしている。 「さあ、言うとおりにするんや」  渋谷は革ジャンパーを脱いだ。  ズボンもとった。  そして文江の髪に手をかけると、西田が幸子に求めているのと同じことを、文江にも強要しようとした。  河原を吹く北風の音も、揖保川の流れも、すでにそこからは遠かった。  いったん消されたヘッドライトが、ふたたびともったのは、それからたっぷり一時間は過ぎる頃だった。  渋谷と西田は、例によって相手のハンドバッグを探って身分証明書などを抜き取ると、その場で、文江と幸子を降ろした。 「この土堤の道を、三十分ばかり下れば、県道へ出る」  と、冷たく言い放ったのは西田であり、渋谷のほうはラークを吹かしながら、声のない笑みを浮かべた。 「そのうち、会社へ電話するよ。身分証明書は、そのとき返すさかいにな」  この北風の中で、傷ついた文江と幸子を放り出すことについては、何とも感じていない口調だった。  まったく、けだものと変わるところのないオオカミどもと言えよう。  渋谷と西田は、 「じゃ、な」  と、乾いた笑声を残して、セダンをUターンさせた。  そして、さっきに倍するスピードで国道へ引き返し、姫路市内へ戻った。  渋谷と西田が逮捕された直接のきっかけは、スピード違反だった。  いい気になって夜ふけの大手前通りを飛ばすガンメタリックのセダンを、白バイが追いかけてきた。 「ちえっ、ついてねえな」  と、渋谷は口走り、 「罰金を払えばいいんだろ」  西田は、白バイの巡査に向かって、不貞腐《ふてくさ》れたように言った。  しかし、本署に出頭を求められた渋谷と西田が通されたのは、一階の交通課ではなかった。  二人は、二階の刑事課捜査係へ連行されたのである。 「刑事さん、オレたち、人間を轢《ひ》き殺したわけじゃないんだぜ。何だって、刑事部屋なんかへ引っ張り込むんだよ!」  西田は血相変えて抗議したが、しかし、宿直の刑事は、それを無視した。  刑事は、西田と渋谷の顔を交互に見てから申し渡した。 「身に覚えがないとは言わせないぞ。おまえたち二人の容疑は、婦女暴行と恐喝ということになる」 「何やて!」  渋谷が頓狂な声を上げた。  実は、昼間『カメルーン』を出た三宅圭子が、すべてを届け出ていたのだった。  思い詰めた圭子は親しい同僚に同行してもらい、記憶に残る西田の乗用車のナンバーを、刑事に告げた。  しかし、あの圭子が、まさか警察へ訴え出るなんて想像もしない渋谷と西田は、一瞬、ぽかんとした表情をしていた。  その二人の頭上で、刑事は一定の口調でつづけた。 「二人とも泊まってもらうことになるね。車は、証拠物件として押収する」 「え?」  と、渋谷と西田は叫んだ。 (どこから、こんなことになっちまったのか)  そんなまなざしだった。  二人の野獣に、罪の意識はまったく感じられない。  師走の風だけが依然として強く、刑事部屋の窓で音を立てていた。 無援の出所    1  雪は一日中降りつづき、夜になって上がった。  雪明かりの町に、よわい北風が吹いている。  降雪は、それほどでもなかった。  東京都八王子市内のブティックに勤めている河田美也子は、横浜線の電車で、淵野辺駅へ戻ってきた。  淵野辺駅からは、神奈中バスを利用して、神奈川県相模原市の自宅へ帰るのだが、これが、大体午後七時過ぎである。  美也子の家は、建てられてから何年にもなる、古い県営住宅だった。  国道16号線を横断して、バスで十分ほどの距離だった。  歩いても、三十分とはかからない。  時間が早いときとか、バスがなかなかこないような場合には、大通りを歩いて帰宅することもあった。  二月になって間もないその夜、美也子が淵野辺駅の改札口を出たのは、いつもと同じように、午後七時をちょっと回った頃である。  駅前はまだにぎわいを見せているし、それほど遅い時刻ではない。 (歩いたほうが早いかナ)  美也子はポシェットを持ち換え、バスを待つ長い行列を見やった。  雪のために、バスのダイヤが乱れていることは一目で分かった。  月曜日だし、いつもはこんなに込み合う時間ではなかった。  駅前の舗道は、自動車の通行に困難なほどの積雪ではなかったわけだが、美也子が乗るバスは、バスターミナルを出て国道16号線を過ぎると、上溝から峠道を越えて、相模川べりの田名へと通じているのである。  ちょっとしたことでも、すぐに発着が遅れる路線だった。  美也子と同じように、バスを待とうかどうか、ためらっている何人かがいた。  そして、その何人かが、次々と歩き始めると、美也子も誘われるようにして、混雑するバス乗り場に背を向けた。  美也子は、二十一歳の誕生日を迎えた矢先だった。  その美也子の、すんなりした後ろ姿に目を向けて、くわえていたたばこを、足元に吐き捨てた男がいる。 「ほう、なかなかええ女やないか。ええ体をしとる」  男のつぶやきには、アルコールの匂いが混ざっていた。  この辺りではあまり耳にすることのない、関西弁である。  バスの行列から少し離れた場所で、たばこをくゆらしていたこの男は、頬がこけた長身だった。  やせた横顔が、病的とも言えるほどに蒼白かった。  男はさっきから一個所にたたずみ、上り下りの電車から降りてくる若い女性、一人一人に、視線を投げかけていたのである。 「女を見るのは、久し振りやな。ほんまに、女子《おなご》はええ」  しかし、顔色の悪い男がそんなつぶやきを繰り返していたのは、もちろん、だれも知らないことだった。  勤め人たちは、だれもが、家に帰ることだけを急いでいる。  目的もないかのように、目ばかりぎらぎらさせている長身に、注意を向ける余裕などあるわけもなかった。  男は、相当にくたびれたダスターコートを着ている。 「駄目で、元々やないか。どうせ今夜のねぐらも、まだ決まってはいないんだ」  コートのポケットに両手を突っ込むと、男も駅前を離れた。  両の目は、間断なく、美也子の後ろ姿をとらえている。  男は、美也子と同じ速度で、商店街を歩き始めた。  最近はベッドタウンとして栄え、次々と分譲マンションなどが建っているけれど、やはり郊外の町である。  商店街と言っても、それほどの奥行きはなかった。  やがて美也子は家具店の先を左に折れ、横浜線沿いの細い道に出た。  周囲の明かりは徐々に遠のき、道端には、北風に吹かれる積雪が目立ち始める。 「ほう、この女、何ともお誂《あつら》え向きな場所を歩いてくれるやないか」  アルコール臭い男は、頬を過《よぎ》る北風を忘れていた。  男の神経のすべては、美也子の後ろ姿に集中されている。  美也子は、モスグリーンのハーフコートを着ていた。  背は、それほど高くはないが、コートの下からのぞく、形のいい白い脚が、男の内面に、歪んだ想像を運んでくる。 「何せ、一年振りやからな。何ぼ飲んだかて、酒だけでは駄目や」  と、男はつぶやきをつづける。  つぶやきが、だれかに話しかける口調なのは、男の癖だった。  男は「独りの時間」に慣れ過ぎていた。  細い道が緩《ゆる》い下りになると、無人踏切だった。  踏切を渡ると、外灯もぐっと少なくなる。  人家はつづいているのだが、雪の夜のせいか、どこも早々と雨戸を下ろしている。  美也子は近道をして、途中で右手の路地に折れた。  人気《ひとけ》は少ないが、人家が途絶えているわけではなかった。  美也子に特別な不安感はなかった。  ふいに、 「もしもし」  と呼びかける男の声を聞いたのは、長いブロック塀の近くに来たときだった。  背後の足音に気付いて、思わず立ちどまると、相手の影が、美也子の前へ回ってきた。 「えろう、すんまへん。お願いがあるんやけど」  と、男は言った。  外灯の下で見る身なりは薄汚れているけれども、男の話し方に、それほど粗野な感じはなかった。 「何かしら」  美也子はいつもそうするように、微笑を浮かべて、ことばを返していた。  それがいけなかった。 (よっしゃ。返事をしてくれば、もうこっちのものやで)  男は胸の奥で、赤い舌を出した。  男は、表情の変化を、雪明かりから隠すようにしてつづける。 「実は、ぼくの家は、すぐこの先なんやが、雪で自転車がはまり、動きがとれなくて困ってるんや。荷物下ろすのを、手伝ってもらえんやろか」  無論、口から出まかせだ。  美也子も、一瞬、妙だとは思った。  自転車が動けなくなるほどの降雪ではなかったし、荷物を下ろす手伝いというのも、唐突である。  しかし、急に話しかけられたことで、美也子が戸惑っていると、 「お願いします」  男は一方的に言った。  男は、美也子の帰路に当たっているこの路地を出たところに、建築中のマンションがあることを知っていた。  外装と窓の部分を残して、ほとんど完成に近いマンションである。  その鉄骨の四階建てが、男の注意を惹いたのは、午後、まだ雪が降っている最中であった。  古い仲間に冷たく突き放されて、雪が降る道を引き返すとき、男は完成間近の、その無人のビルを見た。 (建築中のビルと、一人歩きの女。注文どおりやないか)  長身の男はダスターコートのえりを立てると、美也子と肩を並べるようにして、雪明かりの道を歩き出した。    2  美也子が、男の吐息にアルコールの匂いを感じたのは、それから、十分とは経《た》たないうちである。  美也子は、見知らぬ男のペースに乗せられた格好で、建築中のマンションの近くに来ていた。  四階建て二棟の黒い無人のビルが、影のように行手を遮っている。  建築材などが雑多に置かれているマンションの敷地に沿って行くと、国道16号線に出るはずだった。  国道を横切れば、美也子が両親と住む県営住宅となる。 「ぼくの自転車は、この中なんや」  男は、建築中のマンションの前で、足をとめた。 (まさか!)  美也子の内面で、複雑に揺れていた不安が、現実となったのが、そのときだ。  家庭的に恵まれており、両親からかわいがられてきた美也子は、こうしたことへの警戒心が薄いほうだった。  それだけに、美也子の「防備」は、一瞬遅かったと言うべきだろう。  美也子が、本能的に身構えようとすると、それを払いのけるようにして、男の長い腕が、力を込めて、美也子の丸い肩に伸びてきた。 「自転車は、この中や」  男は同じことを繰り返したが、ことばつきががらりと変わっている。  人家はすぐ傍にあるのに、雪の路上には、まったく人影がなかった。 「あの」  美也子は小さい吐息を漏らして、男を避けようとしたが、男は許さなかった。 「ほな、お願いしたように、手伝ってもらおうか」  男は、肩に回した手をずらして、何と、美也子の右腕をねじり上げてきたのである。  そして、もう一方の掌が、美也子のくちびるを覆った。 「すぐに帰してやるさかい、おとなしくするんやで」  男は、それが、予《あらかじ》め話し合ってきた行動ででもあるかのように、建築中で暗い、人気のないビルの中に美也子を連れ込んだ。  美也子が淵野辺駅を降りてから、二十分とは過ぎていなかったであろう。  男は、やせて、病的な蒼白い顔をしているくせに、美也子の右腕をねじり上げる力は、異様とも思われるほどに強かった。  北風が吹き抜けていくビルの内部は、氷室《ひむろ》のような冷たさである。  その氷のようなコンクリート壁に美也子を押しつけて、男は、口元を封じていた左手だけを離した。 「じたばたしたら、あかんで」 「お願いです。お金なら、お金ならここにあります」  美也子は、思わずポシェットを差し出すようにしていた。  美也子の声は、恐怖を反映して、引きつっている。 「何やと」  男は美也子の右腕も離した。 「オレが欲しいのは、金やない」 「…………」 「そりゃ、金も欲しいけどな。こうなればどうなるか、中学生だって知ってるはずやないか」  男は声のない笑みを浮かべた。  美也子は、自分の全身にふるえが走っているのを知った。  ベージュのポシェットが、足元の冷たいコンクリートに落ちた。 「すぐに、家に帰してやるさ」  男は、ポシェットを蹴飛ばした。 「オレは、しつこい人間とは違うさかい」  男は、美也子には理解のできないことを口走った。  そして、引きちぎるようにして美也子のコートのボタンを外し、ベロアのミニスカートに手をかけてきた。 「やめてください! お願いです。やめてください。あたし」  美也子のことばは、意味をなさなくなっている。  日頃、人一倍性格が明るいだけに、余計、硬い表情との対照が目立った。  ミニスカートは、強引な力によって、恥ずかしい形にめくられた。  夜目にも、下着の白さが、はっきりと確かめられる。 「ううん!」  男は、美也子の下着を目にしたことで、野獣の唸《うな》り声を上げた。 「ええ女子《おなご》や」  男の顔から歪んだ笑いが消え、アルコール臭い吐息が漏れた。 「一年間。そう、オレは丸一年間も我慢してきたんやで」  男のことばには、終始、論理がなかった。  男の過去に何が刻まれていようと、通りすがりの美也子とは無関係のはずではないか。  しかし、男は、どうしようもない苛立《いらだ》ちをぶちまけるかのように、欲望をむき出しにしてくるのである。  乱暴に、パンティーストッキングがひきずり下ろされた。  二十一歳の、引き締まった白い肌が、氷室の中で、あらわになった。  まだ男の匂いを知らない、そのやわらかい個所に、アルコール臭い分厚い唇が押し当てられる。 「あ」  美也子は本能的に、半身をよじろうとしたが、男の「異常」に克《か》てるはずはなかった。  いつの間にか、男の左手も美也子のコートの下を這《は》っており、それはセーター越しに、ふくよかな乳房を、ぴたりと押さえつけていたのだ。  静か過ぎる夜であった。  雪のせいか、国道を往来する自動車の音が、思わぬ近さで聞こえてきたりしたが、コンクリートの壁に囲まれた「密室」は、完全に、夜に閉ざされている。  美也子は声も立てられないほどに、怯《おび》え切っているけれども、仮に叫び声を上げることができたとしても、だれも気付いてはくれなかったに違いない。  男の行為は、次第に、大胆になる。  男と美也子は、それぞれの意味で、寒さを忘れた。  美也子の若い体が、冷たいコンクリートの床に横倒しにされたのは、それからどのくらいが過ぎるときであったろうか。 「人間の出会いなんて、こんなものさ」  男は、思い出したように、身勝手なつぶやきを繰り返した。  男の長い指先は美也子の柔肌の奥に食い込んでおり、残る左手が、情け容赦もなく、その白い裸身を雪明かりにさらそうとする。  セーターがめくられ、スリップもはがされた。 「おとなしく言うことを聞けば、すぐに自由にしてやる。だが、へたに喚《わめ》けば、ただではおかんぞ」  男の息遣いが、正確に、荒々しくなっている。  アルコールとたばこの異臭が入り交じった、不快な息遣いだ。  男は、一体何者なのか。  雪明かりに見る男の横顔は、ぞっとするほどに、死体のような蒼白さなのである。  美也子は目を閉じた。  こうなったら、なるようにしかならない。  激しい痛みが美也子の肉体を襲い、それが背筋を這い上がってくる。 「おまえ、初めてなんやな」  男の声が、すぐ頭上に聞こえた。  男の口調には、処女を抱いたことの満足感と、そして、処女であるがゆえの、反応の定かでないことへの不満が、ごっちゃになっている。  だが、美也子は、男の不快な体臭を感じていただけだ。  恥じらいよりも、恐怖が前面に押し出されているのは当然だろう。  一時間前までは、夢想もしなかった事態なのである。  恐れと寒さのために、細かくふるえつづけるその二十一歳の肌を、男は何度も何度も弄《もてあそ》んだ。  白い、肉付きのいい腿に、一筋、尾を引くものがあった。 「ええな。娑婆《しやば》の自由ってのは、やはりええもんや」  そんなふうにつぶやく男は、自分以外のものは、すべて、どうなっても構わないという感じであった。  男が蒼白い顔を上げたのは、美也子を「密室」に連れ込んで、一時間余りが経ってからだった。 「心配することはない。オレはな、しつこく追い回すタイプとは違うで。オレは、もう二度と、この町にあらわれることもないやろ」  男の声は無表情だった。  美也子は全身の力を奪われて、ぐったりしている。  男はその美也子を冷ややかに見下ろすと、セーターひとつかけてやろうともせずに、自分のダスターコートのえりを立てた。  こつこつ、と、人気のないコンクリートの建物を出て行く男の靴音だけが、美也子に残った。    3  翌日の午後、薄汚れたダスターコートを着た男の長身は、都内池袋の、映画館の中にあった。  男は、ウイスキーのポケット瓶を手にしている。  朝から飲みつづけだった。  上映されているのは、話題のアメリカ映画だったが、男の関心は、スクリーンには向けられていなかった。  男は目立たないように、何回となく座席を移動している。  ウイークデーの午後ということもあって、館内はあまり込んでいない。  やがて、暗がりに慣れた男の視線が、一人、一番後ろの座席にいる女性の姿をとらえるのに、それほど時間はかからなかった。  このとき、笹野和子がそこにいたのは、不幸な偶然と言うべきだろうか。  和子は、練馬区内の賃貸マンションに住む二十七歳の主婦だった。  和子はカルチャーセンターの生け花教室で講師をしているが、教室に出るのは、週に二回だけだった。  その教室の帰りに、ふらっと立ち寄った映画館である。  髪の長い和子は、和服が似合う体型だった。 (ええやないか)  男はポケットウイスキーの残りを飲み干すと、 (悪くない女やで)  スクリーンに見入る和子を、じっと見詰めた。  昨夜、雪の中で美也子を襲ったときと同じように、その血の気のない横顔に冷たい笑みが浮かんでいる。  男の名前は、田辺一成といった。  ちょっと見たところでは、年齢のつかみどころもないが、まだ二十五歳の若さなのである。  田辺は、まともな思考能力を持たない男だった。 (どうせ、オレの一生はムショを往復するだけや)  何かに突き当たると、必ず、同じつぶやきが口を衝《つ》いて出る男だった。  親も兄弟もなく、大阪から流れてきた身の上なのである。  田辺は「昨日」を捨てた時点で、「明日」をも奪われていたと言えるだろう。  前夜につづくこの日の行動も、田辺の「生活」に即して言えば、決して常軌を逸しているわけではないのだ。  田辺は、実は昨日の午前、更生を誓って府中刑務所を仮出所した矢先だった。  本来なら、本籍地の大阪へ帰り、保護司を訪ねるのが順序であったはずなのに、田辺に「更生」の意識はなかった。  一年間、刑務所の壁の中で抑えられてきた欲望を、思う存分に発散させたい。  田辺の念頭を占めているのは、それだけだった。  昨日、古い仲間を相模原市に訪ね、無情にあしらわれたこともいけなかった。  田辺が初めて東京へ来たのは五年前だが、仲間はその頃の同僚だった。  新宿歌舞伎町のクラブで、一緒にボーイをしていた石沢という男だ。  石沢は水商売から足を洗い、相模原市内のガソリンスタンドに職を替えていた。  田辺が何も切り出さないうちに、 『悪いけどよ、オレはもう昔のオレじゃないんだ』  石沢は、ことば少なくつぶやいて、横を向いた。  刑務所帰りの田辺が、金でも借りに来たと考えたのかもしれない。  田辺は嫌な気がした。  身寄りのない田辺は人恋しさが先に立って、それでかつての仲間を訪ねて行ったのに過ぎない。  しかし、石沢のほうでは、田辺のことを「前科者」としか、受けとめていなかった。  人間と人間の関係は、やはりそういうものか、と、田辺は思った。 (どうせオレは、傷害と婦女暴行で、一年間も臭いめしを食ってきた男や)  田辺は黙って石沢に背を向け、ガソリンスタンドを出た。  そして、雪道を歩いて横浜線の淵野辺駅まで戻ると、大衆食堂で安酒を飲んだ。  コップ酒を重ね、独りの酔いが深まるにつれて、 「どうでもええやないか」  持ち前の気性が頭をもたげた。  少年の頃から、窃盗と、婦女暴行と、傷害の罪を繰り返してきた男であった。  二十五歳の若さであるのに、三回も、刑務所を出入りしてきたのである。  こうして昨夜、安酒に酔った田辺は、 (保護司だって、まともに、相談には乗ってくれないやろ)  これからどこへ行くというあても定めないままに、淵野辺駅前の、バス乗り場付近にたたずんだのだった。  そんな田辺の前を、昨夜、河田美也子が通りかかったのは「不幸な偶然」であり、いま、映画館の暗がりの中で、笹野和子が、歪みを歪みとも意識しない田辺の視線にとらえられてしまったのも、不幸な偶然としか言いようがないわけだ。  和子は、新婚半年目の若妻だった。  夫は浜松町の旅行会社に勤めるサラリーマンであり、当然なことに、幸せ一杯の毎日だった。  生け花教室の帰途、時間があるままに、一人、映画館へ足を向けたのが、いけなかったのか。  細かい花模様の和服を着た和子は、コートをきちんと畳んで、ハンドバッグと一緒にひざの上に置いている。  和子はスクリーンの動きに合わせて、時折笑い声を立てたりしているが、それは極めて若やいだものであり、独身であるかのような印象さえ与えた。 (二十六、七というところやな)  田辺は的確に和子の年齢を判断し、昨夜の美也子よりは手応えがあるだろう、と、考えたりした。  田辺はそういう男だった。  すべての支えを失った男には「ムショ帰り」の意識しか念頭になかった。  今回の服役も、逮捕された直接のきっかけは、五反田のゲームセンターで、女高生にいたずらしたことに始まるのだが、一年前のことは思わなかった。  考えたところで、どうなるわけでもなかった。  田辺は、飲み干したポケット瓶を、そっと足元に置いた。  座席はいくらでも空いているのに、ゆっくりと一番後ろへ行くと、無遠慮に、和子の隣に腰を下ろした。  薄暗いのをいいことに、和子の整った横顔をじろじろと見詰めた。  昨夜の、人気のない建築中のビルとは違って、映画館の中なのである。  だが、騒がれたらどうするか、といったことへの配慮など、田辺が持ち合わせるわけもなかった。  一方、和子は、すぐに田辺の不自然さに気がついた。  きっぱりと拒否するように、席を替わってしまえば、田辺は、それでもなお追ってくる執拗さは見せなかったはずだ。  田辺にそれほどの度胸はなかったし、女性は何人でもいるのだから、改めて物色すればいいわけである。  和子が、このときすぐにそうした行動をとらなかったのは、あるいは、育ちのよさに原因があったのかもしれない。  和子は、どちらかと言えば、控え目な性格でもあった。  たとえば、電車の中などで、向かい合って座った男から嫌な視線を浴びせかけられたようなとき、和子は見返してやることもできなければ、すっと席を立つこともできない一面があった。  お嬢さん育ちゆえだろうか。  和子の父親は、大宮市の開業医だった。  積極的に応じてくる翔《と》んでる女は別として、和子のようなタイプが、もっとも痴漢の対象になり易いのである。  田辺は、並んで腰を下ろしてから、一分と経たないうちに、それを見抜いていた。  いわば、犯罪の積み重ねによって身につけた嗅覚、とでも言えばいいのか。  昨日の美也子も含めて、田辺がいままでにレイプした女性は、軽く三十人を超えるだろう。  こうなれば、後はじっくりとチャンスを窺《うかが》うだけだ。  田辺は、この二分か三分の間のスリルに、前戯にも似た快楽を覚えるのが常だった。    4 「あ」  和子は思わず声を上げそうになった。  しかし慌てて、自らくちびるをかみ締めていたのはなぜだろうか。  叫び声を発して、館内の注目を浴びることのほうに、恥じらいを覚えたのか。  そうかもしれない。  田辺の体にウイスキーの匂いを感じて、さり気なく席を移ろうとしたとき、男の手が和子に伸びてきた。  男の掌は、和子がひざに置いたコートの下側を探り、和子の指に触れてきた。  席を替わろうとした和子に、タイミングを合わせるかのような動きだった。  真冬だというのに、男の掌は奇妙に汗ばんでいる。 「あんた、ほんまにきれいなひとやな。奥さんかい?」  田辺は和子の細い指先を一本一本確かめるようにしながら、耳元に息を吐きかけてきた。 「こうやって指をさわれば、人妻かどうかすぐに分かるさかい。しかし、あんたはベッピンや」  田辺は、口調も態度も、次第に図々しくなってくる。 (大丈夫。この女は大声出して救いを求めたりはしない)  そんな確信が、実際に手を触れたことで、さらに強まっている。  それに、万一つかまってもどうということはないと考えているのだから、ふてぶてしいほどに落ち着いているのも当然だろう。  和子のような女が、何か、ことばを返せるわけもなかった。  映画は始まってから大して経っていないので、この薄暗がりは、まだ、一時間はたっぷりとつづくだろう。  足袋を穿《は》いた足の先から、徐々に体のこわばってくるのが分かった。  田辺の汗ばんだ指が、和子の指を弄《もてあそ》び始め、そのたびに、スクリーンが和子から遠くなっていく。  画面の上でも、ラブシーンが展開されたりしたが、田辺の仕ぐさは、映画の比ではなかった。  和子のような新妻が、むき出しの男女を主題とする映画など見たことはなかったけれど、田辺の行動は、まさに、ポルノ映画そのままだった。  田辺は和子の細い指先をじわじわと移動させ、やがて、自分のズボンの下側に誘い込んでいた。 「あ」  和子は再び、声を上げなければならなかった。  さっきと同じように低い声だが、さっきとは異なり、微妙なふるえを帯びている。  恥じらいのために、和子の顔に血が上った。  白い指先が、はっきりと男の変化をとらえたのである。  田辺は、もはや、一言も発しなくなっている。  ただ、アルコール臭い吐息が、乱れ始めてきた。  背後のドアが開いて、新しい観客が入ってきた。  しかし、薄暗がりに目が慣れないせいか、それとも、座席の片隅で恋人同士の寄り添っている姿が珍しくないためか、田辺と和子には何の注意も向けずに、通路を前のほうに歩いて行った。  一方で和子の指先を誘導しながら、田辺の残る右手が、和子の着物のすそを割ったのはそれから間もなくである。  男の長い指は、生きもののように、しかしゆっくりと和子の脚を撫《な》で、やわらかい肌を這った。  和子がどんなに身を引き締めようとしても、男の指の動きにはかなわない。  懸命に避けようとすると、大きく、すそが乱れた。  和子は救いを求める代わりに、ひざの上に畳んで置いたコートを広げた。  なぜそうしたのか、自分にも分からなかった。  後になって考えてみると、何を置いても助けを呼ぶのが順序だったと反省するのだが、その場は、羞恥心だけが、先に立っていた。  そして、さらに恥ずかしいことであったけれども、そのとき和子は、男の歪んだ愛撫の中で、微妙に反応を見せ始めている自分に気付いたのだった。 (こんなことが)  こんなことがあっていいわけはない。  だが、心と肉体は別なところにあった。  それだけ、(過去三十人を超える罪の経験を持つだけに)田辺のテクニックが抜きん出ていたと言うべきかもしれない。  和子は、唐突に自分を襲ってきた男を憎むよりも、自分の肌の変化に苛立ちを感じた。  夫の顔が脳裏を過《よぎ》り、そして、それが消えたとき、和子は前のシートの背もたれに片手をつき、前のめりの姿勢になっていた。 「お互い、いまこの場だけを楽しめばええ。後になって、くだくだ付け回したりせんのが、オレの主義や」  田辺は、昨夜の美也子に対したときと同じようにそう言って、さらに、指先に力を込めていった。    5  それは、確かに、そのとおりなのだ。  こうした犯罪を重ねてきた男には珍しく、気性が淡白であったというわけではないけれども、田辺はなぜか、一度知ってしまった女を、二度と相手にする気にはなれなかった。  親の顔も知らずに、施設を転々として育ってきたことにも、遠因があるのかもしれなかった。  何かというと、独りの世界に閉じ籠《こ》もってしまう性格であった。  親しい友人もいなければ、もちろん、恋愛の経験もない。  大阪のキタでぐれていた頃、その筋の下部組織に顔を突っ込んだことがあったが、それも長つづきはせず、東京へ流れてきた。  だから、昨日、相模原市に石沢を訪ねたことにも、深い意味はなかった。  仮出所したので、何となくおしゃべりでもしようと思ったのに過ぎない。  もう一歩突っ込んだ何かを、古い仲間に求めようと考えたわけではないのである。  女性に対しても、そうだった。  石沢と一緒に、新宿歌舞伎町のクラブでボーイをしていた頃、こっちの出方によっては、同棲でもしようというホステスがあらわれたことがあったけれど、田辺は見向きもしなかった。  本能的に、人を拒否する一面があった。  そうして刑務所を出入りしているうちに、その場限りの「相手」へ手を出すことに、充足感を見出すようになった。  最初は、安酒に酔った一人寝の部屋で、歪んだ想像の世界に浸るだけであったが、いつともなく「想像」を実行に移すようになり、そのことの目的だけで、町をさまようようになった。 (どうなってもええ。どうせオレの人生なんか知れたものや)  警察に逮捕されることを何とも思わないのだから、狙いをつけられた女性にとって、これほど物騒なオオカミはいない。  田辺は次第に息遣いを激しくしながら、 「…………」  と、和子に命じた。 「そんな」  和子の口元がふるえた。  和子の拒否は、しかし、明確なことばにはならなかった。  が、いずれにしろ、田辺の力をはねのけられるわけもなかった。  和子は、田辺のそこに触れさせられている指先に、熱いものを感じた。  夫からも、こうした行為を求められたことはなかった。  しかも、一片の心のつながりさえないのに、あたしはそれ以上のことを強要されている。  和子の頬を涙がつたった。  田辺の指の動きが、一層激しくなったのがその直後である。  それは場所柄もわきまえず、和子に声を出させるほどの執拗さであった。  やがて映画が終了したとき、和子は、どうやら着物のすそは合わせたものの、ぐんなりと座席の背に寄りかかっていた。  田辺の長身は、すでに、影のように消えていた。  このアクシデントに気付いた人間は、だれ一人いなかった。  田辺が、ふたたび婦女暴行容疑で逮捕されたのは、その翌日である。  府中刑務所を仮出所してから、わずか三日目の再逮捕だ。  田辺のような男を、何と説明したらいいのだろうか。  全く働く意欲を持たず、更生の意思からもほど遠い田辺は、その日も、通りすがりの女性にアタックしたのだった。  何と、一日一件の割である。  今度は世田谷区内の閑静な住宅街が舞台であり、相手は下校途中の女高生だった。  この日、蒲田駅裏の安宿で目を覚ました田辺は、仮出所のときに手渡された現金の残りを確かめながら、例によって、あてもないままに電車に乗った。  東急を乗り継ぎ、大井町線の尾山台駅で降りたのが、午後二時近くである。  きちんと区画された住宅地をぶらぶらと歩いているうちに、件《くだん》の女高生と擦れ違った。 「えろう、すんまへんが」  田辺は美也子を誘ったときと同じように、静かな口調で話しかけていた。 「あんたの通っている高校は、どこでっしゃろ」 「あたしは」  と、女高生が校名を告げると、 「ほう、そりゃちょうどよかった。実は、その高校の学生さんの定期券を拾ったのですがね。まだ交番に届けていないんや。あんたから、その学生さんに渡してもらえませんやろか」  自分のアパートはすぐそこだ、定期券はアパートに置いてある、と、田辺は口から出まかせを言った。  ともかく、人気のない場所へ連れ出してしまえば、何とかなる。  そう考える田辺には、「常識」は当然のこと、前後の見境さえも失《な》くなっていた。  女高生はすぐに、そうした田辺の不審に気付いた。  女高生は前日の和子とは違って、無抵抗なタイプではなかった。  女高生は、傍目には田辺に応じているかに見えたが、間もなく態度を変えた。  二人の歩いて行く先に、巡査派出所が見えてきたときだった。  女高生はものも言わずに走り出すと、派出所へ飛び込んだ。 「待ちたまえ」  派出所の警察官に呼びとめられた田辺は、どういう神経なのか、逃げも隠れもしなかった。 「ええ娘《こ》やさかい、かわいがってやるつもりだったのや」  田辺は、ぬけぬけとそうこたえていたのである。  こうして田辺は、現行犯として本署に連行されたわけだが、取調室の態度も、投げやりもいいところだった。  自分のほうから、雪の夜の相模原で美也子を犯した事実と、池袋の映画館で和子にいたずらしたことを、べらべらとしゃべったのだ。  この種の事件は、どうしても、被害届が少ない。  実際、美也子も和子も、まだ所轄署に訴えてはいなかったのだから、隠そうと思えば、隠し通すことができたはずだ。  また「連行」の直接のきっかけとなった女高生の場合は、実際には誘いをかけただけで何もしていないのだから、この一件だけなら「微罪」釈放の余地が十分あっただろう。  それなのに田辺は、蒼白い頬に微笑さえ浮かべて、「過去」までも語り、最後にこう言った。 「また、ムショに逆行か。この前のときも、女高生からアシがついたんや。今度はたった三日間の、短い旅行やった」  田辺は何を考えていたのだろう?  田辺が生きていくための支えは、「塀」の向こう側にしかなかったのか。  そうかもしれぬ。  刑事の前で微笑を見せているとはいうものの、そのやせた横顔に浮かんでいる表情は、どうにもとらえにくかった。  東京にはその夜、この冬になって二度目の雪が降った。 湖畔の殺人    1  和服姿の女性の絞殺死体が発見されたのは、十一月十一日の早朝である。  晩秋の河口湖には、薄い霧が、流れていた。  霧の中に、雪をかぶった富士が、巨大な山影を見せている。  女性の死体は、湖畔の、白樺林の中に横たわっていた。  紫地の和服に、白い牡丹を染め抜いた帯が、女の美しさを際立たせている。  死後、いくらも経過していないことは、だれの目にも明らかだった。  霧に濡れた、白い整った横顔には、死者の乱れが現われていなかった。  きれいに手入れが行き届いた長い黒髪も、光沢を失っていない。  しかし、一目で、それが死体と分かるのは、女の下半身が、あられもなく露出されていたためだ。  派手な彩りの襦袢が無惨にめくられ、女の恥ずかしい部分が、むき出しになっている。  この女性は、襲撃者に対して、どのような抵抗を見せたのだろうか。  むき出しの柔肌は、いたるところに泥が付着している。  白足袋も、付近の枯れ草の中から見つけ出された草履も、泥まみれだった。  女の容貌が生前の美しさを保っているだけに、下半身の乱れは、なおのこと、凄惨な印象を与える。 「ひでえことをしやがる!」  発見者は、貸しボート屋の従業員二人だった。  従業員の一人は現場に残り、一人が、近くのホテルへ駆け込んだ。  一一〇番は、湖畔のホテルからかけられた。  それから十五分と経《た》たないうちに、河口湖大橋の向こうに、パトカーのサイレンが聞こえてきた。  山梨県警河口湖署の捜査員が現場に立ったのは、六時半を、少し過ぎた頃である。  太陽が昇り、霧は、さらに薄くなったけれども、湖は、ひっそりと、夜の静けさをそのまま保っていた。 「寒いな」  刑事の一人は、黒いコートのえりを立て、だれにともなく、つぶやいた。 「こんな寒い湖畔で、何てことだ」  刑事のつぶやきは、そんなふうに、つづいた。  美貌の死者は、身元を明かすものを、何一つ所持していなかった。  ハンドバッグは、現場近くの、ポプラの木の下で発見されている。  しかし、オーストリッチのバッグの中には、十万円余りの現金と、簡単な化粧道具が入っていただけだ。  身分証明書の類はなかった。  だが、現金がそのままになっているところから察して、物盗りの犯行でないことは推定できる。 「通り魔の凶行でしょうか」 「夏ならともかく、こんな季節に、早朝の痴漢というのも妙だな」  ベテラン刑事にしても、戸惑うばかりだった。  絞殺に用いられたのは、ベルトのようなものと判断された。  しかし、付近一帯を懸命に捜索しても、凶器は見当たらない。  死後およそ一時間半。  すなわち、 「午前五時頃の犯行と思われます」  と、警察の嘱託医は言った。 「五時か。まだ暗いな」  コートのえりを立てた刑事は、ポプラの木の、高い梢に目を向けた。  現場から一番近いホテルでも、五百メートルの距離があった。  それでなくとも、晩秋の河口湖畔は、朝が遅い。  早朝の目撃者を期待するのは、無理だろう。  ともかく、人気の少ない場所なのである。 「犯人《ほし》もそうだが、ホトケさんもまた、何だってそんなに早くからこうした白樺林の中を歩いていたのだろう?」  と、刑事はつぶやく。  だが、幸いなことに、和服の女性の身元は、事件が発覚してから、一時間と経たないうちに割れた。  騒ぎを聞きつけた、対岸の旅館からの届け出だった。 「お客様がお一人、行方が分からなくなりました」  番頭が、河口湖署へ飛び込んできた。  宿帳には、田中紀江、三十六歳と記されている。  住所は徳島県徳島市となっている。 「四国の女か」  刑事は腕を組んだ。 「この女性客、連れはいなかったのかね」 「はい、お一人でした」  早速、遺体の確認となった。  旅館の番頭は、死者を一目見るなり、 「間違いありません」  声を詰まらせた。 「間違いなく、昨夜、当方《うち》へお泊まりいただいた、お客様です」  初老の番頭の、横顔が強張《こわば》った。  田中紀江には、本当に同行者がいなかったのか。  そう感じさせるのは、美貌と、息絶えても消えない、色気ゆえだった。  これだけの美女だ。  湖畔の宿を人目を避ける密会《デート》の場にしたことも、十分考えられるのではないか。  事実、田中紀江は、昨夜は夕食後外出し、部屋には戻った気配がないというのである。  デート相手は、別の宿を、予約していたことになろうか。 「落ち着いた方でした。どこか、いいところの奥様という感じでした」  と、番頭は言った。  いずれにしろ、犯行時刻は早朝なのだから、昨夜、田中紀江は、湖畔のどこかに投宿しているはずだ。  どうしてそのような面倒をしたのか分からない。 「やはり、男かな」  そう言ったのは、陣頭指揮をとる刑事課長だった。  徳島県警への問い合わせに並行して、湖畔一帯の、旅館に対する聞き込みが、開始された。  しかし、どこの旅館でも、田中紀江に該当する女性が訪れた事実は、浮かんでこなかった。  犯人であるかもしれない男性客が、旅館を抜け出した確証もつかめない。  ただ、大半の旅館に盲点があった。  旅館は、ほとんどが、湖に面して庭をとっている。  一階の宿泊客であるならば、庭下駄を突っかけただけで、部屋からの外出が自由なのである。  帳場では、庭先から出入りする宿泊客を、一々チェックするわけにはいかない。  そこで、コートのえりを立てた刑事たちは、行動が自由な一階の男性客を、シラミつぶしに当たってみたが、確かな線は出てこなかった。  尋問する相手は、単なる宿泊客だ。  正式な被疑者ではないから、あまり突っ込んだ質問もできない。  シーズンオフのため、宿泊客はそれほど多くなかった。  旅館の聞き込みは、午前九時頃には、ほとんどが完了していた。  この時点での結論は、「手がかりなし」である。  初動捜査が一段落した頃、そっと河口湖町を離れる乗用車があった。  ホワイトのカローラ。  くわえたばこで、ハンドルを握っているのは、藤田英明である。  湖畔の国道137号線を走り、中央自動車道のインターチェンジに向かってスピードを上げながら、藤田は、せわしなくラークを吹かしつづけていた。    2 (畜生! どうしてあんなに早く発見されちまったのか!)  藤田は、アクセルを踏む足に力を込めてつぶやく。  濃紺のダブルが似合う藤田は、三十五歳という実際の年齢よりも、落ち着いた印象を与える男だった。  彫りの深い横顔である。  一見したところ、少壮実業家といったタイプだ。  実際、藤田英明は、動くコンビニエンスストア『フジ』社長の肩書を持っている。  しかし、だれもいない乗用車の中で繰り返すつぶやきは、その肩書とか風貌に似つかわしくなかった。  寝不足のせいか、顔色も黒ずんでいる。 (十一月だぜ。何だって、あんなに早くから、貸しボート屋の従業員が、歩いていたのだろう?)  藤田はラークをもみ消した。 (まったくヤバイ話さ。へたをすれば、あの場でつかまっていたかもしれない)  藤田はつぶやきを声に出して、大きく、左にハンドルを切った。  富士の裾野は、紅葉の盛りだった。  紅葉の中を走るホワイトのカローラは、何の不審も抱かせなかった。  乗用車を運転する男が、湖畔殺人事件の真犯人だなんて、だれ一人として想像する人間はいなかっただろう。  だが、この藤田英明こそ、間違いなく、四時間前の殺人者だったのである。  さすがに、表情は、いつもとは違っている。 (でも、オレがつかまるはずはない)  とする自信が、一方にあった。  東京に住む藤田と、徳島の人間である田中紀江。  二人の裏のつながりを知っているのは、藤田の愛人、吉沢麻理だけだ。  どこをどう突っつかれたって、藤田を紀江と結びつける線は出てこないはずである。  しかも、最悪の事態を予感して、昨夜の藤田は、架空の住所を宿帳に記し、偽名で宿泊しているのである。  殺人の実行に際しては、手袋を忘れなかった。  暴行されたように見せかけてはいるが、藤田は、紀江の肉体に接していない。  生来の好色ゆえに、仮死状態の紀江を弄《もてあそ》んだのは事実だ。  しかし、それだけなのだ。  早朝の冷気の中では、肌を接する気にはなれなかった。  紀江の抵抗も激しかった。  が、何と言っても、藤田を思いとどまらせたのは、耳元に残っている吉沢麻理のアドバイスだった。 『あんた、どのようなことがあっても、絶対に、変な気を起こしては駄目よ』 『ばかだな。嫉《や》いているのか』 『何言ってるのよ。女性の中に残してきた体液から、血液型が割れるという話を読んだことがあるわ。証拠になるものは、チリ一つだって残さないのが賢明よ』  と、麻理は繰り返した。  結果的に、藤田は、麻理のことばを忠実に守ったわけである。 (麻理も大した女だ)  ふっと、そんなふうにつぶやき、 (オレが警察から追われる心配は、何もないのだ)  藤田は自分を納得させていた。  藤田英明という殺人者を乗せたホワイトのカローラは、予定どおり、中央自動車道に入った。  カローラは次第にスピードを上げ、東京都内へ向けて疾走した。  湖畔と違って霧はなく、晩秋の空は晴れ渡っている。  一方、徳島県警からの警察電話が、捜査本部に入ったのは、その日の午後である。  それにより、田中紀江が、徳島市内に住む未亡人であることが分かった。  どういういきさつがあったのか、紀江は三年前、貸しビル業を営む田中慎次の後妻におさまっている。  田中は当時五十二歳だったというから、紀江とは、相当な年齢の開きがある。  田中慎次は今年の六月、阿波池田で交通事故に遭って他界し、 「以来、彼女が貸しビル業を引き継いでいます。所有しているのは八万町にある四階建て八室のビル一棟だけですが、女性のわりには、遣《や》り手だそうです」  という、徳島県警の報告だった。  田中夫婦の間には、子供がなかった。  親しくつきあっていた身寄りもいない。  紀江が、何ゆえ遠く離れた、山梨県の河口湖へ出かけてきたのか、簡単には確かめようもなかった。  徳島市内の自宅を出たのが、二日前であることだけは分かっている。  しかし、河口湖までの足取りが、定かでなかった。  湖畔の旅館への投宿は、観光案内所の仲介だった。  手がかりとなるような、紹介者はいない。  河口湖署の捜査本部では、とりあえず二人の刑事を、徳島へ出張させることにした。  犯行が行きずりのものでないとしたら、解明の糸口は、被害者の生活圏にある、と、そう判断したためだ。  紀江の、旅行の目的を知ることが先決である。  しかし、徳島で、確かなものをつかむことができるかどうか。  すべては、藤田英明と、吉沢麻理の、計画どおりに運ばれたといえる。  捜査本部が慌ただしい動きを見せている頃、藤田を乗せたカローラは都内に戻り、藤田は代官山近くの、麻理のマンションに帰っていた。  東京も珍しくスモッグがなくて、空はきれいに晴れている。  麻理の部屋は、3DKの間取りだった。  九階建ての六階。  すぐ眼下には、東横線が走っており、その先には渋谷の繁華街が見える。 「ゆうべは、ろくに眠っていないんでしょ。ともかく、シャワーでも浴びてくるといいわね」  と、麻理が誘った。  部屋には、午後の明るい陽が差し込んでいるのに、麻理は薄いピンクの、ネグリジェ姿だった。  ネグリジェは透けていて、白い肉付きのいい肌と、花柄のパンティーがのぞいている。  しかし、藤田は、いつもと違って、その麻理の体を、いきなり抱き寄せるようなことはしなかった。 「シャワーは、テレビのニュースを見てからにするよ。ビールでも出してくれないか」  藤田の口調が重かった。 (おれが追われるはずはない)  そう思う反面、やはり一抹の不安感は隠せないようだった。    3  だが、湖畔の殺人は、テレビのニュースでは報道されなかった。  その日の夕刊でも、小さい記事となっていたのに過ぎない。  夕刊は、その大半が、東西両ドイツの交流、ベルリンの壁に関するニュースで、埋まっていた。  田中紀江については、 『行きずりの犯行か』  と、十行足らずで触れてあるだけだった。 「あの女のことは、もう、きれいさっぱりと忘れるのね」  麻理もビールを飲み始めていた。  街には、いつの間にか、宵闇が下りており、マンションの六階から見下ろす繁華街は、ネオンの彩りが目立つようになっている。  麻理は窓のカーテンを引いた。  藤田は気を取り直したように、シャワーを浴び、半裸のまま、ベッドが置かれた部屋に戻った。  ビールに酔い、熱いシャワーを浴びたことで、前夜来の疲労が、一遍に、表面に出ている。  それともそれは、犯行が予定どおりに完了されたところからくる、ほっとした気の緩みのせいなのか。  そうかもしれぬ。  藤田は、けだるい疲労の中で、欲情が背筋を這《は》い上がってくるのを感じた。 「おい、馬になれ!」  藤田の口調と表情が、ふいに、乱暴なものに変わっている。  ネグリジェ姿でビールを飲む麻理。  その麻理を見詰めるまなざしが、ぎらぎらと光ってくるのが自分に分かった。  藤田は、ベッド脇に脱ぎ捨ててあるズボンからベルトを抜いた。  今朝方、田中紀江を絞殺するのに使用したベルトである。 「早くしろ。やい、馬が嫌ならドレイになるか」  ベルトを握り締めた藤田は、背後から麻理の肉付きのいい肩に手をかけて、その体の向きを変えさせた。 「あんた!」  振り返った麻理の瞳にも、複雑で、微妙な輝きがあった。  人に隠れた、セックスの快楽によって結ばれている二人なのだった。  ついさっきまで、会話の主導権を持っていたのは麻理のほうであったが、藤田がベルトを握り締めたことで、二人の立場が変わっている。 「嫌よ」  麻理は何かを期待するように、わざと馬にはならず、ダブルベッドに、浅く腰を下ろした。 「何だ、その態度は! おまえ、オレの言うことが聞けないのか!」  藤田はさらに乱暴な行動に出ると、麻理のネグリジェを外した。  花柄のパンティーを取った。  そして、そのまま麻理を下向きにさせると、その白くて柔らかい背中に、ぴしり、と、ベルトを叩きつけるのである。  これが、二人のプレーが開始されるときの順序だった。  女の柔肌を、徹底的に痛めつけなければ興奮しない男と、男に責められなければ燃え上がってこない女。 「さあ、ここにひざまずくんだ。今夜は、いくら謝っても、許してやらないからな」  藤田は麻理の腰をけり、カーペットに倒れた、その白い裸身に、ベルトを振り下ろしていく。  もちろん、その藤田のセリフは、演技に決まっている。  そして、演技と実際との見境がつかなくなるとき、マンションの閉ざされた部屋には、二人にのみ通じるセックスの恍惚が、訪れてくるのである。  ひょっとしたら、藤田と麻理が企てた一連の犯行も、こうした性癖と表裏一体の関係にあったと言えるかもしれない。  そう、そうに違いない。  田中紀江殺害は、一連の犯罪計画の、延長線上にあった。 『何も、殺さなくてもいいじゃないか。あまりうるさく言うのなら、彼女にだけは、出資金を返してやればいい』  藤田は渋ったが、麻理は、頑として応じなかった。 『一事が万事よ。そんなことをしたら、他の出資者にも動揺をきたすかもしれないわ。面倒は、一つ一つ消していくに限るわ』 『しかし、おまえ』 『何とか理由をつけて、およそ関係のない場所へ連れ出して、片をつければいいじゃないの』 『おまえって、恐い女だな』 『何言ってるのよ。集めるだけ、お金を集めたら、あとはあたしのマンションで、騒ぎが静まるのを待てばいいんだわ』  出資者たちに勘付かれないうちに、年内に雲隠れする。  正月は香港旅行でも楽しもうという話は、前から二人の間に上がっていた。 『いまさら、善人づらしても仕様がないでしょ』  と、麻理は藤田をそそのかした。  とても、二十八歳の女のようには見えなかった。  長いことクラブのホステスをしていた過去が、麻理に独得の度胸をつけさせていたのだろうか。  しかも麻理は、藤田の責めを受けなければ一週間だっていられないくせに、逆に、それを利用していたのだった。 「ねえ、今夜はシャワーで苛《いじ》めて」  粘りつくような、ささやきを藤田の耳元で漏らすとき、そこには、 『あたしのような女は、簡単にはみつからないのよ』  という意味が込められていた。  それが分かっていながら、藤田は麻理の主張に克《か》てなかった。 「おまえは、ドレイのくせに、オレに命令したのだな!」  藤田は、コンポのボリュームを上げて、FM放送をかける。  隣室の注意を避けるためだった。  藤田はベルトを持ち直し、 「おまえみたいな女は、徹底的に懲らしめてやる!」  右手に力を込める。  演技と実際との区別のつかなくなるのが、こうしたときである。 「さあ、いつものようにやるんだ!」  藤田は、やがて、自らも下のものを外すと、叩きのめした麻理の顔の上に腰を下ろし、あることを命じた。  コンポのFM放送は、そうした二人とは関係ないかのように、クラシック音楽を流している。  麻理の嗚咽《おえつ》が、どうしようもないほどの、恍惚のそれに変わっていた。    4  藤田が、一定の社会生活を踏み外したのは、麻理との出会いが、きっかけとなっている。  それだけは、間違いない。  埼玉県下の中流の家庭の三男として育ち、東京の私立大学を卒業した藤田は、千代田区に本社を置く商事会社の、平凡なサラリーマンとなった。  一流ではないが、東証二部に上場されており、世間では知られた会社だった。  待遇も悪くなかった。  もし、何事もなければ、藤田はサラリーマンとして、平穏に、定年までつとめ上げることになっていただろう。  しかし、昼間のおとなしい表情とは裏腹に、夜の藤田は、その歪んだ欲望をおさえることができなかったのだ。  藤田にとって、それは、先天的なものであったと言えるかもしれぬ。  藤田は、三十五歳になる今日まで、二度の見合結婚をしている。  二度とも、一ヵ月と経たないうちに、破局を迎えた。  異常なまでに、女体を責めつけなければ、燃え上がらなかったためである。  まともな新妻が、ムチとロープの仕置きに堪えられるわけはない。 (勝手にしやがれ!)  藤田は、二度目の妻にも逃げられたとき、自暴自棄に陥った。 (どうにでもなりやがれ!)  こつこつと会社勤めをしていても始まらない、という気持ちになっていた。  脱サラリーマンということが、一般の人々とは別の意味で、藤田の希望となった。 (金だ!)  金さえあれば、どのようにでも好きなことができる。  濁った脳裏でそう考えた。  新宿歌舞伎町のクラブへ遊びに行って、麻理と知り合ったのが、そうした、もやもやとしていた矢先である。  今年、二月の初めだった。  いらだっている藤田は、乱れた酔い方をし、思わず、歪んだ本能がちらついた。  それを敏感に受けとめたのが、同じ好みを持つ麻理にほかならなかった。 『あたしってねえ、子供の頃から、男の人に責められるのが好きだったの。あたしのマンションにこない? いろんな責め道具があるわよ』  麻理のほうから、誘いをかけてきた。  藤田は、その潤んだような麻理の瞳の輝きに、自分の反映を見たと思った。  こうして二人は、だれにも想像のできない形のセックスによって、結ばれたのだった。  その夜を境にして、藤田の人生は、暗い坂道を転がり始めた。  二人のようなセックスに、贅沢《ぜいたく》は欠かせない。  そのための大金を得たいと考える点でも、藤田と麻理は、初めから一致していたようである。  藤田が商事会社をやめ、名目だけの株式会社、動くコンビニエンスストア『フジ』を始めたのも、麻理の入れ知恵だった。 (楽をして大金を握るのは、合法的な詐欺に限る)  麻理は、最初からそうした考え方を持っていたようである。  長いホステス稼業の間に、客から聞きかじったことが、根底にあったのかもしれない。  動くコンビニエンスストア『フジ』の設立は、その第一着手だった。  会社を設立するには、商法に定められた正規の手続きを踏まなければならない。  しかし、藤田と麻理は、そんなことは無視した。  申請に必要な総会議事録などは、勝手に作成して、法務局出張所へ、登記のための提出を済ませたのだった。  それが三月の下旬であり、四月から、二人の�営業�は開始された。  当然、これは、公正証書原本不実記載、同行使の罪に問われるわけであるが、そんなことにかまっている藤田と麻理ではなかった。  二人は、早速、出資者を求めての宣伝にとりかかった。  主として、地方新聞を利用したのであるけれども、 『生鮮食料品を産地から消費者に直結』  をキャッチフレーズとして、出資を勧誘したのだった。 『新聞の広告代だって、ばかにはならないぜ。こんなことが、うまくいくのかな』 『世の中には、カモが少なくないのよ。慌てないことね』  麻理は、妙に自信たっぷりだった。 『あんた、インチキ通信販売で大儲けした話、聞いたことないの?』  と、しゃべったりもした。  そして、果たせるかな、広告を繰り返すうちに、机一つを借りただけの神田の事務所に、問い合わせの手紙が舞い込むようになったのである。 『これからが、腕の見せどころよ』  麻理は得意満面だった。  麻理と藤田は、それがたとえ九州であろうと、四国であろうと、手紙の主を求めて飛んで行った。  そして、出資を希望するのが、その土地の人だけであるかのように、切り出すのだ。 『実は、当地に流通センターを設立することになりましてねえ』  売り上げの二十五パーセントを、配当するというふれ込みだった。  市の商工会議所の、全面的なバックアップを受けている、と、ことば巧みに並べ立てるのである。 『本格的に活動するのは来年の四月からですが、登記の手続き上、出資のほうは年内に締め切らせていただきます』  こんなうそは、ちょっと調べれば、すぐに見抜けるはずだ。  しかし、藤田と麻理の計画は、着々と成功していった。  商法に疎《うと》い未亡人を、重点的に選んでいたためだろう。  小金を持つ人間が、二十五パーセントの配当に目を奪われたとしても、無理とは言えまい。  しかも、出資希望者はいくらでもおり、予定額に達したら申し込みは打ち切る、と、駆け引き十分に急《せ》かすのである。  これが、人間のおかしな一面だが、新聞などでいくら詐欺事件が報道されても、自分だけは別だという本能的な盲信がある。  こうして、十一月までの七ヵ月間に、四十三人の未亡人や主婦たちから、驚くなかれ、八千七百万円余りを、藤田と麻理は巻き上げたのだった。  二人は、隠れ家用に代官山のマンションを借り、ホワイトのカローラを買った。  四月になれば、嫌でも、藤田と麻理の犯罪は明るみに出る。 『それまでに、キャッシュをもっともっと掻《か》き集めなければ』  と、二人は話し合い、労せずして得た大金を数えながら、マンションの閉ざされた一室で、セックスプレーを楽しんできた。 『四月以前にことが発覚して、大騒ぎになったりしないだろうな』 『何言ってるのよ。そのために、出資者たちの横の連絡を絶ってきたのじゃなくて?』  その点でも、麻理は抜かりがなかった。  出資希望者が殺到しているので、具体的な発足を見るまで、 『あなたの参加は内密にして欲しい』  と、もっともらしく、一人一人に念を押しているのである。  従って、本来なら形式的にしろ開かれなければならないはずの設立説明会も、省略したままになっている。  何とも、ひどい話だ。  出資者のだれか一人が、不審を抱かない限り、藤田と麻理は、十分な時間的余裕を持って、逃亡計画を立てられる、というわけだ。  しかし、その一人が現われたのである。  それが、徳島市に住む、田中紀江にほかならなかった。  紀江は、この幽霊会社に、三百万円を�投資�させられていた。    5 『カモは続々と名乗りを上げてきているのに、いま警察に届けられたりしたら、すべてが水の泡だ』 『問題は、田中紀江一人でしょ。彼女を消してしまえば、いいのよ』  麻理は、こともなげに言い放った。  異性から責め抜かれることに歓びを感じるタイプであるはずなのに、こうした女の内面には、まったく相反するものも棲《す》んでいるらしい。  こうして、麻理の計画どおりに、田中紀江は、遠く離れた河口湖へ呼び出された。  河口湖畔のホテルで、幹部会が開かれるという口実だった。 『�フジ�の経営にご不審があるのでしたら、同席されたらいかがですか』  と、麻理は、徳島の田中紀江に市外電話をかけた。  紀江が、二つ返事で応じたのは、言うまでもない。  そして昨日の夕方、打ち合わせどおりに、河口湖町のバス停に紀江を迎えた藤田は、紀江の宿泊先を確認した上で言った。 『幹部会は明日、私の泊まっているホテルで開かれます。しかし、いまから事前の話し合いがあります。よろしかったら、それにも同席しませんか』 『そうさせてもらいます』 『では、夕食を終えた頃を見計らって、あなたの旅館まで、迎えに上がります』 『あたしのほうから伺います』 『いや、あの旅館は車をつけにくいから、やはりここで会いましょうか。このバス停で、九時にお待ちします』  それも、最初から、麻理と話し合ってきたことだった。  人目を避けるために、バス停で待ち合わせる作戦を採った。  ことは、すべて計画どおりに運ばれた。  いや、ひとつだけ手違いがあった。  紀江への指示はうまくいったが、夜、ホテルの駐車場を抜け出すとき、藤田自身が、ガードマンに見とがめられてしまったのである。  その場は何とか、言い繕《つくろ》った。  だが、これでは夜のうちに紀江を殺害するわけにはいかない。  後で、そのガードマンが証言すれば、自分がマークされるのは目に見えている。  そこで、殺人は朝まで持ち越されたのであるが、最早、紀江に対して言い逃れることばを持たない藤田は、人気のない湖畔でカローラをとめると、いきなり、紀江を縛り上げたのだった。  ドライブ先で麻理とプレーするときのために、ロープは、常に、乗用車内に用意されてあった。 『何をするの!』 『奥さんは、こんなふうにして、かわいがられたことはないのかな』  藤田は、紀江の白い顔にサルグツワをかませながら、麻理とのプレーでは決して味わえない興奮を感じた。  そう、これは演技なんかではないのだ。  縛り上げた紀江を後部座席に転がすと、藤田は、脂ぎった笑みを浮かべて、その着物の裾を割った。 『やめて!』  恐らく、そう叫んだのであろうが、サルグツワのため声にはならない紀江。  自由を奪われた若い未亡人の、必死の抵抗が、歪んだ欲情を倍加させる。  しかし、藤田は、それ以上の行動には出なかった。  何のために河口湖へやってきたのか、目的だけは見失っていなかった。  藤田は、人目に立たないよう、カローラを駐車場に戻した。  横たえた紀江の上に毛布をかけ、慎重に車をロックして、ホテルに戻った。  藤田は眠れないまま夜を過ごすと、まだ暗いうちに、窓から裏庭へ抜けた。  今度こそ、ガードマンに見つかってはいけない。  藤田は、湖畔に流れる冷気を、感じなかった。  人気のない駐車場へ行くと、周囲に注意しながら、カローラのドアを開けた。  紀江を引きずるようにして、湖畔の白樺林へ急いだ。  一晩中、狭い車内に閉じ込められていた紀江は、寒さもあって、ほとんど息も絶え絶えだった。  その力の抜けた白い肌を、ゆっくりとまさぐった上で、藤田は、ベルトを、紀江の白い首に巻きつけたのである。 『がたがた騒ぎ立てなければ、命まで失くすことはなかったのに』  無意識のうちに、そんな勝手なつぶやきが漏れていた。  藤田英明と、吉沢麻理が逮捕されたのは、それから四日後である。  二人の犯行は、予想もしなかったところから、アシがついた。  発端は、徳島市内の田中紀江の自室から発見された、一枚の名刺だ。  紀江が河口湖へ出かけた目的は何か。  それがさっぱり分からない捜査陣は、彼女の住所録や、見つけ出された名刺を頼りに、一人ずつ地道に当たり始めた。  そうした名刺の中に、藤田のものが交じっていた。  二人の刑事が、動くコンビニエンスストア『フジ』の事務所が置かれてある、神田のビルに姿を見せたのは、小春日和の昼過ぎである。  一人は、黒いコートのえりを立てた刑事だった。  藤田はちょうど昼食に出ており、麻理が手紙の整理をしていた。  麻理は慌てなかった。  名刺か、あるいは出資金の領収証が発見されれば、当然、捜査員がやってくるだろうと予想していたためである。 『心配することはないわ。いまは、会社のカラクリを見破られないことだけが、大事なのよ』  麻理は藤田に向かって、何度もそれを口にしていた。  遅かれ早かれ雲隠れするつもりであるし、あの夜、藤田は麻理と一緒に東京都内にいたということで、口裏も合わせている。  証拠は、何もないはずなのだ。 「なるほど。そういうことですか」  黒いコートのえりを立てた刑事は、田中紀江と藤田の名刺との関係を質《ただ》し、 「出資の問い合わせがあって、一度だけ会ったわけですか」  手帳に走り書きをした。  彼は、事件直後に、湖畔のホテルの聞き込みに回った刑事だ。 「すると、最近は、田中紀江さんに会われていないのですね」  刑事は、共同の貸し事務所になっている狭い室内を見回して、ことばを重ねた。  昼食を終えた藤田が、ふらっと戻ってきたのが、そのときである。  メモをとっていた刑事は、 「おや?」  といったように警察手帳を閉じて、藤田の顔を見た。  刑事はすぐに思い出した。 (この男は、あの日、別名で湖畔のホテルに宿泊していた人間ではないか!)  シラミつぶしに当たったホテルや旅館の宿泊客の中に、確かに、この男がいた。  刑事の脳裏を、一条の光が走った。  そして、それが、反射的に、藤田に伝わってきた。  藤田は慌てて、見覚えのあるコートの刑事の視線を避けようとしたが、相手はそれを許さなかった。 「河口湖署の捜査本部まで、同行してもらいましょうか」  ずしり、と、胸の奥に響いてくる、重い声だった。  一瞬、藤田はあらぬ方《かた》を見た。  麻理は、訳が分からないといったように横顔を強張《こわば》らせた。  思わず両掌を握り締めた藤田は、 (何てことだ。あの朝と同じ刑事が、オレの事務所へやってきたなんて)  どうしようもない絶望感が、じわじわと足元から這い上がってくるのを感じた。  共同事務所の他の連中が、一斉に、こっちを見ているのが分かった。 (これで、何も彼《か》も帳消しか)  がっくりと首をうなだれていた。  麻理は、しかし何かに負けまいとするかのように、出資問い合わせの封書を握り締めて、身動きひとつしようとしなかった。  それは、歪められたセックスプレーに耽溺しているときの二人の表情とは、およそ対照的と言えた。  あるいは、こうした気丈な一面が、この女の本質であったのかもしれない。  殺人事件が引き金となって、詐欺事件の捜査も着手されたが、すべてが明るみに出るまでには、時間がかかりそうである。  初出誌 「週刊小説」 殺意の沼地 一九九二年二月二八日号 月下の未遂 一九八八年一〇月二八日号 陥穽の青春 一九八九年四月二八日号 暗黒の九月 一九八九年九月一日号 深夜の影男 一九九〇年七月六日号 野獣の分担 一九九一年一一月二三日号 無援の出所 一九九一年三月二九日号(『空虚な出所」を改題) 湖畔の殺人 一九九〇年二月一六日号     * 本書・単行本は一九九二年五月、実業之日本社から刊行、一九九五年一二月、講談社文庫に収録されました。