TITLE : アメリカ阿呆旅行 わん・つう・すりー 〈底 本〉文春文庫 昭和六十三年十月十日刊 (C) Setsuko Ekuni 2002  〈お断り〉 本作品を「文春ウェブ文庫」に収録するにあたり、一部の漢字が簡略体で表記されている場合があります。 また、差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の書かれた当時の事情を考慮し、できる限り原文の通りにしてあります。差別的意図がないことをご理解下さいますようお願い申し上げます。 〈ご注意〉 本作品の全部または一部を著作権者ならびに(株)文藝春秋に無断で複製(コピー)、転載、改ざん、公衆送信(ホームページなどに掲載することを含む)することを禁じます。万一このような行為をすると著作権法違反で処罰されます。 目  次 阿呆の特訓 特 訓 始 末 胴 元 記 一  夜 続 ・ 一 夜 まだ沈まずや定遠は バーノンさがし 大 願 成 就 奇蹟の報酬 「宣誓」前後 こちらヒューストン 友情の構造 ギネスの宿 ヒップとチップ 一 宿 一 飯 徳ハ孤ナラズ タイトルをクリックするとその文章が表示されます。 アメリカ阿呆旅行 わん・つう・すりー 阿呆の特訓 1  毎晩おそくまでお酒を飲んでいるので、朝はたいてい宿酔《ふつかよい》の気味である。  起きてしばらくは、自分のからだのような気がしない。目が腫れぼったくて、手の甲が赭《あか》くて、指が太くなっている。吐く息が酒くさい。頭が重い。頭痛は、したりしなかったり。  しまった、ゆうべすこしセーブしておけばよかったなどと考えるのは無意味である。考えたからといって、腫れた目が、たちどころにひっこむというわけのものではない。時間がたてば、考えなくたって、ひとりでにひっこむ。考えて甲斐なきことを考えるのは、無益というものである。無益というだけではなくて、からだによくない。お酒をおそくまで飲めば、翌る朝はそうなるように、人間のからだは造られている。すなわち、天の摂理である。私は人一倍からだをいたわるたちだし、馬鹿と悧口に分ければ、自分でも感心するぐらい人間が悧口に出来ているから、摂理に逆らうような愚はしない。摂理には従う。従わねばならない。  ねばならない、というそこのところから、毎朝の宿酔が生ずるわけで、これを裏返せば、天行健《すこ》やか、ということにほかならない。やれ、目が腫れぼったいとか、頭が重いとか、そんなことでいちいち反省したり悔んだりしているようでは話にならない。酒飲みに玄人と素人があるとすれば、素人の態度である。だいいち、摂理には従っておきながらあとで反省するなんて、そんな生意気な。  ましてや、周囲からの雑音に惑わされて、ぐらっときたりするなんぞは論外である。  アルコールを、毎日、切れ目なく摂取するというところがよろしくないのであって、週に一日とか、月にせめて二日とか、一滴もお酒を体内にいれないノン・アルコール・デー、すなわち休肝日を設けて、最低二十四時間は肝臓を休ませてやらなくてはいけない、というようなことを、医者や学者が、よく喋ったり書いたりしているけれども、ああいうことを鵜呑みにするのは危険である。くどいようだが、私は人一倍からだを大事にするほうだから、そんな危険をおかすほど大胆にはなれない。  実際、医学的見地というやつほど、あてにならないものはない。ついきのうまで、味噌汁はガンの予防によろしい、だから味噌汁を、飲め飲め、とけしかけてきたその口で、一夜明ければ突如として、味噌汁はガン発生の有力容疑者だ、と手の平返してはばからないのだから、これでガンになったら、よォ、このおとしまえ《ヽヽヽヽヽ》どうしてくれる、とちんぴらならずとも、肩の一つもゆすりたくなるではないか。  それで思い出す。  今年大学受験を迎えた上の娘が、おぎゃァと生れたときのことだから、あれはもう十八年も前の話になるけれども、わが子が泣いても抱いてはいけない、赤ん坊は泣くのが商売であって、泣かなかったらあわてなさい、と医師は産婦に教えた。今年小学校最上級生になる下の娘が生れた十二年前に、同じ病院の同じ医師が何といったか。泣いたらすぐ抱け、母と子のスキンシップこそ育児の根本だと思いなさい。  たった六年でこのざまである。一日だけアルコールを抜け、という今日のご託宣が明日どうなっているか、朝令暮改、わかったものではない。  朝令暮改に加えて、そもそも、医師は他人である。他人のいうことに、いちいちひれ伏していたら身がもたない。聞き流すに限る。  他人の弁なら聞き流してしまえばそれですむけれども、他人ならざる者の口から同じ言葉がとびだしたりするから困る。 「飲むのもいいけど——」  忘れるぐらい長いことそばにいる他人ならざる者が、他人と同じことをいう。 「せめて休肝日を作ったら? 月に一度抜くだけで、ずいぶんちがうそうよ」  うるさい、と一喝するだけでは説得力に欠ける。こういうときには、きちんと筋道を立てて、論理的に諄 々《じゆんじゆん》と説いて聞かせなくてはいけない。  一年三百六十五日のあいだに三百六十五夜お酒に親しむのは、長きにわたる、そうして確固たる自分の生活習慣である。規則正しい生活というものが、からだにとっていかに大切か、まさか知らないわけはあるまい。やれ休肝日を作れの、月に何回抜けの、と、そんな不規則のすすめをだれに教わったのか。聞き齧《かじ》りか読み齧りか、おおかた医者がそういったのだろう。連中に、いってやれ、いってやれ。クスリだって連続投与、すなわち一日も欠かさず規則正しく服用することが大事ではないか。せっかく規則正しい生活を送っているのに、アカの他人の言葉一つで、はいそうですかと、不規則な生活にころっと転向するほど、俺はそれほど意志薄弱ではないのだよ。  論理というものは、これで完結する。  理路整然たるわが正論の前に、そばにいる者が、ぐうの音も出ないかというと、それがそうではなくて、だったら、とくいさがってくるところが、そばにいる者のいつでもそばにいるゆえんである。 「だったら、せめて煙草の本数を減らすとか、いっそ禁煙するとか……」  冗談いっちゃいけない。そんな危険なことが出来るものか。自分もそろそろいい年である。この先、いつなんどき重大な病気に罹《かか》るかわからない。心臓発作にでも見舞われて病院にかつぎこまれたとして、医師は、まず何というか。 「煙草をやめなさい。やめないと死にますよ」  やめないと死ぬ、ということは、やめれば死なない、ということだろう。不断から煙草を吸っていない人間は、このときに、やめたくてもやめられないわけで、したがって、やめれば死なずにすむところを、かわいそうに、やめるものがないばっかりに死ななくてはならない。不断が肝心、というのはここのところであって、そこに思いを致せば、煙草をやめるわけにはいかないのだ、というのもまた立派な論理である。  ただし、両方とも上に「詭弁」の二字がつく。そういう詭弁論理の遊びが、指先のテクニックと並ぶマジックの重要な要素であるというのは、これからおいおい触れることであって、いまは、朝の目覚めの話である。  意志が強いから毎晩お酒を飲んで、毎朝きまって宿酔になって、それで、その朝も、もちろんそういうことになって、重い頭をふりふり茶の間におりて行ったとたんに、そばにいる者がいった。 「英語で寝言いってたわよ」  やったぜ、と思った。 2  英語が喋れない。楽譜が読めない。自動車の運転ができない。  これが現中年世代に共通する一般的特性であって、この三つの不能を併せ持つことが中年の資格もしくは証明であるという説が正しければ、私は、きわめてまっとう、かつ正統派の中年である。  それはちがう。横文字とオタマジャクシとクルマは、いまや常識。この三つぐらいできなくて現代人といえるか。大まけにまけて、三つのうち、せめて二つに堪能《たんのう》であることが、いまはやりの「ナイス・ミドル」の必須条件であるという説が正しければ、私は、生涯ナイス・ミドルにはなれない。そんなものになれなくたって痛くも痒《かゆ》くもないけれど、外国に出掛けて言葉が通じないというのは、痛くも痒くもある。その悲哀は、先年、一カ月滞在した東ドイツで、いやというほど味わった。日本語がまるで通じない通訳兼案内役の女子学生を相手に、連日絶望的な会話を試みながら、若い時分にもっと語学をしっかり勉強しておくのだった、とつくづく後悔したものの、時計の針を三十年ほど戻さない限り、もう手遅れである。  戦争に負けて、勝った国の言葉が負けた国の言葉を押し流すような勢いで日本中にあふれたあの時期に、私は疎開先の小学校を卒業して、そのまま田舎の新制中学に入学した。ついきのうまで敵性外語として排斥されていた英語が、一転、国語以上に幅をきかせはじめたことで、子供心にもおおいにとまどいを感じたことはたしかである。  いまのFEN(アメリカ極東軍放送)の前身であるWVTR(進駐軍放送)の、わかりもしないアナウンスに耳を傾けながら、番組の区切りごとに流れる This is WVTR in Tokyo というコールサインの「トッキォ」という発音にうっとりしたり、NHKラジオ、じゃなかった、ラジオではなくてレーディオだ、と教わった、そのNHKレーディオで、カムカムおじさんこと平川唯一氏の英語講座にかじりついて、カムカム・エブリバ《ヽ》ディと米語風にテーマソングを口ずさんだりしたのが、英語とのなれそめだったと思う。  何もかも混乱の時代で、特攻帰りの数学の教師が、数学そっちのけで授業時間の大半をビング・クロスビーの歌をうたうことでつぶしたり、本業は闇物資のかつぎ屋という教師がいたり、いま考えると、かなりいい加減な教育環境だった。生きたアメリカ英語を教えるというふれこみで、警察署の二階を借りて会話教室を開いていた怪しげな二世風のウィリアム・S・なんとかという教師が、I'm going to Atami. といえというもんだから、アイム・ゴーイング・トゥー・アタミといったら、アタミじゃない、タァーミだ、タァーミ、いいかね、アムゴーインツナタァーミ、としつこくなおされて、ふん、何がタァーミだと思って、それっきりウィリアム教室に通うのをやめてしまったのが、かえすがえすも残念である。  星霜三十年。  ある日突然、英語の勉強を思い立った。  四十の手習いというけれども、正確には五十のほうにずっと近い、かろうじて四十代の手習いである。人間の脳には百四十億個の細胞があって、その脳細胞がたくわえる記憶の総量は、2の十兆乗ビットであるという記事を何かで読んだおぼえがある。ビットなどという言葉は初耳だし、2の十兆乗ビットといわれても、何が何だかちんぷんかんぷんだけれども、ここ数年来とみにおとろえっぱなしの自分の記憶力に照らすに、2の十兆乗ビットのうち、たぶん九兆乗ビットぐらいは、もうとっくに使い果してしまっているのではないかと思う。  2の、たった一兆乗ぶんぐらいの記憶力しか残っていないこの年になって、突然、一念発起したのには、むろんわけがある。  アメリカに行こうと思う。  それであわてて旅行会話を、というような安直な話ではない。「駅で」とか「ホテルで」とか「レストランで」とか、あの手の日常会話ぐらいは、私といえども、その場に臨めば、まあまあなんとかなるのであって、あんなものが達者になったって仕方がない。  一念発起した目的は別にある。その目的に沿って作り上げた特別なカリキュラムと取組んで、連日連夜悪戦苦闘していると、いい年をして、馬鹿じゃなかろか、とついつい自問したくなってくる。自問してしまうと、馬鹿だ、という自答が戻ってくることは目に見えているので、なるべくそんなことは考えないで、ひたすら英語学習にはげむそばから、馬鹿をつき抜けた馬鹿だなあ、という思いが、追っても追ってもちらちらする。 3  アメリカに、何しに行くのかというと、遊びに行くのである。それも四十日ぐらいかけて、ぶらぶらしてこようと思う。  ほう、いい身分だな、といわれる前にいっておく。私は、いい身分ではない。それどころか、毎日が剣が峰。剣が峰というのは、土俵の境界を意味する相撲用語だけだと思ったら大まちがいで、本来は、噴火口の周辺のことをそう呼ぶのであって、いつ壊滅するかわからないというのが剣が峰である。  どきどきするような暮し向きを維持する身で、アメリカくんだりまで四十日間も遊びに行くについては、それなりの覚悟と算段を必要とする。四方八方に手当をして、強引に無から有を捻出しなければ、行けたものではない。捻出したものは回収しなければならないのだから、行って、帰って、それでそのあとのことまで考えると、覚悟と算段のほかに、エネルギーも必要である。  そんな思いをしてまで遊びに行きたい理由があった。  マジック、である。  趣味ではじめたトランプ手品の底知れぬ魅力にとりつかれて、本気で打込むようになってから、もう十何年になる。大のおとなが夢中になってトランプをいじくりまわしてよろこんでいる図は、あんまり人さまに見せたくないし、そんなことばっかりやってるから、ほらみろ、ろくな仕事もしてないじゃないか、という声がいまにも聞えてきそうで、だから、はじめの五年間ぐらいは、いっさい口をつぐんで、ひたすら練習にはげんだ。  その甲斐あって、私の腕前は相当に上達した。相当に、という表現は曖昧《あいまい》にすぎるけれども、自分の口から、日本で何本の指に入るとか、世界で何番目とか、そんなことはいえるものではない。いえるとしたら、次の二点ぐらいである。  先年東独に出掛けて言葉の壁に泣いたことはすでに述べたが、あのときに各地で披露したカード・マジックが好評で、言葉の壁をトランプが補ってくれた。わけても、チューリンゲン地方の古都エアフルトでの一幕は忘れられない。昼めしをご馳走してくれた市長の前で、返礼に小一時間ほどカード・マジックのさわりを披露した直後のことである。青いガラス玉のような目で私の目をじっとのぞき込むようにして、市長がいった。 「どうだろう、君、このまま亡命しないか。亡命して、わが市に残ってくれないか」  はっきり Flucht(亡命)という言葉を口にして、にこりともしないのである。かつてのハンザ都市で、「ここに人間がいる」とナポレオンがゲーテに語ったというエアフルトの風格と美しさは実に結構だったが、亡命とは、なんぼなんでもあんまりである。この地にとどまって、どうしろというのか。 「わが市にとどまって、自分の下で財政担当になってほしい。ご多分に洩れず、わが市も財政難にあえいでいる。そこで、だ。ものは相談だが——」  はじめてにやりと笑って市長が続けた。 「君のマジックで、一マルク札を片っぱしから百マルク札に変えてくれ」  おぼつかない通訳を介してのやりとりだったが、ジョークはよくわかった。  ジョークとはいえ、とにもかくにも「亡命」をすすめられたのである。芸も亡命に価するようになったらちょっとしたものだろう。相当に上達した、と書いたわが腕前については、そのへんのところでお察しいただきたい。  いえることの、以上が第一点で、以下が、いえることのもう一つ。  私にカード・マジックを基礎からみっちり仕込んでくれたのは、大阪で酒場を開いているNという男である。舞台にもテレビにも出ないので、一般にはほとんど知られていないけれども、カードを扱わせたらおそらく日本一だろう、と弟子の私がいったのでは客観性に欠ける。日本一だろう、といった人たちのリスト。  桂米朝、小松左京、永六輔、色川武大、塩田丸男、和田誠、灘本唯人、森二。  いずれ劣らぬ博識で目ききの諸氏が、異口同音にそういうのである。  世界中の一流マジシャンがみんな参加しているマジック・キャッスルという奇術の殿堂から、ミスターNを名誉会員に推したい、ついては旅費滞在費いっさい当方もちで、一度やってこい、という招待状が舞い込んだときに、見たけりゃおいで、と断ったという話も聞いている。  そのNの、口はばったいようだが、私は、高弟である。いや、もう高弟ではない、対等であるぞよ、と三年前に申し渡されたけれども、私は高弟だといまでも考えている。  師と弟子と、どれくらいちがうかというと、見たけりゃおいで、と師があっさり断ったマジック・キャッスルに、弟子は、しっぽを振って出掛けようとしている。それぐらいちがう。  アメリカに行く気はないか、と声をかけてくれたのは、懇意なテレビ・ディレクターのO君である。  厳格な会員制をしいて、ビジターとカメラをシャット・アウトしつづけてきたマジック・キャッスルが、はじめてテレビ取材に応じるといっている。マジック界の最長老で、ただ一人“教  授《プロフエツサー》”と呼ばれているダイ・バーノンともコンタクトがとれた。そのほか、人気絶頂のマジシャンのショーや、いくつかの大会の放送権もとれたので、スタッフを組んで、特別番組を三本収録してくる。もしよかったら、こないか。ただし、みなさまのテレビ局としては、丸がかえというわけにはいかない。リポーター役として出てくれれば、出演料という形で多少のことはできるけれども、出演料といったって、なにぶんにもウチのことだからむにゃむにゃむにゃ。  むにゃむにゃなんかはどうでもいい。ぜひ行きたい、行くともさ、と即答したいのはやまやまなれども、待てしばし、である。剣が峰の分際でうっかり安請合いはできない。行けたら行くよ、と煮え切らない返事をしたあとで、とりあえず、わが腕前のほどを、参考に供そうか、ということになった。O君とはずいぶん古いつき合いなのに、たまたま機会がなくて、まだ一度も見せていなかった。 「そりゃ、ぜひぜひ」  身をのりだしてきたO君の、目と鼻の先で、たっぷり二時間ぐらいやったろうか。これまでにもマジック番組を数多く手がけてきたO君は、世界のトップ・レベルのマジシャンたちと交流が深く、彼らのテクニックとトリックを、裏から横からふんだんに見ているので、自分ではやらないけれども、目はたしかである。そのO君が、叫んだ。 「ダイ・バーノンと、さし《ヽヽ》でやって下さい」  この一と言が致命的だった。  世界中のマジシャンが師と仰ぐダイ・バーノンに会えるだけでも、アメリカまで出掛ける値打があると思っていた。それが、さし《ヽヽ》でやれ、ときたら、もう死んでもいい。死んでも行く。待てしばしが何だ。剣が峰が何だ。むにゃむにゃが何だ。 4  あッとおどろく大魔術、大奇術のたぐいも含むすべての手品のなかで、手品中の手品、粋《すい》中の粋は、なんといってもカード・マジックにとどめをさす、というのが私の確信である。  もっとも、こういうことは好みの問題であって、ふん、トランプ手品か、と鼻で笑われたらそれっきりだし、そんな小手先のトリックよりも、壮大華麗なマジック・ショーのほうが断然好きだという人がいても一向に不思議はない。だから自説を押しつける気は毛頭ないことをお断りした上でいうのだけれども、美女の胴体を輪切りにしたり、トランクの中の人間を消滅させたり、あとからあとから鳩をだしたり、そういう奇術に、私は興味がない。あざやかだなあ、と感心はするが、自分で演じようとは思わない。  客席とのあいだに十分な距離を置き、大がかりな道具や仕掛けを用い、助手の手まで借りて行う舞台 奇術《ステージ・マジツク》に対して、卓上 奇術《テーブル・マジツク》もしくはクロースアップと呼ばれるカード・マジックは、タネも仕掛けもない普通のトランプを用いて、目の前で人をだます。何をだますのかというと、人間の目と心をだますのである。もっといえば、目よりも、主として心をだます。そこのところに、汲めどもつきぬ妙味がある。凝れば凝るほどおもしろい。ただおもしろいというだけではなくて、おもしろさの質がどんどん深くなるようである。深くなるにつれて、カード・マジックの基本である技術、すなわち、謂《い》うところの「テクニック」だけうまくなったってなんにもならない、という一種の蘊奥《うんのう》が見えてくる。見えてくるということと、きわめるということとは、もとより別もので、蘊奥をきわめるためには、まだまだ気が遠くなるほどの歳月が必要であることは、自分でもよく承知している。この年になってからのめり込んだ私の場合は、蘊奥をきわめる前に寿命をきわめてしまう可能性のほうがはるかに大きかろう。そうして、それでもおもしろい。  で、蘊奥が見えてきたいまの段階で、私は一つの仮説を立てた。カード・マジックの醍醐味《だいごみ》は、洗練とデリカシーと厚かましさにある、というのがそれである。人の心を盗む、その盗み方の総合もしくは堆積《たいせき》といいかえてもいい。  いわくいいがたいその骨法を、私は、私の師に学んだ。手は休めてもいいから、口を休めるな。喋れ、とにかく喋れ。奇術は話術也《なり》。  ふつう、マジックには言葉はいらないとされている。だから、ほとんどのマジシャンは、音楽だけで、流れるように演じるのが常である。まれには、愚にもつかないことをペラペラ喋りまくるマジシャンもいるけれど、そのタイプに限って、肝心のマジックを全然見せようとしないのだから、マジシャンとはいいがたい。何か質問はございませんか、というギャグともいえないギャグを連発することで人気者にのし上って、のし上ったと思ったら死んでしまった手品師の例を持ち出すまでもない。すぐれたマジシャンほど、口をきかない。見ればわかるからである。その原則からすれば、わが師、Nのやり方は異端である。邪道といってもいい。  だが、しかし、である。異端でも、邪道でも、とにかく圧倒的におもしろいのである。休みなく口にする言葉がことごとく生きている。そのN流の、私は信奉者、信奉者にしてなおかつ後継者である。当然のことながら、私のマジックも、言葉が死命を制する。だとしたら、アメリカでやるからには、英語でやってのけることが先決である。それには、特訓あるのみ。よし、やろう、と心中ひそかに誓いをたてて、くる日もくる日も英語と取組んだものの、そうかんたんに身につくものではない。なにしろ、2の十兆乗ビットのうち、もうすでに九兆乗ビットは使い果しているのだから、どうにもならない。どうにもならない、とあきらめた上で、せめて気休めにと思って、毎晩、お手本のテープをかけっぱなしにして、聞きながら寝た。  睡眠学習法というのは、あれは冗談でも、誇張でもない。ほんとうに、あるのである。ほんとうにあるのだというそのことを、ゆうべ英語で寝言をいってたわよ、と告げたそばにいる者の一と言で悟った。  英語で寝言がいえるまでの苦労は、筆舌につくしがたい。何度やめようかと思ったかわからない。われながら、ものずきの極致、阿呆の極限だ、と思った。  もう一と昔も前に、私はある雑誌に紀行文を連載して、通しタイトルを「阿呆旅行」とした。内田百先生の名作「阿房列車」にあやかった題名であることは、いうまでもない。阿房の「房」を「呆」の字に変えることで、十六花弁の菊の紋どころを十五弁に変えるような、いわば、はばかりの意をあらわしたつもりである。亡くなる寸前の百先生から、勝手にしろ、という許諾も頂戴した。その「阿呆旅行」から十何年たった、ついこのあいだ、私は「東独阿呆旅行」と題する文章を中心にしたエッセイ集を上梓《じようし》した。だから、今度のアメリカ行きは、阿呆旅行の三冊目である。前の二冊とくらべると、阿呆度において、今度が正真正銘の阿呆旅行である。  阿呆の鳥飼い、という言葉がある。衣食にもこと欠く貧乏人が、鳥などを飼ったり、愛したりするのは、無用のものずきだ、という意味なんだそうである。苦心惨憺、寝てもさめても英語と取組みながら、阿呆の鳥飼いではなくて、阿呆の特訓だ、と思った。 特 訓 始 末 1  アメリカに向けて、私の飛行機はまだ飛び立たない。  管 制 塔《コントロールタワー》のもう一人の私が、機長の私に、離陸の許可を出すまで、飛行機は飛びたくても飛べない。 「管 制 塔《コントロールタワー》から、わん・つう・すりーへ」 「こちら、わん・つう・すりー」 「わん・つう・すりーは、滑走路《ラン・ウエイ》でそのまま待 機、《ホールド・オン》 あとの指示を 待て《アンテイル・フアーザー・アドバイス》」 「了解《ラジヤー》、指 示 を 待 つ《ウエイテイング・ユア・クリアランス》」  じれったいけれどもやむをえない。  阿川さんのお宅は、というふうに話が突然がらりと変ったりするところが、なかなか離陸できない一因なのであるけれども、阿川さんというのは、日本芸術院会員で、小説家で、元海軍で、現汽車ポッポの、あの阿川弘之氏のことなのだが、というふうに話がくどいこともまた、なかなか飛び立てないもう一つの原因で、それで何をいいたいのかというと、阿川さんのお宅は横浜市内にある。その横浜のお宅を出て、アメリカに着到するまでの委曲が、阿川さんの近著『南蛮阿房第2列車』に、こう筆録されている。 〈旅装をととのえ、自宅から渋谷、渋谷から地下鉄で上野、上野から成田、成田からはるばる太平洋を越えてたどりついたのが、ロサンゼルス下町のユニオン・ステーション〉  成田・ロス八千七百四十キロが、たった二行である。読み下せば七秒。  紀行文は、すべからくこうでありたい。ありたいけれども、そうはいかない。いかない事情が私にはある。  NHKラジオ、じゃないレーディオだ、と教わったNHKレーディオで平川唯一氏の『カムカム英語』にかじりついた、と前章に記《しる》したちょうどあのころ、同じNHKラジオで『アメリカ便り』という番組が毎週放送されていた。スポーツ中継の花形で、のちに“声の機関銃”とうたわれた志村正順アナウンサーが、坂井米夫特派員の「ワシントン発」というエッセイ風レポートを、ただ素読みにするだけの番組だったが、アメリカの平均的市民はこういう家に住み、こういう調度を備え、こんなものを食べたり、着たりしている、といったぐあいの何でもない生活スケッチが、きょうの配給はスケソーダラ、あすの配給もスケソーダラ、という放送を聞きなれた耳には、実に新鮮かつ甘美な、夢の世界のことのように聞えて、アメリカというのはバラ色の天国だ、と子供心に強く思った。きのうまでの鬼畜の国が、である。カルチュアー・ショックなどというなまやさしいものではなかった。少年期のふわふわとした前頭葉に、しっかり刻みつけられた印象は絶対のものであって、以来、アメリカといえばバラ色、ととりあえず答える癖が抜けないままいまに至った。バラ色の国に、一度は行ってみたい、という思いが、べつに募りはしないまでも、潜在意識の底でいつでもくすぶり続けていたようである。十五、六年前に、一度ハワイには出掛けたけれど、あそこはまあ、亜米利加合衆国布哇州日本県みたいなところだから、出掛けたうちには入らない。  バラ色本体の土を踏むのは、今度がはじめてである。  アメリカは病める大国で、腐敗と犯罪と経済不況と人種問題をかかえて、いまやもう滅亡寸前である。人心は荒廃してるし、街なかは危険だし、食い物はまずいし、と十人が十人、百人が百人、口をそろえて罵倒もしくは蔑視してやまないいまのご時勢に、一人だけ、アメリカは久恋の地である、と告白するのは気がひける。気がひける以上に、少なからず勇気がいる。だから、人並みに、ふん、アメリカか、というような顔をしておけば、ずいぶん気がラクだろうな、と思うものの、顔と口は偽れても、気持を偽ることはできない。人心が荒廃していても、街なかが危険でも、食い物がまずくても、久恋の地は久恋の地である。  バラ色の『アメリカ便り』から三十六年目、やっと念願が叶う。  阿川さんは七秒でアメリカに着いた。私は三十六年かかった。  管 制 塔《コントロールタワー》としては、そうかんたんに離陸許可は出せない。出してたまるものか。 「管 制 塔《コントロールタワー》から、わん・つう・すりーへ」 「こちら、わん・つう・すりー。離陸準備 完了《レデイ・フオー・テイク・オフ》」 「まだ待機せよ《スタンド・バイ・ワン》」 「了解《ラジヤー》」  じれったくてじりじりしてくるのは、機長の私も、乗客の読者も、同じことである。 2  色さんが——飛行機はなかなかとばなくても、話はいくらでもとぶ。色さんというのは色川武大またの名を阿佐田哲也という私の友人のことで、ほらこのとおり話はくどくなる一方で、その色さんが、数年前ヨーロッパにカジノ荒らしに出掛けて、パリのアメリカ系ホテルに泊った。英語の達者なパートナーがいつでも行をともにしていたのに、たまたまその日に限って一人でぶらりと散歩に出たまではよかったが、ホテルに戻って、エレベーターに乗ったら、アメリカ人の老夫婦が続いて乗り込んできた。  まずい、と思ったそうだ。  わかる。非常によくわかる。私だって、直感的本能的に、そう思う。せまい箱の中に三人だけ、それも相手がアメリカ人の老夫婦とくれば、その先は見えている。善意のかたまりのような顔をほころばせて、見境もなくペラペラペラっとくるにきまっている。おまけにアメリカ系のホテルなら、超高層と相場がきまっている。三十階も四十階ものあいだ、どう凌《しの》げばよいのか。恐怖に駆られた色さんが、あの巨躯をちぢめてうつむくより早く、案の定《じよう》、立て板に水のいきおいで、ペラペラペラ、ときた。とっさに色さん、必死の形相で答えていわく。  No smoking! 「いやァ、ノー・スピーキングというつもりで、口をひらいたらノー・スモーキングになっちゃったんだ。テキもヘンな顔してたよ」  ヘンな顔ぐらいですめば、おんの字である。にこにこ話しかけてきた相手に向かって、ノー・スピーキングなどと口走っていたら、ヘンな顔ではすまない。「しゃべるな」、語調によっては「黙 れ《シヤラツプ》!」である。よかったね、まちがえて、といったら、うふふ、と、うっそり笑って阿佐田哲也がいった。 「勝負づよいんだ」  アメリカに行こうときめたとたんに、どういうわけか、色川武大のこの話を思いだした。  テレビ局の懇意なディレクターに、ダイ・バーノンとさし《ヽヽ》でやれ、とけしかけられた話はすでに書いたとおりだが、さし《ヽヽ》でやるのは勝負ではなくて、カード・マジックのことであるけれども、世界中のマジシャンが師と仰ぐ老ダイ・バーノンの前で、ノー・スピーキングだの、ノー・スモーキングだの、そうはいわなくても、それ式のことを口走ったら困る。私は勝負づよくない。  だんだん話が煮つまってくるに従って、せっかく行くのだから、何もダイ・バーノンの前だけではなくて、あっちでもこっちでもやってきたらどうだ、というようなことになって、自分でも、だんだんその気になってきた。やるからには、完璧を期したい。  ここで、私のカード・マジックについて、基本的なことをはっきりさせておきたい。はっきりさせる、ということは、必然的、不可避的に自慢話になるということであって、だから、そんなこと、ちっとも書きたくないのだけれども、そこのところをはっきりさせておかないと、先にすすまないのだから仕方がない。  使うのは、市販の何でもないトランプである。ついでにいえば、トランプという言葉はもともと「切り札《ふだ》」という意味であって、日本でふつうに使われている「トランプ一組」という意味での「トランプ」は、国際的には通じない。英語なら「プレイング・カード」、ドイツ語なら「シュピール・カルテン」、フランス語で「カルト・ア・ジューエー」である。トランプ一組のことは「デック・オブ・カード」、トランプ手品のことは「カード・マジック」もしくは「カード・トリック」と呼ぶのが普通らしい。その「カード・トリック」をひっくり返して「トリック・カード」というと、これはまた全然別の意味になって、手品や、いかさまギャンブルのための、仕掛け《トリツク》をほどこした特殊カードのことになるのだからややこしい。  マジックという言葉より、トリックという言葉のほうが、何となく洗練を感じさせて、私は好きなのだが、カード・トリックと、トリック・カードのまぎらわしさに耐えられないので、不本意ながら、カード・マジックという呼称に統一しようと思う。  タネや仕掛けのある、いわゆるトリック・カードは、いっさい使わない。トリック・カード以外のトランプなら、どんなトランプでもかまわないのだけれども、好みということでいえば、デパートの玩具売場や、ちょっと大きな文房具店でいくらでも売っているアメリカ製の BICYCLE 印《じるし》のトランプが、私の手に合っているようである。BICYCLE のほかにも、 印、CARAVAN 印、TALLY-HO 印といった有名銘柄が、品質的にいいトランプとされているのだけれど、 はカードのふち《エツジ》に余白がないのでマジックには使いにくいし、TALLY-HO は紙質がちょっと硬いし、CARAVAN は、寸分たがわぬ裏模様のトリック・カードが出まわっているところが気に入らない。  それで、いつでも BICYCLE 印の、それも新品のトランプ二組(赤と青)を用意して、そのつど封印のシールとセロファンを、相手に切ってもらってからはじめることにきめている。すべてが終ったら、その二組のトランプを、当夜のご正 客《しようきやく》と、これはと思う女性のお客に、プレゼントとして持ち帰ってもらう。だから、いくらあってもすぐなくなってしまう。買うときには、五ダース、六ダースと、いちどにまとめて買っておいて、そいつを、一回ごとに二組ずつ使い捨てるというのが、私の流儀である。  トランプなどというものは、アメリカあたりでは完全な消耗品であって、 BICYCLE 印のトランプが、スーパー・マーケットやドラッグ・ストアの棚に、一個一ドル七十五セントぐらいで石鹸と並んでいる。本日ただいまの公表相場(一ドル=二百三十六円七十銭・昭和五十七年三月三日午前十時現在)に従えば、四百十四円二十二銭である。四百十四円二十二銭の BICYCLE 印のトランプが、いまデパートで買えば、九百円する。輸入税とマージンのほかに、骨牌税というものまでかかって、その値段になるらしい。  一個九百円の新品カードを二組おろして、その場で人にやってしまうのだから、一回手品をするたびに、まちがいなく千八百円ずつ損をする勘定である。素人芸の見せ賃と考えれば安いもんだが、それだけではすまないところが、素人芸の素人芸たるゆえんであって、だれかに見せるときには、原則として、こちらでご馳走することにしている。一人、二人ならともかく、私が目指しているのは「サロン・マジック」というようなものであって、七、八人から十人前後のお客を相手にするのがもっとも快適なので、振舞う相手はつねに複数である。まとめてご馳走したあげくに、千八百円ずつ使い捨てるのだから、無駄といえば無駄、馬鹿といえば馬鹿な話であって、何のために働いているのかと思ったりする。  馬鹿の自覚と引換えに、カード・マジックの快感に身をこがしていると、なんだか『寝床』の主人公になったような心持である。ただし落語の素人芸のほうはお店《たな》じゅうの鼻つまみもので、お客の全員から徹底的に嫌われている。  そこがちがう。  私のカード・マジックは、わが師Nゆずりの技法と手順を骨格にして、それを自分なりの一 式《ルーテイン》に組立てたもので、アラカルトからフルコースまで、相手次第、場所次第で、メニューは千変万化する。ざっとひととおりのところで二時間、みっちりやれば四時間でも五時間でももつ。何時間やろうと、相手がたのしくなかったらなんにもならないわけだが、そういうのは「もつ」とはいわない。私は、もつ、と書いたのである。  目と鼻の先の至近距離で演じて、大のおとなを相手に、二時間でも三時間でも飽きさせないだけの自信はあるし、事実、これまで飽きさせたことは一度もない。ただし、それは自由にしゃべりながら演じることが絶対条件であって、私ならびにわが師N流のカード・マジックは、客とのコミュニケーションを封じられたら、威力も魅力も魔力も半減する。  完璧を期したい、とひそかに決意したときに、それについては、まず言葉だ、と考えて、それで「阿呆の特訓」を思い立ったことは、前章ですでに書いた。書いたが、まだ書き足りない。 3  特訓にあたって、まず先生をさがさなければならない。  ふつうの旅行会話やビジネス会話だったら、アメリカ人につくのがいちばんいいのだろうが、今度の場合は、目的が全然ちがう。二時間なり三時間なりのカード・マジックの流れと手順に乗った私自身の無駄口を、できるだけ忠実に捕捉してくれなくては困る。無駄口とはいうものの、実は、計算ずくの科白《せりふ》や重要な伏線やキイ・ワードが、臨機のアドリブと混在しているのだから、無駄口だからどうでもいいというわけにはいかない。そのへんのつぼをきちんと押さえてもらうためには、英和の訳ではなくて、和英の訳でなければ無理だろう。  やっぱり日本人の先生がいい。日本人で、英語がペラペラで、なるべく人柄がよくて、なるべく私より年下の、なろうことなら青年がいい。いくら英語がペラペラでも、私よりおじんの、部長だの局長だの、そんなえらい人に教わるのは気ぶっせいだし、磯村尚徳さんや竹村健一さんのような知名の人は畏れ多いし、田丸美寿々さんや頼近美津子さんに教わったりしたひには気が散っていけない。  えらくなくて、有名でもなくて、色香もなくて、英語ペラペラ。そういう前途有為の人材がごろごろしているところはどこか。とりあえず念頭にうかぶのが三つの職域である。  新聞社の外報部。テレビ局の外信部。商社の最前線。  生きた英語ということなら、なんといったって、同時通訳のサイマル・グループを忘れるわけにはいかないけれど、あれはもうスペシャリスト集団であるからして、予算の埓外《らちがい》である。大学の研究室が洩れたのは、私の連想繊維になかっただけの話で、べつに、大学の先生の英語が死んだ英語だというつもりは決してない。もっとも、反省するのは勝手だけれど。  で、三つの職域のなかで、生きた英語にいちばんつよいのはどれだろうと考えていたら、それは商社マンだ、やつらにはかなわない、と新聞社にいる友人が教えてくれた。あとでその話をテレビ・ディレクターのO君にしたら、大きくうなずいて、正解です、といった。  大学の後輩S君が、総合商社Pでだいぶえらくなっている。彼にたのんで、P社きっての英語つかいだという若いY君を紹介してもらった。P社きっての英語つかいだ、とS君がいうのではなくて、社員九千人を擁するP社人事部のコンピューターが保証したんだそうで、それが証拠に、私の依頼を介して、S君とY君は初対面の挨拶を交したのだから、考えてみればへんな話である。  のぞみどおりのいい先生が見つかって、しかし、見つかっただけではどうにもならない。いきなりカリキュラムを作れといわれたって、先生としては途方にくれるばかりだろう。  こうしよう。まず、ひととおり私のカード・マジックを見せるから、翻訳のことなんか考えないで、一観客として見てほしい。見せるについては、お客がY君一人というんじゃ、こっちもやりにくいし、そちらも肩が凝るだろう。だいいち、座が盛上らない。だから、ぼくの後輩で君の先輩のS君も呼ぼう。そうだ、受付のお嬢さんとか、秘書室のお嬢さんとか、P社の花を三、四人つれておいで。某所に席をとっておくから、粗餐《そさん》を供したあとで、一杯やりながら、じっくりお見せするというのはどうだろう。 「いいですね、いいですね。わが社の花でよかったら、三、四人といわず、六人でも七人でもつれて行きます」 「そんなに花だらけになっても困る」 「じゃ、二、三人——」 「うん、それがいい、ぼくも一人つれていくから」 「あ、それはぜひぜひ。どういう花です?」 「花ではない」  週刊誌の連載対談の仕事で懇意になったベテランの速記者I氏に来てもらうことにする。I氏《ヽ》であって、残念ながら、I嬢《ヽ》ではない。  予定時間は三時間。その三時間のやりとりを、I氏にすべて速記してもらう。それを原稿に起してもらって、そいつをさらに私がリライトする。出来上ったものが、すなわち特訓用のカリキュラムである。そのカリキュラムを翻訳してほしい。翻訳しただけでは、猫に小判であって、正確な発音とイントネーションを耳で覚えなければなんにもならない。だから、翻訳したものを、全文、カセット・テープに吹き込んでもらいたい。  すぐにお金の話になるところが、われながら情ないのだけれども、宴席の費用はもちろん、Y君には翻訳料、I氏には速記料を、相場の何割安かでお払い申す、というとりきめである。それで、そのとおりにやってみたら、大学ノート二冊分のカリキュラムが出来上った。  それ以外に、とくに丸暗記しておきたい口上が、いくつもある。 〈世界的に見て、マジシャンというのは概してお酒を飲まない。とくに、ステージに上る前は絶対に飲まないらしい。しかしながら、私は、飲まないと出来ないんです。だから、失礼して、ちょっと一杯……〉  これだけは、何を措いても覚えておきたい。 〈私はプロのマジシャンではありません。本業は文筆業であって、手品でめしを食っているわけではないのです〉  めしを食っているわけではないというのは、はて、どういったらいいかなどと考えたりするようではだめである。考えなくても、nothing to do with my business という慣用句が、ひとりでにとびだすようにならなければいけない。そうして、そうなったらなったで、もっとやばい事態が待ち受けている。お、この男、英語が達者だな、などと思われたら目もあてられない。テキがそう思う前に、予防線を張っておく必要がある。 〈カード・マジックをお見せするあいだ、私は努力して英語をしゃべりますが、これは、今回の旅行のために特訓(I have studied on a very intensive training curriculum)してきたものであります。したがって、何か聞かれても、返事は満足にできませんから、そのつもりで〉  項目ごとにナンバーをふっていったら、全部で523番になった。こいつを1番からはじめるのかと思ったら、気が遠くなりそうだった。がむしゃらに丸暗記して、やっと3番まで覚えたところで復習してみると、もう1番を忘れている。死ぬ思いで20番までたどりついて、ためしにおさらいをしてみると、5番から10番までコロッと忘れている、といったあんばいなのである。  もちろん、英語にうつつを抜かしてばかりはいられない。出発の日が迫るにつれて、原稿の書き溜めはしなくてはならないし、錬金術にはとびまわらなくてはならないし、旅行の打合せもしなくてはならない。その間隙を縫って、ノートにかじりついた。外出時には、必ずテープ・レコーダーを携行して、タクシーの中でも、電車の中でも、ところかまわずイヤホーンでY君の発音に耳を傾けた。それでも時間が足りなくなって、寝るときにもイヤホーンをさし込んで、テープをまわしっ放しで寝た。それを三カ月も続けただろうか。  英語で寝言をいってたわよ、とそばにいる者にいわれて、やったぜ、と思ったと前の章に書いたあの日が、出発二日前のことだった。 4  睡眠学習の成果は、自分でも信じられないぐらいだった。時間切れで、ついに一度も開かずに終ったページの、見たことも聞いたこともない単語が、ここぞというときに、ひょいと口をついて出てくるし、単語はともかくとして、寝ても覚めても耳の底にあったY君の、流れるようなイントネーションが、麻薬が肉体をおかすようなぐあいに、じんわりと染み込んだようである。 「ミスター・エクニ、君は何年英語の勉強をしたのか」 「ノー、勉強なんかしていない。三カ月特訓しただけだ」 「三カ月? オー、信じられない」  アメリカ人は、みんなお世辞がうまいから、そういわれたからといって、いい気になってはいけないけれども、少なくとも、先方がそういったということが、しっかりわかったということだけでも、睡眠学習の効果は絶大というべきであろう。  そうやって、アメリカに発った。  四十日間の旅程とホテルのリストを、一覧表にして留守宅に置いてきたので、行く先ざきのホテルに宛てて、子供たちが手紙を書くという。外国の見知らぬ土地に、着いたら手紙が待っているというのは、実にいいものである。  最初の滞在地ロサンゼルスでは、マジック競技会《コンベンシヨン》の開催場である「ハイアット・レージェンシー」というホテルに腰をすえた。いつまでたっても、子供たちからの手紙が届かない。どうしたのかなと思っていたら、あしたはホテルを引払うという前の晩に、東京から電話がかかってきた。 「ごめんなさい、大失敗……」 「どうした」 「子供たちが手紙を書いたのよ。それで、あたしが封筒の宛書きを書いてやったわけ」 「うん」 「あなたが書き残して行ったホテルの名前と住所を、まちがえないように、注意ぶかく、ていねいに書き写しているうちに、あなたの名前を書くのを忘れちゃったのよ」 「つまり、俺宛てじゃなくて、ハイアット・レージェンシー宛てになったわけだ」 「そうなの」 「差出人はどう書いたんだ」 「それがね、こっちの名前と住所は、ぜんぶ日本語で書いちゃったのよ。やっぱり、届かないかしら」 「それじゃ無理だろうな」 「でも、子供たちがせっかく書いたんだから、一応、ホテルに聞いてみてよ」 「わかった」  電話を切って、すぐ階下におりた。  べージュ色のユニホームを着た若い黒人女性が、フロントにいた。自分は何号室に泊っているエクニだが、このホテル宛てに、日本から航空便《エア・メール》が届いていないだろうか、といいかけたとたんに、わかった、ミスター・エクニだな、といって奥にさがしに行きそうになったので、ついあわてた。ちょっと待ってくれ、実は、女房が俺の名前を書き忘れたのだ、といおうとして、口が勝手に動いた。  My wife forgot my name.  その瞬間の、黒人女性のびっくりした表情を、いまでもはっきり覚えている。目を丸くして、えーッ、おまえのワイフは亭主の名前を忘れたのか、と彼女は本気で叫んだ。  色川武大の「ノー・スモーキング」を、笑う資格はない、と思った。  アメリカから帰って、二カ月近くたった某日、赤青だんだら模様の、よれよれ、くたくたになった航空郵便が配達されて、表に、エンピツの殴り書きで Return to Japan とあったというのは、ずっとのちの話で、私の飛行機はまだ飛び立っていない。  管 制 塔《コントロールタワー》が呼んでいる。離 陸 許 可《テイク・オフ・クリアランス》らしい。 胴 元 記 1  いずれがあやめかかきつばた、というのは英語で何というのかしらん、と酔った頭で考える。辞書には両方とも iris と出ているけれど、菖蒲《あやめ》も杜 若《かきつばた》も東洋の花なのだろうから、さしずめ、いずれがローズハイビスカス、とでもいいかえるとして、いずれが、というのはやっぱり which を使うのかな。which is more better ……いや待てよ。すでにして比較級の better に、もう一つ比較の more をつけるのはヘンじゃないのか。ヘンな英語が、まずまっさきにひらめくというのは、来週はモアーベターよ、とにんまり笑いかけるコモリのオバチャマの映画解説の見すぎかもしれない。  酔っている上に、たぶんまだ時差ボケも残っているはずだから、いってみれば二重に酔っ払っているようなあんばいで、だからそのせいで、だれもかれもが美人に見えるのかもしれないけれど、そこいらを割引いてもなおかつ、いずれがローズハイビスカス、名詮自性《みようせんじしよう》の金髪美女たちの顔が、さっきから目の前でゆらめいている。  すぐ右どなりがブロンドのグラマー美人サンドラで、左どなりのスリムな色白美人がフランス系のジェニーで、正面に坐っているブルーネットのそばかす美人がナンシーで、ほかにもあと三人ぐらいの金髪がはべっていたようである。旅行中ずっと携行していた手帳のあいだから、サンドラ、ジェニー、ナンシーの名と、それぞれの特徴を殴り書きでメモしてある紙ナプキンが出てきた。いま見てみると、字まで酔っ払っている。  で、合計六人の碧眼美人に囲繞《いによう》されてやにさがっているのが私一人というのなら、大いばりで、ぐうともいわさないわけだけれども、ハレムの王様みたいな、そんなふしだらな身分では、あいにくないのであって、お客は私だけではない。それでも、こうやって白雲の如く美人棚引くところで、好きなお酒を飲んでいると、ソファにもたれた身体ごと、ふわふわ宙に漂うようで、なんだか空の旅が続いているような心持である。  東京—ロサンゼルス八千七百四十キロ、JAL062便のフライトは、離陸から着陸まで申し分なく快適だった。天候は上乗だったし、スチュワーデスはきれいだったし、食事はうまかったし、心身症の機長は乗っていなかったし。  それにもう一つ、同行に人を得ていたことも、ノンストップ九時間二十何分の空の旅を、いっそう快適なものにしていた。向こう四十日間、ずっと行をともにするのは、若い友人の写真家サンジローである。若いといっても、私より若いというだけで、青年というには抵抗がありすぎるし、だからといって中年呼ばわりはちょっと可哀相といった微妙な年代の、一と言でいえば、屈強が洋服を着たような男である。本名南川三治郎。おどろくべき根気と押しで、マルク・シャガール、ベルナール・ビュッフェ、ジョアン・ミロ、ジョルジオ・キリコ、ヘンリー・ムーア、サルバドール・ダリといった現存する世界的な画家、彫刻家の制作中の姿を六年がかりで撮影した『アトリエの巨匠たち』という労作で、日本写真家協会新人賞を受賞したのは、去年だったかおととしだったか。ほかにも『ヨーロッパの職人』『ヨーロッパの窯場と焼きもの』『景徳鎮窯の焼きもの』などの写真集を精力的に世に問うている。それらの作品群に共通しているのは、のびのびとした健康性である。昨今の写真界の主流と思われる下品な小細工やハッタリとは絶縁した正攻法のカメラワークが南川作品の魅力であって、私は以前からのひそかなファンなのである。  そんな優秀な男を、サンジローと呼び捨てにするのは、私が年上だからいばっているというのでも何でもない。一年の半分ぐらいを外国で暮しているこの男は、日本よりもむしろ外国のほうで名前が知られていて、MINAMIKAWAという舌を噛みそうな姓のほうではなく、もっぱらSANJIROでとおっているからである。  巨匠、職人、窯場と対象は変っても、つねに「人間」に興味をいだいているサンジローが、世界のトップクラスのマジシャンにも食指を動かすのは不思議ではない。これこれの目的でアメリカに行ってくる、と某日、一献の席で何の気なしにいったら、その場で同行を申し出て、それでそうなった。  旅は道づれ。  とはいうものの、気の合わない奴が道づれになったら、旅はめちゃめちゃである。そんなら気が合えばいいかというと、決してそういうものでもないのであって、気が合いすぎても、長い道中のあいだには、必ず衝突する。似た者同士であるだけに、そうなったら根も深く、不愉快と気疲れで、両方がへとへとになってしまう。  その点、この男ならまちがいない。趣味嗜好はもとより、性格からものの考え方、生活態度に至るまで、私とは正反対であって、それでいて何よりも気のいい男である。おまけに旅馴れていて、力持ち。けだし理想的な道づれである。 「ねえ先生——」 「先生はよそうよ、四十日寝食をともにするんだから」 「でも、先《ヽ》に生《ヽ》れてるんだし、それに、僕の写真集に序文も書いてもらったことだし。だから、ねえ先生……」  ねえ先生、ちょっとその下駄とってくんねえ、という落語のくすぐりを思いだす。  旅行中、何カ所かで合流したり別れたりすることになっているOディレクター麾下《きか》のテレビ・クルーは、撮影の下準備のために早くから先発している。テレビ・クルーとはまた別に、ロサンゼルスとボストンで開催されるマジック競技会《コンベンシヨン》を中心にアメリカをひとまわりする“マジック・ツアー”という企画も同時進行していて、そっちのほうの肝煎《きもい》りは、奇術用品の輸出入を手がけているTさんが引受けている。この人も外国のほうで名がとおっていて、世界中の高名なマジシャンと親交が深い。そのTさん引率の一行は、あとから乗込んでくることになっていて、だから、まずはサンジローとの二人旅《ににんたび》で、空路つつがなく盛夏のロサンゼルスに到着したら、抜けるような青空を背に、Oディレクターが眩《まぶ》しそうに目を細めて、空港に出迎えてくれていた。  そのサンジローと、Oディレクターと、それにテレビ・クルーの諸君の顔が、金髪美女たちのあいだで、にこにこ笑っている。美人を相手に思い思いに英語で喋っていることを除けば、銀座や六本木のクラブで飲んでいるのとすこしも変りがない。Oディレクターとかつて机を並べていたK君が、テレビ局を辞めたあと、ロスで一旗揚げて成功して、いまは当地でテレビ制作会社の社長におさまっている。そのK君の案内で、こうやって美女に囲まれているのだけれど、ここがロサンゼルス市内のどのへんにあって、何という店なのか、なにぶんにも到着直後のことなので、さっぱり様子がわからない。 2  水割り飲み飲み、ひそかに聞き耳たてるに、サンジローの英語は、猪突猛進型である。心臓に毛が生えているような発音で、ずばずば何でも通じてしまう。Oディレクターの英語は、生粋の大阪弁である。それでも海外取材で場数を踏んでいるので、やっぱりよく通じている。  美女たちの顔を等分に見まわしながら、O君が、その関西風英語で、しきりに何やら説明している。 「……というわけで、この人は」  と私のほうを向いて、O君が、とんでもないことをいいだした。 「日本からはるばるやってきた世界的なカード・マジシャンなのだ」 「オウ、リアリイ?」  ノー、ノー、ノー、とあわてて訂正するのも大儀である。イエス、イエスとうなずいたら身分詐称になってしまう。否定も肯定もしないで、曖昧な顔をしていたら、O君と美女たちとの会話がどんどんはかどっている。 「大マジシャンであるからして、よっぽど気が向いたときでないと、めったなことでは人に見せない」 「わかるわかる。それは当然のことである」 「だがしかし、だ。自分がとくに頼めば、いまここで、もしかすると見せてくれるかもしれない」 「えッ、ほんとうか」 「君たち、見たいか」 「シュア。ぜひとも見たい」 「よし、自分が大先生にお願いしてみよう。ただし、君たち、一つ条件がある」 「条件とは何であるか」 「マジック一回につき一人ずつ、君たち、大先生にキスをすること。どうだ、OKか」 「OK、OK。よろこんで」 「というわけです、先生、ひとつ彼女たちに見せてやってください」  今度の旅行中、マジックを披露する機会はいくつもスケジュールに組み込みずみだった。パーティーの席上とか、商社の会議室とか、マジック・キャッスルのテーブルとか、レストランの小部屋とか、いずれもしかるべき場所と相手が予定されている。もちろんそれ以外にも、求められれば、いつ、いかなる状況でも応じるというのが私の基本方針だから、O君の申し出に異存はないものの、着いて早々、それもこういう形ではじまろうとは思わなかった。  ポケットにいつでも入っている BICYCLE 印《じるし》の新品カード二組をとりだしながら、記念すべきアメリカ初舞台だと思ったら、わくわくするようだった。二組のうち赤函を右どなりのサンドラに、青函を左のジェニーに渡して、セロファンの封とシールを切ってもらってから、おもむろに咳払いなどを一つ。 「淑女並びに紳士諸君《レデイス・アンド・ジエントルメン》」  われながら、うまくいえた。  あたりまえじゃないか、というなかれ。たったこれだけの、子供でも知っているこの呼びかけが、実は意外にむずかしいから十分練習するように、と前章で記《しる》した特訓の先生Y君に、何度も念を押されている。  とくに中年の英語不能世代の場合、戦後まもないころ一世を風靡《ふうび》したトニー谷が、ソロバン片手に絶叫した「レディース・アンド・ジェントルメン・おとっつァん・アンド・おっかさん・おコーンバンは」というあのトニーグリッシュが潜在意識下にこびりついているらしい。若い世代だったら、ドリフターズのいかりや長介が「レディース・アンド・ジェントルメン・ジス・イズ・ハヤクチコトバ」と叫ぶあの調子に影響されているかもしれない。どちらにしても、日本人がこの言葉を口にすると、発音はともかく、抑  揚《イントネイシヨン》が平板になりがちである。平ら《フラツト》になってはいけません、いいですか、こういうぐあいに、とY君が、フラダンスの踊り子が波を示すときのようにふにゃふにゃした手つきをしてみせながら、「レ」から、すっと低く「ディース」とスロープを滑降するように続けて、谷底の「アンド」から上昇して、「ジェン」で高くなったあと「トルメン」でふたたび、すっと沈むのです、と熱心に教えてくれた、あのふにゃふにゃした手つきを思いだしながら、お手本どおりに呼びかけたあとは、ハイ・サンドラ、ハイ、ジェニーと、自分でも面くらうぐらいいろんな言葉が、あとからあとからとびだして、融通無礙《ゆうずうむげ》とはこのことかと思う。 3  お酒を飲みながらカードをあやつるのは、得意中の得意である。  しかしながら、バーやクラブの客席で、ホステス諸嬢相手に見せるのは、実は好きではない。カード・マジックの流れが佳境に入って、たとえば一枚のカードが相手の手の中でパッと別のカードに変るその瞬間に、あら、イーさんいらっしゃい、などと立たれたりすると、張りつめていた糸がプツンと切れてしまう。とりだした四枚のエースを、いまから一枚ずつ君たちの目の前で消滅させていくから、よく見てなさいよ、と注意を喚起した上で、こっちは電光石火の早業に挑んでいるというのに、手元も見ないで、あ、ボーイさん灰皿かえて、なんていうのもはなはだ心外である。  灰皿をとりかえるのも、入ってきた客に気をつかうのも、それはそういう職掌なのだから仕方がないとして、彼女たちに共通していることは、落着きがなくて、カードに関心がない。それ以上に、感動がない。目の前で、どんな奇跡が生じても、えーッうッそォ、でおしまいといった気味がある。もちろん、そういう相手には、それなりの見せ方と扱い方があって、だからべつに困るということはないのだけれど、やっていて張合いがない。  カード・マジックを長くやっていると、いいお客、ふつうのお客、やりにくいお客、というタイプがはっきりわかってくる。やりやすい、やりにくい、というだけではなくて、マジックに対する感度や反応で、相手の人品骨柄はもとより、性格、知能、学歴、育ち、環境その他もろもろのことまで見えてくる。そこいらが、演じる側のひそかなたのしみである。  ごくおおざっぱにいって、男と女では、男のほうがカード・マジックに対して興味を示すようである。男性の、それもインテリと呼ばれる種族ほど熱心で、かつ疑《うたぐ》りぶかい。疑りぶかい、というのは、やりにくいお客を意味しない。むしろ、非常にいいお客である場合が多い。  そこへいくと、女性は、概して関心の度合いが薄い。あっと驚く現象を前にして、だって手品ですもん、と動じない傾向がある。どんなにすばらしいマジックも、その一と言にはかなわない。マジシャン殺すにゃ刃物はいらぬ、だって手品ですもんといえばよい。  むろん例外はいくらもあって、不可思議に対してすばらしく感度のいい女性もたくさんいる。偏見かもしれないが、わが経験則に照らすに、そのタイプは美人に多い。  タイプということでいえば、手品嫌い、手品好き、という分け方もある。さっきの、だって手品ですもんというのは、いうなれば無関心派であって、手品嫌いというわけではない。手品嫌いというのは、本質的に手品が嫌いなのである。騙《だま》されることが不愉快で耐えられない。逆に、騙されることに一種の快感を覚えるのが、手品好きである。そうして、何とかしてタネを見破ってやろうと、目を皿にして食い入るように凝視するタイプと、見破るどころか、むしろタネらしきものに気がつきたくない心理が強く働くタイプと、同じ手品好きに二つのタイプがあるようである。  手品を見せながら、それとなく相手の表情を観察したり、心理を忖度《そんたく》したりしていると、さまざまな発見があって非常におもしろい。「カード・マジックにみる観客考現学」というタイトルで、一冊本が書けそうなぐらいである。  最高のお客は天皇陛下である、という説がある。手品の観客としてとびきり上等の、いま日本でいちばん良質のお客があのお方だ、と御前公演で至芸を披露したアダチ龍光がそう証言していた。 「陛下はね、こっちが一つお目にかけるたびに、ほう、という顔をなさって、ぱーちぱーちって、こう、おっとり拍手なさるの。それで、あんた方のように、いやしくないの。どこにタネがあるのかなんて、そんな探るような目はなさらないんだから。二つに切った食パンの中から腕時計をとりだす手品で、さて、どちらのパンから出てまいりまするか、右から出しましょうか左から出しましょうか、天皇さま、どちらにいたしましょう、っていったら、パッと右手をあげて、おもむろに“みぎーィ”っておっしゃった。奇術のお客として、まず日本一のお客さまだわね」  そういえば、欧米でも、王室とか元首とか大統領といった立場にある人たちには、おしなべてマジック愛好の血が流れているようで、エリザベス女王は、かつて白皙《はくせき》のマジシャン、チャニング・ポロックの鳩の奇術をことのほか愛《め》でられたと仄聞《そくぶん》するし、ウィンストン・チャーチルは、贔屓《ひいき》のジミー・グリッポーをしばしばダウニング街十番地(首相官邸)に招いたそうだし、ホワイト・ハウスの歴代大統領も、それぞれの時代の一流マジシャンに、何かというとお座敷をかけている。レーガン大統領の就任祝賀パーティーには、いま全米で人気随一だといわれる若いマジシャン、デビッド・カッパーフィールドが呼ばれていた。  最高のお客が、やんごとない向きなのかどうか、お目にかけたことがないから、私にはわからない。  最低のお客は、ひねくれた性格の、すれからした女性に多い。ホステスがそうだ、というのでは決してないのだけれども、星の数ほどいるホステス諸嬢の中には、そのタイプが少なくないことも事実であって、だから、サンドラやジェニーやナンシーの反応に、大いに興味があった。 4 「ハイ、サンドラ」 「イエス」  にっこり笑ってふり向いたその顔に、早くも好奇心があふれていた。深いブルーの瞳が、きらきら光っている。  とりあえず、ごく簡単な“カード当て”からはじめた。サンドラが自分で切って、自分で抜いた一枚のカードを、五十二枚の中から当てようというわけである。よくシャッフルした上で、これだろう、と私は一枚のカードを差出した。クラブの4。 「オー・ノー、それではない」 「ほんと? まちがいないか」 「まちがいない。それはちがう」 「うーん、何だった? 教えてほしい」 「ハートのA《エース》よ」 「そうか、これではなかったのか」  はずれたクラブの4を手に持って、ちょっと失礼、と断りながら、見るからに重たげにせりだしているサンドラのみごとなバストに、その手を近づけても、サンドラに限らず、すべての女性がにこにこ笑って許してくれるところがカード・マジックの余慶である。二本の指でつまんだクラブの4で、こんもりとした隆起をブラウスの上から、すっとひと撫でして、そのままカードをひっくり返すと、これがハートのA《エース》に変っている。 「オー・テリブル! まさにこれだ。どうして? どうして? いまのクラブの4はどこにいったの」 「気になる?」 「なる。どこにいったの? ね、教えて」 「よろしい。ちょっと手を貸して——」  一組のカードの上に、サンドラの手を置かせてから、またしても、失   礼《エクスキユーズ・ミー》の一と言で、正々堂々とその上にこっちの手を重ねることが可能なわけで、ふっくらとしたサンドラの手の甲を、しっかりさわったまま、ここでいう科白《せりふ》はきめてある。 「これがあるから、手品はやめられない」  日本語ならこんなところだが、英語で、となるとなかなか厄介である。状況に応じて使い分けるように、二種類の言いまわしを丸暗記した。 (A)This is why I can't stop to do card magic, I can touch beautiful ladies' hands legally.(私がカード・マジックをやめられないのは、このように、合法的に美しい女性の手にさわれるからである) (B)To be frank with you, this is the very reason which has long kept me playing cards, because I think, I'm the only man here, privileged to touch, in legal manner, the soft hands of gracious ladies. (率直にいって、これが、私が長い間カードをもてあそんでいる最大の理由かもしれません。なぜかって、美人のやさしい手をきわめて合法的ににぎることができる男は、私を措いてほかにはいないからです)  サンドラには(B)を用いた。こっちのほうが長くさわれる。五百何十番にのぼった特訓カリキュラムの中でも、とくに熱心に反覆練習したのがこの件《くだり》である。努力は無ならず、われながら、うっとりするような出来栄えであった。もっとも、うっとりしっ放しでは、いつまでたっても手品が完結しない。ほどのよいところで、はいよろしい、とサンドラの手をどけて、そのまま一組のカードをリボン状にひろげると、裏をみせて等間隔に並んだ五十二枚の中に、一枚だけ表向きで、クラブの4が、ひょっこり顔をのぞかせた。  ワーオ、スプレンディッド、ビューティフル、と美女たちがいっせいに叫んだ。それぞれの表情に、感動の色さえ浮かんでいる。いいお客、ふつうのお客、やりにくいお客、というさっきの分類に従えば、断然いいお客である。美女たちの顔がいっそう美人に見えてきた、と思ったら、横からOディレクターが、スプレンディッドもいいけど、と口をさしはさんだ。 「ほらサンドラ、約束はどうした」 「オー・シュア」  微笑をたたえたサンドラの白い顔が、いきなり目の前に近づいた。  どうせ頬っぺたのあたりに、軽くチュッとくる程度だろうとたかをくくっていたら、やにわに人の顔を両手ではさんだかと思うと、むにゅ、と唇を押しつけてきた。lip to lip。濃いルージュの、ぬめりとした感触が、せっかくのお志なれども、少々気色が悪い。 「OK、ネクスト——」  ハイ、ジェニー、ハイ、ナンシー、と二人まとめて一つのマジックというやり方もある。一組のカードの中から、ジェニーが一枚おぼえる。別の一組をよく切って、ナンシーに渡す。何枚でも好きな枚数をナンシーに指定させて、その枚数目のカードを裏向きに持たせる。ワン・ツー、スリーで、二人のカードを同時にひっくり返させると、それが同じマークの同じカードという趣向のトリックである。  見せ終ったとたんに、オー・ミラクル! オー・グレート! アンビリーバブル! 「ほらほら、二人とも」  O君が促すより早く、ジェニーの赤い唇がチュッ、ナンシーの薄い唇がチュッ、ときた。やっぱり、ぬめり、としたルージュである。加うるに、外人特有の匂いが鼻をくすぐる。ご褒美のキッスは、もうたくさん。もう堪能《たんのう》した。だが、手品はまだはじまったばかりである。一回につき一個のペースで、このまま続いたら、私の唇はぬめぬめになってしまう。 「よろしい、サンジローならびにO君をはじめとする同席の男性諸君、諸君にキッスのお裾分けをしよう」  このあとは、一つ手品が終るたびに、私にするキッスを、同席の紳士たちにふりわけてもらいたい、と、これは特訓の科白《せりふ》に入っていなかったので、英語練達の社長K君に通辞の労を煩わした。 「いいわよ」  サンドラ以下美女たち全員が、笑って同意した。なんとも気のいい笑顔だった。  一つ見せたらジェニーがサンジローにチュッ、二つ見せるとナンシーがO君にチュッ、三つ終るとサンドラがK君にチュッ、というぐあいに、それから先はキッスの雨が前後左右にとびかったようである。  エドモン・ロスタンの戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』の有名なバルコニーの場面で、美女ロクサーヌと美男クリスチャンの接吻を見つめながら、血を吐く思いで呟くシラノの傍白を、辰野隆・鈴木信太郎両博士が共訳していわく。 「痛《あい》た、た、た、た! 妙に胸がちくするわい!——恨めしいぞよ接吻殿か、そこの恋慕の宴《うたげ》では俺《おり》やラザロの貧乏籤《くじ》だ!」  せっせと手品を見せるのは私で、ご褒美をもらうのは同席の諸君というのでは貧乏籤だ、というふうには思わない。せっせと見せて、せっせとキッスのお裾分けをしながら、なんだかキッスの胴元になったような気分である。  ねっとりした美女たちのキッスを、大阪のわが師Nにも、現地直送できるものなら送ってやりたいものだ、とますます酔いがまわった頭で考えながら、カードを扱う手と、特訓できたえた口だけが、勝手に動いてとまらない。 一  夜 1  パックづめの携行梅干にジャック・ダニエルというへんてこな寝  酒《ナイト・キヤツプ》をちびちびやりながら、見るともなくテレビをつけたら、インデペンデント・ネットワークという文字が映って、深夜のニュースがはじまるところだった。  ロサンゼルス近郊の公園の池で中年女性の他殺死体が発見されたというのがトップ・ニュースである。事件の概要を伝える男性キャスターの声が、いくらかうわずり気味の抑揚で聞えた。強盗強姦殺人かっぱらい何でもござれの土地柄でも、人が一人殺されるというのは、やっぱり興奮材料になるものだとみえる。  殺人事件のあとは、ストライキのニュースが三つ続いた。  全米航空管制官のストライキで国内線が全便欠航中であること。郵便ストのために各地で滞貨の山ができていること。大リーグのストが泥沼化していること。  どうやら、ストライキだらけのアメリカに来てしまったらしい。  道理で、東京からの航空便がなかなか届かないはずだと思う。とっくに出したのよ、と二、三日前の国際電話で心外そうな声をだしていた子供たちからの手紙を、ロサンゼルスで受取ることは無理だろう。もっとも、手紙といったって中身は知れたものである。どうせわが家の犬の近況か猫の近況、猫でなかったら虎の近況にきまっている。成田を飛び立った時点で、わが虎は、首位の巨人に一〇・五ゲームの差をつけられて五位に転落していた。  虎の近況なんかどうでもいい。郵便ストより、問題は大リーグ・ストのほうである。  せっかく四十日もかけて、用もないのにアメリカ中をぶらぶらするのだから、遊びついでに、本場の野球をぜひ見てこようと思っていた。懇意《こんい》な野球記者に調べてもらった大リーグの公式戦日程表と、当方の旅行スケジュールとを入念に突き合わせて、ニューヨークでは新装なったヤンキー・スタジアムで、ヒューストンでは屋根つき球場のアストロ・ドームで、いずれも滞在中に試合があることをたしかめた上で、切符の手配まですんでいるというのに、やれやれ、である。  東雲《しののめ》の、ストライキ、か。  さりとはつらいね、とぼやきながら、テレビ・キャスターの急《せ》き込むようなアナウンスに耳を傾けていると、六月十二日に突入した大リーグのストライキは、紛争点のフリーエージェント制度をめぐって、オーナー側と選手協会のあいだで歩み寄る気配がまったく見られず、公式戦再開の見通しはゼロ、このぶんでは解決まで二カ月はかかりそうだ、慢性赤字に悩むニューヨークの地下鉄は、野球客がもたらすべき何百万ドルの減収に頭をかかえている、というようなことらしい。  ジャック・ダニエルがきいたのか、梅干がきいたのか、流れるような英語のニュースがみんなわかってしまって、なんだかばかに頭がよくなったような心持である。  ニュースが終って、天気予報がはじまった。どこは晴れ、どこは晴れ、どこも晴れ、と晴ればっかりだから、やっぱりぜんぶわかってしまう。  ベッド・サイドの時計を見ると十一時半である。  たまには早寝をしようと思う。  思うそばから、早寝とは片腹痛い、と思う。夜の十一時半十二時で早寝などといいだすのは、どう考えたってまともとはいえないだろう。少なくとも、堅気の感覚ではない。でも、堅気ではないのだから、仕方がない。もともと、宵っぱりの朝寝坊では人後におちないくちで、宵っぱりもいいけれど、私の宵っぱりは、酔いっぱり、と書きたくなるようなあんばいであるからして、夜はいくらおそくても平気である。  夜はわがもの。  とはいうものの、ものには限度ということがある。ロスに第一歩を印したその晩から夜ふかしがはじまって、滞在一週間になる昨日まで、ベッドにもぐり込むのが三時四時という勤勉かつ無茶苦茶な日課が続いている。  べつに、求めて不行跡を志しているわけではない。  このホテルのステージや小ホールで毎日開催されているマジック競技大会《コンベンシヨン》とは別に、付録の特別ショーというのが夜の九時ごろからはじまって十一時ごろに終ったりする日もあるし、大会会長招聘《しようへい》のパーティーが、ホテルのスイートを会場に、午前一時から催されたりする日もあって、ハロー、ハローと握手しているだけでおそくなる。 2  公式行事がなければないで、出掛ける先にはこと欠かない。なにしろ、海外通のOディレクターと、旅馴れのサンジローがいっしょなのだから、じっとしていろというほうが無理な話なのである。  ゆうべは、Oディレクター推奨の『ベイクド・ポテト』というライブ・ハウスに出掛けて、超満員の若者たちと、ロック・ミュージックの熱気を共有してきた。  ハリウッドに向かう高速道路の最初の出口をおりてすぐの、大通りに面して建っている木造掘立小屋風のこの店が、ロサンゼルスでも人気随一の、いま評判のライブ・ハウスなんだそうで、夜の十時半ごろから車をとばして出掛けたら、看板一つ出ていない倉庫のような建物の入口から、歩道のかなりのところまで、ヒッピー風の若者たちが列を作っていた。予約を記入してある紙片をひらひらさせながら、行列の整理にあたっていた女のコをつかまえて、O君がかけあいはじめたものの、なにぶんにも大阪弁の英語だから、なかなか埓《らち》があかない。予約をしてなかったのだし、時間も時間だし、今夜はあきらめたほうがよさそうだと、サンジローと話し合っていたら、やっと交渉がまとまって、午前零時からのステージに、立見でよければ入れてやる、ということに、どうやらなったらしい。  すぐ近くの、終夜営業の店だというだだっ広いスナックで、ビールを飲みながら時間をつぶした。出てきたのは「クアース」(coors)という銘柄のビールで、なんでもロッキー山脈の地下水を使って醸造するんだそうで、ラベルに Rocky Mountain Spring Water と印刷されている。カリフォルニア州内でしか発売されていないこのビールを、アメリカ合衆国第三十七代大統領リチャード・ニクソン氏がことのほか愛好して、在任中いつもこのビールを特別機でホワイトハウスに取寄せていたという話を、スナックの女給仕が教えてくれた。それで、アメリカ旅行中行く先ざきで、あってもなくても、とりあえず「クアース二つ!」と大統領になったような鷹揚《おうよう》な口調で注文するのが、サンジローと私の暗黙の了解事項になった。ニクソン氏に肩入れする気はさらさらないけれど、ロッキー山脈の地下水だと思って飲むと、なんだかアメリカを飲み干すような心持である。おまけにカリフォルニア州内限定発売といわれると、いっそうありがたみがますようである。だから飲みだめのつもりで、サンジローと二人で、せっせと飲んでまわったというのに、ついこのあいだ、京王線千歳烏山駅前の、わが家に入っている酒屋兼たばこ屋で、ピースを買おうとして、ふっと横を見たら、さんざんありがたがった「クアース」印の缶ビールが山と積み上げてあったので、百年の恋がいっぺんにさめてしまったというのは後日の話であって、いまはライブ・ハウスの話である。  終夜スナックで「クアース」を飲みながら時間をつぶして、午前零時前に『ベイクド・ポテト』に引返してみると、またしても長い行列が歩道に並んでいた。うろうろしていたら、さっきの女のコが出てきて、OK、その四人、と予約表から目をあげて手招きをした。ワンステージ二時間。いま並んでいる連中は、次の午前二時からのぶんを待っているのだった。  板張りの床に、細長い白木のテーブルをぎゅうづめに配置してある店内は超満員で、立見客が、奥のトイレの前まであふれていた。目の子勘定で、ざっと七十人というところだろうか。鼻がつかえそうな壁面に、ところせましと貼ってあるロック歌手の写真やポスターのすきまに、色とりどりのTシャツとジーンズがぶらさげてある。  立見でよければといっていたさっきの女のコが、人波をかきわけながら現れて、椅子を二つあけたから、奥のテーブルに二人だけすわれ、といった。  失礼、と声をかけて入れ込みのテーブルにすわったものの、わーん、という店内の喧噪にそんな声はかき消されて、先客はだれもふり向かない。赤毛のヒゲ青年と、アフロヘアの黒人青年が、それぞれガールフレンドの肩をかきいだくようにして、もう一方の手で、黙々とベイクド・ポテトを食べている。ここのメニューは、店名どおり、ベイクド・ポテト(各種)だけだそうである。酒二杯つきで、カバーチャージが十ドル。東京の同種の店と比べて、高いのか安いのか、ディスコに行ったことがないので比べようがない。  平土間になっている中央の小空間で、演奏がはじまった。太い黒ぶちメガネをかけた学者タイプのドラムス、肥満巨体の黒人のベース、ヒッピー風のギター、それにオーソン・ウェルズによく似たヒゲのキイボードという編成である。  たばこを吸いながら、ビールを飲みながら、という行儀の悪い演奏ぶりの、そのお行儀の悪さが、こういう場所ではぴたりとさまになっている。むんむんする客席の熱気と手応えがプレイヤーを駆りたてるらしくて、一曲ごとに、のりにのってくる様子が、素人目にもよくわかった。  リズムはロックで、メロディ・パターンがジャズ。つまりクロスオーバーの典型で、いまふうにいえばフュージョンというやつです、とO君が耳元に顔をくっつけるようにして、大声で教えてくれたが、耳を聾《ろう》する演奏音にはばまれて、いっぺんでは聞きとれない。 「……つまりクロスオーバーの典……」 「えッ、なんだって」 「ク、ロ、ス」 「うん」 「ああ、クロスオーバーね」  クロスオーバーって何だい、と訊くためにはまた大声を出さなくてはならない。そのまた返事を聞きとるのに一層のエネルギーを要する。面倒だから、わかったような顔をしておいた。  のりまくったミュージシャン四人が、リズム感を全身であらわしながら、かわるがわるアドリブの応酬を繰返すもんだから、一曲の演奏が、えんえん果てしもない。  思考停止の状態で、音の洪水に身をゆだねているうちに、だんだんいい気持になってきた。はじめは耳障りだった大音響が、肉体組織のすみずみにまで行きわたるころには、ある種の恍惚《こうこつ》感さえ生じてきて、クロスオーバーだかフュージョンだか知らないけれど、こういう音響もいいものだ、と素直に思った。  とりわけ、ベースのふとった黒人がからだ中から発散させている天性のリズム感と、オーソン・ウェルズ風のキイボードから流れ出る千変万化の音色がたいそうみごとだったので、帰りぎわに名前を教えてもらった。 (ベース)ポップス・ポップウェル (キイボード)グレイ・マシューソン  この世界にくわしい人、だれか知ってるかしらん。 3  まっすぐホテルに戻ったものの、『ベイクド・ポテト』の音と熱気のほとぼりがさめなくて、すぐには寝られない。ひとまずO君の部屋に集って、カップヌードルをすすっているうちに、気がついたら三時半である。O君が責任を感じたような口ぶりでいいだした。 「すみません、毎晩おそくまでひっぱりまわして」  とんでもない、おかげでたのしいよ、と答えるより先に、サンジローがにやりと笑って、しかし先生もタフですねえ、といった。屈強が洋服を着たような男にそういわれると、なんだかこそばゆい。シュツランノホマレという言葉が、ちらりと脳裡をかすめた。  マジック・ツアーの引率役で、合流後ずっと行をともにしているTさんが、O君と顔を見合わせて、何かいっている。 「夜ふかしはする、大酒は飲む……」 「うちのスタッフ、おたくのツアー・グループ、全部あわせたなかで最年長でしょ」 「いちばん年寄りがいちばん……」  まったくうかつなことに、いまのいままで気がつかなかった。  十人以上のグループや団体でどこかに出掛ければ、自分より年嵩《としかさ》、つまり目上の人が、いつだって必ずいるもの、という固定観念が抜けなかったし、事実、これまでずっとそうだった。不意に現実に直面すると、どぎまぎしてしまう。  そういえば、アメリカに着いて以来、みんなずいぶん親切だと思った。車に乗るときでも、レストランに入ったときでも、さっきの『ベイクド・ポテト』でも、まず席を譲られた。親切はありがたいが、いたわられていたのかと思うといまいましい。  いたわられるような年には、まだまだ、ほど遠い。みんなより、ほんの少々年長というだけである。幼稚園だって、一歳ちがえば「年長ぐみ」ではないか。 「そりゃ、ま、そうですけど、でも——」  でも長幼序あり、といいますから、とO君が古風なことを口にしたところで、カップヌードルの宴《うたげ》はおひらきになった。  ——ゆうべのそんなやりとりを思いだしながら、やっぱり今夜ぐらい早寝をしておこうか、とテレビのスイッチを切ったとたんに、電話が鳴って、出てみるとサンジローである。 「もうおやすみですか」 「うんそろそろ寝ようかと思ってたところなんだ。きみは?」 「いま下のバーにいるんです。ええ、Oさんもいます。よかったら、ちょっといらっしゃいませんか」 「うーん、せっかくだが今夜は……」 「やめときますか?」 「うん、失礼するよ」 「わかりました。でも、あの、ほら、ナンとかっていうアメリカのマジシャンもいっしょなんですけど」 「だれ?」 「ほら、例の『ニューズ・ウィーク』のおっさん——」 「ああ、ジェラルド・コスキー」 「そうですそうです」  あれは、競技会《コンベンシヨン》前夜のことだったと記憶する。世界各国から集ったマジシャンたちの交歓風景をインサート・ショットに使いたいというOディレクターの注文で、ホテルのロビーに主だったメンバーがそろった。名前だけは私でも知っている錚々《そうそう》たる顔ぶれである。  マジック・キャッスルのオーナーであるビル・ラーセン夫妻、二十五年前の映画『ヨーロッパの夜』で衝撃的な鳩の妙技を見せたチャニング・トロック、浮遊するバイオリンで知られるノーム・ニールセン、掏摸《すり》の真髄を芸に昇華させたフランスのマジャックス、この夏スイスでの開催がきまっている三年に一度の世界大会の実行委員長モーリス・ピエール、おそろしく派手な竜 の 手 品《ドラゴン・イリユージヨン》で、日本よりもむしろアメリカで有名なシマダ……ほかにも、まだたくさんいたようである。  マジシャン交歓のその場面に、案内役みたいなことで私もちょっと顔を出すことになって、Oディレクターが、私のことを「マジシャンではなくて、日本のもの書き《ライター》だ」と紹介してくれた。ひょっとすると famous というひとことが入っていたかもしれないが、そんなものは、言葉のあやというものであって、その程度のはったりは国際慣行の範囲内だろう。そうしたら、すぐとなりにいた白髪の老紳士が名刺をくれて、ジェラルド・コスキーだ、といって握手の手をさしのべてきたので、あわてて私も名刺をとりだした。名前と住所をローマ字で印刷してあるだけの私の名刺をにらんで、コスキー老がうれしそうに叫んだ。 「おまえの名前は知っている」 「?」 「こないだ『タイム』で読んだばかりだ」 「それは何かのまちがいだ。『タイム』だなんて、そんな——」 「じゃ『ニューズ・ウィーク』だ。うん、『ニューズ・ウィーク』で、たしかに読んだ」  どっちも大まちがい、冗談《ジヨーク》がきついよ、という意味合いの英作文を頭の中で組立てているすきに、ロスキー老がマジシャン仲間のだれかれかまわずつかまえて、おい、この男は『ニューズ・ウィーク』に出ていた日本の有名なライターだ、わしは読んだのだ、と触れまわりはじめたのには閉口した。一度ははっきり否定したのだし、イエス、といわなければ経歴詐称にはなるまいと思って、そのままほっといたら、彼らはいまでも、私のことをエライ大作家だと思い込んでいるかもしれない。思い込むのは、先方の勝手である。  競技会《コンベンシヨン》の合い間に、小ホールの特設コーナーで随時催されるテーブル・マジックの集いの、何日目だったかにコスキー老も出演していた。  おそらく八十に手がとどくのではないかと思われる白髪、赭《あか》ら顔の老が、紺のブレザーに赤のアスコット・タイという小意気な服装に痩躯を包んで、ビロードばりの円卓の前に、ぴたりと着座すると、それだけで絵になるようだった。 「クロースアップ」と呼ばれるこの部門のマジックは、こまかな指先の妙技が眼目であって、手元が見えなければなんにもならない。そのために、テニスの観客席のような急傾斜のスタンドが、鉄パイプで特設されている。  円卓を谷底にするような形で見おろすその観覧席のなかから、まだ十代にちがいない少女二人をえらんで、コスキー老は円卓の両側にすわらせた。むろん、さくら《ヽヽヽ》ではなくて、実験でいえば被験者にあたる、あくまでお客さんである。同じことなら美人に限る、と私だって手品をするときにはいつもそう思って、ぬかりなく目を配っている。老のえらんだ二人は、少女から女に移行する寸前の、はっとするような美人だった。老の審美眼、なかなかのものである。  美少女二人を相手に、コスキー老は、財布からとりだした五個のダイアモンドを、つぎつぎに消滅させたり、出現させたりする手品からはじめた。あざやかなのだけれども、どうしても手の顫《ふる》えが目についてしまう。次に見せた四枚のエースを使ったカード手品でも、そのあとのコインの手品でも、いたいたしいほど手が顫えていた。だから、芸として失敗かというと、それが全然そうではなくて、美少女二人の心理を自由自在にあやつりながら、全部のお客の興味を卓上に集中させる技術が抜群なのである。年輪から生じる雰囲気が、老いをカバーして余りあった。  見せ終ったあとで、私と目が合ったとたんに、ひどくなつかしそうにやってきて、自分のトリックをいくつか教えてやるから、いずれ一杯やろうではないか、というようなことを早口でまくしたてた。  のちの話になるけれど、四十日間の旅行を了《お》えて帰国したら、先まわりして、コスキー老からの航空郵便が待ち受けていた。披《ひら》いてみると、きれいなタイプライター文字で、会えてよかった、またぜひ遊びにきてほしい、という趣旨のことが書いてあった。『ニューズ・ウィーク』でカンちがいしたまま、どうもカンちがいしっぱなしみたいだ。 「それでですね」  サンジローの声が受話器ごしに聞えた。 「そのジェラルド・コスキーが、よかったら、いまからカード・マジックを見せよう、といってるんです」 「すぐ行く」 4  実際、われながら現金だと思う。  こう現金だと、サンジローやO君が相手では飲む気になれない、と江國のやつは考えているのではないかと、サンジローとO君が考えたりするんじゃないか、などとよけいなことまで気にかかる。そういうわけではないのだよ、カード・マジックと聞いたら、それだけで血がさわいで、じっとしていられなくなるだけであって、これはもう病気だと思ってくれ給え、と胸の底で二人に呼びかけながら、大急ぎで身仕度をととのえて、十一階何号室だかの部屋をとびだした。  なかなかエレベーターがこない。  昇降表示のランプを見つめながら、ぼんやり考える。  エレベーターの乗り降りは女性 優先《レデイ・フアースト》たるべきこと、だとか、エレベーターに乗ったら、男性たるものすべからく帽子をとること、というような教えはかねて聞くところだけれども、乗ったらどっちを向かなくてはいけない、というルールは、ついぞ聞いたことがない。だから、どう乗っていたってよさそうなものなのに、乗り込んだとたんに、十人が十人、くるりとまわれ右をして、必ず扉に向かって立つのはどうしてだろう。すっ、と乗り込んで、突き当りの壁面をにらんだままで、のぼったり、くだったりする人間を、私は一度も見たことがない。あれは、人間の習性なのか、エレベーターの特性なのか。  扉に背中を向けたままでは、目的階のボタンを押すことができないし、いま、どの階を通過しているのかがわからないし、それに、四角い箱の一面にしか扉がない以上、最終的にはそこから出ていくしかないわけで、どうせいつかはまわれ右をするのだから、はじめにまわっておいたほうが世話なしだ、といったような実際的な理由もさることながら、何よりも、密室空間ゆえの息苦しさ、もしくは潜在的恐怖心から、人は、エレベーターに乗るが早いか、まわれ右をするのかもしれない。  ちん、という小さな音がして、目の前の黒い扉が、左右にひらいた。  先客が一人乗っていた。  こういう状態で、ペラペラっとこられては厄介きわまりない。ノー・スピーキングというつもりで、ノー・スモーキングと口走ってしまった阿佐田哲也の先例もあることだし、それより何より、エレベーターの慣性で、くるりと私もまわれ右をしたとたん、背中で、低い声がした。 「手をあげろ」 続 ・ 一 夜 1  低い、囁くようなその声は「ホールド・アップ」ではなくて、Put up Your hand! というふうに私の耳には聞えた。訳せばやっぱり「手をあげろ」だろう。  一時に血が引く思いである。  手をあげたくても、その手がぴくとも動かない。全身が硬直している。不動金縛り。  静かに下降を開始したエレベーターの扉の内側をにらんだまま、声が出ない。ふり向く勇気はさらにない。  ハードボイルドの世界では、恐怖の極点で人は必ず失禁することになっているようだけれど、あれはちょっとワンパターンにすぎやしないか。こういう状況に置かれた人間の、みんながみんな、ちょろりとチビるものだと決めてかかるのは、失礼ながら、想像力の貧困というものである。もちろん、失禁する人も、なかにはいるだろうし、それが楚々《そそ》たる美人だったりしたら、そりゃ、ま、失禁風情あり、という見方だってできないことはないわけだが、いい年をした私がチビったって、劇画にもならない。  いまのいままで自室で飲んでいたジャック・ダニエルと、夕食時に飲んだカリフォルニア・ワインと、そのあとでサンジローと飲んだ例の「クアース」印のビールのおかげで、失禁の条件は申し分なくととのっていたのだけれども、憚《はばか》りながら江國滋、まだそれほど蛇口はゆるんでいない。  だから失禁こそしなかったものの、手をあげろという背後の声を聞いた瞬間、口から心臓がとびだしそうになって、頭の中がからっぽになって、エレベーターの中の空気が急に薄くなったような気がした。  加速がついた高速エレベーターの、すーっ、と奈落に向かっているような落下の感覚をからだの芯で受けとめながら、血が凍りつくような恐怖感とは別に、うーん、やっぱり、という納得《なつとく》に近い無念の思いが、からっぽになった頭のすみを、ちらとかすめた。  アメリカの治安の悪さについては、耳にたこ、目にものもらいができるほど、聞いてもいるし、読んでもいる。新聞の外電や特派員報告、テレビのドキュメンタリー番組、雑誌や単行本のルポルタージュ、さらには各種の旅行案内から、アメリカの事情に通じている友人知己の話まで、おびただしい量にのぼる情報のことごとくが、アメリカは犯罪の坩堝《るつぼ》で、無警察状態寸前で、危険がいっぱいだ、と警告している。治安が悪いのではない、治安はないのだ、と考えたほうが、どうやら早道のようである。  わけてもニューヨークとロサンゼルスは、二大犯罪都市として別格らしい。身の毛のよだつような事例や数字が、いくらでも報告されている。  たとえば、立花隆氏の克明なレポート「ニューヨーク'81」(「くりま」昭和五十六年春季号)には、前年の八月ぶん、つまり一カ月間にしぼったニューヨークの犯罪統計が紹介されていた。 殺人     一七七件 強姦     三七七件 強盗   九、八〇四件 暴行傷害 四、六二三件 窃盗  五二、二九五件  繰返すが、これ、月間の数字なのである。しかも、統計に出てこない犯罪がこのほかにもたくさんあって、とくに窃盗の数字なんかは「まるであてにならない」と断った上で、立花さんはいう。 「毎日六人が殺され、十二人が強姦され、三百二十六人が強盗に会い、約千七百人が泥棒に会うわけだ。格段に多いのが強盗である。日本全国で一年間に起きる強盗は約二千件だから、ニューヨークでは、一カ月間に日本全体の五年分の強盗事件が起るということなのだ」  傷害七件を含む六件の殺人で「禁錮三百十五年」の刑を言渡されて服役中の連続射殺魔“サムの息子”ことデービッド・バーコウィッツの犯行の跡をたどりながら、アメリカに根づいた犯罪の病根をするどく指摘している斎藤充功氏のルポルタージュ「あなたは明日殺される」(昭和五十四年・山手書房刊)にも、似たような数字が出ていた。  ニューヨークでは、一年間に千二百八十四人が殺され、三千八十二人の女性が強姦され、八万六千二百件の強盗が跋扈《ばつこ》し、一時間に一〇・四件の割合で凶悪事件が発生しているというのである。  こっちは年間の統計で、だから三百六十五で割ってみたら、あれ、立花レポートの数字とちがうじゃないか、などというものではない。斎藤レポートの数字は一九七六年度の統計であって、立花レポートより四年も前の話である。四年ちがえば数字もちがう。  数字ついでに、もう一つ。 “走る犯罪ベルト”として悪名かくれもないニューヨーク市営地下鉄路線の、のべ距離は千百キロ。一日の乗降客三百五十万人。地下鉄全線を守る専従 警官《トランジツト・ポリス》が二千三百人。三百五十万対二千三百では勝負にならない。激増する車内犯罪にたまりかねて生まれたのが、「ガーディアン・エンジェルス」と名乗る私設パトロール隊である。元チンピラ、元ギャング、元かっぱらい、というような素性の若者十三人でスタートして、二年後に七百人にふくれ上ったその自衛組織の全容を、カメラと文章で詳細に伝える野火重本氏のフォト・ルポルタージュ「ニューヨーク・アナキー」(「アサヒグラフ」昭和五十六年八月七日号)によれば、地下鉄内の犯罪だけで、年間、次のとおり。 殺人   二〇件以上 強姦     二三件 器物破損  二〇〇件 暴行    六〇〇件  これだって、たぶん内輪内輪の数字にちがいない。地下鉄につきものの「痴漢」が入っていないのは、そんなまどろっこしいことより、やるなら「強姦」ということなのか、さもなければ、痴漢行為などというものは犯罪のうちに数えないのか、どっちかだろう。  こんな乗り物に、諸君、乗れるか。 2  話は前後するけれど、ロスに着いて三日目に、実をいうと、軽微な被害がすでに発生ずみだった。  Oディレクター麾下《きか》のテレビ・クルーと合流して、サンジローともども、その日は夜おそくからマジック・キャッスルの下見に出掛けた。  テレビの海外取材チームというのはみんなそうなのか、それとも、勇将のもと弱卒なし、O君のチームが特別なのか、彼らは実によく働く。タフネスが洋服を着たようなあのサンジローが、おしまいのころにはほとほと感心して、ひそかに「働きバチ軍団」と命名したぐらいである。ハリウッドの小高い丘の中腹にあるマジック・キャッスルは、夜中の二時三時まで賑わう社交場だから、下見といっても簡単にはすまない。それでその間《かん》、私は何をしていればいいかというと、小ホールやサロンで好きなマジックを見たり、いくつもあるバー・コーナーのはしごをしたりしていればいいのだから、働きバチに悪くて、申訳なくて、だからお酒を控えるかというと、それはそういうわけにはいかない。手品も好きだが、お酒はもっと好きである。悪いなあ、すまないなあ、と心の中でいくら手を合わせていても、飲めば、いい気持になる。  いい気持になってホテルに戻ったら、技術スタッフのチーフAさんの部屋が荒らされていた。スーツケースのカギがこじあけられていて、底のほうに忍ばせてあったAさんのお小遣いが、そっくりなくなっている。  お酒を飲んでいい気持になって帰ったやつが無事で、まじめに働いてへとへとになって帰ったやつが災厄に見舞われるというところが不条理である。ますますもって申訳ない。さっそくOディレクターと相談の上、一人何ドルという救援カンパを呼びかけることにして、罪滅しに、率先、何口分かを醵金《きよきん》したものの、申訳なさはまだ消えない。酒飲みの劣等感。  軽微な被害、と書いたけれど、Aさんの身になってみれば、軽微どころではない。海外旅行のわずか三日目で有り金そっくりイカれてごらん、だれだって世をはかなみたくなるにきまっている。だから、Aさんにとっては大事件。しかしながら、犯罪都市ロサンゼルスにあっては、事件の名にも価しない。殺されることを思えば、軽微も軽微、命あってのものだねさ、とAさんを慰めて、やっと気がすんだ。  実際、命あってのものだねである。  ロサンゼルスと、サンフランシスコで、日本人観光客がたて続けに強盗に撃たれて重傷を負った事件は、まだ記憶に新しい。とくに、ロスの被害者である若い奥さんが、植物人間になって米軍特別機で帰国するシーンは、テレビ各局が競って報じたとおりである。事件当時二十八歳だったこの女性は、最後まで意識が戻らないまま、結局三百七十七日目に亡くなった。  去年の大《おお》晦日《みそか》付けの毎日新聞は〈年の瀬NYは犯罪ラッシュ〉という見出しを掲げて、次のような外電を報じている。  ニューヨーク市警の発表によると、十二月二十八日の一日だけで、七件の殺人事件と十数件の重傷事件が発生しているほか、二十四日から二十七日までの八十時間に、ニューヨーク市内だけで二十三人、すなわち三時間半に一人の市民が殺された。  そのニューヨーク市警管内では、殺人、強盗、強姦などの凶悪犯罪で逮捕された容疑者の百人中、実に九十九人までが軽犯罪なみの処理で刑務所入りを免れている、という信じがたい数字が、大晦日の外電のあとを追うようにして同じ紙面(一月五日付け毎日夕刊)に紹介されていた。  まだある。  ニューヨーク市マンハッタン区の駐車場で、誘拐された女性を助けようとしたCBSテレビの、日系人クラヌキさんを含む技術者三人が射殺され、その女性も翌日死体で発見された事件は、ついこのあいだの各紙(四月十四日付け夕刊)がいっせいに大きく報じていたとおりだし、ふえる一方の強姦事件に手を焼いているロサンゼルスでは、ピストルの弾やナイフの刃をとおさない特殊素材の「レイプ防止ジャケット」が売り出されて、女性のあいだで飛ぶような売れ行きをみせている、というニュースと、同じくレイプ防止の自衛手段として、「メイス」と呼ばれる毒ガス入りペンダントがニューヨークで大流行しているという話題を、それぞれ外電で読んだばかりである。  すきっ腹をかかえて、おんぼろラジオにかじりつきながら、子供心にもうっとりとした『アメリカ便り』から三十六年、あのバラ色の天国はどこへいったのか。 3  手をあげろ、といわれたエレベーターの中で、これだけのことを一瞬のうちに考えたりしたわけでは、もちろんない。だいいち、帰国後の新聞を、出発前に読むことは絶対にできない。以上のようなおそろしい事件や数字を知る前の話で、だから私に油断があったのかというと、そんなわけでもない。  英語の特訓をしてくれた例のY君と、そのY君を紹介してくれた私の後輩S君の二人から、アメリカのこわさについては、みっちり聞かされていた。  ニューヨーク駐在の某大手商社マンの若い奥さんが、白昼誘拐されて、さんざん輪姦されたあげく、翌日、セントラル・パークで、すっ裸で発見された。命にこそ別条はなかったものの、若奥さんはそれっきり精神に異常をきたして、いまに至っている。この話は、ニューヨークの日本人界で、知らぬ者がないほど有名な事件なのです、とか、駐在員時代に、日本からやってくるお客を相手に、わたしら、ニューヨークやロスの犯罪事情だけで、まるまる二日は話をつなぐことができたぐらいです、とか、会えば必ずそういう話になった。 「でもまあ、こんなことをいくらお話ししたって」 「そうそう、やられるときはやられるんですから——」  こればっかりは運否天賦《うんぷてんぷ》ですよ、とY君もS君も同じことをいう。慰めているのか、励ましているのか、それとも早手まわしに引導を渡しているのか、そのへんがよくわからない。親身のような、他人事《ひとごと》のような、どっちともとれる口調で、二人がいった。 「せめて、次の三つだけは守って下さい」  一つ、トランクにカギをかけないこと。かけたって、どうせこじあけられてしまうのだから、かけるだけムダだし、こわされるだけばかばかしい。  一つ、ポケットに、ホールド・アップ用のお金を入れておくこと。五ドル札か十ドル札でたくさん。ただし、自分で取り出さないこと。うっかりポケットに手をいれかけたりすると、拳銃かと思われて、ズドンとやられるおそれがある。必ず、相手の手でポケットをさぐらせること。  一つ、見知らぬ男と二人だけで、決してエレベーターに——  あッ、と思いだしても、もう遅い。  俺はどうしてこうなんだろう、とつくづく思う。気をつけろ、気をつけろ、とあれだけ注意されていて、自分でも人一倍用心深くふるまっていて、それでなおかつ、こういう破目におちいるというのは、どこかに欠陥があるからだろうか。  いや、そうは思わない。 「私は断じて悧口ではないと自分でも思うものであるけれども、だからといって魯鈍《ろどん》でもないつもりである。それに性格的なことをいえば、自分でいうのも気がひけるけれど、まあ人並み以上に慎重タイプである。慎重にして細心、細心にして臆病。こういうタイプの人間は、同時にまた人一倍みえっぱりの種族であって、したがって、外聞の悪さということを極度におそれるのである。外国でスリにやられて大使館に泣きついたり、紅毛警官の前で黄色い顔を青くしたりすることぐらい外聞の悪いものはない。あの真似だけはまっぴらごめんだと思うから、必然的に警戒心が旺盛になり、ガードがますます固くなる。実際、今度の旅行中のわがガードの固さは、われながらいやらしいと思うぐらいの固さで、(略)いつだって注意のしっぱなしで、ために少々目つきが悪くなったようである」(拙著『旅はプリズム』より)  という文章を草したのは、ローマで泥棒にやられた五年前の秋である。  イタリアでは泥棒に気をつけろ、とくにミラノとローマとナポリは泥棒天国、人を見たら泥棒と思えばまちがいない、と出発前に、会う人ごとに注意されて、自分でもがちがちに注意して、それで、命より大事な東独滞在中の取材ノートとスケッチブックを入れていたショルダーバッグを、まんまと盗まれてしまった話は、拙著の中ですでに詳述ずみだし、二度と思いだしたくもない。とにかく、人一倍慎重で細心で臆病な私が、注意に注意を重ねたあげくやられてしまったのである。  苦手の打者に対して、このコースにだけは死んでも投げてはいけないという一点をわかっていながら、すーっ、と吸い込まれるようにそこに投げてしまうピッチャーの心理は、こんなものかもしれない。  気をつけろ気をつけろといわれて、それで警戒すればするほどテキの術中におちいるというところは、手品にもちょっと似ている。  理屈をこねれば、どうにでもいえるわけだけれども、それもこれもあとの理屈で、エレベーターの内側にへばりついて、からっぽになった頭で、そんなことを考えたりするわけがない。  話は、一刹那《せつな》。  うーん、やっぱり、という無念の思いが、ちらとかすめた次の瞬間、背中で、もう一度声がした。 「はい、手を のせて」《プツト・ユア・ハンド・ヒア》  手 を あげろ《プツト・アツプ・ユア・ハンド》、ではなかった。  ふり向いたら、人のよさそうな太った中年のおっさんが、トランプを突きつけて、俺のカード・トリックを、見てくれ、見てくれ、といった。 4  見てくれ、見てくれ、はいいけれど、降下中のエレベーターの中である。いくら高層ホテルだといっても、ほんの数秒間の密室空間ではないか。なにもこんなところで見せることはないのに、と思うこちらの胸中なんかはまったく意に介さぬふうに、差し出した私の手を使って、一枚のカードを別のカードに変えてみせたとたんに、エレベーターが一階に着地して、するすると扉がひらいた。 「このやり方、いいだろ? 今度おしえるよ」  じゃァな、と言い残して、太ったおっさんは、さっさとどこかへ行ってしまった。  半袖の赤い開襟シャツの胸に、マジック競技会《コンベンシヨン》の参加証を兼ねた名  札《ネーム・プレート》をつけていたが、小さなタイプライター活字で記《しる》されている名前までは読み取れなかった。同じ名  札《ネーム・プレート》を、私も胸につけている。  世界中からマジシャンが参加する競技会《コンベンシヨン》にもいろいろあって、それぞれ略号で呼ばれている。主だった大会は次のとおり。 ▼PCAM Pacific Coast Amateur Magicians の略。太平洋沿岸のアマチュア・マジシャンを中心にした競技会。有名なプロも、多数客演する。 ▼SAM Society of American Magicians の略。全米マジシャン協会の競技会。伝統がある。 ▼IBM International Brotherhood Magicians の略。世界マジシャン・クラブの競技会。各部門のグランプリには賞金が出る。 ▼FISM フィズムの名で通っている。Federation Internationale des Societes Magiques の略。 三年に一度ヨーロッパで開催されるマジックのオリンピック。賞金は出ないが、いちばん権威のある大会。開催地は立候補制で、前回はブリュッセル。この夏、ローザンヌで第十五回大会が開かれる。  ロサンゼルスのこのホテルで、私が胸につけているのはPCAMの参加証である。アマチュア主体の大会だから、さっきの太ったおっさんも、きっとマジックの魅力に、首までどっぷりつかっている口だろう。  エレベーターの中でまで見せたがるおっさんもおっさんだが、こんな時間に、カード見たさにのこのこおりてゆく自分も自分だ、と苦笑しながらバーの扉を押したとたんに、おぼえのある声がした。 「はーい、シゲ、待っていたぞ」  おまえの名前は『タイム』で見たぞ、いや『ニューズ・ウィーク』だ、うん『ニューズ・ウィーク』でたしかに見た、と勝手にカンちがいをして、そのままカンちがいしっぱなしのジェラルド・コスキー老が、ばかになれなれしく呼びかけながら、さあ見せてやろう、とポケットからカードを取り出した。サンジローとO君が、水割りのグラスをかかげて、ご苦労さまです、ご老体がお待ちかねですよ、と笑いながら日本語でいった。  これも覚えろ、あれも覚えろ、とコスキー老は一時間近くも熱心に教えてくれた。親切は身にしみたが、役にたちそうなものは、二つぐらいしかなかった。それはそういうものなのである。カード・マジックには、人それぞれのタイプがあって、どんなにすぐれたトリックでも、自分の型に合わなければ、活用しにくいのである。無理に覚えても、じきに忘れてしまう。あれもこれもと欲ばると、結局あぶはちとらずに終ることが多い。自分のタイプではないと思うぶんは、はじめから捨ててかかることが、カード・マジック修得の一つのこつである。役立ちそうな二つは、いずれも、それを使って手品を組立てるための基本技法であって、ここに書くわけにはいかないし、書いてもおもしろいものではない。 「それでは、わしはお先に失礼する」  教えるだけ教えると、コスキー老は、いかにも満足げに赭《あか》ら顔をほころばせて、ゆっくりとした足どりで去った。派手なチェックの替え上衣に、濃紺のスラックスという相変らずダンディな装いの背中に、老いと、孤独がにじみ出ていた。その後姿に目を向けたままサンジローがいった。 「あの人は、さびしいのかもしれませんね」 「そうだね。それでむやみに教えたがるのかもしれない」  年老いたプロのマジシャンは、不思議に、みんな孤影を曳《ひ》きずっているような気がする。ダイ・バーノンもそうだし、チャニング・ポロックもそうだった。ニューヨークで会った八十一歳のトニー・スライディーニもそうだった。ラスベガスのホテルで妙技を見せていた八十九歳の現役ジミー・グリッポーは、表情も明るくて矍鑠《かくしやく》としていたけれど、陽気にふるまえばふるまうほど、その顔と背中に、いいようのないさびしさがにじみ出ていた。  これは、ことによるとプロだけに共通する色彩かもしれない。アマチュア・マジシャンに、この翳《かげ》りはない。 「どれ、俺たちもぼつぼつ引揚げようか」 「そうしましょう」 「すみません、今夜もまた夜ふかしさせちゃって……」 「いや、たのしかったよ」  時計を見ると、午前一時半である。さっきの太ったおっさんは、もう部屋に帰っただろうか、と思いながら廊下を出たら、エレベーター・ホールとは反対側のフロントのあたりがばかに賑やかである。 「なんだろう」 「のぞいてみましょうか」  エレベーターの前を通り越して、太い柱をフロントのほうにまわり込んだとたんに、異様な光景が目にとび込んできた。  ひろびろとしたフロント・ロビーの絨毯《じゆうたん》の上にあぐらをかいたり、足を投げ出したり、横ずわりになったり、思い思いの姿勢で十人近い若者たちが車座になって、たがいにカード手品を見せ合っていた。見せっこだけではなくて、どうやら褒めっこもしているとみえて、すばらしい《ビユーテイフル》、最高だ《エクセレント》、信じられない《アンビリーバブル》、などという言葉がとびかっている。  Tシャツにジーンズという軽装の若者たちにまじって、見たシャツがいるな、と思ったら、例のおっさんだった。見てくれ見てくれ、とエレベーターの中で迫ったのと同じ調子で、若者相手にカードを引かせている。横顔しか見えないその表情が、いかにもうれしげである。太い二本の指でつまんだクラブのA《エース》が、空気中でふわっと消え、同じ指にダイヤのA《エース》が出現した。その指先を、くいいるように見つめていた十五、六の赤毛の少年が、ウァオウ、と叫んでのけぞった拍子に、少年の白いTシャツの胸に、赤でプリントされた文字がのぞいた。  Magic is my LIFE  反射的に、刺青《いれずみ》の文句が思いだされた。  うーン、手品いのち、か、と思ったら急におかしくなった。  競技会《コンベンシヨン》の閉幕が明日に迫って、だからすこしでも長く友情を深めようとしているのだろう。得意のテクニックを、つぎからつぎへと見せ合う彼らのうれしそうな顔色から察するに、ロビーの車座は明け方まで続きそうである。  憑《つ》かれし人びとよ、と思うそばから、そういうお前はどうなんだ、と思う。仕事ほっぽり出して。トランプ見たさに。アメリカくんだりまで。のこのこ……。 まだ沈まずや定遠は 1  流れるように波をうつみごとな金髪のぐあいといい、濡れ濡れとしたルージュの口元の色気といい、顔立ちから物腰まで、どことなくマリリン・モンローに似ているアイリーンが、カウンターの止り木に並んで腰をおろしたとたんに、満面に笑みをたたえて、私のことを褒《ほ》めはじめた。  それも尋常一様の褒め方ではない。口をきわめて、というふうなのである。  ミスター・シゲ。  さっき向うのテーブルを見せていたシゲのカード・マジックはすばらしかった。あざやかで、意外性にとんでいる。テクニックにも感心したが、演 じ 方《パーフオーマンス》が洗練されているのにはもっと感心した。しゃべり方がうまい。英語をどこでマスターしたのだ。あれで一夜づけの特訓だなんて、信じられない。ほとんど完 璧《パーフエクト》である。  なんぼなんでもあんまりである。アメリカ人が、いくら社交辞令にたけているといったって、ものにはほどというものがある。  おだてすぎの、褒めすぎ。「過褒」という言葉が日本にも昔からあるけれど、過褒も、こう手放しだとお尻のあたりがむずむずしてくる。 「ノー、ノー、完 璧《パーフエクト》だなんてとんでもない。自分の英語は典型的な破 れ 英 語《ブロークン・イングリツシユ》で、鳩ぽっぽ英語《ピジヨン・イングリツシユ》である。聞けばわかるじゃないか」 「オゥ・ノー、どうしてそんなに卑下する必要があろうか。シゲの英語は模範的である」  これはもう、お世辞の形を藉《か》りた皮肉以外の何物でもない、というのは素面《しらふ》のときに感じることで、何時間も前から飲みつづけて、すっかりデキあがっているいまは、おだてすぎの、褒めすぎだ、と思うそばから、頬の肉がだらしなくゆるんでくるのが、自分でもよくわかる。モンロー似の美人に、そうまでいわれて頬の肉がゆるまない男がいたら、お目にかかりたい。健全健康なる一個の男性であれば、頬の肉より、鼻の下の肉がゆるんでいたってすこしもおかしくはない。  睡眠学習法まで総動員してがんばった英語特訓の、粒々辛苦の甲斐が、いくらかはあったらしいことも、もちろんうれしくないことはないわけだけれども、そんなことより何よりも、これだけのめり込んだカード・マジックを褒めてもらったことが、無条件でうれしい。  私のカード・マジックは相当にうまい。だから、人に見せればたいてい褒めてくれる。日本にいるときから褒められつけている。いい加減で馴れてもよさそうなものなのに、褒められれば褒められるほどうれしくてたまらないところが、われながらあさましい限りである。何度でも、だれにでも、褒められたい。  私が仲人をした某誌編集者のY君夫妻が、今年のお正月に四つになる坊やを連れてきたので、どこまでくいついてくるものかという実験的興味もあって、お子さまランチ風から、かなり高度なトリックまで、あれこれとりまぜて小一時間ばかりサービスしたら、この坊やがまたたいそう悧発《りはつ》な子で、大きな、澄んだ目をくりくりさせながら、ちゃんとカード・マジックの核心に迫ってきたのには一驚を禁じ得なかった。おそらくはIQいくつ、というようなその坊やが、あれ以来、カード・マジックのとりこになって、ついこのあいだも、出勤前のY君が、きょうは江國のところに寄って原稿を受取ってから会社に出る、と奥さんに告げた一と言を聞きつけて、江國のおじちゃんちにボクもいくゥ、とだだをこねて、しまいにボロボロ涙をこぼしたという話を、あとから聞かされて、話だけでもわくわくした。  四つの坊やの反応でさえ、こんなにうれしい。ましてや、モンロー美人に褒められるのは百倍もうれしいかというと、それがそういうものではないのであって、気どるわけではないけれど、ことカード・マジックに限って、四歳の童子に好かれるのも、美人に褒められるのも、うれしさの質ということからすれば、まったく等価値なのである。  ただし、アイリーンは違う。アイリーンだけは別格である。  アイリーン、アイリーンと、ばかに狎《な》れ狎れしく書いてはいるけれど、それはそう呼べと先様《さきさま》がいうから、滞在中そう呼んでいただけで、正式にはイレーネ・ラーセン。何をかくそう、世界中のマジシャンたちのあいだで聖地《メツカ》と目されている、ロサンゼルスのここ「マジック・キャッスル」の社長夫人である。  モンロー美人にかしずかれているのか、かしずいているのか、そんなことは知ったことではないけれど、そのモンロー美人を生涯の伴侶としているオーナーのビル・ラーセン氏は、よく日焼けした精悍《せいかん》な赭《あか》ら顔にまっ白な髪が印象的な、六十がらみの伊達男《ダンデイ》である。タキシード姿や、濃紺のブレザー姿が、アタマにくるほどさまになっている。おだやかな微笑を絶やさないのに、眼光が鋭くて、薄い唇の両端をきゅっとひきしめているところと、小柄で、きびきびしているところが、ジェームス・キャグニィにそっくりである。  モンローに配するにキャグニイ。傍焼《おかやき》の余地もない。  そのミスター・キャグニイを囲んで、サンジローや、Oディレクター率いるスタッフたちとサロン風の小部屋で一杯やっているとこへ、ミセス・モンローが私を呼びにきて、向うのバー・コーナーでいっしょに飲まないかという。マジシャンらしいヒゲの青年を伴っていた。 2  マジック・キャッスルには、バー・コーナーがいくつもある。カウンターのぐるりに、アーチ型の木彫り装飾をめぐらした西部劇風の酒場があったり、百合《ゆり》の花の形をした曇りガラスの電灯の横で、大きな四枚羽根の扇風機がゆるやかにまわっているアール・ヌーボオ風のコーナーがあったり、それぞれにいい雰囲気をだしている。ひととおりハシゴをしてみたいと思っていた矢先である。もとより否やはない。キャグニイに断って、モンローに従った。  案内されたのは、メイン・ロビーに隣接したいちばん本格的なバーである。がっしりとしたカウンターの前に、十脚あまりの丸椅子《ストウール》が並んでいる。 「さ、どうぞ、アイリーン」  アメリカは徹底的に女性 優先《レデイ・フアースト》の国であるぞ、と三十六年前の例の『アメリカ便り』と、すぐそのあとの英語教科書『Jack and Betty』で、しっかりたたき込まれているから、そのへんのところにぬかりはない。  ほんとうなら、アイリーンのうしろにまわって、さっと椅子を引くところなんだけれども、この丸椅子《ストウール》は生憎、床に固定されているので、残念ながら引くに引けない。  椅子は引けなくても、とにかく女性は、たてるに限る。女性《レデイ》は優 先《フアースト》。それで、どうぞどうぞ、とアイリーンにまん中の椅子をすすめたら、何をいうのか、シゲは遠来の客ではないか、と逆にすすめ返された。  いやとんでもない、いえそんな、と譲り合いながら、東洋式謙譲の美風はむしろアメリカに色濃く残っているのか、と思ったらおかしくなった。謙譲の美風も、ほどほどにしないと厭味である。 「さあさあ——」  ヒゲの青年が大きな手で丸椅子《ストウール》をさし示して、どうぞお先に、と重ねてすすめてくれたのをしおに、私がまん中、私をはさんで左にアイリーン、右にヒゲの青年という並び順で、腰高の丸椅子《ストウール》にすわった。  肥満巨体の重役タイプのバーテンダーが、慇懃《いんぎん》をきわめるポーカー・フェイスで、終始無言のまま、めいめいの飲み物をととのえた。 「では、遠来の友のために」 「乾杯」 「乾杯」  左を向いて、右を向いて、目の高さにグラスをかかげて、ひと口飲んだとたんに、アイリーンが私のことを褒めちぎりはじめたのだった。 「そう、アイリーンのいうとおりだ」  ミスター・エクニのカード・トリックには感心した、手つきが素人っぽいところが、実に計算されている、自分にもおおいに参考になった、などとヒゲの青年も、若いのにたいそう如才がない。 「ほんと、シゲのカード・トリックは、ビューティフル。最高よ」  これでいい気持にならなかったら、どうかしている。  そんなに褒められなくたって、何時間も前から飲んでいるのだから、とっくにいい気持になっている。お酒の酔いと、お世辞の酔い。すなわち原因は二つで、結果は一つ。両方の酔い心地が相乗効果をもたらして、いまやもう、天にものぼるようないい心持である。  いい心持になると、ますますなめらかに言葉がとびだしてくる。先方のいうことも、みんなわかってしまう。しかもそれが、ことごとくおいしい言葉ときているのだから、はしゃぐなというほうが無理な注文である。  躁状態でたのしがっているうちに、いい心持とは別に、なんとなくヘンな気分がしてきた。気が重くなるような、気持がオチこむような、たとえていえばはりつめていた風船がほんのすこししぼむような、妙な感じなのである。違和感というやつかな、と思う。それにしては、たのしすぎる。愉快で、いい心持で、躁状態が続いている。  違和感の正体が、さっぱりわからない。わからないままに、いやーな気分なのである。 (悪酔いしたんだろうか)  そんなばかな。何時間も飲みつづけていることはたしかだけれど、近頃はだんだん飲み方が上手になって、欲スルトコロニ従ッテ矩《ノリ》ヲ越エズ、まだ限度を越してはいない。現に、私の頬はゆるみっぱなしだし、口走る横文字もうかれっぱなしである。悪酔いして、こんなにたのしいはずがない。  精神的には躁で、生理的には鬱で、なんだか躁鬱病がいっぺんにきたような心持である。  形而上の上機嫌対形而下の不機嫌。  こんな経験ははじめてである。  それでも上機嫌のほうがはるかに上まわって、だから相変らずいい気持で、チーチーパーパーしゃべっているうちに、天国よいとこ、という日本語のフレーズがふしをともなって、ちかちか点滅しはじめた。もう十年以上も前に大ヒットしたコミック・ソングで、歌の題は『帰ってきた酔っ払い』で、歌っていたのは、あれはたしか「フォーク・クルセダース」とかいったな、と酔った頭のすみで、ちゃんと思いだせたぐらいだから、酔ったといっても知れたものである。 天国よいとこ 一度はおいで 酒はうまいし  モンローはきれいだ、と思いながら見つめたアイリーンの顔が、はるか上方で、にっこり笑った。  あ、と思わず声が出た。 「うわァォ、やったネ」  さしずめそんなふうに聞える短い言葉を、いかにもうれしそうに叫んだアイリーンの笑顔が、私を見おろしている。私は、ふり仰いでいる。びっくりして右を向くと、にやりと笑ったヒゲの顔が、やっぱり高いところにあった。たったいま、乾杯、乾杯、とグラスを目の位置にかかげたとき、三人の顔は、当然のことながら、ほぼ横一線に並んでいたのである。うろたえぎみに正面を向いたら、さっきまで肘の高さだったカウンターが、アゴのすぐ下で、ぴかぴか黒い艶《つや》を放っていて、ギロチンに首をのせているような心持である。  二人の顔がはるか上にあって、カウンターがアゴまでとどいていて、なんだか私だけが、すーっと小さくなったみたいである。ガリバーの小人国のこびとになったような気もするし、逆に、大人国に上陸したガリバーになったような気もするし、どっちにしても、キツネにつままれた思いで一瞬きょときょとしている私の頭の上で、やったやった、と手をうってよろこぶアイリーンとヒゲの声が聞えた。カウンターごしに、顔しか見えなくなったバーテンダーが、謹厳実直な顔つきのまま、にゃっと笑った。 3  わかってみれば、理屈は簡単である。  横に並んだ三人のうち、まん中の私だけが椅子ごと沈下してしまったのである。腰高の丸椅子《ストウール》が、なんらかの仕掛けで沈むようになっている。  原理は簡単でも、いざ作るとなったら、精密機械なみの苦心を要するのではないか。  沈む感じが、すわっている人間に伝わってしまったら意味がない。椅子の動きは、人間の五官外の、極超微量でなければならない。目にも見えないし、からだでも感じられないという沈下速度を保つために、ことによると油圧式のような、かなり大がかりな装置が地下に埋蔵されているのかもしれない。  止り木に並んですわっていて、私はまったく気がつかなかった。あッ、と思ったときには、沈み終ったあとだった。人間の五官というものは、あてにならないものだと思い知らされた。ただし、三半規管のカタツムリみたいなものだけが、異変の片鱗《へんりん》をかろうじてキャッチして、それで、あんなにたのしいのに、あんなにいやな感じだったのだろう。 「どう? シゲ。感想は?」 「おもしろい、実におもしろい」 「われわれは、遠来の友をこうやって歓迎する」 「どの椅子も、ぜんぶ沈むのか」 「ノー」  十脚あまりの止り木に目をやりながら、アイリーンが、左から二番目、すなわち、シゲのこの椅子だけが沈むのだ、と教えてくれた。  それですべては氷解した。  道理で、私の女性 優先《レデイ・フアースト》を断固謝絶して、しつこく席をすすめてくれたはずである。私のカード・マジックを手放しで褒めたたえ、剰《あまつさ》え英語まで褒めちぎってやまなかったのも、いまにしてうなずける。丸椅子《ストウール》が沈下しているあいだ、左から右から、ほいほいおだてることで、注意力をすこしでも逸《そ》らそうという心理作戦だったのだろう。マジックのほうの言葉で、これをミスディレクション(misdirection)という。もともとは、陪審法廷で裁判長が陪審員に誤った説示を行うことだそうで、適切な日本語がない。しいて訳せば「誤導」とでもいうのだろうか。 (シゲの英語は模範的である)  いくら私がうぬぼれ屋でも、お世辞半分どころか、お世辞九割に近いアイリーンの言葉を、額面どおりに受取るほど、それほど私はあつかましくはない。 (シゲのカード・トリックはビューティフルだ、最高だ)  これを、殺し文句という。  殺し文句にのって、私が天にものぼる気分になっていたときに、私の肉体はそろりそろりと地に沈んでいったわけである。  まだ沈まずや定遠《ていえん》は。  極超微速度の沈下にじりじりしながら、してやったり、とアイリーンとヒゲが心中ひそかに快哉《かいさい》を叫んでいたのかと思うとくやしいけれども、沈む椅子というのは、たいそうよく出来たサービスであって、そのサービスを円滑に成功させるための、あれはリップ・サービスだったのだから、それだけで二重のサービス、おまけに二人で結託していたのだから、二《に》にんが四《し》、すなわち四重のサービスを忝 《かたじけの》うしたことになるわけだと考えれば、くやしいなどといったら罰《ばち》が当る。  マジックの殿堂というだけあって、手のこんだ仕掛けや、ちょっとした工夫がほどこされているマジック・キャッスルのなかで、この“沈む椅子”が、私にはいちばんおもしろかった。 4  サンセット大通りを眼下に見おろす小高い丘の中腹に、マジック・キャッスルはある。  さまざまな趣向がこらされている内部の、どの部屋だったか、壁に飾ってある額ぶち入りの古文書のようなものに、マジック・キャッスルの伝説が書いてあった。  Once upon a time……  ワンスアポンナタイムとはおなつかしい。つられてひととおり読んでみると、むかしむかしロンドンに一人の商人が住んでいて、三人の息子がいました、というような絵本調の説明で、これならついていける。三人の息子のうちの一人が重い病気にかかった。魔術師になおしてほしいとたのんだら、英国南部のドルセットシャー行の汽車の切符をくれた。それに乗って魔法のお城《マジツク・キヤツスル》に出掛けたら、息子の病気がなおったというような説明文に、そのときのだという南部鉄道会社《サザーン・レールウエイ》の三等切符が添えてあった。かすれたインクで 3rd CLASS と読めるところがご愛嬌である。  お伽《とぎ》の国のマジック・キャッスルはむかしむかしだが、現実のマジック・キャッスルの設立は戦後である。少数のマジシャン・グループが協力し合って、一九〇三年の建物だというビクトリア王朝風の富豪の屋敷を買い取り、マジシャンの交流と育成、それにトップレベルのマジック・ショーの常時公演という三つの機能を併せ持つ会員制の社交場としてオープンさせ、CBSテレビのプロデューサーをしていたビル・ラーセンをオーナーに据えたのが一九七三年のことだというから、まだ十年たらずにしかならない。ただし、母胎ともいうべき「アカデミー・オブ・マジカル・アーツ」という組織が古くからあって、その創始者で、ビルの叔父に当るウィリアム・ラーセンが、一応初代ということになっているらしい。ウィリアム・ラーセンという人は、もともと弁護士だったのに、幸か不幸か手品の魅力にとりつかれて、プロ・マジシャンに転向してしまったというマジックの殉教者みたいな人物である。  その意志を継いだビルたちの手で経営されているマジック・キャッスルの中に、何があるのかというと、飲んだり、食べたり、しゃべったり、見たりする施設が何でもそろっている。  ステージ・マジック用のメイン・ホール、階段教室風の小ホール、テーブル・マジック用の小部屋、メイン・ロビーにサロン、図書室にマジック博物館、レストランが二つに、バーが三つ四つ、ビロードばりの小卓を配置してメンバー同士がマジックを見せ合えるようになっているラウンジ風の空間が二カ所。それぞれ「ダイ・バーノン・ストラッセ」「ブラックストーン(註・ハリー・ブラックストーン。アメリカ最大のマジシャン)・ルーム」と名づけられていて、二人の胸像が飾ってある。まだほかにもあったと思うのだが、忘れてしまった。  忘れてしまうぐらいいろいろなものが完備しているマジック・キャッスルに、欠けたるものが一つある。  入口がないのである。  車寄せからステンドグラスの古風な玄関に入ると、右手にレセプション・カウンターとクロークがあるだけで、あとは三方の壁面が天井までつくりつけの書架になっている。ぎっしりつまった古書と古書のすきまに、マジック・キャッスルのシンボルマークであるフクロウの置物が飾ってあった。入口とおぼしきものはどこにもない。きょろきょろしていたら、マジック・ツアーの肝煎り役のTさんが教えてくれた。ルビーをはめこんだフクロウの目に向かって、ひらけごま! と叫んでごらん。日本語ではだめですよ。 「Open Sesame!」  とたんに、天井まである書架が、するすると左右にひらいて、中に通じる入口が、ぽっかり現れた。  メイン・ロビーの奥には「見えないイルマの部屋」(Invisible Irma's Room)と呼ばれるバー・ラウンジがある。今世紀のはじめに若くして死んだ美人ピアニスト・イルマの魂魄《こんぱく》この世にとどまって、いまだにマジック・キャッスルで夜ごとピアノを弾いているのだ、と書いてあるパンフレットには「イルマの上にすわらないで!」という注意まで書き添えてあった。  コンピュータ内蔵の自動演奏ピアノは、日本でもよく目にするところだが、イルマのピアノはひと味ちがっている。  無人のピアノに向かって、お客がリクエスト曲を告げると、間髪いれぬタイミングで、即座に弾きはじめて、その曲どおりに、鍵盤がかろやかに跳ね、踊るのである。  ピアノの横に、大きな、からっぽの鳥籠があって、細長く、折った一ドル札がさしてあるのは、何曲か所望したあとの客のチップである。  私もさし込んだら、いきなり、ピヨ、ピヨ、ピヨと小鳥の声が聞えたかと思うと、からっぽの鳥籠の中で、止り木だけが、いかにもうれしげに揺れ、同時に無人ピアノの鍵盤が短い音をだした。  Thank you very much.  はっきりそう聞えた。  たて続けに演奏してイルマもノドがかわいたことだろうから、一杯ご馳走してやってくれ、とTさんがいう。アイリーンがカクテル風の白い飲みものを運んできて、自分で飲ませてやって、と私にグラスを手渡した。ピアノの上にのせたら、つ、つ、つー、と白い液体が減っていって、見るまになくなった。一気に飲み干した無人ピアノが、お返しに「イエロー・リボン」を軽快に弾きはじめたかと思うと、たちまち酔いがまわって、へべれけの「イエロー・リボン」に変った。  ひらけゴマの入口や、見えないイルマのこのラウンジの模様は、私がヘタな案内役をつとめたO君製作のテレビ番組で放送ずみだから、ご覧になったむきもおありだろう。私がいちばんおもしろがった沈む椅子は、残念ながらテレビ向きではない。超微速度で沈下するあいだじゅうカメラをまわしっぱなしにしておくわけにもいかないだろうし、はじめとおしまいだけを写してみたところで、おもしろくもなんともない。だいいち、あの一種異様な感覚を、映像で伝えることは不可能である。せめて文章で再現してみたいと考えたのが運のツキで、禿筆《とくひつ》なめなめ、これだけえんえん綴って、それでもなお、あの感覚をどこまで汲みとってもらえるだろうかと思うと自信はない。  厳格な会員制をしいているマジック・キャッスルの、現在の会員数は四千八百人。そのうちマジシャン会員は千八百人。あとの三千人はマジック愛好家だそうである。  名誉会長がケイリー・グラント。取締役陣にはダイ・バーノン以下名だたるマジシャンが名をつらねているらしい。一般会員の中にトニー・カーチス、チャールトン・ヘストン、オーソン・ウェルズ、ジュリー・アンドリュースといった顔ぶれがごろごろしているところは、さすがにハリウッドである。  そんな諸名士と肩を並べようという気はさらさらないけれど、この際、三〇〇一番の一般会員になって帰ろうかと、ちらと考えないでもなかったが、会員になったからといって、東京・ロサンゼルス八千七百四十キロ、どうなるものではない。 「オー・ノー」  地球はせまいんだぞ、とビル・ラーセンが笑いながらいった。ロスに続いてボストンで開かれた別の大会でも行をともにして、すっかりうちとけたあとのことだから、言葉つきも、なんだかべらんめえ調の英語に聞える。 「ロスとトウキョーなんて、ひとっ飛びじゃねえか」 「そりゃ、ま、そうだけど、でも、ミスター・ラーセン……」 「ビルと呼んでくれ」  おまえはもう友達なのだから、いつでも遊びにきてくれ、会員《メンバー》なんぞになることはない、おれのVIPとして歓迎する。  また椅子が沈むのかと思って、はっ、と身構えたが、椅子は沈まなかった。  身構えたまま、マジック・キャッスルがロサンゼルスにあってよかった、とつくづく考える。これが近かったら、私のことだもの、毎晩いりびたってたちまち身の破滅だと思っただけでゾッとする。 バーノンさがし 1 「あれが、ダイ・バーノンだ」  夜の十二時近くなって、いちだんとにぎやかになってきたマジック・キャッスルのバー・カウンターで、うしろをふり返りながら、テーブル・マジシャンのマックス・マービンがいった。 「どれ、どこどこ」 「あそこだ、あのテーブル」  メイン・ロビーの奥の小卓のまわりに、正装の人垣ができていた。黒い人垣のすきまから、白い口髭と太い葉巻が、ちらりと見えた。  顔だけはかねて写真でよく知っているダイ・バーノンの、いわばトレード・マークの部分を一瞥しただけで、わくわくした。わくわくの中には、武者ぶるいもすこし入っていたようである。世界中のマジシャンたちから、ただ一人“教 授《 プロフエツサー》”の称号で呼ばれているダイ・バーノンと、江國さん、さし《ヽヽ》でやって下さいとOディレクターにいわれて、それまで思案中だったアメリカ行の誘いに、行く行く、死んでも行く、と答えた話は第一回ですでに述べた。  ダイ・バーノンといっても、知らない人には何の興味もない名前にちがいない。たとえてみれば、セント・アンドリュースのクラブハウスで、あれがジャック・ニクラウスだ、といわれたアマチュア・ゴルファーの心境のようなものだといえばお察しいただけようか。紹介してやろうかといわれてシビれないアマチュア・ゴルファーはいないだろうし、ましてや、帝王ニクラウスとスクラッチでワン・ラウンドまわらないかといわれたら、武者ぶるいも出るだろう。  ゴルフをやらない私でも、ジャック・ニクラウスの名前は知っている。だったらダイ・バーノンの名前だって世間に知られていそうなものなのに聞いたこともないぞ、といわれても困る。私でもニクラウスの名前を知っているというのも、日本がゴルフ大国なればこそであって、マジックに関する限り、日本は後進国もいいところで、わが見るところ、百年は遅れている。  マジックといえば児戯に類する芸能、すなわち「子供だまし」だというのが、残念ながら日本における正常な考え方だろう。だから、ダイ・バーノンの名前が世に知られていないのは、むしろ当然である。ただし、かりにもマジシャンとか手品師を標榜《ひようぼう》する人間で、ダイ・バーノンの名前を知らなかったら、そいつはもぐりだといわれても仕方がない。それぐらいの大御所であり、とくに、カード・マジックやコイン手品を中心としたスライ・ハンド(手練の早業)の技法に関しては、近代マジック中興の祖と目されている長老中の長老である。 「バーノン・タッチ」と呼ばれるその技法は、ほとんどすべての奇術専門書に出てくるし、バーノンの影響を受けなかったプロ・マジシャンはいないとまでいわれている。 「ダイ・バーノンは、俺にとって、神のごとき存在なのだ」  遠くのテーブルに目をやったまま、マックス・マービンが呟いた。マービンとは、東京での彼の「レクチュア」の席で、ほんの数カ月前に知り合ったばかりである。  特定少数のお客を集めて、自分のノウハウを公開してみせる有料の講習会のことを、この世界では「レクチュア」と称している。ノウハウの公開と併せて、テキストや奇術用品の即売会も兼ねている。いってみれば、マニアのための秘密会であるからして、受講料は安くない。欧米のプロ・マジシャン、とくにテーブル・マジシャンの場合は、レクチュアによる収入が生計のかなりの部分を支えているらしい。  日本橋の小さな会場で開かれたレクチュアで、マックス・マービンは、いたいたしいほどの努力を払って日本語でカード・マジックをやってみせた。その真摯さに、好感がもてた。レクチュアに誘ってくれたのは、奇術研究家で国立国会図書館主査の高木重朗氏と、マジック・ショップの経営者トンさんである。高木さんは、テレビのマジック番組でおなじみの顔だし、数多くの著書や訳書によってよく知られているけれど、トンさんのほうは一般的にいえば無名の人である。しかしながら、トンさんの手にかかる奇術専門書のイラストは絶品であって、その画才は国際的に認められている。小野坂東《あづま》という本名の、名前のほうから人呼んでトンさん。白いものがまじった顎鬚《あごひげ》に、ルパシカ風の上っぱりという外見が、なんともカッコいい。  なんだか得体が知れないけれども、なんだか魅力的だというような人物が、トンさんをはじめとして、マジックの世界にはごろごろしている。そこのところが実におもしろい。そうして、その人たちは、例外なく人がいい。高木さんとトンさんを介して親しくなったとはいえ、知り合ってまだ日が浅いマックス・マービンが、まるで十年の知己のような口をきくところも、ほかの世界ではちょっと考えられない。ダイ・バーノンを神と仰ぐマービンは、すこしでもバーノンのそばにいたいというだけの理由で、どこか遠隔の住まいを引払って、ここロサンゼルスに移り住んだのだという。 「その気持、シゲ、わかってくれるか」  わかる、わかる、とうなずいたとたん、反射的に、むかし何かで読んだ江戸小咄を思いだした。  ある儒者、品川へ越したので弟子どもお祝いに参上して「先生便利な日本橋から、なんでこんなところへお越しになりました」と聞けば、学者「唐《から》へ二里近い!」  学者バカもここまで純度が高くなったら、それはもう余人には窺《うかが》い知れぬ至福の境地というべきだろう。マービンの、バーノンに対する敬愛思慕の念もこれに劣らぬか、と改めてダイ・バーノンという存在の大きさに舌を巻いていたら、すっと丸椅子《ストウール》をすべりおりながらマービンがいった。 「よし、いっしょにこい、バーノンに紹介するから」 「ちょ、ちょっと待ってくれ」  いま呼吸をととのえる。  初対面の挨拶はどういえばいいのか。あなたに会うことだけを目的として、はるばる日本からやってきた者です、というのは英語でどういったらいいのか。つまらないことにこだわって、ぐずぐずしているうちに人垣が散って、ダイ・バーノンの姿が、手品のようにかき消えた。 2  急にバーノンの姿が見えなくなったからといって、あわてることはすこしもない。  今年八十七歳になるダイ・バーノンの生活はハンでおしたように規則的である、すなわち毎日昼近くまで寝坊して、午後は散歩、夜になるとマジック・キャッスルにやってきて、午前二時までスコッチ・ウィスキーを飲む、この習慣を彼は一日たりとも崩さない、という短信風の記事を、アメリカの奇術雑誌で読んで知っていた。いまはまだ午前零時半、老バーノンにとっては宵の口である。場所を変えただけで、広いマジック・キャッスル内のどこかにいるはずである。 「なに、また現れるさ」  なにしろタフな老人なんだから、と笑いながらマービンがまた丸椅子《ストウール》にすわりなおした。  現役を引退後のバーノンは、ここでああやってだれかれと談笑しながら、生涯の友である酒と葉巻とカードを楽しんでいる、すばらしい余生だ、と雑誌の記事を裏書きするようなことをマービンが熱っぽく口にしているところへ、さっきからもう二時間もマジック・キャッスルの細部を撮りまくっているサンジローが、汗をふきふき戻ってきた。 「先生、ここのトイレに入りましたか」 「いや、まだ行ってないよ。何か珍なる仕掛けでもあるのかい」  おしっこが五色の噴水になるとか、金隠《きんかくし》から鳩がとびだすとか。まさかとは思うけれども、「沈む椅子」の例もあることだし、何が起るかわかったものではない。 「いえ、そんな。べつに仕掛けは何もないです。ただ、雰囲気がおもしろいですよ」 「よし、ちょっと行ってこよう」 「ついでに女性用のほうものぞいてごらんなさい。十九世紀風のなかなか凝ったトイレですから」  お断りしておくが、サンジローにのぞきの趣味はない。マジック・キャッスルのすべてという撮影意図を了としたオーナーのビル・ラーセンから、どこを撮ってもよろしいといわれているのだから公明正大である。  男性用の白い朝顔に向って用をたしながら周囲を見まわしてみると、マジックの古い公演ポスターや、新聞、雑誌の切抜きが壁紙がわりに一面に貼られていて、ちょうど目の位置に、サインペンで落書がしてあった。酔って、ゆらゆらしながら殴り書いたのだろう、乱暴な書体で、短い単語が山になったり谷になったりしている。  I LOVE MAGIC!  跳ね踊るような文字を見つめているうちに、マジック競技会《コンベンシヨン》の閉幕前夜にホテルのロビーで車座になっていた少年のTシャツを思いだした。  Magic is my LIFE. 「手品いのち」のTシャツも強烈だったが、「アイ・ラブ・マジック」も便所の落書としては相当なものである。しょんべんしながら出てくる言葉ではない。  雰囲気がおもしろい、とサンジローがいったのはこの落書のことだったのかと思いながら、用をたし了えた。出しなに、女性用のほうに、ちらと目をやったら、アール・ヌーボオ調の華麗な装飾とピンク色の洗面台が見えた。凝った内装を見てこいとサンジローはいったけれども、その先をのぞく許可を、私はもらっていない。  バー・コーナーに戻ると、大ホールでのマジック・ショーの収録を了えたOディレクターと胆煎りのTさんが待っていた。技術も含めたスタッフの顔も全員そろっている。いまからダイ・バーノンのところに行こう、とOディレクターがいう。 「いまから? バーノンの録画撮りはあしたのはずじゃなかったのか」 「ええ、収録はあしたの夜です。でも一応念押ししとかないと不安だし、先生のことも紹介しときたいから、ちょっとつきあって下さい」 「いいのかね、こんな時間に」  いいの、いいの、ご老体矍鑠《かくしやく》たるもんだから、と横から答えたTさんが、いまバーノンは三階の図書室にいます、さあ行きましょうといって先に立った。  二階のレストランとバーのあいだの、屋根裏に通じるようなせまい階段をのぼった突当りにその部屋はあった。図書室と談話室を合わせたような、古いがおちついた小部屋で、入ったとたんに、葉巻の匂いと洋書の匂いが鼻をうった。なんでも、マジック・キャッスルのメンバーの中でも、ごく少数の特別会員だか名誉会員でなければ利用できない部屋なんだそうで、そう聞くと、アメリカ映画に出てくる禁酒法時代のギャングの隠家のような雰囲気も、ちらとしないでもない。もっとも、ギャングの隠家にしては家具調度の類が上等で重厚にすぎるし、天井まで造りつけの書棚にマジック関係の本がぎっしり並んでいるところは老学者の書斎のようでもある。  大きな読書机の横の、丸いゲーム・テーブルを囲んで、三人の老人が脇目もふらずにポーカーを楽しんでいた。 「ダイ、紹介するよ」  Tさんが親しい口調で声をかけると、カードから顔をあげたダイ・バーノンが、鼻の先までずりさがった黒ぶちメガネの奥で、細い目をぱしぱしさせたかと思うと、やにわに大声で叫んだ。 「おう、日本人がおおぜいで、野球でもしにきたのか」  老友らしい二人のポーカー相手に断って、バーノンが笑いながら立ち上った。全体がブルーで衿《えり》だけが白いワイシャツに、エンジ系のネクタイ、それに白いスーツという組み合せが、長身白髪によく似合っている。  つぎつぎに握手の手をさしのべながら、よく来たよく来た、と上機嫌で相手をしていたバーノンの口が、あしたの録画撮りの話になったとたんに重くなった。重くなっても、相変らずの大声で、それに老人特有の、まくしたてるような喋り方なので、なかなか聞きとれない。疲れた《タイアード》、という言葉が二度も三度もとびだした。  旧友相手に夜おそくまでたのしげにポーカーに打興じているところは、疲れているようにはとても見えないが、と思いながら血色のいいバーノンの顔を見つめていたら、同じ言葉がまたとびだして、よくよく聞けば、疲れた《タイアード》、ではなくて、わしはもう引 退《リタイアード》したのだ、と連呼しているのだった。 「しかし、ですね、教  授《プロフエツサー》——」  われわれは、教  授《プロフエツサー》、あなたを撮りたくて、こうやってチームを作ってやってきたのだ、テレビを通じて、その元気な顔だけでも日本のファンに見せてもらいたい、とOディレクターが懸命に口説きはじめた。必死になればなるほど、大阪弁風英語になるところが妙である。まあまあ、そないいわんと、バーノンはん、ひとつたのんまっさ、というふうに聞えたのかどうかは知らないけれど、すくなくとも、O君の一所懸命さだけはたしかに伝わって、よしわかった、とバーノンがうなずいたとたんに、サンジローが進み出た。 「ミスター・バーノン、もしよかったら、あなたの家にお邪魔したいのだが」 「わしの家に?」 「イエス。家に、だ」  できれば一日じゅうでもお邪魔して、べったり撮影したい、写真 家《フオトグラフアー》として自分は、偉大な教  授《プロフエツサー》のすべてに興味があるのだ、ぜひ協力してほしい、と猪突猛進型の英語でまくしたてるサンジローの迫力に圧されたのか、もうめんどくさくなったのか、OK、あしたの午後一時に来たまえ、と答えて、バーノンはサンジローがさしだしたメモとボールペンを受取ると、自宅のアドレスをゆっくりと書いた。一字一字刻むようなその書き方と、いくらか顫《ふる》え気味の筆勢に、老いがにじみ出ていた。 3  ハリウッド・オレンジ通り一七四五、アパート一〇八。  メモを片手にサンジローが運転するレンタ・カーで、さっきからぐるぐる走りまわっているのに、なかなか見つからない。 「おかしいなあ。たしかにこのへんなんだけどなあ」  アクセルを踏んだりゆるめたりしながらサンジローが、しきりに首をひねっている。  外国の空港に着くと、まずまっ先にレンタ・カーの貸出しカウンターにとび込んで、あとは地図と道路標識をたよりに、どんなに入り組んだ道筋でもすいすい車を走らせて、常に最短距離でぴたりと目的地に着くという動物的な能力にたけているサンジローが、こんなふうに同じ道をぐるぐるまわったりするのはめずらしい。  いっぱいにあけ放った車の窓から、カリフォルニアの明るい陽光といっしょに、さわやかな風が塊《かたまり》となってゆっくり吹き抜けていくのが快い。名にしおうロサンゼルスの五車線もある高速道路《フリー・ウエイ》を七〇マイルでぶっとばす快感より、こうやって道をさがしさがし平地を走っているほうが、私にはもっと快適である。だからもうすこし迷っていたって、ちっとも苦にならない。約束は一時だが、いまはまだ正午前である。先にまずアパートを見つけておいて、それからどこか近くの食堂にとび込んで昼めしを食おうということで早めに出掛けてきたのだから、少々迷ったって、時間はたっぷりある。苦しゅうない、もそっとゆっくり、とキャデラック2ドア・クーペの助手席にふんぞり返っている私としてはいいたいところなのだけれど、ドライバーの心理というのは全然逆であって、いったんハンドルをにぎると、こういう走り方には我慢ができないらしい。 「えーい、くそ」  じれったそうに呟いたサンジローは、いっぺん元の大通りに出ちゃいますから、と告げて大きくハンドルを切った。きいきい、とタイヤがいやな音をたてたかと思うと、ハリウッド大通りのにぎやかな景色がフロント・ガラスをよぎり、なだらかな坂道が目の前にひらけた。突き当りの小高い丘の中腹で、見おぼえのあるマジック・キャッスルのとんがり屋根がきらきら光り、抜けるような青空をバックに星条旗がはためいていた。  きのうのマジック・キャッスルは、薄暮の空にくろぐろとシルエットが浮かんで、なんだか蝙蝠《こうもり》とびかうドラキュラー伯爵邸のように見えたのに、いまは、白雪姫と七人の小人でも住んでいそうな、るんるんというような眺めである。 「あれ?」  アクセルから足を浮かして、サンジローが、あれダイ・バーノンじゃないですか、といった。  ステッキをついた白髪の老人が、マジック・キャッスルを背に、左側の歩道をこっちに向かって、ゆっくりゆっくり歩いている。 「うん、バーノンだ、まちがいない」  私が答えるより先に、右側通行のハンドルを左いっぱいに切って、きいきいきい、とまたしてもタイヤをきしませながらサンジローが車をUターンさせた。脇腹すれすれに、すーっと車がとまった。 「おう、なんじゃ、きみたちか」  一瞬びっくりしたような顔をしたバーノンは、きのうと同じ大声で、ハウ・アー・ユー、ハウ・アー・ユーと、葉巻をくわえたままの口で、繰返し叫んだ。  今日のバーノンは、紺地に白のストライプ入りの三ツ揃いの背広に、太いタテ縞のワイシャツ、濃紺のネクタイ、胸のポケットから赤いハンカチを、こんもりとあふれるようにのぞかせて、ちょっとした老ダンディというすがたである。片手にステッキ、もう一方の手で、食料品らしい紙袋を抱き込むようにかかえていた。 「教  授《プロフエツサー》、散歩ですか」 「うむ、葉巻を買いに出たんだ」  紙袋の口から、葉巻の箱がのぞいている。 「いいところでお会いしました」 「ああ。しかし、きみたち、一時にはまだ早すぎるぞ」 「ええ、これから昼めしを食いに行くとこです。でもその前に、一応、場所だけ確認しておこうと思って……」 「おう、そうかそうか」 「教授のお宅を、さっきからさがしてたんですけど、どうしても見つからなくて。どのへんなんですか」  ゆっくりとふり向きながら、横に差し出したステッキの先に、APT108 とある二階建ての灰色の共同住宅があった。  では一時に来たまえ、と言い置いて、アパートのポーチに通じる四、五段の石段を一歩ずつ踏みしめるように足を運んで、バーノンは姿を消した。石段の横に、大きな看板が立っていた。 〈空室あり/独身者専用/寝室1〉 4 「指呼《しこ》の間《あいだ》」という言葉が、いやでも思いだされる。なんのことはない、マジック・キャッスルのすぐ真下、呼べば応えるぐらいの目と鼻の先に、ダイ・バーノンのアパートはあった。 「それならそうと——」  ふたたび車を発進させながら、サンジローが、マジック・キャッスルのとんがり屋根をふり返って、ぼやき口調で呟いた。 「ゆうべ、あそこの窓からでも玄関からでも、ちょっと指さしてくれたら、番地なんかさがさなくたってイッパツでわかったのに」 「まったくだ。ここからなら、マジック・キャッスルまで、年寄の足でも、歩いて五分だろう。丘の上から、あそこだって指させば見えるはずだよな」 「そうですよ。なにも、わざわざアドレスを書いてくれたりすることはないのに、あのじいさん」 「何いってるんだい、きみがメモとボールペンを、じいさんの鼻先につきつけたんじゃないか」 「あ、そうか。あはは、そうでした」 「あの気魄とタイミングでメモを差し出されたら、バーノンならずとも、だれだって反射的にアドレスを書くだろうね」 「そうかしら」  屈強が洋服を着たようなこの男は、何かのはずみで、時おり、こういう口調になるのだけれども、ホモっ気があるわけではもちろんない。 「百人が百人とはいわないが、百人中七十五人は、すっとメモとボールペンを受取って、躊躇《ちゆうちよ》なくアドレスを書くことはまちがいない」 「七十五人? 七十五なんて数字、どこから出てくるんです」 「カード・マジックから出てくる。すなわち、わが経験則さ。きみのあの気魄とタイミングは、絶妙だった。成功率七五パーセントはかたい。それで七十五人」 「成功率って」 「もちろん、マジックの、さ」 「ぼくは、マジックなんてしませんよ」  しなくたって、サンジローのあの呼吸は、マジックの基本中の基本というべきものだった。  カード・マジックの基本の一つに「強制《フオース》」という技法がある。よく切った五十二枚の中から、まったく任意に抜いたと思わせて、実は、特定の一枚を引かせるテクニックのことである。同じ強制《フオース》でも、いろんなやり方があって、どれが最良ということはないのだけれど、すべてに共通しているポイントは、気魄とタイミングである。こうやってこうやる、という技術だけではほぼ五〇パーセント、すなわち半々の成功率である。いいタイミングと、祈るような気魄が合致したときだけ、それが七五パーセントぐらいにハネ上る。五〇パーセントではこわくて出来ないマジックが、七五パーセントなら安心して出来る。 「だって、二五パーセントの危険があるじゃないですか」 「もちろん」 「二五パーセントの事態になったらどうするんです」 「それは——」 「それは?」 「最高 機密《トツプ・シークレツト》さ」 「そんなの、ずるいですよ。そこをどうするんです」 「そこをどうにかするのが、カード・マジックの、おおげさにいえば命なのだよ」 「ふうん」 「でも、そんな高等技術を考えるのは十年早い」 「はあ」 「とにかく、ゆうべのきみの気魄と呼吸、あれがカード・マジックのこつです」 「はあ」 「よし、昼めしを食いに行こう」 「行きましょう行きましょう」  いきおい込んで、ぐい、とアクセルを踏み込んだサンジローの横顔に、メンドウみきれないよ、まったく、と書いてあった。 大 願 成 就 1  何度かチャイムを鳴らしたのに、応答がない。  へんですねえ、とサンジローが首をひねった。散歩帰りのダイ・バーノンと路上でばったり出会って、あとで伺います、ああ来たまえ、と再度約束を交してから、まだ一時間しかたっていない。どの玄関も中庭に面するようにうまく設計されている鉄筋二階建て共同住宅の、一階中央のこのドアに、さっきバーノンが姿を消したのをサンジローと二人で見届けているのだから、部屋がまちがっているはずはない。 〈空室あり/独身者専用……〉  ポーチの下の立看板にひときわ大きく書かれていた〈独身者《バチエラー》〉の一語が、いやでも思いだされた。八十七歳の独身者《バチエラー》なら、訳せば、日本語では「孤老」だろう。一時間前に元気で散歩していたからといって、一時間後にも元気であるとは、だれにも保証はできない。 「昼寝でもしてるのかな」 「それならいいんですけど……」  肩にくいこむカメラ・バッグをぶらさげたまま、サンジローが、教  授《プロフエツサー》、教  授《プロフエツサー》、ねえ教  授《プロフエツサー》、と声をかけながらドアをノックするうちに、突然わめき散らすような声がドア越しに聞えた。怒気を含んでいるとしか思えないその語調にびっくりして、思わずサンジローと顔を見合わせたとたんに、ドアがあいて、割れんばかりの声がした。 「おう、待っとったぞ。さあ入ってくれ」  よく来た、よく来た、と白い口髭をふるわせてダイ・バーノンが怒鳴っている。大音声に加えて、喉に痰《たん》はからんでいるし、訛《なま》りはつよいし、おまけに太い葉巻をくわえっぱなしで何か叫んでいるもんだから、よく来たよく来たといわれても、なんだか叱られているような心持である。だが、握手の手をさしのべるバーノンの顔は、皺《しわ》じゅうで笑っている。 「さあさあ君たち——」  リラックスしてくれ、と肩をいだかんばかりにしてソファをすすめるバーノンの大声は、もちろん地声ということもあるのだろうが、地声プラス八十七歳の躁状態のあらわれであるように思えた。  ダイ・バーノンは自分の神様だ、と誇らしげに語ったマックス・マービンをはじめ、熱烈な崇拝者や、孫弟子筋にあたる門下生はいまでも少なくないと聞いているが、孤老の住まいを訪れる客は、たぶん稀なのだろう。  毛足の長いローズ系の絨毯《じゆうたん》を敷きつめた十五畳ぐらいのリビング・ルームのすみずみにまで、葉巻の匂いがしみ込んでいる。気のせいか、老いの匂いも沈澱しているようである。古い雑誌や郵便物のたぐいが低いガラス・テーブルの上にあふれ、室内は雑然としている。ソファの横のサイド・テーブルの上に、使い古したよれよれのトランプが五、六組と、新しいルービック・キューブが一個載っていた。色あざやかなその市松模様に目をやって、あれはなかなかいいパズルだ、ハードなところがいい、というようなことを口にしながらサイドボードに近づいたバーノンは、大きなアルバムを取り出してきて、見てくれ、見てくれ、と相変らず怒鳴るような声をだして、ふるえがちの手でページを繰った。  セピア色に変色した古い写真が、順不同という感じで貼ってあった。ひと目で一九〇〇年代初頭を思わせる縞々《しましま》の胸まである水着をつけて、閑散とした海水浴場の桟橋みたいなところから、いままさにとび込もうとしている少年のスナップを指さして、わしじゃよ、などと苦笑しながらつぎつぎに披《ひら》いていくうちに、ブロマイドのような一枚の写真で手がとまった。 「おう、これじゃ。これがテンカイ(石田天海)だ。彼は日本が生んだ世界的なマジシャンだ。わしの親友じゃった」  英語に暗い私でも、訳すとすれば当然こういう感じだな、とわかる老人特有の訛りで叫んだバーノンは、ずりおちかけたロイド眼鏡の奥の目を細めて、石田天海のポートレートに見入った。その天海の招きで、はじめて日本を訪れたときの写真が、何ページかおいて、突然、カラーで出てきた。どこかの料亭でのスナップである。 「ほれ、ゲイシャガールじゃ」  それでいうわけではないが、日本はいいところだ。いまシリコン・バレーでコンピュータ会社に勤めている自分の息子は、むかし空軍のパイロットとして東京に住んでいたことがあって、いまでも、東京はいいところだといっている。わしも日本が非常に気に入っている、とあながち外交辞令だけとも思えない口吻で続けたバーノンは、もう二度と行くことはあるまいが、と言い添えて、さらにアルバムを繰り続けた。  マジシャンらしい人物たちの、変色した写真が何枚も続いた。その顔を一つずつ指で押さえながら、バーノンがいった。 「この男も死んだ。この男も死んだ。……みんな死んだ」 2  アルバムに視線をおとしているために、いっそう眼鏡がずりおちて、白い口髭とくっつきそうになっているバーノンの老学者を思わせる横顔に、ストロボの閃光《せんこう》がきらめいて、サンジローが撮影を開始した。  きみはウィスキーを飲むかね、といいながらアルバムを閉じたバーノンは、返事も待たずに、カウンターで仕切られている台所に入って、大きな冷蔵庫の製氷皿から氷を取り出した。二、三個の氷が床に落ちて、カラカラと音をたてた。 「ハウスキーパーがおらんもんで……」  弁解するように呟《つぶや》いたバーノンは、手伝いましょう、と横から手をだしかけたサンジローの、その手をふり払うようにして、ええから、ええから、わしがやる、と叫んだ。  三回の往復で仕度がととのった。ジョニィウォーカーの赤を、三つ並べたグラスに、ごぼごぼ、と無造作につぎ分けて、さあ飲めさあ飲め、とすすめるその顔が、たいそううれしげである。よかったら壜ごとポケットにいれていけ、と冗談を口にしながら、バーノンは、いかにもうまそうに、ぐい、とウィスキーを喉に流し込んだ。  テレビの上に飾ってある写真立ての中から、五つぐらいのかわいらしい女の子がにっこり笑って、老バーノンを見おろしている。お孫さんですか、とたずねたら、 「ひ     孫《グレート・グランド・ドーター》じゃよ」  と答えて、バーノンは、この子や、孫娘はときどき顔を見せてくれるが、ワイフとは、この二十年間一度も会っていないのだよ、と突如として、プライバシーに属する話題を口にした。 「はあ」 「しかし、正式に別れたわけではない。離婚は好かん」  彼女は自分より十歳若いのだが、二十年前にアル中になってしまったのだ、でもいまは立派に立ち直っているらしい、とバーノンのほうからいいだしたので、この際、なんでも訊いておこうと思うのだけれども、悲しいかな、言葉がともなわない。  一八九四年六月十七日に、自分はカナダのオタワで生れた。おやじはマジシャンではない。カナダで役人をしていた。自分がマジックに興味をもつようになったのは、子供のときにネイト・ライプツィッヒ(一八七三—一九三九。ノルウェー生れの世界的なカード・マジシャン)の鮮やか《プリリアント》なカードさばきに目をみはったときからだ。人前ではじめてマジックを演じたのは、十一歳のときだ。教会の集まりで、自分は半ズボン《ニツカー・ボツカー》をはいていた。いっしょに教会に行った母親は、家に戻ったとたんに、ほかの子供たちはピアノを弾いたり、歌をうたったりしているのに、おまえは、サーカスの芸人みたいなことをしてくれた、といって嘆いた。その後、自分はカナダの大学から、カナダ王立陸軍大学に入ったのだが、マジックの魅力には抗しがたく、一九一三年にニューヨークにとびだして、マジシャンになったのだ、という程度の話を二時間がかりで聞くのが精一杯だった。 〈マジックの王の中の王《キング・オブ・キングス》〉 〈完璧の極致バーノン・タッチ〉 〈伝説の存在〉  最大級の形容句が刻まれているかずかずの賞牌や賞状を背にして、バーノンが、気を変えるような口調でいった。 「よし、一つ教えようか」 「ぜひぜひ」 「いいかね、まず一組《デツク》から赤いカードを四枚、こんなふうに……」  卓上のトランプを手にして、とりあえずひととおりやってみせたバーノンは、どうかね、これは、といった。私の一度も見たことがない手品だった。 「これは、だな」  こうして、こうして、こうするんだ、と最初からの手順を、まくしたてるようないきおいで口にするバーノンの、ここぞ、というようなポイントの言葉がさっぱりわからない。こうなると、猪突猛進型だろうが何だろうが、サンジローの実戦英語が頼みの綱である。 「おい、サンジロー」  助け舟ェ、という私の声なぞどこ吹く風、この男は、いったんファインダーをのぞいたら、人の声なんか右の耳から左の耳に抜けてしまうらしい。カシャカシャカシャというモーター・ドライブのせわしないシャッター音が、返事の代りにむなしく戻ってくるだけである。 「さあ、やってみたまえ」 「はあ」  うろ覚えのまま、同じ手順を繰返していると、ちがう、あ、そうじゃない、ここはこうやるんだ、とものすごい絶叫調で怒鳴りながら、文字どおり、手をとりながら教えてくれる好意が身にしみた。八十七歳になる世界のダイ・バーノンに、いま自分は、一対一で教わっているのだと思ったら、手が顫《ふる》えた。 「では、きみ、ひとつ見せてくれんかね」 「いいんですか」 「もちろん」  ずうずうしくも「エクニ・オリジナル」と名づけた私の、口はばったいようだが自信作と、わが師N直伝の「掏  摸《 ザ・ビツクポケツト》」という純国産のトリックなど、二つ三つご披露しながら、今度はもっと手が顫える思いである。 「うん」  破顔一笑したダイ・バーノンの口から漏れたひとことを、私は一生忘れない。 「グレート!」  きみに教えるものは何一つない、ともいった。嘘ではない。嘘だというんなら、サンジローに聞いてほしい、といいたいのはやまやまなれど、夢中でシャッターを押し続けているこの男に、証言能力は、どうもなさそうである。  ジョニ赤が空になった。撮影中のサンジローは、お酒を口にしない。それに、レンタカーを運転しているのだから、なおさらである。時計を見ると五時をまわっている。一時すぎから飲みはじめて、とうとう二人で一本あけてしまった。  バーノンと「さしでやれ」とOディレクターにいわれているマジック・キャッスルでの今夜の録画撮りは、八時ごろからの予定である。時間はまだたっぷりある。だから夕食をご一緒しませんか、失礼ながら招待させていただきたい、と申し出たら、ノー、ノーと右手を左右にふって、バーノンが答えた。 「わしは、朝昼兼用の食事《ブランチ》しか食わんことにしとる。あとは——」  こればっかりだ、と琥珀《こはく》色の液体がわずかに残っているグラスを目の位置にかかげながら、こいつが健康のためにはいちばんいいようだ、と莞爾《かんじ》として語を継いだ。 「きみも、長生きしたかったら、せっせと飲むことだ」 3  あとは戸外でのスナップを、ほんの二、三カット撮らせてほしい、というサンジローの慫慂《しようよう》を容れて、バーノンは、アパートから二、三分のハリウッド大通りまで、ステッキをつきつき、つき合ってくれた。十分たらずで撮影はすみ、それでは今夜、と握手をかわしたとたんに、バーノンが足元を指さして叫んだ。 「フーディーニ、フーディーニ」  歩道の敷石に埋め込まれている星形の銅板に「ハリー・フーディーニ」という文字が、くっきりと刻まれていた。無声映画時代から現在ただいまに至る人気スターの名前を刻むこの銅板は、ウォーク・オブ・フェイムと呼ばれるハリウッド名物である。  脱出芸の名人で、近代マジックの開祖と目されるフーディニ(一八七四—一九二六)の一生は、トニー・カーチス主演の映画でよく知られている。不可能な脱出に挑戦して、つぎつぎに危険度をエスカレートさせていったあげく、ついに水槽からの脱出に失敗して、五十二歳の人生をあっけなく了《お》えた、というあの映画の結末は、実はまっかな嘘であって、奇術王フーディーニの最期はおよそシマらない。楽屋にたずねてきた見知らぬ学生に、あなたはいかなる苦痛にも耐えられると豪語しているけどほんとうか、と問われて、ほんとうだということを実証するために、その学生に思いきり腹を殴らせたのが原因で、七日後に死んでいる。  そのフーディーニの前で、ダイ・バーノンがカード・マジックをやってみせた。一九一九年、シカゴでのことだ、とバーノンは暗記でもしたように、二度も三度も同じ話を口にした。フーディーニが最後までわからなかったぶんを「間抜け《フール》フーディーニ」と名づけて、自分の得意のレパートリーの一つにしているのだ、といいながらそのトリックを演じたシーンは、テレビで放映されたので、ご記憶のむきもおありかと思う。 「フーディーニは——」  脱出《エスケープ》で一世を風靡したし、子供たちの英雄であった、と足元の星に視線をおとしたまま懐しげに呟いたバーノンは、でも、マジシャンではなかった、と言い置いて、ゆっくりとした足どりでアパートに帰っていった。  フーディーニ、フーディーニ、とバーノンが叫んだ地点から、これもハリウッド名所の一つにかぞえられているチャイニーズ・シアターの悪趣味な建物の方に向かって、サンジローとぶらぶら歩いていると、ひと足ごとに大スターが爪先にからみつくようである。  グレタ・ガルボ、ボブ・ホープ、グレン・ミラー、ダニー・ケイ、カーク・ダグラス、イングリッド・バーグマン、テリー・サバラス、チャールズ・ブロンソン……。  名だたる美男美女を踏みしめ踏みしめ、いったい象嵌《ぞうがん》の基準はどうなっているのかと思う。六時が近づいてもまだ明るいロスの日差しに、星形の銅板がきらきら光っている。  喉がかわいた。ビールでも飲んで、一服しないか、というより早く、サンジローが、あそこに入りましょう、と道路の向こう側を指さした。ハリウッド全盛時代に隆盛をきわめた、あれがかの「ルーズベルト・ホテル」です、というサンジローの説明を聞いて、私も思いだした。日本を発つ前に、大急ぎで目を通した交通公社のガイドブックにも、同じことが書いてあった。  むかしは、さぞ威容を誇っていたにちがいないルーズベルト・ホテルの中は、うす暗くて、陰気で、妙にさむざむとしていた。フロントの前の円形ホールの白壁に、栄光のスターたちの大きなモノクロ写真が、ちょうど旧国技館の優勝掲額のように、ぐるりと掲げられていた。  ゲーリー・クーパー、クラーク・ゲーブル、マリリン・モンロー、ハンフリー・ボガート、ジョン・ウェイン、ビング・クロスビー、スーザン・ヘイワード、スペンサー・トレイシー、ジュディ・ガーランド、チャールズ・ロートン……。 (あれも死んだ、これも死んだ、みんな死んだ)  ついさっきダイ・バーノンの口から漏れたばかりの、同じ感慨にふけりながら、うす暗いロビーに隣接するグリルをのぞいたら、白服の老給仕が、ここは七時からだ、飲み物だったら中庭のプール・バーに行け、と生気のない声で教えてくれた。それはいい。きらきら光るプール・サイドで、水着姿のカワイコちゃんや、金髪グラマーの肢体を眺めながら飲むつめたいビールの喉ごしを、想像しただけでわくわくした。棕櫚《しゆろ》だの椰子《やし》だのの熱帯植物をトンネルのように植え込んだ廊下を、教えられたとおりに幾曲《いくまが》りかした先にプールはあった。 「あ」  思わず声が出た。  初老から老人までの男女ばかりなのである。カワイコちゃんはおろか、少なくとも人生の現役と思われる人間は一人も見当らない。 「うーん」  ものに動じないサンジローが、さすがに唸って、デラックス老人ホームのプール・サイドだ、といった。まったくだね、と同意しながら、私は「象の墓場」という言葉を思いだしていたのだけれど、口にする気にはなれなかった。  プール・サイドにつきものの喧噪《けんそう》というものがまったくない、妙に、しん、としている中庭の、赤いビーチ・パラソルの下や、デッキ・チェアの上で、ふとった老人や老女たちが、思い思いに本を読んだり、甲羅を干したりしている。老女たちの水着だけが、色とりどりに華やかである。  スチール・パイプの椅子にもたれて、ビールを飲みながら、化石のような男女に目をそそいでいるうちに、つい数日前に、ちらと垣間見たもう一つのプールの光景がありありとよみがえった。  ——連日連夜のマジック漬けで、いかに好きな道とはいえ、さすがに食傷気味になってきたので、朝からホテルを抜け出して、サンジローの運転するレンタカーで、一日、ビバリーヒルズに遊んだ。  高級店が並ぶ目抜き通りをぶらついたり、抜群においしいけど抜群に高いわよ、と見知らぬ女性の通行人が教えてくれた看板一つ出ていないレストランで食事をしたり、どう見てもドラ息子やドラ娘としか思えないちんぴらが、つぎからつぎへとベンツ、ダイムラー、ロールスロイスで乗りつけてくるテラス喫茶で一服したり、それはそれでなかなかにおもしろかったけれど、ビバリーヒルズ見物の圧巻は、なんといっても、名にしおう超高級邸宅街のドライブだった。  繁華街から大通りを一つへだてただけで、劃然と別天地を形成する豪邸街は、走っても走っても別天地が続いて、果てしもないようである。人影ひとつない広い道路の道端で、中学生ぐらいの男の子が、疾走する車に手をあげて、地図を売っている。車をとめて買ってみた。 「スター邸宅地図」(Map of Movie Stars Homes)である。一枚三ドル。  走りだした車の中でひろげてみると、さながらスター名鑑である。  ウォルター・マッソー、ミッチー・ゲイナー、ラナ・ターナー、フレッド・アステア、サミー・デイビス・ジュニア、パティ・ページ、アンディ・ウィリアムス、アンソニー・クィーン、ピーター・フォーク……。  うちのカミさんがねえ、と頭をかきかき、ぽんこつグルマからよれよれのレインコートでおりてくる刑事コロンボが、こんなところに住んでいるのかと思ったら、なんだかバカにされているような心持である。  邸宅地図を片手にぐるぐるまわってみて、「大邸宅が立ち並ぶ」というガイドブックの表現は、ありゃ嘘だ、とつくづく思った。「立ち並ぶ」ようでは大邸宅とはいえないのである。深山幽谷を思わせるみどりのあいだを、ドライブ・ウェイが網の目のように走っているだけで、大邸宅の多くは、深い木立や植込みの奥の奥ぐらいのところに、ぽつり、ぽつりと建っているらしい。  富の集中という具体的事実に圧倒されて、喉がかわいてきた。目ざといサンジローが、このときも「あそこに入りましょう」と指さす方向にホテルがあった。スペイン風の瀟洒《しようしや》な外観のこのホテルが、スターたちが蝟集《いしゆう》することで知られる「ホテル・ビバリーヒルズ」だ、とあとでサンジローに教わった。道路から直接プールに入れる通用口があったので、とりあえず入ってみた。  わーんという喧噪と活気の中で、まばゆいばかりの肉体群像が、カリフォルニアの陽光を浴びて金色に輝いていた。デッキ・チェアにくつろいで、飲み物片手ににぎやかに談笑する裸の男女のなかに、たしかに見た顔があった。とっさに思い出せない。ジェーン・フォンダのようでもあるし、ファラ・フォーセットのようでもあるし、バーブラ・ストライサンドとはちょっとちがうようだと考えながらプール・サイド・バーに向かいかけたところへ、金色の胸毛に金色のペンダントをきらきらさせた水泳パンツ一枚の屈強な男が、つかつかとやってきて、失礼、と断ってからいいだした。 「メンバーの人?」  ちがう、と答えたら、すまないが出て行ってくれ、ここは会員制だ、と慇懃《いんぎん》かつ有無をいわせぬ口調で、男は出口を指さした。冷静な表情と物言いが、悪い感じではない。この男の顔も見た顔だ、と思いながら、サンジローと二人でさっきの通用口から退散した。  ほんの一瞥《いちべつ》の印象だったが、華麗で、豪奢で、驕慢《きようまん》で、あれこそスターの園だった。  現代の上澄みを凝縮させたようなきらびやかなあのプールの光景と、いま目にしているプールの、象の墓場を連想させるこの光景との、あまりの落差に、せっかくのビールもなんだか水っぽい。ぬるくなったビールを飲みながら、ハリウッドは死んだ、と思う。 4  自分はもう引退したのだから、テレビに出るのはいやだ、いやだ、といっていたダイ・バーノンとの録画撮りは、Oディレクターの説得と粘りが奏功して、どうにか無事に終了した。気楽にやろうということで、リハーサルのときから、ウィスキーをストレートでひっかけながら、強いライトの下で、ああでもないこうでもないとやっているうちに、バーノンも私も、すっかり酔っ払ってしまった。酔っ払ったいきおいで、マジック・キャッスルのオーナーとバーノンの二人を相手に、めちゃくちゃ英語で鼎談《ていだん》をしたり、O君の指図どおりにバーノンと「さし」でカード・マジックを見せ合ったりした逐一は、帰国後、Oディレクター苦心の編集作業をへて、あつかましくも日本中に放映されたので、ここでは筆録をひかえておく。  バーノンとの録画撮りのあとも、二、三の撮影シーンが残っていた。オーナーのラーセン夫妻にインタビューをしたり、例の「見えないイルマの部屋」の案内役をつとめたりして、全部が終ったら午前一時をまわっていた。  疲労困憊《こんぱい》、口をきくのも大儀である。スタッフから離れて、マジック・キャッスルの曲りくねった廊下をふらふら歩いて行ったら、コリント式装飾のカウンター・バーの奥の「ダイ・バーノン・ストラッセ」と命名された回廊の片すみで、くたびれ果てたバーノンが、白髪の頭をがっくり傾けて眠りこけていた。  無理もないのである。考えてみれば、お昼すぎからサンジローの被写体をつとめながら、私と二人でスコッチを一本あけて、夜は夜で、このとおりなのだから、八十七歳でなくたって、くたくたになるのは当然だろう。  風格と茶目っ気が同居しているような老バーノンの寝顔を見つめているうちに、一期一会《いちごいちえ》という言葉が思いだされた。もう二度と会うことはないだろう。よく見ておこう、と思って向かい合った椅子に腰をおろしたところまでは、はっきりしている。軽い寝息をたててぐっすり眠り込んでいる老人の顔を眺めているうちに、すーっと引き込まれるように瞼がくっついて、あとはわからなくなった。  だれかに肩を揺すられて、はっと気がついたら、サンジローがカメラをしまいながら笑っていた。 「よく寝てましたねえ。バッチリ撮っときましたよ」  後日、その写真を見せてもらった。  録画撮りのあとだから、二人とも黒のタキシードに黒の蝶ネクタイである。タキシードのじじいと、タキシードのおじんが、まるで相討ちのように、ぐったり椅子にもたれて眠りこけているところが、なるほどバッチリ撮れていた。  ダイ・バーノンとさしでやって下さい、とOディレクターはいったけれど、そうして、そのとおりさしで手品をやったけれども、ダイ・バーノンと、さしで眠ったのは、世界広しといえども俺だけだろう、と思いながら上体を起してみると、バーノンは、まだ眠っていた。 「ダイ・バーノン・ストラッセ」の象徴として回廊の壁際に飾られているブロンズの、壮年時代のバーノンの胸像が、老いたる本人の寝姿を見おろしている。 奇蹟の報酬 1  ニューヨークの近郊、とだけしか聞いていなかったので、行けども行けども平坦な道路が続く長時間のドライブが予想外だった。  いまは、大きな公園の中を抜けているようで、とぶようにかすめ去る深い緑が、夏の日差しを透かして、きらきら光っている。まだ充分に明るいけれども、時計を見ると、そろそろ六時に近い。パーク・アベニューのホテルを出たのが三時半ごろだったから、もう二時間以上も走り続けている。  パーティーは六時半からだと聞いているけれど、間に合うのかしらん。招かれているわれわれ一行が、少々遅刻したって別にさしたることもないだろうが、ホーム・パーティーの主人役《ホスト》が客を待たせてはぐあいが悪かろう。 「心配ない、もうすぐだ」  主人役《ホスト》のビト・ルポが、高い運転席でハンドルを水平に構えたまま、この公園を抜けたらわが家だ、といった。  マイクロバスと小型トラックをいっしょにしたような車の、タテに並んだうしろのシートで、Tさんとサンジローが、感に耐えたような声で何かいっている。 「うーん、ビトのやつ、こんなに遠かったのか」 「距離にしたらずいぶん走ってるなあ。東京でいえば、都心から成田ぐらい……」  そうですね、これだけのスピードでぶっとばしてるんですから、ともう一列のシートでN君がいい、N君のうしろで、遠いのねえ、ほんとだな、というフカイ夫妻の声がした。  N君は、Oディレクター麾下《きか》の若いテレビマンである。ロサンゼルスでは、O君にしっかりこき使われていたけれども、肩書はやっぱりディレクターである。次のロケ地ヒューストンに向かうスタッフから別れて、N君は、われわれニューヨーク・ツアー組に同行している。何の因果か、膏肓《こうこう》の部類に入る西部劇マニアのN君は、寸暇もなかったロスでの腹いせのように、ニューヨークに着くが早いか、そっちのほうでは有名らしい専門店にかけつけて、こちこちのカウボーイ・ハットだの、幅広のガン・ベルトだの、鋲《びよう》だらけのウェスタン・ブーツだの、上から下までお色直しと洒落込んで、いまも、保安官の出来損いみたいな姿で、うしろのシートにもたれている。  フカイ夫妻は、ロサンゼルスで開かれていたマジック競技大会《コンベンシヨン》(PCAM)のゲスト・ショーに特別出演した日本の若手プロ・マジシャンである。着流し角帯スタイルのフカイ君が、祭り半纏に網タイツの奥さんと組んで披露した和妻《わづま》(日本手品)を基調とするコミカルなステージが大いにウケて、フカイ、フカイ、としばらくは拍手が鳴りやまなかった。そのフカイ夫妻も、日本での職場は、錦糸町のキャバレーだったり、熱海や鬼怒川の団体専門ホテルの大広間だったり、酔っ払い相手の舞台がもっぱら中心だというのだから、日本のプロ・マジシャンはかわいそうだ、とつくづく思う。  公園は、まだ続いている。人っ子ひとり見あたらない広大な芝生と、亭々たる大樹のあいだを縫って、ビト・ルポのハンドルさばきは依然として軽快である。いったい何万坪の公園なのだろう。 「こんなに遠くだとは知らなかった」 「おどろいたねえ」  うしろの声が、まだおどろいている。  たかだか二時間やそこらぶっとばしたからといって、広いアメリカ、おどろくほうがどうかしている。そんなことは、Tさんもサンジローも保安官もフカイ夫妻も、それに私だって百も承知である。  承知の上で、遠い、遠いとおどろいているのにはわけがあった。  ロサンゼルス国際空港を飛び立って、空路五時間、ニューヨーク三空港のうちの、ニュージャージー州ニューワーク国際空港に降り立ったのが、四日前の夕方である。飛行場の利用客で、いちばん荷物の多い乗客は、アラブの王様やヨーロッパの大富豪を除けば、テレビ人間と、カメラマンと、ステージ・マジシャンにとどめをさすのではないか。その大荷物の三尊がそろってやってくるのだから引越し荷物並みだろう、と賢明にも予想したらしいビト・ルポが、小型トラック二台をつらねて空港に出迎えてくれた。  三年に一度ヨーロッパのどこかで開催されるFISM《フイスム》の大会は、マジックのオリンピックといわれるヒノキ舞台だが、第十四回のおととし、四十二年目にしてはじめてアメリカに一位入賞をもたらした若いマジシャンが、ビト・ルポである。あのとき弱冠十八歳だったのだから、まだ、はたちそこそこの坊やなんだけれど、ピエロの扮装《ふんそう》でパントマイムをまじえながら演じるマジックの洗練度はすばらしいし、それより何より、人柄がとてもいいんです、とビトのことはTさんから何度も聞かされていたので、初対面の気がしなかった。  にっこり笑うと、ニキビだらけの顔に片えくぼができて、一瞬、少年のあどけなさがよみがえるようなこの気のいい若者は、空港に出迎えてくれたその晩から、べったり行動をともにしてニューヨークの昼と夜を案内してくれた。ブロードウェイのミュージカルがはねたあとも、二軒三軒とまわって、ホテルまで送りとどけてくれるのだから、じゃ、またあした、と手をふって別れるのは二時三時である。そうして翌朝の十時ジャストに、グッ・モーニン、とはればれとした顔で迎えにくる。毎日すまないね、とTさんがいったら、問題ない、近いんだから、とあっさり答えてにこにこしていたビトの言葉を、だれもが額面どおりに受取っていたのである。  毎晩二時三時までつきあったあげく、これだけの距離を往復して、なにくわぬ顔をしていたのかと思うと、好意が身に染みる。 「ほら、あの池を越したところだ」  フロント・ガラスの右手前方にひろがる大きな池を指さしながら、ビトが、助手席の私に顔を向けていった。例によって、いちばん年嵩《としかさ》であるという理由だけで、快適な助手席をあてがわれているのはありがたい話であるけれど、ビトの英語の矢面に立たされるのはこの私である。  池の向こうの、白樺のような木立のすきまに、白い家らしいものがちらりと見えた。 「静かで、すばらしいところだね」 「ああ、いいところだ」 「しかし、こんな遠くまで、きみは毎晩帰ってたのか。ちっとも知らなかった。すまなかったねえ」 「なーに、これぐらいの距離は何でもない」  気にしないでくれそんなこと、といいながらビトが大きくハンドルを切って、さあ着いた、おやじとおふくろが待ちかねているだろう、といった。 2  ビト・ルポという名前でも察しがつくとおり、一家はイタリア系である。技術者だというおやじさんは、頭の禿げた五十ぐらいのふとった人で、鉄ぶちの眼鏡の奥の目が、いかにも技術者の目という感じである。 「息子は世界大会に優勝して、とうとうプロに転向したらしいが、わたしは、まだ反対しているのです」  やあやあ、お待ちしてました、ようこそ、ようこそ、とにこやかに全員と握手をかわし了えたとたんに、そんなことをいいだしたが、パーティーがはじまってからのたのしげな様子や、ビトが優勝したときのビデオ・テープをくいいるように見つめる表情や、Tさんや保安官ばかりか私にまで、息子をよろしく、と熱っぽく話しかけてきた語調などを総合してみると、あれは、父親特有の屈折心理の表白だったのだろう。  おふくろさんのほうは、ルポ氏より四つ五つ若そうな、やっぱりでっぷりとふとった人だが、色香十分のなかなかの美人である。  あとは妹のエミリー。それにビトの婚約者だというアン・マリー嬢とその両親。プードル犬二匹。インコ二羽。錦蛇一匹。  以上が、もてなす側の全員である。  もてなされる側は、われわれ六人(Tさん、サンジロー、保安官、フカイ夫妻、私)のほかに、ビトの友人が五、六人。いずれもマジシャンもしくはマジック愛好家だそうである。そのマジック仲間とは別に、ニューヨーク駐在の日本人商社マン一家が、相客として招かれている。 「親子三人でくるはずだ。もうそろそろみんな集るころだが、それまで家の中でも見てもらおうか」  たいした家ではないけれど、と言い添えながら、ビトが案内に立った。  日本式でいえば、6LDKだか7LDKだか、十五畳ぐらいのリビングルームを中心に、こぎれいな部屋がたくさんあって、中庭にプールがあって、バーベキュー・コーナーがあって、地下室がある。その地下室がビトの書斎兼スタジオで、二十畳以上もありそうなコンクリート空間を二つに仕切ったそれぞれの部屋は、まるでシェルターである。  これで中の下クラスの建売り住宅なのだ、というようなことをビトがいっていたけれど、値段を聞くのを忘れた。  後日の話になるけれど、ヒューストンのダウン・タウンをドライブしていたら、美しい緑に囲まれて白亜の豪邸が整然と立ち並ぶ区画に出た。 「すばらしいなあ」  思わず感嘆の声を漏《も》らしたら、案内してくれていたヒューストン在住の某氏が、こともなげに答えた。 「ああ、これですか。これは中の上クラスの建売りです。十万ドルから十五万ドルで買えますよ」  あれが十万ドルで買えるのなら、比較しては悪いけれど、月とすっぽんの、どう見てもすっぽんの方に属するビトの家は、せいぜい五万ドルというところだろう。  五万ドルなら、千三百万円である。  十三年前に無理して買って、ローン完済と同時にスラムと化したわが家が、十三年前のあのとき千三百万円だった。五万ドルの建売り同士か、と思うそばから溜息が出る。  シェルターもどきの地下室の書斎で、ビトのトランプ・コレクションを見せてもらった。私も世界中のトランプを蒐《あつ》めているので、ことのほか興味がある、貴重品や珍品カードについても多少のことはわかるつもりだ、というようなことを口にしたとたんに、抽斗《ひきだし》の中から五、六組の珍しいトランプをえらんで、私の手に押しつけるようにして、受取ってほしい、とビトがいいだした。コレクションというものは、蒐 集《しゆうしゆう》するもので、配給するものではない。それに、正直なところ、私のカード・コレクションに比べると、ビトのそれは、はっきりいって質、量ともに見劣りがする。そこから五つも六つももらうなんて、同じコレクターとして忍びない。もちろん、そんなことを口にするわけにはいかないし、だいいちそんなややこしいことを喋《しやべ》れるわけもない。オウ・ノー、オウ・ノー、気持はうれしいがノー・サンキューの一点ばりで固辞すればするほど、どうやら東洋式の遠慮と受取るらしくて、しまいにこっちのポケットに、トランプの箱をたて続けにねじ込みながら、友情のしるしだ、といった。  はたちか二十一になるやならずの、考えてみると自分の息子のような若者に、そうまでいわれると、なんだかわけもなくほろっとして、若者の好意は素直に受けよう、と思った。 3 「さあ、それじゃ——」  ビールとウィスキーで、もうだいぶ出来上っているらしいビトが、ソファからゆらりと立上って、みんなで見せ合おう、といいだした。あらかじめ、そういう段どりになっていたとみえて、何人かが手分けしてテーブルとソファの位置を変え、たちまちマジック・コーナーがととのった。アマチュア・マジシャンだというジーンズにTシャツのひょろひょろした青年が、手馴れた感じでビデオ・カメラと照明器具をセットして、こっちはいつでもOKだ、と告げた。  即席ステージをぐるりと取り巻くようにソファがうまく配置されているけれども、むろん、それだけでは足りない。食堂の椅子や、丸だの四角だののストゥールが持込まれて、それでも全員にはいきわたらない。はみだした者は、絨毯《じゆうたん》の上であぐらをかいたり、壁にもたれたり、立て膝をしたり、思い思いのスタイルで見ればいい。  いちばんよく見える特等席は、ソファでもストゥールでもなくて、マジック・テーブルのまん前の絨毯の上である。そこには、商社マンの親子三人がすわった。われわれ六人の相客として、ビトが特に招《よ》んでくれたこの一家は、ニューヨーク暮しは二年たらずだけれども、その前にロンドン暮しが長かったので、いま中学二年になる坊やも英語はペラペラである。目の前でマジックを見たことは一度もないというこの坊やと、元「ミス新宿高校」だったという美しいママが、当然、マジック・ショーのご正 客《しようきやく》ということになって、それで、坊やがいちばんいい席で、くりくりっとした大きい目を輝かせて、さっきから身をのりだしている。「ゆう」君という名前で、英雄の「雄」の字を書くんだそうである。 「よし、俺がやろう」  ヒゲづらの、しかしよく見ればビトと同じ年恰好《かつこう》のふとった青年がとびだして、カード・マジックとコイン・マジックを披露したのを皮切りに、ビトの友人たちが、つぎつぎに立った。一人見せ終るたびに、ビデオ・テープでもう一度、というふうに大型のテレビ受像機に再現されるので、時間もかかるけれども、なかなか勉強にもなる。  ひととおり出つくす頃合いを計っていたように、ビトが白いあごヒゲの男を指名した。ミッチ・ミラー合唱団のミッチ・ミラーによく似たその初老の紳士は、若者ばかりのパーティー参加者の中で、一人だけ異彩を放っていた。  ローラン・ロッシェル、「コメディ・クロースアップ・マジック」の名手として知られるベテランのプロ・マジシャンだ、とビトが紹介してくれた。コメディ・クロースアップというのははじめて聞く言葉だが、いわれてみると、どことなくとぼけていて、マジシャンというよりコメディアンの顔である。  瓢逸《ひよういつ》と風格が同居しているようなその顔に笑みをたたえて前に出たロッシェルは、優雅な物腰で一揖《いちゆう》したあと、ポケットからカードの箱を取り出しながら、目の前で身をのりだしている雄《ゆう》君をさし招いて、きみ、ちょっと手伝ってね、とあやすような口調でいった。 「はーい」  日本語で答えて、雄君が、いかにもうれしそうにロッシェルの横に並んだ。 「お名前は?」(What' your name?) 「ゆう」(You) 「あっこりゃ失礼、おじさんはロッシェルというんだ。君の名前は?」(Oh, excuse me, I'm Rochelle, and what' your name?) 「ゆう」(You) 「わたしはロッシェルだよ。君は?」(I'm Rochelle, and you?) 「ゆう」(You) 「だから、ロッ、シェ、ル! 君の名前は?」(Rochelle is my name! What your name?) 「ゆう、だってば」(I'm You!) 「ええッ、ユーはユーなのか」(Oh! You are You!)  この押し問答には、みんなが腹をかかえて笑ったけれど、ロッシェルのほうで、どこまで押して、どこで切り上げるか、という笑いの呼吸みたいなものは、さすがにたくみだった。  You are You の、その雄君を相手に、主として仕掛け《トリツク》カードを用いるコミカルなマジックをあざやかに見せてから、ロッシェルは雄君と握手をかわしてソファに戻った。  すぐにVTRが再生されて、You are You がまた大ウケだった。 「それじゃ、次はシゲ——」  息子のようなビトが、私の顔をのぞきこんでいった。息子の言いつけなら、従わないわけにはいかない。よろこんで前に出た。  前にも述べたとおり、私は仕掛け《トリツク》カードは使わない。市販の、それも新品のカードを二組、その場で封を切ることにしている。いつでも持ち歩いている BICYCLE 印のトランプを、雄君に渡して、セロファンの封を切ってもらった。  封を切りたてのカードが、どんな並び順でセットされているか、みなさん、ご存知ですか、というようなところから私はたいていスタートする。  トランプの並び順は、必ずきまっている。ただし、アメリカ型とヨーロッパ型がある。ヨーロッパのカードは、キングが四枚、クィーンが四枚というふうに、絵札は絵札でセットされている。アメリカのカードは、まずスペードのエースからキングまで、次にダイヤのエースからキングまで、そうしてそこから、クラブの、今度はキングからエース、ハートのキングからエースというぐあいに、黒・赤・黒・赤とセットされている。ついでにいえば、日本製のトランプも九割までがアメリカ型である。  黒・赤・黒・赤の並び順であることをリボン・スプレッド(リボン状に横にひろげること)で見せたあと、そのままリボンを閉じて、一瞬の気合い(これは秘密)とともに、もう一度リボン・スプレッドすると、いま黒・赤・黒・赤と並んでいたカードが、黒黒・赤赤、と二十六枚ずつ截然《せつぜん》と分れる、という手品で、まず観客の気持を卓上に集中させてから、そのカードをよく切ってもらう。 「雄君——」 「はい」 「このカード、よく切ってくれない? うん、めちゃくちゃに切っていい」  中学二年にしては、なかなかいい手つきである。 「ありがとう。すばらしい手さば《ハンドリング》きだ」  これだけよく切ったら、もうばらばらにちがいない。どのくらいばらばらになっているか、ちょっと見てみようね、と雄君に声をかけて、ほら、とリボン・スプレッドをしてみせた。  奇蹟が起きていた。  五十二枚のまん中から、右半分がぜんぶ赤、左半分がぜんぶ黒、と一枚の狂いもなく正確に分れている。 (あッ)  いちばんびっくりしたのは、演者の私である。52の何乗というのか、階乗というのか、確率ということでいえば、ほとんどあり得ない偶然が、目の前に現出している。あり得ない偶然なら、すなわち奇蹟である。奇蹟を利用しない手はない。 「ほらね——」  内心の驚愕をひた隠しに隠しながら、さも当然というような顔をして、雄君、きみがどんなにめちゃくちゃに切ったって、おじさんの念力ひとつで、このとおりなのさと、とっさのアドリブを口にしておいてから、そしらぬ顔であとの手品を続けた。  ワンダフル、ビューティフル、スプレンディッド、アンビリーバブル。  例によって、顔も赭《あか》らむような言葉がとびかって、このときからビトは、私のことを「教  授《プロフエツサー》」と呼びはじめた。 4  スペードの5の、まん中のスペード・マークだけが、すーっと斜めに動いたかと思うと、全員の目の前でスペードの4に変ったりするような派手であざやかな手品を、私のあとにフカイ君が五つむっつ披露して、最後に主人役《ホスト》のビトが、カードは余技なんだけど、といいながら、複雑なテクニックのカード・マジックを一つだけやってみせたところで、ビトのお母さんが、食事の用意がととのった、と呼びにきた。  みんながマジックに打ち興じているあいだも、主婦たるものが台所で総指揮にあたるところは、アメリカも日本もないみたいである。 「みなさーん、どうぞォ」  かいがいしく手伝っていたらしい婚約者のアンの声が、食堂のほうから聞えた。  みんなといっしょにリビングルームを出ようとしたら、うしろからだれかに肩をたたかれた。ふり向くと、さっきの You are You のロッシェルがにこにこ笑いながら、ちょっと待て、というふうに白いあごヒゲの顔で、うなずくような仕種《しぐさ》をみせていた。全員が出て行くのを待ってから、ロッシェルがいった。 「俺の新しいカード・トリックを見せよう。ちょっといいトリックだと思うから、君に教えたい」 「ありがとう。そりゃもうぜひ」 「まあ、すわろうじゃないか」  食堂の様子が気になったが、いまちらと目にしたところでは、立食形式のようだったから、少しぐらいの道草ならいいだろう。プロのマジシャンが、自分のタネを教える、というのはなみなみならぬ好意である。ありがたく教えてもらうことにした。 「はじめに、ひととおりやってみせるから、よく見てくれ」 「わかった」 「まず、一枚抜いてくれ」  絨毯の上にあぐらをかいて、いい年をした男二人が、さしむかいでトランプをもてあそんでいる図は、はたから見れば滑稽《こつけい》だろうが、こっちは大まじめである。 「こうして、こうして、このときに、こっちの指がここにかかって……」  べつに「こ」の頭韻を踏んで教えてくれたわけではないけれど、カード・マジックの教え方というと、どうしてもそんなふうになる。複雑な手順と、微妙なこつと、それに電光石火の動き。この三要素を同時に並行して説明することは、至難のわざである。文字では不可能に近い。やっぱり、さしむかいで、手をとって、こうして、こうして、と教えるのがいちばんである。  ロッシェルの教え方は、懇切《こんせつ》かつ完璧《かんぺき》だった。 「わかったか」 「わかった」 「どうだ、このトリックは」 「すばらしい」 「使えるか」 「もちろんだ。俺もこれから大いに使わせてもらう」 「そうか、気にいってくれてよかった」 「ありがとう」 「ついては——」  まっすぐに私の目を見つめて、ロッシェルがいいだした。 「君があの坊やにやってみせた、さっきの、あれを教えてくれ」 「宣誓」前後 1 「たのむ——」  みんなが出て行ったあとの、ひと気のないリビングルームの絨毯《じゆうたん》の上にどっかとあぐらをかいたまま、ローラン・ロッシェルが重ねていった。 「さっき君が少年にやってみせたあのトリック、あれをぜひ教えてくれ」  雄《ゆう》君相手に You are You でみんなを笑わせていたときの剽軽《ひようきん》さは消えて、ひたと見つめるガラス玉のような青い目が、いかにも真剣である。にこりともしないその顔に、もちろん教えてくれるだろうな、と書いてある。  それはそうだ。  俺の新しいアイディアを君に教えたい、とロッシェルのほうからいいだして、それで、たったいま、洒落たカード・トリックを一対一で教えてもらったばかりである。俺も教えたんだからお前も教えろ、と暗にいわれているようなものであって、いやだ、といったら国際信義に悖《もと》る。  だいいち、いやだ、などという気持ははじめから露ほどもない。それどころか、コメディ・クロースアップの名手として高名なプロ・マジシャンに交換教授を申込まれて、一介のアマチュアとしては、光栄至極である。そりゃもう、よろこんで交換教授に応じたい。応じたいけれども、応じられない。  あのとき私がしたことといえば、少年が勝手によく切ったカードをそのまま受取って、そのままリボン状にひろげただけである。うん、なかなかよく切れてるね、と少年の切り方を褒めておいて、それから次の手品にとりかかるつもりだったのに、ひろげてみたら、考えられない偶然のいたずらで、五十二枚のトランプが、截然《せつぜん》二十六枚ずつ、右半分が赤、左半分が黒に分れてしまったのだから、やってるこっちがおどろいた。  52の何乗というのか、階乗というのか、確率ということでいえば、ほとんどあり得ない偶然が目の前に現出した、と前章に書いたら、某誌の編集者で、自称数学に強いという若者が拙文を読んで、その確率計算は不可能です、という。 「どうして?」 「だって、数式なんか立てられっこないじゃないですか」 「そうかね」  ヨーロッパに古くから伝わる騙《だま》し絵カードというのがある。最近、香港製の安っぽい複製《コピー》が出まわりはじめてありがたみが減少してしまったけれど、私が持っているのは西独製のほんもので、六センチ角の正方形の薄い箱に、二十四片に切断されたカードが入っている。この二十四片を横に並べると、細長い風景画が出来上る仕組みだが、どの一片をどこに入れ替えても、風景がきちんと成立するようにえがかれているところがミソで、なんでも西独の終身懲役囚が、独房の中で暇にあかして作り上げたエンドレス絵巻だと聞いた。二十四片のどの絵柄も、他の二十三片の絵柄のどこかにぴったり接続するところがなんともみごとである。  この二十四片による順列組合せをぜんぶ試みようと思ったら「一人の人間が一秒に一片動かすとして千六百万年かかる」という説明に添えて、次のような数式が書いてある。    むろんちんぷんかんぷんだけれど、このカードを入手した当座に、自称ではない、ちゃんとした数学者に見てもらったら、これでまちがいはないと判定してくれた。この数式にのっとって計算すると、二十四片を一つずつ動かして、ぜんぶ動かし終るまでの回数は次のとおりだ、と説明書に出ている。  1 6 8 6 5 5 3 6 1 5 9 2 7 9 2 2 3 5 4 1 8 7 7 2 0 times.  何回というんだろう。イチ、ジュウ、ヒャク、セン、マンと一の位から順に位どりしていって「京」までかぞえてあきらめた。  二十四片でこれである。五十二枚の組合せを考えたら気が遠くなる。気が遠くなってもよければ「Σ」だの「!」などという記号を使えば、数式化できるのではないか。 「ま、そうかもしれませんけど、でも、任意に切った五十二枚のカードが、赤黒まっ二つに分れるなんて、奇蹟以外の何物でもないです」 「そうか、やっぱり奇蹟か」 「奇蹟ですとも」  その奇蹟に便乗して、いかにも自分の手品のような顔をしてみせたところまでは、われながら上出来だったが、上出来すぎて、プロのマジシャンまでケムに巻いてしまったのは計算外であった。 2 「俺はこの目で、しっかり見てたんだ」  あのときの逐一を反芻《はんすう》するようにうなずきながら、ロッシェルが続けた。 「あの少年は、まちがいなくよく切っていた。カードを受取った君は、何もしなかった。だが、カードはああなった。なぜだ。え? なぜだ」 「い、いや、そ、それは、偶然——」  日本語だったらさしずめそんなふうに聞えたにちがいない受け答えを英語で口走りかけたところで、情ないことに、肝心の「偶然」(by chance)という言葉が、とっさに出てこない。舌がもつれてあとが続かない私に、ロッシェルがいう。 「あのトリックは、実にあざやかだった。俺はすっかり感心した。なあ君、あれ、どうやったんだ」 「うーん、あれは……そう、あれはハプニングだったんだ」 「ハプニング?」 「そうだ、あれはもう、まったくのハプニング……」  ハプニング、ハプニングの一点ばりで弁解しながらロッシェルの顔を見ると、どうも意味が通じていない様子である。はて、happening に「偶然」の意味はなかったのだろうか、と思うと急に不安になって、あとのやりとりがいっそうアガり気味になってしまう。 「と、とにかく、俺は何もしなかったのだ」 「それはわかっている。君は何もしなかった。でも、君がひろげたらああなった。なぜなんだ」 「あれは手品ではない」 「………」 「ほんとに何もしなかった。信じてくれ」 「わかった、わかった」  白いあごヒゲの口元に微笑をたたえてうなずいたロッシェルの顔に、水くさいぞ、と書いてある。  ビュッフェ・スタイルのご馳走《ちそう》が並んでいる食堂のほうから、フォークやお皿の音といっしょに、たのしげなさんざめきが聞えてきた。さあ早くあっちに合流しようよ、という心持をこめて食堂のほうに顔を向けた私の肩を、わかったわかった、というふうに片手で二、三度たたいたロッシェルは、ひと呼吸おいてから、気を変えるような調子でさりげなくまたいった。 「でも、なぜだ?」  要するに信用してないのである。  それでいて、顔はにこにこ笑っている。なあ、同じマジシャン同士じゃないか、という親近感と、俺だって教えたんじゃないか、という無言の圧力との板ばさみみたいなぐあいで、なんとしてでも誤解をときたいと思えば思うほど、考えもなく、条件反射的に英単語が口からとびだしてくる。 「That was not a magic, just happening」 「Oh, yes sure ……but why?」  これでは堂々めぐりである。同じやりとりを何度も繰返しながら、そのつど「お願いだから信じてくれ」とか「俺は決して嘘をついていない」というような言葉を添えて、偶然であることを強調すればするほど、かえってかくしだてしているようにみえるらしい。  日本人はきたない。自分だけ教わって、自分は教えようとしない。  そう思ってるんじゃないかと思うと、いてもたってもいられない。くどいようだが、そうして、おおげさなようだが、ことは国際信義にかかわる。どうしてもわかってもらいたい、とリキんだはずみに「誓ってもいい」という言葉が脳裡をかすめた。  外国映画を見ていると、ここぞというところで、だれもかれもが、その言葉を口にする。五つ六つのジャリまでが、何かというと「ウソじゃないってば、誓ってもいい」なんてやっている。  絶対神をいただく西欧社会にあっては、あれこそ鉄の一言であって、誓うという行為には千鈞《せんきん》の重みがあるらしい。  だからこそ、法廷証言での宣誓にも意味があるわけだし、「誓う者は裁判上信じ得る」(Juratur creditur in judicio)という法諺《ほうげん》が、いまも脈々と生き続けている。それをそのまま導入して、誓う対象を持たない日本人に「良心に従って真実を述べ、何事も隠さず又何事もつけ加えないことを誓う」などと印刷文字を読み上げさせているのはナンセンスもいいとこだ、と私はかねがね不審に思う者である。宣誓不信。しかしながら、ことここに至ればやむを得ない。アメリカ人相手なら、誓うことで、この日米摩擦から解放されるかもしれない。 「ミスター・ロッシェル、もう一度いう」 「イエス」 「俺は何もしなかった、嘘ではない——」  誓ってもいい、と続けようとして、その「誓う」(swear)が思いだせない。思いだせないのではなくて、考えてみたら、もともと知らないのである。日常生活の中で「誓う」ことなんてないのだから、そんな言葉には縁がない。知らないものは、思いだせっこない。  こうなりゃ破れかぶれである。  嘘ではない、まで喋ったあと、とっさの思いつきで、片っぽの足だけ絨毯の上にひざまずくように折り曲げて、「聖書《バイブル》」「聖書《バイブル》」と口走りながら指で長方形のかたちをえがいてから、胸にあてた片手で十字を切ってみせたら、やっと、オーケー、よくわかった、もういいもういい、といってロッシェルが、にっこり笑った。そうして、にっこり笑ったその目が、まだ疑っている、というふうに私には思えてならなかったのだけれど、これ以上は、どうすることもできない。  誠意の限界だ、と自分にいい聞かせながら、ロッシェルとつれだって食堂に顔を出したら、ハーイ教  授《プロフエツサー》、何してたんだ、とビト・ルポが、ご馳走のあいだを縫うようにしてやってきた。 「待ってたんだ、教  授《プロフエツサー》、さあ、ゆっくりやってくれ」 「ありがとう」 「帰りは、またホテルまで送るから、時間を気にすることはない」 「しかし、ホテルまで二時間以上だぜ、往復すれば五時間近くもかかるんだから……」 「問題ない。なんなら、教  授《プロフエツサー》の部屋に泊めてもらうから」 「ああ、それはグッド・アイディアだ」  パーティーのおひらきは、結局、十一時ごろになったようである。それから蜿蜒《えんえん》もときた道をビトの運転でひた走って、パーク・アベニューのホテルに戻ったら、午前一時半をまわっていた。とりあえず交替でシャワーを浴びてから、広いツイン・ルームのソファで向き合って、改めて一杯飲みながらマジックの魅力や方法論を話し合っているうちに、だんだん熱をおびてきて、はっと気がついたら、窓の外が明るくなっていた。 3  ビト・ルポの舞台は、華麗で、繊細である。同じステージ・マジックでも、「イリュージョン」と呼ばれる大仕掛けな奇術ショーとは一線を劃《かく》していて、こけおどしのところがない。  マジックのオリンピックと目される三年に一度の世界大会(FISM《フイスム》)で、はじめてアメリカにグランプリをもたらしたときのビトのステージは、その年の暮に日本でも「世界のマジック・ショー」というテレビ番組で放映されている。ピエロの扮装をして、マルセル・マルソーばりのパントマイムを演じながら、見えないパイプから無限に紫煙をふかし続けたり、巨大なシャボン玉の中にとじこめられて透明な被膜と格闘したりするマジックだ、といえば、ああ、あれか、と思いだされる読者もおありかもしれない。  そのピエロ姿のビトを、ステージなんかではなく、ニューヨークの目抜き通り、それも白昼の路上で撮影したい、とサンジローがいいだしたのは、ニューヨークにもう一度舞い戻った直後である。 「え? そんな——」  一瞬耳を疑うというような表情をうかべたビトは、そいつはクレイジーだ、と呟《つぶや》いて、目をぱちくりさせた。ホーム・パーティーのときには、ずいぶん盛大だったニキビが、いつのまにか枯れて、すっきりした顔がいくらかおとなびてみえた。あれから半月あまりたっている。  全米マジシャン協会(SAM)主催の競技大会《コンベンシヨン》が開かれたボストンでビトといったん別れたあと、ヒューストン、ラスベガスとまわったところで、そこから先をサンジローとの二人旅《ににんたび》に切り換えて、ニューオルリンズでジャズびたりになったり、ダラスでへんなおじさんと政治論争(英語で!)をしたり、どこだったかの空港で、行方不明になった荷物をめぐって航空会社の窓口相手に打 々発止《ちようちようはつし》のかけあい(英語で!)をしたり、足の向くまま弥次喜多道中よろしくふらついたあげく、いまニューヨークに戻ってきたところである。  旅先にあっての再会の味というのは、なかなかいいもので、半月会わないうちに、たがいの親近感に加速がついている。 「な、ビト、協力しろよ」 「もちろん協力するさ。ただし、路上で、というのはあまりにもクレイジーなアイディアだ」 「そうかね」 「そうだよ」  横で聞いていると、完全に親友同士のやりとりである。「俺、おまえ」という語法が英語にあるのかないのか、たぶんないのだろうけど、雰囲気としてたしかにそんな感じで、サンジローがなおもねばった。「クレイジー」のひとことで、あっさり引下るようなサンジローではない。  ニューヨークの超近代的なビル群をバックにしてこそ、それからまた、ニューヨークの人種の坩堝《るつぼ》の中に置いてこそ、ビト、おまえのピエロ姿は生きるのだ、というような意味合いのことを口にしたサンジローに、おや、と思うような真剣な口調でビトは答えた。 「俺はね、大道では絶対やらないことにしているんだ」 「そうか——」  そういうことなら仕方がない、とサンジローが折れた。  そういえば、ニューヨークの路上、とくにタイムス・スクエアだの五番街なんかの道端では、投げ銭大歓迎の大道マジシャンや、三枚のカードのすりかえでかせぐイカサマ賭博師が、むやみやたらに目についた。日本のテキ屋がピースの箱を使って行う「モヤがえし」と同じ原理のその街路賭博には、かならずサクラがいて、お客は金輪際勝てない仕組みになっている。サクラのことを、英語では「ストゥージュ」(stooge)というのだ、とこの前のニューヨーク滞在中にビトが教えてくれた。  そんなイカサマ賭博師は論外だけれど、大道マジシャンのほうは、あれで結構いい生活をしているのだ、とビトが口を歪めていう。 「あいつらは、一日百ドルはかたい。しかも無税だ。ただしお巡りに見つかったらパクられるけどね。われわれプロ・マジシャンは、ニューヨークではめぐまれていない。マジシャンを入れているナイト・クラブが、このニューヨーク中でいまや二軒しかない。そういうところでは週に二百五十ドルがいいとこだ。ブロードウェイで、いま『バーナム』というサーカス王のミュージカルがヒットしているが、あの劇場の入口で客寄せに手品を見せているマジシャンで週六百五十ドルというところだ。マジシャンとしての名声と収入は、やっぱりラスベガスで契約を結ばなくては……」  問わず語りにボヤいたあのときの述懐が、改めて思い出された。大道では絶対やらない、といいきったビトの気持がよくわかる。サンジローも同様だとみえて、残念だがあきらめよう、とうなずいた。とたんに、ビトが顔を左右にふるような仕種をみせて、だがしかし、といいだした。 「サンジローと教  授《プロフエツサー》の頼みなら、断れない」 「いいよ、無理するなよ」 「いや、いいんだ。引受けた」 「ほんとうか」 「ああ。引受けた以上、百パーセント協力する。どんな注文でも出してくれ、なんでもするから」  にっこり笑って握手の手をさしだしたビトは、ちいさい声で、ギャラはいらない、といった。 4  七月の第三日曜日である。  ふりそそぐ真夏の陽光の下で、ピエロに扮したビトの白塗りの顔の、額の生えぎわにふきだした汗の玉が、きらきら光っている。だぶだぶの白のガウンに白のパンタロン、片手に白のシルクハットという白一色のビトの背中に、べっとりとにじんだ汗が大きな地図をえがいている。じっとしているだけでも汗がしたたるこの暑さの中で、撮影は午前十時から、昼めし抜きで午後二時まで続いた。  なんでもする、といったビトの言葉に誇張はなかった。  雑踏をきわめる五番街の聖パトリック教会付近をふりだしに、道ゆく人びとの好奇の目を一身に受けとめて、ビトは、おどけた道化の笑いをふりまきながら、ほとんど一区 劃《ワン・ブロツク》ごとに立止っては、絶妙のパントマイムと、ちょっとした手品を演じ続けた。  若い両親に手を引かれて向こうから歩いてきた三つぐらいの女の子が、ビトのピエロが近づくと、口をあんぐりあけて立ちすくんだ。ブロンドのかわいらしい顔は、驚愕と不安の色でいっぱいである。かがみ込んだビトが、にこにこ笑いかけながら、まっ赤に塗ったルージュの口から、赤いスポンジ玉をいくつも出してみせたとたんに、火がついたように泣きだした。泣くと、ますますかわいらしい顔になった。両親も含めて、野次馬がみんな笑いだした。  そそり立つエンパイア・ステート・ビルを背景に、おのぼりさん風の初老の外人夫婦が連れのカメラに向かってポーズをとっていると、すかさずうしろにまわって、夫婦の肩ごしに、大口あけた顔を、にゅっと突きだして記念写真におさまったり、制服のふとった巡査にいきなり抱きついたり、たまたまぶつかった何かの記念パレードの先頭に走り出て、美人ぞろいのチア・ガールと肩を並べて行進してみせたり、昼間から酔いつぶれている浮浪者のベンチの背もたれに、ひょいととび乗ったとたんに怒鳴られたり、撮影中の一挙手一投足のことごとくが、サービス精神の塊《かたまり》なのである。  サンジローの注文が、またすごかった。ファインダーに目をくっつけたまま、ああしろ、こうしろ、と、それはもう、遠慮もくそもあらばこそ。  通称「アベニュー・オブ・アメリカ」の六番街でひときわ異彩を放つタイム・ライフ・ビルの、モダンでシャープなガラス張りの壁面をバックに、ビトのピエロ姿を配置していたサンジローが、こともなげにいう。 「ちょっと、その手すりに乗ってくれ」 「ここにか?」  よしきた、とビトが、かるがるとした身のこなしで、手すりのふちにとび乗った。道路のほうから見ると単なる手すりだが、向こう側は、地下広場式の深い谷底になっていて、のぞき込むと目がくらくらする。足を踏みはずしたら、まずまちがいなく、一巻の終りである。まさに剣が峰のそのせまい手すりの上で、白いガウンを翻 《ひるがえ》しながら、からだをのけぞらしたり、片足で立ったり、バレリーナ風に一揖《いちゆう》してみせたり、はらはらするようなポーズをとり続けたビトの口から、おしまいに五色のテープが盛大に散って、あとからあとからきりもなく抛物線《ほうぶつせん》をえがいた。  圧巻は、セントラル・パーク内の動物園での一齣《ひとこま》だった。鉄柵をめぐらしたコンクリートのポーチみたいなところで、大きな象が水浴びをしていた。くねくねと実によく曲る長い鼻をホース代りに水槽の水を吸い上げては撒水する作業に没頭して、象は、いかにも心地よげである。そいつをバックにビトを撮っていたサンジローが、またしても、こともなげに注文した。 「おい、ビト、柵の中に入ってくれ」 「えッ、中に?」  さすがのビトも、このときだけは一瞬ひるんだ。そいつはちょっとやばいよ、といいたげな顔をして、うしろの象をふり返ったビトに、さあ入った、というサンジローの無造作な声がとんだ。 「わかった」  ひと声残して、ビトが、体操選手の鞍馬《あんば》跳躍を思わせる身のこなしで、ひらり、と鉄柵をとび越えた。  コンクリートの三和土《たたき》に両足が着地した瞬間から、ビトはピエロそのものになった。まっ赤な唇をいっぱいにひらいて、呵々《かか》大笑する表情をつくりながら、おもしろおかしいパントマイムを演じはじめた。  象が気がついた。  ぴたり、と鼻の動きがとまったかと思うと、しゃがれ声とも、かすれ声ともつかない、一種異様な怒りの声を発して、いきなり象が突進してきた。巨体からは想像もできないスピードだった。  ビトは演技に夢中である。  サンジローが、ここを先途《せんど》と押しまくるシャッター音が、カシャカシャカシャと響きわたって、怒れる象の咆哮《ほうこう》と交錯した。 (あ、まずい)  血が凍りつくような一瞬だった。 「出ろォッ!」  われ鐘のような大音声で、鉄柵をとり巻いている見物の一人が叫んだ。get out という一語が、ゲラーッ、と聞えた。怒気を含んだその声に、はじかれるように、ビトが逃げた。十五、六人いた見物人のあいだから、女の悲鳴が聞えた。  一刹那、というきわどいタイミングだった。白いガウンが舞って、ビトのからだがこっち側に着地するのと、象の巨体が鉄柵に体当りするのとが、ほとんど同時だった。  息をはずませてビトが戻ってきた。 「この馬鹿野郎《ユー・アー・クレイジー》!」  思わず怒鳴りつけてしまった。ビトだけではなく、サンジローにも怒鳴ったつもりである。 「だいじょうぶだ、心配ない」  けろりと答えたビトの屈託のない笑顔が、わけもなく腹立たしい。 「おまえ、死ぬとこだったんだぞ」 「まさか」 「あと一秒というところだった」 「うそ」 「ほんと——」  誓ってもいい、と続けようとして、swear の一語が、やっぱり出てこない。 こちらヒューストン 1  雨脚のすごさにおじけづくということが、計器の壁が飛んでいるようなジェット旅客機にもあるのだろうか。  二度三度と着陸態勢に入りながら、そのたびに機首を立て直しては旋回を繰返してばかりいるジェット・エンジンの、ごうごうという振動音にまじって、機体がきしむような不快かつ不穏な音が、さっきから耳について離れない。  ジェット旅客機の本体は、大部分がアルミ合金で、あとはチタン合金、マグネシウム合金、ステンレス鋼、ベリリウム、減損ウラニウム、プラスチックス、強化プラスチックス(ガラス繊維、ポロン繊維、カーボン繊維)といった物質が使われていると聞く。アルミ合金はともかく、マグネシウムだのウラニウムだの、なんとなく気味の悪いものまでが、ほかの金属といっしょになって、きしみにきしんでいるのかと思うと、飛行機はきしむようにできているのだからご心配なく、とスチュワーデスはいうけれど、やっぱりいい気持はしない。  小雨に烟《けむ》るボストン空港を午前九時すぎに飛び立ったこのデルタ航空203便は、途中、曇天のワシントン空港と、快晴のニューオルリンズ空港に寄り道して、ボストン時間の午後二時半、こっちの時間で午後一時半のいま、豪雨のヒューストン上空で何度も着陸を試みかけては旋回を続けている。  ひそかにとなりを窺うに、シートベルトをしっかりしめたサンジローが、鉄ぶちメガネの奥の目をぎゅっととじたまま、身じろぎもしないで硬直している。シートベルトからはみだしたお腹のあたりできつく組み合わせている両手の指が、血の気を失ったように白っぽくなっていた。  一年のうち半分ぐらいは日本を留守にしていて、世界中の飛行機に乗り慣れているサンジローが、こんなただならぬ様子を見せるということ自体が普通ではない。前にも記したとおり、サンジローというのは、屈強がTシャツを着ているような男で、こわいもの知らずのタフ・ガイで、おまけに不死身のスーパーマンである。  不死身というのは本当で、六、七年前のクリスマス・イブの夜、スイス国境に近いイタリアのヴァレーゼから、休養先のグリンデルワルドに向かったサンジロー運転のレンタカーが、凍結した山道で対向車と正面衝突した。サンジローの名誉のために書き添えておくが、警察用語でいう「百対ゼロの事故」で、過失は一〇〇パーセント先方の車にあった。ぺしゃんこにつぶれたレンタカーの中で、サンジローはほとんど仮死状態だったらしい。かつぎこまれたドモドッソラというイタリア領の病院での処置がよほどよかったのか、それとも当人の心臓がよほど丈夫だったのか、奇蹟的に一命をとりとめたサンジローは、ちんぷんかんぷんのイタリア語だけにとり囲まれて、二カ月の入院生活を送った。一語も言葉を解さない全身ギプスの東洋人を、無類のやさしさで手厚く看護してくれたかの地の人びとの善意を語るとき、サンジローはいまでもうっすら涙ぐむのがつねである。  その不死身男といっしょなのだから絶対だいじょぶだと思うそばから、その不死身男が身をかたくしているぐらいなのだから、ひょっとするとひょっとするんじゃないのかという不安が雲のように湧いてくる。  揺れ方がいっそう激しくなり、機体のきしみが、断末魔の悲鳴のように聞えはじめた。テレビ画面を横に流れる〈……日本人乗客は二人だけのもよう〉という速報テロップの字句が目の底にちらちらして、シートの肘かけをにぎっている両手に思わず力がはいったとき、みるみるうちに接近してきた滑走路が、どすん、という衝撃と同時に、黒い帯となって奔流のようにうしろに流れて、次の瞬間、ほぼ満席の機内からいっせいに盛大な拍手と歓声がまき起った。  それで反射的に思いだした。  スイス国境近くの山中でサンジローが死に損っていたちょうどあのころ、私は、ソ連国営航空アエロフロートSU578便で東ドイツに出掛けていたのだが、モスクワ上空にさしかかったら、すさまじい雷雨と稲妻に遭遇して、やっぱり何度も着陸のやりなおしを繰返したあげく、手に汗にぎる迫力でシェレメチェボ空港に、どすん、とバウンドしたとたんに、期せずして盛大な拍手が起った。いっしょになってパチパチ手をたたきながら、こんなスリルとサスペンスはもうこりごりだ、と思ったことがついきのうのことのようである。 「着陸の拍手、俺は二度目だよ。いやなもんだね」 「ぼくは何度も経験してます。毛唐っていうのは臆病ですからね」 「きみは平気だった?」 「ぼくは一度死んだからだですもの、こんなの、へっちゃらです」  指が白くなるほど両手をにぎりしめていたくせに、へっちゃらが聞いて呆れる。 2  天の底が抜けたのではないかと思うようなものすごい雨のかたまりに向かって、サンジローが、ぐい、とアクセルを踏み込んだ。  借りたばかりのサンダーバードが、つんのめるようないきおいで発進したとたん、ばさッ、とバケツの水をぶっかけられたような音がして、一瞬、フロントガラスの前方が見えなくなった。  アンダンテとかアレグロとか、そんな悠長な段階を通りこした、あれはたしかプレスティッシモとかいういちばん速い目盛りにセットしたメトロノームのきざみを思わせる正確なめまぐるしさで、右に左に扇形をえがいているワイパーの動きが、雨脚に全然追いつかない。そのフロントガラスごしの雨の幕におでこをくっつけるようにして、ひた、と前方を見つめたまま、サンジローが、空港のレンタカー受付カウンターでもらったヒューストンの道路地図《ドライブ・マツプ》を片手でひらひらさせながら、52号線のフリー・ウェイ、これでいいんでしょ、ちょっとたしかめて下さい、といいだした。 「無理いっちゃ困る」 「どうしてです」 「走行中に地図を見るなんて、そんな器用なまねはできない」  それでなくても地図には弱い。世界全図とか日本全図とか、全体をえがいた地図で、それもくねくねしたグード・ホモロサイン等積図法ではない、いつも見馴れたランベルト正積方位図法で書かれたぶんなら、まあだいたいついていけるけれど、部分を拡大した道路地図となったらお手上げである。ましてや、この地図ときたら、毛細血管の解剖図みたいな道路網の、すきまというすきまに、無数の地名が超極小の横文字でびっしりうずまっているところは、まるで発疹である。眺めているだけで気色が悪くなってくる。 「あ、そうか、先生はローだったんだ」 「ロー?」 「老眼のローにきまってるじゃないですか」 「もうすぐさ、サンジローも」 「まあいいです。地図はぼくが見ますから、ナビゲイターになって下さい」 「なんだい、そのナビ、ナビ……」 「ナビゲイター。要するにですね。自動車ラリーや長距離ドライブの際の指示役《デイレクター》、早い話が水先案内役です」 「うーん、まさしく水先《ヽヽ》案内以外の何物でもないな」  雨というより、これはもう“水”である。水の幕を切り裂くようにしてつっ走るサンダーバードの助手席にもたれて、盛大に飛散する水しぶきをぼんやり目にしていると、サンジローには申訳ないけれど、なんだか遊園地のウォーター・シュートに乗っているような心持である。  ニューオルリンズ空港のかんかん照りが信じられない。ダッシュボードのデジタル時計が1・50を示している。腕時計を見ると二時五十分である。ボストンとの時差一時間。  アメリカはやっぱり広い。広い上に、人の意表をつく。  テキサス州ヒューストン。  テキサスとくれば西部劇、ならば旱魃《かんばつ》と砂ぼこりと渇きというのがイメージというものではないか。そうでなかったら、ジョン・ウェインやチャールズ・ブロンソンが、殺し合ってまで革の水筒を奪い合ったり、カウボーイ・ハットですくった泥水をむさぼり飲んだりするものか。  同様に、ヒューストンといえば、石油とカウボーイとアメリカ航空宇宙局。アポロの打上げは雨のため順延などというニュースは聞いたことがなかった。  いずれにしたって、雨とは無縁の土地だとばかり思っていたら、この始末である。実にどうもめんくらう。 「いや、一つ忘れてます。ヒューストンといえば、ほら大リーグの——」 「あ」  ヒューストンといえば「アストロドーム」すなわち屋根つき球場。グラウンド全体を地下に沈めるという粒々辛苦の工法に加えて、莫大な建設費を投じてまで、そんな奇妙な球場をつくる気になったということは、とりもなおさず、いかに雨が多いかという証左にほかならない。  屋根つき球場で本場の野球を見物するのを楽しみにしていたのに、大リーグ・ストのおかげでパーになってしまったショックで、ついついアストロドームの存在を忘れていたのだけれど、いま、水しぶきをあげて向かっている先は、そのアストロドームの敷地内のホテルである。  後楽園球場に隣接してこうらく園遊園地があったり後楽園競輪場があったりするように、アストロドーム球場と、アストロワールド遊園地とを結ぶ地点にアストロビレッジというリゾート・ホテルがあって、ロサンゼルスでいったん別れたOディレクター麾下《きか》のテレビ・スタッフと、そこで再合流することになっている。  さしものサンジローをして、ヤツらは働きバチ軍団だ、といわしめたO君以下スタッフ諸氏の顔が、ちょっと会わないあいだに、ひどくなつかしい。  不意に、サンジローがブレーキを踏んだ。  それっきり、車は動かない。 3  滝にうたれているような状況下で、プレスティッシモのリズムをきざむワイパーがせわしなく往復するたびに、雨の幕が、ちら、と寸断されて、フロントガラスの向こうに、気の遠くなるような渋滞の列が、まっすぐにのびたフリー・ウェイのはるかかなたまで蜿蜒《えんえん》と続いていた。 「あーあ、ツイてないですねえ」 「いいじゃないか、べつに急ぐ旅じゃないんだから」 「ええ、そりゃ、ま、そうですけど、でも、アタマにくるなあ」  ドライバーという人種は、なんでこう先を急ぎたがるのだろう。急ぐ必要がないときでもハンドルをにぎったとたんに急ぎたがる心理も不可解だが、急ぎたくてもどうにもならないようなときでも急ぎたがる心理はさらに不可解である。 「きみ、ジュール・ルナールを知ってるかい」 「ええ、フランスの小説家でしょ。『にんじん』を書いた……」 「あのルナールの『日記』を読んだ?」 「いいえ」 「彼はね、親友のエドモン・ロスタンが『シラノ・ド・ベルジュラック』の初演で大当りをとった日の日記に、ロスタンは一夜にして有名人になった、と記したあとに、だが——と一行つけくわえている」 「なんて?」 「わたしの馭者《ぎよしや》は急がない」 「ふーん」  なるほど、なるほどと感心しかけたところで、サンジローが頬をふくらませた。 「じゃなんですか、ぼくは馭者ですか」  べつにそういうつもりでいったのではない。広いアメリカ、そんなに急いでどこへ行く、といいたかっただけの話で、だからまあ、この際のんびり行こうぜ、と無駄口をきいているうちに、ようやく車が動きだした。 「あらあら」  雨の幕をにらんでのろのろ運転を続けるサンジローが、ハンドルから顎をつきだすようにして叫んだ。 「やってくれてるゥ」  右手前方の路上で、十二、三台の車が水びたしになったままエンコしていた。何台かは、ボンネットから白い煙や黒い煙をもうもうと噴き上げている。  故障車というのか水没車というのか、気の毒な立往生の列を横目に、渋滞地点を通過したとたん、覿面《てきめん》に車の流れがよくなって、サンジローが、いきおいこんでアクセルを踏んだ。それを合図のように、あれだけの豪雨が、すーっと小降りになったかと思うと、たちまち乾いた道路が現れて、まぶしい陽光がきらめくようにフロント・ガラスを貫いた。 「おかしな天気だな」 「要するに、ですね」 「うん」 「降っても照っても豪快なんですよ、テキサスは」 「そうか」  馬の背を分けるのが日本の夕立で、テキサスの雨は牛の背を分けるのだろう。 「風を入れましょう」  するすると窓があいて、ばさっと頬をうつ熱風といっしょに、じっとりとした湿気が流れ込んできた。むっとするような暑さである。  雨のかたまりのあとは、熱暑のかたまりの中をつっ走って、アストロドーム、アストロワールド、アストロタワー、アストロギフトショップと「アストロ」だらけのホテル・アストロビレッジにたどりついたら、ヒューストン時間で、もう四時近かった。 「どうもどうも」  ちょうどロビーでスタッフと打合せ中だったOディレクターが、サングラスをひょいとおでこの上にずらしながら、きのう別れたばかりのような口調で声をかけてきた。 「お疲れさま、すごい雨でしたね」 「雨もすごかったけど、この暑さにはおどろいたな。すさまじい温気《うんき》だ」 「きょうはこれでもまだいいほうです。きのうなんか、華氏百度、湿度九〇パーセントですからね。まるでサウナ風呂です。マーク・ウィルソン・ショーの下見と、機材のすえつけに行ってたんですけど、Tシャツの上から汗がふき出てくるんです。もうタマリマセン」 「ふーん、そんなに暑いところなの、ヒューストンというのは」 「いや、今年は特別らしいんです。何十年ぶりとかの異常気象だってテレビでいってました」 「やれやれ」  大リーグのストも特別、お天気も特別。こういう特別歓迎はありがたくない。ありがたくなくてもやむをえない。 「ま、とりあえずシャワーでも浴びて、ひと休みして下さい」 「うん、そうしよう」 「六時にロビーにおりてきて下さい。再会を祝して、日本酒で乾杯しましょう」  そういう特別歓迎は大歓迎である。お酒と聞いただけで、喉がぐびぐびする、というのは紋切型表現もいいところであって、いまは亡き辰野隆先生は、そういうときに、ぐびがのどのどする、と書かれた。 4 「ああうまい」  ぐびがのどのどしていた体内に、醇乎《じゆんこ》たる日本酒が何週間ぶりかで染《し》みとおって、細胞という細胞が一時によみがえるようである。  お燗《かん》のぐあいが少々つきすぎだが、贅沢はいえない。けばけばしいゲイシャガールの絵入りメニューに〈HOT SAKE … 2.75〉と、ちゃんと書いてある。まちがいなく なのだから、文句をつける筋合いではない。二ドル七十五セントというのは高いのか安いのか、いちいち換算しながら飲んだってうまくもなんともないから、そうかそうかと思うだけである。  料理のほうも〈SUKIYAKI … 10.95 〉やら〈YOSENABE … 14.25〉やら〈YAKITORI … 3.25〉やら、適当にみつくろって、あとはよきにはからえ。  座敷というより、海水浴場の海の家風の入れ込みの広間にあぐらをかいて、こうやってみんなで鍋をつついていると日本にいるみたいだ、とスタッフの一人が感想を漏らしたけれど、私は全然そう思わない。広間の前の池に毒々しい朱塗りの欄干があったり、趣味の悪い石燈籠があったり、スーベニール・ショップの出来損いのような装飾があったり、見れば見るほど、日本ならざる雰囲気である。そこへもってきて、仲居たちのお仕着せが、くずれた宿場女郎みたいな、見るも無残な着付けと化粧ぞろいで、いったいだれがどういうつもりでこんな醜怪な和服姿を強制しているのかと思う。  なるべく彼女たちの顔と姿を見ないようにして飲んでいる限り、お酒はうまい。コップ酒に切りかえて、二、三杯あけるうちにすこしずついい心持になってきて、仲居の姿もだんだん気にならなくなった。いずれは深い事情あって、はるばるヒューストンの日本レストランに職を得た女性が大部分なのだろう。のんきな旅行者が、やれ醜いの、見苦しいの、と一瞥《いちべつ》の印象でものをいうのは心ない振舞いだ、と酔った頭で考える。  お酒はうまいけれども、料理はうまくない。それもまた当然のことであって、テキサスくんだりまでやってきて、和食の味つけが甘いの辛いのと、利いたふうな口をきくことがよろしくない。口に合ったものだけを食べていたかったら、外国旅行なんかしなければいいのである。する以上は、郷に入ったら郷に従え、出されるものはなんでもおいしく、とはいかなくても、出されるものはなんでもありがたくいただく。そう、それでよいのだ。 「先生、何をぶつぶついってるんです」  サンジローがお銚子をさしだしながら、耳元でいった。 「あ、いや、なんでもない」  このお酒の銘柄はなんだろうね、と話の向きを変えながら、外国で日本レストランに入ると、どうしていつもこんなふうに内省的になってしまうのかと思う。それもあって、なるべく日本レストランは敬遠するというのが私の基本方針で、だから、そろそろ和食が恋しいころでしょう、といわれてもぴんとこない。さいわいサンジローもそっちのほうにこだわるタイプではないので、二人旅《ににんたび》のあいだは、徹頭徹尾洋食で通した。  それだけに、久びさのお酒がよくまわる。よくまわるだけではなくて、Oディレクターをはじめとするロサンゼルス以来の懐しい顔に囲まれながら酌み交す再会の酒の味はまた格別である。銘酒「再会」というのはどうだろう。 「いやァ、まいったまいった。あれには」  顔をまっ赤にしたO君が、上体をゆらゆらさせながら、となりの技術スタッフの青年に何かいっている。かなりできあがっているとみえて、ろれつがあやしい。 「……死ぬかと思った……こりごり……千ドルやるっていわれても……もう二度と」  断片的に聞えてくる言葉が、何やらおもしろげである。 「なに、どうしたの」 「あ、先生、よく訊いてくれました」  まあ聞いて下さい、とO君が熱っぽく喋りはじめた。  アストロワールドのジェットコースターに乗ったのだという。 「なんだ、遊園地の話か」 「と、思うでしょ?」  それがさにあらず、遊園地は遊園地でも、屋根つき球場アストロドームに隣接するこのアストロワールドは、規模ではディズニーランドに太刀打ちできないかわりに、スリルと危険度でこい、というおそろしい遊園地なのです。危険がいっぱいの諸施設の中でも、最大の売物が世界一のジェットコースターで、高さ二十八メートル、つまり十階建てのビルのてっぺんから、全長一キロのレールを、傾斜角度五十三度、時速百キロで一直線に落下するのだからタマリマセン。 「生きた心地がしないというのはあのことです。なにしろ、目の前の景色が、一瞬、なんにもなくなっちゃうんですから」 「そりゃ、空《そら》を見てるんだろう」 「絶対ちがいます。ブラック・ホールに陥ち込んだみたいな、空白しかないんです。いやァ、もうこりごりです。たとえ仕事だろうが何だろうが、死んでも乗りません」  O君という人は、むかし「ナイヤガラのすべて」という海外取材に出掛けて、命知らずのカメラマンが、それだけは勘弁してくれ、と尻込みをした立入り禁止の滝つぼに、そんなら俺が行く、と叫んで、命綱を巻いて先頭に立ったというツワモノである。そのO君が、顔をひきつらせて、死んでも乗らない、というのだから、その恐怖度は推して知るべしである。  とはいうものの、なんだかおもしろそうだから、あしたにでも、ひとつ挑戦してみようか、とサンジローの気をひいてみた。 「ぼくはいいです」 「いいですって、乗るのか、乗らないのか」 「ぼくはやめときます。ありゃちょっとおっかない」 「きみは、たしか、一度死んだからだだったんじゃないのかね」 「そうですよ。だからこそよけい命を大事にしなくっちゃ。ぼくは拝見してます。先生どうぞお一人で……」  引っ込みがつかなくなって、翌日、一人で乗った。乗り場の掲示に、こういう人は乗ってはいけない、という注意が書いてあって、一つずつ読んでいくと「心臓に疾患のある人」というのからはじまって、高血圧、脊椎の故障、貧血症、胃腸疾患から「首すじの痛い人」まで、ありとあらゆる症状が出ていた。切符きりの青年が、こないだも一人、ふとったおっさんがふり落されて死んだばかりだ、でもそれはおっさんのベルトのしめ方が悪かったためで、機械の責任ではないから安心しろ、とこともなげにいう。よっぽどそのまま引返そうかと思ったものの、地上でサンジローがカメラをかまえてにやにやしているのだと思ったら、のこのこおりていくわけにはいかない。ここは、乗るしかない。それで乗ってみたら、O君のいうとおり、てっぺんからほとんど垂直に降下する瞬間、視界が空白になって、あッと思うより先に、頭からまっさかさまに墜落する。それが何度も何度も続いて際限がないもんだから、恥も外聞もなくヘルプ、ヘルプと叫びながら、あやうくチビリそうになって、これがほんとのアメしょんだと思った、という話は、帰国後、某誌の旅行コラムにすでに書いた。 「とにかくぼくは遠慮します。先生お一人でどうぞ」 「まあ乗ってごらんなさい。いっぺんあの恐怖を経験なされば気がすむでしょう」  サンジローとO君が、けしかけるように重ねていった。 「うん、あした乗るよ。しかし、O君もよく乗ったねえ」 「仕事ですよ、仕事」 「関係ないじゃないか、マジック番組とは」 「マーク・ウィルソン・ショーのオープニングに使おうと思いましてね。ジェットコースターの先頭にカメラをすえつけて、テレビ・カメラといっしょに乗ったんです」 「ご苦労なこった」 「あ、そうそう——」  煮つまった SUKIYAKI の白い湯気の向こうから、にやりと笑ってO君が言い添えた。 「マークがね、お待ちかねですよ」  うふふ、そうですか、とサンジローが満足げにうなずいて、片目をつぶってみせた。  O君とサンジローが、申し合わせたように意味ありげな表情をうかべたのには、わけがあった。 友情の構造 1  ロサンゼルスに着いて、あれはまだ四日目ぐらいのことだったと記憶する。  泊り込んでいるホテルが、そのままマジック大  会《コンベンシヨン》(PCAM)の会場に当てられているので、泊り込みというより、むしろ、住み込みという感じで、なんだかマジックの徒弟奉公にでも入ったような心持である。大ホールでの競技会を中心に、プロ・マジシャンによる講習会だの、特別ショーだの、パーティーだの、連日深夜まで続く催しの全部につき合っていたのでは身がもたない。それでその晩は、ほどほどのところで切り上げて、ホテル内のバーで一杯やっているところへ、同じく早めに自室に引取ったはずのサンジローが現れて、あしたですけどねえ、と、にこにこ笑いながらいいだした。 「あしたは大  会《コンベンシヨン》をさぼって、ぼくのほうにちょっとつき合ってくれませんか」 「いいとも、何があるの」 「マーク・ウィルソンがね、自宅での撮影をオーケーしてくれたんです」 「ほう、いいじゃないか。会ったの?」 「いえ、いままで電話してたんです」 「ああそう」 「彼、すごく協力的で、スタジオから何から、家じゅう全部案内するってはりきってました」 「ふーん、スタジオつきの家か」 「スタジオっていうかアトリエっていうか、要するに、自宅兼事務所兼工房っていう感じらしいです。ぜひ来てくれ、インタビューにもよろこんで応じる、といってました」 「そりゃ、ぜひぜひ」  マーク・ウィルソンという名前だけは、ずいぶん前から知っている。アメリカでも三本の指に入るトップ・マジシャンで、なんでも二十年ぐらい前に「マジック・ショー・オブ・アラカザン」という新機軸の企画をCBSテレビに持ち込んで、全米ネットで五年連続放映という成功をおさめて以来、知名度と人気ではナンバー・ワンの存在だと聞く。 「マークって男は、なにしろヤリ手なのよ」  マジック・ツアーの胆煎《きもい》り役で、マーク・ウィルソンとはとくに親しいTさんが、日本を発つ前から、しきりにそういっていた。  本拠のロサンゼルスのほかに、ニューヨークとシカゴにも事務所を構えている彼は、マジシャンとしてのショー・ビジネスばかりではなく、大手企業のPRや産業フェアといった関連事業にまで手をひろげているアイデアマンで、いまや企業家といってもいいぐらいだ、一九二七年生れだといっていたから、五十四、五、まだそれほどの年ではない、ヤリ手だけれども、実にいい男で、頼まれたらイヤといえないやつなのだ、というのがTさんのマーク・ウィルソン評である。 「カミさんがね、元スチュワーデスの、すげえ美人なのよ」  すげえ美人に会えるのもありがたいが、マーク・ウィルソンとの会見はもっとたのしみである。  ステージや公演ポスターの写真ならともかく、自宅での素顔だの、アトリエでのスナップだの、みすみす手の内を公開するような撮影を、マジシャンたちは当然のことながら好まない。マーク・ウィルソンのような人気者が、よくOKしたものだと思う。同じロサンゼルスでダイ・バーノンのアパートに押しかけたときのように、ニューヨークの公園でビト・ルポを象の檻に入れたときのように、たぶん、サンジローの押しの一手が功を奏したのだろう。もちろん、その前提にはTさんの顔がある。現に、ヒューストンで予定されている「マーク・ウィルソン・ショー」のテレビ録画と放映権の契約を、いい条件でOディレクターがすんなり結べたのも、Tさんの口添えがものをいっていたからだ、とほかならぬO君自身が漏らしていた。 「というわけですから先生、あしたはこっちにつき合って下さい」 「ああ、よろこんで」 「ただ、ちょっと早起きしていただかないと」 「何時の約束?」 「十時に自宅で待ってるそうです」 「なんだ、それなら悠々だ」 「またまたァ……先生のは、いうだけなんだから」 「彼の自宅はどこ?」 「北ハリウッドです。えーと……北《ノース》ハリウッド・チャンドラー大通り《ブールバード》一万一千百二十六番地」 「いち万いっ千ひゃく? わかるのかい」 「わかります。地図でたしかめましたから。ホテルを九時に出ればいいです」  九時に出るためには、八時に朝食を摂らなくてはならない。お断りしておくけれど、いくら私がぐずでのろまでも、たかが朝めし、一時間もかけてもそもそ食べているわけではない。問題は食後である。親が死んでも食休み。数年前に胃の剔出《てきしゆつ》手術を受けて以来、ものを食べたあとは、最低三十分の休憩を必要とするからだになっている。それで八時に食堂におりて行くためには、その前にヒゲも剃らなくてはならないし、用も足さなくてはならないし、足したら風呂にも入りたいし、それやこれやの時間を勘案して逆算すると、遅くとも七時には起きていなくてはならない。なるほどサンジローが心配するのも無理はない。 「まあいいです。ぼくがモーニング・コールで起してあげます」 2  粒々辛苦の早起きに成功して、サンジロー運転のレンタ・カーに乗り込んだのが、正九時ジャストである。うらやましいぐらいにすいているフリーウェイを四十分ほど走ったあと、分離帯代りにみごとな椰子《やし》並木が続いている広い道路におりてから、偶数番号の標識をたどっていったら、一万一千百二十六番地はすぐにわかった。  邸宅というより、町工場の事務所という感じの平屋の建物である。受付の女性が、顔を見ただけで、聞いているというふうにうなずいて応接室に案内してくれた。  たくさんの賞状や賞牌を壁面にずらりとめぐらした二十畳ぐらいの部屋で、窓際の大きなデスクの上に、書類のようなものが山をなしているところをみると、応接室と執務室を兼ねているのだろう。 「やあ、お待ちしていました」  茶色のアゴひげをたくわえた長身の男が、満面に微笑をうかべて現れた。その顔つきといい、握手の感触といい、五十四、五の初老とはとうてい信じられない若さである。外国人の年齢はわかりにくいし、マジシャンも芸人なのだから若さを保つ整形手術ぐらいしているのかもしれないと思いながら、私が初対面の挨拶を交しているあいだに、サンジローは早くも大きなカメラ・バッグからストロボだのレンズだのを取出して撮影準備に余念がない。  こうなると、こっちが一人でつながなくてはならない。マーク・ウィルソンについての予備知識はいくらか持ち合わせているとはいえ、面と向かうと格別話すこともない。あなたのことは友人のTからいろいろ聞いているとか、会えてうれしいとか、機会を見つけて日本にも来てほしいとか、さしあたって、やさしい英語順という気味合いで、おぼつかないやりとりを続けていたら、茶色のアゴひげに埋もれているようなピンク色の薄い唇が、にやりと動いたかと思うと、ゆっくりと区切るような口調の声が聞えた。 「マークはおやじ、俺は長男のマイクだ。マイク・ウィルソン。弟のグレッグといっしょに、おやじの仕事を手伝っている」  おやじのマーク・ウィルソンは急ぎの用向きでいま留守だが、たぶんもう車でこっちに向かっているはずだ、それまで事務所の中を案内しよう、といいながらマイクがさっさと先に立ってドアをあけた。 「なんでえ息子だったのか」  二台も三台も首からぶらさげたカメラをぶらぶらさせて、サンジローが、それを先にいえってんだ、と日本語でぼやいた。  二十人ぐらいのスタッフが思い思いに立ち働いているいくつかのオフィスや、古い公演ポスターと舞台写真を貼りめぐらした廊下や、大きな手品道具が雑然と置かれている格納庫のようなスタジオを、マイクの案内で見てまわったものの、べつにおもしろいというものではない。  中庭に面した積み出し口のトラックとキャンピング・カーの前に、梱包された木箱が引越荷物のように山をなしている。 「あの荷物が、今度のヒューストン公演の道具一式だ。近日中にトラックで送り出す」 「ああそう」  気がなさそうに応じたサンジローが、あとは小声の日本語で、荷物を撮りにきたんじゃないよ、おやじは何してるんだ、と呟《つぶや》いた。その語調で察しがついたのか、待たせてすまない、きっと用事が長びいているのだろう、でももう帰ってくると思う、と弁解しながらマイクがスタジオの奥のミキサー・ルームのドアをあけていった。 「去年、中国に招かれて北京公演をしてきた。そのときのビデオテープを見てくれ」  CBSテレビが特別番組として全米に放映した一時間もののテープだ、とマイクがうれしそうな口をきいたが、はじまってみると、ショー番組ではなくて、「マーク・ウィルソン北京を行く」といった式のドキュメンタリー番組なので、風景や建物の合い間合い間に、マーク・ウィルソン一家と人民服の交歓シーンがちりばめられているというだけの、特別番組にしてはなんだかばかに退屈な内容だった。北京公演そのものは大成功だったらしいが、その熱気や興奮が画面からは伝わってこない。  ビデオテープを見終って、はじめの部屋に戻った。  ジュースが出て、コーヒーが出て、マーク・ウィルソンはまだ帰らない。  マイクとの会話のタネもつきてしまった。サンジローが無言でカメラをしまいはじめた。カメラ・バッグの中で器材がぶつかり合う硬い音が、がちがちと派手に響いた。 「ちょっと失礼……」  気の弱そうな顔に曖昧《あいまい》な笑みをうかべたマイクが、いったん席をはずしたかと思うとすぐに戻ってきて、リーフレットや新聞記事のコピー、それに奇術雑誌のマーク・ウィルソン特集号といったひとかかえほどもある資料を袋に入れながら、これを持って行ってくれ、といいだしたのをしおに、引揚げることにした。 「ほんとうにすまなかった。きっと何か事情があったんだ」 「いや、いろいろありがとう」 「ヒューストンでの再会をたのしみにしている」 「父上によろしく」  不本意ながら、にこにこ握手を交して外に出た。 「くそ、すっぽかされた」  吐き捨てるように呟いて、ぎ、ぎ、ぎ、とギアを入れたサンジローが、車を急発進させてから、すみませんでした先生、といった。何もサンジローが謝るいわれはない。 「まあいいさ。これも経験だ」  来たとき以上のスピードでフリーウェイをぶっとばすサンジローの横顔がふくれている。ひた走るキャデラックのシートにもたれて、マイクがくれた資料に目を通してみた。さまざまな印刷物にまじって「北京晩報」のコピーが入っていた。一面トップの見出しに、横組みの漢字が並んでいる。 〈美国魔首次演出贏得喝采〉  なんとなくわかった。わかっても、読めない。 3  話はその晩である。  ホテルの地下一階のホールで催されたゲスト・ショーが終って、ロビーに至る広い階段をサンジローといっしょに半分ほどのぼったときに、上からTさんが中年の外人と談笑しながらおりてきた。 「やあ」  どうもどうも、とすれちがったところでTさんが足をとめて、くるりとふり向いた。 「いやァ、ヨワっちゃったなあ」 「なにが?」 「うーん、どうしようかな……やっぱり紹介しようか」  今日の今日紹介するのはまずいかなと思ったんだけど、と口ごもるように言い添えてから、Tさんがいった。 「こちら、マーク・ウィルソン」  すれちがったあとなので、私とサンジローのほうが階段の上段に立って、マーク・ウィルソンを見おろす形になった。そのマーク・ウィルソンの耳元で、Tさんが何かささやいた。けさユーに待ちぼうけをくった二人だ、とでもいったのだろう。 「オー」  会えてうれしい、今日はすまなかった、決して約束を忘れたわけではない、ただ、どうしてもはずせない緊急の用事ができたものだから、悪いけれども失礼した、というようなことを口にしながら、マーク・ウィルソンが握手の手をさしのべてきた。  オー、ハローハローと先に握手をした私に続いて、その手を、ぎゅっとひと握りしたサンジローが、次の瞬間、ものすごいいきおいでまくしたてはじめた。 「あんたがマーク・ウィルソンか。俺たちは怒ってるんだ、モーレツ怒っている」  それでなくても、もともと猪突猛進型の英語なのだから、びっくりするような迫力である。 「いいか、俺が夜中に電話をかけたのは、ついきのうのことじゃないか。その電話で、あんたから直接約  束《アポイントメント》をもらった。念のために、今朝の九時前にもう一度電話したら、あんたのワイフが出て、十時に待っている、といった。だから俺たちは十時ジャストにたずねた。なのに、あんたはいなかった」 「悪かった。実は君たちが到着するちょっと前に、ビジネス上の重要な電話が——」 「もちろん理由はあるだろう。だが、われわれは忙しいからだなんだ。短い滞在期間で、一人でも多くのトップ・マジシャンに会うべく努力をしている。それをあんたはすっぽかした。あんたはチャンスをのがした」  まあまあ抑えて抑えて、とTさんが苦笑しながら割って入りかけたが、サンジローの啖呵《たんか》はとまらない。 「あんたは『世界のマジシャンたち』という俺の写真集に載るチャンスを逸したんだ」 「すまなかった。ヒューストンでは必ず時間をとるから……」 「俺の写真集からはずれただけじゃない、ヒューストンのテレビ録画だって、たぶんキャンセルになるだろう」 「あッ」  Tさんが悲鳴をあげて、口早やに叫んだ。 「それはないよ、そいつはまずいよ」  そりゃそうだ。サンジローも私も、テレビ・クルーにたまたま合流してはいるけど、正式のスタッフでもなんでもない。チーフ・ディレクターのO君が聞いたら気絶するだろう。ここは放っとけない。すなわちロサンゼルス松の廊下。 「おいサンジロー、もうやめとけよ。彼だって、あんなに謝ってるんだから」  ええ、わかりました、とうなずいたサンジローが、マーク・ウィルソンの顔に目をやって、もう一度いった。 「俺たちは怒ってるんだ」 「ちょ、ちょっと待てよ」  俺のほうはそんなに怒ってるわけじゃないんだ、だからあんまり「ウィ」「ウィ」いうてくれるな。ミスター・マーク・ウィルソンよ、彼は We are angry. と口走っているけれど、あれは I'm angry. というべきなのだ、などと胸の底でひそかに弁解したくなるところが私のだめなところで、終戦直後の、例のバラ色の『アメリカ便り』育ちゆえのアメリカ人コンプレックスが、潜在意識のどこかに、いまだにひそんでいることを自覚せざるを得ない。  猪突猛進英語で対等以上にわたり合うサンジローに、コンプレックスは毛ほどもない。世代の差というものを、目《ま》のあたりにする思いである。 「な、サンジロー、もういいじゃないか」  上で一杯やろうぜ、と片手でサンジローの肩をたたきながら、同時にもう一方の手をマーク・ウィルソンの前にさしだして、気を悪くしないでくれ、ヒューストンでゆっくり会おう、というようなことをヘタな英語で口走ったところで、どうやらこの場はおさまって、右と左、ではなくて上と下とに別れた。  ついでにいえば、ゲスト・ショーがハネた直後だというのに、サンジローがまくしたてているあいだ、人垣というものがついに出来なかった。 4  翌日も、サンジローとドライブをたのしんだ。ただし、目的はない。来て、来て、来て、来て、サンタモニカ、という歌を何年か前にアイドル歌手が毎日のように歌いまくっていた、そのサンタモニカに出掛けて、海辺のまっ白な砂の上で日光浴をしたり、長い桟橋の突端に繋留《けいりゆう》されている「Moby's Dock」なる、いわずと知れたメルビルの「白  鯨《 モビー・デイツク》」を洒落《しやれ》のめしたふざけた屋号の船室《キヤビン》風レストランでめしを食ったり、ずらずら並んでいる射的屋の一軒ずつに献金したり、ここの名物になっているという若者たちのローラー・スケートを見物したり、タンク・トップの胸あきからいまにもこぼれそうなヤンキー娘のバストにくらくらしたりして、一日終った。  ホテルに戻ったのが何時ごろだったのか、日没が遅いロサンゼルスだが、もうまっ暗だった。一日の清遊で覿面《てきめん》にご機嫌を回復したサンジローと別れて自室に入ったとたんに、見なれないものが目にとびこんできた。  バカでかい円筒形の籠《かご》にリボンをかけて、全体をサランラップで包んだ、何やらよさそうなものがテーブルの上に載っている。大きな籠いっぱいに、オレンジだのキウイだのプラムだの洋梨だのが、どさどさというぐあいに満載されていて、その果物の山に、ウィスキーとワインの壜《びん》が三、四本、お尻を上にして、にょきにょきと林立していた。斜めにとびだしている酒壜と酒壜のあいだに、細長いクラッカーの箱だの、チーズの器だの、ナッツの缶なんかが顔をのぞかせている。  ラップの表面に、小さな角封筒がセロテープで貼ってあった。あけてみると、万年筆の字で書かれた名刺大のカードが出てきた。 〈ミスター、エクニ。昨日の失礼をおわびする。許してほしい。ヒューストンで、たのしく会おう。敬具。マーク・ウィルソン〉  ふーん、と思いながら籠の中身を点検していたら、ベッド・サイドの電話が鳴って、サンジローのうわずった声がとびこんできた。 「先生、ちょっとぼくの部屋にきませんか。おもしろいものがあるんです」 「うふふ、こっちにもある」 「あ、そっちにも届いてます?」 「うん」  いさましい啖呵を切ったのはサンジローで、だからサンジローの部屋に籠が届くのはわかるけれども、そばでおたおたしていた私までが、同じ恩恵にあずかるのは恐々縮々の至りである。でも、まあ、お相伴《しようばん》という言葉もあることだし、だいいち、つき返すわけにもいかないし、と考えながら、改めて籠をのぞき込んでみたら、とてもじゃないけど、ロス滞在中にこんなには食べきれない、飲みきれない。  人のフンドシで相撲をとっては申訳ないけれど、この際、テレビ・クルーの諸君への陣中見舞ということにしよう。それで、ジャック・ダニエル一本と、オレンジ五、六個だけを自家用に残して、あとの籠ごと片手に、Oディレクターの部屋をたずねたら、いつから来ていたのかTさんもいて、O君と二人で浮かない顔をしている。 「どうしたの」 「あ、先生、いいところに来てくれました」 「実はですね——」  マーク・ウィルソンから、あすの晩、われわれ全員、それに先生とサンジローを、そろって招待したいという申し出がありました。要するに手打ちの一席を自分でモツっていいだしたわけです。 「ついてはですね」  Tさんが、Oディレクターと顔を見合わせながら、遠慮がちにいった。 「ひと言でいいですから、サンジローに、アイム・ソリーといってほしいんです。なにしろ、ヒューストンでの収録をひかえているもんですから」 「そうなんです」  大きくうなずいて、O君も口を添えた。 「でも、サンジローっていうのはああいう人ですから、われわれがいったりすると火に油をそそぐ結果になりかねないと思って」 「うん、うん」 「だから、先生からひとつ——」 「わかった。説得してみる」  まかしとけ、と答えたものの、O君のいうとおり、サンジローという男は直情径行の熱血漢なのだから、そう簡単にいくとは思えない。すぐその足でサンジローの部屋に出掛けて、さっそくマーク・ウィルソンからのウィスキーを飲みながら、機をみてその件を口にしたとたんに、サンジローの顔がこわばった。 「なぜぼくが謝んなきゃいけないんですか」 「いや、それはそうなんだが……」 「ぼくはいやです。謝りません」 「でもさ、マークのほうから詫《わ》びを入れてきて、手打ちをしたいとまでいってるんだから」 「だったら、その席で、やつが謝ればいいんじゃないですか」 「でもね、O君とTさんの立場も考えてやれよ」 「それとこれとは、話が別です」 「うん、そりゃそうだ」  それじゃ、こうしよう、と最後の切り札を使うことにした。 「なあサンジロー、俺がたのむ」 「………」 「俺に免じて、うん、といってくれ」  こんな大時代な、新国劇みたいなセリフを口にするのは気がすすまないのだけれど、この際やむを得ない。 「な、握手しながら、アイム・ソリーって、ひと言いえば、それですむんだから」 「わかりました」  頬をふくらまして、サンジローがうなずいた。  ——翌日の晩、マーク・ウィルソン主催の夕食会兼手打ち式が、ガラスの筒のようなボナベンチュア・ホテルの日本レストランで行われた。忘れもしない例のアゴひげのマイク、まだ少年のグレッグ、それに、元スチュワーデスのナーニ夫人を伴って、マーク・ウィルソンは、やあやあ、ようこそようこそ、と上機嫌でサンジローを自分のとなりに招じ入れながら、手をさしのべた。その手をがっちり握り返したサンジローが、にっこり笑って、昨日はすまなかった、といった。  やれやれ、これで一件落着だ、と胸をなでおろしながら、日本語で乾杯した。  そのあと三時間近くに及んだ宴席のあいだじゅう、マーク・ウィルソンは親近感まるだしでサンジローの肩を抱《いだ》かんばかりにして、ご機嫌で喋り合っていた。十六歳になるという末っ子のグレッグが、Tさんからもらったテレビ・ウォッチのゲームに夢中になって、ご馳走そっちのけで、キャーキャーいっている。テレビ・ウォッチなら自信がある。ほら、こうやって、こうやって、こうするんだよ、と手をとってこつを教えながら、いま、マーク・ウィルソンがいちばん心を許しているのはサンジローに対してだ、と思った。  マークがね、お待ちかねですよ、とヒューストンの日本料理屋の入れ込みの座敷で、煮つまった SUKIYAKI の白い湯気ごしにOディレクターがそういって、にやり、と意味ありげな笑いをうかべたそのわけというのは、以上のとおりである。 ギネスの宿 1  暑い。なにしろ暑い。  冷房がよく効いている自室でごろごろしているぶんには、いくら暑くてもどうということはないけれど、一歩部屋を出ると、むっとくる温気《うんき》に、皮膚調節が追いつかない。「Tシャツの上から汗がふき出る」と形容したOディレクターの言葉に誇張はなかった。  ロビーのソファにもたれて、こうやって人を待っていると、手持ち無沙汰のぶんだけ暑さもひとしおで、背中とソファが汗でくっつきそうである。  とりあえず一服しながら、もうそろそろKさんが現れるころだと思う。Kさんはヒューストン駐在四年目の商社マンで、今日はいっしょに昼めしを食う約束になっている。十一時に車で迎えにくるといっていたのに、どうしたのだろう。あまりの暑さに、車がぐずっているのかもしれない。Kさんはともかく、サンジローは何をしているのだろう。いつも時間には正確なサンジローが、こんなに待たせるのもめずらしい。  二本目の煙草に火をつけて、ぼんやり考える。  こう暑いと、ただでさえめぐりの悪い頭がいっそう鈍くなって、テキサスくんだりまで何しにきたのか、だんだんはっきりしなくなってくる。  ヒューストンでのマーク・ウィルソン・ショーをテレビ録画すべくスタッフを率いて乗り込んできているOディレクターの場合は、れっきとした社用で、れっきとした出張というわけだから、ぐうともいわせないけれど、私とサンジローの場合は目的があるような、ないような、立場があるような、ないような、いうなれば、さすらいのガン・マンか、西部の流れ者にでもなったような心持である。O君の尻馬に乗って、ニューヨーク、ボストン方面からわざわざ引返す形でヒューストンまでやってきたものの、さし当って、することは何もない。  マーク・ウィルソンがお待ちかねですよ、とO君が SUKIYAKI の湯気ごしにいいだしたときには、あ、そうそう、そうだった、となんとなく勇み立つような気になったけれど、考えてみれば、例のロサンゼルス松の廊下からもう二週間もたっているのだし、猪突猛進英語でまくしたてたサンジローの怒りも、とうの昔におさまっている。マーク・ウィルソンもちで、一夕、手打ちもすんでいる。  もっとも、松の廊下の一件が、あってもなくても、ヒューストンははじめからスケジュールに組み込みずみである。ホテルと飛行機の手配をまかせた旅行代理店の係りが、きちんとタイプした日程表をさしだしながら、こんなに無駄な、効率の悪い旅行計画ははじめてです、といって呆れたような顔をしていたのを思い出す。サンジローとKさんを待ちながら、退屈しのぎに、改めて日程表をたどってみた。  東京→ロサンゼルス→ニューヨーク→ボストン→ヒューストン→ラスベガス→ニューオルリンズ→ニューヨーク→サンフランシスコ→ホノルル→東京。  広いアメリカを行ったり来たり、なるほどへんな旅程だと思う。無駄を承知で、こんなばかばかしい旅程を立てるについては、もちろんそれなりの理由と必然性があった。何カ所かで開かれるマジック大会の開催期間だの、面会を予定しているマジシャンの都合だの、どうしても見ておきたいショーの上演日程だの、さまざまな条件をインプットしていったら、こういうスケジュールにならざるをえなかったのであって、これでも苦心の日程なのである。  おしまいのホノルルにしたって、ただ単に骨休めのためだけに立ち寄るわけではない。用もないのにハワイに立ち寄って、二、三日のんびりして帰るというのは、お金に不自由しない人のやることで、私とサンジローは、お金に不自由するからホノルルに立ち寄るのである。  どういうことかというと、こういうことである。  こんな不経済なスケジュールにのっとって、四十日間もうろうろしていたら、帰るころには二人ともお金を使い果すことは目に見えている。帰りの航空券はちゃんと持っているのだから、使い果してすってんてんになったって一向かまわないけれど、大の男が二人そろって一文なしでエコノミー・クラスに乗り込んだらどうなるか。エコノミー・クラスのお酒はただではない。一文なしだったら、お酒がのめない。 「よし、サンジロー、帰りはファースト・クラスだ」 「じょ、冗談じゃないですよ。そんな大金、あるわけないじゃないですか」 「もちろんないさ」 「どうするんです」 「ホノルルに寄るんだ」  ホノルルには、阿川弘之氏の別荘がある。家具つき分譲マンションの格安物件だと聞くが、格安だろうが何だろうが、別荘は別荘である。  なあ江國くんよ、と阿川さんがいつもいっていた。アメリカに来たら、いつでも寄ってくれ。素通りはないよ。ハワイにも強いのがごろごろしているから、メンバーをそろえてお待ちしてますぜ。 「な、だから二人で阿川邸に押しかけよう」 「麻雀ですか」 「そう。それで帰りはファースト・クラス」 「あ、なるほど、そういうことですか。そういうことなら異議なしです。やりましょう、やりましょう」 「よし決まった」  なんにも知らない旅行代理店のあの男は、効率の悪いスケジュールだといって呆れ顔をしてみせたけれど、サンフランシスコ→ホノルル→東京という変哲もない旅程一つに、これだけの深慮が働いているのである。  深慮はいいとして、動機がいかにもあさましい。 「がんばろうぜ。がっぽり勝って」 「うひひ、ファースト・クラス」  そんな邪悪な心に、ギャンブルの女神が加担なさるわけがないのである。  結果を先に書いておく。ワイキキの浜にも出ないで、三日三晩阿川邸に押しかけて、私とサンジローの完敗に終った。ファースト・クラスの夢どころか、うかうかすれば、手持ちの航空券さえ巻き上げられかねないようなひどい負け方だった。 「ご両所、なんなら一と月ばかり居残りするかい? するんだったら、アルバイトの口ぐらいお世話しますぜ、皿洗いでも、ポン引きでも……」  芸術院会員のお言葉とは、とても思えない。  帰国後しばらくして、雑誌をぱらぱら繰っていたら、阿川さんのエッセイが目にとび込んできた。 「ハワイで独り暮しをしてゐると、電話もかからず来客も無く、たまに訪れる知人を『朋遠方ヨリ来ル有リ』と感ずる。某日、江國滋なる『朋』が若い写真家の南川三治郎君と一緒に立ち寄つてくれた」 「朋」なる二人を案内して、いろいろご馳走してやったという話は書いてあるけれど、尻《けつ》の毛までむしり取ったことについては、これっぽっちも記載がない。ホノルル滞在中、連日大ご馳走にあずかったことは事実だし、行きも帰りも、おん手ずから愛車を駆って空港までご送迎下さるなど、それはもう至れりつくせりのおもてなしを忝 《かたじけの》うしたことも事実である。でも、二人そろってばらばらにされたことは、もっと厳粛な事実である。  畏れ多い所業ではあるけれど、阿川さんのあの文章を添削させていただく。なに、至って簡単、「朋」を「鴨」と直せばそれでいい。 「鴨遠方ヨリ来ル有リ……某日、江國滋なる『鴨』が若い写真家の」  旅路の果てにそんな災厄が待ち受けていようとは、ヒューストンのホテルのロビーでこうやってサンジローとKさんを待っている現在ただいま、もとより知るよしもない。  ようやくサンジローが現れた。 「あれ? ずいぶんお早いですね」 「何いってるんだ。君こそ遅いじゃないか。何してたんだい」 「ぼくですか? 絵はがき書いてたんですけど、切手が足りなくなったんで、買いにきたんです」 「おい、待ち合せは十一時だぞ」 「そうですよ。でもまだ十時半ですよ」 「え?」  あわてて腕をかざして、いつだって読みとりにくいデジタル表示に目をこらしてみると、なるほどそのとおりである。  暑さのせいで、頭のめぐりばかりか、視力にまで霞がかかってしまったらしい。 2  時計を読みちがえるほどの異常なむし暑さの底で、ヒューストンの中心部は無人の街《ゴースト・タウン》のようにひっそり閑としていた。白っぽい景色が続き、高層ビルが蜃気楼《しんきろう》のように、温気《うんき》の中に滲《にじ》んでいる。  ヒューストンといえば、いまや「世界の石油の首都」と呼ばれるエネルギー都市で、日本の総合商社の多くが商売の重要拠点としてここに支店を置いていると聞く。その活気が、まるで感じられない。都市が発散する活力を、この暑さがみんな吸収してしまうのだろうか。もちろんビルの内側には、世界経済を動かすだけの活気や熱気が充満しているのだろうが、外側、すなわち蜃気楼を遠くから眺めるだけの旅行者の目には、眠れる街としかうつらない。  日本の商社が競ってヒューストンに支店を置いているのは、なんといっても、石油とガスに関連する世界の一流企業がここにひしめいているからで、石油パイプの輸出、工場建設に伴う工材の輸出を中心に、アメリカ南部の基地という認識があるからです、わが社の場合は、日本からの駐在員が支店長以下十六人、現地採用のアメリカ人社員がだいたいその倍数、海外支店としては、かなりの大店《おおみせ》なのです、と無人のビル街を縫って、ゆっくりと車を走らせながらKさんが説明してくれた。 「でも、観光的には、NASAと屋根つき球場とアストロ・ワールドのほかには、これといって何もないところですからね。このダウン・タウンなんてオフィスばかりで、ほら、店一つないでしょ」  いわれてみれば、商店街はおろか、店舗というものがほとんど見当らない。三十分近く車でゆっくりまわるあいだに、目についたのは、ホット・ドッグ・バーが一軒、スーパーマーケットに毛が生えたようなデパートが二軒、それだけだった。店がないから看板というものがない。看板がないから色彩がない。白っぽい景色だなと思ったのは、そのせいかもしれない。 「ダウン・タウンというより、まあ、いってみればビジネス砂漠ですわ」  正面を向いたまま呟いたKさんが、気を変えるような口調で、さあ昼めしを食いに行きましょう、といって車のスピードをあげた。 「ステーキはおきらいですか」 「いえ、大好物です」 「あ、それならよかった。いえね、日本からくるお客さんの中には、アメリカのまずい肉なんて食えるかって、頭からきめてかかっている人もいるもんですから」 「あれはね。一つのファッションじゃないんですか」 「ファッション?」 「そうです、ファッションだから、従わないと不安になるんでしょう」  肉だけではない。アメリカの味覚全般について、だれもかれも、口をひらけば悪口である。いわく、アメリカの食い物はまずい、あんなものは料理のうちに入らない、アメリカ人は味覚音痴だ……。ぼろくそにいわないと沽券《こけん》にかかわるみたいである。そういう風潮の中で、アメリカの食い物はうまいと告白するのは少々勇気を要することなのだけれど、私は、うまいと思った。  ロサンゼルスのセルフ・サービス食堂で食べた巨大なTボーン・ステーキもうまかったし、ニューヨークの、その名も「カウボーイ」というレストランで食べた炭火焼のテキサス風骨つきステーキもうまかったし、グリニッジヴィレッジの屋台のホット・ドッグも、ハリウッドの路上のハンバーガーも、決してまずくはなかった。  ただ、何を食べても量がべらぼうだし、盛りつけなんかも概して無神経だし、見ただけで満腹という気味合いはあるけれど、よく味わえばうまい。少なくとも、原材料の健康性というものが感じられる。日本のドライブ・イン、ファースト・フッドのチェーン店、いんちき民芸風レストランをはじめとする少なからぬ店の、ほとんど「犯罪」といってもいい食い物のことを考えたら、よそさまの悪口なんかいえた義理か、と思う。 「この店は、ほんとにステーキだけ、スープもないんです」  アーチ型の入口の、がっしりとした木のドアを押しながら、Kさんがそういったとたんに、いい匂いが鼻先をなぶって、お腹が鳴るようだった。 「ここの肉はですね、ほら、これを見て下さい」  配られたメニューをひろげて、Kさんが指さした。見開きのノドのところに、スタンプ風の書体で〈U. S. PRIME ONLY〉という文字が大きく刷り込まれている。 「これはですね、連邦政府認定の最上質の肉しか使わない、という誓約みたいな文句なんです」  さっきからのKさんの口吻《こうふん》を聞いていると、なんだかふるさとの味自慢というような気味合いが感じられる。ビジネス砂漠だという口の下から、任地に対する愛着心もしくは郷土意識がこぼれるところに、駐在四年という歳月の長さと重さがあるようである。 「うへえ」  サンジローがメニューをにらみながら、となりで奇声を発した。 「先生、これ見て下さいよ」 サーロイン 16オンス フィレ   13オンス リブ    16オンス 「すごいボリュームですよ、16オンスっていったら。えーと……四百五十グラムぐらいでしょう。それで十七ドル五十セント均一か、ざっと四千円ですね」 「安いねえ」 「ぼくはこの16オンスに挑戦してみますけど、先生には絶対ムリです。メニューにはないですけど、8オンスぐらいで、ちょうどいいんじゃないですか」 「うん、そうしよう」  そんな特小の注文《オーダー》には応じないかなと思ったら、恰幅のいい中年のウェイターが満面に笑みをたたえて、よろしいですとも、サンキュー・サーとうやうやしく一礼して去った。  改めて周囲に目をやると、脂で黒光りしている木造の内壁一面に、色とりどりの額のようなものがびっしり並んでいる。ヒューストンの一流企業四百社のマーク・プレートだそうである。 「おや、あれは?」  マーク・プレートの上に、細長い電光掲示板が設置してあって、4だの33/4だの81/4だの、こまかな数字がたくさん表示されている。 「ああ、あれはニューヨーク証券取引所の株価です。十五分の時間差で表示されます」 「なるほど、なるほど」  なるほどとはいったものの、食事のあいだぐらい株価のことなんか忘れればいいのに、と思う。あがった、さがった、と一喜一憂しながら食べるのでは、せっかくのご馳走もおちおち味わっていられないではないか。 「いや、世界のトップ企業の連中ですからね、株価の動きがむしろ消化を促進させるんじゃないですか」  眠れる街どころか、やっぱり、生き馬の目を抜くような街なのだなと思いながら、連邦政府認定肉の焼き上りを、じっと待っている。 3  ホテルに戻ったら、急に睡くなった。胃を手術してもう五年にもなるのに、ちょっと食べすぎると、きまって病的に睡くなる。サンジローと何かしゃべっていても上の空で、いまにも瞼がくっつきそうである。  部屋に引揚げて、ゆうに三人ぐらい寝られそうな、ムダにだだっ広いベッドにもぐり込んだとたんに、すーっと意識が遠のいて、寝るより楽はなかりけり。  8オンスのステーキに魘《うなさ》れることもなく、夢ひとつ見ないで熟睡した。目が覚めたら、もう夕方で、もうお腹がすいている。なんならもういっぺん8オンスに挑戦しても苦しゅうない、という気分である。  ドアの下に、サンジローのメモが差し込んであった。 〈マーク・ウィルソンからTEL。明日午後一時にお待ちしてますとのこと。場所は当ホテル9階のスウィート(われわれとの会見のために彼が予約した由《よし》です)。9階というのは、例の部屋《ヽヽヽヽ》です〉  ふーん、例の部屋か、やるもんだマーク・ウィルソンも、と思う。  ヒューストンのこのホテル「アストロビレッジ」の名は、実は、かなり以前から知っていた。何をかくそう、かの『ギネスブック』に〈世界で最も値段の高いホテルの部屋〉として登録されていて「一泊二五〇〇ドル。これから見れば、ニューヨークの“ウォルドルフ・アストリア・ホテル”の最高の部屋“プレジデンシャル・スウィート”の一泊八五〇ドルも、中級の下という感じである」と書いてあったが『'79年版』(ノリス・マクワーター編・青木栄一訳・講談社刊)である。  なんだ、お前ら、そんな贅沢なホテルに三日も四日も泊っていたのか、と思われては困る。世界一高いのはその居住部分だけで、あとはまったくどうということもないリゾート・ホテルであって、外観も設備も料金も、どちらかといえばむしろBクラスに近い。ただし、部屋の広さとベッドの大きさは、日本のホテルとは比較にならない。  ベッド・サイドのテーブルに、館内案内とルーム・サービス・メニューを兼ねたような小冊子が置いてあって、その最終ページに、例の部屋のことが、詳細かつでかでかと載っていたので、そこだけ破いて持ち帰った。 「セレスティアル・スウィート」(Celestial Suite) と名づけられているその部屋の説明を、いま、辞書をひきひき読んでみる。まず「Celestial」だが、「天国の」「天上の」「この世のものとは思えないほど美しい」とある。発音は「セレスシャル」「セレスティアル」、どちらでもいいらしい。以下、謳い文句の抄訳——。 〈世界で最も値段が高いホテル・ペントハウス。『ギネスブック』公式登録〉 〈13の部屋と二つのバー、それに「屋根つき球場《アストロ・ドーム》」を模した縮尺ドームを含む9階のワン・フロアぜんぶを占める〉 〈ヒューストンを一望できる総ガラス張りの専用エレベーター。ドラマチック・ムードをかもしだす玄関ロビーの噴水〉 〈リビング・ルームには大理石の図書室を付設〉 〈ガラスの宮殿を思わせる食堂〉 〈贅をつくした中世風の主人用寝室と、優美な天蓋つきの客用寝室〉 〈そのほか「P・T・バーナム」(アメリカのサーカス王)の部屋、「フー・マン・チュー」(オランダの世界的マジシャン)の部屋、さらに屋根裏には丸太で組んだ「ターザンの冒険」の部屋〉 〈ギリシャ風の浴室と、泳ぎもたのしめるローマ風呂〉 〈料金? 一泊ジャスト三〇〇〇ドル〉  どうやら『'79年版』のあとで値上げしたらしい。三〇〇〇ドルといえば七十数万円である。三〇〇〇ドル出せば、ビバリーヒルズのプールつき豪邸を一カ月借りられます、とアメリカ事情にくわしいOディレクターが教えてくれた。  一泊七十万円の部屋を、時間で借りたらいくらにつくのか。サンジローも、他人事《ひとごと》ながら気になって、そんな大層な撮影じゃないのだから、下のロビーで結構だといったら、受話器の向こうでマーク・ウィルソンが笑って答えたそうだ。 「心配するな、部屋代はオレがもつ。撮影する以上、完全な条件で撮るのが自分の主義なのだ。専属のメイキャップ係りをつれて、先に行ってるから、君たちは一時に来たまえ」  ——翌日、一時かっきりに訪問した。  高い天井まで噴き上げる噴水に飾られた玄関ロビーのすぐ横の、総鏡張りのような、おそろしく広い化粧室のすみっこで、マーク・ウィルソンはまだメイキャップのまっさいちゅうだった。専属の美容師らしい女の子が、真剣な面持で、塗ったり、はたいたりしている。 「ようこそ。お待ちしてましたわ。主人は、すぐ来ますけど、それまで、部屋でもご覧になります?」  元スチュワーデスで、元美人で、よく見れば現美人でもある奥さんが、先に立って案内してくれた。  これが何の部屋、これが何の部屋、と説明してくれるのだけれど、どれもこれも腰を抜かすようなキンピカ趣味の、なんだかアラブの王様でも住んでいそうなものすごい空間が、つぎからつぎへと続いて、玄関とトイレの区別さえつかない。 「やあ、待たせてすまなかった。こちらへどうぞ」  はるか彼方という感じで、マーク・ウィルソンの声がした。「大理石の図書室」を併設したリビング・ルームで、マーク・ウィルソンと、二人の息子が、にこにこ笑ってすわっている。  ほら、キミも早くきなさい、と夫人に声をかけてから、マーク・ウィルソンがいった。 「さあ、サンジロー、自由に撮ってくれ」  はいチーズ、とはいわなかったけれど、実にいいタイミングで、一家四人がニッコリ笑った。膝を斜めに倒して長椅子に並んでいるお行儀のいいポーズといい、しあわせいっぱいの雰囲気といい、どこかで見た構図である。 (あ、そうか)  元旦だとか、天皇誕生日だとかに、いつも新聞紙上を飾る“お下げ渡し写真”にそっくりだった。カシャ、カシャ、カシャとサンジローが切るシャッター音が断続しはじめたものの、気のせいか、いつもの熱がない。何から何まで、こう整いすぎていたら、フォトグラファーとして腕のふるいようがないことは、たしかである。撮影中の間《ま》をもたせるためだろう、問わず語りにマーク・ウィルソンがしゃべりはじめた。 「オレはね、ものごころついたときから、いつも木賃宿ぐらしだった。父親が貧しい行商人だったからだ。たまたま、インディアナポリスの劇場で、映画のアトラクションに出ていたトミー・ウィンザーというマジシャンのショーを見て、手品師になろうと思った。それが八歳のときだった」  カシャ、カシャ、カシャ。  それから、ああして、こうして……。  大学では広告学を専攻、在学中に、ポテト・チップの会社と契約して、PRのためのマジック・ショーを請負った。多いときには、月に八十回もお呼びがかかって、それで、プロとしてやっていける自信を持った。アメリカン・エアラインのスチュワーデスをしていたワイフと結婚したのが一九五三年、長男のマイクが生れたのがその翌年で、いまいちばんかわいい次男のグレッグが生れたのが一九六五年だった、と一代記をかいつまんで語ったマーク・ウィルソンは、さあ、何でも訊いてくれ、といいかけて、あ、もう一つ、と語を継いだ。 「マジックには、三五〇〇年の歴史がある。その三五〇〇年の中で、最も多くのお客に見せたマジシャンは、オレだ。この世界で伝説の存在とされているフーディーニやサーストンといった名前以上に、自分の名前は知れ渡っている。なぜ、そうなったか。理由はただ一つ、次の一語につきる」  一と呼吸おいて、マーク・ウィルソンが、ゆっくりと、正確な発音でいった。 「テレヴィジョン」 ヒップとチップ 1  ずらりと並んだスロットマシーンの中で、一台だけほとんど間断なく、ひときわ景気のいい音をたて続けている機械を前にして、七十ぐらいのアメリカ女性が、さっきから驚くべき熱っぽさでレバーにしがみついている。  痩身で、小柄で、皺だらけで、ワシ鼻。  グリム童話の魔法つかいをもうひとまわり貧相にしたような顔つきの老女である。肋《あばら》が透けて見えそうな赤いTシャツに、洗いざらしのロングスカートという野暮ったい服装といい、髪ふり乱して機械に立ち向かうなりふりかまわぬ挙措といい、ラスベガスの華麗なカジノにはおよそ場ちがいな雰囲気をまき散らしながら、一心不乱、文字どおり脇目もふらずといった様子で、せっせとレバーを引いては、ぐるぐる回転する窓に向かって、そのつど何やら短く叫ぶその声が、さながら裂帛《れつぱく》の気合いといったぐあいなのである。 「へいッ」 「それッ《カモーン》」 「はッ」 「ほッ」  その気魄にひっぱられるように、ざらざらざらざらコインが流れ落ちてくる。大 当 り《ジヤツク・ポツト》こそ出ないものの、三列並び《スリーハンド》なんかは、はッ、ほッ、でらくらくと作ってしまう。 「これだよ、サンジロー」 「うーん、すごいですねえ」 「それに、この集中力。ほら、こんなに人垣が出来てるのに、ばあさん、見向きもしない」 「ほんと。目がすわってますよ。全身で没入してる」 「ギャンブルはこれでなきゃ。われわれに欠けたるものは、あのばあさんのなりふりかまわなさだ」 「もう一つあるんじゃないですか、欠けたるものが」 「何だい」 「財布の中身です。そりゃ気力も大事でしょう、集中力も大事です、だけど財力はもっと……」 「それをいうてくれるな。懐《ふところ》のことは、考えまい考えまいとしているんだから」  考えまい、と思うそばから、薄くなった旅行 小切手《トラベラーズ・チエツク》の残額がちらちらする。ちらちらする頭のすみで、もう一人の自分の声が聞える。  そんななさけないことで、なんのラスベガスだ。見ろ、ルーレット、バカラ、ブラックジャック、ポーカー、キノ、クラップス、スロットマシーン、よりどり見どりじゃないか。けちけちするな、いいから、どーんといけどーんと。  どーんといきたいのはやまやまである。こんなこと自慢にも何にもなりはしないけれど、むかしはこれでもブラックジャックでは多少は鳴らしたほうで「まむしのシゲ」といわれた時期もあったのである。あのころの血がさわぐ。  そうだろうそうだろう、だから、どーんといけどーんと。  またはじまった。  いまだけではなくて、ラスベガスに滞在中、夜となく昼となく、何かというとわが分身の声が聞えてきて、ディーラー相手に闘う前に、裡《うち》なる悪魔の囁きと闘うほうにエネルギーの大半を費消して、すっかりくたびれた。  だいいち、懐を気にしいしい、最低チップでちびちび、ちんたら張り《ヽヽヽヽヽヽ》していたって、おもしろくもなんともない。ディーラーのほうだって、子供のお守《もり》をしているようで、さぞばかばかしかろう。スロットマシーンの迫力ばあさんのことを、場ちがい、と書いたけれども、考えてみれば、わが身のほうがよっぽど場ちがいである。  まあよろしい。場ちがいだろうがなんだろうが、来てしまったものは仕方がない。そうして、来た以上は勝って帰りたい。少なくとも、負けて帰りたくはない。わが友——わが友にしてギャンブルのわが師で、カード・マジックのわが一番弟子であるところの阿佐田哲也こと色川武大に、ラスベガスに行ってくるといったら、にやっと笑って、餞《はなむけ》の言葉を贈ってくれた。 「ばくちというものは綜合の勝負なんでね。最終的に十円浮けばいい」  師の戒めを拳々服膺《けんけんふくよう》して、十円の浮きを最終目標にがんばってみたのだけれど、滞在五日間の帳尻はマイナス五百ドル、十万円ちょっとの赤と出た。某代議士がバカラでスッた百五十万ドル、四億五千万円に比べたらハナクソにもならない。しかしながら百五十万ドルいかれた政治家のくやしさと、五百ドルはたいた売れない文筆家のくやしさと、くやしさの質においては等質、痛さにおいてはこっちのほうが上まわるんじゃないのかと考えたりしたのは、ラスベガスを発って、再度ニューオルリンズに向かう飛行機の中でのことであって、はッ、ほッ、という老女の気合いに聞き惚れているいまこの瞬間は、私もサンジローも、まだまだ勝つ気でいる。  ざ、ざ、ざ、とまたしても老女の受け皿に、コインが滝のごとくに流出して、その滝音に触発されたように、サンジローが叫んだ。 「よーし、やるぞォ。ねえ先生、ばっさり張りましょう」 「ばっさりはいいけど、アツくなるなよ」  旅程はまだ半ば、ここでおけらになるわけにはいかない。  おけらで思いだした。  トロピカーナ、デューンズ、MGMグランド、シーザースパレス、ホリデイ・イン、フロンティア、フラミンゴ、スターダスト、リビエラ、ヒルトン、サーカス・サーカス、サハラ……。いずれ劣らぬ名うてのカジノホテルが林立するこの目抜き通りは通称「ストリップ」。一大歓楽郷で「ストリップ」とくれば、どうしたってあっちのストリップを連想しがちだけれど、辞書で strip を引いてみると、いちばんおしまいのほうに「細長い土地」と出ている。正確には「ラスベガス大通り《ブルバード》」の一部約六キロをそう呼ぶんだそうで、またの名を「ペイ通り」というらしい。  そうか、訳せば「おけら街道」か、とおそまきながら、いま気がついた。 2  ギャンブルにこだわっていては、話が先にすすまない。私もサンジローも、ラスベガスにばくちをしにきたわけではない。ここにこなければ見られないいくつかのマジック・ショーを見るためと、ここにこなければ会えない何人かのマジシャンに会うためにやってきた。  テーブル・マジックの名手で“宮殿の魔術師”という異名を持つジミー・グリッポーもその一人である。なぜ「宮殿」かというと、専属契約を結んでいるホテルがシーザースパレス《ヽヽヽ》であるということのほかに、あるときはバッキンガム宮殿、あるときはホワイト・ハウス、またあるときはダウニング街十番地といったぐあいに世界の元首クラスに招かれた実績をもっているからで、テレビにもステージにもいっさい出ないグリッポーの存在を報じたロサンゼルスの新聞が、おそろしく長い見出しを掲げていわく。 〈グリッポーに会いたかったらバッキンガム宮殿かホワイト・ハウスをさがして、いなかったらシーザースパレス《ヽヽヽ》にいる〉  そのシーザースパレスの主 食 堂《メイン・レストラン》「バッカナル」で、テーブルからテーブルをまわって妙技を披露しながら、あわせて座もちをするのがグリッポーの本来の営業形態であって、銀器きらめく食卓の、ほんの三十センチ四方ぐらいのスペースを使って行う指先一つの芸は、いうなればお座敷芸の極致である。その場で封を切った新品のカードを使って、スープからデザートまで、飲み、かつ食べている客の目の前で、信じられないような小手先の手品《スライハンド・マジツク》を演じたあざやかなテクニックにも驚いたが、もっとびっくりしたのは、グリッポーの年齢である。一八九二年南イタリアの小作農の生れ。一八九二年といえば明治二十五年、おん年八十九歳である。皮膚の色艶といい、黒ぐろとした髪の量といい、どう見ても六十代としか思えないのだけれど、口をひらけば第三十二代大統領フランクリン・ルーズベルトの前でフーバーFBI長官の財布をすりとってみせた話だとか、ウィンストン・チャーチルがグリッポーの手品に腰を抜かして、思わず葉巻を落とした話だとか、なるほど八十九歳だけのことはある、と感嘆久しゅうしたいきさつについては、拙著「旅はプリズム」ですでに書いた。  トランプ手品で四十分、銀貨《コイン》の手品で二十分、雑談の時間も含めて一時間半ぐらい食卓についていたグリッポーが、ときに君たち、といいだした。 「わしは、あとでマジック・ミーティングに出掛けるんだが、よかったら、いっしょにこないか」 「マジック・ミーティング?」 「そうだ。毎週水曜日の夜、ラスベガスにいるマジシャンが全員集って、一杯やりながら情報を交換したり、自分の新しいトリックを見せ合ったりする気のおけない会合だ」  ただし、みんな仕事を了えてからかけつけるわけだから、午前二時ごろからはじまって、おひらきは午前五時、六時になる、それでもよかったらこないかね、なーに、カジノで一と張りしていれば午前二時なんてすぐさ、とこともなげにいい放って、これで八十九歳なのである。不夜城とは、よくいったものだと思う。  八十九歳に負けてはいられない。  仰せに従って、時間つぶしに二、三軒カジノのはしごをしてまわるうちに、笊《ざる》で水をすくうような手応えのなさで、みるみるうちにチップが消えていき、時間もつぶれたけれども、お小遣いもつぶれた。 3  けばけばしいネオンとネオンの、ちょうど谷底にあたるようなところに、その建物はひっそりと沈んでいた。コロニアル風というのか、開拓時代風というのか、西部劇に出てきそうな木造平屋のなかなか趣のあるドライブ・インである。ストリップ大通りをはさんで、シーザースパレスとは目と鼻の先だった。 「さあここだ、入ってくれ」  がっしりとした木の扉を、ジミー・グリッポーが押したとたんに、室内の熱気と喧騒といっしょに、板張りの床に染みた油の匂いが鼻をうった。むかしむかしの木造校舎の匂いである。周囲の壁板にマジシャンの写真や公演ポスターをところせましと貼ってある室内の様子も、どことなく学生食堂風で、雑然と配置された何卓かの入れ込みテーブルを囲んで、年齢も服装もまちまちな男たちが二十人ぐらい、あっちを向いたりこっちを向いたりしながら談笑している。 「いいときにきましたね」  満足そうにうなずいた肝煎りのTさんが、ひとわたり座を見まわしながら、主だった連中みんな集っているようです、あとで紹介しますよ、といった。顔がひろくて、世話好きで、無類に人のいいTさんは一種の紹介魔であって、袖すり合うマジシャンというマジシャンを片っぱしから引き合わしてくれるのはありがたいが、いっぺんにあんまり紹介されると、それでなくても憶えにくい外国人の名前と顔とが、ますますこんがらがって収拾がつかない。 「はーい、シゲ」  遠くのテーブルのほうから声がかかった。うすいサングラスをかけた口髭の男が片手をあげて、こっちでいっしょに飲まないかというような仕種をみせている。 「だれだっけ」  とりあえず笑い返しておいて、笑った形のままの口の中で呟いたら、Tさんが、忘れちゃ困るというような顔をして答えた。 「マイク・スキナーじゃないですか。ほら、おととい先生が舌を巻いた……」 「あ、あの男か」  席が遠い上に、服装が一変していたせいもあって、とっさにわからなかった。おとといは黒のタキシードに薄紫色のフリルつきワイシャツという正装、今夜はくたくたのジーンズ・スタイルである。  マイク・スキナー、四十一歳。グリッポーと同じ“正餐の魔術師”で、グウンタウンのカジノホテル「ゴールデン・ナゲット」の専属で、やっぱり夜ごとテーブルからテーブルを縫って手品を見せている。グリッポーのテーブルはフランス料理のフルコースだが、スキナーの場合は広東料理の円卓で、指先の動きも八十九歳より当然のことながらはるかに俊敏である。例の“教  授《プロフエツサー》”ダイ・バーノンの愛弟子《まなでし》で、クロースアップのテクニックに関しては、ただいま現在、世界一だろうというのが多くのトップ・マジシャンたちの共通認識になっているらしい。  実際、この目で見ておそれいった。  卓上に置いた二枚の名刺の下から四枚のコインが変幻自在に出没する手品を皮切りに、コイン、ダイス、たばこ、マッチ、小紙片といった身近なものを使った洒落《しやれ》たトリックから、もちろんメインのカード・マジックまで、どの一つをとってみても、信じられない不思議が、つぎつぎに現出してゆく。指先は俊敏でも、見せ方は超スローモーションに徹していて、本来、目にもとまらぬ早業であるべきはずの最重要ポイントのところまで、実にゆっくりとした動作で、やや虚無的な表情をうかべたまま、らくらくと演じてみせる。超スローモーというところが、なんとも憎い。憎くて、すごい。  食卓での実演のあと、近くの小さなナイトクラブに席を移して話を聞いた。  一九四一年ニューヨーク市の生れ。十七歳のときにジョン・スカーンというマジシャンの伝記を読んだのがこの道に入るきっかけだった。図書館にあったマジック関係の本をぜんぶ読み漁ったあとは、専門書を郵便で取り寄せて、もっぱら独学で勉強した。イーストマン・コダックに勤める父親にかくれて、毎日十時間ぐらい自室にとじこもりっぱなしで研究した。高校を出てから、ゼロックスの組立工場で五年ばかり働いたが、マジックの教則本とカードをかならず持参して、会社のトイレに最低一時間はとじこもった。多少の貯えができたところで会社を辞め、ダイ・バーノンに師事するためにロサンゼルスに移り住んだ。同じアパートの隣りの部屋を借りて、九カ月間、仕事もしないで朝から夜中までバーノンにくっついて暮した。いま思うに、あれこそは自分の most glorious time であった。  ダイ・バーノンの名を口にするときのマイク・スキナーの顔には、はた目にもそれとわかるような畏敬と誇りの色がにじんでいた。実は、そのバーノンの前でカードを披露して、グレート、と褒められたんだと自慢したら、そいつはすごい、彼はお世辞をいわない人間だ、といって、私を見る目がいくらかちがったようである。 「いつでも大衆にうけるのは、大仕掛け《イリユージヨン》のステージ・マジシャンたちだ。美女の胴を切ったり、カギのかかったトランクから脱出したり、動物といれ替ったり、彼らは莫大な金をかせいでいる。だが、自分にいわせればあれではマジックをやっていることにはならない、針金《ワイヤー》だの鏡《ミラー》だのあげ蓋《トロツプドア》を使ったショー・ビジネスにすぎない。クロースアップこそ一生をささげるに足る真のマジックだ」  ステージ・マジシャンが聞いたら激怒しかねないような考え方だが、私の持論、というより好みもこれに近い。同感だ、同感だ、と握手をして別れた。  そのおとといの今夜なので、スキナーのほうでも印象に残っていたのだろう。さあ、ここにかけてくれ、と入れ込みのテーブルに席を作ってから、となりにいた二人の若者をふり返って、紹介しよう、ジークフリート・アンド・ロイだ、といった。  大がかりなマジックと猛獣ショーを組合わせたステージで人気絶頂のこの二人組の名前はよく耳にしていたし、一大スペクタクル・ショーといってもいい華麗な舞台は、ラスベガスについて、まっ先に見た。ちょうど「エミー賞」(テレビ界のアカデミー賞のようなものらしい)受賞の報がもたらされた日で、象や虎にうちまたがった二人の姿が、いっそう颯爽としてみえた。ホテル「スターダスト」での彼らのショーは、もう四年のロングランを続けているそうだが、契約金が各三億円、それぞれに動物園つきの大邸宅とロールスロイス・シルバーシャドー一台ずつという破格の契約条件で、そのほかに出演料はもちろん別、とにかく全米一の稼ぎ頭なのだ、とTさんが教えてくれた。  大仕掛けのマジックはマジックをやっていることにはならない、と手きびしく評したばかりのマイク・スキナーが、大仕掛けの代表選手のようなジークフリート・アンド・ロイと、何やらたのしげに語り合っている。持論は持論、つきあいはつきあいということなのだろう。  ビールのグラスを片手に、さっきからテーブルのあいだを遊泳していたTさんが、背の高い、白皙《はくせき》の美青年をつれて戻ってきた。アメリカの玉三郎みたいなやさ男である。 「先生、紹介しとくよ」  あした彼のショーを見たあと、楽屋をたずねる約束をとりつけてあったのだけれど、ここで会えたからちょうどよかった、といってTさんが玉三郎をさし招いた。こういうときのTさんはいきいきとして、言葉まではずんでいる。 「こちら、デビッド・カッパーフィールド、ほら、ジェット機を消しちゃった……」  空港の滑走路に置いたほんものの小型ジェット機をまるごと一台、衆人環視の中で一瞬のうちに消してしまうという奇想天外なトリックは、のちに日本のテレビでも放映されたけれど、このときは評判だけで聞き知っていた。  ディケンズの作中人物と同じ「デビッド・カッパーフィールド」を名乗るこの青年は、さっきのジークフリート・アンド・ロイと全米の人気を二分するマジック界のトップ・スターで、愁いをたたえた甘いマスクと、貴公子を思わせる優雅な物腰が、とりわけ女性ファンの圧倒的人気を集めているとも聞いた。  見れば見るほどいい男である。彫りの深い、ほっそりとした白い顔に、黒い瞳と、とがった鼻と、ピンク色の薄い唇がバランスよくおさまっていて、長い睫《まつげ》が影をおとしているせいもあるのか、それともモテすぎの証左なのか、大きな目の下に、うっすら隈《くま》ができているあたりが、ちょっと腺病質の感じで、男が見ても色っぽい。  ラスベガスにようこそ、会えてうれしい、いい旅行をたのしんでくれ、というようなことを矢継ぎばやに口にして握手の手をさしのべてきた玉三郎の指の、長さと細さと白さにもおどろいた。 「すまないが、今夜は先約があるので失礼する。あしたゆっくり会おう」  楽屋で待っている、とにっこり笑って玉三郎は出て行った。 4  カジノというのは日本式の読み方で、ほんとうは「カシィーノ」と発するのが正しいんだそうである。遠くがかすんでよく見えないほど広いその「カシィーノ」をひと目で見渡せる高い位置の、銭湯の番台によく似た監視台《セキユリテイ》に腰かけている制服姿の屈強なガードマンが、青いビー玉のような目で、こっちの顔を一人ずつ見おろしながら、デビッド・カッパーフィールドの楽屋に行くのか、約  束《アポイントメント》はとってあるのか、と誰何《すいか》するようにいった。ひやりとする物言いが、国境検問所の警備兵の口調にそっくりである。 「もちろんだ。われわれは日本からやってきたベスト・フレンド・オブ・カッパーフィールドだ」  Tさんが胸をはって答えた。  ここ「ラスベガス・ヒルトン」の売り物であるカッパーフィールドのディナー・ショーを、Tさんの案内でサンジローと若い日本人マジシャンのフカイ夫妻といっしょに、いま見終ったばかりである。  宝石店に押し入った強盗が女性客と恋におちて、かき消えるように消滅したり、ロックンロール派とポップス派の対決中にラジオが消えたりするコミカルな寸劇仕立てのマジックを、軽快なテンポで次から次へと流れるように演じたカッパーフィールドの、典雅といってもいいしなやかな動きが、目の底でまだちらついている。 「オーケー、楽屋まで案内させよう」  番台の上で、男が指を曲げて合図を送った。  混み合っているカジノのどこからともなく、目をみはるような美人の女性警備員が現れて、ついてこいというふうにあごをしゃくって先に立った。  迷路のような地下の廊下を、右に曲ったり左に曲ったり、帰りが心配になるぐらい幾曲りもしながら、いまこの瞬間も、頭の上で何千ドル何万ドルのチップがとびかっているのだなと思う。がらんとした通路を照らす裸光線の下で、美人ガードマンのヒップが、くいこむようにぴっちりフィットしたブルーのジーパンごしに、目の前でひと足ごとに、ぷるん、ぷるんと躍動している。すっとひと撫でしてみたいようなそのお尻といっしょに、ガン・ベルトの実弾入り拳銃が、鈍い光を放ちながら上下に揺れていた。  眼福に加えて、こんなに長い通路を先導してくれたのだから、やっぱりチップを渡したほうがいいのかなと日本語でいったら、サンジローとTさんが同時に答えた。 「いや、そんな必要はないですよ」 「出したって、受取らないんじゃないですか、ガードマンですもの」 「よし、ためしに渡してみよう」  やっと到着した楽屋口の鋼鉄ドアの前で、くるりとふり向いた美人ガードマンに、われながらみみっちいと思いながらも、ポケットで指に触れた一ドル札を差しだしたら、サンキュー、とあっさり受取って去った。  一流ホテルのスイートを思わせるひろびろとした二部屋続きの楽屋で、デビッド・カッパーフィールドはよくしゃべった。ソファにゆったりともたれて、素肌にじかに着ている白い絹シャツの胸元からふさふさとした胸毛が渦を巻いてこぼれているところは、なかなかの貫禄だが、一九五六年ニュージャージー州の生れだというから、まだ二十六歳の若さである。  手品をはじめたのは七つのときからで、十二歳で史上最年少のSAM(全米マジシャン協会)会員になった。プロになるといったら母親が泣いて反対したが、十八歳のときにシカゴで開いたショーを見て、ようやく納得してくれた。自分が好きなのは大きなステージ・マジックであって、クロースアップは単純すぎて性に合わない……。  三十分あまりの雑談を了えて、帰ろうとしたらカッパーフィールドがいった。 「聞きたりないことがあったら、日本からいつでも電話してくれ。いっとくけど、その電話はかならずこっち払い《コレクト・コール》でかけてほしい」  この若さで、そんな如才のない言葉を口にして、すこしも厭味に聞えないところが、やっぱりアメリカの玉三郎である。 一 宿 一 飯 1  空港では気がつかなかったが、車が街なかに近づくにつれて、道ゆく人びとの極端にまちまちな服装がつぎつぎに視界をかすめた。  Tシャツにホットパンツの若い女と、厚手のセーターを重ね着している若い女がいっしょに歩いているかと思うと、トレンチ・コートの襟を立てた男の胸に、肩をむきだしにしたタンクトップの女がすがりついていたり、ジーンズに上半身裸の若者のうしろから、毛皮のコートを着た女があらわれたり。  うだるような暑さが続いていたニューヨークから飛来した目に、サンフランシスコの路上は支離滅裂、なんだか四季が歩いているようである。  お天気のほうも、通行人の顔を立てて、ちょっと走っているあいだにも晴れたり曇ったり、パラッときたり、また晴れたり、そのたびにオールズモビルのステーション・ワゴンの室内が明るくなったり暗くなったりして、目がちらくらする。 「サンフランシスコの天気は女と同じだ、すぐ変る」  はじめから運転をまかせている中国系の美人の奥さんの横顔に、ちら、と目をやって、チャニング・ポロックがいった。これで夜になると霧だ、と独り言のように呟《つぶや》いたポロックは、助手席の背もたれから大きな上体をのりだすようにして、後部シートの私とサンジローの顔を等分に見つめながら続けた。 「きのうから日本の総理大臣がシスコに来ている、知ってるか」 「知らない」  四十日あまりアメリカをうろうろうろつきまわっているあいだ、日本の新聞にはいっさい目を通していない。読みませんか、ありますよ、とあちこちでいわれたけれど、そうしてご親切はかたじけないけれど、大きなお世話である。せっかく憂き世を忘れているのに、求めて思い出すようなことはしたくない。珠玉の無為に傷がつく。それにだいいち、新聞を読まないということは、からだのために実にいい。朝めしの味からしてちがう。日本に帰ったあとも、いっそこのまま新聞購読という悪習を廃そうかとさえ思う。知る権利も大事だろうが、知らない権利はもっとすばらしい。  日本の総理大臣が何用あってサンフランシスコにやってきたのか、詮索する気もないし、興味も全然ないけれど、チャニング・ポロックが仕入れた知識によると、なんでもワシントンでの日米首脳会談の帰途、骨休めのために非公式の日程で立ち寄ったんだそうで、いうなればお忍び滞在ということらしい。お断りしておくけれど、首脳会談を了えて「ハイ・ロン」「ハイ・ヤス」と呼び合ったのはいまの総理大臣で、このときはその前の、結局沈香《じんこう》も焚かず屁もひらずじまいに終った先《さき》の関白総理大臣の話である。 「きのうの夜は壮観だったよ」 「ほう」 「オファレル通りと、通称“ホモ通り”と呼ばれるピンク・ゾーンが交叉する角に、評判のライブ・ショー劇場があるんだがね。ゆうべは、お国の随行高官と随行記者団で超満員、まるで貸切りみたいだった」  その劇場は内部が三つに分れていて、一つはポルノ映画、一つはライブ・ショー、そうしてもう一つがプライベート・ブースと称する二十五人収容の客席で、三コーナー全部に通用する共通券が二十ドル、プライベート・ブースだけなら十ドルだ、とポロックがガイドのような口ぶりで説明した。 「プライベート・ブース?」 「そうだ。よかったら案内するよ。ちょっとおもしろい仕掛けになっているんだ」  小舞台をぐるりととり囲むように配置されている二十五人分のソファの上に、トーチ式の懐中電灯が一本ずつ置いてある。オリンピックの聖火ランナーが持つような細長い棒のような形をしていて、焦点距離を絞り込んだ特別なレンズを使っているために、自分の照らすところは自分だけにしか見えない仕掛けになっているところがミソで、そいつを手に手に、お客はまっくらな客席から思い思いの箇所を照らして女体を観賞もしくは観察するという趣向なんだそうである。  ダーク・スーツにネクタイ着用という、そろいもそろってフォーマル・スタイルに身をかためた日本人紳士集団が、いっせいにトーチをつきだして、ひた、と一点を凝視している図を想像すると、なるほど壮観にちがいない。  重ねてお断りしておくけれど、ポロックが目撃したのは随行諸氏であって、総理大臣おんみずから見にきていたというわけではない。総理大臣の訪米は、かわいそうに、いつだって夫人同伴である。随行高官や記者諸君が、一夜眼福を楽しんでいるあいだも、おそらくは宿舎のスイート・ルームで古女房にピップエレキバンでも貼ってもらっていたんじゃないかと拝察する。総理大臣になんてなるものではない、とつくづく思う。  総理ご一行の宿舎は、ユニオン・スクエアに面した格式随一の最高級ホテル「セント・フランシス」だそうだが、私とサンジローが予約しているホテルも、「セント・フランシス」と並び称される五ツ星クラスのホテルである。最後の滞在ぐらい王侯貴族の気分を味わおうというのが、はじめからの計画だった。 「うん、あれはいいホテルだ。部屋もサービスも料理も超一流。その代り一泊百ドルはするぞ。もったいないじゃないか。それより、君たち、俺の家に泊ったらどうだ」 「ありがたいが、もう予約ずみなんだ」 「そんなものはキャンセルすればいい。なあ、そうしろよ。遠慮はいらない、何泊でも好きなだけ泊っていってくれ」 「でも、それはちょっと」 「どうしてだ。こっちはまったく問題ない。自分の家だと思ってくれ」  それがいいわ、きめましょ、と中国美人の奥さんが、いくらか訛りのある英語を口にしながらハンドルを大きく切った。それがいいのことね、きめるのことよ、という感じの英語に聞えた。 「どうする、サンジロー」 「うーん、やっぱり一晩ぐらい泊らないとぐあい悪いんじゃないですか」  ぐあいがいいも悪いも、車はもうUターンして、もと来た道を山の方に向かって走りはじめている。  市街地を離れて、ゆるやかなクロソイド曲線が続く山道を快適にとばすステーション・ワゴンの、ぴたり、と地面に吸いつくような走行感に身をゆだねながら、一宿一飯、いまからチャニング・ポロック邸の客になるのか、と思うと感慨少なからぬものがあって、なんだか胸さわぎがしてきた。 2  生きた鳩を絹のハンカチからつぎつぎにとりだしてみせる手品は、たいていのステージ・マジシャンが演じているし、アマチュアでも、大学のマジック研究会レベルで器用にこなしているぐらいだから、いまではすこしもめずらしくない。めずらしくはないけれども、やっぱりマジックの一つの華であることもたしかで、純白の鳩が羽ばたきながらあとからあとからとびだしてくる場面は、何度見てもたのしい。 “鳩  だ  し《ドーブ・マニピユレーシヨン》”と呼ばれるこの手品を編みだしたのはカントオというメキシコのマジシャンで、一九四〇年にアメリカで演じたのが最初だといわれている。ただし、技法的にはかなり幼稚なものだったらしい。その鳩だしを、独自のテクニックとスタイルで高度な近代マジックに仕上げた功労者が、ほかならぬチャニング・ポロックである。その演技は洗練の極といわれ、鳩を出させたら、ポロックの前にポロックなくポロックのあとにポロックなし、とまで称えられた。  貴公子を思わせる端正な風《ふうぼう》と、息をのむような華麗なステージで、若くしてトップ・マジシャンの座についたチャニング・ポロックは、一九五〇年代にはもっぱらヨーロッパを舞台に、エリザベス女王お気に入りの天才マジシャンとして一時代を劃したあと、一九六九年、まだそれほどの年ではないのにあっさり引退して、それっきりステージにもテレビにも姿を見せていないのだから、よほどのマジック好きでなければ、ポロックの名を知らなくて当然である。  ただし、中年以上の映画ファンなら、昭和三十年代のはじめに日本で公開されて大ヒットした『ヨーロッパの夜』という観光映画の中で、真紅のハンカチからまっ白な鳩をあざやかに出していた超ハンサムな青年マジシャンといったら、あるいは憶えておられるかもしれない。  昭和三十六年に、私は生れてはじめて自著を持った。『落語手帖』という埓《らち》もない雑文集で、いま読み返してみると顔が火照《ほて》るような、若気の至りとしかいいようがないお粗末な本ではあるけれど、処女作は処女作であって、第一著という意味で、私には愛着がある。その中で、映画『ヨーロッパの夜』のチャニング・ポロックの印象を、次のように録している。 〈一番印象に残ったのは、若き奇術師チャニング・ポロックの気品である。指先から際限もなくとびだす真新しいカード、絹のハンカチから忽然と生まれる真白な鳩。(略)凛とした態度と表情を最後まで崩さずに、次々に奇跡を出現させるこの美丈夫の身辺には、不思議な気品と魅力が、妖しく漂っており、英国女王のおぼえおんめでたいというのも、うなずけるのである〉  いまは亡き蘆原英了氏をして「これだけのものを日本にいて見られることは奇跡に近く、これは見ないほうが損だ」といわしめたほど、この映画には第一級のエンターテイナーがぞくぞく登場しているのに、ほかの芸人については、わかりもしないくせにボロくそにこきおろして、チャニング・ポロックだけに最大級の讃辞を送っているところをみると、よほど強烈な印象だったのだろう。当時の私は古典落語の魅力に首までどっぷりつかっていて、手品も嫌いではなかったけれど、寄席の世界でいう“色物”として、一格も二格も下に見ていたような気がする。  あれから二十何年、われながら呆れるほどの酔狂さで、これだけカード・マジックにのめり込んでみると、マジック愛好の胚芽《はいが》を潜在意識下に植えつけたのが、チャニング・ポロックその人であった、といまにして思う。  恩人といえば恩人、加害者といえば加害者である。その恩人で加害者のポロックを紹介してくれたのは、例によって紹介魔のTさんだった。 「お、めずらしい男が来ている。先生、紹介しましょう」  ロサンゼルスに着いてすぐ、マジック大  会《コンベンシヨン》の会場を兼ねているホテルのロビーで、Tさんがバー・ラウンジのほうを顔でさし示してみせた。栗毛で赭《あか》ら顔の大男が、旧友らしいマジシャン連中とたのしげに談笑していた。 「だれ?」 「あれが、チャニング・ポロック」  最近、サンフランシスコの人里はなれたところにすごい山荘を建てて、悠々自適の毎日を送っているらしい、三人目のワイフであるいまの中国女性が、ケタはずれの大富豪だという噂なのだが、真偽のほどはわからない、と耳元で手短かにささやいてからTさんは、私とサンジローを大男に引き合わせた。 「そうか、日本から来たのか。日本はなつかしい」  握手の手をさしのべてきた大男の毛むくじゃらの腕に、絵柄がはっきりしない刺青《いれずみ》が見えかくれした。 「忘れもしない一九四五年に、俺は海兵隊員として日本に行った。着いたその晩に、ゲイシャ・ガールとメイク・ラブした。あれはいい女だった」  いきなりそんなことを口にして、チャニング・ポロックは破顔一笑した。笑うと、赤銅《しやくどう》色の日焼けした顔に深い皺《しわ》がきざまれて、一瞬『白  鯨《モビイ・デイツク》』の主人公のような相になった。バート・ランカスターと宍戸錠を足して二で割ったような顔でもある。二十何年前の貴公子の面影は、どこにもない。 「あれを見てくれたのか。あれは二十五年前の映画だ。あのときは俺も若かった」  自分はもう過去の人間だが、マジックの大きな催しがあると、じっとしていられなくなって、今度も、キャンピングカーを一人で運転して、サンフランシスコから八時間がかりでロスにやってきた。くれば、やっぱりなつかしい、といってグラスをかかげる仕種をしてみせたチャニング・ポロックは、私とサンジローが帰りにサンフランシスコに立ち寄る予定だといったら、必ず声をかけてくれ、空港まで迎えに行くから、といった。  約束どおり迎えにきてくれたチャニング・ポロックのステーション・ワゴンに揺られて、いま、こうやって山道を登っている。 3  眼下に群青《ぐんじよう》の太平洋がひろがる崖《がけ》の上に、一と目で工事中とわかる建築なかばの山荘が、高い崖っぷちからおっこちそうなぐあいに建っていた。ドアの代りにビニールの幕を垂らしてある玄関ホールから、三匹の大きな犬がもつれ合うようにとびだしてきて、主《あるじ》の足元にじゃれついた。 「さあ、入ってくれ」  太い梁《はり》を組んだ威風堂々たるコテージである。強風になびいて、はたはたと音をたてているビニールの幕を、慣れた様子で、ひょい、と持ち上げたポロックは、まだ寝室と台所と浴室が完成しただけで、あとはこれからなんだ、と弁解しながら、玄関ホールのドーム状の高い天井を見上げていった。 「いま、ここにプラネタリュームを作ってるところなんだ」 「いつ完成するんです」  それがねえ、と横からポロック夫人が答えた。 「いつになることやら。なにしろ、寝  室《ベツド・ルーム》だけで六年かかったのよ。インテリアから何から、ぜんぶ手づくりなんですから……」  六年がかりのその寝室は、太平洋のま上にせりだしていた。円型ガラス張りのサンルームのような部屋である。海とは反対側の一枚ガラスの向こうが日本庭園になっていて、滝と鳥居と神社のミニチュアが、夜間照明の下で、くっきりと浮かび上っている。十五、六畳、もしかしたら二十畳もありそうなこの部屋で目につくものといったら、特大の円型ベッドと、SONYのテレビ受像機と、絨毯《じゆうたん》の床を掘り炬燵《こたつ》式に切ってある一枚板のテーブルぐらいである。 「このテーブル一つに、五万ドルかけた」  五万ドルといえば一千百万円である。いくらなんでも、そんなバカな、と思うけれども当人がそういうのだからそうなんだろう。 「さあ、君たち、ラクにしてくれ」  ロウケツ染めのような柿色のTシャツに、ベージュ色のスラックスというラフ・スタイルのポロックは、素足にパンプスをつっかけたまま円型ベッドの上に両足をなげだして、上体だけを起す姿勢で、たぶんマリファナだろうと、あとでサンジローが教えてくれた手巻きの煙草を口にくわえた。  中国美人の奥さんも、そのとなりで足をなげだしている。私とサンジローは、円型ベッドの前の絨毯の上で、あぐらをかいている。何となくおちつかない位置関係である。  ガラス張りの向こうで、海の色がすこしずつ濃さをましはじめ、暮色といっしょに、ひやりとした冷気が忍び寄ってきた。 「飲みものはスコッチでいいかね」  ベッドにもたれたまま片手をのばして、琥珀《こはく》色の液体を大きなグラスにごぼごぼとつぎ分けてから、チャニング・ポロックは、ほとんど独演会という感じで喋りはじめた。  ——一九六九年に引退したときは、まだ四十三歳だった。ショー・ビジネスの世界が変ってしまったからだ。昔風のエレガントなマジックをじっくりと演じる場所がなくなってしまった。何万人、何十万人にテレビで見せたりするマジックは自分には向かない。マーク・ウィルソンやダグ・ヘニングとは、考え方がちがうのだ。  一九二六年、サクラメント生れ。少年時代に図書館でダイ・バーノンの『エキスパート・カード・テクニック』という本にめぐり合ったのが、この道にすすむきっかけになった。あの本を読んだかね、あれはマジシャンの聖書といってもいい本だ。プロのマジシャンになるといったら、シェル石油に三十年勤めていたおやじに、おまえ気が狂ったのか、といわれたが、自分は意思を曲げなかった。  ロサンゼルスに出て、たまにステージをつとめながら、あとはマジックの指 導《レクチユア》で何とかやっているときに、エド・サリバンのマネージャーをしていた男——マーク・レディといって、九十歳でまだぴんぴんしているが、そのマークのすすめでヨーロッパに渡ったのがツキのはじめだった。とくにロンドンでの成功は忘れられない。初演の一夜あけたら、俺はスターになっていた。新聞やテレビがでかでかと取り上げて絶讃してくれた。イギリスは俺のものだ、と思った。若かったんだね。エリザベス女王の前で演じたのは一九五五年だった。二、三度見せたかな。グレース・ケリーもマジックが好きだった。アイゼンハワーも好きだった。VIPっていうのは、みんな手品をよろこぶようだな。でも、王室や大統領に見せることに、自分はそれほどよろこびを感じないね。……  ぐいぐいと早いピッチで流し込むようにスコッチを飲みながら、滔々《とうとう》と喋り続けるうちにだいぶデキあがったとみえて、話があっちにとびこっちにとび、それがまた大音声《だいおんじよう》に呼ばわったりというふうなので、いってることの三分の一ぐらいしかわからない。  ベッド・サイドの小卓の上に、二、三組のトランプがむきだしのまま載っている。相当使い込んだらしく、よれよれである。そのうちの一組をひょいと取り上げたポロックは、さすがにあざやかな手さばきで、いくつかのカード技法をやってみせながら、マジックは練習あるのみだ、引退して二十年になる俺だが、いまでも日に三時間の練習は欠かさない、といった。 「もうステージに戻る気はまったくないが、人には教えたいと思うのだよ」  海はすっかり昏《く》れ、冷え込みがいっそうきびしくなってきた。 「さて、そろそろ晩めしの仕度にとりかかろう。とびきりうまいステーキをご馳走するよ」  ポロックが立ち上った。夫人は動かない。 「いつも彼が作るの。趣味なのよ」 「まあ食べてみろ、俺の手料理は手品よりうまい」  笑いながらそう言い置いて台所に消えたポロックが、すぐまた出てきて、その前に、君たちのベッド・ルームに案内しておこう、といった。  夫婦の寝室のほかには台所と浴室しか出来上っていないというのだから、私とサンジローはどこで寝ればいいのか、と実はさっきから気をもんでいたところである。いくら巨大な円型ベッドでも、四人で雑魚寝《ざこね》というのはご免こうむりたい。 「来たまえ、こっちだ」  長身のポロックが首をすくめるようにして、玄関のビニールの垂れ幕をくぐると、さっきの三匹の犬たちがあとを追った。工事用の道具類や材木が足元にごろごろしているので、うっかりするとつまずきそうである。  闇に包まれた広い前庭の、くろぐろとした木立のすきまに白っぽいものが見えた。 「さあ、君たちの寝室だ」  白っぽいものの前でポロックの声がした。自分の家だと思って気楽にやってくれ、さあさあ、という声を頼りに近寄ってみると、白っぽいものは大型キャンピングカーだった。 4  夜が更けるにつれて、ますます寒くなってきた。五万ドルのテーブルの前で、暖炉《だんろ》の火がパチパチ音をたてて燃えているけれど、部屋が広すぎるせいか、設計のせいか、すこしもあたたまらない。昼間のステーション・ワゴンに積みっぱなしになっていた旅行トランクから、長袖シャツとセーターをひっぱりだして重ね着をして、それでもまだ寒い。ポロックは素肌にTシャツ一枚で平然としている。血色のいい顔色と、Tシャツがはちきれそうなぶ厚い胸板と、短い袖口からはみだして盛り上っているたくましい二の腕を見ていると、戦争に負けたはずだ、と思う。  ポロック手製のステーキは、自慢するだけあってたいそううまかった。にんにくをきかせたレアの焼き加減といい、マッシュルーム・ソースの味加減といい、サラダのドレッシングといい、申し分ない出来栄えである。マジシャンにならずに料理人になっていたら、いまごろ引退なんかしてなかったんじゃないか、といおうとしたが面倒くさい。上乗のステーキでお腹がいっぱいになった上に、ワインの酔いも加わって、いまにも瞼がくっつきそうである。  ポロックは相変らず上機嫌で、サンジローを相手に喋りまくっている。 「いま俺は、太極拳と空手と禅を研究中なんだ。禅は人間の心を深くする。心とは愛だ。愛こそが人生の答えだ。マジックも愛からはじまる。わかるか?」  さっぱりわからない。サンジローが、ふむ、ふむ、としきりにうなずきながら、だんだん教祖風になってきた、と日本語でささやいた。 「よし、俺がいま考えていることを教えよう」  ゆらりと立ち上ったポロックは、ベッドの枕元に立てかけてあったバイオリンを手にとりながら、自分の秘 密《シークレツト》だ、といった。 「バイオリンの練習は二十年前からやっているんだが」  なかなか上達しない、とつぶやいたポロックは、バイオリンをかまえ、弓をあてがってから、そろりと両手を離したかと思うと、いきなり太極拳のポーズをとって、ゆるやかに上半身を動かした。とたんにバイオリンがむせび泣くような音色をかなではじめた。節にも曲にもなっていない単調な音が、スロービデオみたいな太極拳の動きによくあっている。  どういうことなのか、全然わからない。マジックなのか、バイオリンの曲芸なのか、新種の太極拳なのか、ポロックは何を考えているのか、とぼんやり考えているうちに、とろとろと眠ったようである。目がさめたら、バイオリンの音はもう聞えなかった。あれは何だったの、とサンジローにたずねたら、わかりません、と答えて頬をふくらました。  頃合いを見はからって、寝室に引取ることにした。 「ご馳走さま。ステーキ、うまかった」 「ゆっくり寝てくれ。あの車には何でもそろっているから、自由に使ってくれ」 「では、おやすみ」  キャンピングカーの前とうしろが、それぞれ独立したベッド・ルームになっていた。中央にテレビ、冷蔵庫、電子レンジ、流し台、製氷器、トイレ、なるほど何でもそろっている。  運転席にすわったサンジローが、エンジンをかけてヒーターを作動させた。なかなか効いてこない。シャツを着たままベッドにもぐり込んで、がたがた顫えながら、へんな一宿一飯になったな、と思う。 徳ハ孤ナラズ 1  夜行列車というものに久しく乗っていない。新幹線と飛行機のおかげである。それだけ便利になったわけだけれども、便利になったぶんだけ味気なくなったようでもある。  夜行列車、なかんずく列車寝台には独特の旅情がある。寝たままのからだが、ぐいぐい引っぱられていく一種の無力感が何ともいえないし、鉄路の響きが背中に吸収される微妙な感じはセクシーでさえある。カーテンのすきまを横にかすめる通過駅のがらんとした明かりにも風情《ふぜい》があるし、車窓のガラスに写る自分の顔が、走る闇の中にぼんやり浮かんでみえるのも、見慣れたまぬけづらとはいえ、おもしろくないこともない。  ただし、何かの加減で一カ所に停車したままいつまでも動かなかったりすると、とたんに寝台空間がせまくなったような感じにとらわれて、息苦しくなってくる。あれはやっぱり走っているからぐあいがいいのであって、走行感が肉体化されることで、生理的に快適な眠りがおとずれるのにちがいない。  同じことがキャンピングカーにもいえそうだ、とさっきから全然眠れないままに考える。うまいステーキをご馳走になって、チャニング・ポロックの饒舌《じようぜつ》を右の耳から左の耳に聞き流しながらうとうとしていたときには、あんなに睡かったのに、ベッドにもぐり込んだとたんに目が冴えてしまった。  自分の家だと思ってラクにしてくれ、とチャニング・ポロックはいってくれたけれど、突然あてがわれたキャンピングカーを自分の家だとは思いにくい。だからといって不満があるわけではない。ベッドはきちんとメイクされていたし、シーツも上掛けも替えたてだったし、枕カバーも清潔だし、ホテルで寝ているのとすこしも変りがない。  独立した二つの寝室とちょっとしたリビング・ルーム、それに台所とトイレ部分で成り立っているこの大きなキャンピングカーには、テレビ、冷蔵庫、電子レンジ、電話と、何から何まで完備しているのだし、こうやって手足をのびのび伸ばしているベッドも、国鉄のA寝台なんか及びもつかないほど広くて贅沢にできている。サンジローがもぐり込んでいる運転席のうしろの寝室も、こっちと同じくらい広かった。広すぎて、それでカー・ヒーターがきかないのだろうか。いつまでたっても、ちっともあたたかくならない。重ね着をした長袖シャツのまま、あごの上まで毛布をかけているのに、歯の根ががちがちする。アメリカ西海岸の、これが七月だとは信じられない。  寒さのせいもさることながら、列車寝台と同じで、やっぱり走っていないから寝つきが悪いのだろう。 「おい、サンジロー」  ちょっと車を動かして、ひとまわりドライブしようじゃないか、と気をひいてみたが、返事がない。 「なあ、サンジローくん」 「………」 「サンジローさん」 「………」  返事の代りに、聞えるのは風の音だけである。太平洋の真上にせりだしているような工事中のポロック邸の前庭の、木立の中にこのキャンピングカーはとめてある。梢を吹き抜ける風の気配が「松籟《しようらい》」という言葉を思いださせる。大磯にでもいるような感じだと思ったとたんに、日本が近くなった。  上に「ど」の字をつけたいような四十日の阿呆旅行も、ここまできたら、あとはもう帰るだけ。早く帰りたいような、まだ当分帰りたくないような、どっちつかずの感慨が去来するもんだから、ますます目が冴えて、一向に睡気がさしてこない。  こういうときには羊の数をかぞえたらいいそうだが、かぞえながらでも別のことを考えることができるように人間の頭は出来ているのだから、かぞえるぶんだけ二重の作業をしているようなものだと思う。現に、五匹六匹とかぞえるうちに、旅行中のあれこれがしきりに脳裡をかすめて、二十匹目ぐらいから、羊の顔が一匹ずつマジシャンの顔に見えてきた。  いろんな顔が、浮かんでは消えていく。  息子ほども若いのに、どういうわけかばかにうまが合って、しまいには私の部屋に二晩ほど泊り込んで、手品を見せてくれたり教えてくれたり、将来の夢を熱っぽく語ったりしたあと、別れぎわに、ほろほろ涙ぐんだビト・ルポのニキビ面《づら》も忘れられないし、偶然の産物を私の手品だと思い込んで、トリックを教えろ教えろといってきかなかったローラン・ロッシェルや、おまえのことは『ニューズ・ウィーク』で読んだといいはったジェラルド・コスキーの顔もなつかしい。  ロスで開かれたPCAMコンベンションの「クロースアップ部門」と「ジュニア部門」の両方で一位に入賞した少年マジシャンの顔も、ついきのうのことのように目に浮かぶ。クリストファー坊や、十三歳。目がきょとんとしたアンティーク・ドールのような顔を、にこりともさせないで四枚のエースを出したり消したり、顔より大きいジャンボ・カードを八枚の普通サイズのカードに変えたりするたびに、八十七歳のダイ・バーノンが客席で莞爾《かんじ》と笑いながら拍手を贈っていた。  父親がマジック本の蒐集家《コレクター》で、母親はそれに輪をかけたマジックの教育ママだというクリストファー坊やには、八歳のときからプロ・マジシャンの家庭教師がついているんだそうで、今度のコンベンションにも、もちろん両親と家庭教師同道で参加していた。  英才教育ですくすく育っているクリストファー少年の対極に位置するのが、ニューヨークでしばしば見かけた大道マジシャンや、三枚のカードで客を釣る街頭賭博のいかさま師といった連中だろう。「スリー・カード・モンテ」と呼ばれるあのトリックは、私だってお手のものである。その私に向かって、どう? 張ってみないか、と声をかけてきた黒人少年の白い歯や、ブロードウェイの路上で、スポンジ・ボールの手品を演じていたヒゲの若者の、おそろしく派手なアクションも目の底に残っている。乳母《おんば》日傘と野生児の違いはあっても、みんな憑《つ》かれた連中である。  コインを扱わせたら世界一、という評価が定まっている二十八歳のデビッド・ロスなぞは、さしずめ、憑かれた人びとの代表格だった。ニューヨークのマジック・ショップ(奇術材料店)でたまたま紹介されたので、一度見せてもらいたいものだ、話も聞きたいし、といったら、すぐ翌日、くたくたのシャツに、膝の出たコールテンのズボンというおよそ風采のあがらない恰好で、ふらりとホテルにやってきて、コイン・マジックの一 式《ルーテイン》を、詳細な解説つきで見せてくれた。 「知ってのとおり、コイン・マジックの歴史は古い。文献によれば十六世紀の後半には、すでに行われていたらしい」  それを近代マジックに昇華させた上、芸術の域にまで完成させたのが、現存する偉大な長老マジシャンたちであって、実際、彼らの技法はすばらしい。まずそれを見せよう。ダイ・バーノンはこうやった、ジミー・グリッポーはこうやった、トニー・スライディーニはこうやった。 「でも、僕はこうやる」  銀貨が消えたり、テーブルを貫通したり、銀貨に一変したり……現象は同じでも、手際はずっと洗練されていた。ほとんど神技に近い、完璧なテクニックだった。  見せるだけ見せたらもう用はないという感じで、無造作にコインをポケットにしまいながら、コイン・マジックにとり憑かれたのは十一歳のときで、それ以来、朝から晩までコインをいじっていたもんだから、とうとう高校にも行かなかったが、後悔はしていない、これからもコイン一本槍、ほかのマジックに手を出す気はまったくない、とデビッド・ロスはいった。使用するコインは、主としてハーフ・ダラー銀貨四枚。ということは、計二ドルである。これから先の長い人生を、この青年は二ドルで暮す気か、と思っただけでひやりとする。 2  羊の顔といっしょに浮かんでくるさまざまな顔の中でも、ひときわ印象ぶかいのが、マジック界三長老といわれる人たちの顔である。  トニー・スライディーニ、フランク・ガルシア、ダイ・バーノン。  むかしニューオルリンズで開かれたマジック大会で、客席の拍手が二十分間鳴りやまなかったという伝説の主《ぬし》で、いままでも「マジシャンの中のマジシャン」(Magician's magician)と呼ばれているトニー・スライディーニは、ニューヨークのマッサージ・パーラー近くの、あまり上等とはいえないマンションの一室で、八十歳のやもめ暮しをしていた。面会の約束をとりつけてくれたのは、例のビト・ルポである。  スライディーニは人嫌いで通っていて、マスコミの取材にもいっさい応じないことで有名なのだが、マジック好きの日本人がはるばる会いにきたんだといったら、十五分だけならという条件つきでOKしてくれた、これはすごいことだ、とビトが一人で興奮していた。 「うーん、まあ入り給え」  いかにも不承不承といった感じで請《しよう》じ入れたスライディーニは、渋紙を貼りつけたような顔をこわばらせて、このところ体調を崩しているので十五分で失敬するよ、と念をおした。その十五分が、あっというまに三十分になり一時間になり、それでも終らなくなってしまったのは、まあ一つ見せようか、とスライディーニが呟いたときに端を発している。こなごなにほぐしたラッキー・ストライクを瞬時に復元してみせるシガレットの手品を皮切りに、コイン、ハンカチーフ、カードの順で妙技を揮《ふる》ううちに、顔色までよくなって、とまらなくなった。しまいには、なんだもう帰るのか、まだいいじゃないか、もうすこし見ていけ、と上機嫌でいいだして、十五分が結局二時間ぐらいになったようである。 「こんなことがあるのか。信じられない」  マンションのドアを押しながらビトが目を丸くして叫んだけれど、狷介《けんかい》孤高の長老といえども、人恋しくなる一瞬というものがあるのだろう。その瞬間に居合わせたのが、われわれの仕合せだったのだと思う。  対照的だったのはフランク・ガルシアで、はじめからよく喋り、よく笑った。それも、衆人環視のホテルのロビーで、いかにもたのしげにカード・マジックを披露しながら、である。 「俺はマドリッドでたね《ヽヽ》を仕込まれて、予定では大西洋上で生れるはずだったんだ。それがタッチの差で、ニューヨークに着いてから生れてね。クイーン・メリー号のコック長が名付親になってくれたんだが、その彼がクロースアップ・マジックに凝っていて、俺がものごころついたころから手品を教えてくれたというわけだ。親父《おやじ》は電力 会社《コーン・エデイソン》の建設技師だった。俺が生れたのは百六丁目のライアン病院、一九二七年五月さ……」  三長老の一人にかぞえるにしては、ちょっとばかり若すぎるようだけれど、二十代の後半には「百万ドルの指を持つ男」という異名をとり、多くの著作もものして、日本でも三冊翻訳されているという活躍ぶりを考えれば、長老扱いもうなずける。  プロになってよかった、マジシャンの収入は非常に満足すべきものだ、もちろん成功すればの話だがね、自分はもう年だから、もっぱら生活をエンジョイして暮すつもりだ、これからは若い連中の時代だよ、と語る口の下から、でもなあ、とガルシアは語を継いだ。 「どうかと思うよ」  口調が、急に愚痴っぽくなった。 「名前はいいたくないが、いまの人気マジシャンの中には、爪の手入れもしてない奴がいる。爪をきり揃えておくことはマジシャンの常識じゃないか。カードも使い古したのを平気で使っている」  やれやれさ、と首をすくめてみせるガルシアの顔にも、スライディーニと共通する淋しさがにじみ出ていた。  そういえば、独身者 専用《バチエラーズ・オンリー》の看板が出ていたアパートで、昼間からスコッチをストレートでぐいぐい呷《あお》りながら、見てくれ《ウオツチ》、見てくれ《ウオツチ》とカード・マジックを演じて飽きなかったダイ・バーノンにしたって、それはいえる。  孤影老残は、マジシャンの宿命なのだろうか。 3  日本はいい国だ、だが、もう二度と行くことはあるまい、と淋しそうにダイ・バーノンが呟いた話は前に書いた。夕食に招待したら、わしは朝昼兼用のブランチしか食わんことにしとる、一日一食、あとはこればっかりだ、と飲みさしのウィスキー・グラスをかかげてみせた話も書いた。私の顔をのぞき込むようにして、あのときバーノンはこういった。 「きみも、長生きしたかったら、せっせと飲むことだ」  午前一時をまわった「マジック・キャッスル」の、その名も〈ダイ・バーノン回 廊《ストラツセ》〉の自分の胸像の下で、ぐっすり眠りこけている老バーノンの寝顔を見つめながら、一期一会《いちごいちえ》の感慨を噛みしめた話も書いた。  書いた話ばかり蒸《む》し返すのにはわけがある。  ——一期一会に、続きがあった。  もう二度と行くことがあるまいと呟いていたダイ・バーノンが、半年もたたないうちに日本にやってきた。奇術用品の大手メーカーが六年がかりで翻訳・刊行を続けてきた奇術全集(Tarbell course in Magic)全七巻の完結記念パーティーに、メイン・ゲストとして出席するためである。正確には四カ月ぶりの対面だったが、まるで別人のように衰弱して、車椅子での来日だった。心酔者の若いマジシャンが、滞在中、片ときも離れずにつき従っていた。パーティーのおひらき口で握手をかわしながら、今度こそお別れだ、と思った。  アメリカ阿呆旅行から一年たった去年の夏、マジックのオリンピックといわれる三年に一度の世界大会(FISM《フイスム》)が、スイスのローザンヌで開催された。マジックと聞いただけで、げっぷが出そうです、といってサンジローは逃げだしたけれど、毒食わば皿まで、私は出掛けた。格安ツアーの分割払い、あとは野となれである。  参加三十三カ国、三千五百人収容の会場ロビーで、開会式前の雑踏と熱気にあおられながらうろうろしていたら、耳元で、割れるような声がした。 「おう、やっぱり来たな。さっきから、きみを探しとったんじゃ」  ステッキをついたダイ・バーノンが、見違えるほど血色のいい顔をほころばせて立っていた。 「あ、教  授《プロフエツサー》」 「きみに持ってきたものがあるんだ。ちょっと待っててくれ」  怒鳴りつけるように言い置いて、バーノンは人波をかきわけながらどこかに姿を消した。ステッキも用がないほどの、しっかりとした足どりで遠ざかっていった長身のうしろ姿を眺めながら、私はほとんど茫然としていた。  ついこのあいだ車椅子の上で紙のような顔をしていた老人と、これが同じ人物だとは、到底信じられない。  マジシャンもここまで苔《こけ》むすと、自身の肉体にまで「わん・つう・すりー」とマジックをほどこすのかしらん。  雑踏の中でもひときわ目立つ白髪をふりたてるようにしてバーノンが戻ってきた。 「さあ、これを受取ってくれ」 「なんですか」 「わしのスモール・ギフトじゃよ」  二週間前の六月十七日が自分の八十八歳の誕生日だった、おおぜいの友人たちがとびきり盛大なパーティーを、何日にもわたって開いてくれた。そのときの引出物だ、といってバーノンが宝石箱のような革のケースを差し出した。  若き日のバーノンの写真と、熟年時代の肖像シルエットを印刷した特製トランプ四組と、プロフェッサーの功績を称える洒落たバースデー・カードが入っていた。 「どうだ、気にいったか」 「もちろんです」  家    宝《フアミリー・トレジユア》にします、と答えながら、それ以上に、老バーノンの甦《よみがえ》った健康が、何にもましてよろこばしいと思った。奇蹟としか思えない回復力である。どうしてこんなに元気になったのか。 「酒をやめたんじゃよ」  打てば響くように答えたバーノンが、にこりともしないで続けた。 「きみも長生きしたかったら、酒をやめることだ」  それはないよ。  朝令暮改のローザンヌから八カ月、今度はテーブル・マジックだけの世界大会がついこのあいだラスベガスで開かれた。テーブル・マジックだけ、と聞いたらむずむずしてきて、また出掛けた。 「おう来たな」 「はあ、教  授《プロフエツサー》」  握手を交しながら、一期一会が聞いて呆《あき》れる、と苦笑する思いである。もっと呆れるのが、おのれの酔狂さである。ここまでおぼれていいものか。いいわけないじゃないか、と自答しながら、いまにして思いだす。  ローザンヌでもラスベガスでも、会場をうずめた観客から、いちばん盛大な拍手を浴びていたのがダイ・バーノンであった。もちろんバーノンがステージに立ったわけではない。司会者がひときわ声をはりあげて、みなさん、すばらしい人が客席にみえています、われらのプロフェッサー・ダイ・バーノンです、と誇らしげに告げ、スポット・ライトの輪の中で、白髪痩身のバーノンがゆらりと立ち上ったとたんに、割れんばかりの拍手がまき起って、しばらくは鳴りやまなかった。休憩時間のロビーや、会期中随時催されるパーティーの席上、いつでも人垣ができていたのもバーノンの周りだった。  別れぎわに、なあきみ、百歳の誕生パーティーにはぜひ来てくれ、なーに、あとたった十二年じゃよ、と笑いながらいったバーノンの、なんとも充ちたりた表情に接して、徳ハ孤ナラズ、という論語のひとことを思いだした。  孤影老残はマジシャンの宿命か、などときいたふうなことを考えたりしたのは僭越というものであったと気がついたのは、だから後日の話で、チャニング・ポロックのキャンピングカーのベッドで、へんに目が冴えたまま輾転反側《てんてんはんそく》、羊の数をかぞえているいまは、それどころではない。 4  からだがあたたまって、ようやく瞼が重くなってきた。羊の顔とマジシャンの顔がごちゃまぜになって、考えることが、あっちにとび、こっちにとび、ますます収拾がつかない。  ポーランドの自主管——眠りの入口にさしかかったときの人間の連想繊維というものはどうなっているのか、ポーランドの自主管理労組「連帯」の、あの「連帯」という呼称が前々から気になってしょうがない。  連帯責任とか、連帯保証人とか、連帯債務、これならわかる。連帯意識、連帯感、これも自然である。ただぽつんと「連帯」だけでは、なんとなくおさまりが悪い。どうしてこんなすわりの悪い訳語をあてたのかと思う。新聞やテレビ・ニュースが「連帯」「連帯」といっせいに報じはじめたころ、耳馴れない言葉だと思って、大学の先生をしている自称ワルシャワ通の友人に訊いてみた。  ポーランド語では「ソリダルノスチ」(solidarno)である。「団結」とか「結束」を意味する英語の solidarity と同根の言葉である。solidarity の類語は union である。だから「組合」と訳せばいいようなものだが、この場合は固有名詞であるからして、自主管理労働組合ということになってしまう。「組合」組合はいくらなんでもあんまりである。さればといってほかに適当な訳語も見あたらない。よんどころなく「ソリダルノスチ」の直訳語である「連帯」をそのまま使っているのだ、と答えた友人は、いわれてみると、たしかにすわりが悪いようだ、といった。  説明を聞いたからといって、すわりの悪さが消えてなくなるわけではない。硬直で、舌たらず。  ——どうしてもなじめなかったその二字を、この旅行中、実にしばしば思いだした。思いだすだけではなく、実際に、何度呟いたことか。呟いて、すこしも違和感がないのである。  マジックという共通項だけで、初対面の人間がたちどころに胸襟を開いて、十年の知己のように遇したり遇されたり、本来秘匿すべきノウハウを教えたり教わったり、あれこそ「連帯」だった。  行くさきざきで目にした“マジシャンの連帯”には、プロもアマもなかった。趣味を同じくするというだけで通い合うこの親近感は一体何だろう、とベッドの中でうとうとしながら考えるうちに、また一つ思いだすことがあった。  旅行会社が呆れたぐらいの酔狂な旅程を消化して、もう一度ニューヨークに引返したら、空港に迎えに出てくれたビト・ルポが、何かの話のついでのように、マジック・ランチにはもう行ったのか、といいだした。 「マジック・ランチ?」 「あ、まだ話さなかったか」  昼めしどきに行くといつでもテーブル・マジックをやっているレストランがある。店の名は「ゲイティ」だが、みんな“マジック・ランチ”と呼んでいる。場所はブロードウェイだ、とビトがいう。  ブロードウェイなら、この前の滞在中に、毎晩のようにミュージカルを見に行って、だいたいの様子は頭に入っているつもりだが、そんなレストランがあることは、ちっとも知らなかった。 「どうってこともない店でね、アマチュア・マジシャンの溜り場になっているというだけの話だから、べつにおもしろくもないけど……」  おもしろそうなので、のぞいてみた。  日本でも話題になった『オー・カルカッタ』『コーラスライン』『エビータ』『ダンシン』といったロングラン・ミュージカルの看板がひしめき合っている劇場街のはずれに、そのレストランはあった。ビトのいうとおり、まったくどうということもない大衆食堂である。  ハンバーガー・スタンド式のカウンターが二カ所と、テーブル席が十五、六ぐらい並んでいる店内の、どこにもマジックの気配はない。時分どきで、お客が立て込んでいるせいかもしれない。  テーブル・クロースはしみだらけだし、お皿は脂でべとべとしているし、注文したライ麦パンのサンドイッチは、顔ほどもある大きさで、肉やら野菜やら卵やらが、口の大きさもおかまいなしに、どさどさとはさんであって、見ただけで胸がいっぱいになるようだったが、食べてみると、これがなかなかにうまい、万事におおざっぱな黒人ウェイトレスの挙措も、よく見ればいきいきとしていて、動きに無駄がない。接客態度は、むしろ誠実である。表情が明るい。口をきいたら損だというようなどこかの国の仏頂面とは大ちがいだと思いながら、改めて店内をくまなく見まわしてみると、カギの手になっているテーブル席のいちばん奥で、五、六人の老人たちが、ほう、とか、うん、とかいいながら、何かごそごそやっていた。食事を了えたばかりだとみえて、まるめて放りだしたままのナプキンと、食べのこしのお皿のすきまで、カードとコインがちらちらした。  サンドイッチをほおばりながら、しばらく様子を窺うことにした。こっちに背中を向けている白髪のふとった男が、カード・マジックらしきものを見せている。このくそ暑いのに黒い背広姿である。にじみ出た汗で、腋の下に地図ができている。  お代りのコーヒーをつぎにきた黒人ウェイトレスに、あの連中はどういう人たちか、と訊くより早く答えが返ってきたが、訛りが強い上に、猛烈な早口なので、ほとんどわからない。みんなこの店の常連客で、自分なんかよりずっと古い、もう十年以上、一日も欠かさず毎日やってきて、食後に手品を見せ合っているのだというようなことのほかに、いろいろ教えてくれているらしいのだけれど、あとは全然聞きとれない。黒い顔じゅうで笑っているところをみると、彼らに対して、いい印象を抱いていることはたしかなようである。少なくとも、長尻《ながつちり》の迷惑な客というふうには見ていないことがはっきりして、他人事《ひとごと》ながらなんとなくほっとした。  頃合いを見計って、のぞきに行った。  白髪の男に代って、となりにすわっている青い半袖シャツの猫背の老人が、自分のカードをとりだして扇型《フアン》にひろげるところだった。 「失礼——」  見せてもらってもよろしいか、とひと声かけてうしろに立ったら、全員がいっせいに顔をあげて、もちろんいいとも、さあさあ見たまえ、あんたもやるのか、ここに掛けたまえ、と口ぐちに答えながら笑いかけてきた。どの顔も立派な顔で、人品骨柄賤《いや》しからずという感じである。 「そうか、日本から来たのか」  さっきの白髪のふとった老紳士が立ち上って、年寄りとは思えないほどの握力で、ぐいぐい握手をしながら、わしはジョセフ・バーネット、弁護士をしている、と名乗ってから、実に残念だが、と語を継いだ。 「これから法廷に出なくてはならない。いつもは正午から二時まで、毎日必ずここにいるから、もう一度来てくれ。わしのカード・トリックを、きみにぜひ見せたい。もしよかったら、わが家に来てくれてもかまわない」  ここに電話をくれたまえ、と名刺をさしだした老弁護士は、いかにも名残り惜しそうに一座の顔を見まわしながら、紹介しておこう、みんな古い友人なんだ、といった。  猫背の青シャツが同業の弁護士、あとは出版社のオーナー、精神分析医、元高校教師、元高裁判事。元教師はいま子供たち相手にマジック教室を開いている。元判事は七十七歳だが、一九四五年に『スターズ・オブ・マジック』という本も書いている、と言い置いて老弁護士は出て行った。待っていたように、元判事が向き直って、さあ見てくれ、見てくれ、といいながら卓上に散らばっていた数個のコインを、ふいと指でつまみ上げた。 「あ、ちょっとその前に……」  元判事さんの名前を聞き漏らしたし、当方の自己紹介もまだすんでいない。 「なんじゃ、名前?」  血色のいい顔に白い口髭をたくわえ、旧式のロイド眼鏡をかけた元判事が、怒鳴りつけるような声で、そんなものはどうでもいい、さあ見た見た《ウアーツチ・ウアーツチ》、と叫んでさっさと手品にとりかかった。  五枚の一ドル銀貨を一枚ずつ口の中に放り込んで、水といっしょにつぎつぎに食べてしまうというトリックである。掌中や指の関節にコインをかくす肝心のところで、ちょろりと見えたりするのがご愛嬌だったが、ラッピングと呼ばれる消失のテクニックはたいそうあざやかだった。硬い銀貨を嚥下する仕種や表情も、適当にオーバーで、適度にユーモラスで、見ていてたのしい。 「いやァ、すばらしい。おみごとです」  褒めついでに、アメリカの裁判官はみんな鉄 の 胃《アイアン・ストマツク》を持っているのか、とへたなジョークをひとこと添えたのが運のつきで、そうか、そんなに気に入ったのか、よし見てくれ見てくれ、と元判事のコイン・マジックがとまらなくなった。  途中で一度、猫背の弁護士がカードを手に、どれわしもひとつ、と割り込みかけたのをあわてて制して、コインがええ、コイン、コイン、と無邪気に口走るあたりは、まるでだだっ子である。なかなか順番がまわってこない精神分析医や元高校教師が、指をむずむずさせている。  全員がひとわたり見せ了ったら、もう夕方に近かった。カード、コイン、シガレット、カップ・アンド・ボール。うまいのもあったし、へたなのもあった。自分の口からはいいにくいけれど、カード・マジックに限っていえば、私のほうがはるかにうまい。いちばんおしまいに四《フオー》エースの手品を見せた元高校教師のカードを借りて、五つ六つ披露したら、老紳士たちが目をむいて、はじめて見た、といった。  いつ寄ってきたのか、遠まきに見物していた数人のウェイトレスとウェイターが拍手を贈ってくれて、さっきの黒人ウェイトレスが、大きな口をひらいて何かいいながら片目をつぶってみせた。  最大級の形容詞で口ぐちに褒めてくれた老紳士たちの反応もうれしかったけれど、このウィンクはもっとうれしかった。  あのウェイトレスの黒い笑顔は、なんとも人なつっこかったなあ、とキャンピングカーのベッドの中で思いだしているうちに、やっと朦朧《もうろう》としてきて、わからなくなった。 5  大海原《おおうなばら》という言葉がぴったりの、果てもなくひろがる藍《あい》の色が、朝の陽光にとろりときらめいて、寝不足の目に、眼下の太平洋がまぶしい。  歯の根も合わなかったゆうべの寒さが嘘のような麗《うら》らかな日和である。ただ、風は強い。強くて、冷たい。崖っぷちの白い柵《さく》のはるか下方から、海の匂いをのせて吹きつける強風に頬をなぶられていると、たちまち顔面がこわばってくる。 「どうだ、気持がいいだろう」  背後でチャニング・ポロックの声がした。円型ガラス張りの寝室兼居間からテラスに出てきたポロックは、片手に食後のコーヒー・カップ、もう一方の手に練習用のトランプを持ったまま、赤銅色《しやくどういろ》の顔をほころばせて、大声で何かまくしたてた。言葉がところどころ風にちぎれて、よく聞きとれない。虫くい算の問題とにらめっこしているような気分である。それでも、単語の断片と全体の調子で、およその察しはつく。  ここの生活は最高だ、ここにくる前はビバリーヒルズに住んでいたのだが、思いきって引越してよかった、この新鮮な空気を毎日吸っているだけでも、ほかの土地にはもう住む気がしない。  わかる、わかる、ここで暮したら百まで長生きできるだろう、と負けずに大きな声をだしたとたんに、悟るところがあった。風で言葉がとぎれてもとぎれなくても、初級英語会話の本質は、要するに虫くい算なのだと思ったら、ふっと肩の力が抜けたようである。滞在四十日、帰るまぎわになって、ことによると初級を卒業したのかもしれない。 「練 習《プラクテイス》、練 習《プラクテイス》、練 習《プラクテイス》……練 習《プラクテイス》あるのみさ」  まったくだ、習うより馴れよだ、と私は英会話のことを念頭に置いてうなずいたのだけれど、チャニング・ポロックがそういったのはもちろん手品の話で、練 習《プラクテイス》あるのみといいながら、手にしたトランプを、もう一方の手に、ぱらぱらぱらと南京玉すだれのように送り込んだ。コーヒー・カップは、いつのまにか、崖っぷちのテーブルの上に置かれていた。 「これが、毎朝の日課なんだ」  体操みたいなものさ、と呟きながら、ポロックは、つぎつぎにあざやかなカード・ハンドリング(マジック以前のデモンストレーション)をやってみせた。自由自在、生きもののように、縮んだり、伸びたり、扇型《フアン》にひろがったりするトランプの絵柄に、見た顔が印刷されていた。  ノーム・ニールセン。  ウィスコンシン州の片田舎に生れたこのマジシャンは、いま、ヨーロッパ全土を席捲するトップ・スターである。ミュージカル・マジックという新境地を開拓したニールセンのステージは、日本でも何度かテレビ放映されている。  浮かぶバイオリンと、コインの落下音が奏でるシロフォンの妙《たえ》なる音色で、一躍、世界のナンバー・ワンという肩書を手中におさめたニールセンの演技は、その優雅さにおいて、チャニング・ポロックの再来だ、というもっぱらの評判である。  そのノーム・ニールセンの顔が、ぱっ、と風に舞った。  ポロックの手元が狂って、掌中のカードが盛大に飛散したらしい。三分の一ぐらいが海上に散り、残りが足元に散った。  にっこり笑うニールセンの顔を無造作に踏んづけながら、ポロックは、すたすたと部屋に戻った。 「さて、食べだちで悪いけど——」  いくら初級を卒業した気になっても、そんなややこしい英語が喋れるわけがない。ただ、そういう気持をこめて、これで失礼する、といったら、よし、ワイフに町まで送らせよう、また来てくれ、とポロックが丸太のような腕をさしのべてきた。さばさばとしたその物言いで救われた。なまじしめっぽいことをいわれたら、帰りたくなくなってしまう。 初出誌 オール讀物(昭和五十七年四月号〜昭和五十八年七月号) 単行本 昭和五十八年十二月文藝春秋刊 文春ウェブ文庫版 アメリカ阿呆旅行 わん・つう・すりー 二〇〇二年一月二十日 第一版 著 者 江國 滋 発行人 堀江礼一 発行所 株式会社文藝春秋 東京都千代田区紀尾井町三─二三 郵便番号 一〇二─八〇〇八 電話 03─3265─1211 http://www.bunshunplaza.com (C) Setsuko Ekuni 2002 bb020106