堺屋太一 油断! 目 次  第一章 幸せな日々の最後に  第二章 中  東  第三章 予  測  第四章 発  火  第五章 �オマーン半島は燃えている�  第六章 騒  然  第七章 創  痍  第八章 麻  痺  第九章 枯  死 [#改ページ]    過ぎたる自信と傲慢の故に    持てる油を失い    その首を断たれた者があった    古の賢人は    これを油断と呼んで    後の世の戒めとした [#地付き]古代インドの書「ラーマーヤナ」 [#改ページ]  第一章 幸せな日々の最後に     1  けたたましい騒音が、小宮幸治の眠りを破った。  小宮は、心地よい春眠の床にしがみつくかのように、薄い夜具に頭をもぐり込ませた。だが、激しい騒音には、その程度の防音処置はなんの効果もなかった。小宮は鼓膜の苦痛から逃れるために、眠りへの愛着を断ち切るほかはなかった。  小宮幸治は、ゆっくりと上半身を起こした。薄いカーテンを通して入ってきた春の陽が、汚れた部屋の中を、淀んだ水中のような青い色に染めている。その部屋の隅に、騒音源の電話機が、文明の利器特有の無遠慮さで、黒い不格好な全身を振わせていた。 「もしもし……」  ようやく身を這い寄せて受話器を取り上げた小宮は、あえぐようにいった。 「すぐ来て下さいよ、小宮さん」  電話の相手はいきなりそういった。小宮と同じく、通商産業省エネルギー庁の石油第一課で課長補佐を勤める沼川昭一の声だった。 「小宮さん、まだ何も知らないの、昨夜の事故のこと」  沼川は不思議だといわんばかりの口調だ。 〈昨夜十二時頃まで残業して、いまこの電話で起こされたばかりの俺が、何も知っているはずないじゃないか〉  小宮は内心少々腹立たしく思った。 「昨日の十時過ぎらしいんだけどね」  沼川は茨城なまりの早口でしゃべり出した。 「N石油の瀬戸内精油所で原油陸揚げ中に、タンカーとシーバースを繋いだパイプがはずれて六千リットルほどの原油が海にこぼれたんですよ。それで付近の漁民が騒ぎ出してね。このことで今日十一時から衆議院の公害特別委員会で、吉崎公造先生が緊急質問するんですよ」 〈また公害事故か……〉  小宮は全身が重くなる気持だった。 「吉崎先生は公害問題には詳しいし、この前の北海道のタンカー衝突事故の時も、だいぶきびしくやられているから……」  沼川は、小宮より一年早く通産省に入ったエリート官僚の一人だが、技官の課長補佐だ。予算とか法令関係とか国会対策とかいった、いわゆる総括事務は、事務官の課長補佐である小宮の担当なのだ。だが、今朝の沼川は、情報独占者の優越感で、長々としゃべり続けた。 「わかった。すぐ行きますよ」  話の切れ目を把《とら》えて、小宮はそういうと電話を切った。もう九時半に近かった。  小宮は新聞だけを持ってアパートを飛び出し、地下鉄の駅へ急いだ。四月中旬の空は晴れ、芽の出かけた梢を渡る風がさわやかだった。しかし、連日の残業による疲れが、三十四歳の彼の肉体に粘っこく溜っていて、気分は晴れなかった。  電車に乗るとすぐ、小宮は新聞を広げた。彼の目は自然とN石油の事故の記事を捜していた。  それはすぐ見つかった。第一面の中央下部に、「N石油でまた石油流出」という二段抜きの見出しがあった。それに続く記事は、先刻沼川が電話でいった事実だけを書いた簡単なものだった。だが、その末尾には、「関連記事、22・23面」というゴシック文字が黒く付されている。  小宮は、二十二、三面を開いた。そして、驚いた。二十三面の最上段に「死の海に黒い魔液の追い打ち」という、黒地白抜きの大見出しが横たわっていたからである。そしてその下には、「またも原油流出──夜の海に漁民の怒り爆発」という縦見出しが続き、タンカーの船尾と旗を立てた漁船らしい小船との、やや不鮮明な写真がある。続いて漁民代表の「怒りの声」と精油所側の「陳謝の弁」、それに公害事故にはよく登場する大学教授の「企業・行政当局批判」の論評などもあり、大きなスペースを占めていた。 〈公害、公害と、国会も新聞も騒ぎ過ぎる〉  と小宮は思った。わずか六キロリットルやそこいらの原油が海に流出したことが、それほど大問題とは彼には考えられなかったからだ。  世の中は平和だった。ベトナム戦争はすでに遠い歴史の中に消えていたし、新たな大紛争もなかった。日本経済も順調であった。かつてのような高度成長こそなくなったが、さほど深刻な不況でもない。物価は依然として上昇しているが、ひところの狂乱物価を経験した国民は一〇%内外の物価上昇をさして気にしなくなっている。  こんななかで、公害は以前にもまして�人気�のある政治・社会問題だった。  人びとの不満と不安とを最大の�市場�と心得るマスコミは、好んでこれを取り上げたし、政治家は、この問題に檜舞台を見い出している。財界、つまり既成大企業の首脳部にとっても、公害騒ぎは悪いものではない。時にはわが身に火の粉をかぶることもあったが、公害規制と住民パワーが新しい工場の建設を抑えてくれるお陰で、新規参入者との競争が生じないことの利益の方が、ずっと大きいのだ。  もちろん、公害対策はかなりの成果を上げている。大都市の河川や工場地帯の大気は、一時よりずっときれいになったし、有害添加物の規制も大幅に進んだ。だが、公害問題の種は尽きなかった。最近、特に注目されだしたのが公害事故だ。  人身や財物の直接の被害は少なくても、それが公害を引き起こす恐れのある事故を「公害事故」と呼びだしたのは、つい二年ほど前からだ。それまでは、新聞の地方版の三行記事で終わった事故までが、大々的に報道されるようになった。  公害事故は石油関係に特に多かった。小宮幸治が石油第一課の課長補佐となった昨年十月からの半年ほどの間だけでも、国会で取り上げられた公害事故が十件近くあった。  役人のなかにも、公害問題こそ権限強化と組織拡張の沃野だと考え、世の中の反公害ムードを歓迎する者もあった。だが、小宮は、そんな現実に満足し切れなかった。  小宮は新聞の頁を繰った。 [#1字下げ] 開幕以来不調の巨人は昨日も負けた……将棋名人戦第三局で現名人が二勝目をあげた……三月の輸出は好調で、日本の貿易黒字は二十七億ドルにも上った……証券市場は変わらず、ドル相場は引き続き漸騰……  そんな記事のなかで、一つ、小宮の目を引いたものがあった。「軍事経済同盟締結か──中東急進派」という二段見出しの外電記事だ。 [#1字下げ]「中東急進派諸国の間で、軍事経済同盟締結の動きが高まっている。先週行われたアリー首相とムガーディー革命会議議長との会談で、この点について合意に達したとみられており、今後両首脳は他の急進派諸国にも参加を呼びかけるものと考えられる。この同盟が実際に締結されれば、穏健派のアラブ諸国やイスラエルなどを刺激するとの懸念も広まっている。……」     2  小宮幸治が、黒沢修二エネルギー庁長官とともに、国会から通産省に戻ったのは、午後一時少し前だった。  国会での吉崎公造代議士の質問は、言葉遣いの激しさと大音声による音響効果は十分だったが、内容にはさして新味がなく、黒沢長官がもの慣れた態度でその舌鋒を巧みにそらした。それでも、吉崎は、長官のいんぎんな陳謝と新聞カメラマンのフラッシュに、大いに満足した様子だった。  昼休みの時の石油第一課の部屋は、職員がほとんど昼食に出かけていたが、課長の寺木鉄太郎だけが、窓際の机に向かって、調べものをしていた。小宮の顔を見た寺木は「ご苦労さん」というように軽くうなずいてみせた。  寺木鉄太郎は一風変わった役人だ。博覧強記と見通しのよさは、通産省随一とさえいわれているのだが、些事雑務は一切顧みない。しかも、何を重要事とし、何を些事とするかの選択も全く主観的だ。現に石油第一課長になってから一年以上たつのに、公害問題には関心を示さない。これでは、石油第一課長としての職務の半分を放棄しているに等しい。このため役所内での評判は必ずしも芳しくなかったが、彼自身はそれを気にかける風さえない。 「めしを喰いに行こうか」  書類を片づけながら、寺木がいった。国会の報告を聞く気はなさそうである。  寺木と食事するのはいやなことではない。いつも、歴史、文学、芸術から芸能、娯楽にいたるまで、実に雑多な話題をしゃべってくれるのだ。  だが今日の寺木はいつもと違った。虎ノ門の交叉点に近い、行きつけのレストランへ向かう間も、店のテーブルについてからも、憂鬱そうに黙り込んでいた。小宮も黙っているより仕方がなかった。  小肥りのウエートレスが、二人の前にハンバーグとライスの皿を乱暴に置いていった。 「また、ドルが上がった」  突然、寺木が独り言のようにいった。 「どうしてですかねえ」  小宮はその独り言に跳びつくように訊ねた。  実際それは奇妙な現象だった。日本の輸出は、昨年秋から急増し続け、国際収支も黒字基調になっている。それにもかかわらず、為替市場だけは、三月以来、異常なドル高になっているのだ。欧州市場でもドルは強いが、日本円に対するほどの値上がりはなかった。専門家たちは、アメリカの高金利政策のためだとか、投機筋のドル買いとかいっているが、どれも十分な説明ではない。 「相場は何かを知っているんだよ」  寺木は短くそういっただけで、また黙り込んだ。  小宮はその意味をはかりかねた。 「君、石油が入って来なくなったら、日本はどうなると思う」  しばらくおいて、また唐突に、寺木が訊ねた。 「さあ……大変でしょうね」  小宮はとまどって、ただにやりとして見せた。  だが、寺木の真剣な目に気押されて、もう一言、 「終戦直後に逆戻りでしょうね」  と、つけ加えた。  小宮幸治には終戦直後の記憶はないが、最悪事態の典型として、相当オーバーないい方をしたつもりだった。だが寺木の反応は逆だった。 「そううまくいくかなあ……」  寺木の白い広い額と眼鏡の奥の褐色の瞳に、深い失望の色が広がっていくのを、小宮は見た。  その日の午後、エネルギー庁の石油部長室で、部内の会議が行われた。  部屋の中央に置かれた安物の応接セットに、西松剛石油部長と四人の課長たちが坐り、小宮幸治ら数人の課長補佐はそれを取り囲んで、パイプの折りたたみ椅子を広げて、腰掛けていた。 「ところで、精製・脱硫能力増強の件ですが……」  山城石油第二課長が、切り出した。  通産省は石油業法によって、石油精製施設の新増設には許認可権限を持っている。米英系資本が半数以上の株式を保有する、いわゆる外資系石油会社の攻勢から、日本資本の民族系石油会社を保護育成する役割を、この権限は果たしてきた。だが、最近では、公害企業反対を叫ぶ住民パワーに阻まれ、石油施設の建設は遅れっ放しなので、施設許認可の権限も、効力が薄れている。  その半面、政府が石油業界に押しつけねばならない事業は増えている。公害対策のための重油脱硫や無鉛化ハイオクタンガソリンの製造、それに原油備蓄の拡充などである。このため、かつてはその癒着ぶりが云々された通産省と石油業界との関係も、いまでは微妙に変化している。 「早期着工が期待されていたM鉱産の大型重油脱硫装置は、地元住民の反対で、用地取得もまだまだ完了しない状態です」  山城は、用意した複写刷りの資料を配りながら、説明を始めた。 「公害防止に必要な低硫黄重油を製造する脱硫装置すら造れんのじゃ、どうにもならんじゃないか」  西松部長は、太った身体を椅子の上でのけぞらせて、ため息をついた。 「それで、これはその代案の一つですが……」  山城課長が資料を指さした。 「M鉱産には、千葉精油所の原油タンクを一部撤去させ、その跡地に大型脱硫装置を建ててもらうんです」  資料では、M鉱産千葉精油所内にある原油タンク群のうち、十四基、約百八十万キロリットル容量を撤去し、その跡に精製施設の増設と重油脱硫装置の新設を行う計画になっている。  この案がもともと、西松自身の発想であることは部内ではもう広く知られていた。  M鉱産は近く韓国の巨済島に出来た石油基地に三百万キロリットル分のタンクを借りることになった。そこから五、六万トンのタンカーで原油をピストン輸送すれば、そう大量の原油タンクはいらない。この韓国の石油基地を利用する、というのが、この案のポイントなのだ。韓国側との交渉には、西松部長も陰で相当に尽力した、といわれる。 「なるほど……」  西松は、そんなことはおくびにも出さず、感心したような表情をして見せた。 「じゃ、これでいくか」  みんなの様子を見回して、西松がいった。誰からも反対はあるまい、という自信が口調に現れていた。だが、 「それはどうですかねえ」  という声が出た。寺木石油第一課長だった。 「いま、原油備蓄タンクを撤去するのは、よくないんじゃないですか。備蓄施設は、ちっとも増えてないんですからね」  寺木の説明を待つまでもなく、みなそれはよく知っていた。日本の石油備蓄は平均消費量の六十五日分くらいしかない。西ヨーロッパ諸国の百日ないし百二十日分はもちろん、石油消費国会議で�最低義務�と決定された九十日分にも、はるかに及ばない状況なのだ。 「だけど、M鉱産は韓国の石油タンクを借りるので、そっちに備蓄できるわけで……」  山城石油第二課長は反論した。 「しかし、いざという時には、韓国だって石油輸出を禁止するでしょうからねえ……」  こんどは、古島資源輸入課長が口を出した。  実際に石油危機が起これば、各消費国は石油輸出を止める可能性は十分ある。現に一九七三年の石油危機の時、日本もそれをやり、沖縄の精油所から供給を受けていた台湾や香港の消費者を困らせた。国内になければ備蓄の意味は乏しいというわけだ。  沈黙が生じた。寺木だけでなく、古島も反対だとなると、この計画は挫折する可能性が大きい。役所では、地位の上下にかかわらず、関係者が二人以上反対することは、たいてい実現しないのだ。 「いや別に、私は絶対反対というわけじゃないんですよ」  寺木は笑顔を作った。 「他に備蓄施設が出来たあとで、これをやればいいと思うんです。つまり、あの海底油槽ですよ」  海底油槽というのは、海中に沈められた超大型油槽群で、すでにアラブ首長国連邦のドバイや地中海では実用化されている例がある。日本でも、陸上の石油基地用地が得難いため、石油備蓄会社が目下建設中である。 「あれは、三百万キロリットルの超大型タンク群九基の計画ですが、そのうち第一期分の三基は急げば九月いっぱいで完成できる。それからM鉱産の計画に着手すれば、一時的にも備蓄を減らすことはなくやれるわけです」 「寺木さん」  西松は少し改まった口調でいった。 「君はいつも備蓄、備蓄というが、業界が乗ってくるかね」  経営規模の拡大に直結する精製施設や高品位製品をつくる重油脱硫装置と異なり、巨額の資金を喰うばかりで企業にはなんのメリットもない石油備蓄に、石油業界はきわめて消極的なのだ。 「そりゃ政府資金の援助も、もっと強化しなけりゃならんでしょう。だけど、それだからなおのこと、ここで一歩でも後退するようなことをしてはならんのですよ」  寺木は、静かな声で、激しい内容のことをいった。  戦後三十年、日本の政治行政は、当面の身近な問題のみを重要視する「身の回り政治」に終始してきた。いま話題の公害問題や業界の意向を中心におく西松部長らの意見は、こうした戦後政治の継続を主張するものだ。これに対して、寺木鉄太郎は、長期的な国家の安定と国民生活の安全に重点を置く考え方に立っていた。寺木の主張は、戦後の「身の回り政治」への挑戦でもあった。  それだけに、議論は長々と続いた。それは、久し振りにデートの約束をしていた小宮を焦立たせた。だが、小宮には、会議の途中で席を立つほどの勇気も不真面目さもなかった。     3  小宮幸治が、須山寿佐美と待ち合わせたホテルのロビーに着いた時、もう夜の八時をだいぶ回っていた。  西松部長と寺木課長との議論は、結局「後日再検討」というお役所式の結論で終わったが、その時すでに、約束の七時を一時間も過ぎていたのだ。  高い天井からやわらかな光が降る広いロビーの中に、須山寿佐美の姿があった。  濃紺のスーツに包まれた彼女は、派手な服装の男女が行きかうロビーのなかで、熱帯魚の水槽にまぎれ込んだ若鮎のように思えた。 「もういらっしゃらないのか、と思ったわ」  寿佐美は、時計を見る格好をしてみせた。  二人は、一ヵ月ほど前に見合いした仲だ。最初、小宮はこの縁談にあまり乗り気ではなかった。有名私大の経済学部を卒業してドイツ留学までした才女というのが、自分の抱いていた�女房�のイメージに合わなかったし、幼い頃実母を失い継母と暮してきたという、家庭環境も気になった。そして何よりも、�不動産屋の娘�というのがいやだった。寿佐美の父、須山源右衛門は、数百億円といわれる巨富を築いた新興不動産業者なのだ。  だが、会ってみると、寿佐美の印象は、小宮の想像と全く違った。  長身と白い顔が、小宮の好みに合ったし、化粧も服装も思いのほか地味だった。  それから一ヵ月、二人の交際は淡かった。今日がまだ二度目のデートだ。仕事に追われる小宮には、時間の都合がつかなかったからだ。 「お食事に行きましょう。いいお店発見したの。美味しくって、感じがよくってそれにとっても安いのよ」  二人は寿佐美の運転するジャガーで、彼女のいうレストランへ行った。六本木の繁華街のはずれにあるその店は、確かに感じはよかった。運ばれて来たワインが心地よく冷え、ボロニアハムとメロンの料理も美味かった。だが寿佐美が強調したほどには安くはなかった。  店内は、ルネッサンスの建築や彫刻をペン画に描いた壁紙がめぐらされ、飾り棚に、ジャコモ・マンズーやマリオ・マリーニ、エミリオ・グレコといった現代彫刻家の作品が置かれていた。  寿佐美は、それらの芸術作品を話題にした。とくに、彼女は現代芸術の方に興味があるようだった。だが小宮は、それについて、大した知識も関心も持たなかった。北陸の田舎町で育ち、東大受験に馬車馬的勉強をし、通産省に入って残業続きの歳月を過ごした彼は、マンズーやマリーニの彫刻どころか、ビートルズの音楽にも、アンディ・ウォホールの造形にも、ギンズバーグの詩にも、無縁だった。小宮は生返事を繰り返すほかなかった。  小宮は、自分自身の話題を捜した。だがどうしたことか今夜は適当な話題が思い当たらない。仕方なく小宮は、石油の話をした。しかし、それはデートの話題としては全く不適当であった。 「小宮さんて、やっぱりお役人ね、こんな時にもお仕事の話なんですもの……」  石油の話に退屈した寿佐美はいたずらっぽい笑いを含んでいった。それが小宮を一層焦立たせた。 「それじゃあ、石油が入って来なくなったら、日本はどうなると思う」  小宮は、思いついたままに、今日の昼、寺木課長から聞かれたのと同じ問いを試みた。自分のはじめた話をいくらかでも正当化し、おもしろくしたかったからだ。 「そうね、ジャガーは動かなくなるし、タクシーも駄目ね。私も電車に乗らなくっちゃならないわ」  寿佐美はおかしそうに、身体を揺すった。  この答えに、小宮は失望した。そして、終戦直後に逆戻りでしょうね、と彼がいったのに対して見せた、寺木の表情を思い出した。 〈ひょっとしたら、寺木と俺の間には、とてつもなく大きな認識の差があるのかも知れない〉  と、小宮は心の中でつぶやいた。     4 「西宮まで頼む」  ハイヤーが精油所の門を出ると、寺木鉄太郎は、運転手に声をかけた。  次の週の火曜日、寺木鉄太郎と小宮幸治は大阪・泉北地区の視察に来ていた。  役所では、同じ課の課長と首席事務官の課長補佐が一緒に出張することは、よほどの大問題でもない限り、滅多にない。それなのに今回の泉北地区公害防止施設視察の出張に、寺木が特に小宮を誘ったのだから、当然ほかに用件のあることは、わかっていた。果たして寺木は、精油所幹部の夕食の誘いを断わり、急いで車で飛び出したのである。 〈近郊住宅都市の西宮に、どんな重大な用事があるのだろう〉  と、小宮は不思議に思った。 「これから、鴻森芳次郎さんを訪ねるんだ」  小宮の疑問を見透したように、寺木がいった。  だが、それは誠に意外な話であった。  鴻森芳次郎という名は、小宮も記憶している。関西の古い商社「鴻芳」の、五代目とか、六代目とかの当主である。いわゆる名門には違いないが、有名人ではない。鴻森は、財界活動も政治運動も、およそ世間の話題になるようなことは、少しもやらない。鴻芳という会社も、時々、技術導入の仲介や輸出入取引で機敏なところを見せることはあるが、どちらかといえば地味な中堅企業だ。どう考えても、本省の課長が、わざわざ自宅を訪ねる相手とは思えないのだ。  一つだけ、小宮の印象に残っている出来事があった。一年ほど前、鴻芳の子会社の一つが、繊維膜で水中に物資を貯える技術を開発した、ということが報じられた。この時は通産省も、この技術が石油や食糧の貯蔵に利用できるかどうかを確かめるために、専門技術者に調べさせた。調査結果は�きわめて有望�ということだったが、実用化までには安全性テストと法令改正が必要なので、早くて数年はかかるとみられた。小宮は、その頃工業技術院にいてこの調査にいくらか関係したのである。 「鴻森さんは、俺と高校、大学を通じて同級でね。学生時代から凄く頭のいい奴だったよ。古美術や金貨の収集でも有名だ」  寺木のそんな話からは今夜、わざわざ小宮を連れて訪ねる用件はわからなかった。  西宮の山手にある鴻森邸に着いた時、小宮はまず、その邸の広さに驚いた。とにかくそこでは、門から玄関まで、ハイヤーが�走る�ほどの距離があった。  そのうえ、二人が通された応接間では、正面の暖炉で、本物の薪が燃えていた。 「エル・グレコだね」  暖炉の上にかかった絵を見て、寺木がいった。  そこには、エル・グレコ特有の下半分が細まった顔の女性が描かれていた。 「少なくとも一億円はするね、これは」  寺木の言葉に、小宮はもう一度驚いた。  間もなく、白髪の老紳士が、和服姿の長身の青年を伴って入って来た。老人の方には、小宮も見憶えがあった。関西経営協会会長、大河原鷹司だ。関西財界の重鎮であり、電力業界の長老でもある大河原は、通産省関係のいくつかの審議会にも名を連ねている大物である。 「わざわざ遠いところまで……。寺木はんが東京から来るちゅうさかいに、大河原会長にも来てもろうてますねや。どうせあんたの話はむずかしいから、一緒に聞いてもろた方がええやろ、と思いましてな」  和服の青年は、笑顔を見せ、のんびりした関西弁でいった。  寺木は小宮を紹介した。  青年は、少し腰を浮かせて、頭を下げた。 「鴻森芳次郎です。よろしゅう」  やや間のびした端正な顔は、寺木課長と同年輩とは思えぬほどに若々しい。 「それで、今日はどないな話ですか」  短い雑談のあと、芳次郎は本題に入ることをうながした。 「今日は石油が入って来んようになった場合の話でして……」  寺木は黒い鞄から複写焼きの資料を取り出して、鴻森芳次郎と大河原会長、そして小宮幸治にも配った。半紙二枚に、寺木の特徴ある細い文字が、いくつかの表とグラフとともに、びっしりと並んでいた。 「ほう、また油が入って来んようになる心配がありまんのか」  芳次郎は受け取った紙を眺めた。 「大いにあります」  寺木の声には力がこもっていた。 「産油地帯での政治的軍事的混乱から石油輸入の大幅減少の可能性は十分にあるのです。この前の石油危機もこのケースだったんですが、あの時はアラブ産油国の外交戦略上の石油輸出制限が原因でしたから、あまりひどいことにはならなかった。削減率もせいぜい二五%くらい、期間も二ヵ月で終わったんですが、万一、産油地帯そのものが紛争に巻き込まれるということになると大事です。しかも、日本に来る石油の八割は、イランを含む中東地域からのものです」 「そうなったら、世界中が大事でっしゃろ」  鴻森芳次郎は、茶を啜った。 「むろんそうです。だけど、その大変さ加減が国によって全然違う。いちばん困るのが日本です」  日本は石油需要の九九・七%までを輸入に頼っている。国内で採れる原油は年間百万キロリットル、平均消費量でいうとわずか一日分余りだ。  国産原油で十分やって行けるソ連や中国、全需要の八五%までを国産で賄えるアメリカは別格としても、資源に乏しいヨーロッパ諸国でも、EC九ヵ国平均で四、五%の自給率を持っている。  そのうえ、全エネルギーのうちで石油に頼る割合がいちばん高いのもまた日本だ。アメリカの四〇%、ヨーロッパ諸国の五〇〜六〇%に対して、日本は七五%が石油エネルギーである。 「外国はどんどん脱石油を進めています。原子力発電所も次々と造られているし、石炭利用も伸びています。西ドイツでは石炭のガス化を実用化し、フランスでは数年前から石油火力発電所の建設を一切止めてすべて原子力に集中しているんです。アメリカでは一九七四年以来、プロジェクト・インデペンデンスという計画を建てて、国内油田の再開発と並んで、石炭・原子力の開発や地熱・太陽エネルギーの利用技術の開発を、進めているんです。日本はどうしても�独立�というわけにはいきません。半分の自給もとても不可能です。もちろん、資源の乏しいことは、日本の恥でも罪でもありません。ただ、資源の乏しい国は、それ相応の備えがいります。それを日本はやっていない、そこが問題なんです」 「というと……」  大河原会長が、身を乗り出した。 「長期的にはいま政府が進めている『サン・シャイン計画』のような技術開発が第一でしょうが、当面は石油の備蓄でしょう。ヨーロッパ諸国は、これを必死にやっています。イギリスは、北海の海底油田開発に成功しましたが、同時に、スコットランドに大規模なCTS、つまり石油備蓄基地を建設しています。フランスとスペインは海底油槽をすでに実用化しています。西ドイツは岩塩層を利用して超大型の地下貯蔵をやっています」  大河原はうなずいた。電力事業を通して、エネルギー問題にも関係している大河原にはよくわかる話なのだ。 「ところが、世界一石油に頼り、世界一自給率の低い日本が、世界一何もしていない。この日本の態度には諸外国からも批判が強いので、このままではいざという時に、欧米諸国の援助を受けられないおそれも十分にあります」  寺木は言葉を切り、タバコに火をつけた。  短い沈黙が生まれた。 「寺木はん」  鴻森芳次郎は、両手を袖の中で組んだまま、天井を見上げていった。 「ずばりいうて、中東からの石油が停まったら、日本はどないなりますか」 「わかりません」 「………」 「それがわからんのです」  寺木は、苦し気な表情で、繰り返した。 「これが日本のもう一つの弱点、いやひょっとしたら最大の弱点かも知れません」  再び、沈黙が来た。 「どないしたらええんだす」  芳次郎がぽつりといった。 「まず調査でしょう」  寺木は熱っぽい目つきになった。 「石油の輸入が大幅に減少した時、日本はどうなるのか、そしてその時どうしたらよいのか、それを知ることが先決です」 「そういう調査は、役所でやらんのですか」  大河原会長が、不思議そうな顔をした。 「それがなかなかむずかしいんです」  寺木は、視線を落とした。 「予算の問題は別としても、万一その内容や結果が洩れると大変です。いや、そんな調査を役所がやってる、ということがわかっただけでも世間を動揺させるおそれがあるし、悪くすれば外交上の問題にも影響します」 「ほな、大河原はん、あんたのところでやってみたらどないだす」  芳次郎が、大河原会長の方を顧みた。 「関西経営協会の調査能力は第一級というやおまへんか」  大河原は天井を見上げた。 「お金が問題だ。まあ、一千万円くらいならなんとか予備費から出せるが……」 「そら足りんわ。一億はかかりまっせ。これは大っきな調査やよって」  そういって、芳次郎はしばらく考えている風だったが、 「ようわかりました。その費用、私が出しまひょ。まあ一億円だけはな。こういうことには領収書のいらん金がかかるもんです」  一億円という金額に、小宮は驚いた。簡単に、それだけの金を、この何の得にもなりそうもない調査に出そう、という鴻森芳次郎という男の気持も勘定も、全くわからなかったからだ。 「それはどうも」  寺木はそれだけいった。 「じゃ仕事はうちの方で……」  と、大河原会長がうなずいた。  三人の男たちはなおしばらく話を続けたが、もう話題は世間話に変わっていて、二度と再び調査と一億円の話は、誰の口からも出なかった。     5  次の日の夜、寺木と小宮は、新大阪駅へ向かうタクシーの中にいた。  二人は、つい先刻まで、関西経営協会の事務所で、「石油輸入大幅減少時の影響とその対策に関する調査」の進め方を打ち合わせていた。  二人が、約束の午後二時に、中之島の西端にそびえる超高層ビルの二十八階にある関西経営協会の事務局を訪ねると、すでに大河原会長が調査スタッフを会議室に集めて待ち構えていた。  しかし、今田という調査部長は、小さな身体に皺深い青白い顔をのせた初老の男で、その容貌と同じく知識の方も貧弱だった。学歴だけは立派で無能な「エリート」のなれの果てだろう、と小宮は想像した。彼の部下たちも、もっともらしい議論はするが、具体的方法論も、新鮮なアイデアも乏しい連中で、会議はまとまりを欠き、空虚な抽象論の羅列となった。ただ、これを、末席にいた若い女性が巧みに取りまとめて、ようやく進行させていた。  会議が始まって三十分もたつと、小宮は心配になっていた。同じ不安を、大河原会長も感じたらしく、 「大学やシンクタンクの専門家を集めて、委員会を作らんといかんな」  と提案した。  今田調査部長は、すぐ賛成した。外部の有能な人材を集めて委員会を作るというのは、こうした団体の常套手段だ。機密が保持されるのなら、という条件付きで寺木も同意した。そしてすぐ、人選が始まった。全員が推挙した学者などには、その場で大河原会長が協力要請の電話をかけた。  小宮は、大河原の大物らしからぬ機敏さに驚いた。そして関西経営協会会長直々の電話は、学者たちにかなりの効果を持った。  わずか一時間ほどの間に、数名の有力な学者や研究者の参加が決定していった。産業構造論の専門家で京大助教授の雑賀正一、交通経済研究所の杉己喜夫主席研究員、社会心理学者の坂元九郎、都市工学の鈴木紀男関西大教授らである。さらに、欧米の政財界に顔の広い国際評論家青柳実三に、情報収集のため欧米へ飛んでもらうことも決まった。もちろん、役所の方でもこれに必要なデータは提供することになっていた。  調査委員会は非常に充実した陣容にはなったが、寺木が主張したスケジュールはひどいものだった。寺木は、遅くとも九月いっぱいには一応の報告が欲しい、といい張ったのである。  たった四ヵ月で、この広範囲にわたる調査を完成させることは、どんなに能力のある調査機関にも無理だろう、と小宮は思った。もちろん、今田調査部長らも異議を唱えたが、寺木は予算折衝や政府行政への反映のためには、それが不可欠だ、といって譲らなかった。  しかし、それ以上に驚いたのは、末席にいた若い女性が、なんとかやれるでしょう、とこのスケジュールを引き受けたことだった。そして今田調査部長が、この女性に、大丈夫ですか、キトさん、といっただけで、おとなしく追随した。 〈出過ぎたことをいう女だなあ〉  小宮は、車窓に流れる新淀川の長い鉄橋のアーチを眺めながら、その女性の顔を思い浮かべた。痩せ型の、下半分が小さく締まった白い顔だった。どこか、昨夜鴻森邸で見たエル・グレコの絵の中の女に似ていた。  タクシーが新大阪駅に着いたのは午後八時二十分頃だった。東京行最終ひかり号には、あと十分ほど間があった。 「やあ、小宮君じゃないか」  ホームを歩いていた二人の背後で大きな声がした。  振り返ると、がっしりした体躯にやさし過ぎる顔立ちの男が立っていた。新聞記者の本村英人だ。 「これは、課長さんもご一緒で……。となると、よほどの重要案件の発生ですなあ」  本村英人は、東大での小宮の同級生の一人だが、三年間ほど通産省担当記者をやったので、役所に知り合いは多い。いまは、経団連の記者クラブに移っているが、小宮とは時々、マージャン卓を囲むような交際が続いている。 「いやいいところで会った。近々石油部にも出かけようと思っていたんだ」 「ここで取材をする気かい」  小宮はわざと面倒臭そうな顔をして見せた。 「実は七月から中東視察に行くことになってね。その予備知識を仕込んでいるところなんだよ」 「そりゃいい」  小宮は素直に友人の幸運を喜んだ。彼はアメリカと東南アジアに出張したことはあるが、中東は知らない。 「いまも、彼からアラビア湾の話を聞いていたところだ」  本村のうしろに、日焼けした顔に濃い眉の、たくましい長身の青年がいた。 「緑川光です」  青年は、身体に似合わぬ小さな声で自己紹介した。アラビア通いのタンカー承天丸の一等航海士だという。 「君、何号車」  小宮は、本村に訊いた。 「十号車だ」 「へえ、グリーン車か」  役人も、課長補佐以上にはグリーン料金は出るが、出張旅費の中から課内の茶菓代などを寄付するのが慣例となっているので、実際にはグリーン車に乗るとかなり足が出る。 「僕らもグリーンにしよう」  寺木が、横から口を出した。本村の中東旅行に関心を持ったのだろう。  やがて入って来た列車は、満員の客を吐き出し、その半分くらいの人数を呑み込んだ。  本村は、六月下旬出発の五十日にわたる中東旅行の予定を陽気にしゃべった。  緑川光は無口だった。質問には最小限の言葉で答えた。彼の乗っている承天丸は、十五万トン級の中古タンカーだが、現在定期修理でドック入りしているので、休暇中だ、ということだった。 「ところで、本村さん」  寺木が改まった口調で切り出したのは、列車が名古屋駅を出た直後だった。 「君を見込んで頼みがある」  本村も真面目な表情になった。 「中東でちょっと調べて欲しいことがあるんだ。ご承知のように、世界の石油輸出の半分以上、日本向けの八割以上が中東だ。その中東からの石油輸入が本当に安心できるところかどうか現地でさぐって来て欲しい」 「これは驚いた。うちの社の連中のいうのと正反対だ」  本村はちょっととまどった顔でいった。 「中東の油は高硫黄原油が多い。世界的に公害問題がやかましくなってきているため、売りにくくなる。そのへんをむこうではどうみているか調べて来い、というのが社の命令でね。それに、いまは石油がだぶついているんでしょう」  寺木は首を横に振った。 「それは一時的な現象だ。中東の石油が止まった場合のショックは、以前と変わらんよ」  本村はちょっと考え込んだ。 「もちろん、これは記事にはなるまい」  寺木は、相手の迷いを見透したように追い打ちをかけた。 「それを新聞記者の君に頼むのは筋違いだろうが、これは大事なことだ。しかも急ぐ。役所は大っぴらに動けないんだ。俺の勘では、もう何らかの準備が裏で進んでいるような気がする。ある程度手懸りはある。ルートも用意できると思うよ。ひょっとしたら、これまで日本人が入ったことのないような情報源に触れられるかも知れんのだ」  本村はなお少し考えていた。 「やって見ましょう」  本村の顔には、好奇心と期待感の輝きがあった。浜松らしい駅の灯が車窓を飛び去って行くところだった。     6  金曜の午後、小宮は寺木に呼ばれた。 「油減調査の東京側の主査は君に頼むよ。全力投入して欲しい」 「油減調査」──昨日の大阪での会議で「石油輸入大幅減少時の影響とその対策に関する調査」にこんな略称がついていた。  通産省内部からは、大臣官房、基礎産業局、産業政策局、生活産業局から、各一人ずつ、いずれも小宮より三つ、四つ若いエリート事務官または技官が加わる。さらに、農林省、運輸省、経済企画庁からも各一人ずつ参加することになった。  たった一日半でこれだけのメンバーを集めたことに、小宮は驚いた。 「ところで肝心のエネルギー庁からもう一人、君と一緒にやってくれる者を入れたいけど、誰がいいかな」 「安永博ですね」  小宮はためらわずに答えた。  公益事業部総務課課長補佐の安永は、小宮と同期で通産省に入った仲間だから気心も知れている。安永は新婚早々だったが、小宮も寺木も気にしなかった。彼ら中央官庁のエリート官僚の間には、家庭生活などは仕事の余白でしかない、という考え方が、ほとんど本能になっているのだ。  ちょうどその時、関西経営協会から、打ち合わせに、明日の午後やって来るという連絡が入った。土曜日の午後に来る、というのも意外だったが、作業が想像もしないスピードで進みだしたのを、小宮は感じた。  翌日の二時過ぎに、関西経営協会からは二人の担当者が来た。  一人は、三日前の会議の時末席にいた�キト�と呼ばれた若い女性、もう一人は赤ら顔に獅子のたて髪を思わせる長髪の四十男だった。 「京都大学の雑賀正一先生です」  若い女性は、同行の男を紹介した。  雑賀正一は、いま、マスコミにも売れているが、学問的業績も十分にある新進の経済学者だ。産業連関表を、個人消費や社会需要の内部構造にまで拡大し、循環示表化した拡大投入産出モデルの研究では、海外でも高く評価されている。 「大変な仕事ですな」  雑賀はエネルギッシュな体躯から、それに似合った太い声を出した。 「私もこれまでの研究を一度具体的な問題に適用してみたい、と思ってた時なんで、夏の学会発表を取り消して馳せ参じたんですわ」  開けっぴろげな表情で、いや味がなかった。 「東京での調査には鴻芳東京ビルの会議室をご利用いただきたい、とのことです。大阪の方も、鴻芳本社を使いますから」  若い女が、抑揚のない声でいった。小宮はこの提案に少々抵抗を感じないでもなかったが、寺木は、 「それはありがたい。今日の会議も早速、そこへ行ってやろうや」  と、それをあっさり受け入れた。  鴻芳東京ビルは、役所から近かったが、間口三間、奥行十間余りのみすぼらしい四階建のビルだった。そのうえエレベーターがなく、当てがわれた四階の会議室へは、狭い急な階段を昇って行かなければならなかった。しかし、会議室に入ったとたん、小宮は目を見張った。内装は貧相だったが、いろんな機器が壁際を埋めつくして並んでいたからだ。  テレビ電話が三台、それを拡大するITV(工業用テレビ)装置、テレックス、コンピュータの投入算出用端末機器、三軸グラフ解析器、それにはじめて見る電気仕掛けのグラフィック・パネル……。 「コンピュータのアウトプット・ディスプレーパネルです。これと同じものが大阪にもあり、同時に両方に映出できます。端末機器は大阪にある本体と直結しているので、計算はすぐできます」  女は手短に説明し、いくつかの機器をちょっと動かしてみせた。 〈これほどの装置はおそらく、大商社にもあるまい。鴻芳は、何のためにこんな装置を備えたんだろう〉  そんな疑問が、一瞬小宮の心をかすめたが、はじめて見る新式機器のかもし出すSF小説的雰囲気が、それをすぐ忘れさせてしまった。  女は、大きな鞄から取り出した資料綴りを会議机の上に並べた。半紙三十枚ほどを綴ったその資料には、活字のような四角い小さな文字と図表がぎっしり詰まっていた。  女は、前置きなしに説明しはじめた。 「調査の前提は、日本への石油輸入が平常の三割になった場合に置きます。これは現在、日本の輸入石油の、約八一%が中東アジア地区からのもので、そのすべてがホルムス海峡を通過している現状からみて、起こりうる可能性の相当に高い最悪事態だからです。調査の第一段階では、全国的な産業構造、需要構造ならびに社会条件から、全体モデルを作り、前述の場合の影響を調べます。次に、これを地域構造による偏差、季節偏差などを投入して具体化しますが、この場合、一つの影響が他に波及効果を持つことになるので、段階ごとに逆行列を展開しなければなりません。つまり、石油輸入が減少した日、正確には産油地域から日本向け石油輸出が減少しはじめた日になりますが、その日から毎日の変化を追究することになります」  このあと女は、全体モデルの概要や偏差算出モデル、逆行列式の考え方について一時間半ほど説明を続けたが、机の上に開いた分厚いノートを見て話し続ける姿は、教えられて来たことを懸命に暗誦しているようにも見えた。それは法学部出の小宮には、理解できない高度の数式と難解な術語にみちていた。  説明が終わった時、雑賀正一が質問した。 「こういう予測では、政府の対策の適否が大きく影響すると思うんですが、その点はどうします」 「この段階では政府は可能な最適の対策を採る、という前提で考えねばならないと思います。そうでなければ、特定の分野に破滅的現象が生じ、影響が無限に拡散してしまう恐れがあるからです」 「影響が無限に拡散するというのは……」  重ねて雑賀が訊ねた。 「つまり計算上の収斂がなく、無限拡散式になる、ということです」 「なるほど、それじゃこの影響予測のなかで政府の採るべき最善の政策も出てくるわけだ」  寺木が感心したようにうなった。 「まあ一応は……。でも、最善の対策と可能な最適の対策との間には、相当の差があると思いますけど」  議論はこのあと、情報偏差、つまり政府発表やマスコミなどの取り扱いによって変わる影響の大小や、外国の動向からの波及効果の問題へと進み、さらに具体的な資料収集やデータの限界などにも及んだ。いずれもこの調査の困難さを示すものばかり出てきた。  会議は三時間余り続き、調査の方針が確定した時には、午後七時をかなり過ぎていた。  一同は夕食を一緒にすることになったが、若い女だけは今日中に大阪へ帰りたいので、と断わった。  小宮は、彼女の身体には不似合な大型の鞄を持って、見送ってやった。女は黙って、誰にともなく軽く頭を下げ部屋を出ると、先に立って階段を降りた。小さな肩にかかった長い髪が小宮の目をとらえた。  一階に降りたところで、彼女は向き直った。 「あの……」  そういってから、小宮は次の言葉に窮した。  女は少し眉を上げ、かすかな笑いを含んだ目で、小宮を見つめた。街灯の光を受けた淡い褐色の瞳が、金色に光って見えた。 「名刺をいただけませんか」  小宮は、この女の名前すら、まだよく知らないことに気づいて、いった。  女は鞄の中から、少々くたびれた名刺を出し、少しはずかしそうに差し出した。角のとがった男持ちの名刺だった。だがそれを見た時、小宮は大いに驚いた。  鬼登沙和子という名前の上に、「理学博士」という小さな文字があったからだ。     7  小宮幸治は、ますます忙しくなった。彼は毎日、午後六時頃まで通産省のエネルギー庁の石油第一課で通常の仕事をやり、そのあと十一時過ぎまで鴻芳ビルに詰めた。  他の連中もよくやった。公益事業部の安永博や運輸省の若水清は、二日に一度は必ずやって来たし、他のメンバーも資料をかかえて週に二回は現れた。そして、毎週土曜日の夕方から開く連絡調整会議には、大体四、五人のメンバーが集まった。  この忙しさのために、小宮が須山寿佐美と会う機会はますます減った。だが小宮には、新しい楽しみが生まれていた。毎日一回、夜の九時半頃にかかってくる鬼登沙和子からのテレビ電話だった。テレビ電話の小さいブラウン管に映る沙和子の顔は、いつも無表情だったし、互いに仕事以外のことを話すことはめったになかったが、それがかえって、この不可解な女性に対する彼の関心を強めた。 「貴女の専門はなんですか」  ある日、小宮はブラウン管の沙和子に、そう訊ねた。彼女が、石油需要の季節変動の要素別分析を依頼してきた時だ。 「マルコフ過程の社会現象分野への演繹理論でイリノイ工科大学から、社会群におけるカタストロフィー理論で大阪市立大学から、学位をもらいました」  沙和子は、例の抑揚のない声で答えた。  高等数学には縁遠い法学部出の小宮には、話の続けようがなかった。 「ご家族は……」 「ありません。独り……」  ほんの二秒間ほど二人はブラウン管を通じて見つめ合ったが、急に沙和子の大きな目に狼狽の色が浮かび、テレビ電話が切れた。下半分のつまった沙和子の顔が飛び散るように縮んでブラウン管の上から消えた。  それが、小宮が彼女と個人的なことを話したほとんど唯一の例だった。 〈一体あの女、何歳なんだろう〉  小宮はそんなことも考えた。  六月に入ると、鴻芳東京ビルの会議室に、資料が山積みになった。作業は予想以上に進み、この調子なら九月末までに一応の結果を出すのも可能だ、と思えてきた。  寺木鉄太郎が、黒沢修二エネルギー庁長官を案内して鴻芳ビルにやって来たのは、そんな時期の土曜日の夕方だった。  寺木がここに来るのは、あの最初の打ち合わせ会議以来、六週間ぶりだ。 「南米石油の件で飛び回ってたんだけど、あれも目鼻がついたから、これからはいくらか手伝うよ」  そういって、寺木は差し入れのジョニ黒のビンを机の上に置いた。  寺木が、かなり前から南米石油を日本に導入しようとしているのを、小宮も聞いていた。  一九七三年の石油価格大幅引き上げと国有化政策で、産油国は膨大な利益を得た。オイルダラーはいまや世界の金融市場を席捲する勢いである。しかし大産油国の荒っぽい稼ぎの陰で、中小産油国は複雑な悩みに直面した。これらの諸国は食糧や開発資材の輸入のために、できるだけ多くの石油を売りたいが、石油が世界的に供給過剰気味になっているいま、予定量の石油を売るためには、販売網を握るメジャー(国際石油資本)に頼るしかない。中小産油国は、油田の国有化にもかかわらず、なお(いやむしろ一層強く)メジャーに依存する形になっているのだ。  当然、こうした現状を打ち破ろうとする動きもあった。昨春誕生した南米のロドリゲス政権もその一つだ。ロドリゲス大統領は、メジャーへの依存を断ち切るためには、自ら販売力を備えねばならないことを痛感し、主要消費国に政府直販原油(DD原油)の輸出交渉を行っている。世界最大の石油輸入国日本は、ロドリゲスの最大目標である。  石油価格は石油輸出国機構(OPEC)の協定で値引きできない。その代わり石油代金の相当部分を日本からの鉄鋼、機械などの輸入によって受け取ろう、とロドリゲス政権は提案してきた。日本の商社や鉄鋼・機械メーカーにとっては、よだれの出るような話である。  だが、問題もある。年間二千万キロリットル、日本の総需要の七%にも当たる原油を、誰が引き受け、どこが精製・販売するか、という点である。メジャー資本が半分以上を占める外資系石油会社はもちろん、これを引き受けるわけにはいかない。民族系企業もメジャーとの摩擦を恐れてこれを避けた。距離の遠い分だけ輸送コストが高くつくという不利もあった。  一社だけ、これにチャレンジしようという石油会社が現れた。「怪物」のあだ名をもつ猪原京之介の率いるI燃料だ。  しかしI燃料の計画にもまた別の問題があった。I燃料はこの南米原油導入の代わりに、日本の海外石油開発企業から購入している中東原油八百万キロリットルを断わる、といいだしたからだ。  日本の海外石油開発企業にとっては、国内市場だけが頼りだから、これは痛手だ。南米石油より日本人の手で掘った中東石油を、という声は、政財界に圧倒的に強い。通産省や大蔵省でも、長年の海外資源開発政策が根底から崩れる、という反対論が強かった。  こうして南米石油の件は、三月頃から完全にデッドロックに乗り上げてしまっていた。 「南米石油の件はどうなったんですか」  小宮は訊ねた。 「いや大したことじゃないよ」  寺木はウイスキーの水割りを飲み下した。 「例の海底油槽さ。あの第一期分九百万キロリットル容量が九月中に完成するからね、当面あそこに八百万キロリットル備蓄する。ことしの導入は半年分の一千万キロリットルだから、残り二百万キロリットルだけI燃料に引き受けてもらう。メジャーからの購入分を切ってね」 「それで来年は……」  と、安永博が質問した。 「海底油槽の第二期完成で、もう八百万キロリットル備蓄する。I燃料が七百万キロリットルメジャー分を切って引き取り、残り五百万キロリットルは民族系三社に分担してもらう。来年は五%くらい石油需要が伸びるから、民族系三社でそれくらいは引き受けても、従来の輸入先をカットする必要はないんだよ」 「再来年になるともう四、五%日本の石油需要が伸びるから、二千万キロリットル全部が消化できるというわけですね」 「まあ大体はね」  うまく考えたものだ、と小宮は感心した。  海底油槽が完成しても、それに備える原油をどうするか、というのも大きな問題だったのだ。それを寺木は、南米原油の導入問題と同時に解決したわけだ。これだと一方に輸出振興という名分と鉄鋼・機械業界の支援があるので、石油業界としても乗らないわけにはいかない。 「この案のミソはねえ」  黒沢長官が笑顔を見せて解説を加えた。 「南米石油の代金の相当部分が日本からの輸出品で支払われるようになってるから、備蓄原油の資金がローンにできることだよ」 「あ、なるほど」  思わず小宮は叫んだ。  南米側への輸出をメーカーや商社への分割払いにする。輸出には輸出入銀行の低利金融があるからこれはそうむずかしいことではない。そうすれば、ある程度備蓄原油資金の負担も軽減しうるのである。 「これが成功すると、日本の石油供給の安定性は随分上がりますね」  小宮はうれしくなっていった。 「そうだ」  黒沢長官も酔いに赤らんだ丸顔をほころばした。 「ことし中に約十日分の備蓄が増えるし、中東依存度が七%も下がって七四%になる」 「いやそれよりもいま、君らのやってくれている油減調査だよ」  寺木は、話の方向を変えた。 「万一の場合、政府が的確な対策を持っているかどうか、このソフトウエアの効果は、少しばかりの備蓄には代えられん大きな価値があるからね」  半ば励ますような、半ばおだてるようなこの言葉は、この場の雰囲気によくマッチしていた。一同は、満足気にグラスをあけた。 「俺はついてるよ」  黒沢長官が、ちょっとしんみりした口調でいった。 「いつも部下には恵まれてきたんだ。こんども、役人生活の最後を飾るいい仕事を残せそうだよ」  黒沢が通産省の事務次官になる可能性はほとんどない。エネルギー庁長官は彼の最終ポストである。それだけに、黒沢は「いい仕事」を残し自らの勇退を飾りたかった。それが三十余年奉職した国家と通産省への恩返しだ、と古風な役人気質の黒沢は考えているのだ。  それは、幸せな六月の夜だった。…… [#改ページ]  第二章 中  東     1  中東……  イラン高原から地中海東岸に至る広大な乾燥地帯が、こう呼ばれるようになったのは、いつのことか定かでない。ここは人類の歴史の最も古い舞台であり、数々の豪壮華麗な史実の場でもある。数限りなく散らばる古き遺跡を見る時、人びとはこの地の歴史の長さと共に、その多様さにも驚かざるをえない。  シュメール、アッカドの昔からこの地に侵入し、文化と帝国を築いた民族の数は限りなく多い。エジプトのトトメスや正体不明のヒッタイト、ユダヤのダビデやイランに興ったダリウス、そして偉大な征服者アレキサンダーとそのギリシャ人たち。ガリアとヒスパニアの軍団を率いたローマ皇帝トラヤヌスもまた中東の奥深く侵入したし、東アジアに発したジンギス汗の子孫たちも永くこの地を支配した。北海の霧の中からやって来たキリスト教徒たちでさえ、この地の一角に二百年にわたって王国を保っていた。そして中央アジアを源流とするトルコ人は、この中東の大半をごく最近まで数世紀にわたって統治していたのである。  これら偉大な征服者とその帝国は、黙して語らぬ遺跡と栄華と凶暴な物語を残して消え去った。だが、彼らのもたらした数々の影はこの地に留まった。今日の中東は、世界最長の歴史と最多の要素を、烈日の灼熱の中に溶し合った土地である。  この地に二十世紀は、もう一つの要素を追加した。限りない富と力を生むどす黒い液体──石油である。この黒い液体は、他のすべての富と力の源泉と同じく、人間に豊かさと便利さとを与え、人間から多くの血を求めた。�アッラーの神の与えたまいし財宝�は、今日の中東のほとんどすべての富の源泉であり、またほとんどすべての悲劇の原因とさえなっている。石油と共に、永く眠り続けていた中東各地の多様な要素が、掘り起こされたからである。  新聞記者の本村英人が、この中東に入ったのは、六月も終わりに近い頃であった。  日本人の常識では中東の中心はカイロだ。本村英人の新聞社もここに中東総局を置いていた。本村の中東の旅も、当然のようにこのカイロから始まった。  だが、この街には情報は少なかった。エジプトでは、人と物の出入りがきびしく管理されているので、情報をあさる商人も、それをもたらす情報ブローカーも多くはない。それに第一、この国には石油がほとんどない。  本村は丸三日間、総局長に連れられて、日本大使館やジェトロ事務所、商社の支店、それにアル・アハラムなどの現地新聞社を回ってみたが、出発前に日本で仕入れた知識以上のものは何一つつかめず、ただピラミッドの壮大な姿とナイル名物ハト料理の味の印象を得ただけであった。  本村が次に訪ねたベイルートは、全く違っていた。  キリスト教会と回教モスクが共存し、ヨーロッパ人とユダヤ人とアラブ人が混在するこの自由都市には、金や麻薬の密売組織の本拠もあれば、中東各地の大富豪の別荘もある。失脚した独裁政権の亡命者もいれば、革命を夢見る政治的投機家も活動している。パレスチナ解放を叫ぶ過激派アラブゲリラの本部も堂々と看板を掲げている。彼らはすべて情報の需要者であり提供者だ。とくに第一級の情報力を持つのは、あらゆる種類の武器商人だ。  もちろん、各国の公的情報機関も、この街に最優秀の諜報員を置いている。アメリカ、ソ連、中国、イギリス、フランス、東西両ドイツ……。アラブ諸国、パレスチナ解放戦線、それにイスラエルの強大な情報網「テルアビブの目」がこの街に主力を置いているのはいうまでもない。  ベイルート空港で、若い駐在特派員に迎えられた本村は、まず常套的な取材活動を始めた。つまり、日本大使館員や商社駐在員など在住日本人の話を聞いて回り、ついで彼らの紹介で、現地の政府要人や財界、言論界の中心人物と会見することである。  日本大使館員も、商社の支店長も親切であり、要領よく情勢を説明してくれた。こうした接待には、慣れているらしかった。だが、その内容は決して満足できるものでなかった。どこで聞く話も全く同じで、時にはゴシップや笑い話のタネまでが一致した。そして結論は、いずれも公式見解と同じだ。どうやら誰か一人が把んだ情報が、日本人駐在員の間でグルグル回っているらしい。  中東における日本の情報能力は、官民ともに低い。日本には、一部の推理小説作家がおもしろおかしく書くような、強力な諜報機関など存在しないのだ。このため日本は、中東問題に関してはNATO諸国の情報交換組織、フェニキア・コネクションにも加えられていない。独自の情報能力がゼロに等しい日本を加えても、欧米諸国にとって得るところがないからだ。世界に冠たる日本の総合商社も、金取引とか武器輸出とか、諜報活動の不可欠な分野には全く手をつけていないのである。  ベイルートに着いて二日目の夕方、本村は、全く別の取材を試みることにした。  本村は、トランクの底から淡青色の封筒を取り出した。それは、寺木が、金貨や美術品の収集を通じて中東の情報ルートにも知り合いがいる、という関西の実業家から取り寄せてくれた紹介状だった。封筒の表には、「与座波朝親殿」という宛名が、裏面には紹介者の鴻森芳次郎の名が、墨鮮やかな南宋流の書体で記されていた。 「アロー」  本村が、紹介状に書かれてる電話番号を回すと、妙なアクセントの返事が、受話器から飛び出して来た。 「もしもし」  本村は、日本語で話したいという意思表示のために、そう呼びかけた。 「ああ、与座波ですが」  相手はすぐ日本語に切り換えた。 「大阪の鴻森芳次郎さんから紹介された本村……」 「ああ、聞いてます。フェニキア・ホテルにお泊りね。八時にそちらへ行きます」  与座波朝親が、ずんぐりした短躯を現したのは、正確に八時ちょうどだった。 「中東に来て十八年になるよ。はじめはカイロ、それからダマスカスとアレッポに三年ほどいたね。バグダードにも住んだことあるよ、しばらく……。旅行、そりゃ多いよ。年に四ヵ月は旅行だよ。あなた運がいい、またもうすぐ出かけるからね」  与座波の顔は、砂漠のほこりと灼熱の陽が浸み込んだように黒く、髯の剃り跡が日本人とは思えぬほどに濃い。  与座波は、本村をホテルのダイニングルームに誘い、勝手に酒と料理を注文した。 「本村さん、ここで大いに飲むことよ。これから回教徒だけの国へ行くと大っぴらに飲めないことも多いからね」  与座波は、アラブ風ブドウ酒、ネビーズを本村に勧め、そしてそれ以上に自分が杯を重ねた。 「日本人にはあまり会わないよ。古い友達が来た時くらいね」  彼は、中東にいる日本人の情報力の不足を盛んにこきおろした。 「第一アラビア語が十分できる人、何人もいない。アラブ人の友達あるのもいない。私は多いよ。ここだけじゃないよ。ダマスクス、バグダード、バスラどこにも私の友達大勢いるからね」  与座波は黄色い歯を見せて笑った。  本村は愉快ではなかった。自慢たらしい話しぶりや、妙になれなれしい言葉遣いが気に障った。 「いまなら金を買うのが一番だね」  与座波はそんな話を切り出した。 「ことしはじめから随分上がったけど、まだまだ上がるよ。美術品、骨董物は安いよ。投げ物いっぱいだからね。だけどいまは買い時じゃないよ」 〈俺を鴻森の手代とでも思っているのか〉  本村は一層不快になった。テーブルの上に並べられた羊肉の臭いも鼻についた。 「どうして……」  本村はつまらぬと思いつつもそう質問した。だが与座波の答は、彼を仰天させた。 「逃げ仕度よ」 「逃げ仕度……」 「戦争が始まるからよ」  アラブ諸国とイスラエルとの戦争が再発するかも知れぬ、という観測はいまも根強い。だが、カイロとベイルートの日本人駐在員や現地の要人から取材したところでは、その可能性はきわめて少なくなった、というのが一致した見方だった。 「いつどこで戦争が起こるんです」  本村は咎めるような口調で質問した。 「もうすぐよ」  与座波は、しばらくの間、大きな漆黒の瞳を、本村の顔に当てていたが、やがて短い手を広げて、いった。 「全部よ、もうすぐ中東全部で戦争よ……」     2  翌日、本村は朝からフェニキア・ホテルの部屋に閉じこもり、与座波朝親からの連絡を待った。昨夜別れ際に、中東情勢に詳しい諜報関係者がいたら会わせてほしい、と謝礼をほのめかして頼んでおいたのだ。だが、与座波からの連絡はなかなか来なかった。  本村は所在なく、ホテルの窓から、前のジャベール通りを見降した。空も土も乾き切って見えたが、それでも棕櫚の並木は緑を保っていた。  ベイルートでは六月から八月にかけての夏期には一滴の雨もない。だが東方の山地から流れ出る水が、枯れることなくこの街を養っている。海と山とにはさまれたレバノン=パレスチナの地は、かつて十字軍がアラブやトルコの回教徒と争った、�中東の真珠飾り�と呼ばれる恵まれた土地なのだ。  与座波からの連絡は、夕方になっても来なかった。六月末の陽も西に大きく傾き、正面から本村の部屋の窓を照しはじめた。人の心を誘うような、紅く大きな夕陽であった。 〈昔、この地に住んだフェニキア人が、遠く西の海に船出したのも、この夕陽に誘われてのことではなかったか〉  本村はそんなことを考えてみた。彼はもう与座波からの連絡はあるまい、と諦めかけた。ちょうどその時、何の前ぶれもなく、与座波朝親が部屋に入ってきた。 「お金かかるよ、いいかね本村さん」 「いい人が見つかったかね」 「ああ、いい人よ、最高よ。アラブにもユダヤにも、それからアラブゲリラの各派にも通じた凄い男よ」  与座波は、自分の苦心談を長々としゃべった。  本村は、それを聞き流して、いきなり百ドル札を十枚、与座波の鼻先に突きつけた。  与座波はしばらくそれを見つめた。 「仕方ないね、鴻森家の客人なんだから、まあ会わすよ」  連れていかれたのは、回教徒地区にあるオリエンタル風のナイトクラブのような店だった。薄暗い店内には、低い台を半円形に囲んで、四、五十人分ほどの客席が並んでいるが、時間が早過ぎるのか、よほどさびれた店なのか、客の数は少ない。  与座波は、顔見知りらしい給仕頭と掛け合って、一段高くなったボックス席の一つをとり、ネビーズとデーツのつまみ様の小皿だけを取り寄せ、しばらくの間、とりとめもない話題を繰り返ししゃべった。  八時になろうという頃、与座波はボックス席の前にかかった厚いカーテンを閉じた。ボックス席は、四面を飾り布で囲まれた個室に変わった。  そして反対側の垂れ布を引張ると、それは音もなく開いた。背後に現れたコンクリートの壁には、小さな扉があった。それを押し開けた与座波は、本村に中に入るように、首で合図をした。 〈とんだ007だ〉  本村は苦笑しながら、扉をくぐった。  ドアの内側は、コンクリート地の壁に囲まれた小さな部屋になっていた。敷物も飾りもない。淡い裸電球の下に、酒ビンとグラスと三人分の料理皿を載せたテーブルが一つ、簡素な木製の椅子が四脚、ただそれだけがあった。そしてその椅子の一つに、金髪の大男が一人、坐っていた。  日焼した顔に、傷痕のような深いしわが何本も走り、細い目の中の灰青色の瞳が鋭い。 「グスタフ・フォン・マイヤー」  金髪の大男は坐ったままで本村に右手を差し出した。 「残念ながら自分は日本語ができない」  男のアラビア語を、与座波が通訳した。 「アラビア語、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、またはヘブライ語のうちから選んで欲しい」 「イングリッシュ・プリーズ」  本村は答えた。 「中東は、近い将来、つまり一年以内に戦争が起こる可能性が三分の二以上ある。それが、きわめて大規模かつ広域化する確率は、二分の一以上あると確言できる」  グスタフ・フォン・マイヤーは、いきなりそう切り出した。 「アラブ諸国とイスラエルの関係は、一九七三年の第四次中東戦争によって、一層危険な方向に進んでいる。エジプトはシナイ半島に多少の失地を回復し、名目的な勝利者とはなりえたが何の実効も得ていないし、シリアは名目的勝利すら得られなかった。民衆の間には勝利感と前進のない現実との差から不満は拡大している。一方、イスラエルは、自らの軍事的勝利を、石油戦略に屈した欧米によって盗まれた、としか考えていない。そのうえ、過激派アラブゲリラのテロがあるし、急速に増強されるアラブ諸国の軍備によって、中東の軍事バランスが不利になっていくことに苛立っている。国民の間には予防戦争論が日増しに強まっている」 「産油国と欧米諸国による、双方に対する抑制効果をどう評価するか」  本村は質問した。 「外国の抑制力は、理性的な為政者にのみ作用するもので、国民大衆には逆効果になるばかりだ。しかしそのことは重要だ、とくにアラブ側について……。それは、第二の問題、つまりアラブ諸国間の対立を激化させている、という意味においてだ。つまり急進派と穏健派との対立だ」  マイヤーの英語は聞きとりやすかった。 「急進派諸国は、民族社会主義への道を歩んでおり、保守的な部族社会と神聖王制を維持する穏健派諸国とは理念的体制的に相入れない。そのうえ、急進派は、人口が多く産油量の少ない国がほとんどなのに、穏健派は人口過少の大産油国が多いから、経済利害の点でも対立は深まっている。急進派諸国には、穏健派の国王・首長たちに対する不信が根深く、第四次戦争における石油戦略も結果的には�アラブの大義�よりも産油国自身の収入増をもたらしただけだということに不満が大きい。また、大産油国の王様たちが膨大な外貨を蓄えながら、十分な軍事経済援助を他のアラブ諸国に行っていない、と急進派諸国やパレスチナ難民たちは非常に不服だ。急進派諸国が、パレスチナ解放戦線を加えて、軍事経済同盟を締結しようとしているのは、このためだ。この同盟はおそらく三週間後に調印され、公表されるだろう」  と、諜報者らしい言葉を加えた。 「当然、穏健派諸国にも不安は大きい。彼らは膨大な石油収入を持っているが、軍事的外交的、とくに内政的不安に怯えている」  マイヤーは、ここで�強いが貧乏だ、と思われるほど嫌われることはない。金持だが弱いと思われるほど危険なことはない�という、アラブの諺を紹介し、 「いまのアラブは、はっきりこの二つに分かれている」  といって薄く笑った。 「このことは第三の問題、アラブ諸国の内的不安定と関連している」  マイヤーはまた、真面目な表情に戻った。 「戦後中東には、成功不成功あわせて五十回以上のクーデターや革命があった。しかもここでは、民族、言語、宗教の共通性から、一国の内政は常に国際化する。アラブが今日のように多数の国家に分かれているのは全く人為的であり、なんら歴史的社会的必然性がないからだ。アラブ諸国の政治家、軍人および革命家にとって、隣国は決して他国ではない。だがここで、とくに強調したいのは、穏健派といわれる大産油国における人口変動、つまり移民の問題だ。石油は資金のみでなく人間をも引きつける。たとえばクウェートだ。この国の居住者は九十万人を越えているが、クウェーティーといわれる本来のクウェート人は二十万人しかいない。残り七十万人は移民で、正式のクウェート国民とは認められていない。もちろん選挙権はない。移民には会社を設立する権利もない。事業を興そうとすれば、かなりの名義料を支払ってクウェーティーの名前を借りねばならない。つまり移民たちが、現体制に対して過激化する要素は十分にあるわけだ」  マイヤーは、さらにいくつかの産油国の実状と人口統計を説明した。 「これらの産油国における流入人口はインド、パキスタン、イランなどの非アラブ諸国からの者も少なくないが、もちろんアラブ人もまた多い。彼らの多くは、急進的な民族社会主義の道を歩む祖国を持っているし、その中にはパレスチナ難民も少なくない。つまり移民の流入は同時に、社会思想と組織の流入であることに注目しなければならない。こうした人びとが、近代化した都市に集住することは、部族社会と神聖王制とを支柱とする穏健派諸国の内部に重大な影響を与える。穏健派のスルタンやシェイクたちが、これ以上の石油増産を好まない原因の一つは、これ以上の人口流入を防ぎたいからだ。また彼らが遠いパレスチナでの紛争に強硬な態度と軍資金援助を示さねばならない理由の一つも、国内のパレスチナ移民への政治ポーズが必要だからである」  マイヤーは言葉を切り、ウイスキーをあおった。 「ところで第四の問題は、ヨルダンおよびパレスチナ難民だ。一九七三年末にモロッコのラバトで開かれたアラブ首脳会議をご記憶だろうか。あの会議で、ヨルダン川西岸のイスラエル占領地区にパレスチナ解放戦線PLOを代表とする�パレスチナ人の国�を創ることが採択されたのだが、この採択は気の毒なヨルダン王国を一層苦境に陥れただけだった。そのため、急進的思想を持つパレスチナ難民多数をかかえながら、ベドウィン族の軍隊に支えられて王制を保つヨルダンはますます不安定化している。地理的にも政治的にも、急進派と穏健派の中間に立つヨルダンの変動は、中東の危険な発火点ともなりかねない。一方、パレスチナ解放戦線も、これによってある程度国際的公認を得たが、それも名目的なものに過ぎない。イスラエルの細長い国土を深くえぐる形で、反イスラエル意識の強いパレスチナ人国家を創ることに、イスラエルが同意するはずがないからだ。それに加えて、パレスチナ解放戦線がこれに同意したことに対して、全イスラエル領土の解放を主張する、より過激なパレスチナ人組織は一斉に反発しており、いまやパレスチナ人組織やアラブゲリラを統括することができにくくなっているのだ」  マイヤーはもう一杯ウイスキーをあおった。 「もう一つ中東をめぐる外部情勢についても触れねばなるまい。中東をめぐる米・ソ・中・英・仏などの軍事・政治問題についてはすでに多くが報じられている。また年間七百億ドルに上るオイルダラーが、世界経済に与えている破壊的な影響についてもご存知だろう。私がここで追加したいのはイランおよびオマーンの問題だ。イランは世界第二の大石油輸出国であり、中東最大の軍事大国でもある。強力な空軍と陸軍を持ち、アラビア湾のどこでも使用しうるホーバークラフト部隊をつくり上げている。絶対王制ともいえる体制をもつイランは、アラブ穏健派諸国の軍事的スポンサーでもあるが、半面伝統的なペルシャ人とアラブ人の対立およびシーア宗徒とスンニ宗徒の反目によって、全アラブ諸国とは分離している。つまりイランの存在は中東に奇妙な勢力の不等辺三角形を造っているわけだ。イランは過去五年間に、少なくとも六回イラクと武力衝突し、三回以上オマーンの内戦に出兵している。イラン、イラクの間にはクルド族問題がある。この問題はいまのところ小康を得てはいるが、パレスチナ問題に匹敵する難問だ。クルド族居住地区にイラク最大のキルツークなどの油田があるからだ。また数年来続いているオマーン王国のゲリラ戦も重要だ。南イエーメンやリビアの急進派に支持されたゲリラは、少数ながら頑強であり、しばしばイランおよびサウジアラビアの介入を招いている。とくにこれが重大なのは、オマーンがアラビア湾の唯一の出口、ホルムス海峡を押える位置にあるからで、全中東の死活にかかわる意味があるわけだ」  マイヤーは言葉を切り、ウイスキーと水とをゆっくりと飲み下した。  客席の方ではダンスでも始まったのか、物悲しい音楽が、厚いドアと二重のカーテンを通して、かすかに響いてきた。  マイヤーは、流暢な英語で再び話しはじめた。 「中東には多くの火薬庫がある。私は、こんど戦争が起これば、これらが連鎖反応を起こし、中東全体を大乱に陥れると見る。その理由は、これらを繋ぐ導火線が整っているからだ。それは過激派アラブゲリラの組織である。彼らは、パレスチナ解放戦線の妥協的な態度に怒り、ますます過激化する一方、産油国に移住したパレスチナ難民らの間にも組織を拡大している。彼らはすぐれた指導者、ザイジールのもとに結集している。ここにはアラブ人だけでなく、欧米や南米、そして日本人の過激派分子も多数来ている」 「日本人が……」  最後の言葉に、本村は驚いて、聞き返した。 「彼らは、中東に大規模な戦乱を起こすことが、日本の体制を崩壊させる早道だと考えている。それがザイジールの発見した世界革命における起爆一元理論だ。それはある程度正しい。少なくとも、単純な体制崩壊に接近するだけならば……」     3  グスタフ・フォン・マイヤーの話は本村英人をひどく興奮させた。だが、翌朝、短い眠りから覚めた時にはそれも収っていた。そして、本村は昨夜のメモを読み返してみて、わずかな部分を除いては、中東情勢にちょっと詳しい者ならば、誰でもしゃべれそうなことばかりではないかという気になった。  穴蔵の舞台装置も、マイヤーの現れ方も、いんちき臭く思えてきた。そして、ホテルまで送って来た与座波が、マイヤーの大物さ加減を吹聴して、さらに五百ドルもの追加謝礼を持ち去ったことが不快でならなかった。  本村は、ベイルート市内ベンダル区にあるアラブ過激派ゲリラの本部を訪ねてみることにした。それは「黒い九月」とか「被占領地の息子たち」とかいう地下組織ほどではないが、最も過激で戦闘的なグループの中で最も大きいといわれているものだ。  その本部は意外なほどに簡単に見つかった。しかもそれは市の中心の「大砲広場」から、そう遠くない回教徒居住区の繁華街にある二階建の家屋であった。入口には、中国製のKA47型自動小銃を肩にかけた若者が二人立っていたが、来意を伝えるとあっさりと通してくれた。 「あの時、私たちは不意を突かれたが勇敢に戦いました」  玄関ホールに残る弾痕を指さして、案内の女性が英語でいった。それは、一九七三年春、イスラエル特務機関の奇襲を受けて、何人かの幹部とそのボデーガードが殺傷された時のものだという。だがそれが不似合な記念品に思えるほど、本部の中は平和な雰囲気が漂っていた。  本村は二階の事務室に通された。壁には、ハイジャックして砂漠に着陸させたジャンボジェット機や、かつての英雄、ライラ・ハリド、そして軍事教練を受ける少年少女、そんな写真が並んでいたが、いずれも色褪せていた。想像していた�戦うアラブゲリラ�のイメージはどこにもない。 「いつの日か、必ず全パレスチナを解放する。われわれは目標を変えていないし、変えることは決してない」  応接に出て来た、口髭の立派な壮漢は、なまりの強い英語でそう強調した。 「ハイジャック、誘拐、爆破、その他いかなる手段も、この目的のために必要かつ有効であれば、われわれは行うだろう」  男の話は、その風貌にふさわしく勇ましいが、内容は全く抽象的だ。 「いつ戦う。近い時期か」  と、本村は訊ねた。 「アッラーの許し給う時に」  男は、胸許から目の上まで手をひらひらと上げる、回教徒独特のジェスチャーを見せた。 「日本人の参加者が、最近増加しているというのは本当か」 「われわれは、日本人を含め、正義と平和を愛する全世界の人びとに支援されている」  男の返答は巧妙だったが、表情には何の変化もなく、とくに隠しだてをしている様子もない。 「ザイジールという指導者について聞きたい」  男は、黙って首を振っただけだった。 「パレスチナ難民とわれわれの勝利のために……」  男は、そんなことよりも献金募集の方に熱心だった。  本村はある種の失望を感じた。そしてマイヤーはいんちきだ、という確信を持った。睡眠不足の身体が重く、丸二日間の時間と千五百ドルもの取材費を失ったことが腹立たしくくやまれた。  アラブゲリラの本部を出た本村は夕方の街をぶらついた。そこは回教徒街の市場のようなところだった。あまり広くない街道の両側に、果物、野菜、焼菓子、衣類、雑貨などを売る店が続いていた。  雑踏の中の男たちはほとんどが半袖シャツ姿だが、女性のなかには伝統的なアラブ服も少なくないし、洋服姿でも頭にベールを残している者が多い。流行に敏感なはずの女性の方が、服装に民族的伝統をより多く残しているのは、不思議な世界的現象だ。  本村は何軒目かの店に立ち停まった。古びた装身具や造りの悪い飾り物をごたごた並べた店だった。買う気もなくそんな品を眺めていた彼は、ふと背後に人の気配を感じた。 「ザイジールの名を口にしないで。さもないと、命が危いわよ」  女の声が、耳を打った。はっきりした日本語だった。  本村が振り返るのと、白いベールが去るのとは同時だった。ベールを把えようと手をのばした本村の指先を、十センチほどの差で、それはすり抜けてしまった。  彼は後を追おうとした。しかし、彼の目の前を、大きな男の背が遮ってしまった。     4  中東の七月は灼熱の季節である。本村英人は、アンマン、ダマスクス、バグダードと、旅を続けた。  飛行機から見たシリア砂漠、その中を走る石油パイプラインの細い糸は、印象的であった。アンマンやダマスクスの乾き切ったほこりっぽさも、珍しかった。そしてどこの街にも軍服の多いのに驚いた。かつて世界の首都といわれたバグダードも、いまはほこりまみれの疲れ果てた表情を持っていた。ここでも、創建者アル・マンスールが�平和の都�と名付けたのが皮肉に思えるほどに軍人の姿が目についた。  本村はここで一人の日本人の友を得た。久我京介という小肥りの四十男だ。彼はアラビア湾東部のアラブ首長国連邦で石油開発基地の建設に従事している建築技師だが、短い休暇を利用してメソポタミアの遺跡を残らず見物しようと、やって来ていたのだ。旅行の最後に、アラブ首長国連邦に立ち寄ろうと考えていた本村は、久我を知って喜んだ。  久我は、バスラまでの自動車旅行を提案した。バグダードからバスラまで四百キロの旅は、メソポタミア平原の下半分を縦断することになる。  未明にバグダードを発った二人は、日の出と同時に南九十キロのバビロンの遺跡に着いた。二千五百年の歳月と強烈な砂漠の陽と風で、さしも栄華を誇ったネブカドネザル大王の大都も、いまは見る影もなく崩れ落ち、一部が復元されているイシュタル門のほかは、一面の瓦礫の山となり果てていた。  その後、車は、メソポタミアの平原を、眩しい光を浴びて突っ走った。道は、時にチグリスに、時にユーフラテスに臨んだが、夏の乾期のためか、この古く名高い大河も、痩せ細り、瀕死の蛇のような姿でうねっていた。その乾上がった川沿いに、何千年にもわたってこの蛇が脱ぎ捨てた皮の風化物のように、白い塩がたまっていた。  夕方、久我は「バベルの塔」の廃墟に車を走らせた。バビロンの大都よりもさらに千年以上も昔のものだ。  当時、この下メソポタミアでは、高い塔を建てるのが流行したらしく、その跡がいくつかある。久我が案内してくれたのは、そのなかでも最も有名なウル第二都市のものだった。だがそこにも、かの「バベルの塔」の面影はなく、ただ巨大な土饅頭が淋しく盛り上がっているだけだった。  この高塔が建てられてから、あの平和の都バグダードが千一夜物語のロマンに彩られるまで、三千年余もの長い間世界で最も栄え進んだ地域であったこの中東が、それからわずか数百年の間に乾き切ったほこりっぽい貧しい土地に変わり果てたことを、本村は不思議に思った。 「燃料がなくなったからだ」  本村の疑問に、久我は短く答えた。  中東が気象の変化と牧羊のために木材資源を失い燃料不足に陥った十一世紀前後には、まだ石油を掘る技術も、使う知識も人類にはなかったのだ。  今日、全世界の燃料の大きな部分を供給する中東が、自ら最も必要とした時期に、それを手にすることができなかったことを、歴史の皮肉と呼ぶのは残酷過ぎるだろう。だが万一、中東に戦争が起これば、その石油に全エネルギーの大半を依存する日本もまた、と本村は想像した。  低く傾いた夕陽を受けて、長い黒い影を落とす「バベルの塔」の姿が、東京の高層ビルの未来を暗示するように、本村の目に映った。  二人は真夜中にバスラに着いた。ここは元は海港だった。千年ほど前までは、アラビア湾がこの辺まで深く喰い込んでいたのだが、いまは、百キロ先まで陸地になっている。チグリス、ユーフラテスの運んだ泥土が海を埋めてしまったのだ。  川が埋めた土地の下に大量の石油が眠っていた。二十世紀の人間はこの地上に複雑な国境線を引いた。アラビア湾奥の狭い海岸線を目指して、イラン、イラク、クウェート、サウジアラビアの四ヵ国が寄り添うように顔を出しているのである。  翌日、久我はアラブ首長国連邦に向かったが、本村は十日ほどここに留まることにした。  本村はここで生まれてはじめて、油田を見た。イランのジフスルからクウェート、サウジアラビア領まで、ペルシャ湾奥にはいくつもの大油田が連なっている。ここは世界最大の石油生産地帯であるばかりでなく、遠くイラクのキルクークやモスルからパイプで運ばれるものをも加えて、全世界の石油輸出の四割近くが積み出されている地域でもある。  本村は、この石油地帯の意外な狭さに驚いた。国籍の上では、四つの国に分かれていても、実際に石油施設が並ぶ地域は、半径二百キロの円内にほとんど収まる。乾燥した平野での二百キロは近い。そのなかに、いくつもの大油田と巨大な精油所と数ヵ所の石油積出港とがかたまっており、その間に割り込むように、イラク領ウルカスルーのソ連海軍基地があった。よく訓練された軍隊なら、それらすべてを一、二日の間にも破壊しつくせそうな、密集状況と無防備さに思えた。  本村がクウェートへ発つ日、中東急進派四ヵ国とパレスチナ解放戦線が、軍事経済同盟の締結を発表した。このニュースに、バスラの市民は歓声をあげた。その日はまさしく、グスタフ・フォン・マイヤーの予言した日付けに当たっていた。  本村はクウェートの油田と、日本系企業の開発したカフジの海底油田を見学したあと、最後の訪問国、アラブ首長国連邦へ飛んだ。  中型双発ジェット機の窓の下に、白い陸地と緑青色の海、そしてその海の中に、草木のない平らな砂島がいくつも見えた。  アラビア湾南岸は多島海だ。首長国連邦政府すら、自国領内にいくつの島があるのか、およその見当もつかない、といっている。つまり、これらの島は、数を調べるほどの価値も認められていなかったのである。  島ばかりではない。陸地そのものも忘れられた地であった。アラビア湾南岸の、カタール半島からオマーン半島の間に並ぶ七つの土侯国が連邦を組んで、独立国として公認されたのは一九七一年のことだ。それまでこの地域は、「休戦オマーン土侯諸国」という奇妙な名で呼ばれていた。何という土侯国があるのか知る者もなく、ただこの名で、隣りのオマーン王国と区分けされていただけである。ここは、わずかのオアシス農民と原始的な沿岸漁民と、地面に貼りついた乏しい草をあさる憐れな羊を追う少数の遊牧民、合計三万人弱が、千年前とさして変わらぬ生活を繰り返していたところだったのだ。  だが、十数年前、この地の一角に石油が発見されて、事情は一変した。たちまちのうちに、砂漠にアスファルトのハイウエーが通り、泥小屋の集落に大ビルディングが並び、百キロ四方に一人の医師もいなかったところに近代的な大病院が建った。  飛行機は、アラブ首長国連邦の東岸寄りにある空港に降りた。七月末の昼下がり、砂漠のいちばん暑い季節のいちばん暑い時刻だった。気温はおそらく五十度を越えているだろう。雲一つない空から降る光が痛い。その光の中に、純白の屋根とガラス壁の空港ビルがあった。それは、ここに降りた十人足らずの乗客には、淋しさを感じさせるほどに広かった。  空港のロビーで、先に着いていた久我京介が出迎えてくれた。 「よく来てくれました。この�地の果て�まで……」 「ここはいまでも地の果てですかね」  ホテルに向かう車から見る石油開発基地のこの町には、真新しいビルが並び、それを上回るほどの建設中の鉄骨がそびえている。 「ここには歴史がないからね。そしておそらく未来も……」  久我は、自嘲的な笑顔を見せた。石油開発以来、人口は著しく増えたが、それら移住者のほとんどすべてが、ここに永住する気を持ってはいないというのだ。 「あんたにぜひ会いたいという旧友が待ってますよ」  新築のホテルに車が停まった時、久我がそういって、本村を驚かせた。  ホテルのロビーに待っていたのは、承天丸の航海士、緑川光であった。長身を海員の制服に包んだ緑川は、この灼熱の港町には似合わしい男に見えた。  アラビア海南岸は一般に海が浅く、大型タンカーの出入りする石油積出港はほとんど沖合まで伸びたパイプラインの先に設けられているが、オマーン半島の付根に当たるこの港だけは、割合い水深に恵まれているので、陸近くまでタンカーが入れる。 「なぜかこんどはひどく港が混んでいて、石油積み込みまで丸一日待たされてるんです。それで上陸したんですよ」  緑川は、奇遇を喜んでいる風だった。  三人は、ホテルの最上階にあるレストランに入った。窓際の席から、西南の砂漠と西北の海がよく見えた。海には、五、六隻ものタンカーが肩を寄せ合うように浮かんでいた。 「それにしても奇妙ですな」  久我が太い首を傾けた。 「石油積み出しは盛んなのに、欧米企業の油田開発の方は全く尻すぼみですからね」  緑川もうなずいた。 「世界的に油は余っているというのに、ここへ来て積み出しが急増するなんて」  本村はそれが何かの前兆ではあるまいか、と考えてみた。 〈情報網の完備したメジャーは何かをつかんでいるのではあるまいか〉  広いガラス窓から見えるホテルのまわりには、海水を蒸留した高価な水で養われた芝生と、ドラム罐に植えられた樹木が申し訳け程度に並んでいる。それはこのホテルが最高級であることを示す看板でもあった。 「しかし変わった奴もいるよ。こんな砂漠に用もないのにやって来る日本人の若いのが多いんだからなあ」  久我は笑った。  本村は思わず、声を上げそうになった。ゲリラではないか、と思ったからだ。 「どうしてまた急に……」  と、緑川が訊ねた。 「日本人だけじゃない。欧州や南米からも来ている。なんでもヒッピーだか、イッピーだかの聖地がヒマラヤからアラビア砂漠に変わったんだそうだ。アル・アインのオアシスの近くで、キャンプしたりして、暇な連中だよ」  久我は何気なくおかしそうに説明した。  もしマイヤーのいったザイジールなる人物が本当に有能な指導者であり、心底、中東に大動乱を起こすことをねらっているなら、組織の一部をこの地方にも派遣するだろう。ここでは数年来|飽《う》むことなく続いているオマーン・ゲリラとの連携も可能だから、彼らに対する補給も困難ではないかも知れないのである。  西に傾いた太陽が、部屋の色調を変えはじめた。それは日本で見るような弱々しい落日でも、ベイルートで見た人の心を魅了する幻想的な夕陽でもなく、すべてのものを無に帰せしめる力を感じさせる苛酷なまでに美しい真赤な巨球であった。     5 「むこうは大変ですよ、部長」  本村英人は開口一番そういった。  彼は羽田からタクシーを飛ばし、いまA紙本社に着いたばかりだ。  秋森経済部長はずり落ちかけた眼鏡を押し上げながら、本村の勢いに押されたように椅子の上で身をそらせた。  本村は中東が戦争の危機を胎《はら》んでいること、それも従来のようなエジプト、シリアとイスラエルとの局地戦ではなく、中東全域に拡大する可能性の強いことを話したが、焦りが先立って、我ながらまとまりのない話し方になってしまった。 「早速記事にしたいんですよ、部長。できれば連載物でお願いしたいんですが……」 「まあ、考えとくよ。君も疲れたろうから二、三日ゆっくりしたまえ」  秋森は、本村の意気込みを柔らかくそらしてから、ニヤリとしていい足した。 「それにしても、モトさんが石油好きになってくれたのはありがたいよ。実はこんど、君に石油記者クラブのキャップをやってもらおうと思うんだ」  翌朝、本村はいつもより早く家を出た。旅の疲れと時差ぼけで身体が重かった。それに、八月上旬の東京はひどく蒸し暑く、乾き切った中東とは違った不快感があった。だが、石油担当記者になったことは不快ではなかった。石油危機の切迫を記事にするチャンスが多いと思えたからだ。  石油記者クラブは、石油連盟の中に一室を借りていた。各新聞社のデスクが一つずつあるだけの小さなクラブだ。部屋の中央に共同使用の会議机があり、その上には碁盤やトランプが投げ出されている。 「おお、モトさん、もう来てくれたかい」  部屋の隅で将棋を指していた大男が、本村の顔をみると、叫んだ。前任者の北畑記者だった。  早指し将棋に負けた北畑は、本村を自分のデスクへ連れて行って、スクラップ・ブックを開いた。そこに貼られた切り抜きの大見出しを見た瞬間、本村は息のつまるほど驚いた。 「海底油槽反対の声広まる」「石油備蓄政策再検討こそ必要」という文字が、黒々と並んでいた。「いま、わが社は大キャンペーン中なんだ。この火を消さんように頑張ってくれよな」  北畑の話とスクラップ・ブックのおびただしい切り抜きから、本村は、日本の世論、とりわけ彼自身の所属するA紙の論調が、自分の考えていたのとは全く逆の方向に進んでいることを知った。  本村が中東旅行に発って間もない六月の末、兵庫県の大火力発電所で起こった排煙脱硫装置の故障が事の始まりだった。  当初、電力会社はこの故障を軽く見ていたが、修理部品の入手難などで、排煙脱硫装置の修理は手間取った。さらに運の悪いことに、梅雨あけ前の曇天無風の日が続いた。故障発生後三日目には、発電所周辺の亜硫酸ガス濃度の急増から、異常事態の発生が知れわたってしまった。地元市長は、電力会社の�公害防止協定違反�を攻撃し、住民代表たちは�即時発電停止�を訴えた。発電所所長が、亜硫酸ガス濃度は高まったとはいっても、数年前の工業地帯に比べるとまだまだ低い、などといったことが、住民の怒りに油を注ぐ結果にもなった。そして故障発生後五日目、熱心な新聞記者と医師の協力によって公害性咽頭疾患者が数名発見された。  騒ぎをことさら大きくしたのは、ただちに現地視察して、問題を国会の場に持ち出した吉崎公造代議士だった。彼は、電力会社とそれを監督する通産省エネルギー庁の姿勢を攻撃したばかりではなく、特別の爆弾質問をも用意していた。それは、こともあろうに通産省が公害防止を妨げている、というものだった。  吉崎代議士は、この春、M鉱産が、神奈川精油所内の石油備蓄タンクを撤去して、重油脱硫装置を設けようとした計画を、重油脱硫装置メーカーからの資料で明らかにしたうえで、 「この計画を、通産省エネルギー庁が認可しなかった。今回の公害発生の原因は、低硫黄重油の不足にあったわけだから、その低硫黄重油増産を妨げていた通産省こそが、真の加害者ではないか」  と決めつけたのである。  これには通産省側も答弁に窮し、M鉱産の計画を直ちに進める、というほかはなかった。  この結果、M鉱産の重油脱硫装置建設計画は認可され、わずか一ヵ月後のいま、すでにその準備工事、つまり同装置建設用地を空けるための石油備蓄タンク撤去作業に入っている、という。  ここで終わっていれば、たかだか百八十万キロリットル容量の石油備蓄タンクが減っただけで済むことだったが、これを契機に、マスコミが、石油関連施設の安全性に関する�総点検キャンペーン�を競ったことが、意外な方向に飛火したのである。 「ちょうど三週間前だよ、こいつが来たのは」  北畑は、スクラップ・ブックに太く赤線で囲った小さな記事を示した。それは読者の投書だった。  「海底油槽は危険──石油備蓄政策は誤り」と、投書欄には珍しい二本見出しをつけたその文章は、およそ次のようなものだった。 [#1字下げ]「石油関係の公害事故が相つぐなかで、とくに心配なのは、通産省と石油共同備蓄会社が建設中の海底油槽である。周知のごとく、海洋および海底についての知識はまだ著しく乏しい。とくに台風時に生じる波浪や津波、地震による海底の震動は全く知られていない。このような状況では、海底油槽が安全と確言できるはずはない。しかもこの海底油槽が破損した場合、流出する原油による汚染の被害は、一九七四年末に起こった水島の重油流出の何億倍となり、全海洋生物を消滅させるばかりか、海洋の死滅から地上の生物までも決定的な打撃を受けるであろう。かように危険な海底油槽の使用を、絶対に許してはならない……」  投書者の署名は、伊藤今日次(七二歳)海洋学者、となっている。 「これは、わが社にとっては、まさに天佑だったよ」  北畑は誇らし気にいった。 「これをもとに取材して歩いたら、公害反対運動で有名な東大の梅野、大阪市大の水本なんて連中が協力してくれたし、遂に土木工学の泰斗、広原隆美をくどき落として一つ書かせたんだ。広原は去年、役所とトラブルがあって、都市工学審議会をはずされたから書くと目をつけたのがよかったんだ」  北畑はスクラップ・ブックを繰った。工学博士広原隆美の署名入りで「海底油槽の安全性への疑問」と題する大きな記事があった。文章は、海底油槽の安全性への疑問を、設計・施工者に質問するという形で、学者らしい抑えた表現のものだったが、それを紹介する柱書きには、土木工学の権威も危惧を表明している、という趣旨のことが書かれていた。これに対する、設計に関係した学者や技術者の見解・回答も、談話の形で付けられていたが、それは�関係業者の話�として扱われていた。 「キャンペーンが功を奏して、学生や一部の文化団体も立ち上がったね。今週はじめには地元にも海底油槽反対の会が出来たんだ。地元での反対集会には、吉崎議員も行くっていうんだからね。もうこっちのもんだよ」 「海底油槽って、本当に危険なのかい」  本村はやっとそれだけ質問した。 「そんな専門的なこと、おれたちにわかるはずないじゃないか」  北畑は、あっさりそういった。 「それより大事なのは、このキャンペーンはうちが、ここまで持ってきたんだから、他社に抜かれちゃいかんということだ。頑張ってくれよ、モトさん」  北畑は、本村の背をたたいた。  石油タンク増強が各地で地元の反対にあって立ち往生している現在、四国沖に造られている海底油槽こそが、日本にとってほとんど唯一の石油備蓄増強の頼りであることを、本村は十分に理解していた。  彼は迷った。  日本を救うためにぜひとも必要と信じる石油備蓄増強の訴えを捨てる気にはなれなかったが、そうかといってここまで進んでいる自社のキャンペーンを捨てることもできないだろう。新聞記者も組織の一員である。  翌日、本村は寺木や小宮に会いに通産省へ行った。寺木には、グスタフ・フォン・マイヤーの話を報告する必要もあった。  通産省旧館にあるエネルギー庁石油第一課の部屋には、課長の寺木鉄太郎も課長補佐の小宮幸治もいなかった。 「昨日から四国へ出張中ですよ」  寺木の隣りの席にいた技術課長補佐の沼川は人の好さそうな笑顔でいった。 「四国というと、やはり海底油槽の件ですかね」 「そうですよ、お宅のキャンペーンで弱ってますよ。地元の有力者や共同備蓄会社だけでは手に負えなくなったと判断して、二人が地元説得に行ったんですが、どうですかね」  夕方、本村が本社に戻った時、四国の現地記者から、海底油槽交渉決裂を伝える記事が送られてきていた。 [#ここから1字下げ] 「午前十一時、通産省、石油共同備蓄会社幹部らが、地元説得のため現地を訪れたが、待ち構えていた『海底油槽反対の会』の地元住民と、これを支援する学生・文化団体の三千人に阻止され、現場にすら到着できなかった。町当局が用意した説明会も、反対派のピケで中止となった。  この後、反対派の人びとは建設現場近くに集合し、�海底油槽使用反対��海と海洋生物保護�を決議、会社側が使用テストを強行する場合には、漁船ピケによって実力で阻止することを申し合わせた。  集会に出席した吉崎公造衆議院議員は、『一部大企業と癒着した政府当局の横暴から断固海を守るために身体を張って戦うとともに、政府の石油備蓄政策の誤りを国会の場でもきびしく追及していく』と語り、盛んな拍手を浴びた……」 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  第三章 予  測     1  この年の夏ほど、多くの日本人が幸せであったことは少ないだろう。世の中は平和で繁栄していた。良心的平和主義者を苛立たせるような戦争は世界中どこにもなかったし、過激な学生運動も犯罪も少なかった。夏は涼しく好天続きのうちに過ぎ去ろうとしていた。そして何よりも日本は非常な好景気だった。  景気の主導力となったのは前年後半以来の輸出の好調だ。しかも、繊維、雑貨、鉄鋼、家電など、慢性不況・設備過剰産業の輸出が伸びたので、ほとんど全産業に好況が及んでいた。また四月以降になると、なぜか日本円の為替相場が低迷しだしたため、輸出はますます伸びた。  貿易収支の黒字は、月々二、三十億ドルにも上りだした。長短の資本収支がかなりの赤字なのにもかかわらず、日本の外貨保有は増加を続け、八月末には二百億ドルに達した。  もちろん、企業も儲かっていた。在庫は急減し、設備投資も年初からブームに入っている。鉄鋼、セメントなど、一部の設備投資関連物資は、またしても需給逼迫の状況になっていた。  一般サラリーマンの懐具合もよかった。さほどの春闘を行うまでもなく、会社側は大幅賃上げと史上最高のボーナスを気前よく支払った。勤労大衆は、久しぶりに戻ってきた�高度成長�の甘美さに酔った。消費ブーム、住宅建設ブーム、そしてレジャーブームが起こった。  そのうえ、人びとは�今日の繁栄�ばかりでなく�明日の夢�をも楽しむことができた。  石油問題も、世界各地の新油田の開発や代替エネルギー技術の進歩で、石油需給が著しく緩和し、もう過去のものと考えられていた。学者や役所は、またぞろバラ色の�未来予測�を並べたてた。  だが、通産省エネルギー庁の幹部たちは、こんな幸せな世間とは無縁の日々を過ごしていた。海底油槽使用を前提として立てられた南米原油導入計画が難航していたからである。  ロドリゲス政府からは、DD原油引き取り督促が何度も寄せられた。彼らは、原油引き取りを延ばすために、日本政府が油槽設置の反対運動をでっち上げているのではないかとさえ、疑っていた。世界各地で実用化されている海底油槽が、完成目前で反対運動に阻まれることも、またそれを政府が手をこまねいて傍観していることも、むこうの常識では理解できなかったのだ。  エネルギー庁としても、海底油槽の早期使用をあきらめるわけにはいかなかった。すでに建設工事は九九%完了し、約三千億円が支出されていたからである。  そのうえ、八月後半から、中東の異変を伝えるニュースが相ついで入って来た。  中東急進派四ヵ国とパレスチナ解放戦線の軍事経済同盟締結に対し、イスラエルやアラブ穏健派諸国が、これに反発する姿勢を明らかにしだした。中東旅行から帰った新聞記者本村英人や、欧米の政財界首脳を歴訪して来た、国際評論家青柳実三の報告も、中東の危機を伝える点では一致した。  さらに八月下旬、穏健派産油国が、急進派諸国に対する軍事経済援助を突如中止したらしい、といううわさが伝わった。これを裏付けるように、急進派諸国のリーダーと目されるアリー首相のアラビア湾岸諸国訪問の延期が数日後に公表された。  現在の世界経済のなかで、中東諸国に対する武器輸出は大きな機能を持っている。欧米諸国は、アラブに年間二百億ドル以上もの武器を輸出することによって、膨大なアラブの石油収入の一部を回収している。それがここで、穏健派諸国の資金援助が途絶えることによって、アラブ急進派の武器輸入が急減したなら、欧米経済と国際金融のバランスはかなりの打撃を受けるわけだ。産油国の軍事資金援助中止のニュースが流れると同時に、ニューヨークでもロンドンでも株式は大暴落した。とくに、武器輸出に熱心なフランスの株式崩落が目立った。国際為替市場でも、英ポンドとフランス・フランが下落した。東京株式市場はわずかな値下がりにとどまったが、日本円の相場はかなり売り込まれた。  だが日本の好況が持続されることに疑いを持つものは、まだほとんどいなかった。 「日本の国際収支は健全そのものであり、物価も比較的安定しているから、全く心配はない。むしろ、モノ不足による物価狂騰こそ心配されるので、設備投資の重点的配分こそが重要である」  経済には自信のある総理大臣は、こういう見解を披瀝した。これは、与野党、政府、民間、学者、ジャーナリストを通じての圧倒的多数の意見を代弁するものでもあった。     2  九月も中旬になると、兵庫発電所の事故や海底油槽問題が飛び込んできたため、予定より十日間ほど遅れた「油減調査」も、ようやく最終の山場にさしかかっていた。小宮幸治が東京・青山にある須山家を訪れたのは、そんな頃の日曜日であった。  小宮幸治と須山寿佐美との交際は、断続的ではあったが、すでに五ヵ月以上にもなっている。当然、小宮としては�結婚�問題の決断を迫られていた。だが小宮は、その決断の前に寿佐美の父親、須山源右衛門には会って見たかった。わずかの期間に数百億円もの巨富を得たといわれる不動産屋は、小宮にとっては想像を絶する「怪物」だったからだ。  須山一家は自己所有のビルの最上階に住んでいる。住居としては変わった場所だが、そのビルの中に須山源右衛門の持ついくつかの会社の本社があるのだから便利には違いない。  ビルの脇にある通用門をくぐると、小さなエレベーターが最上階の「社長邸」に通じている。それは場違いなほどに薄汚れていて、ガタガタと音をたてて揺れた。だが、その薄よごれた小さなエレベーターが次にドアを開いた所には、純白の大理石で固められた須山家の玄関先があった。  呼鈴を押すと、飾り金具のついたドアが開いて、寿佐美が顔をのぞかせた。 「今日はあんまり遅刻しなかったわね」  寿佐美はいたずらっぽい目で笑った。  ドアを入ったところに、同じ白大理石貼りのホールがあり、正面には寄木細工の床が広がっている。その向こうの、広いガラス壁越しに、四十坪ほどの庭が見えた。この屋上庭園をコの字型に囲んで、部屋が連なっていた。 「ようおいで下さいました。いつも寿佐美がえろうお世話になっておりまして」  小柄な中年の女が、頭を下げた。黒っぽい和服に薄茶色の帯を胸高に結んだ粋な着付けや、派手な化粧に、水商売上がりの女性特有のムードが漂っている。寿佐美の継母であることはすぐわかった。  通されたのは、玄関ホールから左に入った二十帖ほどの部屋だった。南側には庭が、そして東側の大きな窓からは赤坂のビル街が望める。白と黒を基調とした部屋の造りは、和風の庭園にも、無機質なビル街の景色にも、よく調和していた。 「これ、寿佐美がデザインしましたんで。なんでも北欧風とかドイツ風とかに和風のセンスを入れたんやと申してますけど、どんなもんやら」  そういって継母は笑った。口許に当てた左手の指に、五、六カラットもありそうなダイヤが光った。  寿佐美は、料理とブランデーをテーブルに並べていた。  父親の源右衛門は日曜の今日も朝から出かけていた。彼の帰りを待って、三人はレコードを鳴らしたり、美術本を見たりして時間を過ごした。  須山源右衛門が帰ってきたのは、八時近くになってからだった。 「やあ、小宮はん、よう来とくなはったなあ」  派手なスポーツシャツにダブダブのズボンを着けた源右衛門は、大黒天のような顔に人懐っこい笑いを浮かべた。 「今日はゴルフですか」 「ゴルフ……。あんなもん、わしゃしまへんわ。他人の土地歩き回って何がおもしろおますねん。今日は土地見に行って来ましてん、買う土地だす」  源右衛門は哄笑した。 「小宮はん、あんたら頭がええよって、よう研究したはるやろけど、どうだす、これからまた土地上がりますやろ。なにしろこの好景気や、もっぺん、土地に来るん違いまっか」 「はあ……」  小宮は答えに窮し、息のもれたような声を出した。  寸尺の土地も持たず、また持てそうにもない小宮に、不動産屋のコンサルタントは全く不向きな役回りだ。 「いややわお父さん、いきなりそんなこと聞いて」  寿佐美が関西弁で助け舟を出した。 「いやこらどうも失礼」  源右衛門ははげ頭をなでて、楽しそうに笑った。 「この家、百五十三・四坪だったけどな、これ貸事務所にしたら、月八十万は取れまっしゃろな」  源右衛門はそんなこともいった。  源右衛門の語るところでは、彼の生家は大阪府のはずれ、南河内の田舎であった。祖父は村の有力者だったが、その後没落し彼の少年時代は貧しかった。それでも彼は、商業学校卒業後、夜間大学にも通った。その後、短い軍隊生活を経て、商事会社や証券会社に勤め、やがて不動産業界に入り、独立した、という。 「わしゃいつも一生懸命やりましたけど、四十五までは何してもあきまへなんだ。これを……」  源右衛門は太い指で寿佐美を指さした。 「これを無理して有名校に入れたもんやから、中学の時にはクラスで一番貧乏や、といわれましてな」  彼は、遠い苦闘時代を懐しむような目つきをした。 「そやけどあきらめしまへなんだ。それがよかったんですわ。人間誰でも一生に一回か二回、運は来ま。それを把《つか》めるかどうかは、努力と勇気だ。ただ運ちゅう奴はいつ来るかわからん。大抵の人は一回か二回、運がつかなんだらもうあきらめる、それであかんのですわ」  須山源右衛門は、多くの成功者がそうであるように、楽天的であり、かつ努力と実力の信奉者であった。小宮は源右衛門の話に引き込まれ、この男に魅力を感じだした。それは、小宮の知らなかった男っぽい生き方であった。おそらくそれは、初期の資本主義が理想とした人間像に違いない、と小宮は思った。     3  小宮は、週末から、油減調査の最終作業のために、三、四日大阪へ出張することになっていた。  小宮はその前に�結婚問題�に決着をつけておきたかった。つまり寿佐美に彼の求婚の意志を伝えたかったのだ。  小宮は金曜日の夜を寿佐美とのデートにあてた。彼はこの日の夕方までに沼川に出張中の事務委任の引き継ぎなどをし、他の役所などから届けられた資料の整理なども終えていた。今日だけは遅刻せずに行きたかったからだ。だが五時前に二週間ぶりに本村英人が現れた。 「ロドリゲス政府からのDD原油の導入、日本はあきらめたって、本当かい」  本村は、小宮の耳許に顔を寄せて囁いた。 「そんなことないよ。つい二日前にも交渉再開の訓電を発したんだからな」  小宮は親友のために、とくに訓電のことまでしゃべってやった。  南米原油の導入については、海底油槽への備蓄が当面不可能なため、黒沢長官や西松石油部長が石油各社を説得して、当初予定の半量三百五十万キロリットルだけは、各石油会社の預かりという形で本年中に受け入れられそうになっているので、現地大使館にその線でロドリゲス政府と交渉するように訓令したのだ。 「おかしいな……」  本村は小首をかしげ、小宮を疑わしげに見つめた。 「つい二十分ほど前、ロドリゲス政府はヴィッカーサス・グループとDD原油の売買契約をするらしいって、外電が入ったんだよ」  ヴィッカーサス・グループは、戦後急速にのし上がってきたアメリカの独立石油業者だ。その中心人物、サイモン・ヴィッカーサスは、滅多に人前に姿を現さず「謎の人物」といわれているが、その動きはしばしば全世界を驚かせた。昨年春にも、中東のある土侯国の石油利権を得るため、次男のラムセス・ヴィッカーサスを回教に改宗させ、土侯の娘の一人と結婚させる、という大技をやってのけたほどの、荒っぽい男である。  その時、長官付き女性秘書がやって来た。 「長官が、お呼びです」  長官室には、黒沢長官、西松部長、寺木石油第一課長、それに古島資源輸入課長の四人がいた。四人の顔はきびしかった。 〈本村の話は本当らしい〉  小宮はそう直感した。  須山寿佐美は、帝国ホテルのロビーで、小宮幸治を待っていた。約束の七時はとうに過ぎていた。  寿佐美は、小宮幸治というエリート官僚と知り合ってから、もう半年近くになるが、会うのは、月に二回程度だった。それにしては、小宮が自分の心に占めるウエートは大き過ぎるように思えた。継母や弟たちが避暑に出かけた時も、彼女は一人東京に留まった。小宮との数少ない逢う瀬を逃したくなかったからだ。 〈あの人また遅刻だわ〉  寿佐美がそう思ったのは、八時近くなってからだった。 〈私、待たされることに慣れてしまったのだ〉  と、彼女は考えた。だがそれは、彼女にとっての小宮の重みと、小宮における自分のそれとの比重の差を感じさせた。  このロビーには、いろんな男女が出入りした。もちろんここを待ち合わせに使う若い男女も多い。だが、その誰もが五分か十分のうちに相手を得ていた。ここで一時間以上も独り坐っているのは寿佐美だけだった。それに気づくと、寿佐美は耐え難い孤独感に襲われた。  彼女は孤独が怖かった。中学生の時に実母を失った寿佐美は、二十五年余りの過去の半分以上を孤独に過ごしてきた。  闘争本能ともいえる執念と活力で、事業に挑む父、源右衛門は、寿佐美の事をあまり気にかけてはくれない。源右衛門は、娘の相談に乗ったり、娘心を慰めたりすることが得意ではなかった。そしてそのことを誰よりも源右衛門自身が知っていた。 「お金は飯《めし》みたいなもんや」  源右衛門はよくそういった。 「そら味噌汁があって漬物が付いて、デザートが出る食事はええ。そやけど、味噌汁や漬物やコーヒだけでは腹がふくれん。飯がなかったら生きていかれへんのや。そこへいくと、飯だけの食事は味気ないとはいうても、とにかく飯さえあったら、生きてはいけるんや」  源右衛門は、自分が娘に与えられる「飯」の値打ちを誇った。確かに源右衛門は多過ぎるほどの「飯」を寿佐美に与えてくれた。だが寿佐美は「飯」だけの生活にあきあきしていた。皮肉なことに、この多過ぎる「飯」が、寿佐美を一層孤独にさえした。彼女は、常に男の愛情を疑って見ねばならぬ立場に、自分がいることを感じだしていた。やがて自分が相続するであろう百億円以上の資産が、男に偽わりの愛を装わせる危険な力を持っていることを、十分に知っていたからだ。 「お冷やでもお持ちしましょうか」  ロビー係のウエートレスが横に立っていた。浅黒い顔の見憶えのある娘だった。 「いえ結構です」  寿佐美は短く答えた。  ウエートレスが妙な笑いを作ったような気がしたのだ。それがいつも長い間待たされている自分に対するこの娘の冷笑のように思えた。  もう八時二十分だ。寿佐美は急に立ち上がった。小宮幸治が、いつものように急ぎ足で現れたのは、ちょうどその時だった。 「えらく待たせて、今日は急に……」  いつもの明るい笑顔だった。だが今夜に限って、その笑顔が、ひどく軽薄で無責任に映った。 「私、今夜は、帰らせてもらいます」  彼女は出口の方に歩き出した。 「どうしたんだ。急にそんな……」  小宮はあわてて追った。 「ちょっと待って、大事な話があるんだよ」  小宮は、今夜寿佐美にプロポーズするつもりだった。 「そのお話は、また機会があったらおうかがいします」  寿佐美は真直ぐ正面に顔を向けて歩いた。少しでも首を動かすと涙があふれ出そうだった。そんな自分を、先刻のウエートレスが後ろからじっと見つめているような気がした。  寿佐美の痩身が回転ドアから消えて行くのを、小宮は呆然と見送った。 「日本がどうなるかという時に、たかが女の一人……」  小宮は、自分にそういい聞かせつつ、寿佐美が出て行った回転ドアを見つめたまま立ち尽していた。     4  翌土曜日の午後三時過ぎ、小宮幸治は予定通りに新大阪駅に着いた。  九月末の空は碧く晴れて心地よい日であった。新大阪から新淀川を越え、御堂筋を一直線に南下するタクシーのドライブも心地よく、小宮の心を明るくした。土曜日の午後で、車の数も減っていたし、車窓に映る銀杏並木も美しかった。この快適さが、昨夜の気まずい寿佐美との別れを忘れさせてくれた。 〈いずれ一週間ほどしたら、詫びを入れてやろう……〉  小宮はその程度にしか考えていなかった。  鴻芳本社ビルは、淀屋橋を越えてからいくつ目かの通りを左に入った細い道路に面して建っていた。この辺りはかつては商都大阪の中心部であったが、いまは道路の狭さと細分された土地所有が禍いして、小さなビルが雑然と並ぶ裏街になっている。その中でも、鴻芳本社ビルは古びた、小さな五階建のビルだ。これが建てられた昭和二十年代末には、おそらく斬新さを誇ったのだろうが、いまでは汚れた壁タイルと不格好な真鋳張りの看板文字がいかにもくたびれてみえた。つまり鴻芳本社ビルは、その場所といい、形や大きさといい、中小個人商社の事務所にふさわしいものだった。 「通商産業省の小宮はん……ああうかがっとります」  ビルの受付にいた老人は、小宮の名刺を透すような目付きで確かめてから、そういって案内に立った。いかにも船場の丁稚が、そのまま五十年ほど年老いた感じの老人だ。 「なんや知らんけど、えらいことですわ」  老人は、一台しかないエレベーターが降りて来るのを待つ間に、小宮にいった。 「だんだん人も増えてきましてなあ。はじめは四階の会議室だけやったのに、この頃は三階の役員室もみな調査の人らが使うてまんねや。そやよって、うちの役員はん、気の毒に、行くとこのうなって応接間に雑居ですわ。そやからお客はん来やはっても通す部屋がおまへんさかい、向かいの喫茶店借り切ってますんやで。えろうものいりですわ……」  老人は、小宮の同情を求めるかのようにぼやき続けた。多分先代から鴻芳に勤めてきたのであろう老人には、未曾有の騒ぎに思えたことだろう。 「こんどばっかしは、若殿はんもちと道楽が過ぎましたなあ……」  老人はエレベーターの中でもなおそういって悲し気な表情を見せた。  だが、三階に入った時、この老人のなげきが決して過剰なものでないことが、小宮にもわかった。そこに並んだいくつかの役員室は、それぞれテーマ別の調査用に当てられていたが、どれもこれもひどく乱れ汚れていた。資料や用紙が散乱し、壁にはグラフや表がベタベタと貼りつけられ、机の上にも床の上にも食べ残しの弁当箱や湯飲茶碗やビールビンがころがっている。そしてその中に、若い研究者たちが長髪、ポロシャツ姿でガヤガヤとやっているのだ。昼の四時というのに簡易ベッドを広げて仮眠中の者さえいた。誰もが疲れた顔と充血した目をしているところを見ると、相当熱心に作業を行っていることはわかるが、家主の商事会社としては耐え難い迷惑に違いなかった。  四階の会議室は、この調査の中枢本部になっていた。そこには数人の若い男たちに混って、雑賀正一と鬼登沙和子がいた。六月に会った時にはエネルギッシュに見えた雑賀も疲れ果て、脂じみた顔が赤黒く変わっていた。だが鬼登沙和子だけは少しも変わっていなかった。彼女はあれ以来ほとんど日曜も休まず、毎日十六時間もこの会議室に閉じこもっているということだったが、青みがかった白い顔と淡い褐色の瞳には、少しの疲れも汚れも見られなかった。  その日から四日間、小宮もまた、この追い込みの猛作業に巻き込まれた。年末の予算折衝の時など、数日役所に泊まり込んで、ほとんど眠らずに働いた経験のある小宮も、さすがに疲れた。ここでの仕事は、時間が長いばかりではなく、休む暇さえなかったからだ。  この間小宮は、梅田のホテルから通っていたが、彼が鴻芳ビルに着いた時にはいつも沙和子が先に来ていた。そして彼が帰る深夜にも大抵彼女はいた。それでいて沙和子は、必ず自宅に帰っているということだった。小宮は、この小柄な年齢不詳の女性に、ある種の魅力と驚異を感じはじめていた。だが沙和子は相変わらず、仕事上の必要事以外ほとんど話をしなかった。  そうした努力の結果、火曜日の夕方には、調査結果を算出できるところまできた。会議室の壁一面に貼られた大きなモデル・チャートには、すべてに数式が記入されたのである。そして翌水曜日の夜、関係者を集めて調査の結果を算出して見せることになった。  その日小宮は思いのほか早く目が覚めた。疲れているはずなのにあまり眠れなかったのだ。  調査結果がどう出るかはもちろん気になった。すべてのデータと数式をコンピュータにインプットして、それをいきなり公開の席でディスプレーパネルの上にアウトプットするというやり方は小宮もはじめてだった。それだけに、どんな結果が出るか、彼には皆目予想できなかったのだ。  だが、彼の気をもませた真の理由は、その結果よりも、これがうまく行くかどうかの方にあった。もし、数式のどこかが、データの一部が間違っていたり、コンピュータのプログラムが違っていれば、衆人環視の中で鬼登沙和子が恥をかくことになるからである。  午前中をなんとなく過ごした小宮は、昼食のあと落ち着かぬ気分で散歩に出た。この日も空は晴れていたが、十月に入った陽は淡く心地よかった。道行く人びとの顔には、まだ夏の名残りの陽焼けがあったが、服装は深い色調に変わり、一段と豊かに見えた。誰もが満ち足りた姿で、楽し気に見えた。  小宮は梅田から淀屋橋まで歩き、川沿いの眺めを楽しんだ後、桜橋まで戻り、再び東へ梅田新道の方に折れた。その時彼はハッとして立ち止った。見憶えのあるものを感じたのだ。  それは小さな画廊のガラス戸に貼られたポスターであった。 「名画即売展示会」という妙に崩した文字の下に、「ルネッサンスから現代巨匠まで秘宝五十点」という注釈がある。そして中央にはカラー印刷の画がついていた。その画に彼は見憶えがあった。それはまぎれもなく、鴻森邸の応接室でみたエル・グレコの婦人像であった。 〈鴻森芳次郎があの絵を売ったのだ〉  そう思うと、なぜか小宮は背筋に冷々としたものを感じた。     5 「では、日本の石油輸入が平常の三割になった場合の予測を行います」  鬼登沙和子が、抑揚の乏しい声でいった。  大阪の鴻芳本店ビルの大会議室には三十人を越える関係者が集まり、熱気がたちこめていた。いよいよ、油減調査の結果を、アウトプット・ディスプレー装置に打ち出そうというわけだ。  つい先刻、ITVを通じて、大河原鷹司関西経営協会会長が、東京鴻芳ビルにいる黒沢修二エネルギー庁長官とあいさつをかわした時、向こう側にも二十人ほどのスタッフが顔を揃えているのが見えた。この調査になんらかの形で関係した者は、ほとんど集まっているのだ。だが、ただ一人鴻森芳次郎の姿は、そのどちらの側にも見当たらなかった。 「左側の電子表示板には、一六〇分類法による産業分類が表示されています」  電子ディスプレー装置の中央から左半分に大きな表が現れ、その最上段に0111(米穀農産業)から9000(分類不能)まで、一六〇分類法での各産業を示す数字が並んだ。表の右端にはGNP、つまり全体の合計を示す文字があった。これは一六〇の産業の総合計に当たるわけだ。  小宮は、胸の高鳴るのを覚えた。 「まず平常、つまり現在の状況です」  沙和子の説明とともに、左側の表の第二段に100という数字がずらりと並んだ。沙和子の声は冷たく落ち着いていた。 「次に右側に示されたのは、日本の国民総生産を都道府県別に示した図です。各県の国民総生産の大きさが、光の面積で示されます」  ディスプレー装置の右側に、奇妙な形の図が現れた。中央の関東・関西が非常に大きく膨んでおり、両端はひどく小さいが、それでも日本列島を示していることは、なんとかわかる。 「これから、石油輸入が三割に減ったという仮定で、日本の受ける影響を、時系列で追います。つまり、日本への石油輸入を減少せしめる事件が産油国側で発生した日、即ちD─0デーからの変化を、十日刻みで見ていくことにします」  左側の表の左端にD0、D10、D20……という文字が、D200まで、二十一、縦に並んだ。それぞれ事態発生後「十日目」、「二十日目」……を示すわけだ。右側の地図にはD0という文字が左肩についた。 「十日目です」  三段目、D10と示された段にずらりと数字が並んだ。ほとんどが100、なかに99、98もあるが、逆に101、102というのもあり、GNPの段は100のままだ。右側の図もほとんど変わらない。 「二十日目です」  十秒ほど間をおいて、沙和子は次を出した。  四段目に出た数字は、ほとんどが94から100までの間であり、GNPは96になった。右側の地図が少し縮んだようだった。 「事件発生前に産油国を出たタンカーが、まだ入港中なので、石油輸入量の変化はわずかです。ここでの生産低下は、石油消費抑制のための政府の規制策によるものが大きいと思われます」 「三十日目です」  右側の日本地図が少し縮んだ。左の表の五段目に出た数字はほとんどが90台、なかに80台もあった。 「四十日目」  GNP欄に91という数字が出た。地図はまた少し縮んだ。 「五十日目」  地図が明らかに縮み、各都道府県を示す四角の間に隙間が出来た。GNPは88だ。 「六十日目」  沙和子の声とともに、地形はぐっと細くなった。左の表の数字の中に60台が目立つ。第3210欄、石油精製業の数字は、すでに48だ。 「備蓄原油が底をつきます。これからの変化は急激です」  沙和子が、手許のメモを繰りながらいった。  会議室の中に驚きの声が起こった。 「七十日目です」  地図の縮み方が相当大きい。GNP欄は78。 「八十日目」 「九十日目」 「百日目です」  会議室の空気は張りつめた。誰もが目を皿のようにして、ディスプレー装置に出る数字と、縮みちぎれるように隙間を広げる地図を睨みつけていた。そのなかで沙和子の変化のない声だけが、二十秒刻みで響いた。 「ちょっと……」  ITV拡声器から大きな声が聞こえたのは、沙和子が「百四十日目」を告げた直後だった。みな、はじかれたようにそちらを見た。 「あの地図の上に出ている赤い点は何ですか」  ITV拡声器の声は、東京で見ている寺木鉄太郎のものだった。確かに、三、四回前から、右側の図の上に、小さな赤い点が現れ、一回ごとにその数は増えていた。 「失礼しました、いい忘れました」  沙和子は声の調子を変えずに、ゆっくりと答えた。 「あれは、発生する死亡者の数を地域別に予測したものです」 「死亡者!」  驚きの声が一斉に起こった。ITV拡声器からも同じ叫びが伝わった。 「一点千人となっています。全国累計は図の右下の数字で示されています」  その数字はすでに二十万八千を越えていた。 「最初の死亡者の発生はかなり早いとみられますが、相当の数になるのは百日目ぐらいです」  沙和子はもう一度、「百日目」に戻して地図を出した。赤点が北海道と東京、大阪にあった。ここでは早くも千人単位の死者が出ている、というわけだ。  沙和子は続けて、「百十日目」「百二十日目」とやり直した。 「百五十日目です。この辺で第二次産業の活動は底をつきます」  第二次産業を示す第2011欄から第3990欄までの数字は、ほとんど20台か30台になった。なかには一桁つまり平常時の一〇%以下に生産活動が落ちる産業もいくつかある。そしてGNPは34となった。  右側の地図は引き裂かれて、各府県の四角が孤島のようにちぎれ飛んでいた。そして、その右下、死亡者数は三十万人を越えた。  沙和子はここで、しばらく進行を止めた。人びとは怯えたように黙り込んで、ディスプレーを眺めていた。 「これから、本当の影響期に入ります」  三分ほど後、沙和子は事もなげにいった。 「あとで、またその分は表示しますが、この頃からすべての物資の貯蔵分がなくなります。そして経済機能の崩壊と輸入の全面的停止状況、それに伴う食料不足が深刻化します」  小宮は、興奮と恐怖とで、身体が震えた。 「百六十日目です」  沙和子が再び予測を進めた。  小宮は、目を閉じ、耳をふさぎたかった。 「百七十日目」  沙和子の全く変わらぬ声が、ついに「二百日目」を告げた。  左の表の欄は全部埋った。GNPは23。産業別欄に一桁のものがいくつもあった。  右側の図は、もはや日本列島の形を保っていなかった。各府県の生産を示す白い四角形は斑点のようにばらまかれ、赤い点ばかりが目立った。その下にはもっと恐しい数字があった。死亡者数三百万人。 「二百日間に、三百万人の生命と、全国民財産の七割が失われるでしょう」  沙和子の低い声が会議室を振わせるほどによく聞こえた。  小宮の横で、大河原鷹司がうめいた。 「太平洋戦争三年九ヵ月と同じ被害だ……」     6  調査報告会が終わったのは、午後十一時近かった。  鬼登沙和子はその後も、いろんなテーマについて予測数値を出して見せた。貿易、物価、失業者数、人口移動など、いずれもが恐るべき破局を示した。物価は六ヵ月間に八ないし十倍、失業者数は顕在者のみで三千二百五十万人、そして企業の七六%が名目はともかく、実質的に、極度の操業短縮で倒産状態に陥る。 「仮に、ここで想定した事態が二百日で終わったとしても、被害はなお拡大を続けるでしょう。その後遺症は相当長く続くからです」  沙和子が付け加えた。  この調査報告に対する質問はほとんど出なかった。誰もが、何をどう考えてよいかわからなかったのである。  小宮は、大河原鷹司会長らが帰ったあとも、重い身体を椅子にもたせかけていた。 「小宮さん、どちらにお泊りですか」  関西経営協会の若い事務員が訊ねに来た。帰りの車の手配のためだった。 「ホテル・プラザ……」 「小宮さんは私が送ります。帰り道だから……」  振り向くと、鬼登沙和子が、書類やメモ帳を片付けているところだった。  鴻芳本社ビルの狭い空地に置いてあった鬼登沙和子の車は、中古の小型車だった。車内は、女性の車らしく、安っぽい派手な色のシートカバーやぶら下げ人形で飾られていた。助手席に腰を降した時、かすかな香水の香りと女の体臭が、小宮の鼻を軽く刺激した。 「疲れたでしょう」  淡い褐色の瞳が、薄暗い車の中で光っていた。 「私、少し飲みたいわ」  堺筋に出る角の信号で車を停めた時、沙和子は前を向いたままつぶやいた。  小宮はとまどって沙和子の横顔を見た。はじめて見る女のように、小宮は思った。青味がかった白い頬の小さな笑くぼも、唇からのぞく並びのいい歯も新鮮だった。  沙和子は車をキタ新地の細い路上に停めた。彼女が選んだのは、この辺りではあまり高級とはいえないスナック風の店だった。  二人は、若い男女の客に混って、カウンターに向かった。沙和子はブランデーを、小宮はウイスキーの水割を注文した。バーテンダーは当然のように、国産の中級品を出し、南京豆が十粒ほど入った小さな皿を並べた。  沙和子は、あまり経済的に恵まれているようには見えない。勉強好きで仕事熱心で、そのためつい結婚も遅れてしまっているといった、どこのオフィスにも一人か二人はいる器用貧乏の女性のような感じだ。 「今日も鴻森さんは来ていなかったなあ」  小宮は、話題もないままにいった。 「鴻森さん……」  沙和子は右眉を少し上げて訊き返した。 「鴻森芳次郎さんだよ」  小宮はもう一度いった。 「ああ、鴻芳の若殿はん」  沙和子はおかしそうに、節をつけていった。 「若殿はんは八月末から海外出張よ」 「へえ、どこへ……」 「南洋らしいわ。インドネシアあたりからインド洋の方を回ってるんでしょ」  沙和子はあまりよく知らぬといった風に、曖昧に答えた。  沙和子はよく飲んだ。南京豆を二、三粒かじっただけで、ブランデーを十杯ほどもあおった。それでいて、顔にも声にもほとんど変化がなかった。  小宮の酔いは早かった。酒に弱い方ではなかったが、連日の疲労と先刻の興奮が酔いを早めたらしく、店を出る時には足がふらついて、沙和子に支えられたりもした。 「私、酔ったわ、運転できない」  沙和子はしっかりした足どりのくせに、そういった。 「今夜はどこかに泊りたいわ……」  派手なピンクの傘をつけた照明具が、小宮の目に入った。起き抜けの頭に、記憶がよみがえってくるまでに数十秒もかかった。昨夜彼は、鬼登沙和子とこの旅館に泊ったのだ。  何年ぶりかに触れた女の肌が、額にかかったクモの糸のように粘っこい温みを胸のあたりに残していた。そしてそれが、あの年齢不詳の理学博士のものだということが、一層湿っぽいむずがゆさを感じさせた。  小宮は手を伸ばしてみた。触れたのは、冷えた洗いざらしのシーツの感触だけであった。彼は幅広いダブルベッドの中に、独り横たわっているのだった。  小宮は身を起こして、部屋の中を見回した。沙和子の姿はもうなかった。彼女がここにいたことを示す何物も残ってはいなかった。目に映るのは、花模様の壁紙とくたびれた桃色の敷物、そして舞台道具のようなけばけばしい色の安手の調度品だけであった。  小宮はべッドの上に坐ったまま、しばらくぼんやりとしていたが、ふとサイドテーブルの上に広げられた新聞紙を見て、小さく声をあげた。 「イスラエル重大警告」「アラブゲリラ援助中止を申し入れ」という活字が目に飛び込んできたのである。  あわてて身仕度をした。 〈東京に帰らなければ……〉  腕時計の針は午後二時を回っていた。 [#改ページ]  第四章 発  火     1  東京都千代田区霞が関二ノ二、そこに建つスマートなビルの最上階、東端に年中灯火の消えない部屋がある。日本国政府外務省大臣官房通信課、全世界に張りめぐらされた外交網と繋がる、日本の触角に当たる一室である。ここには深夜も早朝もない。日曜も祭日も盆も正月もない。常に、当直電信官と数名の補佐官が交替で詰めている。  この部屋に、ダマスクスの駐シリア日本大使館から最大至急電が飛び込んだのは、十一月二十日午前四時十八分を、十五秒ほど過ぎた時であった。  「駐しりあ日本大使館発   日本政府・外務省宛   最大至急……要回電  しりあ、いすらえる交戦、だますくす市内空襲ヲ受ケツツアリ……」  電報は短く、かつ平文(暗号化されていない外交電文)だったが、これを一読した当直電信官の顔は、黒く引きつった。 「中東関係、非常緊急連絡! 大至急」  当直電信官は、大声で電文を二度読み上げた。  眠そうに机にもたれていた三人の電信補佐官は、バネ仕掛けの人形のように電話機に飛びついた。  二人の補佐官が、外務審議官、外務事務次官、欧亜局長、アジア局長、経済局長、中近東課長、外務大臣秘書官など、中東問題に関係する幹部の自宅へ次々と電話を入れる。もう一人の若い補佐官は、公用車控室に連絡し、当直の運転手に迎えに行くべき相手の氏名と住所を伝えた。  当直電信官は暗号解読書を手に受電装置の脇に立った。後続電報の入電に備えるためだ。数分のうちに電報が入りだした。テルアビブの駐イスラエル大使館から、カイロの駐エジプト大使館から、そしてベイルートの駐レバノン大使館からの、いずれも最大至急・平文電報で、アラブ、イスラエル交戦の事実だけを伝えていた。  そしてその時にはすでに未明の霞が関を、八台の自動車が走り出た。  霞が関の官庁街は暗かった。どの役所も灯を消していた。この界隈を不夜城と化す予算折衝が始まるのは三週間ほど先のことだ。  外務省の幹部が次々と到着し、三階の外務審議官室に集まった。政治よりも経済に影響の大きい中東問題は、外務審議官が総括担当者である。  元外務事務次官、前駐米大使の春日井梅盛外務審議官が現れたのは午前五時二十四分だった。すでに、欧亜局長、アジア局長、経済局長、それに中近東課長が、待っていた。自宅が遠い事務次官らはまだ来ていない。  春日井は無言で一同を見回した。どの顔も青白く緊張していた。オーバーを着たまま、春日井は中央のソファーに腰を降ろし、電報の束に目を通しはじめた。彼のふくよかな丸い頬が、かすかに震えていた。  電報は、すでに十数通になっていた。 [#ここから1字下げ] 「いすらえる軍ハ、一部あらぶ侵略分子ノ不法カツ不意ノ攻撃ニ対シ、断固タル反撃ヲ加ヘツツアリ」  という、イスラエル政府声明を伝えるテルアビブの大使館からの大至急電。 「しりあ共和国ハ、いすらえる・しおにすとぐるーぷニヨル、全テノ協定ト国際法規ヲ無視シタ攻撃ノタメ、自衛権ノ発動ノ止ムナキニ至ッタ……」  という、シリア政府発表を報じるダマスクス発大至急電。 「いすらえる空軍機ニヨル、ワガ国領土ニ対スル不法爆撃ニ対シ、ればのん政府ハ厳重ニ抗議スルト共ニ、コレニ反撃スル権利ヲ留保スル……」 [#ここで字下げ終わり]  というベイルートからの至急電。……  まだ情報不足で、中東の情勢はよくわからない。それでも、春日井は一応交戦範囲だけはおおよそとらえることができた。どうやら戦争は、イスラエルとシリア、エジプト両国との間にだけ行われているらしい。イスラエル空軍が、レバノン領の一部を爆撃しているが、これは国境近くに集結中といわれるパレスチナ・ゲリラを対象としたもので、レバノンそのものに対する宣戦ではなさそうだ。 「戦いは、シナイ半島とゴラン高原に限られているらしい」  と、欧亜局長がいった。 「でも、双方の爆撃は、かなり奥深く行われているようですね。ダマスクス、カイロ、テルアビブ周辺、エイラート……」  アジア局長は不安気な顔をした。 「急進派諸国の軍事同盟が結ばれているから戦争はまだ拡大するでしょう」  と、中近東課長も緊張した表情を崩さずにいった。 「そりゃそうだろうが……」  経済局長が口をはさんだ。 「この前の第四次中東戦争の時とは違って、アラブ諸国の結束も必ずしも強くはないから、穏健派の国々は参戦しないんじゃないか。それにいまは世界的に石油需給が緩んでるから、石油の生産・輸出制限という石油戦略も効果が薄いからやらないだろう」  経済局長は中東情勢には常に楽観的な意見の持主だった。しかしこの場合には彼の言葉がみなを落ち着かせる効果を持った。 「大臣はすぐ来られるそうです」  長岡外務大臣に電話連絡した大臣秘書官が、戻ってきて、そう伝えた。  春日井は、ちょっと考えてからいった。 「関係各省にも連絡しよう。おそらく緊急閣議を開くことになるだろう」  大蔵省国際金融局長、通産省通商局長、同エネルギー庁長官、運輸省海運局長、経済企画庁調整局長、内閣官房副長官らの「中東情勢検討会議」のメンバーに、とくに今朝は、運輸省航空局長、防衛庁防衛局長および総理大臣外交問題担当秘書官の三人を加えるように、春日井は指示した。     2  この日(十一月二十日)、通産省エネルギー庁長官、黒沢修二が外務省からの緊急連絡を受けたのは、午前五時四十五分頃だった。 「あなた、外務省から緊急連絡よ……」  寝室のドアごしに妻の寛代がそういった時、黒沢は全身に冷水を浴びせられたような衝撃を感じてベッドからはね起きた。 〈あれだ……〉  と、黒沢は直感した。  �あれ�とは、中東における戦争勃発のことだ。黒沢には三、四週間前からそんな予感があった。合理的な根拠があったわけではないが、各方面から集まる情報と外国為替の動向や石油の荷動きなどから、なんとなくそういう気がしていたのである。もちろん、黒沢は、経験豊かな官僚として、そんな内心の不安を外に出すことはなかった。そしてむしろ、自分の不安を自ら打ち消そうと努めてきた。 〈俺は疲れているのだ〉  黒沢は自分にそういい聞かせた。確かに夏以来、石油備蓄の増強や南米石油の導入など、疲労の原因となることが多かった。だが、そんな自己欺瞞は、彼の不安を柔らげてはくれなかった。  黒沢修二はベッドから隣りの居間にある電話口までの十メートルほどの間を思わず走っていた。走る必要などなかった。彼が三十年余りの貯えと退職金の一部前借りとでようやく頭金だけをそろえて買ったこの四LDKのマンションには、走るほどの広さなどありはしない。だが、彼の焦りは独りでに足を急がせた。そして電話から流れ出る言葉で、自分の予感が的中したことを知った時、黒沢の全身は激しい寒さに震えた。室内を快適な温度に保っている暖房も、なんの役にも立たなかった。寒さは、身体の外からよりも、内部からこみ上げて来た。  黒沢はすぐ、西松剛石油部長と寺木鉄太郎石油第一課長に電話した。午前七時半から開かれる関係各省連絡会と、それに続いて行われる閣議の準備のためである。  震えながら電話する黒沢の肩に、妻の寛代がそっとガウンをかけてくれた。その仕草が黒沢にはうれしかった。 〈よくぞ今日まで……〉  そんな言葉が出そうになって、彼は慌てた。 「お父さんどうしたの……」  未明の騒ぎに目を覚した長女の康子が、寝室から顔を出した。 「お父さん、急なお仕事なの」  と、妻の寛代が湯を沸しながら答えた。彼女は夫が出かけるまえに、せめて温い茶の一杯でもと急いでいるのだった。だが、黒沢にはそれを飲むほどの余裕もなかった。 〈いま、日本には六十五日分の石油備蓄しかない〉  そのことが、黒沢の心に重い氷のようにこびりついていた。     3  午前九時から開かれた緊急閣議は、外務大臣と通産大臣の情勢報告を聞いたあと、短い討論と総理大臣からの二、三の指示を受けただけで、約一時間で終わった。  その後、関係各大臣は、それぞれ記者会見を行った。大臣たちの顔は、意外に明るかった。戦争がまださほど拡大した様子はない、という外務省の報告が、彼らを安心させたことも確かだが、何よりも国民に平静を保たせようという目的のポーズであった。  それは必要だった。一九七三年の第四次中東戦争が引き起こした石油危機で、モノ不足や物価狂騰が生じたことは、国民の記憶にまだ生々しい。「中東戦争再発」の一声で、買い溜め売り惜しみがまた発生する可能性は十分にあったからだ。  新聞記者会見に臨んだ長岡外務大臣も、この点を強く意識して、見解を述べた。 「今回の戦争は、一九七三年の第四次中東戦争よりも、その前の、一九六七年の第三次戦争、いわゆる�六日間戦争�だが、あれに似た短期決戦に終わると見られます」  これは、閣議に先立って行われた関係各省庁の連絡会議で、春日井外務審議官らが述べたのと同一見解だが、若々しい風貌とよく透る声を持った長岡大臣が語ると、一層自信のあるものに聞こえた。  石垣大蔵大臣は、国際金融界に与える影響について、 「いずれにしろ、日本への直接的影響は小さいと思われるので、政府としては欧州市場の動きを静観する」  と述べ、 「為替市場の閉鎖はいまのところ、全く考えていない」  と、いい切った。  なかでも威勢のよかったのは、海津経済企画庁長官だった。近代経済学に通じ、英語も堪能といわれる海津は、ジャーナリズムに人気のある政治家の一人だ。 「別に心配することはないよ。この前の石油危機だって、実態は大したことなかったじゃないですか。一部の悪徳業者が買い占め、売り惜しみ、便乗値上げで混乱を作り出したんですよ。それに消費者が乗せられて買い溜めに走ったから、まあああいう騒ぎになったわけでね」  海津長官は、歯切れのよい口調でまくしたてた。 「だから政府としては、買い占め、売り惜しみを断固として抑えていく。それだけですよ、政府としてやらにゃならんことは。それさえやれば、なんの心配もないんです」  記者団から笑いが洩れた。 「今日の閣議でもいったんだが、通産省や農林省など、物資担当の役所だけでは十分じゃない。府県や市町村にもきびしく監視してもらう。もし、不当な値上げや売り惜しみの事実があれば、直接私のところへ投書して欲しいですね。経企庁は、消費者行政、物価行政の元締めなんだから。私もそうだけど、経企庁って役所は、業者と癒着してないから、きびしくやりますよ」  与党内部の人脈・派閥の関係で、海津長官は、山本通産大臣には対抗意識を持っているのだ。  同じ頃、山本通産大臣も、大臣室で記者会見を行っていた。 「いまのところ、石油危機が生じると考える根拠はありません。主要産油国は参戦していませんし、石油戦略を発動するという動きもありません。仮に石油戦略が発動されても、アラブ諸国と友好関係を結んできた日本が、その対象となる可能性は少ないと考えられます。不幸にして石油戦略の対象となったとしても、現在わが国の石油備蓄は、かなり増大しているので、心配ない。とくに家庭用灯油は、製品在庫だけでも五十日分、それに備蓄原油から精製されるものを含めると約九十日分あるので、品不足あるいは値上がりの可能性はない、といえます」  山本通産大臣は、詳しい説明を黒沢エネルギー庁長官にゆだねた。 「現在の石油備蓄量は、平均消費量の六十五・七日分でして、前回の中東戦争発生時点、つまり 一九七三年十月末に比べると、約六日分多いわけです。石油備蓄量は、ご存知のように、精製段階や流通過程に入っている油も含まれているので、消費量の三十九日分くらいは精製・販売を円滑に行うためには不可欠ですから、純粋に喰いつぶしのできる量だけ比べると、前回が約二十一日分なのに対し、いまは二十七日分、三割ほど多いことになります」  黒沢はこの説明のなかに、二つの意味を持たせたつもりであった。一つは、�前回より六日分多い�という点であり、もう一つは�六十五・七日分の備蓄があっても本当に使えるのは二十七日分しかない�という点である。だがもう一つ、この説明には、大きな落とし穴があった。それは、すべてを「平均消費量」の日数分として語っていることだ。つまり石油の消費量には季節によって差があるので、平均消費量の何日分あるというのと、今日から何日間の消費分があるというのとにはかなりの差があることだ。これから迎えようとする冬は石油消費の盛んな時期だ。とくに、暖房用需要の多い灯油などでは、その差が著しく、平均消費量の九十日分は、これからの需要の五十日分あまりにしか当たらない。山本通産大臣がこのあと、楽観的な見解とは逆に、国民に石油消費の節減を強く訴えたのは、こうした事情があったのだ。  通産省は、一方で国民の平静を求めるために楽観的な観測を発表しつつ、その半面では石油消費節約への地ならしを始めようとしていた。しかし、この綱渡りのような仕事を、うまくやれる自信は、山本大臣にも黒沢長官にもなかった。 「中東戦争再発」のニュースは、この日の朝刊には間に合わなかった。大部分の人びとは、このニュースを朝のテレビや通勤途上のカーラジオで知った。職場に来てから知った者も多かった。  そのためか、この日は買い溜めに走る消費者も、売り惜しみする商店もほとんどなかった。  心配された外国為替市場も、平静だった。ドル買い・円売りは、普段よりはかなり増加し、午前中に二億五千万ドルほどに達したが、日本銀行がドルを売り向かって、円相場を前日通りの線で維持した。二百億ドルの外貨を持つ日本にとって、二億五千万ドル程度のドル売りは、大した問題ではない。  株式市場だけは、さすがに敏感に反応した。寄付から海運、自動車、建設などの銘柄が売りたたかれた。しかし、それも長くは続かず、前場の終わり頃には下げ止まりとなった。結局東京証券取引所のダウ平均株価は、前日比八十六円安で午前中の取引を終えた。  その時まだ、日本以外の先進諸国は目覚めていなかったのである。     4  日本は極東に位置し、世界の主要先進国の中で、最も早く夜が明け、最も早く日が暮れる。  このことは、しばしば、国際問題においては微妙な影響を日本に与える。たとえば、通貨不安の場合がそうだ。通貨不安は常に、ヨーロッパの為替市場における激しい投機から発生する。ところが日本の外国為替市場は、ヨーロッパの市場が開く前に終了する。日本とヨーロッパの時差は八〜九時間あるからだ。  このお陰で、これまで日本政府は、その日のヨーロッパ金融市場の動向を見極めてから、翌日の日本市場の対策を決めることができた。日本には、丸一晩検討考慮の余裕が与えられているのだ。  だがこれは、いつもいい方にばかり作用するものではない。  今回の中東戦争──後の人はそれを「中東大戦」と呼ぶようになった──の報せが、最初に日本に入ったのは、十一月二十日午前四時十八分だった。これは中東現地時間では十一月十九日、午後十時十八分に当たる。実際に戦闘が始まったのは、おそらくこれより四、五十分前の午後九時三十分前後であろう。  この開戦の主導権を取った者が、通常の奇襲攻撃の開始時刻である払暁を捨てて、あえてこの時間を選んだのは、おそらく純戦術的理由であったろう。それは、奇襲とともに緒戦において最も長い夜間戦闘を強要する時刻なのだ。夜間戦闘では、空軍力の地上援護能力が大きく限定される半面、各兵員の技量や、とくに指揮命令系統組織の優劣が大きくものをいう。  日本が第一報を得た時、ヨーロッパでは十一月十九日の午後八時十八分(スイス、西ドイツなど)ないし七時十八分(イギリス)であった。アメリカのニューヨーク、ワシントンなど東部標準時間では同日の午後二時十八分に当たる。欧米諸国も日本とほぼ同時に第一報を得たことだろう。ただし、これは外交ルートの最大至急電であって民間通信はこれより、四、五十分遅れる。そしてこれが、ラジオ、テレビのニュースとなって一般に流れるまでにはさらに、十五分内外かかる。事実、ニューヨークで、中東戦争勃発の放送が最初に流れたのは、現地時間三時五分頃だったという。  しかもこの第一報は、単に「武力衝突」を伝えるだけのもので、それが大規模な「戦争」とわかるまでには、さらに三十分ほどかかった。この意味では、アメリカ国務省や大統領府が、中東戦争を外交情報としてつかんだのと、一般にニュースとして流されたのとの間に、一時間あまりの差があったわけだ。  いつもはほとんど問題にならないこの一時間余りの差が、今回は、非常に重要であった。この間に、東部標準時の午後三時が含まれていたからだ。つまり、この間に、アメリカで圧倒的な比重を持つニューヨークの外国為替および証券市場の立会が、終了時刻を迎えたのである。  したがって、「中東戦争再発」という第一級の大ニュースが、金融界、経済界に流れた時、世界の為替・証券市場はすべて閉じていたわけだ。そして次に、最初に開かれる運命にあるのは日本の取引所だったのである。  このため日本政府は、外国の動きを見ることなく、自ら態度を決めねばならなかった。政府は、国民に動揺を与えないことを、最優先目標としていたため、為替市場も証券取引所も平常通り開かせた。  そしてこの作戦は、朝方のドル買いや株の売りが比較的早く収まりだしたことによって、成功したかに思えた。昼食時間には、政府首脳も証券界や金融界の関係者も、明るい表情を取り戻していた。だが、午後二時頃から�異変�が起こった。  その契機となったのは、急進派のアリー首相とムガーディー革命会議議長とが、対イスラエル参戦の共同声明を発表したことであった。両国はアラブ急進派中でも最も先鋭な国であり、急進派四ヵ国同盟の上からも参戦は予想されてはいたが、やはりこれによって、今回の中東戦争が、単なる�小ぜり合い�ではなく、本格的な戦争であることが決定的になった意味は大きかった。アリー・ムガーディー両政府は、参戦した最初の産油国でもあった。  東京為替市場に猛烈なドル買いが起こった。もちろん、午前中と同様、日銀は無制限にドルを売り向かい、円を買い支えた。  株式市場には、前場に数倍する売りが押し寄せた。  二時十五分頃、シリア領内で石油パイプラインがアラブ・ゲリラの手で爆破されたというニュースが入った。同三十分頃には、アラブ産油国が戦費調達のために大量の日本の持ち株を売りに出す、といううわさが、北浜方面から伝えられ、兜町をも恐怖状態に陥れた。  立会終了前の十分間、東京でも大阪でも、取引はほとんど成立しなかった。市場はすべて売り気配一色となったからだ。  外国為替市場の方は、結局この日一日で、日銀は三十八億四千万ドルのドルを売り、円を買い入れた。日本の全外貨準備の約一九%が、たった一日で流出したのである。  日銀のような買い支え機関を持たない証券市場はみじめだった。東証のダウ平均株価は二百二十一円の大暴落となった。  政府首脳は、緊急連絡をかわし、対策協議を重ねた。関係大臣が再度、記者発表を行った。  長岡外務大臣は、アリー・ムガーディー両政権の参戦は当初から予想されたところであり、このことによって中東戦争が実質的に拡大したとは思えない。石油戦略はないだろう、と強調した。  大蔵大臣は、ドル買いは投機的なものであり、国際通貨体制に根本的な不安はない、といい、大量のドル買いには、為替法違反の疑いもあるのできびしく調査する、と警告した。  だがその直後、ヨーロッパ諸国が当分の間、外国為替市場を閉鎖することを決定した、というニュースが入った。それは、単に為替投機防止のためのものではなく、膨大な短期資金を持つアラブ産油国に対する警戒措置でもあった。  現在のアラブ産油国は、一九七三年の第四次中東戦争当時のアラブではない。彼らは一千億ドル以上もの外貨を持ち、少なくともそのうち六百億ドルがユーロダラーの形で欧米金融市場を流動している。それだけでも日本の外貨準備の三倍、EC加盟九ヵ国の外貨保有高の一・五倍に近い。これが、いやこの半分でもが、引き上げられることになれば、ヨーロッパの金融市場は壊滅する。日本はもちろん、アメリカといえども大打撃はまぬがれない。  欧州諸国としては、この短期資金の流動防止について、アラブ産油国と何らかの合意をとりつけるまでは、うかつに為替市場を開くわけにはいかない。欧州主要国はまず、「十ヵ国蔵相会議」の開催を要請した。アラブ産油国との協議の前に、西側先進諸国の結束を固めようというわけだ。  大蔵省の赤木財務官が、大蔵省と日本銀行の担当者四人を伴いロンドンに向かって夜の羽田空港を飛び立ったのは、この長い一日も終わりに近い午後十時のことだった。     5 「あなた、大変よ」  本村英人は翌朝早く、妻の法子に起こされた。 「もう株はダメなの」  法子は、はれぼったい目で不安気にいった。 「どうして……」  本村はわざと落ち着いた表情でいった。 「取引停止ですって。あなた知ってるの」  法子は苛立たしそうにいった。 「ああ、知ってるよ。俺は新聞記者だからな」  本村は、法子がヘソクリで株を買っていることを知っている。どうせ五千株か七千株ほどだろうが、彼女は真先にそれを心配していた。本村は、すぐ再開するだろう、といって妻を安心させたが、 〈こんな会話が、いま、日本の家庭で交されているのだ〉  そう思うと、本村はぞっとした。  法子が置いていった各紙朝刊には、センセーショナルな見出しが並んでいた。  「中東戦争拡大──アリー・ムガーディー両首脳参戦を声明」  「欧州外為市場閉鎖──国際金融大混乱の恐れ」  「株式、史上最大の暴落──今日、取引停止」  この日(十一月二十一日)は、朝から混乱が始まった。早朝から東京の道路は大混雑に陥り、ガソリンスタンドには給油を受ける車の列が出来た。銀行も開店と同時に満員となった。人びとはまず貯金引き出しに走った。  続いて百貨店やスーパーマーケットに人があふれた。主婦たちは、トイレットペーパーや洗剤、砂糖、小麦粉など、前の石油危機の時に姿を消した商品を買いあさった。午後になると、これらの商品が売り切れとなる店も現れた。そしてそれが、一層消費者を慌てさせた。  この時期、トイレットペーパーや洗剤は不足してはいなかった。それどころか、過剰在庫の顕著な商品であった。だが、この種の、かさばかり大きく、金額の安い品物は、どこの店でもせいぜい一週間分くらいしか置いていないから、すぐ売り切れるのは当たり前であった。  主婦たちには、そんな理屈はわからない。近所のスーパーマーケットが売り切れになると、もう日本国中からトイレットペーパーや洗剤がなくなるに違いない、と信じた。トイレットペーパーがなくなると他の品物もなくなるだろう、と想像した。午後には買い溜めラッシュが全商品に波及した。  男たちとて、主婦たちを笑うことはできない。昨日一日は落ち着いていた企業マンも、あわてて原材料や燃料仕入れに走りだした。資金、経理の連中は、この原材料買い込みのための資金作りに銀行に駆けつけた。午後になると、運送会社、倉庫会社が忙しくなった。とくに、石油製品の荷動きが激しく、タンクローリーが混雑した道路で、右往左往した。  十一月の最後の十日間、通産省の全部局は多忙を極めた。全国各地からモノ不足を訴える電話が、通産省へ殺到した。通産省では、メーカーや問屋に在庫品の緊急出荷を要請し、主婦たちの不満を解消しようとした。だがこれはそう簡単な話ではない。  品物はメーカーから元卸問屋へ、元卸から地区卸問屋へ、そしてそこから一般小売店へと流れる。品物さえあれば、どこのメーカーからでも、どこの小売屋へ運んでもよい、というわけのものではない。問屋も小売店も、仕入れはほとんど手形か後払いで行っているから、信用関係のない業者を結びつけるわけにはいかないのだ。一地区の小売店の品不足を解消するためにも、いくつものメーカーから、何段階もの問屋を通じた末にやっと品物が届くわけだ。 「もう二日も品切れが続いているのに、政府は何をしているんです」  と、主婦たちは叫んだ。  それを新聞やテレビは大げさに報じた。  通産省は、比較的流通経路の短い、大手スーパーマーケットや百貨店に、メーカーや元卸からの大量直送を行うことにした。一日か二日のうちに品不足を解消するにはこれしか方法はなかった。だがこれには思いがけない世間の批判が起こった。 「なぜ大手スーパーや百貨店だけ優先するのか。零細小売店をつぶす気か」 「通産省は大企業と癒着しているのだろう」  だが、努力のかいあって、十一月二十七日頃には、モノ不足騒ぎは一段落した。農林省や厚生省も、食料品や医薬関係で同じような効果をあげた。世の中はいくらか落ち着きを取り戻しつつあった。  しかしこの時、またも不幸な事件が中東に起こった。十二月一日、アブドッラー王が暗殺されたのである。     6  アブドッラー国王──予言者モハメットの血統を引くハシミテ家の一員である。だがアブドッラーはただの名門貴人ではなく、すぐれた政治家であり、外交官でもあった。十七歳で、父王の突然の死のあとを継いだアブドッラーは、二十五年にわたって、強大でもなければ裕福でもないその王国を、よく統治してきた。この国には、砂漠とわずかなオアシス都市としかない。人口も多くはないし、石油も出ない。  アブドッラー王は、アラブ急進派とは精神的連携を保ちつつ、穏健派の王国とは実態的協同を深め、イスラエルに対しては微妙な和平と穏やかな抗争とを繰り返してきた。欧米諸国とは概して良好な関係を保ちながらも、その勢力を徐々に押し返して民族主義者を安心させもした。乏しい財政と軍事費の圧迫にもかかわらず、ベドウィン族を主力とする軍隊の支持を得て、農民のための産業振興と難民のための救済事業をも行ってきた。  しかし、�中東で最も不安定な王座�といわれたその地位は、パレスチナ難民とそれを支援する急進派諸国の力が浸透するにしたがって、一層不安定になっていた。そこへ今回の中東戦争の勃発である。  アラブ急進派諸国は、イスラエルとの間に長い国境線を持つこの王国に、強く参戦を呼びかけたし、国内にも�アラブの大義�に従って参戦を要求する声が強かった。アブドッラーはこの要求を抑えた。自分の国に、イスラエルと戦うに十分な軍事力も、経済的余裕もないことをよく知っていたからだ。王は、その代わりに、わずかばかりの軍隊を、交戦中のアラブ諸国の応援に派遣するという、巧妙な方法をとった。だが、故郷を追われたパレスチナ難民にとっては、戦うことが先決であり、勝敗はその次の問題であった。また、すでに戦争に突入したアラブ急進派諸国にとっては、この王国の戦略的位置は見逃せぬものであった。対イスラエル戦争において、兵員の質と組織では劣るが、数の上では圧倒的にまさるアラブ側としては、この王国の長い国境線を利用しない手はなかった。  十一月の最後の一週間、アブドッラーの王国は不穏な空気に包まれた。首都では参戦を求めるデモ隊が王宮を取り囲み、パレスチナ難民キャンプからはアラブゲリラへの参加者が続出した。それどころか、パレスチナ人組織のゲリラ部隊がこの王国に入り込み、イスラエル領への侵攻をもうかがう姿勢をとっていた。  アブドッラー王は、十二月一日、現地時間で午前十時(日本時間午後四時)過ぎに暗殺された。犯人は、過激な民族主義者の一員とも、レバノンに猛威を振うキリスト教マロン派の暴力団カタエブの回し者とも、あるいは政治的背景のないただの狂人だともいわれたが、その場で衛兵に射殺されたため真相は不明であった。だが、この場合、重要なのは原因ではなく結果であった。  王位は直ちに王子アブドッラー二世に継承されたが、新王はまだ十四歳の少年であった。政府と軍隊の首脳は、この弱年の二世に忠誠を誓ったが、動揺はその日のうちに王国の全土に広まっていた。参戦を求めるデモはさらに拡大し、パレスチナ難民ばかりでなく軍の青年将校もこれに加わった。その一方では�王の復讐�を叫ぶベドウィン族が首都進攻の動きを見せた。過激派ゲリラ部隊は王国の北部に公然と侵入し、東北部の町では軍の一部が急進派諸国との共同作戦に加わる、と声明して決起した。  アブドッラー王の突然の死によって生じた政治的空白と混乱を、近隣諸国も見逃しはしなかった。翌日には早くも、アラブ急進派諸国も、穏健派の国王も、この王国の周辺に軍隊を動かしつつあった。イスラエルもまた、国境に軍隊を集結していた。混乱状態のまま行方の定まらぬ王国を中にして、三つの勢力が向かい合った。  だが、もっと大きな軍事移動も始まった。  地中海に駐留するアメリカ第六艦隊はすでにキプロス島の東側に到着し、西太平洋の第七艦隊の主力も、フィリピンのスピック湾と日本の横須賀の基地からアラビア海に急行中であった。イラン東部のアメリカ空軍基地には、ヨーロッパから増援部隊が送られ、インド洋に浮ぶジェゴ・ガルシア島の基地にはB52が多数到着している、と伝えられた。  ソ連海軍の動きも活発であった。十一月二十三日には、三隻の巡洋艦と多数の駆逐艦から成るソ連艦隊がボスポラス海峡を通過して東地中海に急ぐのが目撃されたし、翌二十四日には沖縄沖でインド洋に向かうソ連極東艦隊が写真付きで報じられた。  イギリス地中海艦隊は、ジブラルタルとマルタの基地から姿を消し、フランス艦隊もツーロン軍港を抜錨して東へ向かった。また中国の潜水艦が紅海またはアラビア湾に入った、といううわさも流れた。そしてイランとトルコも、全軍を非常体制に置いた。  いまや、アラビア海と東地中海との間に、巨大な軍事力が集結しつつあった。     7 「当面、石油消費の一〇%節減を行う」──これが閣議決定されたのは十二月五日、中東戦争勃発十五日目、戦火がアラビア湾奥に波及した翌日であった。  欧米諸国ではこの前日か前々日に、これよりはるかにきびしい消費節減措置を決定していた。  アブドッラー国王の死後、その遺領をめぐって戦火が燃え上がったのは、十二月三日払暁、王の死後わずか四十三、四時間の後だった。この日未明、国内のパレスチナ難民を中心に組織されたゲリラ部隊の一隊が、イスラエル領へ奇襲をかけた。彼らは、イスラエル軍の警戒網を潜り抜け、補給基地と一般住民居住区に、ロケット弾を撃ち込み、爆弾を仕掛けた。その攻撃地域は、アラブ首脳会議で�パレスチナ人自身の国を建設すべき場所�と決定されていたことが、ゲリラ部隊を大胆にしたのである。  イスラエル軍は、直ちに反撃し、ゲリラ部隊の基地と化しているアブドッラー王国内のパレスチナ難民居住地帯に越境行動を開始した。それがまた、アラブ急進派諸国の反発を招き、軍事進駐の口実を与えた。十二月五日のうちに、北と西から、急進派諸国の軍隊が故アブドッラーの王国に侵入した。同時にこれに対抗する形で、南部には穏健派諸国の軍隊が派遣された。  この結果、直接国境を接しないいくつかの国の軍が接触し、戦闘が行われた。それは、相互に相手国内の後方基地に対する空襲爆撃の交換に発展した。  空爆は、それほど大規模なものではなかったが、とにかくこれによって、中東の戦火は、シナイ半島とゴラン高原の砂漠から、メソポタミア平原の全域に拡大した。そしてアラビア湾奥にあるいくつかの石油施設が被害を受けた。バスラやアバダンからの報道は、油田あるいは精油所の炎上が遠望されたことを伝えていた。  しかし、もっと重要なのは、これによってアラビア湾奥一帯が「戦時危険水域」となったことである。  アラビア湾奥の狭い水域には、ウルカスルーのソ連海軍基地をはじめ、多数の石油積出港や軍・民の港があり、世界各国の艦船が集まっている。この水域がいち早く「危険水域」に指定されたのは、これら外国の艦船が被弾することによって、第三国の中東戦争介入を招くことを未然に防止するためであった。  しかしこれによって、全世界の石油輸出の三割、そして日本の石油輸入の四割強を占めるアラビア湾奥の原油の大半が、世界の市場から閉め出されることになったのである。  中東の危機は拡大の様相を示した。チグリス川上流地域に蟠踞するクルド族の動きも急速に活発化し、アラビア半島南端の�共産ゲリラ�の活動も急拡大の兆があった。そして、石油戦略の発動をめぐるアラブ諸国内の論争が、危険な方向へ進みはじめた。  急進派諸国は当然、石油戦略によってイスラエルとその支持者に対し、外交的重圧を加えるべきだ、と主張したが、穏健派諸国の一部はそれをしぶった。このため、最も過激なアラブゲリラ組織などは、一部穏健派諸国の国王とその政府を敵視する声明を発表し、必要ならば彼らの石油施設に対する破壊活動も辞さず、とさえ警告した。穏健派諸国の体制と石油施設を守るため、外部諸国が派兵するだろう、という観測も流れはじめた。  欧米諸国は直ちに石油消費節約措置を実施した。全石油消費の八五%を国内生産で賄っているアメリカは、�当面七%の節約�と、余裕のあるところを見せたが、ヨーロッパ諸国は、いずれも一挙に一五%から二〇%の大幅節減を打ち出した。フランス、オーストリア、スイス、スウェーデンなどは、石油類の配給制に踏み切った。  西欧諸国に比べると、日本の対策は緩かだった。エネルギー庁は、少なくともヨーロッパ並みの一五ないし二〇%の節減を主張したが、政治的配慮と体制上の不備から、そして何よりも、戦争が案外早く収まるのではないか、という希望的観測から、当面の石油消費節減は一〇%を目途とすることになったのである。  十二月五日、閣議終了後、エネルギー庁は「石油消費節減実施要領」を発表した。 [#ここから1字下げ] (一)ガソリンスタンドの営業時間を、平日の午前八時から午後五時までとする (二)石油化学工業、鉄鋼業など、石油・電力多消費産業の生産を二〇%低下させる (三)特定の生活必需品製造にかかわるものを除き、工場の電力使用量を一〇%削減する (四)ビルなどの暖房用石油および電力消費を一〇%削減する (五)ネオンサイン、エスカレーターなど不要不急の電力使用を禁止する (六)タクシー、ハイヤーの燃料割り当てを従来の八〇%以下に抑制する (七)テレビ放送は、午後十一時までとする (八)家庭における石油・電力使用の節減を呼びかける [#ここで字下げ終わり]  これは、一九七三年末の石油危機の際に採った措置とほぼ同じ内容であり、前回同様�生活優先・福祉尊重�の線に沿うものであった。     8 「次の手を用意せんといかんでしょうな」  石油消費節減要領の記者説明から戻って来た寺木鉄太郎石油第一課長は、まずそういった。  淡い冬の陽がエネルギー庁長官室にさし込んでいた。  黒沢修二長官は、力なくうなずいた。  二人は、今日の案には不満だった。一〇%節減という量も不十分だったが、内容はもっと不満だった。  ヨーロッパ諸国は、前回の石油危機の場合と同じように、生活用の石油消費を抑制している。一般乗用車の使用禁止と家庭用・商店用の暖房用石油・電力の制限が主要な柱となっており、産業用、とくに工業用の原燃料や物資輸送用のトラック・船舶の燃料には全く制限を加えていない。これには二つの理由があった。一つは、消費を抑制すればモノが売れなくなるから、生産用の需要も自然に削減できるという考え方であり、他の一つは、消費を抑えず生産を制限すると、需給のアンバランスによって物価騰貴や国際収支の不均衡を生むという見方である。  このヨーロッパ流の考え方は理論的にも実際にも正しいだろう。事実、前回、生活優先で産業面を強く抑制した日本は、その後世界一の物価急騰に悩まされたのだ。だが、この点の反省は全くなかった。生活消費を抑えようというエネルギー庁の意見は、他の省庁にも政党にも「世論」にも受け入れられなかった。 「どうだい、あっちの方は……」  寺木は、睡眠不足で充血した目を小宮幸治に向けた。 「ええ、午後、向こうから何人か来ることになってますが、三〇%節減策はかなり進んでいると思います」  中東戦争勃発と同時に、油減調査は�仮定の問題�から�現実の必要�になった。寺木は十日ほど前、「日本の石油需要を三〇%および五〇%削減する場合の最良の政策」というテーマを提示し、先の油減調査のグループに回答を急がせていたのである。  夜、小宮幸治は、公益事業部の安永博と運輸省の若水清とともに、東京鴻芳ビルへ出かけた。関西経営協会の今田調査部長、雑賀正一京大助教授、鬼登沙和子の三人が待っていた。 「どうですか……」  小宮は、雑賀に声をかけた。 「うん、三〇%のは大体出来た」  雑賀はぶっきら棒に答えて、手許の厚い綴りを小宮の方に押しやった。  雑賀の顔はひどくむくんでいた。  綴りの表紙には「石油消費三〇%節減(案)」とマジックペンで書いてある。半紙大五十枚ほどに、細かい活字のような文字が並び、ところどころに右上がりの朱筆の訂正が加えられていた。細かい字は、鬼登沙和子の筆跡であり、朱筆は雑賀のものらしい。  小宮はそれをざっとめくった。(1)石油割当案およびその実施方法、から始まって、(2)運輸対策、(3)物資販売・流通対策、(4)農業および食糧対策、(5)金融対策、(6)国際通貨問題と貿易対策、(7)労働対策、(8)治安対策、(9)組織および運営上の諸問題、(10)公報上の留意事項、の項目が並んでいる。 「こりゃ凄いや」  横からのぞき込んでいた若水が声を上げた。 「まるで国家総動員法だなあ」 「うん、たった三〇%、石油消費を削るのにこうまでする必要あるかねえ」  安永も同調した。 「そうでしょうか」  鬼登沙和子だった。  小宮が沙和子と直接顔を合わせるのは、あの十月はじめの夜以来だった。沙和子の態度にはなんの変化もなかった。疲れも汚れもない白い顔が無表情だった。 「ヨーロッパじゃ石油消費の二〇%節減をやってる国もあるんですよ。だけど、そう大騒ぎしてませんからね」  ヨーロッパ諸国の二〇%節減より、たった一〇%多いだけの節約に、どうして金融対策や労働対策、治安対策まで、そう大げさにやらねばならないのか、というのが安永の疑問である。 「エネルギー消費を減らすと、その影響は節減率の二・五乗から三・五乗に比例して大きくなるのです。平均三乗とみていいでしょう」  沙和子は抑揚のない声でいった。 「じゃあ、二〇%と三〇%じゃ八対二十七、つまり三倍半ぐらいの影響になるわけですね」  小宮は、沙和子の示した複雑な数式を理解しないままにいった。 「ええ、でも日本とヨーロッパではそれよりずっと大きな差でしょう」  つまり、全エネルギーの七五%を石油に頼る日本と、六〇%以下のヨーロッパとは、同じ比率で石油需要を節減しても、全エネルギー供給の減少率は相当に違う、というわけだ。これだけを単純に考えても、日本の三〇%節減の影響はヨーロッパ諸国の二〇%節減のそれの六倍以上になる計算だ。そのうえ、石油の需要構造の差からも、日本の方が深刻な影響を受ける形になっている。実質的には十倍ぐらいの差が出る、と沙和子はいった。 「影響の大きさは量的な問題だけでなく、当然質的な変化もあります。私たちの予測では、影響の量が三倍になるごとに、質的飛躍が起こります。だから十倍の差は、質的に二段階違うんです」 「それじゃ五〇%も石油消費を節減すると、これよりまた四・六倍ぐらいの影響が出るわけだ」  数字に明るい安永が暗算で三乗計算をやってみて、いった。 「そうですね、そしてもう一段、質的に飛びます」  と、沙和子は答えた。 「そらえらいことや。とうていできん、そこまでは、ねえ」  若水が大げさに手を振った。 「でも、多分それが必要になるでしょう」  沙和子は冷やかな口調で、そういった。 [#改ページ]  第五章 �オマーン半島は燃えている�     1  砂漠を往くベドウィン人が用いる湾曲した水入れの皮袋──アラビア湾(ペルシャ湾)は、そんな形の海である。ただ一ヵ所、幅五十キロメートルのホルムス海峡以外に、外海への出口がない点でもまた、よく似ている。  奥行九百キロ、幅二百ないし二百五十キロのアラビア湾全体からみると、鋭く折曲したホルムスの海峡は、皮袋の小さい飲み口に当たるほどの狭さである。この海の出入口を固く締めるために、南側から長く突き出しているのが、オマーン半島だ。  このオマーン半島から、もう一つの半島、アラビア湾の中央部に、アラビアの大陸からさし込まれた親指のように突き出たカタール半島までの間に、海と不毛の砂漠に挟まれて、七つの土侯領が並ぶ。いまは、アラブ首長国連邦という国家を構成する邦々である。  サウジアラビアのダーランから、カタール半島を経てオマーン半島に至る、アラビア湾東部の南岸は、いまやアラビア湾奥に次ぐ、世界第二の大産油地帯となっている。  この、アラブ首長国連邦の一都市の、真新しいホテルの最上階にある食堂で、石油開発基地建設に従事する設計士の久我京介と、タンカー承天丸の航海士緑川光が、遅い夕食をとっていた。現地時間で、十二月十一日午後八時だった。  もう夕食には遅過ぎる時間なのに、食堂は、ほとんど満員だ。中東の戦火も、ここには及んでいない。このため、この地の石油はさらに一層脚光を浴びるようになった。それを求めていろんな人間が集まって来た。急遽派遣された石油買い付けの商社員もいたし、千載一遇のチャンスをねらう一発屋の油ブローカーもいた。武器商人の顔も見えたし、諜報員らしいのも現れた。そしてこの国に石油輸出制限措置を採らせようとする勢力とその逆の立場の勢力の双方から、外交官や政治家が多数駆けつけた。 「港も大変な混みようでね」  緑川がぽつりといった。  彼の椅子からは、久我の背後の広い窓を通して、北西の海が見えた。十隻ほどのタンカーが赤と黄色の灯をつけて停まっている。アラビア湾南岸には珍しい陸地に接続したこの石油積出港には、せいぜい十五万重量トン級の船しか入れないが、アラビア湾奥の港が閉ざされたために、ここに回航して来る巨船も多くなった。たとえ半量でも積み込んで帰ろうというわけである。  承天丸は丸二日待たされ、今日ようやく八万キロリットルほど積み込んだ。それでも優遇された方だ。以前からここに通っていた実績があったし、長期契約で積むべき原油が確保されていたからだ。  船長は、明日もう一押し、あと四、五万キロリットル積めるように交渉する、といって船をシーバースの近くに停めたまま、緑川らに一時上陸を許可したが、こんなに待船が多いのでは、そううまくいきそうには思えない。 「船屋さんも大変だなあ」  ちょっと背後の海を見て、久我が答えた。 「うちも大騒ぎだよ。俺みたいな建築屋まで、いまは油掘りの手伝いさ。夜中の電話番なんかさせられてるよ」  日焼けした顔に、自嘲の笑いが浮かんだ。 「今朝も午前五時に東京から電話があってね。本社の社長直々にさ、いきなり�今日から二倍に増産しろ�って怒鳴りやがる。うちの油田は昨年のはじめに生産開始したところなんだ。いままでは、石油が過剰気味だから開発は急ぐ必要はない、なんていってたのに、急に今日から二倍にしろったってどうにもならんよ。社長は銀行から天下りした男で、油田のこと、何も知らんのだ」 「それで、どう答えました」 「僕は建築設計会社の人間だから、石油開発の社長には遠慮いらんからね、いってやったよ。僕も油田のことはわかりませんがね、算術はよくわかります。東京はいま、午前十時でしょうが、ここは午前五時です、おやすみなさい、とね」  二人は大きな口を開けて笑った。  だが、突然、緑川の笑いが、止まった。声を失った笑顔が一瞬凍りつき、弾力を失ったゴム風船がたわみをもどすようにみにくく崩れた。その血の気の去った顔の中の目に赤い点が揺れていた。  久我は緑川の見つめている海の方を振り返った。そしてそこに恐しいものを見た。  同時に鈍い音が聞こえた。耳よりも腹に響く、低く重い音だった。  二人は、同時に立ち上がっていた。  北西に開いた窓の右寄りに見える、海岸線近くに並んだ銀色の石油タンクの一つが、大きな炎と黒煙を吹き上げていた。その黒煙の塊を貫き抜けて、橙色の点のようなものが尾を引いて流れていた。流星のようにも、西洋式の打ち上げ花火のようにも見えた。だが、それは、海面に落ちると、青白い光を発し、大きな水柱を上げた。  続いてもう一つ、同じものが飛んで来た。こんどは、前のよりはるかに力なく、ずっと右の方に、つまり黒煙の塊の手前へ落下した。しかし、その効果は、はるかに大きかった。  まばゆい青白い火が、銀色のタンクの上部を包み、巨大な赤黒い炎が上がった。タンクのフローティング・ルーフの平たい円板が跳ね飛び、三つに分かれて空中に舞った。  食堂の中は騒然となった。アラビア語、英語、ドイツ語、フランス語、ギリシャ語の叫びが、一斉に起こった。グラスが割れ、椅子が倒れた。 「ロケット攻撃らしい」  久我の背後で、緑川が独り言のようにつぶやいた。そのつぶやきが、騒然たる中で、久我には不思議なほどによく聞こえた。  ロケット弾は、射程が長く、発射装置が簡単だ。五十キログラムのロケット弾と組立式の発射台は、乗用車でも馬車でも、場合によっては、人間の肩でも運搬でき、しかも一五糎カノン砲に劣らぬ破壊力を、それ以上の遠方に飛ばすことができる。このため、ロケット弾はゲリラにはきわめて有効な兵器である。五発か十発のロケット弾を、都市や大基地に射ち込んで、さっと逃亡するゲリラ戦法を抑えることは、ほとんど不可能に近い。そのことをベトナム戦争は実証した。アラブゲリラが、この兵器を大量に装備しているといううわさも以前からあった。  そのロケット弾が、いま、姿を現したのだ。  久我と緑川は、エレベーターを待つ余裕はなかった。二人は十階分の階段を一気に駆け降りた。 「元気でな」  ホテルのロビーを走り抜け、回転ドアから外へ飛び出した時、緑川は叫んだ。  久我もどなり返そうとしたが声は出なかった。  久我は、ホテルの横手の空地に停めたジープの方に走りながら、東南の空をみた。彼が建設に参加している油田のある方向だ。その方向は暗かった。月のない空に、大きな星が、数限りなく輝いていた。 〈ウチの油田は無事らしい〉  久我は一息つく思いがした。  もう、新たに飛来するロケット弾はないようだ。わずか五分か七分で、攻撃は終わったのだ。だが、その短い不意打ちの威力は歴然としていた。北の方の空は、赤々と映え、空の四分の一が黒煙におおわれていた。  何をすべきか、久我は一瞬迷った。ジープのシートの冷たさが、心を平静にした。冬の砂漠の夜はもう冷えはじめていた。  その時、警察か軍隊関係らしい車がサイレンを鳴らして走り去った。 〈そうだ、まず東京へ知らせることだ〉  立派な建物の国際電信電話局があるとはいえ、この地区の通信施設はまだ貧弱だ。極東向けの電話は一日置きに八時間しかつながらない。その受付時間は今日の午前中で終わっている。ここには日本大使館も領事館もない。ここはジェッダに駐在するサウジアラビア大使館の兼轄である。新聞の特派員や国際通信社の常駐通信員もいない。  久我はジープを走らせた。国際電報ならすぐ打てるはずであった。途中、何台かの軍用車とすれ違ったが、誰何されることはなかった。  国際電信電話局へは五分とかからなかった。白い大理石で固めた豪華なホールには一人の客もいない。久我は窓口に走り寄った。  頼信紙をつかみ取った時、久我はあることに気づいた。いま、午後八時四十分、日本では翌日の午前一時四十分である。石油開発会社にも、彼の属する建築設計会社にも、人はいない。つまり、どこの誰に電報を打つべきか、久我は迷ったのだ。 「そうだ、あいつだ」  久我はこの夏、バグダードからここまで、旅を共にした新聞記者の本村英人を思い出した。  久我はA紙本社と本村の名とを、宛名の欄に、自分の氏名を発信人欄に書いた。  その時、正面玄関から、二人の将校の入って来るのが見えた。 〈閉鎖される〉  とっさに久我はそう思った。 「オマーン半島は燃えている」  久我はこれだけ書くと、頼信紙を窓口に突き出し、当直員の手に五十ドル札を握らせた。 「あの兵隊を引きとめてるから、これだけは打ってくれ」 「ナアム・ナアム (よし、よし)」  パレスチナ人らしい若い当直員は、久我の真剣な表情に同情したのか、五十ドル札の魅力に引かれたのか、そういって二度大きくうなずいた。  久我の電報は、日本時間十二月十二日午前二時、A紙本社に着いた。朝刊最終版の締め切りギリギリの時間だった。それは翌朝の新聞に、未確認情報として、小さく載った。本村英人が、久我京介の信憑性を保証したのだ。  このニュースは、その後十数時間、この地域の情勢を伝える唯一の情報となった。この地の国際電信電話局は封鎖され、ラジオ放送も沈黙したからである。     2  船乗りは、停泊中に襲われることを本能的に恐れる。何事につけ人は異常危機に直面すれば、自らの最も自信ある手段に頼ろうとするものだ。船乗りもまた、行動の自由な広い海に出て、自らの操船技術に頼ろうとする。緑川がようやくボートを捜しあてて本船に辿り着いた時、承天丸もすでにエンジンをかけていた。 「このまま朝を待った方がよいでしょう」  緑川は沖合退避に反対した。  暗夜に十四万トンのタンカーが自力航行するには、この泊地は狭過ぎるし、船も多過ぎる。左手の原油基地では、三つの石油タンクが赤黒い炎を上げて燃えさかっていたが、ロケット攻撃そのものは、もう二時間も前に終わっている。攻撃が再開されないという保証はないが、おそらく少数のゲリラか反乱軍の仕業だろうから、そう多くの兵器があるとも思えない。 「ようし、このまま待機する」  船長は、しばらく考えてからそう決断した。  向かい側にいた巨大なリベリア船が動き出し、承天丸の方に近づいて来た。攻撃目標にされるのを恐れて完全消灯した巨船は、黒い影のように音もなく海面を滑り、微速前進で承天丸の舷側すれすれを通過した。原油を積み込む直前なのか、バラスト水もほとんど積んでいないらしいその巨船は、承天丸のデッキの高さぐらいまで、吃水下の赤い腹を見せ、三分の二ほど空中に露出したスクリューで、水面をたたいていた。その姿は、巨大ではあったが、瀕死の大魚のように力なくあえぐ感じであった。陸上から押し寄せる黒煙がその弱々しい巨影を、包み込んだ。 〈危いことだ〉  と、緑川は思った。  おそらくは、はじめてこの港に入ったであろう巨船が、タグボートもなしに、自力で動き回るのは危険きわまりない芸当だ。そしてこの危惧はすぐ現実のものとなった。三十分と経たないうちに、リベリアのタンカーは、もう一隻の、方向転換のために背進して来たタンカーの船尾に、首を突き当てた。両船とも積荷がなく、船体が浮き上がっていたので、水面を滑り過ぎたのであろう。  鈍い衝突音が響き、金属が引き裂かれる音が悲鳴のように夜の海に走った。  翌朝、承天丸が出航する時、石油タンク群はなお激しく燃えていた。夜明け前になって、さらに二つの石油タンクが類焼した。猛火の中で、徐々に内部の原油が加熱され、揮発分が沸騰して引火したのだ。  消火作業などできる状態ではない。炎上タンクから五百メートル離れたところでも、三百度近い熱気で、近づくことも不可能だった。消防車や消火船は、タンクヤードの周辺部に散水して、わずかに周辺タンクの冷却に努めるのが精一杯だった。おそらく、この火災は、ここに貯えられている二百万キロリットル余りの原油が燃え尽きるまで、少なくとも一週間は続くだろう。その跡には、焼けただれた鋼板とパイプの廃墟だけが残ることになろう。港は、それが復旧されるまで、六ヵ月以上も使いものになるまい。それは、この港に頼っている年間六千万キロリットルの原油を全世界の人類が失うことを意味する。積出施設の壊滅は、付近一体の油田を操業不能に陥れるからだ。  緑川は、微速前進で進む承天丸のブリッジから、朝の海を眺めながら、暗い気持であった。 〈一体、これから俺たちはどこへ行けばよいのだ〉  アラビア湾一帯の石油積出港の半分以上が機能を停止してしまったら、石油タンカーの働ける航路は半減する。  昨夜まで積荷を競っていた多くの巨船が、次々と港を去りつつあった。船は、互いに長い汽笛で合図し合った。それは働き場所を失った憐れな巨体のうめきのように長く海面に響いた。  泊地を出て、承天丸は大きく迂回する航路をとった。この辺り、アラビア湾東部南岸は概して海が浅く、砂洲や岩礁も多いので、まず湾の中央部まで北東に進むのが正常な航路なのだ。この間承天丸の船上から、西方に黒煙が上るのが遠望された。昨夜の攻撃者は、同時にもう一ヵ所、石油基地か油田を襲ったのであろう。明らかに組織的な、周到に用意された攻撃だったのである。  承天丸がアラビア湾中央部の、安全な海域に達したのは、午後二時頃であった。ようやく昼食が用意された。人びとははじめて空腹と疲労を覚え、煤けた顔を見合わせて笑った。 「これからホルムス海峡まで、北東へ一直線だ。それまで君頼むよ」  船長は緑川にいい、ブリッジを降りた。  緑川は眠気と疲労と闘いながら、ブリッジに坐っていた。温度は上がり、青い空と碧い海は、昨夜の騒ぎが夢かと思えるほどに静かで美しかった。  夕方にはパナマの国旗を掲げた真新しい超大型タンカーが現れ、承天丸を二ノットほどの差で追い越して行った。  パナマ船は、昨日の朝、原油とガソリンおよび重油を積んでバーレン島を出港したものだった。すれ違う時、承天丸から昨夜の事件を知らせてやった。パナマ船は�本船出港時マデ、ばーれん島オヨビかたーる半島ニ異常ナシ�と、発光信号を送って来た。しかし昨日の朝、異常がなかったといっても、いまもそうだとは限らない。襲撃は昨夜から今朝の間にあったのだ。  パナマ船が視界から消えたあと、承天丸は何隻かの船とすれ違った。いずれも承天丸とは逆に、アラビア湾の内部へ、これから油を積みに行くのだった。緑川はそのつど、昨夜アラブ首長国連邦で少なくとも二ヵ所、大火災が発生したことを知らせた。  アラビア湾に夜の帷が降りたあと、一団の軍艦が現れ、二十五ノットほどの高速で、承天丸を追い抜いた。前部の砲身がわずかに仰角を持たせ、後部甲板のランチャーにミサイルを装填しているのが、星明かりにはっきりわかった。  船長が戻って来たのはその直後だ。右舷の後方に、淡いオマーン半島の影が、低く長く横たわっているのが、かすかに遠望された。 「真夜中前に、バンダルアバスの沖を通るな」  船の位置を確かめてから、船長はいった。承天丸はホルムス海峡の最狭部に入りかけていた。  緑川は、熱いシャワーで、昨夜来の汗と汚れを落としてベッドにもぐり込んだ。     3  どれくらい経ったか、緑川はふと目を覚ました。船内が異常な騒がしさに包まれている。エンジンの音は低速に変わっている。  緑川は腕時計を見た。十一時四十分だった。予定通りならばいま、承天丸は、オマーン半島とバンダルアバスの入江との間の屈曲部を通過しているはずだ。 〈おかしいな……〉  船体がゆっくり左に回っているような気がした。この水道を何度も通った経験では、ここで取舵になることはないはずだ。その時、大きな叫び声を聞いた。そして、船室の丸窓ガラスが、薄い赤味を映しているのに気づいた。  彼の長身はほとんど自動的にベッドからすり抜けていた。二段跳びにラッタルを駆け上がり、甲板に出た。左舷前方に、大きな炎があった。  緑川はブリッジに走った。そこからはすべてがよく見えた。  承天丸は、ホルムス海峡の屈曲点の少し手前にいた。左前方にケシム島の平たい姿がかすかに水平線上に認められ、左手にはオマーン半島の最先端部が黒く低く伸びていた。空は澄み、星は大きく煌めいていたが、月はまだ出ていなかった。そして、正面やや左寄り、約二カイリ先で、大きな船が燃えていた。赤黒い炎の広がりの上に、白いまばゆい球状の光が立ち、左から右へ黒い煙が風に流されていた。 〈あのパナマ船だ〉  今日の午後、承天丸を追い抜いた最新型の超大型タンカーに違いなかった。その周囲に、二、三隻の船影があった。炎に照らされたそれは、まぎれもなく緑川が眠りにつく前に見た艦隊の一部であった。 「半島側から攻撃されたんだ」  船長は苦々し気につぶやいた。救助活動に当たっている軍艦との交信で、事情を知ったのである。  ホルムス海峡は、鋭く屈曲した水路である。幅はいま、承天丸のいる最狭部でも五十キロほどあるが、イラン寄りの北側は浅瀬や岩礁が多く、大型船が通過できるのはオマーン半島寄りの幅四キロほどに過ぎない。  アラビア湾沿岸に大量の石油が産出するようになってから、この海峡の戦略的経済的重要性は著しく高まり、いまやジブラルタル海峡、パナマ運河と並ぶ「三大戦略水路」となっている。全世界の石油輸出の大半がこの唯一の出口に頼っており、ここ以外には全く迂回水路がないからだ。  この水路は、昔から不安定なところだった。北側のイラン領はともかく、南側のオマーン半島は古くから海賊海岸として知られている。そこに巣喰った海賊たちは、前に斜いた特徴的な一本柱の帆船で、「インドの富」を運ぶイギリス商船隊を恐怖に陥れた時代もある。現在、この海賊海岸は、アラブ首長国連邦となっているが、半島の先端部だけはオマーン王国の飛び地なのだ。南部のドファール地方でのゲリラ戦に悩むオマーンにとっては、治安・行政の手の届きかねる場所だ。そのうえ、ここには、かつて海賊たちが利用した岩山や小島、サンゴ礁がいくらもある。昨夜、石油基地を襲ったような、組織された攻撃者が侵入するのは、さほど困難ではなかったろう。ロケット弾があれば、この海峡の大型船の通過可能な全水路を、十分射程内に収めることができる。大型船の通れる深い海路は、その北端ですら、半島の陸地から二十キロとは離れていないのである。 「まずい位置にいるなあ」  船長は何度か、そうつぶやいている。  炎上する不運な巨船は、航路の左端にあり、三十度ほどの角度で船首を右に向け、強い潮流に流されていた。明らかに反対側の、西行航路に入っているのは、オマーン半島側からの攻撃から逃れようと左に寄ったためだろう。この船が承天丸を追い抜いた時間と速度から計算して、襲われたのは一時間半ほど前だろう、と緑川は考えた。艦隊の随伴船と誤認されたのかも知れない。 〈もう少し早く来ていれば、この承天丸がやられたかも知れない〉  緑川はぞっとした。 「どうする、右か左か」  船長は、前方を睨んだまま、いった。  むずかしいところだ。パナマ船の位置がずっと左に寄っている以上、右側を通るのが当然だが、炎上する船体が右に船首を向けて流れているのが気になるし、オマーン半島に近づくため、同じ攻撃を受けやすくもなる。 「右です」  緑川はいった。 「あの燃え方では、積荷のガソリンが爆発する危険があります。十分距離のとれる右しかないでしょう」  緑川はもう攻撃はあるまい、とみた。すでに戦果をあげた攻撃者は、艦隊が来ている以上、再度の攻撃をかけるとは思えない。 「それに……」 「それに……」  緑川の言葉を把えて船長が聞き返した。 「それに本船はついています」  緑川のこの言葉に、船長は満足気に大きくうなずいた。  承天丸はエンジンの音をあげ、右寄りいっぱいのコースで、炎上する巨船の横を通り抜けた。炎が後方に流れ、臭気を含んだ煙がブリッジに流れ込んだ。だがそれもほんの一、二分の間だった。ブリッジには、ほっとしたため息が広がった。次の瞬間、パナマ船の船尾に、大きな爆発が起こった。ガソリンを積んだタンクが発火したのだ。  パナマ船から遠ざかった時、船長は誰にともなくいった。 「本船がホルムス海峡を通過する最後のタンカーになるかも知れん」  船長の予言は、不幸にも的中した。翌日、イランとオマーンは、アラビア湾唯一の出入口であるホルムス海峡を「危険水域」として封鎖する、と宣言し、アメリカ、ソ連、イギリスなどもこれに同意したからである。 [#改ページ]  第六章 騒  然     1 「ホルムス海峡封鎖」──このニュースが日本に伝わったのは、十二月十三日午後九時頃だった。  霞が関の官庁街は、来年度予算編成作業で、ごった返していた。官庁のビルは、すべての窓に明かりがつき、資料包をかかえた役人たちが、通りを右往左往していた。そんななかを、このニュースは電撃のような衝撃を伴って走った。 [#1字下げ]「ホルムス海峡の封鎖は、不測の事態を防止するとともに、外部からの武器その他の流入を止め、中東の戦乱と混迷を早期に終結させるための措置である」  そうした主旨の声明が沿岸国とこれを支持する大国から出された。  これは合理的な説明に見えたが、半面、この際、中東石油の禁輸によって、世界的な国際収支の不均衡を一挙に解消しよう、という大国のパワー・ポリティックスの意図もうかがえた。先進国側、とくにアメリカが、ソ連などとの間になんらかの了解を取りつけ、アラブ急進派の主張する「石油戦略」に先手を打ったわけだ。これによって、アラブ急進派の「切札」を奪い取ったばかりでなく、穏健派産油国に対する、急進的なアラブ民族主義者の反感と不満を解消することをもねらったのだ。確かにこれは、直接派兵に似た効果を、はるかに体裁よく、はるかに安上がりに実現する方法に違いない。だがそれによって起こる影響は日本にとってあまりにも重大である。  石油行政の元締めである通産省エネルギー庁は、茫然自失した。 〈ついに来たか〉  石油第一課課長補佐小宮幸治も絶望感に震えた。  イラク、クウェート、サウジアラビア、カタール、アラブ首長国連邦、それにイランなど中東アジア地区の石油は、一滴も運び出せない。もう一つの石油搬出ルート、シリア砂漠を越えて地中海東側に達するパイプラインは、開戦早々に、過激派ゲリラによる爆破でズタズタになってしまっているのだ。  中東アジア地区は、世界石油生産の約三分の一、全世界石油輸出の五五%を占めているのだから、その全面ストップが与える世界的な影響はきわめて大きい。なかでも、日本は最悪だ。全石油供給のうち八一%を中東アジア地域に依存しており、石油供給源としては、インドネシアなどの二割弱の分しか残っていない。南米やアフリカからの石油買い付けを拡大することも、いくらかはできようが、こういった事態では、飛躍的急増は望めない。世界中のどの国も必死にそれを行うに決まっているからだ。 「石油輸入が平常の三割になれば、二百日間で三百万人の生命と財産の七割が失われるでしょう」  鬼登沙和子の声を、小宮は思い出していた。  長官室に、全幹部が集まった。誰もが苦悩にゆがんだ表情で黙り込んでいた。 「とにかく、三〇%節減を早急に実施しましょう」  長い沈黙を破って、寺木石油第一課長が口を開いた。  だが、それに応じる声はなかった。一〇%節減ですら各方面から文句をつけられ、しかも買い溜め買い急ぎを誘発して、石油製品の出荷はさほど減少していない有様だ。そこへ三〇%節減を打ち出せばどんなことになるか。 「まだ早いんじゃないかなあ」  と、西松石油部長が、独り言のようにいった。 「国際石油資本《メジヤーズ》が日本への供給をどの程度減らすか、わかってないんだからねえ」  日本の石油輸入の半分は、メジャーから買っている。メジャーは世界中に石油供給源を持っており、それを従来の供給地域にこだわらず、全消費国に公平に配分するだろう。前回の石油危機の時も、アラブ産油国から禁輸のねらい撃ちを喰ったオランダはそうして救われた。中東アジア地区への輸入依存度が八割だからといって、日本の輸入量がそのまま八割減るわけでない。西松はそんなことを、しゃべった。 「でも石油輸入が大幅に減ることは確かでしょう。おそらく平常の四割、いやそれ以下になる」  寺木は広い額に縦じわを寄せて苛立たし気にいった。  メジャーが日本を優遇したとしても、中東石油の輸出が止まるのだから、限度があることは自明の理だった。 「そうだな、やっぱり三割ぐらいの消費節減はやらんといかんだろう」  力なくそういって、黒沢は目を閉じた。  (一)石油消費の三割削減を目途とした第二次石油消費節減を来年一月一日から実施する  (一)来年度予算編成作業は、暫時延期する  (一)第二次石油消費節減の実施により、甚大な被害を被る分野を救済するための補正予算の編成に、直ちに着手する  翌十二月十四日の閣議は、以上の三つを決定した。  閣議決定後、総理大臣は、とくにテレビ・ラジオを通じて、全国民に呼びかけた。 「いま、わが国は大きな危機に直面しています。このことを私は、否定するつもりも隠すつもりもありません。しかしこれは、国民の協力によって十分に克服し得るものだ、と考えております」  総理は細い目で、テレビカメラを見据えたまま、切り出した。 「しかしながら、今次の戦乱による中東の石油施設が被った被害は無視できるものではありません。このため今後当分の間、世界の石油需給はかなり逼迫したものとなると見られるので、わが国としても一層きびしい石油消費節減を実施せざるを得ないと考えます」  総理は今後の対策にふれた。 「この石油危機によって、一部の人びとだけが犠牲になることのないよう、ましてや一部の者がこの危機を利用して暴利をむさぼることを許さぬよう、最善の手をつくすつもりなので、国民の皆さんは平静を保ち、共に等しく苦難を分かち合って欲しい。……」  総理大臣は、驚くほどの率直さで、危機を認め、隠すことなく事実を語り、対策の概要を述べた。しかし、国民の中には必ずしもそうは受け取らない者も少なくなかった。政治家や政府の発言には、何がしかの裏がある、と考える習性が日本人の間には広まっている。そのため多くの人びとは、総理の述べた以上の危機が日本に迫っているに違いない、と考えたし、政府の対策は約束通りには実行されないか、されてもうまくはいかないだろう、とみた。野党の政治家や進歩的文化人たちは、現内閣ではどうせ大企業の横暴は防げず、弱い大衆が大損をするのは明らかだ、とこきおろした。  この日の午後から、大衆の物資買い溜めと企業の原材料買い急ぎは、かつてないほどに猛烈なものとなった。     2  翌十五日の夜遅く、「第二次石油消費節減実施要綱」の通産省原案が、関係各省庁に提示された。  通産省原案は半紙三十枚ほどもある長文かつ精緻なものだった。これが閣議決定後わずか三十数時間で、エネルギー庁内部と通産省の関係部局や大臣官房との協議も経て完成したのは、寺木石油第一課長を中心に小宮幸治や安永博らが、二週間ほど前から、雑賀正一や鬼登沙和子の作った私案をもとに検討を重ねてきたからであった。  通産省案には、まず石油消費節減の内容として次のような項目が並んだ。 (1)工業用石油・電力の節減──石油化学、鉄鋼、金属精錬など、石油電力多消費型産業は四〇%、一般産業は三〇%、生活必需品・食料品関係は二〇%、それぞれ石油・電力の消費節減を行う (2)自動車燃料の節減──(イ)一般乗用車(マイカー)は緊急の場合を除き、使用禁止する (ロ)商店等の商品運搬用、医師往診用等の「生活関連業務用車」並びに企業等の自家用車は、一日八リットルを平均とし、地域性を勘案した規準により燃料を配給する (ハ)タクシー・ハイヤーは、営業台数の三〇%を削減し、残りの台数に限り平常の二〇%燃料を節減する (ニ)トラック等、営業用貨物自動車は、平常の二〇%燃料を節減する (3)その他の運輸燃料の節減──(イ)船舶用燃料は原則として三〇%節減する (ロ)国内・国際航空便を五〇%削減する (ハ)観光バスは七〇%運休とする (ニ)一般路線バス・鉄道用燃料・電力は従来通りの範囲内で自主的節約に努める (4)建設事業等の燃料削減──建設用車両機械等の燃料は、災害復旧工事用のものを除き、六〇%削減する (5)農林・漁業用燃料・電力の節減──(イ)温室農業用の燃料・電力は三〇%削減する (ロ)漁船用燃料は前年同期比二〇%減の配給とする (6)商業用石油・電力の削減──(イ)百貨店、ホテル、事務所等の暖房用燃料は、前年同期の三〇%減、使用電力は二〇%減とする (ロ)一般商店・パチンコ店等の営業時間を原則として午後八時まで、飲食店、バー・キャバレー、マージャン屋、ボーリング場等のそれは午後十時までとする (7)その他──(イ)テレビ放映時間を一日八時間以内とする (ロ)新聞・雑誌の減頁、折込広告の自粛、包装の簡素化を促進する (ハ)学校・病院・老人ホーム等各種厚生施設の暖房燃料・電力は前年比一五%減とする (ニ)一般家庭の燃料・電力消費の節約を促すため、広報活動を強化する  以上に続いて、通産省案は、それぞれの字句内容を詳しく解説し、定義づけを行ったあと、さらにこれらによって生じるとみられる影響を緩和するための対策措置を、参考資料として並べていた。  たとえば、原材料不足を考慮して、中小・零細企業に対する救済交付金や緊急融資、あるいはタクシー・ハイヤーの減車、建設工事の中止・繰り延べによって生じる失業手当の拡大、さらに特定の大工場が休業した場合に生じる周辺地域の下請企業や商店に対する救済措置などである。変わったアイデアとして、石油需要の一般的抑制と膨大な救済資金の補填のために、全石油製品に対して高率の臨時課税を提唱していた。これは、鬼登沙和子が熱心に主張した点であった。  これらの対策はもちろん、エネルギー庁の所管事項ではなかったが、寺木は各省庁への�ツケ�として、これを参考資料の形で添付させた。彼は、影響を緩和する対策がうまくいかなければ、石油消費節減自体も成功しない、と考えていたからだ。  資料を一見した他局の幹部の中には、通産省が所管外のことにまで言及しているのを、越権だと忠告する者もいたが、十分な計算に基づいた資料の有用性だけは誰もが高く評価した。しかし、だからといって、この案が好評だったわけではなく、通産省原案には各省庁から猛烈な異論が出た。  農林省は、食料確保の上からも原材料の腐敗の点からも食品加工業の二〇%燃料・電力節減は不可能だし、温室農業は一度冷えると作物全部がダメになるから、燃料の三〇%削減は認め難い、と反対した。建設省は、建設業だけが六〇%もの削減を受けるのは不当だといい、厚生省は病院の暖房や医師の往診用自動車は一切節減対象から除外すべきだ、と主張した。文部省も、学校の暖房や電力使用は強制的節減によらず自主節約に限るべきだ、と強硬だった。通産省内部からも、石油化学や金属精錬などの装置産業の原燃料石油を四〇%も削ると、爆発、装置破損の恐れがある、せいぜい三〇%が限度だ、という声が出た。運輸省などは、マイカーの原則使用禁止は地方交通の破壊になるとか、トラック・船舶用燃料の大幅カットは国民生活必需物資の輸送に支障をきたすとか、離島用の船舶・航空便は例外扱いにすべきだとか、多数の修正意見を出してきた。  エネルギー庁も、こうした修正要求や反対の出ることは十分予想していた。通産省原案は、雑賀正一らの私案よりかなり緩和されていたが、それでもこれによって三三%ぐらいの節減になるはずだった。エネルギー庁は各省庁との個別折衝で、三、四%分の緩和修正を行う予定だったのだ。  しかし事態は予想外の方向に進んだ。翌十六日の新聞に、どういうルートで流れたのか、この通産省原案が詳細に報じられてしまったのである。  通産省には、国会議員、地方自治体、各種団体、産業界、そして一般市民からの抗議が殺到した。霞が関にいくつかの抗議デモと陳情団が現れた。その数は翌十七日からは驚くべき勢いで増え、官庁街を包み込んだ。  中小企業の原料や燃料を確保しろという中小・零細企業の団体、牛乳を捨てさせるなと叫ぶ牧畜業者の集団、大漁旗を押し立てた漁民団、タクシー減車に反対する運転手の行列、仕事を奪うなと怒り狂う建設労働者の大群、家庭用灯油を絶やすなという主婦団体、子供を守れと声を張りあげる教員と父兄の団体、労働組合の組織したインフレ反対・失業反対の大集団、老人ホームの職員たち、バー・キャバレーのホステスたち、そしてデモ学生……。  テレビ放映時間の短縮による失業をおそれるタレントたちや、初場所開催を危ぶむ大相撲の巨人たち、動物園や植物園の職員、サーカスや競艇団体などの代表も押しかけて来た。  だがもっと効果的な方法をとる連中も多かった。医師会は、自動車燃料と診察室用暖房用燃料の特別配給を求めて何十人かの国会議員を動員したし、農業組合は温室用燃料や出荷トラック燃料のために米価決定を上回る熱意で農林委員会の議員たちに働きかけた。旅館組合、建設業団体連合会、繊維協会などは、関係議員に圧力をかけた。なかでも猛烈な運動を展開したのは、地域別の連合勢力であった。  農山市町村は、過疎地帯ではマイカーが不可欠だと叫んで、全国的な団結を強め、離島の市町村は船便・航空便の確保に奔走した。東北・北海道などの寒冷地が暖房用灯油の優先割当を要求すれば、九州・沖縄などの温暖地の方は、炊飯用など節約不可能な消費が多いからと、前年並みの石油供給を主張した。みな、この機会に自分たちの地域を少しでも有利にしておかねばならない、と焦っていたのだ。  これは当然、国会議員をも巻き込んだ。東北地方議員懇談会とか、九州地方議員協議会とかいった地域別のもの、山村議員連盟とか離島振興議員会とか大都市議員連絡会とかいった地域特性別のもの、また農林議員連盟とか観光議員協議会とかいった類の地域産業別のものなどの集まりが、頻繁に開かれた。与野党合同の地域別の議員会も出来た。一つの地方がそれをやると、他の地方も対抗して同じことをやった。このためわずか二日ほどの間に、日本の政治は地域別に再編成された様相を呈してしまった。閣僚といえども、例外ではありえなかった。ある閣僚は、自分の選挙区が不当な扱いを受けるようなら、第二次節減に閣議で反対する、と宣言した。日本の国会議員が、各地域の代表者でもあるという性格から見て、これは当然のことというべきだが、それが大きな重圧を石油行政に加えた。  新聞やテレビは、連日、エネルギー庁案の修正を無責任に予測した情報を流した。それは、本来ならこの時期に行われる予算編成作業における復活要求の報道と似ていたが、それが一段とデモや陳情や政治圧力を拡大させた。石油の割り当ては、予算よりはるかに直接的に企業の経営や人びとの生活に結びついているだけに、一つの要求が認められそうだといううわさが、他のグループの不安と闘志を大いにかき立てたからである。  通産省原案は多くの修正を加えられ、石油消費の節減率は後退していった。  食料品加工業などの石油・電力節減率は二〇%から一〇%へ変えられ、商店・医師などの「生活関連業務用自家用車」の燃料配給は、地域差をつけることを条件として、全国平均一日十リットルに引き上げられた。温室農業用や漁船用燃料の削減も一〇%になった。学校、病院、厚生施設などの暖房用燃料や電力使用は、当面自粛節減に限ることになり、テレビ放送も一日十時間まで認められた。そしてついには、マイカーについても、地域の交通条件を勘案して、全国平均で一日四リットルの配給を行う、という大きな修正が加えられた。  字句・文言の解釈上の緩和もあった。たとえば、石油多消費型産業から、洗剤や一部の合成繊維製造業が除外され、助産婦も医師同様に自動車燃料の特別割当対象に加えられた。  半面マスコミは、政府・地方行政機関の石油消費が無制限になっているのはおかしい、と指摘した。エネルギー庁は、行政機関は自主的に節減するから、とくに消費削減率を決める必要はない、と考えていたのだが、一部の学者や野党議員たちは、石油消費見通しの数表の中に、政府・地方行政機関の消費量として前年同期並みの数字が入っているのを発見して、怒りだした。  エネルギー庁は、率先垂範の意味をこめて、十二月十七日から庁舎の暖房を午前中三時間に限るとともに、共用の二台を残して公用車の使用を中止したり、照明用灯火の厳重な節約をやったりした。翌十八日の閣議では全官庁がこれに倣うことが決定され、大臣たちも自発的に公用車による送迎を辞退する申し合わせを行った。総理大臣もそれを希望したが、さすがに警備上の理由で認められなかった。  しかし、大臣たちが地下鉄で通ったり、通産省などの中央官庁が暖房を制限したりしても、それは国民に対するジェスチャー以上のものではない。これによって節約できる油の量は、全需要の一万分の一にも満たない。マスコミや野党議員が問題にしたのは、そんな事務行政機関ではなく、もっと大口の石油消費機関、つまり警察、消防、そしてとくに自衛隊であった。  エネルギー庁は急遽、これら機関の実態調査を行い、そして驚いた。警察も消防も、石油燃料の備蓄をほとんど持っていなかった。各府県の警察本部や大都市の消防署でも、一週間分の自動車燃料を備えているところは最高の方で、いま自動車に入っているだけという、危っかしいところさえ少なくなかったのだ。密かに期待していた自衛隊も、各駐屯地に通常の使用状況で約一ヵ月分程度の燃料を持っているに過ぎなかった。それは、本格的な作戦行動では三日ともたない量である。かつて日本軍部は、ルーズベルト大統領の対日石油輸出禁止に驚き、�座して死を待つよりは�と、対米開戦に踏み切ったといわれるが、あの昭和十六年夏の段階でも海軍は、徳山・四日市の燃料廠に四百八十万キロリットル、当時の使用量で一年分の石油燃料を持っていたのである。  結局、「第二次石油消費節減実施要綱」の成案では、全国の警察用は三割、消防は二割、前年同期より削減することになり、自衛隊は、当分の間購入せず、と決められた。警察も消防も、また防衛庁もこれには大した不満を述べなかったし、エネルギー庁もさしたる不安は感じなかった。このことに強い反対と失望を表明したのは、ただ一人、鬼登沙和子だけだった。     3  十二月二十一日夕刻、「第二次石油消費節減実施要綱」が関係各省庁間で合意に達した。  試算上の節減率は二六・六%となっていた。四捨五入すれば、先に閣議決定した�三割を目途とした節減�という線が、一応保たれたというのが、この案のミソであった。 「まあなんとか形だけはついた」  石油問題関係各省庁連絡会議が、修正案を了承した直後、黒沢エネルギー庁長官は、ほっとした表情をした。  正式決定には、明朝の閣議が残っていたが、それはもう形式的なものだ。与党の実力者たちとも、話はついていた。 〈すべてが無駄な努力かも知れない〉  当面の問題が片づいてしまうと、小宮幸治は絶望的にならざるをえなかった。  遠い彼方で、石油供給は大幅に削られてしまったのだ。日本としてやろうとすればできた対策、石油備蓄の増強や原子力発電の拡大などは、日本人自身が公害反対とか自然保護とかの理由でつぶした。もうどうにもならない。いま、残されているのは、限られた石油の奪い合いに過ぎないのだ。  年末の空はすでに暗く、暖房の切れたエネルギー庁の建物の中はひどく寒かった。職員たちは、どの顔も、寒さに青ざめ、疲労に黒ずんで、陰鬱だった。その暗い、冷えた室内に、外で叫ぶデモ隊のシュプレヒコールが流れ込んでいた。 〈おそらく、もうすぐ、もっときびしい消費節約を実施しなければなるまい〉  小宮には、デモの声が、無意味なものに聞こえた。  しかし、現実問題として、石油消費節減の実行には、多くの問題が残っていた。  たとえば、産業用の石油・電力の節減率は決まっていても、それを実施するためには、各工場に具体的な石油や電力の割り当てを行う必要がある。全国に六十五万もある工場の一つ一つごとに、その数値を決定するのは大変な仕事だ。前年同期の石油消費量や電力使用量を、石油購入台帳や電力料金領収書と照合して確認し、それに業種に応じた節減率を掛けて、今後の許容量を出さねばならない。そのうえ、各工場の業種の決定も簡単ではなかった。  一つの工場で、生活必需品の衣類と産業用のキャンバスシートや建築内装用の壁布を作っているとか、食料品用のビンと産業用のガラス管とを加工しているとかいった例はいくらもある。一つのビルの中に、銀行と貸事務所と外国語学校とが雑居しているところも珍しくない。それを一つずつ検討して、それぞれの比率で分けて節減率を算出するのは、気が遠くなるほどの作業である。  それ以上に困難な問題は、こうして決めた石油・電力の割り当てを、どうして厳守させるか、であった。石油類については、割当相当量の石油配給切符を給付する方法が考えられたが、現に一日も休みなく続いている石油供給を直ちに配給制度に乗せることは至難である。どこの工場がどの石油販売店から購入するかを見極めなければ、各石油販売店にどれほどの油を送ればよいか判断できない。少なくとも配給切符が回収されて来る二ヵ月後でなければ、完全な実施は不可能だ。どう考えてもそれまでの間は、現に流通機構内にある石油が闇に流れるのを防ぐのはむずかしい。  電力はもっとやっかいだ。使用することによって自動的に供給されるのだから、配給切符というわけにもいかない。もちろん、電力は他から闇買いはできないから、毎月電気メーターを調べることによって、過剰使用は正確にチェックできるだろう。しかし、これも事後的にしか不可能である。  また、違反者に対する罰則の問題もあった。石油需給適正化法には、違反者に対し�一年以下の懲役または二十万円以下の罰金を科す�という規定(同法第十八条)はある。だが違反者を発見し、告発し裁判するには膨大な手間と長い時間がかかる。しかも、目前に大きな利益がぶら下がっている場合、あるいは逆に、倒産の危機が迫っている場合、�二十万円以下の罰金�が、どれほどの効果を持ちうるだろうか。  これらすべての仕事を短期日で行うには、各地方に一ヵ所、全国八つしかない総職員数二千人あまりの地方通商産業局の組織は、大海に浮ぶ小島のような、小さなまばらな点でしかなかった。しかもこれだけが通産局の仕事ではない。石油・電力の節減で生じるあらゆる物資の不足をカバーするための割当・斡旋の事務や、消費者から寄せられる苦情の処理など、これに倍する仕事が追いかけつつあった。  かつて、戦争中から終戦直後にかけて、これらの仕事のために三万人以上の役人と産業団体の職員が配置され、さらに完備した町内会や隣組制度がこれを支援した。いまは、業界団体は弱体化しているし、隣組はない。そして役所の機構はあまりにも中央に集中してしまっている。  仕事量と組織・人員のアンバランスに苦しんでいたのは、地方通産局のような政府機関ばかりではなかった。自動車燃料の配給のための自動車登録事務を担当させられた区役所や市町村役場も大混乱に陥った。ここでは全国二千万台近くある自家用車を、単なるマイカーと、商店の商品運搬用や医師の往診用などの「生活関連業務用」とに区分するのが大変だった。これを決める単一の基準はありえないからだ。  普通のセダンで商品を運んでいる商店も多いし、従業員所有の軽四輪を時々商品運搬に使っている店も少なくない。逆に、ライトバンをマイカーにしている者もいれば、会社名義の車を社長一家が乗り回している小規模企業もある。いままでは問屋からの配達だけで十分だった商店でもあわてて仕入れのためのトラックを購入していたし、一軒の飲食店が二台の車を持って来ることもあった。スポーツカーを配達用だというクリーニング屋もあれば、大型トラックを往診用に認めて欲しいという医師もいた。  こうした複雑多様な問題を、戸籍係や印鑑登録係をしていた市町村役場の職員が、ただ一枚の通達書を頼りに分類するのだから、所により人により、また日によってさえ、判断がまちまちになるのは避け難い。このため、どこの市町村役場でも、自動車所有者と職員との間に、不快な口論が起こった。そしてそのことがまた、市町村職員のやる気を失わしめ、この不快な仕事を拒む者も現れた。  さらに困ったことには、こうした過剰な仕事を地方自治体に押しつけるのは不当だ、という者もいた。�独断的非民主的な政府のやり方に抗議する意味で、すべての自家用車を「生活関連業務用」と認める�と宣言する市長も現れた。そしてひよわな日本政府は、こうした市長に対しても�辛抱強く説得する�以外の方法を持たなかったのである。  こうした混乱から政府は、十二月二十五日に至って、第二次消費節減は、一部を除き一月十六日まで延期する、と発表した。延期による石油消費量の変化自体はさほど大きなものではなかったが、早くも政府決定が変更されたということが、人びとの心理に与えた影響は大きかった。     4  十二月はじめ一旦下火になりかけた買い溜めの動きは、月半ば頃から再び猛烈な勢いで始まった。中東戦争の拡大で不安が増大したところへ、史上最高という多額の年末ボーナスが出回ったことも不幸だった。  通産省に集まった統計数値では、十二月中旬の十日間で、全国百貨店売り上げが前年同期の二・一倍、主要スーパーマーケットのそれは、二・八倍に達した。食料品、衣料品、日用雑貨の販売高は、前年同期の三倍以上、家具、寝具、電気製品などの耐久消費財も二倍近くに達した。貴金属や宝石などは財産保全のために買われ、前年同期を五割も上回る売り上げになった。しかも、街の様子からみて、二十日以後の数字ははるかに大きなものになっていることは確実だった。  すでにいくつかの商品が、著しい品不足に陥っていた。政府は中東大戦勃発と同時に、メーカーや問屋の手持ち在庫を調査し、早手回しに主要商品の標準価格を定め、売り惜しみと便乗値上げを防止しようとしたが、その効果には限度があった。メーカーや問屋の在庫は底をつきはじめていたのだ。一般消費者だけでなく、小売店も商品の仕入れを急いでいたし、企業も原材料・燃料の買い付けに血道を上げた。  石油製品ももちろん例外ではなかった。この日の午後、エネルギー庁が調べたところでは、十二月一日から二十日までの出荷量は、前年同期に比べ、ガソリン一六%、軽油二七%、重油九%、プロパンガス一〇%それぞれ増加していた。とくに家庭用暖房の消費が多い灯油は五七%も前年を上回った。この増加率は、食料品や衣料・日用雑貨に比べれば大きな数字とはいえなかったが、すでに十二月十一日から一〇%の消費節減を始めていたのだから、エネルギー庁は青くなった。  日本に入って来る石油の量は、まだ平常ペースを保っていた。中東戦争拡大以前にアラビア湾を出航したタンカーが入港していたからだ。それでも、出荷量増加のために、備蓄石油はかなり減りだし、十一月はじめに年平均消費量の六十五・七日分あったものが十二月二十日には、五十六・三日分になった。とくに、通産大臣が、九十日分の備蓄があると大見得を切った灯油は、二十日現在、製品・未精製を合わせて六十四日分に落ち込んでいた。  この調子では、年末には五十五日分を大きく割り込むことは確実だった。 「メーカーや問屋の売り惜しみを厳禁して、無制限に出荷させたのがかえってまずかったようだ」  黒沢長官は、くやんだ。 「石油類は容器に限界があるからそう買い溜めできんと思ったのは、甘かったですね」  と、西松石油部長もうなずいた。  最初、消費者は争って灯油罐や合成樹脂の石油容器を買った。このため灯油より前にこの二つがなくなった。そうすると、多くの人が、食用油の空罐や酒ビン、さらにはゴミ捨て用のバケツにまで油をつめた。工場や運送業者は、もっと大仕掛けだった。彼らは、石油消費節減実施までに一滴でも多くの軽油や重油を買い込もうと、古いドラム罐はもちろん、廃棄したボイラー罐や捨てられた古自動車の燃料タンクまで動員した。  十一月下旬中東大戦勃発と同時に起こった株式大暴落と外国為替市場の混乱は、その後最悪の事態を回避できた。証券市場は四日間休んだ後再開され、様変わりの安値ではあったが一応平静さを取り戻した。一週間の長期閉鎖を経験した外国為替市場も、短期資金の引出限定額を定めることが国際的に合意されて、金融大恐慌だけは避けられた。  しかし、ホルムス海峡封鎖後は、事情は一変した。  十二月十四日朝から、生活必需品の買い溜めを急ぐ一般市民が預金を引き出しに、銀行や信用金庫へ押しかけた。ほとんどの人が、会社から払い込まれたばかりの年末ボーナスの全額をすぐ引き出した。定期預金の解約も多かった。企業や商店も原材料購入や仕入れのために預金引き出しを急いだ。当然、企業や商店に入った現金の金融機関への還流も著しく遅くなった。  このため銀行は、現金不足に陥り、お札を借り出しに日本銀行に駆けつけた。当初、大蔵省と日銀は、物価急騰を抑えるために、きびしい金融引き締め方針をとったが、取り付け騒ぎが起こりそうになると、もうそんなことはいっておられず、預金引き出しに応じるための貸し出しだけは無制限に行うほかなかった。  だが大蔵省・日銀は、一般貸し出しや手形割引は徹底的に締め、いくらかでも過剰流動性を抑制しようと試みた。このため、金融機関も、企業への貸し出しや商業手形の割引を抑制しなければならなかった。それは必然的に、一般企業の金繰りに大打撃を与えた。約束されていた融資を急に断わられたり、手形の割引を拒否されるケースも続出し、あわてて街の金融業者へ駆け込む企業も多かった。もちろん、そこでは金利は著しく急騰していた。最優良企業の手形ですら、日歩二十銭、年利七割三分ぐらいというのはざらだった。それでも、今日の決済に窮する会社や、すぐにも四、五割値上がりしそうな商品を仕入れようとする商店には、大した問題とは思えなかった。  証券市場では、資金繰りに窮した企業も、預金引き出しに応じねばならない金融機関も、買い溜めしようとする個人も、争って株や債券を売った。下落を続けていた株式相場は、ホルムス海峡封鎖が伝えられた翌日の十四日に、あの十一月二十日に匹敵する崩落を演じ、十九日と二十三日にも同じ程度の大暴落に見舞われた。東京証券取引所ダウ平均株価は、一ヵ月余りの間に、五〇%強の下げとなった。これは、一ヵ月間の下げ幅としては、一九二九年秋のニューヨーク株式市場暴落を上回る史上最大の暴落記録である。  普段は安定している債券相場も、この金融逼迫と金利高騰によって、常識はずれの下落を示した。つい数ヵ月前の金融緩和期には、額面(百円)近い値を付けていた七分利付電電公社債が、連日ストップ安だった。それでも買い手は全くなく、裏取引では五十円台になり、金融機関間の買い戻し条件付き短期売買では、五十円をさえ下回っているといわれた。  十二月二十六日、突如、大証券X社の危機説が流れた。不幸にもそれは、事実だった。急激な株式・債券の大暴落に加えて、殺到する投資信託の解約のために、資金繰りがつかなくなったのである。  この日の午後、大蔵省と日本銀行の幹部は長い会議のあとで、X証券の救済、とくに大衆の投資信託の現価解約保証を決定した。この措置は、金融機関、なかんずく大衆預金の安全性を証明するものであったはずである。だが、一般大衆の多くは、そうは受け取らなかった。むしろ、証券会社や金融機関の危険な状況が明白になった、と感じた。  翌日から、激しい投資信託の解約が始まった。この年の証券取引の最後の二日間、十二月二十七日と二十八日には、投資信託の解約を求める人びとの列が、証券会社を取り囲んだ。証券会社の社員は解約を思いとどまらせようと必死に説得したが、それはかえって、客の不安をつのらせるだけだった。一部の店では店員と顧客の間で激しい口論が起こり、暴力沙汰さえあった。  解約に応じるために投資信託は株や債券を売りに出した。政府は、大量の債券を日銀に買い取らせたが、株式と債券はこの二日間で再び大きく暴落した。  恐慌状態は、すぐ金融界に移った。  政府は、大衆預金は保証すると、懸命にPRし、新聞・テレビもそれを報じた。だが銀行預金は、金融機関に対する不信ばかりでなく、通貨価値の不安と手元に現金を持っていたいという大衆心理とによっても、おびやかされていた。このため、二十九日、早朝から金融機関の店頭に、預金者の列が出来た。普通預金や当座預金ばかりでなく、積立貯金や定期預金もどんどん解約された。現金を求めて集まった群衆の中では、誰もが冷静さを失っていた。  中東戦争勃発以後四十日間に、日銀券発行高は、四兆六千億円増加し、十三兆八千億円に達していた。  一方、企業の資金繰りは、圧迫されたままだった。一般貸し出し、手形割引が締められたうえ、手持ち有価証券の暴落が痛かった。十一月末から十二月にかけて、大量の原材料や商品を買い込んだ会社は、その支払いに苦しんだ。そのうえ十二月後半には、商品売買の手形取引が高金利と取引ルートの変化によって拒否されるようになったため、多くの中小企業が行き詰まった。それは、当然、手形取引をますますむずかしくした。企業間信用という手品で、膨れ上がっていた日本経済は、物凄いスピードでその膨張部分を吐き出し、穴のあいた風船のようにしぼみ出した。そして、多くの企業が吐き出す風に吹かれるように倒れた。  十二月、倒産企業数は二千八百件に達し、その負債総額は六千億円に上った。     5 「やっとこれだけ出来ました」  大晦日の午後、鬼登沙和子が、エネルギー庁に姿を見せ、大きな風呂敷包みを小宮の机の上に置いた。  包みの中に「石油消費五〇%節減(私案)」と「同参考資料」と表題のついた、二つの綴りがあった。どちらも半紙百数十枚もありそうな大部なものであった。 「悪いけどいまはそれどころじゃないんです。目下、補正予算の詰めの最中で……」  実際、あと数時間で、補正予算の計数整理を終えねばならないのに、まだ諦め切れない様子の陳情団や業界の連中が、部屋に出入りしていた。 「でもすぐこれが要りますよ。読んでいただけばわかります」  そういって沙和子は、風呂敷包みを書類の山の上に置いた。 〈二六%節減でも大騒ぎなのに〉  考えただけで小宮の心は重かった。  先日沙和子のいった、エネルギー削減率はその率の二・五乗から三・五乗の影響を与える、という推定が正しいとすれば、五〇%節減は、いま実施しようとしている第二次石油消費節減の五倍半から十一倍ぐらいの影響をもたらすわけだ。こうした心配を、小宮が口にすると、沙和子は冷やかに笑った。 「いえ、もっともっと大きいでしょう。こんどの第二次消費節減では、予定の二六%の節約にはならないと思います。エネルギー庁の計算には反動効果が計上されてないからです」  一つの石油消費を抑えると、代替消費が増加することがある。その点の考慮が不足だ、と沙和子はいうのだ。 「それより小宮さん、何か買って来て上げようか」  沙和子は暫く間をおいてから、そういった。 「ありがたい、ぜひ頼みますよ」  小宮は、突然の女らしい気遣いにとまどいながら、封の切っていないボーナス袋を渡した。彼は、明日からの正月休み中の食べ物も買っていなかった。その暇さえなかったからだ。  鬼登沙和子は、夜九時頃、三つ四つ紙袋をかかえて戻って来た。 「街は大変よ、機動隊が商店街に並んでるわ」  乱闘服にジュラルミンの盾を持った機動隊が全都の商店街に配置されているのだ。 「食料品も日用品も一人何個までと決められてるの。店を渡り歩いて買い溜めするのを防ぐため、買物包みを持ってる人には売らないのよ」  彼女は、一回の買い物ごとにその包みを駅のコインロッカーに入れて、新橋から神田、上野、浅草まで回って来たという。  だが、買い物の量は多くはなかった。インスタントラーメンと魚肉の罐詰がそれぞれ二十ほど、ハム、ソーセージが一本ずつ、ビスケットの箱が三つにミルク罐が一つ、それにパン類がいくらかと角砂糖と正月料理の折詰が二つ、一キロワット級の電熱器が一つ。それでも二十枚近いレシートがついているのは、別々の店で少しずつ買ったためだろう。そしてレシートの合計は、四万円近くになっていた。 「値上がりしてるんだなあ」  この一ヵ月、買物に縁のなかった小宮は、思わずいった。  政府の標準価格は、標準価格品の売り切れで有名無実になっていた。沙和子が買い集めて来た商品も、ラーメンやミルクのほかは、みんな標準価格品ではなかった。角砂糖は結婚式引出物に使うようなものだったし、ハム・ソーセージは高級贈答品風のものだった。パンも�特製品�のラベルがはってあった。 「でも物価はもっと上がりますよ。そうでないと、日本全体の需給バランスが保てないから」  沙和子は冷徹な学者に戻って、いった。  石油供給が五〇%減になれば、生産はそれ以下に落ちる。それをどう配分しようと、所詮は国民生活を大幅にダウンさせなければ均衡が保てない。賃金を数分の一にでもしない限り、物価が数倍上がらねば、通貨と物資がバランスしないのだ。  そのことは、小宮もよくわかっている。だがそれを目のあたりに見せつけられるのは耐え難かった。 「みんなえらくご苦労でした」  黒沢長官は、黒ずんだ顔に、精一杯の笑いを作っていた。  補正予算の整理も終わり、年内の仕事が終了したのは、夜の十時だった。最後まで残っていた二十数人は、長官室に集まって残り物のビールを乾した。  毎年、中央官庁の年末はこうなのだ。来年度予算の折衝があるため、あわただしい。だが大抵の年は三十日の夜に終わるが、今日は一日遅れの大晦日になった。そして、いま終了したのは来年度予算ではなく、今年度これから三ヵ月間に使う補正予算であった。しかし例年との最大の違いは、これで仕事が終わったわけでも、一段落ついたわけでもないことだった。 「明日の元旦はまあゆっくり休もう。二日の午後からまた仕事だ」  寺木石油第一課長がいった。 「いよいよ大変だなあ……」  誰かが溜息をついた。  十五分か二十分の後、一同は無線タクシーを呼び集めて帰りはじめた。タクシーは相当に不足しているのだが、「エネルギー庁」の名には多少の権威があるのか、必要数はすぐ集まって来た。 「ホテルまで送って下さる」  小宮が車に乗った時、駆け寄って来た鬼登沙和子がいった。何台もある車の中から、沙和子が自分の車を選んだことが小宮はうれしかった。そして、 〈あの晩と同じだ〉  とも思った。「油減調査」のあとの十月の夜を思い出したのだ。  車の中で、沙和子は何もいわなかった。通産省から紀尾井町のホテルまでの道は短い。すでに車の通りも減っているので、二人を乗せたタクシーはまたたく間に、この短い距離を走り過ぎてしまった。  ホテルの正面に着いた時、沙和子は黙って車の外に出た。小宮は何かいわなければと思った。 「これ少しもって行ったら……」  小宮は、沙和子が買って来てくれた食料品の紙袋を突き出した。  ホテルの明るい光を背中にした沙和子の顔が、少しほころんだように見えた。 「結構です、大阪へ帰ればありますから」  声は、事務的で冷たかった。 「帰る……」 「明日、多分、午前中に……」  小宮はうかつにも、沙和子がそう早く大阪へ帰るとは思っていなかった。だが、彼女と一緒に来た雑賀正一は無理がたたって三日ほど前に入院したし、今田部長も昨日大阪に帰っている。そして、彼女がなすべき仕事は、今日の資料提出ですべて終わっているのだ。  小宮は車から降りた。話しておかねばならないこと、聞いておかねばならぬことが、いっぱいあるような気がして焦った。しかし、実際には何一つ適当な言葉は出なかった。二人は正面から向き合った。沙和子は小宮の顔に心の中まで見透すような視線を当てながら、つぶやくようにいった。 「失望は早くした方が傷浅く済むものよ。日本人みんなにとっても……」  沙和子は、コートの裾をひるがえし、回転ドアの中に消えた。小宮は、彼女が呑み込んだ語尾に縛られたように立ち尽していた。 [#改ページ]  第七章 創  痍     1  小宮幸治は、はじめて東京で正月を迎えた。これまでは毎年、北陸の郷里に帰ることにしていたが、今年はそれもできなかった。  目が覚めた時には、もう昼過ぎで、淡い冬の陽がカーテンに当たり、部屋の中に温い光を投げていた。空は澄み、空気は冷たく、いかにも正月らしい静かな天気であった。だが、小宮の身体は、けだるく重かった。彼は、なすこともないままに蒲団の中で、新聞を眺めた。  元旦の新聞はまだ十分に分厚かったが、紙面には新味もなければ夢もなかった。いつもと同じようなカラー写真がつき、各界首脳の年頭の辞があり、そして小宮にはもう飽き飽きするような石油の話があった。そしてその次には中東大戦の解説が長々とついていた。  中東大戦は、開戦四十日を経て、膠着状態に入っている。アラブ諸国もイスラエルも、兵員・武器の損耗により、新しい大規模作戦を展開する余力を失ったのであろう。だが、長く拡大した戦線では、複雑に入り乱れた戦闘が続いていたし、パレスチナ・ゲリラの侵入攻撃とこれに対する掃討戦も各地で行われていた。小規模化したとはいえ、双方の空爆は、連日広い範囲で続いている。  別の争いも生じた。煮え切らぬ国王政府にゲリラが蜂起した産油国もあったし、少数民族の武力抵抗が再発した地区もあった。しかもそれには隣接諸国が介入したとか、されたとかいった紛争が加わった。  停戦交渉は端緒すらつかめてはいなかった。ある国の大統領は、すべての勢力の代表を含めた全アラブ指導者会議の開催を提唱したが、一部の国王や有力なパレスチナ人組織の代表は、反乱部族長や少数過激派と席を同じくできない、と反対した。またある国王は、イスラエル、イランを含めた全中東諸国がテーブルにつくことを呼びかけたが、これにも反対者は多かった。ある民族主義組織の指導者は�テーブルよりも戦場で、言葉よりも銃で�と、徹底抗戦を叫び続けていた。  アメリカ、ソ連などの大国は、早急休戦を提案したものの、それほど具体的な動きを見せていなかった。石油以外に何一つない中東諸国が、やがて大国に救済を求めざるをえなくなる時を待てば、問題が一挙に解決するだろう、という観測がある半面、すでに大国間には勢力圏分割の了解が成立しており、その範囲内でそれぞれの支持勢力に武器や軍事顧問団を送り出している、という見方が流れている。  夕方近くなって、小宮は散歩に出た。  街は、昨日までの騒ぎがうそのように静かだった。人も車もほとんどなく、夕焼け空の下に葉の落ちた街路樹だけが寒々とした姿をさらしていた。どの家もどの店も、扉を閉ざし、静まりかえっていた。  二日の午後、当面の石油需給見通しに関する会議が開かれた。これには、エネルギー庁の課長・課長補佐のほかに、石油連盟や石油会社の代表も加わり、現在の石油備蓄量や今後の輸入・消費見通しの情報が交換された。その要点を、小宮はメモした。  ㈰ 十二月三十一日末の石油備蓄量は、原油換算四千六百万キロリットル、平常時の年平均消費量で五十四・一日分、と推定される。  ㈪ 備蓄量の比較的多い製品は、ガソリンとC重油で、それぞれ五十七日分程度、少ないのは石油液化ガス(LPガス)の四十七日分、軽油四十八日分、A重油の五十日分である。  ㈫ 石油輸入動向は、去る十二月二十日頃までは、大戦勃発前に出港したタンカーが入港していたので、平常通りだったが、今後は急速に減少し、一月前半は平常の六〇%内外、そしてホルムス海峡封鎖の影響が全面的に現れる一月後半には平常の約二〇%まで低下しよう。  ㈬ 石油消費は、一月前半は正月休みなどの関係から平常の約七五%になろうが、一月後半は消費が平均を一五%ほど上回る季節なので、第二次消費規制により前年同期の二六・七%減に抑えたとしても、平常の平均的消費の八〇%強は消費されるだろう。  以上を数表にまとめてみると、次のようになった。  ・   ・  ・   ・  この数値でみる限り、二月になるとたちまち危険になることは明らかだ。輸入と消費が一月後半と同様のペースであるとすれば、一日五十万キロリットルずつ備蓄石油が減少する。二月の四日か五日には、石油備蓄量が平常通りの精製・流通を円滑に行うための最低安全量とされる消費量の三十九日分にまで、落ち込むわけだ。  一同は愕然とした。 「中東と日本との間をタンカーが往復するのには最低五十日かかる。いますぐホルムス海峡の封鎖が解けてタンカーが出港しても、二月十日には間に合いませんよ」  武藤石油流通課長は絶望的にいった。  ある石油会社の重役は、精製・流通を円滑に行うための保有量は、その時点での消費量の三十九日分だから、第二次節減実施下では、普段の八割で十分だ、といい、平常時に必要とされる三千三百万キロリットルの代わりに、その八割に当たる約二千六百万キロリットルを想定するよう、指摘した。それにしても、絶対的危機の到来は、時間の問題だった。最も楽観的な説をとっても、二月末か三月早々に、円滑な石油供給は不可能になる。 「油種別に見ると、もっと早くアウトですよ」  と、小宮はいった。  比較的備蓄も多く消費節減もきびしく行われているガソリンなどはまだ余裕があるが、その逆のLPガスや軽油は、一月中にも危い、と思えた。同じ石油製品といっても、ガソリンをLPガスや軽油の代用には使えない。 「そうだ、早急に取り分を変更せにゃならん」  寺木がうなずいた。  原油から製造する各石油製品の比率(取り分)は、物理的に決まっているが、精製工程を加減することで多少の変更はできるのである。 「それはすぐやりましょう」  技術面を担当する山城石油第二課長が応じた。 「しかしそれにも限度がありますからね。それより、二月以降の輸入見通しはどうです」  まず、問題は、国際石油資本《メジヤーズ》の態度である。 「わが社は、資本系列にあるメジャーから全体の六〇%を買ってますが、これまでの通知では従来の五〇%以上は確保するとのことです」  N石油の重役がいった。  M鉱産の部長は暗い表情だった。 「うちはメジャーからの購入がもともと少ないうえ、純民族資本ですから、その点はあまり期待できません」  次は、中東以外における買い増しの問題であった。とくに期待されたのは、従来から生産原油の大部分を日本が買っているインドネシアなど東南アジア諸国の石油増産であった。  石油連盟の理事の一人が答えた。 「各国とも増産に努めてますから、一月後半頃から一五%ぐらいは増えるでしょうが、そう急には伸びんでしょう」  もし、一五%の増加がそのまま日本に入って来るとしても、中東以外からの輸入は従来、全輸入の二割弱しかなかったのだから、日本の輸入全体では三%くらいの回復になるだけだ。東南アジアの供給力はその辺が限界なのだ。 「それよりも、これまで輸入していなかった国からの輸入が伸びるんじゃないですかね」  I燃料の重役がいった。  長期契約によらない一回限りの石油取引、いわゆる�スポットもの�の話だ。  確かに、日本の総合商社は、いま、その情報力と機動力をフルに動員して、全世界各地でべらぼうな高値で石油を買い集めている。 「すでにわが社は、商社を通じて二十万キロリットルほどアフリカ原油の買い付けに成功しました」  I燃料の重役は、誇らし気な顔をして見せた。  各石油会社から同じような石油買い付けの成約または有望な話がいくつか報告された。もっとも、それらは量的に大したものでなく、そのうえ、価格の点で、さすがの日本商社も二の足を踏むケースが多いとのことであった。 「南米原油を導入しておけばよかった」 「海底油槽さえ反対されなきゃよかったんだ」  誰からともなく、そんなぐちが出た。 「で、全体をとりまとめるとどうなりますかな、輸入見通しは……」  寺木が、過去のことには興味ないといった風に、声を高くした。  二月以降の石油輸入量は平常の二七%ないし三四%の間ということで、ほぼ意見の一致を見た。 「いずれにしろ、早急に第三次消費節減がいるね」  石油業界の連中が出ていったあとで、寺木はつぶやいた。 「五〇%節減だ。それもできるだけ早くやらんといかん」     2  正月休み明けの、東京の街は静かだった。デモもなければ買い溜め騒ぎもなかった。  百貨店やスーパーマーケットにいくらか品物が増えた。通産省や農林省が、正月早々、メーカーや問屋を督促して、できるだけ多くの商品を街へ送り出させたためである。消費者も、群集心理に駆られた年末の数日間のような真似はしなかった。一部の食料品や日用品は入荷と同時に売り切れたが、他の商品にはそんなことはなかった。  だが、そんなことで喜んでいるわけにはいかない。肝心の生産は急速に低下しはじめていたからだ。  石油製品の販売量は、十一月末から十二月にかけては一日平均百万キロリットルを大きく上回り、とくに十二月後半には百三十万キロリットル内外の日が続いたが、一月にはいると、六十万ないし七十万キロリットルぐらいに減った。消費者に買い溜め余力がなくなったという見方もあったが、ようやく消費節約の態勢が整ったという見方が有力だった。だが、石油輸入の方はそれ以上に落ち込んだ。  十二月中頃までの石油輸入量は、一日平均八十五、六万キロリットルという平常ペースを保ったが、二十日頃から六十万キロリットル余りに低下、新年一月にはいると五十万キロリットルを割った。 [#1字下げ]「昨夕、Q海運所属の承天丸が原油八万一千キロリットルを積んで、大阪府泉北石油バースに入港。同船が中東原油を積んだ最後のタンカーである」  一月九日の昼前、石油連盟からエネルギー庁にこんな報告があった。そしてその翌日からホルムス海峡封鎖の影響が、日本の石油輸入にもろに現れることになった。  十日以降、石油輸入量は急減し、一日平均十六、七万キロリットルとなった。それに伴って、毎日五十万キロリットル前後も、石油備蓄量が減りだした。  このことは、とっくの前から予想されてはいたが、実際にそれが始まると反響は大きかった。  だが、政府は五〇%の石油消費節減に踏み切れずにいた。  第二次節減までは、全分野にわたり石油需要を少しずつ削る、�相似的縮小�をねらったものだが、第三次節減は、国家経済と国民生活の最低限の維持に不可欠な分野にのみ、石油を重点的に配分し、その他の分野は思い切って削るという�不均衡重点配分�の性格を持っていた。こうした不平等な配分を行うことは、戦後の日本人の発想とは全く相入れぬものであった。  エネルギー庁は第三次節減の早急な実施を正式に提唱した。山本通産大臣も、十四日になってそれを了承し、次の閣議に提案すると約束した。だが、それはすぐ取り消された。「成人の日」の休み明けから実施した第二次石油消費節減が、予想外の混乱を生んだからである。  一月十六日、まず各地で交通機関の混雑が発生した。マイカー通勤者が電車・バスに乗り換えたためだ。  政府では、マイカー通勤者は全体の三%以下だから、乗り換えの影響をそれほど心配していなかった。だが、事務室の暖房抑制で真冬の着ぶくれが例年以上にひどかったことと、荷物持ち客などの急増で計算以上の混乱を招いたのだ。  東京・大阪の国電や地下鉄は多数の積み残しを出し、怪我人も出た。  バスだけが頼りの、郊外などはもっとひどい混乱となった。最近開けた団地や新興住宅地から最寄の駅までのバスは、はじめの停留所で満員となり、途中からの客は見捨てられた。工場地帯では駅から工場までのバスがあふれ何時間も遅刻する者も少なくなかった。  バスの本数が少ない地方の過疎地帯では、もっとひどかった。ここでは一台バスを見送ると三十分ぐらい待たねばならない。しかもその次のバスもまた超満員という状況だったから、出社をあきらめる人が続出した。ある地方では、最終便に積み残された乗客がバス会社の事務所に乱入する事件も起こったし、家に帰れなくなった、と警察に泣き込んで来る女性もあった。だが、バスの会社の方は容易に臨時増便を出すわけにはいかなかった。路線バスも「前年同期以下」という燃料制限があったからだ。  このままでは、地方の経済と生活は崩壊する、と地方自治体や農山村選出の国会議員たちは騒ぎだした。現在では、農村でも地方都市の役所や工場に通勤している者が非常に多いのである。  第二次石油消費節減に対する世間の反発を強めたもう一つの要素は、その対策措置が円滑を欠いたことだった。  政府は昨年末に編成した補正予算で、数多くの救済措置を決め、これが国会を通過するまでの間も予備費の運用などで万全を期す予定であった。だが、現実にそれを施行する行政事務が、末端で混乱し遅滞した。  たとえば、中小・零細企業に救済のための緊急融資を行うことにしていたが、その内容と手続きが、あまりにも細かく複雑だった。緊急融資には「節電操業対策融資」、「原燃料不足対策融資」、「連鎖倒産防止融資」、「小規模企業特別融資」など七種類もの区別があり、そのそれぞれについて複雑な手続きと多数の添付書類が要求された。しかも、これを担当した政府金融機関や都道府県の職員は、このわずらわしい手続きを厳格に守った。彼らは、百の便宜よりも一つの不当を恐れるように訓練されているのだ。一挙に普段の数倍にもなった融資申請の処理は進まず、危機に追い込まれていた企業を苛立たせた。このため、せっかくの救済を待ち切れずに不渡手形を出してしまう中小企業や、高利貸に走る零細商店主も珍しくなかった。  失業対策もそうだった。政府はこの面にはとくに力を注ぎ、失業保険の延長のほか、臨時的な雇用で所得を得ていた人びとに、従来の日給の九〇%を特別給付金として給付することにしたが、これがまたきわめて厄介な問題となった。第二次石油消費節減の実施によって、タクシーの臨時運転手や建設労務者などの失職者数は、この段階ですでに百五十万人に達していた。しかし、これらの人びとの認定と従来所得の確認は著しくむずかしかった。  各地の職業安定所は、大群衆に取り囲まれた。そして職業安定所の職員たちは、この煩雑な事務を決しておろそかにはしなかった。二重給付や失業を偽っている者の受給を防ぐことが、何よりも大切だ、と考えたからだ。  第二次節減開始後一週間を経て、特別給付金受領のための手帳を交付されたのは、申請者の一割にも満たなかったし、書類の不備で申請を受け付けてもらえない者が何十万人もいた。  日本の行政機構は、精緻さと正確さにおいては世界第一級の能力を持っていたが、非常事態に際して拙速で事を処理する訓練は全く受けていなかった。いまや、日本の行政機構全体が、砂塵の中にほうり出された精密機械のように、きしみ声を上げていたのである。     3  世の中の動きはまた逆転した。日本の「世論」は、明日の重病よりもいま現在の痒《かゆ》みに耐えかねる幼児のように、泣き叫んだ。  一月十九日、止むを得ない場合の臨時バス増発便を認め、そのための燃料の増加配給を行うことになった。二十二日には、それでも不足のところに観光バスを臨時に投入することも追加された。  電車・バスの大混雑から、自家用車使用もある程度復活した。当初、自家用車ガソリンの実際購入量は、全配給切符交付量の六〇%内外と見られていたが、配給切符の九〇%近くまで買い受けられるようになった。切符そのものを買い集めて、たっぷり車を動かす者もあったからだ。  二十日頃から、一部の地方で石油製品の欠乏が訴えられはじめた。まだ、日本全体では四十七日分の備蓄があったが、流通機構の弱い地域に、早々と穴があきだしたわけだ。二十五日、地方通産局限りでは解決し切れず、エネルギー庁に処置を求めるケースが現れた。  東北地方からは灯油の不足を訴えてきたし、中部内陸の諸県からはバス・トラック燃料の軽油が払底したという緊急救援の依頼があった。続いて九州から船舶用燃料の、四国から家庭用ボンベガスの直送を頼んできた。エネルギー庁では、すぐ全国的な石油製品の所在を検討し、比較的余裕のあった東京湾沿岸や瀬戸内の精油所からタンカーや貨車で現物を直送させた。  石油製品の流通のまずさは、すぐ政治問題化し、大臣や政務次官や国会議員は、やたらに細かな数字を知りたがった。  エネルギー庁では、毎日、前日の石油輸入量、出荷量および石油備蓄量の変化を新聞に発表していたが、大臣や国会議員たちは、この程度では満足しなかった。 「いつ、どこに、どこから、どれだけの石油が輸入されたか。いま、どこに、どんな油種がいくらあるか、それが大事だ」  と、政治家たちはヒステリックな声を出した。  この資料づくりを担当させられた小宮幸治は全く閉口した。全国の地方通産局や都市府県と石油会社の本社・支社から、その日の動きを毎晩報告してもらうのだが、全部集まるのは早くて十二時、遅い日には午前一時半頃になる。それを報告書にまとめるには一時間半はかかった。しかもその結果を、遅くとも翌朝十時までに関係者全部に届けなければならないのである。  三十一日、M鉱産神奈川精油所が、原油不足のために操業を停止する、という事態が突発した。  この精油所は昨年九月、重油脱硫装置の増設などのために、十四基の石油タンクを撤去し、韓国のCTS(石油備蓄基地)を利用することにしたところだったが、石油危機の発生とともに、韓国が石油の再輸出を禁止したので、早々と操業不能に陥ったのである。しかし、これも特殊ケースと片づけることはできなかった。あと十日以内に、操業不能になるとみられる精油所が、ほかにもいくつかあったのである。  二月一日の朝、M鉱産神奈川精油所問題に関する会議が通産大臣室で開かれていた。 「もはや、調査とか検討とかの段階ではありません。抜本的な対策、つまり石油の重点配分に切り換える以外に手はありません」  寺木鉄太郎は、末席から正面の山本通産大臣を見据えていった。  寺木が突然、この基本的な問題に言及したのは、多くの幹部たちにとって意外だった。だが、大臣の右隣りにいる黒沢長官は大きくうなずいたし、左隣りの事務次官も平然とした表情でいた。この二人だけは、今日寺木がこうした発言をするのを事前に了解していたからだ。 「この際、石油の精製・流通機構を大幅に縮小・整理して、現在の輸入量に対応したものにすべきだ、と思います」  寺木は、続けた。 「精製設備の半分と流通機構の三分の一を閉鎖し、精製・流通を集中するわけです。そうすれば、これら精製装置や流通タンクの中に入っている石油、約一千万キロリットルが浮いてきますから、これを予備として時間を稼ぎ、その間に抜本的な石油消費節減の体制を整えるのです。もうこれ以外に、方法はありません。しかも大臣、それは急ぎます」  大臣は、虚空の一点をじっと見つめて聞いていた。 「ここに、石油消費節減強化のための実施案が出来ています」  寺木は、数枚の複写紙を綴った資料を大臣の前に押しやった。それは、鬼登沙和子が置いて行った案を基に寺木や小宮が検討を重ねて作り上げたものの抜粋であった。  大臣は、その資料を見ようとはしなかった。 「長官の意見も同じですか」  やがて大臣は、右隣りの黒沢に問うた。 「寺木君と同じです」  黒沢は身を乗り出して、答えた。 「事務次官は……」  大臣は左隣りの事務次官を見た。 「方法と時期にはまだ多少検討の余地はあると思いますが、大筋としては……」  この次官のことばによって、これは、通産省事務当局の総意という形になった。 「みなさんの意見はわかった。今日中に、総理と相談する」 「大臣、少なくとも最初の、第一段階の項目だけは、二月十二日から実施できるようにしていただきたいのです」  寺木は、追いかぶせるように念を押した。  大臣はうなずき、目の前の資料を手にした。その最初の頁には、「第一段階として実施すべき事項」として次のものが並んでいた。  ㈰装置産業等短期間の休止の不能なものおよび一部の食料品加工業を除く全工場、事務所、商店その他のサービス業の週三日制(週休四日制)の実施  ㈪小・中・高等学校の週四日制、大学および各種学校の休学  ㈫タクシーの全廃(緊急用としてハイヤーのみを残す)  ㈬牛乳、百貨店商品、その他の商品配達の全廃、ただし新聞は朝刊のみ配達、夕刊は休刊とする  ㈭電車・バスの三割削減  ㈮マイカーに対する燃料配給の原則廃止  ㈯テレビ放映時間の制限強化(一日三時間以下)および看板用照明の全廃、街灯・地下道照明の七割削減  ㉀家庭用灯油の配給制の実施  ㈷建設工事の原則的全休止     4  二月三日の閣議は、石油消費節減強化の早期実施を決定した。しかしその具体的内容についての、事務当局間の協議は、相変わらず論議のみを百出させた。  工場、商店などの週三日制には、全産業界が反対した。それを、失職を恐れる労働組合が強力に支持した。商店が週三日しか開かないのでは生活が破綻する、という主婦や一般消費者の意見も強かった。  すでにヨーロッパ諸国では、週四日制が実施されていたが、日本の産業界や労働組合、消費者団体は、ヨーロッパと日本の、企業体質や生活様式の違いをいいたてて、反対した。  小・中・高等学校の週四日制も不評だった。 「学校は戦時中の空襲の最中でも休まなかったんですよ。それをたかが石油危機ぐらいで、週四日制にしろなんて、通産官僚の良識を疑いますね」  文部省の局長たちは怒り狂った。  牛乳などの配達中止案も抵抗が強かった。 「牛乳配達を中止すれば何十万もの牧畜農家がつぶれ、その再建には十年かかる」  と、農林省の役人は叫んだ。  エネルギー庁はまた、デモと陳情団の大群に見舞われた。その人数は年末に比べればはるかに少なかったが、もっと激しく戦闘的な連中が多かった。最も多かったのは、灯油の配給制度に反対する主婦たちの群れだった。 「灯油は心配ないって、通産大臣がテレビでおっしゃったでしょ。あれはうそだったんですか」  ある代表者は、そういって黒沢長官につめ寄った。 「いやあの時の見通しではまず大丈夫と思えたんですが、その後消費者の買い溜めが予想外に多かったもんですから……」  年間消費二千五百万キロリットルの約六割が家庭用を中心とした暖房需要で占められている灯油では、十二月以来の買い溜めの影響が大きかったのは事実だ。しかしこの際、それを口にするのは不用意過ぎた。 「買い溜めとはなんですか、あなた。政府の失政を私たち国民のせいにするんですか」 「私たちは買い溜めはしていません」 「長官、あなたは情報が早くわかるから買い溜めしたでしょうけど、私たちは絶対してませんよ」  女たちの金切声が部屋中に充満した。なかには自分たちのいった言葉に酔ってか、 「長官が買い溜めするなんて許せないわ」  と、怒りの泣き声をあげる中年女性さえいた。  だが、この灯油の問題は、もっと深刻な事態をも引き起こした。  二月九日早朝、北海道札幌通産局長から、暖房用灯油の緊急手配を依頼してきた。この種の依頼が北海道から来たのは、一月二十日以来すでに四度目だった。エネルギー庁ではこれまでに、一月末と二月はじめに、合計二万キロリットル近い灯油を北海道に送ったし、つい四日前にも三回目の四千キロリットルを船積みしたところだった。  真冬の北海道では、灯油の消費量が、東京や大阪とは桁違いに多い。ごく普通の家庭でも一冬にドラム罐七、八本、つまり千五、六百リットルの灯油を使う。それだけに、北海道地区の危機感は強く、買い溜め意欲も大きかった。  地元の石油販売業者の方にも予測の狂いがあった。昨秋以来の灯油販売量が例年の水準を上回っていたため、地元の石油販売業者の多くは、大部分の家庭が、すでに一冬分の灯油を購入済みだとみていた。だが、実際には、一冬分以上も用意した者と、はるかに少ない量しか手当していない家とがあった。とくに、東部・北部の過疎地帯では流通経路の長さと不便さのためもあって、十分な量が行き渡っていなかったのだ。不幸なことに、この地域の販売で大きな比率を占めていたK石油やM鉱産は、石油会社の中で最も中東原油への依存度の高い企業であったので、その末端販売機構は早々と品切れ状態に陥ってしまった。  これらの事情は、札幌通産局と北海道庁から、詳しくエネルギー庁にも報告されたが、この時期に、何千キロリットルもの灯油を直ちに急送することは、エネルギー庁の方でも容易なことではなかった。  翌十日午後、北海道副知事と札幌通産局の部長の一人とが、エネルギー庁にやって来た。 「灯油の有無は、北海道では快適性の問題ではなく生命の問題です」  副知事は、状況説明のあとでそう強調した。  副知事の正面に坐った黒沢長官は、疲れ果てた顔に暗い縦じわを刻んでいた。このところ、連日激しい言葉を浴びせられている黒沢にとって、副知事の発言もそれほど刺激はなかった。 「北海道じゃ石炭ストーブは使えないですか……」  長官の隣りから寺木石油第一課長がいった。 「冗談じゃない。そんなもんは、もう十年も前になくなりましたよ」  副知事が腹立たしそうにいった。 「それに石炭そのものがないじゃないですか」  札幌通産局の部長も、荒々しい口調で咬みついた。 「炭鉱の大部分は閉山したのはあんたもご存知でしょうが」  彼は、役人としてはるかに上位に当たる寺木に、無遠慮な言葉を投げつけた。  気まずい沈黙が流れた。  その時、ノックもなしに若い男が、飛び込んで来た。襟に北海道庁のバッジがついている。 「大変です、副知事。凍死者が出ました」 「なに、凍死者……」  副知事は腰を浮かせた。 「はい、今朝十勝の奥で……」  バッジの男は上ずった声で叫んだ。  この日発見された凍死者は、十勝の山村に住む老夫婦だった。この部落では、すでに数日前から灯油の絶える家が出て、何家族かが一軒の家屋に残った灯油を持ちよって生活するところまで追い込まれた。凍死者の家は、部落から少し離れていたし、家畜の世話などもあって、二人は自宅を離れなかったのだ。  だが、このようなケースが、北海道東・北部で、すでにかなり広がっていた。翌日から、凍死の報告が毎日のように現れた。凍死ではなくても、厳寒の中で肺炎などを起こして死ぬ者の数はそれよりはるかに多かった。それは、自動車燃料不足による医療の欠如によって拡大された。  二月中旬になると、農場・牧舎を捨てて周辺の町に避難する者も少なくなかった。このため、住民を失った農村では、何万頭もの乳牛や何千頭かの高価な競走馬が死滅の危機に瀕していたのである。  救助ははかどらなかった。もう関東の精油所でもそう大量の灯油は集められなかったし、やっと函館や苫小牧に着いた灯油を奥地まで運ぶことが、トラックの燃料不足で容易でなかった。  この際、最も効果的な救援活動のできたのは自衛隊であった。北海道に駐屯する自衛隊の各部隊は、宿舎や施設の暖房用に持っていた灯油を、自らのトラックで危機に陥った部落へ送り届けた。 「われわれは防寒服で過ごしても、ある限りの灯油はすべて道民の救助に当てる」  と、自衛隊の各部隊は宣言し、またその通りのことをやった。  だが、自衛隊の灯油の量はそう多くなく、それで救助できるのは、ごく限られた数の村落の、一週間分程度に過ぎない。しかもこの救援活動を依頼する部落は実に多かった。完全に灯油の切れた部落だけでなく、もうすぐなくなりそうだ、というところも、この際分けてもらっておかねば、と焦った。  自衛隊の救援活動も十日とは続かないだろう、と道庁やエネルギー庁は憂慮した。北海道の冬は、まだ少なくとも五週間は続くのであった。     5  石油節減強化の閣議決定から十日経っても、その具体的な事務折衝は完了してはいなかった。わずかに看板用照明の全廃や街路灯の節減、新聞の夕刊休止、テレビ放映時間の短縮が実施されただけだった。  エネルギー庁が担当する石油の精製・流通機構の整理・縮小さえも、まだ目標の半分も進んでいなかった。どの精油所を停め、どこの精油所を稼働させるかは、いたってむずかしい問題だ。石油製品を全国に効率よくかつ公平に配分するためには、精油所の立地場所に着目する必要があったが、同時に、石油化学製品などの需給の最適形態を保つためには、各精油所に繋るコンビナートの生産物の構成を重視しなければならない。そのうえ、各精油所の所属企業とその親会社の色分けも重要だった。これを無視すると、国際石油資本や商社などの、日本に対する石油輸出意欲を失わせ、日本の石油事情を一層悪くする恐れがあったからだ。  次の日曜日の十時頃、小宮幸治は役所へ出た。彼は、一月十五日の「成人の日」以来、一日も休んでいなかった。  この頃では小宮ばかりでなく、エネルギー庁の職員の半分以上は、日曜も休日もなかった。黒沢長官も、寺木課長も、国会に呼ばれたり、陳情団に追い回されたりしなくてすむ日曜日こそ、本当の仕事ができた。だが、この時間ではエネルギー庁はまだ、どの部屋も静かで虚《うつ》ろだった。小宮は、ゆっくりと、石油第一課の部屋を眺め回した。  部屋の中央には、煤けた鉄箱がある。それは、深夜の残業の時に、暖房の切れた寒さに耐えかねて、古新聞や木片を燃す素人造りのストーブであった。そこから飛び散った灰が、本棚にも窓枠にも花のない花びんの上にも厚く積もった。机の上にうず高く積み上げられた書類の上にも灰はこびりついた。それは、それらの書類の多くが、ここ二ヵ月間開かれたことも動かされたこともないことを示していた。石油危機の前に作った長期計画、流れてしまった予算要求の説明書、公害問題の想定問答集、そしてわずか三%か五%の価格変動の詳細を極めた解説文書、そういった類の紙の山なのだ。  小宮は、たった二ヵ月間に起きた石油第一課の事務室の変化に、いまさらのように驚いた。それは、現在の日本社会全体の荒廃を象徴しているように思った。  彼は、必要書類をかかえて、エネルギー庁長官室へ入った。日曜や夜遅くの仕事に、小宮はよくそこを使った。その部屋にだけは、小さな石油ストーブがあったからだ。意外にもそこには先住者がいた。公益事業部の安永博だ。 「君、もう来てたのか」 「もうといわずに、まだというべきだよ」  安永はいつもの陽気な微笑を浮かべたが、その色白の顔に、深い疲労の影があった。 「またしても泊り込みだ」 「君の家は遠いから……」  小宮は、この同期の親友に、同情した。  安永博の住まいは、電車とバスを乗り継いで二時間近くもかかる新開住宅地にあった。彼は昨年四月、結婚と同時にそこのアパートに引越した。公務員宿舎に入れるまでの七、八ヵ月間のつなぎのつもりだったのだが、昨年末以来の石油危機のために、通産省の人事異動は延び延びになり、宿舎は空かなかった。おまけに、バスはひどく不便になり、電車は殺人的な混雑ぶりとなった。  このため、安永はしばしば役所に泊り込まねばならなかった。 〈身重の新妻を残して、役所泊りはつらいことだろうなあ……〉  と、小宮は想像した。安永の妻はいま、妊娠七ヵ月なのだ。 「そんなことより……」  安永は深刻な表情になった。 「これは大変なことになるぞ」 「電力がピンチなのかい」  安永は机の上の下書きの表を小宮に手渡しながら、いった。 「その前にガスだ」  日本の家庭用ガスの普及率は世界最高の水準にある。パイプで送られる都市ガスや簡易ガスを使用する家庭が約一千三百万世帯、ボンベ入りの石油液化ガス(LPガス)、いわゆるプロパンガスを使用するのが約一千七百万世帯もある。合計三千万世帯という数は、自宅で炊飯しているほとんど全家庭に当る数字だ。そのガスの大部分が石油から作られているのだから、石油危機がガス不足を招くのも当然だった。とくに深刻だったのは日本の全家庭の六割が使っているボンベガス、簡易ガスだった。LPガスが足りなかったのである。  日本のLPガス需給量は、平常年間千五百万トン弱、一日平均約四万トンである。このうち約二万三千トンが石油精製過程で発生するものであり、残り約一万七千トンはLPガスの形で輸入されている。一月はじめから、この輸入がほとんどゼロになった。世界的に石油精製量が減ったからだ。  国内生産の方も、二月に入ると平常の七割に減少し、いまや一日の供給量は平常の四割、一万六千トン程度になっている。  日本のLPガスの需要は、通常、工業用燃料や化学工業原料が全体の約三五%、タクシーなどの運輸燃料が一七%強、都市ガス・簡易ガスの原料になるのが三%から四%、残り四四、五%がボンベガスとして家庭用燃料に販売されている。  エネルギー庁はまず、工業用燃料と化学工業原料に使われているLPガスをきびしく抑え、これを家庭用ガスに回した。このため、LPガスの無公害性に着目してこれを燃料にしていた工場や、アンモニア、メタノールを製造する化学工場のほとんどが操業停止を余儀なくされた。  LPガスの家庭ガス用需要は、年間平均、一日一万九千トン内外だが、冬場の需要期には一日三万トン近くにまで拡大する。ところがこの冬には例年以上の需要があった。とくに一月下旬以降、一日三万三、四千トンにもなった。灯油などの入手難で、ガス暖房を使う家庭が増加していたのだ。  それだけではない。石油精製から生産されるLPガスはプロパンガスとブタンガスがほぼ半々ずつだが、家庭用ボンベガスに使われるのは専らプロパンである。ブタンガスは常圧の液化温度が氷点下五、六度のため、寒冷地ではガスボンベ内で液化して出なくなるおそれがある。ところが、一日三万三、四千トンも使われる家庭用ガスとしてのLPガス需要のうち、三万トン以上がボンベガスなのだからプロパンガスの不足はとくにひどかった。工業用のLPガス使用を抑制しても浮くのは、主にブタンガスの方だったからだ。  このアンバランスを調整するため、エネルギー庁は、ブタンガスを一五%程度混入した「Bガス」の販売を、南関東以西の太平洋側に限って許可した。これらの地域では、外気温が氷点下五、六度になることは滅多にないから、危険はない、とみたのである。だが、それでも、LPガスの不足はどうしようもなく大きく、日々一万五、六千トンもの備蓄減少が続いていたのである。  都市ガスもピンチだった。現在日本では年間約九百億キロカロリーの都市ガスが、二百五十余のガス会社によって、供給されている。このうち約四分の一が、鉄鋼業や石油化学工業などで発生する石炭ガス・石油ガスを購入して賄われる。ところが、第二次石油節減実施で、鉄鋼、石油化学などの操業が低下したため、購入ガスの量は半減した。工場からの購入ガスに大きく依存していた地方のガス会社のなかには、ガス供給地域を縮小し、代わりにボンベガスを販売して、当座をしのぐところも現れた。  全国の都市ガス販売量の七割余を占める東京・大阪の二大ガス会社は、その供給装置をフル稼働して、購入ガスの減少をなんとかカバーできたが、それでも冬場の需要ピーク期に当たっていたうえ、灯油不足による需要増が加わって、一部の地区ではガスの出が悪くなるという事態に追い込まれた。  それに追い打ちをかけたのが、一月下旬からの天然ガス輸入の大幅減少であった。中東からの天然ガス輸入が停止しただけでなく、アメリカなどからの輸入も半減した。石油、LPガスの不足で天然ガスの需給が、アメリカでも逼迫したのである。  その日の午後から、ボンベガスの割当配給制・都市ガスの時限供給制についての会議がたて続けに開かれた。  まず、公益事業部内で、安永博が徹夜で作り上げた資料をもとに検討し、翌月曜日、エネルギー庁幹部会に上げられた。火曜日には、通産省の臨時省議にこれがかけられた。  最大の問題は、配給されたボンベガスを期間以前に使い切った者に対する扱い方と、都市ガスの時限供給制に伴うガス中毒の危険だった。  前者については、通産省の生活産業局や経済企画庁の国民生活局が強く指摘した。  通産省原案ではLPガスの配給量は一日一人当たり〇・一キロと一世帯当たり〇・一キロだった。つまり二人の世帯は一日〇・三キロ、四人家庭で一日〇・五キロというわけだ。これは現在の平均消費量の半分から六割ぐらいだが、計算上は日々の炊飯と多少の雑用、それに週一回か十日に一度の風呂焚きまでできる量だ。しかしこれだと、四人家庭の世帯なら二十キロボンベ一本で四十日暮らさねばならないのだから楽ではない。ガスを計画的に毎日四十分の一ずつ使うというような芸当は、誰にもできることではなかろう。当然四十日分のボンベを三十日目か三十五日目に空にしてしまう家も出るだろう。そんな場合、あとの五日か十日をどうして暮らすのか。  今日の日本の家庭では、薪や木炭を使うところはほとんどない。カマドはもちろん、七輪一つない所も多い。全くガスがなくなってしまうと、炊飯も湯をわかすこともできない家庭もあるわけだ。  これに対してエネルギー庁は、配給前貸し制度を用意した。ガスを使い切った者には、必要最小限のガス、配給量の三分の二程度を前貸しし、次の配給分から差し引く、というものだ。  これにも難点があった。前貸しとはいっても結局ボンベ一本を配るほかないから、これを目当てにどんどん前借りするものが現れたらどうするか、それが闇に流れはしないか、そしてその結果LPガスの需給が崩れ、配給体制が破壊するという事態になりはしないか、等々である。だが、これに代わる適切な方法を提言してくれる者は誰もいなかった。  一方、都市ガスの時限供給制には、安全性の点から警察や消防庁が反対した。都市ガスの供給時間が切れるとガス器具の火は消える。そしてそのままにしておくと次の供給が始まった時に不燃焼ガスが吹き出し、たちまちガス中毒を起こす危険があるからである。  もちろん、エネルギー庁でもそれぐらいのことはよくわかっていた。だが、それを覚悟で踏み切るより仕方がなかった。時限供給を行わず、自然にガス不足で火が消えるような事態が生ずれば、時限供給の何十倍もの被害の出ることが確実だったからだ。そして時限供給のPRについて、警察や消防にも最大の協力を依頼した。  これをうけて、木曜日の各省事務次官会議は、長時間の激論の末、通産省が提案した「非常ガス供給制限措置」を了承した。それは次の三点からなっていた。  ㈰タクシー用LPガスの供給を来週限りで中止する。ただし現在営業中の個人タクシー業者のうち、ガソリン車による営業を希望する者には、所定の手続きによりそれを許可する  ㈪都市ガスの時限供給制を、来週木曜日より実施する。供給時間は全国一率に午前六時より午後一時までの七時間と、午後五時より同八時までの三時間、合計十時間とする  ㈫ボンベガスの配給制を、二月二十五日の販売分より実施する。販売量は当面、一世帯当たり一日〇・五キロとするが、配給体制の整備をまって、さらに家族数、地域性などを勘案してきめ細かく定めるものとする 「とうとうやったね」  小宮は安永の肩をたたいた。  ここ数日間、安永の奮闘ぶりは目を見張るものがあった。安永こそこの決定を最も喜んで聞ける人物だ、と小宮は思っていた。  だが安永の顔は、苦し気に歪んでいた。 「これで、俺は何万人もの生命を奪う計画の加担者になったわけだ」 「いや、君は何十万人もの生命を救う仕事をしたんだよ」 「それはそうだ。だけど救われた者と死ぬ者とは別人だ。十人を救うといって罪もない別の一人を殺したとしたら……」  安永は少し声をつまらせた。 「君は疲れているんだ。今日は奥さんのところへ帰れよ、まだ電車に間に合うから」  ちょうど、十一時二十分だった。  政府は金曜日朝の閣議決定を待って、「非常ガス供給制限措置」の準備に入った。何よりも急がねばならなかったのは、都市ガス時限供給制についての広報であった。  土曜日から毎日、すべてのテレビ・ラジオが一時間ごとに都市ガス時限供給制の実施とその危険防止の警告をスポット放送し、新聞も各頁の中央にそれを黒々と刷り込んだ。全地方自治体と警察・消防は、可能な限りの自動車を動員して、街中をマイクで連呼して回った。  政府の各省庁は、所管の部門に協力を要請し、ポスターを掲示させた。運輸省は、国鉄、私鉄、地下鉄などの全駅にポスターを貼らせ、郵政省は全郵便局に、大蔵省は銀行や信用金庫に同じことをさせた。通産省は百貨店、スーパーマーケット、商店街に要請した。ポスターの印刷・送付が間に合わなかったので、貼り出されたのはほとんどが古ポスターの裏面に手書きした壁新聞だった。 「口コミ作戦」も使われた。文部省は学校で教師たちが生徒に訴えるよう要請し、通産省は各企業に管理職から職員に呼びかけるよう求めた。また全国二百五十余の都市ガス会社は職員をフル動員して、需要者の家庭を一戸ずつ訪問して警告する方法をとり、月曜日から木曜日の午前中までに合計六百万戸を回っていた。  これは、日本では空前絶後の大広報作戦であった。このため、たった一週間のうちに、都市ガス時限供給制の知名度は九九・八%以上にまで達した。そして実際にガス供給が停止および再開される時には、全国の市町村でサイレンが鳴らされ、テレビ・ラジオがそれを報じた。  しかし、それにもかかわらず木曜日、都市ガス時限供給制が実施された最初の日の被害は、いかなる弁解の余地もないほどに大きかった。�知っている�ということと�完全に実施する�ということとの間には、大きな差があったのだ。  うっかり、ガス・ストーブやガスコンロの栓を締め忘れた者も多かったが、ガスの吐出個所すべてに気づかなかった家庭が少なくなかった。ガスコンロとガスストーブの栓を締めて安心した主婦も、瞬間湯沸器の種火は残していたりした。また、ガス冷蔵庫の止め忘れも珍しくはなかった。そうしたわずかな不注意が、すべて死に繋がった。  最初の一日(木曜日から翌金曜日の朝)に起こったガス事故は五千三百十四件、犠牲者八千百六十二人に上った。このうち三百七件は、ガスの引火・爆発を伴い、火災を招いた。幸い金曜日は、全国的に無風曇天で、関西地方は小雨模様だったので、火災はたいてい最小の被害で鎮火したが、それでも五百戸近い家屋が焼失し、中毒死者のほかに七十八人が焼死した。  しかし、ガス時限供給制を中止するわけにはいかなかった。翌土曜日、ガス事故件数は前日の五分の一になった。六百二十八件、犠牲者数千九十四人だった。これが、翌日曜日には五百六件、九百七十八人となり、月曜日以後は、ほぼ三百件余り、五百人弱という水準へ落ちた。  だが、それ以降はこの水準から減らなかった。これは平常時における交通事故の死者数にほぼ匹敵するものだった。そして、最初の一ヵ月に二万ないし二万八千人が死亡する、という鬼登沙和子の予測は、不幸にも的中したのである。     6  エネルギー庁長官室に入って来た安永博が、小宮に五、六枚の原稿を差し出した。二月二十八日の夜十時半頃だった。黒沢長官は、向かいの会議室で、夕方から電力業界の首脳たちと長い会議を続けていた。 「これで終わりかい」  それは、毎朝、大臣や国会、関係官庁などに配る状況報告書の原稿だった。 「ああ終わりだ。そしていまいましい二月も終わりだ」  安永は長身をソファに沈めて、疲れ切った声でいった。  ほんの二、三週間の間に、安永はひどく老けたようだ。若々しい陽気さで輝いていた黒い瞳が、どす黒い隈に囲まれて、怯えたように濁っている。 「じゃあ、これは俺がまとめておくよ。三月はいくらかましな月になるだろうな」  そういいながら小宮は、原稿に目を通した。 「前日のガス事故(二十八日午前中の発見分)ガス事故二百八十三件、死者四百七十八人、重態二十九人。ボンベガスの配給状況 東北、中部内陸、山陰地方の一部で配給用LPガスが不足、緊急輸送を手配。前日の送配電故障 七千六百四十件、うち、当日中に修復したもの五千二百六十六件……」 「また、電力故障は増加かね」  小宮が腹立たしくいうと、安永は暗い目つきでうなずいた。  電力の送配電故障の激増は、ガス制限の思わぬ影響の一つだった。  灯油が入手難、ガスも不自由で危険となると、人びとは電気に頼りだした。多くの家庭は、電気ストーブへ切り換えたし、押入れの奥から古い電熱器を引っ張り出したところも多かった。  家庭の電力使用量はみるみる急増し、発電用重油の需給を圧迫しだした。全体としての重油にはまだ余裕はあった。平常、全電力需要の六一%を占めている製造業部門の電力使用量が、鉄鋼、金属精錬、化学工業などの基礎部門を中心に、平常の三分の二に削減されていたからだ。  しかし、末端の送配電施設は、随所で過重負担にあえいだ。それは、当該送配電地区の需要に合わせて作られているので、住宅地域では家庭用電力の急増を支え切れなかった。もちろん、各家庭には、それぞれの電力使用量を制限する安全器があったが、その範囲内でも全家庭が一斉に限度いっぱい使うと、電柱のトランスが焼け切れることがある。そのうえ、いまの日本には安全器のヒューズを細工する程度の電気知識を持つ者はいくらもいた。  数日前から電柱のトランスが焼け切れたり、マンションの受電装置が故障したりする事故が続出した。それは、ボンベガスの配給制実施とともに、地方の町や農村にも広がりだした。 「向かいの会議が長引くはずだ」  小宮は、黒沢長官と電力会社首脳との会合が、この送配電故障の修理体制に関するものであることを思い出して、ため息をもらした。 「今日、急に決着はつかんだろう」  安永はなげやりな口調でいった。 「電力会社でも修理の手が回りきらんのは明らかだね。地方の町村では、直しに行くだけでも大変だ。修理部品も不足、自動車燃料も不足、というんだから。電力会社側の連中は、家庭用電力の使用制限をしないとだめだ、といってるけど、それもやりようがないね。一軒一軒見張っているわけにもいかん。安全器を細工した家は送電停止処分にしろといったって、人権問題になるから、どうしようもないね」  そんな説明をしたあと、安永はもうお手上げだといった身振りをしながら部屋を出て行った。  それは電力・ガス問題だけでなく、小宮がいままとめている石油製品でも同じだった。机の上にある書きかけの原稿は、バス・トラック燃料の軽油が全くピンチになっていることを述べていた。  その時、机上の電話が鳴った。 〈正常なのは電話だけだ〉  小宮はそんなことを思いながら受話器を取り上げた。だがそこから出て来たのは、全く正常ではない女の声だった。 「もしもし、もしもし」  小宮は呼び返した。相手が何をいってるのか聞きとれなかった。  慌てふためいたその声から「パパ、早く、火事」という単語の繰り返しだけが聞きとれた。 「落ち着いて下さい。どなたですか、お名前を……」 「ヤスコよ、早くパパ呼んで、火事よ、うちが火事だよ」  女は泣き声で叫んだ。 「もしもし、どちらのヤスコさんですか」 「もうだめよ、燃えちゃうわ、パパ呼んで……」  電話が切れた。小宮はなお何度か呼びかけたが、むだだった。  小宮は、一瞬ぼんやりと受話器を見つめた。どこの誰が、誰にかけた電話かわからなかったからだ。だがすぐ、自分の握っている受話器がエネルギー庁長官の直通電話であることに気づいた。  小宮は廊下に飛び出し、すぐ目の前の会議室に駆け込んだ。タバコの煙が立ちこめるなかに並んだ二十五、六人の顔が、一斉にこの乱入者の方を向いた。  一瞬、小宮は身をすくめた。勢い込んで飛び込んだ自分の行動が、行き詰った会議室の雰囲気とあまりにも場違いであったからだ。そのうえ、いまの電話の主が誰かも彼には自信がなかった。だが、彼は意を決して真直ぐ黒沢長官の方に歩いた。中央の席に座を占めた長官は、怪訝そうに小宮を見据えていた。 「恐れ入りますが、長官のご家族にヤスコさんという方はおられますか」  この小宮の言葉には、さすがに黒沢も驚いたようだった。この重要な、しかも深刻な状況にある会議の最中に、長官の家族調べは、どうにも不謹慎な質問である。  黒沢はムッとした表情で横を向いた。だが同時に、 「ヤスコは俺の長女だ」  と、吐き捨てるようにいった。 「そうでしたら、お宅が火事らしいです。いま、ヤスコさんという女の人から電話で……」  そこまで聞くと、黒沢は一瞬ギクッとして腰を浮かせた。しかしその表情はすぐ元に戻っていた。  黒沢は、ちらっと時計に目をやった。もうすぐ午後十一時だった。 「いま燃えているのなら、帰っても仕方あるまい」  そうつぶやいた黒沢は坐り直すと、出席者を見回していった。 「では今日の会議をまとめましょう」  一月から漸増していた火災発生件数は、ガス供給制限の実施に件って、ここ数日前から一挙に十倍以上になり、なお日々急増し続けている。  ガスも灯油もそして電力さえも不自由になると、人びとは、新聞・雑誌や建材の端切れ、古箱をこわした木片、ダンボール紙とかいった類のものを、石油罐の急造ストーブや代用七輪を使って燃やしはじめた。だが、それは想像以上に面倒なことだった。何十年間も、いや生まれてこの方こうした原始的な燃料と無縁であった人びとが、このやっかいな燃料を不完全な装置で安全に使用することを百パーセント期待することは無理だった。しかも、新しい住宅ではそれをするにふさわしい場所もなかった。止むなく人びとは狭い隣家との間の軒下や入口の土間や板の間、あるいはアパート・マンションのベランダなどでやった。  だが火は、どんな言訳も甘えも認めず、ただ物理の法則にだけ従って燃えた。わずかな火の粉から蒲団や障子を焼くこともあったし、石油罐ストーブの底からタタミをこがすこともあった。冷え切らぬ灰から炎がもえ移ることもあった。そうした火の中の何パーセントかは火災にまで広がった。そしてしばしば、家屋と人命を犠牲にした。  一番危険だったのは、団地アパートや高層マンションであった。黒沢エネルギー庁長官の住んでいた九階建、六十八戸の高層マンションをほとんど全焼させたこの日の火事は、その典型であった。  発火の原因は、三階の住人がガスが止まったあと、湯を沸かすためにベランダで焚いた石油罐改良の代用七輪の火の粉が、一階上のベランダに飛んだことだ、とみられた。この家でもよそと同様、燃料不足に備えて、ベランダには古新聞やダンボール紙を積み上げていた。買い溜め灯油もそこにあった。これに引火した炎が、同じように多量の買い溜め商品を山積みしていた各戸のベランダに燃え広がった。火は外面を包み、風にあおられて内部に移った。どの部屋も、ベランダ側には開放的なガラス戸しか持っていなかったことが、火の回りを著しく速めた。室内に流れ込んだ火は、各戸にあった家財や品物を燃料として一段と拡大し、人びとが逃げようとして開いた入口から大量の煙が階段室に流れ込んだ。このため上層階、とくに発火面とは反対側の方向のブロックにいて火災に気づくのが遅かった人びとは、避難の道を断たれた形となった。火が外から襲い、外部に開いた非常階段をふさいだことも惨劇を拡大した。  黒沢が、三十年間の貯えに退職金の一部を前借りして三分の一の頭金を工面して買った四LDKのマンションは、家財道具もろとも灰となった。彼の手元には火災保険もほとんど入らなかった。保険金の大部分は割賦ローンの返済に充当されることになっていたのだ。  だが、何よりもこの初老の高級官僚を悲しませたのは、十四人の焼死者の中に、彼の下の娘、明子が入っていたことであった。  この二月二十八日だけで、同じようなマンション火災が三件あり、中層アパートや個人住宅の火災は都内だけで四百五件、全国で三千三百五十八件もあった。それは、普段の十倍以上であり、しかも三月に入っても減らなかった。 [#改ページ]  第八章 麻  痺     1  三月一日──中東大戦が勃発して、ちょうど百日が経過した。  この日のA紙は「中東大戦百日目の世界と日本」という特集を組んだ。新聞は夕刊が廃止され、朝刊も見開き一枚の四頁建てという薄っぺらなものになっていたが、今朝のA紙は、わざわざこの特集のためにペラ一枚を挟み込んで六頁建てにしており、人びとの目を引いた。新聞広告が激減したいまとなっては、たった二頁の特集といえども新聞社にとっては大英断であったからだ。実際、A紙をも含めて、日本の新聞社はみな、経営にひどく苦しんでいた。  特集の表面は、海外事情の報告に当てられていた。減頁と夕刊廃止でこうした情報は、ほとんど流されていなかったからだ。 「国内油田増産と節約で乗り切る米国」 「節減にも平静、国民性を示す欧州」 「経済開発十年の後退──発展途上国」  各地の海外特派員報告を中心としたその特集記事には、こんな見出しが並んでいた。  もともと、石油を完全自給してきたソ連は、東欧諸国分までを含めた石油供給を確保していたばかりか、いくらかの石油を発展途上国などに回して援助し、その政治的影響力を拡大しつつあった。  自給率八五%のアメリカも、国内油田が一斉に増産体勢に入り、前年比一〇%増の生産を達成し、個人用自動車と家庭用暖房の節約で一割内外消費を削減したことで、十分乗り切れる体制にあったので、中東のみならず南米などからの石油輸入もかなり減少させていた。 [#1字下げ]「中西部のある町では、石油・天然ガスの不足のため工場が操業を短縮しようとしたのに対し、町の人びとが『家庭用暖房を減らすから工場の操業は縮めないでくれ』という運動を行い、その主張を通した。工場操短は失業者の増加を招くからだ」  そんなエピソードをシカゴ特派員は書いていた。  西欧諸国は、EC(欧州共同体)の共通政策として、工場・商店などが一斉に週休三日制を実施しているほか、各国それぞれ特色ある対策を採っているのが注目された。  フランスは、昨年十二月はじめ、早ばやと石油消費節減法(一九七四年制定)を発動し、自動車使用と家庭用暖房をきびしく制限した。官僚と警察の力が強いこの国では、しばしば個人家屋への立ち入り検査さえ行われ、週休三日制と相まって、石油消費量は前年に比べ二七%も減少した。しかもアルジェリアに安定した石油供給源を持つうえ、膨大な石油備蓄と一九七四年以来急ピッチで増設した原子力発電のお陰で、この体制を一年以上続けられる、と豪語していた。  西ドイツは、伝統的な自由市場経済のメカニズムに頼った。政府がやったのは、石油製品への高額の課徴金付加と石油節約のPRだけだったが、けちで団結力の強いドイツ人には、効果があった。石油製品や電力料金の値上がりで、引きあわないとみた工場は自主的に操短し、商店は照明・暖房を抑制した。一般市民も自動車をやめ、暖房を抑えた。そして多くの工場や家庭が、燃料を石炭に切り換えた。年間六千万トン以上の産炭量を維持するこの国では、石炭の流通機構も健在だったし、それを利用する施設や用具も比較的簡単に手に入った。都市ガスもほとんど石炭から製造されていたので、あまり問題はなかった。こうした事情からさほどの騒ぎもなく石油消費量は前年比三一%も減少した。  一九七三年末の石油危機の際、石炭労働者の長期ストと重なり、工場も商店も一般家庭も、週七日のうち四日まで停電するという苦境に立ったイギリスも、今回は余裕があった。西ドイツ以上の産炭量を持ち、都市ガスばかりか電力もほとんど石炭で賄われているので、自動車使用を制限するだけで十分だった。そのうえ、長年の努力が実り、北海から相当量の石油が掘り出されていたから、供給面でも平常の七割以上を確保した。EC共通の週休三日制さえ、隔週にするほどの余裕があり、しかもこの体制なら半恒久的に続けうる、といわれていた。  石油産出の乏しい発展途上国はかなり苦しかった。輸送機関の麻痺と工業生産の停滞が著しく、とくに大都市の生活は圧迫された。失業と食糧難が広がり、農村への人口分散が図られた。  それでも、もともと農村の自給体制が色濃く残っている発展途上国では、大部分の地域が石油危機の直接的打撃から免れた。薪柴は普段から使われていたし、馬車や牛車による輸送もかなり利用できた。そして人びとの物資不足に対する耐久力が強かった。  世界で最も苦境にあったのは、疑いもなく日本だった。この百日間に、日本の被った被害はきわめて大きかった。この特集の裏面には、全国の支局からの報告や産業別情報をまとめた日本の状況が記されていた。  二月中旬において、全国で五万以上の工場が完全にストップし、その他の工場も一部停止か大幅操短を行っている。また、ほとんどすべての建設工事が止まっている。二月の鉱工業生産指数は、前年同期に比べて四二%減、石油危機直前の昨年十一月に比べれば四七%のマイナスと推定されていた。  第三次産業の打撃も大きい。観光地は客がなく、半分以上の観光ホテル・旅館が完全休業状況に陥っている。ボーリング場、興行場、遊園地などの類は七割が閉鎖または休業、バー・キャバレー、料亭なども同じだった。一般商店や大衆飲食店も、休業するところが続出していた。運輸業は、船舶・鉄道が三分の二、航空便が四分の一、そしてタクシー業はガソリン車に切り換えた五分の一の台数が、一台当たり走行距離を平常の半分にして、ようやく走っている。  国民総生産は、昨年十月のピークに比べ、二月下旬には三〇ないし三五%下落していると推定された。そして二月末現在、全国に六百万人の完全失業者とそれ以上の企業内失業者が発生している、と見られた。  貿易も甚だしい打撃を受けた。一月後半以後、日本の輸出はほとんどゼロとなり、二月中の輸出成約高はわずか一億三千万ドルだった。これは前年同期の二十分の一以下の数字だ。これに対し輸入は、工業用原材料の激減にもかかわらず、食料品や原油の輸入で二十億ドルをかなり上回った。輸入価格が著しく高騰していたからで、問題の石油すら、平均価格が二倍以上になったため、数量が平常の三割以下に減少したのに、これに支払われる外貨は、さほど変わらないのだ。  このような貿易収支の著しい不均衡に加え短期資金が大量に流出したため、昨年夏、二百億ドルに達していた日本の外貨保有は、百億ドルを割ってしまっていた。  だが、経済指標よりも、目に映る現実は、もっと悲惨だ。  二月に凍死者を出した北海道では、農山村を捨てた人びとが、町の公共施設や旅館に避難した。東北や北陸では、ボンベガスの配給と日用品の供給が絶え、日々の生活に困窮する家庭が続出し、餓死した老人の例も伝えられた。東海地方や中国地方では、温室農業が全滅し、港に漁船が大量にたまった。九州や四国では、生活必需品の届かぬ村落が多く、住民の生活は終戦直後よりひどい状態になった。沖縄では、船舶・航空便の欠航のため、本土からの食料・日用品が届かず、住民のデモが公共施設に乱入するという事件が起こった。  各地からの報告は、いずれも自分たちの地域が最も苦しいと信じ、ヒステリックに政府の不手際と石油配分の不公平をなじっていた。  大都市の地下道や公園には�家なき人�の群れが現れた。失業したタクシーの臨時運転手もいたし、倒産した企業の寮から追われた労働者もいた。飲食店の住み込みウエートレスやホステスなどもいた。火事で焼け出された家族連れも珍しくなかったし、生活難からいづらくなった家庭を飛び出して来た不幸な少年たちも少なくなかった。故郷を捨てた農山村の青年たちもまたこれに加わった。  政府と地方自治体は、これらの人びとのために、無料給食所を開いたり、テント村を造ったりしたが、増大する群衆を救済するにはほど遠かった。また、故郷に帰るようにと説得することも効果はなかった。日本の社会には、もはや戦前のような大家族制による相互扶助の制度はなくなっているのだ。  A紙記者の本村英人は、この日の午前中、本社編集局の机の前で、この特集記事を眺めていた。そして、これが「最悪の事態」ではないことを、思った。それは、彼自身も執筆した石油事情の記事にもよく現れていた。  二月下旬における日本の石油消費は、原油換算で一日平均五十七万キロリットル前後あった。これは従来の年平均消費量に比べれば、約三五%減、そして前年同期比では四〇%以上の減少だが、肝心の石油輸入量に比べるとはるかに多過ぎた。輸入量は、国際石油資本の中東以外の原油の再配分や東南アジア諸国の増産などが進んで、一月下旬からかなり回復したとはいえ、なお一日平均二十万キロリットル程度だったからだ。  石油備蓄は、一日三十万キロリットル内外のテンポで減少し続け、いまや底を突きかけていた。二千八百六十万キロリットル、約三十三、四日分という量は現在の消費水準においても円滑な精製・流通を保つぎりぎりの線だ。消費節減のやりにくい家庭用消費が中心のLPガスや灯油などは、すでに年平均消費量の三十日分をさえ下回っていた。  実際、もうかなり前からLPガスや灯油の全くない「完欠地区」が多発している。二月末には、バス・トラック燃料の軽油も、「完欠地区」が現れ、バス交通と物資輸送が憂慮されている。  比較的余裕のあるB・C重油やガソリンにも、こうした事態の生じるのは、ごく短い時間の問題になっていた。  もう何日かのうちに、日本は喰いつぶしうる石油備蓄を持たなくなるのだ。日々輸入される量の範囲内でしか石油は供給できなくなる日も近い。そしてその量は、これほど大きな被害を生み出しているいまの消費量の半分以下なのだ。  そうなった時、日本がどうなるか、日本人がどうすればよいのか。もはや、大規模な国際的石油救援を期待するしかないだろう。  だが、本村は、日本のような巨大な石油消費国を救うほどの国際的救援が行われるはずのないことを、十分知っていた。     2  もちろん日本は、全世界に対して石油救援を求めていた。  まず一月早々に行われた世界石油消費国会議に、備蓄石油の融通を要請した。一九七四年の「国際エネルギー協定」には、非常時における備蓄石油の相互融通の規定があったからだ。だがこれは、本来特定の消費国が、産油国からねらい射ち的禁輸政策によって脅かされるのを防ぐことを主眼としたもので、今回のような全世界的石油不足において、自動的に発動されるものではない。しかも、消費国会議の再三の勧告にもかかわらず、日本が石油備蓄をほとんど増やさなかったことに対する批判も強く、「日本は防衛・技術開発と同じく、石油備蓄でもフリーライダー(ただ乗り客)ではないか」という声が高かったのだ。  このため、会議では、「保険料を払っていなかった者が保険金を受け取れないのは当り前だ」と日本の要請を皮肉る発言すらあった。しかもこの時点でも、日本の石油消費節減が西欧諸国よりも遅れていたので、「よりきびしく節減している者がよりぜいたくに使っている者を援助する必要があるとは思えない」という意向も強かった。  日本代表としてこの会議に出席した外務省の春日井梅盛外務審議官と通産省の西松剛石油部長は、苦しい努力を続けた。彼らは、会議の席上ばかりでなく、休憩中のロビーでも、昼食の席でも、また早朝、深夜に他国代表の宿舎に押しかけたりまでして、日本の社会的特殊性と苦しい石油事情を説明し、理解と同情を求めた。  このことは無駄ではなかった。会議最終日の五日目に、「日本が西欧諸国並以上の消費節減を行い、かつ日本自身の保有する石油備蓄が、平常消費量の四十日分を割った場合には、一日当たり一万キロリットルの原油またはそれ相当の石油製品を融通する」という決定を得ることができた。  一日一万キロリットルという量は、西欧側からみれば精いっぱいの援助ではあったが、日本にとって、平常消費の一・二%に過ぎない。しかも、前記の条件が満たされたのはやっと二月中頃になってからであり、さらに具体的な供給内容や方法が決まったのは再度西松が訪欧した下旬であった。そのうえ、パイプラインで相互に繋がる西欧諸国間と違い、日本は遠く離れているというハンディを背負っている。西欧からの融通石油の第一便十二万キロリットルが到着するのは、三月下旬になる見込みであった。  日本政府が、大きな期待をかけたのは、各産油国との二国間交渉だった。これには日本得意の「特使」派遣が行われた。東南アジアへは元首相を長とする一団が、西アフリカへは与党副総裁の一行が、またラテンアメリカへは与党の幹事長と経団連会長を中心とする官民合同の使節団が、そしてソ連には与野党有力者の大集団が、それぞれ総理大臣の親書をたずさえて飛んだ。  一月から二月上旬にかけて、これらの使節は次々と出発した。  産油国の首脳たちは機嫌よく日本の特使を迎え、カメラに収まり、晩餐を共にし、友好と相互理解を謳う共同声明を読み上げてはくれたが、具体的な石油供給の点になると、「民間ベースの取引拡大に努力する」というに留まる場合が多かった。民間ベースの競争入札によるのが、最も高く石油を売る方法だ、と考えられていたからだ。  彼らは、日本側が示した巨額の経済援助にも、さほどの興味を見せなかった。世界は一九七三年の石油危機の際、日本が多額の経済協力を約束しながら、危機解消後その多くを反古にしたことを忘れてはいなかった。またいくつかの国では、軍事援助において日本が全く無力だったことも重大な障害になった。そして、何よりも、日本の経済力自体の急激な崩壊が、各国の首脳に対して、日本の将来に対する不安を感じさせていた。  期待されたソ連でも、結果はさほど変わらなかった。東欧圏などを抱えているうえ、油田が西方に片寄っているため輸送上の隘路もあったからだ。  次々に帰国する特使団は、それぞれその成果を誇示する演説をぶったり、首相官邸や国会で報告会を開いたりした。マスコミもまた、これを唯一の明るいニュースとして大きく取り上げた。だが、これらの成果を全部集めても、まだ一日四万キロリットルにも達しなかった。  三月はじめ、さらに二つの使節団が、石油を求めて出発する。  二日出発の訪中使節団は、派手だった。海津経済企画庁長官を団長に、与野党の国会議員、革新知事、産業界の代表、それに労働組合の幹部、文化人、主婦の代表までを加え、総勢五十名近い大部隊になった。  小宮幸治が、出来上がったばかりの最新資料集を、随行の西松部長に手渡すため、外務省前庭の壮行会場に到着した時には、もう見送りの人びとの群れが前庭をはみ出し、路上にまで広がっていた。その群衆の頭上に、ボリューム一杯のマイクを通じて、使節団員の演説が浴びせられていた。 「私は、今回の石油救援の要請は、一部大企業のためではなく、われわれ日本勤労階級の、日本人民すべての、心からの願いであるということを、親愛なる中国人民に訴えてまいります」  演台代わりの小型トラックの荷台の上で、小肥りの中年男が、片手を上げて叫んでいた。群衆の間から拍手が起こり、官庁街のビルに当たって虚ろに反響した。  中年男が荷台から降りると、初老の肥満した女性がハシゴにしがみついた。小型トラックの背後に並んだ使節団の人びとの一番端に、大柄な身体を隠すようにして、黒いオーバーにくるまった西松の姿があった。 「どうもありがとう」  西松の大きな顔は黒ずみ、身体もかなり痩せたことがオーバーの外からでもわかった。一月以来、ヨーロッパ、東南アジア、アフリカ、そしてソ連から再度のヨーロッパ行きと、旅を続け、折衝を重ねてきた疲労は、この五十男に相当こたえているのだろう。 「私たち日本の主婦が、毎日毎日、石油不足でどんなに苦しんでいるか、それを中国の婦人の一人一人に聞いてもらいたいのです」  トラックに上がった女が、声を張り上げた。 「私たちはぜいたくをしたいのではありません。ただその日その日を、平和につつましく暮したいだけなのです。夫を安全に職場に送り出し、子供たちを健康に育てたいだけなのです。この主婦としての、母親としての願いだけを許して欲しい、私はそう訴えたいのです」  肥った女は、何度も同じことを繰り返し、そのたびに乾いた拍手の音が、曇り空に広がった。 「中国の一人当たり石油消費は日本の三十分の一かね」  受け取った資料綴りを眺めていた西松が、つぶやいた。 「いやあ、西松君、遅くなって済まなかった」  そういいながら黒沢長官が姿を現した。自宅の火事と娘の焼死の跡始末で長官は多忙だったのだ。 「ほんとうにご苦労だな。日本に居るのより飛行機に乗ってる時間の方が長いんじゃないかね」  黒沢は、努めて陽気さを装っていた。 「いえ、長官こそ大変な時にわざわざ……」  西松は大柄な身体をすぼめるようにして頭を下げた。 「お互い苦労は多いが……」  黒沢は小さな目をしばたたいてつぶやいた。 「辛苦ニ遭遇スルハ一経ニハジマル、というからな」 「なるほど、文天祥ですね」  西松はうなずいていった。 「中国ではそのつもりでやりますよ」  ようやく代表団の人びとは空港に向かうバスに乗り込みはじめていた。  黒沢修二と小宮幸治が、訪中石油使節団壮行会から役所に戻ると、意外な男がエネルギー庁長官室に来ていた。鴻森芳次郎である。  仕立てのいい背広にシックなネクタイを形よく結んだ芳次郎の日焼けした顔は前よりも一層若々しかった。 「二月はじめからインド洋と南太平洋の方を回っとりました。こない真黒気になってしもうて」  小宮は、驚いた。小なりといえども一つの企業集団の責任者が、この時期に南の島々を歩き回っていた呑気さに、である。 「去年の秋にもその方面に行っておられたんでしょう」  小宮は訊ねた。 「まあ、ちょっとね。そらええとこでっせ」  芳次郎は、曖昧に答えた。  芳次郎の用件は、東京にある自分のマンションが全く使われずにあるから、当分の間黒沢に入ってほしいという申し出であった。 「ほったらかしになってますんやから、使うてもらえたらありがたいんですわ。場所も四谷でっさかい」  芳次郎は世慣れた口調でいった。 「それはありがたいお話ですが……」  黒沢はちょっと考えていた。 「いやそれでどうなんてことは考えてません。ここ五年間うちの会社は、通産省から一銭の補助金も注文もいただいとりまへんよって、その点もご心配ないと思いますわ」  芳次郎はていねいに付け加えた。 「そうですか。ご好意に甘えさせて頂きましょうか。実は娘の遺体を引き取るところがなくて困っていたんです」  黒沢はため息をついた。 「そうですか、使うてもらえますか」  芳次郎はホッとしたような表情を見せ、鍵と地図を黒沢に手渡した。  そのあと、黒沢は、石油危機の深刻さを話し、日本の対策が常に後手に回ったことを、反省をこめて語った。 「こないなるともう泥道歩いてるようなもんですからなあ」  芳次郎は妙なたとえを持ち出した。 「はじめは靴を濡らすまいと気い付けて歩いてても、結局はびしょびしょになってしまうよって、はじめに思い切って気い遣わんとさっさと行った方が楽なんですわ。そやよって、まあ一時は抵抗あっても、思い切って石油を使わさん方がええんと違うんですかなあ」  確かにこれも一つの正論であり、政府部内にもこうした意見は生まれつつあった。だが、いまの日本で、どうすれば石油を使わない体制が出来るかが誰にもわからない。この点については鴻森芳次郎も、 「そら社会組織と地域構造の問題でしょ」  と、抽象的に答えるだけだった。そして最後に、 「まあしかし現実問題としてやれることというたら、いまのうちにいくらかでも石油を隠しとくことでんなあ」  と、冗談のようにいって、立ち上がった。     3 「昨日は国会の先生方、不機嫌でしたよ」  翌朝、アメリカ出発前のあわただしさのなかで、留守中の事務打ち合わせを行っている時、寺木が黒沢にそういって、笑った。 「大臣も急用で政務次官が代理でしょ。そこへ長官の代わりに僕ですからね。長官と課長じゃ随分違いますからね」 「そらすまんことをしたな」  昨日の午後、黒沢には娘の葬式があったのだ。どう装おうと、その顔には疲労と悲しみが残っていた。 「いえ、もちろんわかって下さいましたがね」  寺木は慌てて手をふった。 「吉崎公造先生は、今日再質問されるそうですよ。吉崎先生は、長官の好敵手ですからね」  寺木は少しおどけた口調でいった。 「吉崎公造先生か……」  黒沢は遠い昔を思い出すようにつぶやいた。かつては「公害告発議員」として活躍した吉崎議員は、持ち前の闘志と石油に関する豊富な情報ルートで、石油政策問題で鋭い追及を行って、いまも花形議員としての名声を保持しているのだ。 「君、もう行かんと飛行機に遅れるよ」  しばらく、事務打ち合わせを続けたあとで黒沢がいった。  通産大臣を長とする訪米石油使節団の出発する十二時三十分まで、あと二時間もなかった。寺木は随行するのだが、自動車が使えないので、羽田空港まで一時間以上見ておく必要があった。  今日の訪米使節団は、昨日の訪中団とは逆に地味なものだった。団長は山本通産大臣だったが、メンバーはわずか七名、しかも石油会社と商社の社長、専務の加わっているほかは、通産、外務、大蔵の役人と大臣秘書官という構成だ。 「私も見送りに行くよ。国会の始まる二時までには十分時間があるから」  と、黒沢は立ち上がった。  彼は、残っている事務打ち合わせや今日の国会質問の話を、空港までの道中で聞くつもりだった。  黒沢は出がけに石油第一課に立ち寄り、 「必ず一時半までには戻るから、国会答弁の資料を頼むよ」  と、小宮幸治に念を押すと、寺木を促して雨雲の下へ出て行った。  だが、黒沢修二は、午後一時半に戻って来なかった。一時四十分になっても、五十分になっても、戻って来なかった。小宮は、黒沢長官が羽田から直接国会へ行ったかも知れぬ、と思った。  小宮は資料だけを持って、国会へ行ってみた。西松部長も寺木課長も外国出張中で、ピンチヒッターに立つ者もいなかったのだ。  小宮が衆議院の商工委員会室に着いた時、吉崎議員の質問は始まろうとしており、黒沢長官の欠席に政府側は困り果てていた。小宮は資料包みを開いて政務次官に見せたが、内容は専門的であり、さすがの次官も一見してすぐ答弁できるものではなかった。細かな説明をしている暇などもちろんなかった。止むを得ず政務次官は、エネルギー庁長官の欠席を陳謝し、明日再答弁したい旨述べるほかなかった。  しかし、吉崎議員は収まらなかった。 「突然の質問ならともかく、昨日の委員会で、今日再質問すると予告しておいた事項について答えられないとは何事か。しかも答弁責任者たるエネルギー庁長官が無断欠席するに至っては国会軽視も甚だしい」  吉崎議員は、そういって政府側の責任を激しく追及した。  小宮幸治が、国会を出たのは午後三時頃だった。昼頃から激しく降り出した雨はまだ続いていたので小宮は地下鉄駅に入った。国会議事堂前から霞が関までの一駅を地下鉄に乗ろうとしたのだ。そこではじめて停電を知った。停電はもう二時間近く前から続いていたのだが、通産省にも小型の自家発電機があり、停電と同時に作動して最小限の灯火とコンピュータなどの電源は確保していた。そして、節電中の役所では、この�最小限の灯火�が、普段の照明量とさほど変わらなかったため、小宮は停電に気付かなかったのだ。もちろん、国会議事堂にも自家発電機が作動していたので、全くわからなかったのである。  この日の停電は、東京二十三区の大半、約百二十万世帯と多数のビル・工場を含む地域を、一時八分から八時十四分まで、七時間と六分の間完全に麻痺させた。  全国の火力発電所はいま、四割以上が停止しているが、工業用電力の使用減によって、朝夕の家庭用電力使用のピーク時に、水力発電をフル操業すれば、それで十分だった。ところがこの日は昼頃から激しく雨が降り出し、急に暗く寒くなったため、家庭用電力使用が、いつになく昼間から多かった。とくに午後一時、都市ガス供給が停止すると、暖房や炊飯用に電熱が使用されだしたためか、住宅地での電力使用量が急増し、昼休みの終わった工場などの電力使用再開と相まって、異例の使用量急増を見た。このため、電力の需給が一時的に不均衡になり、電圧の異常低下を招き、その結果、過負荷装置が働いて広範囲の送電を停止することになった。  過負荷装置は、電力需給の一時的アンバランスによって生じる重大な事故を防止するためのもので、一定以上の需給不均衡が生じると自動的に作動するようになっている。通常なら、こうした事態が生じても三十分ぐらいで回復するのだが、電力事故が多発している今日では、電力会社側の態勢が急に整いかねたことと、停電範囲のあまりの広さのために、かなりの長時間停電となってしまったのだ。しかし、それでも、全く同じような原因で起こった、一九六九年のニューヨーク大停電に比べれば、ずっと回復は早かった。ニューヨークの場合、全市約三百万世帯と膨大な数のビル群が、正確に二十四時間停電したのである。  だが、この停電による東京の混乱は、ニューヨーク大停電に劣らなかった。いまの東京には自動車交通がほとんどなくなっていたからだ。  東京都内の交通機関はほとんどすべて停止し、二百万人以上の人びとが、勤め先や買物に出かけた場所で釘付けになった。途中の駅で立往生した者も多かった。電車に乗っていた人びとは一時間以上も罐詰にされたあげく、雨の降る線路を最寄の駅まで歩かされた。エレベーターに閉じ込められた何千人かの人びとは、係員が手動装置で扉を開き、救出してくれるまで暗闇と息苦しさの中で立ちつくさねばならなかった。それは、場所によっては四時間以上も続いた。  黒沢修二エネルギー庁長官の乗り合わせたモノレールは、もっと不運だった。この最新式の交通機関では、全く脱出の方法がなかったからである。  モノレールは、地上十五メートルもの高さのところを、幅七十センチほどの、ただ一本のコンクリート・レールにまたがっているため、降りることができない。車体の前後から出て、コンクリート・レールの上を歩くことはできそうに思えたが、手すりのないコンクリート・レールの上を何百メートルも歩くことは素人には不可能だ。しかも、たとえそれができて駅の所まで辿り着いたとしても、レールとプラットホームの間は三メートル近くも開いており、しかもホームの方がかなり高いから、ホームに跳び移ることは不可能なのだ。  黒沢エネルギー庁長官は、国会のことを気遣いつつ、なす術もなく、ただひたすら停電が一秒でも早く回復することを祈るほかなかった。  車両の中は寒く、窓の外には夕暮が迫っていた。光を失った東京の街は、黒い凹凸の陰となって不気味にうずくまっていた。黒沢には、このモノレールの中の何百人かの乗客が、日本国民のサンプルのように思えた。彼らはみな、疲労と寒さと暗闇とに、怒り苛立ち怯えていた。淡い非常灯だけの車内で、どの顔も暗く憂鬱だった。車内のあちこちで、座席の権利とか、子供の流した小便とかが原因となって不快な口論も生じた。運転台の方からは運転士を怒鳴りつける乗客たちの怒声が伝わってきた。不運な運転士はただひたすらに謝っているようだった。その姿が国会や陳情団にひたすら謝りつづけている自分自身に似ているように、黒沢は思った。  彼は、いまこの瞬間、自分が集団の一員でありながら全くの傍観者でいられることの幸せを感じた。そして、ほとんどすべての財産と娘の一人とを失った自分が、かえってこれまでにない解放感に浸っているのに気づいた。 「失うことは解放されることだ」  黒沢はつぶやいた。そして、これはセネカの文句だったかな、と考え、暗がりのなかで苦笑した。昨日、文天祥を気取った自分が、いまセネカを思っていることが、おかしかった。     4  黒沢修二は目を覚ました。部屋の中はまだ暗かった。モノレール事故の疲労は、そのまま足腰に残っている。まだ、それほど眠ってはいないはずだ。 「あなた、電話」  妻の寛代が、ベッドの上にはね起きた。その目が、ひどく怯えているのが、暗がりの中でもよくわかった。あの火事以来、彼女は物音に神経質になった。特に夜の電話の音には怯えた。彼女は、去年の十一月の未明にかかって来たあの外務省からの緊急連絡の電話が、自分たち一家の不幸の予告であった、と信じているらしい。 「ああ、俺が出る」  黒沢は枕元のスタンドをつけると、わざとゆっくりガウンを羽織ってみせた。 「産業政策局長の今泉です」  相手は、名乗った。 「ああ、黒沢だ。君はまだ役所かね」  今泉と黒沢とは、同じ年に通産省に入った、遠慮のいらぬ仲だ。二十人近い同期の者もすでにあらかた勇退し、いまなお通産省にいるのは、黒沢とこの今泉ともう一人、中小企業庁長官の長谷の三人だけになっている。 「急なことでなんだが、明朝七時、といってもあと三時間余りだけど、緊急幹部会を開くんで来てほしいんです……」 「また、何事ですか」  つい十数時間前に山本通産大臣をアメリカへ送り出したばかりだ。大臣不在中は重大な政策決定をさし控えるのが慣例なのに、早朝幹部会を開いて何をしようというのか。 「いや実は、緊急事態なんです」  電話の向こうでは、誰かに聞かれるのを恐れるように声を低めた。 「僕もいま、聞かされてびっくりしてるんだが、実は……明日からモラトリアムだ」 「そ、そんなバカな」  黒沢は思わず大声を出した。 「いま、そのための事務次官会議が終わったところだ。間もなく閣議が始まる。明日から少額の個人預金の支払いを除き、金融は一切停止になるんです。関東大震災以来六十年ぶりのモラトリアムが、明日から実施されるんだ」 「そら無茶だ。急に明日からなんて無茶だ。たださえ手形取引が混乱している時期に、モラトリアムなんて無茶だ」 「そらそうだろうが、緊急事態だから止むを得んのだ」  今泉は、苛立ったようにいい返してきた。 「それにしてもひどい。なぜもっと早く連絡せんのだ。こっちだって業界指導の準備がある。これじゃ、石油流通にも責任が持てんぞ」 「それがそうできなかったんだ。この緊急事態は、昨日の停電で突発したんだ」  昨日の停電は、東京二十三区のほとんど、つまり日本の�頭脳部分�の全部をおおった。だが、それだけなら大したことはない。半日分仕事が遅れたとか、二、三百万人の人が立往生したとかいってもなんら致命的な問題ではない。重要な施設の大部分は、自家発電機を備えており、業務を続けることができた。  しかし、かなりの数のビルは、それが必ずしも巧くいかなかった。元々、消防法の規定で、燃料は四、五時間分しか置いてなかったうえ、自家発電機に注意が行き届いていなかったところも少なくなかった。発電用燃料が古くなったり、汚濁していたところもあれば、いつの間にかそれを暖房用に抜き取られていたところもあった。電源担当者が辞めたり、休んだりして、いなかったところも珍らしくなかった。  これも、一般のビルやホテルぐらいなら大した問題はなかった。だが、こうしたなかに、大銀行のコンピュータ・センターが含まれていた。電圧の異常低下とそれに続く停電の間に、某市中銀行のオンライン用中枢コンピュータが狂ってしまったのである。  すべてが数値化されているオンライン・システムでは、わずかな狂いが致命的な結果を生む。コンピュータのパルス一つのずれで、支払いが入金になったり、当座預金口座への払い込みが普通預金の同番口座に入ったり、何万円かの払い出しなのに十億の桁に数字がついたりする。この銀行では、預金通帳記録も、手形・小切手決済も目茶苦茶になってしまった。  しかも停電が起こったのは、午前中の手形・小切手決済が、全国の支店から東京のコンピュータ・センターに集中的に送られていた時間だった。誤記数は数万件に及ぶと見られた。決定的だったのは、この銀行が極度の中央集中制を採っており、東京のセンター以外に集中記録がなかったことだ。あまりにも中央集権化が進んでいる日本の弱点を、この市中銀行は象徴的に暴露した。  銀行が事故に気づいたのは、停電回復後、この日の決算を始めた時、膨大な数の支払い手形に、預金不足のマークが打ち出されてからだった。銀行内部は大騒ぎとなった。だが、内部の異常事を秘密にする金融業の慣習的本能として、銀行は当初、これを、隠密裡に自力で処理しようとした。だがそれは無理だった。たった一晩のうちに、百万以上の口座を各支店の端末器記録から改めて引き出すことは不可能だ。その日の取り扱い分だけでも不可能に近いが、誤った記録が入った方を捜すのには、全口座を洗い直さねばならないのだから、絶望的だった。かといって、このまま明日の営業を始めると、何千もの企業が不渡手形の通告を受けたり、何万もの預金者が巨額の預金残高を記載されたりしてしまう。  結局、銀行は、異常事態の発生と一週間の営業不能を大蔵省と日本銀行に通知せざるをえなかった。それは、もう夜の十一時に近い頃だった。  午前一時、大蔵省に、次官、銀行局長、理財局長、国際金融局長、それに日本銀行の総裁や理事たちが集まった。この予想外の事態に、誰もが茫然自失の体だった。ただ、一行だけ休業させるわけにはいかない、という点では、意見が一致した。一銀行だけ営業停止すれば、当該銀行の取引先だけが支払い不能になり、連鎖反応を起こして金融体系を崩してしまう。国民全体が不安に戦《おのの》いているこの時期に、それが預金者の取り付け騒ぎに発展し、全金融機関に波及することは間違いない。  コンピュータが回復するまで、当の銀行だけ預金通帳を手書きにすればどうかという案も出た。この場合は、小切手や手形、それにオンライン・ネット式の預金引き出しについては無制限の支払いに応じねばならない。しかし、それにしても秘密が守られる限り、銀行の被害は大したものにはなるまい。預金残高以上に手形・小切手を切っている企業はそう多くはないからだ。だが、急に一行だけが通帳を手書きにすることは預金者にすぐ異常を悟られるに違いない。いやその前に、一万数千人の行員の口からそれは漏れるだろう。第一、明朝までに、全国三百余の支店に、それを通知し、徹底することが不可能だ。  大蔵・日銀の首脳会議は、議論を繰り返したあげく、この際、モラトリアムに踏み切るべきだ、という方向へ決まった。  急遽、大蔵大臣に連絡がとられ、関係各省庁の次官と金融担当局長が呼び出された。銀行協会会長はじめ金融・証券業界の代表者も集められた。未明の緊急閣議が開かれた。午前三時五十分、もう議論の暇さえない時間だった。  午前六時五十分、黒沢修二が通産省に着いた時、向かいの大蔵省のビルは、ほとんどの窓に明りがついていた。北海道から九州・沖縄まですべての金融機関に、モラトリアムの実施とその方法を通知するための活動が行われているのだ。それはまた、諸外国や国際金融機関へも行われているはずであった。  機動隊員を乗せたトラックが、早朝の街を走った。預金者の騒動に備えて、各金融機関の保護に当たるためだ。そして虎ノ門界隈の銀行では、早くもモラトリアムの実施を告げる貼紙が出された。 [#ここから1字下げ] 「今般、政府の指示により、預金、小切手等の取り扱いは、当分の間次のように制限されることになりましたので、御了承下さい。 一、普通預金、総合預金の現金引き出しは一口座につき、一日三万円以下とする 一、小切手、手形の支払いは停止する 一、クレジット・カードによる現金引き出しは停止する 一、満期または解約定期預金は、一旦普通預金に繰り入れ、以後一般の普通預金同様の扱いとする」 [#ここで字下げ終わり]     5  大阪東部の住宅街で、お米を買いに来る客は、いつもより多くなっていた。自動車燃料が乏しいため、大口の食堂などのほかは、お米も配達はせず、店頭売りになっているのだ。  モラトリアムの実施は、通貨に対する信頼性を根底からくつがえし、人びとを一層激しい買い溜めに走らせた。すでに昨年末からの騒ぎで、現金は十分に出回っていたが、買うべき商品の方は、何もかもが足りなかった。このため、一部の人びとは�お米でも買って置こうか�という気になった。お米は政府があり余るほど持っているという安心感もようやくぐらつき出していたのである。そして、三月五日、モラトリアム実施二日目の午後、この地区の一軒の米屋で、お米が売り切れた。  この米屋ではすでに前日、店の在庫が少なくなっていたので、朝方から問屋に配送を依頼していたのだが、いつもは数時間で届くお米が、なかなか来なかった。問屋の方でもトラック燃料を節約するため、一回の配送ルートで、何軒かの小売店をカバーしようと考えたのである。  午後三時頃、この米屋は何の気なしに�お米売り切れ�の貼紙を出した。  だが、古いポスターの裏にマジック・インクで気安く書いたこのビラが、マルチン・ルッターがウッテンベルグの教会堂に掲示したカトリック教会弾劾文以来最大の社会的反響を呼ぶことになった。  一時間後、この地区の何軒かの米屋に行列が出来た。それを見て不安にかられたより多くの人びとが、行列の後尾に加わった。人びとは、できる限り多くを買った。乳母車や自転車を持ち出して来た主婦もいたし、夫や息子たちを運搬用に連れて来る者もあった。  この地区の米屋は次々と売り切れになった。買えなかった客は他の店へ走り、そこもまた売り切れに追い込まれた。  �お米売り切れ�のうわさが伝わったのははやかった。慌てた東大阪の主婦たちは、親類や知人にこの事態を知らせ、「そっちで買えたら買うといて」と電話をかけた。  午後五時にはもう、大阪とその周辺都市の全域で、米屋の前に長い行列が出来た。うわさには尾ひれがついた。�問屋にもないそうだ�とか、�政府もあまり持っていない�とかいう話が流れた。それには�農民が諸物価に比べて安いから政府に売らなくなったからだ�とか、�石油不足で脱穀ができなかったのだ�とか、さらには�燃料不足で乾燥不良になったから大量のお米が腐ったんだ�という、もっともらしい理屈さえついていた。  異変が大阪食糧事務所に伝えられたのは遅く、午後四時半頃だった。しかもそれは、東大阪の一部で二、三の米屋が売り切れた、というだけのものだったので、食糧事務所でも関係の問屋に、なるべく早く届けるようにと、指令した程度だった。事務所の職員が帰り仕度を始めた五時半頃から、情勢の緊迫を知らせるニュースが入りだしたが、食糧事務所はまだ楽観していた。小売店へお米を届けるのは、まず問屋のやる仕事だから、問屋が動けば済むと考えたからだ。役人たちは、この時間から食糧倉庫を開くなどということは全く考えなかった。時間外に倉庫を開くのは手続上も、労務関係からも面倒な問題が多いのだ。それに、もうすぐ米屋の閉店時間になるから、買い溜めも収まると考えた。だが、米屋の前の行列は、夜に入ってますます長くなった。お客たちは、売り切れになるまでは閉店を許さなかった。  大阪の「米騒動」がテレビやラジオで報じられた三月五日の夜、全国の大都市の人びとは、恐怖にとりつかれた。マスコミは、農林大臣や食糧庁長官の「お米は十分にある」という談話を伝えた。とくに翌朝の新聞は、政府の保有米だけでも、今年の秋の収穫期までの消費量に匹敵する量があることを、詳しい数字で報じた。  しかし、人びとは安心しなかった。これまでも何度か、�モノはある�という報道のあとで、本当にモノがなくなった経験があったからだ。翌六日、大阪をはじめ全国の大都市で、米屋の前に行列が出来、正午頃には、東京でも名古屋でも、札幌や北九州でも、売り切れる米屋が続出し、問屋の配送だけでは到底追いつかなくなった。  農林省は、食糧庁長官通達を出し、各地の食糧事務所に倉庫を開かせ、各問屋にお米の急送を命じた。だが、食糧事務所でも問屋でも、この激しい米買いに対応するほどの米を配送するに十分なトラックを集められなかった。  政府の食糧倉庫からの出荷こそ、普段の三、四倍になったが、問屋から小売店への配送は普段の二倍程度しか進まなかった。しかもそれさえかなり時間がかかり、多くの地区では午後の遅い時間になってから到着した。大阪はもちろん、東京や横浜や神戸などでも、午前中に売り切れた米屋の前で、長時間待たねばならない人びとが多数出た。やっと到着したお米も、瞬く間に売り切れた。一部の地区では、この日、全くお米が届かない店さえあった。こうした行き違いがお米はほんとうに足りないのだ、という確信を人びとに植えつけていた。  翌七日、前日以上の行列が出来た。  この日は、政府の側でも前日よりはるかに多くの輸送力を動員できた。問屋を経由せず、食糧倉庫から小売店に直送する方法も採られた。  この日の政府の出荷量は、普段の日の八倍に達した。また、多くの地区では午前中にかなりの量のお米が小売店に届いた。だがそれでも需要のすべてを満たすわけにはいかなかった。不慣れな直送をしたため、一部の地区には大量に届き、他の地区はごくわずかしか来なかった。また他の一部は全く忘れられてしまったりもした。半日間も走って届け先がわからずに引き返して来たトラックもあった。 �お米は足りない�という危機感は、不幸なことに、ある意味で正しかった。  政府は大量のお米を保有していたが、そのほとんどが東北や北陸などの米産地の倉庫にあった。ここから大都市の消費地へ、この猛烈な米買いに間に合うほどのスピードでお米を輸送することは、困難だった。  軽油欠乏のため、米産地から東京や関西の大消費地まで、大量にトラックで運ぶことは全く不可能だ。通常利用されている船舶では一週間以上もかかる。鉄道貨車も、ディーゼル燃料の不足で思うにまかせぬうえ、貨車の動員と積み込み要員の確保などでかなり時間がかかりそうだった。  翌三月八日の夕刻、神戸食糧事務所が、倉庫の米が全くなくなったと、急報して来た。「米騒動」はついに本物の食糧不足を招いたのだ。     6  オイルタンカー特有のパイプの並ぶ平たい甲板は、早春の淡い陽をにぶく反射させていた。  承天丸は、一月にアラビア湾から帰航して以来、三ヵ月もこの大阪・南港のバースに繋がれたままだ。緑川光は、保安要員として、七人の仲間とともにこの船に寝泊りしていた。  承天丸と同じように、運ぶべき荷物のない巨船が、二十隻近くも、狭い南港の泊地に浮かんでいる。どの船にも、動きも音もなかった。対岸には、工場群やアパートの無機的な凹凸が並んでいた。だがそこもいまは、静まりかえっていた。海までが、申し合わせたように静かだった。水は暗く淀み、瀕死の軟体動物のように上下にわずかに震えていた。 「三月八日の正午か……」  大型の防水時計を見て、緑川はつぶやいた。航海中は毎日のように、船の位置に合わせて動かしていた針も、いまではいじる必要がなくなっていた。 「本店で在船証明もろていったら、港の物品給与所でお米を十日分だけはもらえるそうですわ」  近寄ってきた通信士が報告した。この船上でも、陸の「米騒動」が伝わっていた。 「それから本店の船舶課長ところへも寄ってほしいというてました」  そう通信士はいい添えた。 「よし、それじゃ俺が行ってやろう」  緑川が大阪港の中央突堤に近い船舶物品給与所に着いた時はもう五時近かった。同じ大阪港といっても、承天丸の停泊している南港と、この中央突堤とはかなり離れている。普段ならランチの便があるが、いまはそれもない。緑川は承天丸から小一時間もボートを漕ぎ、バスや地下鉄を乗り継いで、西区の本店へ出て、さらに地下鉄でここまでやって来た。  本店で、緑川は、船舶課長から、承天丸が近く廃船になるという話を聞かされた。  船齢十六年の承天丸は、まだ五、六年は十分使えるのだが、いまは使い道がない。石油危機が終わったとしても、日本の場合、この石油危機で受けた打撃から国民生活と産業が立ち直り、石油需要が旧に復すには数年かかるだろう。当分の間タンカー船腹は大過剰であり、承天丸のような古い船が働く場所はありそうもない。この際、廃船にしておけば固定資産税や停泊料、それに保安要員の人件費や船内宿泊費など、かなりの経費が節約できる──本店の船舶課長は、こう説明した。 「君たち正社員の身分は会社が保証する。君には支店の課長級のポストを捜しているから安心してくれたまえ」  と、船舶課長はいい足した。  だが、緑川は少しも安心できなかった。彼は、自分の人生が、いま音をたてて飛び去っていくような気がした。彼は海が好きだったのだ。  緑川は、受け取った米袋と雑品の入った買い物袋を引きずるようにして歩いた。もう六時近かった。灯火の乏しい夕暮の街に、珍しく赤い灯をつけた店があった。緑川はつい店のドアを押した。帰りのことを考えて、酒は少量に止めた。勘定はびっくりするほど高かった。  緑川が、住之江に戻るために乗った地下鉄が、花園町駅で停止した。八時過ぎだった。ちょっとした事件が起きたからここで停止する、というだけのアナウンスがあり、乗客は降された。  重い荷物をかかえて、腹立たしかったが、南海電車に乗り換えれば帰れぬことはなさそうだし、面倒なら泊ってもいい、という気楽さがあった。 〈火事だな〉  地下鉄の駅を出た時、緑川は思った。  大勢の男女が、車通りの途絶えた道に群がっており、その先にそれらしい状況が感じられたからだ。緑川は何気なくその方に歩いた。火が見えないのに、人数の多いのと、叫び声の騒々しいことに、彼はまだ気づかなかった。承天丸の廃船処分と陸上勤務への配置換えの話が頭の中に残っていて、注意力を欠いていたのである。彼は事の真相を知る前に、事件の中心地点にかなり近づいており、物凄い数の群衆に取り囲まれていた。彼の前で、突然群衆の輪が崩れた。人間の奔流が殺到した。  汚れた服装と汚れた顔の人間の群れだった。目は血走り、頬は引きつり、口々に何事かを大声に叫んでいた。拳を振り上げている者も、棒切れを振り回している者もいた。  不意を突かれた緑川は、この激流に巻き込まれた。二十キロの米袋のため、行動の敏捷さが奪われた。彼は電柱に押しつけられた形で、米袋をかつぎ上げたまま、叫び声を上げながら走る人びとを茫然と眺めていた。その時、横あいから激しい勢いで一人の男が突き当たり、路上に転がった。 「この野郎」  男はわめきながら立ち上がると、緑川にしがみついてきた。乱れた長髪の頭に汚れたタオルで鉢巻きをした、青黒い頬骨の目立つ小男だった。  緑川は左手の雑品袋を捨てて、この襲撃者を押しのけた。 「こいつ、海上自衛隊か」  男は顔を歪めて、叫んだ。緑川の船員服がそう見えたのだろう。 「自衛隊が来やがった」  何人かの目が緑川に向けられた。 「違う、俺はただの船員だ」  緑川は、そう叫ぼうとしたが、それより早く、男はまた跳びかかってきた。緑川は肩の米袋を胸元にかかえ直し、左手で男の胸を強く突いた。男の身体は不思議なほどに軽く吹っ飛んでいた。だがその時、この小男が決定的なことを叫んだ。 「こいつ、米を持っとるぞ」  緑川は慌てた。群衆の外に出ようとあがいた。だが遅かった。彼の身体は引っ張られ、押され、そして米袋を胸の下に隠した形で倒された。  拳と足と石と棒が、緑川の全身を襲った。鼻に強い臭いを感じた。あの日、アラブ首長国連邦の石油タンクが炎上した時にかいだ臭いに似ていた。次の瞬間、緑川は目に赤い火を見た。それはアラビアの砂漠に沈む夕陽のように思えた。  この日、大阪西成の「愛隣」地区で発生した事件は、大規模なものに発展していった。  かつて「釜が崎」と呼ばれたこの地区は、古くから簡易旅館や安い飲食店が軒をつらねる、貧しい人びとの集まる場所であった。この街の住人たちの多くは、建設関係や港湾関係の仕事に従事していたが、いまでは完全な失業状態だった。そこへ、職場と住居を失った人びとが新たに大量に流入し、この三ヵ月間にこの地区の人口は二倍以上に膨れ上がっていた。  この地区には、すでに二月はじめから、終戦直後に似た光景があった。きわめて粗末な食物を売る屋台が現れ、簡易旅館は物凄いつめ込みになり、入り切れぬ人びとは、空地に焚火などをして野宿せざるをえなかった。善意とペーソスに満ちた貧しくも気安い庶民の街の雰囲気に代わって、やり場のない怒りと欝積した不満が殺伐な空気を作った。  三日前に始まった「米騒動」は、この街に致命的な打撃を与えた。この街の食堂の多くが、お米不足のため休業しだしたのである。  人びとは一食を求めて、なお営業している食堂に長い行列を作った。だが、そうして得られるものは、著しく粗末な少量の代用食であり、しかも毎日、値段が上がった。このことが、すし詰めの簡易旅館にも寒い夜空の下での野宿にさえも耐えてきた人びとの、自制心を失わせた。  事件は一軒の大型大衆食堂から始まった。ここは、十粒ほどの豆の煮付けの小鉢とモヤシが五本ほど入った味噌汁とお新香との三品定食とか、鯨肉のどんぶりとかを出す、この地区特有の安直な大衆食堂に過ぎなかったが、ここ数日来店の前には午後三時頃から夕食を求める行列が出来るようになっていた。午後五時の開店時にはすでにそれまでに行列した人びとだけで、この食堂の供給量を上回る人数に達するほどだった。そしてこの日も午後七時前、�売り切れ�の札がかかった時、大勢の人たちが行列に残されていた。  お客の大群と食堂の従業員との間に口論が生じた。しかしないものは仕方がない、という食堂側の主張に、不運な人びとはどうしようもなかった。それでもまだ、諦め切れずに、食堂の周囲にたむろする者もいた。他に行くべき場所とてなかったからだ。  こうした時、食堂の従業員たちが、食事を始めた。空腹な人びとの前で、それは刺激的過ぎた。 「あないにあるやないか、売り切れはウソやぞ」  そんな声が人びとを狂わせたのだ。  食堂の周囲に群衆が集まるのは早かった。食堂の窓ガラスが投石で破られた。一部の人びとは調理室に乱入し、そこに相当量の米や副食物を発見した。飢えと怒りにかきたてられた彼らは、明日のために貯えられていた食物を、売り惜しみと考えて、掠奪した。止めようとした食堂の経営者夫婦を殴打し、従業員を追い回し、外の群衆に�戦果�を知らせた。騒ぎは、別の食堂に飛び火し、人の波はさらにいくつかの食品店や米穀商にも向かった。日用品を積んで通過しようとしたトラックも停められ、積荷が路上にぶちまかれた。少量の食品を持っていた人間も攻撃の対象になった。  事件発生後二十分経って、この地区のマンモス交番から百人ほどの警官隊が出動したが、すでに手に負えなかった。逆に、警官隊の出現が、人びとの行動を一層刺激し、暴動を呼んだ。警官隊は投石に立ちすくみ、路上の自動車はひっくり返されて炎上した。火が彼らの昂奮を高め、店舗への放火を生んだ。  暴動は、一時間後、天王寺方面から新世界、大国町へと広がり、一部は難波近くにまで及んだ。警察と消防は、迅速さを欠いた。機動隊のトラックに十分な燃料がなかったし、消防車も救急車も、燃料不足と路上の群衆とに阻まれて動けなかった。  午後十時、天王寺・弁天町間の国電と、難波以南の地下鉄が全面的にストップし、西成区の大部分が停電、電話不通地区も広がった。城東地区の一部にも、食料品店に対する襲撃や路上自動車への放火が散発し、警察力が分散された。警察は大阪環状線以南に進出できず、愛隣地区のマンモス交番との連絡も途絶えた。  政府は、事態を静観した。というより、暴動が、夜明けとともに収まるまで、手のつけようもなかったのである。結果もまた、その通りになった。午前三時頃から、暴動は次第に収縮し、警官隊に守られた消防隊が進出できるようになった。夜が明ける頃、暴徒の姿は消え、疲れ果てた群衆が路上や公園や空地に坐り込んでいるだけとなった。     7 「西成大暴動」は、日本史上最大のものの一つであった。この一夜、暴徒のなすがままにされた地区は六平方キロに及び、参加者数も十万人以上と推定された。火災は数十ヵ所に発生し、全焼六百戸、半焼四百戸に及び、掠奪を受けた食堂・店舗一千軒、奪われた商品総額は三十億円余りであった。被害店舗数の割に掠奪商品金額が少なかったのは、襲われたのが食堂、米穀商や食料品店に限られていたことと、これらの店にも在庫が少なかったためである。死傷者数も暴動の規模の割に少なく、死者は三十人足らずだった。警察があえて性急な鎮圧を試みなかったこともあったが、暴徒の側にも「人」に対する憎しみは薄かったのだ。この数少ない死者の中に、緑川光という船員が含まれていた。  この暴動には、なんの組織的破壊行動も、政治的背景もなかった。首謀者といえるほどの人物もなく、扇動者もいなかった。人びとは、欝積した不満と耐え難い不安と飢えの苦しみとから行動し、群集心理に煽られて荒れ狂ったに過ぎなかった。明け方に消防隊が入った時、多くの地区で群衆自らが積極的に消火に協力したほどだった。だが、その影響は大きかった。このニュースは、たちまち他の都市にも、同種の暴動を誘発したのである。  翌九日、横浜、尼崎、北九州の各市で小規模な騒乱事件があり、かなりの数の食料品店や米穀商が襲われた。そして十日の夜、東京でそれが発生した。 「東京大暴動」は、「西成大暴動」よりはるかに大規模だった。騒ぎは、大阪の場合と同様、「山谷」と呼ばれる地区の貧しい失職者の群れから起こったが、すぐに学生や一般の労働者なども多数加わった。暴徒数は二十万人を越え、騒乱地域も、浅草、上野、池袋、新宿と広がった。襲撃は最初食料品店や米穀商に向かったが、やがて企業のビルや金融機関、公共施設なども対象に選ばれた。上野、池袋、新宿の国電各駅は、一時暴徒の侵入によって機能を奪われ、田端操車場も占拠され、米産地から急送されて来たお米が貨車から奪い去られた。ヘルメットと竹槍、鉄パイプで装備した過激派学生の集団は、「革命」を怒号し、群集心理に煽られた人びとの先頭に立って、銀行の堅固なシャッターに突進し、電車に放火して、一部ではきわめて凶悪な様相を示しだした。  しかし、大部分の群衆は、全く無組織であり、「革命」よりも「明日の糧」の方に関心を持った。過激派学生集団の行為は、多くの共鳴者を得るには至らず、�国会占拠�を叫ぶ彼らの行進は、容易に警察隊に阻まれた。その半面、�生活自衛・失業反対・飢餓反対�の叫びは多くの支持を得て、政治要求を掲げたデモンストレーション的要素をも含んだ。そしてとくに、池袋や新宿方面では、直接行動への参加者に倍する数の野次馬的群衆が集まり、警備と鎮圧を困難にした。  午後十一時頃、ほとんどすべての交通機関はストップし、停電と断水と通信不能が随所に現れた。警察と消防の機動力は、路上の群衆と倒された電柱や街路樹などに妨げられ、台東区を中心に広がった火災は、かなりの規模になった。  政府首脳は戦慄した。首相官邸に在京の閣僚全員が集まり、緊急対策会議を開いた。 「神奈川、埼玉、千葉の三県から機動隊を集めよ」  という閣僚もいた。 「いや、そんなことをしたら、向こうの警備が手薄になって危い。それより機動隊を国会周辺に集中して、国家中枢機能の防衛に当たらせるべきだ」  と、別の閣僚はいった。 「陸上自衛隊に治安出動を要請すべきだ」  という意見は、何人かの閣僚から出た。国会議員からも、同じような意見を進言して来る電話が何十本も入った。  しかし、これには、かえって群衆を刺激する、と反対する閣僚も少なくなかった。防衛庁長官、防衛事務次官、統合幕僚本部議長らも、自衛隊出動には慎重論であった。外国では、小規模な騒乱でも軍隊が出動することは珍しくないが、日本ではそれは災害救助か爆弾処理に限られている。  議論は続き、総理大臣はいずれとも決しかねた。そのうち、暴動そのものが、午前二時頃から降り出した雨によって、急速に収縮した。  まだ寒い季節であったため、雨を逃れて野次馬の群衆が建物の屋根の下に身を隠したし、付和雷同組の多数の者も姿を消した。警官隊と消防隊が進出できるようになり、午前三時頃には、台東地区の一部を除いて暴徒は排除されていた。  被害は小さくはなかった。暴動参加者数と機能麻痺地区の範囲は、大阪の二、三倍とみられた。焼失家屋や破壊・掠奪の対象となった建物は三倍以上、死傷者数も四倍近くに上った。とくに公共施設、鉄道、電力施設などの損失は、大きかった。国鉄の上野、池袋、新宿、田端操車場などが一時的に占拠され、いくつかの電車、客車が炎上した。私鉄、都バスなどにも損害があった。注目されるのは、銀行や大企業が襲撃の対象となったことであった。このことは、全く偶発的に発生した、いわば飢餓一揆的な「西成大暴動」とは異なり、政治的要素が含まれていたことを示すものと見られた。  政治的・社会的影響は、直接の被害よりはるかに重大だった。とくに、最も警察力の充実した首都東京において、暴動が発生し、しかもそれを、自然の力でしか鎮静化しえなかった事実は、全国民に大きな不安を与えた。     8  三月十一日、「東京大暴動」が収まって十数時間後、羽田空港では、海津経済企画庁長官を長とする「訪中石油使節団」五十余名が、笑顔でジェット機から降りつつあった。  団員たちは何回も、タラップに並んでカメラに収まった。海津長官は、その都度タラップの中段まで戻って、頭髪の少なくなった頭をそぼ降る小雨に濡らしながら、帽子を振り、笑って見せた。  空港ターミナルビルの前には、日の丸と五星紅旗を飾った、安っぽい舞台が作られていた。その周囲には何台かのテレビカメラがあった。だが、その派手な舞台装置の割には、舞台の前面も空港ビルのテラスも人影はまばらで、千人にも満たないように思われた。 「小宮さん、どうも悪い時期になったね」  A紙の本村英人だった。 「うん、昨夜みたいな大事件が起こるとは、誰も思わんかったからなあ」  小宮は答えた。 「それで具体的成果があったのかね」  すでに二日前に日中共同声明が発表されていたが、そこには肝心の石油援助の具体的数字が入っていなかったのだ。 「あったさ、十日間もいたんだから」  交渉内容を知っている小宮は答えた。  この十日間、昼夜にわたって行われた専門家会議の結果、供給される油種や配船計画まで決定できたことは、日本側にとってありがたかった。 「その成果というのは期待通りだったかね」 「それは期待の大きさによるだろうよ」  小宮はいなした。  使節団のメンバーを乗せた二台の空港バスが舞台の近くに着き、まばらな拍手が起こった。テレビカメラが動き、カメラのシャッターが切られた。使節団員は自らも拍手しながら、舞台に並んだ。子供が何十人も出て来て花束を渡したり、駐日中国大使が使節団員たちと握手したりして、海津大臣の帰国報告の始まるまでに、長い時間が費やされた。 「とくにこの度の石油危機によって、日本人民が直面している窮状に対して、中国は深い同情をもって絶大な好意を示され……」  海津大臣の演説も、両国の友好とか中国側の好意とかを強調する退屈な前文が続いた。 「本年中に五百八十万キロリットルという膨大な原油をわが国に破格の価格で援助することに同意されました。その詳細につきましては、別にご報告いたしますが、これは従来からの輸入分の完全な上積みであります。とくに私どもが感激いたしたのは、その第一便を今月二十日から送り出せるよう中国の労働者、農民のみなさんが昼夜分かたぬ努力をする、と約束されたことです」 「五百八十万キロリットルか……」  本村がちょっと失望したようにつぶやいた。 「そうだ、今年中に五百八十万キロリットルだ」  と、小宮は答えた。 「それで、今月中にいくら来る」 「二十万キロリットルぐらいらしい。とにかく、今年中平均的に来るというからね」 「それじゃ一日たった二万じゃないか」 「それでもいまの中国の産油量から見ると、相当な好意だよ。なにしろ上積み分だからね」  舞台では、海津大臣に代わって、使節団に加わった労働組合幹部が演説をぶっていた。 「五百八十万キロリットルといえば、われわれの家庭で使う灯油罐実に三億二千万個以上であります。しかもそれが、この三月二十日から積み出される。そのためには中国人民は、自らの石油消費を削り、また積み出しのために深夜の残業もいとわない、そういう好意を示されたのであります」  同じ日の午後七時過ぎ、羽田空港に、もう一つ、山本通産大臣を長とする「訪米石油使節団」が降り立った。こちらは、出発の時と同様、ごく地味な帰国ぶりであった。それでも空港貴賓室での記者会見には、四十人内外の記者、カメラマンが集まった。小宮も本村もいた。黒沢修二長官が、あのモノレール事件直後、突然辞表を提出し、それが通産大臣の帰国をまって受理されるはずである。そのことを、小宮は、中国から帰った西松部長に伝え、アメリカから戻った寺木課長にもいち早く知らせねばならなかった。 「今回、アメリカおよびカナダの政府ならびに石油業界首脳と数次にわたり会談し……」  通産大臣は淡々とした口調で、用意したメモを読み、両側に並んだ六人の随員は黙ってそれを眺めていた。 「差し当たり、三、四月の間にアメリカより七十五万キロリットル、またカナダより百万キロリットルの原油を緊急輸入することが決定いたしました。なおこのほかに、従来アメリカが輸入していた南米原油百二十万キロリットルを日本に回してもらうことも決まりました」 「一日当たりにすると、四万五千キロリットルぐらいだね。これで少しは日本の石油事情は好転するかね」  本村が小宮に囁いた。  小宮は、曖昧に笑った。  中国、アメリカ、カナダを合わせて、一日約七万キロリットルの輸入増加は確かにありがたい。だが、それを加えても、日本の石油輸入は一日平均二五万キロリットル内外でしかない。それは平常ベースの三割だ。そして現在の消費量の六割程度だから、さらにきびしい消費節約を余儀なくされることは目に見えている。  一時間後、本村英人は永田町の首相官邸にいた。帰国した通産大臣が取り急ぎ官邸に向かった後を追って来たのだ。  首相官邸はごった返していた。厳重な警戒の門を、閣僚たちや与党幹部が次々と通り抜けた。各紙の記者やカメラマン、放送車も多数集まっていた。明らかに重大会議が行われているのだ。 「いよいよ自衛隊の治安出動らしいぞ」  同じ社の顔見知りの政治部記者が本村に囁いた。 「いや違うよ、警察庁は面目にかけても反対だからな」  横から社会部の記者がいった。 「そうだ、先刻の野党首脳との会談でも自衛隊出動には反対論が強かったそうじゃないか」  と、他紙の記者が大声を出した。  記者の群れが揺れ動き、カメラのフラッシュが光った。与党の副総裁だった。記者たちが、口々に質問したが、副総裁はただ、 「いまは何もいえんよ」  といって奥に消えた。 「閣議に副総裁が呼ばれてるのか」  と、本村が訊ねた。 「いやいま、閣議を中断して政府・与党会談が開かれるらしい。相当思い切った手を打つらしいな」  政治部記者は答えた。 「こら大事だぜ」  急ぎ足でやって来た年配の記者がいった。同じ社の先輩だった。  彼は、声を落としていった。 「先刻の与野党首脳会談で、野党側は与党の提案を全部拒否した、というんだ。大企業中心、産業重視の政策を改めることが先決だ、というんだな。総理困り果ててた、というよ」 「そら、どういうことです」  と、本村は訊ねた。 「とにかくいまやってる石油配分のことだ」  政治部記者は本村の怪訝そうな表情に向かっていい足した。この男も何もわかっていないのだ。 「だけど、これ以上生産を下げたら、モノ不足がひどくなって日本はつぶれますよ」  本村は思わず抗議の口調になった。  その時、また人の輪が崩れた。こんどは与党の参議院議員会長だった。会長は、記者の質問をかわしながら、老人らしい足取りで奥に消えた。 「何か、戒厳令みたいなものを首相は考えてるらしいぞ」  と、誰かが囁いた。 「そういう議決が参議院で通せるかどうかを訊くために、議員会長を呼んだんだ」  別の声が応じた。  本村には、何が起こっているのかさっぱりわからなかった。それは彼が政治に疎いためではないようだ。政治部の記者たちの話も、まちまちだったからだ。  記者たちが、色めき立った。副総裁、幹事長、総務会長、政策審議会長、参議院議員会長らが出て来た。 「どう決まったんです」 「自衛隊出動ですか」 「米の販売制限じゃないでしょうね」  記者たちから質問が乱れ飛んだ。だが、幹事長が一言、 「まだ何にも決めてないよ」  といったほかは、誰も無言だった。  夜中の十二時近くになった。さすがに記者たちも疲れてきて、今夜は暴動は休みかね、などと冗談をいい合っていた。  その時、「官房長官記者会見」という声がした。記者たちは会見室に殺到した。政治部記者ではない本村は、一番後ろの壁際に、目立たぬように立った。彼は、官房長官が一言発言した瞬間、そんな馬鹿な、と叫びそうになった。  発表は、「内閣総辞職」だったのだ。 [#改ページ]  第九章 枯  死     1  四月に入り、陽は明るく風は温くなった。  だが、世の中はますます暗く、人の心はいよいよ冷たかった。自然の気候とは逆に、日本の社会にはこれから本当の「冬」が来ようとしていた。  実際、この一ヵ月の変化は著しかった。大都市では公園や路上にたむろする人びとの数が著しく増加していたし、閉鎖された商店や飲食店も急増していた。三月前半の一連の事件から、全日本に食糧難と治安の乱れが目立ってきたのである。  それに伴って被害も大きく、また深刻になってきた。それは何よりも死者の増加で示された。東京の上野や新宿、大阪の天王寺や梅田あたりの地下道からは、毎朝警察のトラックが何百かの死体を運び出していた。一般の住宅街や団地でも、死者は珍しくなくなっていた。栄養不良による衰弱がちょっとした病も死に至らしめたからである。  その数がどれほどになっているのか、政府も地方自治体も公表はしなかった。あまりにも国民を動揺させることを恐れたのである。だが、それが相当な数に上っていることを、エネルギー庁の小宮幸治は推測できた。三月末から、警察が「死体運搬および焼却のための燃料追加割当」を再三要求して来ていたからだ。その申請書には、 「死体の腐敗による病疫を防止するため」  という、胸くその悪くなる理由が、無造作に書き込まれていた。 〈やはり、十日間の政治的空白は大きかった……〉  と、小宮は思った。  三月十一日の深夜、前内閣が突然総辞職したあと、約十日間は内閣不在であった。だが、その間、事態はどんどん進んだ。そして多くの混乱を呼び起こした。  その典型は電力危機であった。  三月上旬、日本の電力需要は、産業用需要が半分以下に削減されていたが、家庭用などの民生需要が平常以上に伸びていたため、平常の七五%程度を保っていた。そして、石油輸入が平常の三割以下になったいまとなっては、これを維持することもむずかしかった。日本の発電総量の四分の三以上が石油火力だからだ。  エネルギー庁や電力会社は、気温の上昇による電力需要の減少と雪解け水による水力発電量の増加を、祈るような気持で待った。だが、それより早く、発電用重油の備蓄が底を突いてしまった。  エネルギー庁と電力会社は、産業用の一層の削減と共に、一般家庭などの民生用も、週二回の昼間停電と毎日二時間程度の夜間(午後五時から十二時までの間で)停電に踏み切ったのだ。  この一般停電の影響は予想以上に大きかった。仕掛けた電気釜の中の御飯を夕方の停電でグチャグチャにしてしまう主婦も多かった。せっかく買い集めた食料品を冷蔵庫の中で腐らせた者も多かったし、それを食べて食中毒を起こした者も決して少なくはなかった。  それ以上の被害を受けたのは商業・サービス業だった。夜間停電が起こると、どこの商店でも万引が急増した。中には、それをねらってやって来るグループさえあった。そしてこういう連中に限って、それが発覚すると、政府の施策を攻撃するアジ演説をぶったりして、自己の行為を正当化した。こんな場合でさえも、人びとの怒りは万引グループよりも政府に向けられることが多かったのだ。このため、商店の休業・閉店は急増し、特に午後六時以降店を開いている所はほとんどなくなった。  生鮮食料品店や飲食店の受けた被害はもっと決定的だった。肉屋や魚屋では冷蔵庫の停止で、商品の腐敗が生じたし、コールドチェーン組織は全面的に崩壊した。寿司屋も材料保持ができず休業したし、焼肉屋、洋食レストランの類もほぼ同様だった。  このことは一般市民の生活を著しく圧迫した。特に小宮幸治のような独身の外食常用者は、飲食店の閉店で困り果てた。このことはまた、全体の食糧事情を決定的に悪くしていた。  同時に、大量の商店・飲食店の閉店・休業は、膨大な数の失業者を生んだ。特に気の毒なのは、これらの店の住込従業員たちだ。彼らの相当数が住み込んでいた店や寮を追われ、地下道や公園をさまようことになった。この一ヵ月間に、流浪人口が爆発的に増加したのはこのためでもあった。  停電に対する人びとの怒りは大きかった。それは特に、停電の地域的不公平によって拡大された。  政府は停電に当たって、水道ポンプ場とか救急病院とか、どうしても停電させられない「特定重要施設」は停電から除外する処置をとった。このこと自体には誰も異存はなかった。だが、一つの「特定重要施設」を除外するためには、それに対する送電系列全部を除外しなければならない。このため、重要施設そのものとは何の関係もないように見える場所が、しばしば停電をまぬがれることになるのだ。 「あの辺には電力会社の重役が住んでるからだ」 「こっちには通産省の偉いさんがいるからだ」  人びとはそんなあらぬうわさに惑わされ、怒りを燃やした。  特に人びとを憤慨させたのは、大企業の本社の集中する都心部が停電をまぬがれていたことだ。ここには政府の中枢機関や警察・消防のセンター、金融機関のコンピュータなど、社会の中枢管理機能が集まっており、到底長時間停電させられるものではなかったが、一般大衆の目につくのは、大企業や役所のオフィスばかりだ。このため人びとは、都心部の除外を電力会社と大企業の癒着のせいとして、不満に思った。  こうした混乱の中で、内閣を失った政府は、思い切った手を何一つ打てなかった。そしてそれが、事態をますます悪化させ、人びとの国家に対する信頼を失わせたのである。  だが、こうした数々の混乱を招いた政治的空白を政治家の責任に帰することはできないだろう。日本の政治家はむしろ、一般に予想されていたよりもはるかに賢明に行動したといえるからだ。  前内閣が総辞職した当時、後継首班候補と目されたのは、与党内の四人の実力者であった。与党の国会議員団は、この非常の際に当たり、我欲を捨てて一切を副総裁と幹事長、それに元首相の長老の「三賢人」に一任した。それでもなお、新聞は、首班人選には相当時間がかかる、と報じていた。だから、三月十九日の夜、前内閣総辞職後わずか九日で、後継首班の氏名を発表した時には、世間は驚いた。そしてそれ以上に世人を仰天させたのは、選ばれたのが、四人の実力者の一人ではなく、海津前経済企画庁長官であったことである。  海津氏が選ばれたのは、野党にも受け入れられやすい中道的な政見の持ち主とみられていたことと、訪中石油使節団長としての活躍などで急速に国民的人気を得ていたためらしい。事実、この人選は、世間からも、野党からも好評であった。  二十一日、国会で正式に総理大臣に指名された海津は、即日党人事と組閣を完了し、翌二十二日未明、認証式を終えて、新内閣を発足させた。  海津新総理は、当面の重要問題をかかえる大蔵、農林、運輸、自治(国家公安委員長兼任)、防衛の各大臣を留任させ、行政上の空白を最小限に喰いとめた。ただ、山本通産大臣だけは更迭し、新たに若手の尾村衆院議員をそのあとに据えた。そして、自らの後任に当たる経済企画庁長官には、エネルギー学者として有名な石塚和雄博士を民間から加えた。  この電光石火の組閣とその人事もなかなか評判はよかったのである。     2  混乱の中で発足した新内閣は、誕生早々から忙しかった。  海津新内閣は発足三日目、早くも組織的な無料給食実施を発表した。休業中の飲食店を借り、失職中の調理専門家を雇って、良質な給食の行える無料給食所を、十日以内に、東京・大阪を中心に一千ヵ所ほど作り、各々一日、二、三千食を提供する、という構想である。給食所の運営自体は地方自治体に委ねるが、その経費の一切と原材料・燃料の支給は国が責任を持つ、というのである。  この新対策は、大いに新聞ではうけた。野党も拍手喝采した。石塚新経済企画庁長官を最高責任者とする中央委員会のもとに、各地に地区委員会を組織して計画はすぐに具体化された。大蔵省は財政補助を算定し、農林省はお米や副食物の供給を検討し、運輸省がその運搬計画を建て、厚生省が衛生を監督した。通産省は、輸送・炊飯用燃料と食器その他の徴発を分担した。東京・大阪などでは、都や府が中心となって、市町村を集めて具体的な店舗借用や調理人・ウエートレスを募集した。このため総理のいった�十日以内�を待たずして、給食所が全国に二百ヵ所ほど出来た。  だが、たちまちトラブルが続出した。  まず、材料輸送がアンバランスになった。ある給食所ではお米は届いたが副食物は来なかったし、他のところでは肉が山のように運び込まれたのに塩も醤油もなかった。魚があまって大量に腐らせてしまう給食所もあった。急募で集めた従業者の統制もうまく行かなかった。  しかし、何よりの誤算は、給食を求める人びとの数が、多すぎたことだ。公園や路上で細々と行われていた無料給食なら、それを受けるのにためらいを感じた人びとも、飲食店を借りての良質の給食となると、多数駆けつけるようになった。  小宮幸治も、新橋や有楽町に出来た給食所の行列に加わったことが何度かあった。しかし実際に給食を受けられたのは一回しかなかった。なにしろ、昼の給食を得るためには午前九時ごろから行列せねばならない有様だったのだ。  海津新内閣は、もう一つの緊急非常対策として、産業用電力消費を一層削減することによって、家庭の時限停電を止める方針を打ち出した。閣僚たちは暴動の再発を恐れ、内閣の人気を保つことが第一だ、と考えていたのである。  この家庭停電の解消は、多くの工場閉鎖と企業の倒産や解散を伴い、生産活動はさらに低下した。基礎産業がほとんど全面的に停止し、それに連なる加工業も原材料不足によって操業がむずかしくなった。これを口実にした契約の破棄や従業員解雇が広まった。そしてこの結果、日本人特有の企業に対する忠誠心とか愛社精神とかいったものもみるみるなくなっていった。 「すべての危険の中で最も重大な危機は社会組織の崩壊である」  小宮幸治は、「石油輸入大幅減少時の影響と対策」の中の鬼登沙和子の言葉を思い出した。 「日本の社会組織は、一般に考えられているよりもはるかに脆弱である。もともと、宗教的連帯を欠き、地域的共同体も薄く、戦後においては血縁的結束をも失った日本の社会は、核家庭という最小社会単位と国家という最大社会単位との間には、企業=職場という毀れやすい社会組織以外に、ほとんど中間社会組織を持っていないからである」  鬼登沙和子は、日本国の組織的弱点を、中央集中的地域構造を持つにもかかわらず、財政を中心としたあまりにも平常的な権限によって結合された「単層中央集中性」にある、と分析していた。また、企業=職場という社会組織は、本来経済的契約に基づくものであり、大規模かつ徹底した経済・社会混乱のなかでは、崩壊を防止しえない性格のものだ、とも指摘していた。 〈企業=職場組織の崩壊、それはもう始まっている……〉  小宮は、部屋の中を見回して、そう思った。  部屋の隅には、寝具がだらしなく積み上げてあった。それは、残業のためのものではなかった。ここには、若い独身の職員たちが�住みついて�いるのだ。それを証明するかのように、乾物の魚を焦がす臭いが漂って来た。住み込んでいる連中が、昼食の用意をしているのだ。  小宮は久しぶりに鬼登沙和子と話してみたい気になった。あの張りのある日々が懐しかった。  小宮は電話のダイヤルを回した。だが、そこから返ってきたのは、 「アンダマン・フェニックス・オフィス」  という聞きなれぬ名前だった。 「どうも失礼……」  小宮はいま自分が、無意識のうちに、鴻芳本社ビルの会議室の電話番号を回したのに気がついた。そして、油減調査のグループは、もうとっくに解散したのだから、あの部屋に沙和子がいるはずがないことにも気づいた。  小宮は手帳を繰り、関西経営協会の電話番号を調べた。  長い呼出し信号音が続いたあとに出て来た男の声は、鬼登沙和子という人はいない、と答えた。 「今田調査部長おられますか」  小宮は訊ねた。 「ああ前の調査部長ね。あの人は二ヵ月ほど前に病気で辞めて、その後死んだらしいですよ」 「………」  小宮は絶句した。 「なんでも肝臓障害に栄養失調が重なったらしいでんなあ」  相手は屈託のない声でいった。 「前から調査部にいる人に代わってください」  小宮は怒鳴った。  別の男の声が出たが、その男も長い間待たせたあげくに、 「残念ながら臨時雇用の人のはよくわかりませんなあ」  と、つっけんどんにいった。 「鬼登さんは臨時雇用だったんですか」 「そうですよ、非常勤の……」  小宮は黙って受話器を置いた。 「あ、小宮さん、私たちのところでお昼食べない」  振り向くと、女子職員の日高澄江だった。 「今日はメザシとワカメの味噌汁があんのよ」  日高澄江は、十五、六人でお米や副食物を持ち寄り、役所の給湯室のガスコンロや電熱器で共同炊飯をやっている住みつきグループの一人だ。  このところ、昼食といえば、ようやく手に入るコッペパンか、長い行列の末にべら棒に高いラーメンぐらいにしかありつけなかった小宮には、メザシとワカメの味噌汁はひどく魅力的だった。  だが、この公私混同と庁舎管理規則違反のグループに加わることは、少々気が引けた。 「僕が食べるとみんなの分が足りなくなるよ」  小宮は曖昧に答えた。 「平気よ、一人ぐらい」  澄江はこれを小宮の受諾と受けとったらしく、 「出来たら呼びに来て上げるからね」  といって、元気よく跳び出して行った。     3  海津総理は、週三回もテレビ記者会見を行い、�生産より生活を、企業より人間を�のスローガンを繰り返し、なお、いくつかの新政策を行った。  その一つは、四月はじめに行われた失職者給付金の引き上げである。それには、昨年末以来の物価の急騰に対応するという一見もっともな理由はあったが、日本全体の生産力が著しく低下している現状では、やたらと過剰流動性を作り、物価をさらに激しくつり上げるだけだった。もっと悪いことに、それは労働争議と企業倒産と失業者を激増させた。失職者給付金引き上げの結果、一部には失職者給付金より賃金の方が安い、という事態が現れたからだ。  各地に労働争議が起こり、一部の労働者は会社の資材や施設を売って、遅配の賃金に当てた。管理職者はこれに対抗するほどの気力を失っていた。警察も街の警備に追われて手が回らなかった。相当部分の勤労者は、失職者給付金の受給者となった。企業組織の崩壊は全面的になってきていたのである。  海津内閣の�目玉対策�ともいうべき、無料給食所の拡大も、深刻な副作用を生んだ。最初の給食所政策がトラブルの続出で挫折したあと、海津総理は、自衛隊員による国直営の給食所を、京浜地区、関西地区に五、六百ヵ所設けることを決定した。これは比較的巧くいった。一ヵ所平均三十五名の隊員と車両一台が配置された結果、材料運搬の面でも人手確保の面でも良好だった。  だが、こうした無料給食制度の拡充は、まず給食所用の食糧確保を優先したために、一般に販売される食糧は一段と不足した。  また、人びとは勤労意欲と自助の精神を失った。働いているより失職者給付金をもらって無料給食所に行列する方が得だ、という考えが広まった。家庭からの離散者も急激に増加した。無料給食を受けながら、公園や地下道で日を送る青少年の姿が、街に目立った。彼らは、閉鎖中の映画館や休業している喫茶店などにも遠慮なく侵入して、占拠した。そのうえ給食制度の充実した大都市に、地方から大量の人口が流入し、一層流浪者の群れを膨れ上がらせた。  給食を求める者の数が増え、東京の上野や大阪の天王寺などには、毎日、大群衆がたむろし、街全体が異常な雰囲気と臭気に包まれた。  こうしたことから、海津内閣に対する批判が強まりだした。海津内閣は、備蓄石油の最後の部分を放出して、なんとか体制を建て直そうと焦った。だがそれがまた、新たな事件を生み出した。  四月十三日、日本南西部の石油基地で、地元住民が「石油搬出反対」の実力行使に出るという事件が起こったのである。  この地方は、もともと米の収穫が乏しく、観光収入と砂糖きびの栽培、それに大都市への出稼ぎを主な所得源としていた。それだけに、こうした所得が途絶えたいま、住民の生活は極度に苦しかった。特に食糧不安は深刻だった。他の地方から米穀輸送が途切れがちになったからだ。 「ここから石油を運び出すのなら、十分なお米を供給してくれ」  という要求が、地元の知事や住民団体から再三出されていた。  そこへ、いよいよ最後の石油が持ち出される、という情報が伝わると、あの石油がなくなれば中央政府からお米を引き出す術がなくなる、という声が広まった。  十三日朝、一部の住民は、ボートや漁船を連ねて、石油搬出に来たタンカーを取り囲み、シーバースに海上ピケを張った。住民の行動には、地元の知事や市町村長も同情的であったし、警察官もそうだった。  エネルギー庁の西松石油部長や農林省の役人らを従えた尾村通産大臣は、大型ジェット機の特別便で現地へ飛んだ。たった数人のために、大型ジェット機を仕立てたのには、理由があった。座席にもトランクルームにも米袋が積んであった。通産大臣はこの十五トンのお米の手みやげで、地元の納得を得ようと考えていたのだ。  この作戦は、効果があった。大臣は、今後の確実な主食配給を約束して、地元側にタンカー阻止のピケを解かせることに成功したのである。だが、この解決は、地元民の実力行使に対する屈服、という印象を与えずにはおかなかった。そしてそれが、より広範な「反乱」を呼ぶことになった。  この時期、農村の苦しさは都会に劣らず深刻であった。自家生産の米穀・野菜などのほかは、肉、魚、調味料、紙、石鹸の類や燃料など、これらのすべてが欠乏し、値上がりもひどかった。  この年は、冬期の出稼ぎ収入がなかったし、無料給食や失職者給付金などの恩恵もここにはほとんど及んではいなかった。  農民たちが残念がったのは、昨秋の収穫米の大部分を、昨年夏に定められた、いまからみるとタダ同然の値段で、政府に売り渡してしまっていたことだった。特にそれが、まだ村々の農業組合の倉庫に収められている場合にはそうだった。  三月中頃からは、都会に出ている息子や兄弟たちにせがまれて、一旦政府に売り渡したお米を、地元の農業組合の倉庫から借り出した者も現れた。最初は、すぐ返すから一時貸してくれ、といった形で行われていたこの借り出しは、徐々に拡大し、四月中頃になると、政府が買い入れたはずのお米の量と、実際に農業組合の倉庫に積まれているそれとの間に、かなりの差が生じたところも珍しくなくなった。このことは、農業組合の役員や職員にとっても、また借り出した農民たちの間でも、重苦しい�秘密�であった。日がたつにしたがって、借り出したお米を、返す当てがないことが明白になってきたからである。  こうした状況の中で起こった石油搬出阻止事件は、非常な刺激を与えた。  米田豊作というおめでたい名の、東北の一寒村の農業組合長が、この農民の感情を率直に表現した。 「われわれ農民も、お米を搬出するんなら、プロパンガスや日用品を安く配給してくれ、と要求する権利がある。お米はわれわれが汗水たらして作ったものなんだ」  たちまち同じ主張を行う農業組合が全国に何十と現れた。  これには米田豊作自身驚いた。実のところ、彼は、政府買い付け米の一部を、自分の農業組合倉庫から横流ししていたために、その発覚を恐れて、こんな言動に出た小心な老人に過ぎなかった。  だが、いまさら引き下がるわけにはいかなかった。 「政府が、燃料や日用品を安く十分に配給してくれないのなら、われわれ農民も、自分たちの作った米を高く売らねばならない。高い燃料、高い魚、高い日用品を買わねばならないからだ。したがって、政府売り渡し米の取り戻しは、農民の権利である」  数日後には、米田豊作の主張はここまでエスカレートしていた。  米田豊作の周囲に、過激な農民運動家や学生運動家、騒動好きの評論家といった連中が集まって来た。彼らに取り巻かれた老組合長は、やがて、 「政府売り渡し米の搬出を実力で阻止しよう」  と、叫んだ。  供出米取り戻し運動を爆発的に拡大させたのは、四月後半から急速に広まった新しい不安であった。  それは、大凶作の予想であった。  現在の日本の農業は�石油に浮かぶ産業�の一つである。日本の田畑の九五%は石油燃料で動く耕運機で耕され、日本の農作物のすべては石油から造られる農薬と化学肥料で育てられている。  いま、急に石油燃料がなくなり、耕運機が動かなくなれば、人間が鋤《すき》を持ち、鍬《くわ》を振うしかない。  昭和三十年代のはじめまでは、主に牛馬が田畑を鋤《す》いていたが、いまはそんな役畜はほとんどいないのだ。一人の人間が、人力だけで耕せる水田は、せいぜい四百五十坪、一反半(約十五アール)程度に過ぎない。  また、石油が止まり、化学肥料や農薬がなくなれば、日本の農業生産は大幅に減少する。専門家の推計では、最良の天候に恵まれたとしても、化学肥料なしで得られる米の収穫は、平年作の三分の一以下、せいぜい一反当たり三百キロから三百五十キロだろう、といわれる。つまり、一人の人間が精一杯働いて耕せるのは一反半であれば、それから得られる米は、最大限五百キロ内外である。  一方、人間は他に副食物が普通程度にあったとしても、主食として年間百六、七十キロ程度の米は必要である。したがって、一人の熱心な農耕者が養いうる人口は、ようやく三人である。女性や高年齢者の存在を考えて、平均的にみれば、一農耕者の扶養可能人数は二・五人を超えることはあるまい。つまり、一億一千万人の日本人にただお米だけを供給するために、四千四百万人もの農耕者が必要なのだ。この人数は、平時における日本の全就業者数の九割に当たる。  日本に無限の農耕適地と利用可能の用水があったとしても、石油なしでは、全就業者の九割が農耕に専念してようやく最低限の主食にありつけるに過ぎない。それは最も原始的な地域の人間の生活に等しいものだ。  だが実際には、日本にそれほどの農耕適地があるわけでもなければ、無限の農業用水が流れているわけでもない。  結論は明白であった。それは大凶作であり、恐るべき飢餓である。  田植えの時期は、もう目前に迫っていた。農民たちは、苗代作りの段階で、いやでも石油不足と化学肥料の欠乏に直面していたのである。  だが差し当たりの問題は、秋の収穫よりも当面の政府買い上げ米の搬出の方だ。四月末、閣議は連日その対策を議論した。  日用必需品を農民に特配して、米と物々交換してはどうか、という意見が出た。だがそれは、政府が自ら貨幣経済を否定することになり、経済の全破壊につながる。現実問題としても、交換に提供するモノを集めることも管理することも、いまの政府機関の能力では無理だった。  警察に売り渡し米を徴収させるより仕方がない、という強硬意見もあったが、これは一層非現実的だった。何百万人もの農民に対して強権を発動することなど、考えてみるのも無駄なことであった。  結論は、きわめて常識的なものだった。今後の石油配分においては、農業用耕運機用および化学肥料製造用を最優先にすることによって、本年度の米作を極力維持する、というものである。  政府は、各農家に、それぞれの農耕面積などに合わせた「軽油配給券」や「肥料配給券」を配布し、それと引き換えに政府買い上げ米の供出を求めた。  この「配給券」が、現実に軽油なり肥料なりと交換できるかどうか、通産省も自信はなかったが、とにかくこれは、ある程度の効果は上げた。だがこのことは、もはや日本政府は、こうした利益誘導でしか、その秩序を保ちえないことを示すものでもあった。     4  小宮幸治は、この頃毎日、昼と晩とを、日高澄江らのグループと一緒に食事するようになっていた。彼は、配給や買い出しで得たお米などを提出して、役所に住み込んでいる連中の炊く食事のお相伴にあずかっていたのである。  もはや彼には、公私混同はなはだしいこのグループに対する嫌悪感は全くなくなっていた。若い職員を中心としたこの連中との付き合いには、それなりの楽しさがあった。小宮も時にはマージャンや馬鹿話で夜をふかし、彼らと一緒に役所に泊り込むことすらあったのだ。  だが、日を経るに従って、ここも小宮には居心地のよいものではなくなってきた。その理由はただ一つ、彼は食べるほどに食糧提供の能力がなかったからだ。このグループには、農家を実家に持つ者もいたし、副食物の買い入れなどの実に巧みな者もいた。小宮も、そんなうまい方法を学びたいとは思ったが、彼らは、この社会での権威と人気の源泉であるノウハウを決して教えてはくれなかった。あるいはそれは、伝授不可能な特異な才能だったのかも知れない。  このため小宮は、この小さな社会の中で、常に寄食者特有の劣等感を感じざるをえなかった。それは確立した社会の、公認されたヒエラルヒーのなかを、順調に歩んで来たエリート官僚にとっては、はじめて体験する苦しみであった。だが、小宮はこのグループから離れることはできなかった。ここ以外では、ここほどに十分な食事を確保できるところは見い出せなかったからだ。  この時期、多くの「能吏」がひどく苦しめられた。この世相では、学歴も知識もあまり役には立たなかったし、組織人として重視される几帳面さと細心な注意深さも無力だった。几帳面さは融通性の欠如となり、注意深さは臆病となった。  通産省でも、エリート官僚の中にも生活に窮するものが少なくなかった。三月はじめに起きた一連の暴動事件のあとでは、政府の権威も通産省の権限も失われ、法令に定められた役所の権力も官僚自身の生活にはなんの助けにもならなかった。いささかでも役得にありつけた役人がいるとすれば、おそらく各地の物資集積所に勤める末端の役人や直接統制取り締まりに当たった現場の官憲たちだけだっただろう。  何人もの部課長級のエリート官僚が、生活苦という理由だけで、その地位と将来を捨て、地方の役所や農村にある実家に去った。前エネルギー庁長官の黒沢修二も、大臣官房審議官という待機職的なポストと、鴻森芳次郎の提供したマンションを捨てて、信州にある夫人の実家に身を寄せた。だが、地方の実家や姻戚を頼れる者は、少数の幸せ者だった。大部分の者は、自らの不運を仕事の重要性に求め、自分と家族の苦痛を正当化することによって、空想の中に逃避していた。  小宮と同期の公益事業部の課長補佐、安永博もその一人であった。だが安永の場合は、それが悲劇につながった。四月二十三日、安永夫人は、九ヵ月の胎児とともに世を去ったのである。  安永夫人が、米屋の行列の中で昏倒したのは、結婚一周年記念日の翌日だった。  妊娠九ヵ月の彼女には、毎日、五、六時間も米屋や食料品店の前で行列することは到底無理だった。だが、彼ら夫妻はそうする以外に、食物を手に入れる方法を知らなかったのだ。若い役人には高価な闇米を買うほどの貯えもなかったし、新婚早々の夫妻には、物々交換に出せるほどの物もあまりなかったからだ。  しかも安永夫人は、文字通り生命がけの努力をしたにもかかわらず、十分なものは得られなかった。彼女はすでにかなりひどい栄養失調と貧血症に冒されていた。そのうえ彼女は、昏倒したまま長時間路上に放置されたことも悪かった。行列の順番を失う危険をおかしてまで、他人のために救急車を呼ぼうとする者はいなかったのだ。  役所の同期入省者を代表して、葬儀に参列した小宮は、その粗末さに驚いた。病院の死体置場で粗末な木棺に入れられた遺体は、他のいくつかの棺とともに、警察のトラックで市の火葬場に運ばれ、そこにいた宗派もわからぬ僧侶に三分ほどの経を上げてもらった。それが、この不幸な女性とその胎児の葬儀のすべてだった。 「安永さん、お宅は二十八日の午後三時にお骨を取りに来て下さい」  火葬場の職員は一枚のカードを渡した。燃料不足と死亡者の増加で、遺体焼却の順番まで四日もかかる、ということだった。  だが、葬儀の簡略さも同種の棺の多さも、人の悲しみを減ずるものではない。  妻と子とを失った若い男の嘆きは大きかった。安永は、仕事に熱中するあまり、妻の苦しみを顧みなかったことを、ひどく悔んだ。 〈もし俺が彼の立場にあって、新婚一年で身重の女房をかかえていたら……〉  と、小宮は想像してみてぞっとした。  だが同時に、 〈彼女ならなんとかしただろう〉  というつぶやきが、心の内のどこかにあった。小宮は、自分の妻として特定の女性を置いていることに気づいた。それはまぎれもなく須山寿佐美であった。そしてどう考えてみても、そこにあるべき女性は、寿佐美以外にはありえないように思えた。  小宮が、この葬儀から役所に戻りついた時、彼の汚れた机の上に一枚の紙片が置かれていた。それに書かれた走り書きを見て小宮は驚いた。  「近く父の郷里へ行きます。        さようなら   寿佐美」  ただそれだけの文字があったのだ。  四月末の夕方、小宮は青山の須山家を訪れた。  七ヵ月前には、新しく堂々と見えた十階建のビルは、ひどく汚れていた。窓ガラスにはビラが貼られ、そこから突き出された赤旗が色褪せて揺れていた。そして須山家に通じるエレベーターに入る通用口は堅く閉ざされていた。  小宮は六階の、須山企業グループの総本社に当たる須山不動産の役員室を訪れることにした。そこには、寿佐美の父親、源右衛門がいるはずだ。  だが、階段を昇りだした小宮はすぐ不安になった。階段も廊下も事務室も、照明一つついていなかったからだ。ビル全体が廃墟のように静まりかえり、書類や什器が散乱していた。  しかし小宮が六階の廊下の突き当たりにある「社長室」のドアの前に立った時、内部に人の気配がした。 「だあれ、何か用……」  小宮の背後で、声がした。  ボサボサの長髪の小柄な男であった。 「須山社長はおられませんか」 「あんた社長の何かね」  男は用心深い目つきで、小宮を頭から足元まで眺めた。 「ちょっと知り合いのもんで……」  男の友好的とはいえない態度に警戒して、小宮は答えた。 「社長なんかいねえよ」  男は、ドアを開けた。  部屋には、十五、六人の男女が敷物の上にたむろし、汚れた夜具や煤けた七輪や食器類やらがその間に散在していた。 「あんた何も知らんのかね」  男の顔からは、最初の敵意が消えていた。そして、小宮が部屋に入り込むのを妨げはしなかった。  須山不動産とそのグループは、一月末に倒産していたのだ。住宅地もマンションも売れず、銀行融資も途絶えたため、建設会社や地主に振り出した手形が落とせなかったのである。  源右衛門は、中部地方にある個人所有の山林を売却して給与に当てようとした。しかし、その山林は、燃料に窮した付近の住民が、あらかた伐り尽していた。会社の者からその話を聞いた源右衛門は、怒り狂い、一人で現地へ赴いた。三月はじめのことだった。それ以後、消息が全く途絶えている、という。  社員の散るのは早かった。社員の大部分は給与の残金や退職金を諦めた。結局、いまこの部屋にいる十数人だけが、資産処分のあとの先取特権を当てに残っている、というより仕方なくこのビルの中に住み込んでいる、というわけであった。 「それで、ご家族はどこへ行かれたんで」  小宮は寿佐美のことが気になった。 「知らねえな」  長髪の男が冷たく笑った。 「なんでも関西の方らしいけど、よく知らんよ」     5  五月六日から再開された国会は、専ら政府の不手際に対する攻撃に終始した。野党議員ばかりでなく、与党議員も遠慮しなかった。現実の日本経済と国民生活が破滅状態にある以上、政府の責任を追及してゆく方が、国民の人気は得やすいに決まっている。実際、政府攻撃の材料はいくらでもあった。鳴り物入りで始めた無料給食所が、一ヵ月後のいまでは半分以上閉鎖されている。政府売り渡し予約米の引き渡しと交換に農民に給付された燃料や肥料の配給券が一向に現物と引き換えられない。物価は上がるし、対策は不十分だ。そして何よりもいまでは、政府の法令さえもほとんど守られていない。  だが、いまとなっては、現在の政府のやり方を責めても仕方のないことだった。今日の大災難の原因は、はるかに前から用意されていた、という認識が広まったのはこのためだ。  従来の政策などを総点検しその責任を追及する臨時調査特別委員会が、設けられた。まず、委員たちが、現在の担当官僚たちに問題点を質し、その原因を追及した。それが、石油危機発生以前の対策不備にあることが明らかになると、その当時の責任者を喚問して責任を追及する、という形になった。  ある新聞は、これを「新しい東京裁判」と名付けた。  この責任者捜しの「裁判」は、一般大衆の喝采を博した。人びとは、今日の困苦の吐け口として具体的な憎悪の対象を欲していたのだ。  この臨時調査特別委員会の一人に、かつての公害告発議員吉崎公造がいた。彼は、食糧自給を目指した農業政策が、肝心の石油備蓄を怠っていたことを追及したりして、大いに活躍していた。  五月十五日、吉崎公造議員の通産省エネルギー庁に対する質問が行われることになった。  午後二時半、A紙記者の本村英人は国会議事堂南翼二階の臨時調査特別委員会室に入った。吉崎の質問は三時からの予定だが、委員会室の左端に設けられた記者席は超満員だった。久し振りにテレビカメラが配置されていた。石油に詳しい吉崎が、いよいよ問題の核心をつくというので、この日の委員会は注目されていたからだ。  吉崎自身もわざわざ記者席まで来て、自信に満ちた笑顔を見せた。  記者席と向かい合った右端にいる政府側の陣容は心細く思えた。そこには、今泉エネルギー庁長官と寺木石油第一課長、それに課長補佐の小宮幸治の三人が、小さくかたまって腰掛けていた。  今泉長官は、この石油危機がなければいま頃は通産事務次官に昇進しているはずの人物だが、黒沢前長官の辞任で急遽産業政策局長からエネルギー庁長官に横すべりしたのである。通産省は、目下のエネルギー庁の重要性に鑑み、次期次官の俊英を長官に据えたわけだが、就任以来まだ二ヵ月、しかもこの間当面の問題に追われてきたため、過去の石油政策について勉強不足は否めない。  長官の不慣れを補うべき西松石油部長は、いままた、世界石油消費国会議に出席のためヨーロッパへ出張中だった。  政府側に不利と見られたのは、尾村通産大臣も、海津内閣の政策立案の中心人物として攻撃目標にされやすい立場にあったことだ。もし吉崎議員に倒閣の意図があれば、通産大臣を責めたてるのは効果的だし、逆に尾村の立場からすれば責任を過去の政策にかぶせた方が楽になる。すでに国民的人気の衰えた海津内閣を守るには、それしかないという意見も記者席には強かった。  今泉長官の小さな顔は常よりもしわが深かったし、寺木鉄太郎の広い額も心なしか青白さが目立った。 「今日、わが国が西欧諸国に比べて、はるかに深刻な影響を被っているのはなぜか」  フラッシュとテレビカメラの照明の中で、吉崎議員は切り出した。  これに対し、尾村通産大臣は、主として石油への依存度が高過ぎたことと石油備蓄が著しく少なかったことの二つのためだ、とあっさり認めてしまった。  吉崎議員は、詳細な事実関係を事務当局に問い質し、今泉長官と寺木課長が交互に答えた。  吉崎議員は、静かに質問を続けた。 「石油供給が削減された場合、全エネルギー源に占める輸入石油の割合が一番高い日本は、他のどこの国よりも甚大な影響を被ることはわかっていた。しかるに石油備蓄量は、どこの国よりも少なかった。それも実質的には西欧諸国の半分乃至三分の一しかなかった。そのため、昨年末以来の中東動乱によって石油輸入が大幅に減少するや、たちまち日本は西欧諸国とは比較にならぬ被害を受けた。こう理解してよろしいですな」 「いろいろ細かい事情はありますが、大筋においては、ただいまのお説の通りかと存じます」  今泉長官は低い声で答えた。  委員会室は静まり返っていた。 「委員長」  吉崎議員が発言を求めた。 「吉崎公造君」  美津川委員長が機械的な声で吉崎議員を指名した。 「いま、長官が確認した通りなら、政府・通産当局は今日見るような深刻な事態が生じることを知っていた。少なくとも予測できたはずだと思うが、その点はどうですか」  議場にざわめきが起こった。政府委員席で、今泉長官と寺木課長が額を寄せ合った。 「委員長」  数秒後、寺木が発言を求めた。 「寺木参考人」  委員長の顔にも緊張の色が浮かんだ。 「石油輸入が大幅に減少する事態が起こるか、それがどの程度のもので、どれほど続くか、といった点は非常にむずかしく予測しえなかった面も多々ありますが、ただいま吉崎委員の申されたような場合、つまり石油輸入の大幅かつ長期にわたる減少があればという仮定を置けば、程度の差はあっても、相当深刻な事態になることは、十分予測しておりました」  議場は騒がしくなった。委員の国会議員たちも、記者たちも、こう率直に通産当局が認めようとは思っていなかった。 「これは驚いた」  質問者の席に立った吉崎議員は、声を高めた。 「それでは通産省は、今日のような事態、即ち経済は崩壊し、国民は塗炭の苦しみに陥り、さらに何十万人もの人命が失われることを予想していながら、なお安閑としていたというわけですか。そうなんですか」 「先ほども申し上げた通り……」  再度答弁に立った寺木が、乾いた声で答えた。 「石油輸入の減少の程度や期間など予測できなかった面がありましたので、現在のような事態にまで発展するとは考えていなかったわけで、その点当局の不明を認めざるをえないと思います。しかし、われわれは決して安閑としていたわけではなく、石油備蓄の拡充には最大限の努力をして参ったつもりであります」 「委員長」  寺木の答弁が終わると同時に、吉崎の怒声が議場に響いた。 「いま、最大限の努力をしたつもりだ、といったが、全く人を馬鹿にしたいい方だ」  吉崎議員の顔が真赤になった。 「日本の石油備蓄はここ数年間、ずっと六十日分前後だったじゃないか。これで最大限の努力をしたつもりなどというのはおこがましい。もしそんな努力をしてたんなら、なぜ増加しなかったのかいってもらいたい」  寺木は、冷やかな声で、過去数年間にわたる石油備蓄増強のために採られた、税制、財政投融資から民間企業への備蓄義務付けや官民共同出資の共同石油備蓄会社の設立までを淡々と説明した。 「君、そんなことが最大限の努力かね。私の質問しているのは、実際に石油備蓄を阻んだのは何か、日本の石油産業の態度が悪かったのか、企業エゴイズムに阻まれたのか、それを改善しようとしなかった政府の怠慢か、あるいは政府と企業の癒着のせいか、そういうことをはっきり述べて欲しいんだ。どれですか」  吉崎議員は、大きく拳を振り回した。  これに対し、寺木は、冷たいよく透る声で答えた。 「最大の原因は、一部地域住民とそれを支援する団体等のために、石油基地の建設が阻止されたことです」  吉崎の紅潮した顔が黒く歪んだ。 「そんなことじゃないはずだ。本当の原因は違う」  吉崎議員は指名を待たずに坐ったままで叫んだ。 「吉崎公造君」  委員長が慌てて指名した。  だが吉崎は十秒あまりもの間立たなかった。明らかに寺木の答弁は彼の意表を衝いたのだ。 「住民運動が石油基地の建設を阻んだのが最大の原因というのは納得できない」  ようやく体勢を立て直した吉崎議員の声には、先刻の元気さがなかった。 「いまの答弁は問題のすり変えだ。真の問題は石油産業の体制と政府の政策にあったのではないですか」 「もちろん、すべてがすべて、一つの原因とは申し上げられません」  寺木は答弁に立った。 「資金問題、金利負担の問題など経済問題も重要な原因であったと思います。しかし最大の問題といわれると、石油基地の建設が阻まれた点にあります。ここにこの三年間に石油会社および共同備蓄会社などが建設を申請した石油基地の一覧表がありますが……」  寺木は一枚の資料を取り上げた。 「これらの基地は、すべて実施主体も決定し、資金目途もついていたもので、一部の反対運動さえなければ確実に建設されたと考えられるものです。もしこれだけの石油基地が完成しておれば、わが国の石油備蓄は三千万キロリットルほど増加しており、ゆうに西欧諸国並みの、九十日分の備蓄は可能だったわけです。もしそうなっておれば、今日なおわが国は平常の七〇%程度の供給は続けられたでしょう」  議場はまた騒がしくなった。 「こりゃ予想はずれだな」  隣りの記者のつぶやきが本村に聞こえた。  だが本村は石油危機が始まって以来、はじめて真実が語られたのだ、と考えていた。  このあとすぐ、与党議員が関連質問に立ち、海底油槽問題を取り上げた。  その議員は、昨年夏の完成時点で、海底油槽が供用されていたならば、石油危機発生時点までに少なくとも六百万キロリットルの原油をこれに貯えられていたばかりでなく、年間一千数百万キロリットルの南米原油が長期契約によっていまも輸入されていたであろうことを明らかにしたうえ、この海底油槽の供用を阻止した中心人物の一人が、他ならぬ吉崎公造自身であったことを暴露した。  このことは、吉崎議員にとって決定的なダメージになった。質疑応答は直接テレビで中継されていたし、翌朝の新聞も大きく書き立てた。  五月の最後の週、臨時調査特別委員会は、これまでと違った種類の「被告」たちを喚問しはじめた。かつてはマスコミの寵児であり、住民運動の英雄であった学者、医師、宗教家、教師、地方政治家らが、次々と糾弾され、その見通しの悪さと科学技術知識の稀薄さを、苦しみに満ちた口調で告白させられた。新聞は、彼らを経済開発の阻害者であったばかりでなく、国民生活の安全に対する加害者でもあった、と書いた。  そんなある日の昼過ぎ、本村英人は国会内の食堂で、吉崎公造の姿を見かけた。  彼はただ一人、隅のテーブルで持参の弁当をひろげていた。 「先生、同席させていただいてよろしいでしょうか」  本村はていねいに声をかけた。 「ああ、どうぞどうぞ」  吉崎は意外なほどに陽気な声で答え、大きな顔に笑いを浮かべた。  彼は臨時調査特別委員の席を、数日前に失った。形は自発的な辞退だったが、同僚議員や選挙区からの圧力があったことは明らかだった。 「むずかしいもんだねえ」  本村の記者バッジを認めて、吉崎は問わず語りにいった。 「いいと思ってしたことが、時代の変化で悪くなるんだからねえ」  本村は小さくうなずいた。 「時代によって正邪は変わる。そしてそれに伴って自分の考えも変わっている。本人も気づかぬうちにね」  吉崎は本村の方に身を寄せた。 「こういうことはいつも起こるんだ。公害反対とか自然保護とかだけじゃないよ。高度成長に酔いしれた時期にも、大東亜共栄圈にのぼせ上がった時代にも、明治洋化運動の時にも、幕末の攘夷論が横行した時分にもあったんだ。日本の世論はいつも極端から極端に変わる。そのなかを運と頭に恵まれた利口者は、自ら極端から極端に流れながら成功していくんだなあ。その意味では、日本の歴史は裏切り者の天国だったんだよ。だけど、だからといって、そういう連中が私利私欲で動いていたと思っちゃ間違いなんだよ、君。彼らも時流のなかで自分が変わったのに気がつかなかったんだからね。僕自身がもう少しのところで、そうした偉大な裏切りの成功者になりそうだったんだから、よくわかるんだ」 「なるほど」  本村は、この率直な述懐にうなずいた。 「時流に乗って騒いでいるのは楽なんだ。自分で考える必要もないし、決断する勇気もいらないからね。そういった連中が多いから、日本の世論は極端になるんだ。そして行くところまで行くんだ。つまり物理的な破壊とか圧倒的な外圧とかいったもので目を覚まされるまでね。その意味じゃ、黒船の大砲もB29の爆弾も、亜硫酸ガスの煙もこんどの石油危機も同じなんだ。みな、それぞれの時代の人が本当にいいと思ってやったことの結果なんだからねえ」  本村はその時はじめて、吉崎の弁当を見てその粗末さに驚いた。駅弁の古い木箱に飯とわずかばかりの小魚の煮しめに漬物だけが入っていた。 「うちには弁当箱がなくってね……」  本村の視線を意識した吉崎は、照れ臭そうに笑った。     6  数日後、本村英人は、二キロほどのお米を入れた紙袋を二つ、ビニール鞄に入れて、家を出た。  本村は、妻に気づかれずに、この紙袋を用意するのに苦労した。なにしろこの米はひどく高価についているのだ。  本村は妻と、八歳の長男と五歳の長女をかかえ、売り食い生活の毎日だった。新聞社に入って十年余り、相当巧くやって来て、年齢の割には豊かだと自負していた本村も、急速に貧しくなった。元々丈夫な方ではない長男が二月頃から病気がちになり、配給で得られる以上の栄養と薬を与えねばならなかった。百万円や二百万円分の食糧を親子四人が喰い尽すのにはそう時間がかからなかった。百万円分の食糧といっても、石油危機以前の十万円分よりずっと少ない。  五月中頃になると、彼ら夫婦の手元に残ったのは、ほとんど値打ちのない操業停止会社の株券一万数千株、買い手の全くないゴルフ会員権、それに静岡県の二百坪の別荘地だけだった。  長男の咳き込む声を聞きながら、陽気な性格の本村も目の前が暗くなった。来年は大凶作、未曾有の食糧難、という声が、彼の焦りに追い打ちをかけた。  そんなある日、本村の自宅に奇妙な手紙が舞い込んだ。静岡県の別荘地を、三百キロのお米と交換してやろう、という申し出であった。  三百キロのお米といえば、配給価格でいうと五万円あまりに過ぎない。彼がその別荘地を買った価格はその百倍近かった。  夫婦は幾晩も話し合い、いい争った。そして結局、土地はまた買えるが子供の生命は戻らない、という結論に達した。  手紙に同封されていた返信用の葉書を出すと、二、三度電話連絡があった。そして一昨日の夜、約束通り三百キロのお米を積んだライトバンが来て、いかにも田舎者らしい屈強な男二人が、土地の権利書と印鑑証明とを持ち去った。 「お宅の別荘地の近くで百姓をしてますんでね、将来あそこに弟の家を建てようと思いましてぜひ欲しかったんですよ」  年上らしい方はあまり顔つきの似ていないもう一人をあごで指しながら、そんなことをいったが、それ以上自分たちの身分を明かそうとはしなかった。  売買契約書は、一方的な譲渡証明のようなもので、相手の氏名は空欄だった。 「こんな時期なのでどうなるかわかりませんからね。あんまり高い税金がかかったりすると困ります。もう少し世の中が落ち着いてから相談に上がりますで……」  男は氏名の空欄をそう言い訳けした。  本村は、代金に当たるお米を受け取ったのだから、それ以上の詮索は不要だと思った。  二人の男のライトバンのテールランプを見送った時、本村は妻と二人で、別荘地を何度も見に行ったことや、五年間続いた分割払いのことを思い出していた。 「これだけあったら、当分大丈夫よ。配給だっていくらかは続くでしょうから、一年はもつわよ。それにお米さえ持って行けば、何だって交換できるのよ」  と、妻の法子はうれしそうにいったものだ。 「凄い景気だなあ、本村さん」  小宮幸治は突然の豪華なプレゼントに目を丸くした。  寺木は、机の引き出しからビタミン剤の箱を出して、本村の手に押しつけた。お米をもらったお礼なのだ。 「このお米どうしたんかね」  寺木が訊ねた。  本村はいきさつを話した。 「その手紙の相手わかるかね」 「わからんです。手紙は残ってるけど、確か差し出し人は書いてなかったと思いますよ。同封の葉書は出しちゃったからね」 「残念だなあ」  寺木は苦笑いをした。  本村は、寺木も別荘をお米と代えたがっているのだろう、と想像し、自分がまんざら損な取り引きをしたわけではなさそうだと、と考えた。  だが、それは当たっていなかった。最近、こうした物々交換の申し出がかなり広範に行われているという情報を耳にした通産省は、秘かにその実態調査を始めていたのである。 「別荘地とお米というケースは何件目かね」  本村が帰ったあとで、寺木鉄太郎は小宮の方を見た。 「まだ三件目ですね、珍しい方です」  小宮はファイルを開いて、本村の例を書き込んだ。ファイルは、交換の物資別に整理されていた。 「やはり多いのは、石油と米だな」  寺木は、つぶやいた。 「それに米と市街地の宅地も大分ありますよ」  寺木はファイルを受け取った。  一頁目と二頁目には、石油、つまり耕運機用燃料の軽油やガソリンと米を交換しようという申し出の実例が五十数件並んでいる。三頁目は石油と麦・小麦などのものだが、これは十件あまりだ。以下は申し出側が米を提供する例で市街地の宅地が約三十件、山林が十件ほど、株式が四十数件、これはなぜかS化学とK紡績株に集中している。次は転換社債でこれも同じくS化学とK紡績だ。そして別荘地はいまの本村の例を入れて三件、比較的新顔の取り合わせである。最後には化学肥料と米というのがあった。これはつい数日前から報告されだしたのだが、すでに十件を超えている。  申し出人の住所氏名のわかっているものも四分の一ほどあるが、それらはみな違っている。同一人がいくつもの申し出をしているのは、北陸の一部にばらまかれた石油と米を交換しようという四件の例が最高だ。しかもこのケースでは、申し出人はある会社になっていたが、住所地は郵便局内の私書箱だった。  宛先は、九州から北陸、東北地方の一部にまで及んでおり、その手紙の消印を確認したところでは、大抵申し出人住所と同一の地方都市から投函されていた。つまり一見、個々バラバラの提案に見える。事実、物々交換が一般市民の間でも広まっているいまでは、こうしたことを考え出す者が各地にいたとしてもそれほど不思議ではない、という見方が政府部内にも多かった。  だが、寺木は、なぜかこの動きが、一つの統一された組織に指揮されているような気がしてならなかった。まず第一に、どこでもやり方がよく似ていたし、交換率が割によくそろっている。そのうえ、どの場合にも申し出人がその住所を全く隠しているのが余計に怪しかった。注目されたのは、米と株や転換社債との交換申し出が、四件を除いてS化学とK紡績に集中していることだった。 「やっぱり一つの組織だね」  寺木は脇からファイルを覗き込んでいる小宮の横顔を見た。 「でも、そうだとしたら、それができるのは誰ですかね」  小宮は怪訝な顔つきでいった。  寺木はファイルのガソリンと米との交換の分を見た。  報告されている三十八件の実例はほとんどが農業組合の役員などに取りまとめを依頼したもので、ガソリン二百リットル(ドラム罐一本分)とお米九十キロというのが標準的な交換率だ。石油危機以前の価格なら九十キロのお米は二百リットルの軽油の三倍以上はしたが、農家にとってはこのガソリンでその十倍以上のお米が収穫できる広さの田を耕せるのだから、飛びつきたくなる申し出には違いない。事実、知られている例では、例外なく農民側は応じており、三十八件合計で二十三トン近い米と約五十キロリットルの石油とが交換されている。ここに報告されているのは、偶然にわかったものに過ぎないから、実際に交換されている量は、この百倍以上はあろう。そうすれば、二千三百トン近くの米と五千キロリットルのガソリンが動いていることになる。  五千キロリットルといえば、ドラム罐二万五千本だ。ちょっと裏庭に積んで置くわけにはいかない量だ。この交換はまだ続くはずだ。おそらく最終的には一万キロリットルぐらいになりそうに思えた。これは明らかに大規模な石油タンクのいる仕事だ。しかし日本国内の石油タンクは厳重にチェックされており、それほど大量の石油を政府の目をかすめて出し入れできるとは思えない。軽油や灯油の分を入れるとさらに大きい。 「仮に石油と換えたお米を全部本村の場合と同じ率で別荘に換えたら……」  小宮はちょっと暗算して、口笛を鳴らした。 「ほぼ、一万キロリットルの石油で三百万坪以上の別荘地が手に入る」 「坪三万円平均としても約一千億円だね」  寺木がうなった。  一週間後、物々交換は、予想よりもはるかに大規模なことがわかってきた。  石油と米との交換は、田植えの時期の接近とともに、急激に拡大しはじめ、鹿児島から青森までのほとんど全府県に広がった。中国、四国、北陸、北関東には、化学肥料とお米との交換を申し入れる手紙も急増していた。六月十日、通産省と農林省が資料を持ち寄って検討したところ、少なくとも二万六千トンのお米と三千トン余の小麦が動いている、と見られた。  米と不動産や株式との交換申し込みも広がった。不動産は、東京、大阪などの市街地の宅地やマンションを求める例が圧倒的だったが、場所と造成状態のすぐれた近郊住宅地や別荘地も対象になっており、申し込み件数は一万件以上に上る、と推定された。個人経営のビルや貸マンションを何トンかのお米と丸ごと交換した例さえ三件あった。おそらく実数はその十倍以上あろうから、何十軒かのビルや貸マンションが動いているはずだった。  株式の方はもっと凄じかった。当初から注目されていたS化学とK紡績は、ほとんどすべての株主に、この申し込みが行き渡っていたうえ、新たに地方銀行のAや大手海運会社Nの株主たちもその申し込みを受けた。N海運の株式を相当数保有していたある中堅運輸会社に対して、全従業員の生活防衛と企業の操業維持のために、その持ち株を従業員給食用のお米と自動車操行用軽油とに交換することを勧める手紙が舞い込んだ。そしてこの場合には手回しよく、同文の手紙が、その会社の重役と労組の役員たちにも送られていた。  株式の場合はこれに応じる者が不動産以上に多かった。株価そのものが著しく低落していたうえ、その回復の見通しさえなかったため、株主たちは、個人も企業も喜んで手放した。  政府の調査は容易に進まなかった。相手のやり方が巧妙をきわめていたうえ、この物々交換にはさして重要な違法性が見当たらなかったため、大規模な犯罪調査として踏み切るわけにはいかなかった。だが、全くの偶然から、この調査の糸口が把《つか》まれた。  六月十六日の午後、石油輸入統計を調べていた小宮幸治は、税関の輸入通関実績とエネルギー庁の入荷実績統計の間に特徴のある差を見つけた。  石油の通関実績は、日本の関税領域内に入った時点で計量するのに対し、入荷実績は石油業者へ所有権または管理権が移った時点で計る。つまり、保税倉庫にある間の取り扱いなどに差があるのだ。  小宮の目を引いたのは、その差が問題のガソリンと軽油に目立っていたからだ。つまり、石油が払底するにしたがって、保税倉庫に指定されているタンクに石油を置く期間が縮まり、入荷統計と通関統計の差が少なくなるはずなのに、ガソリンと軽油だけは二月以降その差が徐々に広がっている。特に軽油の場合は四月には三〇%近くも通関量が入荷量を上回っている。もちろんこれは、両統計間の時間差を修正したうえでのことである。小宮はこれが石油輸入の減少によって生じた一般的なものか、人為的なものかを調べるために、各税関別の通関と入荷とを照合した。  これはかなり面倒な仕事だった。エネルギー庁の入荷統計は各精油所別・陸揚港別の原表を、地方別・企業別に集計しているが、大蔵省の税関管区区分は、一般の地方別とは全く違っているからだ。たとえば中国・四国地方は兵庫県下の大阪湾岸諸港とともに神戸税関の所管であり、近畿地方の他の港湾は、日本海側も含めて大阪税関の管区に入る。同様に、東北と関東の東側は東京税関、神奈川県下の東京湾沿いから東海の一部は横浜税関というようになっている。したがって、入荷統計を通関統計に対比するためには入荷統計原表を、このややこしい区分に従って再集計する必要があるわけだ。  小宮はこれを徹夜でやった。四月の軽油の通関統計と入荷統計との差は、他では、二、三%なのに、神戸と名古屋の税関管区では五〇%以上にもなっていた。明らかに、この二つの管内に、エネルギー庁の目の届かぬ形の軽油輸入が頻繁に行われていることを物語っていた。 「なるほど、そうすると奴らは正々堂々と関税を払って輸入していたわけだ」  寺木は、呆気にとられたようにつぶやいた。 「でもどうして、こっちの目につかなかったのかなあ」 「それが不思議なんですよ」  小宮も腕組みした。  昨年十二月以降、海外の石油買い付けは、外貨送金や信用状の開設でチェックされているし、石油タンカーの入港も報告されている。外航用の大型石油タンカーに入った石油量も逐一入荷統計に記録されている。これらのチェックにかかった石油は細大もらさず、政府の行政指導でその販売先が指示されている。最近では、この販売先指示に従わない闇石油も相当あったが、それは国内の流通販売段階で横流しされるもので、こと輸入時点での把握に関する限り漏れようがないように思えた。  この三重のチェックにも、多少の穴はある。海外での石油購入は、外貨を持ち出さない方法、つまり無為替輸入なら脱落する。このケースには外資系石油会社が外国の親会社から代金後払いで輸入する分があるので大きいが、これらは別途、輸出側の外国石油会社と輸入側の国内企業から事前報告されることで押えられている。ただ、石油会社でない企業(商社など)が、なんらかの方法で、代金を払わずに石油を購入していれば、この網にはかからないわけだ。  だが、それでもあとの二重の網は、くぐれない。五百キロリットル以上の石油の陸揚げはすべて報告されるし、精油所や石油基地、それに国内流通用の中間タンク(デポ)まで、すべてその入荷量、貯蔵量、出荷量がチェックされているからだ。  二人は顔を見合わせた。 「ドラム罐に入れて来るんですかね」  小宮はいってみた。 「いやそれは目立ち過ぎるね」  寺木は反論した。  四月の差額、約千二百キロリットルをドラム罐で運ぶとすれば、六千本だ。どうしても目立つ。それに、そんな非能率な方法をとっているのなら、なにも神戸と名古屋の税関内に集中させるはずはない。その石油は全国に分散されるのだから、各地の港に分けて陸揚げした方が経済的でもある。どうしても定ったところに陸揚げせねばならぬ事情があるのだ。つまり、その地点の石油タンクを使っているということである。 「工場内の自家用タンクだね」  寺木がいった。  工場内のタンクは、そこで使用する石油を入れるもの、つまり入れる一方で出て行くことがない、と決めてかかっていたところが盲点だった。 「それで五百キロリットル以下の少量ずつ運び込んでるんですね」  小宮は叫んだ。  寺木は、電話機を取り上げ、大蔵省関税局の調査統計課長に、四月と五月における五百キロリットル未満の石油の輸入通関原表を調べるよう依頼した。「どういう方法で」がわかった以上、「誰が」もすぐわかるはずだった。  翌日の昼前、寺木は興奮気味の顔つきで、大蔵省から戻って来た。 「奴らは五百キロリットル以下の単位で輸入してたんだ。輸入元は、大阪のアンダマン・フェニックスという会社だよ」  寺木は三十枚ほどのカードのコピーを机の上に投げ出した。 「アンダマン・フェニックス……」  小宮はこの奇妙な名をどこかで聞いたことがあるような気がしたが、思い出せなかった。 「外資系の会社ですか」 「いや、外資企業の登録にはないから、日本企業だろう。いま、大阪通産局に調べてもらってるから、すぐわかる」  三時間ほどして、大阪から返事の電話が来た。寺木がメモをするのを、小宮は横で見ていた。 [#1字下げ]「アンダマン・フェニックス株式会社 資本金一千万円 代表取締役宮里隆二、二十七歳 株主 大阪市KYK株式会社五〇%、東京都港区株式会社KYK五〇%。設立は昨年十月……」  このインド洋上の群島の名をつけた会社は明らかにトンネル会社だ。二十七歳の社長もロボットだろう。これだけの大事業を全国的に行えるのは、かなりの資金力と組織力を持つ者だけだ。株主として登録されている二つのKYK会社もトンネル会社に過ぎないだろう。  寺木と小宮は、KYK会社の株主をたどることにした。  こうした場合、いわゆる�蛇の呑み合い�という形になって、本物の実力者が不明に終わることもある。つまり、A社の株主がB社、B社の株主がC社、そのC社の株主がA社という形で、これを二十、三十の会社間で複雑に絡み合わされると、解明不能になってしまう。だがこんどの場合は、そんなはずはない、と二人は考えた。これほど大規模な事業を、こういう不透明な形でやるのはあまりにも危険過ぎる。万一、いくつかの企業のロボット社長が「叛乱」を起こせば、折角の巨利を横取りされるおそれがあるからだ。予想は当たった。その相手は、KYK株式会社の過半数の株を持つ出資者として、堂々と名を出していた。  しかし、有価証券報告書の中に、その名を見い出した時、小宮幸治は身が凍りついた。その名は、  鴻森芳次郎  であった。     7  鴻森邸の応接室は一年前と全く同じだった。ただ、暖炉の上の壁絵が、エル・グレコの婦人像から細いタッチの海岸の風景に代わっていた。 「えろ遅かったでんな」  芳次郎は二人と向き合って腰掛けると、まずそういった。 「この頃は新幹線も五時間かかるもんで」  寺木が答えた。 「いや、今月のはじめから、もう来やはるやろと思うて待っとりましたのに……」 「そういってもらうと話はしやすいですな」  寺木は苦々しく笑った。  芳次郎も表情を崩した。  小宮は、この二人の古い友人の対決を、見守った。 「アンダマン・フェニックスと二つのKYK、この三つの会社は、あなたのものですね」  寺木が椅子の上で坐り直して切り出した。 「まあそうだす。みな、こんどの事業をするのに作った十五社のうちですわ」  芳次郎はあっさりといった。 「で、それらの会社を通して、五万キロリットル近い石油を最近輸入されましたね」 「正確にいうと、二月四日から昨日まで、十二万八千四百キロリットル余りでんな」 「それを米などと交換したんですね」 「正確にいうと、先週までに六万六千七百キロリットルほどの軽油、灯油、ガソリンなどを約三万二千トンの米と交換しましたよ。ほかに化学肥料、その他との交換で約一万トンほどの米をもろてますんで、合計四万二千トン余りでんな。麦類が約四千トンほどでっかな」  芳次郎は無表情だった。小宮はその規模の大きさに仰天した。石油危機以前の価格なら一兆円にも達する大事業らしい。 「その米や麦は……」 「ご存知やと思うけど、不動産や株式と交換でお譲りしたげてますわ。もう七、八割は出てるはずでっせ」 「このあなたの事業について、私どもは大いに疑問を感じとるんですがねえ」  寺木の目は鋭く光った。  芳次郎は、静かな笑顔でこの視線を受けとめた。 「あなたは密かに石油を運び込み、人びとの困窮につけ込んで膨大な利益を上げておられるわけです」  寺木は身を乗り出した。青白い頬が少し赤らんでいた。 「人聞きの悪いことをいわんとくなはれ」  芳次郎は冷やかな声でいった。 「密かにというのは人の目、特に官憲の目をくぐって、ということやけど、私どもはちゃんと税関を通しとる。税金も払うとる。つけ込んでというのは、相手の弱点を利用してその希望に反して意思を変えさせて、というこっちゃけど、うちの場合はなんの圧力もかけずに相手の希望に応じてるだけや。それに、膨大な利益といわはるけど、いまの時代にはそれ相応の交換比率でやっとるんやから、果たして利益になっとるやら損をしてるんやらわかりまへんがな」  寺木は、機先を制せられた形になった。 「では質問の形を変えましょう」  寺木は上体を起こした。 「あなたはどこでどうしてその石油を入手されたんですか」 「ああそのことなら、お陰さんで。去年の夏から秋にかけて、石油の余っとる間に買いましてな。インド洋や南太平洋の小島に場所借りて置いとったんですわ。前にお役所にも見てもろうたニューマチックの貯蔵施設、あれが役に立ちましたんや。向こうでは別にそれを禁止する法律もおまへんのや。日本はまあ役所が多おてなかなか認めてくれんよってね」  芳次郎が再三、南洋に出かけていた理由がわかった。 「そいつを二月からぼちぼち運びましてな、なにしろ使える陸揚げ地がうちの関係会社の工場内のタンクしかないもんで、一回で二、三百キロリットルしか揚げられんので苦労しましたわ。慌てて閉鎖工場のタンク三つほど借りたりしてようよう間に合わしとりますけどね」 「しかし、ご存知のようにいまは、石油にも米にも標準価格がありますよ。お宅の販売価格、いや交換比率からみると、大幅にそれを上回ってるようですがね」  寺木は切り込んだ。 「そらまた意外なお説で……」  芳次郎は、本当に驚いたという風に目を見開いた。 「私の聞いとるんでは、標準価格ちゅうのは上限で、それ以下でならなんぼでもええはずですけどなあ。つまり、石油を一リットル二十円で売って米をキロ四十円で分けてもろていかんはずおまへんやろ。土地や株も安う売って悪いとは聞いてまへんけどね」  石油を高く売ったのではなく、米を安く買ったのだ。その結果、二百キロリットルのガソリンと九十キロのお米という交換比率が成立した、というのである。  たまりかねて小宮は、口をはさんだ。 「ただ、石油製品はすべて、石油需給調整法によって、指定された用途にしか販売できないことになっているんです、昨年の十二月からは。勝手に物々交換されるのはいかんのですよ」  声の震えるのが自分でもわかった。 「知っとります」  芳次郎は冷たい笑いを浮かべた。 「石油をお分けしたんはみな政府で最優先分野に指定してはるところばっかしでっせ。農業、トラック用、離島船舶用、食料品加工業の一部、みなそうだす。政府で予定通りやらはらんからみな困ってるんです。その不足を、まあごくわずかやけどうちが補うたげとるわけですわ」  寺木も小宮も沈黙した。 「違法行為はおませんやろ。この仕事にかかる前に、三人の弁護士さんと二人のお役所の先輩の方によう調べてもらいましたんやから。それでも万一、何か間違いがあったんなら、罰受けます。二十万円の罰金でしたかいな」  芳次郎は笑った。  お手伝らしい中年の女性が、茶と羊羹を持って来た。 「しかし、合法か違法かの問題は別として、道義的な問題としてどうでしょうか」  寺木は、芳次郎が茶碗を取り上げようとした時、いった。  芳次郎は、不思議そうな顔つきをした。 「そうです、道義的にです」  寺木は、自らを励ますように両手を握り合わせた。 「大勢の人が長い間かかってやっと手に入れた土地・建物や株式を、あなたはわずかな間に労せずして入手されている。これはやはり社会的に見て問題じゃないでしょうか」 「そらあ、物の値が変わったんやから仕方おまへんやろう。確かについこの前まで、土地は高うて米は安おした。いまは逆になったんですわ。三百四十円しとったS化学の株がいまは五十円を割っとる。それは別に道義的な問題はおまへんわ。考えてみなはれ、昭和二十二、三年には、都心の土地でも一坪二百円ぐらいでした。その時でも米は一升二百円近かったですわ。米一升で都心の土地一坪買えたんだっせ。私どもはまだそれよりはええ値で土地を受け取ったげてますねんからねえ。なんも道義的な問題はあれしませんわ」  その時、左手の扉が小さく開き、その陰から抑揚の乏しい女の声がした。 「米田豊作さんからお電話よ」  その声を聞いた瞬間、小宮は心臓が止まるかと思った。米田豊作という名前ではなく、その声自体に聞き憶えがあった。 「あとでこっちから電話する、いうといてんか」  芳次郎は扉に向かって返事した。 「理屈はいわれる通りでしょうが……」  寺木はなおも追及を続けようとした。  鴻森芳次郎の表情が一変した。微笑をたたえていた面長の顔が真赤になり、冷やかな瞳に炎が燃えた。 「寺木はん、それから小宮はん、はっきりいわしてもろて、私には法的にも道義的にもやましいところはおまへん。それどころかこんどの仕事を、先祖の名誉と家門の誇りにかけて自慢に思うとります。私どもは、去年の夏から秋にかけて約二十万キロリットルの石油を買いました。その大部分は今月末までに日本に運び、うち十万を米と交換に農民にお譲りする予定だす。これで、少なくとも五十万町歩の田畑が耕され、千万石ほどの米とその他の作物が収穫されるはずです。これで、今年の暮から来年にかけて何百万人もの人が助かりますんや。これは疑いもなくええことでっしゃろ、違いますか。しかも私はそれを、こそこそやったんと違いまっせ。私の得られる情報は全部あんた方政府にも提供しましたで。しかも政府はわれわれの何千倍もの資金と組織と権力をお持ちや。その政府に私どもは敢えて同じチャンスをお与えしたんだす。これ以上に公正なやり方がありまっしゃろか。もしあんたらが道義的責任を云々しやはるんやったら、私の方やなしにお宅らの方に問題がありますな。本当の問題はそんなことやおません。あんたらもやれるだけのことはやらはったんやろし、いろいろ事情もおましたんやろ。ただ私がここで問題やいうとるのは、その心ですわ」  芳次郎は熱っぽく語り続けた。 「つまり、あんたらは、私どものしたことで日本と日本人がようなったか悪なったかということを考えんと、それで私どもが儲けたかどうかを考えて、感情的になっておられる。それが問題や。一緒に苦しみ一緒に飢え、そして一緒に死んでくれる人は許せても、一人だけ安楽と栄華を極める奴には腹が立つ、そういう嫉妬心こそ、この日本をいまの窮地に陥れた元凶なんや。それが世の中を暗くし、硬直させ、盲目的な暴走に追いやるんですわ。本当の世の中の進歩と安全をもたらす人間は、ともに涙を流す無能な聖者と違ごて、勇気と先見とで人の動きと世の流れを抜きん出る者なんです。お互い頼り合うてふわふわ生きる追随心やのうて自らの決断と責任に賭ける自助の精神だす。私は、先刻もいうたように、こんどの仕事で儲けたんかどうかまだわかりまへん。そやけどとにかくこれに自分の決断と責任で賭けましたんや。自分の儲けになるし、日本のためにもなると思うたからですわ。私の祖先もみな、そないして生きて来たんでっさかいに、私も一生に一回、そういう賭をしたかった。いや、せなならん、とさえ思いました。あんたらが来やはった、あの一年前の夜に……」  六月の午後の、不思議なほどに静かな部屋に、鴻森芳次郎の言葉はある哀しみをもって響いた。 「一体、幸せな世の中とは何か、考えてみたことありますか」  少し言葉を切ったあとで、芳次郎は小宮に向かっていった。 「豊かな世の中が幸せか、技術が進んだらみな幸福になるのか、そうやない。二十世紀の人間が、平安時代や元禄の人間よりみな幸せやとはいえん。それぞれの時代に幸福な人と不幸な人とがいる。幸せかどうかは相対的なもんやからだす。ただいえるのは、個人の希望と社会が理想とする人間像とが一致する世の中、そんな時代がまあ幸せが多い、と私は思います。成功者は何の遠慮もなくその幸運を喜べるし、及ばなんだ者も不満と腹立ちを夢と憧れに代えられるんやから……。私は、今後の日本をそんな世の中にしたい。もし幸いにしてこんどの仕事がうまいこと行ったら、そういう目的にすべてを投げ出したい、と思てますのんや」  寺木と小宮は辞意を告げて立ち上がった。 「しかしこれからが大変ですわ。悪うしたら私の残りの生涯は訴訟で埋められてしまうかも知らへんなあ」  芳次郎は、壮大な理想とは遠くはなれた言葉を吐いて淋し気に笑った。  寺木と小宮が玄関口まで来ると、和服の女性が彼らを見送るために待ち受けていた。明るい色の派手な和服と手のこんだ髪型が印象を変えてはいたが、その小さな顔はまぎれもなく鬼登沙和子のものだった。     8  翌朝、寺木鉄太郎と別れた小宮幸治は、北大阪のホテルを十時前に出た。四月末以来の懸案を実行するためだ。  須山寿佐美の行先を捜すのは容易ではなかった。実際小宮も一時は絶望しかけたことがあった。だが、石油輸入者の正体を追求しているうちに、あるヒントが得られた。小宮は、寿佐美が残して行ったメモの中に「父の郷里」という文字のあったことを思い出した。もし、寿佐美が父、源右衛門の郷里に行ったのであれば、宅地分譲業者登録の中から、それを捜し出すことができそうに思えた。その登録には、社長の本籍が記載されている。源右衛門が本籍を移動させていなければ、それが彼の郷里に違いないからである。幸い、源右衛門は本籍を移転してはいないようだった。地図で見ると、それは大阪の阿倍野橋から出ている近鉄線の終点駅から五、六キロ山際に入ったところらしいことがわかった。  梅田の地下街に入った小宮は、耐え難い嘔吐感に襲われた。地下道から出ようとしない何千人もの人間が、ボロぎれのような身体を地べたに並べていた。  こうした光景は、天王寺の地下道にもあった。小宮は地上に出た。そこにも、地下に劣らぬ凄惨な光景があった。  小宮は、こうした群衆をはじめて見たのではなかった。東京でも同じような光景は至るところにあった。しかし、小宮はいまさらのように、人間というものがこれほど汚ならしくなりうる動物であることに驚いた。  石油がなくなったからといって、それほど多くの住宅が失われたわけでもない──実際、火災や暴動で失われた家屋は全国で十万戸ほどだった──のに、これほど大勢の人びとが、路上や地下道に吐き出されたことは、一見不可解だった。しかし、人間生活の基盤は、住宅や工場や公共施設などのハードウエア(モノ)ではなく、それを動かし養い保っていくソフトウエア(人間活動)であることを思えば、それも不思議ではない。こうして路上に吐き出された気の毒な人びとは、飯場や住み込みの職場を追われた人びとだけではなかった。むしろ、今日の生活の糧に窮して住居を捨てた家族連れや生活苦の家庭を飛び出した少年、仕事を求めて流れ込んで来た田舎の青年、一食の救済を得んとする老人など、いわば空腹と窮乏に耐えかねて流浪化した人びとが、その大部分を占めているのだった。  このことを考えれば、五月はじめに政府が出した、家賃の一時的支払い停止措置は、人びとの流浪化を防ぐより助長する方に役立ったともいえる。なぜなら、この措置のお陰で、すべての家主は新たに家を貸さなくなったため、一旦住居を出た者は再び住宅に入れなくなっていたからだ。 〈寿佐美もこうした群れに加わっているのではあるまいか……〉  そんな想像が小宮の脳裡をかすめた。  彼女も、住居を捨てねばならなかった一人だ。  小宮が、河内長野に着いたのは昼近くだった。  駅前の商店側はほとんどの店がシャッターを降ろし、痩せこけた野良犬が二匹うろついていた。石油危機は、幸せな時代に急増したペットたちにもきびしく襲いかかっているのだ。だが、犬がいるだけでも、まだこの町は恵まれている証拠だ。  駅員に道をきくと、西の山塊を指さし、十キロほどの距離がある、と答えた。 「十一時半のは出たとこでっさかい、次のバスは三時ですわ」  駅員は気の毒そうな顔をした。  小宮は鞄の中に、三食分のコッペパンと一袋のラーメンを持っていた。昨夜は、役所の出してくれた出張者外食券のお陰で、ホテルの夕食にありつけた。もう一晩、大阪で泊っても、飢える心配だけはなかった。  住宅地を通り抜けるとすぐ、田畑の続くゆるやかな昇り道になった。  道々、小宮はパンを齧り、農家の手押しポンプを見つけて水を啜った。  何度か道を訊ねつつ辿りついた源右衛門の故里は、山の麓にある六十戸ほどの村落だったが、その中で源右衛門という三男が東京で金持になった須山家を捜すのにはかなり時間がかかった。  訊ね当てた源右衛門の生家は、崖下の窪地の狭い敷地にあったが、建物は場所には不似合な真新しい洋館だった。 「あの人たちはもういませんわ」  須山家で、応対に出て来た四十前の小肥りの女性が、そういった。 「どちらへ行かれたんでしょうか」  小宮は、不安にかられた。 「あなたさんは、どういう方で……」  小肥りの女は、警戒するように訊ねた。  小宮は戸惑った。自分をどう説明していいかわからなかった。 「小宮幸治という者です。東京の通産省という役所に勤めているんですが……」  女はパチンコ玉のような目を向けて、小宮の説明の続きを待った。 「僕は寿佐美さんと結婚するんです」  小宮は自分の言葉に驚いた。  小宮は、その家を出ると、ほとんど駆けるほどに急いだ。  あの中年の女性は寿佐美の従兄の奥さんだった。彼女ははじめ、小宮が東京から来た借金取りかなにかではないかと思ったのだった。その種の男たちが、源右衛門の行方を追って二、三度来たこともあったらしい。そして、寿佐美たちがこの家を出たのもそれと無縁ではなかったのだ。  だが、小宮がそういう種類の者でないことを知った奥さんは、寿佐美たちが隣りの集落で、農家のはなれを借りていることを教えてくれた。  目指す家は、ありふれた農家の裏側に、母屋から突き出た長く低い屋根の下にあった。納屋か牛小屋を改造したものらしかった。  小宮は、戸口を開けた。中は薄暗く、湿った空気が顔を襲った。  横一間半奥行き二間ほどの土間に、古い農耕具や汚れた壺のようなものが乱雑に並んでいた。右側には煤けた色の紙障子が入っていた。 「どなた……」  女の声が、障子の向こうから聞こえた。 「私、東京から来た、小宮幸治という者ですが……」  小宮は言葉を区切ってゆっくりといった。 「ああ、小宮はん……」  苦しそうな声の返事のあと、障子の中はしばらく沈黙した。 「まあ、開けとくなはれ」  かなり間をおいて再び弱々しい声がした。  小宮は、障子を細目に開いた。薄い蒲団の上に、慌ててひっかけたらしいドテラの前をかき合わせながら、女が坐っていた。  青白い顔に落ちくぼんだ目、灰色の唇と乱れた頭髪、痩せ細った肩と首筋、それは変わり果てた姿の寿佐美の継母だった。彼女は、源右衛門が行方不明になってから、労組と債権者のきびしい追及による心労で病の床に臥す身になっていたのだ。 「寿佐美は、いま畑の手伝いに……」  継母は苦しそうに息をつきながら、上がって待つように勧めた。  だが、上がるほどの場所も見当たらなかった。部屋は八帖ほどあったが、向こう側の壁際には、食器を載せた坐り机とトランクや紙箱などの荷物が置かれ、右側の隅には、折りたたんだ寝具が積んである。そして中央には、継母の寝ている汚れた夜具がのべられているのだ。  小宮は、この知人の少ない場所に移り住んでから、重病の継母と幼い異母弟二人とをかかえた寿佐美が、健康な男女の家庭でも生き難いこの二ヵ月間をどのようにして暮してきたのか、傷ましい思いで想像しながら、寿佐美の帰りを待った。  継母が、病人の敏感さで戸口の方にかすかな物音を聞きつけたのは、一時間ほどたった頃だった。  小宮は、靴をひっかけたまま、戸口を開いた。  夕焼け空の下に、二つの小さな影を両脇にしたがえた女の後姿があった。  寿佐美は、幼い弟たちに助けられて、リヤカーから、奇妙な人字型の機具を、重そうに持ち上げているところだった。それが、かつてこの地方ではかなり使われていた人間のひく犂《すき》だった。  小宮は、細い身体を弓なりにして犂を引く寿佐美の姿を想像した。  小宮を認めた瞬間、寿佐美は口を開けて、二、三歩後ずさりした。  小宮のこらえ続けてきた感情が爆発した。 「もう少しの辛抱だよ。必ず迎えに来るから……」  寿佐美の汗ばんだ顔が彼の肩に押しつけられた。 「もう少しだよ。こんな時代はそう長くはない……」  小宮は、寿佐美の肩にかけた両腕に力をこめた。  西の野に沈む夕日の弱い残光が、二人の横顔を照らし、長い影を乾いた土の上に落としていた。…… [#改ページ]  あ と が き  「ホルムス海峡封鎖解除」  「中東大戦終結へ」  この見出しが、各新聞のトップを飾ったのは、小宮幸治が東京へ戻ってから八日目の、六月二十九日だった。ホルムス海峡の封鎖は百九十八日間で終わったわけだ。それは、鬼登沙和子の予測の前提よりも二日間だけ短かった。  七ヵ月間にわたる戦闘で、交戦諸国の受けた被害は、もちろん小さくなかった。国家間の戦闘と各地の内乱、革命を合わせて、軍民の死者は四十万人にも及び、負傷者はその三倍に達した。そのうえ、この一連の戦乱により新たに二百万人の難民が発生した。中東地区の石油施設の四割が被災し、長期操業停止による施設の破損も少なくなかった。戦闘期間とその後の操業低下によって五十億キロリットルの石油供給が減少したと推定された。それは少なくとも三千億ドルの外貨収入をこの地域にもたらしたはずの量であった。中東大戦は、わずか七ヵ月の間に、二十年間にわたったインドシナ戦争の数倍の損失を生み出したわけである。  だが、この巨大な数字でさえも、この戦争が全世界に及ぼした間接的損失に比べれば、数十分の一に過ぎなかっただろう。全世界的な生産の停滞と食糧不足によって、何億人もの人びとが生命の危機にさらされていたからである。なかでも甚大な被害を受けたのは、日本であった。この経済大国は、こうした非常の危機に備える用意を著しく欠いていたからである。  しかし、日本が蒙った被害を算出するのはまだ早過ぎた。この石油危機がもたらした損害はその後も長く続いた。  日本における人命の喪失の大半は七月以降に生じた。米穀の端境期に当たる夏場に至って、食糧不足はいよいよ深刻になったからである。治安の回復も意外なほどに手間取った。きびしい食糧難はその後も各地に小規模な暴動や食料品輸送車襲撃事件を引き起こした。そしてこのことが、物資の流通と経済の安定を妨げ、一層長く人びとを苦しめた。  日本の治安がある程度回復したのは、この年の秋からであった。石油供給の回復で、警察や自衛隊が機動力を取り戻したことや夜間照明が復活したこと、そして幾分生産が再開され、失業者が減少したことなどのためであった。  しかし日本の苦難はなお続いた。この年の米作収穫は、六、七月に予想された五百万トン内外を大きく上回り、八百万トンにまで伸びた。その限りでは、日本の農民は大いに頑張ったといえる。だがそれでも平年作に比べて四、五百万トンも少なく、翌年にもまた多くの人びとが飢えに苦しんだ。  政府は食糧輸入に全力を上げたが、期待通りには行かなかった。中東大戦による石油不足は世界的な肥料不足を生み、全世界的凶作をもたらしていた。そのうえ、日本には大量の食糧を輸入するに足る外貨も残っていなかった。このため国際機関や外国の援助に頼る食糧輸入を、アジア諸国と競いつつ細々と行うのが関の山だったのである。  日本経済の回復はさらにはるかに遅れた。政府の役人や経済学者の多くは、生産施設は全く無傷なのだから石油輸入さえ回復すれば経済復興は比較的短期間に可能だ、と考えていたが、それは間違っていた。一年後の夏においても、日本の鉱工業生産は、石油危機以前のピークの五五%、国民総生産は六五%にしかなっていなかったのである。  その原因は、当初、工業原材料の入手難にあった。日本にはそれを買い入れる外貨が乏しかったからだ。だがその後は需要不足が長期停滞をもたらした。生産施設も住宅も公共施設も無傷のまま残ったため、およそ設備投資や公共投資が行われなかったのだ。消費の面でも食料品などの値上がりで、耐久消費財は売れなかった。そして各国とも同じような状況にあったために輸出もまた容易に伸びなかったのだ。この結果、かつては高度成長─大量投資─新鋭設備─国際競争力強化という好循環を誇っていた日本は、古い施設をかかえた病める国になりつつあったのである。  日本経済の復興を遅らせたもう一つの重要な原因は、産業組織の崩壊であった。石油危機解消後も膨大な財政赤字が凄まじいインフレを生み、二度のデノミネーションを無意味にした。多くの人びとは、生涯をかけて貯えた資産がほとんど無価値になったことを知って失望した。人びとが身につけた繁栄時代の知識や技術の大部分も意味を失っていた。日本国民が生気を取り戻し、日本経済が正常な生産や流通、金融のシステムを確立するのには、相当に長い期間を要したのである。  だが、失望したのは、真面目な大衆だけではなかった。この機を利用しようとした政治的投機家もまた失望させられた。この大危機は、日本の政治や社会にも多くの変革を招きはしたが、それらはすべて平和的に民主主義のルールにおいて行われ、基本的な体制崩壊にまでは、ついに至らなかったからである。日本の歴史が常にそうであるように、こんどの場合も国民のほとんどは、自己の生活防衛に専念したのであった。  数年前、いくつかの分野の研究者有志が集まって、日本の将来を考える気ままな会合を持ったことがある。その調査対象の一つに、�石油輸入が大幅に減少した場合、日本が受ける影響�というテーマがあった。つまり本書でいう「油減調査」だ。  調査方法としては、マルコフ過程という数学理論を適用した。つまり、一つの事態が発生した場合、次にどのような事態が生じるかを、確率論的に積み上げて行く手法である。それは非常に手間のかかる仕事だったが、幸い電算機なども使用でき、かなり精密な計算によって予測をしぼることができた。  それはあの第四次中東戦争によって先の石油危機が起こる以前のことだったが、その予測結果には参加者すべてが息を呑むほどに驚いた。被害の大きさが全員の想像をはるかに上回ったからである。そしてこの時から、この「絶対にあり得ないとはいえない危険」に対する認識を世に訴えることが、われわれの義務と考えられるようになった。  この発表の形にはいろんな意見があった。当初は、調査レポートのような形が考えられていたが、そのうちに小説の方がよいという意向が強まった。予測についての解説や説明は不十分になろうが、できるだけ多くの人に読んでもらえるようにしたい、と考えたからである。  この小説の第一稿は、一九七三年の秋に一応書き上げることができた。だがちょうどその時本物の石油危機が発生したので、出版は一時見合わせた。当時の日本社会をおおっていた不安感を助長することを恐れたからである。  それを今回、再びこうした形で書き上げたのは、石油危機解消後、石油・エネルギー問題に対する世間の関心を、もう一度喚起する必要がある、と考えたからだ。  一時的な石油危機は消え去ったが、石油・エネルギー問題は少しも解決されていないことを、忘れてはなるまい。わが国のエネルギー供給構造は全く変わっていないし、石油が政治的にも地域的にも著しく偏在した資源であることも変わりないのである。  今回、改めてこの小説を執筆するに当たり、先の調査研究会の有志に再び大変お世話になった。石油危機以後の情勢を全面的に取り入れて、より正確な予測を行う必要があったからである。わがままな中断にもかかわらず、この労多い作業を再度行っていただいた十二名の方々には、改めて感謝の言葉を捧げねばなるまい。  以上のようないきさつと目的で書かれたこの小説は、通常のフィクションとは多少異なる性格を持つ、と思う。ここに登場する人物はもちろん、架空のものであり、特定のモデルはない。だが、ここに示されている客観データは入手し得る限り正確なものを使用した。また、現時点(一九七五年)以前の年次の入った事件、制度あるいは情勢については、ほとんどすべて事実通りとした。ただ、この小説の主題事件の発生は、「今年」ではないので、文中の�今の�石油の種類別構成比や自給率などの数字は、科学的予測または各国の計画値に変えている。このためこれらの数値の中には現在のものとはわずかながら差があるものがある。  本書の主題事件の契機となる�ホルムス海峡の封鎖�とその�二百日間の継続�という事態は、内外の専門家が�蓋然性がある�としている事件の中ではごく深刻なものの部類に属するだろう。だが、それ以外のこと、特に日本における影響については、先の調査によって、�最もありうる確率の高い状況�として算出されたもののみを集めた。つまり、事件をことさらに深刻化させ、被害を大きく表現することはしなかった。実際に、石油輸入減少が生じれば、これ以下の被害になることもあるが、それ以上になることも十分にある、ということである。その意味で、この小説は�空想�であるよりは�予測�である、といいたい。  これを書き終えて改めて思うのは、�現にあるもの�が欠如することの恐しさだ。豊かな社会に住みなれたわれわれは、常に�不必要なもの��あるべきでないもの�の過剰を恐れる習慣がある。一酸化炭素の過剰累積から宇宙人の侵入に至るまで、科学的・空想的な各種の恐怖は、ほとんどこの点から語られている。だが、われわれが本当に恐れなければならないのは、�あるべきもの�の欠如ではないだろうか。日本はあまりにも多くのものを海外に依存しているからである。   昭和五十年七月 [#地付き]堺屋太一  単行本 昭和五十年七月日本経済新聞社刊 〈底 本〉文春文庫 昭和五十三年三月二十五日刊