TITLE : 世界の指揮者    世界の指揮者   吉田 秀和   目次 ヴァルター セル ライナー サバタ クリュイタンス クレンペラー ベーム バーンスタイン ムラヴィンスキー クナッパーツブッシュ トスカニーニ ブッシュ マゼール モントゥ ショルティ クラウス ブレーズ ミュンシュ フルトヴェングラー ジュリーニ バルビローリ クーベリック、ターリッヒ、アンチェルル ロジェストヴェンスキー、フリッチャイ、アバド カラヤン あとがき 世界の指揮者   ヴァルター [Walter, Bruno]    1  ヴァルターの姿には、私は、一度だけ接することができた。一九五三年から五四年にかけて数カ月ニューヨークにいた当時である。その時、私は、トスカニーニは何回かきけたのだが、ヴァルターはたった一度。どうしてそういうことになったか。今考えてみたのだが、多少は私のこの両巨匠に対する関心のあり方の相違にも関係はしているが、それと同時に、めぐりあわせということもある。というのも、ヴァルターはニューヨークでは、メトロポリタン・オペラでもニューヨーク・フィルでも大いに活躍していたわけだが、それをもう少しくわしくみると、フィルハーモニーのほうは一九四七年から四九年にかけて指揮者兼音楽顧問の任務にあったし、メトロポリタンのほうは一九四一年から四五年、五〇年から五一年、五六年から五七年という具合に契約していた。少なくとも、リーマンの音楽辞典(Riemann; Musiklexikon, 1961)によって調べると、そうなる。だから、私のいた五三年から五四年は、ちょうどその空白期間に当たっていたのである。当時のフィルハーモニーの常任指揮者はミトロプーロスであり、メトロポリタンにはもちろんいろいろな指揮者がタクトをとっていたが、ヴァルターの姿は見られなかった。  戦争が終わったあと、一九四八年からは、ヴァルターはヨーロッパにしげしげと指揮に出かけて行っている。ヴァルターは、周知のように、ドイツにナチ政権が樹立された一九三三年に、ドイツを離れた。ユダヤ人出身だからである。当時の彼は一九二五年以来ベルリン市立オペラの音楽総監督、それから一九二九年以来はフルトヴェングラーの後任としてライプツィヒのゲヴァントハウス管弦楽団の楽長の職にいた(両者を兼ねていたのだろう)。ナチが政権を掌握したのは三三年だが、彼らはその前から騒いでいたわけだし、ヴァルターにしてみれば、祖国を出る前からすでに仕事はずいぶんやりにくくなっていたのだろう。何しろナチのプロパガンダは悪質で、悪知恵に富んだものだったし、そのうえ暴力に訴えることを少しも躊躇《ちゆうちよ》しなかったのだから。  ナチはヨーロッパ二十世紀の運命に深くつきささった大きな問題だったわけだが、十九世紀に生まれ、今世紀前半の指揮界の主導的立場にいた人びとのナチに対する反対の仕方は、それぞれの芸術を考えてみるうえで、大切な要素になっている。ただし、非常に複雑な局面において発生した問題であるだけに、そのこと自体も、簡単に白と黒という具合にわけることは、真相をかえって見誤ることになる恐れがある。  私たちは、トスカニーニが即座に全面的にナチを拒否し、これに反対したのを知っているが、その点では彼がナチの台頭以前に、すでにムッソリーニのイタリア・ファッショとの抗争の歴史をもっていたことを忘れてはならないだろう(私は、何も、彼がさもなければ、ナチにもっと妥協的態度を示しただろうなどといっているのではない。彼が、ドイツの同僚の多くよりも早く、ファシズム政権の何たるかについての体験と認識を重ねていたという事実をいっているのである)。これにくらべて、フルトヴェングラーの対応の仕方は、ずっと複雑で曲折を重ねたものだった。このことについては、また、この二人の巨匠を扱うときに、少しふれることになるだろう。  この二人にくらべて、ヴァルターは、ユダヤ人だったから、好むと好まざるとにかかわらず、ドイツを去らなければならなかった。したがって、彼には、フルトヴェングラーたちとちがい、自身で決断し選択するという可能性は残っていなかった。しかも、ヴァルターは、ドイツを去ると、まずヴィーンに行き、一九三六年には国立オペラの監督(Direktor)になっている。ついで一九三八年ドイツ・オーストリア合邦が実現すると、彼はフランスに逃れる。アメリカに渡ったのは、そのあと一九三九年になってからである。この事実を、どう考えるか?  ヴァルターは自伝『主題と変奏』で、それについてふれているが、私一個の考えをのべさせていただけば、こういうことになる。第一に、ヴァルターは政治については頭を悩ますことの少ない人間であったのだろう。ナチがドイツで政権をとったら、同文同種のオーストリアを何らかの手段で早晩併合してしまう挙に出るであろうことは、少し考える人なら自明の理だったろうに、彼にはそれが考えられないか、さもなければ、彼はそういうことを考えたがらなかった(念のためにいっておけば、ナチは——それも猛烈なナチが——オーストリアにも合邦前からすでに蔓延《まんえん》していたのである。オーストリア人のすべてが、ドイツ・オーストリア合邦に反対し、その犠牲になったと考えるのは、歴史的事実に反する。それにヒトラーがオーストリア人だったことも忘れてはならないだろう)。  その年のうちに、ドイツ・オーストリア合邦が成立すると、彼はまず手近のフランスに亡命する。これもまた、驚くほかないような見通しの悪さである。金がないとか職場が簡単にみつかりそうもないといった条件でしばられている幾百万の人びととちがって、ヴァルターのような当代きっての大指揮者なら、世界中どこに行っても活躍できるのが明らかだろうに、アメリカはおろか、イギリスを選ぶことさえしなかった(もっとも、イギリスはアメリカとはまったくちがい、大陸からの亡命者には冷たかった)。ベルリンでナチとぶつかった同じユダヤ系の音楽家シェーンベルクは、とっくにアメリカに渡っていたのに。  この事実は、しかし、また、いかにヴァルターが、ドイツ・オーストリアに強い執着を感じていたか、少なくともヨーロッパ大陸に対して離れがたい想いを抱きつづけていたか、そこを離れるのに、いかに後髪をひかれる想いであったかを示す。単に、思い切りの悪い人間だったというのをこえて、その点で、彼はトスカニーニとちがい、フルトヴェングラーと共通する地盤に立っていた。ただ、くり返すが、彼は、亡命を強いられたのである。それなのに——いや、だからこそ——いっそう、あきらめがつきにくかった。  もし、この推測が正しければ、戦争中どんな想いで、ヴァルターがニューヨークで、ヨーロッパ大陸に帰れる日を待ちかねていたかを想像するのは、困難ではない。  だが、彼は、ついに、旧大陸に再び定着することなく、死んでいった。どうしてか? その間に何か変化があったとすれば、それはヨーロッパが、かつての彼の知っていたヨーロッパに二度と回復しなかったからか? 一九四八年以降、何度かヨーロッパに客演しながらも、彼は自分の故郷をそこに再び見出《みいだ》すことができず、むしろ期待を裏切られた苦い想いをくり返し味わわなければならなかったからか? 戦争で深刻な痛手をうけたヨーロッパには、もう彼をふさわしいやり方でうけ入れる余地がなくなっていたのか? それとも、その間に、ヴァルター自身が、またひいては彼の芸術が、徐々に変貌《へんぼう》、変質していたからか?    2  こういう疑問に、私は直接答えられない。ナチ以前のヴァルターの芸術についての私の知識が充分でないからである。しかし、私は、それにもかかわらず、以上のような事情を考えることは、重要だと信じる。ヴァルターに限らず、一般に、十九世紀出身のヨーロッパの芸術家について考える場合、今世紀の二度にわたる世界戦争とそれに関連する巨大で深刻な社会的変動を無視することはできない。政治に対して、まったく受動的な関係にしかなかったであろうと思われるヴァルターのような場合でも、その芸術が、まったく影響をうけずにいることは不可能だった。  そういう意味も含めて、私は、ヴァルターについて、解釈のうえでの一つの仮説を立てる。  ヴァルターは、二十世紀の真中までもちこまれた古き良きヨーロッパの音楽の体現者だった、と。《古き、良き》。また彼の場合、この《古き、良き》というのは、ほとんど十九世紀を通じてみた十八世紀の姿に通じる。  周知のように、ヴァルターは、モーツァルトの最良の指揮者の一人に数えられると同時に、マーラーの最も正統的解釈家といわれてきた。ヴァルターの芸術のほとんどすべては、この両者を結ぶ射程の中に入ってくる。モーツァルトが起点であり、マーラーはその後の発展の末のふりかえりと憧《あこが》れとして捉《とら》えられる。この間に入るものは、一口でいえば、十九世紀ヨーロッパの和声的単音楽(Homophony)の時代の作品である。和声は、ベートーヴェンからシューベルトを経て、ヴァーグナー、リストにいたるまで、ひたすら複雑へ、複雑への道をたどる。それと並行して、指揮者の楽器、つまり管弦楽も複雑化し、大型化する。  こういう点では、フルトヴェングラーやトスカニーニも、もちろん、大雑把《おおざつぱ》にいえば、同時代人である以上、同じ型の音楽をやったはずだ。だが、フルトヴェングラーには対位法的要素がもっと強靱《きようじん》にあり、トスカニーニはイタリア・オペラのあの旋律とそれにつけた伴奏とからなりたつ、いわば単旋律音楽(Monody)の伝統を深く身につけている。こういうのを、指揮者の基本的な分類の仕方ととられては困るが、しかし、彼らの感受性の方向と思考の手法は、こういうことと無関係ではありえない。  もちろん、この二人のなかでは、ヴァルターはフルトヴェングラーにより近い。レパートリーでもそうであるし(ヴァルターに、イタリア・オペラをふったことがないとは考えられないが、レコードはない。その機会はごく少なかったのではなかろうか? 彼はフルトヴェングラー以上に、十九世紀ドイツ・オーストリアに曲目を限っていた観がある)、チャイコフスキーさえ、彼は、たとえ手がけたとしても、ニキッシュやメンゲルベルクはもちろん、フルトヴェングラーがもったほどの共感ももちえなかったのではないかという気がするくらいだ。  それはともかく、ほとんど徹底的にドイツ・オーストリア系の和声的単音楽が中心だったということが、ヴァルターの場合、どういう演奏の特徴となって現われているか?    3  私は、今度ヴァルターについて書くので、改めて何枚かレコードをきき直してみたが、その際気がついた一番大きなことの一つは、彼の指揮できく時、バス——つまり低音が目立って強く耳に入ってくるという事実である。  たとえば、モーツァルトの『ト短調交響曲』(K五五〇)のアンダンテ音楽は、その目ざましい例だが、実は、これはどこでもきかれる。 「ヴァルターの指揮は、暗く柔らかく、よく歌う演奏に導く」。これは、ヴァルターといえば、いつもいわれることである。私も、これには異存がない。それにもう一つ「ヴァルターはけっしてオーケストラに過度な烈しさを要求しない」ということもつけ加えておこう。この《烈しさ》というのは、何もダイナミックな爆発的な荒々しさというだけの意味ではなく、弱音の扱いについても、そうである。彼のピアノ、ピアニッシモは、フルトヴェングラー、カラヤンなどにくらべると、彼らの聞こえるか聞こえないほどのかすかな音でありながら、異常な緊張力にみちたピアニッシモといったあの凄味《すごみ》をもたない(フルトヴェングラーの指揮したベートーヴェンの『第九』の終楽章、例の〈歓喜の歌〉の主題の導入など、この好例である)。  指揮者ヴァルターの芸術の根本は、この「よく歌わせる」演奏にあるのだが、しかし、「歌う」「歌わせる」指揮とはどういうことか?  私は前に、彼は低音を強調するといったが、このことと、「歌わせる」というのは、深い関係にある。  ベートーヴェンの『第五交響曲』を、まず、例にとろう。  この交響曲は、もちろん、特に「よく歌う」といった様式でひかれるのが主眼の音楽ではない。誰もが知っているように、これは音楽を構成していく手続きが、あの「運命が戸を叩く」主題から発して、ほとんど、それによって終始しているところの、構成の奇蹟《きせき》的傑作である。それに、ここにはもう伴奏というものもない。副声部も埋め草的楽想さえも、ほとんどすべて、この主題の処理によって作り出されている。  ヴァルターのレコードできくと、第一楽章の初めの主題は、リズムの点でかなり曖昧《あいまい》である。初めのフェルマータ(第二小節)は、ほぼ四分音符六つの長さだが、つぎのそれ(第五小節)のは、六つにややたりない。六つが完全に終わりきらないうちに、つぎのト音に入ってしまっている(譜例1)。  これはおかしいのであって、二度目のフェルマータは、一小節の二分音符があったのち、つぎの小節の二分音符についているのであるから、もしフェルマータの平均的なのばし方を、本来の音価の倍にとるとすれば、初めは四つ、二度目が六つの割合になってしかるべきものだ。これはカラヤンがほぼとっているところであり、フルトヴェングラーも、たしか、二度目をはるかに長くとったと覚えている。ヴァルターのは、いわば戸を叩くその音のショックが、最初の時最も衝撃的で強力だというだけでなく、二度目のフェルマータでこの主題的楽想が一端とぎれるというのと逆で、こちらが、それからあとに続く音の流れによりなだらかにつながってゆくのである。  この連続性、あとにつづくものへの流れ具合のなだらかさ、これが、私たちの聴後感としてのこる「よく歌う演奏」という印象と、強く関係する。  以下各楽章にわたって細説する余裕はないが、こういう精神の働きは随所にみられる。総体にヴァルターのフェルマータの扱いは、短めである。マーラーの、たとえば『第一交響曲』の終楽章には、実に数多くのフェルマータが書きこまれているが、ヴァルターは、それを、まるで歌手が一息つく、いわゆるルフト・パウゼ的に、ごく短い休止をはさむ機会として解釈しているかのようだ。歌のつづき具合の問題なのである。ヴァルターの旋律は、呼吸している。  だが、彼の指揮する『第五』に、もう一度戻り、この彼の「歌う」様式が、随所に出るというだけでなくして、つぎに、それが、どう歌われるか? ということを、もう少し考えなければならない。  私は、ヴァルターがバスを強調する傾きがあると書いた。「歌う」というのは、今書いたように第一に呼吸を感じさすということだが、それはまた、テンポのごく目立たない緩急、つまりテンポ・ルバートその他ののびちぢみの問題でもある。だが、第三に、こういうことがある。それはヴァルターに典型的にみられるのだが、旋律の呼吸にクレッシェンド、ディクレッシェンドのダイナミックな変化を加えることである。ヴァルターの特徴は、そのクレッシェンドに当たって、特にバスの強調に力を入れていることによくみられる。  バスは、和声的単音楽《ホモフオニー》の場合、単に低い音域の声部というだけでなく、これは和声の根本になる声部である。そのバスが強いと、倍音関係で織りなされている和声上の共鳴音がより充実してくる。響きそれ自体として、あるいは重厚に、あるいは生理的快感を喚起するだけでなく、何というか、いかにもりっぱな音楽をきいたという充実感を呼びさます。こ れの最適例の一つは、『第五』の終楽章、それもコーダに入ってからみられる。『第五』のこの個所は、やたらと長くて、もう音楽としては、大切なことはいい終わってしまっているのに、ベートーヴェンがいつまでも《勝利》の快感を圧倒的で全体的なものにするために、いつまでも、終止形をくり返しているといった印象を与えかねないのだが、ヴァルターのは、ここにきて、俄然《がぜん》すばらしい音楽になる。その見事さはたとえようがなく、私はこういう例は、ほかには知らない(譜例2)。  この譜例は同じ楽想でも最初の、ファゴットではじまる管でなくて、二度目の弦のユニゾンでひかれる個所を指す(ことわっておくが、私の今例にとっているレコードは、コロンビア交響楽団の演奏するステレオ盤で、ニューヨーク・フィルによるモノーラル盤ではない)。  このフィナーレは、これ以下もすばらしい出来だが、ほかにも、こういう例はいくらでもある。たとえば、シューベルトの交響曲。特に『未完成』の見事なことは、もちろん、歌う音楽を演奏する以上、当然予想されるわけだし、演奏団体もそれを裏切らない。だが、この場合『未完成交響曲』の主要な旋律——というより、素人的にいえば、ききどころのふしが、いずれもチェロを主体とした低音楽器によってまず提出されていることも見逃せない。それにホルンがつきそっていたり、あるいはホルンがいつまでも音を保続してオルゲルプンクト的に働いている場合、深い響きの、安らぎにみちた、充足感とでもいったものは、当然誰がやっても出るはずだが、ヴァルターの指揮する場合ほど、明らかに強調されるのは、いつも、みられるとは限らない。  それにくらべて、先に書いたように、、の表現には、微妙さは欠けていないが、緊張力が弱い。『第五』のスケルツォは、これまたごく手近の例である。ここでは、ベルリオーズが「象が群がって踊っているような」と呼んだ、あの低音からはじまるフガートのトリオがすごいのにくらべて、スケルツォの主要部は、テンポがのびやかすぎ、あまりにも凄みに欠ける。また、トリオのあとの、いわばスタッカート的断続の音楽から、フィナーレへの橋となってティンパニの連打の上で音楽が流れてゆくあたりは、実に「音楽的」なのだが、終楽章の再現の前のスケルツォの回想は奇妙に影のうすいものになる。    4  世界の管弦楽団をきいていると、ベルリン・フィルやヴィーン・フィルといったドイツ・オーストリア系の名門交響楽団では、コントラバス、それに金管木管の低音楽器の音に、ほかの楽団とくらべて、一段と幅と厚みのあることに気づくだろう。フランスの管弦楽団の木管の美しさ、アメリカの交響楽団のトランペットとか、弦楽器の音楽での目ざましいばかりの輝かしさ等々、話を簡単にするため、まずは、こういった誰の耳にも、一度きけばすぐ気がつく特徴を拾いながらいえば、ヴァルターの《音楽》は、まぎれもなく、ドイツ・オーストリアの管弦楽の響きを土台として築かれたものである。それによって養われ、またそれを追求したものである。  その人がアメリカに行った。彼がどんな夢をアメリカに託したか、それがどこで満たされ、どこで破れたか? ことわっておくが、ここでは、私は音楽について、演奏について、いっているのである。  ヴァルターのレコードをきいて、あまりにもバスの強調が耳につくので、私は、初め、これはレコードの録音技術、あるいはプロデューサーの好みででもあるかととまどったこともある。しかし、ヴァルターに関する限り、これはほぼどこでもきかれる。とすると、ヴァルターがそれを望んだと考えて、ほぼまちがいはなかろう。ヴァルターは、アメリカの管弦楽団を指揮する時、バスの重要性について特に注意をうながしたに相違ない。  それが、私には、彼のアメリカに渡ってからのモーツァルトのレコードをきくうえで、耳ざわりになる時もある原因になる。先にあげたレコードには、ト短調のほかにハ長調の『ジュピター交響曲』が入っている。『ジュピター』のフィナーレは、対位法的に書かれている。ヴァルターのさばきに狂いはない。それにアンダンテでの、あの言語に絶して見事な主題と、それにおくれて来てからみつく対位線とのバランスも、黄金の均衡をつくりあげている。だが、そういう中で、何でもないピッツィカートやコル・レーニョのバスの音、つまり和音の根音となっているバスの音は、ときどき、あまりにも強調されすぎていて、音の織地全体の色彩に、ややうっとうしい曇りを与える。全体に、ヴァルターのモーツァルトは、優雅であると同じくらい明朗であり、柔和甘美であるに劣らず堅実な姿をしているのだが、響きそれ自体としては、何というか、カラッと晴れ上がった爽やかさとはやや趣がちがう。それが、私に、ときによると、少し物足りない思いを抱かせるもととなる。穏和であって、切れ味の鋭さにやや欠ける、とでもいうか。  私は今思い出そうとして(私が彼を実演できいた時は、モーツァルトばかりの演奏会だったのだから)、どうしてもできず、はがゆい思いをしているのだが、彼はモーツァルトを演奏する時、管弦楽の編成を今日ある人びとがするようには、小さくしなかったような気がする(現在でも、たとえば、ベームは『ジュピター交響曲』を、大管弦楽をフルに用いて指揮する)。  だとすれば、それはマーラー以来の伝統とどう結びつくのか?  マーラー。これは、ヴァルターの耳と精神がモーツァルトできいたものと、どのくらいちがうべき音楽であったか? 私は、彼がヴィーン・フィルを指揮しキャサリン・フェリア、ユリウス・パツァークを独唱者とした『大地の歌』をきく。ここでは、あの異常に耳につくバスの強調は、ほとんどみとめられない。バスはもちろん強いが、それはいわば作品の自然に則して、強いのである(マーラーは「ハーモニーなどというものはない。音楽のすべては対位線の組合わせから織られたものだ」といった人である)。バスの独立性は、モーツァルトはもちろん、シューベルトやブラームスにくらべてもずっと強化されている。何しろ、彼の交響音楽では、コントラバスの声部はやたらと独立性をもって活躍することを強制される。実によい響きであり、音楽の全体も、申しぶんない。しかも、ここでも、局部局部で、表現の柔らかさがやや過度なのではないかという気が、忘れたころになると、また、思いださせるような恰好で舞いもどってきて、私の陶酔を破るのである(それにフェリアは、一世紀に何人とは出ないだろうようなすばらしい声と知性の歌手だが、ドイツ語の発音はよほど苦手だと見えて、きいていて、はっきりわかることはほとんどない。また、〈秋に孤独なもの〉の中では、der s殱se Duftをdas s殱se Duftと歌っている。くり返しきいたが、私にはそうとしかきこえない。名詞の性をまちがえるなどということは、私たち外国人には始終あることだが、ドイツ人にとってはさぞ聞きぐるしかろう。これを指揮していて、ヴァルターはどういう思いがしたことだろう? あるいは諦念《ていねん》をもって受容していたのだろうか)。それにしても、ヴァルターの指揮した『大地の歌』、ことにミルドレット・ミラーのメゾ・ソプラノによる終曲〈告別〉の演奏の美しさは、まったく二度とあるまいと思われるすばらしさだ。  だが、マーラーの『第五交響曲』の第一楽章、あの葬送行進曲の途中で、音楽が突然変わるところ(ピーター出版のスコアの第二〇ページ。七という番号のあるところで、変ロ短調ののトゥッティがある)、マーラーが、「突如としてより速く。情熱的に。兇暴《きようぼう》に」と書きこんだところで、ヴァルターがあまりにも柔らかく、愛撫《あいぶ》するように演奏しているのをきくと、私はびっくりし、かつ、打たれる。もしかしたら、これはモーツァルトのほうをむきながら、涙の中で追憶されたマーラーなのかもしれない。 「音楽はどこまでも美しくなければならないのだから……」とモーツァルトは書いた。これは「真実をいうために破ってはならない美の法則などはない」といったベートーヴェンとは別の世界から生まれた言葉であり、その境界が、十八世紀の音楽を十九世紀のそれと隔てることになる。私はいずれまたこの対極について戻るつもりだが、今はヴァルターについて、彼の演奏は彼がこのモーツァルトの側に立つ人間だったことを示していると書いておく。ただこの人にとっては、美はすなわち真実であり善なのであり、だから彼は音楽を説く時、いつもそのエトスとしての力にふれさえすればよいことになるのだった。  ヴァルターのマーラーは、あの神経質で爆発的な歓喜と絶望の交錯の中でさまようバーンスタインのそれとは、ひどくちがう。また、それは草いきれのむんむんするような野趣にみちたクーベリックのそれともちがい、洗練された都雅を失わない。同じ『第五交響曲』の第三楽章に出てくる三拍子がもの憂いレントラーではなくて、第二拍に重みのかけられたヴィーン・ワルツのリズムになっているのが、その最もわかりやすい証拠である。ユダヤ系の芸術家や知識人の中には、往々にして想像を絶するほどの洗練の高みに達した柔和と敏感をあわせもつ精神の持ち主がいるものである。ヴァルターはその一人だった。   セル [Szell, Georg]    1  私は、セルについては妙な聴き方をしてきた。聴き方というより、経験といったほうがよいかもしれない。私が、セルをはじめてきく機会をもったのは、一九五三年のニューヨークでだが、その時、私は、セルの指揮する『ローエングリン』だったか『タンホイザー』だったかをきくつもりで、メトロポリタン・オペラに出かけた。ところが入口で知人に出会い、その人が私をメトロポリタンの支配人のルードルフ・ビング(Rudolf Bing)に会わせるといってきかないものだから、ともかく楽屋のほうの入口に行った。受付を通って廊下に出ると、「ここで待っているように」というので、待つことにした。ところが、いつまでたっても帰ってこない。どのくらい待っていたか。やがて、彼女——私の知人は歌手に歌とそれから演技の基本、つまり舞台での身体の動きの訓練をつけるのを仕事としている中年の女性だった——が戻ってきて、「今日はとてもビングに会うどころじゃなさそうだ。彼は今、今夜の小屋があけられるかどうかで大変なことになっている」といったなり、またどこかに姿を消してしまった。何のことやら見当もつかず、私はただその場につったっているだけだったが、そのうち廊下にはいろいろな人が忙がしそうにあちらへ行ったりこちらへ行ったり、やけにざわついてきた。仕方がない。ヴァーグナーが流れたのなら、ここにいてもはたに迷惑をかけるばかりだと、私は帰りかけた。そこに、また、彼女が息せききってやって来るなり、私の袖《そで》をつかまえて、廊下の一方に引っぱっていった。その先にビングの部屋があり、その入口にビングが立っていて、私の顔をみるなり、手を差しのべて握手もそこそこ、「いや失礼した。今夜はどうにもならないから、お引きとり願って、またいずれお目にかかろう」という挨拶。不意に現われた外国の一介のおのぼりさん音楽批評家に対して、これはまた何と丁重なものだと、私も恐縮して、そのまま、宿に帰った。翌日の新聞をみると、ジョージ・セルがビングと大喧嘩《おおげんか》をして、「もう二度とこんなところで指揮棒をとるものか!」と、飛び出して行ってしまったと書いてある。もちろん、それをとりまいて、何や彼や尾鰭《おひれ》のついた記事がのっていたが、その細かいことは忘れてしまった。私の知人からも、電話で、何か話をきかされたが、これも覚えていない。このほうが、もっといろんなきわどい話がいっぱいあったのに、私は一向に好奇心もないので、くわしくききだすこともせず、電話をきってしまった。あとで、たまたま当時ニューヨークに居合わせ、始終顔をあわせていた福田恆存《つねあり》さんや大岡昇平さんに「だから、お前は音楽坊主で、ほかのことは何にもわからないのだ」とさんざん笑われた。それについて何かまた書く種があっただろうに、というわけだ。しかし私にいわせれば、要するに、芝居小屋の常で、興行の責任者とアーチストが喧嘩しただけの話。別に珍しくもあるまい。  セルは、そのあと、それも同じ年の大《おお》晦日《みそか》、たしかニューヨーク・フィルの演奏会できいた。ところが、この時のプログラムは、ヴァーグナーからの管弦楽の抜萃《ばつすい》ものばかり。初めから終わりまで、『タンホイザー序曲』だとか『ニュルンベルクの名歌手の前奏曲』だとか『徒弟たちの入場』だとか、これも細かいことは忘れたが、要するに、景気はよいが、半端なものばっかり。初めから、そういう予告であったかどうかは記憶がはっきりしないが、私はすっかり腹を立ててしまって、こんな音楽会をきかせやがって、セルなんてやつ、一生、二度ときいてやるものか! と、西洋流にいえば、彼をのろいながら下宿に戻ったことは、よく覚えている。  というのも、実は、私は、その日の午後、大岡、福田の大先輩に会った時、ニューヨークでは大晦日の夜、つまりシルヴェスターの夜は、タイムズ・スクエアの雑踏が見ものであり、十二時の鐘を合図に、街の人びとはみんなお互いに「新しい年を祝って」抱擁《ほうよう》し合う。「手近の人なら、どんな美人をつかまえて接吻したってかまわないのだぞ〓 おれたちは、それで、今夜は知人の家で夕食をごちそうになり、それから、おもむろに街に出かけることになっている。お前は、例によって、音楽会通いという話だが、ごくろう様なことだ」など、妙に気をもたせるような穏やかでない話の末、別れたのだった。  玩具箱《おもちやばこ》をひっくりかえしたようなヴァーグナー抜萃曲ばかり一晩中きかされて、せっかくのニューヨークの大晦日の景物をふいにして下宿に帰るなど、何と気のきかない話だろうと、私は、一層セルに腹を立てた。と、まあ、こんな次第である。  しかし、一夜があけて、元旦。その昼すぎ、近くの福田恆存の宿に出かけてみると、彼はまったく浮かない顔をして、しょんぼり椅子に腰かけていた。「ニューヨークはタイムズ・スクエアで美人をよりどり見どり抱擁できるなんて、どこのどんな阿呆が作りだした嘘か。まったくの出鱈目《でたらめ》で、なるほどやたら大ぜいの人間がもそもそ通りをうろついてはいたけれど、十二時の鐘が鳴ったって、誰もわれわれなんかに見向きもしないし、結局、くたびれ損の骨折り儲《もう》けさ。こんなことに見向きもしないで、大晦日の晩まで音楽会通いをしているなんて、やっぱり吉田もそう馬鹿というわけでもない、と大岡と話していたところだ」と、彼はいう。 「いや、どうしてどうして。こちらはこちらで、まったくつまらない音楽会をきかされ、お二人をうらやみ、セルをのろって、凍《い》てつく夜道をひとり淋しく宿に帰ったんだ。僕が思うに、あれはきっと、セルとニューヨーク・フィルでヴァーグナー名曲集とでもいったレコードでも入れるんだろう。演奏会はそのためのリハーサルみたいなものじゃないかしら。そんなものをきかされるなんて、いい面の皮さ」といって、二人で笑ったものだった。  あれから、もう、十年よりは二十年に近い時がたつ。  時が流れ、水が流れ、風が吹きすぎ、こちらは年ばかりとる。  こんなわけで、実は、セルのことは結局、一九六七年ベルリンでベルリン・フィルの演奏会できくまで、私はよく知らないでいた。    2  ハロルド・ショーンバーグに『偉大な指揮者たち』(H. Schonberg, The great conductors)という本がある。私見では、同じ著者の『名ピアニストたち』ほどの力作とは思われないが、それでも、おもしろい読みものになっているばかりでなく、私などには教えられるものもいろいろある。  そのショーンバーグの本のセルの項に、セルがクリーヴランド管弦楽団の常任指揮者に就任して数年たったあと、自分の当初の目標に到達したと感じた時、「クリーヴランドでは、たいていの管弦楽が終えるところから、練習をはじめる」と豪語した。こういうことでは同僚の怒りを誘うのも当然だし、事実、彼のこれまでのキャリアには何度か人と衝突したエピソードがある。 "He withdrew from the Metropolitan Opera in a huff, under conditions that have never been fully made public."(腹立ちまぎれにメトロポリタン・オペラをやめたいきさつも、その後まだ、完全には公表されていない。)  そのあとも、セルはニューヨーク・フィルとも衝突したし、サン・フランシスコでも事件を起こし、指揮者エンリケ・ホルタと批評家のフランケンシュタインとぶつかりもした。「彼をよく友人たちは、セルを彼自身の最大の敵と呼ぶのも、こんなことがあったためである」(ただし、ルードルフ・ビングは、"Not while I'm alive."私の目が黒いうちは、そこまではいかない、つまり、ビングは自分こそセルの最大の敵だといっているのである)という一段がある。だから、例の一件は、よほどセルのその後のキャリアに深い関係があった出来事かもしれない。  けれども、こういう話は、もうこのくらいにしておこう。要するに、セルを考える場合、彼が自分の理想に憑《つ》かれた人らしい、ということをまず知っておくことが大切なのだ。そうである以上、この人は管弦楽を指揮して、徹底的に自分の考えでひっぱってゆくタイプに属していると見てもよいのではなかろうか。  では、彼の理想とは何か? 同じショーンバーグの本に、セルがP・H・ラングと交した長いインタビューからの引用がある。 "I personally like complete homogeneity of sound, phrasing and articulation within each section, and then — when the ensemble is perfect — the proper balance between sections plus complete flexibility — so that in each movement one or more principal voices can be accompanied by the others. To put it simply: The most sensitive ensemble playing."  原文のままの引用で申しわけないが、しかし、これは、一人の指揮者の考えをのべて、はっきりと、あますことなくいいつくしていて、しかも一言の無駄がない——つまり、あまりにも「美しい」表現になっているので、読者に原文のままくり返し読んでいただきたいと考えたからである。  ショーンバーグは、さらに、こう書き続けている。「セルはアンサンブルに関しては狂信主義者である。彼はまるで室内楽でもやるみたいにオーケストラを扱い、一〇〇人を越す楽員たちの一人一人が他のメンバーの演奏に注意深く傾聴するところまで、訓練しようと望む。彼は自分は水平線に——つまりポリフォニックに——きくが、たいていの指揮者はモノディックな聴き方をしていると考えている」。  これは、ショーンバーグがセルの言葉を要約して紹介したものだろう。評論家とか批評家とかいうものは、私はもちろんショーンバーグほどのベテランでも、これだけのことはなかなか、率直に、的確に、いえないものである。  と同時に、以上の二つの文章は、現代の代表的大指揮者ジョージ・セルの特徴を本質的なところで、ほぼいいつくしている、といって過言ではない。    3  ニューヨークの一件があってあと、十何年して、私はベルリンでセルをきいた。再びというより、この時がはじめてのようなものである。最初の時は腹を立てすぎていた。  ベルリンでのプログラムは、ヴェーバーの『オベロン序曲』と、バルトークの『ヴァイオリン協奏曲第二番』(パイネマンの独奏)、それからシューマンの『交響曲三番』というものだった。こう並んだだけでも一流の指揮者のプロとはっきりわかる。協奏曲のことは省略しよう。『オベロン』は実に端然たるものだった。どんなフレーズの意味も、いや副次的な線の形も鮮かに出るうえに、騎士的な躍動もあるのだが、ヴェーバーのあの暖かい、夢みるようなロマンティシズムは出ない。  しかし、セルが何ものであるかを、いちばんはっきりわからせたものは、シューマンの交響曲だった。これは並々の演奏ではない。  シューマンの交響作品には、問題が少なくない、というのが通説である。私は、ここでは、シューマンがベートーヴェンみたいに、ブラームスみたいに交響音楽をかく力がなかったという問題には深入りしない。しかし、彼の楽器編成のうえでの問題は、よけて通るわけにはいかない。  かわいそうな天才ローベルト・シューマンはオーケストラのために書く時、いわばモーツァルト的な、音のテクスチュアの透明と輝かしさも発揮できなければ、ベートーヴェンのあの抵抗感と重量感のある音響も得られなければ、ベルリオーズ、R・シュトラウス的な多彩にして豪華な響きも楽器のソロ的組合わせも手中のものとすることができなかった。彼は、とかく、弦、木管を重ねすぎ、結局どの楽器の音もその特性を失い、音の艶《つや》と輝きも出せぬ中間色的なもので全曲を塗りつぶしてしまう。そのうえ、最大の欠点は、高音域と中声と低音域との音の配分が悪いために、バランスが失われがちな結果をひきおこす。  シューマンの指揮者は、いわば、どこかに故障があって、ほっておけばバランスが失われてしまう自転車にのって街を行くような、そういう危険をたえず意識し、コントロールしなければならない。あるいは傾斜している船を、操縦して海を渡る航海士のようなものだといってもよいかもしれない。  それを、セルは、見事にさばいてみせた。第一楽章の、あの三拍子なのに四拍子みたいに聞こえる、奇妙にシンコペートする主題の提示からはじまる音楽以下終楽章にいたるまで、一貫して見事な手綱さばきを示したほか、彼はこの音楽の中に、どんなにたくさんの詩趣と誠実との貴重な結びつきが隠されているかを、あますところなく、鳴らしてみせた。  シューマンが、ほっておいたらとても真直に立っていられず、右に、左に傾斜するオーケストラ曲を書いたのは、また、彼が、一方ではまったく霊感にたよる純粋に心情の人であると同時に、もう一方では、やたら知的抽象的な着想から出発する、いろいろな頭脳的細工を加えるのを好み、低音に無理な対位線を書きこんだり、和声のごく自然な流れに逆らってまでリズムを交錯させたりといった《技巧》をこらす癖があったからである。この交響曲から一例をひろえば、第二楽章のハ長調のスケルツォに、イ短調のトリオを対置さすのだが、そのトリオにホルンのハ音の保続音(オルゲルプンクト)を置く。当然、和声の響きに無理が出る。だが、シューマンは、トリオのあと、スケルツォをイ長調で戻らせたうえで、もう一度、トリオを再現さす。だが今度は、もうハ音の保続音はない。和声はずっとすっきりする。  こういう時、指揮者は楽譜に書いてあるままに、オーケストラを響かせるか、それとも、ハ音をどうさばくかについて、当然選択を迫られるわけである。  セルは、トスカニーニの流れをひく、ザッハリヒな様式の指揮者ということになっているが、実際にことに当たってよくきいてみると、そう簡単にはいかないのである。  さっきのセルの言葉を思い出していただきたい。「管弦楽の響きの等質性」と「どの部分をとってみても、一つまたそれ以上の主要声部が同時にほかの声部によって伴奏されうるような完全な柔軟性をもち、そのうえに適正なバランスを保持するような、そういうアンサンブルの完璧《かんぺき》さ」。そのためには、今例にとったトリオの中でのハ音は、しっかりと全体のテクスチュアの中に腰をおろしているうえに、同時に流れるイ短調の主要声部の歌うような旋律性をあますところなく発揮しなければならない。しかも、このトリオはごく素朴なレントラーの様式で書かれていて、複雑なニュアンスを嫌う。  こういうことができる指揮者は、世界に何人いるだろうか?  それに、私はまったく驚嘆したのだが、このスケルツォのハ長調の簡単な旋律につけた、フレージングのニュアンスの精妙さ! その精妙さは、もっぱら明快な的確さから生まれるのだが、それでいて、この旋律が何度も提出されるそのたびに、私たちは否応なく魅了されてしまうのである。  私は、少し細かいことを述べすぎているように見えるかもしれない。もしそうならば、それは、私の記述が、未熟だからにすぎない。実際にセルの指揮するこの交響曲をきけば、音楽は、本質的には、最良のロマン派のあの素朴で、しかも真情にあふれた民謡を根にもった交響音楽にほかならないのだ。セルがクリーヴランド管弦楽団を指揮したシューマンの交響曲全四曲、それに『マンフレッド序曲』と『ピアノ協奏曲』(独奏はレオン・フライシャー)をおさめたレコードが出ている(アメリカ盤EPIC・STEREO・BSC一一〇)。これは、私のきいたベルリン・フィルとの演奏と完全に一致するものではないが、しかし、実にすぐれたレコードである。    4  セルは、しかし、究極的には、大ぜいの聴衆を喜ばせるとともに、専門家のための専門家的音楽家でもある。少なくとも、現代の指揮者中、この人ぐらい専門家を嘆賞させる力をもった人は、ほかに何人いるだろうか。  セルがクリーヴランド管弦楽団といっしょに入れたレコードのすべては、その意味で、現代の演奏の一つの典型的存在である。  たとえば、ハイドンの『交響曲第九三番ニ長調』と『第九四番ト長調驚愕《きようがく》』を裏表にいれたレコード(アメリカ盤ML六四〇六)。これなども、名盤中の名盤である。  ハイドンだけをきかせて、現代人を心から満足させるのは容易なことではない。セルのハイドンは、そのごく少数の一つであり、私の今日まできいたレコードの中でいえば、おそらくライナー指揮のそれとならんで、最高の列に数えられるべきものである。  合奏の完璧。明確で柔軟な表情。バランスの良さ。ここに、セルの最良の姿がある。ことに、彼のいう管弦楽の各部門相互間の均衡のうちにうちたてられた、いくつもの声部の流れの共存は、理想的な姿で実現している。主要声部と副声部はきちんと秩序をもって共存しているのだが、また逆に、主要声部が裸のむき出しの形で孤立していることはないのである。セルのいう「垂直でなく、水平な、つまりポリフォニックな聴き方」の表われである。本当に、これは室内楽的完璧さを達成した交響的音楽演奏の範例だろう。    5  セルの指揮の秘密の一つは、彼のフレージングの正確と精緻《せいち》にある。これは、前書いたシューマンの単純な民謡風な旋律の提出ぶりにもよく出ていたのだが、レコードのうえで、最も衝撃的な効果で出ているのは、ドヴォルジャークの交響曲『新世界より』(アメリカ盤EPIC・BC一〇二六)だろう。この曲は出だしから、もう、フレージングの精密さで、きく人をびっくりさせずにおかない。こんなに精緻な『新世界』はほかにないのではないか。これはもうアメリカ・インディアンの新世界ではなくて、セルの居住しているクリーヴランドか何か、アメリカの大工業地帯の工場の高性能の工作機械の精密さが、同時に唸《うな》りをたてて日夜をおかず巨大な工業製品を産みつづけている、そういう新世界のものと呼びたくなる。  だが、同時に、こういうものをきいていると、セルの完璧なアンサンブルの限界にも否応なしにぶつかる。  私のいうのは、『新世界』にはもっと土くさいノスタルジックな雰囲気《ふんいき》があるべきだろうといった、そういう類の議論ではない。  セルのアンサンブルの理想——合奏の完璧さと、室内楽的バランスの精密の理想は、単純で平面的な機械的正確さとちがうものだということは、もうはっきりしていることだが、その土台になっている管弦楽の各セクション、つまり弦、木管、金管、打楽器などの間での運動の柔軟性と同時に等質性の追求である。  各セクションの等質性。これが、彼のハイドンやシューマンをあんなにすばらしいものにするのだが、逆にまた、これが彼のドヴォルジャークはもちろん、バルトークやブラームスから、ある重大な要素を落としてしまう。つまり、そこには色彩が欠けているのである。  色彩が欠ける、というのはいいすぎだ。だが彼の場合、等質性が徹底すればするほど、音楽は単彩化する結果になる。管弦楽での色彩は、弦楽四重奏などにくらべて、そこで使われている各種の楽器それ自体の音色がいろいろだから、その楽器たち固有の色彩は、何も、なくなってしまうわけではない。だが、ヴァイオリンとフリュート、ホルンとクラリネット、トロンボーンとバスーンといったものの間には、何もそういった素材的意味での音色に違いがあるだけでなく、楽器特有の奏法——いわば《性格的奏法》の違いに由来する、《音楽の違い》というものがあるのである。もちろん、こんな幼稚な知識は、セルが知らないわけではない。しかし、彼のシューマンが成功するのはあすこでは各楽器の特性がすべて中性化され、単独では出てこない例がやたらと多いからであり、ハイドンでは、木管その他がソリスティックに使われてはいても、それは装飾的色彩であることが多く、主体はあくまでも弦にあるからである。  セルのブラームスは実に堂々たるものだが、単調に陥りやすい、それは、ブラームスのオーケストレーションがシューマンのそれでもヴァーグナーのそれでもないのと、深い関係がある。これは、セルが「冷たい」とか、「いつもイン・テンポで機械的だ」とかいう、曖昧《あいまい》で、必ずしもいつも正しくはない評語に表わされているものの、もう一つ掘りさげた事情であろうと私は考える。  ベルリンで、彼のヴェーバーをきいた時、私たちがものたりなく思ったのは、ヴェーバーのあの暖かく夢幻的なホルンや木管の特性が、ほとんど弦楽的様式に納められかけていたからだったのだろう。  それだけにまた、セルのテンポの扱いは厳正で精密を極める。この点は、たしかに彼は、ライナーとならんで、テンポとリズムのもつエネルギーのトスカニーニ以来の最高に微妙な配分者である。彼のダイナミズムは、そこから生まれる。  けっしてイン・テンポ一点張りではない。ベートーヴェンの『第七交響曲』の第一楽章、再現に入ってからの第一主題の指示を終えたあと(第三〇〇小節以下)、オーボエのドルチェではじまる「確保」で微妙な具合にテンポを落として、表現を深めるやり方はその目ざましい例であろう。それはまた、彼のダイナミックの扱いの特性に通じる。セルはけっしてダイナミックによる効果を濫用しない。この点では、彼はベートーヴェン以前の古典派といってもよいくらいで、彼のクレッシェンドやはいつも抑制と節度をもって慎重にとり扱われている。  しかし同じ交響曲の例でいえば、第二楽章のあの哀歌的アレグレットの傑作には、セルの室内楽的様式の追求の結果から生まれた表現の幅の狭さも如実に表われている。狭さというのも的確ではない。室内楽は、また、それ自体の完全な一つの世界で、その世界はけっして管弦楽のそれより狭いわけではない。だが、それはいわば波瀾《はらん》万丈といったドラマティックな変化よりは、もっと内面に向かって拡がってゆく世界である。  ところが、セルの世界は、また、必ずしも、内面化を指向するものでもない。ダイナミックの点でいったのと同様、それは抑制され節度のある均整のとれたものだが、内と外とでいえば、ちょうど、ハイドンのある種のものがそうであるように、室内楽と管弦楽との世界が完全にはわかちがたいところで生まれ、発展してゆく音楽である。  セルの「ベートーヴェン」はそこにいる。それが、やや難解で、一度きいただけで、すぐ訴えかけてくるというものでない所以《ゆえん》だろう。  それにしても、クリーヴランド管弦楽団というのは、物凄い管弦楽団である。ことに弦の良さは言語に絶する。第一ヴァイオリンからコントラバスにいたるまで、およそこれほどはっきりしていて、しかもよく響く音で、均質化された性能をもったものは、アメリカにもヨーロッパにもかつてなかったのではないか。これは表面だけの艶と磨きのかけられた「オーマンディのフィラデルフィア管弦楽団」とは、ちがうのである。  ベートーヴェンの『第七交響曲』とともに入っている『レオノーレ』序曲の三番のレコードなどをきくと(SONC一〇〇三九)、ただもう圧倒され、溜息《ためいき》が出るばかりである。このオーケストラなら、トスカニーニがよくやったあのベートーヴェンの『ラズモフスキー第三番』のフィナーレのフーガとか、晩年の『大フーガ』とかを弦楽合奏でやることも、悪趣味とだけで片づけられなくなるだろうと予想される。  セルの名は、この管弦楽団をここまで育てたというだけでも、指揮者の歴史から消えることがないだろう。   ライナー [Reiner, Fritz]    1  ライナーも、私はたった一度、シカゴできいたことがあるだけである。今世紀五〇年代の前半のことだから、古い話である。この時は、彼がシカゴ交響楽団の常任指揮者に就任した最初のシーズンだったと覚えている。この交響楽団も、アメリカでは最も古い歴史をもつ由緒ある楽団の一つなのに、かつてのセオドア・トマスとかフレデリック・ストックとかいった長老たちがいたあと、しばらく指揮者にめぐまれず、前任者のラファエル・クーベリックも、たしか、比較的短い期間しか勤務しないうちに変わってしまい、ついに衆望に迎えられてライナーが就任した直後だった。  私のきいたのは、たしかベートーヴェンの『第八交響曲』とブラームスの『ハイドンの主題による変奏曲』、それにファリャの『恋は魔術師』の組曲、最後がR・シュトラウスだったと思う。シュトラウスは、何であったか。『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』だったかもしれない。『ドン・キホーテ』や『ツァラトゥストラ』では、全体のプロが長くなりすぎるだろうから。  要するに、いろいろな傾向の曲を並べた顔見世興行のようなものだった。と同時に、ブラームスの曲はおよそオーケストラの能力を披露するにはこのうえなく適した、いわばオーケストラの検定試験の最上の課題曲だし、『第八』はベートーヴェンの数ある傑作中、オーケストレーションのうえで最上の洗練と、同時に問題点のみられる音楽だろう。それにファリャの色彩。シュトラウスの官能美と機智。そう考えてくると、このプログラムは、よほどの豪気と自信がなければ、組めないものだということになる。  演奏はすごかった。私のうろ覚えでは、特に、シュトラウス、それにファリャが傑出していたと思う。  シュトラウスは、周知のような音楽だから、音楽の流れと性格がめまぐるしく変わる。拍子、速度、それに伴う表情が、といってもよい。それがライナーの指揮では、いかにもテキパキしていて、破綻《はたん》がないうえに、変わり目が実に鮮かなのである。ことに速い旋律や楽句の流れの変化が、印象的だった。ライナーのは、申し分のない筆勢をもった楷書《かいしよ》のスタイルであるが、それに加えるに表情の変化、音色の転換が実に巧みだった。それがおそらく、彼のR・シュトラウスとかマーラーの演奏に特に定評のあった所以《ゆえん》だろう。  だが、ライナーの指揮に接して、それもたった一度接して、いまだに一番はっきり思い出すのは、彼のバトンのふり方である。バトンを下にさげてぶらぶら振っている指揮者の姿は、私は、後にも先にも、この時のライナーのほか見たことがない。肩より上にあろうと下にあろうと、とにかく指揮棒の先端が上を向いてなくて、下を向いているのだから、びっくりした。あれでは、楽員たちのなかには、まるで見えないものも出てこよう。もちろん、常にそうしているというのではない。主として音楽の流れがある一定の方向を走っている時に、そうやるのである。だが、思い切ったことをやる人である。楽員たちは、頼るものがなくなるから、当然恐ろしくなり、全神経を集中し、緊張そのものといった表情で演奏する。ライナーの指揮が、その「ひきしまった、まったく贅肉《ぜいにく》のない演奏」をもって、最大の特徴とされたのも当然である。  そのつぎに、私の覚えているのは、ライナーの腕の動きである。ライナーという人は、それでなくとも比較的小柄な人物で、古い日本流の言い方をすれば、五尺そこそこの小男ということだろうが、それに相応して短いその両腕を、彼の場合ほど、少ししか動かさない指揮者も珍しかったのではないか。  私はこれを有名なショーンバーグの『偉大な指揮者たち』で読んだのだが、ライナー自身は、けっして両腕をふりまわしてはいけないということと、「キューを与える入り(アインザッツ)の合図には目をつかえばよいのだということを教えてくれたのは、ニキッシュだった」と語っていたのだそうだ。  ベルリンなどに行くと、いまだにニキッシュの指揮を覚えている老人がいて、いろいろの話をきかせてくれるものだが、その人たちが異口同音にもち出すのは、ニキッシュが指揮台に立っても、フルトヴェングラーそのほかの人たちのように、やたらと両腕をふりあげたり、ふりまわしたりせず、じっと直立していて、ごく少ししか指揮棒を動かさなかったこと、彼の指揮で一番雄弁だったのはその両眼だった、という指摘である。たぶんニキッシュはこのスタイルの創始者だったのだろう。  とにかく、ライナーも、腕は実に少ししか動かさなかった。「肉体的努力は最小限にして、最大限の音楽的効果をあげること」。よく、彼はこう自慢していたそうだが、私が思うのに、肉体の動きを最小限にとることは、ことに速い音楽の指揮に際して、特に有効ではないかと思う。腕の動きが大きい、つまり棒のふりまわし方が大きく、その尖端《せんたん》の描く軌道が長くなるにつれて、リズムは精密度、正確さを欠くようになるのは自明の理である。指揮者が考えている時点での速度とリズムは、棒の尖端が遠くなればなるほど、おくれることになり、棒の手許《てもと》と尖端との時間差が増加するのは、簡単に計算できることである。棒の動きの小さい点では、R・シュトラウスも有名だった。彼のも最小限の動きで、尖端がちょっと上がると、それがを示すのだったというのは、これも彼の指揮の下で演奏した老演奏家たちから、よくきく話である。ライナーは、その点でもR・シュトラウス以来というところだったろう。  ライナーの場合は、ただし、音楽はR・シュトラウスとはちがって響いた。シュトラウスのは、やはり大作曲家の常として、音楽の重要な本質的なものは楽譜に正確に書いてあるのだから、何も演奏者がそんなにむきになって、強調しなくたって、聴き手に充分に正確に伝わるはずだという考えが土台にあったろう。まして、R・シュトラウスの熱愛したモーツァルトの音楽は一切の誇張を嫌うのだし、R・シュトラウスも時とともにますますそういう音楽に帰依していったのだから。  だが、ライナーの「最小限の動きで最大限の音楽的効果を」というのは、もちろん、誇張を嫌う点では同じ根から出ていても、まず何よりも、演奏の完璧《かんぺき》な正確さと精密さというものを目標としてのことであったのだろう。そういう彼の音楽が、どちらかといえば、ドライだったのも、当然想像されるところだし、事実そうだった。  その点で、また、彼は、たとえばB・ヴァルターとは対象的な存在だったろう。彼は旋律を歌わせる時も、ヴァルターのように、情感をこめすぎるほどこめて、全体の流れにやや締りがなくなってもなおかつ、ゆったりと——そうしてときには正確さは楽員に任してしまっても——歌い上げるというところは、まったくなかった。  もし、指揮の技巧の巧拙というものが考えられるとしたら、ライナーはまれにみる指揮のヴィルトゥオーゾであった。アインザッツの正確、合奏の完璧、そうしてテンポの狂いの皆無なこと。要するに彼もまた、トスカニーニ流の非感傷派に属していた。そういう点が、彼の評価を、まっぷたつにわけた最大の理由でもあったろう。いつか、私が、メトロポリタン・オペラの客席に坐っていたら、その隣りにきた何とかいうアメリカの大組織のマネージャーが、いろんな指揮者の評判をしたうえで、「ライナー? ああ、あいつはミスター・メトロノームというんだ」といっていた。    2  だが、それは必ずしも正確ではない。ライナーには、たしかにそういう面もあるけれど、それだけではない。  私は、彼のベートーヴェンは、『第五交響曲』のレコード(といっても、これはRCAのレコードの片面に入っている。もう一方の面のはシューベルトの『未完成交響曲』。オーケストラはシカゴ交響楽団である)をきいてみただけだが、これだけきいてみてもすでに、そうではないことがわかる。  もちろん、これは恐ろしく筋肉質の演奏であり、骨と筋肉とだけからできているみたいな音楽になっている(それには、ベートーヴェンも、少々は責任がある。こんなに凄《すご》い内容の音楽を、こんなに一切の無駄をはぶいて、緊密に書いたことは、さすがのベートーヴェンだって、ほかに類がないのだから。『第九』はもちろん、『第三』だって、もっとずっと脂肪も多いし、汁気も多い。逆に、『エロイカ』ほどいろいろと異なった楽想がたくさんつめこまれている交響曲は、ベートーヴェンはほかに書かなかったといってもよいくらいである)。  それに全体としても、速い。特にフィナーレが、驚くほど速い。  だが、第一楽章のアレグロ・コン・ブリオ。これくらい合奏の整った演奏は、ざらにあるものではない。最初の主題の二つのフェルマータが、ライナーだと、一回目が約三つ、二回目のも音の上で四つ半ぐらいにとられているのも、前にヴァルターについて書いた時ふれたのとは逆であるだけでなくこのほうがずっとベートーヴェンの考えに近いはずだ。だが、そのあと、第一主題群を完全におえて、第二主題への移行部に入ると、スコアの三八小節目あたりから、テンポを上げてたたみかけてきて、ものすごい迫力を生みだす。それは、ほかに類をみないほどの合奏の正確さと相俟《あいま》って、実に強烈な逞《たくま》しさに達する。そのあと、ホルンによる呼び出しから第二主題が出るわけだが、これがまた、実に柔らかい。テンポもややおとしてあるのだが、まさに最小限の動きでもって最大限の対照が、そこから生まれてくるのである。これは再現部についてもいえる。ことに例のオーボエのソロにもってゆく時のリタルダンドも水際立って見事というほかない。名演中の名演というべきだろう。  第二楽章も、スタイルは、もちろん同じである。ここでおもしろいのは、主題の中間にはさまれたハ長調の楽節で、ティンパニの響きが、ひどく耳につくことである。初めはとても気になる。だが、音楽が第三楽章に移ると、なぜティンパニを強調しておくことが大切だったかがわかりかけてくる。周知のように、スケルツォからフィナーレにかけての移行こそ、冒頭の主題の提示とともに、この交響曲の独創性の最大の目印の一つになるのだが、その時になって突然ティンパニが耳に立つというふうには、この曲は書かれていないのだ。  というのも、この交響曲がハ短調から完全にハ長調に移った時、いわゆる「苦悩を通じて歓喜へ」の移りかわりが実現し、凱歌《がいか》が完全な必然性をもって導き入れられることになるわけだが、その前ぶれが第二楽章のあの変イ長調の主題の中に包みこまれたハ長調の楽節にあったのである。だが、あすこでは、勝利について語るのはまだ早すぎた。それはまだ、かいま見られた勝利の束《つか》の間《ま》のイメージでしかない。それにしても、これが勝利を先どりし、予感するもの、解放と勝利への予感と先ぶれであることは、指揮者とすれば、誇示したくなっても不思議ではなかろう。  私は、ライナーが、この曲についてこういう具合にプログラムを想定して、こういう処理をしたといっているのではない。しかし、この交響曲について、あらゆる聴衆が否応なく感じさせられずにはいない、あの悩みと戦いと勝利への移りゆきの感銘を与えてゆくうえに、この交響曲でのティンパニの役割については、ライナーが考えなかったはずはない、といっているのである。その考えの具体的な表われを、以上のように演奏の移りゆきに即して感じとることができた、といっているのである。  それにしても、この第三楽章の演奏も、傑出したものだ。ことにトリオがすごい。こういう演奏できいていると、このオーケストラも、よくも腕利きをこんなに揃《そろ》えたものだと感嘆しないわけにはいかなくなる。このトリオの、チェロとコントラバスの一糸乱れない逞しさと正確さには、まず、どんなオーケストラにいる同僚たちだって、拍手を惜しまないのではないか。それに、ここのすごさは、単に楽員たちの奏する音にだけあるのではない。音の間にはさまれた休止が、実に表現的なのである。機械みたいに、正確に計られた休止のくせに、雄弁なのである。  終楽章は、先にふれたように、速い。とても速い。これもすごい迫力であるが、実演できいたとしたら、初めからこんなに速くてどうなるのだろうと、きっと、懐疑的になるだろうと思われる。それほどの全力投球の速さである。だが、そのテンポで結局、終わりまで押しきってしまうのであるから、もう感心するというよりも、あきれてしまう。それというのも、しかし、よくきいてみれば、第二主題のあの三連符の連続の中にをふんだんにまぜたダイナミックの増減の手加減が立派にコントロールされているのが大きな原因になっているのであろう。トスカニーニもそうだが、こういうイン・テンポの楷書型指揮者には、ヴァルター、フルトヴェングラーといった行書、草書的指揮者にない豪壮性の魅力とでもいったものがある。  それにしても、もう一度スケルツォを呼び戻すという天才的着想のあったあとで、再現部以下の、あの長大なコーダも入れて二〇七小節から四四四小節までの二三八小節を、局部的にヘ長調つまり下属音の調性を見せるだけで、あとはほとんどハ長調だけで押しきっているベートーヴェンの豪放にして雄渾《ゆうこん》な度胸と力量には、ほとほと、兜《かぶと》をぬがざるをえない。  まったく、大変な曲を書いたものである。  ライナーもまた、この楽章をまったく何の小細工もなしに、初めからの猛烈なテンポでやりきってしまう。指揮者として、ベートーヴェンの投げた挑戦状に、正面から立ち向かった、というところであろう。ケレン味のまったくない、力の限りを出しきった爽快《そうかい》さ。  この人も、小男で、かつ類まれな豪胆な人だった。それを私たちが、感じとるのは、ひたすら、彼のあの明確にして精密を極めた指揮によるのであって、ほかの何ものでもない。音楽とは何たる純粋無垢《むく》な芸術であろう!   サバタ [Sabata, Vittore de]    1  サバタは、私が実際に指揮をするのに接したことのない名指揮者の一人である。彼は、私がはじめて外国に出た一九五三年の春のシーズン、《ラ・スカラ》で指揮をしたのを最後に引退してしまい、そのまま十五年の隠棲《いんせい》の末、一九六七年の十二月だったかに死んだ。私がはじめて外国に出たのはその一九五三年の十二月だったし、ミラノに行ったのは翌年の春である。今思ってみると、私はフルトヴェングラー、トスカニーニ、ヴァルター、クナッパーツブッシュ、シェルヒェンといった人びとの指揮をきく幸運をもったわけだけれども、当時はまさか、そのあと間もなく、この人たちがつぎつぎと死んでしまおうとは思ってもみなかった。だが、このほかにも、その後日本にもやってきたミュンシュやモントゥやと数えてくると、前世紀の生まれで今世紀前半に活躍した指揮者たちは、あらかた死んでしまったかのような感じがする。若いところでも、ベイヌム、ライナー、ミトロプーロス、カンテルリ、フリッチャイと死んでいるし、私がはじめて外国に行った時きいた人たちの誰がまだ生きて活躍しているのか、そのほうから数えたほうが早いのかもしれない。まあクレンペラー、ストコフスキーなどという長老がいることはいるが、結局今日の指揮界ということになると、今世紀のはじめに生まれたベーム、カラヤンがもう年齢的にも最先頭に立つという時になってしまっているのだ。驚いたものである。あのカラヤンが、若くしてベルリン・フィルを本拠に、ロンドンのフィルハーモニア管弦楽団、ヴィーンの国立オペラ、ミラノの《ラ・スカラ》と四つの音楽の首府に君臨するなどと、ジャーナリズムがさわぎたてていたのも、昨日のような気がするのに。 《現代の指揮界》などという原稿を書いていることの空《むな》しさ!  芸術が、音楽が、現在私たちの知っているようなものとして人間の社会に存在しているのも、一つには、その人間の生活、生の営みのはかなく過ぎ去りやすいことへのアンチテーゼとして、永遠のものへの憧《あこが》れ、日常性からもう一つ高められた次元の世界への一つの予感であり、手がかりであるような何かとしてであるのだろうに、そうして、名演奏家とか、大指揮者とかに接した時の私たちの感激や感銘のなかには、その一つの要素として、その演奏が、私たちの前を横ぎって、そうして過ぎてゆく瞬間が「いや、こうも美しく充実した瞬間は過ぎさってゆくことはあるにしても、永遠に消滅するということにはならないので、何かが残るだろうし、私もこのすべてを忘れることはあるまい。少なくとも私が生きている限り、現在この瞬間に私の経験しているものは想い出となって生き続けるだろう」と信じないではいられないようなあるものに変わってゆくという、いわば「束の間に過ぎさるものの永遠性」とでもいった価値の転換の、私たちの精神の内部の世界での実現につながっていなければならないだろう。それなのに、わずか十年、十五年、二十年の歳月が経過するだけで、私たちの内でも、外でも、何とたくさんのものが、過ぎさり、姿を消してしまうことだろう。  音楽についてというのでなく、演奏と演奏家について書くということが、とかく、やりきれないほど皮相的で、あわれなことになりやすいのも、その理由は、演奏の本質によるというより、むしろ人間の心の深いところに潜在しているのであろう。    2  そんな、一度も自分の耳で直接たしかめたこともないサバタについて、書く気になったのは、どういうわけか、私は自分でもよく知らないのである。  しかし、サバタについての私のイメージは比較的はっきりしている。私は、レコードで、モーツァルトの『レクイエム』とブラームスの『第四交響曲』、それからヴェルディの『レクイエム』の三曲をきいただけなのだが、ここで指揮しているのが、大家中の大家であることは、疑いようのない、確かな手ごたえで感知されるのである。何しろ古い録音だし、ことにヘリオドールのレコードは廉価盤というせいだけでもなかろう、このごろ私たちのききなれているものにくらべれば、本当に、腹立ちを通りこして悲しくなるほど、哀れな音でしかないのだけれども——それでも、名演は名演であって、こういう事実は、どうにも動かしようがないのである。  サバタは、数多くの彼の同国人たちのように、指揮者といっても、その中の一つの種目、つまりオペラに長じ、そのオペラの中でも、その一分派、つまりイタリアのオペラにいちばん活躍の重点をおいていただけの人ではない。イタリアもの、特にヴェルディの後年のオペラなどずばぬけてうまかったに相違なかろうが、その反面、バイロイトにも招かれた事実が示しているように、ヴァーグナーの楽劇にもよく、ことに『トリスタン』は得意中の得意だったらしい。  そういうことは、私は話としてきいたり読んだりするだけなのだが、たとえば、このブラームスの『第四交響曲』のレコードをきいてみると、イタリア人だからまずオペラがうまかろうなどという大雑把な考え方がどんなにくだらないものか、すぐ、わかってしまうのである。  サバタ、この人もまた、いわばポスト・トスカニーニの存在であって、トスカニーニ以前の主観的主情的なロマンティックな指揮者とはちがって、どんな細部にいたるまでも厳格に統制のとれた、実にきちんとした音楽をつくる人なのだが、それでいて、この人には厳しさを、冷たさ、鋭さといったところまで、一面的に追いこんでゆくところはない。厳しいが、同時に優しいのである。いや、あるいは、これは心情の優しさというものでなく、もっと感覚的な甘美な香りというものかもしれない。表情は比較的むき出しに率直に出てくるのだが、それでいて露骨な、俗悪さに堕さない。そのことは、この『第四交響曲』の、たとえば、第二楽章のアンダンテ・モデラートによく感じられるのであって、ここでのサバタの見事な歌わせぶりは、フルトヴェングラーやヴァルターとはもちろんトスカニーニとも際立ってちがうものでありながら、わざとらしさはまるでない(譜例1)。  この第二楽章などは、南の国への憧れを身に噛《か》まれるような想いにひたっているブラームスにとっては、まさにこうであってほしいような演奏であるのかもしれない。憂鬱だが、暗くなく、重苦しくないのである。  それはまた、終楽章のパッサカリアにもあてはまる——あるいは、このほうがもっと典型的にあてはまるというべきかもしれない。ここでのサバタのとったテンポは、各変奏の性格に応じて変化が与えられているのはいうまでもないが、基本的には、出発の際の比較的速めにとったそれを守りきっている。ブラームスの与えた発想記号はAllegro energico e passionatoというのだった。これは速度の指定であるよりはむしろ、この音楽の性格の指定ととるべきだろうし、事実、多くの大家、名家が、ここで比較的ゆっくりしたテンポをとっている。パッサカリアという形態に結びつく様式感は、音楽が幅広く、重厚に流れることを予想させこそすれ、快速で進むのを期待させはしない。  だが、サバタのは、エネルジコで、パッショナートではあっても、重苦しい陰影がつけ加えられるのでなくて、ひたすら一義的に力強く熱情的なのである。私が、サバタをきいて、否応なしにそこに大家の指揮を感じとるのは、こういう点からでもあるのだ。堂々としていて、しかも余計なもの、あるいはとかくまといつきやすい装飾的な感情のニュアンスが、はっきり排除されているのである。  造型性、彫塑性に富んでいるといってもよい。    3  このブラームスの『第四交響曲』が、一九三九年のベルリンでの録音で、ベルリン・フィルハーモニーを使ったものであったのに対して、モーツァルトの『レクイエム』は、同じ年の録音でありながら、イタリア国立放送の管弦楽団と合唱団の演奏で、それに独唱者として、ソプラノのピア・タッシナーリ、アルトのエベ・スティニャーニ、テナーのフェルッチョ・タリアヴィーニ、それからバスのイタロ・ターヨという顔ぶれとなっている。  私は、イタリア系の歌手には賛嘆を惜しまない人間だが——それも、ソプラノとテナーばかりでなく、バスだって素晴らしいと考えるのだが——、しかし、イタリアのソプラノのあの鼻にかかった鋭い響きとか、テナーのあまりにも開放的で、ただ声の響きばかりを自己陶酔的にきかせる歌い方とかには、閉口することがないではない。  このレコードにも、そういう瞬間がある。だが、全体としてみると、これは私には、たとえばカール・ベームがヴィーン交響楽団とヴィーンの国立オペラの合唱団を指揮したレコード(テレーザ・シュティヒ〓ランダル、イラ・マラニウク、ヴァルデマール・クメント、クルト・ベーメの独唱)などにくらべると、ずっと気に入るのである。また、ヴァルターよりも好きである。私は、モーツァルトの『レクイエム』のレコードを、そんなにたくさんきいているわけではないが、私の知っているものの中では、サバタのモーツァルトは、カラヤンのそれにいちばん近いように思われる。テンポといい、盛り上げ方といい、歌わせ方といい。  というよりも、逆に、カラヤンは、彼の先輩たちのうち、誰の演奏にいちばん親近性を感じたかと考えてみると、このサバタにではなかろうか? 少なくとも若いカラヤンはそうだったのではないか? この演奏をきいていると、私には、そんな気がしてくるのである。  この曲のどこが劇であり、どこが《抒情《じよじよう》》であるとみるか。どう歌わせ、どう知的に構成するか。この二人の大家は、ちがったところもたくさんあるにもかかわらず、この点で、共通性がある。こういう言い方がすでに、多くのモーツァルト・ファンの気に入らないのではないかとも思われるのだが、私は何もこの二人がモーツァルトの不朽の名作を分析しているその手つきを比較しているのではない。厳粛であって、重苦しくなく、知的であるが、機械的で、ひからびて冷たいものがない、澄んで純粋だが官能的で、あくまで艶々《つやつや》しさを失わない……といったモーツァルトの音楽の本質に則して考えたうえで、この『レクイエム』には、しかし、カトリックの礼典につきものの劇的な、ややつくりものめいたものと、天才の高度に純潔な流露との両面があるのではないかと、私はいっているのであり、それへの感触とアンテナが、このサバタの指揮にはカラヤンのそれにも、かなりはっきりと共通して感じられるといっているのである。  ただ、ここでも、サバタのレコードは、古い録音であるだけに、どうにもならないほど音が貧しい。  せっかくの名演を納めてありながら、音が貧しいために、私たちがくり返しとりだしてきくことのできなくなったレコードが、どのくらいあることだろう。それにしても、と私はよく思うのだが、私たちは、これらのレコードがまだ新しかった時は、結構みごとな音と考えて、楽しんでいたではないか。SP盤の時だって電気吹込みというのは、前のとは比較にならず《よい音のレコード》を作り出して、私たちを喜ばせた。LPになってからだって、この歴史がくり返されたのは、初期のLPから、そのあとのもの、モノーラルからステレオへの転換……。  ということは、私たちがその高忠実性を享受している現在のレコードだってまた時がたてば、想い出の中でだけ素晴らしく、しかしいざとりだしてきいてみると、あまりにも貧弱な音なので、つい消してしまうようなものに変化してゆく運命をまぬがれるわけにはいかないということだろうか。現にもう間もなく四チャンネルの時代がくるというではないか。  サバタをきいていると、私は、レコードについて書くことの空しさを思い、名演奏の意味とは——実演であろうと、レコードであろうと結局はそれをくり返しきき直しのきかない一度かぎりの感銘を決定的に大切にすることと切りはなせないところで追求すべきであって、それを何度もくり返しきき直し、考え直してみることとは対立し、矛盾するのではなかろうか? と、考えこんでしまう。  すべての瞬間が立ちどまることも、くり返されることもないものだとしても、もし、そのことを私たちがもっと徹底的に思い知り、考えてみることができるとしたら、演奏の与える感激に対する私たちの態度は、良きにつけ、悪しきにつけ、質的に変わってくるのではないだろうか? ということは、感動の質にも変化がでてくるのではないかと問いただすことと、同じことになる。    4  そうはいっても、以上のレコードと、日本で再プレスしたヴェルディの『レクイエム』のレコードとでは音はずいぶんちがう。後者は、現在の普通のレコードにずっと近く再調整されているのである。このレコードにのっている福原信夫氏の解説には、残されたサバタのレコードの中には、いろいろな歌手の最盛期の録音があり貴重だとあるけれども、私には、歌手が全盛期でいることもさることながら、サバタの記録であるがためにさらに貴重なレコードとなるのであって、このヴェルディの『レクイエム』にしても、この曲のレコードとして最高のそれに列するものだろう。私には、この曲はあまりにも十九世紀趣味にぬりたくられた教会音楽として、終わりまで一度にきき通せた覚えもないくらい苦手なので、それ以上のことはいえないのだが。   クリュイタンス [Cluytens, Andr讃    1  クリュイタンスは、私は、いつか彼が大阪の国際フェスティバルにパリ音楽院管弦楽団を率いて登場した時に、二、三回きいただけである。その時のプログラムは、今正確に思い出せないが、ブラームスの交響曲があまり気に入らず、ラヴェルに非常に感心した覚えがある。ほかに、ベートーヴェンやベルリオーズもあったはずだろうし、ドビュッシーもきっときいたのだろうが、それらはみんな明確な思い出として、浮かんでこない。  今、この原稿を書きながら、どうしてかな? と考えてみているところである。私のクリュイタンス論——というのも、大袈裟《おおげさ》だが——は、このことと深い関係があるだろう。  私は何も自分がきいた音楽会、音楽家のすべてについて明確な思い出をもっているなどとは、考えたこともなく、そんな記憶力などというものは、超人的であるというより、むしろ、何か別の頭脳の作用で補われ、つけたされたものではなかろうかと疑ってみたくもなる。少なくとも、私自身についていえば、それはありえないことである。  しかし、では音楽会というものはみんな忘れてしまうものか、といえば、もちろん、そうではない。こんなことは、何もわざわざ書く必要もない。みんなが知っていることだ。だが、何が残り、何が消えてゆくのか? 私たちは、何をきこうと考えて、演奏会に出かけて行き、その時、何をつかんで帰ってくるのか? そのつかんだものは、どのくらい強く深く、私たちの内部で働く力となり、その作用はどのくらい、長つづきするのか? もし、ある音楽、ある音楽家から与えられた感銘が比較的早いうちに、色あせてしまうとしたら、それはどういう感銘だったのだろう?    2  フランス系統の指揮者といえば、みんなはよく、棒さばきの技術の見事さ、主観に偏らず情緒に溺《おぼ》れず、客観的に論理的に音楽を処理する力の優位、それから感覚的な洗練への強い好みといった特徴をあげる。日本では、そのうちでも、この感覚的なきめの細かさと、感情のうえでの極端をさけ穏健で中庸な振幅に自分を抑制する精神的態度、節度への顧慮が目立って発達している点が、特に親しみをもって、高く評価されているといってよかろう。  私は、こういうふうに、何国人だから何という一括して大雑把に特性づける考え方は、真実にあわないので、好きではないけれども、だからといって、それぞれの国民の芸術上での特質というものが、まったく存在しないという考え方をしているわけでもない。それもまた真実の一面にちがいないからだ。というのも芸術とか、文化とかいうものは、すべて歴史的存在であって、一国の文化がその民族の歴史によって強く規定され、特質づけられるのは、いう必要もないくらい、あたり前なのだから。  ところで、こういったフランス系の指揮者の中で、私がいまだに忘れられない強い——というか永続的な印象をうけたのは、あの長い口髭《くちひげ》のおやじ、ピエール・モントゥであるが、その話は別にするとして、ついではシャルル・ミュンシュ、それから、これは純粋にフランス人というわけではないにしろ、やっぱり長いことパリを中心に活躍してきたイゴーリ・マルケヴィチであった。  マルケヴィチには、はじめてパリに行った時、はじめてきいたフランス人の演奏会——たしかコンセール・ラムルーの演奏会だったが——そこでラヴェルの『ダフニスとクロエ』の第二組曲をきいて、圧倒されたものである。それはもう実に絢爛豪華な音色の氾濫《はんらん》であり饗宴《きようえん》であった。  もう一人のミュンシュについては、いくつかの思い出があるのだが、その一つは、彼がボストン交響楽団を指揮したのを——それもアメリカでなくて、東京で——きいた時のそれで、その後、彼は『エロイカ』をやったのだが、一方では、その音がまるで大写しにしたスコアを目の前にしてそれを見ながらきいているみたいな、一点の曇りもない——それからニュアンスもなしに——まったく明晰《めいせき》そのものといった演奏になっていたのと、もう一方でそういった顕微鏡的透明、明確な音の流れでありながら、そこに、一種の——何というか——苛立《いらだ》たしさとでもいうか、違和感ではないにしろ、ベートーヴェンのこの音楽に完全には同感しきれず、音楽と一体になるにしては何かが邪魔になっていて、それを追い払おうと躍起になっているとでもいった具合の、苛立たしさが、あの葬送行進曲の緩徐楽章にさえありありと感じられたこと。私は、この時の奇妙なチグハグな印象を、いまだに忘れずにいる。あれほどの明確さを実現するには、当然、精神の冷静で客観的な態度が前提であるべきなのに、冷静どころか、非常に烈しく戦っている心の姿がまる見えな演奏なのである。  そのうえに、こういう彼の姿勢が、ベルリオーズの『幻想交響曲』になると、まるで水を得た魚のように、そのままで、生き生きと、矛盾なしに躍動してくるのも、私には非常に印象的だったと、ここで、つけ添えておこう。    3  で、クリュイタンスであるが、クリュイタンスは、以上あげたような三人の指揮者たちとは、かなりちがうタイプに属する。  では、どういうふうなのかということは、ちょっと書きにくいのだが、次のようにいったら、正しいかもしれない。  今度、彼のことを書くについて、私は何枚かのレコードをきいてみたりしたのだが、結論からいうと、レコードできけば、もちろん、いろんな点が細かく、精密にきけてくるわけだが、だからといって、かつて実際に彼をきいた時の印象が、全体として、力強く再び蘇《よみがえ》ってきて、ああ、そうだったっけ! という具合にはならないのである。  私は、クリュイタンスがベルリン・フィルを指揮したベートーヴェンの『第七交響曲』をきく。実に整った演奏である。だが、ちっともおもしろくない。それに、これは最後まで、きき終わらないうちにわかってきたことだが、この演奏の最大の弱点は、ダイナミックのうえでの変化、つまり強くなったり弱くなったりすることと、テンポのうえでの動き、つまり速くなったりおそくなったりすることとの間に、何のつながりもない点にあるのである。第一楽章の導入部から終楽章にいたるまで、ベートーヴェン特有の、主観的な強烈なクレッシェンド、ディミヌエンドの変化とか、爆発的なフォルテとまったく意外なピアノとの対比とか、そういったダイナミックのうえでの劇的な動きは正確に、明快に捉《とら》えられ、見事に音になって生きているのだが、テンポはまるで動かない。どの楽章をとってみても、基本の速さというものが、がっちり全楽章を支配している。はねまわるダイナミックの小悪魔どもを力強い巨人が、がっちり両足でふまえて、確固不抜の力強さで抑えつけている。というか——いや、同じ比喩《ひゆ》的にいうなら、こういったほうがよいかもしれない。汽車が遠くから近寄ってくるとする。当然、近づくにつれ、音が大きくなる。それにつれて、汽車の姿も、大きくなるわけだが、どういうわけか、私たちの目には、その汽車の動きがちっとも速くなるようには映じないのである。  第一楽章のあの展開部から再現部に入る時の、クレッシェンド、から、また長いクレッシェンドを経て、ピウ・フォルテにゆく個所でも、音楽のテンポは動かない。  第二楽章のアレグレットの最後が、少しも力まず、さっと終わるのは嫌味がなくて見事だが、しかし音楽の性格からいうと、あっけなくて拍子抜けする。  終楽章での第九二小節から一〇四小節にかけての(同じ個所は当然第三〇八小節から三一九小節にかけても出てくる)長い長いクレッシェンド・ポコ・ア・ポコからにいたる個所はもちろん、あのジョージ・セルでさえアッチェレランドしてきかせるこの『第七』のフィナーレのコーダでも、同じ確固不抜の動かないテンポが支配して、微塵《みじん》のゆるぎもない。  手短に本質だけを指摘すると、こうなるのである。  ただし、クリュイタンスの独特のところは、以上だけでいうと、まるでトスカニーニ流のイン・テンポのスタイル、あるいは冷たい即物的な様式のように思われるかもしれないが、そうではなくて、この不抜のテンポの持続性から一種の威圧感が生まれてくるのだ。重苦しさといっても、よいかもしれない。トスカニーニでは、表面には鋼鉄の意志が支配しているにもかかわらず、それに挑戦する強い表現的衝撃の突きあげがあり、この両者の矛盾と確執の間から生まれる緊張があった。それが彼の最上の演奏に、彼の亜流たちのそれとは比較を絶した強い輝きを与えた所以《ゆえん》なのだ。あれは、地中海的ラテン的古典芸術の厳しい緊張のもり上がりに支えられたものだった。  もしクリュイタンスのベートーヴェンを、古典的と呼ぶとすれば、それは動的であるよりも静的な様式のそれであろう。    4  指揮者クリュイタンスの真骨頂は、ベートーヴェンとかブラームスの演奏にあるのではない。フランス印象派、特にラヴェルがよい。それも私のきいたレコードでいえば、『ダフニス』といった傾向のものよりも、むしろ『ラ・ヴァルス』『ボレロ』、それから『スペイン狂詩曲』の中の舞曲的なものなどが、傑出しているように思える。  クリュイタンスのは、印象派といっても、詩的で輪郭《りんかく》の曖昧なものより、散文的で明快な論理をもち、雄弁の力強さをもっているものにすぐれているのである。  ベートーヴェンでは、あんなに動きが硬く、どうしても外側にこだわって内面に入りきらない憾《うら》みがあったのに、ラヴェルの『ラ・ヴァルス』などになると、音楽は、まったく自発的でしなやかなリズムと和声の渾然《こんぜん》とした一体となって浮かび上がってくる。  それに、このレコードで演奏しているのは、パリ音楽院管弦楽団だが、このオーケストラの全体の音色、あるいは個々の楽器——木管や金管はいうまでもなく、弦楽器から、合唱のその音色にいたるまで——の音の磨きのかかった輝かしさとか、それをきくと思わずゾクッとしてくるような冷たく冴《さ》えた美しさとか、こういった音の感覚は楽員たちの音感としてみるべきものであって、指揮者の演奏解釈とは別のものではあるけれども、しかし、結局は、それがあってはじめて、指揮者の考えは具体化するという意味では、やはり、ここで切りはなしてきいてみるわけにもいかないのである。その点で、目ざましい例は『ボレロ』の演奏である。あの俗悪な曲が——人によったら悪魔的というかもしれないが——クリュイタンス特有の統制のきいたテンポを土台にして、そのうえに無限に反復される旋律を奏する各楽器の音色は、まるで電気楽器か何かのように響いてくるために、俗悪さがかえって人工的で、気味が悪くなってくるといっても誇張ではない。  私は、詩的でなく散文的なといった。ということは、ここでは、音の響きと音の意味しているものとが完全に重なりあい、一つになっていて、響きを越えた彼方《かなた》にまで何かを示唆するということがないということであるが、それと同時に、クリュイタンスのリズムには、不規則で曖昧なものがないという意味でもある。  こういう点で、彼のラヴェルをきわめて高く評価する私は、逆に彼のフォレを、完全に楽しんでいるとはいえないのである。  こんな言い方をするのも、私は、クリュイタンス指揮のフォレの『レクイエム』のレコードが、日本ではとても有名だし、非常に多くの人たちに愛され、高く評価されていると信じているからだ。  私は、この機会に、このレコードをきいてみて、なるほど見事な演奏だと感心したことは事実だが、それと同時に、この名指揮者の剛気で、明快で、一点のごまかしもない棒の下では、たとえば〈サンクトゥス〉のような、あのハープの甘い響きをともないながら、合唱が、男声と女声で交誦《こうしよう》しあう部分など、あまりにも「劇伴音楽」じみた、安手の音楽にきこえてきはしないか? といいたくなった。それが、フォレのこの『レクイエム』の実体に則したものであるのか、それとも、本来この曲はそういうものではないのか。こういうことは、簡単にいいきってはならないものだろうし、私はそういうものの言い方には警戒的な人間ではあるのだが、しかし、この演奏をきいていると、名演であればあるほど、この点が気になってくるのである。  私の考えでは、この名品でのクリュイタンスの演奏で特に耳にとまるのは、〈リベラ・メ〉以後のところである。ここでバリトン(フィッシャー〓ディースカウ)によって「天と地がうち震える時……」(Quando coeli movendi sunt et terra)と歌われる時、これまでの曲で慎重に避けられてきたドラマティックなクレッシェンドが音楽を土台から——しかし、ヴェルディの曲の場合のように、いかにもこれ見よがしの演劇的けばけばしさではなくて、もっと地下の深いところで——ゆさぶるのである。そのあと合唱が戻って来、そのあと再びバリトンの独唱と交替するのだが、それにつれて、管弦楽の低弦がピッツィカートでリズムを刻む。このリズムは、何でもない正規のリズムでありながら、忘れがたい鮮烈さで私たちの耳を捉える。  この率直で純粋な力強さ、クリュイタンスの指揮で、私にとって長く忘れられないものがあるとしたら、その一つはここかもしれないなと、私はこのレコードをききながら考えたものである。こう書くと、お前は、やはり、この演奏に感心しているのではないかといわれそうだが……。   クレンペラー [Klemperer, Otto]    1  私は、クレンペラーの実演には、一度しか接したことがない。それも、私がはじめてヨーロッパに渡った一九五四年のことだから、ずいぶん古い話になる。私は、アムステルダムで、彼が、たしかデン・ハーグのレシデンシェ・オーケストラを指揮するのをきいた。プログラムの中に、ブルックナーの『第四交響曲ロマンティック』があったのを覚えている。それと、杖《つえ》にすがってステージに出てきた彼が、演奏最中も椅子に坐って、右手よりむしろ左手をよく動かして指揮したこと。指揮棒は持たず、大きな大きな右手は半開きにして、まるで象の耳のようにひらひらさせていたことも覚えている。  しかし、こんなことばかりを思い出すというのが、つまりは、彼の音楽がよくわからなかったという証拠であろう。  だが、クレンペラー自身も、このころはあまり調子がよくなかったのも事実ではなかったか? 何しろ、彼は優に六尺はあろうという大きな人だが、それだけでなく、始終怪我をしたり病気をしたり不運に見舞われ通しの人で、一九三三年ライプツィヒで練習中ステージから下に落ちて頭を打って以来というもの、頭痛から癒《い》えることがなく、一九四〇年には精神が異常だといわれたり、私のきいた年の少し前一九五一年には右脚を何かで骨折したというし、一九五九年にはベッドでタバコを吸っているうち眠ってしまい目が覚めたらあたり一面の煙と火。そばにある水をかけたら、それが何か揮発性のもので大《おお》火傷《やけど》してしまったとか、そのあとでも一九六六年にまた転んでたしか腰の骨を折ったとかこんな調子で、やたら大怪我の仕通しなのである。  こういう話はどうでもよいようなことでありながら、やっぱりクレンペラーという指揮者を考えるには、抜きにするわけにいかない点もあるのである。ロンドンの批評家カーダスのいわゆる「クレンペラーという人はいつも盲の芸術家という印象を与える。彼は聴衆の反応にはまるで無関心なのじゃないかと思われるくらい自主独立の精神にとんだ人であり、いわば赤裸の真実で満足している人間なのだ」ということになるのも、この巨人の指揮者には何かバランスが欠けているからではなかろうか。  この人には、非現実的というのではないが、相対的な日常性の世界とは次元のちがう、超絶的な世界——あるいはあのバッハからベートーヴェンにいたる、そうしてヴァーグナー、ブラームスからブルックナー、マーラーにおいても、なおその余映を充分に残しているドイツ・オーストリア音楽に独特の、まったくそれ自体で独立した、内面の深くて充溢《じゆういつ》した世界といえばよいか——、そういう世界に根ざし、そこから生まれてくるものと不断に接触している人間だけがもっているような、一種の時代ばなれした雰囲気《ふんいき》が漂っているのである。クレンペラーこそ、マーラーからフルトヴェングラーにいたる、ドイツ・オーストリア系統の指揮者の最後の大家といってよい人だろう、特にシューリヒトのすでにいない今日。  いつかも引用したショーンバーグの『偉大な指揮者たち』という本は同じ著者の『名ピアニストたち』にくらべると、ちょっと精彩を欠いている本だが、その中ではこのクレンペラーに関する章は出色で、クレンペラーという稀代《きたい》の指揮者についての生々しい印象を伝える表現がいくつかあるから、興味のある方には御一読をおすすめする。その中で、彼はこういっている。 "The German School is an intense and one-sided, almost monomaniacal, one...German conductors, no matter how powerful their personality — and the personality of a Furtw穫gler, Walter or Klemperer could be measured only in astronomical units—are completely alien to showmanship and flamboyance. They are interested in one thing only-making music as authoritatively, as honestly, as unostentatiously as possible."(前掲書、三一八ページ)  そうして、ショーンバーグは、「オットー・クレンペラーは若い時はこのドイツ楽派の典型的な存在だったし、晩年にいたっては、その原型というべきものとなった」とつづけている。  これは、私は、正しい意見だと信じる。    2  クレンペラーのレコードというと、何しろやたらとたくさんあり、それも、ブルックナーだとかマーラーだとか、あるいはバッハの『ロ短調ミサ』、ベートーヴェンの『ミサ・ソレムニス』、あるいはモーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』の全曲といった具合だから、私は、これまでにそれを全部きいたわけでないどころか、これから先も、とても一渡りきき通すことさえできないだろう。  だが、私が、十年以上も昔、一度きいたことがあるだけで、よくもわからずにすごしてしまった大指揮者についてもう一度、関心をそそられた——というより、正確には、これは大変な人なのだと改めて感じたのは、先年ヨーロッパに一年ほど滞在していたおり、クレンペラーがヴィーン・フィルハーモニーを指揮してベートーヴェンの『第五交響曲』を演奏するのを、ラジオの中継できいた時である。  これはすごかった。あとにもさきにも、あんなに大きな拡がりをもった『第五』をきいたことはないといってよい。あとで園田高弘がベルリンに来ていっしょに食事した時、クレンペラーの『第五』がヴィーンの音楽祭でセンセーショナルな成功をおさめ、批評家の中には、「私は彼の前にひざまずいて感謝する」とかあったのを知っているか? ときかれ、即座にああ、あの中継できいた『第五』のことか、と思ったものである。  この時の演奏で、私が特に印象づけられたのは、全般的にテンポのとり方が極度にゆっくりしていることだった。そのために、聴き手は、普通私たちがなれている快速なスピードで進められ、全体の構造をいわば大きなパースペクティヴの下に把握《はあく》するのに適した行き方とは、正反対に、ゆっくりしたテンポのために当然生ずる細部の細かいニュアンスづけ、それからクレッシェンド、ディクレッシェンド、アッチェレランド、ラレンタンド、テンポ・ルバートといったいろいろに変化するダイナミックとテンポとの相関関係の妙味をたっぷり味わうことになる。  こう書くと、何かひどく古めかしい演奏をきかされたような気がするかもしれないが、そうではないのである。  クレンペラーについては、ヴィーラント・ヴァーグナーが、かつて「古典的ギリシア、ユダヤの伝統、中世のキリスト教精神、ドイツのロマンティシズム、現代のレアリスム、彼が、ほかにまったく類のない独特な指揮者である所以《ゆえん》は、こういったものの混在にある」といったことがあるそうだが、事実、クレンペラーには、実に、いろいろの異質な、普通の人の場合ならば当然矛盾しあい、相排除しあうはずのものが、ごたごたといっしょになっているのである。  だから、ベートーヴェンにしても、バッハにしても、ブルックナーにしても、クレンペラーの指揮できくと、現代一般にきかれるものとはかなり遠いものでありながら、しかも古くさいという感じはしないのである。むしろ、名指揮者ののこした演奏でも、ひところ流行はしたが今はすたれてしまったという行き方もあるのであって、そういうもののほうが、よっぽど古くさくきこえるものだ。同じことは、今日評判の高い指揮者について——いわゆる大家から中堅、新人にいたるまでの各世代にわたって——いえるかもしれないので、今日の流行児で、案外早く忘れられる日のくるような予感のする人もあるわけだが、クレンペラーについては、そういうことはないのではないか。  ただ、私がきいた限りのレコードでいっても、この人の指揮には、むらがあり、出来不出来が多少あるらしいのはやむをえない。    3  というのも、クレンペラーの現代における独自性、特殊性の一つは、ドイツ・オーストリアの伝統の最後の超大家ということのほかに、彼が現代の主流をなしている、「指揮の大家」、すなわち、「指揮棒の名手」というタイプとは正反対な大音楽家である点にあるのだと、私には考えられるのである。  現代とは、ピアニストであれ、ヴァイオリニストであれ、指揮者であれ、よい音楽家とは、まず、「うまくなければならない」時代である。「うまい」だけでもだめで、そのうえに「音楽」が加わらなければならないのだが、とにかく「うまくない」というのでは初めから問題にならないというのが、現代の支配的傾向である。  だが、私が指摘するまでもなく、現代は「うまい人」ももう山ほどいる時代でもある。クレンペラーは、少なくとも、私がたった一度接した限りではけっしてうまい指揮者でないどころか、むしろ不器用な人と見えた。その時、彼が健康的に恵まれぬ状態にいたのだろうということは、前に書いた。だが、そうでない時には、彼はうまく、器用に棒をふるのだろうか? 信じにくい話である。ショーンバーグの本にもあるように、クレンペラーは、実演でも、練習でも、実にたくさんのエピソードのある人だが、それらに共通しているのは、ユーモアやチャームよりも、真剣さ、本当に音楽に身も心も捧《ささ》げつくした無私の奉仕の精神、強い責任感の持ち主、それだけにまた、やや重苦しく、小まわりのきかない、ときには人を人とも思わない倨傲《きよごう》な人物ともみられなくはないけれども、スケールの大きさと音楽のほりの深さ、堂々たる力量感の充溢という点では、同僚たちの群をはるかにぬいた巨大な存在という印象を与えずにおかない点だろう。  マーラーが、クレンペラーについて「これは大指揮者になるべく運命づけられた青年だ」といったというのは有名な話だが、実際、その予言は実現した。世間的な意味で、キャリアに何か中途半端なところがあったとすれば、それは、クレンペラーの責任というより、さっき書いたように病気や災難にやたらと会った彼の不運、それにもちろんナチの出現と亡命、戦争の影響といったものを考えあわせてみるべきなのかもしれない。  しかしレコードに関する限りは、晩年のクレンペラーは、レッグという世紀の名プロデューサーの知遇を得て——というより、レッグが、クレンペラーの偉大な才能を敬慕するあまり——、ロンドンのニュー・フィルハーモニアという管弦楽団をいわば彼の準専用楽団としてあてがわれ、それを思いのままに使用して、大量の録音を遺すという運に恵まれることになった。  そのレコードを、私は今日までそんなにたくさんきいてはこず、クレンペラーといえば、まず先にふれたベートーヴェンの『第五』をまっさきに思い出すわけなのだが、レコードでは、『第四交響曲』を先頭に彼の指揮したマーラーを比較的よくきいており、また、それだけ好んでいる。  クレンペラーのマーラーは、たとえばバーンスタインのそれにくらべれば、その表現のすべてにわたって、ずっと刺激的でなくきこえる。これは単にテンポがずっと遅めであり、ダイナミックにも、バーンスタイン盤のようなあの燃え上がるような華々しさ、艶《つや》やかさといったものがないだけでなく、リズムのうえでもしばしば毒を含んだ鋭さとでも呼ぶべきほとばしりがなく、サッカリン的な甘ったるさと感傷性が欠けている。だから、何か気がぬけたように、思う人もあるかもしれない。『第四交響曲』の演奏もそうである。  たしかに、ここには全体として、バーンスタイン盤にあった、あの炎のようなもの、身をかむような憧《あこが》れの苦しい迫力はない。憂愁といい、歓喜といい、ここではむしろ過ぎさったものへの想い出のように、ヴェールによって隔てられたものであることが、しだいにわかってくる。ここで歌っているのは、優しさであり、根本的には肯定の精神なのである。  どうして、こういうことになるのか?  テンポが、一般にはずっとゆるやかなのはいうまでもないが、緩徐楽章では、むしろ速いくらいで、バーンスタインの場合と同様、冥想《めいそう》、省察の音楽ではあっても、密室の息苦しさからは解放されており、この部屋には夜の空気がさわやかに流れこんでくる。それは、終曲の第四楽章でのオーケストラの扱いが、これほど控え目で、歌のうしろに隠れながらしかも表現としての自由と微妙をつくしている点にもみられるように(スコアには、この終楽章の頭に、指揮者への注意として、「ここでは、歌手の伴奏を極度に慎み深く控え目にすることが、絶対に重要である」とマーラーの書きこみがあるのだが)、この演奏で指揮をしている人間が単に老練とか何とかを越えて、経験と成熟によって大きな知恵をもつまでになった芸術家であることを証明している。  クレンペラーは、マーラーが自作を指揮するのを実際に知っていたのだから、ここできく演奏は、マーラーの考えに忠実な、したがって最も正統的なものだという考え方があり、そういうこともわからなくはないわけだが、それだけでは、どうしてこれがヴァルターのそれとちがうかという問いに答えるのはむずかしかろう。ブルーノ・ヴァルターもマーラーの直系の弟子といってもよい関係にいたのだから。  私の考えでは、この演奏の最大の特質は、あらゆる意味で、「誇張」「一つの面の他の面を犠牲にした強調」というものがみられない点にあるのではないかと思う。  演奏における「誇張」ということを、私は単純に悪い意味にだけ使おうと考えているのではない。そこに、この問題は、いずれ、どこかでゆっくり考察してみるに値するものを含んでいる。しかし、クレンペラーに関する限り、この大家は、ベートーヴェンから、ブラームスから、ブルックナーから、マーラーから、「誇張」することなしに、実に大きなプロポーションをもった音楽をひき出すことを知っている、実に類まれな人である、と私には見えるのである。あるいは、むしろ、「一面に執着しない」からこそ、大きなプロポーションが浮きぼりされてくるのだ、というべきだという人もあるかもしれない。しかし、こういう言い方から、「好々爺《こうこうや》」的円満さの演奏を想像してはいけない。クレンペラーのは、そういった穏当主義とは正反対の厳しいものである。その厳しさが誇張を禁じるのである。   ベーム [B喇m, Karl]    1  先年ドイツで暮らしていた時、テレビでカール・ベームの練習風景を見た。たぶんヴィーン交響楽団が相手だったと思うが、ベームがシューベルトのあの長い『ハ長調の交響曲』の練習をしているところが写されていた。それもたしか一時間近くの番組だったはずである。そうして、その翌日だったかには、同じ顔ぶれで同じ曲の本番の放送があった。私は、たまたま、その両方を見ることができたが、とても、おもしろかった。ついでに書いておくが、ドイツのテレビは日本のテレビとは比較にならずおもしろい。日本のテレビは娯楽、それもごく薄っぺらなものが中心だが、ドイツのは、もっと完全に生活し、考える人間としての大人のためのものが中心である。ニュース一つとってみても、新聞の見出しだけよんでいるのと、解説記事つきの報道に接するのとに匹敵するくらいの差があった。日本の報道は、カメラ操作とか何とかの技術ではずいぶん進んでいるらしいのだが、知的な分析は——意識してか無意識なのか——まるで貧弱である。もっともいくつかの例外はあり、それも最近は特によくなったということだが。  わき道はこれくらいとして、ベームに戻ろう。  ベームの練習での指示をみていると、その内容は、リズムの正確な扱い、特に付点音符、それからクレッシェンド、ディミヌエンド、フォルテ、ピアノといったダイナミックの綿密忠実な扱い、いろいろな楽器の間でのバランス、特におもしろいのはいくつかの声部が重なって和声をなす時と、そうでなくて声部がいわば横の線の流れとして旋律的な役目をもつ時との、そのけじめの厳守等々といったものが主である。要するに楽譜に書いてあることが忠実に守られて音になって出てくるかどうかを厳重に監督しているというわけだが、その監督の厳しい細かさはちっとやそっとのものではない。  私は、これを見ていて、モデルを目の前にした肖像画家が、線をひいたり消したり、陰影を与えたりふくらみをつけたりといったさまを連想しないわけにはいかなかった。この場合、モデルは、楽譜というよりも、《音楽》なのである。というのも楽譜には、どの楽器の声部も同じ大きさで印刷されているのに、その中でどの声部に力点をおき、どれを抑え、どの楽器とどの楽器とを完全に重ね合わせ、どこではその中のあるリズムを強調するか、そういった瞬間、瞬間に流れてゆく多くの音たちの中で、たえず選択を行なうベームにとっては、それを決定するものはもう楽譜ではたりないわけである。楽譜は基礎になるが、選択はその先にある。それが、ベームのを見ていると、まるで、モデルの姿の微細な隅々まではっきり彼の頭の中のカメラに映っていて、すべてはそれになぞらえて、指示されてゆくかのような印象をうけるのである。それに、ちょうど画家が、ときどき画架から離れて、モデルと絵の出来を見くらべてみては、また絵に筆を加えるように、ベームもときどきオーケストラに演奏させてみておいて、やにわに「ファゴットもっと歌って!」と注意してみたり、「ここから、ヴァイオリンがリードして〓」とどなったりする。その結果、そこで弦なら弦に重点が加わり、その響きが優勢になってくると、俄然《がぜん》音楽に弦特有の柔らかい艶《つや》のかかった響きが上塗りされたようになり、その変化にずっとついてきた聴き手は何かがぴったり落ちつくところに落ちついたという、手応えのある印象を受ける結果になるのである。  ベームの指示が、徹頭徹尾こういった細かい、いわゆる重箱の隅をほじくるような行き方につきるのに、それによって音楽がどんどん見事なものになってゆくのは、驚くほかはない。それに、ベームのドイツ語は、オーストリアのどこの訛《なま》りか知らないが、学校で教わり、ラジオやテレビで普通しゃべられている北ドイツのいわば標準ドイツ語とはひどく趣のちがうアクセントをもった言葉であり、そのうえに、しゃべり方に、何というか、何の魅力もなく、ただもう教養も何もない人間が地方弁でガミガミいっているような調子なので、その話し方、怒鳴り方と、さっきいった内容と、この両方を合わせてみると、こうやってしぼられる楽員のほうもたまるまいし、ときには、それこそアクセントのつけ方からフレージングまで音を出すたびにいちいち直され、あれでよく覚えていられるものだなと、同情してしまう場合もあるくらいだ。一時間近い番組といっても、結局は、初めから終わりまで、そんなことの無限のくり返しなのだから、見るほうも退屈してしまっても不思議ではない。  そんな具合で、さて翌日の本番になってみると、ベームが昨日あれだけガミガミやったところが、その通り守られる時もあり、そうならない時もありだったし、第一、ベーム自身が昨日とはまた別の指示の仕方をしたりする時もあるのだから、私は一方では呆《あき》れ、一方では、「昨日はあんなに怒鳴ったりして、まるでこの音楽を知っているのは自分ひとりといわんばかりだったのに、今日はまたこんなにちがう。そういえばベームの最近出た自伝は『私は隅々まではっきり覚えている』(Ich erinnere mich ganz genau)という題だが、これこそ彼の練習風景に見えたのとまさに同じ精神から出た発想である。何とペダンティックでドグマティックなおやじだろう」と思って見ていた。しかし、きき終わってみると、あとに残るのはいかにも爽やかで力強い作品をきいたという充実感でしかないのである。不思議なものである。私は、これを「ベームの不思議」と呼ぶことにする(本当は「奇蹟《きせき》」と呼びたいが、ちょっと大袈裟《おおげさ》で気がひけるので)。それに、彼が本番で練習とちがう指示をするといったところで、私たち公衆がふれるのは最後の結果だけなので、それが練習とどうくいちがおうと、これは楽屋話にしかすぎない。ここで最も重要なのは、本番といわず練習といわず、ベームにしてみれば、いつも、彼には音楽の姿が微細な点にいたるまで、ganz genau——一点の曖昧《あいまい》さも残さず、はっきりと明確に見えている点である。彼はその心に見えているモデルの通りに、正確に再現しないではいられない。それが、ベームにとっての演奏ということの意味なのである。もし、演奏におけるレアリスムということがいえるとしたら、まさに、ここに一つの典型がある。それは一見しただけでは、日常性を越えた、特に創造性高いものとは思われない。だが、何というか、実にreliableな——安心してきける、信憑性《しんぴようせい》の高いものであり、後味もよろしい。  私は、ベームとは別にどういうつきあいがあるわけでもないが、一、二度私的な席で会って、食事をいっしょにしたことがある。そういう時、彼はもうごく普通の、あまりにも普通の小市民にすぎず、会話の領域もごくごく限られた範囲を出ない。金はいかにもほしそうに見えるが、知的な目ざましさなど薬にしたくもない。それに、周知のように、彼は風貌《ふうぼう》からして、あまり映えない。背も比較的低いし、肉体的にはどこといって取り柄のない人物にしか見えない。  それが、音楽をやると、その一つ一つはあくまで律義な手続きの連続でしかないのに、全体の結果は、現代ほかに匹敵するものは、ごく少数しかないような、りっぱな指揮となるのである。もっともそうなってくるのでなければ、世界の超一流の交響楽団の楽員たちが、彼のあの瑣細《ささい》事の連続のような、不愉快な練習につきあいきれたものではあるまい。もっとも、オスカー・ワイルドの脚本を愛読書にあげていたのを覚えている。ベームとワイルドとは奇妙な組合わせだが、ワイルドの芝居がかつての英語の上流社会の標準の話し言葉だったことを思いあわせると、案外この好みは、ベーム老の隠された教養を示しているのかもしれない。    2  今度この原稿を書くので調べてみると、ベームには、日本のグラモフォンから、このシューベルトの『ハ長調交響曲』をベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とやった練習風景のレコードと本番のそれとが出ている。してみると、ヴィーン交響楽団(Wien Symphony Orchestra)というのは、私の記憶のあやまりということも、もちろん、ありえないことではないが、その証拠もないので、今はあえて訂正しないでおく。  私はこの本番のほうのレコードをかけてみた。実によい演奏である。はじめの導入のアンダンテはずいぶん遅めだが、そこから入って最初のアレグロ・マ・ノン・トロッポは何ということもないようでいて、本当によく流れる音楽になっている。ベームの例の一重と二重との付点音符のリズムに対する厳重な区別からはじまって、およそ、音のふくらみが感じられたと思うところは、すべて、楽譜にもちゃんとそういう記号(<>)がついているし、ちょっと変わっているなと思ったのは展開部に入って直後の変イ長調で、ヴィオラがト音から変イ音に移る簡単な動機を何度か奏するところぐらいで(二五八〜五九小節、それから二六〇から六一、二六二から六三、二六四から六五小節にかけて)、これはこんなに強調するものかしら?(譜例1)  第二楽章のアンダンテ・コン・モートは案外に速めであるが、著しく特徴のあるのはそのつぎの第三楽章である。これはアレグロ・ヴィヴァーチェのスケルツォなのに、ベームのとるテンポは目立ってゆっくりと牧歌的であってこんなにレントラーの感じの濃厚な演奏も少ないのではなかろうか。これをきいていると、本当にドイツとは別のオーストリア音楽をきいている感じがひしひしとしてくる。だが、結局、ベームの演奏の真骨頂を示すものは、終楽章ではないか。この、どちらかといえば反復が多くて、やや単調なしくみの音楽を相手どって、ベームはちょっと彼からは想像できない大きさの音楽をつくりだす。終わってみた時のすごい迫力がその証《あか》しであって、こういうことは、そういつもきけるものではない。そうして、さっきもふれたが、木管や金管で交替させつつ一つの楽想を展開させているうちに、いつとは知らず、そこにヴァイオリンが台頭してきて、リードを奪うというか、指導役の肩代わりをするというか、そういう時の管弦楽に新鮮な艶が加わるその快さには、本当に目のさめるような鮮かさがあるし、力強さも欠けていないのである。  こういう演奏をきいていると、カール・ベームこそは本当に巨匠と呼ばれるにふさわしい人物だ、という気がしてくる。    3  ベームの指揮では、シューベルトのほか、ブラームス、ベートーヴェンはもちろん、とりわけて、R・シュトラウスとモーツァルトといったところを、私たちはよくきいているわけだが、それとならんで、というよりも、むしろオペラでの指揮にこそ、彼の本領はさらに高く評価されるのではないだろうか? 私は、少なくとも、そう思っている。  ベーム指揮のオペラでは、例の一九六三年の日生劇場の柿《こけら》落とし公演にベルリン・ドイツ・オペラがやってきた時、ベームが同行して、『フィデリオ』と『フィガロ』を指揮したから、日本でも、深い感銘をうけた方も大ぜいおられることと思うが、私はそのほか、あちこちの劇場で、いくつかの演目をきいている。  その中で、しかし、いちばん印象に残っているのは、R・シュトラウスの『影のない女』、ベルクの『ルル』、そうしてヴァーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の三つである。大体がベームはドイツ系統のオペラにかけては現代最もすぐれた指揮者の一人であるというのは誰しも異存のないところだろうし、アメリカ合衆国などでは最も代表的なドイツ・オペラの指揮者と評価されているらしいのだが、これも考えてみれば、不思議なことである。  オペラというものは——ヴァーグナー以来の楽劇をそれに加えて——、どだい、演奏会のように正確精密な演奏をするのが至難な種目である。ヴァーグナーやシュトラウス、ベルクといった人びとのあの複雑で膨大《ぼうだい》なスコアは管弦楽の奏者たちにだってなかなか正確にひけないのに、楽劇ではそれに歌い手が加わり、彼らはまた歌うほかに演技をしなければならず、第一、オーケストラの楽員はいつも譜面を目の前において演奏しているのに、哀れな歌手たちはみんな暗譜でやらなければならない。それに言葉、歌詞という厄介なものがあって、それも覚えなければならない。大体、歌手という音楽家はピアノ伴奏の歌曲を歌う時だって、ピアノの部分をみな覚えているとは限らないのに、まして、楽劇の管弦楽の部分なんか覚えるのはもちろん、それを舞台の上で正確にきいているなんてことは、人間業ではない。いや、そんな人はめったにいないのではなかろうか。  だから、前にふれた練習風景にきかれたような、ベームの考える正確な演奏は楽劇では望むべくもないのである。一口にいうとオペラ、楽劇の演奏というものは演奏会での私たちがききなれている水準とはくらべものにならないくらい雑なものになりやすく、また、そうなっても不思議ではないのである。  ところが、ベームの指揮できくと、ほかの名だたる指揮者のそれとくらべても、はるかにおもしろくきけ、充実した感銘が残るのである。ということは、ベームが、練習できくと、あんなに雷親爺《おやじ》でありながら、オペラのroutine(惰性的しきたり)というものにも、恐ろしいほど通暁していて、譜面のどこをどうおすと、歌手たちを救いやすいかとか、どこの何という歌手はどういうところでまごつきやすく、どこではよい気になって歌いとばすくせがあるとか、とにかく、そういったこまごましたことも実によく心得ているのではないかという推理に導く。ベームの指揮できくとオペラ、楽劇があんなにおもしろくきこえるのは、だから、こういうルティーヌに通暁している一方で、しかし、凡庸な指揮者とちがって——そういう人もいないと世界中のオペラ劇場はなりたたなくなってしまうのも確かだが——、それに妥協して水準の低い演奏で満足してしまうのではなくて、そういったたくさんの弱点を徹底的に知りぬいていながらも、どうやればその条件の中でいちばんよいものに近くもってゆくことができるかをもとめ、そうして、そのためには妥協をしない精神の持ち主で、彼があるからではなかろうか。  歌劇場で指揮をするといっても、ベームは、新しい演出があるときとか、あるいはザルツブルクの音楽祭、バイロイトのヴァーグナー祝典劇場での公演とかいった機会に主に指揮をするのであって、どこかのオペラ劇場に契約があってごくありふれた日常的公演に頻繁に出演するというのではない。そういう時は管弦楽団や歌手たちは、平常よく知っているオペラといっても、もう一度よく勉強しなおして来る。ベームはそういうのを相手に徹底的に調べ直させる機会をつくる機縁にもなるわけである。それに、何といっても、彼のギャラは高いから、どこの歌劇場でもそうめったに使うわけにいかない。    4  私はいつかある夕食会で彼の隣りに坐り、少しゆっくり話をきく機会をもった。その時、彼が「オペラでいちばんむずかしいのは、もちろん、モーツァルトで、これは何しろ楽譜が簡単なだけにいくら精密にやってもやれるはずなのに、どうしてもそういかない。簡単な音符のならんでいる楽譜をみながら、さて、この一つ一つはどういう意味だろうか? と考えていると、疲れて疲れて仕方がなくなるくらい、むずかしい。『フィガロ』でもそうだし、まして『ドン・ジョヴァンニ』ということになると、とてもそうそう一生に何回も指揮できるような代物ではない。それに、こういう音楽は、年をとればとるほど、ますますむずかしくなってくる。指揮者も若いうちはよいが、だんだんいろいろなことがわかるにつれて、本当にすぐれた第一級の音楽作品をやるということは結局、解決のつかない問題をつぎつぎ提出させられるようなものだ。私も、ときどき、楽譜を前にして、若い時はよくもこの曲をやれたものだと、呆然としてしまうことがある」と話すのをきいたことがある。私には、この話、忘れられない。  ところで、今度この原稿を書くために、私はベームの指揮した『トリスタン』のレコードをかけてみた。周知のように、このレコードは一九六六年のバイロイトでの実演の録音である。私は、その前年一九六五年同じバイロイトで、これをきいて非常に感心した。『トリスタン』では、私は、これ以上の実演にふれたことはない。あの時の出演者もベームの指揮、ニルソン、ヴィントガッセン以下の歌手ともに、このレコードのそれと大体同じものだったはずである。 『トリスタン』のレコードをきいたといっても、私は何も全部きいたわけではない。何かよほどのことでもないかぎり、私は、こんな五枚も六枚もあるような長大な作品をレコードでいっぺんにきき通す力はないのである。私は第一面の序奏、ついで、幕あきの水夫のあの歌からあとしばらくのところまできき、それからずっととばして、第二幕の例の有名な二重唱にブランゲーネの歌のからむところをじっくりきいた。ところが、序奏はとてもよいのだが、この二重唱のほうは何かしっくりしないのである。もっと陶酔的な感銘があったはずなのに。そう思って、私は、昔も昔、そろそろ二十年前になりそうな昔、アメリカで買ったフルトヴェングラー指揮の『トリスタン』のレコードを出してきてかけてみた。このレコードではフラグスタードがイゾルデを歌っているが、この時彼女はもう高い声が出ず、レコードでは何とかいう歌手がその高い声だけ歌ってテープにはりつけたとかいう噂《うわさ》さえきいた覚えがある。まあ、その真偽はどうでもよい。私は『トリスタン』といえば、まず、このレコードにより全曲をきいたのだし、その時の感激はほかに比較のしようもないものだった。  で、第二幕の花園の場での二重唱をきいてみると、もちろん、フルトヴェングラーのは、ずっとテンポがおそいし、歌も管弦楽も正確さという点では、ベームの盤とは比較にならない。にもかかわらずフルトヴェングラーの指揮では、小節の中での音符の符割り、つまり各拍の分割はときどきはっきりしなくなるくらいなのに、各小節の頭、つまりたいていは第一拍にある強拍の所在は、彼のほうがベームとくらべて、ずっと鮮かに力強く出てくるのである。  つぎの誰も知らない人のない二重唱の例も、そうだ(譜例2)。  ここのテンポはm郭sig langsamつまり「中くらいにゆっくりと」なのだが、フルトヴェングラーのテンポはベームのそれより遅いだけでなく、重くにぶい。第一拍が反復して戻ってくるごとに、運命的な重圧感が私たち聴き手にひしひしと身にしみるようにのしかかってくるのである。それに、この二人の歌の下では弦がシンコペーションで和音を刻むのだが、それがまたあまり正確でないにもかかわらず、何ともいえぬ巨大な意味をもって迫ってくる。  管弦楽での旋律の歌わせ方でも、そうである(譜例3)。  ヴァーグナーの天才をもってしても、これだけの旋律はほかにそういくつも書けたわけではないが、フルトヴェングラーの指揮でこの旋律をきいたあとで——それも二十年近くたったのに、ベームのレコードでこれをきくと、同じものと思えないほど色あせ、蒼《あお》ざめてきこえるのである。  一体に、劇的な動きのあるところはベームのほうがひきしまってきこえるのに対し、陶酔的耽溺《たんでき》的な面はフルトヴェングラーの全身的な深みにおよばないといってもよいのかもしれないが(前いったように、私はレコードで全曲ききくらべているわけではないので、まちがっているかもしれない)、とにかく、フルトヴェングラーの古いレコードをひっぱりだしてみたばかりに、バイロイトでベームの棒できいた時のあの感激はどこからきたのだろうと、今さらながら、私はとまどってしまった。  この『トリスタン』のレコードは、同じ五枚のセットでも、フルトヴェングラーが十面使いきっているのに対し、ベームのは九面で終わってしまい、第十面は第三幕の初めの練習風景がはいっている(ここでも、シューベルトの交響曲の時と同じ、例によって例のごとき小言がきかれるが、ベームが注意すると、たしかにその場で和音でもリズムでも、ひきしまってくる)。  だが、私には、ベームのほうがテンポが速いから、さっきいったような結果になるのだとは考えられない。テンポが速ければ速いで、かえって、強拍中心のメトリックをうち出しやすくなるのは、アレグロの音楽がそれを示す。では、なぜだろう?……  私の一番正直なところをいわせてもらうと、ベームという人は本当にすばらしい名指揮者だが、さっきの彼の話にもあるように、第一級中の一級、名品中の名品ともいうべき作品を扱うとなると、何かが少し物足りなくなるのである。もちろん、名品中の名品というのも曖昧な言い方で、『フィガロ』が『ドン・ジョヴァンニ』に劣るというようなことは軽々しくいえない。むしろ、そんなことはまったくいわないほうがよいのである。別の言い方をすると、ベームだと、同じシュトラウスでも『影のない女』『カプリッチョ』『エレクトラ』とこういったすべてにくらべて、『ばらの騎士』がいちばんきき劣りするのではないだろうか?  こういうことは、私にはまだ、推測であって、本当にわかったうえでの話ではない。ただ、何かがそこにある。それが、私にとってのベームのもう一つの不思議である。ある意味では、現代、これ以上の人はいないといってもよいほどの指揮者なのに。音楽家としては申し分ないのだが、ベームという《人間》に何かが欠けているのだろうか?   バーンスタイン [Bernstein, Leonard]    1  私がはじめて指揮者バーンスタインに接したのは、一九五四年の秋のヴェネツィアの現代音楽祭でだったと覚えている。秋といっても、九月の前半だったろう。それは、そろそろ夏の外国漫遊客の姿が消えかけるころ、そうして、有名なヴェネツィアのビエンナーレ——例の隔年にひらかれる国際美術展——は会期中ではあるけれども、鳴物入りで行なわれる開会式以下、大賞の決定その他の重要な行事がひとわたりすんでしまったあとに当たる時期だったと覚えている。このころは、まだ、ヴェネツィアのビエンナーレも活力が汪溢《おういつ》している時だった。  音楽祭のほうは、何回目だったか覚えていないが、どうも、美術展ほどにはいかなかったようだ。それでも、私の行った年は、多くのオペラの名作の初演で名高い、フェニーチェ劇場で、ストラヴィンスキーの『道楽者のなりゆき《レイクス・プログレス》』があったり、別の劇場でベンジャミン・ブリテンの『ねじの回転』があったりした。ストラヴィンスキーのほうはたしかこの前年にここで初演されたものだし、ブリテンのオペラは、この年のが世界初演ではなかったかしら? 何か、そんなふうな気がする。そうして『道楽者のなりゆき』は、私はその前にニューヨークできいてしまっていたのだが、『ねじの回転』のあの異様な暗さと繊細さの混在するスコアに接するのははじめてだった。  そういう中で、バーンスタインは、彼の自作の『饗宴《きようえん》』の指揮をしたのだった。これは、プラトンの有名な対話篇《へん》にもとづく交響詩で、その中でプラトンはソクラテス以下の人びとに精神的な愛と肉体的な愛について語らせたりしたわけだが、バーンスタインの音楽はけっしてロマンティックなものではなかったが、ギリシア風の典雅——といっても、具体的にどんな音楽だったら、そういう印象を与えるか、私自身にだってわからないけれど——というのでもなく、むしろ、今世紀前半の新古典主義的な、上品なものだったような気がする。というのも、正直な話、私は、この音楽のこと、あんまりよく覚えていないのである。むしろ、同じ音楽祭で、はじめてマデルナとノーノの管弦楽曲をきいて、それはあのころはやり出した《ヴェーベルン的点描主義》の影響の濃厚な作品だったけれども、その中ではノーノの剛とマデルナのやや抒情《じよじよう》的なのと、二つの行き方の違いが感じられておもしろかったので、そちらのほうをずっとよく思い出す。  ともあれ、バーンスタインの指揮——あれはどこの交響楽団だったのかしら?——の姿は、その時からもう、とてもにぎやかなものだった。作品の中の音の数も多かったけれど、動きもひどく派手で、同じ作曲家兼業の指揮者といっても、それまでに私の見てきたような、どちらかというと音楽の形をはっきりさすのに重点をおくヒンデミットとかミヨーとかストラヴィンスキーとかの、いわゆる《作曲家的な指揮》というのではなくて、きわめて活発な指揮だった。  バーンスタインの指揮に接したつぎの機会は、たぶん一九六一年、例の東西音楽祭が東京上野の、できたばかりの文化会館を中心に開かれた時のことだったろう。このころの彼はもう、指揮の専門家というより、ニューヨーク・フィルハーモニック協会の管弦楽団の音楽監督、常任指揮者として、アメリカ楽壇きっての寵児《ちようじ》としての地位を確立していたのは、いうまでもない。東京でも、この時の彼をきいた人は、私のほかにもたくさんいるはずだ。「いくらよく動くといっても、こんなに腰から拍子をとるような、こんな忙がしい指揮だったかしら?」と、私は思った。この時はドビュッシーだとかラヴェル——『ラ・ヴァルス』、それから彼がピアノ独奏もうけもった『ピアノ協奏曲ト長調』——などをきいたと思う。猛烈に「音楽的」で、しかも活気にみちあふれ、音楽するのが楽しくって仕方がないといった演奏だった。  それと同時に、ニューヨーク・フィル自体も、私が前にニューヨークでブルーノ・ヴァルターやミトロプーロスできいたのとまるでちがって、じじむさいところがなくなり、すっかり若返って、バリバリ大きな音を出していて、何か痛快だった。「やっぱり、彼こそはアメリカ随一の音楽的な人物なのだろうな」と、私は思った。  しかし、この時の彼の全演奏を通じて、私が一番に思い出すのは、実はチャールズ・アイヴズの『答えのない質問』という比較的短い曲である。私はあの時アイヴズをはじめてきいたはずであり、きき終わっても、さっぱりわからなかった。ただ、曲の終わり方が、すごく印象的で、まさに「答えようのない質問」をつきつけられて、どぎまぎしているうちに、先方に立ちさられてしまったような、何とも苦しいような恥ずかしいような、腹立たしいような想いがしたことは、今でも覚えている。このあと、いつだったかストコフスキーが来て、読売日響を指揮した時も、たしか、アイヴズをやったはずだが、その時のことより、このバーンスタインできいた時のほうが、少なくとも私には、強烈な印象が残っている。  このあとバーンスタインをきいたのは、一九六八年の春のヴィーンでだった。この時は、もう、バーンスタインをききたいばかりにヴィーンに行ったようなものだった(といっても、私は当時ヨーロッパに一年の予定で滞在していたので、何も東京から出かけて行ったわけではない)。それというのも、彼がヴィーンの国立オペラで、クリスタ・ルートヴィヒの公爵夫人、ベリーのオックス男爵以下の配役で『ばらの騎士』をやって大評判をとっていたからで、ないないという切符を苦労して手に入れたあげく、オペラのほかにも、ヴィーン・フィルハーモニーの演奏会にも出かけていって、ステージのすぐ前の第一列で、右横にバーンスタインを見上げながら、彼の自作——何といったっけ、あの素人合唱団のために書いたカンタータみたいなもの——だとか、モーツァルトのピアノ協奏曲(ここでは彼が独奏までつとめていた。バーンスタインは人前でピアノをひくのがよほど好きなのだろう)だとかをきいた。ほかにブラームスもあったかと思う。  この三度目のバーンスタインは、もうアメリカ楽壇の寵児というだけでなく、ヨーロッパのある新聞記事をひけば、「世界で二番目の一番偉いマエストロ(der zweite gr嘖ste Maestro)」ということになっていた。「一番目の一番偉いマエストロ」が誰かは、書くまでもないだろう。    2  この時の『ばらの騎士』は、一面ではとてもおもしろくて、一面では、少し失望した。何しろ、オペラというものは、必ずしも万事が指揮者の思う通りにいっているわけではないから、ここでバーンスタインだけを云々《うんぬん》することもできない。  ヴィーンは、カラヤンが喧嘩《けんか》別れしてしまってからは、誰かそれに対抗できるだけの英雄がほしくてたまらないので躍起となって探し当てたのが、バーンスタインである(こういう場合、カール・ベームが話に出てこないのは本当に変だが、どうしてだか、そうなのである。かつてベームがヴィーン国立オペラの音楽総監督だったのに、やたらと国外に出て客演をしてまわり、ヴィーンに腰を落ちつけていないからといって、ヴィーンのほうで、ベームを追い出したといういきさつのあるのは事実だけれども)。それだけに、先年のフィッシャー〓ディースカウの主人公で『ファルスタフ』をやって以来、バーンスタインのヴィーンでの人気というものは大変で、ヴィーン人にしてみればこれでカラヤンを見返してやろうというわけなのだろう。今度の『ばらの騎士』も、前評判が高く、バーンスタインが稽古に入ると、新聞——一般紙である——には、連日その稽古場の話が出るという具合だった。バーンスタインのほうも、心得たもので、最初の記者会見の席でまず「今度の出しものは、オーケストラの諸君も歌手のみなさんも、いやお客の方々も、みんな、私よりよく知ってる音楽なのだから、私はただ黙って、みなさんに教えてもらえばよいだけ。勉強に来たようなものです」といった調子でやる。そのうえに、初日ではあの第二幕のワルツの入る間奏になると、バーンスタインは、最初の合図を与えたあとはもう、オーケストラに好きなように演奏して下さいとばかり、両手をじっとたらしたまま立っていたなどという話が——たぶん本当なのだろうが——翌日の新聞に出たりする始末で、これでヴィーンの市民がよい気持にならなければおかしいというものだろう。  私が、前におもしろかったというのは、必ずしも、そういうことでもないのだが、しかし、結局はこれと関係がある。ヴィーンの人にしてみれば、『ばらの騎士』は誰が何といっても自分たちのところの音楽だという気持が強いのであり、そのため演奏ばかりでなく、国立歌劇場での演出や装置についても、演出家なり何なりが自分の考えだけできめてゆくという具合にいかなくなってしまっている。  そういうことがすべてにしみわたっているから、『ばらの騎士』はヴィーンできき、ヴィーンで見ると、ちがうのである。それは、このオペラがまだ「生きている」証拠である。これは、単にこのオペラがヴィーンを舞台にしているからというだけではないのである。たとえば、日本で歌舞伎が果たしてそこまで生きているといえるかどうか。市民にそれだけの関心が残っているかどうか。いくら、大阪で書かれたとか東京でかくかくの名優たちが活躍したとかいう歴史的由緒、因縁があっても、それだけではたりないのである。『ばらの騎士』がヴィーンでまだ生きているのはヴィーン人が生かしているからなのだ。  ところでバーンスタインは、『ばらの騎士』で何もしなかったわけではない、もちろん。第一、その評判の第二幕への間奏でだって、私のきいた晩は、彼は精力的に指揮をしていたし、全体にわたって、とても「バーンスタイン的」演奏になっていたことも事実である。  では何を、「バーンスタイン的」と呼ぶか?    3  それは、私にとっては、この『ばらの騎士』と、その翌日きいたヴィーン・フィルの演奏会での彼の指揮をきいて、生まれてきた考えなのである。私は、まだ、自分はバーンスタインのことがよくわかっていないのかもしれないという気もときどきするのだが、とにかく、それは、まず、こんなことになろう。  指揮者バーンスタインの第一の特徴は、それが非常に逞《たくま》しい活力にあふれたものだということだ。それは肉体的なエネルギーにあふれたものであり、そうして強烈な情緒を発散するタイプである。それも爆発的な衝動的なものというよりも、もっと持続性のある、粘り強いものだ。ときとして、粘っこくてやりきれないこともあるけれども、これは反射的、非省察的な性格のものではない。もっと、根本的本質的に、彼の人並み以上にすぐれた知性——音楽的知性にいたるまで一貫してあるものだと思われる。  というのは、私には、これがバーンスタインの独特なところかと思われる急所は、この強烈な情緒への傾斜が、同時に、いつも、ある種の非常に覚めた意識的な働きと結びついて働いているらしいことにあるからである。  別な言い方をすると、バーンスタインの指揮するマーラー。バーンスタインは、現代の代表的マーラーの指揮者であるが、彼のマーラーをきいていると、深刻な感情の動揺、非常に幅のひろい振動と起伏のほかに、感情と悟性との対照とか均衡とかのとり方にも、その猛烈さが一歩も弱められることなく出ているのである。その結果、これは極度に主観的でありながら、感情一点張りの演奏ではなくて、かなりに計算のゆきとどいた演奏になっている。こういう人の場合、主観的即感情的とはならない。  そういうのを、かりに、私の好きな言葉ではないけれども、ユダヤ的な性格と呼ぶとすれば、バーンスタインの音楽は、多くのユダヤ人芸術家に共通する、あの都会的な、反牧歌的な点でも、際立った特徴をもっている。ただし、ここで都会的というのは、感覚の過度の洗練、過度の敏感さというものとは、むしろ逆のものである。都雅でもなければ、蒼白《あおじろ》い、ひよわな神経質でもない。むしろある種の大都市の住民や子供たちにみられる、すでに多くの害毒や混乱や騒音に免疫となったものの感情と知性の機敏な逞しさとでもいったものである。  私が、バーンスタインで違和感を覚える最大のものは、ひょっとしたら彼の作品にも演奏にも同じくらいある「標題楽的なもの」への傾向かもしれない。十何年前はじめてバーンスタインの指揮で彼の作品をきいて以来のことをふりかえり、それから特に先年ヴィーンで彼をきいた時のことを思うと、バーンスタインの音楽には、プログラム・ミュージックへの根強い親近性がある。  彼のマーラーにも、だから、私たちが充分に敏感だったら、きっと、多くの具体的で描写的なものをきき出せるのではないかと思う。そうでなくとも、たとえば、彼のふったベルリオーズの『幻想交響曲』を耳にしたものは、この音楽から、実に多くの「ものがたり」と「描写」をひき出してくるバーンスタインの力に驚かずにいられないのではなかろうか。少なくとも、私はびっくりした。そうやって音楽の叙述的な性格を浮きぼりにする、そのやり方の烈しさと生々しさ、迫力と鋭さはほかに類のない域に達している。これをきいたあとで、モントゥの指揮のレコードできいてみると、その、「柔かく、夢幻的」に響くこと。まるで別の曲どころか、別天地みたいだ!  ベルリオーズがエキセントリックな物語り手であったことは確かだろうが。  この「物語り手」としてのバーンスタインの特性は、彼の啓蒙《けいもう》性を解明する糸口にもなるだろう。  この名指揮者は、ときどき、情熱を生きるのでなく、情熱の何たるかを、きく人に教えるような演奏をする時がある。それから、特に、優しさ、甘美さ、快適さを表現しようとする時のバーンスタインには、私には少しやりきれないような甘ったるさがつきまとう場合がある。特にヴィーンで、自分で独奏しながらモーツァルトの協奏曲の指揮をする時、右に左にと合図をしながら、ときどき「うまくやった、ありがとう」とでもいわんばかりに唇に指をあてて、甘いキッスを楽員に送っているのをみた時は、私にはそのまま席にのこっているのに、かなり努力がいった。  しかし、その時——私は前にかいたように、ステージのすぐ下の第一列に坐っていたのだが——、私のまわりには、恍惚《こうこつ》として彼を見上げている何人もの女性の目があったのも事実である。  バーンスタインは、単に聴き手を陶酔さすだけではなく、オーケストラの楽員をも強く魅惑するにたる精神的放射があるのであろう。  名指揮者というものは、彼自身の中にすぐれた音楽としての素質をいっぱいにもっているというだけではたりない。彼は、管弦楽の楽員たちにも、少なくとも彼の棒の下にある限り、一人一人がすぐれた音楽家なのだという信念を吹きこむ能力がなければならない。つまり、彼は、楽員を魔法にかけ、ふだん以上の能力を発揮できるようにする素質をもっていなければならない。日本人でも、たとえば、小沢征爾にはそれがある。   ムラヴィンスキー [Mravinsky, Evgeny]  ムラヴィンスキーは、まだ一度も、ナマをきいたことがない。いつぞや見たソ連の映画にD・ショスタコーヴィチを主題にとったものがあり、そこでムラヴィンスキーがショスタコーヴィチの交響曲を指揮している姿に接したことがあるだけである。そこでは、やせた、実に気むずかしそうな老人が、ごくごく少ない身体の動きと、非常に警戒的で鋭い眼差《まなざ》しとでもって、すばらしい指揮をしていたのだったが、それは実に厳しい印象を与えずにおかなかった。  本来彼は、一九五八年と一九七〇年の再度にわたってレニングラード・フィルハーモニーと同行来日するという話で、手ぐすねひいて待ちかまえていたが、二度とも病気だとかですっぽかされた。せめて一度でも実演の姿に接してから書きたかったのだが、そうもいかないので、レコードをたよりに書くこととする《*》。    1  周知のように、ムラヴィンスキーは、一九三八年の全ソ連指揮者コンクールに優勝して以来、その年から今にいたるまで、ずっとレニングラード・フィルハーモニーの常任指揮者をつとめていたのだから、ある見方からいえば、私たちが一九五八年と一九七〇年と、二回にわたる来演に接したこのオーケストラからも、ムラヴィンスキーの特徴のあるものは、間接ながら、わかるはずだろう。  そこから推理される最初のことは、ムラヴィンスキーが仮借のない、そうして厳格な訓練家らしいということである。事実、レニングラード・フィルハーモニーの性能の良さといったら、世界中を見渡しても、そのトップの五つに数え入れなければならぬほどの高さなのだから。性能がよいといっても、彼らの演奏をよくきいていると、その基礎は、一つは、楽員の一人一人の粒がものすごく精選された、非常に高いものであること、それから、もう一つは、技術的に一点の非もないところまで訓練に訓練を重ねた——というより、筋金入りの鍛練に耐えぬいてきたという事実にあるのだろう。私はそこから、ことにこの後の点から、ムラヴィンスキーの指揮者としての一つの特徴に想いいたるわけで、この人は偶然と霊感を信ぜず、何事も訓練によって、一つ一つ手に入れていこうという鉄の意志と合理精神に貫かれた芸術家であるのではなかろうか。彼の音楽は、いってみれば、ヴァルターとは逆のものである。いわゆる《雰囲気《ふんいき》の音楽》でもなければ、その結果がどうであるというよりも、むしろ自発的な音楽をする喜び、いわゆるmusizierenの喜びから生まれてくるというものではない。セルに近く、しかももっと徹底的に族長的権威的なのかもしれない。  まあ、現代の世界には、そういう音楽家は珍しくなく、むしろヴァルターのような人のほうがどんどん姿を消しつつあるといってもよいのかもしれないが、ムラヴィンスキーが大指揮者であるのは、この点ばかりでなく、いや、むしろ、こうである一方で、管弦楽の楽員たちを、熱狂さす何ものかを、一見厳格そのもののような指揮の中に潜めているからではないだろうか? これが、私の、ムラヴィンスキーでぜひ実際に経験したかった興味の一つの焦点である。  同じレニングラード・フィルハーモニーの演奏といっても、ムラヴィンスキーの指揮によって、たとえば、チャイコフスキーの『第四』から『第六番』の交響曲のレコードをきいてみると、楽員たちが、それこそソロをふくフリュートやオーボエ、あるいはクラリネット、ファゴットたちはもちろん、弦楽器奏者の一人一人にいたるまで、いかに彼らが、自分たちの演奏に全身的にうちこんでやっているかが、それこそ、手にとるようにわかるのである。金管もそうだ。どこをとってもよいが、『第六交響曲』を例にとれば、第一楽章のトランペットのソロも、スケルツォでトロンボーン、ホルンらの入れるリズムのモティーフも、すべてが、まるで、ソリストの集まりであり——というより、一人一人が、曲の肝心要《かなめ》のところを吹いているかのような自負心をもって、生き生きしたリズムと音色で、演奏している。しかも、そこには、自分たちの親方であるところのムラヴィンスキーに、スタンドプレーをして、よく認めてもらおうという——これまた、当然、こういう交響楽団ならありそうな——心の動きではなくてむしろ、熱狂して、我を忘れ、ただもう音楽を、自分の音楽を、めちゃめちゃにうまくやり、強くやり、はっきりやってみたいというだけの気持になりきってやっているようなところがあるのである。他人と合わせようなどという考慮は、最小限にしかない。それで、こんなによく合う音がでる。そのことを、ものすごい訓練があって、もう自分のやりたい通りやるというのと、日ごろ訓練している時に気をつけているのと、その二つが一つにとけこんでしまっているからだ、と私は判断するのである。  その点では、これはベルリン・フィルハーモニーの楽員たちとカラヤンとの関係に似ていなくもない。ただ、カラヤンとムラヴィンスキーでは《音楽》がちがうのと、西欧の世界で生きている人間と、ソ連人とでは、その間には社会的にも個人としても、生活感覚のうえで、ずいぶん大きな違いがあるから、熱狂の内容や、その現われ方に変化が出てくるのは当然である。  そのつぎに、レニングラード・フィルハーモニーをきいて、ムラヴィンスキーの《音楽》を考える手がかりになる第二の点は、このオーケストラの立てる響きの性格だ。まず誰がきいてもすぐ耳につくのは、低音の響きの並々ならぬ部厚さと、ダイナミックの幅の異常な広さだろう。この二つは、ヴィーン・フィルやベルリン・フィルの特徴でもあるわけで、その点からもレニングラード・フィルが中欧のドイツ・オーストリア系交響楽団の行き方を継承しながら発展してきた団体であることがわかるのだが、それにしても、この楽団の低音の厚さは、また一段と耳につく。舞台にならんだ彼らの姿をみただけでもわかるが、この交響楽団は、ドミトリエフという人の指揮でチャイコフスキーの『くるみ割り人形』組曲を演奏する時でさえ、チェロが十二挺《ちよう》動員されているのだ! それに対し、コントラバスが九挺。それに、これはある人が私にいったことだが、「あんなにバスが厚いのに、第一ヴァイオリンが、いくら数え直してみても、十二人か十四人なんです。あれじゃ、どうしたって音が重くなりますよね」。私はぼんやりしていたので、ヴァイオリンの数は十五人か十六人じゃないかと思っていたのだが、もしこれが正しいのなら、普通ではない。  そういうことは、レコードでも耳につく。私のきいたレコードは、『第五』と『第六交響曲』が一九六〇年ヴィーンのムジークフェラインの大ホールで録音したもの、『第四交響曲』がロンドンのウェンブリー・タウン・ホールでとったものと、ジャケットに書いてある。このうちロンドンのほうのホールは、私は知らないが、ヴィーンのは多少は馴染《なじ》んでいる。そうして、あのすばらしいホールでなら、響きが部厚く、残響も豊かになるのは当然なのだが、それにしても、この演奏できくバスの重さ、厚さ、強さは並々のものではない。それにくらべると、『第四』のほうは、音が少し軽いというか風通しがよくなってはいるが、しかし、低音の特徴とダイナミックの対照の強烈さには変わりはない。  いろいろな原因が重なってこうなるのだろうが、結局、少なくともムラヴィンスキーの好みが、これに逆行するものでないことは、絶対に確実だということになる。    2  私は、ムラヴィンスキーのレコードでは、チャイコフスキーのほかに、ブルックナーの『第八交響曲』というのをきいた。演奏は、いうまでもなく、同じレニングラード・フィルである。  この交響曲については、私は、前にいろいろな指揮者のレコードでききくらべたことがあるので(白水社刊『吉田秀和全集』第二巻所収の「ブルックナーのシンフォニー」参照)、誰がどんなふうにしているか多少は知っているが、その中で、ムラヴィンスキーが比較的近いのは、フルトヴェングラーである。ことにスケルツォ(これとフィナーレのテンポをどうとるかで、この曲の感銘はずいぶんちがったものになるのだが)のテンポなど、実に近い。といっても、ムラヴィンスキーはフルトヴェングラーにくらべれば、ずっと「現代的」な音楽家であり、ロマンティックな趣は乏しく、細かなテンポやダイナミックの変化はずっと少ないのだが、それでいて、基本的テンポがこうであるために、そこにもやはりブルックナーの音楽の途方もない交響的拡がりは感じられなくはないのである。だが、本当に板についているとは、ちょっといいにくい。それは、たとえば第一楽章の第一主題をきいただけでもわかるのだが、この主題はベートーヴェンの『第九』の冒頭主題とまったく同じリズムのパターンをもっているのだが(ブルックナーが意識的にそうしたことはまちがいない)、ムラヴィンスキーでは、付点音符の多いこの主題のリズムが、レガートというより、きわめて乾燥した表情の余韻を短くとったスタッカートで、ばらばらにときほごされて提出されているので、そこに複雑に幾重にも組み合わせられて、築きあげられた緊張が充分に出てこない。こういうことと、音楽的な幅広さを充分にとったテンポの設定とは、矛盾するかのように見える。  しかし、そこに、ムラヴィンスキーが、いるのである。ムラヴィンスキーとは、私見によれば、そういう指揮者なのである。  チャイコフスキーの交響曲にしても、すべて、そうである。一方からいうと——というのは、西欧的感覚に近い線からみると——、チャイコフスキーの交響曲は、交響曲というにしては、いろいろ問題があるわけだが——私は図式的、平面的に、これらの交響曲のいわゆる《楽式》の面からいっているのではなくて、むしろ、そのテクスチュアとスタイルの感覚からである——、それだけにカラヤンとかその他の西欧の指揮者がやると、どうしても、抒情《じよじよう》を生命としたラプソディックな音楽に、自然ときこえてしまうのだが、ムラヴィンスキーの指揮によると、そうではなくて、実に烈しくダイナミックで、しかも冷徹なほど構図のはっきり見透《みすか》せる大がかりな大音楽、つまりは「本格的な」交響的音楽として、きこえてきてしまうのである。  だからといって、俗にいうスラヴ的な、重苦しい情緒纏綿《てんめん》とした音楽としてではなくて、むしろその逆に、かたくななくらい意志的であろうとする意志に支えられた音楽として提示される。 『悲愴《ひそう》交響曲』の第一楽章のあの第二主題。あれは、そうでなくとも、とかくセンチメンタルなこの音楽の中でも、まさに、泣かせどころであって、かつてのこの曲の極めつけの名演とされているメンデルベルクの指揮によるレコードなど、その典型的なものだったが、あすこでは、この主題の反復でヴァイオリンたちがa音から一オクターヴ駆け上がって、そこからまた改めて、‐e‐d‐a‐‐d‐‐h‐a‐aと歌う時など、そのオクターヴはまるでオペラのさわりを歌う声楽家のようにグリッサンドで駆け上がり、それから、一つ一つの音にたっぷりヴィブラートをかけて、歌い上げたものだった。それが、今、ムラヴィンスキーのレコードできけば、音階の一つ一つの音がはっきり区別してきこえるように、きちっとしたレガートでひかれ、そのあとのヴィブラートもまことに趣味よく適当であって、悪どく、脂こい、いわゆる《スラヴ趣味》とは、まったくちがったものになっている(譜例1)。  それでいて、万事が、さらっとしてしまっているのかというと、けっして、そうではないのである。第一に、この楽章を導入してくる、あのヴィオラのピアニッシモの音型の歌わせ方からして、そこにはたっぷりした音楽があり、さらに、そのすぐあとのゲネラルパウゼが実に力強い印象で迫ってきて、きくものに衝撃を与える。芝居っ気というといいすぎだが、この音楽のもっている演劇的視覚的な効果に対しては、実に敏感で冷静な配慮が施されているのである。だから、この交響曲全部をきき終わって、けっして古くさい、センチメンタルな音楽をきいたという感じは生まれてこない。むしろ、強烈で真剣な、大きな規模をもった音楽にきこえるのである。  そんなことよりも、私が、ムラヴィンスキーで、もし、多少なりと物足りなく思うとしたら、むしろ、一種の軽妙さと優雅さとでもいったものだろうと想像する。一九五八年にレニングラード・フィルが来日した時、私はチャイコフスキーの『第四交響曲』のスケルツォ、あの弦が全部でピッツィカートを奏する、罪のない、しかし非常にアクロバティックな部分の演奏が、あんまり完璧《かんぺき》なのですっかりびっくりし、感心してしまった。私は、これはチャイコフスキーというより、まるでメンデルスゾーンのあの妖精《ようせい》的なスケルツォみたいなものだと思い、それから、いや、そうではなくて、チャイコフスキーというのがもともとこういう面をたっぷりもっていたわけで、つまらない解説で私たちをまどわした音楽文筆業者たちや、それを出せない演奏家たちが、私たちに先入感をうえつけようとしただけのことだ、と考え直したりしたものである。  ところが、今度、レコードで、この部分をきいてみると、テンポはずっとおそく、技術的にはもちろん見事なもので感心するほかないが、アレグロ・スケルツァンド、ピッツィカート・オスティナートの軽快味が、どうも出てこない。重くて、むしろアレグレットになっている。そういえば、『悲愴』の第二楽章のアレグロ・コン・グラツィアの例の四分の五拍子も、グラツィアというよりも、力任せに押しまくるような趣が強い。  これは、どういうものであろうか? いずれにしろ、『第六交響曲』の第二楽章、『第四交響曲』でのスケルツォは、何も、それがなければ、これらの交響曲の意味が失われ、全体の構成が崩壊してしまうような、そんな深刻で重大な急所ではない。しかし、作曲にかけて恐ろしく腕達者だった人、どちらかといえば天才肌だが、素人っぽい音楽家の多かった十九世紀ロシアの民族主義的ロマン派音楽家の全体を通じ、おそらく一、二を争うような大職人であったチャイコフスキーは、いつもいつも深刻そうな顰《しか》めっつらをみせるばかりでなく、もっと素直で、気楽な楽しみを与えることを計算にいれて、曲を書いたのであったろうし、そうなると、こういう部分も重要になってくるだろうにと思うのである。  いずれにしろ、ムラヴィンスキーは、一度実演できいてみたかった。これは、私だけではなく、日本の何十万という音楽好きの望みだろう。一度は、これがかないますように。  * 一九七二年、彼はついに来日した。ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルハーモニーの日本における音楽会に関する私の演奏会評参照(『吉田秀和全集』第九巻所収)。   クナッパーツブッシュ [Knappertsbusch, Hans]    1  現代でも、フルトヴェングラーを熱狂的に崇拝する音楽ファンがいるのと同じように、クナッパーツブッシュを教祖のようにあがめる人びとがいる。それぞれの宗派が、それぞれの教祖を、絶対視し、何よりも尊いとする。  そういう人たちにとって、レコードが発明され、近代工業のペースにのって、大量生産されているということは、大きな幸福である。もしレコードがなかったら、この二人が死んでしまった今日、どうしようもないではないか。ちょうど、かつてのニキッシュやビューローについて、どんな評判があり、噂《うわさ》があろうとも、じかに感じとることはできないのだから、信者になるのは、どうあっても不可能なように。  ところが、フルトヴェングラーはともかく、そういうクナッパーツブッシュ自身が、どうやらレコードの録音を好まず、現在残っている彼のレコードはバイロイト祝典劇場での実況録音か、さもなければいやがる子供を無理矢理スタジオにおしこんでの仕事であったらしいのは、皮肉な話である。これについては、例のショルティ盤『指環《ゆびわ》』の全曲完成をなしとげたプロデューサーのジョン・カルショーが『プロデューサーの手記』という非常にスリリングな本の中でおもしろい逸話を書いているから、知っている人も多かろう(カルショー『ニーベルングの指環』黒田恭一訳、音楽之友社)。要するにカルショーは、元来、クナッパーツブッシュの指揮で『指環』全曲を録音したかったのだが、この老いたる大指揮者のほうには、そんな骨のおれる仕事を引きうける気はなかった。それにクナッパーツブッシュという人にとっては、演奏に多少のキズがあっても、聴き手がそんな細かなことを気にして、演奏の全体をつかみそこなうだろうなどと考えるのがむずかしく、また、そんな聴き手のために、苦労して何回も録音し直すなどという気にはとてもなれなかったというのである。  こういうわけでクナッパーツブッシュの演奏をきく人は、レコードがあっても、ほかの場合は常識になっている細部の正確さ、よく計算された、平滑冷静な演奏の美しさといったものを期待するわけにいかない。ここにあるものは、音楽的精神のもっと直接的な燃焼、そのときどきの感興のより自由な放射の喜びである。どだい、クナッパーツブッシュは、演奏会の時もあらかじめリハーサルを重ねて細部まできっちり固めてしまうような行き方を好まなかったと伝えられるが、こういうことも、現代の常識とはずいぶんかけはなれたやり方である。  もちろん、こういうことが可能になったのも、クナッパーツブッシュのレパートリーが主としてヴァーグナー、ブルックナーを中心とする、十九世紀のドイツ音楽に限られていたという事情も充分頭においておかなければならない。  ヴィーン・フィルハーモニーを指揮しにいったクナッパーツブッシュが、ある時、練習をはじめるに当たって、「この曲は、諸君もよく御存知だし、私もよく知っている。だから、別に練習するにも当たるまい。今日はこれで帰る」といったとかいう話は、どこまで真実で、どこが誇張されているのか、私は知らないが、とにかく、これはその時譜面台にのっていた曲が、オーケストラも指揮者も、これまでいやというほどくり返し手がけてきたものであったことを前提としていればこそ、話になるわけで、だからといってクナッパーツブッシュが、どんな場合も、何の準備もせず、演奏にとりかかったということにはなるまい。  即興性の重視、細部の機械的完璧《かんぺき》より精神的放射の尊重といった点はフルトヴェングラーの行き方についてもいえるわけで、こういうタイプの指揮者が、特に熱烈な信者的ファンを獲得するというのは、おもしろいことである。フルトヴェングラーとクナッパーツブッシュを、何もかもいっしょにして見るというのではないが……。  それにしても、この二人について特に熱心な聴衆のグループができていたのは、何も日本に限ったことではない。ヨーロッパにいっても、そういう人にしばしばぶつかる。ただ、ちがうところは、ほかはともかくヨーロッパでは、そういう信者のたいがいが、フルトヴェングラーにせよ、クナッパーツブッシュにせよ、実演できいたうえで、そうなった点である。  私が、クナッパーツブッシュをきくことになったのも、そういう一人に、はしなくも、ロンドンで出会ったことが機縁になった。ロンドンであるポーランド生まれの女性歌手に紹介された。彼女は、私がまもなくドイツに行くといったら、「ドイツ・オーストリアに行って絶対にきくべきものは、ブルックナーを指揮するクナッパーツブッシュに止《とどめ》をさす。フルトヴェングラーに往年の元気がなくなった以上、クナッパーツブッシュこそ、そのためにわざわざヴィーンやミュンヒェンに出かけて行く価値のある唯一最大の指揮者だ」と教えてくれたのである。これも一九五四年の話である。いつもいつも、古い思い出で申しわけないが。    2  そんなわけで、その年の七月ザルツブルクの音楽祭に行った私は、ヴィーン・フィルの演奏会で、クナッパーツブッシュがブルックナーの『第七交響曲』をやるのを、はじめてきいたのだった。それから、バイロイトにまわった私は、ここでも、彼の指揮で『パルジファル』をきいた。  ブルックナーのことは、正直いって、私はわからなかった。あの荘重なアダージョの途中で眠ってしまった私は、目がさめてもまだその音楽が鳴っているのにすっかり恐れ入ってしまった。それにつづくスケルツォでも、単純なリズムの音型が無限に反復されるのに閉口した。要するにえらく単純なものが、やたらこみ入ったものとして、提出される音楽という印象をもったにつきる。あの大指揮をもってしてもわからなかった。バカである。  クナッパーツブッシュの指揮姿もまことに変わっていて、この比較的小柄な老人は指揮台に立って、片手は台にめぐらした欄干につかまったまま、もう一方の指揮棒をもった片腕も最小限にしか動かさず、ときどきうんと気合をこめて前につき出すと、例のブルックナーのあのホルンだとかチューバだとかのファンファーレが湧然《ゆうぜん》として咆哮《ほうこう》しだすという具合だった。およそ、あんなに動かない指揮、腕というより腹でやってるみたいな指揮は、あとにもさきにも、ほかにみたことがない。テンポも思いきり、ゆっくりしたものだった。だが、弦の音などいいようもなく厚味があって、しかも柔軟だったような気がする。一九六九年だったか、ショルティといっしょにヴィーン・フィルが日本に来た時は、その音が探してもみつからず、おや、どうしたのかしらと思ったものである。彼のブルックナーについては別にかいたから(『吉田秀和全集』第二巻所収の「ブルックナーのシンフォニー」参照)、ここでは省略させていただく。  ところで私は、その足でバイロイトにまわり、その年の出しものをつぎつぎとききまくったのだが、その中に、クナッパーツブッシュの指揮する『パルジファル』があった。  ああ、それは本当にすばらしい『パルジファル』だった。私は、実は、その年の春パリでシュトゥットガルト歌劇の一行による『パルジファル』をきいていたので、これが二回目にきく『パルジファル』だったのだ。念のために書いておけば、シュトゥットガルトのオペラは、ヴィーラント・ヴァーグナーが戦後のバイロイトに出現するや、まっさきに彼を登用したドイツの最初の国立オペラであり、いわば新バイロイト様式がバイロイト以外の土地で公衆と対決する機会を最初につくりだした歌劇場である。そうして、これが、どういう次第だか、パリに進出し、そこで好評をもって迎えられたのだった。戦後バイロイトの代表的テナー、ヴィントガッセンも、本来、シュトゥットガルトのオペラの歌手だった、と私は覚えている。それにまた、『パルジファル』はヴィーラント・ヴァーグナーの数ある演出の中でも、彼のあの象徴的な舞台作りを実現するうえで最も大胆率直にそうして最も決定的に成功した最初の出しものではなかったろうか。  私は、すでに、パリのオペラ座にこれがかかった時に見た舞台で、度胆をぬかれた。幕があいて、最初の森の朝の情景での光りのニュアンスの美しさもショックだったが、そのあとの舞台転換の音楽につれて、パルジファルとアンフォルタスがステージの横を歩いている間に、場面はグラール(聖杯)をまつる聖堂の内部に移る。そこに出てきた騎士たちのまったくシンメトリックであると同じくらい神秘的な感じの横溢《おういつ》する歩み、着座、アンフォルタスの登場! こういったすべてが、それまで私の知っていたすべてを完全にガラクタとして一挙に棄ててしまってもおしくないほどの絶対の優位性の中で、まったく新しい形で、提起され、進行してゆくのだった。それから第二幕のクリングゾールの城と花園、それから第三幕での再び森から聖堂への転換の場と聖堂内の情景。  そうして、それらすべてを蔽《おお》い包んでいる音楽〓 ここでも、私は、自分がよくわかったなどとはいえない。いや、今でも、私は、そういうまい。ことに、私にとっての躓《つまず》きの石は、全曲を覆う、あの疲れたような、緊張にとぼしいリズムとダイナミックである。ことに、先にいった二度にわたる場面転換を中心として有名な鐘の動機が、いつやむともなくくり返される時(譜例1)、あらゆる外的な兆候は、それが進行の音楽であるのを示しているにもかかわらず、私には、その足どりの中に、このころすでに芸術の歴史を通じても最も偉大な天才の一人に数えるべき大家の骨の髄までくい入っていたところの疲労を感ぜずにいられないのだ。  しかし、そのほかの点でいえば、一体誰がこの驚くべき音楽について、叙述することができるだろうか? それには、ニーチェの天才をもたなければならない。室内楽的な精緻《せいち》(ことに第二幕!)であみめぐらされた音の織地の上で(その点では『トリスタン』のスコアさえとても比べものにならない)、かつてほかに味わったことのないような蠱惑《こわく》にみちた光彩を重ね合わせて、玉虫色というか琥珀《こはく》というか、角度を転ずるごとに刻々に微妙に変化してやまない音色で輝いたり、底光りしたり、半透明になったりするこの音楽は、ヴァーグナーの作品の中でも、まったく独自の魔力をそなえている。  私は、それを、バイロイトではいきなりクナッパーツブッシュできいたわけである。そのクナッパーツブッシュの『パルジファル』は、本当に幸いなことに一九六二年のバイロイトの実況録音がレコードになって残っている。それにこれこそは天下周知の名レコードであって、私としても、これについては今さら何もいう必要もなくて大変ありがたい。バイロイトでの上演は、例の毎年の祝典公演の期間に何回かあるのだし、そのうえ、あすこではほぼ一カ月にわたって、たっぷりと、そうして丁寧に行なわれる練習の期間があるのが通例である。だから、実況録音といっても、何も必ずしも、初めから終わりまで、一回限りの実演を録音したものと限ったわけではない。前後の別の公演の録音とつけ合わせて正したり、少しならば練習の時の音をとり出してくることも不可能ではない。この『パルジファル』の場合、それがどの程度、どこで行なわれているか、私にはわからないが、想像はできるのである。おそらくクナッパーツブッシュは、そんなことにたいして興味がなく、技師たちに一任したのではなかろうか。問題は、むしろ、歌手たちだったろう。この場合に限らず、歌手たちにとって、複雑で困難を極めたヴァーグナーの歌劇を舞台で歌ったそのままを、録音されてはたまったものではなかろう。どの晩がよく歌えた、どの日のは具合が悪いと、もし各人がそれぞれ主張しだしたら、どういうことになるのだろうか?  私が今ここで、そんなことを心配したって仕方がない。私たちの今、耳に出来るこの演奏は、本当にすばらしい。今度この原稿を書くに当たって、全体をじっくりきき直したのだが、何をいうこともない。ただ、こういう公演の記録がいつまでも残る形で存在しているということの喜びを満喫するだけである。  クナッパーツブッシュは、初めミュンヒェン大学の哲学科で学んだあと、「ヴァーグナーの『パルジファル』におけるクンドリー」というのをドクターの学位論文にしたということだが、そういうことは別として、このレコードをきいていても、クンドリー(ここではアイリーン・ダリスが歌っている)の役が実におもしろい。もちろん、第二幕でのそれが、いちばんのききどころである。が、ここでの彼女のパートは、歌としては非常に大きな音程の飛躍の個所が多いうえに、クリングゾールとの問答の時には、上のから13度下ったdまでとぶのがある。まあ、これはオクターヴに5度を加えたのだとしても、のちにパルジファルに向かって、イエズスのことを嘲笑《ちようしよう》したために、永遠の罰を蒙《こうむ》った次第を物語る時に、こんなところがある(譜例2)。その時の歌と、それから、残念ながらここには簡単に書き写すわけにいかないが、その間を縫ってゆく管弦楽の表情の、実に細かくて、柔らかくて、しかも心の底まで深々としみ通ってくる響きというものは、ほかに類を思い浮かべることのできない絶品である。柔軟でいて、そのくせ緊迫感が充満しているのである。そこには、ヴァーグナーの精妙の極であるオーケストレーションと同じくらい、休止、つまり沈黙が微妙にさしはさまれていて、それを扱うクナッパーツブッシュの手腕が、また、大変なものなのである。休止の大家の彼が、ブルックナーの指揮にかけても当代きっての妙手と称《たた》えられたのは、偶然ではない。そうして、妙な話だが、こういう個所をきいていると、クナッパーツブッシュという人は、ずいぶん勝手気儘《きまま》な生き方をしたようでいて、実は、本当に辛抱強く、苦しみにじっと耐える力の豊かにあった人ではなかったろうかと思われてくるのである。ヴィーラント・ヴァーグナーの新しい演出に対しても、彼はあんまり共感できず、バイロイトの独特の構造のオーケストラ・ボックスで指揮をとっている間中、下ばかりむいて、ちっとも舞台を見たがらなかったので、みんな困ったという話である。    3  クナッパーツブッシュにはまた、『ヴァルキューレ』の第一幕だけという、ちょっと風変わりなレコードがある。これはフラグスタードだとかスヴァンホルムといった世紀の名歌手の記念盤のようなところもあるわけだが、ここでの彼も、名歌手たちにつきあって、辛抱強いところを見せている。その中で、特に私たちに強く印象づけられるのは、細部では歌手たちに近寄り、妥協していても、音楽からの緊迫感、緊張をつくるとなると、いつも、彼が大きく支配していることである。いや、それはこの楽劇の開幕に先立つ嵐の前奏での低音の進行が、まるで何か巨大な自然の力の爆発でもあるかのように轟《とどろ》きわたる、その時の剛直さというか、豪快さというかで、すぐに十分に予感されるところである。  クナッパーツブッシュという人のつくる音楽には、何か自然の力の爆発とでもいうか、一度流れ出したら、ちょっと止めどのないようなものの躍動があった。そういう点がまた、あくが強すぎるとか何とかいって、彼が敬遠されるもとともなったのだろう。実際また、彼のヴァーグナーには、ときにあまりにも猛烈なクレッシェンドがあったりして、少し神経の細かいものにはついてゆかれないものがあることは、私にもわかる。そういうことは、『クナッパーツブッシュの芸術』とか何とかいう呼び方で、彼の指揮したヴァーグナーの演劇からの断片を集めたものとか序曲集とかいったレコードでもよくわかるのだが、そういうものの中では、私は、『ジークフリート牧歌』を、最も好んでいて、たびたびきく(私の持っているのは米国盤のWestminster WST—一七〇五五というレコードである)。すでにこの『ジークフリート牧歌』というのが、ヴァーグナーの手になるごく珍しい、珠玉のような器楽曲であるが、これをクナッパーツブッシュ特有の、あのたっぷりしたテンポで、控え目な節度をもって、しかし、全然アカデミックな冷たさや四角張った生硬さをもたずに、柔らかく、暖かく演奏されるのをきいていると、日ごろきくのとはまったく別のヴァーグナーをきく思いがする。しかも、この曲は、弦楽を主体に、全体が柔らかなトーンで書かれている。その中でコローの画のように、管楽器による若干の色どりが、目立たないが非常に効果的に、つけ加えられているのである。それがまた、クナッパーツブッシュの指揮では、実によいアクセントを身におびていて、遠く仄《ほの》かな郷愁のようにきこえてくる。  ヴァーグナーにしてみれば、これは念願であった長男の誕生を祝うというただそれだけの軽い気持の作品だったかもしれないが、きいていると、けっして雰囲気《ふんいき》だけの音楽でなく、実にいろいろなものが入っているし、いろいろなことがその中で起こっているのがきこえてくる。いってみれば、たいていの作曲家の交響作品のいくつかの楽章をよせ集めたものより、もっと多くのことが、このわずか十五分内外の曲の中で生起するのである。クナッパーツブッシュがこれを指揮すると、この曲が、ほとんど十九分もかかってしまうのは事実だけれども、それはただ彼のとるテンポがおそいというだけでなく、彼がやるとそのくらいたくさんのものがきこえてくるということの結果なのである。ドイツ印象派の最高のサンプルがここにあるといってよかろう。   トスカニーニ [Toscanini, Arturo]    1  私は、トスカニーニには、ちょうどフルトヴェングラーのそれと同じように、活動の最晩年にやっと間に合ったというところだった。フルトヴェングラーは、私が、はじめて彼をきいた、その一九五四年の秋に死んでしまったし、トスカニーニのほうは、私が同じ一九五四年の三月にニューヨークできいたあと、ヨーロッパに渡って一カ月もしたかしないかで、引退してしまった。こんなわけで、私はまずは、この二人の二十世紀前半を代表する大指揮者に接する最後のチャンスにやっとすべりこんだというところである。トスカニーニの引退については、たまたま、当時ロンドンにいた福田恆存さんが親切にもわざわざパリの私の宿に新聞の切りぬきを送ってくれたので、それをたよりにトスカニーニの最後の演奏会の模様を、日本の雑誌に書き送ったものだった(『吉田秀和全集』第八巻所収の「アメリカの音楽」参照)。  そのときトスカニーニが出したという簡単な声明"The sad time has come when I must reluctantly lay aside my baton and say good-bye to my orchestra."(心ならずも指揮棒をおき、私のオーケストラにさよならをいわねばならぬ悲しい時がきた)は、私は今でも覚えている。これこそ必要なことしかいわない、簡潔で非感傷的な、彼の演奏そのままの言葉だと痛感したものだった。  晩年のトスカニーニは、スポンサーの大石油会社が特に彼のために組織した交響楽団(例のNBC交響楽団)を使ってのラジオの公開放送にしか出演しなくなっていた。会場はカーネギー・ホールだった。公開放送なので、切符は無料なのだが、それだけにまたその入場券を手に入れるのがやたらとむずかしかった。申し込みが多いから、結局、全部抽選となる。したがって当たらなかったら、いくら待ってもチャンスがこない。現に何年間もいつも申し込んでいて、まだ一度も当たったことがないという人も私は知っていた。金が大きくものをいうアメリカのような国で、たまに金の威力の全然きかないことがあったりすると、これはまた、やたらむずかしいことになるという実感をもったのは、そのおかげである。  まあ、こんなことをいくら書いていても仕方がない。このほうは『全集』第八巻で読んでいただくことにしよう。  私は彼の棒では、ヴェルディの『仮面舞踏会』、ボイトの『メフィストーフェレ』といったイタリア・オペラの演奏会形式の公演をきいた。純粋な器楽をききたかったが、このほうはついてなかった。しかし、ヴェルディやボイトはさすがによかったし、彼の引退のきっかけになった最後の演奏会のプログラムは、ヴァーグナーの楽劇ものだったから、あのころのトスカニーニはずっと舞台用劇音楽をふりたがっていたということになるのかもしれない。日本では、主としてレコードの関係で、トスカニーニというと器楽の指揮が中心になったイメージが先にくる。それにトスカニーニ自身ももちろん、器楽の指揮に絶対の自信をもっていたにちがいない。けれども、彼の出発点はオペラの管弦楽の中でのチェリストとしてだし、指揮者としてのデビューも、正規の指揮者の急病か何かで、ヴェルディのオペラを突然ふるはめになったためだったということは、忘れてはならないだろう。これは有名な話だから、誰も知っているだろうが。  しかし、彼が、実際のオペラというか、舞台にかけての上演をはたして何年までやっていたのか。正確なことは知らないが、これはもうかなり前からやらなくなっていたのも、事実である。オペラは、いうまでもなく、なかなか楽譜にある通り正確には演奏されない種目である。トスカニーニのような何よりも正確、精緻《せいち》を尊んだ人は、だから、いつも非常に腹立たしい思いをしていたに相違ない。何もそのかたきを器楽でとったというのではなかろうが、あの偏執狂に類するほどのアンサンブルの正確への追求は、積年のオペラでの経験から生まれてきた痛恨にさいなまれつづけた精神の均衡回復の欲求として考えてみることもできるわけである。それに、例の楽譜へのあくなき忠実性の尊重ということも、彼のオペラの原型というか、典型的体験であったヴェルディの音楽が要求するところと深くむすびついていたのであって、ヴェルディは、歌手たちに何よりも厳密に書かれた楽譜の通り演奏することを心掛けるように求めた大オペラ作曲家だったのだ。  歌うことの魅惑と、清潔な演奏とは、矛盾するどころか、絶対に一致すべきものでなければならない。音楽であるかないかは、その前提にあわせて判断されるので、これが最低限の資格なのである——このヴェルディの要求は、また、トスカニーニの信条でもあった。    2  それにしても、トスカニーニについて書くことになり、何枚かのレコードをきいてみて、彼を正確に評価するのがいかにむずかしいかを、私は改めて痛感する。  たとえば、ベートーヴェンの『第九』。これはレコードのジャケットによると、トスカニーニが生涯にとった五回目の録音によるのだそうで、それまでの四回の録音はどれも彼が満足できなかったのに対し、これについては、老いたる巨匠が「これは五十年の間、くり返し研究し演奏したあげく、私が『第九』の中にようやくさぐりあてたものを最もよく現わした演奏だ。私はどうやら満足した」といったと書いてある。それは一九五二年の三月のことである。  たしかに、これは尋常一様のものではない。それは、ちょっときけば、すぐわかる。テンポといい何といい、ずいぶん変わったものである。だが、どうしてこうならなければならないのかを理解するのは容易ではない。少なくとも、私には。  全体が、たいていの人にくらべて速く、たとえば、スケルツォが速く、そのうえにトリオはもっと速い感じがする。周知のように、ここは古来論争の焦点になっていたところで、ベートーヴェン自身がつけたメトロノームは、モルト・ヴィヴァーチェのスケルツォで=一一六。これに対しトリオがプレストで=一一六になっているのである。「これはおかしい。作曲家は何か勘ちがいしたのではないか」という説もあるし、トリオをおそくひくのが、現代の慣行といっていいだろう。だが、トスカニーニでは逆である。その結果、さすがの粒揃《つぶぞろ》いの名手からなるNBC交響楽団でさえ、トリオのふしが完全に歌いきれてないという印象を与えるほどである。そういうところがあるかと思うと、終楽章の提示部、例のチェロとコントラバスとがレチタティーヴォを奏する個所では、テンポの伸び縮みの変化は著しく、あとでバリトンが歌う時よりも、もっとずっと表情的だといってもよいくらいだ。ところで、ここには、楽譜には「Selon le caractore d'un r残itative, mais in tempo」(レチタティーヴォの性格によって、しかしイン・テンポでひくように)という注が——少なくとも、私の手持のオイレンブルクのポケット・スコアには——書きこんである。これは誰が書いたものか? もし、作曲者自身の注だとすると、大変おもしろいことになる。というのは、ここで、ベートーヴェンのいうところの《イン・テンポ》というのは、何も各拍が、各小節が、すべて同じテンポという意味のイン・テンポではなく、レチタティーヴォ的に演奏はするのだが、全体としては、ペダンティックで杓子《しやくし》定規なテンポでやってくれることはないという意味にとることも可能なのだから。私は、トスカニーニがどう考えたかと、いろいろ頭をひねってみたのだが、とにかく、こういう個所でこそ、こんなに自在に、しかも実に雄弁なテンポで演奏している点に、トスカニーニ本来の面目を見るのである。ことに第一楽章の冒頭の引用を終え、そのあとヴィヴァーチェのスケルツォの頭を引用する前のレチタティーヴォ(譜例1)と、そのつぎの第三楽章の前のそれ(譜例2)などは「あのトスカニーニにこんな演奏が」とびっくりするほど自由なスタイルの演奏である。  この扱いの目ざましさは、あとで、レチタティーヴォがまたバリトンで出てくる時をきいてみると一層はっきりする。バリトンのテンポと表情はお話にならないくらい、単純で平べったいのである。問題は、では、このバリトン(ノーマン・スコット)が悪いからそうなのか? それともこれがトスカニーニの考えなのかという点にある。これは、私にはむずかしくて、よく解けない謎《なぞ》である。ただ、トスカニーニという人は、声楽家を扱っても、器楽奏者と同じくらい自分の考え通りにやらせる結果、たいていの人が気に入らなくなった、したがって、彼の使った人びとはだいたい彼の思った通り歌える人に限られてきていたというのが、当時から一般に伝えられていたところだし、それがまた真相であったろう。とすれば、バリトンの歌い方は、これで悪くはなかったのではないか——少なくともトスカニーニには——と考えるのが順序だろうと思う。とすれば、トスカニーニは、歌手よりも管弦楽によるレチタティーヴォのほうで、はるかに微妙な表現を行なうことを望んだのだ。  このことはまた、そのあとで、例の〈歓喜の主題〉が出る時にも、当然、同じような問題となって出てきそうなものだが、ここになると、器楽の時も声楽(つまりバリトンと合唱)で登場する時も、そこにたいした変化は認められない。ふしは、しごく、常識的な平明さで入ってくる。そこにはベートーヴェン畢生《ひつせい》の大傑作の、そのまた中心的旋律といったもったいぶった感じは一切ない。  これを、たとえば、フルトヴェングラーと比べてみるがよい。私のいうのは、日本ではたしかエンジェルレコードとして入っている、一九五一年バイロイトで彼が演奏した時の演奏のことだが、あすこでは、このふしはきこえるかきこえないか、本当に遠くからはるかに耳に入ってくる幻のような、魅惑的なものの姿のように、小さく、そうしておそくはじまり、まるでその歓喜の幻がだんだん身近に迫り、真実の響きとなってきこえてくるかのように、しだいに大きく、そうして速くなるというふうに扱われている。あれをきいた時の感銘というものは、私には忘れられない。『第九』のあのふしをきいて、胸がいっぱいになったのは、私はあとにもさきにも、あの時だけである。  トスカニーニは、そんなことはしない。    3  だからといって、今のレチタティーヴォの例にも見たように、何もトスカニーニに芝居気がなく、何も彼もイン・テンポでせかせかとやってのけたというわけでは、全然ないのである。 『第五交響曲』——これもベートーヴェンのである——をきいてみるがよい。その第一楽章Allegro con brioでの第一主題に属する部分のいかにもブリオのきいた、壮烈で果敢な疾走と、第二主題に属する部分のひきずるような重い足どりの歩みとの対比は、劇的な点で、ほかのどんな指揮者にくらべても、一歩もひけをとらない。ここで特に、おもしろいのは、展開部からしだいに再現に入ってゆく少し前、小節で数えると一九六小節の二分音符だけの動きになってからの個所である(譜例3)。  ここで第二〇〇小節ぐらいから押えつけるような響きに交換しながら、こころもちテンポもおとして、重い石を押しあげながら坂を上るとでもいった、いかにも苦しそうな歩みをつくりだす。その巧妙さ、というより、表現の切実さはいくら感嘆してもしきれないほどで、そこには全面的に真実なもののみのもつ荘重な説得性とでもいった力が具《そな》わっている。  それにしても、この交響曲の全体を通じ、何という輝かしさ、光明の力強さが支配していることだろう。  フルトヴェングラーの、もう初めの運命が戸を叩くモティーフからして、すでに怪獣が咆哮《ほうこう》しているみたいな、不気味で重苦しい緊張とは、正反対である。これはイギリスの一批評家のいった「トスカニーニ将軍のひきいる精鋭軍団の破竹の進撃」という形容がふさわしい。さっきのあの重い足どりは、その中でのいくつかのエピソードの一つにすぎない。ただ、そういうエピソードが、また、トスカニーニのような名将の統率の下では、すごく印象的に生起するのである。  トスカニーニの『第五』は壮大な勝利の歌であり、凱旋《がいせん》の行進である、フルトヴェングラーのように闇黒《あんこく》の力との抗争というのではなくて。私は、フルトヴェングラーのをきくたびに、悲劇というよりも、暗い血と大地の重さを感じる。それはもうやりきれないほどだ。ことにフルトヴェングラーのすごいのは、第一楽章と同じくらい終楽章であって、比較的おそいテンポでひかれてきたフィナーレが、たいていの場合、長すぎるくらい長くて退屈なコーダに入って以後、最後の追い込みにいたるまで、何段にも区切られて、つぎつぎとテンポをガッ、ガッと上げてゆく。これはもうすさまじさの限りである。  トスカニーニには、そんな血の呪《のろ》いみたいな暗さはない。  そういう印象が生まれるのは、テンポだけでなく、フレージングに対するトスカニーニの並外れた正確さ、というより潔癖さが、また大いにものをいっているのである。  同じベートーヴェンの『エロイカ』をとってみよう。第一楽章の第一主題(譜例4)。  そのフレーズが、この演奏のように、はっきり示されている例は少ないのではないか? 御承知のように、この主題はりっぱな主題にはちがいないが、旋律としては、どうも息が短く、同じことをくり返すばかりで、おのずからな発展の生命があまりないようなところがある。その欠点は、トスカニーニできくと、いちいち、ていねいに切っているので、ますますはっきりしてくる。それというのも、彼はフレーズの最後の音をやや短かに切って、そうしてつぎのフレーズの頭との切れ目をいやがうえにもはっきりさせるからでもあるが、その結果、この楽章の演奏は、非常に力強く劇的である一方で、豪快味に乏しく、少しせかせかしてきこえてくる。甘酸っぱい感傷性に抵抗する、この乾燥した様式は、第二楽章でも本質的には変わらない(譜例5)。  こういう個所での、楽譜への忠実は極点に達し、フレージングだけでなく、レガートとスタッカートとの区別、のからfにかけてのディミヌエンド、付点音符のリズム、どれも完璧《かんぺき》である。  第二楽章が、しかし、どこをとっても正確で見事ではあっても、あまりに彫塑的で、悲しみは大理石の中にとじこめられてしまったかのようだったのに対し、それにつづく第三、第四楽章はすばらしい。このスケルツォのように、スタッカートのイン・テンポでダイナミックに一直線に前進する音楽は、トスカニーニの独壇場といってもよかろうし、これこそ、彼の真面目を遺憾なく発揮し、まったく新しい様式を樹立した彼の土台になるものといってよかろう。  フィナーレもそうである。これはいわば、トスカニーニにかかるとfuriosoの音楽になってしまうが、しかし、そういうものとしては最上の質だろう。そうして、アレグロ・モルトの中での、ベートーヴェン一流のスビト・ピアノの扱いは、胸が透くような的確な効果を生みだす。まるで射撃の名人の腕前をみるような……。  そういう点で、トスカニーニがこのベートーヴェンをひっさげて、ドイツやフランス、イギリスに登場した時の、その聴衆の驚愕《きようがく》は、私にも想像できる。この演奏には、今きいても、そういう衝撃を与える緊張力がたっぷり残っている。  だが、『エロイカ』に関する限り、私は、このトスカニーニのよりも、先年日本にきたジョージ・セルがクリーヴランド・オーケストラを指揮してやった演奏が好きである。あれは、私のナマできいた最大の『エロイカ』であった。セルのは、流儀としては、トスカニーニからそう遠くない。それにもかかわらず、あすこには的確さと劇的緊迫力とのほかに、もう一つ深い情緒があった。特に第二楽章の終わり、第二一〇小節以後、一段とピアノになってからの演奏は静かで、しかも峻烈《しゆんれつ》だった。そうして、セルもまたフレージングの扱いは正確を極めていたのに、トスカニーニの場合のように、一つ一つのフレーズの最後が寸詰りにならず、滑らかにつぎにつながるのだった。    4  ベートーヴェンやブラームスだけをきいていると、トスカニーニの表現は、どちらかというと単音楽的で、そこにはポリフォニックな思考やハーモニックなものからくる構造的な情感性とでもいったものが稀薄《きはく》なのかという一抹《まつ》の疑問が浮かぶ瞬間が、ときどきやってくるのだが、しかし、そうではないことを証拠だてるのが、彼のヴァーグナーの指揮である。彼のヴァーグナーの楽劇のレコードが一つも残されていないのは、ちょっと大袈裟《おおげさ》にいえば、千載《せんざい》の痛恨事だが《*》、しかし、彼は、あのころの年代の音楽家の常として、『ローエングリン』や『トリスタン』『パルジファル』等の前奏曲といったものだけでなく、『ジークフリートのラインの旅』だとか『ジークフリートの葬送行進曲』だとかいった、品のあんまりよくないサワリをやるのを何とも思わない習慣があったので——また事実、そういう部分は、ヴァーグナーの百の理論にもかかわらず、そこだけとりだしてもすごくおもしろくきけるように書かれているのだ——、そういうレコードによって、私たちは、バイロイトを通じて、世界中をびっくりさせた彼のヴァーグナーを偲《しの》ぶことができるわけである。  その彼のヴァーグナーは、私には、とてもおもしろい。ここではもう、それがどういうことかを細かく書くわけにいかないが、その本質を一言でいえば、トスカニーニのハーモニーとダイナミックとの相関関係が、つかみやすいからだ。  誰も知っている例でいうことにすれば、『ローエングリン』の、それもあの威勢のよい第三幕への前奏曲をきいてみるがよい(譜例6)。  こう単純化して書いてしまえば、単純な行進曲でしかないが、あのヴァーグナーの洗練の極みとでもいうべき、オーケストレーションの中で、星のきらめくような微光から、月の冷たい光、あるいは熾烈《しれつ》な太陽の照りつけにいたる、星辰《せいしん》的な光の全音階にわたる光彩の変化と、それに応じてくっきりと、しかも味わい深いニュアンスをもって変化するダイナミックの動きを実現したトスカニーニの演奏は、ゲルマン系のどんな名家の指揮に比較されても、優に自分の存在を正当化できるだけの高さと独自性をもっている。めまぐるしい動きの中への色とりどりの光の浸透とでも呼ぼうか。  それと根本的には共通することがトスカニーニのドビュッシー(たとえば『海』)についてもいえる。なるほど、彼のは、ニュアンスの芸術であるよりは、はるかに立体的で彫刻的な硬度と苛烈さをもっているかもしれない。そこでの光はずいぶんまぶしい。しかし、そこからはまた、フランス人の指揮ではめ ったにきかれない強烈な大洋の香りが立ちのぼってくる。あらわにされたリズムと音色に、旋律の雄弁(あのチェロの旋律にきかれる、落ちつきとカンタービレのまったく一回限りの調和!)が加わっているのである(譜例7)。  トスカニーニから離れたあと、間もなく、NBC交響楽団は、シンフォニー・オブ・ジ・エアと改称されて日本に公演に来たことがある。指揮者が凡庸でずいぶん損をしたが、あれをきいた人は、少なくともオーケストラをきく耳のある限り、あのオーケストラこそ、本当の名人ばかりの粒よりの楽員からなりたっていたもので、あんなものはもう二度とつくられることはあるまいと、考えたのではないだろうか。アメリカのロックフェラー財団と密接に関係のあるソコニー・オイル・カンパニーが金に糸目をつけずに一人一人粒よりの名手を集めてトスカニーニの自由に提供したオーケストラだったわけで、そもそも、そういうものが生まれえたということ自体がすごく「アメリカ的なこと」だったのである。しかし、その《アメリカ》は今はない。アメリカは変わった。それをトスカニーニのせいとか何とかいうのはまったく誤解にもとづく。久しぶりNBC交響楽団をきいて、私は懐旧の念と、歴史の変転のすさまじさに、一瞬、とまどう心持ちがした。  トスカニーニのあの、個々の時代の好みからぬけ出したのだから千年たっても錆《さび》つくはずがないと思われた、青銅に刻みつけたような果断痛烈な演奏様式でさえ、いつの間にか、歴史の向こう側にゆきつつあるのだ。人間のなしとげたものに、真の永続性をかちえたものは果たして何があるのだろうか?  * その後『マイスタージンガー』の全曲盤が会員制のレコード(プライヴェート盤)で出ていることがわかったとの教示をうけた。もちろん私はまだきいていない。   ブッシュ [Busch, Fritz]    1  フリッツ・ブッシュもまた、私が実際には一度もその指揮に接したことのない人の一人である。彼は一八九〇年の生まれだから、ヴァルターやフルトヴェングラーやトスカニーニより若いわけで、私としてはきく機会があっても、ちっとも不思議ではなかったはずだが、残念なことに、この名指揮者は一九五一年、六十歳を少し出たばかりのところで死んでしまった。それも、そのころから、やっとまた、彼にとってドイツ国内で活躍する可能性が復活しかけてきたところという矢先に。  ブッシュは早くから指揮者の経歴に入ったが、初めは——当時の人たちがみんなそうだったように、ドイツの地方小都市の小管弦楽団の指揮者をして、さんざん経験を積んだ。ことにバート・ピュルモンの温泉場の管弦楽団を指揮して、非常にたくさんのことを学んだあと、アーヘンを経て、マックス・シリングの後任としてシュトゥットガルトの指揮者から一九一九年同地のオペラの指揮者となった。ここで彼ははじめて、オペラとの交渉をもつことになった。だが、そのあとF・ライナーの後任としてドレースデンのオペラの指揮をうけもつようになったのが一九二二年。この土地での、一九三三年にドイツを離れ、亡命生活に入るまでの彼の十数年の活動。これが指揮者フリッツ・ブッシュを今世紀前半のドイツの代表的指揮者というか、指揮界の中心人物の一人としたキャリアの中核となる。というのは、彼は、この間、R・シュトラウスの『インテルメッツォ』と『エジプトのヘレナ』、ブゾーニの『ファウスト博士』、ヒンデミットの『カルディヤック』、クルト・ヴァイルの『立て役者《プロタゴニスト》』、シェックの『ペンテジレア』、カミンスキーの『ユルク・エナッチュ』といったオペラの初演を手がけた一方、特に『オテロ』『ファルスタフ』を中心にドイツにおけるヴェルディのオペラの上演に画期的な成果をおさめたからである。それまでドイツでは、ヴェルディは、なるほど客をひきつけはするが、芸術的内容のあまり高くない出しものの作曲家といった程度にしか見られてなく、ヴァーグナーにくらべれば、まるで問題に値しない音楽家として扱われていたにすぎなかったのが、このドレースデン・オペラにおけるフリッツ・ブッシュのヴェルディ公演によって、そこに、ヴァーグナーと並んで十九世紀のオペラの最も充実した実りがあることが明らかにされていったのだった。つまりブッシュは、ドイツにおけるヴェルディ=ルネサンスの中心人物だったのである。もちろんブッシュのヴェルディ上演は後年の作品に限ったわけではなく——ただし『アイーダ』は比較的まれにしかとりあげなかったらしい——『ドン・カルロ』にも多大の努力が傾けられたし、それにひきつづいては、『運命の力』『マクベス』そうして『仮面舞踊会』といった、いわば中期のヴェルディにも力点がおかれ、特に一九二六年に行なわれた『運命の力』の公演はドイツのオペラ上演の歴史のうえでぬかすことのできない名公演として、今でも称《たた》えられている。このヴェルディ中期の作品は、当時はイタリアでさえあまり手がけられていなかったのだが、この成功のおかげで、また復活したとさえいわれている。  その線での頂点は、おそらく、一九三二年の秋、ベルリンの市立オペラに招かれて、ブッシュが演出家のカール・エーベルト、装置家のカスパール・ネーアーと組んで行なった『仮面舞踊会』の上演であろう。これは歴史的な名演として、今でも語り草になっている。ブッシュ自身も彼の本(Der Dirigent, Atlantis, 1961)で、この時の話を書いているが、この名公演のかげには、ブッシュがあらゆる困難にもめげず、どんな手間も煩わしさも厭《いと》わず、最初の小節から最後の小節まで、一つ一つ演出家から歌手の一人一人にいたるまで、完全に納得がいくまで打合わせをし、練習をした、その巨大な努力があったのである。類の少ない徹底的に良心的な仕事ぶりと責任感。しかし、芸術の成果は、それだけでもまた、完全に得られるものではないのであって、努力は、何のために、どこに向けての努力であるかが重要なわけだ。それについては、だんだんふれていこう。  ブッシュは、この『仮面舞踊会』の大成功で、ドレースデンからベルリンに移ることも考えなくはなかったらしいが、何しろ、当時のベルリンは国立オペラ、市立オペラ、それにクロール・オペラと第一級の歌劇場が三つ並び立ち、R・シュトラウス、フルトヴェングラー、ブルーノ・ヴァルター、クレンペラー、ヴァインガルトナー以下一流中の一流のオペラ指揮者がひしめきあっていたのだし、そのうえにマックス・ラインハルト、ベルト・ブレヒト、エルヴィン・ピスカートル以下の演劇界の天才、秀才たちも腕を競いあい、音楽と言葉とその両方の劇場の活動の殷賑《いんしん》と水準の高さは未曽有《みぞう》のものがあったらしい。  しかし、それはまた、ナチの黒い影が日ましに大きくなりつつあった時でもあり、ブッシュはそれやこれやで、ベルリンのオペラに移るどころか、翌一九三三年のナチの政権掌握を期にドイツを離れることになる。  そのあとは、ブエノス・アイレスのコロン劇場に行き、それからストックホルム、コペンハーゲンの各地を経て再び南アメリカに移り、死んだ時も、たしかにアルゼンチンの市民としてだったと思う。  しかし私たちにとって、その後のブッシュの活動で最も関係が深いのは、彼が一九三四年以来、ずっとロンドン近郊のグラインドボーンの夏の音楽祭でのオペラ上演に主導的役割を演じていた事実で、これがあればこそ、一つには、私たちはあの『フィガロ』や『ドン・ジョヴァンニ』、それから『コジ・ファン・トゥッテ』のレコードをきく機会が与えられることになったのだし、もう一つは、彼のすばらしい業績のおかげで、歌手を細君にもった一人の金持ちの音楽好きの思いつきではじまったグラインドボーンの仮設劇場でのオペラ上演が、戦後のイギリス社会の変化で金持ちが金持ちでなくなり、そういう意味でのパトロンがなくなったあとも、今日まで、夏のイギリスの誇るべき行事として続行されるにふさわしいものとなりえたのである。    2  では、フリッツ・ブッシュの指揮、つまり彼の音楽のやり方はどんなふうだったか?  ドイツ人の外国の文化に対する接し方には独特のものがある。彼らは、たとえばシェイクスピアとかダンテとか、あるいはギリシア文化について、自分流に納得のいくまで考え、そのうえで自分たちの理解し、尊重するものとしての考え方を打ち出す。ドイツに行ってみると、彼らのシェイクスピアやダンテの演じ方や解釈には、それぞれの本国であるイギリスやイタリアにはみられず、しかも、国際的にみて、ちゃんとわかる、高い水準の芸術となっているもののあるのがわかるのである。それは、ローカリズムというのとはまったくちがう。各民族はそれぞれの民族色を出せばよいというのとはちがう。ヴェルディについてもそうである。それは一口でいえば、多かれ少なかれ何かの身ぶりを伴った歌のつづきの劇というものから、劇であり音楽であるものの一元化、つまり《綜合《そうごう》芸術としての楽劇》という存在になったヴェルディであるが、だからといって、これがヴェルディを裏切り、ドイツ化したものと簡単にいってしまうわけにはいかない。なぜかといってヴェルディ自身が、そういう音楽の劇を書いたと自認していたのだから。しかし、これはまた、演出万能主義というのともちがう。そうならないようなものがヴェルディにあり、そうして、この世紀の名指揮者フリッツ・ブッシュの音楽のつくり方の中にあったのである。  ブッシュのグラインドボーンでの上演のレコードは、今のようにLPレコードが発達する以前、実演に接する機会がないので、せめてレコードでなりともモーツァルトのオペラをきいてみたいというものにとって、最も便利なものだった。と同時に、これは今日ではLPレコードに直されているので、ききかえしてみることができるのだが、今きき直してみると、たとえば録音の状態が今日の技術の粋をつくしたLPにはとうていおよばない。それにいくつかのナンバーが省略されている。それから最も残念なことはセッコ・レチタティーヴォがカットされているといったマイナスがある(もっとも伯爵夫妻とフィガロ、スザンナの四人の主役は、それぞれ一回ずつアリアの前にレチタティーヴォがついており、それによって演奏のスタイルの一端はわかる。ことにロジーナのそれが切々として胸にせまるよい出来である。ただし、チェンバロでなくピアノ伴奏だ)。にもかかわらず、私は、今でも、モーツァルトのオペラのレコードとして、結局これは最上のものの一つではないか、と考えつづけてきた。  そうして今度、改めてそのうちの一つ、『フィガロ』のレコードをきき直してみての私の結論は——私はこのレコードを持っていないので、今度も久しぶりに借りて、きき直したのだが——、最上のものの一つというより「これこそ最上のものだ」といいたいところを、前にあげた技術上のハンディキャップがあるために、やっと我慢して、「何と素晴らしいモーツァルトだろう! こんなよいモーツァルトがきけるなんて、めったにあるものではない!」といってみたところである。  ブッシュが、戦後そうそう、それもせっかくLPができて、これから何でもふんだんに、以前よりもっとずっとよい条件の下にレコード化できるという時に死んでしまったのは、本当に、いくら悔んでも悔みきれない痛恨事である。  私が、このレコードで感嘆するのは、一口でいえば、ブッシュの指揮の下、モーツァルトの音楽が、一切の余計な飾りもコケットリーもなしに、率直簡明に、そのものズバリの状態で、歌われ演奏されている点である。そうして、それでいながら、モーツァルトの音楽の《形》というか《姿》というかが、それを通じて、曇りのない、このうえなくはっきりと正直に出てきている点である。  これは、ほかの何よりも今世紀前半の《新即物主義》的演奏に近いものであり、ロマンティックなもの、感傷的なもの、あるいは上品ぶったロココ主義、あるいは、いわゆる《デモーニッシュ》な深刻がりといったものから非常に遠いところにあるのだが、それでいて、実は、ちっとも《即物的》ではないのである。なぜなら、ここには、《歌が音程とリズムと強弱を伴った音のつらなり》に還元されているところなど一個所もなく、すべてが音と時間の秩序であると同時に、生命の躍動であり輝きであるような、そういう演奏になっているからである。  私たちは、序曲からきき出す。何と速いことだろう! だが、その速さの中で、何とすべてが自然であると同時に、モーツァルトのオペラ・ブッファの精神が脈々とあふれながら、先へ先へと躍るように前進していることだろう。これはモーツァルトたちにとって、アレグロとは、速いというだけでなく、快適に、そうして明快に流れる音楽という表情指定である証《あか》しである。  そのあとの歌手たちのアリアや重唱も、みんなそうである。速くて快適で、そうして極度にひきしまって、贅肉がないくせに、ペーソス、哀歓がそこからおのずから生まれてくる音楽になっているではないか。そのうえ、人物たちの性格さえ、見事に区別されて出てくる。第一幕の終わりで、第九番「Non pi� andrai」のアリアを歌うフィガロ(ヴィリー・ドームグラーフ〓ファスベンダー)をきいていれば、どんなにこの男が小憎らしいほど抜け目のない男であり、下品でありながら、心の中の変化に敏感な男であるかがわかるというものだ。伯爵(ロイ・ヘンダーソン)も同じ。伯爵夫人にいいがかりをつける時の彼の荒々しさが、そのままスザンナに対する肉感的で厚顔な口説きの調子になる。この二つは、ここでは一つの貨幣の裏表にすぎない。権勢になれた野卑な男。その正体は彼のこのレコードでたまたま残されたレチタティーヴォ(第十七番Hai gia vinta causa!)をきくと、どんな肖像画をみるよりはっきり出ている。すごい性格描写である。しかも、ここでは外から何かを描写しようという努力は極力排除されているのに、そうなるのである。  伯爵夫人(アウリッキ・ラウタヴァーラ)とスザンナ(オードリ・マイルドメイ)の一対にしても、そうだ。何と彼女らが、一見さり気なく、飾り気なく歌っていることか。そうして、その中で、何と音楽がまっすぐに流れながら、表情をつくっていることだろう。  最終幕のスザンナのあの素晴らしいレチタティーヴォとアリア(第二十七番Giunse al fiu il momentoこれはまた、事実上、スザンナの唯一のアリアなのだが)——私は、この絶唱が、こんなに素直に、しかし、それだけ本当の深さをもって歌われている例をほかに知らない。これは「うまい」というのともちょっとちがう。おまけに、彼女はレチタティーヴォで、何回も管弦楽におくれて出てきて、指揮者を苛々《いらいら》させていたのがよくわかる。うまいどころの話ではない(譜例1)。  こういうところが二個所あるわけだが、そのたびに、スザンナは、第一拍でオーケストラのC音とぴったり合って出てこないで、一呼吸おいて出てくるといったことをくり返す。しかし、このレチタティーヴォが終わって、八分の六拍子のアリア(アンダンテ)に入る、その移りゆきのすばらしさ!(譜例2)  レチタティーヴォの最終の属七の和音から主和音への解決、ここでオーケストラはぐっとおそくなる。と同時に、この二つの和音が、つぎのアンダンテのアリアのテンポだけでなく、この比類のない《恋への期待の歌》の雰囲気《ふんいき》を、まるで名人がピタリと狙いをつけたかのように腰をすえて、作り出す。  そこから、スザンナのアリアがはじまる。その見事さ。くり返すが、何の虚飾もなく、音の流れを素直につくるだけで、事実が浮かび上がってくるのである。  これを、たとえばシュヴァルツコプフの同じレチタティーヴォとアリアの歌いぶりと比べてみるがよい。私は、これをきくたびに胸が痛くなるほど感じ入る。だが、そういう稀代《きたい》の名歌手の絶唱であるにもかかわらず、ここでのマイルドメイのさっぱりした歌い方にくらべて、何と手管にみちた細工にみちた歌にきこえてくることだろう。  総じて、このブッシュのレコードで感じるのは、今日の演奏が、どのくらい、細かいがうえに細かいところまで、考えられ、工夫されたうえで行なわれているか、反省的な演奏という日本語はぴったりでないかもしれないが、reflective performanceになっているか、ということである。私は、だからといって何も、ブッシュのレコードにきく演奏がナイーヴな感じたままのものに何の省察も加えないで行なわれた演奏だといっているのではない。それでは、とても、こんなに簡潔で、何のむだもない緊張度の高いものにはならない。  モーツァルトのあの大がかりに展開される比類のない大フィナーレ——『フィガロ』でいえば、第二幕と第四幕のそれのような事件がつぎつぎと起こり局面が急角度に変わってゆくなかにも、その中を一貫した軸がしっかり通っているような音楽を——これほど隙なく、しかも主体的に演奏できるものではない。第二幕のフィナーレもそうだし、ことにさっきふれたスザンナの比類のないアリアにひきつづいて、フィガロの《女心》をのろった歌をもってはじまる、第四幕のフィナーレの緻密《ちみつ》でしかも柔軟を極めたアクセントとテンポというものは、元来が器楽の合奏を長い間手がけていたフリッツ・ブッシュが、初めオペラを毛嫌いして、こんなにあわない、不正確な合奏や独唱を我慢しなければならないようなものとはとてもつきあえないと考えていたという話を、完全に信憑性《しんぴようせい》あるものにするに充分である。    3  ところで、私はつい最近知ったのだが、ブッシュには、もう一つ、一九五一年、彼がケルンの放送局から放送するために演奏したものからとったオペラのレコードがある。これはブッシュ兄弟協会(die Br歸er-Busch-Gesellschaft)の発行した会員にだけ頒布するレコードである(周知のようにブッシュ兄弟は、フリッツが指揮者、つぎのアドルフがヴァイオリンの名手、ヘルマンがチェリスト、末のヴィリーが俳優という具合に、いずれも名の通った人びとだった)。  曲はほかでもない、ブッシュにとっては一代の名演とうたわれた、そうしてドイツのオペラの演奏の歴史にとって不朽の一ページを画することになったといわれる公演をする機縁となったヴェルディ作の『仮面舞踊会』である。  レコードのケースに入っているパンフレットには、ブッシュの未亡人の回想の言葉ものっているが、その中にこうある。 「かつてベルリンの演奏の時には、パタキの演じたルネが大評判をとったように、このケルンの時でも、ルネの役に抜群の歌手がいた。それはまだとても若くて、口数が少なく、並外れて大きくとても変わった顔つきをした人だった。この若者は、フリッツ・ブッシュの言葉によると『私の一生を通じて、この畑でかつてこれほどの大きな才能の持ち主に会ったことがない』ような歌手で、名前はディートリヒ・フィッシャー〓ディースカウという……」  そのほかの配役はリチャード伯がローレンツ・フェーエンベルガー、アメリアがヴァルブルガ・ヴェグナー、ジプシーの女占いがマルタ・メードル以下、ケルン放送局のオーケストラと合唱団、その他の演奏である。ドイツ語で歌われる。  私は、これから、そのレコードに針をおろすところである。   マゼール [Maazel, Lorin]    1  ヨーロッパとアメリカを股《また》にかけて、ローリン・マゼールという若い指揮者が目ざましい活躍をしているという噂《うわさ》は、日本人も早くから耳にしていたし、レコードもきいていたわけだが、その彼の指揮姿に実際に接したのは、一九六三年ベルリン・ドイツ・オペラが東京にはじめてやってきた時が最初だろう。  マゼールは一九三〇年生まれ。大変な早熟ぶりで、九歳の時、おりからニューヨークで開催された万国博を機会に、公開の席で指揮を披露したとか、十一歳の時、トスカニーニに見込まれてNBC交響楽団の指揮者としてデビューしたとか、彼の履歴にはそういった話がたくさん書きこまれている。ベルリン・ドイツ・オペラに同行来日して、東京で『トリスタン』を指揮したのも、その当時すでに病気が重くて来られなかった同歌劇場の初代音楽総監督フェレンツ・フリッチャイが万一の場合には、彼がその後任となることが既定の事実となっていた結果による。三十歳をいくつも出ないで、ヨーロッパでも最大の歌劇場の一つの音楽総監督に就任するというのは、並大抵のことではない。音楽の世界には、実は、そういった《神童物語》的なものは、食傷するほどたくさんあるのだし、現代はもう、《出世物語》に対しては、かつてのような熱狂を示さない時代ではあるけれども、それでもやっぱり、こういう話は、少なくとも、それを経験する当人にとっては、重大な影響をおよぼさずにはおかないことだろう。  音楽家というものが、どだい、早くから世の中に出ること自体には、何も不思議はない。ことに演奏家の場合、自分の肉体がすなわち楽器である声楽家を除けば、楽器をあやつる技術そのものは、少なくとも根本的には、十代の後半から二十代の前半にすでに出来上がってしまっているのが当然だろうから。  しかし、それだけのことで、若くて人気ものとなり、世界中の都市をいそがしくかけ廻って多くの国々の多くの人びとに接し、そこで自分の音楽を提供するというのは、純粋に人間的に考えてみても、そう単純な話ではない。  なかでも、指揮者になって、そうでなくとも気難しいところのある演奏会用交響楽団の一〇〇人を越す楽員たちとか、そのうえにすぐ興奮しやすい歌手を大ぜい相手にしなければならないオペラで指揮するとかいうことになると、問題はまた一段と複雑になる。そういう中で、簡単にいって、困難にぶつかっても、ますます強気になって自分の思うところを存分に発揮しようと向かってゆくタイプと、そうでないタイプとが、想像できよう。ズービン・メータとか小沢征爾といった人びとは、その前者の例かもしれない。いずれ指揮をするほどの人間に、人前に出るのに気おくれを覚えるような弱気な人間がいるわけはないのだが、マゼールの場合などは、弱気とか強気とかで分類しては少し具合の悪い、もう少し屈折した事情がそこにあるように、私などには、感じられるのである。  私は、マゼールと特に個人的な交友があるわけではないが、日本に彼が来たおり、いっしょに食事をしたり、ベルリンでは彼の家に招かれて歓談したりしたといった程度のつきあいはある。そういう時、私がまず感ぜずにいられなかったことは、マゼールという人が、これだけのキャリアをもちながら——彼は現在ベルリン・ドイツ・オペラの音楽総監督と同時にベルリンの放送交響楽団の常任指揮者、音楽監督も兼任している——、まるで世馴れない、人見知りをする、一介の白面の青年にすぎないようなところのある点である。彼は、来客に手をさしのべて握手する時でも、どちらだったかの肩をおとし、頭をまっすぐあげて相手の顔を、眼をみつめることさえ——できないというのではなくとも、そこに、ある努力が必要なのだということを相手に感じさせてしまう人なのである。  九歳で公開の席で指揮し——それももちろん職業的交響楽団をである——、十一歳であのNBC交響楽団にデビューしたなどということは、やっぱり、普通の人間のすることではないのではないか? その結果、彼はどこかであたり前の成長の軌道からはずれてしまう。  ちょっと考えてみても、たとえ音楽の天分にめぐまれ、三度の飯よりも音楽がすきだとしても、その音楽に接する前に、その中間に、一〇〇人ものオーケストラの楽員たちの壁を越えてでなければならないのだ。しかも、その人たちは——私は何もオーケストラの楽員たちを怪物視する気は毛頭ないのだが——何といっても、鋭敏な感覚と、とかく興奮しやすい、いわゆるtouchyなテンペラメントに富んだ性格の人びとが少なくないところにもってきて、それが一人一人でいるのでなくて、一つの集団として、集団の性格、集団の形態、集団の意志、集団の思考と感受性、集団の意思というあり方で、目の前に坐っているのである。その人びとの先頭に立ち一体となって、音楽をやるのはさぞかしすばらしいことだろう。ことに、年が若く、情熱が純粋である間にすでにそういうことを経験するのは。だが、映画じゃあるまいし、それが現実の生活ということになると、話はそれだけでは済まなくなるにきまっている。  このことは、私は、ある日、彼と面と向かって立ち、彼のよく左右に動く目をみながら話している時、急に感じたことである。その時のマゼールの目は、自分の前に坐っている一〇〇人の音楽家たちの背後、はるか彼方《かなた》にある《音楽》を感じながら、そこに直接に手をさしのべられないのを、もどかしく思っている人の眼差《まなざ》し、それの悲しみと憧《あこが》れを、無言のままに語っているのだった。  それから、《実人生》を前にした時の、彼の困惑。そういうものも、私はよく彼の目の中に見た。  もちろん、彼の目が、いつも、そういう色で染まっているというのではない。ことに彼の顔全体の中で、官能的なものといえば、ただ一つ比較的厚い唇なのだが、その唇も肉感的なものを感じさすのはむしろ開かれている時で、上下の唇が結ばれていると、そこには、もう、何か「素朴なまま」ではありえないような、ある表情が浮かんでくる。マゼールは、子供の時から数学が大好きであり得意だったという話もきいたが、だからといって、彼が特に精神的な人間だというのは、むしろ、当たるまい。数学は、神童モーツァルトも大好きだった。  私は、何も、彼の人相見をしているわけではない。彼のやる音楽の中に、私たちの感じるもの、それを、簡単に、いいとか悪いとか、わざとらしいとか未熟だとか、押しつけがましいとかいって片づけてしまう、そういうふうに音楽をきくことが、私にはとても単純で、やりきれないくらい退屈でしかないということを、間接に書いてきたのである。  マゼールの《音楽》も、もちろん、これからだっていろいろ変わることもあるだろう。しかし、あすこには《一人の人間》がいるのである。あすこには、何かをどこかからとってきて、つけたしたり、削ったりすれば、よくなったり悪くなったりするといった、そういう意味での《技術としての音楽》は、もう十歳になるかならないかで卒業してしまった、卒業しないではいられなかった一人の人間の《音楽》があるのである。  それが好きか嫌いか。それはまた別の話だ。    2  マゼールのレパートリーは、現代の指揮者なみに、バロック音楽からクラシックとロマン派を経て、バルトーク、ストラヴィンスキーにおよんでいるし、そのほかにまた、非常な数にのぼるオペラのナンバーが加わるわけであるが、そういう音楽の中でも、彼が、とりわけて、好んで演奏するのは、J・S・バッハであるという話も、私には、無条件で納得できる。  私は、ベルリンの放送交響楽団の演奏会で、彼が『ブランデンブルク協奏曲』を、三曲ずつ演奏するのをきいたことがある。そのころはちょうど、ベルリン・フィルハーモニーでもカラヤンが同じプログラムを組んでいた。が、この二人では、マゼールのほうが、バッハに対してずっと厳粛というか真面目というか、とにかくバッハに真剣に立ち向かっているところがあり、それは見ていてさえ、気持がよかった。  これはレコードもあるから、日本でもきいた人も少なくあるまいが、実によい演奏である。カラヤンの考え方は、バッハのこういった管弦楽曲に関しては、根本的にとても洒落た遊びの精神から出たものであるが、マゼールにとっては、バッハこそ、彼が安心して、彼のすべてをありのままに託して悔いることのない、ほとんど唯一の音楽であり、そこでは、ふだんマゼールが人との交わりの中ではめったに出すことのできない心の奥に流れているものが、巧《たく》まず、自然な形で出せる状態になっていることがよくわかる。  私は、「厳粛というか真面目というか」と書いたが、それは何も彼が何ものかに向かって、いつもの自分とちがう姿勢を故意に作って、緊張してみせているというのではない。むしろ、その逆で、ここでこそ、本当に寛《くつろ》いでいるのだ。そうして、彼にとってみれば、そうやってらくな姿勢でいられるということが、一般的にいってすでにとてもむずかしい、大問題になってしまっているのである。  といっても、誤解されても困る。マゼールのバッハには、何にも感傷的なものはないのである。ちょうど会話の時の彼がそうであるように、キャリアからおして、またちょっと会っただけでは、妙にとり澄まして気取った人間のように見えるために——本当は人間というものに対する気おくれから出ているのだが——、マゼールのことを、やたら自意識の強い、冷たい気取りのように思う人もあるかもしれないが、そうではなくて、彼は自分が何かの中に閉じこめられてしまっているのを感じているうえに、幸か不幸か、あまり《言葉》というものをもっていない男なのだ。言葉による《自己表現》というものについて、慣れてもいなければ、自信もない男なのだ。彼は話をしても、他人には自分のことをなかなかわからせることができない。  そういう彼にとって、バッハの器楽は、過度に神経質でも、感傷的でもなければ、衝動的でも情動的でもなく、均整と明確さを失わず、しかも、表面的に流れたり、感覚的なものに没入したりすることのない、安心してつきあえる最高の世界を提供してくれるものなのである。  このマゼールの指揮できくと、『ブランデンブルク協奏曲』全六曲の中には、ずいぶんいろいろなものがあることに、改めて気づくだろう。作品が無類の確固たる形をしてくれているおかげで、マゼールは、行きすぎる心配なしに、自分を投入できるのだ。  同じバッハでも、しかし『ロ短調ミサ』をやるとなると、音楽的にいえば同じわけだが、何しろ、これは同じバッハといっても、また、まったく一つの独自の世界をつくっているものであり、キリスト教二千年の歴史の根本に直結している作品であるから、話はかなり複雑にならざるをえない。  マゼールは、全体として、かなり速めのテンポをとり、ときには速すぎはしないかしらと思われる個所も出てくる(もしかしたら、この困難を極めた曲ではむしろ、こんなに速くしたほうが、合唱はかえってらくなこともあるからだろうか)。しかし、その結果、どうかすると教義的なものが顔を出しすぎる傾きのあるこのミサが、音楽的にいって、非常に形のよくとれたものとして鳥瞰《ちようかん》できるようになる。しかも、そのために、(たとえば一つ一つ、ゆっくりおしつけるようなリズムをもった第八番の〈Qui tollis peccata mundi〉の始まり以後のように)誇張されたり、感傷的になったりすることなしに、強く激しいものが、炎のように燃え上がってくる。あるいは表面は冷たいようでいて、内に熱狂的なものを潜めている(たとえば、第十一番の〈Cum sanctus〉の大フーガ)といった演奏をきかせるのに成功することになるのである。だが、第十九番嬰《えい》ヘ短調の〈Confiteor〉の合唱も速めなのはよいのだが、それに続いてアダージョで〈Et expecto resurrectionem mortuorum〉を経て、ヴィヴァーチェに入ってゆく、あのすばらしい変換は、私には、何というか、不発に終わってしまったように思われ、残念である(こういうことは、カラヤンがもう、すごく、うまくやっている)。  マゼールが、バッハの演奏にすぐれている技術的な理由の一つは、彼がメトリック、つまり小節や楽節の強拍やアクセントの基本を徹底的に身につけている点にある。「徹底的に身につけている」というのも変な言い方で、むしろ、これこそ、あの複雑を極めている血統関係で云々《うんぬん》するより、もっと端的に、マゼールという人物の音楽の基本がラテン的なものに根ざしていることを示すものだといったほうが、そもそも正確でもあれば、手っとり早くもある、というべきなのだろう。そのことは、『ブランデンブルク協奏曲』のように一定のパターンを何回でも反復しながら音楽を前進させ形成してゆく作風の場合はいうまでもなく、このミサ全体を通じても、きわめてはっきり出てきていて、複雑な合唱をさばきながら、管弦楽がその陰で、アクセントを入れ、合唱を支え、間奏を埋めているのをきいていると、私には、マゼールのあの首を細かく動かしながら、アクセントをつける姿がありありと目の前に浮かんでくるのである。    3  私は、マゼールがロマン派の音楽をやるのをきいたことがない。少なくとも演奏会では。だが、かつて、ベルリンと東京できいたヴァーグナーの『さまよえるオランダ人』の感想からいうと、ロマン派のあの悲愴《ひそう》なパトスを表現するには、ローリンには、心理的な抵抗があり、内部的軋轢があったのではなかろうか? と思う。もっとも、それがまた『ニーベルングの指環《ゆびわ》』のような史詩的なものになってしまえば、おのずから、相違はあるのだろう。といって実は私は、ベルリンのオペラで、彼の指揮する『指環』をきいたし、長い中絶ののち、一九六八年以来だったかからは、またしてもバイロイトでヴァーグナーの楽劇の指揮に当たるようになったという報《しら》せを、驚きをもってきき、その後、ベルリンでラジオの中継を部分的にきいたのも事実だが、今はそれについて書けない。  しかし、マゼールのベートーヴェンは、すばらしい! もっとも、私のきいたのは、一つは例の東京でやった『ミサ・ソレムニス』であり、もう一つは『フィデリオ』である。  前者は、今ではもう伝説的なものになったが、それというのも、演奏自体も本当に迫力のある、そうして力強い真実味にあふれたものだったせいもあるが、もう一つは、当夜それを実際に耳にするまで、人びとは、まさかマゼールがベートーヴェンの『ミサ・ソレムニス』をあんなに演奏する性格の音楽家だとは信じていなかったせいも、ありはしまいか。少なくとも、私は、あの時まで、それを信ぜず、したがって、演奏が進むにつれて、最初のやや傍観的な気持が驚きに変わり、その驚きが、驚嘆に変わり、感激で終わるといった、聴き方をしたわけだが、こういうことは、私のこれまでの音楽会通いの全部を通じても、そう何度もあることではなかった。  私は、この『ミサ・ソレムニス』について、いまだに何も書く気がしないのである。どうもうまくできそうもない感じがするのである。読者に申しわけないが、省略させていただく。ただし、私がマゼールを現代を代表するにたる指揮者の一人と認めたのは、この『ミサ・ソレムニス』の演奏に接して以来のことである。  もう一つの『フィデリオ』のほうには、幸いなことにレコードがある。私は、日本でのこのレコードの評判については何も知らないが、今度マゼールについて書くに当たって、改めてきいてみて、とてもよいことをしたと思った。私は、オペラをレコードできくことはほとんどない。したがって、オペラのレコードもほとんどまったく買わない。しかし、もし二枚続きで何かおもしろいレコードでもあったら買いたいが、という相談をうけたら、今のところは、まず、このレコードをすすめるだろう。そのくらい、これはりっぱな出来ばえであり、おもしろいレコードである。 『フィデリオ』のレコードには、例のカール・ベームが指揮した名盤がある。たしかにこれも見事なものである。だが、欠点——というより、弱いところもいくつかある。まず、そうして特に、管弦楽がちっとも特別によくない。ベームがドレースデンの国立歌劇場管弦楽団を好む理由はよくわかるし、たしかに悪いオケではない。しかし、この名楽団も残念ながら、昔日の比ではない。それははっきり認めておかなければならない。そのほか歌手の中にも、不満がある。  だが、もちろん、くり返すが、全体として、これは高い水準の出来ばえである。しかし、これは、舞台の上での劇作品というより、むしろ、オラトリオみたいな面のより強く正面に出た演奏ではないだろうか? 少なくとも、マゼールのレコードをきいてみると、この曲が本来どんなに劇としての強力な緊張にみちたものでありうるかがわかるのである。  そういうことは、この盤で、たとえば、シウッティの演じているマルチェリーナが(第二番のアリア)普通のドイツ人がやるよりもっと甘い、もっとロマンティックな、ヴィブラートの多いドイツ語の歌になっていることからはじまって、第三番の有名な四重唱が、実に意味あり気な管弦楽の前奏があってから、とてもアンダンテ・ソステヌートとは信じられないほどおそいテンポのカノンとして歌い出されてきたりするあたりでは、私などには実は、まだはっきり感じられなかったのだが、そのつぎの第五番の三重奏になって、管弦楽に実に硬いアクセントをもった不協和音が響き出すころから、だんだん、マゼールの感じ方と考え方とがきこえてきたのである。  第七番のピツァロの出の場での凄《すご》み(もっとも合唱は、少なくともこのレコードでは、背後にかくれて弱すぎる)。それに続く、第八番の中で、「地下牢《ろう》に忍び込み、一刺しに」の次の小節に出てくる金管ののぞっとするような閃《ひらめ》き(譜例1)。  第九番のレオノーレのあの唯一の長大なアリアにいたっては、はじめの管弦楽の動機からして、まるで短刀を片手に捨て身で突っこんでくる暗殺者を思わせるほどのたけだけしさ、兇暴《きようぼう》さである(譜例2)。  この調子で書いていったらきりがない……。  要するに、このマゼールの指揮した『フィデリオ』は、血の気も凍るような冷酷と血なまぐさい残忍さと、どんな闇よりも深いかもしれない絶望とに、紙一重のところまで、迫っている。  第二幕のはじめ、ロッコと二人で地下牢に入り、墓穴を掘っているレオノーレがロッコとかわす(オイレンブルクのポケット・スコアで、四三二ページ、アンダンテ・コン・モートと記されたあたりからの)会話にも、異常な冷たさがある。  総じて、これできいていると、マゼールの「ベートーヴェン」を演奏するうえでの最大の武器が——バッハの時のあのメトリックなアクセントに匹敵するものとして——実にいろいろのクレッシェンドの使い方となって現われているのに気がつく。長くかかって、じわじわともり上がってくるもの。ときにはまた単刀直入に、アッという間にぐっと迫ってくる感じのそれ。  その例の一つは、この劇のクライマックスであるところの第十四番の地下牢の中でのフロレスタン、レオノーレ、ロッコ、ピツァロの間の四重唱で、ここで、ピツァロがはじめ、「フロレスタンに死ぬ前に誰の手にかかって殺されるのか知らせてやろう」というあたりの、あの長い、だんだんと強くなってゆくクレッシェンド(それは、からはじまり、一三小節で最初のが来、それからまた五小節してsempre pi� fとなって、六小節の、のクライマックスに達するのだが)。また逆に、この音楽の最終場面での、解放の歓喜を、心ゆくまで歌いあげる情景での(同じくスコアの六二七ページ)ソステヌート・アッサイ、"O Gott! O Gott! Welch ein Augenblick!"以下のその抑えに抑えたテンポにのった充実には、この作品に全力を傾けつくしたベートーヴェンの音楽のもつ、祭典的な壮麗さの最高の到達の一つに対し、二十世紀の一人の青年指揮者が与えた最上の解答がみられる。  こういったバッハ、ベートーヴェンにくらべると、マゼールのモーツァルトには、私は、まだよくわからないものがある。マゼールには、モーツァルトの寛大な自由、透明な軽やかさ、暖かさ、悲しみ、そういったものが、こだわりなく出せないように思われる。私のきいたものの中では、それでも、『ジュピター交響曲』がよかったように思う。ことに、比較的遅めの、そうして、例によって第三拍にいたるまできっちりとられた拍子にのって規則正しくおかれたアクセントをもったメヌエットと、それに続く、ポリフォニックな終楽章の二つがよい。こういうポリフォニックなスタイルだと、マゼールの棒は、魚の水を得たように、一段と晴れやかさと自然な感じを加える。ことにコーダになってから、ちょっと遅めに提出された主題の美しさは、たとえようがない。これにくらべると、第二楽章は、何というか、ダイナミックの幅を極力せまく抑えた恰好で、フォルテといっても響きが奇妙に薄く、馴染《なじ》みがたい。しかし、ここには、前方、何か遥《はる》か彼方までまっすぐに伸びている道を歩くような想いを与えるものがある。それを開かれた地平と呼ぶべきかどうか、私には即断はできないけれども。   モントゥ [Monteux, Pierre]    1  二十世紀前半から後半にかけて、フランスには三人の名指揮者がいた。いた——と書くのは、三人とも、今はすでに故人になってしまったからである。その三人とはピエール・モントゥ、シャルル・ミュンシュ、それからエルネスト・アンセルメのことである。このうちミュンシュはストラスブールの出身であり、彼が生まれた当時、アルザス、ロレーヌの両県は一八七〇年の普仏戦争の結果ドイツに領有されていて、フランス領に帰ったのは第一次大戦の後なのだから、厳密にいえばドイツ生まれということになる。それにミュンシュという人は、指揮者になったのもおそく、それもライプツィヒのゲヴァントハウス・オーケストラのコンサートマスターをフルトヴェングラーの下で、すでに長いことつとめたあとのことだった。これは有名な話だ。これは、また、ミュンシュのレパートリーからもみられることで、あの人はドビュッシーやラヴェルといったものも、もちろんよく指揮し、そうしてすぐれた演奏をきかせていたが、それとともに、あるいはそれ以上にバッハからはじまって——それも『ブランデンブルク協奏曲』といった器楽だけでなく、カンタータもさかんにとりあげていた(もっとも、今日では彼のような様式のバッハはもうすたれてしまったが)——、モーツァルト、ベートーヴェン、それからブラームス、ヴァーグナー等々の音楽を得意にしていた。それに、フランスものでは、まず、ベルリオーズ、現代ものではオネゲルからデュティユといったところに、彼の特に強い共感があった。こういう事実をみてゆくと、そこに、今世紀フランスを代表する大指揮者の中では、この人はむしろ独仏混合というか、つまりは劇的で、ダイナミックで、そうして構成のがっしりした、対位法的な音楽を好んでやった人といってもよいことになろう。ミュンシュは、日本にもボストン交響楽団といっしょにやってきたから、きいた人も少なくないはずである。彼のベルリオーズやベートーヴェン、ブラームスといった音楽は、ドラマティックで、烈しく逞《たくま》しく、色彩にも燃えるような輝きがあった。画家でいえば、モネよりはドラクロワに近かった。  アンセルメは、周知のようにスイス・ロマンド、つまりフランス語をしゃべるスイス地方の音楽家だし、この人もはじめからの指揮者でないどころか、出身は学校の数学の教師だったことも、今ではみんな知っている。こうして、彼は人生の途中から音楽を職業にするように変わったのだが、その時、彼が指揮の教師に選んだのが、ブロッホ、ニキッシュ、ヴァインガルトナーといったドイツ系の名指揮者だったことは、いつも、書かれているとは限らない。  しかもアンセルメのおもしろい点は、そのあと、例のスイス・ロマンド管弦楽団とともに半世紀を越えるキャリアを築き上げた中で、もちろん、あらゆる音楽を手がけたにちがいはないにしても、結局、彼がいちばん多く、そうしていちばん好んでとりあげたもの、つまりは得意のレパートリーということになると、ストラヴィンスキーとドビュッシー、ラヴェルの三人ということになるという事実ではあるまいか。  それにアンセルメは若いころストラヴィンスキーと出会い、その『兵士の物語』を初演して以来、『プルチネルラ』『狐』『詩篇《しへん》交響曲』以下、一時期、この世紀の寵児《ちようじ》の名作をつぎからつぎと世の中に送りだした人なわけだが、そういう彼のストラヴィンスキーをきいていると、『火の鳥』から『春の祭典』にいたる三大バレエその他の初期の作品よりも、今あげたいわゆる新古典主義時代の作品のほうが、本当にぴったり彼の肌に合ったところがあるように、私などには思われるのである。それについては、いつかまた、ふれる時があるだろうが、一口にいってアンセルメのストラヴィンスキーは、著しくラテン化されたもので、スラヴの発生の痕跡《こんせき》はあまり濃くない。それだけにまた、こういったバレエ音楽でさえ、彼がふると実にきちんとしたものになる。アンセルメの指揮には妙に理窟《りくつ》っぽいところがあり、そのために、典雅というよりはむしろ的確な、優しいというよりはむしろ厳しくて理の勝った味わいが出てくる。といっても、私は『火の鳥』などはむしろそういうアンセルメの指揮したもののほうが好きである。私はこれをかなり高く評価している。それにバレエ音楽とはいっても、ここには静的(スタティック)なものがあり、アンセルメはそういうものの処理が非常にうまいのである。  こういう二人にくらべると、モントゥには、いってみれば、ゆったりとくつろいだ、そうしてらくらくとしたものがあり、それが彼をはじめてきいた時から、私を魅惑したのだった。    2  モントゥについては、前にも一度書いたことがあり、それはモーツァルトの『第三十五番ハフナー』、『三十九番』の両交響曲をいれたレコードに則しての話だが、その中で、この彼をはじめてきいた時の印象とか何かを書いておいたので、ここではくり返すのを避ける(『吉田秀和全集』第六巻所収の「一枚のレコード」参照)。  モントゥも、シャルル・ミュンシュと同じようなヴァイオリニストの出身である。かつてのアベネックがそうだった。パドルーも、初めはヴァイオリンの弓を使って指揮をしたというくらいだし、エドゥアール・コロンヌもまたそのパドルーのオーケストラのヴァイオリニストだった。それから、ラムルー、ワルター・ストララム、それに今ふれたミュンシュやモントゥと、こう考えてくると、ドイツ系の指揮者に、ピアニスト出身者の多いのとちょうど対照的に、フランス系の人たちには、ヴァイオリニスト出が少なくないということになる。  こういうことを、やたら一般化して論じてみてもはじまらないが、ヴァイオリニスト出の指揮者は、単に管弦楽の楽員たちに何をしなければならないかを指示するだけでなく、それを音にするためには、どうやらなければならないかを、少なくとも古典派以来ロマン派にかけて管弦楽の主体をうけもってきた弦楽奏者たちに具体的に示すことができるはずである。ピアニスト出身の指揮者がアイデアを与えるとしたら、かつて弦楽奏者だった指揮者は音の作り方の見本を与えられるということができよう。  だからというわけでもなかろうが、モントゥは、どこのオーケストラにいっても楽員たちに愛されるので有名だった。人はよく「彼は独裁者になることなく君臨する」といったけれども、モントゥにしてみれば、そこには何の秘密もなければ、とりわけて楽員たちに気兼ねするという必要もないことだったにちがいない。  モントゥの指揮姿を一度でもみたことのある人は、みんな知っているわけだが、この人は指揮台に立って、全体としてはほとんどまったく動かないようでいて、しかも棒さばきは精緻《せいち》を極め、実に細かいところまで指し示していた。それは本当に見ものだった! だから、ある意味では、モントゥはクナッパーツブッシュと同じように、動きの極度にすくない、すべてを棒にまかせた旧式の指揮者のように見えながら、さて、その棒の表現の細かさとなると、クナッパーツブッシュとは正反対の精密さをもつ。的確、柔軟、敏感、明快という点で、これをぬく人が果たしているのかどうか。肩をならべるにたる人でさえ、何人いるかどうか。少なくとも、私は、いま即座に思い当たる人は、一人もいない。まったく、この人のは、無類の棒さばきであった。  ストラヴィンスキーはかつて、モントゥについて「この人ほど聴衆をおもしろがらせるような、神秘がかったショーマンぶりが少ない人もなければ、この人ほど管弦楽に明快な合図を与えるのに最大の注意を払っている人もない」という趣旨のことを、どこかで書いていたが、これは本当の話である。彼の指揮は、だから、的確というだけでなく、そのうえに、迷ったり疑ったりする余地を残さない、そういう意味での十全の明快さをもっていたのである。それでいて、その音楽がおしつけがましくないとすれば、そういう人が、世界中どんなオーケストラにいっても、好まれないはずはない。  モントゥは、若くしてディアギレフのロシア・バレエの指揮者として、ドビュッシーの『遊戯』、ラヴェルの『ダフニスとクロエ』、ストラヴィンスキーの『ペトルーシカ』、特に『春の祭典』のあの歴史的なスキャンダルの初演を受けもったのを皮切りに、一九六四年、八十九歳でロンドン交響楽団の常任指揮者として現役のまま死ぬまで、その間の半世紀以上をパリで、ボストンで、ニューヨークで、サン・フランシスコで、ハンブルクで過ごしたわけだが、その間一体いくつのオーケストラの常任指揮者となり、演奏旅行や単独での客演も含めて、一体何千回にのぼる演奏会を指揮したものか、それはもう想像を絶するような回数に上ったろう。しかも、ステージの上にいる楽員たちとステージの下にいる聴衆たちのその両方にわたり、これほど多くの人びとに、またこれほど熱烈に愛された指揮者もないのではないか。指揮者の中には、楽員により好まれるタイプと、彼の背中をみている聴衆には非常にうけるが管弦楽の楽員たちには高く評価されないといったタイプがあるといえるわけで、たいていの指揮者は、その中間に位置づけることができるだろうが、モントゥは文字通り、その背中でも顔正面でも同じように愛された指揮者だった。  それに、彼はまた「より美しい性」からもたっぷりと愛され、彼自身も、女性たちやよい食事、よいワイン、そうしてよい音楽を存分に愛する人間に属していた——のだろうと、これは、私の想像である。私はたった一回、彼の楽屋に足を入れたことがあったが、そのとたん、女性たちの姿と香水の高く濃い香りで、息がつまりそうになったのを、今でもよく覚えている。  私にとってモントゥは、今世紀三〇年代の、いわゆる《ベル・エポック》の権化みたいなものだが、これは私だけの感想ではないはずである。    3  だが、それだけだったら、私は、かつてふれたことのある彼について、もう一度書く気になったかどうか、わからない。  この同じモントゥは、また、単に人好きのする、人生の美食家でよい音楽家だったというだけでなくて、完全に、専門家のための音楽家でもあった。こういう言い方は、少し注釈を必要とするだろうが。  私は、前に、モントゥの明快で精緻を極めた棒さばきということをいったが、彼がそういうタイプの指揮者だったということは、実は、棒のふり方が決定したことではない。そういう棒を必要としたのはオーケストラの楽員たちより、むしろ、彼自身だった。つまり、モントゥは、そういう棒を必要とするような音楽を求めたのである。あるいは、彼の音楽へのアプローチがそういうタイプのものだったのである。  モントゥのレコードに、ベートーヴェンの『第二』『第四交響曲』をハンブルクの北ドイツ放送交響楽団で指揮したものがある。これをきくと、曲は同じでありながら、あのいつもの悲愴《ひそう》がかった、芝居気たっぷりの、そうして劇的な緊張力と爆発力にみちたベートーヴェンではなくて、正確な足どりで前進し、のびのびと歌い、元気よく走り、考え深そうな眼差《まなざ》しになり、まじめで省察的な表情をとったり、ある時は思いきり活力にあふれた身振りで両腕をふりまわしたり、とび上がったり、障害物を跳びこえたりといった具合の、非常に生き生きした音楽になっているのに、気がつくのである。このベートーヴェンには、何の誇張も強がりも無理も感じられない。それでいて、『第四交響曲』の面に針をおろすと、それは、申し分なく深くて、重々しい、音楽になっている。冒頭のアダージョからして、新古典主義の人びととちがった、たっぷりとゆったりした、まるでヘンデルのような歩みがあるのである。  そういうことは、ベルリオーズの『幻想交響曲』でも同じである。今、ベートーヴェンの交響曲、ベルリオーズの交響曲ということで現代の代表的指揮者を考えるとして、すぐモントゥの名を上げる人がいるかどうか。少なくとも、私には、すぐ、彼の名を思いつくことはないだろう。だが、こうして改めてきいてみると、モントゥのベートーヴェンは実にすばらしい。精妙さと率直さが、きず一つない演奏の中で、こんなに見事に同居しているということは、モントゥの指揮の異常な高さを証明している。  それというのも、モントゥは、音楽を客観的に眺め、自分をその中に埋没させもしなければ、まして、『幻想交響曲』の主人公と同化するような羽目にはまったく陥らないからである。彼は、むしろ、ある距離をおいて、音楽がよく眺められる地位に自分を保つ。彼の務めは、そこに鳴るべき音楽がどんなものであるか、それを正確に描き出すことにある。それがわかると、ここでは明快とならんで、均衡ということが、また非常に重要であることもわかってくるのである。そうして、この均衡という点では、彼のヴァーグナーの演奏がまたすばらしい実例となる。コンサート・ホールのレコードは一般に音はそんなによくないかもしれないが、ときどきおもしろいのをきかせてくれる。モントゥが『トリスタン』の〈前奏曲〉と〈愛の死〉や『オランダ人』や『タンホイザー』の序曲を指揮したレコードも、その見事な一例で、これできいていると、ヴァーグナーの管弦楽の書き方のすばらしさ——単によく鳴るというだけでなく、少しの無駄もない練達と、それから天才的な霊感としか呼びようのないものとをあわせもつ最高級の傑作にほかならないということ——を、これくらいよくわからせてくれる演奏が、ほかに、どこにあるだろうかと、考えてしまう。  もちろん、これは、クナッパーツブッシュやフルトヴェングラーのような人びとのあの巨大な量感にみちた、激情と明澄の目もくらむような交替からなる、圧倒的に力強い演奏とはまるでちがうものだ。また、同じ明快と均衡といっても、トスカニーニのあの白熱的なヴァーグナー追求の探険ともまるでちがう。モントゥの武器は力でもなければ、熱でもない。それはチャームであり、雅致である。  だが、こういったからといって、まちがってはいけない。そうだ、私は、大事なことを思い出した。  モントゥが、トスカニーニともフルトヴェングラーともちがうということを、単に個人の趣味とか育ち(民族性)とか、そういったものにだけかこつけて、解釈してしまうのは、これまた、芸術における大きな曲解なのである。  こういうことになるのは、個人の好みではなくて、様式上の差なのである。別のわかりやすい例でいえば、ちょうど、美術のうえで、ゴシックとかルネサンスとかのスタイルの差があり、たとえばシャルトルのカテドラルのあの前面の壁にある浮き彫りの像たちが、やたらと細長くできていて、頭部や足とのバランスからいって、ミケランジェロのダヴィデやモーゼの像のそれとまるでちがうのをさして、前者はバランスが悪く、ミケランジェロにいたって、彫刻は真のプロポーションを実現したといってみたり、あるいはゴシックの壁面に遠近法的な考え方が出ていないからといって、それを後世の絵画より真実味の劣ったものといったりするのがまちがいなように、モントゥのヴァーグナーやベートーヴェンをもって、本物ではないというのは、二重にまちがいなのである。その一つは、ベートーヴェンやヴァーグナーについて、たった一つの正しい解釈があるというのがすでにまちがいだからだし、その二は、モントゥの解釈とフルトヴェングラーの解釈は、ともに、二つのまったく別々な様式に属し、その様式の枠内《わくない》で、両方とも、非常に高度なものを達成しているからである。  それにしても、モントゥで『春の祭典』をきくその楽しさには、また、かけがえのないものがある。それは何もモントゥがこの曲の初演をうけもったという、そういう歴史的な事情があるだけではない。棒の無類の精密さと、音楽に対する非耽溺《たんでき》的で賢明なアプローチ、透明で均衡のとれた音響を獲得する手段を探し当てるうえでのあやまつことのない判断力、こういったものが相集まって、この二十世紀の最高のバレエ音楽を扱ううえでのモントゥの特別な適性が、そこに、十二分にあるからである。  そのうえ、この演奏には何の無理も加えずに、あのむやみと交替するリズムを浮き彫りするうえで、モントゥが感じ、それに誘導されて楽員たちが感応している、何ともいえず楽しそうな活気があるのである。ことにそのオーケストラがパリ音楽院管弦楽団である場合、それはもう比較するもののない愉楽となる。 『春の祭典』には、実にいろいろなレコードがあり、その中では、たとえばブレーズがクリーヴランド管弦楽団を指揮して入れたものすごいのもあるけれども、このモントゥの盤の楽しさは、また、格別である。   ショルティ [Solti,Gy嗷gy]    1  一月の中ごろだったか、ドイツの新聞をみていたら、ベートーヴェンのベスト・レコードという大きな記事が目に入った。昨一九七〇年はベートーヴェンの生誕二百年というわけで、あちらでも、彼の曲のレコードが大分出たらしいのだが、年も明けたところで、ひとつベートーヴェンのレコードのめぼしいものは何か、各ジャンルにわたって、ひろってみようではないかという企画であるらしく、何人かの批評家が、とりどりに、良しとするレコードの名をあげたり、その理由を手短にのべたりしていた。  なかでも、交響曲という欄は、さすがにベートーヴェンの作品の中でも最重点眼目の一つだから、いろいろと考えた末の選択であるらしいのが、また、おもしろかった。全曲盤では誰々の指揮したものとか何とかあるのを読んでいるうち、『第三番エロイカ』では、ショルティがヴィーン・フィルハーモニーを指揮した盤というのがあり、私は思わず「なるほど、ね」と、声を出した。  もちろん、ほかにも、セル〓クリーヴランドの組を上げている人もあり、フルトヴェングラー盤といっている人もあり、という具合に、いろいろな名が上がっているのは書くまでもない。それも、おそらく、日本で同じような企てをやった場合より、はるかに変化にとんだ表が出来上がる。これも、ほぼ、初めから見当のつくことである。それにしても、『エロイカ』でショルティ盤を最良とするという意見を出す人といったら、日本で果たして誰だろうか? 私には、ちょっと簡単には思い当たらない。フルトヴェングラーとか、ベームとかなら、これはまた、大ぜいの人が推すだろうが……。  そう考えて、私は、改めてショルティのレコードをとりだしてかけてみた。それを終わりまできいてから、つぎに、カール・ベームがベルリン・フィルハーモニーを指揮したレコードをかけてみた。  第一楽章をきくと、テンポの指定が、アレグロ・コン・ブリオというのに、比較的たっぷりとった悠然たる歩みではじまるのは、両者とも同じようなものだが、それも束《つか》の間《ま》のことで、第七小節から第一ヴァイオリンに、シンコペーションで対旋律が入ってくるあたりからは、もうまるでちがってしまう(譜例1)。  私は、第一ヴァイオリンの部分だけ引用するが、この間の弦楽五部全体の動きを総体的にいって——というのも、私たちが実際にきくのは、第一ヴァイオリンだけでなくてその全体なのだから——、ベーム盤の演奏の中には、実に細かい、しかし同時に充実しきった《音楽》がある。人間の呼吸よりもっと微妙な息遣いがあるかと思うばかりの、豊かにして、力強い変化、といってもよいかもしれない。  一体に、ベームの演奏では、ベートーヴェン特有の精緻《せいち》であってしかも力強い、微妙であってしかも豪壮なダイナミックが、実によく捉《とら》えられている。特にクレッシェンドの果てにくるあるいはといった響きの強さと柔らかさとの交替の呼吸には何ともいえないものがあり、ベームがそこに厳密で細心な注意を払っていることが、手にとるようによくわかる。彼のそこを指揮する様子が目に見えるようだ。  それにくらべると、ショルティのは、ずっときめが荒いというか、とてもそんな細かな動きはない。それはむしろ真向微塵《みじん》とひた押しに押しまくる勢い以外の何ものでもない。といって、何もそこにだのスビト・ピアノだのがないと、そんな初歩的なまちがいがあるというのではない。ただ、そういうことがあっても、表現としての力に充分になっていないのである。力強いけれども、精度が高くないといってもよいかもしれない。その結果、ショルティの盤には、かえってベーム盤のあの堂々と幅広い大きさが出てこない。  だが、この二人の違いは、実はそういう点につきるのではない。そういったことは、むしろ、結果なのであって、原因ではない。それは第一楽章からさらに第二楽章以下ききこんでくるうちにだんだんはっきりしてくるのだが、ベームという人は、音楽の構造にはこのうえなく厳格に密着して、ことを運ぶのだが、その情緒的なもの——特に『エロイカ』のような、深刻で雄大なものに対しては、その中に没入するのでなく、むしろ、自分を守り、ある距離をおいてつきあっている。客観主義といってもよいが、それだけでは不充分である。そういう行き方が、しかし、かえって第一楽章に——それから終楽章にも——みられるように、この作品の比類のないスケールの大きさ、ことに楽想の有機的な発展という点で、同じくベートーヴェンの交響曲でもおそらく『第九交響曲』の第一楽章にしか匹敵するものがないかもしれないほどの高度の必然性というものを、見事に私たちの前に啓示してくれることになる。だが、逆に、第二楽章のような音楽となると、ベームはどうもくいたりない。私は、彼が個人として「深刻癖」といったものを好まないかどうか、それは知らない。また、ベームで深刻ぶったもの、悲愴《ひそう》感にあふれた激情的なものの表現が体質的に合わないような印象を与えられるのは、何も、この『エロイカ』がはじめてでもない。ベームという指揮者は、たしかに十九世紀に根をもつ芸術家にはちがいないが、反面日本などでみんなが思っているよりも、もっと「近代人」なのである。だからこそ、彼は、モーツァルトやR・シュトラウスと同じように『ヴォツェック』や『ルル』を好んで指揮するが、ベルクにせよシュトラウスにせよ、実は情緒的感情的な面からアプローチするのでなくて、もっと構造的に精密であって、純粋に音楽的な把握《はあく》を押しすすめることにもっぱら専心している人なのである。といっても、彼をまた、まったく知的で機能主義的な人とみるのもまちがいで、そういう点ではベームは、カラヤンよりずっとトスカニーニから遠いことはもちろん、フリッツ・ブッシュともジョージ・セルともまるで肌合いのちがう音楽をやる人なのだ。  で、ショルティはどういうことになるかといえば、彼の『エロイカ』は、この第二楽章に入って、ますます面目を発揮してくる。私は、それを名演奏と呼ぶのはためらう。だが、今日に生きて、こういう音楽を大真面目でやれるというには、何か一種の反知性的な気質か、さもなければ劇場的性格か、あるいは、そういうことを超越した本当に崇高なまでに精神的な態度か、何かそういうものが要るのではなか ろうか? そうして、ショルティには、この中で劇場的なものtheatricalな効果というものに対する本能が極度に強く発達しているのではなかろうか? と、私はこの『エロイカ』の葬送行進曲をききながら、考えるのである。この行進曲の第二のトリオというか、ヘ短調ではじまるフガートの部分以下(譜例2)。ここはもちろんこの楽章のきかせどころの一つで、痛切を極めた慟哭《どうこく》の披瀝《ひれき》されるところだが、こういう時、ショルティは、天にもとどけとばかり悲痛な叫びをあげる。ベームでは、とてもこう手放しにはいかないのである。  私は、ショルティが感傷的だとは考えない。むしろ逆である。しかし、それは彼に感情の真正さがあるからというより、むしろ、先にいった劇場的なものに対する直観的で本能的な強い共感性が働いているから、そうなるのだと考える。   2  それを、もっと、はっきり、ほとんど有無をいわさぬ説得力でもって示しているのが、ショルティの指揮したオペラ、特に『エレクトラ』『サロメ』、それから『ニーベルングの指環《ゆびわ》』といったレコードである。これらのレコードが数々の賞をとったのは、まことに当然のことで、ことに『エレクトラ』など、これほどの迫力をもったものが今後も出るかどうか、私にはちょっと考えられない。  といえば、一つには、このレコードにはエレクトラにビルギット・ニルソン、クリュテムネストラにレジーナ・レズニックといった当代無比を謳《うた》われる歌手が顔を揃《そろ》えているうえに、オーケストラも名にし負う、ヴィーン国立オペラのそれだから無理もない、という人もあるかもしれない。そういう点も、たしかにある。ことにニルソンの歌など、本当にすごいくらいの名唱である。  だが、やはり、それだけではないのだ。  ニルソンでいえば、エレクトラの登場、つまり学習用スコア("Elektra"Studienpartitur,Boosey & Hawkes,London)の二五ページ、Largamenteに変わって"Allein! weh, ganz allein"にはじまってから四七ページにいたるまで、蜒々《えんえん》二十二ページにおよぶ長大な歌を通じて、彼女の歌い方の、その堂々として気品のあること。これはもう、今は復讐《ふくしゆう》の鬼、狂人に近い存在になってしまったとはいえ、元来はまさにトロヤ遠征のギリシア総軍の大将たるアガメムノン王の娘たるにふさわしい、すばらしいスケールの大きさと表現の正確さをかねそなえた名唱である。だが、それと同時に、たとえば三二ページ上段のラングザーム(un poco lento)になって七小節ほどはさまれた器楽の間奏(歌詞でいうとzeig dich deinem Kind!とVater! Agamemnon, dein Tag wird kommenの間)(譜例3)の演奏など、実によい。文字通り心にしみ込むようなのエスプレッシーヴォである。こういうところをきいただけでも、ショ ルティが、あらっぽいどころか、細やかなものの表現にも心憎いほど長じた指揮者であることがわかるのである。  ところで、私がさっきエレクトラの登場と呼んだ個所で、オーケストラは、こういう和音を鳴らす(譜例4)。下からひろってe‐=‐h‐c‐h‐‐f‐、つまり、Eの上の長三和音と、の上の長三和音が同時に鳴らされる——いいかえれば、ホ長調であると同時に変ニ長調ないしは嬰《えい》ハ長調であるところの和音という、これまで考えられないような大胆な和音を背景に、エレクトラという女性は登場するのだが、その時のこの二つにひきさかれた和音——いや、二つのまったくちがう存在が無理矢理一つに組合わされている音塊の立てる響きの峻烈《しゆんれつ》な鮮明さ! ショルティほどに、無慚《むざん》な手つきでこういう響きを引き出している指揮者は、ほかに誰がいるのだろうか?  このオペラは、周知のように一九〇八年という早いころ、すでに調性の限界ぎりぎりまでのところに迫った、未聞の不協和音にみちた音楽であり、スキャンダルとしてうけとられた作品である。今、あげたような和声上の破天荒の扱いは、いたるところに見出《みいだ》される。ショルティは、そういう時、音の荒々しさの前に、少しもひるまず、容赦しない。それはもう、私たちの耳を残忍なくらいに打つ。  それだけだったら、しかし、私は、このレコードに、そんなに強い印象をうけなかったかもしれない。というのも私たちの耳は、このスコアにある強烈な不協和音に脅《おび》える一方、実は響きそれ自体としてだけなら、もっとひどい音に接した経験を積み重ねてきた、そういう耳(つまり音楽をきく心)でもあるからである。  ところが、ショルティによる『エレクトラ』をきいてゆくと、私たちは、これとはまるでちがう音楽に出会うのだ。    3  私は、この『エレクトラ』というオペラ、最初にヨーロッパに行った時、はじめてきいて、文字通り震駭《しんがい》させられた。およそR・シュトラウスのオペラぐらい、日本にいるだけでは見当もつかないものはなかったのだが——状況は、当時(つまり一九五〇年代の初め)から、今にいたるまで、何ほども変わってはいない。『エレクトラ』は日本ではまだ一度も演奏されたことはなく、『アラベラ』も『影のない女』も、要するに『ばらの騎士』と『サロメ』を除いては、R・シュトラウスの楽劇は、日本の舞台にはほとんど何もかかっていないし、それだけにまずヴィーンでこれをきいた時は、本当にびっくりした。そのあと、私はミュンヒェン、ザルツブルク、ベルリンと歩き廻っていた時も、チャンスのある限り、シュトラウスの楽劇は見逃さないようにつとめた。  で、その中でも『エレクトラ』をきいた時の感想は、いろいろあるのだが、なかでも、エレクトラが兄弟のオレステと対面する個所、これはもう、忘れようとしても忘れることのできない印象を与えられたものである。エレクトラは、その直前、妹のクリゾテミスから、「オレステは死んだ。家中の人が知っている。知らないのは私たちばかり。どうしよう!」と訴えられて、最初は、そんなことはない! それは嘘だ! といいはってはみるものの、否定する根拠は何もない。そのうえ、こうなったからには私たち姉妹二人で力をあわせ、今夜にでも父の仇《あだ》を討とうというが、クリゾテミスには、そんな気はまるでない。おだてすかすが、まったく何の効果もない。広い天地の中に自分と行動をともにするものはたったの一人もいないと知った彼女は、たとえ一人でも父の仇討を敢行しようと決意し、半狂乱の態《てい》でかねて地中に埋めてあった斧《おの》を掘り出しはじめる。  その間は音は、管弦楽の間を細かい音型となってかけまわる。ここのショルティ盤の演奏はものすごい迫力である。  そのうち気がついてみると、彼女の前に見知らぬ男が立っている。「お前は何をしている。邪魔だから、あっちに行ってくれ」というと、「私は約束があって、人を待っているのだ」という答え。  そうこうしているうち、ついに、その男が、最愛の兄弟、今日という今日まで待ちに待ったオレステだとわかる。 "Orest! Orest! Orest! Es r殄rt sich Niemand. O lass deine Augen mich sehn, Traumbild, mir geschenktes Traumbild, sch嗜er als alle Tr隔me. Hehres, unbegreifliches, erhabenes Gesicht, o bleib bei mir!……"(オレステ! 動く人なんか誰もいない。お前の目で私を見てちょうだい。私に贈られた夢の像、どんな夢よりも美しく、けだかく、とらえがたく、崇高な顔! 私のそばにいて!……)  ここは、まず、どんな聴き手にも感銘を与えるにきまっている個所である。  しかし、今度、改めてショルティの指揮できいてみると、このエレクトラの喜びの絶叫は、かつてきいたどんな演奏よりも、幅の広い、大きな喜びの流れとなっているのだ。もちろん、くり返すが、歌っているのもほかならぬニルソンである。誰よりも、感情の起伏を、巨大といってもよいくらい、大きく表現する力をもち合わせている歌い手である。  だが、そのためだけではない。ショルティがまた、ここでは、ほとんどR・シュトラウスに劣らぬ天才的な無遠慮といってもよいくらいの傍若無人ぶりで、変イ長調の音楽を滔々《とうとう》とそうして高らかに、鳴らしに鳴らすのである(スコアの二七二ページ)(譜例5)。  以下、また、彼女は蜒々と歌いに歌いまくる。オレステとの対話になっても、彼女の感情の持続は一向に変わらず、結局、母親のクリュテムネストラを殺すためにオレステが家の中に姿を消すまでの間——その間、実に二十六ページ——練習用記号で一四九のaから一八〇のaにいたる間、歌い続けるのである。  読者は気がついたかもしれないが、私が今引用した楽譜のオーケストラに出ている音型は、さっき、エレクトラの登場の折、オーケストラの間奏があった時の、その旋律に由来する音型で、リズムのうえでは、その前半とまったく同じだ(四分音符と三連符の八分音符との交替で出来ている)。これは、ヴァーグナー流の示導動機《ライトモテイーフ》の手法でいうと、〈アガメムノンの子どもたち〉の動機に当たると、解説されるのが普通である。  私は、さっき、R・シュトラウスの天才的無遠慮といった。その意味は、あれほど破格な不協和音にみち、調性の限界を踏み越すまでの高度に無調に近い音楽をかいている最中でも、必要とみればこうして遠慮会釈もなく、変イ長調の甘美にして沸騰的な陶酔の歌を蜒々と書く、本能と計算力の離《わか》ちがたくとけ合ったところに生まれた自信というか、度胸というかを指すのだ。  だが、またショルティの度胸も、それにいささかも劣らないのである。  まあ、きいてみるがよい。ここを先途と、ニルソンは歌い、ショルティはオーケストラを鳴らす。しかも、その間、両者ともにどなりっ放し、鳴らしっ放しというのではない。いや、正反対である。その中で、彼らは秘術をつくして、変化にとんだ音楽をやる。それはまさにシュトラウスの音楽の醍醐味《だいごみ》であり、天下の壮観である。  あと、私はもう具体的に例をあげて書くまでもないだろう。くり返すが、このショルティ指揮ニルソンの演じるところの『エレクトラ』はレコードできける劇音楽の一つの記念碑的な成果である。  だが、これはこれとして、シュトラウスは、あすこで、曲全体の眼目ともいうべき個所で、どうして突然、変イ長調などという調子の《歌》をかいてしまったのだろうか? あれはたしかにすばらしい効果を生み、近代オペラの名作たる所以《ゆえん》の少なからぬ部分が、あすこの書き方にあるのは事実だが、様式の破綻《はたん》であり、音楽的思考の一貫性という点からいっても、自家撞着《どうちやく》ではなかろうか? そういうふうだから、『サロメ』『エレクトラ』と書きすすんできたこの天才は、このあと急転回して『ばらの騎士』という新古典主義、いや華麗極まりない折衷主義に転進してしまったのではなかろうか? あるいは『ばらの騎士』こそシュトラウスの頂点と考える人にとっては、『エレクトラ』は何かうさん臭いものがあるということになるかもしれないではないか。  そういうことを考えてみる人には、私は、改めて、カール・ベームの指揮による『エレクトラ』のレコードを一聴されることをおすすめする。ここでは、まず、ジャン・マデイラの真実の苦悩にみち、しかも気品を失わないクリュテムネストラ(彼女の登場では、ショルティ盤で叫びでしかないものが、ベーム盤では歌になっている。それも微妙なニュアンスにみちた様式化された歌であるのに、はじめてきくものはびっくりするだろう)と、インゲ・ボルクの知性においてずばぬけてすぐれたエレクトラ〈"Elektra, du bist klug"(エレクトラ、おまえは賢い)〉との息づまるような対決がある。そうして不協和音も、ここではさほど異常な出来事としてきこえてこない。また、例のエレクトラとオレステの出会いの場にも、ショルティの場合ほどの燦《きら》めくばかりの喜びの氾濫《はんらん》はなく、むしろやや色褪《あ》せた変イ長調の流れがあるにすぎない。しかし、それだけにまた、両者の間のくいちがい、様式の破綻という感じも、あまり与えずにすんでいる。  これを、どうとるか。くいたりないととるか。あるいはベームの音楽家としての叡智《えいち》の高さととるか。この両者択一は、最初にのべた『エロイカ』の演奏の場合と、本質的には、同じものに根ざしているのである。  ただ、それを、この国では、何も考えずにベームの名のみ高く、ショルティといえば、過小評価されている気味がなかろうか?   クラウス [Krauss, Clemens H.]  クレメンス・クラウスも、私が実際にその指揮姿に接する機会を逸した今世紀の名指揮者の一人である。私には、今にいたるまで、それが残念でならない。彼のようなタイプは、もう、二度と出ないのではないかと思われるからである。  一八九三年三月にヴィーンで生まれたクラウスは、一九五四年の五月、演奏旅行に出かけて行った先のメキシコ・シティで客死したわけだが、その一九五四年という年は、私にとってははじめてヨーロッパに渡った年であり、私は彼が死んで半月後ヴィーンに出かけて行ったのだった。その年のヴィーンの音楽祭は六月からはじまった。そうして、このプランをたてた時は、私はヴィーンに行けば当然クラウスがきけるものと思いこんでいたのだった。予告にも、彼の名がのっていたはずである。    1  キングレコードの『クレメンス・クラウスの芸術』第一巻につけられた門馬直美氏の解説をよむと、クラウスの父親はオーストリア帝室と姻戚《いんせき》関係にあって、近衛《このえ》の騎兵隊に属する貴族であり、母親は女優からソプラノ歌手となり、後にはヴィーンのフォルクス・オーパー(つまりオペレッタや何かをやる劇場である)の舞台監督になった。それに大伯母というのが、また、パリのオペラ座でプリマ・ドンナだった。それからまたクレメンスの祖父は、ナポレオン時代のヨーロッパ政界の大立物メッテルニヒ宰相の秘書をつとめていた、という話である。私は、ほかでも何か、これに類する記事を読んだ覚えがあるのだが、記憶が不確かなので、門馬氏の文章によらせていただく。  ヴィーンというところは、実におもしろいところで、あすこにいると実にいろいろな噂《うわさ》を耳にするものである。噂ばなし、現代日本語でいうところの口コミというやつで、新聞とか雑誌とかいう活字になって伝えられる情報とはまたちょっと趣のちがった情報である。「こんなことは新聞には絶対に出ないけれど、実は近々カラヤンがヴィーンの国立オペラにまた返り咲くらしい」とか何とかいったたぐいの話から、「これは実は国家秘密だけれど、近くソ連のブレジネフが中国の共産党幹部と会見するらしいよ。場所? もちろん、ヴィーンのホテル○○だよ」とか、いやもう、実にいろんな話が、どこからともなく流れてきて、また、消えてゆく。そんな話の中でも、音楽家をめぐる噂は、みんなが興味をもっているうえに、あんまり天下の形勢と関係がなく、いわば無害だから、よけいみんなが口にしてみるのかもしれない。そういう中で、私は、アルバン・ベルクの未亡人は、実は前のオーストリア・ハンガリー帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフ二世の庶出児だとかいった噂をきいたこともある。事実、私は一度音楽会で、たまたま席が近かったので、彼女に紹介されたことがあるが、色白のホッソリした、いかにも繊細で品のよい貴婦人だった。いや、こんなことを書いていると、差し出されて握った彼女の手が、これまた真っ白で、優しい形をして、皮膚がまるで人間のそれとも思えないくらい柔らかだったような気がしてくる。果たして本当にそうだったか。あんまり、本当らしいものだから、私はかえって迷ってしまうのだが、彼女の物腰の優に淑《しと》やかだったこと、これは本当である。  私がこんなことを長々と書くのも、実は、クラウスについても、何かこの種の噂をきいた覚えが、ぼんやりとあるからでもあり、もう一つは、写真などでみるクラウスの顔や形には、いかにも長い伝統を背負った文化圏での芸術家といったおもかげで、アルバン・ベルク夫妻と共通するものがあると見えるからでもある。  写真などで見るとクラウスは、一度見たら忘れられないような顔をしている。ブロンズの肖像にこそふさわしいような彫り跡の鮮かな顔の中央に、大きな鼻が、古代ローマの貴族のそれといった恰好で、垂れさがっている。その鼻の根本の両側にはくっきりと見事な線を描いて曲がっている長い眉があり、その下の目は大きく(瞳《ひとみ》はどんな色をしていたのかしら?)、長い睫毛《まつげ》とたれさがった瞼《まぶた》と目の下と、その全部を通じて、そこにかなり黒い翳《かげり》が現われていたように見える。その黒いしみと、左右に大きく拡がった鼻翼とは、この顔の持ち主の官能的で情熱的な性格を物語る証《あか》しのように思われるのだが、それに対して、上下の唇は、写真によって実にさまざまに相違していて、厚いのか薄いのか——ときには冷たく見え、ときには際立って肉感的に見え、おそらく、顔の中でもいちばん表情の変化にとんだ部分だったのかもしれない。額は、とりわけて高いというのでもないらしく、むしろ円味を帯びて、うしろに向かって反っているかのようだ。  それから大きな両手(彼は、ピアノも巧みにひいた)。身長はかなりあったのではなかろうか。少なくとも、写真でみると、ボスコフスキーより、よほど大きいし、別の写真ではR・シュトラウスより高いが、シュトラウス自身もかなり長身の人だったはずだから、クラウスは、むしろ長身の堂々たる美男子ということになるのではなかろうか。  ベルクの肖像は、ここで思い出すまでもないだろう。ベルクは、たしか、一八八五年の生まれだった。十九世紀末に生まれたヴィーンの音楽家たちの中には、よくこの二人のように、極度に官能的で肉感的な、しかも、精神的なものに対しても並外れて敏感で、ほとんど透視的といってもよいくらいの洞察力にめぐまれた素質を感じさす人がいたようである。そのうえに、ベルクもそうだがクラウスという人も、音楽以外でも、並々ならずひろい教養の持ち主だった。これは、R・シュトラウスにみこまれて、彼の晩年の名品『カプリッチョ』の台本を提供したという事実を思い出してみても、わかることである。シュトラウスという人は、長年にわたって、ホーフマンスタールのような当代最大の詩人の一人を相手にオペラを書いてきた人なのだから、よほどの教養と鑑識と才能がなければ、台本作家としてこの人の眼鏡にかなうことはできないはずである。  教養と感覚と、クレメンス・クラウスは、この両方を兼ねそなえた今世紀前半のヴィーン出身の名指揮者だったのである。    2  クラウスがR・シュトラウスに近かったのは、前述の通りである。彼は、ヴィーンの国立オペラで、シュトラウスとフランツ・シャルクを先輩として、同じ時期に働いた人であり、また、このドイツのロマン主義の最後の巨匠から、四つまでもオペラの初演を委《ゆだ》ねられた人である(一九三三年の『アラベラ』、一九三八年の『平和の日』、一九四二年の『カプリッチョ』、一九五二年の『ダーナエの愛』の、それぞれ、ドレースデン、ミュンヒェン、ミュンヒェン、ザルツブルクでの世界初演。この最後の作品は遺作としての初演だった)。  クラウスがR・シュトラウスの作品の指揮者として、最もオーセンティックな人と目されるようになったのも、当然のなりゆきだし、事実、彼はシュトラウスから多くを学んだにちがいない。この二人については、ショーンバーグの本に、一つの逸話が書いてある。一九三三年のドレースデンでの『アラベラ』の初演のおり、クレメンス・クラウスが上演に備えて、指揮をとり、ルバートだとか、休止だとか、リタルダンド、テンポの変化などいっぱいつけた。「しかしいざ稽古がはじまると、シュトラウスは苛立《いらだ》たし気に、何も彼もきれいに御破算にしてしまった。"Nein kein ritardando"とか"Kein fermate"とか"Einfach, in Takt"(簡単に、拍子を守って)、とかいった具合に」(ショーンバーグ『偉大な指揮者たち』二三九ページ)  ついでに同じ本から引用すれば、シュトラウスは、ある日、ベートーヴェンの交響曲の緩徐楽章の練習をつけている時、オーケストラに向かって、"Gentlemen, please, not much emotion. Beethoven wasn't nearly as emotional as our conductors."(諸君、そんなにカッカしないでくれたまえ。ベートーヴェンは指揮者先生がたみたいにのぼせ性じゃなかった)といったという話のあるくらい、実に直截《ちよくせつ》に簡潔に指揮したので有名な音楽家であるから——しかし、その彼は、生きていたころ、少なくとも壮年時までは、作曲家としてと同じくらい、指揮者として高く評価されていたのである——、クラウスとのこの逸話も、その伝の一つにすぎまいが、だからといって、クラウスが、そこから多くを学んだということを否定することにはならない。むしろ、今日、クラウスの指揮をレコードできいてみた時の印象をのべる時には、まず、この逸話を思い出してみるのが、大切だろうと思う。    3  R・シュトラウスの指揮者としての作曲へのアプローチは、根本的に主知的なものだったろう。彼は、聴き手に、音楽作品の《形》、つまり構造と様式が、正確に、むだもなく、不充分でもなく、伝わるようにということを主眼として指揮をしたにちがいない。そうやってみても、作品の情緒として聴き手に伝わるべきものは、必要なだけはちゃんと伝わる。それを誇張するのは、単に余計な話であるだけでなく、むしろ作品を情感過多のものにゆがめてしまう。「ベートーヴェン自身はわが指揮者先生がたみたいに、のぼせ性じゃなかったのです〓」  ところで、クラウスに帰ると、クラウスはR・シュトラウスのこういった態度から多くを学んだにはちがいないが、それだからといって、何も、指揮者クラウスがそのために指揮者シュトラウスに似た存在になったというわけでは、少しもないのである。  クラウスは、シュトラウスとはまったくちがうタイプの音楽家だった。シュトラウスという人は人並みはずれた自分の能力について充分に自覚した力の意識に支えられた、そうして冴《さ》えきった知性に裏づけられた、自我中心の現実主義者だったろうが、クラウスは——初めにふれたように——教養が高く、また敏感で精緻《せいち》な感覚をもった人ではあったろうが、感情ということになると、シュトラウスのような噴出的な烈しさもなければ、強固な自信に裏づけられた力強さもない。弱くはなく、烈しくはあっても、むしろ、とかく外界に対して敏感に反応する、ゆれやすく、動きやすいタイプではなかったろうか?  少なくとも、彼のレコードをきいていて、私は、そこに、感情の力強さ、純一さといったものは感じないのである。  クラウスの特徴は、そういう点にあるのではない。貴族主義的とまではいいきれないが、もっと洗練されたものであり、力で押し切るやり方は、おそらくクラウスの内心ひそかに軽蔑《けいべつ》していたものではないかという気がする。    4  私は、クラウスをききそこなったので、さっきいった旅行中、レコードを一組買ってみた。『サロメ』である。もちろんシュトラウスのあの『サロメ』であり、ヴィーン・フィルのオーケストラとともにクリステル・ゴルツがタイトル・ロールを歌い、それに、パツァーク(ヘロド)だとかハンス・ブラウン(ヨハナーン)だとかマルガレータ・ケネイ(エロディアス)だとかが加わったものである。あまりにも古いレコードで、もう十何年もきき直したことがない。しかし、この中でのある個所——たとえば、ヨハナーンとサロメのやりとりの場などの演奏は、今にいたるまで忘れようといっても忘れられないくらい耳についている。何が? その「艶にやさしい」ところがである。私は、ほかにももっと情熱的で力強いサロメや妖艶《ようえん》なサロメはきいたけれども、このレコードのそれのように、官能的でありながら、しかも優しい風情の失われることのない演奏は、たえて、出会ったことがない。  例の、〈七つのヴェールの踊り〉の音楽にしても、そうだ。断わっておくが、私は、このオペラの中で、この有名なあまりにも高名な部分は、どちらかといえば、出来のよくないほうだという意見にむしろ賛成である。しかし、このクラウスのレコードできいた記憶は、私の頭にこびりついて、以来、ほかの演奏では、ほとんど満足したことがない。みんな、露骨すぎるのである。もちろん、この音楽自体には、何の品位もありはしないし、多かれ少なかれ、露骨な挑発の場として、シュトラウスは作曲したとみてよかろう。しかし、クラウスできくと、たとえ高貴なものは感じられないにせよ、そこには、含羞《がんしゆう》から性的な挑発にいたる間の官能の無限の段階がある。つまり、露骨な性の挑発だけでなく、何ともいえぬ《色気》さえあるのである。  こういったことが可能なのも、クラウスがヴィーンに生まれ、嘘か本当か知らないが、帝室と姻戚関係の貴族出身とか何とか噂されるだけの、何か古い血の流れている家系の中から出てきた芸術家だからだ、というように、私には思われてならない。彼の『サロメ』は何よりも、自分の中を流れている古い血の呼び声から逃れようと必死な人間を描いているのである。さもなければ、この少女は、ヨハナーンのような荒地に叫ぶ異形の人などに魅せられなかったろうに。  こういう趣は、クラウスの指揮するR・シュトラウスのどれにも感じられるのだが、たとえば、『ドン・ファン』などは、その顕著な実例だろう。ここに底流しているものも、いいようのない不安であり、しかもそれは、明確に表面に出ているのではない。ここに現われてくるものは、フランスのオーケストラのように表面にはっきり出てきて、きらきらと輝くような音色ではなくて、むしろ、粘りつくような手ざわりの色彩感、よく合ってはいるが、透明というよりはやや重た気な諧調《かいちよう》とでも呼びたいようなヴィーン・フィルハーモニーの合奏による、まったく独特な、地味で、しかも雅《みやび》やかな音の姿なのである。オーボエによって歌われる優婉《ゆうえん》な女性の姿にしても、それから「ドン・ファン」の悲しく傷ましい末路にしても、そうである。登場人物たちにはふるいつきたくなるような魅力はあるが、しかしその訴えかけはけっして直接ではない。そうしてこの永遠の遍歴者の末期は行き場のない暗さをもってはいるが、絶望的な重圧感をもって、きくものにのしかかってくるといったものではない。  私がそういう暗さ、空虚の重圧というものを痛切に感じたのは、フルトヴェングラーがベルリン・フィルといっしょにパリにやってきて『ドン・ファン』を指揮した時に、はじめて経験したものであり、以来、ほかの誰からも、あの人ほどの寂寥《せきりよう》を描き出したのをきいたことはないのだけれども。ついでにいえば、カラヤンのこの曲の指揮ですばらしいのは、最後の虚無の厳しさより、そこにいたる過程の中での遍歴の種々相、刻々の変化の流れそのものの中での浮沈の体験なのであって、こういった人びとが、すべて、私たちに同じ『ドン・ファン』を語らないということ、それがあればこそ、私はこんな具合に、指揮者の月旦をしているのである。  ただし、クラウスのような形で、作品に独特の優雅、流麗な香りを添えうるような音楽家のタイプは、いかにヴィーンでも、しだいになくなってゆくのではなかろうか?    5  クラウスは、ヴィーンという、この世界でも二つとはない、独特な趣をもった大都会での音楽生活に、一つの深い刻印を押した指揮者だった。といっても私は、クラウスがヴィーンにはじめて、ある一つのプロフィールを与えたというのではない。そんなことは、誰にも不可能だった。あのモーツァルトにさえできず、ベートーヴェンにさえ不可能だったことである。しかし、また、ヴィーンの音楽といっても、ハイドンが、モーツァルトが、ベートーヴェンが、シューベルトが、そうしてブラームス、ヴォルフ、ブルックナー、またマーラーが、ブルーノ・ヴァルターが、ヴァインガルトナーが、そうしてシャルクが——と、こうして数え立てているうちに、その中からしだいに出来上がり、形をとってきたのであって、そういうすばらしい芸術家たちの黄金の環《わ》の一つが、クレメンス・クラウスであったこと。これは、もう、疑いをいれる余地のないことである。  そうして、その間、重点が帝室や貴族を中心としたヴィーンの社交界からしだいに市民社会に移動してゆく過程の中で、古いものから残され、新しいものの中に、ごく自然に伝えられ、保存され、そこでまた新しい花を咲かせていったのは、何と何であったか? これを詳細に正確に見とどけることは、私たちにはとてもできない話ではあるけれども、少なくともクラウスという音楽家が、その出生から、その音楽家としての出発(彼はヴィーン少年合唱団〔当時の帝室少年合唱隊〕で最初の教育をうけた音楽家だった)、成長、成熟といった軌跡の中で、二十世紀前半のヴィーン市民の音楽生活と深いところで接触し、のちにはそれを形成する有力な力の一つになったこと、これもまた、たしかな話であろう。  私たちが、「ヴィーンでは音楽が市民の間に……」という時、あるいは「ヴィーンの演奏会では……」という時、そういう時の《ヴィーンの音楽》というイメージが今日のような形になっているについては、クラウスのような指揮者が、大きく一役を買っていると見なければならない。  現に、彼は、大戦直後、フィルハーモニーを率いて、大《おお》晦日《みそか》と元旦にかけての間に《ニュー・イヤー・コンサート》を開いて、ワルツを中心に《ヴィーンの音楽》を演奏したものだが、これは単に興行的に成功したというだけでなく、敗戦に打ちひしがれたヴィーンの市民たちに大変な人気を呼んだ。  クラウスのそういう面は、ヨーハン・シュトラウスたちの演奏を通じて、日本の——というより、世界中の音楽ファンの耳にすっかり馴染《なじ》みとなっている。それについては、私が書くまでもないだろう。  私は、ただ、クラウスでは、一つだけひどく気に入らないことがある。それは彼が、フルトヴェングラーがナチと衝突して、ベルリン・フィルハーモニーやオペラから離れた時、その後任に任命されるとさっそくベルリンにのりこんだ件である。くわしい事情がわかれば、私の考えも変わるかもしれないが、あれは、本当に、いやな話である。   ブレーズ [Boulez, Pierre]    1  指揮者ブレーズのことは、私はこれまで折にふれ何回か書いてきているので、今、ここで改めて書くのはらくではない。  私としてみれば、彼を今世紀の最も天分にめぐまれた音楽家の一人と考えていると書けば、それでもう充分なようなものでもある。ちょうど、アメリカ人の間からレナード・バーンスタインが、最も天分に恵まれた音楽家として生まれ、育ち、現在、それにふさわしい活躍をしているように、そのように、ブレーズの活躍も目ざましいというほかない。  だが、もちろん、この二人の間には、単に個人としての才能の質の違いがあるうえに、伝統の長さ、厚み、そのほかからくる違いのほうもずいぶん大きい。早い話が、二人とも作曲をするといってみたところで、『ウエスト・サイド・ストーリー』と『主なき槌《つち》』ないしは『プリ・スロン・プリ』との違いは、大変なものである。一方は初めから広い公衆に呼びかけることを目的とした舞台芸術であり、社会のダイナミズム、ヴァイタリティといったものを大きくくみとってゆこうとする作品であるのに対し、もう一方は、ヨーロッパ近代音楽の展開のあとを忠実におってきた末の精緻《せいち》、厳密な美学による純乎《じゆんこ》とした芸術作品である。その違い方は、どちらがより高い価値をもっているかという質問さえ、すでに滑稽なものになってしまうくらい、大きい。こういうふうに、同じ時代に生きている音楽家たちの作品でありながら、その間に比較の余地もないくらい音楽家の追求するものが分裂してしまった時代を、不幸と考える人もあるわけだし、そこにこそ音楽の衰弱があるという見方だってあるにはちがいないが、実は、この傾向は、何も二十世紀の産物ではないのである。すでに、ブラームスやヴァーグナーがシュトラウス——もちろんヨーハン・シュトラウスのほうである——のワルツを嘆賞した時、そこには、もう、音楽が、高級な芸術音楽と大衆の喜びに接着したところで生きてゆく音楽とに分裂しているという事態に対する認識があってのうえだった。いったん、それに気がつくと、音楽の二極化ということはベートーヴェンの時代にも、バッハの時代にも、いや、ルネサンスに、という具合にさかのぼっていって、結局、中世の主として教会で開拓されていたポリフォニックな知的な音楽(musique savante)と、教会のそとで行なわれていたホモフォニックな歌や踊りの音楽との共存時代まで、ゆきつくことになるだろう。  それを考えるのが、私の当面の課題ではないけれども、しかし、ブレーズが指揮者として、今や押しとどめようもない勢いで世界の楽壇に大きく歩みはじめているのを見ると、かつて彼の作曲家としての出発点の意味がどこで、どう生かされているのだろうか? と、一度は考えてみたくなるのは、当然だろう。  ブレーズは、今世紀の五〇年代の初めにシュトックハウゼンとならんで、戦後の新音楽のメッカだったダルムシュタットの夏期講習の押しも押されもせぬ中心人物になる前から、前衛の秀才といっても、ほかの人びととはちがっていた。論理の精緻と徹底という点では他人と共通していても、音色に対する感覚がちがっていたし、リズムに対する感覚がちがっていた。そのころの彼は、よく、ヴェーベルンをドビュッシーにつないでその延長線上で創造するといった印象をもたせていた。それは、『水の上の太陽』(Le Soleil des Eaux)だとか、『ポエジー・プール・プヴォワール』(Po市ie pour Pouvoir)だとか、そういった作品をきいた人びとの印象であり、事実また、ブレーズ自身が、それに類したことをよく口にしていた。  しかし、彼でもう一つの目立ったことは、ストラヴィンスキーに対する敬愛であり、傾倒であった。特に彼が『春の祭典』を徹底的に分析して、全曲を構成するプリンシプルとしてのリズム、あるいはリズムのパターンの主題的役割を追求して、リズムと不協和音のバーバリズムとか何とか考えられていた作品の中に、実は驚くべき論理による秩序の支配があることを明らかにしたのは、画期的な仕事という以上の、音楽の行く方について啓示的な意味合いをもつものとさえ思われたのだった。  そういう彼のことだから、指揮者といっても、初めはいっしょに戦っている同僚たちの作品つまり現代の前衛音楽を紹介すること、それから、その彼らの作品の、いわば先輩にあたり、多かれ少なかれその源泉、系譜をあきらかにするような作品を手がけることが中心になっていたのは、当然のことだった。  私も、初めのころは——五〇年代から六〇年代の中ごろにかけては——そういう彼をきいていたわけである。  ブレーズは、パリでドメーヌ・ミュジカルをやっていた関係上、そこでの演奏が多くのレコードになって、早くから日本の愛好家のところまで伝わっていた。そういう中で私が、今でもときにはとりだしてきてかけるたびに感心しないではいられないものに、ピラルチックを歌い手としたシェーンベルクの『月に憑かれたピエロ《ピエロ・リユネール》』のレコードであるとか、あるいはヴェーベルンの変奏曲や歌、それからブレーズ自身の『主なき槌』などをいれたもの(ジャンヌ・エリカールが歌っていた)、あるいはHommage � Stravinskyと題され、この二十世紀音楽の巨匠の生誕八十年を祝って出したレコードで、なかに『きつね《ルナール》』とか『管楽器のための交響曲』以下の数曲が入っているもの等々がある。  それから、最近のレコードでは、ベルク選集という題のもの、ここには『ヴァイオリン、ピアノ、十三管楽器のための室内協奏曲』と『オーケストラのための三つの小品』(作品六)、それから『アルテンベルク歌曲集』(作品四)という、ベルクの中で私のとりわけ好きな曲ばかり入っているレコードがある。この中ではバレンボイムがピアノをひいている。バレンボイムとブレーズの顔合わせでは、ほかにバルトークの協奏曲の第一、第三番を入れたものがあるけれども、これは、ピアニストが表情をたっぷりつけていかにもヴィルトゥオーゾ風に堂々と、絢爛《けんらん》と、ひこうとしているのに対し、指揮者のほうは、そういうことにあまり関心がなく、もっぱらリズミックでひきしまったバルトークをやろうとして、その間にかなり耳ざわりなくいちがいがあるので、私はあまり高く買わない(ついでに書いておけば、バルトークのピアノ協奏曲では、私は、いまだに、ゲザ・アンダとフリッチャイの組合わせ以上のものを知らない。ただし、こちらは二番と三番の組合わせである)。  だが、ベルクはバルトークではない。それに『室内協奏曲』はピアノ独奏用協奏曲とはまるでちがう。ここではバレンボイムの演奏はベルクの音楽のもつ官能的な表情美の発揮にやや偏している傾きがあるけれども、しかし緊張力の強いよい演奏となっている。それからヴァイオリンのガヴリーロフというのが拾いものといってもよいのではないか。    2  しかし、ブレーズのレコードということになれば、誰しも最初に思いあたるのはストラヴィンスキーの『春の祭典』であろう。私にしてみても、それまでブレーズの実演は何度かきいていたが、レコードでびっくりしたというのは、この『春の祭典』が最初だった。これをきいたあとで熱烈な賛歌を書いたことは今でも覚えている。何しろ、そのころは、ブレーズの指揮の優秀なことなど、日本では、ごく少数の人を除けば、まるで知られていないも同然だった。それに、この時のレコードは、コンサート・ホールから出たものだった。どういうわけか、ここから出るレコードは、レコード雑誌でも、あまり批評にとりあげられない。私はそういう事情をちっとも知らなかったせいもあって(今でもその理由がわかったわけではないが)、こんなすばらしいレコードがうるさいレコード・ファンの間でさえ、あまり知られていないのに、すっかりびっくりもし、一般の人はともかく、これほど画期的名演を黙殺しているレコード批評家というものに腹を立てたというわけであった。  ただし、昨年、彼がクリーヴランド管弦楽団につきそって、ジョージ・セルと交替で指揮をしに来日したころ出た同じ曲を、この管弦楽団で入れたもの(前のは、オルケストル・ナショナルだった)が発売され、純粋に演奏の出来、それにレコードの出来ということでいえば、前のレコードを完全に抜いてしまった。いや、それどころか、このレコードの以前に出ていたすべての盤は、この前には色褪《あ》せたものになってしまった。私個人の趣味の中では、前にも書いたように、あの有名な一九一三年五月のこの曲の初演を手がけたピエール・モントゥのレコードは、まったく別の意味で今もなお大切に思われるのだが、しかし、こういうものは、実はレコードできけるというのも、一面ありがたいような、しかし一面悲しいようなものであって、今、モントゥのレコードを、ブレーズの最新盤とくらべてみれば、気の毒なくらい、ききおとりする。音ははっきり出ていないし、随所に不正確なものがあり、ダイナミックもおよばない。  ブレーズの『春の祭典』のすばらしさは、個々の点で正確を極めているというだけでなく、全体をきき通すと、比類のない迫力をもっている点にある。音の輝かしさだって非常なものだ。これもクリーヴランド管弦楽団というアメリカ第一の性能を誇るオーケストラを存分に駆使しているからでもあるが、このオーケストラにしても、ジョージ・セルがああして逝去《せいきよ》してしまった以上、果たして、いつまで、この高性能を持続できるものか。そう思うと、実に、よい時に、レコードに入れておいたものである。  そのうえに、ブレーズできいていると、それまではっきりしなかった個々の音型がよくきこえるというだけでなく、それらのリズムのパターンのもつ構造上の意味がよくわかるようにひかれているのが、すばらしい。これまでのように、ただものすごい力だ、迫力だというのでなく、よく理解できて、しかもそのためにヴァイタリティが少しも失われないのである。これがこの演奏の優秀さの最大の特徴である。  音だけの凄《すご》さ、迫力ということになれば、ひょっとしたら、ほかにあるかもしれない。  私は、そのころちょうど外国にいたので、実演はきかなかったが、数年前日本にソ連の国立交響楽団がきて、エフゲニ・スヴェトラーノフという人の指揮で、この曲を演奏したことがあったようだ。その実演をきいた人びとの話によると、それはもう、これまできいたこともないような、ものすごい大きな、厚ぼったい音がしたそうで、ちっとやそっとでは忘れられない演奏だったという話である。  そんな話を前々からきいていたので、私は、同じ顔ぶれの演奏によるレコードをきいてみたレコードだから、純粋に物理的な音量はわからないけれども、これはこれで迫力に富んだ演奏だと思った。  と同時に、これは西欧ですでに一つの伝統となっている演奏のスタイルとは、かなりちがうものだということもわかった。これといちばん遠いところにある演奏といえば、まず、アンセルメあたりになろうか。アンセルメのは、物量できかせるダイナミックとは反対のものであるもっともオーケストラとして、スイス・ロマンドはソ連国立交響楽団とはとても太刀打ちできない。  スヴェトラーノフの盤をきくと、まず最初の出だしのあの有名なファゴットのふしが、やたらクレッシェンドがついたり、ディミヌエンドしたりまるでオペラの歌い手の歌のように、《表情》がいっぱいにつめこんであるのに気がつく。まさに厚化粧である。リムスキー〓コルサコフの流れのうえに立つものではあっても、二十世紀初頭に、音楽の流れを十九世紀のそれからきっぱりたちきって、まるでちがう方向に変えるのに成功した作品の演奏とは、とても思えない。  そういうことは、この先になって、やたら変拍子が出没し、そうして大胆を極めた不協和音が鳴り響かされるようになっても、根本的にはちがわない。和音にしても、もちろん、それまでの機能和声によるハーモニーの動きとはひどくちがうものではあっても、それを垂直にとった音の和音的緊張関係、あるいは低音の重力、牽引《けんいん》性というか、そういうものの余韻は、充分すぎるくらいに、きこえてくるのである。それもまるでブルックナーか何かのように。  そういったものの一例でいえば、あれはたしか——そう〈春の踊り〉と呼ばれる部分、Boosey and Hawkesのポケット・スコアで、三七ページから三八ページに入る前後のところ。これまでの〈誘拐《ゆうかい》の戯れ〉の烈しい動きが一段落して、弦が二小節にわたってユニゾンでEととの間のトレモロをやる。そうしてこれも終わると、それをひきついで、フリュートがの上でトリラーをやる。そのフリュートがトリラーを吹くだけで、全オーケストラは沈黙する(譜例1)。そうして改めて音楽がはじまる時は、クラリネットの旋律がきかれるのだが、それは先行する部分がヘ調で終わったあと変イ長調となってはじまるのである。そうして、この変イ長調トランクイロの部分が六小節あったあとで、曲はソステヌート・エ・ペザンテ、変ホ短調に移ってゆく。ところで、この3度近親調による転調は、私としては、何もわからず、ただもうびっくりしてこの曲をきいた最初の時以来、記憶に残っていた個所の一つであるが、それがこんなに古風な——というのも語弊があるけれども、まるでベートーヴェンの序曲か何かのような感じで扱われるのをきくのは、はじめてであり、私は少なからず、びっくりしないわけにいかなかった。  こういうところをみても、スヴェトラーノフの解釈が——いや、これは解釈といったようなものではなくて、むしろ少なくとも現在のソ連人の音楽の感受性にもとづく構造的な聴き方にもとづいているのだろう——ストラヴィンスキーの音楽を、何を接点として受けとめているかが感じられてくるのである。だから、この曲の演奏一般の与えた印象として、音量の巨大さ、音の威圧的な重量感といったことをとってみても、それは、実は、この音楽を、ヴァーグナーか、ブルックナーか、とにかく、後期ロマン派の和声音楽の一種として、つまり根本的にハーモニーの音楽として把握《はあく》していることから、生まれてきた現象なのではあるまいか。  ブレーズのは、そういうのと、まるでちがう。たとえ、音としての効果に似たものが生まれる場合があるとしても、その基本的性格、または精神においてちがう音楽なのだ。  つまり、ここでは、ロマンティックな、表現の音楽ではなくて、リズムのパターンたちの活躍する舞台となるところの空間を形成する音楽とでもいうか、鳴り響く音の動きのザッハリヒな進行が、この音楽の生命であることを示している。というのも、ここには、手垢《てあか》のついた、表現とか何とかいう《言葉》に対する不信と、それからもっと即物的な響きそのものに音楽の出発点を見ようとする精神とがあったからである。  簡単にいえば、この曲を、スヴェトラーノフのように、ロマンティックに演奏するのは、様式上の誤りなのである。  と、この曲に対して、すでに作りあげられてきた西欧的な伝統は、こんなふうに語るわけだが、そのうちでもこれを最も精神的にとらえているのがアンセルメであり、ブレーズの指揮も、もちろん、その系譜に入る。だが、それでいながら、ブレーズのは、精神と様式、音楽の論理の透徹と明快さのうえに築かれた迫力という点では、この系統のあらゆる演奏をはるかに凌駕《りようが》しているにもかかわらず、これがまた響きのものすごさとずっしりと手応えのある重量感という意味で、透明で知的なアンセルメとはちがって、スヴェトラーノフのそれに最も近いところに立っているのである。私には、これはとてもおもしろく思われる。反対の点から出発しながら、この二人には、共通するものがあるのである。    3  ブレーズの指揮といえば、もう一つ重要な領域はドビュッシーの音楽である。私がこれまできいたレコードでは『海』(ニュー・フィルハーモニア管弦楽団)と『イマージュ』とが、いちばん楽しく、また、いちばんくり返してきく機会が多かったものである。『海』は全体をきき通して、きわめてすぐれた出来であり、『イマージュ』の中でも私の好きな〈イベリア〉についていえば、〈夜の匂い〉から〈祭りの日の朝〉に移ってゆくところが、特にすばらしい演奏になっている。ブレーズという人は、冷たい、正確一点張りの演奏をしているようでいて、実はそうではない。ただ彼は、音を通じて何かを語らせようとしないだけで、音と響きが、どんなに香りの高いものでありうるかについて、またリズムとダイナミックがどんな夜中から暁方《あけがた》の日の光を静かにとりだし、つくりだしうるものであるかについて、恐ろしいほど生き生きと描き出す力をもっている人なのである。  ブレーズのドビュッシーの演奏で気づくのは、オーケストラの音の均衡に対する抜群の配慮と、前進したり躍動したりするリズムの活力をいつも、音の色に結びつけて処理する能力の高さである。  それにしても、指揮者としてのブレーズは、これからますます幅のひろい活躍をすべき人なのだから、彼の仕事の全貌《ぜんぼう》を見渡し評価するというのは、ここ当分は望むべくもないだろう。   ミュンシュ [M殤ch, Charles]    1  ミュンシュの指揮をはじめてきいたのは、はじめてアメリカに行った時のことであるからずいぶん前の話になる。当時の彼は、ボストン・シンフォニーの常任指揮者だった。そのころ——というのは今世紀の五〇年代の前半だが——ニューヨークに滞在していると、地元のニューヨーク・フィルハーモニーと晩年のトスカニーニの主導下にあるNBCオーケストラのほかに、定期的に訪れてくるフィラデルフィア・オーケストラ、それからボストン・シンフォニーと、この四つの大交響楽団がきけたものである。  その中で、当時のニューヨーク・フィルはまだバーンスタインが就任する前で、ミトロプーロスが常任だったが、あんまり評判はよくなく、ほかの三つの管弦楽団とくらべるとかなりおちるというのが一般の評価だったし、NBC交響楽団は、とにかくトスカニーニとその楽団というわけで、よいにも悪いにも、彼が好きか嫌いかで一切がきまるようなものだから——実際にはトスカニーニだけでなく、たとえばカンテルリが指揮台に立つこともあったけれども——、普通のあり方での、アメリカの最大最高の交響管弦楽団といえば、ボストンかフィラデルフィアということになり、その両方に、それぞれのひいきがいて、一方がボストンを推せば、他方はフィラデルフィアの肩をもつという具合だった。  私は、どれがいちばんというのをきめる遊びにはあんまり強い関心がない。以上のオーケストラは、それぞれがおもしろかったり、つまらなかったりした想い出があるし、ミトロプーロス指揮のニューヨーク・フィルだって結構すばらしい演奏をきかせてくれた。  そういうなかで、ミュンシュの率いるところのボストンでは、やはり、何といっても、ほかのオーケストラよりはフランス的な味が濃く、弦も柔らかくてきれいだが、特に管の音色の磨きたてられたような艶《つや》やかさが売りものという、その評判通りの見事な演奏をきいて感心したものだ。そうしてデュティユの『第一交響曲』をきいたことと、それからラヴェルの『ダフニスとクロエ』をきいたのを、まず想い出す。評判通り、たしかに弦も管もきれいだったけれども、それと同時に、弦のバスが案外に軽くて明るかったのを、つぎに想い出す。それは、また、そのあとで、ベルリン・フィルやヴィーン・フィルをきいた時に、もう一度痛感したのだが、こういったドイツ・オーストリア系の大交響楽団では、バスが実に部厚くて、底力のある響きを立て、本当に腹の底から、力が出てくるというか、どっしりと、いかにも頼りになる音が出るのだった。そこでは、機能和声でいう通り、バスは、単に低いところにおかれた音であるばかりでなく、和声の柱を下から支え、そこから和声の全体が発生してくるところの根音であるという事実に、気がつかずにいられない態《てい》のものだった。そのことにいやというほど気づかされた時、私は、前にボストン・シンフォニーをきいて、このバスは何と軽いのだろうと思ったことを想い出した、というのがいちばん正確な言い方になるだろう。  こうして思ってみると、ボストン交響楽団できいたバスは、軽快に縦横に走りまわる一つの声部であった。    2  これが、ミュンシュの指揮によるものか、それとも、ボストン・シンフォニーの一般の特質か、それを区別することは、容易ではない。それに、いくらボストン・シンフォニーのバスが軽いといって、何も、それが和声上低音であると同時に根音であるという近代ホモフォニー音楽の原理的なあり方をはずれてしまったバスでしかないというふうに受けとられても困る。そういうことはありえない。  だが、ちがうことは、ちがうのである。  その例として、手近かなもので拾えば、ミュンシュがボストン・シンフォニーを指揮して入れた、ベルリオーズの『幻想交響曲』の出だし、〈夢心地〉と名づけられた導入のところに針をおろしてみていただきたい。やるせなさの極みを秘めたとでもいいたいような高い管による冒頭から、弦が入り、それから数十小節にして、低音が入る時にしても、ここでは、ズシンと腹にまで響くような入り方はしない。低音は低音で、無限のうらみをこめた音楽を奏してはいるのだが、しかし、その音は、あくまでも全体の響きの構築の中での一部をうけもっているにすぎない。  指揮者の仕事の一つは、いつかも書いたように、オーケストラの各声部の内部での釣合、正しいプロポーションを常に失わないようにすることにあるわけだが、そのプロポーションが、ミュンシュの場合、たとえば、これも前に書いたブルーノ・ヴァルターとちがうのである。ヴァルターのバスは本当に響きの殿堂のすべてを支えるがっちりした土台としてのバスであり、そのバスがあったので、彼の音楽は、また、あんなに豊麗で、しかもよく歌ったのである。  ところが、ミュンシュのは、ちがう。ヴァルターに劣らずよく歌うけれども、ここには、ああいった重量感はないし豊麗さもない。そのかわり、とびきり色艶のよい音の輝きがある。しかも、その艶やかな輝きの中で、「各声部が、まるで、それぞれが別々の生きもののように、自在に動いているのが見える」といっても、あまり誇張でないくらい透明な音の織地が展示されてくるのである。  私がこのことをはっきり意識したのは、実は、その後、ミンシュがボストン・シンフォニーをつれて、はじめて日本に客演にやってきた時である。あの時、彼らはベートーヴェンの『エロイカ・シンフォニー』をやったのだが、その演奏の透明度といったら、本当に「スコアを目の前に見ているような」演奏だった。こういう言葉は、たとえば、ジョージ・セルの指揮によるクリーヴランド・オーケストラにも使いたくなるけれども、私としては、いちばんそれを痛切に思ったのは、このミュンシュ〓ボストン・シンフォニーできいた『エロイカ』の演奏だった。ことに、終楽章のヴァリエーションときたら、それはもう鮮かとも何とも、どんな声部にもぐりこんでも、バスの主題的楽想の姿が、まるで水をきれいにとりかえたばかりの小さな池の中を泳ぐ真赤な金魚か何かみたいに、耳に入ってくるのだった。あんなことは、以来、私は経験したことがない。一九七〇年、セルが来て大阪でやった『エロイカ』にも、ひどく感動した私だが、その時でも、こんなことはなかった。  いや、こういうと誤解を招きそうだ。ミュンシュの時は、実は、その透明さを極めた『エロイカ』には、私はあんまり感心しなかったのである(レコードは知らない)。  ミュンシュでは、ベートーヴェンも、モーツァルトも、それからバッハもきいたが、その中では、むしろ、バッハが、今日私たちがききなれているのとはずいぶんちがうスタイルで、ちょっと大時代的な表情のものになっているけれども——これは幾分、バッハのクラヴィーア曲を原譜でなくて、ブゾーニその他のピアノの巨匠の編曲した版によるグランド・ピアノの演奏できくのに近い——、それでも、華麗でなかなかよかった。少なくとも、とても音楽的で、楽しくきけた。  しかし、私が、ミュンシュで好きなのは、ベルリオーズと、それからラヴェルである。  ベルリオーズでは、前あげた『幻想交響曲』は、おたがい、ずいぶんいろいろな人の実演やレコードをきいてきたわけだが、私は、これまでのでは結局、ミュンシュのものがいちばん好きである。華麗で、劇的で、憂鬱で、無限にやさしい気持と、残忍で冷酷なものといったさまざまの矛盾するものをいっぱいつめこんだこの音楽を扱って、ミュンシュの演奏は、何よりもそのパレットの上の色彩の豊かなことと、表現の即興性の豊かさと、この二つの点で、私には最初から、心に直接訴えかけてくる演奏なのである。  だが、そういうこととならんで、私には、十九世紀ロマン主義の大作曲家のなかで、ハーモニーの扱いという点ではいちばん遜色《そんしよく》のあるベルリオーズの音楽には、ミュンシュのように、音楽のたて糸よりもよこ糸の表情美を表わすことに長じた人の指揮ぶりこそ、よりぴったりした行き方ではないか、という気がするのである。  こういいきってしまっては、いくら何でも素朴すぎ、幼稚すぎる。それは、私も心得ている。しかし、ミュンシュの『幻想交響曲』をもう一度きいていただきたい。そうすれば、少なくとも、私が何をいっているかはわかっていただけよう。  同じような意味で、私は、ミュンシュ指揮のベルリオーズの『ロメオとジュリェット』のレコードがひどく気に入っている。これはまさに、「おもしろくて、やがて、悲しき」劇的な物語の、これ以上のことは考えにくいほどの名演ではないだろうか?  それから、同じ作曲者の『イタリアのハロルド』が、また、日本でこんなに有名なのも、私には、まったくもっともとしか考えられない。    3  シャルル・ミュンシュは独仏両国の間で領土の争いのあったストラスブールの出身であり、この街は彼の生まれたそのころは、たまたまドイツ領であったためか、彼がまだ、ライプツィヒのゲヴァントハウス・オーケストラのコンサートマスターをつとめていたころ、当時、このオーケストラの常任指揮者であったフルトヴェングラーから指揮を学んだということになっているのは、誰も知っている。そうして、そのあと、フランスに行き、パリで指揮者としての輝かしい経歴を踏みだすことになったのも。人びとは、こういった経歴から推して、この人が、フランスの音楽とドイツの音楽の両方に通暁した大家になったも当然だという。これも、一般にひろく容認されたところである。私も、それに文句はない。  だが、少なくとも、それと同じくらい重要なことは、彼がヴァイオリニスト出身の指揮者であって、ピアノを学んでしだいに指揮者になっていった指揮者の系統に属さないという事実である。前に私はモントゥの時にもふれたが、こういうことは、おそらく、ドイツ系指揮者よりもフランス系の指揮者に比較的多いともいえるのかもしれない。しかし、何もフランス系指揮者に限ったことでは、もちろんなくて、クーセヴィツキー(もっとも、この人はロシア人であるのと同じくらいフランスの音楽家に近い人とみてもよかろう)やオーマンディもたしかそのはずだし、若いところではローリン・マゼールがそうである。  こういう人たちの指揮を、簡単に一口にまとめてしまうのも無理な話だが、大雑把《おおざつぱ》にいえば、やはりある種の共通点はあるのであって、その一つに、和声的であるよりは、むしろ旋律的というか、とにかく横に流れる線の暢達《ちようたつ》と絹のように艶光りする音色についての好みとでもいったことがあげられはしまいか?  まあ、これは私の仮説であって、私もいいきるだけの自信はないのだから、このくらいにしておくが……。  もう一つ、ミュンシュを実際にオーケストラの楽員の側からよく知っている人たちが、異口同音にいうことは、彼が、どちらかというと練習練習で演奏をかためてゆくタイプでなく、むしろ、本番での一発勝負にすべてを賭《か》けるというか、とにかく、その時その時の本番になって閃《ひら》めき出てくるものを何よりも尊んだ人だったということである。即興性というよりも、むしろ、精神の緊張から生まれるインスピレーションの生き生きした躍動の重視といったほうがよいだろう。そういう行き方が、また、ベルリオーズの音楽のように、ときに、きわめて劇的な表現を、ほとんど和声的にはとるにたりぬ裸のままの旋律一本、それも、歌うというよりはきわめて自由で奔放なレチタティーヴォといったほうがよいものにすべて託してしまっている音楽を表現する時の、その鋭くて、勁《つよ》くて、真実味のこもった演奏にむすびついていった、と私は考えるのである。例はいくらでもあるが、『幻想交響曲』の第三楽章〈野の風景〉をとってもよく、『ロメオとジュリエット』の狂おしいばかりの歓喜と絶望の交錯、それから、この二人の若くて永遠の恋人たちの死を表わした第二部の終わりをとってもよい。こういうところはもちろん、ベルリオーズのころの音楽の書き方として、ミーター(拍節)から解放された音楽になっているわけではないのだが、しかし、精神的には、いわば自由なリズムの音楽になっているのである。  だが、もう一つ、ベルリオーズに少しも劣らずおもしろい例は、ミュンシュの指揮で、ラヴェルをきくことである。 『ボレロ』を例にとってもよい。だが、圧巻は、私の知る限り、『ダフニスとクロエ』の第二組曲である。  この曲の出だし。あのラヴェルの完璧《かんぺき》なオーケストレーションによる夜明けの部分。私はこれをかつてニューヨークで、ボストン・シンフォニーを指揮するミュンシュのもとできいた時ほど、いかにも「上のほうから光のさしはじめてくる感じ」とでもいった印象を強く抱いたことはない。ここでの、何度かくり返してきた、あのバスの軽快さというものは、今思うと、何だか奇蹟《きせき》のように感じられる。  そのあと、私は、パリに行き、同じ曲を、ラムルー管弦楽団をマルケヴィチが指揮する時にきいた。その時のまた、色彩の圧倒的な氾濫《はんらん》の思い出は、今も、残ってはいる(響きそのものとしてではない。いくらなんでも、そんなに私の記憶力は強くない。音色の流れのすさまじさその氾濫に圧倒される想いがした。そのことが忘れがたいのである)。  そうして、それとは逆にミュンシュのは、下からの光の洪水ではなくて、もっと上からきらきらと輝きながら、降ってきた微光のその夢幻的な美しさという記憶として、残っているのである。  いや、これでもまだ、私は自分を少し偽っている。その私の記憶は、実は、今度この原稿を書くについて、ミュンシュがパリ管弦楽団を指揮して入れたレコードをききだして間もなく、よみがえってきたものなのである。それをじっときいているうちに、今度は、私はもうずっと前から、いつもそれを覚えていたような気になってしまったのだ。  記憶というものは、そういう生きかえり方をする。  このレコードは、ミュンシュのレコードとしては、かなり晩年のものだろう。何しろ、ド・ゴール政権の文化相アンドレ・マルローが国威宣揚か何か知らないが、大きな抱負をもって編成のきも入りをしてオルケストル・ド・パリが生まれたのが一九六七年。ミュンシュがその初代の音楽総監督に任命され、「あの大の練習ぎらいの人物が、新しいオーケストラを育成する義務を負わされ、どうするのだろう?」などとヨーロッパの楽壇雀どもが取沙汰していたその噂《うわさ》のまだ完全に消えきらない一九六八年の秋に、楽団披露の巡演中のアメリカで、七十七歳をもって、永遠の眠りについてしまったのだった。だから、ミュンシュがオルケストル・ド・パリを宰領していた期間は一年そこそこしかない。その間に、彼がつくったレコードというものが、ほかに何枚あるのか、私は知らない。だが、この『ダフニスとクロエ』第二組曲を入れたレコードは、かつてボストン・シンフォニーのニューヨークでの演奏会で、彼の指揮姿にはじめて接したその時にきいた同じ『ダフニス』を、私にまざまざと思い出させる。ということになると、私が先にあげたミュンシュの音楽のつくり方の特徴は、ボストン・シンフォニーの特質ということではなくて、やはり、ミュンシュの行き方であるのだと考えてよいということになるわけだ。    4  以上のことと、音楽のリズミックな側面での表現力に——リズミックなダイナミズムというか——長じていることも、ミュンシュをきいて気がつかずにいられない点ではなかろうか。  こういうと、読者は、すぐストラヴィンスキーとかバルトークとかを連想するかもしれない。そういう人びとの音楽についても、ミュンシュがすぐれた手腕を発揮しなかったとは想像しにくいのだが、しかし、私が、ここで念頭に浮かべるのは、たとえばルーセルだとかオネゲル、ないしはデュティユといった二十世紀フランス音楽の、その中でも、どちらかといえば線的で対位法的な作風の音楽家たちの作品の演奏である。  ミュンシュには、こういった人びとの交響的作品を入れたレコードがある(オネゲルの『第四交響曲』とデュティユの『メタボール』を入れたもの。それから二枚の組物で、ルーセルの『第三』『第四交響曲』および『ヘ長調の組曲』とデュティユの『第二交響曲』とが納めてあるもの)。  これが、また、ききものである。こういうものをきいていると、あのものすごく大がかりな身振りで指揮するミュンシュ——「実際はそれほどでもないのに、どういうわけか、まわりからみると、そう見えたのだ」と主張するオーケストラの楽員も少なくないようだが——、音楽の移り変わりに応じて、優しくほほ笑んだり、鬼神も避けるような恐ろしい顔をしたりしたミュンシュとはちがって、澄んだ顔つきの落ちついた物腰の彼の姿が思い出されてくるのである。あの人は幾分内気で、話題も、芸術家というより職人的なものを好んで選ぶのだったが、そういう光景に接していると、世紀の代表的指揮者ミュンシュというより、むしろ一個の人間ミュンシュとしていられる時のほうが、本当は、彼自身にはずっと気に入っていたのではないかと思われてくるほどだった。特にユーモア好きというのではないにしろ、悲愴《ひそう》がかったことは肌にあわず、誇張をさけ、幾分冷たい目で自分を眺めるくせがあったような気が、私には、するのである。  彼の近代フランス音楽のレコードをきいていると、私はついそういうことを考えてしまうのである。   フルトヴェングラー [Furtw穫gler,Wilhelm]    1  フルトヴェングラーの指揮姿に——しかも彼が死んだ一九五四年という年にはじめてヨーロッパに旅行したくせに——何回か接することができたというのは、私がいまだに自分の幸福の、それもいちばん混じりけのないよろこびに数えているものの一つである。  私は、まずその年の五月パリで、ベルリン・フィルハーモニーを率いてきた時のフルトヴェングラーを二日間続けざまにきいた。それから七月から八月にかけて、ザルツブルクでオペラ『ドン・ジョヴァンニ』と『魔弾の射手《フライシユツツ》』を指揮する彼をきき——この時のオーケストラはヴィーンの国立オペラ、つまりはヴィーン・フィルハーモニーの連中だったはずである——、その足で今度はバイロイトにまわって、あすこの祝典劇場でベートーヴェンの『第九交響曲』をきいた。この時と同じメンバーによる一九五一年度の演奏がレコードになって残っている。  このほかにも、私はヴィーンとベルリンで、それぞれ、もう一、二日早く行っていれば、彼をきくチャンスに恵まれたはずだった。しかし、それがきけなかったことを別に惜しいと思っているわけではない。私は、自分が何回か、それを以上のいろいろな土地で、いろいろな重要なプログラムで、フルトヴェングラーをきくことができたということで満足しているのである。  まあ、強いていえば、バイロイトでヴァーグナーの楽劇を一つ、『トリスタン』か『ヴァルキューレ』がきけたら、もっとうれしかろうと考えることもできなくはない。だが、正直のところ、私はパリで『トリスタン』の〈前奏曲〉と〈愛の死〉をきいていて、その時はすごく感激したものだった。たとえ、あの楽劇全体がきけたとしても、果たして、あれ以上の何が感じられたかどうか。  フルトヴェングラーは、この曲を、パリでのベルリン・フィルの演奏会のアンコールとしてやったのだったが、それは本当にすばらしかった。当時、私は旅先から東京の雑誌に旅行記を書きおくっていて、それがのちに『音楽紀行』という題で本になった。今、その本を開いてみると、こう書いてある。 「けれども、僕のこの時のフルトヴェングラー体験の絶頂は、アンコールでやられた『トリスタンとイゾルデの前奏曲』と『イゾルデの愛の死』だった。オーケストラの楽員の一人一人が、これこそ音楽中の音楽だという確信と感動に波打って、演奏している。いや確信なんてものではなく、もうそういうふうに生まれついてきているみたいだった。フルトヴェングラーが指揮棒をもった右手を腰のあたりに低く構えて高く左手を挙げると、全オーケストラは陶酔の中にすすり泣く」。  妙な文章であるが、あの時、私の見たものについては、ああたしかにそうだったとはっきり思い出すことはできる。そう、私は演奏に感激すると同時に、ベルリン・フィルの楽員が、ことに指揮者の左右で前のほうに坐っていた弦楽器のメンバーが身体を前後に波打たせて演奏していたのにも、注目していたのだった。それはまさに、自分と自分のやっている音楽とが一体になっている境地を告げているように見えたものである。「これこそ音楽中の音楽だという確信と感動に波打って、演奏している」という文法的にみても誤りでしかない文章は、そのことを述べたいばかりに書いたのだった。そのつぎの文章も、いけない。話にならない。だが、もう一つ次の文章は、これも私の見たものを伝えたものである。 「指揮者の左手が高くあげられる時といえば、奥に坐ったホルンとかトロンボーン、トランペット、ないしは打楽器に入りの合図を伝えるためであるのが普通なわけである。そうして、指揮者のこの合図に応えて、荘重なコラール風のファンファーレが開始されるとか、金管で力強い主題が出現するとか、私たちの見なれているのは、まず、そういう光景である。ところが、フルトヴェングラーだと、そういうことももちろんあったにちがいないのだが、私の印象に今でも鮮かなのは、『トリスタン』の前奏曲で、彼の右手が拍子をとるのをやめて腰のあたりに低くおかれてしまっている一方で、左手が高々とまるで炬火《たいまつ》でもかざすようにあげられる。それにつれて、一〇〇人を優に越すオーケストラのトゥッティが最高潮に達し、興奮の極に上りつめる。しかもそれが、ただの巨大な響きになるというのでなくて、“すすり泣く”のである。あるいは歓喜と苦悩の合一の中で、笑いながら泣くといってもよいのかもしれない。そうしてその響きに包まれる時、聴衆もまた、この永遠の恋愛の劇である『トリスタン』のまっただ中にいることになるのだ」。  私は、このあと、「ベルリン・フィルハーモニーのフォルテとピアノとの対比のすばらしい美しさ、ことにはピアニッシモの絶妙さ」についてふれていたけれども、こんなことがありうるというのも、私には、ショッキングだった。 『トリスタン』のスコアは、なまじっか抜萃《ばつすい》して引用してみてもむだだからやめておくが、〈前奏曲〉のあのきこえるかきこえないかの微妙な開始から少しいって、しだいに高潮(アニマンドに入って)、第一ヴァイオリン、第二ヴァイオリン、それからヴィオラと弦楽器がかけ合いで、長い音階をひきずりながら、主題の楽想をひくところがある。これが、要するに前奏曲のクライマックスをつくっているわけだが、そういう時に、フルトヴェングラーは突然、右手で拍子をとることをやめてしまうのである。  しかも、この個所では、つぎからつぎとクレッシェンドを重ねながら、クライマックスにのぼりつめるその間にも音楽家は、ただフォルテばかりでなく、ほかのどんなところでもぶつかったことのないようなピアノを忍びこませてくる。しかも、そのピアノがまた、実によく聞こえるのである。ごく短い間だが心にしみ込むように、きこえてくるのである。  この〈前奏曲〉と〈愛の死〉の演奏は、幾通りかのレコードがあるはずだから、きいたことのない人のほうが少ないのだろうが、もし、これからレコードを買うという人にきかれたら、私は躊躇《ちゆうちよ》なく、『トリスタン』の全曲盤をすすめるだろう。もちろん、そのほうがたくさん金がかかるわけだが、しかしどうせ一生の間にはレコードを何十枚か、ことによったらそれよりもっと多く買うだろうと見当がついている人だったら、やはり全曲盤を買うべきだろう。その中には、ここではとうてい書きつくせないほどのすばらしい音楽が充満しているのだから。  私は、つい先ほど、自分がフルトヴェングラーの指揮で『トリスタン』の全曲をきいたのでなく、〈前奏曲〉と〈愛の死〉しかきいてないことを不満に思わないと書いたのは、実演でのことである。だから、もし、一部を実演できくか、それとも全曲をレコードで買うか、そういう二者択一を迫られたのだったら、もちろん、私は、たとえ一部なりと実演できくほうを選んだろう。実演のほうが、私には、わかりやすいからである。  そうして『トリスタン』という曲は、今日の耳できいてみても、依然として、大曲であり、難曲であることは少しも変わっていない。    2  フルトヴェングラーという音楽家で特徴的なのは、濃厚な官能性と、それから高い精神性と、その両方が一つにとけあった魅力でもって、聴き手を強烈な陶酔にまきこんだという点にあるのではないだろうか?  このことは、彼の指揮したものなら、たいていどこにも見出《みいだ》される。それはブルックナー、ブラームスや、モーツァルト、バッハだけでなく、ベートーヴェンにも、ヘンデル、R・シュトラウスにも出ている。それから彼のシューマンがそうだし、彼のチャイコフスキーだってそうである。  フルトヴェングラーが第二次大戦中のベルリンでフィルハーモニーを指揮したベートーヴェンの交響曲が近年日本でもレコードになって、簡単に買えるようになった。なかには、ヴィーン・フィルとのもあるが、ともかく、それらによっても、『第三』『第四』『第五』『第六』『第七』『第九』の各交響曲がきける。  みんなすばらしいが、それらをきいていて、そこで圧倒されるような想いがするのは、演奏の不思議な生々しさである。これは実況をとったものだからというのとは、全然何の関係もないことである。そうではなくて、ごく単純に、そうして純一に、これらの曲が、そこでは、それぞれ一つの生きた劇として、生きた抒情《じよじよう》として、生きた運命として、生きた観念として、全面的に生きられて提出されているからである。  いつぞやも、『第五交響曲』をきいて、まるで怪物がこちらに向かって歩いてくるような感じをうけた。こう書くと比喩《ひゆ》のようにうけとられる恐れがあるが、実際、ここでは《音楽》がこちらに向かって歩き出してくるのである。重くて、野蛮な足どりでもって。『第九』も、また、そうである。しかし、ここではその足どりは怪獣のそれではなく、もっとずっと憂鬱な、そうして神秘なものの歩みとしてはじまる。私は、第一楽章のことをいっていると同時に、終楽章のあの〈歓喜によす頌歌《しようか》〉の開始を指しているのである。この巨大な交響曲の両端楽章には、同じくらいの苦悩の暗さと、それをすかして遠くから私たちを指し招いているような仄《ほの》かな光とが射している。ベートーヴェンは、それを「歓喜・美しい神々の火花」と呼んだが、私には、そうなのかどうか、いまだによくわからない。しかし、私にはいやというほどよくわかるのは、ここに悩み苦しんでいる人間がいるという事実である。それからまたフルトヴェングラーできく第二楽章では、やはり、これが怒りの爆発なのか、荒々しく挑戦的ではあるが、しかし喜びの束《つか》の間《ま》の沸騰であるのかを区別することはすごくむずかしいが、しかし、ここに何かそういった異常な力の放射があることは、どんな聴き手にも疑う余地はないまでに示されている。  こう書いたからといって、私は、フルトヴェングラーがベートーヴェンの交響曲を標題楽的にとらえているといっているのではない。そうではなくて、フルトヴェングラーが指揮すると、ベートーヴェンがこれらの音楽の中に封じこめていた観念と情念が生きかえってくるのがきこえるのである。それを言葉に直すのは、聴き手である私たちの仕事であって、ベートーヴェンの役ではない。私は、だからまったくちがったやり方で——つまりは、私がこれまでずっとやってきたように、もっと即物的に、フルトヴェングラーのテンポが総じていかにおそく、しかしまた速い時はびっくりするほど速く、しかもいずれにせよ、同じ楽章の中でさかんに速くなったり、おそくなったり変化する云々《うんぬん》と具体的な例を示しながら記述するのでなくて——こう書いているのは、これがフルトヴェングラーをきく唯一のやり方だと考えてしているからではない。しかし、ベートーヴェンを、ヴァーグナーを、フルトヴェングラーの指揮できいて、こんなふうでなくきくのは、私には容易なことではない。というのも、私は、重ねていうけれども、フルトヴェングラーを数回実際にきいたというのは、実は私にはそういう聴き方を彼から教わったということなのだ。  ところで、同じ『第九』のベートーヴェンが、また、第三楽章では、ずいぶん変わってきこえる。私には、この曲の中で、この楽章が、さっきいった高度に精神的でしかも強い官能性をもった音楽の魅力という点で、フルトヴェングラーの一般的な精緻《せいち》の枠《わく》にいちばんうまくはまっているように思われる。と同時に、他面、ここほど一枚ヴェールでへだてられた向こう側の出来事のような間接性というか、夢幻性というか、そういう定かでないものとしてきこえてくる音楽は、ほかにないのである。こうしてきいていると、どうしても、「ベートーヴェンは、ここで、夢をみているのだ。そうして、終わりのあの金管の響きは、現実の世界からの呼びかけ、召集である」といいたくなるのである。「何という月並み、紋切り型」といわれるかもしれないが、私としては、こういう聴き方をするのは、始終ではないのだ。もう一筆書きそえれば、私には、彼のこの楽章の演奏は、バイロイトで実演をきいた時も、いちばんピンとこなかったのである。  精神的な演奏といえばフルトヴェングラーがベートーヴェンを扱って、その方向への傾きを最も截然《せつぜん》とみせているのは、メニューインを独奏者に迎えて『ヴァイオリン協奏曲』を指揮した時である。この演奏は、単に目立っておそいテンポでひかれているというだけでなく、全曲を通じて、いやがうえにも澄みきった音色をきかせるメニューインに合わせて、フィルハーモニア管弦楽団を指揮するフルトヴェングラーも、まるで重苦しい足音は絶対に立てまいと決意したかのように——『第五』の場合とは正反対に——、まるで雲の上でもゆくように、そっと歩いている。こういう演奏は、フルトヴェングラーには極度にまれなのではなかろうか。特にここのメニューインには、何かの宗教の教祖とでもいったものが放射されている。  これと好対照なのが、エトヴィン・フィッシャーと共演した『第五ピアノ協奏曲』である(フィルハーモニア管弦楽団)。もう大分前のことであるが、必要があって、『第五ピアノ協奏曲』のレコードを選ぼうとしてあれこれときき漁《あさ》ったが、どれにもどこか不満が残り、閉口したことがあった。その時、私は、このレコードは知らなかった。しかし、今度フルトヴェングラーを改めて考えてみるについて、いろいろレコードをきいているうちに、これにぶつかった。これは、まさに、私が、これまでさんざんきいてきたベートーヴェンの『第五ピアノ協奏曲』の中でも、最良の一つである。私に、もう一つ羞恥《しゆうち》心が欠けていたら、私は、「これこそまさに、あらゆる『第五ピアノ協奏曲』のレコードの中の《皇帝》である!」とでも書いただろう。そうは書くことを私がしないのは、演奏にものたりないものがあるからではなくて、そんな言い方が嫌いだからにすぎない。  エトヴィン・フィッシャー! 人びとは、彼こそはピアノの大家中の真の《音楽家》であったという。きっとそうにちがいない。私は、彼をあまりにも晩年にききすぎた。そうして、晩年ということも、ピアニストと指揮者では、意味がちがいすぎる。指揮者は何の彼のといっても、自分で音を出さない。これに対して、ピアニスト、ヴァイオリニスト、歌手、その他の演奏家たちのうえには、肉体の条件がはるかに大きくのしかかっている。どんな大家だって、あまり年をとってしまうと、《音》から脂っ気がぬけてしまう。それでも、この人が稀代《きたい》の音楽家だった所以《ゆえん》の多少は、私も、パリで、ザルツブルクで、経験したのである。  だが、このレコードでのフィッシャーの見事なこと! 忌憚《きたん》なくいって、フィッシャーは、ここでも、けっして、ハイ・フィデリティ向けの万全のメカニックをそなえた名手ではない。この協奏曲の初めの、あの変ホ長調の主和音を重ねたカデンツァが、すでにもう、一つ一つの音が、南海の魚たちのように手にとるように透かして見えてくるというのとはずいぶんちがう。しかし、リズムといい、アクセントといい、そうしてダイナミックといい、フレーズ全体できくと、一点の非のうちどころがない出来ばえなのである。というのは、ここでも、メカニックな正確さでいうのではない。音の中に生きて躍動しているものの力の生き生きした働きからいうのである。といって、また、ごまかして、いわゆる感じでひいているというのでは、絶対にないのである。  これが、音楽というものなのだ。そういう大家で、この人はあった。ちょうど、フルトヴェングラーの指揮がまた、メカニックな正確さという点からみたら、欠点の多いものであるにもかかわらず、大家の音楽をつくりだす道であったのと、同じように。それに、この二人に共通な点は、その音楽がのびのびと自由なこと、近年の流行語を使えば、即興性の躍動にとんでいることである。  ただフィッシャーの音楽も、フルトヴェングラーのような濃厚な官能的な雰囲気《ふんいき》のまといついた精神性といったものではなかった。いや、総じて、フィッシャーにも、フルトヴェングラーのような二律背反的な共存にみられる、逆説的な偉大さはなかった。それは、メニューインの音楽に比べれば、ずっと人間臭いものであり、無理強いされたようなものはまったくなく、その点では、フルトヴェングラーのほうが、より神経質なところの多い音楽家といわなければならない。それにまた、フルトヴェングラーの双肩には、フィッシャーにない重い荷物があったことも忘れてはいけないだろう。  フルトヴェングラーとフィッシャーの組合わせのレコードでは、実況録音のほうでも、ブラームスの『ピアノ協奏曲第二番』のそれがある。これも貴重な遺産である。  フルトヴェングラーをはじめてパリできいた時、そのプログラムにブラームスの『交響曲第三番』が含まれていた。これがまた、私にはおもしろかった。  その一つは、ブラームスのオーケストラ曲の響きというものを、ここではじめて納得した点にある。それは室内楽と管弦楽の混ざりあったようなもので、同じ時代に生きながらも、ブラームスはヴァーグナーとちがって、金管の使い方などが古風で、それだけに、木管が非常に重視されていた。それは誰しも知っている。だが、その木管の音色が、ブラームスではずいぶん地味な、艶《つや》消しをしたようなものであることには、必ずしも誰もが気がついているわけではない。それというのも、そういうことは、スコアに書きこめないものであって、もっぱらブラームスの生前から彼の音楽を演奏してきた中欧の管弦楽団、ヴィーンとかプラーハとか、あるいはライプツィヒとかいった各地のオーケストラの伝統となって残っているもの、それをきいて、逆に判断するほかないのである。もう一ついいくわえれば、これは何もブラームスをひく時に、必ずそういう音色でなければならないというのでもない。もっと派手な色でひいてはいけないということはない。現にアメリカの交響楽団やパリのそれは、そうやっている。  だが、アメリカの交響楽団で何度もきいてきたその耳で、ヨーロッパに来て、ベルリン・フィルハーモニーの演奏で、ブラームスをきいた時、私は、本当に「そうか、これがブラームスの音色なのか」と思ったのは事実である。実にしっとりした、くすんだ、よい音だった。  ブラームスの『第三』というのは奇妙な音楽で、各楽章がピアノで終わる。ことに第二楽章のアンダンテ、さらには全曲の結びである第四楽章アレグロは、ピアノのソット・ヴォーチェ、ヘ短調ではじまり、コーダに入って、ヘ長調になりはするが、それでも普通こういう音楽につきものの、特にモーツァルト、ベートーヴェン以来の伝統にしたがって短調ではじまって長調で結ばれる時には、明るく力強く終わるといった形になるのとは逆に、長調になっても、ウン・ポコ・ソステヌートであり、テンポはおそくなり、フォルテがないわけではないが、しかし、ダイナミックの流れはもっぱらディミヌエンドを指向し、センプレ・ピアニッシモから、さらにディミヌエンドを重ねた末に、最後は、ポツンと糸が切れたように、弦のピッツィカートで終結するのである。  フルトヴェングラーの手にかかると、そういう音楽のもって行き方が絶妙の表現となるのだった。ブラームスの四曲の交響曲の中でも、『第三交響曲』は、最もまれにしか演奏されないものだし、私も、ほかの三曲にくらべて、実演できいた回数は、これがいちばん少ないだろう。しかし、それだけにまた、大指揮者名指揮者といわれるほどの人の手になる演奏できいた時は、当然忘れにくく、ほかの演奏と混同しにくくなる。それでも、私は、この時のフルトヴェングラーの演奏ほど、感心したことはない。ディミヌエンドとかピアノとか、それに休止がすごく、生きてくるのである。  いったいに、フルトヴェングラーのブラームスはすばらしかった。レコードでは、いずれ四曲ともみなあるのだろうが、その中では、私は『第四交響曲』をきいたことがある。これも、戦時下の実況録音だが、実によい。それにブラームスになると、フルトヴェングラーのあの頻々《ひんぴん》とテンポを変化さす態度も作品の様式自体と少しも矛盾せず、むしろ、それこそが作品の生命を忠実に生かす道に通じる。ブラームス自身が指揮した時も、こうであったにちがいないのだ。しかしまた、テンポが問題のすべてでもない。ブラームスには、表面のあの謹直そうな容貌のかげに秘められた、濃厚な官能的なものへの憧《あこが》れがある。これが、真面目人間の指揮とフルトヴェングラーの指揮とでは、すごくちがって出てくるのである。    3  周知のように、ブラームスは『ハイドンの主題による変奏曲』を書きのこした。これは、単にブラームス一代の傑作の一つだというだけでなく、およそ何百曲かに上る古今の管弦楽曲の名作を洗いざらい数え上げる場合でも、管弦楽の変奏曲という題目では、抜きにして考えることのできないものである。それに、指揮者の力量をはかるのと同じように、管弦楽団の力を知るうえにも、この曲は最適の作品となっている。  いつぞや、外国にいたおり、ラジオをきいていたところ、たまたま、いろいろな指揮者と管弦楽団が演奏したレコードで、この曲をきかせるというプログラムにぶつかった。ヴァルターだとかトスカニーニだとか、カラヤン、フルトヴェングラー等々の名指揮者がつぎつぎと登場してきて、なつかしくもあれば楽しくもあったが、その中で、演奏の水際立ってうまいのは、ジョージ・セルの指揮、クリーヴランド管弦楽団の演奏によるものだった。これはもう数ある名門オーケストラの演奏にくらべても、一段とまた高水準の出来ばえであった。この原稿を書くに当たって、それを思い出して手もとにレコードのあるものをもう一度ききくらべてみた。  アンダンテの主題が、オーボエとファゴットで提示され、それを低弦とコントラファゴットが支え、そこにさらにホルンが加わる。この主題の前半は五小節プラス五小節という変則的な構造なのだが、ブラームスはホルンを二小節やらしては、一小節休むという形で、その五小節という変形をさらにおもしろくいろどっているのである。そういう感じが、セルの棒だと実によく出てくる。そのうえに、それこそ一分の隙もない完璧《かんぺき》な合奏のおかげで、最初からひきしまった実によい響きがする。誇張していえば、この最初の五小節をきいただけでも、耳が洗いきよめられたような気がするほどの名演である。あとも、ずっと、その調子。  これほど、欠陥のない演奏は、ほかになかった。  これにくらべると、ヴァルターのそれは柔らかくよく歌う。それに、かつて私が指摘したようにヴァルターはほかのどんな人よりもバスを強調する——というか、よく響かせる癖をもっていたので、それが、この曲ではとても主要な働きをする。というのも、この曲の最初の変奏は、高いほうの弦、つまり第一、第二ヴァイオリンと低い弦、つまりチェロ(それにファゴットが重なる)とがカノンになっているのだが、それは、必ずしも、どんな時も、ちゃんとわかるようにひかれているとは限らない。だが、ヴァルターだとそれがよくわかる。それから、これはもう誰も知っていることだが、この曲の最後は、同じ作曲家の『第四交響曲』の終楽章と同じように、パッサカリアというか、低音部に出た主題が何回も反復され、そのうえに新しいふしが重ねられるという作り方がなされている。その主題たるべき低音の動きは、ヴァルターだと、それまでも、いつもよく出ていたので——しかも、けっして耳ざわりになるような押しつけがましさをもってではない!——、ごく自然に、パッサカリアとして聴き手にうけとめられるのである。  ところでこの終曲の急所は、パッサカリアであるのと、もう一つは、終わりに当たって、その低音主題に、最初の変奏主題がのっかって出現してくる、これを、できるだけ自然に、しかもまた、堂々たるコラールの行進というか、いわば勝利の凱旋《がいせん》としての威容をもって再登場させて、全曲を結ぶという形にする、この力強さと自然さとそれが一つになっていなければならないのだろう。  ところが、どういうわけか、私には、大家といわれるほどの人たちの指揮できいてみても、いつも、それがうまくいっているとはきこえないのである。ときどき、もしかしたら、これは作曲に問題があるのかしらと思ったりもしてしまうくらいである。  だが、セル〓クリーヴランド管弦楽団の組合わせでは、そういうところもすごくよくいっている。要するに、純粋に音楽的にいったら、これが最高の出来ばえのレコードである。  ところで、フルトヴェングラーのレコードに話をもどすと——私の知っているのは、ベルリン・フィルとやった戦時中の盤であるが——、とてもセルたちのような合奏の完璧度に達していない。それに、ヴァルター盤についてふれたように、第一変奏のカノンがよくわかるというのでもない。これはスタジオ録音でないのだからその点でのハンディキャップということも勘定に入れなければならないのだろうが、ここだけでなく、第三変奏の後半のヴィオラやチェロで挿入《そうにゆう》されてくる十六分音符の新しい音型も、この盤では、どうもはっきり出てこないのも、おもしろくない。「もっとしっかり肉声をきかせるようにひいてくれ」と注文を出したくなるところである。  第三には、第四変奏のアンダンテ・コン・モートがやたらとおそく、まるでアダージョか何かのようにきこえ、それとは逆につぎの変奏の八分の六拍子のヴィヴァーチェが、これはまたずいぶん速いのにびっくりさせられる。ただしこれは、私は実は欠点と思っているわけではない。むしろ、フルトヴェングラーをききなれた人ならば、みんな知っているところの、彼のテンポのとり方の癖として、なつかしく思うのである。それにまた、このおそすぎるアンダンテ・コン・モートとびっくりするほど速いヴィヴァーチェとで一対をつくることは、ちょうど、力強いフォルテとかすかなピアノの間の強烈な対照同様、フルトヴェングラーの音楽の最大の特徴の一つであって、それをぬきにしては彼は考えられないのである。  そうして、〈第四〉に、例の終曲のパッサカリアが、少なくともこの盤の演奏では、もうひとつうまくいっていない。主題の再現が唐突というのでもないが、何か堂々と、まさに出現すべくして出現してきたという感銘を与えるところまでいっていないうえに、せっかく出てきたのに、妙に尻切れとんぼとなって終わってしまう。  要するに、最後の、そうして最高のクライマックスであるべきはずのものが、不発に終わっているのである。  だが、以上のすべてを補ってもあまりあるようなものは、先の〈第四〉〈第五〉の一対についで、第六変奏のヴィヴァーチェと対をなす第七変奏のグラツィオーソの演奏である。これはシチリアーノのリズムによる八分の六拍子の音楽なのだが、その後半に入って間もなく、第一、第二ヴァイオリンがオクターヴの間隔をおいたユニゾンで、変ロ音(b)からはじまって、実に二オクターヴ上昇してゆき、それから一つ上のハ音()に上ってから、また順次おりてくるという個所が出てくる。何のことはない、ごく簡単な対旋律にすぎない(譜例1)。  だが、この彼の演奏を一度でもきいて、しかも、それを忘れることのできる人がいたとすれば、その人はもう、よほど、どうかしているといわなければならないだろう。ただの音階の上昇と下降でありながら、こんなに燃えるようなものをもって上下する動きはあるものではない。しかもそれがあくまでもグラツィオーソのシチリアーノの枠で前後左右をとりかこまれた中で生起するのである。きらきらと輝きながら燃え上がり、そうして力つきておりてくる一条の音の光! この中には、ロマンティック音楽のすべてがある。しかも、これはあくまでもブラームスなのだ。  私は、この項の最初で、フルトヴェングラーの指揮する『トリスタン』の前奏曲での音階についてふれた(譜例2)。  これも同じ音階であり、同じ八分の六拍子であるが、音楽はまるでちがう。はるかに神経質であり、同時にはるかに洗練されている。ヴァーグナーとブラームスの違いである。  だが、また、ここには、同じものが底流している。憧れの芸術としての音楽の本質を、これ以上ない形で、直截に体現したものとして。  これが、ほかのすべての点で、どんな大指揮者たちのそれを凌駕《りようが》しているといってもよいほどのすばらしい演奏をきかせているジョージ・セルにないものである。なぜか、私は知らない。  そうして、これが、ほかのどんな大指揮者の名演をきいたあとでも、ただ、フルトヴェングラーの指揮でだけ経験できたものとして残るところの「何ものか」である。  私がさっきから「極度に官能的で、しかも高度に精神的なものを一つにあわせもったフルトヴェングラーの音楽」という言い方で、いおうとしているものの典型がここにある。    4  フルトヴェングラーの『トリスタン』はレコード化されたのに、『ドン・ジョヴァンニ』がその機会をもたずに終わってしまったらしいのは残念なことである。ただし、これは映画にとってあったので、日本でも、何度かくり返し上映された。私は見ていないが……。  その映画は、たしか一九五四年のザルツブルクの音楽祭の時のを、そのままとったものだときいた。それならば、ちょうど私が行った時のものに相違ない。シュヴァルツコプフ、グリュンマーの両ソプラノに、チェザーレ・シエピのタイトル・ロール、レポレロはオット・エーデルマンといった顔ぶれで、今は押しも押されもしないレポレロ役であるワルター・ベリーはあのころはまだマゼットを歌っていたものだ。それにオッタヴィオがアントン・デルモータ、ツェルリーナがエルナ・ベルガーといったところ。『ドン・ジョヴァンニ』は、おそらく、フルトヴェングラーが指揮するモーツァルトのオペラの最上のものだったろう。『フィガロ』や『コジ・ファン・トゥッテ』をやってもすばらしかったに相違ないが、しかし、今日の好みからすれば少しロマンティックすぎはしなかったろうか。では『魔笛』はどうか? 私には、これもどこかでくいちがったろうという気がする。フルトヴェングラーにはモーツァルトのあの金色のメルヘンの無垢《むく》といったものがない。彼は、やはり『トリスタン』の国の住民だ。  それだけに『ドン・ジョヴァンニ』は、彼に最も向いていた。どだい、E・T・A・ホフマンをはじめ、十九世紀初頭のロマン主義者たちが、モーツァルトを「発見した」のはデモーニッシュな魅惑にみちた『ドン・ジョヴァンニ』の天才的作曲家としてだったのだから。キルケゴールにしても、そうである。  だが、私は告白しなければならない。せっかくフルトヴェングラーのその『ドン・ジョヴァンニ』にふれるという千載一遇の機会を与えられながら、そうしてまた、私は感激したのもはっきり覚えているのだが、さて、その演奏の具体的なこととなると、どうもはっきり想い出せないのである。当時はまだフェストシュピールハウスが出来る前で、舞台の背後が岩壁でできていたフェルゼンライトシューレの大ホールで上演されたわけだが、その岩壁を巧みにつかって、大詰めの場で、真黒な闇の中を、上段から中段にいたるまで、一面に、修道僧の黒衣に身をかためた合唱団が、手に手に蝋燭《ろうそく》をもって動いていた姿が、いまだに、目に浮かぶ。そのほか、局部的には、あれこれを思い出しはする。ときに、エルヴィーラの部屋の窓の下で、ドン・ジョヴァンニがセレナードを歌ったあと、一息してから、ヴェールを冠ったエルヴィーラが、あたりをうかがいながらそっと出て来た時の、その妖《あや》しいまでのなまめかしく、悩まし気な風情。  だが、音楽では、序曲が、何だか、とてもよかったような気がするのだが、それが、はっきり音になって記憶に蘇《よみがえ》ってこないのである。口惜しい限りである。こんなところ、私はまだ、だめである。特にオペラの聴き手としては落第だ。  ただし、同じところで接したヴェーバーの『魔弾の射手』のほうなら、序曲や、そのあとのいろいろなシーンの音楽を、まだよく覚えている。ことに、まだ昨日きいたみたいにはっきり想い出すのは、例の〈花環《はなわ》の歌〉と、それからグリュンマーの歌ったアガーテのあの長大なレチタティーヴォとアリアである。一体に終始おそめのテンポがとられていた中でも、前者の〈花環の歌〉は、単におそいだけでなく、全体としてピアノから、ピアニッシモの間ぐらいの声しか出させない、それ自体で、すでに、もう想い出のようなヴェールのかかった夢想的な演奏だった。あんなにきれいな〈花環の歌〉は以来二度ときいたことがない。それに〈狩人《かりゆうど》の合唱〉だとか、この〈花環の歌〉だとか、ひいては『魔弾の射手』の全体が、ドイツ人にとっては、子供のときから耳にたこの出来るほど、きかされ、唱《うた》わされてきたものが多いのだろうから、今さら、それを舞台の上でやられても、よほどセンチメンタルな人間でない限り、やりきれない思いがするものらしい。これは日本などで、『魔弾の射手』などというと、ただ本でだけ読んできたために、かえって好奇心と憧れの対象となり、ドイツ人は本当にこういうものが好きなのだろうと想像するのと、ちょうど逆の事情がはたらく。私たちの身近かの例でいえば、外国人が日本人をみると、なつかしがるだろうと考えて、富士山や何かのことを話しかけるようなものである。フジヤマ何とかの話をされると、日本人はむしろ閉口してしまう。  それに、私がこれをザルツブルクできいたのは、戦後まだ十年とは経っていなかったころである。アメリカを筆頭とする連合国側が、ドイツ人の戦争責任問題でドイツ・ロマン主義とか表現主義の思潮が、そもそも、その禍根だと論じていた日から、まだいくらもたっていない時だったのである。  戦争責任といえば、このころのフルトヴェングラー自身にとっても、戦犯として一時活動を停止させられ、スイスで空《むな》しく日を送っていた日も、まだそう遠い過去のことではなかったのである。このことについては、最近の日本では、フルトヴェングラーについてというと、誰も、彼も、そのことに一筆ふれるといった傾向がみえているから、私は、むしろ、ここではふれない。私の考えは、すでに、いくつか書いてきたし(『吉田秀和全集』第五巻所収の「フルトヴェングラーのケース」参照)、なかでも、丸山真男氏と対談した時に、ほとんどいいつくした(これはみすず書房刊『現代の逆説』に入っている)。    5  フルトヴェングラーのレパートリーとしては、このほか少なくとも、ブルックナー、シューベルト、シューマン、チャイコフスキー、R・シュトラウス、ヒンデミットにふれなければなるまい。しかし、そのうち、ブルックナーでは『第八』、シューベルトでは『ハ長調の大交響曲』、この二つは、彼の遺産の中でも最も重要なものに数えられるべきものだが、それらについては、すでに別に書いた。私としては、改めて書きそえることもない。  シューマンでは、いうまでもなく、『第四交響曲』と『マンフレッド序曲』が最も重要だが、後者は、レコードがあるのかどうか、私は知らない。『第四』については、フルトヴェングラーは、この不当に無視されてきた、独自の名作の復活に大いに力のあったといわれるべき人だろう。ここですばらしいのは、楽章から楽章へと休みなく続く交響曲の中で、その変化と推移に必然性を与え、しかもその底に一貫して持続する流れを常にきくものに気づかせている点である。これは、本当に巨匠と呼ばれるにふさわしい力業である。  R・シュトラウスについては、これも天下周知のことであるから、私は別にここでつけ加えられそうもない。私が実演できいたのは『ドン・ファン』であるが、フルトヴェングラーのレコードでは、『死と変容』が記念碑的な名演ではなかっただろうか? ここには、文字通り、鬼気迫るものがある。というのも、フルトヴェングラーは、カタストローフ(大破局)の表現にかけての内的な感覚をほかに匹敵するもののないような高さで所有していたからである。  この人は個人的な経歴としてではなくて、芸術家としての天才のうえで、《悲劇》の音楽家であった。ここが、たとえば、同じくヴァーグナーとブルックナーの大指揮者であったクナッパーツブッシュと、フルトヴェングラーとの違いだろう。クナッパーツブッシュは、もっと逞《たくま》しく大地の子であり、おそらく信仰の人であって、こういうカタストローフに対する不可避の予感とでもいったものはなかった。少なくとも、私にはそう思えてならない。もしかしたら、クナッパーツブッシュはカトリック教徒だったのだろうか? ところが、北ドイツ系のフルトヴェングラーはプロテスタントであり、文化の人間であり、ヒューマニズムへの不抜の信念はあったかもしれないが、同時に、それが音を立てて瓦解《がかい》する日の予感とも無縁ではなかったとおぼしいところがある。少なくとも、彼は自分の信念に安住してはいなかった。それは彼の残した数々の本や論文にも出ている。そうして、こんなふうにいうと、われながら、大袈裟《おおげさ》すぎて滑稽に思えてくるのだが、しかし、やはり彼の指揮する『死と変容』であるとか、『神々のたそがれ』であるとかに接すると、そこには、ほかの人とまったくちがう《悲劇の感覚》というものが潜んでいるのを、ききのがすわけにいかないのである。  だからこそ、また、ヒューマニズムが残した音楽史上最大の記念碑的作品であるベートーヴェンの『第九』をはじめとする交響曲のすべてが、フルトヴェングラーの下で、このうえなく、壮絶でしかも崇高に響くのだ。私は、やたら悲愴《ひそう》がったベートーヴェンの演奏には、やりきれない思いをするのが普通だが、フルトヴェングラーの指揮したものには、悲劇的ではあっても、澄みきった冬空を見るような厳しい壮大さに到達した時があった点、ほかの誰ともちがうと考えている。   ジュリーニ [Giulini, Carlo Maria]    1  トスカニーニとヴィットーレ・デ・サバタのあと、イタリアからは、《大指揮者》といわれる人は、しばらく出なかったようである。もちろんイタリア・オペラの指揮者は別である。この畑なら、ヴィットリオ・グイ以下、現役で各地で活躍中のエレーデにいたる間、幾人もの優秀な人がいる。だが、オペラもやれるが、そのほかに演奏会で交響的な大器楽の指揮者としても、世界の一流の交響楽団でひっぱりだこの指揮者というと、どういうことになるだろうか? ひところ、トスカニーニの流れをくむグィド・カンテルリがいて、将来を嘱望されていたが、たしか飛行機事故で早世してしまった。  そんなわけで今日、かつてのイタリアの指揮者の流れをつぐものというと、まず、ジュリーニがあげられる。  ジュリーニは一九一四年ローマ郊外の生まれ、聖チェチリア音楽院卒業というから、ちゃきちゃきのイタリア系指揮者といって、まちがいないのだろう(もしかしたら、イスラエル人の血をひいているのかもしれないが)。  ところで、私は今、『ドン・カルロ』のレコードの付録の解説にのった福原信夫氏のこのレコードの演奏者についての文章をよんで、ジュリーニの経歴を知ったところなのだが、それによると彼は一九四六年以来イタリア国立放送局の音楽監督となったとある。だが、放送局の音楽監督とは、どういう意味なのだろう?  イタリア国立放送、いわゆるRAIにはすばらしい合唱団がある(あるいはあった)。日本にもたしか二度ぐらい来たはずだから、お聴きの方も少なくないはずである。古い話だが、私は一九五四年の春、ローマでこの合唱団をはじめてきいて、とても感心したものである。その時にこのジュリーニが棒をふったかどうか。どうもそういう気がするが、もう一つはっきりしない。そうしてはっきりしないことを書くのは、私も嫌いだ。しかし、おかしなことに、私には、どうも、ジュリーニの指揮に接したはじめての機会は、この時のことのように思えてならない。そうして、その時、この合唱団はずいぶんすぐれた指揮者が棒をふっているのだなと、感銘をうけた——と、そういう気がしてならないのである。そのあとはミラノに行って、ラ・スカラでの指揮をきいた。ただし出しものは忘れた。何しろ、この時は歌手本位の演奏——というより聴衆の興味の焦点が、すでに今をさかりと火花をちらして争っていたカラスとテバルディの、どっちに味方するかにあったのであり、私も、その空気にまきこまれて、きいていたにすぎないのだから。それに、今のうちにつけ加えておけば、今度ジュリーニについて書くために、『ドン・カルロ』のレコードを用意し、少々きいてみたのだが、私には、どうも、こういうものはレコードをきいただけでは、指揮者の甲乙までは論じられないのである。  そこで、ジュリーニ指揮の器楽の演奏会というと、いつぞやイスラエル・フィルハーモニーに同行して——たしか大阪の国際フェスティヴァルにも来たのだと思うが——来日した時、二回ほどきいただけである。あとはすべてレコードでしか知らない。  一九七一年ヨーロッパに行った時、もうあと一と月ぐらいいれば、彼がベルリンに来て、フィルハーモニーを指揮することになっていたが、その時のプログラムが、マーラーの『第九交響曲』だったのには、少々驚いた。ある人びとにいわせれば、そうして私もその一人だが、『大地の歌』と並んで、この世紀末から世紀の初めにかけての孤高の天才の最高の傑作であるところのこの大作を、イタリアの指揮者がやるというのがすでに意外であるうえに、ベルリンでは、いつぞや、こことは長い間まるで縁のなかったサー・バルビローリが来て、いきなり、この交響曲をふって、熱狂的な感激をもって迎えられて以来というもの、ほかの指揮者はこの曲を敬遠する傾きがあった。何しろバルビローリのおさめた成功は、聴衆や批評家からばかりでなかった。あのやかましいベルリン・フィルハーモニーの楽員たちもすっかり感激してしまい、予定も何もなかったのに、この曲の、この顔合わせの演奏によるレコードが特別に発売されたくらいだったのだから(日本ではどう迎えられたかしら?)。  しかし、それは一九六四年の話。それを、久しぶりジュリーニが来てやるというので、みんな期待していたし、私の友人も、「もう少しいて、きいていかないか」と何度もさそってくれたのだが、遺憾ながら、必要あって日本に帰ってきてしまった。  果たして、どんな出来だったか?    2  こんな話からはじめるというのも、実は、今度、ジュリーニのレコードをきいてみて、最近の、というか、彼がシカゴ交響楽団といっしょに入れたベートーヴェン、ブラームス、マーラーといった曲のレコードのほうが、たとえばロンドンのフィルハーモニア・オーケストラと合わせたモーツァルトなどより、一段と迫力があり、音楽として力強いうえに、何というか本当にしっかりした手応えのあるものになっているのに気がついたからである。  ただし、そのジュリーニの演奏をあれこれいう前に、シカゴ交響楽団とのレコードでのオーケストラの各パートの分離の良さに、まずふれておく必要があるかもしれない。というのも、私はレコードの録音だとかその他の技術については皆目不案内なので、これらのレコードでの目ざましいばかりの音の分離が、果たして指揮者の要求か、それとも録音の技師の考えか、あるいは、シカゴ交響楽団の音楽家たちの望みなのか。そういう点が、判断できないからである。  ベートーヴェンのレコードは、『第七交響曲』であるが、私はかつてミュンシュがボストン・シンフォニーをひきいて東京に来た時、『エロイカ交響曲』をきいて、各パートが実に鮮明にきこえてきて、まるでスコアでもみているような印象を与えられ、びっくりもし、やや不満に思ったものである。ベートーヴェンの音楽では、何も低音や中声部が必ずしもいつもこんなに自分を主張して出しゃばる必要はないのだから、と。だから、このシカゴ交響楽団とジュリーニの演奏も、実演でも、やっぱりあんなに各声部の分離がすごいのかもしれない。そのうえに、各部がまたすごくうまいのである。ライナー当時はともかく、マルティノンのころのシカゴ交響楽団がこんなにうまかったとは考えにくい。とすれば、もちろんメンバーの交替もあるにちがいないが、それだけでなく、ジュリーニという人は——かつてのイタリア国立放送合唱団の場合同様——楽団を育て訓練するのがよほどうまいのであろうか、という気もしてくるのである。パートの分離のよいのも、そういう各パートの奏者の充実と関係があるのかもしれない。『第七』でいえば、第一楽章の導入部での各パートによる音階の上昇の一つ一つの鮮明で、しかも実に音楽的にきちんときこえること。あるいはヴィヴァーチェの主要部に入ってからの、スコアでいって第一一九小節以下の第二ヴァイオリンの動きを例にとってもよい。それはもうただはっきりしていて小気味がよいというよりも、むしろ晴れやかで誇らかなイタリア的ブリオの典型的なもの、初夏の颯爽《さつそう》たる一陣の風の疾走のような趣がある。それでいて、実に粋《いき》なのである。こんなに野暮ったらしいものの少ないベートーヴェンは、ほかにいつ、きいたことがあったかしら(譜例1)。  同じような誇らかで颯爽たる歩みの鮮かさは、展開部に入って、長い長いのあと、しだいにクレッシェンドしてにいたる、ダイナミックのもり上がりにもみられる。ここにもまた、各パートの分離の鮮かさに少しも劣らぬ、目のさめるような鮮烈さがある。  もう一つの美徳は、第四楽章のアレグロ・コン・ブリオでのテンポの初めから終わりまで実にしっかりした骨格をもった処理である。ここには少しも曖昧《あいまい》なものがないし、それと同じくらい、各楽想の表現の性格がきっちり区別されている。  以上だけだと、まことにすごい演奏ということになるし、事実またこれは非常に水準の高い演奏にはちがいないのだが、私が不満なのは、一般にの表情に何かが不足していることである。ここにある微妙なものが欠けている。その最も目につく個所としては、スケルツォのトリオを上げることができよう。これが、どうして、こんなにつまらないのか。陰影がたりないからか。同じ憾《うら》みは、また、第一楽章のコーダに入ってからの音楽の処理にも感じられるし、終楽章のコーダも、その弊を脱していない。これさえ、うまくできていたら、私は、もっと夢中になるだろうに。  しかし、この点を除くと——というより、曲をきいて、すぐわかるのは、ここで指揮している人が、そのへんにいくらでもいるような指揮者とは、ちがう、ほとんどもう大家といってもよいような人だということである。幅と厚みの手ごたえがあるのである。そうして、そのうえに先に書いたたっぷりしたブリオがある。    3  同じようなことが、ブラームスの『第四交響曲』のレコードについてもいえる。同じようなことというのは、ここで指揮している人がほとんど大家と呼ばれてもよいような、りっぱな音楽家であるというたしかな手ごたえである。  こういう言い方が、抽象的である——というのは、私も認める。だから、私も実はさっきから、もっとそれをはっきり具体的にいいあらわす手段があるにちがいないのにと、少々苛立《いらだ》っているのである。だが、うまくつかめない。ここには、言葉にならない何かがあり、それが私には、かなり重要なことのように思えるのだ。  しかし、こうは、いってもよかろう。つまり、ベートーヴェンの交響曲といい、ブラームスのそれといい、このレコードできいていると、気持のよいのは、音がきりっとひきしまって、まったくむだがないという印象を与えられるのである。しかも、前に書いたように、やたらと各パートの分離がよいにもかかわらず、そうなのである。というのも、これまたさっき書いたように、かつてミュンシュとボストン交響楽団できいた時は、私は「こんな余計なことをしてくれなくてもよいのに、これは音楽的な演奏というのとは別な品質にすぎない」と考えたのだったからである。そういう——余計なことをするという感じがここではしないのである。  なぜだろうか?  この音の分離の良さが、かえって響きの筋骨性的な強靱《きようじん》さを際立たせているからかもしれない。  だが、ブラームスの交響曲の演奏では、ベートーヴェンではあまり気がつかなかった別の要素が加わってくる。それはテンポの動きがかなり著しい点である。たとえば、第一楽章の提示部の終わりの楽想(フィルハーモニアのスコアで第九一小節目、第一、第二のヴァイオリンがオクターヴで重なって、下行してくる旋律)(譜例2)。  それまでのテンポは、ここにきてぐっとおとされ、まるで大きな溜息《ためいき》のように強調されながら、旋律がはるか高いところからおりてくる。ここできくものは思わずハッと息をつめて耳をすまさずにいられなくなる。それほど、この溜息は美しく、そうして強く大きな身振りで下行する。これをきいて、私は思わず、メンゲルベルクそのほか、往年の大指揮者で、音楽の身振りに大きなうねりをもっていた人たちのことを思い出した。  ジュリーニは、ベートーヴェンでは一切つつしんでいたが、ブラームスだからこそ、きっと、こういう指揮をしたのだろう。たしかにブラームスの音楽では、この種の詠嘆の声が、きき出そうとしさえすれば、いくらでもきこえてくる。そればかりでなく、この先のほう、展開部が終わりかけて、再現部に移ってゆく個所で、音楽は歩幅をゆっくりゆるめてくるのだが——そうして、そうやることによって、この交響曲の全体を支配している3度の連続下行という最も重要な思想の意味がこれ以上やりようのないほどはっきりしてくるのだが(スコアで第二二七小節から、特にフィルハーモニアのポケット・スコアでレの印のついた第二四六小節から再現のはじまる第二五八小節にかけて)——ジュリーニのやり方では、テンポをゆるめることは同時に、たっぷりとまるでイタリア・オペラのテナーのアリアみたいに、歌い上げることでもあるのであって、それが、私などには、はじめてきく時、軽い違和感を抱かせ、「何かがおかしい」という感じを与えもするのである。  これはまた、第二楽章の第二主題についてもいえることで、これなどは、もう簡単明瞭にチェロの歌であり、歌以外の何ものでもないものとして、たっぷりヴィヴラートをかけ、精一杯の表情でゆっくり歌われる。とともに、この「歌う」ということが、ものすごい迫力にも通じるのであって、それは有名なシャコンヌの形をとった終楽章の中にも出てくる。  私のいうのはホ長調に変わってホルンとトロンボーン、それにファゴットも加わって、『タンホイザー』の巡礼の合唱みたいな変奏の個所のことである。ここでは、ヴィオラとチェロとがドルチェでアルペッジョの合いの手を入れるのだが、その時のディクレッシェンドが、雄勁《ゆうけい》とでもいうか、金管のエスプレッシーヴォに対し、実によくさびのきいた音調をきかせるのである。これなどは、別に、洒落《しやれ》た効果を狙ったとか何とかいうのではまったくないのだろうが、やはり、どこか異様な、ちょっと忘れられないような感じを、私たちの耳に残す。  私は、何もジュリーニがイタリア人だから、よく歌わすのだというような紋切り型をいっているつもりはない。いやもし、そんなことからいうならば、ジュリーニのブラームスの歌わせ方は、むしろ少し疎外感があるのだから、むしろ歌わせ方が下手だといっても、よいくらいだろう。  そうではなくて、彼には、際立って独特な歌わせ方があり、それがきくものを驚かせたり、納得させたりするというだけのことなのである。  そういうなかで、私が、今度ジュリーニの何枚かのレコードをきいているうち、最もびっくりしたのは、マーラーの『第一交響曲』をきいた時で、この交響曲の第三楽章の出だしで、ニ短調の旋律がコントラバスからはじまって、ファゴット、チェロ、バス・チューバ、クラリネット、ヴィオラ、それからホルンとしだいにカノンで重ねられてゆくのをきいているうち、「ああ、そうだ。これはベートーヴェンの『第九』のあの〈歓喜によす頌歌《しようか》〉の、最初の器楽の入り、あれのパロディーなのだ。そうしてあちらの歓喜に対し、こちらは葬礼の哀悼の歌なのだ」と気づいた時である。調性もニ長調に対するニ短調。だから、マーラーは、これをfeierlich und gemessenという表情記号をつけ、そのうえに楽譜にわざわざ「ここの各声部の入りは、どれもみなlangsamと指定された個所にいたるまでは、でクレッシェンドをつけないまったく均等の足どりで前進するように」という、注をつけたのだ。——このことは、オイレンブルク版(F・レートリヒの校訂のある新版のほう)のポケット・スコア、第七八ページにある。こういうことはどんな演奏をきいても気がつくはずといえば、それまでの話だが、私としては、これまで いろいろな人の演奏できいたのに、今度ジュリーニのレコードできいて、はじめてはっきりしたという事実は、どうにも取りかえようがない(譜例3)。  もちろんこの個所は『第九』にくらべれば、技法としてはずっとプリミティヴな外形をとってはいるけれども。  こうして、そのあとの何か軽音楽というか、ダンス音楽みたいな品のない旋律の意味も、以上に準じて、わかってくる。そうして、中間部の、マーラーのわざわざつけ加えた注を引用すれば「Sehr einfach und schlicht wie eine Volksweise」(民謡か何かみたいにごく単純に飾り気なく)歌われるべき、あのト長調のふし(譜例4)。  ここでも、私たちはマーラーの「単純に飾り気なしに」というのが、いわゆるザッハリヒな演奏スタイルとは何の関係もないこと。いやむしろ、その逆であるべきことを知る。それは引用した第二小節の終わりの拍のbからgに4度上る(この4度が、この交響曲では、ちょうどブラームスの『第四交響曲』での3度と同様すべてを生みだす基本的な音程なのだが)、その時のグリッサンドという指定にも明らかだし、そのほか、みる人がみれば、これはすぐわかる事実なのだ。そうして、ジュリーニはここから実に「飾り気なく」しかもひどく痛切で身につまされる嘆きのふしをひき出してくる。  こういう時である、むしろ、私が彼にイタリアを感じるのは。ドイツ人の指揮者だったら、とてもこれほど「飾り気のない」むき出しの直截《ちよくせつ》さと、単刀直入の肉感性をもって、このふしをひかせることは躊躇《ちゆうちよ》するだろうに。すでにあの心優しく、高雅なヴァルターがそうだった。  こういうジュリーニが、ベルリン・フィルハーモニーを相手に、同じ作曲家の手になるとはいえ、まったく別世界といってもよいほどの『第九交響曲』でどんな音楽をつくりあげたことだろう? 私は、とても知りたい。   バルビローリ [Barbirolli, Sir John]    1  月日のたつのは本当に早いものだ。バルビローリが死んだのは、ついこの間のことのように思うが、もうあれから何年か経ってしまった。彼は一九七〇年の大阪の万国博にイギリスを代表してロンドンのニュー・フィルハーモニア・オーケストラといっしょに来日するはずだったのに、出発の直前、心臓麻痺《まひ》だったかで死んでしまった。  バルビローリは、その時が最初の来日というわけだったから、結局、ついに日本の好楽家の前に姿を現わすことなく、逝《い》ったということになる。本当に惜しかった。それに彼の場合は、レコードではずいぶん昔から馴染《なじ》みであったはずなのに、独特の粘液質的な音楽のつくり方が、日本の聴衆にはどこか馴染みにくいところがあるのか、それとも何かほかに理由があったのか、わが国での評価に、もう一つ、歯切れの悪いものがあっただけに、みんなで実演をきく機会があれば、もう少しはっきりしただろうと思えるのだから。  私は、これまで何遍か自分の経験したことからいうのだが、知らない演奏家をレコードだけで判断するのは本当にむずかしい。私だけでなく、わが同僚諸氏も、直接きく機会がないままに、レコードだけであれこれ論じなければならない時、困惑する場合が何度もあったのではないだろうか?  こんな書き出しをすると、結局自慢話めいてきて、恐縮なのだが、私は、幸いにも、バルビローリを何回かきくことができた。一番最初きいたのは、一九六七年から六八年にかけてベルリンに滞在していたころ、ベルリン・フィルハーモニーの演奏会でだが、その中でも、マーラーの『第五交響曲』を含んだプログラムがあり、その時の演奏がいちばん印象に残っている。  マーラーの『第五』を実演できいたのは、この時のほかにいつどこでだったか、私には全然思い出せない。ひょっとしたら、この時が最初だったのではないだろうか。それは実にすばらしい演奏で、以来、私はこの曲が好きになった。というより、この曲がやっとわかったと思うようになったというのが正確だろう。マーラーでも、この『第五』『第六』(特にあのすごい終楽章〓)、それから『第七』といった一連の交響曲は、『第四番』までの『子供の魔法の角笛』のロマンティックでメルヒェン的な世界からぬけ出して、世界に向かって客観的な立場で発言するとでもいった姿勢でかかれたものだし、それに声楽がなくなって、純粋な器楽になっている点でも、やはり大きな転換が認められる音楽である。それだけに、また、《形》からいっても複雑なものがあり、前よりはるかに難解な音楽になっている。もしかしたら、彼の音楽の中で、いちばんとっつきの悪い部分が、この三つの交響曲かもしれない。  この時の、バルビローリ指揮ベルリン・フィルハーモニー演奏によるマーラーの『第五』も、けっして、らくにきける音楽ではなかった。だが、バルビローリという人は、私にいわせれば、音楽の情緒的な内容を再現し、伝達するという点では、本当に名人だった。  もしきいたことがないのだったら、彼の指揮によるこの『第五』のレコードを、ためしにきいてみていただきたい。オーケストラはニュー・フィルハーモニアで、私のきいた時とはちがうけれども。そうして、もし、あなたがこれまでマーラーになれていないのだったら、ヘ長調のアダージェットからきいてみていただきたい。こんなに甘美な憂愁をたたえた演奏は、ほかにどこにもない。「そういうやり方なら、ヴァルターがいるではないか」という人もいるかもしれないが、それは先入観というもので、実はヴァルターは、バルビローリに比べれば、ずっと淡々とやっているのである。テンポも速いし、第一、細部にあまり拘泥しない。ところが、バルビローリでは、いわば心のたけ、思いのたけを綿々として綴った告白のようにきこえてくる。それでいて、バーンスタインともちがうのである。バーンスタインのは、耽溺《たんでき》型とでもいうか、自分が完全にマーラーに同化し、曲の中に没入しきっている。それはそれなりに、すごい音楽をきかせる結果になる時もあるわけで、たとえば一九六〇年、東京でニューヨーク・フィルを指揮してやったマーラーの『第九』は、そういうタイプの極致というほかないような演奏だった。あすこでは、音たちは音であると同時に、ある時は涙であり、すすり泣きであり、ある時は恍惚《こうこつ》であり、憧《あこが》れであり、歓喜であり、ある時は恐れであり、絶望であり、ある時は嘲笑《ちようしよう》であるという具合だった。いってみれば、声涙ともに下る大熱弁さながらの演奏。  バルビローリのはそういう極端なものではない。彼は音楽をうしろから駆りたてるようなことはしない。  そのレコードできける最適の例は、何といっても、ベルリン・フィルとやったマーラーの『第九交響曲』の演奏だろう。これは、ヴァルターの指揮した何枚かのマーラーものと並んで、およそありとあらゆるマーラーのレコードの中、迫力といい、魅力といい、最もすばらしいものというほかないものである。密度も濃くて、空虚なところがまったくない。畑中良輔氏のよく使う言い方を拝借すれば「完全に燃焼しつくした」演奏の記録にほかならない。これに比べると、マーラーを振って、ヴァルターと並ぶ巨匠であるオットー・クレンペラーのそれは、逆に驚くほど、悠然としてきこえる。アポロ的静けさと品位。もっとも、細部にどこといっていじりすぎたという憾《うら》みを覚えさすところのない点で、これまた、歴史的な名盤というべきかもしれないのだが。  このほか、バルビローリのマーラーで、私が愛聴しているレコードに、ジャネット・ベイカーが歌い、彼が棒をとっているものがある。『リュッケルトの詩につけた五つの歌曲』は、先にあげた『第五交響曲』のレコードの一面に入っているものだが、その音楽的なことは特筆に値する。これもヴァルターとキャサリン・フェリアの組合わせによる歴史的名盤とともに、マーラーのレコードの白眉《はくび》だろう。私はこのバルビローリとベイカーの顔合わせによるマーラーを実演できいたことがない。彼が万国博に来たとすれば、これがきけたのに、思えば、かえすがえすも残念なことだった。もっとも、レコードでは、ほかに、『亡き子をしのぶ歌』『さすらう若人(徒弟)の歌』と万遍なく入ってはいた。ことに後者は、目立っておそいテンポだが、この曲に関する最も美しい演奏の一つだった。  マーラーのことがやたらと出てくるついでに書いておくが、日本ではマーラーの指揮者としてのショルティの評価が、ひどく、曖昧なように思えてならない。これは残念なことである。ショルティを知るうえにもそうだが、第一、マーラーの音楽を理解し、味わい楽しむうえにも、これは大きな損失だと思う。実は私も、以前ショルティを論じた時は、彼のマーラーをよくききこんでいなかった。  私の考えでは、ショルティこそ、マーラーをふって現存の指揮者中最も注目すべき人だ。周知のように、まず、ショルティは「エスプレッシーヴォの指揮者」なのだし、マーラーの、あの神経質な緊張から痙攣《けいれん》するような陶酔にいたるまでの感情の音階の極端な幅のひろさと変化の異常な速さは、本来、ショルティにうってつけのところなはずである。加えるに、ショルティには、鋭すぎるくらいの分析的な知性と、むき出しの官能性の愉楽の追求があり、それもまた、マーラーのあの複雑を極めた楽式の中での燃えるような表現意欲を跡づけようとする指揮者にとっては、なくてはならない資質であるはずである。それに、ショルティには、ポリフォーンな音楽の流れを、これ以上はちょっと考えられないくらいの透明さにまでよりわけてみせる腕の冴《さ》えがある。こういう点でも、この人にはマーラーにうってつけの資格が具《そな》わっているのだ。ただ、彼には極端への好みとでもいうか、微妙な明暗のニュアンスで仄《ほの》めかすべきものも白日の下にひきずりだして、白か黒かに強引に二分しなくては気がすまないといったところがあり、それがたとえば緩徐楽章を扱う際に、音楽を不安定な、せかせかしたものに変質する弊となる。だが、成功した時のショルティのマーラーは、その強烈な自発性からいっても、本当にすごいというほかないような高みに達するのも、まれではない。『第三』とか『第六』『第八交響曲』とかは、その例だろう。要するに、ショルティは、最も「現代的なマーラーの指揮者」だといってよい。  ただ、『第一』『第四』『第九』といった曲になると、私は、ショルティでなく、ヴァルターやバルビローリでききたいのである。    2  バルビローリでは、私はほかに、モーツァルトやR・シュトラウスもきいた。ことにシュトラウスの『ドン・キホーテ』はおもしろかった。つまり私の知っているバルビローリは、ロマン派の音楽の名指揮者だったのである。  実は、私はバルビローリについては前にも多少書いたことがあり(『吉田秀和全集』第五巻所収の「バルビローリ再説」参照)、今度、もう一度このイギリスの名指揮者を扱うについて、以前書いたものを、斜めに走り読みしたのだが、あすこではブラームスの四つの交響曲のレコードを中心に書いていながら、『第二交響曲』について一口もふれていないのに気がついた。  ついでに書いておけば、私はブラームスの四曲の交響曲では、まさにこの『第二番』が最も好きなのだ。それなのに、この曲には一言もせず、『第三交響曲』の演奏をやたら賞めたりしている。おかしなことだと考えレコードをひっぱり出してきて、きき直してみた。  そうして、針をおろして、それこそ数秒もしないうちに、はっきり思い出した。私は、この演奏がまったく気に入らなかったのである。それはもう、初めの第一小節のチェロとコントラバスがユニゾンでd・・d‐aとやる(譜例1)、その演奏からして、もう、いけないのである。どうして、こんなに重苦しいテンポではじめ、第二拍子に向かってクレッシェンドし、それから第三拍子でディクレッシェンドするのか? こういう出だしのうえに、以後、どこをとっても、すべてが重苦しいばかりでなく不自然なのである。  なるほど、この出だしは、よくレコードではうっかりすると聞こえないくらい、やたらと弱く(まるでか、人によってはであるかのように誇張して)演奏している例も、それも大家の指揮の中にも、少なくない。そうなっても困る。この小さなモティーフの中に、全交響曲の萌芽《ほうが》があるのだから。だが、だからといって、それをこんなふうにとりだしてきて、強調する必要はまったくないのである。そうやる理由がないからこそ、ブラームスはただと書いたのである。そうして、あとのほうで、必要になってきた時は、ちゃんと、mp esp.と書き(第四七七小節)、またさらに、その先までクレッシェンドもさせているのである(第四八五小節)、そうしてここではのエスプレッシーヴォやクレッシェンドの意味はまったく明らかであり、論理的でもあれば、美しく効果的でもあるのである。  私は、バルビローリの指揮には、これで、ひどく失望した。それで私は一言も、ふれなかったのである。第一楽章がつまらないためばかりでもあるまい。あと第二楽章も、きいてみたが、さっぱり。それで、私は、中途でやめてしまったのである。  それを思い出した私は、改めて『第三交響曲』のレコードもかけてみた。こちらは悪くない。ことに終楽章の、そのまた終わりのコーダは、本当に灰色の憂鬱に閉じこめられた世界の音楽だ。  私は、あの小論を書いた時、自分がまったく聴き方をまちがっていたわけでもないのを知って、失いかけていた自信をややとりもどした。それに、せっかくヴィーン・フィルハーモニーというすばらしい楽器を手にして、ブラームスの指揮に失敗するようでは、名指揮者もないものではないか!  だが、もう一度考え直すと、ブラームスの『第二交響曲』という曲、私はこんなに好きなのに、ベームの指揮できいた以外に、かつていつ、本当に満足したことがあっただろうか?  私は、あちこちかきまわした末、ベームのレコードをとり出してきて、かけてみた。  レコードは古く、おまけに、私がかつてさる私立大学に奉職していたころ、学校のすりきれた針で何回もかけたので、やたら傷がついてしまっていていやな音しか出ない。それにもかかわらず、何とよい演奏、何と暖かい音楽だろう。すべてが安定している。すべてが自然である。ブラームスの交響曲に関しては、私にはベームが一番好きな指揮者ということになる。ブラームスは、妙ないじり方をされると、きくに耐えぬ退屈で不自然なものになる。甘ったるくて、陳腐なロマンティシズムの音楽になってしまう。たとえばリズムの扱いにしても、何か前もって作られたパターンに合わせて組み合わせられた感じだし、シークエンスもやけに多いし。それが、しかし、ベームのような人の指揮できくと、すべてがおさまるべきところにおさまり、学殖があるだけでなく情感にみちた正直な音楽になるのである。ベームの指揮した『ハイドンの主題による変奏曲』の演奏など、果たしてどんなものだろう? どうして、この曲のレコードがカタログには見当たらないのだろうか?    3  話が、また、バルビローリからかけはなれた。  しかし、私には、正直、バルビローリは、何といってもマーラーがよく、あとは、いってみればもうおまけでしかないのである。その中では、ただし実演は知らないが、レコードでおもしろくきいたのに、『春をつげる郭公』その他のイギリス人の作曲家ディリアスの小品を集めたものがある。これはとびきり楽しいレコードである。 クーベリック [Kubelik, Rafael] ターリッヒ [Talich, V�lav] アンチェルル [Ancerl, Karel]    1  私は、音楽家の性格、芸風というものを、国籍によって区別して考えるのを、あまり好まない。日本人といっても、その中でいろいろなタイプの人がいて、一口にどうというのは危険である。ましてヨーロッパ、それも特に中央ヨーロッパ出身の音楽家ということになると、何しろこの地方は、長い間オーストリア・ハンガリー帝国を形成していたあと、二十世紀になって、第一次大戦の結果、いわゆる民族自決の原則によって、そこからチェコスロヴァキア、ハンガリー、ユーゴースラヴィアといった国々が、それぞれ、再び独立国家になったり、あるいは新たな集合体として再出発したりという具合で誕生したのであって、その前は、これら各種の民族は、一つの音楽文化圏を形成していたのである。十八、十九世紀だけでみても、当時の人びとの意識の中で、国籍とか民族性とかいうものが、どういう具合に生き、働いていたか。これは、現在、私たちが考えてみるものとは、かなり様子がちがっていたと見るのが正しいのではなかろうか。そのことは少なくとも今世紀初頭まで続く。たとえばマーラーが、今日、チェコスロヴァキアに属する土地に生まれたからといって、彼をチェコの音楽家と呼ぶのは、かつてハイドンがハンガリーの片田舎に生まれたからハンガリー音楽の大家だと見るのが強引なのと同じことである。今手許《てもと》に資料がなくて、記憶で書くのだが、アルトゥル・ニキッシュも、たしか、ハンガリーかチェコかの生まれであるが、彼を、ハンガリーの指揮者とかチェコ人とか考える人はいないだろう。  それにもかかわらず、今私たちの視界に入ってくるところで考えてみると、よそはともかく、このハンガリーとチェコスロヴァキアの両国出身の指揮者たちの間には、かなりの程度まで、はっきりした性格の分類ができるように見られるのである。  何しろ、この両国からは驚くほどの数の指揮者が輩出し、国際的に華々しく活躍している。ハンガリーからはじめると、フリッチャイ、ライナー、セルの三巨頭は亡くなったが、オーマンディとドラティは健在だし、何といっても、現在おそらく世界中で最大の売れっ子の筆頭に数えてもおかしくないだろうショルティがいるし、それに続いて若いところではイストヴァン・ケルテシュがいる。丹念に調べている人なら、もっといくつもの名をあげられるだろう。それから、チェコスロヴァキアに目を転じると、ここにも何人かがすぐ思い浮かぶ。ターリッヒは故人となったが、アンチェルル、ノイマン、スメターチェク、それから、早くから国外に出てしまったがラファエル・クーベリック。いや、セルはブダペスト生まれではあっても、両親はチェコ人ではなかったかしら?  ところで、こうして、かつては一つの国家の下にいた二つの民族——いや民族ということになると、おそらく以上にあげた名をおさめるには二つぐらいではすまなくなるのではなかろうか。やはり、国とよんでおこう——の出身者たちの間には、際立って対照的なものがあるように思われるのである。  もちろん、ショルティとセル、ケルテシュとオーマンディを一つにひっくくるのは大雑把《おおざつぱ》すぎる話だが、それでも、これらの名指揮者のさまざまの美徳と品質の間を縫って、一本の赤い糸のように共通するものが認められる。それを、技術の完璧《かんぺき》と合奏の正確、それからリズミックな要素の重視といったふうに定義づけることもできるだろうが、私はむしろ、その合奏の正確、リズムの生命的躍動の重視等々の底にあるもの、つまり理想とか目標とかに対する熱狂的で一切の妥協をうけつけない追求の烈しさに目を見張るのである。作曲家でいえばバルトークのあの殉教者といっても誇張でない純潔さ、燃えるような自主独立の精神が、これと同じ源泉から由来する。  それに比べ、つい隣りにあるチェコスロヴァキア出身の指揮者たちは、何とちがうことだろう! あちらの烈しさに対し、こちらには和やかさがあり、あちらのいまにもはりさけそうな緊張に対し、こちらには穏和と中庸がある。ここにあるのは殉教者であるよりも、むしろ寛大と柔軟を尊ぶ精神である。怒号よりむしろ寸鉄人を刺す諷刺《ふうし》をとる精神である。  こんなふうに書いてゆくと、いや、それは皮相な見方で、チェコスロヴァキア人の口もとに浮かべられた微笑は、その底に氷より冷たい機智の刃を隠しもっているのだといわれるだろう。それは、私も気づいたところだ。だが、少なくとも、この国の人びとは、烈しい感情の動きをナマの形で外界にぶつけるという行き方を、あまり評価しないように見えるのである。  そういう点が、この国の指揮者にも——一般化していえる限界の中での話だが、うかがわれはしないだろうか?    2  ラファエル・クーベリックは、一九六五年だったか、ミュンヒェンのバイエルン放送交響楽団をひきいて来日したので、日本のファンの中にも、その指揮姿に接した人が少なくないはずである。それに、この人には、レコードもたくさんある。  私がこの人で特に好きな点、特に尊重している点は、いつも、何を振っても、彼自身でいるというところである。というと恐ろしくエキセントリックな人物と思われるかもしれないが、そういう意味ではない。どんな時でも、ハッタリがなく、自分を偽り、自分を隠して自分以外のものにもなろうとか、あるいは無理に背伸びして自分以上のものになろうなどとしない、という意味である。これは、どんな名指揮者にもいつもみられるとは限らない美徳である。いたずらな虚栄心をもたない人だといってもよいのかもしれない(もちろん、彼ほどの国際的に知名な芸術家で、ことには指揮者という仕事のうえからいっても、まったく虚栄心がないとかいうのは、まちがいにきまっている。それでは聖者になってしまう。だが、たとえば、日本の若いヴァイオリニストの塩川悠子にストラディヴァリの名器をよろこんで貸し与えているなどという挿話《そうわ》の中にも、この人の私心の少ない人柄、好きを好きと認める心の働きが率直に出ているように思えるのである)。  クーベリックのレコードは、私も考えてみると、わりにあれこれときいてきたようだ。その中で、まず上げるとすれば、マーラーのものである。バルビローリの項でも簡単にふれたが、現代のマーラー指揮者の中で、ショルティを最もテンペラメントに富んだ、そうして最も近代的なエスプレッシーヴォ・スタイルの指揮者の最右翼に数えるとすれば、クーベリックは、そのショルティとも、それから熱狂的で、しかも同時に、知的というより頭脳的で、ときによると、ややこしらえものじみた気味がないわけでもないバーンスタインとも、全然ちがった一角を占める代表的存在である。クーベリックのテンポは、マーラーをやる時でさえ、よく流れ無理がなく、力強くて、甘さの少ない、というよりむしろ渋いアクセントをもっているので、レコードできいても、ほかの人びとと比較的よく区別できる。しかも、マーラーの音楽の詩味がけっして失われていないのが、この人でよい点である。表現は自然で健康で無理がなく、マーラーというと、とかく指揮者が陥りがちのセンチメンタルな誇張が用心深く避けられている。深刻癖もないし、おそらくクーベリックは現代のマーラー指揮者の中で、「最もリアリスティックなマーラー」をやる人といってもよいのかもしれない。ただ、問題は、果たしてマーラーの音楽の中核に、クーベリックが用心して避けているものがなかったかどうか、である。そうして、これは人によって議論のわかれるところだろうが、私は、彼のマーラーをきいていて、ときにもう少し緊張力に富んだ、きくものの肺腑《はいふ》にくいこんでくるようなところがほしいという気になるということも、つけそえておきたいと思う。それだけにまた、マーラーのレントラー、本当に「ボヘミア的」田園的なものへの憧《あこが》れと回想から生まれたかに思われるような楽章の演奏となると、ほかの誰からもきかれないような安らかさとポエジーの均衡がきかれる。こういう時の演奏を、もしマーラー自身がきけたとしたら泣いたかもしれない。ここには、ある種の《無垢《むく》》と《素朴》がまだ辛うじて、生き残っている。  クーベリックには、ほかにもヴァーグナー(特に『ローエングリン』の全曲)やドヴォルジャークその他の名演があることは、私が書くまでもないだろう。こういうものをやる時でも、彼は——前に書いたように——同じだ。だが、私は、そのクーベリックで本来ならドヴォルジャークとか何かのほうがぴったりすると考えられるのに、かえって、マーラーにひかれるのである。    3  チェコ・フィルハーモニーはヨーロッパで屈指のすばらしい交響楽団である。こんなことは、日本のファンもみんな知っている。それにこの楽団は戦後少なくとも二回は日本に演奏旅行に来たはずだ。私の記憶が正しければ最初はアンチェルルと、それからつぎはノイマンと一緒に。アンチェルルとの時は、五〇年代の終わりか六〇年代の初めだったはずだし、ノイマンの時は、忘れもしないあの一九六八年の——ドゥプチェク政権のもとでのわきたつような《プラーハの春》がソ連を先頭とするワルシャワ条約機構諸国の軍隊の強圧の下に、真向うから押しつぶされた直後にあたる六九年の初頭のことだった。そうしてあの時は、ドヴォルジャークの『チェロ協奏曲』の独奏者として同行するはずだったチェリストに最後の間際になって外国旅行の許可がおりず、オーケストラの首席チェリストが代わってソロをやった。何でも飛行機の中で急にいわれたとかで、代わった人にとっても大変な難行だったろうし、それだけにノイマンをはじめオーケストラの僚友たちが一生懸命に独奏者のやりやすいように伴奏をつけている光景は、ただ見ているだけでも胸の痛くなるような光景だった。そうして、そのあと、一九七二年の初め、札幌の冬季オリンピックを機会にミュンヒェン・フィルハーモニーが日本に来た時は、同行するはずだった指揮者のノイマンに、国外に出る許可が急におりなくなったとかで、代わってリーガーだったかがやって来るという事件があった。  こんなことは、すべて、指揮者論としては余談みたいなものだが、しかし、私には、そうとばかりと考えられないのである。現に、アンチェルルは、あの六八年を機として国外に出てしまったのではなかったかしら。それでノイマンが、彼の後任として、一九六九年の初め日本に来たのだ。  クーベリックは、いうまでもなく、第二次大戦の少しあと外国に出て指揮生活に入ってからは、ときどき帰国もしているのだろうが定住はしないだろうし、こうしてみると、今世紀のチェコスロヴァキアの名指揮者には、祖国は必ずしも居心地がよいとは限らないということになる。痛ましい話だが。もっともこれは、ハンガリー出身の指揮者についても、まったくあてはまらないというわけでもない。  ところで、以上のチェコ・フィルの常任指揮者の系譜でいうと、私には、ターリッヒ、アンチェルル、ノイマンという順に、よかったような気がする。といってもターリッヒのことは私は何も実際にきいたわけではないので、確定的な言い方はできないのだが。ターリッヒのレコードでは、最近になって千円の廉価盤がいくつも出るようになったが、これらはどれも非常な出来ばえである。もっとも録音の良し悪しのほうは、私にはよく品定めができない。レコードの価格というのも、実におもしろいものだ。このごろのように廉価盤ですばらしい演奏のレコードが出るような時節になると、最近盤のホヤホヤの高いものばかり追っかけるのも知恵のない話だと痛感させられる。そのターリッヒの指揮で、私がつい先日きいておもしろいと思ったのは、ヤナーチェクの『利口な女狐』組曲の入った盤(うらは『隊長ブーリバ』)である。この『利口な女狐』は、私には、もうオペラという種目に生まれ出た一つの奇蹟《きせき》としか思えないもので、その美しさ、魅力を味わうためには、筋など本当はどうでもよいのである。レコードに入っているのは、ターリッヒが編曲した器楽の組曲ものだが、それでも音楽のすばらしさを味わうに不足はない。音の独特な柔らかさをもって、しみ入るような美しさ、その底を流れている何ともいいようのないペーソス。これだけの音楽は、独自の輝きをもった才能の少なくない近代音楽の中でも、ドビュッシーその他、ごく何人かしか書けなかったものである。それがまた、ターリッヒのやさしくて、デリケートで、少しも無理のない、抑制のきいた、均衡のとれた演奏できくと、ひとしお、見事に響くのである。これは、もし演奏における近代チェコスロヴァキア楽派といった言葉を使ってよいのならそういうものとして、管弦楽演奏の最も高貴で真実なものに数えられなければならない。ターリッヒにはドヴォルジャークの『スターバト・マーテル』とか『第八交響曲ト長調』とかがある。そのどれもが、実に柔らかで品格にみちたものである。ドヴォルジャークを、十九世紀民主主義の泥臭く、荒削りのものと考える人は、びっくりし、迫力がないではないかというかもしれないが、そういったら、ターリッヒは「それこそ、外国の観光客からみたドヴォルジャークなんだ」と返事するのではないかという気がする。ただし、私は偉そうなことはいう資格はない。私自身が外国人として考えてみて、そういうことではないかなという気がする程度にすぎないのだ。こういう例は、ソ連の音楽家のチャイコフスキーの交響曲の演奏でも経験することで、ソ連人がやると、チャイコフスキーは、第二のベートーヴェンではないにしても、何か堂々たる大人物になったようにきこえる。そういうものだったのかどうか? 私は、鎧《よろい》かぶとに身を固めたようなチャイコフスキーをきかされたような気がして、あんまりゾッとしないのだが。  さすがチェコの名家の指揮するドヴォルジャークには、そんなことはない。むしろそこには洗練と抑制がある。アンチェルルの指揮するドヴォルジャークがそうだし、それにこの人の棒できく時には、何もチェコの音楽に限らず、たとえばストラヴィンスキーでも、あるいはブラームスでも、そこに一つの余裕というか、対象をじっくり眺め、客観性と造形と全体の均衡に対する充分な心くばりのうらづけのある態度が感じられるのである。烈しさや鋭さがないというのではないが、すべてがむき出しの生《なま》の形では出てこないのだ。それに、もう一つ、こういう人たちの指揮では、私たちはオーケストラの質の良さというものをたっぷり味わうことができる。これは、作曲の良さと同じく、きく私たちの心を、快い満足でみたす行き方で、実に気持がよい。およそいわゆるムジカント的な、素直で率直でリアリスティックな態度でもって、実質のある音楽をきかせるというのが、こういうタイプの人たちの音楽の良さだが、その中で、ターリッヒとかアンチェルルとかいうのは、安定性と品格がある点が、ありがたいのである。  彼らに比べると、ノイマンは、ちょっとおちる。というのはあたらないかもしれないが、彼には、どこか少しちまちました、実直だが、やや官僚的な杓子《しやくし》定規なところがあるように思われる。 ロジェストヴェンスキー [Rozhdestvensky, Gennady] フリッチャイ [Fricsay, Ferenc] アバド [Abbado, Claudio]    1  ゲンナディ・ロジェストヴェンスキーは、一九七二年の春現在までに、数えてみればすでに二回日本に来ていることになる。最初は、たしかモスクワ・ボリショイ劇場のバレエ団が日本公演にきた時、それに随行したもの。私は、その公演を東京新宿のコマ劇場で見た覚えがある。その時は、東京のどのオーケストラを、彼が指揮したのだったか忘れた。もしかすると、東フィルだったかもしれない。とにかくこの公演からは、私には、バレエの人びとが、つぎからつぎと、ソリスティックな妙技を見せたこと、というよりそれはもう大部分がアクロバット(曲芸)というほかないような技術の開陳ではあっても、さっぱり《詩》の感じとれないものだったこと。それから、ここには、アメリカのバランシーン以下がずっと前から展開していた《アンサンブル》の観念がまだまったくとりいれられてないらしいのに驚きをもって確認したことしかおぼえていない。特別な記憶のないのは私ばかりではなく、当時の批評でもロジェストヴェンスキーに特にふれたものはなかったのではなかろうか。  第二回の来日は、一九七〇年NHKの招待でモスクワ・ボリショイ劇場のオペラ団の公演につきそってきた時。この時は、もう日本の好楽家の中にもそろそろ彼の存在に気づいた人があったのだろう。彼の指揮したのは『スペードの女王』だったはずだが。もっとも、私はきいていないし、どういう人がどういう批評を発表したか、読んだ記憶のはっきりしたものはない。私はたった一回、『オネーギン』をきき、その時はロストロポーヴィチの指揮だったが、これが、あの世界で一、二といわれる大チェリストの音楽かしらとびっくりしてしまった。この時のオーケストラからは、やたらとはりきりすぎて、音もつぶれてよくないばかりでなく、表現としても、さっぱり落ちつきのない音楽しかきこえてこなかった。これはまったくの余談だが……。  こんなわけで、ロジェストヴェンスキーについて、はっきりした考えが形成されたのは、私としては、今度(一九七二年の春)、彼が、手勢ともいうべきモスクワ国立放送交響楽団をひきいて、日本にやってきて、演奏会を開いたのに接してからのことである。  私は、東京公演の初日を上野の文化会館ホールできいたのだが、恒例によって日ソ両国の国歌が奏楽された時、私は、オーケストラの合奏の並々ならぬ力強さ、その音の輝きといったものとならんで、『君が代』の第二詩篇《しへん》というか、〈千代に八千代に〉の個所が、ものすごくクレッシェンドされ、しかも、弦楽器が弦に弓をべったりおしつけた、最強度のレガートでひかれた結果、まるでオペラ、それもイタリア・オペラ(あるいはロシア・オペラでもこうなのか? 私はよく知らないが)の一節みたいになってしまったので、オヤッと思った。ここはまた、歌詞が本来なら、「千代に八千代に——さざれいしの——」となっているのに、旋律は「千代に八千代に、さざれ——いしの——」とついていて、きくたびに奇妙な感じがするのだが、それだけに、すごい力のある交響管弦楽団がクレッシェンドしてきて「さざれ〓」とを三つも並べたような大強奏になると、救いようのない違和感が生まれてしまう。もっともこれは、日本の国歌の構造上の問題であり、テクストのことなど何の知識もなくても不思議ではない外来の音楽家たちに何の責任があるわけではないので、私は、この演奏を責める気は毛頭もっていない。それでも、このごろは、外国人といっても、『君が代』のエクスプレッションについて前もって調べてくる指揮者もないわけではないので、正直ちょっとびっくりしたことは、事実なのである。「何とまあえらくはりきっている指揮者だろう!」と私は心中呟《つぶや》いた。  それからグリンカの『ルスランとリュドミーラ』の序曲がはじまったが、これが、果たしてすごい演奏で、ロシア・オペラがここに呱々《ここ》の声をあげたという面影は、まったくなく、むしろ『アイーダ』か何かの凱旋《がいせん》の音楽にこそふさわしいような、威風堂々たる大序曲になっていた。そのあとは、ラフマニノフの『第一ピアノ協奏曲』があり、休憩後はチャイコフスキーの『第五交響曲』というプログラムだった。そうして、その威風堂々たる大音楽というスタイルは、どこまでいっても、募りこそすれ変わりはなく、アンコールでやられたプロコフィエフの『ロメオとジュリエット』の決闘の場は、その大クライマックスであった。それはチャイコフスキーのあの『第五』の主題が勝利の主題として、歓呼の中に戻ってきて、最後の勝ちどきをあげる、その時のすごさをまた一段と上まわるものだった。それはもう人間同士の決闘というより怪獣と超人との大立ちまわりで、どちらかが相手に止《とどめ》をさし、相手は断末魔の大苦闘のあと、ついに息が絶えるとでもいった場面につけた音楽というほうがふさわしいものだった。  正直いって、私は閉口した。しかし、それはまた同時に、ロジェストヴェンスキーという人の指揮者としてのすごい腕にもまったく降参したことでもある。オーケストラをあやつり、ひきまわし、思うがままの表情を出すことにかけて、こんなにも手腕のある人を、私はかつて、見たことがない。なるほど米国とならぶ世界の超大国の首府の国立放送交響楽団の主《あるじ》たるにふさわしい。この人なら、ラジオできくだけでなく絶対にテレビでみたほうがよい。  少なくとも一度はみておく必要がある。とにかく大変な腕である。私のいっているのは、何も、彼が頭の先から足の先までをどう動かすかということだけではない。その動きでもって、彼はまた、すごく細かいところのある音楽もつくれば、いうまでもなく、すごくダイナミックな音楽もやる。リズミックなものも、旋律的なものも、つまり歌う音楽も。チャイコフスキーの『第五』の第三楽章のあの何でもないワルツの音楽にしても、その旋律にいわばいくつもの照明を与えられ、まるでちがう色彩の音楽となって現われてくる、その鮮かさ。  これは、大変な指揮者である。また、それにあわせて、オーケストラも実にすごいもので、なかにはソロをひかせてもすぐ商売になるような楽員が何人もいるらしいことがわかる。  それでいて、私は、閉口した。その最大の原因は、一つは音楽がいかにも力ずくで、これでもかこれでもかと、ごり押しにこちらに迫ってくる点だ。これでは音楽というより、レスリングみたいである。ソ連のスポーツは、何ごとによらず、ごり押しで、力ずくでねじふせるという行き方だということをいつか何かでよんだが——私には、その当否はわからないけれども——、もしその通りだとすれば、この演奏も、それと同じカテゴリーに属する。  ロジェストヴェンスキーは、腕前からいえば、今のままでもすでに世界の一流中の一流に並べてよろしい。それは、彼自身がすでに知っていることだし、彼はそれを意識しすぎるくらい意識しているに相違ない。だが彼は、その腕前を、あまりにも露骨に、どんな音痴にもはっきりわかるように、示したがりはしまいか? その結果、音楽から《詩》が、余韻がなくなり、おのずから人を魅惑する自然な暖か味とでもいったものが乏しくなりがちなのだ。  それと、私があきたらなく思ったものは、対位法的なものが、あまりにも考慮されない点である。考慮という言葉は正確ではないかもしれない。ロジェストヴェンスキーの目が見逃すものは何一つありはしない。だが、出てきた音楽には、どうしても、知的で透明なもの、あるいは音楽の気品、精神美、清澄さというものが感じられない。本当のことをいうと、この後者の不満のほうが、私が、この人の音楽に閉口する主要な原因となっている。  それにしてもすごい指揮者がいるものである。腕前は、天才的=悪魔的な高さに達している、といったら、あんまり時代がかって、ロマンティックで滑稽だけれども。私はさっき、この人の舞台を一度みておかなければ話にならないといったが、十九世紀だったらきっと、誰かがこの人をモデルにカリカチュアを描いたのに相違ないという気がする。誤解されては困る。カリカチュアといって、私は何も悪い意味での戯画を考えているのではない。私のいうのは、リストについて、パガニーニについて残っているような、そういう性格的戯画のことであり、そういうものこそ、なまじの写真などより、この指揮者の何ものであるかを正しく後世に伝えるだろうと思う。写真などつまらない。    2  一九五三年、はじめて外国に行った時、私は、サン・フランシスコで、ここのオーケストラを相手に、フリッチャイが指揮をするのに接した。これが、また、私の外地で最初に接した交響管弦楽の演奏会だった。  当時、サン・フランシスコ交響楽団は、常任の指揮者がなくなり、外国から何人かの指揮者を迎えて定期をつづけ、その結果をみて、つぎの常任を選ぶのだといった話を耳にしたものである。  その時のフリッチャイで、私はたしかベートーヴェンの『第八交響曲』その他をきいたと覚えている。明るい指揮であった。こんなふうにいうのも、妙かもしれないが。  その後、ベルリンに行き、彼が当時はリアスと呼ばれていたベルリンの放送管弦楽団をふってロッシーニの『スターバト・マーテル』をやるのをきいた。この時も、私は、彼の指揮が、何からくらくとしていて少しの無理もなく、そのうえに、音楽全体が明るくのびのびしているのに感心したものだった。曲が曲だけにダイナミックな演奏であり、芝居気もたっぷりなのだが、そこに少しの嫌味もない。  大家であるとか、名指揮者であるとかいう人の中にも、楽員に好かれるタイプ、つまり今度は彼の棒でやるのかとみんなが張りきるタイプと、楽員にあまり好まれないタイプ、つまりなるほどよい指揮はやるけれども、どうも彼の棒でやるのは気がすすまないという感じを与えてしまう指揮者と、この二通りがあるとすれば、フリッチャイは、何といっても、この前者、楽員たちに敬意を払われると同時に愛されるタイプの指揮者だったろうと、私は、今にして、思うのである。だから、彼の音楽には、当たりはずれはあっても、いつも、嫌な後味がなく、明朗でのびのびした空気がみなぎっていたのではなかったろうか?  ハンガリー生まれの指揮者というと、故人となったセルとかライナーのような超大家から、目下ヨーロッパとアメリカでひっぱりだこの人気男ショルティにいたるまで、実に多士済々《せいせい》といったところであるが、そういう中で、フリッチャイは、もちろん今世紀前半の非ロマンティックな指揮者にはちがいないが、しかし、彼の求めていたものは、セルやライナーのあのペダンティックなまでの厳格さからは遠いものだったのではないか。それから、また、彼にもダイナミックな面は充分にあったが、しかし、ショルティのような、あの爆発的なものにまでいたるダイナミズムの追求や、何か非常に疳《かん》の高い名馬にみる、神経のぴりぴりと高ぶっているような、肌ざわりといったものはなかったように思う。  もっとも、彼の場合は、すべてが、普通といっては語弊があるが、あたりまえの人間の規準に合った枠《わく》の中でのダイナミックであり、客観性の尊重であった。  私は、いつかベルリンにいた時、テレビで、フリッチャイがヴィーン・シンフォニーだったかを相手に、スメタナの『モルダウ』を演奏している姿をとったフィルムをみた。それには、練習風景も入っていたが、その時の彼の姿には、好感をもたずには見ていられないようなものがあった。けっしておしつけがましいところがない。それでいて、実に、自分の意見ははっきりしているのだ。そうして、その自分の考えに楽員たちを誘導するのがうまい。というのも、彼の考えていることが、皆を充分に納得させるからである。あの曲の最初のほうで、水が出てはとまり、出てはとまりしながら、しだいに元気よく快く流れ出してゆく時の、すべり出しの快いテンポのとり方。それから、幾度も出てくる弦の軽いスタッカートの打ち方、円い音への要求、新鮮で自然な動きへの導入の仕方。特に話がうまいとか、愛想がよいとかいうのではなくて、指揮者のイメージにある音楽がごく自然に流れ、楽員たちの弦の動かし方や管楽器をもって構える姿勢の中にのりうつって、音になってゆくとでもいったふうなのが、眺めていて実に楽しかった。  フリッチャイは、大指揮者ではなかったかもしれない。彼の音楽には深みとか凄《すご》みとかはなかったかもしれない。だが、柔らかさ、自然さ、そういったものから生まれてくる一種の風格は充分あった。しかも、そういうものは、何もスメタナとか何とかの民族音楽的なものばかりでなしに、ブラームスにも、モーツァルトにも、そうしてバルトークにも、たっぷり出ていたことは、彼の残したあのたくさんのレコードをきいても、わかるはずだ。私は何しろフリッチャイを、実演ではさっき書いた二回しかきいてないので、どうしてもこういう書き方になるのだが。  周知のように、フリッチャイは、一九六一年だったかベルリン・ドイツ・オペラが創建された時、その初代の音楽総監督に就任し、『ドン・ジョヴァンニ』で同劇場の柿《こけら》落としをつとめた。そうして一九六三年、この歌劇団が日本にはじめてやって来た時も、その資格で東京に乗りこんでくるはずだった。ところが、この東京公演の話がきまりかけていたころ、彼はすでにガンに冒されており、ついにそのまま再起することなく終わってしまった。まだ五十歳をいくらも出ていなかったはずである。可哀想なことをしたものである。  フリッチャイのレコードは、ひところ、やけにたくさん出ていたが、そのころの私は、あまりレコードをきく習慣がなかったので、ほとんどきいていない。しかし、私がきいたものの中では、彼がゲザ・アンダと組んでいれたバルトークの『ピアノ協奏曲第三番』など、今でも最高の一つとしてりっぱに通用する。その後出たレコードで、あれより何一つ前進した点のないものも少なくないくらいだ。で、たまたまレコード評などで、そういうレコードを称賛している文章にぶつかったりすると、この人はどういう聴き方をしているのかしら? とびっくりしてしまうことがないではない。    3  クラウディオ・アバドで、私がいちばん感心したのは、一九六八年の夏、ザルツブルクの音楽祭で、ロッシーニの『セビーリャの理髪師』をきいた時である。この時は、ポネルという切れ者が演出し、その舞台が気がきいていて、おもしろく見られたし、そのうえ、フィガロ役のヘルマン・プライをはじめ、芸達者で音楽の筋のよい歌手が何人もそろっていたせいも、多少はあったろう。しかし、その中でもアバドの指揮はすごく、よかった。ロッシーニの、あのきびきびした、どこを切っても新鮮な血がパッとふき出してきそうな音楽の躍動感があり、そのうえ、大切なことだが、少しも下卑て、安っぽい効果目当ての作りものめいたところがない点が、気に入った。  私が、かつて経験した最も退屈しない『理髪師』である。これは一般的にも大変好評で、何年間もこのスタッフのまま続けて、音楽祭にかかっていたはずだ。  だが、演奏会でのアバドとなると、話は少しちがう。私の記憶では、二回彼をきいたことがあるはずだが、一回はベルリンで、ベルリン・フィルと。もう一度は、プラーハの音楽祭の時で、この時はチェコ・フィルを指揮したはずである。その時のプログラムにヤナーチェクの『シンフォニエッタ』があったのははっきり覚えている。典型的ユーゲントシュティール(アール・ヌーヴォー)の建築物であるスメタナ・ザールでの演奏会だったが、そのステージの背後が、オルガニストの席だったか高い張り出しがあって、そこから、例の九本のトランペットをはじめ、軍楽隊みたいにやたらと多い金管楽器が吹奏されるという仕組になっているのだった。しかも、その奏者たちは、オーケストラのほかのメンバーとちがって、黒の燕尾《えんび》でなくて、軍人の礼服か何かひどく派手な色彩の服をき、帽子をかぶっていたように記憶している。  演奏のほうはどうだったか。何かはっきりしない。それはまた、この夜のプログラムのほかの曲についての記憶の点でも同じで、どだい、あと何があったのか、ブラームスだったかマーラーだったか。どうもはっきりしないのである。頼りない話で恐縮であるが。ただし私にしてみると、その責任の少々は、指揮者にあったのではないかといいたい気もなくはないのである。もう一つのベルリンでの演奏のほうは、マーラーの『リュッケルトの最後の歌』とベルクの『管弦楽のための三つの小品』を中心にくんだもので、あともう一曲あったが、これはどういうこともないものだったはずだ。  この中のマーラーの歌曲では、フィッシャー〓ディースカウが独唱した。例によって、ずばぬけてきめの細かい、完璧《かんぺき》の歌いぶりだったが、この時のアバドの指揮はあまり感心しなかった。やっと歌についてゆくというところで、何の新味もなければ、個性もなく、完全にフィッシャー〓ディースカウにくわれた恰好であった。  それにくらべると、ベルクの音楽は、かなりよい線をいっており、あの複雑を極めた半音階的テクスチュアをつくり上げているよこ糸とたて糸の関係をよく整理して、あとで、再組織したもので、その結果細密濃厚な情緒的世界もよく再現されていた。だが、それ以上の何があったかというと、これまた、あまりいうことがなくなる。  いくら秀才だとはいえ、若い指揮者にとっては、荷のかちすぎるプログラムだったというのが穏当な言い方かもしれないのだ。  しかし、アバドには、どこか音楽に無理を加えず、らくらくと流してゆくところがある。そういうのがよく発揮された時、たとえば先にあげたロッシーニのオペラであるとか、彼のレコードでいえば、メンデルスゾーンの交響曲であるとか、そういうものをきいていると、大家といえども感じられない軽さや、さわやかさが吹きよせてくるような思いに誘われ、この人には、洋々たる前途があるだろうし、そうあってほしいのだが、という気になる。  アバドはまだ若い。名指揮者とか何とかいう角度からでなくて、きくのがよいのではなかろうか。私とすれば、彼のロッシーニの味が忘れられず、レコードに入れるにしてもブラームスとか何とかでなくて、ああいうものを、どうしてもっとたくさんやらないのだろうと、そんな感想をもつのだが……。   カラヤン [Karajan, Herbert von]    1  カラヤンの指揮も、はじめてその姿に接したのが、一九五四年、私がヨーロッパに旅行した最初の時以来だから、もうそろそろ二十年近くになる。その後、私は何回かあちらに出かけ、出かけるたびに、どこかしらで彼の指揮する音楽会にぶつかったし、またカラヤンのほうからも、その間、何回か日本にやってきたりしたものだから、結局、今までに合計して何度きいたことになるのか、それを数える手がかりも、そろそろなくなりつつあるというのが正直なところである。  ということは、一つには、それだけでカラヤンの演奏会が多いというか、世界を股《また》にかけて、始終どこかここかで音楽会をひらいているということになるわけだし、もう一方では、私のほうでも、何の彼のいいながら、彼の指揮で音楽をきくのが好きなものだから、機会があれば、彼の演奏会に出かけていったということになる。  では、どうして、私はカラヤンをよくききにいったか? カラヤンの魅力はどんなところにあるのか? といえば、少なくとも今の私にとっては、彼の棒できくと、音楽がいつもらくらくと呼吸していて、ちっとも無理なところがないというのを、まず、あげたいと思う。そうして、これは近年になると、ますます目立ってきた傾向と、私は思っている。  といっても何も、私がはじめてきいた時には音楽に無理強いするところがあったというわけではない。その時は一九五四年の秋のベルリン芸術祭の一環としてのベルリン・フィルハーモニーの演奏会で、プログラムにはモーツァルトの『第三十九番変ホ長調の交響曲』とかバルトークの『ピアノ協奏曲第三番』とかがあった。その中でも、とくにモーツァルトの印象が強くのこっているのだが、それは何ともいえず颯爽《さつそう》とした、繊細だが、しかし、けっして弱々しくない、むしろ勁《つよ》い筋の一本通った演奏だった。それをきいただけで私はカラヤンに感心してしまったようなものである。それに、私は今でも覚えているが、カラヤンの演奏には、モーツァルトを、こういじる、ああいじるという作為の跡が少しもなく、むしろ、モーツァルトの音楽に導かれて、それに忠実に演奏するよう心がけているとでもいった趣があったのである。  それにもかかわらず、今から思うと、それがまたあまりにも隙なく見事にまとまった姿をとるにいたっていただけに、かえって、そこからあらかじめ用意された写真の像が鮮かに浮かび上がってきたといってもよいような、そういう矛盾した感想を与える余地のあったことも事実である。というのも、音楽が、荘重できびしく、非常にゆっくりしたアダージョの導入部から、アレグロ(モーツァルトの指定は、アレグロとだけしかなかったはずである)というよりモデラートの主要部に入ってゆく第一楽章から出発して、ハイドン流の小さなリズミックな音型による主題が、栗鼠《りす》か二十日鼠《はつかねずみ》かみたいにきわめて敏捷《びんしよう》にかけまわる終楽章に向かって、基本的にいって、テンポも上り坂をかけのぼるように上昇するし、音楽のさまざまのエネルギーも全体としてその方向を目標に集中してゆくようにできていたからである。正直いって、私は今、それを完全に明確に記憶しているわけではないが、その時のことを思い出そうと努めれば努めるほど、私のきいたのは、たしかにそういう音楽だったという気が強くしてくるのである。というのも、もう一つ傍証というか、この気持を強める材料があるからで、それは、大分古いレコードだが、かつてカラヤンがヴィーン・フィルハーモニーを指揮して『第四十番ト短調の交響曲』を入れたものがあり、それは私がひところ、とりわけ好んできいたものなのだが、ここでは第一楽章のアレグロ・モルトに比べて終楽章のアレグロ・アッサイがずっと速くなっているのであるが、それだけでなくて、音楽としての流れが、まるでベートーヴェンの『第五交響曲』のように、終楽章に向かって集中し、高まってゆくように設計されているのが、はっきりわかる演奏になっているのである。それに、第一楽章では悲劇的でありながらも、そこに一抹《まつ》の優雅な趣が漂っているのがこのレコードでのカラヤンの演奏の大きな特色になっているのだが、終楽章では、もうそういうゆとりもなく、痛切を極めた悲嘆のほかは、すべて黒い情熱がうずまくばかりとなってしまっている。  私がはじめてきいた時のは、いわばそういうカラヤンであったわけである。    2  カラヤンは、先ごろまたベルリン・フィルを相手に、モーツァルトの、『ハフナー』『リンツ』以下、いわゆる最後の三大交響曲にいたる、全部で六曲をレコードにいれているが、これをきくと、この間にカラヤンが経た変化の核心がわかる。  その一つが、先に私の書いた何よりもらくらくとした、自然で、無理のない音楽を尊ぶ態度をますます明確にしてきたことである。今度のレコードでは、ト短調の交響曲も、変ホ長調のそれも、両端の楽章は、それぞれ、曲の頭と結びにすえられた円柱のように、ゆったりと安定した姿で、堂々と立っている。しかもそれが、押してもひいてもびくともしないような安定性を獲得しているのは、どこにも無理に力を入れた跡がないからである。こわばったところが少しもない。  それは、カラヤンの指揮ぶりにもみられる。もともとが非常に柔らかな肉体《からだ》つきであることはよく知られているが、彼の動きは完全に自然で、近年になってからは、両腕が肩より高く上げられる場合は、皆無ではけっしてないが、かなり稀有《けう》になっている。  こういう身体の動きに応じて、音楽も自然に流れ、だからこそ、音に安定性が生まれてくることは、重ねていうまでもないだろう。よく人びとは、カラヤンが巧妙なショーマンで、音楽をやる時、背中に聴衆の目を完全に意識し、演技していると悪口をいう。たしかにそういう時もあっただろうが、現在の状態でみると、彼はもうそういうことを超越してしまっている。どういう効果が生まれるかは、それを追求している時こそ、おもしろいだろうが、どうやればどうなると完全にわかってしまい、その後も十年以上も全世界にわたって、何百回となく指揮して歩いている人間にとっては、そんなことは今さら気にするもしないもなくなってしまっていて、当然だろう。    3  そんなことよりも、カラヤンの指揮の特徴のもう一つの大きな点は、彼が近年ますますレガート奏法を重視するようになってきていることだろう。メロディー優先主義といってもよい。  先にふれた最近出たモーツァルトの交響曲六曲を集めたレコードのセットには、練習風景のレコードがついているが、それできいてみても、カラヤンが楽員に注意している最大のものは、最大限のレガート、つまり、弓を弦に密着させ、「一つの音が、その前の音から直接生まれてきて、両者の間に一分の隙間もないように」演奏することである。カラヤンは「(旋律が)どこからはじまったか、きいていてわからないくらいでなければいけない」とか「速くはじめて(弓を弦にあてて)、長くひっぱって、しかもテンポを崩さないでひかなければいけない」とかいうことを、いろいろな言い方で、たえず口をすっぱくして説いている。  私は、ここに、少なくとも最近の彼の音楽のつくり方、演奏の仕方の急所があると思う。それにともなって、彼の指揮では、ますますよく歌われるようになり、音も豊麗を極めるようになる。  と同時に、その反面では、テンポこそきちんとして保たれているし、それはきわめて快適なテンポにちがいないのだが、リズムの歯切れのよさとダイナミックな緊張度の高さという点にややものたりない点が生じる場合もみられるようになってきていると、私には、きこえる。かつては、かなり乾いた音楽もやったのに、このごろはハイドンとかバルトークとかでは、むしろ、からっとした躍動性の不足を感じさす場合さえでてきたと思うのである。一度、そういう点に注意して、きいてみてほしい。  しかし、よく歌って、しかも、少しも力まず、無理しないというところから、モーツァルトやシューベルトでは、ときどき、本当に神品といってもよいような演奏がきかれることがあるのだが、特に、近年、私がきいたものの中で、すごいと思ったのは、アルバン・ベルク、それからヴァーグナーである。  ヴァーグナーの音楽、つまり、いわゆる《無限旋律》という名でよばれる、あのどこまでもとぎれることなく進展し、しかも、その間に音色の上でもどんどん変わってやまない音楽は、短い動機のつみ重ねとしての旋律とちがって、今の彼の傾向にぴったりのものというべきだろう。近年の彼が、ハイドンやベートーヴェンより、先にいったようにシューベルトやR・シュトラウスに適し、バッハよりヘンデルで特にぴったりのスタイルを感じさすのは、このへんに——実は、理由はこればかりではないけれども——大いに関係している。    4  周知のように、カラヤンは、モーツァルトと同様オーストリアのザルツブルクの生まれである。だからというわけでもないのだろうが、彼は毎年のように夏のザルツブルク音楽祭に参加して、ベームとならび、いわば東西の横綱としての貫禄をもってオペラや演奏会の中心的仕事の指揮に当たる以外にも、一九六七年からは、春の復活祭をはさむ数日にわたる音楽祭を開催している。こちらはもう彼が唯一の指揮者であるとともに、企画からその実施にいたるまで、すべてを一手に掌握しており、経済的責任もまた、彼が引き受けている。  私は一九六八年に出かけてそのザルツブルクの復活祭音楽祭にも行って、カラヤンの指揮演出によるヴァーグナーの『ニーベルングの指環《ゆびわ》』四部作中の『ラインの黄金』と『ヴァルキューレ』をきいたことがある。それから、同じ年の夏は、また、ザルツブルクで『ドン・ジョヴァンニ』のステージにも接した。また、別の年には、ヴィーンに行って、かつて彼がここの国立オペラの総監督時代にいろいろ演出した出しもののうち、『フィデリオ』を、(指揮者は別だが)彼の演出した形で上演するのにぶつかったこともある。  こんなわけで、私は、オペラの指揮者、演出家としてのカラヤンも経験したわけだが、カラヤンがそこでやる音楽は、本質的には、演奏会指揮者としてのそれと変わったことはない。要するに、ここでも、音楽の中心はメロス(歌う力)にある。だが、その歌が実に独特なものだということは、モーツァルトの交響曲をきく時よりも、ヴァーグナーの楽劇だと、より一面的だが、それだけ、より鮮明に出てくる。というのも、ヴァーグナーの音楽は、《歌と旋律》の音楽であると同時に、爛熟《らんじゆく》をきわめた和声の音楽でもあるわけで、同じ二十世紀の指揮者といっても、たとえばクナッパーツブッシュの棒できくと、この後者の濃厚にして官能的な和声音楽としての厚みと幅をいやというほど思い知らされるのだし、またジョージ・セルのような別のタイプの大指揮者できいても、正確な合奏から生まれる和音の響きの重厚で精緻《せいち》な味わいに圧倒される思いがする。ところが、カラヤンでは、単にいちばん私の耳につきやすい、外側の——というのも変な言い方だが——旋律だけが和音に支えられて浮かび上がってくるというのでなくて、中声部も低音部も高音部に少しも劣らぬ鮮かさできこえてくるのである。同じ音楽が、ここでは室内楽的透明さの音楽になっているといっても誇張ではない。ヴァーグナーが不世出の天才を傾けて書いた『ニーベルングの指環』のあの絢爛《けんらん》豪華な管弦楽が、弦楽四重奏か何かのような透明さをもち、しかもそれに少しも劣らぬ高度な音色の変化で彩られている状態を想像してみてもらいたい。  カラヤンのこの考え方は、歌手の選択にもはっきり出ている。カラヤンは、ここでも、ヴァーグナーだからといって、昔流の大きな声こそ出るが声の質の美しくない歌手、発声に無理のある歌手は一切使わない。巨大さとか、英雄的な高さといったものを、多少犠牲にしても、彼は、まず発声の美しい、整った声の出る、そうして正確な歌いぶりと、確実な演技のできる歌手を選んでいる。その最も代表的なのが、女性歌手でいえばグランドラ・ヤノヴィッツとかレジーヌ・クレスパン、ヘルガ・デルネシュであり、男性歌手でいえばジョン・ヴィッカース、トマス・スチュアート、マルティ・タルヴェラ、カール・リッダーブッシュといった人たちだということになるのではなかろうか? もっとも、私は、この四部作の全部の舞台をみたわけではないので、この点は百パーセント確実にいう自信はないのだけれども。しかし、ヤノヴィッツひとりをとってみてもよい。日本の人たちは、彼女の発声の見事さ、ことに高音部でのコントロールの絶妙さ、それからヴィヴラートの比較的少ない、透明だがやや表情力が中立的であまり強い個性のあるとはいえない声といったことを云々《うんぬん》するが、私のみるところでは、その美声もさることながら、彼女の歌い方が過去のヴァーグナー歌いの枠《わく》から完全にぬけ出て、まるでフリュートか何かの器楽の演奏でもきいているみたいな高度の純粋さをもっていること、これがカラヤンにとって彼女の最大の魅力なのではないかと思うのである。  演出家カラヤンについて、細かく書く余裕がなくなった。一言でいえば、この演出家としての面こそ、私には、すべてについて抜群の才能の持ち主であるかのようなカラヤンの中でも、最も弱い点だとしか考えられないのである。カラヤンが、専門の演出家の考えと衝突したあげく、オペラや楽劇といっても、要するに音楽が中心なのだから、というわけで、他人の邪魔をうけないよう自分で演出を受けもち、その演出でも、これまた、聴衆にもっぱら音楽に注意を集中しやすいように、なるべく余計な動きを排し、舞台もできるだけ暗くするという結果になる道筋は、理解できなくはない。しかし、その結果として、舞台の動きがかえって散漫になったり、空虚で退屈になったりするのでは志に反するのではないだろうか? そうはいっても、彼の舞台には、ちょっと余人には考えつきそうにない独特の工夫のあるのも事実だが。  それにしても、一つの音楽祭を企画運営して、その芸術面から経済面にいたるすべてにわたって、たった一人で全責任をもつという人物が現われ、しかもそれがヴァーグナーのような作曲家でなく、指揮者であるというのは西洋の音楽の歴史はじまって以来、カラヤンをもって初めとするのであろう。  そうして、これはまた、今世紀前半のトスカニーニやフルトヴェングラーの出現のあとをうけて、ついに今日の指揮者が音楽界全体の中で占めるにいたった途方もない巨大な重要さを端的に示す事実であるとともに、将来もこの通りゆくとはとても考えられないという意味では、もう二度と出てこないだろうところの、たった一回かぎりの現象かもしれないのである。   あとがき  この本は、目次をみてもおわかりのように何も世界中の名のある指揮者を網羅的に扱ったものではありません。また、指揮者一般について、体系的に論じたものでもありません。つまり、いわゆる演奏家事典の指揮者篇《へん》でも、指揮者の理論書でもありません。これは、雑誌『ステレオ芸術』の註文《ちゆうもん》に応じ、世界の指揮者の中から、あれこれの人をとりあげて、自分の考えまたは感想を書くといった、至極のんきでわがままな仕事を、二年ほど続けているうちに、だんだんたまったものを本にしたというわけなのです。もっとも、ついでに一、二ほかに書いた指揮者に関するものも入れましたが。  ですから、ここには指揮者の歴史の上から、また二十世紀の演奏史の上から当然とりあげて然るべき人のすべてがあるわけでもない。「たとえばアンセルメ」という方もいるでしょう。私とすれば、クライバーが書けないのが残念でした。クライバーは本当におもしろそうな、——この国のみんなの言い方をまねれば《えらい指揮者》だったにちがいないのに。また現役のパリパリでいえば、小沢征爾について、バレンボイムについての記載がない。  こうなったのも、必ずしも、偶然ではなかった。多少は、そうですが。というのは、小沢のことでは、まだ、これからどんなになってゆくか、その楽しみの方が私には大きい。バレンボイムは、やっとこのごろ、少し見当がつきかけたところ。クライバーに至っては、レコードを集め、調べてはみたのですが、「よしわかった」といって書くのに踏みきれなかった。せめて一度、生存中にきいておきたかった。今度も、レコードだけで演奏家を論ずるむずかしさを痛感しました。ことに指揮者は、自分で音を出すわけでないだけにむずかしい。  これはまた、逆にいうと、私が、演奏家の話というと、いつも自分が生できいた経験に立ちもどり、その話をくりかえしながら、レコードや何かに自分の理解を拡げてゆこうとする習慣をもつ理由でもあるのです。理窟《りくつ》より何より、実演できく方が、私には、ずっとわかりやすいからなのです。この本で、始終自分の見聞記が出てきて、——それも多くの場合、ずいぶん昔の話が出てきて、読者の中には、わずらわしい気がしたり、あるいは自分をひけらかしているとお思いになる方もいるかも知れませんが、私には、どうしようもないのです。  ディスコグラフィーは壱岐邦雄氏の労作です。どうもありがとう。(電子書籍版ではディスコグラフィーは削除した——編集部) (昭和四十八年四月)   この作品は昭和五十七年八月新潮文庫版が刊行された。 Shincho Online Books for T-Time    世界の指揮者 発行  2002年6月7日 著者  吉田 秀和 発行者 佐藤隆信 発行所 株式会社新潮社     〒162-8711 東京都新宿区矢来町71     e-mail: old-info@shinchosha.co.jp     URL: http://www.webshincho.com ISBN4-10-861193-4 C0895 (C)Hidekazu Yoshida 1973, Coded in Japan