TITLE : 技巧的生活 技巧的生活   吉行淳之介    技巧的生活    一  暗くなってから、にわかに気温が昇ったためか、霧が立った。都会には珍しい濃霧で、黄色いフォグ・ライトを点した自動車が、街路をのろのろと走っていた。  少女は、青年と指先を絡み合せたまま、歩道を歩いていた。日暮どきから、二人は街を歩きまわっていた。歩いているあいだに、霧が立籠めたのだ。  歩きまわっているだけで、少女は愉しかった。まだ霧の立たない時刻に、一度だけ、青年は旅館の軒灯の前で立止ったが、少女が怪訝な顔で青年の顔を仰ぎ見たので、彼はすぐに歩き出した。  広い十字路で、二人は立止った。信号灯の赤が、にじんで朧ろに見える。眼の前の道路が水の拡がりのように見えた。 「川岸に立っているようだわ」 「渡し舟が要るね」 「あたし、渡れない」  少女は後退《しりご》みし、うしろに向き直った。歩道の傍に軒を並べている商店の灯が、黄色く連なっている。店構えは、朧ろげに見分けられた。果物屋の店先に並んでいる林檎の赤が、眼に映ってきた。そのとき、男が言った。 「咽喉が乾いた」 「林檎を齧りましょう」 「え」 「ここでまっていて」  少女は果物屋に歩み寄った。近付くにつれて、林檎の赤が光沢を帯びて眼に映ってきた。しかし、少女は緑色の林檎を探した。霧の中では、緑色の林檎を齧りたい、とおもったのだ。一つだけ買い、剥《む》き出しのままの林檎を掴んだ片腕を深く曲げた。胸の前で、緑色の果実を捧げ持つ恰好になって、振返った。明るい店先から、暗い街路に向き直ったためか、霧は厚ぼったい幕のように見え、男の姿は無かった。  一時間ほど前に男が立止ったのは、旅館の前だったことを、少女はにわかに鮮明に思い浮べた。置き去りにして、男は一人でどこかへ行ってしまった、と少女はおもった。 「洋一さん——」  絶叫して、霧の中に走り込んだ。 「葉子さん——」  声が聞え、青年の胸が、眼の前にあった。烈しくその胸に突当り、弾き返される少女の躯《からだ》を、青年は両腕で支えた。  少女の躯は、青年の両腕の輪の中に入り、唇が合った。少女にとって、生れてはじめての接吻だった。五本の指でしっかり掴んで、胸の前で支えている緑色の林檎が、二人の胸のあいだで堅くぐりぐり動いた。  ふたたび、二人は歩き出し、街の裏側の方へしぜんに足が向いた。  標識に似た白い板が、少女の眼の前で、斜めに傾いて立っていた。突然のように、その白い板は少女の前にあらわれ、その上に記された文字がはっきり眼に映った。  立入禁止。  低い柵があり、その向うに平坦なひろがりがあった。芝が植えられているようだ。巨きな樹木の黒い影が、空に向ってそそり立っていた。 「入ろうか」  青年が誘った。少女は頷いて、低い柵を跨《また》いだ。  少女は、平坦なひろがりの中の一つの点になった。それが、少女を頼りない気持にさせ、樹木の黒い影に向って歩いてみたが、その影は同じ大きさで、すこしも近付いてこない。少女は立止った。 「疲れたわ」  そのまま、芝生の上にうずくまった。青年も並んで腰をおろし、その肩が少女の躯を押した。少女は首をまわし、そこに青年のいるのを知った。頼りない気持が起り、地面にうずくまるまでの短かい時間、青年の存在が頭の中から消え去っていたことに、少女は気付いた。怪訝な気持になり、少女はたしかめるように、傍の躯に躯を凭《もた》せかけた。  電車の走ってゆく音が、遠くの方でひとしきり鳴り、やがて物音が聞えなくなった。しかし、静寂というのとは違う。半透明な静かさだ。霧が、単調なかすかな音を立てつづけているようにもおもえる。 「なにか聞えるの」 「なにも」  青年の手が、少女の膝頭に触れた。 「雨には音があるわね」 「地面に落ちるとき、音がするさ」 「それだけかしら。霧が流れるときは……」 「なにを考えているんだ」  青年の手が、膝頭の内側に移動しかかった。少女は咄嗟に堅く両脚を合せたが、その振舞を咎《とが》められでもしたように、すぐに脚の力を脱《ぬ》いた。  音が聞えてきた。短かい、しかし長く尾を曳く音が、単調に断続して鳴っている。厚い霧の幕の向うから、小さく聞えてくる。  こおーん、こおーん。  澄んだ、しかしうつろな音である。磨かれた木の板を、木槌で打つような音。いや、すこし違う。銭湯で、浴客たちが木の桶を使っている音に似ている。  少女は腿の内側に青年の掌を感じ、その音に心を委ねた。  音が消え、少女は青年の掌を、鋭く感じ取った。不意に、背後の闇のなかで、女の啜泣きの声が聞えた。その声はしばらくつづき、男の声が混った。 「もう、子供はつくらないことにしようね」  女の背を撫でている男の手が眼に浮ぶような、宥《なだ》める声音である。しかし、命令する口調も混っていた。  女の泣き声が高くなった。少女が躯を堅くしたとき、青年の手に烈しい力が籠った。    二 「葉子、よう子さん、ね」  中年のマダムは、その名を舌の先で味わうように発音し、 「良い名前だけれど、同じよう子というひとがいるから、具合がわるいわ。そうね、あなたは、ゆみ子になさい。字は、好きなように自分で当て嵌《は》めておけばいいわ」 「ゆみ子……」  女は口の中で、呟いてみた。酒場の女にふさわしいありふれた名が、なぜ誰にも使われないで残っていたのだろう。葉子という名で勤めたいとはおもっていなかったが、自分の名を剥ぎ取られた今、新しい名はよそよそしい顔で彼女の前にあった。彼女も、その名にたいして、よそよそしい顔を示した。その名前は、汗と脂と、そして涙にまみれているように見えた。  しかし、その名に馴染まなくてはならぬ。  霧の夜から二年間が過ぎて、葉子は酒場「銀の鞍《くら》」のゆみ子になった。    三  カウンターの隅に、電話機がある。眼鏡をかけた痩せた男が、先刻からながながと電話をかけていた。神経質そうな外貌に似合わず、受話器をもった腕の肘をカウンターの上につき、躯を斜めに倒した姿勢で、大きな声を送話口におくりこんでいる。  註文の品を取りにきたゆみ子の耳に、その男の声が聞えてきた。 「いいか、待っているんだぞ。可愛がってやるからな」  他の店の馴染の女に電話しているものとおもえた。得意気な、磊落《らいらく》を装った、周囲の耳を意識した声である。ゆみ子は、バーテンの木岡の顔に、眼を走らせた。木岡は二十七、八歳か。青白い顔に、唇だけ異様に赤いが、口を堅く結ぶと頬から顎にかけて精悍な線が浮ぶ。その木岡の顔は、まったくの無表情であった。  眼鏡の男は、ようやく電話を切ると、バーテンに大きく片手を挙げ、出口に向って歩き出した。四、五歩あるいたところで立止り、うしろに向くとゆっくりと大股で、木岡の方へ歩み寄った。大きく伸ばした右手の先を、握手を求める形にして、木岡の前に差し出した。遊び馴れた鷹揚さを衒《てら》っているが、衒いそこなって尊大な様子になっていた。そして、その喰い違いが、男にみじめな感じを与えている……、とゆみ子はその情景を眺めた。  もう一度、木岡の顔に、眼を向けた。彼はその男の掌を握っていたが、その手には力を籠めず、相変らずの無表情である。男に向けられた彼の眼は焦点を結ばず、男が手を離した瞬間、木岡の眼は斜めに壁のほうに動き、つめたい嘲る光を放った。  その光を見て、男は裁かれた、とゆみ子はおもった。男の計算違いが招いているみじめさにたいしての同情は、まったく無かった。  それでいいのだ、とゆみ子はむしろ爽快な気持で考えた。  新しい客が店に入ってくる度に、おもわずゆみ子は木岡の眼を窺った。その客についての判断の手がかりを探ろうとする気持なのだが、その眼はいつも無表情であった。顔は笑っても、眼だけは笑わない。無表情というのは、一つのはっきりした表情だということを、ゆみ子はいまさらのように感じた。  翌日の土曜日は、午後から雨になった。  開店の時刻を一時間過ぎても、客は一人も入ってこなかった。平素の半分ほどの人数しかいない女たちは、隅のテーブルに集って、所在なげに雑談をしている。マダムも、まだ姿を見せていない。 「どうせ、今夜は暇だわね」 「ゆみ子さん、どう、すこしは馴れて」 「…………」 「無理だわよ、まだ二日目だもの」 「あんた、この商売はじめてなの」 「ええ」 「だったら、覚えておくといいわ。土曜日って、暇なのよ。気のきいた客は、気のきいた女の子を連れて、週末旅行に出かけてしまうのよ」 「雨も降ってるし、陰気でくさくさするわ」 「そうだ、いいものがあるわ。きのう山《やま》ちゃんが置いていったテープでも聞こうかな」  るみという女が立上って、更衣室から小型のテープレコーダーを持ってきた。山ちゃんと呼ばれたのは、肥って陽気な中年の客である。るみはイヤホーンを耳に容れ、テープを回しはじめた。一瞬、緊張した表情が浮び、人目を意識して口もとだけ笑いで崩した。 「るみ、好きねえ」  そう言ったたえ子に、るみは黙ってもう一つのイヤホーンを渡した。たえ子はすぐに耳に容れたが、 「厭ねえ、こんなに騒ぐものかしら」 「山ちゃんの話では、アパートの隣の部屋のを、苦心して録音した、ということになっているけれど」 「怪しいものだわ。女ひとりだけで吹き込んでいるインチキなテープもあるという話だもの」  たえ子は耳からイヤホーンをはずし、 「はい、よし子さん」  と手渡そうとしたが、よし子は掌をうしろに隠して受取らない。 「どうしたの」 「厭だわ。厭なことを思い出してしまったわ」  よし子は女たちの顔を見まわし、カウンターの中の木岡を振返って、 「知っているのは、木岡さんとあたしだけね」 「そうなんだ。もう二年になるからな。よう子さんは今日休んでいるし。ゆみ子さん、きのうはママがいたから聞かなかったけれど……」  そこで言葉を切って、木岡はよし子と眼を合せた。 「なんでしょうか」 「その名前は、きみが考えたものなの」 「いいえ、ママが付けてくださったの」 「平仮名で、ゆみ子と書くわけだね」 「ええ、自分の好きな字を当て嵌めるように言ってくださったのですけど、仮名のままで……」 「ママは、忘れてしまったのかしら」  よし子が、木岡に言った。ゆみ子は、苛立ちを覚えた。 「なんのことでしょう」 「前に、ゆみ子というひとがいてね、自殺したんだ。二年前のことだが……」 「やはり雨降りで、暇な夜だったわ。ゆみちゃんがテープを聴いて、陽気に騒いでいたの。その夜中に、ガス管をくわえて死んでしまったのよ。木岡さん、あのときのテープ、覚えていて」 「あれは本ものだった。力の入った、いいものだった」  テープに聴き入っているようにみえたるみが、イヤホーンをはずし、 「なぜ、自殺したの」 「男に捨てられた、という話だったけど」  確信のない調子で、よし子が言った。 「そんなことで、いちいち死んでいたら、バーに勤めるような女のひとは一人もいなくなってしまうわ」 「そうね、みんな、なにかがあって、それで勤めるようになるのだものね」 「しかし、あのテープはいいものだった」  木岡が繰返して言い、 「なんというか、力が入っているくせに、やさしい気配なんだな。熱くなって、ゆっくり汗ばんでくる二つの躯が眼にみえるようでね。ああいうのを聴いたあとでは、ふっと死にたくたる気持も分る。ま、魔が差したんだな」  打切るように、木岡は言い、一瞬その眼が真剣な光を帯びた。しかし、すぐに元の皮肉な眼の色に戻った。客にたいするときには、木岡の眼は無表情、女たちの間では皮肉な色である。木岡は、揶揄する口調で、たえ子に言う。 「死ぬなら、ガスに限るよ」 「なぜ」 「小皺がみんな消えて、綺麗な顔になる。そうだったね、よし子さん」 「ええ……」  曖昧に、よし子は答えた。 「陰気な返事だなあ。それで、ゆみ子さん、名前はどうします。今なら、まだ変えられないものではない。ママには、よろしく言っておくよ。それとも、せめて適当な漢字を当て嵌めるか」  二年前、そのゆみ子という女は、男に捨てられ、そして、いのちと躯が光り耀いているようなテープを聴いた夜に、自殺したという。二年前の霧の夜のことを、ゆみ子は思い浮べた。あの頃は、自分のいのちもたしかに光り耀いていた。しかし今は……。 「わたし、このままで構いません」  と、ゆみ子は答えた。    四  夕方、あと一時間も経てば「銀の鞍」のゆみ子になる筈の葉子は、鏡台に向って化粧していた。貧弱なアパートの、四畳半一間の部屋である。  ゆみ子になるためには、もうすこし口紅を濃くしなくてはいけないかしら、と彼女は鏡に顔を近寄せて、下唇を突出してみた。そのとき、入口の戸をノックする音がした。  気ぜわしい叩き方で、そこに一種の親しみがあった。新聞の集金人とかアパートの管理人の叩き方ではない。長い間、このような叩き方で彼女の部屋のドアがノックされたことはなかった。  入口の戸が開き、次の瞬間、軽い身のこなしで若い女が部屋の中に立っていた。「銀の鞍」のよう子である。寒い冬の日で、ミンクのストールがよう子の肩を覆っている。  よう子は立ったまま、部屋の中を見まわすと、かるく眉根を寄せた。 「前のゆみ子さんも、こんな部屋に住んでいたわ」  黄色く陽に焼けた畳に、じかに置いてある新式の電気湯沸器が、かえって部屋の貧しさを際立たせている。 「でも……」 「悪気で言ったのじゃなくってよ。身もちの良いのはよく分るわ。でも、そういうひとは、自分で自分を追い込んでしまうことが、よくあるのよ。それを心配したの。前のゆみ子さんがそうだった」 「…………」 「出掛けましょう。通りがかったので、誘いに寄ったのよ」  アパートの前に、クリーム色の自動車が駐めてあった。よう子がハンドルを握った。彼女は、派手な運転をした。追い抜かれたタクシーの若い運転手が腹を立てて、抜き返した。左へわざと切り込んでよう子の車の前に出ると、軽くブレーキを踏んで威嚇した。前の車の後部が眼の前に迫り、あわててブレーキを踏んだよう子の赤い唇から、 「畜生っ」  という言葉が出た。 「ねえ、前のゆみ子さんの話をして」  ゆみ子は、よう子の気持を逸らそうと試みたのだ。 「前のゆみ子、馬鹿な女よ。男に捨てられて、そのことばかり考えて……」 「純情だったのね」 「純情……。純情って、どんなことかよく分んないけど」  よう子は、前を向いたまま、唇を歪めた。 「とにかく、計算はしていたのよ。幸福になろうとする計算を。ただ、その計算の仕方が間違っていたんだわ。馬鹿な女なのよ」  赤信号で、交叉点に停った。ゆみ子が何気なく横を向くと、並んで停っているライトバンが眼にとまった。中年の男がハンドルを握っている。黒い縁の眼鏡をかけ、暢気な顔つきである。実直だが小心ではなさそうにみえる。その傍にはよく肥った三十くらいの女。一見して、その男の妻と分る。三歳くらいの男の子が座席に立ち、両方の掌を窓ガラスに当てて、外を見ている。女の手がその子の胴に巻きつき、支えている。うしろの座席には、男女とり混ぜ五人の子供がいる。八歳くらいから四歳くらいまでの子供たちで、左右うしろの窓ガラスにそれぞれ貼り付いて、街の景色を眺めている。  合計六人、年子《としご》とみえた。  よう子の肩をつついて、注意を促した。ゆみ子の示す方を見たよう子は、顔を歪めた。薄いすべすべした皮膚の額に、癇性な皺が寄った。その皺を無視して、ゆみ子が言った。 「あの子たち、虫籠に入っているコオロギみたいじゃなくって」 「窮屈そうだわね」  そういう意味で言ったのではない、とゆみ子はおもう。子供の頃、縁日へ行って竹の籠に虫を何匹も入れてもらう。眼の高さに持上げた籠を、街の光に透して見ながら、家へ持って帰る。良い声で鳴くだろうか、というかすかな不安がかえって愉しい。そのときの気持を、ゆみ子は思い出していた。 「でも、幸福そうだわ」 「だから計算が違うというのよ」  咎める、鋭い声である。 「そんなこと言っていると、前のゆみ子と同じになってしまうわ。あれは、別の世界のことよ」  すこし間を置いて、よう子は吐き出すように言った。 「よくもまあ、倦きずにたくさん産んだものね」    五 「銀の鞍」の入口には、「メンバーズ・オンリイ」という横文字の札が掲げられている。クラブ員以外は入店お断り、ということは、当店では勘定は高額になります、お入りの方はその覚悟でいてください、という意味と受取っておけばよい。一流店の標識であるが、スタンドバーのつもりで気易く入って、会計のとき悶着が起らぬための警告板の役目も果しているわけだ。  したがって、客の大部分は中年以上の紳士である。  その夜、珍しく二十八、九歳の青年が二人連れ立って入ってきた。時折あらわれる顔とみえて、女たちと馴々しく話し合っている。マダムは、その客に負担をかけぬ心づかいを示して、 「わたしたちは、おビールでもいただきましょう」  と、グラスを運ばせた。  嫌われている客ではない。その席から、女たちの笑い声がしばしば起った。よう子もその席にいて、軽妙な会話を愉しんでいる様子だ。ゆみ子は隣の席にいて、よう子の顔を眺めていた。その顔は、なめらかに白く、疲労をすこしも澱ませていない。小柄で細身の躯だが、その躯にはしなやかで強靱な細胞が詰っている。ときおりその小鼻が膨らんで、自信と気負いとを感じさせた。 「よう子さん、今夜わたしに送らせていただけますか」  青年の一人が、切口上で言った。わざと切口上で言っていることを示している口調で、そのことで照れくささを誤魔化している。その口調の芯には、なまなましい願望が潜んでいることが分る。 「ええ、いいわ」  気軽に、よう子が答えている。 「よう子さん、あなたは素晴らしい。ぼくのこれからの一年間を、あなたに捧げます」  青年は道化た口調で言った。露骨な喜びが透けてみえたが、悪い感じではなかった。 「あら、一年だけしか捧げてくれないの」 「あなたも、いろいろお忙しいでしょうから」 「よう子さん、あなたは、ほんとうに素晴らしい……」  もう一人の青年が、オペラ歌手の口調を真似て言った。 「よう子さん、ぼくをあなたに捧げます。ぼくを十分、養ってください」  青年が、同じ口調であとをつづけた。 「まあ、ずうずうしい。でも、自分のことがよく分っているだけ感心だわ。だけど、どの部分を養ってあげればいいの」 「もとでをかけずに、養える部分で結構です。あなたが自前でできる部分で、結構です」  一座に、陽気な笑い声が起った。  しばらく経って、ゆみ子が化粧室へ行くと、鏡の前でよう子が化粧を直していた。 「おもしろい人たちね」 「若い割には、出来のいいほうだわ。ママは、息抜きになっていい、と言っているけれど……」 「一緒に帰るのでしょ」 「暇だったらね。坊やのくせに図々しいから、かならず言い寄ってくるわ」 「こわくなくって」 「こわい、だって」  よう子は笑い声をたて、驕慢な眼になった。 「釣っておいて、十分引きつけてから、体をかわすのよ。かっかとなったままで、放っぽり出してやるのよ。今夜はどの手を使うことにしようかな」 「可哀そうだわ」 「あんた、男に騙されたんでしょう」  よう子に、身上話をしたことはない。 「懲りないのね、今度は騙してやる番じゃないの。だいいち、ろくにお金を持たずに遊ぼうなんて、失礼だわ。別のかたちで、たっぷり税金を払わせてやらなくちゃ」  よう子は鏡の中の顔に、眼を凝らし、長くそりかえった睫毛を人差指の腹ですうっと撫で上げた。    六  カウンターの隅の電話機が、ときおり鳴った。遅い場合でも、二度目のベルの音で、受話器は木岡の手に掴まれていた。  間を置かずに、女の名を呼ぶ木岡の声がする。けっして、電話の相手の名を問い返すことはなかった。  十一時を過ぎると、かかってくる電話の数が目立って多くなる。呼ばれて席を立つ女に、二人の青年は口々に揶揄の言葉を投げかけた。 「あやしい電話」 「間夫《まぶ》はひけどき」  気軽な口調だが、青年が閉店の時刻を待ち構えていることは、あきらかであった。ゆみ子は、十一時をすこし過ぎたときの電話のことが、気に懸っていた。木岡がめずらしく女の名を呼ばずにしばらく応答し、電話を切った。間もなく、註文の品を運びに立ったよう子と木岡との間に、短かい会話があった。どちらもその内容は聞き取れなかったし、取立てていうほどの疑わしい気配はないのだが、奇妙にゆみ子の心に引懸った。木岡への電話と、よう子と木岡との会話との間に、つながりがあるようにおもえてくる。  閉店十分前になったとき、不意によう子が腹痛を訴えた。 「ママ、すみません。お先に帰らせてもらうわ」 「困るな、約束はどうなるんだろう」  強い言葉ではなかったが、一瞬、青年の顔色が変り、こわばりが頬に残った。 「食べ過ぎか」  もう一人の青年が、憮然として言った。 「女がおなかが痛くなるのは、食べ過ぎだけとは限らないわ」  マダムが言葉を挿み、その青年のとまどった表情がすぐに消え、 「なるほど、そうか、そうか」 「そうなのよ、ごめんなさい。今度、またね」  そう言ったときには、よう子はすでに立上り、裏の出口に向って歩き出していた。ゆみ子の傍を通り抜けるとき、素早い合図があったので、一足遅れて裏口へ出た。 「あの坊や、あんたにあげるわ。からかってごらんなさい」 「いまのが、放っぽり出したということなの」 「まさか。ほんとに、おなかが痛くなったのよ」  よう子は腹に片手を当てがい、半ば笑いながら大仰に顔をしかめてみせた。  店に客がいなくなり、ゆみ子があと片づけを手伝っているとき、木岡が耳もとでささやいた。 「今日は、よう子と一緒にきましたね」 「わざわざ、寄ってくださったの」 「あの女は、新しく入ったひとに、興味をもつのが癖なんだ。それで、途中いろいろ人生観みたいなものを喋ったでしょう」 「…………」 「理屈をたくさん言ったでしょう」 「…………」 「あの理屈はね、あとからくっつけたものですよ。あの女は、もともとそういう女なんだ。躯の隅から隅まで、そういう按配にでき上っているんだ」  ゆみ子は木岡の顔を見た。彼の意図が分らない。よう子との間に特殊なつながりがあることを仄めかしているようにも聞える。そのことを、心得させておこうとでも言うのだろうか。  木岡は言葉をつづける。 「もともとそういう按配だというのは、これは強い。本人はそこのところがよく分らなくて、理屈を欲しがる。よう子の理屈は、みんなぼくがつくってやったものさ」  ゆみ子は、もう一度、木岡の顔を見た。  バーテンの木岡は、ゆみ子の眼を無視して背中を向け、洋酒の棚の戸締りをはじめた。棚の前面に、鎧戸《よろいど》に似た覆いをおろし、鍵をかける。その作業の途中で、手をとめた彼は、首だけゆみ子の方に捻《ね》じ向けた。その視線は、ゆみ子の顔からしだいに下降して、躯の輪郭を撫でるように動いた。 「誘われるのか」  とおもったとき、まったく別の言葉が彼の口から出た。 「あんたで、勤まるかな」 「わたし……」  ゆみ子という危険な名前をそのままかかえこもうとしたときと同じ表情が浮び、口が開きかかった。しかし、木岡の言葉のほうが早かった。 「この商売は、はじめてだね」 「ええ」  新聞の案内広告欄で、ゆみ子はこの店に来た。 「あんたを見れば、それは分る。酒を売る店はたくさんあるが、クラブとバーでは営業方針が違う。キャバレーとなると、また別だ。うちはクラブということになるが、同じクラブと名のつく店でも、一軒一軒微妙なちがいがある。それぞれ家風のようなものがあるわけだ。その家風のおおもとには、まずマダムの営業方針とか性格とかがある。家風に合わないホステスは、勤めても長続きしない。だから逆に、古株のホステスをみれば、その店の家風が分る……」  ゆみ子は、長く勤めている女たちを頭の中にならべてみた。よう子、よし子、それになおみ……。その三人だけだ。 「よう子さんとよし子さんとは、ずいぶんタイプが違うとおもうけど」 「よし子は、よう子を立てているからな。それに、違うようで、じつはあまり違いはしない。いまに分る。しかし、分る頃まで勤まるかな」  木岡は同じ言葉を繰返し、吟味する眼でゆみ子を見た。    七  酒場「銀の鞍」の「家風」を、よう子を規準にして判断すると、ゆみ子にたじろぐ気持が起ってくる。そこでは、客はしばしば女たちを物体と見做している一方、女たちも客を商品として取扱っていることになる。  しかし、たじろぐと同時に、ゆみ子は自分の求めているのはそういう場所に身を置くことだ、という気持にもなる。しりごみすまい、と決心するのだが、 「勤まるかな」  という木岡の言葉は、そのまま彼女自身の不安でもあった。  ある夜、一人の男が店に入ってきた。連れはない。椅子に坐り、あたりを見まわす動作が、酒場に馴れきっている。というより、自由な自然の態度である。街を歩いている足取りのままで、店のフロアを歩いて椅子に坐った、という趣があった。  ゆみ子と眼が合うと、男は大きく手を上げて、手招きした。 「きみは、見馴れない顔だね」 「はい、一週間くらいです」  女たちが、その席に集ってきた。男は四十年配だが、浅黒い引きしまった容貌で、背を真直のばした姿勢とあいまって、戦争映画に出てくる海軍士官をおもわせた。女たちの表情や態度から、人気のある客と分る。姿勢のよさも、気負いや構えているためでないことが分る。女たちとの会話から、外国映画のフィルムを輸入している会社に勤めている男ということが分った。  剽軽《ひようきん》なことを言って、その男が女たちを笑わせたとき、よし子が言った。 「油谷《ゆたに》さんて、いつも屈託がなさそうね」 「まるで、親戚のおばさんの家にいるみたいだろう。それも、おばさんの娘は不美人ぞろいだから、気取る必要がない、というわけだ」 「まあ、ひどい」  よし子は、顔を崩して笑った。四十近いよし子の年齢があらわに浮び上ってきた。いつもは、彼女はそういう笑い方をしない。油谷という男には、どこか気を許させるところがある、とゆみ子はおもいながら、言ってみた。 「ほんとに、自然だわ」 「そうか。しかし、ここまでになるのに、血のにじむほどの修業の時期があったわけだ」  彼は大仰な口調をつくって言い、 「きみたち、小股が切れ上る、という言葉を知っているだろう。小股とはどの部分か知っているか」 「そのことなのよ。からだのどこかに、そういうところがあるの。膝の裏側かなにかかしら」  女たちの一人が、言う。 「教えておいてあげよう。女がはじめて芸者に出るとするな。せいぜい芸者らしく歩こうとして、歩くときには内輪に足を踏み出し、大股にならぬように歩く。そういうときには、やはり、わざとらしさがつき纏う。芸者としての修業が積んでくると、歩き方を意識しないでも、自然に足がうまい具合に出て、女らしくそのくせ垢抜けしたきりりとした感じに歩けるようになる。それを、小股が切れ上る、と言うわけだ。つまり、切れ上るとは、卒業するというような意味だな」 「ほんとかしら」 「ほんとうさ。バーの客にも、小股が切れ上るという言葉に当ることがあるな。それは、店の中に入ってくるときの姿勢だよ。馴れないと、緊張して、歩き方がぎくしゃくする。馴れてくると、いかにも馴れているということを衒《てら》っているわざとらしい歩き方になる。そういううちは、まだまだ修業が足りない。やはり、はやくて十年だな、なにごとも十年はかかる」 「きびしいのね」 「きびしくもなるさ、きみたちのような、妲己《だつき》のお百か火の車のおまんみたいな連中を相手にしているとな」  ゆみ子が、傍のるみの耳にささやいた。 「おもしろい人ね」 「でも、悪い人なのよ」  そのとき、油谷が不意に言った。 「ああ、おれはさびしい……」  そして、ゆみ子の眼を覗きこむと、 「どうだ、なぐさめてくれないか。店が終ってから、遊びに行こう」 「ええ、いいわ」  ゆみ子は咄嗟に、そう答えていた。油谷にたいする好意はあったが、もう男と厄介な関係になるのはまっぴらだとおもっていた。そういうゆみ子が、承諾の返事をしたのは、しりごみする自分が癪だったからである。    八  間もなく、ゆみ子は自分の返事の重大さに気付いた。閉店の時刻が迫ってくる。躯を男に与え、できるだけ有利な取引を試みてたくさんの金を受取る気持にはなれない。よう子ならば、即座にその方法を選ぶだろうが、とゆみ子はおもった。木岡の表情をうかがってみたが、相変らずの無表情である。  ゆみ子は、短かい時間に、懸命に頭を働かせた。自分一人の才覚にたよらねばならぬ場所に追いこまれたのだ。化粧室に行き、るみを呼んだ。 「るみちゃん、今夜なにか用事があって」 「べつに、無いわ」 「お願い、たのまれて頂戴」  耳もとでささやくと、一瞬、るみは不機嫌な顔をみせて、 「注意してあげたのに、あんな返事をするからよ」  しかし、すぐに思い直した口調で、言った。 「でも、それも面白いかもしれないわ」  油谷とゆみ子は二人だけで、戸外へ出た。 「ボーリングでもしに行きましょうか」  と、ゆみ子は言ってみたが、その遊戯をしたことはない。 「遊ぶといったからといって、子供じゃないんだぜ」 「ボーリングは、子供の遊びじゃないけど。でも分ったわ。わたしの知っているホテルで構いません」 「まかせよう」  と言い、彼は素早くタクシーを呼びとめた。ゆみ子のアパートの近くに、二人連れの男女のためのホテルがある。夜更けに店から戻ってくるたびに、そのネオンの紫がかった赤色が、ゆみ子の眼に映った。そのホテルのある町の名を、運転手に告げた。  部屋に案内されて、女中の姿が消えると、男はすぐに上衣を脱いだ。 「風呂に入ろう」 「ええ、すぐあとから行きます」  男が浴室に入ってしばらくすると、女中が茶を運んできた。ゆみ子は紙幣を女中の掌に押しこんで、ささやいた。女中は、一瞬、無表情になり、ゆっくり頷いた。 「はやく、きたまえ」  男の声が浴室にこもって、大きくひびいた。黙っていると、浴室の戸を開く音がして、同じ言葉を繰返す男の声が聞えてきた。 「からだを拭くのが、めんどくさいの」  ものうい声をつくったつもりだったが、硬い声音になったのが分った。 「キザなことを言うもんじゃないよ。はやく入りにきたまえ」 「でも、お店に行く前に、入ったばかりですもの」 「入りたまえ。何度入っても、減るものじゃないよ」  ゆみ子は黙って、坐っていた。やがて、浴衣姿になった男は彼女の前にあぐらをかき、机の上のコップのビールを、一息に飲み干した。喉ぼとけが、勢よく上下に動くのがみえた。 「うまい、泣きたいほどうまい」  と言い、ゆみ子の躯を味わうようにゆっくりと眺めた。  そのとき、戸の外で声をかけた女中が、若い女を伴って入ってきた。 「るみじゃないか。どういうことだい、これは」 「どういうことって、油谷さん、あたしにここへ来るようにとお店で言ったじゃないの」 「るみちゃんとも約束したの、でも、わたし怒らないわ。丁度よかったわ、油谷さん、さびしいのでしょ、三人でにぎやかに騒ぎましょうよ」  そう言ったとき、ゆみ子の心に、傷口に薬のしみるような快さが走った。 「おれは、にぎやかに騒ごうとはおもってないぞ。さびしいから躯を横にしたいのだ」 「それなら、どうぞご遠慮なく、横になったら」  るみが、含み笑いをしながら言う。油谷は、二人の女の顔を見くらべていたが、立上って襖を開いた。そこには、夜具がのべられてある。白い枕が二つ並んで、枕もとには水差しとコップと灰皿。電気スタンドが、薄明るくともっている。  油谷は敷居の上に立ち、その部屋とゆみ子の顔を見くらべていたが、不意に叫んだ。 「くやしい」  陽気な声である。どすんと、布団のうえに躯を投げ出すと、仰向けになって両脚をばたばたさせた。海軍士官をおもわせる姿勢が崩れて、肥満した大きな腹が目立った。 「さて、横におなりになったから、あたしたちは花札でも引きましょうよ」  先刻の陽気な叫び声と、いま静かになって天井を眺めている油谷のことが、ゆみ子の気にかかった。るみにせき立てられて、向い合うと、覚束ない手つきで花札を弄《いじ》りはじめた。 「誰かさんは、花札には目が無いんだったっけ」  るみが独り言めかして、大きな声で言うと、油谷はまた脚をばたばたさせ、 「くやしい」  と、叫んだ。  女たちは、声を合せて笑ったが、その笑い声がおさまると、彼は平静な声で言った。 「さて、これでこの場の形がついた」 「負けおしみ……」  るみは呟きながら、花札を扱う。極彩色の絵の札と札とが、音をたてて打ち合される。しばらくの間、部屋が静かになり、音だけがつづいた。 「ひどい音を出すもんだなあ。るみの音も、ひどいものだ。おまえは駄目な女だね、修業が足りないよ。もっと、冴えた硬い音が出るようにならなくては駄目だ」  油谷がむっくり起き上ると、そう言った。仕返しに悪口を言っている調子ではない。むしろ淡泊に、事実についての感想を述べている口調である。 「とうとう我慢できなくて、出てきたわ」 「それもあるが……」  彼は向い合っている二人の女の傍に立ち、花札を見下ろし、つづいてゆみ子を見た。 「今夜のことは、るみの企みではなさそうだな」 「あたしです」  ゆみ子の声音に、気負いと不安とが混った。 「そうだろう。だから、許してやった。こういう具合に、この場の形をつけたのは、なにも、おれ自身のためばかりじゃない。一生懸命たくらんでいる感じが、はっきり分ったよ。いたいたしいくらいだ。だから、おれが負けることにしたんだ。いいか、企み自体はひどく泥くさいものだぜ。もっと気のきいたやり方がある筈だ」  そう言い終ると、油谷はその場にあぐらをかいて、勝負に加わった。 「やっぱり負けおしみ……」  るみが呟き、油谷は苦わらいして、 「いくぶん、その気味もあるな」  勝負がはじまって、しばらくすると油谷がゆみ子に言った。 「きみの腕では、まだ無理だ。さきにそっちの部屋で寝るといい」  言葉に棘は無くて、むしろ労る口ぶりである。  油谷とるみの差し向いの勝負になった。ゆみ子は傍に坐ったまま、二人の勝負を眺めていた。たしかに、彼の合せる札は、冴えた硬い音をたてた。彼の勘は冴え、あらかじめ計算でもしてあるように札が起きた。手にもった札のうちから、桐の札を場に捨てる。場に積み上げてある札に指先をかけ、 「桐」  と、予言するように言い、札をめくる。はたして、鳳凰《ほうおう》と桐の図柄の札があらわれ、捨てた札と音をたてて合さる。冴えた硬い音は、彼の掌がるみの頬で鳴っているような錯覚が起り、るみの負けが嵩《かさ》んだ。 「あたし、負けたのかしら」  紅葉《もみじ》に鹿が一匹、菊の花のそばの赤い盃、萩の叢にうずくまる野猪、雨に濡れる柳の枝をかすめて飛ぶ燕……、さまざまの絵札に眼をはなちながら、ゆみ子はあいまいな気持で考えていた。 「でも、油谷という男の狙いをはずすことはできたのだもの」  相手がしたたかだった、とゆみ子はおもった。ほかの男ならば、いまごろはその男の惨めな顔を見ることができていたにちがいない。  不意に、傷口に薬のしみるような快さを、ゆみ子はおもい出した。油谷をはぐらかすことを懸命に考えていたのだが、その快さをひそかに待ちもうける気持も動いていたことに、ゆみ子は気付いた。  やわらかい肌、細い骨、触れられるとすぐに形が変ってくる二つの乳房。そういう女の弱点が、たちまちのうちに男を苛立たせ悩ませる武器に転じる瞬間を、ひそかに待ち構えていたのではなかろうか。 「水商売に入ったばかりにしては、上出来だわ」  と、ゆみ子はそこに考えを落着けたが、すぐに思い直した。 「女なら、誰でもできることなのかもしれない」  そして、ゆみ子は頭の中に木岡の顔を浮べ、 「勤まりそうだわ」  と、呼びかけていた。    九  よう子は、軽蔑の口調で、ゆみ子に言う。 「よし子さんって、男に惚れたりするのだから……」  面と向って、そういうこともあった。しかし、よし子は逆らわない。四十ちかい女が、若い女に混って仕事をつづけてゆくのは、なかなか難しいことだ。それに、よう子は「銀の鞍」の実力者の一人である。よし子は、すすんでよう子の侍女の役割をつとめることさえあった。  たしかに、酒場に勤める女にとって、恋愛はさまざまの不利益を招くことである。恋愛している女は、平素の技巧を失って、ときに放心したり苛立ったりする。それは、敏感に客の心に反映してゆき、客は興醒《きようざ》める。とくに、その相手が客の一人だった場合、ほかの客の興醒めかたは一層深くなる。  しかし、その点にかんしては、よし子はしたたかであった。恋愛している自分の状態を、客に接するための技巧に繰入れてしまおうと試みた。  よし子は巧みに客の眼を誤魔化していて、知っているのは店の女たちだけである。相手の男は二十五、六で、この店には場ちがいの若さであった。その青年が店にあらわれると、その瞬間から、三十九歳のよし子の頬はばら色になる。厚い化粧の下から、その色は滲みでてくる。眼に、潤んだ光が点り、十歳は若くなる。  しかし、よし子がそのまま二十九歳にみえるというのではなく、二十九歳のうしろによし子の本当の年齢が透けてみえる若返り方である。その若さは多分に人工的であり、いたいたしさに似た感じがあり、それが奇妙な魅力となった。よし子は、けっして青年の席に坐りつづけることをしない。青年が店の一隅にいることを、全身で感じ取るだけで、彼女は若返る。  青年のあらわれない夜は、よし子はじっと耐える。自分の殻に閉じこもる耐え方ではなく、傍の客を意識しながら、無口にひっそりと坐っている。その憂愁が、よし子の年齢をうつくしく飾った。 「女は、若いばかりがよいわけではないな」  と、客はそういうよし子を見て、ひそかにおもう。  ゆみ子の眼からみて、その青年はまったく魅力のない男であった。バーテンの木岡が、よし子を揶揄して、言ったことがある。 「よし子さん、若い男は、滋養になるようだね」  生ぐさい、厭なひびきを伴って、その言葉はゆみ子の耳に入ってきたが、「ほんとうに」とおもった。客に接するための技巧に、よし子が自分の恋愛を利用しているというよりも、技巧のためにわざわざ自分の心を青年に向けて駆立てているのではないか、とさえおもった。ゆみ子にそういう感想を抱かせるほど、その青年が魅力のない男だったともいえる。  店の暇な時間、よし子はしばしばゆみ子を話相手に選んだ。話はおもに青年とのロマンスである。熱中してくると、よし子の口の端に、白い唾がたまった。その話は、退屈だった。しかし、自分のことしか考えていないその顔と、口の端の白い唾を見比べて、いたいたしい気持が起る。そして、ゆみ子はいつまでも相槌を打ちつづける。 「いたいたしいから、許してあげる」  ゆみ子は頭の中でその言葉を繰返し、その言葉は先日油谷という男の口から出たものであることに気付く。油谷が気がかりな存在になっていることに、ゆみ子は気付いた。    十  ゆみ子が疑問におもった電話は、一週間に二、三度かかってくる。時刻は、かならず十一時すこし過ぎである。木岡がしばらく応答し、そのまま電話を切る。間もなく、よう子が註文の品を運びに立ち、短かい会話が木岡とのあいだに取交される。  日が経つにしたがって、ゆみ子のその電話にたいしての気懸りがはげしくなった。電話が鳴り、受話器を取上げた木岡がいつものように店の女の名を呼ばずに応答をはじめると、ゆみ子は自分への電話のように緊張する。木岡のほうに眼を向けまいと努めると、かえって視線が動き、あわてて元へ戻す。そのため、木岡へ向けた眼には、探るような怯《おび》えたような色が浮ぶ。  そういうゆみ子の眼が、ある夜、木岡の眼と合ってしまった。合ったと分った瞬間、 「失敗《し ま》った」  とゆみ子はおもった。  なぜ、そんな言葉が浮んだのか分らない。そのために、ゆみ子の眼の色は、一層疑いと怯えを深くした。  木岡の顔が、こわばり、すぐに元に戻った。しかし、その無表情な眼が、しばらくゆみ子の横顔にそそがれていることを、感じた。頬のあたりが、熱く、痛い。  予感があった。店を終って帰ろうとするゆみ子を、木岡は呼びとめて、 「用事があるんだ」  と、近くの喫茶店の名を告げた。  喫茶店の隅の席で向い合うと、木岡はうかがう眼でゆみ子を見た。その眼に迷う光があらわれ、やがて低い声で訊ねた。 「よう子のことを、どうおもう」 「ご立派とおもうわ」  木岡の眼は曖昧なままである。ゆみ子は言葉をつづけた。 「だって、たとえばよう子さんが、遠くのほうから他の席のお客を見詰めたとするわね。そのとき、そのお客に反応が起らないと、よう子さんの顔が、損をした、というふうになるのよ。徹底していて、ご立派だわ」 「なるほど、それで、よう子のようになりたいとおもうかい」 「さあ……」 「それとも、よし子のようにかい」 「よし子さんも、ご立派だわ」 「あいつは駄目だ。男に惚れたりして」 「でも、そのことが商売のプラスになっているもの」 「今のうちはな、なにせ、古狸だから。だが、そのうち駄目になる」 「そうかしら」 「おれの眼に狂いはないさ。いまに……」  と、喫いかけの煙草を、白い灰皿の中で手荒く躙《にじ》り消して、 「こんな具合になってしまう」  ゆみ子は、きれいに掃除された灰皿のまん中で、よれよれになった紙巻煙草を、黙って見詰めていた。紙が破れ、灰皿の底の水がにじみこんだ横腹から、茶色の葉が臓物のようにはみ出している。 「どうだい、つき合わないか」  不意に、彼が言った。 「困ったわ。つき合わないと、お店をやめなくてはいけないのかしら」  木岡は苦笑して、 「そういうこともないが。ま、なにも今夜と限ったことはない」  新しい煙草をくわえ、火をつけると、煙をゆみ子の顔に吹きつけた。煙のあいだから、木岡の声が聞えてきた。 「それじゃ、油谷をとりもってあげようか」 「とりもつですって。油谷さんが、頼んだの」 「そういうわけではない」  念を押す口調で、否定し、 「油谷がきみに気があるようだし、きみも厭ではなさそうだ」 「そう見えて」 「見えるね。このままだと、安く遊ばれてしまい兼ねない。そんなことになったら、恥ずかしいだろう」 「恥ずかしいって」  その言葉を呟いて、反芻してみた。 「だから、おれが一役《ひとやく》買ってやろうというわけさ」  よう子と木岡との関係、あの気懸りな電話の意味が、しだいに分ってきたように、ゆみ子はおもった。 「まだその気にならないわ」  ゆみ子は、わざとそういう言い方をした。 「いずれにしても、勤まりそうだな」 「でも、おもったよりお給料が安いわ」 「当り前じゃないか」  木岡は、言い聞かせるように、 「きみは、店を客の傍に坐って酒の相手をする場所だとおもっているのかい。店はきみに舞台を提供しているわけさ。演技する舞台を、しかも金を払ってね。舞台の底には、金も銀も埋まっている。演技のやり方ひとつで、いくらでも掘り出すことができるわけさ」   金の鞍には王子さま、   銀の鞍にはお姫さま……。  そんな童謡があったかしら、とゆみ子は考えながら、訊ねてみた。 「それで、木岡さんは舞台監督なの」 「さあてね」  木岡の顔に、自嘲の色がかすめ、すぐにいつもの無表情に戻った。    十一  酒場「銀の鞍」の店の中では、女たちは煙草を喫ってはいけないことになっている。したがって、灰皿は客のためだけに、用意されているわけだ。  男たちの煙草の吸い方は、人さまざまで、灰皿の吸殻を見ただけでもそのことが分る。二センチほど吸っただけで消された長い吸殻が、またたく間に幾本も並んでしまう灰皿がある。もしも灰皿を掃除されたものに取替えなかったならば、その長い吸殻はつぎつぎと増えてゆく筈のものだ。あるいは、指が焦げるほど短かくなった吸殻もある。灰皿の縁に置かれたまま、煙草のかたちの灰になってしまったものもある。その客は、灰皿に置いた煙草のことを忘れて、新しい煙草をくわえているのである。  吸口がほぐれるほど唾で濡れた吸殻もあり、きれいに乾いているものもある。  そして、力いっぱい灰皿の中で躙り消された煙草が眼に映ると、ゆみ子の頭の中に仁木の顔が浮び上り、おもわず視線をよし子に移す。仁木とは、よし子が惚れている青年の名である。  吸殻のかたちとよし子が二重写しになり、耳の奥でバーテンの木岡の言葉がひびく。 「いまに、こんな具合になってしまう」  その言葉は、神秘的な力のある予言として、ゆみ子の中に生きている。たしかに、よし子がその予言のようになってゆく兆候が、あらわれはじめているのだ。よし子は、打明け話の相手に、ゆみ子を選んでいた。のろけ話といえるよし子の打明け話に、しだいに苛立ちと疑いが陰を落すようになった。その陰はしだいに色を濃くし、大きく拡がってゆく。 「ゆみ子、ちょっと聞いてよ」  化粧室の中とか、客を送り出して戻る階段の途中とか、わずかの暇を見付けて、よし子は仁木の話をゆみ子の耳にそそぎこむ。仁木の名は、いつもゆみ子に纏わり付いた。そのため、仁木が店にあらわれる回数が目立って減っていたことを、ゆみ子はしばらく気付かないくらいだった。 「ねえ、ゆみ子、仁木にはたくさん女がいるらしいのよ」 「…………」 「五人も十人も」 「でも確かなの」 「そうでなくちゃ、いつも元気がないなんて、考えられないもの。まるでインポなのよ」  そのような会話の断片が、よし子とゆみ子との間に積み重ねられてゆき、閉店までにはかなりの嵩になった。  客の傍のよし子は、さすがに以前と変らなかった。人工的な若さの奇妙な魅力をもったよし子であり、あるいは憂愁に飾られたよし子である。しかし、稀に放心した短かい時間に落込んでいるよし子を、ゆみ子は見ることがある。そのときのよし子の顔は、年齢と疲れを露わにしていて、おもわず眼を背けたくなるものだった。 「崩れかかっている」  と、ゆみ子はおもい、よし子が砂で固めた人形のようにおもえる。砂が乾きはじめ、たくさんの砂粒のあいだの繋りが切れ、顔からはじまった崩れがたちまちのうちに全身に及ぶ。床の上に崩れ落ちたよし子の躯が消え失せて、襟のところをつまんでふわりと床に落した衣裳だけになってしまう錯覚が起る。  しかし、よし子は危うく踏みとどまって立直る。まだ、誰も気付いていない。知っているのは、ゆみ子だけだ。    十二  しばらくぶりに姿を現わした仁木は、よし子が化粧室へ立ったとき、隙を狙っていたようにゆみ子に名刺を手渡した。 「一度、会社へ電話でもしてみてください」  ゆみ子の耳もとで、ささやく声があった。よし子のことで相談でもあるのか、と咄嗟にそうおもったが、よし子が打明け話をしていることを、仁木は知らない筈なのだ。とすると、仁木は誘っているわけか。  儀礼的に名刺の活字に眼を向けてから、ゆみ子は洋服の胸の下へその名刺を滑りこませた。優雅とは反対の仕種で、好ましくないのだが、いかにも自分が水商売の女になった気持になる。ゆみ子は、自分にたいしての悪意をこめて、その仕種を愛した。  洋服の襟から名刺を入れようとするとき、顎が上って咽喉の皮膚が露わになる。その部分に、仁木の眼が粘り付いてくる。その眼を感じると、ゆみ子は自分のその部分がなめらかな若々しい二十一歳の皮膚でおおわれていることを、今はじめてのように意識した。  よし子が席に戻ってきた。ゆみ子は胸の皮膚に触れている仁木の名刺が気にかかった。誘われたということは、自尊心をくすぐったが、嬉しくはなかった。仁木に魅力を感じなかった。よし子の打明け話に出てくる男から誘われたことが、ゆみ子の負担になった。  迷ったが、仁木が帰ったあとで、ゆみ子はその名刺をよし子に手渡した。 「こんなものを貰ったの。だから、よし子さんに渡しておくわ」  と言ったとき、よし子の顔色が変った。 「もう一枚の方も、頂戴」  よし子の言葉の意味が分らず、怪訝な顔になった。 「とぼけないでよ。同じ名刺をもう一枚、隠しているのでしょう」 「まさか」 「嘘つき」  小さく叫ぶと、よし子の手がゆみ子の胸に伸びた。胸の開いていない洋服なので、その手は襟もとから潜りこむことができない。ゆみ子の乳房と乳房のあいだを、その手は布地の上から手荒く探った。 「なにも、ありはしないわ」  背をかがめ両腕で乳房をかかえこむ姿勢になって、ゆみ子は首を左右に振る。隠す素振りと間違えて、よし子の指が一層はげしく動いた。しかし、その指はゆみ子の胸の左右のふくらみに当るだけだ。  不意に、よし子の指がそのふくらみを掴みあげた。内側に曲った五本の指が、噛み付いているようにみえた。若い弾力を憎んでいる、衰えのみえはじめた指をゆみ子は見下ろすと、おもわず大きく胸を張った。  席に戻ってしばらくして、電話が鳴った。バーテンの木岡が、ゆみ子の名を呼んだ。ゆみ子に電話がかかってくることは、稀である。心当りがなかった。  その電話は、一時間ほど前に帰った客からだった。酔った声で、鮨屋の名を告げ、店が終ってからその店にきてくれ、という。婉曲に断ったが、執拗だった。短かいあいまいな返事を繰返していると、ようやく相手はあきらめた。  受話器を置いて小さく溜息をついたとき、傍に人の気配を感じた。顔を向けると、そこに黄色く燃えているよし子の眼があった。よし子は逆上していた。しかし、さすがに声をおさえて、ゆみ子の耳もとで言う。 「仁木が、あんたを誘ったんだろう」 「え」 「いまの電話よ」  店の中の女たちが、おもわず視線を向けるほど、甲高い調子だった。    十三  ゆみ子への嫉妬がキッカケとなって、よし子の崩壊がはじまった。いや、その嫉妬が筋の通らぬものであるところをみれば、それは崩壊の過程の一つのかたちといえようか。一ヵ月ほどのあいだに、よし子は躙り潰《つぶ》された吸殻のようになってしまった。  その一ヵ月間がはじまったある夜、ゆみ子は腹痛のため、店を休んだ。翌日、ゆみ子が店の更衣室へ入って行くと、飛びかかる勢でよし子が近寄ってきた。 「昨日は、何をしたのさ」 「一日、部屋で寝ていたわ」 「嘘。仁木とどこへ行ったの。ちゃんと分っているのだから」 「仁木さんと……」 「仁木も昨日会社を休んでいたことは、分っているのよ。あんた、仁木と箱根へ行ったのでしょう」 「冗談じゃないわ。でも、どうして箱根なのかしら」 「仁木があたしを最初に誘ったときは、箱根に行ったんだもの」  ゆみ子はなるべく受流すようにつとめていたが、度かさなるとおもわず気色ばむこともあった。数日後、次のようなやりとりが二人のあいだにあった。 「仁木さんとなら、たとえ一年間一緒の部屋にいたとしても、よし子さんの心配しているようなことには、なりはしないわ」 「あんたは、仁木に満足させてもらっているから、そんな落着いたせりふを言うことができるのよ。仁木をあんなに疲れさせている女は、殺してやりたいわ」  よし子の眼が、ゆみ子の前で黄色く燃え上った。 「わたしじゃないわ。私立探偵でも使って、殺す相手を見付けたらいいとおもうわ」 「あんた、まだそんな……」  いきり立ったよし子は、不意に静かになって、 「そう、探偵ね。いい考えだけど……」  と考え込む顔になった。しばらく間を置いて、 「でも、お金が無いわ。あの預金通帳には、手をつけるわけにはいかないもの」  ゆみ子への嫉妬のはじまる前の打明け話で、預金通帳のことを知っていた。よし子の持っている預金通帳は、仁木の名義にしてある。その中に、よし子はつつましい数字を積み重ねていた。そのほかにも、よし子は仁木のために金を使うことが多い。よし子と会うと不能にちかくなる仁木のために、高価な薬品を幾種類も用意した。よし子の部屋には、仁木のための下着類や和服などが取揃えてある。部屋いっぱいになっているようにみえるダブル・ベッドも、仁木と知り合ってから買ったものだ。 「仁木さんのために積み立てたお金でしょう。そのお金を使って、仁木さんを尾行させれば丁度いいじゃないの」 「そんな……」  よし子はゆみ子を睨み据えたが、にわかに勢を取戻して言った。 「そうだ、あたしが探偵になればいい。そうすれば、お金は要らないわ」 「…………」 「ゆみ子、注意しなさいよ」  脅す口調で言ったのだが、よし子は尾行についての打明け話の相手として、やはりゆみ子を選ぶのである。  次の夜の午後七時、ゆみ子に電話がかかってきた。 「ゆみ子、あんた、そこにいるのね」  聞き覚えのない声が、途中からよし子の声になった。よし子は、声を変えていたのだ。 「当り前じゃないの」 「あんた、おいしいスパゲッティの作り方を知っている」 「え」 「いま、仁木がスパゲッティを食べているの。仁木の会社の近くの洋食屋なの。店の人に聞いてみたら、食事にきたときはかならずスパゲッティにビール一本なんですって」 「探偵しているのね」 「そうなの」  よし子の声は、緊張と興奮のためか、上機嫌に聞える。 「料理がくるまでに、電話を三つかけたわ」 「どこへ電話したの」 「そこまでは分らないわ。これから後のことは、また電話して教えてあげるわね」  翌日の午後七時、また、よし子からゆみ子に電話があった。 「あんた、そこにいるのね」  同じ言葉で、その電話ははじまった。 「昨日と同じところで、いま仁木はスパゲッティを食べているわ。それより、昨日のことを教えるわ。あれから、タクシーで銀座に出たわ。バーを三軒まわったけど、うちのお店には来なかったわね。十二時ごろ、タクシーで、中野の方へ帰った。門のある小ぎれいな洋館で、門の柱に仁木の表札がかかっていたから、あそこが仁木の家なのね。あ、仁木が立上ったわ。では、またね」  六日間、よし子の尾行は続いた。郷里に用事ができたといって、店には六日の休暇を申し出ていた。その期間に、一度だけ、仁木が「銀の鞍」に入ってきたことがある。店の近くの薄暗がりに、苛立ちながら身を潜めているよし子の姿を、ゆみ子は思い浮べた。滑稽にもおもえたが、陰惨な感じのほうが強かった。  仁木の夜の行動は、意外に単調だった、とよし子はゆみ子に告げた。会社からそのまま帰宅する日もあり、酒場に寄った夜もかならず家へ戻っていた。外泊は一度もなかった。映画館に入った夜が一度あったが、そのときも仁木はひとりだった。 「すっかり疲れてしまったわ」  と、よし子は肩を落して言った。 「でも、安心したでしょう」 「一応はね。だけど、それならなぜ、あたしと会ったとき、仁木があんなに疲れているのか分らないわ」  疲れているのでなくて、よし子さんに倦きたのよ、という言葉を、ゆみ子は口の中だけで言ってみた。そのため、会話がそこで躓《つまず》いた。よし子の顔色が、不意に変った。躓いた瞬間に、突然思い当ったのだ。 「あたしが探偵しているのを知っているのは、あんただけだったわね」 「…………」 「いま、はじめて気が付いたわ。馬鹿だったわ。あんた、笑っているのでしょう」  よし子の唇がめくれ上り、左右に大きく裂けると、 「殺してやるっ」  そのあられもない言葉が、いまのよし子の顔に似合った。よし子の顔いちめんが、撲《なぐ》られたあとの黒ずんだ紫の皮膚に似た色になっていて、その皮膚の裂目のような二つの眼が血走っている。肉の薄い背中が前かがみになって、老婆をおもわせた。  そういう姿は、ゆみ子にとって見覚えのないものではない。洋一と別れた前後、ゆみ子は鏡の中にそれに似た自分を見出していた。その時期が過ぎて、ゆみ子は酒場に勤めるようになったのだが、すでに酒場の女であるよし子は、これからどこへ行こうというのだろう。 「でも、わたしではないのよ」  冷静に、ゆみ子は言い、 「仁木さんには、本当に、よし子さんのほかに誰かいるのかしら」  ゆみ子は、本気でそのことを考えていた。その口調に、親身なひびきが混った。よし子は、じっとゆみ子を見詰めていたが、 「ゆみ子、考えてよ。あたし心細いから、今夜、あんたのところへ泊めてもらうわ」  その夜から五日のあいだ、よし子はゆみ子の部屋に泊った。ゆみ子に頼ると同時に、捨て切れぬ疑いが、よし子をそうさせていることが分る。仁木がゆみ子の部屋にあらわれはしないだろうか、と見張る気持も、よし子の中で動いている。    十四  よし子は、ゆみ子にたいしての疑いを捨てた。 「ゆみ子、考えてよ」  縋りつく、甘えた口調になった。 「外に誰もいないとすると、家の中にいるのじゃなくて」 「とんでもないわ。仁木が独身だということは、間違いないわ」  その調べは、ずいぶん以前に済んでいた。仁木を最初に「銀の鞍」に連れてきたのは、彼の会社の課長である。その課長と仁木自身から、よし子はそれとなく聞き出していたのだ。  仁木の叔母、つまり父親の妹が、彼を少年の頃、養子として引取って育てた。叔母は配偶者とは若い頃死別している。その死んだ夫の遺した不動産のために、金には不自由していない。仁木がその年齢や地位にふさわしくない「銀の鞍」へ通ってこれたのは、そのためである。縁談もこれまでに幾つかあったが、叔母の好みに合わないという理由で纏らなかった、という。 「つまり、母親と同じわけなのよ」 「それでは、その叔母さんに気に入られれば、縁談は纏るということね」  ゆみ子は会話の成行で、そう言った。仁木の縁談の相手として、よし子を考えたわけではなかった。しかし、よし子の顔がにわかに輝いた。 「そう、そうなのよ。なぜいままで気が付かなかったのかしら」  歳暮の時期だった。よし子は桐箱に入ったアルバムを買い整え、店からの使いという名目で、仁木の家を訪れた。昼間、仁木の留守を選んだ。黒いスーツを着て、控え目に化粧した。  仁木の叔母は、年齢の分らぬ女だった。三十代にしか見えない。黒い布をターバンにして、髪を高く上げている。 「あら、そんなご挨拶をいただくほど、美喜雄ちゃんは、あなたのお店に伺っておりますの」  美喜雄ちゃん、という名前が、赤く塗られた唇の上で粘ってから、出てきた。叔母はよし子を確かめるように眺め、 「でも、あなたのようなかたのいらっしゃるお店なら、安心ですわ。お電話、伺っておこうかしら」  玄関先の会話なのである。叔母はいったん奥へ姿を消し、メモ用紙とペンを持って戻ってきた。立ったまま、ペンを構えた。スラックスに包まれた脚が、かたちよく伸びている。ペンを握った指の爪が、銀色にマニキュアされているのが、よし子の眼に映った。  その後、仁木の叔母から「銀の鞍」へしばしば電話がかかってくるようになった。 「美喜雄ちゃん、行っておりまして。もし伺ったら、あまりお酒を飲まないように、と言ってくださいませね。あたくしの言うことを聞かないので、ほんとに困ってしまいますのよ」  あるいは、 「美喜雄ちゃん、伺っておりませんの。ほんとに毎晩どこへ行ってしまうのかしら。あなたのところなら、あたくしも安心なのですけれどねえ」  よし子の打明け話は、仁木の叔母のことばかりになった。信頼され、気に入られている、とよし子は解釈している。しかし、ゆみ子には、叔母という女の言葉は、あいまいな割り切れぬものとして伝わってくる。皮肉なひびきも、その言葉から感じ取れた。上機嫌になっているよし子を薄気味わるく眺め、よし子の頭の中の一部が崩れ落ちて暗い空洞になっている景色が、眼に浮んできた。 「わたくしも、気が気ではございませんのよ」  気取った、そのくせ甘えた声を、電話機に向って出しているよし子を見て、ゆみ子は不吉な不安な気持になる。「違う……」という言葉が浮んでくる。どういう具合に違うのか、明確には分らなかったが。  よし子が近寄ってきて、ささやいた。 「仁木の叔母さまが、あたしに会いたいと、おっしゃるの」  そのいそいそした態度と明るくなった顔を見て、またしてもゆみ子は、「違う……」とおもってしまう。    十五  よし子と向い合った仁木の叔母は、片方の手の甲を眼の前にかざし、銀色にマニキュアされた爪に視線を当てたまま、 「美喜雄ちゃんは、あなたが好きなの。そのこと、美喜雄ちゃんの口から聞きましたか」 「はい」  仁木の叔母は、はじめてよし子に眼を向けた。眼の化粧が、きつかった。しばらく黙ってよし子を眺めていたが、何気ない会話の口調で言った。 「嘘でしょう」 「え」 「嘘なのでしょう」 「嘘じゃありません」  仁木の叔母は、頸を伸ばして、笑い声をひびかせた。深い皺が首輪のように幾重にも刻まれているのが、眼に映った。よし子は、おもわず掌で自分の頸のあたりを撫でた。 「嘘じゃありませんわ」  念を押すように言うと、 「そうね、あなたは嘘つきじゃないわね。それならば、きっと美喜雄ちゃんが嘘をついているのよ」  仁木の叔母は、不意にセーターの片腕をまくり上げはじめた。白いやわらかな肉が、露わになった。その弾力をためすように、片方の指で肉をつまみ上げる。自慢の部分を愛撫する仕種だが、その肉は頼りなげに揺れた。セーターの片腕が元通りになるまで、沈黙がつづいた。ようやく、叔母が口を開いた。 「それは、美喜雄ちゃんの嘘なのよ。そのことを、あなたに教えておいてあげようとおもって」  ……その話を聞かされたとき、ゆみ子は即座に言った。 「やっぱり、仁木さんの女は家の中にいたのよ」 「でもねえ、あの人は、仁木の叔母さんなのよ」 「でも、ほかに考えようがないわ」 「…………」  よし子の勢が不意に衰え、そのまま口を閉じた。  黒い布をターバンにして髪を高く上げ、スラックスをはき、爪を銀色に染めて、よし子が「銀の鞍」にあらわれたのは、それから間もなくのことである。  バーテンの木岡は顔を歪めて、 「銀座で働ける女じゃなくなったな」  と呟いた。    十六 「銀の鞍」から、よし子が消えた。  一方、よう子は新しく自動車を買い替えた。そのことを、ゆみ子はバーテンの木岡から告げられた。閉店後、木岡が近くの喫茶店へゆみ子を誘ったときのことである。ゆみ子も、木岡と話し合ってみたい気持になっていた。 「木岡さんの予言のとおりになってしまったわね」 「予言というほどのものではないさ。分りきったことだ。よし子にだって普段は分っていることなんだが、分りきったことが分らなくなってしまう」  軽く受流す口調だが、得意さが顔にあらわれた。 「あたし、自分のことみたいに疲れてしまったわ」 「それでいいんだ。そうやって、いろいろのことが分ってくる。もっとも、おれが予言者のようにみえるのでは、まだまだ駄目だが……。きみは、気が付いているのかな。新しい客が店にくると、かならずおれの顔色を窺う癖があるよ」 「分っているわ。どういう客か分る手がかりが欲しいのだもの」 「しかし、無駄だよ。おれは滅多に顔色には出さないのだから」 「癖になってしまったのよ。……でも、木岡さんは舞台監督のようなものだから」 「おれが舞台監督であるものか」 「でも、すくなくとも、よう子さんにとっての舞台監督じゃなくって」 「そうかね」  木岡の顔に、自嘲の色がかすめた。以前にも、これと同じことがあった。その自嘲の色は何だろう。よう子に時折かかってくる電話のことを、ゆみ子は考えていた。木岡が適当な男を選びよう子と引合せている、とゆみ子はその電話を解釈していた。木岡がよう子を操作しているとみて、舞台監督と呼んでみたのだが……。ポン引の役目を、体裁のよい言葉で言い替えられた、と木岡は感じたのだろう。 「よう子のことだが、きみの家へ迎えにきたか」 「迎えに。以前に一度そんなことがあったけど」 「二、三日のうちに、きっと迎えに行く筈だ。ピカピカの自動車を運転して」 「買い替えたの」 「そうだ」 「見せたいわけね。よう子さんて、自分を虐《いじ》める趣味があるのかしら」 「何だって」 「道楽でバーに勤めているお嬢さんなんて無いでしょう。といって、新車を乗りまわせるほど儲かる商売でもないわ。結局、男の金で買った車ということになるけれど、ただで車を買ってくれる男なんていないもの」  木岡は黙ってゆみ子の顔を見詰めていたが、やがて口を開いた。 「そういう神経をもっていると、苦労が多いよ。そのシロウトくささが魅力ともいえるが……。パトロンを見付けて、たくさん金を出させることは、手柄なんだ。新しい自動車は、大きな勲章をぶら下げているのと同じなんだよ」 「よう子さんにそんなパトロンがいるの」  木岡は、曖昧な顔をしている。 「木岡さんの神経もあんまり丈夫じゃないとおもうわ」 「なぜ」 「だって、よう子さんの舞台監督をしていることは、木岡さんの考え方でいえば、自慢していい筈だわ」  木岡は苦笑して、 「きみは、ひとの顔色をみるのが上手なんだな。しかし、それは違うんだ、きみの考え違いさ」 「違うかしら、よう子さんにかかってくる電話、怪しいとおもうわ。それに、この前言っていたじゃないの。よう子の理屈はみんな自分がつくってやったものだ、って」 「それは、そのとおりだ。だが、やはり違うんだな」  木岡は口を噤んだ。ふたたび自嘲の色がかすめ去った。    十七  木岡の予告どおり、その夜から二日目の夕方、よう子がゆみ子の部屋に立寄った。入口に立ったまま、よう子は四畳半一間だけの部屋をたしかめるように眺めまわし、 「まだ、ここにいるのね」 「ええ」 「お風呂が無くて、不便でしょう」  慰める口調に、満足の気配がまじった。貧しい部屋に、新しい自動車。その対照の効果を、よう子は予想したようだ。よう子は部屋に入らず、せき立てるようにして、ゆみ子を連れ出した。アパートの前に、小型だが最新型の車が駐めてあった。 「あら、この前の車と違うのね」  ゆみ子は、今はじめて知った素振りをした。 「そうなの」  よう子の得意気な顔には、なんの翳もない。以前、よう子のクリーム色の車に乗せられたときには、よう子と車との結びつきに特別な感想は浮かばなかった。「銀の鞍」に入ってから、三ヵ月という月日が経ったのだ、とあらためてゆみ子はおもった。 「あんた、感心だわ」  ハンドルを握り、眼を前に向けたまま、よう子が言った。 「よし子は馬鹿だわ。男に惚れるなんて」 「あたしは、もう男に惚れたりなんかしないわ」 「だから、感心だ、と言ったのよ。でも、そんなふうに力んでいるうちは、まだ安心できないわね。あんたの部屋は、待っている部屋よ。誰か好きな男が出てくるまで、身もちをよくして待っている……、そんな感じの部屋だわ」 「…………」 「つまらないことだわ、懲りないのね」  よう子は唇のまわりで笑うと、 「あんた、その気になれば、すぐにこんな車くらい手に入るわ」  その唇が異様に赤く、ゆみ子の眼に映った。新しい車を運転している自分を、頭の中で描いてみて、傷口に薬のしみる快さをこのときにも思い浮べた。 「設備のいいアパートの部屋にだって、すぐに住めるようになるわ。何のために、この商売に入ったのさ。待つつもりなら、なにか地道な仕事をして、けなげに生きてゆけばいいのよ。女ひとり生きてゆくのには、どんな方法だってあるわ」  ゆみ子は、悪意に満ちた気持になって、おもわず言った。 「そのとおりだわ。木岡さんにでも頼んでみようかしら」  その悪意は自分自身に向けられたものだったが、よう子は聞き咎めた。 「それ、どういうこと」  棘はなく、むしろ怪訝な口調である。 「安く遊ばれるといけないから、一役買ってやろう、と言われたの」  油谷の名を伏せて、ゆみ子が言うと、 「木岡が……、生意気なことを言って」 「だって、よう子さんも……」 「あんた、何を考えているの。木岡に何ができて」 「でも、よう子さんのものの考え方は、ぜんぶ自分が教えた、と言っていたわ」  告げ口するつもりではなかった。にわかに険悪になったよう子にたいして、弁解する心持だった。 「あの男、新しいひとが入ると、すぐに自分を大きくみせようとするのね。一役買うなんて、あんな男の役どころは、メッセンジャー・ボーイといったものよ」  その言葉に、嘘はなさそうにおもえてきた。しかし、よう子をこれほどまでに強気にさせているのは、何だろう。「銀の鞍」で、マダムに次ぐ実力者という自信か。ただそれだけなのだろうか。    十八  その夜、小さな出来事が、油谷のいる席で起った。その席には、客は油谷一人、その傍にゆみ子、向い合ってよう子とるみが坐っていた。  調子よく進んでいる酒気を帯びた会話のなかで、よう子が言った。 「だって、油谷さんは身内みたいなものだもの」  あきらかにお世辞と分るそらぞらしさがあったが、しかし悪意はない。油谷にたいしての好意が基盤になっている言葉である。油谷も、その言葉を正確に受止めて、 「身内ということはないが……」  しかし、目立って上機嫌になり、饒舌になった。  身内だとおもったりすると謬《あや》まるが、許してもらっていることを感じるときはある、と彼は喋り出した。気が付かないで、危い橋を渡っていることもあるのだろう。獰猛《どうもう》さが近所で評判の犬の頭を、何も知らずに撫でている少年がいる。門の前の陽だまりに寝そべって、前足に顎を載せ、じっと蹲《うずく》まっている大きな犬である。犬好きの少年が、傍にしゃがみ込んで、好意にあふれた無邪気な手でその頭を撫でる。  犬は、その手を煩わしく感じるが、あまりに率直に示された好意に半ばは感応して、尻尾を動かす。コンクリート地面に横たえてある尻尾の位置を、右左と二、三度変える。しかし間もなく、少年の手が五月蠅《うるさ》くなってくる。いきなり噛み付くのも大人気ないとおもい、咽喉の奥で低く唸り声を出してみる。  満足して咽喉を鳴らしている、と少年は勘違いをして、掌の位置を移し、咽喉の下を撫で上げはじめる。犬は横目で少年を睨み、片側の歯を剥き出しにして、唸り声をやや高目にする。 「そこまでになれば気が付くが、尻尾を面倒くさそうに振ったあたりで、立上って歩いて行ってしまう少年がいるね。その犬と仲良くしたという満足した気持で、行ってしまう。そんな男の子に似た立場のこともあるのじゃないか、とおもうわけだ」  比喩が面白かったので、ゆみ子は声をたてて笑った。るみもよう子も笑っている。不意に、背後で男の笑い声がひびいた。ゆみ子が振向くと、両手のあいだにシェーカーを挟んだ木岡が、リズミカルに躯を揺すりながら、笑い声をたてている。その笑い声はながながと続き、口がわざとらしく開いている。  木岡とるみの視線が宙で絡まり、その瞬間るみの笑いが大きくなり、伸ばした手で油谷の膝頭を叩いた。それは無意識の動作であったようで、その手をいそいで引込めると、拡がり過ぎた笑いを縮めようとした。  油谷は振返ると、木岡に言った。 「聞えたのか」 「面白いことをおっしゃるもんで……」  またひとしきり、笑いが続いた。油谷は慎重な眼になった。話の効果にくらべて、笑いが大きすぎる。ゆみ子も、怪訝な気持になっていた。笑いの消えたゆみ子の顔と、よう子の顔とを、油谷はたしかめるように眺め、とぼけた口調で言う。 「これはどうも。噛みつく犬の頭を撫でたことがあるのかな。それとも、撫でようとしたのかな」  こらえきれぬ笑い声が、ふたたびるみの口から洩れ、背後で木岡の笑い声がわざとらしくひびいた。笑わないのは、ゆみ子とよう子である。依然として慎重な油谷の眼に、一瞬、怯えが走った。よう子は黙って、油谷の顔を見詰めている。いや、油谷の方に向いているその眼は宙を見据えていて、眼の光は内側にこもり、ガラス玉のようになっている。かすかな怒りが、眉のあいだに浮んでいる。  るみはにわかに笑いを収めた。酔いにまかせて失言したあとの白けた気配が漂った。 「つまり、ぼくはトクをしているというわけだな」  気拙《きまず》い沈黙を救うように、油谷が言い、よう子がはじめて口を開いた。 「そうよ、危いところを助かっているのよ」 「もう一度くらいは、許してもらえないかな、どうでしょう」 「駄目でしょうね」  よう子は、ガラスの眼のまま、答えた。    十九  閉店の時刻が近付くにつれて、酒場の中で流れてゆく時間は煮詰ってくる。客も女たちもさりげない顔つきをしているが、頭の中は烈しく回転し、気配を窺う視線が素早く動く。 「誘えるだろうか、駄目だろうか」  客の頭の中にあるのは、おおむねそのような考えである。もっとも、客のすべてがそのようなことを考えているわけではない。帰りのタクシーが拾えるかどうかの心配をしている客もあるし、女たちを送りとどけてまわることを鷹揚に考えている自家用車をもった客もある。  しかし、女たちの頭の中にあるものは、もっと生活に密着している。女たちの考えはそれぞれの分に応じ、あるいはその日の状況によって違っている。自家用車で送りとどけられる女たちの数に入って、電車賃を節約しようとたくらんでいる女。美貌の同僚に便乗して、深夜の食事に誘われることを考えている女。だが、いつも脇役とは限らない。誘われる夜もある。その誘いをチャンスと見做してよいものかどうか。  一軒店を持って独立できる機会が、眼の前にきているのかもしれない。あるいは、結婚してこの世界から出てゆく機会がきているのかもしれない。受止める姿勢を間違えては、機会は掴めないのだ。  よう子は、その緊迫した時間の外にいる。誘いはすべて巧みに受流す。時折、木岡に電話がかかり、間もなくよう子が註文を取りに立上って木岡との間に短かい会話がある。しかし、電話のかかった夜もかからぬ夜も、よう子の行動は同じだ。一人だけで店を出て、闇の中に姿を消す。  その夜、十一時過ぎに、電話があった。店の女の名を呼ばず、木岡が応答して、電話を切った。よう子が立上る筈だ、とゆみ子は注意を向けていたが、動く気配がなかった。  よう子のいる席に、木岡は顔を向けている。その顔に、困惑の表情が浮んだ。しばらく躊躇《ためら》っていたが、カウンターを出て、歩み寄ってきた。よう子の背後にまわって立ち、背を跼《かが》めて耳もとに口を寄せた。  神妙な表情が、木岡の顔に浮んでいた。声は聞き取れなかった。 「厭よ」  小さいけれど鋭い声で、よう子が言う。 「気分がすぐれないわ」 「しかし……」 「あんたのせいよ」  木岡はそれ以上、何も言わず、神妙な表情のままカウンターの中に戻った。ゆみ子は、木岡の動きを眼で追っていた。先刻のけたたましい笑い声と、今の神妙な顔。その二つの両極の間を、木岡の心は揺れ動いているらしい……。そのことだけは分る、と考えながら眺めているゆみ子の眼と、木岡の眼と出会った。  木岡の眼が、はげしく光った。挑む眼だ。誘われる、とおもったとき、油谷の声が聞えた。 「きみ、今夜は一緒に帰ろう」  油谷の誘いに応じることで、木岡から身を躱《かわ》そう、と咄嗟にゆみ子は考えていた。木岡の挑む眼が、厄介なことに巻き込まれる予感につながっていた。 「ええ」  ゆみ子が答えると、油谷がるみに言った。 「きみを、誘ってはいないのだぜ」 「つき合ってあげるとは言っていないわ。今夜は約束があるの」 「よう子さんは、夜はまっすぐ家へ帰る人だからな」 「そうよ、油谷さん、ゆみちゃんが噛み付かないという保証はないのよ。しっかり頑張ってね」  と、よう子が言い、油谷は一瞬戸惑った顔で、あらためてよう子とゆみ子とを見くらべた。    二十  タクシーの中で二人になると、油谷が言った。 「きみ、噛み付きはしないだろうね」 「まだ心配しているの。もっとも噛み付き方にもいろいろあるけれど」  ゆみ子はそう言うと、笑いながら、 「油谷さん、いたいたしいから、つき合ってあげているのよ」  彼は苦笑し、 「だいぶオトナになったね。しかし、やはりよう子は、そうなのか」 「何がそうなのか、分らないわ」 「よう子にはこわいヒモが付いている気がするのだが、きみは聞いていないか」 「油谷さん、よう子と、一度つきあったのね」 「…………」 「それで、許してもらえていたわけなのね。無邪気な、犬好きの少年だったのね」 「だが、ときどきよう子にかかってくる電話は、何だろう」 「やはり、油谷さんも気が付いていたのね」 「バーテンの今夜の態度は、何なのだろう」 「よう子さんは、木岡さんのことをメッセンジャー・ボーイみたいなもの、と言っていたけれど」 「メッセンジャーか。よう子とヒモとの連絡係とでもいう意味なのかな」  タクシーは、ゆみ子の部屋のある町に入っていた。車を降りると、赤紫色のホテルのネオンが眼の前にあった。 「かまわないだろう」  入口で、油谷が言い、ゆみ子は頷いた。三ヵ月前の記憶に、ゆみ子は縋《すが》り、 「何とかなる……」  とおもった。しかし、無事にホテルを出たとして、それが何とかなったことといえるのか、と問い返す声をこの夜のゆみ子は聞いた。三ヵ月前には、身を守ることしか頭の中には無かったのだが。  待っている部屋よ、というよう子の声が思い出された。つつましく身を守って、窓際で糸を紡ぎながら待っている。白い馬に跨がった王子さまが迎えにくる……、そんなお伽噺《とぎばなし》があったかしら。眼の前に、油谷の肥満した腹が見えた。端正な姿勢と対照的なみにくさで、それがいまの自分にふさわしい、とゆみ子はおもった。  白いワイシャツに包まれたその腹は、畳の上に立っているゆみ子にゆっくりと迫り、ゆみ子の背が壁に貼り付いた。行き場のなくなったゆみ子の躯を、その腹が押し、部厚い肉の塊の感触が伝わってきた。その感触は、なまなましいが、やや滑稽でもあった。 「今夜は、もう騙されないぞ」  むしろ、陽気な声である。そして、彼は大きな腹を左右にぐりぐり動かして、ゆみ子の躯に押当てた。その中年男の腹の感触から、不意にゆみ子は腕白小僧をおもい浮べ、心に余裕が生れた。  その余裕を、ゆみ子はふしぎなもののように眺めた。こういうときに余裕ができるのが、「銀の鞍」に勤めてから三ヵ月経ったということか。そうおもったとき、二年のあいだ男の躯に触れていないことを、なまなましく感じた。躯の感覚として、その事実がゆみ子の手足の先まで拡がっていった。  その瞬間、ゆみ子の躯は宙に浮いた。油谷が躯をかかえ上げたのだ。ゆみ子の腰は彼の肥満した腹の上に載る形になっていたが、滑稽さは消えて、逞しい男の腕をゆみ子は全身で感じていた。その二本の腕は、ゆみ子を布団の上に運び、荒々しくその上に投げ出した。  布団の上に落ちた形のまま、ゆみ子は待った。待ちながら、咄嗟の計算が働いた。木岡に誘われた場合にも、こういう形になることから逃れられなかっただろう。逃れられぬものが、ゆみ子自身の躯の中で動いている。木岡と油谷と、どちらの場合が有利だったろうか。取引として有利、というほどはっきりした考えではない。もっと漠然とした損得の感じである。  油谷は厭な相手ではない。気がかりな存在になっていたことを思い浮べ、「いたいたしいから許してあげる」という油谷の言葉を思い浮べ、ゆみ子は眼を閉じて待った。油谷の手が、ゆみ子の衣服を脱がせてゆく。丁寧に、料理する慎重さで、脱がせてゆき、ゆみ子は皮を剥がれてゆく気持になった。その気持が、自虐の快感につながってゆく。  しかし、二年間一人で過した月日が、ゆみ子の躯を少女のものに戻していた。苦痛があり、顔が歪んだ。  油谷に、躊躇《ためら》いが起った。 「きみ、まさか……」  彼の躯は萎《な》えていた。焦る色があらわれ、一層萎えた。 「いたいたしいから、許してあげる」  余裕のある口調で彼は言おうとしたのだが、弁解の調子になった。間の悪さを誤魔化しているようにも聞えた。 「許してくれなくてもいいのよ」  油谷の考え違いを利用する気持は起らず、むしろ少女と思い込ませることに嫌悪を感じた。 「しかし、きみ」 「ばかね。そんなのじゃないわ」 「…………」 「抱いてあげるわ」  ゆみ子は躯を横に向けて、彼の大きな躯を引寄せた。油谷は安全な男になっていた。男のにおいと男の躯の感触を、ゆみ子は懐しく感じた。安全さが、その懐しさを一層強くした。 「これが一番よかったんだわ」  とゆみ子はおもい、何の変化も起らずに済んだのだ、とおもった。アパートの四畳半の部屋を思い浮べ、あの部屋に住みつづけることができる、とおもい、少女のようになっていた自分の躯と部屋のたたずまいを、けなげなものとして受取った。 「待っている部屋だわ」  よう子の声が、ふたたび耳の奥で鳴り、 「まだ、待っているのか。いったい、何を待っているのか」  と、自分に問いかけた。自嘲と自虐の気持が鋭く躯を通り抜け、 「抱いて」  と彼の耳もとでささやくと、強く躯を押付けた。しかし、彼は依然として安全な男のままであった。    二十一  やがて油谷は起き上ると衣服を付け、寝室につづく板の間に置かれている椅子に腰をおろした。煙草に火をつけ、吹かした煙の行方を眼で追い、曖昧な表情になっている。  考え込んでいるようにもみえる。 「男を知らない、とおもったのでしょう」 「違うのか」 「当り前じゃないの。もう長い間バーには通っているのでしょう」 「だが、そういうことだって有り得る」 「そうおもったとき、油谷さんて、喜ばないのね。面倒なことになる、という心配の方が先のようね」 「喜び過ぎて、駄目になることだってあるさ。血がみんな心臓と脳味噌に集ってしまって、下半身は貧血してしまう」 「それじゃ、喜び過ぎたの」 「さて、どうなのだろう」 「あたしも、面倒なことは厭なのよ。油谷さんと同じだわ。心配することはないわ」  彼は黙って、向い合った椅子に腰掛けたゆみ子を眺めている。その顔の曖昧さが、一層濃くなった。 「つまり、そのこういうわけだ……」  言いにくそうな口振りで、口ごもった。不能を恥じて、新しい弁解の言葉を言い出そうとしているのか、とゆみ子はおもった。しかし、違っていた。 「おれは、きみよりも、たくさん稼いでいる。水は高い方から低い方へ流れてゆくだろう。多い方から少ない方へ流れるのは、当然のことだ」 「どういうことなの」 「つまり、きみに小遣いを……」  彼の手が、内ポケットに入った。 「やめて……」  椅子からおもわず立上り、彼に背を向けてベッドの端に坐った。涙が滲んだ。躯を堅くして坐っている肩を、油谷の手がおさえた。 「泣いては困る」  気軽な言い方だったが、ゆみ子の顔を覗きこんだ顔に、困惑の表情があらわになっている。 「そんなつもりで、ここへ来たわけじゃないのよ」 「おれも、そんなつもりじゃない」 「では、どんなつもりなの……。心配することはないわ。面倒なことは、あたしも厭だと言っているでしょう」  背広の内側に差し入れた手が戸惑っていて、指先が内ポケットの縁にかかったままでいるのが見える。 「しかし、おれも女の子に小遣いを渡さないで、浮気のできる齢ではなくなっているのだからな」  彼の表情から、曖昧さが消えてきた。 「だって……」 「惚れたわけじゃないのだろう。それならば、話は別だが」 「惚れられてかまわないの。面倒なことになるわよ」 「…………」 「だから先手を打って、お金の取引の形にしようとしたというの。すこし、自惚《うぬぼれ》が過ぎやしないかしら」 「取引などというつもりはない」 「五分五分の浮気……。それでいいじゃないの。それに、浮気というほどのものではなかったわ」  その言葉で、彼は決心を定めたようだ。指先が内ポケットに潜り、大型の紙幣をつまんだ手がゆみ子の前に差し出された。 「五分五分の浮気だよ。五分五分だから、水が高い方から低い方に流れてゆくわけだ。きみも道楽で水商売をしているわけではないのだろう。恥をかかさないでくれ」  彼の手がゆみ子の手首を掴んだ。掌の上に、紙幣が置かれた。  紙幣に触れた掌の皮膚が、はげしく緊張した。熱したアイロンを押当てられたように、皮膚が焼けた。躯を売ったわけではない。また、油谷も取引という形にしておこうとする企みを持ったわけではない。渡すときに、微妙な心遣いを示したのだが、しかしその紙幣はゆみ子の掌を焼いた。  酒場の女としての洗礼を受けた、とおもった。聖水盆の透明な水が頭にしたたったのではなく、頬に飛び散る濁った水を、ゆみ子は感じた。    二十二  ホテルを出たとき、頭上のネオンの赤紫色が、骨髄を蝕《むし》ばむ病菌の色にみえた。油谷と別れて、部屋に戻り、ゆみ子は布団に深く潜った。俯せになってシーツを噛み、呻《うめ》き声を上げた。  そんな神経では苦労が多い、と言った木岡の声が耳の奥で繰返し鳴った。油谷を恨む気持はすこしもなかったが、呻き声は長いあいだ続き、やがて眠りに落ちた。  悪い夢が、いくつも重なった。  翌日の昼過ぎ眼を覚ましたゆみ子は、部屋の様子がいつもと違うように感じた。布団の中で腹這いになり、首をもたげてあたりを見渡す。黄色く焼けた畳、小さな卓袱台《ちやぶだい》の上に置かれた電気湯沸器、整理戸棚の上の花のない花瓶……、何一つとして変ったところは無かった。  枕もとに投げ出されてある模造皮のハンドバッグが眼に映ると、ゆみ子は手を伸ばして掴もうとした。寝衣の袖がめくれ上り、裸の腕があらわになると、ゆみ子の掌は掴もうとした形のまま宙で停った。ゆみ子の眼のすぐ前に、二の腕の内側があった。  薄く脂の浮いている肌は、色素が濃くて小麦色である。ゆみ子は首を深く曲げ、顔を二の腕の付根に埋めた。肌が鼻梁の固さを感じ、腕の内側に軽く歯を当てた。体臭がにおった。悪夢で滲み出た汗の名残とまじって、やや強くにおった。  ゆみ子は顔を上げ、あらためてハンドバッグを掴んだ。煙草の箱とライターを取出して、腹這いのまま火をつけた。唇から出た煙が、枕もとの畳を這うのが眼に映った。  寝床の中で、煙草を喫うのははじめてのことだった。そのことに気付くと、わざと自堕落に両肘をつき、唇をとがらせて煙を吹き出してみた。 「もう、なにも待ちはしない」  と呟いて、もう一度、部屋の中を見まわした。洗礼を受けた翌日、ゆみ子とその部屋とに喰い違いができていた。「待っている部屋よ」というよう子の言葉は、やはり正しかったようだ。ゆみ子の眼に映る薄汚れた部屋は、不満な気持を起させた。寝床を出て、洗面器にセルロイドの石鹸箱とタオルを容れた。風呂へ行こうとおもったのだ。畳の上に置かれた洗面器を、ゆみ子は立ったまましばらく眺めおろしていた。その洗面器をかかえて、サンダルを履いて、戸外へ出る自分の姿が、不満だった。  風呂屋の板の間に置かれたテレビでは、中年の映画俳優が母親についての記憶を語っていた。ゆみ子の部屋には、テレビは無い。ゆみ子は、孤児である。勝手にチャンネルを切り替えた。画面に、女の大写しの顔が出た。悩んでいる顔である。しだいにその顔が小さくなり、女の全身が画面にあらわれた。背景に、布団と電気スタンドと水差しがみえる。ホテルの一室をおもわせた。カメラが、和服を着たその女の肩から横腹を舐めながら移動し、腰の線から白い足袋《た び》をはいた足の先まで撫でおろした。流行の姦通ドラマなのだろう。  男の手が画面の女の顎にかかり、その顔をぐいと仰向かせたとき、ゆみ子は衣服を脱ぎおわった。浴場のガラス戸に、手をかける。  ゆみ子は、いつになく丁寧に全身を洗った。腿の内側を、ゆっくりと撫でるように洗い、ふと手をとめて、おもった。 「テレビが欲しいな」  夕方、「銀の鞍」へ出かける時刻が迫ると、混雑した電車に乗るのが億劫におもえた。新しい自動車を運転して、よう子が立寄ってくれるのを心待ちにしたが、毎日姿をあらわす筈がなかった。  身仕度をして、外へ出た。駅に行くには、商店街を抜けることになる。時折、立止って飾窓を覗いた。これも平素はしないことだ。幾つ目かの飾窓で、店の中に入り、舶来の香水を買った。  大型の紙幣をハンドバッグから出して、支払いを済せた。油谷に渡された紙幣は、数枚の千円札と硬貨に替った。掌の上の硬貨に、一瞬視線をとめたゆみ子は、商店街を抜けると、タクシーに向って手を挙げていた。  車内で、香水瓶の口を開き、指先を液で濡らすと耳朶に滲ませた。顎を上げて頸を伸ばした。しぜんに唇がすぼまって、接吻の形になった。ちょっとの間、唇をそのままの形にしておいたが、唇の前の空間には特定の男の顔が浮んでこなかった。もう一度、指を濡らし頸の皮膚に指先をにじり付けるようにして香水を塗った。  指先が濡れ過ぎていたのか、皮膚が刺戟を受けてかすかに痛んだ。その刺戟が、一つの記憶を引出した。数日前、読んだ翻訳本の一場面である。それは、吸血鬼の小説だった。柩《ひつぎ》から脱け出した吸血鬼は、紳士の姿をして犠牲を求めて歩きまわる。眠っている犠牲の女の上に、彼は大きなマントを黒い鳥の翼のように拡げて覆いかぶさる。そして、頸の片側、丁度いまゆみ子の指先がおさえている部分に唇を押当てて、血を吸い出す。  そのときから、犠牲は不死の女人になる。しかし、夜の闇が降りてくると、彼女は新しい犠牲を求めてさまよい歩く。彼女も、吸血鬼に変身したのだ。  ゆみ子は頸の片側に、指先を押当てたまま、しばらく宙に眼を据えていた。    二十三 「銀の鞍」に着き、仕度を整えて店に出たゆみ子は、女たちと客のいる情景が以前と違って眼に映ってくるのに気付いた。  ここでもまた、ゆみ子の周囲に拡がる景色が、違ってきたのだ。  空気が奇妙な具合に透明にみえる。澄んでいる、というのとは違う。疲れきったとき、耳の奥で透きとおったかぼそい音が鳴りはじめるような透明さである。  そして、その空気の中で人間たちは半透明の躯をして坐っている。躯の中のからくりが、朧ろげに透視できる心持に、ゆみ子は、捉えられた。  よう子は、なめし皮のように頑丈に光った顔の男の傍に坐っている。有名な金持の男である。よう子の上半身が頼りなげに揺れ、男の肩に倒れかかるように触れた。その細身の躯は、その男の腕に掴まれたとしたら折れそうにみえる。  そのよう子の躯にはしなやかで強靱な細胞が詰っていることを、ゆみ子は前から感じ取っていた。それは、したたかな、よく撓《しな》う躯である。この夜のゆみ子の眼には、もっとさまざまな形が映ってくる。ゆみ子は、よう子の裸を知らない。だが、胸のあたりから腹にかけての拡がりが、脳裏に浮び上ってくる。白くなめらかなその部分は、興奮すると薄桃色に染まり、膨れ上った静脈の枝が青い模様を描き出している。 「本当に、よう子の裸はそうなるのかしら」  ゆみ子は、自分に問いかける。  しかし、その青い模様はゆみ子の眼から去らない。噎《む》せるほどの女のにおいを放つ、薄桃色の拡がりである。それは、荒々しい男の力を招き寄せないで済む筈がない。その拡がりに打当って、鈍い肉の音をひびかせる男の掌。青い網のあいだに烈しく喰い込む男の五本の指先。その五本の指先は、その部分から離れようとするときには、肉をつかみ取ろうとするかのように、一層深く折れ曲る。  よう子の眼が、ガラスの眼になり、呻き声が洩れる。しかし、その苦痛の声には十分に快感が滲み込んでいる。  よう子は、強姦によって処女を奪われたのではあるまいか。あるいは、輪姦によって。  半透明のよう子の躯から、ゆみ子はつぎつぎとよう子という女についての答を引出してきた。その答が正しいかどうかの確証は無い。しかし、それらの答が微妙に重なり合う部分があり、そこからゆみ子は、はっきりした一つの答を引出した。 「よう子には、ヒモがいる……」  その答は、前の夜、油谷の出したものだ。そして今、ゆみ子は確信をもって、その答を正しいとおもい、その答を基にしてさらに考えを進めてゆく。  ヒモといっても、いわゆるチンピラではない。外見は、歴《れつき》とした青年紳士か中年の紳士にちがいない。すくなくとも、バーテンの木岡に圧力をかけ得る男である。したがって、ヒモというよりよう子の夫と呼んだ方がふさわしいかもしれぬ。 「銀の鞍」は、よう子にとって収入を得る場所には違いないが、むしろ待機の場所、あるいは獲物を漁る場所といえる。よう子は鵜であり、男は鵜匠である。男は場所を設定してそこに魚を泳がせ、よう子をその場所に投げる。よう子が魚を咥《くわ》えると、頸のまわりの縄を男は手繰り寄せ、獲物を吐き出させる。獲物といっても、男は恐喝という手段を使うわけではないだろう。それは上策といえず、長続きしない。もっと紳士的な、だがきわめて高価な取引がおこなわれるのだろう。相手によっては、ひそかな圧迫が加えられるかもしれない。美人局《つつもたせ》や恐喝のあきらかな形を取らぬ圧力が、一層多額の金を手に入れるために加えられることもあるだろう。  目立たぬように木岡が取次ぐ電話は、よう子のその夜の相手からのものか、とゆみ子は以前は考えていた。しかし、木岡の受ける電話の相手は、いつも同じ男にちがいあるまい。木岡は、電話を取次ぐことで報酬を得ている。あるいは、木岡とその男とは、一つの組織の中にいるのかもしれない。もちろん、木岡の方が下級の者である。  指令を発し、よう子を操作しているのは、電話の男である。  メッセンジャー・ボーイみたいなもの、というよう子の言葉に嘘はないし、木岡を舞台監督にたとえたとき、自嘲の影が射したのも無理はない。    二十四  ゆみ子は、よう子から眼を離し、あらためて店の中を見まわした。  半透明の躯の群像である。ほとんど透明な外皮で、内側の歯車の動きがこまかく見えている躯もあり、朧ろで曖昧な磨ガラスもある。  よう子と同じくらい古くから働いているなおみ……、この女のことは明確に眼に映っている。  よう子の眼は、素早く動き、よく光る。ときには怜悧にみえ、ときには抜目なく狡そうにみえる。一方、なおみの眼は、いつも酔いを帯びたように、鈍い白い光をよどませている。どこか暢気で、気の良いところがある。したたかな計算を試みるが、どこかで運算を間違える。「銀の鞍」を自分を売り付ける舞台と心得ていて、そのことが露骨に態度にあらわれる。ひそかに振舞うだけの才覚がない。木岡の言葉のように「舞台の底に埋まっている」金鉱を掘り当てることはできず、行き当りばったりの浮気に終るが、なおみ自身その気楽さを愉しんでいるふしもある。  いまも、引締った体格のスポーツ選手の横で上機嫌になっているなおみが、ゆみ子の眼に映っている。肩まで剥き出しの二本の腕がうねうねと動き、傍の男の肩や胸に触れ、首に巻きついている。腕自体が発情した性器のようにみえる。今夜のなおみは、計算することを忘れてしまうかもしれない。  隅の席に坐っているマダム。濁ったガラスの殻で包まれている。趣味の良い地味な和服に、優雅な微笑、それが曲者である。  マダムは、なおみの行き過ぎた態度を、けっして咎めない。しかし、るみやたえ子やゆみ子には厳しい。客にたいしての馴々し過ぎる素振りは、すぐに注意を受けることになる。 「マダムは、よう子のことを知っているのだろうか」 「知らないわけがない」  ゆみ子は、自問自答をはじめる。  やがて、結論が出た。知ったとしても、その事実がマダムの商売に影響を及ぼす点は、何一つとして有りはしない。よう子と取引するのに必要な金銭はかなりの高額であろうが、支払う男にとっては驚くほどの額ではあるまい。むしろ、よう子と密室にこもることの歓びの方が大きい筈だ。  よう子の獲物にされる男たちは、「銀の鞍」の客のなかでも選ばれたものたちといえる。そして、それ以外の客たちは、なおみの受持区域といえる。そういう形で、二人の女の取引する範囲を合せると、「銀の鞍」の客層のすべてに行きわたることになる。つまり、「銀の鞍」の客のすべてが、可能性を持つことになるわけだ。  女たちのすべてが、その種の女であると、店の品格と評判が落ちる。しかし、二人くらいそういう女がまじっていることは、都合がよい。それは、客の男たちに、刺戟と活気と期待を与えることである。  おそらくマダムはそういう営業方針を立てているのだろう。二人だけ、娼婦の徽章《きしよう》を付けている女を傭っておく。  ……しかし、それは果して二人だけだろうか。二人くらいが適当だということは分るが、正確に二人と定まっているわけではない。  ゆみ子は、店の中の女たちに一人一人眼を移してゆく。  るみ。  たえ子。  そして、京子、ひとみ、悦子、雪子、三千代、なな子、れい子。  マダムを除き、ゆみ子自身を含めて「銀の鞍」には十二人の女たちがいる。女たちは、ゆみ子の眼に半透明の躯で映ってくる。よう子となおみのように、はっきりした徽章を、ゆみ子は見付けることはできない。しかし、そういう徽章を見付け出す眼を向けると、すべて女たちの半透明の躯の中に曖昧なものが動く。  ゆみ子は、前の夜、掌に置かれた紙幣の焼け付く感触をなまなましく思い浮べた。    二十五  十日のあいだ、油谷は「銀の鞍」に姿をあらわさなかった。その十日間に、店の十一人の女たちがゆみ子の眼に、以前とはかなり違った姿で映ってくるようになった。ゆみ子自身の眼の在り方が違ってきたためで、 「酒場の女になってきたわ」  と、自分の眼を意識して、ゆみ子はそうおもった。  ゆみ子の耳に届く女同士の会話の断片が、女たちの酒場以外の生活を鮮かに浮び上らせる場合もあった。いろいろの女たちがいて、いろいろの生活を送っているようだった。皆どこかに、暗い影を引きずっているようだった。  ゆみ子は椅子に坐り、押しつけてくる客の横腹から躯をずらして、店の中を見まわした。京子、ひとみ、悦子、雪子、三千代、なな子、れい子。半透明な女たちの躯があちこちの椅子に坐っているが、十日前にくらべて、朧ろで曖昧な磨ガラスの外皮が、透きとおりはじめているのを感じた。  悦子という女。卵型の顔に撫肩で、いつも和服を着ている。十歳ほど年上の病気の夫を持っていて、貞淑である。閉店時刻になると、客の誘いを断って姿を消す。寄り道せずに帰宅することについての証言は、たくさん集めることができる。食べ残したオードヴルの皿に視線を走らせている悦子の顔を見て、その食物を紙にくるんで夫の枕もとに持って帰りたい気持が動いているのではあるまいか、とゆみ子はおもったことがある。おそらく錯覚だろうが、そういう気持を起させる陰気な貞淑さが、悦子には備わっている。  なな子。大柄の色の浅黒い女で、外国の映画女優風の化粧をしている。男より女が好きだという噂があり、酔うと客に露骨な話をする。節度を失った露骨さで、なにものかが、彼女を駆立てているようにみえる。「若い女の子をつかまえてね、教えてやると面白いわよ。途中まで教えてやって、あとは自分でおやり、と放っぽり出すと、自分で続きをやってるわ……」というような、なな子の話声が耳に届いたことがある。正常な性行為では満足しない、という意味の話声が、聞えてきたこともある。なぜそうなのか、と考えると、なな子の躯の中の黒い傷痕の存在を感じてしまう。古い傷だが、いつも黒い血を滲ませて、乾ききらぬ傷痕である。  雪子。丸い愛らしい顔で、やや斜視である。襟刳《えりぐ》りの狭い洋服を着ているが、首の付根とわずかに覗いている胸の皮膚が、抜けるような白さだ。なな子とつながりがあるという噂で、もしも雪子の胸をあらわにすると、そこにたくさんの爪痕や青い痣《あざ》が並んでいるようにおもえてくる。なな子の爪の痕である。いつも胸の隠れる洋服を着ている雪子をみると、ゆみ子はそのことにほとんど確信にちかいものを持った。  そして、るみ。  るみのことは、前からよく分っている心持が、ゆみ子にあった。 「油谷さん、しばらく見えないわね。どうしたのかしら」  ゆみ子は、何気ない口調でるみに話しかけた。油谷の姿を見ない日数は十日、という数字が正確にゆみ子の頭に浮んでいる。るみには油谷との関係を見破られたとしても構わない、という気易さがあった。 「あら、知らなかったの。いま、仕事でパリにいるのよ、明日帰ってくる筈だわ」  油谷がフィルム輸入の商用で外国出張中という事実を告げたわけだが、るみのその口調には、客の動静を報らせるだけのものとは違う気配があった。なぜ、るみは知っていて、自分は知らなかったのか。  るみのことはよく分っている、とおもっていたが、具体的な事柄は何一つとして知っていないことに、ゆみ子ははじめて気付いた。  最初油谷に誘われて旅館に入ったとき、ゆみ子はるみにその場を切抜けるための役目を頼んだ。頼んだとき、一瞬、るみは不機嫌な顔をみせた。面倒で、億劫なための顔つき、とおもっていたが。るみが先なのか、自分が先なのか。るみは、知っているのか、知らないのか。花札を引いて過した一夜のために、るみが安心しているとも考えられるが……。  ゆみ子は、るみの顔を眺めた。にわかに、るみの躯が不透明な外皮に包みこまれてしまうのが、ゆみ子の眼に映った。 挿 話 (作者が、ある女性に貰った話。話に出てくる酒場は同じクラブと呼ばれているものでもやや規模が大きく、踊り場がある。「銀の鞍」には踊り場はない)  踊り場は、男女の群で混雑していた。曲がマンボのリズムに変り、赤い照明のなかの男と女の躯の動きが、忙しくなった。その光景を、野本は薄笑いを浮べて眺めていた。  野本は退屈している。彼の傍には、店の女が二人、勝手なことを喋り、勝手にビールを空けていた。芳江も妙子も、ひそかに野本と縁を結び、野本さんは見かけによらず紳士だからなどと言い合って、仲睦まじい態度で互いに探り合っている。この二人の女に、野本は飽いていた。しかし、店の中に歩み入ると、メンバーが指名の女を野本に訊ねる前に、二人ともそれが当然の顔つきで、野本を囲みにくる。  野本は、女に耳打ちする必要のない限り、ダンスはしない。いま、踊り場で見るような、パートナーと躯を離してやたらに動きまわる仕種は、無意味な体力の消耗としか考えられない、と野本は薄笑いを浮べていた。  踊り場の中央で、和服の袖をはためかせてくるくる回っていた女が、突然、うおっと呻き声を発した。顎を反らせて上向いた顔に、赤い照明が集って、野本はその女の顔をはっきりと見た。一重瞼の細い眼、膨らみのない鼻、なだらかな頬の線、動物的な呻きを洩らした唇は、精いっぱい開いているのに、さくらんぼのような愛らしさだ。異様であった。リズムが高揚し、ダンスに熱中してくると、短かい声を上げる場合を、野本はしばしば見た。しかし、それらの呻き声は、陽気な戯れのように見えたものだ。いま、異様に感じたのは、その女の容貌のせいだ、と野本はおもった。  女の顔について、一つの概念を持っていたことに、野本は気付いた。眼の大きい、表情のよく動く、骨格のはっきりした顔の女を、野本はしばしば遊び友だちに選んだ。浮薄で危険のすくない感受性、快楽にたいする敏感さなどを感じさせたからだ。それに反して、和服の似合う、表情の乏しい卵型の女の顔は、貞節とか淑やかさという言葉と結び付き、快楽を追うにしてもそれは内攻性のものにおもわれた。  あらわな快楽とは無縁におもわれる女の顔が、赤い光線のなかで喘ぎ、裾を乱して、踊りに熱中している。 「あの娘《こ》の名は」  芳江が、野本の視線を辿った。 「あの着物の娘でしょう。梢さんっていうのよ」 「変だとおもわないか」 「なぜ」 「いや……、ちょっと呼んでみてくれ」  妙子が手をあげて、メンバーに言い付けた。梢は、野本の真向いに腰かけた。着せ替え人形のような肩のない胸を、呼吸のたびに動かして、鼻に汗をにじませている。野本がハンカチを渡すと、素直に受取って、顔をおさえた。黙って、ハンカチを野本に戻した。 「きみは、ダンスが好きらしいね」  梢は返事をしない。そのかわりに、一重瞼の細い眼が光った。見開けば、みずみずしさが溢れ出るのではないかとおもわせる、もどかしい光。  野本は背筋を伸ばして、煙草のけむりを吹き上げながら、視線だけで梢と対していた。こういう何気ない、まるで退屈しているような態度を見せるときの野本は、じつは積極的な心持になっているのである。周囲に無関心なとき、女に野心を抱いていないとき、野本はテーブルの上に躯を乗り出して冗談をつぎつぎと投げ出しながら、活溌に振舞う癖がある。 「きみは、いつもそんな具合に黙っているのか」  梢の小さな唇が、閉じたままで笑った。笑いが消えると、またもとの沈黙に戻る。音楽は、スロー・バラードになっていた。 「踊ろう」  芳江の二の腕をかるく叩いて、野本は席を立った。 「いつもああなのか、梢という娘は」 「そうね、あまり話すのを見たことないわ」 「あれで、よくつとまっているな」 「それが変なのよ、割に御指名が多いんだから」  野本の胸に頬を押しつけていた芳江は、 「もっとも……」  と、言葉を濁して含み笑いした。野本の頬の筋肉に、一瞬、緊張が走るのが芳江に分った。しばらく焦《じ》らしてから、芳江は言った。 「梢さんはね、早退の名手なの」 「…………」 「お客さんの顔を、あの眼でじっと見詰めているでしょ。そのうち、何かキッカケがあって、見詰められたお客さんが立上る。彼女、それにくっついて一緒に店を出て行ってしまうの」 「名手というのだから、そんなことがしばしば目につくわけだね」 「そう、しょっちゅう」 「しかし、べつに早退しなくても、店が退《ひ》けてからでいい筈だがな」 「そこのところは、あたしにもよく解らないの」  野本は、不意に女の耳もとへ口を寄せた。 「店が終ってから、どう」  芳江は返事のかわりに、躯をやわらかくくねらせた。  始めから終りまでの按配が、寸分の狂いなく予想できる夜を約束したことを、野本は悔んだ。しかし、酔いがまわると、彼は手近な女とそういう約束をしてしまう。  四、五日経った。  野本は梢を席に呼んだ。梢の左眼のまわりに、青黒い痣が滲みつくようにできていた。 「それ、どうした」 「車の事故」  細いが重たい声で答える梢の右の眼が、涙ぐんでいるような光り方をした。その片眼を見詰めると、梢は白い前歯をちらりと見せて、下唇を噛んだ。野本は、煙草のけむりがけむたいような顔になった。躯の底で欲望が動いたのだ。青白い顔に痣のできた梢には、病的ななまめかしさが漂っていた。梢が他の席に呼ばれると、待ち構えていた芳江が野本に躯を寄せて、 「あなたのために、調べておいたわ」 「それも営業のうちか」 「まじめに感謝しないと、教えてあげないわよ。あなたが退屈してるって、この間の朝、感じたから」 「この間の朝、か」  芳江は含み笑いをして、野本の眼を見詰めながら、梢についての情報を語り出した。  梢は、誘われれば誰とでも寝る女である。男と二人だけになると、梢はかならず生活の窮状を訴える。ある中年の客は、不用意に、店の女に前夜のにがにがしさを洩らしてしまった。 「あの女には閉口したよ。あの最中に、冷蔵庫の月賦が気になって、なんて言うんだからね」  たしかに、梢が客と店を出て行くキッカケとなる話題には、一定した型がある。 「きみは大柄の着物よりも小紋のほうが似合うな」とか、「スイス製の時計が安く手に入ってね」とかいう言葉が客の口から出ると、梢の細い眼が光りはじめる。そして、二人は店を出てゆく。梢が周囲に気兼ねする様子もなく早退するのは、彼女に友人が一人もいないこともある。しかし、店が終ってからの時間を梢が自由に使えないのが、最も大きな理由である。 「……というのはね」  野本の表情を確かめて、芳江はまた含み笑いをみせた。 「彼女、男と一緒に住んでいるのよ。若くてハンサムなバーテンと一緒なの」 「その色男、稼ぎがないというわけか」 「そうでもないらしいわ。たとえ稼ぎがないとしたって、女一人がちゃんと働いていれば、二人で生活できるくらいは稼げるわよ」 「きみのことかな」 「馬鹿ねえ。知ってる癖に」  野本は、芳江の私生活を何も知らない。 「そのハンサムが、物凄く嫉妬ぶかいのよ」 「なるほど」 「毎晩電話をかけてくるだけじゃ足りなくて、ときたま店にやってくるの。運悪く、梢さんのいないときの彼の顔ったらないわ。ぎらぎらした眼がロンパリになっちまう」 「別れたらいいのにな」 「とおもうでしょう。ところが梢さん、浮気する癖に、彼に相当のぼせているのよ。彼がくると、気味のわるいくらい仲が良いの。家へ帰れば二人きりになれるのに、店にお金を払ってまで、仲良くしているのよ」  梢についての話を聞くのが、野本は疎《うと》ましくなってきた。しかし、芳江はその気配を十分承知して、一層梢の話を野本の耳にそそぎ込む。 「あの痣、自動車事故なんて、嘘なのよ。彼、殴るのよ」 「殴られたって、仕方がないさ」 「でも、彼女、殴られたいために、浮気するみたい。痣の消えないうちに、早退しちゃうんだから……。どう、がっかりした」  梢が席に戻ってきた。芳江は、野本の顔を見詰め、ちらと笑って席を立った。 「きみ、まだ痛むのか」  野本の言葉に、梢は折れそうにしなやかな指を、そっと痣に当てた。 「すこし」  低い声で答え、梢はその指をゆっくり痣の上で動かした。その痣を慈しんでいるかのようにみえ、野本は顳〓《こめかみ》が熱く燃えるのを感じた。荒々しく梢の手首を掴むと、 「踊ろう」  踊り場で、二人は躯を寄せ合った。 「梢さん、綺麗だね」  女を口説くときには、陳腐な言葉をおそれてはいけない……。そんなことを考えながら、野本は次の言葉をたたみかけた。 「きみには、独特の風情がある。こまかい雨に霞む、桜の花びらのような」  言い終ってから、野本はいまの言葉は梢を早退させるキッカケにはならぬ、と気付いた。小紋の着物やスイス製の時計とはかけ離れた、とりとめのない言葉なのだ。そのとき、梢が、耳もとでささやいた。 「好きよ」  二人はそのまま、夜の街へ出た。春の霞のような言葉がキッカケとなったのだ。惚れられたか、と野本の自尊心がこころよく擽《くすぐ》られた。  二人だけの部屋に入ると、野本は梢の頸すじに唇を当てながら、帯に手をかけた。梢は細い指を、突立てる形に野本の胸に当て、 「自分でするわ」  控え目な言い方に、艶めかしさがあった。野本は躯を離し、余裕をもった手を、テーブルの上の茶碗に伸ばした。 「この帯」  と、梢は帯を解きながら、一人ごとのように言う。 「この着物に似合わない……」  白地の小紋に、煉瓦色《れんがいろ》の無地の帯。 「良く似合っているよ」 「でも……」  と、口ごもって、 「もっと似合う帯、このあいだ見つけたのよ。△万円……、安いでしょう」  平素、無口な女が、一息に値段まで言った。野本ははずしかけたワイシャツのボタンを元に戻し、黙って財布を内ぶところから抜き出した。梢は扱《しご》きを解きながら、伏目で野本の手もとを窺う。  野本は、紙幣を抜き取った。梢は小さい花柄の長襦袢姿になって、躯から力を抜いた。膝をくずして斜めに坐り、男を見上げる。 「立ってごらん」  全身に媚を漂わせて、梢は男の正面に立った。  野本は片手の指先を茶碗に浸し、濡れた指先を梢の白い額にすうっと横一文字に走らせた。梢の口から小さい叫び声が出たとき、野本は女の額に紙幣を貼りつけていた。長襦袢姿の梢は額に紙幣を貼りつけたまま、一瞬、棒立ちになった。野本は上着を掴み、 「おれは帰る」  入口の方へ歩み寄った。 「待って」  梢は紙幣を払いおとし、駆け寄って野本の腕をおさえた。 「帰るなら、お金、持って行って」 「おれにたいする侮辱料だよ。娼婦と寝る趣味はない」  惚れられたか、と北叟笑《ほくそえ》んだ気持が裏切られたための仕打だった。そのことに、野本は気付いて、一層苦い味が舌に残った。平素は、むしろ金で片付く関係のほうを望んでいるのである。 「あなたが好き」 「では、なぜ」 「だって、そうしないと、彼に悪いの。彼が可哀想なの。お金を貰う関係なら、彼を裏切ることにならないもの」 「彼って、誰だ」  野本は梢を見詰めた。 「愛しているの、彼を」  訴える眼で、梢は野本を見上げた。野本の腕に深くからんでいる梢の細い指を、野本は一本一本、無言で引きはがした。五本の指が離れようとしたとき、不意に梢は躯全体で、野本の胸に倒れかかった。 「あなたと寝たい」  細い眼が光り、左の眼を隈取《くまど》っている青い痣を、電燈の光が正面から照らし出した。 「だから、あたしを買って」 「きみに貸しておくよ。今度にしよう」  梢を部屋に残して、野本は暗い路地に出た。 「今度にしよう、か」  背中に粘りついているものがある気持で、野本は二、三度ぐりぐりと肩を動かし、煙草をくわえた。 「卵型のあの顔は、やっぱり貞女のしるし、ということか」    二十六  翌日の夜、油谷は同年輩の男を伴って「銀の鞍」にあらわれた。二人の男は、それぞれ小型のボストン・バッグを一つ、手に持っている。  油谷の気配とるみの気配を窺いながら、ゆみ子は彼に訊ねた。 「飛行場からそのまま銀座へいらしたのね」 「そういうわけだ」 「どうして、外国へいらっしゃることを、教えてくださらなかったの」 「言わなかったかな」 「ええ」 「おれたちのような商売だと、海外出張はべつに取立てていうほどのことではないからな。いちいち報告して歩くものでもないさ」 「でも……」  そのとき、マダムが席にきて、油谷の連れの男に声をかけた。 「灰山さん、いったいどうなさっていたの。ずいぶん長いあいだ、お顔を見なかったようだけど」  灰山と呼ばれた男は、口を開きかけたが言葉が出ず、せわしなく瞬きした。油谷が、替りに答えた。 「こいつは、恋愛問題がこじれてね。なにせ妻子がいるので、話が厄介になった」 「そういえば、憔悴してみえるわ」  と、マダムが半ばからかいの口調で言う。 「旅行の疲れだよ。油谷と一緒だったんだ」 「そうだ、君。やはり帰ってきたことを報らせてあげたほうがいいよ」  油谷の口振りで、報らせる相手は灰山の恋人と分った。しかし、灰山は生返事したまま、立上ろうとしない。 「お大事に……」  マダムは、愛嬌のよい笑顔をみせて、他の席に移ってゆき、入れ替りにるみがきた。るみは油谷には眼だけで挨拶を送り、 「あら灰山さん、お久しぶり。ごたごたは、すこしは収まりまして」 「惚れているんだから、収まりにくいわけだ」  と油谷は言い、もう一度、灰山を促した。 「君、電話をかけておけよ」 「しかし、呼び出し電話なので、頼むのが気が重いんだ」 「厭がるのか」 「そういうことはないんだが」 「あたしが、かけてあげましょうか」 「そうだ、るみに頼むといい」  灰山が曖昧にうなずき、るみが立上った。彼は落着きなく、上着のポケットを探りはじめた。るみが戻ってこないうちに、と、ゆみ子は油谷に言った。 「でも、るみちゃんは知っていたわ」 「え、何のこと」 「油谷さんがパリに行って、今日帰っていらっしゃるということ」 「そうかな。それじゃ、何かの話のついでに、そんな話が出たのだろう」  油谷はさりげなく答えてから、ゆみ子を見詰めている顔を不意に崩すと、 「なにかヤキモチを焼かれているような気分だがね」  その言葉で、ゆみ子は内心狼狽した。油谷は言葉をつづけて、 「そんなことより、灰山の煙草が切れたらしいよ。持ってきてあげなさい」  席を立って、ゆみ子はカウンターの隅に、煙草を取りにいった。電話機はその場所に置かれていて、送話器におくりこむるみの声が聞えた。丁度、呼び出された相手が応答したところのようで、 「もしもし、奥さまですか」  と、るみは言っている。相手が曖昧な返事をしたらしく、 「灰山さんからのお電話ですが、奥さまですね」  執拗に、るみはもう一度繰返した。 「奥さまですわね」  ようやく電話機を離れたるみは、灰山に合図を送った。ゆみ子は、いまのるみの言葉の意味を考えていた。「奥さま」と呼ばれる立場にいないで、そう呼ばれるようになりたいと熱望している女性にたいする、サービスの言葉と考えたらよいのだろうか。それにしては、るみの言葉は、執拗に繰返され過ぎたとおもえる。  むしろ、その女性の熱望にたいする嫌がらせとからかいのようにおもえた。ただ、安全な場所にいる人間のからかいと嫌がらせにしては、その執拗さには陰にこもったところがある。るみ自身にもその熱望があって、相手をいじめることによって、自分も自虐の陰気な快感をぬすみとっている……、と考えるのが納得できる答のようだ。  そうすると、るみは誰の妻になることを熱望しているのだろう。灰山か、油谷か、それともまったく別の誰かか。  灰山の電話は、いつまでも終らない。    二十七  陽気でお人好しの女、とゆみ子はるみのことを考えていた。たしかに、るみにはそういう部分もあるが、しかしもっと大きな隠れた部分があるようだ。  間違っていた、とゆみ子はおもい、意味なく周囲を見まわした。あちこちの椅子に坐っている女たちが、ふたたび部厚い磨ガラスで被われ、朧ろげで曖昧なものに戻っていた。その眺めは、無気味だった。  もう一つ、ゆみ子の頭に這入りこんできたものがあった。先刻、油谷は「ヤキモチを焼かれているような気分」と言った。はたして、そうなのだろうか。心の中に、油谷を独占したい気持が生れているのだろうか。自分にとって、気がかりな人物以上のものに、油谷が変ろうとしているのだろうか。  今夜は、油谷と一緒に帰ろう、るみを押除けても、一緒に帰ろう、とゆみ子はひそかに心を固めた。自分の心を確かめてみよう。また、そのときのるみの気配で、るみと油谷の関係についての手がかりが掴めるかもしれない。  酒場に勤めるようになってからの三ヵ月半の間、自分から男を誘ったことは一度もない。誘うことに、こだわりがあり、十一時半に近づくにしたがって、重い塊がゆみ子の咽喉の奥に痞《つか》えた。  その夜も十一時過ぎに電話が鳴り、バーテンの木岡が応答して切った。依然として、木岡はよう子のためのメッセンジャーの役目を果している。今夜もまた、よう子はベルト・コンベヤに載って、運ばれてゆく。ゆみ子はそういうよう子の生き方を気楽なものにおもい、一瞬、羨望の気持をもった。それは、痞えている重い塊のせいだが、そうおもった自分にゆみ子は怯えた。  しかし、ゆみ子が口を開く前に、油谷は気軽な口調で、ゆみ子を誘ったのだ。 「今夜、一緒に帰ろうか」  同じ席に、るみがいた。やはり、るみとは関係がなかったのか。いや、この前もるみのいるところで油谷は誘ったのだ……、とゆみ子はおもい、帰国したその夜に誘うのだから、あるいは油谷は独身なのか、ともおもった。しかし、そのとき、るみの声がした。 「お宅に帰らなくていいのかしら」 「帰るさ、結局は帰るわけだ」 「おさかんなことね」  咎め立てる口調ではない。そこには、むしろ陽気でお人好しのるみが坐っているようだった。  店を出て、タクシーに乗ってから、ゆみ子は迷いながら訊ねてみた。 「油谷さん、るみちゃんとは……」 「るみか、あれは気にしないでいいんだ」 「気にしないでいいって……」 「るみとはいつも友好関係が崩れないで済むようになっている。今夜こうやって、きみと一緒に出てきても、一向にかまわない」 「かまわない、って言うと、油谷さん、るみちゃんと関係があるの」 「え、知らなかったのか」  余計なことを言ってしまった、という表情ではない。雨戸を閉めきった部屋に朝からこもっていた男が、夕方おもてへ出て、 「おや、雨降りだったのか」  と、言うときの口調である。むしろ唖然として、ゆみ子は油谷の顔を見た。 「ところで、今夜、いいんだろう」  平然として、彼は誘った。 「厭、厭よ」 「厭、なぜだろう」 「だって……、油谷さん、いったいるみちゃんとどういう関係なの」 「気にしなくてもいい。つまり、きみが気にしなくてもいい関係なんだ」 「というと、関係がないの」 「案外、子供なんだな。関係がないわけがないだろう」 「それなら、どういう関係か教えて頂戴」 「教えることはできないね。るみのために、それはできない。おれは口が堅い人間なんだ。きみも安心していいよ」  油谷は、ぬけぬけした口調で言った。  厚顔無恥……、とゆみ子は心の中で呟いてみたが、その厚かましさにふと心が動いた。それは、部厚い胸板に頬をすり寄せている感じに似ていた。    二十八  赤紫色のネオンを掲げた旅館の門を、ゆみ子は油谷の片腕に寄り添うようにして通り抜けた。躊躇《ためら》いのない足の運びに気付いて、ゆみ子は一瞬立止りかけた。 「まだ、馴れないのか」  油谷は掌でゆみ子の肩をかかえこみ、顔を覗いて、言った。女の初心《う ぶ》さに好奇心を持ち、引出せる快楽の量を計っている眼にみえた。しかし、ゆみ子は自分の躊躇いのなさに躓いたのだ。  その躊躇いのなさは、油谷に心が寄り添っていることを示しているのか、酒場の女という仕事に馴染みはじめたためなのか、考えてみたが分らなかった。  部屋に入り、女中が茶を運んできて立去るまでの気詰りな時間が終っても、ゆみ子は椅子に腰をおろしたままでいた。油谷は、その椅子の傍に立ち、ネクタイをほどきながら、ゆみ子を見おろしている。  ゆみ子が椅子から立上ることを、催促している気配ではない。しかし、彼の指は絶え間なく動いて、ネクタイを取去ると部屋の隅に投げ、ワイシャツの釦《ボタン》をはずしはじめた。  その気配を訝しくおもい、顔を上げて油谷を見た。彼の眼に、平素見られぬ異様な光があった。ゆみ子が椅子から離れることを促す光ではなく、逆にゆみ子の躯を椅子に嵌め込み押据える光にみえた。  ゆみ子の眼に怯える色が走ったとき、彼の両手がゆみ子の肩をおさえつけた。ワイシャツをはだけた胸がゆみ子の顎に押当り、肩から横腹に沿って下へ移動した彼の二つの掌が、不意にゆみ子の両脚をすくい上げた。強張ったゆみ子の片脚が、椅子の肘かけに跨がり、椅子に嵌めこまれた躯が捩《よじ》れた。  力を掌にこめて、ゆみ子は彼の胸を押除け、鋭く声を出した。 「やめて、どうしてみっともない恰好をさせるの」 「厭なのか」 「当り前じゃないの」  手の力が弛み、念を押すように再び力がこもって、 「みっともない恰好をしたくないのか」 「厭」  怒りの眼を、油谷に向けた。そのゆみ子の眼を見ると、彼の力が抜けた。戸惑ったように、彼は椅子の傍に佇んでいる。ゆみ子は立上り、彼の躯に寄り添うと、そっと頬を肩にもたせかけて、ささやいた。 「ベッドへ行きましょう」  口から出た露骨な言葉に、ゆみ子は自分で驚いた。いまの状況からはやく脱れたいための言葉なのだ、とゆみ子は、自分に言い聞かせた。  ベッドで、油谷の眼の光が消え、その躯は萎えたままである。今夜もまた油谷は安全な男になっているが、ゆみ子はその安全さを懐しいものにおもえず、かえって危険を感じた。それが、どういう種類の危険なのか、手探りする気持で訊ねた。 「いつも、こうなの」  油谷は返事をせず、ゆみ子に体重を預け、背中にまわした二つの腕でゆみ子の胸を締めつけた。ゆみ子は眼を瞑《つむ》り、じっと動かない。そのままの形で、数分間経ったが、依然として、油谷は不能であった。強く触れ合っている油谷の胸が汗で湿るのをゆみ子は感じ取り、眼を開いた。眼の前に、油谷の顳〓があり、その皮膚にまるい汗の粒が並んでいる。汗の粒がふくれあがり、皮膚の上を移動して、シーツに落ちるのが見えた。ゆみ子は、余裕のある心になって、言った。 「もう、やめましょう」  油谷の顔に苦笑が浮んで、躯を離すと、黙って衣服を着けはじめた。かるい放心がゆみ子を捉え、躯を横たえたまま、油谷の動作に眼を放っていた。彼の躯が布片で覆われているのに気付くと、ゆみ子は自分の裸を鋭く感じ取った。荒々しい手で剥き出しにされた錯覚があり、起き上るといそいで下着に手を伸ばした。  衣服を着けたゆみ子と油谷が顔を見合せたときには、彼の表情は平素のものに戻っていた。落着いた、むしろふてぶてしい口調で言った。 「素直すぎるから、いけない」 「素直すぎるって」 「きみの躯が、素直すぎる」  不意打の言葉で、羞恥の色が浮ぶのを、ゆみ子は感じた。油谷の眼の光が強くなり、光に異様さが混った。片手をゆみ子の肩に置いて、指先を肩の肉にめり込ませたが、すぐにその手を引込めると、 「帰ろう、きみの住居まで送って行くよ」  おもわず拒否の身振りになり、ゆみ子は自分の部屋が恥部に似たものになっていることに気付いた。しかし、油谷はゆみ子の腕を強く掴んで離さず、旅館を出ると引立てるようにゆみ子のアパートの方角に足を向けた。    二十九  黄色く陽に焼けた畳の上に立って、油谷は部屋のなかを見まわした。 「素直な部屋だな」  と、彼は言い、それは辱《はずか》しめる言葉のように、ゆみ子の耳に届いた。 「待っている部屋、とよう子さんは言ったわ」  おもわずそう言ったが、反駁している気持にはなれない。部屋の質素さに、誇りを持った気持になれない。もう何も待ってはいない、待つということは別の世界の事柄なのだ、とゆみ子はおもう。 「待っているって、なるほど、バスがないと不便だろうな」 「違うわ。そういう意味ではないの。身もちをよくして、待っている……」 「結婚する相手を待っている、つまり、そういう意味か。よう子でも、そういう考え方をすることがあるんだな。……ところで、ゆみ子さん」  呼びかけて、彼は確かめる眼で、ゆみ子を見詰めた。その視線を鋭く感じながら、ゆみ子の心は揺れ動いていた。たしかに、彼は自分の名を呼んだが……、と彼女は部屋のなかを見まわした。バー「銀の鞍」のゆみ子という女は、二年前にこのような貧寒とした部屋で、ガス自殺を遂げていた。待つことに草臥《くたび》れて、死んでしまった……。わたしは、ゆみ子ではない。わたしの本当の名は、よう子なのだ。と彼女は心の中で呟くのだが、そのよう子という名が、「銀の鞍」のよう子の名と重なり合いはじめる。  よう子の名と、ゆみ子の名の中央に立って、揺れ動いている自分を彼女は感じている。 「ゆみ子さん……」  もう一度、念を押すように、油谷は言い、 「まだ、待っているのか」  油谷の言葉で、彼女はゆみ子という名に規定された心持になり、その名を押脱ぐように答えた。 「もう、待ってはいないわ」 「そうか」  ふたたび、彼は確かめる眼になった。その眼が厭で、彼女は問いかけた。 「油谷さん、よう子さんと……、あったのでしょう」 「…………」 「一度だけだけど、関係があったことが分っているわ。この前のお店の会話で分ったのよ」 「そうか」 「よう子さんのこと、教えて。そのときも、油谷さんは駄目だったの」 「なぜ、そんなことを知りたいのだ」 「知る必要があるの」 「知りたいのは、おれのことなのか、よう子のことか」 「よう子さんのこと」  ゆみ子という名を拒否したいま、よう子の名へ向って手探りしている自分を、彼女は感じている。 「よう子のことを、詳しく知っているわけではないさ。したたかな女だということは、はっきりしているが」 「なにか、被害を受けたの、こわい男が付いているという話だけれど」 「知っているのか。しかし、客に圧力をかけてくるような安っぽい商売をする男ではない。そのほうが、本もののこわい男ということでもあるが。したたかと言ったのは、そういう意味ではない。よう子というのは、男にたいしてどこまでも女になれる。そのしたたかさだ」 「分らないわ」 「分らないだろうな。つまり、あの女は、男の加える力をどこまでも受容れる。男の力に従順というより、むしろ喜んで受容れる。どんなみっともない恰好でもしてみせる女だ。躯に傷が付かないかぎりはね。傷がつくと、こわい男にたいして、具合がわるいにちがいない」 「それが、どうしてしたたかなの」 「どこまでも女になれる相手からは、結局、男はしたたかさを感じとるものさ。いまに、きみも分るときがくる」  そう言うと、油谷は彼女の手首を掴んだ。強張ったその躯には触らず、油谷は彼女の人差指の先をつまみ、ゆっくりと反らせはじめた。その指はよく撓ったが、手首から五センチほどのところで限界がきた。 「痛いわ。やめて頂戴」 「もし、この指がおれの力をどこまでも受容れて反っていったとしたら、薄気味わるくなってくる。そして、その指をしたたかなものにおもう、つまりそういう感じだ」  と油谷は言い、彼女の指を離した。  想像の中のよう子と、油谷の話の中のよう子が一致していることを、ゆみ子は知った。折れそうに繊弱だが、よく撓う強靱な躯である。その躯が、油谷の手で椅子に嵌めこまれ押据えられて、醜く捩れる情景が、眼に浮ぶ。歪み捩れることが、その躯を刺戟し、白くなめらかな皮膚のひろがりが、薄桃色に染まり青い静脈の模様に彩られる。  醜い恰好を悦んでいる躯である。その想像が、一瞬ゆみ子を刺戟し、すぐに嫌悪に変った。 「分ったか」  油谷が、ゆみ子の顔を見詰めて、言う。 「分るけど、厭だわ」 「そうだろう。そうでなくては、嘘だ」  と油谷は言い、しばらく間を置いて、 「しかし、この部屋はきみに似合わないな」 「なぜ、ですか」 「きみの躯がこの部屋から、はみ出している。もう待つことはやめた、と言ったじゃないか」 「でも……、それで」 「それで、と言われると、困るが」  一瞬、油谷はひるんだ眼になり、部屋のなかを見まわすと、 「遅くなった。もう帰る」  ふてぶてしい口調になって言ったが、出口へ向う背中の線に曖昧さが浮び上っていた。    三十  部屋から躯がはみ出している、という油谷の言葉が、ゆみ子の躯に滲み込んだ。ゆみ子という名を、自分の躯から引剥がそう、と彼女はおもった。たとえ、引剥がすことができても、「銀の鞍」ではゆみ子の名から脱れることはできないが……。  その夜から、ゆみ子の注意が、一層よう子に集中しはじめた。しかし、いくら注意をよう子の身辺に向けても、よう子の日常は平素とすこしも変らない。十一時過ぎに、電話のベルが鳴り、バーテンの木岡が短かい会話を電話機と交す。何気ない態度で、よう子がカウンターに歩み寄り、木岡と二こと三こと話し合う。閉店時刻になると、よう子は素早く姿を消す。電話のないときも、姿を消すことは、同じである。  それが、よう子の日常生活の締めくくりの一齣である。特殊な情景としてではなく、よう子の日常として受取れるところに、よう子のしたたかさが感じられる。そして、よう子はいつもなめらかな、爪のかからぬ白い顔で、「銀の鞍」の椅子に坐っている。  その姿をみると、ゆみ子は自分とよう子との間にはるかな距離を見て取ってしまう。そして、中途半端の場所で、揺れ動いている自分を痛いほど感じる。  従業員慰安の春の旅行がおこなわれた。よう子は欠席した。この種の旅行は、一つには働いている女たちの義務である。億劫な面が多いのだが、欠席できない行事なのだ。 「よう子さんて、勝手ができていいわね」  箱根の麓から山を登ってゆく電車の中で、なな子が棘のある口調で言った。 「あら、なぜかしら。旅行って、愉しいじゃないの」  隣の席に坐っている雪子が、なな子に媚びるように言う。なな子は、掌を雪子の腿に這わせ、 「おまえは、別だよ」  と言ったが、眼は向い合わせの席のゆみ子とるみを等分に見比べている。  なにを考えながら、なな子は見比べているのだろう、とゆみ子はおもう。なな子の考えは分らない。しかし、見比べられることによって、油谷がゆみ子とるみの間に訪れてくる。油谷とるみとは、いったいどういう形の繋りなのだろう、とゆみ子はおもい、 「それよりも、自分と油谷との繋りは、どういう形なのだろう」  という疑いに捉えられる。そういう疑いを引出す役目をしたなな子の眼を、咎めるように見返し、視線を隣席の雪子に移す。ゆみ子は、眼の前の二人の女を、見比べた。  雪子の着ている洋服は、いつものように胸を覆い隠している。雪子の腿に置かれたなな子の掌は、指先が深く曲ってスカートの布に喰い込んでいる。雪子の胸に、たくさんの痣と爪痕が並んでいることに、ゆみ子はあらためて確信を持った。  ゆみ子は、考えごとが一段落した気分になり、煙草に火をつけた。ゆっくりと煙を吐き出し、車窓の外に眼を放った。早春の山と谿は、やわらかい緑におおわれている。葉を落さずに冬を越した常緑樹も、黒味がかった緑の葉を隠そうとするように、淡い緑の葉が萌え出ている。  夕暮には、まだ間のある時刻で、春の陽光がやさしく景色を照らしている。 「るみちゃん、綺麗よ」  ゆみ子は、るみの肩を指先で突いて、注意を促した。このような風景に囲まれて、陰気な、ときには陰惨ともいえる人間関係に、考えをめぐらせていた自分を、ゆみ子は疎ましくおもったのだ。  一瞬、るみは肩をすぼめ、眼を宙に浮かした。そして、窓の外に視線を向けたが、興味なさそうにすぐに眼を景色から離した。 「あなたたち、一緒の部屋にするのでしょう」  なな子が声をかけてきた。ゆみ子も景色から離れ、なな子の眼を見た。その眼に映っている、自分とるみの繋りには、油谷が役割を与えられているのだろうか。それとも、るみと直接結びつけて、なな子は考えているのだろうか。 「一つの部屋に四人と聞いているわ。あたしたちと、あなたたちと、四人で一緒になりましょうよ」  断る理由はない、確かめたいことのための好い機会ともいえる。ゆみ子は頷いた。 「いいわよ、今夜はうんと酔っぱらっちまうから、介抱が大変かもしれなくてよ」  傍で、るみの声が、なな子に答えた。    三十一  女ばかりの宴会は、一種異様な眺めである。一人だけの男の木岡は、宿の丹前を着て坐っている。その姿が、いつになく見窄《みすぼ》らしくみえた。職場のカウンターの中に立って、眼を店の中に配っているときの木岡とは、別人のようである。  宴席は乱れ、愚痴っぽくなって泣く女や、狂気染みた笑い声をたてる女があらわれるころ、散会となった。ゆみ子とるみとなな子と雪子の四人が部屋に引上げてきてからも、酔いと感情の昂ぶりはつづいていた。  雪子の頸に腕をまわしたなな子が、その唇に唇を寄せてゆく。なな子の胸に、雪子はやわらかくした躯を粘り付けようとする形で寄り添い、唇を差し出す。 「なによ、いやらしい」  るみが言い、なな子は唇を離して、言い返した。 「あんたたちも、同じようにすればいいじゃないの」  その言葉で、おもわずゆみ子とるみは眼を見合せた。そのとき、はっきりと油谷という男の存在が、るみとの間に置かれたことを、ゆみ子は感じた。しかし、油谷とるみとの繋りの形については、依然として分っていない。 「ゆみちゃんとは、そんな関係じゃないのよ」 「それじゃ、どんな関係なのさ」  なな子が問い返す。その返事は、ゆみ子も知りたい。しかし、るみは黙ったままである。なな子は言葉をつづけた。 「この子は、あたしが女にしてやったのだから」  雪子の浴衣の胸に置かれたなな子の掌に、力がこもったのが分り、雪子は頭をうしろに倒し、顎の下の白い皮膚をあらわにすると、軽く呻いた。見物人の眼を意識している動作であり、馴れ合いの芝居のようにもみえ、ゆみ子が苛立ちを覚えたとき、るみが言葉を投げかけた。 「なな子、気の毒ね。いつも女の子ばかり追いまわして。いい加減で倦きてもよさそうなものだけど」  なな子は、黙ってるみを見た。暗い眼である。るみは、言葉をつづけ、その言葉の奥に深い酔いが感じられた。 「でも、なな子のせいじゃないから、仕方がないけど。あんたを最初にひどい目にあわせた男がいけないのだものね」  るみは、具体的な事実を知っての上で言っている気配である。やはり、なな子の躯の中には、黒い傷痕があった、とゆみ子はおもい、いつも黒い血を滲ませて乾ききらぬ傷痕が眼に浮ぶ。  るみの言葉が、続く。 「気の毒ね。なな子、不感症なんでしょう。だから、そんな変態……」  その言葉が終らないうちに、雪子の躯を離したなな子が、るみに襲いかかった。なな子の手は、はっきりした目標を持って動き、るみの浴衣の両襟を掴むと、大きく左右に引きひろげた。  ゆみ子は、はげしく瞬いた。  眼に映っている裸の胸が、雪子のものである錯覚が起った。露わになった二つの乳房の上に、赤紫色のなまなましい痣がくっきりと印されてあった。 「あんたこそ変態じゃないの。知っているんだから」  知っている、という言葉に、ゆみ子は躓いた。山を登って行く電車の中で、るみと自分とを見比べていたなな子の眼を、鮮かに思い浮べて、ゆみ子は口を挿んだ。 「でも、わたしじゃなくてよ」  その痣が、歯によるものか、指先によるものか見定めが付かないが、るみの乳房に加えられた力は油谷のものであることを、ゆみ子は疑わなかった。油谷と並んで入った宿屋の上に掲げられたネオンの赤紫色を、ゆみ子は思い浮べ、宿屋の部屋での彼の話を思い起した。  どんな恰好でもする、と彼はよう子のことを言ったが、それはるみについても同じなのだろう。そして、できるだけ醜い恰好に歪んだ躯にたいしてでなくては、油谷の躯は不能なのではあるまいか。 「ゆみちゃんじゃないなら、誰なの」  なな子が問い返し、ゆみ子は庇《かば》う気持で答えた。 「誰でもいいじゃないの。それに、雪子さんだって、同じじゃなくって」  浴衣の襟を掻き合せるように着ている雪子の頸の皮膚に視線を当てて、ゆみ子は言う。 「同じ……、それ、どういう意味」 「同じように、痣が……」 「痣ですって」  なな子は、即座に雪子の襟に手を伸ばした。腕を交叉させて胸をかばう雪子の恰好に、ゆみ子はまたしても馴れ合いの芝居を見る苛立たしさを覚えた。  雪子の胸が、大きく開かれた。眩ゆいほど白いひろがりには、わずかの汚染《し み》さえ見当らない。形よく隆起している乳房、その尖の薄桃色の乳暈《にゆううん》。その美しさが、ゆみ子の勘違いを皮肉っているように眼に映ってきた。  ゆみ子は、貼り付いた視線を、雪子の胸から剥がし、るみを振返った。るみの胸は、すでに浴衣で覆われており、ゆみ子はやや冷静さを取戻して、なな子に問いかけた。 「わたし、勘違いしていたのかしら」 「そうよ」 「でも、雪子さんの胸のことは間違って考えていたことは分ったけど、あなたたち二人の関係については、勘違いしていないとおもうわ」 「…………」 「ただ、雪子さんの胸に痣がなかっただけのことだわ」  なな子は、黙ってゆみ子を見詰め、その視線をるみに移すと、意地の悪い調子で言った。 「ゆみちゃんの言うとおりだわ。ただ、痣を付けなかっただけのことよ。雪ちゃんの胸は、痣があるには綺麗すぎて、もったいないわ。るみのように、にくにくしいくらい大きく膨らんだ胸には、痣がよく似合うのよ」  このときも、ゆみ子はるみに味方して、反駁した。 「綺麗すぎるものは、汚したくなるということもあってよ」  るみは黙ったままだ。振返って、その眼を見たゆみ子は、一瞬、異様な感じに襲われた。るみの眼は、宙に浮いている。鋭い刃物で傷を受けた瞬間のような眼だ。しかし、その眼には光がある。外側へ向って反撥してゆく光ではなく、内側に漂っている光である。その漂う光は、隠微な快感を偸《ぬす》み取っているようにみえた。  その眼が、るみの秘密を語り、るみと油谷との関係を語っている、とゆみ子は確信にちかい気持をもった。  油谷との会話を、ゆみ子は反芻してみた。 「油谷さん、るみちゃんとは……」 「るみか、あれは気にしないでいいんだ」 「気にしないでいいって」 「るみとはいつも友好関係が崩れないで済むようになっている。今夜こうやって、きみと一緒に出てきても、一向にかまわない」  思い返してみると、油谷がゆみ子を誘うときには、かならずるみがその席にいた。関係の深い男が、他の女を誘うところにいることが、るみにひそかな快感を与えるにちがいない。  しかし、それならば、自分はるみと油谷にとって刺戟剤に過ぎないのだろうか。それとも、油谷にとって、自分は何者かであるのか。いや、そんなことより、油谷は自分にとって何者なのだろう……。  ゆみ子の考えは乱れ、揺れ動く。    三十二  旅行が終り、ふたたび「銀の鞍」を生活の場とする日常生活がはじまったが、一つの話題が彼女たちを待っていた。  ある一流の酒場にいる波津子という女が、警察に呼び出されて取調べを受けた、という話題である。売春の容疑による取調べで、警察のリストには七十数名の男の名が、波津子の相手として並んでいた、という。男たちの支払った金額は、最高三百万円から最低七万円に至るものだった。波津子には同棲している暴力団の幹部の男がいて、その男が陰で彼女をあやつっていた、という。  銀座の酒場の女たちは、自分の店の近所についてさえもしばしば不案内である。住居から店へ来る、いったん店に入ったら、そのまま閉じこもって深夜に至る場合がほとんどであるからだ。しかし、波津子の名は、有名だった。ジャーナリズムの話題にしばしば登場するその酒場で、目立った存在だったからである。  この事件は、「銀の鞍」の中で、いろいろの形で話題となった。客と客とのあいだの話題、客と女とのあいだの、そして女たちのあいだの話題となった。 「最低が七万円か」  と、客の一人が言い、話がはじまる。 「しかし、波津子だったら、七万円でもいいな。それにしても、三百万円と七万円とは、たいへんな違いだなあ。いったい七万円で済せたのは、どこのどいつだろう」 「もしかすると、おれかもしれないよ」 「君でないことは、たしかじゃないか」 「なぜ」 「なぜといって、この男はね……」  と二人目の客が、三人目の客に説明をはじめる。その男が、波津子と同じ店の女を口説いた。冗談半分に口説き、相手の女も冗談のような口調で、「そうね、いま旦那と別れたばかりだから、考えてみてもいいわ。二十万円でどうかしら」と答えた。「とんでもない、高すぎる」「あんたバカね。いまお金をつくる必要があるから、特別にそれで済せてあげようとおもうのに。二十万円わたしに払込むとするでしょう、そうしたら、アパートにいつ訪ねてきてもいいわ。お酒も置いてあるし、場所代、酒代を含むお値段じゃないの」冗談ばかりでないひびきが混った。「なるほど、考えてみれば安いが、それだけ纏った金は持合せていないな」と、その夜は別れた。以来、彼はその店に行くたびに、冗談めかした口調で、値切る。幾回かのうちに、二十万円が七万円まで、値下りになった。そのとき、彼が言った。「きみ、その七万円を月賦払いにしてくれないか」その口調には、あきらかに真剣味が混り、さすがに彼女は憤然とし、やがて呆れて笑い出した、という。 「なにしろ月賦で口説くやつだから」  と、男たちは陽気に笑い合った。男たちばかりでなく、その席の女たちはみな笑い顔になっている。職業的な笑顔でもないようにみえる。しかし、ゆみ子の笑顔は、強張った。自分たちが、はっきり商品と見做されていることが分る話だからである。 「こっちだって、客を商品とかんがえればいいのよ」  よう子の言葉が、ゆみ子の頭の中に浮び上ってくる。そう考えるよりほかに、救われる道はないのか、とゆみ子は周囲を見まわしてよう子の姿を探す。よう子は、隅のテーブルに坐って、横顔をみせていた。白い滑らかな横顔で、けっして傷つかぬようにゆみ子の眼に映ってくる。しばらく、ゆみ子はよう子の横顔に視線を留めていると、自分の顔の皮膚がある気配を感じ取った。それが何の気配か、分っている。自分の横顔に向けられた男の視線なのだ。一瞬ためらって、ゆみ子は首を正面に向けた。前の席の男の眼が、皮膚に貼り付いていた。粘りつく眼で、ゆみ子から引出せる快楽の量まで計っている眼である。  しかし……、とゆみ子は考える。このような眼で埋められた空間にあえて身を置くこと、屈辱を自分の身に課すこと、そのために酒場勤めを選んだのではなかったか。  不意に、油谷の顔が浮んできた。その顔は、確かめる眼をしている。ゆみ子が、屈辱的な姿勢を自分から求めている事実を、嗅ぎつけている眼だ。るみの二つの乳房の上に印された赤紫色の痣が、ゆみ子の眼に浮ぶ。どんな恥ずかしい恰好でもする、とよう子についていった油谷の声が、ゆみ子の耳の中で鳴る。  油谷にとって、自分はそういう意味の存在なのだろうか。痛めつける手にたいしてどこまでも撓い、加虐の力をこころよく吸いこむようになる可能性を秘めた躯、と油谷は自分を解釈しているのだろうか。  だが、ゆみ子はいま自分に向けられている男の眼を、疎ましく感じた。それは、屈辱と同時に快感に触れてくるものではなかった。ゆみ子は身を竦《すく》め、その眼から脱れたい、とおもった。しかし、その眼は執拗に、ゆみ子の皮膚に粘り付き、皮膚の内側にまで潜り込もうとする。ゆみ子は、油谷の影像を手もとに引寄せ、心を油谷に向けることによって、その眼から脱れようと試みた。  その執拗な視線を遮る楯として、ゆみ子は油谷を呼び寄せた。    三十三  波津子という女についての話題が、次のような形を取る場合もあった。更衣室で、よう子が不在のときの女だけの会話である。女たちの一人が言った。 「その波津子というひと、よう子さんとそっくりだとおもわなくて」 「あたしも、そうおもっていたの。名前を伏せて、その話を聞いたとしたら、よう子さんのことだと信じてしまうわ」 「延《のべ》人員七十数名か」 「あら、延ではなくて、七十数種類よ」 「種類ねえ、そういえば、そうもいえるわけか。そして、さしずめ木岡さんは、幹部の手先といったところだわね」  ……その会話が、よう子の耳に入った。直接よう子の耳に入ったのではないことは確かだが、告げ口が木岡を経由して伝わったものか、木岡が立ち聞きしていたのか、あるいは女たちの誰かがよう子に伝えたのか、その点ははっきりしない。いずれにしても、よう子はその会話の内容を知った。それは、翌日更衣室で、突然よう子が強い語調で言い出したことによって分った。  そのときのよう子は、平素と同じにあまり感情を露わにしない顔つきだった。しかし、小鼻がふくらんで鼻の穴が目立ち、鼻腔の中の毛がぜんぶ逆立っているような険悪さを感じさせた。 「波津子さんは、徹底していて立派だとおもうわ。あたしたちのいる場所にくる男たちは、みんな機械を見る眼で、あたしたちを眺めているのよ。だから、男を機械並みに取扱ってやるのが当然だわ。金を吐き出す機械ね。波津子さんくらい吐き出させれば、本望じゃなくって」  よう子の言葉は、筋が通っているのかもしれないが……、とゆみ子がおもったとき、雪子の声がした。 「でも、警察に連れて行かれるのじゃ厭だわ」 「罪になるわけじゃないということを、知らないの。法律は禁止しているけれど、罰のきまりはないのよ。いえ、法律なんていうことよりも、あたしだったら、警察に連れて行かれたあとでも、顔をまっすぐ前に向けて街を歩くことができるわ」 「よう子さん、警察に呼び出される心配があるみたいな口ぶりね」  るみが、陰にこもった口調で言った。 「仮に、の話よ」 「そうかしら」 「絡むじゃないの。あんただって同じじゃなくって。あんたみたいに手数のかかる恰好で、男とつき合わないだけの話よ」 「なによ、あんただってみっともない恰好をするくせに」 「あたしは、女になるだけのことよ。あんたみたいな変態じゃないわ」  睨み合っている二人の女を見て、ゆみ子はそこに油谷の存在を感じた。おそらく、よう子にとっては、油谷は沢山の男のなかの一人、すでに忘れかかっている存在だろう。その油谷が、言い争いのうちに、不意にるみを攻撃する材料として甦ってきたのだろう。たしかに、油谷にたいしてよう子は「女になっただけのこと」だったとおもわれる。 「どこまでも女になれる相手からは、結局、男はしたたかさを感じ取るものさ……」  というよう子についての油谷の言葉を、ゆみ子は思い浮べた。そして、強く掴んでも骨を感じさせないようなよう子の躯がこの上なく強靱なものとして眼に映り、その強靱さにふと羨望を覚えた。  ゆみ子は、皮膚に粘りついてくる男たちの眼を、なまなましく思い浮べる。よう子ならば、男たちのその視線を手応えなく海綿のように吸い込ませ、あるいは隆く胸を反らせて弾き返すことができる。しかし自分は……、とゆみ子はそのとき油谷の影像を引寄せて楯として禦《ふせ》いだことを、思い浮べていた。    三十四  ゆみ子は、自分に向けられる男の眼の一つ一つが鋭く意識にのぼるようになった。その度に、油谷の影像を呼び寄せ、その陰に躯を隠した。  身を守るための道具として、油谷を使っている。それは、ほかに呼び寄せる男がいないためだ。心を油谷に向けて、執拗な視線から脱れようとするわけだが、心を向けるということは、心を寄り添わすこととは違う、とゆみ子はおもう。依然として、油谷が自分にとって何者なのか、ゆみ子には分らない。  幾日か経って、油谷が「銀の鞍」に姿を現わした。小雨の日で、油谷はレインコートを着ていた。ゆみ子は歩み寄り、うしろにまわって、レインコートを脱ぐ手伝いをした。ゆみ子の眼の前に、油谷の背中があり、背広の上着は布地と煙草と男のにおいがした。ゆみ子はその上着に顔を近寄せた。おもわず息が深くなり、上着のにおいが肺の中に流れこんできた。 「わたしのための楯」  と、ゆみ子は心の中で呟く。  その背中のうしろに、しばしば身を隠してきた、とおもう。寄り添ったり、取縋ったりしたこともあったような気持が、ゆみ子の中で揺れた。  油谷に心が傾いた、とはおもわなかった。親しい心持で、ゆみ子は油谷の傍に坐っていた。しかし、油谷が立上れば、ゆみ子も立上ってそのまま背中に寄り添ってしまいそうな心持だった。  ゆみ子が酒を運ぶために立ったとき、木岡が合図を寄越した。近寄ると、彼は小声で、 「今夜、話がある」 「…………」 「まじめな話なんだ。ちょっと混み入った話だが」  木岡には、誘われまい、とおもった。 「今夜は、都合が悪いわ」 「まじめな話だ」  木岡が繰返し、気にかかるところもあったが、ゆみ子は首を左右に振った。 「今度にして頂戴」  席に戻り、油谷は誘うだろうか、とおもった。木岡が執拗な視線を向けてきているのが分り、油谷に誘ってもらいたい、とおもった。そのときには、やはり油谷はゆみ子にとっての楯であった。 「今夜、一緒に帰ろうか」  しばらくして、油谷はゆみ子に言った。やはり、眼は前の席のるみに釘付けにしたままで、そう言った。    三十五  その真夜中、ゆみ子は油谷の力に逆らう気持にならなかった。ゆみ子の躯は、椅子に押据えられ、二つの肘かけのあいだに嵌めこまれた。 「恥ずかしい恰好をさせて、と言いなさい」  奇妙に冷静な声が、ゆみ子の耳もとでささやいた。 「言えないわ」  この前のときには、「厭」と言った。そのことをゆみ子は思い出しながら、ゆっくりと首を振った。 「言いなさい」 「言えない……」  語尾が嗄れ、そこに快感がかすかに滲んだようにおもえた。抗う心の底に、新しい力が加えられるのを待っている気持が、かすかに揺れているのに、ゆみ子は気付いた。るみの顔と、乳房の赤紫色の痣が、眼に浮んだ。  るみに近付いて、重なり合おうとしているのだろうか……。違う、とゆみ子は感じた。もっと素直に、自然に、躯が新しい力を待っている。女の躯にとっては、はるかに大きな体重によって押潰され、荒々しく押拡げられることが自然であるように、ゆみ子の躯は素直に待っている。  油谷の手が、この前の夜と同じに、動きはじめた。裸の胸が、ゆみ子の顎に押当り、肩から横腹に沿って下へ移動した彼の掌が、ゆみ子の一方の脚をすくいあげた。ゆみ子の右脚が、椅子の肘かけに深く掛り、躯が捩れた。  つづいて左脚がすくい上げられ、もう一方の肘かけに掛った。一瞬、ゆみ子の躯が堅くなったが、すぐに強張りをほどいた。腰が深く椅子の上に落ち、両脚の拡がりが一層大きくなるのを感じたとき、ゆみ子は突然、捩れた快感の気配を覚えた。  眼をつむり、ためらいながらその快感に身を委せかけたとき、耳の奥で気遠《けどお》く鳴る音があった。  こおーん、こおーん。  幻聴である。短かい迷いののち、それが何の音か分った。澄んだ、しかしうつろな音。湯気の立てこめた浴場で、空の桶を伏せてゆくような音。  二年前、青年と指先をからませ合いながら霧の街をさまよって歩き、幸福だとおもっていた頃、立入禁止の芝生に坐っているとき聞えてきた音。気遠くなるようなあの音は、凶兆だったのかもしれない。芝生に青年と躯を寄せ合って坐っている背後の闇のなかで、女の啜泣きの声がかすかにひびき、男の小さい声が思いがけぬ明瞭さで聞えてきた。 「もう、子供はつくらないことにしようね」  幸福だとおもった日々は、短かった。終りになるときがあるとは予想もできぬ幸福な日々だったが、別れが襲いかかった。兇暴といえる別れだった。別れてから、ゆみ子は子供を堕《おろ》した。背後の闇のなかの男の小さい声も、やはり凶兆だったのだろうか……。  こおーん、こおーん。  耳の奥で鳴る音に潜んでいた青年の姿が、不意にあらわになった。いや、黒い血を滲ませて乾ききらぬ傷痕があらわになったのだ。  そのことに気付くと、ゆみ子は捩れた快感の気配に、恐怖を覚えた。映画で観た砂地獄の光景が、眼に浮ぶ。ゆっくりと、しかし確実に、人間の躯が砂の中に吸いこまれ、頭の先が消え、精一杯伸ばした腕の指の先端が没し去ってしまう光景。るみの乳房の赤紫色の痣が、自分の胸にそのまま移動し、付着してしまう……。快感の気配に身を委せてはいけない、とゆみ子は鋭く感じた。  眼を見開いて、叫び声をあげようとした。開いた眼に、萎えていない油谷の躯が映ってきた。はじめて、油谷は危険な男になっていた。この前のときは、油谷の安全さにかえって危険を感じたのだが、いまは油谷をそのまま危険な男と受取った。  叫び声を押しとどめ、押殺し、できるだけ優しく静かに言った。叫び声を上げた瞬間に、襲いかかられるとおもったからだ。 「ここでは、やめて」  油谷の眼に、兇暴な光が滲んだのを見た。反射的に、ゆみ子は笑顔をつくって、同じ語調で言った。 「このまま、あちらへ連れて行って」  油谷がゆみ子の言葉に従ったのは、その語調のためではない。ゆみ子の姿勢と笑顔との奇妙な対照が、彼を刺戟しつづける力となって働いたためだ。 「笑い顔がよく似合う」  油谷が呟いたのを聞いて、ゆみ子はそのことを悟り、ふたたび恐怖を覚えた。その姿勢を崩さぬように、彼はゆみ子の躯を椅子から剥ぎ取り、宙に浮かし、ガラス細工を扱う慎重さで布団の上に置いた。  しかし、その瞬間に、ゆみ子の姿勢から異常さが拭い消されてしまった。椅子に嵌めこまれていたときとほとんど同じ姿勢でゆみ子は横たわっているのだが、布団の上ではその姿勢はそのままでむしろ正常なものになっていた。  油谷の眼に、戸惑う色が浮んだのを見て、ゆみ子はそのことに気付いた。 「女になるのはかまわない。でも、るみと同じになっては困る。女ではない、なにか別のものになってしまう……」  恐怖が薄らぎ、ゆみ子は眼を閉じて躯を横たえていた。油谷は、自分を鞭打つ表情になって、ゆみ子に覆いかぶさっていった。油谷の額に汗の粒が並び、辛うじて男としてゆみ子を抱いた。    三十六 「すっかり勤まってしまったね」  木岡が、ゆみ子の眼を覗くようにして、言った。夕方、「銀の鞍」の近くの喫茶店で、二人は向い合って坐っていた。 「勤まり過ぎてしまったかな」  木岡は口を歪め、言葉をつづける。 「しかし、油谷という男には注意したほうがいいな。すこし異常なところがあるようだ。きみも、そうおもうだろう」 「まじめなお話がある、ということだったけど……」 「つまり、そのことだ。油谷のような男じゃなくて、もっとまともな紳士はいくらもいる、というわけだ」  ゆみ子は首をまわして、ガラス窓の外の街に眼を放った。夜がくる直前の、薄明るい灰色の街である。厭な気配が、木岡から伝わってくる。彼の話の内容は、予測できる。しかし、分りたくない、とゆみ子はおもい、黙ってガラス窓の外の街路に眼を向けている。赤く塗った小型自動車が、のろのろ走って行くのが見えた。異様に遅い速度で走ってゆき、現実ばなれしていて、夢の中の光景のようにみえた。真紅の塗色は消防自動車のほかは禁じられているので、臙脂《えんじ》がかったくすんだ赤で、その赤が灰色の景色に滲んでみえる。気遠い心持がゆみ子を捉えかかったとき、木岡の声が聞えた。 「よう子が妊娠してね」  その言葉の唐突さで、ゆみ子の眼が窓の外の風物から剥がれた。 「妊娠……」  気遠い気分の残っているゆみ子は「この男は何を言っているのだろう」とおもった。よう子の妊娠と自分と、どういう関係があるのだろう。しかし、妊娠という言葉といまの自分とは、かかわり合いがないわけではない……。ゆみ子は椅子の上で、かるく躯を揺すった。油谷とホテルへ行ったのは、一昨夜のことだ。それなのに、まだ躯の中に油谷の気配が残っている。その夜、ゆみ子は躯の中に油谷の精液を感じ、その感じが尾を曳いて残っている。油谷には萎えた躯しか予想していなかったので、妊娠についての心くばりはしていなかった。  自分にも妊娠の可能性はできている、とゆみ子は鋭い不安を感じ、すぐにその不安を烈しく追い払った。厭な記憶が、その不安よりもはるかに強く浮び上りかかったのに気付き、ゆみ子は頭を空白にしようと試みたのである。  しかし、追い払いきれぬものが残った。そのとき、木岡の声が聞えた。念を押すように、彼は同じ言葉を繰返す。 「よう子が妊娠してね」 「…………」 「今度は、産むつもりらしい。父親がいまの亭主とはっきりしているのでね」 「それで」 「それで、と聞くことはないだろう。おれとよう子とのつながりは、分っているとおもうが」 「分るような気はするけど、でも、それがどうしたの」 「くわしく説明させるのか。いま、よう子は二ヵ月だ。あと二ヵ月もすると商売ができなくなる。つまり、よう子の替りが必要になってきた、というわけだ」 「厭」  反射的に、強い言葉が出た。分りたくないものを、剥き出しにされたのだ。木岡は、すこしも動揺することのない眼で、ゆみ子を眺めている。その眼に反撥して、かえって冷静になった。 「わたしのこと、そんな女だとおもっていたわけなのね」 「女なら誰だって、できることさ。きみだって、勤まらないかもしれないとおもっていた店に、ちゃんと勤まっているじゃないか」 「…………」 「それに、安っぽい街の女じゃないのだよ。誰でもできるといっても、よう子の替りは誰にでもつとまるというわけのものじゃない。なな子にしてもるみにしても、替りにはならないさ」 「褒めているの」 「褒めているのさ」  笑いを浮べて答える木岡の顔に、ゆみ子は言葉を投げつけた。 「でも、厭」 「厭なものは、無理にすすめられないからね。しかし、ずいぶん得な取引なんだがな、損なことをするよう子じゃないのは、分っているだろう」 「厭」 「厭なら、すすめないよ」  木岡はゆみ子から眼を離さずに、言った。窺い、測っている眼である。    三十七  木岡と並んで喫茶店を出てゆくのが、ゆみ子は疎ましくなり、一人あとに残った。煙草に火をつけ、ゆっくりと煙を吐き出す。空のコーヒー茶碗を前に置いて、女ひとりが煙草をふかしている図がゆみ子の眼に浮び、侘しい心持になった。 「よう子が妊娠……」  ゆみ子は、口の中で呟く。しかも子供を産むつもりだという。その子供は、待たれて生れてくるわけだ。数えきれないほどの男たちと交わってきたよう子の胎《はら》から生れてくる子供を、一人の男が待っている。よう子たちの人生は、どういう形に設計されているのだろう。自分は、たった一人の男の子供さえ、産むことができなかった……。  追い払ったつもりの厭な記憶が、このとき浮び上ってきた。 「銀の鞍」に勤めはじめる半年あまり前、葉子という名のほかには、名前は持っていなかった頃のことである。  木造二階建の古い陰気な病院で、薬品くさい漂白された白っぽさからは縁遠い建物だった。その二階の病室の木製ベッドに、葉子は横たわっていた。  薄暗い時刻になっていたが、電燈はまだ点されず、彼女は一人で病室に置き去りにされている。額に、脂汗が滲み出ている。彼女は腕を伸ばし枕もとのタオルを掴んで、額に押当てるようにして拭うが、間を置かず額はふたたび湿りはじめる。  近くに無人踏切があるのか、信号機の鐘の音が鳴りはじめた。鈍く単調な、そのくせ空気に滲みこむような音が、断続して鳴りつづける。ベッドに躯を横たえてから、もう何度、その鐘の音を聞いたことだろう。  信号機の音が、反射的に彼女を身構えさせる。間もなく、電車が走り過ぎる予告だからである。鉄道線路のすぐ傍に、病院は建っている。轟《ごう》っ、と電車の長く連なった車体を感じさせる響が伝わってくる。木造の建物と木製のベッドが揺れて軋む音が聞き取れそうである。ベッドの上の彼女の躯が、走り過ぎてゆく電車自体を感じ取る。電車の車体が病院の中を突抜けてゆき、彼女の躯の中を貫き通してゆく錯覚があった。  躯の中が、痛い。  絶え間ない痛みが、電車の轟音のたびに、一際強くなる。  彼女の足もとのベッドの木の枠に、水を満たしたガラス瓶が吊り下っている。水を入れてあるのは重味をつけるためで、そのガラス瓶を宙吊りにした一本の細い紐のもう一方の端は、ベッドの枠を越し、横たわった彼女の両脚のあいだに消えている。正確にいえば、その紐の末端は、彼女の子宮の中の胎児に結びつけられている。  妊娠五ヵ月になっても、彼女は決心が付かず躊躇《ためら》いつづけていた。青年とはすでに三ヵ月以前に別れていた。惨めな別離だった。腹の中の子供にたいして本能的な愛情が動くことがあったが、産む決心を固めようとする瞬間、産むことは青年を苦しめてやるためだ、という気持が湧き上ってくる。そういう気持で、子供をこの世の中に産み出したくはない、という考えがそれにつづき、決心が崩れてゆく。堕してしまおうという気持が強まるときもある。しかし、医院を訪れ、医師に事情を話し、手術台の上で醜い姿勢になる……。そのことを想像しただけで、烈しい苦痛を覚える。自分だけ苦しみ、青年が楽をしすぎる。堕してやるものか、と彼女はおもい、赤児をかかえて青年の前に立現れる自分を夢想する。  しかし、迷い、揺れ動いた末、彼女は病院のベッドに躯を横たえている。掻爬《そうは》の方法を用いるには、決心のつく時期が遅すぎていた。いま、彼女の足もとで宙吊りになっているガラス瓶は、人工分娩を促すためのものである。  上りの電車が通過してあまり間を置かず、信号機が警報の鐘を鳴らしはじめた。深夜、密室に一人で坐って、二つの掌で耳に蓋をしたり聞いたりすることを繰返すときの、気遠さと切迫感との混り合った心持を、その音は誘い出す。  霧の夜の芝生で聞えてきた、あの音を思い出す。あの気遠い音は、たしかに物悲しい切羽《せつぱ》詰った心持を、かすかに誘い出すものだった。それは、凶兆だったかもしれない。そしていま響いている信号機の音は、いまの彼女にとってはあきらかに悪い前兆といえるものだ。  間もなく、確実に、唸るような遠い音が轟音と変るときがやってくる。部屋が揺れ、彼女の躯が揺れ、水を満たしたガラス瓶が揺れ動く。    三十八  妊娠という言葉と、厭な記憶とが絡まり合い、ゆみ子の心に一つの感情が潜りこみ棲みついた。  その感情は、油谷との関係によって妊娠したのではあるまいかという考えが基盤となったものだ。それは、恐怖といえるだろう。しかし、妊娠することを恐怖するだけの単純な感情ではない。妊娠という事実が、彼女の心に引起すさまざまに錯綜した、刺戟的な感情である。  その感情は、ゆみ子の心を、躯を、そして子宮を刺戟しつづけることになった。  油谷はその後もゆみ子を誘い、彼女はその誘いにしたがった。しかし、彼の手の力に、躯を委せることは、避けつづけた。彼女は以前のゆみ子に戻り、油谷も以前の萎えた躯に戻った。その彼が、安全な男なのか、危険な男なのか、ゆみ子は判定がつき兼ねる。ただ、油谷の精液が躯の中に入ったという事実だけは確実にゆみ子の感覚の中で生きており、彼女の心と躯と子宮とに、絶え間ない刺戟を与えつづけている。    三十九  バーテンの木岡は、二度とゆみ子を誘うことはなかったが、彼女はいつも自分に向けられている測る眼を感じていた。  よう子からも、ゆみ子は測る眼を感じた。木岡の誘いは、よう子と相談の上でのことと考えられる。  ある夜、よう子がゆみ子に声をかけた。 「ゆみちゃん、お店が終ってからお食事につき合ってくれない」  閉店後、いつも一人で姿を消してしまうよう子としては、異例の誘いである。ゆみ子は、身構える心持になったが、異例のことと感じた動揺で、咄嗟に断りの言葉を出しそこなった。  麻布六本木界隈には、深夜に店を開いている小さなレストランが散在している。そのうちの一軒で、よう子とゆみ子は向い合って坐っていた。よう子は運ばれてくる皿にほとんど手をつけず、眼に熱っぽい物憂げな光がある。 「元気がないみたいね」  ゆみ子が言い、よう子が億劫そうに答えた。 「だるいの。……ゆみちゃん、あたしが妊娠しているの、知っているわね」  ゆみ子は一瞬、躊躇《ためら》った。木岡の誘いの返事を、あらためて問い詰められている心持になったからだ。ゆみ子は、まともな受け答を避けた。 「だから、だるいのね」 「今夜は、ひどくだるいの。いつもと違った感じなのよ」  ゆみ子は顔を伏せ、皿の料理を口に運んでいた。耳は、鋭くよう子の次の言葉を待っている。 「一人でいるのが、なんだか心細いの。だから、ゆみちゃんに一緒にいてもらいたかったの」 「それなら、はやく帰って、休めばいいのに」 「それが、できないのよ。これから、会わなくてはいけない人がいるの」 「こんなに遅くに」 「一時に……」  と、よう子は手首をかえして腕時計を調べ、あるホテルの名を言い、 「ロビーで会うことになっているの」  言い終ると、肩を落して億劫そうな溜息を洩らした。たとえ、ゆみ子にたいして企んでいる演技と見做すとしても、それだけではなく真底大儀そうにみえた。皮膚の艶のないことを意識してであろう、平素より濃い目に化粧した顔の眼のまわりに、疲労があらわに浮び上っている。  ホテルのロビーでは、中年の金持の紳士がよう子と落合う段取りがつけられている、と考えてよいのだろう。疲労したよう子の躯を、約束の場所に押しやる男の強い手を、ゆみ子は感じ取る。その強い力を、手応えなく吸い取ってしまう平素の強靱な躯と、いまのよう子の躯とは違うようにみえる。どこまでも女になれるしたたかさ、と油谷を歎息させたよう子と、眼の前にいるよう子とは、別人のようだ。  いま眼の前にいるよう子は、男によって酷使され、搾《しぼ》り滓《かす》のような躯になっているありふれた女にすぎないようにみえる。しかも、その男の子供を産もうとしている女である。 「ねえ、ゆみちゃん、お願い、一緒についてきて……」 「いいわ」  おもわず、承諾の言葉がゆみ子の口から出た。そのとき、よう子の眼が、一瞬、するどく光った。  罠なのか、とゆみ子がふたたび身構えたときには、すでによう子は立上っていた。  午前一時のホテルのロビーは、閑散としていた。広いロビーで、奥の植木鉢の陰のソファから立上る男の姿が、小さく見えた。彼は立上ったまま、顔をよう子たちのほうに向けている。  そのとき、よう子が立止った。ゆみ子の手首を握りしめて、喘《あえ》ぐ声で耳もとでささやいた。 「あたし、今夜はどうしても駄目だわ。ゆみちゃん、一生恩に着る……。あたしと替って」  よう子の態度を演技と感じ、罠を設《しつ》らえる木岡の手を感じ取ったゆみ子は、はげしい憤りに捉えられた。ゆみ子は、これまでの人生で二人の男しか知らない。そして、最初の男の子供を産むことができなかったし、また、油谷の子供を孕《はら》んだとしても、産むことはできない。それなのに、よう子は数えきれぬ男と関係をもっていながら、一人の男のために子を産む準備をしている。そういうよう子の身替りになることを理不尽とおもう気持も、その憤りの中には含まれていた。……自分はたった二人の男しか、知らないのに。おもわず、はげしい言葉が、口から出た。 「厭、そんな淫売みたいな……」 「え」  よう子の眼が、大きく見開かれた。その眼に強い光が現れた。ゆみ子は口から出てしまった言葉に、怯えていた。どのような烈しい言葉が出てくることか、とよう子の赤く光った唇を見詰めて、躯を堅くした。その瞬間、よう子の眼が不意に光を失ってうつろになった。  二つの唇がわずかに離れたが、言葉は出ず、崩れるように床にうずくまった。床に横倒しになるのをおそれて、ゆみ子はよう子の躯を支え、その顔を覗きこんだ。よう子が失神しかかっているのか、とゆみ子はおもったが、よう子は唇を噛み、懸命に耐えている表情になっている。  ふとゆみ子は気付いた。うずくまったよう子の足の下、赤い絨緞の上に小さい汚染《し み》ができ、それがしだいに大きさを拡げてゆくのが、ゆみ子の眼に映った。    四十  よう子の姿が、「銀の鞍」から消えた。 「しばらく休んで、また出てくる」  バーテンの木岡はよう子の言葉を伝えていたが、もう戻ってくることはあるまい、とゆみ子はおもった。  濡れたホテルの赤い絨緞は、一層赤くはならずに、黒ずんだ色になった。血を失ったよう子は蒼白な顔色で、なまなましく拡がってゆく汚染の上に蹲まった。結局、救急車がきて、よう子を運び去った。よう子の胎の子は、失われた。新聞に報道される性質の事柄ではなかったが、その記憶をもった人々の前に顔を見せることは、よう子でもできないだろう、とゆみ子はおもった。  しかし、よう子の伝言としてばかりでなく、木岡は同じ言葉を自分の意見として口から出した。 「なに、すぐにまた、出てくるさ。平気な顔で出てくる」 「そうかしら」  疑い深く、ゆみ子が言ってみたが、 「そういうものさ。亭主とのあいだの子供を流産しただけのことじゃないか。いわば、悲劇のヒロインというわけだ。ゆみちゃん、きみは見舞に行っておいたほうが、いいよ。まんざら責任が無いわけでもない」  白い大きな枕に頭を埋めて、よう子は仰臥《ぎようが》していた。白い掛布団が胸から下を覆い、白く透きとおる顔だけが覗いている。入院がかえって休養になっているのか、眼から疲れが取れて、澄んだ光を湛《たた》えている。  躯が白い布団の下に消えて、小さい顔と大きな眼が、少女のようにみえた。 「いかが……」  ゆみ子がベッドの傍の椅子に坐って問いかけ、看護婦の姿が消えるのを見届けて、よう子が答えた。 「厭になっちまったわ」 「…………」 「しばらく、郷里《く に》に帰って気分転換だわ」 「それがいいわ」  しかし、少女のような顔になったよう子の口からは、逞しい言葉が出てきた。 「商売にケチがついちゃったもの。こういうときには、ゲン直しにしばらくぶらぶらしていた方がいいわ」 「…………」 「留守のあいだは、ゆみちゃんに委せるから、頼むわね」  午前一時のロビーの奥で、立上った男の姿が、ゆみ子の眼に浮んだ。ほとんど無意識のうちに、ゆみ子は油谷の影像を呼び寄せ、自分の傍に置いた。油谷でも、この場合には身を守る楯になる。そして、ほかに楯はない。そのゆみ子の様子に、よう子は窺う眼を向けて黙っていたが、 「でも、ゆみちゃんには無理かもしれないわね」  やがて、そう言うと、手を引出して白い掛布団の上に置き、 「裏切られるとは、夢にもおもわなかったわ」 「裏切るなんて、もともと、あたしは……」  ゆみ子が抗議する口調になると、よう子は笑いながら、 「ゆみちゃんのことを言ってやしないのよ」  掛布団の上から腹のあたりを片手で二、三度叩いた。その手つきが、自堕落にみえた。薄い布団をとおして、掌の当る肉の音が聞えるようにおもい、 「そんな乱暴な……」 「もう大丈夫よ」  さらに二、三度、よう子は小さい華奢な掌を、腹に強く打当てた。その度に、ゆみ子は、自分の胃の腑が突上げられるような感覚をおぼえた。 「こいつよ。こいつに裏切られた、と言っているのよ。まさか、とおもうじゃないの。一番ご信頼申し上げていたのに、ね」  よう子は、けたたましい笑い声をひびかせた。    四十一  ゆみ子のMENSESが、遅れた。嘔気がしばしば襲ってきた。躯が舌が、酸味を需《もと》めるようになった。 「まさか」  口に出して呟いてみたが、 「やっぱり」  とおもう気持のほうが強かった。そうおもうと、この一ヵ月の間にしばしば胎の底に手応えに似た感覚をおぼえた記憶が、ゆみ子に甦ってきた。胎のなかで育ってゆくもののある感じはなかったし、また、それを感じ取ることはできるものではあるまいが、たしかに手応えに似た感覚はあったのだ。  胎児の父親は、油谷のほかには在り得ない。しかし、産む気持を、ゆみ子はもてない。また、油谷との関係において、胎の子を利用しようとする気持もない。  誰にも告げず、黙って処理してしまおうか……。 「でも、それでは油谷がラクをしすぎる。油谷をそんなに気楽にさせておくことはない」  と、ゆみ子はおもった。  その油谷は、しばらく「銀の鞍」に姿をみせていない。九州一円に出張旅行をしている、とるみが言う。今度も、るみにだけ知らせて、彼は旅立っていた。  それなのに、久しぶりに姿をあらわした油谷は、るみを誘わずに、るみの眼の前でゆみ子を誘う。 「なぜ、るみちゃんを誘わないの」  油谷の耳に、ささやいてみる。 「きみの正常なところが、気に入っている。るみでは、もう役に立たない」  油谷がささやき返す。  道具扱いをされているとおもい、ゆみ子は屈辱を覚える。それに、案外、るみとは前の夜にすでに会っているのかもしれない、ともおもう。それなのに、頷いている自分に気付き、 「油谷には、二人だけの話があるのだから……」  と、ゆみ子は自分に言い聞かせる……。  ホテルの部屋で、油谷はゆみ子の背を壁に押しつけるようにして立たせ、堅く締めつけたブラジャーの中から乳房を引出そうとする。ゆみ子は背を跼め、両肩を縮めて、油谷の力に逆らおうとすると、一瞬彼は躯を離し、確かめる眼でゆみ子を眺めた。そして、念を押す口調で言う。 「正常なところがいい。馴れ合いの恰好では、もう駄目だ」 「でも、いつまでも正常では、つまらないのでしょう」  ゆみ子は、彼の手を避けて、身を揉む。背中に当ってくる壁面を感じた。 「どんな女でも、可能性を持っているからね」  自信に満ち、ゆみ子を掌に載せて操る口調である。そういう油谷に、ゆみ子は憎しみを覚え、切りつける気持で、しかしさりげなく言った。 「あたし、できたのよ」 「なにが、恋人でもできたのか」 「子供よ」 「なんだって、誰の」 「あなた以外に、おつき合いはないもの」 「そんな馬鹿なことが」  困惑と嫌悪が、油谷に露骨にあらわれた。油谷が祝福する道理のないことは、分っている。しかし、あまりに露骨な表情に出会ったゆみ子は、予定していなかった科白《せりふ》を口にした。 「いいのよ、あたし欲しかったのだもの」  戸惑った顔のまま、油谷はゆみ子を窺っている。困惑の色が一層濃くなるのをみて、「それだけが目的の科白ではない」とゆみ子はおもう。自分の言葉で、自分を救いたかったのだ。妊娠を告げたとき、祝福を受ける女たちの数は、少なくはない筈だ。それなのに、自分はいつも違う。二年前、恋し合った相手の子供を身籠ったときでさえ、違っていた。そして、今また……。その油谷の表情は当然のものといえたが、それでは自分が惨めすぎる。  油谷の攻撃的な姿勢は消えて、壁の前の躯から離れると部屋の隅の椅子に腰をおとした。向い合った椅子を指さし、 「ま、坐りたまえ」  煙草に火をつけた。煙がとぎれとぎれに、彼の口から出てゆくのを見ながら、ゆみ子は言葉をつづけた。 「心配しなくてもいいのよ。迷惑はかけないもの」  油谷の眼が、やや生色を取戻す。見えない水の中を手さぐりしているような測る眼になって、やさしい声で言う。その声は、猫撫声になってしまっている。 「それで、どうするつもり」 「産むわ」 「…………」 「大丈夫よ。迷惑はかけないから」 「しかし、きみ……」  その夜も、油谷の躯は萎えたままであった。    四十二  土曜日の夜の「銀の鞍」は、閑散としていた。客も疎《まば》らだし、女たちも欠勤が多い。隅の席でにぎやかに飲んでいた二人の客が立上りかけると、その手首を握ってなおみが言った。 「まだ、帰っちゃ厭よ。あなたが帰ってしまったら、お客が誰もいなくなってしまうもの」 「ご挨拶だな、にぎやかしのために残っていろ、というわけか」 「ううん、あなただから、甘えてお願いしているのよ」  男の手首に縋っているなおみの二本の腕がうねうねと動き、躯に貼りつけたような衣裳を透してあらわにみえている胴や腰の線がなまなましく揺れた。男は曖昧な顔になり、席に腰をおとして、 「土曜の夜に、飲みにきたのが運の尽きか。だいたい、女の子の数がすくなくて活気がないな。気のきいた女の子は、パトロンと週末の遠出というわけか」  男は、念入りに店の中を見まわし、休んでいる女たちの顔を一人一人思い浮べている顔になった。男の顔には、酒場の内情を見抜いている得意な表情も浮んでいたが、かならずしもその言葉どおりとは限らない。日曜日を家庭サービスの日にきめているパトロンも、多いわけなのだから。もともと半日就業の会社が多いために、酒場の客はすくない日なのである。店の側では、平日とは逆にむしろ従業員の欠勤を歓迎している。しかし、実情はどうあろうと、いまその男の頭に浮んでいる女たちの傍には、すべて脂ぎった中年男がくっついていることになる。 「きみ、早退《はやび》けして一緒に帰ろう」  冗談半分の口調だが、その底にはっきり欲望が滲んだ。男の選択は謬っていない、とゆみ子はおもい、なおみを眺めた。 「早退けなんて、無理よ」 「いま、そこの公衆電話から、電話してあげる。お母さんが危篤ということにしよう」 「そうね……」  なおみの眼の光にも、一瞬、欲情が滲んだ。彼女は肩を男に凭せかけ、ネクタイを弄《いじ》りながら、 「でも、お母さんは死んじまったわ」 「それでは、お父さん」 「お父さんも、いないわ」 「仕方がない、きみの亭主を危篤にしてやろう」 「亭主なんか、いるわけがないわ。でも、それはいいかんがえだわ。はやく、誰かを危篤にして、電話をかけて頂戴」 「誰か、といって、困ったな……。いっそのこと、なおみさんが危篤ですから、すぐ帰ってください、と言うことにしようか」 「そうなれば、あたしはどうしても家で寝ていなくてはいけないことになるわね」 「家で寝ているのは、電話のなおみさんに委せて、本物のなおみさんはホテルで寝ればいい」 「ばかなことばっかし」  男の背を掌で叩いて、なおみは機嫌よく笑った。その機嫌のよさに、ゆみ子は苛立つ。男がなおみを娼婦として取扱っていることが、その会話ではっきり分る……と、過敏になっているゆみ子の神経が感じ取る。 「でも、なおみはそれでいいのかもしれない」  とゆみ子はおもい直し、あらためてなおみを眺めた。なおみの二本の腕は、独立した生きもののように傍の男の肩や胸に触り、首にまきついている。なおみは、はっきりした娼婦の徽章をつけて、「銀の鞍」で働いている女なのだから。  なおみから眼を離し、ゆみ子は店の中を眺めまわす。たしかに、女たちの数が目立ってすくない。よう子がいなくなって、十一人になっている女たちのうち、ゆみ子の眼に映ってくるのは五人だけだ。欠勤しているのは、  悦子、三千代、京子。  それに、雪子とるみである。  悦子たち三人については、先刻の男の言葉が当っているような気もする。週末の一泊旅行に出かけていないまでも、彼女たちはその高級アパートに、いまの時刻、一人だけでいることはないだろう。  るみは、何をしているのだろう。あるいは、油谷と一緒なのかもしれない。複雑に絡み合った二つの躯が、ゆみ子の眼に浮ぶ。加えられる力のとおりに形を変えてゆく女の躯。その動きは、所作事のようにみえる。「馴れ合いの恰好では、もう駄目だ」と、油谷は言ったが、その様式化された動きから、依然として油谷は快楽を偸み取っているのかもしれない……。そうおもうと、ゆみ子はやはり苛立つ。  そして、雪子は何をしているのだろう。雪子となな子が二人とも休んでいたとしたら、ゆみ子の想像は違った方向に拡がってゆく筈だ。雪子が一人だけ姿をみせていないことが、ゆみ子に悪い作用を及ぼしてくる。 「雪ちゃんお休みね、どうしたのかしら」  なな子の耳もとで、ささやいてみる。なな子は不機嫌である。眼に怒りをあらわして言った。 「さあ、何をしているのかしらね」 「なな子さん、知らないの」 「なぜ、あたしが知っていなくちゃいけないの」  なな子の不機嫌は一層濃くなり、噛んで吐き出すように言った。 「何をしているのか、分ったもんじゃないわ。あんな、淫売みたいな女」  その一言から、なな子と雪子とのあいだに痴話喧嘩に似たものがあったことを感じ取るより先に、ゆみ子は頭の中にある雪子の胸にそのまま娼婦の徽章を見出してしまう。その徽章は、欠勤しているほかの四人の女たちの胸にも、縫いつけられているのを、ゆみ子は見た。それだけではなく、いま店の中にいる女の子のすべての胸に、ゆみ子自身の胸にも、その徽章を見出した気持になった。 「子供を堕すのは厭だ」  突然、ゆみ子はそうおもった。無意識のうちに、片方の掌が腹部に押当てられていた。目立つほどではないが、はっきりと膨らみが掌に感じられる。 「結婚しよう」  客の酔った声が、聞えてくる。 「二、三日、結婚しよう。二時間ばかり結婚しよう」  なおみの陽気な笑い声が、ゆみ子を一層鬱陶しい心持に引込んでゆく。ゆみ子は、もう一度、今度は言葉に出して口の中で呟いてみる。 「子供を堕すのは厭だ……」  そのとき、なな子の声が耳もとで聞えた。 「それよりも、るみはどうして休んだの」 「知らないわ」 「どうして知らないのさ」  薄笑いを浮べたなな子の顔が、目の前にある。見透しているような表情だが、何をどこまで見透しているというのか。両手を腹部の前に、隠すように庇《かば》うように置いて、ゆみ子は黙ってなな子の顔を見た。なな子は、不意に真剣な顔になり、 「ゆみちゃんはいい人なんだからね、損な取引をしないように注意することね」  と言い、次の瞬間、薄笑いの顔に戻ると、 「損な取引、という言葉が、きっと気に入らないわね。だけど、そういう中途半端なときが、一番騙されやすいんだから……」  そのとき、なおみの傍の男が、入口に視線を向けて、言った。 「どうやら責任時間が終ったようだ。新しい客がきた、これで帰れるぞ」  扉が動いて、男が一人、姿をあらわした。油谷である。 「噂をすれば影が射す、だわ」  なな子の言葉を遮るように、 「なにも、噂なんかしていなかったじゃないの」  と、ゆみ子は言ったが、油谷が前に立つと、おもわず言葉が出た。 「あら、いらっしたの」 「来ていけなかったかね」  なな子が、口を挿んだ。 「さっきから、ゆみちゃんが心配していたのよ。るみも休みでしょう、だから……」 「嘘よ、嘘」  いそいで打消したが、油谷は自信に溢れた姿勢になり、ゆったりと腰をおろした。呟くように、言う。 「おや、るみは休みか」  しかし、油谷がるみと先刻まで一緒にいなかったことの保証はない、とゆみ子は苛立つ。そしてまた、油谷の落着きにたいして、苛立つ。    四十三  ゆみ子の心に蓄ってゆく惨めさと、油谷の心の負担とが釣合えば、掻爬のために病院へ出かけて行ってもよい、とおもっている。 「子供を堕すのは厭だ」  とは、娼婦の徽章を振払おうとして、反射的に出てきた言葉である。むしろ、病院へ行くことは、ゆみ子にとって必要なことなのだ。しかし、秤《はかり》が釣合わなくては出かけてやるものか、とおもう。彼の側には、余程重たい分銅を置かなくては、なかなか平衡が取れない。 「きみは、おれを愛しているのだから……」  二人だけになったとき、油谷は臆面もなく言いはじめた。臆面もなくというより、彼としても切羽詰った挙句のことだろう。 「だから、おれのために、産むのはやめてくれないか」 「でも……」 「たのむ」 「かんがえてみるわ」  その問答が幾度も繰返され、日が経っていった。 「ゆみちゃん、すこし肥ったのじゃなくって」  雪子がゆみ子の全身を眺め渡しながら言ったが、まだ妊娠と疑っている眼ではない。 「産むのはやめてくれないか」  同じ言葉を口にするときの油谷の眼が険悪になり、頬骨が尖《とが》ってみえた。これ以上は延ばせない、とゆみ子自身が考えた。 「いいわ」 「ほんとうか」  芯から安堵した声が、油谷の口から出た。ゆみ子は、失望を感じた。油谷の何にたいして失望したのか、はっきり分らないが、苛立ちを覚え、もっと虐《いじ》めてやらなくてはとおもう。 「でも、お医者さんは探してくれるわね」 「分っている」 「一緒に、ついてきてくれるわね」 「うん」 「その場に、立会って頂戴」 「しかし、きみ」 「そうしなくては、厭よ」 「分った」  ホテルの一室である。その部屋は、この一ヵ月間、ただ油谷がゆみ子を説得するためにだけ使われていた。油谷の躯はいつも萎えており、ゆみ子の躯を無理なかたちに捩じ曲げようと攻撃を試みることさえしなかった。  いま、油谷は椅子に腰かけたまま、折り畳んだ白いハンカチを額のあちこちに押当てて、汗を拭っている。その手つきがひどく律義なものに、ゆみ子の眼に映ってきた。  結局、油谷は世間一般と同じ男に戻りたいのだろう、とゆみ子はその手つきを眺めながらおもった。相手の女に異常な形を教え込みたいのではなく、彼は自分の不能から回復したいのにちがいない……。回復をあきらめて自棄《や け》になったときにはるみに向い、回復を願うときにはゆみ子に誘いをかける。    四十四  盛夏である。  道は白く乾いていた。  病院は、小さな白い洋館だったが、堅固な建物である。  診察室の中に白いカーテンの仕切りがあり、その奥に診察のためと手術のための椅子が一台置かれてある。 「あなた、そこにいてね」  ゆみ子は油谷に声をかけ、カーテンの陰に姿を消した。油谷の顔が青くみえた。居心地わるそうに、浅く椅子に腰をおろしている。虐めている快感を覚えるよりも、そういう油谷には魅力が失われている。もっとふてぶてしく横着に振舞っている油谷のほうが、魅力的である。平凡な当り前の男として、いま油谷は椅子に坐っている。  椅子の上のゆみ子の背が、深く倒れた。両方の足首と膝頭の下が固定され、両脚がしだいに大きく離されてゆく。まったく同じ姿勢を強いられた記憶が浮びかかったとき、鼻の先にピカピカ光る漏斗型の麻酔器具が迫ってきた。  意識が戻ったときには、ゆみ子は病室のベッドにいた。眼の前の外界がしだいに明瞭な像を結び、そこに油谷の顔があった。それは、たしかに油谷の顔なのだが、別人のようにみえる。 「無事に、終ったよ」  彼は、優しい声で言った。その言葉を、ゆみ子は躯の底で受取った。  麻酔の名残がまったく躯から去ってからも、依然として油谷の顔は別人のようにみえる。 「もう、帰ろう」 「だいじょうぶかしら」 「そんなに、こわごわ起き上らなくても、心配はない」  突然、自信に満ちた口調になり、その移りかわりにおもわずゆみ子は油谷の顔をみた。しかし、その顔には、いつものふてぶてしさは戻っていない。  病院を出て、タクシーに乗った。蒸し暑い。白い乾いた道が、いつまでもフロントガラスの前にあらわれてくる。油谷の顳〓に汗の粒が浮んでいるが、その顔はおだやかだ。 「とにかく、無事に終った」  念を押すように油谷は言い、ゆみ子は反射的に腹をおさえた。膨らみが掌に触れてきたとおもったとき、耳もとで油谷の小さな声が聞えた。 「すぐには引込みはしないさ。しだいに、元通りになる」  また、沈黙に戻った。不意に油谷が運転手に声をかけ、車が停った。 「お茶でも飲むことにしよう」 「でも、はやく帰って、寝ていなくてはいけないのじゃなくって」 「大丈夫だ。ちょっと話がある」  車を降りた。北欧風を模した建物が、道の傍にある。窓の傍の席に向い合って坐り、メニューを取上げた油谷は、 「腹がすいた。なにか食べよう、きみは」 「だって……」  非難する眼で、油谷を見た。 「蝦《えび》が好きだったね。コールド・ロブスターを二つ貰うか。それに、冷たいコンソメとパンだ」  給仕が立去ってから、ゆみ子は咎める口調で言った。 「どうしたの。いま、お食事なんかできないじゃないの」 「ともかく、無事に終って、安心しただろう」 「それはそうだけど」 「さっぱりしただろう」 「さっぱり、だなんて。あたしの気持が分っていないのね」 「いや、躯が軽くなったような気がするだろう、という意味なんだ」 「そういえば、そんな気持もするわ」  油谷は、たしかめる眼で見詰めている。 「それなら、もう大丈夫だ。きみの躯には、傷は無い。麻酔をかけてから、すぐに分った。本ものの妊娠ではなかった。想像妊娠だったんだ」 「そんな……」 「掻爬をした、という感覚がいまきみの躯に行きわたっている。もう、大丈夫だ。その感覚がないと、まだ腹がふくれてゆくこともあるそうだ」  一瞬、ゆみ子は呆気にとられた。呼吸が深くなり、腹部が大きく起伏した。たしかに、痛みはない。騙された心持に陥ったが、誰が誰を騙したのか、判断がつかなかった。  想像妊娠という言葉は、聞いたことがある。子供が欲しいとおもい詰めると、受胎していなくても妊娠と同じ状態になる、と聞いたことがある。 「欲しかったの」  と、ゆみ子は油谷に告げたが、それは嘘の言葉だ。言葉とは逆に、妊娠にたいする不安が強かったのだ。  そのとき、油谷の声が聞えてきた。別人のような顔から出たその言葉は、生あたたかくゆみ子の耳に届いた。 「きみ、そんなにまで、ぼくの子供が欲しかったのか」  ゆみ子は、半ば放心して坐っていた。テーブルクロスの白い拡がりが、眼にぼんやりと映っている。その拡がりの中に光る条《すじ》が混っているのは、並べられたナイフとフォークであろう。  手術台に坐り、背が深く倒れ、麻酔がかけられた。それなのに、覚めたあとも躯の状態は前と同じだという。もともと妊娠などしていなかった、想像妊娠だったのだ、といま油谷は告げている。  嘘をついている気配は、油谷から感じられなかった。なによりも、ゆみ子の躯がその言葉を嘘ではないと感じた。もう一度、椅子の上で躯を軽く揺すってみる。先刻、手術台の傍に並んでいた掻爬のための沢山の器具が眼に浮んだ。あの冷たく滑らかな光を放っている器具で、躯の中を探られた感覚は、すこしも残っていない。  想像妊娠であったことを、信じないわけにはいかなかった。しかし、なぜそんなことが起ったのか。あらためて、ゆみ子は一つ一つその原因となる要素を頭の中で並べてみた。 一、躯の中に油谷の精液を感じ、その感じがながながと尾を曳いて残ったこと。それは、恐怖と呼べるほどの強い感情とはつながらなかったが、長く続く不安となって、体内に残った。 一、よう子が妊娠したということ。しかも、祝福されてその子を産むということに、刺戟を受けた。その事実が、躯の奥に応えた。 一、その事実に触発されて、はっきりした形をもって甦らないわけにいかなくなった過去。その過去は、いくつもの小さな黒い点となって、躯の底を刺した。断続して鳴りつづける、無人踏切の鐘の音。走り過ぎてゆく電車の轟音。こまかく揺れる木製のベッド。電車が躯の中を貫き通ってゆく錯覚。そして、宙吊りになっている、水を満たしたガラス瓶……。 一、ホテルのロビーで、よう子が流産したときの衝撃。  結局、妊娠についての不安と嫌悪と恐怖感とが、想像妊娠を引起したことになる、とゆみ子はおもった。  半ば放心した頭の片隅がゆっくりと回転して、その答を出したのだ。油谷の言葉は、ゆみ子の耳に届いていたが、その意味が心に伝わってくるのには時間がかかった。想像妊娠という事実について、納得がついたような心持になったあとで、ようやく油谷の言葉が心に伝わってきた。 「きみ、そんなにまで、ぼくの子供が欲しかったのか」  ゆみ子は、声を上げて笑い出しそうになった。妊娠したいと思い詰めることと、妊娠への恐怖との差は、あまりにはなはだし過ぎる。しかし、油谷の誤解を滑稽なものとして笑って済せることができ難いものが残った。たしかに、想像妊娠は恐怖感を基盤として起ったものだ。しかし、油谷という人間にたいするはっきりした恐怖や嫌悪がゆみ子の心にあるわけではない。いま、油谷は、ゆみ子の恋情が自分に向けられていることを、確信したようだ。  レストランのテーブルを挟んだ向う側の油谷は、頸筋がまっすぐに伸び、引締った顔に見えた。眼が平素より大きく、色が濃くなり、奥からの光があった。しかし、ゆみ子自身は……。  自分にとって油谷は何者だろう、という問いかけを、ふたたびゆみ子は自分に向けた。しかし、依然として答は出てこない。曖昧な表情のまま、ゆみ子は彼と向い合っていた。油谷の顔には、はっきりした表情が刻み込まれている。その顔の前で、いつまでも曖昧な表情でいることに、ゆみ子はかすかな狼狽と居心地悪さを覚えた。それなのに、顔の曖昧さを消すことができない。同じ状態がつづくことは、苦痛だ。ゆみ子は焦りを覚え、口を開いた。ともかくも、なにか言葉を出そう。言葉を選ぶ暇《いとま》はなかった。 「想像妊娠なんて、話には聞いていたけど、まさか自分がそうなるとは思ってもみなかったわ。あ、そうそう、いつか隣の犬が想像妊娠をしたことがあったっけ」  油谷は、慎重な口調で、 「きみ、犬には想像妊娠はない。動物には縁のない事柄だよ」 「でも、犬だって相手の好き嫌いがあるわ。いつも失恋している犬もいるわ。だから、想像妊娠をすることもあるわけでしょう」 「それは違う。動物は本能によって相手を選り好みするが、恋愛はしない。難しくいえば、動物には知情意の平衡感覚が備わっていないから、恋愛することはできない。したがって、想像妊娠は起り得ない」 「よく分らないけれど……、それでは、お隣の犬はどうしたのかしら。おなかが大きくなったのだけど、子供は入っていなかったのよ」 「それは、きっと病気だったのだ」 「病気……。それで、あたしのおなかの中には、いったい何が入っていたのかしら」 「入っていた、という言い方は、やはり違うね。なぜ大きくなるかというと、子宮筋層(つまり子宮の……、と彼は言葉をほぐして説明し)の肥大と、皮下脂肪の沈着のためだ。だから、つっぱった感じがしないで、だぶついた感じになる。いや、二、三ヵ月ではまだその感じは分らないだろう、臨月に近くなると、そういう具合になるそうだ」  油谷の説明に、生硬な言葉がまじった。先刻、ゆみ子が麻酔で意識を無くしているあいだに、医師から得たばかりの知識にちがいあるまい。ということは、ゆみ子の想像妊娠の事実が、疑いをさしはさむ余地のないものである証明になる。 「ずいぶんくわしいのね」 「さっき、聞いたばかりだ」  油谷は正直に言い、 「ただ、きみに手術が済んだという気持をもってもらうことが必要だった。それが曖昧だと、まだどんどんおなかが大きくなってゆくそうだ。臨月の大きさにまでなる。その場合は、入院して産室に運び入れ、麻酔をかけて架空のお産をさせる。もう出産した、という暗示をかけることで、元に戻るのだそうだ。しだいに、少しずつ元に戻る」  料理が運ばれはじめ、ゆみ子は皿の上に俯いて食事をすることによって、表情の曖昧さを、彼の眼から隠せるようになった。食事が終ると、油谷はやさしく言った。 「きみの部屋へ、送ってゆくよ」  そのやさしさに、ゆみ子は、やはり戸惑う。愛されているとおもう気持から、出てくるやさしさだろうか。それにしても、遊び人風の厚顔さをもった油谷としては、他人の愛を信じるその信じ方が、素朴すぎるとはいえないだろうか。  これまでの人生で、油谷という男は愛に飢えていたのだろうか。はげしく愛されたことが、一度もなかったのだろうか。いったい、彼はどういう結婚をしたのだろう。たとえば、相手の女性が思い詰めて想像妊娠をするほどのはげしい心持をそそがれることが、彼の願望だったのだろうか。  案外、油谷には初心なところがあるのかもしれない。いや、その願望が、彼の盲点に似たものを形づくっているのだろうか……、とゆみ子が考えたとき、油谷の声が聞えた。 「きみには、初心なところがある。最初会ったときに、すぐ分った。そこが、好きだ」  その言葉を、どう解釈したらよいだろうか。どこかに罠があるのか。よう子を背後で操っている男と、よう子との結びつきは、いったいどういう形でおこなわれたのだろう、という考えさえ、心に浮んだ。ゆみ子は、疑い深くなっている自分の心を知る。そういう心のうしろには、いくつもの過去の場面が積み重なっている。    四十五  ゆみ子の部屋で、油谷の躯は、逞しく充実した。最後まで、萎えなかった。  めずらしく、ゆみ子は乱れた。躯がしだいに摩《ず》り上り、頭が布団からはみ出た。髪の毛から抜けた一本のヘアピンが、畳の上に落ちたかすかな音がゆみ子の耳に届き、それからあとしばらくは、外界の音はなにも聞えなくなった。  落着きが戻ってきたとき、ゆみ子の掌が当っている油谷の背中は、汗で濡れていた。その額も、濡れて光っていた。しかし、その汗は、乏しい力を搾り上げて出てくる脂汗ではなく、はげしい運動のあとの健康な汗であった。  油谷の顔いちめんに、喜びの色が浮んでいた。その色で、いままでの彼が、不能から回復することに惨憺とした努力を重ねていたことが分った。 「一緒に暮そう」  ゆみ子の裸の肩の肉を掴んで、油谷が言った。 「一緒……、いつも一緒に暮せるの」 「いつも、というわけにはいかないが……」  ゆみ子は、部屋の中を見まわした。部屋というよりも、自分の身のまわりを眺める心持である。戸外はまだ明るい。カーテンの隙間から覗いているガラス窓が、夕日で赤く染まっている。ゆみ子は答えず、黙って、油谷の額をタオルで拭った。額にタオルをかるく当て、化粧のパフを使うように、汗を拭う。  油谷も、部屋の中を見まわした。これは、あきらかに、部屋自体を眺めている。そして、言った。 「暑いな。ルーム・クーラーを買わなくてはいけないな」  依然として、ゆみ子は黙っていた。片方の肩が、すこし持上った。それを拒否の姿勢のように、自分で感じた。しかし、何も言わない。曖昧な顔のままである。    四十六 「六時から、会社の宴会がある」  と言って、油谷は立上った。 「今日は、店は休むか」 「ええ」 「そのほうが、いいかもしれないな」  油谷の姿が部屋から消えると、すぐにゆみ子は立上った。外出の仕度をする。部屋に閉じこもっていることに耐えられない。気を紛らわしたい、とおもう。しかし、目当ての場所があるわけではない。  身づくろいをしながら、おもわず掌が腹部に触る。以前と同じように、はっきりした膨らみが触れてくるが、その膨らみにたいする躯全体の感じ方は、すっかり違っている。あきらかに、妊婦ではなくなっている。  戸外へ出ると、夕焼は消えていた。 「どこへ行こうか」  歩きはじめてから、ゆみ子は考える。  タクシーに乗って、とりあえず行先を銀座と告げた。結局、やはり店にでも出てみようか、と考えている自分に気付き、 「つまらない」  と、呟く。  両側に並木の植わった道を、ゆみ子は歩いている。夕暮の銀座は、人通りがはげしい。いつものゆみ子は俯き加減に、真直ぐ店へ向って足を運ぶのだが、わざと左右に眼を配って歩く。  しかし、人間のたくさんいる道は、ゆみ子を苛立たせる。  幸福そうにみえる人間は、腹立たしい。  不幸そうな人間も、鬱陶しい。  そのくせ、擦れちがう人間たちから、ゆみ子はそのどちらかの表情を読み取ろうとしてしまう。  生きている人間には眼を向けないようにしてみるが、左右に連なっている商店の飾窓も、色彩が多すぎるし、また鮮かすぎる。表通りから弾き出されかけている自分をゆみ子が感じたとき、一体のマヌカン人形が眼に映った。こまごまとした沢山のアクセサリーを並べた飾窓の中に、その人形は黄色い水着を着て立っている。赤、藍、緑……、たくさんの濃い色のまじり合った花冠を、頭にかぶっている。焦点の合わぬ眼、曖昧な顔つき、無機質の肌。そして、どういうわけか黄色い布につつまれた局部が、異様な盛り上りを示している。  その人形が眼に映ったとき、ゆみ子の足はおもわず狭い路地に曲りこんだ。  銀座には、沢山の路地がある。大通りから、帝国ホテル寄りの広い通りまで、路地をつたわって縦に抜けることができる。そして、華やかな表通りも、沢山の路地も、ともに銀座である。  ゆみ子の歩み込んだ路地には、人間の姿は一人も見えなかった。薄暗く、狭く、水たまりの多い湿った路地の中で、ゆみ子はようやく落着きを取戻した。黒く塗ったゴミ箱が一つ、行先にみえる。蓋はきっかり閉まり、その黒い蓋の上に、身を削《そ》がれた大きな魚の骨が載っている。捨てられた骨だが、きちんとそこに置かれたようにみえ、白く美しく光ってみえる。  自分の気持の曖昧さを解きほぐそう、とようやくゆみ子はおもいはじめた。薄暗い湿った路地が、身に親しい。  路地から路地を伝わってゆっくり歩きながら、ゆみ子は考える。 「結局、油谷はあたしを愛してはいない。愛しているのは、自分自身なのだ」  先刻、油谷の顔をかがやかせた喜びは、ゆみ子にはよく分る。ゆみ子の妊娠問題が解決して、負担を取除かれた喜び。思い詰めるほど愛されていたという喜び。不能から回復した喜び。彼の顔のかがやきは、すべて自分自身に向けられたものだ。 「わたしに向けられたものは、なにもありはしない」  ゆみ子は立止って、苛立つ。また、歩き出して、考えはじめる。 「一緒に暮そう」  という油谷の声が、耳の奥で鳴った。その声の生あたたかさを、ゆみ子は思い出す。つまり、妾《めかけ》になれ、ということだ、とおもう。妾になるならば、もっと別の形でなった方がいい、その生あたたかさが厭だ、とおもう……。  あるいはまた、正妻という位置でなくても、愛されているならば……、ともおもう。 「きみの部屋へ、送ってゆくよ」  レストランでの油谷の声のやさしさを、思い出した。あのやさしさも、やはり彼自身の余裕と機嫌のよさから出てきたものだろうか。あのやさしさから、ゆみ子への愛が誘い出されてくることはないだろうか……。そこまで考えたゆみ子は、 「そのことを望んでいるのか」  と、自分に問いかけた。  すぐに、ゆみ子の頭に浮んでくることがある。それは、二年前の霧の夜の情景と、あの青年との短かい生活である。たとえ油谷が恋愛の気持をもったとしても、その感情は、持続するものではない。人生において、別れも苦しみであり、出会いも苦しみである。そして、油谷とはやはり「出会い」と呼ぶに足る鮮烈さはなかった。 「お店へ行こう」  ゆみ子は声を出してそう言い、歩き出した。    四十七  路地を伝わって「銀の鞍」に至ろうとする。ようやく、見覚えのあるビルが見え、「銀の鞍」の裏側にきたことが分った。  ビルとビルとの谷間の路地を突当り、左へ曲って表通りに出れば、目的の場所へ着くだろう、とおもった。店のすぐ裏だが、はじめて歩く路である。  路地を突当って左へ曲ると、路の幅がにわかに広くなっていた。しかし、その路はすぐに狭くなり、大通りに開いている肩幅ほどの出口が見えている。狭い食道を抜けて、胃の腑の中に落込んだ感じである。  ゆみ子は立止り、ゆっくりと周囲の光景を見まわした。黒と鼠と灰白色の風景である。いや、目の前に古びた木の扉があり、柄を赤く塗った竹ボウキが立てかけてあった。扉の上には、埃だらけの日除けが張出されている。すでに日は落ちていたが、扉の上の軒灯は点されていない。大きな真鍮《しんちゆう》の錠前が、扉の上の縁に吊り下っている。  ゆみ子は、視線を扉の下から上へ這わせ、空を眺め、地面を見る。足もとの崩れたコンクリート舗装に、四角い木の蓋がある。木の色が新しく、鉛色の釘の頭がたくさん並んでいる。  扉の横に、円筒形の古いブリキの樋《とい》がある。その管を縄が一巻きして結び目ができている。縄は古く黒く、腐りかかっている。何のための縄なのか、まったく分らない。  木の扉は、休業中の酒場のものであろう。その扉からおよそ二メートル離れて、もう一つの扉がある。同じ木の扉だが、さらに幅が狭く、痩せた人間がようやく通り抜けられるくらいにしか見えない。コンクリートの古いビルの横腹に、その木の扉は嵌めこまれている。 『山田医院』  扉に嵌められた黄色く変色した磨ガラスに、墨文字でそう書いてある。ほかに、看板はどこにもない。何の病気のための医院か、分らない。ビルの横腹を眺め上げる。  一階、二階、三階、窓は全部閉ざされている。細長い、エンピツのような建物である。四階の窓の一つから、突出しているルーム・クーラーの尻がみえた。  あの窓の中が、医院なのかもしれない。いま、その中に、医者と患者がいるかもしれない。しかし、路地にも建物にも、人間の気配はすこしも無かった。  ビルの隣に、コンクリートの壁面がある。その壁に、人間の背くらいの四角い鉄の箱が貼り付いている。びっしり一面に、赤く錆を吹き出している箱である。その箱から、幾本もの鉛の管が出て、うねうねと壁の面を這っている。  菊の花のかたちをした小さい栓が三つ、壁に並んでいる。壁から、キノコのように生えている。地面にも、釦《ボタン》のような形の栓が、二つ三つ、四つと突出している。なにか、それらは生きもののようにみえる。モグラの鼻の先のようにもみえる。  ゆみ子は蹲まって、指先でその釦のかたちに触ってみる。冷たい金属だが、ざらざらした錆のためか、かすかな体温に似たものが伝わってくる。  壁を這っている管に、耳を当ててみる。かすかに語りかけてくる音が聞えてくるような気がする。管の中には、水が流れているのか、蒸気が動いているのか、あるいはただの空の管なのか。たしかに血管をめぐる血、心臓の鼓動、それに似たかすかな気配を感じる。  人間のいない風景、それがいまのゆみ子には懐しい。ゆみ子の身に親しい。無機物が、やさしくゆみ子に語りかけ、体温を伝えてくる。  しかし、ゆみ子はやがて立上り、路地の狭い出口へ向う。「銀の鞍」へ行くつもりなのである。 この作品は昭和四十二年九月新潮文庫版が刊行された。 Shincho Online Books for T-Time    技巧的生活 発行  2002年11月1日 著者  吉行 淳之介 発行者 佐藤隆信 発行所 株式会社新潮社     〒162-8711 東京都新宿区矢来町71     e-mail: old-info@shinchosha.co.jp     URL: http://www.webshincho.com ISBN4-10-861229-9 C0893 (C)Mariko Honme 1965, Coded in Japan