筑摩eブックス    江戸川乱歩随筆選 [#地から2字上げ]江戸川乱歩  [#地から2字上げ]紀田順一郎編   目 次  1   乱歩打明け話   恋と神様   旅順海戦館   映画の恐怖   吸血鬼   声の恐怖   人形  2   J・A・シモンズのひそかなる情熱  3   探偵小説と|瀉泄《カタルシス》   |槐《かい》|多《た》「二少年図」   群集の中のロビンソン・クルーソー   スリルの説   幻影の城主   夢野君余談   レンズ嗜好症   もくず塚   活字と僕と   サイモンズ、カーペンター、ジード   うつし絵   羨ましき情熱  4   彼  5   探偵小説に現われたる犯罪心理   枕頭風景   「猫町」   谷崎潤一郎とドストエフスキー   精神分析研究会   ディケンズの先鞭   勘三郎に惚れた話   顔のない死体   変身願望   隠し方のトリック   神なき人   坂口安吾の思い出   蒐集癖   池袋二十四年   透明の恐怖  解説 知的多面体としてのエッセイスト [#地から2字上げ](紀田順一郎)    1     乱歩打明け話  一体僕が物を書くなんてことが、そもそも間違いじゃないかと思っている。文章の心得があるではなし、それといって本を読んではいないのだし、つまり、一言にして尽せば、|素《しろ》|人《うと》の横好きなんだ。元来、僕の専門は経済学なんです。といって、じゃその方は明るいのかと開き直られると、大いに閉口だが、ともかく、学校で教わったのが、それなんです。それが、どうしてかくのごとき|邪《じゃ》|道《どう》に踏み込んだかというと、これで一種の病気ですね。気が多いというか、飽き性というか、おそらく精神病に近いものだと思うのだが、僕だって、学校を出た当座は、大いに|金《かね》|儲《もう》けをやるつもりで、本場の大阪で貿易商の番頭に住み込んだものです。つまり、学校で習った経済学を実地に応用してみようというわけだったのです。  商売は、これでなかなかうまかった。大戦後の南洋貿易で、ちょっとこう勇壮な感じの商売だった。帆船を仕立てて、それにいろいろな日用品を一杯つめ込んで、|野《や》|蛮《ばん》|人《じん》に売りに行く手伝いなんかやった。少しは金儲けもやった。あれを続けていれば、今頃こんなにピーピーしていないんだが、惜しいことをしたと思っても、今さら致し方がない。  なぜ貿易商をよしたかというと、いろいろ原因があった。一つは、貧乏書生が少し|纏《まと》まった金を持ったために、まあ|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》に云えば、魔がさしたんでしょう。いささか遊んだのです。お恥ずかしい話だけれど、その当時まで僕は女というものを知らなかった。二十三でしたか。知ったような顔をしていて、実はそうでなかった。そのくせ、十七、八の中学生時代に、友達を語らって、|曖《あい》|昧《まい》屋なんかへ足ぶみして、大目玉を|頂戴《ちょうだい》したこともあるんだけれど、妙に童貞を守っていた。しかし、これは一向自慢にならない。|理《り》|窟《くつ》があって行儀よくしていたのではなく、恥ずかしがっていたんだから。つまり卑怯者だったのですね。  ところで、だんだん話が枝道へ入るけれど、その僕が十五歳の時に初恋をやった話があるのです。もっともそれまでにも、七、八歳の時分からそれに似たものがないではなかったが、意識的な、まあ初恋といっていいのは、十五歳(かぞえ年)の時でした。中学二年です。お|惚気《の ろ け》じゃありません。相手は女じゃないのだから。でも、まあ同じようなものかもしれない。つまりよくある同性愛のまねごとなんです。それが実にプラトニックで、熱烈で、僕の一生の恋が、その同性に対してみんな使いつくされてしまったかの観があるのです。少しばかり甘い話なんです。  僕は今でこそ、三十になるやならずで(その実三十三歳なのだが)五十歳のごとくはげあがって人前に出るのも恥ずかしいていたらく[#「ていたらく」に傍点]だけれど、当時、十五歳の若衆時代には、これでなかなか色っぽかったものである。僕の中学校は名古屋在にあったのですが、今のように開けなくて、学校はできたばかりの豚小屋みたいなバラックだし、校庭には名物の大根が植わっていて、われわれはそれを引き抜いて、地ならしをするのが課業外の課業だった始末で、市中からそこへ通学するには、一里くらいも畑の中のあぜ道を、雨の日なんかはドロドロになって歩かねばならなかった。その途中に何かのお|社《やしろ》があって、|鎮《ちん》|守《じゅ》の森という奴ですね。そこに夕方なんか村の|子《こ》|守《もり》っ|児《こ》が、例の向こう鉢巻をして、|洟《はな》たれ小僧をおぶって、沢山遊んでいる。そいつらが、僕の通るのを発見すると、「ええ子、ええ子」(美少年の意)と叫んで、からかうのです。一人だったら怖いし、連れがあれば、実に何とも云えない|屈辱《くつじょく》を感じて、夕焼けのように赤くなる。そいつを又、同級の者共が(僕達が第一回卒業で、上級生はなかったのだ)面白がって、僕のことを教室でも「ええ子、ええ子」というのです。実に思い出しても、ゾッとするいやないやな感じでした。  それというのが、当時は、昔流のヒロイズムが盛んで、非常に偽善的で、|空《から》威張りで、|女《め》|々《め》しいことが大禁物だった。先生を始め「柔弱」という言葉を盛んに使って、それが極度の|軽《けい》|蔑《べつ》を意味することになっていた。だから、「柔弱」を意味する「ええ子」なんてあだなは、今諸君が想像されるより、幾十層倍、いやないやな感じを与えたのです。  級中でも年も若く、身体も小さく、気も弱かった。そこへ持って来て今の「ええ子」なんだから、|稚《ち》|児《ご》さん役にもって来いです。いろんな奴が云い寄るのですね。むろん、十八の娘のように赤面して、そらっぽを向いて、そ知らぬふりで、その場その場を逃げたものです。僕の中学ではこんなことがなかなか盛んで、僕のほかにも稚児さん役は大分あった。誰さんと誰さんてわけですね。うき名が立つのです。でも、けがらわしい関係はあまりなかった。僕なんかきわどいところまで行ったことはあるけれど、一度もそんな経験はなかった。主にプラトニックなんです。  それに|附《つけ》|文《ぶみ》が盛んだった。感傷的な美文なんかでやるのだ。僕も大分貰ったが、大抵返事をしない。たった一人、どうにも断り切れないで、返事をしたのがある。今から考えるとその男も美少年に相違なかった。秀才で、画が上手で、剣術が強い。芝居の娘なら早速惚れようって男でした。この男が、他の中学の上級生に頼んで、その頼まれた男が又、町で名うての腕っぷしの強い不良だったのですが、その|獰《どう》|猛《もう》なのが僕に呼び出しをかけて、ほの暗い露地の隅で、僕の同級の今の男の云うことを聞けと脅迫するのです。ふるえ上がりましたね。かぶりを縦にふってしまいました。その男の捨て|科白《ぜ り ふ》がね、あとになって不承知でも云ってみろ、ただは置かないぞ、てんです。そして、ふしくれ立った腕をギュウと曲げて見せる始末だ。  もっとも、同級のその附文をした男も、まんざらでもなかったらしいのだが、僕は早速返書を|認《したた》めた。色よい返事ですね。そして、まあ盛んにラヴレターのやり取りをやったものです。それから間もなく、暑中休暇が来て、先生につれられて知多半島へ海水浴に行った。生徒中の有志が皆出かける、お寺を宿にして、二週間なり三週間なり身体をきたえて来るのです。  行くと|早《そう》|々《そう》僕は病気をやって、それも大したことではなく、海へ行かぬだけで、別状なく飯も食うし、本も読むといったふうで、お寺の涼しい座敷にブラブラしていた。碁盤を持ち出して仲の|好《よ》い連中と、五目並べなんかやっていた。海が近いので磯くさい匂いが部屋に浸み込んでいる。畳は赤ちゃけていたが、軒が深くて、向こうの方にクッキリと白く、庭の日当りが見えている。池、|石《いし》|灯《どう》|籠《ろう》、|蝉《せみ》の声、今でも目に浮ぶようです。  夜は幾つも|蚊《か》|帳《や》を釣って、一つに四、五人ずつ寝る。蚊帳へ入ってからも大変な騒ぎです。兵隊上がりの小使いが、ラッパがうまくて、物悲しい調子で消灯ラッパを吹く。それからは騒げないことになっていた。ヒソヒソ話に変るのですね。ところで、多分企らんだことでしょうが、今云った相手の男と僕と一つ蚊帳で、その上ほかの連中が気を|利《き》かして、僕とその男と隣同士に寝かせるのです。僕は別段、それをいやに思うほどではなかった。ちゃんと覚悟をきめていた。どうも変な男で、おぼろげながら|虐《しいた》げられる快感といったものを、当時知っていたのですね。ところがどうしたものか、相手はそれを知らない年ではないのに、いやに堅くなっている。毎晩別状なく済んでしまう。いささか物足らない感じなんです。そればかりか、相手の男は、何と思ったのか、芝居がかりに、短刀などを蚊帳の中へ持ち込んで、チカチカと抜いて見せる。何でそんなことをしたか、観念している僕の心持がわからなくなったのか、いまだに彼の意図を理解することができません。そしてそれっきりで、何の関係もなくすんでしまったのです。それから後もずっと。  彼との関係がそんなであったにもかかわらず、噂の方はだんだん大きくなり、短刀をひらめかした話など先生の耳に入った。そして、面倒な問題になってしまったのです。お寺の本堂脇の一段高くなった小部屋に、先生が二人いて、そこへ僕は呼び込まれた。一人は学校を出たばかりの若い先生だったが、先生の方でも、妙にはにかんでいるんです。 「君は誰それと一緒の蚊帳に寝ているか。|脅迫《きょうはく》されたことはないか。|夜《よ》|半《なか》に変ったことがなかったか」  云いにくそうに、そんな尋ね方なんです。僕も真赤になっちまって、「いいえ」といってうつむいたものです。でも、短刀をひらめかしたことは、証人のある事実だものですから、どうも怪しいということになって、先生から親父の所へ至急親展の手紙が出される。僕には数人の見張番が付く。相手の男も同様。むろん蚊帳は別にされてしまった。  相手の男はひどく叱られたらしい。でも停学にもならなかった。僕の方は別に叱られはしなかったが、家へ帰るまで、同級生の見張りがつけられたりして、それ以来、先生にはもちろん、同級生達からも一種の変な目で見られるようになった。まあ注意人物なんです。その時の恥ずかしいような、あるいは身のすくむような、その気持というものはなかった。死ぬよりもつらい屈辱感が、僕をすっかりだいなし[#「だいなし」に傍点]にしてしまった。  これがまあ、僕の稚児さんとしての最も深い印象なんです。で、その事件はそれで一段落ついたのですが、お話というのは、もう一つ別の事件なので、それが先に云った僕の初恋なわけです。同じ級に、これは年輩も|背《せ》|恰《かっ》|好《こう》も僕ぐらいで、やっぱり相当有名な美少年がいた。この男もほかの中学の不良連にまで知られ、時々追い回されていたものだが、どうしたきっかけ[#「きっかけ」に傍点]であったか、どちらが口を切るでもなく、その男と僕といい仲になった。もっとも全然プラトニックなもので、顔を合わせると、双方がはにかんで、ろくに口もきけない始末だった。彼も僕も数え年十五の年だったと思う。その代り、ラヴレターは盛んに書いた。そりゃもう、ずいぶんだらしのないことを書いたものです。その文句のあるものは今でも覚えているが、中に、「君を食ってしまいたい」なんてものもあった。うわべだけでなく、|心《しん》からプラトニックにそんなふうに思っていた。どちらが稚児さんというわけでなく、双方対等の立場で、男女のごとく愛し合った。実行的なものを伴わないからこそ、そんな真似ができたのです。  当時僕は、内気娘の恋のように、昼となく夜となく、ただもう彼のことばかり思いつめていた。いつとなくそれが同級生に知れ渡って、いろいろにからかわれる。そのからかわれるのが、ゾクゾクするほど嬉しいのです。うわべは顔を赤らめながら、内心無上の|法《ほう》|悦《えつ》を感じているのです。彼に逢えば、堅くなって口がきけない。一緒に散歩することなんかあると、ちょっと二人の身体がふれ合ってもゾクッと神経にこたえる。手を握り合ったりすれば、熱がして身体が震え出す始末です。それでやっぱり手が握りたい。こちらから握るよりも、先方から握って欲しい。  今でもよく覚えているのは、ある第三者の友達の家で落ち合って、その男の見ている前で、こっそり手を握り合った嬉しさです。その男の机に節穴があいていて、僕が上から指を入れると、相手の彼が、下からこっそり握ってくれるのです。あの気持は、その後だれに対しても、どんな女性に対しても、味わったことがありません。ところが、そんなでいて、僕達は最上のものが握手で、キッスでさえ経験しなかったのですよ。このようなプラトニックな恋はちょっと珍しくはないでしょうか。  だが、悲しいことには、異性の恋が短い以上に、同性の恋は瞬間的です。やがて、三年四年と級が進むに従って、相手の口辺に薄髭が生え、僕の紅顔にニキビが出はじめた。いやそんなになる前に、何が理由であったか忘れてしまったが、二人の仲は、いつとなく遠々しくなっていたようです。そして、間もなく、彼は中学校を終えないで、病のためにはかなく世を去ってしまいました。  そういうわけで、僕の持っていた恋というものは、性的な事柄をまだよくわきまえない少年時代に、しかも同性に対して、注ぎ尽された感があるのです。そうでも解釈しなければ、その後の恋知らずな僕の心持をどう考えればいいのでしょう。むろん異性に魅力を感じないわけではない、外見上恋とも見えることは一度ならず二度ならず経験した。でも、それらは皆、どうもにせ物みたいな気がするのだ、性的関係が伴うせいか、何だか不純な、したがってほんとうの恋でないような気がするのだ。  だから、最初に云った、貿易商で儲けた金で遊びを始めたというのも、異性を知ったという肉体上の原因から来る、いわばきたないものであった。プラトニック時代には、聞いただけでも|嘔《おう》|吐《と》を催した、|都《ど》|々《ど》|逸《いつ》、|端《は》|唄《うた》の類をみずから歌った。|野《や》|卑《ひ》な踊りも嫌いでなくなった。プラトニックな感じとは、まるで相容れない、あの三味と太鼓の|淫《いん》|猥《わい》なリズムを喜ぶようになった。同時に、おめかしで磨き上げた僕の顔から、プラトニックなものが全く影をひそめ、それに代って、現に大人の誰でも普通としているような、いわば人間的な、あるいは動物的なものが現れて来た。それで何もかもおしまいだという感じだった。  さて、話が枝から枝へ渡って、最初云い出したことをまだ少しも続けない内に、かなりの枚数になった。僕の最初の意図では、学校を出て第一に試みた貿易商になぜ失敗したか、それに続く、工場書記、古本屋、経済雑誌記者、東京パック編集、支那ソバ屋、新聞記者、弁護士の手伝い、労働運動の書記、市役所の腰弁、化粧品製造業、毎日新聞の広告取り等々々を、どれもこれも半年ないし一年でよすに至ったか、さらに学生時代に|溯《さかのぼ》っては、活版屋の小僧となっていかに|南《なん》|京《きん》|虫《むし》に苦しめられたか、筆生となっていかにみじめな生活をしたか、いかにして代議士の子分になったか、株屋さんの英語の家庭教師となって、いかに閉口したか、市立図書館の番人となって、いかに忠実に働いたか、等々々に至るまで、そして最後には探偵小説家の悲哀に|言及《げんきゅう》して、この身の上話を終ろうとしたのであるが、雑誌の余白もないことだろうし、読者も飽きただろうし、僕も実は少々いやになったから、これで|一《ひと》|先《ま》ず筆を|擱《お》く。もし書きたくなれば、次号にでも続篇をのせていただくことにしましょう。 [#地付き](「大衆文芸」大正十五年九月号)     恋と神様  小学校の一、二年の頃だと思う。いやに淋しい子供で、夕暮の路地などを、滅入るように暗くなって行く、不思議な色の空を眺めながら目に涙を浮かべ、芝居の|声《こわ》|色《いろ》めいて、お|伽噺《とぎばなし》のような、詩のような、わけのわからぬ|独《ひと》りごとをつぶやきつぶやき、歩いていたりした。  不思議なことに、夜一人で寝ていて、|猿《さる》|股《また》をはかない両|腿《もも》が、スベスベとすれ合う、あの物懐かしい感じが、この世のはかなさ味気なさを連想させた。  八歳の私には、腿のすれ合う感じと|厭《えん》|世《せい》とは同じ事柄のように思われた。たった一人ぼっちの気持だった。命のはかなさ、死の不思議さなどが、ごく抽象的な色合いで私の頭を支配した。  妙なことに、それはほとんど夜中に限られていた。昼間は近所の子供達と、普通の遊戯に|耽《ふけ》った。  そんな心持からか、私はその時分、私自身の神様を祭っていた。私の所有に属する古い|小《こ》|箪《だん》|笥《す》があって、それの開き戸になった中へ、ちょうど仏壇のような装飾を施し、そこへ何かしら書いたものを、もったいらしく白紙に包んで祭ったのだ。そして、時々そこを開いて、心のうちで礼拝しながらこれさえあれば大丈夫だと思っていた。  この神様が守って下さるから、一人ぼっちでも怖くはないのだ。この神様がお友達だから他の子供にいじめられても、ちっとも淋しくはないのだ。と固く信じていた(断っておきますが、当時私には祖母も父も母も健在で、兄弟もあり、召使いもあり、家庭はごく温かだったのです)。  だが、私の八歳の厭世は、おかしいことに、恋というものに、しっくりと結びついていた。性的な懐かしさが、この世の淋しさと、ほとんど同じものに感じられた。むろん肉体的な色情を解したわけではないけれど、八歳の子供にだって、恋というものはわかっていた。  しかし、私の恋は夜、|蒲《ふ》|団《とん》の中で、腿をすり合わせながらふと涙ぐましくなるような、それゆえに、厭世と隣り合わせのごく淋しい、抽象的なものに過ぎないのであった。よく、ほがらかな秋の夕暮などに感じる、胸の中がスーッと|空《から》っぽになるような心持、あの心持が、私に神様をこさえさせ、同時に又恋を思わせたのである。  そのような時に、私は生れて初めての恋人を発見した。  その相手は同じ小学校の、二年ばかり上の級の女生徒で、自分にとっては、何だか姉さんといった感じのする娘だった。おそらく学校中での美人で、家柄もよく、成績もむろん優等で、級長なんか務めていた。  その娘を、遠くの方から、チラリチラリと眺めては、胸の痛くなる思いをしていた。長く見つめている勇気すらなかった。  何かこう自分とはまるで人種が違うようで、娘が友達と物を云ったり、お手玉をしたりしているのを見ると、そんな普通の行ないをするのが、かえって不思議なように思われた。  一人で道を歩いている時、夜中に床の中でふと|目《め》|醒《ざ》めた時などに、私は必ずその娘の姿を幻に描いた。そして、やるせない思いにわれとわが胸を抱き締めたりした。私はさまざまの妄想を描いた(云うまでもなく、純粋にプラトニックな)。中におかしいのは、私の家がどうかして、引越しをして、その跡へ彼女の家が移って来るかもしれないという妄想だった。  私は人目につかぬような、部屋の隅っこの柱などへ、片仮名で、奇妙な恋文を|認《したた》めた。それはもし彼女が私の家へ移って来たならば、彼女にだけわかるような、簡単な落書きだった。あなたのためになら、私は喜んで死にますというようなことを書いた。考えて見ると、私は当時から妙に秘密がかった傾向を持っていた。  やがて、私は思いに|堪《た》え|難《がた》くなって、数日の間考えに考えたことを、私としては非常な決心で、断行した。私はある朝、学校へ行く時、一枚の清浄な白紙を小さく正方形に切って、手帳の間にはさんで置いた。  彼女の級も私の級も同じ入り口から教場へ入った。入り口の両側には細かく区切った|下《げ》|駄《た》|箱《ばこ》が、ズッと並んでいた。彼女達のは右側、私達のは左側。いつの間にか、私は彼女の赤い鼻緒の駒下駄を見覚えていた。  教場へ出入りの|度《たび》ごとに、その|履《は》きふるしの下駄が、何か非常に美しい花のような感じで、私の目を|惹《ひ》きつけるのだ。  さて放課時間の終りに、私はまるでスリででもあるように、用心深くあたりを見回しながら、す早く彼女の下駄箱に近づいて、用意していた白紙を、その赤い鼻緒の間へさし入れた。そして、次の一時間の授業の終るのを、どんなに待ち遠しく思ったか。鐘が鳴って礼がすむと、飛ぶように下駄箱のところへ来た。幸い彼女はまだ教室にいると見えて、赤い鼻緒は元のままだった。早鐘のような動悸をじっとこらえて、私は最前の白紙を取ると、|懐《ふと》|中《ころ》の手帳の中へしまい込んだ。  こうして私は、彼女の霊を盗んだつもりだった。  家へ帰ると、誰もいない時を見はからって、手帳からその紙切れをうやうやしく取り出して、長い間眺めていた。そこからは霊妙な香気さえ感じられた。やがて、私はそれを一枚の半紙の中へ、丁寧に畳み込み、例の私の神棚へ祭った。  それ以来、彼女は常に私の傍にあった。その紙切れは私の守り神であった。ふと淋しくなると、私は小箪笥の開きをあけて、神にぬかずくように彼女の霊を拝した。そして、少なからぬ満足を覚えていた。一人ぼっちも、闇の夜も、私はもう淋しくも怖くもなかった。  これが私の八歳の恋物語です。  遥かに当時を回顧すれば、あまりにも人間らしくなった今の私が、妙にけがらわしく、恥ずかしく感じられます。 [#地付き](「女性」大正十五年)     旅順海戦館  稲垣足穂氏が,何かの雑誌に、旅順海戦館という見世物の真似事をして遊んだ話を書いている。あれを読んで私は非常に懐かしい気がした。私もその旅順海戦館に感嘆した子供の一人であったし、そればかりか、やっぱりその真似事をやったことがあるのだ。知己に出会った感じだった。  私の見たのは明治四十何年だったか名古屋に博覧会が開かれた時、その余興の一つとして興行された旅順海戦館であった。キネオラマ応用とかで、当時としてはかなり大仕掛けのものであった。幕があくと、舞台一面の大海原だ。一文字の水平線、上には青空、下には|紺《こん》|碧《ぺき》の水、それがノタリノタリと波うっている。ピリピリと笛が鳴り、一とわたり弁士の説明が済むと、舞台の一方から東郷艦隊が、旗艦三笠を先頭に、勇ましく波を蹴って進んで来る。ひるがえる旭日旗、モクモクと立ち昇る黒煙、パノラマ風の舞台で、おもちゃの軍艦が、見ているうちにさも本物らしく感じられてくる。  やがて反対の方から、敵の艦隊が現われる。そして、始めは徐々に、次には烈しく、砲戦が開始せられる。耳を|聾《ろう》する砲声、海面を|覆《おお》う白煙、水煙、敵艦の火災、沈没。  それが済むと夜戦の光景となる。月が出る。今いうキネオラマとかの作用で、月の表を雲が通り過ぎる。船には舷燈がつく、燈台が光る。それが水に映って、キラキラと波うつ、大砲が発射されるたびに赤い一文字の火花が見える。船火事の見事さ。  ただそれだけの見世物だけれども、私たちはどんなにチャームされたことか。それを見た翌日、私と私のもっとも仲好しであった友達とは、さっそく、私の部屋へその真似事を作る仕事に取りかかったものである。それは四畳半の離れ座敷であったが、そこの半分を黒い布で仕切って、そのまん中に、何十分の一縮小の旅順海戦館をしつらえたのだ。縮小といってもかなり大がかりで、黒い布でふちどった|額《がく》|縁《ぶち》の大きさが、横一間、縦四尺はあった。幅の狭い波布が数十本、前は低くうしろほどだんだんに高く張り渡され、その隙間を敵味方の軍艦が動くのだ。おもちゃの軍艦に柄をつけて、波の下から手で動かす。舷燈は線香、煙は煙草、砲声はおもちゃのピストル、月は懐中電燈、船火事はアルコールをしませた綿。  でき上がると、近所の小さい子供らを集めて、見物させた。黒布のうしろから、私の友達の得意のせりふが響くのだ。小さい子供たちがどんなに|喝《かっ》|采《さい》したことか。私という男はなんとまあ今でも、こんなおもちゃを|拵《こしら》えて見たい気がするのだ。  そうした癖は、考えて見ると、私の生れながらのものであったのかもしれない。もっとずっと小さい時分から、それに似た遊びを好んでやったものである。一例を上げるならば「朝日」煙草二十個入りの空箱を貰って、それの一方に小さな穴をあけ、中にはボール紙の廻り舞台をしつらえ、芝居で云うなら大道具に相当する紙細工を立て、糸で吊った紙人形を、その前でコトリコトリと動かして、声色を使い、いわば、ダーク人形のまねごとをする。それを覗きからくりのように、自分より小さい子供に、前の穴から覗かせて、得意になっていたものだ。  その二、三寸の舞台が又、なかなか|凝《こ》ったもので、大道具にはドアもあれば窓もついていて、そのドアがひらいて、舞台裏から紙人形が登場する。窓の向こうには遠見の|書《かき》|割《わり》があって、その前を首だけ見せた人形が通り過ぎる。マッチ箱ぐらいの紙の箱が舞台の中ほどに置いてあって、糸のあやつりで、|蓋《ふた》があくと、中から舌切り雀の化物どもが、ろくろ首をのばしたりする。そして、チョンと木がはいるとギーと舞台が廻るのだ。  宇野浩二氏の小説には、おそらくそれは宇野氏自身のことなんだろうが、押入れの中で幻燈を映して楽しんでいる子供の話がある。私もやっぱりそうだった。当時影絵芝居というものがあって、それが又何とも魅力に富んだ興行物だった。舞台の前方に布を張り、そのうしろに幻燈器械を何台もすえつけて、黒い所に白く人の形などを書き、それに着色した絵を映す。からくり仕掛けで、人が化物に早変りしたり、あるいは手を動かしたり、足を動かしたりする。一人の人物なり品物なりに一台の幻燈器械を使い、その筒口を動かして幕の上の人物を歩かせる。むろん|声《こわ》|色《いろ》鳴物入りだ。映す芝居は、南北といった味のもので、凄いのや血なまぐさいものが多かった。声色が又ずいぶん特徴のあるもので、多くはお爺さんの声色使いが、バスの声で、言葉尻を一層バスの声にしながら、どうでもいいといった、なげやりな調子で、|安《あ》|達《だち》ケ|原《はら》の鬼婆が子供を食う時の声色なんかをやるのだ。まっ暗な客席、黒い幕、そこへ映る悪どい色彩の夢の中の花のように印象的な人物、Uの字なりに裾の曲った幽霊、頭でっかちのお化け、一つ目小僧、ろくろ首、その魅力がどんなに強烈なものであったか。私はそれを私自身の小さな幻燈器械で、真似して見ようと思ったのである。二つの器械に、自分で描いたからくりつきのガラス絵をはめて、カタリカタリと動かしながら、お爺さんのバスを真似た声色で、「この赤ん坊は、あぶら気が足りぬわいなあ」なんて、独りで楽しんでいたものだ。  さて、それにつけても、思い出すのは、かのパノラマという見世物である。|瓦《ガ》|斯《ス》タンクに似て、突然空高くそびえたあの建物の外見からして、まず子供の好奇心をそそらないではおかぬ。狭い入口、トンネルのようにまっ暗な細道、それを出抜けると、パッと開ける眼界。そして、そこには今まで見ていたのとはまるで違う別個の宇宙が、空から地平線までちゃんと実物どおりに存在しているのだ。何というすばらしいトリックだ。私は最近何かの本で、パノラマ発明者の苦心談を読んだが、彼は、丸く囲んだ建物の中に、彼の思うがままの別の宇宙を作って見たいという考えから、あの発明を企てた由であるが、世界を二重にするという彼の計画は実に面白い。丸い背景だからそこに描かれた地平線には|端《はし》がない。空は見物席の|天《てん》|蓋《がい》にさえぎられて、その上方から、日光そのままの光がさしているのだから、やっぱり無辺際に高く感じられる。小さな輪の中にいて、広い実在世界と同じ|幻《げん》|覚《かく》を起こす。その小天地の外側に、もう一つのほんとうの世界があるのだ。現実化されたお|伽噺《とぎばなし》である。少なくとも発明者の国の原作パノラマは、そんな感じを与え得たに相違ない。  そして、やはり少年時代の思い出として、もう一つ浮かぶのは例の幽霊屋敷、|八《や》|幡《わた》の|藪《やぶ》|知《し》らずである。私は影絵芝居を見、パノラマを見たそのおなじ町の中の広っぱで、この八幡の藪知らずをも見た。それら三つのものは、つながって私の記憶に浮かぶのだ。藪知らずについては、本号の編集者横溝君が、かつてこの雑誌に書いた事がある。彼もさすがに探偵趣味家である。神戸の町に開かれたその興行物を人波におされながら見物した由である。私は惜しいことに子供の時分だけで、その後つい見る機会を得なかったけれど、藪知らずで今も私の印象に残っているのは、酒呑童子のいけにえか何かの若い女が赤い腰まき一枚で立っている姿。案内人が見物の顔色を見ながらその腰まきをヒョイとまくると、内部に精巧な細工がほどこしてある。子供心に驚嘆したものである。後に至って人形の歴史みたいなものを知るに及んで、昔元禄時代かに流行した浮世人形なるものは、皆やっぱりこの仕掛けがしてあって、広く愛玩されたということがわかった。  もう一つは、汽車の踏切りの|轢《れき》|死《し》の実況を現わしたもので、二本の鉄路、藪畳、夜、そこにバラバラにひきちぎられた、首、胴体、手足が、切り口からまっ赤な血のりを、おびただしく流して、芋か大根のように転がっているのだ。その|嘔《はき》|気《け》を催すような、あまりにも強烈な刺激は、今に至っても心の底にこびりついている。谷崎潤一郎氏「恐怖時代」を形で現わしたといっていい。そのことを横溝君に話したところ、同君は大いに感激して、探偵小説にそういった味を採り入れるのは面白かろうと、さっそく「踏切り何とか」という一小説を物した由である。まだ発表されていないけれど、定めし面白いものに相違なく、発表の日を待っている、という。その味は、つまるところ大南北の残虐味と一脈相通ずるものであろう。  さて、この一文、旅順海戦館はどこへ行ったのだ。そして又探偵小説とはどういう関係があるのだ。とひらきなおられると、いささか閉口である。稲垣氏の旅順海戦館から、ふと思い出して書き始めたが、いつかこんなものになってしまった。読者諒焉。 [#地付き](「探偵趣味」大正十五年)     映画の恐怖  私は活動写真を見ていると恐ろしくなります。あれは|阿《あ》|片《へん》喫煙者の夢です。一|吋《インチ》のフィルムから、劇場一杯の巨人が生れ出して、それが、泣き、笑い、怒り、そして恋をします。スイフトの描いた巨人国の|幻《まぼろし》が、まざまざと私達の眼前に展開するのです。  スクリーンに充満した、私のそれに比べては、千倍もある大きな顔が、私の方を見てニヤリと笑います。あれがもし、自分自身の顔であったなら! 映画俳優というものは、よくも発狂しないでいられたものです。あなたは、自分の顔を凹面鏡に写して見たことがありますか。|赤《あか》|子《ご》のように|滑《なめ》らかなあなたの顔が、凹面鏡の面では、まるで望遠鏡でのぞいた月世界の表面のように、でこぼこに、物凄く変っているでしょう。|鱗《うろこ》のような皮膚、|洞《ほら》|穴《あな》のような毛穴、凹面鏡は怖いと思います。映画俳優というものは絶えずこの凹面鏡を|覗《のぞ》いていなければなりません。本当に発狂しないのが不思議です。  活動写真の技師は、暗い部屋の中で、たった一人で、映画の試写をする場合があるに相違ありません。そこには音楽もなく、説明もなく、見物もいないのです。カタカタカタという映写機の|把手《ハンドル》の|軋《きし》りと、自分自身の鼻息のほかには何の音もないのです。彼はスクリーンの巨人達とさし向かいです。大写しの顔が、ため息をつけば、それが聞えるかもしれません。|哄笑《こうしょう》すれば、雷のような笑い声が響くかもしれません。私達が、見物席の一番前列に坐って、スクリーンと自分の眼との距離が、|一《いっ》|間《けん》とは隔たぬ所から、映画を見ていますと、これに似た恐怖を感じることがあります。それは多く、しばらく弁士の説明が切れて、音楽も伴奏をやめている時です。私達は時として、巨人達の息づかいを聞き分けることができます。  映写中に、機械の故障で、突然フィルムの回転が止まることがあります。今までスクリーンの上に生きていた巨人達が、ハッと化石します。瞬間に死滅します。生きた人間が突如人形に変ってしまうのです。私は活動写真を見物していて、それに|遭《あ》うと、いきなり席から立って逃げ出したいようなショックを感じます。生物が突然死物に変るというのは、かなり恐ろしいことです。  はなはだ現実的な事を云うようですが、この恐怖には、もう一つの理由があります。それはフィルムが非常に燃えやすい物質で出来ている点です。そうして回転が止まっている間に、レンズの焦点から火を発して、フィルム全体が燃え上がり、劇場の大火を|醸《かも》した例はしばしば聞くところです。私は、スクリーンの上で、巨人達が化石すると、すぐにこの劇場の大火を連想します。そして妙な|戦《せん》|慄《りつ》を覚えるのです。 「あなたには、こんな経験はないでしょうか」  私は、いつか、場末の汚い活動小屋で、古い映画を見ていたことがあります。そのフィルムはもう何十回となく機械にかかって、どの場面も、どの場面も、まるで大雨でも降っているように傷ついていました。多分時間をつなぐためだったのでしょう。それを、眼が痛くなるほど、おそく回しているのです。画面の巨人達は、まるで毒ガスに酔わされでもしたように、ノロノロと動いていました。ふと、その動きが少しずつ、少しずつのろくなって行くような気がしたかと思うと、何かにぶっつかったように、いきなり回転が止まってしまいました。顔だけ大写しになった女が、今笑い出そうとするその|刹《せつ》|那《な》に化石してしまったのです。  それを見ると、私の心臓は、ある予感のために、|烈《はげ》しく波打ち始めました。早く、早く、電気を消さなければ、ソラ、今にあいつが燃え出すぞ、と思う間に、女の顔の唇のところにポッツリと、黒い点が浮き出しました。そして、見る見る、ちょうど夕立雲のように、それが拡がって行くのです。一尺ほども燃え拡がった時分に、初めて赤い|焔《ほのお》が映り始めました。巨大な女の唇が、血のように燃えるのです。彼女が笑う代りに、焔が唇を開いて、ソラ、彼女は今、不思議な|嘲笑《ちょうしょう》を始めたではありませんか。唇を|嘗《な》め尽した焔は、鼻から眼へとますます燃え拡がって行きます。元のフィルムでは、ほんの一分か二分の焼け焦げに過ぎないのでしょうけれど、それがスクリーンには、直径一丈もある、大きな焔の|環《わ》になって映るのです。劇場全体が猛火に包まれたようにさえ感じられるのです。  スクリーンの上で、映画の燃え出すのを見るほど、物凄いものはありません。それは、ただ焔の恐怖のみではないのです。色彩のない、光と影の映画の表面に、ポッツリと赤いものが現れ、それが人の姿を|蝕《むしば》んで行く、一種異様の|凄《すご》|味《み》です。  あなたは又、高速度撮影の映画に、一種の凄味を感じませんか。  われわれとは全く時間の違う世界、現実では絶対に見ることのできぬ不思議です。あすこでは、空気が水銀のように重く見えます。人間や動物は、その重い空気をかき分けて、やっとのことで|蠢《うごめ》いています。えたいの知れぬ凄さです。  私はある時、こんな写真を見たこともあります。  スクリーンの上半分には、どす黒い水がよどんでいます。下半分には、えたいの知れぬ海草が、まっ黒にもつれ合っています。ちょうど無数の|蛇《へび》がお互いに身をすり合わせて、|鎌《かま》|首《くび》をもたげてでもいるような、海底の写真なのです。それが、いつまでもいつまでも何の変化もなく映っています。見物達が退屈しきってしまうほども。と、海草の間から、フワリと黒いものが浮き上がって来ます。やっぱり海草の一種らしく見えるものです。何であろうと思っていますと、その黒いフワフワしたものの下から、ポッカリと白いものが現れて、それが、矢のように前方に突進して来ます。ハッと思って見直すと、もうそこには、画面一杯に女の顔が映っているのです。|藻《も》のようにかみの毛を振り乱した、まっぱだかの女の顔が、それから、彼女はいろいろに身をもがいて、|溺《でき》|死《し》|者《しゃ》の舞踏を始めます。  水中の人間を、同じ水の中から見る物凄さは、海水浴などでよく経験します。そして、それは高速度撮影の映画から受ける、不思議な感じと似た味わいを持っています。  これも場末の活動小屋で発見した、一つの恐怖です。小屋の入り口で、お客に一つずつ、紙の枠に、右には赤、左には青のセルロイドを張りつけた、簡単な眼鏡を渡します。何のゆえともわからずに、私はそれを受け取って小屋の中へはいります。見ると正面の舞台には「飛び出し写真」という文字を書いた、大きな立看板が立ててあります。なるほど、実体鏡の理窟で、映画に奥行きをつける仕掛けだなと、|独《ひと》り合点をして、それでも、その飛び出し写真の番を待ちかねます。  やがていよいよそれが映り始めます。ただ見ると、赤と青とのゴッチャになった、何とも形容のできない(それゆえちょっと凄くも感じられる)、画面ですが、木戸で渡された色眼鏡を通して見ますと、それがちゃんと整った奥行きのある形になるのです。ここまでは|至《し》|極《ごく》あたり前のことで、何の変哲もありません。が、さて映画の進むにつれて、実に不可思議な現象が起こり始めるのです。  写真はすべて簡単なもので、画面に人間とか動物とかが現れて、それがズーッと見物の方へ近付いて来るとか、何か手に持った品物を前方へつき出すとか、ほんのちょっとした動作を、幾場面も撮したものに過ぎません。たとえば一人の男が現れて、非常に長い木の棒を見物の方へそろそろと突き出します。ある程度までは、その棒は画面の中で延びています。たとい奥行きがついても画面の中で奥行きがついているに過ぎません(ここまでは普通の実体鏡と同じことです)。ところが、ある程度を越すと、棒の先端が画面を離れて、少しずつ少しずつ見物席の方へはみ出して来ます。そして、前の方の見物達の頭の上を通り越して、空中を進みます。まるでお|伽噺《とぎばなし》の魔法の|杖《つえ》のように、どこまでもどこまでも延びて来ます。私はあまりの恐ろしさに、思わず眼鏡を|脱《はず》します。するとそこには、やっぱりゴチャゴチャした赤と青との画面が、無意味に動いているばかりです。  また眼鏡をかけますと、棒の先端はもう眼の前二、三寸のところまで迫っています。それでもまだ少しずつ少しずつ延びているのです。そして、二寸、一寸、五分と迫って来て、ハッと思う間に、その棒の先が、グサッと私の目につきささります。  同じようにして、恐ろしいけものが、私に向かって突進して来たり、スクリーンから吹き出すホースの水が私の眼鏡をぬらしたり、もっと恐ろしいのは、一つの|髑《どく》|髏《ろ》が、まっくらな空中を漂って来て、私の額にぶつかったりします。むろんそれらは皆一種の錯覚に過ぎないのですけれど、色眼鏡を通して見た、妙に|陰《いん》|鬱《うつ》な世界で、こんな不思議に接しますと、ちょうど、醒めようともがきながら、どうしても醒めることのできない、恐ろしい悪夢でも見ているようで、その映画が終った時、私の|腋《わき》の下には、冷たい汗が一杯にじんでいたほども、変な恐怖を感じたものです。  これはよくあることですが、映画のあと先が傷つくのを防ぐために、不用なネガチブ(光と影とが正反対になっている)のフィルムが継ぎ合わせてある、それがどうかした拍子に、スクリーンへ現れることがあります。たとえば一つの映画劇が、おきまりのハッピイ・エンドで終るとします。見物達は多少とも興奮状態におります。そして、いよいよこれでおしまいだ。さて拍手を送ろうとしている彼等の前に、ふと不思議なものが映ります。それは、劇の筋とは全然関係のない、しかもネガチブの景色や人物などです。  一番恐ろしいのは、それが人物の大写しである場合です。そこには白い着物を着た白髪頭の、大仏のような姿が|蠢《うごめ》いています。むろん顔はまっ黒です。そして、目と唇と鼻の穴だけ、白くうつろになっているのが、その人物を、まるで人間とは違ったものに見せます。あれに出っくわすと、私は、突然映画の回転が止まった時と同様の、あるいはそれ以上の恐怖を感じます。活動写真というものは、何と不思議な生き物を創造することでしょう。  映画の恐怖。活動写真の発明者は、計らずも、現代に一つの新しい戦慄を、作り出したと云えないでしょうか。 [#地付き](「婦人公論」大正十四年十月号)     吸血鬼  出題者の心持は、風変りな死に方の見聞録でも書かせようというわけなのであろうが、探偵小説の方で、変てこな死に方には慣れっこになってしまったせいもあり、今ちょうどこれはというのが思い出せないので、題意を広く取って、怪談めいた吸血鬼のお話をしようと思う。これは早過ぎた|埋《まい》|葬《そう》、死者の|蘇《そ》|生《せい》に関連した、いわば迷信であって、迷信ながらも、少し理窟にかなったところもあり、なかなか凄いお話で、それを読んだ時私自身、何かこう身内の寒くなるような感じがしたのだから、読者諸君にも、いくらかは興味があろうと思うのだ。  人が一度死んで、棺の中に入れられ、土中に埋葬された後、棺の中で蘇生するか、死んだと思ったのが誤りで、口をきいたり身動きしたりはできなくても、肉体だけは引き続き生活を営んでいる、というようなことは、想像しただけでも、身の毛がよだつ。土中で蘇生して、|棺《かん》|桶《おけ》を打ち破る力のない場合も、ずいぶん残酷だが、初めから、まだ生きているのを、他人に死んだものときめられてしまい、「生きているんだ」とたった一こと喋る力がないばかりに、あるいは顔の表情なり手足なりを動かす力がないばかりに、生きながら、土葬なればまだしも、火葬にされたりしたのでは、その苦痛いかばかりであろうか。  これは日本の話なのだが、田舎の不完全な火葬場で、棺桶を焼いていたところが、火が回って、桶のたが[#「たが」に傍点]がはぜ、桶の板が散乱すると、中の死人がいきなりむっくりと起き直って、極度の苦痛の表情で、声を出すのがせい一杯といった|体《てい》で(たとえばわれわれが夢の中で、何かに追い駆けられて、助けを呼びたいにも声が出ず、もがきにもがいた末、やっと一ことうめき声を絞り出す時の、あの感じで)「助けてくれ……」と怒鳴ったというような実話を聞くことがある。それを聞くと、何か自分自身、生きながら焼かれでもするような、なまなましい、息づまる感じに打たれないではいられぬ。早過ぎた葬儀、殊に火葬というものほど、われわれを無気味におびやかすものはない。  ところで、同じようなので一層物凄いのは、土葬された棺桶の中で、死人がだんだん肥えたり、血液が循環し、頭髪が伸び、爪が伸び、つまり筋肉が動かないばかりで、ほかはまったく普通の人間のような生活を営んでいることがある、という事実なのだ。埋葬してから数十日も経過した時何かの機会で棺桶を開いてみて、この事実を発見したとする、その時の気味悪いとも、物凄いとも、残酷だとも、形容のできない気持を想像してみるがいい。だが、それでいて、死人は別に蘇生するでもなく、間もなく腐って、溶けてしまう。この化け物じみた事実が基になって、西洋では、ヴァンパイヤの迷信が始まったものらしい。ヴァンパイヤは、吸血鬼とでも訳すべき言葉だ。  それは、ある種の死人は、一度墓に埋められてから、鬼と化して、鬼界の妖術によって、不思議な生活を続けている。そのためにその死人は夜な夜な人界に姿を現し、健康な隣人の|生《いき》|血《ち》を吸い取らなければならない、生血を吸い取っている間だけ、土中に生活を続け得るというのだ。  ある村に一人の死人があって、不幸にもそれが墓の中で吸血鬼と化した場合は、その村人のうち、なるべく血の気の多い、元気な若者が犠牲者として選ばれ、夜な夜な、吸血鬼のお見舞いを受ける。眠っている間に、鬼はどこからともなく、彼の寝室に忍び込み、そっと生血を吸い取って行く。その時は不思議にも眼が覚めない。ただ、その若者の顔色がだんだん青ざめ、肉づきが衰えて行くことから、それがわかるのだ。そして、鬼は一人の若者の生血を吸い尽し、彼の寿命が絶えると、次の若者へと移って、ついには村中の若者を一人残らず取り殺してしまうことさえある。  被害者は、今も云うように、鬼の|餌《え》|食《じき》となっている間、不思議にも、目覚めないのを普通とするが、どうかした拍子に、夢から醒めて、彼の胸にのしかかる吸血鬼の恐ろしい姿を認めることがあると、その時の鬼と人との闘争は、世にもすさまじきものだと云う。長時間にわたる、地獄の戦いが、あぶら汗にまみれて、息も絶え絶えに続けられる。そして、もし、幸いに人間が勝利を占めた場合には、何事もなくて終るけれど、鬼のために打ち負かされたとなると、その人は、先に述べた状態で、日に日に形容|枯《こ》|渇《かつ》し、ついには病名のない死に見舞われるのである。  この迷信の行なわれた地方では、村人が吸血鬼に襲われたことを悟ると、最近に埋葬した死人の中から、それらしいのを選び出して、その死人が、棺の中で、果して鬼に化しているかどうかを確かめた上、一旦死んだものを、もう一度殺し直すのだ。鬼に化しているというのは、死人が生々と肥え太って、血色がよく、爪や頭髪などが埋葬当時よりも長く伸びている等の諸点から判断することができる。死人がそのような状態を示していれば、てっきりそれが吸血鬼に相違ないと云うのだ。  さて、吸血鬼が発見されると、村人達は、刃物や棒などをもって、その死人の首をはねたり、あるいは心臓を貫いたりして、可哀想な|死《し》|屍《し》を、滅茶滅茶に切り砕いてしまうのだが、恐ろしいことには、そうして殺される時に、吸血鬼に化した死人は、切口から、耳から、目から、鼻から、おびただしい|鮮《せん》|血《けつ》をほとばしらせ、異様な叫び声を立てるというのである。  この迷信は、バルカン半島辺に広く行なわれたものだが、|印度《イ ン ド》などにも似たような怪談があるという。彼等は真面目にこの奇怪な伝説を信じている。死体が肥え太ったり、爪が伸びたり、殺される時に叫び声を発したりすることは、実際らしく、それを証拠立てる確かな記録が発表されているくらいだ。血を吸われて死ぬというのは、神経の作用としても、この死体生育の事実はどうもまんざらの嘘ではないらしく思われる。現に、死人が肥え太る話などは、われわれのよく耳にするところだ。  これについては、ある点までは、科学的に説明を下すことができないではない。死体の腐敗は、まず腸内の微小有機体によって始まる。人が死ねば、この微小有機体は群れをなして腸腺を貫き、これを破壊して、血管と腹膜とに入り、そこにガスを発生し、人体の組織を液体化するところの、|醗《はっ》|酵《こう》|素《そ》を分泌するのだ。この発生されたガスの分量は非常なもので、時として、その|膨脹力《ぼうちょうりょく》は、大気の一倍半を|超《こ》えると云われている。ガスの力は横隔膜を上方に押し上げ、体内深くにある血管中の血液を、ジリジリと皮膚の表面へにじみ出させる。「死後循環」というのが、つまりこれである。  死人が血色がよくなり、切ったり突いたりして鮮血がほとばしるのは、この「死後循環」のためであるかもしれない、又、吸血鬼の発する異様な叫び声というのは、この体内に発生したガスが|咽《いん》|喉《こう》から押し出される時の音響かもしれない。爪や頭髪の伸びるのは少し解釈に困るけれど、これは見る人の気のせいだと云えば、一応はうなずくことができるのだ。  だが、そこには、もう一つの解釈が残っていることを忘れてはならぬ。すなわち、吸血鬼として無残にも突き殺されていたところの死体共は、実に死体ではなかったかもしれぬという見方だ。彼等は筋肉活動の自由を失った生体でなかったとは、断言できないのだ。  土の底の棺桶の中で身動きの自由を失って、しかし明瞭な意識をもって、じっと横たわっていなければならぬ人の、世にも恐るべき境遇を、想像してみるがいい。それが、さらに吸血鬼の汚名を着せられ、棒切れなどで突き殺される時の心持を想像してみるがいい。どのように身の自由を失っていようとも、これが叫ばないでいられるものか。彼は断末魔の全気力をふりしぼって、「死んではいないのだ」と|呶《ど》|鳴《な》ったのかもしれない。それが、言葉をなすだけの力はなくて、ただギャッという異様な音響に聞きなされたのであるかもしれない。腐敗ガスの洩れる音などではなかったかもしれない。  死ぬことは恐ろしい。だが、生きながら、死人と見なされ、葬られることは、幾倍も恐ろしい。私はヴァンパイヤの伝説を思い出すごとに、このえたいの知れぬ恐怖に|戦《おのの》かないではいられぬのだ。 [#地付き](「大衆文芸」大正十五年)     声の恐怖  影というものを、人間から切り離して考えるのと同じように、声というものを、抽象的に、それの発する源を別にして考えることは、かなり恐ろしいと思う。カンカンと日の照りつけた白昼銀座のペーヴメントかなんかを、黒い影だけがヘラヘラと歩いていたら、ずいぶん怖い。同様に、見渡す限り人影の見えぬ、野原かなんかを歩いていて、どこからともなく、|囁《ささや》き声で、「モシモシ」なんて呼ばれたら、そして、いくら見廻しても人の姿がなかったら、こんな恐ろしいことはあるまい。  私は子供の時、母親からよく|谺《こだま》の話を聞かされて怖がったものである。まだ実物を知らなかっただけに、一層変な感じがした。山の中で、「オーイ」と呼ぶと、まず一番大きな谺が「オーイ」と答える。それを聞いて二番目に大きな谺が少し小さい声で「オーイ」と応じる。そして第三、第四、第五と無数の、だんだんに小さな谺が、ウワー、ウワーとそれをくり返して、しまいに消えてしまう。私は谺という生き物がいるのだと信じていた。姿のない生き物という感じが、無性に怖いのであった。  幻聴というものが、声の恐怖の最も大きな題目かもしれない。幽霊は多くの場合幻視なのだが、幻聴の幽霊も|往《おう》|々《おう》にしてある。つまり、声だけのお化けなのだ。ポオの散文詩に「影」というのがあって、そこへ出て来る幽霊は、異常に大きな影と不気味な声とからできている。この世の二つの恐怖である影と声を組合せたところは、さすがにポオだと思う。その声の書き表し方が又、実にすばらしいのだ。 「そして、私達七人の者は、おじ恐れてたちまち飛び上がり、顔青ざめて、ぶるぶる|顫《ふる》えながら立ちつくした。なぜというに、その影の声の調子は、ただ一人のそれでもなく、又群集のそれでもなく、一ことごとに調子が変り、沢山のなくなった友人達の、聞き覚えある音調となって、私達の耳に物凄く落ちて来たのである」  心理学の実験に、透明体凝視と|貝殻聴聞《かいがらちょうもん》という、互いに似通った変てこなものがある。前者は、西洋のうらないなどに利用されたが、水晶の球とかガラス球とかを、じっと見つめていると、その中へ、思うことが現れて来るというのだ。透明な球というものは、何となく神秘的で、潜在意識を呼び出すのに、最も好都合なのであろう。後者は海辺に落ちている貝殻を拾って耳に当てると、共鳴の理窟で波の音などが貝の中から聞えて来るような気がする。それをじっと続けていると、やっぱり一種の幻聴に相違ないのだが、意味のある言葉が聞え出すというのだ。心理学的に解釈のつくことだけれど、妙に怪談めいて、怖い感じがする。  幻聴というものは、軽微な神経衰弱によって、聞くことができる。耳鳴りが一種の幻聴だしそれが|嵩《こう》じて言葉をなしたものでも、私は時々聞くことがある。|汽《き》|笛《てき》のような耳鳴りから、少し進むと、|蜂《はち》のうなり声のようなものになり、さらに進むと、それが意味を持って来る。現実ではとても不可能なほどの恐ろしい早口で、「早く、早く、早く」とか、そうかと思うと、極度にのろい調子で、「ばかばかしい、ばかばかしい、……」とか、一つ言葉をくり返す。それがもう一歩進むと、本当の幻聴、つまり声の幽霊になるのかと思われる。  腹語法というものがある。日本では八人芸と云っている。口をとじて、鼻の穴から物を云う、一種の芸で、奇術師によくこの法を修得したものがある。やり方によっては、術者から遠く隔ったところで声がするような感じを与えることができる。劇場の天井裏から、変な言葉が響いて来たりすると、ちょっと凄いものだ。それの反対に、声の恐怖というのではないが、例の|読唇術《どくしんじゅつ》なども、秘密|曝《ばく》|露《ろ》の意味で、探偵小説的な凄味がある。  文明の利器というものは、多く変な凄味を伴うものである。科学に対する好奇心は一部分その凄味から来ていないかと思う。たとえば望遠鏡、顕微鏡。あれを覗く時、私はある戦慄を感じないではいられぬ。活動写真もそれである。映画の恐怖は谷崎潤一郎氏が「|人《じん》|面《めん》|疽《そ》」に巧みに描いている。声に関するものでは、蓄音器、電話、ラジオ等がある。エジソンが蓄音器を発明した時、それをひそかに客間に備えつけて、友達にいたずらした話がある。誰もいない部屋で、突然人の声がする。友達は機械とは知らぬので、非常に驚いたということだ。人間から切り離された声の恐怖である。  電話というものも、考えて見れば、変に凄いところがある。声が切り離されているからだ。外国の探偵小説にはよく電話が使われている。中でも面白いと思ったのは、ある部屋で人が殺されている。探偵がそこへ駈けつけた時には、すでに明らかに死んでしまっているのに、その死人が妙な声を出すのだ。それがいかにも凄い感じで、シューシューというように響く。幽霊じみた凄さだ。ところが、よくよく|検《しら》べてみると、被害者が苦しまぎれに、電話で警察を呼んだまま息が絶えたので、受話器がはずれている。そこへ相手の方から「一体どうしたのだ」と、騒がしく聞いて来る声が、送話口からシューシューという響きで、洩れていたことがわかる。ちょっと凄味が出ていた。  ラジオも同様に怖い感じがある。空中を一杯に、幾十万里にわたって、声が飛んでいる凄さだ。放送のない時、レシーバーを耳に当てて、じっと聞いていると、妙な感じがする。突然電車のスパークかなんかで、ビュウ……というような音が聞えたりする。そんな調子で、放送局以外のいたずら者が、とんでもない時分に、とんでもない放送をやり出しでもしたら、きっと気違いめいた凄さがあるに相違ない。  ラジオで思い出すのは、アメリカの都会などでは、放送のために雨量が変ったという話を聞くが、それに関連して、どこかの高山の頂上には、「高声にて話すべからず」という立て札が立ててあるそうである。なぜかと聞くと、そこで声を立てると、空気の加減で、山の|麓《ふもと》へ雨が降るというのだ。一口|噺《ばなし》めいているけれど、本当だとするといかにも凄い話である。  つまらない事を並べ立てたが、紙数もつきたようだから、このくらいにしておく、これを要するに声というやつは、たびたび云う通り、それだけ切り離すと、ちょっと凄味のあるものである。 [#地付き](「婦人公論」大正十五年)     人形      一  人間に恋は出来なくとも、人形には恋が出来る。人間はうつし世の影、人形こそ永遠の生物。という妙な考えが、昔から私の空想世界に巣食っている。バクのように夢ばかりたべて生きている時代はずれな人間にはふさわしいあこがれであろう。  逃避かも知れない。軽微なる死姦、偶像姦の心理が混っていないとはいえぬ。だが、もっと別なものがあるように思われる。  ハニワがどんな役目を勤めたか。美しい仏像達が、古来どれ程多くの人間を、|有頂天《うちょうてん》な信仰に導いたか。ということを考えただけでも、人形の持つ、深い恐ろしい魔力を知ることが出来る。  私は古い寺院に詣でて、怪異な、あるいは美しい、仏像群の間をさまようのが好きである。そこでは私という人間が、何と空々しいたよりない存在に見えることであろう。あの仏像達こそ、生き物ではないかも知れぬが、少くとも、我々人間に比べて、ずっとずっと本当のものであるという気がするのだ。  私は幼い時分、殊更人形を愛玩した記憶はない。人形について始めてある関心を持ったのは、母からか祖母からか、恐らくは草双子ででも読んだのであろうか、ある怪異な物語りを聞かされてからであった。  ある大家のお姫様の寝室で、夜毎にボソボソと人の話声がする。ふとそれを聞き付けた|乳《う》|母《ば》が、怪しんで、唐紙の外から立聞きしているとも知らず、中の話声はなんなん[#「なんなん」に傍点]として続くのだ。  相手は|正《まさ》しく若い男の声、ささやくは恋の|睦《むつ》|言《ごと》である。いやそればかりではない。二人はどうやら一つしとねに枕を並べている気配だ。  乳母が翌朝、そのことを告げると、「マア、あの内気な姫が」と親御達の驚きは一方でない。どこの男か知らぬが、姫を盗む大それた奴、今夜こそ目にもの見せてくれると、父君はおっとり刀で、時刻を計って姫の寝室へ忍び寄り、耳をすますと、案の定男女の甘いささやき声。矢庭に唐紙を開いて飛込んで見ると……  これはまあ、どうしたことだ。姫が枕を並べて、寝物語りを交していたのは、生きた人間ではなくて、日頃姫の愛蔵する、紫の振袖なまめかしい、若衆姿の人形であった。人形のせりふは、恐らく姫自からしゃべっていたのであろうが。私の祖母(?)は、「でもね、古い人形には、魂のこもるということがあるからね。」と聞かせてくれた。  六七歳の時分に聞いたこの怖い美しい話が、その後ずっと私の心にこびりついて、今でも忘れられぬ。私はかつて、「人でなしの恋」という小説を書いて、この幼時の夢を読者に語ったことがある。  話はとぶが、それにつけて、ごく最近、私を非常に喜ばせた人形実話がある。今のところ、それが私が人形について心を動かした最後のものだ。      二  その話は、当時新聞や雑誌にものったことだから、詳しくは書かぬが、昭和四年の暮、大井某という人が、蒲田の古道具屋で、古い等身大の女人形を買求め、家へ帰ってその箱を開くと、生きたような美人人形の顔がニッコリ笑ったというので、大井某は発狂してしまった。  こわくなって、箱ごと荒川へ捨てると、水は流れているのに、人形の箱だけが、ぴったり止まったまま、少しも動かぬ。重なる怪異に|胆《きも》を消した大井某の妻女は、又その箱を拾いあげて、付近の地蔵院という寺へ納めてしまった。  調べて見ると、箱のフタに古風な筆跡で「小式部」と人形の名が書いてある。段々元の持主を探った所が、三十年程前に、熊本のある士族から出たもので、その男は、この人形と二人切りで、孤独な生活を営んでいたが、人形の髪なども、手ずから、色々な形に結ってやったりするのを、近所の人が見かけた、ということまで分った。  更に人形の由来を聴くと、文化の頃、吉原の橋本楼に小式部太夫という遊女があった。同時に三人の武家に深く思われ、三人に義理を立てる為に、人形師に頼んで、自分の姿を三体刻ませ、武家達に贈ったのだが、不思議なことには、人形のモデルになっている間に、当の小式部は段々身体が衰え、最後の人形が出来上ると同時に、息を引取ったというのだ。  この話を読んだ時、私はすぐさま、エドガア・ポオの「楕円形の肖像」という物語りを思いだした。事実と小説の符合というものは、あるものだなと、つくづく感じたことである。この話は正しく偶像姦といってもよいのだが、熊本の武士が、孤独の住居で、唯一の相手の人形の髪を結ってやっている有様を想像すると、私は、ほほえましく、その武士の心持に同感出来るような気がするのだ。 「今昔妖談集」という本に、これとよく似た話が出ている。 「いつの頃よりか、京大阪の在番の歴歴、もて遊びとすることあり、大阪竹田山本の類の細工人の工夫にて、女の人形を人程にこしらへ(中略)ぜんまいからくりにて、手足を引しめ自由に動くこと生ける人の如し。」菅谷という武士が、江戸の遊女「白梅」というものに似せて、この人形を造らせ、ある夜、その人形とたわむれている時「いかに白梅、そなたは我をかあいく思ひ給ふか」と尋ねて見ると、人形口を動かして「如何にも、いとしうこそ」と答えた。  驚いた菅谷は、きつね、たぬきの業ならんと、枕許のわき差取って「白梅」の人形を真二つにしてしまった。  これは京都の出来事だが、ちょうどそれと時を同じうして、江戸吉原の本物の白梅太夫は、初会の客に斬り殺されていた。(初会の客のこと故、殺害の理由は少しもなかったのだ。)という話である。      三  人形は生きているのだ。モデルがあれば、そのモデルと魂を共有するのだ。|丑《うし》のとき参りのワラ人形の迷信などが生れてくるのも、決して偶然ではない。  この種の事実談(?)は古い本の到る処に散見する。人間の女がでくのぼうと|契《ちぎ》って子を産んだ話。子なき女が赤ン坊の人形を作って、乳をのませる話。江戸中期男色全盛の頃、|寵愛《ちょうあい》する若衆に似せた、「若衆人形」を作らせて、愛玩した事実。面白い話が、非常に沢山あるようだ。  人形が生きていることに関聯して、当然思出すのは、文楽の人形である。あれも創始時代は、ひどく簡単なでくのぼうであったのが、段々、指を動かし、腹をふくらませ、目、眉を働かす仕掛が出来たあとを尋ねるのは面白い。遣い手も、最初は幕の陰にかくれて、一人で遣ったのが、今では三人がかりの出遣いと進化した。  そして、とうとう、あの人形め生命を吹き込まれてしまったのだ。芝居がすんで、一間にとじこめられた人形共が、夜など、ボソボソボソボソ話し合っているのが聞えるという位だ。あの人形に比べては、生きた役者の方が、ニセ物に見えてくるのは恐ろしいことだ。私は文楽人形が、舞台で静止している時の、あのかすかな息遣いを見ると、ふと怖くなることがしばしばである。 「夜の楽屋に|師《もろ》|直《なお》と判官の人形、よもすがら争ひたることあり。うしみつ頃楽屋に入れば、必ず怪異を見るといふこと、さもあるべきにや。首は切りてタナに目を開き、腕はちぎれて血綿のくれなゐにそみ、怒れるあれば笑ふあり、もとこれ人の霊を写せし所なり。」などいうのが、本当らしく思われてくる。  昔の人形師が、製作に一心をこめたことはよく聞く所だ。かさを冠った木彫り人形が、年を経て、かさの部分がこわれたあとを見るとその下に、ちゃんと額から上の部分が細かく彫刻してあった話。着物を着せて飾る人形の身体に、丹念に|刺《いれ》|青《ずみ》を彫刻して置いた人形師の話など、面白い。  そういうたん念な人形師が、現代でもないことはない。浅草の花やしきをぶらついていると、時々ギョッとして立ちすくむことがある。さりげなく庭の隅などに置いてある人形を、本当の人間と思い違え、笑いかけても、先方はいつまでも不気味な無表情を続けている。気違いめいた恐怖だ。  私は花やしきの人形に感心したものだから(あれはこの新聞に「一寸法師」を書いていた時分で、作中に入用があったからだと思う。)館の人に人形師を尋ねると、山本福松氏だと教えてくれた。その後私ははにかみ[#「はにかみ」に傍点]屋だものだから、友達に頼んで福松氏を訪ね、色々話を聞いてもらったことがある。      四  段々需要が少くなって、人形師も亡びて行ったが、それでもまだ東京に三軒(?)程人形師の家が残っている。子供の時分聞き慣れた安本亀八の第何世かも、自分では手を下さぬが、弟子に仕事をやらせている。現に仕事をしている人では、山本福松氏が昔ながらのたん念な人形師らしく思われる。  幕末の泉目吉の無残人形は有名だ。 「本所|回《え》|向《こう》|院《いん》前に住居して人形師なり。この者いう霊生首等をつくるに妙を得たり。天保の初造るところの物を両国に見せたり。その品には土左衛門、|首《くび》|縊《くく》り、獄門女の首をその髪にて木の枝に結びつけ、血のしたゝりしさま、又亡者ををけに収めたるに、ふたの破れて半あらはれたる、又人を裸にし、数ケ所に傷をつけ、|咽《のど》のあたりに刀を突立てたるまゝ、総身血にそみて目を閉ぢず、歯を切りたる云々。」  月岡芳年の血みどろ絵と好一対をなす、江戸末期の無残ものだ。これに類する見世物が、私の少年時代、明治四十年前後には、まだちょいちょいあった。私の見たのは例の|八《や》|幡《わた》のやぶ|不知《し ら ず》(メーズ)と組合せた見世物だが、薄暗い竹やぶの迷路を、おっかなびっくり歩いて行くと、鉄道の踏切の場面などがあって、今汽車に轢き殺されたばかりの血みどろの、バラバラに離れた五体が、線路の上に転がっているのだ。いやらしく、不気味ながら、何と人をひきつける見世物であったか。私は二度も三度もそこへ入ったものだ。  で、現代の山本福松氏にそのことを話して、今でもそんな種類の人形を作ることがありますかと、尋ねてもらったところ、「今では、許されもしませんし、そういう好みはなくなったようです。しかし御注文とあれば作らぬこともありません。」とのことであった。  私は「蜘蛛男」という読み物に、全く空想で人形工場を書いたことがある。福松氏はそれを読んでいて、「あれは私の家をモデルにしたのではありませんか。」と尋ねた由だ。聞いて見ると、私の空想は大して間違ってもいなかった様子である。  生人形の首は、桐の木に細いシワの一本まで彫刻して、ご[#「ご」に傍点]粉を塗り、磨きをかけるのだが、この生首が、福松氏の家の押入という押入に、充満している光景は、ゾッとする程物すごいものだと、私の友達が話した。  生首の物すごさでは、しかし、蝋細工の工場のたなの方が、もっと恐ろしい。これも右の友達を煩わして見聞したのだが、東京には五六軒蝋人形の工場がある。ショウウィンドウの人形、ドラッグの人形、衛生博覧会の人形、下っては、飲食店のガラス窓に並ぶ、御馳走見本まで、そこで製作している。  その工場へ行くと、出来そくないの、青ざめた、奇形な蝋人形の首ばかりが、たなの上に山と積まれ、それが、生きた目でこちらをにらんでいる有様は、何ともいえぬ恐ろしい感じだという。  蝋細工は、原料の合せ方に秘伝があるばかりで、製作は極めて簡単だ。特別の場合を除いては、何でもモデルになるものに、直接石膏とか寒天とかをぶっかけて、型を取り、その内側へ薄く蝋を塗って行く。      五  人体の場合も同じことで、女なら女のモデルをつれて来て、その|膚《はだ》に直接石膏を塗りつける。その方が美術家に頼んで彫刻を使うよりも、簡単でもあり、真に迫ったものが出来るということだ。  蝋人形について、色々面白い話がある。蝋細工は前にも述べた通り、ごく薄く出来、多少の弾力もあるので、これを用いて、舞台の上で、完全に二人一役を実演することが出来るという話も、その一つだ。  そっくり同じ顔の人物が同時に舞台に現れる、例えば「マッカレーの双生児の復讐」のごときものは映画でしか演じ得ないことと思っていたが、蝋面によると、それが現実の舞台でやれるのだ。現に猿之助と花柳章太郎とが、これを舞台に用いて、ある程度の成功をおさめている。  その方法は、その俳優の顔へ石膏を塗り、デス・マスクを取るようにして、生仮面を作り、それを他の俳優が、すっぽり耳のうしろまで冠って、同時に舞台に現れるので、無論口は利けぬゆえ、ただ全く同じ顔の男が、二人いるということを、見物に見せるに止まるけれど、それでも、探偵劇などには、何と持って来いの道具ではあるまいか。  ちょっと信じられぬようなことだが、現に実際に用いた俳優もあるのだし、蝋人形というものが、どんなに本物そっくりに出来るかを考えて見たら合点がゆくと思う。  ボツボツ紙数がなくなって来たので、いそいで、もう一つだけ、蝋人形の話を書くと、ある蝋細工工場へ、一人の青年が訪ねて来た。(多分青白い、内気な青年であったことだろう)そしていう事には、モデルは写真があるのだが、等身大の女の全裸像を作ってほしい。顔も身体の格好もモデルそっくりに出来るのでしょうね。姿は、あお向に寝ている所です。それで、一体いか程で出来ましょうか。という質問だ。  工場の人がいくら程ですと答えると、(何でも二百円位の値段だったと思う)思ったよりも高価なので、青年はあきらめて、すごすご帰って行ったという事実談である。  色々な邪推の可能な、面白い話だ。いや、考え方によっては、ゾッとする程、恐ろしい話だ。偶像姦だとか、血みどろ人形だとか、いやらしいことばかり書いたが、そういういか物は別として、私は仏像からあやつり人形に至るまでの、あらゆる人形に、限りなきみ[#「み」に傍点]力を感じる。  もし資力があったなら、古来の名匠の刻んだ仏像や、古代人形や、お能面や、さては、現代の生人形や、蝋人形などの群像と共に、一間にとじこもって、太陽の光をさけて、低い声で、彼等の住んでいるもう一つの世界について、しみじみと語って見たいような気がするのだ。 [#地付き](「東京朝日新聞」昭和六年一月)    2     J・A・シモンズのひそかなる情熱      一  私はこの頃、古めかしいジョン・アディントン・シモンズ(1)の人間なり業績なりに、不思議な興味を感じ始めている。この十九世紀末のイギリスの特異なる文学者は、日本では恐らく明治中期頃に既に注目されていたことと思われるが、彼の|纏《まとま》った飜訳は全く出ていないようだし(私はただ一つ、昭和五年に出版された田部重治氏訳の「ダンテとプラトーとの愛の理想」という小冊子を知っているに過ぎない)彼に関する評論なども、英文学史としての外に雑誌の類にもたびたび発表されたことでもあろうが、一つも読む機会を得ていない。したがって私はシモンズが日本の読者にどんな風に受取られているかを全く知らないのである。 [#ここから3字下げ] (1)現在は「サイモンズ」と表記されることが多い。 [#ここで字下げ終わり]  シモンズは詩を|憬《あこが》れ、詩人であることを深くも願いながら、天分を卑下するの余り、|数《あま》|多《た》の詩作はあっても、それに主力を注ごうとはせず、文芸美術の史的研究に没頭して、その方面に多くの力作を残したのであるが、代表作は云うまでもなく「イタリーに於ける文芸復興」七巻の大著であって、前後十一年に|亘《わた》る熱情を打ち込んでいる。それに次ぐ名著は恐らく「ギリシャ詩人の研究」であろう。これも大著と云い得るもので、この研究が彼のルネッサンス芸術への情熱の素地を為したことは容易に推察出来る所である。その他の一般的な著作としては、「イギリス劇文学におけるシェークスピアの先駆者達」一巻、芸術論集「思弁と示唆の論文集」二巻、詩人らしい感想や論文を集めた「青の主調音にて」一巻(前掲田部重治氏の訳はこの内の一文である)、イタリーとギリシャに関する紀行評論の三著、彼が後半生を送ったスイス高地の生活を記した一著などを上げることが出来る。  一方彼には各方面の芸術家個人の伝記評論の多くの力作がある。その最も著しいものは「ミケランジェロ伝」二巻であって、彼がミケランジェロに注いだ情熱、研究態度の忠実な点、内容の詳細を極めている点、世界各国人の手になる|夥《おびただ》しいミケランジェロ伝中、屈指の好著であろう。それに次いで、同じルネッサンス、イタリーの彫刻家ベンヴェヌト・チェリーニの異様なる生涯を記した有名な自叙伝の英訳二巻があり、名訳の評が高い。又、同じくイタリーの劇作家「カルロ・ゴッツイ伝」二巻がある。それに小著ではあるが「ダンテの研究」と「ボッカチオ評伝」がある。自国の芸術家では、詩人フィリップ・シドニイ、劇作家ベン・ジョンソン、詩人シェリ等のそれぞれの評伝を著しているし、外に彼が深くも傾倒したアメリカの詩人ウォルト・ホイットマンの研究がある。  飜訳では、先に記したチェリーニ自伝の名訳の外に、多くの詩の英訳があって、その内|纏《まとま》っているのは「ミケランジェロ及カムパネラの短詩集」と、古代ギリシャの女詩人サッフォの訳詩でこれは他人の編纂したサッフォ研究の書物に寄稿したものが残っている。(「ギリシャ詩人の研究」に附録として収められたサッフォの訳詩も有名である)  自作の詩集は公刊されたものは六冊程であるが、印刷はされても、部数が非常に少くて、私版とも云うべき詩集を数えると、全体で十冊程になる。それから、ごくごく小部数の秘密出版と云ってもいい小冊子が二種ある。「ギリシャ道徳の一問題」と「近代道徳の一問題」がそれだ。(この二著は私の小論に重大な関係を持っているのだが。)  定期刊行物や他人の著書への寄稿を別にすると、シモンズの著作は大体以上に尽きている。これが彼の業績の全景である。私は無意味に書名を羅列したのではない。それらの著書は私の小論に、それぞれ多かれ少なかれ、切り放ち難い関係を持っているからである。又もう一つには、ある読者には、このシモンズの業績の全景を眺めることによって、私がこれから云おうとしている事柄が何であるかを、あらかじめ推察することが出来るかも知れないと考えたからである。ある人の生涯の著作の題目は、多くの場合、人間としてのその人を雄弁に物語っているものだ。  次にJ・A・シモンズその人の伝記や研究で一冊の書物に纏っているものとしては、左の五種をあげることが出来ると思う。 [#ここから2字下げ] H. F. Brown, "J. A. Symonds, A Biography." (1895) V. W. Brooks, "J. A. Symonds, A Study." (1914) H. F. Brown, "Letters and Papers of J. A. Symonds." (1923) Margaret Symonds, "Out of the Past." (1925) P. L. Babington, "Bibliography of J. A. Symonds." (1925) [#ここで字下げ終わり]  右の内私は第一のと第五のものとを所持しているに過ぎず、他の三著は今の所未見であるが、第二のブルックスの「シモンズ研究」は二百三十四頁の小冊子に過ぎないことが分っているし、第三の「書翰及断片集」はその主要なるものは、同じ編者によって当然第一の「シモンズ伝」に取入れられているのだし、第四の「思い出」はシモンズの三番目の娘さんの著述であって、文学者としてのシモンズよりも、家庭の人としての彼を書いたものらしく、娘さんの見た父の思出には、恐らく私の求めているような記事は発見出来そうもないので、この三著は未見であっても、私の小論には大したさし響きはないように思う。(後記、その後第三、第四を入手した)  右の第一の「シモンズ伝」の編者ホレショ・F・ブラウンは、シモンズの年下の親友であって、遺族とも親しかったので、シモンズの書き溜めて置いた遺稿を完全に手に入れることが出来た。  そこで、彼はシモンズ伝を編むに当って、全く編者の主観を挟まず、遺稿である長文の自叙伝を土台にして、それに故人の日記と、友人達から借り集めた故人の書翰とを年代順に適当に配列することによって、忠実無比なる二巻の伝記を作り上げた。  詩人アーサー・シモンズもその人物評論集 Studies in Prose and Verse のJ・A・シモンズの章で、ブラウンの伝記編纂振りを激賞しているように、我々はこの忠実なる伝記によって、殊にそこに収められたシモンズ自身の偽らぬ自叙伝によって、彼の諸著作からは、たとえ察することは出来ても、実証する術もなかったであろう色々な事実を、彼の悩みを、彼の心の秘密を知ることが出来たのである。  もっともブラウンは「伝」の中に、シモンズが書き溜めておいた自伝なり、日記なり書翰なりを漏れなく収録したのではない。そこには取捨選択が行われている。余り重要でないために省略された記事も無論あったであろう。しかしたとえ重要であっても、ある事情のために故意に省略された部分があったのではないか。私はどうもそんな風に思われて仕方がないのだ。別に確証がある訳ではないけれど、例えば「伝」中にはシモンズの著述は漏れなくあげられているにもかかわらず、前掲の私的出版の二著「ギリシャ道徳の一問題」「近代道徳の一問題」については、一言も触れていないこと、又、シモンズは性心理学者のハヴロック・エリスと親交があったらしく、彼と共著の書籍さえあるのに、伝中その書籍のことは無論、エリスの名さえ一度も現われていないこと、又、シモンズは千一夜物語の英訳者として名高いリチャード・バートンとも親交があり、彼に与えた興味ある書翰をブラウンが所持していたことは、他の方面から明白であるのに、伝中バートンへの手紙は一通も示されず、僅かにシモンズがバートンの死をひどく悲しんでいる言葉が別の一友人への書翰の中に出ているに過ぎないこと、(これらの点については後に再び触れる機会があろう)などの事実から推して、私は右に云うある事情からの故意の省略が行われたことを、ほとんど信じているのである。だが、そのある事情というのは、編者ブラウンの側のものではなく、シモンズ自身に関する事柄なのだから、ブラウンの省略は友人としてまことに当然のことであり、地下のシモンズもその思いやりを恐らく感謝していることであろう。  しかし、そのように注意深い取捨選択が行われたにもかかわらず、私が以下「シモンズ伝」の中から拾い出そうとする幾つかの事柄は、さすがにブラウンも省略しかねたのに違いない。伝記としてそれ程貴重な材料であったからだ。そして又それらの出来事の表現の仕方が|甚《はなは》だ抽象的であって、少しも厭な感じを与えないからでもあった。と私は想像するのだが。  さて、私はかくも長々しい前置をもって、一体何を語ろうとするのであるか、シモンズの精神上の深い悩みについてか、生涯彼をさいなんだ肉体上の病気についてか、それとも彼の幻想的な情熱の詩についてか、あるいは彼の古代ギリシャやルネッサンスに関する|厖《ぼう》|大《だい》な研究についてか。いやそうではないのだ。無論それらのすべてに密接な関係を持っている事柄ではあるけれど、私は今、そういう普通の見方とは全く違った角度から、シモンズの人と事業とを眺めて見ようと思うのだ。それは確かに異常な視角からである。だが、シモンズに限っては、どんな他の方角からよりも、この方角から眺める時、初めてその人間と事業との真相に触れることが出来るのではないかと、私は考えている。  この小論の出発点として、私はまずシモンズ自伝に現れた彼の不思議な夢を選ぶことにする。  シモンズは夢には甚だ縁の深い人であった。少年時代の彼は病身で、内気者で、昼間さえ夢見ているような子供であったから、夜の悪夢や美しい夢に襲われ続けたのは何の不思議もないことであった。その上に彼は夢遊病をさえ患ったことがあるのだ。私はまだその詩集を手にしたことはないけれど、一八九三年に出版された Midnight at Balae には彼が実際見たというローマの夢の数々が歌われているし、ブラウンが所持しているという著作年代不明のタイプライターで叩かれた Miscellanies と題する散文集には、「夢の国にて」の一文に彼の十の真実の夢が語られている由である。さらに、夢との縁は彼一代に止まらず、医師であった彼の父に Sleep and Dreams(一八五七年再版)の著述さえあるという。  同じ夢を繰返し見るということすら、常人にはむしろ珍らしいのだが、シモンズはその繰返す夢を幾種類も経験した。自伝に記されている最初の繰返す夢は、彼が七歳未満の幼時に現われたものであるが、それは、夢の中のシモンズが自邸の客間で人々と座っていると、入口のドアがひとりでに細目に開いて、そこから一本の指が|這《は》|入《い》って来る。見ていると、ドアを|辷《すべ》り|込《こ》んで来た指の根元に手がないのだ。そのうしろに人間の身体もないのだ。ただ一本の青白い指だけが、フワフワと宙を漂って、関節を曲げて「お出でお出で」をしながら、段々こちらへ近づいて来る。しかもそれが、夢の中の同席の大人達には少しも気附かれず、ただシモンズだけに見えるのだ。アア、あの指|奴《め》が、今に私の身体に触ったら、それとも同席の誰かの身体に触ったら、と思うと、幼いシモンズは何とも云えぬ恐怖を感じないではいられなかった。だが、その指が誰かに触るというカタストローフが来る前に、彼は恐れの余り目を覚すのが常であったという。  もう一つの夢は、十四歳の頃に現れたもので、夢の中でフト気がつくと、彼のベッドの中に、彼の身体とくッついて、冷い人間の|死《し》|骸《がい》が横わっている。怖さに夢の中で飛起きて、部屋を逃げ出し、暗い廊下を走って行くと、どこまで逃げても、その行く先々に、ちゃんと死骸が立ちはだかって、彼の来るのを待ち構えているという夢であった。(それが誰の死骸であったか、男性か女性かも、自伝には記されてない)彼は死骸を遠ざかるために、家中を逃げ廻った。夢見ながら、しかも真実にも逃げ廻ったのだ。つまり彼は、その夢が動機となって、夢遊病にとりつかれたのである。  シモンズの夢中遊行が余り|甚《はなはだ》しくなったので、彼の父は子供の足を、夜中ベッドに縛りつけておく方法によって、この|悪《あく》|癖《へき》を治そうとした。だが、縛りつけられても、例の死骸はやっぱり現われるので、夢中でベッドから転り落ちて目を覚ますことがしばしばであったけれど、結局父の治療法は効を奏して、それ以来夢遊病には|罹《かか》らなかったということである。  これらの夢はそれぞれに、無論何かの意味を持っているに違いない。そして、それはもしかすると、これから述べようとする私の小論に深い関係があるのかも知れないのだが、夢分析に不慣れな私には、これらの夢の意味を掴むことが出来ない。最初の指の夢には、胎児であった時に経験した父のペニスの記憶であるという、公式的な解釈が当てはまるのかも知れない。又次の死骸の夢は、(それが誰の死骸であったかを少しも記していない点に、何か意味がありそうにも思われるが)極く単純に考えるならば、シモンズはその頃までに、母と、生れて間もなく死亡した兄弟との死を経験してゐるのだから、その何れかの記憶が、病身な彼に死の恐怖と結びついて現われたのかも知れない。  今私には、それ以上何も考えられない。又ことさらこの二つの夢にこだわる必要をも感じない。というのは、私の小論の出発点として語りたいシモンズの夢というのは、実はこれとは別な、もっと単純明白なものであるからだ。したがって私の理解力の範囲では、以上の夢は別段ここに記す理由もないのであるが、夢分析に慣れた読者の一考を|煩《わずら》わしたい下心から、省略を見合せたまでである。  では、私の語ろうとする夢とはどんなものであるか。自伝の文章をそのまま借用すれば次のごとくである。 「今度は一つの全く新しい形の夢が、繰返し私の安眠を妨げるようになった。それは、大きな青い眼をして、豊かに波打つ金髪が、|朦《もう》|朧《ろう》たる光輪を発している、一人の美しい青年の顔であった。彼はじっと私を見つめながら、段々私の上にかがみ込んで来て、ついに私の肌に触れる、と見て眼を覚すのが常であったが、すると青年の顔から発していた後光が、闇の中に溶け去って行くのが感じられるのであった。」  この夢は前に記した夢遊病の出来事があったすぐあと、同じ十四歳の頃に現われたものであるが、これが何を意味するかは、少し多弁な説明を要するのだ。大げさに云えば、シモンズの一生涯を見なければ、この夢の本当の意味深さを知ることが出来ないのかも知れぬのだ。しかしまず、手取早くシモンズ自身の解釈を記して見るならば、 「かように睡眠中に現われた私の理想の美の幻影は、私の性格に深くも根ざしている生得の憬れを象徴していた、そして、後年私が様々の文芸美術から受けた深き感銘も、やはり同じ幻影のしからしむる所であった。」  というのである。こういう真正面からのシモンズの解釈は、決して間違ってはいなかった。この場合、表面に現われたものの裏を覗いて見ようとすることは、かえってこの夢の真意を誤るものである。では、右の文中の「私の性格に深くも根ざしている生得の憬れ」とは一体何を意味するかと云うに、それについては、彼が同じ少年時代に|遭《そう》|遇《ぐう》した二つの著しい経験を語れば、自ら明白になるのである。  自伝によると、シモンズは十二三歳の頃、家庭教師について(念のために云っておくが、彼はその男教師にはほとんど好感を持っていなかった)ギリシャ語、ラテン語を学んでいたが、ある日ホメロスの「イリアス」の最後の章を教わっていた時、「唇と|頤《おとがい》に薄ひげの生えそめる頃こそ、若者はこよなく美しけれ」という二行の詩句にぶッつかると、その詩句の美しさに非常な衝撃を受けて、教師の前も構わず、烈しく泣き出したというのである。 「イリアス」を見ると、この詩句は、ギリシャ軍の勇士アキレウスのために殺された、トロイ王の子ヘクトルの死骸を、父王プリアムが取返しに行くのを、ゼウス神の命をうけたヘルメス神が、一人の美しい人間の若者に姿を変えて、そのプリアム王の道案内をしてやるために出発する事を歌った部分であって、それらの叙事の間に、ただ右の簡単な形容句が介在しているに過ぎず、常人にはそれ程の感動を与えようとも思われぬ箇所である。そんな何でもない部分を読んで、シモンズ少年が泣き出したというのには、特別の理由がなくてはならない。  シモンズ自身は自伝の中で、それをただこんな風に説明しているに過ぎない。 「この二行のギリシャ語が、飾り気のない、しかも私を泣かせた程も美しい、年若き男性の幻影を、私の心に目覚めさせた。」又「この句の中にはあらゆるギリシャ彫刻の美が含まれていた。青春の男性の圧倒的な神秘力に、私は涙を止め得なかった。」又「咲き誇る花の若者に変装したヘルメスは、私の心に永遠の憬れの深き泉を目覚めさせた」  しかしこれだけの言葉では、彼の「生得の憬れ」というものが充分には理解出来ないかと思われる、それには古代ギリシャの人々が、上述の二行の詩句の内容について、どんな考を抱いていたかということを、少し別の方面から観察して見る必要がある。  この「薄ひげ」の形容句は、「イリアス」の姉妹篇である「オデュッセイア」からも探し出すことが出来る。やっぱり美青年に変装したヘルメスを歌っている部分であるが、ギリシャの勇士オデュッセウスが魔女キルケの住む島を征服するために上陸した時、|途《みち》でそのヘルメスに会うのだが、そこにも「頤に薄ひげ生えそめし青年の姿にて、その若さこそ世にも美しき魅力なれ」という意味の表現が使われている。  又、喜劇詩人アリストファネスも、その傑作「雲」の中に、同じくギリシャ少年の「薄ひげ」の魅力について歌っている。ただ彼の場合は、頤や唇の薄ひげではなくて、もっと違った場所のそれについてではあったが。  又、我々はプラトンの対話篇「プロタゴラス」の冒頭に、興味ある会話を見出すことが出来る。 [#1字下げ折り返して2字下げ] 「友人 オイ、ソクラテス、どこからやって来た。きっと、アルキビアデス盛りの花を追い廻していたんだろう。ウン、僕もついこの間あいつに出会ったがね、やっぱり美しいわい。だが我々仲間の評判の通り、あいつももう男になったね、頤を見ると、ちゃんと立派にひげが生えているぜ。 ソクラテス で、それがどうしたというんだ。君はホメロスの説に不賛成を唱えようとでも云うのかい。ホメロス|曰《いわ》く(ひげ生えそめし若さほど、世に美しきものはあらじ)とね。で、我がアルキビアデスがちょうどそれなんだ。」(J・ライトの英訳より) [#ここで字下げ終わり]  というようなことを思合せると、シモンズのいわゆる「憬れ」の目ざしていた方向を、大方推察することが出来るのだ。そして又、彼が「イリアス」を読んで泣いたのは、あの夢よりは一、二年前に当るのだから、夢の中の美青年こそは、薄ひげ生えそめし花のヘルメスの顕現ではなかったかと考えても、さほど突飛な想像ではないのである。  しかし、彼がこの「憬れ」について、一層ハッキリした感激を味い、「憬れ」に対する強い自信(?)を得たのは、ずっと後の十九歳の折であった。それはハロウの学生時代で、当時プラトンの「アポロギア(1)」を学んでいた関係から、十九の年の三月、休暇を許された時、カリイのプラトン註釈本を買求めて、ロンドンの仮寓へ持帰ったのだが、ある夜、仮寓の主婦に誘われて芝居を見に行って帰ってから、床に入って、何気なくその註釈本を読み始めた。 [#ここから3字下げ] (1)「ソクラテスの弁明」 [#ここで字下げ終わり]  その時、彼は初めて「パイドロス」にぶッつかったのだ。云うまでもなく、非常にひきつけられて、眠るのも忘れて読みに読んだ。たちまち読み終ると、次には当然「シュンポジオン(1)」の頁を開いて読み始めた。そして、それを読み切らぬ内に、いつしか夜があけて、窓に朝日がさしていたというのである。 [#ここから3字下げ] (1)「饗宴」 [#ここで字下げ終わり]  彼はその夜を、彼の長い生涯での最も重大な一夜であったと告白している。 「ここに、このフェドラスとシンポジウムの内に、——この魂の神話の内に、私は長い間待ち望んでいた啓示を得た。長い間|育《はぐく》んで来た私のある理想の清めを得た。それはあたかも、プラトーを通じて私自身の魂が私に語る声のように感じられた。悩みは跡方もなく消え失せた。私は今や確固たる地盤に立った。ここに、比類なき文章の魔術によって表現された、私自身の情熱の詩があった。哲学があった。」(自伝)  |迸《ほとばし》る感激の言葉だ、かつて彼が「イリアス」を読んで泣き出した折にも勝る興奮である。何故か。それは彼自身の異常な情熱についての幼時からの不安を、この二つの対話篇が、跡方もなく拭い去ってくれたからだ。  大聖プラトンとソクラテスの権威が、哲学の名において、彼の情熱を裏書きし、励ましてくれたからだ。  同性恋愛に関する言葉は、プラトンの対話篇のほとんどことごとくに見出すことが出来るけれど、それを重要なる内容として語っているものは、「シュンポジオン」と「パイドロス」と「アルキビアデス」の三篇であって、中でも前二者はその内容の優れている点で、代表的なものと云えよう。そこでは、プラトン的ソクラテスが、縦横の雄弁を|揮《ふる》ってエロス・ウラニオスを讃美している。この愛情によってのみ、俗人はかつて失った翼を取戻し、神々の天界にまで飛翔し得ると……。  シモンズはそのような二篇に読み|耽《ふけ》って夜を明かし、あの感激の言葉を|漏《もら》しているのだ。彼が美しい若者の夢について告白した「私の性格に深くも根ざす生得の憬れ」が何であったかは、ここに至って、もはや疑を挟む余地がなくなったのである。      二  上述のシモンズのいわゆる「生得の憬れ」は、フロイドを通過した我々は、少くも潜在的には万人通有のものであることを知っているのだが、しかし、右に述べた又以下述べるであろう彼の場合のように、これ程烈しく「深くも根ざした」のには、そこに何か、本質的にか、環境的にか、特別の事情がなくてはならないように思われる。だが、彼の自伝や書簡は、それについて別段我々に教える所がない。僅かに左の一事を除いては。  シモンズは四歳の折母を失い、それからは父一人の愛によって育った。四歳と云えば|朧《おぼろ》げにもしろ、母の面影が記憶に残っているのが当りまえのように思われる。現に「自伝」にも、その母に抱かれて馬車に乗っていた時の記憶が記されているのだが、そういう記憶はあっても、慕わしき母としての面影は、彼の心にはほとんど残っていなかった。母の死後、幼い彼は父に連れられて、よくその墓参りをしたのであるが、墓前に額ずきながらも、母を偲び泣くことは全くなかった。彼はそれについて「自伝」にこんな風に書いている。 [#ここから1字下げ] 「(当時)私は母の懐しさがハッキリ分っていたとは云えない。つまり、母を失ったという事実を痛感出来なかった。|凡《すべ》てが|茫《ぼう》|漠《ばく》|模《も》|糊《こ》としていた。母が私に対してどんな関係のものであるかさえ知らなかった。私はなき母をあこがれる気持になれないので、ともすれば、私自身を余りにも冷淡な罪深い男のように思うことがあった。」 [#ここで字下げ終わり]  常人であれば、いかに四歳で別れた母とは云え、イヤ、そんなに早く別れた母であればこそ、その面影が幻の女性ともなって、一生涯心を離れぬのが当り前のように思われるのに、シモンズにはそれが少しもなかったというのである。私は彼のこの母への冷淡について、何かしら異常なものを感じないではいられぬのだ。  これに反して、彼の父への愛情は、むしろ常人以上に|濃《こまや》かであった。母を失った彼は自然「お父さん子」ではあったけれど、それにもせよ、彼の父に対する親愛の情は(彼の場合は友情といった方がふさわしいのだが)普通以上であったように見える。  父の方でも、充分厳格ではありながら、母の分をも|併《あわ》せて、少年シモンズを愛していたと云える。幼時の著しい一例を挙げるならば、シモンズが先に云った「宙に浮く指」の夢を見続けて、日に日に病的になって行くのを見ると、父はある期間、ちょうど日本の母親がするように、シモンズと同じベッドに添寝をして、彼の心を静めようとしたことさえあった。  年長じて、オックスフォード大学時代には、シモンズはほとんど休暇ごとに、イタリー、ギリシャ、スイス、ドイツその他大陸の各地へ長い旅行を企てて、古代の建築、彫刻、絵画などを観て廻ったものであるが、それらの旅行の同伴者は、多くの場合彼のよき友である父ドクトルであった。シモンズは大きくなっていても、殊に旅行中などは「パパ」の愛称を連発して、父につき纏っていた。母とは違って、父に対する親愛の言葉は「自伝」の到る所に散見するのである。  シモンズが父を失ったのは、三十二歳の年であったが、その直後彼がある友達に送った手紙の一部を、「シモンズ伝」の編者が報告している。 [#ここから1字下げ] 「父の死がこんな恐ろしい打撃であろうとは予期しなかった。私は父を失ったと同時に、最も親しき友を失ったのだ。父は私に対して、心からの優しい愛情を示してくれたばかりでなく、私の趣味なり仕事なりによき理解を持って、私の仕事の成功に対しては誇りを感じてくれたし、どんな私の企てにも興味を持ってくれた。かくまで私を孤独に|陥《おとしい》れ、私の元気の源であった所のものを根こそぎ奪い去ってしまった、この損失に比すべきものが、外にこの世にあろうとは思われぬ。」 [#ここで字下げ終わり]  母への冷淡に比べて、何という父への愛着であろう。このことは、親達と死別したのが、一方は四歳の幼時であり、一方は三十二歳の成年であったということだけでは、説明し切れないように見えるのだ。  私はかつて、精神分析学者フェレンツィの早い著述の英訳 Sex in Psycho-Analysis を一読したことがあるが、フェレンツィは同性恋愛を二大別して、自己を女性の立場に置くものを Subject-homo-erotism と名附け、自己を男性の立場に置くものを Object-homo-erotism と名附けた。そして前者を説明した文章の中に、次のような一節があった。 [#ここから1字下げ] 「彼は全くの幼児の時分から、彼自身を父と同じものではなくて、母と同じものと想像する。彼は倒錯せるエディポス・コンプレクスに陥っているのだ。彼は父に対する母の地位に自分自身を置き換えたいために、そして母の|凡《すべ》ての特権を|享楽《きょうらく》したいために、母の死を願望する。」 [#ここで字下げ終わり]  すなわち一般の男性が、父を競争者として母の愛を争うのとは反対に、この種の男性は母を競争相手として、同性である父の愛を争うのである。  シモンズ自伝に現われた不思議な母への冷淡、父への愛着が、図らずも私にこのフェレンツィの一節を思出させた。彼はフェレンツィのいわゆる倒錯せるエディポス・コンプレクスに支配されていたのではなかったか。つまり同性恋情は、彼の場合、自己を女性の立場に置くものではなかったか。 「シモンズ伝」を探すと、私のこの想像を裏書きするような二三の記述が散見する。空想的で孤独好きであった少年時代のシモンズは、同年配の少年と遊戯するようなことも少なかった。学校では運動競技が嫌いで、外の小供達のように口笛を吹くことも出来なかった。そして、たった一人で景色のよい自邸の附近を歩き廻りながら、幼い即興詩を|呟《つぶや》き歌っているような少年であった。又その頃彼の家庭教師であった一婦人は(前述の男教師とは別の)後年彼に手紙を書いて「あの時分、あなたは女友達ばかりと遊んで、男の子がお嫌いでした。」と云っている。シモンズ自身は「自伝」の中で、「しかし私は決して Effem-inate ではなかった」と弁解しているが、弁解しなければならなかった程、つまり彼は女性的であったのだ。  先に私が、青い大きな目をした美しい夢の青年に、十四歳のシモンズが不思議な愛情を感じたことと、ソクラテスのギリシャ的恋情とを結びつけて語った時、読者はある疑問を抱かれたかも知れない。ギリシャ的恋愛においては、パイディカ(愛されるもの)は、例えばアルキビアデスのごとく、そのエラステース(愛するもの)例えばソクラテスよりも、ズッと年少であるのを普通とするのに、シモンズの場合は夢の青年よりも、彼の方が年少なのだ。その年少の彼の方から愛情を感じているのだ。これはソクラテスなどの一般的な場合とはあべこべではないか。プラトンの対話篇の各所にも説かれているように、およそ年少のパイディカの側から、まず愛情を感じ初めることは、ほとんどあり得ないのではないか。  だが、この問題は、シモンズ自身が女性の立場にあったという上述の事実によって解くことが出来る。彼の性格は恐らくフェレンツィのいわゆる Subject-homo-erotism もっと普通の言葉を用いるならば、カール・ハインリッヒ・ウルリックスの命名以来一般的に用いられている Urning に属するものであろう。すなわちウルリックスのいわゆる男体女心(anima muliebrio in corpore virili inclusa)の一つの型と考えて差支ないのであろう。それ故にこそ、シモンズの場合は、普通のごとくエラステースとしてではなく、パイディカの立場から、年長の青年にギリシャ的恋情を感じ得たのである。  かくのごとき私の推察はやや性急に見えるかも知れない。読む人を|首《しゅ》|肯《こう》させるには、「シモンズ伝」に現われた材料が余りに乏しいからである。だが、私は「シモンズ伝」の乏しい材料のみによって、この推察を組立てたのではない。私にこの小論を思立たせたものは、シモンズの伝記ではなくて、むしろ彼自身の諸々の著述であった。殊に、先に述べた彼のひそかなる限定出版の二小著と、ある心理学者との、これもまたひそかなる共著などであった。(「シモンズ伝」には、これらの著述については、全く記されていない。)  さて、私は今、シモンズの性格をウルニングに属するものであると云った。この名称は、名附け親であったウルリックスの|真《しん》|摯《し》な態度を知らぬ読者には、ある不快の感を与えるかも知れない。今日では、ウルニングという言葉によって、我々はともすればベルリンあたりの男娼窟を思い起し勝ちだからである。だが、命名者ウルリックスは決してそういう意味にのみ、この言葉を使用したのではない。止み難き願望を内部に蔵しながら、外部的には常人と|些《いささ》かも変らぬ生活を営み続ける不幸な人々をも、この名称の中に含めていたことは明かである。シモンズはそういう不幸な人々の一人であった。少くも「シモンズ伝」に現われた限りにおいては、彼の外部生活は少しも常道を|脱《はず》れてはいなかった。  彼は二十四歳の折、アルプスへの旅をして、スイスの山村のささやかな旅宿で、同じく旅行中のイギリスのお嬢さんに出会った。そして至極ありふれた恋をして、翌年そのカサリンと呼ぶお嬢さんと結婚した。彼等の結婚生活には、外部に現われるような何等の|破《は》|綻《たん》もなかった。夫婦の間には四人の娘さんが生れた。彼は恐らく生涯よき夫でありよき父であった。  では、彼の幼時の愛は、ギリシャ的恋愛への憬れは、どこへ行ったのか。彼の異常なる情熱は、結婚と共に消え失せてしまったのか。イヤ決してそうは考えられない。彼は恐らく闘ったのだ。そして我が心を克服したのだ。彼は内部の願望をそのまま生活上に具体化するには、余りに教養があり過ぎた。世の風習に反抗する程、大胆でも恥知らずでもなかった。それに、当時のイギリスの国法と社会的風習とは、今日我々が考え及ばぬ程苛酷であった。このことは、シモンズとほとんど同時代の作家オスカア・ワイルドの有名な投獄事件と、その事件による彼の社会的地位の失墜とを思い起せば、ほぼその程度を想像することが出来るであろう。ワイルドの投獄は一八九五年の四月であったから、シモンズが五十四歳の短生涯を終った一八九三年からは二年後に当る。ギリシャ的恋愛に対するキリスト教的憎悪は、時代を|遡《さかのぼ》る程苛酷であったのだから、(ある時代にはそれは火刑に値する重罪であった)ワイルドよりも少し早いシモンズの時代がどんなであったかは想像出来る。彼はこの異常心理に対する科学的理解の普及を見ずして生涯を終ったのであった。  しかし又、もう一つの見方がある。彼のギリシャ愛への深き憬れと、現実の結婚生活とは、全く無関係であったと考える方が正しいかも知れない。なぜと云って、彼が遥かに|思《おもい》を寄せたプラトン時代のギリシャにおいても、結婚とパイデラスティアとは、全く別々のものとして、並行的に成立し得たからである。古代ギリシャの思想では、結婚は人間製産の肉体的営みに過ぎず、妻は精神的に夫と対立し得ぬドメスティックな存在でしかなく、真の恋愛は専ら年若き同性を対象とした。一つは肉の恋、一つは霊の恋であった。この二つの愛の両立の可能は、例えばダンテが妻を|娶《めと》り四人もの子をなしたにもかかわらず、そのことが彼の生涯の霊の恋人ベアトリーチェに対する情熱には、何の妨げともならず、彼において結婚と恋愛とは全然別個のものであった事実によって、類推し得べきである。  シモンズは先にもちょっと言い及んだ The Dantesque and Platonic Ideals of Love と題する著述で、ギリシャ的男性愛と中世の騎士的恋愛との不思議な類似について論じ、この二つのものを人類史上に燃え出でたる、物狂わしきまでに純粋なる、至高至霊の情火であると|做《みな》したが、その中に左の一節がある。 [#ここから1字下げ] 「騎士的愛は、全然、結婚とは別物であり、又非婚姻的なものであった。騎士が敬慕し奉仕した女性、そしてその奉仕を受け入れその献身に酬いる所の女性は、決してその騎士の妻たる事は出来なかった。その女性が処女であろうと既婚の婦人であろうと問う所ではなかった。(中略)愛に関する封建裁判所は「既婚者同志の間では、愛はその能力を働かすを得ず」と宣言した。これは十分注目に値する特異点である。この言葉こそ、ダンテがベアトリーチェと結婚しなかった理由について時々発せられる愚問に対して、直ちにかつ決定的に解決を与えるばかりでなく、又古代ギリシャの騎士的愛と中世人のそれとの間における最も著しい類似点を構成する事にもなる。プラトーがシンポジアムにおいて論じて、自分の言う所の高揚せられたる愛というのは、結婚という「野卑にして凡俗な」方法には何等の関係もないと主張しているのは記憶すべき言葉である。かかる愛は夫婦的関係が絶対に不可能な間柄の人によって起されなければならない。そは精神の一状態であって情慾ではない。そして人性の薄弱さが場合には愛人同志を肉慾に導く事はあり得るが、かかる欠点は明かに理性から外れているものである。この愛は、国家に対して利益があり、社会に対しても有用である結婚や、子供の出産、養育、家庭上の用務、日常の事務の平凡さなどを包含している所の婚姻関係とは、最も関係の薄いものである。とにかく、理論上では、ギリシャ及び中世の型の騎士道的感情は、共に純粋なかつ霊的な熱情であって、愛人の霊からあらゆる卑しい思想を除き、肉の拘束を超越せしめ、永久の陶酔をもって彼の心を満すがごときものであった。」(田部重治氏訳文による) [#ここで字下げ終わり]  かように、現実の結婚生活と精神上のギリシャ的恋愛とは、全く無関係に両立し得ることを、シモンズ自身が説いている以上、我々は、彼のギリシャ愛への憬れと、彼の結婚生活とをも、同じように、並行無関係の事柄と解し、彼の情熱は決して結婚によって消え去ったものでないと考えることが出来るのである。  では、その結婚によって妨げられる事のなかった、彼の霊の憬れは、シモンズの生涯にどんな形を取って現われたか。彼のベアトリーチェ、いやヘルメスは一体何人であったか。時と所とを隔てたシモンズの生活を知るためには、我々は伝記の外に頼るべきものを持たぬのだが、その伝記は、彼のヘルメスについては全く無言である。  それ故今はさような現実の問題を別にして、この記述を進める外はないのだけれど、シモンズの性格は、ワイルドのそれとは全く違っていたことだけは間違いない。恐らく彼は、現実のエラステースなりパイディカなりと結びつくのには、世間に対して、その相手に対して、いや何よりも彼自身に対して、余りにも臆病で潔癖だったのではないかと思われる。  では彼は、あの情熱のはけ口をどこに求めたのか。私が思うのに彼の生涯の事業こそ、そのはけ口であった。あの|夥《おびただ》しい著述の全体が、いわば彼のヘルメスであった。意識的にせよ無意識的にせよ、反社会的願望についての苦悶、闘争、そして昇華。いかにもこの精神分析学上の言葉は彼の場合に適切であった。  私はいかなる論拠によって、かような断定を下し得たのか。それを明かにするためには、彼の生涯の全著作を見なければならぬ。それらの著作にほとんど例外なく染めつけられている一つの色彩を見分けなければならぬ。だが、この小論にとって、それらの夥しい著書の一々について、詳細なる吟味を行うことは、必ずしも必要ではないし、又、私がシモンズに興味を覚え初めたのが最近の事に属するため、彼の全著作を蒐集するまでに到っていないので、ここには、私が今日までに読み得た五六種の著述と、他人の著書の引用などから想像し得るものについて、私の考を記すに止める外はない。殊に、この小論を軽々しく書き初めて、今さら遺憾に思うことは、私が彼の詩集を一冊も所持しないことだ。詩の上にこそ、彼の生得の憬れは、最も力強く現われているに違いないのだが、今の所私は、他人の著書に引用された幾つかの詩を除いては、それについて全く無智であることを告白しなければならぬ。シモンズの詩作とギリシャ的恋愛との関係についての私の感想は、しばらく他日の機会に譲る外はない。(もっとも彼の詩は、第一流のものとして認められている訳ではない。十九世紀英詩集というような書物にも彼の名は見当らぬ。シモンズの英文学史上の地位は、全く文学美術の史的研究の業績によるものである。しかし、それにもかかわらず、私の小論にとっては、たとえ第二流であっても、彼の作詩は重大な役割を持っているのだが。)  シモンズの代表的なる二つの著述、Renaissance in Italy と Studies of the Greek Poets とはそれぞれ第一巻の第一版が出版された時期は、たった二年の隔りしかなく、前者は一八七五年、後者は一八七三年であったけれど、著者の心の中で興味が熟して行った順序は、無論「ギリシャ詩人」の方が先であって、シモンズのギリシャ文学への傾倒は、大学時代、ジョウエット教授(プラトン、アリストテレスなどの英訳者として著名なベンジャミン・ジョウエットである。ウォーター・ペーターもこの人の教えを受けた。そして彼もまた、シモンズよりさらに一層不鮮明にではあるが、ギリシャ的恋愛の讃美者であった。私はこの二人の特異なる人物の共通の師であるジョウエットその人に、ある興味を持つものである。)からギリシャ古典を学んでいた時代、いやそれよりもっと早く、十九歳の折初めて「パイドロス」と「シュンポジオン」を読んで感激した時、さらに遡っては、少年時代「イリアス」に涙を流した時に、胚胎しているのだと考えることが出来る。  ヘレニズムという言葉の内には、実に様々の要素が含まれているのだが、ギリシャ的男性愛の理想もまたその一つであって、これを無視してはヘラスの道徳も哲学も宗教をさえも、正しく理解することは出来ないであろう。それは例えば、あの美しいギリシャの神々の彫像を思い浮べることによってでも、容易に察し得るのである。ヘラスの名工達は、神々を、純白の大理石上に美しい人間の姿として刻み出した。人々は人間美の極限を示すそれらの彫像を、そのまま神として信仰した。美を憬れることの深かった古代ギリシャの市民達は、彼等の恋人を理想化したるがごとき、美しき人間の神の前に、忘我の情熱をもって|拝《はい》|跪《き》した。我々は今に残るそれらの神々の彫像を、写真版によって見ることが出来るのだが、女性神として著しいアフロディテを除いては、ほとんど青年神ばかりと云っても差支ない程、神々は美しい若者の姿に刻まれている。しかも、それらの青年神は、ふと見れば女性ではないかと思われる程、しなやかな四肢と、|滑《なめら》かな肌を持っている、例えばヴァチカノ博物館に保存されるアポロン神を見るがよい。あるいはオリンピアのミュジアムにあるプラキシテレス作のヘルメス神を、又大英博物館所蔵のディオニュソス神と葡萄の精との像を見るがよい。さらにルーヴル博物館のディオニュソス像に至っては、ヘルマフロディテ以上の、驚嘆すべき女性化である。かくのごとき若き男性神の女性化は何を語るものであるか。当時の人々のギリシャ的男性愛への憬れと結びつける外には、解くすべのない謎ではないか。この意味で、古代ギリシャの同性愛の思想は、宗教上の信仰にまで喰い入っていたと云うことが出来るのだ。(同性恋愛と結びつけたギリシャ神話の数々には、ここでは触れないとしても)  そのような古代ギリシャであったから、当時の哲学者も、悲劇詩人も、喜劇詩人も、叙事詩人も抒情詩人もその作品にギリシャ的恋愛を取入れていないものはほとんどないのであって、そのギリシャ詩人達がシモンズの史的研究の第一着手として選ばれたことは、偶然でないように思われる。 「ギリシャ詩人の研究」二巻は、それらの詩人と作品とを漏れなく記述し批判した大著であるが、比較的若い時の作品であっただけに、彼の著作中最もスタイルに苦心の払われたもので、研究と云わんよりは、むしろヘレニズム讃美の|尨《ぼう》|大《だい》なる散文詩と云った方が当っている程、美と感激とに満ちている。ラフカディオ・ヘルンは「英文学史講義」で、サッフォ論の結びが最も美しいと云っているが、殊に第二十四章に当る「ギリシャ美術の天才」の一章のごときは、全文朗々誦すべき散文詩であって、ハウプトマンの「ギリシャの春」などを思い出させる名文である。余事はさて置き、シモンズのこの著述は、しかし、無論ギリシャ愛の研究ではないのだから、この書のみを一読して、直ちにそれと語り得る程、あらわな記述には乏しいけれど、よく吟味すれば、巻中到る所に、彼の同性恋愛への関心を指摘する事が出来る。中にも第三章に当るアキレウス論の後半には、他の部分に比して、はなはだ大胆な論述があって、この部分に彼のギリシャ的恋愛観が集中圧縮されているかに感じられる。 「イリアス」の中の美しき勇士アキレウスと、その戦友パトロクロスとの、並々ならぬ友情の物語は、誰も知る所であるが、シモンズはこれを、彼のいわゆるギリシャ的騎士愛(Hellenic chivalry)の代表的なるものとして、同性恋愛に結びつけて考えている。 「アキリーズの名はギリシャ人達の間に、パッショネイトな友情を云い現わす名称として長く記憶された。ずっと後期のギリシャの詩の中でさえ、一対の精神的な男友を呼ぶには、「アキリーズ的」という言葉が最もふさわしかった。史上に著名なるギリシャ人達が陥った、この情熱のいまわしき濫用については、ここに触れることを避けるが、後世の多くの人々がそれぞれの勝手な考え方感じ方で、ホーマーを解釈したからと云って、アキリーズとパトロクルスとが、さような|陋習《ろうしゅう》を身をもって|奨励《しょうれい》したとの汚名を着る|謂《いわ》れは少しもない。」  この文章によっても、シモンズがギリシャ的恋愛を、精神的にのみ考えていたことが分る。  彼は同じ場所で、アキレウスのギリシャ的騎士愛に関聯して中世のキリスト教的騎士道に言及し、両者の相似を論じている。これは後年、先に述べた「ダンテとプラトーとの愛の理想」というやや長い論文となって現われたものと同じ論旨であって、その|萌《ほう》|芽《が》あるいは筋書きとも云うべきものであるが、シモンズ自身が「世のギリシャ史家達は、武人の友愛がギリシャ国民に及ぼした影響と、女性の霊的崇拝が中世欧洲諸国の騎士道に及ぼしたそれとは、同じ性質のものであることを閑却している」と云っているように、これは彼の創見であって、一度「ギリシャ詩人の研究」に発表した論旨を、さらに|敷《ふ》|衍《えん》して世に問うたのをもって見ても、彼がいかにこの事に(それはつまり、ギリシャ愛の価値づけに外ならぬのだが)深き関心を持っていたかを語るものである。      三 「ギリシャ神話と古代ギリシャ史とは、友愛の物語に満ちている。我々の聖書ではダビデとヨナタンの物語(「サムエル前書」に現われたる男性愛の典型)のみが|漸《ようや》くそれに匹敵し得る。ギリシャ男性愛について、直ちに我々の心に浮ぶ名前は、ヘラクラスとヒュラース、テセウスとペイリトオス、アポロンとヒュアキントス、オレステスとピュラーデス等の神話的伝説であるが、さらに古代ギリシャ史上の気高き愛国者達、暴君達、立法者達、命知らずの勇士達の間に、我々は到る所に、特種の名声を輝かしているかくのごとき友愛関係の一対の名前を見出すことが出来る。アテナイの暴君ヒッパルコスを暗殺した勇士ハルモディオスとアリストゲイトンの一対、テバイの立法者ディオクレスとフィロラオスの一対、シチリヤの僭主ファラリスに反抗したカリトンとメラニッポスの一対、アテナイの市が熱病に襲われた時、神々の怒りをなだめるために身命を賭したクラティノスとアリストデーモスの一対、などの男性愛は、愛情によって互に固く結びつき、友愛によって高貴なる情熱の最高峰にまで高揚せられた、ギリシャ史的伝説中の、愛すべき使徒達の一例に過ぎない。一口に云えば、ヘラスの騎士道の原動力は、中世のそれとは異り、婦人に対する愛情ではなくて、かくのごとき男性愛にあったのだ。いずれの騎士道においても、その原動力となるものは、勇壮な、魂を高揚する犠牲的な情熱であった。男性愛がギリシャ人の間に実らせた果実は、危険に面してのゆるぎなき勇気であった。名誉のためには命を惜まぬ精神であった。愛国の熱情であった。自由の尊重であった。そして、職場における鉄のごとき闘争心であった。プラトンが云っている。『暴君達も男性の使徒には|畏《い》|怖《ふ》する』と。」  又「騎士道の古代型(すなわち男性愛慕の)においても、中世型(婦人崇拝の)においても、恋愛と武士道とがつきものである。古代ギリシャの英雄も、中世の騎士も共に恋する人でありかつ武道の勇士であった。プラトンが『パイドロス』において Mania(狂熱)と呼んだ所の、そして又中世プロヴァンス地方のトルバドウル達の間に Joie(歓喜)という名で通っていた所の、あの特種なる情熱は、ギリシャの勇士には愛する男性によって、中世の騎士には彼等の婦人達によって、かき立てられたのである。」  又「騎士道は戦と恋の外に第三の情熱を持つ。ギリシャ勇士の場合は、それは愛国心であり、中世騎士の場合は、それは宗教上の信仰であった。すなわちギリシャ騎士道では、武道と男性恋愛と愛国心とが一つになって、かの風習的情熱を形造り、中世騎士道では、武道と婦人崇拝とキリスト教とが一つになって、同じ情熱を醸成した、と云うことが出来る。」  又「ホメロスは(「イリアス」において)恐らく、ヘクトル(トロヤ王の子にして、パトロクロスを殺したアキレウスの|仇敵《きゅうてき》)とアキレウスとによって、ドメスティックな恋愛と、男性愛とを対照せしめんとしたのだと考えることが出来る。アキレウスの烈しい男性愛にひき比べて、ヘクトルがその女性の恋人アンドロマケーに示した優しき愛情は、中世紀において、アキレウスよりもむしろヘクトルの方が人気者となった所の、少くとも一部の原因であったように思われる。アキレウスは同時代のギリシャ人の心を支配したが、ヘクトルはずっと後の中世騎士道によって初めて認められ、騎士道の代表的人物の列に加わる事が出来た。男性恋愛はギリシャ的のものであり、霊化された女性愛はローマ的のものである。詩聖ホメロスは人間のこの二つの情熱を共に理解していた。そして、その一つをアキレウスにおいて、しかし彼を女性化することなく、描き、他の一つをヘクトルにおいて、しかし彼を病的感傷に陥らしむることなく、描いたのである。」  以上はすべて「ギリシャ詩人の研究」第三章、アキレウスの章から、騎士道に関する部分を私の興味に随って|抜《ばっ》|萃《すい》したのであるが、これらの論調は、前述の「ダンテとプラトーとの愛の理想」よりも遥か以前に書かれたものだけに、純である代りには卒直であって、彼の考えの骨組みを理解するに便利であると思う。それにしても、古来ギリシャ文学史の著書にして、かくも明確に、同性恋愛を弁護した者が外にあったであろうか。我々はこれらの記事の表面よりは、その行間にギリシャ的男性愛に対するシモンズの情熱が、チロチロと燃えているのを見逃してはならないと思う。  又、シモンズは同じ章で、ギリシャ三大悲劇詩人の内の二人、アイスキュロスとソフォクレスとの、今は|散《さん》|佚《いつ》して見る由もない劇詩に言及し、これらの大詩人さえもが、アキレウスとパトロクロスとの同性恋愛に取材して、劇詩を創作した事実を指摘している。アイスキュロスのは「ミュルミドネス」と題するものであるが、アリストファネスが「蛙」その他の喜劇に引用している同劇詩中の詩句と覚しきものによって想像するに、「ミュルミドネス」には、アキレウスがパトロクロスの戦死の報告に驚き、やがてその死体を前にして慟哭する、男性愛の激情的場面を含んでいたらしいのだが、アイスキュロスの天才が、我々後世人には想像も及ばぬこの特殊の激情について、いかに巧みに、美わしく描き出していたことであろうと、シモンズはその散佚を嘆いている。ソフォクレスのは「アキレウス・エラスタイ」(アキレウスを愛した人々)と題する劇詩であって、その内に同性恋愛を少年の手にせるギラギラと輝く氷の一片になぞらえた詩句を含んでいたことが分っている外には、全く内容不明のものであるが、題名が、美しき勇士アキレウスをパイディカの立場に置き、彼のエラステース達という意味になっているのを見ても、ギリシャ愛を歌ったものと考えて、決して見当違いではないであろう。  アキレウスとパトロクロスの場合、人は彼等のいずれがパイディカで、いずれがエラステースであったかという疑問を抱くかも知れない。(現存の陶器絵などに、パトロクロスの方が|有《ゆう》|髭《し》年長に描かれているのを見ると、一層この疑いを強くするのだが)シモンズもそれについて無関心ではなかったと見えて、同章に左の一文がある。 「プラトンは「シュンポジオン」において、アイスキュロスの「ミュルミドネス」を論じて、『この悲劇詩人はアキレウスの方がパトロクロスを愛したように書いているが、それは誤りである。なぜと云うに、二人の中ではパトロクロスの方が年長であったし、アキレウスはギリシャ軍中最も若く美しき青年であったから。』と云っているが、しかしホメロス自身は、この愛するもの愛される者の関係について、我々に別段の疑いを起させはしない。アキレウスとパトロクロスとはカムレードであったからだ。彼等の愛情関係は同等であったからだ。」  次にシモンズは、アキレウスの物語「イリアス」を軍事の携帯用宝庫なりとして、遠征中も常にその座右を離さず、アキレウスを唯一無二の師表と仰いだアレクサンドロス大帝に論及し、物語中のアキレウスと現実のアレクサンドロスの生涯との異様なる相似について、例えば、アキレウスのパトロクロスにおけるがごとく、アレクサンドロス大王はヘファイスティオンを同じ激情をもって|寵愛《ちょうあい》したことなどを詳叙し、大帝こそは、詩人の夢、国民的神話の理想を、その男性愛の情熱さえをも、身をもって実行した人物であると論評している。  第三章の抜萃は以上に止めて、私はさらに他の各章の内から、ほんの二三の、最も際立って見える記事を拾い出して見ようと思う。その一つは、第八章に記されたエレゲイア詩人テオグニス(前六世紀中葉)の項である。「人間にとっては、全然生れて来なかったのが最もよい。もし生れたなら、出来るだけ早くこの世を去って休養につくことである。」と云ったこの厭世詩人は、しかし、千四百行近くの作品を現代にまで残して行った。それらの詩の大部分はキュルノスという彼の友であり弟子であった年下の男性に呼びかけて書かれたものであるが、このキュルノスこそ彼の同性の愛人であった。シモンズは、テオグニスのエレゲイア第八七行から一〇〇行までの詩は、彼が愛人キュルノスの真実の情愛を求めて歌ったもの、第一二五九行から一二七〇行までは、キュルノスの変り易き心を嘆き、彼を移り気の馬に|譬《たと》えた詩、又第二三七行から二五四行までは、彼の愛する青年に翼を与えて、ヘラスの島々を飛廻らせることを空想して歌ったものである旨を記し、その最後の詩の全訳を掲げている。私は直接テオグニスのテキストを知らないけれど、別書によれば、彼の現存詩集の終りの百五十行は、全くギリシャ的男性愛を、殊にキュルノスに対する愛情を歌ったものであるという。キュルノスがポリピアスという者の子で、高貴な美しい青年であったことも分っている。テオグニスはこの青年にあらゆる智識を授け、真の貴族に育て上げようとした。したがってこの青年に捧げられた彼の詩集は、教訓的な価値を多分に持っていたので、当時学校の教科書に使われた事さえあるという。それらの詩には、一方はなはだセンジュアルな同性恋愛の言葉をも、多分に含んでいたのだけれど。(Hans Licht, "Sexual life in ancient Greece.")  シモンズは、後世の史家によって、このことが、詩人テオグニスの|悖《はい》|徳《とく》であるかのごとく考えられ勝ちなのは、彼がドーリア人であったことを閑却した誤解であると為し、その弁明のために次の事情を記している。 「有史以前よりドーリス(ギリシャの南端地方)の住民は、戦時は勿論、平時にも国家的制度として、男子は各々一人ずつの少年をカムレードとして選び、その少年達は彼等の教え子でありかつ|扈従《こじゅう》となるという風習を持っていた。同地方のクレタ島では、この少年選択の行事には、異様に厳粛なる儀式が伴ったものであるし、又同地方の都市スパルタでは、これらの一対の男性に、年長者にはエイプネーレス(霊感を吹き込む者の意)少年にはアイテース(傾聴する者の意)という一定の名称が与えられていた。(プラトン風に云えば、前者はエラステース、後者はパイディカに当る)この一対は常に起居を共にし、年長者は少年にすべての智識を授け、その代償として服従と情愛とを要求する。少年が成人しても彼等は離れることがなく、戦場では肩を並べて戦い、諸種の宴会には腕を組んで出席する。そして、この一対は、世間からは、相互にあらゆる権利義務を代表し合うものとして、認められる。かくして、後世の武術と恋愛との騎士道に似た一種の騎士道が構成されていた。この騎士道的男性愛が一定の限度を守っていた間は、気高き行いと優美なる友情以外の何ものもなかったけれど、それが後にいまわしき関係にまで堕落するに及んで、世人にヘラスに対する非難の口実を与えたのである。しかし、テオグニスとキュルノスとは、ドーリス騎士道の最も純潔なる間柄であったと信ずべき多くの理由がある。云々」(だが、純潔であったと信ずべき多くの理由については、シモンズは一言もしていない)  かくのごとき詳細なるギリシャ愛風習の説明は、何がために書かれたのであるか。テオグニスを弁明するためにか。それとも、シモンズ自身のギリシャ愛に対する興味からか。私はここにもまた、彼の情熱の一つの|閃《ひらめ》きを見たように思うのだが。  第十章には、レスボス島の女詩人サッフォー(前七—六世紀)の事が記されている。彼女は、アリストテレスによってホメロスと同格の詩聖と讃えられ、プラトンによって十人の詩神の一人に数えられ、あるいは女神アフロディテとエロス神との娘、アポロン神の友とさえ崇められたこの大詩人は、一方において、女性同性恋愛の始祖として知られている。レスビアンという称呼は彼女の故郷レスボス島より起り、サッフィズムという名称は彼女自身の名から採られたことは人の知る所である。  シモンズはこの章ではそれらの点には触れず僅かにサッフォーの二人の女性愛人の名を上げているに過ぎないけれど、しかしその代りには、巻末の附録に、首尾完きものとしては現存せる唯一の彼女の抒情詩を、彼自から全訳して掲げている。この詩は女神アフロディテに捧げて、恋の|悶《もだえ》への救いを求めた意味のもので、ディオニュシオスによれば、サッフォーの詩の最高峰を示す傑作であって、その宝物のごとき全文が現在まで保存されていたのは、偶然の|僥倖《ぎょうこう》であったと云わねばならぬ。シモンズはこの抒情詩について別段の説明を加えていないけれど、それは、彼女を慕い寄った女性の弟子の一人に対する悶々の恋情を歌ったものに相違なく、様々の事情から想像するに、その女弟子の一人というのは、コロフォン(リジアの|一《いち》|邑《ゆう》)生れのゴンギュラという娘ではなかったかと云われている。このゴンギュラに対するサッフォーの恋歌は外にも二三の断片が残っている。このように当の愛人が何人であったかに惑うのは、サッフォーの女性愛人が、現に知られているだけでも、決して一人や二人ではなかったからである。(A. Weigall, "Sappho of Lesbos." による)  シモンズが「ギリシャ詩人の研究」の巻末附録に、ことさらこのようなサッフォーの同性恋愛に関する抒情詩の飜訳を選んだのには、意識してか無意識にか、何かの意味がなかったであろうか。さらに云えば、その巻末附録というのは三編からなっているのだが、残る二編の一つが又、サッフォーのものよりは数等露骨に男性愛を歌った田園詩人テオクリトスの訳詩である。ある意味でははなはだ人目につき易い巻末附録の、三つの内の二つまでが、かかる傾向のものによって占められているのには、少しも意味がないと云えるであろうか。  そのテオクリトスについては第二十一章に記されているのだが、テオクリトス(前三世紀初め)は高名なエイデュルリオン(田園詩)の詩人であって、三十編の作品が現存しているが、その八編は全く男性愛に捧げられ、その他の詩においてもしばしばそれに触れている。その傾向の代表作としては、あるいは「タ・パイディカ」と題するものを採るべきではないかと思われる。それは少年の老い易きを嘆き、少年よ束の間の盛りの花をあだに過さざれと歌ったもので、少し突飛な比較に見えるかも知れないが、徳川初期の随筆「犬つれづれ」のある文章と非常に似た心持の、美しい詩である。シモンズは、しかし、それには触れず、第十三詩編の、ヘラクレスとヒュラースとの愛情を歌ったものの|梗《こう》|概《がい》をやや詳しく記し、それに関聯して、又しても彼のいわゆるギリシャ騎士道について数十行を費している。  先に述べた巻末附録に収められたテオクリトスの訳詩は、その第二十九詩編であって、ここに歌われている対手の少年が何人であったかは不明であるが、 [#ここから1字下げ] 「君がほゝゑむ時、陽は神の栄光のごとく私の上に輝き、君の眉ひそむ時、私のまはりは暗闇にとざされる。君の愛人をこんなにまで悩ませてよいのだらうか。」 [#ここで字下げ終わり]  というような調子で、少年の美を讃え、少年が彼の言葉を守って外に心を移さぬことを願い、ここにもまた少年の老い易きを述べて彼の移り気を|誡《いまし》め、しかし、少年は翼に乗って飛翔するので、私の足では到底捉え難いと、愛情の報いられぬを嘆き、綿々たる恋慕の心を歌ったものである。詩中に「アキレウス的友情」という言葉が使われている事も注意すべきであろう。シモンズが、かくのごとき恋愛詩の全訳を試み、しかもそれを巻末附録に収めた心持を、我々はいかに解すべきであろうか。  第二十二章は「ギリシャ佳句集」の詩人達の研究である。あの夥しい詩句の中には、云うまでもなく多くのギリシャ愛讃美の歌が含まれているのだが、シモンズがこの章で取扱った作者の内、最も際立って見えるのはストラトーン(前二世紀)である。彼は文中に、この詩人の作品を三編まで英訳して掲げているが、それらは皆同性恋愛のはなはだ露骨なる恋歌である。シモンズはギリシャ、ラテンの詩を飜訳する事を好んで、生涯には夥しい数に上っているが、その訳筆は正確よりも情熱において優れているらしく、したがって正確を重んずる人々からはシモンズ流の飜訳として非難され勝ちなのではないかと思われる。「ギリシャ詩人の研究」の中にも、このシモンズの好みがはっきりと現われていて、附録を初め書中到る所にギリシャ詩の英訳を見るのであるが、ストラトーンの訳詩もその一つであって、「花環編み」と題する一編のごときは、原作を知らずとも、いかにも情熱に富んだ奔放な訳筆らしく感じられる。シモンズでなくては、このような詩に、このような情熱を、どうして持つことが出来よう。では、シモンズでなくては情熱を感じ得ぬ詩、シモンズの著書にこそふさわしい訳詩というのはいかなるものであるか。ストラトーンの「花環編み」はその最も適切な一例らしく思われるので、|拙《つたな》い散文訳にして左に掲げる。(後年追加。その後直接原詩を見たが、こんな長いものではない。原詩の方がずっとあっけない。シモンズの情熱がこれほどの潤色を施さしめたのである) [#ここから1字下げ] 今日、朝まだき、私は花環を編む店の前を通りかゝり、そこに一人の少年を見た。その少年の美しさは、例へば秋の夜の流星の様に、閃く|火《ひ》|箭《や》となつて、あたりの薄闇をひき裂き、私に栄光を投げかけた。 少年は|薔《ば》|薇《ら》の花冠を編んでゐたが、編む人の頬と唇こそ、その薔薇の花であつた。彼の指先の薔薇色の下では、本物の花は色あせて見えた。ふと驚いて、少年は無言にこなたを眺めたが、私の注視に合ふと、薔薇の花の様に顔赤らめた。 私は少年に言葉をかけた「オヽ、花を編む花よ。気高い純白のマートルの花と、|淫《いん》|蕩《とう》なサイプラス島の紅の花びらとを一つにした、世にも愛らしき花冠よ。お前の手になつた花環を、その胸に結ぶものは、どこの仕合せな神様なのか、それとも勇士なのか、教へてくれ。」 「若しや、その仕合せな人が私であつたなら、私は喜んでお前の|奴《ぬ》|僕《ぼく》となるだらう。命さへ惜みはしない。嘆願と涙との価で、お前の薔薇の色あせぬ内に、私に売つてはくれまいかしら。」すると、少年はほゝゑんで、一層赤くなりながら、唇に指を当てゝ答へた。 「静かに。でないと、お父さんに聞えます。」さう云つて、少年は花冠から一輪の花を抜取り、その|薫《かお》りを、雪の花冠と見まがふ彼の胸に咲き出でた、二輪の石竹の花に押しつけて、それから口づけをして、承諾の匂やかなしるしとして、その花を私にくれた。 私は、はにかみながら、婚礼の式場を飾るのだと偽つて、多くの薔薇や花環を注文した。そして、とゞろく胸の思ひを押し隠しつゝ、少年に、それらの花を運んで、私の部屋を飾りに来てくれないかと頼んだ。そして、花と一緒に、もつと嬉しいものを運んで来よかしと。 [#ここで字下げ終わり]  だが私は私の小論の予定の規模に比して、余りに長く「ギリシャ詩人の研究」のみにかかずらい過ぎたようである。それと云うのも、シモンズのひそかなる情熱は彼が若くして着手したこの著述に、最も多く潜んでいるからである。又一つには、古代ギリシャの風習そのものが、甚しく特異であって、したがってその文学を語るに当っては、シモンズならずとも、この風習を無視することが出来ない程、豊かな材料に恵まれているからである。その意味では、右の私の記述は決して長過ぎはしない。いわば「ギリシャ詩人の研究」に含まれたる同性恋愛の|一《いち》|瞥《べつ》でしかないのだ。しかし一瞥にもせよ、私の小論にとってはどうやら目的を達したように思われる。という意味は、シモンズが最初の大著述として、かくのごとき世界を選んだこと、又それを研究するに当っては、何等の|態《わざ》とらしさもなく当然のごとくに同性恋愛に触れることが出来るために、シモンズは他の場合に比べて遥かに大胆にそれを取扱っていること、この外からと内からとの観察によって、冒頭に述べた彼の夢、彼の「生得の憬れ」と、彼の生涯の事業の第一着手とを結びつけている微妙な関係について、やや明らかにすることが出来たと考えるからである。      四  次に順序として、我々はシモンズ畢生の大著「イタリーに於ける文芸復興」(Renaissance in Italy)七巻の内に、彼のひそかなる情熱がいかように現われているかを|一《いち》|瞥《べつ》しなければならない。  前述「ギリシャ詩人の研究」上巻を一八七三年、下巻を一八七六年に|上梓《じょうし》し終って、ひとまず古代ギリシャへの|逍遥《しょうよう》を打切ったシモンズは、これまた学生時代からの研究題目であった、憬れのギリシャの新しき顕現とも云うべきルネッサンス研究に没頭した。「イタリーに於ける文芸復興」第一巻(政治)は一八七五年、二巻(学術)三巻(美術)は七七年、四巻、五巻(共に文学)は八一年、六巻、七巻(共に宗教)は一八八六年と、十一年を|閲《けみ》して、通計三千頁に近いこの大著は完成した。  ある意味で古代世界の一つの中心力であった騎士道的同性恋愛は、キリスト生誕以後の新世界には、表面上全く影をひそめたかに見える。古代には家庭の道具でしかなかった女性が、キリストの母なる処女マリアの信仰と並んで、今や聖なるものとなった。マリアへの霊の憬れは、やがて一般女性への憧れであった。それが極限に達して、中世騎士道の狂熱的婦人崇拝と現われたのであるが。又、一方では、社会生活の一単位としての家族制度が確立し、産業的個人主義は、古代の国家本位のむしろ共産的な生活に取って替った。したがって家族をなみする同性結合の理想は、この意味からも成立し得ないこととなった。  だが、それは表面上の事に過ぎない。キリスト教の禁制は厳しく、社会風習もまたこれを是認しなかったとはいえ、同性恋愛の特殊なる感情は決して亡びることなく、社会の水面下を力強く流れていた。最も著しい一二例を上げるならば、聖アウグスチヌスの「懺悔録」(第四巻第四章及第六章)ダンテの「神曲」(地獄篇第七獄)あるいはペーターの「文芸復興」に含まれるアミスとアミールの物語などによって、我々は、ルネッサンス以前の、中世キリスト教世界にすらも、同性恋愛の感情が決して皆無でなかったことを、たやすく知ることが出来るであろう。  さて、ルネッサンスは生物としての人間を再認識した時代であった。ペトラルカを先頭とするヒューマニスト達のギリシャ古典の導入によって、キリスト教世界の超自然的思想が自然に帰った時代であった。古典学術の再興、様々の科学上の新発見、比類なき文芸美術の隆盛、その一方には、マキアベリズムの陰謀政治、ローマ法王庁の極度の|廃《はい》|頽《たい》、殺人とセンジュアリズムとあらゆる悪徳の|横《おう》|溢《いつ》、それらの雑然紛然たる色彩をもって、ルネッサンスの巨大なる花は、|眩《まばゆ》いばかり美しく咲き出でたのであった。神の威力も法王庁の支配力も、もはや昔のものではなかった。信仰の光を覆って、血と肉との人間の姿が、大きく立ちはだかっていた。  かようなルネッサンスであったから、あらゆる人間的感情と共に、同性愛慕の感情もまた、社会生活の水面下にのみ潜んでいることはなくなった。極度に|卑《ひ》|猥《わい》なカーニヴァルの歌が物狂わしく|巷《ちまた》に響き渡った。そして、それらの滑稽諷刺の歌の中には、同性恋愛に関する露骨なる表現も、決して少くはなかった程である。法王達はほとんど公然と愛童を抱えたし、ギリシャ古典の研究から出発した当時の文学美術は、したがってある程度までギリシャ的男性愛の思想をも受継がないではいられなかった。作品においても、作者自身の感情としても。学術文芸のルネッサンスは、同時にまたギリシャ愛のルネッサンスでもあったと云える。  しかし、十五世紀に復興したヘレニズムは、もはや昔のように少年の——大らかで偉大な少年の姿をしてはいなかった。人類は様々の意味で大人になっていた。彼等は神々を友とし、神々と語らう無邪気さを失い、神と彼等との間には、古代には見られなかった距離が生じていた。神は親しむよりは畏れるものであった。神を畏れるが故にこそ、うしろめたい数々の罪悪が彼等をそそのかした。彼等には古代人の夢にも知らなかった複雑な大人の苦悶がつき|纏《まと》っていた。このことは例えばプラキシテレスの彫刻の思想と、ミケランジェロのそれとの、際立った相違を見ることによっても、容易に理解出来るであろう。それ故に、ルネッサンスに復活した同性恋愛の感情は、昔ながらにほがらかなギリシャ的恋愛ではあり得なかった。古代のように、富国強兵の手段として、あるいは社会結合の要素としてのこの愛情は、もう必要ではなかった。又、ルネッサンスは、この愛情の弁護者として一人のソクラテスをも持たなかった。つまり、この時代の同性恋愛は、開放されたとはいえ、一般に道徳的是認を得たものでは決してなかった。ここに古代ギリシャの男性愛と、ルネッサンスに再現したそれとの間の著しい相違点があった。  シモンズが彼の|畢《ひっ》|生《せい》の事業としてこの研究を選んだ一つの理由は、彼が深くも憬れたヘレニズムの、後世における最大最美の開花が、ルネッサンス、殊にイタリールネッサンスにあったからに相違ないが。しかし彼の幼時の夢は、ここでは、古代ギリシャにおいてのようには満足されなかった。ルネッサンスの人本主義や異教思想は、ともすれば、心を忘れ肉に走るがごとき風潮となって現われた。生物としての人間の再認識は、とりもなおさずルネッサンスのアニマリズムと|謂《い》われる所のものに外ならなかった。シモンズの夢が、そのような肉の香の|烈《はげ》しいものでなかったことは云うまでもないのだから。彼はこの意味ではルネッサンス期の同性恋愛に失望しないではいられなかったに相違ない。  前にも述べた通り「ギリシャ詩人の研究」は、ほとばしる情熱の散文詩とも形容すべき著述であったのに比べて、この「イタリーに於ける文芸復興」は、もっと地味で、記述的で、情熱においてよりは、詳細なる史的研究において優れているもののように思われる。無論それとても、一般史家の著作に比しては、格段に詩人的な感情と名文とによって綴られたものではあるけれど。同書中の同性恋愛に関する事項についても、同じことが云える。それは、あたかもこの愛情がルネッサンス期において表だって是認せられなかったのと同じ調子で、はなはだ目立たない方法でしか記されていない。この著述には各巻を通じて夥しい長文の脚註が施されているのだが、同性恋愛の事項は、大部分その脚註の中に隠されているように見える。そして、それらの脚註には、恐らくはわざと飜訳しなかったイタリー語のままの引用文も少くはないのである。  この愛情のかかるひそかな取扱いは、「ギリシャ詩人の研究」での、表面からのむしろ讃美に近い取扱いに比べて、はなはだしい相違と云わねばならぬ。その理由は先にも述べた通り、ルネッサンスの同性恋愛が、無思想で、単なるセンジュアリズムでしかなかったことが、シモンズの純粋な気持を害したからであろうが、それにしても、彼がルネッサンス、イタリーの諸人物を描写するに当って、一般史家のごとくこの愛情に冷淡でいることが出来ず、不必要に思われる場合にさえ、殊さらそれに触れているのは、彼がそのような生物学的な同性恋愛にも、全く無関心ではいられなかったことを証するものではないであろうか。 「イタリーに於ける文芸復興」中には「ギリシャ詩人の研究」中のギリシャ騎士道論のような、この愛情に関する纏った意見は全く見出すことが出来ない。そこで、我々は全巻の諸人物の伝記中から、この愛情に関係ある部分を拾い出して、その銘々について著者の関心を探る外はないのであるが、私は便宜上、それらの人物を、美術家(画家、彫刻家)文学者(学者、詩人)その他(政治家、宗教家)の三部に分ち、この順序で記述して行きたいと思う。  ルネッサンス、イタリーの美術家中、シモンズが最も深き関心を持った人物はミケランジェロ・ブオナロティであって、この有名な美術家については彼は、同書第三巻に多くの頁を費している外、Sonnets of Michael Angelo Buonarotti and Tommaso Campanella(一八七八年)の訳詩集と、The Life of Michelangelo Buonarotti 二巻(一八九三年)の詳細を極めた伝記の著述があり、他の随筆類にも到る所にミケランジェロの名を見出すことが出来るのである。シモンズがかくもミケランジェロの人物に情熱を感じたのは、この大美術家が、一般的に、又同性恋愛の意味においても、著しいヘレニズムの讃仰者であって、その作品にも、その生涯にも、プラトニックな同性恋愛の色彩が濃厚につき纏っていたばかりでなく、ミケランジェロ自身、シモンズと同型に属する女性的感情の持主(一種のウルニング)であったことが、(私はこの両者の容貌上の類似をさえ感じている)一つの重大なる動機を為したといっても決してこじつけではないと思う。  だが、ミケランジェロについては、私は後に右に記したシモンズの二つの独立の著述を検討する場合に詳しく述べたい心組であるから、ここにはただ、「イタリーに於ける文芸復興」第三巻のミケランジェロ章には、到る所に、それとなく又露わに、著者の同性恋愛への関心が示されていること、最も具体的な記述としては、同巻三一八頁に、ミケランジェロの同性の愛人 Tommaso Cavalieri のことを記し、その脚註において、ミケランジェロの多くの短詩が、このカヴァリエリに対する同性恋愛のために書かれたものであることを強く主張していること、同巻末尾の附録中に、ミケランジェロの短詩二十数篇が英訳されているが、その内の数篇は明かに同性恋愛を歌ったものであることなどを記すに止めておく。  ミケランジェロの次に来るものは、シモンズの関心の順序に従えば、彫刻家ベンヴェヌト・チェリーニである。彼は本来が彫金家であって、彫像にも優れてはいたけれど、その作の今に残るものが比較的少く、単なる美術家としては美術史上にあの大名を為すことは出来なかったかも知れない。彼を有名にしたものは、美術上の作品も作品ながら、彼の数奇を極めた痛快無比の生涯を口授筆記せしめて後世に残した、|浩《こう》|澣《かん》なる彼の自叙伝であったといってもよい。この自叙伝は、ホレース・ウォールポールをして「いかなる小説よりも興味あり」と称讃せしめた、オーギュスト・コントはこれを世界的名著として取扱った程で、ゲーテはこれを独訳し、シモンズ自身もまたこれを英訳している(The Life of Benvenuto Cellini 二巻。一八八八年刊、この書はシモンズの多くの飜訳事業中の|白《はく》|眉《び》であって、名訳の|誉《ほまれ》高かりしものである。)  チェリーニの性格の不思議なことは、一方には優れた芸術的才能と、宗教的信仰を持ちながら又一方では、手におえぬ無頼漢であり、犯罪者であり、人殺しであった。彼の単純赤裸々な情熱と悪徳とは、しかし十六世紀のイタリー人にはあながち珍しからぬ性格であって、彼こそ時代を代表する人物であったとも云える。そういうチェリーニの自伝であるから、記事はすべて開けっぱなしで、誇張的で、むしろ露悪的でさえあるのだが、ただ同性愛に関しては、はなはだ内気であって、明瞭な記述はほとんどないために、彼が果してこの特殊愛情の持主であったかどうかについて、後人の意見がまちまちになっている程である。例えばクェリンギー(Antonio Queringhi 十六世紀末イタリー詩人)のごときは、その著 La Psiche di B. Cellini で、それを否定している由であるが、しかし、シモンズは無論肯定派であって、「イタリーに於ける文芸復興」チェリーニ章の各所で、彼の同性恋愛に言及しているばかりでなく、「チェリーニ自伝」英訳の序文には「彼は不自然の罪(同性愛行為)によって投獄されたことがあるのに、自伝ではそれについて疑わしくも沈黙を守っている」旨を記し、シモンズが肯定派であることを明かにしている。(「チェリーニ自伝」序文三十五頁。一言附記して置かねばならないのは、これらの記述は他書よりの引用であって、私はまだシモンズの「チェリーニ自伝」を入手していないことだ。したがって以下の引用文も直接チェリーニ自身の言葉によることが出来ないのは遺憾である。しかし今も云う通り、「チェリーニ自伝」には、同性愛の告白はほとんど見当らないことが分っているのだから、同書未読のままこの記述を進めても、さして不都合はないかと考えられる)(後年追記。「チェリーニ自伝」も入手、又その邦訳も出た)  乏しい材料によって想像しても、センジュアルな意味での同性恋愛は、当時の上流社会の流行であったのだし、しかもチェリーニ自身があの悪徳家であったのだから、たとえ確証は残っていないとしても、彼が全く潔白であったとは考えられないのだが、そればかりでなく、次に記すシモンズの記述は、ほとんど確証に近いものではないかと思われる。 [#ここから1字下げ] 「その頃、ジウリオ・ローマノなど、ラファエルの弟子達を含む美術家のクラブがあって、彼等は一週に一度ずつ|晩《ばん》|餐《さん》を共にし、雑談や音楽やソネットの朗読などに打興じたものである。ここの会員は銘々その愛人を同伴する定めになっていたが、ある時、会員の一人であったチェリーニは、ちょうど同伴する情人を持たなかったので、その代りとして、ディエゴ(Diego)というスペイン人の美青年を女装させ、それを情人として同伴した。「チェリーニ自伝」にはその時の光景が実に活々と描写されている。我々は画家や詩人や、美しいコステュームに包まれた婦人達の一団を目に見るようである。テーブルは花や果物で彩られ、全体の背景には、深い色の唐草模様の中に目のさめるような花が点々と開いているジャスミンの花垣が拡っていた。女装のディエゴ青年はポモナ(Pomona)という女性の変名をしていたが、その美しさが際立って見えたので、席上の美人中最上の美人であると、満場一致の折紙がつけられた。しかしついにポモナが実は少年であったことが発覚し、この事件は結局、例によってチェリーニにつきものの|血腥《ちなまぐさ》い活劇に終るのだが。」(「イタリーに於ける文芸復興」第三巻、三三一頁) [#ここで字下げ終わり]  説明するまでもないことだけれど、たといその時適当な情人がなかったからと云って、チェリーニのごとき男が、一人の新しい女性を物色するのに事欠いたとは考えられぬ。この青年女装の思いつきには、もっと積極的な意味があったに違いない。そして、それが女性以上に美しい青年の見せびらかしであったにもせよ、又気まぐれな一時の性的|諧謔《かいぎゃく》であったにもせよ、彼の性質が同性に性的嫌悪を感じなかった、というよりはむしろある|嗜《し》|好《こう》を持っていたことは分ると思う。  又次の一文は何等具体的の意味を含まぬにもかかわらず、はなはだ注意すべき記述のように思われる。 [#ここから1字下げ] 「チェリーニは肉体的なあらゆる美について強い感受性を持っていた。——彼が Cencio や Diego や Faustina や Paolino や Angelica や Ascanio について語っている所によっても分る通り——しかし、彼はその作品「ペルセウス」や「ガニュメデス」や「フォンテーヌブローのダイアナ」などに、智識的な又は倫理的な美の痕跡さえも現わそうとはしなかった。これらの作品の表情の空疏なことは、やがて芸術の堕落を証するものであって、もはや芸術は完全な肉体美以上の何物かを理想化せんとする企てを放棄してしまったのである。ギリシャ人達は、彼等の最も肉感的な女神達に対してさえも、こんな風には考えなかった。卑猥な半羊神像あるいはサテュール像にすら、ある思想の痕跡が見られた。だが、チェリーニの彫像は何等の思想をも持っていない。その露骨なアニマリズムは作者の心持をそのまま現わしている。」(第三巻、三三三頁) [#ここで字下げ終わり]  右の文中注意すべき第一の点は、チェリーニが肉体美について強い感受性を持っていた証拠として、「自伝」の中で彼がその人々の美しさについて感想を漏らしているらしい六人の人名が上げられている、その人々の性に関してである。六人とも有名な人物ではないので、私は今そのことごとくを|詳《つまびら》かにすることが出来ないけれど、少くともその内の三人は、チェリーニよりも年少の美しい男性であったことは想像に難くないのである。三人というのは、ディエゴとアスカニオとチェンチオである。ディエゴ青年のことは前掲女装の情人の引用文に明かであるが、次のアスカニオというのは、チェリーニの門弟であって、ある時後援者に対する恨みから、|巴《パ》|里《リ》に築いた彼の邸宅と全財産とを、このアスカニオに託して、帰国してしまった程の親任を与えられていた人物であるし、又もう一人のチェンチオというのは後に記すシモンズの脚註にソドミィの事でチェリーニを告訴したとあるのによって想像するに、無論男性であって、多分その相手方ではなかったかと思われる。かくのごとく、チェリーニの敏感であったという人体美の内には、明かに男性の、というよりは美しい青年あるいは少年のそれが含まれていたのであって、この意味では彼も又ギリシャ人であったと云える。  注意すべき第二の点は、右の文中に引用されたチェリーニの三つの作品の内、二つまでが美しい青年の裸像であることだ。「ガニュメデス」はギリシャ神話中の有名な美少年であって、その美にうたれた大神ゼウスが、一羽の|鷲《わし》に化身して下界に降り、トロイの貴族の子であったガニュメデスを|掠奪《りゃくだつ》して、オリュンポスの神々の国へ伴い、彼の愛童として、神酒の給仕をさせ、常に身辺を離さず、夜も|衾《ふすま》を共にしたという物語は、ホメロス以来のギリシャ詩人達によってしばしば歌われ、又多くの彫刻家達の題材となった。私はまだチェリーニの「ガニュメデス」の写真を見る機会を持たぬが、同じ題材のギリシャ彫刻家が極まってそうであるように、彼の彫刻もまた、一人の裸体の美少年と一羽のたくましい鷲(ゼウス神)とが、|睦《むつ》まじく並び立っている像ではないかと想像される。  もう一つの作品「ペルセウス」は、これもまたギリシャ神話中の若者であって、彼が蛇髪の女怪メドゥーサを退治した物語は人の知る所であるが、チェリーニの作はブロンズであって、その写真版を見るに、右手に剣を握り、左手に討ち取ったメドゥーサの首を高く掲げ、足はその怪奇な死骸を踏みつけている、全裸の美青年の立像である。それがギリシャ神話を借りて、美青年の肉体美を表現したものであることは一見明瞭である。  チェリーニの代表作として挙げられるものが、かくのごとき作品であること、又、シモンズがそれらの作品には、敏感なる肉体美を見るのみであって、全く無思想であると論じている事によって、我々はチェリーニの製作の動機を想像し得べきである。  さらにシモンズのチェリーニ章から、同性恋愛に関係ある記事を拾い出すならば、チェリーニが獄中で不思議な幻影を見ることが記されている部分に、幻影中での道案内者として現われた青年は「ちょうど|髭《ひげ》生えそめし年頃の若者であって、その顔は怪しくも美しかったが、しかしその美しさはあくまで|厳粛《げんしゅく》で、少しもみだらな感じを伴わなかった」(「チェリーニ自伝」よりの引用文)という記述がある。「髭生えそめし若者」の形容句は、この小論の初めにホメロスやプラトンからしばしば引用した所であって、シモンズの深くも憬れた男性美であるが、その同じ句をチェリーニが、夢の物語に使用しているのは興味深く感じられる。  もう一つ、チェリーニ章の終りに近く、彼がバンディネリ(Baccio Bandinelli 当時の著名な彫刻家)の作品「ヘラクレスとカークス」を作者の面前で|罵《ば》|倒《とう》し、お互に野卑な言葉で|詈《ののし》り合った事件が記されているが、そこの脚註ははなはだ具体的であって、書き漏らすことが出来ない。 [#ここから1字下げ] 「バンディネリがチェリーニを罵倒して Oh sta cheto, soddomitaccio.(密かにソドミィに耽ける奴の意)と云ったのは、ベンヴェヌトの日頃の所業に照らして真実であったらしい。チェリーニ自身はそのことを自伝の中で注意深く隠してはいるけれど。その証拠には、例えばチェンチオ(前に述べた Cencio)が、ソドミィの件で彼を告訴したことがあり、そのために彼はフロレンスから逃げ出そうとさえしたのである。」(第三巻三四九頁脚註) [#ここで字下げ終わり]  はなはだ乏しい材料ではあるが、以上の|抜《ばっ》|萃《すい》によって、ほとんど明確な資料のないチェリーニの同性恋愛に関しても、シモンズは明かに肯定派であり、そのことにある関心を持っていたことが分ると思う。 [#地付き](「精神分析」第一号より第六号まで連載、昭和八年) [#ここから2字下げ] (追記) シモンズには現在でも深い興味を持ちつづけている。当時未見であった彼の著書詩集もほとんど全部蒐集した。この稿をこのままの形で書き継ぐ気持はないが、適当な時期が来たら、何等かの形でシモンズについてもっと書いて見たいと思っている。又彼の名著「ギリシャ道徳の一問題」は、詳しい註釈を入れて、全訳して見たい野心を捨てかねている。(昭和二一・九・三) [#ここで字下げ終わり]    3     探偵小説と|瀉泄《カタルシス》  探偵小説の作者が、紙上の夢と現実の出来事とを、ふと混同して考えさせられる時程、世に不愉快なことはない。なぜと言って、探偵小説は、たとえ科学的な推理の興味を主眼とする場合でも、ほとんど例外なく何等かの罪悪を(しかも多くの場合、これは殺人なのだが)取扱い、いまわしき犯罪者を描かなければならないからである。それでいて探偵作者達は、現実生活においては罪悪に対して人一倍敏感で|臆病《おくびょう》な人々ばかりだからである。  探偵作者の空想と現実の犯罪事件とは、往々にして暗合する場合がある。そして、犯罪記事で埋められた新聞紙の社会面には「探偵小説そのままの事件」と言うような題名を見ることがしばしばである。そういう事が、文学としての探偵小説の本質には、全く無関係であるとは信じながら、しかも、ともすれば、探偵作者は名状し難い|憂《ゆう》|鬱《うつ》を感じないではいられぬのだ。  もし世に、探偵小説が犯罪を例示し、犯罪者を|教唆《きょうさ》するがごとくに感じている人があるとしたら、これ程はなはだしい迷妄はない。探偵作家は、前にも云う通り、人一倍お人好しで、現実の犯罪に対して臆病であるからこそ、犯罪を語るのであり、探偵小説愛読者は、人一倍正義に敏感であって、犯罪無能力者であるからこそ、犯罪文学に引きつけられるのだ。これに反して、実生活上の犯罪者には、探偵小説も、犯罪文学も、心理的に全く不必要な、縁なき存在である。  探偵作家で、かつ乏しい探偵批評家の一人であるドロシイ・セイヤーズ女史は、その探偵小説論の中で、探偵小説の存在理由を説明するために、アリストテレスの意味での「カタルシス」という言葉を使用しているが、私も全く同感である。  古代ギリシャの残酷この上もない|血腥《ちなまぐさ》い運命悲劇が、いかにして最上の詩であり、何故にあの大観衆を引きつけたか、アリストテレスの「詩学」は、これを「カタルシス」によって説明した。肉体の健康を保つためには、無用の体液の|瀉泄《カタルシス》を行わなければならないと同じ理由によって、魂の健全を保つためには、心に巣くう、非道徳的な情緒の瀉泄が必要である。あの無残なギリシャ悲劇が呼び起す悲痛と恐怖とは、観衆の心からそれらの実生活上無用の情緒を、洗い流す作用を為すものだ。というのがアリストテレスの美学であった。  犯罪という観念の遥かなる前身が、トーテムやタブーであったとしても、さらに|遡《さかのぼ》った原始人類に、それらの観念が存在したとは考えられぬ。犯罪とは人間の社会生活が作り出した人為的のものであって、その長年月に|亙《わた》る|禁《きん》|遏《あつ》によって泥棒や人殺しの原始的本能は正常人の心の表から影をひそめたとは云え、決して亡びてしまったのではない。どんな道徳的な人の心にも少くとも潜在的には、それらのいわゆる犯罪本能が、根強く巣くっている。精神分析学の云い廻しを借りるならば、その人が実生活上、道徳的であればあるだけ、このいまわしい潜在願望は一層強烈なのだ。  したがって、意識下にそのような反社会的願望を蔵する人類が、その心の健全を保つためには、上述のアリストテレスの「カタルシス」が必要であり、我々は無意識にそれを求めているのだと考えることが出来る。この意味で、ギリシャ悲劇以来今日に至るまでどの時代の文学も、犯罪と絶縁出来なかったのは、少しも不思議とするに足らぬ。これは(無用の情緒のカタルシスは)人類にとって、その社会生活上、むしろ欠くべからざる欲求であったのだ。  精神分析学の発見した所によると、ヒステリーその他の神経的疾患の大部分は、かくのごとき反社会的願望の抑圧が原因となっている。精神分析療法は、一口に云えば、意識下に抑圧し切れなくなった過剰願望の「カタルシス」である。この場合カタルシスは、分析者が患者自身の口から、その密かなる願望を詳細に物語らせ、心理的抑圧を開放することによって行われる。夢が同じ意味で「カタルシス」である。そして、芸術もまた、別の意味での夢として「カタルシス」の作用を行うのだ。  かく見来れば、犯罪を、すなわち人類の反社会的願望そのものを、重大な要素とする探偵小説ないし犯罪文学が、いかなる文学にもまして「カタルシス」の作用を営むことは、容易に理解出来ると思う。あえて犯罪を実行し得る反社会的の性格には、犯罪本能の鬱積もなく、そのカタルシスも必要でない。したがって、実生活上の犯罪者と探偵小説とはこの意味では、全く無縁であるが、これに反して、正常なる社会生活を営む人々、犯罪に臆病な人々にとってこそ、カタルシスは欠くべからざるものであって、探偵小説はそのカタルシスの最も有力な手段の一つだとも云い得る。  一方作者の側から考えても、探偵小説ないし犯罪文学の創作は、同じように一種のカタルシスに相違ないが、もっと適切な言葉を探すならば、犯罪本能の抑圧を創作という一つの行動に転化する意味で、精神分析学の所謂「昇華作用」が行われるのだと考えても差支ない。すなわち、作者は犯罪に対して臆病であればこそ、又実生活上の反社会的行為を抑圧するが故にこそ、創作という昇華を、あるいはカタルシスを求めるのであって世の多くの探偵作者が、意外なお人好しである理由も、これによって説明出来るのではないかと思う。  現実の出来事は、(身近であることも一つの条件だが)模倣を誘い易いものである。自殺や犯罪の新聞記事が、模倣されがちなのは、それが身近な生の事実だからであって、いわゆる「実話」という形式の読物も、小説的な衣を着ていないで身近な事件であったならば、新聞記事と同じ作用を営む性質のものだといっていい。私がいわゆる「実話文学」を好まぬ一つの理由は、それが昇華にも、カタルシスにも縁が薄く、「夢」の反対のものだからである。  探偵小説は、そのような新聞記事や「実話」からは、断然区別さるべきものだ。その内容が、いかに似通っているからと云って、文学は決して事実ではない。それは「夢」が現実でないのと同じ縁遠さで非現実的である。そして、非現実的なるが故に、模倣を誘う力弱く、専らカタルシスの作用を行うものだと信じている。 [#地付き](「読売新聞」昭和八年五月)     |槐《かい》|多《た》「二少年図」  青空のように、眺め入るほど奥底の知れなくなる実在の美しさ、恐ろしさ。初めてそれに目覚めた少年の頃の、驚くべき多彩な、神秘の夢。そういうものを、ともすれば忘れ勝ちとなった今の私にとって、少年村山槐多を思い出すことは救いである。 「槐多の歌へる」「槐多の歌へる|其《その》|後《ご》」の二書は、いつも私の座右に在る。その中に私の愛するあらゆる感情が、最も好ましい表現をもって、秘められているのではないかとさえ思われる。  彼は二十四歳の年少にして、肺病と、運命的な不摂生のために|夭《よう》|折《せつ》するまで、当時の美術院に属した洋画家であって、「六本の手ある女」「|尿《いばり》する裸僧」「女子等と癩者」「猿と女」「乞食と女」などの怪奇な画題の作品によって天才をうたわれたのであるが、二十年近い昔、上野の展覧会で、私はそれらの絵の一つの前に、一時間ほども立ちつくしたことを思い出す。  彼の情熱の大部分が絵画に注がれていたことは云うまでもないが、しかし、彼の魅力——私が彼にひきつけられた|所以《ゆ え ん》は、その特異な作画だけにあったのではない。  最も早く村山槐多の存在を私に教えたものは、絵ではなくて、彼の探偵小説であった。その頃私は名古屋に住んでいて、中学上級生であったが、愛読していた「武侠世界」(あるいは「冒険世界」であったか)にのった、彼のミステリー・ストーリー「悪魔の舌」が従来の読物とは全く違った、ギラギラと五彩に輝く魅力をもって、私をうった。彼は一体、このような悪魔の感情を、どこから仕入れて来たのであろう。彼が十七歳の頃、早くもあこがれていたという、ボードレール、ヴェルレーヌ、ランボオ、そして、その奥の方には、ポーの|犀《さい》|利《り》な黒い瞳が光っていたのではないか、少なくとも「悪魔の舌」は理知の恐怖を見逃がしてはいなかったのである。  ほかに、「悪魔の舌」ほど探偵小説的ではないけれども、しかし探偵小説と称して差し支えない二つのミステリー・ストーリーズがある。「殺人行者」と「魔猿伝」がそれだ。ともに狂気と、罪悪と、夢魔に満ちた、たとえ表現技巧はおさなくとも、その感情は際立って異色ある短篇小説である。  槐多自身にしては、それらのミステリー・ストーリーズを、ただ小遣い稼ぎに書きなぐったものと自卑していたことであろうが、私は彼の作品を、谷崎潤一郎氏の「白昼鬼語」、佐藤春夫氏の「指紋」などと並べて、日本の最も優れた探偵小説の一つだとさえ考えている。  私にとって槐多のもう一つの大きな魅力は、彼が古代ギリシャの熱愛者であったことだ。画家としてギリシャ彫刻にあこがれるのは、少しも珍らしいことではないが、彼のはそういう通り一ぺんのあこがれではなくて、もっともっと深く古代ギリシャの思想と、生活そのものへ、少年の無知と直覚とをもって、喰い入っていた。  彼の十九歳の日記に、すでにプラトン(邦訳)を愛読していることが見え、「また俺の歌が|卑《ひ》|賤《せん》になってしまったようだ。来月から純ヘレニックな生活を送ろう」などの感想がある。上京して美術院に属して絵画修業を始めてからも、彼はよく図書館に通って、プラトンを読んでいる。  槐多の同性愛の感情が、プラトンを知ってから芽生えたものとは考えがたいけれど、彼の感情がそれによって美化され、高揚され、勇気づけられたことは争えない。「槐多の歌へる」と「其後」とに収められた小説、戯曲、日記、感想の中には、少年讃美とギリシャ愛の感想が、非常に高雅な、そして又、時にはけだもののように無邪気な言葉によってくり返し、くり返し歌われている。  さて、それは昨年の夏のことであるが、私が生れて初めて、洋室めいた書斎を持った時、そこの裸かの壁を見て、たちまち思い浮かんだのは村山槐多の絵であった。同じ絵を懸けるなら、ほかのどんな優れた作家よりも、村山槐多こそ好ましかった。そこで、出不精の私が、たびたび外出したりして、結局は松野一夫氏をわずらわして、槐多の画友であった春陽会同人の長島氏の|肝《きも》|煎《い》りで、やっと、一枚の絵を手に入れることができた(長島氏の名は、槐多の日記や書簡の中にしばしば現われて来る)。  それは二十号ほどの大きさの、|藍《あい》|色《いろ》の勝った濃厚な感じの水絵人物画で、一九一四年槐多十九歳の、いわば初期の試作に類するものであったが、絵の巧拙はともあれ、その特殊な画題と、画面ににじみ出ている槐多の人間と思想とが、大へん私を喜ばせた。  夏の午後、田舎家のささやかな庭を背景にして(その庭の雑草の中には、赤いダイヤと黄色い月見草とが目立っている)、縁側の所にたたずむ、十二、三歳ほどの二人の少年の腰から上を、画面一杯の大写しに描いたもので、人物の外郭には、「槐多のガランス」と云われた、あの色ガラスのようにギラギラした、まっ赤な絵具が、放胆になすりつけてある。 [#ここから2字下げ] そのガランスは一本が二円ちかくした だがこれをぎゆつとしぼり出す事は 何たる快楽だらう? 二円はどぶの中へでもとんでしまへ このガランスが千円しても高くはないぞ これをぎゆつとしぼり出す事は 女郎買よりも快楽だぞ [#ここで字下げ終わり]  と歌ったあのガランスが、藍色の画面を縦横に這い廻っている。  この絵を部屋に懸けて、じっと眺めているうちに、私はそこに描かれたものは、ただ無意味な二少年像ではなくて、その裏に、槐多の一生を支配した、あの美しいギリシャ人の愛が、深くも秘められていることをだんだん悟るようになった。  右側にいる丸々と丈夫そうな、非常に血色のよい、勝ち気で腕白らしい少年には、どこかしら槐多自身の面影がある。石井鶴三氏がとった彼のデス・マスクに似ている。いや、それよりも、彼の中学生時代の写真の顔にそっくりだ。  それに相対して、ウットリとたたずんでいる、しなやかに青白い少年は、おそらく槐多のジョコンダであろう。彼は生前愛着を感じたいかなる男性をも、彼の夢の恋人、レオナルドのジョコンダに比べないではいられなかった。その憧れのモナ・リザが画面の青白い少年の頬にも微笑している。  槐多には、中学時代の同性の恋人をそれとなく描いた「光の王子」という傑作があって、その絵は母校京都一中に保存されていると聞くが、それとは別に、この「二少年図」には、もっと普遍的な、抽象的な彼の夢が描かれている点で、私にはこよなきものに思われる。  このことは、決して私の独り合点ではない。私はただ、槐多のひととなりと、この絵とを引き比べて、漫然とそれを感じているのではない。彼にはほかに「二少年図」をそのまま文にしたような夢の言葉があるのだ。もし水絵に賛ができるものなら、私はそれをこの絵の上に書きつけておきたいほどに思う、槐多自身の夢の散文詩があるのだ。 「槐多の歌へる」に収められた、彼の親友山本路郎氏の「槐多の初恋」と題する小文の中に、その夢の言葉が引用されてある。 [#ここから1字下げ] 「槐多の少年期から青年期へかけての芸術に大きな影響を与えたのは彼の恋愛であった。彼の恋は一種変っていた。浪曼的な彼はちょうどキーツがそうであったように、現実の不満を古い神話の時代に放って、そこに自由な空想を駆って心ゆく夢に酔っていた。彼は古代ギリシヤの物語を熱愛した。と同時に、我国の神代の伝説に深い興味を持っていた。そして常に神代の神秘を詩に歌に現わそうと力めていた。こういう考えはいつの間にか彼の頭の中で美少年という概念と結びついた。彼のいわゆる美少年は徳川末期の人々が考えたようなものとは|其《そ》の趣きが違っていた。むしろギリシヤのミソロジーのアポロなどに近かった。イマジナチーブな彼は次のようなシインを幾度かまざまざと現実に見たのであった。」(以上山本氏の文) 「四月の昼間と見える。午後零時頃と見える。なぜならばおよそ全画面のすべての物に陰影を見ぬ。美しき無色の(すこし曇った)トパアズ石の如き世界の中に一つの讃嘆すべき行為がかくれている。 「二人の少年が立っている。此の二個の少年は確かに互に愛し合って居るのである。何となく、丈高き一人は明かに感情のおののきのために面を赤らめて居るのである。 「そして其の右手をもう一人の方にさし延べて居る。 「して我等は眼をはっきりさせねばならない。此のかた方の少年は実に稀代の美少年である。其の形は覚えず鳴りやまぬ一管の|豪《ごう》|奢《しゃ》なる笛を連想せしめるのである。其の面は白く湿っている。 「してその美しき眼はじっと大きな少年を見守っているのである。そして|媚《なまめ》かしきあざけりをもった四月の昼の表情を完成した眼つきである。ああこの目つきと共にその右手は何物かを受取っている。これ何物であろうか。 「|是《これ》こそこの二個の少年のとろけ散るような心を一点につないだる物、この石版画の中心である。 「そは一個の桜の花であった。美しい薄い花であった。 「数日紙と紙との間にはさまれた物であろう。すこし色があせしぼんでいるが、五つの|花《か》|弁《べん》はシャンとしている。 「其の小さき桜花は美しき邪念と春とに小さき鎖、薄光をかけているのである。そしてひきいて行くものである。 「|而《しこう》して一人の少年は、一人の美少年にその春の銀鎖を与えむとしているのである。美少年の手はいとしなやかである。そして美少年は多分この小さき桜花を受けとって悦ぶだろう。決して地に棄てたりはしまい。この石版画はまったく目出度き光景を示している。」 [#ここで字下げ終わり]  右の文にクォーテーションが施してあるところから想像すると、槐多がノートの端などへ書きつけおいたのかもしれない。あるいは山本氏が、槐多の生前の言葉を思い出して山本氏自身の文章で記されたのかもしれない。いずれにもせよ、この夢の言葉は、このいみじき石版画の光景は、桜の花のことを除くと、そのまま私の部屋にある「二少年図」である。  私は今、ほの暗い書斎の中に、村山槐多の夢とともに住んでいる。その夢が私に不思議な喜びを与えている。 [#地付き](「文体」昭和九年六月号)     群集の中のロビンソン・クルーソー  イギリスのアーサー・マッケンの自伝小説に「ヒル・オヴ・ドリームズ」というのがある。それは一年程の間ロンドンの下宿屋で、ロビンソン・クルーソーの生活をした記録であって、それ故にその小説の中には、人間的な交渉は皆無で、会話もほとんどなく、ただ夢と幻想の物語なのだが、私にとって、これ程あとに残った小説は近頃珍らしいことであった。  この「都会のロビンソン・クルーソー」は、下宿の一室での読書と、|瞑《めい》|想《そう》と、それから毎日の物云わぬ散歩とで、一年の長い月日を|唖《おし》のように暮したのである。友達は無論なく、下宿のお神さんともほとんど口を利かず、その一年の間にたった一度、行きずりの淫売婦から声をかけられ、短い返事をしたのが、他人との交渉の唯一のものであった。  私はかつて下宿のお神さんと口を利くのがいやさに、用事という用事は小さな紙切れに認めて、それを|襖《ふすま》の隙間からソッと廊下へ出しておくという妙な男の話を聞いたことがある。マッケンの小説の主人公も恐らくそのような人物であったに違いない。これは|厭人病《えんじんびょう》の嵩じたものと云うことも出来よう。だが、厭人病こそはロビンソン・クルーソーへの不可思議な憧れではないだろうか。  私の知っている画家の奥さんは、夫の蔭口を利く時に口癖のように、あの人は半日でも一日でも、内のものと口を利かないで、そうかと云って何の仕事をするでもなく、よく飽きないと思う程、壁と|睨《にら》めっこをしていますのよ。まるで|達磨《だ る ま》さんですわね。と云い云いしたものである。この画家は恐らく家庭でのロビンソン・クルーソーであったのであろう。 「ジーキル—ハイド型」という形容詞で人間の心の奥底のある恐ろしい潜在願望を云い現わすと同じように、「ロビンソン型」の潜在願望というものがあるのではないかしら。そういう潜在願望があればこそ、「ロビンソン・クルーソー」の物語はこのように広く、このように永く、人類に愛読されるのではないかしら。我々がこの物語を思い出すごとに、何とも形容の出来ない深い懐しさを感じるのは、それに初めて接した少年時代への郷愁ばかりではないような気がする。人間は群棲動物であるからこそ、その潜在願望では、深くも孤独にあこがれるということではないのかしら。  考えて見ると、世に犯罪者ほどこの潜在願望のむき出しになっているものはない。密林の中で木の実、草の根を食って生きていた「鬼熊」だけがロビンソン・クルーソーなのではない。犯罪者という犯罪者は、電車の中でも縁日の人通りでも、群集の中のロビンソン・クルーソーである。もし人に犯罪への潜在慾望があるものとすれば、「ロビンソン願望」もその一つの要素を為しているのかも知れない。  私は浅草の映画街の人間の流れの中を歩いていて、それとなくあたりの人の顔を見廻しながら、この多勢の中にはきっと一人や二人の犯罪者が混っているに違いない、もしかしたら今人殺しをして来たばかりのラスコリニコフが何食わぬ顔をして歩いていないとも限らぬ、という事を考えて見て、不思議な興味を感じることがある。彼にとっては、肩をすれすれの前後左右の人間共が、彼とは全く違った世界の生きものであり、彼自身は人群れの間を一匹の狼が歩いている気持であろう。それは恐ろしいけれども、又異様に潜在願望をそそるところの気持である。  イヤ、犯罪者に限ったことではない。と私は考えるのだ。映画街の人込みの中には、なんと多くのロビンソン・クルーソーが歩いていることであろう。ああいう群集の中の同伴者のない人間というものは、彼等自身は意識しないまでも、皆「ロビンソン願望」にそそのかされて、群集の中の孤独を味いに来ているのではないであろうか。試みに群集の中の二人連れの人間と、独りぼっちの人間との顔を見比べて見るがよい。その二つの人種はまるで違った生きもののように見えるではないか。独りぼっちの人達の黙りこくった表情には、まざまざとロビンソン・クルーソーが現われているではないか。だが人ごとらしく云うことはない。私自身も都会の群集にまぎれ込んだ一人のロビンソン・クルーソーであったのだ。ロビンソンになりたくてこそ、何か人種の違う大群集の中へ漂流して行ったのではなかったか。  彼自身の内に異端者を感じない人間はないのと同じように、人は皆ロビンソン・クルーソーである。人の心の奥底には、意識下の巨人となって、一人ずつのロビンソンが住んでいるのに違いはない。 [#地付き](「中央公論」昭和十年十月号)     スリルの説  私が探偵小説に|溺《おぼ》れ始めた頃の気持を振返って見ると、理智文学としての、謎々としての、手品文学としての魅力にひきつけられたのは勿論であったが、そういう論理的な魅力に並行して、ある場合にはそういうものよりも一層深く、探偵小説ないし犯罪文学に含まれているスリルの魅力に心酔していたことが分るのである。これは私一人のことではないと思う。理智文学を愛する心とスリルを愛する心とは、別物であって別物でないような気がする。エドガア・ポオがこの事を身をもって示している。創始者である彼の探偵小説への愛情がいかに深かったかは云うまでもないが、彼はそれ以上にスリルへの心酔者であった。そして前人未踏のスリルの創造者であった。(ポオをスリルの作者と云うのには異議があるかも知れない。しかし、私の謂う所のスリルがどういうものであるかは、追々読者に分るであろう)日本の多くの探偵小説愛好者にも、理智以上にスリルを愛する傾きがなかったとは云えない。ビーストンやルヴェルは、もう何の遠慮もなく云えるのだが、それぞれ違った意味で明かにスリルの作である。そして、この二作家を日本の探偵読者界程大騒ぎして愛読した国はないように思われる。かつて延原謙君が|書《しょ》|肆《し》気附でビーストンに手紙を出したことがあったが、その返書の中でビーストンは異国に知己を見出したことを喜ぶと共に、本国では日本程に|持《もて》|囃《はや》されず単行本も一二冊しか出版されていないというようなことが記されてあった由である。「日本へいらっしゃいと云えば、喜んで移住して来るかも知れない」延原君がそんなことを云って笑ったのを覚えている。そのビーストンはともかくとして、ルヴェルがあれ程持囃された所を見ると、理智と共にスリルをも並々ならず愛する意味で、日本の探偵読書界は直接に始祖ポオの血筋を受継いでいるのだと云っても差支ないような気がする。  論理文学としての探偵小説にとって、スリルは必然の要素ではない。スリルを少しも持たぬ探偵小説というものがあり得ないではない。しかし、それは実は机上の論であって、現実には何等かのスリルを含まぬ探偵小説なんてありはしないのだ。純論理文学と云われるポオの「マリー・ロージェ」すらも高級際物であって、現実の犯罪事件との不可思議な暗合を全く除き去ったならば、その魅力を半減したことは云うまでもない。つまり現実をモデルとした殺人事件のスリルというものが、あの作の一半の要素となっていたのである。  ダグラス・トムスンの「探偵作家論」には「スリラァ」と云う章があって、そこで彼は例の調子で夥しいスリルの文学を引用しているのだが、その中にはホーマーの「オディッセイ」も、シェークスピアの「マクベス」も、ポオの「|陥《かん》|穽《せい》と振子」も、ディケンズの「エドウィン・ドルード(1)」も、コリンズの「月長石」も、ガボリオやボアゴベーの諸作も、それぞれの意味でスリラァとして挙げられている。ウォレース、オップンハイム、ル・キゥ、サックス・ローマーなどがスリラァであるのは云うまでもなく、中にも著しいスリル探偵小説の作家はウォレースとメースンとフレッチアだと、トムスンは考えるのである。 [#ここから3字下げ] (1)「エドウィン・ドルードの謎」 [#ここで字下げ終わり]  この考え方からすると、フィルポッツや、ベントリや、マクドナルドなどの作品もスリラァになってしまいそうだが、少くもフィルポッツ、メースン、ベントリなどをスリラァと云うのはどうもふさわしくない。ウォレース、ル・キゥ、オップンハイム、サックス・ローマーまで位に止めて置くのが穏当ではないかと思う。スリラァという言葉は常に必ずしもトムスンのようには使われていない。この俗語には多くの場合|軽《けい》|蔑《べつ》の感じがつき纏っている「あれはスリラァだ」と云う言葉から敬意を汲みとることはむつかしい。従来の用語例からすると、ポオやディケンズの作をスリラァと呼ぶのは何となくふさわしくない感じがする。  だがスリラァという低調な名称には当らぬけれども、トムスンの挙げた諸作が何らかのスリルを重大な要素としていることは否み難い。イヤ、それどころか古来の大文学にはほとんど例外なくスリルの魅力が含まれているといっても云いすぎではない。(ただスリルにも色々の段階があって、スリラァというスラングは「怖がらせ」「お涙|頂戴《ちょうだい》」などの俗語が意味すると同じ、低調卑俗なスリルを取扱ったものだけを指していると見るのが穏当かと感じられる。)殊に探偵小説ではスリルのない作品なんて絶無と云っても差支ないと思う。トムスンはコリンズとかガボリオとかメースンとか、どちらかと云えばロマンティシズムの作家を挙げているが、それとは全く反対側の理智小説にも、スリルは案外重大な要素となっている。例えばドイルの諸作は一方謎文学でもあるけれど、それと同じ強さでスリルの文学でもある。これはもう説明するまでもないことだが、読者はドイルのどの短篇でも、どの長篇でも思い出すものを取って、そのスリルの重要さを吟味して見るがよい。謎の魅力とスリルの魅力と果してどちらが大きいかに迷う程なのを発見するであろう。ただ一例を云えば、彼の作品中最大の人気者である「スペックルド・バンド(1)」(この作はオブザアバア誌の人気投票などでも第一位を得ている)から深夜の密室に悪魔を待伏せする恐怖、異様の口笛、まだらの蛇などのスリルを除いて一体何が残るのであるか。 [#ここから3字下げ] (1)「まだらの紐」 [#ここで字下げ終わり]  ドイルでいけなければ、ヴァン・ダインとエラリイ・クイーンを持って来てもよい。「グリーン・マァダー・ケース(1)」では一軒の屋敷の中で次々と人が殺されて行く恐怖、深夜邸内をさまよう老婆の恐怖、真犯人が可憐の娘さんであったというスリル、それから自動車追駈けのスリルまでも取入れられている。「僧正殺人事件」では、云うまでもなく童謡と殺人とのゾッとする暗合が最大のスリルであり、あの巧みなスリルを除いてはこの作の魅力の大部分を失う程である。クイーンの作で云えば、首をチョン斬ったT字型の磔殺のスリルその他、多くの言葉を費すまでもなく、どの作にも何らかのスリルが、重大な要素として含まれていることを否む訳には行かぬであろう。読者諸君は、心に残っている探偵小説のどれかを取って、その面白さの最も大きなものは何であったか、謎を解く論理の魅力であったか、それとも謎そのものに含まれているスリルの魅力であったかを、静かに思い出して見るがよい。すると、何かしら軽蔑を感じていたスリルというものが、探偵小説の面白さの案外大きな部分を占めているのに|一驚《いっきょう》を|喫《きっ》するかも知れないのである。 [#ここから3字下げ] (1)「グリーン家殺人事件」 [#ここで字下げ終わり]  殺人(ないし犯罪)は探偵小説の必然の条件ではないけれど、世の探偵作家は申し合せたように殺人事件を取扱っているのはなぜであるか。それはスリルを求めるからである。スリルは、犯罪と同じく、探偵小説の必然の条件ではない。(それ故前回の「定義試案」にもこれを書加えなかったのであるが)しかし現実には、スリルはどんな探偵小説にも例外なく取入れられている一つの重大な要素であることを疑うことは出来ないのである。  では、スリルとは何であるか、と開き直られると誰しも|曖《あい》|昧《まい》にしか答えられないであろう。スリルという言葉は古来詩人、文学者によってしばしば用いられているが、各人各様の用法であって、必ずしも一定した意味を与えられていない。殊に後に出来たスリラァという言葉は英語字典にもちゃんと書いてある通り単なる俗語に過ぎないので文学辞書など探してもそんな項目はありはしない。しかし、それだからと云って余り独合点であってはいけないと考え、この一文を書く前に、私はショーター・オクスフォード、ウェブスター、センチュリィなどの大型字典をひいて見たのだが、スリルという他動詞には次のような意味があることが分った。(一)|錐《きり》のような鋭いもので突通すこと(二)物を震えさせること(三)突通すような感動を与えること、身震いしたり、ドキドキしたり身内がうずくような喜び恐れ悲しみなどの激情を与えること、(四)|鎗《やり》などを投げること、と云うのである。自動詞はこれから類推出来るような意味を持っているし、名詞はこの動詞の転化したものである。つまりその元をただせば、鋭器で突通す、震動させるという具体的な動作であったのが(三)のような抽象的な感情を現わす言葉に転用されて来たものであろう。これを一口に云えばスリルとは快(プレジュア)苦(ペイン)ともに鋭く急激な感動を与えることと解してよいのだと思う。  そういう鋭い感動には、しかし、無限の段階がある。どういうものがスリルになるかは、それを受入れる人の情操なり智識なりの程度によって変って来るのである。それ故、スリルの段階とはそれを受入れる人の頭脳の段階だと考えて差支ない。何十万という読者を持つ娯楽雑誌の歓迎するスリルは、もっと狭い範囲の智識階級の読者には通用しない。そういう狭い読者が何十万という読者の愛するスリルの読物をいわゆるスリラァとして嘲笑するのであるが、しかしその智識階級の愛するスリルもまた、今一段高い標準からはやっぱり軽蔑されていることを悟らなければならぬ。そこには上には上があるのである。  これを具体的に云うと、快感の方のスリルでは例えば軍国的な激情である。停車場に凱旋軍隊を出迎えて、ひらめく小学生の国旗の前を軍楽の響きも勇しく、隊伍堂々と行進する兵隊さんを眺めては、ゾーッと総毛立つ快感に涙ぐむことがある。水戸黄門や乃木将軍の浪花節で、憐れな善人が助けられ、憎い悪人が「ヘヘエ」と平伏する所なども、何かゾクゾクと鋭く心を打つものがある。「バンザーイ、バンザーイ」という叫び声が、奇妙にも、何とスリルに満ちていることであろう。愛情の頂点にもスリルがある。男女にしろ、親子にしろ、その頂点には何かしらゾクゾクと身も世もあらぬ嬉し泣きの境地がある。この境地こそ快感のスリルの外のものではない。又別の例を云うと闘争そのものから来るスリル、例えば「ワーッ」と鬨声を上げて突貫する時のゾクゾクする激情、戦の直前の武者振い、見るものではあらゆる運動競技、中にも拳闘のスリルがある。これらの感情が文芸作品の上に巧みに描かれた時、当然同じスリルを与えることが出来るであろう。  苦(ペイン)の側のスリルではまず恐怖である。(ある人はスリルと云えばこの恐怖の激情だけのように考えているかも知れないが、字典も明示している通り、スリルは無論恐怖に限るものではない)人ごろし、血みどろ、一寸だめし五分だめし、|逆磔刑《さかさはりつけ》、|鋸引《のこぎりび》き、その他殺人と刑罰との肉体的スリル、人体解剖、毒殺、|疾《しっ》|病《ぺい》、手術などの医学的スリル、世界中を敵として逃げ廻る犯罪者の身の置き所もない|堪《た》え|難《がた》い恐怖、追われるもののスリル、断崖、高層建築などの墜落恐怖、猛獣、蛮人などから感じる冒険スリル、一方には又お化け、幽霊、死霊、生霊、神罰、仏罰、心霊現象などの不可知なるものから生ずるスリルなどがこれである。この種のスリルは主として怪奇小説、犯罪小説、冒険小説、探検小説、怪談などの取扱うところであるが、探偵小説にもそれがはなはだ多量に取入れられているのは云うまでもない。  次には悲しみのスリルがある。これは探偵小説とはほとんど縁がなく、恋愛小説や家庭小説やいわゆる悲哀小説の取扱う所であるが、破鏡の悲愁(「不如帰」など)貧苦病苦の悲愁(「筆屋幸兵衛」など)子供をかせ[#「かせ」に傍点]のいわゆるお涙頂戴のスリル(「なさぬ仲」など)等なかなかその種類は少くない。それから怒りの感情もその極端にはスリルがあってよいと思う。読物ではその適例を見出すのがむつかしいけれど、芝居では、二枚目を責めさいなむ敵役、嫁いびりの悪婆などの芸が頂点に達すると、娘さんをくやし泣きに泣かしめ、手荒い見物をして|半畳《はんじょう》を舞台目がけて投げつけさせる程のスリルを与えることが出来る。  以上例示した激情は、智識の程度を問わず、情操の訓練をほとんど要しないで、文字の読める程の人々は例外なく理解出来る所の、いわば平俗低調なるスリルである。いかに原始的な激情であっても、扱い方によっては必ずしも卑俗とは云えないのだけれど、例えば笑いにおける「クスグリ」のごとく、「お涙頂戴」や「怖がらせ」やを意識して、何ら深い洞察もなく、これらのスリルを生々しく描き出した作品が、軽蔑を含めて、スリラァと呼ばれるのは是非ない所である。読者諸君は低調な読物ほど「ゾクゾク」「ブルブル」「ハラハラ」「ヒヤヒヤ」「ドキドキ」「ドキン」「ゾーッと」「ギョッと」「アッと」「ハッと」「キャッ」「ゲッ」などの言葉に満ちているのを思い出すことが出来るであろう。これらの言葉こそスリルそのものを生のまま云い現わしているのであって、低調な作物にそれが頻出するのはむしろ当然のことである。(上述の様々のスリルの内探偵小説に縁の深いものは恐怖スリルであって、その他のものはほとんどここに言及する必要はなかったのであるが、恐怖以外の快苦にもスリルの存在することについて読者の注意を惹いたまでである。それ故以下述べる所の謂わば高級スリルについては、無論喜びにも、悲しみにも、怒りにも、段階の高いスリルがあることは云うまでもないのだが、それらは略して、恐怖スリルだけに局限するつもりである。)  しかしながら、スリルは右のような原始感情に属するものばかりではない。それらの一段上級には、一応の考慮を経た上初めてドキンと来るような、智的要素を含むところの、それ故その恐ろしさは原始感情よりも複雑であって、しかも一層深刻な一聯のスリルがある。今思いつく著しい例を挙げるならば、もがけばもがく程、一分ずつ一寸ずつジリジリと身を没して行く、底なしの泥沼に陥入った人間の恐怖、頑強な身体を持ちながらどうにも抵抗の出来ない気持、表面は固体のように見えていて、その実どこまでも底のないという異様の恐怖、長い間かかって腰から腹、腹から胸、頸、顎、口、鼻と没して行き、最後にもがく指だけが残って、それも見えなくなると、あとには何事もなかったようにじっと淀んでいる泥沼の表面、これらのすべての条件が、どんなお化けよりも、どんな拷問よりも一層深く鋭いスリルを生むのである。  又例えば磁石を失った曇天続きの砂漠旅行者の恐怖がある。見渡す限りの砂。空には鼠色の雲ばかり、太陽も月も星も方角の目印となるものは何もない。ただこれと思う方向へ|遮《しゃ》|二《に》|無《む》|二《に》歩くばかりである。ところが、そうしている内に彼はふとこんなことを考える。人間の左右の足は正確に同じ歩幅を踏むものかしら、イヤイヤそんなことはあり得ない。すると、もし右足の歩幅が左足よりも一分でも広いとすれば、十歩で一寸、百歩で一尺、そして千歩万歩百万歩と歩く内には、思いも及ばぬ大きな差異が生じて、つまり彼は砂漠の中を永久に円を描いてどうどうめぐりしている結果になりはしないか。事実そういうことが起る由であるが、現実よりもその着想だけで、旅人は底知れぬ恐怖に襲われ、立往生をしてしまうに違いない。又例えば、早過ぎた埋葬のスリルがある。地底の棺桶の中で|甦《よみがえ》って、叫んでももがいても出るに出られぬ境地の恐ろしさ、これもまた現実よりも想像の中での方が(つまり文学的に)一層深刻なスリルの一種である。  今一段複雑味を加えたスリルには、幻想と夢の恐怖がある。阿片喫煙者の夢に出て来る現実を何十倍した巨大な風景や人物には、何かしらゾッと総毛立たせるものがある。ド・クインシの「阿片喫煙者の告白」には、その意味での深いスリルが含まれていると云っていい。それに関聯して映画の恐怖とも称すべきものがある。谷崎潤一郎氏の「|人《じん》|面《めん》|疽《そ》」はそのスリルを巧みに描き出して成功した作品であろう。かようにして、スリルは単なる感情から智識を加味したものに進み、やがて心理的な領域に入って行く。  錯覚、物忘れ、意識の盲点などが探偵小説と深い縁を結んでいるのは何故であるか。それらの心理上の現象に底知れぬスリルを含んでいるからに外ならぬ。探偵小説ではないけれど、ポオの「スフィンクス」では一匹の死頭蛾が山を駈け下る大怪物に感じられる錯覚のスリルが主題となっているし、又「陥穽と振子」では暗黒の地下室に投込まれた人物が、壁に手を当てて室内をさぐり歩いている中に、実は四角な部屋であるのが、無数の角を持った無限に広い場所のように感じられるという闇中錯覚のスリルを取扱っている。又意識の盲点の恐ろしさが内外の短篇探偵小説にいかにしばしば用いられているかはここに説明するまでもないであろう。  近代英米長篇探偵小説の八割までが、何等かの形で一人二役のトリックを取入れているのは、おかしい程であるが、これは作者達に智慧がないことを証するよりも、一人二役型の恐怖がいかに深い魅力を持っているかを証するものと見るべきである。この恐怖はまた二重人格、離魂病の伝説などにも関聯しているのだが、この型を代表する作品はスティヴンスンの「ジェーキル博士とハイド」であって、これをジェーキル—ハイド型のスリルと呼ぶことが出来る。又一人二役の裏は双生児トリックであるが、その恐怖を代表する作品はポオの「ウィリアム・ウィルスン」、エーヴェルスの「プラーグの大学生」などであって、これを仮りにウィリアム・ウィルスン型のスリルと名付けてもよいと思う。自分自身と寸分顔形の違わぬ奴が、この世のどこかにいて(ひょっとしたら、そいつはすぐ身近にウロウロしているかも知れない)どんな恐ろしい悪事を企らんでいるか分らないという気持は、ほとんど堪え難い恐怖であろう。どこかの|雑《ざっ》|踏《とう》の群集の中で、あるいは又人影もない闇夜の四辻で、ヒョイとそいつに出会うかも知れないという想像には、実に恐ろしいスリルを含んでいる。自己の二重存在の恐怖は鏡の恐怖と結びつけることが出来る。鏡というものが、あるいは影というものが、ある場合には非常に強いスリルを与えることは、必ずしも一般的の感情ではないけれども、それだけに生命の恐怖やお化けの恐怖よりは特殊であって、一段高い段階に属するもののように考えられる。  だがスリルの段階はこれで尽きているのではない。もっと純粋に心理的な、人間の心そのものに巣喰っている種類の戦慄がある。私が古来の大文学に含まれているというのは、多くこの種類のスリルであって、それは受入れる側の情操や知識の程度に従ってほとんど無限に奥深い所まで行っているように思われる。試みに誰にも知られている手近な実例を挙げて見るならば、例えばポオの「天邪鬼」に扱われているスリルなどはその際立った一つであろう。何一つ証拠を残さないで巧みに殺人罪を犯した男が、ただ黙っていさえすれば生涯安全であるにもかかわらず、その黙っていなければならないという考えに堪えられなくなる。喋ってはいけない、喋ってはいけないと圧えつければつける程、|喉《のど》の奥から蓄音器のように、その喋ってはいけないことだけが、勝手に飛び出して来る。何という絶望的な恐怖であろう。そして彼は場所もあろうに、雑沓を極めた往来の真中で、恐ろしさにブルブル震えながら、気を失うばかりになって、拡声器のようなべら棒な声で、彼自身の罪状を白状してしまい、お巡りさんに捉えられるというお話である。  少しく解釈は違うけれど、ドストエフスキイの「罪と罰」にもこれに類似したスリルが扱われている。ラスコーリニコフが殺人罪を犯して間もなく、彼自身の殺人事件の新聞記事を読まないではいられぬ気持に襲われて、カフェーのような所へ出かけて行く。そこで一杯のコーヒーを命じ、新聞の|綴込《つづりこ》みを借りて、心もうつろにその犯罪記事を読み終るのだが、そうしている間に、ふとすぐ前のテーブルに恐ろしい人物が来合せていることを発見する。裁判所の書記長であったか、ザミョートフという、彼を下手人と疑っているその筋の係官なのだ。二人は挨拶する。ザミョートフは何気ない体で「何をそんなに熱心に読んでいるのです。」と尋ねる。するとラスコーリニコフは「それを君はウズウズする程知りたいのでしょう。教えて上げましょうか。ホラ、こんなにどっさり新聞を借り込んで、僕は一体何を読んでいたんだと思います。」と云いながら自分の顔を思い切り相手の顔によせて、囁くような声で「あれですよ。老婆殺しの一件を、あんなに熱心に読んでいたのですよ。」と云ってのける。そうしてこの敵同士は丸一分間もそのままの姿勢で、お互の目を見つめたまま黙り込んでいたと書いてある。  そのあとで、給仕がコーヒーの代を取りに来た時、ラスコーリニコフは、ポケットから札束を|鷲《わし》|掴《づか》みに取出して、ザミョートフに見せつけながら、次にゾッと震え上るような言葉を口走らないではいられなかった。「見給え、金がいくらあるか。二十五ルーブリだ。どこから来たと思います。君はよく知っているでしょう。僕はついこの間まで一文なしだったじゃありませんか。」  ドストエフスキイと云えば、彼の作品はどの一つを取っても、私のいわゆる心理的なスリルの宝庫であって、ほとんどこの世にありとあらゆる型のスリルが、百科辞典のように網羅されていると云っても過言ではない。ドストエフスキイをスリルの作家などと云っては大方のお叱りを受けるかも知れないけれど、試みにそういう角度から眺めてごらんなさい。どの作品を取ってもいい。諸君はきっと、その一冊がスリルの宝の山であることを発見されるに違いない。私はドストエフスキイだけは何度でも読み返す。何度読み返しても飽きないのは、私の好きでたまらないスリルの魅力に充ち満ちているからだと、大胆に云い切っても差支えない程に考えている。 「カラマゾフ兄弟」の初めの方、大抵の人が面白くないという初めの方、長老ゾシマの伝の中にさえ、飛び切りのスリルが充ち満ちている。無論恐怖のスリルばかりではない。地獄のスリルと共に天国のスリルがある。つまり、妙な云い方をすると、ドストエフスキイは「スリルの悪魔」であり、「スリルの神様」である。  ゾシマ伝の中から、私の最も愛するスリルを、たった一つだけ例示して見るならば、青年時代のゾシマが、痴情のことから決闘をする物語があるのだが、その場になって、彼は相手にだけ発砲させ、自分は発砲しないで決闘を終ってしまう。後年のゾシマ長老の聖なる思想が働いたのである。すると、彼は|俄《にわ》かに社交界の人気者になって、色々の人物が彼に近づいて来る。その中に五十歳位の地位も財産もある立派な紳士があった。彼は青年ゾシマを毎日のように訪ねて来る。そして、彼自身がかつて痴情の殺人を犯したことを告白し、そのことを世間に公表すると約束する。決闘の際のゾシマの聖なる所業に見習って、彼も告白しないではいられなくなったと語る。  しかし彼は中々世間への告白を実行しない。ただ毎日のように青年ゾシマを訪ねて来て「告白してしまった瞬間は、どんなに天国だろう。」というようなことを語る。そして、次の日にはやっぱり不決断な青ざめた顔をしてやって来る。「あなたはまだ白状しないじゃないかというような顔で私を見ますね。もう少し待って下さい。あなたがお考えになる程、そんなたやすいものじゃありませんよ。ひょっとしたら、私はまるで白状しないかも知れません。そしたら、あなたは私を訴えますか。」などと云う。ゾシマは相手の苦悩が怖くなって、その顔を正視出来ない気持になる。「私は今妻君のそばから来たのですよ。女房や子供がどんなものか、あなたにはとても分らない。妻や子だけ許してもらったら、私は一生でも苦しみます。私と一緒に妻子まで亡すのが正しいことでしょうか。」彼は乾いた脣で歎願するように云う。ゾシマは「白状するのが本当」だと勇気づける。  結局彼は「では白状します。もうお目にかかりません。」と云って出て行くが、すると、しばらくして、何か忘れものをしたと云って帰って来る。そして、青年ゾシマと向い合って椅子にかけ、二分間程じっと相手の顔を見つめてから、不意に微笑して、ゾシマをびっくりさせる。それから立上って、接吻して、今度は本当に帰って行くのだが、その別れ際に妙なことを云い残すのである。「私が二度目に来たことを覚えていて下さい。ね、ね、ようござんすか。」  その翌日、彼は人々を自邸に呼んで告白をする。そして、人々も裁判所も半信半疑の内に彼は病気になって死んでしまう。その病床をゾシマが訪ねた時、彼はソッとこんなことを囁くのだ。「私が二度目に行ったのを覚えてますか。あれを覚えて下さいと云っておきましたね。何しに戻って行ったとお思いです。私はあの時あなたを殺しに行ったのですよ。」  こんな風に筋書きにしたのでは、本当の味を伝えることは出来ない。その部分を読んでごらんなさいと云う外ないのだが、私はこのスリルが無性に好きである。ドストエフスキイのスリルと云えば、直ちにこれが思い浮ぶ程好きである。そこには|鱗《うろこ》みたいに層をなして幾つものスリルが重なっている。そのスリルの層の中心に、へびの目のようにキラキラと輝いているスリルがこれなのだ。スリルのスリルである。  ドストエフスキイのスリルについて語り出せば際限がない。すぐ宙で浮んで来るものだけでも五つや六つではない。殺人者ラスコーリニコフが、人通りの繁しい道路で、突然|跪《ひざまず》いて大地に接吻するという、恐怖ではないが、しかし非常に激しい一種のスリル、「永遠の|良人《お っ と》」の人物が、自分を殺すかも知れない男と、同じ部屋で眠る場面の幾通りものスリル、「カラマゾフ」のドミトリが、許嫁の女から侮蔑的な態度で三千|留《ルーブリ》を受け取り、それを他の女と使い果してしまったかのごとく見せかけながら、実は半額の千五百留を着物の襟に縫いつけて隠していた、そのことがどんな人殺しよりも|窃《せっ》|盗《とう》よりも恥辱だという気持、しかしついにそれを打明ける場面の描写、あれには実に深い心理的恐怖が含まれている。私はあれを一つのスリルとして感じる。  別の作者を云えば、アンドレエフの出世作と云われる短篇に好例がある。上田敏博士が訳していられたと思うが、私は二十年程前、ストランド誌の英訳で初めて読んで、今でも忘れられない程の印象を受けた。筋は、痴情の復讐から、ある女とその愛人を殺した上、しかも処罰を|免《まぬか》れるために、狂人を装い、さて目的を果して、精神病院に入れられてから、自分は|偽《にせ》の狂人のつもりでいるが、しかしそれは飛んでもない思い違いで、本当に発狂しているのではないかという恐ろしい疑惑に責められる心理を描いたものである。そのハッと錯誤に気づく瞬間に、一つの大きなスリルが感じられるのは勿論だが、私の忘れられないのは、それよりも殺人の動機となる一つの場面である。そこは停車場であった。汽車が出発しようとしている。大時計が何時何十分を示している。彼は思い切って恋人に意中をうちあける。|膏汗《あぶらあせ》を流しながらうちあける。すると相手の女はさも面白そうに笑い出す。いつまでも笑い続ける。真青になる程の侮辱だ。その時、彼はどうしたか。怒って立去ったか。涙ぐんでさしうつむいたか。イヤイヤ、彼も同じように笑ったのである。その笑いこそ生涯忘れることの出来ない笑いであった。そして、その彼自身の笑い故にこそ、ついに殺人罪を犯すに至ったのである。この主人公の余りにも残酷な笑いが、私には一つの大きなスリルとして感じられた。必ずしも恐怖のスリルではない。しかしそこから受けるゾーッと水をかけられたような感じ、ギョッと動悸の変調を来すような感じ、その性質は、お化けの怖さと全く別種のものとは考えられないのである。  これらのスリルは、私以上の又は私以下の感受性に対してはスリルでないかも知れない。スリルは全く、それを受ける人の感受性によって決定されると云ってよい。私はどんな小さな|蜘《く》|蛛《も》にも脅える。だが多くの人にとって、蜘蛛は何等の恐怖を与えない。私は凹面鏡に映る自分の顔に、べら棒に拡大された自分自身にギョッとして震え上る。しかし、多くの人に凹面鏡は面白いおもちゃでしかない。これは具象的な一例に過ぎないけれど、もっと抽象的な、例えば心理的恐怖というようなものも、各人各様であって、スリルの範囲を客観的に定めることはむつかしいのだと思う。くり返すようだけれど、スリルには段階がある。その低い段階のものが軽蔑にしか価しないからと云って、その高い段階のものをも同じ原則で律することは間違っていると思う。  スリルについては、まだ色々述べたいことがあるけれど、順序立てて書く程纏った考えになっていないので、ひとまずこれでやめることにする。ただ、何故殊さらに分り切ったことを書いて見る気になったか、スリルが何であるか位はよく知っていると云われそうなので、その理由を一言しておく。  年少の読者諸君にはスリルの意味がよく分っていないで、ただスリラァという侮蔑的称呼の聯想から、一概に低調なものと思い込んでいる向があるかも知れないと考えたことが、一つの理由であった。年少の人の評論などに、スリルという言葉をその低い意味だけで使用しているのを、往々目にするからである。  もう一つの理由は、探偵小説のヴァン・ダイン流の考え方に対する不満であった。ヴァン・ダインは探偵小説はパズルの興味以外のあらゆる文学的要素と絶縁すべきであるかのごとき|口《こう》|吻《ふん》を漏らしているが、彼の論調に従えば、スリルもまたその絶縁すべき要素の一つであろうと思う。そういう考え方は、純粋は純粋であって、議論として気持ちはいいし、その法則に従った探偵小説が(もしありとすれば)存在することも無論一つの型として望ましいのであるが、それですべての探偵小説を律しようとするのは、結局「探偵小説の貧困」を招くことでしかない。  スリル絶縁論はヴァン・ダインに|遡《さかのぼ》らずとも、我々の日常しばしば目にする所である。最も手近かな一例を示せば、先月号「新青年」の縮刷図書館の冒頭に訳されているゼルールド女史という人の探偵小説論にもこれがある。「勿論スリラァにはスリラァの社会があろう。しかし我々探偵小説ファンはその社会にはいない。我々は殺人事件のスリルを求めず、又犯罪のキック(刺戟)に用はない。犯罪は単に一つの解決条件であり、犯罪の解決こそ重要なのである」と云うのだ。これは単にいわゆるスリラァについて云っているので、私の上述したような高等スリルには及んでいないのかも知れぬけれど、それにしても、探偵小説からスリルを排斥する潔癖は、結局それを貧困にするばかりであろう。そういう考え方をするよりは、探偵小説の「論理」と犯罪文学の「心理」とを結婚させ、その両方の魅力を|綯《な》いまぜて行く所に探偵小説の将来があるのではないか。実際について云えば、そういう議論だけは行われていても、本当にスリルと絶縁した探偵小説なんてありはしないのだ。「犯罪」のスリルに用がないのだったら全く「犯罪」のない謎小説を書いてもよさそうなものであるが、いかな純粋論者も「犯罪」と縁を切ることは出来ない。それはつまり、世の探偵小説というものが、出発点からしてスリルにたよっていることを証するものではないかしらん。 [#地付き](「ぷろふいる」昭和十年十二月号)     幻影の城主  ある雑誌からの往復はがきの質問に「今年の新聞の犯罪記事で最も興味を感じられた事件」というのがあった。私はそれに答えて書いた。「実際上の出来事にかつて興味を覚えたることなし。そこにはただ痛ましき現実の苦悩を見るのみ。」  従前は、何か解決のむずかしい犯罪事件があると、新聞記者が探偵作家を訪ねてその意見をたたくことが流行した。そういう場合、社会面の出来事にほとんど興味を持たない私はひどく当惑するのが常であった。結局来訪の記者にあべこべに質問するという不体裁を演ずることが多かった。  私は色々な人から、よくこんな風に尋ねられる。「あなたの小説は実際の犯罪事件などからヒントを得られることが多いでしょうね。」すると私は答えるのである。「イイエそういうことは全くありません。実際上の出来事と私の探偵小説とは、まるで縁もゆかりもありません。その二つは全く別の世界のものです。したがって、私には犯罪実話というようなものは少しも面白く感じられないのです。」  物識りの老人などが、こういう珍しい事件があったといって、親切に語り聞かせてくれることがある。その話は奇怪でもあり、話上手でもあって、多くの人には面白いのかも知れない。しかし私はどんな事実談でも講談以上に面白く感じたことがない。私は救い難き架空の国の住人である。大蘇芳年の無残絵は好きだけれど、本当の血には興味がない。犯罪現場の写真なんていうものには、ただ|嘔《おう》|吐《と》を催すのみである。 「私にとって、昼間の世界は架空の夢のようにしか感じられない。かえって夜の夢の中に私の現実がある。そこに私の本当の生活がある。」ポオがどこかにこういう意味の事を書いていた。「うばたまの夜のまぼろし夢ならば、昼見し影を何といふらむ」これは数年前谷崎潤一郎氏に書いてもらって、今も床の間に掛っている半切の歌である。ポオの言葉と何か一脈の通ずるところがあるようで、私はこの半切を愛している。  ドストエフスキイの「女主人」の主人公オルドゥイノフは「すでに子供の頃に変人として知られ、友達仲間からはかれの一風変った人間嫌いな性質のために、薄情にされたり不愛想にされたりするのを耐え忍んで来た。」私は今ちょうどそこを読んでいたので、この引用をしたのだが、ドストエフスキイの作品には、至るところにこういう人物が登場している。 「女主人」の右の文を読んでいて私は何か郷愁のようなものを感じた。そして私自身の少年時代を振返った。そこには「薄情にされたり不愛想にされたり」することに人一倍敏感な癖に、お能の面のように無表情な、お人好しな顔をして、内心激しい現実嫌悪を感じている少年の姿があった。  少年時代の私は、夜暗い町を歩きながら、長いひとり言を喋る癖があった。その頃は|小波《さざなみ》山人の「世界お|伽噺《とぎばなし》」の国に住んでいた。遠い昔の異国の世界が、昼間のめんこ遊びなぞよりは、グッと真に迫った好奇に満ちた私の現実であった。私は現実世界よりももっと現実な幻影の国の出来事について、その国の様々の人物の声色を混ぜて、ひとり言を喋っていたのである。しかしそういう夜の道で、誰かに話しかけられでもすると、|俄《にわか》に、私にとってはむしろ異国である現実に立帰らなければならなかった。そして、私はたちまち精彩を失い、オドオドしたお人好しになってしまった。  私の精彩ある国への旅行は、文字の船に乗ってであった。それ故文字そのものが、私には彼方の世界に属する神秘であった。文字からひいては活字というものが、あの真四角な無愛想な鉛と何やらの合金が、何かしら地上の物体とは違ったものに感じられた。活字こそ私の夢の国への貴い懸橋であった。その「活字の非現実性」を私は|溺《でき》|愛《あい》した。  私は活字を買う資金を得るために、半年の間|克《こっ》|己《き》の生活を続けた。よく思い出せないけれど多分朝起きの約束であった。そして、その終りの日に父親から沢山の賞金をもらうと、町にたった一軒の活字屋へかけつけて、ピカピカ光った金属の匂いの懐しい四号活字を山のように荷造りしてもらった。それと幾枚かの白木の活字ケースを、友達と二人で抱きかかえて、四畳半の自分の部屋に帰った。  活字とケースと一缶の印刷インキを買ってしまうと賞与金が尽きたので、私は印刷器械を手製しなければならなかった。それは近所の名刺印刷所の店先で見覚えておいた、木製の手押し印刷器であった。  お伽噺の原稿を書いて、文選工のように活字を拾って、植字工のようにそれを並べて、ローラーでインキを塗って、ザラ紙の半紙を当ててグッと手押器械をおしつけた時の、あの不思議な喜びを忘れることが出来ない。私はついに、精彩の国への船を所有したのであった。その美しい船の船長になったのであった。  社交術でも腕力でも余りの弱者であった少年は、現実の、地上の城主になることを諦め、幻影の国に一城を築いて、そこの城主になって見たいと考えた。町内のどんな腕白小僧にも、幻影の城を攻め亡ぼすすべはなかった。イヤ、かれにはその城への雲の懸橋を登ることさえ全く思いも及ばないのであった。  そういう少年がそのまま大きくなったとすれば、かれが現実の出来事に好奇心を持たないのは当然であった。かれは書いた物で世の中をよくしようとも悪くしようとも思わない。それはかれにとって全く別世界のことである。小説というものが、政治論文のように積極的に人生をよくするためにのみ書かれなければならないとしたら、かれは多分「現実」とともに「小説」をも厭わしいものに思ったに違いない。  この少年が大きくなって、世渡りというものを覚えて(なんとまあ人臭くなってしまったことだろう。かれは夢の国へ帰ると腹立たしさに|拳《こぶし》を握るのである)勤め奉公をした。個人の貿易商の番頭になったり、大きな会社のクラークになったりした。勤めはむずかしくなかった。ただ地上の城の一陣笠として、現実を楽しむがごとく装わなければならないのが、極度に苦しかった。現実に執著なくしては(少くともそう見せかけなくては)営利会社の奉公人は勤まらないからである。  かれは朝から晩まで現実界に住まなければならなかった。夜の夢だけでは、かれの貪慾が許さなかった。もっと現実界を離れる時間がほしいと思った。同僚達には、会話を楽しまないで大抵の時はボンヤリと黙り込んでいるかれが、変に見えたに違いない。しかしそういう時でさえも、かれは同僚達の気持を意識するために、本当に幻影の城主となり切ることは出来なかった。孤独と幻想への烈しい空腹が彼を無性にイライラさせた。  ある会社の独身社員合宿所では、彼はあてがわれた六畳の部屋を空っぽにして、その部屋の一間の押入れの棚の上にとじこもった。そこでは同僚達が勝手に障子をあけて入って来るので、幻影の国に遊んでいる時でも、居留守を|遣《つか》うことが出来なかったからである。  彼は押入れの真暗な棚の上に|蒲《ふ》|団《とん》を敷いて、そこに横たわって、終日声をひそめていた。ちょうど|独逸《ド イ ツ》語を稽古していた時で、押入れの壁に「アインザムカイト」などと落書きをしたのをハッキリ覚えている。孤独を悲しむ心もあったに違いない。しかし、彼は同時にその孤独を享楽していたのであった。暗い押入れの中でだけ、彼は夢の国に君臨して、幻影の城主であることが出来た。  けれども奉公人にそういう気儘な生活が長く続こうはずはなかった。彼は居たたまらなくなっては自から身を引いて、次から次と奉公先を転々した。現実世界には、どこの一隅にも身の置きどころがないのを悲しんだ。そして、やがて彼に少年時代の「活字」の船が帰って来た。幻影の城主であることが職分である生活が、彼の前に開けた。ここにのみわずかに安住の地があった。  多くの小説家は人類のために闘う戦士であるかも知れない。また別の多くの小説家は読む人をただ楽しませ面白がらせ、そしてお金儲けをする芸人であるかも知れない。しかし私にはそういう現実に即した功利的な考え方は、つけ|焼《やき》|刃《ば》の理窟みたいに思われて仕方がない。あらゆる小説家は、多かれ少なかれ、彼が現実の(地上の)城主に適しないで、幻影の城主に適するからこそ、その道をたどったのではないのかしら。そして、そのことがどんな功利よりも重大なのではないかしら。  私は幻影の城主として、現実の犯罪事件などに関心が持てないのを、恥じることはないのだと思っている。 [#地付き](「東京日日新聞」昭和十年十二月)     夢野君余談  夢野君は去年大下君と一緒に僕のうちを訪ねてくれたことがある。それが最初の最後であった。その時三人でへぼ将棋をやった。僕は大下君に|香落《きょうおち》という程ではないけれど少し弱いのだが、その日は勝ったり負けたりであったと記憶する。夢野君とも同様であった。ところが、彼のは何か人を|小《こ》|馬《ば》|鹿《か》にしたような指し方で、どうも実力の程が分らない。ひょっとしたら段違いに強いのではないかとさえ感じられた。大下君は彼と一番親しくて、よく会っていたからその後も指した事と思うが、それでもまだ分らなかったと見えて、御通夜の晩だったかに、故人の思い出話の中で、夢野君の将棋の実力の程は、とうとう分らず仕舞いであったと云っていた。  夢野君は人物としても、作品の上でも、ちょうどこの将棋と同じような、どこか人を小馬鹿にしたような、実力の程の計り知られないような、妙な魅力を持っていた。「ドグラ・マグラ」という狂気小説は、僕には批評の資格のない、よく分らぬ側の作品だが、あれなどにもそういう感じが多分にあったように思う。僕を訪ねてくれた晩は、その「ドグラ・マグラ」が出版された直後で、当然話題にも上ったのだが、僕は正直に「処女作の「あやかしの|鼓《つづみ》」もそうだったが、今度の「ドグラ・マグラ」も僕にはよく分らぬ側の作品だ。僕の不感性の部分に入っているのかも知れない」と云った。  ところが夢野君は「ドグラ・マグラ」こそ一世一代の力作で、八年だか以前に|書《かき》|卸《おろ》したのち、絶えず身辺に置いて、何度となく書き改め、子供を育てるように大事に手かけて来たものだというのである、恐らく最も自信を持った作品であったらしく思われる。その話を聞いた時も、第一彼の話しぶりそのものに何かしら計り知られないような、その|癖《くせ》、小馬鹿にされているような、変てこな魅力を感じたものであった。  僕の方から夢野君を訪ねたのも、たった一度であった。それは厳父茂丸さんがなくなられて間もなくのことで、夢野君はその跡かたづけのために上京して、厳父の住んでいられた|麹町《こうじまち》の屋敷に滞在していた当時なのだが、ある晩探偵作家の何かの会合が、少し早目に終ったものだから、大下君と水谷君とが、これから夢野君のところへ寄って、少し話して帰ろうじゃないかと、僕を誘ってくれた。そこで三人が夢野君につれられて、麹町の杉山邸を訪問した訳だが、夢野君にはそれより前、厳父の持物であったパッカードの自動車を見せつけられたりして、僕は茂丸さんという風変りな老政客の住宅に少しばかり好奇心がないでもなかった。  杉山邸はひどく宏壮というのではないが、ドッシリとして、しかしどこか一風変っていて、入口など|贅《ぜい》|沢《たく》な料亭の作りみたいな感じであった。玄関からすぐ廻り階段があって、中二階みたいな感じの和洋|折衷《せっちゅう》の小部屋へ通された。本当の応接室は別にあるのであろうが、そこは余り窓のない天井の低い、ちょっと密室めいた感で、老政客が、支那の客かなんかを引見して、何か他聞を|憚《はばか》る用談でもしたというような、なかなかロマンティックな|匂《におい》を漂わせていた。  四人はそこで、度々お茶を代えてもらって、一時過ぎるまで話し込んだ。話題は老政客の応接室には、まるでふさわしくない、探偵小説談ばかりであった。一方の棚の上から、金色に塗った茂丸翁の胸像が、若僧共の物語をじっと眺めていた。  帰りがけに、夢野君は|頭《とう》|山《やま》さんの書を沢山持出して、その内から|半《はん》|折《せつ》のものを一枚ずつ僕達に分けてくれた。これは大下君や水谷君には|予《あらかじ》め約束があったらしく、僕は飛入りで御相伴に預った訳であった。その書は竹の筆で書かれたもので、何という名称かその方のことは素人で分らないのだが、|謂《い》わば|簓《ささら》でなすったような、|雄《ゆう》|渾《こん》な書体であった。  夢野君には、この書ばかりでなく、色々なものを贈られた。私の方からは一度も返礼もしないままなくなられてしまって、何となく気がすまないような感じが残っている。  夢野君を作品の上で知ったのは、「新青年」への応募小説「あやかしの鼓」からであったが、その時は選者の一人として、少し悪評をして作者を怒らせたにすぎなかった。ところが、それから二三年のちに「押絵の奇蹟」が発表された時、私は全く参ってしまって、作者を見る|明《めい》がなかったことを恥入った。そこで、「押絵の奇蹟」讃嘆の少し長い感想文を「新青年」に書いたのだが、それが機縁となって夢野君と文通するようになった。 「あやかしの鼓」では極く若い作者を想像していた。それが先入主になっていたものだから、初めて手紙を貰った時、巻紙に老熟な書体で「老生」などと書いてあるのを見て意外な感じがした。当時は「夢久」なるものの正体がまだ全く分っていなかったので、作品に漂っている若々しさと、手紙の老熟した筆致とが、|既《すで》にして、例の計り知られない感じを、私に与えたのであった。  さて、その初めての手紙を貰って間もなく、突然夢野君から、|嵩《かさ》|張《ば》った小包が届いた。開いて見ると、桐の箱に入った、一尺余りの|舞《まい》|妓《こ》の博多人形であった、同君の住んでいた|香《か》|椎《しい》|村《むら》は博多の近郊なのである。舞妓の人形は、贈った方の人柄にも、贈られた方の人柄にも、どこやらふさわしくない代物であったが、しかし私はこの立派な贈物を喜んで、戸塚に住んでいた間、ずっと床の間に飾って置いた。週刊雑誌から写しに来た写真に、私のうしろにその床の間の博多人形がハッキリ入っているのがあったのを覚えている。  又ある時は、それは夢野君が上京して、初めて我々作家仲間に素顔を見せた、つまり正体を現わした際であったが、その手土産として、みんなにそれぞれ贈物をしたことがあった。  こういう所は夢野君はなかなか大人らしい儀礼家で、子供っぽい僕などは、挨拶に困るような感じであった。その時僕はやっぱり土地の名産の博多織の帯を貰った。|茄《な》|子《す》|紺《こん》の無地で、片側だけに白茶の太い|縞《しま》のあるもので、私には大変気に入ったものだから、その後ずっと、外の|角《かく》|帯《おび》はしめないで、そればかりしめている。  というように、色々な貰い物をしながら、何の返礼もしない内になくなられたことは、作家としての夢野君を心から惜しむ外に、つまり余談として、私にはちょっと心残りなのである。 [#地付き](「探偵文学」昭和十一年五月号)     レンズ嗜好症  中学一年生のころだったと思う。|憂鬱症《ゆううつしょう》みたいな病気にかかって、二階の一と間にとじこもっていた。憂鬱症は日光を恐れるものだから、家人に気がねしながら、窓の雨戸を閉めたままにして、暗い中で天体のことなど考えていた。そのころ父の書棚の中に、通俗天文学の本があって、私はそれによって宇宙の広さを知り、地球の小ささを知り、自分という生物の虫けら同然であることを感じて、憂鬱症の原因はそういうところからもきているのだが、中学生としての勉強など無意味になって、天体のことばかり考えていた。むろん肉眼で見えない太陽系の向こうの天体のことである。  そんなふうにボンヤリしていて、ふと気がつくと、障子の紙に雨戸の節穴から外の景色が映っていた。茂った木の枝が青々として、その葉の一枚一枚までが、非常に小さくクッキリと映っていた。屋根の瓦も肉眼で見るのとは違った鮮やかな色だったし、その屋根と木の葉の下に(そこに映っている景色はさかさまなのだが)広がっている空の色の美しさはすばらしかった。パノラマ館の背景のような絵の具の青さの中を、可愛らしい白い雲が、虫の這うように動いていた。  私は永い間、その微小な倒影を楽しんだあとで、立って行って障子をひらいた。景色は障子の紙の動くにつれて移動し、半分になり、三分の一になり、そして消え失せてしまった。景色を映していた節穴は、今度は乳色をした一本の棒となって、暗い部屋を|斜《はす》に切り、畳の上に白熱の一点を投げた。  私はその光の棒をじっと眺めていた。乳白色に見えるのは、そこに無数のほこりが移動しているためであることが分った。ほこりって綺麗なものだった。よく見るとそれぞれに|虹《にじ》のような光輝を持っていた。一本の|産《うぶ》|毛《げ》のようなほこりはルビーの赤さで輝き、あるほこりは晴れた空の深い青さを持ち、あるほこりは孔雀の羽根の紫色であった。  そのころ私の父は特許弁理士をやっていて、細かい機械などを見るために、事務室には大きなレンズが転がっていた。直径三寸ほどもある厚ぼったいレンズが、ちょうどその時、私の二階の部屋に持って来てあったので、私は何気なくそれを取って、節穴からの光の棒に当てて見た。そして焦点を作って紙を焼いたりして、子供らしいいたずらをしていたが、ふと気がつくと、天井板に何か薄ぼんやりした、べらぼうに巨大なものが、モヤモヤと動いていた。  お化けみたいなものであった。私は幻覚だと思った。神経が狂い出したのではないかとギョッとしないではいられなかった。  しかし、よく調べて見ると何でもないことなのだ。畳の一点が節穴の光線に丸く光っている、その光の真上にレンズが偶然水平になったために、畳の目が数百倍に拡大されて天井に映ったのだ。  畳表の|藺《い》の一本一本が、天井板一枚ほどの太さで、総体に黄色く、まだ青味の残っている部分までハッキリと、恐ろしい夢のように、阿片喫煙者の夢のように、写し出されていたのだ。  レンズのいたずらと分っても、私には妙に怖い感じだった。そんなものを怖がるというのは、多くの人にはおかしく感じられるかもしれない。だが私は真実怖かったのだ。その時以来、私の物の考え方が変ってしまったほどの驚きであった。大事件であった。  これは少しも誇張ではない。私はあのものの姿を数十倍に映して見せる凹面鏡の前に立つ勇気がない。いつも凹面鏡に出くわすと、ワアッといって逃げ出すのだ。同じ感じで、顕微鏡をのぞくのにも、少しばかり勇気を出さなければならない。レンズの魔術というものが、他人に想像できないほど、私には怖く感じられるのだ。そして怖いからこそ人一倍それに驚き、興味を持つわけである。  その以前にも、望遠鏡とか、写真機とか、幻燈機などが好きで、よく|弄《もてあそ》んではいたのだけれど、レンズというものの恐怖と魅力とを身にしみて感じたのは、その時が初めてであった。三十年に近い昔の出来事を、まざまざと記憶しているゆえんである。  それから|今《こん》|日《にち》まで、レンズへの恐れと興味は少しも減じていない。少年時代にはいろいろとレンズの遊戯を楽しんだし、小説を書くようになっては、そういう経験にもとづいて「鏡地獄」その他レンズに縁のある小説を幾つも書いた。自分の子供が大きくなって、小学上級生になると、子供よりはむしろ親の方が乗り気になって、天体望遠鏡を買ってやったり、それでもって地上の景色を眺め暮らしたり、子供と一緒になって小型映画の器械でいろいろな実験をしたりして喜んでいるのである。  つい二、三カ月以前、何新聞であったか、東京の大新聞の一つが、アメリカで天体望遠鏡の二百インチが半ばでき上がったことを、ニューズとして大きく報道したことがあったが、私はあの新聞編集者に敬意を表している。戦争や外交や株の記事ばかりがニューズではない。二百インチのレンズというものは、宇宙を何倍にも拡げてくれるのだ。人類の視覚が俄然として広くなるのだ。どうしても見えなかったものが見え出すのだ。人類全体が、めくらが目明きになるほどの大事件だ。その重大性は戦争などの比ではない。  ウィルソン山の百インチ望遠鏡でさえも、どれだけわれわれに新らしい宇宙を見せてくれたか分らない。われわれの宇宙観というものが一変したといっても過言ではなかった。それが今度は二百インチなのだ。十何畳敷もあるべらぼうに大きなレンズなのだ。こいつが備えつけられた時には、どんなものがわれわれの視野にはいって来ることであろう。そして、宇宙観が、物理学が、哲学が、一つのレンズのためにどれほどの影響を受けることであろう。あれが完成するのは三年後だとかいうことであるが、直接それがのぞけなくても、のぞいた学者たちの話を聞くためだけにでも、私はそれまで生きていたいと思っている。 [#地付き](「ホームライフ」昭和十一年七月号)     もくず塚  僕が初めて浅草今戸の慶養寺を訪れ「もくず塚」の存在を確めたのは、もう一昨年の春になる。そして、ごく最近三度目か四度目かに、同じ塚を見るために立寄ったのは、つい一昨日のことである。  浅草の慶養寺といっても、多くの読者には無縁であろうし「もくず塚」が何を意味するかも、知らない人が多いことであろう。川向うの木母寺の梅若塚ほど有名ではないからである。  ところで、僕にこの「もくず塚」を教えてくれた人は、遠いイギリスのエドワード・カーペンタアであったと云えば、不思議に思われないであろうか。十余年以前には日本でもなかなか持て囃された、あの詩人で哲学者で社会主義者で「産業自由の方へ」の著者であったカーペンタアはまだ読者の記憶にあると思うが、そのカーペンタアがギリシャ的男性愛の昴然たる讃美者、弁護者であったことを知る人は、あるいは少いのではあるまいか。 「性的中間者」「原始民族に於ける中性者」「友愛佳句集」の三冊が、彼のこの方面の純粋の著書であるが——序ながら、初めの「性的中間者」に説かれた思想は、アンドレ・ジイドの「コリドン」とほとんど同じ論旨であって、ジイドに先駆するものである——二番目の「原始民族に於ける中性者」の終りに「日本のサムライとその理想」という一章がある。(本の表題はこの部分には適切でないのだが)  この章で、カーペンタアは、日本の武士道日本人の軍の強さと、古代ギリシャのドーリア民族の軍の強さとの相似について語り、その秘密は共にギリシャ的男性愛に在ることを説いている。この考えは現在の我々には何となくおかしく聞えるのだけれど、遥かなる第三者が、時に的の真中近くを射当てるということもないのではない。  同章には幾つかの日本の武士道的男性愛の文学が紹介されている。無論井原西鶴の「本朝若風俗(1)」が見逃がされるはずはなく、巻二第三話と巻四第四第五話の三つの短篇の梗概が記されているのだが、それに並んで「|賤《しず》のおだまき」と「|藻《も》|屑《くず》物語」の梗概が、さらに長々しく紹介されている。 [#ここから3字下げ] (1)「男色大鑑」 [#ここで字下げ終わり]  日本ではほとんど文学としての取扱いを受けていないこの二つの物語が、西鶴よりも強くカーペンタアをうっているらしいことを、僕は面白く思うのであるが、では彼はそれらの梗概を何によって読んだかというと、ドイツの動物学者そして男性愛研究家カーシュ・ハーク博士の著書によったことが文中に記されている。同じドイツのヒルシュフェルト博士は、つい数年前日本に来遊したこともあるしその男性愛の大著は多くの人に知られているが、カーシュ博士を知る人は少いかも知れない。しかし少くとも日本の男性愛史研究に関しては、ヒ博士の大著にもなかなか詳しく記されてはいるけれど、その分量において到底カーシュ博士のそれに及ぶものではない。カーシュ博士の厖大極まりなき著述「同性愛研究」中の第一部「文化社会に於ける同性愛生活」中の第一巻「モンゴリア族」中の第一冊「東部アジアに於ける同性愛生活——支那、日本、朝鮮」の内の日本の部(菊版六十四頁分)が即ちそれである。  カーペンタアは、そこに記された前記日本文学の梗概をそのまま英訳しているのだが、カーシュ博士自身は、これらの材料を同国のヨゼフ・シェーデルという篤学者に仰いでいて、そのシェーデル氏によれば、「賤のおだまき」と「藻屑物語」とは、近年まで日本の学校の教科書として使用されていたという、大変なことになっている。イヤ、シェーデル氏ばかりではない。カーシュ博士自身も、「賤のおだまき」を日本のホーマーとまで筆を辷らせているのである。ホーマーなどとは余りに突飛な比喩だけれど、外国人が筋書だけを読んだとすれば、あの平田三五郎の物語は、いかにも「イリアッド」のある部分に似ていないこともない。  しかし、僕はここでは「藻屑物語」についてだけ記せばよい。「藻屑物語」を読もうと思えば、手に入り易いものでは国書刊行会本の「燕石十種」第二冊所収「藻屑物語」と同刊行会本「|三《み》|十《その》|輻《や》」第二冊所収「雨夜物語」の二つの複刻がある。文章に異同があるけれど、もとは同じ作品からの転写であることは云うまでもない。この作は徳川初期の江戸に起った武士道的男性愛の哀れに美しい事実談を、何人かが一つの物語に綴り残したもので、文学史的に云えば仮名草子の|児《ちご》物語の作風と西鶴武道ものの作風との、ちょうど過渡期に属するのであって、児物語の宗教味こそないけれど、そして文章は拙いけれど、物の哀れと歌心に豊かな愛すべき作品である。 「藻屑物語」の本文を読むことはたやすいのだから、興味を持たれる読者には「燕石十種」なり「三十輻」なりをお勧めすることにして、ここにはわざとカーペンタアの手になった少し間違いのある梗概文を、そのまま訳出しておくのも一興であろう。  領主舟川卿の小姓(原作には舟川卿という人物はない。舟川|采《うね》|女《め》の姓を主人の姓と誤ったのであろう。原作では采女も右京と同家中である)年歯十八歳の若きサムライ采女(舟川采女)は別の領主桜川卿(桜川侍従)の小姓、年歯十六歳のサムライ右京(伊丹右京)への烈しい恋に陥った。右京はみめ類なく美わしく、こころばえ人柄ともに優にやさしい少年であった。采女は、しかし右京に近づく折とてもなく、心を伝えるよすがもなく、それとなき|垣《かい》|間《ま》|見《み》にただ胸を燃やすばかりであった。満たされぬ憧れに悩む余り、彼は恋わずらいの床に臥したが、何人にも心の秘密を漏らす勇気はなかった。医師さえも彼の病の源を理解することは出来なかった。ある日のこと、病中の采女は知人の見舞いを受けたが、その人が偶然右京少年を同伴していた。それを見た采女は俄かに元気づき、彼の頬は喜びに輝き渡るのであった。そして、口には云わずとも、心のありたけを右京に注いでいたにも拘らず、右京はその心を察し得なかった。ただ、采女の親友志賀サモノスケ(左馬之助)のみは、右京の前での采女の表情の変化に心づき、その秘密を悟ったので、それを打ちあけるように勧めたけれど、采女は最初の程はただ恥らって打ち消すばかりであった。(原作では左馬之助と采女とは単なる親友ではなく、むしろ念友として描かれていて、それがこの恋物語を一層複雑にも純情にもしている)しかし間もなく左馬之助は、右京への堪え難き思いを歌った采女の詩稿を見つけ出し、もう何の遠慮もなく彼に告白を迫ることが出来た。采女はついにそれを打ちあけた。そして、主持つ身のよこしまの恋が、もし発覚したならば、重く罰せられるは必定である。この不幸な運命には、ただ死を待つ外にすべもないことを訴え歎くのであった。左馬之助は采女の心弱さを笑い、自から恋の仲立ちを勤めようと申出でた。そして、結局右京少年は采女からの恋歌を添えた手紙を受取ることになったが、右京はこれに懇なる返書を認め、采女の病の一日も早く快癒せんことを祈った。この友情は采女の身体に呪文のような利目を現わし、即座に病も癒えたかと覚えたのであった。しかし、彼等年少の義兄弟は、共に主につかえる身であったから、相逢う機会もしげくは恵まれず、ただショウグン(将軍家)お成りの祭典などで、僅かに語り合う二こと三ことに、互の胸に深き愛情を感じ合い、二人は、何事の起ろうとも、二世かけて変るまじと固き誓いを結ぶのであった。  かくして、それよりのち、二人の心はただ一つのものであった。やがて意地悪き運命が、采女と同年輩の友達細野主膳の姿を借りて、両人の間に立現われるまでは。その|性《せい》|傲《ごう》|慢《まん》|不《ふ》|遜《そん》、姿かたちも人好きのせぬこの若者は兼ねてより右京少年を我物にせんと、云い寄る折を待ち構えていたが、ある時、ついに仲立ちを頼んで右京にその心を伝えたのである。右京は云うまでもなくこの申出でを立腹し、にべもなくはねつけてしまったので、細野は深くもこれを恨み、右京を殺害せんと心を定めた。右京少年はこの事を伝え聞くと、一たびは義兄采女の力を借りようかとも考えたが、それも女々しきことと思い返し、単身先手をうって、ついに細野を刺し殺し、返り討ちにしたのである。右京の上役は刃傷の事を知り、右京を捕えて法廷に引出したが、彼がこの挙に出でたやむにやまれぬ事情が判明すると、寛大な幽閉の宣告が下された。しかし細野の父はこの宣告を快しとせず、主人ナト(内藤正兵衛重治。主従関係ではない。)の力を借りて、桜川卿に我が子の殺害者を重く罰せられたいと苦情を申込んだので、卿もやむなく先の宣告を取消し、右京にハラキリを命じなければならなかった。  あたかもその時、義兄采女は、こんな大事が起ろうとは夢にも思わず、神奈川の母の家を訪ねていたが、左馬之助からの手紙によって事件を知り、母に悲痛な暇を、永遠の暇をつげて、急ぎに急いで江戸に引返した。早朝江戸に到着すると、いつもこのような処刑の行われる場所であるケイヨウジ・テンプル(慶養寺)に駈けつけたが、ちょうどそこへ、彼自身の自刃の悲しき用意の整っているその場所へ、右京も到着したのであった。采女は右京の傍らに身を投げ出だし、かくて相愛の二少年は深き情をこめた言葉を取交わし、涙ながらに抱き合い、武士の誇りをもって見事にハラキリの作法を終った。このようにして両人は「春の花に置く露の玉のごとく」|果《は》|敢《か》なく消えて行ったのである。(原作によれば、これは寛永十七年四月の出来事である)右京の不幸な母は息子の自刃のしるし——髪の毛の一ふさ——を受けとると、悲しみに心乱れ、川に身を投げてあえなくなったという。(「原始民族に於ける中性者」一五二—一五五頁)  この采女右京の二少年は実名らしいのであるが、右京のつかえた桜川の侍従というのは上を|憚《はばか》った仮名であって、今となっては何人であったかを断定し難い。大槻如電は「桜川侍従は会津家の事とぞ」と記し(「毛久津物語」序文)平出鏗二郎は佐倉の城主堀田正盛ではないかと考証し(「近古小説解題」)藤井乙男博士は平出説をさもあるべきことと記していられる。(「江戸文学研究」)  シェーデルからカーシュ博士それからカーペンタアと地球を半周して、日本人の僕がやっと「藻屑物語」の本文を読んだという逆様ごとであったが、外国人でさえこれ程興味を持っている事実談に、関心を示した日本人はないのかしらと、僕は今さらのように江戸地誌、随筆の類を探し求めたのであった。  すると戸田茂睡の作と云われる天和三年の「紫の一本」がいち早くこの事件に触れているのを初めとして「江戸砂子」「墨水消夏録」「江戸名所図絵」「武江年表」「采巣漫筆」などが多かれ少なかれ「藻屑物語」について記載していることが分った。試みに「紫の一本」の文を抜萃して見るならば、 [#ここから1字下げ]  慶養寺を尋ねて浅草に行けるに、いつの頃にか浅草川の東に移されて、伊丹右京が事知たる人もなし、さのみ年経ぬ事ながら、其跡さへ苔に成果て、移りかはれる世のさま物かなしさに、手向野の事語る人あれば、夫より案内させて行て見るに、|蒼《そう》|苔《たい》路なめらかにして、露蘭叢にしたゞり、秋風|袂《たもと》にみつるのなんだ、泉下の故人、たゞ梢の嵐虫の音も猶哀れなる野辺の気しき、彼定家朝臣の、たえずや苔の下に聞らんと読給ひしもおもひ出で袖をしぼる、そこなる人よむ、 [#ここから3字下げ] あかむすぶ袖こそみえね草の原露を手向の夕風ぞふく [#ここから1字下げ] |遺《い》|佚《いつ》よむ、 [#ここから3字下げ] 花をこそ手向の野べにすむ月をこゝろありてもやどす露かな [#ここから1字下げ] 陶々斎も詩を作る、 [#ここから3字下げ] 手 向 野 辺 草 露 滋 鳥 鳴 花 謝 使 人 知 驚 心 濺 決 丘 陵 下 無 限 愁 吟 入 石 碑 [#ここから1字下げ]  |抑《そもそも》、慶養寺と云は、元は浅草西福寺の近所に|有《あり》、伊丹右京腹を切しは浅草にての事也、年十六、辞世の歌に、 [#ここから3字下げ] 春は花秋は月にしたはふれて詠し事も夢のまたゆめ [#ここで字下げ終わり]  舟川采女年十八歳、辞世に、 [#ここから3字下げ] |諸《もろ》ともにいささはわれもこゆるぎのいそぎて越ん死出の山路を [#ここから1字下げ] くわしき事は慶養寺もくづ物語に有ゆへ略之、云々、 [#ここで字下げ終わり]  江戸時代の文学者で、この事件に特別の興味を示した人々に、井原西鶴と大田南畝と滝沢馬琴と柳亭種彦がある。  西鶴はこの事件の筋をそのまま取って「本朝若風俗」巻三に「薬はきかぬ房枕」の一篇を書いたし——外に元禄十二年板作者不詳「男色義理物語」に同じ事件が取扱われている——南畝は遠藤梅川という人の写本からこの物語を写し取り、「広三十輻」巻六に収めた。そこでは前にも記した通り「雨夜物語」となっており、一名「藻屑物語」一名「右京記」一名「友信記」と傍書し、又奥書に「民部卿法印道春所著」と記されている。すなわち儒者林羅山の戯作というのである。又、馬琴は藤原の県麻呂から「藻屑物語」の写本を借りて自から筆写し、それに「小序」と「へみのあし」という感想文を書き加えているし(これが「燕石十種」の原本となった)又、種彦は「寛永武陽浅草の露、一名藻屑物語」と題する写本を所蔵し、その奥に自筆で前記「紫の一本」の文を附記していたという。——この種彦の写本は複刻されていないが、明治になって、浅草今戸の医師磐瀬玄策という人が、それを複写して一本を所蔵していたことが分っている。磐瀬氏の当代は宮中出仕の医学博士と伝え聞く。あるいは現にその写本が同家に蔵せられているのかも知れない。  天明二年に撰ばれた「狂歌若葉集」の下巻に四方赤良(大田南畝)の左の一首がある。 [#ここから1字下げ]  橋場の慶養寺に慶長のむかし、袖をたち桃をわかちしちかひより、はかなくなりし二人の墓ありと聞て尋ねはべりしに、此寺もとは浅草のみくらまへ(蔵前)にありて、其後亀戸村に移り、又今の地に移れるよしにて、そのおきつきところのあとだになしといふ、あまりにほゐなくて立いでつ、二人の事は羅浮子の藻屑物語にみへたり、 [#ここから3字下げ] あとかたもなみの藻くづの物語今かきわけてとふかたぞなき [#ここで字下げ終わり]  右の文中に「慶長のむかし」とあるは南畝の思い違いであろう。又、羅浮子というのは前記南畝写本の奥書にもある林羅山のことであって、南畝は「藻屑物語」を羅山の作と信じていたかの文意である。博学の彼がこんなに書いているのを見ると、一概に誤伝と云い切ることも出来ないけれど、転写に転写を重ねた誤記からとはいえ、物語の文章の拙さや、又文中に羅山自身右京の師として名を現わしている点など考え合せて、何となく信じ難いのである。  このようにして僕は段々采女右京の恋物語に心を引かれて行き、それにつれて、浅草今戸の禅寺霊亀山慶養寺というものに興味を持ち始めた。慶養寺は南畝の文中にもある通り、浅草鳥越の里から蔵前に、蔵前から本所押上に、押上から今戸にと転々して、天明の昔すら、もうおくつきの跡もなかったというのだから、今訪ねて見たところで、別段の意味もないとは思うものの、「紫の一本」の作者の哀傷や蜀山人の懐古の情のゆかしさに、ともあれ、近い所なのだから、散歩のついでにその禅寺を探して見ようと思い立った。  同寺が最後の今戸へ移ったのが貞享二年、それ以来ずっと嘉永三年板の「武江年表」まで同じ場所として記されているのだから、今でもやはり今戸にあるかも知れない。それを心頼みに、二年前の春のある日、言問橋の袂から寺院の屋根を探しながら歩いて行くと今戸橋を渡ったすぐ角のところに、たちまち慶養寺を発見した。  新らしい山門、仮普請の本堂、コンクリート作りの新らしい墓地、ただ一つ残っているのは、多年の風雨に木材の白っぽくささくれた、ささやかな鐘楼ばかりである。住職浅野良喚氏に会って尋ねて見ると、大震災に焼けたまま、まだ本堂建立の運びに至っていないと云うことであった。  采女右京の墓などは、予想の通りあるよしもなかったし、又「藻屑物語」の寺伝写本もいつの昔にか失われてしまっていたけれど、しかし、思いがけぬ仕合せには、明治二十八年現住職の先代第三十三世浅野良応という人が私版として出版した「毛久津物語」というものが、たった二部同寺に残っていて、僕はその一冊を乞い受けることが出来たのであった。  それは四六版五十余頁の小冊子で、当時大槻如電の発案によって、斎藤月岑から関根只誠に伝わっていた前記馬琴写本系統の「藻屑物語」と、その頃はまだ慶養寺に残っていた寺伝の写本(と云っても原本ではない。事件直後に書かれた原本は、天明の昔既に虫の為に読みにくくなっていたのを、翠雲斎沾床という人が複写しておいたのだが、さらに又それが別の人によって複写され同寺に納められたことが分っているのだから、明治まで残っていたのはその後者ではないかと想像する)とを大槻如電、加藤直種の両人で検合して、住職の序文と、如電の序文とを添えて出版、縁故の人々に贈って、采女右京の墓石再建のための浄財を募るたよりとしたものであったが、現住職の遠い記憶によれば、この企てはほとんど失敗に終り、墓石再建とまでは行かず、僅かに一基の自然石に「もくず塚」と刻して、境内の一隅に建立したに過ぎなかったということである。  同書前住職の序文には、慶養寺の日牌回向簿というものに、左の記載があることを記し、事件の単なる物語でないことを証している。 [#ここから2字下げ] 花童院剣功利空居士  伊丹右京行年十六歳 断證院智光霊剣居士  舟川采女行年十八歳 [#ここで字下げ終わり]  しかし、この回向簿も大震災の時焼失して今は二少年の名残りをとどめる書きものは、何一つ残っていないという。  僕は住職の案内で、元の本堂の焼跡、土台石だけが残っている裏手の空地へ入って行った。「もくず塚」はと尋ねると、これですという。本堂の土台石に並べて、多くの無縁の墓石が何かの死骸のように転がっている。その中に、幅二尺丈三尺程の自然石が、土に汚れ、雑草に蔽われて、無残に横わり、その表面には、五寸角程の変体仮名で「毛久津塚」と|鑿《のみ》のあと深く刻まれていた。  カーペンタア、カーシュ・ハーク、戸田茂睡、西鶴、蜀山人、馬琴、種彦と遍歴して大槻如電に至り、そして僕は、新刻のものではあり、その形はささやかであったし、その現状は無残でもあったけれど、とうとう「もくず塚」そのものの前に立ったのである。  僕は自然石の鑿のあとを見つめながら、歌心なき身を歎かないではいられなかった。名歌ではなくても、右京采女の思出の塚に、というよりはむしろその塚の残骸に、一首をたむけることが出来たならば、どれ程か心ゆくことであったろう。  その日は、余り長く引きとめては住職へ迷惑と思い、いささかの供養料を包んで暇を告げたが、それからのち、たまたまの機会ごとに慶養寺の門をくぐり、ひそかに塚を眺めて帰ることが三四度に及んだ。そして、一昨日、真夏の日盛りを、又今戸橋を渡ったのだが、「もくず塚」はいつ来て見ても、土にまみれて横えられたままであった。  本堂の建立もまだ着手されない様子で、焼跡の土台石に囲まれた空地には、色さまざまの夏草が咲き乱れていた。その夏草を手向けの花にして、二少年の塚は、何か物忘れでもした表情で、|寂然《じゃくねん》と横わっていた。  塚石の表面に、白墨で意味もない直線や曲線が描かれている。近所の子供達のいたずらであろう。子供達にはこの塚は落書きにふさわしい一塊の石ころに過ぎなかった。大人達にさえも、それはもう一塊の石ころに過ぎなかった。 [#地付き](「文藝春秋」昭和十一年九月号)     活字と僕と——年少の読者に贈る  僕が活字というものに初めてぶッつかったのは、巌谷小波山人の世界お伽噺の四号活字であった。菊判、石版絵の異国的な表紙、あの薄い冊子を、友達と貸しっこをして、家の座敷で、小学校の校庭で、どんなにむさぼり読んだことであろう。  それまでにも、新聞の活字には親しんでいた。まだ読めはしなかったけれど、つづきものの小説を母に読んで聞かせてもらって、現実世界にはないところの、しかしそれよりももっと生々しい夢を生み出す、あの活字というものの不思議な魔力を、あの鼻をくすぐる甘い印刷インキの匂を、むしろ怖いもの見たさの気持で、どんなにか憧れていたことであろう。  それにしても、小学校の国語読本はやっぱり活字であったのだが、字体が余りに大きかったのと、普通の明朝ではなくて、お清書のような清朝活字であったせいかも知れない。どういう訳か、お伽噺や小説の国の活字とは違っていて、夢がなくて、ただ押しつけられるような気がして、活字としての印象は薄かった。  母に新聞で読んで聞かせてもらった活字がなんであったかというと、それが探偵小説であった。その頃僕の家は名古屋市にあって、当時流行の大阪毎日新聞を取っていた。毎日新聞は小説の面白さでも比べるものがなかったのだと思う。そこに菊池幽芳氏訳の「秘中の秘」が連載されていた。僕は毎日学校から帰って来ると、それを聞かせてもらうのが何よりの楽しみだった。もう小学校の三年生だったと思うが、その頃の子供はおっとりしていたのか、あるいはお婆さん子の甘ったれの僕だけがそうだったのか、まだ少年雑誌を読んでいなかった。  母は黒岩涙香の探偵小説の愛読者であった。ランプの下で、お婆さんはお家騒動か何かの講釈本に、母は涙香本に読み耽っていることが多かった。これは僕がまだ学校に上らない頃の話なのだが、父は高等文官の試験を受けようとして、毎晩書斎に|籠《こも》っていたものだから、祖母と母とは針仕事も尽きて、秋の夜長を、小説に暮らしていたものらしい。僕はその側に寝そべって、母が涙香を読み終って、その話を聞かせてくれるのを、じっと待っていたものであった。  そういう母が、幽芳の「秘中の秘」を愛読し、それを僕に話して聞かせてくれたのはもっともなことであった。考えて見るのに、僕の探偵小説好き、怪奇小説好きというものは、この時代にその萌芽を植えつけられたのであるらしい。  もう三年生にもなっていたから、僕は毎日聞かされた話の筋を、順序よく覚え込んでしまっていた。するとちょうどその印象がまだ生々しい頃、学校に学芸会が開かれて、僕も選手として演壇に立つことになった。そこで選ばれた演題が、「秘中の秘」であった。  その日僕は|米琉《よねりゅう》か何かの黒と|薄《うす》|鼠《ねず》との荒い縦縞の着物を着せられ(|袴《はかま》はどんなのだったか忘れてしまったが)その着物のパッチリした柄が大変気に入って、何度も鏡に写して見たことを覚えている。少年の色気というようなものが身なりを気にするのである。女生徒に見てもらいたかったのかも知れない。あるいは女生徒の中のある一人に見てもらいたかったのかも知れない。小学三年生でさえ、演壇の上の名誉というようなものが、虚栄心のようなものが、異性に結びついていたことを、私ばかりではない、多くの人が思い出すであろう。  お話はあんまり上出来ではなかった。ヤンヤと褒めてもらうつもりなのが、それ程でもなかったので、派手な着物の手前も恥しくて、憂鬱になって帰ったのを覚えている。どうもあの棒縞の米琉というものが、かなり複雑に、色々な感情とからみ合っているのである。  それはそれとして、やがて僕の活字の世界に、「少年世界」と「日本少年」と「少年」という三つの少年雑誌が現れた。今残っているのは「日本少年」だけであるが、この三つにはそれぞれ特徴があって、「少年世界」は毎号小波山人がお伽噺を執筆しているのが特徴だったけれど、どことなく古めかしい匂いがあったし、「少年」は大変上品で、しっとりとした文学味などもあって、高級な代りには、どことなく取りつきにくかったし、結局一番熱愛出来たのは「日本少年」であった。その頃は挿絵の大部分が川端龍子氏の筆であって、それの魅力も大きかったが、何よりも「日本少年」の記者先生達の無邪気なあけっぱなしな態度が、僕に親しみを感じさせた。投書欄が|溌《はつ》|剌《らつ》としていて、投書に応答する記者先生達の童心が僕を喜ばせた。  僕は、この雑誌に投書をして、入選したことなどもあったので、一層親しみが増し、長い間の愛読者であった。当時の「日本少年」の読物は、多く社内の記者諸先生が執筆していたが、滝沢素水とか有本芳水とかいう人の名は今でも忘れない。  少年雑誌から「冒険世界」それから「武侠世界」へと移ったのは、あれはいつ頃であったか。少くも「冒険世界」の方は、まだ中学校へ入っていなかった時分から、読み出したのではないかと思う。押川春浪の冒険と怪奇。小波山人から押川春浪へというのが、当時の少年の誰しも踏んだ階段であった。押川春浪と博文館との間に悶着があって、彼が、「冒険世界」を捨てて退社し、「武侠世界」を起したのは、余程後のことであったが、当時は、何かしら血を湧かすような気持で、両誌を読んだものであった。僕はその頃から、僕にとっては好ましからぬジャーナリストの性質を多分に持っていたのである。 「冒険世界」に並んで、江見水蔭の主宰する「探検世界」という雑誌があって、これは未開国の探検旅行だとか、地底の探検だとか、地学雑誌風な味、又江見水蔭の考古趣味などの混っているもので、面白くはあったけれど、その魅力は押川春浪の溌剌たる冒険武侠の情熱と快味には遥かに及ばなかった。  押川春浪の怪奇冒険小説では、ついこの頃も博文館の「新少年」かに復古的に連載されていた「怪人鉄塔」とか、処女作の「海底軍艦」「武侠の日本」などが人の記憶に残っているが、僕は怪奇小説では「塔中の怪」というのを忘れることが出来ない。  この「塔中の怪」は、中学校の一年生の時、食後の談話時間に、又しても演壇に立ってお話をしたからである。僕の中学校は名古屋の熱田中学で、その第一回卒業生なのだが、一年の時の受持ちの先生は、今の貴族院議員の野村子爵、その野村先生と一緒に弁当をたべたあとで、先生がひどく話好きだったものだから、生徒はかわるがわる講壇に立ってお話をしたものである。  押川春浪は必ずしも冒険武侠のみの作家ではなかった。「銀山王」というのは涙香の探偵小説に類する作風であったし、「ホシナ大探偵」はドイルのシャーロック・ホームズの飜案であった。それからもう一つ、どうにも忘れられない小説がある。これは多分小学上級生の時読んだのだと思うが、読んでから二月も三月も、その甘い夢の世界が、心臓にまといついていて離れなかった。恐らく飜訳ものらしく、暗い洞窟の中で、|髑《どく》|髏《ろ》を抱いて、どこかの女王様との、ひどく浪漫的な恋愛の幻影を見ている少年の物語だったと記憶するが、そのフェミニズム、恋愛の神秘というようなものが、僕をすっかり夢中にさせてしまった。表題は「立身|膝《ひざ》|栗《くり》|毛《げ》」であったかと思う。やはりその頃、しかし、もう中学生にはなっていたようだが、幸田露伴の「対髑髏」を読んで、同じような深い感銘を受け、この文学的価値においては全く違っている二つの物語が、僕の記憶の中では、同じ|抽《ひき》|斗《だし》に、長い間ロマンティシズムの夢となって、しまわれていたのである。  しかし、僕が初めてシャーロック・ホームズに対面したのは、春浪訳の「ホシナ大探偵」ではない。そのずっと前に、雑誌「太陽」でドイルの「金の鼻眼鏡」を読んでいる。無論それも小学生時代だと思うが、したがって僕が「太陽」の読者だったのではない。二階へ上って行くと父親の本棚があって、その隅のところに、博文館の「日露戦争実記」という雑誌が、うずたかく積まれ、それと並んで、父の愛読していた「太陽」が積み重ねてあった。  僕は一人その部屋へ上って行って、見てはならないものを見る気持で、むつかしい論文の印刷してある「太陽」をくりひろげる事があったが、ある時その中にドイルの「金の鼻眼鏡」の飜訳を発見した。無論ドイルがどういう人であるかも知らないし、ポオの系統を引く短篇探偵小説など全く知らなかったのだが、ともかくも通読して、何とも云えぬ変てこな気持になった。  少年時代の僕を、何が活字へ引きつけていたかというと、それは活字のみの持つ非現実性であった。活字が描き出してくれる、日常の世界とは全く違った、何かしら遥かな、異国的な、夢幻の国への深い憧れであった。  その頃は、活字を見る度に別の世界を発見した。何という驚きであったろう。「太陽」は少し難し過ぎたし、初めて接したドイルを直ちに理解した訳ではなかったが、たしかにそれは子供心をビックリさせるものであった。又一つの全く新らしい異国の小都会が、そこにあった。  同じ父の書斎で、通俗天文学の本を発見して、太陽系そのものが、宇宙の一小部分を占める|塵芥《ちりあくた》に過ぎないことを知り、「光年」というものの恐ろしさに震え上り、あんなにも高く見えている雲というものの、余りの近さに驚き、一生僕の心を曇らした、あの青い影が心臓の上に覆いかかって来たのもその頃であった。  又同じ頃に読んだ、ライダー・ハッガード原作、菊池幽芳訳の「二人女王」を忘れることは出来ない。父は別に小説好きではなかったのだが、本棚の隅にこの本が一冊混っていた。子供心にあの名文を忘れかねて、幾度夢に見たことであろう。思い出して見ると、天文学というような大きなショックは別として、小説では、僕の小学上級生から中学初年級にかけて、今に忘れぬ感銘を受けた本は、前記押川春浪の「立身膝栗毛」(?)と、このハッガードの「二人女王」と、それから少し後に偶然ぶっつかったコナン・ドイルの「プリガディア・ジェラール」の誰かの訳本であった。(このナポレオン戦争奇談には、古くから熊本謙一郎訳「間一髪」佐藤紅緑訳「老将物語」藤野鉦斎訳「老雄実歴談」などの訳本が出ていたが、僕の読んだのは藤野氏の訳であったかと思う)「金の鼻眼鏡」は読んでいたくせに、僕はまだ短篇探偵小説には縁がなかったのである。その頃文壇では、田山花袋の擡頭期で、「文芸倶楽部」は家で取っていたので、「|蒲《ふ》|団《とん》」その他読まぬではなかったのだし、又涙香物にはずっと親しんでいて、「|噫《ああ》無情」「巌窟王」「幽霊塔」などは膏汗を流して耽読もしたのだが、なぜか今考えて見ると、そういう大きなものの向う側に、前記三つの小説が、不思議にクッキリと影を残しているのである。  僕の活字への愛情は段々烈しいものになって行った。異国の夢を運んで来る活字の船の懐しさに、僕は活字そのものを自から所有し、それに、他人の夢ではなくて、我が夢を托したい気持に襲われ始めた。  もっとも、そういう少年の御多分に漏れず、まず最初は|蒟蒻版《こんにゃくばん》、それから|謄《とう》|写《しゃ》|版《ばん》で、色々な少年雑誌風のものを印刷し、小学校前の文具店に並べてもらって、何銭かの定価をつけて発売したことさえあるのだが、謄写版では、どんなに精巧な色刷りなどが出来ても、どうも満足が出来なかった。本当の活字でなくては夢の国への懸け橋にはならないような気がした。  僕はやがて、父から少し沢山お小遣を貰って、とうとう活字を買い始めた。気の合った学校友達、つまり僕の出版社の少年社員と一緒に、遠い道を駈け足で、その頃名古屋市内には多分一軒しかなかった活字販売所へ、ワクワクと胸を躍らせながら、何度通ったことであろう。  四号活字が何千本。まだインキに汚れていないあの美しい銀色の活字の魅力がどれほどであったことか。僕はその一つ一つを鉛の兵隊さんを弄ぶように弄んだ。そして幾つかの手製活字ケースの中へ、順序よく分類した。  この小さい鉛の煉瓦の行列の中に、夢の国への飛行の術が秘められていた。この小さい銀色の|拍子《ひょうし》|木《ぎ》が、幻影の国への鍵であった。  それから手製の手圧し印刷器、ローラー、廉物の新聞印刷インキ、植字函、インテル、|罫《けい》|線《せん》、ピンセット。僕はお伽噺の作者であり、編輯者であり、文撰工であり、植字工であり、印刷工であり、製本屋であった。  別棟で別の格子戸のついた四畳半の書斎が、僕の編輯所印刷所であった。そこへ友達の誰彼が集って、編輯会議を開き、たちまち職工となって、インキに汚れながら印刷をした。それらの同人の中には、今の東北帝大教授中川善之助博士なども混っていたのである。ついでながら、中川君は僕よりも少し年少の秀才で美少年でハーモニカの名手で、彼が子供達の遊び場になっていた僕の家の前の露地で、|颯《さっ》|爽《そう》としてハーモニカを独奏していた面影は、今に忘れることが出来ない。  銀色の活字の上を、一人の少年職工の手によって、インキの色も艶やかなローラーが回転する、別の一人の少年職工が、印刷紙をその上にソッとのせる、すると僕が印刷器のハンドルを握って、紙の上からグッと圧えつけるのである。そして、活字に密着した紙をスーッと剥がして、出来具合を見る時の楽しさ。印刷をすれば紙に文字が現われるのは当り前のことながら、何かそれが不思議な奇蹟のように思われて、自分の書いた文章が俄かに光彩を放ち、もったいない程の名文に見えるのであった。  このようにして、僕は直接活字そのものと縁結びをした。一生涯活字と離れられない密約を取交わした。そして、それからのちの今日までも、活字の深情が、いかに僕につき纏ったことであろう。  名古屋の中学を卒業した年に、父の諸機械輸入商が破産して、僕は八高の入学試験が受けられなくなった。一度は父に連れられて、父の再挙の朝鮮の開墾事業に同行したが、やっぱり学校が懐しくて、というようなわけで、ひどく柄にない話だが「武侠世界」流の政治家的野心に燃えていて、政治の勉強をするために、そして又「武侠世界」流の苦学力行をするために、単身内地に戻って、上京し、伝手を求めて、湯島天神前のある小活版所の小僧をしながら、早稲田大学へ通い始めた。無論政治家志願である。  ここで僕は再度活字に当面した。昼間学校へやってもらうのだから、夜は十二時一時まで夜なべをしなければならなかった。素人に文撰や植字は無論手に合わないので、多くは印刷係りであった。顔中真黒になって、セッセと「手フード」機を引っぱったり、ローラーでインキつけをやったりした。その家には、活字ケースの中に、ウジャウジャ南京虫が巣喰っていて、身体中がおできのように腫れ上ったし、奥さんが居ないものだから、僕ともう一人の住込職工とが交替の炊事係で、米と麦と半々の御飯を炊かなければならなかったし、そして、その黒い御飯と黄色い沢庵ばかりのおかずを、自分で弁当箱につめて、学校へ通わなければならなかったけれど、ただ活字の魅力が、僕をしばらくの間その家に我慢させた。  僕はそこの主人を説いて、雑誌を出させる野心を持っていた。印刷はお手のものだし、余りはやる店でもなかったから、余暇を利用して雑誌を作ることはたやすかった。僕は真剣になってそれを説いたのだが、主人は相談に乗ってくれなかった。僕が印刷所を出て転業する気になったのは、多分その時からであったと思う。  印刷所を出てからは、三人の苦学書生と一緒に、春日町辺のある下駄屋の二階の四畳半を住居として、自炊生活を始めたが、僕は雑誌発行のことをあきらめなかった。虫のよいことには、子供相手の娯楽雑誌を出して、お金儲けをして、それを学費に当てようと考えた。ある知人に少しばかり準備金を寄附してもらって、宣伝のパンフレットを|拵《こしら》えたり、少し絵が描けたものだから、自分で表紙を書いて製版したりした。内容の小説も挿絵も、無論僕一人で書くつもりだった。しかし、第一号の半ばまで仕事が進んだ時、お金が足らなくなり、もう出資してくれる人もなかったものだから、つまりは何もしなかったのと同じことであったけれど。  それから一年程もすると、僕は雑誌編輯者の内職にありつくことが出来た。今の民政党の川崎克氏がまだ代議士ではなく、憲政会の院外団の幹事などしていた頃、地方自治の雑誌を始めて、僕はある知人の紹介で、その編輯部に雇われたのであった。又しても活字であった。そして、その活字の匂が僕を喜ばせた。  僕の活字への情熱が、たちまち川崎氏の気に入ってしまって、編輯から、大組みから、表紙絵までも僕が書くことになった。印刷所へ通って、工場の職長と仲よしになって、機械の音のやかましい中で、校正したり、組版の体裁を指図したりするのが、ひどく楽しかった。  その雑誌は三号か、四号かで、収支償わず廃刊になったが、これによって川崎氏を知り、それからのちも、色々とお世話になる機縁が生じたのであった。編輯部には、国民新聞にいた長谷川光太郎君が、僕の先輩として机を並べていたし、のちに大隈重信侯暗殺を企てて、世間を騒がせた下村馬太郎なども編輯部の一員であった。  先にも記した通り、僕は政治家を志願して学校へ入ったのだし、政治的な雑誌の編輯を手伝ったりしていたけれど、大学の予科を終る頃には(当時早稲田大学には、今の高等学院に当る二年制の予科があった)もう政治への関心が少くなっていた。それというのが、丁度その頃、僕は初めて衆議院を傍聴したのだが、運悪く議員諸君の|擲《なぐ》り合いか何かあった日で、まるで子供の喧嘩みたいなその光景を眺めて、僕は浅はかにも政治というものが|阿《あ》|呆《ほ》らしくなったのであった。そこには論理も何もありはしなかった。ただ感情と暴力があるばかりであった。しかし、そんなことで政治そのものを軽蔑するなんて、今考えて見ればこちらの方が阿呆らしいのであるが、つまり、僕は素質として政治家でなかったのに違いない。  それと、一方では、早稲田の政治学科というのは、実は政治経済学科で、同じクラスにいながら、それぞれ好む所に従って科目を選択することが出来る仕掛けであったが、僕はいつとなく、その経済学の方へ引きつけられていた。経済学も殊に経済原論の慾望論だとか価値論だとか、人間そのものの研究が僕にはひどく面白かった。社会学、社会心理学なども、経済学と結びついて僕をそそのかした。そして、結局僕は、現実の生活には何の足しにもならぬ原論的な学問だけを勉強して学校を卒業したのであった。クラスメートには、今早稲田の教授である中野登美夫君や経済学の出井盛之君などがいた。東京朝日の永川俊美君も同級だった。  学校を出ると、川崎克氏のお世話で大阪の貿易商に勤めたが、一年程でそこをやめ、三重県鳥羽港の鈴木商店造船所の書記となった。ここでは僕は主として故桝本卯平氏(国際労働会議の第一回労働者代表に選ばれた人)のお世話になった。そして又、活字との縁を結んだのであった。  僕は桝本氏の命令で、二三千人もいる職工によませる雑誌の編輯をすることになった。書記の仕事は何もしないで、雑誌のことばかりやっていた。印刷所は鳥羽から汽車で一時間程の津市にある伊勢新聞社だったが、僕は会計から旅費を引出しては、泊りがけで伊勢新聞社へ出かけることを楽しんだ。  新聞社というものの空気も好きであった。そこの印刷所で、輪転機の音を聞きながら、原稿を書いたり、校正したりするのも楽しかった。当時の同僚で今ジャーナリズムの世界にいるのは、「読物雑誌」主幹の本位田準一君である。当時彼はまだ少年であったが、ボーッとしていて、大胆不敵で、その|癖《くせ》如才がなくて、商才があって、その上なかなか好学的で、末恐ろしい少年であった。  僕が文学というものを、やや理解し始めたのもこの頃であった。学校にいる間にも、西洋の暗号の研究をしたり、ポオやドイルの探偵小説は愛読していたが、そして又、泉鏡花や広津柳浪の小説には少年時代から心酔していたが、当時の文壇の小説にはほとんど無縁であった。それが、谷崎潤一郎の作品に初めて接して感嘆したのが、鳥羽へ行く少し前、ドストエフスキイの「罪と罰」「カラマゾフの兄弟」を読んで、この世が一変したように感じたのが、鳥羽在勤中であった。二十三四歳の頃である。  鳥羽にいたのが一年程、僕が会社を止すと、雑誌も間もなくやめになってしまったが、それから上京して、二人の弟と一緒に、本郷の団子坂で「三人書房」という古本屋を開業した。しかしいつの間にか営業の方はお留守にして、石川三四郎氏の息子さんなどと一緒に、当時流行の歌劇の田谷力三の後援会を始めたり、又しても活字懐しさに、際物の歌劇雑誌を計画したりして、結局家賃も払えないことになってしまった。そして、仕方なく内職を始めたのが、北沢楽天からその発行権を譲り受けて、下田という人が経営していた「東京パック」の編輯であったが、読物は全部僕一人で書いてしまうし、絵の方まで手出しをして、素人臭い時事漫画なんかを署名入りで発表したものだから、漫画家同人の憤懣を買い、二号程、勝手気儘な編輯をしたきりで、体よく免職させられてしまった。故小川治平、岡本一平、下川凹天、前川千帆の諸氏は、パック記者として度々訪問したものであった。故吉岡鳥平君とも仲よしであった。  古本屋開業一年程で、家を畳んで大阪に引越しをすることになった。そして、就職したのが「大阪時事新報」の編輯記者であった。岡戸武平君とはそこの同僚、貴司山治君も当時同社にいたのだが、僕の方は入社すると三月位でやめてしまったので、顔も知らなかった。 「時事新報」をやめたのは、東京の「工人倶楽部」へ呼ばれたからであった。「工人倶楽部」は今も一つの労働団体として存在しているのだと思うが、当時は若い工学士達によって組織された労資協調的な社会団体であった。甲賀三郎の春田能為君もその倶楽部の幹事の一人で、お互に探偵小説好きなどとは夢にも知らず、顔を合せていたのであった。  そこで僕の仕事は、名目は書記長というのだが、僕の楽しみは「工人」という雑誌を編輯することであった。又しても活字である。学校を出たのが二十三歳、それから二十九歳の夏探偵小説の処女作「二銭銅貨」を書くまでに、在学中の自治雑誌は別としても、造船所の雑誌、「東京パック」「大阪時事新報」「工人」と、ひどく現実的な勤人生活を転々しながらも、不思議に活字との縁が絶えないのであった。  そして、僕はとうとう、小説家となることによって、活字そのものと結婚してしまったのであるが、しかし振返って見ると、少年時代の純粋な情熱に比べて、僕は何という低俗なジャーナリストに成下ってしまっていたことであろう。半分は生活のためであったからという弁解は許されない。それは恐らく、|貧窮《ひんきゅう》というものが、僕に|碌《ろく》でもない商才を与え、浮世の妥協を教え込んだからであろう。そういうものが、作家となってからの僕にも、純粋な気持を持ち続けさせなかった。イヤ、作家としての出発そのものが、今の大衆小説家の多くのものがそうであったように、既にして純粋ではなかったのである。  誰の心にも二人の人間が住んでいるように、僕の心にもハッキリと二人の別人が住んでいる。その一人はいつまでも少年で、いつまでも純粋で、ただ遥かなる夢をのみ追っている冥想家で、そして、夢幻の国への美しい懸け橋として活字の非現実性を恋するものは彼である。もう一人は世渡りというものを心得て、商才があって、如才がなくて、功利の故に自から低くする人間界の弱者で、そして、活字の非現実性を傷けそれを生活に結びつけようとするものは彼である。 [#地付き](「現代」昭和十一年十月号附録)     サイモンズ、カーペンター、ジード  アンドレ・ジードはスタンダール全集の「アルマンス」の序文の中に、この小説が読者に理解されないのは、読者が一つの秘密を察し得ないからである。その秘密というのは「アルマンス」の主人公オクターヴが不能者だということで、作者はそれを全く読者から隠しているけれど、一度そこへ気がつけば、この小説の全体が生き生きと浮き上がって来るに違いないという意味の事を書いている。  私はこれと似たような事が、ジード自身の諸作についても云えるのではないかと思う。ジードの場合の秘密というのは、作品の裏を流れている彼の同性愛心理なのだが、ことに「贋金つくり」などは、作者の同性愛心理を知らずしては、ほとんど理解できないのだとさえ考える。  近年のフランス文壇では、プルースト、ジード、フェルナンデスなどが、最も明瞭に同性愛心理の所有者で、その小説、評論に直接間接この心理が現われているが、これは何も近年のフランスに限ったことではなく、古代ギリシャからルネサンスを通じて近代に至るまで、この心理を知らずしては完全に理解することのできない文学美術の大作家はほとんど数えきれぬほどである。ごく近いところで云えば、ホイットマン、ウォーター・ペイター、J・A・サイモンズ、リチャード・バートン、エドワード・カーペンター、オスカー・ワイルドなどが最もいちじるしい人々で、この一連の人々には、直接間接精神上の交流があり、さらにワイルドはフランスのジードに直接ある種の影響を与えている。これらの人々の内その情熱の最も烈しかった作家はJ・A・サイモンズとエドワード・カーペンターとアンドレ・ジードの三人で、三人はそれぞれ同性愛の弁護——というよりはむしろ讃美の、真面目な著述を出版している。同性愛|禁《きん》|遏《あつ》の|甚《はなはだ》しいキリスト教国で、こういう出版を企てることは、われわれにはちょっと想像のできない情熱と勇気を要することであるが、それにもかかわらず、これらの人々は、そういう著述をしないではいられぬ気持があった。一般的無理解ゆえにこそ、これらの著述が思い立たれたのであるが、しかし著述者たちはその一般的無理解を甚しく顧慮しなければならなかった。そこで三人三様の出版形式が取られているのだが、それを詳しく観察すると、三人の性格なり、文学者としての態度なりが、こういうところにもハッキリ浮き上がっていて興味が深いのである。  最も大胆なのはカーペンターであった。彼の社会改革の思想には同性愛精神が有機的に結びついていたのだが、その社会的、性的急進思想は、出発点からしてイギリス風の常識と激しく衝突しなければならなかった。その社会的弾圧がどんなに激しいものであったかは、彼の「わが日わが夢」に詳述されているが、そういう試練を経たカーペンターには、後年、正面から同性愛を弁護した三つの著述を公刊するのも、さして難事ではなかった。彼は日本流にかぞえて五十八歳の時(一九〇二年)"Anthology of Friendship" を、六十五歳の時 "The Intermediate Sex" を、七十二歳の時 "Types among Primitive Folk"(この中に日本の武士道的同性愛を紹介した一章がある)を公然と出版し、多くの読者を得て、それぞれ数版を重ねている。  アンドレ・ジードは、イギリスに比べてこの種の潔癖の寛やかなフランスにおいてですら、カーペンターほど虚心に自説を発表することができなかった。彼の同性愛弁護の著述は "Corydon" であるが、ジード四十三歳の年(一九一一年)"C. R. D. N." という表現で初めて印刷に付した時は、匿名で僅か十二部の私家版であった。十年後の一九二〇年に増訂公刊したが、その時もまだ匿名のままで、一九二四年の版にやっと著者名を明らかにした。これは彼の「一粒の麦もし死なずば」が最初匿名で印刷されたのと同じ心持からであろう。  J・A・サイモンズは、時代がやや古く、イギリスの社会的批判も厳しく、検閲制度も厳重であったためであろうが、三人の文学者の内では最も神経質で、極度に用心深かった。そういう苦労をしてまで、この題目について書かないでいられなかったところに、彼の情熱の激しさがあった。同性愛心理が彼の生涯の仕事につきまとっていたことは、ジード以上で、ギリシャ詩人の研究といい、イタリア・ルネサンスの|厖《ぼう》|大《だい》な著述といい、ベンヴェヌト・チェリニ自伝の英訳といい、ミケランジェロを初めクリストファ・マーロー、フィリップ・シドニーなどの研究といい、あらゆる述作に同性愛心理の底流を見るのである。彼の第一の同性愛弁護の著述は "A Problem in Greek Ethics" というので、一八八三年四十四歳の時、私家版として印刷され、ごく限られた知友(その中に「千一夜」の英訳者リチャード・バートンもあった)に贈られたが、印刷部数は、僅かに十冊であった。第二の著述は "A Problem in Modern Ethics" と云い、一八九一年五十部の限定版で、両者ともむろん無署名であった。サイモンズはこの両著を生涯増刷しようとはしなかったが、彼の晩年から死後にかけて、英本国やオランダで百部ほどずつの無断秘密出版が行われ、それらの覆刻本は現在でもイギリスの古本屋を探せば、一ポンド半から二ポンドの値段で手に入れることができる。  この三人の文学者の同性愛書は、決して孤立のものでなくて、時代を隔ててそれぞれあるつながりを持っている点でも興味が深い。ジードの「コリドン」の論旨は一口に云えば「余剰性欲説」なのだが、これはカーペンターの「性的中間者」の論旨とほとんど同じである。ジードは「ギリシャ道徳の一問題」を「コリドン」に引用しているくらいだから、サイモンズをむろん読んでいたのだが、彼がカーペンターを読んでいたことは、少なくとも「コリドン」には現われていない。両者の論旨の一致は偶然なのかもしれない。一方カーペンターの「性的中間者」にはサイモンズの両著からのおびただしい引用がある。つまりこの三人は文学者には珍らしい同性愛論の著述をしているばかりでなく、それぞれ思想的に繋がり合ってもいるのである。 [#地付き](『世界文芸大辞典』付録雑誌昭和十一年十二月号)     うつし絵  三月十日の夜、挿絵画家協会の主催で神田|明神《みょうじん》の貸席に、明治時代の「うつし絵」を偲ぶ会があった。演者は|結《ゆう》|城《き》孫三郎一座である。 「うつし絵」は僕の子供の頃の名古屋では「影絵」と呼んで、広小路通りの空地などに小屋がけをして、よく興行していたものだが、映写幕の真黒な中へ、赤青黄と、ちょうどネオン・サインのようなドキドキした原色の、おいしそうな色彩を施した幻燈絵の人物が、ヒョコヒョコと現われて、カタカタと首や手足を動かし、斬りつけられると、カタンと倒れて傷口から真赤な血を吹き出したり、映写幕一杯の生首が現われて、口から血をたらしながらゲラゲラと笑ったりする、あの活動幻燈の不思議な魅力は、その当時のパノラマ館、博覧会の|旅順《りょじゅん》海戦館、|八《や》|幡《わた》の|藪《やぶ》|知《し》らずの化物屋敷、黄花園の菊人形、チャリネの曲馬団などと共に、僕の幼い頃の幻想と怪奇への甘い郷愁になっている。  僕にとってほとんど三十年ぶりに、その「うつし絵」が見られるというので、例によって少し気分の悪い日であったけれど、ちょうど来合せていた友人を誘って、その貸席へ出かけて行った。ひどく不人気な会であった。よく名前を知っている十数名の挿絵画家諸君と、小説家では浜本浩、吉屋信子両氏、僕と同行した岡戸武平君位のもの、全体で二十人程の寒々とした会であった。  しかし「うつし絵」そのものは大変面白かった。結城孫三郎氏のお父さん(あるいは祖父であったか)が、絵心があって、明治の初期に製作した|種《たね》|板《ばん》の内、小幡小平次の一幕と、皿屋敷の一幕だけが、大していたみもせず、生々しい彩りのまま保存されていて、その二つの場面を、孫三郎一座総がかりで演じて見せてくれた。  幕のうしろの楽屋には、古風な木製の幻燈器械が八つばかりズウッと並んでいて、その一つ一つの画面が|書《かき》|割《わ》りにもなり小道具にもなり、各登場人物にもなるので、例えば火の番の人物が登場する場合には、|拍子木《ひょうしぎ》をカチンカチンと打ち鳴らす仕草は、種板の仕掛けで一方の腕を活動させるのだが、歩行は幻燈器械そのものを動かすことによって現わすという調子である。  小平次が斬りつけられて、段々血みどろになり、しまいには|紅生薑《べにしょうが》のようにグッタリと動かなくなる無残絵の場面、水中に投入れられたその|死《し》|骸《がい》が、太鼓のどろどろにつれて、|朦《もう》|朧《ろう》と水面に浮んで来る怪談の場面、それから皿屋敷では、道具だての井戸の中から、お菊の幽霊が徐々に現われて来る仕掛け、井戸側を出離れた幽霊が空中に漂い、段々遠方に行くに従って小さくなり、しまいには|一《いっ》|寸《すん》位の竜の落し児みたいな可愛らしい姿になる焦点移動の技巧、その小さな幽霊が、書割りの二階家の廊下を、黒い影になってスーッと目的の部屋へ辿るところ、遂に目的の部屋に達して、|障子《しょうじ》の障間から忍び込み、相手の男を喰い殺すところ、するとキャッという悲鳴と共に、二階家の小さな障子の一枚が倒れて、その部屋の障子一面に真赤な血しぶきが流れるところ。江戸末期から明治初年にかけての無残絵には、残虐のミニアチュア、血みどろの恐怖の微小化とでもいうようなややユーモラスな非現実性が、一つの迫力となっていたように思うのだが、このお菊の亡霊人を喰う場面も、実に可愛らしい残虐ミニアチュアの面白さであった。  演技が終って、孫三郎君のうつし絵由来話を聞いたが、それによると、同君のお父さん(あるいは祖父)という人は、小舟に幕を張り幻燈器械を備えつけて、両国の涼み舟の間を漕ぎ廻り、客の求めに応じて、様々の外題のうつし絵を演じて見せ、隅田川名物として大いに流行したということである。  この人は、本職は浮世絵師なのだからうつし絵の種板もなかなかよく出来ていて、|国《くに》|貞《さだ》えがくところの芝居絵という趣きがあり、僕の子供の時見たものなどよりは、余程精巧な出来であった。  又その人は余程からくり好きの性格であったと見え、うつし絵を幕や壁に写すのでは面白くない、この絵姿を何もない空中に現わして見たいものだと考え、妙な仕掛けを発明したということであった。それは、長い|竹《たけ》|竿《ざお》の|節《ふし》を抜き、|錐《きり》で一面に穴をあけ、その竹筒の一方を大きな湯沸しにつなぎ、グラグラと湯を沸かして、竹筒の無数の穴から蒸気を吹き出させ、その白い蒸気の幕へ、うつし絵を写すという、はなはだ奇抜な趣向であった。この趣向で幽霊などを写すと、|如《い》|何《か》にも朦朧として真に迫り、|喝《かっ》|采《さい》を博したということである。  その頃らしい、おっとりとして稚気のある想像力を、物懐しく面白いことに思った。 [#地付き](「探偵春秋」昭和十二年五月号)     羨ましき情熱——「パヴロフ及其学派」を読む——  パヴロフの名は早くから聞いていたし、条件反射の意味と、犬の|唾《だ》|液《えき》を見るその実験方法は、誰にもすぐ分る簡単な事柄なので、断片的な紹介の記事などから、大体理解していた。そしてその早分りのしすぎる、原理の簡単さが、かえって条件反射学への私の好奇心を妨げていたような気がする。  そういう訳で、このフローロフの本も、もし訳者が未知の人であったら、つい読むことなく過ぎてしまったかも知れないのだが、探偵作家木々高太郎君の縁故から、訳者林|髞《たかし》氏が私にも一本を恵まれたので、ともかく一読して見る気になった。そして、段々読んで行く内に、パヴロフの大著は知らなくても、フローロフという人が要約紹介の名人であることがよく分って来た。訳文の巧みさにもあるのだろうが、情熱に富むなかなかの名文であるし、条件反射学の全分野を、横には行動主義心理学、精神分析学、|形態《ゲシュタルト》心理学などとの|関《かん》|聯《れん》において、縦にはデカルト、ダーウィンなどとのつながりにおいて、巧みに読者の一望のもとに収めしめ、しかも細部に至っては、パヴロフをはじめこの学派の人々の業績を、かなり詳細に、具体的に、素人にもその一々を理解し得る程度に記述されている。入門書というものは、多くの場合、何か漠然とした全景を与えるばかりで、その細部は霞を隔てて見るようなもどかしさを感じさせるものだが、フローロフの著書には、遠景と共に近景が、巧みにモンタージュされていて、そういうもどかしさがほとんどない。入門書としての傑作ではないかと思う。  そんなことを感じながら、読みはじめたらやめられず、私はこの本をほとんど一息に読んでしまったのだが、すると、従来の断片的な知識ではさして好奇心を|刺《し》|戟《げき》されなかった、犬の唾液というものの驚くべき意義が、はっきり分って来た。パヴロフのこの発見は、素人の私などには、魔術のようにさえ思われるのだ。|唯《ゆい》|物《ぶつ》主義者のパヴロフの業績を魔術などと云っては叱られそうだが、私は日頃から、画期的な学問上の発見というものは、門外漢には常に一つの魔術であると考えている。  学問というものが、ただ常識でも分っている事柄を、術語を用い、論理的表現によって、正確な知識体系に組み立てるというだけのものであるとすれば、それはそれとして無論存在の意味を持ってはいるけれど、私などの性格ではほとんど興味が感じられない。ある場合には反感をさえ覚える。素人なら一ことで云える事を、ただ正確に厳密に表現したいばかりに、十ことにも引きのばして、かえって難解なものにすることだけが[#「だけが」に傍点]学問の仕事とすれば、実につまらないと思う。  私が興味を持ち心酔し得るのは、そういうものではなくて、自然科学にしろ、精神科学にしろ、何らかの創造を含む著述に限られているといってもいい。私の自己流の云い方をすれば、科学の進歩とは、芸術的な表現によってのみ|僅《わず》かに示し得るような世界を、その浜の|真《ま》|砂《さご》の一粒ずつを、科学的表現によって征服して行くことだと考えているが、私の心酔し得る学問とは、少くともその浜の真砂の一粒をしっかり|掴《つか》み取っているものを指すのである。  そういう私の自己流の評価を、フローロフのこの本一冊を卒読した限りの知識で、パヴロフの学問にあてはめて見ると、パヴロフはその真砂の中のかなり大きな一粒を掴んでいるように見えるのだ。この学派によって、今日までに為しとげられた業績そのものは、渦中に在る人々にはその一つ一つが宝石のように輝いて見えるにもせよ、門外の私などには、さしたる事もないように思われる。この学派がその独特の手法によって、人類に大きく貢献するか否かは、パヴロフ自身も随所にほのめかしているように、むしろ今後の業績によって定まるのであろう。私がパヴロフの学問にうたれたのは、その業績ではなくて、研究方法のすばらしい発見についてであり、その研究方法によって、前人未踏の高次神経中枢の闇を照射し得るという、驚くべき可能性の見通しについてである。そして、このことだけでも、パヴロフは十二分に偉大であると思うのだ。パヴロフは消化腺の研究という好運な足場から、いまだかつて|何《なん》|人《ぴと》も見出さなかった一粒の大きな真砂を掴んだのである。そして、その真砂を磨き上げ、真の輝きを少しでも出すために、長い生涯を捧げつくしたのである。  条件|刺《し》|戟《げき》によって唾液の分泌が起るという事は、必ずしも生理学を知らなくても、日常の経験によって誰にも分る実に簡単平易な事実である。又、犬の唾液腺を手術によって頬の外に開口せしめるという方法も、結果として示されて見れば、むしろ馬鹿馬鹿しい程平易な事柄である。私はそれに驚くのではない。この簡単平易な手段を、内省の方法以外には未だ何人も探り入ることの出来なかった闇の世界、大脳生理の唯物的研究という極度に深く高く複雑な問題と結びつけ、その可能性を見出したという事実に、パヴロフの創造力の驚異を見るのだ。極端に簡単平易な手段と、極端に複雑難解な研究題目との、この水際立った対照が、すばらしい芸術作品でも見るような興奮を、私に与えるのだ。これはまさに一つの魔術ではないか。  私は、創造的な学問上の著述に接した時には、いつでもそうであったように、パヴロフがこの驚くべき可能性を見出した時の喜びを想像して、|羨《せん》|望《ぼう》に|堪《た》えなかった。唾液腺と大脳生理との見事な結びつけを発見した時の、パヴロフの歓喜と興奮が、まざまざと目に見えるような気がした。  これこそは生涯の情熱を捧げつくしてもなお足らぬ偉大な題目である。かくのごとき学者の生涯は、いかに生甲斐のある、情熱に充ち満ちた生涯であったことであろう。  フローロフの本によって、パヴロフへの興味をかきたてられた私は、早速、林髞氏のもう一つの力業であるパヴロフの大著「条件反射学」(「大脳両半球の働きについての講義」)の訳本を取寄せた。そして、パヴロフ自身の言葉によって、彼の|羨《うらや》ましき情熱に接し得ることを楽しんでいるのである。 [#地付き](「科学知識」昭和十三年八月号)    4     彼 [#ここから3字下げ] 「僕は皆と同じでないんだ、僕は皆と同じでないんだ」十一歳のアンドレ・ジードは母の前に啜り泣きながら絶望的に繰り返した。——「一粒の麦もし死なずば」 [#ここで字下げ終わり]      1  人は生涯のある時期に一度は、その祖先に興味を持つものである。彼にもそういう時期があった。彼は分家の跡取りであったから、先祖の系図を持っていなかったけれど、本家に伝わっているそれを借りて筆写したことがある。  彼は現在の境遇に比べては、案外立派な先祖を持っていた。「豆州伊東之郷、鎌田之住、平井太夫嫡男十郎右衛門、寿百十三歳、|貞享《ていきょう》二年丑年三月七日歿」というものが、わかっている限りの遥かなる祖先であった。伊豆伊東の郷士である。十郎右衛門の娘が伊勢の藤堂高次公に奉仕して次代|高《たか》|睦《むつ》公の実母となった縁により、その弟友益というものが藤堂家に召抱えられ、寛文九年「二十両六人|扶《ぶ》|持《ち》被下置、定府ニ被仰付」とあり、系図ではこの人を平井家の初代と数えている。定府とあるから江戸屋敷に召使われたのであろう。  二代目|陳《のぶ》|救《ひら》というものの代になって、元禄元年御国付となり、後正徳三年に正式に伊勢の津へ移住した。この陳救という人が、わずかの間に恐ろしく出世をしている。天和二年には|御小姓役《おこしょうやく》として二十石五人扶持となり、貞享二年には「新百石ニ被成下」、同十年には「加増百石拝領」、宝永四年には突如として「御増八百石被下置、都合千石ニ被成下」ている。太平の世にこの出世はただ事ではないが、ちょうどこの宝永四年には彼の叔母に当る前記高睦公の実母となった婦人が歿しているから、当代の高睦公がその実母の喪を悲しんで、母の霊を慰める意味でこの破格の加増をしたのではないかと想像される。  それから三代|陳《のぶ》|以《ゆき》、四代|陳《のぶ》|為《ため》、五代|陳《のぶ》|善《よし》、六代|陳《のぶ》|成《なり》、七代|陳《のぶ》|就《より》といずれも千石を被下置れ代々伊勢の津に定住して平凡に|瑕《か》|瑾《きん》なく勤めている。この七代陳就という者が彼の祖父であった。  今の彼にとって立派な祖先であったが、太平の世とはいえ武功による出世ではなくて、いわば初代の姉に当る女の力(おそらくその婦人は美貌であったのに違いない)によってその地位を得たのであるから、彼はこの系図を一読した時、少しく物足りぬ感じを抱かないではいられなかった。  祖父陳就は明治十七年に歿していて、写真嫌いで一枚も姿を残しておかなかったので、彼はその|風《ふう》|貌《ぼう》を知ることができなかったが、系図の記述によると、代々の内ではなかなかの手腕家であったらしく、鉄砲頭、御側用人、大横目、加判奉行などを歴任し、嘉永三年には江戸増上寺御霊屋御普請の副奉行を勤めたり、文久三年には大和の浪士追討のため出張を命ぜられたり、元治元年には藤堂家領内にある山陵御修復の御用掛頭取を仰付けられ、その功により朝廷より白銀五枚を拝領したりしている。  彼の祖母は京都の東本願寺(あるいは西か)の寺侍本間氏の娘|和《わ》|佐《さ》というもので、祖父陳就の|後《のち》|添《ぞ》いであったが、先妻はすでに歿していたけれど、その人が藩主藤堂公の娘であった関係上、正式の妻として披露はしなかったということである。  その祖母は明治四十四年まで生きていて、彼の十八歳の年まで、ずっと一緒に暮らして来た。彼の幼時、弟が生れて母の乳を離れなければならなくなってから、ほとんど小学校へ入る間際まで、彼は毎晩この|皺《しわ》くちゃの乳房に吸いついて寝たのであった。そして、その皺くちゃの乳を噛んで傷を|拵《こしら》えたことがたびたびあったということである。つまり彼は極度に甘やかされたお婆さん子であった。  彼はその祖母から、祖父の生活が千石の|陪《ばい》|臣《しん》という石高で想像する以上に派手やかなものであったことを、いろいろと聞かされた。陪臣ではあっても、多くの家来を召抱えていたし、邸内には沢山の女が召使われていて、その女達の間に党派が出来て、陰険な勢力争いの絶え間がなかったこと、元旦であったか、祭礼の時であったか、毎年その日には、祖父は|熨《の》|斗《し》|目《め》の着物の両の|袂《たもと》に、どっさり小粒を入れて、それを座敷に|撒《ま》いて召使いや出入りのものに拾わせる慣いであったこと、殿様名代の道中行列の絵のように立派であったこと、それから、御一新の少し前、「お|祓《はら》いさん」という奇妙な現象が起こって、いつという事なく、裕福な家々へ、大神宮のお札が、空からヒラヒラと降って来る(むろん人為的のものであったに違いない。この奇現象については誰かの考証を読んだ記憶があるが、今その詳細を思い出せない)、するとその家では無礼講の大盤振舞いをしなければならないのだが、祖父の邸にもその「お祓いさん」が降ったことがあって、その時の乱痴気騒ぎがどんなに物凄かったか。群がる弥次馬が邸内に乱れ入って、用意の酒を飲みご馳走を平げ、畳もなにも泥だらけにして、「お〇〇に紙貼れ、破れたら又貼れ」と合唱しながら乱舞すると、邸内の男達女達もそれに引き入れられて、気違いのように踊り狂い、その翌日からは|襖《ふすま》障子の張り替え、畳替え、調度の掃除に忙殺されたという話、そのほか様々の思い出話の中に、彼は次の一件を最も興味深く記憶していた。  年代がはっきりしないけれど、祖母が嫁入ったのは文久の末か、元治頃であったから、それより後の出来事らしく思われるのだが、藤堂の城下町津の近在一身田にある真宗高田派の本山専修寺に、「一身田騒動」といって当時世間を騒がした相続争い(?)の毒殺事件があって、祖父はその事件後のお目附役として藤堂家から専修寺に派遣され、祖父自身も危うく毒殺されかかったような出来事があった。そのお家騒動の一条が江戸で芝居に仕組まれ、祖父に当る人物も登場するというので、祖母はその芝居見物を勧められたけれど、見物に行けば役者が客席へ|挨《あい》|拶《さつ》に来たりしてはれがましいということを聞かされ、恥ずかしがってついに見物しなかったということである。  彼はその芝居が何という外題であったか、何年に何座で演じられたのか、俳優は誰であったか、歌舞伎年代記をくって見ようと思いながら、ついまだ果さないでいる。  祖母の語るところによれば、祖父は人並よりは小柄な人物であったが、なかなかの切れものであったらしく、|几帳面《きちょうめん》な一方派手好きで、大酒もしたけれども決して乱れることはなかったという。明治四年隠居を願い出て許されてからは、入道して閑水と号し写経などに余生を送った。その写経の一部が今も彼の家に残っているが、巧みではないが性格をそのままに実に几帳面な書体である。筆まめな人で、隠居してからは、|小《こ》|抽《ひき》|斗《だし》の沢山ついた桐の小机を常に身近に置いて、いろいろの書きものをしていたということであるが、随筆とか日記とかいう種類のものは、むろん書いたであろうが、その後彼の一家があまりにしばしば住居を転々したために、|散《さん》|佚《いつ》して今は何も残っていない。しかし、その桐の小机だけは長い後まで、真黒になって残っていて、彼が名古屋に住んでいた少年時代には、彼の持ち物となっていた。  祖母は祖父に比べて字が巧みであった、寺子屋仕込みの筆太なお家流であったが、男のように力強く巧みであった。彼が小学生の頃、家でお習字をしていると、父が筆を取って直してくれることがあったが、祖母は側でそれを見ていて、父の字がなっていないと云って笑い、その父の字をまた彼女が直して見せるほどであった。  祖母の書いたものでは、今でも手製の百人一首が残っている。歌は祖母のお家流、絵は父の手すさび、器用な父が彩色を施し、裏打ちをして、なかなか手際よく出来ている。今では表面がけば立って、ひどく汚れているが、活字の|歌《か》|留《る》|多《た》なんかよりも、どんなにおもむきがあることか。      2  彼は時々、彼がこの世に生れて最初の記憶が何であったかを思い出そうと|力《つと》めることがある。しかし、それは正確にはわからないことかもしれない。真実見聞した直接の記憶でなくても、物心つくようになってから、祖母とか母とかから彼の幼時の思い出話を聞かされ、その言葉から生じた幻影が、直接の見聞の記憶ででもあるように信じられている場合が存外多いのかもしれないからである。  そういうふうに考え出すと、どれが本当の記憶だか、何にもわからなくなってしまうのだが、彼にはあれがそうではなかったかと思われる、絵のように残っている一つの場面があった。西洋の小説家のオートバイオグラフィなどを見ると、非常に早い記憶が|詳《くわ》しく書いてあるものもあるが、それらが作者達の今云ったような思い違いでないとすれば、彼が性欲や文学心や世間の事にすべて|晩稲《お く て》であったように、彼の最初の記憶もまた人並よりはおくれていたのかもしれない。  あとから考え合わせると、それは彼の二歳の時の記憶であった。最初に大きな|石《いし》|燈《どう》|籠《ろう》が現れる。その燈籠の段々になった四角な台石の下から二段目に、きめが細かくて非常にもろい|砥《との》|粉《こ》のような、しかし少し赤茶けた土の塊が幾つか載っている。小さい手が、その土の塊を小石で粉々にくだいている。それはあまり綺麗ではない田舎者らしい五、六歳の少女である。少女は二人か三人かいて、お砂糖屋ごっこをしているのだと思う。二歳の彼は一人の色の白い|痩《や》せたお婆さんの背中からおりて、お婆さんに手を引かれて、チョコチョコ歩いて、石燈籠に手をかけて、背のびをして、その砥粉のような土の塊を|覗《のぞ》いている。多分掴みたいのであろうと思う。しかしまだ掴んではいない。そういう絵だけが残っている。視覚ばかりで聴覚はないのである。  その景色は三重県亀山町の高台の上にある権現様の社の石燈籠であったことが思い合わされる。彼の両親の家はその社のすぐ側にある|藁《わら》|葺《ぶき》屋根の家で、祖母は彼をおぶって、毎日のようにその権現様へ遊ばせに行ったのだということである。権現様の境内の一方が深い崖になっていて、下は見渡す限りの|田《たん》|圃《ぼ》、その田圃の中を遥かにおもちゃのような汽車が走って行く。ピーッピと可愛らしい汽笛を鳴らして走って行く。彼はその汽車を見ることが、何よりも好きであったということだ。  しかし、彼はその亀山町で生れたのではない。同じ三重県の|名張町《なばりちょう》という、亀山よりはもっと|辺《へん》|鄙《ぴ》な小さい町で生れたのである。  明治十七年彼の祖父が歿してからの祖母はみじめであった。禄に離れた時にはかなりの貯えもあったのであろうけれど、祖父の長男が経済的に全く駄目な性格であったのと、その兄弟の一人にその土地で誰知らぬものもないならず者があって、(この二人とも祖母の腹ではない)それが長男や隠居している祖父から金品を強奪せんばかりにして引出して行くために、次第に貯えを失い、祖母は祖父が生前縁故のものに預けておいたわずかの元金から月々の支給を受けて一人ぼっちで暮らさなければならなかった。  祖母に二人の子供が生れていたが、年下の男子は他家の養子となり、頼るものは年上の男子一人であったのに、その子供は、間もなく母のもとを離れて、当時創立間もなかった大阪の関西大学に遊学することになった。これが彼の父の|繁《しげ》|男《お》である。  繁男は関西大学の法科に入学して、半ば苦学をしながら優秀の成績でそこを卒業したが、すぐ母のもとに帰ろうとはしないで、多分どこかの弁護士事務所に勤めたのであろう。自活の道を立てながら、司法官試験の準備をつづけていた。しかし、この維新後の一家の|零《れい》|落《らく》や、繁男の大阪での生活については、彼にはこれ以上詳しいことは何もわかっていない。  繁男はいつまでも大阪に踏み留まって、司法官になりたい意志であったが、一人ぼっちの母がそれを許さなかった。彼女は長い間わが子と離れている淋しさに|癪《しゃく》というものを覚えた。|頻《ひん》|々《ぴん》として猛烈な|胃《い》|痙《けい》|攣《れん》に悩まされるようになった(ではなぜ母は大阪へ行って息子と同棲しなかったのか。恐らくは母の側には先祖の土地を離れたくない|旧弊《きゅうへい》な気質があったのであろう。息子の方には自由な一人の生活を望む青年のわがままがあったのであろう。しかし、それも本当のことは、今の彼にはもう何もわからなかった)。 「私が一人ぼっちで死んでしまってもよいのなら、帰って来なくってもいい。そうでなければ早く帰っておくれ」  という母からのきびしい手紙に、息子はひとまず司法官への野心を捨てて、仕官の道を講じなければならなかった。そして職業についたのが、旧藤堂家の領地伊賀の国名張町にあった郡役所の書記であった。母の願いはやっと|叶《かな》って、この町に息子と二人の生活を営むこととなった。  名張町に移ると間もなく、津市の親戚のものの勧めで、繁男は今まで全く見も知らなかった同地の一人の娘と見合いをすることになった。娘は同じ藤堂家の家臣であった本堂帆之助の長女「菊」である。見合いは|滞《とどこお》りなくすんで、やがてこの二人が前記の親戚のものの媒介で結婚の式を挙げたのが明治二十六年のことであった。  彼はこの二人が結婚当時お互いに抱いた感情を聞かされたことはなかった。おそらくはごく平凡な仲人結婚の新夫新婦が味わう感情を想像すれば大過ないのであろう。見合いの前に、一応お互いの写真を取り交したということで、その写真が今も彼の家のアルバムに色あせて残っているが、新婦の菊とその母とは、写真の修正ということを知らなかったものだから、繁男の顔にその修正のあとが細かい白点になって見えるのを、|菊石《あ ば た》ではないかと心配して、仲人に確かめたという話があるのでも察せられるようなそういう結婚であった。  結婚の翌年、新夫婦の間に男児が産まれた。それが彼である。父は二十八歳、母は十八歳であった。      3  彼の父は学校を出ると地方の小吏を数年勤めているうちに、学校の先輩の勧めによって、東海紡績連合会の書記に転じ、同連合会の名古屋支部書記長というようなものから、徐々に名古屋実業界に接近し、名古屋商業会議所の|嘱託《しょくたく》、同地資産家の支配人、それから、輸入諸機械の取次販売、外国保険代理店、石炭販売などの兼業の店舗を開くようになり、同時に一方自宅では、その頃はまだ珍しかった特許弁理士の業務を始め、両方の店員事務員をあわせて十数人、正月などには、石炭部の仲仕が数十人、店の紋章入りの|法《はっ》|被《ぴ》を揃えて挨拶に来るといった、なかなかの全盛期もあったのだが、やがて、商家生れではない父の性格から来る放漫なやり方と、石炭部の営業上の失敗などから、ついに収拾のできない|破《は》|綻《たん》を生じ、店舗を閉じなければならないことになった。それがちょうど彼の中学校卒業の年であった。  父は本来の司法官志願を長い間捨てかねていた。実業界に転進してからも、法律関係の書物が書架の主座を占めていたし、それより前、明治三十二年には大阪|駸《しん》|々《しん》|堂《どう》から「改正日本商法詳解」という七百五十ページの大著を出版しているほどで、実業界への入り方も、商法実践の角度からであったし、後に特許代理業を兼営したのも、法律的な才能と興味とからであったに違いない。  父は法律家的な意味での論理家であった。生活の一切をそういう論理によって|捌《さば》いて行こうとした。そこに商人としての破綻があったのだと思う。話が非常に早くわかった。|紆《う》|余《よ》曲折が嫌いで、人の話でも半分聞いて、結論をと責め立てるような気短かであった。普通の人が十言で表現する事柄を、父は一言で表現した。要点を掴むことが巧みであった反面に、細目の感情にうといところがあった。  思想としては明治時代|勃《ぼっ》|興《こう》|期《き》ブルジョワジーの進歩的な人々に共通した自由主義者であった。むしろ極端といってもいい自由主義者であった。そこにも個人商人としての破綻があったのではないか。当時の大組織商業の経営は多くこの自由主義によって成功したのであるが、それを直ちに個人経営の小商店に持って来たところに錯誤があったのではないか。父は個人経営などよりは、むしろ大組織商業の使用人として、あるいは相談役として、もっと大成する人ではなかったかと考えられる。  父はなかなかの精力家で、小まめで、その上仕事の捌きが非常に早い方であったから、友人などから人並の五、六倍の仕事をするといわれたほどであったが、一面かなりの遊び手で、酒はひどく好きだったし、官吏時代から商業に失敗するまでの間、遊里とは縁は切れなかった。悪友も少なくはなかった。  そういう父の素質から、彼はどの部分を譲られ、どの部分を譲られなかったか。自由主義はおそらく影響を受けたであろう。物の要点を掴むこと、話の早わかりがすること、論理好きの性格なども、譲り受けているであろう。しかし、精力的なこと、仕事の分量の多かったこと、少しでもじっとしていられないほど小まめであったことなどは、背の高さや飲酒癖と共に、彼は父とは全くの逆であった。父と子とは、それらの点で他人のように似ていなかった。  彼にはその外にも、父からの影響としては、どうしても考えられない幾らかの素質があった。父は詩を解しなかった。いわゆる芸術的なものを、高度のものも低度のものも、ほとんど理解しなかった。父の書架はかなり大きい面積を持っていたが、どうかした拍子に予約申し込みをした大日本文明協会の翻訳叢書のほかには、文学がかった書物は一冊もなかった。そういう書架にハッガード原作菊池幽芳訳の「二人女王」がたった一冊混っていたのは、ほとんど奇蹟といってもよかった。  父はよく芝居を見た。しかし、それは遊里の人達に誘われるか、店のものや家族を楽しませるための観劇であって、芝居そのものを芸として理解したのではなく、むしろ、|緋《ひ》|毛《もう》|氈《せん》の桝の中で酒を呑みながらの、あの華やかな雰囲気を愛したのであった。父は途切れ途切れではあったが、老年に到るまで|謡《うたい》を稽古していた。家族の前で朗らかに謡をうたうような趣味もあった。しかし、それは、主として健康と社交のための道楽であって、音楽を理解したわけではなく、父の耳は半音の差を聞き分けられない程度の耳であった。したがって声であった。幼年時代の素読のお蔭で漢文は少し読めたし、漢詩も読み下すことはできたけれど、自分ではほとんど詩作したこともなく、小説類は全くといってもよいほど読まなかった。女子の読みものとして|軽《けい》|蔑《べつ》していた。  ここに父と子の違いがあった。彼は少年時代から現実の世界よりは、むしろ架空の物語の世界に惹きつけられた。現実を嫌悪して詩に逃れる傾きがあった。芝居でも寄席でも、お|伽噺《とぎばなし》でも大人の小説でも、それこそ全く別な現実世界として、あこがれ|溺《おぼ》れる傾きがあった。音楽も、専門の智識は持つ機会がなかったけれど、音痴ではなかった。  これらのものは、決して父から譲られたのではない。では、どこからか。遠い先祖は別として、彼の理解し得る限りでは、それは母からのものであった。母は高等の教育を受けていなかったから、高い文学はわからなかったけれど、素質としては、芸術肌なところがあった。音楽の耳もあったし、芝居や小説にも|繊《せん》|細《さい》な理解力があった。家庭の主婦としては、気の弱い何の主張もない婦人であったが、彼女の内部には、現実とは違った別の世界があったと感じられる。  母は強い個性はなかったけれど、理解力と同化力とに、ある意味での文学的なものが感じられた。低度のものではあるが、芝居や音楽や小説を、その|真《しん》|髄《ずい》において理解する素質があったし、それと似た意味で、移住した場合などに、その地方の方言を自分のものにすることが早かった(真似は十分できるのだけれど、その口調をややひかえ目にするほどの神経があった)。これは一種の虚栄心でもあったが、他人の感情なり神経なりを、正当に理解する一つの文学心であった。「芸」の心であった。これらのものを、彼は母から受けている。  母の父すなわち彼の母方の祖父には、何かしら「芸」を愛する心が感じられた。その祖父はもと他藩の武士であったが、青年時代勤王の志を立てて、郷国をあとにし、どういう働きをしたのかは母も聞き伝えていないのだが、結局は一種の放浪児となって伊勢に流れつき、その土地の百姓の娘の|入《いり》|婿《むこ》となって、藤堂藩に仕えることとなった。むろん低い身分であった。何か志操の一貫しないもの、優柔なものが感じられる。維新後は別に職業を求めるでもなく、晩年には入婿をした家の田地をほとんど売り尽しているような状態であった。そうして何をしていたかというと、祖父は書画を愛したのである。ことに老年になっては同好の人々を招いて、お茶を啜りながら書画を眺め、骨董を語るのを唯一の楽しみとした。家計のことも、子供のことも(子供は二男二女であった。彼の母はその長女である)祖母に任せきって、|悠《ゆう》|然《ぜん》として趣味に生きていた。勤王の熱情、放浪、そして、老年書画を愛する心、これらの性格に、何かしら彼の同感をそそるものがあった。彼の父母と祖父母を合せて六人のうちでは、この母方の祖父に、やや彼自身に近い血が感じられた。  祖母は百姓の娘のことゆえ、全く祖父の趣味を理解することはできなかったが、なかなかのしっかりもので、不平はこぼしながらも、祖父の道楽と居喰いのために傾いて行く家計を、少しでも喰いとめることに一心不乱であった。近隣や親戚の人々の間では働きものとして通っていた。  母はそういう父母の家に育って、小学校を卒業すると、嫁入り支度の行儀見習いのため、津市(当時祖父の家は津の市街地にあった)とは隣接の一身田の専修寺へ奉公にやられ、父に嫁ぐまでの間を、そこに御殿女中のような生活を送った。同寺の貫主には皇室御縁故の方を頂いていたので、貫主夫人は「お裏さん」と唱え、母はその「お裏さん」づきの小間使いであった。彼は幼時、祖母(父方の)からは千石生活の華やかな昔話、母からはこの御殿生活の思い出話を、こもごも聞かされたものであった。  母はなかなか利かぬ気の少女であったという。それはおそらく祖母譲りの性格であろうが、小娘の時代にも、決して遊び友達に負けてはいず、男の子のようにおてんばであったし、一身田にご奉公してからも、その勝気なところが「お裏さん」の気に入っていたというほどであった。それが父の家に嫁入ってからは、まるで手の裏を返すように、内気なおとなしいお嫁さんになってしまった。これは姑に当る祖母が、母よりも一層勝気であったためかもしれない。又、論理ずくめの法律書生のようにぶっきらぼうな父の態度に、けおされたのかもしれない。母は「嫁入り当座はお父さんが怖くてビクビクしていた」と漏らしているが、嫁入りの年が十七歳の子供であったことなど考え合わせると、そういう性格の変化が来たのも無理はないのかもしれぬ。いずれにもせよ、母は父に対しても、祖母に対しても、少しも自説を主張せぬ、|唯《い》|々《い》|諾《だく》|々《だく》の態度を変えなかった。そして、祖母を見送り、父を失って、今は彼と彼の弟達の母として残った彼女は、やっぱり子供達に対しても、ほとんど自説を主張せぬ唯々諾々の母であった。これを彼女の父母の性格にあてはめてみると、嫁入り前の母はその母に似た勝気、嫁入り後の母はその父に似た好人物、そして結局は父の方の性格を受け継いでいるのだとも考えられる。好人物と共に非現実を解する心を、父から受けついで、それを子供達へ。彼等兄弟は、多かれ少なかれ、この母の傾向を譲り受けていたのである。  父と母と、母方の祖父、祖母の性格についてごくあらましを語った。そして、彼自身がそれらの人々から何を受けているかを、大ざっぱに考えてみた。父方の祖父の性格については、先に少し記した以上ほとんど知るところがない。父方の祖母、彼が小学校へ入る間際まで、その皺くちゃの乳房に|縋《すが》っていた祖母の性格については、まだ何も語っていないけれど。不思議なことに、彼はこの最も彼を愛してくれた祖母から、何を受けついでいるかを知らないのである。  祖母は前にちょっと記した通り、なかなかの勝気ものであったこと、彼の知ってからの老年時代には、|御《ご》|幣《へい》かつぎで、小言幸兵衛のように口やかましかったこと、父とは反対の倹約家で、父と意見が合わなかったことなどを思い出すけれど、それらが彼の性格にどういうものを伝えているか、ほとんど考え及ばない。強いて云えば、おめかしくらいのものであろうか。  祖母は老年の容貌から想像しても、噂を聞いても、若い時代は美しい人であったに違いない。その美貌が祖父の注意を惹いて、わざわざ京都から後添いに迎えられたものに相違ない。皺くちゃの老年になっても、外出する時には、入歯を|鉄漿《おはぐろ》で黒々と染めて、丁寧に眉毛を剃って、生え際の無駄毛を毛抜きで抜いて、薄化粧さえして、京都風の上手な着物の着かたで、後室様みたいなシャンとした形で、外出したものである。身だしなみといえば|身嗜《みだしな》み、おめかしといえばおめかしである。  父は実用以外にほとんどおめかしを解しない人であったし、母は女のことだから、むろん一通りのお化粧はしたけれど、|姿形《すがたかたち》がどことなく田舎田舎していて、気取りも似合わなかったし、自分でもそれをよく知っていて、ひどいおめかしをすることはなかった。又母方の祖父母にも、そういうことはほとんどなかったように思われるから、彼にあるおめかしの心持は、おそらくこの父方の祖母から譲られたものであろう。  ここまでに考えて来たことを一口に云えば、彼は、父からは自由主義的な物の考え方と、論理好きと、要点を掴むこと、つまり物わかりの早さとを譲り受け、母からは「夢」と「芸」とを解する心を譲り受け、間接に母方の祖父からは、家計に無関心な趣味生活と、もしかしたら放浪性とを譲り受け、父方の祖母からはおめかしの心を譲り受けたかと思うのだが、むろんこれはごく大ざっぱな考え方で、あまりに身にしみ過ぎていて、かえって彼自身には気付かない大きな遺伝もあることであろうし、ここには書ききれない、又もう一つ奥へ行けば、彼自身考えることもできないような、微小な無数の網の目の遺伝と感化の性格があることであろうが、それはこの文章の及ぶところではない。  彼の現在の性格は、ほとんどこれらの人々から伝えられたものに尽きているとも考えられる。その内のあるものは、彼の場合には元の形よりも縮小し、あるものは元の形の何倍かに拡がってはいるけれども、父母、祖父母に|萌《ほう》|芽《が》のないものは全くないと云ってもよい。  むろん彼にはこれらのもののほかにも、様々の著しい性格があった。たとえば、彼の少年時代からの人並ならぬ同類嫌悪の感情である。それは|厭《えん》|人《じん》|癖《へき》、|孤《こ》|独《どく》|癖《へき》、外に現れては非社交性となるものであるが、彼の場合は、その傾向が肉親嫌悪にまで進んでいた。この彼の異端者の性格については、こののちしばしば語る機会があると思うから、ここには詳説を避けるが、この性癖さえも、大部分は環境に育てられたものとは云え、もし同じ環境にあっても、彼でなかったらこんなことにはならなかったであろうという、何かしら先天の萌芽のようなものがあった。父にも、母にも、祖母にも、母方の祖父母にさえも、彼のように表面には現れなかったけれど、どこかしら世間並よりは非社交的なものが感じられた。  父は大酒家であったし遊び好きであったから、むしろ社交家らしい外貌を備えていた。酒宴の席を愛し、酔えば端唄を歌い、必ず立って踊ったものである。祖父と同じく派手好きで、広く人と交わり、足まめに外出もすれば、訪問者をも歓迎した。それにもかかわらず、どこと云って明確に捉えることはできないが、彼はその父にさえも厭人的なものを感じていた。母も|力《つと》めて愛想よく社交を心懸ける方ではあるが、彼女には父以上に厭人的なものが感じられた。  しかしこの考え方は誤っているかもしれない。人類は例外なく厭人的な性格を隠し持っているのかもしれない。肉親嫌悪さえも、万人共通の感情かもしれない。それを隠し、それに打勝ち、|自《おの》れを殺して相交わるのがすなわち社交なのかもしれない。肉親だけに厭人癖の萌芽のようなものを感じたのは、彼が内側から観察する立場にあったためで、誰の子も皆その父母に同じものを感じ得るのかもしれない。もしそうだとすれば、非常に単純に云えば、厭人癖とはわがままの別名に過ぎないことになり、結局は程度の問題に帰着する。ただ彼の環境が、そういう性癖を著しく増大する方向に働いたというまでのことである(それがどのように働いたかは、後にしばしば述べるであろう)。  又たとえば、彼が父母からは受けていないように見えるもう一つの著しい性格がある。ワイニンゲルはすべての男性女性には、それぞれ精神的にも肉体的にも、幾分の異性的なものを含んでいて、人によってその程度が様々であることを説いたが、彼にはそのワイニンゲルの意味での女性的分子が、通常人の平均よりは多量に含まれていた。肉体的には、声帯部の突起が常人よりも発達していないこと、撫で肩、腰部骨盤の発達などを軽微に自覚するばかりで、外見上それとわかるほど著しいものではむろんなかったが、しかし、心理的にも女性分子のやや多量であることは争えなかった(これについても後に詳しく触れる場合がある)。  この人間に含まれる異性分子の|多《た》|寡《か》が遺伝するものかどうかは知らないけれど、少なくとも先天性を否定することはできない。父母は全くあずかり知らぬこととは云え、父母なくては生じなかったところのものである。  以上で彼の生れながらの性格の大体を述べた。ここに云い漏らした性格については、思い出すごとにつけ加えるつもりであるし、又これらの性格が、環境の力によっていかに発達し、あるいは変形して行くかは、これより記そうとするところである。      4  彼の二歳の折の生れて最初の記憶については先に述べたが、それは閃光的な、映画の一駒あるいは数駒の印象に過ぎなかった。それから間もなく、大暴風雨のやはり閃光的な印象が残っているほかには、四歳(あるいは五歳の初め)のある日の一場面まで、全く記憶が途切れている。その一場面というのは、彼が筒袖の着物の上から、父の洋服のチョッキを着て、その胸には父の時計の銀鎖を|纏《まと》い、赤十字社の勲章をつけ、腰にはおもちゃのサーベルをさげ、おもちゃの将校帽を冠って(彼は幼時頭髪をおかっぱにされていたが、その時もおかっぱであったかもしれない)、広い住宅の部屋部屋を歩き回り、敷台になった玄関を降りて、父の大きな靴を|穿《は》き、それとサーベルとを引きずりながら、大きな門を出て、門の屋根の下に立って、往来の人達を睨み回して、独りで威張っていた光景である(むろんこんなに詳しく記憶があるわけではない。後日聞き知った細部が加わっている)。記憶には、光景だけで、何の感情も残っていないが、聞くところによると、彼にはその頃まだ友達らしいものはなく、家族のもの、母や祖母や書生などを相手に、一人で威張って見せていたものだという。その|異形《いぎょう》の風体で門前に立っていると、近所の子供などが近寄って来たが、彼は別に子供達を仲間にして遊ぼうとするでもなく、彼等を異国人のように睨みつけて、ただ威張っていたということである。彼はその頃まだ、家庭以外の世界をほとんど意識しなかった。外にいる彼と同年輩の子供達が、彼の同類であることを知らなかった。おそらくこれは、ただ甘えっ子という以上に、千石取りの奥方であった祖母の町人蔑視の感情が、無意識のうちに彼に伝えられていたのであろう。そのじつ町人の子こそ思いも寄らない恐るべきものであることを、やがて彼は悟らなければならなかったのだが(この記憶の場所は名古屋市|葛《かつら》町である。彼の父が紡績連合会に勤めて同市に引移ってから一年ほどのちのことである)。  これに続く幼時の記憶は、父の怖さを象徴する|折《せっ》|檻《かん》の場面であったが、それについては後に記す機会があろう。そしてこれら三、四の印象を除くと、彼は小学校に入学する一年ほど前まで、ほとんどほかに記憶というものが残っていなかった。思い出そうとしても、具体的には何も思い出すものがなかった。彼の知能は少年時代からすでに記憶力にかけてはおそらく水準以下であったのだ。  彼自身の記憶を離れて、家族の目に写った彼の幼時の特徴についても、それほど多く語るべき事はない。著しいものを指折ってみるならば、幼時の彼の容貌が、祖母のひいき目の褒め言葉では、いわゆる「卵に目鼻」であって、明治時代の標準美人型に似た大柄な目鼻立ちと、白い細かい皮膚を持っていて、それが祖母の自慢の種であったこと(そして、それが彼自身にとっては、後の少年時代に、はなはだしい悲しみの種となったのであるが)、彼はごく幼時は非常なお喋りで、むろん這い這いよりも口をきき始めた方が早く、人見知りを覚えるまでは、お愛想をしてくれるよその大人達に向って、片言まじりの非常な雄弁で、物真似入りで、いつ途切れるとも知れないお喋りをしたということである。この雄弁が又祖母の自慢の種であった。  彼は素質としてはお喋りに生れついていたのであろう。彼自身の異端者をおぼろげに自覚し始めた五、六歳以後でも、彼はむっつり屋というほどではなかったし、小学校という異国の世界に放り込まれて、校庭の桜の木の下に立って、悲しげに他の子供達の遊びたわむれる様を眺めていた彼も、三年生の頃には、学芸会で演壇に立ってお喋りをしたほどであるし、それから中学校の初年級時代には、級中の話術家の一人であったし、大学へ入ってからも雄弁会などに加入して演壇に立ったこともあるし、親戚の|居候《いそうろう》になっては、親戚の子供に、家庭教師になっては、その生徒達に、なかなか雄弁に次から次とお伽噺をして聞かせたものでもあった。  これらの事実から、読者もおそらく気付かれるように、彼の幼時のお喋りは社交的会話とか座談とかいうものではなかったらしいのである。お喋りはお喋りでも、それは聞手が謹聴してくれる場合だけのお喋り、大人の世界で云えば、座談の才能と演説の才能とは別物だという、あの演説の方のお喋りであって、ここにも彼の非社交的性格の一端が覗いていたのだと云えよう。  もう一つ、彼の幼時の特徴として|算《かぞ》えられるのは、口をきき始めてから二、三年、つまり人見知りを覚えるまでのことであろうが、彼はなかなかの即興詩人であったということである。亀山町に住んでいた頃に、家の裏に自家用の畑があって、|茄《な》|子《す》や|胡瓜《きゅうり》が|生《な》っていたが、彼は祖母や母の背中からそれを眺めて、|出《で》|鱈《たら》|目《め》の文句で、出鱈目の節で、茄子と胡瓜の歌を歌った。彼は相手がない時も絶えず半ば歌うように何か喋りつづけていた。そして、それが皆茄子の賦と同じようにそのつど目に触れたものを歌にしているので、大人達を感心させたというのである。  これはもしかしたら、彼の祖母からの影響であったかもしれない。祖母は京都にいた娘の頃、上方の地唄を習い覚えていて、老年になっても、どうかして三味線を持つようなことがあると、なかなか巧みに歌ったり弾いたりしたのだから、幼時の多くの時を祖母の背中に過した彼は、子守唄のように口ずさむ彼女の三味線唄を、つい脳裏にしみ込ませてしまっていたのかもしれない。彼の即興詩は祖母の口ずさみの真似事であったのかもしれない。  彼のこの妙な癖も、恥ずかしさを知り始める頃には、もう人前では口には出さぬようになっていたが、しかし、心の中の即興詩は、少年となり青年となっても、ほとんど衰えることなく続けられて行った。彼は人通りのない夜の往来を歩いている時などには声に出して、あたりに人のいる時には心の中で、いつも何かを喋っていた。節をつけて歌っていた。そして、誰にでもあることだけれど、彼には人並以上に強かったこの独り言の性癖が、彼に孤独の懐かしさを教えた。一日でも二日でも全く孤独のない時が続くと、彼は烈しい飢餓を感じた。会話なんかで邪魔立てしてくれるな、俺は俺自身と話したいのだという願いが、空腹のように襲って来た。  これは別の云い方をすれば、放心を楽しむ心であった。彼は五つ六つの頃から、家庭の一間で、祖母と母とが針仕事をしながら世間話をしている側に寝ころがって、彼自身は別の事を考え、無言の即興詩を歌っている事を好んだ。のちには、友達と遊んでいても、相手が一人きりの時にはそうもできなかったけれど、二人以上の時には、彼等の会話を聞きながら、それには加わらないで、放心状態にいるようなことが多くなった。そして、心の中ではその人の会話とは全く別の即興詩を歌っていたのである。  しかし、やがて、そういう幼児が浮世の風に当らなければならなかった。家庭の外の異国人の世界へ入って行かなければならなかった。その最も著しいものは小学校への入学であったが、それよりずっと早く、彼が初めて異国に接触させられてほとんどなすところを知らなかった一挿話がある。  それは彼自身には全く記憶がないけれども、前に書いた父のチョッキを着てサーベルをさげたのとほとんど同じ頃の出来事であった。その時分には一町内に一軒くらいの割合で、焼芋屋というものが全盛であったが、冬になるとその焼芋屋の店頭には町内の子供達の黒柆山が築かれる。この盛んな光景を見て、彼の祖母が妙なことを思いついた。「うちのぼん(坊やの意)と同じくらいの四つか五つの子が、みんなおあし(金)を持って、焼芋を買いに行ってるが、うちのぼんにあの真似ができるかしらん。一つ試しに一人で買いにやってみようやないか」祖母は母とそんな相談をして、彼を連れて町内の焼芋屋の近くまで行き、彼に一銭玉を握らせて「サア、ぼん、焼芋買うといで。みんなとおんなじように、あこいて、このぜぜ渡すんや。ほて、お芋貰ろてくるんや。ええか」云われるままに、彼はほとんど無神経に芋屋の店内へ入って行った。しかし、そこにうじゃうじゃかたまっている町内の子供達とはまるで違って、物の売買という事を全く知らなかった彼は、焼芋の|竈《かまど》の隅へ一銭玉を置いたまま、黙って、馬鹿のように突立っているばかりであった。他の子供達はワイワイと芋屋の爺さんをせき立て、順番を追い抜いても、早く芋を渡して貰おうとあせっている中に、彼だけは薄のろの看板みたいに、ただボンヤリ突立っているのだから、いつまで待っても、爺さんが芋を渡してくれるはずはなかった。祖母はもう辛抱ができなくなって、自分で芋を買って、彼を連れ帰ったが、それ以来彼は「あかん、ぼん」ということになった。「内弁慶の外すぼまり」と相場がきまった。これが彼の社会への接触の幸先の悪い第一歩であった。  彼の幼年時代は、彼が自慢であり、彼を目の中へ入れても痛くないほどの祖母と、柔和な母との愛によって、幸福過ぎるほど幸福に育てられた。もし不幸があったとすれば、あまりに甘やかされたことと、多分同じ原因から来た病弱とであった。ことに彼の病身は、五歳であったか六歳であったか、弟が出来て乳離れの憂き目を見た時から、一層著しくなったように思われる。乳離れの時には、もう物心ついていただけに、幼年のヒステリーが烈しくて、まるで|螽※[#「※」は「虫偏」+「斯」]《きりぎりす》のように痩せ細ってしまった。そういうことから、甘い祖母が母に代って彼に添寝をしてくれるようになり、前にも記した通り、小学校へ入る前年まで、彼は夜だけではあったが祖母の皺くちゃの乳房をしゃぶりつづけた。  それ以来中学校を卒業するまで、ほとんど例外なく年に二、三度は重い病気をした。風邪からの熱病がなかなか治らなかったり、胃腸をひどく害して長く床についたりすることがしばしばであった。|氷嚢《ひょうのう》と体温計と甘いけれども苦い水薬とが、彼には少年時代への懐かしい郷愁でさえあった。発熱そのものにすら妙に甘い楽しさを含んでいた。熱病の悪夢の中で、彼はもう一つの世界である幻影の国の、この世のものならぬ色彩を見た。彼の即興詩は熱病の床の中で育てられて行った。  彼に絵を描く興味が芽生えたのも同じ病床の中であった。治癒期に入った彼の枕下にはいつも石盤と石筆とがあった。初めのほどは彼自身の形を描くことはできなかったけれど、その頃(五、六歳の頃)母の一番下の弟、つまり彼の若い叔父さんが勉強のために彼の家に同居していたので、その叔父さんが描いてくれる黒い石の上の白い絵に魂を吸いよせられた。トンネルの中から出て来る汽車の絵も好きであったし、|鎧武者《よろいむしゃ》や軍人の絵も好きであったが、「絵探し」ほど彼を喜ばせたものはなかった。枯木の枝とばかり思っていると、その枝の線が馬の首であったりする線の一人二役、あの「絵探し」というものを、若い叔父さんはいろいろと描いて見せて、彼に隠れた形を探させるのであった。「謎」というものの魅力が初めて彼の心を捉えたのは、この叔父さんの「絵探し」であった。  同時に、叔父さんの絵心が彼に絵というものの興味を教えた。この叔父さんはその頃多分十六、七歳であったのだが、後には写真術を修得して、写真館を開きかけたりしたほどあって、いくらか美術心を持っていたのに違いない。それ以来小学校へ上がるまで、少しも文字を教えられなかったので、彼は病床に腹這いになって絵ばかりを描いた。それゆえに彼は病気が楽しいほどであった。紙にメンコに似た絵を描いて、それを丸く切り抜いて、幾枚も同じようなものを拵え、家人や遊びに来た近所の子供に分け与えて喜んでいたこともある。それはいわば彼のジャーナリスト的な|嗜《し》|好《こう》の最初の現われであった。ある時、文字を知らないけれど、何か言葉が書きたいものだから、彼は絵文字を発明した。「|盲目暦《めくらごよみ》」というものがある。あれと同じような|工《く》|夫《ふう》をして、絵でいろいろな言葉を書いた。それも病床の楽しみの一つであった。  病床ほど孤独の楽しみを教えるものはない。氷嚢、体温計、苦いけれど甘い水薬、熱病の夢、即興詩、石盤石筆と、紙と筆と、そして絵と、絵文字と、この豊富な魅力が彼を病床に、ひいては病気そのものに惹きつけた。強いて病気になろうとする気持さえ芽生えて来た。彼の少年期から青年期へかけての病身は、一つはこの病床への魅力、それのなせる業であったかもしれないのである。      5  彼の記憶がやや連絡を持ちはじめるのは、数え年五歳の頃からである。しかし、連絡といっても、それは抽象的な観念の上の連絡であって、具体的な個々の出来事の年代や順序はほとんど思い出せない。その六歳から、八歳で小学校へ入るまでのおよそ二年間に、彼にどういう世界が開けたかを、幾つもの事項について記してみる。  まずその頃の彼に人間としての生存というものが、どんなふうに感じられていたか、生や死について、あるいは宗教的な感情について、彼は何事かを考えていたか。人の一生が人類史の縮図に似ているという意味から、又彼自身の現在の関心から、そういうことを|朧《おぼ》ろげな霧の彼方に探るのも無意味でないように思う。  幼い子供は案外多くの事を考えているものである。大人達は彼等自身の幼時を忘れて、子供は皆|頑《がん》|是《ぜ》ないもの、何もわからないものときめてしまい、幼児の前で、妙な符牒を使いながら性のざれ言などを口にして|憚《はばか》らないけれど、幼児はそういう事をさえ、彼の能力の範囲でほとんど理解している。理解していても幼児の|羞恥《しゅうち》から、そしらぬ顔をして、おもちゃに気を取られているふうを装っている場合さえないではない。それと同じに、生や死や宗教的な感情についても、幼児は、利欲に多忙な大人達よりもむしろ敏感である。  彼の家の宗旨は先祖以来禅宗であったが、彼の家庭にはほとんど信仰生活というものは見られなかった。父は先にも書いた通りむしろ極端な論理主義者自由主義者であって、信仰を軽蔑していたし、母もそれに近く、ただ祖母だけは信心信心ということを口にし、先祖の祭りも大切にしたけれど、それは一つの行儀作法、あるいは悪事災難よけみたいなもので、祖先を敬い、その加護によって一家の安穏を祈る以上には|出《い》でなかった。前に彼の祖母を小言幸兵衛に比べたが、それと似た意味で彼女は又|担《かつ》ぎ屋でもあった。シ(死)の字を忌み嫌ったし、首を斬るとか首をつるとかいう言葉を聞くと「鶴亀鶴亀」と口に出して唱えた。祖母は真実その通りに考えていたのである。彼女ははなはだしく死を恐れた。父の就職以前にはずいぶん浮世の苦労を|嘗《な》めていたのだけれど、少しも厭世家とはならなかった代りに、未来の救いをも信じることができなかった。彼女の信心は老年となり死病にとりつかれてからでさえも、あくまで現世の|利《り》|益《やく》に対するものであった。現実家には極楽はお伽噺でしかなかった。  そういう家庭に育った彼は、「ののさん、あん」(神仏へおじぎすること)という形式を教えられたほかには、宗教的なものを知らないで大きくなったのだが、しかし、それとは別に、幼時の彼には、誰にも芽生える宗教的感情の影のようなものがあった。彼の場合その感情は死と性欲とに結びついていた。六、七歳の彼にとって、空の星と幽霊と死と性的感覚とは、妙につながり合った一つのものであった。この場合性的感覚というのは、現実の性欲とはまるで違った幼児的なものを意味することもちろんである。  そういう感情は昼間ではなくて、夜寝床の中の彼を訪れた。|蒲《ふ》|団《とん》から首を出して眺める襖や障子の向う側、|屏風《びょうぶ》の蔭にはいつも|物《もの》の|怪《け》が潜んでいた。幽霊の姿ではなくて、多くはお化けの種類に属するものであった。時には異様な動物であることもあった。彼はほとんど息を殺して、胸をドキドキさせながら、「きっとあすこにそいつがいるんだ。目を細くして笑っているんだ。もし障子の向うへ一歩でも踏み出したら、きっとそいつが目に見えるに違いない」と、考えまいとすればするほど、そのものの怖さが加速度に大きくなって行った。  独りで寝ている時には、そういう恐怖と織りまざるようにして、もう一つの怖さはそれほどでないけれど、奥底の知れない恐れのようなものに襲われることがしばしばであった。後者には、しかし、恐れと共に何かしら甘い味わいが感じられた(彼は小学校へ入る前年まで祖母に添寝をして貰い、皺くちゃの乳房に縋っていたはずであるから、この記憶はもしかしたら小学初年級頃から始まったものかもしれない。しかし、そうでないようにも考えられる。あるいは前に記したたびたびの病気の折、昼間一人寝かされていた時の記憶かもしれない。又、夜明け方祖母が起きて行ってしまったあとなどにも、そういう感情が来たのではないかと思う)。彼はそういう際の肉体的感覚を今でも思い出すことができる。それは寝ていて自分の腿の内側と内側とが触れ合う、|擽《くすぐ》ったいような、総毛立つような、そして又ひどく懐かしいような感触であった。その感覚自体が何かしら空の星のごとく遥かなるものを象徴するかに感じられた。大人の言葉で表現すれば、「物自体」とか「意志」とかいうものに似ていた。それはプラトンの二頭馬車のように、無限の大空を|天《あま》|翔《か》けるものであった。  少なくとも彼の経験では、少年時代の性欲はつねに死を連想したのであるが、この幼年時代の腿の感触も永遠なるものと共に死に結びついていた。そして、それは又彼の幼児的厭世観につながっていたのである。  彼はその時何かしら遠い遠いもの、生命の彼方のものを感じた。その感情が同時に現実嫌悪となった。死ぬなんてなんでもない、むしろ楽しく願わしいことのように思われた。これらの幼児としてはかなり複雑な感情が、しかし大人のように色分けをしないで、ただ一つのフワフワとした雲のようなものとなって、あの腿の感覚に伴なって、ほとんど|一《いっ》|刹《せつ》|那《な》に群がり湧いた。  こういう幼児の感情は、又同時に原始人類の感情ではないだろうか。人類は生れながらにして文化人よりもむしろ鋭く、現象の向うに「物自体」を感じたのではないだろうか。原始人のうぶな心に直接ぶつかって来た天体への限りなき恐怖と甘美なる思慕。それは、文化人の多くにはもはや幼年時代にだけしか感じられないものとなったのではないだろうか。  原始人類は|汎《はん》|神《しん》|論《ろん》|者《しゃ》であり、偶像崇拝家である。それのミニアチュアでもあるかのごとく幼年時代の彼もまた汎神的、偶像崇拝的であった。しかし、家庭だけが世界であった彼は、原始人のような適当の偶像を持たなかったし、それを製作する力もなかった。と云って、仏壇の仏さまは大人の独占物であった。彼は神をみずから所有しないでは気がすまなかったのだ。彼の昼間の宗教は夜の寝床の中のそれに比べてひどく低俗であった。彼はもはや天翔けることをしないで、|小《こ》|箪《だん》|笥《す》の中の紙包みに、現世の安心を求めた。  先にも記した通り、彼の祖父が老後の写経などの折、身辺を離さなかった|抽《ひき》|斗《だし》の多い桐の小箪笥は、その頃はもう真黒になって、彼の持物となっていたが、小箪笥の上部に小さな開き戸の部分があって、彼はその中を、一番大切なものを入れる場所、いわば神聖なる場所と心に定めていた。そして、彼の偶像である御神体は、その開き戸の中の最も奥まった所に安置せられたのである。  不思議なことに、彼はこの御神体が何であったかを思い出すことができない。それが仏像や神像でなかったことは確かである。ともすれば、それは彼自身で何か絵のようなものを書いた紙片に過ぎなかったかもしれない。それを幾枚も白紙に包んで、その頃病気の折などによくいただかされた水天宮のお守りの包みのようなものにして、そこに安置し、これさえあれば大丈夫だ、この神様が守って下さるのだと、すっかり安心していたのである。ある場合には、それは一人の美しい少女を象徴する恋愛の護符であったこともあるが、それについては後に述べる機会があろう。  幼年の彼が、こういう御神体を必要としたことは異様に感じられるかもしれない。彼はそんな偶像に頼らなくても、もっと力強い保護者を持っていたではないか。父や母や祖母があったではないか。しかし、彼はそれらの家族にはことごとくを打明けて寄り縋れない気持があった。家族の人々には、口で云えもしないし、云うのも恥ずかしいし、云ったところでとても理解してもらえないような幻の国の感情があった。それを書くのは恐ろしいけれど、彼にはそんな幼年時代に、すでに父や母や祖母への妙な冷かさがあった。後に肉親嫌悪となるところの芽生えがあった。      6  彼はお婆さん子で、六つまでも、その乳をしゃぶっていたくらいだから、甘えん坊であったことはもちろんであるが、その甘えるということに、非常に強い羞恥と嫌悪を感じ始めたのは、小学校入学前後からその後の少年時代にかけてである。  彼は学校に入ってからも長い間、家では名を呼ばれないで「ぼん」(坊やの意)と呼ばれていた。彼はこの「ぼん」という愛称がゾッとするほど嫌いであった。「ぼん」という発音のうちに、あらゆる意味をこめて彼そのものが象徴されていたからである。  彼の父は、お婆さん子の彼があまりにお人好しで、甘ちゃんで、しゃっきりしたところのないのを、|歯《は》|痒《がゆ》がりもし、彼の将来のために気遣ってもいたようである。ごく幼時には、父のそういう感情が彼に向って爆発することがしばしばあった。彼の側からはそれが敵意に近いもののようにさえ感じられた。立入った解釈をするならば、それは本当に父の潜在的敵意であったかもしれない。父と祖母とが、表面上はともかく、潜在的にはどこやら打ちとけぬところがあったことは前にも触れたが、その潜在的敵意が、祖母と同一体であるかのごとき彼に転嫁されたのであったかもしれない。四、五歳の頃、彼はよく父の平手打ちを喰った。容赦のない平手打ちであった。その上、父は彼を人けのない薄暗くて広い部屋のテーブルの上にのせておいて、襖をしめきって、遠くの書斎へ帰ってしまうことがしばしばあった。むろん|折《せっ》|檻《かん》のためである。その都度どういう悪さをして折檻されたのかは少しも記憶がないけれど、それほど悪質なものであったとは考えられない。気弱でお人好しで正直ものの彼に悪質の悪さができるはずもなかった。父はただ|癇癪《かんしゃく》を起こした場合が多いのだと思う。その頃父は紡績連合会事務所の|閑《かん》|暇《か》の多い生活をしていた。  幼い彼は独りでは到底降りることのできない冷たいテーブルの上で、遥か下に見える畳を覗いて、そのあまりの高さに震え上がり、シーンと静まりかえった薄暗い部屋の物凄さに、あらゆる物の怪を想像に描きながら、死ぬかとばかり泣き叫ぶのであった。母は父に遠慮をして彼を助けてはくれなかった。助けてくれるのは、いつも祖母であった。祖母は「おお可哀相に可哀相に」といいながら、彼をテーブルから抱きおろした上、三度に一度は父に口小言を言いさえした。父はそれらの折檻を取返すほど彼を愛撫することはなかったようである。もしそういう愛撫があったならば、彼はあのようにただ恐れはしなかったであろう。幼時の彼にとっては父は少しも親しみのない恐ろしいものに過ぎなかった。  これは彼のごく幼少の事であるが、六歳七歳と生長するにつれて、父は仕事が忙しくなり(その頃父は実業界に転進し始めていた)、子供を愛撫する暇も折檻する暇もなくなって、彼とはほとんど他人になってしまった。もう恐ろしくはなかったけれど、親しむことはできなかった。彼は長い間父を一つの嫌悪すべき体臭として感じていた。朝の洗面をするごとに、彼の手拭の隣にかけてある父の手拭からの男の体臭を嗅いで、それを感じていた(父は彼の真実の父であったから彼を愛しなかったはずはない。彼自身も後には父を尊敬した。これはただ幼時の感情のみを切離してできる限り偽りなく記述したまでである。ある型の父親は、子供が青年時代を過ぎてからでなくては、本当に理解されない場合もあるのだ。これには又おそらく精神分析学のいわゆる「エディポス・コンプレクス」の意味が含まれているのであろうが、そのことは後に述べる機会がある)。  父は折檻をやめてからも、折にふれては、「ぼんはあかん、ぼんやりものや」(坊やは駄目だ。ぼうっとしている)と世間の子供(それが町人の子供達なのである)と比べて、おっとりし過ぎていることを憂える言葉を吐いた。むろん愛するがゆえの心遣いであるが彼にはそうは響かなくて、「ぼん」と「ぼんやり」の対句が、名状し難い自己嫌悪の響きとなって、彼の心を|蝕《むしば》んだ。  彼は叱られるばかりではなく、|褒《ほ》められることもむろんあった。父や母も時々褒めたが、最もよく褒めるのは祖母であった。祖母には女らしく褒めておだてて育てる気持があった。しかし、彼は小学校へ入る少し前から、褒められることを全く喜ばぬばかりか、かえって不思議な嫌悪を感じるようになっていた。これが前に記した「甘えるということに、強い羞恥と嫌悪を感じ始めた」あの変化と一致するのである。  彼の父母や祖母は「何事も自分のことは自分でせよ。女中の手を煩わすな」という世間普通の教えを彼に教えていたが、小学校へ入ってからは、毎朝彼が自分の蒲団を自分でかたづけることもその一つであった。彼はわがままであったから、その教えを実践することはごくまれであったけれど、時たま気まぐれに蒲団をかたづけることもないではなかった。すると祖母は待ち構えていたように、「偉い、偉い、ぼんはほんまに偉いなあ」と繰返し繰返し褒め上げるのをつねとしたが、彼はその褒め言葉を聞くと、|悪《お》|寒《かん》といってもよいほどの、何かこう身体がねじられて来るような羞恥と嫌悪を感じたのである。蒲団をかたづけることは造作もないのだけれど、その褒め言葉を聞くのがいやさに、翌朝はわざと怠けてしまうほどであった。  そして、だんだん彼は家族のものの褒め言葉を恐れるようになったのだが、この身震いするような嫌悪は一体どこから来たのであろうか。わがままからの|天邪鬼《あまのじゃく》と考えるのは最も容易であるが、そういう一般的な解釈では何かしら言い尽くせないものがあった。たとえわがままにもせよ、その原因がなければならなかった。彼は一体どうしてそれほどひねくれたのか。外目には「ぼんやり者」といわれるほど素直であった彼が、心の奥底ではどうしてそんな烈しい自己嫌悪を感じはじめたのか、これこそやがて肉親嫌悪、同類憎悪に昴進する彼の異端性の源であったのだから、不注意に見逃すことはできない。前に父の折檻や彼の父への感情について記したのも、もしやそこに何かの秘密が伏在しているのではないかと疑ったからである。 [#地付き](「ぷろふいる」昭和十一年十二月号より翌年四月号まで連載)    5     探偵小説に現われたる犯罪心理  探偵小説はその本来の目的が複雑な謎を解く論理の興味に在るため、犯罪者の心理を正面から描くことはほとんどない。「犯人の意外性」という事が一つの条件となっているほどであるから、犯人は小説の最後までその正体を現わさない。したがって犯人の心理や性格を詳しく描写するいとまが無く、犯人が暴露すれば探偵小説はそこでお終いになるというのが普通の形である。別の云い方をすれば、探偵小説は犯罪事件を探偵の側から描く小説であって、探偵の性格は克明に描写されるが、犯人のそれは間接な方法でしか描かれない。描かれるのは犯人の人間ではなくて巧妙な犯罪手段なのである。しかし、それにもかかわらず、優れた探偵小説には犯罪者の心理と性格とがよく現われている。正面から描写はしないけれども、非常に感銘深く犯罪者の人間が浮き出している場合がある。  巧妙複雑な犯罪を描いた長篇探偵小説の犯人は多くの場合一種のニヒリストである。宗教上|並《ならび》に道徳上の不信仰者である。神をも良心をも恐れない。恐れるものはただ刑罰のみである。イヤ、刑罰をさえ恐れないものがしばしば登場する。これは謎文学としての探偵小説ではこういう犯人を仮定するのが最も便利だという所からも来る。複雑巧妙な犯罪は感情的錯誤に陥ることなき機械的冷血を条件とする。そういう冷血犯人にはニヒリストを持って来るのが最もふさわしいのである。  犯罪者の心理が生き生きと描かれている探偵小説として真先に思出されるのはフランスのシムノンの「男の頭(1)」(モンパルナスの夜)であるが、この心理探偵小説の主人公ラデック青年は天才的に頭がよくて、しかも社会上の栄達に失望した極貧の遺伝的脊髄病患者である。メーグレ探偵はこの犯人を評して「二十年も前だったら、彼は無政府主義者の闘士となって、どこかの首府に爆弾を投じていたでしょう」と云っている。 [#ここから3字下げ] (1)「男の首」 [#ここで字下げ終わり]  ラデックは「罪と罰」のラスコーリニコフの性格をもっと極端に類型化したような人物である。ある金持の道楽者が妻を殺したいと考えている心理を見抜いて、その男のために殺人罪を犯してやり大金をゆすり取る。しかもその罪を全く無関係な一人の愚鈍な男に巧みになすりつけて平然としている。そして、この小説は探偵メーグレと犯人との心理闘争に終始するのである。  この犯人は神をも道徳をも否定し軽蔑している。神や道徳が時と所によってその本質を異にするのは、それがやがて一つの社会的功利にすぎない証拠だと考えている。例えば一夫一婦主義と多妻主義の如く、ナポレオンの大量殺人と個人的殺人犯のごとく、同じ行為がある時代ある場所では善となり、ある時代ある場所では悪となることを見抜いている。そして、道徳のタブー的厳粛性を軽蔑する。  しかし、この犯人は良心を否定しながら良心にさいなまれることラスコーリニコフと同様である。さらに一層大きな矛盾は、これらの犯罪者はニヒリストのくせに自尊心を捨て得ないことである。(本当のニヒリストは自尊心すらも放棄しているはずだ)彼等をして罪を犯させたものは何よりも歪んだ自尊心だったと云える。俺は天才だ超人だという|自惚《う ぬ ぼ》れ、社会をみくびり警察などはほとんど問題にしない超絶的な気持である。この自尊心が堕落するといわゆる犯罪者の虚栄心となる。ラスコーリニコフが犯行後カフェで出会った検察官に札たばを見せびらかすあの心理が、ラデックでは一層大げさに挑戦的になっている。そして、もっと幼稚な多くの犯罪者が警察署へ挑戦状を送る心理がこれとつながっている。  しかし、これらの挑戦心理にも表面上の虚栄心のほかに、その裏にもう一つのものを含んでいる。自白衝動の心理である。この自白衝動を極端な形にして見せたものにポーの短篇「|天邪鬼《あまのじゃく》」がある。この短篇は一般にやってはいけないことだからこそやって見たくなる、奇妙な不可抗的衝動について説いている。これには悪なるが故に悪を為し、禁ぜられたるが故に禁を犯す不可思議な人間心理と、罪を犯した後自白すれば破滅であるが故に、それ故にこそ自白したくてたまらなくなる不可抗心理とを|併《あわ》せ含んでいる。目もくらむ断崖の上に立って、恐ろしいが故に飛び降りたくなるあの衝動である。「天邪鬼」の主人公は|雑《ざっ》|沓《とう》の往来で自分の殺人罪を大声にわめき出すことを、どうしても止められなかったのである。  普通の意味のニヒリストではないが、やはり道徳蔑視者の別の著しい例としてはヴァン・ダイン作「僧正殺人事件」のディラード教授を挙げるべきであろう。学者なるが故の道徳不感症は実際の犯罪史上にもその例が乏しくないが、探偵小説ではシャーロック・ホームズの大敵モリアーティー博士などが早い例である。「僧正殺人事件」のディラード教授の心理はこれを一方の極にまでおしつめたものであって、数学と物理学と天文学の雄大無限の世界から見れば、地球上の道徳のごとき、人間の生命のごとき問題とするに足らないという心理的錯覚に基く超絶的性格である。  ヴァン・ダインはファイロ・ヴァンスをしてその心理をこんな風に説明させている。「数学者は光年という巨大なる単位によって無限の空間を計らんとし、一方では又ミリミクロンの百万分の一という極微の単位によって電子の大きさを計ろうとしている。彼等の見るヴィジョンはこの種の超絶的眺望であって、そのヴィジョンの中では地球やその住民はほとんど存在を忘れられてしまう。例えばある種の恒星はわが太陽系全体の数倍の大きさを有するが、その巨大なる世界が数学者にとっては単に分秒の|瑣《さ》|末《まつ》|事《じ》にすぎないのだ。銀河の直径はシャプレーによれば三十万光年である。しかも宇宙の直径となるとその銀河を一万倍しなければならない。 「だが、これらはホンの初歩の問題にすぎない。天文観測器に現われる日常茶飯事にすぎない。高等数学者の問題はさらに遥かに広大である。現代数学の概念はしばしば人をして現実世界から遊離せしめ、純粋思考の世界にのみ生活する病的性格を生むに至る。例えばシルバーシュタインは五次、六次元空間の可能を論じ、ある出来事が起る前にそれを見得る能力を推定した。……無限という概念に没頭すれば人間の頭が変になってしまうのは無理ではない。云々」  地球上の人類が極微的存在に堕した時、科学はニヒリズムに接近する。しかし、かかるニヒリズムが罪悪を生む場合は、|滑《こっ》|稽《けい》なことに、必ずその超絶的思想とは逆のものが混入して来る。ディラード教授はそういう道徳不感症者ではあったが、直接には個人的名声という地球上極微の執着に捉われ、その名声を保つ手段として|夥多《あ ま た》の殺人を犯すのである。マザー・グースの童謡になぞらえ、罪もない人々を次々と殺して行くのである。  探偵作家の内には本来の複雑な謎の考案以外に、際立って悪人の描写に優れたものがある。黒岩涙香は悪人を描く天才と云われ、彼の諸飜案は原作以上に悪人を巧みに描き出していたのであるが、西洋の作家ではイギリスのイーデン・フィルポッツの探偵小説にこれが感じられる。彼の「赤毛のレドメイン一家」はその典型的作品である。主人公はやはり道徳的不感症者であることに変りはないが、ラデックやディラード教授のように犯罪の当初から半ば自暴自棄的な心理が働いているのではなく、あくまで堅実で功利的であり、犯罪の発覚を絶対に避けようとしている。したがって彼のトリックは一層複雑であり、真剣な積極的な悪の情熱を伴っている。 「赤毛のレドメイン一家」は、真犯人の暴露では終っていない。そのあとに長文の告白文がついている。犯人マイケル・ペンディーンが獄中で認めた彼の一代記である。その中にこんな一文がある。 「良心を持つ人間、後悔をするかも知れない人間、一時的激情によって殺人を犯すような人間、彼等はいかに巧みに犯行をくらまそうとしても、終局において不成功に終ることは明かである。犯罪者の心中のひそかなる後悔こそ発覚への第一歩である。世の愚かなる者どもはこの失敗を免れることは出来ない。しかし私自身のごとく成功を確信して何等の不安に|煩《わずら》わされることなく、いかなる感情も介入する余地なき正確なる企画と先見によって事を行うものとについては、犯罪は少しの危険性もないのである。この種の人々は犯行後、壮厳ともいうべき心理的喜悦を味うのであるが、かかる喜悦そのものが彼等の報酬であり、さらに彼等の精神を支える支柱ともなるのである。 「この世のあらゆる体験の内、殺人のごとく驚異すべき体験が他にあるであろうか。いかなる科学、哲学、宗教の魅力も、この最大の罪の持つ神秘と危険と勝利感に比べることは出来ない。この深刻なる罪の前にはすべてのものが児戯に等しいのである。」  しかし、それにもかかわらず、この先天的殺人者は大探偵ガンスの明智の前に果敢なくも敗れ去ったのであるが。  この種の犯罪者は不思議にも、極まったようにニイチェの愛読者である。ラデックにはそういう説明が加えられていないが、ディラード教授とペンディーンについては、作者ははっきりとニイチェを引合いに出している。ペンディーンの場合はさらにドー・クインシーの「芸術としての殺人」の影響が感じられる。彼は明らかにそういう芸術家の情熱をもって全生涯を犯罪に捧げた男である。  さらに云うならば、ラデックにもディラード教授にもペンディーンにも実験的殺人の心理ともいうべきものが内在していることを見逃すことは出来ない。自己の能力を過信し、その犯罪能力がどこまで実現されるものかを実験して見るという心持が働いている。犯罪を試験管に入れて種々の科学反応を試みるのである。古来心理小説と|謂《い》われるものの多くは人生を試験管に入れて来た。ドストエフスキーもそうだし、スタンダールもそうだし、そしてポール・ブールジェの「弟子」に至ってはその最も具体的典型的なものの一つである。この小説の主人公は恋愛を文字通り試験管に入れ、そこから一つの殺人被疑事件が発生する。ブールジェのこの作はドストエフスキー、ストリンドベリなどと共に強く探偵小説家の注意を|惹《ひ》いている。探偵作家もまた、その犯人をして彼等の犯罪を実験せしめ、さらに犯人を、犯罪を、殺人を、試験管に投入しようとしているからである。 [#地付き](「文化人の科学」昭和二十二年三月号)     枕頭風景  腹をこわして寝ている。「病中偶語」というのを「ぷろふいる」に書いた。これはそのつづきみたようなものである。|蒲《ふ》|団《とん》の中に|腹《はら》|這《ば》いになってこれを書いている。腹巻の間に|白《はっ》|金《きん》|懐《かい》|炉《ろ》が入っている。甲賀三郎君のお嬢さんの夫君が大学病院のお医者さんで、ごく近くに住んでおられるので、お願いして内科のお友達の博士を同伴して|診《み》てもらったが、別に大した病気でもなさそうである。お二人が玄関を出られる時に家内に「先生は心配性の方ですか」と云っておられるのが聞えた。しかし、大したことはなくても、腹の工合はなかなかよくならない。不愉快だけれども本はよくよめる。腹這いになって|枕《ちん》|頭《とう》を見渡すと、いつの間にか又本で一杯になっている。時々|蔵《くら》の中へかたづけるのだが一冊二冊と思いついては持出して来るのが|溜《た》まって、灰皿を置く余地もない。  クイーンのミステリ・マガジンの|綴《と》じたのが二冊とバラのが四五冊、三尺ほど向うの襖の前に重なっている。こいつはこの頃の私のペットで、何かというと参照するので、その左隣の英和辞典や、辞苑や、漢和辞典の|堆《たい》|積《せき》と同じような役目を勤めている。ミステリ・マガジンの右は、やはりクイーン編の「悪人小説集」と「読者への挑戦」が重なっている。後者はこの間の土曜日、植草君が探偵作家クラブの事務所へ持って来て貸して下さったものである。これはクイーンの処女|編《へん》|纂《さん》|書《しょ》で、序文が面白い。世界の著名な短篇探偵小説を集めたアンソロジイにすぎないが、そこにちょっと工夫がしてある。どの作も主人公探偵の名前だけがのせてあるのだ。そして、この小説は誰の作か当ててごらんなさいというわけである。半分以上当らない。私はこの本でバーゲスのアストロ探偵ものとコーエンのジム・ハンヴェイものとをはじめて読んだ。前者はウエルズの「探偵小説の技巧」などでおなじみの通りであったが、後者はハード・ボイルドで一向面白くない。  その右には雑誌「新探偵小説」と高木卓君から贈られたあづみ文庫の「|遣《けん》|唐《とう》|船《せん》」と高橋鉄君から贈られた「性典研究」と松竹出版部から出たばかりの甲賀三郎の「盲目の目撃者」と長谷川智君から贈られた日本奇術|聯《れん》|盟《めい》の機関誌「奇術」と弘文荘の主人が送ってくれた白木屋の古書即売会目録と最近の「タイム」とその他和洋の雑誌類がゴチャゴチャつみ重なっている。「新探偵小説」一号の三つの創作はいずれも作者にとって恥しくないものだ。殊に西尾君の「幻思の魔薬」には感心した。この着想はほとんど世界的に恥しくないと云ってもいい。その事は「新探偵小説」二号に書き送っておいた。  その山の手前、腹這ったまま右手の届くところにカーの「レッド・ウイドウ殺人事件(1)」がある。「平凡」雑誌社の菊地君が貸してくれたもの、菊地君にはもう一つライスの「ホーム・スイート・ホミサイド(2)」を借りている。両方とも読んだが、両方とも面白かった。「レッド・ウイドウ」はその筋の複雑さにおいて「帽子蒐集狂」に似ている。順位をつけると「プレイグ・コート(3)」と「ユダの窓」の中間位のところか。そのあとで同じくカーの「ポイズン・イン・ジェスト(4)」を読んだが、この方はちっとも面白くない。私の読んだカーの内では最も面白くないものの一つ。ライスの本については別に書くつもり。 [#ここから3字下げ] (1)「赤後家の殺人」(2)「大あたり殺人事件」(3)「プレイング・コートの殺人」(4)「毒のたわむれ」 [#ここで字下げ終わり]  その一山の中にポケット叢書の「ポケット・ストリイ・ブック」が一冊混っている。これは昨年のはじめ、放送会館に進駐軍の公開図書館が出来た時、真先に目についた文庫本で、(後日シヴィリアン中佐ジュリア君から一本を贈られたもの)この傑作号にのっているウールリッチの「さらばニューヨーク」が戦争以来外国の小説を読んだ最初であった。そこの紹介文でこの作者がアイリッシュの原名で「ファントム・レイデイ(1)」を書いたこと、それが大いに売れたことが分ったので、それからアイリッシュを探しはじめ、読んでみるとなるほど新鮮であったというわけである。初読だけにこの「さらばニューヨーク」が忘れられない。単に文学としては今まで読んだウールリッチ—アイリッシュ中の最上である。犯罪者の恐怖を取扱った心理短篇。この「ポケット・ストリイ・ブック」には、二日前にも二宮栄三郎君と語り合ったことであるが、非常にいい作品が揃っている。ダンセイニの「二瓶の調味剤」もこの本で私は読んだ。 [#ここから3字下げ] (1)「幻の女」 [#ここで字下げ終わり]  左手の届くところにアントニイ・アボットの「サーカス・クイーン殺人事件」と邦訳「世紀の犯罪」とが出ている。つい先刻蔵の中から出して来たもの。なぜ出して来たかというと、カーがアボットを高く買ったからである。EQMMでカーが「探偵小説十傑作」という本を最近編纂して、それに一万五千語(日本原稿紙にして約百五十枚)の序文を書き、その中に挙げている世界のベスト・テンの中のアメリカ作家はヴァン・ダイン、クイーン、スタウト、アボットの四人だということを知ったからである。邦訳「世紀の犯罪」は十年前に一読したが、大して面白くなかったので、アボットはこんなものと棚に上げてしまったが、カーが好きだとあっては再読してみなければというわけである。「サーカス・クイーン」の方もはじめをちょっと読んで投げたままだったのを、同じ理由で出して来たのである。しかし両方ともまだ読んでいない。何となく気が進まないのである。カーは右の序文で十傑に次ぐ作家として、アメリカではクレイトン・ロウソンとデイリー・キングをあげている。両方とも手品作家で、ロウソンの「トップ・ハット殺人事件(1)」は一読したが、カーをオカルティズムと手品の方へ極端化したような作風で愉快だ。これについては別に感想を書くつもり。 [#ここから3字下げ] (1)「帽子から飛び出した死」 [#ここで字下げ終わり]  その時一緒に蔵の中から出して来た本がすぐ枕の右横にある。オストランダアの「ダスト・ツー・ダスト」チェスタトンの「テールズ・オヴ・ザ・ロング・ボウ」の二冊。オストランダアは数年前三十頁位で投げたのだが、今度も又六十頁位で投げてしまった。同人の「アッシェス・ツー・アッシェス」が世界の名作の一つとされていて、それが手に入らないので、後に書いた似た題名の本だから、大体「アッシェス」の作風の想像がつくのではないかと、そういう考えでいつも読み出すのだが、|涙《るい》|香《こう》に訳させたら向くような古風な家庭小説的プロットと文体に、懐しくはあるがウンザリして、つい投げてしまう。それを投げてチェスタトンの「ロング・ボウ」(嘘物語)を読んだが、これは面白い。出て来るのがみんな皮肉と|諷《ふう》|刺《し》の哲学的な小市民で、キャベツかなんかを帽子の代りに|冠《かぶ》って歩いている退役大佐がある。なぜそんなことをするのかと思ったら、彼は一友人に「お前がテームズ川を火にして見せたら、俺は帽子を喰って見せる」と断言したからである。その為に彼はまだ新らしい帽子を裏の畑の|案山子《かかし》にやってしまって、その足下のキャベツを頭に冠って、堂々と衆人環視の教会堂へ礼拝に行ったのである。そして、数日間町の人々にキャベツが彼の帽子であることを見せびらかしておいてから、その友達をランチに招待して、その目の前で帽子の丸煮を喰って見せたのである。  これが第一章、第二章では帽子を喰って見せられた方の男が主人公で、毎日魚釣りをやって、|太《たい》|公《こう》|望《ぼう》のように彼の哲学を考えている男だが、これが奇妙な恋愛をする話。そして結局テームズ川は|火《か》|焔《えん》に包まれるのである。そういう奇想天外のエピソードが全部で八つある。チェスタトンはこれをインポシブル物語という。カーのインポシブル派はチェスタトンが元祖なのである。  私はチェスタトンは邦訳のほかはほとんど読んでいなかった。戦後「木曜日の男」を読んだのが原文では最初だといってもいい。そして「木曜日の男」にはすっかり感心してしまった。(探偵小説としてではない)あのチェスタトン一流の幻想と哲学と詩とが、その頃読んだどんな探偵小説よりも面白かったのである。探偵小説は皆|拵《こしら》えものであって、本格ずきの私と雖もその拵えものには心の隅で常に一片の不満を感じている。しかし拵えものでないいわゆる探偵小説は、拵えものに比べて一層面白くないので、拵えものの感じは寧ろ本格探偵小説の止むを得ざる附随物として、私は積極的にこれを認める態度を採っている。少くとも探偵小説においては拵えものの方が拵えものでないものより面白いのである。古来の実例に徴してそうなるのである。  ヴァン・ダインでもフィルポッツでもクロフツでも「拵えもの」が歴然としていて、そこに魅力があり同時にそこが少々困りものである。しかし、同じ拵えものでもそういう「困りもの」の感じを全然与えない作品がある。それは探偵小説百余年の歴史を通じてただ二人、ポーとチェスタトンのものだけだと、私は感じている。どんな優れた探偵作家でも、内心あるいは潜在意識においては、探偵小説が拵えものであることをはにかん[#「はにかん」に傍点]でいる。その無意識あるいは有意識のはにかみ[#「はにかみ」に傍点]が作品の裏ににじんでいる。読者はそれを感じるのである。ところがポーとチェスタトンだけはそのはにかみ[#「はにかみ」に傍点]を感じていない。感じないでもよい扱い方をしているからである。拵えものに徹し、拵えものを最高とする一種の哲学に基いて作をしているからである。私はそういう意味で探偵作家としてのポーとチェスタトンを見直している。未読のチェスタトンを全部読んでみたいという気を起した|所以《ゆ え ん》である。  古い所ではディケンズに興味を持ちはじめた。そのきっかけはちょうど目の前にあるEQMMの本年正月号である。そこにディケンズの珍らしい短篇探偵小説「ハンテッド・ダウン(1)」(追い詰めたの意)がのっている。クイーンの説明文によると、この作はディケンズがその昔アメリカの雑誌にたのまれて書いた唯一の短篇だという。日本原稿紙にして六十枚位のよく|纏《まとま》った一種の探偵小説。着想も面白いし、書き方が心理的で、サスペンスにも富み、決して古めかしくない。ディケンズほどの作家になるとやはり年代を超越しているのだなと感心した。私が短篇のベスト・テンを作ればこの作を入れるに違いない。ダンセイニの「二瓶の調味剤」やトーマス・バークの「オッタモール氏の手」などに比べて決してひけ[#「ひけ」に傍点]を取る作ではない。 [#ここから3字下げ] (1)「追いつめられて」 [#ここで字下げ終わり]  ディケンズといえば何となく古めかしい感じで、従来は一向読んでみたいとも思わなかったのだが、これがきっかけとなって、興味を感じはじめた。「エドウィン・ドゥルード」や「ブレイク・ハウス(1)」を何とかして手に入れて読んでみたいと思っている。 [#ここから3字下げ] (1)「荒涼館」 [#ここで字下げ終わり]  つい灰皿の横にチェスタトンの評論集「ジェネラリー・スピーキング」が出ている。私はその中の「探偵小説について」と「エドウィン・ドゥルードについて」をさっき読み返したのだが、その後者がディケンズへの興味をあおらなかったとは云えない。チェスタトンは大のディケンズ崇拝家で「チャールズ・ディケンズ」という一冊の著書もある。  それからもう二つ、大きなものを見落していた。|敷《しき》|蒲《ぶ》|団《とん》の下に半分首を突込んでいたからである。その一つはイギリスのシーボーン教授編の「小説の探偵」(一九三一年)。その三十六頁に亘る序文の探偵小説論はセイヤーズのそれに比すべき教養の高い名論文である。これは余り長くもないのだから訳しておく方がいいと思う。もう一冊はホレイス・ウォールポールの「オトラント城」。この十八世紀のイギリス恐怖小説の先駆者、ロマネスクにゴシック趣味復活の大家は、探偵小説に含まれる神秘怪奇の部分の先祖としていろいろな本に引合いに出されているので非常に読みたく思っていたが、幸にして一本を手に入れた。アメリカ版であるがスパージェオンの要領のいい解説つきで、ウォーター・スコットの有名な長い序文もついているし、著者の初版再版の序文もある。アメリカ本でもこの装幀は気に入った。真黒な紙表紙で一面に金泥でハート型の|飛白《か す り》模様が入っている。いつか自分の本にこの装幀を使って見たいと思う。スコットの二十五頁に亘る序文を読んだところで、まだ本文に入っていないが、これは楽しみだ。大切にしてゆっくり読みたいと思う。  そのほか枕頭にはまだいろいろな本がある。その中で珍らしいものは、この頃井上英三君から借りた明治十四年版「情況証拠誤判録」、同二十一年版「奇獄」、同二十三年版涙香の創作探偵小説「無惨」。この「無惨」は後に「三筋の髪」と改題出版されたもので、十年前一度読んだのだが、今度読み返して見てやはり感心した。フリーマン風の純探偵小説である。ドイルさえまだ輸入されていない当時にこういうものを書いたというのは、やはり涙香は|芯《しん》からの探偵小説好きであった。 [#地付き](「真珠」昭和二十二年十月号)     「猫町」  ユートピアすなわち無何有郷の物語は人間の社会生活の極楽境を夢想する倫理面、政治面、経済面のものが、古来最もよく人に知られている。古くはプラトンの「アトランチス」から、トマス・モーアの「ユートピア」ベイコンの「新アトランチス」ウィリアム・モリスの「無何有郷便り」その他数え切れないほどの理想社会夢物語がある。  しかしユートピア物語はこういう固くるしい方面ばかりでなく、衣、食、住から恋愛その他あらゆる感情にわたり、恐怖に関する(すなわち怪談の)ユートピアすら|夥《おびただ》しく書かれている。  恋愛ないし肉慾のユートピアとして手近かに思い浮ぶのは西鶴の「一代男」|遡《さかのぼ》っては「源氏物語」のある巻々、そしてこれらに影響を与えた唐の「遊仙窟」。この「遊仙窟」は純粋の愛慾ユートピア物語としてある意味で世界の絶品である。  怪談の方はユートピアではおかしいから無何有郷といえば無難であろう。西洋古代については今智識がないが、東洋では「山海経」の昔から「捜神記」以下の志怪の書の到る所に怪談無何有郷が語られている。無何有郷とは今の言葉でいえば四次元的世界であろう。宗教上の地獄描写のごときも一種の怪談無何有郷であるが、もっと遊戯的な不思議のための不思議世界があらゆる形で語られている。  例えば「酉陽雑俎」巻十五の「開成末永興坊百姓云々」の項から縁を引く「伽婢子」巻九の「下界の仙境の事」の地底王国の金殿玉楼。仙境といい、桃源といい、龍宮といい、必ずしも恐怖のユートピアではないが、これが怪談の書に用いられると妖異の四次元世界となる。これに似たものでは「酉陽雑俎」巻十三「劉晏判官季邀云々」のやはり地底の別世界(山田風太郎の探偵小説「みささぎ盗賊」は直接にか間接にかこれから示唆を受けている)、もう一つ例を出すと、宋時代の「稽神録」にある「青州客」という怪談、ある人が暴風に会って不思議の国に漂着する。その国の有様は別に現実世界と変りはないがいくらこちらから挨拶しても誰も相手になってくれない。つまり彼等の目にはこちらの姿が全く見えないのである。モーパッサンの「オルラ」をはじめ西洋怪談には目に見えぬ妖怪の話が沢山あるが、「稽神録」のはその逆を行って、話の主人公自身が見えぬ妖怪となり、その妖気によって漂着した別世界の王様を病みつかせるという、宋の昔にしては恐ろしく新らしい怪談である。  H・G・ウエルズの「壁の扉」という短篇はふと行ずりの町の塀の内部に、思いもかけぬ別世界、夢の国を発見し、再びその町へ行った時、同じ塀の扉を探すけれども、いくら探してももう二度と再びその別世界を見ることが出来なかったという話であるが、西洋にも東洋にもこの種の無何有郷怪談は無数にある。  さて、怪談無何有郷の内に動物無何有郷とでも云うべき一連の説話がある。「捜神後記」の「林盧山下有一亭云々」の話はその家に集う男女の群がことごとく犬の顔をしていたというのであり、「|剪《せん》|燈《とう》新話」巻三の「申陽洞記」は地底の猿と鼠の王国を空想している。これを飜案した「伽婢子」の「栗栖野隠里の事」の挿画には人間の服装をした猿共の御殿が描かれていて、一層「猫町」の感じに近い。  突然「猫町」と云っても分らぬであろうが、右の犬の家、猿や鼠の王国の話は、日本の詩人萩原朔太郎の短篇小説「猫町」を思い出させるのである。昭和十年の末、版画荘から単行した同書一本を贈られ今も愛蔵しているが、著者自案の装幀、厚いボール芯の表紙には一面の|煉《れん》|瓦《が》、その真中に石で畳んだ窓があり、窓の上には Barber と書かれ、横には理髪店の看板の青赤だんだらの飴ん棒がとりつけてある。そして窓一杯に覗いている大きな猫の顔。  つまり、その町の住人はことごとく猫であって、床屋の窓の中からも猫の顔が覗いているというわけである。詩人朔太郎の魂は、見慣れた東京の町に、ふと「猫の町」を幻想する。その町へいつも行きつけない方角から迷い込むと、左右前後があべこべに感じられ、そのあべこべがたちまち第四次元の別世界を現出する。見慣れた町が一瞬間、まるで見知らぬ異境となり、そこの住民は妖怪となる。「猫町」ではその住民が悉く猫の顔を持つのである。 「見れば町の街路に充満して猫の大集団がうようよ歩いているのだ。猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫。どこを見ても猫ばかりだ。そして家々の窓口からは、|髭《ひげ》の生えた猫の顔が、額縁の中の絵のようにして、大きく浮き出して現れていた」  私はこの怪談散文詩をこよなく愛している。朔太郎の詩集や数々のアフォリズムと同様に、あるいはそれ以上に愛している。  ところが、この頃私は西洋の怪談集を幾つか読む機会があって、その中に「猫町」とそっくりの着想を発見し、朔太郎のこの作を今さらのように懐しみ、前記の支那怪談にまで類想したのであった。  作者はイギリスのアルジャーノン・ブラックウッド、作品は中篇「古き魔術」、その意味は主人公の一人物の前生が猫であったかのような錯覚があり、その古い記憶の|甦《よみがえ》りを寓意しての「古き」である。ブラックウッドは誰も知る今世紀における怪談文学の大家、ゴースト・マン(幽霊男)と呼ばれたほどの恐怖作家である。  あるイギリスの旅行者が、フランスの淋しい田舎の小駅で、ふと途中下車がしたくなる。都会の喧騒をそのまま運んでいるような汽車の騒音が|堪《たま》らなくなり、静かな田舎町に一夜を過そうとしたのである。ところが、下車した時、窓の中から鞄を渡してくれた一人のフランス人が、何か警告するような口調で、低い声でペラペラと喋ったのだが、旅行者はイギリス人なのでフランス語が完全に聴きとれなかった。ただ眠りがどうかして、猫がどうかするというような言葉だけが耳に残った。  駅を出ると前方に小山があって、その山の向うに古めかしい尖塔などが見えている。静かな懐しげな町。旅人はその山を越えて町に入る。町全体が一世紀も前の古めかしい建築で、何の物音もなく眠ったように静かである。旅人はこの町の静寂を破るのを恐れて、彼自身も抜き足をして歩いて行く。しばらく行くと一軒の古風な宿屋があったので、そこに部屋を取る。曲りくねった廊下の突き当りにある孤立のねぐらのような部屋、|天鵞絨《ビロード》を張りつめた感じで、部屋そのものも音に絶縁されている。安息の部屋。眠りの部屋。旅人はそれが大いに気に入った。  宿のお神は無口な大柄な女で、いつもホールの椅子にじっと腰かけて監視している。客の行く方へ首を動かす様子がひどくしなやかで、どことなくまだらの大猫を聯想させる。旅人はこの女の前を通る度に、今にもパッとこちらへ飛びかかって来そうな感じを受ける。  しかし、この宿には妙な吸引力がある。旅人は早急に出立する気にはなれないように思う。やがてその引力の主が彼の前に現われる。ある夜薄暗い廊下を自室へと辿っていると、曲り角で柔いものにぶつかる。それは人間の形をしていたが、フカフカと柔かく暖くて、愛らしい仔猫に触ったような感触であった。そのものは彼にぶっつかると、ヒョイと体をかわして、非常なすばやさで、しかし少しも物音を立てないで、彼方の闇に消えて行ったが、すれ違う時一種魅力ある匂いと暖い呼吸が感じられた。そして、もう中年を過ぎた旅人は、胸のどこやらに少年の頃の初恋の感情が甦って来るのを覚えた。あとで分ったのだが、その暗中の柔いものは、その宿の若い娘、あのまだら猫のお神さんの美しい一人娘であった。  その翌日から娘は食堂に現われて、彼の食卓に侍り、彼一人に親切をつくすようになった。食卓に限らず、彼の行く所、影のように彼女がつき纏っていた。そして、それが旅人には初恋のように楽しかったのである。彼は帰るのを忘れて二日三日と滞在を重ねて行った。  彼は度々その町を散歩したが、そのたびに奇異な感じに打たれた。大通りは昼間はほとんど人の影もなく、日暮れからゾロゾロと夥しい男女の群れが出盛るのであったが、その人々が彼にはまるで注意しない。この異体のイギリス人を見向くものもない。ところが、観ていると、注意しないのは実はうわべだけであることが分って来た。彼等は見ぬふりをしているのだ。彼の正面ではそ知らぬ顔をしながら、背後からは彼を見つめているのだ。又は見ぬふりをして横目でジロジロと彼を監視しているのだ。道行くことごとくの男女がそれなのである。  この町の住民共の特徴は全く足音を立てないで歩くこと、目的物に向かって真直に歩かないで、ジグザグのコースをとり、まるでそこへ行くのが目的ではないような顔をしていて、ある距離まで近づくとサッと目的物に突進するという妙なくせがある。宿の食堂の給仕男がやはりそれで、料理を運ぶ時も、どこか外のテーブルへ行くような歩き方をしていて、ヒョイと向きを変えると、サッと飛びつくように彼の食卓へやって来る。彼の恋する宿の娘もその通り、いつも|傍《わき》|見《み》をしていて、その実彼の動作は一から十まで知りつくしている。その物腰は牝猫のように素早く、しなやかで、足音というものをまるで立てない。  この町の住民の今一つの奇異は、表面上の言語動作のほかに、全く別の隠れた目的を持っているように見えることである。この町の女が化粧品店などで買物をしている様子を見ると、別に買いたくもないけれど、義務として物を買っているように見えるし、店の女主人の方も、売れても売れなくてもどうでもいいという調子で、双方ともひどく張合いのない形式的な物腰である。旅人が試みに同じような雑貨店に入って見ると、売り子の若い娘は、彼の方を見ぬようにして、スルスルと店の奥へ引込んでしまう。そして、物蔭からじっとこちらの様子を|窺《うかが》っている。「何々をくれ」と声をかけると、やっと不承不承に陳列棚のところへ出て来て、彼の顔を見ないようにして品物を渡してくれる。町をゾロゾロ歩いている群衆にしても同じことで、それぞれの方角へ用事ありげに急いでいるが、どうやらそれも上べばかりで、本当に用事があるのではないらしい。この町の住民の動作はすべて何だか|拵《こしら》えもののようで、真の目的は全く別のところにあるらしく思われる。  さらに異様なのは、まだ宵の内なのに、町を歩いて見ると、どの家も戸や窓をしめ町全体が死に絶えたように静まり返っていることがある。そして、どこか遠くの方から、非常に多勢の歌声のようなものが幽かに聞えて来る、オドロオドロと太鼓の音なども混っている。その歌声は人間の大合唱のようでもあり、何かの動物が、たとえば猫などが、無数に集って、吠え合っているようでもある。  ところが、そうして宿の美しい娘の魅力によって、滞在が永引いている内に、遂にこの町の正体が判明するに至る。  ある月夜の晩、旅人が外から帰って宿の玄関を入ると、さほど夜更けでもないのに、家全体が寝静まったようにシーンとしている。ふと見ると薄暗いホールに何かしら黒い大きな物体が横わっていた。巨大な猫であった。ハッとして立ちすくむと、猫の方でもビクッとしたように身動きして、立上ったが、見ればそれは例の大柄な宿の主婦であった。彼は何故ともなくこの威厳のある大女の前に|恭《うやうや》しく一礼した。すると大女は彼の手を取って奇妙なダンスをはじめた。薄暗い石油ランプの下で、物狂わしく踊りはじめた。しかし彼女の足はどんなに床を踏んでも少しも物音を立てなかった。  気がつくと、いつの間にかダンスの相手は二人になっていた。あの美しい娘がどこからか帰って来て彼の一方の手を取っていることが分った。しばらく踊ったかと思うと彼の両手が自由になり、二人の女はどこかへ見えなくなったので、彼は大急ぎで階段を駈け上り、自分の部屋へ逃げ込んだが、すると、家のまわりが何かしらザワザワと|物騒《ものさわが》しくなって来た。彼は|怖《こ》わごわ窓から中庭を覗いて見た。月光まだらな中庭に、幾つも物の影が|蠢《うごめ》いている。その物は初めの内は人間とも動物とも見分けがつかなかったが、目が慣れるにつれて、どうやら大きな猫の一群らしいのである。屋根の上にも、物の影が動いている。その町中の男女が、屋根伝いに、この中庭へ集って来るように見える。身軽に屋根から屋根へと飛び移る姿はやはり人間なのだが、それらの姿が降るように中庭へ飛び降りると、飛び降りた瞬間、いずれも猫の姿に変っている。そして、その多勢の猫共は次々と宿のホールへ集まり、そこにはじまっている奇妙な群舞の仲間入りをする。  旅人はその光景を見ている内に、古い古い太古の記憶が甦って来る。遥かな過去において自分はこれとそっくりの光景を見たことがあるような気がして来る。もっと恐ろしいのは、自分も彼等と同じ動作を取りたい誘惑がムラムラと湧き上って来たことである。二階の窓から飛び出して、屋根から中庭へ飛んで降り、四つ足になってホールの踊り仲間に加わりたいというゾッとする誘惑である。  やがて猫共の大群は宿のホールを出て、町の外にある深い谷間へと移動して行く。月夜の大通りは、猫の群れで一杯になる。旅人は部屋を出て、コッソリとその大群衆のあとを追い、町はずれの城壁の上に辿りつく。そこから見おろすと、月の蔭になった谷間の平地に町中の人々がことごとく集まって、狂気のように乱舞している。その人々の顔は皆猫なのである。「ウイッチの安息日」一年に一度悪魔が招集する大夜会、その中心には魔物の女王が席についている。女王とは外でもない宿の主婦のあの大柄なまだら猫である。  月夜の空をヒューッと鳥のような影が|掠《かす》めたかと思うと、彼の横に一人の女が立っていた。彼の愛人の宿の娘である。人間の姿はしているが、その物腰はすっかり美しい牝猫になっている。彼女は彼の頬に口を寄せて「サア、飛び降りて饗宴の仲間にお入りなさい。飛ぶ前によく毛並を撫でておくのですよ。サア早く、変身をして私達の仲間にお入りなさい」と囁く。そして彼の顔や|頸《くび》|筋《すじ》を撫でてくれるのだが、すると、彼のからだは猫の姿に変って行くかに感じられた。彼の血の中に大昔のけだものの血が甦って来るように思われた。彼は我にもあらず、奇妙な叫び声を立てた。彼自身には分らなかったけれど、その叫び声は何かの意味を持っていた。それは古い古い太古の言葉であった。その叫び声が谷間に伝わって行くと、下の猫共の間から、彼に答えるような叫びが返って来た。……しかし、結局、この旅人は猫に変身することなくして、この別世界猫町を辛うじてのがれ出すことが出来たのである。  萩原朔太郎の「猫町」を|敷《ふ》|衍《えん》するとブラックウッドの「古き魔術」になる。「古き魔術」を一篇の詩に抄略すると「猫町」になる。私はこの長短二つの作品を、なぜか非常に愛するものである。私はかつて「陰獣」という小説を書いたが、陰獣とは猫のことであって、決して淫獣又は艶獣と同義語ではない。一例を挙げると、貞享三年に出版された怪談書「百物語評判」巻三「徒然草猫またよやの事」の章に「いにしへは猫魔と云へり、猫と云へるは下を略し、こまといへるは上を略したるなるべし、ねこまたとはその経あがりたる名なり。陰獣[#「陰獣」に傍点]にして虎に類せり」とある。陰獣は私の発明語ではない。そして、猫町とはこの陰獣の町なのである。家庭の事情のために、私はかつて猫を飼ったことがないけれども、もし私が独身者であったならば、無数の猫を飼って「猫の家」に|起《おき》|伏《ふし》していたかも知れない。  東洋古来の怪談にも動物無何有郷は多いし、又猫化けの物語も少なくないが、猫と無何有郷を結びつけ「猫町」や「古き魔術」に類する異様の感じを描いたものを外に知らない。この両作の照応に殊さら深い感銘を受けたゆえんであろう。 [#地付き](「小説の泉」第四輯、昭和二十三年)     谷崎潤一郎とドストエフスキー  貧乏だった私は実業界に入って金に不自由のない生活がしたいという望みが強く、貿易商を選んだ気持もそこにあったのだが、どうも勤めというものが私の性に合わなかった。商売気がないではなく、一時的には重役にほめられるような働きもするのだが、毎日同じような事をくり返して飽きないという耐久力に欠けていた。それと、合宿生活をしていたので、独りぽっちになって勝手な妄想に|耽《ふ》ける(よく云えば思索する)機会が極めて少く、これが私には最も耐え難かった。その貿易商を一年ほどでやめてしまい、それから実に種々雑多の職業を転々したが、一つとして永続きするものは無かった。その主なものを思出して見ると、三重県鳥羽造船所の事務員、団子坂で古本店自営、東京パックの編集、支那ソバ屋、東京市役所公吏、大阪時事新報記者、日本工人クラブ書記長、ポマード製造業支配人、大阪で弁護士事務所の手伝い、大阪毎日新聞広告部員、これが大学卒業の大正五年から作家専業になった大正十三年末までの八年間に、東京大阪を行ったり来たりした職業のあらまし、細かいことを云えば、このほかに英文タイプライターの行商、寄席を借りてレコード音楽会の興行など、いろいろ風変りなこともやっている。風変りといえば古本屋で失敗して食うに食えなくなり、|窮余《きゅうよ》の一策、わずか半月ばかりではあったが、深夜町から町をチャルメラを吹いて流し歩く支那ソバ屋をやったことが、その最たるものであろう。厳冬の深夜、チャルメラの歌口が、唇に凍りつく味というものは、また格別であった。  この職業転々時代に、時を隔てて私を非常に感動させた文学者が二人あった。一人は谷崎潤一郎、一人はドストエフスキー。  先にも書いたように、私は少年時代自然主義文学が面白くないという印象を受けてから、日本の文壇小説というものにほとんど無関心となり、それが大学卒業後までつづいていたのだが、第一の職業、大阪の貿易商をしくじって、数カ月の間、温泉から温泉へと放浪をつづけていた頃(私は生来放浪の気質を持っていたが、それが実際に現われたのは、この時が最初であった)伊豆の伊東温泉であったと思うが、宿のつれづれに、ふと手にした小説が谷崎潤一郎の「金色の死」であった。私はこの小説がポーの「アルンハイムの地所」や「ランドアの屋敷」の着想に酷似していることを直ちに気づき、アア日本にもこういう作家がいたのか、これなら日本の小説だって好きになれるぞと、ほとんど狂喜したのであった。それ以来私は谷崎氏の小説を一つものがさず読むようになったが、読めば読むほどますます好きになり、今でもその気持は失せていない。  谷崎氏の小説を機縁として、あの頃の日本文壇には反自然主義運動ともいうべきものが起っていたことに、やっと気づき、そういう新文学に対して興味を持つようになった。芥川、久米、菊池など、いずれもその意味で面白かったが、中にも佐藤春夫と宇野浩二に傾倒した。しかし、ほとんど同時代の白樺派のヒューマニズムというものは、読むことは読んだけれども、傾倒することは出来なかった。これは現世のリアルを愛せず、架空幻想のリアルを愛する、私の少年時代からの性癖によるもののようである。見方によれば、私は現実逃避の文学を愛したわけだが、逃避の文学というものは、世上謂われるように軽蔑すべきものではないと、今でも信じている。  ドストエフスキーの方はそれより少し後、鳥羽造船所にいた時(大正七年)あの新潮社の部厚い小型本の飜訳叢書で、まず「罪と罰」を、つづいて「カラマーゾフ」を、息もつかずに読み終った。これは谷崎以上の驚異であった。ドストエフスキーを逃避の文学というのではないが、私はこれを日常的リアルとしては驚異しなかった。ドストエフスキーの中の人為的なものに、その哲学に、その心理に圧倒されたのである。そこに現われる諸人物は、日常我々の接する隣人に比べて、ほとんど異人種と思われるほど意表外の心理を持ち、意表外の行動をしていた。それでいて、人間の心の奥の奥にひそむ秘密が、痛いほどむき出しに描かれていた。日常茶飯事とは逆なもの、すなわち私の最も愛する所の別個のリアルがそこにあった。その後数々の飜訳小説を読んだが、そして、ゲーテの「ウィルヘルム・マイスタア」に驚き、スタンダール、ブールジェ(「弟子」)に感動し、ジイドに傾倒したが、いずれもドストエフスキー初読のような驚異は感じなかった。  さて、前に記した古本屋自営と支那ソバ屋の中間期、古本は仕入れの方が全く駄目で、棚の本が減るばかり、だんだん不況になって、収入を計るために東京パックの編集を引受けて、漫画家まわりをはじめ、自分でも漫画漫文を書いたものだが、編集所は古本屋の二階、そこへ岡本一平の紹介状を持って、紺がすり姿の美少年宮尾しげを君が訪ねて来るというようなこともあった。宮尾君の漫画を最初雑誌にのせたのは、多分私だったと思う。しかし、この仕事も報酬不払などでうまく行かず、そこで、私はとうとう探偵小説で小遣をかせぐことを考えるようになった。つまり、自作の出版を企てたのだが、これがなかなかうまく行かなかったのである。 [#地付き](「新青年」昭和二十四年十一月号「処女作発表まで」より抄出)     精神分析研究会  昭和八年、ガランとした三十幾室もある、大きな空っぽの下宿屋〔註、高田馬場駅と早大の中間で、家内にやらせた第二の大きな下宿屋。家内が私や私の客の世話ばかりしているので、止宿学生の不興を買い、下宿人争議のようなものが起こったので、私は下宿屋を廃業してしまった〕に家族五、六人がポツンと住んで私は放浪旅行や市内旅行(ホテルからホテルへ泊り歩く)に出ていることが多いという、変てこな生活がつづいていた。下宿は新聞広告や家屋周旋業者に頼んで売りに出していたのだが、なかなか買手がつかなかった。世間は不景気のどん底であった。その頃大槻憲二氏が精神分析研究会というものをはじめていた。フロイドの精神分析学が一般世評にのぼりはじめたのは大正の末期、私がまだ大阪にいた頃であった。私はこの新心理学に深い興味を感じたが、心理学には門外漢なので直接外国から専門書を取り寄せる考えはなく、邦訳書の出るのを待っていると、数年後の昭和四年末、アルスと春陽堂からほとんど同時に二つの邦訳フロイド全集が出はじめ、私は両方とも購入して愛読した。  その春陽堂の方の全集をほとんど一手に訳していた大槻憲二氏が昭和八年の初め頃、精神分析研究会というものをはじめ、私も誘われてそのメンバーに加わった。  機関誌「精神分析」第一号の口絵に、会員の集まりの写真がのっている。場所は万世橋駅前の「アメリカン・ベイカリー」で、その写真は二十人ほど集まっているが、文筆関係の人では、長谷川天渓、松居松翁、その息子さんの松居桃多郎(この人は戦後、「蟻の町」の指導者として新聞などによく書かれる松居桃楼君である)、田内長太郎(ヴァン・ダインの長序を訳した人)、長谷川浩三(元博文館社員)、中山太郎(著名の民族学者)、加藤朝鳥(明治後期の翻訳家として知らる)など。洋画のうまいお医者さんの小山良修博士も熱心な会員であった。この写真に出ていない会員では、フロイド訳者の矢部八重吉、心理文学研究家の岩倉具栄、文壇の宮島新三郎の諸氏を記憶している。今の性科学家高橋鉄君もこの会のメンバーだったらしいが、機関誌第一号の会員表にはのっていない。会合でも私は顔を合わせた記憶がない。私は半年余りで会合に出なくなってしまったから、高橋君はその後に会員に加わったのではないかと思う。  当時人嫌いで、交友といっては、鳥羽の岩田準一君がほとんど唯一の相棒で、一緒に旅行をしたり、東京市内、ことに浅草公園をぶらついたりしていた。探偵小説仲間ともほとんど往来していなかった。そんな人嫌いのさなかに、精神分析の会だけには進んで毎月出席したのには、わけがある。精神分析には同性愛が非常に大きな題目として取り扱われていたからである。会員の中にも同性愛研究に興味を持っている人が二、三ならずいたからである。ちょっと断わっておくが、岩田君とは同性愛文献あさりの点で気が合っていたので、彼は私よりもずっと年少であったけれども、二人の間に同性愛関係があったわけではない。よく旅をして一緒に泊ったりしたが、私は彼と手が|触《さわ》っても嫌悪感を催すほどであった。そういう意味ではなく、岩田君は文献あさりの方では、私の師匠格に当り、人間が好人物で、おしゃべりで、オッチョコチョイで、そのくせ|勿《もっ》|体《たい》ぶり屋だったから、無口で鈍重で、「勿体ぶり」の逆の性格の私とは、非常にウマが合ったのである。  それはさておき、私は機関誌「精神分析」の初号から大槻氏に勧められて「シモンズのひそかなる情熱」(この頃ではサイモンズと書いている)という長篇論文を書きはじめた。そのうち、下宿「緑館」がやっと売れて、芝の車町に引っ越したが、芝に移ってからも毎月、この原稿を書いた記憶がある。「新青年」に「悪霊」を書くまでは、ほとんどサイモンズの著書を読むことに没頭していたといってもよいほどであった。  同じ頃のアーサー・サイモンズの方には翻訳も多く、日本によく知られているが、ジョン・アディントン・サイモンズの方はほとんど英文学界にも知られていない。私は妙なキッカケからこの孤独の文芸学者に惚れこんでしまった。私は偶然、Horatio F. Brown のサイモンズ伝 John Addington Symonds : A Biography(1895)を一読し、サイモンズが少年時代ギリシャ語の勉強のために、プラトンの「饗宴」と「パイドロス」とを読んで、涙を流したという奇異なる性格にうたれた。これらの書物は決して涙を流す種類のものではない。それを読んで恋人にでも出会ったようにサメザメと泣いたサイモンズ少年が、私を感動させたのである。私は「サイモンズ伝」のいたる所にアンダーラインを引いて、書入れをした。それから英本国の出版社に注文して、サイモンズのあらゆる著書を集め出し、主なもの三十冊近くを手に入れた。  サイモンズの著書は、ギリシャ、ローマの古典に関係が深いので、それを理解するために、私は希英、羅英対訳本としてポピュラーなロエブ叢書をも注文し、これと対照しながらサイモンズの諸著を読み、多くのメモを取った。「精神分析」に連載した「J・A・シモンズのひそかなる情熱」はそれらのメモをもとにして書いたものである。この私の研究は四月の創刊号から五、六回ほどで中絶したが、中絶のままを、昨年出した春陽堂の「江戸川乱歩全集」第一巻に収めておいた。 [#地付き](『探偵小説三十年』より)     ディケンズの先鞭  イギリス最初の探偵小説はコリンズの「ムーンストーン(1)」(一八六八)で、ポーの「モルグ街の殺人」(一八四一)より二十七年おくれている。ディケンズの未完作「エドウィン・ドルード」は探偵小説だけれども、これはさらにおそく一八七〇年だし、仮りに彼の「ブレイク・ハウス(2)」を探偵小説と見るとしても一八五三年で「モルグ街」より十二年おくれている、というのが定説である。 [#ここから3字下げ] (1)「月長石」(2)「荒涼館」 [#ここで字下げ終わり]  ところが、ディケンズはポーに一歩先んじて、非常に大きな探偵小説的トリックを中心とする長篇を書いていたのである。ディケンズ自身主宰した週刊誌 Master Hamprey's Clock の一八四一年一月号から連載し、その年の終りに完結、直ちに著書として出版された Barnaby Rudge がこれである。「モルグ街」はポーが編集長をしていた「グレアム雑誌」の一八四一年四月号に発表されたのだから、「バーナビイ・ラッジ」の出発よりおくれること三カ月であった。(考証によると、ディケンズは一八三八年頃から、この作の大体の腹案を持ち、四〇年の秋に書きはじめたものだという)  ポーはディケンズに対して個人的には|僅《わず》かな交渉しか持たなかったが、その交渉を可能ならしめたのが、やはりこの「バーナビイ・ラッジ」であった。ディケンズのこの長篇が完結した時、ポーにしては珍らしく長い評論を書いて「グレアム雑誌」一八四二年二月号に発表した。そして、これあるが故に、ディケンズはポーに面会する気になったのである。  両者が面会したのは、ディケンズの有名な最初のアメリカ訪問旅行中のことで、一八四二年三月、場所はポーの居住したフィラデルフィア市のユーナイテット・ステイツ・ホテル。そこに滞在していたディケンズに、ポーの方から辞を低うして、面会を求めたのである。その時、ポーは三十三歳、ディケンズは三十歳で、三つ年下だったけれども、作家としての名声は比べものにならなかった。ディケンズはアメリカにも非常に多くの読者を持つ第一流の人気作家、ポーは作家としてよりも「グレアム雑誌」編集長の方を表看板にしなければならないような境遇であった。自信の強いポーは時の大家におもねるような性格ではなかったが、ディケンズにはこちらから手紙を送って面会を求めた。それはディケンズの力によって、自分の作品をイギリスで出版したいという下心があったからである。(しかし、それは失敗に終った。ディケンズはポーの乞いを容れて、帰国後イギリスの出版社に話したのだが、出版社の方で首を縦に振らなかった)  ポーはその時、面会申込みの手紙に添えて、その前年出版された自分の短篇集「グロテスクとアラベスクの物語集」と、「グレアム雑誌」に書いたばかりの「バーナビイ・ラッジ評」とを、ディケンズに贈った。ディケンズは短篇集の方はパラパラとめくって見ただけらしかったが、「ラッジ評」は一読して、ポーに興味を持ち、「いつでもお会いするから」という返事を書いたのである。そして、ポーは二回ホテルを訪ねて会談したのだが、しかしこの会談がディケンズに深い感銘を与えたとは考えられない。彼がアメリカ旅行について書いた、あの長い American Notes にもポーの名は一度も出て来ないし、あとでポーが出した手紙に対しても「出版のことは努力したが駄目でした」という通り一遍の返事しか出していない。ポーの方では少くとも「バーナビイ・ラッジ」から相当の刺戟と影響を受けているのに反して、ディケンズはポーに対してほとんど関心を示さなかったと云っていい。  さて「バーナビイ・ラッジ」の内容であるが、この小文に必要な限度で、ごく大ざっぱな荒筋を記しておくと、この長物語はヘアデール家の惨劇から出発している。  ヘアデール家の執事にラッジという悪人があった。ある夜、彼は主人ヘアデールを刺し殺して大金を奪い、それに気附いた同僚の庭番をも殺し、庭番の死体に自分の服を着せ、その指に自分の指環をはめ、自分の時計をポケットに入れて、庭の池に沈めてしまう。それから自分の妻に事情をうちあけて、一緒に逃げようというが、妻は正しい女なので、どうしてもこれに応じない。仕方がないので、ラッジは妻に固く口どめして、自分だけ逃亡する。ヘアデールが殺され、執事と庭番が行方不明になったので、嫌疑は一応この二人にかかる。それから一カ月以上たって、池の中から庭番の死体が発見されるが、顔が見分けられなくなっているので、着衣や持物から、執事ラッジの死体と判定され、二重殺人の犯人は庭番と決定する。  取残されたラッジの妻は、ちょうどその時身ごもっていて、殺人事件の翌日男児を生む。これがこの物語の主人公バーナビイ・ラッジなのである。バーナビイは軽度の白痴で、腕に血のような|赤《あか》|痣《あざ》があり、病的に血を恐れるという宿命的な性格に生れついている。大きくなると一羽のレーヴンを飼って、これを友達のように愛する。  レーヴンは普通「大鴉」と訳されているが、日本にいる烏よりは小さいのではないかと思われる。九官鳥のように人間の口真似をする鳥である。ディケンズは自からレーヴンを飼っていたこともあり、この小説の中には実にしばしばレーヴンが描写されている。しかし、ポーはディケンズのレーヴンの扱い方が不充分だと云い、自分ならこういう風に扱うのだがという|口《こう》|吻《ふん》を漏らしているが、それが後に別の形で、彼の代表詩「レーヴン(1)」となって現われたのである。ポーはこの点でも「バーナビイ・ラッジ」に負うところが大きかった。 [#ここから3字下げ] (1)「大鴉」 [#ここで字下げ終わり]  バーナビイが青年になった頃、Lord George Gordon の率いる宗教一揆が起る。これは一七七九年から八〇年にかけて実際にロンドンに起った大事件だが、小説の方の年代もそれに合せてある。バーナビイはこの一揆に加わって戦うことになるが、戦場でも|愛《あい》|禽《きん》のレーヴンを身辺から離さない。一方行方をくらましていた彼の父親の殺人者ラッジも一揆に加わり、この一揆の場面が長々とつづく。遂にラッジ親子ともに虜となり、牢内ではじめて父子の対面をする。ここで殺人者ラッジは昔の殺人の告白をし、物語の最初からの謎が解けるというのが大筋である。  ラッジの妻が夫の罪と、彼が生存していることを、あくまで秘密にしているために、全篇に絶えざる恐怖と、サスペンスが|溢《あふ》れている。殺人者ラッジが、夜、妻の家に忍んで来て金をゆする場面があり、それを第三者が見ると、昔池に沈められた執事の幽霊としか考えられず、そこに怪談の興味も入って来るのだが、そのほか様々の派生的な秘密が、ラッジの獄中の告白によって、ことごとく氷解するわけである。  ところで、ポーはこのディケンズの大作について、前に記した長文の批評のほかに、この小説の連載がはじまって間もなく、ディケンズが最後まで伏せておいたトリックを看破し、それを「フィラデルフィア・サタデイ・ポースト」新聞の一八四一年五月一日号に発表している。「ラッジ」の連載は同年の一月からだから、五月と云えば物語が半分ぐらい進んでいた頃であるが、ポーはそこまで読んで、はじめて犯人を当てたのではなく、全体で三百二十三頁(大型雑誌)の最初の七頁(第一章の終り)で作者の秘密が分かったと書いている。  このポーの「犯人当て」は、まず身代りにする庭番を殺しておいて、それから主人のヘアデールを殺したという風になっており、ちょっと順序は違っていたが、その他は相当細部にわたって、ディケンズのトリックを正確に云い当てたのである。ポーが「犯人当て」をやって新聞に発表したという事実も面白いし、その対象となったのがディケンズの作品だったことも面白い。しかも、そこに使われたトリックが、その後百余年間、探偵小説界において最も重要視せられ、最もしばしば使用せられた「被害者即犯人トリック」の素朴なる原型であったというのは、一層興味深いことである。  ポーの長文の「ラッジ評」の内容を一口で云うと、ポーは「バーナビイ・ラッジ」を探偵小説的な観点から批判し、謎とその解明に重点を置いている。別の見方によればこの小説の中心興味である宗教一揆の部分を、かえって謎とサスペンスの邪魔になっていると云い、ディケンズは恐らくこの一揆のくだりを、連載の中途で思いついて挿入したのであろう(ポーは原作を分析して、その証拠を挙げている)。そして、つい一揆描写の方に力が入ってしまったのであろう。連載というやつはこれだから困ると書いている。  しかし、これはポー的な見方であって、全く逆の批判も成立つわけである。「バーナビイ・ラッジ」の後の版に序文を書いたアンドルー・ラングは「もしポーの考えの通り、一揆の部分を省略してしまったら、この小説はまるでつまらないものになるだろう」と云い、「なるほど一揆の長物語のためにプロットは弱められているけれども、この作品の特徴はプロットにあるのではない。そういう作風はウィルキー・コリンズに任せておけばよい。ディケンズにあっては、宗教一揆の部分の群集心理の如実の描写にこそ価値があるのだ」という意味のことを書いている。今日では大多数の読者がラングの説に同感することであろうが、しかし、ディケンズ自身は、こういう探偵小説的なトリックに深い興味を持ち、少くとも、この着想ありしが故に「バーナビイ・ラッジ」を書く気になったのである。  ポーは厳密には三篇、多く見ても五篇しか探偵小説を書いていないが、その僅かの作品の中に、非常に大きな独創的トリックを幾つとなく織り込んでいる。その後百余年間に案出されたトリックの原型で、ポーの気附かなかったものは極く少いと云ってもよいほどである。それでいて、「被害者を犯人の替玉にする」「犯人が被害者に化ける」「被害者が実は犯人であった」などの一聯の「被害者即犯人」という探偵小説史上最大のトリックを、一度も使っていない。このことはポーの探偵小説を考えるものにとって、一つの不思議でさえあるのだが、その謎を解く鍵は、ディケンズの「バーナビイ・ラッジ」だったのである。  ポーは探偵小説好きの勘で「ラッジ」のトリックが百年後の今日でもなお使用に堪えているほどの大物であることを直感し、ディケンズに先鞭をつけられたことを残念に思ったのではあるまいか。それなればこそ、あれほどむきになって「犯人探し」を発表し、長文の「ラッジ評」を書いたのではあるまいか。そして、すでに先鞭をつけられたこのトリックを自から使用することをいさぎよしとしなかったのではないだろうか。このトリックには何十種の変形があり、現在でも盛んに使われているほどではあるが、創案と言えばすべて原型の創案であった創始期において、殊にポーのような|寡《か》|作《さく》|家《か》にとっては、いかに巧みな変形にもせよ、海の彼方の大家が既に使用した原型に属するものを、再使用する気になれなかったということは、充分想像出来るのである。  いずれにしても、ディケンズのごとき大作家が、創始者ポーに一歩先んじて、探偵小説史上最大のトリックを中心とする長篇を書いているということ、西洋の探偵小説論者も、このことには誰も触れていないが、これは探偵小説の歴史、殊に創始期のそれを考えるものにとって、はなはだ興味深く、かつ重要な事実なのである。 [#ここから2字下げ] 【附記】 これは前著「幻影城」の「探偵作家としてのポー」の補遺ともいうべきもので、あの評論には、ごく簡単にふれておいたことを、やや詳記したのである。なお、ディケンズについては昭和二十二年六月号の「黒猫」(当時の探偵雑誌)に書いた小文があるので、次につけ加えておく。 [#ここで字下げ終わり]     ディケンズの短篇探偵小説  ディケンズは純粋の短篇探偵小説をたった一つだけ書いている。そして、それは本国の雑誌ではなくて、アメリカの雑誌の依頼によって書いたものである。EQMM(クイーンのミステリ雑誌)昭和二十二年一月号にこの珍らしい作品が掲載せられたが、その解説文によって、この短篇の書誌学的智識を得ることが出来た。  題名は Hunted Down(悪人をついに追いつめたという意)アメリカの The New York Ledger という週刊雑誌に頼まれて書卸したもので、同誌一八五九年八月二十日、二十七日、九月三日の三号に亙って連載せられた。(この短篇の長さは目分量で日本の原稿紙に直して六十枚から七十枚位のものである)。その時の原稿料は千ギニーというから千|磅《ポンド》の余である。当時としては桁破りの高値であり、今日でも六十枚に五千ドルの稿料は決して安くはない。今の日本の円に直せば、進駐軍の公定相場でも原稿紙一枚四千円余に当る。しかもそれが今から百年前の原稿料なのである。  この作は後にイギリスの週刊雑誌 All the Year Round 一八六〇年四月の号に二回に連載せられ、さらに一八七〇年には Piccadilly Annual のクリスマス号に転載せられた。  この作が本の形になって出版されたのは一八七〇年であると長い間信じられていたが、ディケンズ書誌学者ジョン・エッケルが、それより九年前の一八六一年アメリカのフィラデルフィアで The lamplighter's story という書物の中に収められていたことを発見した。ところが、今日ではこのエッケルの発見よりさらに早く出版された本のあることが分っている。それは意外にもドイツのライプチヒの例のタウヒニッツ社の英語版で、一八六〇年に出版されているという。戦争前まで我々は多くの英文探偵小説をこのタウヒニッツ版で読んでいたものであるが、同社と探偵小説の因縁も随分古いわけである。  さて、文献学はこの位にしておいて、では「ハンテッド・ダウン」の内容はどうかというと、正に一個の探偵小説である。推理的興味のみによって書かれた短篇である。筋は生命保険会社の支配人が、一人の保険依頼人の態度に疑いを抱き、密かに手を廻してその男の保険金詐取の殺人罪を看破し、次に行おうとしている殺人を未然に防ぐ話で、支配人の手記になっているが、そういう探偵的意図が最後まで隠して書いてあるので、犯人ではなくて探偵の方に意外性がある。犯人はブルジョア社会に交わって紳士を装っている非常に頭の鋭い男で、その殺人計画もなかなか巧みであるが、それよりも、そしらぬ顔をして、読者にさえ明かさないで、この極悪犯人をジリジリと追いつめて行く支配人の深謀は、最後にそれと分って読者をアッと云わせるものがある。  この犯人と素人探偵とは、どちらがそうするのか、行く先々で偶然のように出会って、しばしばそしらぬ会話を交わすのだが、読後振り返って見ると、それらの会話にフィルポッツの「闇からの声」やミルンの「矢の家」に似たような心理的闘争のスリルがある。ディケンズはこの種の心理的スリルを本当に理解していた作家の一人だと云える。  この作には犯人の意外性がなく、犯人を探すという意味の謎解きではないので、ポー、ドイル系統の推理小説とは趣きが変っているが、著名な短篇探偵小説の中では、例えばアントニイ・バークレイの「アヴェンジング・チャンス(1)」トーマス・バークの「オッタモール氏の手」などに類する風変りな探偵小説の一つである。 [#ここから3字下げ] (1)「偶然は裁く」 [#ここで字下げ終わり] [#地付き](「あるびよん」昭和二十六年二月号)     勘三郎に惚れた話  今から二十数年前、京都の南座で、たしか菊吉合同の顔見世芝居を見たことがある。ほかの事はすっかり忘れているが、その時、十六、七歳の勘三郎君(当時、米吉)の扮した少女の役が今も忘れられない。芝居は「|馬盥《ばだらい》」で、吉右衛門の光秀、勘三郎君の米吉はその妹|桔梗《ききょう》の役であった。光秀の方は一向覚えていないが、米吉の可憐な桔梗の姿が今も目先にちらついている。当時の彼は芸がうまかったとは云えないであろう。ただその姿が可憐で美しかったのである。私は|心《しん》から女に惚れた経験のない男だが、あの米吉の少女には夢中になった。もしこれが本当の女なら、真実惚れられると思った。私の二十五、六歳の頃である。私は米吉君に一目会いたくてしかたがなかった。しかし、相手は歌舞伎名門の若手、こちらは名もない貧書生。恥ずかしくて面会など申し込めなかった。たとえ申し込んでも取り合ってくれなかったであろう。  米吉がもしほになってからはあまり見ていない。私が歌舞伎に夢中だったのは、学生時代から卒業直後にかけてで、近年は又よく見るようになったが、そのあいだに中絶の期間があった。むろん全然見なかったわけではないけれど、なぜかあまりもしほの舞台には出会っていない。戦後、もしほ君が三越劇場で「お岩」をやって大好評を博した頃から、私はまた昔の米吉を思い出した。「お岩」は見はぐったけれど、そのあとでやった「油地獄」の与兵衛の妙技を見て、すっかり嬉しくなった。米吉ともしほの前半期は、どうも世評がかんばしくなかった。私はその世評が当っていると考えていた。しかし、久しぶりで見た「油地獄」のもしほは、私の想像していた彼とは全く違っていた。二十数年前には彼の可憐な姿に惚れたのだが、今度は彼の芸に惚れた。その後の役では「法界坊」が最も強く印象に残っている。「白石噺」のしのぶもよかった。その他私の見た役々は総じて「勘三郎」の貫禄を示していた。  つい一年ほど前、探偵小説の翻訳で知られている黒沼健君の奥さんが、私を勘三郎君の楽屋へ連れて行ってくれた。つまり二十数年ぶりで、あこがれの米吉の後身に会えたわけである。それ以来私は猿若会の定連になっている。私は歌舞伎俳優の楽屋へ入ったのはこれが始めてで、いわゆる名門の人だから、さぞお高くとまっている事だろうと、いささか心構えをしていたのだが、会って見ると、勘三郎君はインテリ背広階級という感じであった。少しも役者気取りがない、いわば書生流儀である。その晩、同君の帰りを待ち合わせて、皆と一緒にビールを飲んだりしたが、私達はたちまち友達になってしまった。それ以来、月の十五日には必ず家族連れで見物に行き、楽屋を訪ね、帰りには一緒にビールを飲み、同君の自宅を訪問したこともしばしばである。一種の悪友として、あの美しい奥さんに嫌われているのではないかと、内心ビクビクしているほどである。  勘三郎君の芸については、素人の私には発言権がないのだが、私は本人の前で、次の二つのことをたびたび云っている。古い人達は別として、戦後の歌舞伎の中心をなす若い俳優のうちで、勘三郎君ほど舞台に余裕のある人はない。六代目菊五郎の余裕に似ている。しかしこの長所には一方欠点もあるので、自分の演技のない時など、目が遊びすぎる。何か傍見をしているような感じを与える。これはよした方がいいし、本人も近頃は気づいて直しているようである。余裕の長所の方だけ残せばいい。  もう一つは「法界坊」を見た感じから「あんたは映画のピーター・ローレみたいな味が出せるのじゃないか」と云ったものだが、すると、勘三郎君も大いに興味を感じたらしく、その事についてしばらく話をつづけた。歌舞伎で云えば、菊五郎が成功した「天下茶屋」の安達元右衛門というような、江戸末期のユーモアのある小悪党である。勘三郎君の奥さんは、この話を聞いて「舞台が下品になるんじゃないでしょうか」と心配したが、私は「大丈夫ですよ。名門のお坊ちゃんは争われない。そういう役をやっても、決して心から下品になんかなりませんよ」と答えたものである。  今月、勘三郎君は御園座に出ているので、出演中に是非一度名古屋へやって来ないかと誘われている。何とか都合をして、行きたいものだと思う。 [#地付き](「幕間」昭和二十六年八月号)     顔のない死体  従来探偵小説に使用せられた、おびただしいトリックの中に、「顔のない死体」と名づける一連のトリックがある。  殺人事件の被害者の顔を全く見分けられないようにして、その身元を不明にし、又は、他の人物の死体であるかのごとく装っておくことは、犯人にとってはなはだ有利だからである。実際の犯罪でも、このトリックは時として行われるが、小説では一層よく使われて来た。殊に探偵小説未発達の時代によく使われた。現在では顔の見分けられぬ死体が出てくれば、読者はすぐ「ハハア、あのトリックだな」と勘づいてしまうので、もう余り使われなくなっている。そこで作者の方では、今一つその裏を行って、顔をつぶして他の人物らしく見せかけてあったというのは、実は嘘で、やっぱり最初推定された人物の死体であった、というような手を考えるが、これも余り面白くはない。  被害者の顔を見わけられなくするのには、二つの方法がある。一つは、死体の顔を鈍器でつぶすとか、劇薬で焼くとかして、見分けられなくする方法。もう一つは、首そのものを死体から切断して隠してしまい、首のない胴体だけを残しておく方法である。その際、被害者の着物をはいで、別人の着物を着せておくことは云うまでもない。  しかし、そんなことをしたところで、人間というものは、からだのどこかに、目印になるような特徴を持っているはずで、肉親の者、たとえば妻なれば、たとえ首がなくても、夫の死体の見分けはつくわけだから、探偵小説で、このトリックを使う場合には、そういう肉親の者のいないような被害者を登場せしめるほかはないのである。  まだもう一つ難関がある。指紋法が発達した現在では、もしその被害者が前科者か、そうでなくても、警察の指紋原紙に、自発的に指紋を捺したことのある人物であれば、たちまちわかってしまうし、又被害者の家庭の器物などに残っている指紋と、死体のそれとを比べて見れば、にせものはすぐ暴露する。だから、犯人は顔を見分けられなくした上に、両手の指先をも、叩きつぶすか、切断しておかなければならないわけだ。しかし、そんなことをすれば、にせ死体の企らみは容易に気づかれることとなり、この「顔のない死体」のトリックも、実際問題としては、実はなかなかむずかしいのである。  このトリックには、いろいろの変形がある。例えば、アメリカのロースンという作家は「首のない婦人」という長編で、一婦人が、顔にけがをして、顔全体を|繃《ほう》|帯《たい》で巻いているために、それが果してその婦人なのか、別の女が変装しているのか分からないという興味を取扱っている。私も「地獄の道化師」という通俗長編で、同じような着想を用いたことがある。つまり、「顔のない死体」のトリックは生きた人間にも流用出来るし、又それは必らずしも顔そのものを変形しなくても、ただ包み隠すことによって同じ効果をあげうるわけである。仮面をかぶせられたまま獄死し、ついにその正体が発表されなかったという「鉄仮面」の伝説も、このトリックと同じ興味の、非常に大きな実例といいうるのであろう。生きた人間の場合は、整形外科手術によって全く別人に変貌するトリックもある(例「大統領探偵小説」や私の「石榴」)。  もう一つの変形に、チェスタートンの「秘密の庭園」やライス夫人の「すばらしき犯罪」の型がある。それは被害者の首を切断しただけでは満足しないで、他の死体の首を持って来て首の入れ替えをしておくという着想である。実際問題としては、昔のいくさの場合などのほかには、そんなことをやった人はないだろうと思うが、小説上では書き方によっては充分なりたつのである。  日本の高木彬光君は、さらにもう一つこのトリックの新らしい変形を案出して、われわれをアッと云わせた。それは同君の処女作「刺青殺人事件」に使われたトリックで、首を切断して他の首と取替えるのではなくて、胴体の方を取替えるという新発明であった。なぜ胴体を隠すかというと、そこに最もハッキリした目印となる刺青があったからである。しかし首の方が残っておれば、すぐ被害者の鑑別がつくではないかと反問されるであろうが、作者は、そうでないような状況を予め作り上げておいた。顔は分かっても、刺青さえ分らなければ犯人は安全だという状況をである。  さて、話を元に戻して原型としての「顔のない死体」トリックの、最初の発明者は誰かということを、少し考えて見よう。探偵小説の元祖ポー以来百十余年の間に、顔をつぶして別人の死体と思わせるトリックは、実際事件でも小説でも、|算《かぞ》え切れないほど使われている。私の採集した著名な作家で云えば、ドイル、クリスティー、ブラマ、ロード、クイーン、カー、チャンドラーなどに、それぞれこのトリックを使用した作例がある。  ではそれより前、すなわちポー以前には例がないかというと、むろんある。ポーの最初の探偵小説「モルグ街の殺人」に一歩先んじて、一八四一年の初めから、イギリスの文豪ディケンズが週刊誌に「バーナビイ・ラッジ」の連載をはじめたが、この長篇歴史小説のプロットの骨子をなすものは「顔のない死体」のトリックであった。  田舎のある邸宅の主人が殺され、同時に執事と庭番とが行方不明になる。二人の内の誰かが下手人にちがいないのだが、いずれとも、判断しかねているうちに、やがて一ヶ月ほどして、同じ邸の古池の中から一つの死体が発見される。顔はくずれていたけれども、服装によって執事の死体と分かり、庭番の男が主人と執事を殺して逃げ去ったものと判定される。しかし、これが実はトリックで、真犯人は執事であった。彼は主人を殺して金を奪い、これを気づいた庭番を殺して、死体に自分の服を着せ、自分は庭番の服を着て逃げ去ったのである。  ディケンズは、イギリスでは、シェークスピアにつぐ文豪といってよい人であるが、この人がなかなかの探偵小説ずきであった。イギリスが世界一の探偵小説国と云われるのも、そういう古い伝統があるからだ。「バーナビイ・ラッジ」は純探偵小説ではないが、ディケンズが死ぬ前に書きはじめて、未完成のままに終っている長篇「エドウィン・ドルード」は純探偵小説と云ってよいもので、この小説の犯人は誰か、どんなトリックを用いたのかということは、ディケンズの死の直後から現在にいたるまで、いろいろな作家によって、くりかえし論議せられ、「エドウィン・ドルード」の解決篇というものが、二十種以上も発表されているほどである。  では「顔のない死体」のトリックを使ったのはディケンズが最初かというと、決してそうではない。そうでないことは分かっているのだが、しかし誰がどこで使ったかという具体的な資料を、私はまだ探し出せないでいる。それにも|拘《かかわ》らず、ディケンズが元祖でないと断言するのには理由のあることで、十九世紀から、一飛びに紀元前に遡ると、そこに歴然とこのトリックが使われているからである。紀元前から十九世紀まで空白であったはずはない。探せばあるに違いないのだが、私などは十八世紀以前の文学となると、きわめて縁遠く、|渉猟《しょうりょう》の力も機会もないので、しばらく諦めているというにすぎない。  紀元前の「顔のない死体」(というよりも「首のない死体」なのだが)の例で、私の気づいたものが二つある。その一つは、歴史の父と云われる古代ギリシアのヘロドトスの大著「歴史」の中にあるもので、同書第二巻第百二十一段の全文がこれである。(この本は邦文の全訳がある。青木厳訳、昭和十五年、生活社発行、上下二巻)  ヘロドトスは紀元前五世紀の人だが、そのヘロドトスがエジプトを遍歴したとき、同地の古老から聴いた、紀元前一二〇〇年頃のエジプト王、ランプシニトス、一名ラメス四世の逸話である。「首のない死体」のトリックも随分古いものではないか。  ランプシニトスは非常に富裕な王様で、莫大な銀を貯えていたが、それを安全に保管するために、宮殿に接して石の庫を建てさせた。ところが、その庫の建築を命ぜられた男がくせもので、壁の石の一つが、大力を出せば抜きとれるように工夫をした。外見は他の石と少しも違わないのだが、一つの石だけが動くという仕掛け、つまり密室の秘密の出入口に当るものを造ったのである。  これは実に遠大な計画で、その建築師は死ぬときに、二人の息子を枕辺によんで、ひそかに遺言をする。「実は、わしはお前達のために、あの石庫に秘密の抜け道を造っておいた。大金持になりたいと思うなら、そとから忍びこんで、王様の財宝を盗み出すがよい。誰も気づくはずはない」そして、石の動かし方の秘密を詳しく教えた。  二人の息子はこの遺言に従って、しばしば石庫に忍びこみ、多くの銀を盗み出したが、庫の扉には完全に鍵がかかったままなので、誰も疑うものはなかった。  ある時、必要があって、王様は庫の扉を開かせたが、調べて見ると、多額の銀が紛失している。扉も窓も密閉されているのに、中の銀が減っているのだから、解釈のつかない不思議である。(ここに「密室トリック」の素朴な原形を見る)。それから、二度三度庫を開くたびに紛失の量が増しているので、王様は一計を案じ、人間を捕える罠を造らせて、それを庫の中に仕掛けておいた。  それとも知らぬ二人の息子は、ある夜、又しても庫に忍びこんだが、たちまち一人が罠にかかって、動けなくなった。今一人が助け出そうと、いろいろやって見たが、どうしても罠がはずれない。そこで、罠にかかった息子はついに観念して、家名を傷つけぬために、今一人の息子に、おれの首を切って持ち帰れと命ずる。首さえなければ、犯人の鑑別がつかず、したがって兄弟や家の者に|累《るい》を及ぼさないですむという意味である。一人の息子は涙をのんで、云われるままに首をはね、それをたずさえ、出入口を元の通りにしておいて、家に逃げ帰る。(すなわち「首のない死体」のトリック)  翌日、王様が庫に入って見ると、庫には何の異状もなく、出入口は全くないのに、盗賊の首のない死体が、罠にかかっているのを見て、|驚愕《きょうがく》する。それから、王様は又一計を案じ、首のない死体を城の塀外につるして、番卒をして往来の人々に注意させ、身寄りの者が現われるのを待つ。すると、生残った息子は、これに対して又一つのトリックを使い、うまく兄弟の死体を盗み去る。王様はいよいよあきれて、今度は自分の娘、すなわち王姫を娼家に住みこませ(ヘロドトスは、これはちょっと信じられない話だがと断っている)客の一人一人に身の上話をさせて、犯人を発見しようとする。  これを聞き伝えた生き残りの息子は、わざとその娼家へ出かけて行く。ここにまた一つのトリックがある。彼は墓場の新らしい死骸の腕を切り取って、ひそかにたずさえて行き、王姫の質問に対して、自分が犯人だと答える。王姫は逃がすものかと彼の手をつかむが、それは実は死体から切りとった腕であった。|閨《けい》|房《ぼう》の暗中の出来事だから、それと気がつかなかったのである。姫は賊を捕えたと思って安心していると、本人は腕だけをのこして、闇にまぎれて逃げ去る。後に王様はこれを聞いて、若者の智恵に感心し、ついにかぶとをぬいで王姫を彼にめあわせた。めでたし、めでたし、という物語である。(このにせ腕のトリックはフランスの「ファントマ物語」に使われている。私は映画のその場面を、青年時代に見たことがあり、深く印象に残っていたので、後に何かの通俗長篇に、同じトリックを使ったことがある)  もう一つの紀元前の例というのは、やはり古代ギリシアの作家パウサニアス(前二世紀の人)の記録に出て来る。デルポイのアポロン神殿を造ったと云われる二人の建築家アガメデスとトロポニオスの話で、庫に抜け道を造ることから、罠にかかり、首を切ることまで、ランプシニトス王の物語と、そっくりそのままである。おそらくは、エジプトの伝説がギリシアに伝わり、別人の物語となって残っていたのではあるまいか。  ついでに、東洋の実例を挙げておくと、古くは仏典に例がありそうだが、未考。宋の時代、十三世紀のはじめに書かれた「棠陰比事」に「従事函首」という面白い話がある。ある豪家の主人が商人の妻に恋し、妻を盗んで隠し、その代りに別人の死体の胴ばかりを商人の家に残しておく。当然、商人に妻殺しの嫌疑がかかるが、結局、豪家の主人が隠しておいた別人の首が発見され、商人の妻と考えられていた死体の胴と継ぎ合せて見ると、ピッタリ合うので、死体は商人の妻でなかったことが判明し、豪家の主人が罪におちるという話である。  この話は明の馮夢竜が編纂した「智嚢」にも「郡従事」と題して取入れられているし、又、「智嚢」の和訳を主内容とした辻原元甫の「智恵鑑」にも入っている。「智恵鑑」は西鶴の「本朝桜陰比事」よりも早く、万治三年に出版された原始探偵小説書である。  日本では古事記、日本書紀、あるいは今昔物語、古今著聞集などに「首のない死体」の話があるのではないかと思うが、まだ確めていない。今わかっているのは、ずっと後の時代の「源平盛衰記」巻第二十「公藤介自害事」と、これにつづく「楚効荊保事」に和漢の例話がある。しかし、公藤介の方は|欺《ぎ》|瞞《まん》のためというよりは、名を惜しんで我が子に首をはねさせる話だし、両話ともトリックの意味はうすいように思われる。 [#地付き](「探偵倶楽部」昭和二十八年五月号)     変身願望  私は人間が書物、本ですね、本に化ける話を書きたいと思ったことがある。しかし、大人の読む短篇にならなくて、いつか少年読物の中へ、ちょっと使ったことがある。どういうことかというと、西洋の大きな辞典、ブリタニカとか、センチュリー、あるいは、日本の平凡社の百科事典でもいい、あれの背表紙だけを、つなぎ合せたようなものを専門家に造らせて、それを亀の甲のように、背中につける。そして、大きな本棚の中に、背中をそとに向けて、手足をちぢめて、横たわる。そとからは、そこに大きな辞典が並んでいるように見えるが、実は人間が息を殺して隠れている。実にバカバカしい着想だが、怪奇小説というものは、こういうバカバカしい所から、だんだん物になって行くことがある。  私は昔、人間が椅子になる話を書いたことがある。これなんかも、着想は実にバカバカしいのだが、人間が椅子に化けられたら面白かろうと、一点の着想から、だんだん考えを進め、尾ひれをつけて「人間椅子」という小説ができた。そして、当時はなかなか好評だった。  人間は、あるがままの自分に満足していない。美男の王子さまや、騎士になりたいとか、美しいお姫さまになりたいというのは、最も平凡な願望だが、美男美女英雄豪傑の出てくる通俗小説というものは、そういう願望を満足させるために書かれたと云ってもよい。  子供の夢はもっと放胆である。現今の童話は遺憾ながら、そうでないが、昔の童話には魔法使いの魔力によって、人間が石像になったり、けものになったり、鳥になったりする話が、たくさんあった。何かそういう、ほかのものになって見たいのである。  ほんとうに一寸ぐらいの大きさの人間になれたら面白かろうという空想は、昔から行われた。お伽噺の「一寸法師」は縫い針を刀にして、お椀の舟に乗る。江戸時代のエロ本に「豆男もの」というのがある。仙術によってからだが一寸ぐらいになり、人の目につかないので、美女のふところにかくれたり、|遊《ゆう》|蕩《とう》|児《じ》の袂に|辷《すべ》りこんだりして、少しも相手に気づかれることなく、さまざまの情事を見聞する。西洋エロ本のノミの話は、同巧異曲だが一層自由自在である。大山脈のごとき人間の肉体のあらゆる部分を、つぶさに踏査することができる。 「板になりたや、湯舟の板に、好きなあの子の肌にふれたや」という古代ギリシャの|諧謔詩《かいぎゃくし》がある。日本にも似たような歌があったと思う。人間はある場合には、浴槽の板にさえなりたいのである。  もっと尊い方面では、神仏の化身というのがある。神さまは何にでもお化けなさる。全身おできだらけの乞食に化けて、人間がそれを親切にするかどうかをためし、親切にしたものに、大なる福をお授けになる。鳥にでも、けだものにでも、さかなにでも何にでもお化けなさる。神さまというものは、人間の理想を象徴するのだから、この変身化身の術も人間の最も願望するところの一つの理想の境地に相違ない。いかに人間が「化ける」ことを好むかの一証である。  それ故にこそ、世界の文学を|遡《さかのぼ》って見ると、大昔から「変形譚」の系列がある。これを歴史的に調べると面白いと思うが、今私にはその智識がない。ごく近年のもので、この一年ほどのあいだに、私は二つの現代的変形譚を、たいへん面白く読んだ。一つはカフカの「変身」(「新潮」に訳された)一つはフランス現代作家マルセル・エイメの「第二の顔」しかし、この二作は、いずれも化ける願望そのものでなく、望まずして化けたが故の悲惨を取り扱っている。化ける願望の裏がえしである。  前者は周知だから、後者について一言する。このエイメの作はごく新らしい。一九五一年ガリマール初版である。私はハーパー社版の英訳で読んだ。一冊の本にまとまっているが、長篇というよりは中篇である。  妻子のある中年の商人が、ある時、突然、二十代の美青年に変身する。何かの証明書を貰おうとして官庁の窓口で、自分の写真をさし出すと、役人が変な顔をするのである。 「誰かの写真を取りちがえて持って来たのではありませんか」「いいえ、それは私の写真です」役人は気ちがいだと思う。写真は五六十歳の頭のうすくなった、皮膚のたるんだ、平凡な男。本人は二十代のハツラツとした美青年。役人をからかっているのか、気ちがいか、どっちかだ。役人は後者と判断し、いたわって帰らせる。男は、少しもわけがわからない。帰りがけに、ふとショーウィンドウに写った自分の姿を見て、あっけにとられる。目がどうかしているのだろうと、いろいろにためして見るが、自分にちがいない。似ても似つかぬ美青年に生れ変ったのである。「化ける願望」から云えば、この男は、ここで大いに喜ぶべきであるが、金もあり、地位もあり、愛妻もあり、愛児もある普通人だからかえって喜ばない。ただ不安になるばかりだ。天涯孤独のニヒリストか、犯罪性のある人物なら狂喜するのだが、現実家の社会人には喜べない。家へ帰るのが恐ろしい。到底細君が認めてくれそうもないからである。  仕方がないので、まず親友のところへ行って、事の次第をうちあけるが、親友は信じない。この現実世界に、童話めいた変身などということが、あり得るはずはないからである。親友はかえって疑念を抱く。そんなことを云って、この男は金持ちの商人をどこかに監禁し、あるいは殺害して、商人になりすまし、財産を奪おうとしているのではないかと疑う。この親友は詩人なので、二人一役の犯罪トリックはよく知っている。  ここで、ちょっと探偵小説の話になるが、エイメは探偵作家ではないけれども、その作には探偵小説的要素が多い。谷崎潤一郎の「友田と松永の話」や、もっと手近かな所で云えば、私の短篇「一人二役」を裏返すと、このエイメの着想になる。  変身男は、どうにも身のふりかたがつかない。誰にも知られぬ戸籍のない一美青年として、人生を出直す勇気はない。財産も惜しいし、妻子も惜しいのである。そこで窮余の一策を思いつく。前身の商人として住んでいたフラットのある同じ建物の一室を借りて、別の名でそこに住み、自分の細君を恋仕掛けで我がものにしようとする。自分の前身、つまり細君の夫は、この世に存在しないのだから、文句を云われる心配はない。結局は結婚して、元の自分の家庭におさまるという計画である。どう考えて見ても、そのほかに、仕様も模様もないのである。  そこで、自分自身の妻に、別人として、再度の恋愛をするという、奇怪な境涯に入る。これがやはり、旧作「一人二役」や「|石榴《ざ く ろ》」において、私が最も興味を持った境涯なのである。この細君は、美人で、少々浮気者だったので、この計画は意外にたやすく成功する。成功したときの何ともいえない変な気持。自分の妻が不義をしている。しかも、その相手が自分自身なのである。美青年としての喜びと五十歳であった前夫としての憤りとが、|混《こん》|淆《こう》するのである。  この不義の恋愛は、子供や隣人の前では、やれないので、自然二人は申し合せて外出する。それが度重なるうちに、ある日、親友の詩人に、二人が手を組んで歩いている所を見られてしまう。詩人のこの時の表情がすべてを語っていた。彼は美青年の悪計が、いよいよ熟して、ついに細君を手に入れたと考えたに相違ない。親友の財産と妻を盗もうとしている。これは捨てておけない。しかも、その親友は、行方不明になったまま、一週間たっても、十日たっても帰って来ない。いよいよただごとではないぞ。あの顔の美しいヨタ者め、おれの友人を殺したにちがいない。このまま放ってはおけない。警察に知らせて調べてもらうほかはない。詩人がそう考えたにちがいないと、変身男は直感したのである。  とつおいつ思案のすえ、変身男は、細君と遠方へ駈けおちすることを考える。それにはいろいろ、うまい理由をこしらえなければならないが、ともかくも、細君を納得させることが出来そうである。その、せっぱつまった状態になったとき、まるで悪夢が醒めるように、変身がもとにもどることになる。食堂でうたたねをして、ふと目覚めると、自分は元の五十歳の中年商人に戻っていたのである。やれやれという|安《あん》|堵《ど》と共に、せっかくの冒険が惜しいような、異様な気持である。  彼は、元の商人として家庭に帰る。不在の理由は、突然商売上の急用ができて、外国へ旅をしたと云えばすむのだ。そして、美青年は行方不明となり、元通りの夫婦生活がはじまる。ところで、ここに今一つの、奇妙な心理が描かれる。それは、元の中年商人に戻ったこの男は、妻の不義を、身をもって知っているという、どうにもおさまりのつかない心理である。妻は口をぬぐって、何喰わぬ顔をしている。一度も他の男を知らない貞節なる妻のごとくふるまっている。それを、こちらも何喰わぬ顔で観察している。気持は憎しみよりも、憐れみである。姦夫が自分自身なのだから、腹も立たない。むしろ異様な興味さえ覚える。変身という虚構によって、始めて生じた一種異様の心理状態である。私はかかる虚構の物語を愛する。  エイメの作は、もう一つ英語で読んだが、これも面白かった。平凡な勤め人の頭の上に突然、後光が出来る。神々の頭の上にある、あの光った輪のようなものである。それは信仰厚い勤め人を神がよみしたもうたからなのだが、勤め人は大いに迷惑する。町も歩けない。人が指さし笑うからである。一応は大きな帽子で隠す。会社の事務室でも帽子を冠ったままでいる。しかしそんなごまかしは長つづきしない。到る所で嘲笑され、細君には|罵《ば》|倒《とう》され、神の栄光を呪いに呪い、ついには窮余の一策、後光の消失を願うのあまり、神の怒りを買うことを考える。つまり罪悪を行うのである。嘘をつくことからはじめて、だんだん重い罪へと進むが、後光は消え失せない。もっと重い罪を、もっと重い罪を、これでもか、これでもかと、おそろしい罪悪を重ねて行くという話。……この人の小説はもっと読みたいと思っている。  話がわき道にそれたが、エイメの「第二の顔」は変身願望の裏返しだが、上記の荒筋では分らぬけれども、変身の魅力についても語っている。裏返しにせよ、変身願望と無縁の作者には、こういう小説は書けないわけである。  化けたい望み。それがいかに普遍的のものであるかは、化粧という一事を考えてもわかる。化粧とはすなわち軽微なる変身だからである。私は少年時代、友達とお芝居ごっこをして遊んだが、女の着物を借り、鏡の前で化粧するときの、一種異様の楽しさに、驚異をすら感じた経験がある。俳優というものは、この変身願望を職業化している。一日中に幾たりの別人に生れ変ることであろう。  探偵小説の変装というものが、やはり、この変身願望を満足させる役割を果している。トリックとしての変装は、今日ではもうほとんど興味がなくなっているが、変装それ自体には、やはり魅力がある。変装小説の頂点をなすものは、整形外科による完全な変貌を取扱った作品であろう。その代表的作品は、戦前アントニー・アボットが提唱して「大統領探偵小説」と銘うって出版したあの合作小説だ。これについてはしばしば書いているから繰り返さぬが、整形外科によって別人になる可能性は充分考えられる。これは現代の忍術であり、現代の|隠《かく》れ|簔《みの》であろう。この意味で、変身願望はまた「隠れ簔願望」にもつながるものである。 [#地付き](「探偵倶楽部」昭和二十八年二月特別号)     隠し方のトリック  私の子供のころ、名古屋地方には「ゴミ隠し」という遊びがあった。一人の子供が地面に四角な区劃を描いて、ある特定のゴミ、マッチの棒などの木や|藁《わら》の切れっぱしだとか、小石などをその区劃の中の土に埋めて隠すと、他の子供が、それを探し出すという、いわば「隠れんぼう」を極端に縮小したような遊びであった。私は子供のころ、この遊びに、何とも云えぬ面白さを感じたものである。  青年時代、友達と二人で、|小遣《こづかい》もなくて退屈していた時「ゴミ隠し」を少し大きくしたような遊びを思いついて興じたことがある。私とその友達が交互に隠し役に廻り、例えば一枚の名刺を、机の上のどこかへ隠すのである。机の上には本や硯や|煙草《た ば こ》や灰皿やその他雑多の品がゴタゴタと並んでいる。その机上のジャングルの中へ、一枚の名刺を隠すのだが、私は当時流行していた朝日とか敷島とか口つきの煙草の、口の部分の芯になっている厚紙を抜き出して、その代りに、問題の名刺を細く巻いて入れておくというような手を用いた。また、名刺に一面に墨を塗って、黒いお盆の裏に貼りつけて隠すというような手も考え出した。この遊びでけっこう一日の退屈をまぬがれたものである。  探偵小説にはこの「隠し」の興味がしばしば取入れられる。犯人が隠して、探偵が探すのである。その最も優れた例は、ポーの「盗まれた手紙」であろう。心理の逆をついて、隠す代りに、わざと目の前に放り出しておくという手である。チェスタートンはこの手を人間の隠し方に応用し「見えぬ人」を書いた。郵便配達夫の職業が盲点になって、すぐ前にいてもわからないのである。それをまたクイーンが長篇の「Xの悲劇」に応用した。車掌や渡し舟の切符切りが、隠れ簔となる。いつも目の前にいるのに、まるで気がつかないのである。  トリックと云えば、すべて何事かを隠すためのトリックに相違ないが、ここでは、物品を隠す場合と、人間を隠す場合の、古来用いられたトリックを、幾つか思出して見たいと思う。隠す品物では、宝石、黄金、書類などが最も多いが、かつて私がメモをとった「トリック表」を見ると、まず宝石類の隠し場所としては、犯人が自分のからだの傷の中へおしこむ、|鵞鳥《がちょう》に呑ませる、犯人自身が呑みこんでしまうなどが極端なもので、普通の隠し場所としては石鹸の中、クリーム瓶のクリームの中、チューインガムに包む、ネックレスをクリスマス・ツリーの金ピカ装飾の間へ引っかけておく、というようなものがある。  宝石を呑みこんで、あとで|排《はい》|泄《せつ》|物《ぶつ》の中から探し出すとか、婦人が局部に隠すとかいうのは小説としてはかえって平凡だが、傷口に隠す手は、小さなものを隠すために、自分のからだを傷つける、または、既にある傷におしこむという、大きな苦痛をこらえるところに、奇妙なスリルがある。私のメモにはこのトリックの作例として、ビーストンの「マイナスの夜光珠」があげてあるが、ほかにもあるだろうと思う。「血達摩」の芝居で、土蔵の中で猛火に包まれた主人公が、お家の宝物の一軸を救うために、切腹して自分のはらわたの中に押しこむという着想は「隠す」ためではないけれども、この種のスリルの最も著しいものであろう。  小説として、奇妙な味の忘れがたいものはドイルの「六つのナポレオン」の、同じ型の石膏像が六つあって、そのうちのどれに宝石を隠したかわからなくなるという着想と、同じくドイルの「青い紅玉」の、宝石を鵞鳥に呑ませて隠したところ、どの鵞鳥だったかわからなくなるという着想である。アーサー・モリスンの長篇「十一の瓶(1)」も同じ着想を使っている。 [#ここから3字下げ] (1)「緑のダイヤ」 [#ここで字下げ終わり]  金貨を隠すトリックでは、ロバート・バーの短篇に奇抜なのがある。老人の守銭奴が莫大な金貨を死蔵していたが、彼の死後、その金貨が行方不明になって、いくら探しても分らない。家探しをし、天井や床板までめくって見るが、出て来ない。地中に埋めた様子もない。ところが、金貨は、たえず探し手の目の前にさらされていたのである。老人は生前、火炉やフイゴやカナシキなどを買入れて、何か鍛冶屋のような真似をしたことがわかるのだが、それは全部の金貨をとかして、のべ金にした上、紙のように薄くたたきのばし、これを家中の壁にはりつけ、その上から普通の壁紙を貼って隠したのである。金貨を驚くべき広さに引きのばして、部屋部屋の壁に充満させたという意表外の隠し方に興味がある。  カーのある短篇に凶器の隠し方で面白いのがある。室内で一人の人物が鋭い短剣で殺されている。この部屋は一種の密室で、凶器は絶対に部屋から持出し得ないような状況なのだが、それにもかかわらず、室内をいくら探しても短剣が出て来ない。不可能が為しとげられたかに見える。しかし、実はこの場合の凶器は鋭いガラスの破片であった。犯人はそれを、室内に置いてあった大きな金魚鉢のようなガラスの容器の中に沈めて逃げたのである。水に入れる前に、よく血を|拭《ぬぐ》ったことは云うまでもない。  これに似たトリックで、凶器を隠すのではなくて、消滅させてしまうのがある。それは鋭くした氷の破片又はツララを短剣として利用するもので、間もなくこの凶器は溶けて無くなってしまう。この種のトリックについては「凶器としての氷」という随筆に書いたことがあるのでここにはくりかえさない。  書類又は紙片の隠し場所ではバイブルなどの厚い表紙をはがして、その間にはさんでおく手がしばしば用いられるがこれは平凡である。私は、紙幣を植木鉢の土の中に隠させたが、これも一層平凡だ。しかし植木鉢の例は西洋にもあり、クロフツがある短篇に使っている。紙片の隠し場所で奇抜なのはルブランの「水晶の栓」の義眼のうつろの中へ隠す手であろう。これと似たものでは、自殺のための毒薬の隠し場所に、フィルポッツは義眼を使ったが、これには義歯の使われる場合もしばしばある。  探偵小説に現われた人間の隠れ場所にも、いろいろ奇抜なのがある。重大犯人が別の軽い罪を犯して入牢し、牢屋そのものを隠れ場所とする手、病人を装って病院に入院して隠れる手などよく用いられる。先に記した犯人が郵便配達や車掌に化ける手も面白い。チェスタートンは飛びきり奇抜なトリックを思いつく名人だが、この「人間隠し」の手法でも、彼の着想が最も際立っている。脱獄囚が逃げて行く道に大邸宅の仮装舞踏会があった。脱獄囚は例の太い縞の囚人服のまま、その中へまぎれこんで、追手の目をくらます。邸内では囚人服の仮装とは妙案妙案と拍手をあびる。  ホームズの短篇には、警官に包囲された邸内から、ちょうどその時病死者があったのを幸、普通より大きな棺を作らせ、死人と一緒に棺の中に横たわって、邸外にかつぎ出され、警官の目をくらますトリックがある。クリスティーの短篇には、犯人が婦人のベッドの裾へもぐりこんで、婦人のベッドには遠慮するという心理を、うまく利用するトリックがある。ラティマーも「盗まれた美女」に同じ着想を使っている。  もっと簡単な手品では、犯人が案山子に化けて警官の目をごまかす(チェスタートン)とか、蝋人形に化ける(カー「蝋人形館の殺人」私の「吸血鬼」)などがある。  以上は生きた人間の隠し方だが、死体の隠し方トリックには、非常に多くの例がある。私の「トリック表」には、これを大別して㈰永久に隠すトリック㈪一時隠すトリック㈫死体を移動して隠すトリック㈬顔のない死体の四種類としている。  ㈰の死体を永久に隠す方法では、地中埋没、水中に沈める、火災又は火炉で焼却する。薬物で溶解する(日本の例では谷崎潤一郎の「白昼鬼語」)、煉瓦又はコンクリートの壁に塗りこめる(ポーの「アモンチリャドウの樽」私の「パノラマ島」)など、誰でも考えるような着想が多いが、ダンセイニの「二瓶の調味剤」のように、死体をたべてしまうというずばぬけたものもあり、死体をこまぎれにして、ソーセージにする(ドイツの実例)とか、死体に鍍金をして銅像のようにしてしまう(カー)とか、死蝋にする(私の「白昼夢」)とか、セメントの炉に投入してセメントの粉にしてしまう(葉山嘉樹「セメント樽の中の手紙」)とか、パルプにまぜて紙にしてしまう(楠田匡介「人間詩集」)とか、風船にしばりつけて空中埋葬をする(水谷準「オ・ソレ・ミオ」島田一男にも同案があった)死体をドライ・アイスにして粉々に割ってしまう(北洋の作)とか、枚挙にいとまがない。  ㈪の死体を一時隠すトリックでは、クロフツの「樽」、ナイオ・マーシュの羊毛の梱、ニコラス・ブレイクの雪だるま(これはセクストン・ブレイクにもあり、私も「盲獣」などで使っている。他にも例は多い)、カーの蝋人形、私の生人形と菊人形、大きなゴミ箱に隠す手は私も「一寸法師」で使ったが、チェスタートンも「孔雀の家」で使っている。大下宇陀児の「紅座の庖厨」では冷蔵庫に隠す。  チェスタートンには、戦場で将軍が私怨によって部下を殺し、その死体を隠すために、負けるときまった戦闘を開始して、味方の死体の山を築き、私怨による死体を戦死と見せかける思いきったトリックがある。たった一人のために数十人を|殺《さつ》|戮《りく》するという、残虐と滑稽のまじり合ったふしぎな味。  ㈫の死体の移動では、カーの長篇やチェスタートンの短篇に例があるように、死体を殺人現場から全く別の場所に運び、後の場所で殺人が行われたと思いこませて、捜査を困難にするトリックが基本的なもので、これに種々奇抜な工夫がつけ加えられて、無数の型を生んでいる。  戸外で物音をさせて、被害者を窓から覗かせ、一階上の部屋から、輪にした綱をおろしてその首に引かけて、つるし上げ、そのまま建物の裏側の窓からおろして、地上に待機していた共犯者に渡し、共犯者は、その綱を庭の木の枝に|括《くく》りつけて首つり自殺を装わせるという奇抜なトリックを、チェスタートンが案出した。  移動トリックでは、汽車の屋根を使うものが、思いもよらぬ味を持っていて最も面白い。これの先鞭はドイルの「ブルース・パーチントン設計図」で、ブライアン・フリンという作家が長篇「途上殺人事件」で、汽車を二階つきの乗合馬車に替えて同じトリックを使い、日本では私の「鬼」横溝正史の「探偵小説」がこの着想を借りている。死体を貨物列車の屋根にのせ、遠く隔たったカーヴの地点で、それが地面にふりおとされ、殺人はその地点で行われたかに見えるのである。  もう一つ著しいものは、犯人の作為でなくて、被害者自身が歩いて移動したために、捜査を困難ならしめるという着想がある。ヴァン・ダインのある長篇では、鋭利な刃物で刺された被害者が、致命傷とも意識せず、自室まで歩いて行って、ドアに中から鍵をかけ、そこで絶命したために、非常に不思議な殺人事件の外貌を呈する。落語の「首提灯」に類する話である。カーは更に一歩を進めて、ある長篇で、屋外でピストルで頭部を撃たれた被害者が、ノコノコ歩いて家に帰ってから絶命するので、ふしぎな事件になる話を書いている。そして、そんなことが出来るものかという読者の非難をのがれるために、頭部を撃たれても即死しなかった犯罪史上の実例を引用している。  カーは死体移動のいろいろな手を案出して、長篇の中心トリックとしているが、それにはまず複雑な状況を組立てておかなければならないので、簡単に説明することはむずかしいが、その極端なものは、殺した死体を廊下ごしに投げて、落下した場所で殺害されたごとくみせかけるのである。これを一層極端にしたのが大坪砂男の「天狗」で、石弓のしかけで死体を遠くへ|投《とう》|擲《てき》する。自ら砲弾になって大砲から発射される見世物があったが、あれを探偵小説的に使用すれば、やはり一つのトリックとなるわけで、死体投擲または死体発射は、チェスタートン風のずば抜けたユーモラスなトリックの一種に相違ない。  これと似たものでは、いま作者の名を忘れたが探偵雑誌「ロック」の懸賞に当選した作品の中に雪除け機関車で、死体を遠くへはね飛ばして、ふしぎな状況を作る話がなかなか面白かった。  潮流を利用して死体または死体をのせた舟を移動せしめ捜査を困難にするトリックもよく使われる。西洋では合作小説「フローティング・アドミラル(1)」、日本では蒼井雄の「黒潮殺人事件」、飛鳥高のある作、島田一男のある作などにその例を見る。 [#ここから3字下げ] (1)「漂う提督」 [#ここで字下げ終わり]  ㈬の「顔のない死体」トリックについては、別項に書いたので、ここにはくりかえさない。 [#地付き](「探偵倶楽部」昭和二十八年八月号)     神なき人  これはミステリー文学の狭い視野から見た一つの人間観なのだが、むかし——これを第二大戦以前といってもよい——の「神なき人々」と現在の神なき人々との性格には、なにか全く違ったものがあるように感じられる。  ミステリー文学に現われた大戦前期型のニヒリスト犯罪者の見本は、シメノンの「男の首」の主人公ラデック、ヴァン・ダイン「僧正殺人事件」のディラード教授、フィルポッツ「赤毛のレドメイン」のベンディーンなどであった。例えば「ラデックは『罪と罰』のラスコーリニコフの性格をもっと極端に類型化したような人物である。ある金持の道楽者が妻を殺したいと考えている心理を見抜いて、その男のために殺人罪を犯してやり大金をゆすり取る。……この犯人は神をも道徳をも否定し軽蔑している。神や道徳が時と所によってその本質を異にするのは、それがやがて一つの社会的功利にすぎない証拠だと考えている。例えば一夫一婦主義と多妻主義の如く、ナポレオンの大量殺人と個人的殺人犯のごとく……」(旧稿「探偵小説に現われたる犯罪心理」より)つまり戦前型ニヒリスト犯人は、大ざっぱにいって、ラスコーリニコフを伝承するものであった。彼らは「神なき人々」ではあったが、全く「神を知らぬ人々」ではなかった。心のどこかに神が残っていて、その神への抵抗としてのニヒリズムだといってもよかった。  第二大戦中から戦後にかけて現われたミステリー文学で「神なき人」を扱って最も優れた作品は、アイルズの「事件以前(1)」リチャード・ハルの「伯母殺し」シメノンの「汚れた雪(2)」アンブラーの諸作など。カトリシズム作家グレアム・グリーンの主人公達にも「神なき人」がしばしば描かれているし、また、アメリカのハードボイルド派の諸作にも新らしい「非情」型犯人が登場している。これらの犯罪者達は神を否定するのでなくて、神を「知らぬ」人々である。神への「抵抗」ではなくて「無知」なのである。私はここに戦前型ニヒリストと全く異質のものを感じる。そういう感じを最も強く受けたのは、近読したシメノンの「汚れた雪」(La Neige Žta it sale)であった。この作の主人公少年犯人は、まずグレアム・グリーンの「不良少年」(ブライトン・ロック)を思い出させ、それから引いて前記諸作に現われた犯罪者達との性格類似に思い至ったのである。 [#ここから3字下げ] (1)「犯行以前」(2)「雪は汚れていた」 [#ここで字下げ終わり] 「汚れた雪」の主人公は十九歳の神なき少年で、戦後のドイツらしいある町で、占領軍の軍人を客とするパンパン宿を営んでいる母親と一緒に住んでいる。彼はピストルを射って見たいために占領軍の兵隊を殺し、|隠《いん》|匿《とく》宝石どろ棒の仲間に加わって、その持主の老婦人を殺す役を引き受け、酒をのみ、多くの少女を冒し、一方ほとんどプラトニックな恋愛をもする。最後に占領軍に捕えられて、拷問と死刑の予感に戦く。その少年の抵抗と孤独と恐怖とが、異様に生々しく描かれている。批評家はこの作を評して「シメノンはこの神なき少年によって人間の全く新らしい一つの型を創造し、ヒューマニティに対する新らしい視野を開いた」と書いている。  これは一例だが、前記の戦後型ミステリー文学には、多かれ少なかれ、これに似た性格が描かれている。これらの犯罪者達はカミュの「異邦人」の系統に属するのではないだろうか。サルトルは「異邦人」を評して「善意を教える宣教師の到着以前の原始人のように罪がないのである」「社会のゲームの法則を知らないために、そこにスキャンダルを巻き起す、あれら怖るべき罪なき人々の一人である」と書いたが、新らしいミステリー文学に現われた前記の犯罪者達も正にかくの如き人々であった。ラスコーリニコフではなくて、ムルソーであった。  私はこれら西洋の新らしい「神なき人々」と、日本の戦後の青少年犯罪者達とを比べて見ないではいられなかった。西洋では、やっと近年になって神への無知が現われはじめたのに比べ、日本人はずっと早くから神を知らなくなっていた。明治以来は、神に代るものとして、儒教的な「家」中心の道徳に支えられていたが、戦後はその「神に代わるもの」をも失ったのである。西洋と日本では、このように「神なき人」の意味が違うけれども、青少年犯罪者に現われた特殊の性格、むかしのニヒリズムでは解釈出来ないような性格に、内外相通ずるものが感じられる。……ここからして、われわれは非常に多くのことが考えられそうである。 [#地付き](「毎日新聞」昭和二十八年十一月八日)     坂口安吾の思い出  坂口安吾君がこの二月十七日に|急逝《きゅうせい》された。四十八歳の若死にである。探偵小説に縁故の深かった同君の死を惜しみ、その思い出ばなしを少しく書いて見る。  坂口君に初めて会ったのは「新小説」昭和二十二年新春号のための座談会の席であった。だから実際この座談会をやったのは終戦の翌年、二十一年の十一月頃ではなかったかと思う。「新小説」は明治以来の春陽堂の文芸雑誌で、戦後もしばらく命脈をたもっていたが、間もなく廃刊になった。当時の編集長は松本太郎君で、純文学と大衆文学の双方から作家を集めて議論をさせ、一つの新らしい文学を生み出す機運に資したいという考えから、この座談会を開いたもののようであった。座談会の表題も「新文学樹立のために」というのであった。終戦直後のドサクサまぎれのようなところもあり、ここから何か新らしいものを生み出そうとする意欲も感じられるというような座談会であった。出席者の顔ぶれも、そういうときでなければ組合せられないような、従来に例のない人選であった。いろは順に九人の名がならんでいる。  井上友一郎、伊藤整、江戸川乱歩、大林清、木々高太郎、坂口安吾、平野謙、福田恆存、山岡荘八  この頃はアメリカ軍政によって、武士道小説、仇討小説、斬り合い小説、つまり刀を抜く小説が禁じられていたので、大衆文壇は探偵小説のひとり天下といってもよいほどで、各作家の昔の作品が続々本になっていた。この座談会が縁になって、坂口安吾、平野謙、荒正人の諸君が、われわれの探偵作家クラブの例会に出席するという時代であった。坂口君は二度ぐらいしかやって来なかったが、平野、荒の両君はもっとしばしば出席された記憶がある。又、そのころ、私は銀座裏の酒場「ルパン」で逝去直前の織田作之助君に出会い、「探偵小説を書かないか」と云ったら、「僕は書こうと思っている。この次の新聞小説に書くよ」と云って握手したものである。「宝石」はその頃今の五六倍の部数を売っていた。小売屋さんが直接岩谷書店へ仕入れに来て、店頭に行列を作るという有様であった。そんな情勢から、当時のジャーナリストの頭には、探偵小説というものが大きく印象されていたので、この座談会でも木々君と私と二人も出席を依頼されている。  座談会の記事を見ると、従来の座談会では二三行ずつポツポツしか話さない私が、最初から長い発言をして、全体に亘って非常に多く喋っている。これも当時探偵小説が世に容れられているというバックがあったためだろうと思う。坂口君は売出しの流行作家であったが、この座談会でははなはだ無口で、時々オヒャラカシたような寸鉄的な発言をしているにすぎない。例えば、 (大衆を離れた文学ではいけないという話に対して)「僕は一般的に読まれたくないね。正直なところ、僕は普通の人に読まれたくないのです。(笑声)或る魂の病人みたような人の一服の鎮痛剤というか、|麻《ま》|痺《ひ》|薬《やく》といったようなもので、病人以外の人に読まれたくない。不健全ですからね……」 「僕は大体文学というものは、読者というものを相手にしたものは一種の|口《く》|説《ぜつ》だと思うが、その情熱が足らないのではないか。純文学の連中は、面白くないということを何か純粋と思っているね。実にばかな話ですね。退屈するということは悪徳だと僕は思っている」「僕は大衆文学の方が俗悪に徹していないように思う。僕の方がよほど徹している。(笑声)」  これは一例だが、坂口君はこんな風な短い発言を七八度しているにすぎない。その無口の中で、自分も探偵小説を書く気だということは、ハッキリ云っている。私はクイーン雑誌コンテストにフォークナーが応募している話をして、日本の純文学の人も、そういうサバケた態度に出てもらいたいと云うと、坂口君は直ちにこれに応じて、 「僕は本格(探偵)小説を一つ書く予定です。読者と競争しようと思っている。犯人を当てっこさせて、誰にも判らない小説を、昔から一つ書きたいと思っている」  と云い、また別のところで、私が、探偵小説でも、英米のような構成の綿密なものが出るといい、と云ったのに対して、坂口君は、「僕はそんなことは何も考えず、読者が犯人を当てるかどうか、それが愉しみです」  と、自作への抱負をもらしている。  座談会の引用はこれだけにとどめるが、坂口君が一つ探偵小説を書いて見ようと考えたのは、終戦直後の探偵小説流行に影響されたという意味も多少あっただろうが、もっと遡って別の動機があった。それは戦争中、何も書けなかった時代に、「近代文学」の人々、平野謙、荒正人、大井広介その他数人の諸君と共に、坂口君は主として西洋の本格探偵小説(クリスティーが一番面白いと云っていた)を愛読し、皆で寄り合ったとき、誰かが長編の前半を朗読して、データの出揃ったところで読むのをやめ、皆がその解決を紙に書いて見せ合うという、論理的な犯人探し遊戯に耽っていた時期があり、これが探偵小説への病みつきとなった模様である。  前記の座談会が発表されて間もなく、雑誌「日本小説」に坂口君は「不連続殺人事件」の連載をはじめた。それのはじまるまでに、一度か二度われわれの土曜会に出席したが、スピーチを頼んでも余り長い話はしなかったように記憶する。私はこういう人が探偵小説を書いてくれれば探偵文壇が大いに賑かになると思ったので、土曜会に誘いもし、友達になろうともしたが、坂口君は無愛想で、そういう親しみは見せなかった。私が土曜会の帰りに一杯やろうという態度を見せても乗って来なかった。ひょっとしたら彼が土曜会へやって来たのは一種の敵状偵察だったのかもしれない。又、もう一つ邪推をすれば、彼が座談会で云っている「ある魂の病人みたような人の鎮痛剤云々。病人以外に読まれたくない」というような性格が私の一部にもあるので、それに興味を持っていたのが、会って見ると、ひどく平凡な俗人なので愛想がつきたのかも知れない。いずれにしても、私は坂口君に振られたような気がしたので、私の方でもこの人とは交友関係は結べないのだと思って、引きさがってしまった。  連載をはじめた「不連続殺人事件」には毎月本文の末に、オヒャラカシたような挑戦状がついていた。それは読者へのものでもあったが探偵作家へのものでもあり、どうだいお前たちにもわかるまいという、人を小馬鹿にしたような文章であった。私はこれにも反感を持った。だから、その挑戦に応じる気にもなれず、連載第一回を卒読したきりで、毎月は読まなかった。  ところが、いよいよ完結してみると、やはり探偵作家としての責任上、一読しなければならぬと思い、通読したのだが、従来の純文学作家の探偵小説なみに考えていただけに、そのトリックの構成がよく考えてあるのに|一驚《いっきょう》を|喫《きっ》した。そして、私は昭和二十三年十一、十二月合併号の「宝石」に「不連続殺人事件を評す」という長文の讃辞を書いたのである。坂口君個人には前記のような感じを持っていたけれども、それとは別に、小説そのものに感心したからである。  あの批評は、探偵文壇からは、褒めすぎだと云われた。たか[#「たか」に傍点]を|括《くく》っていたところへ、よく考えた本格構成を見せられたので、反動的に感心しすぎた点がなかったとは云い切れぬが、あれは当時の私の本当の感想であり、今でも間違っていたとは思わない。 「不連続殺人事件」はその年度の探偵作家クラブ賞作品となった。これも、|詮《せん》|衡《こう》委員の一部には、外部の人にやるよりも、多年探偵小説で苦労して来た人にやるべきだという説があったが、私は「不連続」への授賞を主張し、それが多数決となった。そして、土曜会の一日をさいてクラブ賞贈呈式をやったのだが、その席へ坂口君は出て来なかった。私は探偵作家などから賞を貰うことを、いさぎよしとしなかったのかと邪推した。当時は副賞が僅か一万円ぐらいだったと思うが、幹事がその賞金を坂口君に届けると、これはクラブに寄附するということであった。クラブでは、ただ貰うのも何だからというので、それを坂口君の終身会費にくり入れた。従って坂口君は逝去まで探偵作家クラブの、一度も出席しない会員であった。  坂口君の探偵作品については、中島河太郎君が詳しい目録を作ってくれるそうだし、私は今手元に資料がないので、題名などをあげることは出来ないが、「不連続」の次にもう一つ長編探偵小説を書きかけて、雑誌廃刊のために中絶したのがあったと思う。  そのあとでは明治初期を舞台とした短編「安吾捕物帖」を沢山書いている。これも好評であったが、私は一二編しか読んでいない。そして、文章は坂口流で面白いが、筋は「不連続」のようによく考えた創意のあるものではなかったように感じている。  私の私情は別として、純文壇の人で、おれは探偵小説を書くのだと宣言し、それを見事にやって見せた作家は、あとにも先にも坂口君のほかにはいない。その点で同君の死は探偵小説のためにも、はなはだ惜しまれるのである。 [#地付き](「宝石」昭和三十年四月号)     蒐集癖  骨董品から切手、マッチのペーパーにいたるまで、いろいろな|蒐集癖《しゅうしゅうへき》がある。古書蒐集もその一つで、私は専門の探偵小説のほかに、西鶴を中心とする浮世草子、それに続く八文字屋本などを集めている。普通、蒐集といえば、そういう他人の作品を集めることに限られているようだが、私は昔から自分に関する文献の蒐集癖をも持っている。アルバムに自分や家族、友人の写真を貼りつけておくのも一種の蒐集だが、私のはそれが、あらゆる方面にわたっている。いやしくも自分に関するものなら何でも保存しておく。この趣味は作家以前の青年時代からきざしていたが、年とともにそれが嵩じて来た。  私は日記がつけられない性格なので、この蒐集は日記の代用という意味も持っている。自分の著書、新聞雑誌の自作の切り抜きは勿論のことだが、印刷された自分の写真、インターヴュー談話筆記の新聞記事、印刷された私への批評、自作の映画台本、著書や映画の宣伝パンフレット、新聞広告、ポスターにいたるまで、目につく限り保存する。印刷しないものでは、友人からの手紙、これは四十年来一つ残らず保存している。それから自分が貰った免状、感謝状、どこかへ勤めた時の辞令の類にいたるまで漏らさない。それらを年代順に並べると自分の伝記ができる。つまり自分の歴史として残しておくのである。  歴史家や好事家は過去の他人に関する資料を血眼になって蒐集するが、自分に関するものは蒐集しない。これは主客転倒ではないか。史上の人物の方が自分より偉いから蒐集の価値があると考えるのかもしれないが、そんな他人よりも自分自身への執着なり興味なりの方が強いはずではなかろうか。人々はなぜ他人のものばかり集めて自分のものは顧みないのであろう。自分が一番可愛いのだから、自己蒐集こそ最も意味があるのではないか。自分のものを集めるのには、自分こそ最適の立場にあり、最も正確を期することもできるわけである。自分のものはほうっておいて、他人の作った、学問的にも大して意味のないマッチのペーパーや料理屋の引札なんか集めている人の気がしれない。  私はそういう考え方から、戦争中探偵小説が禁じられた暇にまかせて、集めておいた資料のうち、手紙や数頁にわたる切り抜きなどは袋に入れて分類し、小さなものだけを年月順に貼りつけて、二冊の大きな|貼《はり》|雑《まぜ》年譜というものを作ったが、今後も暇ができれば第三冊、第四冊とつづけて行くつもりである。この貼雑年譜は、思い出話など書く時に非常に役に立つ。私は数年間「宝石」に「探偵小説三十年」という回顧録を連載しつづけているが、その資料は大部分この貼雑年譜から出ている。 [#地付き](春陽堂『江戸川乱歩全集』付録冊子、昭和三十年七月)     池袋二十四年  立教大学近接地の古くからの住人として、何かこの雑誌に書けということであった。なるほど、わたしは立教大学正門前、郵便局横丁に住んでから、今年であしかけ二十三年になる。それに、数年前からわたしの息子の平井隆太郎が、大学の助教授として勤めるようになり、一層縁が深くなったわけである。しかし、わたし自身は、その二十三年間、大学とは直接にはなんの関係もなかったので、立教大学について感想を書くというほどの材料がない。全く無いとはいえないが、甚だ乏しいのである。その乏しい材料を、出来るだけ思い出して、そこはかとなく書きつけてみる。  わたしが今の住所へ引越してきたのは、昭和九年七月だから、今年であしかけ二十三年になる。又、それよりずっと前の大正十一年に、元豊島師範正門前(池袋八六六番地)に半年ほど住んだことがある。それをあわせて、あしかけ二十四年の池袋ずまいというわけである。  その大正十一年には、私の先輩の庄司雅行という人が、池袋三丁目の今の立教中学の前のあたりに家を建てて、郊北化学研究所という名前でポマードの製造をやっていて、半年のあいだ、わたしはその研究所の支配人を勤めた。それはわたしが小説を書きはじめる直前のことで、初夏の頃には、それをやめて大阪の父の家に帰り、「二銭銅貨」という探偵小説の処女作を書いたわけである。  そのころの池袋は実にさびしかった。今とは全くちがう非常に狭い|常盤《と き わ》|通《どお》りが唯一の中心地帯で、商家が軒を並べ、新開地の繁華街という感じだったが、そのほかの一帯は、点々として住宅が建っているばかり、町らしい町もなく、立教大学の周辺などは、ずっと原っぱで、まだ畑があったように覚えている。そのころの立教大学の建物は、全部赤いレンガで、今の何分の一の棟数しかなく、それが原っぱの中に、ポツン、ポツンと建っていた。わたしは初めてその建物を見たとき、あれが寄宿舎だと教えられて、ひどく羨ましく思った記憶がある。それは二階建ての赤レンガの長い建物が、四つか五つ、ちょうど今の都営アパートのように、行儀よく並んでいて、おそらく大部分の学生が、その純洋風の部屋に住んでいたのではないかと思う。当時の立教大学はまだ宗教大学の色彩が強く、卒業生も牧師になる人が多かったのであろう。したがって学生の数も少なく、そういう|贅《ぜい》|沢《たく》な寄宿生活ができたのであろう。そのエキゾチックな純洋風の部屋を与えられている学生が、羨ましくて仕方がなかったのである。しかし、今のように学生がゾロゾロと町を歩いているようなことがなく、学生の服装などは記憶がない。その後、昭和九年に今の住所へ引越して来たときには、学生の服装がおしゃれなのに驚いたものだが、大正時代の学生も、同じように、おしゃれな服装をしていたのであろうか。  今のわたしの家は、昔風の土蔵がついているのが気に入って、引越しをしたのだが、これはもと、どこかの県知事が別宅として建てたもので、物々しい昔風の門があり(この門と、塀と、物置小屋は戦災で焼けた)、門内には人力車の車夫の待つ、供待ちの小屋まで建っていた。門前には豊島区第五小学校の木造二階建てが聳え、裏は神学院に接していた。この小学校も神学院も、戦災で焼けてしまって、私の家だけ残った。戦前には、わたしの家のすぐ裏に外人教授の校宅があり、土蔵の窓から見おろすと、御主人の外人が自動草刈器をガラガラいわせて、庭の芝生を刈っていたり、可愛らしい外人の子供たちが遊んでいたりしたものである。  そのむこうに神学院のチャペルが聳え、日に三度、そこの鐘楼の鐘がガランガランと鳴りわたるのであった。その頃、わたしは土蔵の中を書斎にして、そこで仕事をしていたので、チャペルの鐘が、ことによくきこえ、そのことからして、昭和十二年の「ぷろふいる」誌に、「モンテーニュの塔」という一文を書いたことがある。その一部を抜粋してみる。 「モンテーニュはショペンハウエルなどと共に、ストアの気風をひいている点で、僕の気に入りの人物の一人である。 「モンテーニュの邸には、母屋から離れたところに煉瓦造りの小さな円塔があって、その塔の三階がモンテーニュの書斎であった。(中略)塔の三階の円形の壁はズッと書棚になっていたが、そのところどころに小さな窓があって、窓からは広い田園が見はらせた。モンテーニュは独りそのうす暗い部屋にこもって、読書をしたり、随想録をコツコツと書いたり、疲れると窓からの見晴しを楽しんだりした。 「僕は僕自身の土蔵の中を、モンテーニュの塔のミニアチュアとして考えてみることがある。僕の土蔵は廊下つづきではあるが、少なくとも家族の声の全く聞こえない程度に、母屋と離れているし、壁の書棚にはモンテーニュのような|羅《ラ》|典《テン》本はないが、ともかく本が一杯並べてある。その中には希臘古典のロエブ本も混っているので、僕は子供らしく、モンテーニュだって、プラトンやプルタルコスは羅典訳で読んだのだと呟いてみることもある。 「僕の土蔵は、壁の厚いこと、窓の小さいこと、殺風景で薄暗いことなどで、モンテーニュの塔のミニアチュアとして恥じないだけでなく、まだ似通った点がある。(中略)その一つは、モンテーニュの塔の頂上には小さな鐘楼があって、アヴェ・マリアの鐘が鳴ったものだが、僕の土蔵のすぐ裏には、|基督《キリスト》教の神学校があって、そこの礼拝堂の鐘が、朝、昼、晩の三度、ニコライの鐘より少し鋭い音で、グワングワンと鳴りひびくのである。(後略)」  戦争前のわたしは、極端な人嫌いで、近所づきあいも全くせず、人が訪ねてきても面会せず、土蔵の中の孤独だけを愛していたので、池袋の町にも、近くの立教大学にも、全く無縁の生活であった。  しかし、戦争になって、隣組というものができると、その常会に出席しないわけには行かず、はじめはいやいや出ていたのが、だんだん社交に慣れてきて、しまいには町会の副会長や警防団の町会防空指導係長や、区の翼賛壮年団の副団長にまで引っぱり出されるようになった。そんな勤めができたのは、戦争中、内閣情報局の方針で、探偵小説というものが全く書けない状態だったので、暇が有り余っていたためでもあった。戦争というものが、わたしの人嫌いな性格を一変させた。戦争は嫌いだけれども、やりかけた以上は敗けてはみじめだと思った。腕をこまぬいて傍観している気にはなれなかった。そこで、最末端で出来るだけ力をつくそうと考えたわけである。  わたしは、戦時国債を町会の人たちに売りつけた。防空指導係長としては、防空訓練の指揮をした。立教大学はそうでなかったけれど、姉妹校である神学院はわたしの町会に属していた。又立教大学教授の校宅が幾つか、神学院の構内にあった。そこで、国債消化と防空訓練で、それらの人たちと交渉する機会が多くなったのである。  そういう交渉のあった人々のうちで、最も深く印象に残っているのは、後に立教大学総長になられた佐々木順三さんと、神学院教授の黒瀬保郎さんであった。佐々木さんは神学院内の校宅に住んでおられ、わたしと同じ町会員であったが、この人がユーモア作家佐々木邦さんの弟さんであることを知って、一層親しみを感じ、お宅へもよくお邪魔した。国債消化や防空のことには、多くは奥さんが応接されたが、わたしは月に何度となく玄関を訪れて、奥さんにいろいろなことを伝達したり、交渉したりしたものである。随分御迷惑をかけた。当時、奥さんの妹さんが同居しておられ、町会の婦人部だったかの役員になって、よく働いて下さった。防空訓練にも、この妹さんが勇敢に出動して下さった。  神学院教授の黒瀬保郎さんは、町会の防空部長などを勤め、非常に働いて下さった。キリスト教徒のことだから、人づきの柔かい温厚な人であったが、アメリカ留学時代に、そこの学生の柔道師範をやられたほどで、柔道家らしいガッシリした体格の持主であった。防空指導には最適任者で、町会の防空屯所への出勤率も非常によく、池袋一帯が空襲によって火の海となった折にも、最も勇敢に働かれ、夜が明けて、みなが集合したときには、黒瀬さんの顔や手足が一番汚れていた。火災の油煙で真黒になっておられたのである。  池袋が焦土と化した直後、わたしは町会防空員の被表彰者を、わたしの町会の属する警防団分団長大曾根※[#「※」は「桂」を「金へん」にしたもの]治君(この人は立教通りの書店「大地屋」の主人で、つい近頃まで書籍小売業組合全国聯合会の理事長をやっていた人。警防団の方ではわたしの上役に当り、当時はごく親しくつき合っていた)に内申したものだが、その筆頭は、丸金自転車工業社長の早野勝雪君、第二が黒瀬保郎さんであった。その内申書の下書きが、今でも残っているので、左に写してみる。 「池袋三丁目一六二六、指導係部長、黒瀬保郎氏は、受持区域なる当町会南部一帯の消火指導に当り、東西に馳駆して率先猛火中に活動し、最後まで火災地域に踏みとどまりて敢闘せり。就中、第十一群の猛火、第十群次田氏邸に燃え移らんとせし際、附近隣組員を指揮して、これが延焼防止に当り、自から二階屋上に登り注水をつづけて同邸を守り、第十群全般の延焼を完全に食い止め得たるが如き、又、第十四群の消火に当りては、同群の立教前郵便局長堀田氏と共に最後まで消火につとめ、大曾根分団長にその敢闘ぶりを認められたるが如き、黒瀬部長当夜の活動は、以つて防空指導係の範とするに足るべく、その功績真に抜群なり」  ひどく四角ばった文章だが、指導係長というようなことをやっていると、こんな文章を書く気にもなったのであろう。  その夜、わたしの家のすぐ裏の神学院は丸焼けになり、あの鐘楼のあるチャペルも、煉瓦の残骸だけをのこして、焼けくずれてしまった。又、私の門前の第五小学校も全焼し、現在では、神学院あとも、小学校あとも、立教大学の運動場になっているが、表と裏の大きな建物が全焼したのに、間にはさまれたわたしの家だけは、不思議に助かった。門と塀と物置小屋を焼いただけで、母屋も土蔵も無事に残った。風向きがよかったこと、土蔵が焼夷弾を防いだこと、それから、今も立教大学の馬場のうしろにある八軒の家の当時の住人たちが、消火につとめてくれたことなどによるものであった。その八軒の住宅は、隣接の隣組で、わたしの家の属する隣組は、全部きれいに焼けてしまった。わたしの家だけがポツンと残って、祥雲寺下の辺から、わたしの家の土蔵が異様に大きく眺められたものだし、又、わたしの家から池袋駅までは、すっかり焼け野原になってしまって、家の障子をあけると、これも半分こわれた池袋駅が、直接眺められたものである。  神学院は焼けたけれど、立教大学は無傷であった。爆弾も焼夷弾も落ちなかった。立教はもともとアメリカの資金で建てられたものだから、そこだけを巧みに残したのだという噂がしきりであった。  敗戦となり、隣組が解消されると、町内の人々とつきあうことも少なくなり、神学院は焼けてしまったので、そこの人々との交渉もとだえた。三年ほど前、わたしの息子が助教授として御厄介になることになったので、佐々木さんとは今も御懇意に願っているが、そのほかには、わたし自身、立教大学との直接の関係は何もない。しいて云えば、戦後の出来事として一つだけ思い出すことがある。昭和二十四年の十月だったと思う。たしか立教大学創立何十周年かの記念の催しの一つとして、文学部から講演の依頼を受けたことがあり、ちょうどエドガー・ポーの百年忌に当っていたので、「ポーと推理小説」という題で講演をした記憶がある。同じ頃雑誌「宝石」のポー百年記念号に「探偵作家としてのエドガー・ポー」という長い文章を書き、後に随筆集「幻影城」に収めたが、多分あれに書いてあるようなことを喋ったのだろうと思う。その翌月の十一月には、早稲田大学文学部の依頼で、やはり「探偵作家としてのポー」という講演をしている。両方とも現東大教授のポー研究家、島田謹二さんと一緒で、島田さんのあとか先かに話したのだと記憶する。  近接地の住人として、立教大学に関係ある事がらを、つとめて思い出してみたが、以上のようなことしか浮かんでこなかった。編集者ならびに読者の|寛《かん》|恕《じょ》を乞う次第です。 [#地付き](「立教」昭和三十一年十月)     透明の恐怖  透明とはインヴィジブルの意味である。日本語で「見えない人」などと書くと、盲人とまちがえられるので、「見えない」のかわりに「透明」としたわけである。  透明は清らかなものを連想するけれども、一方では、なにかえたいの知れない、恐ろしい感じもある。ガラスが発明されたときには、恐ろしかったにちがいない。鏡となると、もっと恐ろしい。レンズも同様である。しかし、ガラスには手ごたえがある。手ごたえすらなかったら、もっともっと恐ろしかったであろう。明治三十年ごろの汽車の窓ガラスには、ペンキで白い線が引いてあった。田舎の人が何もないと思って、窓から頭を出そうとして、ガラスにぶっつけて、けがをすることが多かったからである。そのころはガラス|障子《しょうじ》というものが珍らしかった。  わたしの身辺に、人間だか動物だかわからないが、何者か全く目に見えないやつが、うろうろしているという感じ。これは恐ろしい。深夜、原稿を書いていて、ふと気がつくと、そいつが、わたしのそばに坐っている。全く見えないし、音もしないし、さわって見ても何もないけれども、たしかに坐っている。  名人モーパッサンはこの恐怖を小説に書いた。よく知られている短篇「オルラ」である。わたしはだんだん、その目に見えないやつの存在に気づいてくる。そいつの存在はどうしてわかるかというと、そいつが通りすぎるとき、むこうの景色が消えるからである。花の前を通れば花が見えなくなる。木の前を通れば、木が見えなくなる。この怪物は見えないけれども、普通に云う透明でもないのである。  わたしが庭に立っていると、すぐ目の前のバラの枝が一本だけ、グーッと折れまがって行く。なにか目に見えない手がひっぱっているような感じで、まがって行く。そして、そのさきに咲いていた一輪の赤いバラの花が、ポロリと枝をはなれて空中に浮く。浮いたままで落ちない。そして、その花は、そこに透明な人間がいて、透明な手で、口のところへ持って行くような曲線を描いて、スーッとあがって行ったかと思うと、私の眼前三尺ほどの透き通った空中に、むこうの空を背景にして、ひとつの真赤なしみ[#「しみ」に傍点]となって静止する。目に見えないやつが、バラの花をもぎとって、口にくわえたのである。  透明と云えば、われわれの身辺では、空気より大きな透明物はない。目に見えないものが恐ろしいとすれば、空気ほど恐ろしいものはないはずだ。ほんとうは恐ろしいのである。しかし、われわれは何百代の先祖から慣れて来ている。また科学的説明も聞いてしまっている。説明も聞かず、慣れてもいない大昔の先祖は、空気を空気と知らずして、どれほどか恐怖したことであろう。静止していれば何でもないが、動き出すと嵐になる。兇風となって、木を倒し、家を倒し、河は氾濫し、海には津波がおこる。原始人はこれを空気の激動とは知らず、神の怒りと考えた。原始人にとって、神ほど恐ろしいものはなかった。彼らはただ神におもねるほかに、なすすべを知らなかった。われわれの信仰というものは恐れから出発している。  わたしはかつて「怪談入門」という随筆を書き、ありふれたお化けや幽霊や妖婆や邪眼などでない、わたし自身こわいと思う怪談を九つに分類して、それぞれの例話をあげたことがある。その分類を再記すると、 [#ここから1字下げ] ㈰透明怪談 ㈪動物怪談 ㈫植物怪談 ㈬絵と彫刻(人形)の怪談 ㈭音と音楽の怪談 ㈮鏡と影の怪談 ㈯別世界(四次元)の怪談 ㉀疾病、死、死体の怪談 ㈷二重人格、分身の怪談 [#ここで字下げ終わり]  である。わたしはこれらのなかで、透明怪談と、人形怪談と、鏡怪談とに、最も心をひかれる。なかにも透明怪談が面白くて恐ろしい。  ジャック・ロンドンの短篇に「光と影」というのがある。二人の発明家が、人間のからだを透明にすることを考える。自分だけが透明になり、目に見えなくなったら、こんな都合のよいことはない。愛慾は思うままである。物を盗んでも、人を殺しても、絶対につかまることがない。自分のからだを見えなくするということは、人類何千年の夢であった。隠れ蓑、隠れ笠、|猿《さる》|飛《とび》|佐《さ》|助《すけ》の忍術など、みなこの人類の夢から生れた童話であった。わたしはこれを「隠れ蓑願望」と名づけている。発明家は人類の夢を現実化する係りである。だから、ジャック・ロンドンの二人の発明家は、この透明願望を実現させようとして、身命を賭するのである。  一人は人体を透き通らせることによって、見えなくしようとし、もう一人は人体を真黒にして、見えなくしようとする。これは、真の黒というものは、人の目には見えないものだという確信から来ている。闇夜には何も見えない。白昼に、その人のからだだけが闇夜となるのである。この二人の発明家は、どちらが完全に人間を見えなくすることが出来るかという競争から、互に|嫉《しっ》|視《し》反目し、ついには相手を亡ぼさないではおかぬ敵意に燃える。  やがて二人の発明は完成した。ある日、野外で、友人を立会人として、どちらの発明が真に目に見えないかの|雌《し》|雄《ゆう》を決することになる。定刻に二人の発明家は両方から現われてくるが、立会の友人には何も見えない。それぞれ自分の発明した方法によって、自分を見えなくしていたからである。しかし、彼らの発明は真に完全とは云えなかった。自分のからだを透明にした方には、日光に当るとギラギラ光る反射だけが残っていた。真黒になった方は、透明と同様に目に見えなかったが、地上に印する影までは消すことが出来なかった。だから、一方はギラギラ光る反射によって、一方は地上に動く黒影によって、その存在を知ることが出来たのである。  目に見えぬ二人の発明家は、相対して睨み合い、互いの優劣を争い、それでは足りなくて掴み合いとなり、ついに死闘となる。立会いの友人たちは、目に見えない二人の争いを止めることが出来ない。ただ傍観するばかりである。太陽を受けて回転中のプロペラのようにギラギラ光るものと、一方は地上に印する人体の黒影だけが、組んずほぐれつ、長いあいだ凄惨な死闘をつづける。そして、最後には双方とも動かなくなってしまう。影は地上に固定し、光りは地上に静止する。二人は相討ちとなって、同時に命を失ったのである。そして、二人の発明した科学的隠れ蓑の秘密は永遠の謎として残る。  ジュール・ヴェルヌとならんで、科学小説史上の両巨人であるH・G・ウエルズも、隠れ蓑の誘惑には勝てなかった。中篇「透明人間」はこの種の小説の代表的なものと云っていい。周知の作品だから説明には及ばないが、薬品の力によって全く透明となった人間が、いざ透明になってみると、種々の不便に耐えられなくなって、顔に|繃《ほう》|帯《たい》を巻きつけ、帽子をかぶり、服を着、手袋をはめて、元の目に見える人間に戻ろうとする。しかし、うっかり繃帯をとると、その中には何もない。顔のあるべき場所に何もないというあの恐怖が、巧みに描かれている。  二十年ばかり前に歿したアメリカのラヴクラフトという怪談作家がある。彼は怪談に憑かれたような狂熱の人で、病身のために一生ニューイングランドの自宅にとじこもって、妖異の幻想に耽り、それを次々と小説にして行ったが、そういう作品はアメリカの性に合わなかったのか、生前は世にあらわれず、死後になって全集も出るし、傑作集にも収録されるようになった作家である。  このラヴクラフトの短篇「ダンウィッチの恐怖」が、やはり透明妖怪である。これは人間ではなくて四次元からこの世界にまぎれこんだ怪物なのである。ある百姓が突然、気でも狂ったように、二階建ての大仏殿のように大きな|納《な》|屋《や》を建てる。中には何がはいっているのか、少しもわからない。その百姓は、そんな建物に入れるような物は何も持っていないはずである。  村人が不審の目をそばだてていると、その建物にだんだん変化がおこる。ある時、階上と階下をへだてる床がとり払われてしまう。しかも、建物の中には何もはいっていない様子である。そのうちに、建物全体がギシギシと音をたてて、ふくらんでくる。羽目板がふくらみ、屋根がふくらみ、|瓦《かわら》が落ちる。それを見て、百姓があわてふためいているのがよくわかる。ある夜、ついにその建物が破裂してしまう。爆弾が破裂したわけではない。何者か目に見えないやつが、内部から、建物をおし破ったのである。  その夜から村に大異変がおこった。百姓家が次々と破壊され、その辺の地面に恐ろしく巨大な足跡が残った。巨人があらわれて、人家を踏みつぶしたのである。村人はさてはと感づいて、二階建ての納屋を建てた百姓を責めると、こういうことがわかった。  その百姓の娘が、四次元からやって来た異界の魔物とまじわって、子をはらみ、生み落としたが、百姓は娘への恩愛の情から、その|魔性《ましょう》の子を、人目につかぬように育てるために、納屋を建てたのである。ところが魔性の子は納屋の中で異常発育をはじめ、たちまち階下一杯の大きさに育つ。仕方がないので、天井をうち抜いたが、その子供のからだは、一階二階に充満するほど生長してしまった。それでもまだ発育はとまらない。今度は納屋そのものがふくれゆがみ、羽目板は破れ、屋根がもちあがって、瓦がおちはじめた。そして、ある夜ついに、魔性の子は建物を破壊して、そとに飛び出し、村人の家々をつぶして歩いたのである。しかし、そのものの姿は少しも見えない。ただ巨大な足跡と、一種異様の臭気が残るばかりである。  最後に、この怪物は大ぜいの村人に追われて、向こうの山に駈けのぼるが、ある学者の発明した薬品を大きな噴霧器に入れて、決死隊が怪物に接近し、これを吹きかけると、その瞬間だけ怪物が正体をあらわす。村人たちは望遠鏡で遥かにこれを眺めると、現われた怪物の姿は、太いグニャグニャした縄がメチャクチャにもつれあったような巨大な球形で、その到るところに、いやらしい目と口と手足が無数についているという妖怪であった。これが異次元の生物だというのである。  怪談と恋愛は切っても切れない関係を持っているが、透明エロ怪談に面白いのがある。中国の「情史類略」には、あらゆる形の恋愛怪談が集められているが、西洋にもむろん恋愛怪談は多い。そのうち透明恋愛怪談で最も面白く思われるのはイギリス作家ロバート・ヒッチェンズの「魅入られたギルデア教授」である。主人公は恋愛はもちろん一切の愛情を嫌悪する哲学者。この風変りな学者が、あるとき目に見えぬ妖怪にとりつかれる。その目に見えぬやつは、彼の邸内に侵入し、たえず学者の身辺につきまとっているらしいことが、なんとなく感じられる。しかも、その妖怪は人間の女性らしいのである。  やがてこの妖物はいよいよ学者の身辺に近づき、ついにからだが触れ合うようになる。目には見えぬけれども、さわればわかるのである。相手はだんだん大胆に学者のからだにさわり、愛情にたえぬもののごとく抱擁し、愛撫し、接吻さえしようとする。愛情嫌悪の主人公には、それがいやらしくてたまらない。愛情のこわさと、幽霊のこわさが二重になって、ふるえあがる。愛情、しかも肉感的愛情を示す透明女幽霊の着想は、じつに面白いと思った。  日本の香山滋君が、やはり透明恋愛を書いている。同君の初期の作品「白蛾」というのだが、これは幽霊ではないけれども、人間の女が保護色によって、目に見えなくなり、それが普通の男性にいどみかかり、愛撫し、|同《どう》|衾《きん》し、悦楽する情景が描かれている。この欲情は、男性の方から云えば偶像姦よりも一層架空幻怪で、見えざるものとの触覚のみによる情交というところに、異様な魅力がある。いかなる変態心理学者も、いまだかつて透明姦という術語を使ったことはない。  透明怪談には、このほかにも、いろいろな種類がある。妻にだけ見えて|良人《お っ と》に見えない妖怪、幼児にだけ見えて大人に見えない妖怪、動物にだけ見えて人間に見えない妖怪など、それぞれに古来の傑作がある。だが、それに入っていると長くなるので、もう一つ別の透明怪談に飛ぶことにする。  それは全身は見えないけれども、手首だけ、足首だけが見えるという種類の怪談である。首だけが宙を飛ぶ怪談もある。東洋にはこれが多い。トルストイは怪談で何が一番こわいかと問われたとき、見渡すかぎりの雪野原に、人間はもちろん生きものの影は全く見えず、ただ長靴の足跡だけがポカッポカッと雪の上に印せられて行くのが、一番こわいと答えたそうだが、これも透明妖怪趣味である。  わたしは最近、手首だけのお化けの面白い小説を読んだ。それは先にしるしたラヴクラフトとならんで西洋怪談史上の二巨人の一人シェリダン・レ・ファニューの「墓場のそばの家」の中の手首幽霊の物語で、深夜ふと目覚めると、太った人間の手首だけが、芋虫のように、窓|敷《しき》|居《い》から忍びこもうとしている。飛びおきて行ってのぞくと、窓のそとには誰もいない。手首も消えてしまう。この手首は現われるだけでなく、ドアを軽く叩きつづけたり、ドアの鏡板を撫でまわしたりする。急にドアをひらいても、そこには誰もいない。その家に二歳ほどの小児があって、奇病に悩まされる。母親が終夜ベッドのそばについて看病していると、急に小児がむずかり出す。ふと見ると、小児の額の上に、よく太った白い手首がのっかっていたというのである。母親がすぐに小児を抱き取るが、すると、手首も消えてしまう。今度はドアのそとから、ドアを撫でまわす音だけがきこえてくる。  探偵小説の起こりは、ホレース・ウォールポールの「オトラント城」にはじまるゴシック怪談文学が、エドガー・ポーの数学的論理的頭脳を通って、変形したものだと云われている。ゴシック文学のなかで最もはやりっ子であったアン・ラドクリフ女史は、当時の他の作家とちがって、怪談に落ちをつけた。さまざまの怪奇現象が、実は悪人が人々をおどかすための作りごとであったというような解決のある怪談を書いた。怪談の立場からは、そうして読者に幻滅を感じさせることは邪道であると非難されるが、しかし彼女の作品は当時のゴシック作家の誰にもましてよく読まれたのである。ここに探偵小説の幽かな|萌《ほう》|芽《が》がある。ポーはそれを、もっと論理的な謎解き文学に変形して、怪談とは似ても似つかない論理探偵小説を発明したのだが、いくら似ていなくても、そこには親子の血統がある。近年流行の心理的スリラーは、ポーの論理趣味を無視して、昔のゴシック恐怖小説に立ち戻ったものだと説く人がある。むろん昔のままの怪談ではないが、犯罪心理の近代恐怖をもって、怪談の恐怖に替えたというのだ。やはり血筋は争われないのである。  このことからして、探偵小説は怪談小説の裏返しだという考えが出てくる。ラドクリフ女史が怪談に合理的な落ちをつけた。それを極端に論理化したのが探偵小説だとすれば、当然そういうことになる。その目で百十数年来の探偵小説を眺めると、探偵小説の裏には、あらゆる型の怪談が隠れていることがわかる。  元祖のポーの探偵小説にも、むろん怪談性がある。「モルグ街の殺人」で云えば、犯人のはいり得ない階上の部屋で、二人の女が人間|業《わざ》とは思えない残虐な殺されかたをしている。それがもう怪談である。又、変事を知って駈けつけた各国の人々が、それぞれ自国語でない言葉を聞く。犯人がまだ室内にいて、何か叫んだのだが、どこの国の言葉でもなかったという不思議、ここにも怪談性がある。ポーはこの怪談に、飼主から逃げたオランウータンの所業であったという解決をつけた。その推理過程の見事さは、ラドクリフ女史の怪談の落ちなどとは比べものにならないものであった。そして、この一作が世界最初の探偵小説となったのである。  もう一つポーの作例をあげると、「黄金虫」に怪談性が濃厚である。背中に|髑《どく》|髏《ろ》の紋のある金色の|甲虫《こうちゅう》の恐怖は、わたしの分類で云えば動物怪談の昆虫の部に属する。それから宝掘りの目印の樹上の白骨、その骸骨の目から糸をたらして、宝の隠し場所を探すのだが、その時の黒人召使の恐怖もまた怪談の世界のものである。しかし、ポーはこれを怪談にしないで、探偵小説にした。巧妙な暗号解読による宝の隠し場所の発見という論理的快感の物語にした。  イギリス最古の探偵小説、コリンズの「月長石」には、むろん強い怪談性があるし、ドイルでもチェスタートンでも、それぞれの意味で怪談味を持っている。現代の作家で云えば、ジョン・ディクスン・カーの作品にそれが最も強い。カーはオカルティズムのあらゆる恐怖を、探偵小説に取り入れているが、オカルティズムというものが、やはり怪談の親類すじなのである。  わたしは探偵小説は怪談の裏返しだと書いた。では、ここの主題である透明怪談は探偵小説において、どんなふうに裏返されているであろうか。  その適例はチェスタートンの「見えない人」であろう。この原題は、先にしるしたウエルズの「透明人間」の原題とそっくり同じ「インヴィジブル・マン」というのである。題名そのものに、すでに怪談性がある。  二人の男が一人の娘に恋して、娘の条件に応じて、出世のために町へ出て行く。そして二、三年たったころ、一人の方が出世をして、娘の恋を得ようとするとき、男のところにも、娘のところにも、さかんに脅迫状が舞いこむ。貴様たち結婚する気なら殺してしまうぞというのである。それはどうやら、もう一人の競争者の男かららしいのだが、その男は久しく行方がわからないのだし、脅迫状がどうして届けられるのか少しもわからない。  娘は自分の店のかど口に立って、出世した男からの手紙を読んでいると、すぐそばで、妙な笑い声がきこえる。それがたしかに行方不明の男の声なのだ。娘はたえず、その男につきまとわれているような気がする。つい身ぢかにいるような気がする。しかし、いくら眺めまわしても、その辺には、誰もいないのである。  やがて、出世した男が殺されそうになるので、そのアパートを厳重に見張らせるが、その見張りの目をくぐって、犯人はアパートに侵入し、ついに出世した男を殺してしまう。三人も四人もの見張りが誰もアパートへはいったものはないと断言する。しかし殺人が行われたからには誰かが出入りしたにちがいない。そうすると犯人は目に見えない透明なやつであったとしか考えられないのである。  ブラウン神父は、この透明怪談を、どう解決したかというと、盲点原理に気づいたのである。そこにちゃんといるのだけれど、誰の目にも写らない人物、すなわち心理的盲点にはいるような人物を探せばよいと考えたのである。復讐者は郵便配達夫をつとめていた。配達夫の制服を着て、恋人たちに接近したり、そのアパートの門を堂々とはいったりしていた。見張人たちは、郵便を配達するために出入りするこの男を、全く犯罪から除外して考えていた。見ていても、それと気づかなかった。つまり心理的盲点にはいっていたのである。  彼は出世した男からの娘への恋文を配達した。その中身を盗み読むこともぞうさはなかった。それを店のかど口で娘にわたし、そばに立って娘の表情を見ながら、ぶきみな笑い声を立てたのだ。娘はむろん、そのへんを見廻したが、誰もいないと思った。いま手紙を自分に渡した制服の配達夫が敵だなどとは、思いもよらず、彼が盲点にはいっていた、つまり透明になっていたのである。  この盲点原理はチェスタートンの発明ではなく、ずっと早く、ポーが「盗まれた手紙」で先鞭をつけていた。「盗まれた手紙」には普通の意味の怪談性はないけれども、盲点原理そのものに、一種の怪談性がある。警察が、その部屋を一寸角にしきって、その一つ一つを調べるほどにしても、見出せなかった大切な手紙が、実は壁にかけた状差しの中に、これ見よがしにほうりこんであったのである。まさかその大切な手紙を、探されるとわかっていながら、目の前の状差しに入れておこうとは、誰も考え及ばない。隠してあると信じ切っていたものが、少しも隠してなかったために、盲点にはいったのである。「隠さないのが一番うまい隠し方だ」という、処世術にも通じそうな原理が、ここから生れてくる。この場合、目の前にさらされていた手紙が見えなかった、インヴィジブルだった。別の云い方をすれば透明だったわけで、このポーの小説も、見方によっては、透明怪談の裏返しと云えないことはないのである。  チェスタートンは盲点による透明作用を、ポーから学んだが、そのチェスタートンを摸したのがクイーンのある長篇であった。他の点はむろん摸倣ではないけれども、犯人の隠し方だけが摸倣なのである。ここでは郵便配達のかわりに汽車などの車掌が使われている。「犯人は乗客の中にいる。車掌は乗客ではない。だから車掌は犯人ではない」という三段論法的盲点の利用で、車掌はこの場合透明(インヴィジブル)だったわけである。  先に書いた手首だけ見える透明怪談の一枚上を行って、しかもそれを裏返しにした探偵小説がある。それは手首ではなくて、無生物の手袋だけが、生きているように動くのである。クイーンと同じ現存大家の短篇で、題は「ニュー・インヴィジブル・マン」。これもウエルズの「透明人間」から来ている。  夜ふけに一人の男が警察へ飛びこんでくる。受付の巡査が応対すると、 「今、人殺しがあったんだ。ぼくの目の前で殺されたんだ。ぼくもすんでにやられるところだった。二発目のピストルが、こちらへ発射されたのでね」 「いったい犯人は何者です。だれがピストルをうったのです?」 「手袋だよ」 「え? なんですって?」 「手袋だというのに。手袋の中に人の手がはいっていたわけじゃない。腕もなければ、からだもない。ただ手袋だけが、ピストルをつかんで発射したんだ。もし人間だとすれば、そいつは透明人間だったにちがいない」  その小説はこんな会話からはじまる。まさに怪談である。男はアパートの階上に住んでいたのだが、ちょうど真向かいに、内部を改造したばかりの別のアパートがあり、窓が向き合っている。その三部屋つづきのフラットへ、新しい夫婦ものが引っ越して来たが、こちらから見える部屋はからっぽで、荷物は運びこんでない。ガランとした部屋のまんなかに、小さな三本脚の丸テーブルが一つ置いてあるだけだ。その男は双眼鏡で向こうの窓の中を覗くくせがあって、その夜も好奇心にかられて、新来者の部屋に双眼鏡を向けていた。窓が大きいので、正面の壁はもちろん、左右の壁も大部分見通せる。正面左右ともに一つずつドアがあり、壁には全部同じ壁紙が貼ってある。  見ていると、その部屋へピストルを持った一人の老人がはいってくる。そして、ピストルを丸テーブルの上に置き、手袋をぬいで、そのそばへ投げ出し、正面の窓へやって来て、そとをのぞく。その時、突然ピストルの音がして、老人はアッと叫んで倒れ、二発目が、こちらの窓へ飛んでくる。窓ガラスを破って、双眼鏡をのぞいている男のわきをかすめる。  誰がピストルをうったのか? 丸テーブルの上の手袋が、ムクムクと動き出して、ピストルを握り、狙いをさだめて発射したのである。双眼鏡にそれがありありと映った。  しかし、警官が現場へ行って調べて見ると、被害者の死体が消えてしまっている。別の部屋で寝ていた引っ越して来た夫婦にたずねても、何も知らぬという。このアパートのすべての壁は防音装置になっているので、ピストルの音もきこえなかったという。「手袋の殺人」「死体の消失」、いよいよ化けもの屋敷である。  作者はこの怪談をどう解決して見せたか? 奇術である。三本脚の丸テーブルが奇術の種であった。三本の脚の一本が窓の方に向いている。そこから残る両方の脚へ、テーブルの下一杯に鏡が張りつめてある。それを窓の方から見ると、両方の斜めの鏡に左右の壁が写っているので、それが正面の壁のように見え、鏡が張ってあるとは思えない。正面の壁がテーブルの脚のすきまから見えているのだと信じてしまう。  その二枚の鏡のかげに、夫婦ものの妻の方が隠れていて、うしろからソッとテーブルの上に手をのばし、手袋をはめて、ピストルをうったのであり、彼女の夫が老人に変装して、うたれる役をつとめたのである。そういう狂言だから、ピストルには弾丸がこめてなかったはずなのに、思いちがいで実弾がはいっていた。しかし、老人に変装した夫には当らず、うたれたまねをしたばかり、二発目がこちらの窓へ飛んできたというわけであった。  なぜそんな狂言をやったのか。この夫婦は奇術師で、向こうがわの男が、新しい住人の家庭の中を、双眼鏡でジロジロのぞく無礼を、こらしめるためであった。この作は怪談性のほうが強くて、落ちが少々あっけないが、ともかく、透明怪談を裏返して、論理づけて見せてはいるのである。わたし自身ふりかえって見ても、これまで書いて来た探偵小説の大部分が、どの種類かの怪談の裏返しのようである。西洋でも不可能派作家と云われる人々が殊にそうで、あり得べからざることを、あり得るように解いて見せるのだから、結局出発点が怪談になる。あり得べからざることというのは、つまり怪談だからである。  古来の著名な探偵小説の筋を、一つ一つ思い出して、わたしが分類した九つの怪談のどれの裏返しに属するかを調べ、比較対照して見ると、何か面白い結果が出るのではないかと思うが、今はそのいとまがない。ここにはただ、主題である透明怪談の裏返しだけを拾い出してみたのである。 [#地付き](「別冊文藝春秋」昭和三十一年十月)     解説 知的多面体としてのエッセイスト [#地から2字上げ]紀田順一郎  江戸川乱歩はエッセイストである、といっても、『心理試験』や『陰獣』『屋根裏の散歩者』などの創作を軽視するのではなく、「人形」や「群衆の中のロビンソン」をはじめとする随筆、あるいは正続『幻影城』や『探偵小説四十年』に代表される評論が、創作と同等かそれ以上に、強い印象を残すという意味である。このことは、フィクション偏重の読書界からは、つい忘れられがちである。  作家が随筆家、評論家としても一家をなしている例は必ずしも稀ではないが、その多くは余技であり、創作と切り離しては評価しにくいものがある。乱歩の場合、たしかに随筆や評論も創作(推理)と地続きにあるのは否定できないが、それとは別個の、独立した魅力や情報性を備えているばかりか、より普遍的な要素が感じられる場合さえある。量的にも意外に大きなものがあり、現に業績の集成としては網羅性の高い『江戸川乱歩推理文庫』全六十五巻のうち、随筆は三割に近い十九巻分を占めている。これは彼が推理小説の啓蒙に熱心だったということにもよるが、そもそもエッセイや評論というジャンルへの適性が生んだ必然の結果と見るべきであろう。  終戦直後に読書年齢に達した世代にとって、『幻影城』がもたらした衝撃は、今日からは想像に余りあるのではなかろうか。当時は推理小説そのものが貴重品で、アイリッシュの『幻の女』など原書ペーパーバックが奪い合いになった状況が乱歩自身の回想にも出てくるが、一般読者にしても『Yの悲劇』や『黄色の部屋』といった海外名作の翻訳本を鵜の目鷹の目で漁り歩き、古本屋で高値のついたものを涙をのんで財布をはたくという有様だった。このようなときに出現した『幻影城』は文字通り愛好家垂涎の的となり、入手しそこねた読者が全ページを筆写したという話さえ伝えられているほどだ。コピーマシンのない時代である。  私なども筆写こそしなかったが、文字通り枕頭の書として熟読玩味したため、「類別トリック集成」のような研究はもとより、「猫町」「顔のない死体」「変身願望」など主なエッセイはほとんど暗記してしまったほどだ。後年レイ・ブラッドベリの『華氏四五一度』において、書物の所有を禁じられた民衆が、それを暗記によって次代に継承するという趣向を読んだが、当時の私ならさしずめ『幻影城』を選んだに相違ない。  これは『幻影城』にとどまらず、『探偵小説四十年』(初版は『探偵小説三十年』)、『幻影の城主』『鬼の言葉』『随筆探偵小説』など、乱歩の随筆集のすべてにあてはまることなのだが、同時代の読者をそこまで魅了した理由を、四十年後の現在の読者に説明することは必ずしも容易ではない。推理小説というものがまだ貴重品で、それを本格的に論じた書物にオーラがかかっているように思えた時代と現在とでは、文化状況が一変してしまっているからだが、しかし、それらを別にしてもなお、普遍的というべき新鮮な魅力——同じジャンルの他のエッセイや評論の及ばない要素が、乱歩の随筆には満ち溢れているように思われる。問題は、それが何かということだろう。  乱歩が随筆を書き始めたのは、作家として人気を博したころ、大正十四年(一九二五)に遡る。初期の「乱歩打明け話」「恋と神様」「映画の恐怖」など四十八編は最初の随筆集『悪人志願』(一九二九)に収録されたが、その序文には「私は元来作り話のほかは何も書けぬ男だから、随筆の求めにも多くの場合応じないで来たつもりなのに、まとめて見ると一冊ぐらいはある。大正十四年から、昭和四年初めまで、まる四年間の塵の積ったもの。すべて新聞雑誌の依頼で咄嗟に書いた」とある。咄嗟というにしては熱のこもった文章が多く、とくに「乱歩打明け話」では中学生時代の同性への憧れを詳細に(ただし表面的には軽妙を装いながら)語ったため、地方の読者から意外な反響があり、後年浜尾四郎(検事出身の推理作家)から「ああいうことを、あんな風におどけて発表するのはいけない。もっと大切に蔵っておくべき」と忠告されたといういわくがある。  同性愛については、昭和四年(一九二九)ごろから内外の文献収集をはじめており、戦前における彼の主要関心の一つであることがわかるが、創作の中に直接反映させることはせず、随筆だけのテーマに封じ込めたのは、乱歩の賢明な自己抑制から生じたものといえる。「J・A・シモンズのひそかなる情熱」「槐多『二少年図』」「もくず塚」「シモンズ・カーペンター・ジード」などに代表される同性愛関連の文章は、あるときには評伝、あるときには書誌研究というアカデミックな形をとりながら、この方面への情熱がなみなみならぬことを顕示しようとする。とりわけ「もくず塚」は、遠く寛永年間の衆道に散った二人の若侍の記念碑をたずねて、わざわざ浅草今戸の寺院まで三度も四度も足を運ぶ自身の姿を描き、それが二・二六事件の騒然たる世相をよそに執筆されたことを知らない読者でも、乱歩という人間像のかくされた暗部に興味と関心を向けざるを得ない仕組みになっている。中田耕治は乱歩が創作の表現において抑制的であったことにふれ、「彼ほど自分自身について饒舌に語った作家はないが、同時に、彼ほどたくみに自分を隠蔽しつづけた作家はなかったと思う。自分の履歴に関して、あざやかな自己顕示を見せながら、一方では謎めいた自己隠蔽が感じられる」(「乱歩、二重人格」)としているが、随筆にも同じニュアンスでの韜晦が感じられる。つまり、“ひそかな情熱”を代償としてのアカデミックな情熱に置き換える手法がとられているわけで、読者はその見事な整合性に感銘をうけ、乱歩の情熱が昇華したものと信じて安堵するのである。  乱歩は幼年期から四十六回も引っ越しを行ったが、その間取りを記憶によって再現した図面が『貼雑年譜』の中に見られる。このスクラップ帳には、作家になる以前の職業に用いた名刺、経営した下宿の広告など、自己の履歴に関するあらゆる物件がビッシリ貼り込まれており、随筆における自己顕示と一対をなしている。従来これを乱歩の強烈な自己愛に帰する意見もあるが、エロ・グロ・ナンセンスや臨戦体制といった時流とは完全に無縁の地点で黴くさい文献に埋もれ、埃っぽい下町の寺の裏庭を彷徨する乱歩の姿と重ね合わせるとき、単なる自己愛や趣味というカテゴリーには収まりきれないものを感じるのは私一人だろうか。それは、荷風の戦時中における反俗的な生き方と一脈相通ずるものさえあるが、荷風ほど反俗的になれなかった彼は、外面は隣組の防空演習に積極的に参加しながら、内実はひたすら自己発見の作業に従っていたことになる。そのように考えれば、戦後の彼が最大の情熱を注いだ海外推理小説の紹介と分析も、自己のアイデンティティを探し求める手段であったといえないこともあるまい。  四十年という時の流れは『幻影城』という書物をも趣味的な情報源として相対化してしまっているが、当時の読者であった私などが現在あらためて思い起こすことは、『怪人二十面相』や『パノラマ島奇談』の著者がこのような重厚な研究書を上梓したことへの意外感であった。当時は、戦争が終わって自由に海外の名作に接することができるようになった喜びのせいかと思ったが、それだけで納得し得るものではなかった。トリックの精力的な分類はいうまでもなく、変身や隠れ蓑願望について語る乱歩の情熱が、戦前の同性愛を語るさいの情熱とまったく等価のものであることに気づいたのは、それからずっと後のことである。 このように、乱歩随筆に接する楽しみの一つが、乱歩の人間性を奥深いところで解読することにあるのは疑いないが、作品としての乱歩随筆の評価がそれとは別のところでなさるべきことはいうまでもない。自己探求の文章は得てして閉ざされた独善に陥りがちだが、乱歩にはその弊がほとんど感じられない。乱歩の資質に由来するものといえるが、それは一口にいえば知的好奇心が旺盛で、開かれた性質のものであるということだ。 「活字と僕と」という乱歩随筆の定番ともいうべき文章には、少年時代の彼が活字を愛好するあまり、父親にねだって活字そのものを購入し、飽かず眺めたり、それを自ら組んで個人誌をつくるという経験が語られている。たしかに明治の活字世代には、宮武外骨や中里介山のように、自らの原稿を自ら活版に組んだという例にはこと欠かない。島崎藤村のように、自分で組まないまでも印刷の版面と同一の字詰の原稿用紙を作成し、自ら印刷所に通いつめて組版工程を監督したという例もある。メディアとしての活字は、それほどまでに明治世代を魅了したのであるが、乱歩のそれはなお一段と思い入れが激しく、ほとんどフェティッシュな要素さえ匂ってくるほどだ。しかし、これこそ彼の飽くなき知的好奇心、探求心の現れにほかならないのである。  彼の知的探求心が開かれた性格のものであることは、初期の精神分析やパブロフ学説への関心を示した文章にもよく表れている。とくに「羨ましき情熱」では、パブロフの業績よりもその「浜の真砂の一粒をしっかり掴み取って」大きな真理へと肉薄していく研究方法に深い敬意を表している点、学問や芸術というものの本質がわかっていた人ということが実感されるのである。 そのことは「うつし絵」という、日常的なビジュアルなものへの嗜好を語ったエッセイにも現れている。当時(一九六二)かろうじて残っていた明治時代の影絵を見物した話であるが、持ち前の好奇心から楽屋にまで入り込んで詳しく観察し、さらに幼時の記憶と重ね合わせることによって、単なる趣味的回顧ではなく、失われゆく伝統芸のみごとな記録としている。短かいが印象にのこるエッセイで、現に私などは今夏(一九九四)東京のある場所で行われた影絵の復活上演を報じるTVニュースを見たときに、ただちに乱歩のこの文章を想起することができたのだった。文中の結城一座は、なんと奇跡的にも平成のバブル崩壊後の東京に復活をとげたわけで、私にとって、このことの感動を深めてくれたのは乱歩のエッセイだったのである。  乱歩随筆の多面的な面白さは、ほとんど百科全書派的な豊かさに通じる。厳密にいえば乱歩の好む主題はエキセントリックで限られたものだが、その懐が深く、探求の方法そのものに合理性と普遍性が感じられるために、興味の異なる読者をも惹きつけることができるのである。このような風格を有する随筆評論は、今日ほとんど跡を絶ってしまったのではないだろうか。 江戸川乱歩(えどがわ・らんぽ) (一八九四—一九六五)本名平井太郎。三重県名張の生まれ。早稲田の学生時代に英米の推理小説を耽読。卒業後、会社員、古本屋、新聞記者など職業を転々としたのち、大正一二年(一九二三)、雑誌「新青年」に『二銭銅貨』を発表。筆名はエドガー・アラン・ポーにちなむ。ほかに『心理試験』『屋根裏の散歩者』『押絵と旅する男』内外の推理小説を論じた『幻影の城』など。 紀田順一郎(きだ・じゅんいちろう) 一九三五年、横浜に生れる。評論家、『日本の書物』『二十世紀を騒がせた本』『日本語大博物館』『奥付の歳月』など書誌、読者論の他、推理小説『幻書辞典』や『ワープロ書斎活用術』もある。 本作品は一九九四年一二月、ちくま文庫として刊行された。 江戸川乱歩随筆選 2002年10月25日 初版発行 著者 江戸川乱歩(えどがわ・らんぽ) 編者 紀田順一郎(きだ・じゅんいちろう) 発行者 菊池明郎 発行所 株式会社 筑摩書房 〒111-8755 東京都台東区蔵前2-5-3 (C) Ryutaro HIRAI, Junichiro KIDA 2002