[#表紙(表紙.jpg)] 落語手帖 江國 滋 目 次   序 [#地付き]辰野 隆  落語談義   「火事息子」における親子像   服装描写考   食物描写考  落語博物誌   かじかざわ   あんどんべや   かんかんのう   おうのまつ   たんも   ふなうた   はなおうぎ   むっつしらず   しっぽく   とみくじ  高座百景   東横落語会瞥見   艶笑落語会瞥見   東は東  五人のはなし   志ん生二題   円生吉左右   碧眼落語修業   喜兵衛追憶   三木助の死  落語歳時記   新年の部   春の部   夏の部   秋の部   冬の部  新作問答   新作は何故つまらないか   新作「鮒の半」  落語|結縁《けちえん》  自跋 [#改ページ]   序  顧るに、江國滋さんとの初見参からは——早いものだ——既に六、七年が流れ過ぎてしまった。当時、滋さんは慶応大学の卒業受験生だった。如何《いか》にも柔和な、良家の子弟らしいフウボウ挙措|風貌挙措《ふうぼうきよそ》に好感が持てたので、初対面から、心おきなく、旧知の如く語り合うことができたのである。  その後、間もなく、滋さんは、就職の心配やら、卒業準備の煩わしさやらで、一度二度面談しただけで、相会うたのしみを得られなかった。その間に、滋さんは、難なく大学を卒業して新潮社に入り、週刊新潮の編輯部で働くことになった。恰《あたか》も、週刊誌の乱立氾発が始まった頃だったので、滋さんも極めて多忙らしく、少し疲労の色が容姿に露《あら》われていたので、私にはその健康が気づかわれたのだが、当人はいつも元気だった。  滋さんが良縁を得て新郎となったのは、一昨年だった。妹背《いもとせ》おそろいで拙宅を訪れ、我等じじばばも鮮《あざら》けき好配を祝福したわけである。  滋さんが深く文学を愛する仁《ひと》たるは初めから知っていたが、慶応の幼稚舎時代から夙《つと》に落語を好み、大学を経て新潮社員となってからも嗜みは変ることがなかった。新妻を迎えての最初の宣言が≪たとえ大掃除の日でも、落語だけは勝手に聴きに行くぞ、それから、如何なる時でも、テープ代——滋さん自ら録音する師匠たちの落語テープの代価——だけはよこせといったら、すぐ渡せ≫。新婦の≪はい≫という答えも簡明にして完璧である。  そこまで深入りすると、滋さんの落語愛はもはやいわゆる通とか俗流のディレッタントの関所を通り抜けて、落語鑑賞のヴィルチュオーゾと謂《い》うべきであろう。しかも、そういう一朝一夕ならぬ執念に就いては、つい先頃まで、滋さんは私に一言も語らなかった、その羞渋の態度には何か清いものが看取されたのである。ところが数日前、滋さんがこの『落語手帖』のゲラを携えて我が家を訪れた時、一見してその文章は勿論、挿絵まで描いた腕前に驚きもし、嬉しくもなったので、即座に≪序でも跋でもいいから是非私に書かせてくれ給え≫と乞うたのである。  憶《おも》うに、本書は現代の乱脈下品な邦語弁説の間に僅かに残存する話術・会談の粋を落語に見出し、その代表選手として幾人かの師匠に久恋の敬意と情熱を惜しまぬ心意気を披瀝した快著である。  この手帖は誰の手に渡っても頗《すこぶ》る面白い読みものであることは改めて言うまでもないが、日本語に依る日本人のエスプリ、我等の弁説史観の副読本としても推奨するに足る述作なのである。私はゲラ二百十頁を一気に読み了って、既に親交ある滋さんの為人《ひととなり》に初一念を貫く一面を新に発見し、快哉を叫ぶとともに、一文を草してここに良書の上木を迎え祝う所以である。   昭和三十六年十月十日 [#地付き]辰野《たつの》 隆《ゆたか》 [#改ページ]  落語談義 [#改ページ] 「火事息子」における親子像[#「「火事息子」における親子像」はゴシック体]       ——名作落語の心理描写——      一  親子を扱った落語は多いが、親と子の微妙な心理にまで触れている噺《はなし》は少ない。例《たと》えば『干物箱』『六尺棒』『二階ぞめき』『三人息子』などは、いまも変らぬ極道息子の行状を描いてそれぞれ傑作には違いないが、あくまで滑稽味が狙いであって、微妙な感情には触れていない。名作といわれる『子別れ』や『初天神』には、庶民の典型的な父性愛が見事に描かれているが、相手がまだ幼児であるから、感情といってもこれは父から子への�一方交通�である。また『明烏《あけがらす》』『崇徳院《すとくいん》』には親バカ心理が底に流れているものの、町内の札つきに無理に頼んでわが子を吉原につれていってもらったり(『明烏』)、息子の一目惚れした女を捜すために出入りの職人たちを総動員して、今日は東北代表が出発し明日は北海道代表が……と日本中をまわらせたり(『崇徳院』)で、落語的誇張がリアリティを上まわっており、それに主題《テーマ》そのものが、親子像ではなくて、前者は純情坊ちゃんの女郎買い、後者は尋ね人に奔走する職人なのだから、親子の感情の陰影にまで話が及ばないのはむしろ当然である。  そんな中で『火事息子』だけは、すぐれた演者のすぐれた演出で聴くと、親と子の�業�とでもいうべきものさえ感じさせるのである。      二  筋立ては極めて単純である。江戸でも有数の質屋の一人息子が火消しにあこがれて家を飛び出し、勘当になったまま音信不通。以来、両親はめっきりふけこみ、鬱々と日を過ごすようになったが、ある夜近火に見舞われ、危うく類焼するところへ一人のガエン火消(ヤクザ同様の最下級の火消し)が屋根伝いに現われて手助けをする。この火消しが勘当した倅《せがれ》で、親子は久びさの対面をするのだが、頑固な父親は、母親の口添えも耳にかさず依怙地に息子を許さない。 「せめて何か持たせて帰しとうございます」と哀願する母親。 「冗談いっちゃいけない、こんな奴にやるくらいなら、捨ててしまいなさい!」と突き放す父親。 「捨てるくらいならやれば……」と反抗しかける母親に、彼は、わからねえかなあといった感じで、 「捨てりゃひろっていくものがあるから捨てなさいというんだ」と意味深長な発言をする。そこで母親は、 「はい、捨てます。(とすすり泣き)蔵も地面もみんな捨てて、おまえの好きな唐桟《とうざん》の着物も、お金をたくさんいれた財布も……」あれもこれも捨てたがったあげく、しまいに黒羽二重の紋付に仙台平《せんだいひら》の袴《はかま》も捨てようといい出すので、呆れた父親が、 「こんな奴に、そんなナリをさせてどうするんだ?」 「でも、火事で逢えましたから火元へ礼にやります」  ——と、これが全体のオチである。  このように頗《すこぶ》る単純な筋書き、しかも下手をすると低俗に堕しかねない噺を、すぐれた噺家は演出の仕方一つでぐんと深味のある面白いものにしてしまうのである。ぼくには、いまは亡き桂三木助(三代目)が演じた『火事息子』がその意味で最も興味深い。ある大学教授は、この録音テープを聞いて、「うん、こりゃ文学だ」と感嘆した。そのくらい神経のゆきとどいた名高座だった。  とくに感心するのはその巧みな構成《コンストラクシヨン》である。  まず枕の部分。これがながながと続くのだが、少しも冗漫でもなければくどくもない。聴き手は笑いのうちに江戸火消制度の輪郭を会得することができる仕掛けになっているのである。例えば、半鐘《はんしよう》の種類(二ツ番から五ツ番までと、それに消《け》え番)についても、一つ一つ小噺風に説明してゆく。 「(火事の)離れている時には大がい二ツ番が多い。——あたしの子供の時分なんかには半鐘ばかしじゃありません。町内には必ず火事を知らせにくる小父さんがありまして、太鼓を打ちながら ※[#歌記号、unicode303d]ドーン、ドーン(ゆっくりと売り声のようなフシをつけて)火事は何町《なにまち》何丁目通ォり、ドーン、ドーン……と、こう太鼓を打ちながら来るんですが、これがまたひどくさみしく響きましてね、で、火事というと若い衆やなんか、みんなこの火事場へ行っちまったりなんかァして、かえってウチが留守ン[#小書き「ン」]なる。その太鼓の音だけが変にこの耳に残りまして、そいでウチで留守番してェるものはお袋とあたしだけン[#小書き「ン」]なっちゃったりして、火事ってえとさびしいような心持がいたしましたな」  という二ツ番の件《くだ》りなどは、詩情さえ漂う語り口だった。三木助は、神田のに[#「に」に傍点]組の組頭から色々と自分で取材したと語っていたが、それをここまでスッキリと枕にまとめたのは、非凡というほかはない。      三  さて、その構成の妙だが、話はいきなり�火事息子�即ち徳之助の夢の中から始まる。いまや無頼の徒同然のガエン火消になった彼が、久しぶりでわが家の前を通りかかり、見知らぬ女中やら、懐かしい女中に声をかけ、母親に会うとすっかり痩《や》せおとろえている。母親が徳之助の幼児の時の思い出を愚痴と共に語ったあげく「そのおまえのいない家にいて、苦い薬を飲んでまで長生きしようとは思わないんだよ」というのを聴いて思わず「じゃ何かい、おっかさん、俺が帰りさえすりゃ、薬ィ飲んでくれるかい? おっかさん(間をおいて)おっかさん!」と、間髪をいれず「徳ッ!」と呼ばれて、そこでハッと眼がさめる。母親に会ったのは夢で、身は相変らず汚い火消部屋にあるのである。続いていま声をかけたガエンの仲間の独白形式で第二景に入り、父親の夢は見なくても母親の夢はいまでも見るとか、バクチ、とりわけてチョボ一ぐらい面白いものはないとか、だが「おめえ(徳之助)は不思議とバクチだけはやらねえな。あんな面白いものをよオ、食わずぎれえってんだよ」などの言葉で、ガエンの生活を描くと共に、徳之助がただのヤクザではなくて一応「いいところの出身」であることを暗示する。やがてこの独白は半鐘の音で中断され「おっ、出がかかってるぜ」「おっ、出だ、出だ」「そら」うわあいと一斉にガエン連中が火事場に飛び出して次の場面に移る。  第三景は火事場における野次馬の会話である。直接話の筋には関係のない野次馬の戯画をここにはさむのも、一見無駄のようでいて実は場面転換に欠かせぬ潤滑油になっているのであって、聴き手はそれまでの男くさい火消部屋から、夜空をこがす火事場にいつのまにか運ばれているのだ。やがて、映画でいえば、ロングで火事場の雑踏を写しておいて、次にレンズはその中の一軒をとらえ、続いて家の中の人物が登場するといった、そんな感じで、右往左往する徳之助の実家が描かれる。  この辺りから話は急テンポで盛り上り、徳之助の活躍、親子対面、母親の涙、父親の瘠《や》せ我慢……と、あとは一瀉千里《いつしやせんり》の趣きでオチに至るのである。  即ち、わが家(夢)——火消部屋——火事場——わが家(屋外)——わが家(屋内)という全五景が、まことにスムーズに展開する。  これと対照的なのが、文楽(八代目)の『船徳』である。船頭志願の場面から船宿の場面に移る時、たった一と言「四万六千日、お暑い盛りでございます」というだけで見事に橋渡しをしている。これもあざやかなテクニックである。場面転換の二つの技法は、『船徳』とこの『火事息子』によって代表されるのではないかとぼくは思う。      四  まず主人公徳之助の周辺を眺めてみよう。彼は「江戸でも五本の指に折られる質屋」の一人息子で、三木助の設定によると二十五歳ぐらいの年齢である。立派な商家の跡取りに生まれながら何故火消しに身を投じたのか。乳母《おんば》日傘で育てられたのではなかったか? 実はその�乳母《おんば》�がそもそもの発端なのである。彼の母親の悲痛な言葉が、その間の事情を明らかにしている。 「め[#「め」に傍点]組の伝吉のあの内儀《かみ》さん、可哀想に伝吉が火事場で大怪我をして若死にして、子供も死んでしまって本当に一人ぽっち。あれを乳母《おんば》につけたらいいだろうって、そいでおまいさんが、伝吉の女房のおさきを、これの乳母につけた。よく働いて可愛がってくれた。ああいい乳母だと思っていたが、いいことがありゃ悪いこともある。ジャーンと半鐘の音がするとすぐにおさきは大屋根へ上ってしまう。こりゃアトで火がつくように泣いている。あたしがおさきに『おまえ赤ン坊おっぽり出しといて屋根へ上っちゃっちゃ、仕様がないじゃないか』……今度《こんだ》、これ(徳之助)をおぶって屋根へ上る、え? 風邪でもひかせたら……第一おまえ、あの大屋根の上を、あっち行ったりこっち行ったり、もしもまちがいでもあったらどうするんだィったら、おさきが『おかみさん、あたくしの父親は仕事師です。あたくしの亭主は仕事師です。あたくしはハナからの仕事師です。畳の上で粗相するかもしれませんが屋根の上で粗相したことはございません』……寒い時だって、何だって、上へ刺ッ子を着て屋根の上をあっち行ったりこっち行ったり、表へ出ればって、これへみやげを買ってくりゃ、纏《まとい》のみやげだ、梯子《はしご》のみやげだ、鳶口《とびぐち》だ、これが火事を好きになるのは、あたりまえじゃありませんか?」  つまり、徳之助が火消しに身を投じたのは、ただ単にいなせ[#「いなせ」に傍点]にあこがれて、というのではなくて、精神形成期におけるこんな環境が遠因となっているのである。シンからの火事好き、それだけに親の意見も役に立たなかった。ついに家を飛び出して組に入ろうとしたが、これは父親が頭《かしら》を通じて各組頭に手をまわしておいたためにどこの組でも断られてダメ。結局「まさか」と思っていたガエン火消の仲間に身を投じてしまう。ガエン(臥煙又は火焔)というのは、旗本の定火消《じようびけし》に属する最下級の火消しで、普段はユスリをしたりタカリをしたりで、大部屋でバクチ三昧の生活をするいわばゴロツキだが、いざ火事というと、褌《ふんどし》に法被《はつぴ》一枚(一般の町火消は刺子の火事装束に身を固めている)で火がかり[#「火がかり」に傍点]をする。奇妙なことにこの連中は揃って皮膚がきれいで男振りがよく、しかも毎日三回以上風呂に入ったという(三田村|鳶魚《えんぎよ》翁 稲垣史生編『江戸生活事典』)。火事場に一番乗りをして、屋根の上なぞに、仁王立ちになると、法被の下の白い皮膚が炎に照らされて桃色になり、そこへもってきて刺青《いれずみ》がチラチラと見え隠れする。絵草紙のようなこの一瞬に彼らは命を賭けていたのだろう。  徳之助も当然刺青をした。三木助の描写によると、 「背中の彫りものが、猫吉かなんかのスジ彫りで、彫岩が仕上げをしたんじゃないかと思われるような見事な深彫りです。色の白いところへ浮彫りで九紋竜史進の二重彫りかなんか彫ってあるから、まるで錦絵をみるよう……」  とある。猫吉(深川)も彫岩(浅草)も、そのころ名代の彫りもの師で、二重彫りというのは背中に彫った人物の、そのまた背中に彫りものがしてあるもので、九紋竜史進は例の『水滸伝』の中の登場人物である。とにかく立派な刺青であったに違いない。とはいっても、これは所詮《しよせん》若い時だからこそ美しい装飾であって、辰野隆先生がいみじくも詠まれたように「初風呂や背中の竜も老いにけり」となっては色消しである。徳之助の場合も、勿論一種のダンディズムの現われには違いないが、半分は仲間のつきあい上やむを得ず彫ったのではなかろうか。「年老いて笑われ草と思えども彫らねばならぬ鳶のつき合い」という狂歌も残っているくらいである。  だから、のちになってひさびさの親子対面の時に、「大層立派に絵[#「絵」に傍点]が書けましたね」と皮肉たっぷりな第一声ののち「孝経の一つくらい読みなすったろう、敢エテ毀傷セザルヲ孝ノ始メトス、身体に傷をつけないのが孝行の始めだというじゃないか」と小言をいう父親の言葉が、徳之助の美しい皮膚にグサリと突き刺さったことだろう。      五  ところで、ガエンにまで堕落した徳之助を「親類相談の上|久離《きゆうり》を切って」勘当した父親は、たちまちめっきり老けてしまう。もともとかなりの老齢であるということは、「折角でございますったって、おまえの方があたしより二つでも三つでも若いんだから、おまえがやってくれなくっちゃ」という一番番頭に対するせりふや、「風が変りましたんで、手前どもの方はよろしゅうございますが、こちら様の方が心配でございます。お手伝いにあがりました。主人《あるじ》が伺うんでございますけど、まあ、年をとっておりますし、あたくしたちが伺いました、と、よくそう申し上げてな……」という言葉でもわかるが、それにしても、息子を勘当してから急に、「おとっつあんも年をとって時々ぼゥんやりと庭を見ながら泣いていらっしゃる時がある」(母親の述懐)ほど老けこむのは、よほどのショックだったのだろう。それに�勘当�といっても、現在のニュアンスとは大分違った意味をもっていることを知らないと、この父親の気持が理解できないという(飯島友治氏の説)。即ち、勘当するためには、親類、五人組、町役人連署の上で名主へ届書を出し、名主が勘当伺いを奉行所に提出して決裁がおりると、そこで人別帳(戸籍)から取り除かれて、はじめて�勘当�が成立する。だから、よくよくもてあまさなければ勘当にはしなかったに違いない。  逆にいえば、事態をここまでもってきてしまった親の責任についても、一応ふりかえってみる必要がありはしないか。  まず、父親の根本的な生活態度である。当時としてはそれが当り前の(現在でも到るところに見受けられるが)、商売一点ばりという態度、それが息子の教育については、似て非なる自由放任主義となって現われた。母親はかねがねその点には心を痛めていたが、何しろ家長第一の父子家族であるから、ハラハラしながらも遂に口を出すことができなかった。親子対面の場に至ってはじめて「おとっつあんは、あたしにいわせると、おとっつあんの方がご無理じゃないかと、いえ、あたしが、きょうはいわせていただきますよ……」といって心にあることを一切吐き出すのだが、これがおそらく彼女が夫に反抗した最初で最後のことではなかろうか。この時の彼女の言葉が、父親の生活態度を一と言で表現している。 「おまえさんはね、そうやって朝から晩までパチパチ、パチパチ算盤《そろばん》ばかりやっていて、おまえさんのばあやは炒り豆屋の娘……」  即ち、商人道に徹するあまり、彼は息子の存在を忘れてしまっていたのである。算盤と暖簾《のれん》、それが彼の生活のすべてであった。だから、商人としては彼は満点の主人ぶりだった。火事騒ぎの直後、蔵に目塗りをする時に、小僧が�用心土�を自分の小便でこねたのを知って、彼は「ああ、そりゃ仕様がない、そりゃもう仕様がない。うん、よし、よし、よく気がついた、そこィ……」と褒めている。混乱の場合でさえ、小僧に対してその機転を褒めてやるというのは、なんでもないようにみえて実はなかなか出来ないことである。使用人に対する思いやり、同業者への心遣いなど、さすがに「江戸でも五本の指に折られる」商店の主人である。  だが、その反面、彼は非常な�見栄坊�だった。世間さまの思わく、これが常に彼の頭を占めていたようである。徳之助が生まれる時に、「あたしが育てます」という母親の言葉を一蹴して、 「冗談いっちゃいけない、江戸のうちでも五本の指に折られる質屋でもって、乳母《おんば》一人つけずに育てられるか。世間さまへ見っともない[#「世間さまへ見っともない」に傍点]」  と述べているのも、子供の可愛さよりも�体面�を気にしての言葉であることは明らかである。そしてこの生活態度に彼が自分で気がついていない点で、父親として悲劇の人というべきであろう。息子の日常をほとんど知らずに、しかも老舗《しにせ》の跡とりとして大きな期待だけを抱いて、何かにつけて徳之助に小言をいったであろうことは、想像にかたくない。そこへ持ってきて母親がお定まりの大甘ときては、息子のたどる方向も、これまた容易に想像できよう。�舐犢《しとく》の愛�という言葉があるが、この母親の徳之助に対する態度がまさにそれである。年をとってからできた一人息子だから、可愛いのは当り前だが、それにしても、 「え? 徳がきている? 徳之助が?……おとっつあん、だからあたしは、普段から、ご近所に大きな火事があってくれりゃいい、くれりゃいいと……」(対面の場の母親の言葉)  などと公言するくらい盲目的な愛情を抱いているのである。だから徳之助が家を出てしまうと、 「あの蔵の腰巻ン[#小書き「ン」]とこをごらん。随分キズになっている。おまえ(徳之助)小さい時にはあすこへいたずらがきをしたねえ。庭の池へも落っこって世話をやかせたし、そこにある床柱の大きなキズは、おまえが子供のうちにつけたキズだよ。どれをみてもおまえを思い出すようなものばかし。そのおまえがここの家を飛び出してしまって、いきがたが知れない。おまえがいつ帰ってくるかわからないような家に、苦い薬までのんで、あたしは、長生きしようとは思わないんだよ」といって薬ものまない状態になる。  こうして、父親、母親、それぞれぽっかりと気持に穴があき、息子に会いたい気持がつのりきった矢先の、あの火事騒ぎである。      六  両親の身を案じてかけつけた徳之助が、ひさびさにわが家に入り、親子対面する場面が全篇のヤマである。番頭に「実は若旦那さまで……」といわれた瞬間に、父親の胸に愛情が爆発して、しかし、それが逆に冷たい態度——裏返しの愛情——となって現われるさまを、三木助は次のように描き出すのである。 「お前(番頭)の知ってる方かい」 「へえ、徳之助さまで」 「なに?」 「若旦那さまで」 「(狼狽《ろうばい》して)あの、さっき、彫りものだらけでもって、屋根から屋根へ、パーッと、あの、二|間《けん》も、跳び、——あれが?——すぐに(こちらに呼びなさいという言葉をのみこんで、一瞬絶句、やがて冷ややかに)かえしておくれ。え? 会うわけがないじゃないか。何をいってるんだい。親類相談の上で久離を切って勘当したんだ。勘当すりゃ、アカの他人だよ。え? そんな人に、あたしゃ、会うわけがない。かえってもらっとくれ!」 「へえ、そのご他人さまが、この大火にかけつけてお手伝い下すったんですから、お目にかかって、一と言お礼申し上げるのが、至当ではないかと心得ますが」 「そうかい。(気がない口ぶりで)うん、会いましょう。じゃ、こっちィ呼びなさい」 「あなた(徳之助に)、どうぞこちらにお入り下さいまし」  ぬれた法被を肩へかけたのは彫りものをかくそうためですが、かくれるわけがありません。曲ったハケ先きを真直《まつつぐ》にしまして、 「(ドスのきいた小声で)お目にかかれた義理じゃございませんが、あんまり火の手がきびしゅうござんして、お身体に万一のことがありましてはと、我れを忘れて飛んで参りました。(いよいよ小声で、消えるように)お達者で、結構でございました」 「(感情を殺して)ハイありがとう。(一つ大きく嘆息)まあ、年をとったものはねえ、早く死んじゃった方がいいんだ。なまじ生きていると、厭《いや》ァなものを見なけりゃならない。え? (刺青に目をとめてねっちりと)大層立派に絵が書けましたねえ。いやいや、引っぱったってかくれやしないよ。……(略)さっき、おまえさんネ、あそこを跳びなすったろう。ありや一間半、悪くすると二間あるぜ。うまく跳べたからいいが、跳べなかったらどうする。えらい怪我をする。(思い直したようにポツンと)怪我ァしたっていいよ、他人《ひと》のことなんだから。ああ、怪我ァしようと、死のうと、おまえの勝手だ。ね、だけどもね、あんなとこで怪我ァされたり、死なれたりすると、あたしの家が迷惑するよ。フン、あがれました義理ではないって、冗談いっちゃいけねえ、義理を——(絶句、間をおいて)知ってるかい? え? 義理を知ってたら、そんな衣装《なり》で、こんな近所へこられねえはずだ!」  ざっとこんな塩梅《あんばい》である。はじめは�他人さま�として会っていたのが、つい息子の身を案ずる小言となり、しかもすぐそれに照れて逆に冷酷なことをいう。そしてそれまで抑えに抑えていた感情が、ひとたび皮肉をいい、小言をいうと、あとは悉《ことごと》く悪口雑言の限りとなってとび出すのだ。  血の通ったもの同士だけが感ずる照れ臭さ、憎らしさが、この場面にあざやかに浮き彫りにされている。可愛ければ可愛いほど、こんな場合には憎らしくなる。これは、いわばおとこ親と息子の宿命的な感情のいきちがいではなかろうか。母親の方は、息子の顔をみただけで、一も二もなく折れてしまい「おとっつあん、これもこうやって火事で参るくらいでございますから、どうぞ勘弁してやっていただきとうございます」と、父親にわびを入れるくらい、その感情は純粋|或《ある》いは単純である。ところがこの母親のとりなしが、かえって逆効果となり、父親の態度はますます硬くなる。 「冗談いっちゃいけないよ。こんな奴は(と鼻で嘲笑しながら)料簡《りようけん》がなおるわけがない。何かというとすぐ火事場へとび出しやがって、(畳を激しくたたきながら)商人《あきんど》の倅じゃないようだよ、まるで!……さ、かえんな、かえんな。……徳ッ! かえんなさい!」  結局、父親の「捨てりゃひろっていくものがあるから捨てなさいというんだ」という滋味|掬《きく》すべき一と言で、この話全体が救われて、最後の「火元へ礼に」のオチに至るのである。  このすぐれた演出によって、いきいきと登場する父、母、息子の姿を見つめると、そこに江戸時代の親子像の典型が浮かび上ってくる、——ばかりでなく、それはそっくりそのまま昭和のわれわれの周囲に散見する親子像に重なるのである。『火事息子』を聴くたびにぼくがポール・ジェラルディの戯曲『父と子』、河盛好蔵氏の随筆『あぷれ二十四孝』を想い出すのも、親子の複雑な感情が、洋の東西、時代の今昔を問わず変らないからであろう。蓋《けだ》し『火事息子』の父と子は、類型を脱して典型に迫っていると思うのだが……。  ところで、オチのあと、この火事息子はどうなるのだろうか。三木助の生前、その点を尋ねたところ、 「そうですなァ、兄なり弟なりがあれば別ですが、一人っ子ですし、まあ親も折れ、子も折れして、近いうちに家へ帰ってくるでしょうね。父親も公けに許すというのではなくて一応�黙許�という形でね。そいで昼間は老舗の若旦那として店に出て、火事だけは、ま、こりゃ趣味としてね……。ええ、ガエンの足を洗うことも、親方に手土産でも持っていって、みんなを集めて、今度|堅気《かたぎ》になりますっていえば、それで大丈夫でしょう」  という、これまた滋味掬すべき名解釈をあたえてくれたのである。 [#改ページ]  服装描写考[#「服装描写考」はゴシック体]       ——野暮天から粋人まで——  落語鑑賞のたのしみの一つに、時折ちらりと出てくる服装描写がある。といっても勿論、やれ服装文化史的にどうの、時代考証がどうのという大層なものではない。すぐれた落語にあっては、何気なく登場人物の服装を描写することによって、その�人間�があざやかにうきぼりにされたり、雰囲気がこまやかに伝わったりする。  いまの噺家《はなしか》の中で、服装描写に凝るのはだれだろう。ちょっと考えると、桂文楽などがいかにもこまかな描写をしそうな感じである。ところが調べてみると、男の衣裳にかけては三遊亭円生(六代目)が第一。そして女の衣裳については、意外にも古今亭志ん生(五代目)が最も多く言葉を費やしている。あの八方破れのような志ん生のどこにそんな緻密な描写力がひそんでいるのかと感心するくらいである。まあ、廓噺《くるわばなし》を得意とする以上、女の衣裳の描写がくわしいのはあたりまえだといえばそれまでなのだが……。  例えばこんな具合である。 「——花魁《おいらん》がくる。裲襠《しかけ》というもんの形がいいもんですな。緋縮緬《ひぢりめん》に伊達巻《だてまき》をきゅっと締め、そして長い友禅《ゆうぜん》の裲襠《しかけ》を上からはおって、夏なら絽《ろ》ですね。すっとたくしあげて、そして右でぐっと褄《つま》を取って(と右手をにぎって横腹のところまであげて褄をとった形)、で、片方をこう張《は》り肘《ひじ》をしてな、そして厚い草履へ朱の本天鵞絨《ほんてん》かなんかがすがったやつを、そして足袋《たび》というものを履かないですなぁ。素足でいたもんですな。色の白いところへ本天の赤だとかというのは、とてもうつりがいい。どうぞこちらィ……ぱたぱたぱたっと歩きますな。それがだんだん足袋を平気で履くようになってきた。え? しまいにゃ、コール天の足袋なんぞ履いているのがある。鬼ごろしというやつ、あれ、色っぽくないですな」(『五人まわし』)  花魁の一般的風俗を述べたものがこれだが、時には、登場人物の身の推移を、その服装の変化を描写することによって見事にあらわすというこまかな芸をみせることもある。  色を売る商売でも——というより色を売る商売だからこそ、仲間同士は堅いというのが廓の不文律であるから、花魁が同じ廓の若い衆といい仲になったりすると、そのままではおられない。そこで—— 「きのうまで絹の間《あいだ》で緋縮緬の長襦袢《ながじゆばん》に裲襠《しかけ》をきて、髪は赭熊《しやごま》に結《い》ってお客をとっていたのが、今日はがらっと変っちゃって、髷《まげ》に結って眉《まみえ》を落として唐桟《とうざん》の衿《えり》つきの着物に八端《はつたん》と黒繻子《くろじゆす》の腹合わせの帯を引《し》っ掛けに結んで、くいこむような白足袋ィはいてきせるを持って、お客と花魁の間のつまりこの、こと[#「こと」に傍点]を運ぶんですな。これをおばさんてえます」(『お直し』)  華やかな花魁から地味なおばさんへ——その変化を、志ん生は端的に表現して余すところがない。同じ花魁の姿を、文楽は、 「出てくるご婦人がてえと、文金、赭熊《しやごま》、立兵庫《たてひようご》なんてえ頭をいたしまして、部屋着てえものを着ます。左でもって(と左手を袂《たもと》の中へ入れて腰へあて、肘をぐっと張って)こう張り肘てえものをいたします。で、(右手のおや指とひとさし指でちょっとものをつまむ形)右で花魁は褄をとります。で、厚い草履を履いて、ぱたん、ぱたん、ぱたん……この姿を見た日《し》には、どんなはじめてのかただって、これは一見して女郎屋《じようろや》だてえことは——」(『明烏』)  と描写している。「裲襠《しかけ》」(帯をしめた上にうちかけて着る長い小袖)とか、「赭熊《しやごま》」(赤く染めた白熊の毛に似た髪の毛や、ちぢれ毛で作った入れ毛のことで、遊女の髪に多い)とかという言葉がでてきても、いまではわかる人の方が少ないだろう。しかし、たとえ一つや二つわからなくても、そういった描写を聞くと、遊女の姿が極彩色に目前を揺曳するような気がする。  色彩といえば、やはり志ん生の表現でこんなのがある。酔った亭主が女房に向って、 「——なぜそう寝たがるってんだ、ね? 寝よう寝ようといいなさんな。寝ようというのは一緒になって一と月ぐらいの間で、もう寝ようよッて、これはしょうがない。化けるほど夫婦になってて、お互いの間に緑青《ろくしよう》がわいているじゃねえかベラ棒め、いまさら寝ようなんていうない……本当《ふんとう》に、え? 寝ようというのはねえ、一番の髷に赤い手絡《てがら》かなんか掛けて、錦紗《きんしや》の友禅の長襦袢に、伊達巻の細いやつをきゅっと締めて、鬢《びん》のほつれが色の白いところへぱらっときて……く[#「く」に傍点]の字なりになって、寝ようよッ——こりゃしょうがないよ、寝たくもなるてんだよ」(『風呂敷』)  色っぽい若妻の雰囲気が、赤い手絡、長襦袢、鬢ほつ[#「鬢ほつ」に傍点]などの間接描写によって、いきいきとかもし出されている。  これが、円生の描く生娘となると、さらに華やかになる。 「かご屋が垂れをすっとあげると、きのうに変る娘のお久、身装《なり》もお召《めし》縮緬かなにかで、頭は文金の高島田、きれえにお化粧して、かんざしなぞは、女郎屋ですからお手のもんで、ねえ、珊瑚珠《さんごだま》だって、もう、こんな(と、両手の親指と人差指で直径一尺ほどの輪を作り)大きいのはないが(続いてその輪をだんだん縮めて、とうとう一寸くらいに)このくらいのやつを差して、かごからすうっと出てきた、そのきれえなこと……」(『文七元結』)  或いはまた年増美人となると「小紋縮緬の一ツ紋の着物に、黒繻子の帯をやの字[#「やの字」に傍点]にしめまして……」(『派手彦』)という具合。  この円生が『鰍沢《かじかざわ》』では三人の登場人物の服装をそれぞれ要領よく説明している。 「雪おろしの三度笠、まわし合羽に道中差、小さい振り分けの荷物を持ちまして、足ごしらいは勿論厳重にいたしまして……」  と、これが冒頭に出てくる旅びとである。厳重にした足ごしらえというのがよく効いている。この旅びとが道を見失った挙句、やっとたどりついた一軒家に住んでいたのが、 「着てえるものはつぎはぎだらけではあるがやわらかもので、上田のうすい茶弁慶のねんねこ袢纏《ばんてん》をはおって、頭は櫛巻《くしま》きでございますが……」  という二十六、七の女。鼻すじのつうんととおった、しかし目もとにケンのあるいい女だが、のどに月の輪なりの傷あとがある。即ち月の輪お熊というかつての女郎である。つぎはぎだらけのやわらかものという一と言が、その素性を暗示している。そして、最後に、 「八千草であんだ山岡|頭巾《ずきん》、狸の皮の袖なしを着まして、鉄かんじきてえものをはいて、膏薬《こうやく》の入った箱を右の肩からはすにこうしょって……」  このスタイルで登場するのが、お熊の亭主で膏薬売りの伝三郎、という寸法である。これらの描写が、ただ三人三様の服装を紹介するだけではなく、それぞれの境遇、身分、人柄、はては体臭までをハッキリと感じさせる点で、見事な演出というべきであろう。  このほか、円生の得意なのは、いわゆる粋な人[#「粋な人」に傍点]の衣裳《なり》である。例をあげると、女郎の惚れるほんとうの情人《まぶ》として設定しているのが、 「としのころは三十二、三でございましょうか、色のあさ黒い、眼のぎょろりとした鼻筋のつうんととおった、にがみ走ったまことにいい男で、茶みじんの着物に博多の平ぐけを締めて、目が悪いと見《め》えて、紅絹《もみ》のきれを出して、時々こう目を押さえてェる……」(『文違い』)  という芳次郎なる男。紅絹《もみ》のきれというのがいかにも色っぽい。また、本格的な遊び人スタイルとしては居残り佐平次の、 「——結城《ゆうき》の着物、羽織は胡麻柄《ごまがら》の唐桟、帯が紺献上《こんけんじよう》、小道具に半紙が一|帖《じよう》、手ぬぐいが一本……」(『居残り』)  があるが、円生だけでなく、ほかの噺家の描く�粋人�の服装も似たりよったりである。柳家小さん(五代目)は駕籠《かご》かきの口を借りて、 「みろみろ、ああいう客が乗るんだよ、なァ、みやがれおめえ、結城の対《つい》に献上の帯かなんかでもって、おめえ、なァ、ちょいと尻を端折《はしよ》って絹のすててこをのぞかして、白足袋に雪駄《せつた》ばき、手拭《てぬぐ》いを吉原かぶりにして、扇子を持って、踊りながらくらあ」(『蜘蛛《くも》駕籠』)  と描いており、死んだ桂三木助もまた、威勢のいい魚河岸の連中を、 「——結城の着物に献上の帯、脚絆甲《きやはんこう》がけわらじばき」(『宿屋の仇討』)  と表現していた。  要するに、気のきいた奴の衣裳《なり》といえば、結城の着物に献上の帯ときまっているような感じである。とくに、帯といえば必ずといっていいくらい献上ということになっている。だが、中には、三尺帯が出てくる噺もないことはない。志ん生はまくら[#「まくら」に傍点]で、 「——湯銭を耳ィはさんでおいて、湯ゥ屋の四、五軒手前から、こう三尺帯《さんじやく》ゥ解きながら(と両手を右側の腰のところで帯を解く形)歩いていますなあ」(『強情灸《ごうじようきゆう》』の枕)  と述べて、一と昔前の庶民の生活のいぶきといったものを伝えている。  一方、�粋人�とは正反対の、いわゆる�野暮天�の服装も落語の中ではかなりくわしく、しかも皮肉をこめて描かれている。円生の『木乃伊《みいら》取り』に登場するめしたきの清蔵などはその典型であろう。 「——国もとから持ってきた手織木綿という昆布《こぶ》のようにごつごつした着物で、茶だか紺だかもう色がわからなくなった一本どっこの帯を胸高[#「胸高」に傍点]にしめて、熊の皮でこしらいた自慢の煙草入れを前へさしましてな……」  と描写しておいて、さらに追討ちでもかけるような女郎屋の場面で、 「——『エエ、なんでも手織木綿のようなかたいおみなりで、あ、熊の皮の煙草入れを前へ……』『ああ、ああ、ああわかった。いえわかりました。熊の皮の煙草入れを持っているんなら余人じゃありませんよ、台所のあれですよ、清蔵ですよ』……」  というやりとりをつけくわえることによって、この野暮天を揶揄している。当時の江戸っ子の、田舎っぺい蔑視の風潮がこんなところにうかがえる。  そして、軽蔑の対象となるのは田舎ものばかりではない。武士もまた彼らの嘲笑の材料とされていたのである。三遊亭金馬(三代目)の描く侍と浪人は、ともに次のような服装である。 「黒羽二重五ツ所紋付の、黒がよごれて羊羹色《ようかんいろ》ン[#小書き「ン」]なりまして、紋がよごれて黒くなっている。羊羹羽二重黒紋付。茶献上の芯のでた帯を胸高に、朱鞘《しゆざや》のはげっちょろけた大小を落し差しに……」(『夢金』及び『花見の仇討』)  いばるだけが能の、武骨な武士の姿が浮かぶようではないか。いまなら、さしずめ無知|蒙昧《もうまい》な田舎代議士といったところでもあろうか。  武士と対照的なのが商人《あきんど》である。とくに、善人で金持で年寄りの、御隠居風商人となると、同じく金馬の、 「薩摩の蚊《か》飛白《がすり》、紺献上の五分づまりの帯、透綾《すきや》の羽織、扇子と煙草入れを腰へ差し、白木《しらき》ののめり[#「のめり」に傍点]の下駄を履き、白鞣《しろなめし》の鼻緒に、十三本|柾《まさ》が通っている。桐は越後ではなく会津でございます」(『佃祭』)  という次郎兵衛が凝った服装の好例だ。「のめり[#「のめり」に傍点]の下駄」というのは、前の裏面をななめに切って造った下駄のことである。  ところで、いまどきこれだけの服装をしようとしたら、一体いくらかかるだろう。街に男の和服姿が見られなくなったのは、活動的でないという大きな理由も勿論あるが、一つにはとても手が出ない値段のせい、つまり呉服屋のせいでもあるのだ。もし着物類がもう少し手軽に買えるものなら、ぼくだって「——いえ、あなたのことを芸者衆が褒《ほ》めてますよ。いえ、ほんとに。服装《なり》のこしらえが巧《うま》いって、まああなたはね、お背《せえ》がお高いからね、なんでも、お似合いだ。ね? 洋服は勿論のこと、ね? 結城紬《ゆうきつむぎ》が似合って、お召しを召してもにやけなくって、紋付羽織袴が立派で、ねえ、うん、なんでもお似合いッ」(文楽『つるつる』一八《いつぱち》の白《せりふ》)ぐらいの自信はあるのだけれど……。 [#改ページ]  食物描写考[#「食物描写考」はゴシック体]       ——葬式からさし向いまで——  古今亭志ん生所演の『宿屋の富』に、もしも富くじに当ったらと夢想する江戸時代の善良な庶民の姿が、次のように描かれている。 「ねえ、お膳の上ェ見るってえとね、卵焼きがあってねえ、お刺身があって、お椀があって、ええ? 鰻《うなぎ》がありやん。お燗《かん》ができたわよ。お酌《しやく》、なんていわれて、へ、じゃついでくれ……ああどうも酔っ払っちまった。寝ましょうか。寝よう、なんてんで、寝たりなんかして、起きるてえとね、お風呂へいってらっしゃいよなんてんで、お湯から帰ってくるとお膳が出てて、お酌、なんて、ああ酔っ払っちゃった寝ましょ。へへ、寝て起きるてえとお風呂いってらっしゃい、お湯から帰ってくるとお膳が出ていて……」  じれったくなった隣りの男が、当らなかったら? と尋ねると、即座に、 「当らなかったら、うどんくって寝ちゃうわ」  ——庶民のささやかな夢と現実を、これほどすなおに、しかも端的に表わした会話をぼくは知らない。  この、卵焼き、刺身、椀のもの、鰻と並べた献立が、当時の庶民にとって最高の御馳走であったことは、彼らの日常の食膳をみれば容易にうなずける。『近世日本食物史』(足立勇氏著)と『食物の歴史』(後藤守一氏著)によると、普段の献立は、極めて粗末なものであったらしい。例えばひじき[#「ひじき」に傍点]と油揚の煮たものと、芋、蓮根、人参の煮付け、それに味噌汁と新香。これを朝昼晩にわけて、朝は味噌汁、昼が煮付け、夜は香のものという具合に食べるのだそうである。魚類は、平目、鰯、蛤《はまぐり》、たにしなどが一と月のうちに三日あればいい方だったという。まして、大根製|蒲鉾《かまぼこ》だの沢庵製卵焼きだのに舌鼓《したつづみ》を打つぐらいの落語世界の主人公たちともなると、その常食は推して知るべしである。だからこそ、卵焼き、刺身、お椀、鰻とくれば、まさしく夢の献立だったのである。なかでも、刺身と鰻は横綱格としてしばしば落語の中に登場し、時には重要な小道具としての役割を果たしている。    (一) 刺身  何が好物かと聞かれて「刺身ィ」と答えるのが、まるで江戸っ子の資格ででもあるかのように、だれもが刺身を好きだといった。そうすると、きまって、 「えらいッ、これはいいねえ、酒によくって飯《めし》にいいんだからね。やっばりなにかい、山葵《わさび》をきかして?」(三木助『時そば』)  などとそれを褒める奴が出てきたり、 「あったかい時によくって、寒い時によくって、酒によくって、飯《めし》にいいてえ、中|脂《あぶ》のところォ山葵きかして食ったしにゃたまらねえや」(文楽『酢豆腐』)  という同好の士が飛び出したりする。それほどだれもが刺身を愛好したのだが、遺憾ながら「なによゥいってやがんでぇ、それァ銭《ぜに》のある人間のいいぐさだよ」(『酢豆腐』)というわけで、安直には味わえなかった。それだけに、食べるとなると、 「お、いい山葵《さび》を使ってやン[#小書き「ン」]なァ。とろっとして、こういかなくちゃいけねえ。刺身てえものァ、半分は山葵《さび》で食うもんだからねえ、ウン、山葵《わさび》は高《たけ》えから粉山葵でもいいってえ奴があるが、冗談いっちゃいけねえやな、……え? いいなァこの中とろン[#小書き「ン」][#「とろン[#小書き「ン」]」に傍点]ところで(ぺろっと音をたてて食べ)こりァう……むゥ(顔をしかめて左手で首の後を叩き)はァッ、おおウ辛《かれ》え、つうんときやがったよ、わさびきいたか目に涙てえやつだ。ハハハハ、うめえなァ、どうも……」(円生『一人酒盛』)  などと、一応うるさいことをいわなければ気がすまないらしい。  また、仲のよい男女が、一つ皿の刺身をつつこうなどという図はたちまち、 「兄貴と師匠の飲み方ってなあ、ちょいと変ってるんだ、うん。刺身なんぞがありましてねえ、ええ、それで兄貴が刺身をこうとって醤油《したじ》ィつけるでしょ、そうすっとそばでお師匠さんがねぇ、こう口をあけて待ってるんですよ、そうすっと兄貴がね、こう、にこにこ笑いながら師匠の口ン[#小書き「ン」]中へその刺身を入れる、そうすっとお師匠さんがまたねえ、うめえんだねえあの刺身はよっぽどねえ、あァうまそうな顔をしてその刺身をね、たべるんですよ。こんどは師匠がね、刺身をとって醤油《したじ》ィつけるとなァ、兄貴がそばでもってね、駄々ッ子だよまるで、ああ。目じりがぐっとさがっちゃってねえ、こうやって口をあけてるんだよ、そうすっとお師匠さんがこの刺身を兄貴の口ン[#小書き「ン」]中へ入れるんですよ。あァ、子供みてえなもんだ、ええ。見ちゃいられませんよ。つまり入れちげえの刺身ってやつなんで」(三木助『猫忠』)  と、垂涎《すいぜん》おくあたわざるところとなって、町内じゅうに宣伝されてしまうのである。  刺身でさえこの通りである。これが鰻となるとさらにあこがれの食べ物になる。    (二) 鰻 「なんか食いもんだけど、うまいもんがないねえ。新井屋ィ行って中粗《ちゆうあら》かなんか取ってもらおうか……あ、そうだ、鰻を焼いてもらおう、え? あたたかいおまんま、鰻のっけの、え? こうお茶かけの、鰻茶漬《うなちや》かなんかやろうじゃねえか」(円生『居残り』)  などと軽く注文するのは遊び人ぐらいなもので、一般には、やはり鰻というとなかなか口に入らない。 「おとっつァん泣きゃァしねえやな、暑いから目から汗が出るんだ、ハハハハ……おめえ、鰻ァ食うことァあるか?」 「ううん、鰻なんて、そんなものァ食えるもんか、肝《きも》だってめったに食えねえや」  という『子別れ』(円生)のやりとりは、父親と幼児の会話であるからまだしものこととして、れっきとしたおとなでさえ、 「どうでェ、鰻を食うかい?」 「へッへ、うなとと[#「うなとと」に傍点]はいいね、のろ[#「のろ」に傍点]でしょ? レキ、あれにはあたくしまた久しくお目にかかりません。へへ、え、土用のうちに鰻に対面なんぞはようがすなァ、へェ、ぜひお供を……」(文楽『鰻のたいこ』)  という有様である。三田村|鳶魚《えんぎよ》翁も「鰻も蒲焼になると、少し銭のあるものでなければ食えない。ただ辻焼の鰻というやつは、安く食えるけれども、これは蒸したのでも何でもない、まずくて仕方のないものである」(『江戸生活事典』)と述べている。だが、面白いことに、これほど貴重な鰻も、遠く時代をさかのぼると、逆に下品な食物として軽蔑されていたらしい。本山荻舟氏の『飲食日本史』によると、昔(奈良朝時代)は卑しい魚として中流以上の食膳には上らず、平安朝を過ぎた京でも元禄までは、場末へ行かなければ蒲焼屋はなく、江戸はさらに下って、安永天明ごろ、はじめて府内に鰻屋ができたとあり、「蒲焼の匂ひ風流にはあらねど、うまきにほひとやいはむ」などと記されているというのだから鰻が高級料理としてもてはやされるようになったのは、江戸も比較的末期のこととみてよいだろう。  ところでこの鰻、どんなにうまいかというと、 「これはおあったかいうちに戴きましょ、こりゃァさめてはいけません、さめての上の御分別と……、お薬味がございますが、お薬味、へッ、では戴きまして……む、大将こりゃァ恐れ入りましたな、舌へ載っけますとね、とろっときます、溶けそうですよ」(『鰻のたいこ』)  という塩梅である。で、これがまた、刺身以上にうるさいことをいわないと気がすまない連中が多い。 「こいつがまた鰻ッ食い[#「鰻ッ食い」に傍点]でね、ちょいと箸《はし》ォ入れたばかりでネ、うむ、こりゃァ、なんかいう奴なんで、こねえだァまた大喜びでね、今日《こんち》ァ一つ粗いとこォ二人前……」(文楽『素人鰻』)  などと、気取った注文の仕方をした上、 「姐さん、お酒を先ィ、面倒くせえからまとめて三四本持ってきてくんねえ……そいから食物《くいもん》はなんだ、中串かなんかがいいだろう、急《せ》かしちゃ野暮だけどもなるべく早場にしてもらうように」(円生『庖丁』)  だの、 「あ、姐さん酒そこへ置いてっていいよ、そいからなんだ、鰻屋へきて急ぐのも野暮だけどもね、早い方がいいんだから……」(『鰻のたいこ』)  だのと、遠慮しいしい急がせる有様である。  当時の、このような�庶民の食通�を、われわれは笑う資格はない。何故なら、昭和の現在も、レストラン、料理屋など到るところで、同じような愛すべき食通氏のごたく[#「ごたく」に傍点]をいやというほど聞かされるではないか。食べものばかりではない。目を酒に転ずると、自称�酒通�のいることいること……。例えば、有名なウィスキー会社で出していたPR雑誌などは、偉そうな先生や偉くなさそうな先生が好き勝手なことをいってまさに百花繚乱の趣きである。やれ、コニャックならヘネシイの EXTRA でなくてはいかんとか、やれ、イギリスのビールはにがすぎるのでもっぱらデニッシ・ビールを用いるとか、どうも鼻もちならないごたく[#「ごたく」に傍点]が並んでいる。そこへいくとわが落語世界の主人公たちは、ただ一つの例外——『酢豆腐』の若旦那——を除けば、みな素直なもので、その通ぶりも、次節に示すようにむしろ愛すべきものが多いのである。    (三) 酒 「見ねえこの酒をよ、どうだい、ええ? 色といい、香りといい、上へこうぐうっと盛り上る、こういかなくちゃいけねえ、酒は平《てえ》らになっちまっちゃいけねえやな。注いでこう上へこんもり盛り上るような酒でなくちゃあねえ」(『一人酒盛』)  というように、酒はまず色とコクであろう。野暮のかたまりのようなめしたきの久蔵でさえ、 「やァ、こりゃ、どうも、きれえな姐さまにおしゃくなァぶってもらって、すまねえこんだねえ、……いやァ、こりゃどうも、盛り上ってるだ。ええ酒はのまなくても知れるだ、なあ。コクがあるからね、ウン、ではちょうでえしますよ(と、息もつかさず飲み)……フウ、こりゃええ酒だな。酒はええ酒のまなければだめだなァ」(小さん『試し酒』)  と、一席ぶっている。同じく田舎者のめしたきの白《せりふ》で、 「……そんじゃまァ、せっかく若旦那お帰りン[#小書き「ン」]なるめでてえ酒だで、そんじゃよばれるだで、へえ、ごめんなすッとくんなせえ(と、若旦那に挨拶してあおる)……ええ酒だねこらァ、あははは、おらたちののむ酒たァ、えれえ違《ちげ》えだ。安くなかんべえなこらァ。番頭さん、これ一合どのくれ……」(円生『木乃伊取り』)  というのなどは、あわいペーソスさえ漂っている。  これらはいずれも、いまでいう特級酒だろうが、素朴なところでは、 「すいませんねえ、おとっつあん、へえ。こんな大きなもんで貰《もら》っていいんですか? へえ、いただきます。あァありがてえ(と右手に湯呑みを持ち、左手を受けるように下へあてがってのむ)、あァ、さっきの�じきさめ�とはえれえ違《ちげ》えだよ、こいつァ……あァ、ありがてえなァ(と、下へこぼれたやつを左手でぬぐい、その手でぺたりと額をたたいてひとりごちる)あァ、おとっつあんこんないい酒ェ飲んでるのかねえ、造り酒屋なんてえのはたまらねえなァ、こんないい酒のべつにのんでちゃァなァ」(三木助『長者番付』)  と、これは恐らく、田舎の造り酒屋秘蔵のもので、市販していない地酒だろう。一方、口のおごった連中になると、 「おれたちァ、まあ魚河岸《かし》の三人だ……生意気なことをいうわけじゃねえけれどもねえ、新川から灘《なだ》の生一本《きいつぽん》てえやつをとりよせてのんでんだから、頭ィピィんとくるような酒はだめだぜ」(三木助『宿屋の仇討』)  と可愛げのあるハッタリをかけたり、 「あ、それからね、ゆうべっからのお酒がちょいっと甘口なんだがねえ、どうもあんまり長くのんでると口になずんじまってうまくないからねえ、お酒の口を変えて、今度《こんだ》、ちょいと辛口のやつをね」(円生『居残り』)  と注文をつけたりする。  ところで、酒のみの心理を絶妙に描いているのは文楽の『素人鰻』である。悲壮な努力を払って酒を断とうとしながら、遂に断ちえなかった神田川の金《きん》という職人(鰻さき)は、まさしく酒神《バツカス》の殉教者とでもいうべきかもしれない。彼の言葉を聞いてみよう—— 「旦那の前でござんすがね、この色ォみたしにやァ堪《たま》りません、酒のみなんてものは意地の汚いもんでござんすね。まあ一杯やってきねえといわれますと、どんな急ぎの用でも腰が落着いちまうてえのはしょうがござんせん。へ、戴きます、もうなによりでござんす(と、一気に飲みほし)……よい御酒《ごしゆ》でござんすね、これならもう上乗でござんす。コクといい香りといい、申し分ござんせん……(飲んで)旦那、よせねえもんでござんすね、いつまで若《わけ》えんじゃァねえ、どうかしてよしてえよしてえと思ってるんでやすが、酒屋の前なんざァ通り切れねえんでござんす。呑口から出るとこなんざ見たしにゃ堪りません。こんなこっちゃいけねえと思いましてね、眼えつぶって通りました、それがいけねえんです、鼻てえやつがあるもんで、鼻へつうんとくると咽喉《のど》がぐうっと鳴るんで……どうもしょうがありませんからね、眼えつぶって鼻ァ押さいて酒屋の前駆け出して通った、泥溝《どぶ》ィ三度落っこっちゃったン、あんな驚いたこたァござんせん、ばかですねえ(ぐうっと飲みほす)へ、さいですか、じゃァ、へ、あいすみません(受けて飲み)酒じゃァもう永いこと皆さんに御迷惑をかけてます、何十遍、しくじったかわかりません……」  金公の酒臭い吐息と共に、酒のおそろしいほどの魅力と魔力が、聴き手の鼻先に伝わってくるようだ。  この金公とは逆に、みごとに酒の魔力に打ち克ったのが、『芝浜』の主人公|魚勝《うおかつ》である。ふっつりと酒を断って三年、余裕|綽々《しやくしやく》たる大つごもりの夜の情景を、亡き三木助はまことにこまやかに演じたものだった。 「おゥ、茶を一ぺいくんねえ」 「いま除夜の鐘が鳴ってるよ、福茶《ふくぢや》がはいったから福茶をおあがんなさい」 「あァ、餓鬼のうちにゃァのまされたことァあるんだけどねえ、久しくのまねえから、福茶の味だって忘れちゃってら、なんでもいいや……あ、いけねえや、おゥ、雪が降ってきたのか?」 「どうして」 「なにかさらさら音がしてきた」 「いえ、雪じゃないんだよ、門松が立ったら風が出てきたもんだから、笹がふれあうもんだから、ときどきさらさらッ、さらさらッ……と音がして、さっきあたしもねえ、雪とまちがえたの」 「そうか……雪ァ降るわけァねえと思った。おれァ帰りにひょいッと空を見たが、降るように星が出てやがった。あしたァいい天気だぜ、ええ? いい正月だなァ、うん、のむやつァ[#「のむやつァ」に傍点]楽しみだろうなァ」 「おまえさんものみたいだろうねえ」  ——と、ここで魚勝の返事が頗るよい。 「いやァ、のみたかァねえや。うん、のんでる時にァねェ、やっぱしのみてえんだよ。やめてみるとねえ……酒より茶の方がうめえぜ、うん、なんかあとへこうひょいと甘味の残るところの味なんてなァねえ、まァ、おれァ酒より茶の方がうめえんじゃねえかと思う……ああ羊羹《ようかん》あったろう? あつめに切ってくんねえ……」  負け惜しみでも何でもなく、酒より茶の方がうめえ、とさらりといってのける羨《うらや》むべき境地である。そして、「なんかあとへひょいっと甘味の残るところの味なんてなァ」とか「羊羹あったろう?……あつめに切ってくんねえ」などというさりげない言葉に、いかにも、まったりとした煎茶の風味が漂うと同時に、左党から右党へ転向した男の感じが、いきいきと伝わってくるではないか……。    (四) 豆腐  酒からお茶に話がそれたが、ここで、酒の下物《さかな》を眺めてみよう。安直なところで豆腐がある。 「いっしょにおいでよ、悪《わり》いようにはしないから、ね? おまえが一合、おれが一合、たいしたもんじゃないよ、冷や奴かなんかでこう、ぐっとひっかける手があるんだから、だまってくっついておいでよ」(三木助『人形買い』)  などと気やすく誘えるところが豆腐の身上である。志ん生も『甲府ィ』の枕で、次のような豆腐礼讃を述べているが、まことに言い得て妙である。 「豆腐てェものはオツなもんでありまして、今は値ばかり高くってちっぽけになっちゃいましたけども、昔ァ八銭か十銭で一丁の豆腐があると、夫婦かけ向いなら、酒のさかなになって、めしの菜になるてェから、あのくらい結構なものァない。だいいち栄養がありますからな……」  豆腐なんかは、冷や奴とか、湯豆腐とか単純な食べ方ほどうまいと思うのだが、例の『居残り』の遊び人などは、ここでもまた一応の凝り方をみせる。 「ゆうべッから、少《すこ》オしやりすぎたんでねえ、頭が重くてしようがねえんだが、ちょいとこうお迎いってやつ、やりたいと思うんだが、お酒。ああそれから朝直しは湯豆腐てえが、なにも湯豆腐と限ったこたあない、牡蠣《かき》豆腐なんてェのはちょいとオツなもんじゃァねえか、魚留へなんか見せにやってな……」  豆腐より、さらに安直な下物《さかな》もある。 「糠味噌《ぬかみそ》の桶《おけ》があるだろ、あれをこう、底の方をすうッとひとつかきまわしてみねえ。思わねえこの古漬てえやつがあるもんだ。こいつをこまかくきざんで、すぐじゃ臭くっていけねえや、いったん水ィ泳がしといて、生姜《しようが》ァ混ぜて堅くしぼって、カクヤ[#「カクヤ」に傍点]の漬物《こうこ》てえなァどうでえ?」(文楽『酢豆腐』)  窮《きゆう》して通じた庶民の知恵であろう。もっとも、糠味噌でありさえすればどんなものでもよいかというと、これがむずかしい。 「この、漬物《こうこ》ッてものァね(と、それを口に入れ)む、うまい、いい加減ですねェ、うまいねえ。こういうものの味てえのはねェ、教《おせ》えて教《おせ》えられねえもんでちょいッとした、コツ[#「コツ」に傍点]ですがねェ。へえェ、どうもいいねェ、昔からよく言いますよ、糠みその味のいいのァ、そこのうちのおかみさんの……(ニヤリと意味ありげに)なんてね」(円生『庖丁』)  というわけで、糠味噌という微妙な生きものの扱いは、いまも昔も頗るむずかしいのである。  もう少し上等なものになると、佃煮《つくだに》がある。 「へェ、沙魚《はぜ》の佃煮。へェ、オツ[#「オツ」に傍点]なもんですね(と、右手の拇指《おやゆび》と人差指でつまみあげ)佃煮てえやつァ(と口に入れ)、うん、オツ[#「オツ」に傍点]なもんですね。へえ、兄貴はねえ、なんか食っても飲んでも昔から口が奢《おご》ってるからねえ、ちょいとしたもんでもやっぱり筋が通ってなくちゃいけません」(『庖丁』)  これは寅《とら》ン[#小書き「ン」]べい[#「ン[#小書き「ン」]べい」に傍点]という折助《おりすけ》のような男が、兄弟分の女房にむかっていう単なるお世辞にすぎないが、しかし、この言葉は当を得ている。「筋が通ってなくちゃ」という態度こそ料理の根本であるからだ。これから結婚する女性に、この寅ン[#小書き「ン」]べい[#「寅ン[#小書き「ン」]べい」に傍点]の言葉を味わってもらいたいと思うのだが……。ここでいう「筋が通ったもの」とは、なにも贅沢《ぜいたく》なことではない。おいしく食べさせようという心づかいと、そのための機転さえあれば、たとえ貧しくても「筋が通ったもの」を食卓に出すことができるのだ。安くてうまければ、これにこしたことはない。 「そこの湯の角が酒屋でございまして、その湯ィうんと温まって水ゥ浴びて、角の酒屋で枡《ます》から四、五杯ひっかけて、納豆買って、丼《どんぶり》ン[#小書き「ン」]中ィ入れて、そいであすこの駒形のどじょう屋でめしだけとって食うというような、ごォく倹約《しまつ》なことをしてェたんですけども、しまいに、どじょう屋で『あのゥ、茶椀がぬるぬるしますから納豆はいけません』てんでことわられちゃった」(『強情灸』の枕)  という志ん生自身の経験などは、最低の出費でうまい思いをする見本のようなものだ。聞いているうちに、ああおれも食べたいなという気になるぐらいだが、反対に、聞いただけでうんざりしてしまうのが『猫久』(小さん)に出てくる長屋のかみさんの料理だ。 「だめだよこの人ァ、髪結床なんて行っちまっちゃァ。お昼《ひる》のおかずなんだと思ってるんだよ、鰯のぬた[#「ぬた」に傍点]だよ。ねえ、味噌はあたしがこしらいといたィ、鰯こしらいとくれ鰯を。南風《みなみ》が吹いてるんだよ、ぽかときているんだよ、腐っちまうよ、い[#「い」に傍点]・わ[#「わ」に傍点]・し[#「し」に傍点]!」  いくら鰯がその当時の御馳走でも、こんな女にかかってはだいなしである。水でも飲んでおいた方がマシなくらいだ。    (五) 甘納豆  このように、食べものというものは、言葉づかい一つで、うまくもなれば、まずくもなる。その典型的な例が—— 「うん、身共の好きなものは、えぼえぼ[#「えぼえぼ」に傍点]坊主のそっぱ漬けじゃ。それに、はァ、あかべろべろ[#「あかべろべろ」に傍点]の醤油漬けたい」 「まあ、なんです。そのえぼえぼ[#「えぼえぼ」に傍点]坊主のそっぱ漬けてえのは」 「蛸《たこ》の三杯《さんびい》」 「ああ、蛸の三杯酢。あのゥ、あかべろべろ[#「あかべろべろ」に傍点]てえのは」 「鮪《まぐろ》の刺身《さすむ》じゃ」(小さん『棒だら』)  あかべろべろ[#「あかべろべろ」に傍点]はご愛敬としても、「さんびい[#「さんびい」に傍点]酢」だの「鮪のさすむ[#「さすむ」に傍点]」ときては、酒もまずくなり、食欲も減退し、そぞろに里心がつこうというものだ。江戸勤番の田舎侍は「浅黄裏《あさぎうら》」といわれて、 [#この行2字下げ]女には御縁つたなき浅黄裏 [#ここで字下げ終わり]  などと徹底的に嘲笑されてきたが、この『棒だら』の侍に至っては、食い気までが侮蔑の対象とされているのである。  ところで野暮天の代表から、粋な方に目を転じてみよう。まず、女郎買いの翌朝のシーンでこんなのがある。 「おい、おまえ菓子|箪笥《だんす》をあけてなにか食ってるね、おい、何を食ってるんだい」 「(右の三本指で左の手のひらから甘納豆をひとつぶずつつまんで)どうでもいいけどね、おまえ少しうるさいよ。あすこォあけたら甘納豆が出てきたからね(吸いこむように音をたてて二粒ばかり口に入れながら)、けど、朝の甘味はオツ[#「オツ」に傍点]だね。これで濃《こ》い宇治かなんかいれて貰やァ、思い置くことさらになし、えへ(と二粒つづけて口に入れる)」(文楽『明烏』)  花魁にふられてむしゃくしゃしながら、なお「朝の甘味はオツだね」とうそぶく余裕が江戸っ子の自慢だったのだろう。  粋というのではないが、やや上等なものでは、 「何《あん》だって? へェ、お肴《さかな》ァ下さるてえ、やあそりゃすんませんで、ハイハイ、そんじゃ頂戴すべえ(左手を出して受け)やあ、えかくうまそうなもんだねこら(と口で手のひらを吸うように食べて)こりゃ何《あん》だね? 甘《あめ》えようなすっぺえような、何《あん》てえ魚だなこら、フン、魚じゃねえ、杏《あんず》だって? 杏けえ、こらあ、ふふふ道理で、おらァ骨がねえと思った。杏には骨がねえで……」(円生『木乃伊取り』)  という杏だの、くわい[#「くわい」に傍点]のきんとん(円生『百川《ももかわ》』)だのが登場する。    (六) 赤飯  これも粋とはいえないが、しかし頗る気がきいたものに、火事見舞の夜食がある。 「旦那、ええ? このねえ、お重詰にねえ、おでんを総仕舞いにして串ィさしてあるとこなんざあ気が利いていますねえ、大したもんですな。あ、ごらんなさい、え? これ目刺し。なんご[#「なんご」に傍点]の腸《わた》抜き目刺し、この目刺してえものがねえ、大変なもん」(文楽『富久』)  火急な場合に、これだけ簡にして要を得た、しかも心のこもった届けものができれば、まさしく「大変なもん」であろう。いまから二十年も昔のことになるが、拙宅が吉祥寺で大水にあったことがある。その時、古くからおつきあいがあった某山の手奥さまが、筏《いかだ》に乗って見舞いにこられたが、ビンにつめた水をお供の女中さんと一緒に、もてるだけもってきて下さった。水の見舞いに水をとどけるという心づくしを、『富久』を聴くたびに、ぼくはいまでも有難く思い出すのである。  火事が出たところで、ついでに葬式の食べものを、拾ってみると、 「お葬《とも》らいにお菓子を出す、そのほか強飯《こわめし》というもので、赤飯《せきはん》でございますな。おめでたい時に使いますのは大納言てえものを入れる、小豆《あずき》でございます。それが不幸の時には、黒豆を入れておこわをふかす……」(円生『子別れ』上)  というわけで黒豆入りおこわと、それに、 「ま、酒は三升もあったらよかろうが、悪いのァいけねえから、なるたけいいやつをとどけてもらいてえ。それから、煮しめは、こんにゃくと蓮とはんぺんぐれえで、こいつをだしをきかして、こういう陽気だから少ウし辛めに煮てもってきてくれ」(円生『らくだ』)  といったところが標準のようだ。余《あま》り魅力がないのはこれが葬式の食べものだからで、同じ品でも、 「お膳が出てますからごはんをおたべ」 「へェ、あちらでお赤飯を頂戴してまいりました」 「なんだな、お赤飯を頂戴したって、いまの若さに菓子盆のひと盆ぐらいの強飯をたべたって腹のたしになるもんじゃない。……お膳が出ているんだからたべたらよかろう」 「お煮しめのお味がまことに結構でございますために、おかわりをいたしまして、三杯頂戴いたしました」 「なんだい? どうでもいいけどおまえ、色気がなさすぎるよ。おまえ、地主の息子ですよ、え? 差配人の稲荷祭にいって強飯を三膳おかわりをしてくるやつがありますか」  という『明烏』(文楽)の父子の会話を聴けば、たまには赤飯と吟味した味の煮しめの献立も悪くないな、と思う。    (七) おかめそば  ところで、吟味した味といえば、いまは亡き三木助はなかなか口が奢っていた。神田淡路町の細い露地にみどり屋という駄菓子屋があるが、三木助はそこの煎餅とおかき[#「おかき」に傍点]が好きで、よく田端から買いにきていた。みどり屋の自慢の品は、店一番の職人が焼くという極薄《ごくうす》の煎餅だが、よほど注意して扱わないと、たちまちこなごなになってしまう、それくらい薄くてもろい。 「でも、こなごなになったって、よござんすよ。三木助さんはいつもそれをお茶漬にして食べるってましたよ」  きりりと頭を櫛巻にした、いまどき珍しい古風なみどり屋のおかみが、いつもそう言い言いしていた。駄菓子一つでも、自分で遠くまで買いにいく三木助だったが、これはどうやら師匠(二代目桂三木助。大阪)ゆずりらしい。 「先代の三木助って人は口の奢った人でしてね、毎朝起きると、自分でもって買出しに出掛けていくんですよ。そいで帰ってきて、湯に入って、そいから買ってきたものを料理してゆっくり朝めしをやるんですがね、それが毎朝、大へんなご馳走なんですよ。買ったもの全部を並べないと気がすまなくってね。だから毎月のかかり[#「かかり」に傍点]は大へんなもんでしたな。あたしがそばで見てェるとネ、『どうだ、食いたいか』ってわざわざきくんですよ。黙っていると必ず『食いたいだろ、食いたきゃ早くうまくなれ、自分でかせいでいくらでも食べろ』ってね……」  この話を、ぼくは何度聞かされたことか。どうだ、食いたいかという師匠の言葉は三木助もよほど忘れかねていたのだろう。  死ぬ一と月ほど前に会った時、三木助は、 「こないだ�とんち教室�で秋田へ行ってきたんですが、汽車ン[#小書き「ン」]中で、みんな鰻弁当だの駅弁なんかをうまそうにやってるんですがね、あたしも食べたいなァと思いましたが我慢して、食堂車へ行ってトーストとポタージュってやつを食べたんですがね」  といっていかにも淋し気であった。やがて寝たっきりになって、ほとんど何も喉を通らなくなってからも、蕎麦《そば》だけは「食べたい」「食べたい」といっていた。蕎麦が大好物だった。だから——というわけではないが、彼の『時そば』は『芝浜』同様絶品だった。その『時そば』の中に挟む�味覚談義�は、あたりまえのことを、さらりと喋って、しかも非常におもしろい。それを紙上に再録して、稿の結びとしたい。 「……しかし、召しあがりものを大きく二《ふた》アつに分けますと、関東と関西というようにわかれますなァ。これで、関東と関西では、お味も随分ちがいます。なにか関東のほうは、味がちょいとしつっこいような心持がします。上方《かみがた》のほうへ行きますと、魚を煮ましても味をつけましても、その魚の味を生かすようにして味をつけていくんだそうで、ですから味が、なにかこう、あっさりしております。お魚もまたちがいます。大阪へ参りますと、鯛《たい》ですとか鱧《はも》、こういったお魚がおいしゅうこざいます。東京のほうですと、鮪《まぐろ》ですとか、鰹《かつお》、秋刀魚《さんま》、鰺《あじ》なんてェように変ります。あの、間《あいだ》にあります中京、名古屋といいますと、あすこは鳥がおいしいところでして。……鳥ばかしじゃありません、名古屋うどんなんてえまして、まァ名古屋へ行きますと、われわれはたのしみにしてうどんをいただきますが……。なんか、東京でたべるうどんと違いまして、肌はいいし、おいしいような気がいたしますな。名古屋ばかしじゃァありません、大阪でも、そばよりうどんのほうがこのまれます。東京のかたはてえとそこィいくとあんまりうどんは召しあがりませんで、昔は若い人なんか、うっかりうどんなんぞを食べようもんなら、『なんだい、うどんなんぞを食ってやがら、おい、風邪ェひいたのか?』なんてんでな、風邪でもひかなかった日には、うどんなんぞは食べなかったんだそうですな。……そばも色々ありまして、種《たね》もんで、おかめそばというのがあります。おそばでおかめてえなァおかしいと思いますなァ。天婦羅が入って天婦羅そば、鴨《かも》と葱《ねぎ》が入るから鴨南ばん、おかめがきざんで入るわけがないんですからねェ……不思議に思ってご年配のかたにうかがいましたところが、あれは昔はおかめの顔をこしらえてできたんだそうですなァ。はいりますものが、中板《ちゆういた》の蒲鉾《かまぼこ》が二枚、それに松茸《まつたけ》がはいりまして、鳴戸が二枚、それから筍《たけのこ》の形のいいのを縦《たて》に切りまして、それから青味といいますと大概三ッ葉ですが、三ッ葉もただはいっているのは、どっちかてえとずぼらなほうでして本当は昔はちょいとこう(と軽く手で結ぶ仕草をして)結んでありまして、七三ぐらいな見当で……そうして島田|湯葉《ゆば》がはいっております。ですからあノ、中板の蒲鉾を二枚合わせますと、丁度おかめの顔の形になりまして、鳴戸が頬紅《ほおべに》ン[#小書き「ン」]なりまして(と頬をつまむような形。以下同様にいちいち顔を示して)、松茸が鼻になって、三ッ葉の結んだやつが簪《かんざし》ン[#小書き「ン」]なります。そうして島田湯葉といいますから、島田髷みたいな形をしてェまして、湯葉が丁度島田髷ン[#小書き「ン」]なりまして、筍が黄楊《つげ》の櫛ン[#小書き「ン」]なるんだそうでして……。ですから蓋をあけると、おかめの顔ができているから、おかめそばというそうですがな。近ごろはどうもおそば屋さんもずぼらになりまして、おかめの顔をこしらえてくる家《うち》なんてえなァ少なくなりまして、どうかすると蒲鉾が二枚重なっちゃったりなんかしましてな。こういうなァおかめの横顔を見せようってんだろうと思いますけれども……」 [#改ページ]  落語博物誌 [#改ページ] 〈落語博物誌 一〉[#「〈落語博物誌 一〉」はゴシック体]    かじかざわ [#この行2字下げ] 山梨県|甲斐国南巨摩《かいのくにみなみこま》郡の東北部。富士川の右岸に沿う。……地名の起原については甲斐国誌によれば「山川に小石なかれてころころと河鹿《かじか》鳴くなり川の落合 読人《よみびと》知らず」の歌より出でしというも詳《つまびら》かならず。此地は往時より運輸《うんゆ》不便なりしが、慶長年中、徳川家康大いに富士川を治《おさ》め駿河《するが》への水路を開きしより、河船は東海道|岩淵《いわぶち》まで往復するに至り運輸の便《べん》開け、河港として繁栄し……。 [#地付き](『日本地名大辞典』)  この鰍沢の峡谷《きようこく》で道を失った一人の旅びとがあった。たまたま一夜の宿を求めた山家に住んでいたのが、かつての江戸の遊女で、いまは人呼んで「月の輪お熊」という悪魔のような女。これを発端として、スリルとサスペンスを織り込みながら話は発展し、結局、旅びとが「一本のお材木(お題目)で助かる」というサゲまで、一瀉千里《いつしやせんり》の趣きで聴かせるのが名作『鰍沢《かじかざわ》』である。  数年前、ぼくはラジオ東京のスタジオで、先代柳好(春風亭。三代目)のこの噺を聴いたことがある。その時の彼の出来栄えが頗《すこぶ》る見事であったことを、ぼくはいまでもはっきりと覚えている。雪を払って入ってきた旅びとが囲炉裏《いろり》にソダをくべる仕種や、玉子酒の飲みっぷりにみせた芸のこまかさ。その玉子酒に盛られた毒のために半死半生でころがるように逃げてゆく旅びとと、鉄砲をかかえてそれを追うお熊。啾々《しゆうしゆう》たる鰍沢の雪景色。……この夜の柳好の語り口には、蓋《けだ》し鬼気迫るものがあった。そして、それから数日後だった。彼の訃報《ふほう》に接したのは——。ぼくは思わず暗然としてつぶやいた。   野だいこが主を失くせし夜寒哉  いまも国鉄身延線(甲府—富士)の沿線に鰍沢口という小さな駅がある。柳好死去の翌年の夏、この身延線に乗る機会を得たぼくは、津々《しんしん》たる興味と期待をもって鰍沢風景を眺めた。鰍沢町は、人口八千九十三人の部落(日本分県地図地名総覧一九六一年版)だが、その峡谷は車窓から見るだけでも、夏なお涼しい景色であった。首をのばして暮れゆく鰍沢の冷気を吸いながら、ぼくは亡き柳好を偲《しの》んだり、月の輪お熊に思いをはせているうちに、すっかり風邪を引いてしまい、帰宅後気管支肺炎の宣告を受けて何日か床についてしまった。そして高熱にうなされながら、さてこそお熊の悪霊の祟《たた》りかと、苦笑を禁じ得なかった。  さらに、それから数年後。小島政二郎先生にお目にかかった折に、この話をしたところ、 「へえ? 柳好が『鰍沢』を?」  と意外な顔をされ、「あたしも柳好が好きですがね、『鰍沢』は聴いたことがありません。あたしは円喬(橘家。四代目)の『鰍沢』を聴いてるんですが、ほんとうにうもござんした。夏の独演会で、自分のこの噺を聴いて寒くならなかった客には木戸銭を返すっていやがるんですよ。こん畜生と思うけど寒くなりましたね、円喬がやると、雪をおとした旅びとの背中から湯気の立つのが見《め》えましたよ。柳好の旅びと、湯気が立ちましたか」  反射的にぼくは答えた。 「ええ、見えました。ほわほわっと湯気が立ってました」  これは嘘である。そこまではぼくにわからなかった。だが、あの夜の柳好の高座を小島先生が聴いておられたら、きっと湯気が見えたにちがいないという気持で「見えました」と答えたのだった。先生は、前歯の抜けた口を大きくあけて、ハハハハと愉快そうに笑われた。 [#改ページ] 〈落語博物誌 二〉[#「〈落語博物誌 二〉」はゴシック体]    あんどんべや [#この行2字下げ] 女郎々々と爾《さう》安っぽく蹈《ふ》んで下さるな、金のかかった体躯《からだ》ですといふに、いかさま六年で百か五十か、大金だらうと悪騒ぎする一座の冷かし返せば、縦令《たとへ》百でも五十でも金は金です、貴方達の体躯《からだ》がいくらになります。 [#地付き](斎藤緑雨『みだれ箱』)  昔、吉原の遊女屋では、各遊女の部屋に行燈《あんどん》を点じた。その数が相当たくさんあったので、昼間は一括して納めておく部屋を要した。即ち�行燈部屋�である。もっとも行燈ばかりでなく、座蒲団やら火鉢やら煙草盆やらもしまったというから、要するに物置きである。いつごろからか、遊興代の不足で禁足をくった遊客を、この行燈部屋に押しこめておくようになったので、一名�待部屋�ともいわれた。そして金の工面がつくまでこの部屋に留まるのが�居残り�である。  上《じよう》は来ず、下《げ》は夜来て朝帰り、そのまた下下《げげ》は居残りをする——というのが古来からの相場とされており、川柳にも「よくよくの馬鹿吉原に三日いる」とうたわれているように、居残り客は軽蔑の的になっているのだが、落語の『居残り』に登場する佐平次ぐらいになると、断じて下の下[#「下の下」に傍点]などとは片付けられない。なにしろ、真の目的は転地療養というのだから、図々しさを通りこして一種のおおらかささえ感じられるのである。無一文で遊べるだけ派手に遊んだあげく、もはやこれまでと見極めるや、 「ようがす、行燈《あんどん》部屋へそろそろさがりましょうか、えへへ、エエどちらです、行燈部屋」  と、率先席をたって待部屋入りをした佐平次の袂の中には、花魁《おいらん》にもらった古|煙管《ぎせる》一本と、きざみを一杯つめた煙草入れ、それも新聞紙を折って作ったもの、それにマッチ二個とが、籠城用として入っていたというのだから恐れ入る。  ところで、おおらか[#「おおらか」に傍点]といえば、作家のN氏のおおらかさにぼくは舌を巻いたことがある。N氏は、小説に専念したい一心でそれまでの某大会社の職を擲《なげう》って大阪から上京してきたのだが、五人の家族をかかえて当然のことながら悪戦苦闘していた。わずかな失業保険だけが唯一の収入なのだが、それも六カ月支給されればおしまい。その半年の間に何とかしなければ——というのだからまさに背水の陣である。そんなある日、職業安定所で残り少ない失業保険金を受取ったN氏は、その足で新宿の高級バーに入って、あっというまに、財布の底をはたいた上に、それでも足りなくて、上等の腕時計をカタにあずけて、改めてママさんなる人から電車賃をもらって帰館した。 「なんや面白《おもろ》うのうて、一つパァッと遊んだれと思いましてん。そしたらえらい高級バーでしてな。また女どもがええ気ン[#小書き「ン」]なって高いものを無茶苦茶に注文しよる。こらあかんと思うたがもう仕様《しや》ないがな。保険の金と時計でなんとかなる思うて、まァ景気よう飲んだんですわ。あくる日は、なんやアホらしゅうて、時計ももうそのままや……」  N氏は、奥さんから取り上げた南京虫(女性用の小型腕時計)を見せながらこういってニコニコと笑った。  吉原だったら、早速行燈部屋入りというところである。さらにさかのぼって行燈部屋の制度ができる前だったら、�桶伏せ�と称する罰則を蒙るところだった。小桶の底をぬいたものを顔からかぶせて道端に晒しものにするというのが、この桶伏せである。  昭和に生きるわれらは仕合せだ。ねえNさん! [#改ページ] 〈落語博物誌 三〉[#「〈落語博物誌 三〉」はゴシック体]    かんかんのう [#この行2字下げ] 一、唐人踊之儀此度厳敷停止仰付られ候に付、子供に至る迄かんかんおどり歌等決て申間敷候。且つ辻商人飴売壱枚摺絵草子等にも右唐人踊うた等持流行候者これ有らば其所留置町所聞糺し早々訴出づべく候事。右之通仰渡され候間町内限り相触べく候以上。 [#地付き](文政五年触れ書きより)  本名を�馬�といい、あだ名を�らくだ�という一人のぞろっぺいな男が、河豚《ふぐ》の毒にあたって急死した。親兄弟も妻子もない一人暮しだったが、兄貴分と称する一文なしの男が死後の跡始末を買って出た。通りがかりの屑屋に命じて、家主に酒と煮しめの寄進を交渉させたが、�らくだ�なんぞに酒の一滴たりともやれるもんかと断られるや、屑屋に�らくだ�の死体をかつがせて、家主の玄関で「死人《しぶと》にかんかんのう[#「かんかんのう」に傍点]を踊らせてごらんにいれます」と厭がらせをする。——おなじみ『らくだ』の一齣《ひとこま》である。  このかんかんのう[#「かんかんのう」に傍点]という踊りは、もとオランダの歌舞で、長崎の唐人屋敷に伝わったものだが、文政三年の春、大阪の芝居で長崎人・某が看々踊りと称して支那の服装で踊って大評判となった。伴奏の楽器は鉄鼓、胡弓、蛇皮線、太鼓などで、当時としては頗る異国情趣にあふれたものだったらしい。続いて名古屋や江戸でも興行して、一世を風靡した。その有様は『遊歴雑記』によれば、 「かんかんのうの唱歌を三下りの三筋の糸に合せ、……猫も杓子も謳はざるはなく、錦絵、団扇《うちわ》、張子の小人形、手拭、児輩の紙鳶《たこ》の類までも、かんかん踊りの形を作り、世上皆弄ぶ事となりけり。……これ一体至愚なるが故なり。老若ともに憎むべきものは女ぞかし……」  と遠慮のない観察をしている。これほど流行したかんかん踊りも、文政五年、おかみによって禁止されてしまった。歌詞が余りに卑猥《ひわい》なものであったのと、余りに流行りすぎてしまったことが禁止の理由らしい。しかし文政三年深川興行の際の歌詞は、 「かんかんのう、きうのれす、きうはきうれんす、きうはきうれんれん、さんしょならゑ、さあいほう、にいくわんさん……」  という(『守貞漫稿』)のだが、なにが卑猥なのか、さっぱりわからない。  これが明治二十六年頃に、「梅ケ枝の手水鉢《ちようずばち》叩いて……」という例のホーカイ節となって再び大流行した。その意義について、藤沢衛彦氏は「ここに流行歌界に於ける一つの革命は、俗曲が、支那の九連環を日本化《ジヤパンナイズ》して、それをわが俗謡の上に試みたことの上にある」(『明治流行歌史』)と述べている。どうやらわれら日本人は、異邦の歌を焼直して大流行させることが、昔から得意であったようだ。  さて、いまはリバイバル・ソング全盛時代とか、一つ、かんかんのう[#「かんかんのう」に傍点]でも復活させて、三度目の大流行を狙ってはいかがであろう。『遊歴雑記』にいう、「近年の大行歌《はやり》というもの、唱歌いやしく曲節もまた永沈に陥て甚だ拙《つたな》し。時世につれても人も鈍ければ、万端それぞれに押移るは末世の濁悪のしるし、嗚呼《ああ》いかんともしがたい」と——。 [#改ページ] 〈落語博物誌 四〉[#「〈落語博物誌 四〉」はゴシック体]    おうのまつ [#この行2字下げ] 相撲道で最高の地位というと、こりゃま、申しあげるまでもない横綱でございますが(略)……初代というのが、野州《やしゆう》宇都宮の人で明石志賀之助、その次が野州栃木の産で綾川五郎次、その次が奥州《おうしゆう》二本松で丸山権太左衛門、四代目の横綱が奥州|信夫郡《しのぶごおり》谷風梶之助、わしが国さで見せたいものは昔《むかしや》谷風いま伊達模様という歌にも残っております名力士で、その次が滋賀県の大津から出ました小野川喜三郎、六代目の横綱が阿武松緑之助で……。 [#地付き](三遊亭円生所演『阿武松』) [#ここで字下げ終わり] [#この行2字下げ] 力士最上の名誉ある地位。寛政元年十一月九日谷風梶之助に允許せられしを嚆矢とする。世に明石志賀之助を初代となすも何等の記録なく信じ難し。第一代谷風梶之助。第二代小野川才助。第三代阿武松緑之助……。 [#地付き](平凡社版『大百科事典』「横綱」) [#ここで字下げ終わり]  阿武松と書いて「おうのまつ」と読ませる。この人、無類の大食漢で、能登国《のとのくに》、鳳至郡《ふけしごおり》七見《ななみ》村から力士を志して江戸にのぼり、京橋の武熊文右衛門という関取に弟子入りしたが、なにしろ、毎日釜底のおこげでつくった赤ン坊の頭大のおにぎりを七、八つぺろりと食前に[#「食前に」に傍点]平らげてから、おもむろに食事にとりかかるというのだから、並大抵の食欲ではない。三十六杯目のお代りまで勘定して目をまわした武熊のおかみの告げ口のために、あわれ阿武松は破門。行き倒れになるところを立花屋喜兵衛なる宿屋の主人に拾われ、改めて根津七軒町の錣山《しころやま》喜兵治という関取に入門。文化十二年十二月に小緑《こみどり》として初土俵をふみ、文政二年には小柳として入幕。その年、かつて彼を大食ゆえに破門した武熊と顔が合い、これを破って長州公の目にとまり、のちに阿武松《おうのまつ》緑之助として横綱を張る……。  相撲を扱った落語というと『千早ふる』『鍬潟《くわがた》』『半分垢《はんぶんあか》』などが思い出されるが、出てくる力士は、竜田川(『千早ふる』)の大関が最高である。横綱の出世ばなしを描いた人情噺『阿武松』は、その点で貴重である。だが、内容としては余り面白いものではないので、いまではほとんど演《や》り手がない。  それにしても、相撲とりが飯を食いすぎてクビになるというのは随分むごい話である。いまの取的《とりてき》さんたちは、部屋でもたらふく食べられるだろうし、それに早くから�タニマチ�(ご贔屓)がつくから心配はなさそうである。  小学校二年生ぐらいのころ、級友にKという歯医者の子がいた。ある時「いまウチにお相撲がきたから見においでよ」というので赤坂見附にあるKの家まで見物に行ったことがある。治療室の奥の茶の間でノッポで有名な不動岩が飯を食っていた。色々なおかずがあったように思うが忘れてしまった。ただあつあつのご飯を、うまそうな雲丹《うに》で何杯も何杯もお代りしていたことだけをいまでもはっきり覚えている。Kのお父さんに「キミたちがそんなにじろじろ見たら不動岩、恥かしいっていうぞ」とたしなめられたほど、二人は六尺八寸の不動岩の食事ぶりを熱心に見つめた。Kのお父さんは「この相撲さんはね、いまは十両(幕下だったかもしれない)だが、そのうちに大関、横綱になるんだから」といってニコニコ笑っていた。  それっきりこの時のことをぼくは忘れていたが、ずっとのちになって偶然不動岩に再会した。東海道線の混雑する三等車の中でである。はっきりおぼえていないが、たしか二十八年頃ではなかったろうか。巡業帰りらしくたくさんの関取がせまい車内にごろごろしていた。席がないのでぼくはドア寄りの通路にぼんやり立っていたが、ふと気がつくと、目の前の座席からはみ出るようにして一人の相撲とりが頭をかかえていた。恐らくうつらうつらしていたのだろうが、一見したところでは恰《あたか》も何かに悩んでいるような格好だった。深刻な悩みごとに疲れ果てたといった感じが、特大のシャツとステテコをつけただけの巨体ににじみ出ていた。それが不動岩だった。一時は関脇まで進み、暗闇から引き出した牛のようなその態度風采が多くのファンに愛された彼だったが、いつのまにか転落の一途をたどりはじめ、ついにはその存在すら忘れられてしまっていた。とたんに、ぼくの脳裏に、雲丹でもりもりとめしを食う青年不動岩の姿がありありとよみがえった。少なからぬ感慨を抱きながら、ぼくはいつまでも列車の震動に身をゆだねていた。それから半年もしないうちに、不動岩の引退が、新聞の片隅に小さく報じられた。 [#改ページ] 〈落語博物誌 五〉[#「〈落語博物誌 五〉」はゴシック体]    たんも [#この行2字下げ] たもと[#「たもと」はゴシック体]【袂】(名)㈰「手の本」の意。そでの、ひじから肩の間の部分。㈪そで口の下の袋状のところ。角のものと丸みをもったものとがある。㈫そで。 [#地付き](『辞海』)  女ぎらいで有名な堅物《かたぶつ》の番頭が、男ぎらいでとおっている踊りの師匠に一と目惚れするはなしがある(『派手彦』)が、この番頭、師匠のどこに惚れたのだろうか。  小紋縮緬《こもんぢりめん》の一ツ紋の着物に黒繻子《くろじゆす》の帯をやの字[#「やの字」に傍点]にしめた彼女の色っぽい様子に、ふらふらときてしまったとも思えるが、それよりも、彼女の艶然《えんぜん》たる教授ぶりにもっとも心を奪われたのではないかと思う。即ち、 「右のおててをたんも[#「たんも」に傍点]に入れて、左のあんよから出るんですよ、ほら、ひのふのみイ……」  という彼女の声が、彼の耳に焼きついて離れなかったことがそれを証明している。何でもない言葉なのだが、奇妙に男性の官能をくすぐる響きをもっているとみえて、ぼくもこの噺《はなし》を聞いてからというもの、所在ない時など、ふと「右のおててをたんもに入れて……」とつぶやいている自分に気づくのである。要するに、芸ごとのきびしさと、女性のやさしさとが混然一体となって独特のニュアンスがかもし出されるのだろう。  同じ稽古ごとでも、男のお師匠さんとなると大分趣きが違う。教える相手が素人《しろうと》でない時はなおさらである。ぼくの母は謡《うたい》が好きで、月に一度わが家に先生を招き、そこに十五、六人ほどの愛好者が集まって稽古をつけてもらうのを例にしていた。先生は観世のS師で、背くらべする団栗《どんぐり》の生徒たちには立派すぎるほどの人だった。S師は、団栗連中に対して、極めて熱心に、しかも荒い言葉一つかけることなく、おだやかに指導にあたっていた。ある時、いつもの顔ぶれのほかに、M夫人が参会していたが、彼女はいわゆる�お素人衆�ではなく、S師の直《じき》弟子で、謡曲教授の免状を持っていた。このM夫人を指導する時のS師の態度は、それまでとはがらりとかわっていた。その日、M夫人は洋装のためか、何度注意されてもお腹に力が入らなかった。S師は腰紐《こしひも》を持ち出してきて、容赦なくM夫人を転がし、恰も荷造りでもするかのように紐をお腹にまきつけ、そばで見ていたぼくを手招きした。「すみませんが、紐の片方を持って下さい。いいですか、足をかけて思い切り締めて下さい、遠慮しないで」という命令に従ってぼくはM夫人の腹に足をかけて紐を締めた。続いて、今度は発声法がいけないという。鼻声にするところがどうしてもできないとかで、S師は洗濯バサミをとり出した。いつもは素人連中から「先生」と呼ばれるM夫人だが、この時は形なしだった。高からぬ鼻に洗濯バサミ二個をくっつけ、息もできないほど腹を縛《しば》られたまま、真剣な表情で ※[#歌記号、unicode303d]にて候、御座候とやる有様はまったく珍妙な光景だった。だが、しばらく見ているうちに、おかしさは雲散霧消し、ただ修業のきびしさだけが感じられたのであった。  素人の稽古と、玄人《くろうと》の修業はこうも違うものか——ぼくは「右のおててをたんもに入れて」を聴くたびに、あの時の情景を想い出すのである。 [#改ページ] 〈落語博物誌 六〉[#「〈落語博物誌 六〉」はゴシック体]    ふなうた [#ここから2字下げ]  伏見|中書島《ちゆうじよじま》なァ 泥島なれどよ、 なぜに撞木町《しゆもくまち》ァなァ 藪の中 やれさ よい よい よい [#ここで字下げ終わり] [#地付き](三十石舟唄)  三遊亭円生が上方噺『三十石』の中で歌う舟唄の節まわしが、なんともいえずよい味で、いつも聞き惚れてしまう。 [#ここから2字下げ] ※[#歌記号、unicode303d]やれェ 奈良の大仏つあんをよォ  こ抱きにかかえてよォォい  お乳のませた乳母《おんば》さんはどんな乳母《おんば》か  一度対面がしてみィたいよォオい  やれさよォい よォい よォお…… [#ここで字下げ終わり]  発声といい節まわしといい、おそらく土地の船頭から口移しで習った自慢の唄であろうと、ぼくは永いこと独りぎめしていたのだが、この間、円生にたしかめたところ、 「いいえ、ほんものの船頭はこんな歌い方をしませんよ」  という、ぼくにとっては意外な返事だった。船頭が櫓《ろ》をこぎながら力一杯歌うほんものの舟唄をそのまま寄席でやっても、味もそっけもないし、第一、やかましくって何をいってるのかさえわからないのだという。いわれてみればもっともなはなしである。それにしても、ほんもの以上にほんものらしく聞かせるのもまた至難の業《わざ》に違いない。すぐれた芸のすぐれた嘘に、ぼくはひそかに脱帽したのである。  昨年の夏、ぼくは大阪の天保山波止場から関西汽船で四国に渡った。「三十石」のような和気あいあいの乗合船なら喜んで乗るのだが、なにしろ現在の国内航路の三等船室ほど虐待されるところはないので、ぼくは船だけは無理をしてでも最上等の部屋に入ることにしている。この時も、ボーイがお茶やおしぼりを運んできたり、事務長が挨拶にきたりする身分不相応な一等船室に落着いて、すぐベッドにもぐりこんだ。単調な機関の震動や波の音などが、かえって子守唄の役をしてくれて、眠りにつくのも早かった。どのくらい眠っただろうか、夢うつつで三十石の舟唄を聞いたような気がして、ふと目がさめた。だが歌声はまだ続いている。※[#歌記号、unicode303d]やれさよォい、よォい、よォおい……。へえ、こんな古風な舟唄を歌うマドロスさんがいたのか、と、ぼくは小窓をあけてデッキをのぞいた。窓の下の一等船室のデッキにはだれもいなかった。一般デッキとの境いの柵のところに、貧相な老人が腰をおろして黒い海を見つめていた。舟唄はこの老人の口から流れていたのだった。丁度ぼくがのぞいた時、やれさ、よォい、よォい、よォおいと歌いおさめたところで、あとは口をつぐんでもはや歌おうとしなかった。最後の部分を聞いただけで、前半は夢うつつに聞いたのだから、ことによると全然別の歌だったのかもしれない。だが、ぼくは「あれが三十石の舟唄だ」と自分自身にいいきかせ満足して、再びベッドにもぐりこんだ。 [#改ページ] 〈落語博物誌 七〉[#「〈落語博物誌 七〉」はゴシック体]    はなおうぎ [#ここから2字下げ] 【第七十一 名妓略伝】花扇。扇屋宇右衛門は加藤千蔭の門人にて和歌を善して雅号を墨河といへり、此墨河が抱遊女に花扇といひけるは其|此《ころ》廓内に著るしき全盛の名妓なりしが寛政六年の比《ころ》深く契りし客の為に廓内を免れ出でて本所の辺に男と共に潜み居たるを漸々にして伴ひ帰りぬ、女は病気ありとて朝夕引籠りて客にも出ざれば墨河は様々に之を諭して尚ほ、   散らさじとしめし心も白梅のかばかり風の吹つのるらん  と即座に詠じ出でければ女もいとど涙に暮ながら、   散らしとぞしめしかさねの梅の花またくる春に咲かざらめやは  是より花扇心改りて全盛昔に劣ざりけるとぞ…… [#ここで字下げ終わり] [#地付き](新吉原三業組合発行『新旧吉原画報』昭和四年刊)  どんな落語が好きなのかと聞かれると、ぼくはいつも返事に窮する。どの噺家が好きかといわれても、文楽には文楽の、志ん生には志ん生の、それぞれの味わいがあって答えられないのと同様、好きな噺がありすぎて、一つにしぼれないのである。大抵そういってごまかしてしまうのだが、本当のことをいうとそんな時いつも『盃の殿様』という答が喉もとまで出かかっているのだ。ただ、いくら説明しても、実際に聞いてもらわない限りその面白さはわかってもらえないから口に出さないのである。決して説明するのが面倒くさいからではない。むしろ話したくてうずうずしているのだが、ヘタな説明をして少しでも面白さをそこなうことがあったら『盃の殿様』というすぐれた噺に申訳ないと思うと口に出せないのだ。  前置きが長くなったが、『盃の殿様』はそれほどぼくの好きな噺なのである。  我儘《わがまま》一杯の、しかし何とも愛すべき殿様が吉原の花魁道中を見物してその中の一人に惚れこんでしまう。それが扇屋宇右衛門の抱え花扇《はなおうぎ》である。夢中になって、以後吉原通いが始まるが、やがて国表《くにおもて》に帰る時がきて、殿様は花扇の裲襠《しかけ》を記念にもらう。国表につくと早速その裲襠をかざって酒盛りをはじめたが「この席に花扇がおらんのはいかにも寂しい」というわけで、速足《はやあし》の家来に命じて、蒔絵《まきえ》師のなにがしが腕をふるった七合入りの�百|亀《き》百|鶴《かく》の盃�を花扇にとどけさせて、江戸から三百里離れた国表と、吉原との間で盃のやりとりをはじめる。一方「殿さんへご返盃」と花扇から再び盃を托された速足のお使いは、急いだ余り箱根でさる大名行列の供先を切ってあわや手打ちという事態に遭遇する。しかし事情をきいたその大名は「いや、大名の遊びはさもありたきこと」と大いに感心して、百亀百鶴の盃を借りて酒を飲んでから釈放する。無事に戻った使者からその話をきいた殿様、これまた喜んで「いま一盞《いつさん》と申してまいれ」と命じたので、また盃をかついで、えっさっさァとかけ出したが、どこの大名だかわからないので、いまだに盃をかついだまま毎日探しているそうだ——というのがオチ。  筋だけ述べたのでは、馬鹿馬鹿しさが先に立って、面白くもなんともないだろう。だが、綿密に演出されたこの噺をきくと、殿様、花扇、三太夫、茶坊主、使者、大名などの登場人物がいきいきと活動して、たとえようもなく面白いのだ。飯島友治氏は「実にすがれた[#「すがれた」に傍点]いい噺」という評を与えているが、まさしく至言である。  ところで、この花扇という花魁、もちろん創作の人物だと思っていたところ、過日手に入れた『新旧吉原画報』の名妓略伝の中で、高尾についで二番目に登場してきたので驚いた。落語の花扇と同じく抱え主もちゃんと扇屋宇右衛門である。ぼくは、この新発見に大喜びをすると同時に、一種の幻滅感をも味わった。頭の中だけで描いていた花扇のイメージがこわされたような気がしたのである。 [#改ページ] 〈落語博物誌 八〉[#「〈落語博物誌 八〉」はゴシック体]    むっつしらず [#この行2字下げ] 処《ところ》は大阪阿波座中通り壱丁目に寄留する島根県人菅原という者、郷里の者に大阪朝日新聞を第三種郵便物として五厘切手を貼り送るに際し僅かの郵税を倹約しその帯紙の裏へ信書を認《したた》め、発覚《みあらわ》されては一大事と薄き朱にて交叉の線を引き、こうさへして置けば発覚しても大事はないと両度まで送りしを郵便局にて発見されて告訴の末五月九日大阪地方裁判所に於て重禁錮二十五日罰金五円監視六ケ月を言い渡され…… [#地付き](『団団珍聞』明治二十九年五月二十三日付)  落語のおかしみの一つに�誇張�がある。例えば、世にもものぐさな男が来世には猫に生まれてきたいという。それも、鼻の先きだけ白くてあとは全身まっ黒な猫になりたいというので、わけを聞くと、暗闇で寝ていれば、鼻のあたまだけが白く、恰もめし粒のように浮かび出て、鼠がそれを食べようと寄ってくるところを、寝たままでパクリと食べることができるからだと答える小噺などは、怠け者の願望が極端に誇張されて聞き手の笑いを誘うのである。だがいろいろな誇張の中で、ぼくがもっとも感心したのは「六つ知らず」という言葉である。だれの、何という落語だったか、とにかくケチん坊を扱ったもので、 「なにしろ六つ知らずというくらいの男だ」 「なんだい六つ知らずてえのは」 「ひい、ふう、みい、と指を折って、五つまでは数えるんだが、いったんにぎってしまったらどんなことがあってももう開かねえから、六つが勘定できない」  というのだが、こんなバカげた話はない。だからおかしい。しかも無類のケチぶりを表現して余すところがない。誇張の傑作である。  吝嗇心というものは、程度の差こそあれ、だれの気持の中にもひそんでいるものであるから、それを誇張して目の前に出されると思わず笑ってしまうのであろう。だから、ケチん坊は大昔から笑いの対象とされており、元禄四年に発表された『軽口露が話』(霧の五郎兵衛作)にも、鼠のしっぽのちぎれたものを錐《きり》のサヤにする「慾ふかき姥」という話がおさめられている。  ところで、ケチの酬《むく》いの最高傑作は、はじめに掲げた『団団珍聞』の記事ではなかろうか。重禁錮二十五日、罰金五円、監視六カ月。これが一文惜しみの報酬というのだから恐れ入った判決である。何よりも、実際に起った出来事である点がたまらなくおかしい。落語の誇張も、現実の面白さの前には、ついに及ばないとぼくは思うのである。 [#改ページ] 〈落語博物誌 九〉[#「〈落語博物誌 九〉」はゴシック体]    しっぽく [#この行2字下げ] シッポクは卓袱の唐音。元来は卓の被いの意味であったが、転じて卓そのものを呼ぶようになり、それへ載せて供する食品を卓袱料理という。日本へは最初長崎に伝来したので、一に長崎料理と呼び、江戸時代にかなり流行した。精進の場合には普茶料理と呼び、単に卓袱といえば鳥獣魚類を材料とする料理の謂《いい》になった。蕎麦《そば》、饂飩《うどん》の上に、椎茸、蒲鉾、湯葉、海苔、野菜等を置いたものを、関西地方で今も、シッポク、或いはシッポコと称えるのはやはりこの転訛である。 [#地付き](平凡社版『大百科事典』)  蕎麦や饂飩《うどん》が出てくる噺は多いが、その中にシッポクという言葉がよく出てくる。威勢のいい職人などが、「おゥ、シッポク一つこさえてくんねえな」といいながら蕎麦屋ののれんを肩で押し分けて入ってくる、その歯切れのよさに魅せられて、ぼくは、蕎麦屋に行くたびにシッポクを探した。  もり、かけ、きつね、たぬき、おかめ、天婦羅、鴨南……。  だが、シッポクは見当らなかった。シッポクを知らぬとは——と、年配の人には笑われるかもしれないが、本当に知らなかったのだから仕方がない。いまや、スパゲッチ・ミートボールと、スパゲッチ・ナポリタンの区別は知っていても、おかめと花巻の区別を知らない人の方が多いぐらいだから、ぼくがシッポクを知らなくたって……などと弁解するまでもなく、すでに肝心の蕎麦屋が知らないのだから呆れた。何軒もの蕎麦屋の帳場へ行って尋ねたのだが、「さあ、おかめのようなものじゃありませんか」というのはいいほうで、「シッポク? なんです、そりゃ」などと逆に問い返される有様で、ぼくのシッポクに対する憧れはつのる一方だった。  それから大分たったある夏のこと、仕事で大阪に出張したぼくは、道頓堀の中座の隣にある「今井」といううどん屋に入った。その店は、宿屋の老女中が教えてくれたもので、小さいけれど、いかにも老舗といった感じのうどんやだったが、品書きに「一、しつぽく」とあるのを発見して、大げさな表現だがぼくは狂喜した。早速注文すると、やがてきれいな丼が運ばれてきた。芝海老、蒲鉾、ふ、海草などのグ[#「グ」に傍点]が、まっ白なうどんの上にのっている。ただそれだけのものだった。これがシッポクか、とやや失望しながら口をつけたぼくは、これまた大げさな表現を許してもらえるなら、その美味に感激した。何よりも、そのつゆのうまさ。これ以上薄かったら味がないと思えるほどの薄味でありながら最高級のコンソメのようにこってりとした味。そのつゆに、グ[#「グ」に傍点]がよく調和して、何ともいえぬうまさなのだ。ぼくは、旅先きから家人に「久恋のシッポクにめぐり合い、その美味に堪能した」と書き送った。それから一年ほど、毎月のように大阪に出掛ける仕事があったので、そのたびに必ず「今井」に立寄ってはシッポクを賞味した。  大阪には、Mという高級うどん屋[#「高級うどん屋」に傍点]があって、食通諸氏がよく随筆などで絶讃しているが、ぼくにいわせれば、「今井」のほうが何層倍もうまい。だが、口惜しいことには誰もそれを信用しない。「なにしろMのうどんすき[#「うどんすき」に傍点]は千円もするんだから、そりゃうまいよ」などと、値段だけで味を評価してしまうのだ。  たまたま、天下の食通K氏にお目にかかった時、この話をすると、 「やア、あなた『今井』をご存じで……。ええあすこはほんとにうもござんすよ。私も、あのほうがMよりうまいっていうんですが、『あまカラ』の編集長女史は、どうしてもMの方がうまいってきかないんですよ」  というお答えだったので、ぼくは鼻たかだかの心持になった。 [#改ページ] 〈落語博物誌 十〉[#「〈落語博物誌 十〉」はゴシック体]    とみくじ [#この行2字下げ] 番号を書いた木札を箱に入れて持出しその箱の中央に穴があいている。大きな錐子でその穴から箱の中の木札を突く。突いた錐子を引きあげれば尖端に木札が刺されている。その木札の番号が当りなのである。……(略)三十三カ所も富突があった文政には、殆《ほとん》ど富突のない日はない。富の札を売る店が、八百八町の町毎に、酒屋や八百屋と同様に営業していた。 [#地付き](三田村鳶魚『江戸生活事典』)  富くじを扱った落語といえば、『富久』『宿屋の富』『御慶《ぎよけい》』などがすぐ頭に浮かぶ。いずれも名作といわれるものだが、これらの噺に共通している点は、くじに当る場面が重要なヤマ場の一つになっていることである。くじを扱う以上これは当然のことだが、それだけに演者はそれぞれに工夫をこらして描写している。聴き比べてみるとなかなか面白い。 「いよいよ千両の突き留めということになりますてえと、稚児の甲高い澄んだ声で『本日の突き留めえッ……御富《おんとみ》突きまァす』ぽォんと突きあげる。『鶴の千、五百四十、八|番《ばん》』『おうおう、おッとッとッとッと、なんでえ、なんでえ、ええ? この人ァ、立った立ったって坐っちゃったじゃねえか、え? どうした、どうした』『あ、あ、あ、あ、たった(目をつぶって首を左右に振りながら)たった、あたあた当っちゃったよう』」(小さん『御慶』) 「お古いかたにきいたらば、さるところではこの富くじに、盲人に目かくしをして、そしてこの、錐で札を突いたてえことをうかがいましたが、それだけにつまり大事をとったのでございますなァ。がらァァん、がらァァん、がらァァん、がらァァん(と、両手で箱を持って左右にゆすり)とォォん(と錐で突いてそれをゆっくりもちあげて)『松の百十番松の百十|番《ばアん》』『ああァ(悲鳴とも嘆息ともつかぬ奇声)当った(といって突っ伏す)』」(文楽『富久』) 「(独り言で)あたしなんざ当りっこない、こういうのァ金のあるやつに当るもんだからなァ……何番だ、おれのァ(ふところからとり出した富札を眺めて)子《ね》の千三百六十五番か、なるほどなァ(張り紙を見上げて)この一番は何番だ、子《ね》の千三百六十五番……(再び手もとの札を見直して)おれのが子《ね》の千三百六十五番……(気落ちしたようにポツリと)当らねえもんだなァ。運がないんだからねェ(といいつつ、ちらりと上を見て)子《ね》の千三百六十五番だろ? おれのが(札の字を一字一字指さしながら)子《ね》の、千、三百、六十、五番……少ォしの違いだ。こんなものァ当らなかったらしゃァねえ、こんなもの、なァ、行こう、(と行きかけて首をかしげて掲示を読む)子《ね》の千三百六十五番、(札を見て)子《ね》の千三百六十五、あッ、あ当った(手にした札をふところにしまおうとするが、ガクガクして入らない)当った、ああ、当った、あァ、あァ……」(志ん生『宿屋の富』)  ——どれが面白いというより、どれも面白い。それぞれよもやという幸運が舞い込んだ人間の表情をたくみにとらえている。恐らく現代でも宝くじに当った人は、その瞬間には似たような動転ぶりを示すのではないだろうか。  それにしても、人間の射倖心というものはいつの時代でもなんと根強いものだろう。富くじから宝くじ、そして五輪トトカルチョと、おかみ[#「おかみ」に傍点]のやり方を見ていると「人間なんて一向に進歩しないものだ」と笑いがこみあげてくる。 [#改ページ]  高座百景 [#改ページ]  東横落語会瞥見[#「東横落語会瞥見」はゴシック体] [#地付き](昭和三十五年五月)    喜久治仏  渡されたプログラムを見ると、二十五回とある。二カ月に一度しかない会だから、二十五回といえば、始まってからすでに四年になる勘定だ。品のよい銀屏風を背にした紫の高座蒲団に坐る顔ぶれは、四年間いささかも変らない。この会を創った異色プロデューサー湯浅喜久治の贅沢精神が、顔ぶれを固定してしまったのだという。水道の水なんぞくさくってねといって、山梨産の鉱水しか飲まず、身につけるものも悉《ことごと》くほんとうの一級品という青年湯浅喜久治の好みが、即ち、文楽、志ん生、円生、三木助、小さんというわけなのだろう。この五人のほかに、毎回一人の若手が選ばれ、すぐれた落語を高座に載せ続けてきた。  プログラムに並んだ顔ぶれは、かくて今日も不動だが、生みの親湯浅喜久治はすでにない。二十九歳の若さで急死してしまったのだ。毎回のプログラムに絶品のカットを書いてこられた木村荘八画伯もいまや彼岸の人だ。四年間という歳月、決して短くはない……。そんなことを考えているうちに、場内がすうっと暗くなり、須賀まささんたちの下座のはやしが聞こえてきた。    愛橋の『初天神』  噺家《はなしか》がよく「師匠をかえる」ということをいうが、師匠をかえることが具体的に、つまり芸の上に、どう現われるか、ぼくはかねてから興味を持っていた。だから、この愛橋(のちの七代目春風亭柳橋)の『初天神』を頗る注意深く聴いた。半年ほど前に三木助が芸術協会を脱退したあふり[#「あふり」に傍点]を食って、三木助門下から柳橋(六代目)門下へ変った愛橋である。要するに、桂木久助が春風亭愛橋になって、芸がどう変ったか。ぼくが「木久助」として演じた彼の噺を最後に聴いたのは、彼が柳橋門下に移る数カ月前の「三木助砧会」の高座でだった。その時の演《だ》し物も同じ『初天神』だったから、なおさら聴き比べに興味が湧いた。  しゃべりはじめを聴いて、ちょっと驚いた。すっかり柳橋の調子になっているのだ。ところが、地の文が多いいわば枕の部分から、次第に主題に入るに及んで、再び驚いた。やはり三木助の調子なのだ。ことに、生き生きとはずむ会話の部分になると、もう三木助をそのままといってもよいくらいである。職人の父親が、いたずら盛りの男の子を連れて、貧しくともさわやかな愛情を発散させる快い話を、木久助、いや愛橋は見事に描写した。「よし、よし、お父っつあんが手を引いてやるからな……。そら、よい、よい、よいの、よい、よい、ようい」などという白《せりふ》を聞いて、ぼくは柄にもなく涙ぐみそうになったほどである。二十三歳の独身青年が立派に「父親」になりきれるとは。�芸�というものは!  身びいきかもしれないが、聴き終って感じた。三木助そっくりとはいうものの、全体として線がふとく、たくましくなっている。いままでの神経質な、いささかおどおどした高座ぶりから見れば、これは大進歩といえよう。拍手を背に高座をおりるこの白面の青年落語家を目で追いながら、ぼくは、かつて「三木助砧会」のあと、本牧亭(上野)近くの小料理屋で彼と語り合った夜を想い出した。女中が、いみじくも「こちら、入院なすってらしたんですか」と尋ねたくらい色白の彼が、切れ長の目を大きく開いて真剣にぼくに聞いた。 「あたしの芸は、そんなに師匠に似てますか」  目のふちをほんのり赤くした彼のその時の表情が、むしろ悲しげだったのを、いまでもはっきり覚えている。    志ん生の『紙入れ』  緋毛氈《ひもうせん》の赤、座蒲団の水色、屏風の白。そこへ黒の紋付を着た志ん生が、ピンク色の顔をテカテカさせて、ぬっと登場する。それだけでもう場内は完全に志ん生のペース。思えばトクな人だ、といいたいところだが、これも、五十年の赤貧洗うが如き高座生活が作りあげた立派な芸にほかなるまい。「何の苦もなき水鳥の……」という言葉を思い出しながら、彼の顔の表情、手の表情、身体の表情を見つめた。  あるかなきかの細い目を、いよいよ細くして、口をつき出しながら、一見ぞろっぺい[#「ぞろっぺい」に傍点]に喋っているようでいて、いつのまにか客をひきずりこんでいるその奇妙な魅力と旨さ。時折はさむくすぐりのとぼけて面白いこと。今日も、何だかさっぱり煮え切らない状態のことを指して曰く。 「ユカタぁ着て足袋ィはいて、湯に入《へえ》っているような心持ち……」  ところで、この『紙入れ』という噺だが、今村信雄氏の『落語事典』にも載っていない。小間物屋の新公が、得意先のお内儀《かみ》さんに誘惑され、あわや間男という時に旦那が帰ってくる。新公は飛んで逃げるが、紙入れを忘れてきてしまい、翌日、こわごわ様子を探りに行く。そして旦那の前でお内儀さんと新公がさりげない調子で紙入れの始末を語り合う——という筋書きである。後半の感じは、同じ志ん生の十八番『風呂敷』に酷似しているが、あれほどのおかしみはない。それに、『風呂敷』に比べて後味が悪いので、ぼくはこの噺を好きになれない。はっきり姦通の意思を持っていた人妻が、亭主を前にして平然と新公に語りかける「ねえ新さん、わき[#「わき」に傍点]から聞いた話だけど、女の家ィ紙入れを忘れて帰る間抜けな男がいたんだってさ……」という件《くだ》りからオチまで、何ともいやあな感じがするのだ。フランスの芝居や小説には、よく、|寝取られ男《コキユ》を徹底的に揶揄《やゆ》したものがあって、しかもそれが傑作といわれたりするが、この『紙入れ』の旦那はまだコキュにはなっていないのに頗《すこぶ》る後味が悪いのはどういうわけだろう。    円生の『二十四孝』  相変らず、全身これ粋《いき》のかたまりといった趣きの高座だ。噺の数を知っていること、この人が随一というのが定評であり、自分でも「あたしは一度放送したものは最低一年は出しませんから……」といっているくらいである。その何百という噺の、どれを喋っても粋なのだ。粋な噺を喋って粋なのは当り前だが、野暮なものでもこの人がやると粋なのだ。その点、小さんと対照的だと思う。小さんはたとえ粋な噺をしても、やはりどことなく野趣が横溢している。どちらがいい悪いではなく、これが持ち味というものだろう。 『二十四孝』はすぐれた落語には違いないが、およそ粋とは縁遠い噺だ。それを円生はまことに小粋に演ずる。それにはなしの途中で飲むあの白湯《さゆ》の啜《すす》りかた、いっそ憎らしいくらいピタリとおさまっている。文楽、三木助もよく高座で白湯を飲むが、円生ぐらいさりげなく、小粋に、しかもうまそうに湯のみを啜る人を、ぼくは知らない。    小さんの『将棋の殿様』  最高潮に達すると、まっ赤になってゆでダコのような顔をするくせに、いつも出だし[#「出だし」に傍点]は恐ろしく地味だ。キチンと両手を膝に置いて正面を向いたまま、にこりともせずに淡々|訥々《とつとつ》として喋る。ぎりぎり最小限度の身振り、表情しかしない。そのかわり目がよく動き、あらゆるニュアンスを目が表現する。いつだったか、地下鉄で同じ箱に乗り合わせたことがある。比較的混雑していたが、彼は登山帽を目深にかぶり、灰色のコートを着て、左手で小さなカバンをしっかりかかえ、右手で吊り手をにぎり、頭上の面白くもない広告をじっと見つめていた。日本橋から終点渋谷まで、微動だにせずただひたすら広告をにらみつけたままだった。彼の高座が、ちょうどそんな感じなのだ。何が面白いんだいというような顔で、一点を見つめたまま「ええ、凝っては思案に能《あた》わず、なんてえことを申しますが」などとはじめる。やがて目だけがいきいきと動き、そのうち顔が赤くなってくる、という順序だ。 『将棋の殿様』は題名どおり、将棋に凝ったやんちゃ殿様の話だが、「これ、これ、その歩《ふ》を取ってはいかん!」などというやりとりは何度聞いても微笑を禁じ得ない。しかも笑いながら、この殿様と家来を我々は大きな顔をして笑う資格はなさそうだ、とぼくはチラと思う。「部長、リーチでございます」だの「社長、それをポンさせていただきます」などという声がいまにも聞こえてきそうで……。  この我儘殿様をこらしめようとして、病いを押して登城した大久保彦左衛門的御家老が、びしびしとやっつけ、「これはしたり、軍法もわきまえず飛車がとびこえて参るとは」と一喝して駒をポイとつまみ出す仕種が、殿様の激怒の表情と相まって無類に面白い。とにかく、ほんの少し肩を落としただけでたちまち老いたる御意見番の姿を描き出す小さんの芸の計算を、ぼくは見事だと思った。    文楽の『素人うなぎ』  出囃子《でばやし》「のざき」の冴えた三味線にのって、しずしずと文楽登場。まったくこの人の出はいつでも「しずしずと」だ。心持ちうつむきかげんに、扇子を腰のあたりに構え、まるで能役者のような雰囲気を漂わせながら現われ、ピタリと坐るともうそこは文楽の世界。だから、この人は枕らしい枕をほとんど振らない。前の出演者がどんなに笑わせたあとでも平気だという、これが文楽の自負であり心意気なのだろう。自負はよいとして、それならなおのこと「……風邪《かざ》声でございます、おきき苦しいところは」というお断り[#「お断り」に傍点]など言わなければよいのに、と意地悪なことを考える。今夜も「ええ、一杯のお運びで有難く御礼《おんれい》申上げます」のあと、そら「風邪声」が始まるぞと窃《ひそ》かにつぶやいたら「風邪声でございます」ときて、思わずふき出してしまった。かねがね彼は、亡き吉井勇氏の「文楽さん、長生きも芸のうちだよ」という言葉を金科玉条としているが、「文楽さん、風邪を引かないことも芸のうちだよ」という人はいないかな、などとますます意地悪なことを考える。  それというのも、文楽の芸が余りに完璧で、余りにすぐれているので、ついそんな言いがかりをつけてみたくなるのかもしれない。それほどこの人の芸はカチッとしているのだ。何年か前に、文楽はこの『素人うなぎ』で芸術祭賞をもらっているが、たしかに絶品である。  腕ききの、しかし酒癖の悪い鰻さきの職人�神田川の金《きん》�が、酒で人間が変っていくその刻々の変貌ぶりをあざやかに描写する絶妙の話術。主人にたしなめられた金が「へいッ、へ、よします、あいすみません」と言いながら頬をふくらませてぷうっと呼吸《いき》を吐いた瞬間に、酔っ払い独特のあの熟柿のような匂いが客席にみなぎるのをぼくははっきりと感じた。  たっぷり三十分、客席を沸かせに沸かせたあと、呼吸一つ乱さず深々とお辞儀をすると、何事もなかったような顔をして文楽は、灰色の袴《はかま》の音もさわやかに、再びしずしずと姿を消した。ちらりとのぞいた半えりの青が妙に色っぽかった。    三木助の『ねずみ』  この人は、噺の本題もうまいが、また枕がうまい。『芝浜』を語る時にいつも使う白魚の話などは、枕として最高傑作の一つだとぼくは思っている。あけぼのや白魚しろきこと一寸《いつすん》、という芭蕉の句を引いたあとで、三木助はこんな話をする。昔は隅田川で白魚がとれたそうだが、舟に乗ると船頭が「お客さん、魚がとれましたよ」と四つ手網をさし出す。どんな魚だいなどといおうものなら、船頭はいやァな顔をして舌打ちと共にとれた白魚を川へ捨ててしまう。あいよといって盃洗《はいせん》で受けると、その中へ泳がせてくれる。これを箸《はし》でつまんで醤油《したじ》の中に入れると、むらさきがツーっと腹の中に入ってゆくのが透きとおって見えたという。前歯でプツンと噛むと、口の中へ、いい具合に醤油《したじ》がひろがって何ともいえずうまかったそうだ——と、ただこれだけの話で、別に面白おかしい話ではない。それが三木助の口にかかると実に小粋で面白いのだ。江戸前の味というのだろうか。この枕は、銭湯で年寄りからきいた話をもとに作ったのだと、いつだったか三木助が教えてくれたが、まったくこの人は、日常の何でもない会話から、洒落《しやれ》た話を作るのがうまい。一つの才能だと思う。きょうの『ねずみ』も、安藤鶴夫氏をモデルにしたというこんな枕からはじまった。  趣味というものは色々で、中には、むやみにねずみ色の好きな人がいて、帽子がねずみ、洋服がねずみ、ネクタイがねずみ、靴下がねずみ。で、外へ出たら猫に追っかけられた——というのである。これだって、かくべつ面白い話ではない。どちらかといえば、へっぽこ漫画家の書くナンセンス漫画のようで、泥くさい感じさえしかねない話だ。それを三木助はあざやかに喋り、そして笑わせるのだ。この枕を、ぼくは何度も聴いているが、聴くたびに笑ってしまう。やはり芸である。      * (付記)この稿を書いてから半年余りで、われらの三木助もまた鬼籍に入ってしまった。  一月(昭和三十六年)の東横落語会で、「芝浜 桂三木助」と印刷された番組が哀しかった。志ん生が代演だった。 「えー、三木助さん[#「さん」に傍点]が、ちょいっとこの、遠くィ行っちまいまして……(場内に笑い)えー、今晩は『芝浜』をやるてえことになっておりましたので、あたくしは、あまりやらない噺なんですが、ええ、折角そうでてますから『芝浜』を……(拍手)」  たったこれだけの前置きですぐ「えー、人というものは」と噺に入っていったが、あっさりと、とぼけた、何ともいえない味わいのいかにも志ん生らしい追悼の詞だった。そしてきいたこともない志ん生の『芝浜』、ぼくはそこに志ん生の何よりの友情を感じたのだった。 [#改ページ]  艶笑落語会瞥見[#「艶笑落語会瞥見」はゴシック体] [#地付き](三十五年七月)    三十一日会  東京宝塚劇場五階の東宝演芸場。横長でせまい会場なので、高座の表情がよくわかる。舞台の金屏風の真上の五つの提燈に灯が入ると、「東」「宝」「名」「人」「会」の字がぼうっと浮かび上って風情を添える。落語を聴くのにふさわしい小劇場だ。もっとも、この階下《した》でいまヅカガールのレビューが行なわれていると思うと、その取り合わせにちょっと妙な感じがしないでもない——。大の月だけ開かれる「三十一日会」というのがここの名物でその時どきに趣向をこらして、例《たと》えば長演落語大会などとタイトルをつけているが、今回は艶笑落語の夕べというわけである。  艶笑といえば、四、五年前の三越落語会で志ん生が、プログラムを変更していきなり「寄席ではやらない、内証のはなしを一つ」といってこんな話をしたのを思い出す。坊さんたちの悟りをためすために、それぞれの一物に鈴をつける。居並ぶ名僧連の前にやがて薄物を着た美女が現われ、悩殺的なポーズをすると、いっせいにリンリンリンと軽やかな鈴の音がする。中に一人だけ音を立てなかった僧があり、これぞ色即是空の境地なりと絶賛されるが、ぱっと衣をめくると結びつけた鈴のヒモがぷっつりと切れていた……。この話を志ん生は絶妙に演じ、少しもいやらしさを感じさせなかった。そして、男性のある現象[#「ある現象」に傍点]に、神聖な僧侶とすがすがしい鈴とを結びつけた作者の着想に敬服したのだった。  東宝演芸場につくと、その志ん生が、楽屋入りするところで、テケツのところで何事か二た言三言モギリ嬢に声をかけて笑わせていた。どうも�艶笑的挨拶�でもしたのではないかというような気がして、ぼくは思わずニヤリとしたが、すぐまたこわい顔をして客席のドアを押した。    百生の『船弁慶』  恐ろしく派手な道具立てである。まず着物が褪紅色。半えりと袴が灰色。座蒲団があざやかな紫色。木の香も新しい釈台を置いて、右手に扇子を大小二本、左手に下足札のようなものを持って、これを交互にせわしなくたたきながら喋る。一瞬、春団治(桂。一般に初代とされる)全盛時代の法善寺(大阪)花月亭にいるような錯覚を起さすほどにぎやかな高座だ。  はなしは、いわば�大阪の与太郎もの�だが、百生(三遊亭)が「アホは[#「アホは」に傍点]……」としきりに連発するその阿呆の無類の恐妻ぶりが頗る面白い。例えばこんな調子である。女房がザルに二銭入れて阿呆に渡し、焼豆腐を買ってくるように言い付ける。「よっしゃ買《こ》うてくるで」と家を飛び出した阿呆は、途中の鋳掛《いかけ》屋の店先で鍋直しを熱心に見物するうちに、すっかり焼豆腐を忘れてしまい、八百屋でネギを二銭買って帰る。道草をくって遅くなったのでこわごわ家に入ると、案に相違して女房は長火鉢の前でニッコリ笑って、おいでおいでをしている。阿呆が安心して近寄るとたんに女房の顔が一変し、たちまちおしおきが始まる。こっちへおいで、と大きな灸《きゆう》をすえ、阿呆が「熱いよォ」と泣き出すと「熱けりゃこっちへおいで」と井戸端へ引っ張っていって頭から水をかける。「冷たいよォ」と悲鳴をあげると「冷たきゃこっちへおいで」と背中にお灸。また「熱いよォ」「熱けりゃこっちへおいで」と井戸端。「冷たいよォ」「冷たきゃこっちへおいで」とお灸……。後日阿呆はこの折檻をふりかえって述懐する。 「焼いたり水かけたり、焼いたり水かけたりで、とうとうアテ、焼豆腐思い出した」  こんな与太郎的人物を描写させると百生はうまい。得意の『天王寺詣り』を大阪与太郎陸上篇とすれば、これはさしずめその水上篇といえよう。それにしても、枕で ※[#歌記号、unicode303d]三府の一の東京で、浪に漂うますらおの、はかなき恋にさまよいし、父は陸軍中将で……というのぞきからくり[#「のぞきからくり」に傍点]『不如帰《ほととぎす》』の一節を歌ったかと思うと、最後に ※[#歌記号、unicode303d]東方降三世、南方軍荼利夜叉、西方大威徳、北方金剛……と謡曲「船弁慶」をひとくさりうなるという、これは端倪《たんげい》すべからざる愉快な噺だった。    柳橋の『品川心中』     柳橋(春風亭。六代目)の廓《くるわ》ばなしを、ぼくはほとんど聴いたことがない。だから、実はたのしみにしていたのだが、聴いてみると、あまり感心できなかった。それがこの人の�地�と片付けてしまえばそれまでだが、それにしてもカリカチュアライズの度が強すぎて、廓の雰囲気が出ないのだ。その代り、枕は非常に面白かった。はじめに色里について、 「京都で島原、長崎で丸山、江戸が吉原。また、静岡に参りますてえと二丁町というのがありまして、あれ、もとは七丁町といったんだそうですが、江戸に五丁町が移ってしまったのでいまでは二丁町」  とすらすら喋っておいて、 「——なんてえことを、あたくしはよく知らないんです」  また、�花魁《おいらん》�という言葉について、「花のさきがけ[#「花のさきがけ」に傍点]と書きますなあ」と言ってからしばらく間をおいて、やや小声で「今じゃ医学が発達したからそんなこたあないってんですが」とつけくわえる。鼻の先欠け[#「鼻の先欠け」に傍点]という洒落である。同じく語原の珍解釈として�娼妓�は�将棋�からきた言葉だという。「つまり金銀がないとさせない[#「させない」に傍点]」といって柳橋はくぼんだ眼を意味ありげにしばたいてみせる。この辺りに、いかにも艶笑落語のニュアンスが漂い、会場にしのび笑いが洩れた。  ところで、柳橋は話の途中で腕時計をちらりと見、終って楽屋に引きこむ時にはゆっくりと腕を返して時計を眺めながら姿を消した。高座五十年、いまや大御所の地位にある彼が、結局|村正《むらまさ》たり得ても正宗《まさむね》たり得ない(とぼくは思う)所以を、いま、かいま見たような気がした。第一に、腕時計をはめて高座にあがること自体よろしくない。こまかなことだが、これは芸人のたしなみではあるまいか。落語界一方の旗がしらである彼にして、どうしてこんなことに無頓着なのだろうか。第二に、時間を気にすることは結構だが、そんな時には高座に上る前に自分で「持時間何分」と決めて、時計なんかに頼らずに、ピタリと時間内に話しおさめてこそ、芸人というべきではなかろうか。第三に、話し終って、高座から楽屋まで一体何分かかるというのだ。わずか三秒か四秒を急いで時計を見なくてもよさそうなものだが……。    可楽の『たち切り』     ブルドッグが二日酔いをしたような顔で、いきなり「よく、この色気てえことをいいますが……」と小声で喋り出す。続いて、いかにも棒暗記しましたというような感じで、例の「おじさん、妄念かい、執念かい」という枕をスラスラとふる。その無表情、無感動の呼吸が、かえって面白い。時折上唇をなめながら鼻にかかった声で喋る地味な高座だが、何となく色気が漂っている。 『たち切り』というこの噺は、どうしても�仕込み�(あらかじめ予備知識を説明しておくこと)が必要な噺である。芸者の玉代《ぎよくだい》を線香によって計算する、つまり線香が一本たち切るごとにいくらと玉代が加算されることを説明した上でないと、オチを理解してもらえないのだ。可楽(三笑亭。八代目)は小噺を一つポンとすることによって、見事に仕込みとしている。芸者屋の女中が線香三束もって逃げたという間抜け落ちの小噺(恐らく『千両みかん』から考えついたものだろう)で、どっと笑わせておいて、同時にちゃんと仕込みになっているというわけである。うまいなと思った。  若旦那が芸者屋の仏間で、茶わん酒を飲みながら、亡き愛人の位牌にしみじみと語りかける場面も、頗るよかった。楽屋から流れてくる『黒髪』の三味の音《ね》と、可楽の鼻にかかっただみ声とが溶け合い、そこからすうっと線香の匂いがしてくるような気がした。    志ん生の『三助の遊び』     セミの羽根のように透きとおった涼しげな黒の羽織を、するりとぬぐと、まっ白な薩摩上布。キリリと貝の口に結んだ角帯がまた結構なもの。博多でなし、斜子《ななこ》でなし、一体何という布地なのだろう。真田織にちょっと似た感じで、ざっくりとした感触がいかにも志ん生好みである。そこへ無造作にさしこんだ煙草入れ……。思わず、ああいい衣装《なり》だと見とれてしまった。  一見して大分、お神酒《みき》が入っている。その酒気を慕って蚊が一匹、首やら頭やらのまわりを近づいたり遠のいたりしている。お手のものの扇子でその蚊をはねのけながらの熱演である。文句なく面白かった。断片的に志ん生の語り口を再現してみると—— 「どうしてもこの、話はそこ[#「そこ」に傍点]へ行くんでありまして(と、妙に力《りき》みながら)遊女三千人の吉原に、あたしなんかも少し研究に(といって一瞬、間《ま》をおいて)……少し研究しすぎて(と、照れたような笑い)」 「朝ユウ[#「ユウ」に傍点](湯)が大阪にあって東京にないなんて(と、口をとがらせて)、先祖の助六に申し訳ないと思うんですがな(と首をかしげる)」 「朝ユウで一とッ風呂あびて、帰りに酒屋で冷やを二三杯キュウ……(おだやかな口調で)これで世の中にのぞみはなにもない」 「ユウ[#「ユウ」に傍点](湯)屋の番頭《ばんとう》さんが、女湯でさらしの下帯を締めていて、このさらしの下帯を、たるんでしめていれば、(一と呼吸あって)大したもんですよ、これは(といって大真面目な顔で観客を見る)」  こんな調子でユウ屋[#「ユウ屋」に傍点]の話を続けながら、やがて本題に入る。山出しの湯屋の番頭が、のだいこの次郎《じろ》公にとりまかれて吉原へ行く話だが、花魁に自分が三助ということを知られたくないと思っているその耳もとへ、近所の座敷の花魁連中の話し声が入ってくる。 「白木の三宝でおひねり[#「おひねり」に傍点]かい?」  初会かぎりでウラを返さない客のことを、おひねり[#「おひねり」に傍点]というのだが、三助はこれを、流しをして受取る祝儀のおひねりのことだと思ってしまう。ぎょっとなるところへ今度は隣りの部屋から、 「ねえ、お流しよ[#「お流しよ」に傍点]、流しておいでよ」  これは惚れた女郎が客に流連《いつづ》け(流し[#「流し」に傍点])してくれと甘ったれているところなのだが、三助はてっきり自分のことをいわれたと思う。さらに続いて、「たたかれちゃうまらないねえ[#「うまらないねえ」に傍点]」だの、「ああ、水くさい[#「水くさい」に傍点]」などという声がとびこんできて、この三助いよいよ当惑する。これが話のヤマなのだが、志ん生は、よその部屋からきこえてくる女の声と、いぶかる三助の声と、解説役の敵方《あいかた》の花魁の声とをあざやかに使いわけて、花の吉原の雰囲気をいきいきと描写した。    円歌の『坊主の遊び』     これも廓話。年甲斐もなく遊びにいったご隠居がさっぱりもてず、腹を立てて女郎の髪を剃ってしまうという話である。細心の演出をすれば、なかなか味のある噺になると思うのだが、円歌(三遊亭。二代目)はただひたすら賑やかに喋るだけなので余り感心できなかった。ふられた客の悲哀と酔いつぶれた女郎とを丁寧に描写することによって、遊びの馬鹿らしさと、六十にもなってもなおその遊びを忘れかねる人間の阿呆らしさを感じさせることが出来れば成功なのだが……。  面白かったのは、枕の部分で客席とやりとりした時の彼の表情である。そっ歯[#「そっ歯」に傍点]で有名な元宰相そっくりな顔をしながら「どうもこの、赤線キャンセルはどうかと思いますがねえ」と慨嘆する円歌に、客席の一部から拍手が起こる。間髪を入れず彼はその拍手の方に向き直り、眼尻を極端に下げて満面に笑みをたたえ、静かに二三度うなずいてみせた。その呼吸と表情に、ぼくはふっと�ほんとうの寄席芸人�(芸術家でございという芸人ではなくて)を感じた。    金馬の『錦の袈裟』     かつて真打《しんうち》級のある噺家が金馬を評して「うまいんだけどねえ、あれで理屈っぽいところがなけりゃ……」といったことがある。「その代り」とぼくは引きとって「随筆を書かせたらこの人がズバ抜けてうまい」といった覚えがある。最近、落語家が随筆、芸談、自伝のたぐいを出版することが流行で、ちょっと数えただけでも、『あばらかべっそん』(文楽)、『なめくじ艦隊』(志ん生)、『高座五十年』(柳橋)、『泣き笑い五十年』(金語楼)などとあるが、どれを読んでみても団栗の背比べで、瓜やなすびの花盛りという趣である。その中で金馬の『浮世断語』だけは、素人ばなれした見事な随筆であり、彼の�学�と�筆致�をぼくは高く評価している。ところが、肝心の本業にまでその学と筆致をもちこむものだから、あのアクの強い高座ができあがってしまうのだ。  早い話が題名一つにしてもそうだ。この『錦の袈裟《けさ》』(別名『ちん輪』)を彼は、「故郷飾錦褌珍輪異物」と代えて、「こきょうへかざるにしきのしたおびちんわいなもの」とルビをふらせている。恐らく凝りに凝ったユーモアのつもりなのだろうが、これはどう考えても改悪である。「凝っては思案の外」という言葉を思い出しながら、高座の噺に耳を傾けた。  文句なくおかしかったクスグリ二つ。いずれも与太郎のおかみさんの言葉である。おそるおそる女郎買いの許可を求める与太郎にむかって、 「いいかい、あしたの朝、風呂へ入って塩でよくもんできなよ[#「塩でよくもんできなよ」に傍点]」 「神田っ子は左へ曲っている方が[#「左へ曲っている方が」に傍点]いいんだよ」    円生の『豊志賀』     客席には、若い女性の姿もちらほら見受けられたが、ぼくの隣にいた女性は、円生が登場するとつれの男性に小声でつぶやいた。 「こんなに近くで円生さんを見たの初めて。すてきねえ」  思わず横目で見ると、若くて健康そうな美人である。男の顔は見えなかった。  噺がすんでぞろぞろとせまい廊下を歩いている時に、うしろでこんな会話をしていた。顔は見なかったが、やはり若い女性である。 「いまのはなし、どこが�艶笑�なのかしらね……」  背中でそれを聞きながらぼくは、さっきの女性だったら「これが艶笑ね」というのではないかなどと思ったりした。  この日の円生の『豊志賀』は、艶っぽい演出だった。故《ことさ》らゆっくりしたテンポ、起伏のない語り口、終始一貫した低音——つまり、地味に地味にという感じの高座である。そこから不思議な艶っぽさが生まれる。三十九歳の豊志賀が二十一歳の新吉を誘惑する件りなどは、聴いていて胸がドキドキするほどだった。その描写をじっくりとしておいて、「いざ」というところになると、 「男女《なんによ》の仲で一つ寝はいけないといいますが、これで新吉との仲ができた」  とだけいって、あっさりと次の場面に入る。かしこい演出というべきだろう。  と、こう書いてくると、いかにも満点の高座のようだが、惜しいことに�凄み�に欠けていた。怪談噺から凄味を引いたらおかしなものである。十八歳の可憐な羽生《はにゆう》屋のおひさが、「新吉っつあん、おまいという人は(一と呼吸の間)不実な人だねえ」というとたんに、がらりと豊志賀のみにくい顔になる寿司屋の二階の場面とか、乗せたばかりの駕《かご》から忽然として瀕死の豊志賀の姿が消える場面とか、当然ゾッとするところなのに、どういうものか余りこわくないのだ。  三木助が同じ『豊志賀』をやると、こわさの方は満点なのに艶っぽさが足りない。丁度、円生と逆である。 「両者を合わせたら、完璧なものになるのだがなあ」と考えながら劇場を出ると、ほてった頬に夜風が快かった。 [#改ページ]  東は東[#「東は東」はゴシック体]          ——天邪鬼《あまのじやく》・西洋寄席めぐり——         一 『ヨーロッパの夜』という観光映画が評判になったことがある。どんなに評判かというと、「近ごろこれほど楽しい映画はみたことがない。芸人の質が日本とは根本的に違うようだ。大人の芸である」(『銀座百店』誌)とか、「これだけのものを日本にいて見られることは奇跡に近く、これは見ないほうが損だ」(蘆原英了氏)とか、「この映画によってヨーロッパの寄席芸、ヴォードヴィル芸の伝統の深さ、芸域のひろさに目を見張るとともに、現在のヨーロッパのもつ最高のヴォードヴィリアンたちのショウマンシップ、至芸をこの目で堪能できるのである」(野口久光氏)とか、「素質に彩られたタレントのキャリヤーに今さらの如く驚嘆した……全ヨーロッパの粋を僅《わず》か二時間足らずで堪能できるとは倖せなことだ」(岡田恵吉氏)——といった塩梅《あんばい》である。  とにかく、いながらにして�西洋・寄席めぐり�ができるというのが気に入った。わが邦《くに》の寄席と比較しながら見れば一層おもしろかろうと、早速封切館に出かけてみた。      二  一番印象に残ったのは、若き奇術師チャニング・ポロックの気品である。指先から際限もなく飛び出す真新しいカード、絹のハンカチから忽然と生まれる真白な鳩、その鮮やかな手並みに思わずうなりはしたものの、要するにこれは手品である。然《しか》るべきタネがあることには変りがあるまい。指先のテクニックなら、例えば一徳斎美蝶《いつとくさいびちよう》でも、吉慶堂李彩《きつけいどうりさい》でも、同じようにみごとだ。ただ、逆立ちしても追いつかないのがあの気品である。強いてさがせば、NHKテレビ(「魔法の小函」)に出演していた引田天功《ひきたてんこう》の舞台に気品の片鱗を見る程度だ。凜とした態度と表情を最後まで崩さずに、次々に奇跡を出現させるこの美丈夫の身辺には、不思議な気品と魅力が、妖しく漂っており、英国女王のおぼえおんめでたいというのも、うなずけるのである。  ところでこのポロックに、上品な美人の助手がついている。彼女は、ポロックの魔術を手伝いながら、この一瞬という緊張の場合に、何ともいえぬ微笑を浮かべるのだ。この微笑が、紙切りの林家正楽(紙切りとしては初代)の笑顔とそっくりなのに気がついた。ものすごいスピードでハサミを動かしながら正楽はいつもこの笑いを絶やさない。極度の緊張の時に浮かべるこわばった笑顔というのは、東西ともに変らないものらしい。  これとは逆の点で感心したのが、何本もの壜《びん》をお手玉のように扱うザ・グレイスの曲芸である。おそらく極度に神経を使うであろうこの芸を、三人組の彼らは、恰《あたか》も倦怠感にみちみちたといった実に退屈そうな表情でもそもそ[#「もそもそ」に傍点]とやってのけるのである。そこにぼくは面白さを感じる。まったく同じ芸を、わが邦の寄席では太《だい》神楽《かぐら》の連中が見せてくれるが、太神楽にはもっとむつかしそうな芸がある。太鼓のバチにゴムマリをはさんでこねまわすだけの芸なのだが、ゴムマリがまるで鳥モチでくっつけたようにバチにまとわりつくのである。単純そのものの曲芸だが、実はこの方がお手玉式の曲芸より何倍もむずかしいのではなかろうか。それを、ワキ見などしながら、さもつまらなそうにやるところが頗る面白い。      三  ところで、あの気品あふるる奇術師を生んだロンドンに、これはまたおよそ気品とは縁遠い乱痴気騒ぎの舞台がある。コリン・ヒックス一座のロカビリー楽団である。演者がサックスを吹き、ギターをかき鳴らしながら、盲腸か癪《しやく》でも起きたように体を曲げて、はては舞台に寝転んでしまうと、観客はリズムにあわせたように体をゆすり、手拍子をうち、口笛を吹いて興奮する。しまいにとび出してきて踊り出す。しかも、若者ばかりではない。六十ぐらいの婆さんまでが、足をふみ手を打って浮かれているのだ。大英帝国にこのロカビリー寄席あり、わが邦の娘義太夫、音曲吹寄せなど遠く足もとにも及ばぬと感心したが、よく考えてみると木馬館の安来節がこれとそっくりなことに気がついて、ぼくは少しおかしかった。  画面はパリに飛ぶ。  人気歌手アンリ・サルバドールがコミカルな歌をうたいながら指揮者の真似をする。そのタクトに合わせてオーケストラがハンガリアンダンスの最後の部分を奏でる。指揮者が、おさめ[#「おさめ」に傍点]のタクトをふりおろす。が、曲の方がとまらない。あわてて指揮者はタクトをふりなおす。二度、三度、四度……果てしなき名曲に手こずった指揮者は遂にふらふらになって倒れてしまう。面白いといえば面白いが、安直なパントマイムだ。これに比べれば(もっともこれは比べる方が無謀なのだが)、小さんがたまに余興で見せる滑稽無比抱腹絶倒の百面相——たったいま大黒様になっていたかと思うと、次の瞬間、恵比寿様に早変りする、ちゃんと座蒲団の鯛まで抱いて頭から爪先までまさしく恵比寿様なのである。うまいなあ、と見とれているうちに、今度はいつのまにか釜の中で暴れる鮹《たこ》になっているという、この百面相の方が、よほど緻密な高級パントマイムではなかろうか。      四  パリの「ザ・クレージー・ホース・サルーン」のヌード・ショー。何人もの豊満な美女が薄物をまとって出てきては脱いでいく、何ということもないストリップだが、カーテンで腰をかくした一人の踊り子が、腰をくねらしながら、おそろしくエロティックな表情をする。眉を寄せ、小鼻をふくらまして、半開きの唇からせつなげな息を洩らす……大写しになるこの表情を見ながら、ぼくは「見せるべからざる見世物だ」と思った。閨房《けいぼう》の表情、これは断じて他人に見せるものではない。売女《ばいた》め、とつぶやきながら、ぼくは三亀松《みきまつ》(柳家。初代)の高座を懐かしく思い起した。「ねえ、やってえン[#小書き「ン」]」「うん」「はやくゥ」という例の三亀松のエロには、誇張したユーモアがあり、しかも一種の自嘲の響きが感じられる。ぼくは、異邦《とつくに》のあのエロには顔をそむけるが、わが邦のこんなエロには微笑を禁じ得ない。とはいえ、パリのストリップをお手本にしたバーレスクが、東京は申すに及ばず、某々村大字某々に至るまでひろまっている現状では、「見せるべからざる云々《うんぬん》」と眉をひそめる方がおかしいのだろう。  最後のほうで、同じくパリのクラブ「カルーゼル」のヌードショーが紹介されているが、巨大な乳房の踊り子コシネル嬢が、実は四年前徴兵検査にハネられた男性のなれの果てと聞いて、呆然とするよりもヘドが出そうになった。しかも、これまたいまや文化国ニッポンに燎原《りようげん》の火のようにひろがっているのだから、何をかいわんやである。曰《いわ》くゲイ・バー、曰くおかまバー。まったく ※[#歌記号、unicode303d]有難や有難や……と歌いたくなる。  それに比べて小文治(桂)の�奴さん�の男女おどりわけの美事さ、面白さ。はじめは普通におどったあと、姉《あね》さんかぶりをしてからちょっと衣紋《えもん》をぬいておどる小文治の姿はたちまち女性そのもの。ほのかな色気さえ漂っている。そして、ひとしきり女の姿でおどってから、いきなりスソをからげてタネあかしという寸法である。  このほか、カルメン・セビリヤのスペイン舞踊、ザ・プラターズのコーラス、東洋風ヌードと称するパデイア妃の腹おどり等々、ぼくはヘトヘトに疲れてしまった。とてもいただけない代物、というより、ついていけないものばかりなのだ。要するに肉食人種と菜食人種の違いであろう。  見終ってふと、「この西洋寄席めぐりをするだけの金と暇をやろうといわれたら?」とぼくは自問した。 「日本中の寄席のフリーパスと、それを見てまわる暇を与えられた方が、はるかにうれしいと思う」  これが、ぼくの自答であり、結論である。 [#改ページ]  五人のはなし [#改ページ]  志ん生二題[#「志ん生二題」はゴシック体]       1 酔虎伝     ……小さん、志ん生、(休憩三十分)、三木助、文楽……というプログラムだった。第十三回(三三・五・三〇)の東横落語会。  ところが小さんの『三人旅』が終ると、突然幕がおりてしまった。休憩五分ののち、スルスルと幕があいて、お囃子もなく現われたのが再び小さん。「志ん生師匠がまだこないんで……」と、つなぎに漫談をはじめたが、とてもつなぎきれず、漫談が枕になり、枕がいつしか本題となって、はなし半分ほど喋ったところで、かけつけた三木助にバトンタッチ。三木助のだしものは『鉄拐《てつかい》』。終って中入り。  三十分間の休憩のあと、「志ん生はもうこないよ、きっと」というささやきが聞こえる中で幕があがった。メクリは「鮑熨斗《あわびのし》 古今亭志ん生」とある。軽快な出囃子『一挺《いつちよう》入り』が聞こえ、やがて志ん生がぬっと出てきた。顔が真赤で、足もとが危い。一見してひどい酔い方だ。もっとも、どんな時だってシラフの志ん生なんて考えられないほどだから、いまさら赤い顔をして高座へあがったところで、驚くことではないのだが、——それにしても今夜の酔い方は尋常ではない。  例によってななめに床をなめるようなお辞儀をしかけると、グラリと体がゆれてハッとさせる。お辞儀をしたまま寝てしまうのではないかと思ったが、それでもしゃんとして正面をむき、しばらくは無言。そんな一瞬の間が笑いを誘う。やがて、蛸入道《たこにゆうどう》のような彼の口から洩れた「ええ、ちょいっと事故がありましてナ」という第一声に客席は爆笑。酒のことも、遅刻のことも、これっぱかりもいわず、すぐ本題に入ったのはよいが、「あの時分はてェと、まだ米が一升十銭で買えた」という件りで、 「……その米が一升十銭で買えた大正から明治[#「大正から明治」に傍点]へかけてのことで」  とやって、再び客席は爆笑。志ん生はキョトンとした表情を浮かべたが、しばらくしてから気がついて、あるかなきかの細い目を愈々《いよいよ》細くしてニヤリと笑う。それがおかしいといって客席はまた爆笑。  あとはもう破れかぶれ、ロレツのあやしい舌でペラペラと喋って、オチまでいかずに結局、這々《ほうほう》の態《てい》で退散。そんな志ん生の後姿に、観客は大満足で、盛大な拍手をおくった。この日最大の拍手だった。不思議な噺家《はなしか》だなあと思いながら、ぼくもこの天下ご免の酒に惜しみなく手を叩いたのだった。    2 人情噺     三木助が死んでしばらくしたある日、田端の三木助宅にふらりと志ん生が現われて「お、これ借りていくよ」といって故人愛用の煙草入れを持って帰った。三木助は、生前、煙草入れに凝って数多くあつめていたが、その中でも出色のものだった。  翌日、テレビの画面に志ん生の笑顔がうつった。あるテレビ局が企画した家庭訪問である。不意にカメラが志ん生の手元に近づいたかと思うと、しぶい古代裂《こだいぎれ》の煙草入れが大写しになった。志ん生のしんみりした声が流れる。 「これがネ、せんだって死んだ三木助の愛用してえた煙草入れで……」  恐らく、三木助に最後のテレビ出演をさせたかったのだろう。 「ほんとに志ん生師匠という人は、こまかなとこまで気のつく人で、今度は何から何まですっかりお世話になりました」  といって三木助夫人は、この話を聞かせてくれた。  ところで、五十九歳で逝いた三木助のあとには、若い仲子夫人と、三人の子供が残された。上二人が女で、一番下が男の子である。盛夫という名がついている。小林盛夫(のちの四代目桂三木助)——小さんと同姓同名だ。生まれる前から三木助が「男だったら盛夫とつけるんだ、小さんのような噺家になるようにな」とたのしみにしていた男の子である。  葬式のあとで、志ん生が仲子夫人にこんなことをいった。 「おまえン[#小書き「ン」]とこには男の子がいたなア」 「ええ、盛夫っていうのがいます」 「必ず噺家にしなよ。いや、当人が何ていうか知らねえが、おやじの血をひいて、いい噺家になるぜ。おれンとこの朝太(のちの三代目古今亭志ん朝)だって、見ねえな。ああ、心配《しんぺえ》することはないよ、おれと文楽が面倒みてやるから。是非噺家にするこった。ときに、いくつだい、盛夫は?」 「満二歳です」 「二歳ッ、ええ? ふたっつなのかい! そいつァダメだ、とても、おれの生きてるうちには間に合わねえや」  ——噺家の美談にはちゃんとオチがついている、と感心しながら、ぼくはほのぼのとした気持でこの話を聞いた。 [#改ページ]  円生|吉左右[#「円生|吉左右」はゴシック体]《きつそう》    『首提灯』で芸術祭賞を受賞した直後に、人形町の末広で円生の独演会があった。高座にあがった円生は開口一番「この次はテアトロン賞をもらおうと思っておりまして」といって客席を笑わせた。丁度、芸術座の芝居『がしんたれ』に出演していた時だった。  半年ほどして柏木の円生宅を訪ねたら、立派な楯《たて》が三つ並んで飾ってあった。一つはガラスのケースにおさめた真紅の楯で、とくに豪華な感じのするものだった。ははあ、これが芸術祭賞の? といって近寄ったぼくに、円生はウフフフと笑って説明してくれた。 「それがね、この楯は銀座のW製なんですがね、ウフフ、文部省から賞金をもらって、あけてみるとお金と一緒にW堂の注文票が入ってるんですよ。もし楯が欲しいんならこの紙に記入して注文しなさいてえんですが、楯の代金と賞金とまったく同額なんですよ。楯かお金かってえわけで、ウフフ、まァ、お金をもらってもすぐ使っちまうんだからてんで楯を注文しました。そのケースは、別にあつらえたんで自前ですよ。ええ、ですからむろん足が出ちまいましたが、まァ、賞をいただいたということに意味があるんですから、ウフフ……」  いかにも文部省あたりのやりそうな馬鹿馬鹿しい話である。ぼくがいささか呆れていると、さらにこんな話をしてくれた。 「あたくしはまだいいんですよ。困ったのは千太・万吉(リーガル)君で、あれ(賞)は、あくまで二人一組の漫才に対して与えたものだから、賞状も一枚しか出せないっていうんですね、文部省で。どうしても二枚欲しいといっていろんな人に頼んで、結局�書き損《そくな》い�ということにして二枚もらえましたが、楯の方はそうはいかない。とうとう二人でお金を出しあって、これと同じものを余計にあつらえたんですから、こりゃ相当な赤字ですよ」  この楯の隣の飾り棚にあるのが、「夫と妻の記録」と刻まれた小さな楯。某テレビ局が、円生夫妻の半生をドキュメントとして放送した時の記念だという。文部省よりこの方がよほど垢ぬけてスッキリしている。ぼくはふと、円生にもらった「いまはただ、めしくふだけの夫婦なり」という色紙を思い出した。  さらにその隣のタンスの上に、黒く光った楯が飾られている。 「これは芸術座からもらったんです。ええ『がしんたれ』のお芝居でね。ほら、演賞[#「演賞」に傍点]と書いてあるでしょ。ウフフ、円生[#「円生」に傍点]という洒落なんで……」  なるほど、テアトロン賞でこそないが、これも立派な演劇の賞には違いない。独演会での予言はみごとに適中したわけである。円生われを欺かず……とつぶやきながら、ぼくはめでたずくめの円生宅を辞した。 [#改ページ]  碧眼落語修業[#「碧眼落語修業」はゴシック体]     簡単な用事だったので、玄関先だけで帰ろうとしたぼくを、浴衣がけの円生が例の人なつっこい笑顔で、 「フフフ、いまネ、落語を習いたいって外人がきてェるんですよ。どうです、よかったら」  といって呼びとめた。  数年前になるが、ぼくは辰野隆先生から、日本語を自在にあやつるマレスコというフランス人の話を伺ったことがある。アテネフランセの教師をしていたその異人の口調を真似て辰野先生は「落語も衰えたもんだなあ、この頃の�しか[#「しか」に傍点]�の話しっぷりの拙さ加減たら、箸にも棒にもかからねえや。何たって、昔の小さんや、円右、円喬を思い出すね。おまけにこの頃じゃ、聴いてる客が田舎っぺえ揃いだから変なところでアッハハ笑いやがって、面白くも何ともねえや——と、こんな調子なんですからね、恐れ入った男でさ」といって大笑された。ぼくは「凄《すげ》え外人がいるもんだなあ」と三嘆したが、のちのちまでこの話は印象に残った。  円生の誘いを受けて、とっさにぼくはマレスコ氏のことを思い出すと共に、落語を習おうというその外人にいたく興味をおぼえた。  ユル・ブリンナーを若くして、一とまわり痩せ型にしたような碧眼のその青年は、長いヒザを窮屈そうに折って、 「ありがとございます。円生サンのような人が一生かかってやることを、ワタクシがやること無理ですがよろしくお願いします」  と丁寧に挨拶してから稽古に入った。だしものは姦通を扱った古典の『紙入れ』。まずテープレコーダーの前で円生が高座通りに一席演じてみせたが、その間、わがブリンナー氏は目を輝かせて食い入るように円生の一挙手一投足を眺めては、時折会心の笑みを浮かべる。続いてテープをまわして、改めて二度三度と聴きながらさらに研究。つぎつぎにとび出す難解な江戸言葉には「オ、ワカリマス」を連発して師匠をうならせるのだが、何でもないような言いまわしにひっかかる。 「あ、ちょっと、テオクレ(手遅れ)、それどういう意味ですか」 「ええとね、ほら、お医者さん、ドクターがね、診察するのがおくれるでしょ、そいで患者が死ぬ、それが手遅れ……」 「オ、ワカリマシタ。あ、それからゴジツノショーコ(後日の証拠)、それ、なんですか?……オ、ワカリマシタ。ゴジツというから五日の証拠[#「五日の証拠」に傍点]かと思っていました」  こんな珍問答に円生も思わず吹き出してしまう。しかし全体ののみこみが頗《すこぶ》る早く、二時間余りの稽古は順調にはかどり、最後に、 「この噺はとてもむずかしいもので、前座に教《おせ》えるもんじゃないんですよ、本当は。でも、前座噺をといっても、外国人に『寿限無』を教えても仕様がないし、少々むずかしくても中味の理解できる噺でなけりゃと思って……」  という円生の言葉を受けてブリンナー先生即座に、 「オオ(と手をひろげて大げさな表情)、このほうがよいです。サンカク関係ならアメリカ人にもすぐ理解できます」  と小指を立ててニヤリと笑ったところで入門第一日は無事に終了した。  帰りぎわ、次の稽古日を決めておこうということになった時、円生の前にかしこまった彼は、消え入るような小声でつぶやいた。 「また教えてもらえればこんな嬉しいことはありません。でも……円生さん、大変忙しいからゴメイワクです」  大きな身体一杯に、申し訳ないという感じがにじみ出ているのを見て、ぼくは急にこの碧眼青年に親しみを感じた。もっとも�青年�といっても年をきいたら三十四歳。三年前にアメリカ大使館員として来日、半年後の秋には帰国してミシガン大学で演劇史を教えることになっているのだという。助教授、ジェームス・ブランドン。これがブリンナー氏の地位と名前である。 「日本古来の芸をジカに理解したくて弟子入りしたのですから、帰国しても自分で本式にやる気はありません。でも、生徒の前では一席うかがうつもりです。ただし英語でね」  車の中で、助教授はこういってパチリと片眼をつむってみせた。 [#改ページ]  喜兵衛追憶[#「喜兵衛追憶」はゴシック体]     新橋喜兵衛が死んだ。新聞には出なかったが、ある週刊誌が「最後の幇間が消えた」と小さく報じていたのを読んで、ぼくは喜兵衛の、あさ黒い、目のギョロリとした風貌《ふうぼう》を、ありありと想い出した。  二年前の夏、ぼくは築地のさる旗亭《きてい》で彼の話を親しく聴く機会に恵まれた。その時の喜兵衛は、茶色の背広をきちんと着て、黒い皮カバンを大事そうにさげていた。停年寸前の銀行員とでもいいたいような服装の彼が差し出した名刺に、篆書《てんしよ》体で「新橋喜兵衛」という字があざやかに記されていた。 (一流のたいこもちか……)  ぼくは三分の畏怖《いふ》(?)と七分の憧憬《しようけい》をもって喜兵衛を見つめた。 「たいこもちには種類が二つあって、一つはエロ専門、もう一つは旦那と友達みたいになるタイプなんですがね。あたしゃ(とニコリともせずにきっぱりと)下半身専門。ここから(といって右手を腰にもってゆき)上の話はしたことがない」  ぼくが「バレ話結構」といったら、おや、という顔をして、 「あなた、お若いのになかなか」  といった。そして「ここから下の話」が始まったが、その�聖談�を聞いてぼくは微笑し苦笑し、時に哄笑しながらも、一番興味深かったのは、やはり幇間としての芸談の部分だった。 「この商売はお客さまの前では、徹底してバカになっていなくてはつとまりません。喜兵衛裸ン[#小書き「ン」]なれ、といわれりゃスッ裸にもなるし、一度なんかね(と思い出し笑いを浮かべて)マユ毛を片っぽ剃り落せってやがんの。両方ならまだしも、片っぽてんだからね。え? 剃りましたよ……」  大きな目でじっと相手の顔をのぞきこむようにして語る喜兵衛は、ふっと上を向いて、 「もっとも当節では、幇間の仕事はほとんど大会社の宴会設営ですよ」  といって寂しそうに笑った。  会のあと、銀座のバーに席を移したが、そこでの彼はいかにも場違いな感じだった。はなやかな女給に囲まれた喜兵衛の背広姿は、幇間のにおいは全然感じられなかった。酒も煙草もやらない彼は、オレンジジュースをちびちび飲んでいたが、やがてほどのよいところでさきに席を立った。そして、その直後である、ぼくが�ほんとうのたいこもち�を思い知らされたのは。彼がいなくなったとたんに、たちまち席が白ける、というほどではないにしても、とにかく一本|要《かなめ》がぬけたような雰囲気になってしまったのである。いままで、幇間といえば「よッ、大将、エヘ、先日は」式の芸人を頭に描いていたぼくは、喜兵衛のあとを追いかけていって不明を詫びたいような気持だった。  これが喜兵衛と言葉を交わした最初で最後だったが、以来正月になると「吉例獅子舞を元旦より振り始め申候……前川喜兵衛」という賀状が舞い込むようになった。  だが、来年からもうその賀状がくることもない。  ぼくは黯然として「最後の幇間の死」を読み、一生かかって人のごきげんをとりむすんできた男の、彫りの深い顔を想い起していた。  彼岸の喜兵衛よ、蓮の葉の上で今度はだれのごきげんをとりむすぼうというのだ……。 [#改ページ]  三木助の死[#「三木助の死」はゴシック体]       1 三木助好日     盛夏の午後、どこからかゆったりとした琴の音が聞こえてくる座敷で、ぼくは三木助ととりとめもない話を交わしていた。田端の三木助宅。いかにも噺家の家という感じのする小さいけれど凝った造りの部屋である。葭戸《よしど》が涼しげにたてられている縁側の先には、猫のひたいほどの庭。琴の調べはその庭の向うの家から流れてくるらしい。 「こないだネ、ちょいっとビールを飲みすぎて胃の調子がおかしくなったんで、医者に見てもらったら、やっぱしビールってやつは、何かこう刺激があるらしいんですね。酒の方がいいっていうんで、またいまじゃ酒をやってるんですよ、ええ」  などという五風十雨《ごふうじゆうう》の趣の話が続いている時、縁側にちょこちょこと小さな影が現われた。ベティのようなパチリとした目をして、ほんの少し受け口の、色の白いぽちゃとした可愛い女の子である。 「おうおう、デコや、お客さまにこんにちはは?」  いつも精悍な表情の三木助が、たちまち目を細め、顔中とろけそうに声をかける。満二歳の嬢やは、親父などには目もくれず、葭戸に片手をかけ、つぶらな目を愈々大きく開いて、じっとぼくの顔を見つめた。 「こんにちは」  といってぼくが笑ったら、心持ち首を左へ傾けて、さらに目を見開いた。三木助が笑いながら、 「おまいがそんなところに立って、考えてちゃあ、仕様がないじゃねえか」  といった。その口調が、高座でいう白《せりふ》のような感じだった。二歳の嬢やに「考えてちゃ仕様がないじゃねえか」というのがとくに面白かった。  その時、上の嬢や(幼稚園)が外から帰った声がしたので、�デコや�はくるりと背を向けて茶の間の方に走っていった。 「ハハハハ、あれがね、いま一番手がかかって」  三木助はこういって嬉しくてたまらないような顔をする。そこへ今度はさっきと反対側の廊下から�デコや�がちょこんと現われ、 「これ、もらったの。ごぶつだんにあげてくる」  とまわらぬ舌でいうと、手に持った小さな造花を振ってみせた。もみじのような手の中で、造花がカサカサと音をたてた。三木助は口をへの字に結びもっともらしい顔で「うむ」といった。相変らず琴の音が庭先から流れていた。    2 三木助別離     とんち教室(NHK)の青木(一雄)先生が沁々とした口調で、 「三木助も惜しいことをしました」  というので、ぼくは驚いて聞き返した。 「え、三木助が?」  すると青木先生は、 「いや、死にはしません、死にはしませんが……」  といってかぶりを振った——ところで眼がさめた。夢だったのだ。考えてみれば、ぼくは青木アナウンサーとは一面識もないのである。厭な夢だった。起きてからも妙に気がかりなので、三木助宅に電話してみた。 「その後|如何《いかが》です」  と軽く問うたぼくの耳に、いきなり、 「あと十日ももたないと思います」  という夫人の声が飛びこんできた。ガンで、もはや手のほどこしようがないこと、この前そのことを知らせようと思って喉のさきまで出たけれども正月をひかえて心配かけてはいけないので黙っていたこと、ついては今のうちに最後の別れをしてやってほしい、そんな夫人の言葉がふわふわと聞こえた。  受話器をおいたぼくの脳裡に、半月ほど前に見舞った時の三木助の顔が浮かんできた。その時は元気な表情で、 「いえネ、別に何でもないんですよ。疲労らしいんですな。ガン研のT博士や、慈恵医大のA博士に見てもらったんですが、ガンじゃないそうですよ」  といって、いかにも嬉しそうに笑っていた。だが、実をいうと「ガンじゃないそうです」という言葉を聞いた瞬間、ぼくは「あ、こりゃいけない」と思った。理由はないのだが、厭な予感がしたのである。それとなく夫人に尋ねようとしたが、その勇気がないまま、まだ大丈夫だろうと、年があけてからもさほど心配はしていなかった。そんな矢先の、あの夢と、そしてあの電話だった。  グレイの毛糸であんだナイトキャップを少しななめにかぶって、三木助は昏々と眠っていた。大きな枕の中に、顔が半分埋まっている。弟子が耳もとに口を寄せて、 「師匠、江國さんですよ」  と告げた。三木助はうっすらと目をあけると、すぐまた眠りはじめた。 (すぐれた噺家がいま死にかかっている!)  ぼくは三木助の土気色の顔をじっと見つめた。立派な耳と立派な鼻、そして一文字に結んだ唇。枕もとの文机に、「桂三木助師匠さま」と書いた封筒がのっている。もう出演することもない東横落語会の番組通知ででもあろうか。静かな部屋に三木助の軽いいびきだけが、正確なリズムで聞こえる。ぼくはなおも三木助を見つめた。ふっと三木助の顔がほころびて、 「エー一席お笑いを申上げます。昔この、隅田川で白魚がとれたそうでしてな」  という歯ぎれのよい白《せりふ》が聞こえたように思えたが、たちまちそれが幻想であることを、正確なリズムのいびきによって思い知らされたのだった。  暗澹とした気持で玄関を出たぼくの靴に、霜どけの泥がぼてぼてとくっついて、足どりが重かった。田端の駅の近くまでくると、ばったり小島政二郎先生にお目にかかった。小島先生には御無沙汰のしっ放しで、二年ぶりぐらいの対面だったのだが、挨拶もくそもなかった。 「あなた、いま行ってらしたの」 「はあ、いま行ってきたところです」 「駄目ですか」 「駄目です」  それで一切は通じた。 「惜しいなァ。あと二年で名人になる人だったのに」  小島先生はそういって長嘆息された。    3 三木助昇天     一月十六日、三木助はついに不帰の客となった。ぼくが最後の別れを告げた日から丁度一週間目だった。この一週間が、ぼくには非常に長くも、また短くも感じられた。  見舞いにも行き、別れも告げ、そして覚悟もしていたのだが、いざ訃報に接すると、やはり涙を禁じ得なかった。  三木助夫人が、医師から死の宣告をきいたのは昨年の九月だった。それからの四カ月、三木助に思い通りのことをさせながら夫人は懸命に神仏に祈った。その姿を見つけた三木助は「おれはそんな重病じゃないぞ」といって、構わず九州やら秋田へ出掛けていったのだが、秋田から戻って寝たきりになった時「おまえが手を合わせていたわけがわかったよ」といって寂しく笑った。それから急速に、しかも確実に三木助の身体はおとろえていった。年があけて、長老桂文楽、親友柳家小さんなどが枕頭に呼ばれた。いきなり「木久八(当時の内弟子。現・九代目入船亭扇橋)を頼む」という言葉が病人の口から洩れた。文楽がこっくり[#「こっくり」に傍点]をすると、今度は小さんにむかい「おれの『芝浜』を覚えてほしい。それを木久八に教えてやってくれ」という依頼。「引き受けたよ、ほかに何かいっとくことはないかい」と小さんがうなずくと、三木助はかすかに微笑して答えた「ないよ」——これで安心したのだろう、以後はほとんどねむり続けたあげく三木助は昇天したのだった。 「あの人が�ないよ�といった時、正直いって不服でした。一言ぐらい子供のことを言い残すだろうと思っていたので……」  若い三木助夫人はこういって唇を噛んだが、すぐ打消して、 「でも、芸人なんですから、考えてみれば不服に思うのがまちがいなんです。あの人は死ぬまで弟子のことと芸のことしか口にしませんでした」といって静かに目を拭った。  三木助、三木助と口の中でつぶやきながらぼくは祭壇に手を合わせた。ゆるやかに立ちのぼる線香の煙の間から、三木助が七五三、五分まわしのいなせ[#「いなせ」に傍点]な着物を着ていまにも現われそうな気がした。時折り、隣の部屋から弔問客の話し声が聞こえてくる。柳橋の声、青木先生の声、人形町(末広)席亭の声……。そしてこの家の主人の声だけがしないのである。ぼくは祭壇に深く頭を垂れながら、なおも、三木助、三木助とつぶやいた。   魚勝の水洟あはれ芝の浜 [#改ページ]  落語歳時記 [#改ページ]  落語歳時記[#「落語歳時記」はゴシック体]     季節感のある落語を聴くのはたのしい。文楽が、 「……四万《しまん》六千日、お暑いさかりでございます」(『船徳』)  といっただけで、暑さにうだる船宿の情景が浮かび上がってくる。船はほとんど出払って、わずかに新米の船頭が所在なげにごろごろしている、その姿を横眼で見ながら、衣紋を大き目にぬいた船宿の女将《おかみ》が、団扇《うちわ》をゆっくり動かしている。時おり、表を通る顔見知りに会釈する、その時だけ団扇の動きがとまって……と、そんな感じが、「四万六千日、お暑いさかりでございます」の一と言に凝結している。いつだったか、ラジオのアナウンサーが「きょうは、よん万六千日[#「よん万六千日」に傍点]」と発音していたが、よん万六千日では暑くも寒くもない。  同じ夏でも、志ん生の、 「以前はッてえと、夏ン[#小書き「ン」]なると夏のような売物が出てきた。もう夏だなッてのがわかりましたな。ところてんを売るとかナ、虫売りがくるとか……。ところてんを売るのは、ひと声半、『ところてんやァ、てんやァ……』とひと声半で売るんですな。それからまた、苗《ない》を売るのがある。苗《ない》というのは声を自慢に売って歩きます。夏場はよくあったもんで…… ※[#歌記号、unicode303d]苗《ない》やァ苗《ない》、隠元の苗《ない》やァ夕顔のォ苗《ない》……『お白粉の苗《ない》ありますか?』 ※[#歌記号、unicode303d]きょうはァ持ってこない[#「ない」に傍点]……」(『火焔太鼓』のまくら)  などを聴くと、一陣の涼風をともなった暑さを感じさせる。寒い方では、亡き三木助が『時そば』の中で、薄っぺらな竹輪を空にかざして左目をつぶってすかしながら、 「月が見《め》えらァ」  とつぶやく、その一と言が印象的だった。凍てついた夜の道ばたに、さむざむと商いを続ける屋台店。中天高くあがった月が青白く光り、どこからか犬の遠吠えも聞こえようという……。これだけの舞台装置を「月が見《め》えらァ」とだけいって表わした三木助の話術を評して、作家のS氏は「詩の領域にまで昇華した描写だ」とたたえたことがある。  かつて三木助が長崎で独演会を開いた時、安藤鶴夫氏も『長崎新聞』にこう書いている。 「三木助というひとは、落語のこういうところに凝るから好きなのである。落語などという芸は、そういうところを凝るか、凝らないかで、はっきり芸格が違ってくる。いい落語家の、ちょっとしたさりげない描写が、大変失礼な話だが、いまの小説家の描写なんかよりも数等すぐれているのは、そういう描写がひとつ残らず落語家自身の生活からにじみ出た描写だからである」  とにかく、三木助に限らず、すぐれた噺家は例外なく季節感を大切にしている。いまここに掲げた文楽、志ん生、三木助それぞれの季節感の表現を比べてみて、いささか乱暴な比喩だが、ぼくは三人の俳人を思い出す。即ち、文楽と蕪村、志ん生と碧梧桐《へきごとう》、三木助と万太郎——なんとなく似かよった味わいがありはしないだろうか。    1 新年の部  若水[#「若水」はゴシック体](わかみず) [#ここから3字下げ] 元日に汲む水。これを用うれば一年の邪気を除くといわれている。平日でも、朝早く汲んだ水は井華水《いばなみず》といって、邪気を払い、腹中を調え、熱気を下す効能があるといわれるぐらいだから、元日早朝の水を若水といって尊重するのもうなずける。 [#ここで字下げ終わり] ——「おい、権助。井戸神様へ橙《だいだい》をおさめてきなさい。ついでに歌を唱えるんだ。�新玉《あらたま》の年立ちかえる旦《あした》より若柳水《わかやぎみず》を汲み初めにけり、これはわざっとお年玉�といってな」 「はァ、たまげたね、なんだかわけがわからねえ。ええと、なんでも玉《たま》がついてたっけな、えー、目の玉、目の玉、�目の玉の、でんぐり返るあしたには、末期の水を汲み初めにけり、これはわざっとお人魂《ひとだま》�と、……ええ、行って参《めえ》りやした」 [#地付き](『かつぎや』)     福茶[#「福茶」はゴシック体](ふくぢゃ) [#ここから3字下げ] 前項の若水を汲んで湯にわかし、梅干、山椒、昆布などを茶わんに入れたものに注ぐ。元日に祝儀として家内揃って飲む佳例の茶。 [#ここで字下げ終わり] ——「おゥ、茶をいっぺえくんねえ」 「いまちょうど除夜の鐘がなってェる。福茶がはいったから福茶をおあがんなさいな」 「福茶? あァ、餓鬼のうちにゃのまされたことはあるんだけどねえ、久しくのまねえから、福茶の味だってなんだって忘れちゃってら……」 [#地付き](『芝浜』)     御慶[#「御慶」はゴシック体](ぎょけい) [#ここから3字下げ] あけましておめでとうの年礼は、やはり宮中の賀正の儀(朝賀、朝拝、参賀、拝賀、奉賀、奉瑞)が起源となって、民間第一等の礼儀となった。貴賤老若を問わず、旧年の交誼を謝し新年の祝賀を交換する普遍的な儀礼である。『日本書紀』孝徳天皇のくだりに「大化二年春正月甲子朔、賀正ノ礼|畢《おわ》ル」とあり、太古から伝わる美風である。 [#ここで字下げ終わり] ——「それから大家さん、裃《かみしも》を着ていつものようにおめでとうてえのは安っぽくていけねえと思うんだが、なんかこう年始のいい口上てえなァねえかね」(略) 「じゃどうだい、長松が親の名でくる御慶かななんてえ句があるが、御慶といったら?」 「え、�どこへ�?」 「どこへじゃない、御慶だ。向うでおめでとうございますといったらば御慶というんだな」 「へえ、ギョケイ?(略)じゃ大家さん、ちょいとやっつくんねえな」 「ああそうか、こりゃァ申し遅れた。や、あけましておめでとう」 「へへへ、畜生ッ、(もっともらしいせきばらい一つののち大声で)御慶ッ!」 [#地付き](『御慶』)     松の内[#「松の内」はゴシック体](まつのうち) [#ここから3字下げ] 新年になって、門松を立てておく日を松の内といい、関東では元日から七日まで、関西では十五日までとなっている。三箇日が終っても、まだ松がとれないうちはお正月ののどかな気分が漂っている。 [#ここで字下げ終わり] ——「正月には門松というものを立てます。これはどうしても立てなければならんもので、つまり陰と陽、御夫婦をかたどっております。松のほうが旦那様で、竹は御新造でございます。その証拠には、松には松ぼくりというものがあり、秋になると松茸というものが出ます。竹には竹の子という子が出来るのがご婦人の証拠、ご夫婦を仲よく門に立てるのでありまして……」 [#地付き](『松の内』)     初天神[#「初天神」はゴシック体](はつてんじん) [#ここから3字下げ] 一月二十五日、天満宮の初縁日である。太宰府天満宮、京都天満宮、大阪天満宮、東京亀戸天満宮が特に賑う。「木を以て鷽《うそ》の形に作りたるものを神前にある鷽《うそ》と取替て、悪を転じて善となすの呪とす。もと太宰府天満宮に始まれりと云ふ」と、ものの本に出ている。 [#ここで字下げ終わり] ——「よし、よし、お父っつあんが手を引いてやるからな。そら、よいよいよいの、よいよいよい……そうだ、お父っつあん、凧《たこ》買ってやろう。(略)いいか、おっかさんに見せてから遊びなよ。いまあげる? よし、そいじゃお父っつあんが凧もっててやるから、向うへかけてけ、(頭上に凧をかかげ、視線がだんだん遠方に)まだまだ、まだまだ、まだまだ、まだまだ……」 [#地付き](『初天神』)     万歳[#「万歳」はゴシック体](まんざい) [#ここから3字下げ] えぼし素襖《すおう》のいでたち、間ののびた歌調、鼓の音、初春にはつきものの情景だったが、いまは知らない人も多い。関西へは大和から、関東へは三河からやってきて、新年の賀詞を述べ、家門の繁栄を祝す滑稽二人組である。 [#ここで字下げ終わり] ——「ちょいと、またきたよ、借金とりが」 「だれだい、今度は」 「今度は三河屋の旦那。あの人はね、まァ、万歳が大変に好きなんだよ」 「なんだい、万歳てェのは」 「ほら、お正月にくるだろう?」 「ああ、ああ、あの三河万歳てェやつか。ええ? 大変なものがきやがったネ、あ、いいよ、万歳でことわっちまうから……(扇をひらいて、くねくねとあおぎながら歌う) ※[#歌記号、unicode303d]ハハィえェ、こォんれェは、こォんれェは三河屋ァどん、矢立ェに帳面、手にィ持ってェ、勘定ォとるとは、さってもふといィ三河屋ァどん、そん、そん……」 [#地付き](『掛取万歳』 註 万歳は新年のものだが、この噺自体はもちろん歳末のものである)       2 春の部 [#ここで字下げ終わり]  白魚[#「白魚」はゴシック体](しらうお) [#ここから3字下げ] 春の食膳にのぼる上品な川魚。体長二、三寸で、やや青味がかって透きとおっているので水晶魚という別名をもつ。白魚といえば隅田川というほど、江戸の名物とされていたが、いまやそんなことは思いもよらなくなってしまった。東京都が発行している『東京都広報』を読むと、「今度の大戦で江東地区が焼土と化し、上流の工業地帯が一切の機能を停止した時からしばらくの間は、隅田川の水は再び江戸のあの清らかさをとりもどし、白魚が美しい白銀の姿をみせて隅田河口をのぼってきたのだ。隅田川は今再びドロくさい悪臭をただよわせて流れている。しかし、いつの日かその流れがすみわたって江戸の昔にかえる時、白魚ののぼってくる日があることを期待しようではないか」と書いてあるが、これは期待するほうが無理だ。百年河清を待つ、というやつで……。 [#ここで字下げ終わり] ——「昔は人形町界隈を一月ン[#小書き「ン」]なりますと、小鰭《こはだ》の鮨《すし》を売りにまいりまして、二月ン[#小書き「ン」]なりますと、大橋の白魚というのを売りに来たそうですなァ。その時分の白魚が一番おいしいときなんだそうでして……。おふるい都々逸《どどいつ》に『佃《つくだ》育ちの白魚さえも花に浮かれて隅田川』なんてえのがありまして、三月、四月ン[#小書き「ン」]なりますと、だんだん白魚が上《かみ》ィのぼってまいりますが、その時分になると味が大分おちるそうでして……、芭蕉翁の句に、曙や白魚しろきこと一寸《いつすん》、なんてえのがあります。こりゃまァ、一月末から二月頃の白魚じゃァないかと思いますがなァ」 [#地付き](『芝浜』のまくら)     踏青[#「踏青」はゴシック体](とうせい) [#ここから3字下げ] 昔は二月から三月にかけて(新暦では三月末から四月にかけて)、山野に出て遊ぶ日を一つの行事としてこしらえていた。いわゆる三春の行楽というのがそれだが、生々たる野山に踏み出づるので踏青といい、中国では二月二日を踏青節といって大がかりな遊宴を設けるしきたりだった。「春遊千万家、美人顔如花」というこんな風流も、中華人民共和国となったいまは、どうなっていることやら……。 [#ここで字下げ終わり] ——「山遊《やまあす》びというものが東京にはございません。これは京都《きようとう》に限るんだそうでございます。もっとも、あちらは春は菜種刈り、秋は松茸狩りなどと、四季それぞれ山のお遊《あす》びの催しがございますようで……。(略)『大将、きょうはどういう趣向ン[#小書き「ン」]なります』『きょうは愛宕山《あたごさん》に連れてこうと思う』」 [#地付き](『愛宕山』)     早蕨[#「早蕨」はゴシック体](さわらび) [#ここから3字下げ] 芽を出したばかりの蕨《わらび》のことで、�初蕨�ともいう。蕨は早春の山野に生える野草で、その嫩葉《ふたば》を摘んで食用にする。根茎から澱粉をとり、餅糊などに作り、その繊維で縄を作るというムダのない野草である。落語の濫觴《らんしよう》といわれている安楽庵策伝の『醒睡笑』(巻之八)を読むと、元和九年の春、新田秀忠将軍が「山々のあたまや春の雨」という句に「握りこぶしを出《いだ》すさわらび」とつけたと出ている。 [#ここで字下げ終わり] ——「大将、あたくし酔っ払いで一首浮かみました」 「生意気なことをいうなよ」 「そうでござんせん、こういうの如何です。早蕨《さわらび》の握りこぶしを振りあげて山の頬面《ほおづら》春風ぞ吹くてえなァどうです」 「うむ、なるほど、やるねお前、感心したね。早蕨の握りこぶしを振りあげて……」 「山の頬面」 「山の頬面春風ぞ吹く、か。うむ、おもしろいな、サワラ——おい一八《いつぱち》、サワラビてえな、なんのこったか知ってるか」 「ええ、つまりこのなんですな、サワラビてえことにつきましては、ずゥッとこのゥサワラビてえことになってますんで……(略)ずっとこのまァるくなってるやつがあるかと思うと、三角ン[#小書き「ン」]なったやつがある、かと思うてえとまた四角なやつがある」 「バカなことをいうな、貴様盗んだな、その狂歌」 [#地付き](『愛宕山』)     花見[#「花見」はゴシック体](はなみ) [#ここから3字下げ] 俳句では、花といえば桜のことであり、花見というのもやはり桜に限られている。『日本歳時記』に「凡《およ》そ花のさかりは立春の後七十五日を期とするよし、吉田兼好が書に見え侍《はべ》れど、今の世|都鄙《みやこひな》の、ひとへなる桜花は、立春の後六十日を以て盛りの期とす。年の寒暖により、山上山下によりて遅速あれども大やうたがはず、奈良、京都の八重桜はひとへに十日あまりおそし……」とあるように、ところによって満開の時期がズレているが、日本全国到るところで花見は可能であり、代表的な春の行楽になっている。落語でも花見を扱ったものは多く、次にあげる『百年目』のほかにも『長屋の花見』『花見の仇討』『花見酒』『鶴満寺』などがよく演じられる。 [#ここで字下げ終わり] ——「今が満開という、天気はよし風はなし、もう土堤《どて》の上は人でうずまっておりまして、緋毛氈《ひもうせん》を敷いて結構なお重箱、これをあけて静かにお酒盛りをしているという、お品《ひん》のいいお花見もあれば、その隣じゃねェ、丼鉢《どんぶりばち》を叩いてかっぽれを踊っている。……ねえ、女の子は鬼ごっこをして、きゃっきゃといいながら騒いでおりますが、あのお花見で若い女の子がこう、騒いでいるてえのは、まことに風情のあるもので……昔はこの、赤い蹴出しでございますな、緋縮緬《ひぢりめん》という、その下から白い足をこう二本出して、赤い蹴出しに白い足という、まことにどうも配置のいいもんで。(略)『きょうはいいお日和《ひより》でしたなァ、あァ、風はなし、桜は満開。もう花もきょうで、これからは散るんだろうが、あァ、いい時に来ましたナ。……やっぱりこのなんだな、お花見てえものは人がおおぜい出て騒いでいないと、なにか花見に来たような心持がしないてえな妙なものだね。ああ、ああ、みんな思い思いのいでたちで、……お、玄伯さんごらん、むこうから……ああ、大層派手な花見だなァ、ええ? 芸者や幇間をおおぜいつれて踊って歩いているが……。いやァ傍《はた》からみるとね、あんなことをして馬鹿げていると思うだろうが、さてやってみるとおもしろいもんでね、あたしなんぞ、うん? ああ、ああ、ありましたよ若いうちにね、おやじに勘当されそこなってね、ハハハ』……」 [#地付き](『百年目』)     甘茶[#「甘茶」はゴシック体](あまちゃ) [#ここから3字下げ] 四月八日は釈迦の生まれた日とされており、仏生会《ぶつしようえ》といって各寺院では祝いの儀式を行なう。花で飾られたお堂の中の釈迦像に参詣者は甘茶を灌《そそ》ぐ。甘茶は土常山《きあまちや》の葉を摘んで茶に製したものだという。 [#ここで字下げ終わり] ——「昔この、お釈迦さまてェかたは、お生まれン[#小書き「ン」]なる時に、おっかさんの脇腹を蹴破って生まれたんだそうですな。生まれおちるとタライの中でこう指さしましてな、天上天下唯我独尊といって甘茶でかっぽれを踊ったそうでして、……ある人が『ねえお釈迦さん、あなた、なんだっておっかさんの脇腹から生まれたりするの? え? まとも[#「まとも」に傍点]ン[#小書き「ン」]とこ[#「とこ」に傍点]から出られないの?』ってったら、お釈迦さまは『そう至急(子宮)にゃ出られねえ』……」 [#地付き](志ん生のいわゆる『寄席ではやらない内証の話』のまくら)       3 夏の部  端午[#「端午」はゴシック体](たんご) [#ここから3字下げ] 五月五日の男の子のための節句祝日のこと。もともとこの節句は中国で行なわれた。楚の国の屈原という忠臣が五月五日に汨羅《べきら》という河に身を投じて死に、その姉が粽《ちまき》を作って霊を慰めたのがはじまりだという。わが国には約千二百年前(聖武天皇時代)に伝わり、徳川時代には極めて重要な節日として、この日、諸侯武家は必ず帷子《かたびら》を着て総登城しなければならなかったほどである。宮中でも天子みずから武徳殿にましまして節会《せちえ》をされるほどの公儀となり、以後千数百年来絶ゆることなく続いたこの端午節句が、敗戦を機に、何さまの命令か知らぬが�子供の日�などと改められてしまった。 [#ここで字下げ終わり] ——「奥の神道者のところからおまえン[#小書き「ン」]ところへ、ちまきをくばってきやしねえか?」 「くばってきた。なんだかわからねえんだよ。そいから、おれ、聞きにいったんだよ。そうしたら、心配しなくてもいいんだ。こないだ生まれた男の子があるだろ? あの子の初節句でね、そいであの神道者ン[#小書き「ン」]ところは、長屋中へちまきをくばったんだよ。そいから家《うち》ィ帰《かい》っておかみさんにね、心配しなくってもいいよ、神道者のところは、初節句で、そいでちまきをくばったんだよったら、おかみさんがね、そいじゃお前さんぼんやりしてちゃだめじゃないか、今月はおまえさんが月番なんだから長屋二十軒、二十五銭ずつ集めてこなきゃいけないよってえから、おれァかけだしてね……」 [#地付き](『人形買い』)     幟[#「幟」はゴシック体](のぼり) [#ここから3字下げ] 端午といえばまず幟《のぼり》を連想するくらい節句につきものの景物である。古来、武士の戦さには無くてはならない印物《しるしもの》であったところから、男の節句たる端午に取り入れたものだが、徳川の初期までは紙製のきわめて簡略なものだったという記録が残っている。 [#ここで字下げ終わり] ——「(階段の下から)おい熊公、人形はどうした」 「(首だけ出して階下へ)いや伯父さん、二階へかざりました」 「(トントンと音をたてて二階へあがって)二階へかざったってどこにもねえじゃねえか、どこへかざったんだ」 「へえ、伯父さん、下から二階へおのぼりおのぼり(幟)とはどんなもんで……。で、あっしが酒に酔って赤くなった面《つら》が金太郎で、酔いがさめると正気(鍾馗)になるてえのはどうです伯父さん。……伯父さんには柏餅を御馳走しよう、この布団をぐるりとまるめて」 「馬鹿野郎何をするんだ」 「この布団にくるまって、うたた寝のわれは楽しむ柏餅、可愛い人とさすり手もなし、てえのはどんなもんで禿《はげ》ちゃん」 「なにォいやがる……しかしオツに洒落たな、(急に大きな声で)おれも何か一つ祝ってやろう」 「伯父さん大きな声だな」 「その声(鯉)をふき流しにしろ」 [#地付き](『五月幟』)     土用[#「土用」はゴシック体](どよう) [#ここから3字下げ] 土用は一年に四回ある。春の土用は四月十七日に入って十八日間、終ると立夏になり、夏は七月二十日ごろに入って立秋に終り、秋は十月二十日から立冬まで、そして冬の土用は一月十七日から立春まで——と、いずれも暦の上で十八日を一期とした陽気の移り変りを示している。しかし、ただ土用といえば夏の土用の十八日間を指している。暑さが最高潮に達する期間である。 [#ここで字下げ終わり] ——「(扇であおぎながら)暑いな、また、こう暑くっちゃ魚《さかな》は出てこないね、不景気だな……永い年月だ、商売の患いてえやつだ、こういう魔日てえものがあるもんだよ……お、そうでないよ、魚が出てきたよ、いい服装《なり》をしてえるな、粋だねえ(略)……あっと、自動車へ乗っちゃった、……お、また出てきたよ、あちらは浴衣を着て手拭いをさげてますよ、(略)……なんですよあなたァ、敵にうしろをみせるてえなァないでしょ、駒の頭《かしら》を立て直し、へ、へ、へ、ええ、タ、イ、ショッ……」 「どうでえ、鰻ォ食うか」 「よッ、鰻、結構ですな、久しく鰻てえものにお目にかかりません、あのレキでしょ、ノロでしょ? 土用のうちに鰻に対面なぞはオツでげすな」 [#地付き](『鰻のたいこ』)     短夜[#「短夜」はゴシック体](みじかよ) [#ここから3字下げ] 最近の歳時記をみると、メーデーだの、ラグビーなどというおかしなものが堂々と季題でございと入っている。それに比べてこの短夜という、なんと洒落た季題であることか。夏になって、日が長く夜が短くなる科学的現象を、文学的にとらえてそれに短夜と名付けた古人の感覚はすばらしい。しかし、そんな感覚も、いまに通用しなくなるのかもしれない。短夜とは正反対の引用になるが、朝日新聞の寸評欄(昭和三十三年十二月二十三日付夕刊)に次のような文章が出ていたのを思い出す。「ユズ湯、冬至カボチャなどを知らぬ子供たち、なぜ一年中で夜がいちばんながいかは知りたがる」 [#ここで字下げ終わり] ——「お見受け申したところ、若旦那、今日《こんち》は眼がこうどんよりとしてますね、血走ってますね、昨夜《ゆんべ》は、ちょいとこうオツな二番目があったんでござんしょ? 夏の夜《よ》は短いねえなんぞ愚痴があったんでしょ、ちょいとそこあけたらどうだい、かなんか……え? 図星でしょ」 「よう、いうことが素枯れてるね、夏の夜は短いねえなぞは、さすがスンちゃん」 [#地付き](『酢豆腐』)     夕立[#「夕立」はゴシック体](ゆうだち) [#ここから3字下げ] 焼けつくような暑さで、人も木もぐったりとする頃合に、沛然《はいぜん》と車軸を流すように降る夕立は、まさに天が与える爽快な贈り物である。都々逸に ※[#歌記号、unicode303d]夕立が、ザァーッと降る夜に通いはしたが、ただの一度も濡れやせぬ……という傑作がある。 [#ここで字下げ終わり] ——「しかし夏の風景というものも味わいがあるものですなァ。暑いさかりなんかに『どうも暑くってたまらねえなァ、え? こんなときに、ひとっ降《ぷ》りありゃいいけどもねえ』なんてえときに、どっからともなく黒い雲が出てきましてさあっと降る夕立の味なんてものは、これァまたいい心持のもんですな。どこへそれたか夏の雨、なんてえ都々逸もありますけれど……」 [#地付き](『蛇含草』のまくら)     雷[#「雷」はゴシック体](かみなり) [#ここから3字下げ] 雷をこわがる人は案外多い。ピカリと光ってから鳴るまでの一瞬の間というものは、厭なものだ。大きな稲妻と共に、バリバリと腹の底にひびくようなのも恐怖心をそそられる。だが、危険のないあっさりした雷は、夏の風物詩として悪くない気がする。 [#ここで字下げ終わり] ——「……これがやまないよ。だんだんと降りが強くなってくるね。ここんとこで雷《かみなり》かなんか鳴ってもらいてえや。少しご祝儀余計出してもいいから威勢のいいのをなア、がらッがらがらがらがらがらァッとくらァ……清《きよ》、雷がきた、こわいね。蚊帳《かや》吊っておくれよ、なんてんで蚊帳を吊るよ。女は蚊帳へはいってあたしを呼んでら、こっちィおはいんなさいな、なんてんでね、……どっかへ落っこってもらおう……」 [#地付き](『湯屋番』)    ——「どうも、えー、ひどい雨でございましたなア」 「そうだな、まあ夏の雨はサ、降るがいいやね、少し雷《らい》がまじってたね」 [#地付き](『麻のれん』) [#ここで字下げ終わり]  蚊帳[#「蚊帳」はゴシック体](かや) [#ここから3字下げ] むし暑くて寝苦しい夜など、蚊帳を吊ると余計うっとうしくなるが、しかし蚊帳そのものの趣は捨てがたい。むかしは紙を張り合わせて作っていたので紙帳《しちよう》といっていたが、安永八年刊行の『寿々葉羅井《すすはらい》』(志文作)に紙帳の小噺が載っている。近火の最中に亭主が紙帳を吊ってその中へせっせと諸道具を入れているので、女房が「この急な火事に紙帳を吊ってどうするのだ」と問えば「やかまし、だまっていろ、火事に土蔵と見せるのだ」 [#ここで字下げ終わり] ——「えー、陽気にもいろいろですが、どうもこの昔は、いまごろですってえと、ずいぶん蚊が方々にいましたね。先《せん》はあたくしア、本所の業平《なりひら》ってところにいた時分にゃァね、ひどい蚊でね、なにしろうちの前に蚊柱がこう立ってン[#小書き「ン」]です、ええ。だから、いま帰《かい》ったッ、ていうとたんに、蚊が五|匹《しき》ぐらい口ン[#小書き「ン」]中へとびこんで、口なんぞきけませんナ、すぐ蚊帳ン[#小書き「ン」]中へ入っちゃうてんで、寝てえるてえと、もう蚊が蚊帳のまわりに、まるで向うが見《め》えねえくらいとまってやがって、そいで蚊がのぞいてン[#小書き「ン」]ですねえ、喰おうと思ってのぞいてン[#小書き「ン」]で、気味《きび》が悪いってありゃしない……」 [#地付き](『疝気《せんき》の虫』まくら)     川開き[#「川開き」はゴシック体](かわびらき) [#ここから3字下げ] 川開きは、文字通り川を開放することで、鮎漁の解禁などをさしていうのだそうだが、単に川開きといえば両国の納涼花火のことを指す。『東京の四季』(昭和十二年東京市役所刊)によれば、享保十八年八代将軍吉宗の時五月二十八日に隅田川で水神祭を行なったのが川開きのはじめとされ、明治六年以後六月二十八日に改められ、さらに明治四十五年から七月の第三土曜日となったという。なお、有名な花火屋日本橋横山町の鍵屋弥兵衛と両国広小路の玉屋市郎兵衛はともに製造元ではなく販売屋だった。 [#ここで字下げ終わり] ——「昔は玉屋さんと鍵屋さんの二軒の花火屋さんがありましたが、玉屋さんのほうは自火を出しまして、おとりつぶしになりました。鍵屋一軒だけが残りましたが、鍵屋であげる花火をどういうわけですか、皆さんが鍵屋とはおほめになりません、たいがいは玉屋とおほめになります。端唄にも『玉屋がとりもつ縁かいな』なんてえのがありますし、小唄にも、あげ汐なんかで『あがったあがった、玉屋とほめてやろうじゃないかいな』なんてえのもありまして、ま、たいがいこの玉屋の方が名がうれております。『橋の上、玉屋玉屋の人の声、なぜか鍵屋といわぬ情なし』……」 [#地付き](『たがや』)       4 秋の部  七夕[#「七夕」はゴシック体](たなばた) [#ここから3字下げ] 旧暦七月七日の夜、牽牛《ひこぼし》と織女《たなばたひめ》が一年に一度の逢う瀬を惜しむという伝説があって、その日を七夕《たなばた》と称する。旧暦の七月はすでに秋であり、天の河も秋の夜に最もよく現われるものであり、七夕はもともと秋のまつりなのだ。だが、いまでは新暦で行なうところが多くなった。そのためにさわやかな七夕の感じが雲散霧消してしまった。ひとえに、牽牛と織女をコマーシャルタレントとしか考えない何々商店会の罪である。 [#ここで字下げ終わり] ——「……熊のやつ、このごろ生意気に字を稽古したもんだから、なんかってえとすぐに書きたがりゃがン[#小書き「ン」]だよ。どれどれ(と置き手紙を見る)あァ、まずい字だね、こりゃ……ええ、借りた羽織を質におくよ、ほうら始めやがった、なにか貸してやりゃすぐに質に入れちまいやがる。……(略)おウ、熊さん、あの羽織、今夜いるんだが、なんかほかのもんで都合してくれねえかなア」 「なにが?」 「なにがったって、おめえ、あの羽織を質におくてえじゃねえか」 「質ィなんぞ置きゃしないよ、だから紙ィ書いておいてきたじゃねえか、借りた羽織を棚《たな》におくよ、って」 「え? たな? 棚じゃなかったぞ(改めて手紙を出してみて)借りた羽織をしちにおくよ……こりゃ、おめえ一二三の七《しち》って文字じゃねえか」 「ああ、それをしちと読んじゃいけねえン[#小書き「ン」]だよ、そりゃおまえ、七夕《たなばた》のたなってえ字だよ」 [#地付き](『ねずみ』のまくら)     月見[#「月見」はゴシック体](つきみ) [#ここから3字下げ] 旧暦八月十五日の夜は名月を賞翫する。一年で最も月の光がはっきりしている時といわれ、宴を張ったり歌を詠んだりする。この八月十五夜の月見をしたら、必ず九月十三夜の月見をしなければいけないという言い伝えもある。十五夜の月見だけするのは片月見というのだそうである。 [#ここで字下げ終わり] ——「これ三太夫」 「は、は」 「お月様は出たか」 「おそれながら申し上げます。君は御大身でいらっしゃいます、お月様と御意あそばしますると、どうもこどものように覚えまする。月は月と御意あそばして宜《よろ》しゅうござります」 「ウム、しからば何か、予は大名じゃによって、お月様と申しては余り叮嚀であるから、月とぞんざいに申せというか」 「ぞんざいと申すわけではございませんが、月でよろしゅうございます」 「ウム、左様か……これ、三太夫、月は出たか」 「冴え渡りましてございます」 「して、星めらはどうじゃ」 [#地付き](『大名の月見』)     甘藷[#「甘藷」はゴシック体](さつまいも) [#ここから3字下げ] 戦争中の代用食の花形。きょうも藷あすも藷というのですっかり甘藷の株をさげてしまった。その上、農林何号とか改良何号とか、まずい種類をはびこらせてしまったために、いまだに甘藷というと敬遠したくなる。ほんとうにうまい甘藷がなつかしい。ほくほくして、栗のようでいて栗とも違った風味があって……というようなのは、やはり昔ながらの金時とか太白だけなのだろうか。もともと甘藷は呂宋《ルソン》の産物で、それが万暦十二年に明《みん》に渡り、ついで琉球に伝わり、元禄十一年にさらに種子島《たねがしま》に渡った、と『事物起源辞典』(和田健次著)に出ている。青木昆陽先生が幕府に建白して全国にひろめたのはその後のことである。 [#ここで字下げ終わり] ——「商人《あきんど》の呼声というものはなかなかむずかしゅうございます。藷《いも》を売りますには三色《みいろ》に呼びわける。生の藷《いも》の時はなるたけ堅く『いもや薩摩芋』……ふかすとやわらかくなりますので、フンワリと『ふかしたての薩摩芋』……と煙《けむ》の出るように呼びましてな、これを薄く切って揚げたやつを、どういうわけか丸揚げといいまして、こりゃ、ま、丸く切って揚げるから丸揚げというのかもしれませんが、これはいかにも油ですべるように『おさつのまるルルル揚げッ』……」 [#地付き](『豆屋』のまくら)     秋刀魚[#「秋刀魚」はゴシック体](さんま) [#ここから3字下げ] 季節の魚である。初鰹というと初夏の溌剌とした時期を思い出すように、さんまというとそれだけで秋の夕暮の気配を感じる。台所でじゅんじゅんと音をさせて焼くその煙が、家中を燻《いぶ》らせた上、露路にまで漂ってくるのは、なつかしい巷の詩である。 [#ここで字下げ終わり] ——「あたしが考えたとこじゃ、どうだい、さんまを焼こうじゃないか」 「へえ? さんまを焼くと驚きますか」 「二匹や三匹のさんまじゃ驚かない、長屋十八軒、一軒まえ三匹あてぐらいにしたらな、五十何匹のさんまになる。ちょうどいま、脂《あぶら》ののっている時だからナ……五十何匹のさんまァいっぺんに焼いてごらん、かなり黒い煙が立ちのぼる、それを扇子だの団扇だので、あすこの家《うち》ィ入るようにするんだ」 [#地付き](『さんま火事』)     秋彼岸[#「秋彼岸」はゴシック体](あきひがん) [#ここから3字下げ] 彼岸というのは、元来仏教上の言葉で、生死《しようし》の世界を此岸《しがん》とし、涅槃《ねはん》の世界を彼岸と定め、これを季節に合わせて仏事に用いる。暑さ寒さも彼岸までというように、春と秋の二回あるが、俳句の季題としては、彼岸といえば春を指し、秋の場合は必ず秋彼岸ということになっている。次にあげる『天王寺詣り』も、どちらかといえば春の落語の感じがするが、秋の落語が少ないのであえて秋彼岸ということにしてみた。 [#ここで字下げ終わり] ——「なにしろもう、暑い寒《さぶ》いも彼岸までと申しますが、一年じゅうでこのいちばん気候のええのがお彼岸のあとさきでございまして、お彼岸はまた、大阪ではどういうご宗旨のかたでも、この天王寺へお詣りをいたします。天王寺はまたいろいろな仏さんがおまつりをしてございまして……(略) 『おう、彼岸というたらなア、天王寺で七日間のあいだ、無縁仏の供養しはんね』 『へえ、無縁仏の供養いうたら?』 『なんにも知らん男やなァ、七日間のあいだ天王寺でな、引導鐘いうもんを撞《つ》きはんね、それがおまえ、十万億土まで聞こえるちうねん』……」 [#地付き](『天王寺詣り』)       5 冬の部  初雪[#「初雪」はゴシック体](はつゆき) [#ここから3字下げ] 年があけてからはじめて降る雪のこととする説もあるが、これは、冬になってはじめて降る雪を初雪というのが正しいようだ。『公事根源《くじこんげん》』という書物に「初雪の降る日、群臣参内し侍るを初雪の見参と申す也、桓武天皇十一年|十一月《しもつき》より始まる……」と出ている。 [#ここで字下げ終わり] ——「初雪や何が何して何とやらと、見た通りのことばを詠めばそれで句になるのだ」 「へえ、見たさまをいうんですね。どうです、初雪やほうぼうの屋根が白くなる、……見たさまだ」 「見たさますぎるよ。それに色気をつけなければいけないな」 「色気をつければ……初雪や小便すれば黄色くぼつぼつ穴があく猫の火傷《やけど》にさも似たり、てえなァどうです」 「くだらないなどうも。しかし、昔の句には情愛の深いのがあるね、え? 雪の日やあれも人の子樽拾い、とな。雪の日に窓から往来を眺めていると樽拾いの子が寒そうな姿をして通る、同じ人間として生まれながらああ可哀想にと同情をした句だ」 「ああ成程ね、じゃ、あっしも情のあるン[#小書き「ン」]でやりますよ。あっしのは、雪の夜やせめて玉《ぎよく》だけ届けてえ」 [#地付き](『雪てん』)     鍋焼饂飩[#「鍋焼饂飩」はゴシック体](なべやきうどん) [#ここから3字下げ] 土鍋にうどんを入れ、蒲鉾、椎茸、麩などをのせて煮た冬の食べもの。夜鷹そばや夜鳴うどんと同様、屋台車をひいて冬の街を売って歩く。最近はラーメン屋の天下で、ほとんど姿を見ない。支那そばの哀しげなチャルメラの音も悪くないが、※[#歌記号、unicode303d]なべやァきうどん……というあの売り声には掬すべき滋味があった。 [#ここで字下げ終わり] ——「なべやァきうどウん、うどんやァでござい」 「おウ、うどんやァ」 「へえ、どうもお寒うございます」 「寒いなア……やかんがかかっているが何だ? おつゆでございます? ちょっとおろしてみつくれ」 「へえ、おあたんなすって……だいぶご機嫌ですな」 「きょうは天気はよし、寒さは寒し、売れるだろうなア」 [#地付き](『うどんや』)     火事[#「火事」はゴシック体](かじ) [#ここから3字下げ] 毎日の新聞に火事の報道のない日はないくらい、一年中どこかで火事は起こっている。しかし、特に多いのが冬だとみえて、冬の季題に入っている。「江戸時代には大層火事が多うございまして、山の手はとにかく、下町はもう、三年に一度は焼けるという覚悟をしなければならないくらい火事が多かったんだそうですなァ」と、亡き三木助が『火事息子』のまくらで述べているように、昔は想像以上に火事が多かったようだ。例を吉原にとれば、寛永七年十二月三日の最初の出火焼失から慶応二年十一月十一日の新吉原大火に至るまで実に二十五回の大火に見舞われている(『新吉原遊廓略史』昭和十一年同三業組合事務所刊)。 [#ここで字下げ終わり] ——「ああ、うたた寝をしちゃった。風邪をひいちゃ大変だ。うう、寒《さぶ》い、小便《しよんべん》して寝ちゃお、……あ、ぶつけてる、火事だよ、……源さん(と、屋根の上にむかって)火事のようだねえ……え? 芝見当? ああさいですか、へえ、ありがとうござんす」……(略)  やっこさんすっかり支度をして提燈のこげるのも知らないで横ッとびに飛んでまいりました。刺ッ子なんて気の利いたものはないから、汚れた褞袍《どてら》に縄だすきをかけ、これに白足袋《しろたび》のはだしといういでたちで、 「旦那ッ、どうもお騒々しいこって」 「だれだい、あ、久蔵か」 「へ、お騒々しいこってござんす」 「よくきてくれたな、よし、いままでのことは忘れてやるぞ、あしたっから出入りをしろよ」 「へッ、ありがとう存じます……それがこっちのつけめだ」 [#地付き](『富久』)     玉子酒[#「玉子酒」はゴシック体](たまござけ) [#ここから3字下げ] 寒い夜の玉子酒はいいものである。酒の中に卵と砂糖を入れて、熱くして飲むのだが、口あたりがよく下戸にもおいしく飲める。風邪ぎみの時に飲むとこれが不思議によく効いてケロリとなおる。西洋でもミリオンダラーとかエッグノッグとか、卵を使ったカクテルがあり、近ごろの若い人たちはよく愛用しているが、玉子酒の存在も忘れないでほしい。高級バー調合のミリオンダラーも、家庭で作る玉子酒の風味には遠く及ばないと思うのだが……。 [#ここで字下げ終わり] ——「なにしろこのへんは地酒ですからねえ、口もとまでもってくると、いやなにおいがぷゥんとするんで……あ、あのゥ玉子酒にするとにおいが消《け》えるからこしらいてあげる、ちょっとお待ちなまし」  台所ィ行きますと、燗鍋という、いまはあまり使いませんが、鉄瓶の背のひくいようなもので、これへ卵を二つ、ぽん、ぽんと割ってお酒を入れ、自在鉤《じざい》へかけましたが、たき火でございますからすぐできあがる。 「さ、あのウ、これは熱いうちでなくちゃいけないから、さ、おあがんなさいまし、ね」 「さいですか、そんなご心配……へ、ええ、じゃいただきます。……(略)いい心持になりました、さっきとはえらい違いで、へえ。おもてからはたき火でどんどんあっためていただき、お腹ン[#小書き「ン」]なかへはあったかいこの玉子酒がはいり、からだの中と外からこういっぺんにあったまって、人間のカステラができそうでございます」 [#地付き](『鰍沢』)     河豚[#「河豚」はゴシック体](ふぐ) [#ここから3字下げ] 不格好で醜悪で、しかも猛毒をひめている河豚がこんなにうまいものだということは、ちょっとした皮肉である。美しい皿の模様がくっきりとすけて見える河豚の刺身などは、味覚においても、第一級の芸術品ではなかろうか。また、ふうふういいながらつつき合う河豚ちり、こうばしい鰭酒《ひれざけ》の味わいも忘れがたい。蕪村の句に、河豚汁の我生きて見る寝覚かな、というのがある。 [#ここで字下げ終わり] ——「常や、見てきな、え? いやいや、乞食の小屋を、うん、様子を見てきなさい」 「へ、行ってきました。みんな飲んでおりましてね、たしかに食べたんだろうと思いますが……」 「え? たしかに変りがない、え? そうか、それならたいてい大丈夫でしょうな、うん、じゃひとつやりましょう」  これから鍋で召し上りますが、下戸のかたにはどうも河豚の味というものは、本当には判りませんが、召し上るかたはまた、あれで飲んだしにゃァ、なんともいえません、鰭酒《ひれざけ》なんてえものは、こりゃもう、酒が軟くなってまことに結構なもので……。 「うん、え、なんだい? 乞食が? あたしに? 会いたいてえのかい。(といいながら勝手口に顔を出し乞食にむかって)なんだい」 「どうもさきほどはおありがとう存じます。結構なものを頂戴をいたしまして」 「いやいや、どうしたい? おまえさんがたはたべたかい? あれを。え? うまかったかい」 「へ(と、あいまいな返事)」 「ああそうかい。あたしたちもいまねえ、一杯やりましたよ、ああ。あれでやったしにゃ酒はうまいからねえ、いまたらふくやったところだ」 「さよでございますか、旦那がたは召し上りまして……」 「いまたべましたよ」 「ああ、さようでございますか(笑いながら)、じゃァあたくしどもも、これから頂戴いたします」 [#地付き](『らくだ』のまくら)     厄払い[#「厄払い」はゴシック体](やくはらい) [#ここから3字下げ] 人生不如意とはよくいったもので、こまかに厄をしらべるとほとんど厄年続きになっている。なかでも男の二十五、四十二、六十、女の十九、三十三、四十二歳は大厄とされている。そこで節分の夜に(大むかしは大晦日だったという)厄払いという行事をするようになった。 [#ここで字下げ終わり] ——「おまえの商売のことを教《おせ》えてやるんだよ、いいかい、しっかりおぼえなきゃいけませんよ。……あァらめでたいなめでたいな、今晩こよいのご祝儀に、めでたきことにて払おうなら、まず一夜あければ元朝《がんちよう》の、門《かど》に松竹《まつたけ》しめかざり、床《とこ》に橙《だいだい》かがみ餅、蓬莱山に舞い遊ぶ、鶴は千年亀は万年、東方朔《とうぼうさく》は八千歳《はつせんざい》、浦島太郎は三千年、三浦の大助《おおすけ》百むっつ、この三長年があつまりて、酒盛りいたすおりからに、悪魔|外道《げどう》が飛んで出で、さまたげなさんとするところ、この厄払いがかいつかみ、西の海へと思えども蓬莱山のことなれば、須弥山《しゆみせん》のかたへ、さらァり、さらり、てんだ。どうだ、わかったか」 「やはッ、こりゃおもしろいやどうも、十銭やるからもう一度やってみろィ」 [#地付き](『厄払い』)    ※ この稿は『歳時記』(新潮社版)、『年中事物考』(矢部善三著)に負うところが多かった。    [#改ページ]  新作問答 [#改ページ]  新作は何故つまらないか[#「新作は何故つまらないか」はゴシック体]       ——明日の落語のための悪口——     先日、修業中の若い落語家三人から勉強会の案内状が舞い込んだ。曰く、 「この会は、わたくしどもの勉強の場であり、ともに古典落語を守るささやかなとりででありたいと思っております」  古典と聞いただけで、頭ごなしに「なんだ古くさい」とするひところの風潮の反動のためか、最近ではかえって、こういった孤高のにおいのする�宣言�が喜ばれだした。そういうぼくも、古典のとりでだとか、孤塁《こるい》を守るなどと聞くとつい嬉しくなるたちで、この時も案内状を受取るとすぐ、なにがしかの祝儀を送って、あとから小遣いのやりくりに苦心する破目におちいる始末だった。が、なんにしても古典尊重の空気が濃くなってゆくのは大変に結構なことだと思う。  ところがその反面、新作というとそれだけで毛嫌いする人もふえたような気がする。古典を古いからといって馬鹿にするのがとんでもない誤りであるのと同じく、新しいからといって新作を軽蔑するのもまた間違っている。  一体、新作がいいか古典がいいかという論議の仕方そのものが無意味なのだ。新作派の人が錦の御旗のようにかつぎ出すことばに、 「名作といわれる古典落語も、もとはといえば新作ではないか」  というのがある。まさにその通りだ。例えば、明治四十年に発行された『新落語』という本を見ると、編者の今村次郎氏(今村信雄氏の父君)が、はしがきにこう書いている。 「新《しん》を選び雅《が》を集め、称して『新落語』といふ。滑稽の妙、頓智の奇、人をして洒然《しやぜん》たらしむものは蓋《けだ》し本書たるべし。(略)即ち浮世の珍たり、幸に高評を賜へ」  この浮世の珍[#「浮世の珍」に傍点]のなかから、『黄金餅』とか『初音の鼓』などが立派に古典として残ったのである。「もとは新作」というのが、古典派にとって、いわばアキレスの腱ともいうべき泣きどころかもしれない。  だが、そんなことは当然至極のことで、白寿の翁も九十年前にはすべて幼児だったというようなものである。ただ、世の幼児がすべて白寿の翁にはなり得ない——ここに問題があるのだ。  新作でも面白いものは面白いし、旧作でもつまらないものはつまらない。ながい生命力を持つすぐれた噺《はなし》のみが、古典として永らえてゆく。理屈はその通りなのだが、さて、実際となると、どうもいま出来[#「いま出来」に傍点]のものは面白くない。まれにふきだすような噺があっても、二度三度と聴くうちにいつの間にか面白さが消えてしまう。その点、すぐれた古典落語は、二度目よりは三度目、三度目よりは四度目と、繰り返して聴くほど味わいが深くなる。即ち、古くても常に新鮮な落語と、新しいけれど陳腐な落語……。このへんに問題をとく鍵があるように思う。  なぜ新作が陳腐なのか。人間が描けていないからである。あるいは描こうとしないからである。見本をお目にかけよう。  古典落語には、 「あの女ァ長屋じゅうきっての変りもんだよ、あいつァ長屋でも一番早く起きン[#小書き「ン」]だよ。第一なまいきだよ、女のくせに亭主より先ィ起きるなんて……それもいいよ、朝、井戸端で会ってごらん、お早ようございますなんていやがるんだよ、いやン[#小書き「ン」]なっちゃう」(『猫久』)  などと本気で考えているおかみさんとか、 「おウ喜三《きさ》っペ! と呼ばれると即座に何でえと返事をするくせに、山田喜三郎さんと本名をいわれるとキョトンとしてしまう職人」(『天災』)  とか、そういった人種がしばしば登場する。およそ時代ばなれのした、いまの世には存在もしない人びとである。それにもかかわらず、聴き手は彼らの一挙手一投足に微笑したり、哄笑したりする。それは、『猫久』のおかみさんを笑いながら、聴き手が意識の下にチラリと、団地の隣の奥さんの顔を思い浮かべることができるからである。つまり、描かれる人間が、安藤鶴夫氏の言葉を借りると「永遠の人間性」を備えているのである。  ところが、新作では、 「もしもし、山本ですが」 「山本さんでいらっしゃいますか。恐れ入りますが菅原さんをちょっと呼んでもらいたいんですがな」  ——と、ここまではいいのだが、すぐ続いて、 「もしもし、菅原さんを呼び出してくだ——もしもし、菅原ですがね、道真《みちざね》の菅原ですがね」 「菅原道真を呼ぶのかい、それは死んでますよ。あのネ、昔の五円紙幣についている人なに? 一円は武内|宿禰《すくね》、十円は和気清麻呂、百円は大久保彦左衛門じゃないかな」 「いえいえ、そうじゃないんですよ、あのネ、菅原っていう人を呼んでもらいたいんですがな」(『呼出し電話』)  といった塩梅式《あんばいしき》の描写が往々にして見受けられる。この話などは、わずらわしい電話の呼出しという現代生活の一とこまを敏感にとらえながら、人間を描こうとしないために、うわっつらだけのナンセンスに終始している。  たかが落語ではないか、という人があるかもしれないが、実は落語だから、人間を描くことが必要なのだ。漫才や漫談ならその必要はない。といっても、だから落語の方が漫才より高級だというわけではない。漫才や漫談は、社会諷刺とか、言葉のやりとりの面白さを目的としているから、人間描写の必要がないのである。  十年一日のような駄洒落や、未消化な新語によりかかって、客のワキの下を無理にくすぐるようにして何でもいいから笑わせようという安直な新作に比べれば、気の利いた漫才のほうがどれだけ面白いかわからない。  試みに、トップ・ライトの�時局漫才�の一節を左に掲げてみよう。  トップ「だけどねえマア、実力者が就任した以上は、実力者がウムをいわせずだネ、いい政治をしてもらいたいね」  ライト「そうすると、うーん、日本チームだ」  T「オールスターですよ」  L「オールド・スターだね」  T「そう、ジャパニーズ・オールド・スター大リーグ……」  L「(場内アナウンスの調子で)監督ウ!」  T「池田勇人!」  L「池田勇人!……いちばァーん」  T「一番バッターねえ」  L「一番バッターだれがいいかなあ」  T「やっぱり若さでいくと——」  L「小坂さんかな」  T「そうだねえ、目がいいからねえ、やっぱり、世界の情勢をずうっと見なくちゃならんからよほどこれ、目がよくないとねえ」  L「一番バッター」  T「小坂クーン」  L「あれ守備どこにしようか」  T「ええ?」  L「守備は……、右翼? 左翼?」  T「そうねえ、あれァやっぱり中堅でしょうねえ」  L「中堅! センター小坂善太郎クーン」  T「ハイ、ハイ」  L「二番だれ?」  T「二番ねえ、……二番はやっぱり川島さんでしょう」  L「バントでおくる……」  T「そりゃそう、あのかたはもうロートルですからね」  L「しかしバントしかできない」  T「駆けようったって駆けられねえんだから、あの人はもうネ。一番が出たらすぐもうバント戦法しかできない」  L「じゃ、二ばァーン、川島正次郎クーン……さんばァーン、三番だれがいい?」  T「三番はねえ……どうだ、大野副総裁ってのは」  L「え?」  T「大野副総裁!」  L「うん、うん」  T「あのでっかい目玉でぐイとにらまれりゃ大抵のピッチャー、投げんのいやだよウ」  L「これアいい」  T「ね、それだけでもフォアボールだこりゃ……そうすっといよいよ四番だよ」  L「それがいないんだよ」       (ニッポン放送『トップ・ライト・ショー』 [#地付き]昭和三十六年七月十九日放送)     ながながと引用してしまったが、いま活字でこれを読んでも放送の面白さはでてこないかもしれない。しかし、内閣改造の翌日、しかも、オールスター第一戦が行なわれたその日に、閣僚の顔ぶれを野球選手にみたてたセンスはなかなかのものである。このように、最新のニュースをいち早くとりあげて、毎日違ったネタにして高座にかけるのだから、その苦労も察しられる。センスというより、精進努力といいたい。  こんな漫才がある以上、中途半端な新作落語の影が薄くなるのは当然であろう。いっそ思い切って時事性に徹してしまう落語も一つぐらいはあってもよいかもしれない。ただし、その場合演者は一度喋ったネタはその場で捨てて、すぐ次の題材をさがすぐらいの熱意を持たなければいけない。  その意味で、林家三平のいわゆる三平落語はほぼこの線に沿っている。 「……だけども、皇太子殿下も無事ハワイをお立ちになりましてサンフランシスコ……きのうはディズニーランドにお遊びになって……ほんとうですね。あの、……陛下にお伺いして、『ハワイにおつきになりました』って、あの、今上陛下に言上したら、陛下、よろこんだそうですね。『ハワイへ行ったか』『はァ、まいりました』『そうか、ハワイイ子には旅をさせろ』なんていってね——」  だとか、或いは、 「……四月十日、去年の——『ただいまお馬車がお見えになりました。殿下のおうれしそうなお顔』あの馬車がいらっしゃるあのさなかに、アンパン売ってるおやじさんがいたんですから……『エエ皇太子様ご愛用のアンパンはいかがですか』『どうして、おじさん』『このコナ全部日清製粉だよ』なんて——」  などと、とにかく笑わせる。ただ、同じネタを何度も使わないで、常に新鮮なニュースをとりあげて戯画化するのでなければ意味がない。それに、いつまでも例の「スイマセン」だの「奥さん体だけは気をつけて下さいネ、ホントウに」だので笑わせているようでは困る、というより三平のために惜しいと思う。もちろん、スイマセンで名を売った三平ではあるが、もうそんな意味もないクスグリは捨てて、ニュース落語に徹すべきではなかろうか。  もっとも、そうなると�落語�の名を冠しにくくなってしまうだろう。そうしたら、�三平漫談�とか�三平新聞�とかいえばよい。ただし、このいき方だと、三平という名は残っても作品そのものは一つとして後世に残らないだろう(また、残そうとしてはいけない)。だが、それでいいのである。  とにかく、三平式に徹底するか、さもなければ、やはり新作といえども古典落語のように、じっくりと人間を描くこと——それしかあるまい。  さて、人間を描く以上、たとえ落語といえど、描写に際してある程度のリアリティを持たせることが要求されるのは当然である。ところがいまの新作落語のほとんどは、リアリティを置きざりにして、ただ、誇張とかナンセンスとかだけで笑わせようとしている。もちろん、ナンセンスのおかしみは、落語の持つすばらしい武器ではあるが、無神経に使われてはむしろ逆効果を与えるだけである。リアリティなどというと七面倒な感じがするが、早い話が、サラリーマンはサラリーマンらしく、社長は社長らしく、商人は商人らしく描写すればいいのである。  ためしに、三遊亭円歌と桂小文治の新作から�社長�の言葉を引用すると—— 「やア君たちはどう思っとるかしらないが、こう金詰まりではこまるのう。殺人的をしるしとるじゃア[#「殺人的をしるしとるじゃア」に傍点]、あァ、それになア、いつだかも会社の[#「いつだかも会社の」に傍点]、切迫をしてきた[#「切迫をしてきた」に傍点]、金融が[#「金融が」に傍点]。で、君たち大いにひとつがんばってもらいたいと思うんだ」(『社長の電話』)  いまどきの経営者が「殺人的をしるしとるじゃァ」とか「いつだかも」などというわけがない。なになにしとるのう[#「しとるのう」に傍点]といった言いまわしも、厳密にいえば一と昔前の代議士の感じであって、近代企業の経営者の感じではない。 「おゥおゥ、安井さんか、アア、さァどうぞこっちィ、どうぞはいって下さい。弁当、つかいましたか、ああ、そうですか。……どうです、近ごろ、元気は? たっしゃ、ああ結構、ああ、働くものはもう元気じゃなけりゃいかん。あのなァ、ほかでもありませんけど、あなたにお話があるのじゃ。……あんたはよほど努力してくれるということを、わたくし認めてますのじゃ。来月から月給、五十円を昇給します」(『たらい』)  これも社長の言葉づかいではない。これだけ聴くと、明治の終りか大正初期の、田舎中学の老校長が安井さんという小使いを呼んで話しかけているようなニュアンスである。一向に社長らしく[#「らしく」に傍点]ない。  これがリアリティの欠如である。  だからといって、クソ・リアリズムを発揮しろというわけではない。当然、誇張や諷刺が入ってしかるべきである。ただ、そのかねあいに、作者なり演者なりは苦心を払うべきなのだ。では、どの程度に描くべきか。その好見本が映画にある。東宝の名物映画に一連の社長ものがあるが、その中で森繁久彌ふんする社長のあの味わい——あれこそ新作落語にピッタリだと、ぼくは思うのだが……。  すこし、いじわるにいいすぎたかもしれない。ここらで、すぐれた新作をさがしてみよう。だが、これぞ名作というものは残念ながら見当らない。今村信雄氏作の『ためし酒』は、破たんのないすぐれた噺だが、新作というよりもいまや準古典といった趣きなので、ここでは対象にしない。いまのところ、という条件つきで最高傑作をあげるなら、古今亭今輔所演の『お婆さん三代記』を推したい。  これは故正岡|容《いるる》氏が昭和三十年に作ったもので、徹頭徹尾、老婆の独白で終始する点、すこぶる異色である。要するに、昔はよかったという懐古趣味を誇張したものだが、しかし、それがよいとも悪いともきめてはいない。懐古趣味のものが聴けば、むべなるかなと共感するし、進歩的な人が聴けばアナクロニズムへの皮肉ときこえる。遊刃余地ありというべきかもしれない。こんな筋書きである——。  第一景は明治時代。その頃の老婆が、ことごとに明治の文明開化ぶりを嘆いて、古きよき時代、即ち江戸の生活をなつかしむ。 「いやだネ、ほんとうに、何から何までいやですよ、お爺さん早くむかえにきて下さいよ、……(娘にむかって)おまえはふたこと目には明治の御代《みよ》明治の御代といいますけど、みんな異人さんの真似ですとさ。ヤレ舶来だ、それ舶来だ、日本で発明したのは人力車だけですとさ。明治の御代と自慢しますけど、逆さに読んでごらんなさい、なんと読みますか……明治の治というのは、おさまるという字ですよ、明治とかけば、おさまるめい、おさまるめいでロクなことはありませんよ」  第二景が昭和の現代。明治時代に「いやなお婆さんね」といっていたお嬢さまがいつのまにかやはり老婆になって、 「いやだネ私ァ、本当にいやだよ、このキャベツが五十円だとさ、明治時代に五十円ありゃァ、呉服屋へ行って、お召《めし》でも縮緬《ちりめん》でも、裏をつけて仕立てあげてお釣りがきたよ、それがキャベツ一つ五十円、いやだネ……(娘にむかって)おまえはね、ふたこと目にはラジオだテレビだ、ラジオだテレビだ、自分で発明したようなことをいいますが、ラジオだって年寄の好きなものだけならうれしいけど、一から十までしゃくにさわるよ……やれ株式市場だなんて、鉄の株がいくらして、石炭がいくら、船がいくらだなんて、いくらきいても貧乏人の婆ァにはどうにもなりゃしませんよ。そうかと思うと、日本の娘のくせに、外国の言葉でチィチィパァパァチィパァパァ……本当にいやだね、つくづくいやになっちまいますよ」  と、現代生活を罵倒しつくす。  さて、それをきいて「いやなお婆さん」と呆れているいまのお嬢さんの時代が第三景。そのお嬢さんも、やがてお婆さんになったら「いやだよ、私ァいやだよ」と愚痴をこぼすに違いないが、なんといって嘆くか、 「——五十年後にあたくし(今輔)がまた、あらためて申し上げます」  というのがサゲ。原作は、題名に忠実に、もう一代の老婆を登場させているのだそうだが、今輔は三代目に入るところでこのサゲを使って賢明に逃げている。  また映画を引き合いに出して恐縮だが、この『お婆さん三代記』を聴いたぼくは、ゆくりなくもフランスの喜劇映画『夜ごとの美女』を想い出した。故ジェラール・フィリップふんする主人公が、「昔はよかったなア」と思うたびに時代が昔にかえり、フランス大革命の英雄になったり、ギロチンにかけられそうになったり……最後にはついに石器時代にまでさかのぼってしまうという洒落たストーリーだった。  ところで、今輔は、いまは新作専門の噺家だが、もともときびしい修業を経てきた人だけに、話術の基本がしっかりしている。だから、どんな台本を高座にかけてもたのしませるだけのものを持っている。新作がつまらないというその大部分の責任は台本にあるとしても、演者のデッサン力の不足が、つまらなさに拍車をかけていることも否定できない。俗に「小噺百遍」という。一つの小噺を百回稽古してやっと小噺らしく話せるようになるという意味である。三遊亭円生の言葉によると「小噺を長くはなすのは噺家の恥」だそうだ。無駄をはぶいたギリギリの噺、これをマスターすることの重要性が「小噺百遍」という言葉になって伝えられてきた。もし、新作専門の若い噺家たちが、こういった基本的な修業をおろそかにしているとしたら、すぐれた新作落語は生まれるはずがない。落語が言葉の芸である以上、演者は表現に対して細心の注意を払わなくてはならない。落語の基本的な話術が、そのためにどのくらい役に立っているか。丁度、絵かきの修業と同じである。わけのわからない抽象絵画をかく画家も、基本的なデッサン力を備えてはじめて抽象にすすむことができるのだ。  ところが基本的な修業をつんだ人でも、新作というとついおざなりな表現しかしないのはどうしてだろう。次にあげるのは、噺の本筋には関係のない単なるクスグリだが、前者は新作派、後者は古典派が演じている。それぞれダイアモンドを使った滑稽には違いないが、描写力(表現力)の厚みの差をはっきり示している。断っておくが、両方とも第一級の真打である。まず、新作派は—— 「ねえ指輪買ってもらいたいわ」 「ようし、そのくらいならよかろう」 「橋本さんの奥さんのように石の入ってる方がいいの、三カラットぐらいいいでしょ」 「おお、三カラットでも八カラットでもかまわん、石は何がいい、軽石《かるいし》はどうだナ」  これに対し古典派は—— 「……これなぞは、貞女の亀鑑《かがみ》という『朝顔日記大井川の段』という義太夫にもありますが『夫のあとを恋いしたい石になったる松浦潟……』ま、これは古いたとえでございますが……。昔は石になった、今は石になるような堅いご婦人はいないかてえと、ま、そういう訳でもございませんが、石を愛好するということは、こりゃまァ、一般ご婦人の共通ですが。石を愛するという、ルビーだとかサファイアだとか、いろんな石もありますが、ダイアというものはあれはずいぶん高価でございますなア。もっともご婦人がごきげんになる。ま、一カラットよりも、二カラットになると、お値段もずっと高くなるんだそうで。しかしあれは小さいから指にはめたりなにかするんですが、大きなダイアが出たらどうでしょう、目方が四十キロ以上なんという、ご婦人がたは大きなダイアほど、持っていれば名誉なことで、これをお求めン[#小書き「ン」]なって、指ィはめるなんてえことはできませんから、しょうがないからこいつを背負ってな、銀座通りなぞを散歩いたしますが、これアもう散歩なんという意気のものじゃありませんから、汗を流しながらダイアを見せて銀座通りを息もたえだえになって歩いてェる。 『あら、山田さまの奥さまではございませんか』 『(握った両手を頤《あご》の下にあてがい重いものをかついだ形で)おやまァ、これは斎藤さまの奥さまでいらっしゃいますか』 『まアおみごとなダイアでございますこと、それをお求めになったんでございますか』 『はァ、手にいれたんでございますが、なにしろ目方が五十キロでございます』 『まァ、実におりっぱなものでございます』 『(息を切らして)もう、十町も歩きましたが、とても、このうえは背負えませんで、昨日もこの石の下敷きになって子供が怪我をいたしました』なにもそんな思いをして持たなくてもよろしいんでしょうが……」  面倒なようでもこれだけ喋っているから、水に油のようなこんなクスグリがわりに自然に感じられるのだ。逆にいえば、なんでもないクスグリ一つにも充分な描写力を必要とするのが落語という芸なのである。  では、描写力がないとどうなるか。最初は笑えても、二度目からは笑えなくなる。終戦直後に、三遊亭歌笑(三代目)という噺家があらわれて、爆発的な人気を得た。 「……われ、父の肉体より母の体内に転入し、さらに母の体内よりこの地球上に原形を現わしたるころは、太平洋の水、いまだ少なきころにして、打ちよする波間には鯉やメダカや小ブナがむれ遊び、ふたとせ以前われらが食膳をにぎわしたるスケソウダラや電化焼き、冷凍いかなどのいまだ遊泳せざるころなりき……われ、たらちねの体内をいでしころは、長谷川一夫とおく及ばざる眉目秀麗の男《お》の子なりしかど、世の移り変りとともにわが容貌も一変し、いまや往年のスクリーン、フランケンシュタイン第二世の再現を思わせるごとく豹変せり……」(『わが生いたちの記』)  こんな珍文句が売りものだった。はじめて歌笑を聴いた時の新鮮な笑いを、ぼくはいまでも覚えている。連日のようにラジオから「われ、たらちねの体内を……」という独特の声が流れたものだった。だが、それほどおかしかった彼の噺も、三度、四度と聴くうちに少しもおもしろくなくなってきた。しまいに、厭味に聞こえはじめたころ、不幸にも歌笑はジープにはねられて死んでしまった。  現在では、柳亭痴楽(四代目)が同じような話術をやっている。 「エエ破壊された顔の所有者とみずから名乗っている柳亭痴楽でございます。……上野をあとに池袋、走る電車は内まわり、わたしは近ごろ外まわり、彼女はきれいな鶯芸者、日暮里(ニッコリ)笑ったあのえくぼ、田端(田畑)を売っても命がけ、思うはあの子のことばかり、わが胸のうち駒込(こまごま)と、愛の巣鴨でつたえたい……」(『痴楽綴り方狂室』) 「……朝は朝星、夜は夜星、昼は梅ボシいただいて、ああスッパイは成功のもと……」(『痴楽純情詩集』)  これも、おかしいのは最初だけで、何度も聴けば「またか」と思うだけになってくる。痴楽がこの話し方をはじめて何年になるのかよく知らないが、いまから六年前(昭和三十年)中村完一氏が夙《つと》に次のような批判をしている。 「痴楽がラジオ放送の司会者をやって受けがよろしく、その番組の人気はベスト・テンの中に入るほどだというのは一応結構である。しかし、彼は、このごろどうしたものか、何でもかんでも即興的な文句を七五調で述べ立て�痴楽純情詩集より�とか繰り返している。七五調にすれば美文であり人によろこばれると思うのは幼稚な考えで、あれはやめた方がよろしい。いつまでも続けているようでは、落語家の見識に拘《かか》わる」(『落語研究』第六号 昭和三十年七月十六日付)  もっとも、ぼくはこの中村氏の批判にも多少疑問を抱いている。氏は「七五調にすれば美文であり」といわれるが、おそらく痴楽にしても、シンから美文のつもりで演じているわけではあるまい。かつての美文を再現してばかばかしい時代錯誤の味が出ることを狙って七五調をはじめたのだろう。その狙い自体は、あながち悪くはないとぼくは思う。ただ、どうしてもこのスタイルを続けたければ、�純情詩集�の内容を毎回一新するぐらいの意気込みで、新鮮なもの新鮮なものをきかせるべきである。そうなると、前に述べた三平同様、『落語』という話芸のワクから逸脱することになるが、それならそれでよいではないか。どちらつかずの煮え切らない話術が一番つまらないし、演者にとっても損だと思う。  一とわたり新作落語を見渡して、ざっと以上のようなことを考えた。岡目八目的な見方をしているかもしれないが、すぐれた新作誕生に期待するあまりの雑言だと、許していただきたい。  さて、これからの新作だが、ゲラゲラ笑いを狙うだけのものから、�笑わない新作�に目を向けたらどうだろう、笑わないけれどおかしい——そんなおもしろさがあってもいいのではないか。いきなり創作するのがむつかしければ、洒落た短篇小説を落語化してもよい。むかし、円朝がイタリアの喜劇(一説には中国童話だというが)から名作『死神』を創り出したように、翻案でもかまわないと思う。  例えば、ロアルド・ダールの短篇には、落語的な味わいがみちみちている。現在、彼の短篇を集めた『あなたに似た人』と『キス・キス』の二冊が翻訳されているが、その中のどの一篇をとっても、あざやかな落語になりそうな気がする。  ……ある骨董屋が、掘り出しものを手に入れるために、毎週日曜日ごとに埋もれたような古い田園めぐりをする。牧師の服装をして「骨董家具保存協会会長」なるイカサマ名刺をさし出すと、大抵の田舎の人たちはひっかかった。時代のついた見事な骨董家具をタダ同然に引き取っては甘い汁を吸うこの利口な男が、ある百姓の家で「チッペンデールの整理箪笥」として有名な十八世紀イギリスの家具を発見する。国宝級の家具とも知らず、それでいてむやみに欲張りな百姓一家と、この男との虚々実々のかけひきが行なわれ、男は「この箪笥の脚は、私の家にある脚が欠けたテーブルにぴったりだ。そのテーブルは私の気に入りの品なので適当な脚をさがしていたところだから、一つ、この箪笥をゆずってほしい」といってかけあう。金額がおりあうまで、ああでもない、こうでもないと交渉は難航し、男は大汗をかくのだが、最後に二十ポンドで商談が成立する。骨董屋が小おどりして裏に駐車しておいたステーションワゴンをとりに行った間に、売り手の百姓たちは「親切心」から箪笥の脚を切ってしまう。その上、「牧師さまの欲しいのは脚だけだが、ほかの部分も、いっそのこと薪にしてくれてやったら願ったり叶ったりじゃねえか」と、ますますサービス精神を発揮して、斧を高々と振り上げると国宝級の箪笥にむかって力一杯振りおろす。残骸を粉々に砕き終った時、骨董屋の自動車の音がする。百姓は心からうれしそうに叫ぶ、「ちょうど間に合ったぞ! 奴《やつこ》さんが来た!」……  ——「牧師のたのしみ」と題した皮肉たっぷりな短篇である。これを綿密に落語化したら、おもしろいものにならないだろうか。  文学と握手した落語——これからの新作落語を考える上のメドはこのへんにあるような気がしてならない。  それと、もう一つ。小説に時代ものと現代ものがあるように、新作落語にも時代ものがあっていいと思う。その試みとして、拙作『鮒の半』を次章でお目にかける。言いたい放題の罰として、今度はぼくがおとなしく俎上の鯉となるつもりである。 [#改ページ]  新作[#「新作」はゴシック体]       「鮒の半」    「(戸をたたいて)半公、……半公、おい、寝てんのかい」 「(前こごみの姿勢、即ち蒲団から首を出した感じで)うるせえな、だれだい朝っぱらから。用があるならあけて入《へえ》んな、鍵なんぞかかっちゃいねえんだから。断っとくけど、勘定取りなら入《へえ》っても無駄(と言いながら戸口に目をやって)あ、大家さんですか。へへへ(卑屈に笑い)どうも(と手を出して)三円貸しておくんなさい」 「馬鹿野郎、おれの長屋でこんな図々しい奴ァねえな、本当に。ひとの顔さえみりゃ、大家さんいい天気ですね一円貸して下さい、大家さんはっきりしねえ空模様じゃありませんか二円貸して下さい……銭《ぜに》を貸してくれというのを挨拶だと心得てやがら。それでもハナ[#「ハナ」に傍点]は『すみません、道具箱ォちょいっと曲げちまってね、一円ねえと仕事に行けねえン[#小書き「ン」]、いえね、こちとら職人は日銭てえものが入《へえ》りますから、一円は今夜にもお返しに』かなんかいっていたが、なんだい、今じゃ銭を借りると礼もいわねえでいきなり賭場へかけ出しやがって——」 「(なおも卑屈に)へへへ、ねえ、大家さん、三円貸してくんねえな。このところまるっきりメ[#「メ」に傍点]が出なくってよォ、え? ゆんべも吉兄《きちあに》ィんとこでもってスッテンテン——こうなったら仕様《しや》ねえ、(勢い込んで)家財道具あらいざらい売っ払って、ここ一番てえ大勝負をしようてんで帰《けえ》ってみたんだがね、(気落ちしたように)考えてみりゃ家財道具もヘチマもあるわけがねえ、フチのかけた七輪と鍋とセンベ蒲団があるっきり……どうにも仕様がねえから蒲団にもぐりこんだものの、口惜しくって寝られねえ、ウン、大家の凸凹にそういっていくらか都合してもらおうかな、とそう思っているところへ、おまえさんがやってきたわけだ。ねえ、三円(と手を出す)——」 「フン、呆れけえった馬鹿野郎だ。朝帰りといやァ吉原《なか》からと相場はきまってらァ、それを夜っぴて丁半狂いのあげく丸裸になっての朝帰りだなんて、え? そんなことだから雨露をしのぐ店賃《たなちん》も溜まりぱなし、溜めるだけならまだいい、やれ二円貸せの、三円貸せのって、のべつ[#「のべつ」に傍点]じゃないか。まるでおれが店賃払ってるような気になるじゃねえか。なに? その代り? 盆暮のつけ届けには及びません? 当り前だ、馬鹿野郎。こないだも棟梁《とうりよう》に会ったら呆れてたぞ、(棟梁の口調で)『へえ、あんな野郎はありません。腕はいいんですが何しろあけてもくれても丁だ半だって、ねえ、だからあっしゃ言ってやった。バクチをするなじゃない。するなじゃないが、モノには度てえものがあるんだったら、半公の言い種《ぐさ》が憎いじゃねえですか。棟梁、あっしがバクチをよしゃ文句はないんでしょ、やめられるかやめられねえか、一つ賭けようじゃありませんか、あっしはやめられねえ方に張るから棟梁はやめられる方に張っつくんねえ……』って棟梁もサジを投げてたぞ。なあ、おまえが気っぷもいいし腕もいいことはおれだってよく知ってら、バクチさえよしてちょっとの間辛抱すりゃすぐ兄ィ兄ィってたてまつられるようになれるんだ。いいか、棟梁にはおれからうまく言っといてやったから、今日から仕事に行ってこい」 「今日からったって大家さん、道具箱が……」 「フン、道具箱も半纏《はんてん》もみんな質ィ入ってるんだろう。どうせそんなことじゃねえかとおも……(と紙入れをとり出して)ほら、これだけありゃ出せるだろ。いいか、必ず道具箱ォ出してくるんだぞ、いいな、(右手でツボをふせる手つきをして)こんなことにつかったら承知しねえぞ。ぐずぐずしてねえで早く行ってこい!」 「へえ(頭をさげ)、すみません。どうも、へえ(もう一度おじぎをしてから大家の後姿をゆっくり目で追いながら)……いい大家だね、まったく、フフフ、(急に大家の口真似で)必ず道具箱ォ出してくるんだぞッてやがら、(手元の銭を見て)これだけありゃ、またちょいっと張れるんだがな。それとも道具箱を出して久しぶりに棟梁ン[#小書き「ン」]とこへ行こうかな。どっちにしようかな……うん、そうだ、こいつで(と袂《たもと》からサイコロをとり出して)決めよう。これが一番だよ。丁と出たら仕事に行こう。半と出たら(ニコリと笑って)吉兄ィんとこだ。おれが決めるんじゃねえ、サイコロが決めるんだからなあ、大家だって文句はいえめえ。へへへ、半と出りゃこっちのものだ。(サイをツボに入れて二三度ふって)その代り丁が出たら、こりゃ仕様《しや》ねえ、ねえ、半が出りゃあこっちのもの、丁が出りゃ(ツボを伏せてひらく)……(一と呼吸の間をおいて小声で)丁だ。(あっさりと)行こう」  そこはバクチ好きですから、サイの目にいさぎよく従いましてな、顔も洗わずにぷいと家を飛び出して、まず質屋から道具箱や半纏やらをうけ出すと、その足で棟梁の家に行こうてんで、大川橋、いまの吾妻橋ですな、大川橋のたもとまできますと—— 「ああ、久しぶりだなあ、道具箱ォかついで、こうやって棟梁ン[#小書き「ン」]とこへ行くのは、……へへへ、棟梁なんていうかな、『おお半公じゃねえか、よくきたな、まああがって一杯《いつぺえ》飲め』なんてことは、(小さく)いうわけがねえな、いきなり『馬鹿野郎、またバクチばかりやってやがったんだろ!』なんてネ、へ、こっちで御無沙汰しましたかなんかいおうもんなら『何をぐずぐずいってるんだ、面《つら》でも洗って出直してこい!』(といってから思い出したように)あ、そうだ、まだ面《つら》ァ洗ってなかったっけ。ここで洗っていこう……(無言で川辺にしゃがみ、顔を洗いかけてふっと目が一点にとまる)可哀想に、鮒《ふな》が腹ァみせて浮いてやがら。それでもまだ呼吸《いき》をしてェら。(鮒に目を向けたまましばらくの間《ま》、やがてポツリと)よし、持って帰って飼ってやろう。うん、この丼のかけたやつに水を入れて、こいつをすくって……(と以下無言のまま鮒を丼に浮かす仕種ののち、顔を洗って)ああ、さっぱりした。お、鐘が鳴ってやがら、四ツじゃねえか、いけねえ遅くなっちまった」 「半公がきた? こっちィ呼んでこい……(半公が入ってくるのをまず目で迎えてから強い口調で)馬鹿野郎、またバクチばかりやってやがったんだろ!」 「(ぴょこんと頭を下げて)棟梁、すっかり御無沙汰を」 「何が無沙汰だ、面《つら》でも洗《あら》——」 「へ、面《つら》ァいまそこで洗ったばかしなんで、へえ」 「手前《てめえ》の汚《きたね》え面《つら》なんでどうでもかまやしねえが、何《なん》しろいま大きな仕事を引き受けたところで、手がたりなくてどうにも仕様がねえ。半公、手前《てめえ》すぐ仕事に行けるか? (といいながら相手の服装やら持物に目をやって)フン、それでも道具箱だけは忘れねえな。おや、なんでえ、小汚え丼を持ってるじゃねえか、なんだい、え、フナ? ここへくる途中で? 死にかかっていた鮒を? へえ! 手前《てめえ》も妙なとこで仏心《ほとけごころ》を出すじゃねえか。ハハハ、ま、折角助けてやったんだ、大事に飼ってやんなよ、いいことでもあるかもしれねえやな。じゃ、おゥ、仕事の方は頼んだぜ、源の奴にそう言ってくわしい話はきいてくれ」 「へえ、承知しました」  これから半さん、感心にバクチ場にも行かずに毎日仕事場通い、鮒《ふな》の方も餌をもらってすっかり元気になりましたが、ある晩一杯飲んだ半さんいい機嫌で帰って参りましてな—— 「(かなり酔った調子で)どうだい、え? 豪気《ごうぎ》なもんじゃねえか。ついこないだ死にかけていたこいつがよ、いまじゃぴんぴんして水甕《みずがめ》ン[#小書き「ン」]中を泳いでやがら(水甕のフチに手をかけて中をのぞきこむ、一、二度ぐらりと手が揺れて——急に酔いが出てきた感じ)やい、鮒、お前は命拾いしたんだぞ。ハハハ、魚《さかな》にそんなこといったってわかりゃしねえよなあ。(のぞきこんでいた顔をあげてふうっと呼吸《いき》を吐き出して)すっかり酔っ払っちまって、ああいい心持だ。やけにノドが渇きやがる。(扇子を持って柄杓《ひしやく》を手にした形、再び水甕をのぞいて)ふうっ、やい鮒、少しワキい寄ってねえとすくって飲んじまうぞ、それ、鮒だ、鮒だ、鮒侍だ、(などと節《ふし》をつけてぶつぶつ言いながら柄杓からじかに水を飲む、ごくごくとうまそうに。飲み終って口のまわりを手の甲で乱暴にぬぐって)、ああうめえ、酔いざめの水千両、とくらあ、あ、いけねえ、水がへっちまったな、こりゃ。水が無けりゃ魚はおだぶつ[#「おだぶつ」に傍点](としまいの方は節《ふし》をつけて歌うようにつぶやいてから、一瞬、間《ま》をおいて、ふと首をひねる)、いや、待てよ、そりゃ一ぺんに水をかい出しゃ魚はおだぶつには違《ちげ》えねえけどよォ、これを、ほんの少ォしずつ少ォしずつ、鮒の気がつかねえように水をへらしていけばどうだい? 三月《みつき》もかけて水を無くしたら、鮒の奴ァ、気がついた時には甕の底で空気ィくらって生きていた、なんてことになりゃしねえかなあ。え? 水のねえとこで鮒が生きてるなんてのは面白《おもしれ》えじゃねえか(しばらく甕の中を見つめる。鮒の動きにつれて目も動いて。やがて決心してきっぱり)よし、ひとつやってみよう」  ひどい奴があるもので、さあ、これからは奴さん、毎日毎日耳かき一杯ぐらいずつ、チビチビ水をへらしていこうてんですが、耳かき一杯じゃいくら小さな水甕だってラチ[#「ラチ」に傍点]はあきません。三月《みつき》たって、まだ半分以上残ってましてな、それでも奴さん、飽きもしないで耳かき一杯ずつの、かい出しを続けておりましたが、根気てえのは恐ろしいもので、丁度一年目に、ついに甕の水がからっぽになりまして、驚いたことに鮒は空気をパクパク、パクパクやって平気で生きてまして—— 「(驚喜の表情と声で)い、い、い、生きてやがる、生きてやがる! え? 見ろよ、どうだい、豪気なもんじゃねえか、水のねえとこで魚が生きてやがら。やい、鮒! 偉《えれ》え奴だなあ、お前は! (ふと感動で涙声になり、あわててごまかすように)ハハハ……喜んではねまわってやがら。お、危いぞ、甕に頭をぶつけたら死んじまうじゃねえか、馬鹿野郎、さ、おれの手の平にきてみろ(と右手でそうっと大事に大事に鮒をつまんで、それを左手で受けて)どうしたい、え? ハハハ、パクパクいってやがら……」  さあ、これから半さん、もう鮒に夢中です。仕事場へ出掛ける時にもこいつを連れていきましてな。そのうちに大仕事だったお屋敷の普請が終り、ご苦労だった、てぇんで手間賃のほかにまとまったご祝儀が出る、ああ、職人はてんでに酒を飲みに行くやら、吉原にひやかしに行くやら……半公も一杯入って気が大きくなったところへもってきて、懐が暖《あ》ったかいときてますから、ついフラフラと昔の仲間のところへやってきまして、 「おう一つおれにも張らせてもらおうじゃねえか」  なんてんでな—— 「(サイコロをつまんで沁々と)いつみてもいいもんだなあ。へへへ、(顔をあげて)、さあ、張ろうじゃねえか。だれだい、胴を取るのは、お前《めえ》か? おう、そいじゃおれァ、まずこれだけ半へ張ろうじゃねえか」 「おい、おい、半公、いいのか、そんなに張っちまって」 「うるせえ、かまうこたァねえから、そいで勝負してみつくれ」 「いいんだな、よし、(やや改まった姿勢になって)勝負ッ。(間)丁だ。じゃ、これは遠慮なくもらっとくぜ」 「畜生、よし、もう一度半へこれだけ……」 「(うなずくと無言でツボをふりながら)勝負ッ。ハハ、また丁だ、ハハハ半公、まだ張るかい」 「なにォいってやんで、フン、こうなりゃ意地でも半で取り返してやらァ、もういっぺん半へこれだけ(と張りかけて、ふと懐の中をのぞきこんで)なんでェ、何だかムズムズすると思ったら鮒の大将がいたんだっけなァ、(懐の鮒にむかって小声で)おい、そんなに暴れるなよ、いま三度目の半に張ろうてえ大事《でえじ》な時なんだからよ。おや? 半に、ったらピクピクっていやにハネまわりやがる。だからよ、半に張るんだから、(舌打ちをして)え? 半が気に入らねえのかい? よし、一つ丁に張りかえてみるか。お、とたんに鮒公しずかになっちまいやがった。(顔をあげて一座に)おう、半はよして丁にしてみつくれ、丁にこれだけだ」 「(不審気な表情で)おかしな野郎だなァ、ぶつぶつ独り言をいいやがって、ハッキリしろよ、丁でいいんだな、いいか、勝負ッ、あ、丁だ」 「へへへ、ありがてえありがてえ、よし、もう一度丁へ(と言いかけて、また懐に気がついて)なんだい、また暴れてやがら、丁じゃいけねえのかい? え? まあいいや、じゃ半といこうじゃねえか。おう、こんだ半だよ」 「勝負ッ」 「ほら半だ」  てんでな、半公が丁へ張ろうとするとまた鮒がピクピク、それじゃてんで半へ張るとこれが半……。さあ、もう奴さん、鮒の言いなりン[#小書き「ン」]なりましてな、面白いようにもうかる。こうなると折角心を入れかえたのも元の木阿弥、毎日ほうぼうの賭場へ入りびたっては、まとまった銭《ぜに》を懐にして帰るという、これが評判になりましてな、 「おい、聞いたかい。あの半公の野郎、水のねえところで鮒を飼ってるってえじゃねえか、なんでも懐から出したり入れたり」 「そいつよ、その鮒のお陰で、あん畜生バカなもうけよう。なにしろあの野郎には霊験あらたかなお守りがついてるんだから、まともに勝負したってはじまらねえやな。え、なんだよ、これからは半公がきたらいくらか包んで早いとこ帰しちまったほうがいいぜ」  半公が賭場へ顔を出すと、 「お、半兄ィ、きょうン[#小書き「ン」]ところは、一つ、これで(紙包みを差出して)すまねえが引き取っつくんねえ」  なんてんで、はじめのうちは厄介もの扱いだったんですが、そのうちに「水のないところで生きている鮒」という、鮒のほうが評判になりましてな、半公が出入りする賭場に、一と目鮒を見ようという見物がワンサとやってきまして、これがまあ、見るだけではなくていくらかずつ勝負をしていくというんで、胴元のほうでももうかって仕様がない。これも半公のお陰だてえんで奴さん、兄ィ、兄ィとたてまつられた上にたんまりと礼金、ただいまでいうリベートてえやつをもらうんですから、ああ、もう半公、いい気持で左ウチワの暮し……。 「(戸をたたいて)半公、……半公、おい寝てんのかい」 「だれだい、朝っぱらから。用があるならあけて入《へえ》んな、鍵なんぞかかっちゃいねえ(と言葉を切り、入口を見て)、あ、大家さんですか。(首をひねって)家賃はもう溜まっちゃいねえと思うんですがねえ。(間をおいて)ま、どうでもいいや、どうぞおあがりなすって。え? いま朝湯《あさゆう》から戻って一杯《いつぺえ》やってたところなんだ。大家さん、一杯いきやしょ(と、やや卑屈な上眼づかいをして盃をさし出す)」 「フン、結構なご身分だよ、朝寝、朝酒、朝湯とくりゃ、まるっきりお前、小原半公[#「小原半公」に傍点]じゃねえか。(半公の口調で)家賃は溜まっちゃいねえと思います? (自分の声に戻って)ああ、一つも溜まっちゃいませんよ。きちんきちんと受け取ってるよ。ああ(吐き出すように)感心だよ。……感心だけどね、あたしゃ、ちっとも嬉しくないね。五ツも六ツも店賃を溜めていた昔のお前さんの方が、あたしはずっと好きだったねえ。(見るともなく部屋を見まわして)フン、一人前に箪笥だの長火鉢だの、え? 立派になんなすったよ、お前も。だけど、ねえ半さん、こりゃお前の腕でかせいだもんじゃないよ。(半公が何かいいかけるのをさえぎって)ああ、わかってるよ、鮒がついてるてんだろ。そりゃ、いまはいいよ、いまはいいけどね、その鮒だっていつまでも生きてるてえわけじゃねえ」 「そりゃまあそうですがねえ、大家さん、まあ、かせげるうちにこいつにかせがして、そいで、まあ、年季《ねん》があけたら」 「馬鹿野郎、年季《ねん》があけたらてやがら。鮒を女郎にした気でいるんだから念のいった馬鹿野郎だ。(間をおいてからきっぱりと)とにかく半公、もう一度だけおれが棟梁に話してやるから、お前、仕事に行く気にならねえかィ。え? そりゃ、今さら棟梁に会わせる顔はないさ、ないけどそりゃ仕様がねえやな。もう金輪際賭場がよいは致しませんといってあやまるんだよ。おれだって、もう二度とこんなこたァいわねえから……」  よほど親切な大家さんだとみえまして、これから棟梁に詫びを入れてやり、ぐずぐずいう半公を突き出すようにして出してやりましてな——。 「(片手を懐に、片手で道具箱をかつぎ、身体をゆすって歩きながら)ああ、いい大家だね(とつぶやいてから、ふっと気がついたように首をひねって)前にもどっかできいたような言葉だね、あ、そうか、この前大家に意見された時にもこうやってこの道を歩きながらそう思ったんだっけな。へへへ、棟梁なんて言うかな、『半公じゃねえか。よくきたな。まああがって一杯《いつぺえ》飲め』なんてことは、いうわけがねえな(といってから再び気がついて)これもどっかできいたようなセリフだなァ。それにしても、久しぶりだなァ、棟梁の家へ行くのは。もう道を忘れちまったかと思ったが、(苦笑して)フフフ、道だけは覚えてら(とあたりを見まわしてやがて一点に目がとまる)お、ここだ、この橋だよ、(懐をのぞいて)こいつをひろったのは。懐かしいなあ。(懐から鮒をとりだして)やい鮒、覚えてるか、ここを。お前《めえ》も懐かしいだろ。そうだ、久しぶりにこいつに生れ故郷を思い出させてやろう。里帰りてェやつだ。(川べりにしゃがみこみ、両手に鮒をのせ、そっと川の水にその手をつけて)さあ、これがお前《めえ》のお里だぜ、里の水をよく味わいねえ」  ——って、鮒を水にいれてやったとたんに、鮒が溺死して土左衛門になったという……。 [#地付き](了)    (付記) 過日辰野隆先生のお宅にお邪魔した折に、むかし一高ボート部の選手がこんな駄法螺を吹いたといって聞かせて下さった話にヒントを得て、落語に仕立ててみた。 [#改ページ]  落語結縁 [#改ページ]  落語|結縁[#「落語|結縁」はゴシック体]《けちえん》     安藤鶴夫氏は、生後百五十日目から母堂に連れられて寄席に通い、高座囃子を子守唄に聞いて育ったと、自身で書いておられる。青年時代には、傾倒する七代目可楽の身近にいたいというただそれだけの理由で、何不自由ないわが家をとび出して、可楽の家の二階に下宿したという。下地は好きなり御意はよし、というところだ。  ぼくの場合、そういった下地がほとんどない。親父も落語好きではあったが決してマニアではなく、一人っ子のぼくを連れていくところは、寄席ではなくていつもテニス倶楽部だった。おふくろの方は、若い時から謡《うたい》をやってはいたが、しかし落語には無縁だった。そんなぼくが、いつごろから落語に興味をもち、その魅力にひかれ、そして最後には淫するようになってしまったのだろうか。どうもわからない。ものごころついてからの記憶も定かではない。一つはっきりしているのは、幼稚園の時に放送に出た思い出である。幼児の時間という番組で、一人ずつ歌をうたったり、お話をしたりするのだが、その時ぼくはまわらぬ舌で落語を演じた。勿論、落語とはいわないで、笑いばなしというタイトルであった。「ねえ、汽車はどうして動くの」「石炭をたくから走るのさ」「それなら、なぜウチのお風呂は動かないの」と、たったこれだけのものだが、いっぱし間抜け落ちというわけだ。幼児期の記憶はこれだけである。それが、小学校の入学を境いに、いくつかの出来事がはっきりとよみがえってくるのである。      *  小学校の二年の時に、デパートで、落語、講談、浪曲、俗曲を要領よくまとめて一冊のアルバムにした�何とか名人会�というレコードを親父にねだって買ってもらった。「こりゃ落語のほかにいろんなものが入っているからつまらんぞ、落語だけのを買ってやるからそっちにしたらどうだ」という親父の言葉をガンとしてきかなかったのをいまでもはっきり覚えている。どうせ一回聞いて放り出してしまうだろうと親父はタカをくくっていたらしかったが、ぼくは毎日のように、学校から戻るとおやつをほおばりながら腹ばいになってそのレコードに聞き入った。戦災で焼いてしまったのでウロ覚えだが、たしか落語は志ん生と金馬、講談は大島伯鶴だったと思う。どちらも、まあ子供向きといえばいえる内容だった。浪曲は虎造の「森の石松」。もっともこれもサワリの�名文句�のところだけを巧みに編集したものだから、やはり無邪気なものだった。俗曲は——さすがに興味がもてず、どんなものだったかすっかり忘れてしまった。  とにかく、くりかえしレコードをかけるうちに、ただ聞くだけでは物足らなくなって、金馬の落語に合わせて紙芝居を作ったりした。適当に場割りをして、自分で幼稚な絵を描いて、レコードに合わせて一枚ずつめくってたのしむという仕掛けである。  そのうちに、いつのまにか伯鶴の講談が、そっくり宙《そら》でいえるようになった。ある時、クラスだけの学芸会で、覚えたての講談を一席弁じて大喝采を浴びた。黄色い声を精一杯はりあげて「エイ、ホー、下にィ下にィ」といったことだけ覚えているが、どんな話だったかどうしても思い出せない。  私の通っていた小学校は妙なところで、色々なしつけはきびしいくせに講談だけは認められていた。そこで今度は、全校合同の学芸会に出演することになった。ところがぼくは、講談はこないだやったのだし、それにほかにも講談ならやる生徒がいるからつまらないと考えて、虎造の浪曲をやることにした。なんと小生意気な小学生だったのだろうと、いま考えると、顔から火が出るほど恥ずかしいが、その時は、とにかくみんなをアッといわせてやろうと単純に考えたらしい。  当日は朝から落着かなかった。次々に進行する唱歌や劇も目に入らず、そわそわと便所にいったり、武者震いをしたりしながら、出番を待っていたが、いつまでたっても呼びにきてくれない。そこは子供で、楽屋へ顔を出して「まだかい、俺の出番は」などと尋ねる才覚も度胸もないまま、まだかまだかとおとなしく待っているうちに、哀れ学芸会は終ってしまった。あとで聞くと、担任の先生のお計いで、プログラムからはずされていたのだった。      *  終戦後の混乱期、ぼくは静岡県のK町という漁村で過ごした。そこの小学校というのが、授業が終るか終らないうちに鼻たれ小僧が「ああ、ヤニ[#「ヤニ」に傍点]が切れた」といって吸いかけのタバコに火をつけたりする、どうにも手のつけようがないひどい学校だった。生徒はそんな有様だし、教室は魚くさいし、言葉はわからないしで、ぼくはシンから学校嫌いになった。家に帰っても、敵地にいるような気がして、外で遊びたくなかった。家にとじこもって、古ぼけた落語全集をくりかえし読むことと、ラジオの番組から落語をたんねんにひろって停電を気にしながら聴くことが、たのしみのすべてになった。見るに見かねてか、毎晩、親父とおふくろがトランプと花札で遊んでくれたりした。      *  大学で再び東京に戻った。学校の落語研究会には入らず、もっぱら同じ下宿にいた中村さんという年上の絵描きと一緒に、四年間せっせと落語を聴いてまわった。寄席を軽蔑して、特殊な会をさがしては出かけた。卒業の時には、いつのまにか落語に淫する方になっていた。  就職試験で、趣味の欄に至極当り前の気持で「落語」と書き入れて、面接の時に試験官にひやかされたが、何とか合格させてもらえた。  勤めはじめると、学生時代のように暇にあかして落語を聞いてまわるわけにはいかなくなったが、その代りテープレコーダーを買いこんで、好きな噺家の好きな落語を収録することに熱中した。  それから四五年たって結婚する時に、ぼくは、 「ついては頼みがある、きいてくれるか」  といって家内の前に条件をもち出した。その口調が重々しかったので家内は驚いてうなずいた。すかさずぼくは申し渡した。 「たとえ大掃除の日でも、落語だけは勝手に聴きに行くぞ。それから、いかなる時でも、テープ代だけは、よこせといったらすぐ渡せるようにしておけ」 「はい」  と返事をしながら、家内は呆れたような顔をした。ぼくも、結婚の言葉としては色気がなさすぎるなと内心呆れながら「よし」と答えて満足した。    [#改ページ]   自跋  テープに収録した落語が、いつのまにか百五、六十になった。別に何に使おうという積極的な目的があったわけではなく、ただ、好きな噺家の好きな噺が、一つずつ溜まっていくのが何より嬉しかったのだ。  ところが、一度だけこのテープがお役に立ったことがある。親しくしていたある高等学校の先生が、教室で生徒に聴かせるから貸してほしいといってこられた。なんでも、小説研究明治篇という単元の国語の時間に「性格描写研究と時代考察」の一助として使うのだという。ぼくは恐れ入って�無害有益�と思われる噺をいくつか選んで、恭しくお貸しした。  さて、その結果なのだが、生徒の提出したレポートに、わからない単語を書きこむ欄があって、そこに無数の言葉が出てきた。  オツなもの、タンカをきる、勘当、柏餅で寝る、掃き溜め、はばかり、へっつい……。  へっついを「かまど」と説明したら、そのかまどがわからなかったそうだ。  実をいうと、この話をきいてぼくはあわてた。例えば吉原の特殊な用語が理解できないというのなら、これはしょうがない。だが、これらの、いまでも耳にする言葉までが、死語になろうとしているとは——。日本語そのものの衰微の前には、落語の運命など言うも愚かではないか。そう思ってぼくはあわてたのである。  身のほどを知らぬ言い種だが、もし、それらの若い人のうちたとえ一人でも、拙文によって昔からの日本語に多少とも親近感を抱いていただけたとしたら、望外の幸せである。願わくは、本書を、落語への挽歌としてではなく、寧ろ讃歌として読まれんことを。 [#5字下げ]*  とうてい人さまにお目にかけられる文ではないのに、こうやって曲りなりにも一本になったのは、ひとえに書肆普通社の限りなき寛容と、同社藤本光孝氏のあたたかいはげましによってである。  そして、この未熟な小著のために、辰野隆先生の咳唾珠を成す序文をいただけたことは、処女出版の喜びにいやまさる感激である。お礼の言葉を知らない。   昭和三十六年十月十日 [#地付き]江國《えくに》 滋《しげる》 江國滋(えくに・しげる) 一九三四年東京生まれ。慶應義塾大学卒。随筆家。「週刊新潮」編集部員を経て著述家となる。処女作『落語手帖』以来、大衆芸能論を主軸にして執筆、その後随筆、紀行、評論の分野にて活躍。また、俳句にも親しみ、俳号は「滋酔郎」。一九九七年没。 本作品は一九六一年、普通社より刊行され、一九八二年一月、旺文社文庫に収録された後、二〇〇五年七月ちくま文庫に収録された。