吉田知子 無明長夜 目 次  寓話  豊原  静かな夏  終りのない夜  生きものたち  わたしの恋の物語  無明長夜 [#改ページ]   寓話  桑木石道は数多くの狂信的な崇拝者を持つ有名な書家である。書家というよりは、むしろ画家だという人もある。石道の書は殆どが字の形をしていない単純な直線で構成されているからである。その書風と同時に彼の奇人ぶりも夙《つと》に広く人々の間に知れ渡っている。  最近、石道は崇拝者の一人から古い家を提供されて居をかえた。百何十年もの年月を経ている、だだっ広い武家屋敷である。西北隅の部屋などは、もう朽ちかけて足を踏みいれることもできなかった。持主は、石道の希望通りに手をいれると言ったが、石道は「そのままがいい」と断わった。庭は家の大きさに較べると狭いといってもよかった。三百坪にもならない。石道は、その庭に突きでている茶室風の八畳を書斎に決めた。四、五日は書も書かずに広縁ごしに終日、庭を眺めた。  庭には昔から近在の百姓たちの目標となっていて、ずっと遠くからでもそれとわかる群をぬいて高い松の木が二本ある。その他にも並より遥かに太く逞《たくま》しい椎《しい》、楓《かえで》、楠《くす》、樫《かし》、櫟《くぬぎ》、楢《なら》、杉などの巨木が自然のままの伸びほうだいの枝を拡げている。その堆《うずたか》い落葉の下に僅かに築山《つきやま》や泉水らしい起伏が残っていた。石道の妻の祐子は引越し荷物の整理が一段落つくと早速、庭師をいれた。田舎のことで隣町から応援を頼み、まだ十六、七の見習いまでいれて、やっと三人の庭師が揃《そろ》った。しかし一日目は下草を少し刈っただけだった。聞き上手の祐子の相槌《あいづち》にのって一時期、一人きりでここに住んでいた変人の老医師の話をしたり、町のまんなかにあるこの邸のために町の西側が発展しないと非難めいたことを喋《しやべ》っただけで帰った。それでも四、五日、三人がかかりきりになると庭は目に見えて小ざっぱりしてきた。それまで何も言わなかった石道が急に祐子にいいつけて庭の手入れを中止させたのは八日目である。何の理由とも言われないのだから、勿論《もちろん》、庭師たちは納得しなかった。油ののってきた頃で、祐子と庭の形の相談をする声高な、はりきった声が日に何回も聞えていたのである。祐子は下手に出て倍の日当をはずみ、何度も頭をさげた。 「また頼む、と言われても、もう、わし達は知りませんでね」と中年の眼のくぼんだ庭師は捨てぜりふを残して肩を張って帰った。  その日は四人の客があった。石道会の会員たちである。石道が祐子に「庭はもうよい」と言ったのは祐子が昼食を運んできた時である。庭師が入っているのは毎日だし、その間に客も何人か来たが、今までは何の文句もつけなかったのだ。だが、祐子の方も石道の唐突な命令には馴れているから、ただうなずいただけである。聞いても、それ以上何も言わないことはわかっているので問いかえしもしない。  祐子がさがり、庭師が帰ってからも石道は運ばれてきた膳に手をつけなかった。朝から石像のように、じっと黙って坐ったきりの客たちもしかたなく空腹を我慢した。二、三時間たって陽がだいぶ傾いてくると、鳥が二、三羽乾いた羽音をたてて櫟の繁みに止った。すると石道は「うむ」と大きくうなずいて、ごろりと横になった。客の多くは庭を眺めていた。無理に平然としたようすで箸《はし》を割り始める男もいた。しばらくして石道は無造作に起きあがり、すっかり冷えきった清汁《すましじる》をすすり始める。口の中で噛《か》みながら「いつでも人工というものは」と独り言のように言う。客の中年男たちは、ぎごちない手つきで魚をつつきながら石道の口許《くちもと》を見ている。「未完成なものだ」と石道は口の中で続ける。その途端に客たちは大げさなさまざまの反応を見せる。感嘆の吐息を洩らすもの、頭を幾度もさげるもの、考えこんでしまうもの。よく聞きとれなかったものも感極まったような顔をして口の中で何か呟《つぶや》いている。石道の客のもてなし方はおおむねそんなふうで、朝から晩までいても一言も石道の言葉を聞かないことも、そう珍しいことではなかった。客がおそるおそる何か聞いても答えることは滅多にない。  石道が祐子を家にいれたのは四年前である。どういういきさつで石道より三十近くも年下の、まだ二十代にさえみえる祐子が石道の所へ来るようになったのか誰も知らない。祐子が、どんな家の出なのか、それまでに何かしていたのか、というようなことも何もわからない。八重歯のめだつ、まるまると肥った背の低い女で笑い顔にも動作にも愛嬌が溢《あふ》れている。痩《や》せて背が高く、いかつい顔だちの上に、更に苦虫を噛《か》み潰《つぶ》したような顔をほとんどくずしたことのない石道とは対照的であった。  しかし、その石道も昔からそうだったわけではなくて、もう三十年もいる女中の浜が彼の所へ来たばかりの頃には驚くほどの大声で笑ったそうである。ちょうど親子ほど年のちがう浜と祐子はよく気があい、浜は祐子を相手に何時間も祐子の知らない石道のことを話したり自分の身の上話をしたりした。若くても浜よりはずっと人あしらいのうまい祐子が初めから浜をたてて呼び捨てにもしなかったので、もともと好悪が激しくて偏屈《へんくつ》なところのある浜もすぐに祐子にうちとけたのである。浜は時には石道の妻である祐子に「こんな年のちがう変り者のところは早く出た方がいい」などとも言った。祐子は「あなたのように親身に言ってくれる人は生れて初めてだ」と眼に涙を浮べてみせたが、決して自分の身の上話はしなかった。  石道ファンで組織されている石道会は年々少しずつ数が殖えて、もう百人に近かった。特別な行事も何もなくて、石道の近況を知らせる印刷物が年に数回くるぐらいのものだが会員には金持の実業家が多く、何もないのを却《かえ》って自慢にしていた。その会員や、美術、書道関係の客、会員外の愛好家や崇拝者も来て客のない日は稀《まれ》だった。石道は決して客を拒まなかったが、客と話すこともないし、それどころか庭につきでた書斎から出てこないこともあった。従って客たちが石道を訪問することは何の意味もないように見えたが彼らは結構満足して帰った。用のある客は浜に用件を告げて浜から諾否の返事を貰った。不便な田舎町に越しても客の数は変らず、たださえ広い家の中は女二人では、とても手がまわらない。しかも浜も祐子も揃って掃除嫌いであったから、やむなく毎日掃除するのは石道の書斎に居間と夫婦の寝室、それに来客の出入りする内玄関だけだった。暗い広い台所や、その続きの板敷きや浜のいる部屋などは散らかりほうだいで、ひどい時には文字通り足の踏み場もなかった。石道は家の北側になる裏の方へは来ないから、そういうことも知らないが、もし知っても何も言わないだろう。石道はもう二十年も前、四十をこした頃から口を開けて笑わなくなったし、浜にも用の他は口をきくこともなく怒ったことなどは尚更《なおさら》なかったからである。五十歳頃から彼の書は画家たちに強い関心を持たれ、彼らの間に石道の名を口にするものが多くなった。そこで石道は書道界ばかりでなく一般の美術ファンたちの間でも有名になった。それにつれて彼は次第に寡黙になった。アメリカやヨーロッパの前衛的な芸術家たちが彼の書をほしがり、雑誌社や出版社からの手紙が毎日のようにくるようになると、とうとう返事もしなくなったのである。今はもう石道会員たちは、ただのファンというよりは崇拝者といったほうがよくなり、彼らのぎょうぎょうしい畏敬《いけい》ぶりから石道教などと言われながら近頃の彼の書は、ますます単純になって一本の線から遂に点になってしまっていた。彼がどんな会にも属さず、どんな書画商とも契約を結ばなかったのが今となっては都合よく、多くは書かないせいもあって彼の書の価値は天井知らずに高くなっていった。また、そうなると、手に入り難《にく》くて値段が高いということのために更に彼の作品は全部芸術的傑作として通用した。  古い大きな家に移って間もなく彼は若い批評家に制作しているところを見学させた。批評家は美術雑誌の依頼で来たのである。それまでは彼は石道の作品を見たこともなかった。西欧美術の心酔者だった若い批評家にはどんな返事もしない石道の態度は不可解に思われた。聞えないのではない。顔貌は、はっきりとこちらへ向けられている。顔全体で射すくめられている感じがした。批評家は質問を止めた。石道は紙をひろげた。大きな紙ではない。書く用意がすべてととのっても石道は筆をおろさなかった。呼吸しているとも思えない不動の姿勢で白い紙をみつめている。三十分たっても一時間たっても何の音も聞えない。その気力の張りつめている時間の永さと、いざ書くときの気合のこもった低い唸《うな》り声に若い批評家はすっかり圧倒された。その後、たった一つの点を書くのに精根をしぼり尽した石道がまるで虚脱したように、うつろな表情になったのを見て若い批評家は一遍に石道教の信者になってしまった。そして、その批評家の書いた「私は神を見た——桑木石道論」は当然のことながら狂熱的なほどの情熱と迫力に満ちていたのである。彼は、もうそれまでに若手随一の実力と説得力のある批評家だと誰にも思われている人であったから、そのすぐれた論文は大評判になり、石道はまた新たに多数の知識人の崇拝者を得た。綜合誌《そうごうし》までが石道特集をやった。石道がわからないということは、その人間が精神生活を持たないということであった。記者たちは、石道自身の口からは何も聞けないのでしかたなく作品や浜たちの話から、おおぎょうで独断的な形容詞を連ねた。彼の略歴や日常も紹介され石道の応対ぶりや性癖は、書などには何の関心もない人まで知っていた。彼に興味を持つほどの人なら彼が弟子をとらないということも周知のはずであった。それでも年に数人は入門志願者が来る。それを承知で来る志願者たちは玄関先での祐子の丁寧な断わりだけでは容易に踵《きびす》を返しはしなかったが中へ通って石道に会い、何を頼んでも聞いても一言の返答も貰えず何時間でも微動もせずに凝視されていると、いくら覚悟の上でも半日で退散した。最近の石道はどうやらそういう無言の行を楽しんでいるらしい節がないでもなかった。一番古い崇拝者である土木業者とはよく昔話をしたものだったが、この頃は必要なことにもろくに返事もしないと土木業者は浜や祐子にこぼした。彼は石道が有名になる前からの知り合いであり、ずいぶん有形無形の援助を続けてきているのである。 しかもこの十何年かは家業は息子に任せきりで、石道のいわばマネージャーのようなこともしてい、石道の書を買いたいものはその土木業者の家の方へ来ることになっている。で、その方の話もあるのだが石道は彼の前でも例の無表情な反応のない顔をくずさず、何も声をださない時の方が多くなっていた。すべてに、まるで無関心なのかそれとも意地悪く相手の困惑を待っているのか、土木業者は後者だろうと言っていた。若い頃の石道のたちの悪い冗談の為に土木業者は何度も本気でおこったことがあった。「ああなってしまえば何したって立派にみえまさあね」と土木業者は祐子や浜に言った。彼にいわせると弟子入りを希望してくる若い男たちは石道の絶好の鴨《かも》であった。彼らは石道のことを充分知っていて来るにも拘《かかわ》らず、二時間もすると辛抱できなくなる。それどころか遂に泣きだしてしまった学生もいた。それでも石道は何も言わず、様子を見にいった浜は石道のまばたきが始まっているから大変な上機嫌の証拠だと土木業者に同意した。たしかに、多田と名のるいかにも町の不良に似つかわしい軽薄な感じの若い男が入門を希望してきた時、石道は決して不機嫌ではなかった。  多田は何の反応も示さない石道に向って一人で喋った。自分が二十五歳であること、石道のことを或る雑誌で読んで弟子入りしようと思ったこと、ただ傍へ置いて貰うだけで迷惑はかけないつもりだということなどを。今までにきた男たちは皆、緊張のあまり身を固くしてうつむいてばかりいたが多田はそうではなかった。言葉づかいも、ぞんざいになったり、なれなれしくなったりし、そればかりか石道の仕事さえよくは知らないらしく書の話などは一言もでない。そのかわりに精神とか尽忠などという聞き馴れない言葉が頻出《ひんしゆつ》して、次第に石道に修養講話でもしているような演説口調になった。脈絡もなく勝手に弁じたあげく、突然、自分は実は右翼の幹部で現在警察に追われているのだが、或る筋から先生が右翼の秘密の重要ポストについておられると聞いたので、ひとつしっかりしこんで貰おうと思って修業に来たのだ、と言いだした。さすがに石道も驚いた顔をして眼玉を動かした。男は石道に頼んだり聞いたりもするが返事をするひまも与えずにまた自分のことを話しだすので石道の沈黙に気づかない。いつも一方的に話す癖の男らしく、石道が何も言わないのを承知だと決めて笑顔になり目配せして言った。「そんなわけで、疲れてるんですよ。ちょっと寝させて貰っていいですかね。いえ、ここで結構。では失礼」言いながら、もう大きな座敷机の向うで横になっていた。石道は思わず立ち上って十分ほど男の寝姿を見ていたが、本当に眠ったのかどうか、男はみごとにいびきをかきだした。石道はいまいましげな顔で居間をでた。相手が寝てしまったのではどうしようもない。祐子と浜に珍しく荒い語調で、あの男を追いだすようにといいつけて書斎へ入った。  それから二、三日後、この家へ移ったとき、既にもう腐ってとれかかっていた便所のひさしがきれいにつけかえられ、内玄関の大きな沓脱石《くつぬぎいし》の下の片端を野良犬がさんざん掘って石が不安定にぐらりと傾いていたのが直っていた。書斎にいる石道がふと気づくと錆《さ》びた雨どいをつけかえている男がいる。男は書斎の石道には見向きもせず、梯子《はしご》をのぼったりおりたりして仔細に水の流れ口を調べている。確かに追いださせたはずの多田である。石道はかっとなって居間へ行き祐子と浜を呼んだ。多田はあの日、祐子に言われておとなしく帰りかけたが、ふと沓脱石に気づいて熱心に直し始めた。直してしまうと「他にもあったら、ついでですから」と愛想よく言い、次々に家のそういう修理箇所をみつけたのだという。人をいれて直させればすぐ済むところを浜も祐子も口にはしながらも、なかなか人を頼むところまでいかなかったのだが、気にしだすと古い家だけに早急に手を入れなければならない所はいくらでもあったのである。石道は、それを聞いてしまわないうちに、とにかくあの男を早く出すようにといらいらしながら言った。しかし、常には石道に従順というほどではなくても表だって抗《あらが》ったことのなかった浜が強硬に反対した。あんなに役に立つ人はない、と言うのである。性質も気さくでさっぱりしているし、やはり男手がないと、こんな大きな家では不用心だし不便だと執拗《しつよう》に言い張った。祐子は黙っていたので石道と浜の二人で何回か言いあったが、石道は浜が何といってもきかないので許すともどちらとも言わずに自分の部屋へ引揚げた。多田が特に嫌いというわけではなく、むしろ浜がそんなに自分に反対したことの方に驚いたようであった。どうにか石道の家にいつくことができた多田は、しばらくたつと来る人ごとに取り次ぎにでて、自分は石道先生の直弟子だと言った。来客たち、中でも石道会の者たちはそれを奇異に感じ、多田の落ちつきのなさや不良じみた色模様のシャツを不快に思ったが石道が彼を弟子と認めているのかどうか、多田をどう思っているのかということは石道の口からは何も聞けなかったし、表情からもわからなかった。どちらにせよ多田は食事も台所の次の間で祐子や浜とするし、寝るのも北側のどこかの部屋で、忘れたように石道の前へは出なかった。右翼|云々《うんぬん》も思った通り思いつきの出まかせらしかったから石道もあまり関心を持たなくなった。多田を加えて台所の次の間はますます賑《にぎ》やかになった。多田は男のくせに小まめによく気がつき、小器用で知らぬまに手早く掃除してくれるので重宝であった。二十五歳ときいて驚くほど態度も世馴れていて人をそらさず、かなり図々しくふるまっても女たちはいやがらなかった。浜と二人の時もよく笑い声をたてた祐子は多田の冗談に笑いこけていて石道が呼んでもすぐには来ないこともあり、時とすると石道の嫌いな洋風の香辛料の匂いが台所の方から微《かす》かに匂ってくることさえあった。持物など何ひとつ持たないで来たはずの多田の服装も時折かわっていた。例のマネージャー役の土木業者も台所へ顔をだして多田たちと談笑しただけで石道には会わないで帰る日の方が多くなった。昔から生活費は一切浜の手を通していたので石道は自分に必要なものは浜にいいつけて買わせ、時々浜の持ってくる銀行の預金通帳などを形式的に見るだけであった。入る金の方も直接、土木業者から浜へ渡された。それは祐子が来てからも同様で祐子はどんなものでも買うときは一々浜に相談していた。  多田の来る前の日に春さきのかなり大規模な暴風があって、そのためになお彼の修理箇所が多かったのだが、その次に秋の本格的な颱風《たいふう》があってから二、三日後、多田はいなくなっていた。同時に祐子も姿を消した。祐子のかわりに朝食の給仕に出た浜に石道が聞くと浜は普通の調子で「お出かけでございます」と答えた。体具合が悪いのだと思っていたらしい石道は急に箸の手を止めたが、またゆっくり考えこみながら食べ始めた。その石道の気持を見すかしたように「今度はお帰りになりませんですよ」と浜は意地悪く言い足した。前にも一度祐子が三日ばかり、どこかへ姿を消したことがあったのである。その時はけろりとした顔で悠々と祐子は戻ってきた。今度は祐子がいなくなって三日経っても帰る気配がない。石道の苛々《いらいら》した素振りは眼につきだした。来客にも会わずに書斎にこもっている。と思うと急に慌《あわただ》しい足どりで小走りに台所へ来て「多田はどうしたんだ」とどなった。四日目の夕方である。浜は薄暗い土間の片隅で仕事を続けながら「祐子さまと御一緒でございましょう」と言った。落ちつきはらった口調がいかにも小馬鹿にしているようであった。浜が終りまで言わないうちに「おい、片川町だ。片川町を呼んできなさい」と石道は吃《ども》りながら叫んだ。浜は返事をしなかった。もう夕方で手もともよく見えない時間である。土木業者の家のある片川町は市の中心であるから乗物が都合よくいっても五十分はかかる。とうとう石道は下駄をつっかけて浜の所までおりていき、浜の耳もとで「頼む。祐子には子供ができているんだ」と切迫した声で言った。浜はしぶしぶ身をおこすと自分の部屋へ入って着替えを始めた。祐子が妊娠していることは浜も知っていた。それは祐子自身にも多田の子か石道の子かよくわからなかった。時期的には石道の方らしいが確率は多田の方がずっと高いというようなことを祐子はあけすけに浜に話していた。祐子は多田より七、八歳も年上だが小柄で弾力のある体つきだし、多田は若いくせに女には経験をつんでいる感じの男である。もう一年も前から石道は書斎に寝て、あまり祐子の方へは来なかったから、そうなっても不思議はなかったが多田と祐子のそもそもの結びつきには浜の力も多分にあずかっていた。浜は、そうなる方が祐子にはよいのだと一方的に決めていた。土木業者の尽力で多田と祐子の消息は一月たらずのうちに判明した。川沿いの一軒を借りて二人とも何もしないでいるということであった。浜からたっぷり石道の金を貰っていったからなのだが、もちろん石道はそんなことには気づかない。それまでは半信半疑だったのが、実際に多田と一緒だとわかると祐子を呼びもどそうとはしなかった。ただ毎日、目に見えて不機嫌である。  祐子が去ってからは石道は土木業者の他は誰とも会わなくなった。土木業者は来るたびに祐子の消息を伝えた。石道が尋ねるからであった。半年後、祐子は男の子を産んだ。それを聞いたとき石道は顔色を変えた。「引きとってきて貰いたい。わたしの子なんだ」と土木業者につかみかかりそうな勢いで言い、来たばかりの老人を祐子のもとへ追いたてた。翌日、土木業者の使いの者が「全然、望みがない。もう祐子さんのことはあきらめてしまわれた方がよいと思う」という意味の手紙を持ってきた。一晩中いらいらして待ち続けた石道はそれを見ると気落ちしたように寝こんでしまった。それから何日か、食事もろくに食べず、ひたすら何か考えていた。その後で急に浜に自分の金のことを聞いた。思いきりよくその全財産を祐子に渡して子供を引きとろうとした。だが祐子からは返事もなかった。石道の無謀にあきれた土木業者が石道には無断で、ずっと少ない金額で取引きしようとしたのだった。石道は朝、浜が床を上げに行ってもなかなか起きようとしなくなった。来客のたてる物音も嫌うので浜は病気だといって客を帰した。石道は土木業者が来たときだけは少し顔色がよくなり、そわそわしながら居間へ坐るのであった。裕と名づけられた子供は生れた時から虚弱で何度も死にそうな大病をした。来るのが間遠になった土木業者は来るたびに裕の病気を伝え、そのたびに石道は一喜一憂して老けこんでいった。祐子がいなくなってからは、もう書は書かず、書斎の広縁で背をまるめて庭を眺めている時間ばかりが永かった。  一緒になって一年も経たないうちに多田は祐子の所へ帰らなくなった。やっとみつけた勤め口の自動車修理工場へも出ていない。また、ふらりとどこかへ転がりこんだのだろう。つまらない寸借詐欺をやってつかまったのだという噂《うわさ》もあった。石道の家へ来たときもやはり仲間に金銭的な不義理を重ねて、どこへも顔むけできなくなっていたのだという。石道は子供を連れて帰るようにという手紙にそえて多額の金を土木業者を通じて祐子に送った。祐子は別に礼も言わず、早速その金で着るものを何着か新調して夜の商売に出た。祐子が毎晩のように自分の家へ男を連れてくるそうだという情報が入って間もなく祐子から土木業者へ「子供を渡してもいい」という手紙が来た。会いに行くと祐子は金額を言った。それは石道の財産の三分の二ほどにもなる。あきれた土木業者がそんなにないと言うと祐子は指輪を二つはめた手を口にあてて笑った。浜の持っている通帳を見て知っていたのである。土木業者は石道の前では、それとなく脈のありそうなことだけ言っておき、帰りがけに台所で浜と相談して祐子からの要求額を何分の一にも減らした。浜も祐子が浜にはずいぶん世話になっているにも拘らず出たきり居所も知らさず何ともいってこないのに、腹の中ではひどく怒っていたので祐子には何の同情もしなかった。それでも、その金額は決して少なくはなかった。店を買って商売でも始められるほどはあった。しかし土木業者がそれを持って行くと祐子は何も言わずに土木業者を追い返した。その後ずっと音沙汰がなくなった。こういう駆けひきには馴れている土木業者はあせらなかった。石道の方は日に何回も土木業者が来なかったかと浜に訊《たず》ね、三日も来ないと土木業者へ使いにやった。使いの浜は土木業者の家でゆっくり話しこみ、老妻と仲よくなって食事までふるまわれるようになった。石道には、留守だったのでずっと帰りを待っていたが遂に会えなかった、などと適当に復命した。一月たつと男からせきたてられた祐子は足もとを見た土木業者から一月前の額より更に減らした金を受けとってあっさり裕を渡し、その晩にもうどこかへ転居してしまった。連れてこられた裕はもうじき三歳という年にしては発育が悪く、まだ満足に歩くこともできなかった。頭が並外れて大きいためにバランスをとり難いということもあるかも知れない。大きなよく動く瞳《ひとみ》が時にじっと一点を凝視していると急におとなびた感じになった。骨ぼその両肩が後ろへひきつけられ気味で、どうかすると傴僂《せむし》に近い猫背に見えるのが多田にそっくりで浜は多田の子と信じて疑わなかった。石道は裕という名前を好まず、自分で生れる前から考えていた葵という名前で呼び、朝から晩までつききりで子供の食事から風呂の世話まで自分でした。子供のためにしばしば自分の食事を忘れるほどであった。  石道が書を書かなくなってからもう四年たつ。土木業者の所にある石道の書は既に一点もなかった。一切来客を断わっていたので桑木石道は老衰して書けなくなったのだという噂もきかれた。土木業者の熱心な慫慂《しようよう》もあって石道は再び書き始めた。土木業者は葵のことがあって以来、石道をやや軽んずるようなそぶりを見せることがある。石道が渡す書に対しても前ほど崇敬の念を見せなくなり、「点だけのほうがいいんですがね。ただの一点に石道の全精神がこめられてるなんて評判でしたからね。ああいうのを又やって下さいよ」と注文をつけたりした。実際、石道の今度書き始めた書は前とは著しく変っていた。もともと刷毛《はけ》で書いたような太い豪快な線で紙をほとんどまっくろに塗り潰したような書風で出発した石道は、それがただの一直線にかわり、点になってもその特色はきびしさだった。それが今度の書では彼の線はどちらかといえば細目のなめらかな曲線でゆったりと書かれていた。意味のわからないことは同じであったが。土木業者は受けとる時いい顔をしなかった。三カ月もすると何も売れないと言いに来た。買手たちは、はっきり石道とわかる書がほしいのだった。もっとも、今までは「売れる」などという商品なみのいい方を土木業者は決してしなかった。別に売れなくても石道の台所は困りはしなかったが世話役のつもりの土木業者には面白くなかった。そういう勘定にうとい石道は土木業者から「今程度の財産では葵は大人にならぬうちに餓死してしまう」とおどされて不安になったらしく、今までは絶対に承知しなかった個展を開くことに同意した。個展に出す書には土木業者がいくらすすめても、以前の点だけの書は一点も書かなかった。しばらく遠ざかっていた石道会員たちも個展の話を聞いて、いろいろの雑事や会場の準備を手伝い始めた。個展は会員たちの活躍や、珍しい石道の個展ということで来場者は多く、一応成功したようにみえた。一流紙から地方紙まで彼の個展の評がでた。批評はさまざまであった。柔軟性に好感を持つものもあったが、彼独特の剛毅《ごうき》さが失われたと非難する評者もあり、彼の芸術の完成を祝う文と同時に老成を難ずる文もあった。しかし毀誉《きよ》とも両極端の批評はなく、一般の人たちも大勢見に来たものの皆とまどっているふうであった。例の熱烈な「私は神を見た」という評論を書いた批評家も今では半分評論家で半分作家のようになって小説も書いていたが何も言わなかった。それで、結局売れ行きは予期したものより、ずっと低かった。土木業者は石道が点を書かなかったのを責めたが、石道が相手にならないので憤慨して来なくなった。石道は個展の成果をさして気にしていないようであった。金のほうはすべて浜まかせなので石道が会場に行っていた日の混雑ぶりで満足したらしい。早く起きて午前中書斎にこもり、午後からは葵の相手をするという日課を石道は個展後ずっと続けた。相手といっても、ただ一緒に庭を歩いたりするだけで言葉を交わすことなどは滅多にない。書き始めてからは寝食の世話は浜まかせになっていた。来客を拒まなくなったので時々人がくるが、それが午前ならば客は昼すぎまで待たされ、午後なら葵も同席した。葵は五歳のいたずらざかりにしては珍しく静かな幼児で石道と客が黙っていると彼もまたきちんと静かに坐っていた。時には飽いて立ち上ることもあったが、そういう場合にも黙ったまま襖《ふすま》をあけて浜の方へ行くので邪魔にはならなかった。浜にはひどく甘える時や乱暴する時もあり、浜もまた急に自分の子のように可愛がってみたり、他愛もないことに怒って葵の尻を叩いたりした。しかし浜と葵が極めて仲のよいことは確かであった。  葵が学齢に達しても石道は葵を学校へいれなかった。何回も来た町役場の係員も石道から「私は自分で教育します」という言葉を聞いただけで他の理由は何もわからず、条理を尽しての説諭にも何の返事も得られないのであきらめてしまった。石道は葵に国語も算数も教えなかった。午前中、書を制作している書斎へいれるようになったのだけが今までとの相違である。葵は大きな屋敷内から一歩も外へ出なかった。外の世界があることに何の興味も見せないのである。屋敷の外から聞えてくる紙芝居屋の拍子木も自動車の警笛も、一度もその本体を見たことのない葵にとってはただの音でしかなかった。彼はまた一人の友達も持たなかった。浜が母親と友達と教師の役目をしていた。浜は勝手に字や算数を葵に教えていた。葵の覚えは早く、一度記憶すると忘れなかったが、進んで覚えようという気は全然なかった。といって、いやがるわけでもなかったが、教える浜の方で張りあいぬけして、石道に内証で買ってきた絵本なども包みのまま納戸へしまわれた。葵は一日の大部分を父が書いているのを見ること、極く稀《まれ》に父から短い謎《なぞ》のような言葉を聞くこと、庭を歩くことに費やした。祐子が途中まで庭師を入れかけて以来そのままになっている庭は葵にとって、この上ない遊び場であった。庭の隅々まで探険し尽し、どの木から屋根へ移れるか調査しつくしてしまうと、葵は庭の一本一本の木を親しいもののように一日見あきなかった。  石道の書の線は次第に太くなっていた。ただ筆勢の強さだけが昔とはちがっていた。前は、かすれや墨汁の飛沫《ひまつ》のために見る人を威圧するような強さがあったが、この頃の書はずっと落ちついていた。猛々しさが影をひそめ、不動の静寂の感じられる端然と整った作品になった。土木業者が来ないので作品はそのまま書斎においてある。葵のために財産の心配をした石道は個展後は考えをかえたように悠然としていた。来たばかりで陰気に黙りこくっている栄養不良の幼児を朝から晩まで抱いてあやしていた石道は、もはや絶対に葵に対して甘い顔を見せなかった。だが、葵が椎の根もとにいようと、屋根のてっぺんにいようと、葵には石道がそれをすべて知っているように思われた。葵が居間の屋根から落ちたときも書斎にいたはずの石道は、まるであらかじめ葵の落ちることを知っていたかのように、いつのまにか居間の廊下に立って落ちた葵をみつめていた。そのときは捻挫《ねんざ》しただけであったが、葵が高熱を出してひきつけるほどの急病をおこした時も石道は枕もとでじっと葵を凝視していた。葵がいつ眼を開けても石道は葵を同じ眼の光で見ていた。ただ見ているだけで水一杯も飲ませるわけではなかったが。二人は話らしい話をしたこともなかった。石道が葵に自分の独り言ともつかない言葉をぽつりと聞かせるだけである。葵に何か聞くようなこともなかった。葵から父に話しかけたこともなかった。  半年ほど一度も顔を見せなかった土木業者がある日、興奮してやって来た。石道の書を求めるものが急に多くなったというのである。彼はある雑誌を見せた。それには、もう一時代も前の既に神格化されたような老作家達の座談会がのっていた。中で一人が石道のことに触れると、皆がそれぞれ夢中になって石道についての意見を述べ始め、文学についての座談会がいつのまにか石道についての座談会にかわり、収拾がつかなくなって、そのまま終っているのであった。彼らは皆、石道のこの前の書展を見て感激したのであった。ある者は柔らかいみずみずしさを讃え、ある者は現実の女を見るより更に女のたおやかさを感じると言い、あれは生れたばかりの幼児の眉毛だ、と断言する作家もあった。  また正反対の意見もあった。頽廃《たいはい》し堕落しきった遊女の美しさがあると言うのである。その上、近頃アメリカから来た哲学者からの面会申しこみを土木業者は伝えた。その世界的な哲学者は自分はもう何年も前から石道に興味を持ち、その書も何枚も持っているし、石道を通じてこそ真の日本を知ることができると信ずる、と空港で語ったのであった。石道の身辺はにわかに騒がしくなった。毎日何人もの報道関係その他の来客があるようになった。アメリカの哲学者は何の前触れもなく、一人の連れもなく数日後に現われた。通訳も連れていなかった。哲学者と石道は書斎で会った。彼らは、ほぼ三時間近く書斎にいた。各々自国語で一言ずつ言っただけで、笑いもしなければ握手もせずに別れた。ちょうど来ていた新聞記者が哲学者に感想を求めたが、教授という職業柄もあって日頃多弁の哲学者は石道の沈黙がのりうつったように何の返事もしなかった。通訳や連れを待たせてあった自動車に乗りこもうとしたときに「巨人だ」と呟いたらしいのが新聞記者の得たすべてであった。  それからはすべてが祐子の去る前と同じにもどった。午後からの面会時間、毎日のように新しい熱狂的な崇拝者と石道は無言の行を続けるようになったのである。だが昔からの会員は石道の変化に気づいていた。石道の周囲にはもはや昔のように真剣な張りつめた空気がみなぎってはいなかった。切りつけてくるようだった凝視も、気がつくと、更にその向うの何かをみつめている無気味さがあった。石道の書は前と同じ過程をたどり始めていた。この頃、石道の書くものは点か、それに近い短い直線である。研究家たちはそれについてさまざまな説をたてた。石道の名には書風の変化を論議の種にするだけの価値があったのである。十歳になった葵が石道に向って初めて質問した。何人もの来客のいる居間で、格別かわったことを聞いたわけでもなかった。どうして木と人間があるかとか、彼らは違うのかとかいうようなことであったが石道はひどく驚いた。畏怖といってもよいような眼差しで葵の顔を見、何も言わないで部屋を出た。それからも葵はときどき父にさまざまなことを言った。石道はその度に驚き、感嘆したり考えこんだりした。時には葵に向って何回も礼をすることもあった。わけのわからぬ客たちも、しまいには葵の言う一言一句におそれいり、石道と同じように頭をさげるようになった。そうなっても葵は態度をかえなかった。蒼白《あおじろ》い瞳を時々ゆるく動かすだけで作りつけの家具のように正坐しているのである。浜がバリカンを買ってきて葵の頭を丸坊主にしているので、上体が長く姿勢のいい葵は若い僧侶のようであった。石道にも多田にも似ていなかった。  ある年、石道は一カ月かかっておびただしい書を書いた。来客にも会わず葵でさえも書斎にいれなかった。毎日朝から晩まで書いて石道は憔悴《しようすい》しきった。書斎から居間まで来るのに途中で休まなければならなかった。一カ月目に何度声をかけても返事がないので浜が境の重い板戸を開けると石道は自分の書いたものの間にうずくまって、こときれていた。石道享年七十一歳。石道の葬儀は盛んであった。石道はこの田舎町の名誉町民であったから町葬になり、町長が葵に何回も頭をさげた。噂《うわさ》の葵を見にきた物見高い都会人や記者たちの数も馬鹿にならない。葵は弔問の人々に対して誰にも同じように軽く頭をさげただけでどんな質問にも応じず、遂に門の外へも一歩も出なかった。葬儀の後も客は多かった。石道の崇拝者たちも、そうでない人たちも皆、十三歳の葵に期待をかけた。彼はどんな子供ともちがっていた。大人でも子供でもなかった。話もせず笑いもしなかったが、それでも妙に人を惹《ひ》きつける雰囲気《ふんいき》を持っていた。ある人々は葵を外へ引っ張りだそうと試み、手を変え品を変えて努力したが葵は無反応だった。葵には菓子も飛行機も動物も無縁なので、どんな説得も効果がなかった。葵は父の今まで坐っていた座蒲団に坐って、話している大人たちの顔を静かに眺めた。大きな茫漠とした瞳や鋭い鼻は日本人ばなれ、というよりは、むしろ人間ばなれしていた。石道が死んでからは浜ともあまり口をきかなくなった。浜は何日たっても客が減らないのに業を煮やして玄関に「無用の方の訪問は御遠慮下さい」という貼紙《はりがみ》をした。それからはだいぶ客が減った。石道が死ぬ前に書いた書は後で調べてみると白紙が多かった。墨をつがないで書いたものらしく筆のかすった痕跡《こんせき》だけが残っているのである。葵はそれを丹念に眺め、ゆっくりと一枚ずつ重ねた。石道がその上に倒れたのでしわくちゃになり、しかも何か口からだしたものが紙にしみついているものもある。葵はその一枚を特に永いこと見ていた。それから全部をきちんと揃えて父の文机《ふづくえ》の上に置いた。数日後、土木業者の息子が来て字の書いてある限りのものを一枚残らず持って行った。土木業者は石道よりも前になくなり、息子は別に石道の崇拝者でもなかったのだが引き続き同じことをしていたのである。石道会員たちも皆年をとり、半分以上が他界し、石道会も個展の時を境にして自然に解体していた。土木業者の息子は表装代にかかったし、書き損じが多かったと言って申訳だけの金を送ってよこした。しかし石道の書の市価をよく知っていて、いつもならいきりたつはずの浜もすっかり年老いていた。つまずいて怪我をしたり茶碗を割ったりするのも今までの浜では考えられないことだった。もう何年も音沙汰のなかった祐子が重病で会いたがっているという知らせがきた時も浜は何も意見を言わなかった。祐子という名を聞いたこともない顔をして視力の鈍った小さい眼で使いの男の顔を見た。その男は病院の請求書も持っていて能弁だった。葵は一回首を振っただけだった。根負けした男が悪態をつきながら腰をあげるまで一言も口をきかなかった。次に危篤の使いが来て追いたてるように葵をせかし、動こうともしない葵を大声で面罵《めんば》したが葵は澄みきった水のように爽やかな表情だった。死んだという通知はとうとう来なかった。  石道の死後二年目に石道の模作問題が起った。これは石道の書だという証明をしてくれと何人も葵の所へ来た。葵には、それらのどれが贋作《がんさく》であるか容易にわかったが例によって何も言わず、証明もしなかった。葵にはそれは白と黒ほどにも歴然とわかることであったが葵以外の人にはそうでなかった。石道のものは単純な線のものが多かったので模作は簡単で、そのため石道の価値はだんだん低くなっていった。それに追いうちをかけたのは「芸術家」という題の石道論が刊行されたことであった。著者はまだ大学生で処女出版である。石道について些細《ささい》なことまで実によく調べてあり、従来の書学的、或いは美術的観点からの批評とはちがって、心理的に或いは哲学的に石道を解剖していた。石道の書も生活もすべて演技だというのがその論旨である。昔の石道会員たちの間をまわって彼は何十もの石道のぺてん師であるゆえんを示す具体的な逸話をあげ、なぜ石道の贋作がこのように殖えたかということについても精緻《せいち》にその原因を解明している。死ぬ前には芸術院会員の第一候補だった石道は完膚なきまでに完全な論理で第一級のまやかし者であることを証明され、その反響は著者の大学生を一挙に少壮の文明批評家の位置にまでおしあげた。だが、浜や葵にとってそれは何の関係もなかった。もう売るような石道の書は何もなかったし、葵はこの頃、屋敷の向い側の八百屋に教わって庭内に畠を作るのに夢中だったからである。もっとも畠を耕すといっても葵のは種をまくことだけであった。その後へ芽が出てくると雑草も野菜も区別なしに水をかけた。草もとらず肥料もやらない。だから収穫も貧しくて何のたしにもならなかったが葵はそんなことには頓着しなかった。せっかくまいた種が何もはえないで雑草ばかりがのびることもあったが葵はそれでも毎朝水をやった。もう客は一人も来なくなっていた。葵も浜も何日も口をきかない日が続いた。家中にくもの巣がはって雨洩りしないのは南側の二部屋と書斎だけなので浜も終日昔の居間に坐ったきりで衣類が垢《あか》づいていてもなかなか洗濯しなかった。浜は時に残り少なくなった財産が心細くなるときもあったが葵には何も言わなかった。二十歳になったある朝、突然葵はもう埃《ほこり》だらけになって畳も腐ってしまっている父の書斎に入り、書を書き始めた。葵は字を知らない。浜に教わりかけた平仮名も、もうすっかり忘れている。しかし、父の書くのを見ていた葵には字は必要なかった。父と同じように、自分の書いた物には何の未練も持たない。あるだけの紙に書いてしまうと浜に補充を命じた。もうあまり遠くへは行けなくなった浜がいつも使いを頼む八百屋に買って来させると葵はたちまちその紙全部に書き尽した。何回紙や墨や筆を買いたしても、葵はきちがいのように猛烈な勢いで書き潰してしまうのである。浜が金のないことを言って紙を買えないというと葵はひどく怒り、浜につかみかかるようにしてどなった。浜は最後の手段として家と土地を担保に金を借りた。新しい紙がくると葵は勢いこんで書き始めた。が、途中で止めてしまった。それから一月近くも、ろくに食事をしないで庭ばかり眺めていた。庭は原始林のように荒れ果て、鳥ばかりか、町の真中だというのに、いたちや野鼠の姿さえ見えるようになっていた。松も櫟《くぬぎ》も椎も枯れて細い雑木が多い。「色のついた書を書く」と葵は浜に言った。浜は黙っていた。葵は何日も「色のある書」と喘《あえ》ぐように言い続け、浜にとりすがって哀願した。浜も遂に負けて葵に絵具と紙を与えた。土地屋敷を抵当にしての金などは文字通り雀の涙ほどである。いくら町中とはいえ、お化屋敷のようなくずれかけた大きな家のついた土地はいやがられ、足もとを見られて一方的に法外な安値をつけられた。浜も断わられるのをおそれて相手の言いなりだった。朝起きあがるのも難儀になっていた浜は、気の毒がっていろいろ便宜をはかってくれる門前の小さな八百屋の主人がくるたびに「なぜ早くお迎えがこないだろう」とこぼした。紙に絵のような字のようなものをかき始めた葵は再び以前に書を書いたときと同じようになった。たりなくなると矢つぎばやに催促し、浜が渋ると地蹈鞴《じだんだ》を踏んで眼を怒らせるのである。浜をつきとばしたことさえあった。しかも注文はだんだん高級なものへとむかい、普通の質の並の大きさの画用紙では気に入らなくなり八百屋の三男の高校生が学校の帰りに専門店から買ってこなければならなかった。そうなるとまたたくまに最後の金にまで手がつけられた。しかし一銭もなくなっても葵はまだ絵具をと言い続けた。浜は今度こそ一言も言わずに石のように黙っていた。さんざん威《おど》したり嘆願したりしたあげく、葵にもやっともうどうにもならないことがわかったらしい。今までにたった一枚だけ気にいった絵を持ってきてこれと絵具と交換して貰えと言った。浜はそれでも黙っていた。葵は落胆しきって背をまるくしてうずくまった。一日たち二日たって、もう八百屋のおなさけで只で貰っている屑野菜だけの食事にも見むきもしないでうなだれていた葵が急に泣きだした。泣き声は初めは吠《ほ》えるような凄《すさ》まじさだったが、一日泣いていたので夜には力のない息だけの声になった。一昼夜そのおそろしい泣き声につきまとわれた浜はとうとう我慢できなくなり、次の日、葵の絵を持ってよろよろと出て行った。しかし浜はそれきり帰ってこなかった。一週間後、抵当流れで石道の屋敷を正式に手に入れた人が取りこわしの為に人をいれると中にいた年もわからぬ骸骨のような男が「絵具を持ってきたか」と叫んだので人夫たちは驚いて家をとびだした。誰もいないと聞いていたのである。門前の八百屋も浜の出る姿は見ていたし、何回声をかけても返事がないので葵も親戚へでも頼って行ったものと思っていたのである。  それから長い年月がたった。葵の一枚きりの絵は不思議に捨てられずにあちこちを転々とした。三十号ぐらいのかなり大きいものなので誰もがちょっと捨てるのは惜しいような気がしたのだろう。「芸術家」という石道弾劾論で売りだした大学生も既に頭が白くなり、その論鋒《ろんぽう》の鋭さと博学で第一流の文明批評家になっていた。彼の、あらゆる贋物を徹底的に嫌う異常なまでの潔癖さは彼を批評家として完全なものにしたが、一方また彼はずっと家庭的にも精神的にも孤独であった。彼はよく旅をした。あるとき、そういう旅先の書画|骨董《こつとう》店で彼は一枚の埃だらけの絵をみつけた。それは確かに、どこかで見たことのある絵であった。だが、いくら考えてもわからなかった。翌朝、出立まぎわに彼はその絵を買った。商売人に手入れさせて埃を払い、額にいれると更に彼の確信は強くなった。どこにも署名はなかったが、あきらかに贋物ではない。しかも彼はその画家を知っていた。それはどんな画家の模倣でもなく誰の影響も受けていなかった。そこには描いた人と見る人だけがいた。その絵は長年美術評論をしてきた彼には欠点だらけだということがわかっていた。学童でもしないような初歩的な不注意な誤りもある。これを描いた人間は、おそらく生れて初めて絵具を手にしたにちがいなかった。彼のところへ来る客たちは誰でもこの絵を見ると息をのんだ。そして用件も忘れて言葉少なになり、ためらいがちに画家の名を聞いた。もちろん彼はそれにこたえられはしなかった。彼は毎日見ているうちにますますその絵にひきつけられた。それは抽象画にはちがいなかったが、それでもよく見ると何かが描いてあるのがはっきりわかる。しかし、それが何であるかはわからなかった。清冽《せいれつ》なすがすがしさと、臆面のない図太さと、輝かしい喜びと暗い深淵《しんえん》と、それらのすべてが何の妥協も譲歩もせずにとなりあっていた。彼はその絵を自分の部屋へおいてからは、あまり評論を書かなくなり、高踏的な外国の哲学者の著作の翻訳などをしていた。一度卒中で倒れてからは医者の忠告もあって旅にも出なかった。ある日、美術品の入れてある押入れを整理しているとき、彼はふと一番奥の隅に何かみつけた。それを出してみて、どうしてか一枚だけ残っている石道の書なのを知ると彼は愕然《がくぜん》とした。彼は書を見、ふり返って絵を見、再び石道の書へ視線を釘《くぎ》づけにした。長いこと息をとめて凝視していた。「まちがっていた」と遂に彼は悲痛な声で叫んだ。しかしそれは声にならなかった。二度目の卒中の発作を起してその場へ倒れてしまったからである。 [#地付き](「新潮」昭和四十一年十二月号) [#改ページ]   豊原  僕は樺太《からふと》へ母を捨ててきた。母の死体を、と言うべきかも知れない。僕は母の死顔をまだ覚えている。  あの朝、昭和二十二年の三月末の凍った朝、母は寝床の中で死んでいた。いつものように僕に背を向けた横むきの姿勢で頑《かたく》なにおし黙っていた。不機嫌な横顔だった。枕もとにはふくらんだリュックと風呂敷包みが二つ置いてあった。隣りの僕の枕もとには、母のより大きい二つの荷物が置いてあった。僕は十四歳だったが体が小さいので、そんなには持てない。そのことで前の晩に僕は母と争った。母は僕が少ししか持てないということに怒った。 「原田さんはミシンまで持っていったのよ」と母は言った。僕たちはその朝、内地へ引揚げることになっていたのだ。  どうして死んだのかわからない。朝起きて、母が完全に死んでいるのを知ったとき、僕は、ただひたすら憤《いきどお》ろしかった。わざとその日を選んだのだとしか思われなかった。  今、考えてみると僕はそういうことになるのを、もうずっと前から知っていたのだという気がする。僕は母の一人きりの子供だった。本当は六つちがいの弟がいるはずなのだが、難産で、産れてすぐ死んだのだ。父も子供好きのほうではなかったが、それでも始終「一人ではいけない。一人っ子はいけない」と言っていた。すると母は「私はもういやだわ。またすぐ死ぬに決っていますもの」と言った。母が僕を産んだのは十八歳の時だった。出産の手伝いに来た祖母が帰ったあと、父が会社へ出かけて僕と二人きりになると心細くて恐ろしくて逃げだしたかった、と母は僕に話した。母は自分の産んだ赤んぼうが気味が悪かったのだ。  僕が小学校へ行くようになると母は僕の帰りを待っていて、学校であったことを全部話させた。特別なことばかりではなかった。毎時間の授業の内容はもちろん、一時間目の休みには誰と何を話したか、昼休みには何をして遊んだかというようなことまで根掘り葉掘り聞きたがった。僕は記憶力のいい方ではなかったから母にいくら追求されても何も覚えていないことが多かった。それでも母はいつまでも、くどく訊《たず》ね、しまいには「お母さんを馬鹿にする気なの」と声を震わせて激しく机を叩いた。その報告がすむと僕たちは予習復習をした。僕たち、というより、むしろ母の予習復習だった。少しでもわからないところがあると母はすぐに僕を連れて本屋へ行った。調べて納得がいっても僕には説明してくれなかった。宿題がある時も、母は全部自分でやって僕にはやらせてくれなかった。わざと下手な薄い字で僕の帳面に書くのだが、母はもともと字のうまい人ではなかったから僕はおもしろくなかった。その間は僕はすることがないので、いつも窓から外を眺めていた。僕の勉強部屋からは木立ちごしに低い山々が見えた。僕が産れて育った家は富士山の近くの小都市にあったが、僕の部屋からは富士は見えなかった。ごくまれに友達が僕を誘いにくる時もあった。そうすると母は、おとなに言うように真面目な顔でことわった。 「今、勉強中なんです。他の方を誘って下さいませんか」  僕はいつでも「勉強中」だった。だから僕には親しい友人は一人もできなかった。戦争が始まって、学校に学用品と一緒に厚い大きな防空頭巾をかかえていくようになっても、ぼくたちの生活にはたいした変化はなかった。五年生になって地図の宿題がでるようになると、母はどこかで高価な舶来の二十四色の色鉛筆を手にいれた。しかし僕には絶対に触らせてくれなかった。五年の二学期に僕は級長になったが、母はそれを聞いても「あら、そう」と言っただけだった。級長になるのは成績が一番か二番の者に決っている。早生れのせいもあって、三年ぐらいまでは僕の成績は中だったから僕はとても嬉しかった。だが、母は、そんなことにはいっこうに関心がないようだった。かえって父の方が、それを聞いて大げさに笑った。ひどく滑稽な話を耳にした時のような笑い方だった。母は父兄会には必ず来てくれたが何を話したか僕に言ってくれたこともないし、成績表を渡しても、いつもろくに見もしないで、すぐに抽斗《ひきだし》にしまってしまうのだった。時には気のない調子で通り一遍に眺めて「なかなかいいじゃないの」と言うこともあったが、そういう時に限って前学期より落ちているので、僕には、母がいい加減のことを言っているのがすぐわかった。  僕たちが豊原へ引越したのは、僕がもうじき六年生という時だった。父が豊原の出張所長になったからだった。父の製紙会社の工場が樺太にあり、東京の本社勤めになるためには、そこで何年か勤めなければならなかったのだ。 「樺太なんて、食いつめ者ばかりなんでしょう。いれずみした人がごろごろしているんでしょう」と母は言った。僕たちのいる町では雪がつもったことはなかった。 「熊がいるから気をつけた方がいいよ」と友だちは気の毒そうに別れの言葉を言った。転校の挨拶にいった母に、先生は「大事な時期だし男の子だから内地の親戚にでも預けてこちらの中学へ進学させた方がいい」とすすめた。しかし母は黙っていた。  父だけ先に赴任した後、母は毎日庭で片附け物を焼いたり荷造りしたりした。僕の成績品や古雑誌はもちろん、椅子や戸棚まで焼いてしまった。梱包《こんぽう》してあるものを、またほどいて燃やしたりした。最後の日には、とうとう漆塗りの大きな座敷机まで焼いてしまった。それで僕たちは出前の親子丼《おやこどんぶり》を畳の上で食べなければならなかった。母は食べながら「お父さんと一緒にならなければ樺太くんだりまで行かなくてもすんだのに」と言った。母の荷造りした荷物は送る時になって「こんなやり方じゃ、隣りの町までだって、もちゃしない」と、どなられ、結局専門の人が来て全部やり直した。  豊原へ行った時は、まだ冬だった。天気のよい日だったので道の雪が解けて、汚ないぬかるみになっていた。思っていたよりずっと大きな町で道も広かったが、所長用に新しく買った社宅は、おかしな建て方の陰気な家だった。玄関は北向きで狭い前庭には色の悪い赤茶けた灌木《かんぼく》が、びっしりと茂っていた。西側と北側が広い道になっている角の家で、西に面した方には一つも窓がない。そちらの道から家を見ると、まるで工場みたいだった。それまで宿屋住まいだった父と一緒に初めてその家へ入ったとき、中の長い廊下にはっきりと土足の跡がついていた。天井も高く木組みもしっかりしているのに、ながく人の住んでいなかったような荒れ方だった。 「会社の者に掃除させたんだが」と父はそれほど気にもとめない口調で言ったが、母はかたく唇をしめたまま廊下の両側の部屋の中を見ようともしなかった。廊下の西に二つ東に三つ部屋の並んでいる細長い家で、東側も窓すれすれに高い塀《へい》があるので薄暗かった。外からのあかりの入るのは西南の端の八畳だけだった。庭も十坪たらずで、雪におおわれて何もなかった。  着いた日は暖かかったが、それから何日も寒い日が続き、母は一日中寝ていて夕食の支度しかしなかった。僕の転校の手続きも、さしあたり必要な荷物をほどくのも買物も全部、出張所の小使さんや事務の女の人がしてくれた。父は夜に家で仕事をすることが多かったので寝るのはおそく、従って朝、両親が目を覚ますのは九時頃だった。だから僕は朝は一人で夕べの残りを食べて学校へ行った。あまり寒くて行きたくない日は黙って休んだ。母は僕が家にいるのを見ても何も訊《き》かなかった。豊原へ来てから母は、あまり僕に話さなくなった。もちろん宿題もやってくれなかった。  四月になると根雪がゆるみ始めた。屋根の雪がとけて地面へ落ちる音が賑《にぎ》やかに朝から晩まで聞えだすと母は日中も起きているようになった。起きても何もしなかった。窓から外を見もしなかった。その家からは本当に何も見えなかったのだ。窓の外に見るものがあるのは奥の八畳だけだった。そこからは雪が二十センチほどつもった、木も何もない庭と、塀の向うの製材所の材木が見えた。それだけだった。外へ出れば広い街路の端に雪のつもった山々が鮮明に見えるのだが。その山の整然と植樹された斜面や、山ひだの濃紺の陰翳《いんえい》まで澄んだ空気に、はっきりと見てとれるのだが、家の中からでは何も見えない。父が買っておいた大きなストーブも母が手まめに石炭をくべないので、すぐ燃え尽きてしまう。外と大差ないほど寒い部屋で母は前こごみに畳をみつめていた。僕が帰ると毎日そうしていた。それでも夕方近くなると急いで部屋を暖かくし、生きかえったように勢いよく夕飯の支度を始めた。  父は行きも帰りも会社の車で通っていた。父の車は帰ってくると、いつも家の前で警笛をならす。そうすると僕と母は玄関へとび出て父を迎えるのだった。父の着替えを手伝いながら母はよく言った。 「ああ、よかった。もう帰ってこないかと思ったわ」  そういうとき、母は冗談ではない真剣な顔をしていたが毎日のことなので父は別に何もこたえはしなかった。父が帰るのは早くても七時頃だから僕たちの家の夕飯は七時半より前ということはなかった。父は美食家で毎晩、食事をするのに何時間もかかった。僕が食事をすませて寝るころまでが酒で、それからやっと食事になった。父がいると家の中は明るくて暖かだった。少し酒を飲みすぎた日はおかしな話をしたり、会社の誰かれの物真似をしたりした。すると今度は母が父のいろいろな身振りや癖を真似た。父は神経質で癇癖《かんぺき》の強いたちだったので、無意識にする独特の癖が幾つかあった。母の真似は上手ではなかったが感じがでていて何ともいえずおかしかった。しかし、僕がそれを見て笑い声をたてると、たちまち母はきびしい声音《こわね》で僕を寝床へ追いやるのだった。 「何よ、子供のくせに。お調子者だわね。どうして、さっさと寝ないの。いい気になるんじゃありませんよ」などと言った。それで僕は一人きりで寒い暗い蒲団に寝た。一つおいた隣りの部屋の笑い声や歌声を聞きながら眠る夜は蒲団が固かった。二枚重ねていても日にほさない敷蒲団は綿が入っているとは信じられない冷たさだった。たしかに外へほせば凍ってしまいそうな寒さだったが、内地にいた時は母はよく蒲団をほしたものだった。  豊原に父と三人で住んだのは半年ちょっとだが、僕がいまだにはっきりと覚えている二晩がある。僕は同じ部屋に蒲団を並べて母と二人で寝ていた。ある晩、眼がさめると母が隣りにいないような気がした。手探りで母の蒲団に触ってみると蒲団は敷いたままらしく寝た形跡もない。僕は暗がりの中で急にこわくなり、父の部屋へ行こうとして襖《ふすま》を探した。ずうっと壁を手で撫でて一まわりしたが、どうしても襖がみつからない。僕はとうとう泣き声で母を呼んだ。それでも家の中はしんとしていて何の音もしない。急に「みんなは僕を捨てていってしまったのだ」という考えが浮んだ。僕は、きちがいのようになって無我夢中で暗闇の部屋中を何回も走りまわった。ようやく蹴倒《けたお》すようにして襖を開けるとすぐ父の部屋の明りが見えた。それでもまだ僕にはその部屋に誰かがいるとは思われなかった。しかし勢いこんで戸をあけると、ちゃんと父がいた。父は寝床の中で腹這《はらば》いになって本を読んでいた。お母さんがいない、と言うと「大丈夫だから、おとなしく寝なさい」と言った。 「だって、いないんだよう」と僕は叫んだが、父はもう本に眼を戻して言った。 「お前は男だろう。やたらに騒ぐんじゃない」僕はすぐに言い返そうとして父の顔にかすかに笑いが横ぎったのを見た。それで何となく安心して、また寝床にもどった。翌朝、母は何もなかったような顔で隣りの蒲団に寝ていた。どこへ行ったのかと訊いても「あんたはすぐに寝ぼけるから」と面倒くさそうに呟《つぶや》いただけだった。  もう一回はそれよりずっと後だった。僕は父の罵声《ばせい》で眼がさめた。何と怒鳴ったのかわからないが、僕が驚いてとびおきたほどの大きな声だった。それから母の声が低く聞えた。その晩は父がおそかったので、僕は父が帰らない前に寝ていた。そうっと、音をたてないように起きていくと、父の部屋の戸は開きっぱなしになっていて、中に父と母が向いあって坐っていた。母は見たことのない白い着物を着ていた。 「内地から、おえら方が来るから、その接待で今夜はおそくなると言っただろう」と父が母に言った。母は黙っていた。 「言ったはずだ。言わなかったというのか」  母は正坐してうつむいたまま、やはり答えなかった。父の声は大きくなった。 「おい、どうなんだ。聞かなかったというつもりか」 「いいえ」と、とうとう母は言った。「でも、そんな気がしたから」 「そんな馬鹿なことがあるか」 「もう二時ですから。だから、あなたはもう帰ってこないんだと思って」  僕はその時、父が輪にした紐《ひも》を持っているのを見た。 「あまり恥さらしなことをするな」と父は言った。 「でも、生きていられませんもの。あなたに捨てられたら」 「いいか、会社の仕事なんだ。こういうことだって給料のうちなんだ」  父は蒼《あお》い顔をして傍にあった母の普段着の袷《あわせ》を掴《つか》むと、いきなり引き裂いた。 「それはわかっています。それでも、もう、あなたが帰ってこないのかと思って。もう二時ですから」と母はもう一度言った。 「よさないか」と、また父がどなった。母は泣きだした。  昭和二十年は僕はいそがしかった。次の年には中学の入学試験を受けなければならない。先生は成績順に東西に名前を並べた大きな番附表を教室の壁に貼《は》った。僕は東の二番目だった。僕の相手は級長をしている体の大きい子でがり勉だという定評があった。どんなに小さな試験でも試験のたびに、その子の点とくらべて僕の名前の下に黒丸か白丸が並んだ。母が僕に無関心になったおかげで僕は初めて仲のよい友達ができた。それは大工の息子で鎌田といい、中学へは行かないと言っていた。おっちょこちょいで成績もよくなかったので級友たちから多少馬鹿にされていたが僕は鎌田が好きだった。僕たちは学校の往復には必ず大学の構内を通った。帰りにはだいぶ離れた医学部の方をのぞいた。その建物の一つは地下室が死体置場のようになっているらしかった。腹這いになって厚いすり硝子《ガラス》の窓の割れているところから覗《のぞ》くと、一月に一回ぐらい裸の死体の腕や足のへんが少し見えた。  八月中旬のある晩、母は父と話していて、なかなか寝にこなかった。夜なかに眼をさましたときも、まだ父と母の話し声は続いていた。朝になっても僕の隣りの蒲団はそのままで母は一晩中、父の部屋にいた。  僕が起きていくと、母はねまき姿の腫《は》れぼったい眼で言った。 「あなた、一人で日本へ帰れるわね。ね、いいでしょ。お祖父《じい》さんのところへ行くのよ。六年生ですものね」  僕は何のことか、わからなかった。もちろん戦争に負けたということは知っていたが、それによって自分たちの生活が変るとは全然思っていなかったのだ。 「それは行けるだろう。しかし、お前だって、ここにいたってしようがない。二人で先に行ってなさい。女は手足まといだ。こちらの始末をつけたら俺もすぐ行くから。男一人なら、どうやってでも内地へ帰れるからな」と父は言った。 「いやです。あなたは来やしないわ」と母は鋭く言い返した。父はそれ以上何も言わずに大股《おおまた》に部屋を出て行った。母は強い眼で父の後ろ姿を睨《にら》み、それから僕の傍へにじり寄ると僕の手をとった。ひったくるように引き寄せて僕の手を力いっぱい握りしめた。 「ね、帰ってちょうだい。お願い。一人で先に行って。行けるでしょう、行けるわね。大丈夫よ。わからなければ人に訊けばいいんだから。あなた、口があるでしょ」  僕は異様に据った母の眼に怯《おび》えて声も出せずに、ただ何度もうなずいた。僕が承知すると母は憑《つ》かれたような勢いで三十分もしないうちに僕の荷物をまとめてしまった。僕は祖父の所書きとお金と衣類と家にあるだけの罐詰《かんづめ》やパンをつめたリュックを背負って駅へ行った。駅には同じような恰好の人が大勢いたが汽車は出ていなかった。僕は皆と一緒に駅で堅パンをかじりながら晩までいたが、切符も売ってくれず汽車も出なかったので、また家へ帰った。  八月の下旬にソ連機の爆撃があった。もう戦争は終ったと信じていたので人々は見馴れない標識をつけた飛行機が飛んでいるのを見ても平気で道を歩いていた。手をふる人さえあった。当然、警戒警報のサイレンも空襲警報のサイレンも鳴らなかった。その、平和でのんびりした空気の中で散歩でもしているように二、三回上空を旋回した飛行機が不意に爆弾を落し始めたのだ。そのとき、僕と鎌田は大学の四階の廊下にいた。たまたま一階の戸が開いていて誰もいなかったので、これ幸いと中へ入りこんだのだった。僕たちは爆音がするたびに廊下に伏せ、少し間があると窓にぶらさがって外を眺めた。街の中心の小さな家が並んでいる商店街の一郭が集中的に爆撃され、たちまち白い盛んな煙がのぼりだした。ソ連機は数十分で去り、僕たちは、みるみる拡がっていく真昼の火事を、興奮して、がたがた震えながら見た。お互いの裸の腕が、まるでわざとしているように激しく触れ合ったり離れたりした。それから急に自分の家が心配になり、僕たちは急いで反対側の窓まで走って行き、そこからうちの方を探した。そちらは無事だった。いつもと同じ静かな昼間のように見えた。しかし奇妙なことに、あちらこちらの家に見馴れない白い布が出ていた。旗竿《はたざお》につけて高くたてているのだ。上から見ている僕たちには、その白い布がどんどんふえていくのがわかった。敷布のようなのもあれば吹き流しのような長細い布の家もあった。  おびただしい白旗だった。 「何だろう」と鎌田が、ぼんやり呟いた。僕たちはしばらく呆然と、その無数の白い布が風にはためいているのを眺めていた。だんだん体中が冷えていくような気持がした。そうか。日本は負けたのか、そうか、と僕はやっと悟った。ようやく下町の火の燃える音や人々の叫喚が一かたまりになって下の方から湧《わ》き上ってきた。それと同時に街中のサイレンが鳴りだした。だが、僕も鎌田も、それとは反対側の窓枠《まどわく》を握りしめたまま動かなかった。お互いに涙で濡れた顔を見られるのが恥ずかしかったのだ。  初めて雪が降った日はいつだったろう。とにかく、おそろしく寒い日だった。引揚船はソ連機によって沈められ、引揚げは禁止されていた。学校は夏休みのままずっと休みで僕は家にいたが、父は前と同じように毎日会社へ通っていた。毎晩のように来客があり、客が帰ると父と母はおそくまで何か話していた。大声で口争いしている日が多かった。街には赤兵がめだち始め、若い女は決して姿を見せなくなった。  初めて雪が降った日、父は帰ってこなかった。会社の小使が父の手紙を持ってきた。〈会社の経理内容の説明や資料引渡しのため今夜はこちらへ泊る。石炭は手配しておいたから二、三日中にくるだろう。今日は寒いから厚いほうのラクダのシャツをよこしてほしい。腕時計を忘れてきたから、それも頼む〉  母は蒼くなった。風呂敷包みを渡しながら訊いた。 「とうとうつかまったのね。ソ連の兵隊なのね」 「いや、そういうわけじゃありませんよ。将校でね、なかなか丁寧なもんです。あちらで工場を引きつぐんで、いろいろ説明したりするんですよ。心配しなくても大丈夫ですから」と小使は笑いながら答えた。  次の日、母の危惧《きぐ》が本当になったことがわかった。小使が事務所に戻ったときは、もう将校も通訳も父も副所長もいなかった。そればかりか事務所の戸は全部閉っていて、戸口に赤兵がたち、もう日本人は誰も中へはいれなかった。母は電話でそのことを聞いて以来、少しも笑わなくなった。ものも言わない。朝から晩まで寝ていて食事の支度もしてくれないので、僕は腹がへると一人で台所から食べられそうなものを運んできて食べた。母のところへも食事を持っていくと、母は細い赤い筋が一面に浮んでいる眼でちょっとそれを見たが食べようとはしなかった。僕のほうに顔を向けていても僕を見てはいなかった。一ところをみつめたまま口の中で何か言っていることもあった。  半月ぐらい後に、父が警察の留置所にいれられている、と教えてくれた人がいた。一晩中調べて、朝になると別室へうつす。そのとき渡り廊下を通るので裏門の入口にいると見える、というのである。それを聞いて、また母の眼つきが変った。次の日の朝、暗いうちに母は父のズボンを穿《は》き、黒っぽい布で頭をしばって出かけた。昼頃に帰ってきたが何も言わなかった。その次の日も行った。三日目には父と会って話をした、と言った。 「元気かっておっしゃったわ。だから早く帰って下さいって言ったの」 「僕のことは」 「あなたのこと? だって、あなたはお父さんに会いにも行かないじゃないの。もう忘れてるんでしょう。あなたは冷淡だもの」  それで、僕は次の日は母について行った。母と一緒に歩くと、母は街燈もない闇の中を合図もなしに走ったり止ったりするので、ついて行くのが大変だった。通りすぎてから「あの家には赤兵が入っているから」とか「あの二階からいつも誰かが監視している」とか説明した。留置所の裏門の入口は広く開いていたが大きな照明器で照らされ、両側に銃をもった兵隊がいた。僕と母は番兵にみつからないように反対側の家の塀のかげにしゃがんで覗いた。真正面に渡り廊下がみえた。僕たちのいるところからでは五十メートル以上もの距離があった。あれが取調べ室よ、と母のいう部屋は三階の端で、そこの幾つかの部屋だけ明るく灯がついていた。やっと夜があけ始めて少し周囲が明るくなってくると番兵の一人が鼻の下にひげをはやしているのが見えた。 「ほら、ほら」と急に母が僕をつついた。渡り廊下を幾つかの黒い人影が通っていた。 「見えたでしょう。お父さんよ」 「わからないよ」 「二番目。いつでもそうなの」と母は確信ありげに言った。 「お父さんとお話したって、本当」と僕は疑って訊いた。 「ええ、そうよ」と言うと、母はさっさと戻り始めた。母の警察通いはそれからも半月くらい続いた。その間は母は早く起きて父がいたときのように火をたいたり食事を作ったりしてくれたので僕はもう二度と父と話したかどうか訊かなかった。  あれが父だったのかどうか判らないが、その日本人がそこにいたのは一週間たらずだったらしい。やがて母は行かなくなり、隣組長に半ば強制されて、僕たちの家に真岡《まおか》から引揚げてきた家族が同居するようになった。ソ連兵が酔って民家へ入って乱暴したという噂《うわさ》もあちこちに聞かれたし、少しでも大きい家は次々と接収されていたから、なるべく大勢でいた方が安全なことは確かだった。母は隣組長からのその話を絶対に承知しなかったのだが、承知するもしないもなかった。組長が僕の家から出ていくと、ほとんどいれちがいのように子供を二人連れた夫婦が荷物を運びこんできたのだ。原田さんという人で、真岡では何をしていたのかわからないが僕の父より一まわりも大きい色の黒い人だった。金歯のめだつ小さい奥さんと二人で母に丁寧に挨拶すると、母は頬をひきつらせながら「可愛い赤ちゃんですこと」と奥さんの背中の赤んぼうに御愛想を言った。それは赤ちゃんではなくて、もう五つぐらいになるのだが重い脳性小児麻痺で這うこともできないのだと後でわかった。もう一人の子供はその姉で小学校の一年か二年だったが、父母以外の人には絶対に口をきかない子だった。  ながい夏休みが終って学校が始まってみると級友は三分の二に減っていた。皆おちつかず勉強にも身が入らなかった。一番若い女の先生は坊主頭に国防服で朝会に出た。そんな恰好でも少しも恥ずかしそうではなく平気な顔をしているので僕はふしぎに思った。  十月のある日、学校から帰ってくると裏口の木戸のところに原田さん一家がかたまっていた。どうしたのか、と訊いてもすぐには答えなかった。原田さんは少し吃《ども》りのきみがあって、慌《あわ》てると声が出なくなるのだ。 「三人もロスケの兵隊がきて」と奥さんが家を指さした。 「だって、お母さんは。中にいるんだろ」と僕が訊いても誰もこたえなかった。母は昨日から胃の調子が悪いといって寝ていたのだ。僕は迷った末、ついにそこへ彼らと一緒にしゃがんでしまった。十分ぐらいして玄関の方でロシア語が聞えた。それから僕たちの横をトラックが通った。原田さんたちは「行った、行った」と大声で言ってすぐに中へ入ったが僕はそこから動けなかった。自分の怯懦《きようだ》が情けなかった。母に何ごともなかっただろうか、と思ったり、僕は男になんか生れなければよかったのだと思ったりした。しばらくすると家の中から僕を呼ぶ母の声が聞えた。原田さんたちから僕がそこにいるときいたのだろう。僕は返事をしなかった。しゃがんだまま掌の中で土まじりの汚ない雪を固めていた。母が無事だとわかると、今度は母がどんなにおこるかと僕は怖れた。殺されてしまうかも知れない、と思った。 「なんて子なの、本当に」と言いながら母は僕のいる木戸を開けた。意外に上機嫌だった。「助けにも来てくれないのね。お母さんが危なかったというのに、あんな他人と一緒に隠れてて」  僕は母の顔が見られなかった。母がそれほど怒ってはいないらしいのだけが救いだった。その日、夕食の後まで母は饒舌で少し興奮していた。部屋の中の花瓶《かびん》や腕時計を持ちだそうとするのを日本語で静かに「いけません」と言ったら、それを置いてそのまま帰ったという。 「私が威厳があったからよ。しっかりしていれば何もこわくなんかないわ」と何度も言った。ふだんの蒼白い澱《よど》んだような顔色が、その日は桜色に上気していた。もっとも、その好機嫌も一日だけだった。翌日、僕が学校から帰ると、母はこわい眼をして僕を見た。 「あなたはお母さんがどうなってもいいというのね。そうなのね」と母は僕の顔を見るとすぐ言い始めた。 「どうして来てくれなかったの。私がどんなにこわかったか。私は病人なのよ。お母さんなんか死んでしまえばいいと思っているんでしょう。そうでしょう。本当のことを言ってごらんなさい」 「こわかったんだ。それで……」 「こわかった? そう。そうなの。わかったわ。やっぱりそうなのね。あなたはお母さんなんか何とも思っていないのね。いくじなし。そんな人は、もういらないわ。どこへでもいらっしゃい」  僕は自分が悪いと思ったので謝った。もう絶対に逃げたりはしないと誓った。本当にそう思った。母が答えないので次第に僕は涙声になり、何度も母に詫《わ》びた。しかし母は依然として、あからさまな嫌悪の表情を浮べたきりで、もう僕を見ようともしなかった。しまいには僕も、これだけあやまっても許してくれないんならしかたがないという気になって家を出て鎌田のところへ遊びに行った。鎌田は下の弟をおぶい、上の弟を連れて買い出しに行くところだった。 「馬鈴薯《ばれいしよ》を仕入れるんだ。君も少し持ってくれよ。手伝ってくれたら、わけ前はやるからな」と鎌田はおとなみたいな口のきき方で言った。僕は鎌田について三キロ近い道を往復し、夕食も鎌田の家でご馳走になった。もう、あんな母のところへなど戻るものか、と食べながら思った。鎌田の家は子沢山の上に鎌田のおやじの弟妹もまだ結婚せずにいたので十何人かの大家族で、誰も僕のことなど気にしなかった。泊っていけよ、と鎌田は言い、僕もその気になっていたが、食事がすんで少したつとやはり僕は帰りたくなった。というよりは帰らなければいけない、と思い始めた。母が何かとんでもないことをしているのではないか、と不安でたまらなくなったのだ。家を出るのなら母など、もうどうなったっていいじゃないか。そう考えてみるのだが駄目だった。今だ、どうしても今すぐ帰らなければ大変なことがおきるという気持が、だんだん強くなった。僕は突然立ち上って鎌田に礼を言うと夜道を走りだした。息が切れて倒れそうになっても走り続けた。家へとびこむと、母は僕が出ていった時と同じ姿勢でいた。僕が声をかけると母は暗闇の中で、ゆっくりと立ち上りながら言った。 「ああ、よかった。もう、帰ってこないのかと思ったわ」  僕は思わずふり返った。一瞬、父が帰ってきたのかと錯覚をおこしたのだ。  原田さんに家へ来てもらったのはいいことだった。もし彼らがいなければ、僕たちは樺太での初めての冬をどうやって迎えたらよいかわからなかっただろう。キャベツや馬鈴薯を物置一杯に大量に買いこんだり、それらを特別な方法で保護して凍らせも腐らせもしないで貯蔵することなどを、いったい誰が教えてくれただろう。もし彼らがいなければ僕たちは石炭だけはあったから凍死はしないまでも、おそらくながい冬の間に、ひどい栄養失調になったにちがいない。それどころか、餓死していたかもわからない。原田さんの小父さんは毎朝鉢巻をしめてどこかへ働きにいき、小母さんは大きな重い子を背中に縛りつけたまま、またたくまに近所中に知りあいを作り、どこかから野菜を手に入れてきて僕たちへもまわしてくれた。もちろん、その代金は遠慮がちな言い方ではあったが、はっきり自分たちの手数料もいれた金額を言って持っていったし、彼らの入った部屋にそのままになっていた僕の家の家具は、いつの間にか消えていたが、そんなこととは較べものにならない親切だった。  次の年、僕は中学へ進学し、母は勤め始めた。それも原田さんの紹介で、ソ連軍の被服関係の仕事だった。母は最初のうちは勤めるのがおもしろいらしく「働かざる者、食うべからずっていうのが共産主義なのよ」と少し得意そうに講釈したりした。もうソ連兵は珍しくはなく、僕たちは口伝えに幾つかのソ連の歌を覚えた。学校では英語の代りにロシア語をやったが、先生も生徒も本気ではなかったので、いつまでたっても同じ範例文の練習ばかりだった。豊原の二度目の夏は短かった。二学期になって学校が始まっても僕は学校へはあまり行かなかった。ときどき顔を出してみると級友は三人五人と減っていた。暖かい間だけ引揚げが再開されていたのだ。僕が休んでばかりいたので先生は僕の顔を見るたびに言った。 「おや、君、引揚げたんじゃなかったのかね」  僕は鎌田と闇市へ行ったり、朝鮮人みたいな顔の小さなソ連兵の後をつけて銃をつきつけられたりした。鎌田は進学しないで家の手伝いをしていたが、それほどの用もないので僕が誘うと必ず出てきた。僕の隣りの家へはソ連の技術将校と若い妻が入り、夕方になると決って美しいソプラノで子供を呼んだ。「ワァワァ、ワァワァ」としか聞えなかったが、高低の響きが、まるで歌の一節のように、よく透《とお》った。原田さんの小母さんは兵隊の衣服の洗濯とつくろいを始め、貸してある一部屋の半分ほどは、ソ連兵の白い下着で埋まった。下着だというのに固くて厚いズック地のような布でごわごわしていた。それに虱《しらみ》がついていたので僕の家の方まで虱だらけになり、母はおこった。「あの人たち、引揚げたらいいのよ。あんな汚ないことをして。それとも掘立て小屋でも建てたらいいんだわ」と言った。次の日、原田さんの小母さんがぼくたちの部屋へ来て、神経質に唇を震わせながら言った。 「わたしら、内地へ引揚げたいんです。それでも、お宅さんらとちがって、ちゃんと暮している親戚なんか、内地にだって一軒もありゃしません。みぃんな、その日暮しなんですよ。ちゃんと食べられさえすりゃ、どこだって同じだって、父ちゃんも、そう言うもんですからね」  用がなければ、わざわざ僕たちの部屋へ話しにくるような人ではなかったから、母の言った言葉が聞えたのにちがいなかった。母は面と向ってそう言われると何も言えずに黙っていた。小母さんが帰ってしばらくしてから「馬鹿にしてる。女一人だと思って」と言った。  母の勤めのほうは、どうやらうまくいっているらしく、肥った女将校が家まで遊びにきたりした。母の洋裁技術は自己流だったが、ずぼらなのか器用なのか型紙もなしに、そのまま裁つのが、かえって上手にみえるらしかった。初めは何十人もいる縫い子の一人として雇われて終日ミシンを踏んでいたのに、数カ月すると五人の裁断師の一人になっていた。職場はソ連人のほうが多く、裁断師といっても、母のやり方で通るのでは、ずいぶんいい加減なものだった。  原田さんたちは、その年の最後の引揚船で内地へ帰った。その前日になって荷造りをし始める慌しさだった。彼らも引揚げる気はなくて、冬の野菜なども買いこんでいたのに、急に相棒ができて内地で生活するめどがついたとかいう話だった。自分たちの冬のために用意した野菜と引きかえに原田さんは母のミシンや宝石や、こんな急では買うひまがないからと言って、そのとき家にあった当座の食料を洗いざらい持って行った。日本はもうミシンのような高級な機械は作れなくなっているので、そういうものが考えられないほどの高値になっているという噂を後で聞いた。原田さんたちは引揚げの手続きだけは、ずっと前にしていたのだが僕たちには隠していたらしいということもわかった。  原田さんたちがいなくなると、また母はふさぎだした。原田さんがいる頃は彼らの部屋でストーブをたいているので母が寝ていてこちらでは何もしなくても家の中はかなり暖かかった。それに原田さんの小父さんは声の大きな陽気な人なのでいつも話し声が聞えていた。今度の冬は僕は母と二人きりだった。気がついてみると、前も隣りも裏もソ連人になっていた。母は勤めへも行かずに考えこんでいる日が多くなった。考えているのではなくて、ただぼんやりしているだけなのかも知れなかった。家にいると三度に一度は例の女将校か、軍服でない男のソ連人が迎えにきた。母の勤めているのは軍に附属している被服廠《ひふくしよう》みたいなもので、彼らはその責任者なのだということだった。母は原田さんたちがいた頃より口数が少なくなった。 「お父さん、どうしているかしら」と言うときもあった。父のことを話すのは警察へ姿を見にいって以来だった。母には僕はいてもいなくても同じことらしかった。鎌田の家からおそく帰って暗い部屋の電燈をつけると母がひどく驚いて立ち上ったことがあった。 「まあ、誰かと思ったわ」と母は言った。  僕はおこって言った。 「だって、他の人のわけがないだろ」 「でも、私一人だと思っていたから。そうね。あなたもいたのね」後の方は、もうひとりごとのように呟いて、また元の場所に坐りこんでしまうのだった。僕は学校にいるときも、他の場所で遊んでいるときも、いつでも母のことが心配だった。それでも、家へ帰って母の顔を見るのもいやだった。  冬の初めのある日、僕が学校から帰ってきたとき、母が二、三人のソ連人と自動車に乗りこんでいるのを見た。僕は大声で母を呼んだが、母には聞えなかったらしく、自動車はそのまま走りだした。連れて行かれるのだ、と僕はとっさに思い、全速力で車を追いかけた。車は数百メートルは視界の届くまっすぐな道を走ったが、やがて小さくなり、曲ってしまった。僕はその曲ったところをみつめながら必死で走った。しかし、もちろん、その角まで行ったときは車はどこにも見えなかった。僕は息が切れたので傍の電柱に寄りかかり、口をいっぱいに開いて金属的な匂いのする空気を吸いこんだ。もう母をとり返すことはできない。母はいなくなってしまったのだ、と思うと涙がでた。母は簡単に欺《だま》されてしまったのだ。僕が、ちゃんと教えてやればよかったのだ。父に会わせてやるなどといえば、きっとすぐに母はついて行ってしまうだろう。僕は父が僕に土産を買ってきてくれたことがないのを思いだした。土産といえば母のものに決っていた。  僕は日が照って、どこもかしこも白く眩《まばゆ》い広い道を悄然《しようぜん》として歩きだした。  その日、晩の七時半頃に、やはり自動車で母は帰って来た。何も変ったところはなかった。「ちょっと、家のことでね」と母は言っただけだった。疲れたと言ってすぐに寝てしまった。何日かたってから、やっと説明してくれた。家を接収にきたソ連人と手真似で話しあっているうちにお互いに英語でなら何とか通用することがわかり、すっかり親しくなったのだという。そのソ連人の妻が常々日本の着物をほしがっているという話がでて、彼の家まで自分の着物を持って行ってきたのだ。  奇妙なことに、僕には同じような経験が三度か四度ある。いつでも僕は母とソ連人の乗った車を追いかけ、今度こそもう最後だ、と不吉な予感におびえ、母に注意しなかったのを心から悔んだ。どの時も雪のつもった道に日が照っていて、僕は人気のない道を後悔しながら歩いた。  それは幼い時の死に真似遊びにも似ていた。小学校へ入るまでの間、僕は朝から晩まで、父がいるときの他は全部母と遊んだ。夕食の支度以外には、母が何か仕事をしながら僕の相手をしたという記憶は一度もない。今思えば洗濯や縫物や掃除は僕が昼寝をしている間にでもしたのだろうか。それとも何もしなかったのかも知れない。僕が昼寝からさめたとき、いつも母は僕の枕元にいた。何をして遊んだか、あまりよく覚えてはいないが、汽車ごっこや絵本やお伽話《とぎばなし》などではなかった。幼児らしい玩具《おもちや》は貰い物だけで、それも貰ってから二、三日すると、もうどこかへ片附けられていた。ワンワンとかオンモというような幼児語も母は決して使わなかった。おとなに言うような口調で、おとなに言うような話をした。叱るときも易しい言葉は使わなかった。原因もわからずに叱られることが多かった。僕が小学三年のときに死んだ母方の祖母は、僕は珍しいくらいおとなしい赤んぼうだったと言っていた。それでも、母には気にいらないことが多かったのだろう。母は、ほとんど毎日のように「もう死んでしまうから」と言った。本当に横になって目をつぶり、身動きもしなかった。髪の毛を引っ張ったり、まぶたを押しあけたりしても、じっとしていた。僕には死ということの意味はわからなかったが、何かとりかえしのつかぬ恐ろしいことだという気はした。それがみんな僕のせいなのだった。毎日のことなので、今日もまたそのうち起きあがって何ごともなかったように夕飯の支度をするだろうという気もした。そうではなくて、今日こそ本当に母は死んでしまったのだ、とも思った。後の気持の方が、ずっと強かった。これで何もかもおしまいなのだ、という気持の方が圧倒的だった。もう起きるか、もう起きるかと待っていても母は目をあけなかった。遊びにしては、あまりにも長すぎる時間だった。僕は低い声で泣きだし、それから母の注意をひくためにありったけの声で泣きわめき、疲れてしまって、後は嗄《しわが》れたとぎれとぎれの泣き声になった。あのときの、今日でおしまいなのだ、今度こそ本当なのだ、という感じと、自動車を見失ったときの感じは全く同じだった。それが全部僕のせいなのだ、ということも。  豊原は清潔な街だった。広い街路が碁盤目のように縦横に通っていて、曖昧《あいまい》な小路だの突きあたりのお社《やしろ》などは一つもなかった。よく内地にあるような高い松や、杉がこんもり茂った古びた大屋敷などもなかった。特別に大きい家も、特に高い木もなかった。もちろん、全部が全部そうだったわけではない。長官官邸の三階建ての壮麗なゴシック風の高い建物や、その唐草模様の鉄門から建物までの何十メートルもある広い道の両側のみごとなポプラ並木も僕は覚えている。  それでも、大ざっぱにいえば豊原は陰険なところの少しもない明るい街だった。道路の幅がたっぷりしている上に空地が多いので、冬になると雪が積って尚更広々とした。家並が低く、空気が澄んでいて、わざわざ目をあげて遠くを眺めなくても、いつも視界のどこかに輪郭の強い白い雪の山々が見えていた。吹雪の翌朝はスキーをはいて天下御免の直線距離でよその庭や軒下をぬけて学校へ行くので、ふだんの日の三分の一の時間もかからなかった。吹雪の雪は均等に積らなかった。うちのどの窓も一番上まで雪がきているので外へ出るためにかきわけた雪で家中を水浸しにして、やっと背丈ほどの雪の中から首を出したことがあった。ところが、そのときは、向いの家では玄関の戸口の石段までしか雪は積っていなかった。  僕たちは、ほんの僅かだったけれどもここへ来た冬もいれると三回、豊原の冬を知っていることになる。だが、吹雪のあったのは最後の冬だけだったような気さえする。一度目には父がおり、二度目の冬には原田さんたちがいた。原田さんは、この家での初めての吹雪のときは勤めも休んで午前中から大騒ぎし、どこかから拾ってきた丸太で家の西側に支えをした。そんな材木がどこにあったのかと訊いても、にやにやしていて答えなかった。しかし吹雪のあとでは「この家は建て方が特別上等だ」と何度もいい、これなら地震がきても大丈夫だと保証して、もうそれからは何も家の補強はしなかった。その原田さんも引揚げて三度目の冬は僕は母と二人きりになった。鎌田も、もういなかった。 「引揚げたって十二人も住む所なんかあるものか。ここにいた方がよっぽどいいのになあ。おやじが一人で決めちまったんだ」と鎌田は不平を言っていたが、案外、僕を慰めるためにそんなことを言ったのかも知れない。軽はずみのくせに、よく人の気持に気がつく男だった。僕はどうして僕たちが引揚げないのかわからなかった。母は、あるいはまだここの土地のどこかに父がいると思っているのかも知れなかった。通訳をしている父の知人は、連れていかれた人は皆シベリア送りだ、あちらは労働力がひどく不足しているから、と言っていたが。  吹雪の日は何時間も前から風に独特の音がまじった。横笛の一番高いところを吹いているようなかすかな音が上空で聞えた。母は顔をあげてその音を聞いた。いつまでたっても寝ようとしないので催促すると「あの音を聞いているの」と言った。母は体じゅうを固くして正坐していた。  吹雪のたびに、母は少しずつ変っていくように思われた。二回目の吹雪の翌日、僕は街で母に会った。吹雪の次の日は人々は大抵、ふだんよりずっと快活になっていた。街なかでの話し声も大きく、すぐに笑ったり、どなったりし、僕はどの人の声もなつかしくて、人の話している傍は殊更にゆっくり通りすぎた。母はそういう人には無関心にマフラーに顔を埋めて歩いてきた。僕が笑いかけると母は目顔で挨拶し、そのまま僕と逆の方向へ歩き去った。どうやら僕だと気がつかなかったらしい。僕は唖然《あぜん》として母の後ろ姿を見送った。母の去っていく姿勢は傾いていた。体の片方だけ重力がなくなってしまったような異常な傾き方だった。それから、毎日大豆ばかり食っていたこともある。主食の代りではない。飯の合間に食べるのだ。どういうわけか僕の家には林檎箱《りんごばこ》に入った大豆が幾箱もあったが、それをたくさん煎《い》っておいて際限もなく食べた。何年も前の大豆で砂のような味だったから僕はとてもそんなものを食べる気がしなかったが、母は寝るときも豆の入った袋を手から離さなかった。もう眠ったかと思うと隣りの寝床で、ガリ、と大豆を噛《か》む音がした。一噛みと一噛みの間が長くて、五分ぐらいしてから次の噛む音が聞えるのだった。噛んだままの口で、じっと何か考えこみ、それからまた、ゆるゆると口を開けて噛んだ。  一月末の吹雪はひどかった。午後から始まって夜じゅう続いた。原田さんが保証してくれた僕たちの家も、ひっきりなしにきしみ、揺れた。強い風が力まかせのように三十秒ぐらい吹き、少し休んで、また吹いた。その間は音がひどくて石炭の燃える音も話し声も聞えなかった。大地が揺れた。僕は不安で立ったり坐ったりした。電燈も消えて、ストーブから洩れてくる赤い光だけが、母の頬や、痩《や》せてとがった鼻梁《びりよう》を照らしていた。 「そうだったのね」と母は言い始めた。「私はやっぱり捨てられたんだわ。そうじゃないかと思っていた」  それからながい間があり、再び母は続けた。 「私にはわかっていたの。お父さんは初めからその気だったのよ。うまく騙したつもりでしょうけど。……私を騙すことなんか誰にだってできやしない」 「お母さん」と僕は叫んだ。「お父さんのことを言っているの。お父さんは連れて行かれたんじゃないか。ロスケにさ」  母は声を出さないで大きく口を開けて笑った。 「あれはね……あれは、お芝居だったのよ。ねえ、おかしいわね。あれで騙しおおせた気なんだわ。……そう、そういえばそうね。私も少しは、そう思ったときもあるんですもの。ええ、あなたは頭がいいわ。うまくやったわよ。  だけど、もう駄目よ。私はわかってしまったの。あなたは私を捨てたのよ。そうですとも。ちゃあんとわかっているのよ」  吹雪の音のせいで母の言葉は半分しか聞えなかったが、僕は更に大きな声で全身に力をいれて何回も「お母さん」と呼んだ。母の話を聞くまいとしたのだ。母は一晩中、同じことを言い続けていた。あけ方になると外が少し静かになり、僕たちは浅く眠った。僕は母の顔が丸テーブルぐらいの大きさになって、ごろごろ転がりながら僕を追いかけてくる夢を見た。目がさめると、僕は寝床の上に坐って決心した。僕はもう子供ではないんだ、と考えた。それから母をおこした。 「お父さんはロスケに連れて行かれたんだよ。行きたくなんかなかったんだ」と僕は母に言った。母は寝たままで目を開いて僕を見た。朝の光の中の母の顔は何だか変だった。昨夜の母とはちがう人のようだった。今までの母とも別人みたいで、見たこともない知らない人に見えた。母は今まで眠っていたとは思われない固い眼をまっすぐ僕に向けて言った。 「そうよ。そうやって私を捨てたんだわ」  そしてまたすぐ眼をとじてしまった。 「捨てたんじゃないったら。わからないの。捨てたんじゃないよ」と僕はすぐ言い返したが、母はもう眼を開かなかった。 「僕たち、引揚げるんだ。春になって引揚げが始まったら一番早い船で引揚げるんだ」と僕はその顔に向って叩きつけるように言った。  その朝、学校へ行く途中で僕は首つりを見た。それは僕の知っている人で、同じ隣組だった魚屋の主人だった。どうしてか妻子だけ先に帰して一人きりで暮していた。坊主刈りの背の低い人だったが首をつった姿はおそろしく長かった。着物姿に素足で、口からとびでた舌が顎《あご》の下まで届いていた。細い|ななかまど《ヽヽヽヽヽ》の枝に凍ってぶらさがっていた。僕はすぐ近くまで行って、よく見た。もう既に連絡されていたらしく銃を持った赤兵が一人、死体の番をしていた。きびしい顔をした背の高い兵隊で、だいぶ離れた所に直立不動の姿勢でいた。僕がながいこと死体を見ていても別に咎《とが》めはしなかった。  母は僕が引揚げようと言ったのに対して反対しなかった。そればかりか、そうと決ってから活溌《かつぱつ》になった。自分で布を手にいれてきて僕のオーバーを作ってくれた。もうミシンはないので勤め先で縫ってきた。引揚者は船がでるまで大泊《おおどまり》の収容所で待つのだが、天候などの具合で二十日ぐらいも収容所にいることがあるときいて食物が第一だから、とソ連製の肉の罐詰を幾つも買った。家具や着物もどんどん売った。毎日の食事も贅沢《ぜいたく》になり、平気で小さな籠いっぱいの菓子パンと高価な反物と交換した。僕は自分の考えが母によい影響を与えたと思って嬉しかった。僕たちは春の第一回の引揚船で帰ることに決った。母は、どういうつもりだったかわからない。当時は少しも気づかなかったが、母は引揚げてからの生活について話したことは一度もなかった。住む場所のことも、僕の学校のことも考えたことはなかったようだった。父のことも何も言わなかった。大泊の収容所までのことで頭がいっぱいだったのだとも思われる。一カ月の余も毎日そのために準備したので荷物は多すぎるほどになった。どれも必要なものだった。食料、衣類、薬、それから調味料や鍋釜《なべかま》まで母は持って行くと言い張った。大泊の収容所では自炊生活だというのだ。僕は原田さんも鎌田も、そんなものは持って行かなかった、と主張した。一人で二つのリュックを背負うことはできないということを母に納得させるのに一週間かかった。リュックが一つ、両手にぶらさげる荷物が二つ。やっと、そう決ったが、両手にさげる荷物の一つも僕には持てなかった。リュックの倍もある夜具包みほどの大きな荷物なのだ。僕には持てない、といくら言っても母は承知しなかった。 「馬鹿にしてる」と母は言った。僕がその荷物を持てないのが母を馬鹿にしていることになるのだった。言い争っているうちに母の眼から急にくやし涙が溢《あふ》れてきたこともある。結局、その包みは三分の一ぐらいに小さくしたが、それでも僕にはそれを持って百メートル以上歩けるとは思えなかった。  朝、僕は母の不機嫌な死顔をずっと見ていた。それから、時間がきたので駅へ向って出発した。母の詰めてくれたリュックを背負い、両手に風呂敷包みをさげた。しばらく雪が降らなかったので道は白く凍っていた。僕は一歩一歩ゆっくり歩いた。すぐに片手の荷物は持てなくなるだろう。そうしたら捨てたらよい。もう一つの風呂敷包みも、やがて重くなるだろう。重くなったら捨てよう。一つずつ捨てていくのだ、と僕は考えながら、すべらないように気をつけて慎重に歩いた。 [#地付き](「ゴム」昭和四十二年一月) [#改ページ]   静かな夏  それで、どうだって言うんですか。  袋の中へ茄子《なす》を数えながらいれている頭の上で、誰かが大きな声で言う。見あげると背の高い四十すぎの女が店の外へ話している。店の外でジャガ芋を眺めている女はずっと背が低くて肥っている。聞えなかったように、ぼんやりしている。二人とも揃《そろ》いの水色の買物籠をさげている。背の高い女は声を小さくして言う。ねえ、しっかりしなくちゃ、本当に。私に、茄子のいいのを十えらんでくれと頼んだ老婆はあたりには見えない。多分レジの方へまわったのだろう。茄子の袋をかかえてインスタント・ラーメンの棚のわきをすり抜けようとすると変なところから黒い細い手が伸びている。その手はすばやく三、四箇チューインガムをつかむ。通り抜けてから見ると老婆の後頭部が禿《は》げている。老婆はふり返って笑う。邪心のない笑い顔。はい、お茄子、十いれましたよ、と言うと、ふいに笑いを止め、狐でも落ちたように元通りの表情になって、じゃ、それとこれで勘定してや、と言う。老婆がよこしたのはツナ・ソーセージと煮豆の袋だけだ。レジスターへ持って行くと、松本さんが、もっとこっちへ、と手招きする。顔を近寄せると、西川の婆さん、大丈夫、という。何が、と問い返すと、かっぽう前かけのポケットがふくらんでいる、あの人は必ずそうなんだから、と言う。曖昧《あいまい》にうなずくと、もう老婆が、わざとらしくよたよた歩いてきて、勘定できたかね、と訊《き》く。松本さんは、あわてて金銭計算機をガチャガチャやる。計算しながら、まだ他にあるねぇ、お婆さん、と言う。老婆は、う、それだけでいいなあ、まだ何かあったけいなあ、と言い、視線をうろつかせる。ポケットの中のは、いいんですかね、と松本さんが追いかける。老婆はガムを出してみせる。孫にな、買ったのさ、ガムが好きでのう、と言う。これは煙草屋で買ったんだで。このせつは煙草屋でガム売ってる。ガムばっかじゃねえ、チョコレートもだから。  松本さんは、へえっと言った顔で、ちらとこちらを見る。ガムにはテヅカ商店と書いた値札が貼《は》ってあるからここのだと一目でわかるはずなのに、もうそのことは言わないで、百三十二円です、とレシートを見せる。老婆は汚ない手でかっぽう前かけをめくって財布を出し、金を払う。二人連れの中年女たちの買物はながい。罐詰《かんづめ》の棚の前で、また続きを話している。そのうち、背の低いのが鼻をすすりだす。私は彼女たちに背中を向ける恰好になって硝子《ガラス》のケースから包みを出す。さっき、こっそり包んでおいたサラダとハンバーグだ。今日のハンバーグはいつもとちがう色をしているから少しは味がちがうかも知れない。リンゴの腐りかけて色が変っているのを二箇持って、それを店の隣りの倉庫にある屑入《くずい》れへ捨てに行く。もう一人のアルバイトの園さんは今、奥で食事している。私は松本さんに見つからないように遠まわりをしてアパートへ戻る。まっすぐ行けば三分もかからないが、ぐるりと一まわりするので三倍もかかる。朝のうち糠雨《ぬかあめ》が降っていたが、昼からは濁った曇り空になっている。それでもドアをあけると新築のアパートの部屋は明るく白っぽい。米のとぎ汁のような不透明さが室内に詰っている。急いで来たわけでもないのに半袖から出ている腕がじっとりしている。生気のない白い太い腕に産毛がやんわりと輪郭をつけている。思いだして、持ってきたものを電気冷蔵庫にいれておく。欠伸《あくび》しながら卓袱台《ちやぶだい》によりかかる。髪の毛が痒《かゆ》い。頭のしんの痒い塊《かたまり》がむずむず身動きしている。本当によい|おぐし《ヽヽヽ》で……それに色がお白いから、とパーマ屋で言われたのを思いだす。(パーマ屋の大きな鏡の中の顔はもりあがった髪のために顔の部分が狭くなっていた。眼鏡を取っていたから細部はよくわからない。髪の毛と、しかめた太い眉だけがよく見えた)  右手で左腕を撫であげ、撫でおろす。腕のつけ根をさすると、また欠伸が出る。腋毛《わきげ》を剃《そ》ろう、と思いつく。量が多くて密生しているから脱毛クリームなどでは間にあわない。鏡台の前へ坐って抽斗《ひきだし》から新しい剃刀《かみそり》と祐吉のひげそりクリームのチューブを出す。クリームは例によって蓋がなくなっており、口から少しはみ出している。そしてそこに黒い短い毛が五、六本まじっている。手をあげかけてこの前剃ったときのことを思いだす。(ブラウスがクリームでべたべたになり、剃った毛が脇腹のほうまでへばりついて、結局、裸になって体じゅう拭かねばならなかった)それなら、いっそ風呂場に行って、初めから脱いでやったほうがいいと思う。アパートの共同風呂には今は誰もいないはずだ。バス・タオルを裸の上半身にまきつけて風呂場の戸をあける。まだ掃除してないらしく、脱衣場に石鹸の屑や紙屑が散らばり、湯垢《ゆあか》の匂いが強い。脱衣場は窓がなく、風呂からのあかりだけだ。手をあげてクリームをつける。冷たさで体が鋭くふるえる。思いきりたくさんクリームをなすりつけ、剃り始める。剃刀の細い刃はクリームに埋まって一回ごとに拭かなければならない。ちり紙を持ってこなかったので脱衣籠にあった白い布にそれをなすりつける。それは男物の下着のようにみえる。一通り剃刀をあててクリームがなくなってもまだあちこちに毛が残っている。剃刀の刃が上すべりしたらしい。剃り残された毛は驚くほど長い。手をおろすと欠伸とも吐息ともつかない息がでる。片腕をできるだけ上へあげている姿勢なので、ひどくくたびれる。鏡のはめこんである位置も高すぎる。やっと左の腋を終ったときは、もういやになって止めようと思うが、考え直して右の方もやりだす。今度は左手で剃るのでますますやりにくい。剃刀はただ表面をこすっているだけのようだ。一心にみつめて、ぎごちなく剃刀を動かす。乳房が邪魔になって左手が自由にとどかない。ふと眼をあげると鏡に男の顔がうつっている。男はまじめな顔で言う。大変ですなぁ。僕がやってあげましょうか。私は無視することに決めて、また剃りだす。今までどうして気がつかなかったのだろう。二階に住んでいる男だ。自衛隊の高官で、何でも、えらい順にいって何番目かの地位の人だという。若く見えるが、もう四十すぎで妻子を東京へおいて独り暮しをしている。どうせながくったって二年だからね、と管理人は言っている。視野の隅の男の顔には少しも狼狽《ろうばい》しているようなところはない。退屈しきったような顔で後ろに立っている。何かご用、と私は言ってみる。男はぼんやりと口を動かす。それ、僕のなんですがね。男の眼は鏡の前の布をさす。クリームと毛がなすりつけられている白い布。昨日、風呂へ入ったとき替えるつもりだったのに忘れてしまって、と男は弁解するように言う。私はちょっとそれに触ってみる。右手はもちろん頭の上にあげたまま。洗ってお返しするわと私は言う。男が返事をしないので私は剃り続ける。急ぐと尚《なお》うまくいかない。じゃ、早く洗って下さいよ、と男は言いながら近づき、私から剃刀を取りあげる。男の頭から強い香料の匂いがする。男は案外器用に剃りだす。右腕をつかんでいる男の手は熱くて気持悪い。男の右手は剃りながら何度も私の裸の乳房に触れる。風通しの悪い脱衣場は蒸し暑く、男の額や首は汗でじめじめしている。  部屋へもどると部屋の中はすっかり明るくなっている。急にかっと日が照りつけているのだ。昨日も一昨日も雨だったのだから、と思う。こんなに雨だったのだから、もう晴れてもよいのだ。部屋の中の物が光って眩《まぶ》しいような気がする。部屋の一番奥にまで日がさしこんで部屋中に陰というものがまるでなくなっている。冷たい水で拭いてきた体がたちまち暑くなる。脱ぎ捨てておいたブラウスは止めて別のを着る。袖ぐりを大きく抉《えぐ》った桃色のノースリーブのブラウス。それから窓を開ける。窓は一番上の枠《わく》の他は全部曇り硝子だ。背が低いので窓がしまっていると外の景色は何も見えない。窓の外の手の届きそうなところに竹格子《たけごうし》がある。アパートの横の空地は外部から自由に入れるから盗難よけのつもりなのだろう。それとも日よけというつもりかも知れないが上下左右に五十センチずつも間隔があるから、その役には立たない。窓をあけると眼の前にその竹格子があり、更に少し向うに朝顔が一本はえている。一週間ぐらい前、それに気がついたときは、もうかなり伸びていて蕾《つぼみ》さえつけていた。といっても一メートルそこそこで、わかれた枝は一つもなしの一本きりの紐《ひも》のようなものだ。祐吉には言わなかったが、彼も最近気がついたらしく、この頃ときどき水をかけてやっている。石ころまじりの固い赤土なので朝顔の葉は時には心細いほど黄色っぽく見える。あの一つきりの蕾は今はみつからない。咲いてしぼんだのか、それとも蕾だと思ったのは私の見間違いかも知れない。  私は風の吹いた日のことを思いだす。それは半月前か、それとも一月前のことだ。風には雨がまじっていた。風が吹いていても暑かった。ブラウスのホックが一つ甘くなっているので、どうしても前がはだけてしまった。風が吹いているのだから仕方がない、と私は思って、そのまま歩いた。曲り角へ来ると、二人連れの女の人が話しながら前のめりに出てきて私の前を歩いた。太い粗《あら》い毛をたばねた年上の女の人のほうは連れの人に何も挨拶せずにどんどん急いで走るようにして先へ行ってしまった。二人一緒にきたのに。もう一人の八十キロはありそうな女の人は、連れがいなくなったのに気がつかないようだった。相変らず、のんびりと話を続けていた。とはいっても強風の中だから、相当力をいれて大きい声を出しているのだ。薄手のスカートがまくれて太いももが見えた。どうやら彼女は私に話しているようだった。笑いながらふりかえって私の顔を見る。頬が赤くて平べったい顔だった。おどろくほど面積の広い顔だった。二十前後か三十歳前後かよくわからなかった。言っていることもわからなかった。聞えないわけではないのに、何を言っているのか、ちっともわからなかった。私は黙っていた。私は十五分ぐらい、その話し続けている女と並んで歩いた。それから、彼女はふいに狭い小道へ曲って行った。あれは、もしかすると去年のことだったのかも知れない。  ごめん下さい、ごめん下さいと子供たちが大勢でくり返している。隣りの家からは誰も出てこない。中にひどく幼い口ぶりの子がいて、一人だけ際だって甲高い声で、ごえんくらあいと言っている。いませんか、と言う子もある。こんばんは、とも叫ぶ。今は昼の一時五分すぎだ。学校帰りの一年生にちがいない。軒ごとに、そうやって悪戯《いたずら》をして歩いている。しかし、今日のは少し、しつっこい。  ごめん下さい。ごめんください。ごめんくださああい。子供たちは次第に不機嫌になり、惰性で言い続けている。いらいらした投げやりな言い方だが決してやめようとはしない。私は窓をしめて廊下へ出る。もうマーケットへ戻らなければならない。暗い廊下を通って玄関へでる。アパートの前はアスファルトの道で、向う側に溝川がある。溝川の向うには大きな病院がある。塀《へい》はないので病院のまわりにぎっしり茂った木が廊下から直接見える。黄色く光った葉が眼に痛い。私は溝川に沿って歩き始める。川は幅が二メートル、深さもそのくらいある。底の方を勢いのない汚水が流れている。仔猫を捨てたときは水は少なくとも十センチはあった。あれは梅雨のときだ。仔猫は玄関の脇でうるさく啼《な》いていた。雨が降っていたが仔猫は少しも濡れていなかった。赤いリボンの首輪をゆるくしめていた。猫は溝川に落ちると、あっというまに流れていってしまった。もがきもしなかった。水は十センチよりもっとあったのだろう。隣りの部屋の小木さんは眼を赤くしていた。私が悪かったのね。うっかり戸をあけて洗い物にいったから、きっと犬に食べられたんだわ。かわいそうに、この雨の中で、と小木さんは言った。小木さんは色が白くて、しなびたような顔だから眼が赤い方が似あう。その顔を見ていて、そういえば隣りの部屋で数日前から変な音が聞えていた、と思いだした。変な音というのは、仔猫の啼き声だったのだ。  マーケットへ入って行こうとすると運悪くおかみさんにみつかってしまう。彼女は白いニットの袖なしの腕を組んで私をみつめる。また、と言う。今日はいつもの言いわけはだめだよ。うちでお昼を食べたんだからね。アパートへ食事しに行ったなんて言いわけは通用しないね。お客さんのお買物を持って行ったんです、と私は言う。はじめて来た人でした。おかみさんは落ちつきはらって松本さんに訊く。この人の言っていること、本当? 松本さんは少し黙っていてから、さぁ、私は気がつかなかったけど、と答える。本当に、いつもそうなんだから、とおかみさんは言って私を見ている。私は黙ってケースを拭き始める。人が足りないのだからやめてくれとは言えないのだ。  ケースの中には餃子《ぎようざ》や塩鮭《しおざけ》や佃煮《つくだに》が並んでいる。ふやけたような白い餃子は死んだ仔鼠《こねずみ》みたいにぎっしり詰っている。本当は生れたばかりの仔鼠は薄桃色で透き通っている。こんな光沢のない、ただの白い色ではない。それでも私は死んだ鼠、と思ってしまう。いらいらする蠅《はえ》の羽音。客がいるから蠅を叩くことはできない。客のいるときは気がつかないふりをしていなければならないのだ。客は子供を二人連れた痩《や》せた女の人だ。買物をしているのか子供と遊んでいるのかわからない。蠅は羽音はするが、どこにいるのか見えない。松本さんもきょろきょろしている。おかみさんと園さんは奥の上りがまちで、こちらへお尻だけ見せてテレビを見ている。何かが下から私のスカートを引っ張る。見おろすと二歳ぐらいの女の子が伝い歩きをしている。アンコのようなものでべたべたになった手で遠慮会釈もなしに手にふれるものを伝っていく。私のスカートにも三カ所ぐらい|しみ《ヽヽ》がついている。白地の部分に黒褐色の粘った塊がついている。子供はスカートの上のほうに人間がいるということなど少しも考えないらしい。一心に伝い歩きをしている。その足どりの頼りなさからすると、まだ誕生日前なのかも知れない。私は手近の包み紙を取って汚ない塊を払い落し、ケースの下へもぐりこもうとしている子供の頭を思いきり叩く。変な音がするが、子供はすぐには泣かない。泣きはしないのか、と思うほど間をおいて、急に喉《のど》いっぱいの泣き声をたてる。とたんに母親がとびあがり、血相をかえて子供を探し始める。私もわざとちがう方向を探す。子供はありたけの声で泣きわめく。母親はあわてて子供をケースの下から引っ張りだして抱きおこすと体中なでまわし、どうしたの、どうしたの、とくり返す。母親に手を離された年上の子もぐずぐず泣きだす。おかみさんが、のろのろ腰をあげ、棒の先に飴《あめ》のついた菓子を一本ずつ渡す。子供たちは泣き続けながら受けとる。母親は恐ろしい顔をしている。  夕方、頭が痛くなる。天井が低くて、やたらに物のおいてあるマーケットは蒸し暑い。園さんもうんざりした顔をしている。園さんの青黒い顔はよけい青黒くなって声がかすれている。あんたは肥っているから平気だわね、と私に言う。鈍感な人って、とくね。どうして鈍感なの、と訊くと、浜田さんの赤んぼう、やっぱり死んだんだってさ。何ともないみたいだったけど、頭でもうってたのかね、と関係のないことを言う。浜田さんの赤んぼうは一昨日、この店の前で乳母車に乗っていた。店の前の道は傾斜しているが、大抵の人はそのまま車をおく。傾斜は店の端から急になって、かなりの坂なのだが、店の前の道路だけは、とにかく平坦にみえる。その乳母車がひとりでに走りだしてしまったのだ。本当は私が押したからだけれども、押さなくても乳母車はじりじりと動いていたから、どうせ同じことになっただろう。(私が乳母車を押したのは、乳母車の向うの五つ百円のラーメン——それは店の表に出してあった——を取ろうとして手を伸ばしたときだった。片手を乳母車についたのだ)乳母車は十メートルほど走って坂の下の電柱にぶつかり、そこで止った。(乳母車が実際に動いているのを見たのは私だけだが、私も気がつかなかったと言っておいた)赤んぼうは泣かなかったから母親が蒼《あお》くなっただけだった。おかみさんは薄く笑っていた。  とうとう私は、おかみさんに頭が痛いんです、と言う。おかみさんは聞えなかったような顔をしてピーナツを食べている。もう夕方の混雑は一段落して、店には勤め帰りらしい若い女が一人菓子を選んでいるだけだ。おかみさんが黙っているので私も黙っている。傍の松本さんが、本当だわ、あんた、ひどい顔色よ、と言う。しかし、おかみさんにじろりと顔を見られると、だけど、今日なんか、誰だって頭が痛いですよね。汗がたくさん出るから頭が痛くなるんだわ、と言いかえる。おかみさんは、じゃ、帰ったらいいだろ、今日はおそく来て途中で抜けて早く帰るってわけだね。何しに来てるのかわかりゃしないよ、と言う。  アパートでは皆、夕飯を食べている頃だ。下の炊事場に金子さんがいるので私は二階へ洗いものとザルを持って行く。金子さんは共稼《ともかせ》ぎの奥さんで、おとなしい人だ。ろくに物も言わない。それでいて炊事場を汚したり茶碗を割ったりするのは、あきれるばかりだ。(廊下に味噌汁の鍋《なべ》をさかさまに落したときは、自分がこぼしたくせに、あっけにとられたような顔でそれを眺めていた。床には若布《わかめ》が、ぬるぬる拡がっていた)夫婦二人きりなのに、金子さんはいつも鍋いっぱい作るのだ。二階は、ほとんどが男の独り者なので炊事場を使う人は少ない。私が朝使った茶碗を洗っていると、隣りに自衛隊の人が来て洗い始める。全く、重労働ですな、と言う。暑いから、と私は腕で汗を拭いながら言う。男は濡れた手で、ちょっと私の腕にさわって、暑くなくても、ですよ、と言う。ぼくは食べるということほどの重労働はないって毎日思うんです。しかも、どうしても食わなきゃならん。この、なければならん、というのがかなわないんだな。私は首をまわして男の顔を見る。前に外国映画で見たことのあるような顔だ。白いつやのない顔の皮膚を数本の皺《しわ》が深く括《くく》っている。あんた、これからですか。ええ。腹、へってるんですか。旦那さんは。私はどちらとも言わずに、ただ首をふる。アパートへ帰ってきたら少し頭痛はよくなっている。ぼくは、もう済ませたんですよ。それで、散歩でもしようと思ってるんです。ひまだから、と男は言う。私は茶碗を洗いおえる。階段をおりかける後ろで男が大きな声を出す。道で待っていますよ。とても涼しいとこ教えてあげるから。下の方から、さぁっと風が吹いてきてね。  部屋へ帰り、電燈はつけないで畳の上に寝ころぶ。祐吉の帰りはいつになるかわからない。窓を開けてあるのに中も外も同じような汚れっぽい空気が澱《よど》んでいる。畳の上は日なたくさい。一分もすると体の下の畳はぐったりと煮えてくる。私は思いきって立ち上り、サンダルを穿《は》いて出て行く。男は玄関にいる。おそいなぁ、と若い人みたいに軽い声で言う。マーケットの前を通る道すじへ行きそうなので、そちらは困ると私は言う。男は、どうして、とか、ちがうほうから行くと大まわりしなければならないなどと言ってみるが、私が立ち止ったままなので、結局ちがう方向の道へ入って行く。両側に木の茂っている住宅街を通り、畠のあぜのようなところを渡って行く。もう、このへんへ来ると、少し涼しいな、と男が言う。まわりに空地が多いので風がうまく吹き抜けていく感じがする。彼は小さな祠《ほこら》の裏の道のないところへ入りこみ、突然あらわれた石段をのぼり始める。暗闇の中だが両側からかぶさるように枝をさしだしている木は桜らしいとわかる。石段は思ったより急で、しかも幅が狭い。私はたちまち汗まみれになる。男の吐く息も荒い。ここ、何だと思う、と男は訊く。上に何があるか知ってますか。私は、知らない、と答える。せっかく少し汗のひいた体に、またべたべたとブラウスがはりついてくる。暗いので、よけい暑い。何もない。何でもないんだな、これが。ね、一生懸命のぼってくでしょう。誰だってそう思うだろ、こんな立派な石段があるんだから、何かあるにちがいないって。それが…… 男は喘《あえ》ぎながら笑ってみせる。それが、何もないんですよ。全く何もない。草のちょぼちょぼはえた空地さ。ああ、いつか来たことがある、と私は急に思いだす。あれは夢の中のことだったろうか。石段は鎖が真中に渡してあるので両側からそれにつかまってのぼる。後頭部が逆に下へ落ちて行きそうな急な石段だ。のぼりきっても、五分ぐらいはお互いに声がでない。やっと男が、とぎれとぎれに言う。涼しいかどうかってことは、一旦は暑くならなきゃ、わからんでしょう。こうやって、火の玉みたいに、かっかとすると、その後ってのは、特に涼しい気がするもんです。錯覚にすぎないけど、どちらにしろ、みんな、そんなもんだからな。  本当に下から風が吹きあげてきて、私は細い二、三本の木が伸びている空地の方へ歩きだす。眼の下に灯が見える。下は崖《がけ》ですよ。危ないから、あまり歩かないで、と男は声をかける。私は急な運動で足の筋がつっぱっているので倒れこむように草の上に腰をおろす。向う側はずっと笹が続いていて、それからここよりは低い崖になっているんだ、と男は説明する。  ああ、笹の上に女の人の首がのぞいていたわ、と私は言う。前にのぼったとき。  へえ、それは知らなかった。ここ初めてじゃなかったのか。ええ、と私はうなずく。でも、ずっと前。もう、すっかり忘れていたくらいです。昼間、と男は問い返す。そう、ちゃんと、こちらを向いているんだけど、おかしいのね。顔色も変えないの。眼の玉も動かさない。  ほう。それがそんなにおかしいの。  つまり、その人、しゃがんでたのね。私、悪いと思ってすぐ引き返そうと思ったんだけど。  しゃがんでると、どうして悪い。  決ってるわ。その人、オシッコしてるんです。だけど、彼、気がつかないで、ぼんやりその女の人の顔見てるの。  彼って、旦那か。  いいえ……それから何カ月もたってから急に言うのよ。小便なんかじゃないって。男の頭が見えた……でもね、あの女の人の、あんな顔って、下が裸の顔だわ。  男は私の話におとなしく相槌《あいづち》をうちながら、もう始めている。私の腋の下を剃ってくれたときのように事務的な正確さで。男の頭のポマードの匂い。それは決していやな匂いではないのに私は不快になり、何だか吐きそうな気分になる。彼は私の手や足の位置が具合悪いらしく、ときどき置きかえる。私は吐き気を押えながら、昼間私がクリームと剃った毛をなすりつけた白い布をどうしたか思いだそうとする。しかし、どうしても思いだせない。あれはこの男の肌着なのだ。  アパートの横の道を歩いてくると私の部屋の窓に灯がついている。男は鼻歌をうたってのんびり歩いている。この男が自衛隊の高官などであるはずがない、と私はふいに確信する。街燈の下で見る男の横顔は鼻が高くて、なかなか立派だ。男は傍若無人の大声を出している。私は窓の灯を見てから早足になるが、男の方はそのままなので、私と彼の距離はどんどん離れる。何時かわからないが、多分八時すぎだろう。戸を開けると、何をしていたんだ、と祐吉が顔も見ないうちに言う。俺、腹がへってるんだぞ。あら、マーケットよ。こんなにおそくまでか。しかも戸をあけっ放しで、と祐吉は言うが、おこっているようではない。私は派手な声を出す。あら、あいてた? ごめんなさい。でも大変だったのよ、今日は。いそがしくて。マーケットって後片附けが戦争みたい。喋《しやべ》りちらしながら手早くハンバーグを取りだし、炊事場へ行って焼きながらキャベツをきざむ。祐吉はキャベツが好きだ。どんなに沢山でも出しただけ食べてしまう。  机に並べてから、今日はお店、ずいぶん早かったわね、と言うと彼はもう御飯を頬張りながら生返事をする。彼は写真屋へ勤めている。いつも夜に焼きつけや現像をするので帰りがおそくなるのだと言っている。(一度彼の同僚が遊びにきた時きくと、夜に仕事をすることはめったにないと言った)  どう、これ焼きすぎかしら、と私も食べながら言う。実際は焼きすぎなどというものではなくて、脂《あぶら》の多いところだったらしく、ハンバーグは半分に縮んでいる。いい、いいよ。お前、ハンバーグ好きだな、と彼は言い、おもしろそうに天井を見あげると、今日、愉快なんだよ。アイちゃんがね、知ってるだろ、店のアイちゃんさ。すごい化粧してきたんだ。眼の上と下に黒い線いれてさ。まるで雀のお化けなんだ。彼は小刻みに体を揺すって笑う。私も笑う。お前の笑い方、変だぞ、と祐吉は突然言う。天井を見上げていた眼をおろしたとたんに。ごめんなさい、と私はすぐに言う。また、ごめんなさいか。そんないい加減に言ったって何も感じが出てやしないよ。お前はいつも口先ばかりだ。本当にごめんなさい。今日、暑かったでしょ。それで頭が痛かったの、と私は口の中で言う。ああ、そう。それならば寝てればいいじゃないか、と彼は遊び半分の口調で一語ずつ区切って言う。  だけど、もういいの。なおったの。アイちゃんの話、おもしろいわ。私もそういうの、やってみようかしら。教えてくれる。  お前なんて、だめだ、と言いながら次第に祐吉は機嫌をなおす。アイちゃんは、あれでも、ちょっとした美人だからな。お前みたいなゲジゲジ顔は何したって駄目だ。  ゲジゲジだって、と私は素頓狂《すつとんきよう》な叫び声をあげてけたたましく笑いだす。笑いころげて彼にもたれかかる。彼は三日に一度はゲジゲジと言う。そうすると私はいつも初めて聞いたみたいにおかしがって騒ぎたてる。お前、馬鹿だな。ほめられてると思ってやがる、と言いながら彼は私をやさしく押しのける。彼はすっかり上機嫌になって茶碗や皿を片附け始める。特別に上機嫌なら茶碗を洗うのまでやってくれるが、そんなのは一カ月に一遍だ。私はすばやく彼の皿を点検する。今日も例の薬はきれいに彼の胃袋へ入ったのだろう。(薬屋へアルバイトに行ったとき、鍵《かぎ》のかかった戸棚から盗み出してきた無味無臭の毒薬)祐吉は水の入ったコップを持って立ちあがる。朝顔に水をやるつもりらしい。 [#地付き](「ゴム」昭和四十二年六月) [#改ページ]   終りのない夜  気がついたとき、私は歩いていた。いつから歩いていたのか。足のふくらはぎの小刻みな痙攣《けいれん》から察すると、もう三時間ぐらいは歩き続けている感覚だ。また、いつもの恍惚《こうこつ》状態でここまで来てしまったのだろう。放心状態とはちがっていた。むしろ逆なのだ。目に映る外界の景色がそのまま、何の先入観もなく等身大で私の内奥に届く。私は立看板を見、枯れた桜の木を見る。見るだけだった。それらには何の意味もなかった。どんな感情ともどんな思考とも無縁に、何もかも見える。たとえ知人とすれちがっても、私はしっかりと相手の姿を見ながら通りすぎてしまうだろう。私が見た色ではなくて、そのもの本来の色で景色は私の内にしみ通り、もう二度と私の意識の表面に浮んではこないのだ。  そこは夜の街だった。場所も時間もわからない。見知らぬ街路。一度も来たことのない道。私は看板か標識でもないかと探しながら歩いた。そういうものは何もなかった。住宅ばかりが並んでいるのかも知れない。私は探すのに倦《あ》いた。もし町名を示す何かがあっても、この暗さでは読めるかどうかわからない。それに第一、私はもう自分の町も家も忘れていた。思いだし方さえも忘れていた。もっとも、それは今日に限ったことではない。何もかも始終忘れた。そして、そのために私は不幸でもなく幸福でもなかった。今、眼の前にあるものは私の寝ぐらや私の家族や、私の肉体と無関係だ。私自身もまたそれらと無関係であっていけない理由はない。  それにしても住人の少ない街だった。無住の街なのかも知れない。気がついてから一度も私は人に会わなかった。家々からは灯影《ほかげ》も洩れない。それとも、もう深夜なのだろうか。五十メートルおきにヘチマ形の街燈が光っている。そのあかりで道だけが白い。両側の家々は見渡す限り納屋か廃屋のように暗く沈みこんでいる。道も、どういうわけか次第に心細く荒れてくる。歩きながらスプリング・コートのポケットを探ると紙幣が手に触れた。引きだして街燈の下で数えると九千円近くもある。かなりましな旅館へ泊れるだろう。私はタクシーを呼ぶために立ち止った。だが、すぐにそれが無駄なことがわかった。誰も通らない道にタクシーが通るわけがあるだろうか。私は、ちょっと息をついて再び歩きだした。ため息というわけではなかった。私はまだそれほど疲れてはいなかったし、もともとあてもなしに歩くのが好きだった。私は指先で紙幣に触ってみた。その柔らかいような硬いような感触が気持よかった。行き止りになるかと思った道もどうやら続いている。道路にころがっている大きな石や土くれは何かの工事のあとらしい。以前から行く手の空が明るくなっていたが、近づくにつれて、それはさまざまな色のネオン・サインの光芒《こうぼう》らしいことがわかった。あそこはきっと賑《にぎ》やかな街になっていて人が通っているだろう、と私は想像した。いつもは私は何も考えずに疲れるまで歩く習慣だった。それなのに、その、色の洪水のような明るい空を見ると、ふいに私は人間たちの雑踏が恋しくなった。人間の吐くなまぐさい息や、自動車のクラクション、短いとぎれがちの会話、戸のあけたての音。あそこには旅館だってあるにちがいない。あまりおそいと旅館も戸をしめてしまうが、それでも一軒くらいは夜じゅうあけているうちがあるだろう。  灯はいくら歩いてもなかなか近づかなかった。暗い街を完全に出きってしまうと両側が低い田圃《たんぼ》になっている道へ出た。田圃か蓮池《はすいけ》かわからないが、その泥の水たまりも、明るいほうへ近づくにつれて、ほの明るくなっていた。  オニの背中館。  最初にわかったのは赤いネオン・サインで、そういう字が並んでいた。オニの背中館とは何のことかわからない。非ず否なり。天地玄黄。モロコシカン。行くもよし帰るも可。ホテルピアノ。そんなネオンが点滅したり、ぎざぎざに崩れたりしている。ちょうど野中の立看板みたいにネオン・サインに足をつけただけのものが多いが、工場らしい大きな建物の塀《へい》の上や中途にあるものもあり、旧式な火の見やぐらの尖端《せんたん》に光っているのもあった。私は顔を照らされながら首を曲げて歩いた。カラスバカ飴《あめ》。むかし男の寝巻。星形や花や便器や歯の形のネオンもあった。ここはネオンの墓場だろうか。そういえば危なかしく紫色の火花を散らしているのもあり、もうとうに白く冷たくなっているのもある。私は戸を鎖《とざ》した工場の前を通り、表札を見ようとした。それは古び、薄れて消えかかってはいたが辛うじて電という字が読めた。では、きっとネオン・サインの工場なのだろう、と私は納得した。それにしては文句が変だが、どの得意先の広告になってもいけないので、わざわざ意味の通らない単語を並べたのだろう。一番最後のは、硝子《ガラス》の上に書いた黒い字を裏側から照らしただけの安っぽい形式のもので、こう書いてあった。  ここを過ぎてもおなじ夜、おなじ顔、おなじ街。  私は思わず笑いだしながら歩いた。あの工場の工員たちは余程ひまで冗談好きなのだろう。歩いて行くずっと先の方で突然音がし始めた。その鐘のような音は間歇《かんけつ》的にけたたましく鳴り響き、それとともに赤い灯が明滅した。やがて誰も人の乗っていない夜汽車が通った。それはずいぶん長い汽車だった。私が踏みきりまで来ても、まだ汽車は終らない。窓ごとに四角なあかりが灯《とも》っている長い汽車。それは非現実的な一つの印象だ。先も後もわからずに、ただ眼の前を次々に通る黄色い灯を見ていると、それだけで自分の生れてから死ぬまでの厖大《ぼうだい》な時が過ぎさってしまう。汽車が行ってしまってもとの暗闇に戻ったとき、私は夢からさめたような気がした。しかし、実際はまだ夢の中と同じことだったのだ。闇は前より濃くなっていた。  私は足を引きずり始めた。扁平足《へんぺいそく》だから、そんなに疲れなくても、すぐに引きずる歩き方になる。眼の前の道がはっきりしないので注意して足をあげて歩こうとするのだが十歩とは保《も》たない。のどもかわいていた。今までに歩いたときは戸外に水道ぐらいあった。どうしても仕方がなければよその家でもらった。どんな真夜中でも百軒あれば一人ぐらいは起きている人がいるものだ。眼をあけても閉じてもちがいないような闇。気配で歩いているのだ。歩くたびに印画紙のように私自身が白い影になって後へ残る。そのおびただしい私、贋《にせ》の私を引き連れて私は歩いた。いつのまにか逆もどりしているかも知れぬ。それとも無限にどうどう巡りをしているかもわからない。そのうちに私はある方角に光のあるのを感じとり、盲滅法にそちらへ歩いて行った。道でなくても頓着《とんじやく》しなかった。有難いことに、だんだんまわりが薄く見えだした。私は小路に入りこんでいるらしい。はるか先の方にちらっと大通りが見えた。黒いかたまりが全速力でその空間をかすめて通る。ようやくその広い道へ出ると、そこには歩道もあった。両側は官庁か銀行のような高い建物だ。ところどころに下までぴっちりシャッターをおろした商店がせいいっぱいの高さでまじりこんでいる。相変らず人一人いないが、それでもずらりと並んだ鈴蘭形の街燈で道は明るい。眼をこらして先のほうを眺めると道はゆるやかにのぼったり下ったりしている。乗物も一台も通っていない。私はまた歩きだした。歩道橋を通り、交叉点を渡って歩いた。起伏もあり、ちがった建物が並んでいるのに、いくら歩いても同じ街路が続いている。少しも先へ進んでいないようだった。もしかすると私はもう幾つもの同じ街を通りすぎてきたのかも知れない、と私は思った。七つか十もの見知らぬ街々を。そのどこにも誰もいなかった。どの道でも誰にも逢わなかった。いや、そうだろうか。私は急にさっき誰かに逢ったような気がしだした。こんなときでも歩きだすと、たちまち私の考える力は何もなくなって視覚だけになってしまうらしい。私は背の低い暗い人と少し前にすれちがったのだ。私の腰のあたりにふわっと風が当った。あれは黒い大きな犬だったろうか。かれは不機嫌そうにさっさと歩いていった。私の方を一瞥《いちべつ》もしなかった。私が道を訊《き》いても返事もしてくれなかったにちがいない。犬もずっと向うから歩いてきて誰にも逢わなくて、それで面白くなかったのか。  かすかに音楽が聞えている。高速道路の入口の建物のかげに提燈《ちようちん》の形が見えた。高々と白っぽい幕でかこった中にあるので提燈かどうかはっきりしない。そこからジャズが流れている。私はほっとしてそこへ駈けより、大きな字でいっぱいに「易」と書いてある黄色い幕をまくった。中には黒いジャンパーを羽織った中年男がいて、トランジスタ・ラジオをいじっている。彼は私を見ても格別な表情はしなかった。あたり前のようにラジオを止めて言った。 「ナニヲウラナウカ」  そのアクセントで見直すと彼の顔は日本人の顔ではなかった。茶褐色の彫りの深い顔に気味の悪いほど大きな紺色の瞳。 「この町には旅館はないのですか」と私は訊いた。男は素気なく首をふった。 「いったいこの道を通る人があるのですか」「あなたはここで何をしているのです。まさか本当の易者じゃないでしょう」「ここはどこですか」私はたて続けに質問したが男は何も答えないで私の顔を見ている。どれの返事ともなく、ゆるく左右に首をふっている。日本語がよくわからないのか。 「ナニヲウラナウカ」と男は冷たくくり返した。何を占う。私は易断所の前は急いで通りすぎる習慣だった。そこでは常に不吉な運命が捏造《ねつぞう》されているのだと私は信じていた。 「ミライ……アナタノミライ」と男は言った。「シリタイカ」それから唐突に白い歯を見せた。 「アナタ……ダメネ」  笑っているのかどうか、男の頬にはこわばった刻み目ができている。私は少しあわてて言った。 「それでは……探して下さい。うせ物を」 「ウセモノ、デスカ」 「そう。わかりますか。なくしたものです」 「ナニ、ナクシマシタ。ユビワ、ネックレス……オトコ?」  私は大きく息を吐きだすとふり返って幕のすきまから外を眺めた。幕の裾から街路へ光が溢《あふ》れだして、その部分だけ敷石が白くなっている。 「私のうち。名前……全部、何もかも。私の過去全部」と私は言った。  易者は口の中で何か呪文《じゆもん》を唱えた。あるいは自分の国の言葉で私を罵《ののし》ったのかも知れない。彼は私の方を見ないようにして荷物を片附け始めた。 「わからないんですか。それじゃ、お水下さい。私、さっきから喉《のど》がかわいてしようがないんです。私はずっと歩いてきたんです」 「ミズ、アリマス。ワタシノイエ」と易者はよそを向いて返事をし、提燈の火を消すと机の上の物を古い汚ない鞄《かばん》にいれて立ち上った。立つと予想外に背が低かった。彼は凄《すさ》まじい剣幕で歩きだした。びっこなので急ぐと両肩が無惨にかしぎ、体全体を引きずりあげるようにして足を前へ出す。彼の家は遠くはなかった。外から見たところでは、かなり立派な洋館だった。外からは鎧扉《よろいど》がしまっていて全く灯りが見えなかったが、中へ入るとまだ皆居間に起きていた。金髪の肥った赤ん坊を抱いた女と、ソファで眠っている小さな女の子。それから活溌《かつぱつ》に走りまわっている三人のよく似た男の子たち。びっこの男は立ったままで彼女に何か言った。するとすぐに女が私に水を持ってきてくれた。私は礼を言って受けとると一息に飲んだ。コップを返しながら見ると、女の抱いている赤んぼうが大きな眼をあけて私を凝視していた。顎《あご》がはち切れそうになって二重にくびれている。赤んぼうは淫靡《いんび》としかいいようのない眼つきをしていた。熟れた赤い下唇がだらしなくゆるんでいる。室内の暖かさで少し眠くなり、散漫になった頭で私は、どうして赤んぼうと好色男は似ているのだろう、と考えた。 「コレ、カコデス。コレ、アナタ」  易者は赤んぼうの唇をつつきながら威勢よく言った。赤んぼうは泣きだした。眼だけは泣かないで私を見ている。 「ちがいます」と私は言った。「私は……」頭の中が混濁してふわふわしている。男の子たちは大人には一言も口をきかずに走りまわっている。お互い同士も唖《おし》かと思うほど声を出さない。ときどき喉の中で「くくっ」と笑い声をたてる。男は傍を子供が通るたびに一人ずつ乱暴に頭を叩いて言った。 「コレモ、コレモ、アナタ」  それから、ぎょっとするような甲高い声で笑った。子供たちの熱中している遊びは乱暴でわけがわからなかった。ぱったり出会った二人がいきなり取組み合いをはじめる。決して本気ではないのだが、本当の喧嘩《けんか》のように相手の腕をねじ曲げたり、顔を床に押しつけたりする。見ていると同じ子同士が争うことが多く、背丈が中くらいの一人は大抵仲間外れになって見ている番だった。彼は仕方なく組んで争っている男の子たちの頭を横から叩いたり奇声を発したりした。正面から他の子にぶつかっても急に避けてみたり、私の坐っている椅子のかげに隠れていて他の子に奇襲攻撃したりした。それはどうやらルール違反の卑怯《ひきよう》な行為のようだった。他の子たちは軽蔑《けいべつ》したような顔をするきりで挑戦にのろうとしなかったから。 「ワタシ、ネムイ」と易者が私に言った。彼の眼はあくびの涙で濁っていた。「ワタシ、ネマス、ネ」  泊めてくれるだろうか。彼の妻の表情を見てもわからなかった。彼女は曖昧《あいまい》な微笑を浮べていた。 「もしよかったら…… この町へ私、来たことないんです。旅館も知らないし」  易者は首をふった。それから右手の窓の外をさした。そちらに旅館があるというつもりかも知れない。私は私の前に立ちふさがった子供の顔を見た。それは仲間外れになっている子供だった。彼は熱心に私の顔を調べている。しつっこい蠅《はえ》のように彼の視線は私の顔の隅々にはりつく。 「では…… さよなら」と言って私は立ち上り、外へ出た。出てから、もう一杯水をもらうんだった、と思った。月が出たのか、外は案外明るかった。  私は再び夜の中を歩き始めた。歩き難《にく》い道だった。足が一歩ごとに砂利の中にのめりこんだ。易者の眼の色が左と右ではちがっていたのを私は思いだした。片方は茶色で、もう一方は藍《あい》を含んだ黒だった。どちらかが義眼かも知れない。私は歩くのに倦いていた。砂利だと思ったのは石の多いぬかるみらしい。足にねばねばした物がはねついて取れない。そのぬかるみに横たわってぐっすり眠っている自分を何回も想像しながら私はゆっくり歩いた。  アスアリト思ウ心ノアダザクラ  水ハ流レズ橋ガ流レル  アスアリト……  さっきから私はくり返し、そう言い続けていた。アスアリトで三歩、思ウ心ノ、でまた三歩。何だかひどく語呂がいいので止める気はしなかった。そう唱えながら歩くと、黙って歩くのよりずっとはかどる。今度はいやに高いところを汽車が通る。暗くて見当もつかないが、おおよそのところでは空のてっぺんから三分の一ほどの中天を、いっぱいに灯をつけた、一人も客の乗っていない汽車が走っている。長い立派な汽車だ。長い汽車ほど立派だ、と私は思った。ずらりと規則正しく並んだ虱《しらみ》の卵のような窓しか見えないが、蒸気の汽車にちがいない。電車にはあんな威厳はない。あれは、一番先から尻尾《しつぽ》までくすんだ黒色の、大型の軍艦のように重々しい汽車にちがいない。アスアリト思ウ心ノアダザクラ、汽車ハ走ラズ空ガ飛ブ、と言ってみたが、あまり面白くない。やっぱり水ハ流レズ橋ガ流レルがよい。どこからそんな文句を思いついたのだろう。考えかけたがすぐに私は止めた。以前「オニノカニババ食ベテ、ミナ」という唄を三日ぐらい歌い続け、真剣にその出典を一週間も探して、どうしてもわからなかったことがあるからだ。その節まわしだけは誰かがラーメンのコマ・ソンだと教えてくれた。私はそのメロディにならぬように注意しながら歩いた。その卑俗で安っぽくてなれなれしい節を私は大嫌いだった。  今度はいくら灯の気配をめざして歩いても、どこにもなかった。住宅街らしく、両側には塀や生垣《いけがき》が続いている。もう汽車が空を渡っていたあたりまで来たと思うのに踏切も汽車の線路もない。道は曲りくねって太くなったり細くなったりしていた。大きな邸の前を通りすぎようとしたとき、すれちがったものがあった。ちょうど木の枝がおおいかぶさっていて真の暗闇のところだった。相手の呼吸がはっきりわかった。行きすぎて少し離れてからふり返ると人間らしい。向うも立ち止って、こちらをすかして見ている。 「あなたがいらしたところには何かありましたか」とざらざらした老婆の声が言う。「いいえ」と私は首をふりながら答えた。ココヲ過ギテオナジ街、オナジ顔、オナジ道。とっさにその文句が浮んだ。立ち止ると、自分がかなり疲れているのがわかった。老婆は近づいてきた。 「どういうのかしら。うちがわからないのよ」と老婆は不自然に甘えた若い口調で言った。「一緒に行って下さいましな」 「わたしもわからないんです。わたしはここに住んでいるんじゃありませんし。ここには宿屋もないのかしら」 「ええ、ないのよ。私はここに住んでるの。ほら、この家は亜神さんのお宅よ」 「では」と私は勇気づいて言った。「あなたは、このへんにお住まいなんですね。すみませんけど、今夜一晩泊めて下さいませんか」  さっきの易者のときのように、ていよくほうりだされまいとして私は急いでそう言った。 「いいですとも」と老婆は答えた。「もしかすると、あなたは私の探している人かも知れないわ。あなたは私かも知れない」  そんなことは、どうでもよかった。立っている私のふくらはぎが気味の悪いほど痙攣している。私はとにかく休みたかった。 「それじゃ、連れてって下さるのね」と老婆が言った。「私、道がわからないんだから」 「でも、あれは亜神さんの家だと……」 「そうよ。あれは亜神さんの家だわ。亜神さんと私は関係ありませんもの」 「私だって、あなたの家なんかわかりませんよ」と私は言った。  老婆は私のスプリング・コートの袖口をしっかりつかんだ。 「歩きまわっていればわかるわ。この街なんですもの。夜でなければいいんだけど……わかりにくいのよ、私の家は。すぐわからなくなってしまうの。だって、あなた、逃げてしまうんですもの、私の家って」 「はあ、そうですか」と私はがっかりして言い、老婆と一緒に歩きはじめた。考えてみれば一人で歩くよりはよいかも知れない。もしかしたら運よく老婆の家が見つかるかも知れないし。歩き始めて五分もしないうちに老婆はよろめきだし、私にもたれかかった。 「そんなに速く歩かないでよ。急いで歩くのは馬鹿と兵隊だけだわ」  そう言うので私はゆっくり歩く。すると今度は「どういうつもりで、そんなにのろのろ歩くのさ」と小言を言う。「あんたの手は筋ばっているくせに生暖かくていやらしい」とか「変な匂いがするけど、ずいぶんひどい安香水をつけているにちがいない」とかいろいろ言う。私はこんなに疲れてさえいなければ、とっくに老婆をふり放すのだが私の手をしっかりつかんでいる老婆の指の力は意外に強いのだ。しかもその手は冷たくて、ぬるぬるしていて裸の体に触られているような、しつっこい嫌な感じだった。 「私はね、マンションに住んでるのよ。オニノセナカ館てね」 「何ですって」と私は叫んだ。たしかに私はそんな屋号を知っていた。それも、ちょっと前にどこかで見たばかりだ。 「ああ、私、通ったわ、そこを」と私は思いだすと同時に言った。「もどればいいんです。私、知ってます」  老婆は何も言わなかった。私は強引に今来た道を戻りだした。 「あんた、それで、たしかに戻ってるの。元のところへ行けるの」と老婆が言った。そう言われてみると、私にもわからなかった。第一、老婆と逢ったときからして、あのとき私はそのまま歩いたのか、それとも逆の方向に戻ったのか覚えていなかった。 「前に通ったって、二度は駄目さ。もう一度くり返せば少しはよくなるか知らんと思ったって同じこと。何も変りゃしないよ」と老婆は言った。 「だってお婆さん、あなた、さっき、私の家は小さな家だって言ったじゃないの。今度はマンションだなんて……」と私は言い返した。老婆は少しの間黙っていた。それから言った。 「お婆さん、て、私のことなの。ふん、そうかも知れないわね。でも、私はあんたと十はちがわないのよ。正確にいえば七つ」 「馬鹿なこと言わないで下さい」と私はすぐに言った。顔はよく見えないが、姿恰好と声からでは老婆はどう考えても六十以下ではなかった。「私は三十五です」 「だから、そう言ってるでしょ。私は七つ上だって」  私はもう相手にしなかった。 「じゃ、ほら、あそこの灯の下の明るいところで見てごらん」と老婆は自信たっぷりに言った。私たちは薄暗い街燈がところどころについている道へ来ていた。街燈の真下まで行って老婆は顔がよく見えるように少しあおむいた。私はその顔を一目見て異様な衝撃を受けた。それはおそろしい美貌ではあったが同時に悽惨《せいさん》でもあった。私が衝撃を受けたのはむしろ後の方の理由である。私はただちに化粧した生首を想像した。彼女の顔には何か気分の悪くなるようなものがある。といって、どこが変ということはなくて珍しいほどの美しい顔にはちがいなかった。形のよい生き生きした瞳《ひとみ》は濃いまつげにふちどられて底が知れない。そんなに近くで、その独立した生きもののような眼にじっとみつめられて、私は思わず身震いした。頬にはフランスの性格女優によく見られる鋭いくぼみができている。それが少しずつ深くなるのだ。悪意的で、しかも何とも優雅な微笑がそのへんから拡がり始め、唇の両端がにゅっともちあがる。上唇の中ほどから次第にのぞきだした歯は無機的な白さで光っている。細いなよやかな眉を片方だけ少しもちあげ、無気味な蒼《あお》い眼をかすませた笑いが今はもう、はっきり彼女の顔全体にあらわれている。 「男は美人が好きよ」と彼女は言った。「この眼はスイス製なの。歯だって本物よ。一本ずつ色も大きさも揃《そろ》えるなんて、五万や十万じゃできやしないわ」  その声は、やはりハスキーというよりは唇にしまりのなくなった六十すぎの老婆の声だった。私に背を向けて歩きだした老婆の後ろ肩の出っぱり方や、両足を開きぎみに離して歩く歩き方も老人くさい。 「男はみんな私みたいな女に興味をもつものよ。私みたいな女が好きなの、連中は」  老婆はのどの奥で笑った。笑いながらまた続ける。「寝たがるのよ……寝たがるの、私と」くすくす笑いはだんだん大きくなり老婆はとうとう立ち止った。私はその間に素早く老婆から離れた。やみくもに私は走った。息の続く限り走り、倒れそうになったので大きく呼吸をしながら歩いた。この暗さだし、年よりの足ではもう私に追いつくことはできまい、と私は考えた。急に走ったせいか膝に力が入らなくなり、よく歩けない。私は傍の板塀によりかかった。 「もう少し先を右へ曲って」と老婆の声がした。老婆がすぐ後ろに立っている。私はとびあがり、機械的に数歩あるいて右へ曲った。近道があったのだろうか。老婆は息も弾ませてはいない。老婆が私の前の戸を押すと同時に犬が激しく吠えだした。犬の姿は見えないが、吠えるというよりは悲鳴に近い啼《な》き声だった。 「あなたの家なのですか」と私はあきらめて、おとなしく訊《たず》ねた。 「いいえ」と老婆は否定し、そのまま玄関の戸を押して入って行った。中は暗かった。「スイッチはどこだったかしらん」と呟《つぶや》きながら老婆は壁を撫《な》でている。しばらくして灯りがついた。廊下の灯も、部屋の中の灯もついた。暖かみのある黄色っぽい光だった。 「さ、どうぞ」と言いながら老婆は自分の家のようにどんどん部屋の中へ入る。畳の部屋に大きな卓袱台《ちやぶだい》がおいてある。その机の上には食物が並んでいて、魚の匂いや漬物の匂いがしている。 「大丈夫ですか。ここに住んでる人、いるんでしょ」と私はおそるおそる小声で訊ねた。真夜中に机の上に食物がたくさん並んでいる光景は妙に不安な眺めだった。それもサンドイッチのようなものではなくて、清汁《すましじる》、魚の煮たの、野菜の旨煮《うまに》、薄いトンカツというような雑多な家庭的な食物なのだ。老婆は食卓から少し離れて坐った。「食べないほうがいいよ」と言う。「食べやしませんよ」と私は言った。「それより、もう出ましょう。誰かくると……だけど誰のうちなんです、ここ」  老婆はぼんやりと卓袱台の上を眺めた。それから言った。「私、この魚、好きなのよ」 「何ですか」 「サバ」  それは腹のへんが脂で黄色くなっていた。老婆は手を伸ばして人さし指で魚をはじいた。すんだ固い音がした。次々とはじくと、どれも同じカチンという音がした。よく見ると、みんなプラスティックでできている。本物だとばかり思っていたので、老婆が触るにつれて本物がたちまち贋物に変質していくようにみえた。 「入ってきたとき、匂いがしたけど」と私は言った。 「食べたっていいさ」と老婆は言った。 「食べやしません。お腹がへってるわけでもないし……見本なのね、これ。ちっともわからない」 「あんた、食べられないと思ってるの。もっとよく見てごらん。正真正銘の本物よ」  顔を近づけると、たしかに匂いがする。鯖《さば》の上に散らした針生姜《はりしようが》の鮮烈な匂いまで、はっきりとわかる。どうしてもプラスティックとは思われない。老婆はどこからか水をいれた大きな丼《どんぶり》を持ってくると、半分自分が飲み、残りを私によこした。私は真赤に老婆の口紅の跡のついているところを避けて反対側から飲んだ。水が食道を通っていく音を聞きながら、ゆっくり全部飲んだ。丼から顔を離すと老婆が私のすぐ前にぴったりくっついて坐っていた。あまり近くにいるので私は居心地悪くなって少し横へいざった。老婆はあくびの息を無遠慮に私に吐きかけ、無造作に私の頬をなで、それからいきなり私の乳房をつかんだ。私は大声を出して、とっさにその手をふり払った。老婆はあっけにとられたような顔をした。私は自分が大げさすぎたのが少し恥ずかしくなったが、腹もたった。 「どういうつもりなんです」と私はどなった。 「どういうつもりって……自分が自分の体に触ってどうしていけないのよ」 「私はあなたじゃありません」 「あんたは私だわよ……本当いうと、もう最初からわかっていたの、私には、そのことが」 「いいえ、ちがいます」 「頭が悪いねえ。あんたは私なんだったら。あんたは扁平足で右のももに大きな黒子《ほくろ》がある。ああ、それから右の掌に五針縫った跡がある。何だって知ってる、自分のことだから。ほら、見せてあげるわ、私があんただって証拠」  老婆は手を開いた。無数の皺《しわ》の中に、はっきり私と同じ形、同じ長さの傷あとがあった。 「あんたは私なの。私はあんた。わかったでしょ」  明るい灯の下で見る老婆の顔はいつのまにか醜怪としか言いようのない変り方だ。地震の後の白壁のように、ほうぼう厚化粧がはがれている。眼の上下の黒い線が再三のあくびの涙でぼけて、まぶたや頬に黒いしみがつき、鯖の青い皮に似た光った唇の両側がだらしなく垂れている。すっきりと伸びていた眉も描いていたのだろう、もう跡かたもない。服は十代の娘のように奇抜な型のを裾短かに着て、細い褐色の脛《すね》を長く出している。首には薄紫色のジョーゼットを幾重にも巻いて端を背中へ長くたらしている。 「冗談じゃないわ。私、そんなお化粧したことはありません。絶対する気もないわ」と私は言った。 「それが何だっていうのよ。未来のことなんてわかりゃしないでしょ。明日のことだってさ。とにかくあんたは私。それだけのことよ」  私は烈しく首をふって老婆を睨《にら》んだ。老婆はマフラーの端で眼を拭った。つけまつげや顔料がとれた。それよりおそろしいことは、あの魅惑的な眼玉までマフラーの中にはずれてとれてしまったことだ。後には灰色の光らない裸の眼が残っている。 「この眼をごらん。これでもあんたは私じゃないと言うの」と老婆は言った。それはまつげの短い、途中で|ふたえ《ヽヽヽ》が切れている私の眼と実際によく似ていた。左眼の眼尻のへんの皮膚の色が変っているのは、ひどい日灼《ひや》けの跡がどうしても治らず、まるでケロイドみたいになってしまったのだ。まつげまで、そこの五、六本は白いのがはえた。老婆が口紅を拭きとると、少しとがらせ気味の薄い小さな唇が現われた。マフラーは長くて老婆が顔を拭きながらほどいてもまだ老婆の首はしっかり包まれている。私は老婆をみているより仕方がなかった。 「こんなときがあったのかねえ。へへえ」と老婆はひとりごとのように呟き、視線を私からはずした。「わからないってんなら、それでもいいさ」  老婆は唇のまわりに放射線状のおびただしい襞《ひだ》を集めて大きな息を吐きだし、とろんとした眼をそっと閉じた。眠いらしい。私はもう一度老婆を調べるように丹念に眺めた。紫のマフラー、草色のごぼごぼした変り織のワンピース。どんなに下等な娼婦《しようふ》だってこれほど悪趣味ではない。それに鼻の横の下卑た縦皺。老婆は口をあけて居眠りをし始めた。よく揃った前歯が見える。五万や十万では買えない「本物」の歯は便所のタイルの色に輝いている。その歯以外はどこもかしこも荒廃し尽していた。病んだ精神と悪い生活。丁寧によく見ていると四十二歳のような気もする。不釣りあいな若やいだ口調や、ふと見せる動作の端にはその年らしいものも充分ある。そうとすると彼女は二十歳も老けてみえることになる。彼女は船を漕《こ》ぎ始め、とけるように体を崩していって畳の上に寝そべった。痩《や》せているくせに意外に腰が大きい。しかも老婆の体の中で、そこだけ柔らかいふくらみがあって、妙になまなましい。 「ああ、そうですか」と私は呟いた。「私はあなたなの。そうですか。そうだったんですか」  私はスプリング・コートのポケットの中の両手を握りしめた。老婆の中のどんな所も私は好きではなかった。嫌悪で胸がつかえるほどだった。私は頭を振った。悪夢ならさめよ。尚《なお》も体を揺すった。自分をふり払うように。そうしながら、その底に一筋の鋭い愛着があった。それは矛盾していた。それだからこそ嫌悪も愛情も極端なのだ。一点の美も、正もない形。それはずっと、はてしない昔より私の望んでいた姿ではないか。どこから見ても完璧《かんぺき》に醜くなりたいと私は常に心の隅で強く希《のぞ》んでいたのではなかったか。ただ、それに気がつかなかっただけなのだ。彼女こそ私の本質なのだ。  老婆は寝返りをうった。すると首に巻いてある布がずれて、その下に黒い血のかたまった傷が見えた。大きな腫《は》れものが潰《つぶ》れかけているような嵩《かさ》ばった華やかな傷口だった。それを見た瞬間、梅毒にちがいない、と私は直感した。私は梅毒について何も知らなかったが、そのどす黒さや、彼女の眼の下の袋、はっきり紫色の垂れた肉の袋からして、いかにもその病気が似つかわしかった。腐臭がじかにこちらへただよってくるのだ。彼女に対する侮蔑《ぶべつ》と不快の気持が急激に私の中でたかまった。私はそれをやっとおさえて立ち上った。室内を見まわすと、その部屋には廊下がついていて、その廊下の端の扉が半開きになっている。私は音をたてないようにしのび足で扉の向うを見に行った。向うは広い洋間になっていた。セミ・ダブルの大きなベッドが二台、重厚な彫刻のついた飾り棚がずらりと並んで、向う端にはグランド・ピアノがある。しかし、そこまで眺めて、私はあわてて首をひっこめた。ピアノの上に人が寝ていた。よく見なかったが二人らしい。よく見なかったのは彼らが裸だったからだ。素裸で寝ているのはわかるとしても、ピアノの上を寝場所にしているのは妙だった。ベッドがあいているのに。私は再び少しずつ顔を出してのぞいた。二人とも髪が一本もないので、なめらかなまるい頭がみえる。男と女ということもすぐにわかった。彼らは互いに相手の体に手をかけている。ピアノは二人には狭いので、足だけだらりと横へ垂らして、上半身をねじった不自然な姿勢をしている。そんな恰好で眠っているはずはないのだが二人は微動もしない。呼吸している様子もない。ピアノの黒のせいかどうか、肌の色も光沢がなく、冷えきった白さだ。死んでいるのかも知れない。私はあわてて戸をしめた。その音が大きかったので、はっとして周囲を見まわした。老婆はそれでも眼をさまさない。私は老婆のところまで這っていき、手荒にゆりおこした。隣りの部屋を指さして何か言おうとしたが声がでない。老婆は青白いむくんだ顔でのろのろと起きあがり、|のび《ヽヽ》のようなことをしてから隣りの洋間へ入っていった。 「ああ、こっちで寝たほうがよかったよ。長いこと入らないから、こっちの部屋のことは忘れてたわ」と彼女は裸体を見もしないで言う。私はかすれ声で訊いた。 「どうしたんですか、この人たち。寝てるの、死んでるの、それとも蝋人形《ろうにんぎよう》ですか」  蝋人形というのは言いながら思いついたのだが、どうしても、そうは思われなかった。 「何でもないよ。さあ、眠いんでしょう、あんた」と老婆は言うと勢いよくベッドにもぐりこんだ。と思うと、もう耳ざわりな荒い寝息をたて始める。それを見ると私もピアノの上の男女のことはどうでもよくなった。実際大したことではない。私は隣りのベッドへ寝た。それでも念のため頭から蒲団をかぶった。  引き裂くような犬の啼き声が聞えたとき、私はもう眠りかけていた。啼き声がだんだん近くなったので、私は蒲団から首をもちあげた。老婆がピアノの後の戸からとびだしていくところだった。何がおこったのかわからないままに、私もとびおきて彼女の後を追った。裏口から外へ出るとき、靴がないのに気がついたが、取りに行くひまはない。もう老婆の姿はどこにも見えない。私はまず塀まで走り、それから塀ぞいに出口を探しながら走った。幸い、出口はすぐみつかり、うまく塀の外へ出たところで私は石につまずいて転んだ。ひどく痛かったので私は呻《うめ》いた。その声を目当てに固い物がとんできて私の肩にぶつかった。 「はやく、はやく」と老婆の声が呼んだ。私はまわりを手探りした。だが、そんな必要はなかったのだ。眼をあけると充分に明るくなっていた。頭のしんにこたえる蛍光燈のような光がどこかからさしている。ちょうど吹雪の日の雪あかりのようだ。私は五メートルぐらい離れて引っくり返っている自分の靴を拾い集めて穿《は》くと、少し足を引きずりながら歩きはじめた。今度は逆に老婆が私を引っぱって歩く。郊外の新開地のような所だった。荒れた広い道がずっと一本通っている。道に落ちている木切れや大きな石ころがとげとげしく白ちゃけている。朝なのか曇りなのか人工の光なのか私にはさっぱりわからなかった。片側が小高い斜面になっていて、とうもろこしと大豆がはえている。ほぼ同じ背丈の雑草の中にまじっているので、ちょっと見には畠になっているとはわからない。とうもろこしも大豆も黄色く枯れている。とうもろこしの葉の間には黄色い粒がのぞいていたが、それは本当に実がなっているのか、それともどこかからの光の反射で黄色に見えるのか。斜面には幹の細い雑木もはえている。道の反対側には麦らしい青い草の葉がみえる。麦ではなくて、ただの草かもしれない。黒っぽい服を着た七、八人の男たちが向うからきた。皆で大きな箱を肩の上にさしあげて運んでいる。その長方形の箱には、さまざまなレリーフがほどこされている。動物や小鳥をつる薔薇《ばら》が取り巻いている図案だ。すれちがってからその箱が舟をかたどっているのだと気がついた。だいぶ離れてから、それが寝棺だとわかった。男たちはみんな同じ顔をしていたような気がする。 「娘のところは47の2なのよ」と老婆が私に言う。私はうなずいた。また、かなり歩いてから私は「あの堤防の向うは川ですか」と訊いてみた。老婆はこたえない。今見ると、彼女の顔は寝る前より少し若くなったようだ。皮膚にはりがある。彼女は前歯で下唇を噛《か》んだり放したりしている。そのせいかどうか老婆の下唇は茶色になっていた。  堤防の上に貨車が止っている、と思ったが、そうではなくて、あれは線路なのだろう。一|輛《りよう》きりの置き忘れられたような貨車に男たちが荷物を運びこんでいる。男たちはみな頭から爪先までの長い雨合羽《あまがつぱ》を着ている。運びこんでいるのは細長い薦包《こもづつ》みで大人の背丈ほどもある。その包みの胴の中ほどが少しふくらんでいる。男たちはそれを倉庫から重そうにかかえてきては貨車の中に運びいれている。急いでいるわけではないが、片時も休まない。彼らが仕事をしている真下の道までくると、そのへん一帯に、なまぐさい湿った臭いがした。何の臭いといえる臭いではないが、胸のあたりが軽く圧迫されて吐き気がする。それともおくびのようなものかも知れない。決して悪い匂いではないが、よい匂いでもない。匂いの正体がわからない、ということで吐き気がし、不快になった。男たちの機械的な動きは見ていて飽きない。飽きないのではなくて、いつまで見ていても同じだから見ている。いくら運んでも黒い貨車の内部は黒いままで薦包みはどこへ入ったのか影も形もない。横を見ると、もう老婆はいなかった。眼の前の一本道のどこにも老婆の姿はない。しかし百メートルほど先に十字路らしいものがあるから、そこで、どちらかへ曲ったのだろう。その十字路まで行ってみると、堤防側には駅らしい建物があり、それと逆の方向には灰色の背の高い建物がいくつも並んでいる。私はその建物の方角へ歩きだした。道は建物のところで行き止りになっているのに、建物の門は道とだいぶずれてついている。門からの道は大粒の砂利が敷いてあって歩き難い。建物の一階は全体が通路になっている。窓も戸もない灰色の廊下をどんどん歩いていくと広間に出た。人が大勢いる。大部分は女で、袋をさげたり子供をおぶったりして広間の中央の床のまわりにたかっている。そこだけ四角の空間ができている。それは碁盤の目のように縦横にしきってある。41、42、43……と50までが横枠《よこわく》に書いてあり、それぞれ向う端から手前へ1から9の番号がついている。四角の一枠の大きさは普通の座蒲団ぐらいだ。別に話しあっている人はいないのに広間の中は雑音がわんわんしていて人々は、やたらに場所を替えている。学生や勤め帰りらしい若い女もまじっている。ときどき、その四角に乗る人があると、そこの列全体がどんどん垂直に登っていって見えなくなる。私も47の通りの2に乗った。乗るときは、そこまで行く間に周囲の枠がせりあがるのではないかと思ってこわかったが、思いきってやってみた。すうっと高くなって、ついた所は家の中で、すだれの向うに老婆が坐っているのが見えた。その傍に二十歳ぐらいの娘がいる。痩せた色の黒い娘で、上等の小紋を寝巻のように細紐《ほそひも》一本で着ている。老婆は私を見ると娘を他の部屋へ連れて行き、外から鍵《かぎ》をかけた。 「さあ、それでは」と老婆が言うので私は「どうして鍵をかけるのですか」と訊いた。 「着物が二階にでてるからね。汚すといけないからね」  それでは、そう言えばいいのに、と思ったが私は黙っていた。老婆は口の中で何か呟いているが何と言っているのかわからない。私たちは一緒に建物の外にでた。歩いているうちに道がずんずん急勾配のくだりになっていく。 「山へのぼったのかしらん。ちょうど、そんなみたいだわ」と私は老婆に言いながら額の汗を拭う。 「あんたがバスがいやだっていうからよ」と老婆は私より少し後ろを歩きながら言う。赤い顔の男が三人、走ってのぼって行く。彼らのオレンジ色のポロシャツの胸にローマ字が大きく浮きでている。両側の郵便ポストはどれもこれも半分にちぎれている。店先に数百のシュークリームを並べた菓子屋があった。250と書いてある。十箇で二百五十円という意味だろう、と私は勝手に判断した。道は埃《ほこり》っぽくて狭い。ところどころに寸法の合わない溝板《どぶいた》が渡してあって、その上を通るとボコンボコンと音がする。まがりくねった道のままに歩いて行く。道が大きく曲っているのでそれについて曲ると、社務所のような造りの荒れた家がある。窓がないので中が見える。中にはこまかくしきられた棚があり、その棚ごとにおびただしい数の傘がおいてある。千本以上もあるだろう。みんな番号札がついている。山へ登る人の手廻り品預り所なのだ、と気がついた。その向うのよしず張りの屋根の下に縁台がいくつも並べてある。それに男たちが七、八人のっかっている。中の二、三人は完全な裸で、思い思いの方向に、あおむけに寝ている。男たちのとびあがっている強靭《きようじん》な鼠蹊部《そけいぶ》の骨と、よく日に灼けた茶褐色の腹が見える。木彫りの人物像のようにどこもかしこも同じ色になめらかにひかっている。彼らはとほうもなく長い魚と似ている。私はその茶店の前にバス停があるのをみつけ、あそこで待とうと考える。私の歩き方がおそくなったので老婆が追いついた。白っぽい不機嫌な顔をしているが私と同じくらいの年にまで若くなっている。 「ここから乗るとバス賃が半分になるわ」と、私は老婆に言う。そのために、わざわざここまで歩いたのだ。彼女は唇を|への字《ヽヽヽ》に曲げている。つまらない顔だ。彼女はいきなり走りだすと一直線に裸の若い男の腰にとびついた。そこへ顔を押しつけて男の脇腹をさすっている。ふいにとびつかれた男は何もあわてなかった。よく響く笑い声をたてながら、ゆっくりと身をおこした。ごく自然な笑い方をしている。生れてから一度もまわりくどいことを考えたことはないような爽やかな肉体だ。 「あなたのような人を待っていたのです」と、となりの男がいう。一対一の関係ではなくて、男たちと彼女との関係だ。彼女はやっと顔を離すと笑った。まぶしそうに眉をしかめ、眼を細くして、下唇をにいっと拡げる。女になりたての少女、まだ乳房に重みがつかない年頃、女であることがちっとも板についていなくて、それがかえって魅力になっているごく若い女。それが彼女だ。べたんと足をひらいて坐っているので光沢のない白い膝や大腿部《だいたいぶ》が大きくのぞいている。彼女はそこをぺたぺた叩いた。彼らが私の方をちらちら見るので私は急いでバス停の時間表を調べるふりをした。 「どうでもいいことばかりで…… つまんないったらなかった」と彼女が言う。「あの人は、そういうことしか考えられないのよ」  私のことを言っているのだろうか、と思うと耳が熱くなった。静かになったので、こっそりふり返ると彼女と裸の男が将棋盤をかこんでいる。まわりの男たちはそれを見たり、もとの姿勢に戻ったり、好きなことをしている。駒を並べ終ったところで「そうやって、この四角いとこの空地《あきち》を埋めていけばいいの」と彼女がきく。男が何とこたえたかわからない。馬鹿なことを言う、と私は腹だたしかった。ハンディをつければ私は、将棋なら相当強い人の相手もできる。男たちは微笑している。彼女も、もう何も言わずに、肩の力を抜いてほほえんでいる。そうなのか、と私は急に彼らの関係を理解した。つまり、将棋なんかどうでもよいのだ。笑いあっていることさえ、どうでもいいのだ。そんなふりをしているだけで、そうしながら彼らは既に本当の関係に入っていたのだ。彼女と男たち。彼らは、もう微動もしない。私は走りだした。体が重く、少しも速度がでない。私はいびつに走り続けた。黒い汗が頭の中心から湧《わ》きだして眼が開かない。それとも、まわりが暗いのだろうか。暗いのだろう。粒子の荒れた写真のように道や空気がぼつぼつと網の目になっている。私は口をぱくぱくあけて走り、歩いた。やっぱり夜だったのだ。老婆の娘のところへ行ったのも、裸の男たちのいたところも。夜のほうがいい。なんとなくそんな気がした。夜はますます濃くなる。  歩いていると、右手に明るいところが見えた。ネオン・サインのような多彩な光ではなくて、一色の白い光だ。一番明るいところには建築現場らしい組立てた鉄骨の群れがある。その梁《はり》に大きな裸電球がずらりと並んでいる。もっと近寄るまで未完成のビルだとばかり思っていたが、よく見ると発電所のようなものらしい。無愛想に建てっぱなしのコンクリートの小屋や大小のモーターがあり、五メートルおきに「近よるな」「DANGER!」という札がさがっている。その附近一帯は全部照らしだされて明るい。私は張りめぐらされた鉄条網に手をかけて見上げた。煌々《こうこう》とした何千キロワットかの光の向うの空は黒かった。下の方は雑草にいたるまで照らしだされて白っぽいのに、空だけが黒かった。その発電所の中のずっと奥の方、やっと見えるところを小さな虫が一列になって飛んでいる。初めは細い紐が宙にはりめぐらしてあるのかと思ったが、次第に大きくなって、こちらへくるのを見ると蝶か蛾《が》の種類だった。まるで糸に貫かれてでもいるように前の蝶と後ろの蝶がぴったりくっついて私のすぐ眼の前までくると、すうっと上へ舞いあがり、黒い夜空へ消える。濃い茶が主体で、その他に紫や橙《だいだい》のまじった羽は、近くで見るとかなり大きい。大人の拡げた掌ほどもある。蝶ではなくて蛾なのかも知れない。眼の前で腹を見せて急上昇するとき、ぷっくりふくれた腹に硬い棘《とげ》のような毛が一面にはえているのが見えた。いっせいに小刻みに羽を上下させながら蛾の行列は際限なく続く。建物のかげから出てくるときだけは少し列が乱れるので躍りでてくる感じだが、列がととのってしまうと、動いているとも見えない。みんな同じ大きさで同じ色だった。流れるように空をすべっていき、先頭の蝶から順に空の或る一点で黒に溶けてしまう。あちら側へ行ったのだ。蝶の描いている線は少しずつ変化して、時には私が頭をくっつけている鉄条網すれすれに飛ぶときもある。そのときは、蝶らしい軽い羽がたえまなくひらひらしているのがよくわかる。それでも花に舞う蝶のような自由奔放さはない。一分に何回と羽を動かす回数まで決っているようだ。その行列は二十分も続いただろうか。眼の前に、もう何も見えなくなっても、私は蝶たちのいたところをみつめていた。どこにも何もいなくなると、ようやくモーターのかすかな唸《うな》りが聞えだした。その底力のある低い響きは眠気を誘った。鉄条網のこちら側は大きな石がいっぱいだったので私はそれらを手で押しやって空地を作り、地面に長くなった。明るすぎる、と一瞬思ったが、眼をつぶるとすぐに私は眠りだした。夢の中で私は白い蝶をつかまえた。何匹もつかまえてポケットにいれた。その次に出そうとすると蝶はよれよれの紙きれになっていた。それは、とりかえしのつかないことだった。もうどうにもならないのだ、駄目になってしまったのだ、と私は何回も同じことを考えた。すると私の体の中で小さな音がし始めた。顔の皮膚は骨に張りついていてびくともしないのに、体の中の骨か肉か臓物が「おお、うおう、うおう」と身も世もあらず烈しく哭《な》いた。眼がさめると、私の体の下を、とがった石がこすられながら動いていく。私の足の一本が高くひっぱられて、その先に老婆がいた。 「もう、ずうっと、こうやってひっぱっている」と老婆は、いまいましそうに私に言った。「叩いても、つねっても起きないんだから」  もうずうっと、と言うにしては、私はさっきの場所から大して動いていない。鉄条網も発電所も蝶の消えた空も、ちゃんと悪夢のように元通りだ。モーターの音は前よりずっと大きくなっていて、建物全体が今にも動きだすか爆発するかしそうだ。さあ、と言って老婆は私の足を乱暴に地面にほうりだした。私は肩までまくれあがっているコートやスカートを直しながら立ち上った。起きたくはなかったが、老婆が兇暴としかいいようのない眼つきで、睨んでいるのでしかたがなかった。 「どうして、ちゃんとついてこないのよ」と老婆は歩きだしながら詰問した。私は老婆とどこでわかれたのか思いだせなかった。それで、もぞもぞと口の中で呟いた。 「暗くて見えなかったし……それに、第一どういうわけで私は……」あんたについて歩かなきゃいけないのかと言おうとして老婆がふり返ったので私は黙った。 「あんたは私だからさ。私はあんたを探してたんだからね」  老婆は相変らず首に薄紫の長い布を幾重にもまきつけている。それを見ると少し眼がさめた。それで私は思いきって言ってみた。 「首のとこ、どうしたんですか。さっき、ちょっと見えたんだけど」 「どうもしない」 「病気?」 「ちがう」 「けがですか」 「いや」 「ずいぶん、ひどくなってましたけど。じゃ、|できもの《ヽヽヽヽ》かしらね」  老婆は立ち止って私の顔を見た。嘲笑《ちようしよう》のような奇妙に冷淡な笑い方で私の顔をのぞきこんで言った。 「早く知ったってしようがないでしょ。……どうせ今にわかることなんだから」  発電所の続きなのか、幾十もの電燈をつけた電柱の立ち並んでいる道を私たちは歩いた。「何をしたって始まらないよ。そうかといって……」と歩きながら老婆は言った。思っていることがつい声になったらしい。それを聞くと、やっぱり、この汚ならしい老婆が私なのかも知れないという気がした。「私は気がつかなかった。……そのおかげで私はあそこへ行きそこねたかもしれん」と老婆がまた呟き、私は「朝になると昼がきて、昼になると夜がきて、夜の次は朝で、また朝がくると」と言い始める。これは、一度言いだすとなかなか止らない。だから老婆は私の言っていることを伴奏にして、自分の過去の愚痴や後悔や、はては遺言のようなことまで口走った。 「この首巻の布は、うんと高かったけど、私が死んだらあんたにあげてもいいわよ」  私は半分眼をつぶったまま老婆と腕を組んで——老婆は百五十九センチの私よりやや低かった——よたよた歩き続け、口が疲れたので、もう黙っていた。二人とも何も言わないと私は一人で歩いているのと同じことだった。隣りの人間が気にならなくなり、忘れてしまっている、というのではない。老婆はいるのだが、いなかった。いないのに、その、いないものが、わずらわしく不快だった。  急に一きわ明るくなったので眼をあげると、全館光り輝く巨大なデパートの前に私たちはいた。建物の上から下まで縦に赤いイルミネーションがついている。一字ずつ読みながら歩いていくと、オ、ニ、ノ、セ、ナ、カ、館、となる。ああ、これのことだったのか、と私は心の中で言った。少しも感激しなかった。あまり探しすぎたからだろう。その建物は全体が一つのちかちかしたネオンでできていて絶え間なくあかりがまたたいている。老婆は同じ歩調でその建物の一つだけあいている入口へ私を連れて行く。さっきの発電所のモーターに似た鈍い音がしている。大きな重々しい回転ドアを通ると老婆は走りだした。しきりのない広い一階は玩具売場らしい。軽快な赤や黄で塗られた絞首台と身長伸ばし機、それに防毒マスク、ヘルメット、乗馬靴。造花のいっぱいこびりついている木。その枝からピカピカ光るナイロン製の長手袋がぎっしりとぶらさがり、口を大きく開けたけばけばしい彩色の仮面が壁一面の模様になっている。老婆は痛いほど私の腕を握りしめて全速力で走って行くので、私はやっと視野の隅でそれらを見ただけだった。私たちはもう幅の広い階段を駈けおり始めている。地階へ行くのだろうか。何もない暗い部屋を通ってもう一度階段をおりると、耳を聾《ろう》するざわめきが聞えだす。間接照明のうわついた光の中に数百人の人たちがいる。みんな頭に黒い布を巻き、床にじかに坐り、のたうちまわっている。そこを通り抜けるのは少し時間がかかった。ごたごたに坐りこんでいる人たちの隙間を縫っていくので何度も人の手や足を踏んだり、頭をまたいだりしなければならなかった。何をくべているのか白い煙のでるものを焚《た》いている人もある。自分のまわりにまるく小蝋燭《しようろうそく》をたてめぐらしている人もあるし、花びらを口に含んで唾のようにまわりに吐き散らしている人もいる。煙と花の匂いと耐えがたい熱気。近くを通ると、ちぎれちぎれにいろんな言葉が聞える。「お前は、どうして……」「そうしますと、あなた」「どうしようとおっしゃるのです」「あなたさまのおいでになったときは」「ああ、あなた、あなた、あなた……」そこにはあらゆる年齢の人たちがいたが、男たちよりは老人や女のほうが多い。皆それぞれ大声で喚いているのが高い天井に反響してウワーン、ウワーンとうねって聞える。私は老人の手につかまえられた。老人は両手をさしだしてうつぶしていたのだが、その手が近くを通った私の片足をつかまえたのだ。手はまるで眼があるように正確に私の足首をしっかりと握った。当然、私は勢いよく前へのめったが、そこに若い娘がいたので、その上へおおいかぶさった。私の手を引いて走っていた老婆は、私と手がはなれたので、人々の間を十メートルもころがっていった。 「やっと、つかまえたぞ。とうとう、わしと話さなければならんことになったのだ」と老人は言った。その顔についている白眼がときどき動く。瞳はなかった。 「つかまっちゃいけないって言ったじゃないか」と老婆はおこりながら私を引っぱる。老人は「もうはなさないぞ。やっと話ができるんだ。わしは、もうこれで三十五日黙ってたんだ」と叫ぶ。 「じいさん、まちがえちゃいけないよ。この人はちがうんだからね」  老人は歯のない口を笑っているような形に大きく開く。 「だまされやせんぞ、もう」 「みんな、一生懸命お話しているじゃないか。神さまなんか、つかまらないよ」と老婆は恐ろしい形相《ぎようそう》で私を引っぱる。 「そうでなくたっていい。何でもいいんだ、わしは」  私は私の体の触っている若い娘の肌が冷たく濡れているので変な気がする。彼女は裸に近い恰好で寝そべっている。「わしは話したくなんぞ、ないんだ」と言いながら、老人は私の首をしめようとする。「ただ、もう、がまんできんのだ」  老婆は私の手を引っぱるのをやめて自分の靴を脱ぎ、それで力いっぱい老人の頭をなぐる。老人は少しもこたえないようだ。私は息がつまってくるのでもがく。老人の力がゆるみ、老人は白眼をつりあげてにやりと笑い、ずるずると倒れる。私たちはまた走る。二人称の熱心な祈りはまだ聞えている。 「連中の神さまは何でも聞いてくれる。だけど、聞いてくれるだけで、他にどうってこともないんだから」と老婆は階段をおりながら言う。さすがに速度は落ちている。階段も狭くなっているので二人並んでやっと通れるぐらいの幅しかない。木箱のたくさん並んだ倉庫を通って次の階段へさしかかったとき、私の足はがくがくして前へ進まなくなった。私は老婆の手をふりきって訊ねた。 「どこへ行くんです」  老婆は私に顔を近づけた。彼女の顔は激しい運動のためか、赤くふくれあがっている。埋まりかかっている眼の中を狂的なものが閃《ひらめ》いて通った。老婆は囁《ささや》いた。 「決っているじゃないの。ネグラよ。あんたと私のネグラ。ぐっすり眠りたいんだろ、あんた」  薄気味悪いやさしい口調と裏腹に彼女の眼の光は更に強くなり、私はそれに引っ張られているように、また歩きだす。「寝られるんでしょうね。ぐっすり眠れるんでしょうね」「ああ、寝られるよ、ぐっすり眠れるよ」と私たちは問答しながら歩く。昨日はどうしていただろう、とふいに私は考える。きっと蒲団の中で寝ていたのだ。手足を伸び伸びさせて。しかし、昨日とはいつのことだろう。私はもう何年も夜の底を歩き続けているような気がする。昨日なんて、あったのだろうか。  また幾つもの階段をおりたとき、私は決心した。 「私、帰ります」と老婆の背中に叩きつけた。老婆はゆっくりとふりむいた。疲れた無表情な顔で言った。 「今、帰るところでしょ」 「私はもどります。引き返すんです」 「お止めなさい。同じことだから」  同じこと? 同じことだろうか。もどりさえすれば、とにかく外へ出られるではないか。私は正確に廻れ右をして小さな部屋を横切り、今おりてきた階段をのぼろうとした。足をあげ、おろす。二、三段歩いて気がついた。それは下りの階段だった。どう思いちがいをしたのか。私はうろうろ狭い室内を歩きまわった。老婆が突然大きな声で笑った。 「あんたはのぼってたの。それともおりていたの。ここはてっぺんなんだよ」  私は自信がなくなって階段の端に坐りこんだ。老婆は私にぴったりとくっついて坐り、やさしい声で言った。 「ねえ、ついてらっしゃい、泊めてあげるから。上等のふかふかのベッドがちゃんと二つあるのよ。本当にもうすぐ」  それは老婆の声というよりは、風邪をひいた中年の貴婦人のようなくぐもった優雅な声だった。  そこは今は部屋ではなかった。長いはてしない廊下だった。もう倒れる、もう足が動かない、と一歩ごとに思いながら私は歩いていた。私たちのいる周囲だけが燐《りん》のような青白いあかりでぼうっと薄明るい。眠りながら歩いているので老婆の姿は見えたり見えなかったりした。ねえ、止めて。助けて下さい。もう終りにして、と私はやっと言った。床にはところどころに船の竜骨のようなでっぱりがある。私は一足ごとにそれにつまずいて倒れかかった。老婆は私と肩を組んでいたが、彼女の方もよろめきながら歩いていた。はじめからわかっていたのだけど、と老婆は言う。何か不快な臭いがしている。しっかり眼をあいていないと隣りの老婆さえわからなくなりそうな暗さになってきた。 「ここよ」と言うと老婆は私をはなした。そこは少し広くなったところで、床の状態も匂いも少しはましだった。 「ベッドはどこ」と私は訊いたが、老婆は返事をしない。隅の棚から蝋燭をおろし、火をつけた。それは狭い部屋で、壁も床も真赤だった。眼のせいかもしれない。 「ここがどこか知ってる」と老婆が訊いた。老婆の顔も赤かった。 「知らない。あなたの部屋じゃないんですか」と私は言いながら、寝よい場所を探した。探さなくても、何もないのはわかっていたが、床のあちこちに少しずつ傾斜がついているので、なるべく平らな所を物色していたのだ。ここは子房なのよ、と老婆は自分で答える。私はずるずる坐りこみながら言う。 「何でもいいけど、私はもう寝ますから」  急に強い力で私は片腕を引っぱりあげられた。 「まだ寝るわけにはいかないよ。駄目」  だああああめ[#「だああああめ」はゴシック体]、と老婆の声が大きく響きわたり、部屋の密度が濃くなった。腕のつけ根の痛みはひとごとのようだ。私は老婆をふりはなそうと、ゆるやかにもがいた。第一、もう行く先なんか、ありやしない。そう考えると、おかしくなり、私は眼をつぶったままで笑った。どうして、それが今までわからなかったのだろう。(行く先なんか初めからなかったのだ)笑いの半分は、もう夢の中だった。 「あー、あー、あー」  老婆が思いがけない甲高い声で叫び始めた。これは腕を引っぱられるのよりこたえた。私のすぐ頭の上で間断なく喚くのだ。私はとうとう坐り直した。眼の前に老婆の傷口が見えた。噴火口のように、まわりが不規則な環状にもりあがり、中心に黒い穴があいている。血も黒かった。 「私も寝たいのよう」と老婆は水っぽい涙を流して言う。「私だって、寝たいんだよう。あんたは痛くないっていうの」  私は眠さと怒りで体を大きく前後に揺すりながら言った。「痛いって? あんたの傷が? 馬鹿らしい。未来の傷まで痛くちゃ生きていけないわ」また横になった私の顔の上に、薄い粘った老婆の涙と洟水《はなみず》が落ちてきた。彼女は泣きながら私の顔や首や胸を撫で始めた。私は眠りこみそうなのを無理して起き上ると、全身に力をいれて老婆の顔をなぐった。老婆は泣き止んだ。まだらになった顔の中で眼と口が穴になっている。下唇が流れだしそうに、ぶあつくなり、縦に何本も皺のよった頬がだらしなく垂れている。私たちは数分顔を見あわせていた。ああ、たしかにそうだ、と私は絶望した。(この老婆は私だ)  老婆はじりじりと私のかげへまわる。床に這《は》いつくばって何かやり始める。ちょうど私の体の下になっていたところに銅の環があって、揚げ蓋になっているらしい。老婆はその環を引っぱっているのだ。まだ私の体が半分その蓋の上にあるので、蓋はびくともしない。私は首だけ後ろへまわして老婆の作業をみつめた。老婆は股《また》の間をまる見えにしてしゃがみこみ、間歇《かんけつ》的に泣きじゃくりをしながら必死にひっぱっている。もう泣いてはいない。体全体がとびあがるほどの大げさなしゃっくりをしている。そのうち、私は自分もしゃっくりをしているのに気がつくと、私は猛烈に腹がたって老婆を突きとばした。老婆は部屋の隅にころがった。そのまま起きない。老婆らしい枯れた感じはなくて、量のたっぷりした肉の手ごたえだった。床に叩きつけられている形も尻が大きくて、子供を五人も産んだ中年女にみえる。そういえば、まだ四十二なんだから、と私は大して本気でもなく呟き、老婆のいじっていた銅の環をちょっと引いてみた。厚い頑丈な蓋で、上に何ものっていなくても、びくともしない。しばらくそうやっていると、老婆も手を出し、二人がかりでやっと開いた。そこから中をのぞいて私はうんざりした。また道が続いているのだ。すぐに急な階段があり、そこをおりると電燈のついた広い廊下がずっと先の方まで見渡せる。 「あんたの蒲団か何か入っているのかと思ったのに」と私は老婆に言った。「押し入れだと思ったんだ。こんなんなら開けるんじゃなかったよう」  老婆は意地の悪そうな横顔を見せて、すたすた歩いていく。この老婆がいる限り、私は寝られないだろう。その唇の端をぐいと下へ曲げた知らんふりの顔を、私はよく知っていた。相手が大嫌いだけれども、それを言うこともできず、すぐには別れるわけにもいかぬとき、私は意識的にそんな顔をした。あらわせる限りの嫌悪と侮辱と憎悪を露骨にみせつけている無言。私は老婆にとびかかって首をしめようとした。私たちは床の上で格闘した。老婆の指の力は強かった。顔が煮えてくる暑さだ。私は眼をつぶったまま妙に力の入らない手で老婆の腕や足や首や、手にふれるものを片端から叩いたり締めたり噛みついたり引っかいたり、つねったりした。すると老婆の片足が折れ、手が曲り、もう一方の足も、もぎ取れて、しまいには首もすぽりと抜けた。きれぎれになると、やっと老婆は無抵抗になった。それでおしまいだった。——これで、もう何もかも終ったのだ。私は老婆の首をつかんで眠りこんだ。  私は硝子《ガラス》ばりの宙に浮いた部屋の中にいて、下の大広間を見おろしていた。そこには大勢の人たちがいて私を見あげていた。冷たい眼で私が死ぬのを待っていた。誰にもみつからない場所だと思ってながいこと死にもの狂いの苦心をして、私はその中へ入ったのだ。人々は黙って何日も私を見あげていた。今に腐ってどろどろになる、と私を見ている沢山の眼は思っていた。今に卑怯《ひきよう》な泣き声をだして哀願する、と私は自分のことを考えた。蜂《はち》が広間の天井近くに渦をつくった。蜂はいくらでも増え、やがて硝子の中の私の容器へもやってきて私を刺した。私の眼を、鼻を、口を頬を首を腹を乳を何十何百の蜂が刺した。そのたびに私は体を動かそうとしたが、小さな容器の中では逃げだすこともできない。逃げるどころか、麻酔にかけられたように指一本も動かせない。 「はなして…… 手をはなしてちょうだい」と老婆がとぎれとぎれにかすれた声で言っている。私の両手は老婆の頭をしっかりとつかんでいた。私が手をはなすと老婆は大きく息をついて言った。「ああ、よかった。あんた、死んだのかと思ったわ。死んでもいいけど、私をつかまえたままじゃ、ねえ」  私たちは廊下の真中に寝ていた。 「さあ、行かなくちゃ」と老婆が言う。私はがっかりして老婆の顔を見て言った。「もう、いい。もう止める」 「いいえ。行かなければならないの。さあ、向うをむいて、しゃがんで」  私がそうすると、急に私の背中に重い生暖かいものがべたりとはりつき、老婆の手と足が私の首と腰にからみついた。 「何するの。どういう気よ」と私は叫んだ。 「さあ、立ち上りなさい。そして歩いて……マエエー、ススメエ[#「マエエー、ススメエ」はゴシック体]」と老婆は威丈高にどなった。私は首に巻きついている老婆の指をはがそうとしたが、それはどうしてもはずれない。ますます私の首に喰いいってくる。私はもう精も根も尽きはてて「許して。ごめんなさい」と悲鳴をあげた。 「じゃ、歩きなさい。せっせと歩いて行きなさい、さあ」  老婆は重かった。どういう骨があるのか、私の腰骨の上にとがったものが触れ、歩くたびにそこが擦れて痛い。廊下は途中で二股にわかれていた。一方は、とても通れそうもない細い道。一方は下り坂の仄暗《ほのぐら》い洞穴。 「左」と老婆は洞穴の方を指図した。穴はどんどん下へさがっていく。老婆の手がときどき私の顔をぴしゃぴしゃ叩く。その手だけが蒼白く光っている。老婆はときには片手で私の口のあたりを叩いたり、もう一方の手で私の耳を引っぱったり、片足を床に引きずって私が歩き難いようにしたりした。私はそういうときに老婆をふり落そうと狙った。何回か失敗してからうまくいって、老婆は私のかけ声とともに、あっけなく床に投げだされた。私は成功したのが嬉しくて笑った。老婆が蟇《がま》のような形で両手を床について私を睨んでいるのでますますおかしくなった。老婆の顔からはすっかり肉がとけ落ちて、頬骨と白い歯だけがめだってとびだしている。そんな骸骨そっくりの顔を見るともう私の笑いは止らない。老婆は顎をしゃくった。もう一度背中を出して自分をおぶえ、というのだ。この貧弱で滑稽なボロ布みたいなもの。 「あんたなんか、私と何の関係もないんだよね。もともと」と私はやっと笑い止んで言った。今や私の方が優勢だった。私は勝つところだった。「たとえ、あんたが私の未来だとしても、それが何だっていうの。やっぱり関係なんかないでしょ。あんたは余分にすぎないわ」  老婆は震えだした。 「お前なんか、私の捨てた過去なんだ。ふん、どだいあんたは、もう捨てられてるんだからね。最初《ハナ》っからさ。……さぁ、もういいよ。もうわかったから消えておしまい。お前みたいなみっともないもの、いやらしいもの、間違い……今すぐ直ちに死んでしまうといいんだ。自分で首でもくくってさ」  老婆が興奮して吃《ども》りだすのを私は見ていた。それから冷静にやさしく教えてやった。 「まあ、かわいそうだわね。あんた、私が死ぬと自分がどうなるか忘れたの。だって、あんたは私の未来なんでしょう。だから私はあんたがいなくてもいいけど、あんたは私なしには存在できないのよ。ははあん[#「ははあん」はゴシック体]」と私はできる限りの大声で嘲笑した。「あんたは私のウンコだよ[#「あんたは私のウンコだよ」はゴシック体]」  老婆は眼をつりあげて癲癇《てんかん》の発作のおこる前のような顔をしている。それまでに私は彼女を殺さなければならない。私は今度は、はっきりと眼を開いてじりじりと老婆ににじり寄り、すばやく彼女の首をしめた。手は老婆の頸の傷口の縁のざらざらした硬いものにふれ、それから吸いこまれるように傷口に埋まった。力をいれて締めると、どんどん私の腕も、肩も、ついには頭から胴まですっぽりと私はその穴にのめりこんだ。落ちながら気づくと、私が両手でしっかりと握りしめていたのは、自分の左右の手だった。私はとうとう、まっさかさまになり、そして、栓が抜けるときのかすかな音がして、すぽんと抜けでてしまった。  そこには一本の高い木がある。おぼろな闇の中を強烈なライトを照らしたオートバイが全速力で駈け抜けていく。乗り手の姿は見えない。その轟音《ごうおん》は尾を引いていつまでも残っている。少し寒かった。私は身震いした。どこかで赤んぼうの泣き声が聞える。赤んぼうは虫のように啼いている。その方向には他の音もしている。私はそちらへむかって歩きだす。ポケットの中の紙幣をいじりながら、私はまた歩きはじめている。 [#地付き](「文学界」昭和四十三年七月号) [#改ページ]   生きものたち     鷹 「いやだ」と兄は言った。 「もう飽きたと言っただろう」  兄は二十一歳で少年より十の余も年上だった。  少年はボール紙の面を五つ、手に持って家を出た。面は全部で八つあったが、バッファローは角がちぎれていたし、運転手の面はお客がいないのだから無意味だった。もう一つの山姥《やまんば》の面は好きでなかった。  少年は湖に沿った道を歩いていった。湖の傍には貸しボート屋が二軒あった。湖の向う岸に釣りをしている人が三、四人見えた。  いつもの場所にくると少年は石の上に面を並べた。そこは丈高い枯尾花《かれおばな》の群落の中だった。立ち上っても、少年の背丈では、そこから湖は見えない。片側は高い赤土の崖《がけ》で、崖のふもとに大きな石がいくつも転がっている。少年は枯尾花と石の間のわずかな隙間にしゃがんだ。  亀の面は平べったい半円に真黒に塗り潰《つぶ》した眼と、点のような二つの鼻孔。  二十日鼠は耳も顔も丸い。耳の穴、眼、口は桃色だ。口ひげまで桃色のが左右に三本ずつ、はえている。少年は、その面が好きだった。相手の餅の面も好きだった。餅は二重に重ねられている。餅の上の方に勢いよく羊歯《しだ》が描かれ、一番上に小さな橙《だいだい》がのせられている。餅の面は五つの面の中で、もっとも念入りに描かれていた。橙は黄色を塗った上に赤の点々までついていたし、羊歯も本物そっくりだった。羊歯は、いま、少年が背にしている崖にもはえている。  餅は鼠が昼寝をしている間に遠くへ隠れる。鼠はゆっくり十数えてしまうと餅を探し始める。みつけると餅にとびかかって、チュウチュウ啼《な》きながら餅の耳をかじるのだ。兄は鼠にみつかると、わざとびっくりしたふりをして草の間に倒れた。少年は前足で餅の面をかぶった兄の顔を押さえて耳を噛《か》んだ。「汚ないじゃないか。そんなに唾だらけにしちゃあ」と兄は言い、掌で自分の耳を何度もこする。  兄が鼠になることもあった。少年は鼠の姿が少しでも見えると、すぐに全速力で逃げだしてしまう。餅のくせに。約束だから、じっと動かないでいようと思っても、鼠がだんだん近寄ってくると、つい反射的に逃げだしてしまうのだ。兄は怒って少年を追う。つかまえると手荒につき倒す。あ、頭から食べられる、と少年は思い、身を縮める。すると兄は、そうっと、擽《くすぐ》ったくなるくらい、そうっと少年の耳を唇で挟《はさ》むのだった。それまで走っていたので兄の息は弾んでいる。少年の頬やこめかみに兄の息が激しくぶつかり、少年は笑いだす。少年は一度ぐらいは、強く噛んでもらいたかったのだが、兄は決してそうはしなかった。  マリは、ただの丸で、眼も鼻も口もなかった。マリの面をかぶったときは足を胸の方へ折り曲げて、それを両腕で抱きかかえた。背中をできるだけ丸くして、顔も伏せる。そうやって草の間をごろごろ転がらなければならなかった。頭を叩かれたり、ほうり投げられたりすることもある。マリだから、マリはついたり投げたりするものだから。  亀と二十日鼠と餅とマリは兄が作った面だった。残りの一枚は少年が作った。それは逆三角形で全体に焦茶の線が走り、細い鋭い眼と黄色のとがった嘴《くちばし》が描きこまれている。もっとも、嘴と考えているのは少年だけで、兄はこの面のことを「レモン色の舌の三角ゴリラ」と呼んでいた。そうしてみると、兄には黄色いものは舌にみえるのだ。それはゴリラではなくて鷹だったが、少年は兄の間違いを訂正しなかった。兄の機嫌をそこねたくなかったし、第一、少年は鷹を見たことはなかったから。きっと、自分の絵が鷹よりゴリラに似ているのだ、と少年は思った。鷹とゴリラが似ているとは思いたくなかった。ゴリラならテレビで何回も見たことがあった。  頭の上を鳶《とび》が舞う。鳶は雉鳩《きじばと》のように一直線に飛ばない。ヒヨドリのように騒がしくない。ふわりと空に浮かんでいる。翼は拡げたままで少しも動かさない。風にも段がついているのか、急に、すうっと一段低い風の上にのるときもある。それから大きな円を描くと、少年の見上げている崖の上へおりた。鳶が鷹に似ているというのは本当だろうか。  少年は崖をまわり始めた。裏側からならば、よじのぼれる。傾斜は急だが、灌木《かんぼく》が茂っているから、それにすがってのぼる。今年は、まだ下刈りをしていないので草や茨《いばら》が伸びほうだいで道もよくわからない。少年は灌木の間の隙間をみつけながら這《は》いのぼった。ときどき頭上の雑木の枝を押しのけて方向をたしかめた。頂近くに高い赤松がある。大きな木はそれだけだからそちらの見当へ進めばよかった。ようやく上までのぼると、そこには狭い空地がある。そのまま、同じ高さで山の尾根のように、ずうっと北へ伸びている。少年がのぼってきたのは西側で、東と南は百メートルほどの崖になっている。少年が兄と遊んだのは崖の南側だ。その崖の、ちょうど真中へんに、やっと人が立っていられるほどの浅い、ヒサシのようになったところがある。去年、近くの小学生たちがそこまで横に這っていく競争をしていたら上から赤土がくずれてきて、二人大けがをした。それ以来、このへんで遊んではいけないことになっている。少年も崖の上までのぼることはめったになかった。  もう、鳶はいない。崖の東方にみえる湖の向う側に何羽か鳥が群がっている。あれは鴨《かも》だろう。湖の端に浮いている小さな黒い点はカイツブリだ。湖面には少し波がたっている。その小さな波が上の方から、はっきり見える。音がしたので少年は崖の縁まで近よって下をのぞきこんだ。湖と崖の間の道をオートバイが走っている。乗っているのは黒い皮のジャンパーを着た男の人だ。道が悪いのでピョンピョンとびあがりながら走っている。すぐに見えなくなった。少年はふりむいて頂上の狭い空地を眺めた。崖下のと同じような枯尾花が崖っぷちを蔽《おお》っている。チュウチュウチュウと少年は大きな声で言ってみた。それからポケットにいれてあった面をだした。面はどれもこれも、ひどいことになっていた。崖へのぼるとき、全部いっぺんにポケットにつっこんだので、くしゃくしゃになっている。どれも端が破れ、鼠の面などは、もうとても使いものにはならない。亀はどこかに落したらしい。よく見ると餅も橙のところが、ちぎれてなくなっている。比較的ましなのはマリと鷹だが、それも皺《しわ》だらけになっている。少年は皺を伸ばしかけたが、うまくいかないのでやめた。のぼるとき、茨かススキで切ったらしく、左手の甲に細長い引っかき傷ができていて、血が滲《にじ》んでいた。少年はそこを右手の指でこすり、なめた。今まで気づかなかったほどだから、それほど痛いわけではなかった。何か面白くないことを思い出させるような痛みだった。少年は血のでている手を手首を軸にして上下にふりながら空地を歩きまわった。下へ落ちないようによく見ておいて、眼をつぶって三、四歩あるいたりした。少年の足でも六、七歩も歩けば、もう崖の端だった。よく見ておいたのに方向が狂い、少年は下へおいたマリの面を踏んでしまった。面は枯草の上においてあったので、それごと枯草の中へ足をつっこんだのだ。面は大きく裂けた。皺がよっているから、よけい破れやすくなっていたのだろう。少年はマリの面を二つに破いた。二つになったものを一枚ずつ、もう一回破り、次第に細かくちぎった。だんだん小さくして、ついに椎《しい》の木の葉より小さくなると、それを崖の上からまいた。弱い風がこちらへ吹いているので下へ舞い落ちていった紙きれの行方はわからない。二つ三つは、崖の端にひっかかっている。少年は餅の面もそういうふうにした。どうせ、兄は二度と面をかぶって遊んではくれないだろう。鼠の面も破いた。少年は誰とも遊んだことはなかった。兄はもう何年も療養所へ行っていたが、その兄が遊んでくれたのも、この前が初めてだ。兄はいつでも「うるさい」と言うだけだった。もう、鷹以外の面は皆破って下へまいてしまった。ちぎり方が初めほど念いりではなかったので、大きな紙きれが何枚も崖の端にひっかかっている。そこには切株の根っこがあって少し低くなっている。少年が紙をまくために、そこへ近づくと、その度に少しずつ、その木の根が下へさがり、土のかたまりが、洩れるような感じに崩れ、崖の下へ崩れ落ちる。  少年は鷹の面を手に持っていた。それは「レモン色の舌の三角ゴリラ」なんていう長ったらしい名前ではなかった。「鷹」だった。少年は今まで一度もその面をかぶったことがなかった。一人が運転手になったとき、お客がかぶるのは何の面でもよかったのだが、そのときも鷹は使わなかった。  少年は空を見上げた。もう、空には何も飛んでいない。空はすぐ頭の上にあった。少年は鷹の面をかぶると、両手を拡げて走りだした。  いま、少年は鷹になって空を飛んでいた。     犬  彼はアパートの窓から下を見おろした。犬は、まだいた。痩《や》せた薄黄色の犬だった。首輪はつけていない。貧弱な細い首や、ぐったりと、だらしなく寝ている恰好で、もうかなりの老犬らしいことがわかった。やっぱり野良犬だろう、と彼は思った。いつでもアパートの横の空地にいるので、もしかしたらアパートの誰かが飼っているのかも知れないと考えていたのだ。しかし、よく見てみれば、そのみすぼらしい雑種の犬が飼犬のはずはなかった。誰かが餌《えさ》をやっているのを見たこともない。雨が降らないかぎり犬は毎日そこにそうしていた。  彼は朝、目をさますと、きっと窓から下を見おろして犬を探した。彼の部屋は二階にある。犬をみつけると「まだいる」と思った。それから顔を洗い、ひげを剃《そ》って、会社へ出かける。アパートの薄暗い玄関を出るときは、もう犬のことは念頭になかった。  会社での彼の所属は宣伝部だった。二、三年前に技術部からうつった。二十年も勤めてから部が変るのは珍しいことだった。役づきになったわけでもない。会社はテレビや新聞、雑誌などで大がかりな宣伝をしていたが、それは契約している大手の広告代理店の仕事で、宣伝部とは無関係だった。主な仕事はアンケートの整理と、地方の販売店へ送る月報を作ることだった。月報は彼が一人でやっていた。毎月の記事も決まっているし、僅か八頁のものなので、いくら引き伸ばしても一週間はかからない。何もすることがないと、彼は宣伝部へまわされてくるよその会社の宣伝資料を漫然と眺めた。「そんなもの、面白いかね」と部長が訊《たず》ねたこともある。「別に面白くはないですが」と彼は答えた。宣伝部は五人いるが、大抵、二、三人は他の部の手伝いや、地方へ出張していたりしていて、常時いるのは部長と彼の二人だけだった。  彼は出勤の時だけはエレベーターに乗った。昼食のために地下の大食堂へ行くときは階段を使った。五時半に帰るときも、五階から階段を一段ずつ降りた。妻がいた頃は、彼はそのまま家へ帰った。いまはアパート住まいの一人暮しだから外で夕食をとる。彼の食べ方は遅かった。簡単な定食でも三十分はかかった。食べ終ってからも、なかなか席をたたなかった。店が混んできて立って待っている人がいても気にしなかった。「たまには他のうちで食べてみちゃどうです、お客さん」と頭の薄くなった食堂の主人に言われたこともある。彼は黙っていた。主人の言葉のトゲに気づいたからではなかった。  食堂を出ると彼は小公園の近くの居酒屋へ行った。行かない日もあったが、行く日の方が多かった。店が移動しないから屋台ではないが、どちらかというと屋台のほうに近い店で、五人目の客は公園のベンチに坐る。店の、ようやく腰の端がひっかかるだけの丸椅子よりはベンチのほうが広くて坐りごこちがよかった。彼がそうやって、竹輪を肴《さかな》に二級酒を飲んでいると、白に茶のまじった毛の長い犬が傍にきた。竹輪の皿はベンチの上においてあるから、犬の鼻先にある。犬はそれを眺めて尾をふった。狸《たぬき》に似た顔の犬だった。彼は竹輪を食べてしまうと、皿に残った汁を吸った。犬は軽く吠《ほ》えた。店にいる客の一人が犬のほうをちょっと見て「おい、これ、犬の肉じゃないだろうな」と主人に言った。もう一人の男が「妙な顔の犬だな。おやじさんに似てる」と言いかけると、主人が手をふってとめた。「あちらさんの犬だよ」  彼はその会話を聞いていた。「あちらさん」というのが、どうやら自分のことらしいと思ったので、「俺の犬じゃないよ」と言った。「でも、いつもご一緒じゃ……」と言いかけて主人は笑いだした。店の客たちも笑った。「いつもお客さんと一緒にくるから、てっきりそうかと思った。その犬、ふだんはこのへんに、いませんよ」と、もう一度主人が言った。そうすると、ここへ来る途中から彼についてくるのだろうか。そんな覚えはなかった。ここへ来てベンチへ坐り、酒を飲みはじめると、どこかからあらわれるのだった。 「一度、焼きとりか何かやったんだろう。しつっこいからね、畜生は」と客の一人が彼に言った。彼は犬に食べものをやったことはなかった。「こいつ、雌犬で、あんたに惚《ほ》れてんじゃないか」と、かなり酔った男が言った。犬は顔からでは雄とも雌ともわからない。二本飲んだところで、彼は思いだした。彼は誰とも喋《しやべ》らずに、そうやって間近にある犬の顔だけを眺めながら飲んでいたのだった。いつでも、そうだったのだ。彼はこの店へ来はじめて三、四年になる。その間、いつも犬の顔を見て飲んでいたのだ。それに気づくと彼は立ち上った。犬の視線をふり切るようにして店を出た。  居酒屋からアパートへ帰るのには歩いて二十分かかる。大きな邸の横の通りを歩きながら、彼は他の犬のことを思いだした。以前、妻と暮していた家に住みついた赤毛の犬のことだった。それは隣の犬だったが、隣家には庭がなかったので彼の家で遊ぶようになり、ついには朝から晩まで庭にいた。  ある朝、彼が縁側に腰かけて犬を見ていると、黒鞄《くろかばん》をさげた若い男が入ってきた。彼がそこにいるのを塀《へい》ごしに見たらしく、玄関へ行かないで庭のほうへ入ってきた。 「旦那さん、いい犬ですね、これは。柴《しば》ですか」と男は言った。彼が黙っていると、家の中をちらちらと覗《のぞ》きこみながら「今日は奥さんはお買物ですか」と言った。彼は「いや」と短く答えた。「いいですね。こういうお宅は。それで、お子さんは何人? 学校ですか。それとも幼稚園?」子供はいない、と言うと男は「ああ、そうですか」と言った。ああ、と言うとき、がっかりしたように長く、ああーと伸ばし、うつむいた。それから、そろそろと鞄を持ちあげ、唐突に「旦那さん、風邪をひいたんですか」と訊《き》いた。急だったので彼は驚いて男の顔を見た。男が鞄を開こうとしているのを見ると「何もいらないよ。買わないよ」と言って、家の中へはいった。  あの男は何を売りにきたのだろう。頭を短く刈った背の高い若い男だった。それは妻と別れる少し前のことだった。一人になってからも半年ぐらいはその家にいた。引越したのは会社から遠すぎるし、独り者には三間もある家は不便で不経済だからだった。その次に入ったアパートは木造のひどい建てものだった。工場でも改造したらしい黒く煤《すす》けた、ひょろ長い二階建てだった。前は鉄道関係の寮だったという。門だけ立派な太いのがあって、塀はなかった。アパートの住人の半分は夫婦もので共同炊事場で煮炊きしていた。その炊事場は、いつ見ても魚の骨や、何かの汁がこぼれていて汚なかった。そこへ犬や猫が入りこんだ。入口の戸は壊れていて、敷居も腐っているので直しようがなかったのだ。女たちは、どこからか拾ってきた長い棒を炊事場において、犬や猫をみつけしだい、それで追い払った。中に一匹、足の一本が途中で切れている小さな白い犬がいた。その犬は躯《からだ》が全体にひずんでいて、どこか畸型《きけい》な感じがした。足がないため、そうなったのではなくて、もともと畸型だったので自動車にでも轢《ひ》かれたのだろう。子犬ほどの大きさだから、子供などには可愛がられそうに思われるのに、かえって苛《いじ》められ、追いかけられていた。逃げ遅れて女たちに棒で殴られるのも、その犬に決まっていた。彼はその犬を芥捨《ごみす》て場で見た時のことも覚えている。アパートの近くの川っぷちの芥捨て場に犬は四本の足を揃えて横になっていた。外傷はなく、眼も開いたままだった。四肢は硬くつっぱっていたが、途中から切れている後足だけがねじれていた。その足はつけ根から駄目になっていたらしい。薄く開いた口の間から歯が見えていた。  アパートに近づくと、道は少し上りになった。その僅かな勾配《こうばい》が、ひどく億劫《おつくう》だった。この頃は会社の階段も一階のぼる度に少し息をつかないと、のぼれない。歳だな、と彼は思った。三十八歳をすぎると体が急に老化すると新聞に書いてあった。彼は自分の歳を考えてみたが、正確には何歳になるのか、よくわからなかった。彼はふざけてでもいるように道を斜めに横ぎってジグザグに歩いた。どうでもいいという気がした。ときどき立ち止って、少し考えた。ほんの瞬間の思考はすぐ消え、たちまち忘れた。一つだけ、完全には消えてしまわないものがある。何かが気にかかっていた。答のすぐ近くまできているのに、考え始めると、すっと稀薄《きはく》になる。彼は自分では急激なつもりで、実際は、ゆるゆるとふりむいた。やっぱり、彼のすぐ後に犬がいた。彼は笑った。今度こそ、みつけた、と彼は思った。それは秋田の血がまじっているらしい黒の雑種の犬だった。そうか、と彼は呟《つぶや》き、しゃがんだ。犬が近づいて、彼の匂いを嗅《か》いだ。匂いなんて嗅がせないぞ。嗅がせるもんか。そのへんが、むっと犬臭くなった。彼は口をすぼめて犬の顔を吹いた。獣の濃厚な匂いはなくならない。犬は横を向いて、クシャミのようなことをした。そのとき、街燈の光で、犬の肩から首の部分の毛が大きく抜け落ちているのが見えた。露出した皮膚は白く粉がふいたようになっていて醜かった。汚ならしい野良犬め。誰かがそう言った。彼はもう一度、小声でくりかえした。(汚ならしい野良犬め)それから、彼は再び笑った。だらしなく笑った。そうだったのか。もともと犬だったのか。だから、いろんな犬が俺ばかりによりつくのか。俺は犬なのか。  それは、それほど悪いことでもなかった。彼は次第に躯じゅうの力を抜いて徐々に街路に横たわった。     烏《からす》  その家は赤土の崖《がけ》に面して建てられていた。もしも、その家が崖に面していなかったら、家の中から、いろいろのものを見渡すことができただろう。家は丘の上にあったから、小さな川や、川べりの細い竹や桐の木、それから林にかこまれた五百平方メートルぐらいの美しい田圃《たんぼ》が一目で見えて、どんなに気持がよかっただろう。しかし、そちら側にある窓といえば、便所と洗面所と風呂場の磨《すり》硝子《ガラス》だけだった。そちらは北だからである。岡と末子は、見晴らしのことなどには頓着《とんじやく》しなかった。その建売住宅は大変安かったし、二人はどうしても早くアパートを出たかったのだ。そのアパートは彼らには五度目だった。結婚して十五年、間借りのときもあるし、二軒長屋に住んだことも、給料の半ば近い高い家賃の借家を借りたこともあった。どこでも末子はうまくいかなかった。最後のアパートには五年近くもいた。岡の勤め先に歩いて行けたし、部屋の入り口に簡単な台所までついて六千円だから安かった。管理人は幼い子供たちのいる若夫婦で、おせっかいでもなく不愛想でもないし、隣人たちは日曜日でも、めったにアパートにいなかった。岡も末子も、そのアパートへ越したときは、やっとこれで落ちついて貯金ができると思った。岡はよい会社に勤めていたし、末子は地味な性質だった。子供がないせいか、四十近くなっても、末子には、まだ人馴れない、おどおどしたところがあった。人づきあいの悪いのが最大の欠点だが、二人は親戚らしい親戚はないし、特に親しい知人もなかったから、それでよかった。末子はデパートやレストランや映画館も嫌いだった。きれいに掃除した部屋で静かに刺繍《ししゆう》や編物をしたり部屋飾りを作ったりするのだけが楽しみだった。必ず部屋の一番隅で、材料などもなるべく拡げないように小ぢんまりとまとめていた。大抵は岡の帰るまでに、それらは片付けられていたが、たまに夢中になっていて岡の帰ったとき、まだ材料がでていることもあった。そうすると末子は、まるで悪事をみつけられたように、あわてて材料をしまった。  まだアパートにいた頃のある日、岡が帰ると、末子の姿がなかった。部屋へ入ってから、もう一度見直すと、末子は箪笥《たんす》の向う端の、壁と箪笥の間の三十センチほどのすきまに向うむきにはまりこんでいた。また始まった、と岡は思った。その時は末子は、一番遠い部屋の共稼《ともかせ》ぎ夫婦の妻のほうが怖くなったのであった。彼女は末子とすれちがったとき、乱暴に末子のさげている買物籠を払い落したのだ。中身が通路にころがり落ちたのに、彼女はふりむきもせずに走り去った。「気がつかなかったんじゃないか。家庭を持って勤めている女の人は大変だからね」と岡は言ったが、何を言っても無駄なことはわかっていた。次の日、末子は、あの女の眼は両方とも義眼だと岡に告げた。彼女が末子の部屋の入口に立って見張っていたので便所へも行けなかったと蒼《あお》い顔をしている日もあった。アパートは便所だけは共同だった。  そうして彼らはこの崖に面した建売住宅へ越してきた。同じような住宅は十数軒あったが人が入居しているのはまだ五、六軒で、それは二人にはかえって好都合だった。彼らの貯金で足りる金額だということも魅力があった。家の中が朝から晩まで暗いのも、新築だというのに、壁に|しみ《ヽヽ》ができたり、はがれかけているところがあるのも気にはならなかった。 「私、もう一度やってみようかしら」と末子が言うときもあった。末子は今までに二度妊娠したことがあったが、二回とも途中で堕《おろ》してしまった。悪阻《つわり》がひどく、体の変調に耐えられなくて頭のほうまでおかしくなったのであった。「三か月か四か月、死んだ気で我慢すればいいんだものね」と末子は岡の同意を求める。岡は末子の細い体や、四十近い年齢のことを考えて到底無理だと思ったが何も言わなかった。そういう話をするときは末子の機嫌のよいときだった。末子はまた貯金を始めた。中年の夫婦には、家具や電気製品への欲望は薄いし、家賃も、もう払わないでよい。そのうえ、岡の給料もあがっているから、一旦は零になった貯金通帳には毎月かなりの額が記入された。今度は勤めが遠いので岡は自転車を買った。自転車で片道五十分以上も石の多い坂道を走らなければならなかったが、岡は満足していた。彼は十年先の退職後の自分たちの生活についても無理のない安全な設計をたてていた。末子が怖くならなければ、すべてそのとおりにいくはずだったのだ。  今度、末子が怖くなったのは黒い老婆たちだった。昼間、岡が会社へでかけているとき、揃《そろ》って背が低く、同じ顔をした五、六人の老婆がブザーも押さずに、いきなり玄関の戸を開けて入ってきたのだった。末子が便所に隠れて息を殺していると、彼らは口々にわけのわからないことを呟《つぶや》き、鈴を鳴らしながら低い声で節《ふし》をつけて呪《のろ》いの唄らしいものをうたい、いつまでも玄関から去ろうとしなかった、という。彼らは初め、十分ほどうたい、途中で急に止めて、聞きとり難い言葉で話しあったり、家の上りがまちから奥へ向って大声で呼びかけたりした。彼らの言葉は末子には一言も意味がわからなかったし、声のだし方自体、人間というよりは鳥か獣のほうに近かった。何度も彼らはうたったりやめたりした。それから、また一しきり何ごとか低い声で話し、咳をし、ようやくあきらめて出て行った。末子は完全に何の音もしなくなってからも、まだずっと息を殺していた。何十分か後、おそるおそる爪先だちをして、便所の窓から外を覗《のぞ》いた。すると、彼らが川向うの田圃に沿った道を歩いている姿が小さくみえた。みんな頭から足の先まで黒ずくめの異様な恰好をしていた。体に較べてひどく小さい頭にも、顔の部分だけ残して、すっぽり黒い布をかぶっている。みんな同じ形に右手を上下させて鈴をふりながら、枯草のはえた畦道《あぜみち》を一列に歩いてだんだん遠ざかり、大根畑の端にある大きな梅の木の下を曲って見えなくなった。  農家に生れた岡には、それは、このへんの老婆たちの念仏講で、単に喜捨を求めにきただけなのだとすぐにわかった。この建売住宅のあるあたりは、まだ市に編入されたばかりで、市とはいっても実状は昔のままの村なので、いろいろの古い習慣があるのだ。だが、岡は末子には説明しなかった。家を間違えたんだ、もう来ないよ、と簡単に言った。念仏講で外をまわるのは年一回だから老婆たちは少なくとも来年までは来ないし、その風習は来年はやめになるかも知れない。末子もそのうち忘れるだろう、と岡は考えた。  たしかに老婆たちは、もう来なかった。末子はもう、その話はしなかった。ただ、毎日、少しずつ変になった。納戸がわりにしている薄暗い三畳の壁にはりつくようにしていたり、風呂場の桶《おけ》の向うに隠れていたりした。上眼づかいの臆病な眼で、ちらちらと岡を見ていることもあった。やっとなだめて近くへ呼び寄せて、なるべく刺戟《しげき》の少なそうな面白い話をしてやっても駄目だった。末子は色の悪い薄い唇をかたく結んで岡の手の指にはえている長い黒い毛をじっと見ていた。今度はなかなか、その理由がわからなかった。やっと問いただすと「あなたが」と嗄《しわが》れた声で言った。「なんだかへんで……もしかすると、ちがう人じゃないかと思って。こわいの」 「馬鹿な」と言って岡は末子の肩を引き寄せた。末子の肩は痩《や》せてとがっている。末子は昔は柔らかく、ひっそりと身を寄せてきたのに、今は岡に抱かれても緊張しきっている。ずっと巨大なものに捕えられた小動物のように、あきらめて身をまかせている、とみせかけて、隙があれば逃げようとしている。岡は手を離すと静かに末子の肩を撫でて言った。「大丈夫だ。大丈夫だから」言っても無駄なことはわかっていた。また引越したほうがいいかも知れない。岡は借家を探し始めた。近所と離れた一軒家という条件の借家はなかなかなかった。借家の多くは二軒続きになっていた。一軒だけとなると礼金や敷金で家を買うほどの金が必要だった。周旋屋を探していては帰りが遅くなるし、休日もずっと末子と一緒に家にとじこもっているので、新しい住居をみつけるといっても同僚に尋ねるしかなかった。その間にも末子はますますひどくなった。外へ一切でなくなった。買物にもいかなかった。ご用聞きが来ても戸を開けない。岡は勤めの帰りに八百屋や魚屋をまわらなければならなかった。いくつもの紙袋や新聞に包んだものを、ようやく家へ持ち帰っても、末子は嬉しそうでもなく助かったという顔もしなかった。眼ばかり大きくなった尖《とが》った顔で、それらを受けとり、何も言わずに切ったり煮たりし始める。岡が帰ってきてブザーを鳴らしたとき十分も戸をあけないときもある。そういうときは岡は玄関先に荷物をおろして辛抱強く待った。その間じゅう、家の中では何の物音もしないので死んだのかと思うときさえあった。  新しい家は、まだみつからないが、越しても、また同じことが始まるだけだろう。以前は、それでも岡が帰宅すると安心した顔になったのに、今度は逆だった。末子は四六時中、岡を警戒してびくびくしていた。岡は立ち上るのにも洗面所へ行くのにも、重病人のようにそろそろと動かなければならなかった。食事中も末子はなるべく岡から離れたところに坐り、岡がすませてから台所で一人で食べた。夜も岡が眠ってしまうまで末子は用心深く眼をさましている。岡は寝いりばなに軽い鼾《いびき》をかく癖があった。ある晩、岡はわざと鼾をかいた。末子がいつ眠るのか、ためしてみる気だったが、いつまで待っても眠らないので自分のほうが眠ってしまった。あ、と気がつくと、もう夜中になっていた。岡はそのまま、そっと横目で末子のほうを見た。もちろん暗闇の中で何も見えないが、たしかに末子は眼をさましている気配だった。何の音もしない。呼吸さえ聞こえない。「末子」と岡は呼んだ。返事はなかった。もう一度、名を呼ぼうとして、急に岡は泣きだした。泣きながら石のような末子を抱いた。末子は岡につかまれたとき、ハッと息をついたが後は無言だった。しかし、末子の心臓は抱いている岡の体まで揺れ動くほど激しく波うっていた。  それから数日後の早春の風の強い日、赤土の崖に面した建売住宅で中年夫婦の心中死体が発見された。     ライオン  その男が少年の家へ来たのはよく晴れた秋の日だった。白い開衿《かいきん》シャツに黒ズボンという恰好だったので遠くからでは学生のようにみえた。しかし、近くで見ると額や両頬に鋭い刃物で切ったような深い皺《しわ》があった。男は小さなよく光る眼で少年の家の木の多い庭や少年の父を見たが、何も言わなかった。一緒にきた中年男が男のかわりに何もかも済ませた。彼は最後に男に他人行儀な挨拶をすると、あわただしく帰って行った。  男は古い工場の二階に連れて行かれた。その工場は少年の家の敷地内にあったが、少年が生れる前から機械操業は中止されていた。少年の家と工場の間にはくずれかけた塀《へい》と、工場の広い庭がある。男が来てからは、少年は工場や工場の近くで遊ぶことを禁止された。それまでずっと、少年はそこを自分一人の遊び場にしていたのだった。工場は少年の持ちものと言ってもよかったのだ。工場の急な階段の先の二階は天井の低い六畳ほどの部屋が一つあるだけだったが、階下には埃《ほこり》をかぶった壊れた機械や、さまざまの、もったいぶった形のネジや備品や道具、鉄片などがあった。天井にも太い梁《はり》が縦横に通っている。少年はその梁に板を渡して秘密の隠れ場所にしていた。少年は三十秒で、そこまで登っていけた。そこから綱をおろして下へ降りるのには二秒あればよかった。  少年がいくらたずねてもその男のことは誰も話してくれなかった。男に食事を持っていったり掃除をしたりするのは少年の家にいる年とった遠縁の伯母の仕事になった。少年の兄や姉は、もう何年も前に成人し、それぞれ家を出て、今は子供は少年だけだった。母は少年に友達ができないのを気にしたが、この頃では「悪いことをおぼえなくて、ちょうどいい」と言った。おとなしくて気の弱い子供だと誰もが思っていた。ただ、ときどき、自分でもわけのわからぬ怒りに襲われて、ほんの小さな原因で発作的に暴れまわることがあった。寝ころんで体じゅうのありったけの声で泣き喚くばかりでなく、机の角や柱に頭をぶつけようとした。手当り次第のものを壊すときもあった。すると、おとな達は少年をなだめようともせずに「ほら、またムシがおこった」と言い、伯母を呼びに行くのだった。少年は、この背の高い痩《や》せた伯母が大嫌いであったから、ますます狂ったようになる。伯母は少年の傍につけられると何時間でも黙って少年を見ていた。伯母の役目は少年が疲れて止めるまで危険のないように見張っていることだった。この伯母だけは少年が泣き喚くのはムシのせいなどではないと思っていた。  一番初めに少年がのぞいたとき男は飯を食べていた。いやそうに時間をかけてゆっくり食べていた。口をあけたまま動かなくなるときもあった。すると男の口の中の白い飯粒が丸見えになった。そこへ再び次の飯粒をつっこむので、口の中へ入りきらないぶんが、ぼろぼろ膝《ひざ》や畳にこぼれた。男は少年が顔をだしている階段の上り口をまっすぐに見ていた。男の顔には見馴れないものを見たときの不審そうな気配はなかった。少年がためしに、しかめっ面をしたり、舌をだしたりしても同じことだった。いつ行っても男は食事中であった。少年は次第に大胆になって部屋の中まで入った。男の傍へ近寄った。男は唇を薄く引きのばし、その片端を極端に下へ曲げて少年の顔を眺めることもあった。  少年は伯母と秘密の契約を結んだ。少年が工場へ来ていることを両親に言わないかわりに、少年は毎日、伯母が階段の下まで持ってくる男の食事を上まで持って上ることになった。  ある日、少年がサーカスを見に行くとライオンがいた。猛獣使いの少女が声をかけてもライオンは動かなかった。大きな顔を前足の間にうずめて少女を見ているだけだった。その真面目な明るい瞳《ひとみ》は、まばたきもしなかった。何度目かに少女が大きな掛け声をかけて鞭《むち》をならすと、ライオンは何の前ぶれもなく、いきなり少女の片手の輪を高く潜り抜けて一声|吠《ほ》えた。その凄《すさま》じい咆哮《ほうこう》に観客の大半は腰を浮かした。泣きだした幼児もいた。帰ってから少年は鞭を作った。よくしなう若い枝を折り、それに工場に落ちていた綱を結びつけた。少年は、あの髪の長い少女が持っていたような輪も作りたかった。それは白い紙が貼《は》ってあって、ライオンが輪の中央にとびこむとき、鋭い破裂音をたてて破れる。ライオンは常に見えない空間に向って突っこみ、自分の身の重さで、さかさまに向う側の世界へ転落するのだ。しかし、それは一回でよい。練習用だから、少年の輪は、ただの針金だった。  翌日から少年の調教が始まった。それは、|ああ《ヽヽ》とか、|えいっ《ヽヽヽ》という短い合図と身振りだった。男の、濃いまつげのせいで実際より大きくみえる瞳はいつも不審そうに大きく開き、透明だった。男は少しも動こうとはしなかった。少年はいよいよ熱心になり、しばしば夕食の時間に遅れた。その度に母親の追求から少年を救ってくれるのは伯母だった。今では伯母は男の食事を工場の門衛小屋に置いていった。そこから工場の建物までには、少年の背丈ほどの雑草が一面にはえた前庭があった。工場の二階へのぼる階段も、普通の家の階段とちがい、ずっと急で長かった。少年はその階段を食器を持って日に何回も上下した。  少年は脅かしばかりでなく実際に男を鞭でうつようになった。少年はそういうときは必ず小さな丸椅子を左手に持った。ライオンの襲撃を避けるためだった。調練場も下の工場にうつった。鞭を鳴らしながら少年は男を下へ追いおろしたり、また二階へあがらせたりした。もう男は完全に鞭の痛さを知っていた。秋が終り、男の衣服は古い作業服に変った。床を転がりまわったり、鞭でうたれたりするので男の顔も手足も塵埃《じんあい》と血にまみれていた。男はまるで盲目のように何も見ないで歩き、始終、建物の中の機械にぶつかったり階段から落ちたりした。そうすると男は奇妙な叫び声をあげて涙を流した。なぜ痛いのか原因がわからぬふうであった。少年も時には「猛獣」の反撃をよけようとして躓《つまず》き、軽い怪我をした。大げさに驚いて、どうしたのかとたずねた母も、伯母が「男の子だもの、傷ぐらいこさえるよ」と言ったので、それ以後は、あまりしつっこく訊《き》かなくなった。  輪くぐりはなかなかうまくいかなかった。男はのろのろと輪に首と片足をかけ、やっと下半身を引き抜くのだった。あのライオンは勢いよく頭からとびこんだのに。  正月になると男の膳にも雑煮がついた。雑煮は飯粒のように零《こぼ》れはしなかったが、男の衣服や首や手に柔らかい餅がはりつき、それにごみや埃がついて硬くなった。七日正月に伯母が男の湯呑みに酒を注いだ。酒気のあるものはいけないとかたく注意されていたが、その日は風が強かったし、あまりにも寒かった。それに男は全く火の気のない工場の二階で、綿のはみでた蒲団にくるまっているのだった。  少年は冬休みは朝から晩まで猛訓練していた。床すれすれの低さならもう男はあのライオンのように頭から輪をくぐることができた。その日、飯のそばから追いたてようとすると男は低く唸った。例のないことだったが少年は容赦せずに男を階下に追いたてた。明日から学校が始まってしまうのだ。少年は冬休み中に輪を自分の眼の高さにしようと予定していた。少年はいらだっていた。輪を眺めて尻ごみする男の顔を鞭でうった。男の額から血が流れ、男の眼に入った。そのとき、外を吹いている強い風のために蝶番《ちようつがい》のゆるんでいる工場の大戸が倒れた。少年は音の原因をたしかめようとしてふりむいた。そのすきに、男は輪ではなくて、少年にとびかかった。少年の頭は、あおむきに鉄材の上に落ちた。男は倒れて動かなくなった少年の体の上に手足をついて乗った。開いた戸の向うで一面の枯草がゆれていた。男は満足して短く一声吠えた。やさしいライオンに似ていた。     猫  おくめ婆さんは潰《つぶ》れていないほうの眼を一本の筋のように細く、そうっと開いて、障子の破れ目から外の緑を眺めた。それはお寺の槙《まき》の生垣《いけがき》に一本だけ混っている柊《ひいらぎ》だった。しかし、おくめ婆さんには槙も柊も同じことだった。白っぽいものと黒っぽいもの、動くものと動かないものの区別しかつかなかった。ひどい眼疾で右眼が潰れてしまったのは、もう二十年も前のことだった。それからずっと、おくめ婆さんは眼やにでふさがりかけている左眼を無理に見開いて生きてきた。別に不自由だとは思わなかった。十年前に死んだ連れあいの伊作も文句は言わなかった。気の弱い、おとなしい男で汁が少しぐらい鹹《から》くても、甘すぎても何も言わずに我慢して飲んでしまうようなたちだった。酒さえあれば他のことは全部どうでもいいと思っているらしかった。おくめ婆さんは、若い頃、伊作が養子にきたときから、伊作が好きだった。伊作は背は低かったが眉の濃い男らしい顔だちで、貧農の末男だというのに少しも卑しいところがなかった。  おくめ婆さんは、ながい間、その柊の葉を眺めていて、やっと、どうやら今日は晴れらしい、と見極めをつけると、のろのろと起きあがって破れ蒲団を片付けた。片付けるといっても六畳一間だから隅へそのまま二重に、ぱたんと折る。それから戸を開けた。雨は降ってはいないが、濡れた空気が慕いよるように家の中へ入ってきた。おくめ婆さんの家は前も横もお寺の生垣に囲まれている。槙は三間ほどの高さまで伸びているから、晴れている日でも家の中へは少しも陽がささない。槙の向う側は手入れの悪い雑草だらけの墓地である。このへんの習慣で土葬だから新仏のあるときは火の玉がでる。埋め方も浅いので、よく死体の一部が露出する。一度、野良犬が男の頭をくわえていて大騒ぎになったこともある。その時に、半年がかりで犬退治をしたので、この頃は飼い犬さえも、あまりいない。犬を殺すよりは死体を深く埋めたほうがいいにきまっているのだが、そういうわけにはいかないのである。そう広くもない墓地は、もう百年も前からのもので、十年おきに四分の一ずつ場所を区切って埋めてきた。三十年たてば前の分は腐って土になってしまうという計算だった。人口が少ないうちは、それでよかったが、分家が五軒、十軒と増えて、彼らもこの墓地を使うようになり、四分の一ずつなどと言ってはいられなくなった。その上、最近の死体は腐り方が遅い。だから、五尺も掘ると、もう前の死体がでてくる。この十何年か埋葬の度に皆は口々に「どうにかせにゃあ」と言いあうのだが、葬式が済むとすぐに忘れてしまっていた。  おくめ婆さんは槙の枝のすいたところから墓地を眺めた。せいいっぱい、あおむいて顔を上へそらし、顎《あご》を突きだした恰好で見る。あいている片眼の下のほうの僅かな隙間から見るので、そうやらないと前方が見えない。人と話すときは多くは声で判断するが、それでも時々、そうやって、ひっくり返りそうに頭をそらす。  婆さんは細いぼんやりした視野を、首の運動のように何度も頭を上げたり下げたり、左右へまわしたりして丹念に調べた。コマがそちらに行っているのではないかと捜した。コマというのは、薄ぼけた橙色《だいだいいろ》の斑《ふ》のある大きなよく肥った猫だ。婆さんは声をだしてコマを呼ぶことはできない。隣の家に聞えると叱られる。猫を飼っているのがわかると生活保護を受けられなくなる。そうすると婆さんは完全に無収入になるから、親切心で叱るのである。夜とか雨の日に中へ入れてやっているだけで餌《えさ》はやったことがないから飼っているのではないとおくめ婆さんは思うのだが、そんな理屈は通用しないという。婆さんは隣の家には大変世話になっている。数年前、彼らには、どちらでもよいはずのカドまで買ってくれた。カドというのは細い私道のことである。婆さんの家は袋小路の奥で、村道へでるまでに小田木さんと隣家の伊藤さんの二軒の横を通る。その二軒分の地所は、もともと婆さんの家のものだった。伊作が養子にきたときは、その東側の、今は織屋の工場の建っているところまで婆さんの家の屋敷だった。それは現在全部、人のものになっている。織屋のほうは西に道があるからいいが、東側の家は一軒分だったところに三軒住んでいるのだから、どうしても奥の家は通路がいることになる。婆さんは、その通路である四尺幅の道だけは売らなかった。それは両家の囲いの外側だし、道などは売ったり買ったりするものではなかった。  婆さんがカドを売ってしばらくしてから、近くの信平に逢うと、彼は「おくめさ、とうとうカドを売ったって、本当か。まさか、お前、いくらなんでもそこまではしめえと思っとったが」と言った。婆さんは信平の権幕《けんまく》に怯《おび》えて「へえ」と言ったきりだった。 「カドを売るなんてことはお前、もう、おしめえだってこんだ。わかってるだか。あとはもう住んでるとこだけだでよ」  婆さんの住んでいるところは、昔の婆さんの家の農具小屋で、地所はとっくに隣の伊藤家のものになっていた。婆さんと同じ歳で小学校の同級だった信平は義憤にかられたように、道の真中で大きな声をだした。婆さんはしかたなく「えへへ」と笑った。もうこれで、婆さんの名義の地所は一かけらもなくなったのだから、信平が言うより、もっと「おしめえ」だった。しかし、そのおかげで生活保護を受けられるようになったのだ。そういう手続きをしてくれたのも隣の家だった。主人は鉄道へ出ている人で、そんなひまも知識もないのに、自分のことのように熱心にやってくれた。婆さんの息子が戦争で死んでいなければ、その年頃のはずだが、婆さんは息子のことを思いだしはしなかった。死んだとわかったときに思いださないことに決めたのだった。  婆さんは、どうしても猫がみつからないので、また家の中へ入り、上りがまちに腰をおろした。もうじき田植えだなあ、と思った。田植えは一斉に始まるから農家は一人でも半分でも手助けがほしくなる。婆さんも毎年、苗取りを頼まれる。素人《しろうと》では苗をいためるし、苗田の中で中腰になったままで腰をおろすこともできない労働は若い人でもいやがる。植えるほうなら田を一枚植えてしまったあとは少し休みがあるし、人も大勢なので話しあったりして気を紛らすこともできるのだ。婆さんの苗取りは速かった。婆さんの取った苗は植えるときも植えよかった。太すぎも細すぎもしない、ちょうど左手いっぱいの分量で、三、四本ずつ抜きだしよいようにまとまっていた。下手な人がやると、一束の全部の根が一つにからまりついていて、三、四本抜こうとしても引っぱるたびに根がちぎれてしまうのである。今年は苗取りはできまい、とおくめ婆さんは思った。田植えは、もうすぐだし、今、おくめ婆さんはどこといって特に具合の悪いところはなかった。それでも、婆さんにはわかっていた。おそらく、今年は苗取りをしなくてもいいのだ。婆さんは七つか八つの頃から田に入り、田植えも苗取りも六十年間一年も欠かさずにやってきた。自分の田がなくなれば人の田に頼まれた。  苗を取るのは田植えの一日前が一番よい。三日もたった苗は三日苗といって根つきが悪い。だから先にやっておくこともできず、少し苗が足りないと思えば一人だけ早朝に苗代《なわしろ》へでかけなければならない。田植のたびにそうだった。伊作と一緒になってからは、婆さんが四時起きして田へ出かけようとすると、伊作がいつもとめた。「まあ、いいで、のんびりせいや」と言った。伊作はおっとりした性分で、人の終った頃やり始める男だと蔭口をたたかれたものだった。早く死んだおくめ婆さんの両親も「まず、生ぬるい男だが」と、よく愚痴をこぼした。伊作は怒ったこともなかったし本気で走ったこともなかった。酒にだけ夢中だった。売る地所のあるうちは毎晩二升ずつも飲んだ。伊作が嬉しそうな満足げな笑顔になるのは、その時だけだった。おくめ婆さんは、その顔が見たいばかりに、売るものがなくなってからは葬式や婚礼の手伝いをして歩いた。村の人たちも、おくめ婆さんの目的をよく知っていた。折詰についている二合|瓶《びん》や、まだ二、三合も残っている一升瓶が、おくめ婆さんのところに自然に集まった。  おくめ婆さんは夕方になるまで上りがまちに小さく坐っていた。薄暗くなったので、あわてて七輪に火をおこして餅を煮はじめた。お寺の向う側の農家の若い嫁が持ってきてくれたのである。農家では夏でも毎月決まった日に餅をつく。十日餅とか二十日餅とかいっているが「この頃の子供は餅なんか食べんでねえ」と言って渡された餅の包みをあけてみると草餅かと思ったほど一面に黴《かび》ていた。婆さんは時間をかけて黴をしごきとり、道ばたにはえていた細い大根と一緒に煮た。それを食べているうちに次第に暗くなって、眼の悪い婆さんには何も見えなくなった。しかし、かまいはしなかった。鍋《なべ》を洗うのも火の始末も手探りで充分だった。電燈は四十ワットのがついているが、ほとんどつけたことはない。猫を飼ってもいけないのだから電燈をつけるのもいけないだろうと婆さんは考えていた。 「コマか」とおくめ婆さんは今日初めての声をだした。姿は見えなくても匂いでわかった。もう鼻のきかなくなった婆さんにさえも匂うほどの悪臭だった。猫は小さな声で啼《な》いた。図体は犬ほどもある大きな猫なのに声は小さかった。猫は満腹したときだけ婆さんの家に帰ってくる。悪臭の強いときは猫が墓地で食欲を満たしたときだ。婆さんだけがそのことを知っていた。 「今日びは墓に野ねずみがふえて困る」と寺の和尚が墓地で誰かに話しているのが聞えたこともあった。「これじゃ仏も成仏できんよ。これからは火葬にしてもらわにゃ」——墓地には鼠などは一匹もいないのだ。  婆さんには、どうしようもないことだった。この半年、煮干さえも婆さんのところにはなかった。大助さんの孫の乳呑児がミルクのついた唇や頬を鼠にかじりとられて死んだのは、ついひと月前のことだ。それは本当は鼠ではないかも知れない。婆さんはいつの間にか猫が帰ってくると、猫の腹に触ってみる癖がついていた。いつでも猫の腹はふくらんでいた。 「まあいいさね」と婆さんは呟《つぶや》くと蒲団を敷き、猫と一緒に寝た。     蓑虫《みのむし》 「私、鳥になりたいわ」と佳子が言った。 「ふん。なればいいだろう」とウイスキーを飲みながら耕が答えた。彼は面白くもなさそうに夕刊をひっくり返していた。 「ねえ、ムササビでもいいわ。ムササビって鳥?」 「そう……」  耕の返事が曖昧《あいまい》なのは自信がないからではなくて、面倒だからだった。佳子の言ったことも聞いていたのか、どうかわからない。  二人はテレビの深夜劇場が始まるのを待っていた。映画がそれほど好きなわけではなかったが、何となく習慣になっていた。耕は映画を見ながらウイスキーを飲み、佳子はレース編みをした。毎週水曜日の、その二時間だけ、二人は夫婦らしかった。 「山本さんはセキレイみたいね」と佳子は言った。耕は返事をしなかった。山本品子はまだ十八歳だった。耕は品子が佳子に話してしまったことを、まだ知らない。 「山本さんは、どうして、いつも横を見て話すのかしら」 「いつ来たんだ」と耕は言った。 「ずっと前。二週間ぐらい前かしら」  耕は注意深く佳子の顔を見た。それから、立ち上ると窓際へ歩いて行って網戸ごしに庭を眺めた。庭は水銀燈の蒼白《あおじろ》い薄気味の悪い光に照らしだされている。二十坪ほどの庭は中央に低い棕梠《しゆろ》の植えこみがある他は一面の芝生だけしかない。殺風景なブロックで三方を囲まれた庭は夏のさなかでも寒々としていた。庭の周囲は今は闇の中だが、明るいときも見るほどのものはない。この分譲地へ家を建てたのは彼らが最初だった。彼らの家は丘の端で、そこに一本だけ目印のように赤松が伐り残されていた。その松は彼らの家のブロック塀《べい》の外にある。塀をたてるとき、それをいれると庭がいびつな形になるので、わざと出したのだった。「あの松はやっぱり切ったほうがいいかも知れないな。子供が登ったりして怪我でもするといけない。それで、山本品子は君に何か話したのか」  耕は一続きに、それだけ喋《しやべ》った。顔はまだ庭のほうを見たままだった。 「いいえ」と佳子は言った。実際、山本品子は無口なたちらしかった。卓子の向うで彼女は顔だけでなく、体も真横に向けて坐ったまま、黙っていた。佳子は品子について、ほとんど何も知らなかった。一度、耕と一緒に親類の法事に出かけたとき、道で彼女に逢ったことがあるだけだった。そのときは彼女はまだセーラー服姿だった。  耕はテレビのスウィッチをひねった。ついでに冷蔵庫から氷をだしてきた。角氷の数がいつもより多かった。  映画は、もう始まっていた。ふいに厚化粧の女の顔が迫ってきた。それは申しぶんのないハリウッド型の美人だったが、少し歳をとりすぎているように見えた。大きな菫色《すみれいろ》の眼の中の微《かす》かな疲れや頬骨のとがり方で、そう見えた。佳子は扇風機の音を思いだした。機械は新式だから音はしない。むしろ、扇風機の送ってくる風の音といったほうがよかった。山本品子が黙っている間、佳子はその音を聞いていた。 「私、彼と結婚したいんです」と品子は急に言った。佳子は品子の横顔の中で、そこだけ、言い終った後も、うごめくように震え続けている唇を見ていた。 「誰と……まさか」と佳子は言いかけた。妙に落ちつかない気分だった。品子は思いがけぬほど甲高い野蛮な叫び声をあげると激しく泣きだした。横向きの顔をしっかりおおっている両手の指の間から嗚咽《おえつ》とともに「ごめんなさい」「許して下さい」「しかたなかったんです」という声が洩れた。佳子はテレビを見ているときと同じ、ぼんやりした顔で品子が泣きつづけるのを見ていた。  今、画面には少年がうつっている。少年は物置のようなところにいる。ふくらんだ下唇がみずみずしかった。少年はちょっと外を覗《のぞ》いてみてから、すねたような投げやりな恰好で藁《わら》の上へばたんと倒れた。外国だから藁ではなくて干し草だろうか。骨ばった細長い手足で、顔もごつごつしているのに、表情は未成熟で甘く、子供っぽかった。臆病なくせに無鉄砲で何をやりだすかわからない危険なものを秘めた眼。兇暴な小動物。矛盾だらけな若さ。 「鹿でもいいわ」と佳子が言った。 「え。何だって」と耕がすばやく答えた。映画に身をいれてない証拠だった。 「何でもいいの。鹿でも蝶でもマムシでも。何かになりたいわ」  佳子は耕の顔が赤くなったのを見た。ウイスキーのせいだろうか。気づかぬ間にウイスキーは瓶の三分の一ぐらいになっている。耕はいつもは、せいぜい三ばいしか飲まない。 「僕は面倒なことは嫌いだ」と耕は言って、またウイスキーを飲んだ。「面倒な女も、だ」 「私のことかしら。それとも……」 「どっちも、そうだ」  佳子は両手を腕のつけ根から胸のほうへ動かした。乳房が重かった。両手の指をいっぱいに拡げて押えても、はみだした。強く押えてから離すと、べたっと拡がって佳子の上半身全部にはりついた。確実な体積と、確実な重量。佳子は何度も、それをくり返した。品子の薄い胸と脆《もろ》そうな細い首。顔も細かった。顔を抑えた指だけが若い女らしい勁《つよ》さを持っていた。佳子は品子に「私たち、もうじき離婚するはずだから」と言った。品子は初めて佳子の顔を見た。 「彼、離婚はしないって言ってるんです、最初から。でも、私……」 「私が離婚するの」と佳子は、ゆっくり言った。  品子はうつむいた。その顔が少し明るくなったのを佳子は不快な気分で眺めた。 「いつですか」と品子は下をむいたままで訊いた。品子の口は笑いだす寸前のようにみえた。佳子は品子の単純な若さを馬鹿らしいように思った。 「あの、やっぱり離婚なさらないほうが……私は結婚したいですけど」と、品子は、不自然につけ加えた。佳子の断定的な返事——品子に有利な返事を、彼女は全身で期待していた。  耕が水の入ったコップを倒した。居眠りをしたらしい。それとも、手もとが狂ったのか。布巾を取りに立とうとした佳子を耕は押えた。佳子の片手を無理に引っぱって坐らせた。その手に力が入っている。佳子は無言で耕の手をふり放そうとしたが駄目だった。ときどき、耕はそうやって佳子の手を握ることがあった。力をこめて砕けるほどに佳子の腕首や肩をつかんだ。佳子はそのために二、三日指がきかなくなることさえあった。なぜ、耕がそんなことをするのか佳子にはわからなかった。いつも、しばらくしてから思い当った。耕の生家の話をしたときがそうだった。耕は口では何も反論しなかった。  耕は酒くさい息を佳子に吐きかけ、按摩のように佳子の右腕を肩のほうへ、もんでいった。佳子の腕の骨は強く圧迫され、佳子は思わず呻《うめ》いた。耕の半分閉じかけた眼の中は朱に溶けかかっている。「チョウセンウマになれ」と耕はささやいた。佳子は、耕の手を逃れると台所へ走りこんだ。すばやく爼板《まないた》の上の刺身包丁を手に取ろうとしたが、しびれてしまった右腕には少しも力が入らない。耕が立ち上る気配を感ずると、佳子は裏口から外へとびだした。小走りに庭の外側をまわって松の根もとにしゃがんだ。こちらには道はないから耕は来ないだろう。聞いたときは意味のわからなかったチョウセンウマという言葉が、ふいにわかった。それは朝鮮馬のことだった。朝鮮馬は、馬とロバの中間の大きさの小さな馬だ。愚かで従順な非常におとなしい動物だ、と耕が話したのを思いだした。  あけ方、耕は寒かったので眼をさました。卓子の上は、こぼした水でまだ濡れている。耕は、つけっ放しで耳ざわりな音をたてているテレビを消した。それから戸をしめようとして網戸に近づいた。外は、ぼんやり白みかけていた。水銀燈の向うの松の木が黒い影になっている。その松の木から巨大な蓑虫《みのむし》がぶらさがっていた。それは、どう見ても蓑虫だった。耕は唇をすぼめて硝子戸《ガラスど》を閉めた。ふり返って寝室のほうへ歩きながら、不機嫌な大きい声で佳子を呼んだ。 [#地付き](「早稲田文学」昭和四十五年一月号) [#改ページ]   わたしの恋の物語  わたしは三日起きて三日眠る生活をしていた。わたしの意志でそうなるのではない。どうしてか解らないが、とにかく三日を周期にして交互に不眠症の夜と嗜眠症《しみんしよう》の昼がき、わたしは馬鹿なミミズのように夜露の底で動きまわったり、十九時間眠り続けたりした。もしも周期が一週間か一カ月だったら、わたしの体は日なた水となって溶けていたかも知れない。幸い、三日というごく短い周期と、よく肥った健康な体のために、わたしは少し怪訝《けげん》に思っただけだった。しかし、嗜眠症の昼に来た客は、常にもましてふくれあがったわたしの顔の、ずっと底のほうにある眼が見るたびに閉じているのに気づき、少なからぬ軽蔑《けいべつ》の念を抱いたにちがいない。ところが、事情は不眠の期間も同じことなのであった。夜に眠れないということは昼も眠れないということではなくて、たとえ昼寝はできないとしても、客が退屈な美男のSだったりすれば、たちまち眼をあけていられなくなる。今日ハ、西施ノヨウニ、アナタハ美シイなどとSが金歯をきらめかせてお世辞を言うと、わたしは、ほとんど鼾《いびき》をたてて眠りこけてしまうのであった。そういう気持のよい状態を永続させるために、わたしはSが永遠にわたしの傍にいることを心から熱望しているのだが、あまりの眠さのために唇まで深く眠っていて、わたしの意志にもかかわらず、どんな言葉も姿をあらわさない。で、育ちのよいふりをするのが何より好きなSは眠りこけている肥った女を置いて帰ってしまう。すると、彼が玄関で靴を穿《は》きおえた、ちょうどその瞬間に、わたしの頭は、あきれるくらい迅速に元へもどり、西施とは何だったかと考えはじめる。残念なことには体のほうは、頭よりいつも目覚めるのが遅いので、したがってわたしは常にSを捕え損ねる。Sは、六月にうっかり室内へ迷いこんだつまらぬ小さなトンボに似ていて逃がしたことについてだけわたしは残念に思うのである。  三日という周期は、そんなに覚えやすいとは言えない。わたしは毎日、その日が昨日だったか、今日か、それとも明日かと考えこまなければならなかった。または一昨日と昨日と今日、または今日と明日と明後日か。Sに言わせると、わたしは壊れかけた特大の安楽椅子の一部なのだということである。それはつまりわたしがその緑色の安楽椅子に坐っていないかぎりはわたしたちは不完全な、何とも呼びようもない代物に変質するのだということを意味する。安楽椅子にとっても、わたしにとっても。要するにSは、わたしが何もしていない状態を一番好ましく思っているらしい。といって、わたしはSのいるときに何かをしたことはないので、彼としては他に思いようもないわけである。それはそうだけれども、わたしは毎日、何もしないでいるのではない。嗜眠期間の三日は、それでは七十二時間眠るかといえば、そんなことはなくて、五十時間眠るぐらいのものである。食べる時間もいるし、客もくる。客ぐらいならば、どちらにしてもたいしたことはないけれども、蒲団を干しながら三千六百円の簡易物干台によりかかって眠ってしまうのは、あまり寝心地がよいとは思われないので、今日がどちらの日か、初めによく思いだしておかなくてはならない。だが、大抵は、どちらかよく解らない。晩に十時間寝て、それから朝五時間、午後六時間寝た日は一日と数えるべきか、それとも三日と数えるべきか。午前中ずっと、わたしは、その形而上《けいじじよう》的な難問と取り組み、壊れかけた緑色の安楽椅子の裂け目の虚無色の空間に落ちこんでいた。二十四時間の中に、別の三箇の二十四時間を包含できるかどうかといえば、どうやら、それは可能であるらしいが、それでは二十四時間は二十四時間ではないかといえば、どう考えても二十四時間に間違いはなく、時計を眺めると、それは十二時間かも知れないと思われだすので、それに附随した七十五もの疑問が湧《わ》きでてきて、わたしはそれを十八の基本的命題に整理しなければならなかった。そうして、ようやくわかったことは、どうやら今日は嗜眠症の日ではないらしいということで、これは成功ともいえる。いつもは何もわからないままに安楽椅子の養分たる青ミドロに化してしまうのだから。そこで、わたしは途中で眠りこける危険なしと見定めてぶよぶよと立ち上り、象のように畳を踏んで蒲団を干す行為にとりかかったのである。この際、なぜ蒲団を干さねばならぬか、などという想念にとらえられていてはまた今日も干せないことになるので、そういう雑念が入らぬように、慎重に事を運ばなければならない。三千六百円の簡易物干台は、まるで宇宙の高みにひっかかっているかのように思われる。それは、わたしが息を吹きかけただけでも直ちに倒れようとして、悪意的なアンバランス状態を保ち続けている。立っている以上は、やはりバランスを保っているというべきかも知れないが、わたしが近づくだけでも、ゆらゆら揺れるというのはどう考えても、わたしに対して好意を持っているとは思われない。それとも、中から曖昧《あいまい》な綿の如きものがはみでている敷蒲団、灰色と安っぽい赤色のだんだら蛇模様になっている特別|頒布会《はんぷかい》通信販売の敷蒲団や、カヴァーの大きさを間違えて作ったために、おびただしい白い布の間で年中所在不明になっている掛蒲団を彼は好まないのであろうか。それにしても、わたしは一々、三千六百円の簡易物干台の好みにつきあって妥協したり譲歩したりしている暇はないので強引に蒲団をのせてしまう。竿《さお》は怒り狂った荒馬の後脚のように跳ねあがり、コンクリートの円錐形の台をぶらさげた棒は、わたしに倒れかかる。そこへ庭先を横切ってどこかの女が忽然《こつぜん》と現われ、奥サン、ヨク蒲団ヲ干シテエライデスネと言う。隣家の主婦かも知れない。彼女は、なぜ自転車に乗っているのか。乗っているのは、まだいいとして、わたしの近くへきて、どういうわけで自転車から降りるのだろうか。わたしは慇懃《いんぎん》にエエと答える。わたしは、いつから奥サンなどになったのか、それがわかるまでは軽々しく口をきいたりしたら、うまうまと敵の計略にはめられてしまう。その上、わたしは蒲団をこの前に干した日など覚えていないので、おぼろな記憶で言えば、多分半年か一年前なのである。そうでなければ、干そうとは思わないだろう。もっとも、その半年の四千三百二十時間が、わたしの知らぬ間に五十時間か四十時間に圧縮されているならば、|よく《ヽヽ》干すということになるが、婦人雑誌によれば、二日オキニ蒲団ヲ干シマショウということであるから少なくとも、よく蒲団を干すというのは四十八時間に一度以上ということになる。しかし思いだしてみると、その記事は簡易物干台の広告であったかも知れない。そうしてみれば彼女のみえすいた魂胆も解るというもので、彼女は眼ヤニのついた眼や鼻を苦しそうに笑う形にしてイイオ天気デスカラと言い、また自転車に乗って、どこかへ行ってしまう。いい天気といえば、空の上で日が照っているが、日が出ているからといって、いい天気とはいえない。あれは何か恐るべき暗示をわたしにひそやかに与えているのにちがいない。わたしは陰険に眼をしかめて理由なく揺れている柿の梢《こずえ》を眺める。小枝の一つずつ、葉の一枚ずつが感電しているように、びりびりと震えているのは理由のない風が吹いているからで、クレープをもみほごすざりざりという音は棕梠《しゆろ》の葉から聞えている。棕梠もまた理由のない風によって理由もなく揺れ、下半身を理由のない自分の影に浸しこんでいる。わたしは自分に暗号の解読能力がないことをよく承知しているから、粘液質のもので充満している鈍い頭を擡《もた》げ直して再び三千六百円の物干台と格闘し始める。カヴァーだらけの掛蒲団は、干してみると、どうやってみても中身が見当らない。風に頼りなげに揺れ動いているところは、蒲団というよりは巨大な唇の薄皮のようで、わたしが妙な暗号を眼ヤニの女から伝達されている間に中身のほうはいち早く逃走したものと思われる。なぜ蒲団は干されるのが嫌いかという高邁《こうまい》な理論は後で考えることにして、わたしはとりあえず掛蒲団を捜索しなければならない。わたしは憎しみに燃えて発情期の牝象《めすぞう》のように家中をのし歩く。牝象というよりは肥大せる豚というほうが適当かも知れないが、わたしは色が黒いし、猫ともちがって毛が少ないので、結局、あの、部分が全体であり、全体が部分であるような非生物的な、滑稽というには大きすぎる象に帰着せざるを得ないのである。わたしは、ようやくにして逃亡せんとしていた紫と黄色の暗雲模様の掛蒲団を発見し、消失せぬように用心深く警戒しながら竿にひっかける。その下で、風のために押し流され、湧きたつ泡のようにうごめいている白い蒲団カヴァーがひしめきあっているが、それはわたしの知ったことではないし、大体、蒲団カヴァーというものは蒲団と共にあるべきであるということは周知の事実なのである。わたしがジフテリア色の綿埃《わたぼこり》を隅々につけて首つり死体の舌のように、べろりと垂れさがっている数枚の蒲団に満足して家の中へ入ったとたんに、小さからざる物音が、そちらのほうで聞えたが、わたしは、それが物干台の倒れた物音だとは思いたくなかったので、聞かないふりをして緑色の安楽椅子の一部となった。かの三千六百円の簡易物干台と、この壊れかけた椅子と、どちらが重要であるかということは考えるまでもないことだったからである。汲みとり車のホースに似て突起と凹みが平行して同時に存在するところのわたしの脳髄に微妙な砂埃がこびりつき、それはこすってもとれそうもない。わたしは寝室に残された二枚の敷布、二箇の枕について考えなければならなかった。なぜ彼女は奥サンと言ったか。わたしは、はたして、そういう存在なのであろうか。たとえば、わたしは奥という苗字を持っているかも知れないので、そういう可能性のことも考えてみたのだが、ポマードの附着している汚れた飴色《あめいろ》の枕は男のだとしか思いようはなく、そうとすれば昨日、そこに男が寝ていたことになる。干した蒲団の枚数も、それを証拠づけている。そういう存在が、この家のどこかに空気のように漂っているのであろうか。そうして、わたしは昨夜、その、わけのわからぬ、枕を飴色にするだけの何かと交わったのであろうか。昨夜でなくてもよいのだが、八十二時間前、百六十五時間前と時間をたぐっても、それらしいことの片鱗《へんりん》も現われず、あれがそうだったのだろうか、とヒジキの間の硬い筋を噛《か》みあてたときのことや、玄関の戸のすべりが悪くなったのでエイと力を入れて何度も開閉したことなどを思いだし、そうすると迷路の網目はますます細かくなり、わたしはナイロン製の網の中で半ば溺死《できし》しかける始末だった。  だからSが来たとき、わたしが真先に、そのことを質問したのはごく当然のことであった。Sはきれいな切れ長の眼をあげ、しげしげとわたしをみつめた。きれいな切れ長の眼ではなくて、水玉模様の縁のついた眼鏡を持ち上げたのだったかも知れないが、それはどちらでもよい。ソウダネェとSは慎重な湿った声をだし、それは笑止千万に思われたのでわたしは声を荒だてた。奥サンッテ、ドウイウ人ノコトヨ。Sは上品に微笑し、ヒトツダケ解ッテイル。奥サントイウモノハ一日中、古物商デ買ッタ九百五十円ノ椅子ニシャガミコンダリシテハイナイトイウコトダと言った。ヨク値段マデ覚エテイルノネと、わたしは口惜しさで赤くなりながら言った。この椅子は九年前、千三百五十円のを四百円値切って買ったのだし、わたしの恰好は、どうみても腰かけているというよりは、椅子の上にしゃがんでいるといったほうが正確で、それは椅子があまりにも巨大すぎるためであって、わたしが小さすぎるからではない。  ボクハ、アナタト結婚スルト言ッタハズダガとSは高価そうな香水の匂いと共に言う。エエ、アア、ソウネとわたしは、あわてて答える。来るたびにSはそう言い、わたしは眠りの底から、やっとの思いでアラ、ソウナノと答える習慣だったのだが、今日は、いったいどちらの期間に属するのか、それとも期間には関係がなくて、奥サンという言葉がわたしを刺戟《しげき》したためか、わたしはそれほど眠くはなかった。奥サンというものになりたいか、なりたくないか、まずそれを決めて、それによって奥サンの定義を定めたらどうだろうとSが提案し、わたしも一度は、それがもっともだと考え始めたのだが、どうも少し|うさん《ヽヽヽ》くさそうな気もする。Sというのは外見に似ず老獪《ろうかい》な男であって、わたしは、いまだにどうやって彼と知りあったのか解らないのである。彼はなんとなく、この家の中へ浸みこんできて、どういう仕掛けになっているのか、いつの間にかわたしの眼の前で、わたしの安楽椅子にくらべれば五分の一の大きさもない風化しかかった丸椅子に、ちょっと斜めに腰をかけて煙草をふかしているのであった。向うがそうならば、わたしのほうも、策を弄《ろう》しなければならない。わたしたちは、それまでに奥サンは猫のようなものだという結論に達していたから、それではシャム猫かペルシャ猫かという論争にとりかかった。Sはシャム猫派で、シャム猫特有の油断のない琥珀色《こはくいろ》の瞳《ひとみ》や、四肢と顔の先端のすべてが色|蒼《あお》ざめていることを言い、それは奥サンと猫の両方の属性を持っているためであって、猫が奥サンに化けようとしているのでなければ、奥サンが猫に化けかけているのだと言うが、それは彼の空想力と観察力の欠如を如実に示すものであってシャム猫というのは彼の説とは逆に四肢と顔の先端のすべてが濃色に染まっているのである。わたしがそう言うと、Sはジャア、ソレデモイイヨ。シカシ、コレダケハタシカダ。アナタハペルシャ猫以外ノ何モノデモナイ! と叫んだ。わたしは、だぶだぶした四重の顎肉と、肩の重い肉|襞《ひだ》の間から彼を眺め、体ぜんたいを軽く揺すっただけで何も言わなかった。ソノ眼、とSは続ける。アナタニハ解ラナイダロウガ人間ノ眼ジャナイ。猫デナキャ魚ダ。ゾットスルヨウニ冷タクテ大キイ。ソシテ怠ケ者デ一日中ソウヤッテ動カナイ。柔ラカイゼイタクナ肉ニ包マレタアナタノ体。ドウ考エタッテペルシャ猫カ、サモナクバ帝政ロシアノ貴族ダヨ。わたしは今日は蒲団を干したのだから何もしなかったわけではないと弁解じみた呟きを口の中で言い、どうも以前にSから同じことを言われたことがあるような気がして、そうとすればSはテープレコーダーに似ている。フン、ソレデハ、アナタハ奥サンデハナイトイウ結論ガ自然ニ出テシマッタジャナイカ。奥サンハシャム猫ダカラとSは図にのったが、わたしは疑わしい顔つきで彼に訊いた。ユウベ、ワタシト寝タノハ、アナタナノ。Sは急に用心深くなり、優雅な手つきで胸ポケットから煙草をとりだし、よく光る爪でライターに火をつけ、さて喋るかと思えば、今度は足を組みかえた。わたしが彼の教養を尊敬し、いっぺんに彼と寝たくなるような、しゃれた返事を考えているにちがいない。もちろんわたしが彼と寝たことがないとすれば、の話だが。ソレハ何トモ言エナイと彼は平凡なことを言い、あたりまえのことだが、その言葉が少しもわたしを感動させないのを知ると、ナゼナラ、毎晩アナタト寝テイルヨウナ気モスルノダカラ。アナタハ知ラナイダロウガ、ボクハアナタヲ包ンデイル、ソノアナタノ体ガホシイノダ。顔ヤ頭ヤ言葉ナンカハ要ラナイ。ボクハ果実ト核ガホシイノデ、シカモソレハ他ノ人ニ実ッタ果実デハ意味ガナイノダ。  それもまた、テープレコーダーの一部だったが、わたしは、いつものように眠くはならず、わたしの体にむしゃぶりつく安楽椅子の虚無色の空間も今日は、おとなしくしていた。そこで、わたしは意味もなく笑い、ワタシハ、アナタニハ多スギルワと言った。Sは首をふり、四カ月目ニ初メテアナタノ笑顔ヲ見タガ、ヤハリ冷タイ顔ノホウガ似合ウヨ。ペルシャ猫ハ、絶対ニ笑ワナイソウダカラナと言う。  欠伸《あくび》シタダケヨとわたしは急いで言い、本当に毛を逆だてた大猫のようにファッと口を開くが、実のところ、象と猫では、かなりちがうので、うまくいったとは思われない。そこへまた奥サンという低い呼び声が聞え、それは玄関に訪客があることを意味するが、Sがそうでない以上、わたしのほうが奥サンにより近い存在であることは間違いないので出てみると、物売りの老婆であった。彼女は煮干しそっくりな顔に造りつけの笑顔をはりつけてチリメンジャコ買ッテオクレンカネ、と言う。煮干しがチリメンジャコを売るのなら、煮干しのほうが階級が上らしいが、どうやら彼女はいつでもチリメンジャコを売りに来るので、そのために彼女の顔は煮干しに見えるのかも知れない。チリメンジャコを連想するほうが、もっと直接的で簡明であるが、あいにくなことには彼女の複雑怪奇な肌色や、顔や頸《くび》のいたるところにある凹凸は、どうしても煮干しなのである。モウセンモ旦那サンニ買ッテモラッタデヨ。アンタトコノ旦那サンハワシノ|ジャコ《ヽヽヽ》ガ何ヨリ好キダッテネェと老婆は、もう、袋を片手でさしだし、余ったほうの片手は空のままで突きだしている。そこへ百円玉を載せると自動的に手は引っこみ、蒲団、落チテルヨと急に憑《つ》きものから醒《さ》めたような興ざめな声で言うが、わたしは自分が融《と》け始めているのではないかと感じて答えない。  ネエ、ウチノ旦那ハチリメンジャコガ好キデスッテ、ワタシノ背中ガ融ケテナイカ見テヨとわたしがSに言うとSは哲学科の大学教授よりも、しかつめらしい表情で、ソンナコトハボクト何ノ関係モナイ。アナタノ旦那ガチリメンジャコガ好キダロウト、糸ミミズガ好キダロウト、ドウシテボクガソレヲ承知シテイナケレバナラナインデス。  マサカ、アナタガウチノ旦那ジャナイワネエとわたしは確信のない調子で言う。どこかに旦那がいるはずなのである。どこへ消えてしまったのか。それとも、隣の主婦も物売りの老婆もサナギみたいなものだろうか。わたしは、サナギを見るたびに、それが悪性の病気にかかった薄気味の悪い化けものに化ける準備をしているのを知るのだが。Sがそうでないのはわたしにも解るので、そうすればどこかに「わたしの旦那」がいるはずで、その匂いのような存在を何とかつかまえられたら、わたしが奥サンか奥サンでないか、わかるだろう。わたしはうろうろと眼を走らせ、小鼻で匂いを嗅いだ。あまり強く息を吸いこむと、薄黄色の花粉雲となって空中に漂っているかも知れない「わたしの旦那」をわたしの暗黒の鼻孔に吸収してしまうかも知れない。薄黄色と思うのは枕カヴァーの色のみならず、その言葉自体が何やら薄黄色に感じられるからである。  一方、Sは、いつどうやって移動していったものか、今は庭にいて、そこからアナタハ地面ニ蒲団ヲ干ス習慣カ。シカモコウヤッテ難シイ形ニ積ミ上ゲテ、とわたしに訊いた。わたしは旦那について思索中だったので、それを途中で遮《さえぎ》られたことに怒りを感じ、落チテタラ拾ッテクレタライイデショと切り口上で言った。もう少しで何とかなるところだったのだ。「旦那」は濃密性をまし、円筒状の太い柱になりつつあったのだ。ドコカラ落チタノカネェ。屋根ヘデモ干シタノカと、Sがまた言うので、止むを得ず縁側まで歩いて行って見ると、三千六百円の簡易物干台は、すっぽりと蒲団の下へもぐりこんでいた。あるいは、だんだら蛇の敷蒲団と暗雲模様の掛蒲団が彼にフォール勝ちしているというべきか。わたしが物干台を組みたてるようにと指示するとSは口の中で何か言ったり緩慢に蒲団の端を触っていたりして、なかなか始めない。ボクハ、アナタガココノ空間ニ何カノ魔法ヲ使ッテ蒲団ヲ干シタノカト思ッテイタノダ。ソンナ面倒クサイ装置ガアルノナラ見ルンジャナカッタネという言い方は、あまり上品でもないし、男らしくもないので、わたしは、いよいよ腹をたて、ソレナライイワと喚く。Sは、しぶしぶ物干台を立てようとするが、それは何か柔らかなものの上にいるように、またはそれ自体がゼラチンでできているかのように見え、決して直立しないのである。Sは音高く下賤《げせん》な舌うちをし、足場をもう一度よくよく見定めて、ココニアルノハ砂袋ジャナイカ。何ダッテ砂袋ノ上ニ、コノ棒ヲノッケナクチャイケナインダと言い、袋をわきへ投げ捨てる。地面の色と同じ色をしている袋は容易に破れ、中から虱の大群のように、ぞろぞろと砂が這いでてくる。アア、猫ノ砂ナノニ。苦労シテトッテキタノニとわたしは憤激の叫び声をあげる。Sは、今はもう、しっかりした手つきで、ただの物干台となった台の上の竿に蒲団をのせ、ホウビヲ貰ッタッテイイト思ウ。アナタガ他ノ男ト寝タ蒲団ヲ干シテヤッタノダカラ。ボクガ、ドンナ苦痛ヲ以テソレヲシタカ、ボクノ絶望的ナ心ノウチハ、アナタニハ一生カカッテモワカラナイダロウと、むしろにこやかな顔で金歯をみせびらかし、もののついでのようにわたしの顔に生暖い唇と微《かす》かな湿りをのせる。わたしは彼を払いのけ、エエ、ワカラナイワと言う。デモ、知ッテタラ教エテホシイノ。他ノ男ッテナニ。「旦那」ノコトカシラ。  マタ、「旦那」カ。ソンナ話ハ聞キタクナイッテ言ッタダロウ。トニカク、アナタハボクト結婚シテ、ボクト寝ルンダカラ、アナタノ「旦那」ノ話ナンカ聞キタクナインダ。  わたしはSの通俗的な演説に辟易《へきえき》して黙りこみ、わたしの体のまわりにいつもあったはずの緑色の空間がないのを知り、うっかり殻を忘れてしまったヤドカリかカタツムリのように、あわてふためいて元の場所に戻る。Sも丸椅子の端に腰をおろすのだが、小さな丸椅子の位置は、さっきはわたしと机をへだてていたのに、今度は、わたしの安楽椅子にぴったりくっついていて、どういうつもりか解らないが、彼の手は実に考えられないほど、しつっこく丹念に、わたしの椅子のアームならびに、わたしの体の胸や腹を撫でまわすのである。あるいは、Sはわたしを愛しているのではなくて、この壊れかけた安楽椅子を愛しているのに、自分では、そうとは気づかずに逆のほうへ錯覚しているのだろうか。もっとも、愛しているなどとSは言ったことはなくて、彼の言葉は日附けを押すスタンプのように常に常に結婚《ヽヽ》と|寝ヨウ《ヽヽヽ》の二種類の同じインクの色しかもっていないのだが、Sの二十五という歳にふさわしい甘い鼻すじや、いま上着を脱いだために彼の腋窩《えきか》からたち昇っている薄荷色《はつかいろ》の匂い、そして純潔ないらだたしさを養分にして震え続けている長い下肢を見れば愛という浅薄で手軽な言葉がSには一番ふさわしいのであって、ただSはわたしに馬鹿にされないために決してその言葉を言わないのであるし、その彼の考えは鈍感な美男子にしては上できと言えるのである。彼の思っているように、わたしは、それを聞くや否や、ふきだし、嗜眠の三日も夢の中で、ずっと笑い続けるにちがいないからだ。突然、Sの呼吸がヘリコプターの爆音より大きく響き、彼のしなやかな指が、わたしのもっと他の場所へ到達しようとして無限に伸びているのを発見し、わたしは立ち上った。Sの手は名残り惜しそうに、まだわたしの体にまつわりつき、あまりの名残り惜しさのためかSの澄んだ瞳には子供っぽい涙さえ浮かびはじめていたが、わたしは十も歳上の威厳のある牝象らしく、そしてまたタテガミを持った珍種のペルシャの鳥らしく、行クノヨと命令した。  アナタハ、スグ帰レト言ウンダ。ボクガ好キカ嫌イカ言ッテクレタッテイイダロウとSはくり言を恨みがましく述べ、その後にいつもと同じようにつけ加えることも忘れない。  ソレハ、アナタガボクヲ好キデナイノハ解ッテルサ。ダケド、タダノ嫌イカ、ソレトモ非常ニ嫌イカトイウコトナンダ、問題ハ。  わたしもまた、自分の辛抱強さにあきれながら、もう四十九回以上は言ったであろう言葉をくり返す。  嫌イデハナイシ、好キデモナイノ。ソンナコトト何モ関係ハナイワ。ワタシハ、アナタニツイテナントモ思ワナイシ、何モ感ジナインダカラ。  Sの明るい顔に憂愁の影がさし、彼の厚い下唇が泣く前の幼児の唇になって、むずむずと左右に伸び縮みする。いつもは眠さのために、わたしはそこまでは見なかったので、その変化のためだけにでもSが気の毒になり、砂ヲ取リニ行キマショウカ、浜ヘ。猫ノ砂ヨと言ってみる。現金にSの眼は輝き、彼は贖罪《しよくざい》したがっている贋《にせ》の修道僧みたいに物置きへとんでいって台所屑入れの大袋を捜しだす。砂ッテ重イノヨ。洗面器一パイダッテ、アナタニハ持テナイワと、わたしは華奢《きやしや》な長身の青年に忠告するが、Sはもうはやりたっていてきかない。ココカラ浜マデ一時間ハカカルナァ。アナタノ足ナラ二時間ダ。往復四時間、と彼は悲鳴といってもよい声で喋り続けている。  わたしたちが定食食堂の前を通り、線路を横ぎり田圃の間を抜けていくと両側は一面の玉葱畠《たまねぎばたけ》になっていた。どういう効用があるのか知らないが畠の畦の間には一畝ごとに悪魔のように黒くて長い帯状のビニールが埋められていて、それが時たまの風で、むっくりと身をおこしたり、耐え切れぬように身悶《みもだ》えする有様は、どうしても何かの凶兆としか思われない。わたしは次第に気が重くなり、憂鬱になって、ネス湖の怪物よりは若干確かな存在であるらしい、わたしの旦那について考え始めた。あまりあてにはならないが何かの拍子で、はっと解ることが時々ある。円周角を作っている線の一本が直径に他ならないことを発見したときのような具合にいかないかと思って、そのために、まず無念無想の境地に没入しようとわたしは試みたのだが、肥溜《こえだめ》のニオイもするし、Sの腕が故意か偶然か歩くたびにちらちらとわたしの腕の上膊部《じようはくぶ》を掠《かす》るので、うまくいかない。それにSと「旦那」について議論することもできない。Sは旦那という言葉を聞くと、いつもマタタビの前にいる猫のように武者震いする。猫はマタタビが好きで、そういう状態になるのだとしたら、この比較は適当ではないが。わたしが横目で窒息しているみたいに黙りこくっているSを眺めると、けしからぬことにSの頭はわたしの頭の斜め上方二十五センチのところにあって、どうしてけしからぬかというと、そんなに上のほうでは横目が使えぬからだが、とにかく、あまり上機嫌の顔ではなくて、言いかえるならば、なかなか引きしまったよい顔をしていたのである。  アナタハ不幸ナンダとSは言うのである。  ソレニ気ガツイテナイダケナンダ。  わたしが何かを「解らなかった」り、「知らなかった」り「気がつかなかった」りするというのは、Sの常套《じようとう》的な枕言葉もしくは接尾語にすぎないと、わたしは思っていたので、アラ、ソウナノと答えた。不幸だろうと幸福だろうと、わたしはどちらでもかまわないし、そのことに何の関心も持っていなかったので、どうしても、わたしの返事は散漫で不誠実なものになる。Sもそれを察したらしくメロドラマチックな、美男らしい声を醸造してこう言った。  何モ解ッテイナインダヨ、アナタハ。タトエバ猫ノ砂、ト騒グダロウ。イツモ多量ノ猫ノ砂ヲアナタハ貯蔵シテイル。ナゼ。アナタハ猫ヲ飼ッテハイナイシ、アナタノ家ニハ、イマダカツテ猫ガイタコトナンカ、アリハシナイノニ。  アラ、イマスワヨと、わたしは直ちに散文的な抗議をした。サッキ蒲団ヲ干シテクレタデショウ。アノ横ノホウニ小屋ガアルジャナイノ。ウチノ猫ハ臆病ダカラ、ヨソノ人ガ来ルト隠レテシマッテ、チットモ姿ヲ現ワサナイケド。  ところが、それはSに言わせると犬だということになるのである。コッカースパニエル種の純粋|無垢《むく》にして完全無欠な犬だと彼は強情に言いはるのである。細い茶色の毛に包まれた暖い柔らかな生きもの、たしかに重みはあるのに抱きあげるとかえって|軽さ《ヽヽ》というものがわたしの手の中にはいっている感じがし、わたしの頸筋や頬を湿ったものが忙しく通りすぎ、わたしの腕や指に軽く噛みつくもの。あれが犬だろうか。わたしがそう独りごとを言っているとSがソウ。ワンワント啼《な》クダロウと、幼児をあやすように変にやさしい声で言う。ジャ、犬トチガウワ。ウチノ生キモノハ、ワンワント啼カナイワとわたしは言い、その生きものの啼き声を真似しようとしたが、それはできない相談だった。朝からいえば、わたしは今日は発情期の牝象になり欠伸をしているペルシャ猫になり、タテガミを持ったペルシャの鳥になり、その上、わたし自身の真似もしなければならなかったので、更に今、犬か猫かわからぬ生きものの啼き声を真似することなど到底できなかった。  モシモヨ、モシモアノ生キモノガ犬ダトシマストネ、ソウスルト猫ハドコニイルノ? とわたしは自分の体が冷たく麻痺していくのを感じ、海の匂いを微かに嗅ぎながら言った。  猫ハイナイ、とSは断言した。  いないはずはない。いるのである。どうして、いない猫の砂を取りに行くわけがあろう。わたしは、いるいるいると胸の中で二十三べん繰り返し、もう一度初めからおもむろに考え直そうとした。前方に拡がる低い松林と堤防に向って上り坂になっている砂の道はいらだたしかった。わたしは登りながら自分が進んでいるのか戻っているのか解らなくなった。考え得る唯一のことは猫は旦那のようなものだということであった。  ツイデダカラ海ヲ見ヨウとSが言い、わたしたちが松林の間の細い道を竹製の蛇のようにぎごちなくうねり越えていくと、そこにはざらついた薄灰色の世界があって、わたしたちの体重は一トンにも増大した。わたしたちと言うよりは、わたしがそうで、一旦砂の上に押しつけられ嵌《は》めこまれた重い足は、もう再びそこから離れることはあるまいと思われたが、Sのほうは強い風の中に、水色の長いネクタイと先天的なウエーブがご自慢の長い髪の毛をはためかせて、彼自身、貧弱な一本の旗のように立っていた。  モウ、止メマショウと、わたしは言った。海ナンカ珍シクナイワ。帰ッテ地図ヲ見レバイイノヨ。バルト海ダッテ見レルワ。  Sはあと五十メートルだと言い、わたしを励ますためにわたしの腕を掴《つか》んだが、実際に風に吹きとばされそうなのはSのほうなのだから、陸の上の錨《いかり》のつもりだったのかも知れない。Sは間もなく感嘆の唸《うな》り声をあげ、海をほめたたえるお世辞の数々を口にし始めた。わたしは海が見えるのかと思い、頭を百八十度回転させたが、どこにもそれらしいものはなくて、ただ砂まじりの風がわたしに絶え間ない平手打ちを喰わせるのだった。何モ見エナイワと、わたしが言うとSは不興気な顔になり、わたしたちは、もう百メートル前進した。ヤッパリ何モナイと、わたしが判定し、更に百五十メートル。そうやって無限と思われるほど果てしなく進み、海の匂いは耐えられぬほど濃密になり、はだしの足は海水の湿りさえ感知しているというのに、海はその色さえも見せない。わたしは、どんな些細《ささい》な海の徴候でもよいから、みつけたらすぐ飲みこんでしまおうと決めていたのだが、とうとう歩きくたびれ、キットモウ海ハ無クナッチャッタンダワとSに言った。  モウ、海ナンダヨ、コレガ。ボクタチハ大洋ノ真中ヲ漂流シテイルンダとSは言いかけ、急に走りだした。ホラ、アッタヨ、ココダ。広イゾ、本当ノ海ダゾ。  わたしが喜びと期待に震え、髪の毛の一本一本をべっとりと附着した塩で肥えふとらせながら駈けて行くと、そこも同じことで、要するに砂色の砂と砂色の空があるだけだった。アッ、駄目ダ、波ガクルヨ。濡レルジャナイカとSがわたしの手を引いて後退し、わたしは今までと何の変りもない砂色の世界の中を二、三歩のろのろと動き、Sの興奮して光っている顔を見た。そのときに何かを悟ればよかったのだが、わたしは、おとなしくSの言う通りに後戻りし始めただけだった。わたしはSが三年ぶりに海を見た感想をながながと喋るのを聞きながら風の中を、いくつもの砂の山を越え、松林を通って、低い松が暗色の牙《きば》や爪を生やしているのを見、その同じ色のくちばしに引っかかって転びそうになって元のところへ帰った。Sは松林と玉葱畠の間にある凹地の中から砂をかき集め、わたしは赤銅色《しやくどういろ》の落ち葉や瘤《こぶ》だらけの細い枝をその中から拾いだし、袋に五分の一ほど詰めた。最初は袋の半分詰めたのだが、それは二人がかりでも持つことができなかったのだ。乾いた清潔な砂は表皮から三センチしかなくて、下のほうは黒く湿り、湿った砂は死体よりも重かった。紐《ひも》は持ってこなかったし、どこにも落ちていなかったのでSは袋の端を折り曲げて両手でかかえていた。大変重そうで始終持ちかえ、しまいには溜息《ためいき》までつくので、普通の女なら、たちまち惻隠《そくいん》の情をおこして彼をその苦業から解放してやりたくなっただろう。彼のほっそりした白い指とも、ウルトラマリンでベルトレスのズボンとも、その汚ならしい袋は似合わなかった。わたしは慰めの言葉を口にする代わりに、考エテミタラ、猫ハ鳥籠ノ中ダッタワと教えてやった。Sを勇気づけるつもりで。  鳥籠ノ中ニイルノハ文鳥ダロウ。  チガウワ、リンゴ箱ノ鳥籠ノホウニイルノヨ、猫ハ。  Sは自分のことなら気にしなくてもいいのだと言い、袋を肩にかついだ。彼がそんなに苦労するのがふしぎなほど少量の砂なのだが、一つには今までSはその袋を自分の体に密着させないように注意していたので、よけい重かったのだろう。新品のワイシャツの肩に台所用野菜屑入れの袋をのせてしまうとSは急に威勢がよくなった。  リンゴ箱ノホウノハネ、アナタ、アレハ猫ジャナクテ、雀デスとSは大声で言った。  ソウヨ、雀ミタイデショ。初メハソウダッタンダワ。ワタシガツカマエタ時ハネ。  それが、いつから猫になったのか。いや、猫になったのではなくて、猫であることに気づいたのだった。いつのことか解らないが。わたしが見ていると、その箱の金網をはってあるほうへ、いつも二、三羽の雀がきていた。中の一羽は常連で、わたしは彼だけは、はっきり見分けがついた。今年生れた若い雀らしく、くちばしも黄色で頭も茶褐色なので、他の頭の黒い雀たちと一緒にいると外国人のように見えて、わたしは彼は啼き方も英語かフランス語を使っているのではないかと思ったほどだった。その若い雀は面長で体もすんなりしていた。もう少し大きければ雀ではなくてセキレイかなんかのほうに似ていた。箱の中にいる生きものは若い雀の二倍の容積があり、全体にずっと丸かった。リンゴ箱は入り口の部分に網があるだけの立方体で他の五面は全部板だから、雨の日などは中が暗くて、よく見えない。二倍、というのは錯覚で、実は五倍か十九倍なのかも知れない。雀よりは、はるかに大きい生きもので、鷲《わし》でもイタチでも何でもよかったが、やはり猫の砂を持って帰ろうとしているのだから、猫にちがいない。わたしが、そういうようなことをぶつぶつ言うとSは、デハ、ボクガアナタニ結婚スルト言ッテイルノダカラ、アナタニハ旦那ハイナイコトニナル、と言った。ソシテ、コノ忌々《いまいま》シイ砂ノ袋ヲ捨テレバ、猫モイナクナル。アナタノイナクナッタ猫ト旦那ニ最敬礼。  驚いたことにSは、いきなりわたしの物である砂袋を道ばたの玉葱畠に投げ捨て、わたしを引きずって横へ走りだした。行く手には壮麗な城の影が見えていた。それは長い夕日を足もとにぶらさげ、おびただしい尖塔をもつ望楼と死んだ銃眼でわたしを狙っていた。そればかりか、静かに堂々と進撃しているようにさえ見えた。  ポンコツ車ノ墓場サ。ステキダロウ。先月写真ヲトリニ来タンダ、ボクタチ。イイカイ、ココガ結婚式場デホテルデベッドダヨ、とSはカブト虫を捕えた少年のように意気揚々と叫んだが、彼の捕えたのは可愛らしいカブト虫ではなかったし、わたしは苦労して硝子《ガラス》の破片を避けながらダンプカーの運転席に這いのぼりたくはなかった。  ベッドハ嫌イダワ。毛布ハ喘息《ぜんそく》ノモトニナルノヨとわたしは玉葱畠の中に大きく翼をのばしている城の影を見ながら無愛想に言い、すると急に干してきた蒲団のことを思いだした。急いで帰っても間に合わないかも知れない。帰ルワ、と潰《つぶ》れたセドリックの屋根の上にいるSに言うと、わたしはできる限りの速度で道を歩きだした。Sは慌ててわたしに追いつくと怒ッタノカイ。怒リハシナイダロ。何デモナイモンナ、とくり返し言い続けた。砂ノ袋捨テチャッテ悪カッタカナ。猫ガイルコトニスレバヨカッタカナ。わたしは怒ってはいないと答えた。太陽の落ちる速度より早く帰らなければ蒲団が湿ってしまう。湿ってしまえば干さないほうがましになってしまう。Sは承服しなかった。わたしが怒っているにちがいない、心の底で、もうSと絶交する気になっているにちがいない、と彼はわたしの左へ並んだり右から顔を覗《のぞ》いたりして言い、わたしは、そのあまりのうるささに、すっかり嫌になって怒ッテナイッタラとどなった。  ソウ。ジャア証拠ヲ見セテクレ。今カラ一緒ニ寝ヨウ。ソウスレバ信ジヨウとSは威丈高に言う。イイワとわたしは言った。イヤダナンテ、ワタシハ一度モ言ッタコトハナイデショ。Sは大げさな音をたてて息を吸いこみ、わたしの、わたしとしてはせいいっぱいだけれどもSにとってはとまっているとしか思われない緩やかな歩調のことを忘れ、そのまま二百メートルも一人で先に歩いて行ってから立ちどまった。わたしが追いつくと、シカシ、アナタハボクヲ好キデモ嫌イデモナインダロウとSは、わたしを睨《にら》み、わたしはエエと答えてから、笑いを噛み殺すのに苦労した。あれだけ細心に用心していたのに、Sはここで失敗したのだった。好きか嫌いかということと寝ることはSの頭の中で密接な結びつきを示し、同意語と言ってもよく、それはすなわち「愛」という幼児語を暗示しているのだから、Sの今の発言は不用意にも、それを白状してしまったことになる。わたしが笑いださなかったのは一生懸命に尊大なペルシャ猫の気分になっていたからで、象だったならば、あの巨体に似合わぬ甲高い笑いを噴き上げていただろう。  うちへ帰り、わたしたちは協力してだんだら蛇と暗雲模様を収穫した。蒲団たちは、もはや体温を失いかけてはいたが、太陽の体臭だけは深くしみついていて、わたしは、いつもするように何度も蒲団に顔を押しあて、全部の蒲団を積み重ねた上に寝転がった。するとSが勢いこんでわたしに飛びかかったので、わたしはどういう気かと冷静に訊《たず》ねた。今カラ寝ルツモリナンジャナイデショウネ。  イヤナノカイ。嘘ツキとSは少女じみた黄色い声で言い、わたしは、またもやうんざりしたが、Sが誤解するのは無理もないとも思われるので、わたしは寝ているのではないこと、干した蒲団の匂いに偏執狂的な愛着を抱いていること、また現在の形の蒲団は正常に敷かれた状態ではないことなどを彼にわからせた。それから、すっかりしおれて、まじめな分別くさい顔になったSを隣室の丸椅子へ押し戻し、蒲団を正常な状態に整えようとしたのだが、蒲団たちは飛行機のような形をしていて、いくら向きを変えても蒲団らしくならない。一年ぶりか半年ぶりかの太陽で気がおかしくなったのか、それとも例のネス湖の怪物の如き「旦那」のせいか。奇怪なことには巨大なクラゲ性の物になった白いカヴァーまでが何度追い払ってもわたしの足もとにまつわりつき、わたしの邪魔をするのである。わたしはその妨害にもめげずに数枚の蒲団を何度も重ねたり、積み上げたり、横に並べたりしたあげく、とうとう、あきらめて、Sのいる部屋を覗くと、わたしの壊れかけた安楽椅子とSとSの丸椅子は、どう見ても三角関係の情事の最中としか見えない。Sは運悪く何かの都合で悪路のバスの乗客になった老婆のように中腰になってわたしの安楽椅子につかまってい、体中から蒼い棘を分泌させながら言った。  ハヤク。デナイトボクハ、モウ……モウ……  アラ、ソウとわたしは冷淡に言った。ジャ、アノ人ニ頼ンダラ。アノ人と言うのはSの知人で、神さまではないが神さまみたいなものである。なぜかといえば、彼はどんな顔をしているのかわからず、匂いもなければ利益《りやく》もなく、金だけはとるらしいから。そうして、普通なら拝むところを、それにあたるのが逆だちしたり寝そべったりする奇妙な体操なのである。前に、かれはその礼拝をしてみせると言って、わたしが見ている前で服を脱ぎ始めたので驚いて中止させたことがあった。それでは型だけ見せると言って彼は服のままでやったのだが、それはわたしの考えでは、テレビの幼児体操に似たようなものだった。わたしはずっと以前、自分が丸く肥った象の幼虫であるとかたく信じていた時期があって、その頃は朝から晩まで幼児番組にチャンネルを合わせ、午前と午後の二回ずつ幼児体操をしたので、大キクナレ、大キクナァレ、だの、雷ゴロゴロ、ゴーロゴロという歌詞や、とびあがったり畳の上を鮪《まぐろ》のように転がっていく体操を完全にそらんじてしまっていたのである。  Sは、もう下着だけになって畳の上に正坐していた。屋外にもどこにも日のかげはなくなっていたが、室内には夕暮れらしい曖昧《あいまい》な明るさと暗さが散らばっていて、その中にいる裸の長い手足をむきだした若い男は、その独特な、悲痛ともいえる表情によって、今まさに死刑になりつつある囚人のようにみえる。いったい死刑囚は何を着て死んでいくのだろうか。裸こそがふさわしいのだが。わたしは姿のないわたしの「旦那」と「猫」が死刑にされる場面を想像したが、むろん見たことのないもの、存在のあやふやなものが死刑になったりするはずもなく、しかたがないので、まずその方法から考えた。馬車が手足計四本を四方へ引っぱっていくという方法は旧弊すぎるし、電気椅子は無趣味で、釜茹《かまゆ》でや火あぶりは湯気や煙のために見物を妨げられる。ネロがやったようにライオンに喰わせるのが最上だが、わたしはもう十何年もライオンを見たことはなかった。十何年もというよりは、ライオンがわたしの中で生きていたのは、ほんの子供の時だけで、もはやこの世界には二百キロもある牡牛《おうし》を背中にのせて五メートルもある柵《さく》を乗りこえる、あの華々しく雄々しい生きものは存在しないのではなかろうか。  わたしが、おとなしく見物しているのでSは女物のように優美で純白な下着を薄闇の中で少しずつ動かしはじめた。徐々に体を倒す。両手を前へ伸ばして完全に畳と平らになったところは「おお、アラーの神よ」という風情である。それからまた、おそろしく時間をかけて上体をおこし、三十秒の静止。そのとき、わたしが室外へとびだしかけたほどの壮烈な物音が部屋中に鳴りひびいた。それは物音としか言いようがなかった。ただの音ではなくて、もっとも醜い音。あらゆる抽象的な、あらゆる透明な快適なものをすべて取り去った後に残る、溝色《どぶいろ》の濁った欲情的な破壊的な音。Sはわたしを無視して、何度もその動作を行ない、何度もその音をたてた。そんな音が彼のどこから出るのか、わたしはSの傍まで行って眼ばたきもせずに監視したが、どうしてもわからない。Sは前に、隣の人にオットセイを飼っているのではないかと詰問されたと話したが、それは、この物音のためにちがいなく、みるみるうちに部屋中に動物園くさい獣の悪臭が充満し、彼の製造する溝色の音は決して消えていかないばかりか、中身の稀薄《きはく》な水素風船のように天井にたまり、宙を浮游《ふゆう》している。遂にわたしはやめてと叫んだが、Sの眼は無気味な貝の剥身《むきみ》になっていて、わたしのほうを見ているのかどうかも解らず、その機械的な動作だけが際限もなく続く。モウ解ッタワ。ハヤク寝マショウとわたしがSの奇声もしくは奇音にまけない大音声《だいおんじよう》で言うと、Sはその動作を止めないままでわたしを抱き、それは暗黒大陸のジャングルの中の潜水艇の中よりも暗く、わたしは自分がアミーバー状の黒い闇に変身したのではないかと疑い、ワタシハ融ケテナイカシラ。ワタシハ本当ニココニイル人ナノと必死でSに訊ねるが、どうしたことか奇天烈《きてれつ》な音だけは残っているのに、あの退屈な美青年は、どこをどう捜しても影も形もなくなっていて、虚無色の空間に呑みこまれてしまったとしか思いようはなく、わたしはとうとう「旦那」と「猫」の他に「恋人」をも捜さなければならぬ羽目になったが、何にしても、それは今から三日間の嗜眠症の期間がすぎてから——正確にいうならば七十二時間後でいいのである。 [#地付き](「早稲田文学」昭和四十五年一月号) [#改ページ]   無明長夜     一  十年ぶりに御本山へ行ってまいりました。おまいりして来た、とは言えません。私はお賽銭《さいせん》をあげたことも御本尊を拝んだこともありませんから。  御本山は、私にとっては、お寺ではないのです。それはひとつの確固とした不動の|もの《ヽヽ》、不変|真如《しんによ》でした。他のどんなものとも何のかかわりあいもなしに、そこに存在している|もの《ヽヽ》でした。物心がついてからいままでの二十数年、私はずっと心の底のどこかで御本山を意識して生きてきました。それがそこにあるということを片時も忘れたことはありません。そのことを私はついこの頃、自分で悟りました。幼い頃から人と会話というものをしたことのなかった私が心の中で絶えず問いかけ、語りかけてきたものが何であったか。それは自分でも言葉にして言うことはできない漠然とした問いで、問いも答えも濁った水底の石ころのようにぼんやりとしていました。問いそのものは、そのように形をなさぬものでしたが、その対象は御本山だったのです。それに気づいたとき、ああ、と私は眼がさめたような気がしました。そして、もう十年、御本山へ行ってないのを思いだし、御本山へ行かなければならぬ、行ってたしかめてみなければ、と考えました。  私は結婚していた間、藤川村に住んでいました。藤川から御本山までは十数キロの距離です。御本山膝下の門前村から山へ続いている長い急峻《きゆうしゆん》な御参道と、藤川から門前までの軽便に乗っている時間を勘定にいれても一時間半はかからないでしょう。夫が会社へ行っている間に往復する時間は充分ありました。姑《しゆうとめ》の福子も、そういうことに文句を言うような人ではありません。まして門前村は私が結婚までの二十数年住んでいたところです。いまも母がいます。どこから考えても私が御本山へ来ることのできない理由はなかったのですが、私は来ませんでした。御本山へも門前村へも。行きたければいつでも行けるのだということさえ思いだしもしませんでした。御本山は私の中で牛乳の薄皮のような平べったい膜になって冷え冷えとしていたのです。そのころ無理に御本山へのぼっても私は物好きな暇人の眼でしか御本山を眺められなかったでしょう。それとも、何かよみがえってくるものがあったでしょうか。私は行くべきだったのでしょうか。  夫の吉彦が山梨県の出張先から行方不明になったと聞いたとき、急に私の心の中の御本山が厚みを持ちました。御本山がぐいと近くなったのが感じられました。夫の行方不明という事実を私は御本山からの語りかけのように思ったのです。吉彦のことは、あまり考えませんでした。だんだん日がたつと、吉彦の失踪《しつそう》が自発的なものであるという証拠が幾つかでてきました。何が原因で吉彦が母と妻を捨てたのか、私にも姑の福子にも解りませんでした。吉彦のいない生活を二カ月続けてから私はひとまず実母のいる門前村へ戻ってようすを見ることになりました。  再び門前村へ戻ってくる軽便の中で私は近づいてくる御本山の深い森を見ました。ああ、そうか。あれだったのか、と私におぼろげに感じとれるものがありました。重苦しい、避け得ぬものでした。御本山へのぼらなくてはいけない、と私は思いました。それでも、私はすぐには行きませんでした。藤川での五年半の生活が、まだ尾を引いていました。少しずつ往復してこまごました荷物を運ばなければなりませんでした。正式に離婚したわけではなく、近所の手前もあるのでトラックで一度に運びだすということはできなかったのです。それがすむと、私のこれからの生活のことを考える必要がありました。藤川の家も私の母も、ひとり暮しには困りませんが私を遊ばせておく余裕はなかったのです。  今日、御本山へのぼったのは、それらのすべてが一応片附いて先のめどもついたからでした。ようやく、という思いがありました。  母の借りてくれた農家の離れから御本山へ向う道を歩きだしながら、初めてこの村へ来たのは何歳のときだったろうか、と私は年月を逆にたぐりました。多分、二歳か三歳だったでしょう。戦争中のことでした。私と母は父の応召後、わずかな伝手《つて》を頼って、この雲州鉄道門前線の終着駅、門前村に疎開してきたのでした。ここへ来て間もなく、私たちは父の戦死を知りました。母は役場の小使になりました。どうせ何かをしなければ食べられなかったのですが、それまで普通の会社員の妻だった母は、小使などという職業を大変屈辱的に感じているようでした。母はしばしば|まち《ヽヽ》の話をしました。それはどことも知れぬ輝かしい場所の物語でした。私たちはいずれそこへ戻るのです。少なくとも私はそのように思いこんで育ったのです。村には私たちと同じような疎開者の家族がたくさんいて、村人たちとはちがう言葉をつかい、ないまぜになった優越感と阿諛《あゆ》を露骨にみせていました。私は村の子供たちとも交わりませんでしたが、そういう疎開者の子供たちの仲間にも入りませんでした。私の容易に人となじまない陰気な性質がその第一の原因だったのですが、私が愛嬌のいい子供だったとしても同じことだったでしょう。疎開者の多くは売り食いで、役場の小使などになった人はいなかったからです。戦争が終って二、三年もすると彼らは町へ戻りはじめ、昭和二十年代も末に近くなった頃は、村に残っている疎開者は私たち母子だけになりました。私はもう|まち《ヽヽ》の話を母にせがまなくなっていました。親戚も金も財産もない私たちに帰るべき|まち《ヽヽ》などはないのです。私はそれが解る歳になっていました。  私は御本山へ登るために自分の家の横の小道から県道へ出、後ろの山をふり返りました。坂の中腹に去年まで母の勤めていた役場が見えます。だいぶいたんだ古い建物ですが、田舎にしては洒落《しや》れた設計で、スペイン風のポーチがついています。私は雨の日にはそのポーチで遊んだものでした。天気のよい日は大抵、役場の横の坂道を登りつめた先にあるお稲荷《いなり》さんに行きました。お稲荷さんは雑木林に囲まれていますから県道からでは所在も解りません。その雑木の中に一本、大きな寒椿《かんつばき》があり、冬になると祠《ほこら》の近くの地面は崩れ落ちた無数の花で赤く染められるのでした。私は自分がその椿の落花を見ながら考えたことをいまでも覚えています。何の音もせず、小鳥さえも飛んでいない冬の昼間でした。陽だまりにしゃがんで、私はこう思ったのでした。「物ごとは何でも新しいクレヨンのように、きっちりと揃《そろ》って詰っていて、しっかりと手でつかめるのだ」  たとえば、時間がそうでした。それから歯を磨くこと、人に挨拶すること、うがい。それらは、本来なにも考える必要のない決りきった事柄で、ちゃんとした形があるはずなのです。私だけがそれを知りませんでした。歯を磨くときに、どのくらい力をいれるか、何回こするか、どうしても解りませんでした。「そんなことをいちいち訊《き》く人はない、誰だって知っていることだ」と母はうるさがりました。皆には「規準」というものが歴然とあって人に言われなくても自然に解っているのです。私にだけ、どんな規準もありません。考えだすときりがなくなりました。時間はぼわぼわと無際限に拡がり、何もかもあやふやでいい加減に思われるのでした。  御本山へ初めて登ったのは小学校へ通うようになってからでしょうか。母と私の借りていた家から御本山までの間には小さな山があったし、母はわざわざ私を連れて行くほど暇ではなかったのです。もちろん、小学生になったばかりの私には御本山は単なる遊び場所にすぎませんでした。御本山の寺域は山門から奥の院まで含めると一万坪もありますから非常に規模の大きい魅力的な遊び場所です。友達のない私はすぐに御本山のとりこになりました。参道を通って本堂のあるところまで行くのには子供の足では一時間余もかかるのですが、私はほとんど毎日のように御本山へ遊びに行くようになりました。上へは登らないで、下の山門わきの池の傍で時をすごすこともありました。池の鯉《こい》を眺めたり、羅漢《らかん》を数えたりしました。  御本山が私の内部で、学校の運動場や、遠足で行った遊園地などと全くちがうものになったのは、|かれ《ヽヽ》を見てからです。そのとき、私は八歳でした。私は本堂前の広場で遊んでいました。ふだんは御本山には人は、あまりいません。殊にその日は私は参道でも、上へ登ってからも誰にも逢いませんでした。私はしばらく本堂の縁の下の土をいじっていました。本堂のまわり廊下は大人の背丈よりも高く、幅も一間半あります。その下の五百年、陽にあたらない土は黄みがかった細かい砂になってサラサラしていました。私は何度も土をすくったりこぼしたりしてから一握りつかんで外へ出ました。別に何をしようというあてがあったわけではありません。私は広場の中程にある植えこみに近寄り、きれいに刈られた葉先の上で掌を開きながら何気なく顔をあげました。そのとき、縁に|その人《ヽヽヽ》が現われたのです。それは、ごくあたりまえのお坊さんでした。特別に若くもないし、老人ということもなく、背も肥りかたも普通でした。お坊さんならば、御本山へ来てひとりも見ない日などは珍しいくらいなのです。なぜ彼が特別に私の注意を惹《ひ》いたのか、すぐには気づきませんでした。私は彼が長い縁を渡りきって寺務所へ通ずるくぐり戸から奥へ入るまで熱心に眺めました。それは、ほんの一瞬のようでもあり、長い時間だったような気もします。彼がゆっくり歩いたのか速足だったのかということも解りません。彼にも、彼の歩きかたにもひとつの確かなものがあり、時間も遅速も無関係なのでした。私はぼんやりと彼が姿を消したくぐり戸を見ていました。御本山が他のどんなものとも異質のものだと知ったのはそのときでした。あの人は何をするのにも迷うことはあるまい、と私は思いました。下から見あげた伽藍《がらん》の屋根はいかつい、くっきりした線を空に浮びあがらせていました。それも確かなものでした。彼の確かさと御本山の確かさは同じものでした。曖昧《あいまい》なところはありませんでした。  その後、私は本堂前の広場へ行くたびにその僧の通った縁を眺めました。しかし、何十度眺めても、もう|かれ《ヽヽ》は通りませんでした。そこで私は|かれ《ヽヽ》の代りに截然《せつぜん》と並んでいる御本堂の垂木《たるき》や厚い頑丈な縁を何時間もみつめました。  御本山には大門から十メートル離れたところに山門があります。よく仁王の立っている山門がありますが、その山門にはそういうものはなく、上部だけに仰々しい格子《こうし》がのっています。それらの上から下まで隈《くま》なく塗り潰《つぶ》されている粉っぽい朱色を見たとき、あ、と胸の詰る感じがありました。私はその鱗粉《りんぷん》をまぶしつけたような乾いた色が嫌いでした。いつも微《かす》かな不快感を覚えました。ここへ来て山門を見ると、それを思いだすのですが、それは実体のない「感じ」にすぎないので、そこを通りすぎると忘れてしまうのです。その幾十度もの不快感の記憶の集積。御本山へ来なかった間、私は御本山のことは考えても、この朱色の山門のことは決して思いだしはしなかった。そのことが重大な手落ちのような気がしました。子供の時分から、私はこの山門を避けて通る習慣だったのです。色ばかりでなく形も私には奇怪としか思われませんでした。山門は神楽《かぐら》獅子《じし》に似た大仰な口を開いて待ち構えているのです。そこを通るためには五段の階段を上下しなければなりません。山門附近は駐車用の空地もある広い場所ですから迂回《うかい》すれば何でもないのです。私にはおまいりする人たちが何のためらいもなく山門の階段をのぼるのが不思議に思われました。そのうちには、自分が山門をくぐらないのは私の意志ではなくて、自分にその資格がないからだという気がしはじめました。私は山門を迂回するとき、すばやく門の向うを覗《のぞ》くようになりました。離れたところから見る豪奢《ごうしや》な朱色の額縁の中は気遠くなるような、みずみずしい緑でした。それは私が触れることのできないものなのです。私は山門から拒否されているのでした。  山門を過ぎて十数メートル行くと大きく右に曲る参道の入口があり、左手には池があります。大きいだけで池の形にも周囲にも何の配慮もされていない殺風景な池で、池のふちに茂っている隠花植物や自生木、参道沿いの杉などが水面にくすんだ緑の樹影を落しています。昔から池は澄んでいたことがありませんでした。時折、どんより濁った重い水の中から大きな鯉が上半身をもちあげますが、鯉が何匹いるのか知っている人はないでしょう。七、八匹にすぎないと思われることもあれば、四、五十匹はいると感じられる日もあります。水面のあちこちが、でこぼこに盛りあがったり、くぼんだりしている気のする池でした。あのへんの、ひときわ水の色の濃いあたり、不透明な青磁色の水の下に黒や緋色《ひいろ》の鯉たちが髭《ひげ》のある口を丸くすぼめて何十匹も群がっている、と解るときもありました。いきものの気配が水底から水面につたわり、そのいのちのあおりで水面がそこだけふくれあがっているのでした。池のふちに立っている私の足もとに桃色の斑《ふ》をつけた鯉が首を出します。鯉は驚くほどの大きさでした。鯉にかきわけられた水が生きもののように池の中央までうねっていきます。ああ、そうだった、あの頃からこの池には大きな鯉しかいなかった、小さな鯉は見たことがなかった、と私は思いだしました。私は玉枝と、この池の鯉の数を調べようとしたことがあったのです。池は晴天が続くと少しは澄みましたが、それでも水底までは見通せません。底のほうで暗く澱《よど》んでいるものは鯉の姿とも気のせいとも解らず、始終私と玉枝の口争いの種になりました。そういうときは、平生から桜色にぽうっと赤い玉枝の頬はますます紅潮し、小さな受け口の唇が唾で光るのでした。私は二十年も前のことを昨日のことのように思いました。手を伸ばせば隣りに立っている玉枝の丸い肩に触るのではないかという気がしました。  大貫玉枝は私のただひとりの友達でした。それ以前にも、それ以後にも私には友達はなかったのです。玉枝にとっても、おそらく私はただひとりの友だったでしょう。私たちが知りあったのは小学校三年の初めでした。玉枝は大門近くの大きな旅館の子で、彼女もひとりで大池の傍で遊ぶことが多かったのです。玉枝は癲癇《てんかん》もちでしたから遠くへ行くことは禁止されていましたし、そういう病気に加えて人一倍引っこみ思案で臆病な性質なので友達がなかったのでした。私たちは毎日のように池の傍で顔を合わせ、お互いに相手の名前や同じ学年だということも知りながら、なかなか馴染《なじ》もうとはしませんでした。微笑しあうようになってから口をきくまでに半月もかかりました。すっかりうちとけた後も、他の子供たちのように相手の体に触ったり追いかけっこをしたりはしないで、軽便がお釜(蒸気機関車)を交換するのを見物しに行ったり、それぞれの家の用でどこかへお使いに行くのに一緒について行ってやったりするくらいのものでした。その頃、私が彼女の病気について知っていたかどうか覚えがありません。そういう噂《うわさ》は聞いていただろうと思いますが気にはしなかったのでしょう。私には癲癇についての知識は何もなかったし、玉枝にも別に変なところはなかったのです。私はひとりで歩いているとソカイノオコンジキ(疎開者の乞食)と意地悪な子にはやされました。玉枝といるとテンカンッ子バチアタリ、チャットイネ(疾《はや》く去れ。イネには|死ね《ヽヽ》という意味もあります)と節をつけて歌われました。  私が最初に玉枝の癲癇を見たのは彼女と知りあってから三年目、小学校五年生の春でした。玉枝はそれまでにも何回か学校で癲癇をおこしていましたが、私は彼女とはちがう組だったり欠席していたりして知りませんでした。五年のときは私は玉枝と同じ組で席も近くでした。玉枝は私の斜め前でした。先生が後ろ向きになって黒板に字を書いていると、妙な音がしました。戸の軋《きし》む音に似ていました。私は首をまわして教室の後ろの戸を見ました。誰かが遅刻してきたのかと思ったのです。そのとき、私のすぐ耳もとで突然、「わあああー」という叫び声が聞えました。それは後で考えて叫び声だと解ったのですし、文字で書くと「わあああ」としか書けないのですが、実際は為体《えたい》の知れない凄烈《せいれつ》な音だったのです。その瞬間には、人間の口から出た声だとは思いませんでした。何かおそろしいことの到来を告げる音でした。体中が痺《しび》れ、私は動けなくなりました。何も見えなくなりました。なにがおこったのか解らなかったのです。玉枝は、ばたんと後ろへのけぞりました。私の隣席の子の机の上に、あおむけになった顔をのせました。隣りの子は何か叫んで逃げだしましたが私は体が動きません。玉枝の顔は私と呼吸が触れあうほどの近さにあり、じっと私を見ているのです。眼を開けたままの変に静かな顔でした。口を開いているわけでもなく、眉をつりあげているのでもないのに変な顔でした。一秒の何万分の一という短い時間にぱっと停止した顔、いわば真空状態にある顔でした。私は息を止め、とびでそうな眼で彼女の顔を見ていたにちがいありません。玉枝は、それから間断なく体を痙攣《けいれん》させながら椅子からずり落ちはじめました。体を丸太のように硬直させているので、突張った足だけが椅子の上に残りました。頭と肩は床についていますから、さかさまに吊《つる》しあげられた形です。スカートが下腹から胸へまくれあがり、木綿の下着や腿《もも》が見えました。椅子の上の足は、まだ激しい勢いで交互に椅子に打ちつけられています。総立ちになって遠巻きにしている子供たちのひとりが、はねとんだ玉枝のスリッパを彼女の顔の上にのせました。自分の穿《は》いている草履を頭にのせると癲癇がおさまるというおまじないを咄嗟《とつさ》にスリッパで代用したのでしょう。ずいぶん穿き古されて汚れたスリッパでした。玉枝は物持ちがよかったので、そんな物でも使える限りは使っていたのです。スリッパの踵《かかと》のほうから黒紫によじれたフェルトが臓物《ぞうもつ》のようにはみだしていました。それが唾液《だえき》をためた玉枝の唇の端にかかってい、ほころびかけた尖端《せんたん》は開いたままの片眼をおおっていました。玉枝の痙攣は次第にゆるやかになり、彼女は嬰児《えいじ》がいやいやをするようにスリッパをのせた顔を左右に動かしました。  私はその四年後、もう一度、玉枝の癲癇を見ました。今度は見たというよりは参加したというべきかも知れません。それは高校の入学試験の日で、結局玉枝は高校へは進学せず、私ひとりが高校生になったので玉枝とのつきあいもそれで自然に終りになったのでした。小学校三年から中学三年までの七年間、私は玉枝とよい友達で、遊ぶといえば玉枝しか相手はなかったのに、いま思いだそうとすると呆《あき》れるほど何も覚えていません。玉枝の頑《かたく》なに黙った表情、追いつめられた弱い獣のように居直った顔、そういったものはいまでも眼前にあるのですが、具体的な事柄としては何も浮ばないのです。ただひとつ鮮明なのは玉枝とふたりでいるときに根上《ねあが》り松のところで出会った女のことでした。  根上り松は三角山の植樹林のはずれにあって一本だけ孤立しています。呼び名通り木の根もとには太い松の根が奇怪な形に何本もとぐろを巻き、空中高くうねり盛りあがって数メートルにも達しています。女はその根の間に正坐していました。私と玉枝は遠くから彼女の異様な雰囲気《ふんいき》に気づき、悟られないように木の後ろに隠れながら、そっと近づきました。女は口の中でしきりに何か呟《つぶや》いていました。言っている言葉は解りませんが、経文やひとりごとではなく誰かに怒っている口調に聞えました。横顔の見えるところまで近づくと彼女の頬に痣《あざ》とも雀斑《そばかす》とも見える濃い褐色の点が金砂子《きんすなご》のように散っているのが解りました。「キチガイかも知れんね」と私たちは囁《ささや》き交わしましたが自信はありませんでした。女の仕種《しぐさ》は儀式の一種だとも思われたのです。彼女は自分の胸のへんを撫《な》でたり野良着の前をかき合せたりしながら呟いていました。それが終ると、急に上体を折り曲げました。地面へ叩きつけるようなやり方でした。今度は私たちは「ジサツするかも知れんよ」と言いあい、興奮してわくわくしました。実際、子供というものは、時にはおかしいくらい残酷になるものです。私たちはその見物に有頂天になっていました。女のようすには、私たちにそう思わせるようなものがあったのです。ある厳粛ないたましさ、といったようなものが。自殺に類することをしそうだと私たちが思ったのは、そのお辞儀のせいもあるでしょう。彼女は、しっかりと上体を立てて正坐している姿勢から急にのめるように前方にくず折れ、数秒、地面に顔を押しつけました。それを何度も繰りかえすのですが、その瞬間の顔にも、地面からもちあげたときの、土だの枯れ松葉だのが額についている顔にも何の表情もありませんでした。ただ、自分の体を地面へ投げだす動作の唐突な烈しさだけが、そのたびに「彼女は死ぬ、今度こそ確実に死ぬ」と私たちに感じさせたのでした。女は私たちの見ている前で数十分同じことをやり、しまいには地面に体を伏せたまま動かなくなりました。死んだのか、疲れたのか。私も玉枝も傍へ寄って調べる勇気はありませんでした。  真冬の寒い朝でした。私たちは門前中学からの他の受験生たちと一緒に軽便で三十分かかる太呉高校へ行き、受験生控え室になっている火の気のない講堂で長いこと待ちました。次の軽便でも間にあうのですが、中学の先生が「時間は余裕を見て早目に着くようにしたほうがいい」と言うので一時間の余も待つことになったのです。ようやく高校の先生が出てきて簡単な注意をし、受験番号順に教室の指定をしはじめました。私は自分の番になったので立ちあがり、私と続き番号になっている玉枝を促しました。彼女は通路に棒立ちになったまま私の顔を見ているので私は先へ進めなかったのです。「はやく。何してるのよ」と催促しながら私は彼女の真面目な凝視に不安な違和感を持ちました。「玉ちゃん」ともう一度、私が言いかけたとき、玉枝はゆっくりとサイレンのような唸《うな》り声をあげ、私に向って徐々に倒れかかってきました。私は一歩さがりました。どうしてそんなことをしたのか。私がそのままそこにいれば彼女の第一の衝撃は、かなり和らげられたのです。彼女の頭は机の角ではなくて私の胸にぶつかるはずでしたから。なぜ私が彼女を避けたのか、どうしても解りません。怖れたのではありませんでした。反射的にそうしたのでもありません。彼女の凝視に違和感を覚えたとき、私は彼女の発作に気づいていました。私のほうへ倒れかかるという予測もつきました。彼女の重心が前にあったからです。私が倒れかかる玉枝の体を避けたのは決して|間違えた《ヽヽヽヽ》のではありません。どこかからひとつの考えが突然私の頭に入りこみ、決定的な確信となっていたのです。そのほうが玉枝によい、机の角に頭を打ちつけて打ち所が悪くて死んだとしても、そのほうがいいのだ、という考えが。複雑な数学の問題のように順を追って解いていくと、そういう答えが出ている。それを私は瞬時にやってのけたのです。  玉枝は額を打ちました。傷そのものは軽かったのですが傷痕《きずあと》が残りました。彼女はそれを隠すために前髪をさげる髪型にしました。玉枝は面長で滑らかな白い額をしていたので、それを隠すと下卑た野暮ったい顔になりました。その後、高校から追試の通知もあったそうですが玉枝は受験せず、私は入試に合格して毎朝軽便に三十分乗って太呉町へ通うようになりました。  昼間の大半を御本山のある門前村から十数キロの太呉町で過すようになると、かえって御本山は私に近くなりました。朝、軽便が門前駅を出るとき、夕方、門前駅に近い小さな鉄橋を渡るとき。一日に最低この二回は私は御本山を意識しました。あれは単なる建物だ、他の山と同じ、ただの山なのだと思うこともありました。不動なんてものはありはしない、そんなものは虚妄《きよもう》にすぎないと考えることもありました。あるときは微動もしない御本山を憎み、無視しようとしました。どんなにあがいても、やはり私は朝は御本山の黒い森を見ながら門前を出、夕方、鬱蒼と茂った御本山の山を見ながら帰って来ました。  軽便が次の駅を過ぎて御本山が全く見えなくなってからも私はいつも自分ひとりの考えにふけっていました。話し相手もなかったし、考えだすと自分が重要なことの周辺に近づいているような興奮を感じて熱中してしまうのです。何を考えていたのか。そう尋ねられるとこたえようがありません。私ひとりだけにしか解らないことなのです。水を溢《あふ》れるほどにたたえた大だらいに一滴の墨汁をたらすと、それはたちまち四方へ散って跡かたもなくなるでしょう。それと同じことでした。私の考えも、いざ説明しようとすると融《と》けて何もなくなる。そうかといって墨汁がなくなったのではないのです。一滴の純粋な墨汁は、どこかにあるのです。もっとも、私のしていたことは逆の操作だったのだと言えるかも知れません。私は大だらいの中の水から一滴の墨汁を抽出《ちゆうしゆつ》しようとしていたのだ、と。  考えあぐねて眼を車窓にうつすこともありました。軽便は眼を惹《ひ》くような珍しいものなど何ひとつない田舎の風景の中を走って行きます。田畑も森も山も、門前村の風物と少しも変ってはいません。その中に赤い色が見えると、そのときだけ私の視線はそれに吸いつけられました。他の人には何でもないのでしょうが私は子供の頃から赤いものを見ると特別な気分になりました。頭の中がカッと熱くなりました。どうにもならないものを引きずり歩いている。そういう不明瞭な不快感がありました。「どうにもならないもの」というのは私であり、また私の前にある途方もなく長い道なのです。  軽便の窓から見える赤は、赤い布、カンナ、金魚草、秋の紅葉など、種々ありますが、私に最も強烈な印象を与えるのは曼珠沙華《まんじゆしやげ》の赤でした。春秋の彼岸には、田圃《たんぼ》の畦《あぜ》や川っぷちは、びっしりと真紅の花群で蔽《おお》われ、それは緋色の帯を伸ばしたように蜿蜒《えんえん》と続きました。その盛大に群がり蠢《うごめ》く赤は何回見ても私に強い衝撃を与えました。私は決って息苦しくなりました。私は自分がひとつのかたまり、濃密なゼラチン状の粘ったかたまりになっていくのを感じました。それは一刻も静止していないのです。体に力を入れていないと、ばらばらにほどけて流れだしてしまう。そんな気がしました。私の内奥に何かおそろしい力を秘めた兇悪なものがあって、それが身じろぎしているのです。私の意志とはかかわりなく勝手に動きだそうとしているのです。  それから晩秋に見た焚火《たきび》のこと。暮れるのが早くなった季節で、時間はそれほどでもないのに、もう外の景色は何も見えませんでした。私は例によって考えているような、いないような状態で顔を外へ向けていました。そこに、ふいに壮《さか》んに燃えあがっている火が見えたのです。ひどく大きい炎に見えましたが、それは農夫たちが稲を刈りとったあとの田圃で藁屑《わらくず》を燃やしている火でした。しかも、軽便の線路から、かなり離れていました。私はふるえながら火を眺めました。感動のための身震いでした。体中の血が奔流となって逆に流れだしたような鮮烈な苦しさを感じました。自分は生きているのだ、と私は思いました。それは極めて即物的な感動で、思考や精神の入りこむ余地は何もなかったのです。私は映画の手術の場面で、切り開かれた胸の中の血みどろな心臓が脈うっているのを見たことがあります。拡大された鼓動の音が鈍い音をたてていました。それは、いままでに一度も聞いたことのない濁った音、尖端も尻尾《しつぽ》もない、それ自体が重い塊であるかのような音でした。その音をたてている大写しの心臓は鮮血にまみれながら規則正しく収縮運動をくりかえしていました。その美しい心臓は「人生」とも人間の悲しみや喜びとも無縁でした。生きている、あの心臓のように生きている、と私は感じました。私は言葉にならぬ嘆声を発して軽便のデッキにうずくまりました。私の内部の、私とは別のところにいる生きものが生理的《ヽヽヽ》な涙を排泄《ヽヽ》していました。言葉や頭ではなく私でもないもの、私の存在そのものが闇の中の、いまはもう一点の光となった赤い火に揺り動かされて激しくおののいていたのでした。  学校へ行っても家へ帰っても私には親しく話しあう人はなかったので他人のことは、あまり考えたことがありませんでした。他人のことばかりではなく、外界にも現実にも深い関心は抱きませんでした。それらは所詮《しよせん》、仮のかたちにすぎないのです。ほんの間に合せなのです。何かに熱中しそうになると「騙《だま》されてはいけない」と引きとめるものがありました。私がいるところも仮の場所なのでした。私はいてはならないところにいるのです。それは列車の連結器の上のようなところでした。すぐ横に車輛《しやりよう》と車輛の間の細い隙間があり、そこを外の細長い景色が次々と走り去って行きます。足もとに重ね合わされた黒い襞《ひだ》や金属板は絶えず激しく振動して私をふり落そうとしている。雨が降っているときは私の頭や首すじにぽとぽとと水滴がしたたり落ちます。私は何も好きこのんでそこにいるのではないのです。満員の乗客に押されて止むを得ず、そんなところにいるのです。汽車からとびおりることはできないし、頑丈な厚い壁となって私を圧迫している乗客たちを無理にかきわけて下車する決断もつかない。とにかく目的地まで行かなければなりません。ところが、その目的地がどこか、はたして目的地などというものがあるのかどうか、それさえも分明でない。見えるものは隣りにいる見知らぬ中年女の汗臭い髪の毛、私の顔におしつけられている誰かのオーバー、といったような、ほんの一部分にすぎません。それが私にとっての「日常」であり「現実」なのでした。  いるべき場所がないという感じは常に私につきまといました。大谷の葬式のときもそうでした。大谷というのは村の収入役を二十年余もやっていた人です。母が娘の私まで葬式の手伝いに連れて行ったのは大谷に特別に世話になっていたという恩義があるからでした。葬式には私より二、三歳下の由子という少女も来ていました。彼女は役場の雑役婦の娘です。他は大人ばかりですから、私たちは組になりました。私たちの最初の仕事は裏の土蔵から葬式用の膳椀を運ぶことでした。田舎の葬式には実際はがんじがらめの規則やしきたりがあって、皆それにそって動いているのですが、一見したところ、大変とりとめのない感じがします。進行がゆるやかなのもその一因でしょう。皆が、てんでばらばらに好き勝手なことをしているだけのようなのです。しかし、そのうちに、やることの順序も、やる人も厳然と決っていて、それからはずれてはいけないのだということが解ってきました。老人は火の番と味つけ、若い衆は道具や器物、老婆は仏前の飾りつけ、既婚の女は経《きよう》帷子《かたびら》や草鞋《わらじ》、未婚女は買物、などと決っているのです。未婚の女は経帷子を縫う布にさえ触れてはいけないし、縫うための糸や針も全部新しいのを買うのです。買いに行く道筋も、なるべくいつもは通らない道を通って行き、帰りはできる限り同じ道を通らぬようにして戻ってこなければなりません。私は膳椀を表土間へ運びだして洗い場の人たちに渡してしまうと、もうすることはありませんでした。由子は自在に老婆たちの会話に加わったり中年女たちの葬式団子作りに手を出したりしましたが私にはそんな勇気もありません。私のした唯一のことは入口の部屋の敷居の上に置いてある風呂敷包みを奥の部屋へ持って行ったことでした。何人もがその包みにつまずいたり踏みつけそうになったりしながら文句を言っているのを見ていたからなのですが、それは死装束の入った包みで、子供のない女や未婚者は触ることのできないものだったのです。私が包みを持ってきたのを目にすると奥の間の入口に坐っていた女が大きく口を開けてアッと言いました。その声で皆が私を見ました。中心にいる老婆が長い嘆息とともに「あああ、困ったことをしてくれたのう」と言い、女たちは口々に私の軽率さを責めました。もう私は子を産めないことになった、と言うのです。誰もかれも大真面目な顔でした。その後は、私は言いつけられること以外には何もしないことにしました。土間にぼうっと無愛想な顔でつっ立っていると、いかにも役にたたなそうに見えるのでしょう、私に用を命ずる人はなく、私はいよいよ間の抜けた存在になりました。母にもそう見えるらしく通りすがりに「馬鹿みたいだよ、ただ立ってるなんて」と怒りました。それで私は表へ出たり土蔵の方へ行ったり、うろうろと歩きまわりましたが、どこへ行ってもいる場所もなく、することもないのです。由子のように機転をきかして雲隠れする知恵もありません。ひたすら速く時間がすぎるようにと願うしかないのでした。考えてみれば、そういう気持は私には、もう馴れっこになったものでした。学校の組の中で遠足や実験や料理の実習などのために好きな人同士でグループを作ると、私は必ずひとり残されました。全校一斉の運動場の石拾いのときもそうでした。初めは先生に言われた通り一メートル間隔で並んでいるのが、進むにつれて、あちこちにかたまりができます。そのときは別に仲のよい人たちでかたまるわけではなく、偶然近くになった人たちが何となく三人五人と組になって雑談をしながら進むのですが、私には誰も近づかないし、こちらからも入っていきません。私はそんなグループがたまたま私の近くに来たりすると、そのときだけは私もその仲間に見えるだろうと思ってほっとしました。彼らに加わりたい、というのではないのです。自分がひとりだけ仲間はずれになっていたり、することがなかったりする状態、その状態そのものは私はいやではありませんでした。そうではないのです。そういう状態が不自然《ヽヽヽ》だという気がして、その不自然さがいやなのです。自分が曖昧《あいまい》な、わけの解らないところにいるという気がしました。自分がそれを意識し、引っかかっているということが、またちがう意味で二重にいやでした。自分には何の必然性もない、と思うのです。いま自分のしていることを全部止めてしまっても何のさしつかえも生じないでしょう。どちらでもよいこと、あやふやでいい加減なこと——私に関係するすべてのことがそうなのです。何十年何百年と伝わってきて定式の定っている御焼香も私がやると、めちゃくちゃになってしまう。香鉢から抹香《まつこう》をつまみあげて額へあて、線香の上へかぶせる。私の前の人までは、それは厳かな儀式だったのです。私のところでちがうものに変ってしまった。無慙《むざん》なほど滑稽で冒涜《ぼうとく》的な、ただの猿真似に。私は自分がどうやってそれをやったか覚えていません。無我夢中でした。きっと必死の形相《ぎようそう》だったでしょう。  私より歳下でも、私のあとに焼香した由子は立派でした。彼女は何の危なげもなくきまった形通りに丁寧にやりました。誰もかれもそうでした。私だけが駄目なのです。私は|かれ《ヽヽ》のことを考えました。八歳のときに御本山の縁で見た僧のことです。あの僧侶はいつの間にか私の中で|かれ《ヽヽ》として定着していました。彼の特徴のない姿形は、もう私の記憶にはなくなっていましたが、|かれ《ヽヽ》は私の内部で「ある確かなもの」として、ひとつのはっきりした形をとるようになっていました。|かれ《ヽヽ》は皆とはちがう、と私は考えました。皆と同じならば私がそんなに熱心に注目したはずがない。|かれ《ヽヽ》の一歩一歩には正確でありながら、左右上下の圧迫を撥《は》ね返している粘った力がありました。のっぴきならぬ、それ以外であり得ようはずのない必然性を持っていながら、そこには彼自身の、暴力的といってもよいほどの強い意志がありました。  いる場所も、することもないという気持はずっと続いていましたが、高校を卒業して太呉町の金物店へ勤めるようになると、それはそれまでのように具体的なことではなくなりました。日常生活では私はする仕事がないなどということは、もうありませんでした。逆に私の責任分担範囲の仕事は多すぎるほどにありましたし、昼食時以外のときはいつでも自分の席にいなければならなくなりました。私は帳簿つけの係りでしたから店の奥の薄暗い隅が定位置でした。私の上役になっている男の店員は計算が下手で間違ってばかりいるので私は毎日、受持ち外の彼の仕事までやりました。私には仕事の多いのは少しも苦にはなりませんでした。私はよく働く店員でした。他人からは仕事が好きな働き者に見えたかも知れません。私は来る日も来る日も同じことをしました。御本山へものぼらなくなり、なにも考えなくなりました。二年、三年とたつうちに|かれ《ヽヽ》も遠いものになりました。なくなってしまったのでも忘れてしまったのでもないのです。幾重もの白い膜で厚く蔽われてしまっていたのです。ほんの時たま、「考える」のではなくて、何かを「感じる」ことがありました。そのひとつは祠のことです。その祠は私たち店員が昼休みに憩いに行く神社の境内の片隅にありました。格の高い大きな神社で、それだけに手入れも行き届かず、隅の方は雑草や灌木《かんぼく》で足を踏みいれることもできない有様でした。祠には高い石の台がついているので草の上に浮いているように見えました。私は毎日のようにその境内に行っていたのに、それまでその祠に気がつきませんでした。その一隅も目に入っていたはずですが、そこにそんな祠があることは知りませんでした。見えなかったものが急に見えるようになった、という妙に頼りない気がしました。白木の、作られてからそう日がたっていないと思われる小さな祠でした。屋根の汚れた白さからそんな気がしたのです。まだ生々しい白木が薄汚れているから不潔なのであって、風化している古い木なら、そんな感じはしないだろう、と。——その屋根に木洩《こも》れ陽《び》がちらちらと落ちていました。屋根の影の部分のさまざまに変化している色合い、太い幹の影になっているところ、葉の重なりあいのために微妙な差のできている濃淡の影、庇《ひさし》の陽のあたっているところの、そこだけ白々と冴《さ》えた木肌、そういう細かい部分部分まで全部見えたのです。そんなに遠くですから見えるはずがないのに見えてしまったのです。私は眩暈《めまい》を感じ、気持が悪くなりました。不安定に宙に浮びあがっている感覚がありました。私は眼をつぶり、近くの松の幹にすがりつきました。私の両掌に触れた赤松の粗い樹皮。それも偽りでした。足を切断した人が、その切断した足の水虫が痒《かゆ》くてたまらぬときがある、という、それと同じことでした。存在しないものが、存在しないものを感じている。夢だ、と私は自分に納得させようとしました。  私は溺死《できし》しかけたことがあります。それも勤めている頃のことでした。私は船着き場から対岸の小島へ泳ぎ渡ろうとしていました。四、五百メートルだから大した距離ではないし、以前、皆と泳いだこともあるのです。それなのに、その日は半分まで泳ぐと手足が動かなくなりました。どうしても体が先へ進んでいかないのです。私は泳ぎは得意でありません。泳ぐのを止めて体を波間に漂わせ、「死ぬかも知れない」と思いました。頭を水面上に出しているだけでせいいっぱいでした。死ぬ。そう思うと同時に、そんな苦闘のさなかであるにもかかわらず、私はふきだしたくなりました。おかしかったのです。自分は死なない、と私は思いこんでいたのでした。自分には死ぬ資格などない、と。私には、そんな人並なことなどできはしない。とりあえず仮に、間にあわせに生きているだけなのに。それで死んだりすれば「嘘っこだよ」と遊んでいたのが、ふいに騙し討ちにされるようなものではありませんか。いいえ、騙しているのは私のほうなのです。そうだ、死んでやろう、うまうまと「敵」の眼をごまかして、するりと死んでやろう、そうしたら何もかもガタンと「現実」になってしまうだろう。そんな妙な考えをおこしました。私は|それ《ヽヽ》を騙すために「自分はきっと死ぬだろう」と思いこむことにしました。そのとき、眼の前に白い海水帽が見えました。海水帽かクラゲか。もう一度見ようとすると、もう見えません。ぶるぶると震えている白い丸いもの。それが幻覚だということを私は知っていました。いままでにも何度も見たことがあったからです。周囲が幻覚ならば、それこそが私にとって現実と言うべきものなのでした。それが見えると、いつも私の体から力が抜けました。空間に不安定な恰好で宙吊りになっている自分の姿が見えるのです。ああ、そうか。やっぱり駄目か、と私は思い、憑《つ》きものが落ちたように平静になる。私は口の中に水が入ってくるおそれがなければ、このようなことを言ったでしょう。「そうですか。騙せませんか。それでは、しかたがありませんね」  熟し、用意のできた重い果実が自然の摂理で木から落ちるような結婚が女にとって最上のものなのだ、と読んだことがあります。私の場合は枯れ葉の舞い落ちるような具合だったでしょう。卑下するつもりはありません。私は容貌容姿とも特に目立つ欠点はなかったし、体も丈夫で学校の成績も人に見られて恥ずかしいものではありません。年齢も結婚したのは二十五歳ですから、それほど遅くはありません。ただ、あまりにも軽々しく無造作に決ったので、果実の重さはなかったのです。結婚は相手方の事情のために全くすばやく行われました。話があってから私が千田吉彦の家へ住むようになるまで、ひと月たらずでした。事情というのは会社の方針で独身者を海外に派遣することになり、吉彦もその候補になっているので一日もはやく妻帯しなければならないのだ、ということでしたが、どこまで本当か解りません。彼が再婚で、彼の前の妻は原因不明の自殺をしたのだということを知ったのも結婚してからです。彼が変質者だという噂《うわさ》も耳にしました。私が買物のために町を歩いていると、わざわざ私に近寄ってきて、それを教えてくれた老婆がいました。彼は人に見えやすいところで用をたす癖がある、若い女が通るまで辛抱強く何時間も待つのだ、と言うのです。見知らぬ老婆が何のためにそんなことを私に告げるのか私には理解できませんでした。それらは私にとってどうでもよいことなのです。吉彦が強姦《ごうかん》をしたと聞いても私は驚きはしないでしょう。私には興味のないことでした。私は吉彦にも姑の福子にも何も不満はありませんでした。  吉彦の家は二階建てで私は用のないときは二階にい、福子は階下の茶の間の隣りを居室にして、朝から晩までテレビをつけっぱなしにしています。あれは結婚してから数カ月たった頃だったでしょうか。テレビがやかましく鳴っていたので私は福子がテレビを見ているものと思いました。それで何の予想もなくノックもせずに手洗いの戸を開けると、中の下の方に大きく詰っているものがありました。はじめに広々とした白いものが見えました。巨大な、のっぺりしたかたまりでした。私は数秒、ぼんやりしていました。わけが解りませんでした。漠然と自分が邪魔されているという気がしました。その白い大きなものは斜めにゆらぎ、その上部に押しあげられている黒っぽい布の上から顔が覗《のぞ》きました。福子がしゃがんだままで、ゆっくりとふりむいたのです。眼は私を見ましたが、表情はありません。表情ばかりか、何もない顔でした。心がそこにない、とか、空虚などというのともちがうのです。「ちがうもの」の貌。私はあわてて戸をしめ、二階へ戻りました。うっかり見てしまった。おそろしいものを。福子のほうは見られたことに気づいてはいないでしょう。見た人にだけ関係のあることなのです。あのときの玉枝の顔もそうだった。玉枝が癲癇をおこして私の隣席の子の机の上にあおむけになった顔をのせた。あの顔。妙に静かな顔。すべてが停止した顔。人間がどんなに喚いたり笑ったりしていても、そのままパッと止めてしまったら、皆そういう顔になるのではないでしょうか。生きるとか死ぬとかいうことの外側にある顔なのでした。  二年たっても三年たっても子供の生れる兆《きざし》はありませんでした。そのことを気にしているのは門前村の母だけで、藤川の家の三人の間では子供のことが話題になったことはありません。私たちは三人とも無口でした。夕食後も黙って坐っていることのほうが多かったのです。夜、二階へ引きあげてから吉彦は性的なことで私に皮肉を言うこともありました。私ほど味のない女はどこの土地にもいないなどと言いました。彼は彼の会社で作っている機械の技術指導のために月のうち十日は他の土地へ出張していたのです。  藤川の家では私の分担する家事は決っていて、特別なことのあるときだけ福子とふたりでやりました。福子が私のやりかたに干渉したり過大な要求をしたりしたことは一度もありません。ただ、書道塾のことだけが例外で、半強制的でした。それは彼女が教員をしていた頃の同僚が停年退職後はじめた塾なのですが、その教員は私のことを知っていて藤川まで勧めにきたのです。特別な練習をしたわけでもないのに私は高校時代に何度か全国的な書道展に入賞していました。その教員からそういうことを聞いて、福子は私の才能《ヽヽ》をこのまま埋もれさせてはならないという教員的義務感にかられたらしいのです。私はとうとう週に一回、太呉町の書道塾へ通うことになりました。太呉町は藤川の隣りの町でバスも通っていますが本数が少ないので私は歩いて行きました。普通なら三十分の道を四十分かけて歩きました。歩いている間、何も見ず、何も考えません。ぼんやり歩いているとき、びくっとして体をおこすことがあります。自分が体を斜めにかしげて歩いているのに気づくのです。しょっちゅう、ずり落ちていくような感覚がありました。断崖《だんがい》の端に半ば身をのりだしている。そんな状況でもふしぎなことに切迫感は何もないのです。墜落するということもないのだ、と知っていました。いつまでたっても中途半端なところにいる。無限にずり落ちていくだけなのです。  ある日、書道塾の帰り、私は四辻を二歳くらいの幼児が歩いているのを見ました。二歳にはなっていないかも知れません。かさばった襁褓《むつき》のためか両足を踏んばったおぼつかない足取りでした。母親らしい女は角の八百屋で青菜を手にとっていました。私は八百屋の前まで歩いて行くと、立ちどまってその幼児を見ました。私以外には幼児を見ている人はありません。そんな道の真中に幼児がいるのは信じられないことでした。その四辻は道幅に比して交通量の多いので有名なところなのです。すぐに幼児の二、三メートル手前で自動車が停り、けたたましく警笛を鳴らしました。母親は幼児が自分の足もとにいると思いこんでいるのでしょう。警笛に無関心でした。急に八百屋の主人が大声で叫び、彼女は顔をあげて路上の幼児を見、道へとびだしました。叫び声と彼女の動作と横から出てきたトラックと、この三つは一秒以内のできごとでした。彼女は投げ返されるように八百屋の店先に落ちてきました。私はずっと同じ場所で一部始終を見ていました。彼女は八百屋の店先に転がり、彼女の頭はちょうどそこにあった里芋袋の上にのりました。私は自分の足もとの彼女の顔を見ました。彼女は一瞬、私のほうを見て笑ったのです。あきらかに口を開いて笑いました。笑いはすぐに消えたので、それを見たのは私だけでしょう。それは実際は笑いではなかったのかも知れません。私は激した八百屋の主人に押しのけられ、走り寄ってくる人びとと逆方向へ歩きはじめました。数十分歩いてから私は自分の顔に触りました。私は自分が彼女と同じ顔をしているのに気づいたのです。いいえ、そうではありません。彼女が笑ったのは、私の顔を見て反射的に同じ表情をしたのだ。——そこまで考えついたとき、私は自分が手袋を脱ぐときのように、くるりと裏がえしになるのを感じました。     二  私は本堂前の広場を通りすぎ、奥の院から三重の塔へ通じている古い太鼓橋のたもとへ来ました。橋は町中ならとっくに使用禁止になっていると思われる老朽した木橋です。十年前からそうでしたが、その後修理したようすもなく、板の裂け目はさらに拡がっていました。そこから下の渓谷が見えました。橋から谷底までは二十メートルほどでしょうか。水の少ない幅の狭い渓谷の中腹に櫟《くぬぎ》や楢《なら》が茂っています。私は橋の上で立ちどまり、橋板の破れ目から下を見おろしました。裂け目いっぱいに薄く細い葉の重なりが見え、涼しい風がのぼってきました。脆《もろ》そうな繊細な緑でした。橋の左右にも同じような葉をつけた木々が枝を伸ばしているのに、私は、わざわざその細長い穴から下の谷底の緑を眺めました。それらの中には赤や黄に紅葉している葉もありました。私は惨《みじ》めな気がしました。その風景を美しいと思いながらも嫌悪しました。遅い蜩《ひぐらし》が啼《な》いていました。私は樹皮の一片に似た無骨な虫のことを考えました。それら、私をとりまいているそれらのすべてはお互いに何の関連もなく散漫に、そこにあるだけのように見えながら、かげで緊密なつながりを持っているのです。私は立ったまま、穴から財布を落しました。他に、手に持っているものはなかったのです。一直線に落ちたはずなのに、財布は途中で穴からそれて見えなくなりました。私は不快になりました。財布が見えなくなったためではありません。眼に見えぬほどの微細な植物の綿毛。それらのひとつひとつに種がくっついている、それと同じように大気中に「不快」の芽が充満している。それが私の眼に映じはじめたのです。私は逆に、よし、これでいい、と思いました。体中に「いやな気分」が詰っている、それを知らないふりで、いままでやってきた。でも、いまは、それを知っている。——豊饒《ほうじよう》な音楽のような葉叢《はむら》、樹々のやさしく美しい梢《こずえ》、そして透明な蜩の啼き声。私はそれらに嫌悪を感じている。私が、それらを見、聞いていることに。そのための、どうにもならない重苦しい不快さがあったのでした。私のせいなのでした。  三重の塔から細い林道を通って直接門前の村道へ通じている道があります。村人でも知らない人の多い小道で、私も玉枝と遊んでいるとき偶然みつけたのです。私はその道をおりはじめました。すべり落ちないように木の枝をつかんだり、ぶらさがったりしながら一旦|窪地《くぼち》まで降ります。その低地は半分が竹藪《たけやぶ》で残りは湿地です。年によると田圃《たんぼ》になって稲が植えられていたこともありますが、日かげですから実りも悪く、面積も狭いので稲刈りもせず放置されていました。いまは一面に自生の蕎麦《そば》が薄桃色の花を咲かせ、その根もとには黒ずんだ芹《せり》が密生しています。私が知っていた頃は竹藪を抜けると杉林でした。一瞬、道を間違ったのか、と疑ったのは、その林がきれいに消え失せていたからでした。地主が売ってしまったのでしょう。切り株の間に貧弱な細い苗木が見えます。私はそこで立ちどまりました。さっきからの物音が風のために太い木の枝がこすられている音なのか、それとも人のたてている音なのか、判断がつかなかったのです。音は大きくなっています。どうやら誰かが近くにいるようでした。少しずつ体をずらして、あちこちを見まわすと、林のはずれ、大きな切り株の向う側に黒い姿がしゃがんでいるのが見えました。何をしているのか解りません。片手をふりあげ、ふりおろしています。激しく打ちおろすのではなく、まだるっこしいような速度です。その鈍い動作に見覚えがありました。ああ、猫勝だ、と思いだし、私は男のほうへ近づきました。彼は門前村に住んでいる白痴の乞食です。猫好きなところから猫勝と呼ばれていますが、おとなしい性質で人に危害を加えたり暴れたりすることはないので村人たちに好かれていました。何をしても決して怒らない猫勝は特に子供たちに人気があり、玉枝と私も子供の頃彼の耳を引っぱったり背中にとびついたりしたことが何度もあります。私は彼の傍に立って何をやっているのかと尋ねました。彼が返事をしないのは承知の上です。猫勝は聾《つんぼ》でも唖《おし》でもないのに人のいうことにはこたえません。好きなときに勝手に喋《しやべ》るのです。歌を歌っていることもあります。歌うときは直立不動で同じ一節を際限もなく繰り返すので、彼が歌いはじめると、さすがの子供たちも辟易《へきえき》して彼から離れます。  猫勝は木切れで地面に穴を掘っていました。動作がのろいうえに手にしている木切れも折れやすい杉の小枝なので、穴はなかなか掘れません。何のために穴を掘っているのか、どうせ白痴のすることだから何の目的もないのか、と思いながら顔を動かすと、彼の背後の草の中に白い毛が見えました。白に一カ所、茶の斑《ふ》のある猫が草の間に横に寝て四肢を投げだしていました。そうすると、猫勝は死んだ猫を埋めようとしているのでしょうか。私は彼の横をまわって、もっとよく猫を見ようとしました。その瞬間、猫勝が思いがけぬ敏速な反応を示しました。彼はさっと猫の後肢《あとあし》をつかんで自分の上着の下へ押しこみ、ダメダ、ダメダと怒鳴りました。私を見あげている猫勝の顔は何年か見ない間にすっかり老けこんでいました。額や頬に切り傷のような深い皺《しわ》が刻まれ、眼瞼《まぶた》も紙のように乾いています。猫勝の、そういう顔つきも私の知らないものでした。大真面目にしていても彼の顔には、どこか笑いださずにはいられないような破綻《はたん》があり、彼が村人たちや子供たちに愛されているのは、そのためもあったのです。猫勝は猫の死体を詰めこんだ自分の胸をおさえて前かがみにしゃがんでいました。頭だけを無理な形に斜め上にねじ曲げて私を見ました。ダメダダメダ、ともう一度言いました。言葉を覚えたての幼児に似た、たどたどしい言いかたですが、私は彼が本気なのだ、と感じました。間伸びした顔の造作が、動かない表情のままで私への烈しい憎悪を示していました。点《ヽ》の憎悪、線《ヽ》の憎悪というものがあるならば、彼のは面《ヽ》の憎悪でした。彼は私の顔に目をすえ、立ちあがろうとしました。極端な上眼使いのために白眼がはみだし、ふくらんでいます。私は急いで彼に背を向けて歩きだしました。そこから村道へ出るまでの百メートルほどの距離を一気に走りました。村道ぎわの水たまりを見るまで、ふり返って猫勝が追いかけてこないのをたしかめる余裕もありませんでした。  猫勝の薄い丸首シャツの胸のふくらみ。大きな死猫をいれたための不恰好なふくらみ。どうせ誰かからの貰いものにちがいない粗末なシャツは穴だらけでした。その穴から猫の毛が見えた。右脇の綻《ほころ》びからは褐色の混った毛束と折り曲げられた尾がこぼれでていました。あの猫は死んでいるようではなかった、と私は考えました。あんな形でなければ、四肢をぺたんと真横に投げだして草の上にのっていなければ、死んでいるとは思わなかったでしょう。毛の色も眼球の光も生きている猫と変りはありませんでした。あきらかに死んだばかりなのです。あそこで猫勝が殺したのではないだろうか。竹藪の中で聞いた物音、鋭く何かのこすれあっている音は猫の断末魔の声だったのではないか。私が猫勝の傍へ行ったとき、穴は掘られ始めたところでした。いくら猫勝が無器用でも、私が竹藪を通っている間中掘っていたのなら、もう少し穴の形ができていてもいいのです。そして猫勝の、あの表情。殺したのだ。猫勝が猫を殺したのだ。村道を歩きはじめたときには、もうそれは動かすことのできない確信になっていました。  猫は腰のところに、猫の毛色としては珍しい黒褐色の斑がありました。猫勝がシャツの中へいれたとき、彼の右胸の掌ほどの大きさの穴は全部その色になって、シャツの模様のように見えました。私は歩きながらもう一度その色を思いだしました。藤川の家で飼っていた犬にも、同じ色の斑点があったのです。犬の毛色としてはありふれた色でした。その犬は夫の吉彦が同僚から貰ってきたのですが、犬が来たのは去年だったでしょうか、一昨年だったでしょうか。吉彦は犬に夢中になりました。犬の食事も福子や私にはさせないで自分で用意しました。夜中にまで「犬小屋で音がした」と言って、わざわざ起きて犬を見に行きました。夕方、家へ帰ってきても食事以外の時間はずっと犬小屋の傍にいました。しかし吉彦が本当に犬を愛していたのだとは思われません。犬は吉彦が傍にいる間に五回や六回鋭い悲鳴をあげない日はなかったのです。犬にビニールの袋をかぶせて頸《くび》のところでしばったり、海老蟹《えびがに》を口につっこんだり、強いゴムで口を縛ったり、というような子供じみた悪戯《いたずら》を毎日のように吉彦は思いつくのです。すっかり昏《く》れた庭の中で四肢をくくられた犬が高い枝に吊されているのを見たこともあります。嗄《か》れた哀れな声をたてながら犬はもがき、ブランコのように大きく揺れていました。  吉彦が犬に熱中していたのは二、三カ月にすぎなかったでしょう。憑《つ》きものが落ちたように犬を見にさえ行かなくなりました。——あの犬は、もう死んだでしょうか。吉彦が姿を消す前後から、めっきり元気がなくなっていたのです。鰐《わに》と同じ形の口をした、毛の長い耳の垂れた犬でした。  私は自分の借りている家まで帰ってきました。中へ入る前に、庭先から御本山の方角を見ました。途中の丘に遮《さえぎ》られて、そこからでは御本山は何も見えません。  御本山は何でしょうか。不動だったでしょうか。私は何をたしかめたのでしょうか。すべて無駄なのかも知れない。馬鹿げたことだったのかも知れない。私は手を強く握りしめました。指の関節が黄白色の骨のいろになってとびだしました。私が借りている家の入口の戸は最上段の一枚だけに硝子《ガラス》がはまっています。私は泥棒のように、そこから家の中を覗きこみました。土間と、突きあたりの台所が見えます。家の中には、そらぞらしい暗い空気が充ちていました。それは幕末の志士が処刑されるまで生活した部屋に似ていました。高校時代の遠足のコースに、そこの見学が入っていたのです。「志士の家」の入口は釘《くぎ》づけになっていたので私たちは窓の格子《こうし》から中を覗きました。なんの変哲もない、みすぼらしい土間が見えるだけでした。土間の中央に糸繰り車がひとつおいてありました。その他には何も見るものはないのに私たちは黙りこくって、いつまでも中を見ていました。家の中に、ひどく陰惨な気配がこもっていたのです。そこで処刑されたわけでもないのに私たちは土間に血染《ちしみ》の跡を捜しました。私の家は、あの部屋にそっくりでした。ちがうのは土間に続いて六畳と八畳の畳の部屋がついていることです。もともと隠居所として建てられた家なので、それほど粗末ではなく、母の買った家よりは数段上でした。母は役場をやめたとき、退職金で駅前に小さな家を買ったのです。私はこの家がみつかるまでの数カ月、その母の家に同居していました。母は、その家で煙草屋をやりながら物品売買の仲介のようなことを内職にしています。六畳と三畳二間の小さな家ですが場所柄もあって客の絶え間がなく、私は朝から晩まで物置兼用の三畳で息を殺していました。母が出戻りの娘を客の前へ出すのをいやがったからです。もっとも、私にとってもそのほうがよかったのですが。私はその三畳で子供の頃のひとり遊びの続きをしようとしたりしました。「自分は蚕だ」と思いこむ遊びでした。母が役場に勤めていた頃に私たちが住んでいた家は戦前は蚕小屋でした。私がそんな遊びをするようになったのは、そのことを聞いてからです。母の帰りが遅い夜、私はひとり暗い部屋に坐って、そこに|住んで《ヽヽヽ》いた蚕たちのことを考えました。天井が低く床板が薄く、部屋の真中にささくれだらけの灰褐色の柱がたっている家でした。村ではもう養蚕をしている家はなかったので私は蚕を見たことはありませんでした。人の話では、それは尺取り虫に似た細い痩《や》せた虫だそうですが、私はどうしても水っぽくて清潔な太い虫を想像してしまうのでした。私は自分の顔色や姿形が蚕に似ているだろうと思いました。蚕に顔があったら私と同じ顔をしているでしょう。私の蒼黄色の皮膚は蚕の皮膚と同じ色でしょう。眼をつぶると、運動量の少ない肥った虫が、のろのろと箱の中を這《は》っているのが見えました。鈍い身動きを何回かくりかえしたとき、いつの間にか彼は白い繭の中に閉じこめられています。その中は障子ごしの白さにちがいありません。繭の中は仄《ほの》かに明るい。繭は白いから夜でもその中は完全な暗黒にはならない。もはや何も食べなくなった蚕は、その中でときどき眼をあけたり閉じたりするだけです。何もしなくてよいのです。誰にも見られないで、じっとしているのです。ひっそりと、息をしていることさえ悟られずに。子供の頃、私はその想像が気にいっていました。毎晩のように、そんなことを考えました。藤川から母の家に戻ってきていた間、私はその頃のことを思いだし、もう一度蚕になろうと努めてみました。しかし、私は少しも凝縮していかず、蚕のとびたった後の光沢の失せた穢《きた》ない繭の破れ目ばかりが見えるのでした。  私は塾にしている部屋へ入り、戸を開け拡げました。半月前に私はこの家で子供相手の書道塾を開きました。母が私に何の相談もなく勝手に計画したことでした。家を借りるのも生徒を集めるのも顔の広い母がやったのです。生徒用の机は大小まちまちだし、黒板も剥《は》げた中古のものですが、どうにか形はついています。生徒は小学生が主で、学年も実力もさまざまです。私はしっかりした方針もなくその日まかせで字を書かせています。子供たちは墨をすり、毛筆で字を書くと、それでもう充分稽古をした気になるようでした。これではいけない、とときどき思うのですが、彼らが帰ってしまうと、そういう殊勝なことはきれいに忘れました。私は彼らのお喋りから村内の噂をいろいろ知りました。玉枝の父が死んだこと、姉の満が養子婿を迎え、既に子供も生れていることなども、彼らから聞きました。両親とも異常はないのに、どういう加減か大貫屋のふたりの娘、満と玉枝は姉妹|揃《そろ》って癲癇《てんかん》もちで、あれでは養子の来手もあるまい、大貫屋もこれでおしまいか、と言われていたものですが。  私は御本山へは一度行ったきりでした。一度行けば、それでよかったのです。行かないほうがよかったのかも知れませんが行かないわけにはいかなかった。私は自分がどこかへずるずると引きこまれていくのを感じました。病気には急性のものと慢性のものがあります。急激な痛みを伴って一時は生命も危うい症状になるけれども、適当な治療で完全に直る病気があります。慢性であっても何年がかりかで徐々に快方へ向う病気もあります。さらにもうひとつ「直らない病気」があります。絶対に元通りにはならないし、軽くもならない。最善の状態が現状維持ということです。変化するということは悪化をしか意味しない。現状維持のためには何もしないのが一番よいのです。私は御本山へも登らず、用事以外は外へも出ませんでした。それでも四六時中引きずられていました。あちらにもこちらにも解決不能のものがあって、それらが不快な形で宙にもやもやと漂っている。それらを茫然と眺めて時間を過しました。それでよかったのです。そうやって日がすぎていくはずだったのです、あの雨の日に|かれ《ヽヽ》に逢いさえしなかったら。母の家へ行く途中、傘をさして根川橋にさしかかったときでした。それが|かれ《ヽヽ》だと気がついたのはどの瞬間だったでしょうか。二十二年前に御本山大本堂の広縁を歩いていた男だと知ったのは。その男は僧形ではありませんでした。頭は丸刈りで着物を着ていました。僧にも百姓にも見えず、何をしている人か見当のつかぬ恰好でした。|かれ《ヽヽ》は激しい雨の中を平然と顔をあげて歩いてきました。私が|かれ《ヽヽ》だと解ったのは、その歩きかたのためです。晴れでも雨でも嵐でも、それらに少しも影響されない確信に満ちた一定の歩幅。近くで見ると男の顔の上を雨がざぶざぶ流れ落ち、黒っぽい盲縞の粗末な着物はべったりと体にはりついていました。私は立ち止り、体をまわして|かれ《ヽヽ》が私の横を通りすぎるのをみつめました。静かな、ゆっくりした歩調に見えましたが、実際はかなり速いのでしょう。その後ろ姿はたちまち見えなくなりました。私は周囲の景色がいままでと全くちがう色に変ったような気がしました。私は|かれ《ヽヽ》の曲って行った石垣をしばらく見ていました。それから、橋の手すりにもたれました。私がさしていた傘は橋の中央に転がっていきました。手すりは川の中の流木のように濡れ、凹んだところには水がたまって溢《あふ》れだしています。泥色に濁った川は、きちがいのような速さで流れ、川岸の鮮やかな黄緑の川竹が騒がしく揺れていました。川竹の間には薄紫の小さな花の咲いている木があります。こんな雨の中なのに、どこかで山鳩が啼いていました。私は|かれ《ヽヽ》に逢ってしまったのでした。あの恰好では、|かれ《ヽヽ》はこの近くに住んでいるのです。私は何度も|かれ《ヽヽ》を見ることになるでしょう。御本山は再び私の上に、どうにもならない重さでのしかかってくるでしょう。現状維持などということは、初めからあり得ないことだったのです。  その後、私は|かれ《ヽヽ》に|逢い《ヽヽ》ませんでした。あれは雨の日の幻想だったか、と思われるほどでした。幻想であっても私にとっては同じことなのですが、そうではなかったのです。日曜毎に行く母の家でも塾の子供たちの会話でも|かれ《ヽヽ》の噂がよく出ました。村人たちは二十年間行方不明だった男に多大の興味を持っているのです。|かれ《ヽヽ》は青池沿いの千台寺の長男で、寺を継いで住職になるはずだったのに御本山で修業中にどこかへ出奔し、それ以来二十余年間、彼がどこで何をしていたか誰も知らないのです。いまは|かれ《ヽヽ》は弟が継いでいる千台寺の新院に住んでいるので|かれ《ヽヽ》のことを皆は新院様と呼んでいます。新院というのは千台寺の寺域内にある小さな坐禅堂で、人の住める建物ではないのだが、新院は机ひとつ、煎餅蒲団《せんべいぶとん》一組を持ちこんで平気な顔で暮している。自分は犬と同じであるから傘もいらぬ団扇《うちわ》もいらぬ、茶碗はひとつでよい、着物も一枚あればそれでよい、と言った。そんなことまで委細洩らさず伝わってきました。私はそれが間違いなく|かれ《ヽヽ》のことであると知りながらも、別の男だという気もしました。|かれ《ヽヽ》が生活を持ち、人びとに一挙一動をあげつらわれているなどということは考えられなかったのです。ちがう、|かれ《ヽヽ》ではない、と否定しつつも私は何度か千台寺の前まで行きました。歩いていると足が青池の方向へ向い、いつの間にか千台寺の前へ来ているのです。散歩だ、と私は自分に言いきかせました。その道は片側が青池、反対側は山でした。千台寺の他は建物もなく人通りも少ないので散歩には好適な道だったのです。そうやって散歩らしい歩調で歩いているとき、ふいに一種の戦慄《せんりつ》が私の体を突き抜けることがありました。先にそれが来て、その後から「|かれ《ヽヽ》がいるのだ。|かれ《ヽヽ》が存在するのだ」という考えが浮ぶのでした。そういう上の空の日々に福子からの手紙が届きました。私は初め、それが誰から来たのか解りませんでした。千田福子という差出人の名前に何の記憶もなかったのです。福子からの手紙をそれまで私は一通も受けとったことはないので、そのためもあるでしょう。「会社から吉彦を正式に退職の扱いにするといってきました。来月退職金が出るそうです」と福子は書きだしていました。時候の挨拶も無沙汰の詫《わ》びもなく、私が書道塾を始めたということを報告した手紙に対する意見も返事もありません。 「この前来た人の話では寺内病院に吉彦に似た人がいたということです。大変似ていたそうです。私もそうではないかと思います。原因もなしに急にいなくなるというのはへんですから記憶喪失になっているのにちがいないのです。それでなければ帰るはずでしょう。あなたは寺内病院に行くことはありませんでしょうか。吉彦に似た人はひどく痩《や》せこけていたそうです。話してくれた人は、いくら見ても吉彦かどうかわからなかったそうです」  手紙は、それだけでぷつんと跡切れていました。寺内病院というのは、この地方の有名な精神病院です。福子は私に寺内病院へ行ってその男が吉彦かどうか見てきてくれと言っているのでしょうか。寺内病院は太呉町の向うの稲沢町にあるのですから藤川からのほうが近いのです。私は吉彦が丹前の前をだらしなくはだけて鉄格子のはまった窓から顔を出している姿を想像しました。胸もとから浴衣の衿《えり》が片方だけ大きくはみだしている。皺のよった赤らんだ喉仏《のどぼとけ》。そこまではいいのですが、顔が浮びません。吉彦はどんな顔だったか。下唇の柔らかそうな厚みがやっと出てきました。それから耳の前の大きな疣《いぼ》。私はその疣を吉彦がいなくなる少し前に発見したのでした。あのとき、吉彦の顔は私の顔のすぐ傍にありました。私は手を伸ばして、その疣に触りかけ、途中で止めました。私は吉彦の顔が間近にある間中、その疣が結婚したときからあったかどうか思いだそうとしました。あのとき、犬は発情期だったのでしょうか。朝も昼も夜も吠《ほ》え続け、喉が嗄れて甲高い鳥のような声になってもまだ止めませんでした。どうして解るのか、吉彦が夕方、家へ帰ってからの吠えかたは一段と凄《すさ》まじく、発狂したかと思われるほどでした。声が出なくなってからはよく響く鼓のような音に変り、その苦しげな声がたて続けに聞えると耳鳴りがして頭が痛くなりました。もう、あの犬は死んだでしょう。私は福子の手紙の丸っこい字を眺めました。それは福子の体つきとよく似ていました。彼女は鳩のようにきょとんとした真丸の眼をして行儀よくテレビの前に坐っていました。彼女の坐った形は安定感がありました。腰が大きいところへ、あしのうらを両側へ出してペタンと坐るからでしょう。無愛想な文面も彼女のものの言いかたそのままでした。彼女には、どこかちぐはぐなところがありました。  数日後、私は寺内病院の淡黄色の瀟洒《しようしや》な建物の前でバスから降りました。太呉町まで軽便で来て、そこでバスに乗り換えたのです。受付で私は来訪の趣旨を述べました。私の言いかたも要領をえなかったのですが、受付の看護婦にはよく意味が解らなかったようでした。彼女はうさんくさそうに、こちらには身許《みもと》不明の患者などはひとりもいない、と言いました。 「でも、逢ったという人がいるんです。人ちがいかも知れませんけど。中を見せていただくわけにはいきませんか」と私が再び言うと看護婦は小窓から首をつきだして私を頭から足の先まで点検し、それから、ようやく外へ出てきました。人の少ない病院でした。こちらには入院患者がいるだけで診察はしないからでしょう。待合室にも明るい事務室の中にも人の姿はありません。私と看護婦は狭い面会室を通り、廊下の外れまで歩いて行きました。そこで看護婦は白衣のポケットから鍵《かぎ》をだして厚い扉の鍵穴にさしこみました。扉が開くと雨の日でもないのに、そこから湿った陰気な空気が流れてきました。病院は坂の中腹で病室は半地下室になっていますから、そのせいでしょうか。一度雨が降れば、もう永久に乾くことはあるまいと思われる陰湿さが、そこにありました。床も湿っていました。コンクリートが内部から水を滲出《しんしゆつ》しているような、どす黒い色でした。私たちはそこで病院備えつけの木のサンダルに穿《は》きかえ、さらにもうひとつ観音開きの重い扉の鍵を開けて中へ入りました。そこからが患者たちの病室でした。病室といっても、そこには白いベッドも花も薬壜《くすりびん》もありません。病院の一室というよりは難民収容所でした。なにかの災難で家を失った人たちが小学校の講堂などへ一時的に避難して、そこで数日暮している、その雑然とした不統一な穢なさがありました。もっとも、難民収容所でも、そこで人間が一週間なり二週間なり生活すれば自ずからそこに秩序らしいものが生れるものです。人間的で日常的な生活の|かたち《ヽヽヽ》が自然にできてき、たしかにここに人間がいて、食べたり寝たりしている、という匂いのようなものが感じられるものです。そういうものが、その部屋にはありませんでした。畳敷きの二十畳ほどの部屋に十数人の女がいるのに、人間の雰囲気《ふんいき》が何もありませんでした。女たちはてんでばらばらにじっとしていました。いまそこにほうりこまれたばかりの荷物のように。体の病気ではありませんから寝てはいません。部屋の隅に積み重ねられている蒲団によりかかったり、寝転んだり、五、六人かたまったりしていました。かたまっていても談笑しているわけではありません。盆の上にこぼした豆が五つ六つ、偶然にくっつきあったのと同じことでした。体の一部が隣りの人と接していても、誰かの手が自分の腿《もも》の上におかれていても何も気にしているようすはありません。通路になっている廊下に立っている女たちもいました。彼女たちは身を避けもせず黙って立ったまま私たちが彼女たちの間をすり抜けるのを見ました。顔色が一様に土気色で、ほとんどの患者がむくんだような肥りかたでした。私を案内している看護婦は私が何を聞いても返事もしません。彼女は痩せているうえ、白衣の上から胴を革のバンドで強く締めあげています。逆に患者たちにはバンドを締めている者はひとりもなく、大部分は色腿《いろあ》せたワンピースをだらしなく身に着けています。ホックやボタンを全部はめていても体の形がだらりとしていて肉にしまりがありません。骨や筋肉があって生きて動いている肉ではなく、厚い豚肉のロースか何かのように弾力がないのです。そして、誰もかれも大きい眼をしていました。正常な人間の眼の大きさは感情の変化につれて始終かわります。いっぱいに見開かれたままということはありません。口や表情には出さずにおさえても眼だけは敏感に大きさを変えます。彼女たちの眼が大きいのは、またたきもせずにみつめているからなのでした。初めて眼の見えるようになった新生児が、自分の眼の前を動くもの、ガラガラや大人の手の動きにつれて視線を動かすのと同じでした。完全に無垢《むく》な眼というものが、どうしてこうも悽惨《せいさん》な印象を与えるのか。私は彼女たちに見られたところ、顔や、むきだしの腕に粟粒《あわつぶ》大の腫物《はれもの》がブツブツと吹き出てくるのではないかと感じました。次の部屋も同じことでした。私と看護婦が速足で通りすぎた直後、けたたましい笑い声がおこりました。ぎょっとしてふり返ると、若い女が口をいっぱいに開いて笑っているのです。全身をふるわせ、上半身を大きく揺すって笑いころげているのです。それにつられて、傍の二、三人が同じ笑いかたをしはじめました。笑いでない笑い。好意、嘲罵《ちようば》、愉快、そういう要素のまるでない、純粋な、体操に似た——いや、体操そのものなのです。体をのけぞらせ、倒れそうになりながら笑い続けているのです。顔の形は笑いなのに、笑いらしいところは、まるでありません。動物や知能のおくれた人は、他の感情はあっても「笑い」だけがない、と聞いたことがあります。彼女たちは、いま、笑う形の体操をしているのでしょうか。私が気ばらしに散歩をするように、そうやって笑いの散歩をしているのでしょうか。人間の|かたち《ヽヽヽ》をしているものが遠い記憶の動作として遺伝的に「笑い」の形骸だけを覚えていて、それがなにかで——なにか、というのは私です。私が原因なのです——触発されて爆発したのでしょうか。五人も十人もが格闘でもしているような荒々しさで右へ左へ身を倒れるまでにねじ曲げて笑っているのです。私はその先の男子病棟へ案内されたときは体中がひきつっていて、彼らの顔をひとりひとり見定めることなど到底できなくなっていました。肩や背中がこわばり、自由に動かないのです。無意識のうちに力をいれていたのでしょう。男のひとりが無造作に手を伸ばして私の乳房をつかみましたが、私はつかまれたままで歩きました。払いのけるという気持の働きがなくなっていました。病院を出てからその場所に強い痛みを感じました。彼は力いっぱいに私の乳房を握りしめたのです。私はとうとう看護婦に、口の先まで出かかっていた質問をしませんでした。「なぜ、あの人たちは笑っているのですか」という問いを。こたえは解りきっているようにも思われました。私のためなのです。私がおかしいのです。私の何がおかしいのか。彼女たちの存在の、そこにいるだけ、という脈絡のなさ。開きっぱなしのままの大きな眼。——私は誰からも眼が大きいと言われます。大きいけれど何の魅力もない、と言ったのは母です。母に言わせると、私の眼は「機能的な眼」であって、カメラのレンズと同じことなのです。見えるものしか写さない。眼自身の持っているもの、その人らしさが何もない。それから、笑うということ。私には人びとがどうして声をたてて笑うのか理解できないのです。おかしい、滑稽だ、嬉しいという感情がないわけではありません。笑いと結びつかないのです。どうして人間はおかしいとき、唇を横に引き伸ばし、歯を見せ、眼を細くしてハ行の呼吸音を吐きだすのか。人びとはそれを無意識にやっている。私は努力して皆と似た顔をつくるのです。初めに口、次に眼、頬と順々に笑いの形をつくる。最も困難なのが声でした。どうやっても皆のような音は出せないので声は出さぬことにしました。精神病者でさえ笑うのに、私には笑えない。きちがいになったら笑えるでしょうか。ああいうように笑いたい、彼女たちのように笑いたい、と私は思いました。  私は精神病院の帰りに藤川へ寄るつもりだったのに、その日はそのまま帰ってしまい次の週に入ってから改めて出直して、福子の家へ行きました。福子に報告するようなことは結局何もなかったのですが、私はどうしても犬の生死をたしかめなければならぬような気になっていました。死んだだろうか。本当に死んだだろうか、と日に何度も考えました。どうしてそんなことが気になるのか。  藤川の家は廊下も室内も永く無人の空家だったような荒れかたでした。掃除を怠っているためばかりではないでしょう。出された湯呑みは縁が欠け、卓袱台《ちやぶだい》の上にはまだらに埃《ほこり》がついていました。福子は白髪まじりの頭髪を乱雑に束ね、壁の日暦のほうばかり見ていました。私は福子から寺内病院の話が出るだろうと思ったのですが、いっこうに彼女はそのことを言いださないのです。とうとう私のほうから「寺内病院のことですけど、あれは誰かちがう人じゃないかしら」と言いました。  ええ、ええ、と福子はあわててこたえました。それから何か言うかと待っても黙ったままでした。寺内病院へ行ったのか、とも尋ねません。吉彦のことが解ったのだ、と私は直感しました。そういえば福子の態度は落ちつきがなく、私の顔を見ないようにしているのです。私は立ち上りながら犬のことを訊《き》きました。帰りがけに訊こうと決めていたのです。私は十中八九、死んだという答えを予想していました。私が藤川を出る頃、犬は独特な、屍臭《ししゆう》に似た臭気さえ漂わせるようになっていましたから。ところが、犬は生きていたのです。私が福子に言われて縁側から庭を見ると、縁の下に一匹の犬が寝そべっていました。それが、あの犬なのでした。まさか、と疑うほどの変りようでした。毛の色まで変るということがあるものでしょうか。犬は以前はつややかな白に黒褐色の斑がありました。私が最後に見たときは、その斑点はだいぶ褪せてはいましたが、斑犬にはちがいなかったのです。そこにいる犬は、からだ全体を古綿のような薄い細い毛で蔽《おお》われた灰色の犬でした。犬は私が覗くと薄眼をあけました。前と同じなのはこの犬種特有の角ばった口だけです。犬は二、三回尾をふると、また眼を閉じました。明日にでも死んで不思議はない衰えようでした。もう半年、こういう状態なのだ、と福子が説明しました。 「毎朝、今日は死んでるかしらと思って見に行くの。それでも同じことなのね。一週間もろくに食べないから今度こそ、と思うと、また食べはじめたりして。医者へ連れて行く人もないでしょ。死ぬなら死ぬではやくしてくれたらいいんだけど」  私は犬の名前を呼んでみようとしましたが名前を覚えていませんでした。福子に聞くと福子はびっくりしたように私の顔をみつめ、「あら、名前なんか、あったかしら」と言いました。初めから、なかったのかも知れません。私は吉彦が犬に夢中だった頃に名を呼んだような気がしたので数分考えました。しかし、何も思いだせませんでした。  藤川の家から帰ってくると気持に区切りがつきました。これでそういう用事は全部すんだ、と思いました。私は一日おきぐらいに青池を半周しました。青池の東岸は門前村商店街の裏庭になっているので池を一周することはできないのです。池と言っていますが水はなく、幅百メートル長さ百五十メートルほどの靴底形の陥没湖でした。青池の西側、靴底形に少しくびれたところに千台寺があります。私は千台寺の前まで来ても歩調を緩めたりはしませんでした。千台寺の入口には十段ほどの石段がありますから道からでは寺は見えません。私はその石段の上さえも仰ぎ見ようとはしませんでした。一番下の石段のふもとに雑草がかたまってはえている。それだけを横眼で見て通りすぎました。私はいつも水中を漂っているように、ふわふわと歩きました。千台寺の前にさしかかると「用なんかない」と心に呟《つぶや》きました。実際、どんな用があったというのでしょう。なぜ私はその石段をのぼったのでしょう。それは夜でした。石段をのぼりきってしまうと正面に寺の建物がありました。北側へ伸びている低い建物の、明りの洩れているあたりが庫裡《くり》だろうと見当をつけました。広い境内の南半分は林になっていました。その奥のほうに木の間ごしに見える小さな橙色《だいだいいろ》の灯。そこが新院にちがいありません。私は木のすいているところを縫ってその方向に進みました。すぐに角の多い、六角堂とも呼ばれている建物の黒い影が見えはじめました。建物は小道に向って大きな口を開けていました。戸や窓を開けはなす季節はもうとうに過ぎているのです。近づくにつれて、その小さなお堂には窓らしいものがひとつもないのが解りました。赤みがかった暗い灯の下に男が坐っていました。|かれ《ヽヽ》でした。それが疑いようもなく|かれ《ヽヽ》だと解ると私は変な気分になりました。罠《わな》にはめられたような。あるいは、どこかで何かが狂ってしまったような。いるはずのないものだったのです。  新院は眼鏡をかけて本を読んでいました。彼の背後に古びた小さな茶箪笥《ちやだんす》があり、彼の前には細長い経机があります。他には何もありません。人もいません。こんばんは、と私は外から声をかけました。何年ぶりかで声を出す人のような不安定な声でした。ああ、と新院はこたえました。しわがれた、老人くさい声でした。私は穿《は》きものを脱いで中へ這入《はい》りました。床に薄べりを敷いてあるだけなので坐るとき膝頭の骨が動きました。高い天井や暗い灯のためか、火の気のない室内は外よりも寒く感じられました。新院は細字の詰った本を机の上におき、まだそれを眼で追いながら「用ですか」と言いました。私は黙っていました。新院は蛇が鎌首を持ちあげるような具合にすっと首を伸ばし、まっすぐに私を見ました。彼が私の顔を見ていたのは、ほんの数秒にすぎませんでしたが、私は顔の皮膚が彼に見られたところから熱を持って赤くなっていくのを感じました。すべてを見すかされている、と思いました。 「まだ若いじゃないか。若いのに」と新院は眼を上へあげて天井を見ながら言いました。 「何がですか」 「あんたが若いということです」  新院は誰かと間違えているのかも知れません。今晩、ここへ来る予定の人があったのではないでしょうか。私は自分が書道塾をやっていること、用があって来たのではないことを彼に告げました。新院は二、三回うなずきました。その顔つきからでは誰かと間違えているのかどうか解りません。 「どなたか、お見えになるのでしょうか、いまから」と私は訊いてみました。 「まあ、いろいろ来ますからね。来るかも知れんが、別に約束はない。あんたのことも聞いてます。連中、よく喋るから」  そこで話はとぎれました。私は新院に言うことは何もありません。新院は再び眼を本に落しました。私はそのまま新院を見ていました。新院のものの言いかたや態度が若々しすぎる、と私は感じました。五分刈りの頭は半白ですが顔の皮膚は光沢のある桃色に光ってい、顔のむきによっては頬から顎《あご》にかけて脂ぎった感じになります。私は、その若さをいやらしく思いました。そうやって本を読んでいる姿勢にも、精力的な、挑みかかってくるものがありました。落ちついた安らぎの代りに一挙動で立ち上って攻撃の姿勢にうつり得る緊張感があるのです。中壮年や若い人ならともかく、新院のような歳の男がそうなのは、いやでした。しかし、よく見ると、顔には老人らしい薄い赤斑が諸処にあるし、頸《くび》の骨は肉が落ちてとがっているのに胴体は不恰好にふくらんでいます。気力を別にすれば彼はまぎれもない老人なのでした。彼は、いずれ死ぬ。私の場合は不確実であやふやな死が、彼の場合は確実なものとして、あるのです。彼の骨。それは淡い黄褐色を帯びた白でしょう。「骨って、きれいですか」と私は訊きました。 「なんの骨ですか」 「人間の骨。真白で乾燥しきっていてカラカラと音がする骨。きれいでしょうね、きっと」  新院は妙な顔をしました。真面目に考えこむ眼つきになって言いました。 「子供の骨は脆《もろ》い。すぐに崩れて粉になる。おとなの骨は穢ない。この世に未練があるから。黒ずんでいたり、|あく《ヽヽ》の色がついていたりする」 「未練のない人もいるでしょう」 「同じです。みんな同じだ。未練のない人なんていない。自分ではないと思っても、体のほうは、まだまだ未練や執着があるんだ、この世に。……一番きれいなのは老人の骨だね。それも老衰で死んだ人。焼く必要もないほどだ。彼らは腐りはしない。そのまま骨になっていく」 「本当ですか」 「ああ」 「新院さまは」  新院は視線を宙へ止めました。 「多分、穢ないでしょう」と、低い声で言いました。なぜそんなことを訊いたのか解りません。野末をころがっていく軽い骨が見えました。長年|曠野《あらの》に曝《さら》された骨は折れ、すり切れて茶褐色の骨髄が見えています。雨が骨をうち、海綿質になった骨の間を通って地面にしみこむ。それが私の骨であってほしい、と私は望みました。  書道塾は順調にいっていました。生徒の数が増したので低学年と高学年にわけて二部制にしました。机もおいおいに揃い、先生用の大机もできあがってきました。それまでは幾つも高さのちがう机を並べてその上に生徒の清書、書道雑誌、朱筆、大硯《おおすずり》などをおいていたのです。私はときどき、生徒の帰ったあと、大机の上のものを下へおろして、その板の上に寝ました。冷たい固いものの上に寝たいという衝動をおさえきれなくなるのでした。中でも作りたての白木の匂っている机は誘惑的でした。その上にあおむけになると髪の毛と爪先が僅かに机からはみだします。固いものの上に寝ているという実感はそれほどありませんが、まっすぐで平らな面を体の下に感じ、数分で腰骨と背中に冷たさが伝わってきます。それは氷や大気の冷たさとはちがいました。生きた冷たさでないもの、生命のない冷たさでした。それが私の体の冷たさを抽《ひ》きだし、両方が私の背骨の下で癒着《ゆちやく》しました。寝がえりのできる幅はないし、畳の上にも書道の道具がいろいろ置いてあるので、その上で眠ったりはしませんが、生徒が遅くまでいて疲れた日などは数分、その姿勢でまどろむこともあります。初めに殺人の夢をみたのも、そうやって眠ったときだったでしょう。殺人といっても殺すところはありません。私は誰かを殺してその死体を土の中に浅く埋めた。そういう記憶だけがあるのです。埋めるのも夢の中にはでてきません。誰を殺したのかということも解らない。誰でもいいのです。殺すという行為も重要ではない。埋めたのだから殺した、殺したのだから、殺されるべき人間がいた、という理窟《りくつ》になるだけのことで、私がみるのは記憶の夢なのです。埋めた、という形のない、色も音もない記憶だけ。埋めた場所は、はっきりしている。庭の夏蜜柑《なつみかん》の木の下です。そこは一時期、家主の人が堆肥《たいひ》置場にしたから土の色が変っています。鶏糞《けいふん》に混っていた種から見馴れない草が芽を出しています。あそこに、あれだけの面積のところに埋めた、と私は思う。罪の意識はありません。発覚の恐怖におののいているのでもありません。善悪ではなく、明暗に近い気持のかげりがある。それとも軽重といったほうがいいでしょうか。自分の体が千トンもの重さになっているのです。もはや、どうにもならない、という取返しのつかなさだけがあり、私は何度も夏蜜柑の下まで覗きに行き、眼がさめたら何とかしなければ、と夢の中で思う。私はそれから目覚め、そこの土を掘りかえそうと撓《しな》う小枝で懸命に土をつついている。それもまた夢なのでした。  私は道で何回か新院に逢いました。新院はいつも同じ歩きかたをしているのに、あるときは貧相な老人に見えました。腹のへんのふくらみ加減が、いかにも野暮ったく、腹巻か胴巻を厚く巻いているような感じの日もあります。歩きながら空咳《からせき》をしていることもありました。正確な歩行、と思ったのも単に他の人より少し大股《おおまた》で、少し歩くのが速いだけかも知れません。私は新院を見るたびに失望しました。あれが実体なのだ、と軽く決めたくなりました。でも、それは新院を見ているときだけで、新院とすれちがって十分もすると、やはり、あそこに何かがある、というように思うのでした。新院は大抵、私の挨拶に、ちょっとうなずきます。そのかわりに短く「や」と言うときもありました。  御本山へは五日続けて登ったり、ずっと思いだしもせずに過ぎたりしました。近すぎて何も見えないのです。御本山の参道を歩きながら私はしばしば自分がどこにいるのか解らなくなり、立ち止って考えこみました。自分は何をしているところだったのか、何をしようとしているのか、と。なにひとつ解らぬままに再び、ずるずると歩きだし、すると、もういま立ち止ったことも忘れてしまっている。登りの坂道は一番手前の宿坊が見えはじめるあたりで急に嶮《けわ》しくなります。そのへんでは私の歩きかたは動いているのか止っているのか解らぬ速度になります。急がなければならないことなど何もないのです。私は歩きながら胸の前で組合せた両腕をこすりました。高い杉に囲まれた参道には陽がささず、暗く冷え冷えとしています。見まわすと杉並木の向うの藪の賑《にぎ》やかな黄葉紅葉が陽光を浴びて明るく輝いていました。そこは上部がすいているのでしょう。冬でも紅葉の残っている暖地とはいえ、冬は冬の寒さです。私のセーターの下はまだ夏の肌着でした。私は道から離れ、谷側へ傾斜している暖かそうな茂みにむかいました。私の体は寒さのために棒のように硬直していました。撓《しな》い、はねかえってくる下草にぎごちなく引っかかりながら、緩い傾斜を降りました。日だまりは思ったほど暖かくはありませんでしたが、日のあたらない参道よりはずっとましです。私は一番日あたりのよいところを選んで折れた松の大枝に腰をおろしました。鵯《ひよどり》が数羽、長く啼きながら慌《あわただ》しく飛びかい、遠くの茂みに寒椿《かんつばき》が咲いています。その濃い臙脂色《えんじいろ》の花を見たとき、ふいに体が宙に持ちあがった気分になりました。花とその周囲にだけ、木々の間から落ちてくる白い日ざしがあたって別世界になっていました。黄色の細長い枯れ葉をつけた笹は、陽のあたっているところと上方の高い木の枝のかげになっているところとの差が判然とまだらになっています。白に近く輝いているところと、湿った暗緑色の部分とあります。陽のあたっているところは笹の葉の微細な葉脈が陽に透けています。平行しながら、次第にせばまっていく黄緑の葉の線条。葉はゆるやかに内側へ曲りこんでいる。ああ、と私は思い、胸が悪くなりました。見えすぎたのです。私は物ごとの捨てる部分、捨てなければならないほうばかりを歩いてきたのでした。  御本山からの帰りは青池をまわります。散歩にも来るし帰りにも寄るので私は千台寺周辺の地形をすっかり諳《そら》んじてしまいました。千台寺のある山側の道沿いは細長い畑になっています。夏の間、畑には里芋や大豆がはえていましたが、いまは一面の雑草になっています。縁から青池を覗きこむと陥没湖の底は粘った赤土で、中壁のところどころに長い草がはえています。池の向うは商店街の裏で、黒く塗られた物置らしい小屋や洗濯ものの干してある庭が見えます。どの家も思い思いの塀《へい》をめぐらしているのは陥没湖に人が落ちるのを防ぐためでしょう。落ちた人があるのでしょうか。陥没湖の底は軟らかそうに湿ってい、真中へんに大きな石がいくつかありました。初めからそこにあったのではなく、上から転がり落ちたもののようでした。角ばった白茶けた石が空しく、そこに、かたまっていました。陥没湖の内壁は上から十メートルほどは垂直に近いのですが、そこから下は緩やかな傾斜になっています。落ちた人は一旦そこへぶつかり、それからごろごろ転がって短い草の生えている底でとまるでしょう。  私はふりかえって御本山の森を眺めました。千台寺は御本山の山の続きにあります。そこからですと、山の高みに奥の院の屋根の一部が見えます。三重の塔はてっぺんの尖塔《せんとう》が思いがけない近さに突きでています。どうやら平穏な日が続いていましたが、それが長続きしないということは解っていました。自分の正解のでない問題の解答をしなければならぬときがいつかある。それが近づいていました。明日は私が指名される番かも知れない。いっそ速く来ればよいのです。私は贋《にせ》の厚い膜を作って、その中で時折薄眼を開けたり閉じたりしました。まだ、どこにも何もおこってはいませんでした。  お正月を私は母の家で迎えました。母は五年ぶりに娘とふたりで除夜の鐘を聞けるのを喜びました。ふだんは何とも思わないけれども除夜の鐘の鳴っているときは、ひとりきりでいるのが心細く、世の中の誰からも見捨てられたのではないかという心持になる、と母は話しました。母も、もう六十近い歳なのです。私たちは私の結婚前と同じように、最初の鐘が鳴ったら若水を汲《く》んで口をすすぎ顔を洗い、お参りにでかけようと決めました。  初めに聞えた鐘の音はどこの寺のでしょうか。その余韻が華やかに揺れている間に母は裏の井戸へ顔を洗いに行き、白く息を吐きながら戻ってきました。「ああ寒くていい正月だ」と母は言い、箪笥の中を捜しはじめました。私のためのショールを出そうとしているのでした。私は他の寺の鐘が鳴りだしたのを聞きながら立ち上りました。響かない、くぐもった音でした。台所には水を汲んでおく甕《かめ》がありますから普通の日は井戸端まで出て顔を洗いはしないのですが、正月元旦の朝は、わざわざ新しい年の水を汲むのです。母の家の裏庭は赤土の崖に面していて二坪ほどしかありません。赤土に這《は》いあがっている羊歯《しだ》が台所からさしている灯でまっ黒な葉に見えました。私はポンプを押して水を出しました。洗面器の中にポンプの口からボトンと落ちたものがあります。洗面器ごと、台所の窓に近づけて見ると、大きな蟇《がま》でした。井戸の水垢《みずあか》に似たぼろぼろした突起が背中一面に突きでています。色はまだらの茶でした。それとも赤錆色《あかさびいろ》のほうに近いでしょうか。死んでいるのではなさそうですが、洗面器の中で泳ごうともせず、身動きひとつするでもなく、じっと浮いています。洗面器に水を汲む前に私はコップに水をいれて口をすすぎました。そのときもポンプに変な手ごたえがあって水の出が悪かったのですが、この蟇のためだったのでしょう。私は醜い大きな蛙《かえる》の体液の混った水で口をすすぎ、うがいをしたのです。すがすがしい一月元旦の朝の風は一変しておどろおどろしい、なまぐさい夜中の空気になっていました。こちらが本当なのでした。どうして私は錯覚してしまったのでしょう。母のかいがいしさに、ついつられてしまっていたのでしょうか。触りたくもないような蟇でした。それが中へ入っていたというだけで、その洗面器も捨てたくなりました。薄闇の中では蛙は小ぶりの洗面器がいっぱいになるほどの大きなかたまりに見え、固体でも液体でもない、ずるっとした感じが私の体じゅうの皮膚に貼《は》りついてきました。家の中から母の催促している声が聞えたので私は蟇を崖際の溝に流し、顔は洗わないで家の中へ這入りました。  私は母とふたり、頭からショールをかぶって暗い道を神社へ急ぎました。神社は御本山とは逆の方角で、母の家からでは一時間以上歩かなければなりません。村道を歩いて行くと曲り角の度に人の数がふえました。途中の家のどの窓にも明りがついていて、正月らしいというよりは事件でも起きたような異常さでした。三人五人と小道から出てくる人たちも、むしろ不機嫌に聞える真面目な短い挨拶だけをして、あとは黙々と同じ道を進みます。歩きはじめは寒さのために口をきく気もしないのです。「寒くていい正月だ」と母と同じようなことを言う人もありました。返事の声は聞えません。歩いて行く人たちを追いたてるように、あちらこちらで鐘が鳴ります。御本山の三間もの高さのある鐘つき台でも誰かが鐘をついているでしょう。村には鐘のある寺は多くはありませんが、鐘を持っている寺は皆鳴らしています。千台寺でも鳴らしているでしょう。どの音が千台寺のでしょうか。遠く近くの花火のように、鐘は大きく小さく黒い夜空に散っていきます。十数分歩いて体が暖まってくると私は眠くなりました。何もかも融《と》けはじめていました。不透明で曖昧になった頭の中でひっきりなしに鐘が鳴り続けているのを私は聞きました。冬眠中の蟇が、除夜の鐘を聞きました。背中一面に醜悪な疣《いぼ》を背負った大きな蟇が聞きました。     三  広大な面積の皮膚のどこか一部分が絶えず痛んでいました。私は決定的に間違っていました。いくら考えても、それだけしか解りません。間違いは細胞分裂し、みるみる殖えていきました。曼珠沙華《まんじゆしやげ》の赤に似ていました。どんなものとも不調和な激しい赤が日毎に蔓延《まんえん》しはじめました。悪い病気のように毒が毒をよび毒を産み、ついには重なりあい、密集して互いにひしめきあい、天も地も赤くなる。私は、じっと坐ったままで、その赤に眼をすえていました。微《かす》かな予感がありました。悪い予感でした。  自分がわけの解らない鳥黐《とりもち》にからめとられようとしているのを私はぼんやりと感じました。何によらず私にはぼんやりとしか感じられませんでした。私は塾で生徒たちの相手をしているとき、教えながら眠くなって困りました。学習塾や算盤《そろばん》塾とちがって書道塾では特別に説明することはありません。一通り手本を書き与えてしまうと、あとは清書が提出されるのを待っているだけです。私の前と横には鉤《かぎ》の手に大机と脇机があり、それぞれの上に堆《うずたか》く物が積み重ねられています。その防壁に囲まれて私は自分が毎日厚い皮に包まれ、くるみこまれていくのを感じました。そのうちには私は皮そのものになるでしょう。芯《しん》まで皮になってしまうでしょう。それは内側へ向って進行しているのです。あらゆることが遠くなりました。私は暑くもなく寒くもなく、幸福でも不幸でもなく、生きていても死んでいても違いはありません。生徒が帰ってしまってからも何時間も同じ恰好で大机の前にいるときもあります。「どちらにしたって同じことだ」と大きな声で言い、言ってから自分の声に驚きました。お化け屋敷の見世物は数分に一回、パッと垂れ幕をかかげて外で入場をためらっている人たちに中を見せます。そんなふうに、断片的にパッと塾の生徒たちの顔や母の声や庭の槙《まき》の垣根が見え、その他のときは何の覚えもないのです。  ときには気がつくこともありました。いま、自分はおそろしい眼をして窓《まど》硝子《ガラス》ごしに薄曇りの白い空をみつめている、と。人に、そう問われたことがあるのです。どうして、そんなにおそろしい眼をしているのか、と。そうにちがいない、と思うことがありました。眼に力が入っていたのが自分で解りました。呑みこまれていくように何かに没入していました。さかさまに、どこかへのめりこんでいこうとしていました。多くの場合は、そうなったのも、それから醒《さ》めたのも無意識のまま時間がすぎてしまうのですが、ほんの時たま、ハッと気がつくのです。そのときは、自分が全力をあげて何かを考えていた、精神を集中していたという|感じ《ヽヽ》だけがあります。それが何かということは、醒めたときには、もう解らなくなっているのです。ほんのかけらほども、こちらへは持ちこめません。ただ、眼の筋肉の緊張だけが残っているのでした。  食事も簡単になり、一日中食べない日もあります。生徒が来ないときは塾の隣りの部屋の畳の上に私は寝ていました。大病の予後に似た疲れがありました。吉彦の犬は、吉彦がいなくなってしばらくしてから、よく見ると瞳《ひとみ》の上に何か膜のような白いものがかぶさっていました。はっきり解るほどではなく、気のせいのように眼の光がなくなり、それと同時に、あまり無茶な吠えかたをしなくなりました。「今日死ぬか明日死ぬかと思うと、また食べはじめて」と福子の声が聞えたりしました。昼間、そうやって寝ていても、眠ってしまうことはなく、醒めているわけでもなく、夢ともうつつとも判じ難いときがあります。はい、と返事をして、とび起きたこともあります。誰かが私の名を呼んだと思ったのでした。胸の鼓動が激しく、私は数分、自分の乳房をおさえていました。それは大変切迫した声だったのです。私は直ちにとび起きて何かしなければならなかったのです。  ある日、私は三重の塔の中にいました。一番上の部屋にいました。垂直な梯子《はしご》を伝ってのぼったのです。中は古着屋のようで、湿った匂いのする古着が何百枚も積み重ねられていました。私は斜めになった板をおりました。幅広の薄い板は折れるかと思うほどにたわみました。降りたところには洋服の袖だけが堆く山になっていました。どれも薄汚れ、古びています。その一枚を拾うと、ずしりとした重量感がありました。中身が入っているのです。袖を着た腕たちは私の下肢にからみ、私の腿《もも》やスカートの端を掴《つか》んで、だらりとぶらさがりました。私は袖を着た数十の腕が私の下半身に生えているのを惘然《もうぜん》と眺めおろしました。  私はそれらの淡褐色の、薄く毛のはえた太い指が私の膝や内腿にあたったときの擽《くすぐ》ったい、背中が痒《かゆ》くなるような感触まで、はっきりと思いだすことができます。そうとすれば、私が三重の塔にいたのは現実で、十数年ぶりに玉枝と逢ったのは夢なのでしょうか。  私は沢の淵《ふち》の近くで玉枝に逢いました。その日、私は御本山へ登り、帰りはいつものように青池沿いの道を通ったのですが、千台寺の前までくると、千台寺の南側の、山へ入っていく小道へ曲りこみました。その道は雑木や草で半ばふさがりかけていました。山麓《さんろく》に広い道が切り開かれてからは通る人もないのでしょう。陣野部落への近道なのですが。私がどうしてそこを通る気になったのか解りません。ひどい道でした。林の中の道は水路になり、朽葉や去年の枯草の間に踏みいれた足は足首まで、ずぶずぶとはまりました。私は数歩おきに顔に粘りつく蜘蛛《くも》の巣を払いのけ、髪の毛にひっかかった枯れ枝を抜きとらなければなりませんでした。それでも私は戻ろうとはしませんでした。道は中腹まで登ると山を迂回《うかい》しはじめ、そこまで来れば少しは眺望が開けます。私は立ちどまって、自分の登ってきた道や、数十メートル先の沢を眺めました。沢は山と山の境にあり、規模の大きいものは谷川になります。その沢は、かなり大きいほうでした。私は道の近くに大きな淵があるのを思いだし、片端が沢に落ちこんでいる丸木橋のところまで近寄って下流を見おろしました。淵は沢の両側から枝を伸ばしている雑木に遮《さえぎ》られてそこからでは見えません。道と淵の中間ぐらいのところに棕櫚《しゆろ》が一本斜めに生えていました。その棕櫚の向うで白いものが動きました。人がいました。距離があるのではっきりとは解りません。私は沢沿いに、そろそろと降りはじめました。林の中へ入ってしまうと、どのへんに人がいたのか見当がつかなくなります。二十メートルほど歩いてもそれらしい白いものはないのです。見まわしていると、人の呼吸音らしい物音がすぐ近くで聞えました。エエッというような音でした。沢から七、八メートル離れた熊笹の茂みから玉枝の首がつき出ているのです。首だけでした。玉枝はゆるゆると立ちあがりました。私は、そこへ首を出すのは玉枝だと初めから知っていたような気がしました。少しも驚かなかったのです。昨日も一昨日も一緒に遊んだ友達に言うのと同じ調子で私は玉枝に声をかけました。玉枝は腰まである笹をかきわけて沢の縁へ出てきました。彼女が姿を現わしたのは私が誰であるか解ったからにちがいないのですが、何も言いません。微笑のかげすらもないのです。鈍いどんよりした顔つきで私を見ていました。私は自分がいま門前村へ帰っていることを告げ、玉枝に久しぶりに逢えて嬉しい、と言いました。玉枝は軽く首を動かしてうなずきました。彼女は昔から表情の乏しいたちでした。私は彼女の顔のごく僅かな変化でなんらかの彼女の合図をくみとったものでした。いま、彼女の顔には恐怖とも疑惑ともつかないものがありました。彼女は私を拒否していました。玉枝には大人になってから数度逢っていますが直接話したことはないし、こんなに近くから顔を見たこともありません。少女時代に較べると妙に平べったい顔になったようにみえるのは肥ったせいでしょうか。髪を全部後ろへ集めて縛っているので額の傷も見えました。それは私がつけた傷でした。色白でふくよかだった肌が弾力を失い、固いものの蔽《おお》いのようなこわばった輪郭になっています。玉枝が淵を通りこして沢を降りはじめたので私もついて歩きました。「何してるの、ここで」と聞くと、玉枝は手に提げている大きな空罐《あきかん》を見せました。その中に沢蟹《さわがに》が十数匹もつれあっています。 「お母さんの薬ですね。すり鉢で潰《つぶ》してつけるです」と玉枝は初めて口をききました。昔通りの、喉《のど》になにかがつかえているような声でした。私も中学生の頃、かぶれて、沢蟹を潰した汁をつけたことがあります。そう言うと玉枝は首を左右にふりました。 「かぶれとはちがうと思うだけどね。もう半年の余も直りゃせんもんで。乳の下から背中のほうまでブツブツができて。それで、ぼこぼこになっちまってるですね。この頃は膿《うみ》みたいのもでるしね」  玉枝は一度話しだすと、よく喋《しやべ》りましたが妙な言葉づかいが気になりました。沢を降りながら、玉枝はひとりごととも愚痴ともつかずに言い続けるのです。 「父ちゃんが死んだで男は義兄《にい》さんだけだもんね。もう、女中ですね、私ら。お母さんも遠慮してるだから。何も言わんしね」  私は玉枝の仕事を手伝うつもりで沢へ入って一緒に沢蟹を捜しました。罐の中に十数匹もいたので幾らでもいると思ったのですが、なかなかみつかりません。さんざん捜してようやく一匹つかまえました。私の掌の半分の大きさしかない明るい橙色の蟹でした。水に足を浸して、せっせと動きまわっていた玉枝が私に背を向けて動かなくなったので近よって見ると、玉枝は蟹の甲羅を眼の高さに持ちあげて裏側を覗いていました。幾段にも折りたたまれている白い薄膜の間から小さな虫がぞろぞろと溢《あふ》れだし、水の上へ落ちていきます。虫、と思ったのですが、よく見ると、その半透明の白いものは小さいながらも蟹の形をしています。玉枝は蟹を下へおろしました。雌蟹は、そろそろと歩いて石のかげへ這《は》いこみました。 「災難だったねえ、この人」と玉枝が言いました。私は冗談を言ったのかと思って玉枝の顔を見ました。玉枝は深刻な顔でした。額にいびつな皺《しわ》がよっています。「私、二度おろしたことがある」と玉枝は言いました。「私、おろしたくなかったです。せっかくできた子だもの。おろしたくなかったよ。病気の子だって、いいじゃん。生れてすぐ死んだって、しかたんないじゃん。産んでみにゃあ解らんよ」  玉枝は結婚の経験はないはずですから、おろしたのは癲癇《てんかん》のせいばかりではないだろう、と私は思いましたが黙っていました。玉枝の額の傷は、色は薄くなっていましたが、百足《むかで》がそこに蠢《うごめ》いているような異様な感じを与えました。玉枝は聞かれないことまで抑揚のない一本調子で話し続けるのです。 「病気っていえば、私、まだ直らんのです。普通はこの歳になりゃあ、おさまるって言うだけどね。姉ちゃんだって、もう直ったもんね。私だけ。……薬飲んでりゃちっとはいいけど、高い薬だもんですでね」  昔は玉枝は病気《ヽヽ》などとは決して言いませんでした。癲癇の発作のことを「頭が病める」と言っていました。「それでも、そんなに元気そうだからいい、寝たきりの人に較べれば」と私は言いました。私の前を歩いていた玉枝が立ち止り、私のほうへ向き直りました。 「なにが元気《ヽヽ》だね」と玉枝は私の顔に眼をすえて荒っぽく言いかえしました。「|元気そうだ《ヽヽヽヽヽ》なんて。よくそんなことが言えるね。知りもせんで。あんたなんかに何が解るもんかね。|あんたなんか《ヽヽヽヽヽヽ》に」  私は黙りました。私たちは沢を降り、青池沿いの道へ出ました。林の中から急に明るいところへ出たので玉枝は眩《まぶ》しそうに眉をしかめました。眼の下に薄い褐色のシミがありました。昔から少し窪んでいて金壺眼《かなつぼまなこ》だった玉枝の眼はますます小さくしぼみ、まぶたにも眼尻にも細い皺がありました。私が何も言わなかったので気がおさまったらしく、玉枝は病気の話を続けました。 「私、この間も軽便の駅のところでなっただに。知ってる人だっているのに、みんな知らん顔してて、おかげでいい見せものだったです。ほら、豊橋の敬老会だかって、二百人からの人が来とったら。それに他の団体もおったしね。……そいでも、しかたんないけどね。いまさら隠したって。母ちゃんだって、前なら慌ててとんで来たけど、この頃じゃ……体も悪いしするしね。頭でもぶってりゃ困るけどって、そう言っただって。そうでなきゃ、二十分か三十分もすりゃあ眼がさめるでほっといてくれって。……そりゃあ、そうです。何でもないだわね。病気になるときは私、解るだに、自分で。なんか、色がちがうだね、そのへんの。陽が照ってても曇りの日みたいふうでね。机の角なんかも、ぼやっとしてて。線がはっきりせんですね。……それでも出て歩くですね、私。わざと、石のあるとこや青池の縁なんかへ来るです」  玉枝は青池を覗きこみました。彼女の眼は陥没湖の底にある石を見ていました。  無意味無益。無意味無益なのでしょうか。何もかも、一切が。その言葉は何の抵抗もなく、すっと一度で私の内奥へ達しました。むしろ嬉しい気さえしました。叱られるはずのことをしていながら、それがなかなか発見されなくて、いくら待っても叱られない、待ちあぐねているときに、ようやく激しく叱責《しつせき》された、そういう気持でした。私は、いま新院の言った言葉の中から、その五文字だけを取りだして、もう一度、呪文《じゆもん》のように「無意味無益」と唱えました。それは私に関して言われたことではないのですが、同じことでした。私たちは坐禅をしている男の邪魔にならぬよう、外へ出て青池の縁を歩いていました。新院の住んでいる六角堂は御本山の坐禅堂と同じ建てかたですから稀《まれ》には坐禅をしにくる人もいるのです。その男は四十前後と思われました。太呉町の商店主だということでした。彼の坐禅について新院が「無意味無益だ」と断定したのです。あの男は二、三カ月に一度ここへ来て坐禅をしていく、と新院は言いました。彼は若いころに山へこもったことがあるから坐禅のやりかたも知っている。意味も知っている。しかし、いま、彼がそれをするのは単なる自己満足にすぎない。無意味無益です。  無意味無益という言葉だけが私を貫きました。私は無意味無益でした。無意味無益は有意味有益の反語ではないし、有毒有害の反対語でもない。無意味無益。それでおしまいなのです。行きどまりなのです。 「何にでも上手下手がある」と新院は話し続けました。「坐禅にもある。信心にもある。……無器用な人間は、見苦しいだけだ」  それは坐禅をしている商店主へ向けられた言葉ではありません。その語調の苦さときびしさは私を——あるいは、新院自身を刺しているのです。 「下手な人はどうすればいいのですか。一生下手のままなのですか」と私は尋ねました。  新院はこたえませんでした。暗い道でした。陥没湖の向うの門前表通りのあかりも、ここまでは届きません。陥没湖も闇の中でした。新院について歩くのは骨が折れました。おそろしく足が速いのです。新院は陥没湖の南端まで行くと、さっと向きを変えます。北は大門までで引きかえすのです。時計の振子のように、それをくりかえしました。私は小走りについて歩きました。 「新院さま」と私は喘《あえ》ぎながら新院の背中に呼びかけました。「新院さまは二十年、村にいらっしゃらなかったでしょう。どこで何をしてらしたんですか。村の人は、こんなことを言ってます。新院さまは人殺しをして二十年刑務所に入っていらしたんだ、って」  新院は「知っています」とこたえただけでした。あまり軽々しいあっさりした答えかただったので私はかえって、その噂《うわさ》は嘘なのだろうと思いました。 「人殺しなんて簡単なことだ。死ぬこともそうだ。そうして、死ねばそれきりだ。そうだろう」 「では……それでは、新院さまには極楽浄土はないのですか」と私は問いかえしました。私は自分の前を歩いている人が誰なのか解らなくなりました。 「ないとは言っていない」と、その人は言いました。「極楽浄土は、あります。あるべきだ。死ぬんだからね。誰でも……死ぬのは仏のみこころなんだ。どんな死にかただろうと。だから、極楽浄土は、ある」  その言いかたには決しておかしいところはないし、あやふやでもありませんでしたが、どこか妙でした。変なところがありました。私の沈黙をどうとったのか、彼はまた言いはじめました。 「死ぬのも生きるのも、みこころだと思う。しかし、何も期待してはいけない。悩み苦しみ、とんでもない方向へいこうとしていても……小さな子供が溺《おぼ》れ死のうとしていても……仏は見ているだけだ。仏にすれば、どれもこれも|善いこと《ヽヽヽヽ》なのだ。二十年前に、わしはそれを知ったんだ。黙って見ているものがいる、ということを」  新院は言葉を切りました。頭上をムササビらしいものが飛んでいきました。五位鷺《ごいさぎ》がギャッと啼《な》きました。そのとき、私は低い笑い声を聞きました。そこには新院と私しかいないのに、その笑い声は私の知らない三番目のものの声でした。新院が私のほうへ顔を向けると、一瞬、彼の口の中で金歯がきらめくのが見えました。闇の中で、それだけが見えました。私はそれまで新院に金歯があることを知りませんでした。彼は本当に新院なのだろうか、と私はもう一度疑いました。新院でなければ誰なのか。私と正反対の存在、不動のもの、迷うことのない人、二十年も私の内部に定着していた|かれ《ヽヽ》。それはこの男なのでしょうか。彼は、ますます足を速めながら言いました。 「本気にしてはいけないよ。わしの言うことはみんな嘘なんだ。坊主にもなれん男の言うことだ」  私は彼について歩くのをあきらめました。私には到底追いつけない速度になっていたのです。それに、彼が陥没湖の端まで行ったら正確に廻れ右をしてこちらへ戻ってくるのが解っていました。私は立ちどまって御本山の方角を眺めました。どこかに大きな秤《はかり》がある、と私は思いました。その秤が一方に大きく揺れました。ぐらりと傾きました。自分には見えないが必ずあるはずだと信じ続けてきたものが実は|無い《ヽヽ》のかも知れない。初めから無かったのかも知れない。すべて誤解だったのか。私は錯覚から出発していたのでしょうか。闇の色が変りました。いままでが黒い闇だったならば、これからは白い闇です。黒い闇は夜があけて日が出れば消えますが、白い闇は消えない。未来|永劫《えいごう》に融けることはない、それでもしかたがないのです。いま青池の南端に歩み去った男は新院であり、新院は|かれ《ヽヽ》であり、|かれ《ヽヽ》というのは御本山の縁を歩いていた男なのです。では、御本山は何でしょうか。御本山もまた錯覚なのでしょうか。——いくら熱心に眺めても御本山の方角には何も見えません。  私は心の中で反芻《はんすう》することの分量が増しました。漠然としていたものが漠然としながらも、少し裂け目が見えてきていました。私は生徒に字を教えながら、つかのま放心していることがよくありました。ふいに新院と話していたときの風、林から流れてきた色のない冷たい風のことを思ったりしました。無色というのではなく、どんな色も知らない間に、なしくずしに消してしまう、そんな色でした。  庭へ出ると裏山の、うるさいほどに繁茂した草木の緑がのしかかるように厚ぼったく中空を占めていました。寝すぎたあとの何もしたくないだるさが体じゅうにしこっています。実際は疲れているわけではないのに、動きだす前から手足が重く痺《しび》れて動こうとしない感じがあるのです。生徒に教えている時間を除けば、その他のときは自分でも何をしているのかよく解りません。母の家へ行くのも間遠になりました。一週間に一度以上は行くことにしていたのが二週間に一度になり、三週間行かぬときもあります。私が顔を出さないと母のほうから私の家へようすを見にきました。「あんた、知らないでしょう。この前から二、三度こっちへ来たとき寄ったんだけど。あんた、眠っていたから」と母は言いました。「起そうと思ったけど起せなかったのよ。あんまりひどい顔だったからね。いま起すと般若《はんにや》になる。そんな気がして……眼をさましたとたんに般若になって、ぬっと立ちあがるんじゃないか……」  私は、そのとき自分が何の夢をみていたか知っていました。三日おき、四日おきに私は同じ夢をみました。いつでも同じ風景でした。私の腰の高さに一面に赤黄色の枯草が茂っている広い野原なのです。その中を白い道が縦横に走っています。道の白さは漆喰壁《しつくいかべ》の白さで、土の色ではありません。草原の枯草は今年や去年枯れたものではなく、千年も前からそうなのです。草原を風が吹き抜ける。光沢のない白い道は白さが兇悪でした。線の具合が人間の肋骨《ろつこつ》にも見えました。その肋骨の上を蟻《あり》のように人が伝い歩いて行く。大勢の人が歩いていく。何ごとかあったのです。私は、それを見ている。彼らの間には知っている人がいます。みんな知っている人たちです。若い人も老人も嬰児《えいじ》もいます。みんな、行くのです。どんどん速足で行く。ひとり残らず行ってしまう。私も行こう、と思う。ところが歩けないのです。足が萎《な》えている。私は必死になって顎と両手で道の近くまで這っていく。すると、そこが境界でした。何のしるしもないけれども、境界なのです。私は境界のこちら側にいて、もう遠くへ去った人びとを見ました。ああ、と悟って体が冷えていきました。誰かが「きちがい」と言いました。「いろきちがい」と叫びました。私はハッとしました。私のことなのです。「いろきちがい」というものは、夢の中では性的な意味はなくなっていました。それは非人間的なむごい意味を持つ言葉なのです。それに一度なってしまうと、もう死ぬことはできない。やめることもできない。人間以外のものになってしまったのです。どこも何も変りはないのに、それになってしまって、どんなことをしても、もう駄目なのです。知らない間に、そうなっていました。気がつかなければよかったのですが、知ってしまった。私は喉の奥から声をふりしぼって泣きました。泣いているつもりですが、声も出ず涙も出ません。口を開けたり閉じたりしているだけなのです。私は泣けなくなっていた。「いろきちがい」だからでした。犬が犬の声を出すように、猫が猫の啼きかたをするように、私は「いろきちがい」の泣きかたしかできない。  私は新院に馬鹿な手紙を書きました。 「蟹は己れの甲羅に似せて穴を掘ると言います。せっせと掘って、さて来しかたをふりかえれば、みっともない破れ穴が頭上に見える。そのときの蟹の驚き、誰に言いようもない一から十まで自身のせいである、このむごたらしさ。どうしてこんなとんでもない形のでたらめな穴があいたか、といえば己れの拙《つたな》い生れつき、自分で見るわけにはいかぬ背中の甲羅のせいで、ましてや甲羅の模様が鬼か仏か死んでも己れには見えぬ。蟹は死ぬまで蟹でしかなく鯛《たい》になったり栄螺《さざえ》になったりはしないから。  新院さま。私は八歳のときに御本山大本堂の縁を歩いている男を見、以来ずっと穴を掘り続けてきました。その男の肖像を架空のペンダントに嵌《は》めいれて日夜肌身離しませんでした。その男は私の垢《あか》で肥え太った。そう、垢で、です。真摯《しんし》な汚れのない垢で。その男がどこかにいる、と思うことで釣りあいがとれていた。私の穴が深くなればなるほど男の肖像も鮮やかになったのです。男は御本山の思想を体現した存在でもあった。(仏教のことではありません。建物のことなのです。五百年同じ形に動かぬ建物のことなのです)  あまりに真剣に妄想《もうそう》すると、ひょっこり猿が出てきてしまうことがあると申しますでしょう。新院さまが猿だというのではありません。あなたはペンダントの中の男とちがいすぎます。とはいえ、あのとき、あそこを歩いていた男が新院さまであることはたしかです。あなたが現実の存在であると解ったとき、もうひとりは当然消滅すべきでした。あるいは——二十年私がみつめ続けてきた男、いまや細部まで私の祈りにも似た想像によって完成されようとしていた男、捏造《ねつぞう》された男を救うために現実の存在のほうを殺すべきであった。ああ、私は自分が何を言おうとしているのか解りません。あのとき、あなたの足どりがあのように決然としていたのは|見ているもの《ヽヽヽヽヽヽ》への怒りのためだったのでしょうか。  新院さま。あなたは不動ではなかったのですね。迷わぬ人ではなかったのですね。そうであってもいまさら私はあなたのことを考えるのを止めるわけにはいかないのです。何が何でも片方の重み、そちらの分銅《ふんどう》の重みをなくすわけにはいかないのです。どんなにおそろしいものだろうと妙なものだろうと私の重さだけのものが、もうひとつの秤皿に載っていないと私は……どうぞ解って下さい。どうぞ」  新院の名前を知らなかったので宛名は門前村千台寺内、新院様と書きました。自分の名は書きません。奈落から奈落へ落ちていくべき手紙、自分にもよく意味の解らぬ手紙でした。訣別《けつべつ》の手紙のつもりだったのが送ってから考えてみれば恋慕の手紙になっているのでした。  晴れ間が見えたり、大粒の雨が降ってきたりする日でした。颱風《たいふう》が来ているのかも知れません。遠くで雷の遠鳴りが聞えます。私は衝動的に歩きだしました。いつ家を出たのか覚えがありません。遠くに底深い地鳴りを聞き、次には、もう道を歩いていました。雨は止んでいます。大門近くまで来ると上空から盛大な音が襲いかかってきました。私の頭の上が昏《くら》くなるようなザアッという厚みのある音でした。見あげると、空いっぱいに何百羽という鳥の大群が飛んでいました。その羽音の思いがけない凄《すさ》まじさに、私は自分が不快になりました。|あらけなく《ヽヽヽヽヽ》生きている、と考えました。私は大門をくぐらずに青池側へ曲り、千台寺南の小路をのぼりはじめました。ここまで来て私は自分の頭には初めからあの淵のことがあったのだと悟りました。誰も知らないところにある重い静かな淵。あそこは両岸が高くなっていますから水面まで二メートルはあるでしょう。絶え間なく水が流れこみ、流れ落ちているのに、その淵は澱《よど》んでいました。底まで透明な水が見えながら深さが測れません。どこか一カ所、どんな大雨にも、そこだけは水の変らないところがあるのです。林の中の小道は晴れている日でも湿っています。今日は、もう、一回雨が降ったので、道は川になって流れはじめていました。私は何度も足をすべらせました。転んだのも起きあがったのも無意識でした。新院のすぐ横を通りながら、新院のことさえも忘れていました。  淵は、この前見たときとは違う場所かと思われるほど変化していました。水は赤く濁っていました。異常な赤さでした。山の頂上附近の赤土が流れこんだのでしょうか。水の色ではありません。狛犬《こまいぬ》ノ目ハ赤クナッテイマシタ。マッカデシタ。急に、そんな文章を思いだしました。津浪《つなみ》の襲来を知らせるために狛犬の眼から、たらたらと血がしたたり落ちるのです。前後も何も記憶にないのに、石の犬の眼から血がでるなまなましさだけが身のすくむ怖ろしさとなって私の頭に残っていました。水が増したので淵の水面の形が変っていました。淵は眼の形になっていました。眼頭へ山からの水が流れこみ、眼尻のほうへ水は走っていきます。私は淵のあちこちに小さな渦ができては崩れるのをしばらく見ていました。背後に気配を感じてふりむくと、玉枝が木橋のある道から沢をおりてくるところでした。私たちはお互いに軽くうなずきあいました。こんな不穏な天候の日に人の来ない山の中で偶然逢うのを不思議にも思いませんでした。子供の頃にも私たちの好きな場所は決っていて、約束してなくても自然に落ちあうことができたのです。私たちは同じところに並んで立ち、黙って水面を見おろしました。私は蟹のことを思いだし、母親の病気はもう直ったのかと玉枝に尋ねました。玉枝はすぐにはこたえませんでした。重苦しく黙りこんで足もとの草の実をしごきとりました。 「姉ちゃんと喧嘩《けんか》したもんで」と、やっと言いました。「お前なんかおらんほうがいいって言うですね。お前みたいな淫乱の癲癇……」玉枝は少し言葉を切り、再び続けました。「恥さらしなだけだって、そう言うですね、姉ちゃんは。お母さんは入院してるしね。もう三カ月になるです」  玉枝は歯の間からシィーと音をたてて息を吸いこむと手の中の草の実を淵へ投げこみました。 「きっと死ぬよ。医者さまも難かしいって言ってるでね。どうせ死ぬなら家にいたほうが金がかからんでいいって、義兄さんはそう言うですね。入院してるとかかるでね」  私は水面に眼を落しました。水かさは来たときより増していました。静かなように見えながら激しく流れているのが水面の枯葉の目まぐるしい動きで解りました。大きな葉は淵の端を流れに逆らってゆっくり動き、一瞬、同じ場所でぐるぐる回転していたかと思うと、きちがいじみた速さで一直線に流れ去りました。枯葉自身の激しい意志で、まっさかさまに|※[#「眞+頁」]落《てんらく》していったようにみえました。私はめまいを感じました。頭上に渦巻いている濁流を見ました。  玉枝が何か言ったので私は眼をあげました。玉枝は硬い光らない眼で私を凝視していました。私も同じ眼をしていたでしょう。やがて、玉枝はふざけているように、少しずつ口を開きました。玉枝は、音程のはずれた、悪夢に似た呻《うめ》きとともに私のほうへ倒れかかってきました。眼は開けたままでした。すべての動作が、あまりに緩慢だったので、私は一秒の何分の一かの時間、玉枝が私を試しているのか、と考えたほどです。私もまた、ゆっくりと身を避けました。玉枝の体は私の腕をかすって、そのまま淵へ落ちました。それだけの重量のものが落ちたとは思われない、あっけない落ちかたでした。水しぶきが高くあがり、空中で一旦、停止しました。淵は思ったよりはるかに深いようでした。一度玉枝の手の先がちらと見えたきりです。私は数度またたきをしました。ながい間つかえていたものがいま融けて流れ落ちました。私は足場をたしかめながら赤い水の中を覗きこみました。そのとき私の胸を領していたものは悲しみでも喜びでもなく、もっと単純なものでした。眼の前に在ったものが影も形もなくなってしまったという当惑。玉枝はどこへ行ったのか。何のために淵の中へなど這入っていったのか。そんな子供じみた疑問でした。私は酸素のたりなくなった金魚のように口を開けたり閉じたりしながら忙しく淵の岸を何度も往復したのです。  雨が私の顔にあたりました。丈の高い群木の間を通り、何枚もの葉の重なりを伝わってきた大きな滴《しずく》が私の髪や額に落ちました。私は顔をあげ、宙にひとつの形を見ました。これ以外ではあり得ないという形。必ずこうなるはずなのでした。決っていたことなのです。額に傷をつくってからの十六年間の玉枝の生は何であったか。無駄な生でした。よいことは何もなかった。これからも、そうだったでしょう。私は両掌を固く握っていました。人殺しの手でした。よいことであれ悪いことであれ、それが人殺しの手であることは間違いありません。この手は、そのためにある手だった。実際に私のしたことといえば単に一歩横へ動いただけですが、私はいままでの何十年、幾百回もその練習ばかりをしてきたと言ってもよかったのです。生れる前から、何百年も前から。私の拳が開かないのは玉枝の血糊《ちのり》で粘りついた指の一本一本がくっついてしまっているためでした。  私は淵から離れました。丸木橋のある道まで登り、淵の方角を見ました。私は玉枝が好きでした。誰よりも好きでした。私のその気持に一点の曇りもないのを確認すると私は晴れやかな眼になって空を見あげました。大空の中央に馥郁《ふくいく》と咲き誇っている大輪の花々がありました。豪奢《ごうしや》な花束が重たげにたゆたいながら天上に浮いている。花たちは色とりどりの大小の蝶となって無心に舞い狂い、煌《きら》めく彩色硝子の破片となって鮮明な紺碧《こんぺき》の空の涯《はて》に砕け散りました。その遥かな高みから露を含んだ花びらの一片が堕《お》ちてきました。激しく揺れている高い木の梢《こずえ》をかすめて私の眼の中にはらりと落ちました。空は晴天なのに下界は横なぐりの雨でした。私は全身びしょ濡れになりながら山道をおりはじめました。何度か泥濘《でいねい》の道に倒れこみそうになる体をひきおこしました。人の通らぬ小道には両側から芒《すすき》や山《やま》躑躅《つつじ》が枝を伸ばし、双手《もろて》を組合せた恰好で私をはばみました。雨滴をきらめかせた蜘蛛《くも》の巣がべったりと私の髪や顔にからみつきました。道は幾重にも曲りくねり、いくら歩いてもきりがありません。私は歩きながら自分が玉枝の名を呼んでいるのに気づきました。私はそのとき小学生の玉枝を追いかけていたのです。いままで一緒に遊んでいた玉枝が何の合図もなしに、いきなり「やあめた」と叫んで走りだしたのです。私は驚いて追いかけました。玉枝は小川を跳びこえて見る見る遠ざかります。幅の狭い川なのに私にはどうしても飛びこせません。私は川の縁を行ったり来たりして走りまわりながら、どうにかして玉枝を呼びもどそうと、何度も何度も玉枝の名を呼びました。  私は山道の途中で立ちどまりました。道の北にある太い山桃の枝の向う、思いがけぬ近さに千台寺の甍《いらか》の一部が見えていました。私は千台寺の横、五十メートルとは離れていないところにいました。この小道を降りきって、ひと廻りして寺の正面から入ることはないのです。新院のいる六角堂は境内の西南隅です。千台寺の南のここから茂みをくぐって最短距離を行けば二、三十メートルでしょう。私は躊躇《ちゆうちよ》しませんでした。隙間もないほどびっしりと茂った灌木《かんぼく》を両手でかきわけながらその間へ足を踏みいれました。ひとかかえもある芒《すすき》が頑丈な柵《さく》となって灌木の間の空間を埋めているのです。そこを強引に押しわけると、次は野茨《のいばら》の群落でした。野茨は灌木や芒のように上を向いて立ってはいません。何段構えもの層になって這っています。たちまち私の手足や顔に引っかき傷のための血の筋が走りました。私は茨を避けようという気がなくなりました。そのまま、まっすぐに歩きました。千台寺の境内と藪《やぶ》との境界には低い竹垣がありましたが、跨《また》がずに体をぶつけていきました。古い腐った竹は向うへ倒れました。私は垣根を踏み越え、新院の扉の前へ立ちました。扉はしまっていました。私が軋《きし》む戸を少しずつ開けると、中の停滞した匂いのある空気が外の荒々しい風といれかわりました。新院は初めて逢ったときのように老眼鏡をかけて細字の詰った本を手にしていました。扉をしめると暗いので電燈をつけています。私は入口に立って新院を眺めました。自分の体がひどくふるえているのが解りました。ふるえているのではなく、揺れて均衡がとれないのです。私は扉の外の縁側へ坐りこみました。そこは吹きつける雨風で濡れています。眼に水が流れ落ちたので拭うと、その手に血がついてきました。新院は顔をあげて私を見ました。冷淡でもなく、やさしくもない澄んだ眼でした。彼は本に栞《しおり》をさして立ちあがり「いよいよ来るな」と言いました。 「今度のは大きいということだ。朝来るかと思ったが」  新院は空を仰ぎながら私の傍を通りすぎ、入口から一歩踏みだしました。そこに立っていて、中へ戻らないのです。新院は室内のほうを向いて坐っている私の後ろにかがみこみ、私の髪の毛についている枯葉や枝をとっては外へ捨てているのでした。十数本、ついていました。 「わしは、あんたの父親じゃない」と新院は元の場所へ坐って言いました。「もちろん、先生でもない。旦那でもない。他人だ」  私は「はい」とこたえました。新院は数分、私をみつめていました。 「いったい、わしにどうしてほしいのだ」  私はアッと息を飲みました。新院は私の手紙を読んでいたのです。差しだし人を知っていたのです。そして、おそらく、彼は悟っているのです。私が何を求めているのかということも。私はすぐに眼をそらしました。私の体温に暖められて半乾きになった服から、なまぐさい自分の体臭がたちのぼってくるのを嗅《か》ぎました。私は一旦開きかけた口を閉じました。遅すぎました。  彼の眼から光が消え、新院はその歳の人らしいしわがれ声で言いはじめました。 「あんたは、長い間、わしについて思いちがいをしていた。そのことは、いまはもう、あんたにも解ったはずだ。それならば、こういうことも言えるのではないか。あんたはあんた自身についても思いちがいをしている、と。自分はこんな人間だとあんたは思っているが、そうではないかも知れん。正反対かも知れないだろう」  新院は後ろの戸棚から数珠《じゆず》を出して私に渡しました。紫の房のついた水晶の数珠は私の見覚えのあるものでした。 「あんたのお母さんがあんたに渡してくれと言って持ってきた。心配しているんだよ」  急に母のことを言われたので私は愕然《がくぜん》としました。母のことを忘れていました。この前、母と逢ったのはいつでしょうか。いつ、などということはない。昨日かも知れない。誰かがしきりに医者へ行けと言い、私の腕をとって立たせようとした。あれは夢だろうか。いや、そうではない。私は引っぱられた腕の痛さを覚えている。手荒にふりほどいた私の指先が相手の眼にあたり、なにか叫んで顔に手をあてたのを見た。母はなぜそれを私に直接渡さないのでしょう。私は母が死んでしまって、あの世からこの数珠をよこしたような錯覚をおこしました。 「回向《えこう》してあげよう」と言うと、新院はそのままの恰好で経を誦《ず》しはじめました。普通は僧の背後で聞える読経の声が、いまは私の真正面から聞えてくるのです。渋味のあるいい声でした。新院の眼は私から離れません。私は眼を閉じました。新院は何に回向しているのでしょうか。極楽浄土はあるのでしょうか。長いお経でした。私の頭のなかに、ひとつのものが消しても消えない汚点のように何度も現われました。それは玉枝の腋毛《わきげ》でした。いつ、私はそんなものを見たのか。色の濃い太い毛です。それが、それぞれ勝手なむきに生えていました。腋の間や、腕の下側に、へばりついて横に倒れて生えていました。初めから、そうやって横向きに生えてきたような毛が玉枝の白い柔らかい腋の下に悪鬼となってがっちりと喰いついている。何度消しても、その、生命力そのもののような邪悪な腋毛は私の眼の中から消えません。 「もう、いい」と新院が言ったので私は眼をあけました。経は終っていました。 「あんたには自分以外のものはないのだ」と新院は言いました。「自分だけなのだ。だから、どうしようもない。あんたのことは、わしにもいくらか解る。だが、どうしようもないのだ」  茫漠とした霧が見えました。その中は白くぼやけていて何もありません。それは、ただの白いもので、私はそこを歩いて行かなければならないのです。自分も白い曖昧《あいまい》な形のものになって彷徨《さまよ》い歩いて行かなければならない。はじめもなく、おわりもなく。私は頭をふりました。風に雨がまじりだし、吹きかたも強くなっていました。新院のいるほうまで大粒の雨が唾を吐きかけるように次々と飛び散っていきます。 「帰って服を脱ぎなさい。それから湯で体を拭くんだね。風呂があれば沸かしたほうがいい。そうして、乾いた小ざっぱりした服に着替える……そういうふうなことをやっていればいいんだ、際限もなく。それだけなんだ」  言ったことも口調も新院にしては最大限に優しかったのですが、私は冷たいものを感じました。私もまた新院の眼で自分を見ました。自分を嫌悪しました。愛想をつかし、見捨てました。  夜、私は塾にしている部屋に坐っていました。私室にしている部屋との境の襖《ふすま》が二十五センチばかり開いていました。襖の向うの暗黒が、その隙間からこちらへはみだそうとしていました。長細い黒い空間が動いていました。私は闇の中で地を這って逃げようとしているものを見ました。いつか見た大きなゴキブリの残影が私の眼の中に現われたのでした。それは私の視界をちらちらと目まぐるしく走りまわり、血眼になって逃げ道を捜していました。ゴキブリ色の生、と私は親しげな、ぞっとするような声で囁きました。濡れ濡れと光っている|いのち《ヽヽヽ》。私の。私はそれに向って文鎮《ぶんちん》を投げつけました。私は渇いていました。|いのち《ヽヽヽ》とはゴキブリのようなものだったのか。わずらわしく、あわただしく、醜く、勁《つよ》いもの。地べたの上で、それだけの存在で規則正しく脈うち、どんな力もそれを止めることはできない。ジンテイというものがあります。手もなく足もなく眼はえぐられ、耳、鼻をそぎとられ舌を抜かれて厠《かわや》の隅で七日七晩生きたという。それでよい。それがもっとも完璧《かんぺき》なかたちなのだ。私は渇いていました。コップ一杯の水では駄目です。バケツ一杯でも貯水槽の水全部でも。真に渇いている者が欲しているものは水そのものなのです。私は自分の腿においている両掌に力をいれました。腿の肉を強くねじりました。猫勝のことを考えていました。猫勝は何も持っていない。彼の頭の中には何もない。子供の頃、私はよく猫勝の顔や体に触りました。彼の不精髭《ぶしようひげ》や喉仏《のどぼとけ》をいじり、脛《すね》の毛をひっぱりました。父も男の兄弟もない私には、それらが珍しかった。——はたして、それだけだったのか。私は他のところへも触ったことがあるのです。まるで、ついでのように。何の邪気もないふりをして。一回や二回ではない。玉枝と一緒でないときはいつでもそうだった。私はよろめきながら立ちあがりました。腿を抓《つね》っている手には更に力がはいっていました。  私は長い道を歩いていました。粘ったものが内腿を伝わって滴《したた》り落ちていました。他から私の体内に這入ってきたものは再び出ていきました。どれだけ歩いても涯《はて》のない闇の中です。眼を開けているのか閉じているのか解りません。私は跣《はだし》でした。ふいに「何のために歩いているのか」と思いました。どうして私は歩かなければならないのか。いつまで歩くのか。どこへ行こうというのか。私は上を見あげました。頭を動かしてまわりを見ました。何もありません。幻さえも。私はべったりと地面に坐りこみました。 「なぜですか」と私は訊《き》きました。地面に正坐して手の皮が剥《む》けるまで地を叩き続けました。 「なぜですか」  何度質問しても、こたえはありません。見えてくるものもありません。私は自分の体を大地にぶつけました。頭から急激に上半身を倒しました。私の額や頬に尖《とが》った石が突き刺さりました。  寝ていると、あけがた、蒲団の中が赤く燃えました。眼の中にも頭の中にも、私の周囲のどこにも赤がありました。色ではなくて光でした。ひとつの巨《おお》きな意志でした。それは変幻極まりなく一瞬ごとに形をかえ、荒れ狂い、燃えあがり、ごうごうと音をたてていました。真暗な天から裸の男女が降ってきます。黒い口腔《こうこう》を顔いっぱいに開けた人間たちが際限もなく火の上へ降ってきます。全裸の人間たちは、めらめらと、たわいなく燃えました。女の長い髪が炎の中で巨大な薔薇《ばら》になってパアッと深紅に咲き拡がりました。火勢の強さが風を招《よ》び、炎は天へ向って伸びあがりながら大きくゆらぎ、そのとき、華麗な赤のなかに私は荘厳な建物を見ました。私は夢中で叫びました。 「御本山が燃えてる」  とび起きて、外へ出ました。身内にこもった熱のために私の身体はなまぐさくなっていました。裏山に遮《さえぎ》られて私の家の庭からは御本山は見えませんが、そちらの上空が僅かに赤いように思われました。御本山の七堂|伽藍《がらん》は今夜燃え尽きるのだ、と私は信じました。黒い梁《はり》が一本ずつ燃え落ちるのを私は眼の中に見ました。燃えよ、と念じました。炎上し尽せ、と願いました。それに呼応するように半鐘が鳴りだし、けたたましい不吉な鐘声はいつまでも続きました。近所の家々で雨戸をくる音が聞えてきます。私は御本山の方角の空に眼を凝らしました。かすかに火のはぜる音がしました。それが聞える距離ではないのですが、私には聞えました。 「お山が燃えてるぞ」と、どこかで男がどなりました。門前村で「お山」と言えば御本山のことです。それを聞くと、私はほどけました。体が楽になりました。私を吊《つる》しあげていたものは、いま滅びようとしている。私は忍び笑いをはじめました。おかしいのではありません。生理的に自然に笑いがこみあげてくるのです。私を人の形に貼《は》りつけていた釘《くぎ》が一本ずつ抜け落ちていく。それにつれて、私はがたがたと形のないものに崩れていく。私は声をたててだらしなく笑いました。生れて初めての|笑い《ヽヽ》でした。  次の日は、往還を通る村人たちのお喋《しやべ》りも塾の生徒たちの話題も御本山の火事のことばかりでした。御本山の火事がほんの小火だったこと。放火らしいこと。私には彼らが何の話をしているのかよく解りませんでした。御本山は焼け落ちたのです。私は御本山が壮大に燃えているのを見たのです。天に冲《ちゆう》している火の柱、金砂子のように満天に飛び交う火の粉を見、うねりながらごうごうと音たてて炎上しているその音を聞いたのです。  私は笑ってばかりいました。歩いていても家の中にいても「御本山は無い」と思うと自然に笑いがこみあげてきました。喘息《ぜんそく》の発作でもおきたように転げまわって笑うこともありました。先生、なんでそんなことしてる、と生徒に言われて気づくと私は体も頭も斜めにかしげていました。まっすぐにしようと思うと逆のほうへ倒れかけました。  私は毎日村内を歩きまわり、行き逢う人ごとに笑いかけて気味悪がられたり愛想のよい返事をもらったりしていました。夕方、川っぷちの道を歩いていると空と川面から金色の光がさして眩《まばゆ》く私の全身をくるみました。川の横には田圃《たんぼ》が拡がり、その向うに県道が伸びています。その県道に、学校帰りの子供たちが何十人もいました。皆、私のほうを見ているのです。子供たちはいっせいにはやしたてました。口々に叫んだり、声を揃えて怒鳴ったりしました。いろきちがい、いろきちがい、いろきちがい。私は私の裸が透けて見えるアメリカ製のナイロンのネグリジェを着ていました。太呉町の書道塾の先生が親戚からアメリカ土産にもらい、処置に困って彼女の一番若い弟子である私にくれたのです。私は金色の光を浴びながら天女の羽のような薄い布をピラピラと振って彼らの歓呼の声に応じました。大得意でした。次第に数をます彼らをぞろぞろ後ろに引きつれて村中町中国中を練り歩くのだ。そう思って稲穂の出はじめている田圃の畦道《あぜみち》を走って通り抜けて県道へ出ると、そこには気の抜けたような顔をした小学生が五、六人いるばかりで「先生、今日、塾休みなんかあ」と言う。羽衣のつもりのネグリジェは別に珍しくもないあたりまえの衣服で、寒々と山の端に落ちかける夕日に眼をやって思いだしてみれば、あのネグリジェは、まだ藤川にあるはず。ああ、そうか。本来の姿を自分はいま垣間見《かいまみ》たのだ。恥ずかしい姿形で大道をよろばい歩いて寝ている間さえも絶えることのない嘲罵《ちようば》の声で満身くまなく飾りたてられるべきだったのだ。私は私を追い越そうとしている村人に蛇のように身をくねらせ大きく口を開けて笑いながらお辞儀をすると家へ帰りました。  夢か。このように、はっきりした夢があるものでしょうか。私は自分の大机の上に結び文があるのを見たのです。オケラの形にうずくまり不細工な両手を拡げていました。中を開くと薄墨の判読し難い字が卒塔婆《そとば》の模様さながらにつながっている。耳朶《みみたぶ》の形に滲《にじ》んでいる字は「来」と読め、気味悪くにょろりと尾の垂れたのは「浄」とも「非」とも。来いということでしょうか。どこへ。さも不可解そうに、為体《えたい》の知れぬ蝸牛《かたつむり》の粘汁に似た雲母色を眺めながら、内心、解っていました。あのこと、と知っていました。  いま、見ると、その紙がどこにもないのです。  紙は、どうでもよい。夢でもよい。もう私は行かねばなりません。歩きださねばなりません。私の踏んでいるのは白い闇。体が斜めになっていようと、さかさに吊された足を憫笑《びんしよう》されようと、行かねばなりません。白い闇の中の諸処にある|かまくら《ヽヽヽヽ》、その泡沫形《ほうまつけい》の丸の中を、盗人のようにひとつひとつ覗きこみながら歩いていきました。  しどけなく笑っている裸の女が男の半白の頭へ手を伸ばしています。五分刈りの柔らかい毛先を掌ですうっと撫でて「新院さまは一生|不犯《ふぼん》でございますか。人殺ししか、おできにならないのでございますか」と言いました。  次の丸には新しい藁縄《わらなわ》がとぐろを巻いています。甘く香《こうば》しい匂いがこちらまで漂ってきました。掌で縄をしごいたときの触感。この世にこれほど喜ばしい存在があろうか、と愛《いと》しく、縄のちょうどよい長さ太さを何回も確認し、遠くに見えるどこかの家の大木に無数の白い頭蓋骨《ずがいこつ》が貝殻虫のようにこびりついているのを眺めました。頭蓋骨が咲いている、満開だ、と言って笑いました。  美しい朱色の山門がありました。十二本の太い柱が立派でした。楼門が抱いている大らかなたっぷりした空間に這入っていくことのできぬものはバチアタリだけでした。  透明な水の中を浮きつ沈みつしているもの。水藻《みずも》にからみつかれながら浮游《ふゆう》しているもの。いくら見ても、それが何なのか解らない。頭も尾もない塊、としか見えません。何も考えず感じず思わずに時折鈍く蠢《うごめ》きながらゆるやかに水底と水面を往復しているもの。  母に似た羅漢がひとつ。母に似た羅漢は、しゃがんで顔に手をあてていました。私の声が聞える道理もないけれど、|まだ《ヽヽ》般若にはならない、と慰めてやりました。  玉枝に似た羅漢もいました。大願成就と書いてある真新しい涎掛《よだれか》けをしていました。まことに美男の羅漢さまでした。私は手を叩いて喝采《かつさい》しました。うまく欺《だま》したね、玉ちゃん。うまいことやったね。——玉枝は大願成就しました。玉枝は極楽浄土へ行きました。  私は御本山大本堂の屋根の垂木が整然と揃った正確な縞模様をつくっているのを見あげました。縁の濃褐色の欄干は建物の裾を横真一文字に区切っていました。五百年は他人事《ひとごと》。御本山は小ゆるぎもしない。有縁のものは、ただのひとつもない。詮《せん》ないことだ、と笑いました。  地べたに坐って死んだ猫を見ている男女がいました。男は白痴の乞食でした。女も白痴の乞食でした。破れ衣から素肌を覗かせながら死猫のくずれかけた眼に指をつっこみ、背中二つ頭二つある一匹のけものと化しました。男は白眼をだらりと垂らし、女の頸に手をまわす。きちがいの乞食女は法悦に身をそらせ、淫《みだ》らにゆるんだ声でイノチイノチと喚くのです。 [#地付き](「新潮」昭和四十五年四月号) 同タイトルの作品集をもとに、編集を変えて昭和 五十年三月新潮文庫版が刊行された。