吉行理恵 小さな貴婦人 目 次  猫の殺人  雲とトンガ  赤い花を吐いた猫  窓辺の雲  小さな貴婦人  あとがき [#改ページ]  猫の殺人     一  私はか細い声に呼ばれた。 「あの、すみませんが……」  黒いセーター、黒のロングスカート、レースの黒い手袋姿の、皺《しわ》だらけの痩《や》せた老婆がおどおどした目で見ている。 「わたし、今、あの郵便箱に葉書を入れたんです、書き忘れたことがあるので、ちょっと取って下さい」  郵便局の建物の中に、都内、地方などと表示した孔があって、郵便物を入れると、局員が働いている場所に置いた箱に落ちてくるようになっている。なぜ、その箱に一番近い丸井めぐみに頼まなかったのだろうか。 「その、一番上のです」  老婆が指している葉書を拾おうとすると、めぐみがよく響く大きな声を出す。 「そんなことをして恥ずかしくないのですか。氏名を確認して渡すのが規則です」  めぐみは続ける。 「現金書留の紛失、年賀状の遺棄などが新聞で騒がれているときだというのに、あなたのような人がいると、あらぬ疑いをかけられます」  建物の中にいる人たちの目が一斉にこちらに向いている。老婆は、怖そうに立竦《たちすく》んでいる。私は老婆に訊《き》く。 「お名前を」 「Gです」  ますますか細い声を出す。聞いたことのある名前だ、と私は思った。  そのあとめぐみは私につんつんし通しだったが、勤めが終ると、けろりとして私を喫茶店に誘う。近くの美容院のガラス戸越しに外を見ていた美容師たちがニヤニヤして声をかけてくる。 「年は同じでも随分足の太さがちがうわね」 「彼女、栄養失調なのよ」  と、めぐみが言う。私は自分は普通でめぐみが特別太いと思う。私もめぐみも三十二歳のハイミス。後ろから、若い細沼絹夫が追いかけてくる。女子局員はめぐみにいびられ、次々とやめていったが、めぐみは男子局員には優しく、特に細沼を気に入っており、細沼のお茶代を自分か私が払うようにする。  珈琲《コーヒー》を飲みながら、めぐみと細沼は上役をけなしている。私は今日郵便局に来た老婆が新聞に出ていた女流詩人と同じ名前だと気付く。これから酒を飲みにゆくめぐみ、まだこの店にいると言う細沼と別れ、私は郵便局に近いアパートの部屋に戻り、古新聞の切り抜きを見ると、二十歳前後と思われるあどけないしもぶくれのGの写真が出ているが、六十九歳と書いてある。写真のGが若くて死んだ母と似ているので、とっておいたのだ。老婆の顔から皺を除き、華かさを加えれば、この写真に似てくるような気がする。Gの処女詩集『真っ白い紙の上に 紅い花を吐き続け 一晩で老いてしまった 猫』がJ賞を受賞したと書いてある。新聞に載っている住所を見たら、近くに棲《す》んでいるらしい。そのとき、電話が鳴り、細沼の弱々しい声が聴こえてくる。 「会ってもらえません?」 「さっき別れたばかりでしょう」 「喫茶店で、変な顔して僕を見ましたね、僕、なにかよくないことをしたんですね、謝りたいから出てきて下さいよ」 「え……、わたし、そんな顔したかしら」 「言ってもらわないと、僕、明日会ったとき、どんな顔をしたらよいか分らないですよ」 「本当になにもないわよ、また明日ね」  と電話を切る。  一時間ほど経って、スナックにいるめぐみから電話がかかってくる。 「どう、機嫌なおった。いま細沼くん来ているんだけど、あなた、ひがんでいたんですって。はっきり言ってあげたほうがいいわよ。あの人繊細だから、明日の仕事にも影響するから。差し出がましいようだけど電話したの、代るわね」  細沼が出てくる。私は、 「本当になんでもないんです。もし、そんな目をしているんなら気をつけます」  と謝って電話を切る。めぐみと細沼にはGのことは言わないことにする。     二  休日の午後になると、私は窓《まど》硝子《ガラス》を拭こうと思うが、景色もきれいじゃないから、あまりよく見えても、と今日もやめることにする。そのとき、扉をコツコツ叩く音がする。開けると、Gが居る。郵便局で会ってから一年くらい経ったので、ほとんどGを忘れかけていた。 「あの……、猫が迷い込んでいませんか」 「お預りしていますよ。貼《は》り紙を御覧になったんですか、すぐ連れてきます。あら、棚の上で眠っていたんですけど……」 「貼り紙を見たんじゃあないの、どんな猫ですか……」 「灰色で大きくて、すこしペルシャ猫の血が混じっているらしいんです。そうそう、額に縦皺が寄っているんです」 「あの子かしら……。四角い顔、鼻がピンクで鼻の穴が大きいんですが……」 「どうだったかしら、そんな気もしますけど」 「うそうそ、あの子は三十一年前に死んだんだわ、ああ……。わたし、昔、チャコールグレーのさらさらした毛の雑種と暮らしていたの。別猫だわ、そうよ」  と自分に言い聞かせるように言い、 「お邪魔しました」  ゆっくり扉を閉め、すぐまたすこし開けて、 「わたしが探しているのは、昨日まで庭に遊びにきていた素敵な黒猫なの。もしかしたら、あなたが預かっている猫、庭に来ているかもしれないわよ。花がたくさん咲いているから、猫が集まってくるの、猫岳を越えた貫禄のある猫が多いのよ。ちょっと来てみたら……」 「はい、そうします。あの、猫岳を越えるって……」 「阿蘇《あそ》山の猫岳に、年取った猫が修行に行って、山猫に仕込まれて戻ってくると、開けた障子を閉めておいたり、いろいろ出来るようになるんですって、つまり武者修行に出た猫のことよ……。あなたが預かっている猫、どこか工事をしているあたりから家出してきたんじゃあないかな、猫は喧《やかま》しい音を嫌うから」  坂を上り、四つ角を左に曲りしばらく歩き、坂を下りて、また左に曲ると、丘の上に一軒、家が建っている。石段を上ってゆきながら、空気がだんだん澄んでくるような気がする。意外に庭は狭いが、樹の蔭《かげ》や花の間から猫が数匹こちらを見ている。家の壁には蔦《つた》が絡まっている。 「いないですね」 「現れるかもしれないわよ。家に上ってすこし待ってみたら。なにもおかまいしません」 「はい」  部屋のガラス戸越しに庭を見ながら待つ。 「蔦や樹のお蔭で家の中に塵《ちり》が入らないの、日本は空気が汚いから、いくら髪をカールしても外に出るとすぐに湿気でぺたっとなってしまうし、雲脂《ふけ》をちゃんと取っておいても浮かんでくるんですもの、ヤになっちゃう」 「ほんとうにそうですね」 「近所の御老人が半日花の世話をして下さるの。きれいだよ、って話しかけているようだから、喜んで美しく咲くのね。御老人、家にお嫁さんと二人きりでいる時間が長くて窮屈だし、花が一番いいから世話代はいらないんですって。それではお好きなだけ切ってお持ち下さいと言っても取らないの。近所の料理屋なんかここの|しそ《ヽヽ》を盗んで使ってるのよ」 「それはひどいですね」 「この部屋で勉強するのよ。台所は無しよ、料理をつくるとゴキブリが出るから外食にしたの」 「詩集と新聞拝見しました」 「わたし、二十八歳から写真撮ったことないの。あの写真は特別良く撮れたのよ」  と得意そうに胸を張る。思わず私は微笑《ほほえ》んでしまう。 「あの詩集に収めた詩はあの子が生きているうちに書いたものがほとんどなの……。あと二、三篇で詩集に纏《まと》めようと考えていたときにあの子に死なれて、そのあと長い長いスランプが続いているの。あの子が書かせてくれたのか、わたしには才能がないのかと疑っちゃう……。あなた、猫好き」  と訊く。 「子供の頃、母が可愛がっていたんです。母が亡くなったあと猫もいなくなりました。その猫もチャコールグレーでした。大きすぎて、ちょっと怖かったんですが……、預かってみて、周囲のことを気にせず、自分勝手にふるまうので好きになりました」 「その通り。あの子、ゴミが落ちていると、イライラした表情で、爪で寄せるの。抱くと、蹴飛《けと》ばして逃げるくせに、わたしが掃除をはじめると、喜んで背中にとびつくので、掃除するときは、厚地の服を着たのよ」  Gの声はだんだん嗄《かす》れて高くなり、咽喉《のど》がグルグルとかすかに鳴る。すると、喘息《ぜんそく》用の吸入器を「シュッ、シュッ」といわせる。 「あの子のこと考えると苦しくなるから、なるべく訊かないでね……。あなたは夜遅くまで起きているの」 「いいえ、本が好きなんですけど、夜更しすると、次の日一日中頭が重くて仕事にさしつかえるんです」 「ほんとうはあなたのような人と暮らすのが猫には一番幸せでしょう……。猫は睡眠時間を多くとらなければいけないのに、あの子はわたしが詩を書いているとつき合っちゃって寝不足になったの、特別神経質だから、うとうとしていても、わたしがちょっと音を立ててもすぐ目が覚めちゃうし、わたしもあの子に気をつかって、くたくただった……」  Gは小声で独り言のように言う。Gの長年着て擦り切れたようなカーディガンには、焼物で猫の顔のボタンが付いている。 「このボタン、子供の頃にスイスで買って、最近、このカーディガンに付けたのよ。あの子が死んだあと、黒か灰色しか着たことないわ。わたし、日本人の祖母に似たんだけど、父はスイス人なの。赤ん坊の頃に風邪をこじらせて亡くなったんです。写真を見ると、映画俳優のポール・ニューマンみたいだから、年を取るにつれて大らかな人間味のある男になったでしょう……。スイスはどこよりも空気が澄んでいるんじゃあないかしら。わたし、スイスに居た頃は、快活で太った少女だったのに、九歳で日本に来てから人間の友だちが出来なくて猫好きになったみたい。そのせいか、なかなか日本語が話せるようにならなかったわ。日本人って怖いこと言うのね、『混血児はきれいな筈《はず》なのに、ほんとうにそうなの』って疑われたのよ。けど、醜いのはあっちの精神のほうで、俗っぽくて厚かましかった。今では目鼻立ちはよく覚えていないけど、真っ白い顔をし、小皺のように薄笑いを浮かべていたわ。あんな笑い方する猫は一匹もいないわ。あの子が死ぬ半月ほど前に、夫が夢に出てきて、『へえ、お前、そんなに傷ついたの』とニヤニヤ嗤《わら》ってたわ。わたし世間には隠しているのだけど、ちょっと日本人と結婚してたの。お見合いのときはおとなしそうにしてたのに、忽《たちま》ち豹変《ひようへん》して、『金さえかからなきゃ、取りあえず戴《いただ》いとかなきゃ』なんて言うのよ。全然もてないのに。あの子が死んだ後、女が夢に出てきて、『猫ちゃんのお食事係りになってあげる』って優しく言うんで、つい任せたら、毒を盛って殺しちゃうなんて、あんまりよ。わたしが死んだあの子を抱えて逃げてゆくと、皆でばたばた追いかけてきたわ。あの子を預かってくれるというスイス人がいたから、慌てて電話番号を訊いておいたわ。わたしは方向音痴だから二度とあの子に会えなくなってしまうでしょう……。スイスには意地の悪い目をする人がいないのに、日本では親しみのある目に会うことはめったにないので、日本人は目のかたちが悪いのかと思ったわ。もっとも日本人のなかにも、もっとよくしておくんだったと悔やむようないい人もいたけど、皆早死だったわ。人の足を引張ったり上手にとびまわったりする人は元気がよくて、そうでないとだんだん片隅に追いやられて死んだみたいに生きているでしょう……。あの子と過ごした九年間は子供の頃が戻ってきたみたいだったわ。男にひどいめに遇わされたあとで、暗くて陰気だったのにあの子のお蔭で明るくなったの。清らかで美しい思い出は、あの子と子供時代だけ……。あの子は最後まで距離を保ち、わたしに接したわ。寝床に入ってこなかったのに死ぬ二、三ヵ月前から毎日ほんの僅《わず》かな時間なのだけど、眠っているわたしの足もとにそっとより添っているようになったの。目が覚めて「なに」ってきくと、すーっと離れて行くのよ。入院中、すっかり衰弱しているのに、ウオーウオーと医師一家を威嚇《いかく》してけっして近づけないので、わたしが病室から診察台まで抱いて行ったのよ。死ぬすこし前、意識が薄れてゆきながら、わたしを見詰めつづけていたの。その半月ほど前に見た夢のなかで、『低い空で温かく輝く星になる』という声を聞いたけど、このときのあの子の目のことだったんだわ……。男はそこら中を歩きまわった足でズカズカ入りこみ、わたしを汚してしまう。あの子の足音ってサラサラっていうの。このお話、もうしたかしら。わたし、その音を聞くと、独りじゃあないなという気がしたわ。あれくらいわきまえてくれればいいのに……」  人と猫、夢と現実がごっちゃになってなんだか分らないけど、面白い、と考えながら、私はGの話に耳を傾けている。突然、Gは耳をそばだてる。 「なんの音かしら」 「なにも聞こえません」 「石段を上ってくるわよ」  立上り、ガラス戸を開ける。 「お婆さん、三毛猫来てないかしら」  と、女学生が顔をのぞかせる。 「お婆さんだって、フン、馴々《なれなれ》しい」  Gは呟《つぶや》き、声を低くして答える。 「庭をお探し下さい。家の中には入ってきませんから」 「いないわ」 「それじゃあないんですか」  顔が傷だらけの茶色い猫を指さす。 「フン、これ三毛じゃあないわ、厭《いや》だ」  女学生は口許《くちもと》に薄笑いを浮かべ、帰りかける。 「よろしかったらお連れ下さい。この猫なら毎日来ていますから、いつでもどうぞ」  Gの声が追いかける。その猫は、私が棲んでいる付近のボスで、魚を盗まれたとか、飼い猫を孕《はら》ませたなどと嫌っている人が多いが、いまは他《ほか》の猫同様静かにしている。 「女学生って厚かましいから大嫌い。わたしがJ賞を受賞して新聞に出たら、勿論《もちろん》こんなことはじめてなんだけど、卒業した女子高校の文芸部から電話がかかってきて、『もしもしGですか』って呼びすてにするのよ。『昨日、家に行ったんですよ、どこに出掛けてたんですか。文化祭で女流詩人研究を発表するんで、これから取材にゆきます』って言ったから、どうしても駄目だからと電話を切ったんだけど、またすぐかけてきて、『Jですか、あ、間違えちゃった』とゲラゲラ笑うの、電話をかけている人のまわりにいる人たちの笑い声も聞こえてきたわ。J賞を受賞したので、ついそう言っちゃったのね、GとJは似てないことはないけど……。『皆と相談しましたが、やっぱり、したいから』『困ります』まわりの人たちに『駄目だってさ』と言い、『どうしても』とわたしに念を押し、『せっかく取りあげようと思ったのに。さようなら』と言うのよ、無神経でしょう。研究すると言っても、あんな娘たちにはわたしを何時間じろじろ見ても皺の数が何本あったか程度しか分んないわよ。あなたも何か話して、なるべく厚かましい人の話をしてね」 「厚かましいというのかどうかよく分りませんが、郵便局の同僚だった人なんです」 「なに係の人かしら」 「切手売場でした」 「ああ、あのでか顔ね。ヘルメットみたいな髪型の醜い女ね」 「目鼻立ちは整っていましたし、フランス貴族の髪型を取り入れて自分でデザインした髪が人目をひいていました」 「わたしは中身で見るから、ああいうはすっぱは好かないのよ。同じタイプを知ってるけど、その女、わたしにライバル意識を持ってて、足をひっぱるんで厭だったわ。すぐ、誰にも言わないでねと言ってわたしにいろんなこと話すの、でも、他の人にもみんなそう言うんで、誰でも知ってるのよ。その女が近づいてくると、他のことを考えて聞かないようにしたわ。J賞を受賞したら、『懐しいわ』と訪ねてきて、『親友だったじゃあないの』と言うのよ、かなわないわ。『あなたは偉くなっちゃって、わたしなんか』と何度も言うのよ。旦那も子も孫もいるでしょう、と羨《うらや》ましがればいいらしいけど、面倒臭くて。わたしにライバル意識持つ人って三流が多いんで、がっかりしちゃう。次の日、戸を開けたらその女が立っていたんで、思わず閉めようとしたら、『避けなくたっていいじゃあない』と戸をがっと開けようとしたから、『猫が厭がるんです』と言っちゃったの。変な顔して帰って行ったわ。あ、ごめんなさい、ヘルメットの話して」 「丸井めぐみさんって言うんですけど、同じアパートにいた頃、猫ブームになったら、それまで猫のことは一度も話さなかったのに、男より猫がいいと飼いはじめたんですが、その猫、誰にでも胸にしがみついたり顔を擦り寄せたりしました」 「そんな猫らしくない猫がいるのは困るわ」 「丸井さん、突然郵便局をやめて、アパートにも帰ってこなくなったんです。わたしが猫に御飯をあげていたんですが、半月ほど経って、ひょっこりアパートに荷物を取りにきて、化粧品会社に入って地方にセールスに行っていたけど、同じ会社の人と結婚することにしたと言うんです。『タクシーに乗せて捨てに行ったのに、二度も戻ってきたのよ、御飯あげなくていいわよ、そのうちどっかへ出て行くでしょう』と猫を置いて行っちゃったんです。その猫は毎日わたしが帰ると門のところに居てからだを擦り寄せてくるんです。三日くらい考えて、面倒をみるよりしようがないと思えてきたんです」 「ひどいひどい、人間じゃあない、猫じゃあない」  Gは叫ぶ。 「あの、その猫、チャコールグレーの猫が迷い込んできてから、前よりべたべたしなくなりました」 「それならいいけど……。きっと見習ったのね。わたしも若い頃に変な猫好きに会ったわ。その男、猫のセックスのことばかり、まるで自分が猫になったみたいに夢中で喋《しやべ》るの。肛門《こうもん》のかたちがどうのって説明されても、興味持てないわ。その男に、『猫、元気』と声をかけられたとき、死んだあとだったけど、言いたくなかったから、『ええ』と答えたわ。『あんた、猫の顔に似たいと思うだろう』って意地の悪い目でじっと見たので、『前にいた猫とわたしそっくりだと言われました』と言ったら、呆《あき》れて黙ってたわ。実は、その猫、皮膚病の汚い毛で、雑巾《ぞうきん》と間違えられたのよ。女だてらに大冒険して片目と鼻を潰《つぶ》され、緑の鼻ちょうちんを出していたんだけど、そのことは言わなかったの、フフ、弱い者いじめする人は、おどおどすると、つけあがるのよ。わたし、いい女じゃあないせいか男にもよくいじめられたわ。女はすぐ意地悪になるでしょう、でも、男の意地悪のほうが物凄《ものすご》いみたい……」  額に入ったうつむきかげんの猫の写真と、チャコールグレーのきれいな布に包まれた四角いものの前に花がたくさん活《い》けてある。その猫が私の部屋に迷い込んだ猫にそっくりだと言おうとしたとき、 「あの子なの。写真機を向けられると、うつむいちゃうの、花とドビュッシイのピアノ曲が好きで、サラサラ、シャバシャバって足音を立てて歩いて、目は月の色。これはお骨よ」  と四角いものに優しい目を向ける。 「わたしのお墓に一緒に入れるの。あの医者、わたしに疲れるから焼場についてくるなと言ったけど、これ、ほんとうにあの子のお骨かしら」  箱を開けて匂いをかぐ。 「剥製《はくせい》にしようかと迷ったけど、かえって悲しくなるからやめたの……。外出するときは、もう独りだからしっかりしなくては、と思って、『守ってね』とこの写真に頼むの。 陽気で、坦々として、而《しか》も己を売らないことをと、 わが魂の願ふことであつた!  と、中原|中也《ちゆうや》の詩にあるけど、あの子はその通りに生きたわ。わたしも見習いたいと思っているのよ」  預かっている猫が写真の猫に似ていると言えなくなってしまった。いつまで待っていても現れないので、アパートに戻ると、母の形見の籐椅子《とういす》の上でまるくなって眠っている。Gに知らせるために石段を上ってゆくと、窓が開き、Gが顔を出す。 「いたのね」 「はい。黒猫は戻ってきましたか」 「まだなの……」  石段を下りてゆきながら、いつもより足が軽い感じだった。部屋に戻ると、めぐみの猫は、私の寝台の上で仰向けに四肢を拡げて熟睡している。やっぱりめぐみに似て品がない、と口の中で呟く。もう一匹は籐椅子の上で片目を開けて眠っているが、鼻がピンクで、鼻の穴が大きいところまでGの猫にそっくりだ……。     三  Gが郵便局に来て、郵便貯金をはじめると言う。 「猫ちゃん、お元気ですか」  と、Gが私に訊く。 「はい」  なにか聞きたそうに優しい目を向けている。私が言葉を捜していると、 「名前はつけたの」 「大きな猫なので、ついているんじゃあないかと……」 「猫のからだにそっと鼻を近づけてごらんなさい。あの子は積ったばかりの雪の匂いだったの。猫の毛は爽《さわ》やかな手触りよ。そっと撫《な》でてみてね。あまり長話をするといけないわ」  休日に、道で偶然Gに会う。 「どんな匂いがした」  と、Gが訊く。 「衛生ボーロみたいでした」 「そんないい猫はめったにいないから、大切にするほうがいいわ」 「はい。まだ、飼い主が現れないので、捨て猫かとも思いますが」  Gの顔がこわばり、目が吊《つ》り上ってしまう。私は慌てて、 「あんな大きくてきれいだから捨てられるなんてことはないでしょう」  Gは機嫌を直してニコニコし、忽ちまた顔を曇らせる。 「あの素敵な黒猫、車に轢《ひ》かれたの……」 「まあ……」 「なにか面白い話はないかしら」 「面白いかどうか分りませんが、先日、犬猫病院に歌手のAが来ていました。地方巡業にゆくとき、拾って可愛がっていた猫を病院に預かってもらったんだそうです。その猫、元気だったのに、家に連れて帰って間もなく、死んでしまったんだそうです」 「怖いわ……、それで」 「Aが死んだ猫を抱えてきて、『一体どんな扱いをしたんですか』と訊くと、医者はおどおどして、『おっしゃったとおりの特別室に入れ、看護婦には診させないでワイフが診ていました』と答えました。Aは青ざめたまま足を二、三回貧乏揺すりしたけれど、ふーと細い鼻の穴から息を吐き出し、『弁償してもらおうじゃあねえか』と凄んだんです」 「ホホ、あの人、よく問題を起こすけど、ファンなの。死んだ猫のうたがいっぱい入っているLPを出したのよ。わたし持っているわ」  Gは喋りつづける。 「動物愛護デイに、ある団体が主催したコンクールで優勝した猫にトロフィーと賞金を渡すから列席するようにと言ってきたから、�欠席。実験に使われるまで檻《おり》に閉じこめられている動物や野良猫のことも考えてあげて下さい�と返信を出したの。どうもコンクールをする猫好きを好きになれないのよ。勿論、猫に罪はないのは分っているけど、だいたい避暑地には避暑客が捨てていった犬猫がいっぱいいるそうよ」 「ひどいですね……」 「空家で生活している野良猫たちを知っているけど、家の中に食べ物を持ちこまず、それは清潔にしているのよ。近親結婚のせいか目の無い猫なんかもいるわよ……。あなた、犬猫病院に行ったと言ったけど、どこが悪かったの」 「迷い込んできたとき、怪我をしていたんです。よくなったんですが、皮膚病があるみたいです」 「いい猫は神経が過敏だから皮膚病になるのかしら、あの子もそうだったわ……。よく効く漢方薬を持っているから、郵便局に明日でも届けてあげます。その猫、額に皺《しわ》があるって言ってたわね。あの子もダニ猫だったの、ダニにつかれると、額に縦皺が出来て、ライオンみたいに威厳がある顔になるのよ。その猫、何歳くらいかしら」 「医者は、だいぶ年取っていると言っていました」 「それじゃあ、お豆腐を混ぜてあげて。蛋白質《たんぱくしつ》がとれるの。あ、鶏のレバーはあげないで、白血病になりやすいんですって」 「あの子が死んだときのことを書き出すと涙がとまらなくなって続かないんで、これまで書かなかったんだけど、やっと一つ書けそうなの。書けたら見せるわね」とGは言ったが、だいぶ経って郵送されてきた。「四十九日」という題名がついている。猫の四十九日のことだった……。感銘を受けたこと、涙ぐんで読んだこと等を書いて早速送ったところ、Gは郵便局に顔を出し、いい手紙だったと褒めてくれた。     四  豆腐屋の薄暗い店内には人がいない。 「ごめん下さい」  と声をかけて佇《たたず》んでいると、躯《からだ》が冷えてくる。そのとき、鼠《ねずみ》が足もとを走ってゆく。食べる気がしなくなり、店を出て、スーパー・マーケットに行った。パッケージに包まれた豆腐は舌触りが悪いように思えるが、間に合わせる。  一週間ほど経ち、その店の前を通りかかると、看板を外してある。  休日に、Gの家の方へゆき、公園の傍《そば》に小さな豆腐屋を見付け、店内を覗《のぞ》くと、太陽の光が差し込んでいる。 「絹漉《きぬご》しを二つ下さい」  と言ってしまい、二丁と言い直そうと思った瞬間、 「二丁と言うのよ。入れ物はどこ」  と元気の良い声がする。五十くらいのよく太ったおかみさんが私を見て、笑っている。 「持ってこなかったんです」 「吝嗇《けち》ってるわけじゃあないけど、お客さんは買い物|籠《かご》も持ってないから。店の入れ物は薄くて、手に持って歩くと、絹漉しはとくに壊れやすいからね」 「そうですね。では、木綿を一丁だけ下さい、壊さないように気をつけますから」  翌日、休み時間に、私は大きな弁当箱を買って豆腐屋にゆく。おかみさんは満足そうに絹漉しを二丁入れる。  次の日、勤めの帰りに寄って、弁当箱を渡すと、 「あら、入れ物を持ってくるなんて気がきいているわね」  と、客が言う。 「ええ、この奥さんみたいにお豆腐を大切にしてくれれば、こっちは暗いうちから起きてつくった甲斐《かい》があるってもんですよ」  おかみさんに若い男の店員が小声で、 「おかみさん、奥さんじゃあないでしょう」 「ああそうそう、お嬢さん、指輪してないもんね」  二人は口許に薄笑いを浮かべている。陰で笑い者にされていたのだろうか……。  部屋の前まで戻ると、曇りガラスの扉越しに猫が映っている。後ろ足で立ち、前足で扉を押しているらしい。扉を開けた瞬間、チャコールグレーの猫が飛び出してきて、すーと滑り、四肢を拡げて、仰向けに転ぶ。 「あらあら」  起き上って、照れたように目をそらす。なんだか楽しくなる。  翌朝、チリリンという母の形見の目覚しのか細い音が鳴りやんだが、背中が痛くて、なかなか起きられない。猫たちが「ア、ア、ア、ア」と幼い子供のような声で起こしにくる。  郵便局の階段で擦れ違った細沼が、私の額にさっと手を置き、 「熱があるんじゃあないの」  と、じっと私を見る。 「いいえ」  席に戻ると、細沼が私の目の前にアンプル入りの風邪薬をぽんと置き、 「良く効くんだって。飲んだほうがいい」  ピリン系と書いてある。私は非ピリン系でなくては駄目だし、風邪をひいてないので、捨てる。  仕事が暇になったので、ぼんやりしていると、目の前に細沼が坐り、じっと見ている。 「なに」 「あ、元気そうだね、目が冴《さ》えてきた。そこで、見てもらいたいんだけど、どうこのスタイル」  ぐるりと一回転して、 「ねえ、こっちの方が長すぎない」  と耳の横の毛を引張る。 「そうも思えないけど」 「そんなこと言わないで、揃《そろ》えて下さいよう」  と甘えた声を出す。  部屋に戻ると、曇りガラスの扉越しに猫が映っている。 「ただいま。あ、約束忘れた」  チャコールグレーの猫はむっとする。 「まだ魚屋さん開いているから、すぐ買ってくるわよ」  電話が鳴る。 「僕です」  と細沼の声が聴こえてくる。猫たちはそっぽを向く。 「家に帰って鏡を見たら、やっぱり寸法が違っていた。仕方ないから自分で切ったんだ。明日また見てね」  あまり話が長いので、受話器を耳から離すと、ガリガリバリバリという音がする。安売りでまとめて買ったトイレット・ペーパーに、猫たちが爪を立てたり、噛《か》んだりしてばらばらにほぐしている。あ……。 「今日は粗食にしなさい」  と猫たちに言い、煮干しを煮ていると、めぐみの猫がだみ声を張り上げ、催促する。すると、チャコールグレーの猫も「わあ、わあ」と鳴き出し、五月蠅《うるさ》いので、二匹を廊下に出す。二、三分も経たないうちに、管理人が「猫が鳴いていますよ」と電話をかけてくる。慌てて戸を開けると、隣室の水商売の女性がめぐみの猫には目もくれず、「可愛い可愛い、チョッチョッ」と大きな声で言いながら、悲鳴をあげているチャコールグレーの猫の頭を撫でまわしている。  部屋に入ったチャコールグレーの猫は、片隅に置いた猫用のトイレに駆け込む。よほど我慢していたらしい。 「外に行けばよかったのに。身動きも出来なくなるなんて、だらしないわ」  猫は一度入ったトイレから出て、傍のタイルの上で用を足す。あ、と思った瞬間、一メートルくらい跳び上り、部屋中逃げまわる。私は呆気《あつけ》にとられて見ているだけ。仕返しをしたらしい。 「いつもきちんとしているのにね。よっぽど腹が立ったんでしょう」  とチャコールグレーの猫に笑いかけ、掃除をはじめる。すると、近づいて来て、真剣な表情をし、汚したタイルのまわりを爪で引掻《ひつか》いている。猫は用を足したあと砂をかぶせるので、その真似をしたらしい。  翌朝、出勤前にアパートの窓枠《まどわく》を塗るからとペンキ屋が部屋に入ってきて、 「チェシャ猫みたいだ」  とチャコールグレーの猫を褒める。私は子供の頃、美しい挿絵《さしえ》入りの本で『不思議の国のアリス』を読んだ。  ペンキ屋は長髪でひょろひょろした青年だが、よく見ると、感じのよい優しい目をしている。     五  数日後、出勤すると、細沼がニヤニヤしながら週刊誌を私の前に拡げる。 「出ていますよ」  今週のふれあいま賞と見出しがついたグラビアに、男と女のくっつきそうな顔があり、女は私だ。「このオバさん、雑踏を歩きながら、ずっとブツブツ独り言を言っていたが、突然、『馬鹿男』と言った。前を歩いていた人がびっくりして振り返ったところをキャッチした。『すみません、考えごとをしていたので』と謝ったので何事もなく男は去った」と撮影した人の文章が添えられ、「こういうふれあいもあるのですね。人の世は様々です」と選者の評が出ている。 「独り言を言うんですか、老化現象のはじまりですよ」  細沼はニヤニヤし続ける。 「あ、白髪《しらが》が太陽に輝いている」  細沼の目に意地悪い光が混じる。  部屋に戻り、鏡を覗く。二本白髪が出ている。二十代の頃、白髪を見付けると、面白がって抜いた。いまは慌てているので、なかなか抜くことが出来ない。やっと抜いて屑籠《くずかご》に捨てる。  その夜、チャコールグレーの猫は帰ってこなかった。私が誤って、しっぽを踏んでしまったとき、全く声を出さなかったが、部屋から出てゆき、玄関の扉に向かって坐り、いくら謝っても厭な顔をし、私を見ないようにしていた。 「許してもらえなかったんだわ」  と独り言を言う。  休日の朝から猫を探しにゆく。若者が数人、政治関係のビラを配っているが、誰も私だけはよける。以前はこんなことはなかったのに……。男が近づいてきて、印刷物をくれる。「暇をもてあましているあなたに。きっと良いアルバイトをお世話しますから、すぐ来て下さい。内容を書けないのは真似されるおそれがあるためです。けっしてあやしい仕事ではないですよ。なんだったらお巡りさんと一緒に来てね」と書いてあり、ビルの一室を記してある。  夕方、Gの家の前を通りかかる。ここに来ているのなら諦《あきら》めよう、とアパートに戻り、とぼとぼと階段を上ってゆくと、上から下りてきた、ゴテゴテの大きな髪を結い、ロングドレスに厚化粧の女が私を見て、 「キャ」  と悲鳴をあげる。 「すみません」  と思わず言い、謝ることもなかったと気付く。女はつんとして立去る。  部屋の戸を開けると、めぐみの猫が飛び出してくる。 「驚くじゃあない、こら」  前にチャコールグレーの猫が同じことをしたときは喜んだのに、と反省する。電話が鳴る。 「サリー、あたし誰だか分る」  郵便局に入ったばかりの頃、「のっぽのサリー」という歌が流行していたので、丸井めぐみが私にサリーという愛称をつけた。 「わたくしの声忘れちゃったの」 「お久しぶりね」 「わたくし、子供を生んで、毎日が戦争よ。見せにゆくわ」  めぐみが結婚前に、「わたくし、すっかり変りそうよ、彼ったら、五人は子供を生んでくれと言うの、彼の頭脳とわたくしの感性をかねそなえた子をこの世に残すことは、世のため人のためになることですって。わたくしお酒をやめて、毎朝マラソンしているのよ」と言ったとき、世のため人のためを考える人が、自分が飼っていた猫の一匹も仲間にできないのか、と私は腹を立てた。「あのね、どうせ結婚するんだからって彼にホテルに誘われたんだけど、式を挙げるまではと断ったの、わたくしは古い女なのよ」とも言ったので、私はびっくりした。それまでめぐみは、小学校のときには性の知識は全部知っていたし、十五で初体験したと自慢していたのだ……。  そのとき、めぐみの猫が鳴きながら近づいてくる。 「気持悪いわね、その声が男に変ることを願うわ」  と、めぐみが言う。 「ハズは化粧品会社に勤めてるのよ、いい商品があるのよ、すこし高いけど、効果があるわよ、これから持って伺うわ」 「わたし、いまのところは」 「すこしお洒落《しやれ》したほうがきれいになるわよ」 「いらないわ」 「吝嗇《けち》」  受話器の向こうで、めぐみが鼻から息を吹く気配が伝わってくる。  その夜、夢の中に異常に顔が大きい子供が現れ、「あんた、いい年してうすら馬鹿」と罵《ののし》って消えた。目を覚まし、あの子供はめぐみではないかと思う。  勤めの帰りに美容師が声を掛けてくる。 「細沼さんが、あなたがいつも独りで淋しそうだからつき合ってあげているけど、中年女は若い子みたいに素直じゃあないって言っていたわよ」  部屋に戻る。その直後、扉をコツコツと叩く音がする。開けると、チャコールグレーの猫が居る。 「戻ってきてくれたのね」  うん、というような表情をし、長いしっぽをぴんと立てて部屋に入ってくる。めぐみの猫が戻ってきた猫を舐《な》める。すると、倍くらい舐めかえす。魚を皿に入れると、めぐみの猫は皿の外へ引張りだすが、チャコールグレーの猫は前足で皿を押さえて皿の中だけで食べている。  数分後、二匹は肩を組むようにして眠っている。  突然、背中が痛くなり、躯を横にすることもできず、這《は》ってゆき、非ピリン系の痛みどめを多めにのむ。しばらくすると痛みが柔らいでくる。そのとき、ふと視線を感じる。すこし離れて、猫たちがそっと見守っている。     六  休日に、私は公園に出掛けた。Gが遊動円木に腰掛け、本を読んでいる。邪魔になるといけないから、そっと引き返そうとすると、ニコニコした顔を上げ、 「久しぶりに暖かくて嬉しくて……」  と手招きする。 「もう何時間もここにいるのよ、ほらね、こんなに大きな袋の中に本をいっぱい詰めてきたのよ。これは、ホフマンスタールの『影のない女』よ。あんまり面白いので、わたしも物語を書きたくなったわ」  と恥ずかしそうにする。 「この本は『北欧神話』よ。フェンリス狼《おおかみ》という強そうな狼が神々の世界を滅ぼすのではないかって怖《おそ》れた神々が、フェンリス狼を縛っておく鎖を考えだしたの。猫の足音と、女のひげ、岩のねっこ、熊の足の腱《けん》、魚の息、鳥の唾液《だえき》をより合わせて作ったのよ。だから、猫には足音が無いといわれているのよ」  膝《ひざ》の上の本を指し、 「占の本なのよ、よくあたるのよ。わたしは結婚運がなくて、たとえ玉の輿《こし》に乗っても、あっけなく離婚するし、被害者の立場になるから、色情の過ちにも注意したほうがいいんですって。キザで、卑劣で、おしゃべりで、独りよがりで、ひ弱な男にしか会えないとも書いてあるわ。実際に、つまらない男とかかわりあって後悔したの。あの子のために泣くたびに心が洗われるけど、男に泣かされると心が茶いろく濁っちゃう。わたしはもう七十だし、男運が悪いから恋愛はしないわ。同い年の女の人で、若い男から親切にされたら、まわりの若い人でさえ比べ物にならないほど美しさを取り戻したのよ。女って凄いと思うわ。もっともその人は整形で皺を全部取ってるの。プロポーズされて、若い男、困ってるらしいわよ。若い女流詩人が醜いのに美しい詩を書くって厭味《いやみ》を言われて、美しい詩を書かなくなったのよ。才能があったのに、思ったより伸びなかった。でも、わたしはもう大丈夫、鏡を見ないから」 「影が映らないのではないですか」と私は冗談を言おうかと思ったが、やめる。 「また毎日のようにあの子の夢を見るの。生きかえって、看病して、また死ぬ夢が多いわ……。デパートで可愛い猫ちゃん即売会っていう貼《は》り紙を見て、行ってみたんだけど、ただのペルシャ猫はどうも好きになれないわ。可愛くない猫ちゃん即売会にすればいい。むしろムクムクの犬のほうが可愛いと思うわ。あの子に似た縫いぐるみを探して歩いたんだけど、いい猫をうまく作る人はまだいないみたい。捨て猫だったけど、あんないい猫二度といませんよ……。山口県の動物園で生まれた白いライオンの仔《こ》、灰色に変っちゃったって新聞に出ていたけど、あの子に似た色かしら。あの子はペルシャと日本の混血らしいの、顔が大きいせいか猫にしては目が細くてライオンの仔みたいだったのよ。威厳があって、繊細で、行儀が良くて無邪気で、すぐニコニコするの。前に飼っていた牝《めす》もいい猫で死ぬ前に一度だけ淋しそうに笑ったのよ。夢の中では大笑いしていたけど……。もう飼わなくてもお骨があるからいいの……」  私は思わず涙ぐんでしまい、涙もろいほうではなかったので、自分にびっくりした。Gは感謝したような目を向け、 「あなたも占ってあげる」  私の生年月日と生れた時刻を訊《たず》ね、 「結婚運が無いの。男とかかわり合うと、加害者の立場になるんですって。家族とも縁が薄いわ」 「母はわたしが十のとき、父は十六で亡くなりました」  Gは異常なほど熱心に聞いている。 「高校を出るとすぐ上京して勤めたんです。結婚して子供を生む気にもならず」  そこまで話したとき、今まで思い出さなかったのに、ふいにくっきりと母のことが甦《よみがえ》ってくる。 「母は神経の病気でたびたび入院していました。母が可愛がっていた灰色の大きな猫は、母が入院すると、家出するんです。父が外で見かけて、声をかけたんだそうですが、ちらっと見て慌てて気付かないふりをしたそうです。その猫、名前がついてなくて、『タマ』とか『ミイ』などと家政婦が勝手に呼ぶのを、母はとても厭がりましたし、猫のほうも知らん顔していました……。わたしが学校から戻ると、母は縁側で籐椅子に腰掛けて庭を眺めていたんですが、気分がいいから海岸を散歩すると言ってきかないので、一緒に出掛けたんです。家から二、三分歩いて十五段の石段を下りると、もう砂浜でした。砂の上で母は下駄を脱いで、『ああ、いい気持、足の裏が熱くなって、躯が軽くなるの、なんだか一ぺんに健康になったみたいよ』と明るく笑ったので、わたし、嬉しくなりました。砂丘をどんどん上って、『早く、早く』ってわたしを急がせました。砂の上に昼顔がたくさん咲いていました。頂上に坐って、童謡を歌ってたら、急に母が『あ……』って吸い込まれるように、すこし離れた場所を見たんです。焦げて黒くなった大きな紙が落ちてるのかと思ったら、ガサッと動いて舞い上ったんです。羽根がぼろぼろになった鳶《とんび》だったんですが、母はガタガタ震えてしがみついてきて、『鳶だから大丈夫よ』っていくら言っても離れてくれなかったので、家政婦が迎えにくるまでじっとしてたんです。あのときは、躯がカチカチになってゆくみたいな気がしました。次の日、学校の帰りに歩道に人が群がって海岸を見下ろしてて、『気違いだ』『まる見えなのが分らないんだよ』って騒いでました。水の無い掘り割りに母がしゃがみこんで、『ここにいれば捕まらないわ』と嬌笑《わら》ってました。母の肩の上に猫が乗って、焦点の合わない目をしてました……。猫は年取って日向《ひなた》で眠ってることが多かったんですが、母が声をかければ、ぱっと目を開けて、どこにでもついてゆきました。母が『おんぶ』って言ってかがむと、『イヤーアン』と鳴きながらおぶさるんですよ。陰で、わたし、『わんチャン』とか『犬ヤン』ってからかってました……。母は、入院することになったんですが、『竜太さん、今日は一緒にゆきましょう』って部屋中駆け回って、裸足《はだし》のまま庭にころがるように出てゆくと、『ニヤーン』って木の天辺《てつぺん》から猫が見下ろしていたんです。久しぶりに木にのぼって、誇らしそうにみえました。『竜太さん、竜太さん、今行くわ』って幹に爪を立ててました。父と家政婦に抱かれるようにしてゆきながら、あどけない目で猫を見詰め続けてました。母の姿が見えなくなると、『うあぁん』って猫は鳴きました。あれが生きた母を見た最後でした。あとで家政婦に聞いたんですが、車が病院に向かって間もなく、後からきたオートバイが、追い越しざまに、とび出してきた猫を跳ねたんだそうです。それを見た瞬間、『コホン』と咳《せき》を一つして、そのまま息をひきとったそうです」 「いまのお話を素材にして、物語を書きたいわ……、いいかしら……」 「はい」 「竜太さんって、あなたのお父さんの名前かしら」 「いいえ」 「また、あの子のことなんだけど、今年の七月十二日が三十三回忌なの。愛するものが死んだ時には、自殺しなけあなりません。って、中也の詩にあるけど、わたしはこんなに生きながらえちゃって……。窓辺にゆったりと坐り、外を眺めていた姿が懐しいわ。にあああ……と鳴きながら欠伸《あくび》する無邪気な表情、壁に映った影に戯れていた真剣な表情も忘れられないわ……。いつまでも忘れないので、あの子は死にきれず、さまよっているかもしれないわ……」  何度か私は預かっている猫に会ってみないかと言いかけ、Gに連れられて行ってしまったら淋しくなるだろう、と思い直す。 「九歳で死ぬなんて早すぎるわ……」 「夭折《ようせつ》しそうな感じですもの」  Gはぱっと明るい表情になり、 「このレコード、あんまりジャケットが良かったので、二枚買ったの。一枚あなたにあげます」  大きな紙袋の中から、ジャニス・ジョプリンのレコードを取りだす。 「さあ、チーズ・ケーキを買って帰って、勉強しましょう……。この女性週刊誌に、わたしが好きな歌手のこと、オチメなんて書いてあるのよ、日本人って意地悪ね、捨てちゃおう」  と塵箱《ちりばこ》に捨てて、 「さよならの言葉さえ 知らなかったの 白雪姫みたいな 心しかない わたし」  以前にヒットした歌謡曲を歌いながら帰ってゆく。滅茶滅茶に音程が外れている。  部屋に戻り、ジャニス・ジョプリンのレコードをかけると、チャコールグレーの猫はプレーヤーの正面に坐り、目を細め、じっと耳を傾けている。すこし経ち、もう一匹も隣に坐る。  数日後、結婚前に母が勤めていた喫茶店の友だちから電話がかかってくる。私が葉書で、竜太という人を知らないかと訊ねたのだ。その人の話によれば、母には竜太という名前のドラマーの恋人がいて、二人は羨《うらやま》しくなるほどよく似合ったが、突然、母が結婚してしまい、間もなく竜太は事故死したそうだ……。  サラサラという足音が近づいてくる……。 「衛生ボーロの匂いだから、衛生」  と呼んでみる。チャコールグレーの猫は黙っている。 「でか」  興味深そうにじっと見ている。 「でぶ」  今にも笑い出しそうな顔をする。 「お母さんみたいに、竜太さんって呼ぼうかしら。竜太さん……」 「あ、あ、ああん」  猫は鳴きながら欠伸《あくび》をする。あまり口を大きく開けたので、顎《あご》ががくっと鳴る。すると、私に欠伸が移ってしまう。  翌日の新聞に、夫婦でドライブをしていたら、オートバイがとび出してきた猫を跳ねた、それを見ていた妻は、そのショックで息を引き取った、と書いてある。     七  竜太は母の恋人だったと話そう、創作の役に立つかもしれない……。ちょうど知人からさくらんぼが送られてきた。「スイス人はさくらんぼを種ごと食べるのよ。お行儀のいい頂き方でしょう」とGは言っていた。レコードのお礼にGに届ける。受け取りながらGは困ったような表情をし、 「いつも長話してごめんなさい」  とすこし濁った声を出す。負担に思われたんだわ……。私は竜太のことは話せないまま帰ってくる。物を書いていたとき、突然訪問したので、不愉快だったのかもしれない、と後悔した。  その月、Gはなかなか預金にこない。定期預金の|※《マルカエ》の手続きの時期なので、印刷物を送ったが、見なかったのだろうか。この手続きをとると、利息が有利になる……。電話局に勤めている知人が「Gさん、耳がお悪いんじゃあないかしら。局に『電話がジイジイいうだけです』と電話をかけてきたので、調べて、『電話のほうは故障がありませんから、お宅のほうに御事情があるのではないでしょうか』と電話したんだけど、聴こえないらしくて、切っちゃったのよ。その後、なんにも言ってみえないから補聴器を付けたのかしら」と言っていたので、電話しようかと思うが、ためらってしまい、くるのを待っている。  風邪をひき高熱を出し、中年以降にかかるというヘルペス(帯状|疱疹《ほうしん》)にもなったので、二日休んでしまい、出勤すると、Gが預金を全額おろしにきたそうだ。  もう半年以上Gに会っていない。家の前を通ってみると、庭に雑草が伸びほうだいになっている。花を手入れする老人はこなくなったのだろうか……。  Gから絵葉書が二枚届いた。一枚目「スイスに来ています。白内障の手術の経過が良く、気分を変えるために、品の良い観光団を探し、行き帰りだけツアーに加わって、あとは自由行動をしています」二枚目「大きなライオンの縫いぐるみを買いました。これからはこのライオンと暮らします。もうすぐ帰ります。猫ちゃんお元気ですか。そんな良い猫は二度といませんから、大切にしたほうがよいと思います」  乾物屋でパッケージに包まれていない豆腐を売り出したので、休日に買いにゆき、公園を歩いていると、誰も居ないから、遊動円木に腰掛ける。揺すっているうち珍しく華いだ気分になってくる。  部屋に戻り、弁当箱を開けると、豆腐がこなごなになっている。うっかりして買い物|籠《かご》も遊動円木に載せたのだ。料理をつくっていると、チャコールグレーの猫は傍《そば》に黙って坐り、待っている。もう一匹は以前より小さな声で鳴きながら、部屋の中を歩きまわる。急に私は静かな気持になってゆき、不思議な思いであたりを見回す。チャコールグレーの猫が咽喉《のど》を鳴らす低い音が聴こえてくる。——この響のせいなんだ……。波の音を思い出すわ……。いつまでも傍に居てほしい、と思った。  猫と私の食事が始まる。そのあと、蚊取り線香を焚《た》いて本を読んでいると、猫たちは部屋から出てゆく。猫たちが厭がるので、蚊屋を探しているが、どこにも売っていない。そのとき、「ほとんど外に出ず、『猫の殺人』を書いています」とGの子供のようにたどたどしい声がラジオから聞こえてきた。 [#改ページ]  雲とトンガ  ドンドンという鈍い音が響いてきたとき、泥棒が入ったのだと思った。音は天井の片隅から聞こえてくるから、上の空部屋を歩いているのだと考えながら目を覚ました。 「あ」  引き出しの中を、妹猫が覗《のぞ》き込んでいる。特別ずっしりした箪笥《たんす》で、猫の力で開くとは考えられないことだった。七月に死んだ兄猫は、一番上の引き出しを寝場所にしていた。底に清潔なバスタオルを敷き、長身を横たえ、清潔なタオルをたたんだ枕に頭を載せて眠っていた。死んだあとで閉めたが、妹猫は、兄猫が隠れているのではないかと確めようとして、背が届かず、下から二段目を開けたらしい。私は引き出しを全部開けた。 「死んだのよ……」  脾臓《ひぞう》の手術の直後に死んだ兄猫を抱いて、病院から戻り、兄猫が好んだ風通しのよい台所で、異常なほど好きだった花を飾り、ドビュッシイのピアノ曲をかけ通夜をした。遺体を見せたときの反応によっては、これから先一緒に暮らしてゆけなくなると考え、妹猫をそこに入れなかった。  九年前、捨てられていた六匹のきょうだいのうち、二匹を選んだ。妹猫はとりわけからだが小さくて、目の縁に膜が出ていたので、残してくるのは不憫《ふびん》だった。兄猫の毛はさらさらした手触りで、チャコールグレー。同じ色の服を着たいと思っても、あれほど美しいチャコールグレーの布は見あたらない。明け方の空のように淡い色だった。忽《たちま》ち、兄猫のことばかり書くようになり、「猫以外のことを書いて下さい」と雑誌の編集の人に言われた。  物を書くと僅《わず》かばかりの原稿料を貰《もら》える。しかし、これでは生活できないから、洋装店を持っている母を頼っている。会社に勤めた経験はあるが、不眠症になり、神経がまいってしまった。  兄猫への私のうちこみようを素早く察し、妹猫は目立たなければと思ったらしい。外から戻った私の躯《からだ》に駆けのぼってきた。 「キャ、痛い。猿みたいね」  それ以来、二度としなかった。また、私が和式の手洗いの戸を開けるや、妹猫が入ってきて、手をゆすぐ場所に跳び乗り、洋式トイレを使う方法で利用した。 「厭《いや》ね」  二度としなかったが、デパートで買ってきた猫用トイレも使わず、傍《そば》で用を足した。そのたびに私は金切り声をあげ、兄猫は、馬鹿者というように妹猫を追いはらい、実に真剣な表情で、不始末のまわりを爪で引っ掻《か》いて掃除する仕草をした。  喧嘩《けんか》をしかけるのは妹猫だった。ちょっとからかってみようという程度なのに、兄猫が本気になって怒りだすので、やれやれというように退散した。……「え、本当の兄妹なんですか。全然似ていませんね、雲チャンはきれいなのに」と驚いた人がいた。すると、妹猫は暗い目をし、椅子の下に隠れてしまった。  私が泣いていると、妹猫が鳴きながら近づいてきた。私と同じ声で「えーん」と鳴いている。私は諦《あきら》めて眠ることにした。 「ほんとうにどこに行っちゃったんでしょうね」  という声を聞いて、目が覚めた。その声が妹猫の鳴き声に変っていった。 「あ」  また引き出しを開けていた。 「死んだのよ」 「いないよう、いないよう……」  以前、私は猫の言葉が分るような気がした。この三年余り、厚かましくて、鈍感で意地の悪い人間の出てくる短篇小説を夢中で書いているうちに、だんだん分らなくなった。兄猫が死んで二ヵ月目に重症のヘルペスにかかり、久しぶりに寝つき、一週間ちかくほとんど人と話していないせいか、急に分るようになった。電話が鳴っているとき、兄猫はいらいらした顔をし、電話機にかぶさるようにしたけれど、今は、電話機を古いレインコートと毛布で包み、風呂場に入れたので、音がほとんど聞こえてこない。  翌日、妹猫はなにも食べずに籐《とう》の揺り椅子の上で眠りつづけている。 「馬鹿力を出すからよ」  死ぬのかしら……。涙を流している自分に気付き、——あ、と胸の中で叫んだ。妹猫のために泣けるなんて思ってもみなかった。そのとき、妹猫はそっと目を開き、私を見た。 「ごめんなさい、わたしが悪かったわ、仲間外れにして、つらかったでしょう」  ほっとしたように目をつむる。 「ヘルペスが猫さんにうつったんじゃないかしら、この薬を口に入れてあげて」と、母の洋装店の客が届けてくれた漢方薬の小さな白い粒を妹猫の歯茎に塗る。  最近買った猫の医学書で、からだが弱ったときは牛レバーが良いと知り、肉屋に出掛けた。前に読んだ小説に、犬に食べさせるレバーをたびたび買いにゆき、老人なのに精力をつけるのかというように店員が好奇の目で見たと書いてあったので、注文するときためらう気持が混じった。中年の男の店員はニヤニヤしながら若い男の店員になにか言い、 「奥さま、どうぞ」  と、じっと私を見て、レバーを渡す。独身でも「奥さん」と呼ばれるのには馴《な》れているが、「さま」がついたのははじめてだった。  漢方薬とレバーのおかげで妹猫は元気が出てきた。 「あ」  台所の窓辺に置いてある、電気|按摩《あんま》椅子の幅の広い肩にゆったりと坐り、外を眺めている。  晩年、兄猫が好んだ場所だ。妹猫が居るのをはじめて見た。この九年間、妹猫は影の薄い存在だった。我慢することが多かった筈《はず》だ。そのとき、妹猫が振り返った。 「ミアウ」  か細く優しい声だった。おそらくこんな鳴き方をしたのは初めてだったのだろう、私の顔めがけて唾《つば》が飛んできた。 「なにかお役に立ちましょうか」  と訊《き》いているような気がしたから、私は頷《うなず》く。  妹猫の生活はすっかり変った。ゆっくりと目を覚まし、少量の好物を時間をかけて食べる。なまりの煮つけ一皿を、なんと四十分以上かけて食べた。大抵腹八分目でやめて、ふいと姿を消し、物陰で眠るらしい。四、五時間後に爽《さわ》やかな表情で現れる。  妹猫は幼いころから歯が悪かったので、兄猫が凄《すご》い勢いで食べ終え、隣の皿にまで顔をつっこんでくるのが不満だった。気に入らない食事だと抜いてしまうから、妹猫の皿に好物の鰺《あじ》だけ入れ、兄猫の皿には鰺を少量、あとは野菜を盛ったとき、妹猫はちらっと隣の皿の中を覗き、満足して食べはじめたが、兄猫は全く気付かず、自分の分を食べていた。去勢すると食べることにしか喜びがなくなるのだそうだ。兄猫はマッチまで舐《な》めてしまい、私を震えあがらせた。朝早く、とっておきの波の音のような鳴き方「うわああ」で起こしにきた。「うわああ」は猫語で「御飯にして」。人間にも「お腹《なか》がすいた」などと表現がいくつかあるように、妹猫は、「くるくるにやーん」などと催促する。  コーヒーを飲み、電気按摩で肩こりをほぐし、漢方薬を舐める。この漢方薬は猫のヘルペス用につくって届けてくれた客が、私の症状などを聞いて、わざわざつくってきたもので、小さな粒を二、三粒飲むと、頭が冴《さ》える。妹猫は「うー」と言いながら部屋の中を歩きまわっている。長年聴いて擦り切れたドビュッシイのピアノ曲をかけると、古い長椅子の背にちょっと爪を立てたあと、うとうとしだす。このレコードが好きだった兄猫がステレオの前に陣取っていたとき、妹猫がどこにいたのか思いだせない。 「なかなかいい猫だわ」  妹猫を見て、独り言を言い、久しぶりに短篇小説を書きはじめる。午後、食欲はないけれど、初めて食べることにした。食べたあと頭が朦朧《もうろう》としてきて書く力が出なくなるが、コーヒーと漢方薬だけでは消えないほど疲れが溜《た》まっている。「ちょっとかがせてね」と兄猫のからだにそっと鼻を寄せ、積ったばかりの雪のようにすこしだけ埃《ほこり》っぽい清潔な匂いをかぐと、疲れがとれるような気がした。妹猫の匂いをかごうとしたら、抜け毛が顔にくっついてしまった。優しい兄猫はすぐ妹猫のからだを舐めようとするので、やめさせた。抜け毛が胃に溜まり、毛球症になった猫がいた。  食事の仕度をしているあいだ、兄猫は傍に黙って坐り、ゴロゴロと低く咽喉《のど》を鳴らしていた。その音を聴くと、不思議なくらい静かな気持を取り戻すことができた。けっして離れたくなかったのに……。幸せだった、と心の底で思いだす。傍で妹猫が咽喉を鳴らしているけれど、ぜいぜいと濁った音が混じる。  目玉焼が出来た。妹猫に黄身をすこし、私は白身、残りは野良猫一家の分だ。兄猫は白身が好きだったが、黄身も食べた。妹猫は皿から出して食べている。 「雲はお皿の中だけで食べたわよ、お皿を両手で押さえていたじゃない……」  と小さな声で言う。妹猫は皿の中だけで食べることにした。  兄猫は何年かかっても一つの事をやりとげる性格だった。上の部屋の住人が水を出しっぱなしにするたびに、一時間ちかく私の部屋にざーざー落ちてきて、洗面器、バケツ、盥《たらい》など部屋中に並べなければならなかった。四度水びたしにされ、とうとう水漏れの夢を見てしまった。兄猫はじっと天井を見上げているようになった。そして、水が落ちてこないうちに、珍しく嗄《しやが》れ声で知らせにくるのだった。すると、一分も経たないうちに水漏れがはじまったが、大事はまぬがれた。  夕方になると、ときどき妹猫は戸口に駆け出してゆく。兄猫が帰ってきたのかしら、と思っているらしい。死んだのよ、と私は胸の中で呟《つぶや》く。夜、ポリバケツを持って外に出るとき、とっておいた黄身と削り節をまぶした御飯を持ってゆく。待っていた大きな茶色の猫が明るい声で鳴く。食べ物を置いて歩き出し、そっと振り返った。茶色の猫の妻と子も食事を囲んでいる。  この一家と知り合ったのは兄猫が死んで間もなくだった。ある夜、ポリバケツを持って外に出ると、大きな猫が私に向かって鳴いた。——雲と似た声だわ! 茶色だけどグレーに見えなくもない。久しぶりに明るい気持を取り戻した。 「これで、グレーだったらいいのにね……。待ってて、なにか食べ物を持ってくるわ」  と猫に言い、部屋に戻ったが、そうめんと削り節がすこしあるだけ。そうめんを茹《ゆ》でて、上に削り節を乗せ、時間がかかったから、もう居ないかもしれない、と出てゆくと、待っていた。 「いらっしゃい」  鳴くばかりで、近づいてこなかった。野良猫は触らせないと聞いた。 「またね」  と部屋に戻った。  次の日、食べ物と、野良猫は水をどこで飲むのだろうと気になっていたから、空瓶に水を入れて外に出た。すると、隣家の主婦と子供に会った。 「あの猫なら、割れた窓ガラスから入ってきて、泥棒するわよ」  と、主婦が言った。 「誰にでもニャンニャン鳴くわよ。奥さんも同じ色なのに、子供は黒いの。奥さんいまもお腹が大きいわよ」  と、子供が言った。それ以来、飼うのは諦め、食事をあげている。  私が棲《す》んでいる五階建エレベーター無しの、細いビルの住人たちが寝静まってから戸を開けると、妹猫は兄猫が好きだった屋上や、階下に探しにゆく。  私は肩こりがひどいため、一日に何度か電気按摩椅子に坐る。すると、「なに」というように妹猫が近づいてくる。 「なぜなの?」 「なに?」  私と妹猫は見詰め合う。 「あ」  電気按摩椅子が、トントンと音を立てている。 「トンちゃん(妹猫の愛称)、自分のことだと思ったのね」  妹猫は片目をつぶる。すると、光の弱い星のようにチカッと輝いた……。書き物などしていて、ふと視線を感じ、顔を上げると、高い所や暗い場所から、兄猫の月のような目が私を眺めていた。目を細めると三日月みたいだった。 「トンガ(妹猫の名前)は利口ね」  と話しかける。妹猫はからだを揺すっている。ムシルが書いた魅力的な娘トンカに因《ちな》んで、これからはトンカと呼ぼうかと思う。  チャコールグレーの兄猫の名前は、雲とすぐきまったが、妹猫のほうはつきにくかった。兄猫は猫としては面長だった。妹猫は下ぶくれで、額から目のまわりにある、からだと同じ黒い毛が、顔を暗い感じにしている。兄猫の鼻先は桃色で可愛かった。妹猫の口のまわりは、食べ物で汚したみたいに茶色。そのうえ、先の折れた薄茶色の牙《きば》が二本見えている。ただ、兄猫のお腹には吹き出物があったけれど、妹猫はきれいな薄いレンガ色で綿毛のように柔かそうだ……。しばらく名前をつけないままにしておいたが、大きな目がとんぼの羽の色をおもわせるから、当時読んでいた『蜻蛉日記《かげろうにつき》』に因んで蜻蛉《とんぼ》にした。しかし、犬猫病院のカルテに記入するとき、蜻蛉ではきれいすぎると急に恥しくなり、トンボと書いた。不妊手術後、ぶよぶよ太ってしまい、トンボもおかしいと思いはじめた。ちょうど、廃業したトンガ国の相撲取りが、淋しく帰国するニュースが流れていたので、トンガと改名した。一年中抜け毛だらけのからだにブラシをかけると、抜け毛が飛んできて、こちらまで汚れてしまいそうになる。黒いからだなのに、灰色の抜け毛が大人のこぶしくらい出るから、タドンと呼んだ時期もあった。  兄猫が居なくなり、日が経つにつれて、部屋の中に漂っていた悪臭が消えていく。最初のうちは、妹猫が猫用トイレ以外で用を足さなくなったからだと考えたが、兄猫の排泄物《はいせつぶつ》が臭っていたようにおもえてきた。積ったばかりの雪のようにすこしだけ埃っぽい清潔な匂いの毛だったけれど、どんどん脾臓が悪くなっていたのだ。  九年前、母の洋装店の古くからの客で、女子ばかりの大学で英語を教えている、日米の混血サンディさんから「可愛い仔《こ》猫を拾いました、一匹いかがですか」と電話がかかったとき、ビルに引越したばかりだったので、こんなところで飼えるか不安だった。サンディさんが棲んでいた寮の玄関に、たびたび外国の猫の血が混じった仔猫を捨てる人がおり、サンディさんは貰い手を探し、残った猫にはお金と鰹節《かつおぶし》を添えて、動物愛護協会に引き取ってもらうという話だった。 「可愛いグレーの猫がいるんですって。見るだけでもいいからゆきましょう」  と、母が私を誘った。  チャコールグレーの仔猫は私が持っていった籠《かご》に入ってみた。黒っぽい仔猫は、挨拶に出てきたサンディさんの犬に息を吹いた。残りの仔猫たちはなにもしなかった。サンディさんの友だちは目立った二匹のからだをそっと調べ、「両方とも牝《めす》よ」と言った。ビルで暮らしはじめて間もなく、大きさに差がありすぎるし、一匹があまり活発なので、もしや、と疑っていたら、下腹部を舐めているのを見て、はっとした。  兄猫が本箱の上からどしんとおりてくる音が響くたび、すさのおのみことが、ドッシ、ドッシと歩く様子を連想して苦笑したが、ある夜、眠っている私の顔の上にとびおりてきたため、血だらけになってしまった。家主にビルの階段で呼びとめられ顔の傷について訊《たず》ねられたとき、うっかり本当のことを話した。 「動物を飼うのは違反なのに、お母さんに頼まれたから、特別に許したけど、二匹は無理ですよ、一匹にして下さい」  と家主は言った。 「でも……」 「今さらと言うのなら、すぐ去勢して下さい」  まだ去勢は早すぎるので、ほうっておいたら、家主が訪ねてきた。運悪く、二匹は暴れまわっていた。 「今すぐ病院へ!」  と恐い目をした。トンガから先に、と思い、いえ、からだが大きい方から、と打ち消した。親子と間違えられるほど差があった。泣きそうになりながら兄猫を入院させ戻ってくると、妹猫は私の膝《ひざ》の上にべったり乗り、飴《あめ》のような甘えた目で見上げた。——気持が悪い、思わず膝から落とした。それからしばらく経ち、妹猫は悩ましい声で鳴くようになったが、兄猫はぽかんとしていた。すると、妹猫は私にからだをこすりつけてきた。 「不潔ね」  不妊手術をしたあとも、しばらくベランダから外に向かって嗄れた声で鳴きつづけた。 「出ていってもいいのよ、でも、くだらない男しか相手にしてくれないと思うわ」  と言い、私の一歳の誕生日に急死した父を懐しんだとき、再婚した母が、「お父さんが生きてたって、お姉さんしか可愛がらないわよ」と言った声にそっくりだったと気付いた。姉は美しく、私は醜い。  サンディさんがグレーの猫の縫いぐるみを見付けたと届けにきた。サンディさんは華奢《きやしや》な娘だったそうだが、いまはよく太ってモダンで可愛い感じのお婆さんになっている。包みを開けると、中からシャム猫の縫いぐるみが出てきた。 「雲ちゃんに似ているでしょう」 「は、はい……」 「ね、このへんグレーでしょう」  と、薄茶の額を指す。 「は……」 「これ、変った猫ね」  犬好きなので、シャム猫を知らないらしい。 「トンガちゃん、お姉さんを亡くして可哀相ね」  お姉さんって雲のことかしら、牡《おす》だったのに……。 「まだ、雲ちゃんを探す?」 「ええ、前ほどじゃありませんけど」 「そう、猫は犬とちがって遠吠えができないから可哀相ね」  と鼻をくしゅんとする。サンディさんは朝晩犬を散歩させていたが、凍った路《みち》でころんで入院したとき、友だちに犬の世話を頼んだ。そのあと、サンディさんは白内障の手術をすることになった。犬は年をとって呆《ぼ》けたし、自分ほど細々《こまごま》世話をする人はいないから、入院する前に犬を安楽死させたのだった。  犬が居なくなり、寮からマンションに引越す迄《まで》の期間、雀に餌《えさ》をあげていたが、だんだん数が多くなり米代がかかるから、雀用に徳用米を買ってこなければならなかった。 「雲ちゃんのお骨、まだある?」 「ええ、わたしが死んだら、もう一度一緒に焼きなおしてもらえば、同じお墓に入れるでしょう」 「わたしもそうするわ」  と度の強い眼鏡をはずし、涙を拭く。 「近所に野良犬がいて鳴いてばかりいて可哀相だから、大学病院に電話をかけて、眠らせてあげたのよ」  と、赤と紺の横縞《よこじま》のポロシャツを颯爽《さつそう》と着こなしたサンディさんが笑っている。目が悪いため足がふらつくサンディさんをタクシーまでささえてゆく。  兄猫のお骨の傍に飾った写真に話しかけた。 「影だけになっちゃったのね」  妹猫がそわそわした足取りで近づいてきて、どこにいるのかしら、というようにあたりを見回す……。  同じビルの別の階に棲んでいる、母が訪ねてきた。 「サンディさんが見えて、生徒さんの家で生まれた仔猫が、一匹グレーなので、あなたのことを話したんですって。そんなに可愛がってくれる人にならあげてもいいって言ったから、お乳をのまなくなったら見にゆきましょうとおっしゃったわよ、どうする?」  とニコニコしている。 「困るわ……」 「見るだけでもいいから、ゆきましょう」 「考えさせてよ……」  もし、性格が悪かったらどうしよう……、でも、雲と同じ色なんて珍しい、やっぱり見にゆこうか、見てから感じがちがうと断ったら悪いかしら、と悩みつづけた。  一週間後、母が電話をかけてきた。 「グレーじゃなくて白だったんですって。サンディさん、慌てんぼだからと言って謝っていらしたわ」  やっぱり雲と血の繋《つな》がった猫と暮らすほうがいい、雲を知っている共通の歴史がある、たとえ雲に似ていても、雲のことをなんにも知らない猫とうまくやってゆける筈《はず》がない、と思う。 「繊細で、威厳があって、無邪気、意地の悪いところがまるでなかったわね」  妹猫は優しい目を向けている。 「ほんとうにいい猫だった……」  私が暮らしている付近はどんどんビルがふえてゆく。一週間ほど前から夜間工事をしており、午前五時ごろからの三時間ほどしか静かなときがない。寝そびれてしまい、明け方屋上に上ってゆく。妹猫はぴんと尻尾《しつぽ》を立てて私を追い越し、振り返って、「うわああ」と鳴く。——懐しい声、雲がよくこう鳴いた……。二匹を近所の空地で遊ばせようとしたが、腰が抜けてしまったように這《は》って歩いた。それ以来、屋上が遊び場だった。兄猫が先頭、私、妹猫の順に上った。ときには、妹猫だけ階段の途中でだみ声で鳴いていた。  兄猫が屋上のコンクリートの囲いの上に乗って、ぼやーとあたりを見ていたとき、なにげないふりをして近づいて下してから、「駄目じゃないのよ」と叱ると、恐縮して照れていた。——緑のある場所で生活していたら、きっと冒険をし、もっと早死したかもしれない。でも、あんな死に方よりよかった! 去勢した猫は脾臓が悪くなりやすいと猫の医学書に書いてあった。  完成したての立派なビルがすぐ傍に聳《そび》えている。大きな窓ガラスには空の雲が映っている。去年の五月ごろ、そこにあった小さなビルを壊したとき、毎日々々、歯を削る器械と同じ種類でもっと凄い音が響いてきた。兄猫は昼間は本棚の中に避難することにしたので、本を出して場所を作った。私は十代と二十代の半ばまで歯科医にゆき、歯を削られると必ず貧血を起こし、卒倒した。三十代になり、よい医者に会い、卒倒しなくなったが、その音には勝てず、神経が参ってしまった。それから二ヵ月後に兄猫は死んだ。  避雷針にとまった尾の長い茶色い鳥が、「ジーイ」と囀《さえず》っている。兄猫が死んだ日は鴉《からす》が特別に喧《やかま》しかった。近所に一軒、庭に見事な花々を咲かせる家があったが、今はビルに変りつつある。その庭に聳えていた桐の木を伐《き》ったため、鴉が集まらなくなったのだろうか。妹猫は寝ころんだまま、唇を震わせている。とうとう明るい声を出したので、尾の長い茶色い鳥が飛び立った。兄猫は陽気に鳴いて鳥を逃がす名人だった。そのころは黙って狙っていた妹猫は、ふん、つまんないというような顔をした。部屋の中に雀が飛び込んでくると、素早くくわえて駆け出し、兄猫は後ろからついてまわった。庭のある家に棲んでいる猫好きのなかには、去勢して可愛い顔にしちゃうとけなす人がいるけれど、妹猫は不妊手術したあとも、山猫みたいだと人から言われた。——トンガ、変ったわ。前は悪口を言っているんじゃないかというように耳の穴だけこちらに向けたりして感じが悪かった。そういえば、わたしが傍を通るたび、からだをぴくっとさせた。毎夜、魘《うな》されるのもぴたりととまった。  近所のアパートの傍に、ライトバンが停まり、新鮮な野菜や果物を安く売っている。 「全部で幾ら?」  パン屋の老婆が痩《や》せた中年の八百屋に訊いた。 「千四百円でいいよ」 「千円置くわ」  と、パン屋は嗄れた大きな声を出し、帰ってゆく。私の足を下駄で踏んだのに謝らなかった。 「これで八百円なんて高いわね、五百円にしてよ」  ロングスカートをはいた太った主婦が大きなスイカを抱えている。 「いくらなんでもひどい、まだはしりだから二千円以上するんだよ」  八百屋は目をしょぼしょぼさせた。若い娘が大きなビニール袋に自分で詰めた野菜をちらっと見せ、 「お金置くわよ」  と帰りかける。 「ちょっと待って、計算するから」  ソロバンを弾きながら、ふーと溜息《ためいき》をつく。バナナを手に取って眺めまわしているのは、民芸品屋の女主人だ。私はこの間、民芸品屋のショー・ウインドー越しに、品物を見ていて、「他《ほか》のお客さんの邪魔になりますから、見るだけなら立止まらないで下さい」と叱られた。 「奥さん、スイカ買わない?」  八百屋が私にすすめた。 「五百円札しか持ってないんです」 「お金なんていらないよ」  とふざける。  トマト、ほうれん草、胡瓜《きゆうり》を三百円分買うことにし、五百円札を出すと、八百屋はちらっと見て、百円おつりをよこした。どうしよう……、思い切って言わなければ……。 「おつり二百円でしょう」 「あ、間違えた、フフ」  わざとらしい声を出す。  そこから一分程歩くと、稲荷《いなり》がある。薄いグレーの猫が赤い鳥居を潜《くぐ》ってゆく。 「あ」  と呟《つぶや》く。猫が振り向き、戻ってきて、私の足もとに寝ころび、人懐っこい表情で見上げている。——雲の再来! 思わず抱き上げ、匂いをかいだ。 「ちがう、ちがう」  とほうり出す。ばさっと音を立てて地面に落ちた猫は、まだ足もとに擦り寄ってくる。 「色がちがう、匂いがちがう、手触りがちがう」  と流行歌の替え歌を調子ぱずれに歌いながら部屋に戻り、 「雲!」  写真に駆け寄ってゆく。 「馬鹿猫だったのよ、危い危い」  不満そうに私を見ている妹猫に、 「太田さんみたいになりかかって、馬鹿女でしょう」  と話しかける。すると、目をそらせる……。姉の友だちの太田は愛妻を亡くし、もう一生結婚しないとうちひしがれていたが、半年も経たないうちに、「今度、この人と結婚するの、チャー(妻の愛称)にそっくりだろう」とニコニコしていた。「似ても似つかないのに呆《あき》れたわ」と姉が怒っていた。 「ああ、雲に会いたいわ……」  妹猫はまた私を見ているけれど、耳だけ背後の戸口の方に向けている。 「屋上にゆきましょう」  と誘うが、ついてこない。  午前四時過ぎに胃が痛くて目が覚めた。そのあと二時間以上痛みつづけている。今日は苦手な人に会わなければならないから、神経胃炎を起こしたらしい。電話に物をかぶせるのをよしたが、鳴っていても出ないときがあったのに、偶々《たまたま》出て、会うはめになった。 「おかしな声が飛び出すかもしれないわ……。あまり喋《しやべ》らないほうが利口に見えるわね。分ってて、自分でうんざりしてるのに、とりとめのないことを喋りつづけたらどうしよう……」  と独り言を言いながら、兄猫の写真の前に坐ると、四角い顔をこちらに向けている。あら、もっと細っそりした顔だと思っていたけど……。以前、兄猫を見て、「田舎《いなか》のオッサンみたい」と言った女性の目を疑ったが、五キロも体重があったし、手足も太くて大きく、鼻の穴も大きかった。鼻の穴が大きいと長生きすると聞いたけれど、猫は人間とちがうらしい。  妹猫がそわそわした足取りで現れ、やっぱり居ない、というような表情をする。  人と会う前に、試験のときなどにあがらない漢方薬を多めに服用した。戻ってくると、曇り硝子戸《ガラスど》越しに妹猫が映っている。「ニャーン」と優しく迎える。以前、出迎えは兄猫の役目で、妹猫はだいぶ経ってからのそのそ出てきた。 「まあまあだったわ」  と報告する。しかし、それから三日間、悪性の下痢が続き、食べ物は見るのも厭《いや》になった。——来年は四十なのに、こんな脆《もろ》くてはなさけない。精神を鍛えなければ、と心から思う。  ——雲は、緩くなった冷蔵庫の蓋《ふた》を開けて物を食べていた。紙袋の上や中で眠るのが好きだったけど、手で持つ紐《ひも》の部分に首を引っかけるので、慌てた。入口の戸にからだを挟んだときは身が縮む思いをした。外出しても、針箱を出しっぱなしにしてきたような気がしたりして、針を飲んだらどうしようなどと気が安まらなかった。いまは妙にしーんとしている、トンガのほうがらくでいい、と思う。そのとき、お骨の傍で眠っていた妹猫が、「ニャアニ?」と私を見る。  布団に入り、テレビをつけると、眼鏡をかけた愛嬌《あいきよう》のある映画批評家が、これから始まる映画の解説をしている。  兄猫が寝台の上にとび乗ってきた。——変ね、前は、ここでは寝なかったのに。あ、死んでなかったんだわ! じゃ、お骨になったのは? テレビから声が聞こえてくるから夢ではないみたいだけど……。画面が見えなかったので、夢だと分った。兄猫は身体《からだ》が重かったせいか、コトコト、シャバシャバ、サラサラなどと足音を立てたが、夢だから足音が聞こえない。兄猫がすたすたと歩きまわり、下りてゆき、目が覚めた。さっきの映画批評家が、「それでは次週をお楽しみ下さい。サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」と言っている。とても短い時間におもえたが、放映中二時間ちかく眠っていたのだ。 「いい猫だった……」 「まあ」  と、妹猫が鳴く。 「三回鳴らして一度切り、また鳴らしたら出ます」と手紙に書いて出したので、姉の先輩で親しくしていたMの未亡人が電話をかけてきた。 「今日は|おとうさん《ヽヽヽヽヽ》の日ですね、思いだしていたのよ」  と私が言うと、嬉しそうな声を出した。 「泊りがけで遊びにきて下さい。気をつかわないで」  月はちがうけれど、兄猫が死んだ日が十二日、Mは十一日で一日ちがいだから、忘れない。未亡人は、毎月十一日を、おとうさんの日と言っている。  去年、七十八歳でMが死んだ後、未亡人は娘の嫁ぎ先の甲府で暮らすようになったが、東京にいたころ、私は姉に誘われ、大《おお》晦日《みそか》にMの家にゆく習慣がついた。Mは日本にロシアンダンスを入れた人で、紅白歌合戦に四人組の歌手が出て歌い踊ると、 「このアクションはわたしがやったのと同じだ」  と言って、よろめきながら一緒に踊り、 「おとうさんもまだ大丈夫だ」  と威張った。そこに集まった人たちはいつの間にか、おとうさん、おかあさんと呼ぶようになった。  甲府を訪れたとき、その家には仏壇がなく、彫りの深いMの写真の前に、新鮮な花、Mが好きだったモスグリンの蝋燭《ろうそく》、デミタスカップのコーヒーが供えてあった。 「庭の草取りをしていると、横の窓から『なにいつまでもしてる』と、おとうさんが叱ったのよ。おとうさんはわたしが日に焼けるのが厭なんですって」  と茶色い皺《しわ》だらけの可愛い顔の未亡人が言った。  机に向かい、人間のことを書きはじめたとたんに鬱屈《うつくつ》してしまった。些細《ささい》な意地悪まで生々しく甦《よみがえ》ってきて、先に進まない。夜間工事が終ったので、外に出た。いまはまだ空色が澄んでいる。堀の草むらに、夾竹桃《きようちくとう》が咲いている。蝶結びのような変った尻尾の猫が歩いている。 「空気の良いうちに出歩くのですか」  と声をかける。  空家の庭に月見草がたくさん咲いている。人家の庇《ひさし》に猫が三匹集まっている。白黒、精悍《せいかん》な感じの斑《ぶち》、ゴテゴテのリボンをつけた醜い猫。白黒の猫は兄猫より小さいが、上品で愛嬌があり、あどけない表情がそっくりだ。そっと私を見ている。——自由に出歩けて幸せね、さようなら、と口の中で呟き、歩き出す。振り返ると、優しい目で見送っている。あとの二匹は一度も私に目を向けなかった。  夕方、妹猫は戸口へ駆け出してゆく。サラサラという兄猫の足音を私も聴いたような気がする……。夜、窓辺の電気按摩椅子に坐った。——ほんとうにいい猫だった、と思う。電気按摩椅子の肩に坐っている、妹猫の影が、部屋の中の白い壁に映り、兄猫ほどの大きさに見える。 [#改ページ]  赤い花を吐いた猫     一  Gは、スーパー・マーケットの一隅でバケツに入れて売っている、一束二百円の花々のなかに、深い赤の小さな薔薇《ばら》キャラミヤを見付けて、急に生き生きした表情になった。他《ほか》の人たちは当然のようにもっと派手で大きな花束を選んでいる。——まるで、わたしを、ひっそりと待っていてくれたみたいね、と心の底で叫びながら、キャラミヤの花束にすーと手を伸ばした。Gを見ている人たちは、「変な婆さん」と思っているらしいが、今は気にならない。買い物に出る前に、昨夜見た夢をノートに記したばかりだった。〈私が棲《す》んでいる近所ではビル工事の騒音が凄《すさ》まじい。音に敏感なダイアナがノイローゼになるといけないから、人に預かってもらった。ようやく静かになり、迎えにゆくと、応対した人が、「ダイアナさんは、すーといなくなりました」と言ったので、夢を見ているのだと気付いた。なぜなら、現実では、故猫ダイアナの三十三回忌を去年済ませた。「ありがとうございました、さようなら」「あ、ちょっとお待ち下さい、実はダイアナさんはさっき亡くなったのですが、Gさんのお声を聞いて生き返りました……。これもどうぞ」と赤い花束を差し出した。ダイアナは薔薇が好きで、鼻の穴を拡げてクンクン鳴らした。腕の中のダイアナはほんとうに優しい目で私を見上げている。こうして再び死になおすのだ〉目が覚めたとき、どうしても忘れられないとはいよいよ狂うのかと怖《おそろ》しかった。  白黒以外の夢は不健全な証拠だとなにかで読んだ。Gは光や影、音、匂いまで伴う天然色の夢を見るので詩の素材にする。眠るのは映画館にゆくみたいで楽しみだが、怖しさも混ざる。……以前、ある医学雑誌が、神経科の医者と、夢について対談してほしいと言ってきた。あまり夢を見なくなっていたので、今なら大丈夫と引き受けたところ、「僕は色の付いた夢を見ます、夢を見ないなんて自慢する人がよくいるけど、夢を見るのは脳細胞が活発な証拠だし、栄養が付くのです」と医者が言った。「じゃ、わたし、このごろ駄目なのかな」と思わず呟《つぶや》き、笑われてしまった。「どうして女流詩人と対談させられるのかと思ったけど、お会いしてみて意図が分りました」医者は編集の人にそう言い、「Gさん、患者が書いた詩を読んでみませんか」とすすめた。精神病患者に似ていると思われたのかと不安になり、慌てて辞退したが、すぐ大人げなかったと後悔した。しかし、あとの言葉が見付からず、しらけさせてしまった。  書くことにエネルギーを吸い取られてしまうため、机に向かっているとき以外のGは、ぼやーとした表情をしているので、本当に詩を書いているのかと疑った人さえいた。……眠ると、雑念が消え、先を見通せるようになる。友だちと気まずくなる夢を見たら、思いがけない出来事が起こり、現実になってしまった。ある女流画家が、痩《や》せた姿で近づいてくる夢を見た翌日、久しぶりに出席した会合で、夢に見たのとそっくりなその人を見かけた。五、六年前、会合で挨拶したときはよく太っていた。その後消息を知らなかった。けれども、こんな些細《ささい》な内容では、占を商売にできないから、お金と結びつかない。 「キャラミヤは一本三百円のもあるのに、これは三本二百円、花が小さいからかな。でも、あまり大きい薔薇よりいいわ」  と独り言を言いながら家に戻り、 「ダイアナさん、ただいまGは戻りました。日本はますます空気が汚れて、ちょっと外に出ると、くたくたになります……」  ダイアナのお骨と写真に話しかける。お骨は、ダイアナのからだの色、明け方の空のような淡いチャコールグレーの布に包んである。この布はスイス製で、すこし光沢があり、同じ色でステッチが入っている。裏は、れんげ草と野菊を合わせた紫。寒い日は自作の毛糸のショールでくるくるにくるむ。Gはお骨を抱きしめ、 「ダイアナさん、Gのこと好きですか、好きって言って! え? 愛しているって言っているんですね……。ダンケ・シェーン」  写真の中のダイアナは俯《うつむ》いている。  ダイアナは、日本とどこか外国の混血だったが、Gもスイスと日本の混血で、スイス人の父は赤ん坊の頃に病死した。母の故郷日本に来たのは小学生のときだった。  世間には隠しているが、Gは若い頃日本人と結婚していた。詩を書きはじめたのは、離婚してからだった。  姑《しゆうとめ》が、冷しそうめんをつくるように、と言い、やくみはすくなくとも三種類は用意しなさい、と命じた。嫁のGは、料理の本を見ながら、つゆは鰹節《かつおぶし》と昆布《こんぶ》と味醂《みりん》を使ってつくり、ガラスの器にそうめんを盛り、小さくくだいた氷を散らし、一人に一尾ずつの蝦《えび》、干ししいたけ、みつば、白身の魚、細切りにした薄焼き卵を添え、やくみの生姜《しようが》、葱《ねぎ》の白いところとしその葉は細切りにし、好みのものだけ取れるように小皿に分けた。すでに卓袱台《ちやぶだい》に向かっている、舅《しゆうと》、姑、夫の前に料理を置いた。三人とも、やくみをごちゃごちゃにつゆに入れ、物凄《ものすご》い勢いで食べ終った。最初から最後まで、まるで料理は見てないような目だった。  三人の食事の終ったあと、Gは息子と食事をする。二人は食べるのが遅くていつも三人をいらいらさせるので、いつの間にか別にするようになっていた。そうめんを食べ終えた息子はまだ食べたりないような顔をしている。 「全部食べていいわよ」  と、大きなおはぎを並べた皿を息子に渡した。息子は小児科の医者に、太りすぎているから痩せろと言われた。しかしGは、相撲取りになってもらいたいと思っている。——ほんとうはあまり大きくない技能力士が好きだけど、息子は愛嬌《あいきよう》がないし、愚鈍だから、どんどん太らせて、横綱になってもらいましょう……。お相撲さんは明るくていいわ。六個目のおはぎを頬ばっている、息子に笑いかけた。……現在息子とは音信不通だ。  郵便物が届いた。一通目は原稿依頼の往復葉書で、「諾」「否」が印刷してあり、どちらかを消す場合は簡単だが、なにも書いてない。こういう文章は七十過ぎた今も苦手だから、昔母に教えてもらった通りに書く。「お申しつけのこと、承知致しました」。二通目は、猫の詩ばかり集めて作る本に、Gの処女詩集『真っ白い紙の上に 紅い花を吐き続け 一晩で老いてしまった 猫』に収めた一篇を、収録したいと言ってきた。ボードレールやエリュアールの詩も入れると書いてある。Gのは「猫の一日」という題だ。    眼をさます と    ミルクを飲んだ    う、めえ…… と鳴いて    もう 眠ってしまった  ——他の詩はひーひー言って書いたのに、これはさらっと出来た。なのに、この子だけ選ばれるなんて、と目を細める。  部厚い速達も来ていた。差し出し人の、未知の男性は、夢にダイアナが現れたとき運命的なものを感じた、とか、返事を一度も出さないのに、お手紙ありがとう、とか、新幹線で何時間かかかる場所を指定し、会いにこないか、などと半年ちかく毎日のように速達をよこす。Gは二十八歳以後、写真を撮らないから、新聞社などが写真を載せたいと言ってくると、特別良く撮れた若い頃のを渡す。それを見て、Gが若いと思っているのかもしれない。男はお酒を飲んで書いたという詩も五、六篇ずつ便箋《びんせん》に書いてくる。Gは物を書くときはお酒は飲まないし、原稿用紙に一字ずつ気をつかって書く……。たくさん書けた時期でも、一週間に十二、三行だった。キザな文学青年だと思ったけれど、若いからと我慢していたところ、自分のカラー写真を入れてきた。その顔は、なんと中年以上だった。「頭がおかしい!」とカンカンになり、「こんな醜い顔、よくも人目に晒《さら》す気になるわね」と人にみせたら、「二枚目じゃないの」と言ったので、もう一度見たが、やはり醜かったから、破り捨てて、手をきれいに洗った。若い頃、会ったばかりの中年男が、芸能人でもないのに自分の写真を、Gに見せたことがあった。目鼻立ちはもう忘れてしまったが、カメラをじっと見て、口を結んだままの笑い方がそっくりだった。  今日来た文面にさっと目を通すと、近い将来詩集を出すが、いまのうちにジャーナリズムに商品券でも配っておいたほうがいいか、と書いてある。Gは目を吊《つ》り上げ、 「不潔だ。蛆虫《うじむし》みたいだ」  と手紙を投げ捨てて、手を洗いながら、 「うす汚れた中年男め! ダイアナの夢を見ないでくれ!」  ——こんな一所懸命怒るなんて、自分がおかしいから変な読者が憑《つ》くのか、と厭《いや》になった。……本格的な分裂症の、未知の人にも四年間悩まされた。「はいえな、変態」などとGを罵《ののし》り、「深い関係だったGと別れたいのに、離れてくれず、職場にまで押しかけてきて妨害するため、首になった」などと有名詩人たちに手紙を出した。誰も信じなかったらしいが、疑われたら困るので、あまりひどい手紙はとっておく。有名大学を出たと書いてあったけれど、平仮名ばかりで、たまに使う漢字はほとんど誤字。溶けはじめたなめくじのように力がなく、汚い字を見るたびに暗い気持にさせられた。たまに良い手紙がくる。その人たちは達筆でなくても感じがいいし、返事を欲しがらないから、ほっとする。気をつかいすぎて馬鹿丁寧になったりして、いい手紙がなかなか書けない。——今後、悪い手紙は開封するのをよそう、と口の中で呟きながら、いろいろなかたちの木、鹿、西洋人が描いてある、菓子の空罐《あきかん》の蓋《ふた》を開けた。中には英国製の漢方薬が入っている。   ジェルセミアム=あがらなくなる薬。   カルボヴェジ=くたっとしたとき、しゃんとする。   アーニカ=疲労と怪我に効く。   ノックス=風邪とお腹《なか》の常備薬。   ブライオニヤ=ノックスが合わないとき。   アルセニック=悪性下痢。   ラス・トックス=筋肉節痛と風邪に。  半年ほど前から漢方薬をはじめたが、効目に驚いている。それまでは、人前に出たとたんに混乱してしまった。「わたくし、Gさんの詩が一番好きですのよ」と言われ、喜んだのは二十代まで。それ以来は、この人にはきっと何人も一番がいるんだ、利用しようと企んでいるのかな、と心臓がドキドキした。へつらう人は突然陥れたりする。皮肉を言われるたびに薄ら寒かった。詩を発表しないでいた頃、「詩人をやめてなにしているんですか」と真面目な顔で訊《き》いた男がいたので、なんだか変な日本語だ、と恥しくなった。答え方が分らず、「猫が死んでから、長い長いスランプです」と小さい声を出した。すると、鼻先で嗤《わら》って行ってしまった。「Gさん、赧《あか》くなった、彼に惚《ほ》れてるぞ」「婆さんなのに、男を見ると喜ぶね」などと噂《うわさ》している人たちの間に、「ねえねえ、Gさんって」と、さっきの男も加わった。——噂話をストレス解消にするのはいいけど、つくり話は紙の上だけにしてほしい、好い加減なことばかり言って、覚えていられるのか、と腹を立てたら、口がもごもご動いてしまった。中身が薄汚れた感じの美男子が、「見ちゃった」といまにも言いそうにしていた。慌てて目をそらすと、場所を変え、ニヤニヤ見ていた。感情が揺れるたびに補聴器がガーガー鳴りだし、とうとう鼓膜が破れそうになり、はずした……。しかし、漢方薬ジェルセミアムとカルボヴェジをのんで会合に出席したときは、落ち着いて醒《さ》めていられた。「陽気で、坦々として、而《しか》も己を売らない」人にだけ心を開き、あとの人には礼儀を欠かさないようにふるまえた。ドカドカ歩いてきた無神経派の詩人梅野世根子とあわやぶつかりそうになったが、よけることができた。四十年以上前に初めて会った日、「Gさんみたいな純情な人、好き好き、親友よ」と世根子はニッと笑った。——人馴《ひとなつ》っこい、とGは戸惑いながらも、友だちが出来ないたちなので、まんざらでもなかった。しかし、世根子は元気いっぱいなのに、日毎Gは病人みたいになっていった。Gを新居に招待した世根子は、結婚式や新婚旅行のアルバムを見せ、電車の時刻まで自分できめて帰らせたのに、興味本位に新婚家庭に来て、だらだらしていったと言いふらした。「Gさんをモデルに詩を書いてるの」と言い、「友だちがあたしの幸福に嫉妬《しつと》した」という題の愉快な詩を発表し、好評だった。「今度はね、曇り硝子《ガラス》のこと書くの、曇り硝子は見にくいでしょう、醜い女の詩よ」とGの顔から目を離さなかった。それ以来、我慢して友だちでいて、素材にされたのではわりが合わないから、避けているが、会いたいと手紙がくる。「私は話すのが苦手なのです」と返事を出したが、すぐまた同じことを言ってきたときは微熱が三、四日取れなかった。結婚したばかりの女が厚かましくなるのは何度か見たけれど、世根子は年中厚かましいのだ。……Gは残酷で意地の悪い作品が好きだが、作者がひっそりと意地悪く生きていると感じとれる場合だ。自分に敏感、人には鈍感で厚かましく、意地悪をけろりとする残酷な大人がいる。奇形児を指さす幼児のように、自分はすこしも傷つかないらしい。  今日は嫌な手紙も来たから、特別に四種類漢方薬をのんだ。白い砂みたいな粒で、舌の上に淡泊な甘い味が拡がる。 「さあ、頑張って書きましょう」  ダイアナの写真に合図する。 「猫の殺人」という題で物語を書かないか、と女性の編集者にすすめられてから二年くらい一字も書けなかったが、急に書けそうな気がしてきた……。     二  私は物を書いているが、寡作だし、原稿料が安いので、デパートの毛糸売場に勤めている。……今日、G作『猫の殺人』の第一回が掲載されている、雑誌を買った。Gの処女詩集『真っ白い紙の上に 紅い花を吐き続け 一晩で老いてしまった 猫』を読んで以来、作品を見付けると読むようにしている。Gが飼っていた猫は、私が愛している猫と、色も、感じもそっくりだったらしい。  私は会合嫌いだが、久しぶりに出席したとき、壁ぎわで独りでひっそりとお茶を飲んでいるGをみて、上品な老婦人だと思った。 「Gさん、ぶよんぶよんの毛糸の靴下はいちゃって、もうろくしちゃって自分の家もパーティもみわけがつかないんじゃない? あれじゃ、詩のイメージがこわれるから出てきてほしくないわ」  と、顔見知りの女性が私に囁《ささや》いた。  会合の帰りに、前をGが歩いていたが、よろよろした足取りで物凄い猫背だった。  私は外から灰色で小さなビルに戻ってきた。部屋の入口の、曇り硝子戸越しに、猫の白い胸が映っている。「ニャーン」と優しく迎える。「ただいま」出掛けるときとは別人のような疲れた声を出して、中に入った私は、まるで毒物でも吐き出すように|※[#「手へん+宛」]《もが》いている。猫はすーと居なくなり、だいぶ経ち、サラサラという足音が近づいてくる。初めてこの音を聴いたとき、不思議な気持であたりを見回した。すると、プライドのしるしの尻尾《しつぽ》をぴんと立てて歩いてきた。 「わたしも、いつもあなたのように威厳のある態度でいられたらいいんだけど……」  すこし離れた場所で立止まり、ほっとしたような顔を向けている、猫に話しかけた。 「自分の気持を押さえすぎると、おかしなことを口ばしったり変な動作をしたりするようになって、気持の悪い女になるよ」  と、猫が言う。 「いじめられるのが怖くて相手に気に入られるようにふるまってしまうのよ、ますます相手はつけあがって馬鹿にするのは分ってんだけど……、怖いことを言う人がいるわよ」  と、私が言う。 「どんどん絶交しちゃえ」 「でもあなたが居ると思うと、人の意地悪も我慢できるわ」 「い、い、いまのうちに、や、や、やめたほうがいいよ」  猫は珍しく吃《ども》った。猫は続ける。 「あなたを過保護に育てた親にも責任がある」 「そうなのよ」 「三十パーセントくらいだ」 「あとは自分の責任ね、これからは気をつけるわ。人並にちゃんと話せるように努力しなかったから、いい年してこんなになっちゃったのね」  静かな気持を取り戻した私を、猫は、私が宝物にしている、しゃくなげを彫った本箱の上から、月のような目で見ている。本箱は私の第一創作集が出版されたあとで、母から贈られた。他《ほか》に机には梅、箪笥《たんす》には笹が彫ってあり、どれも焦げ茶一色で落ち着いた上品な感じに仕上っている。それまで殺風景だった部屋に運ばれてきたとき、猫は本箱の上に載ってみた。それ以来、お気に入りの場所だ。雑種で捨て猫だったが、ライオンの仔《こ》に似ている。明け方の空のような淡いチャコールグレーの長身、積ったばかりの雪のようにすこしだけ埃《ほこり》の匂いがする。胸と顔の一部が真っ白で、どことなく梔子《くちなし》の花に似ている。顔が汚れ、枯れかけた梔子のように黄色くなっているときは、熱湯でしぼったタオルで拭くと、美しく咲いている梔子のような顔になる。——もしかしたら、ペン先に月の光のような猫の視線を滴らせて書いているのかもしれない、と思う。猫が生きているうちは書き続けるだろう。 「威厳があるわ……、それに繊細な感じよ、行儀が良くて無邪気なところも好きよ。意地の悪いところがまるで無い、優しい人格ね」  と話しかけると、三日月のように目を細める。本箱からどしんと飛び下り、サラサラと近づいてくる。私は、『猫の殺人』を読みはじめた。           *  猫の王女は部屋の姿見にきれいなチャコールグレーの全身を映し、呪文《じゆもん》を唱えた。 「わあ、お姉さま、お見事!」  と、王女そっくりな妹猫が歓声をあげた。 「どう? 私、美しいかしら……」 「十七、八の美しい娘よ」  しかし、鏡には人間に変身した姿は映らない。王女は別の呪文を唱えながら猫の姿に戻ってゆく。鏡に、あぶり出しのように猫の姿が映った。 「王女だと分らないでしょうね……」 「ええ、でもなぜ?」 「交際範囲が限られるでしょう……。これからは、お姉さんって呼んでね」 「なぜなの? お姉さま」 「さま、より、さん、のほうが感じがいいから」 「分ったわ、お姉ちゃん」 「お姉ちゃんじゃ、くだけすぎよ」 「フフ、いらいらしちゃって」 「からかわないで」 「協力するわよ」  そのあと、人間の娘に変身した王女は、裾《すそ》の長いデニムのドレスを着て、庭の黄色いマーガレットを一輪髪に飾り、モンタレーで開かれるロックフェスティバルの会場に出掛けた。舞台では一曲目「花のサンフランシスコ」が始まっている。王女は後ろ姿のきれいな青年の隣に坐った。黒人歌手ジミー・ヘンドリックスが登場した。突然、ジミーは自分が弾いていたギターをぽきぽき折って舞台で焚火《たきび》をはじめた。ジミーは薬を常用しているという噂があるけれど……、と王女は口の中で呟く。ジャニス・ジョプリンが登場した。——ジャニス、笑うと、可愛いわ……。牝《めす》猫の直感で、隣の青年も、ジャニスを好きだと分り、そっと見ると、これまた猫の直感で、青年が、心がきれいな人だと分った。——この青年は年をとるにつれて人間味のある男になりそうだ……。王女は微笑《ほほえ》んだ。  フェスティバルが終り、猫の姿に戻った王女は、青年の愛車、シボレーの小型オープントラックの中に素早く隠れ、バークレイにある、青年の家についてきた。青年が眠るまで寝台の下で待ち、枕許《まくらもと》に立った。「眠っている人の枕許に立って、見詰めているうちに、その人の夢の中に現れ、印象づけることができます、足もとに立てば、人間は怖しい夢に魘《うな》されます」と、猫王である、父の著書に書いてある。青年は私の夢を見ている……。王女は、窓からひらりと舗道に飛び下りて城に戻り、机に向かった。さあ、ラブレターを書きましょう。手紙の最後にお会いしたいと書き、魚模様の切手をざらりと舐《な》めて貼《は》った。  ソーサリートにある城に、青年が訪ねてきた。応接間の壁には、猫を真ん中に、鳥、犬、鹿などを刺繍《ししゆう》した見事な布が貼ってある。そのとき、姿見に、二匹の白い仔猫が映った。二匹とも額の薄墨色の毛が可愛い。姿見に映った猫たちがすーと消えた。なぜなら、七、八歳の人間に変身したので、影が映らないのだ。 「あ」  王女は慌ててしまった。青年はずっと王女を見ていて、気がつかなかったらしい。 「どうかしましたか」 「あの……」  そのあいだに弟たちは姿見の前からどいた。 「弟だよ」  と声を揃《そろ》え、キャッキャッと笑う。また姿見に、きれいなチャコールグレーの猫が映った。 「あ」  今回はわざと叫び、青年の注意をひき、声を出さず口をぱくぱく動かしている。 「なんですか」 「無声映画の真似をしているのよ」  青年はニコニコしている。 「妹よ」  王女にそっくりな十二、三歳の美少女に変身した妹猫は鏡の前に立ったままくすくす笑っている。 「あの、別の部屋にゆきましょう」  鏡の無い部屋へ案内しようと長い廊下を歩いてゆくと、猫に戻った妹、弟たちが追いかけてくる。追い越すとき、妹猫は青年の足にからだを擦り寄せ、通り過ぎて、三匹とも振り返って見ている。  ——ゴヤが描いた、家族の肖像画の、淡いグレーのロングドレスを着た美少女の姉妹と、モスグリーンの服の小さな弟二人を思い浮かべながら読んだわ。影が映らないところが気に入った、と私は心で呟く……。猫は窓枠《まどわく》の上にしゃんと坐り、熱心に外を眺めている。——なにを見ているのかしら。夜、鴉《からす》は飛べないけれど……。猫は顔だけ向きを変え、部屋の中を眺めている。今夜の曇った東京の空には月も星も出ていないけれど、黄色い目がキラッと輝く。 「一番星みつけた」  いつの間にか私は幼い心を取り戻している。     三 「わたくし、旧姓|樺川《かばかわ》栄子です、わたくしを覚えていますか」  と電話をかけてきた人が訊く。女子高校時代の同級生でクラス委員だったし、�河馬�と親しまれていた。 「覚えています」 「わたくしは貴女《あなた》を思い出さないわ」 「そうですか」  半分くらいほっとした気持だった。 「来月の一日にクラス会をするので、名簿を見てお電話しているんです、いらっしゃいます?」 「ええと……」 「欠席でいいですか」 「は、はい」  同じ日に八田初江から電話がかかり、 「クラス会に出る?」  と喋《しやべ》りだす。彼女は男まさりでよく太った生徒だったが、学生の頃には親しくなかった。半年程前に突然電話をかけてきて、私が書いた短篇を読んだと言い、「貴女にそんな才能があったなんて」と驚いた。そのとき彼女の話を一時間ちかく聞いた。それ以来ときどき電話をかけてくる。その度に職業が変っている。最初は歌手のマネージャー、次が、男性のヌードを撮って写真集を出す予定だと言った。現在はバーの雇われママをしている。……長電話なので、猫が不満そうに鳴きながら見にきた。もうちょっと待ってね、と私が口の中で呟くと、へえーというような顔をして、去ってゆく。 「小村さん、スチュワーデスになったのよ、外国にゆく度にいろんな種類の猫を買ってきて、家中猫だらけにしちゃったの」  と、八田初江が言う。 「まあ」 「三十過ぎて結婚したとき、全部連れて行ったのよ、猫も財産のうちよね」  学生の頃、いつの間にか私が猫好きだと知れてしまい、猫に似ていると嫌われた。最近は猫ブームで、猫は美人にたとえられるが、当時は陰険というイメージが強かったし、「猫は三年の恩を三日で忘れる」などとすぐ悪い代表にされた……。それまでは母が古着をほどいて編みなおしたものばかりだったのに、セールスに来た婦人から、戦後初めてセーターを買うことになり、他《ほか》に赤や黄などもあったけれど、灰色で白く毛羽だった安物を選んだ。それを着て学校に行ったら、「猫を抱くんでしょう、毛が付いているわよ」と気味悪そうに見られた。 「小村さんが猫好きだって知らなかったわ」  と呟《つぶや》く。八田初江が笑いだした。すでに彼女は別の話をしていたらしい。——小村さんは猫が嫌われているあいだ見事に隠し通したのだろうか。それとも流行に便乗し、猫をアクセサリーみたいに集めたのか、となおも考え続ける。……最近は、猫好き有名人があちこちで発言するようになり、庭付きの家に棲《す》む人たちが、猫の野性味を賞賛し、去勢して豚みたいにしちゃうなんて! と怒るので、相変らず私は肩身が狭い。家主に去勢する約束で捨て猫を飼ったが、できれば去勢したくなかった、といつも思う。 「去勢はこういう場所では仕方がないです。生んだ仔を捨てるほうがいけないと思います、どうしてあんな残酷なことができるんでしょう」と言った犬好きがいた。避暑客が帰ったあと避暑地にペットの犬猫が捨てられている話もした。  女性向け雑誌の、若い女性記者が、猫を特集するので、話が聞きたいと電話をかけてきた。 「猫の威厳のあるところが……」 「これからお宅に伺います」 「あの、電話だけにして下さい」 「是非お目にかかってお話を伺いたいと存じます」  約束した時間に一時間半以上遅れてきて、 「異常に猫好きの人ってどんな人か見たかったんですよ。どうして結婚しないんですか、失恋でもしたんですか」  と、じっと見た。——猫に関係ない質問だ、と答えずにいると、ニヤっとした。 「先生もよっぽど男にひどい目に遇わされたのね。あたしは男より猫ちゃまが好き」  と言葉遣いも急に変える。ゴテゴテの化粧をし、不潔感が漂っているが、小柄で顔立ちは猫みたいだから、案外もてるのかもしれない。 「猫ちゃんに会わせて」 「人に会うと胃腸障害を起こすんです」 「嘘《うそ》ばっかり」  とげらげら笑った。本当のことなのだ。  この間みた夢のなかで、猫ブームがさらにエスカレートし、猫好きが数名審査員になり、猫好き人間の資格審査を始めた。「あなたのような劣等生は除名だ」と審査員が私に言った。 「猫が大病したとき、徹夜で看病しました」と慌てたが、無視されてしまった。目が覚めて、——どうしても一歩外に出れば、わたしは劣等生なのだ、とつくづく情なかった。  一週間後外に出た。あ、今日はクラス会の日だわ……。セーラー服を着た女子学生が二、三人歩いてくる。住居が学校と駅の中間に在るため、このあたりを通るのだ。——あの人たち誰だったかしら……、あ、わたしはもう三十代なのに、一瞬、二十年ほど前に戻っていたなんて——。そのとき、同年輩の中年女性たちが見えてきたので、向きを変えて歩き出した。     四  明け方雨の音で目が覚めた。私の部屋は屋上に近いので、雨のときは屋上の入口の鉄扉を閉めてほしいと家主に頼まれている。洋服に着替え、階段を上ってゆく。雨は降っていなかった。なんの音と間違えたのだろう。屋上に出ると、忽《たちま》ち霧に覆われてしまった。部屋に戻り、珈琲《コーヒー》を沸かす。帰宅後はなかなか疲れが取れないから、頭が冴《さ》えている、早朝の一時間余り机に向かう。この三年間は、無神経、鈍感、厚かましく、意地悪な人間が活躍する短篇を書き続けた。短い文章でも、時間と体力を費してしまうので、書くのは苦手なのだが、私から書くことを取ってしまったら、なんの取柄も残らない。それなのに、去年の暮から背中が痛いし、些細《ささい》なことにこだわるようになった。三十八だから、更年期にはまだ間があるようだ。……今回は若くて美しい未亡人を主人公にしたが、自分とあまりかけ離れているのも気色が悪いし、少女趣味だと思われるのは嫌いだから、醜いハイミスに変更し、一行書いただけでくたっとしてしまった。どうもうまくいきそうもない。  朝日が差してきたので、猫と一緒にまた屋上に上った。近所は車が多いため、猫は外に出ず、屋上を遊び場にしている。猫は花に頬を擦り寄せている。ときには草を食べる。花壇に茄子《なす》とトマトが植えてあり、誰やら捨てた桃の種が芽を出しているが、「これには触っちゃ駄目よ」と言い聞かせたので、近づかない。  ときどき雲が空一面に拡がって太陽を隠してしまう。それでも血の循環がよくなり、指先|迄《まで》赤味がさしている。空の青は澄んでいる。鳥が鳴いている。遠くから杭《くい》を打ち込む鈍い音が聞こえてくるが、今は気にならない。猫は黙って鼻をぴくぴくさせている。空気には草の匂いがする。四、五十分も経っただろうか。私は現実に引き戻された。それまで音楽のように聴こえていた車の音などや、スモッグが気になりはじめた。猫はお腹がすいたらしい。仔猫の頃から野菜を主食にしているので、キャベツ、白菜、蕪《かぶ》の葉、人参《にんじん》でも食べる。人間年齢に換算すれば、猫の八歳は四十五にあたり、その頃から蛋白質《たんぱくしつ》をとらせるように、と猫の本に書いてあるから、豆腐を混ぜる。  猫は朝食、私は二杯目の珈琲を飲む。長いあいだ太陽に当ったので、頭が冴え、書けそうだが、もう出勤する時間だ。 「チャコールグレーが足りなくなりました」  と老婆はわざわざ持ってきた編みかけのカーディガンをひろげて見せた。毛糸は三ヵ月毎に入れ替えるので、その毛糸は現在倉庫に入れてある。外国製の極太で、だいぶ前に売り出したとき、——いい毛糸だ、と私は思った。ここはあまり売り上げのよくないデパートだが、毛糸売場には外国製品を置いてある。毛糸は外国製のほうが微妙で美しい色があり、手触りもいいような気がする。  主任の中尾はじろりと老婆を見て、 「ほんとうにここで買ったんですか」  と突慳貪《つつけんどん》になった。中尾は客によっては、見ていて恥しいほどおべっかを使う。 「はい、買いました」  とかん高く可愛い声を出した。老婆が、『猫の殺人』の作者Gだと私は気付いた。相変らずのボサボサ髪で、古びたコートを躯《からだ》の片側に寄ったような妙な着方をし、ひどく疲れた様子だ。 「フン、この色入れなくちゃいけないの?」  中尾は意地の悪い目付をしている。 「ええ……」  青、紺、グレー、れんげ草の色、それにチャコールグレーでざくざく編んだ長めのカーディガンの片袖がまだ付いてない。中尾は若い女店員と喋りはじめた。 「何個御入用ですか」  私はGに訊いた。 「一個です」  こちらに向けたGの目はぱっと開かれているが、なにも見えてないみたいだった。 「見付かり次第御連絡します、お電話番号を……」 「ないかもしれませんよ」  と中尾は口許に薄笑いを浮かべ、Gが帰ったあと、 「虱《しらみ》がいそうな婆さんだった」  まとめて注文した客の品が見付かると、同僚は倉庫から出てゆき、私独り残った。根気よく探せばある筈《はず》だ。  やっとチャコールグレーが目に入った。思わずにこにこした。そのとき、毛糸を積んだ車と、あわやぶつかりそうになり、よけたとたんにひっくり返ってしまった。 「なにしてんだ」  車を押してきた若い男が怒鳴った。 「毛糸を探していたもので……」 「さっきも居たでしょう、一時間も探すなんて非常識だよ」  忙しくて皆疲れているから、イライラするのも無理がない、と思う。 「すみませんでした」  毛糸を掴《つか》んで立上る。打った膝小僧《ひざこぞう》が痛い。  閉店後、「話がある」と中尾が私を大衆的なレストランに呼んだ。 「あんた、ほかにも仕事してんだって、そんなに金がいるの?」 「いりません」 「じゃ、なぜそんなことするんだ」  と大声を出したので、客たちの視線が集まってしまった。中尾はかえって得意そうに、自慢話をはじめた。 「若い頃ね、俺ロシヤ語が達者だから、シベリヤに抑留された日本人の指揮官に任命されたんだぞ。あいつらのうち有名人だけ早く帰れるように工作してやった」  私は竦《すく》んでいる。  レストランのテレビで性格俳優として人気のある中年男と、女流評論家が対談している。 「あと僅《わず》かな命だって知らされたら、どんなブスとでもいいから、手当り次第寝ちゃうよ」 「そうよ、容姿とアレは関係ないのよ。わたしも思いきりやりまくるわ」 「うわー、きみ話せるな、握手握手」  二人の高笑いが続く。中尾はまるで自分もそこにいるようにグッグッグッと笑う。——元気な人たち……、わたしは静かにしていたいわ、と心の底で叫んだ。……新聞に、「悪意のない同僚の一言でヒステリーを起こすハイミスは結婚すれば治る」と神経科の女医が書いていた。今の私も一種のヒステリーだと思う。しかし、結婚したくなくても、同じことを言われるのだろうか——。  レストランを出て、独りになり、電車に乗った。次の駅で乗ってきた太った男が、私と隣の人の、ほんの僅かな隙間《すきま》にどかっと坐った瞬間、反動で私は浅い掛け方になってしまった。黙ったまま男は私を見ているらしい。ニヤニヤした視線を感じ、私は隣の車輛《しやりよう》に移った。  家に戻り、煙草を吸い、食事をし、ワインもすこし飲んだ。おいしいとおもえないわりには食べ過ぎたみたいだ。人前では煙草を吸いたくならないし、お酒も飲まない。朝、珈琲を飲んだだけだった。旅に出たときしか食欲が起こらない。最近までお酒は悪いものと考えていたが、スペインにゆき、料理がおいしいと聞いて入った居酒屋で、サングリアを飲んでから、ワインを飲むようになった。……スペイン人は意地の悪い目をする人がいなかった。  夢の中で、先達《せんだつ》てのレストランに似た場面を再現した。男が「じゃ、なぜ書くんだ」と大声を出したあと、私は口のあたりに麻酔を打たれたように聞きとれないほどの含み声になってしまったが、「女が物を書くなんて道に迷ったような気がします……」云々《うんぬん》と自分の気持をはっきり言った。  サラサラと猫の足音が近づいてきた。勤めの帰りに買ってきた雑誌を開き、『猫の殺人』の二回目を、二|人《ヽ》で読むことにした。           *  青年の家はスーパー・マーケットを経営している。土産のハムやソーセージ、鮭《さけ》、ししゃもなどの罐詰《かんづめ》を入れた大きな紙袋を受け取り、 「好きなものばかり」  と、人間に変身した妹、弟猫たちはニコニコしている。王女だけはある計画を実行するまでに、今でも細っそりしているけれど、さらに軽くしなければならないから、牛乳しか飲まない。娘ざかりになると、仔猫のうちは好んだ牛乳があまり美味《おい》しいとおもえなくなる。 「散歩しましょう」  王女は青年を庭に誘った。庭には黄色いマーガレットが咲き乱れている。 「将来僕は自然食のレストランを出すつもりです」  長い付き合いになりそうだと感じているので、王女はニコニコしている。猫はからだが小さいためPCBに敏感なのだ。  黄色いマーガレットが跡切れた場所に、大きな池がある。ほとりのベンチに並んで腰掛けた。 「背中がぽかぽかしていい気持……」  王女は目を細めている。  ゴウゴウという音がひびいてくる。 「あの森の中に美しい緑の川が流れているのよ……」  と池の彼方《かなた》の森へ、妖《あや》しい視線を投げた。  家に戻った青年は、ジャニス・ジョプリンのレコードを聴いている。王女は猫の姿で青年の車に隠れてついてきて、青年が眠りはじめたので、寝台の下から出てきた。——足もとに立てば、人は怖《おそろ》しい夢に魘《うな》されます、とパパの著書に書いてあるわ、と口の中で呟き、月の光でぼんやりみえる寝顔を見詰めている。青年は魘されている。 「ギャ」  と叫び、とび起きたので、慌てて王女は窓から舗道に飛び下り、窓越しに部屋の中を覗《のぞ》いている。 「あ、猫、これも夢か」  とまた眠りはじめると、王女は、今度は枕許に立った。——眠っている人の枕許に立って、見詰めているうちに、その人の夢の中に現れ、印象づけることが出来ます……。あら、笑ってる、夢の中で私と会っているのかしら……。うっとりと青年を眺めているうちに夜が明けてきた。  ジャニス・ジョプリン風に、ブルーとピンクの羽根を髪に付け、たくさんの指輪とブレスレットを嵌《は》めた王女は、青年と池のほとりに敷いた日本製の花|茣蓙《ござ》の上に坐っている。王女は計画を実行するときを想像し、思わず口が耳のあたりまで裂けるほどニタリとしてしまい、あ、見られたかな、と青年を窺《うかが》うと、森の方を見ている。 「怖い夢を見たでしょう?」 「え」  青年は青ざめた。 「真っ青よ」 「そうかな」  自分の顔を擦《こす》っている。 「僕が、怖い夢を見たことがなぜ分るのかな」 「私が怖い夢を見たのよ、同じ夢なら素敵だと思って」  と悪戯《いたずら》っぽく笑うと、ほっとしたような表情をした。 「どんな夢か教えて?」 「川」  と言いかけて黙ってしまった。 「ねえ、教えて」 「アルバイトでロケ・バスの運転手をしたときの話をします……。映画に出る犬を大学の実験室から借りてきたのですが、鳴くと五月蠅《うるさ》いから声帯を取られていました。その犬、喘息《ぜんそく》持ちで、積み重ねた布団の上に顔を載せて、ヒーヒーと苦しそうに息をしながら寝るんです。食べ物がよかったらしく、二ヵ月のロケのあいだに前より太って毛の艶《つや》もよくなりました。バスが好きで誰よりも先に乗ってきました。でもロケが終ったら殺されるということなので、僕は、好きにならないようにしようとなるべく近づかないようにしました」  ——思った通りの人だわ、優しい灰色の目なのね……。 「あなたが好きだわ」  青年は王女の頬にそっと接吻《せつぷん》した。王女は、鼻に接吻されたらとびくびくしていた。いくら人間に変身していても、猫の特徴で元気なときは鼻がすこし濡れている。そのとき、王女は息を呑んだ。水面の紅、白、黄、薄緑の睡蓮《すいれん》の間から、濃い緑の目が覗いているような気がした。私の目は月の光の色なのに……。それに人間に変身しているので水には映らない筈だ。池のほとりの、高い樹の上から妹猫がじっと見下ろしている。青年は王女以外のものは目に入っていない様子だった。  そのあと、王女は猫の姿で、青年の部屋にしのび込んだ。青年は、ジャニス・ジョプリンのレコードを聴いている。一本の乱れもなく髪をひっつめた痩《や》せた女が、金切り声を上げて部屋に入ってきた。寝台の下に居る王女は、思わず息を吹いてしまい、はっとし、身を縮めている。 「ジャニスなんか大嫌い。もっと高尚なものを聴かなくちゃ駄目だわ。せめて、ジョン・バエズかボブ・ディランくらい聴いてよ」  と女はレコードをとめてしまった。青年は不機嫌な表情をした。 「キー」  と泣きながら出てゆく女を、一瞬青年は追いかけてゆこうとし、やめた。 「この青年、もう人間の女は愛せないでしょう」  と私は呟く。すると、しゃくなげを彫った本箱の上で目をつむっていた猫は、ぱっと目を開け、改めて片目をつむった。「こんないい青年は本当の人間のなかにはいないだろう」と言っているのか——。     五  近所のマンションの部屋を借りている、舞台女優の姉和沙が来て、 「お正月に暖かい場所にゆきたいわ、寒くて寒くて躯がカチカチになっているので、陽に当ればほぐれて気持がいいと思うのよ。休みがもっととれれば、ロスアンジェルスにゆきたいわ、四日しかないから、駄目だけど。グアムは夏の陽気だということだし、東京の近くでのんびりするのと同じくらいの費用でゆけるんですって」  猫は、和沙が脱いだ黒い革のロングコートや洒落《しやれ》たハンドバッグに近づき、鼻をクンクン鳴らしている。 「触っては駄目ですよ」  私が言うと、すこし離れ、和沙をうっとりと見上げている。猫にも美しいということが分るのだろう。上品な香水を付けているのも気に入ったらしい。いままで飼ったどの猫よりも匂いに敏感で、生姜《しようが》を擦ると異常なほど喜び、私が洗髪したあと、髪に噛《か》み付きにくる。……去年、団体に混じって香港《ホンコン》に行ったとき、和沙は、洒落者のガイド青年から、いま付けているのと同じ香水の見本を十個ほど贈られた。ガイド青年は和沙が香水を買うのをどこかで見ていて、行く先々の免税店で売り子の頬をさりげなく撫《な》でたり肩に手をまわし耳許《みみもと》で囁《ささや》いたりして見本をねだったのだ。この旅行中私のほうは、空港の探知機を置いてない場所で、中国人の女係員が、どこかあやしい、という顔付きで近づいてきて、別室で服の上から調べられた。  子供の頃、和沙は病気ばかりしていた。学芸会の舞台で緊張のあまり卒倒したので、十代の終りに舞台女優になったときは皆を驚かせたが、それ以来、だいぶ健康になった。まるまるした活発な幼女だった私は、学校に馴染《なじ》めず、過敏性になり、だんだん痩せていった。頭の明るい人は年と共に過敏性を遠ざける。しかし、私のようにやや暗いと、中年になっても治らず、最近は背中も痛いし、風邪、不眠症、胃腸障害に悩まされている。……猫を母に頼んで、グアムにゆこうと思う。  ビルの階段をドッシ、ドッシと上ってくる母の足音が聞こえてくる。母はとても足が細いが、相撲取りがはけそうなぶかぶかのつっかけをはいており、踏みしめるような歩き方をする。 「こんにちは、雲ちゃん」  と、猫の名前を呼ぶ溌剌《はつらつ》とした声がして、黒いズボン姿の、痩せた母が入ってきた。猫は、母の足に二、三度軽く爪を引っかけた。 「意地悪、雲ちゃん、また威嚇《いかく》射撃した。わたしだけいじめるとはひどいじゃない」  猫に向かって、母はおどけた声を出す。猫は額の縦皺《たてじわ》をくっきりと目立たせて、「静かに」というような怒った目をして部屋の中を歩いている。 「雲、尻尾《しつぽ》は?」  私が声をかけると、颯爽《さつそう》と尻尾を立てて、ゆっくり歩き出した。威厳のある美形である。 「ね、足音があるでしょう、猫には足音が無いって書いてあったのよ」 「シャバ、シャバだって」  母は微笑《ほほえ》んでいる。猫は空いている椅子を独り占めし、クッションにもたれ、話に加わることにした……。猫は、人がからだに触るのを異常なほど嫌い、私でさえ抱くと、「さわるな、さわるな」と蹴飛《けと》ばして逃げてゆく。 「雲は、『猫の殺人』の王女に似ているでしょう」  私は目を細める。 「あら、王女は細っそりしていると書いてあったわよ、雲は太れるだけ太ったみたい」  と、和沙が言う。五キロもあるのだ。猫は白いふっくらとした胸に顎《あご》を埋め、恥ずかしそうに目を伏せている。  和沙と飛行機の席が並んでとれず、私の隣には五十くらいの女性が居る。配られたカードに記入していると、隣から、 「あの、あたし海外旅行初めてなので、教えて下さい」  と、そっと覗きこんだ。 「わたしで分ることでしたら」 「よく旅するんでしょう?」 「一年に一度くらいです」 「ここ、分んないわ」 「生年月日を西暦で書くのです」 「あたし、昭和二年なんだけど、西暦何年かしら」 「一九二七年でしょう」 「ついでに全部書いて」  とカードを私の前に置いた。かなわないな、と私は胸の中で呟き、書きだした。 「いいわね、独身なんて」  ——え? どうして分るのかしら……。指輪のない私の左手を、女はじっと見ている。……独身の知人は、なにかと面倒だから、旅行するときは指輪を嵌《は》めると言っていた。別の独身の知人は独りで海外旅行するのが楽しみだが、必ず日本人が集まってきて、戸籍調べみたいなことをするので、子供は三人いると嘘をついた、と笑っていた。  グアムのホテルの所々に「珊瑚礁《さんごしよう》の向こう側に鮫《さめ》がいます」と貼《は》り紙がしてある。着いた日から私は眠り病にとり憑《つ》かれてしまった。和沙とは別の部屋に泊り、待ち合わせて食事をするが、——食べ終ったら眠ろう、と考えている。和沙は私よりは元気で海岸で躯を焼いていたが、映画館に出掛けた。  眠ってばかりいたのでは来たかいがないから、庭に出た。映画「エマニエル夫人」に出てきた華麗な椅子が並べてあり、誰も坐っていなかった。こんな椅子、私には似合わないから困ると思ったが、腰掛けて、明るいブルー一色に珊瑚礁だけくっきりと白い、単調な海を見ていると眠ってしまいそうだ。 「あんた独りで来たの?」  近くの椅子から男の声が聞こえてきたので、びっくりした。聞こえなかったように部屋に戻ってまた眠った。そのあと、珍しく頭が冴えてきた。窓辺の、低い籐椅子《とういす》にゆったりと坐り、日本から持ってきた文庫本『更級日記《さらしなにつき》』を開いた。高校生の頃初めて読んだときからひかれている。このような言葉でなら、私もよく話せるのではないか、と思う。作者は天然色の不思議な夢を見るし、夢のお告げを信じている。作者の姉の夢に猫が現れ、自分は侍従大納言の女だと告げるくだりが特に好きだ。作者が宮仕えしたときの様子にも親しみが持てる。立ち聞きしたり、覗き見する人の気配を感じると、とても気詰まりになる、と書いてある。才女ともてはやされることもなく目立たない存在だった。中宮《ちゆうぐう》定子に仕え、将来の地位を約束されていた清少納言に比べ、仕えた人はまだ赤ん坊だったから、運も悪かった。本を閉じ、久しぶりに素敵な夢を見たいと思いながら、また眠った。  黒い服の老婆が後ろ向きに立っている。「しばらくまわりから死者が出なかったけど、今年は連れてゆくかもしれないよ、余程気をつけておやり……。それはお前だ」と、いままで見たことがない程小さい中年女を指さし、後ろ向きのまま夢から消えて行った。……この老婆は、かつて夢に現れたときは、もっと勢いがよくて、「お前は恋愛するようなまともな相手にめぐり会えない」と占い、私は若かったから、がっかりした。黒い服にも艶《つや》があり、濃い化粧をしていたが、今回はぼそぼそとあまり自信がなさそうな喋《しやべ》り方だったし、衣装も煤《すす》けていた……。この数年間は、中間色の夢が多かったのに、夢から色が消えてしまった。  最近、和沙の知人の占師が、「和沙さんは仕事を持たなければ、大臣の妻になっていたのですよ。子供を産んだら素晴しい頭脳の持ち主でした。これから先いい男性も現れますが、仕事をするなら結婚してはいけません。妹さんはもっとも婚期の遅い運にあり、するとしても九十五から百の間です」と言った。  帰りの飛行場で、行きに隣に坐った女が友だちと一緒に、和沙にサインを求めにきて、和沙と私をかわるがわるじっと見ている。女同士なので、レスビアンだと疑っているのだろうか。 「妹です」  と、和沙が言う。 「え! 似てないわね、ほんとうの姉妹なんですか」  女は呆《あき》れている。 「でも、背は同じくらいね」  友だちが同情したような目を向けた。私のほうがだいぶ背が高い。——外国に来てまで、厚かましい人につきまとわれるなんて、と心で呟《つぶや》く。これから飛行機に乗るので、逃げるわけにもいかない。急に疲れたと思う。  和沙はテレビなどの世界で仕事をしているのに、すれていないから、傍《そば》に居ると私はほっとするのだが、わざわざ私の劣性をひき出して面白がる人もいる。そんなとき嫉妬心《しつとしん》が起こる。普段は淡泊な関係なのだ。たまに一緒に外出しても独りになりたくなると、どちらからともなく離れてゆく。なかには、「あなたのほうが和沙さんより美人ですね」とニヤニヤしたり、または意地の悪い目をする人がいるが、私は、答えようがない、とうんざりする。     六  勤めが始った。部屋に戻った私は、毒物でも吐き出すように|※[#「手へん+宛」]《もが》いている。今日はなかなか元に戻らない。一度部屋から出て行った猫が覗きにきて、「自分の気持を押さえすぎないように、と約束したのに。嘘《うそ》つき」と濁った声で鳴き出す。 「男をうまく描いて世間に注目されたいわ。そうすれば、わたしを見下げた人間たちを見返せるわね?」 「え……」と反問したのが、猫の声だったのか自分のか、分らなかった。猫は私を見ないようにしている。三時間も胃がしくしく痛み続ける。 「憂きめ、辛いめ、不仕合せ」  と、猫は呟きながら、真っ白い原稿用紙の上に寝そべった。「うきめ、つらいめ、ふしあわせ」という名前の、小さな人間がくっついてしまう童話を読んだことがあった……。胃から胆のうへ痛みが移った。些細《ささい》なことでこうまでなるとは、きりかえがつかないたちなのだ。こんな神経ではまともな人を疲れさすから、煙たがられても仕方がない、と思う。  痛みが止まった。鬱屈《うつくつ》した気持が減るかわりに物は書けなくなるが、どうせ書けないから、といつもより多めにワインを飲んだ。  突然|物凄《ものすご》い力が加わり、暗闇《くらやみ》に引張られてゆきそうになり、「ギャ」と叫んで目を覚まし、「怖い、怖い……」と泣き出してしまった。幼い頃、波に攫《さら》われそうになったときみたいだった。あの頃は毎夜死を怖《おそ》れて泣いたけれど、大人になってこんな経験は初めてだった。視線を感じ目を上げると、猫が足もとでそっと見ている。隣の部屋で寝ることにしているが、悲鳴を聞いて、駆けつけてきたらしい。 「ありがとう、助かるわ」 「うん」  安心したようにすーと居なくなった。猫の王女のように最初から足もとに居たから、魘《うな》されたのか——。  翌朝、机の前に坐ったが、まるで四角くて堅いものが胃のあたりに貼りついてしまったみたいな感触だ。思わず払いのける手付きをした。心配そうに見ている猫と目が合った。 「わたし、だいぶ頭が疲れちゃって、いい考えが浮かばないのよ」 「Gさんみたいに猫のことを書けばどう?」 「そうね……、でも、『フン、こんなの』と馬鹿にする人が多いと思うわ」 「ふーん」 「気を悪くしたでしょう……。『猫の殺人』の三回目を読みませんか?」  忽《たちま》ち猫は機嫌を直した。           *  病気で寝込んでいた青年が、半月ぶりに城に来た。王女と青年は御馳走を食べようともせず見詰め合っている。妹と弟たちはニコニコして二人の分まで食べたので、お腹《なか》がぷくっと膨《ふくら》んで眠くなってきて、猫の声で鳴いてしまった。あ! 王女は心で叫んだ。 「物真似がうまいな」  青年は感心している。早く人間になりたいと王女は思う。  ウニャーンウニャーンと鳴き寝入りする夜が続き、サカリのときの嗄《しやが》れた醜い声だと気付き、自分の耳を手で覆った。  翌朝、人間になった王女を見て、 「お姉さん、ふけたわよ」  と、妹猫が言う。 「鏡に映らないから、自分では分らないけど。猫は一年に何歳も年をとるのよ、あの人に会って二年目ですもの。あの人は恋で目が眩《くら》んじゃって、まだ気付いてないみたいね、でもそろそろ限界じゃないかしら」  妹猫は呪文《じゆもん》を唱えながら二十くらいの娘になった。 「あ……、貴女《あなた》、この前まで十二、三だったのに」  王女は慌てて猫の姿に戻ったが、恐怖のために白い毛の部分が青ざめている。 「これからは、私がお姉さんになり澄して、あの人に会いましょうか」 「お、お、お願いします」 「じゃ、行ってきます」  真っ赤な超ミニを着こなした妹を、王女は慌ててひきとめ、 「これを着て行って、ごめんなさい」  と青みがかった薔薇《ばら》色の羽根が袖口に付いた青いパンツ・スーツを着てもらう。 「ミニのほうがいいのに」  ブツブツ言いながら出掛けた。 「今日はどこに行ったの?」  帰ってきた妹に訊《き》く。 「心配しないで、お姉さん、私はああいうタイプ好みじゃないから。ウォーレン・ビーティが好きよ。この前、スナックに行ったら、ウォーレン・ビーティに会ったという女の子が来てたの。『ベッドに誘われただろう』と男の人が訊いたら、『誘われなかったわ』と答えたの、『珍しい』と言われてたわよ。ウォーレン・ビーティは独身でホテル棲《ずま》いなんだって、カッコウイイ! でも私は、人間になるつもりはないのよ。来年くらいに牡《おす》猫と結婚して、たくさん丈夫な仔《こ》を生むわ」 「あの人の前でもそんなによく喋るの?」 「いいえ、猫をかぶって、最近のお姉さんみたいにおとなしそうにしてるわよ」 「安心したわ」 「好きな人が出来ると、オドオドするのね」 「からかわないで」 「あの人、つき合っていた人間の女に悩まされているわよ。二人で喫茶店に入ったら、女がつけてきて、自分とお揃《そろ》いのセーターを着なさいって、あの人の着ていたセーターを無理やり脱がすのよ、キャッキャッ笑いながら」 「まあ……」 「神経がだいぶまいってるみたい。今日観た映画に、とても駄目な子供ばかりでつくっている野球チームが出てきたの、なかでもルカという少年はひ弱なのよ、強いチームの子供がルカの顔にケチャップをかける場面になったら、あの人、泣き出しちゃったのよ、フフ」 「大丈夫かしら」 「さあ、どうかしら? 強いチームがいじめにくるたびに泣くの、フフ。お姉さん、早くなんとかしなくちゃね」  青年に近づかなければよかった……。王女は胸の中で呟く。……父猫の著書に「一、気が向いたときに人間に変身するのは易しいが、鏡には姿が映らない。二、人間と恋愛し、相手を殺したとき、その人になりかわることが出来る。すると、鏡に姿が映るようになる。だが、いまだに実現した猫はいない」と書いてある。それを読んだとき、王女は、——私が第一号になるわ。だって、猫の命は短かすぎてたいしたことが出来ない、と決心し、黒い犬革の表紙のノートに、鳥の羽根の付いたペンで殺人計画のメモをとっていた。「青年を森に誘い、目の前で川に身を投げよう。あの人なら、救《たす》けようと飛び込む筈だ。しかし、川の流れが早くて自力では二度と上れない。私たちは両親から、森へ入るときはきょうだい一緒に、それぞれ強くて細い紐《ひも》で胸を縛り、その端を幹にくくっておき、もしも落ちたら、きょうだいにひっぱり上げてもらうようにと言われている。岸に上ったときは青年の姿だ」。チャンスだったのに……。青年になったとしても、鏡でしか姿を見ることができない。いつまでも傍に居て実物を見詰めていたい……。  猫が居なくなっているのに気づき、名前を呼んでもいつものように返事が聞こえてこなかった。隣の部屋にゆくと、猫は鏡をじっと見ている。顎に付いたダニの影響で、額に縦皺が二、三本出来て、ライオンのように威厳のある表情が強まり、ますます私は好きになったが、気のせいか、随分皺が増えたみたいだ。  夜中に目を覚まし、机に向かったが、意地悪されたことが甦《よみがえ》ってきて、きーと胃が痛くなった。 「憂きめ、辛いめ、不仕合せ」  と呟く。  物が書けなくなってしまったので、なんの取柄もないから、死んだほうがいいと思う。暗い場所から、猫は黙って私を見ている。 「雲、疲れた顔をしているわよ」 「へいへい、女王様」  ころがって戯れる真似をした。 「からかわないでよ。眠ったら? 猫はもっと睡眠をとらなくちゃね」  菓子|罐《かん》を枕にして横になった。 「首が痛くなるわよ」  清潔なタオルをたたんで、そっと菓子罐ととりかえると、満足そうににんまりする。  休日なので、昼過ぎても眠っていると、猫が屋上に出たがっている。一応洋服に着替えたが、背中がひどく痛む。 「独りで行ってね」  部屋の戸を開けると、階段を下りてゆき、母の部屋の前で立止まった。いつもは行きたがらないのに、変だわ……。戸が開いて、母の洋装店のお針子が出てきた。普段猫は、かん高い声を出すお針子を嫌い、逃げる。しかし、ついてゆこうとする気配をみせ、やっぱりやめて、さーと居間へ入ってゆく。 「お邪魔します」  母と義父が並んで揺り椅子に坐り、本を読んでいる。私が小学生の頃母は再婚した。実父は私が生まれて間もなく病死したが、親戚《しんせき》の人から聞いた話では、愛称がネコという芸者とねんごろだったらしい。  猫は二人に近づき、クンクン匂いをかいでいる。 「あらあら、今日はいやに人懐っこいのね」  と母が微笑む。 「ほら」  義父がクッキーを放った。猫はちょっと戸惑ったあとポリポリと食べ終り、日当りの良い窓辺に並んだ鉢植を見ている。母は、近所の人が打ち捨てた鉢植を、可哀相だからと拾ってきては、白水《しろみず》をやり、見違えるくらい立派に育てる。 「駄目よ」  私は猫に小声で言う。 「いいのよ」  母が言った。わーと猫は植物に近づき、夢中になりすぎて目が寄っている。  部屋に戻ると、猫はクックッとむせている。 「吐くのならこの上に……」  手近にあったデパートの包装紙を裏返し白い面を拡げると、きれいな赤い花ばかり次々と吐いた。私は子供の頃に読んだ童話のなかの、きれいな心の人が話すとき、口から花や宝石がとび出し、心が醜い人は蛇や蜥蝪《とかげ》を吐いた話を思いだした。最近、私の口からは蛇や蜥蝪とまではいかなくてもだいぶ汚いものが出てくるかもしれない。     七  Gは、『猫の殺人』を書き終えてからと、白内障の手術を延ばしていたが、入院しなければならなくなった。片目は去年手術した。 「すこしは掃除してから入院したかったのに……。散らかるのは、ダイアナのせいにしていたけど、独りになっても相変らず、なぜかすぐ汚れちゃう」  と独り言を言いながら、ボストンバッグにダイアナのお骨と写真、それに貯金通帳などを入れ、屑籠《くずかご》みたいな部屋から外に出て、 「東京は空気が汚ないといつも悪く言っているけど、わたしの部屋よりはましかな……」  と鼻をぴくぴくさせる。  病院の近所の花屋に入ってゆく。三輪四百五十円で小さなブルームーンを売っている。匂いは薔薇そのものだが、開いた感じは薔薇の華かさはすくなく、野原の匂いを残しているところが好きだ。蕾《つぼみ》ばかりで一束になっているのを選んだ。病室に着き、枕許にブルームーンと並べて、ダイアナの写真を飾ったが、お骨は人の目に晒《さら》したくないから、ボストンバッグの中に残した。……薄紫のブルームーンは赤や白い薔薇より人間に近い。活《い》けて何日か経つと、顔色の悪い病人や年取った女性は、この花が自分に似ていると思うだろう。すると、捨ててしまうのはしのびなくなり、水をかえるだろう。Gもそうだった。明日は捨てようと思っていたら、ビロードの造花のようになっていたので、また水をかえた。枯れ切ってしまうまでに一枚しか花びらが落ちなかった。  Gがボストンバッグを提げて病院から戻ってくると、庭の木陰、草叢《くさむら》などに居る、野良や近所の猫たちが、一斉に見たが、「皆、元気?」と口の中で呟き、特別に一匹だけ見るようなことはせず、家の中に入った。そのとたん、立て続けにくしゃみをした。畳の上に、変な読者から来た開封しないままの手紙などが散らばっている。ぴょんぴょん跳び越えて歩こうかと思い、もう年だから危い、と思う。  テレビ局から電話がかかってきて、 「愛猫家と猫に集まっていただき、大いに語っていただくのですが、御出演願えませんか」 「今は猫いないんです」 「ではお独りで出て下さい」 「わたし、大勢の中で急に喋れなくなるんです」 「そうですか、残念です。お書きになるものが面白いので」 「ええ」  と胸を張る。ダイアナもテレビ出演はヤだって言ったでしょう、と口の中で呟き、電話を切った。以前、猫のことなら喋れると思い、ラジオ出演を引き受けたが、マイクを怖そうにちらっと見て、背中をまるくして、俯《うつむ》いてしまった。  Gは子供の頃から何匹も猫と友だちになったが、いい猫は二匹だけだった。両方とも雑種で捨て猫だった。『嵐が丘』に夢中だったので、キャサリンという名前にした牝《めす》は、猫としては珍しく目が細くて見かけは悪かったけれど、スペインの森に棲《す》む麝香猫《じやこうねこ》並の、木登り名人で殺し屋。鼠《ねずみ》、雀は言うまでもなく、どこからか生きた魚までくわえてきた。牡猫ダイアナは皆にきれいだと褒められた。いい猫とは、一口で言えば、威厳と優しさが毛皮に包まれた存在である。見分け方は直感だけれど、猫らしくない失敗なんかしてみせ、おや? 駄目猫かな、と思わせたりするが、実は素晴しいのだ。猫は隙間風《すきまかぜ》のように狭い場所を通れると言われているのに、ダイアナはすこし開いた襖《ふすま》をさらに広く開けようとして全部閉めてしまい、「メエー」と鳴いたり、菓子罐の上に載ったまま、蓋《ふた》を開けようとした……。いい猫は人真似はしない。  強靱《きようじん》な精神の持ち主は、いい猫と対等に過ごせる。しかし、脆《もろ》いところがあると、危い! Gの場合、キャサリンが悪霊を呼び、ダイアナが犠牲になった……。  夢の中で、Gとキャサリンは池のほとりに花|茣蓙《ござ》を敷いて坐っていた。向こう岸の樹がざわざわとして、白黒の獣が池に飛び込んで、泳いできた。茣蓙の下を潜って、背後の森へ駆け出して行った。それからの十年はとても悪い状態が続いた。こんないい猫を飼っているGに皆優しくしてほしい! ちょっとした意地悪にも耐えられなかった。すると、一目みて厭《いや》だと感じた人にでも世辞を言われると忽ち有頂天になってしまい、キザで、自惚《うぬぼ》れの強い馬鹿、残酷な恥知らずばかり集めてしまった。もう立ち直れないと諦《あきら》めかけたとき、キャサリンが帰ってこなくなった。死んだのだと感じ、泣いているうちに涙で心が清められた。足を引張ったり陥れたりする人間たちとは絶交したし、ダイアナと会ったけれど、その十年が甦ってくるたびに悔いと自責で身もそぞろだった。 「また過去の家に行ってきたのかい」  とダイアナが訊いた。 「ゆくつもりはなかったのに、間違えて電車に乗っちゃったのよ。黄いろい電燈の光の下に、死んだ優しい人たちが眠っていたから、わたしも傍に横になってみたわ……。そのとき、ばたばた羽音がして、大烏、首から下だけ狼《おおかみ》の姿をした人間たちが、土足で入ってきたのよ! 『役立たず』とか『混血児はきれいな筈《はず》なのに、ほんとうにそうなの?』などと見下げた人間ばかりだった。夢の中では本来の姿に戻ったのね」 「猫にも暴れ者はいるけれど、それほどイヤな奴はいないよ。確かにGさんにも問題はあるね」  仕方がなくGは頷《うなず》いた。 「しかし、あいつらは不潔だ。僕は許さないよ! なぜあいつらは死なないんだろうか……。いつかきっと僕が殺すよ」 「え?」 「指切りげんまん」  あいつらを殺すというのは、ダイアナ自身の死を意味していたとは……。ダイアナの死後、Gはしだいに威厳と優しさを取り戻した。崩れそうになっても、ダイアナの好意を思い出せばしゃんとする。ダイアナを見習って、目を凝らし、耳を澄していよう。しばらく夢にダイアナが出てこないと、気持が暗くなり躯《からだ》も弱ってくる。自分にはなんの取柄もないから、生きていてもしようがないとおもえてくる。死ねば、なにも考えず眠っているときのように楽になれると思う。ぎりぎりのところまできたとき、勇気づけに戻ってくる。〈Gはダイアナを大事そうに抱えている。それで、とても重い。生き返ったんだわ。でも、お骨は部屋にあるから、また死んだときにはもう一つお骨箱が増えるのかしら、といつも考える〉夢から覚めると、明るい気持になっている。  もう、いい猫は飼わないつもりだ。ダイアナがくるまで、夢の中で、キャサリンは緑の目がエメラルドの輝きだった。しかし、ダイアナが来て以来、目の光は失せ、皮膚病のからだで現れるようになった。それに比べダイアナは、三十三回忌のあとも、光と風に美しい毛を靡《なび》かせ、颯爽《さつそう》と登場する……。  いい猫は特別に繊細だから、Gのような人には猫のほうも気をつかってくたくたになってしまった。そのせいか二匹とも皮膚病に悩まされ、頭に円型の禿《はげ》が出来た。早死で、キャサリンは十歳、ダイアナは九歳だった。……十九歳の牝猫の飼い主は「うちのはほったらかしよ、過保護にすると神経質になるのよ」と言った。脆いところのある人は普通の猫を飼うほうがいい。所謂《いわゆる》猫らしい猫で、飼い主が優しくすれば、満足して湯たんぽになりたがったり、うまくやっていこうとする。  心のきれいな人でも、犬好きとはどこかしっくりしない部分がある。いい猫好きでも夫のいる人とは、ちぐはぐになることがあるが、小鳥一羽でも飼っているのといないのでは随分ちがってくるから仕方がない。そんなことを考えながら、銀行に出掛けた。半月分の生活費を出したあと、深い赤の薔薇キャラミヤが欲しくなり、スーパー・マーケットに寄った。今日はべったりした赤い薔薇しかない。この花をラムネの空瓶に活けたとき、何日経っても枯れず、リボンフラワーみたいだとすくなからずうんざりしていたら、ついに同じ色のまま散った。この前買ったキャラミヤは三日で開き切って、突然黒く枯れたが、葉はまだ爽《さわ》やかな緑だった。枯れ方は白のほうが怖くなくていい。だんだん黄ばんで茶になる……。  スーパー・マーケットの近くの花屋で、病み上りだから白い薔薇を選んだ。——さあ、早く帰って、『猫の殺人』の続きにかかりましょう……。そのとき、開店したアイスクリーム屋が目に入った。いろいろな種類のアイスクリームを売っている。バニラ、アーモンド、ペパーミント、マロン、レーズン、ストロベリー、チェリーブランデー、どれにしようか、とさんざん迷っていると、子供の頃にスイスで食べたさくらんぼのことを思い出し、 「チェリー下さい」  とびきり澄んだ幼女の声で注文した。女店員たちに嗤《わら》われ、恨めしそうな目をして、店内の一番端のベンチに腰掛け、「意地悪」と呟きながら、ウエハースのカップに入ったアイスクリームを舐《な》めているうちに、ブランデーが混じっているため、ぼやーとしてきた。アイスクリーム屋を出て、繋《つな》がれた犬に会ったので、ぷるるんと唇をすこし鳴らして挨拶したら、物凄く吠えられた。  家に戻り、お骨と写真のまわりだけ念入りに掃除し、花を活け、写真に向かい、淡いグレーのスカートをつまんで王女のようなお辞儀の仕方をした。 「あらら、このロングスカート、五十年前つくったときはもっとふわっとして裾《すそ》が長かったのに、洗濯しているうちにこんなに縮んじゃって……。細い足首がみえてた」  夜になって、四日間九時間放映と話題になっている、「ホロコースト・戦争と家族」の最終回を観ることにした。三時間半ちかく、じっとテレビの前に坐り、アウシュビッツの虐殺場面などは、「あんまりだわ」と泣き出してしまった。終ってから、眼鏡をかけた愛嬌《あいきよう》のある映画解説者が、泣きそうなのをこらえた真剣な表情で、「残酷でしたね……。しかし愛が一番大切だと分りますね」と言った。  今日は疲れたからよく眠って、明日からまた、「猫の殺人」にかかることにした。……猫特集号の詩の雑誌を持って寝床に入った。猫好きな詩人、小説家、画家などの、愛猫《あいびよう》の写真が出ている。その一枚を見て、——あ、ダイアナさん! うそうそ、ダイアナさんはとうの昔に死んだのだった……。でも似てる、猫にしては面長、鼻の穴が大きいところまでそっくり……、と心で叫び、急いで写真についた文章を読んだ。小説家が飼っているチャコールグレーの雑種で、名前は雲。威厳があり、優しい人《ヽ》格だ、と書いてある。 「雲さんていうのね、あなたのことをもっと読みたいわ……」  と写真に話しかけた。Gの寝床に白い薔薇の匂いが流れてきて、夢の扉が開いた。 [#改ページ]  窓辺の雲     一  Gは十代で見合い結婚をしたが、別れる頃は夫の臭いが嫌で息が詰まりそうだった。……夫が外出したので「くさい、くさい」と叫び、慌てて寝室の窓を開ける。鼻を摘《つま》んだままプレヴェールの詩にある「待ちどおしいわ ひっそりとしたひとり暮し」と口に出して言ってみる。「待ちどおしいわ けっこうな喪中の毎日」次の行はどうだったかしら……。嘘《うそ》つき女って夫が怒鳴り出し、わたしは黙っていた……というのだったかしら、と口の中で呟《つぶや》き、「待ちどおしいわ けっこうな喪中の毎日」と珍しく大きな声で暗誦《あんしよう》する。気配を感じ振り返ると、いつの間にか夫が戻っていた。Gをぎろりと睨《にら》んだ目が冷たく、躯《からだ》から蒼《あお》い光が発しているみたいだ——。夫が怒鳴り出し、負けずに反撃したので一瞬黙ってしまう。それまで一度も口ごたえしなかった。Gは外へとび出し、背後でドアをばたんと閉める音がした。電車に乗ったとき裸足《はだし》だったと気がついた……。それ以来夫に会っていない。  離婚する前にGの両親は亡くなったが、母の妹たちが健在で、Gの世話を焼く。Gの資産めあてに近付いた人たちを追い払ってくれた。独り暮らしには実家は広すぎるし、収入もないから、実家を貸しGは叔母の知人のビルに棲《す》んだ。家賃が安いし、猫を飼っていいと言ってくれたのはその人だけだった。Gは拾った猫ダイアナと九年過ごし、その間に詩を書くようになり、四十年ほど経った。  最近Gは詩の雑誌に『猫の殺人』という題のメルヘンを連載している。書き出すきっかけになった事件がある。……オートバイがとび出してきた猫を跳ねた。それを車の中で見ていた女性が、そのショックで息を引き取った。その話を知人に聞き、心に響いた。猫のように繊細な人だ……。現実では人の足を引張ったり上手にとびまわったりする人は元気が良くて、そうでないとだんだん片隅に追いやられて死んだみたいに生きているが、『猫の殺人』の主役は猫みたいな人にしよう。九年間親友として過ごしたダイアナは威厳があり、柔和で上品な猫だった。ダイアナのような男を書こうと思う。ダイアナという名前は月の女神アルテミスの別名だけれど牡《おす》猫だ。ダイアナは誰に似ているかしら……。素材になる人に会っていれば書きやすいが見当らない。  愛読している映画雑誌を見ると、西部劇スターのクリント・イーストウッドがすこしふけてはいるが優しそうで素敵だから彼が一番近いような気がする。ときどき眺めて素材にしよう。彼はサンフランシスコに近いカーメルに自然食品の店を持っている。いつかその店を訪ねたい……。ところがイーストウッドは共演した女優ソンドラロックに熱を上げ、共演したいばかりに自分で監督をして映画をつくったが出来ばえが悪かった。そんなことをするなんてイーストウッドらしくない——。彼女は目の大きいスリムな美女で男性支持者が多いらしいが、頭が悪そうだし、打算的な感じで好きになれない。彼は整形で顔の皺《しわ》を取ったという噂《うわさ》だ。妻子持ちが女にうつつを抜かしても楽しそうならいいと思うが、お揃《そろ》いの革の上着を着て手を繋《つな》いでいるグラビアを見たけれど、二人共暗い表情で幸福そうじゃないし彼は人相が悪くなった。……たまたま『猫の殺人』の青年も、人間に変身した猫の王女にふりまわされる。イーストウッドに似ているわけだが、嫌いになってしまうと想像力が湧《わ》かない。女にふりまわされるという点ではライアン・オニールがぴったりだ。でも彼はダイアナとは似ていない。『ジュリア』という映画に小説家のダシール・ハメット役で出ていたジェーソン・コバーツが人間味があってよかったが年を取り過ぎている。素敵な男性が見付からず書きにくいので、猫の王女を一人で旅に出してその様子を書くことにする。  毎朝二時間余り机に向かう。万年筆がてきぱきとひとりでに進むように感じるとき、なにもかも忘れられて爽快《そうかい》だ。ペン先が原稿用紙にひっかかるみたいに感じだすと、続けても屑籠《くずかご》に捨てることになる。外気を吸わなければもうどこからも力が出ない。疲れ切った姿で外に出ると冷たい視線を感じ、乞食を見る目だと腹を立てるが、土手に上るとほっとする。そこに居る人たちは空気みたいで、擦れ違っても気にならない。土手にある、誰も居ない児童公園で小鳥と木の実を投げ合って遊んでいた風の子供は、Gに姿を見られてしまった……。  Gは占に凝っていた中年の頃に占師に五十八で死ぬと言われ、実家で死にたいと思い五十五で戻ったが七十になっても生きている。遺産があるから贅沢《ぜいたく》をしなければ生活出来る。  今年も母の命日に三人の叔母がGの家を訪れ、並んで記念写真を撮る。今回で四十七枚目の写真になる。カメラマンとして叔母たちの子供か孫が一人ついてくる。Gは二十八から写真を写さないことにしたので撮り役になればいいのにと人は思うかもしれないが、カメラには触るのさえ厭《いや》だ。記念撮影には並ばないが、そのメンバーで旅行するときは加わる。心配性のGはしっかり者の叔母たちと一緒だと安心していられる。去年はヨーロッパに行く品の良い観光団を探し、行き帰りだけツアーに加わって、あとは自由行動をした。九十歳の叔母は旅行をするとすこし疲れると言うが、八十代の叔母たちは七十代のGより元気だ。でもGは一番若いから荷物をたくさん持たされ口の中でぶつぶつ言う。叔母たちはGより背は低いがぴんと背筋を伸ばし、しっかりした足取りで歩く。その後ろからよろよろとついてゆくGを見た人は、大きな荷物を持っているせいだと思うかもしれないが、手ぶらのときでも猫背で危かしい足取りだ。叔母の一人は日本で初めてヌードのポスターになった女性と友だちで、「彼女太っていたのにしなびちゃって、やはり年なのかしら」と言った。叔母たちの水泳仲間が八十過ぎて自殺した。いろいろお稽古《けいこ》をして毎日楽しそうだったのに、夫に愛人が出来て行く末を案じたらしいと叔母たちは言う。  今年もGは母の写真の前に、好物だったチーズ・ケーキと臙脂《えんじ》の大粒のさくらんぼを供えた。昔叔母たちは「若草物語みたいだ」と言われたそうだ。外交官の父親についてスイスで過ごし、長女がスイス人と結婚しGを生んだ。Gは西洋人の血を受け大柄だがあまりきれいでない日本人の顔をしている。両親共きれいだったのに突然変異だろうか——。Gも九歳|迄《まで》スイスに居た。スイスの話をするとき叔母たちもGも楽しくなる。「スイス人は体格が良くて背筋をぴんと伸ばして歩くわね」「ゆっくり時間をかけてたくさん食べるわね」「パンの味がいいからバターをつけずに味わったわね、チーズがおいしいと思ったのは初めてだった」「ヨーグルトもおいしかったじゃない」「外国に行けば日本の食事が恋しくなるというでしょう、確かにそうなのよ、でもスイスでは一度もそうならなかったわ」Gはスイスの澄んだ空気の味を懐かしく思う。三女の叔母が一番太っているが、洋菓子の三個目を食べるとき「わたし痩《や》せているから大丈夫」と悪戯《いたずら》っぽく笑う。九十の叔母は、「部屋の窓からテニスコートが見えるのよ。若い人たちがプレーしているんだけど、入れてもらいたくてね。わたしっておかしいのかしら」「Gちゃん、お化粧しているの……、もうすこしかまったほうがいいわよ」叔母たちは皺のすくないきれいな肌をしている。叔母の一人は、化粧水をGに贈り、別の叔母はコンパクトと頬紅、もう一人はサモンピンクのふかふかした襟巻を編んでくれて「この色がなんともいえなく似合うわよ」と本気で言う。ときどき三人共Gのことを、「チビちゃん」と呼ぶ。あの連中とあまりつき合っていると甘ったれの癖がついちゃって世間に出たとき調子が狂うから気をつけなきゃとGは考える。     二  桜の季節は憂鬱《ゆううつ》だ。すみからすみまで花見客が居てビニールや段ボールをひろげ電気コンロまで持参しどんちゃん騒ぎをしている。ちょっとの間しか咲かないのにいたぶられて桜が可哀相だ。酒等の臭いが漂い鼻が痛くなりふーふーいって逃げ出そうとしたとき、酔っ払いがとび出して来て怖かった。翌日は雨が降っているので人はいないと思い土手にゆくと、傘をさしてしゃがんで花見をしている。  何日も土手に行かないせいか疲労が溜《た》まり躯がカチカチなので、叔母に紹介してもらった指圧師を訪ねた。口数がすくないし、手を抜かないので気に入っている。躯を横たえていると、「治療しているとエネルギーを吸い取られてしまいそうです」若い男の指圧師は憂鬱そうだ。「触っているとエネルギーを吸い取られてしまいそうです」と繰返す。「ごめんなさい」「大丈夫です、わたしはすぐ取り返しますから」……ここにくる途中で擦れ違った娘たちは「キャッ、幽霊」と言って嗤《わら》った。土手が駄目だったのでふらふらと戻って来たとき、舗道に面した地下にある喫茶店の階段を上って来た若い男とぶつかりそうになり、慌てて「ごめんなさい」とわびたが、男は変なものを見てしまった不運に腹を立てた様子だった。連れの若い女が、ちょっと男をつついたけれどどんどん歩き出し、女は振り返って「すみません」と小さく言った。  治療が終ってもらくにならなかったから、鍼《はり》の病院を訪ねた。博打《ばくち》をして代議士をやめさせられた男に似ている先生に当ってしまう。「餅肌の女にもそうお目にかからないけれど、貴女《あなた》みたいに悪い肌も珍しいね、これじゃ男も逃げてしまうよ。ボール紙みたいだもの」と言われ、しょげてしまった。  すこし遠いけれど叔母たちが通っている温灸《おんきゆう》の病院について行く。話し好きの叔母たちの相手で忙しく誰もGに話しかけないから緊張しないですむ。治療が終ったら躯が軽くなった。その後美味な手づくりのパン屋に寄る。こぢんまりとした清潔な店で、夫婦共礼儀正しく控えめだ。主人は浅黒いきりっとした小男でこんがり焼き上ったパンをおもわせる。叔母たちはイギリスパン二片、ミルクパン一片、アンパン等をどんどん買う。どうせ自分が持たされるから、増えてゆくパンをみてGは憂鬱だ。「チビちゃんもお買いなさいよ、叔母さんが買ってあげる」「食べきれないうちに固くなるからいりません」「駄目なお腹《なか》ね、アハハハ、駄目子ちゃん」パン屋の色白でふっくらした奥さんが「まあ……、駄目なお腹ね、ですって、ホホホ」叔母たちは大喜びでフランスパンも買おうとしたので、「わたし共の歯には固すぎます」とGは慌ててやめてもらう。マーケットで叔母たちは健康と美容のために安売りの一山五個のグレープフルーツを二山ずつ買い、国内旅行のとき愛用している大きなショルダーバッグに五個ずつ入れ、「ショルダーは持ちいいわ」パンを一本抱えさっそうと歩く。全員の年をたすと三百二十歳を越す。三百二十歳のお通り、と口の中で呟き、笑ってしまおうとしたが、あまりの重さにそこまで元気になりきれず、家にたどり着くころには躯がカチカチになっている。  Gは風邪をひいて二週間寝こんでしまった。叔母の一人は上げ底を取っ払ってもらい、栗饅頭《くりまんじゆう》をぎっしり詰めて持ってきてくれた。もう一人は「藤村《ふじむら》」の羊羹《ようかん》だった。毎日甘い物を食べているうちに歯が痛み出した。でも削られるから病院に行かない。機械の音と感触に耐えられず貧血を起こし嫌われ何軒も変った。すこしの痛みなら鉢植のアロエが柔らげてくれるが、今回は効果がなく、非ピリン系の鎮痛剤をのんで紛わせ、ふーふーいって『猫の殺人』と取組んでいる。相変らず気に入った男性は見付からず、王女にさすらいの旅を続けさせている。Gは外に出る気力もなく、書き損じた原稿用紙が散らかった大きな屑籠みたいな部屋の中に居て、書いていないときは寝ている。ねむり姫の部屋にしては汚いわ、と口の中で呟く。メルヘンのことで頭がいっぱいで他人の書いた本には集中しにくいし、テレビをつけると眠くなる。スケート中継が好きで尊敬と憧《あこが》れの目を向けるが、一番上手な人は最後に滑るので待ちきれず寝てしまい、がっかりする。テレビの前で珍しく眠らなかったのに嫌いな場面を観てしまった。 「歯ブラシでごしごしやって水を含むでしょう、その水でうがいをしてからペッと吐き出すのよ。歯磨いているのだって見たくないのにうがいをするから、もう気持悪くて、一日中不愉快でムカムカしているの」  と、グレーの額縁の中のダイアナの写真に向かって話しかける。  電話をかけてきた叔母に、「お迎えがきそうな気がする」と呟き、「年の順ですからね」と張りのある声で励まされた。その夜とうとうGは貧血を起こし倒れてしまった。意識が戻り、痩せた躯をベッドにそっと横たえ、いたわるように細い腕を見る。薬の滓《かす》が躯に溜まり冷や汗になって吹き出したのかしら……。翌日は珍しく歯が痛まず躯が軽く感じる。久しぶりに掃除をする。長い間髪と肌の手入れもしなかったので、ぼさぼさがさがさになっている。ちょっと触っても抜け毛が出るし、唇から血が吹き出すから触らなかった。  また痛み出し、右の奥歯が悪いせいか右目も痛むが鎮痛剤は怖いからのまず我慢している。頭も痛くなり、長いあいだ一行も進まない。久しぶりに鏡を覗《のぞ》くと、とくに右頬が脹《は》れ本当は細い顔なのに下ぶくれの泣きそうな顔が映っている。     三 『猫の殺人』を連載している詩の雑誌が休刊になり、余裕が出来るのでほっとした。締切りまでに間に合わないのではないかといつも不安だった。叔母たちに誘われたときは締切りが迫っていて行けなかったが、独りで横浜の大佛次郎記念館にゆく。猫の置き物が並べてある。きらびやかでわたしの猫のイメージとはちがうわ、たとえ自由に使えるお金がたくさんあっても買わないと思う。最後に眺めた大きなガラスケースの片隅に置いてある陶器の小さな猫だけはちがっていた。美しいチャコールグレーで顔の一部と胸と足が白、鼻先は薄いピンク……ダイアナを見て作ったみたいだ。ケースに鍵《かぎ》がかかっていてよかった。泥棒は今のわたしのようにどうしても欲しくなるのだろうか……。記念館の窓から海を眺め欲望を鎮める。  ダイアナのちょっとした動作が、書くきっかけになった。ダイアナのことを書いた文章「部屋の中に住んでいる月」が詩の雑誌に載り、人気を高めた。  金色に近い黄色い目の、雑種の仔《こ》猫を拾いました。書き物などしていて、ふと視線を感じ顔を上げると、高い所や暗い場所から、月のような目が私を眺めていることがあります。  ローマ神話の月の女神ダイアナは猫の姿になって恐ろしい敵からその身を隠したことがありました。  クレーは青い散乱光の中を、小さな車輪をころがしながら、旅して行くダイアナを描いています。また何枚かの絵の中のどこかしらに、まるい月や三日月を描いています。  最近、私が自慢できることといったら、私の部屋の中に住んでいる月が、クレーの絵の中の月に匹敵するということです。  ダイアナを拾ったとき叔母が、からだをざっと調べ牝《めす》だと言ったので、女神の名前をつけた。Gの愛読書には月の女神はアルテミスになっているが、呼びにくいから別名ダイアナにした。部屋中飛ぶように動き、壁の高い所迄ジャンプするので活発すぎると思っていたところ、牡だった。家主に言われ去勢し、だいぶおとなしくなった。  女神たちはときどき人間に恋をする。ダイアナも羊飼いの青年を好きになり、彼が眠っているあいだ番をした。Gも猫のダイアナに見守られ詩を書いた。ダイアナは熟睡したことがあったのだろうか。うとうとしている姿しか思い出せない。ダイアナは少年から、どろどろした男にならず、女神に変身した……と、ときどきGは考える。女神ダイアナは猫の姿になって恐ろしい敵から身を隠した。Gの部屋は女神の隠れ処《が》だった。その間Gのところに来ていたのだと思えば、平和になった自分の領地に帰って行っただけなのだ……。  ダイアナは処女神で狩を好んだ。森で水浴びをしているとき青年が通りかかったので、おつきの女たちがダイアナを囲んで隠したけれど背が高く頭だけぬきんでていた。「さあ、話せるなら行って、アルテミスの裸かになってるところを見たと話すがよい」と彼女は言い、青年を鹿に変えてしまい、犬どもが引き裂いて殺した。彼女をのけものにした神には野猪《やちよ》を送りこみ領地を荒させた。怒りを恐れた神から生贄《いけにえ》の処女を贈られたときは、可哀相になり、娘を雲に包んで領地に連れて帰りおつきに加えた。  ずいぶんダイアナは残酷だ。しかしゼウスの妻で神々の中の女王ヘラのやり方に比べれば、Gにはずっと分りやすい。ヘラは夫の愛人に嫉妬《しつと》すると時間をかけてじわじわ苦しめる。ヘラによって熊に変えられた愛人を、ゼウスが星に変えたとき、その星が置かれた位置がよすぎると腹を立て策略をめぐらせたり、上手に嘘もつく。  暁の女神も残酷だ。ゼウスを説きふせ恋人に永遠の命を与えてもらったが、うっかりして永遠の若さを与えてもらわなかった。恋人が年を取ると部屋に閉じこめ交りを絶ち、しまいにはこおろぎに変えてしまった。  猫のダイアナはビル暮らしで鼠を見たことがなかった。猫が捕えた鼠をさんざんいたぶって殺す様子とヘラの残酷さとは共通すると思う。獲物《えもの》をくわえ、飼い主に見せにゆくなんて女性的だ。Gの弱点に触れ、うろたえているGの顔から目を離さなかった男や女がいた。顔は忘れてしまったけれど嬉しそうな目をはっきり覚えている。そのときのGの様子を後々まで言い続けていたそうだ。     四  四十代のときGは叔母から、知り合いの猫を預かってもらえないかと頼まれた。飼い主が入院することになったのだ。もう猫は飼わないときめていたが預かるだけなら死んだダイアナは怒らないだろう……。嫌われ者の牝猫で四人も飼い主が変り、現在の飼い主は前の人に餌代《えさだい》を貰《もら》い引き取ったそうだ。手提げに猫を入れて現れた女性は、病院に泊り込んで夫につき添うと言いあたふたと立去った。手提げの中に黒っぽい痩せた猫が蹲《うずくま》って震えている。名前を訊《き》き忘れた。 「痩せているから痩子と呼ぼうかしら……。牝だけど痩吉にしよう」  と呟く。のそのそと出て来た痩吉を見て、雲泥の差だと思う。ダイアナは明け方の空のように淡いチャコールグレー、目は月見草のような黄色で美しく、そっと鼻を寄せると、積ったばかりの雪のようにすこし埃《ほこり》の混ざった清潔な匂いがした。さらさらして温かい砂の手触りだった。痩吉は鋭く暗い目でちらっとGを見てこそこそとベッドの下に潜り込んだ。童話のなかに、魔法で獣に姿を変えられた人が出てくるが、もし痩吉がそういう一人で、魔法がとけたときどんな姿かと空想してみる。皺くちゃな小さな老婆かもしれないわ。Gはふふふと小声で笑う。  痩吉は後ろ向きのまま耳の穴だけGの方に向ける癖がある。陰口を言われつけた継子《ままこ》みたいだ。可哀相になり、「器用ね、耳が動くのね」と感心してみせると、そっとGを見ている。  痩吉に食べさせる小鯵《こあじ》と鶏の笹身を買い、アパートに戻り、エレベーターがあるのに階段を昇る。ダイアナの死後エレベーター付きのこぎれいなアパートに移ったのに、エレベーターで人と乗り合せると息苦しくなる。痩吉が玄関に坐るほうがGが鍵を開けるよりすこし早かった。ダイアナはボーイソプラノのような声で迎えたのに痩吉は目礼だけ。四人も飼い主が変り、曲折しているのだろう。  痩吉は全く鳴かなかったが、蚊取り線香の上に布巾《ふきん》が落ち燻《いぶ》ったとき大声を出しGに報《し》らせてから明るい声が出るようになり、しかめっ面の暗い表情も消え明るい顔をしている。Gは電話で何人もの人に痩吉の手柄を話した。細長い尻尾《しつぽ》を垂れのそのそ歩いたが、今では短い距離でもプライドのしるしの尻尾をぴんと立て胸を張って歩く。薬罐《やかん》の空焚《からだ》きをしたときも鳴いて報らせた。その後は薬罐を火にかけると、傍《そば》で見張っていて「沸いたわよ」というように大きな声で鳴く。……痩吉はGに見惚《みと》れている。見ていても厭がらない飼い主は初めてなのだろうか……。痩吉に鏡を見せ反応を知りたくなり、抱いて鏡の前に行くと、自分の姿は見ずGを見ている。ダイアナもそうだったが痩吉には外国の血が流れていると聞いた。ダイアナは美形だったが、外人にも醜女《しこめ》がいるように痩吉は長身で痩せて猫背の女みたいで、華奢《きやしや》な日本猫のほうが可愛い感じだ。  痩吉は自分のからだの毛を口で毟《むし》り、ぷ、ぷ、ぷと吐き出す。猫はからだを舐《な》めるからのみ込んで胃に溜まり毛球症になるが、吐き出せば溜まらないと知っているのだ……。「おれは河原の枯れすすき 同じお前も枯れすすき どうせ二人はこの世では 花の咲かない 枯れすすき」節にならない節でブツブツ歌いながらGは痩吉の毛にブラシをかけている。痩吉は十二、三年生きているので老化現象のため雲脂《ふけ》だらけ。Gの頭も雲脂だらけ。  痩吉は足が縺《もつ》れたようになり、舌を出しうーと唸《うな》っている。Gは軽い貧血を起こし蹲ってしまう。ダイアナの病院通いのために買った蓋付《ふたつき》の籠に痩吉を入れ、最近人から聞いた名医のところへタクシーで急ぐ。肝臓と腎臓《じんぞう》が悪いし、奥歯も抜けかけて痛むらしい。長びくけれど治ると医者はきっぱりと言う。帰りのタクシーの運転手が、「お客さん、大きな荷物ですね」「すみません……、病気の猫なんです」「ペルシャですか」「いいえ、捨て猫だったんです」一瞬、籠の中にダイアナが居るような気がした。「病院代かかるでしょう」「はい、保険が効かないので……。でも苦しんでいると放っておけなくて」「人間は拾わないんですか」「拾いません」。治りかけの時期は凄《すさま》じい。大食になり、大声で鳴きながら駆け出し、椅子の背に跳び乗りニタっと嗤う。全快し、べたべたした毛がさらさらになった。早く名医に会っていたらダイアナも生きながらえたかもしれない——。前の医者の口癖は「心配いりません」。頼りなかった。  だいぶ太って痩吉では似合わなくなった。改名しよう。飼い主はもぐりのお灸《きゆう》の先生だそうだから、もぐりさんにしようか。ほとんど歯が無いため食べるときもぐもぐいってしまう。もぐにしようか。幼い頃愛読した外国の絵本の主役虎猫モグは横幅が広い顔でお世辞にもきれいとは言えないけれど、物語の最後で泥棒を捕え手柄をたてる。モグがいいと思う。  モグのからだに蚤《のみ》を一匹見付けた。ダイアナには一匹もつかなかった。ビルから出ないからだと思っていたが、病気ばかりしていたので血が不味《まず》かったのかもしれない……。モグは健康状態があまりよくないときはベランダに置いてある土だけ入れた大きな植木鉢に腹を付けて坐る。そうするとからだに良いのだ。その姿を見ると、花や実の代りに人間や猫の顔を付けた植物が出てくる怪奇小説を思い出す。 「ギャ」と叫び青くなったGを、モグは不安そうにそっと見ている。「当建物で犬猫を飼うことは禁止されています。ただちに処分して下さい」と書いた印刷物が配られたのだ。泣きそうになり叔母に電話をかけると、「すぐ談判してあげます」と張り切る。実験用の犬を何匹も飼っている人がいるし、エレベーターに乗ると粗相をする犬がいて、苦情が出たので印刷物を配ったけれど、人に迷惑をかけなければかまわないそうだ。「おとなしいし一歩も部屋から出しませんから」と叔母が言うと、「Gさんのところに猫が居るなんて知りませんでした」と管理人は言ったそうだ。実験用の犬の飼い主は引越したけれど、エレベーターで粗相をする犬の飼い主は抵抗し表札に犬の名前も出した。相変らずエレベーターは臭い。  モグのためにコップにきれいな水を汲《く》んでおくが、薔薇《ばら》を活《い》けると、花瓶の水を飲む。ほとんど歯が無いから蒲鉾《かまぼこ》を摺《す》ってあげる。モグはダイアナが好んだ籐《とう》の揺り椅子の上に寝て、モーツァルトのピアノ曲「ロマンス」に耳を傾けている。止まると目を覚まし、「止まりましたよ」というように鳴く。ダイアナが好きだったドビュッシイのピアノ曲「祭」は、悲しくなるから命日にしか聴かない。モグは演歌を嫌い、ラジオから流れてくると部屋から出て行く。アパートにはモグより年下の子供が多い。スケートの天才少女の新聞記事をみて、「モグと同《おな》い年ぐらいよ」と話しかける。モグはうしろ姿がいい、とGは思う。長めの御《お》河童《かつぱ》のように黒い毛が生え、首のあたりが白く首筋がきれいな娘みたいだ。おとなしいからダイアナより飼いやすい……。 「Gおねいちゃんのこと好き」  とふざけて訊く。邪気のない静かな目を向けている。  前に棲んだビルの入口にダイアナが戻ってきた。Gは喜んで小鰺を御馳走する。目が覚めると、モグはGの腕にもたれて寝ている。ダイアナは寝床に入ってこなかった。死んだ年、Gも病気になり寝ついていた。死ぬ二、三ヵ月前から毎日四、五分ずつ足もとにそっと寄り添っているようになり、「なに」と訊くと、すーと離れて行った。最後迄距離を保ち接した……。夢に現れたダイアナはチャコールグレーが実物よりも薄く、面長だったのに丸顔、耳も小さく縫いぐるみみたいな感じだった。  飼い主が、モグを迎えに来た。返さないつもりだったが、ビクとも動かない冷い目に見られた途端、うろたえ口をモグモグさせてしまう。モグを飼い主が持って来た手提げに入れてしまいながら、 「あの……、わたしにモグを下さい」  と思い切って言ってみる。  飼い主が聞えなかったように、 「早くして下さい」  ときっぱり言う。  諦《あきら》めて、病院の行き帰りに使った籠を上げようと、持ってくると、 「そんな物に入れて電車に乗ったら目立っちゃって、バレて料金を取られます。さようなら」  ぼろぼろの服を着ていると人に馬鹿にされるから久しぶりに新しい服を買おうと思いデパートに出掛けたが、迷ってしまう。「なにも買わないのに歩きまわって」と太って醜い女店員が小声で言ったような気がする。早く帰って夕飯を済ませ寝てしまおうと思い、食品売場に行ってみると、「いらっしゃい」「奥さん」等と呼びかける活気のある声に圧倒され近寄れない。モグが居た頃は魚屋で小鰺となまりばかり買い、馬鹿にされ何軒も変えたが、いまは食べさせなければいけない対象がない。食欲がないから買わずに帰って来た。飼い主の家に戻ったモグが家出したと聞き、外で逞《たくま》しく生きていけそうもないから……、と胸の中で呟き何日もめそめそしている。階段を使う気力がないからエレベーターに乗っていると、乗りかけた子供たちが、「キャ……」とやめ階段を下りてゆく。途中でエレベーターが開くと、「また出た」ととびちる。     五  詩の雑誌が復刊し、『猫の殺人』の再連載がはじまった。このごろ忘れ方がひどくて昨日のことさえ覚えていなかったりするのに、ダイアナの四十九日が甦《よみがえ》ってきた……四十九日迄死者の魂が家の中に居ると伝えられている。すこしでも長く居てほしい……。薔薇と白百合《しらゆり》、月見草、紫の濃淡の花等を活け、窓を閉める。ダイアナは薔薇の匂いがとくに好きで、鼻の穴を拡げてクンクン鳴らした。実家の庭にハトヤバラの樹があるので死んだ後も切ってきて活ける。死んだ年は秋冬にハトヤバラが狂い咲きし、絶やさずにすんだが、かじかんで造花のようだった。一周忌に、薄いグリーンの縦縞《たてじま》の柔らかいブラウスが出てきた。病院で手術して死んだダイアナを、部屋に連れて帰り、独りで通夜をしたときに着た。そのあと、いくら探してもなかったので神隠しみたいだと諦めた。箪笥《たんす》の中に入れたのに、まるで目になにか被《かぶ》さっているみたいに見えなかった——。  深い赤の小さな薔薇キャラミヤと薄紫のブルームーンが好きだが、売っていないので白い桔梗《ききよう》を買って来て窓辺に活け、 「ダイアナはここが好きだったから」  と独り言を言う。ダイアナは外に憧れていた。けれどもビルの周囲は車がぴゅーぴゅー走り、外に出ると腰を抜かし這《は》って歩いた。仔猫のうち部屋から出さなかったので臆病になったのかもしれない。諦めてビルの四階の窓から外を眺めていたが、つい我を忘れ身を乗り出しGをはらはらさせた。……窓辺に活けた白い桔梗がカタカタ鳴っている。活けて一時間も経たないのに花が三つ茶色に変っている。変色した花を毟《むし》って、後でまとめて燃やそうと思う。この花はわたしより先にダイアナのところに行くんだわ。優しくしてあげてね……。またカタカタ鳴った。翌日は一つ残らず茶色になっている。夏はすぐ花が駄目になる。このあたりはビルばかりで焚き火をするような場所がないので面倒になり、ごみ箱に捨てた。  土手は酸素が多いから好きだ。木に触ると、不運を取り除くお祓《はらい》が出来ると外国の本に書いてある。「ろくなことがなかったから」と独り言を言い、灰色と淡い緑を含んだ樹にそっと掌《て》を当ててみる。不思議なほど静かな気持になり、幸福だと思う。ダイアナが咽喉《のど》を鳴らす低い音を聴いたとき以来だ。それは、波の音のような響だった……。  樹のうちで桜にだけは気をつけよう、と胸の中で呟《つぶや》く。桜にとっては気の毒だが、花見客めあての屋台のアセチレンガスと食べ物と酒の臭い、花見客の歌も木肌に染み付いているかもしれない。子供のうちに桜の樹に触った人が桜の下の酔客になるのだろうか——。  今年も桜の季節はさんざんだった。二日間雨が降ったあと、昼ごろあがったので土手に上ると、桜吹雪だった。泥濘《ぬかるみ》に貼《は》りついた花びらは蛆虫《うじむし》みたいだ。肌寒くて足を早めた。きゃっ……、とGは口の中で叫んでしまった。花見客が敷いたビニールや段ボールその他のごみの山が何箇所にもあり、これから花見をする人のビニールがすでに泥濘の上に敷かれ、そのまわりに紐《ひも》を張りめぐらせ、番をしている人がいた。……萼《がく》が落ち、辺りを赤く染めているときは反映して心も明るくなる。四、五人かたまって静かに酒を飲んでいる人たちがいたけれど、盛りの頃は圧倒されてこられなかった人たちだろうと考え、憎まなかった。  北海道の原野にある広々とした動物王国がテレビで紹介された。捨て猫も百匹以上いてのびのびと暮らしている。「ラッキーが社会復帰」という新聞記事が載っている。中年の女性が自宅の檻《おり》の中で肥満児に育てたライオンのラッキーが人を傷つけ、一時は死刑かと騒がれたが、動物園に引き取られた。最初は太陽を嫌ったそうだ。自分をラッキーの飼い主に重ねてみる。「捨て猫だったとはいえ部屋の中で飼うなんて可哀相だった」と独り言を言う。 『猫の殺人』を書き出す前にスイスに行き、チューリヒの美術館でシャガールの「窓」を観た。窓越しに見える空に、太った鳥のようなブルーがかったグレーの雲が描いてある。遠景の白い建物、牧羊地、赤い屋根、ポプラ木立、近景の白い建物が見えてきたのはしばらくしてからだった。その美術館には置いてないけれど、シャガールには「窓辺のイダ」という絵があり、「窓」と同じ窓辺に、シャガールの娘イダが坐っている。手前に足が描いてあるので大きく見える。少女なのに可愛いというよりノーブルな感じだ。気取って取り澄した感じはないから、貴婦人というより、小さな貴婦人だわ……。Gは胸の中で呟く。あ……。ダイアナが死ぬすこし前に見た夢が甦ってきた。  玄関に母の白いハイヒールが脱いである。でも母の靴より大きい。閉めた筈《はず》の鍵が開いている。部屋から緑を含んだ濃い青いアンゴラの半袖セーターを着た娘が出てきた。娘とGは、子供の頃Gが使った小さな机を挟んで向かい合う。 「お返しします」  と娘が言う。机の上に、玄関の鍵が置いてある。肌が陶器のようで人とはおもえない。 「どちらさまですか」 「ダイアナです」  娘も、机も鍵も消えてしまった——。  ダイアナは長身で五キロあり大きな足をしていたから白いハイヒールが大きかった筈だと思う。どこかで見た顔だと思ったがイダとそっくりだった……。長いあいだ「窓」を観ているうちに一瞬イダが窓を越え空へ飛んでゆく絵を空想した。グレーの雲に、猫の姿に戻ったダイアナが重なった。  ダイアナが死んだ後、夢をノートに記した時期があった。ダイアナの看病をする夢、ダイアナが死ぬ夢が多い。ビルの屋上からダイアナが墜《お》ちてゆく。実家の縁側の下にからだを横たえ、優しい目でGを見上げた。ダイアナを拾ったとき買い物籠に入れて連れて来たが、その籠がお気に入りで、よく仮眠していた。でもからだが大きくなりすぎてはみ出していた。Gが看病をしていると、籠から出て山道を上ってゆく。  ダイアナにもハムレットみたいな一生を送らせたかった……、と思うと胸が痛み落ち着かなくなってしまう。ニューヨークのホテル、アルゴンキンにハムレットという九歳の猫が居る。ハムレットのお誕生日にはパーティが開かれるそうだ。自由に歩きまわれるようにどの部屋にも穴があり、ハムレットが訪れても客は文句を言ってはいけない。アルゴンキンに着いたときロビーの煙草売場にいるハムレットをいちはやく見付けた叔母は「チビちゃんいたわよ」と叫び、ホテルの人がゼスチュアで、眠っているから大きな声を出しては駄目とたしなめ、ニコっと笑ってウインクした。写真を撮ろうとしたときハムレットはきれいなロビーに置いたお気に入りの汚い段ボールの中に居た。「ちょっと出てくれないかしら」と叔母が言うと、ホテルの人が来て、もし今撮りたいなら近づいてそっと撮るようにと注意した。アンチック風の落ち着いた椅子やテーブルのあるロビーには大きな花瓶がいくつか置いてあり、淡い色の花がたくさんさしてある。きちんと制服を着た老紳士がゆっくりと歩きまわり、花瓶から一本ずつ花を取ってはまた別の花瓶にさし、すこし離れて眺めてはまた一本取って入れかえて行く。一つの花瓶はとうとう緑色の葉っぱだけになってしまったが、それが気に入ったらしく、深く頷《うなず》いてその作業は終った。もしかしたらハムレット好みの花瓶をつくっているのかもしれない。  ホテルを発つ朝ロビーに行ってみたが、「ハムレットは充分な睡眠が必要なのでこんな早く起きません」と言われ、とうとうましな写真は撮れず、Gはハムレットのことを書いた厚い本を買った。表紙には日本でもよく見かけるような白いところに黒がある大きな顔の猫ハムレットのくつろいだ全身像が描いてあるが、ウインクしている。猫はまばたきをしないと思っていたが、ハムレットはさかんにした。テネシー・ウィリアムズもアルゴンキンに泊るそうだ。 『猫の殺人』の最終回を書いている。青年と猫の王女を心中させようと思う。どんな方法にしようか。川流れがいい……。物語の二人には、中世の町並みの残るベルンを流れるアーレ川のような美しい緑の川が似合う。アーレ川は神秘的だ。太陽の位置によって水しぶきのなかに虹《にじ》が立つ。ベルン生まれのクレーは画家として大半をドイツで過ごしたが、「奔流」はアーレ川を描いたものらしい。クレーの作品を多数収蔵しているベルン美術館の傍の橋を渡ったところに無料の植物園の小さな門がある。丘を植物園にして、広々としており、すぐ近くにアーレ川が流れている。栗鼠《りす》がたくさん棲《す》んでいて、雨あがりには獣の匂いがする。Gは植物園をヒントにし猫の王女が棲む城の庭を書いた。書いてゆくうちに王女一人生き残る話に変った……。  Gの詩集に収めた一篇を、転載した若い女性向けの雑誌が送られてきた。その雑誌に猫好きが開いた喫茶店が紹介してある。近いので覗いてみることにする。大きな猫の顔の看板が掛けてあり、階段を上ってゆくと壁に嵌《は》め込んだガラス絵の、したたかそうな猫がこちらを覗いている。『注文の多い料理店』を読んだときの興奮を思い出すわ……。扉を開けると、鉄の猫の傘立が置いてある。ジャズが鳴り、若い人ばかりなのでGは立竦《たちすく》んでしまう。どの卓の上にも猫の置き物があり、どの猫がいいかと迷っているうちに若い女店員が注文を訊きに来たので慌てて坐った。『ピーター・ラビット』に出てくる猫だが、絵本で見たときの方があっさりしていてきれいだった。ゴテゴテした感じの陶器の猫で、ネッカチーフと前掛け姿で買い物籠を抱えている。野暮ったい感じだし陰気な恐《こわ》い目だわ……、と口の中でブツブツ言っていると、コーヒーが運ばれてきた。きれいな花柄の小さなカップがいいし、美味《おい》しい。そのときグランドピアノの上に白い石の猫を見付けふらふらと近づいてゆく。なんの石かしら……。透きとおっているようでそうでもなくほんのすこしベージュがかった部分もあり、柔らかい猫のからだがうまく出来ている。からだをまるくし目を閉じていて上品で美しい……。家に帰り日向《ひなた》で昼寝をしようと思う。喫茶店を出て歩いてゆくと、大きな猫が堂々と歩いてくる。「素敵ね……」思わず声をかけると、立止まり、明るい目を向け、用がないと察し再び威厳のある態度で歩き出す。急に元気が出たので足を鍛えるために散歩してから戻ることにする。土手に上ると鴉《からす》が一羽地面に降りて来て向こうを向いている。耳の穴だけこちらに向ける癖のあったモグを思い出し、懐しい視線を送る。土手を下りてしばらくゆくと、前方の木立が明け方の空のようにチャコールグレーに煙っている。ダイアナがいたら似合いそうな風景だ……。近づくと、木立の間に細道があり、跡切《とぎ》れたところに閉ざされた門がある。  家に戻り、拡大鏡を持って庭に出る。昨年叔母たちと杏《あんず》の里に行ったとき農家の人に、来年は花が咲くからとすすめられた。一日に三度は拡大鏡で調べるが今年は咲きそうもない。「わたしが睨《にら》むから恐いのかしら……」  地下室の部屋に、死んだものが並べてあるから、見てきたらどうだと久しぶりに夢に出てきた父が言う。埃があるかしら……。埃は付いてない。いままで見たものがみんな死んでいる。地下街を歩いていて会った中年の女の浮浪者も、道に落ちていた葉っぱも。寝ころがっていた人はそのままの恰好《かつこう》で……。でもダイアナはいなかった……。目が覚めても夢の話をする人はいない。  朝、窓を開けると陽の光が差し込んできた。天気がいいと嬉しくなる。ダイアナが生きていたら喜びを分ちあえたのに……、と胸の中で呟く。窓辺の椅子に坐っていると、猫のかたちの白い雲がゆっくりと近づいてきた。 *「一」の冒頭のプレヴェールの詩は、平田文也訳『プレヴェール詩集』(彌生《やよい》書房)より引用した。 *「三」中途のダイアナの「 」内の言葉は、野上|彌生子《やえこ》訳『ギリシア・ローマ神話』(岩波文庫)より引用した。 [#改ページ]  小さな貴婦人     一  知人から届いた老舗《しにせ》の鮭《さけ》の壜詰《びんづめ》がおいしかったので、病気の叔父に同じ品を送るようにと母に頼まれた。どこのデパートにでも売っていると思い、家から近い区域に出掛けたが、三軒目にもなかった。草臥《くたび》れた様子で歩いてゆくと、小さな店のショーウインドーに「竜太」と書いてある。縫いぐるみの店らしいが雰囲気がよさそうなので入ってみる気になった。ビロードの小さな白猫は、濃いピンクの刺繍糸《ししゆういと》で作った鼻が四重に渦を巻いている。もうすこし薄いピンクにし、渦を減らせば上品になって猫らしくなるだろう。しかしよく見れば手づくりのよさがあるし、愛嬌《あいきよう》があってなかなかいい感じだ。黄色い縫いぐるみは猫にしては胴が長すぎると思ったら、「キタキツネ」と札に書いてある。雲に似た縫いぐるみはいない、と口の中で呟《つぶや》き、出ようとした瞬間、高い棚の隅に、明け方の空のような淡いチャコールグレーが見えた。大きな猫の縫いぐるみだった。一昨年病死した牡《おす》猫雲とほとんど同色で雰囲気が似ている。私は長い間雲を眺めていても飽きなかった……萩原朔太郎《はぎわらさくたろう》の詩にある「雲を見てゐる自由の時間」だった。長生きしてね、と話しかけ、そっと鼻を寄せると、積ったばかりの雪のようにすこし埃《ほこり》の混ざった清潔な匂いがした。大きくなるにつれ、雪深いアルプスの遭難者の救助犬で犬の中で一番穏やかで威厳があるといわれているセントバーナードに雰囲気が似てきた。でも雪が降っても跳びまわったりしなかった。  雲が死んだ後、海に行った。どんなに鬱屈《うつくつ》していても電車が動き出すと楽しくなるし、砂の上で裸足《はだし》になると躯《からだ》が軽くなるような気がする。しかしその日は明るさを取り戻せなかった。下品な空色のペンキが塗ってある水族館に入り、生きたたつのおとし子を初めて見た。べらの仲間は砂の中で眠るから、夜の間は姿が見えなくなります、と水槽の傍《そば》に記してあった。べらの雄は薄青、雌は薄い赤、そよそよと泳いでいた。じっと見ていると一匹ずつの輪郭が消えてゆき、明け方の淡いチャコールグレーの空でも見ているようだった。頭の中がとりとめがなくなってきてすこし躯が熱くなり静かでいい気分だった……。私、まだ雲の夢を見ていません。夢の中に出て来て下さい……、と口の中で呟いた。家に戻り、久しぶりに鏡を覗《のぞ》くと、こめかみに茶色いしみが出来ていた。「雲が残していったのかしら」と独り言を言った。  雲は月見草と同じ黄色い目だった……。病院で死んだ雲を家に連れて帰り、雲が好んだドビュッシイの「祭」のレコードをかけて独りで通夜をした。座布団とバスタオルを敷いた大きな椅子の上に雲を寝かせたが長身なので足だけはみ出してしまうため、別の椅子をくっつけて載せた。鼻先の薄いピンクが消えてゆくので悲しかった。焼き場に連れてゆく朝、庭の花を断らずに切っていいと近所の人が言ってくれたことを思い出し鋏《はさみ》を持って出掛けた。雲の目の色と同じだから好きな月見草が満開だのに喜びを感じなかった。もう美しい自然に接しても感動出来ないのではないかと思い怖《おそろ》しかった。血だらけの腹を新しい柔らかな薄地の白い布で巻き、躯も包んだ。小さな段ボールの中に寝かせ、異常なほど花が好きだったから顔の傍に月見草と濃淡の紫の花を置き、「有り難う、雲、楽しい九年間だったわ」と話しかけた。運よく人に会わずにビルから出られた。途中、腕の中の雲が急に重く感じられ道端にへなへなと坐りこんでしまった。……この縫いぐるみの目は、薄い青と淡い紫が微妙に混ざり合い、静かに輝き、神秘的だ。薄いピンクの刺繍糸で作った鼻先の一部分が黒くしてある。雲も薄いピンクの鼻先にしみがあった。私は縫いぐるみをそっと棚からおろした。さらさらした砂のような手触り、大きさはそっくりだ。お腹《なか》に付いているきれはしに英国製で洗濯が出来ると書いてあるが、値札が付いてない。 「わあ可愛い」  と言って女子学生が二人、近づいて来たので、縫いぐるみを渡すと、抱きしめて、 「でも本当に猫かしら」 「犬みたいね」  二人は不思議そうだ。 「猫です」  と私は言う。 「あたしが店番しだして万引きがないのよ」「志野さんは店番しながら本ばかり読んでいたからな」と喋《しやべ》っている若い男女の店員が私を見た。万引きしそうなタイプに見えたらしい。マーケットなどに入ると、私を見張るために店員が動き出すような気がするのに今日は縫いぐるみに気を取られていて周囲が気にならなかった。店員に、縫いぐるみの値段を訊《たず》ねると、同じ位の大きさの熊や犬などと見比べ相談して、 「五千円でいいです」 「高い」と女子学生は囁《ささや》き合い、諦《あきら》めた様子だ。高い買い物をするのは久しぶりだった。いつの間にか店内は女子学生でごったがえしている。  ビルの部屋に戻り、「ただいま」と言う。珍しく明るい声が出た。おや、というように牝《めす》猫が見ている。十一年前に雲と一緒に捨てられていたこの猫にはきまった名前がなく、今は雲の妹と呼んでいる。縫いぐるみを袋から出しながら、 「雲が戻ってきたのよ」  と話しかける。すると耳をそばだてあたりを見まわし、いそいそと玄関へ駆け出してゆく。  幼いときに臙脂《えんじ》のゴテゴテの服を着た西洋人形を貰《もら》い、「好きになれないからあげるわ」と友だちにあげてしまった。後で「あげるときに、好きになれないからと言わないように」と大人にたしなめられた。少女の頃母の洋装店の客の娘が持っている人形を見せてあげると言われ、気がすすまなかったが母にうながされた。西洋人形、日本人形等が大人の柩《ひつぎ》ほどもある立派な箱の中に寝かせてあり、抱いてもいいと言われたときも、どれも可愛いと思わなかった。その後も人形の類《たぐい》に愛情を持たなかったが、この縫いぐるみは愛嬌があっていい感じだし、雲の分身だ。一晩だけ抱いて寝ようかと思う。けっして雲は寝床に入らなかったから、箪笥《たんす》の上に置く。書き物をしていてふと視線を感じると、高い所や暗い場所から雲が静かに見守っていた。疲れてくると雲を眺めた。すると頭の中のもやもやがなくなりしばらくするとまた書く力が湧《わ》いてくるような気がした。厚かましくて鈍感、無神経、意地の悪い作中人物は、本物の人間がいくらでもいたが、優しく素直な子供を書く場合は雲を素材にした。  一年に四、五篇の短篇を文芸雑誌に発表した時期でも小説だけでは生活出来ないからデパートの毛糸売場に勤めていたが、やめてしまい、母の洋装店の雑用をしている。雲のことを書きたいが、一昨年にヘルペスという中年以降に罹《かか》りやすい神経の病気になり、医者の話では重症で思考能力も衰えるらしい。根があるから花も咲くし実もなる、と自分を励ましてみるのだけれど、いまだにどこからも力が出てこない感じだ。     二  十五年|棲《す》んだビルのある場所は昔刑場だったらしい。この土地に欲を出した者は次々に急死したそうだが、働き盛りの男ばかりだったと聞いた。住人たちも面倒な事情が出来たりして長く居つかないのに私は例外だった。しかしその間ろくなことがなかった。日の当らない車道に面した部屋だし、すぐ近くで地下鉄やビル工事が続き音が凄《すご》い。とくに一昨年は躯の具合が悪く、私はただの間借人だけど死ぬのだろうかと思ったが、雲が死んでしまった——。私の著書を読んだという未知の男性で本格的な分裂症患者に四年間つきまとわれ、関係があった男だと近所で噂《うわさ》された。自由に出入り出来るビルなのでその男は階段をうろうろするし、酔っ払いがガラス戸を割ったり放尿したりしたが、どういうわけか私の部屋がたびたび被害にあった。人に会うとつい愚痴をこぼしそうになり、信じてもらえないだろうと思った。家主の知り合いの祈祷師《きとうし》が、近日中にお祓《はらい》をしないと大事になると言い、やって来て、偶然とはいえ男はなにも言ってこなくなった。  ビルが取り毀《こわ》されるため引越すので、いらない物がたくさん出てきて、捨てたり寄付したりした。雲の皮膚病用の薬が残っていたので捨てた。紫の液体で、母が子供の頃に使った物と同じだったそうだ。本は古本屋に売ることにした。古本屋と長い時間顔を合わせているのが厭《いや》だったので、来てもらう前日、本を詰めた段ボールを、四階の部屋から一階の廊下に何度も何度も運んだ。  エレベーターが無いから運び終えたときは足がカチカチになった。  運送屋はいやいや仕事をしているような二人組で、荷物をたくさん残していた。 「これもお願いします」 「もう載らないよ」  と言った腹巻をした上半身下着姿の人のほうは怖くなかったが、もう一人は口許《くちもと》に薄笑いを浮かべ、目がぎろりと冷たかったので、怖くてそれ以上は言えなかった。引越し先は近いので、大きな布に炬燵《こたつ》を包んで背負って歩いたが、途中で泥棒スタイルだと気付き恥ずかしかった。雲のお骨と縫いぐるみと雲の妹を最後に運ぶことにした。自分の庭があれば、お骨を埋めるのだが……。バスケットの蓋《ふた》を開けると、雲の妹は普段は病院に連れて行かれるので毛嫌いしているのに、さっさと中に入った。  今度の部屋は車道から奥まった場所にあり、朝は二、三種類の鳥の声が聴こえる。前のビルの屋上には鴉《からす》がたむろしていて不気味だった。しかし運がよかったと気がついたのは引越した後だった。やはり思考能力が衰えていたのだと思う。今度の家主は気難しい老人で、前に借りていた美容師は嫌われて、普通に歩いても五月蠅《うるさ》いと言われ爪先で歩いたそうだ。私も自信がないが、猫を飼っていいと言ってくれたのはこの家だけだった。部屋の壁に、美容師が置いて行った全身が映る鏡が立てかけてある。 「ひゃあ」  と雲の妹が叫んだ。鏡に映った自分のまるい白黒の顔を凝視している。  雲の妹は、北に向いて一つある窓辺で眠ってばかりいる。仔《こ》猫のうちからあまり鳴かなかったが、ますます声を出さなくなった。 「出来た猫ね、逆境に強いのね」  と話しかけると、薄い草色の目で見ている。  買ってきたものと同じ縫いぐるみが氾濫《はんらん》していると厭なので、こわごわ店を覗いてみたところ、心配するようなことはなかった。半年ばかりの間に内部を模様替えし、置き物、小物、数はすくないけれど本のコーナーもあって、女流詩人Gの詩集と並んで、だいぶ前に出版した私の短篇集が置いてある。それから二年ぶりに復刊した詩の雑誌も。これにはGが書いたメルヘン『猫の殺人』の続きが載っている。以前この雑誌は、鳥が得意な女流の版画を表紙に使っていたので買ったところ、『猫の殺人』と出会った。連載がまだ終らないうちに休刊したのでがっかりした。  カウンターで、ひっそりした上品な中年女性が熱心に本を読んでいる。誰の絵だか覚えていないがランプの傍で本を読んでいる女性の美しい顔を思い浮かべた。茶色いトーンの絵だった。私のすぐ後から店内に入った女性が虎のような猫の置き物を買おうとした。 「すみませんが、それは非売品なんでございますよ」 「じゃ、これでいいわ」  白い髭《ひげ》が立派なチャコールグレーの華奢《きやしや》な猫のブローチを摘《つま》んだ。 「ああ申し訳ございませんが、それも非売品なんでございます」 「私が欲しい物はなにも売らないのね」  と厭味を言ったが、高い買い物をして出て行った。カウンターの女性は、失礼ですが……と言い私に近づいて来た。彼女は私の小説の愛読者で、一度手紙をくれたと言った。あっ、あの手紙の人か。返事は出しそびれてしまったが、未知の人の手紙で残して置いた唯一の物だ。達筆ではないけれど竹を割ったような感じの爽《さわ》やかな字、内容もあっさりして心がこもっている。彼女はこの店「竜太」の主で、志野という。志野は滅多に会ったことがないタイプの美しい人だ。相手の顔から目を離さない人に会うと恥ずかしくなるが、彼女は目をそらすのともちがい、空気とでも対しているようなのだ。私は縫いぐるみのことを話した。あの縫いぐるみは、志野が幼い頃から家にあったもので、狂死した母親がきれいなセロファンに包んで眺めていたのだそうだ。「母はセロファンが好きで、チョコレートや飴《あめ》の包み紙をよく本の間に挟んでいました」。志野が外国に仕入れに行っている間に、非売品と言った筈《はず》なのに店員がセロファンをはずして売ってしまったが、買い手が私ならかまわないと言った。でも……と遠慮すると、この店の非売品のほとんどは、猫好きの母親に父親が贈った物だが、人によっては手離してもいいと思っているそうだ。 「母が可愛がっていた猫は竜太という名前だったんです。威厳があって上品で、美しいチャコールグレーでしたわ。竜太さんそっくりな大きな猫が二年ほど前に迷い込んで来てしばらく居たんですよ。猫が好んだ椅子には王様の椅子という渾名《あだな》をつけました。王様のようにふるまって、また出て行きました」  雲のような猫がどこかに生きているらしい……。 「なにかお仕事をなさっていらっしゃるのですか」  と志野が私に訊《き》く。 「母の洋装店を手伝っています。掃除をしたり、忙しいときは裾《すそ》かがりやボタン付けをします。でもはかが行かなくて」 「そうですか、大変ですね。御自分でお店をお持ちになるほうがいいと思います」 「でもとても」 「Gさんだわ」  ガラス戸越しに、老婆のあどけない下ぶくれが覗き、『猫の殺人』の女流詩人Gが、夏なのに赤いアノラックを着てよろよろと入って来た。「お久しぶりですね」と言い、志野が近づいてゆく。 「あっ、お店よくなったのね、この前来たときはこんでて……。ここなら、毎日来たいわ。でも遠いから無理かな」  とGはやっと聞こえるくらいのか細い声で言い、志野がすすめた椅子に浅くかけた。店内にはすわりごこちの良い木の椅子が置いてあり、私もすすめられ先程から坐っている。志野は私をGに紹介した。Gは私をそっと見て、 「雲さんを雑誌のグラビアで見たけど、わたしの親友だった猫のダイアナとそっくり」  ダイアナが脾臓《ひぞう》の病気で死んだとなにかで読んだ。雲もそうだった。 「雲っていい名前ね。空に浮かぶ雲も大好き。昨日もぼんやり眺めていたら、猫のかたちと人形の雲も居て、そのうち淡いピンクに染まって……。亡くなった母がつくってくれた椿餅《つばきもち》と同じ色だったわ……。此《こ》の頃お店で売っている椿餅は濃い桃色でビニールの葉っぱなのね、母は本物の葉に包んでくれたのよ……」  私は雲の一周忌の頃を思い出した。雲が死んだ日は鴉が喧《やかま》しかったが、その日は一羽も来ていないらしかった。夕方屋上に上ると、淡いグレーの上に薄いピンクが重なり、森の中にある建物の屋根のように見え、それが空の雲だとは信じられないほどだった。クレーの絵に雰囲気が似ていた。あんな家の中で雲と静かに暮らしたいと思った。 「わたしが空に浮かんでいる雲が好きだって書いたら、あんなとりとめがないものは嫌いだってけなした人がいたのよ。意地悪そうなの、その人」  Gが呟く。 「雲さん、鼻先にしみがあるでしょう……短命な人相なのよ、くれぐれも気をつけてあげて」  とGが言い、志野は、えっ、猫にも人相があるのですか、というような表情をしたが、慌ててなんでもないような顔をした。私は雲が死んだことを言いそびれてしまった。 「雲さんは人気運があるわよ。横から見た鼻の頭がまるいでしょう……。先端までぴんとした耳は意志の強さ、気位の高さの象徴で、黄色い目は、飼い主を助けるけど、生傷が絶えないみたい。グレーの毛があると、感情の起伏が激しい怒りん坊、面長だから他《ほか》の猫とあまりうまくいかないみたい、自分勝手なのかな。顎《あご》の毛のボサボサは放浪癖の常習犯で、額の縦皺《たてじわ》は十月ジワと言って十月に災いがふりかかりやすいんですって。でも占は当たらないこともあります、人間の場合免れるには先祖供養と親孝行、っていうけれど」  Gが深々と椅子に坐り、胸を張って、前より大きな声で喋り通したのでびっくりした。雲が短命な人相だと聞き私はすこし気が楽になった。……捨てられた赤ん坊猫だった雲を、まわりに車がびゅうびゅう走るビルの部屋に連れて来た。緑の多い場所で木のぼりをさせてあげたかったのに、地下鉄工事やマンション建築の凄い音が響いてくるさ中に死んでしまった——。晩年の雲は東向きの台所の窓辺に置いた大きな椅子に寝そべり外を見て過ごしていた。死ぬ二日前の夜はベランダの柵《さく》からからだを乗り出し、とめると、玄関に坐り、開けて、というように見上げた。嬉しそうにとび出して行ったので、いつものように屋上で遊ぶのだと思ったが、一時間程経って行ってみると居なかった。電気の消えた暗闇《くらやみ》の階下を見下ろし、あっ星……と胸の中で叫び不思議な気持で佇《たたず》んだ。金色の光がすーと消え、雲が階段を昇って来た。あのとき死に場所を探しにゆき見付けられず戻ってきたのだと思う。入院することになった雲を残し帰ろうとすると、鎮静剤を打たれ診察台に横たわったまま首だけまわしてまるいあどけない目で私を見詰めた。そのとき、すこし前に夢の中で聴いた「低い空で温かく輝く星になる」という不思議な声を思い出し、この目のことだったのかと思った。翌日病院から電話がかかり、麻酔が切れた雲が威嚇《いかく》して寄せつけず診察が出来ないから手伝いに来てほしいと言った。玄関に入るや、ウォーウォーという声が聞こえた。奥の病室にゆき、「あたしよ」と言うと、ゴロゴロと力なく咽喉《のど》を鳴らした。一時間も経たないうちに雲は死んで横たわっていた。かっと目を見開き苦しそうに口を歪《ゆが》め、目をつぶらそうとしても閉じなかった。死んだ雲と私だけになったので、そっと頬を噛《か》んだ。すると、いつの間にか雲は目を閉じ、口からも苦しそうな感じは消えてあどけない表情に戻っていた……。咽喉を鳴らす低い音が聴こえてきそうな気さえした。波の音を思い出すあの響を聴くと私は不思議なほど静かな気持になった。……どんなことをしてでも名医を探していたら不当に苦しんだり、或は死んだりしなかったのにという自責の念にかられ、いまだに「ごめんなさい」と独り言をよく言う。猫が死ぬ時期必ず私は病気になり徹底した看病が出来なくなる。頼りない私には猫を飼う資格がないのかもしれない。  あっ、と叫んでGが立上った。 「小さな貴婦人がいないわ……」 「小さな貴婦人って誰のことですか」  と志野が訊いた。 「志野さんのお母様の形見の猫の縫いぐるみの愛称、あの棚の隅っこにあったのに」  Gが棚に近づいた隙《すき》に、志野は私に「黙っていらっしゃって」と囁き、Gには自分の旅行中に店員がうっかり売ってしまったが買い手が分らないと話した。 「一目みたときから欲しかったのに、言い出せなかったのよ。ここに来て見るだけで我慢しようと……、楽しみにして来たのに……。探して下さい」 「はい……」 「ダイアナにも小さな貴婦人という愛称をつけたのよ。ダイアナは少年から女神になったの。私、最初は牝だと思って月の女神の名前をつけたら、牡だったのよ。ホラ、昔の西洋の肖像画にあるでしょう、きれいな子供なんだけど、いつも男か女かわからないの。たいてい男の子なのよ……。少年は一生絵の中にいるからどろどろした男にならないの。ああいう絵を観ると、『小さな貴婦人』て呼びかけたくなるのよ。最後までダイアナはあの絵の感じだったわ。きれいな猫だったのよ……かわいいというより、ノーブルなの」  雲にもあてはまる。ビルの部屋で飼うため去勢したので、野性味が失われてオトコオンナみたい、と悪口を言う人がいた。……雲も「小さな貴婦人」と呼んでいいだろう。 「この前ここに来た帰りにブルームーンが買いたくなって……いい蕾《つぼみ》を選びたかったのに、醜い顔にゴテゴテのお化粧をした中年の女店員が、どんどん選んで茎を切り揃《そろ》えちゃって、これじゃ淋しいから雪柳を入れましょう、一本五百円です、なんて言うの。雪柳もきれいだけど薔薇《ばら》より高いなんて——。雪柳は断って、薔薇の花びらが枯れているから変えて下さい、って言ったのに、大丈夫ですよ、こうすりゃいいでしょう、って枯れた花びらを荒々しい手つきで毟《むし》り取って束ねちゃった……」  Gの歯がカチカチ音を立てている。思わずGを見ると、ぼさぼさのグレーの髪、緑を含んだグレーの皺くちゃなワンピース、頬や手には草色のクレパスみたいなものが付いている。私は慌てて目をそらせた。 「前に買ったお店では、感じのいい青年が雪柳はサービスにくれたのに」  サービスに添えたのは安いかすみ草だったと思うが、言わないほうがよさそうだ。 「その女の店員は精神がみすぼらしいから、可哀相なんですよ」  と志野がきっぱりと言う。Gは気を取りなおしたらしい。やや暗い頭の私は、志野ほどわきまえていて聡明になれたら、もっと冴《さ》えたものが書けるのにと思う。 「ブルームーン嫌いになっちゃった。でもそのときの薔薇ほとんど開かないで蕾のまま枯れちゃったのよ。あんまり悪口言ったので恐《こわ》かったのかしら……。世の中にはそっくりな人が三人いるっていうから、猫もそうかしら」  とGが言う。雲の妹の人相について訊いてみたくなった。 「短かい顔で下ぶくれの猫はどうなんでしょう」 「いつも居眠りばかりしていて、一生独身みたい。きっと横から見た鼻の頭が直角でしょう、ひねくれ者なのよ。他《ほか》に御質問は……」 「目は緑で、最近|迄《まで》目の隅に膜が出ていました」 「緑の目は、自分で運勢を切り開くタイプよ。目の膜は神経障害」 「つい最近迄高い所には上りませんでした」 「この雑誌あげるわ、猫の手相のことも出ているわよ」  話し終って急にGは落ち着かなくなってしまった。 「Gはいい年をして夢を見ているような目で、可愛い声で気味が悪いとか、男を見ると喜ぶとか陰口を言った男がいたのよ。その人、弱い者いじめするのよ、権威に弱いの。土足で上ってくるタイプなの、苦手で嫌いなのはお互い様よ。わたしが嫌ったら、Gは呆《ぼ》けたって言って歩いているのよ」  私もGと似たような目に遇った。世話になった人の悪口を言ったとデマをとばされた。おもいやりのある人で悪く思ったことはなかった。「考えもしないことです」と、デマをとばした人の前で叫んだものの、他にも人が居たので恥をかかせてはと思ったとたん、「このごろ忘れっぽくて」と言ってしまった。その瞬間感情のバランスが崩れ、異常なほどニコニコしている自分に気付きながらどうすることも出来なかった——。そのときのことが甦《よみがえ》ってくると、悔しかったり不安になったりして、なにか食べれば落ち着くから食欲はないのに食べ続け一時は四キロも太ったが、胃腸障害を起こし元に戻った。 「わたしのこと、馬鹿な役が得意な喜劇役者に似ていると言ったり、本当に詩を書いているのか、って疑った人もいたのよ。でも昔、わたしとダイアナのうつむいた顔が似ていると言ってくれた人がいたわ。女性なんだけど、特別にいい方で、わたしのファンだったから……。ダイアナが死んだとお知らせしたら薔薇を持って来て下さったのよ。わたしの好きな何人かの人たちにもお知らせしたのよ。そうしたら思いがけなく皆さんから届いて部屋中花でいっぱい……白い花ばかりでなくて、スイトピーとか酸漿《ほおずき》の鉢も。四十九日には可愛い絵皿をお返ししたのよ」  Gが帰った後で、「Gさん、御病気になるんじゃないかしら」と志野が呟く。私は、 「猫の縫いぐるみ、このお店に飾っておいたほうが……」 「貴女《あなた》がお持ちになっていらっしゃるほうがいいと思います。Gさんは『猫の殺人』を完成なさって、来年くらいに、小さな貴婦人のメルヘンをお書きになれるような気がしますので……」  帰りにGが怒っていたデパートの花売場を覗いてみたところ、ゴテゴテに化粧をした顔立ちの整った女店員が、身なりの良い老婦人に愛想をふりまいている。Gの目には醜く映ったのだろう。そのとき淡い灰色が見えた。小さな植木鉢だった。女店員が近づいて来た。 「おいくらですか」 「それ高いんですよ、四万円です、大理石ですから」  デパートを出て、「インテリア」という映画を観た。女たちは魅力があるのに、|ぬえ《ヽヽ》みたいな男ばかり登場する。  私の外出中に雲の妹は初めて部屋から出て、家主の部屋を覗いたらしい。入口で坐りじっと見ているので声をかけたら、見ないようにして戻って行ったそうだ。 「片目だけ緑に光るのね。まる顔で鼻が低くて、猫としては器量が悪いって主人が言っていたわよ、フフフ」  と家主の息子の嫁が言う。三毛猫なのに配色がうまくいかず不器量に見える。雲は枕を好んだが、妹は座布団などに顔をぐいと押しつけて寝る癖があるせいか潰《つぶ》れたような顔をしている。 「でも頭はいいんです」  思わず味方して、雲が生きていた九年間妹はほったらかしておいたのにと苦笑した。猫は七歳から人間の言葉が全部分るとなにかで読んだが、その頃から妹は食事のとき以外ほとんど姿を見せなかった。  部屋に戻り、Gに貰《もら》った女性週刊誌に出ている猫の手相を見ながら、「ちょっと観せてね」雲の妹の小さな掌には指紋のような細かい線がたくさん入っている。猿には指紋があるそうだ。猿の目をみないで下さいと立札に書いてあったと聞いたが、目が合うと妹は恐そうにする。雲のほうは三日月のように目を細めて笑った。ああ会いたい……。Gが小さな貴婦人と呼んだ縫いぐるみの目方を計ってみると五百グラムしかない。雲は五キロあった。……「竜太」で詩の雑誌を買ったとき志野は、小さな包みをさりげなく添えてくれた。中身は、顔は赤、からだは白い猫のブローチだった。派手な猫だけれど親切そうな顔をしているから、小さな貴婦人の友だちにしよう、と口の中で呟く。扇風機の傍に寝そべって雲の妹がそっと私を見ている。     三  詩の雑誌を開いた。「猫たちは人間に変身するのが好きだ。しかしそのままでは鏡に姿が映らないし猫のままだから短命だ。ほんとうの人間になりかわるためには自分が変身したいと思う相手を殺したとき永遠にその人になりかわれる。猫の王女は決心して、人間には珍しく感じのよい青年に近づいたが、心から愛してしまい、殺せなかった。他の人を殺して、長生き出来る人間にならなければならないので、青年に気に入られるような相手をさがすために旅に出た」。以上は、前回までの梗概《こうがい》である。以前はすこし離れた場所に雲が静かに居て、一緒に読んでいるような感じだった。死ぬ前に雲は青年の姿で私の夢に顕《あらわ》れた。雲の青年は灰色の建物の中へ入って行きかけて、戻って来て「妹をよろしく」と私に言った。青年の隣にずんぐりした娘に変身した雲の妹が佇んでいた。現実ではこんな優しそうで清潔な男性に会ったことがない。           *  猫の王女は、素敵な娘を殺しその人になりかわり、青年と結婚しようと思う。青年はジャニス・ジョプリンが好きだ。しかしジャニスがロスアンジェルスのホテルの室で死んでいたと新聞に出た。彼女の傍には封の切られてない煙草の箱、手の中には、煙草の釣り銭四ドル五十セントがあったそうだ。  ニューヨークにゆけばジャニスみたいな娘に会えるかもしれない……。いま王女は飛行機に乗っている。留守中は、王女そっくりな妹が人間に変身して青年と会うと約束してくれた。青年は目が眩《くら》んでいるため姉妹の見分けがつかない。……ニューヨークは一番|怖《おそろ》しい場所だと聞き、ホテルの室から一歩も出られないのに、壁のペンキが臭うからまいってしまった。ロスアンジェルスに移り、城に電話をかけると母が出て、妹は猫の恋人が出来て人間に変身しないので、青年が訪ねてくるたびに言い訳に困って、旅に出ているけれどすぐ戻ると言ったから手紙を出すようにと言った。王女は、貝殻の蓋にいろんな種類のドライフラワーの花びらが詰まっていて花びら自体が匂う花の香水に、「愛しています」と書いた手紙を添えて郵送した。 『猫の殺人』を読んだ後私はおとなしい縫いぐるみ・小さな貴婦人の薄い青と淡い紫の光が微妙に交錯した目を見ている。雲が生きていた頃に見た夢を思い出した……近所の子供が石を投げるから雨戸を閉めた。部屋の真ん中に仰向けに寝た雲の優しい目が、薄い青と淡い紫に静かに輝いている。辺りが静かになったので雨戸を開けると、雨あがりの浄《きよ》い匂いがしてうっすらと青い光の差す庭に喪服姿の女が顕れた。  ある日小さな貴婦人の片目がぽろりと取れて、奥にもう一つ暗い緑のガラスの目が現れた。元通りにしなければ……。雲の写真を見ながらセメダインで貼《は》り付けることにした。すこし位置がずれても感じが変ってしまう。自分が怒ったような真剣な表情をしているのが分る。後で鏡を覗《のぞ》いたところ私の片目は真紅の花びらが貼りついたように充血していた。「治りますが、あまりよい状態ではないですよ」と医者が言った。その夜、夢の中で近所の子供が、十五年棲んだビルを揺らしている。まだ中に雲が居るからやめて下さい。横たわった雲の体温がひどく低い——。  目が覚めて、のめりこまないようにしようと思い、小さな貴婦人を後ろ向きにした。でも長い尻尾《しつぽ》の感じまで雲に似ている。 「竜太」を覗くと、相変らず志野は本を読んでいる。 「あの縫いぐるみを父が買ってきたとき母は目が恐いって嫌っていました。それが奥に付いている緑の目で、薄い青と淡い紫が混ざったような目のほうは、私が子供の頃父に買ってもらった苺《いちご》のブローチなんですよ。苺なのに不思議な色でしょう、ちょうど同じ大きさの粒が二つ、濃い緑の帯に付いていたんです。大切にしていたのに、母がどうしても欲しいって言って物凄い声で泣くので渡しましたら、ブローチをばらばらにして、『竜太さんこっち見て』ってニコニコして縫いぐるみの緑の目の上に苺の実をセメダインで貼ったんです。母はこの目のことを、海と呼んでいました。海がこういう色になるときがありますね。母は、竜太さんは灰色の空から落ちて来た一片の雪だと言うんです……。よく夜中にぎゃと叫んで目を覚まして、竜太さんが闇の中に消えちゃうと、幼い子供のように泣き続けました。でもブローチの目を付けてからは恐怖感が消えたらしいんです、縫いぐるみと竜太さんの見分けがつかないみたいでした。……縫いぐるみには鼻先が付いてなかったので私が付けました」     四  一ヵ月経ち、詩の雑誌の発売日に私は「竜太」の入口で、両手に鉢植を持ったGにばったり会った。鉢植のアロエには「苔《こけ》ミド」、ベゴニアには「赤兵衛」という渾名をつけて育てるそうだ。マドリッドで買った縫いぐるみのライオンには「マドリ」、入院して点滴をしていた時期に知人が届けてくれた鰐《わに》には「てんてき」とつけたそうだ。 「昼間はベッドに縫いぐるみたちを並べて、夜は部屋のあちこちに置いて見張ってもらうのよ。小さな貴婦人を縫いぐるみたちの真ん中に置きたいわ。小さな貴婦人は手を内側に曲げてゆったり坐っているでしょう、猫がああいう恰好《かつこう》をするときは安心しているからなのよ。ほんとうに誰が持っているのかしら」  私は店から出てしまいたい気持だった。縫いぐるみを譲ることは出来そうもない……。 「家から二十分くらい歩いたところに感じのいい魚屋さんがあって、粋《いき》な料理屋が並んだ場所を通ると近道なのよ、買った魚を持って歩いていたら、ニャーニャー言って塀づたいに追いかけて来た猫、横に広い茶色い顔なんだけど、ちょうど鼻筋のところだけ細長く真っ白なのでお祭に見る少女のお化粧みたい、フフ。ダイアナが死んでから魚屋さんに行かなくなってもう三十五年も経ったんだわ……。さっきここにくる途中で、犬が糞《ふん》をしたくなってしゃがんだとき、さっとお尻の下に新聞を敷いた女の飼い主がいたわよ、フフ。この間お墓参りに行ったとき、急行で坐って行こうと思って十五分前に行って先頭に並んでいたんだけど、そこは乗車口でなかったので坐れなかったのよ」  とGは楽しそうに話す。そこへ客が入って来た。志野はそちらへ行き、Gは私に向かって、 「志野さんには霊感があって、競馬の騎手が墜《お》ちるのを当てたのよ。貴女のこと、親から離れて仕事をしたほうが才能が発揮出来る相で、そのほうが小説を書くのがずっと楽になると言ったわよ。志野さんは人によっては全然霊感が起こらないんですって。あんまり不純だったり不潔な人とは波長が合わないでしょう、馬鹿男、異常男、蓮《はす》っ葉《ぱ》女も駄目だと思うわ」  志野は「竜太」を開く迄、郵便局に勤めていたが、上司が使いこみをしているような気がした。上司が近づいてくると、心臓が圧迫されるし、冷や汗が出るので精神衛生にもよくなかった。あっさりした服装が好きで宝石は欲しいと思わないし、楽しみはおいしい物をすこし食べるくらいなのでお金がたまっていた。それを元手にし「竜太」を始めようと決心したとき、上司の使いこみが発覚した。精神衛生によくない原因が取り除かれたので、定年迄勤めようかと迷ったが、勤めをやめてから陰鬱でなくなったのでこれでよかったと思ったそうだ。最初はあまり好きになれない人形なども売ってみた。それに客が集まり支店を出せるようになって、一軒は自分の好きな物だけ置くことにした。「ときどき霊感が起きる時期があって……最初は道を歩いていたとき、今迄見えなかったのに急に何人もの人に囲まれて、ぶつかってしまいそうでうずくまりました。好きな人が出来ても将来うまくいかないと分ってしまって駄目になるんです。十代のとき人を好きになって途中から霊感が起きたんです。その人が欲しがっている物がみんな分るので、好きだったのでかなえてあげたいと思いました。いろんな物を上げました。金縁のサングラスを贈ったとき、その人が蒼蠅《あおばえ》みたいに見えて、唇の間から羽音が聴こえそうだったので、それきり会いませんでした。しばらく霊感は感じられませんでしたけれど、今度猫が来てから霊感が戻ってきたんです。家出をした後もまだ消えていません」。志野は結婚したら母親のように狂うと信じているので、後に残す人もいないから、まとまったお金が出来ると仕入れを兼ね外国旅行をするのが楽しみだそうだ。「死ぬときは知らない土地で知らない人の中で死ねたらと思います」と言った。 「父は、わたしが小さい頃に死んでしまったけどスイス人なのよ。こまやかで優しかったっていつも母は言っていたわ。わたしは日本人の祖母似だけど、スイスでは誰にもいじめられなかったのに、日本に呼び寄せられて、最初に見下げたのは日本人の男の教師だったのよ。『混血はきれいな筈なのに、例外もあるんだね』とにやにやして近づいて来て、わたしが黙っていたら、『なんか言ったらどうなのか』と突然頬を叩いたのよ。先生が近づいてくるとポマードと出涸《でが》らしの紅茶が混ざったみたいな臭いがして、だんだん息苦しくなるのよ。それからはクラスで仲間外れにされるし、陰で先生に青ぶくれって渾名をつけたいじめっ子くらいは味方になってくれるかと思ったのに、獲物《えもの》にされてみじめだったわ。先生が男にしか見えなくなっちゃったから二度と先生って呼ばなかったわ。一年中通信簿に『愚鈍』と書かれて、『Gは繊細で鋭敏なのに』って母は不思議そうにしていたわ。とうとう家族会議が開かれて学校に行かなくていいことになったのよ」  Gの話を聞きながら久しぶりに私は昔のことを思い浮かべた。「社会性に乏しく、友だちさえつくる能力が無い」と中学の教師に言われ、誰とでも明るく接しようと思ったが、陰気な声を出したほうが顔に合うと同級生に嗤《わら》われた。狭い家の中に母の店の従業員も住み込んでいて勉強に集中出来にくい環境だったが学校よりはましだった。朝礼に遅刻したとき、器用な生徒が作った家庭科の宿題の人形がなくなり、皆が講堂に行っている間教室に残っていたのではないかと教師が疑った。ある日家に白猫が入って来た。どこの猫かしら、気がつかないふりをしていたらいつまでも居てくれるだろうか。猫はゆったりと歩きまわり、すーと出て行った。不思議なほど静かな気持を取り戻している自分に気付いた。 「お医者さんから歩いて足を鍛えなさいって言われたのよ。外に出るとここに来ちゃう、昨日も来たのよ。ここは他と比べたら極楽よ、志野さんは白い蓮の花のように美しいし。貴女、わたしより十歳くらい年下かな」  とGに訊《き》かれ、思わず顔がこわばってしまった。心労が重なりふけてしまったが、Gは確か七十過ぎ、私は四十になったばかりだ。あっ、しまった、という声にならない叫びがGから聴こえ、心からすまなさそうに縮こまっている。演技ではないし、厚かましく鈍感で無神経、意地悪女でないと分るから、その場の空気をなごませたいのに気の利いた言葉が見付からない。客と話している志野の方を、私とGは二人とも消耗してちらちらと見ている。だいぶ経ち「私は猫並に一年に何歳も年を取るのです、だから人の一日は何日にもなるんです」と冗談を言おうと思ったときには話題が変っていた。……ダイアナといつかめぐり逢《あ》えるときがくるのを思い、詩をつくっては、「エーデルワイス」の節で、猫のお骨と写真に向かって、すこし音程の外れた美しい声で歌っているそうだ。Gの気持がよく分る。ダイアナの生まれかわりのようにそっくりな雲をめぐって私はGと同一人物みたいに重なる部分があるらしい。 「ダイアナの写真を飾っているので、写真なんか撮るから死ぬんだと言った男がいたのよ。猫は人間が考えられないほどカメラに神経を使うのよ。でも男のくせにそんなこと言うなんて、フン」  私の作品が評判になった時期、新聞社等が写真を撮りに来た。私は写真嫌いだが雲と一緒だと心強いから並んで撮ってもらった。「ペットと一緒に写真を写すなんてどこのお嬢さんに思われるじゃない」と知人に厭味《いやみ》を言われた。 「ダイアナが死んだとき、子供を亡くしたみたいですねってにやっとした人がいたけど、そんな言い方好きじゃないわ。せめて恋人に死なれたみたいだと言ってほしいわ。その人、猫好きなんですって、疲れちゃう。猫は猫として好きなのに。猫崇拝はグロテスクだと言われても構わないわ」  突然Gの目が吊《つ》り上ってしまった。 「あの医者め、誤診して……、汚職代議士そっくりな顔だったわ。ダイアナを殺した後で大病になって廃業したんですって。あんまりたくさん殺したから動物霊が憑《つ》いたかな。わたしいまだに病院があった道通らないのよ」  病院で死んだダイアナを、喪服を着て引き取りに行ったと言ったので、びっくりした。医者はびっくりした顔をして料金を割り引いたそうだ。 「小さな貴婦人を枕許《まくらもと》に置きたいわ。すると寝息が聴こえるかな。目を見ていると気持が明るくなると思うのよ。小さな貴婦人、ダイアナ、それにもう一つ渾名《あだな》をつけたいけど、あの子利口そうだから自分で考えるでしょう」  詩の雑誌を買って部屋に戻った。小さな貴婦人のお腹《なか》に付いている、イギリス製、洗濯出来ます、と印刷された小さな布に、におい袋を縫いつけた。におい袋は魔除《まよ》け、虫除けにもなると記してある。手許にセロファンがないから透明なビニール袋に小さな貴婦人を入れた。埃《ほこり》が溜《た》まると厭だ。人形の類《たぐい》が嫌いな理由の一つは汚れるからだと思う。穢《きたな》いものを見ると疲れる。           *  王女は、ハリウッドのポスター屋に勤めて、素敵な娘を探すことにした。女優では華かすぎるし、女優志望の女たちにも会ったけれど不潔な感じがして、優しく清潔な青年にふさわしくなかった。或る日、東洋人の観光客らしい娘が二人、ジミー・ヘンドリックスとジャニス・ジョプリンのポスターを探しに来た。ジミーもジャニスも死んだので、もうストックがなく、天井に長いこと貼ってある埃の付いたものを剥《は》がして渡した。一人は色が浅黒く細っそりして目が輝いていて美しい。この娘になりかわって青年と結婚しよう……、と王女は胸の中で呟《つぶや》く。ところがいつの間にか娘たちは店内からいなくなっていた。慌てて追いかけたがどこにも居ない。この辺りはバス停がないし、タクシーもなかなかとまらないのに、こんなに早く姿を消すなんて、もしかすると猫だったのか——。後日ヒッチハイクした娘が殺され全裸で草叢《くさむら》に棄《す》てられた事件があったが、あの娘らではなかった。  美しい娘を探すために香港《ホンコン》に来て、観光バスに乗った。西洋人もいるが日本人が多い。見晴らしの良い丘で記念撮影をすることになりバスから降りると、疲れ切って真っ黒くなった老人や子供が、皿を持って近寄って来てお金をねだる。神を祭った丘の頂上に豚の丸焼きが供えてある。 「息子に処女の嫁が来たので、丸焼き豚を持ってお礼に来ます。処女でなかったら、豚は|もて《ヽヽ》来ません」  と、中国人の洒落者《しやれもの》青年ガイドが日本語で説明する。記念撮影に加わったが、王女だけ写っていなかった。  観光バスで最後に案内された「蛇の専門店」のショーウインドーに飾ってある蛇の骸骨《がいこつ》は一日中眺めていたいくらいきれいだ。その日のうちに王女はここの店員になった。  見学に来た観光客を一室に並べ、マスターが壜詰《びんづ》めの毒蛇を見せ、 「蛇は一年に一度しかセックスしません。でも八十時間やりっぱなし」  観客がわく。マスターは大きなピンセットで壜の中から酒に漬けた蛇の性器を摘《つま》んで、 「このお酒を飲めば、蛇ほどじゃなくても精が付くよ。今から皆さんに御馳走するよ」  とニタっと嗤う。そのとき、コバルトブルーのチャイナ服を着た女店員が数人入って来て、小さな器に入れた酒を配る。その中に王女もいる。少量の酒で客がいい気分になった頃合を見計らって今度は数種の漢方薬を売り歩く。  休憩時間にマスターが喋《しやべ》り出す。「猫の丸揚げを食ったことあるよ。猫を閉じこめておいて、戸を開けると、逃げてゆく。ところがちょうど油が煮えたぎった鍋《なべ》の中へ飛び下りるように仕掛けておくのだ。凄《すご》い顔をして皿の上に載ってたよ」。王女は「ギャ」と叫んでしまった——。ここに来て十日も経たないうちに王女は疲れ切ってしまい、不気味な夢ばかり見るようになった。一度墓参りに帰国しようと思う。  かっと目を見開き苦しそうに口を歪《ゆが》めた雲の死に顔が、皿の上の猫の表情と重なり、私は「ギャ」と叫んでしまった——。     五 「竜太」に志野とGと私が集まった。今回の『猫の殺人』に出てきた二人の娘は、以前雑誌のグラビアに出た雲と妹の写真を眺めているうちに書けたとGは言った。雲が牡《おす》だと言いそびれてしまった。Gは突然訪ねて来た知人に、「太ったし、日に焼けて元気そうじゃないですか」と言われたそうだ。「顔がむくんでいるのに。下を向いて陰気にしているのは嫌いだから一所懸命明るくしているのよ。白塗りの厚化粧をしたら、病気かと思って気持悪がって訪ねてこなくなるかな。このごろ洗っても洗っても俎板《まないた》や庖丁《ほうちよう》に黴菌《ばいきん》が見えるような厭な感じで、好きな野菜を切るのも面倒なのよ。食欲が無いけど、近所のお蕎麦《そば》屋に何回目かに入ったとき、わたしの隣の卓に注文を訊きに来たのに、無視して行っちゃったの、運び係はその女だけで、あとから入ったお客が食べ終ってもこないのよ。お客は四人だけだから見えない筈《はず》ないでしょう、意地悪したのね。みんなじろじろ見るし、出ちゃおうかと思ったけど、思い切って『お願いします』って言ったら、調理の人が顔を出して店員に注意したのよ。しぶしぶやって来て、『またきつねですか』って突慳貪《つつけんどん》なのよ。好きなんだからいいじゃない。もう行かないわ。……小さな貴婦人が出てこなかったら夢も希望もないから、母とダイアナのお骨を持ってスイスの養老院に入ろうかな」 「この前観た映画、外国の養老院の話でした。痩《や》せた女が、象のような足のお金持の老人を支えて、水が膝小僧《ひざこぞう》迄しか無いプールの中を歩いているんです。それが唯一の運動の時間なんですって」  と志野が言い、Gは考えこんでいる。           *  久しぶりに城に戻った王女のためにパーティが開かれた。両親はすっかり年を取り歯が無くなり、柔らかい白身の魚や豆腐料理を歯茎で食べて、揺り椅子の上でうとうとしている。妹の夫は猫にしては珍しく目が細い。弟たちの子供はまだ全部赤ん坊だ。 「この子たちは素直な猫らしい猫に育てたいので、三歳児迄が大切だから、この子たちの前では猫らしくして下さい」  と弟たちが言う。 「よろしくね」  と妻たちが言う。 「お姉様の部屋はそのまま空けてありますから、早く本物の人間になって戻って来て下さい」  と弟が言う。 「そして僕たちが死んで森のお墓に入った後、子孫をお願いします」  もう一人の弟が言う。王女は頷《うなず》いたが、すでに諦《あきら》めかけている。父の著書の猫の殺人のことを書いた箇所に「殺す相手は必ず深く愛さなければならない」とあるので、娘になりかわるためには女同士愛し合わなければいけないし、たとえなりかわれても、青年はその女性を気に入るだろうか。青年を愛しているから牡猫とは結婚出来ない。妹や弟たちが家庭を持った今となってはまた旅に出るほうがよいのだと思う。  翌朝、王女は以前青年と二人で歩いた黄色いマーガレットが咲き乱れた庭を独りで歩いてゆく。もう会えないかもしれないわね、どうぞお幸せに……、と胸の中で呟く。 「お姉様、お早うございます」  森の木の上に妹一家が居て、手招きしている。王女は木を上ってゆく。でもあまり長いあいだ人間になっていたので思わず足を滑らせ川へ落ちてしまった。「あっ、猫が流されてゆく」と言って飛び込んで来た青年に王女はしがみつく。王女を忘れられずに思い出の庭に戻って来ていた青年は、森に迷いこんだのだった。早い川の流れの中で二人で死ねたら本望だわ……。手が離れ、気がつくと王女は岸に寝かされている。弟や妹の覗きこんだ顔があって、 「お姉様だけ助けましたが、あの青年は間に合わなくて……」  と妹が言う。泣きながら自分の部屋に駆け込んだ王女は鏡の前に立ち、自分が青年に変身したことを知った。  最終回を読み終って、まるで雲を見たときのような優しい目で小さな貴婦人を見ると、雲の妹が並んで坐っていて、私と目が合うと緊張して堅い表情をした。     六  雲が部屋の中に戻って来た夢を見た。淡いチャコールグレーが美しかった。……久しぶりに小説を書いていた。『窓辺の雲』という題にするつもりだ。「窓辺の椅子に坐っていると、猫のかたちの白い雲がゆっくりと近づいてきた」という箇所がある。  一ヵ月半ぶりに「竜太」に出掛け、Gが寝就いていると聞いた。Gは苛々《いらいら》して歩きまわり駅の階段でころんで捻挫《ねんざ》した。育てていたベゴニアとアロエに水をあげすぎて根が腐ってしまったことも苛々した原因らしい。その後でヘルペスが顔に出たのだそうだ。顔に出来ると失明することもあると聞いたが、Gの場合比較的軽かったらしい。私のときは胸、腋《わき》の下、背中にかけて帯状にグロテスクな桃色で大粒の水脹《みずぶく》れが五十粒以上並び、痛かった。近所の病院で、こんなになる迄が苦しかった筈なのに無医村みたいだと言われた。ヘルペスが出る一年程前から背中が痛くて暇なときは寝ていた。デパートの毛糸売場に勤めていた頃、激痛が走り躯《からだ》が硬直して動けなくなって一日休んだところ、「大袈裟《おおげさ》だ、甘えている」と言われた。一年で跡が消えると医者は言ったのに、三年経っても胸の部分はケロイドみたいになっている。ヘルペスは湿地帯で感染すると聞いたが、前に棲《す》んでいたビルは頑丈そうなのは外観だけで、風と埃は入ってくるし、雨漏りがひどく、壁に貼った麻布がぷよんぷよんになって垂れ下がってしまった。滅多に雨が降らないスイスで育ったGはどんな立派な家に棲んでいても日本に居るかぎり不平を言いたくなるだろう。 「お医者さんはもう起きていいって言ったらしいんですが、『猫の殺人』にエネルギーを使い果たしたから当分は起きられないとくたっとしていらっしゃいます。お見舞いに伺ったら、汚れているから靴のまま上ってよかったのにっておっしゃるのよ。もう十一月なのに畳の上に紋白蝶がじっとしていて、まだ生きていたので庭の茂みに置いてあげました。集金に来た若い人が持っていて、『お婆さんにあげるよ、殺さないであげて』と笑ったんですって。わたし馬鹿に見えるのね、とGさん淡々としていらっしゃるのよ。この前|迄《まで》はGさんをお婆さんと言った人に、お婆さんとか小母ちゃん等と馴々《なれなれ》しいのは日本人の悪い癖だと懇々と意見なさったらしいんです。ダイアナが毎日のように夢に出てくるようになって、『猫の殺人』が書けたけど、ダイアナと一緒にお菓子屋に行った夢が最後で、もう何日も見ていらっしゃらないのですって。剥製《はくせい》にしておくんだったなんておっしゃって……」  更に二ヵ月程経ち、歯医者の待合室で見た週刊誌のさがし物欄に、Gが小さな貴婦人の行方を探していると書いている。「でも私が死んだ後は、持ち主にお返しします。それまでに汚してはいけないから手製のショールにくるくるにくるんでおきますから、持っていらっしゃる方はどうかお知らせ下さい」  珍しくGがラジオに出ると志野に聞き、電池を入れ替えた。Gのか細い声が聴こえてきた。まるで読んでいるような話し方だ。 〈舅《しゆうと》と姑《しゆうとめ》の食事の仕度をした後、庭で洗濯をしていると、箸《はし》で茶碗《ちやわん》を叩いています。 「G、御飯にしておくれ」「召し上ったばかりでしょう」「食べていないよ」。惚《ぼ》けているのです〉  あれ、Gは凄い年なのに舅がいるのだろうか……、と私は思う。そのとき「四十年も前のことです」とGが言ったので、あっ、昔話かと分った。 〈市場にゆく途中、突然目の前で木洩《こも》れ陽がさーと揺れ出します。一瞬わたしは別の世界に入ったような不思議を感じました。人が傍《そば》を通って行くようだけれど姿かたちははっきりと目に映りません。いつもは前から歩いてくる人、後ろからくる人、立止まっている人等、すぐ気に障ります。木洩れ陽を動かした風はシャガールの描くような足の長い青年で、木洩れ陽を見ていたのは幼い自分だった、と空想してみます。あの頃は幸福でした。……新婚旅行にはきれいな湖に行こうと夫は言ったのに約束を破りました。嫁ぐとき二度と実家の敷居を跨《また》がない覚悟でと祖父母に言われたので帰れないから、夫が死ねばいいと思い続けました。ところが死ぬのは実家の人ばかり。木洩れ陽を見たあと離婚しようと決心しました。みんな死んでしまった実家に戻って間もなくダイアナとめぐりあったのです。ダイアナがいなかったらどんな月日だったでしょう……〉  私はそこまでGの話を聴きますます面白くなりそうだと思ったのにうとうとしてしまい、目が覚めたとき、Gの話は幼い頃のことに変わっている。急にGの声が明るくなった。 〈スイスのわたしの家には人形の家がありました。小さい頃に亡くなった父がつくってくれたんです。愉快な道化師一家の家なんですけど、応接間には緑を含んだグレーのきれいな服を着たわたしの肖像画が飾ってありました……。台所にはフライパンや帚《ほうき》やはたきも吊《つる》してあるんです。わたしが見ていない間に人形たちは御馳走を食べたり掃除をするんだと子供のときは考えました。でも魔法の力が働いていて、帚は減らないんだって母は言いました〉 「きっとGさん、小さな貴婦人のメルヘンをお書きになるわ」  と私は呟く。Gにとって小さな貴婦人は幼い頃のGに重なるのだろう、とふと思う。久しぶりに鏡を覗くと、雲が死んだ後こめかみに出来た茶色いしみが、いつの間にか薄れていた。 [#改ページ]  あとがき  新潮社から二冊目の作品集が出版されることになった。『男嫌い』以来六年もかかってしまった。  一九七四年の一年間「波」に「男嫌い」を連載中、「今度は書き下ろしを。『猫の殺人』という題でどうでしょう」と言われた。……そのあと新聞に、�猫の殺人�の記事が二度載った。夫婦でドライブをしていたらオートバイが、とび出して来た猫を跳ねた。それを見ていた妻は、そのショックで息を引き取った——友だちと一緒に登校途中の女子学生が、生きた子ネコが流されているのを見付け、救い上げようと川に入ったところ、深みに嵌《はま》り溺《おぼ》れて流された……。この二つの記事をきっかけに書けそうだと思ったとき、私は九年間親友だった飼猫を亡くした。その後重症のヘルペスにかかる等して、なかなかはかどらなかった。結局「猫の殺人」は五十枚程度になり、雑誌「新潮」に掲載された。  本のタイトルにした作品「小さな貴婦人」は何回も書き直した。二年近くかかって書き上げた後、急に調子が出てきて、スローペースの私としては珍しく三ヵ月余りで「窓辺の雲」を書いた。  この作品集をつくるにあたり、「新潮」編集部の小島喜久江さん、出版部の伊藤貴和子さんはじめ多くの方のお世話になった。心から感謝したいと思う。 [#地付き]著  者     昭和五十六年夏 この作品は昭和五十六年七月新潮社より刊行され、 昭和六十一年三月新潮文庫版が刊行された