TITLE : 日本語八ツ当り    日本語八ツ当り   江國 滋 目次 「大衆」の千六本 ぬけぬけと かんべんしてよ いえ、ほんと ものわかりがよすぎるよ やぼで結構 政界ことばの浄化 自縄《じじよう》自縛 ボケて悪いか? 鳩《はと》公害 とりあえず三つ 五十音順 敗北宣言 「としている」症候群 コロンブスの卵、二個 四十五人の船頭さん 後天性免疫不全文章候群 法断章 恭啓中島らも様 買いおさめ 人を笑わば 語尾の問題 私の“ことば狩り” 重箱特集 買いたいものがある 自分のことば 円高とか いやいやながら 悪文退治 愛用すれど理解せず おう、よちよち 予算委員会テレビ傍聴席 同病相和ス 五輪特集 「原稿する」理由 三題ばなし ことばのくずかご 外来語について 悪文教室 虎《とら》の尾を踏む 駆け込み二題 日本語八ツ当り   「大衆」の千六本  食生活が格別ゆたかになったとは思えないのに、食通だけがふえつづけて、いまや日本中グルメだらけというおもむきを呈しているのはご同慶の至りだけれど、ひるがえってつらつら考えるに、何がうまいの、かにがまずいの、と書いたり喋《しやべ》ったりしておられる諸氏は、いい度胸だ、と感心する。ご老体ならまだしも、二十代や三十代の青二才が、うまいの、まずいの、とご託を並べるなぞ、しゃらくさいの一語につきる。味覚の機微などというものは、徹底的に個人差の産物であって、極端にまずいもの以外は、好みの問題に帰着する。いや、極端にまずいものだって、その味で育った人間なら、それがその人の好みということだってあるはずである。  同じことが、ことばについてもいえる。  好きなことば、嫌《きら》いなことば、というものがだれにでもある。その意味で、ことばは嗜好《しこう》品である。言語学や文法論の領域で論じるのなら遠慮はいらないけれど、あのことばが嫌いだの耳障りだのと、自分の感性だけで、あれこれあげつらうのは、自称グルメが自分の好みをふりまわすのと同断であって、はなはだ見苦しい。  その見苦しいことを、私は、やろうとしている。困ったね。  私、当年五十二歳(昭和六十一年一月現在)。公用語に従えば「実年」である。  人間の寿命ものびたし、社会的活動期間ものびたために、青年・壮年・老年というこれまでの区分ではまかないきれなくなったので、壮年と老年のあいだに適当な呼称をとり入れようという趣旨で、厚生省が公募して決めたばかりの、出来たてほやほやの新造語で、新造語だから耳慣れないのは当然だとして、マスコミが伝えるところでは評判よろしからず。  壮年と老年のあいだに、いままでも呼称がなかったわけじゃない。「初老」というれっきとしたことばがあった。何かこう、しみじみとしたものがこのことばにはこもっていて、私は好きである。すくなくとも「熟年」だの「実年」と呼ばれるより「初老」と呼ばれたい。なぜ初老ではいけないのか。「初老の紳士」なんてすてきじゃないか。 「実年」が話題になったあと、〈新語・流行語大賞〉(『現代用語の基礎知識』選)なるものの発表があって、新聞が大きく報じていた。  流行語部門では、例の「イッキ! イッキ!」が金賞で、以下「トラキチ」だの「角抜き」だの、目にも耳にもなじんだことばが入賞している。「私はコレで会社をやめました」という人をばかにしたようなテレビ・コマーシャルのコピーも入っていた。それはそれで結構、現にこの一年はやったのだから、好きだの嫌いだの、いいの悪いのといったってはじまらない。はやりものはすたりもの、ということばを思いだせば、それですむ。  新語部門の金賞は「分衆」に決ったと書いてあるのを目にして、狐《きつね》につままれたような気持になった。なんのこっちゃ。 「分衆」というのは、個性的で多様な人びと、つまり“分割された大衆”のことで、博報堂生活総合研究所の造語だ、という説明を読んで、ああなるほどとは思ったものの、自分でも使おうという気にはなれない。 『大菩薩《だいぼさつ》峠』とか『宮本武蔵《むさし》』とか、国民一般に広く読まれる作品を「大衆文学」といった。いまは、うすぎたないコミック雑誌だの、あやしげなビニ本だのを、思い思いにこそこそ読む時代なのだから、まさに「分衆文学」ではないか、といわれれば、そりゃそうかもしれないが、だったら「個性的で多様な人びと」の「個」の字は取ったほうがいい。  むかし〓皆の衆ゥ……という流行歌があったけれど、「分衆」は、どういうところで、どういうふうに使われるのだろうか。さしずめ、広告関係お得意のマーケティング・リサーチ(なぜ「市場調査」じゃいけないのだ)なんかでは便利重宝なことばというわけなんだろうが、当方のあずかり知らないところで、人を「分衆」呼ばわりしているのかと思うと気色が悪い。 「分衆」というのは、早い話が、「大衆」の千六本だろう。「大衆」ということばだって、大衆の一人として、あんまりいい感じがしないというのに、その「大衆」を、断りもなく千六本に切り刻むとは、失礼なり、無礼なり。  新語のなかでは、都会派作家・諸井薫さんの造語だという「ネバカ」が断然気にいった。いわずと知れた「ネクラ」のもじりだが、「ネクラ」よりさらに痛烈、痛烈にしてユーモラスである。  ネバカ、ネバカ、とつぶやいているうちに、コピーライターの土屋耕一さん一代の名句を思いだした。   大乳房あたまは弱し四月馬鹿  柚子湯《ゆずゆ》  西東三鬼に「おそるべき君等の乳房夏来る」という世評高い句がある。あの大虚子にも「浴衣《ゆかた》着て少女の乳房高からず」という句がある。でも、柚子湯こと土屋さんのこの句のほうが、私は好きである。なぜ好きか、という質問は無意味であって、好きだから好き、それだけの話である。  というわけで、「ネバカ」はたまたま私の好みに合致したわけだけれど、それは稀《まれ》なる例外であって、新語というやつ、もともと私の性に合わない。  もっとも、どんな古語といえども、いちばんはじめは新語だった、といわれたらそれまでである。古典落語しか認めないという古典落語派と、古典落語だって出来たときには新作だ、と言い返す新作落語派の関係によく似ている。  軽佻《けいちよう》浮薄な新語でも、人の口にのぼりつづけて定着してしまえば、否応《いやおう》なく、それは日本語だろう。どこまでが新語で、いつから定着したと判断したらよいのか。自国語をこよなく愛しているフランスでは、アカデミーがいちいち判定をくだして、それではじめてことばとしての市民権が生じるのだと聞いたおぼえがある。日本でそれをやったら、おカミによることば狩りだ、ということになって、収拾がつかないことになるのだろうな。  それにしても、である。  人は、なぜ新語を造りたがるのだろう。  言霊《ことだま》の幸《さき》わう国、というぐらいゆたかな表現に恵まれている日本語の世界に生きていて、既存のことばの、いったい何割を使いこなしているというのだ。若いやつらなんか、何割どころか、せいぜい何パーセントというところじゃないのか。  幸《さき》わう言霊《ことだま》をことごとく自家薬籠《やくろう》中のものにして、それでもまだ足りなかったら、大いばりで新語を造ればいい。   ぬけぬけと  うーん、はずかしい。実にはずかしい。口に出してつぶやいてみると、他人事《ひとごと》なれど、顔も赭《あか》らむ思いである。四文字からなるこんなはずかしいことばを、最初に考えついたのはどこのどなたなのか。  英語で四文字単語《フオー・レター・ワード》というと、紳士たるもの、人前で金輪際、口にしてはいけない例の俗語群のことを意味するらしいから、気をまわされないうちに、あわててお断りしておく。私がはずかしがっている四文字は、お察しの方面とは全然関係ない、お生憎《あいにく》さま。  話は逸《そ》れるが、はずかしいことば、というものが世の中にはたくさんある。そうして、はずかしい、という感情の働きもまた徹底的に個人差の産物であるからして、自分がこんなにはずかしがっているんだから人さまもそうだろうと即断してモノをいうわけにはいかない。  ひところ、女性たちのあいだで「あたしって、なになにするヒトなの」という式の妙な語法がはやった。年端《としは》もいかない女子高校生あたりがおもしろがって口にするのなら、まだかわいげがあるけれど、どういうわけか、ハイミス以上の女性がもっぱら愛用していたように記憶する。 「あたしって、人にものをあげるのが好きなヒトなの」 「あたしって、じっとしていられないヒトなのよね」  ひそかにご尊敬申し上げていた新劇畑の大女優が、テレビのトーク番組の中で実にしばしばこの語法を濫発《らんぱつ》しておられたのを見、聞きしたときには、幻滅を感じるより先に、はずかしくてはずかしくて、尻《しり》のあたりがむずむずした。 「あたしって」という一人称に、「ヒト」という三人称を接木《つぎき》するのは不自然で、その不自然なところが洒落《しやれ》た言語感覚なのだ、というような共通認識が、女性たち、とりわけ才女とか才媛《さいえん》と目される諸嬢たちにはつよく働いて、それであっというまに伝染したのかもしれないが、あの接木は不自然などというものではなくて、あれは、乱暴というものである。  それがどうしてはずかしいのか、という説明を縷々《るる》書きつらねてみたところで意味はない。わかってくれる人なら、ひとことでわかってくれるはずだし、わかってもらえない人には、いくら説明しても、ついにわかってもらえないだろう。  わかってくれる人ならわかってくれる、と書いたけれど、あの語法を聞いてはずかしいと感じたりするのは私だけで、ということは私だけが特異体質であるのかもしれない。だとしたら、私は、さしずめ“ことばの花粉症”である。  そういう可能性もあるのだ、と予防線を張った上で、話を戻す。  うーん、はずかしい、実にはずかしい、といま私がしきりにはずかしがっている四文字からなることばは、去年の暮と今年のはじめに、たてつづけに新聞の見出しになった。 〈「賢人会議」設置を決議/国連/日本の根回し奏功〉(朝日・昭和六十年十二月十九日付) 〈「賢人会議」月内に発足/野生生物保護/基本方針づくりへ〉(同・六十一年一月三日付)  前者は、国連の第四十回記念総会を契機に、この際、国連の行財政機能効率化すなわち国連行革を断行しようではないか、という日本の提案が、難航の末、満場一致で採択されたんだそうで、そのこと自体は、まことに慶賀の至りなんだけれども、名称が「国連賢人会議」ときたもんだ。こいつははずかしい。  後者は、絶滅の危機に瀕《ひん》しているツキノワグマやヒグマをはじめとする野生生物の保護を強化するために、これまた「賢人会議」をスタートさせることを環境庁が決めた、というニュースである。  もっとも、国連のほうは、なんぼなんでも“賢人”はおそれいるという理由なのかどうかは知らないが、「ハイレベル国際専門家会議」と改められたらしいし、環境庁のほうも、正式名称は、「野生生物保護対策委員会」というんだそうだ。でも、両方とも「略称・賢人会議」と書いてある。  このことばを、はじめて目にしたのは何年前だったろうか、たしか「日米賢人会議」と称するものが発足したときだったと思う。これもうろおぼえだが、さきごろ亡《な》くなった牛場というお人なんかが、賢人として名をつらねておられたのではなかったか。そのへんをはっきりさせておきたいと思って、『現代用語の基礎知識』(自由国民社刊)の最新版で調べてみたら、一九七九年に政治・経済問題を論じあう日米賢人会議が発足し、八一年には主として文化面を語りあう日仏賢人会議が開かれていた。  ことによると、もともとは外国製のことばで、それを直訳しただけのことなのかもしれないとも思って、手持ちの英和・和英ぜんぶの辞典を引いてみたが載っていなかった。成語としてはthe Wise Men of the Eastというのがあったけれど、これは聖書の「マタイ伝」に出てくる「東方の賢者」「東方の博士」のことであって、二十世紀の賢人会議まで尾をひいているとは考えられない。  日米賢人会議、国連賢人会議、ツキノワグマ賢人会議、か。  三人寄れば文殊の知恵、とむかしはいった。いまはちがう。  三人寄れば賢人会議。  いまに、いじめ問題賢人会議、やらせ問題賢人会議、レコード大賞賢人会議、プロ野球ドラフト賢人会議、横綱審議賢人会議、利《き》き酒賢人会議、マンション建築反対賢人会議、お祭りの寄付に関する町内賢人会議といった集合体がぞろぞろ名乗りをあげたらどうしよう。  それにしても「賢人会議」とは、よくもまあ名づけようという気になるもんだな、といっそ感心する。ぬけぬけと、という一語につきるではないか。命名者の顔が見たい。もっと見たいのが、賢人会議の“賢人”諸氏のお顔である。会議の内容がどれほど重要なものであっても、「賢人会議」と聞いただけで、まともな神経の持主だったら、はずかしくてはずかしくて、入れたもんじゃないと思うのだけれど、それはそういうものではなくて、案外、ご当人は“竹林の七賢”きどりで、いい気持になっているのかもしれない。 (付記)  この稿から三年後の平成元年一月二十七日、政治改革の基本理念を検討する竹下首相(当時)の私的諮問《しもん》機関「政治改革に関する有識者会議」が発足して、これがやっぱり通称「賢人会議」だった。   かんべんしてよ  某県S市は、オイルショック以来構造不況の波をもろにかぶって、かつての活気が失われ、とみに斜陽化の一途をたどりつつある。  この際なんとかしなくては、という市長以下S市役所幹部諸氏の発意で「第一回S市を語る夕べ」なる催しが、つい二、三日前に東京都内のパーティー会場で開かれて、在京S市出身者がおおぜい集まった。私は、S市の生れでも育ちでもないのだけれど、縁あって、むかし何年間かS市に住みつき、地元の高校を卒業しているので、準出身者としてお招きにあずかった。準出身者というより、私としては、S市周辺居住者という感じなんだけれど、周辺居住者であっても、まだ刑事被告人にも脳梗塞《のうこうそく》にもなっていない。  で、そのパーティーだが、市長、市会議長、商工会議所会頭その他おレキレキが貸切りバスで大挙上京なされて、たいそうな盛会であった。  なんでも「イベントS運営委員会」という組織がS市役所内にあるんだそうで、イベントS、という名称からして、近時のうさんくさい流行に毒されているとしか思えないのだが、それはまあいいとしよう。そのイベント運営委員会の委員長氏がパーティーの司会をつとめて、まずマイクの前に立った。  これで素人《しろうと》か、と思うほどたくみなスピーチだった。弁舌さわやか、三分間スピーチのお手本のようなしゃべり方に、すっかり感心しながら、感心する以上に、腹の底からびっくりした。  メモをとっていたわけではないので、文脈を忘れてしまった。いや、文脈は、なかったような気がする。文脈の代りに、単語と単語のあいだに、てにをはがちらばっていた。 「多彩なイベントを」「ソフトを利用して」「活性化をめざし」「コンセプトを」「21世紀にむけて」「ヒューマンスペースとして」「サバイバルのため」「アーバンライフを」……  まだまだあったはずだが、いちいちおぼえてはいられない。  たった三分間たらずのスピーチで、このありさまなのである。自分のことばというものが一つもない。口を動かしているのはこの人だが、しゃべっているのは広告雑誌である。  外来語の濫用《らんよう》をいましめる論は、むかしからあった。いまもある。  丸谷才一氏の近著『桜もさよならも日本語』(新潮社刊)を読んでいたら、こんな件《くだ》りが目についた。 「日本語論でよく言はれることの一つとして、片仮名ことばが多すぎるといふ説がある。ところが一方、それがどうしたといふ説があるんですね」 “それがどうした説”の論拠を紹介した上で、でも、それはそういうものではないのだよ、という再反論を具体的な例証とともに展開して、丸谷さんは次のように断じている。 「片仮名ことばを大幅に採用して、日本語を豊かにするなんてことは、痴人の夢にすぎない。(略)片仮名ことばの採用は日本語にとつてあまり歓迎すべきものではない。どうしても仕方のないときだけにして、あとはよすほうがいい」  私も丸谷説に双手《もろて》をあげて賛成するものだが、S市の会のスピーチでびっくりしたというのは、かならずしも、ただ単に外来語が多いということだけでびっくりしたのではない。「ソフト」や「コンセプト」もさることながら、「活性化」だの、「21世紀にむけて」だの、その手のいまでき日本語が、ぽんぽんとびだしてきたことに、おどろきかつ呆《あき》れたのである。  ことばというものは確実に伝染するもので、その意味からすると一種の細菌もしくはウィールスである。同じ菌でも、イースト菌、コウジ菌、いまをときめく(?)ビフィズス菌のたぐいならおおいに結構というものだが、チフス菌、コレラ菌といった病源菌ははなはだ迷惑である。  ソフト、コンセプト、サバイバル式の片仮名ことばを、さしずめ香港《ホンコン》風邪程度のウィールスだとすれば、したりげな日本語による一見高級そうな流行語は、さらに悪質なこと、エイズ・ウィールスのようなものだろう。 「活性化」がなんでいけないのだ、と正面きって問われると、返答に窮する。  清水幾太郎氏が「使えない言葉」と題するエッセイを雑誌(『室内』昭和六十一年新年号)に寄せて、「原点」だの「生きざま」だの「出会い」だの、とてもじゃないが使う気になれないことばを列挙しておられるなかに「活性化」も入っていた。清水さんいわく。 「『活性化』——これもニュー・フェースである。最初に使ったらしい人間の見当はついているが、十分に調査したわけではないから、名前は挙げない。とにかく、特に行政改革が問題になり始めて以来か、『活性化』の天下である。ひどい拷問《ごうもん》でも受けない限り、一生、私は『活性化』という言葉は使わないであろう」 「活性化」は、それでも意味らしきものが汲《く》みとれるだけ、まだましかもしれない。やれ「創客の時代」の、「すきま戦略」の、「創造的知識集約化」の、ときたらなんのことだかさっぱりわからない。言語犯罪というものがあるとすれば、こんなあやしげなことばをでっちあげた連中は、れっきとした犯罪者である。  意味不明というのも困りものだが、だからといって、噛《か》みくだけばいいというものではない。新しい都市計画によく見られる、たとえば「みなとみらい21」式のネーミング、あれも勘弁してもらいたい。そういえば、S市のパーティーで渡されたパンフレットにも「マリンピアS21」のステッカーのようなものが刷り込まれていた。  イベント、ソフト、活性化、コンセプト、21世紀にむけて、ヒューマンスペース、サバイバル、アーバンライフ……うっとりするぐらいなめらかな司会の辞に聞き惚《ほ》れながら、これではS市の再生はおぼつかないな、と私は心細くなった。   いえ、ほんと  テレビの公開番組で、スタジオをうずめた若い女性たちが、いっせいに「エーッ」と声をそろえて発するあの声は、いったいなんだろう。  よくよくびっくりするような場面で、思わず驚愕《きようがく》の声が出るというのならともかく、およそおもしろくもおかしくもないことがらに、いちいち反応して「エーッ」と叫ぶのは、ここで「エーッ」といえ、とテレビ局の人間にいちいち指図でもされているのだろうか。そうではなくて、自発的にあの声を発しているのだとしたら、ほとんど「ネバカ」の集団である。  ひところギャルことばの典型とされていたエーウソーの、ウソーがとれて、エーだけが残ったのかもしれないが、それにしても花の女子大生がロンパールームなみの稚《おさな》さで叫びたてるあの声は気色が悪い。不気味である。タモリさんをはじめとするテレビ・タレント諸氏は、蕁麻疹《じんましん》にもならないで、よくまあ平気でいられるものだと、毎度のこととはいえ感心する。  日本中にテレビ局がいくつあるのか、そんなことは知らないけれど、スタジオというスタジオに、日ごと夜ごと「エーッ」が充満している光景を想像すると、あまりのなまぐささにオエッとなりそうである。  ついでにいえば、あの「エーッ」とは別に、「エ」という最小音節もまたギャルたちの愛用するところで、人に何か問われたときに、一瞬、はッと息をのむような感じで、ハトが豆鉄砲をくらったような表情をうかべながら、ごく軽く「エ」とつぶやいたのちに、おもむろに答えるのが「カワユイ」会話だと思い込んでいるらしい。「エ」のほかに「ト」もある。「えーと」の「と」で、質問に答える際の、一種の接頭語として用いられているようだ。試みに、架空対談をしてみようか。 「君たちが、いっせいに“エーッ”って声をだすのは、あれがカッコいいと思っているわけ?」 「エ、べつにそんな……」 「じゃ、なんであんな声をだすの」 「とォ、なんでってことはないけどォ、ひとりでに出ちゃうんだよなあ、うん」  傍点をほどこした語法が、最近のギャルことばの特徴である。おしまいの「うん」については、山口瞳さんが『週刊新潮』の大河エッセイ「男性自身」の中で、つとに指摘しておられた。 「若い女優さんや歌い手さんで“よかったですねえ、ウン”と一人で頷《うなず》く人がいる。女子のバレーボールの解説者は“佐藤伊知子、よかったですねえ、ハイ! 中田久美、すばらしいですねえ、ハイッ!”になる。このウンとハイがとても耳障りだ」(『手帳の余白』昭和六十年十二月五日号)  若者のことばが耳障りになりはじめたら、老化現象のあらわれだと思え、という説がある。そうかしら。   ギャルことばだけが疵《きず》なり更衣《ころもがえ》  いつだったか、句会で「更衣」という席題に手を焼いて、苦しまぎれにでっちあげた駄句《だく》だが、これが意外に好評で、よく点をかせいだことをおぼえている。ということは、だれの思いも同じだということにほかならない。口にだすかださないかの違いがあるだけで、みんながにがにがしく感じているのである。  ということは、おまえさんはもちろん、おまえさんの俳句仲間全員が老いぼれてきたということじゃないか、といわれそうだが、お生憎《あいにく》さま、私はともかくとして、私の仲間たちは断じて老いぼれてなんかいない。妙にヒネこびた近時の若者たちより、よっぽど若々しい精神構造をたもっているかに思える。  どこが若々しいのだ、その根拠を示せ、というようなことになったら、話はもつれるばかりである。  だから、話題を変えます。  いま、お嬢さまブームなんだそうである。若い女性向けの雑誌は申すに及ばず、大新聞社発行の一流週刊誌までが、やれ「お嬢さまの資格」だの「お嬢さまの見分け方」などという特集記事を掲載するありさまで、気がついてみたら令嬢だらけといった気味合いだけれど、この現象は、国民の九十何パーセントまでが中流意識を持っているというアンケート調査の結果に、さも似たり。  いいかね、日本全国のギャル諸君、芦屋に住んでいるから、田園調布に住んでいるから、お嬢さまであるとは限らないのだよ。テニス倶楽部《クラブ》に所属しているから、ベーエンベーを乗りまわしているからお嬢さまではないのだよ。  ものごころついたときから、きちんとしたことばが家庭内にあったかどうか。そこのところがポイントなのさ。  急いでお断りしておくけれど、そういったからといって、「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」をひっくるめて「ご機嫌《きげん》よう」で片づける語法をまなべというのではない。あんなものは、旧華族がたがいに連帯感と、いわれなき誇りをたしかめ合う符牒《ふちよう》のようなものであって、早い話が、夜の夜中にスタジオ入りしても「おはようございまーす」と声をかけ合う芸能人の隠語となんら変るところはない。  ほんとうのお嬢さまというのは、朝なら「おはようございます」、昼なら「こんにちは」、夜なら「こんばんは」といえるギャルのことである。愚にもつかない低劣なギャグに、声を合わせて「エーッ」と叫びたてるお嬢さまが、どこにいる。  話は、またしても、ころっと変る。  もう二十年来、私はカード・マジック(トランプ手品)の魅力にとりつかれて、自分でもバカじゃないのかと呆《あき》れるぐらい、その道に打ち込んできた。だから、私のカード・マジックはうまい。世界中でただ一人、“プロフェッサー”と呼ばれる九十いくつになるアメリカの大マジシャンに「グレート」といわれたぐらいうまい。  つい数日前、この春卒業して就職することがきまっている女子大生ギャル六、七人を集めてカード・マジックを披露《ひろう》する機会を得た。くどいようだが、私はうまいから、一つ演じるごとにギャルたちがあっけにとられて、そのたびに「エーッ」と声を合わせて叫んで深更に及んだ。ナマで聞く「エーッ」は、なかなかによきものであった。いえ、ほんと。   ものわかりがよすぎるよ 「現代かなづかい」が四十年ぶりに手直しされることになった。ただし、その指針は官公庁、学校、マスコミなどに適用されるもので「個々人の表記にまで及ぼそうとするものではない」と答申は断っている。  国語審議会のその答申をトップで報じていたNHKテレビ夜七時(昭和六十一年三月六日)のニュースを見ていたら、これからはたとえば「経営」を「ケーエー」と書いても個人の自由だ、という意味合いの説明のあとに、こんなコメントをアナウンサーが読み上げた。 「ケーエーという表記を、ことばの乱れととらえるべきか、それとも、新しい言語文化の動きととらえるべきでしょうか」  なんというものわかりのよさ。このものわかりのよさこそ、日本語の大敵ではないかと私は考える。ケーエーなどという表記が「言語文化」なんかであってたまるもんか。  これからは「“てふてふ(蝶々)を見ませう”と書いてもいいし、ヤングの“そーゆーことわァ、やめよーヨ”も許される」と社会面で大きく書きたてていたのは毎日新聞(三月七日付)である。個人の表記は自由という答申の側面を強調したこの記事は「規範にとらわれない若者たちは次々に独特な表現を編み出しており、日本語の表記は、答申のさらに先を行っている」と、これまたヘンにものわかりがいい。  その二日前の同じ毎日(夕刊)で『比較日本語論』『翻訳語成立事情』などの著書をあらわしている評論家の柳父《やなぶ》章氏が「『新口語文』の出現」と題する小論文を寄稿しておられた。現代口語文の成立の歴史をきちんと踏まえながら、氏はいう。 「新口語文の出現は、文体史上の革命前夜とも言うべき出来事ではないか、と私は今考えている。(略)現代の若者たちの新口語文は、言わばかつての言文一致運動が果たさなかった第二の言文一致とも考えられる」  軽佻《けいちよう》浮薄な若者ことばが、なんだか偉大な言語であるかのような錯覚にとらわれかねない。  こういうものわかりのよさは、いまにはじまったことではない。  もう何年も前に、「そーゆーことナンでR」だの「キモチE」だの、駄《だ》洒落《じやれ》としても下々の下としかいいようがない不純表記を編みだして、颯爽《さつそう》とマスコミ界にデビューした人物に、文化欄を割いて「ABC文体」についての小論をいちはやく書かせていたのは朝日だった。 「愛情する」とか「元気する」とか「お茶する」といっためちゃくちゃな若者ことばを“するすることば”と命名して、それなりの意味づけをしていたのは毎日だった。  そういえば、いまこれを書いている今日のことだが、昼間乗ったタクシーのカー・ラジオが高名な人気女優のインタビュー番組をやっていた。二十七、八歳ぐらいだと思われる人気女優は大阪の出身で、いまでもたまに高校の同窓会に出る、という話になって、いきなりこんなことをいった。 「クラスメートのほとんどが結婚して、子供もできて、みーんな、オバさんしてるわけ。オバさんしちゃっちゃだめよねえ」  オバさんする、とは強烈である。“するすることば”もここまできたのか、と思ったら、もう日本語圏から脱出したくなった。  流行語、新語、珍奇な語法を紹介するのもマスコミの使命だろうが、目に余るでたらめ語法をたしなめて、言語をただすこともまた重大な使命ではないのか。  あきらかにでたらめ語法だ、と思いながら流行を先どりしてみせることはマスコミ人の手柄《てがら》ではなくて、堕落と知るべきである。  なんでこう若者に迎合したがるのだろう。  若者ことばに言語学的評価を与えたさきの柳父氏によれば、こうしたことばの発祥は、若者向けの情報誌『ぴあ』あたりに求められるらしい。  人間の健康な生理に対する邪悪な挑戦《ちようせん》としか思えないような、ノミの糞《くそ》みたいな極小活字で、映画、演劇、音楽、絵画、テレビ、ビデオなど都市生活におけるありとあらゆる情報という名の広告だけを満載することでいい商売をしているこの雑誌の存在は、私といえども知っている。人のフンドシで相撲をとるような、思えばあこぎな商法だが、でも、それは一つの着眼であって、広告同然の、したがって当然タダでばらまいてしかるべき印刷物に、あろうことか一冊二百三十円の定価をつけたって、べつに法に触れる行為ではない。だから、そこまではいいとして、許せないのは、ごくわずかではあるけれど掲載されている文章の部分である。たまたま手元にあったのがそれ一冊だけだったので、ずいぶん古い号(昭和六十年十二月十三日号)からの引用で恐縮だが、たとえばこんなぐあいである。 「音楽部門〈ぴあテン〉 トーキング・ヘッズは手離しでサイコウでした。プリンスは、ちょっと盛り下がってくれて、涙とよだれが一緒にてろてろ言っております。シーラ・Eはどーしてもホントウにすごくカッコ良かったです。おはり」 「音楽部門〈もあテン〉 ジョン・レノンはさておいても、ヤンシスターズはいったいどこへ行ってしまったのだろう。どちらかーとぉぅ言えばぁーヘヘイヘイ! も一度聴きてーなぁ。吉祥寺サリドマイズは、名前のせいでメジャーになんねーかもしんねーけど、笑わしてくれよな」  これがユーモアだ、と書いたほうも載せたほうも思い込んでいるのだろうが、こんなものはユーモアとはほど遠い。ただ単なる悪ふざけにすぎない。それも、せいぜい中学生レベルの悪ふざけである。  採用されたい一心で、ことさら奇をてらった文言《もんごん》を並べたてているのかもしれないが、奇をてらうという以前に、何よりも下卑《げび》ている。こういう醜怪な悪ふざけは、するものではない。  ふん、おじんが何いってんだ、自分だけの古くさい価値観にしがみついて、その価値観がくつがえされる危機感にあせってるんだろう、という声ぐらいちゃんと聞えている。  笑わせてはいけない。カチカンだの、キキカンだの、そんなご大層なことではないのだよ、お若いの。  まともな言語で、まともに書いたらどうなんだ、というだけの話にすぎない。  日本語のルールも習慣も無視して、ただふざけ散らしているだけのこういう文章は、右から左に没にするのが、マスコミに課せられた義務ではないか。   やぼで結構  第十二回先進国首脳会議「東京サミット」の期間中、円高に悲鳴をあげている外国記者団に無料サービスされたバイキング方式のディナーのなかで、断然人気があったのがSUSHIだったそうだ。  実際、アメリカをはじめとする諸外国でのSUSHIブームは端倪《たんげい》すべからざるものがある。その人気が逆輸入されて、この日本でも、寿司《すし》屋ではなくて“SUSHI・BAR”の看板を掲げる店が出てきた。誇り高き天領の地である飛騨高山で“SUSHI・BAR”を見つけてびっくりしたのは、もう三年ぐらい前のことである。  そういう下地もあってか、いま、シブがき隊の『スシ食いねェ音頭』というへんてこりんな歌がヒットしている。 〓あ、ガリ、あ、ガリ、あ、ガリガリガリガリ……オアイソォ  他愛《たわい》もないコミカル・ソングなのだから、笑って聞き流せばいいようなものだけれど、これでまた「ガリ」だの「オアイソ」だの、一種の業界用語がいっそう身近なものになるのかと思うと、笑ってばかりもいられない。  寿司屋の職人が、ガリといい、アガリといい、オアイソというのはもとより自由である。いなせな職人が「アガリいっちょう!」と叫んだりするのは、威勢がよくて、なかなかいいものである。だからといって、客まで追随することはない。ショウガを食いたければショウガといえばいい。お茶を飲みたければお茶といえばいい。勘定をしたければ勘定といえばいい。  ことは寿司屋だけの話ではない。このたぐいの業界用語は、どんな職域にもある。  新聞社方面では「タレコミ」「ガセネタ」、警察方面では「ガイシャ」「メントオシ」、永田町方面では「ムラ」「ネル」といったぐあいで、これはほんの一例にすぎない。 「コレモンで」という妙なことばがある。もともとは邦楽の清元『鳥刺し』で、〓まづこれものにかんまへて……という歌詞を〓まづこれもんにかんまへて、と発声させたのが、あとを引いているのではないかという説を聞いたことがあるが、私の記憶では、ひところ、ジャズ・メンのあいだで用いられていたのではないかと思う。これを口にするときには、かならず手ぶりが伴う。ゴルフでいいスコアをだしたあと、両の拳《こぶし》を鼻にあてがいながら「コレモンよ」といえば、鼻たかだか、という意味なんだし、ギャンブルで大敗したあと、片手で首を絞める仕種《しぐさ》をしながら「コレモンよ」といえば、自殺したいぐらいだ、という意味になる。  近年、人差し指で頬《ほお》をタテになぞりながら「コレモン」ということで、やくざを表わすやり方がはやっているけれど、本来は、何にでも使える表現、というより表現の補助手段として、ジャズ・メンがしきりに口にしていたように記憶する。ついでにいえば、ことばをひっくり返すのもこの人たちの習性で、ジャズは「ズージャ」、ポーカーは「カーポ」というらしい。  テレビの世界もまた業界用語に満ちている。  夜の夜中に顔を合わせても「オハヨウゴザイマース」と挨拶《あいさつ》するなぞは序の口であって、これはまだ、さいわいなことに一般社会には伝染していないようだが、たとえば「目線《めせん》」などという奇ッ怪なことばは、もう市民権を得てしまったようだ。三浦裁判のテレビ・ニュースを見ていたら、傍聴席から出てきたアナウンサー(レポーターではない)が「三浦は矢沢証人に一回もメセンを向けませんでした。とにかく二人とも、メセンが全然合わないのです」と、短いコメントのあいだに何度も「メセン」を連発していた。どうして「視線」ではいけないのか。なんなら「目」でもいい。目を向けません、目が合わない、ほら、いいではないか。  もっと感じが悪いのは、例の「ヤラセ」という業界用語である。高圧的で、不遜《ふそん》で、この一語には驕《おご》りが感じられる。ワイドショーで放映された不良少女グループの凄惨《せいさん》なリンチ場面が、ディレクターからの委嘱もしくは教唆《きようさ》によるものであることが発覚して、大きな社会問題になったときから「ヤラセ」ということばが、にわかにひろまった。  テレビがテレビを見直すというふれこみで話題になった『NHK特集・いまテレビは』(昭和六十一年三月二十二日放送)のなかで、NHK解説委員もつとめる評論家の柳田邦男さんが、こんな発言をしておられた。 「これまで“ヤラセ”ということばはテレビ界の特殊用語だったのですが、いまや一般的になりました」  なっては困るんだよなあ。  業界用語というものは、一般の人間がみだりにマネすべきものではない、と私は考える。  寄席芸人の世界、とりわけ落語家のあいだでは、むかしからさまざまな符牒《ふちよう》や、特殊なことばづかいがあった。 「カゼ」といえば扇子のこと、「ダルマ」といえば羽織のこと、「タレ」といえば女性もしくは女性性器のこと、「カク」といえば性行為をすること、「ヘイマン」といえば一万円のこと、「ビキマン」といえば二万円のこと、といったぐあいに列挙していったらきりがない。行儀の悪いことばもあれば、下品なことばもあるかわりに、洒落《しやれ》たことばもあれば、粋《いき》なことばもある。そうして、それは芸人が口にするからこそ粋なのである。 「そうなんですよ。素人《しろうと》が芸人ことばを口にするのはおよしなさいっていいたくなりますね。当人はせいぜいイキがってしゃべってるつもりなんだろうけど、あたしら芸人が聞いて、聞き苦しいね」  俳句仲間と雑談しているときに、たまたま芸人ことばの話になって、ほかならぬ柳家小三治が、芯《しん》から迷惑そうな口調でそうぼやいていた。近頃《ちかごろ》、若い連中がむやみに芸人ことばを口走るのはにがにがしい限りだ、という意味のことを口にした小三治は、にやりと笑っていった。 「堅気《かたぎ》の人間が芸人ことばをつかったって、洒落〓なんねえよ」  その「洒落〓なんねえ」も含めて、「セコイ」だの「ヨイショ」といった芸人ことばを、いまや、ニキビづらの高校生までが、ごくふつうに口にする時代である。  うっかり注意でもしようものなら、返ってくることばはきまっている。 「これは洒落じゃん。そんなダサイこといったら洒落〓なんねえよ。まったくもうやぼなんだから」  やぼで結構。  洒落だらけ、おふざけだらけ、ふまじめだらけのいまこそ、やぼになることが大切なことではないのか。   政界ことばの浄化  衆参同日選挙の投票日(昭和六十一年七月六日)が近づいて、いや、近づく前から、マスコミに氾濫《はんらん》してやまなかった選挙報道という名の予想や解説を読めば読むほど、かたぎならざる世界の出来事、早い話が、やくざの抗争、手打ち、跡目相続といった別世界の行事を見るような気がしてうんざりするというのは、いまにはじまったことではない。  選挙を含めて、政治の動きを伝えるマスコミの側に、表現に際して、ことばの吟味というものがまったくなされていないことが、政治を別世界に追いやっている一つの要因になっている。もともとあれは別世界であり、政治家というのはかたぎならざる人種の最たるものなのだ、といってしまえば、それはそうかもしれないが、かりにそうだとして、だからこそ、あの人種が日夜くりひろげている茶番劇にも似たさまざまな事態や現象を、かたぎのことばで伝えることが、何よりも大切なことではないのか。やくざことばを、かたぎのことばにきちんと翻訳するという作業を、大新聞をはじめとするマスコミは、怠っていると私には思える。  業界用語というものはもともと品のないもので、一般の人間がみだりに口にすべきものではない、と私は前項で書いたばかりだが、いうところの“永田町ことば”については「ムラ」(派閥)と「ネル」(審議拒否)の二つを引いただけだった。この際、もう一度書きたい。 「ネル」とくれば、「起きる」は審議再開のことであることぐらいは察しがつくけれど、やれ「哺乳《ほにゆう》びん」だの「毒がまわる」などといわれてもさっぱりわからない。前者は与野党間の取引きのこと、後者は取引きのカネが動くことなんだそうである。  議員諸公のあいだだけで通用している下品な陰語を、たとえゴシップ調の記事のなかであっても使うべきではない。金が動いたのなら、金が動いた、と書けばいい。それが、かたぎのことばに翻訳するということである。  その手の陰語ばかりではない。  今度の解散・総選挙が、やがてどう名づけられるのか、かの「バカヤロー解散」(昭和二十八年)以来、「黒い霧解散」(四十一年)、「ハプニング解散」(五十五年)、「ロッキード解散」(五十八年)と、そのときどきに呼称がついてきたもんだから、今度もまた「寝たふり解散」「死んだふり解散」「裏口解散」「半狂乱解散」「親バカ解散」「円高解散」「だまし討ち解散」「居直り解散」といったネーミングを、マスコミはいちはやく紹介していたが、こういう命名を慣例にしなければならないと考えることはないのであって、解散は解散でいい。  慣例といえば、毎年、国家予算成立のたびに、予算総金額の語呂《ごろ》合わせをとくとくとして発表するほうもするほうだが、あんなくだらない駄《だ》洒落《じやれ》をおもしろがって紹介するほうも紹介するほうである。  解散の命名にしても、予算の語呂合わせにしても、あれは一種のユーモアであって、日本の政治にはユーモアが欠けている、イギリスの議会を見ろ、という反論が返ってきそうだが、あんなものをユーモアだといわれては、ユーモアがかわいそうである。  イギリスの議会における応酬ぶりを仄聞《そくぶん》するに、高級な精神作用としてのユーモアが、議論の潤滑油の役割を果している。  一国の政権政党の総裁を選出する選挙に、やれ「ダルマ」だの「ニッカ」だの「サントリー」だのと、ばらまかれた金額をウィスキーになぞらえてみせたりするのが、ユーモアなんかであってたまるものか。  政界特有のきたない擬似ユーモアを、おもしろがって書きたてることは、政治家に対するお追従《ついしよう》であり、もっと極端なことをいえば、ニッカだ、ダルマだ、と書くことによって、不浄の金を洗うことに一役買うような結果になっている。  程度の低い“政界ユーモア語”を、いっさい無視するのがマスコミの見識というものではないのか。無視するということは、事実に目をつぶることを意味しない。くどいようだが、政治家のことばを、かたぎのことばに翻訳した上で、事実を正確に伝えてこそ報道の名に価する。  ことばというものは、いったん人びとの口にのぼったら、ひとり歩きしはじめるもので、自浄作用の働きもする代りに、悪の先っ走りをすることもある。  政界の浄化が叫ばれてすでに久しいが、その前に、政界ことば、政治家ことばを浄化すべきだと私は考えるものだけれど、考えるだけで、期待はしていない。期待どころか、ほとんど絶望している。  公共の電波にのって、うんざりするほど茶の間に侵入してくる政見放送を聴きながら、つくづくそう思う。もちろん、政見放送で、下卑た政界隠語を口にする候補者はいない。それどころか、美辞麗句を並べたてるだけ並べたてて、態度も殊勝そのものである。ただ、残念ながら、そのほとんどは、自分の肚《はら》から出た自分のことばではないし、殊勝な態度も借りものであることが、テレビ画面を通すと、みえみえである。  だから、ごらん。ひとたび当選を果して議員バッジを衿《えり》につけたとたんに言動が一変すること、おそるべきものがある。そうして、そういう人種が予算委員会なんかの質問に立つと、質問とは名ばかり、あれはもうやくざの恫喝《どうかつ》としかいいようがないような、すさまじいことばを口走って、はばかるところがないのだから、「選良」ということばは、いったいなんなんだろう、と思う。この人たちが、とりわけハッスルするのが、首相の出席をえて、なおかつテレビ中継がある委員会で、そういう委員会のことを「バス・トイレつき」というんだそうである。いいかげんにしやがれ。   自縄《じじよう》自縛  文筆を業として二十年、近頃《ちかごろ》、だんだんすれっからしになってきていることを自覚する。  どういうことかというと、原稿依頼の電話がかかってきたときの自分の応対が、われながら実にいやらしいのである。あわててお断りしておくが、これがたとえば『小説新潮』からとか、『オール讀物』からとか、誌面を知悉《ちしつ》している雑誌からかかってきたときは別である。そうではなくて、企業のPR雑誌とか、近年大流行の下請け編集プロダクションなんかからかかってきたときに、まずまっさきにたしかめないと気がすまないことがある。やりとりの見本を、実例に即して再現してみようか。 「もしもし、江國センセイのお宅ですか。あ、センセイですか。突然お電話で失礼します。こちらは何某企画という編集プロダクションなんですが」 「はい」 「わたくしどもが編集を代行している雑誌で、何某商事のPR誌があるんですけど、その雑誌の随筆欄に原稿をお願いしたいんです。テーマは——」 「ちょ、ちょっと待って下さい。その前に、ひとつうかがいたいことがあるんですが」 「はあ、なんでしょう」 「その雑誌は、横組みですか、タテ組みですか」 「横組みですけど……」 「あ、それだったら、まことに申訳ありませんが、失礼させていただきます」 「え、どうしてですか」 「横組みの印刷物には、わたし、いっさい書かないことにしてるんです」 「それはまたどうして」 「僕は、タテに書いているんです。それを横に組まれたら、自分が読んでも、自分の文章だとは到底思えないからです。要するに、横組みの文章は、生理的に受けつけられないんです」  ——これで、だいたい了解してもらえるのだけれど、ごく稀《まれ》に、まだねばる編集者もいて、こんなことをいいだしたりする。 「わかりました。それじゃ、どうでしょう、センセイのお原稿だけタテ組みにさせていただきます、それなら書いていただけますか」 「うーん」  謝絶の理由は、この瞬間に消滅したわけだし、それにだいいち、そこまでいわれたら、売文の徒としては冥利《みようり》につきる。しかしながら、大文豪じゃあるまいし、こんなへっぽこ文章を、別格に扱ってもらったりしたら、それだけで寿命がちぢむ。だから、こう答える。 「そういっていただけるだけで光栄の至りです。でも、それは編集権の侵害になりますから、やっぱり失礼させていただきます」  はじめに書いたとおり、実にいやらしい。いやらしいけど、これは自衛の策でもある。法律のことばを藉《か》りれば、正当防衛、もしくは緊急避難。だからそれで守りは万全だと思っていたのだけれど、それが、万全ではなかったのですね。横組みかタテ組みか、という基本的な問題のほかに、もう一つ、たしかめておかねばならないことがあった。 「ええ、ウチの雑誌はタテ組みです」  そういう返事が返ってきても、まだ油断はできない。いやらしい上にもいやらしいことなんだけれど、このときに、私は、もう一つたずねる。 「誌面の割り付けは、編集者がやっておられますか、それとも、専門のレイアウター、つまりアートディレクターがやっているんですか」 「もちろん、アートディレクターです」 「あ、それじゃお断りします」 「…………」 「あの連中は、ですね、いやしくもレイアウターだの、デザイナーだのと称しているからには、何かとっぴなレイアウトをしなくてはゼニをとれない、と考えているんじゃないですか」 「それがプロでしょう」 「そう、そのとおりです。ですから、動機は純粋です。でも、結果は不純です」 「は? おっしゃる意味が、よくわからないんですけど」 「こういうことです。とくに“ムック”などと称する印刷物に多いんですが、レイアウトが、しっちゃかめっちゃか、文章の部分が、ギザギザというか、デコボコというか、どこからどこにつながるのか、それさえわからないようなレイアウトをしてはばからない無礼者がいるわけです」 「はあ」 「それに加えて、文章の活字の下に、ヘンテコリンな絵だの、写真だのを印刷する大バカものがいる」 「…………」 「あれは許せません」 「…………」 「おタクの雑誌が、レイアウターを使っておられるんだったら、わたし、書きたくないです」  こんなやりとりばっかり繰返しているうちに、渡る世間がだんだんせまくなっていくことぐらい、自分でもわかっている。わかっていても、いやなものはいや也《なり》。  これを、自縄自縛、という。   ボケて悪いか?  厚生省は、いったい何を考えているのか、と思う。  去年の新造語「実年」に味をしめたのかどうか知らないけれど、今度は“ことば狩り”ときた。  いまや焦眉《しようび》の急といってもいい段階にさしかかっているボケ老人の問題に、ようやく本腰をいれて取組む気になったらしい厚生省が「痴呆《ちほう》性老人対策推進本部」なる機関を発足させた。これはいい。むしろ遅きに失したぐらいである。遅きに失したとはいえ、発足させないより、させたほうがいいにきまっている。現にボケ老人をかかえて悪戦苦闘を余儀なくされている何十万世帯の人びとにとってはもちろんのこと、まだボケてはいないはずだが、あすはわが身の恐怖感にさいなまれている私のような老人予備軍にとっても、一応の朗報にはちがいない。“遅すぎた善政”と評価した上でいうのだけれど、その推進本部が何をするのかというと、まずとりあえず「痴呆性老人」と「ボケ老人」ということばを追放すべく、しかるべき言いかえネーミングについて論議するのだという。  対策本部が、結成に際してみずから名乗っておきながら、その呼称を改めることが初仕事だというのも滑稽《こつけい》きわまりない話、というより不条理な話であって、たとえてみれば、裁判官が被告を兼ねるようなありえない光景にさも似たりというのが私の感想なんだけれど、このニュースを報じている記事(朝日・昭和六十一年八月三十一日付)を読むと、これには理由があって、「ボケ老人」というのはあくまで俗称、公式には、医学用語である「老人性痴呆症」からとった「痴呆性老人」が用いられてきたのであるから、審議もしないでいきなり改めるわけにはいかないということらしい。  で、なぜこの呼称を改めなければいけないのか。「痴呆性老人」の「痴」は「白痴」の「痴」であり、「呆」は「阿呆」の「呆」である。その二つを結合させた字面《じづら》と語感に対する反撥《はんぱつ》が、家族や施設関係者のあいだで強かったからだ、と記事は説明している。  れっきとした医学用語に基づく公用語でさえけしからんというのだから、いわんや俗語においてをや、「ボケ老人」などという呼称は言語道断である、ということらしい。 “官”にさきがけて、とっくに“民”のほうでは「呆け老人をかかえる家族の会」とか「ぼけ老人てれほん相談」といった民間活動がなされていたわけだが、それに対しても「老人をばかにした言い方だ」「不快だ」という批判の声が少なくなかったので、すでに一部の施設や地域では、「痴呆性老人」「ボケ老人」に代る表現として「老心者」「老心症」「二度《にど》童子《わらし》」といったことばを採用している、とも書いてあった。  とたんに思いだした俳句がある。   蝉《せみ》を掌《て》に老父よ八十四童子  伊藤仙女  歳時記か俳句雑誌でたまたま目にした句で、作者については何ひとつ知るところがない。この句の「童子」は「どうし」もしくは「どうじ」と読むのだろう。東北方言になって、はじめて「わらし」である。三浦哲郎氏に『ユタとふしぎな仲間たち』という童話があって、東北地方の“座敷わらし”伝説に材をとった、これは名作童話というべきすぐれた文学作品だと私は考えているものだが、ボケ老人を「二度童子《わらし》」だなんて、そんな呼称が定着してしまったら、名作が泣く。 「ボケ老人」でなぜ悪い。  人間、年をとればボケるのである。そりゃ、なかには米寿、白寿《はくじゆ》と生きながらえながら、最後の最後まで頭だけはしっかりしたままめでたく大往生をとげる人間もいることはいるけれど、あれは稀有《けう》なる例外と知るべきであって、人間が天命に逆らってこんなに長生きするようになった以上、ボケて当然、ボケないほうが不自然である。  幸か不幸か、たぶん不幸にちがいないと私は確信しているのだけれど、長生きしすぎてしまった報いがボケという肉体現象なのだと考える。「老心者」という新造語の発案者である東京都社会福祉協議会・老人福祉部会の委員長氏(七六)は「肉体ではなく、心が先に衰えた老人に対し、感謝と尊敬の気持ちも込めた」のがあの「老心者」ということばだと語っておられたが、これ、逆ではないのか。ボケというのは一〇〇パーセント肉体の欠損で、だからこそ「老人性痴呆症」という医学用語が生れたのではないか。  私なら私が、このさき老人になって、遠からぬあるときを境にボケたとしよう。ボケていて、老人なんだから、ボケ老人、まちがいないではないか。  でもまあ、「ボケ」というのはあまりにも直截《ちよくせつ》にすぎる、という気持はわからないでもない。どうしてもいやだというのなら、医学用語を、いままでどおり、そのまま使えばいい。エイズをどういいかえようと、症状が軽くなるわけがないのと同じように、「老人性痴呆症」を「老心症」といいかえたからといって、症状が好転することはありえない。  それに「老心症」といった場合、老人性の心臓疾患とまぎらわしいではないか。字面からすれば、どうしたって心臓病である。  ひところ、民間団体による“ことば狩り”が熾烈《しれつ》をきわめて、その猛威の前に、日本中のマスコミというマスコミが、いっせいに“なびきふしけむ”という様相を呈した時期があった。テレビ・ドラマの台本に「時計が狂っている」というセリフを書いたら、プロデューサーに「そいつは禁止用語です」といわれて、「時計が遅れている」と書きなおしたら、「どうせなら“進んでいる”にしてください」といわれたという話を友人の劇作家に聞かされて、唖然《あぜん》(これだって、あのときだったら許されない表現だろう)としたおぼえがある。しかしながら、あの“ことば狩り”には、差別問題という大義があった。あきらかに行きすぎではあっても、やむをえないという側面を備えていた。  厚生省主導の、今度の“官”による“ことば狩り”には、それがない。なぜなら、特定の人間だけがボケるのではないんだもの。 「ボケ老人」にしても「痴呆性老人」にしても、たしかにいやな感じのことばである。そうして、いやな感じのことばというものも、世の中には必要なのである。   鳩《はと》公害  おそらく雑踏のせいで、いままで気がつかなかったのだろうが、久しぶりに最終の新幹線で旅先から戻ってきたら、東京駅北口の、がらんとしたコンコースの壁に、こんな貼《は》り紙がしてあるのに、はじめて気がついた。 〈鳩公害にご注意下さい〉  まったくだ、と思わず声に出かかった。  ただし、私が思いうかべたのは、鳩の糞《ふん》による汚染ではない。でも、鳩公害とはいい得て妙である。実際、あれはもう一つの鳩公害としかいいようがないな、と思いながらタクシーに乗り込んだら、カー・ラジオから、けたたましくもすさまじい女三人のワイ談が流れていた。女三人、と書いたものの、三人ともあきらかに十代の小娘たちである。お尻《しり》にまだ青あざが残っているんじゃないかと思われるような年端《としは》もいかないそのガキどもが、チーチーパーパー、顔も赭《あか》らむ話を競争でしゃべりまくっている。しかも、そのことばたるや、ほとんど日本語とはいえない醜怪下品な言語であって、聞くに耐えないなどという段階を通り越しているのだから、これはもう“電波犯罪”に近い。 「ねえきみ、すまないがそのラジオ、消すか、ほかの局に変えるか、どちらかにしてくれないか」 「うふ、お客さん、こういう話きらいですか」 「もちろん——」  もちろん好きにきまっている、ただし、この手の話は男に限る、さらにただし、十代や二十代のちんぴらではだめで、人生経験をつんである程度の年齢に達していることが絶対の条件であって、それを、あろうことか、しょんべんくさい小娘どもが、軽佻《けいちよう》浮薄な病的言語を駆使して、とくとくとしゃべりまくるなぞは、両性機微の沙汰《さた》を冒涜《ぼうとく》するものである、と説明したかったのだけれど、このタクシーは個人タクシーで、運転手は初老の、いかにも話し好きらしい運転手で、個人で初老で話し好き、ときたら結果は目に見えていると思って、あえて口をつぐんでおいた。 「そうですか、おきらいですか」  大いなる誤解をしたまま、運転手は、ぱしゃり、と選局ボタンを押して、ほかの番組に変えてくれた。 「ありがとう」  やれうれしや、とほっとしたのもつかのま、今度は、変声期を迎えたばかりという感じの男の子が、猛烈な早口で、気色の悪いことばをまき散らしはじめた。  もう一度変えてくれとは、さすがにいいだしにくくて、耳をふさぎたい思いでシートにもたれていたら、ねえお客さん、と運ちゃんが背中で話しかけてきた。ほら、おいでなすった。 「ひでえもんだよね、ガキたちのことばときたら。よくまあ、放送局の社長が黙ってるもんだね。社長や重役なんて連中は、こんな番組、聴いたことないんだろうね。自分とこのラジオが、どれほど最低な放送やってるか、一度、聴かせてやりたいもんですよ」 「うん、うん」  気に入った、運ちゃんさん。 「あれがカッコいいことばだと思ってるんだろうけど、わたしらには、ちんぷんかんぷんです」 「だけど、いつも聴いてるんだろ?」 「ええ、これも勉強だと思って」 「勉強?」 「はあ、やっぱ、おくれたくないですからね」  うーん、運ちゃんさん、きみもか。なんでそんなに謙虚なんだ。なんでそんなに迎合しなきゃいけないんだ。 「鳩公害だなあ」 「え? なんです?」 「いや、なんでもない」  自称“ポエティック情報誌”なる若者向けの雑誌『鳩よ!』(マガジンハウス刊)が、どこでどうまちがったのか、およそ縁のない私のような者にまで送られるようになって、もう二、三年になる。寄贈にあずかっておきながら、悪口をいうのはルール違反、おおげさにいえば人倫に悖《もと》る行為であることを認めた上で、なおかつ、書かずにはいられない。 〈オッシャレー語でこの秋の情報きまり!〉  そんなキャッチフレーズを表紙に大きく刷り込んだ十月号のページを繰っていくうちに、逆上のあまり脳内出血で倒れるんじゃないか、というぐらいの気分に襲われた。 〈「んだよ」「るせえな」は両方ともコミックから派生してきたことば〉 〈“かわいい”ということばは実に多くの結合の手を持つようになった〉 〈ヴィデオ・クリップがこれだけ普及し、男の化粧がごく当たり前の事実と化した今、ヴィジュアル・イメージがウリのミュージシャンたちのヘアケアやスキンケアはどーなっているのだろう、と思うのが、世のならいとは言うものである〉 〈「どう気分は?」「めっちゃくちゃバッドォ」なんていう会話は、立川の米軍基地そばに住む、外人好きの若者、という感じがして、すごく安っぽくていいな、と思います〉 〈岡田有希子のスケジュールは、サンミュージックが切っていたので、幽霊のスケジュールはサンミュージックが切っていたのか、石原プロが切っていたのかという一大論議が巻き起りましたね〉 〈そのポーとした消エネの存在感は不景気の時代のサバイバルにぴったり〉 〈蠱惑《こわく》的な体毛に被《おお》われ隠されてある深層(傍点原文)に息づいているはずの真理《カント》めざして欲望する精神現象《ヘーゲル》の、その栗花色の童貞性《こわばり》を笑って、やってみれば膣《ちつ》もまた表層《ひ ふ》のちょっとした変形にすぎないじゃないかと見做《みな》すこと〉  やめた、もう。ひろっていったらきりがない。迎合どころか、煽動《せんどう》ではないか。若者をたきつけるのはいい加減にしてもらいたい。  毎号無料送付にあずかりながら、こんなことをいうのは恩を仇《あだ》で返すようなものだけれど、だれかがいわなくては、と考えていた矢先に東京駅の貼り紙を目にしたというわけである。  カー・ラジオでちんぴらタレントがなにかいっている。 「るせえな」 〈鳩公害にご注意下さい〉   とりあえず三つ  きらいな語法が、いま、三つある。  いま三つ、と限定したことに、べつだん深い意味はない。きらいな語法をかぞえたてていったら、いくらでもふくれあがってきりがないので、とりあえず、三つ、と書いたまでの話であって、したがって、“八ツ当り”の標的にされた三つのことばには、おきのどく、としかいいようがない。  三つのうちの、その一。  近ごろむやみに目につくようになった「こだわる」という語法が、どうもひっかかる。  こだわる、というのは、たとえば次のように用いるのがふつうではなかったのか。  くだらないことにこだわるなよ。おたがいにこだわりを捨てよう。いつまでもこだわることはない。  試みに国語辞典を引いてみようか。 〈こだわる さしつかえる。さまたげとなる。ある事を気にして、気を使う。「物言いに—って揚げ足をとる」故障を言い立てる〉(『新潮国語辞典』)  正と負に分ければ、あきらかに負、すなわちマイナス・イメージのことばである。それが、いつのまにかプラス・イメージのことばに変った。  ホンモノにこだわりたい。最近なぜか文房具にこだわっている。わたしラーメンにこだわってるヒトなの。  これ、ちょっとおかしいんじゃないの。  ほかに表現方法がないのであれば、それはもう仕方がない。でも、使いなれたことばがいくらでもあるじゃないか。「執着する」でもいいし、「愛着がある」でもいいし、「打ち込む」でもいいし、「惚《ほ》れ込む」でもいいし、「凝っている」でもいい。  こだわりたくない、という語法がある以上、こだわりたい、といったっていいではないかといわれたら、よくないとはいいにくい。現に、神吉拓郎さんのお宅には二匹の猫がいて、名付けていわく「ある」と「ない」というんだそうで、実に結構なネーミングだと感服しているのだけれど、それとこれとは話がちがう。  ラーメンにこだわる、に至っては噴飯ものであるといったら、きっと、こう反論されるだろう。 「おまえはなんにもわかってない。“執着”とか、“愛着”とか、そんなたいそうなことではないものに対して、人一倍の情熱もしくは関心を寄せているときに、わざと“こだわりたい”という語法を用いるのだ、つまり、たかがラーメン、されどラーメン……」  それ、それ、その「たかが○○、されど○○」というのも、いいかげんにしてもらいたいもんだ。三つのうち、これがその二。 「たかが野球、されど野球」だったか、「たかがゴルフ、されどゴルフ」だったか、いまとなってはもう忘れてしまったけれど、はじめてこの言いまわしに接したときには、うーん、うまいな、と感心した。そうして、こういう表現は、第一発見者のお手柄《てがら》であって、二番煎《せん》じ、三番煎じぐらいまでは目をつぶるとして、百番煎じはいただけない。  たかがラーメンならたかがラーメンでいいではないか。実際、たかがラーメンである。  そういったからといって、ラーメンをバカにしているのではない。ラーメンは私も大好物である。大好物であるということと、「たかが」ということとは、決して矛盾しない。  ラーメンだけではなくて、天ぷらだろうが、蒲焼《かばやき》だろうが、寿司《すし》だろうが、はたまたトゥール・ダルジャンの鴨《かも》だろうが、「たかが」である。  そこで、その三。 「ここの鮨《すし》はいわゆる『仕事』がしてある」  いまをときめく売れっこ女流作家の“グルメ小説”を読んでいたら、こんな一行が目に突き刺さった。  なんじゃ、これは。  天皇の料理人だろうが、屋台のおでん屋だろうが、ものを作って生計を立てているからには「仕事」をしていることに変りがない。ただし、仕事の内容となったら別である。  それをいいたかったら、「いい仕事をしている」とか、「仕事がていねいだ」とか、そういってこその日本語だろう。 「仕事をした」というだけで、「いい仕事をした」という意味合いを持たせるようになったのは、プロ野球南海ホークスの“知恵袋”で、阪神タイガースの監督を短期間つとめてすぐにクビになったドン・ブレイザーのコメント以来のことだと記憶する。 「うん、エキサイティングな試合だった、みんなが、自分の仕事をした」  英語では、それでいいのかもしれない。  日本語に、そのニュアンスは、ない。  仕事なら、だれだってしているのである。  おしまいにお断りしておく。  いまをときめく女流作家のこの小説が、いいの悪いの、といっているのではない。いいか悪いか、ということでいえば、断然、なまなましい。  自称グルメの三十三歳になる女主人公と、そのペットともいうべき青年との情事をタテ軸に、女主人公と同類の、うまいものに目がない中年女性たちの生態をヨコ軸に据《す》えたこの短篇《たんぺん》小説は、現代風俗を活写していて、一読、トリ肌《はだ》立つぐらいである。  作中人物の口を藉《か》りて、「仕事がしてある」と、そういわせたのならわかる。だが、これは地の文章に出てくる表現なのである。困ったな、と思う。  ついでにいえば、こんな一行もある。 「祥子がよく夕食をとるのは、南麻布のはずれにある小さな日本料理屋だ」  これも地の文章である。 「小さな日本料理屋」のことを、日本語では「小料理屋」というのではなかったかしらん。日本料理屋とは、なんなんだ。  ロサンゼルスの日本料理屋——これはわかります、日本の日本料理屋——これはわかりません。  以上三つ、以上おわり。   五十音順  内閣総理大臣中曾根康弘閣下(当時)が「女の子」と口走って、元女の子から噛《か》みつかれた。  例の「単一民族国家」発言の釈明だか弁解だか、アイヌ団体に宛《あ》てたはがきの文面に「新聞報道のわい曲」とあったのがまた問題になったもんだから、たぶんとっさに、あのはがきは事務所の人間が代筆したもので配慮を欠く点があったと思われる、というような意味合いのことを述べようとしたら、口がさっさと動いて「女の子が書いたので」というひとことがとびだして、三たび物議をかもしたんだそうで、社会党の婦人局長なる女性がさっそく抗議談話を発表していわく。 「女性を判断力のないもの、吹けば飛ぶような責任がないものの代名詞のように使うのはやめてほしい。首相は女性べっ視の言葉を連発している。婦人問題企画推進本部長(を務める首相)の言葉としては極めて不適切で遺憾」(朝日新聞・昭和六十一年十一月八日付)  ついこのあいだも、女性はネクタイや服装にばかり気をとられて政見を聞こうとしない、と口をすべらして問題になったばかりなのだから、なるほど「連発」にはちがいない。  しかしながら、である。 「女の子」っていっちゃ、なぜいけないのだ。企業で働く女性をなんと呼ぶか。女子社員ではないか。社会党で働く女性をなんと呼ぶか。女子職員ではないのか。まさか社会党に限って、女史職員とは書くまい。  女の子と書いて女子、男の子と書いて男子、日本語ではむかしからそういうことになっている。近ごろでは、少々とうのたったOL諸嬢なんかも「ウチの会社の男の子がさ」などと苦もなく口にしているではないか。六十八歳の中曾根さんが中曾根事務所の女子職員のことを「女の子」と呼ぶのはもっと自然である。  六十八歳の老人にそう呼ばれたからといって、やれ蔑視《べつし》だの、差別だの、そんなに眦《まなじり》を決することはないじゃないか。「女の子」と呼ばれるうちが花なのよ、という考え方だってある。私なんか「男の子」と呼ばれたらどんなにうれしいかと思うんだけれど、だれも呼んでくれないだけの話である。  だいたい呼び方なんて、どうだっていいじゃないか。なんでそう目くじらたてなきゃならないんだ。 「“女子”と“婦人”と“女性”のちがいを教えてほしい」  愚問を通り越して、もはや“虚問”としかいいようがないそんな質問を、一国の最高機関ということに一応はなっている衆議院予算委員会で、社会党(これまた!)の代議士が、あのときたった一人の女子閣僚であった石本茂環境庁長官に浴びせたのは六十年二月のことだった。 「婦人といえば一定年齢以上の女子か女性を表現するものと考えている。婦人より女子の方が幅広い。女性というのは男性と対比して性の区別の意味で使われている」(朝日新聞・昭和六十年二月二十四日付)  石本長官の、これがそのときの公式答弁だが、虚問に配するに虚答、平仄《ひようそく》は合っている。  女子か、婦人か、女性か。  そんなものはケース・バイ・ケースであって、女子高生、女子大学、女子マラソンということばはあっても、婦人高生、女性大学、婦人マラソンということばはないんだし、産婦人科を産女子科とはいわないんだし、男性対女性というようなときに男性対女子といったらおかしなものだし、状況に応じて使い分けてこその日本語というものだろう。  土井たか子さんは日本社会党の女性党首であって、女子党首ではない。なぜなら、そういうことばはないからである。  話を戻そう。  問題になったはがきの署名に「中曾根康弘(代)」とある以上、文責は中曾根さんが負うべきであって、代筆者に責任を転嫁《てんか》するのは卑怯《ひきよう》である。少なくとも、男らしくない。そこのところがよろしくないのであって、「女の子が書いたので」といったからけしからん、という論法はスジちがいである。  いま、うっかり「男らしくない」と書いてしまった。これもきっと、一部の人たちにはお気に召さないだろうな。「男らしくない」というからには、その前提に「男らしい」という概念があることは当然で、「男らしい」という表現の対極に位置するのが「女女《めめ》しい」ということばであり、この対比こそ差別そのものである、とかなんとか舌鋒《ぜつぽう》するどくつめ寄られたら、私は気が弱いもんだから、おたおたして、たちどころに「ごめんなさい」と謝るのにやぶさかではない。  そうなんだよ、「女女《めめ》しい」なんぞは禁句中の禁句、それどころか「姑《しゆうとめ》」もいけない、「嫉妬《しつと》」もけしからん、「女子供」はもちろんダメ、ましてや「女の腐ったような」だの、「女のくせに」だの、その手の表現に至っては言語道断、二度と口にしてはいけない、と言論弾圧にのりだした自治体さえあった。  当市役所発行の文書類では、今後いっさい、「姑」も「嫉妬」も「女子供」も「女女しい」も使いません、と宣言して『女性に対する差別用語廃止ガイドブック』なる小冊子を編集・発行することになった、という記事(毎日新聞・昭和六十一年三月一日付)を読んで、うーん、あそこならやりかねないな、と思ったことをおぼえている。  東京都小金井市。  新聞の予告どおり、その小冊子がめでたく発行されたのかどうか、続報が出ないので知るところがないのだけれど、編集・発行を決めたあの段階で、小金井市は「差別観が露骨なものは平仮名を使うようにしたい」という基本方針を明らかにしていた。  ふーん、いいことを聞いた。  おんなのくさったような。  こう書けばいいわけね。  中曾根さんも、「おんなのこ、ただし、ぜんぶ平仮名です」と、こういえばよかったんだ。  どうも、年々やかましいことになってきつつあるようだけれども、もう一度いう、どうでもいいじゃないか、そんなこと。  男と女(五十音順)——世の中、それしかいないんだから、ま、仲よくやっていこうよ。  五十音順、というただし書きが、自分でいうのもナンですけど、拙稿のハイライトである。   敗北宣言  元旦《がんたん》早々いやなものを見た。  目の穢《けが》れ、というのがその瞬間の印象だった。醜悪で見るに耐えない代物《しろもの》、というよりはっきりいえば汚物である。その汚物は、断りもなく拙宅の茶の間に早朝から侵入していて、人の寝起きの目に、いきなり襲いかかってきたのだからタマリマセン。 「初刷り」という季語さえあるめでたかるべき昭和六十二年一月一日付朝日新聞(東京本社発行)の、あれは第二社会面というのだろうか、社会面の対向ページにあたる第22面に掲載されていた全六段ぶち抜きの大広告が、何をかくそう、汚物の正体だといえば、ああアレか、とお気づきのむきもおありかと思う。  典型的なマル字で横に書き殴った少女の手紙をそのまま拡大して、新聞六段分の巨大なスペースにすっぽりおさめたという体裁をとっている広告(図版)で、スポンサーは百貨店だが、手紙の内容は百貨店業務となんの関係もない。  ボーイフレンドのさとるが、自分をさしおいて久美と初詣《はつもうで》に行った、ふたまたをかけるとは許せない、こうなったら自分ももっと女をみがいて、もっと上等のボーイフレンドをさがしてやる、と正月にあたって決意したという意味合いの他愛《たわい》もない文面である。  手紙の主は女子中学生か女子高校生あたりだろうと一応は思われるのだけれど、近ごろの子供は早熟だから、あるいはことによると小学生ということも考えられるし、さらにあるいは、近ごろのギャルは未発達だから女子大生が書いたって不思議はないというふうにも思えてくる。ということは、小学生から女子大生まで幅広い年代層の女の子に宛《あ》てた共通語のメッセージであって、一通の手紙から波及的に生じる連帯感こそイメージ広告のソキューコーカ、とかなんとか、例によってうさんくさいことばを口にしながら、してやったりとほくそえむ制作者のしたりげな顔が目にうかぶようである。 「元旦そうそう、私はおこってる」  光栄にも拙文と似たような書きだしではじまっているこの手紙は、末尾に「PS」とあるので、そうか、これでも手紙なのか、とかろうじて察しがつくような怪文である。  文章とか文体とか表現とか、そんなこと以前の、たとえようもない下品さと、最低のユーモア感覚については、いまさらおどろかない。コピーライターと称する“ことばの強姦《ごうかん》者”がまたやったな、と思うだけである。いちいち拒絶反応を起していたら身がもたない。ほんとうは、いちいち拒絶反応を起していなければいけないのだけれど、呆《あき》れることにも、怒り狂うことにも、もう飽き飽きした。  飽き飽きした、というのは、私の敗北宣言にほかならない。もういいよ、なんでも。強姦でも強奪でも、勝手にやってくれ。  ただし、犯行は活字どまりにして、まちがってもレタリングにまで魔手をのばさないでもらいたい。  なんだ、この醜悪な広告は。  なんだ、この字は。  と、まあこんなふうに激昂《げきこう》したからといって、ふーん、この書体の流行に、いまごろ気がついたのか、などと即断されては片腹痛い。後述するような理由で、私はとっくの昔に気づいて、とっくの昔に怒りまくっている。  マル字、マンガ字、イラスト文字、ぶりっこ文字、ネコ字、変体少女文字……。  さまざまな呼び方をされながら日本中の少女たちを毒しつづけてきたこの書体については、文部省の調査官が「国語教育の立場から考えると、まったくのぞましくない文字である」という論文を発表したり、マル字で書かれた答案は減点という制裁措置をとる学校が出てきたり、マル字の発生時期を克明な調査方法で追跡した『変体少女文字の研究』(山根一眞著/講談社刊)という異色のルポルタージュが刊行されて評判になったり、少女たちをむしばんでいる病理現象として、ようやく社会問題になりつつあるかにみえる。  いまごろ何をいってるのか、と思う。  べつに先見性を自慢するわけでもなんでもないが、私がマル字流行のきざしに気がついて、真剣に憂慮したのは十二、三年前のことである。真剣に憂慮したはずで、当時中学生だった上の娘がはずかしながらマル字病にかかって、いくら注意しても叱《しか》っても快方に向かわなかったからである。思いあまって、国語の先生に、答案が百点でもマル字で書いてあったら0点をつけてほしい、と申し出て一笑に付されたことをおぼえている。  悪性の伝染病みたいなこんなクソ字をほっといてよいものか、とあのころずいぶん書いたり喋《しやべ》ったりしたのだけれど、だれにも相手にされなかった。娘の場合は、さいわい一過性ですんだからよかったようなものだが、あのままマル字でかたまっていたらと思うとゾッとする。  ルポルタージュの著者山根氏の試算によると、いまやマル字に冒されている少女は五百万人にのぼるそうだ。五百万人といえばたいそうなマーケットで、だから広告屋があんなものを考えたりするわけだし、写植文字の開発会社が「マル字コンテスト」などという天にツバするような催しを実施したり、それをまたマスコミがおもしろがって、一位は高校三年生の女の子の作品で、二位は三十五歳の女性公務員の作品だったなどと書きたてたりするのだろうが、“作品”とは笑止千万である。  どうして、こう甘やかすんだ。  マル字は文字ではない、こんなものはかわいくもなければ、美しくもない、醜いだけのこんな字を書くもんじゃない、とたしなめるのがおとなの義務ではないか。たしなめるどころか、教唆《きようさ》・煽動《せんどう》してやまない広告屋の陋劣《ろうれつ》なる心事を、私は憎む。   「としている」症候群  ことばというものは伝染するもので、ひとたび感染すると、周囲の人間にウィールスをまき散らして、ネズミ算式に患者がふえていく。話しことばだけに限らず、文章表現についてもその病理は妥当する。  いつごろからだったろうか、実に不自然かつ感じの悪い語法が目につきはじめて、なんだこれはと思っているうちに、たちまち蔓延《まんえん》していまに及んでいる病的表現がある。発生源ならびに汚染地区は、主として新聞各紙である。  新聞の場合、文章などというものは情報伝達の手段にすぎないのだ、といってしまえばそれまでの話だけれど、一紙につき何百万人という人間が、毎日、それも朝夕二回、ほとんど習慣的に目を通しているのが新聞の文章であって、そういう読まれ方を考えれば、いちばん身近な「文章読本」といっていえなくもないのだから、どうでもいいというわけにはいかない。  蔓延しつつある病的表現を、私はこう名づけた。 〈「としている」症候群〉  気まぐれにときたま採集したために、時間的にはずいぶんとびとびになってしまったが、以下は、「としている」症候群の症例集である。  症例1  患者名 毎日新聞夕刊  発病時期 昭和58年5月13日  主訴(見出し)〈ロ事件「検察デタラメ」政府首脳発言/野党「介入」と一斉《いつせい》に反発〉  症状〈新自連の田島国対委員長は「行政府の司法権への介入は問題であり当然追及されなければならない」としている〉(傍線担当医・以下同じ)  所見 ナゼ「と述べた」「と語った」デハイケナイノカ。  症例2  患者名 毎日新聞夕刊  発病時期 同  主訴〈ロ事件公判田中側弁論〉  症状〈同弁護団は(略)首相の職務権限の範囲内とする検察側の主張は誤りとした。(略)榎本敏夫は「体調が悪い」として(略)不出頭許可願を出した〉  所見 症例1ト同ジ日ノ同ジ新聞ノ同ジ一面ニ並ンデイル記事デアル。 「範囲内とする検察側の」ハマダワカルガ、「“体調が悪い”として」ノ「として」ハホトンド最悪デアル。  症例3  患者名 毎日新聞  発病時期 昭和60年12月23日  主訴〈二階堂氏/田中元首相と会う〉  症状〈元首相周辺は「久しぶりに会ったので、二人とも大変感激していた」としている。注目の内閣・党人事問題について、元首相周辺は「詳しい話はしなかった」としている〉  所見 ハジメノ「としている」ノアトニ、(略)ガナイ点ニ注意サレタイ。スナワチ、コノ患者ニハ連続性発作ガ認メラレル。  症例4  患者名 朝日新聞  発病時期 昭和61年8月13日  主訴〈「いささかでもお慰め」/日航本社の追悼式で社長〉  症状〈山地社長が「ご遺族に対しては、できる限りお世話申し上げ、いささかなりとも苦痛をお慰めできれば……」としたうえで、社員に向けて〉  所見 遺族ニ対スル社長ノ真情ヲ故意ニ薄メテイルト邪推サレテモ仕方ガナイ。「……と決意を披瀝《ひれき》したうえで」トカ、「……と誓いをあらたにしたうえで」トカ、イクラデモ書キヨウガアル。  症例5  患者名 毎日新聞  発病時期 昭和61年8月13日  主訴〈靖国参拝/首相、正式に見送り〉  症状〈後藤田官房長官は「遺族感情は痛いほどわかる」としながらも〉  所見 コウナルト官房長官ガ「遺族感情はわからない」トイッテイルヨウナ錯覚ニオチイリカネナイ。  症例6  患者名 毎日新聞  発病時期 昭和61年8月15日  主訴〈きょう終戦記念日/首・外相靖国参拝せず〉  症状〈後藤田官房長官は(略)「近隣諸国の国民感情にも適切に配慮しなければならない」などとする談話を発表し、(略)「平和友好への決意に対する誤解と不信さえ生まれるおそれがある」として〉  所見「“配慮しなければならない”という談話を発表し」デイイデハナイカ。  症例7  患者名 毎日新聞  発病時期 昭和61年8月14日  主訴〈教育のいま/子どもと先生〉  症状〈私立校では始末書が戒告を意味し、先生の管理に使われる場合が多いとされ、始末書が重なれば〉  所見 教育欄ヘノ転移ヲ認ム。  症例8  患者名 毎日新聞  発病時期 昭和61年8月15日  主訴〈夏の甲子園/享栄《きようえい》2選手がタバコ〉  症状〈「エンマ」編集部は、宿舎での喫煙現場も撮影したとしている〉  所見 ツイニ社会面ニマデ転移。  症例9  患者名 毎日新聞夕刊  発病時期 昭和61年12月8日  主訴〈「容疑者逮捕」と報道/支店長誘拐《ゆうかい》〉  症状〈同放送はこの情報を現地の村(バランガイ)の役人から得た、としている。CIS当局はこの事実について「聞いていない」としている〉  所見 治療法、ナシ。  患者のほとんどが毎日新聞であったことは偶然にすぎない。他紙についても、ほぼ同数の感染者が存在するものと思われる。   コロンブスの卵、二個  国語辞典と天気予報について書きたい。  国語辞典と天気予報のあいだに何か相関関係があるのかと問われたら、もちろん、ない、と答えるしかない。でも、その二つを並べて書こうという気になっているということは、私の中では何かしら接点のようなものがあるはずなんだけれど、それがうまく伝えられるかどうか、書き終るまで私にもわからない。         *  年々老眼がすすんで、国語辞典を繰《く》るのが実に大儀になってきた。  商売柄《がら》、国語辞典は大から小まで各種とりそろえているから、活字の大きさということだけでえらべばいいというのであれば、たとえば『大きな活字の/三省堂国語辞典』がある。ふつうの単行本の活字(9ポイント)より大きい10ポイントに近い活字が用いられているのだから、見やすいことは見やすい。しかしながら、見やすければいいというものではないのだし、それより何より、内容以前に、なにぶんにも電話帳ほどのサイズと厚さと重さときては、手許《てもと》に置いて常時愛用というわけにはいかない。  老眼もすすむけれど、もっとすすむのが記憶力の減退度である。情ない話だが、ごく簡単な漢字を思いだせないことがしばしばあるもんだから、いやになるぐらい頻繁《ひんぱん》に辞典を繰る。現に、いまも「頻」の字を引いたばかりで、いや、おはずかしい。  こういう使い方は、文字どおり「字引き」であるから、語釈は必要としない。解説をいっさい省いた、そのための辞典も出まわっている。小桜書房のロングセラー『用字便覧』だとか『朝日新聞の漢字用語辞典』なんかは、活字も大きくてシャープだし、判型もハンディだし、便利で、使いやすい。だからそれだけを使っていればいいかというと、そうはいかない。  正確な語釈や語源をたしかめることが必要なときもあるし、出典を知りたいときもあるし、旧仮名・旧漢字や送り仮名を調べたいときもある。そういうもろもろの要素を勘案すると、結局、いちばん多用するのはふつうの国語辞典に帰着するわけで、あまた存在する辞典の中でも、自分に合った、使い勝手のいい一冊が、名実ともに愛用の一冊ということになる。  私の場合は『新潮国語辞典—現代語・古語—』がそれで、いま使っているぶんが三冊目である。同じ新潮社版でも、この辞典のあとに出た『新潮現代国語辞典』は、私には合わなかった。  で、ぼろぼろになるまで使っている三冊目の国語辞典だが、これが豆粒ほどの活字なので、愛用しながらうんざりしているのか、うんざりしながら愛用しているのか、そのへんのところが自分でも不分明なのである。  うんざりするたびに、思うことがある。  ふつうに利用する限り、国語辞典に、たとえば「にんげん」「おとこ」「おんな」などという項目が必要だろうか。「き(木)」「くさ」「いぬ」「ねこ」「むし」などという単語を国語辞典で引いたことがある人間が何人いるだろう。 「やま」「かわ」「うみ」「そら」「いち」「に」「さん」「あ」「い」「う」「え」「お」——というぐあいにひろっていったらきりがない。  試みに『新潮国語辞典』で「あ」の項目を引いてみたら、こうある。 「五十音図あ行第一のかな」  これは無駄《むだ》というものではないか。行革を迫られているのは、官庁ばかりではない。  ついでに「ん」も引いてみた。 「かなの一。本来は、五十音図・いろは歌には含まれないが、付記されることもある。歯茎音の鼻音。[n]音韻としては一つであるが、音声的には[n] [m] [] [N]の別がある。ひらがな『ん』は『无(ム)』の草体、かたかな『ン』ははねる音を象徴的に示す符号『』の転」  至れりつくせりの記述、恐々縮々の至りではあるけれど、「ん」を引く気のない人間には無用の長物である。  この「ん」のほかに、「ん」一字の項目が四つも載っていて、たとえば「するのだ」を「するんだ」という場合の「ん」まで独立項目になっているのだから、辞典編纂《へんさん》者の目くばりには驚嘆を禁じえない。ただし、引かなければ驚嘆のしようがない。そうして、「するんだ」の「ん」を引く人がいるとは考えにくい。  一般の人間が、まず絶対に引くことがないであろうと思われる単語を、すっぽりはずしたら、ページ数は半分で足りるだろう。半分で足りるページ数を現行のままにしておけば、活字をぐんと大きくすることができる理屈である。  現行の国語辞典を廃止しろといっているのではない。収録語数十三万八千語を誇るこれはこれで残しておいて、そこから平素無用の項目を排除した「抜粋国語辞典」を作ってくれないか。なんなら「手抜き国語辞典」と名づけてくれても、一向にかまわない。         *  あ、そうそう、天気予報の件を忘れていた。  NHK、民放の別なく、テレビの天気予報というと、まず「気象衛星ひまわりがとらえた雲の状況」からはじまって、「今日の天気図」「明日の予想天気図」にかぶせて、やれ気圧の谷がどうの、西高東低がどうの、というご託宣があって、それからやっと「各地の天気」とくる。  興味も関心もない、ちんぷんかんぷんの気象情報が流れるあいだに、集中力が散漫になって、肝心の天気予報を上の空で聞き流してしまうのが毎度のことで、だから、私にとって、天気予報はあってなきにひとしい。  知りたいのは、あしたの天気、それだけである。降るのか降らないのか。それさえ教えてもらえば、雲の位置だの、気圧配置だの、そんなものはどうでもいい。  これまたお断りしておくのだが、そういう情報を切り捨てろといっているのではない。  ことは簡単。はじめに「今日と明日の天気」を告げてくれればそれでいい。そのあとで、五分でも十分でも、心ゆくまで「雲の位置」だろうが「気圧配置」だろうが、気象情報を放送するがよい。  順序を入れかえるだけで、万事オーケーではないか。これはコロンブスの卵に匹敵するアイデアだと、自分ではひそかに考えているのだけれど、だれに話しても、あはは、と一笑に付すばかりで、まじめに考えてくれないのが残念である。         *  国語辞典と天気予報、全然カンケイなかったか。   四十五人の船頭さん  プロ野球のペナントレースがはじまって、これでまた向こう七カ月間、仕事の能率ががたおちになるのは自業《じごう》自得であるからしてやむをえない仕儀だが、これでまた向こう七カ月間、野球解説者諸氏の耳障りな外来語がテレビやラジオに氾濫《はんらん》するのかと思うと、毎度のこととはいえ、いらいらする。 「ここは送りバンドでしょうねえ」 「巨人フアンとしてはここでイッパツを」  とくにこの二つ、なんとかならないものか。アナウンサーなりディレクターなりが、事前に教えておけばすむことではないか。教えても教えてもだめな諸氏には、マイクの前にでも「バント」「ファン」と大書したボードを立てかけておいたらどうなんだ。「バンド」は「楽団」もしくは「ベルト」のこと、「フアン」は「不安」と書き添えておけば、なおいい。  バンドとフアンは論外として、野球について何か書くたびに、はて、どちらの表記が正しいんだったかと首をひねることがしばしばある。  ユニホームかユニフォームか。チームかティームか。グランドかグラウンドか。プレイボールかプレーボールか。これはプレイボールでいいはずだが、同じプレイでも、ファインプレーはプレーであって、ファインプレイとは書かないのはなぜなのか。         *  ソフトだのバイオだのハイテクだのファミコンだの、ああいう気色の悪いことばが定着するよりずっと前のことだが、あのころ拙宅の居候《いそうろう》をしながら大学の電子工学科に通《かよ》っていた甥《おい》っ子が、私の随筆集を読んで、しゃらくさいことをいいだした。 「叔父さん、コンピューター、コンピューターって書いてるけど、コンピュータ、っていうのが正しいんだよ」  青二才のいうことではあるが、一応、専門家のはしくれの指摘であるから、以後、コンピュータ、と書くことにして、それとなく世間の様子をうかがっていたのだけれど、新聞雑誌テレビラジオをはじめとする世間さまは、いつまでたっても、コンピューター、である。  そういう状況の中で、自分だけ、コンピュータ、と書くのは少々勇気を要する。         *  フランス十五世紀の泥棒《どろぼう》詩人フランソワ・ヴィヨン研究の第一人者であった故鈴木信太郎博士に、その師故辰野隆博士は、Villonをヴィヨンと読みたくなる気持はわかるが、あれは断じてヴィロンでなければいけない、という論争をいどんだ。         *  その辰野博士の外来語表記、とくに人名表記は、ボオドレエル、ルナアル、モオパッサン、ユウゴオといったぐあいに、長音の音引《おんびき》を嫌《きら》って「オ」を多用するところに特徴があった。ボードレール、ルナールと書くのが一般的であるところに、ボオドレエル、ルナアル、とあると、それだけでなんとなくアカぬけた感じをかもしだしていた。         *  辰野博士のことを「大博士の骨頂」と呼んだ内田百〓《ひやつけん》先生は、列車のボーイのことを「ボイ」、サービスのことを「サア〓ス」と書き続けた。一読者として、というより百〓教の一信者として読んでも、「ボイ」だけは最後までなじめなかった。         *  ギョエテとはおれのことかとゲーテいい、という斎藤緑雨の戯《ざ》れ句《く》を持ち出すまでもなく、外来語(地名人名を含む)の表記は、つねに「古くて新しい問題」といわれてきた。  文化庁発行の小冊子〈「ことば」シリーズ〉(全27巻)の「外来語」という巻を読むと、ゲーテについては「ギョエテ」のほかに「ゴエテ」「ギューテ」「ギェーテ」「ギョート」など、実に二十九通りの表記がなされていたとあるし、アンデルセン童話のアンデルセンは「アナスン」がデンマークの発音にもっとも近いとあるし、インドの故ネール首相は、のちになって「ネルー」が正しいと判明したが手遅れだったと書いてある。人名だけでも、ひとすじ縄《なわ》ではいかないのである。  戦後国語改革の中で残されていた最大の課題である外来語表記について、文部省の第十七期国語審議会が、三十三年ぶりに見直し作業にのりだした。  公文書でもマスコミでも「ベトナム」「ベネズエラ」と書いているのに、ひとり外務省だけは「ヴェトナム」「ヴェネズエラ」に固執してきたが、どう調整すべきか。現行の「ゼントルマン」「セパード」は、「ジェントルマン」「シェパード」のほうがいいのではないか。「ミキサー」(化学関係)と「ミキサ」(機械工学関係)と「ミクサ」(電気工学関係)の混乱をどうするか。  そういったことを、二期四年がかりで審議することになったと報じている新聞記事の末尾を見ておどろいた。「第十七期国語審議会委員は次の通り」とあるその部分を、そっくりそのまま書き写してみる。         *  秋山虔・東京女子大教授▽石井英夫・産業経済新聞論説委員▽石綿敏雄・茨城大教授▽井上和子・津田塾大教授▽井上輝夫・東京品川区立八潮中校長▽漆原利夫・学校図書社長▽江藤淳・東工大教授▽尾西清重・NHK放送総局長▽北島義俊・大日本印刷社長▽工藤敦夫・内閣法制局次長▽紅野敏郎・早大教授▽斎賀秀夫・大妻女子大教授▽酒井新二・共同通信社長▽坂本朝一・NHK名誉顧問▽鈴木修次・広島大教授▽諏訪正人・毎日新聞論説委員▽関口実・時事通信編集局次長▽築島裕・中央大教授▽辻源太郎・トヨタ自動車副会長▽辻村敏樹・早大教授▽寺島アキ子・放送作家▽永井梓・読売新聞論説委員▽長倉三郎・岡崎国立共同研究機構長▽仲佐秀雄・日本民放連盟番組部長▽中沢浩一・東京都立両国高校長▽永田実・日本経済新聞論説委員▽南雲仁一・東大教授▽野地潤家・鳴門教育大教授▽野元菊雄・国立国語研究所長▽服部敏幸・講談社会長▽林大・前国立国語研究所長▽林巨樹・青山学院大教授▽疋田桂一郎・朝日新聞編集委員▽広瀬一郎・中日新聞東京本社論説室主幹▽古田東朔・放送大教授▽松村明・東大名誉教授▽三根谷徹・国学院大教授▽宮地裕・大阪大教授▽村松定孝・上智大教授▽村松剛・筑波大教授▽柳下昭夫・東京文京区立誠之小校長▽山田年栄・日本新聞協会専務理事▽渡部昇一・上智大教授▽渡辺光代・東京のこだま会代表▽渡辺実・上智大教授。  ——これで、どうやって“審議”するんだろう。計四十五人、船頭多くして、ということばがいやでもちらちらする。   後天性免疫不全文章候群  いま、エイズのことを書いた単行本や刊行物が、爆発的に売れているんだそうである。医学書はもちろんのこと、やさしい解説書、手軽なハウツーものから、雑誌のエイズ特集に至るまで、出せばたちまちとぶように売れるもんだから、とうとう“エイズ小説”と銘打った文芸作品まで登場した、と新聞(朝日・昭和六十二年五月七日付)が報じていた。  驥尾《きび》に付すというか、尻馬《しりうま》に乗るというか、よし、この際、ひとつおこぼれにあずかって、などとさもしいことを考えたわけではなくて、今回はこの話を書こうと、はじめから決めていたのだから、その矢先に、あんな新聞記事が出たのは、正直いって迷惑である。  以上は前置き、以下が本論。  おそまきながら国会に上程された「エイズ予防法案」に、先日、必要あって目を通す機会があった。  正式名を「後天性免疫不全症候群の予防に関する法律」という。  全十六条プラス附則三条、そのあとに上程の「理由」が記《しる》されている。とりあえず、あたまと、しっぽを書き写してみる。 〈第一条 この法律は、後天性免疫不全症候群(以下「エイズ」という。)の予防に関し必要な措置を定めることにより、エイズのまん延の防止を図り、もつて公衆衛生の向上及び増進に寄与することを目的とする。〉 〈理由 後天性免疫不全症候群のまん延の防止を図るため、後天性免疫不全症候群の伝染の防止その他その予防に関し所要の措置を講ずる必要がある。これが、この法律を提出する理由である。〉  どうですか、この文章。  いわせてもらえば“悪文”ということばさえ褒《ほ》めすぎになってしまうような代物《しろもの》である。くどくて、わかりにくくて、何よりも無駄《むだ》が多すぎる。第一条でいえば、「もつて公衆衛生の向上及び増進に寄与することを目的とする」という結びの文言《もんごん》はまったく不必要——というより、むしろなくもがなの一行であって、「向上及び増進」(この二つのことば、どう違うんだ)という、およそ実体のないぬえのような常套句《じようとうく》を用いることで、本来の目的を曲解させるものではないのか。この法律の目的は、ただ一つ、エイズの蔓延《まんえん》を防ぐことだろう。だったら、そう書けばいい。気がすすまないが、原文に従えば「エイズのまん延の防止を図」「ることを目的とする」でいいではないか。ヘンなところで区切ったのは、そのあいだに「もつて公衆衛生の向上及び増進うんぬん」という要らざる一行が入っていたからである。  ついでながら、「まん延」も勘弁してもらいたい。先まわりしておくが、エイズだから「まん」でいいじゃないか、などという下品かつ陳腐な茶々《ちやちや》は入れないでもらいたい。そんなジョークは、ジョークにしてジョークにあらず、ユーモアにしてユーモアにあらず、ただ単なる駄《だ》洒落《じやれ》、それも最下等の駄洒落にすぎない。 「蔓延」の「蔓」は当用漢字外だ、というのなら、ルビをつければいい。それも許されないことだ、何が何でも当用漢字の枠内《わくない》で書くのだ、というんだったら、仮名づかいのほうもきちんとルールを守ってもらいたいもんだ。  だってそうじゃないか、「もつて公衆衛生の向上」の「もつて」は旧仮名表記であって、新仮名表記だったら「もって」だろう。  ほかの法律については知るところがないが、少なくともこのエイズ予防法案では、ぜんぶそうなっている。 「講ずるに当たつては」「文書をもつて」「請求があつたとき」「公務員であつた者が」「感染している者であつて」  あげつらおうと思えば、あたまの第一条だけでも、まだまだある。しっぽの「理由」に至っては、あげつらう元気もない。  悪文に加えて、読みようによってはゆゆしき字句を含んでいる条文もある。 〈第八条 都道府県知事は、感染者であると疑うに足りる正当な理由のある者が不特定かつ多数の者にエイズの病原体を感染させるおそれがあると認めるときその他エイズの予防のため特に必要があると認めるときは、その者に対して、期限を定めて、感染者であるかどうかに関する医師の健康診断を受けるべきことを勧告することができる。〉(傍線筆者)  借問《しやもん》いたす。 「不特定少数の者」や「特定の相手」に感染させるぶんにはいいのかね。 〈附則第三条 後天性免疫不全症候群の病原体に感染している者であつて、多数の者にその病原体を感染させるおそれがあるものは、当分の間、第五条第一項第一号に掲げる患者とみなす。〉  これだって、「少数の者」に感染させるんだったらかまわない、というふうに読んで読めないことはない。  でも、である。  でもまあ、これらは文意の察しがつくだけ、まだいいほうで、「大都市の特例」を定めた次の条文なぞは、ほとんどパズルである。 〈第十二条 この法律中都道府県知事又は都道府県の職員の権限に属するものとされている事務で政令で定めるものは、地方自治法(昭和二十二年法律第六十七号)第二百五十二条の十九第一項の指定都市(以下「指定都市」という。)においては、政令で定めるところにより、指定都市の長又はその職員が行うものとする。この場合においては、この法律中都道府県知事又は都道府県の職員に関する規定は、指定都市の長又はその職員に関する規定として、指定都市の長又はその職員に適用があるものとする。〉  一読、すっ、とわかった人には、私、懸賞を出してもいい。  これが日本語だろうか。 「読書百遍意オノヅカラ通ズ」という古い古いことばがある。どんなにわかりにくい文章でも、百遍ぐらい読んだら、ひとりでにわかってくるものだ、という意味合いの教訓で、それはそのとおりなんだけれども、エイズ法案のこの文章だけは、百遍読み返したって、わかるものではない。  百遍読んで、おぼろげながら察しがつくことは、第十二条全体を、まともな日本語の文章で書けば一行か二行ですむにちがいないということぐらいである。  やってやろうじゃないか。  そう思って、すっきりした条文に改めるべく、さっきから小一時間もがんばっているのに、どうしても考え及ばない。それはそうなんで、もともと何をいっているのかわからないのだから、なおしようがないのだ、と気がついてサジを投げた。処置なし、対策なし、すなわち手のほどこしようがないのであるからして、これはもう「後天性免疫不全文章候群」とでも呼ぶべきだろう。   法断章  からみぐせというものがあるようである。  前項でエイズ予防法案の文章にからんだら、なんだかはずみがついてしまって、もう一回、法律の文章について書きたくなった。  ふん、素人《しろうと》に何がわかるか、と法律家諸氏に憫笑《びんしよう》されることはもとより覚悟の上である。憫笑されたって、こっちは痛くもかゆくもないのだし、だいいち、諸氏は六法全書の虫、こんな雑文なんて読みっこないだろうという前提の上に立って、以下、感想の断片を筆録する。         *  エイズ予防法案の正式呼称が「後天性免疫不全症候群の予防に関する法律」であることは前項にも書いたが、あの「……に関する」という字句は、法律につきものの決まり文句ではあるけれど、ほとんど意味を持たない字句ではないのか。「エイズ予防法」でいいではないか。  でもまあ、この程度の法律名ならまだよろしい。戦後の法律に、こんなのがあった。 「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定の実施に伴う土地等の使用等に関する特別措置法」(傍線筆者)  起訴状を読み上げているうちに、時効が成立してしまうんじゃないか。         *  寿限無《じゆげむ》寿限無みたいなこの法律の、傍線部分にご注目いただきたい。 「及び」「及び」ときて「並びに」とある。  およそ文を鬻《ひさ》いでいる人間だったら、こんな文言《もんごん》をつらねるぐらいなら死んだほうがましだといいたくなるところだけれど、法律家にいわせれば、それがさに非《あら》ず。「及び」と「並びに」という二つの接続詞を、厳格に使い分けてこその法律なのだ、というのが専門家の一致した考え方なんだそうである。  どういうことなのかというと、小さい接続が「及び」で、大きい接続が「並びに」であって、数学の不等記号で表せば、〔及び<並びに〕ということになるらしい。そのルールは、憲法といえども遵守《じゆんしゆ》している。 「国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること」(憲法第七条「天皇の国事行為」第一項五号)  性質の異なる二つの行為をワンセンテンスでかたづけようとするから、こういうことになる。二つの行為なんだから、二つに分けたらいいじゃないか。 「国務大臣以下すべての親任官の任免を決裁すること」 “親任官”というのは旧憲法下のボキャブラリーだろうが、実質は変っていないのだから、そのまま使うがいい。それなら「国務大臣以下すべての」は不要である。「親任官の任免」だけで、ことたりる。  後段の「全権委任状及び大使及び公使の信任状」という文言の配列が、私にはどうしても理解できない。「大使及び公使の全権委任状及び信任状」ではないかと思うのだけれど、だとしたら、こう書けばいい。 「大使・公使の全権委任状と信任状を認証すること」         *  同じことが、「又は」と「若《も》しくは」についても規定されている。〔又は>若しくは〕である。不等式ならまだわかる。  文章になるとこうなる。 「副知事若しくは助役に事故があるとき若しくは副知事若しくは助役も欠けたとき又は副知事若しくは助役を置かない普通地方公共団体において当該普通地方公共団体の長に事故があるとき若しくは当該普通地方公共団体の長が欠けたとき……」  これが最低最悪であることはいうまでもないことだけれど、でも、この文章(これが文章といえるなら)の最大の欠点は「当該」の二字である、と私は考える。         *  まだある。 「から」と「ので」も使い分けるんだそうである。 「雨が降ったから休む」 「雨が降ったので休む」  これがどうちがうのか。  なんでも「行為者の意思の有無」とかいうものがちがうんだそうで、「降ったから」といえば客観、「降ったので」といえば主観、だから言訳のときには「ので」を使ったほうがいいらしい。         *  もっと面倒くさい使い分けがある。 「場合」と「とき」と「時」。 「とき」よりも「場合」のほうが大きい。そうして、その二つに仮定のニュアンスがあるのに対して、「時」とくれば現実の時間的色彩を帯びてくるというのである。たとえば、こうかな—— 「夫婦喧嘩《げんか》をしたときに妻が別れようと考えた場合それを口に出した時に話は深刻になる」         *  行きつくところは、こういう文章になる。  道路交通法施行令第三条〔信号機の灯火の配列等〕第二項第二号にいわく。 「人の形の記号を有する青色の灯火、人の形の記号を有する青色の灯火の点滅及び人の形の記号を有する赤色の灯火の信号を連続して表示する場合 人の形の記号を有する青色の灯火、人の形の記号を有する青色の灯火の点滅及び人の形の記号を有する赤色の灯火の信号の順とすること」  なんだ、こりゃ。青巻紙赤巻紙黄巻紙じゃねえてんだ。         *  こういうことになるのは、結局、法の文章は正確を期そうとするからだろう。厳格な使い分けこそが、法の求めるところである。  それはそうかもしれない。しかしながら「とき」と「場合」と「時」だの、「又は」と「若しくは」だの、そんな使い分けが何の役にたつというのだろう。 「厳格な使い分け」というのなら、たとえばフランス刑法典《コード・ペナル》の「殺人」の使い分けに学ぶべきである。「オミシード」(単純殺)、「ムールトル」(故意殺)、「プレメディタシオン」(謀殺)、「アサシナ」(待ち伏せ《ゲ タ バ ン》殺人)、「パソシード」(親殺し)、「アンファンティシード」(嬰児《えいじ》殺し)  これが「使い分け」というものではないのか。         *  法律の文章については、まだまだ書き足りない。  いずれまた書かせてもらいます。   恭啓中島らも様  恭啓  突然一書を呈上致す失礼をお許し下さい。  はじめにお断りしておきますが、これは、よくある“公開質問状”のたぐいではありません。しいて申さば“公開ファンレター”もしくは“公開お礼状”であります。  若者向けの月刊誌『PENT HOUSE』(日本語版=講談社発行)が、若者からはほど遠い小生のところにまで、ありがたいことに、なぜか毎号送られておりまして、いちばん新しい八月号の、いつもながら、われらじじい族には目の毒としかいいようがないヌード・グラビアを眺《なが》めて、これまたいつもながら、すっぱいブドウだとくやしまぎれに嘯《うそぶ》いたイソップのキツネの心境を噛《か》みしめていたときに、〈VIEW FROM THE TOP〉なる常設コラム欄の見出しが目にとび込んできたのであります。 〈広告なんて大っきらいだから広告の本性が見えてくるのだ。〉  思わず膝《ひざ》をのりだしました。  あ、申しおくれましたが、小生は江國滋と申す文筆の徒で、同時に、かれこれここ二十年来、広告に対して偏見と反感と憎悪をいだき続けている者であります。  考えてみますと、文を鬻《ひさ》ぐ、という行為においては、いまをときめくコピーライターも、しがない文筆の徒も、まあ広い意味で同業といえるかと愚考します。古来“同職を貶《けな》す”といって、同業者の悪口をいうことは許すべからざるルール違反とされてきたことを承知の上で、ことあるごとに、コピーライター諸氏の悪口を書いたり喋《しやべ》ったりしてきたもんですから、いつぞや、コピーライターの草分け的存在である土屋耕一さんと某誌の対談で、はじめてお目にかかったときに、開口一番、ねえ江國さん、コピーライターいじめ、もうそろそろいいでしょう、とやんわり指摘されて、あ、そりゃそうだなあ、俺《おれ》もおとなげなかった、とつくづく反省したのが、そう、三年ぐらい前のことでありました。つくづく反省して、でも、反省しきれないのでありますよ。反省しきれないのは凡夫の悲しさ、せっかくの反省をぶちこわしてくれるのがコピーライター諸氏、というわけで、反省しつつも、ますます臆面《おくめん》もなくなっていく広告に、ますます腹が立って腹が立って、というのが小生の偽らざる現状なのであります。  そこへ、いきなり〈広告なんて大っきらいだ〉ときたもんですから、小生が膝をのりだした気持もご理解いただけることかと存じます。  膝はのりだしたものの、〈中島らも〉というご尊名については、失礼ながら、何一つ存じ上げておりませんでした。これもあわててお断りしておくのですが、それは、知名度の問題ではなくて、ひとえに小生の、老化に伴う無知の問題なのであります。 〈コピーライター、広告代理店企画課長、放送作家、エッセイスト、劇団主宰……と様々の顔を持つ。朝日新聞の「明るい悩み相談室」が好評で単行本にもなる。他に著書多数。35歳〉  ご尊名の脇《わき》に添えられた数行を拝見して、しかと納得仕《つかまつ》りました。多岐にわたる才能を思う存分発揮しておいでの第一線アド・マンなのだなと思いながら玉稿を読みすすむうちに、うん、そうだ、そのとおり、よくいってくれた、と何度快哉《かいさい》を叫んだことでしょう。  貴兄いわく。 〈なぜ広告がそんなにキライかというと、「広告は無礼」だからだ。人をバカにしていると思う〉  思う、思う。思いっぱなしでありますよ。 〈端的に一番バカにしている例を挙げれば、「いま、○○が新しい〓」というフレーズだろう。○○の中に何でも自分の好きな言葉を入れて試してみてほしい。タワシ、腹帯、ステテコ、ハエタタキ、千葉……〉  まったくだ。「いま、千葉が新しい〓」だなんて、千葉の人が聞いたら怒るよ、きっと。  そのフレーズを理解できないスポンサーに「文化も風俗も我々がつくります」と豪語してはばからないのが広告屋だ、と断じて貴兄はおっしゃる。 〈完全に思い上がっている。文化というのは捏造《ねつぞう》できるものだと勘違いしている。あげくのはては都市計画のプロジェクトに参加して、駅前にウソ寒い「コミュニティ広場」をつくっちゃったりする〉  そう、あれはもう公害、というより、はっきりいって“犯罪”ですね。彼らの犯罪の余慶をこうむる受益者といったら、建築家のK・Kさん、画家のT・Oさん——おっと、ひとこと多いんだよな、小生は。 〈広告屋の言うことは毎年変る。「大衆から小衆へ」だったり、「時おこしの時代」だったりする〉  要するに、なんでもいいんですよね、やつらにとっては。時おこし=説き起し、などという駄《だ》洒落《じやれ》をユーモアであるとカンちがいしている鈍感さが、どれほど日本語を毒しているか、ということに、彼らは気づいていない。というより、そんなこと、やつらにとってはカンケイナイんですよね。  テレビCFをはじめとする“広告”という名の日本語破壊は、実際、目に余るものがあります。だれもがそう思っていながら、だれもがいえなかったことを、あなたは、ずばり、と代弁して下さった。  それについては感謝にたえないのですが、そういうあなたもコピーライター、はて、これはどうなっているのかなと思ったら、さすがは貴兄、ちゃんと書いておられた。 〈ではお前はそれだけキライな広告をなぜメシの種にしているのか、という問いが必ず来ると思う。キライだから商売になるのだ。きらってきらい抜くから相手の性格や相貌《そうぼう》が見えてくる〉  うーん、なるほど、と感じ入りながら、うーん、かわいそうに、と思わずにはいられませんでした。  だって、そうじゃないですか。きらいなことで食っていくというのは、人間にとって最大の苦痛です。  たとえ稼《かせ》ぎは少なくとも、男一匹、好きなことだけやって食っていこうではないですか。  ——ここまで書いて、はっと気がつきました。「広告なんて大っきらい」とおっしゃる貴兄は、実は広告大好き人間で、その裏返しの表現が、あの見出しになったのではないか、と。  だとしたら、凝りすぎというものでありますよ。妄言《ぼうげん》多謝。   買いおさめ  いまをときめく第一線コピーライターであると思われる中島らもさんとおっしゃる、見ず知らずのお方に宛《あ》てた書簡体の拙稿(前項)の中で、私は私のことを「ここ二十年来、広告に対して偏見と反感と憎悪をいだき続けている者であります」と自己紹介しただけで、なぜそれほどまでにいまの広告を蛇蝎視《だかつし》するのかという具体的根拠を示さなかった。  近年の広告、とくにテレビCMは、なんとなく気色が悪いというだけでモノをいうのは、コピーライターをはじめとする広告にたずさわる人たちに失礼というものだろう。  だから、拙稿を敷衍《ふえん》する意味で、多少とも具体的に書きたいのだけれど、これが至難のワザというやつでして。  どういうことかというと、ほんの一例なんだけれど、ことさら素人《しろうと》(もしくは素人っぽく見えるタレント)を起用して、ことさら無表情無気力、というよりほとんど無感覚といってもいい語調で、広告コピーをことさら稚拙に棒読みさせるCMがはやっている。人をバカにしたような、なんとも不快なあの手のCMを、文字で説明することは不可能である。私の記憶では、売れっ子のコピーライター自身が画面に登場して、ポカリスエットがどうしたこうした、とぼそぼそつぶやくCMあたりが、棒読みCMのはしりではなかったかと思う。         *  私は、その性温厚といえば聞えがいいが、はっきりいって人一倍弱虫で臆病《おくびよう》な人間であるからして、喧嘩《けんか》口論論争のたぐいを好まない。にもかかわらず、こういうことを書いたり喋《しやべ》ったりしている。なんだか喧嘩を売っているようなあんばいだが、とんでもない、そんないさましいことは、私のもっとも不得意とするところである。  私は、喧嘩を売っているのではない。売られた喧嘩を、やむをえず買っているだけである。おまえなんかにべつに売ったおぼえはない、と先様《さきさま》はおっしゃるだろうが、人の神経をさかなでにするようなCMが、ああのべつまくなしに土足で茶の間に侵入してくるということは、喧嘩を売っていることにほかならない。そんなもの買いたくはないが、だれも買おうとしないし、でも、だれかが買わなくてはいけないと思うので、仕方なく、売られた喧嘩を買っているのであって、さすがにもうくたびれた。もういいよ、勝手にしてくれ、と「敗北宣言」も筆にした。         *  敗北宣言を出す以前に、『月刊国語教育』という雑誌に、いま読み返してみるとずいぶん激越でヒステリックな短文を寄せたことがある。あまり人目につかない雑誌だと思うので、再録をお許しいただきたい。 〈ことばというものは生き物で、生き物である以上、変るなというほうが無理な注文であって、時代的変化のすべてを「日本語の乱れだ」ときめつけるのはナンセンスである。  正常な言語感覚をさかなでにするようなとっぴな新造語にしても、少々耳障りな語法にしても、それが自然発生的に生れたものであれば、はたからとやかくいってもはじまらない。やれ「消耗」は「しょうこう」と読むのが正しいのだとか、「洗滌」は「せんでき」でなくてはならぬとか、そんなことまでいいだしたら、言語生活は崩壊してしまう。「消耗」が「しょうもう」になったのも、「洗滌」が「せんじょう」になったのも、ことばの自然淘汰《とうた》というものであって、自然淘汰なら、許すも許さないもない。  許せないのは、不自然淘汰である。  人為的、意図的に、ことばをもてあそび、ねじ曲げ、凌辱《りようじよく》することだけは、断じて許せない。人間の共通財産であることばを私《わたくし》してはばからない無法の輩《やから》が、いま、跳梁跋扈《ちようりようばつこ》している。コピーライターと称するはねっ返り人種がそれである。 「ビール人」「おいしい生活」「たばこ、する?」「あんたも発展途上人」「(ゴルフ・クラブのCM)とびの歴史を変えた」「(自動車のCM)快調なはしりを保証する」「宿愚連若衆艶姿《ヤサグレテアデスガタ》」「おっこるよオ」「恋はご多忙申上げます」(これは歌の題だったかもしれない)  あの連中のやっていることは、創造《クリエイト》ではなくて犯罪《クライム》である。あの連中は、ことばを手ごめにする強姦《ごうかん》者であって、早い話が、ことばの暴走族みたいな存在なのである。  シューッとひと撒《ま》きでコピーライターが絶滅するスプレーでもないものか〉(同誌昭和五十九年五月号「ことばの暴走族」)         *  三年前の短文なので、なにぶんにも引例が古い。  いまだったら、これまたほんの一例だが、葬式帰りの奥さん連中が口をそろえて「タンスにゴン」などという奇ッ怪千万なCMが実に気色悪い。  どのCMと特定はできないが、女性のCMタレントに「……だよ」「……だね」「うれしいね」といったしゃべり方をさせるのも神経にさわる。  オートバイのことを「マシン」なぞとほざいているCMがあった。あんなものが「マシン」なんかであってたまるもんか。そんなことをいうから、ちんぴらどもがヘルメットをかぶってぶっとばしたがるんじゃないか。  小さなステレオ装置が画面に写って「おぬし、メカがわかるな」というのもあった。メカとは笑止なり。         *  デーブ・スペクター著、構成桐山秀樹とある『文明退化の音がする』(新潮社刊)という本を読んだ。  デーブ・スペクターといえば、どうしようもないギャグを連発するだけの軽佻《けいちよう》浮薄な外人タレントだとばかり思っていたのだけれど、本業はアメリカのテレビ局の東京駐在員なんだそうで、この本では、堂々たる文明批評を展開していて、たいそうおもしろかった。  その中に「CM大国ニッポン」という章がある。少年時代に二十三本のCMに出演して「アメリカのCMの製作現場といえばその裏側まで熟知しているつもりだ」というデーブ・スペクター氏いわく。 〈(単なる広告にすぎない)CMに何か余計な意味をつけて、社会を動かす力すらあるように見せかける一団がいる。彼らは経済大国ニッポンの繁栄をいいことにひと儲《もう》けしようとたくらんでいるような気がしてならない。はっきり言おう。それはいわゆるコピー・ライターやCMディレクターと呼ばれる人々の集団である〉   人を笑わば  八ツ当りばかりしていると、だんだん人相が悪くなるようである。からだにもよくない。だから今回は、八ツ当らない。以下は、八ツ当りではなくて、反省自戒の弁である。         *  敗戦後まもないころの、あれは吉田内閣のときだったか片山内閣のときだったか、衆議院だったか参議院だったか、予算委員会だったのか決算委員会だったのか、そんなことは全然おぼえていない。  それはそうなんで、あのときは小学校六年生だったか新制中学一年生だったか、なにぶんにも年端《としは》もいかない子供だったのだから仕方がない。  新聞をひろげていたおやじが、ふん、と鼻で笑いながら、滋、見てみい、と記事をさし示していった。 「オイカ予算、じゃと」  質問に立った何党の何某議員が「追加予算」のことを、オイカ予算と口走って失笑を買ったという豆記事だった。  ふだん政治家の噂《うわさ》など口にしたこともないおやじが、どういうつもりであの記事を見せたのか、たぶん、その場かぎりの笑い話のつもりだったのだろう。そっちは「その場かぎり」でも、こっちはそうはいかない。オイカ予算という語呂《ごろ》が、滑稽《こつけい》感と等価値の音感として、やわな前頭葉に、しっかり刻みつけられた。  いいオトナが、それもえらいはずの政治家ともあろうオトナがオイカ予算だなんて、と子供心に憫笑《びんしよう》しているうちに、憫笑しすぎて、何かというとオイカ予算オイカ予算と、呪文《じゆもん》のようにとなえる癖がついた。  爾来《じらい》、幾星霜。  高校を出て、大学を出て、就職をして、いっちょうまえの社会人になって、さらにそのあと、文筆を業とする身になって、それで、はっと気がついてみると、「追加予算」という活字が目につくたびに、ほとんど条件反射的に「オイカ」と黙読しかけて、あわてて「ツイカ」「ツイカ」と口に出すのが毎度のことになっていた。五十をとうに越したいまでも、いまいましいことにそうである。         *  オイカ予算より、かなりあとのことだったと思うのだが、貧乏人は麦を食えといって物議をかもした総理大臣が、総理大臣になる前だったか、なってからだったか、アメリカに出掛けて「エケチット」といった。あのときもおもしろがって、バカにして、何度もマネしているうちに、エチケットというべきときに、エケチットのほうが口をついてとびだしそうになって困った。         *  批評の神様といわれた小林秀雄さんは、辰野隆門下の、もともとフランス文学専攻の秀才だが、その仏文専門家にして、モーパッサンのことを、しばしば「モーサッパン」と口走って平然としていたんだそうである。  その逸話を辰野先生からじかにうかがったのが、生意気盛りのころだったので、軽蔑《けいべつ》はしないまでも、なんとなくバカにして(じゃ同じことか)、ひとしきり口にした。おかげで、いまでも『脂肪の塊』『女の一生』と聞くと、モーサッパン、とあやうく答えそうになる。         *  生意気盛りの「盛り」で思いだす。  小沢昭一さんのところに、某若者雑誌の若者編集者から座談会に出てくれという電話がかかってきた。 「いやァ、あれには心底おどろいた」  ほんと、これ実話、とわざわざ断って、小沢さんは、鼻の横のホクロをひくひくさせながら、若者編集者の口調で続けた。 「あのですね、小沢センセイは、モリバの権威だそうで——いきなりこうだよ」 「モリバ?」 「そう、モリバ。おれが一瞬きょとんとしていたら、あのですね、今度ウチの雑誌で“モリバ考”という特集を組むことになりまして、ついてはモリバにお詳しい小沢センセイに、歌舞伎町とか錦糸町とか、モリバについて、ときたもんだ」  そりゃ、ま、そば屋の品がきに“大盛り”とあれば“モリ”だけどさ、盛り場をモリバとは、いくらなんでもひどいんじゃない、と悲憤慷慨《こうがい》してやまなかった小沢さんの話が、識閾《しきいき》下にこびりついてしまって、新宿、渋谷に出掛けるたびにモリバ、モリバ、とつぶやいてしまう。         *  まだある。  年来の飲み友達で、家族ぐるみのつき合いをしていた機械メーカーの社長が、飲み屋でやくざ風のちんぴらにからまれて、大立ちまわりになったあげく、喧嘩《けんか》両成敗、ひと晩くらい込んだ。 「まいったまいった、うーもすーもねえんだよ、いきなり手錠だもんね」  釈放されたその足で現われたので、ぼやきにも迫力がある。 「おれ、ホトーにくれちゃってね」  話の腰を折りたくないので、うん、わかるわかる、と相槌《あいづち》をうちながら聞いていたら、パトカーに押し込められる場面や、雑居房にほうり込まれる場面で、二度も三度も「ホトーにくれた」がとびだした。  もう十五、六年前の話だが、あれ以来、途方にくれるといおうとすると、口が勝手に動いて「ホトーに」といいかけてしまうもんだから、どうしていいかホトーにくれる。         *  人さまの言葉のミスを笑ってはいけない。  だれにだってミスはあるのである。現にこの私も、海外旅行先のホテルで、部屋をひき払う際に「おれの荷物《ラゲツジ》を運んでくれ」とポーターに命じているつもりで、「マイ・ランゲッジ」といつもいっていたらしい。ついこのあいだアメリカ旅行中に、同行していた娘に注意されて、はじめて気がついた。  なあ、おまえ、おれはラゲッジとランゲッジを混同していたわけではない、ただlanguage(語学)にはさんざん苦労してきたもんだから、ついついとびだしてしまうのだよ、と弁解しながら、人を呪《のろ》、いや、人を笑わば穴二つ、オイカ予算を憫笑したツケが四十年たってまわってきたのだと思った。   語尾の問題  それでェ、だからァ、彼にィ、だってェ、というぐあいに、若い者たち、とくにギャルといわれる小娘たちが、口をひらけば語尾を不必要かつ不自然にひっぱる、あの気色の悪い語法について、多くの大人たちが不快の念を表明したり、たしなめたり、批判したりしていたのはもうずいぶん昔のことで、いまではだれもなんにもいわない。根負けした、というよりも、語尾だけ発育不全のまま本体のギャルが成長して、あの語法が一般的になってしまったためだと思われる。  テレビの街頭インタビューなんかを聞いていると、若い主婦はもとより、子づれのおばさんまでが、それでェ、あれがァ、を連発している。  家庭で母親が、幼稚園で若い保母さんが、毎日、でェでェ、いっていれば、子供たちがでェでェいうのは当然の話で、この語尾はすでに二世代を制覇《せいは》したのである。         *  同じく二世代制覇の語尾に、女性たちが口にする「ね」「よ」「だね」「だよ」式の乱暴語法がある。  おいしいね、おいしくないよ、きれいな花だね、いい映画だよ。  幼児期から、せいぜい中学時代ぐらいまでは、女の子のこういう語尾も、それなりにかわいげもあるけれど、高校生ぐらいになったら、脱皮しなくては。いつまでも、だよ、だよ、いっている子には、そんなお行儀の悪い言葉を使ってはいけない、と親がたしなめなければ。  お断りしておくが、なにも、くそ丁寧な“あそばせことば”を使えというのではない。安手のテレビ・ドラマに限って、金持ちの令嬢役に「おかあさま、よくって?」などといわせているのなんかは、時代錯誤の極みであって、あのひとことでドラマぜんぶが嘘《うそ》になる。  よくって? だの、ごめんあそばせ、だの、あんないやみな語法は論外である。いま書いているのは、ふつうの女ことばを使ったらどうなんだ、というだけの話にすぎない。もちろん「ね」も「よ」も、むかしから女性が口にしてきた。ただし、かならず「わ」を伴っていた。  おいしいわね、おいしくないわよ、きれいだわね、いい映画だわ。  それが、いつごろからか「わ」抜きになった。  ぶりっこ歌手やジャリタレの女の子が、たのしいね、だの、そうだよ、などと、それがかわいいしゃべり方だと思い込んで口にしているのは、あさはかというものだし、本来レディと呼ばれてしかるべき妙齢の女性レポーターや、いい年をした女性編集者、女性カメラマン、女優といった、いわゆる翔《と》んでる女性たちが、だよ、だよ、と平気で口走っているのは、はしたない、の一語につきる。あの語尾は、下品である。         *  語尾ではないが、語尾に類することばづかいで、男女を問わず若い者たちに共通する「とか」の用法が気になってならない。 「俺《おれ》さ、漫画とか読んでると」 「あたし、政治とかに興味ないの」 「夜は、テレビとか見たり」  漫画を読んでると、政治に興味ないの、テレビを見たり、でいいではないか。「とか」を使いたいんだったら、漫画とか劇画とか、政治とか経済とか、テレビとかラジオとか、——これならわかる。 「ね、ね、ビールとか飲みに行きません?」  若い女性にいつも誘われるのは(嘘つけ!)うれしいが、ビールとか、はごめんをこうむりたい。 「ね、ね、不倫とかしない?」  これは、許す。         *  もう一つ。  ほんとうは、ここから先を主題にしたかったのだけれど、文字で説明するのがいちじるしく困難、というよりほとんど不可能なので、不本意ながら附録にまわした。  イントネーションの問題である。  近年、若い人を中心に、尻上《しりあ》がりのイントネーションが急速に一般化しつつある。  尻上がりというより、平板《フラツト》な語調といったほうが正確かもしれない。何度も書いて、いまさら筆にするのも気はずかしいぐらいのものだけれど、これまたテレビCFの、ことさら無気力をよそおった物言いが、長い年月のあいだに、じわーっ、と効いてきたのだとしか思えない。イントネーションの喪失——それが、私の耳には、尻上がりに聞える。  見ためがいいとか悪いという、見ため、それが傍線のあたりから尻上がりになる。学園祭、送別会、体育会、演奏会、みんな尻上がり。カタカナことばになると、もっと顕著である。  ドラマ、オリジナル、リハーサル、マネージャー、レコード、ディレクター、モデル。  これ、みんな語尾がさがるのがほんとだろう。あんまりだと思った例を、いくつかメモしておいた。  日本テレビの男女のレポーターが、二人とも申し合わせたように「二科会」まで尻上がりにしていた。  フジテレビの「なるほどザ・ワールド」の女性レポーターが「空とぶグライダー」といっていた。  フジテレビで子供たちが声を合わせて「トモ子ちゃんはセッターでーす」といっていた。バレーボールのセッターのことで、セッターと尻上がりにされては、なんか気色が悪い。さいわい、いまのところバレーボールはふつうに語尾をさげているけど、いまに、バレーボール、と尻を上げるやつが出てきそうだ。  局名を失念したが、テレビのトーク番組で、某若手女性タレントが、待ち時間の使い方を訊《き》かれていわく。 「トランプとかでェー」  トランプまで尻上がり、おまけに「とか」「でェ」ときた。三悪そろい踏みである。   私の“ことば狩り” 「使いたくないことば」というものが、おそらく、どなたにもおありのことだと思う。私の場合は、極度の“偏食”ゆえに、かぞえきれないぐらいあって、いちいち書いていたらきりがないので、省く。 「使いたくないことば」とは別に、「使ってはいけないことば」というものも、あるのではないか。  ある、ある、いわゆる差別用語がそれだろう、とおっしゃるか。  否《いな》。  差別用語の問題については、私には私の考え方がある。日本語を語る上で、この問題は、避けて通れないことがらだと思うので、いずれ取上げなくてはいけないと考えているのだけれど、いまから書こうとしているのは、差別用語とは関係ない。「使ってはいけない」というより、むしろ「あってはならないことば」といったほうが、より正確かもしれない。  ことばというものは人間が作りだしたものである。しかしながら、作りだされたことばが、今度は逆に人間を作りだす、ということもありうる。既成のことばが内蔵する魔力によって、人間の心が歪《ゆが》んだり、良心が麻痺《まひ》したり、ものが見えなくなったりするとしたら、そのことばは「あってはならない」と考えてもいいのではないか。         *  ラスベガスのカジノ付きホテルを五千百五十万ドル(約百十一億円)で買収して話題になった人物に、史上最高額の二百四十億円にのぼる「申告漏れ」があったことが発覚して、東京国税局が百二十億円の追徴課税を決定したものの、資産の大部分がアメリカに移されているために、徴収できるかどうかおぼつかない、というニュースが、ついこのあいだ大きく報じられたが、報道機関の全部が「申告漏れ」ということばを使っていた。  なぜ「脱税」にならないのだろう。ならないだけの正当な理由が、税法上もしくは刑法上、ちゃんとあるのだと想像する。法律的にはどうであれ、社会通念からすれば、申告漏れイコール脱税ではないか。「申告漏れ」ということばが内包しているのは「ついうっかり」というニュアンスである。二百四十億円も「ついうっかり」されてたまるもんか。 「申告漏れ」ということばには、罪の意識が欠落している。してはいけない行為ということでは「脱税」と同じではないか。だからこそ、このカジノ社長には重加算税を含む追徴課税が科せられた。重加算税とは何か。 「課税の免《まぬが》れ方が悪質であったときは、追加納付する本税額の三〇%を重加算税として納めなければならない」(『現代用語の基礎知識』年版—“税金問題用語”/自由国民社) 「悪質な税金のがれ」なら「脱税」そのものじゃないか。  人間の良心を麻痺させるという点で、「申告漏れ」ということばは、「あってはならないことば」だと考えたい。         * 「コピー食品」ということばがある。  私思うに、あれはもっとも唾棄《だき》すべきことばである。  一瞥《いちべつ》、本物とまったく見分けがつかないいんちき食品が出まわりはじめたのは、いつごろからだったか。私の大好物で、ただし清水《きよみず》の舞台から目をつぶって、えい、や、ととびおりるつもりでないと買えないぐらい高価なカラスミのまがいものは昔からあった。タラやサメの卵に味つけをして、一見カラスミ風の形にととのえた超安物で、本物のねっとりとした風味はかけらもない。  いんちき食品の代表格と目されるにせカニ足が市販されたのは、にせカラスミのずっとあとだったと記憶する。スケトウダラの冷凍すり身を原料にしたにせカニ足にほどこされているあの巧緻《こうち》をきわめた彩色ぶりと犯意は、ほとんど詐欺《さぎ》罪を構成するといってもいい。  この手のいんちきは、なぜか水産食品に多い。  シシャモの卵で作ったカズノコ。同じくシシャモの卵やトビウオの卵で作ったイミテーション・カニの卵、エビの卵、さらにはキャビアまで、よくまあこれだけ本物そっくりに作れるものだと感心するより先に、こんな詐欺的行為をあえてしてまで儲《もう》けようという心事の陋劣《ろうれつ》さを、私は憎む。  カニもどき、カズノコもどき、ホタテ貝柱もどき……言語道断ないんちき商品ではあるけれど、商品である以上、総称してまさか「いんちき食品」と名乗るわけにもいくまい。だからといって「コピー食品」とは奸智《かんち》のきわみである。  コピー全盛時代のいま、人は「コピー」ということばに、いちいち抵抗感を覚えたりすることはない。抵抗感どころか、反応することさえない。その心理的順応性というか、心理的許容度というか、馴《な》れというか、そこにつけこんだ「コピー食品」なるネーミングは、いわせていただくなら“悪魔のネーミング”である。 「コピー食品」という、一見さりげない、しかし考えてみれば悪辣《あくらつ》きわまりないこのことばが、いんちき食品に市民権を与えてしまった。「コピー食品」——これまた「あってはならないことば」だと考える。         *  もう一つ。 「ヤッちゃん」  広域暴力団に所属するやくざ者のことを、そんな“愛称”で呼ぶのは不見識というものである。だれが名づけたのか、私の記憶にまちがいがなければ、そういうことばを題名に冠した漫画が評判になったあと、急速にひろまったのではなかったか。  それまでにも「ヤーさま」ということばがあった。字面《じづら》だけでいえば最高の尊敬語だけれど、だからこそ反語としての批判精神が感じられた。「ヤッちゃん」はちがう。日本語の常識に照らせば、「ヤッちゃん」のひとことには親近感がこもっている。やくざなんぞに親近感をいだくことはない。いや、いだいてはいけない。  存在それ自体が“悪”であるやくざ者のことは、やくざ者、というべきである。   重箱特集  瑣末《さまつ》なことに目くじら立てて、いちいちあげつらうことを「重箱のすみを楊枝《ようじ》でほじる」という。ただ単に「重箱のすみをつつく」ともいう。英語ではTo split hairs(髪の毛を縦に裂く)という慣用句がそれに当るらしい。新年を迎えて、おせち料理風に“重箱特集”といこう。         *  国鉄がJRになって、これまでの体質がどう変ったかをレポートするテレビ番組を見ていたら、山の手線某駅駅長が誇らしげな口ぶりでこういった。 「当駅ではサービスを心がけて、駅員一同、声出しにつとめています」 「声出し」とはねえ。乱暴な名詞化にもおそれいるが、それ以前に、声を出すことをもってサービスと心得ているところが旧態依然、やっぱり“官”の思考である。         *  双羽黒《ふたはぐろ》の付け人が集団脱走した事件で、スポーツ紙が双羽黒のコメントを載せていた。 「いまの若いもんは、何を考えているかわからんよ」  ことばとしては、どこにもおかしいところはない。  でも、おかしい。  天下の横綱にはちがいないが、上に「新人類」がつく横綱で、たかだか二十三か四の若者の口から「いまの若いもんは」ということばがとびだしたのだと思うと、たまらなくおかしい。  ただし、相撲社会では、ふんどしかつぎや付け人クラスの取的を「若いもん」と呼ぶのが習慣になっているのかもしれない。そうだとすれば、双羽黒が「若いもん」と呼ぶのは不思議でもなんでもない。一般社会の感じ方で受けとめたら、おかしい。         *  死者十七人を出した東村山の老人ホーム松寿園の火災現場で、園長がふかぶかと頭をさげて、テレビ会見をしていた。 「このたびは犠牲者の方にも、ご家族の方にも、ご迷惑をおかけいたし……」  人が十七人死んでいるのである。「ご迷惑」はないだろう。ことによると、テレビでおなじみになっていたことばが、無意識のうちに口をついて出たのかもしれない。だとしたら、スターの離婚記者会見の見すぎというものです。  とはいうものの、あまりの大惨事に動顛《どうてん》しきって、ことばを選ぶゆとりもないという心理状態は十分理解できる。たった一語が場ちがいだったからといって、園長氏を責めるつもりは毛頭ない。私だって、あの状況に置かれたら、何を口走っていたかわかったものではない。         *  有事の際にとびだしたことばで、いまでも忘れられないひとことがある。  大阪住吉区の三菱銀行北畠支店に狂気の猟銃男が乱入して、四つの死体と二十五人の人質とともにまる二昼夜たてこもったあげく、警官隊に射殺された。あれは昭和五十四年一月に発生した事件だから、ずいぶん古い話である。  あの日、私はたまたま所用で大阪のホテルに泊まっていたので、緊迫感もひとしおだった。ひと晩じゅうテレビに釘《くぎ》づけで、次から次へとチャンネルをまわしていたら、どこかの民放局の画面が、現場中継からニュース・スタジオに切りかわる直前のところらしくて、若い放送記者が興奮の色をとどめたまま、カメラに向かってこう結んだ。 「これで現場を終ります。なお、このあとも新しい変化がありしだい、随時、現場からお伝えします、ご期待下さい」  死体がころがっている無残な室内で、犯人が“ソドムの市”と嘯《うそぶ》いて、想像を絶する異常な行為に及んでいたことは、あとでわかったことだけれど、内部の様子がこの世の地獄であることは容易に察しがつくし、多数の女子行員を含む人質たちの極限状態と、いてもたってもいられない家族の気持に思いをいたせば、「ご期待下さい」は大失言である。  けしからん、不謹慎だ、と若い放送記者を責めるのは簡単だが、けしからん、と叱《しか》る自分が何をしているのかといえば、現場中継を求めてせっせとチャンネルをまわし続けているのだから、まさに「ご期待下さい」といわれてしかるべき心理状態だったわけで、おのれのそういう心の底を覗《のぞ》けば、あの放送記者を叱る資格は、現代人にはない。         *  海外の話題を伝えるテレビを見ていたらアナウンサーがいった。 「サッカーといえば中国でも、もっとも人気のあるスポーツの一つです」  これはしょっちゅう耳にする語法で、だから、違和感も抵抗感もないのだが、考えはじめると、この語法、ヘンじゃないのかなあ。「もっとも」というのは、複数のなかのいちばん、すなわち「唯一《ゆいいつ》」のことだろう。その「一つ」といったら、唯一が二つ以上あることになってしまう。         *  カネボウの広告。  For beautiful human life.  フォー・ビューティフル・ヒューマン・ライフとなめらかに流れるアナウンスは、すっかり耳になじんでしまったし、日本人の言語感覚からすれば、「美しい、人間的な生き方のために」というふうに受取るのがふつうだから、べつにどうとも思わないわけだけれど、飲み友達のアメリカ人コピーライターが、あれはナンセンスだ、といって教えてくれた。 「Lifeといえば人間のlifeにきまっている。Human lifeなんて“人間の人生”というようなものだ。どうしてもいいたいんだったら、For the life beautiful.か、For a beautiful life.とすべきだ」         *  健康飲料の「ポカリスエット」も、彼にいわせれば珍妙なんだそうだ。 「Sweatというのは、汗くさくてダーティーな印象を与えることばなのだ。腋臭《わきが》の匂《にお》いさえ連想させるぐらいだから、英語国民だったらとても飲む気になれない。スチューピッドな(ばかげた)ネーミングだ。横文字を使うのもいいけれど、こういう“ファニー・イングリッシュ”はやめてもらいたいね」   買いたいものがある  青函《せいかん》トンネルを走る列車の乗務員たちが、目下、必死になって特訓していることがある、とテレビが報じていた。  あのトンネルは時速百キロで走っても三十分かかる、もちろん景色は見えない、その間《かん》、乗客をいかに退屈させないか、飽きさせないかが、乗務員に与えられた新しい課題なのですというレポーターの説明とともに、びっしり文字がうずまっている大学ノートと首っぴきで、口をぱくぱくさせている車掌の姿がうつった。何をしゃべっているのかというと—— 「青函トンネル内は揺れが少ないので、窓わくにタバコが立ちます」  その場でメモしたわけではないので、言いまわしはちがっているかもしれないが、でもまあ、ほぼ正確だと思う。ことによると「どうぞおためしください」ぐらい続けていたような気もするが、忘れてしまった。  要するに、トンネル通過中の乗客を退屈させないための車内放送の特訓をしているのである。紹介されたのは「タバコが立ちます」だけだったが、大学ノート一冊分の想像はつく。青函トンネルは世紀の大工事で、計画されたのが何年何月、着工が何年何月、のべ何万人の人手と、何兆円の総工費と、何十年の歳月をかけて完成したものです、だの、ただいま海底何百メートルの地点を走行中です、だの、青函連絡船の歴史だの、洞爺《とうや》丸の悲劇だの、バス・ガイドそこのけのアナウンス原稿が書いてあるのだろう。  これを、大きなお世話、という。  山の手線某駅駅長が、サービス向上をめざして当駅では駅員一同、声出しにつとめています、とテレビ・インタビューに答えていた一件を前項で書いたばかりだが、声出し(なんたる日本語!)といい、アナウンス特訓といい、JRはどうかしてるんじゃないか。  どんなに特訓したところで、素人《しろうと》は素人である。素人のヘタクソな車内放送を三十分も聞かされるのはたまったもんではない。なかには達者な車掌もいるにちがいない。これはもっと困る。達者な素人ほど始末におえないものはない。  飛行機のオーディオ・サービスのように、聴きたい客だけがヘッドホーンで聴けばいいというシステムになっているんだったら、なんの文句もない。列車の車内放送はちがう。どんなに聴きたくなくても、聴かされてしまう。声の暴力である。しかも、ボリュームがでかいときている。これはもう拷問《ごうもん》にひとしい。  ——以上は前書き、以下が本論。  ことばづかい、文法、アクセント、イントネーションだけが日本語の問題ではない。  音量、も、また立派に日本語の問題であると考える。  早い話が、テレビのレポーターと称する諸嬢諸氏たちの、けたたましいとしかいいようがないあの喋《しやべ》り方は、いったいなんなんだ。  いつから、そうして、どうして、この世がこんなに騒音だらけになってしまったのだろう。  声も、音も、大きすぎるよ。  たとえば映画館。あの大音響は、ほとんど犯罪的である。そのむかし、これでもいっぱしの映画青年で、社会人になってからは映画評なぞも手がけたことがあるぐらい映画好きだった私が、いまや、映画館に行くのは一年に一度がやっとである。いまでも映画は好き、でも映画館が大きらい。あの大音響に耐えられない。  大音響といえば、銀座、新宿、六本木、その他ありとあらゆる盛り場のバー、クラブ、スナックの、カラオケ、生《なま》オケのやかましさもひどすぎる。ハシゴどころか、一軒行っただけで声がかれてしまう。自衛上、ボーイなりホステスなりママなりを呼んで、すまないがもう少しボリュームをさげてくれないか、と懇願すると、そこは客商売、打てば響くように、はい、かしこまりました、と応諾してくれて、それでボリュームが小さくなったためしはない。 「権利」ということばは、私のもっともきらいなことばなんだけれど、この際、あえて使う。  カラオケでも生オケでも、気持よく歌う人間には、歌う権利がある。その権利を認めた上で、私はいいたい。  歌う権利があるのなら、歌わない権利もあるんだし、聴かせる権利があるのなら、聴かない権利もあるはずだ。  おたがい、権利を尊重し合おうではないか。  きみたちは歌いたまえ、ただし十五分間に限る、次の十五分間はオレのもの、どうか静かに飲んでいてくれたまえ、さらにその次の十五分間は、きみたち、大いに歌いたまえ——というぐあいにならないものか。  大音響アレルギーの私としては、せめて、そうなってほしいと切望すること久しけれど、そうなる見込みはたぶんゼロだろう。だったら仕方がない、札束で人のほっぺたをはたくようなマネはしたくないのだが、よし、静寂をカネで買おうじゃないか。  なぜそんないやらしい考えが湧《わ》いたのかというと、これにはわけがある。  かれこれ二十年ぐらい前に、ジューク・ボックスがはやったことがある。何百曲ものレコードを内蔵している機械に、当時のおカネで五十円だか百円だかを入れて好きな曲目のボタンを押せば、自動的にその曲が流れるという仕掛けになっていた。  あのころに聞いた話である。  アメリカのジューク・ボックスには、何百という曲目ボタンのほかに、「silence」(沈黙)というボタンがあって、一曲リクエストする値段と同額のコインを投入すれば、一曲分の静寂を買えるのだという。  その後、何度となくアメリカに出掛けるようになって、沈黙を買えるジューク・ボックスをこの目で見たいと思いながら、いまだに現物にめぐり合わない。  だから、この話、ウソかもしれない、ホントかもしれない。どちらにしても、その発想を日本に導入してもらいたい。  ひと晩で声がかれるようなカラオケ・バーだのクラブだので、かりに十五分の静寂を千円札一枚で買えるんだったら、私、とりあえず一万円札を出す。   自分のことば 「演説」ということばを国語辞典で引いてみると、公衆の前で自分の考えや主張を「述べること」とは書いてあるけれど、「読むこと」とは書いてない。「または読むこと」という添え書きもない。  草稿を読み上げる行為は「演説」とはいわない、あれは「朗読」という。  歴代総理大臣が、草稿、それも人が書いた草稿をただ棒読みにするだけの「施政方針演説」は、棒読みなら棒読みでいいとして、ならば「施政方針朗読」と呼ぶべきではないのか。  いまにはじまった感想ではないが、新首相竹下登氏の初の施政方針演説をテレビで視聴しながら、今度もそう思った。もちろん安倍さんになっても、宮沢さんになっても、渡辺さんになっても、きっとまたそう思うにちがいない。  これまでの施政方針演説で、いちばん長かったのは三木首相の一万一千字(昭和五十一年)、いちばん短かったのも同じ三木さんで、七千四百字(昭和五十年)だったという話を、懇意な新聞記者から聞いたことがある。ただし、中曾根さん以前の数字なので、長いほうの数字は書き変えられているのではないかと推察する。  このあいだの竹下演説は、六章構成で全一万字、まあ長いほうだろう。でも長いといったって、一万字なら四百字詰め原稿用紙二十五枚、ゆっくり読み上げて四十分、黒柳徹子嬢が読めば三十分とはかかるまい。たかだか四十分たらずの演説ぐらい、自分のことばをあやつれないものか。  棒読みなら棒読みでいい、とさっき書いたばかりだが、あれはことばのあやというもので、棒読みより、自分のことばでしゃべったほうがいいにきまっている。  竹下演説と同じ日(現地時間)に、レーガン大統領も米議会上下両院合同会議で施政方針演説に当る「一般教書演説」を行っていた。ほんのさわりの部分をテレビで見、聴きしただけだが、スピーチ台に載せた草稿なんぞには目もくれず、ときにユーモアをまじえながら、表情ゆたかに、自分の信念と主張を力づよい語調で訴えかけていた。  もちろんレーガン演説にしても、草稿それ自体は複数の合衆国大統領演説係の手になったものだろうから、あてがいぶちということでは竹下演説と五十歩百歩かもしれないが、かりにそうであっても、あてがいぶちの内容を咀嚼《そしやく》しなければ、自分のことばではしゃべれない。英語のヒヤリングによわい私のようなものが聴いても、レーガンさんは、少なくとも自分のことばでしゃべっていた。  演説内容については、二期八年の任期をつとめ上げてこれから辞めていこうとしている大統領の演説だから、新しい政策目標もないし、期待はずれだったというのが日本の新聞論調だが、内容はともかくとして、表現の技術、すなわちことばそのものは、なかなかどうして、みごとなものだった。  翌日の新聞(朝日・昭和六十三年一月二十六日付夕刊)に載った一般教書演説の要旨を読んで、それを再確認した。 「(四つの基本政策を述べて)以上が項目のすべてだ」 「(連邦予算の赤字を俎上《そじよう》にのせて)さあ議論を始めよう」 「予算手続きは故障した。大胆な修理が必要だ」 「我々を悩ましているものは大きすぎる政府と過大な支出だ。この予算合意を壊す試みは(大統領の)拒否権を使って退ける」 「(ここはテレビで見た——重さは四十三ポンドにもなる、と吐き捨てるようにつぶやきながら膨大な提出書類をばさっと机上に置いて)私の行政管理予算局は読み通すだけで三百人の手がとられた。議会はもうこんなものは送付しないでほしい。しても私は署名しない」  肉声とはほど遠い翻訳の、しかも「要旨」ときているのに、いきいきとしている。さわりだけしか見ていないテレビ画面をこの「要旨」に重ね合わせれば、ああ、自分のことばでしゃべっているんだなあ、と思えてくる。  竹下さんとほぼ同じ、約四十分間の演説だったらしいが、その間に「拍手は三十七回。うち六回は立ち上がっての大拍手で、演説はしばし中断された」(朝日・一月二十七日付「社説」)というのもむべなるかな、である。  あんなものは演技にすぎない、という見方も出来るかもしれない。ダイコンとはいえ、いやしくも元ハリウッド俳優なんだから、昔とった杵《きね》づか、この程度の演技はお茶の子さいさいにちがいない。  演技であったとしても、演技のどこが悪い、古往今来、政治などというものは演技以外の何物でもないという考え方も、正論とはいわないまでも、成り立たないことはない。もっといえば、各省庁の役人がパーツごとに書いてきたぬえ的文章を、糊《のり》とハサミでつなぎ合わせた草稿を読み上げるだけだったら、演技以前である。 「議会はもうこんなものは送付しないでほしい。しても私は署名しない」  演技でもいいから、これぐらい歯切れのいい演説を聴いてみたいもんだ。  それに引きかえ—— 「地域における人と人との心の通い合い、住民の自発性に基づくまちづくり、むらづくり、地域づくりのための活動、そして、家族の団らん、これらは、私が目指す政治の一つの原点というべきものであります」  なんなんだ、これは。  人と人との心の通い合い、まちづくり、むらづくり、地域づくり、家族の団らん、ときたら背筋がぞわぞわトリ肌《はだ》だってくる。  心が「通い合う」ということばはあっても、「通い合い」などということばは日本語にはないはずだ。 「まちづくり」「むらづくり」も笑止千万片腹いたい。「町」の字も「村」の字も、れっきとした常用漢字ではないか。当節の広告屋に影響されて、どうしてもそう書きたいんだったら、「地域づくり」も「ちいきづくり」と書かなくては平仄《ひようそく》が合わない。  施政方針演説の細部については、次項に詳述する。   円高とか  草稿には目もくれずいきいきとした語調で説くべきことを説いていたレーガン大統領最後の「一般教書演説」と、草稿に目を落しっぱなしで棒読みに終始していた竹下総理大臣初の「施政方針演説」とでは、迫力といい、説得力といい、残念ながら彼我の差は歴然で、それはひとえに自分のことばでしゃべっているかどうかのちがいだ、と私は書いた。  竹下さんに限らず、歴代総理にしてもだれにしても、百戦錬磨《れんま》、あれだけしたたかに出来上っている政治家諸氏に、フリー・トークの演説が出来ないはずがない。“言語明瞭《めいりよう》意味不明”であることさえ問わなければ、竹下さんだって四十分や一時間のフリー・トークはむしろお手のものだろう。  それをしないのは、単に慣行なのか、それとも、施政方針演説は朗読をもってすべし、という国会法の定めでもあるのだろうか。  どちらにしても、施政方針演説は、いままでそうであったように、これから先もずっと草稿棒読み方式で行われるにちがいない。  だとしたら、草稿こそが主役である。  読み上げられるための文章としての吟味が、どの程度なされているものか。草稿よく演説に耐えうるや。  新聞に掲載された竹下首相の「施政方針演説」(全文)に改めて目を通してみた。“全文”とあるからには、草稿そのものがこれだと考えていいだろう。 「前文」「外交政策」「経済財政運営」と続いたあと、突如として「均衡のとれた国土づくり」「豊かな社会」ときて、「結び」でしめくくる六章構成の、なんかこう不自然、かつ作為が見え透いているような章立てもさることながら、ほとんど脈絡もなくずるずると続く文章の、あまりの冗長さに呆《あき》れ返った。おしまいまで読みとおすのに、非常なる努力と根気と忍耐を要したもんだから、合計一万字、四百字詰め原稿用紙二十五枚分が、五十枚にも六十枚にも感じられた。内容はそのままに(ちっともいい内容ではないけれど)、文章を添削するだけで十五枚におさまってお釣《つ》りがくる。  演説草稿における“いい文章”の条件。 (一)耳にして、すっ、とわかること。 (二)読みやすいこと。 (三)一つのセンテンスが簡潔であること。 (四)格調を備えていること。 (五)話しことばにとらわれすぎていないこと。  ざっとそんなところが、最低限の条件だろう。  竹下演説の草稿は、五条件のぜんぶに逆行しているとしか思えない。ほんの一例にすぎないが、外交政策の章でいわく—— 「本年六月には、トロント・サミットが開催される予定となっておりますが、私は、同サミットにおいて、米国をはじめとする西側先進諸国が結束を更に強化するとともに、世界経済の調和ある発展のため政策協調を一層進めるよう最善を尽くしてまいります」  耳にしてわからないどころか、読んでもわからない。四、五回も読み返して、やっとわかったとしても、この文脈では日本語になっていない。簡潔という(三)の条件からもほど遠い。 「六月に予定されているトロント・サミットでは、西側諸国共通の利益のために、より一層の協調を強化すべく、最善をつくします」  原文のニュアンスを損ねないようにリライトすれば、これで十分だろう。だが、六月にトロント・サミットが開催されることは周知の事実なんだし、西側世界の一員である日本の最高指導者が、共通の利益のために最善をつくすのはあたりまえの話なのだから、そんなことはいわずもがな、この件《くだ》りはそもそも不要であった。  読みやすいこと、という(二)の条件に照らしても失格というべきだが、読みやすさと読みにくさを分けるのは、句読点《くとうてん》、わけても読点の置き方であって、たとえば次の一行。 「生涯学習の振興と学術、文化の発展のための施策も充実させてまいります」  これはもう最悪、読めたものではない。「生涯学習の振興と、学術・文化の発展のため」と書くべきところを、ついうっかり、読点の打ち場所をまちがえたのだろうが、読み上げられることを前提、というより目的としている演説草稿の場合は、読点一つが何より重要なのだから、うっかりではすまされないと考える。  条件(五)については、センテンスごとの語尾を見れば、一目瞭然である。「いたしました」「あります」「おります」「まいります」——すべての行が、その繰返しで終っている。口先だけのへりくだりは、いやみである以上に、空疎《くうそ》である。  もっとお粗末なのは、論点が変るたびに、次の一行が「また」という書き出しではじまっていることで、「また、私は、政治倫理の確立を図ることは……」「また、東西関係が全体として一層安定的なものとなるよう……」「また、政府としては……」「また、我が国は……」「また、地方財政についても……」「また、より豊かな老後の生活のため……」「また、健康で充実した生活に対する……」といったあんばいで、書き写していったらきりもない。ためしにかぞえてみたら、わずか二十五枚の文章中に、行のあたまが「また」ではじまる箇所が十三もあった。  でも、二十五枚に十三回ならまだいい、二十五枚に三十四回も使われていることばがあった。これまた、ほんの一例—— 「産業構造の転換や労働力の高齢化等の進展の中で(略)“産業・地域・高齢者雇用プロジェクト”等の対策を強力に推進し、また、労働時間の短縮、労働者の健康づくり等も進めてまいります」  これでワン・センテンスである。ワン・センテンスに「等《とう》」が三つも出てくる。 「国連を通ずる協力等を積極的に進めてまいります。特に国連等の平和維持活動に対する非軍事的貢献を……」 「等《とう》」とはなんぞや。三十四個の「等」をにらんで考えているうちに、はた、と思い当った。若いギャルたちが愛用してやまない「とか」に相当するのがこれなんだ。「え、テレビとか見て」「うん、ラーメンとかたべて」と同じではないか。 「国連を通ずる協力とかを」「特に国連とかの」「労働者の健康づくりとかも」「円高とか内外の経済情勢」……   いやいやながら  いま、私は怒っている。  いや、私は怒ってなんかいない。  どっちなんだ、といわれるか。ならば、お答えする。腹立ちを通り越して、あまりのアホらしさに唖然《あぜん》としている。まともに論じる気にもなれない。  言語道断。  そう書いたら、それでおしまい。とてもじゃないけど、一回分なんて、もたない。かりに書けたとしたって、書けば書くほど不愉快になってくるにきまっている。だから、書きたくない。  にもかかわらず、書かねばならぬ。「ねばならぬ」理由があるのです。  いまから書こうとしている呆《あき》れ果てたる日本語の存在を、私は、朝日新聞(昭和六十三年二月二十六日付夕刊)の記事で知った。一読、悪質な冗談かと思った。でも、読み返してみると、あながち冗談とも思えない。だとしたら、『日本語八ツ当り』の絶好の題材だ、という商売ッ気が、ちら、と脳裡《のうり》をかすめたことは事実なんだけれど、はじめに述べたとおりの理由で、書く気は、たちまち失《う》せた。  そうしたら、その晩、安野光雅画伯から電話がかかってきた。いついかなるときでも温厚な安野さんの声に、怒気がこもっていた。 「江國さん、わたしゃ、あたまにきてるんだ、朝日の夕刊、見ましたか」 「見ましたとも。わたしもあたまにきました」 「でしょ? あれは許せません。ぜひ『日本語八ツ当り』で取り上げて下さい」 「わかりました、取り上げます」  安野さんの気迫におされて、思わずそう答えてしまった。答えた以上、約束は約束である。  それだけではない。  こんなこと、自分の口からはいいたくないのだけれど、この連載については、未知の読者から、実に多くのお便りをいただいている。ありがたいことに、おおむねは共感のお便りである。  安野さんが激怒し、私が呆れ果てた翌々日あたりから、いつにもまして、読者からのお便りが舞い込みはじめた。一週間で、およそ十五、六通、その全部が、安野さんと同じことを求めておられた。  かくなる上は、書くしかない。  だから、書く。いやいや書く。  カンのいい読者なら、もうとっくにお気づきのことと思う。 〈簡約日本語/外国人のため“発明”します/国立国語研三年がかりで〉  そんな大見出しを掲げて、朝日新聞一紙のみが報じていた“加工日本語”の話である。  要約すれば、こうだ。  はじめて日本語を学ぶ外国人のために、理解しやすい基本型を作りたい。そのためには、㈰です・ます調に統一、㈪動詞は「ます」を活用、㈫基本使用語は一〇〇〇語、といったぐあいにいくつかの原則を設ける必要がある。いいだしっ屁《ぺ》は、国立国語研究所の所長さんで、所長さんの声なら、ツルのひと声である。その方針に沿って、国立国語研究所は、向こう三年がかりの予定で、外国人のために、日本語の思いきった簡約化をはかることを考えているのだという。  その実例として、だれでも知っているイソップの『北風と太陽』の一節が紹介されていた。 〈通常の日本語〉「まず北風が強く吹き始めた。しかし北風が強く吹けば吹くほど、旅人はマントにくるまるのだった。遂《つい》に北風は、彼からマントを脱がせるのをあきらめた」 〈簡約日本語・ステップ1〉「まず北の風が吹き始めました。しかし北の風が強く吹きますと吹きますほど、旅行をします人は、上に着ますものを強く体につけました。とうとう北の風は彼から上に着ますものを脱ぎさせますことをやめませんとなりませんでした」 〈同・ステップ5〉「とうとう北の風は、彼から上に着ますものを脱ぎさせることをやめないとなりませんでした」 「旅行をします人」、「上に着ますもの」、「やめませんとなりませんでした」、「やめないとなりませんでした」——そんな日本語があってたまるもんか。  もっといわせてもらえば、「北風」と「北の風」は、全然別ものである。「北風」といえば冬の風の総称であり、「北の風」といえば方向性をあらわす気象用語であって、両者のニュアンスのちがいは大きい。  外国人に日本語をやさしく教えるという基本理念に反対する理由は、何もない。反対するどころか、大賛成である。だからといって、外国人のためなら日本語をぶちこわしてもいい、ということにはならない。  このシステムによって、あるいは、日本語が飛躍的に世界の言語になるのかもしれない。なったとして、そうなればなるほど、日本語は、日本語から遠ざかっていく。国際言語の地位と引きかえに、日本語を売り渡してしまってもいいものか。何十年後かに、わが子、わが孫が、こういってもいいのかね。 「今日、幼稚園に行きましたときに、ボクが着ますものを、先生が見ますたびに、幼稚園に行きます子供にふさわしいと思いますことにはなりませんといいましたけど、ボクは、その考え方についていきますことをやめませんとなりませんでした」  でも——でも、である。私は、こう見えても限りなく寛容の精神にとんでいるつもりであるからして、一人の人間が、あくまで一私人の趣味もしくは妄想《もうそう》として、“簡約日本語”なる奇ッ怪千万なシロモノを研究なさるのは自由であり、それを妨げる権利は、だれにもないと考える者である。  その上で、国立国語研究所長・野元菊雄氏に、おそれながら申上げる。  研究なさりたければ、存分に研究なさればよろしい。ただし、研究に費やす時間も含めて、すべての研究コストは、私費でまかなっていただきたい。  こんなバカげたことのために、税金を使われては、たまったものではない。国立国語研究所の公費で、それをおやりになっておられるのだったら、いわせていただけば、公金横領以外の何物でもない。   悪文退治  新聞を手にしたとたん、こんな見出しが目についた。目についたというより、見出しのほうから目にとび込んできた。一面の左下、『天声人語』の上だから、新聞は朝日(昭和六十三年三月二十日付)である。見出しは、二行に割ってあった。 コンピューターが   悪文を“添削”指導  うーん、とうとうそこまできたか、というのが瞬間の感想だった。畏敬《いけい》の念を覚えたといってもいい。すぐそのあと、文章の添削というのは、人間の手仕事のなかでもとりわけ微妙、微妙にして高級な作業であって、コンピューターごときに出来てたまるものかという反撥《はんぱつ》が、畏敬の念にとって代った。  機械のことについては無知蒙昧《もうまい》の私といえども、コンピューターの基本原理が二進法によって成り立っていることぐらいは知っている。AかBか——これが二進法だろう。そのAが、またA'かB'かに分かれ、さらにA'がA"とB"に分かれ、というぐあいに無限の二者択一を繰返すうちに、いつのまにか気が遠くなるような選択肢《し》をクリアするのだと思われる。その処理能力には、文句なく脱帽する。コンピューターはすごい。コンピューターは偉い。そうして、いくらすごくても偉くても、二進法は二進法である。二進法なんかで文章をいじられるのは、まっぴらごめんだと思う。なんだか、聖域に土足で踏み込まれるような不快の念を覚える。  書けば長いが、ここまでは一瞬の感想で、こういう拒絶反応は、コンピューター世代について行けない人間の悪あがき、すなわち、ごまめの歯ぎしりにすぎないのかもしれないという自省の念が次に生じた。  コンピューターごとき、などという悪意にみちた言い種《ぐさ》は言語道断、現に、おまえだってコンピューターのおかげをどれだけ蒙《こうむ》っていることか、というわれとわが裡《うち》なる呟《つぶや》きがあとに続いた。  そうしたら、ふっと、肩の力が抜けて、コンピューターによる添削? それもいいではないか、という気になった。「まっぴらごめん」と思った口の下から、である。  二進法だろうがなんだろうが、添削は、しないよりしたほうがいい。文章のプロ(と目《もく》されている人たち)の文章も含めた上で、近時の目に余る悪文の跋扈《ばつこ》にさむざむとしたものを感じていた矢先だっただけに、二進法でもいいから、コンピューターが悪文退治にひと役買ってくれるのなら、まことにもってよろこばしい。  ここにおいて、“悪文”とは何か、ということが問題になってくる。  冒頭に掲げた朝日の見出しは、〈悪文を“添削”指導〉となっていたけれど、あれは〈“悪文”を添削・指導〉とすべきだったと考える。なぜなら、“悪文”に定義はないのだから。  どんな文章が“悪文”なのか。これはもう、人によりけり、というしかない。“悪文”の基準について、私には私なりの考えがある。でも、それは私の好みにすぎない。人さまが汗水垂らして(全然垂らさないお方もおいでのようだけれど)お書きになったものを、かるがるしく“悪文”ときめつけたりするのは、もってのほかである。  いま、私の手許《てもと》に二冊の本がある。この稿を草するにあたって、書架の奥から取り出してきたもので、二冊ともかなり古い本である。  千早耿一郎《こういちろう》著『悪文の構造』(木耳社・昭和五十四年刊)  岩淵悦太郎編著『新版/悪文』(日本評論社・昭和三十六年刊) “悪文”の症例を分析研究することによって、“いい文章”の条件を考えようというのが両著の狙《ねら》いで、いま読み返してみても裨益《ひえき》されるところ大である。その良著二冊にして、メイン・テーマである“悪文”とは何か、という点になると、センテンスが長すぎる文章のことだというような、建前論だけに終始していて、結局、不得要領である。  悪文とは何か。  たとえば、道路交通法施行令の「信号機の灯火の配列等」第二項第二号の、まるで“青巻紙赤巻紙黄巻紙”みたいなシロモノ(「法断章」で既述)が悪文の見本だといいたいところだけれど、あれは“文章”以前であるからして、悪文の名にも価しない。  悪文のうまい職種というものがある。  悪文のうまい、というのは妙な表現だが、よくまあこれだけの悪文を書けるもんだ、と感心するような文章を、平気で書き綴ってやまない職業人がいることは事実であって、私の目には、悪文がうまい、とうつる。  一に裁判官、二に学者、三に新聞記者。  ただし、“悪文”の性質はそれぞれにちがっている。実例を挙げよ、といわれたら、十例や二十例はたちどころにお目にかけることも可能だが、残念ながら紙数が尽きた。きわめつきの、ほんの一例だけ—— 「犯罪は資本主義社会——および他のすべての生産手段の私的所有に立脚した社会秩序——においては、社会のこの社会経済的基本構造によって、この社会形態における社会的行動の基本類型や基本範型に適合する。/反社会的行為の研究のための指導的方法として用いるべき基本的な考え方は、『過去の残滓』の概念に社会主義が不健全な遺産として抑止することを強いられているすべてのものを包含させることである」(『社会主義刑事学』/E・ブーフホルツ他著/横山晃一郎他訳)  赤飯にゴマをまいたような傍点は、お断りしておくが、原著のままである。  いったい、なんのための傍点なんだろう。とくに強調したい字句にほどこすのが傍点だが、この怪文では、ただ一カ所傍点禍を免《まぬが》れた「および他のすべての生産手段の」という文言《もんごん》だけが、かえって目立つというものである。この部分だけではなくて、傍点禍は全体に及んでいる。一冊ゴマだらけというのにもおどろいたけれど、ゴマを払った上で、この文章、何度読み返してみても、ちんぷんかんぷんである。 “悪文”というのは、こういうものの謂《いい》であるのか、と思う。それを、コンピューターがチェックしてくれるのなら、こんなありがたいことはないと思いながら、改めて記事を読んだら、悪文は悪文でも、パソコンやワープロについている使用説明書《マニユアル》の悪文を添削するのだと書いてあった。  それならそれで、書きたいことがある。   愛用すれど理解せず 〈コンピューターが悪文を“添削”指導〉という新聞の見出しだけを見て、これで、世に氾濫《はんらん》する“悪文”が多少とも正されるようならよろこばしいことだと考えたのは、私の早とちりであった。いまにして思うに、早とちりというより、私の期待的願望がついつい先行したのかもしれない。  悪文を添削・指導するコンピューターを富士通が開発したというあの記事を読んでみると、対象とされているのはパソコンやワープロについている使用説明書《マニユアル》の文章であって、文体や漢字の正否など百七十項目にわたってコンピューターがチェックしたり、五段階評価をしたり、点数採点をしたりするのだそうだ。  五段階評価というのは次のとおり。 「難しすぎる」「難しい」「適切」「易しい」「易しすぎる」  してみると、易しくても、易しすぎても「適切」ではないらしい。これがわからない。易しい文章をこそ目指すべきではないか。易しすぎて、どこが悪い。  コンピューターによる実際の添削・指導例も紹介されていた。 〔元の原稿〕尚、メニュー方式は、コマンド方式のように処理速度は速くないが、操作性にすぐれ、教育が容易であります。 〔指針〕誤り=“尚”をひらがなに書き直してください。警告=“ように〜ない”はあいまいです。書き直してください。警告=接続詞“が”を使わない表現に書き直してください。警告=連用中止形“〜にすぐれ”はあいまいです。別の表現で書き直すことを勧めます。誤り=本文の文体が不統一です。“である調”に書き直してください。 〔難易度〕難しい。 〔評点〕60 (註=原文は横書き。下線つき。誤りは「誤」、警告は「警」と略記されている)  なるほど親切なものである。コンピューターの“指針”に従って、忠実にリライトしてみようか。 〔リライト〕なお、メニュー方式は、コマンド方式に比べると処理速度は速くない。そのぶん操作がらくで、教育が容易である。  ——これで読みやすくなったとは、到底思えない。文体を“である調”に統一したからといって、使用者の理解度を助けることにはならない。文体以前に、「メニュー方式」「コマンド方式」をなんとかしてもらいたいところだが、パソコンやワープロに熟練した人たちにとっては常識なのだろう。でも、熟練した人に、使用説明書《マニユアル》は不要でしょうが。         *  パソコンやワープロは、私の手に負えない。手に負えるものに、話を変えたい。  私が愛用している一眼レフカメラ、ミノルタ・アルファ7000の使用説明書の一節。 〈アキュートマットを使用するマニュアルでのピント合わせ/オートフォーカスの苦手な被写体で、ピント検出ができないときなどは、マット面でのピント合わせを行ないます。全面アキュートマットになっていますので、マット面でのピント合わせも容易です〉  買ったときに何度も読み返して、結局わからずじまいである。こうなると“です、ます調”がそらぞらしい。  もっと愛用している全自動小型カメラ、キヤノン・オートボーイテレの説明書。 〈オートフォーカスフレームは、ピントを合わせたいもので完全におおってください〉  何ひとつ不明なことばは使われていないのに、なんだかよくわからない。てにをはがおかしい上に、「おおう」という動作がぴんとこない(駄《だ》洒落《じやれ》に非《あら》ず)。  こんなに簡単な一行でさえ、すっ、とのみ込めないのは、私の頭が悪いせいであることはいうまでもないが、頭が悪い人間だってカメラは使うのです。  二台のカメラと説明書の関係についての、私の体験的結論——愛用すれど理解せず。         *  もっぱら子供が愛用しているサンヨー・ホームビデオの取扱説明書。 〈ワンタッチ開始時刻ボタンを押すと、現在時刻から切り上げ30分間隔で最大24時間先まで、開始時刻が変わります〉 「現在時刻」もわかる、「切り上げ」もわかる、「30分間隔」もわかる。それがこの文章になると、一度読んだだけではまぎらわしい。「現在時刻から」のあとに「〓」がないために混乱する。  同じく子供が愛用しているパイオニア・ステレオダブルカセットテープデッキ。 〈本機は、カセットハーフにある検知孔によりテープの種類を検出して、それぞれのテープにあった録音バイアス、イコライザーを自動的に設定するオートテープセレクター機構を備えています〉  そうかいそうかい、よかったね、ところで録音バイアスってなんだ? イコライザーってなんだ?         *  がらっと変って、これはおまけ。  仁徳天皇を主神とする大阪・高津宮《こうづのみや》の手水《ちようず》舎《や》に、「手水《ちようず》の使い方」と書かれた高札が立っている。  1 まず右手に柄杓《ひしやく》を持ち左手を洗います。  2 次に左手に柄杓を持ち右手を洗います。  3 次に右手に柄杓を持ち左手に水をうけて口をすすぎます。  4 終りに右手に柄杓を持ち左手をもう一度洗います。  これほど平明で、これほど過不足のない説明文がまたとあろうか。「隅《すみ》から隅まで、はつきり行き届いてゐて、一点曖昧《あいまい》なところがなく、文字の使ひ方も正確なら、文法にも誤りがない」(谷崎潤一郎著『文章読本』)という名文の資格を、ことごとく備えている。  説明文は、かくありたい。  もう一度いう。易しすぎて、どこが悪い。   おう、よちよち  おはヨーグルト  こんばんワイン  さいなラッキョ  すみま千円  そんなバナナ  なるほロケット  ——こんな語法が、いま小中学生から大学生のあいだではやっているんだそうである。大学生までというところが情ないが、はやっているものはしかたがない。  箸《はし》にも棒にもかからない駄《だ》洒落《じやれ》といいたいところだけれど、駄洒落というのはもうすこし気がきいているものであって、こんなもの、単なる語呂《ごろ》合せにすぎない。  おはよう、こんばんわ、さいなら、すみません、そんなばかな、なるほど。  語呂合せの絵解きをするなぞ、野暮の骨頂を通り越して愚の骨頂、あほらしくて泣けてくる。  たかが子供のことば遊び、そんなものにまで目くじら立てるとはおとなげない、『日本語八ツ当り』もおちぶれたものだといわれる前にいっておく。私は目くじらなんか立てていない。あほらしくて泣けてくる、といま書いたのは、わかりきった絵解きを添えた自分の行為に対してであって、あの語法に対してではない。  語呂合せや駄洒落をはじめとするこの手の言語遊戯をおもしろがる時期というものが子供にはあって、それも成長過程の一つである。私にも経験がある。ただし、せいぜい中学どまりで、高校生になったらさすがにばかばかしくなって、ひとりでにおさまった。それがふつうだろう。大学生になってまで、おはヨーグルトで笑いころげているようでは困ったものだが、幼少年期の言語遊戯は、たとえ悪ふざけに類するものであっても、ことばに対する感受性をはぐくむ訓練になるのだから、目くじら立てるには及ばない。それどころか、奨励したっていい。  奨励するについては、条件が二つある。  一つ、一過性であること。  二つ、創作であること。  さいなラッキョだろうが、そんなバナナだろうが、自発性があれば立派なものである。  残念ながら、そうではない。仕掛け人がいる。  評判のマンガをコミック誌に連載中の、三十四歳におなりのKさんというお方がそのご仁《じん》で、ケタはずれの財閥の御曹司《おんぞうし》である“御坊茶魔《おぼう・ちやま》”なる主人公の小学生に、茶魔語と称するああいうことばをしゃべらせたら、あっというまにはやりはじめたのだという。Kさんに含むところなぞ何一つないのだけれど、三十四歳にもなって、すみま千円、でもないだろう。ジャリをたきつけるのも、いい加減にしてもらいたい。  でも、Kさんを責めるのは酷というもので、責めらるべきは、Kさんの背後でほくそえんでいるコミック誌の編集長である。  でも、さらに、でも、である。コミック誌の編集長も責めるわけにはいかない。この人はジャリ相手に商売しているのであって、商売ならやむをえない。  責めらるべきは、ほかにある。  おはヨーグルトだの、こんばんワインだの、そんな屁《へ》みたいな流行語を、なんで知ったのかというと、毎日新聞(昭和六十三年六月二十九日付夕刊)で知った。最終面の大半をつぶして、見出しにいわく——〈ん〓 いま一番新鮮〓 大受け茶魔語/標準語にしたい/ノリP語と同じ感覚アリ〉  ノリP語というのは、ぶりっこ歌手の代表格らしい酒井法子さんが、おいしいをおいピー、うれしいをうれピー、というぐあいにピーピーいうのがカワユイ(いやなことば!)ということで話題になった、いわば茶魔語の先輩格である。  おはヨーグルトだの、おいピーだの、児戯に類することば遊びの流行を、いやしくも三大紙にかぞえられる天下の毎日新聞ともあろうものが、紙面の大半を割いて報じることこそ責められてしかるべきだと愚考する。「M記者」とある署名記事の、その文章が、おはヨーグルトに批判的ならいい、お追従《ついしよう》ならよくない、というようなことではない。ニュースとして取上げること自体が、よろしくないといっているのである。  こんな語法は、目あたらしいことでもなんでもない。水道のことを「ひねるとジャーデル」といったむかしから、繰返しいわれてきたことである。そんなものが、ニュースであってたまるもんか。かりにニュースであったとしても、そんなニュースは黙殺するのが、おとなの態度というものだろう。おはヨーグルトだなんて、おとなの新聞に、おとなが書くことではない。  さいわいなことに、この新聞社には「毎日小学生新聞」という刊行物がある。そっちに送ったらどうなんだ。  みみっちいことはいいたくないけれど、いま新聞の月ぎめ購読料は二八〇〇円、二八〇〇円払って「おはヨーグルト」の記事を読まされてはかなわない。  新聞代なんかはどうでもいい。  小学生新聞に載せるべき記事を、おとなの新聞に載せることだけは、やめてもらいたいというだけの話である。  くどいようだが、おはヨーグルトがけしからんといっているのではない。幼い者が遊んでよろこんでいるのだから、おう、よちよち、と笑っていればそれでいい。   予算委員会テレビ傍聴席  衆議院予算委員会のテレビ中継を見るともなく見ていたら、質問中の野党議員が、国会、国会、としきりにいう。国会議員が国会の場で、何かものをいえば「国会」という単語の使用頻度《ひんど》が多くなるのは当然のことで、いささかも不思議はない。  ただ、この人が「コッカイ」というと、どうしても「黒海」としか聞えない。何度聞いても「国会」ではなくて「黒海」である。  ——いやしくも「黒海」の場で。  ——「黒海」の権威。  ——「黒海」を無視。  聞いているうちに、あ、と思った。この野党を率いる女性党首も、そういえば「黒海」「黒海」を、いつも連発しているような気がする。  国会のことを「コックヮイ」といっていたのは、みずから「ギクヮイ(議会)の子」をもって任じていた元内閣総理大臣三木武夫氏だったが、あれはむしろ正統の残滓《ざんし》というべきであって、漢和辞典にも国語辞典にも、「会=クワイ」「快=クワイ」「怪=クワイ」といったぐあいに歴史的仮名づかいによる字音が併記されているぐらいだし、いまでも「クヮイギ(会議)」「キンクヮイ(欣快)至極」「キックヮイ(奇ッ怪)千万」という語法はご老体の口からしばしば耳にするところである。  だが、「国会」を「黒海」と発音するのは面妖《めんよう》である。無意識のことば癖なら仕方がないが、ことさらあのアクセントを用いることで一種の威圧感を与えようとしているのだったら、鼻もちならない。  リクルート問題を持ち出すまでもなく、ここまで腐敗した政界という特殊ゾーンは、いうなれば汚濁しきった泥水《どろみず》みたいなところで、だったら「国会」より「黒海」のほうがふさわしいという考え方も、できないことはないけれど。         *  同じ予算委員会で、別の野党議員が税制改革問題を取上げて、国民、国民、とこの人はしきりに「国民」を引き合いに出していた。  国民の選良が発言するからには、「国民」という単語が頻出するのは、これまた当然のことなんだけれど、引き合いに出す、その出し方が「国民」としては、かちんとくる。  耳慣れない専門用語を不必要に駆使する閣僚や政府委員の答弁に噛《か》みついたのはいい(噛みつくべきだ)として、そんな難解なことばで説明されても、(もちろん自分にはわかるが、とはいわなかったけれど、あきらかにそういうニュアンスで)、国民には理解できない、というようなことを何度もいう。  国民にはわからない。国民がどう思っているか。国民は納得《なつとく》しないだろう。国民に聞いてみろ。  なんだか、自分は国民ではないみたいである。国民ではないということは、国民に非《あら》ずということで、したがってこの人は「非国民」ということになるんじゃないか。  この人だけの話ではない。歴代総理大臣をはじめとして、およそ政治家と名のつく人たちの口からとびだす「国民」ということばは、例外なく「下層の者ども」と聞える。  国民、国民、と気やすく呼んでもらいたくない。呼ぶのなら「ご主人」と呼んだらどうだ。下僕のくせに。         *  ——センセイご案内のとおり。  いまにはじまったことではない政府委員の常套句《じようとうく》だが、ときどき閣僚まで口にしている。 「センセイ」は、もうやめたらどうだ。こんなふうに片仮名で書いたら、それはもうからかい半分の、いや、からかい八分ぐらいの蔑称《べつしよう》であることは、いまや日本語の常識である。  衆議院、参議院、いわゆる院内では“くん”づけで呼ぶのが長きにわたる慣習であるらしい。だったら“くん”で呼んだらいい。  わが母校慶応義塾では、センセイといえば福沢諭吉センセイのことで、福沢センセイ以外はぜんぶ“くん”で呼ばれていた(いまはどうだか知らない)。あれもキザだし、竹下登くーんもキザである。ごく普通に、“さん”づけでいいではないか。 「ご案内のとおり」は、もっとキザである。キザを通り越して、そらぞらしい。だいいち、“案内”ということばは、案内する、案内状、案内嬢、といった意味合いしか、現代人にはない。しかしながら、字引きをひっぱってみると、いちばんおしまいのほうに「よくかってを知っている人」と書いてある。だから「ご案内のとおり」はまちがいではない。だからキザだというのである。  ほかにいいようがないというのであれば仕方がない。「ご存知のとおり」でも「ご承知のとおり」でも「知ってのとおり」でも、いくらでも、普通のいい方があるじゃないか。         *  国会の論戦といい、与野党の攻防という。  いうのはもっぱら新聞とテレビだけで、ご本尊の政治家諸氏は、ちっともそう思っていないはずである。  あんなもの、「論戦」でも「攻防」でもない。ただの「なれあい」もしくは「じゃれあい」もしくは「いちゃつき」にすぎない。  いつぞや、閣僚経験者の某氏(故人)に、予算委員会の閣僚席で野党議員の恫喝《どうかつ》まがいの罵詈雑言《ばりぞうごん》にじっと耐えているのは、毎度のこととはいえさぞかし苦痛でしょうと問うたら、某氏、にやりと笑っていわく—— 「あれがいちばんラクよ。テキのいうことはわかってるんだし、こっちの答えることもわかっている。あとは居眠りしとればすむ」  知性派として評価が高かった某氏の韜晦《とうかい》趣味もしくは自虐《じぎやく》趣味を差し引いたとしても、あんまりだ、と思う。  私でさえそう思うのに、ウラのウラまで知っているはずの政治記者やニュース・キャスター諸氏が、やれ「論戦」だの「攻防」だのと、もし本気でそういっているのであればバカだし、口先だけでいっているのだったら偽善者である。   同病相和ス  新聞の文章で目に余るのは「としている」というおかしな語法の濫用《らんよう》である、と私は前に書いた(「『としている』症候群」)。私が書いたからといって、どうなるものではないのであって、あれから以後も、もちろん後を絶たない。しつこいようだが、おさらいの意味で、新症例を追加しておきたい。 〈中国の批判実態と乖離《かいり》〉「藤田局長の説明に対し“徐公使は論評しなかったが、満足そうではなかった”と外務省はしているが、中国大使館は八日深夜、これを否定(略)、外務省筋は“徐公使の発言は個人としてのものだったので、公表しないことを双方で了承したから、説明しなかった”としている」(朝日・昭和六十二年六月九日付) 〈日航乗員批判の本に故高浜機長の写真掲載〉「著者と文芸春秋は“全く気づかなかった”とし、写真を差し替えることなども検討している。(略)この章では“乗員のストが多すぎ、世界一の高給を取りながら、組合の要求は非常識”などとしている。(略)これについて日航乗員組合は(略)“写真だけではなく、本全体の事実関係を、機長組合、先任航空機関士組合とともに調べ、対処する”としている」(朝日・六月十二日付夕刊) 〈天皇陛下のご体調すぐれず〉「陛下のご症状について詳細は公表されていないが、同庁は“腹部がすぐれない”としている」(毎日・九月十九日付)  新聞から飛び火したのかもしれないが、テレビのニュース番組でも、最近はしばしば耳にする。 「竹下派は臨時国会前にも決着をつけたいとしています」(NHKテレビ・六月十二日) 「東京都水道局では、このぶんでは十五パーセントの給水制限もあるとしています」(フジテレビ・六月十九日)  飛び火は、テレビ・ドラマのナレーションにまで及んでいた。 「政宗は父の無残な遺体を母に見せたくないとしてその場で荼毘《だび》に……」(NHKテレビ「独眼竜政宗」総集編・十二月二十八日)  新聞の文章に話を戻して、もう一例。十年も前の古い記事からの引用で恐縮だが、あんまりすごい一行だったので切り抜いておいたものである。 「文化庁では、漢字については日本人の意見は百人百様であり、どんな案を出しても必ずクレームはつく、としている」(朝日・五十四年四月二十三日付)  十年前のあのときすでに“としている病”は蔓延《まんえん》していたのか、といまにして病巣の深さを再認識する思いだけれど、そんなことより何より、傍点をほどこした「は」の字の羅列《られつ》に呆《あき》れ返って、切り抜いておいたのだった。こういう文章を苦もなく書ける鈍感さが、むしろうらやましい。 “としている病”と並んで、新聞文章の二大疾病《しつぺい》というべき病《やまい》が、もう一つある。  かりに“同病”と名づけようか。  同病なら、相憐《あわれ》ムものと相場がきまっているのに、この同病は、相憐ムどころか、相和シているかに思える。“同病”の症例をお目にかける。 〈家裁書記官が痴漢〉 「その際、同列車に、以前、伊藤にいたずらされた女性が乗り合わせ、家族を通じて同署に通報、同署員が、その列車の終点の新津駅で待ち伏せた。しかし、伊藤は寝込んでしまい、折り返し新潟行きとなった同列車で新潟駅まで戻った」(読売・六十三年七月十五日付夕刊) 〈米軍機燃料ふりまく〉 「同日午後七時ごろ、同県大和市上草柳六丁目の住民から同市役所に“付近一帯が油臭い”という電話があった。同地区は米海軍厚木基地の滑走路北側約一�にあり、市基地対策課が調べたところ、同午後六時五十分ごろ、(略)ジェット機が同地区上空を北東から南西に向かって飛行中、(略)ジェット燃料を白い霧状に振りまいたことが分かった。ジェット機は、その直後、同基地に着陸した。(略)問題のジェット機がNLP訓練中かどうかは不明。同市基地対策課で照会している。同基地米軍渉外部が説明したところでは、この日午後六時四十七分、同基地を離陸したA6イントルーダー一機が(略)……同基地に引返し(略)……同機に火災は起きていなかったが(略)……同市鶴間二の五の一、厚木基地爆音防止期成同盟書記長、浜崎重信さん(六八)は(略)……また同市では三十日朝、井上孝俊・大和市長が同基地を訪れ、抗議する」(毎日・八月三十日付)  同日、同県、同市、同地区、同午後六時五十分、同基地、同機……一つの記事に「同」が十五、リード(前文)に一つ、合わせて十六も用いられている。「同」の字が出てくるたびに、大幅にさかのぼって読み返さないと、のみ込めない。  さかのぼっても、はっきりすればいいようなものだが、いつぞや、記事の冒頭に「同署の調べによれば」とあって、リードまでいくらさかのぼっても、同署の固有名詞がついに見当らなかったことさえある。切り抜いておかなかったので、正確な引用ができないのが残念である。  何度も出てくる固有名詞や日付を、そのつど繰返すのは煩雑《はんざつ》だし、読むほうだってわずらわしいだろうから「同」の一字で表現しているのだ、という弁明は、一応もっともではあるけれど、何度も出てくる固有名詞や日付を、何度も出さないで首尾一貫させてこそ、プロの文章というものではないのか。  リード、リード、といま書いたけれど、新聞記事につきものの「リード」と称するあの前書きは、果して本当に必要なものなのだろうか。  忙しい読者のために、まず全体をかいつまんで報じているのがリードの部分で、ご用とお急ぎでない読者は、以下、本文をゆるゆるとお読み下さい、ということなんだろうが、読者に「忙しい読者」も「ヒマな読者」もない。そのニュースに、興味がある読者と、ない読者があるだけである。興味がない読者はリードも読まない。興味がある読者はリードを読んで、さらに本文の記事も読む。リードがあるばっかりに、同じことを繰返し読まされてしまう。 「としている」にしても「同」にしても「リード」にしても、それが新聞の文章というものだと新聞社員は思い込んでいるのかもしれないが、それは「思い込み」ではない、「思い上り」というものです。   五輪特集  ソウル・オリンピックのテレビ中継を見ていたら、体操競技を実況放送中のアナウンサーが、こんなことをいった。 「ソウル・オリンピックで引退を賭《か》ける李寧《りねい》選手です」(NHKテレビ・昭和六十三年九月十八日)  ほうなるほど、引退を賭けるのか、とうっかりつられそうになったところで、これ、なんだかおかしいんじゃないか、と気がついた。  再起を賭ける。  これは、わかる。  引退を賭ける。  これは、おかしい。どこかヘンである。賭けなくたって引退はできる。         *  深夜、酔っ払ってタクシーに乗ったら、カー・ラジオの“今日のオリンピック”というような番組が、レスリングの結果を報じていた。 「日本の福辺がユーゴのテルテイに、フォール勝ちで負けました。これで興味が薄くなります」(NHKラジオ・九月十九日)  アナウンスの息つぎの箇所に句読点《くとうてん》をほどこした。酔っ払っていても、それぐらいの記憶はある。  一瞬、日本選手が勝ったのかと思った。むろん、すぐにそうではないことはわかったのだし、ニュースとしては正確なんだし、だから、べつにどうということはないんだけれど、でも、これまたどこかヘンである。 「フォール勝ちで負け」という言葉の組み合せに違和感がある。  ついでにいえば、「興味が薄くなります」というコメントにも、おや、と思った。  興味は「薄れる」もの。 「薄くなる」のは髪の毛。         *  選手村のそこかしこでバッジ交換会が開かれているもんだから歩行もままならない、という“ソウル・スケッチ”を伝える女性レポーターが、ほんの一、二分の放送時間中に、“バッチ”“バッチ”を連発、十数回に及んだ。(TBSテレビ・九月二十二日)  徽章《きしよう》を意味するこの単語はbadge ——いうまでもなく「バッジ」である。  野球解説者が乱発してやまない「送りバンド」「巨人フアン」については、すでに書いたが、この手の外来語は、ほかにもある。「プロマイド」もそうだし、「金メタル」もそうだ。もちろん「バント」「ファン」「ブロマイド」「メダル」が正しい。  まちがいやすいことばがある以上、「バッジ」だよ、とだれかがあらかじめ教えておくのが、ことばを商品の一部とする業種にあっては、当然の心得だと考える。 「バッジ」でも「バッチ」でも同じこと、視聴率にはカンケイないさといわれたら、それまでである。         *  これは、どのテレビ局の、いつの放送と、特定いたしかねる。  女子の新体操、あれはもう“スポーツ”の籍を離れて、“曲芸”に入籍したとしか思えないのだけれど、オリンピックの花であることは否定しない。  美しくて、ぴちぴちしていて、色っぽい。  うっとりしながら眺《なが》めている耳に、アナウンサーのことばがとび込んでくる。 「東ドイツの名花ナントカ選手のナワの演技です」 「日本期待のナントカ選手、さあ、コンボーの演技……」  絶世の美少女が出てきて、ナワ(縄)にコンボー(棍棒)とくれば、どうしたってSMの世界ではないか。  SMはともかく、美的なるものにおよそふさわしくない呼称である。  アナウンサーを責めてもはじまらない。国際的にも、それが公式用語になっているのだから、縄だ、棍棒だ、と連呼せざるをえない。  新体操に四種あり。 リボン(Ribbon) 輪(Hoop) 縄(Rope) 棍棒(Indian clubs)  英語を直訳すれば、たしかにそうなる。  だから文句あるか。ある。  日本語で「縄」といえば、まず荒縄を連想するのがふつうだろう。「紐《ひも》」と訳せば、ずっとやわらかい感じになる。  事実、美少女たちがあやつっているのは「紐」ではないのか。  Indian clubsを英和辞典で引くと「びん形の体操用棍棒」と出ている。だったら「びん」でいいのではないかといいたいところだが、「びん」ではガラス製になってしまうし、だいいち「びん」と「棍棒」は全然別物である。  いちばんいいのは、訳さないこと。 「リボン」「フープ」「ロープ」「インディアン・クラブス」——このほうがよっぽど自然だし、よっぽどすっきりしている。  うら若い乙女たちの美しい演技に、縄だの棍棒だの、あんな荒々しいことばを用いるのは、無神経というものである。         * 「ソウルの天気はどうか」 「今日は最終日、マラソンだね」 「日本の金メダルはいくつか」  篤《あつ》い病のおん床《とこ》で、天皇陛下が連日おたずねあそばされたと漏れ承《うけたまわ》る。  私が漏れ承るのはテレビと新聞からで、テレビと新聞が漏れ承るのは宮内庁と首相官邸からで、宮内庁と首相官邸が漏れ承るのは、宮内庁は宮内庁でも、謂《い》うところの「オク」からで、だからじれったいとか、よろしくないとか、いまはそういう話ではない。  宮内庁は「オモテ」と「オク」から成り立っていて、宮内庁長官以下の「オモテ」より、侍従長・女官長以下の「オク」が絶大な権力をにぎっているのだ、とマスコミは書いたりしゃべったりしてこともなげだが、「オモテ」に対応することばは「ウラ」だろう。 「オク」の語源だと思われる「大奥」ということばにしても、マル秘大奥ナントカなるエロ映画によって、伝統も権威も失墜したことでもあるし、「オク」は、もうやめようよ。   「原稿する」理由  ラジオのインタビュー番組で、某人気女優が「(高校の同窓会に出たら)みんな子供ができて、みんなオバさんしてるわけ、オバさんしちゃっちゃだめよねえ」と、とくとくとしゃべっているのを耳にして、オバさんする、とは強烈、“するすることば”もここまできたのかと呆《あき》れ返ったという話は、前に書いた。あれから二年半になる。  いま、「オバさんする」と聞いて、いやなことばだとは思うものの、呆れ返る、というほどではない。オジさんする、主婦する、青春する……いちいち呆れ返っていたら身がもたない。たった二年半で、そういうことに相成った。  とうとうというか、ようやくというか、出るべくしてというか、『週刊朝日』の連載コラム「日本語相談」が、この語法についての質問を取上げていた(昭和六十三年十月二十一日号)。  掃除、洗濯《せんたく》には「する」がつくのに、買物にはつかない、「採用する」はおかしくないが、「文法する」はおかしい、「する」をつける基準のようなものがあるのか、という読者二人の質問に、井上ひさし氏が答えている。 〈サ行変格活用という独得の活用変化をするこの「する」は、御飯粒《つぶ》のようにほとんどあらゆる名詞にくっつき貼《は》り付き、その名詞を動詞に変えてしまいます。(略)相手が名詞なら、さっと擦《す》り寄り、ぱっとくっつく。女性とみれば必ず声をかけたという、あのカサノバ氏のような動詞なのです〉  名著『私家版日本語文法』の著者ならではの名回答なんだけれど、その井上さんにして、結論は尻《しり》つぼみにならざるをえないこと次のとおり。 〈基準というものはなさそうで、使い込まれているうちに受け容れられるものは定着し、そうでないものは忘れ去られただけのことでしょう〉  それはそうなんだ。“するすることば”に、基準は、ない。  たとえば「浮気」と「不倫」。ほとんど同義語といってもいい二つの名詞だが、「浮気する」は自然で、「不倫する」は不自然である。——と思っていたら、あっというまにそれがそうではなくなって、「ねえ、不倫しよう?」はもっともポピュラーな語法になってしまった。まさに「使い込まれているうちに受け容れられ」たのである。私は、使い込まなかったけれど。         *  使い込まれ方に二種あり。  自然発生的に人びとが口にするうちに、そのことばがひとり歩きしはじめるケースと、仕掛人によって、強引に市民権を獲得するケースと、結果は同じでも、ことばの成り立ちは大ちがいである。  井上さんの一文は前者を想定している。いうなれば“性善説”である。  私は“性悪説”。  オバさんする、だの、主婦する、だの、そんな気色の悪い語法が、自然発生的に生れるとは思わないし、生れたとしても、こんなにはびこるはずがないと思う。はびこるについては、はびこらせようとしたヤツがいるにきまっている。黒幕とか、フィクサーとか、そんな大層なものではなくて、私にいわせれば、ただの無法者もしくは与太者にすぎない。もっと正確にいえば、ことばのチンピラである。  チンピラの、ほんの一例—— 〈東京ディズニーランドでJCBしよう〉 〈こういう旅行をして、ちょっと風流してみるのが、おしゃれだなあ〉  前者はクレジット会社の、後者はJR新幹線の、それぞれテレビ・コマーシャルである。  同じ“するすることば”でも、たとえば「今夜はいちだんと冷えこむ見込みです、くれぐれも火の用心してくださいね」(日本テレビの天気予報・十一月三日放送)というのは許せる。「用心する」とか「用心しろよ」ということばがある以上、「火の用心する」ということばがあってもおかしくはない。おかしくはないが、やや違和感がある。 「JCBする」「風流する」——これは許せない。  これはもう“語法”などというものではなくて、ほとんど“ファッション”である。ファッションなら仕方がない。  泣く子とファッションには勝てない。  でも、ファッションなら、次にくるものの予測がつく。  ついこのあいだ、テレビを見ていたらこんなコマーシャルがとびだした。 〈ニュースな毎日、売ってます〉  ローソン、とかいう雑貨屋だか、よろず屋だか、べんり屋だか、要するに商《あき》ん人《ど》の宣伝文句だが、「ニュースな」はひどすぎる。ひどすぎるものほどはやるのがいまの世の中で、いやな予感がする。 「リクルートな手口」だとか、「竹下な気くばり」だとか、「宮沢なとぼけ方」だとか、とめどなく、ことばは地すべりを起す。         * 「宮沢」で思いだした。  最近、妙なテレビ・コマーシャルがはやっている。キョンキョンこと小泉今日子嬢が、にっこり笑って「小泉は」といったり、風間杜夫《もりお》さんという俳優が「本日、風間は」といったりする。リクルートコスモスの非公開株譲渡問題で、答弁に立った人が、「株の名義は、わたくし、宮沢のことでございますが」と答えるのを聞いて、あのCFを思いだした。         *  そんなことはどうでもよろしい。  問題は、“するすることば”である。  私は、某婦人雑誌の俳句欄の選者を長年つとめているのだけれど、このあいだ、投句はがきの中にこんな句を発見して、思わずふきだした。 子のねむる合間にきんぴらごぼうする  作者は千葉県在住の二十六歳の主婦。  ついに俳句の世界まで“するすることば”に汚染されてしまった。「きんぴらごぼうする」といわれれば、当方としては「原稿する」しかない。   三題ばなし  突如として現れたことば三つ。  その一「辻《つじ》立ち」。  ご存知、竹下首相ご愛用のことばである。ご愛用のわりには日が浅い。このことばを竹下さんがはじめて口にしたのは、第百十三国会の所信表明演説(昭和六十三年七月二十九日)、すなわちついこのあいだのことで、それまでは辻立ちの「つ」の字も口にしなかったのだから、だれか入れ知恵した人物がいるのだろう。あの演説の、辻立ちの件《くだ》りはこうだった。 〈たとえ、いかなる困難があろうとも、「若聞《もしきく》人なくば、たとひ辻立《つじたち》して成《なり》とも吾《われ》志を述《のべ》ん」との先哲の言葉を自らに言い聞かせつつ、この身命のすべてを捧《ささ》げ、国民の皆様の心を心として……〉  身命のすべてを捧げだの、心を心としてだの、顔も赭《あか》らむ演説草稿を、はずかしくもなく読み上げなければならないのだから、総理大臣もお気の毒としかいいようがない。  内容空疎《くうそ》の埋め合せ、もしくは美辞麗句の上塗りの意図で、辻立ちの一節を引用したのだろう。「先哲の言葉」というのだから、有名な人の、有名なことばで、知らないのは私だけなのかもしれないが、寡聞《かぶん》にして「辻立ち」ということばは初耳である。手許《てもと》の国語辞典を引いてみた。辻講釈、辻説法、辻談議、辻噺《つじばなし》は載っているのに、辻立ちだけは、『広辞苑』『広辞林』『新潮国語辞典』のどれにも見当らない。  最近刊行されたばかりの『大辞林』(三省堂)には載っていた。ただし「つじたち」ではなくて「つじだち」で出ている。  つじだち[辻立ち]㈰町角に立つこと。特に、物売りなどをするために路傍に立つこと。また、その人。㈪遊女の道中などの見物のために路傍に立つこと。  どうも、一国の総理大臣にふさわしいことばだとは思えないんだけれど、所信表明演説以来、竹下さんの口癖《くちぐせ》になったのなら仕方がない。その口癖に追随して、新聞・テレビまでが「辻立ち」「辻立ち」と書き立てたり連呼したりすることはないではないか。  遊説《ゆうぜい》と書けばいい。街頭演説と書けばいい。辻説法と書けばいい。少なくとも「辻立ち」よりも、こなれている。  ことばは、なるべくこなれたものを使うのがよろしい。  その二「司司《つかさつかさ》」。  これまた内閣総理大臣御用達《ごようたし》といった気味合いの“竹下語”である。  その問題に関しましては司司《つかさつかさ》にお任せしておりますので……。  律令時代の亡霊がよみがえったような、こんなことばを使わなくても、役所に任せている、役人に任せている、でいいではないか。  もちろん「司」ということばは、ある。大宝令《たいほうりよう》の、省・台・職・坊・寮・署・監・府・使・庁などを全部ひっくるめて「司」ととなえたんだそうだから、ことばの成り立ちとしては由緒《ゆいしよ》正しい。正しくても、死語は死語である。  いまどき「司」ということばで連想するものといったら、「菓子司」、もしくは横綱の元締め「吉田司家」ぐらいなもの、おっと忘れていた、「司葉子」も思い出す——まあそんなところだろう。  私、思うに、竹下さんとその知恵袋《ブレイン》は、ことばをいじりすぎる。それも、無意味にいじりすぎる。無意味にいじることを、弄《もてあそ》ぶ、という。 「辻立ち」もそうだし、「司司」もそうだし、お得意の「ふるさと」だってそうだ。「ふるさと」ということば自体は、ごくまともなことばだというのに、竹下流の使い方をされると、とたんになんとなく胡散《うさん》くささがつきまとって離れない。  ついでにいえば、竹下さん、あなたの「ふるさと」は、いつ聞いても、何度聞いても「降るさと」としか聞えませんよ。どうでもいいことだけれど。  その三「招致」。  これは、べつに目新しいことばでもなんでもない。にもかかわらず、突如として、という印象を受ける。  オリンピックなら「誘致」。  カラヤンなら「招致」。  そういう使い分けができるとして、「招致」には、うやうやしくお迎えする、というニュアンスが内包されていると考えても不自然ではない。その「招致」が、まさに突如として、まったく場ちがいなところに躍り出た。  証人なら「喚問」。  参考人なら「招致」。  そう呼べと法律に定めがあるのかどうか知らないが、リクルート問題調査特別委員会での骨抜き証人喚問が実施される前には、参考人としてどうか、という与野党間のかけひきをめぐって、「招致」なることばが氾濫《はんらん》した。  何が「招致」だ。 「喚問」と「招致」では天地ほどちがいがあるのに、ひとたび国会という名の“お白洲《しらす》”にひっぱりだされたら、証人も参考人もあらばこそ、何様《なにさま》かと思うような尊大かつ無礼な連中によって、白昼のさらし者にされることでは同じではないか。「招致」が聞いて呆《あき》れる。  結果的に、骨抜きとはいえ証人喚問が実現の運びになって、「招致」ということばが、たちまち姿を消したのは慶賀の至りである。恫喝《どうかつ》にもひとしい質問を浴びせかけるために人を呼びつけることを「招致」と称するのは、ことばをねじまげるものである。 (附録)  聴くだけに終始した衆参両院での証人喚問、あれこそ茶番であった。証人尋問といいながら、まるで尋問になっていない。  野党の議員諸氏に、いい本をご紹介する。  フランシス・L・ウェルマンの『反対尋問』(梅田昌志訳/旺文社文庫)。一八八〇年代から九〇年代にかけて名尋問家として全米に盛名をはせた法廷弁護士の古典的名著である。これでも読んで、すこしは勉強したら?   ことばのくずかご  いちいちメモをとりながらテレビを見ているわけではないので、おや? と思うようなことばが耳に入っても、右から左に抜けて、たちまち忘れてしまう。  それでいいのだと思う。いつまでも忘れなかったら、奇体な日本語で脳味噌《のうみそ》がふくれ上って、言語感覚がおかしくなるおそれがある。そいつは健康によろしくない。精神衛生上、メモなんかとらないほうがいい。  とはいうものの、一瞬耳を疑うような、疑ったあとでふきだしてしまうようなことばがあとを絶たないもんだから、五回に一回ぐらいは反射的に手がのびて、そのへんの反故《ほご》だの、チラシ広告の裏だの、ありあわせの紙切れに、ついつい書きつけてしまう。やっぱり、この『日本語八ツ当り』のことが意識下にあるせいかもしれない。いまいましいことである。早く連載を了《お》えて、精神衛生上すっきりしたいもんだ。  いまいましくてもなんでも、書きつけたからには、捨ててしまうのも心残りである。溜《た》まった反故の、以下はほんの一部——         *  公明党の矢野委員長が、胸を張っていった。 「わが党が、(リクルートコスモス未公開株譲渡先の)リストの公表と、証人喚問を実現させて、トッパグチを作ったんです」  なんのことか一瞬わからなかったが、すぐ「突破口」のことだと気がついた。口がすべったのかなと思っているうちに、もう一度「トッパグチ」がとびだした。してみると、言いちがえではなくて、矢野という人の、これがふだんの語彙《ごい》なのだろう。  キャスターの久米宏さんが「さきほど矢野さんはトッパコウとおっしゃったわけですが」とフォローしていた。遠慮がちな、気の毒そうなその口調がおかしかった。(テレビ朝日『ニュースステーション』昭和六十三年十一月二十一日)         *  サラリーマンにはもう土地付き一戸建て住宅は持てないというニュースの中で、女性レポーターが、立て板に水のいきおいでこういった。 「いまシャッカに住んでいる人たち、これはもう希望がないですね、こうなったら、もうカリヤでもいいから……」  これまたキャスターの徳光和夫さんが「うん、シャクヤ(借家)でもいいからというわけだね」とあわててフォローしていた。シャッカは借家人協会といった具合に使われているし、カリヤも『日本永代蔵』なんぞに出てくることばなんだけれども。(日本テレビ『ニュースプラス1』十一月十八日)         * “独身ニュー・リッチ”と呼ばれる若い人たち専用のマンションが売れているという話題を、二十六、七歳の男性レポーターが紹介していた。男女を問わずキャンキャン叫びまくるだけが能のレポーターの中にあって、めずらしくおちついたしゃべり方をするいい感じの青年だったが、それでも「このリビングとかで」「ではキッチンとかを見せてもらいましょう」「利根川さん(キャスター)のお宅とかもやっぱり」といったぐあいに「とか」を連発していた。  耳障りな語法ではあるけれど、若者たちの“ことば癖”なんだから仕方がない。だから「とか」には目をつぶるとして、「とか」と「とか」のあいだに、四回も「くくりつけ」ということばを口にしていた。  くくりつけのクローゼット。くくりつけの下駄《げた》箱。くくりつけのオーブン。くくりつけの××(書棚だったかなんだったか、書き忘れた)。  いわんとすることはよくわかる。「くくりつける」ということばも存在する。ひもで縛りつける意味で「括《くく》り付ける」と書く。  家具の場合は「つくりつけ」という。  ひもで縛りつけたオーブンなんて、あぶなくて使えないじゃないか。(テレビ朝日『トゥナイト』十月二十六日)         *  海外取材に出掛けて、何か珍奇な趣向があるらしい住宅を訪問している二人の男性アナウンサーが、いかにもわざとらしい剽軽《ひようきん》な口調で、かけ合いをはじめた。 「いやァ、こちらがベットルームだよ」 「うーん、ベットルームですか」 「ほら、ごらんのとおりベットの上にまで……」  なあ君たち、もしかして寝室のことをいってるんだったら「ベッドルーム」だよ、寝台のことをいってるんだったら「ベッド」だよ、英語ではbedと書くのだよ。ああ、はずかしい。いや、オレたちはドイツ語(Bett)でそういったんだといわれたら、失礼しましたというしかないが、まさか、ね。(フジテレビ『なるほどザ・ワールド』十月十一日)         *  日本の経済援助でエジプトに多目的ホールが完成して、こけらおとしに歌舞伎《かぶき》が上演されたというニュースのナレーション。 「中東初めての歌舞伎公演とあって、カイロの人たちにわかってもらえるかどうかという杞憂《きゆう》は、絶讃の拍手によって、ありませんでした」  それをいうなら「杞憂におわりました」だろう。「杞憂はありませんでした」というんだったら、はじめからなんの不安もなかったことになる。(テレビ局名を書き漏らしたが『ニュース』十月十一日)         *  渋谷あたりの路上で、若い女性レポーターが通行人にマイクを向けて、つぎつぎに同じ質問を口にしていた。 「“情は人のためにはならず”ということわざがあるんですけど、どういう意味か知ってますか?」  何度でもそういっている。通行人の多くが、親切にすることはその人のためにならない、と答えていたが、そりゃそうだ、「人のためにはならず」といわれたら、そう答えるっきゃない。  画面がスタジオに戻って、人に親切をほどこせばいつかは自分に返ってくる、という正しい答えを司会者が口にしたとたんに、アシスタントやレポーターらしい二、三人の男女が、「えーッ」と心底びっくりしたような声をだして、口ぐちに「へえー、一つ勉強した」としきりに感心していたのには、こっちがびっくりした。(テレビ東京、朝のニュースショー番組、十一月某日=日付失念=)   外来語について 「日本語の乱れ」ということばも、使いたくないことばの一つである。それをいうなら「日本語の乱れ方」、あるいは「乱れぶり」、もしくは「乱れよう」だろう。でも、それをいいだしたら先にすすまなくなるので、不本意ながら、とりあえず使う。 「日本語の乱れ」で、だれもがきまって引き合いに出すのが、「着れる」「食べれる」という語法と、外来語の氾濫《はんらん》である。  着れる、食べれる、については、もう何かいう気力もない。着られる、食べられる、とうっかり正しい語法を用いたら、かえって異端者扱いされかねない。  外来語の氾濫については、まだ何かいう気力が残っている。ただ、こと日本語の話となると、だれもがこの問題に言及して、困ったものだと書いたりしゃべったりしているので、いまさら何を書いても二番煎《せん》じの感を免《まぬが》れないと思うと気が重い。  このあいだも、「荒魂之會《あらたまのかい》」というところから『同胞各位に訴へる(その十二)/外來語の濫用とその要因とに就《つい》て』と題する文書が郵送されてきた。旧仮名・旧漢字(正字)を墨守した活版刷りのその文章に、こうあった。 「昨今の外來語の濫用は目に餘るものがあります。廣告その他或《あ》る種の文章では、てにをはを除いた語句は總《すべ》て外來語の片假名表記であるといふ場合が少くありません」 「荒魂之會」という名称から察するに、国粋主義の匂《にお》いがする。それがいいとか悪いとか、そういう話ではない。  外来語、外来語、と私もなにげなく書いてきて、べつに「荒魂之會」で思いだしたというわけではないのだけれど、いま気がついた。   内平外成(内平らかに外成る=『史記』)   地平天成(地平らかに天成る=『書経』)  すなわち「平成」——これだって外来語である。  これまたあんまり好きなことばではないのだが「カタカナことば」と書いたほうがはっきりする。てにをは以外すべて片仮名だといういまの記述の見本みたいな文章を見つけた。 「フローラルにムスクを少々、あるいはシトラスを2〜3滴。甘さはこれくらいで、セクシー加減をもうちょっと。好みの味に仕立てるクッキングのように、レシピ感覚で自分だけの香りをつくる。イプサならではのオリジナル・ブレンディング・フレグランスが今年もキットで登場です。あなたが香る秘密のブレンド、見つけてください。ギフトにもどうぞ」  全六段、紙面の半分をぶち抜いた新聞広告(朝日・昭和六十三年十二月十五日付夕刊)の片すみに、そう書いてあった。  余白をたっぷり生かしたその大広告の、見出しに相当する部分に「キュートを数滴、香りに入れた」とある。  キュート(cute)ぐらいは、わかる。「かわいらしい」「気のきいた」「すばしっこい」「鋭敏な」という意味合いの形容詞だろう。「キュートな」というのならともかく、「キュートを数滴」というのは、乱暴というものである。それより何より、「セクシー加減」とはなんぞや、「クッキングのように」とはなんぞや、「レシピ感覚」とはなんぞや、「オリジナル・ブレンディング・フレグランス」とはなんぞや、「キットで登場」とはなんぞや。  でも、こんなものは許そう。こう見えても、私は人一倍寛容の精神に富んでいる。  許せないのは、官製カタカナ語である。「マリンピアS21」だの「ヒューマンスペース」だの、あの手の胡散《うさん》くさいことばについては、拙稿(「かんべんしてよ」)で、ほんのちょっと触れたが、あのときはカタカナ語が主題ではなかった。 「荒魂之會」の文書に、こんな例が載っていた。「広域リゾートエリア構想」(国土庁)、「アトラクエイブリゾート21構想」(運輸省=アトラクティブの誤植か)、「リフレッシュ・イン・ナショナルパークプラン」(環境庁)……  これは最悪である。  中央官庁から地方自治体まで、最近の官公庁は頭がおかしくなったんじゃないのか。 「マイタウン構想」(鈴木東京都知事)以下、やれ「シルバーピア」、やれ「ライフライン」、やれ「ストリートファニチュア」、やれ「フィンガープラン」、やれ「イノベーション・コア」、やれ「インキュベーター」といったぐあいに、ひとりよがり、もしくは、ちんぷんかんぷんのことばが官公庁の計画書に氾濫してやまないもんだから、とうとう『カタカナ語一〇〇選』という五十ページにものぼるアンチョコが、当の役人相手に「ひそかに出回っている」という話も新聞(朝日・昭和六十三年五月十三日付)で読んだ。東京の橋を整備するための「著名橋の整備検討委員会」が事業の“愛称”を四通り提示したという話も載っていた。   マイブリッジ イン 東京   マイタウン 東京・マイブリッジ   マイタウン マイブリッジ   ブリッジ リノベーション  歯が浮く、などという段階を通り越して、全身総毛だつ思いである。  でも——でも、でありますよ。何度もいうとおり、私は寛容の精神に富んでいる男であるからして、それも許そう。許せないけど、許す。  どうしても許せない外来語が、ほかにある。  平成元年度予算の、各省庁の概算要求計画を見てもらいたい。 「ふるさとC&Cモデル」(国土庁)、「リフレッシュふるさと推進モデル」(同)、「ふるさと環境資源活用地域振興計画策定」(環境庁)、「ふるさと歴史の広場」(文部省)、「青少年ふるさと学習特別推進」(同)、「ふるさと体験農園整備モデル」(農水省)、「ふるさと振興・高齢者生きがいパイロット」(同)、「ふるさと創造産業の育成支援」(通産省)、「ふるさと海岸整備モデル」(運輸省)、「ふるさと作り事業」(自治省)。  この外来語は許せない。  どこが外来語だといわれるか。「ふるさと」というだれかさんの口癖に便乗しただけで、自分の内なることばではない。「内」から来たことばではない以上、「外来語」ではないか。   悪文教室 「申告漏れ」ということばはあってはいけないことばだ、と私は前に書いた(「私の“ことば狩り”」)。同様に、「節税」ということばも、あってはいけないことばだと考える。  節約の「節」だろうが、日本語の常識からしても、「税金」ということばに「節約」ということばは、絶対に結びつかない。それを結びつけて「節税」などということばをでっちあげるのは、ものごとの道理をねじまげるものである。税金というものは節約するものでもないし、節約できるものでもない。だれが申告しても、所得に応じて同じ結果が出てこその税金だろう。  納税期が近づくと、マネー雑誌のたぐいに「節税のすすめ」だの「節税大作戦」だの「節税成功例」だの、早い話が、うまく立ちまわれ、とけしかけているとしか思えない記事が氾濫《はんらん》するのは毎年のことだが、やり方によって「節税」ができたりできなかったりする税金があるとしたら、それだけで欠陥税金というべきではないのか。  欠陥税金の生みの親——とまではいわないまでも、少なくとも、大いに手を貸しているのが、ほかならぬ税務署発行の『所得税の確定申告の手引き』と称する小冊子の、晦渋《かいじゆう》かつ醜悪な日本語である。  あの小冊子は、もう何十年来、こんな文章ではじまっている。 〈確定申告をしなければならない人は、次の1から4までに掲げる人ですが、この場合の各種の所得金額の合計額には、非課税所得である次のような所得は含まれません〉  この程度なら、べつに晦渋でもなんでもないけれど、文章としては、不親切で誠意がない。一つのセンテンスに「次の」「次のような」とあれば、その二つの字句が意味するものは同じでなければ、文脈上、混乱をきたす。最初の「次の1から4まで」が二番目の「次のような所得」をとび越して、あとのページに出てくるのが、そもそも不親切である。  こんなものは、二つのセンテンスに分ければすむことじゃないか。「確定申告をしなければならない人は、次の1から4までに掲げる人です」で切って、とりあえず1から4までを掲げるがいい。そのあとに「ただし、次のような所得は含まれません」と書くがいい。  そう、「次のような所得」で必要かつ十分であって、何も「非課税所得である次のような所得」と書く必要はない。おまけに「この場合の各種の所得金額の合計額には」などという醜怪きわまりない語法の前置きがついているもんだから、ますます混乱する。  もう一度お読みいただきたい。 〈この場合の各種の所得金額の合計額〉(傍点筆者、以下同じ) 「この」の「の」の字を含めると、「の」の字が四つも並んでいる。単語と単語を「の」「の」「の」「の」でつなぐなぞ、無神経な文章の見本である。 「確定申告をしなければならない人」という小見出しの下に、「確定申告をしなくてもいい人」の一覧表が載っている不自然さに加えて、確定申告をしなくてもいい所得の中にも課税されるものがあると「ただし」書きが添えてあるので、まるで、どんでん返しをくわされるような心持ちである。  たとえば「株式などの有価証券の譲渡による所得」の例外として、こうある。 〈事業譲渡やゴルフ場等の施設利用権の譲渡に類似する場合の有価証券の譲渡による所得〉  これはもう、ほとんど日本語の体をなしていない。  開巻第一ページ目(実際には、表紙と目次に続く三ページ目)にして、これである。あとは推して知るべしであって、任意に繰っただけで、たちまちこんな記述がとびだしてくる。 〈土地や建物の譲渡所得のうちに、短期譲渡所得がある人は、6の「分離課税の短期譲渡所得の税額計算書」を一緒に使い、一般所得分及び63年3月31日以前の譲渡に係《かかわ》る特定所得分の課税される長期譲渡所得(すべてが63年3月31日以前の譲渡に係る特定所得分である場合を除きます。)が四〇〇〇万円を超える人は、7の「分離課税の長期譲渡所得の税額計算書」を一緒に使います〉  なんなんだ、これは。 〈しかし、みなし法人課税を選択している人であっても、前の1、2か次の4に当てはまる人は、1の「分離課税用の申告書」か、2の「資産所得合算用の申告書」、4の「損失申告書」を使います〉  1でも2でも4でも、とにかく書いておきさえすればいい、という魂胆がみえみえである。 〈次の説明は、前の1の〓の申告書についてのものですが、1の〓や〓の申告書についても同様に使用してください〉  1の〓だの、1の〓だの、住居表示じゃあるまいし、ほかにいくらでも書きようがあるではないか。手抜きをしないでもらいたい。  もっとすごい文言《もんごん》がある。 〈課税される長期譲渡所得の金額(軽減所得分の金額、軽課所得分の金額及び63年4月1日以後の譲渡に係る特定所得分の金額を除きます。)が、㈰一般所得分の金額のみである人や、㈪一般所得分の金額と63年3月31日以前の譲渡に係る特定所得分の金額の両方からなっており、その特定所得分の金額(その金額に一〇〇〇円未満の端数があるときは、その端数を切り捨てた金額)が四〇〇〇万円以下の人が使います〉  なんとかしてわからせまい、として書いた文章だとしか思えない。  この小冊子に添えられている『申告書の書きかた』なる別刷りの見本が、これまたすごい。 〈還付される税金がある場合に、給与などが未払のためまだ源泉徴収されていない税金(左の「〓税金から差し引かれる金額」欄の欄に内書きした金額)を「還付される税金」欄に内書きします。内書きした金額は実際にその税金が源泉徴収されるまでは還付されません〉  文章もひどいが、文章以前に「内書き」とはなんぞや。そんな日本語があるもんか。  ついでにもう一つ。  これは税務署ではなくて、私の居住地であるC市の市民税課普通徴収係から送付されてきた『手引き』の一行に、こんな表現があった。 〈前年中に学生・病気・失業等で、所得がまったくなかった方〉  学生は、怒ったほうがいい。   虎《とら》の尾を踏む  夕刊各紙が一面下段に設けている寸評欄の、私は愛読者である。  政治、経済、事件、統計から、スポーツ、ファッションに至るまで世相万般を俎上《そじよう》に載せて、わずか数行の文章空間で自在に料理する庖丁《ほうちよう》さばきは、短文の精華といってもいい。  抑制の極致を見るような凝結された文章が、ときに微苦笑を誘い、大方は肺腑《はいふ》を衝《つ》く。小気味よい筆致は毒を含み、しかもなお品を失わない。……うまくいったときは、の話だけれど。  各紙とも一人の筆者が受け持っているのだろうから、日によって出来不出来があるのはやむをえないとして、寸評欄の代表格である朝日新聞の『素粒子』が最近どうも気になる。気になるというより、何かひっかかる。  山口さんちのツトムくん、このごろすこしヘンよ、という童謡があったけれど、朝日さんちの『素粒子』くん、このごろすこしヘンよ。  たとえば——     エキゾチック(異国風)なら    ぬ、江副チックで荒涼、不潔な    金狂想曲。ダンスはスンダ、か。(平成元年二月十四日付)  エキゾチックと江副チックでは、語呂《ごろ》合せにもなっていないし、なぜ「異国風」と結びつくのか、要するになんだかわからない。読点《とうてん》の打ち方もヘンである。「エキゾチックならぬ江副チックで、荒涼不潔な」ではないのか。意味が通らないことでは変りがないけれど、いくらかましだろう。         *     ロードショ モンブショで半    年暮らすヨイヨイ/後の半年ゃ    NTTで暮らす デッカンショ(二月十八日付)  パロディ、替え歌のたぐいが強力な武器であることは否定しないが、デカンショ、デカンショにロードショ、モンブショは強引にすぎる。後の半年ゃ寝て暮らすの「寝て」に「NTT」をかけるのは、さらに無理というものである。  この替え歌に笑いがあるとしても、『素粒子』氏も引いていた「武器としての笑い」(飯沢匡氏)ではなく、ただの茶化し笑いにすぎない。世の腐敗を、茶化すのはよろしくない。     それに比べりゃ、時に汚職仕    方ない、の渡辺政調会長発言は    無ッ恥節とでも言っとくかね。(四月三日付) 「むっぱじぶし」とはなんぞや、と首をかしげながら再読三読して、やっと察しがついた。「むっぱじ」ではなくて、「むっち」と読ませるらしい。無ッ恥節《むつちぶし》=ミッチー節。駄《だ》洒落《じやれ》といいたいところだが、駄洒落というものは、もうすこし気がきいている。         *     妻が、秘書が、官房長官がの    3が。首相が、の4がとはなら    ず問題を歯牙《しが》にもかけず、か。(四月七日付)  凝りすぎて不発。  さっきの「時に汚職仕方ない、の渡辺政調会長」の「の」、いまの「官房長官がの」の「の」の用法が気になっていけない。字数に合せるための苦肉の策なのだろうが、ほかに工夫はないものか。         *     忍苦、忍酷、忍従、忍辱、忍    痛から我ら脱せん。君、忍醜忍    歩か。醜を忍び、忍び歩くか。(三月二十日付)  忍酷、忍痛、そんな言葉は『朝日新聞の漢字用語辞典』には載っていない(「忍辱」は「にんにく」で載っている)。諸橋の『大漢和辞典』(全十二巻)でもひっぱったのかな。         *     国会は動物園、パーティー券    はタカリと女性識者。次はジン    タで〓権より落つる竹の音、か。(三月十七日付)  竹の音の「竹」が竹下の「竹」であることに気づくのに一拍かかったのは、私がにぶいせいだが、なぜ「次はジンタ」なのか、動物園の次はサーカスということなんだろうが、一読、ぴんとこない。         *     月食、雲上にあり。山中に隠    者を尋ね、雲深く居所わからず    なんてつぶやいてあきらめた。(二月二十一日付)  気どりすぎて不発。何か深い意味がかくされているのかもしれないが、残念ながら、私のような凡愚の読者には汲《く》みとれない。         *     浅尾さんの家族がソバを土産    に対面。ほっと一息、それすす    りながら一杯か。わかるねえ。(三月十日付)  わかるねえ、はいいとして、「それすすりながら」はないでしょう。「それをすすりながら」とお書きください。字あまりだというのであれば、別の表現を工夫すべきだろう。         *     コマッタはチョコお返しのホ    ワイトデー。素粒子・子も山ほ    ど買えど照れて配れず腹中に。(三月十四日付) 「素粒子・子」(これも苦しい)の名誉のために弁じておく。片仮名の奇妙な書きだしは、この日の寸評が「トンチンカンはミッチー発言で」、「カワイソウは北海道で」、「ワビシイはソ連選挙の」というぐあいに冠《かむり》づけの趣向で統一されているためである。  書きだしはともかく「素粒子・子も山ほど買えど照れて配れず腹中に」という一行は、相当な文章である。『朝日新聞の用語の手びき』には、こうある。 「文章の書き方 ◇記事は易しく、美しく/次のようなものは避けよう。▼文語調」         *     田の草取り(後援会回り)だ    けはしておけ、と自民首脳。民    草よ抜かるな素粒子ここにあり(四月七日付)  ここにありといわれても、戸惑うばかりである。 〓朝日さんちの『素粒子』くん、このごろすこしヘンよ……   駆け込み二題  日本語を語る上で、差別用語の問題は避けて通れないことがらだと思うので、いずれ取上げなくてはいけない、と書いた(「私の“ことば狩り”」)まま、ずるずると日が過ぎて、とうとう拙稿の最終回を迎えてしまった。その「ずるずると」というところに、この問題の根がある。何かこう、自由にものがいえないという雰囲気《ふんいき》が、どこに、とはいわないが、どこかに、ある。  言論は、あきらかに不自由である。  あるラジオ局で、私は読書日記風の番組を受持っている。去年の暮、“今年(昭和六十三年)の収穫”の一冊に色川武大の『狂人日記』(福武書店刊)を挙げようとしたら、それは困ります、と若いディレクターがいいだした。そんなバカな、現に刊行されているのだし、すぐれた文学作品なのだし、雑誌『波』の年末恒例「今年の本」という対談で『狂人日記』を紹介したばかりだし、ラジオ番組でも紹介して何が悪い。 「それはそうなんですが、活字メディアとちがって、電波メディアの場合、“狂人”とか“きちがい”とか、それに類することばはまずいんです」 「クレイジーだよ、そんなこと」 「まったくクレイジーです」 「クレイジーというのは、“狂っている”とか“狂気の沙汰《さた》”という意味だぜ。“クレイジー”ならいいのかね」 「…………」 「まあいいよ。とにかく『狂人日記』は、ぼくの責任において紹介する。抗議や糾弾の電話がかかってきたら、ぼくのほうにまわしてくれればいい」 「いや、それはないと思います。ただ、わが社の内部規定というか、自主コードというか、一応、ナニがあるもんですから……」  その「ナニ」という名の自粛が、差別用語問題をいっそう厄介《やつかい》なものにしているわけなんだけれど、内規は内規、前途有為の若者に始末書を提出させるのは忍びない。不本意ながら、注文に従った。  すぐそのあと、『狂人日記』は読売文学賞を受賞した。そうして、そのまたすぐあと、色川武大は死んだ。三十年に垂《なんな》んとするつきあいのあれこれが脳裡《のうり》をかすめて、茫然《ぼうぜん》自失、ことばもなかった。同じラジオ局の同じ番組で、「色川さんの思い出」ということで『狂人日記』の話をした。さすがに、クレームはつかなかった。  三十年来の友が死ななければ、“狂人”というごくあたりまえの、たった一語を口にすることができないのかと思ったら、よしんば若者の立場を慮《おもんばか》ったという口実が成り立つとしても、己《おのれ》の弱さが情なくて、自分自身に腹が立った。         *  もう一つ、法律の文章。これについてはまだ書きたりない、また書かせてもらいます、と、これまた前に書いた(「法断章」)。あの予告も、そのままになっていた。  ただし、差別用語の問題とはちがって、いつでも書きたくて、うずうずしていた。悪文の極致というしかない判決文を読むたびに、よし、これを取上げようと思いながら、待てしばし、そのうち、もっとひどい判決文が出てくるにちがいないという気がして、先送りにしているうちに最終回を迎えてしまった。  連載三年半、さまざまな裁判があって、さまざまな判決が出た。まともな日本語で書かれた判決書は、ただの一件もなかった。ということは、どれを対象にしても同じことだろう。だったら、有名裁判の判決を取上げるにしくはない。いささか古すぎるきらいはあるけれど、たとえば、昭和六十二年七月二十九日に東京高等裁判所刑事九部の法廷で、内藤丈夫裁判長が言い渡した判決。被告人はロッキード事件丸紅ルートの一審判決で有罪を言い渡されて控訴していた元首相田中角栄である。その内藤判決の、ほんの一カ所を読んでいただきたい。これで一センテンスなのです。 「のみならず、反対尋問が供述の真偽を検討する唯一《ゆいいつ》絶対の方法ではなく、反対尋問の吟味に代わるような供述の真実性を担保する情況的保障が存する限り、反対尋問の機会を与えないことが、原供述ないしこれを録取した書面に証拠能力を付与する妨げとなるものではないとする伝聞証拠禁止の例外を認める根拠に照らして考えると、実質的にも、『供述不能』の要件について、公判期日等において証言することができない事態が、原供述当時予想されずその後に生じた場合に限られ、供述者が当初から国外にいる場合には『国外にいる』との要件に該当しないと限定的に解しなければならない合理的理由はない」 「解しなければ」という語法もひどいものだが、そんなあらさがしの段階はとっくに通りこしている。あらさがしということなら、全文これ、あらだらけである。  もう一度読み返してみていただきたい。  おわかりか。  そう、あたまから読んでいったらわかるわけがないのです。要するにこれは否定文であって、「合理的理由はない」という結論に至るまでに「唯一絶対の方法ではなく」「機会を与えない」「妨げとなるものではない」「証言することができない」「予想されず」「要件に該当しない」と否定形がひしめき合っているのだから、おしまいから読んでいけば多少の察しはつかないこともない。  しっぽから読まなければ察しもつかないなどという文章があってたまるものか。これはもう文章とか日本語とか、そういうレベルの問題ではない。はっきりいわせてもらう、これは“人語”ではない。  刑事被告人の肩を持つ気はさらさらないけれど、私が田中弁護団の団長だったら、“人語”にあらざる言語で書かれた判決は無効である、という主張を上告理由にすることを勧めていただろう。  勧められて、「よっしゃ、よっしゃ」と刑事被告人が答えていたかどうか、そいつはまた別の話である。 この作品は平成元年八月新潮社より刊行され、 平成五年一月新潮文庫版が刊行された。    Shincho Online Books for T-Time    日本語八ツ当り 発行  2002年3月1日 著者  江國 滋 発行者 佐藤隆信 発行所 株式会社新潮社     〒162-8711 東京都新宿区矢来町71     e-mail: old-info@shinchosha.co.jp     URL: http://www.webshincho.com ISBN4-10-861170-5 C0895 (C)Setsuko Ekuni 1989, Coded in Japan