[#表紙(表紙.jpg)] 吉田修一 熱 帯 魚 目 次  熱 帯 魚  グリンピース  突  風 [#改ページ]    熱 帯 魚  炎天下、現場裏の仮設便所の前に、蹴られて凹んだバケツがあった。大輔はドアノブを引く手を止め、何気なく中を覗いた。半分ほど水の入ったバケツの底に、夏日を浴びた青い半透明の百円ライターが沈んでいた。まるでインクが滲むように、水底を青く染めて。  狭い仮設便所には形ばかりの小窓もあったが、野晒しの熱風が中の臭いを掻き回すだけで、ほんの一分もしゃがんでいると、膝の裏はぬるぬると汗ばみ、喉元や腋の下からは玉の汗が流れ出る。大輔は筒だけしか残っていないトイレットペーパーを、苛立たしげに何度も指先で回転させていた。ちょうど棟上げ式の日で、現場には普段なら顔を出さない棟梁や、家主の家族たちが揃っている。便所の小窓から顔を出し、「お〜い、誰かぁ、紙もってきてくれぇ」と叫ぶのを大輔は何分もためらっていた。ずり下した作業ズボンを探ってみると、尻ポケットにさっき家主の娘から手渡された祝儀袋が入っている。大輔は万が一の為、中身の一万円札を抜き出して、硬い祝儀袋をやわらかくなるまで手で揉み始めた。そのとき、はずむような足取りで誰かが便所へ近づいてきた。家主の娘だとしたら、「紙を持ってきて下さい」と頼めはしても、「ありがとう」と小窓から受け取るだけの勇気がない。大輔は近づく足音に耳を欹《そばだ》てた。すると、式後の直会《なおらい》が始まっている現場の方から、「おい、大輔! 大輔はどこ行った」と怒鳴る小田桐のおやじさんの声がして、「便所ですよ。便所」と誰かが答えた。近づいてきた足音が便所の脇でピタリと止まり、「なんだよ、入ってんのか」と声がする。その声は、年齢のわりに胸の発育がいい家主の娘ではなく、大輔よりも二年早く弟子上がりした優作の声だった。 「あ、ちょっと。優作さん、紙もってきて下さいよ。紙!」  祝儀袋を握り締めたまま、大輔は慌てて優作を呼び止めた。 「紙? そこの棚にあんだろ」 「ないから頼んでんでしょ。紙! 早く!」  優作の足音はすでに現場の方へ戻ろうとしていた。 「どこにあんだよ?」 「知らないっすよ。高志に訊《き》いて下さいよ、高志に!」 「お、焦ってるみたいだねぇ」 「こん中、暑いんですよ!」 「よし。じゃあ『トイレットペーパーを持って来て頂けませんか』って英語で言えたら持って来てやるよ」  優作は池袋のフィリピンパブでいい格好をするためだけに、先月からNOVAで英会話を習っていた。答えなければ、祝儀袋で尻を拭くという罰当たりなことになる。 「どうした? 言えねぇんだろ? え?」 「言えますよ。それくらい……Give me a toilet paper でしょ?」 「ハハ、ほんとに言ってるよ。……でも、そうじゃねぇんだな。人にものを頼む時は、『Could you』から始めんだよ」  遠ざかろうとする優作の足音に、「持って来て下さいよ!」と、大輔は少し尻を浮かせて念を押した。大声を出したせいで、また汗が噴き出していた。からだ中に汗の膜ができ、その膜と皮膚の間でグジュグジュと音が立っているようだった。  便所の小窓からトイレットペーパーを投げ入れてくれたのは、優作ではなく、去年の暮れ弟子入りしたばかりの「小鳥」で、まだ二十歳にもならない高志だった。出てくるのを待てばいいのに、汗だくで尻を拭いている大輔に向かって、「おやじさんの仕上げ鉋《かんな》、どこにあるか知りませんか?」と話しかけてくる。 「なにすんだよ? おやじさんの鉋で」と、大輔は苛々しながら尋ね返した。 「おやじさんが家主さんに見せるんだって」 「なんで?」 「知りませんよ。自慢するんでしょ」 「なに自慢すんだよ」  大輔は便所の棚に頭をぶつけないように立ち、藤色の作業ズボンをずり上げた。ポケットの中で、はだかの小銭がジャラッと鳴った。便所を出ると、湿った熱風でさえ汗だくのからだには心地良い。頭に巻いていたタオルで、彼は胸元の汗を拭った。体温でタオルまで熱かった。 「これ、なんすか?」  高志が便所の扉を指差していた。振り返って見ると、どこかの若い職人の落書きだろう、黒いマジックで便所の扉に「地極」と書いてある。 「ジキョク?」と大輔は首を傾げた。 「なんすか? ジキョクって」  高志も同じように首を傾げる。  そのとき、「おい、見つかったか? おれの鉋」と現場の方から小田桐のおやじさんがやってきた。おやじさんは乾杯のビール一杯ですでに紅潮した顔の汗を拭きながら、「おう、おめぇ、ここにいたのか」と作業ズボンのベルトを締める大輔の肩を叩くと、「餅もらっといたから持って帰れ」と言い、扉を開けたまま小便を始めた。 「餅なんかいらないっすよ。荷物になる」と大輔が言い返すと、「知らねぇのか? 棟上げん時の餅を赤ん坊の枕元に置くだろ、そうすっと夜泣きが治るんだぞ」と小便をしながらおやじさんが言う。 「夜泣きが?」 「そうだよ。おめぇの娘、まだ夜泣きしてんだろ?」  そう尋ねたおやじさんに、「あれは大輔さんの娘じゃないでしょ」と高志が言い、「一緒に暮らしてりゃ、大輔の娘だろうよ」とおやじさんは笑った。「籍入れたんですか?」と高志が訊くので、「まだだよ」と大輔は答えた。 「あ〜臭せぇ」と顔を歪めて便所を出てきたおやじさんに、「これ、なんすか?」と、また高志が便所の扉を指差した。振り返ったおやじさんも、「ジキョク?」と首を捻ってしばらく考え込んだあと、「あ、これ『地獄』って書いたつもりなんじゃねぇか?」と笑った。 「地獄か。たしかにこん中、地獄だよ。釜茹で釜茹で」  大輔はそう言って笑いながら、汗まみれのシャツに熱い風を入れて孕ませた。 「しっかし、おめぇらにかかると、『地獄』も『極楽』も一緒くただな。どんな悪さしたって、おめぇら死んだら天国行きだよ。てめぇの居場所も漢字で書けねぇような奴は、地獄の方でお断りだとよ」  そう言って呆れるおやじさんに、「おれは書けますよ。地獄ぐらい」と大輔が言い返し、「おれだって書けますよ」と高志も慌てて口を挟んだ。 「どら、だったらそこに書いてみろ」  おやじさんが地下足袋で差した地面を、大輔と高志はスニーカーの裏でならし、大きさの違いこそあれ、『獄』という同じ漢字を爪先で土に刻んだ。おやじさんは二つの漢字を見比べて、「ほう、ちゃんと書けるじゃねぇか」と肯《うなず》き、現場の方へ戻って行った。おやじさんの背中を見送りながら、大輔は地面の漢字をスニーカーの踵で掘り消した。あまりうまい字ではなかった。そのとき、「おい、家主さんたちが記念写真撮るって待ってるぞ」と現場の方から優作の怒鳴る声がした。 「今日はもうこれで上がりでしょ?」と現場へ戻りながら高志が訊くので、「なんか用でもあんのか?」と大輔は訊き返した。 「別に用なんかないっすよ。彼女も就職活動とかで忙しいみたいだし」 「暇なら、うちにめし食いに来いよ」  大輔が誘うと、ちらっと彼の横顔を見た高志が、「いや、いいです。おれあの人、苦手なんですよ。大輔さんの瘤つきの彼女、真実さんだっけ?」と言う。 「なんで?」 「だって、あの人の前でめし食ってると、なんていうか、犯されたような気分になるし……」 「なんでお前が犯されんだよ?」 「いや、まじっすよ。あの人の前でめし食うでしょ、そうすっと食い終わった時には、なんていうか、二度目の童貞を奪われたような……」 「ハハ、なんだよ、それ」 「それに、ほら、大輔さんちの居候、光男さんだっけ? あの人もなんか、暗くて、気味悪いし……」  小田桐のおやじさんの元で、大輔が優作と組んで現場を回るようになって丸五年が経つ。去年の暮れ、大輔にとっては弟子上がりして初めての丁稚になる高志がそこへ加わった。最近、本格的な木造の現場は少ないが、型枠だろうがリフォームだろうが、現場に入れば相変わらず身は引き締まる。小田桐のおやじさんや棟梁のように、「てめぇの仕事には命かけてらぁ」とまでは言わないが、最近大輔は、片腕くらいならかけてもいいかと、ふと思うことがある。  家主を交えた棟上げの直会が長引いたせいで、大輔はすっかり熟した西日を背中に受けながら、自宅へ向かっていた。芦花公園駅から甲州街道へと抜けるバス通りを折れると、時先生宅の長い生け垣が続いている。正門を素通りし、柊の垣根の角を曲がると、自転車に跨った中学生が二人、時先生宅の庭を覗いている姿があった。大輔は二人の背後にゆっくりと近づき、「おい、何してんだ?」と、怒るでも注意するでもなく声をかけた。少年たちはちらっと彼の方を振り返り、「水浴びしてるんだよ」と垣根の中を指差した。大輔は誘われるまま、葉の隙間から庭を覗いてみた。  少年たちの視線の先に、ずぶ濡れの真実の姿があった。繁った葉の隙間からなのでよく見えないが、縁側の方から飛んでくるホースの水を、「気持ちいい〜。先生、もっともっと!」と両手を広げて頭から浴びている。小さめの白いシャツが、水に濡れてぴったりと肌にはりつき、黒いブラジャーがくっきりと浮かんでいる。  大輔は少年たちの頭を手で強く押さえつけた。「なんだよ」と振り返った少年の髪から乾いた汗の臭いがした。少年のからだを押し退けて前へ出ると、真実のからだに水をかけている時先生の姿も見えた。今年還暦を迎えるくせに、手元で跳ねる水|飛沫《しぶき》に顔をしかめながら、年甲斐もなく水を撒いて喜んでいる。真実の足元には、幼児用のプールが裏返しになって置いてあり、葉と枝を押し広げると、縁側の籐椅子でバスタオルに包《くるま》れて眠っている小麦の姿が見えた。 「すげぇな」 「すげぇよ」  大輔から完全に場所を奪い取られた少年たちが、それでも大輔の肩越しに覗き込みながら、神妙な口調で呟いている。降りかかる水の下でからだをくねらせる真実の浅黒いからだは、毛並みのいい仔馬が水浴びをしているように見えないでもない。濡れて纏まった髪が、背中にだらりと垂れている。 「お、お前ら、なに見てんだよ!」  とつぜん、思い出したように大輔は振り返り、二つ並んだ少年たちの頭を交互に小突いた。そして、「ほら、とっとと帰れ!」と二人の自転車のタイヤを蹴った。少年たちは、「なんだよ、自分だって見てたくせに」と不服そうな顔をしながらも、のろのろとペダルを漕ぎ、生け垣の角を曲がって姿を消した。  大輔はその自転車を追うように正門まで駆け戻り、玄関脇を抜けて裏庭へ続く飛び石を渡った。彼が庭へ飛び出ると、「あ、大ちゃん!」とずぶ濡れの真実が手を振った。「ああ、おかえり」と時先生も呑気に彼を迎える。 「なにやってんだよ。外から丸見えだぞ!」  そう怒鳴った大輔に、時先生が、「すまん、すまん」と照れ臭そうに頭を下げ、掲げていたホースを下におろした。足元にすぐに水溜まりが広がった。その水溜まりを踏んで先生に近寄った真実がホースを奪い、「気持ちいいのよ、ほら」と大輔の方へ水を浴びせ、「うわっ、冷てぇ」と肩にかけた弁当箱を押さえて逃げ惑う彼を、容赦なく追いかけ回した。空から落ちてくるホースの水が、一日中汗まみれだった彼のからだを冷たく濡らした。  しばらく真実のホースから逃げ回ったあと、大輔は散らかったままのおもちゃを片付け、幼児用のプールから空気を抜き始めた。「帰るぞ」と真実に声をかけると、「今、バスタオル持ってくるから」と先生が縁側へ上がろうとする。その手をさっと掴んだ真実が、「先生、いいわよ。このまま帰るから」と引き止めた。 「このままって、その格好で帰るのかよ」  大輔は慌てて声をかけた。 「いいじゃない。すぐそこなんだから」 「やめてくれよ。はしたない」 「……あら、はしたない女が好きなんだとばっかり思ってたわ」  そう言った真実の横で、縁側へ片足かけた先生が笑っていた。  ビニール製のプールを畳み終えた大輔は、「先生、今月分の家賃、払っときますよ」と言って作業ズボンのポケットから財布を出した。すぐに先生が、「いいって言ってるじゃないか。どうせ使ってないマンションなんだから」と断る。それでも大輔が財布から一万円札を抜き出していると、「先生がいいって言ってんだから、いいじゃないのよ」と真実が口を挟んできた。 「うるせぇな。お前は黙ってろよ」と大輔は言い返した。 「払うったって、どうせ二万円でしょ? 偉そうに言うなら相場通り十五万は貰わないと、ねぇ先生」  そう笑いかける真実に、先生が、「しかし君たちは毎月毎月、よく同じことを言い合ってられるなぁ」と苦笑いする。  大輔はそれでも無理やり先生の手に一万円札を二枚握らせた。先生は根負けして受け取りながら、「私はね、君たちがあそこに住んでいてくれて嬉しいんだよ」と改めて苦笑いしてみせた。  バスタオルに包んだ小麦を抱いて、大輔は先生宅の庭を出た。その後ろをとりあえずバスタオルを肩に羽織った真実が、髪から雫《しずく》を垂らしながらついてくる。大輔が住むマンションは、時先生の家から歩いて一分も離れていない。十何年か前に先生が投資目的で買った部屋で、外壁内装共に相当ガタはきていたが、3LDKと部屋数は多く、水の出が悪いことを除けば住むのに何の不自由もない。その部屋を大輔は一年前から月二万円という破格の家賃で借りている。  ぐっすりと眠る小麦を抱いて、黴《かび》臭いマンションの階段を三階まで昇ると、突き当たりにある我が家の玄関が開けっ放しになっていた。大工道具や地下足袋が玄関に散乱し、ペンキの剥げた扉は、草履を突っ込んで押さえてあった。玄関で靴を脱いでいると、一日中籠っていたような部屋の臭いが、廊下の奥から流れてきた。大輔は抱いていた小麦を真実に渡して部屋へ上がった。擦り減ったカーペット敷きの廊下を進むと、いつものように光男がパンツ一枚で、熱帯魚の水槽に顔をはりつけ、群泳するネオンテトラを目で追っている。大輔のあとから入ってきた真実が、「よく飽きないわねぇ」と、蛍光灯に照らされたその汗ばんだ光男の背中を一瞥し、小麦を寝かせに六畳間の襖を開けた。 「ほんとだよ、よく飽きねぇな」  大輔はその背中を軽く蹴った。足の裏が、光男の背中の汗で滑った。  どの魚が合図を送っているのか、ネオンテトラは必ずみんなで同じ方向へ泳ぐ。大輔がしばらくの間、その泳ぎを眺めていると、ゆっくりと振り向いた光男が、「最近な、見分けられるようになったんだ」と言う。 「なにを?」 「魚の顔だよ」 「魚の顔?」 「同じように見えて、やっぱ一匹一匹、違うんだな」  そう言って水槽のネオンテトラを指差す光男を無視し、大輔は六畳間から着替えて出てきた真実のあとについて、台所を覗きに行った。黙って見ていると、真実がスーパーの袋から高そうなステーキ肉を出し、パックを破って俎板の上に並べ始める。 「へぇ、珍しいな。それもこんな高い肉。金でも拾ったか?」  大輔がからかうと、「さっき、先生と散歩の途中スーパーに寄ったら、買ってくれたのよ」と真実が平然と言った。 「先生に? やめてくれよ。みっともない」  大輔は俎板の上の肉を、指先で強く押してみた。薄い血が滲み出た。風が通らないせいで、台所はひどく蒸し暑かった。「ちょっと、お風呂入りなさいよ。汗臭い」と真実にからだを押し退けられた瞬間、腕と腕が密着し、肌と肌とがぬるっと滑った。真実のからだから、水と、女の匂いがした。  台所を出ても、光男は相変らず水槽のガラスに顔をはりつけている。大輔はその姿にうんざりし、風呂でも入ろうと汗臭いTシャツを脱ごうとして、Tシャツに肘をかけた瞬間、「あ、そうだ」と叫び、バッグの中から海外旅行のパンフレットを取り出した。仕事帰りにわざわざ駅前の旅行代理店へ寄り、青い海が表紙になっているパンフレットを全て引き抜いてきていた。  大輔は、台所の真実と水槽を覗く光男に向かい、「今日はお前らにビッグニュースがある!」と叫んだ。 「いいか、驚くな。驚いて腰抜かすな。今年の夏は、お前らを旅行に連れてってやる」  台所から出てきた真実が、「旅行? どこに?」と言いながら、彼が突き出したパンフレットの束から一番上のだけを抜き取った。 「そりゃ、おれのボーナスとご相談だよ。光男、ちょっとこのパンフレット見てみろよ。お前、どこがいい? バリか? セブか? プーケットか? え?」  機嫌よく大輔がパンフレットをトランプのように広げて見せているのに、真実は、「貯金しといた方がよくない?」とパンフレットを返して台所へ戻るし、光男は光男で「おれ、泳げないから」と、パンフレットを見ようともしない。 「ちょっと待てよ。この砂浜を見てみろ。綺麗だろ? 海亀も産卵に来るんだぞ。ほら、ちゃんと見てくれよ」  大輔は光男の肩を掴んで揺さぶり、「別に海があるからって、絶対に泳ぐ必要もねぇだろ。砂浜で一日中ぼけっと日を浴びてられるんだぞ」と言った。台所から、「光男くんなら、ここでだって毎日ぼけっとしてるじゃない」と笑う真実の声がして、大輔は、「ちょっと黙ってろよ」と言い返した。そのとき、光男がとつぜん「あ!」と顔を歪めた。大輔は慌てて光男の肩から手を離した。 「な、なんだよ?」 「いや……」  そのまま、光男は顔を歪めていた。大輔が何事かと見守っていると、「あ、やっぱ漏れそう」と顔色を変えて便所へ走る。呆気にとられて見送った大輔は、閉まった便所のドアに向かって、「もっと早く気づけよ馬鹿!」と怒鳴った。  結局、ひとり居間に残された大輔は、襖を開けて奥の六畳間へ入り、ぐっすりと眠っている小麦に向かい、「お前は行きたいよなぁ。この砂浜で遊びたいよなぁ」と呟きながら、二人には見向きもされなかったパンフレットをもう一度順番に眺め始めた。  台所から顔を出した真実が、「光男くんがそんな所に行くわけないじゃない」と深刻ぶって言うので、「なんでだよ?」と大輔は訊き返しながら六畳間を出た。 「だって、何年か前に一人旅した時、タイだかフィリピンだかのコテージで誰かに監禁されたんでしょ?」 「監禁?……あんなの光男の作り話に決まってんだろ。お前、信じてたの?」 「なんだ、嘘なの?」 「当たり前だよ。それか、下痢して何日もコテージで寝てたらしいから、幻覚でも見たんだろ。もうすぐここでだって『おれは監禁されてる』なんて言い出すぞ、きっと」  大輔はもう一度パンフレットを真実の鼻先に突きつけ、「行くよな?」と睨むように念を押した。真実は「行く」とも「行かない」とも答えずに、台所へ戻ってしまった。しばらくすると、「座ると出ないんだよなぁ」と言いながら、光男が便所から出てきた。 「おい、旅行、行くからな」と大輔が念を押すと、「おれはいいよ。留守番してる」と答えて、また熱帯魚の水槽に顔をはりつける。 「別に働きに出ろって言ってんじゃねぇだろ。青い海と白い砂浜で一緒に遊びましょ、金は全部だしてあげますよって言ってんだぞ」と大輔が説得していると、「そうよ。行けば行ったで楽しいかもよ」と台所から真実の声がした。大輔はすぐにそちらへ顔を向け、「ちょっと待てよ。その『行けば行ったで楽しい』ってなんだよ? それじゃまるでおれが無理やり連れてくみたいじゃねぇか」と怒鳴った。  大輔の横で光男がむくっと立ち上がった。何か言うのかと待っていると、腹を摩《さす》りながら首を捻り、また便所へ歩いて行く。台所から、「行きたくないって言ってんだから、無理に連れてくことないじゃない」と言う真実に、大輔は、「お前も馬鹿だねぇ。あいつの意見なんかまともに聞いてたら、旅行に行きたくないどころか、朝は起きたくねぇ、めしは食いたくねぇ、最後にはもう生きていたくないってことになっちゃうよ」と笑い、また台所を覗きに行った。  片手に包丁、もう片方にほうれん草を持った真実が、「大ちゃんが甘やかすからよ」と大輔を見る。 「おれが?」 「そうよ。言ってしまえば、赤の他人じゃない」 「またその話かよ。だから何度も言ってるだろ。あいつも今はこうだけど、もしかしたら、昔話にある『三年寝太郎』みたいに、とつぜん村人の役に立つ男になるかもしれないじゃないか」 「なるわけないじゃない」  真実はそう言い捨てて、ほうれん草を刻み始めた。  もちろん大輔もそんな奇蹟を信じているわけではない。ただ、現状としては水の出が悪いとはいえ、3LDKのマンションに無料同然で住み、大人三人子供一人が食っていけるだけの給料を貰っているわけだし、何も光男を無理に放り出して、後味の悪い思いをするよりも、そばに置いて苛々させられている方がましだと思ってしまう。真実は、光男のことを赤の他人だと言うが、小学校の頃、大輔は光男と兄弟だったことがある。たったの二年間だが、大輔の母と光男の親父さんが夫婦だったのだ。  翌日、大輔は夕食を済ますと、革草履をつっかけて時先生の家へ向かった。玄関を出ようとすると、光男の部屋でお絵描きをしていた小麦がクレヨンを握ったまま飛び出してきて、「一緒に行くぅ」と抱き着いてきた。首筋からベビーパウダーの匂いがした。  先生の家の玄関は灯りが消えていたので、脇を通って庭へ入った。開けっ放しの縁側の奥のソファに、読書中の先生の白髪頭が見えた。「先生!」と大輔が声をかけると、パタンと本を閉じた先生が、彼がいる庭ではなく、玄関の方へ顔を向ける。 「こっちですよ、こっち」  梅雨時になると、大きな蛙が出てくる池を跨ぎ、蛍光灯の灯りが漏れる芝生へ出た。 「なんだ、そっちにいたのか」 「今、いいんでしょ?」  大輔は抱いてきた小麦を縁側に立たせた。すぐに小麦が迷路のようなソファとテーブルの隙間を縫い、先生の膝へよじ昇ろうとする。「お、小麦ちゃん来たかぁ」と眼鏡の奥で目を細めた先生が、「よいしょ」と大袈裟に声をかけ、自分の膝へ抱き上げる。 「先生、何やってたんですか? 退屈してたんでしょ、本なんか読んで」  縁側に腰掛けた大輔の頬に、部屋の中から冷たい風が吹きつけていた。持ってきたパンフレットをうちわ代わりに扇ぐと、冷たい空気が鼻先をかすめて庭へ流れる。大輔は早速一つクシャミをした。  膝に抱いた小麦に、「お風呂入ってきたのぉ」と猫なで声を出す先生を、「だんだん子供をあやすの、板についてきたじゃないですか」と大輔はからかった。小麦を抱くと、先生はひどく老け込んで見える。 「あ、そうだ。今日は先生をお誘いに来たんだった」 「お誘い?」 「そうそう」  大輔はうちわ代わりにしていたパンフレットを、紙飛行機のように先生の足元へ飛ばした。 「プーケット?」  逆さまに拾い上げた先生が、首を傾げて文字を読む。 「そう、プーケット。おれらと一緒にそこに行きましょうよ。どうせ大学は夏休みなんでしょ?」 「大輔くんたちと?」 「先に言っときますけど、おれのボーナスで行くんだから貧乏旅行ですよ。……でもね、さっき真実といろいろ調べてみたら、安いツアーでもそこそこ良いホテルに泊れるんですよ。どうです、先生、一緒に行きましょうよ」 「ほう、大輔くんが旅行に連れてってくれるのか」 「行きますか?」 「ああ。もちろん喜んで御供させてもらうよ」 「御供なんて言われると、なんか照れちゃうけど、でもまぁ、そうと決まれば、早速明日にでも申し込んで、あ、先生は何にもしなくていいですからね。若い頃の水着でも引っ張り出してくれれば、それでいいんですから」 「そうかぁ。今年の夏は大輔くんたちとプーケットか。楽しみだな」  先生はパンフレットと一緒に、もう一度小麦を抱き上げた。 「そうなんですよ。そうやって素直に喜んでくれれば、おれだって気分がいいんですよ。それなのに、あいつらときたら、『泳げないから行きたくない』だの、『貯金しといた方がいい』だの、可愛げがないっていうか、人の親切が分からないっていうか……」  先生の膝から降りた小麦が、「キャッ、キャッ」と声を上げて縁側を走り始めた。大輔はからだを乗り出して小麦を掴まえ、取れかけた髪のリボンを結び直してやった。纏められたカーテンの下に、紙切れが一枚落ちている。 「先生、これなんすか?」  大輔はその紙切れを拾い上げ、ひらひらと揺らして先生に見せた。「ん?」と眼鏡の上で眉間に皺を寄せた先生が、「ああ、授業で使った資料だよ」と言う。 「へぇ、こんなもんを教えてるんですか? え〜と……」  大輔は声に出してそこに書かれた文章を読んでみた。 「快楽は絶えず裏切られ、縮小され、骨抜きにされて、真理とか、死とか、進歩とか、闘争とか、歓喜等々、強力で、高尚な価値に名をなさしめている。勝利を収める敵は欲望である。人は絶えず欲望について語るけれど、決して快楽については語らない。欲望にはエピステーメー……先生、なんすか、このエピステーメーって?」 「そうだなぁ……ある社会や時代の『チ』の総体みたいなもんだ」  大輔は殴られて鼻血が出るジェスチャーをしながら、「血?」と尋ねた。 「いや、血じゃなくて、知だよ。知性の知」と先生が笑う。 「ああ、そっちの知ね。え〜と、で、なんだって、『欲望にはエピステーメーにふさわしい威厳があるが、快楽にはないのだろう』……なるほどね。よく分かんねぇけど、きっと大事なことが書いてあるんでしょうねぇ」  プーケットのパンフレットを熱心に眺める先生の前で、大輔はもう一度その紙切れの文章を読み直し、「これ、もらっていいですか」と訊いた。 「もらってどうする?」 「いや、なんか手元に置いとくと、頭が良くなりそうじゃないですか」  大輔は真顔でそう言ったあと、「ねぇ先生、知的なものに勃起するってことあるんですかね?」と尋ねた。 「知的なもの? 知性的な女性ってことか?」 「いや、そうじゃなくて、知性そのものっていうか、たとえばですよ、おれ、こういう文章を読んだだけで、どうも腰の辺りがムズムズするんですよ。ちょっとヘンなのかな」 「ほう、大輔くんは知性に勃起するか」 「いや、しませんよ。ただムズムズするだけで」  小麦がカーテンにぶらさがろうとしていた。大輔は慌てて小麦の手からカーテンを引っ張った。抱き寄せると、縁側を走り回ったせいで、ベビーパウダーの上に汗が浮かんでいる。 「ところで、最近、光男くんの顔を見てないが元気なのか?」 「光男? 相変わらずですよ。一日中水槽にへばりついて……昨日なんか『おれ、魚の顔が見分けられるんだ』なんて言ってましたよ」  大輔はそう言いながら小麦の額の汗を拭った。 「ほう、魚の顔を見分けられるか」 「感心しないで下さいよ。困ってんだから」 「どうして?」 「どうしてって……大の男が一日中家でゴロゴロしてるんですよ。不健康ですよ。別にまともに働きに出ろとまでは言いませんけどね、なんていうか、たとえば何か趣味を持つとか、なんか手に職をつける勉強をするとか……」  そう言いながら、大輔がもらった紙切れを折り畳んでいると、「この前、芝居をやりたいって言ってたぞ」と先生が言った。 「芝居? 光男が?」 「ああ。いつだったか、小麦ちゃんを抱いてふらっと来て、そんなこと言ってたよ」 「芝居って、舞台でチャンバラやったり、赤毛の鬘《かつら》かぶって踊ったり?」 「いや、そうじゃないよ。『羅生門』を現代風にやってみたいって言ってたな」 「あいつが芝居ねぇ……」 「学生の頃、劇団に入ってたらしいじゃないか」 「聞いたことねぇな。……先生、今どきそんなもんで食ってけるんですか?」 「食う? 生活できるかってことなら、間違いなく無理だね」 「そうか。……無理か」  先生の話では、『羅生門』というのは狐狸や鴉が棲み、引取り手のない屍体までが放置されるような門の下で、空腹を抱え雨宿りをしていた下人が、屍体から髪の毛を抜くみすぼらしい老婆を見つけ、その老婆に追い剥ぎをはたらくという平安京を舞台にした物語らしかった。 「『羅生門』って映画、見たことあるな」と大輔が口を挟むと、「あれは原作が違うよ。タイトルは『羅生門』だが、中身は『藪の中』という小説で、人間のエゴイズムを扱った映画だ」と教えてくれた。それでも大輔には、おどろおどろしい白黒の映像に出てきた不気味な大門がはっきりと浮かんだ。 「なぁ、大輔くん、どうして下人は老婆に追い剥ぎをはたらいたと思う?」と先生が訊くので、「どうしてって……飢死しそうだったんでしょ。それを売って何か食いもんを買うつもりだったんですよ」と大輔は答えた。 「光男くんは違う意見だったぞ」 「違う意見?」 「ああ。光男くんは違う読み方をしてたよ。たしかに、『餓死は意識の外にあった』と書いてある。下人は飢饉の街からも見捨てられて、孤独の淵にいた。彼のそばには蟋蟀《こおろぎ》しかいなかったんだ」  大輔には先生が何を言いたいのかさっぱり分からなかった。 「だからってなんで婆さんを襲うんですか?」 「淋しくって仕方がなかったんじゃないかな」  大輔は、「なるほどねぇ」と分かったふりをして縁側から立った。そして、走り回っている小麦を再び掴まえると、「旅行のこと、はっきりしたらまた知らせますから」と言って抱き上げた。「もう帰るのか」と、先生が少し寂しそうな顔をする。  大輔は庭を抜けながら、「ほら、先生に『バイバ〜イ』って」と、小麦に手を振らせた。先生は縁側まで見送りに出てきた。その手にはプーケットのパンフレットが握られていた。  朝の九時を回った段階で、すでに気温が三十度を超えていた日曜日、大輔は六畳間で小麦を真ん中に川の字で昼寝をしている真実と光男を、「プールに行くぞ」と足で揺すり起した。  面倒臭がる二人を無理に引っ張って行った区営プールはひどい混雑で、バスタオルを広げる場所を探すのにも、「ちょっとすいませんよ」と赤く日灼けした人の背中を何体も跨がなければならなかった。ちょうど幼児プールと50Mプールの間に、塀の外に立つ樹が濃い影を落としている場所があり、大輔はそこに三人分のバスタオルを敷いた。  照りつける夏日を別にすれば、家族連れの多い区営プールの情景は幼稚なクレヨン画のようなもので、その風景の中、豹柄の小さなビキニをつけた真実の肉感的なからだは、プールサイドの人々の目を引いた。  大輔はバスタオルを広げると、すぐに小麦を抱いて幼児プールに入った。脛《すね》の辺りまでしかない水は、脛毛に纏《まつ》わりつくほどぬるぬるしていた。周りで自分の子供を遊ばせているどの父親を見ても、ぬるぬるした水になどまったく無頓着らしく、娘と一緒に浅いプールで腹ばいになり、顔をつけ、「バァ」と鼻水を垂らす親もいる。大輔は身震いしてプールを出た。隣の50Mプールに入ろうとすると、今度は黄色い帽子を被った若い監視員が、「ピピピー」と笛を吹き、「泳げない方は入らないで下さい!」と注意する。 「泳げるよ」と大輔は言い返した。 「あ、いえ。お子さんの方です」 「こいつだって、泳げるよ。……速くないけど」  そのとき、向こうの方でも、「ピピピー」と笛が鳴った。誰が、何をやらかしたのかと、背伸びをして見てみると、からだ中にオイルを塗りたくった真実が、「ここはサンオイル禁止です」と別の監視員に叱られていた。大輔は小麦をプールサイドに座らせ、水の中でぶくぶくと息を吐き出しながら、からだをゆっくりと底へ沈めた。水底にあぐらをかいて見上げると、覗き込んでいる小麦の顔が日を浴びて、ゆらゆらと歪んで見える。吐き出せるだけの息を吐き、水面に飛び出した。「本当に困るんですよ」と監視員が仁王立ちして待っていた。 「分かったよ。連れてきゃいいんだろ」  そう言って、プールから出ようとした大輔の背中に、何かがゴツンとぶつかってきた。振り返ると、男の子がおぼれている。大輔は慌ててその薄い腋の下に手を入れ、「おい、大丈夫かよ」と立たせてやった。しかし、白い水泳帽に「ハシモトアツヒロ」と大きく名前を書かれた少年は、「もうちょっとだったのに」と悔しそうな顔をした。  小麦を抱いてバスタオルを広げた場所へ戻る途中、オイルを洗い流すようシャワー室へ連行される真実とすれ違った。プールサイドに寝そべった男たちが、真実の尻をいやらしい目つきで追っていた。  濡れたからだに、風が冷たかった。大輔は木陰で寝ている光男の横に座り、「お前、真っ白だな。黴生えてんじゃねぇか?」と、濡れた小麦をその白い腹に座らせた。小麦はすぐに光男の腹から這い降り、横にある足洗い場の水溜まりで遊び始めた。足を洗いに来た人が水を出すたび、一緒になって水を触り、その人がいなくなると、また排水口にたまった水をピシャピシャと叩く。光男の白い腹が小麦の尻の形に濡れていた。  一時間に一度あるらしい休憩時間の合図が鳴り、水から出た子供たちが肌を輝かしてプールサイドを走り始めていた。 「なぁ、光男。お前、芝居やりたいんだってな」  光男のからだには薄っすらとあばら骨が浮き出ている。 「先生から聞いたのか?」 「やりゃいいじゃねぇか」 「そう簡単にはできないよ」 「なんで?」 「なんでって……」 「先生が言ってたけど、『羅生門』ってのをやりたいんだろ? なんなら、おれが作ってやるよ」 「作る? 何を?」 「だから、あのでかい門だよ。舞台の上にあれ建てんだろ?」  光男は何も言わずに寝返りを打ち、覗き込む大輔に背中を向けた。水滴が背骨を越えてタオルに落ちた。 「必要だろ? でかい門が」としつこく尋ねる大輔に、「一芝居打つのにいくら金がかかると思ってんだよ」と背中を向けたまま光男が言った。「小屋を借りて、衣装作って、役者集めて……。やれたら面白そうだなって言っただけで、本気でやる気なんてないよ」と言う。 「なんでだよ、やってみりゃいいじゃねぇか」  大輔は光男の背中を足で揺すった。無抵抗にからだを揺さぶられながら、「百万円、拾ったらやるよ」と光男は笑った。  そのとき、周囲の男たちの視線が一瞬緊張した。真実がプールサイドに戻っていた。シャワーで洗い流したのだろうが、まだ肌に残るオイルに夏日を浴びて、浅黒い肌が輝いている。 「まぁいいや。どうしてもやって欲しいわけでもねぇし……正直なところ、お前が舞台の上で演技するなんて、考えただけで鳥肌立つしよ」  大輔はそう言うと、濡れた頭を何度か振り、近づいてくる真実の方へと視線を向けた。足洗い場で水遊びしている小麦を見つけた真実は、その乱れた髪をゴムで纏めてやると、マニキュアを乾かす時のように顔を扇ぎながら戻って来て、「向こうに大ちゃんの知り合いがいたわよ」と言う。 「知り合い?」 「なんだか、わりと胸の大きな女の子。シャワー浴びてたら、『あのぉ、あなた大輔さんの奥さんですか?』なんて、いきなり訊かれたんでびっくりしちゃった」 「どこだよ?」 「あ、ほら、こっちに歩いて来るじゃない。あの、オレンジ色の水着の……」  真実の長い指が差す方を見ると、先日の棟上げ式で祝儀袋を渡してくれた家主の娘が、友達らしい女の子と一緒にじゃれ合いながら歩いて来る。「誰?」と尋ねる真実に、「今やってる現場の家主さんの娘だよ」と、大輔は少女たちから目を逸らさずに答えた。家主の娘たちは、彼らの前まで来ると、「こんにちは」と声をかけてきた。二人の顔には、うっすらと夏のメイクがされている。 「こんな遠くのプールまで来るの?」  大輔がそう尋ねると、家主の娘は友達と顔を見合わせてケラケラと笑い出した。 「今、この近くのマンションに住んでるから」 「あ、そうか、建替中だから、あそこには住めないもんな」  二人の少女は、また顔を見合わせて吹き出した。大輔が、「あっちでジュースおごってやるよ」と立ち上がると、二人は「やったぁ」と素直に喜んだ。立ち去る時、家主の娘がちらっと真実を見たらしい。視線に気づいた真実が、「へんなことされそうになったら、大声で助けを呼ぶのよ」と真顔で言った。大輔は少女たちを連れて、濡れたプールサイドを休憩所へ向かった。ロッカー室から財布を出して戻ってくると、休憩所の椅子には家主の娘の姿しかない。 「あれ、友達は?」と尋ねた大輔に、家主の娘は、「分かんない」と妙に甘ったれた声を出した。ワンサイズ小さく見えるオレンジ色の水着から、発育のいい胸がこぼれていた。 「なに飲む?」  大輔は自動販売機の前で振り返った。 「午後の紅茶」 「レモン? ミルク?」 「ミルク」  自動販売機に金を入れながら、大輔は真っ直ぐな少女の視線を背中に感じた。壁際に並んだ休憩所の椅子は、家族連れやカップルでほとんど埋まっていた。家主の娘が取っておいてくれたパイプ椅子に座り、冷たい缶を渡しながら、「名前なんていうの?」と大輔は訊いた。 「律子」 「律子ちゃんか。律子ちゃん、いくつ?」 「どうして?」 「いや、大人っぽく見えるから」  大輔はなるべく少女の胸に目が行かないように注意した。律子は缶の紅茶を両手で掴んで飲んだ。 「十六? 十七?」 「はずれ。十四」 「十四! ってことは中学生?」 「そう中三。……ねぇ、さっきの女の人、奥さん?」 「なんで?」  ふと気づくと、律子の太股が大輔の太股にぴったりとくっついていた。気のせいかと思い、何気なく押してみると、ちゃんと同じ力で押し返してくる。大輔は、「イヤなら言えよ」と顔に書いたような表情で、額に落ちた律子の濡れた前髪を、自分でもじれったくなるほどゆっくりと指で掻き上げた。 「ねぇ、私のうち、あとどれくらいで完成する?」 「そうだなぁ、あとひとつき半か、ふたつきか、これから瓦屋とか左官とか建具屋の職人も入ってくるし」 「な〜んだ。まだそんなにかかるんだ」  いつの間にか、缶を握った律子の手が、大輔の太股に置かれていた。冷えた缶の底は冷たいが、律子の手首は熱かった。 「律子ちゃん、彼氏いる?」 「なんで?」 「だってモテそうじゃない」  絡み合う大輔と律子の足を律子の隣に座ったおばさんが睨んでいた。大輔はおばさんの視線を無視して、律子の耳元に口を寄せると、「ほら、ここにいる男たち、さっきからずっと律子ちゃんのこと見てるよ。気づいてた?」と囁いた。「うそ! 誰が見てる?」と気味悪そうに周囲を見渡す律子に、「仕方ないよ。おれだって、じっと見ちゃうよ」と大輔はもっと口を寄せて囁いた。そのとき、女子更衣室からさっきの友達が、「ねぇ、律子。何度やってもロッカーが開かないのよ」と泣きべそをかいてやってきた。律子は露骨に面倒臭そうな態度をとったが、「プールで待ってるから、一緒に泳ごうよ」と大輔が誘うと、「ほんと?」と急に中学生らしい表情をし、「すぐ行くから」と友達の手を引いて、更衣室へ走って行った。空缶を捨てる大輔の背中に、さっきから睨んでいたおばさんの視線が刺さった。  大輔は夏日を反射させたプールに飛び込み、子供たちを掻き分けながら水を切った。しばらくすると、更衣室から出てきた律子を見つけ、飛び上がって手を振った。律子も子供のように駆けてきて、水飛沫を上げてプールに飛び込んできた。水の中の律子は、休憩所よりも更に無邪気だった。大輔の首に抱き着き、一緒に水中へ沈んだり、流れてきたビーチボールを投げつけ合ったりした。律子をおんぶしてやると、背中で大きな胸が潰れた。大輔はその感触を味わいながら、プールの端から端まで泳いだ。壁について顔を上げると、真実と光男が、ぽかんと口を開けて彼を見ていた。  時先生から、「プーケット旅行用に服を買いに行かないか」と電話があったのは、ちょうどプールから戻り、みんなでアイスクリームを舐めている時だった。「じゃあ、今から迎えに行きますよ」と答えて電話を切ると、大輔はすぐに、「お前、またねだったんじゃねぇだろうな」と小麦におむつを穿かせている真実を睨んだ。真実は平然としたもので、「今、セールやってんのよ」と言って、取っておいたらしいユニクロの新聞広告をひらひらと揺らせて見せた。  真実と小麦を連れて先生を迎えに行くと、先生はすでに玄関先で靴まで履いて待っていた。小麦を抱き、先を歩き出した先生の後ろ姿を眺めながら、「よほど私たちと買物に行くのが嬉しいのね」と真実が大輔の耳元で囁く。  先月開店したユニクロの店内は、山積みされた色とりどりのサンダルに、カラフルなシャツやショートパンツが並び、まるでペンキ職人の作業着のような賑やかさだった。「これだけの色に圧倒されると、値札の数字にしか目が行かないな」  店内を同じような目で見ていたのか、小麦の手を引いた時先生が笑った。「ほんと、¥990とか、¥590とか、そこにしか目が行かない」と同意しながらも、真実は早速その¥990へ突き進み、山積みされた男物のショートパンツの中からカーキ色の一着を引っ張り出した。 「あ、そうだ。真実がなんて言ったか知らないけど、ここの金、おれが払いますからね」と大輔は言った。そして、「先生も旅行用になんか必要なもんがあったら、一緒に買ったらいいじゃないですか」と勧めると、「ここで? 私はいいよ」と先生が苦笑いする。 「どうして?」 「だって、ここのは若者向きだろ」 「またそういう年寄りじみたこと言う」 「年寄りなんだから仕方ないじゃないか」 「そんな地味な服ばっかり着てないで、たまには、ほら、こういう真っ赤なTシャツとかどうですか?」 「派手だよ。私は赤い服を着ると、どうも胸がドキドキするんだ」 「ハハ、それじゃ闘牛ですよ。それにね、南の島へ行くんですよ。魚だって鳥だって、みんな派手なんだから、先生だけ地味だったら逆に目立っちゃいますよ」  二人の会話を無視して、真実はまるでベテラン店員が検品でもするかのような素早さで、店内の商品を見て回っていた。そのあとを大輔と先生が少し離れてついて歩く。 「ねぇ、先生、真実のことどう思います?」  とつぜん尋ねた大輔に、先生は怪訝な顔で、「どう思うって?」と問い返した。 「いや、たしかに誰もが振り返るような美人じゃないけど」 「真実ちゃんは誰が見たって美人だよ」 「そうですか? おれね、真実と一緒にいるでしょ、そうすっとなんか度胸がつくっていうか……別に強くなった気がするんじゃなくて、その反対なんだけど、例えば、道端で誰かに因縁ふっかけられて、不様にやられたとするじゃないですか、普通だったらすげぇ恥ずかしいんだけど、でも横にいるのが真実だったら、なんていうか、『えへっ』ってなもんで、笑ってられるような、そんなへんな度胸がつくんですよね」  先生は黙って大輔を見つめていた。「おれの言ってる意味わかります?」と彼が訊くと、「真実ちゃんのこと、信頼してるんだよ」とさらっと言う。大輔は明らかにそうじゃないんだよな、と思いながらも、それに代わる言葉も見つけられずに黙っていた。別の言葉が先生の口から出てこないかと待ったが、先生はそのまま真実のあとについて行ってしまった。  真実は気に入った服があると、ツカツカと大輔なり先生なり小麦の元へやって来て、それぞれのからだに服を当て、「よし」とか「駄目ね」と呟いて、大輔が持つ籠へ入れたり、棚へ戻したりを繰り返していた。同じように男物のパンツを選んでいる家族があって、何気なく眺めていると、その若い父親と目が合った。小麦よりも少し小さい娘を抱き、「どれだっていいよ」という表情で、熱心にパンツを選ぶ奥さんの後ろに立っている。ちょうどそのとき、その奥さんと真実が、二列に並んだ同じ柄のパンツを同時に掴んだ。二人はちらっと顔を見合わせて微笑み、何食わぬ顔でそのギンガムチェックのトランクスを、それぞれ後ろに立っている男たちの籠へ投げ入れた。  レジは長い行列だった。先生がトイレに姿を消すと、「ほら」と真実が一万円札を二枚ひらひらと大輔の鼻先で揺らし、「言っときますけど、催促したわけじゃないからね。『自分のも入ってるから』って先生がくれたんだから」と笑った。 「さっき、ここはおれが払うって言ったんだぞ」  大輔は一応抗議しながらも、腕から降りようとする小麦の耳を甘噛みして宥《なだ》めるのに忙しかった。  財布に一万円札を戻す真実を眺めながら、大輔は深刻ぶった声で、「なぁ、さっき、あの先生、玄関で靴まで履いて待ってたろ?」ととつぜん話を変えた。急に深刻ぶる大輔に首を傾げた真実が、「出かけるんだから、靴ぐらい履くでしょ」と笑う。 「プールにも誘ってやればよかったかな」  大輔はそれでも真面目な声で話を続けた。 「なによ、それ。まるで遊び友達を仲間外れにしたみたいに」 「そうか?」 「まあ、大学の立派な先生だろうと、日曜に予定がないのは淋しいだろうけど」 「だろ? おれもそう思うんだよ」 「でも、私たちがプールでピチャピチャ遊んでる間に、いろいろ難しい事を考えるから、ああいう立派な先生になるんでしょ。日曜だからって、いつも私たちと一緒に遊んでたら、私たちと一緒になっちゃうじゃない」 「それもそうだな」 「あの先生、日曜日にデートする恋人いないのかしら」 「いないんじゃねぇの。いたら、おれらとユニクロなんかにいないだろ」 「誰か紹介してあげなさいよ。大工仲間で誰かいないの」 「いるわけないだろ」 「先生、どういう男の人がタイプなのかしら」 「ヤングエグゼクティブみたいな、ピシッとネクタイ締めてる男が好きなんじゃねぇか。一緒に街なんか歩いてっと、いつもそういう男を目で追ってるし」 「ヤングエグゼクティブかぁ……。どうりで大ちゃんは誘われないわけだ」 「なんか、誘われた方がいいみたいだな」 「だってマンションを無料で貸してもらってるのよ。その方が普通でしょ」 「言っとくけど無料じゃないぞ。ちゃんと二万円払ってます」 「大ちゃんの方から誘ってみれば?」 「おれから?……ちょっと待てよ。将来の旦那に向かって、よくそういうこと言うなぁ」 「あら、私がいつ大ちゃんと結婚するって言った?」 「いつかはするだろ?」  やっと順番がきて、几帳面な店員が籠の中身を一点一点取り出しては丁寧に畳み直した。大輔は見ているだけで苛々し、「あの、そのまま袋にぶち込んでいいですよ」と言った。小太りの店員は、「あ、はい」と微笑み、また次の服を馬鹿丁寧に畳み始めた。  颱風が接近していた。伊豆諸島を北上する颱風6号が、房総へ逸れるかと思われながら、とつぜん東京へと進路を変えた週明けの月曜日、高志が坊主頭を金髪に染めてきた。昼の弁当を食べ終わり、大輔が優作と一緒になってその髪をからかっていると、足場を覆った安全ネットが風を孕んで音を立て、鼾《いびき》をかいて昼寝をしていた小田桐のおやじさんが、「おい、遊んでねぇで、ブルーシートで養生して回れ」と怒鳴った。  午後になると、風の匂いが変わった。二階の足場に立つと、汗と埃にまみれた腕に、生あたたかい雨が当たった。  現場には数日前から建具屋も入っていた。午後三時頃、小田桐のおやじさんの携帯に、事務所の棟梁から電話があり、雨が強くなる前に仕事を切り上げ、改めて防水シートを補強することになった。まずは外に積まれた材木を家の中へ運び込む。人力で運べないものは、外に山積みしたままシートを被せる。ぽつぽつと雨の降り出した現場に、泥と白木の匂いが立った。  四時過ぎには、どんな颱風が襲撃しても、吹き飛ばされないだけの準備が整い、「ここだけ塗らせてくれ」と頼む若い左官の作業が終わるのを待って、全員で近所の居酒屋へ向かった。まとまって座れる席がなく、大輔と優作のふたりがカウンター席に着いた。串焼きをつまみに大ジョッキでビールを一杯だけ飲むと、「おやじが酔っ払う前に逃げようぜ」と優作が言い出した。大輔はテーブル席で左官の親方に説教されている高志を救い出してやり、三人で雨の中を駅へと歩いた。雨はそれほど強くなかった。ただ、ほんの一時間で、空の色ががらっと違った。頭上で電線が風に撓《しな》ってビュンと鳴る。高志のビニール傘が、突風に煽られて見事に曲る。 「大輔、お前、次の現場のこと、おやじさんから聞いたか?」  とつぜん優作が立ち止まり、大輔は危うく傘の骨で目を突かれそうになった。 「次の現場?」 「ほら、荻窪のなんとかっていう神社の裏の……」 「ああ。オランダ人だかの夫婦が住んでる家のリフォームでしょ? この前、おやじさんと一緒に見て来たけど、あんなの二、三日の安仕事ですよ」 「あそこな、お前と高志だけでやらせるって」 「おれと高志で?」  大輔は、横を歩く高志と顔を見合わせた。 「おれとおやじさんは織田さんとこの型枠に回るんだって。おれは何度か一人で現場仕切ったことあるけど、お前、初めてだろ?」  ちょうどラッシュアワーで、駅の階段から大勢の人々が吐き出されていた。誰もが階段を昇り切ると、まず空を見上げ、手に持った傘をさっとさす。花柄の傘もあれば、真っ黒な傘もあり、青い水玉模様、薄い桃色のチェック柄、いろんな傘が次から次にぽんと音を立てて雨空にひらく。  昇ってくる人々を掻き分け、濡れた階段を用心深く降りた大輔は、切符を買おうとする優作に、「ちょっと飲みに行きませんか?」と声をかけた。 「どこに?」 「別にどこでもいいですよ……この前行った中野のキャバクラは?」 「中野? 面倒なんだよな、あそこから帰んの」  優作はそう言いながらも、押そうとしていたボタンを中野までの安い方へ変えた。「お前も来るか?」と大輔が高志に訊くと、「おれはいいです。やりたいゲームあるんで」と、いつものように素っ気無く断る。  そのキャバクラへ行ったのはほんのひと月前のことだったが、店の女の子の顔ぶれは総替わりしていた。十五人いる女の子たちも一巡し、そこそこ楽しく酒を飲んでいたのだが、浜崎あゆみの曲についての蘊蓄もそろそろ聞き飽きた大輔は、「もう帰りましょうよ」と優作の腕を引っ張った。しかし優作は、「おれはあと一時間延長」とその腕を振り払った。結局大輔は、優作を置いて店を出た。  それでも九時前には芦花公園駅へ着いてしまった。このままうちへ戻るのは、なんとなくつまらない気がして、閉まる寸前のCDコーナーへ飛び込み、金を引出しながら、「パチンコやろうぜ」と家にいる真実を携帯で呼び出した。銀行からパチンコ屋へ向かう途中、折り返し真実から電話があり、「入って一番左の手前から三番目の席が空いてたら、とっといて」と指示された。  風はますます強くなるようだった。足元に飛んできたコンビニの袋が、何度ふり払っても足から離れなかった。  パチンコは真実が五千円の元手で一万八千円勝った。大輔の負けを差し引いても、七千円の儲けが残った。途中から、大輔はひどい睡魔に襲われて、レバーを握っているのがやっとだった。毎朝、五時半に起きる彼は、たいてい十一時には布団に入る。 「珍しいじゃない。パチンコやりたいなんて」  互いの傘をぶつけ合いながら、狭い歩道を歩いていた真実が、大輔の顔を覗き込んでいた。霧雨が真実の頬を濡らしている。 「なんかいいことあった?」 「別に」 「そう? なんだか機嫌いいじゃない」 「飲んできたからだろ。小麦は? もう寝たの?」 「今日お昼寝しなかったんで、早くから寝てんのよ。きっと夜中に起きるわよ」 「光男は?」 「ねぇ、どうしたの? いつもそんなこと訊かないくせに」 「そうか?」 「そうよ。光男くんなら、相変わらずよ。一日中、熱帯魚を眺めてる」 「熱帯魚ねぇ……。なぁ真実、お前がへそくってる金、貸してくれって頼んだら、貸してくれるか?」 「何に使うのよ?」 「うん……、ちょっとな」 「私はいいわよ。元々、大ちゃんのお金なんだし」 「でも、節約料理法なんかを極めて、お前が貯めた金だろ」 「いいわよ。使いなさいよ」 「いくら貯まってんの?」 「五十万くらいかなぁ」 「一年で五十万か……」 「ねぇ、何に使うの?」 「ん? いや、光男がな……」 「光男くん?」 「そうか。五十万かぁ……」  マンションへ続く細い路地へ入ると、急に辺りが暗くなった。電柱のライトに、霧雨が照らし出されている。大輔は、とつぜん真実の腕を掴んだ。そして、濡れたブロック塀に、その背中を押しつけた。ぶつかり合った傘が奇妙な形に歪み、彼の背中に真実の傘から雫が落ちる。 「な、なによ? いきなり」 「いや、たまには乱暴にキスしてみようかと思ってさ」 「これが乱暴なの?」 「そうだよ。ほら、こうやって傘を……」  大輔は真実の手から傘を奪い、自分の傘と一緒に下へ落とした。 「こうやって、ずぶ濡れになって……」 「ずぶ濡れになって? さぁ、次はどうする?」 「だからキスするんだよ。な、ロマンチックだろ?」  足元を吹き抜けた風が、二人の傘を吹き飛ばした。 「大ちゃん、よっぽどいいことあったんでしょ? ね、何よ、白状しなさいよ」 「別に、いいことなんか、な〜んもないですよぉ」  そう言うと大輔はブロック塀に押しつけた真実のからだを放し、吹き飛ばされた傘を拾いに走った。二本の傘の柄が、うまい具合に絡まっていた。 「そうだ、言うのを忘れてたけど、夕方、大ちゃんのお母さんから電話があったんだ」  追いかけてきた真実がそう言った。大輔は裏側も濡れてしまった傘を真実に渡した。真実は自分の傘はささず、彼に寄り添って歩き始めた。 「おふくろから? なんだって?」 「別に用はなかったみたいよ。小麦の写真を送れって」 「またかよ。すっかりおばあちゃん気取りだな」 「あと、夏休みには帰ってくるのかって訊くから、みんなで旅行に行くって言っといた。行くんでしょ? プーケット」 「おふくろ、なんか言ってた?」 「光男くんも連れて行くんだろうね、って」  薄暗い外灯のせいで昼間よりいっそう寂れたマンションが見えた。暗い階段の前に古い三輪車が乗り捨てられている。大輔はポケットから携帯を出し、「母上」と登録された番号にかけてみた。母はすぐに出た。「電話くれたって?」と大輔が尋ねると、「勝之兄さんから電話があって、今度あんたに現場を任せるって」と嬉しそうな声がする。 「棟梁から?」 「そう。きのうの夜、電話もらって」 「へへ〜ん。大したもんだろ?」 「良かったじゃない。しっかりやりなさいよ」 「任せるって言っても、小さな現場だぞ」 「そりゃ最初だから仕方ないわよ。ところであんたたち元気でやってんの?」 「みんな相変わらずだよ。おふくろは? 元気にしてんの? 店は?」 「こっちも相変わらずよ。ほら、バス停の前に新しい美容院ができたって言ったでしょ。あれ、もう潰れたのよ」 「へぇ、じゃあ、また客が戻ったろ?」 「それがそうでもないのよ。客なんていったん離れると駄目よ」  大輔はときどき真実の尻を押しながら階段を昇った。三階まで昇り切ると、真実が大袈裟に息をつく。そろそろ店の鏡を張り替えなければならないと言う母の愚痴を聞き終え、大輔が「もう切るぞ」と告げると、「あんたたち旅行に行くんでしょ? 大きなヴィトンのバッグがあるのよ。真実ちゃんが使うなら送るわよ」と慌てて母が言った。大輔は、「おふくろがヴィトンのバッグいるかって」と携帯電話を真実に渡し、玄関の郵便受けに差し込まれたピザ屋のチラシを抜き取った。  翌朝、大輔は小麦に顔面を踏みつけられて目を覚ました。涼をとるための氷枕の氷が完全に溶けてしまう明け方まで、真実にちょっかいを出していたせいで、背中の筋肉が痛かった。電話が鳴っていたような気がした。つけっぱなしの扇風機の風が、タオルケットから出た大輔の脛に当たっている。窓の外が暗く、まだ夜が明けていないのかと思った。外は土砂降りらしかった。畳に落ちている頭を布団の上に戻そうと寝返りを打つと、腕組みした光男が扇風機の横に立っていた。 「よくこんなクソ暑いところで眠れるな」  そう言いながら、大輔の腹の上に座っている小麦を、光男は鎌で刈るように抱き上げた。「今、電話鳴ってなかったか?」と、大輔は胸に乗っている汗ばんだ真実の腕を押しやりながら訊いた。 「ああ、電話だよ。小田桐さんから」  大輔が熱の籠った布団から背中を剥がして起き上がろうとすると、光男に抱かれた小麦が、「行かないもん。行かないもん」と急に言い出した。「どこに行かないの?」と大輔が訊くと、「こうえん」と淋しそうな顔をする。 「今日は颱風だから、公園に行っても誰もいないよ。ゆうたくんもみずほちゃんも今日はおうちで遊んでるよ」と大輔は言った。  壁の時計を見ると、まだ十時前だった。光男の足元に昨夜コンドームを包んだティッシュが落ちていた。大輔の横でやっと目を覚ました真実が、「小麦、何時に起きた?」と尋ね、「八時前には起きてたよ」と光男が答える。  布団から這い出た大輔は、床のティッシュを拾い、ゴミ箱に投げた。そして、「抱っこぉ」と手を伸ばしてきた小麦を光男から抱き取ると、居間へ出て外されたままの受話器を取った。 「もしもし」と言う間もなく、「大輔か? 今日どっか出かけるか?」とテンションの高いおやじさんの声が寝起きの鼓膜に響いた。朝の十時だというのに、居間は真っ暗だった。壁際の棚に置かれたアクアリウムも、まだライトが点いておらず、暗い水の中をポンプから出る気泡と戯れるように熱帯魚が泳いでいる。先週買ってきたばかりのキプルスは、光男の手入れがいいのか、ずいぶん葉数が増えたようだった。大輔は小田桐のおやじさんの話を聞きながら、水槽裏にあるライトのスイッチを入れた。暗い部屋に、まるで小さな地球が、ふっと浮かび上がるようだった。緑濃い水草の間をモスコ・ブルーが泳いでいる。  おやじさんの電話は、「昼過ぎでいいから、現場の様子を見て来い」という命令だった。特に問題はないはずだが、どうも朝起きてから気になって仕方がないのだと言う。大輔がライトアップされた水槽を覗いていると、抱いていた小麦に朝勃ちした性器を蹴られた。思わず「うっ」と腰を引いたその姿を、背後から真実と光男が並んで見ていた。  代わりに現場へ行ってもらおうと、高志の携帯に何度もメッセージを残しておいたが、ようやく電話があったのは、ちょうどみんなで昼食の焼きそばを食べ終わったあとで、雨にふりこめられた部屋には、甘いソースの匂いが充満していた。高志は彼女とディズニーランドにいて、現場へは行けないと言う。「なんでこんな日にディズニーランドなんだよ?」と大輔が笑うと、「こんな日だから空いてていいんですよ」と言い返された。『ディズニーランド』という言葉を耳にして、それまでおとなしくお絵描きしていた小麦の機嫌がとつぜん悪くなった。クレヨンを投げつけ、「ミッキーしゃん、ミッキーしゃん」と絶叫に近い声でむずかり出す。「今日は雨が降ってるから、ミッキーさんもおうちから出てこない」といくら真実が宥めても、小麦はまったく聞く耳を持たず、日頃「やってはいけない」と注意されているカーテンぶらさがりや、障子破り、最後にはオムツを引き千切るストリップまでやり始め、からだを海老反りにして泣き続けた。大輔はたまらず、「ちょっと現場を見てくる」と家から逃げ出すことにした。光男や真実は、馴れているのか、泣き叫ぶ小麦のそばで、雑誌を読んだり、枝毛を切ったりと平然としたものだった。玄関で雨合羽を着ていると、真実が追いかけてきて、不燃ゴミを持たされた。  外は予想以上の暴風雨で、よこしなぎの雨と風に、傘など役に立ちそうにない。大輔は駐輪場に停めてある原付バイクに跨り、顔面に痛いほどの雨を浴びながら駅の方へと走った。目はもちろん、鼻の穴にも雨が入った。ブレーキに伸ばした手が、雨に濡れて何度も滑った。商店街は閉まっている店も多かった。暴風に飛ばされた捨て看板が、二つに折れてバイクの脇を抜き去っていく。踏切で停まっていると、向こうの通りをピンク色の雨合羽を着た中年女性が、風に逆らい、懸命に自転車を漕ぐ姿が見えた。ゆっくりとホームへ滑り込んでゆく電車の中は、暗い街とは対照的に、人も多く、明るい光に満ちていた。濡れている人など、一人もいないようだった。  家主の娘、律子を呼び出そうと思い付いたのは、「臨時休業」の看板が出た区営プールの前を通り過ぎた時だ。大輔は早速バイクを停め、雨合羽に濡れた手を突っ込んで、携帯電話を取り出した。律子は颱風の中、新宿の高島屋にいた。先日プールで一緒だった友達とぶらぶらショッピングをしている最中で、「そろそろ帰るつもりだったの」と言う。大輔は、「もし暇なら、これから現場に来ないか?」と誘った。「現場」と聞いて、律子は最初その意味が飲み込めなかったらしく、「まだ出来てない律子ちゃんの家だよ」と彼は言い直し、「颱風でシートやなんかが飛ばされてないか見に行くんだ」と付け加えた。すぐに断られるか、しばらく煮え切らない態度をとられるだろうと思っていたが、律子は意外にあっさりと誘いに乗った。  暴風雨の中を、大輔はほとんどブレーキをかけずにカーブを曲った。擦り切れたタイヤが、何度も濡れたコンクリートでスリップしかけた。現場に着くと、原付バイクを仮設便所の脇に停め、防水シートで覆われた建設中の家を見上げた。小田桐のおやじさんの心配は杞憂に過ぎなかった。防水シートの四隅を縛ったワイヤーは、一ヵ所も外れるどころか、弛《たる》んでもいない。まるで心臓のように、風を孕んだ防水シートが大きく膨らみ、そして家の骨格を浮き上がらせるように縮んだ。暗い空で風が鳴った。音と共に、激しい雨が叩きつけ、泥の匂いが漂った。スニーカーも、靴下も、ずぶ濡れだった。歩くたびに、踵でジュボッ、ジュボッと音が鳴る。一通り周囲を見て回ると、大輔は駐車してあるワゴン車の中から、何本かのタオルを取り出した。どのタオルからも誰かの汗の臭いがした。すでに取り付けられた玄関に、鍵はかかっておらず、大輔はそこから家へ上がった。仮床は完成していたが、一階の天井はなく、二階の屋根裏が丸見えだった。雨合羽を脱ぐと、Tシャツの襟首がびっしょりと濡れていた。大輔はTシャツも脱ぎ、積まれた材木の上に干した。汗臭いタオルで顔や胸を拭きながら、同じようにずぶ濡れのスニーカーと靴下を脱いだ。乾いた白木の床に、黒い足跡がつく。家の中にいると、風に叩かれる防水シートの音で、ときどきからだがビクッと震えた。大輔は途中のコンビニで買ってきたものを白木の床にぶちまけた。缶コーラやポテトチップに混じって、ベネトンの色付きコンドームの箱が転がった。大輔はしばらくその箱を指先でいじり、材木の上に干したTシャツの裏に隠した。  駅に着いた律子から電話があった時、大輔は待ちくたびれて眠り込もうとしていた。律子は駅から現場へ向かいながらも、電話を切ろうとはせず、新宿の高島屋で買ったミュールの色や、HMVで試聴したという外人歌手のことを話し続け、嵐の中を彼の元へ近づいてきた。「あ、見えた!」と律子が叫んだ瞬間、外で何かが倒れる音がした。風を孕んだ防水シートの隙間から覗くと、不安定な砂利の上に停めた原付バイクが、仮設便所の脇に倒れていた。大輔は、「迎えに出るよ」と言って電話を切り、上半身裸のまま、スニーカーをつっかけて外へ出た。乾いたからだに、雨が冷たかった。背中に雨を浴びながら、倒れたバイクを引き起こしていると、「何やってんの?」と背後で律子の声がする。背骨を流れた雨が、パンツに染みていくのを大輔は感じた。  プールで会った時とは違い、律子は一瞬ドキッとするほどひどく幼く見えた。傘をさしているせいかもしれなかった。ペディキュアを塗った足の指が、泥で汚れているせいかもしれなかった。大輔は、「中へ入ろう」と少女の腕を引っ張った。そのとき、少女の持つ濡れた紙袋がその反動でビリッと破れた。  律子は白木の床にサンダルの音を響かせながら、玄関から浴室へ、浴室から台所へと歩いて回り、大輔が待つ居間へと戻ってきた。床に並んだジュースやお菓子を見て、「なんか、颱風の中でピクニックしてるみたい」と無邪気に笑った。大輔は車の中にあった毛布を敷き、その上にビニールシートを広げて、そこに律子を座らせた。自分の方へ向けられた、丸く、生白い律子の膝小僧を見て、大輔は思わず唾を呑み込んだ。たとえば、真実のような大人の女の膝とは何かが違った。やわらかくて、甘い匂いがしそうだった。「ねぇ、どうしてそんなにジロジロ見るの?」と律子はアーモンドチョコを摘《つま》みながら何度も訊いた。プールで会った時と同じ大人ぶった上目遣いで、チョコレートのついた指をしゃぶった。  大輔は、少女の丸い膝小僧をゆっくりと撫でた。「イヤなら言えよ」と問うような顔をして。……硬い太股だった。柔らかい髪だった。突き出された舌は薄いピンク色で、唇を離すと舌先が脅えるように震えた。  律子は、頻りにプールで会った真実と光男、それに小麦との関係を訊きたがった。「みんなで一緒に暮らしてる」と大輔が教えると、「ふ〜ん」と何かを想像するような顔つきになり、いっそうきつく抱き着いてきて、チョコレートの匂いのする息を、大輔の喉元に吹きかけた。外は相変わらずの土砂降りだった。防水シートが風に鳴り、まるで何百羽もの鳥が、一斉に羽ばたくような音がした。  地元の高校を卒業すると、大輔はすぐに東京で土建屋を営む伯父の元へ住込みで弟子入りした。本当は建築家になりたかった。ただ、数学の教科書を触るだけで脂汗がでた。棟梁である伯父の家には、まだ小学生の娘しかおらず、大輔は出来の悪い息子のように可愛がられた。三日に一度は必ず実家の母から電話があった。「一人になって寂しい」と、かけてくるたびに泣きつかれた。ただ、電話が伯父たちのいる居間にあり、慰めたい気持ちはあっても、照れ臭さが先に立ってしまい、「めそめそしないでくれよ」と突慳貪な態度しかとれなかった。  棟梁の家を出て、時先生のマンションへ移ったのは、今からちょうど一年前になる。引越といっても、家財道具が多いわけでもなく、仕事用のワゴン車で充分に事足りた。3LDKのマンションに対して、大輔の身の回りの品はあまりにも少なかった。  当時、真実は小麦を抱え、親戚が経営するスナックで、雇われママをやっていた。棟梁の家の近所にあったその店に、大輔は週に五日も通っていた。時先生のマンションへ引っ越すと、大輔は半ば強引に真実に仕事を辞めさせ、小麦と三人で暮らし始めた。がらんとしていたマンションも、真実のアパートから運ばれてきた家財道具で、いちおう人が暮らす部屋らしくなった。  光男がふらっと現れたのは、それからひと月ほど経った頃だ。光男がせっかく入った大学を中退したあと、定職にもつかず、ぶらぶらしているのは知っていたが、どこでどう暮らせば、ここまで不健康になれるのだろうかと思えるほど、顔色は悪く、髪や爪の艶もなかった。訊けば、清里のペンションや茨城の自動車の部品工場などに住込み、季節ごとに転々と暮らしているという。大輔は、光男の意思も真実の意見もきかずに同居させることを決め、翌週には棟梁に頼み込み、丁稚として同じ現場で働けるように手配した。  早速、真実に光男の分の弁当も作らせて、大輔は嫌がる光男を無理やり現場へ引っ張って行った。使いものにならない丁稚は、これまでに何人も見てきたが、光男の不器用さ、腕力のなさは、それに輪をかけたものだった。材木一つ、ベニヤ一枚うまく運べず、足場に立たせると、怖がって足を震わせる。そのくせ、汗だけは一人前にかくらしく、半時間に一度は自動販売機へジュースを買いに走る光男の姿は、三日も経つと現場にいる左官や職人たちの、もの笑いの種になった。みんなは光男に材木を担がせ、「こっちじゃねぇ、あっちだよ」「そっちじゃねぇ、向こうだよ」とわざと歩かせ、やじろべえのようにふらふらしている姿を見て笑った。それでも光男は自分から辞めるとは言わなかった。筋肉痛のからだで布団から這い出てくると、朝飯を食う大輔の横で、同じように仕事へ出る準備をした。光男を辞めさせたのは、棟梁でも小田桐のおやじさんでもなく、大輔自身だった。最初は光男が馬鹿にされることで自分まで笑われているような気がして腹が立った。五日目にはそんな光男自身に馬鹿にされているような気さえした。  光男の父親が、大輔の母と離婚したのは、大輔が十一歳で、光男が十歳の時だった。父親に連れられ、家を出て行く光男の姿を、大輔は今でもはっきりと覚えている。未だに光男の顔を見るたび、あのとき玄関のドアにしがみつき泣き叫んでいた光男の姿が浮かんでくる。大輔はあんなに狂おしく泣き叫ぶ人間を、それまで、いや、それから現在に至るまでも、ただの一度だって見たことがない。光男と暮らしたのはたった二年のことだった。その二年にしがみつき、光男は全身で泣いた。大輔は見ていることさえ恐ろしかった。さっきまで弟だったこの少年が、これから、いったいどこへ、どんな世界へ連れて行かれようとしているのか。そう思うと、母の背中に隠れた自分のからだまでが、ぶるぶると震えて止まらなかった。  現場仕事を辞めた光男は、その後も二、三別の仕事を捜して働いた。しかしそのたび、大輔の頭には仕事場で馬鹿にされる光男の姿が過《よ》ぎり、「そんなの男がやる仕事じゃねぇ」とか、「もっと実入りのいい仕事に変えろ」と、つい文句を言い出して、言っているうちに自分で自分の言葉に興奮し腹を立てた。そんな夕食が三日も続くと、光男は自分から仕事を辞めてしまった。  語りながら眠ってしまったのか、それとも眠っていながら語ったつもりになっていたのか、大輔の腕には律子の頭があった。うしろ首に材木の角が当たって痛かった。相変わらず外は土砂降りで、防水シートが千切れんばかりにはためいていた。ときどき、腕から律子の重みが消え、鼻先にタバコの煙が流れた。「ここで吸っちゃ駄目だよ」と大輔は何度も律子を注意した。ただ、声が出ていなかった。  律子は、土壇場になって「明るいから嫌だ」と拒み始めた。「明るくないよ。真っ暗じゃないか」と大輔は諭した。実際、辺りは暗かった。青い防水シート越しの淡い光で、律子の頬や首すじは蒼白だった。「毛布がなきゃ嫌だ」と律子は言った。「ベッドじゃないと、最後までいくのは嫌だ」と抵抗した。律子の言う「最後」とは何処だろうか、と大輔は思った。からだの中を颱風の目が通り抜けたような気がした。 「目隠しするよ。目隠しすれば恥ずかしくないだろ?」  大輔は手元にあった赤いタオルを自分の顔に巻いた。何も見えないはずなのに、材木の間で仰向けになっている律子の白い肢体が、大輔の目にははっきりと見えた。鼻まで覆うタオルから誰かの汗の臭いがし、幼い律子と、白木の匂いがそれに混じった。真っ直ぐな白木に荒鉋の刃を滑らせる。材木は気持ち良さそうに身を震わせて、辺りに木屑を飛び散らす。鉋をかければかけるほど、白木の肌には照りが出る。指で撫で、舌で舐めたくなるほど艶が出る。  ふと息苦しくなって目が覚めた。材木の上に干していたTシャツが、風に飛ばされ、大輔の顔を覆っていた。生乾きの臭いがした。薄っすらと開いた目に、四つん這いで何かを捜す律子の小振りな尻が見えた。頬を叩くように、風がまた吹き抜けた。大輔はゆっくりと目を閉じた。  律子の悲鳴で飛び起きた時、大輔にはまだうしろ首の角材の痕を触るだけの余裕があった。もう一度、聞こえた律子の悲鳴も、寝起きの耳には遠かった。次の瞬間、耳の裏に熱を感じた。振り返ったのが先だったか、それとも足元に転がった空缶の縁に、タバコの焦げ痕があるのを見たのが先だったか。部屋の隅で火の手が上がっていた。自動鉋の周りに散乱した木屑が、火の粉を撒き散らし、律子の周りを飛び交っていた。木屑を詰めたビニール袋から火柱が立ち、焔は通し柱を伝って桁まで伸びていた。律子が蜂に襲われたようにからだに降りかかる火の粉を払う。大輔は律子に飛びついた。暴れる腕を押さえ、火の粉の中から、そのからだを引き摺り出した。大輔は何度も何度も燃える木屑を踏みつけた。踏むたびに、脛の辺りで火の粉が舞った。振り返ると、律子が真っ青な顔で立ち、火柱を無言で見つめている。大輔は律子の手を引いて外へ出た。火照った頬に、吹きつける雨が冷たかった。塀の向こうから、「火事よ!」と叫ぶ女の人の声がした。大輔は車へ駆け出し、後部ドアに鍵を突っ込んだ。恐怖と焦りで、二度も鍵を泥の上に落とした。荷台に消火器があった。腹に抱いた消火器が冷たかった。玄関脇で律子が唇を震わせていた。  中は黒煙が充満していた。裸足で中へ突っ込むと、ちょうど強い風が吹き込んだ。目の前から黒煙が消え、赤い火柱だけが残った。  消火器を使い切ったのと、消防車のサイレンを耳にしたのと、どちらが先だったか覚えていない。銀色の防火服を着た男たちが、重い足音を響かせ、部屋へなだれ込んで来た時には、すでに火は消え、大輔は消火器を抱いて、白木の床にしゃがみこんでいた。木屑は残らず燃え尽きていた。火柱は桁までは届かなかったが、通し柱と周囲の壁は黒焦げだった。消防士たちの足元に、ポテトチップやアーモンドチョコの箱に混じって、目隠しをした赤いタオルが落ちていた。  熱帯魚の飼育者なら、誰もがアクアリウムの水質を現地の水に近づけたいと願っている。そのために毎日の水温や水質チェックも欠かさないのだし、餌の食べ残しがないか、苔が生えていないかと、細心の注意でメンテナンスもやっている。人工的に自然の状態をつくるのは、途轍もなく手間のかかる作業で、ちょっとした怠け心が熱帯魚の命を奪う。  大輔は水槽に手を突っ込んで、内側に生えた苔を削りながら、小石の上でじっとしている石巻き貝を、「おい、ちゃんと苔を食えよ。なんのためにいるんだよ」と指で突ついた。六畳間から出てきた真実が、「魚に八つ当たりすることないでしょ」とそんな彼の背中を叩いた。 「光男は? あいつどこ行った?」 「知りません。私は光男くんの秘書じゃありません」 「あいつ、ちゃんと水槽の水換えしてんのか? 見ろよ、この苔。砂利の泥抜きだってぜんぜんやってねぇだろ」 「知らないわよ。私はその水槽にはノータッチなんだから」 「お前は何にだってノータッチじゃねぇか」  大輔は水槽の蓋を外し、ろ材に被せたウールマットの汚れを調べた。白いはずのマットが今にも目詰まりしそうに黄ばんでいた。 「ちょっとバケツに水入れてこいよ」 「自分でやりなさいよ!」 「今、何にもやってないだろ」 「やってるわよ。ここに寝転がってテレビ見てるでしょ!」 「光男は! 光男はどこ行った!」  大輔は足元に落ちていたクッションを、腹立ち紛れに蹴りつけた。そして「あっ」と悲鳴を上げた。クッションがブロックを組み立てていた小麦の顔面を直撃したのだ。大輔は慌てて小麦に駆け寄り、「ごめん、痛くないよ、痛くない」と謝った。小麦は泣き出すのも忘れたように、きょとんとしたままだった。すぐに真実が、「なにすんのよ!」と大輔を押し退け、「痛くない、痛くないよ」と小麦の頬をやさしく摩ると、小麦は思い出したように泣き始め、次第に声を高くした。大輔はまた小麦の方へ手を伸ばし、「ごめん、ほんとごめん」と頭を撫でた。近づけられた大輔の顔を見て、小麦の泣き声が一段と激しくなる。 「そんな顔、小麦に近づけないでよ!」  大輔は再び真実に胸を押され、バランスを崩して後ろに倒れた。 「そんな顔、近づけられたら、小麦じゃなくても怖いわよ」  真実は泣き止まない小麦を抱いて、奥の六畳間へ戻ると音を立てて襖を閉めた。  大輔の顔は、棟梁に死ぬかと思うほど殴られ、蹴られ、次の日には倍ほどにも腫れ上がった。ここ数日で腫れは引いたが、目元や口元に残った青痣《あおあざ》が、黄緑色に変色し始めている。  襖の向こうから、「もう大丈夫よ。お化けはいないからねぇ」とあやす真実の声がした。 「好きでこんな顔になったんじゃねぇぞ」 「自業自得よ!」 「あ〜、ムシャクシャする。出かけるからな」と大輔が怒鳴り、食卓の脚を蹴って玄関へ向かおうとすると、電話が鳴った。 「おい、電話だぞ」と大輔は叫んだ。 「そこにいるんだから、出なさいよ!」と襖の向こうから怒鳴り返される。  しぶしぶ電話に出ると、プーケットツアーを予約した旅行社からで、まだ旅費の振り込みがされていないという。大輔は受話器を押さえ、「おい、プーケットの金、振り込んどけって頼んだろ」と襖の向こうに声をかけた。 「光男くんに頼めばいいでしょ!」と、相変わらず不機嫌な声で真実が言う。大輔は受話器を握り直し、「明日中には振り込んでおきますよ」と告げて電話を切った。棚の引出しを開けると、棟梁から手渡されたままの状態でボーナスの袋が入っている。  襖の向こうからはまだ小麦の泣き声が聞こえていた。大輔はまた玄関へ向かいながら、「光男が戻ったら、旅行の金、振り込むように言っとけよ」と怒鳴った。  小火《ぼや》騒ぎから一週間が経っていた。警察での事情聴取のあと、引取りに来てくれた棟梁の家で、大輔は伯母さんがまた警察に通報しそうになるほど、棟梁に殴られ、蹴られた。「てめぇなんか、ぶっ殺してやる!」殺気立った棟梁の後ろには、必死に父親の腰にすがる娘がいた。娘は律子と同じ年だった。棟梁の「ぶっ殺してやる」が大輔には冗談に聞こえなかった。もしも従妹が、「お父さん、大ちゃんが死んじゃう」とその腕にしがみついてくれなかったら、本当に殺されていたかもしれない。  元請けの大和ハウスへの焼損の謝罪など、なんてことはなかった。誰もが振り返るほど腫れた顔を見れば、担当者も用意していた小言を喉から出せないようだった。もちろん律子の両親は、大輔に会おうとはしなかった。「何もされてない。訴えれば自殺する」と律子が脅してくれたらしく、彼女の両親は未成年者淫行で大輔を訴えることを諦めてくれたが、もちろん現場担当からは外され、二度と律子には会わないという誓約書を小田桐のおやじさんの前で書かされた。翌日と翌々日は、あまりにも顔の腫れがひどかったので仕事は休ませてもらい、三日目からは別の現場に回された。その現場が元々肌の合わない奴らばかりが揃った組で、ここ数日、「ロリコン」だの「変態」だのと散々厭味を言われながら、運びものばかりをやらされている。運びものをやらされるのはまだいい。厭味を言われるのにも馴れてきた。ただ、丁稚の分のジュースまで買って来いと使われるのは我慢ができなかった。  外へ出た大輔は行く当てもなく駅の方へ歩き、行きつけのペットショップを覗いてみたが、光男の姿は見当たらなかった。ペットショップのおやじに腫れた顔のことを訊かれ、大輔は説明するのが面倒ですぐに店を出た。隣にキティちゃんやプリンちゃん商品が豊富なギフトショップがあった。さっきクッションをぶつけたお詫びに、小麦へキティちゃんシールを買って帰ろうかと思ったが、店から出てきた女の子が、大輔の顔を見て、「怖い」と母親に抱き着いたので、店へ入るのを諦めた。  行き場がなかった。知らず知らずに、大輔は時先生の家へと向かっていた。  二年前、大輔が弟子上りして初めて職人として請け負った仕事が、時先生宅の離れの改築工事だった。ちょうど春休みの最中で、先生は毎日家にいて、ときどき現場の様子を見学に来た。休憩時間や昼食時、敷地内で職人たちにタバコを吸われたり、寝転がって昼寝されるのを、ひどく嫌がる家主は多い。しかし、時先生の家ではその手の苦情を一度も言われたことがなかった。現場を見学に来た先生は、よく一眼レフのカメラで作業中の職人たちを撮影していた。あるとき、ひとり現場に残った大輔が道具の後片付けをしていると、「書斎の本棚を補強してくれないか」と先生に頼まれた。母屋の二階へ上がって様子を見ると、余り木でちょちょいと出来そうだったので、大輔は、「今からやってあげますよ」と早速現場から道具を運び、すぐに作業を始めた。そのとき、これまで現場で撮った写真を先生が見せてくれた。細い梁の上を歩いている大輔自身の写真があり、角材を運ぶ優作の写真があった。大工たちが、梁に立ち、ロープを担ぎ、クレーンに吊るされた壁板を支えていた。大輔が熱心に写真を眺めていると、とつぜん先生が、「熱帯魚みたいだね」と言った。大輔はもう一度自分が写っている写真を手にとった。真っ青な空の下。白木の骨組み。赤い作業ズボンに藤色のシャツを着て、梁に立つ大工の姿がそこにあった。  本棚の補強を終えると、先生が金を払おうとした。大輔はなんとなく断ってしまい、その代わりに先生が近所の鮨屋でご馳走してくれた。先生は、大輔がこれまでに会った誰よりも、小さな声で話す人だった。最初の頃、つい「え?」とか「は?」とか訊いてしまう自分が、ひどく下品な人間に思えてならなかった。  先生は油絵を描くのが趣味で、大輔も頼まれて一度だけモデルになったことがある。毎週末、先生の家を訪ね、完成まで二ヵ月もかかった。出来上がった肖像画の彼は、実物とは似ても似つかぬほど上品な顔だちで、「先生、おれのあだ名がジャガイモだったって知ってます?」と大輔が笑うと、先生はもう一度その絵を眺め、「これはね、天国にいる君だよ」と言った。大輔はその譬えが気に入った。  駅前の和菓子屋で、大輔は梅味のせんべいを買った。先生の好物だった。ほとんど酒を口にしない先生に、「どうして飲まないんですか?」と大輔は尋ねたことがある。「二日酔いするんだよ」と先生は答えた。「二日酔いなんて、誰でもしますよ」と大輔が笑うと、「アルコールにじゃなくて、酒の勢いで自分が喋ったことに二日酔いするんだ」と先生は言った。  先生の家の玄関を開けると、ちょうど家政婦さんが帰るところだった。いつもひっそりとしている廊下の奥から、珍しく先生の笑い声がした。 「誰か来てるんですか?」 「ええ。学校の教え子さんだとか」  痩せぎすの家政婦は、そう無表情で答えると、「お呼びしますか?」と明らかに面倒臭そうな顔をした。 「いや。勝手に上がらせてもらいますよ。いいんでしょ?」  大輔はさっさと靴を脱ぎ、家政婦が出したスリッパも履かずに黒光りする廊下を進んだ。「それじゃあ先生。失礼します」と叫ぶ家政婦の声と、「ああ。ご苦労様」と応える先生の声が、大輔の頭上を飛び交った。廊下から縁側へ出ると、一人掛けのソファに深く腰かけ、満面の笑みを浮かべた先生の顔があった。先生の方でもすぐに気がつき、「おう、大輔くんか」と満面の笑みは崩さなかったが、その裏側からじわっと影が滲んだように見えた。 「もしかして、お邪魔でした?」  大輔はわざとふざけた言い回しで、部屋の中を覗き込んだ。三人掛けのソファに若い男が座っている。 「ずいぶん腫れも引いたじゃないか」  そう声をかける先生に、大輔は、「え、ええ」と生返事しながら、勧められもしないのに、その若い男の横に座り、横顔をじろじろと見た。肌が浅黒く、端正な顔立ちだった。インド辺りの、若い神様のような横顔だった。 「彼はうちの学生で清水くんだ。清水くん、こっちは近所に住んでる私の友人で大輔くん」 「こんちは」大輔はぺこっと頭を下げた。下げながらも学生の顔から露骨な視線を逸らさなかった。学生は照れ臭そうに俯いていた。 「へぇ、じゃあ、あんたも言語学とやらをやってらっしゃるんだ」 「いえ。先生の授業は取ってないんですけど、今日はちょっと教えて頂きたいことがあって」 「へぇ、教えてもらいたいことねぇ」  大輔自身、どうしてこんな厭味な口をきくのか分からなかった。自分はただ、学生の横顔を見ているだけなのに、後ろに立った誰かが、自分の代わりに勝手に喋っているようだった。見兼ねた先生が取ってつけたように、「それはなんだい?」と大輔の膝に置かれた和菓子屋の袋を指差した。 「いつものせんべいですよ」と大輔は答えた。 「せんべいか。よし、じゃあ、お茶でも出そうか」  立ち上がろうとした先生に、「いや、すぐ帰りますから、お構いなく」と大輔は言った。言ってすぐ、『そうか。おれのためだけじゃないんだ』と気づき、「あ、ぼくが」と代わりに立ち上がった学生の肩を、「いや、おれが」と強く押さえつけた。どうもちぐはぐなやりとりのあと、大輔は、「この家のことなら、なんでも知ってんだ」と口走っていた。テーブルには分厚い本が積まれていた。大輔は和菓子屋の紙袋をその本の上に置いた。  台所で冷蔵庫から麦茶の瓶を取り出しながら、「これじゃ家政婦みたいじゃねぇか」と大輔はつい声に出してそう言った。グラスを並べ、麦茶を注ぐ時には、「なんでおれがこんなにそわそわしなきゃならねぇんだ」と腹まで立ってきた。三つのグラスを盆に載せて持って行くと、先生がまた笑っていた。「なにもヌードになってくれと頼んでいるわけじゃないんだよ。普通の肖像画を描かせて欲しいんだ」と、照れる学生を熱心に口説いている。  お盆の上でグラスの麦茶が大きく揺れた。大輔は乱暴に三つのグラスをテーブルに置き、こぼれた麦茶で指を濡らした。 「へぇ、あんたも先生の絵のモデルになるんだ?」 「あ、そうか。大輔くんにもモデルになってもらったことがあったねぇ」 「そうなんですか? あなたも描いてもらったことがあるんですか?」 「ああ、あるよ。これであんたもおれの仲間ってわけだ。仲良く一緒に天国行きか?」 「え? 天国?」  大輔は無理に笑おうとしたが、笑いが喉に詰まって、うまく声が出なかった。 「大輔くん、なんか嫌なことでもあったのか? やけに機嫌が悪いじゃないか」 「別に」  紙袋を破ってせんべいを出すと、梅の香りが仄かに匂った。  その後、先生と学生は、話の途中だったらしいフランスの詩人の話に戻り、オイディプスがどうの、パゾリーニがなんたらと大輔を無視して話し続けた。  その間、大輔はひとりでせんべいをボリボリと齧《かじ》りながら、耳の穴の掃除をしたり、テーブルに置かれた本をパラパラと捲っては、すぐに閉じて投げ出したりした。学生と話している時の先生は、大輔の前では見せたことのない顔をした。もちろん彼と一緒の時でも、先生は楽しそうな顔はする。ただ、学生に何かしら難しい質問をされた時のような、嬉しそうな顔はしたことがない。楽しそうな顔と嬉しそうな顔は、似ているようでどこかが違った。  夕方から人と会う約束があるという先生に見送られ、大輔と学生が玄関で靴を履いていると、「私に何か用があったんじゃないのか?」と先生が思い出したように訊いてきた。大輔の横では、すでに靴を履き終えた学生が、先生に借りた本を小脇に抱え、丁寧にお礼を繰り返していた。 「別に用なんかないですよ。ただ退屈だったから来たんで。それともなんですか? ここに来るには、なんか高尚な問題でも抱えてないと駄目なんですか?」  そう言った大輔を、先生は呆れ果てた顔で見下ろし、「よほど虫の居所が悪いらしいな。気にしなくていいからね」と居心地悪そうな学生に言葉をかけた。  玄関を出ると、「ちょうど良かった。清水くんを駅まで案内してやってくれ」と叫ぶ先生の声が追ってきた。「ガキじゃねぇんだから、駅ぐらい一人で行けるって」と大輔は叫び返した。  しばらく先に立って歩いていると、「あの、あなたも時先生の教え子だったんですか?」と学生が訊いてきた。 「おれ? おれはそんなもんじゃねぇよ。ほら、先生んちの庭に離れがあったろ? あれをつくった大工だよ」 「ああ。大工さんですか」 「なぁ、それよりも、結局あんた、先生に何を教えてもらいたかったんだよ? 横で聞いてたけど、さっぱり分からなかったんだよな」 「別に、具体的になにかをってことではないんです。ただ、なんというか、言ってみれば人生相談みたいなもんですよ」 「人生相談?」 「ええ。どうすれば人とうまく付き合えるんだろうって……」 「へぇ。人とうまく付き合えずに悩んでんのか、お前」 「苦手なんですよ、ぼく」 「おれなんか、なんでこんなに人とうまく付き合えるんだろうって悩んじゃうけどなぁ……。きっと人間のタイプが違うんだな」 「そうでしょうか?」 「そうだよ。こう言っちゃなんだけど、そう簡単に人間のタイプは変わんねぇぞ」  結局、大輔は学生を駅まで案内していた。「それじゃ、これで」と学生が切符売場へ向かうので、「おい、ちょっと待て。うちに寄ってけよ」と大輔はその腕を掴んだ。 「晩めし食ってけよ。どうせ暇なんだろ?」 「いや、これからちょっと……」 「ちょっと何だよ?」 「人と会う約束があるんですよ」 「人と? それじゃ先生と一緒……あ! お前ら、おれを追い返して、あとで会おうって腹だろ?」 「ち、違いますよ」  学生は大輔の手を振り払うと、切符売場へ走って行った。大輔はすぐにそのあとを追いかけ、「悪かった。冗談だよ、冗談」と券売機の前で学生の肩を叩いた。 「まぁいいや。あんたと先生がどんなに仲良くなろうと、おれの知ったこっちゃねぇけどさ。ただ、あの先生、見かけによらずロマンチックな人なんだよ」 「だから何ですか?」 「だから何ってこともねぇんだけど、なんていうか……分かるだろ? 気がねぇんだったら、あんまりぬか喜びさせないで欲しいんだよな」 「何の話ですか?」 「何の話って、だから……。まぁいいや。お前、どこまで帰るんだよ」 「新宿ですけど」 「よし、新宿だな」  大輔はポケットから小銭を出し、必死に断る学生のからだを押し退けながら、「いいって、いいって」と無理に切符を買って持たせた。強引に切符を握らされた学生は、仏頂面で礼を言うと、振り返りもせず改札を抜け、そのままホームへと姿を消した。  現場では相変らず運びものばかりをやらされていた。照り返しの厳しい場所での作業に疲れ果てた大輔が家へ戻ると、水槽のライトが今にも切れそうに点滅していた。 「これじゃ、魚たちが狂っちゃうよ」  大輔は慌ててライトのスイッチを切り、弁当箱を受け取る真実に、「光男は?」と尋ねた。 「そう言えば、部屋から出てこないわねぇ」  真実はそう答えると、「味噌汁、飲まなかったの?」と乱暴に弁当箱を振った。  つけっぱなしのテレビに目をやると、見覚えのある街並みが映っていた。一階がファミリーレストランになっているそのマンションの周辺に救急車やパトカーが停まり、ロープで仕切られた手前には、大勢の野次馬たちの後頭部が映っている。大輔はテレビの前に立ち、「おい、これ、隣の駅ん所じゃねぇか。なんかあったのか?」と台所の真実に声をかけた。 「やだ。知らないの? 託児所に男が立てこもってんのよ」 「託児所に? なんで?」 「知らないわよ」 「あんなとこに託児所なんてあったか?」  そう尋ねながら、大輔がテレビ画面を眺めていると、カメラが切り替わり、並んだ警官の前で背伸びして、中を覗こうとしている光男の顔が映った。 「あ!」  大輔は思わず画面を指差し、「お、おい! 光男が映ってるよ。光男光男!」と真実を呼んだ。慌てて台所から出てきた真実も、「やだ。ほんと。映ってる映ってる」とテレビ画面の光男の顔を指で押さえた。 「ピースとかしないでくれよ」と大輔は笑った。 「映ってるのに気づいてないわよ、これ」と真実も笑った。  しばらく見ていると、光男がカメラに背中を向け、他の野次馬たちを掻き分けるようにその場を離れた。 「あ、行っちゃったよ」 「せっかく映ってたのに」  真実はそう言うと台所へ戻った。大輔はそのままテレビの前に座り込み、現場中継するレポーターの声に耳を傾けた。  現場になっているファミリーレストランの前は、原付バイクで何度か通ったことがあったが、そのマンションの六階に託児所があるとは知らなかった。アナウンサーの説明によると、中では五人の幼児とベビーシッター二人が人質にされ、幼児のうち二人は、まだ一歳にも満たない赤ん坊だという。 「なぁ、立てこもってる犯人、どんな奴なんだよ?」  大輔がそう声をかけると、「託児所の上の階に住んでる男だって」と真実が答えた。 「上の階? 子供の泣き声でノイローゼにでもなったのかな」 「そうじゃないみたいよ。ほら、そのマンションの前に小さな児童公園があるじゃない。あそこで託児所の子供たちを遊ばせてると、休みの日なんか一緒に遊んであげたりしてたんだって」 「なんでそんなこと知ってんだよ」 「さっき、近所の人がインタビューに答えてたもん」 「なんでそんな奴が託児所に立てこもってんだよ?」 「知らないわよ」 「どうせ踏み込まれて捕まんのによ」  大輔はそう言い捨てて六畳間へ入った。小麦を抱き上げて頬ずりしようとすると、仕事帰りで汗臭いのか、「イヤァ」と小さな手で頬を押し返された。  なんだか、ひどく疲れていた。下がコンクリートの現場に半日いたせいで、顎の裏が日に灼けて痛かった。このまま畳に寝転んだら、二度と起き上がれないような気がした。早く小田桐のおやじさんの元で、大工らしい仕事がしたかった。芯もちの杉を足で踏みつけ、粗挽き鋸を撫でるように食い込ます。鋸を挽くたび、顎の先から汗が落ちる。辺りは自動鉋や運搬トラックの音で騒がしいはずなのに、耳には鋸の音しか聞こえない。材木と擦れ合うその音に、いつしか自分の息遣いが加わって、切断面に木屑が溢れる。自分のからだからも、何かが溢れ出てくる感触がする。それがなんなのか、大輔には分からない。みぞおちを伝う熱い汗。鋸を挽くたび飛散する汗。からだから汗が溢れ出るのか、汗から自分のからだが溢れ出るのか。ただ鋸を挽き、材木を切断するだけの世界。とても静かで、ひどく単調な動きの世界。材木を踏みつけ、鋸を挽く。また一つ、顎の先から世界が落ちる。  小麦と一緒に風呂に入って出てくると、テーブルに豆腐とおからのハンバーグが、小麦用のにんじんのとろとろがゆと並べて置いてあった。ベビーパウダーを塗られる小麦を横目で見ながら、大輔は乱暴にハンバーグを切り分け、歯ごたえのない「肉」を口へ突っ込んだ。  水槽のライトが消えたままだった。大輔は握っていた箸を置き、光男の部屋へライトの買い置きを取りに向かった。耳を澄ますと、テレビからではないサイレンの音が窓の外から微かに聞こえた。  光男の部屋には、真ん中にきちんと三つ折りにされた布団があった。大輔は押入れを開け、買い置きの水槽用ライトを捜したが見つからなかった。仕方なく、部屋を出ようと立ち上がると、ドアの内側に「大輔へ」と書かれた紙が貼ってあるのに気がついた。大輔はすぐにその紙を引《ひ》っ手繰《たく》った。 『本当に悪いと思ってる。でもここにいたんじゃ、お前が邪魔でおれは前に進めない』  紙にはそう書いてあった。もう一度、大輔はその文章を読み返した。そして、「なんだ、これ」と首を捻った。  半開きだったドアを押して、ベビーパウダーまみれの小麦が駆け込んできた。三つ折りにされた布団によじ登ろうとする小麦の尻を、大輔は紙を持ったまま足で押してやった。 「なにしてんのよ?」  後ろに、真実が立っていた。大輔は、「なんだ、これ?」と首を傾げながら、その紙を真実に渡した。そして、文章を目で追う真実に、「『お前が邪魔で』って、おれが邪魔ってことか?」と訊いた。 「光男くん、出て行ったんじゃないの」と真実が言った。 「なんで?」  大輔は思わずテレビの方へ戻ろうとして、「そうか、テレビの中にいたわけじゃないんだ」と思い直し、布団からずり落ちてくる小麦の尻を、もう一度足で押し戻してやった。そのとき、しばらく大輔の顔を見つめていた真実が、とつぜん「あ!」と叫んだ。 「な、なんだよ?」 「お金」  居間へ駆け戻った真実が、棚の引き出しを開け、「ほら、やっぱりない」と言う。  光男は、プーケット旅行に使おうと思っていた大輔のボーナス全額と、真実がへそくった五十万円まで持ち逃げしていた。念のために旅行社へ電話してみたが、予想通り金は振り込まれていなかった。  受話器を置く大輔の後ろで、「よっぽど行きたくなかったんじゃないの?」と真実が言う。 「どこへ?」 「プーケットよ」 「行きたくないからって、なにも金を持ち逃げすることねぇだろ?」 「それもそうねぇ……」  大輔はテーブルに置かれた原付バイクの鍵を握ると、玄関へ走り、「どこ行くのよ?」と訊く真実に、「捕まえに行くんだよ。さっきテレビに映ってたろ」と叫んだ。「もういないわよ」と呆れる真実を無視して、彼は玄関を飛び出した。  数年前、一人旅したというタイのコテージで、「丸一日何者かに監禁されたんだ」と言い張る光男の作り話を、大輔はまったく信じていないわけではなかった。光男は食あたりの下痢で、四日前からそのコテージに滞在していたという。何か口に入れると、すぐに下腹に差し込む痛みが走るような状態だった。すぐそこにある海さえ窓から見えない安い部屋で、夜になると波の音よりも椰子の葉の擦れ合う音で目が醒めたらしい。旅行中、他人に恨みを買うようなことはなかった。というよりも、ほとんど誰とも口などきかなかったのだと光男は言った。それなのに、五日目の朝、硬いベッドで目を醒ますと、頭に革のマスクを被せられ、足首を太い鎖で繋がれていた。半狂乱になった光男は、革マスクを取ろうとした。するとすぐそばからピシャリと鞭が飛んできた。「誰だ!」「なんだ!」「痛い!」「やめろ!」日本語でも英語でも叫んだらしい。しかし、何の反応もない。光男はまた革マスクを取ろうとした。するとまた、やはり鞭が飛んできて、細い鞭の痕が胸や腹に熱く残った。「何かの間違いだ」「あんたはおれを誰かと間違えている」光男がいくら語りかけても、見張り番は返事をしてくれない。もちろん何度もコテージから逃げ出そうと、玄関へ向かって走ったらしい。しかしそのたびに、鎖に足を取られて転倒するか、壁に激突して床へ叩きつけられるかのどちらかだった。革マスクさえ外そうとしなければ、鞭が飛んでくることもなく、部屋の中を走り回ろうが、叫び声を上げようが、案外自由にできたという。見張り番は物音一つ立てずに光男のそばにいた。光男はとつぜん拘束された恐怖よりも、見張り番がどこにいるのか、自分の前か、後ろか、右か、左か、その居場所が分からないことの方が不安だったらしい。あまりの不安から、光男は鞭で打たれるのを覚悟で、見張り番を捕らえようと試みた。両手を広げ、どこにいるか分からない見張り番を追いかけ回した。しかし両手は空を掴むだけ、壁に頭をぶつけて星は散るし、最後には鎖に絡まって、身動きできなくなってしまった。ただ、何の成果もなかったわけではない。光男が床に倒れて息を整えていると、たしかに自分のものではない、荒い鼻息が聞こえたという。見張り番も、光男に追われて、間違いなく部屋の中を逃げ回っていたわけだ。 「そこにいるんでしょ?」と光男は訊いた。 「返事さえしてくれれば、あんたの言う通りに何でもするよ」とさえ言った。  しかし見張り番は声を出さない。お互いの荒い鼻息が、ただ聞こえるだけだった。また下腹に痛みが走った。光男は「もうどうにでもなれ」という気持ちで立ち上がり、堂々と革マスクを外しにかかった。もちろんすぐにきつい鞭が飛んでくる。それでも光男は諦めなかった。打たれるたびに、その痛みに身を捩り、小躍りしながらマスクを引っ張る。途中から、鞭で打たれるから小躍りするのか、小躍りするから鞭打たれるのか分からなくなった。結局、足を滑らせて倒れた拍子にベッドの角で頭を打ち、光男はそのまま気を失った。次に目が覚めた時には、革マスクも鎖もなかった。その代わり、からだ中には鞭の痕があり、足首にも青い痣が残っていた。  話し終えると、「信じるか?」と光男は訊いた。「信じるわけねぇだろ」と大輔が笑うと、「そうだよな」と光男も笑い、話はそれで終わりになった。  光男の話はもちろん嘘に決まっている、と大輔は思う。ただ決まってはいるが、もしも誰か一人でも、その話を信じれば、それは本当の話になるんじゃないかとも思う。本当の作り話なんて矛盾している。そんなことは大輔にも分かる。ただ、矛盾なんか塩かけて食っちまえと、ふと思いたくなることもある。  結局、光男は見つからなかった。男が託児所に立てこもっている現場と駅の間を、大輔は何度か原付バイクで走り回った。テレビで見た時よりも、野次馬の数は増え、花火大会へ行く途中らしい浴衣姿のカップルも何組か混じっていた。大輔は野次馬の最後尾にバイクを止め、しばらくそのマンションを見上げた。周囲の騒がしさから身を守るように、窓にはカーテンが引かれ、中には誰もいないように見えた。前に立っていた年配の男たちが、「立てこもってるくせに、なんの要求もないってのが怖いんだよ」「しかし、こう包囲されたんじゃ、あとは時間の問題だよ」と、つまらなそうに語り合っていた。  光男捜しを諦めてマンションへ戻っても、大輔の苛立ちは収まらなかった。落ち着きなく居間と六畳間をうろつく彼をよそに、真実は早々と諦めてしまった様子で、「どうせ、光男くんのために使うつもりだったんでしょ? あのお金」と言う。テーブルには、さっき大輔が食べかけたままの状態で、豆腐とおからのハンバーグが残されていた。 「あげるのと、盗られるのじゃ、ぜんぜん話が別だろ」と大輔は怒鳴った。 「これ食べるの? レンジで温める?」 「そんなもんいらねぇよ。ちゃんとした肉のハンバーグ食わせろ!」 「私に当たることないでしょ! 持ち逃げしたのは光男くんなんだから」 「なぁ、ほんとに出て行ったのかな?」 「ご丁寧に書き置きまであったじゃない」 「でも、どこ行ったんだよ?」 「知らないわよ。そんなに心配なら、光男くんの似顔絵でも描いて電柱に貼れば? 迷子です。首輪はつけておりませんって」  大輔はテーブルに置かれたままの光男の書き置きを握り潰し、腹立ち紛れに水槽のガラスに投げつけた。ライトの消えた水槽を泳ぐ熱帯魚は、美しくもなんともなかった。からだからまた汗が噴き出した。テレビでは、相変わらず動きのない「託児所立てこもり事件」の中継に見切りをつけ、巨人対中日戦が始まっていた。  結局、大輔はハンバーグを温め直してもらい、ごはんを三杯もお代わりした。六畳間で小麦が腹ばいになり、熱心にお絵描きしている姿を眺めていると、なんとなくちょっかいを出したい気分になり、その脇腹を足の指でくすぐった。最初のうちはお絵描きに夢中だった小麦も、次第に苛々した顔で睨むようになり、とつぜんクレヨンを床に投げつけたかと思うと、「イヤァ」と叫んで、大輔の足の親指を小さい手で鷲掴みした。小麦は今にも泣き出しそうだった。大輔は慌てて、「ごめんなちゃい。ごめんなちゃい」と、足の親指を曲げて謝ってみせた。  外で犬の鳴き声がした。どんなに耳を澄ませても、もうサイレンの音は聞こえなかった。網戸を開けると窓際に土だけが盛られた植木鉢が二つ並んでいる。 「大ちゃん、スイカ食べる?」  台所から真実の声がして、大輔は、「食べる」と答えて居間へ戻り、「お前、よく平気でいられるな」と改めて真実に尋ねた。 「心配しなくても、戻ってくるわよ」 「なんで、そう言えるんだよ?」 「なんとなくよ」 「戻ってこなかったら、どうすんだよ?」 「そん時はそん時よ」 「お前の、その諦めの早さ、どっからくるんだ?」 「私はほら、なんでも手元に置いときたがる人間じゃないもの」 「手元にない金、どうやって使うよ」 「お金じゃないでしょ? 光男くんのことでしょ?」  種の多いスイカだった。真っ赤な果肉に、黒光りした種が埋まっていた。大輔は小麦を膝にのせ、種のない部分を小さく千切って口に突っ込んだ。指先から垂れた果汁が、手首を伝い、肘に流れて痒かった。よく冷えたスイカで、熱い舌でとけてしまうほど熟れていた。「おなかこわすから、あんまり食べさせないでよ」と真実に注意され、「小麦、おなか痛い痛いになっちゃうって」と、大輔は小麦の手からぐちゃぐちゃになったスイカのかけらを奪った。タオルで小麦の口元を拭いてやりながら、「なぁ、普通の夫婦って、こんな時、どんな話してんだろうな?」と大輔は訊いた。ふと頭に浮んだ疑問だった。「何よ、普通の夫婦って?」と真実が首を傾げるので、「だから、旦那と奥さんがいて、小さな娘がいるような」と大輔は言った。 「どんな話って、時と場合によるんじゃないの?」 「だから、こういう時だよ」 「こういう時って?」 「だから、みんなでスイカを食ってるような時」  真実は種をほじっていた長い指を止め、不思議そうに大輔を見た。 「『あ〜おいしい。よく冷えてるねぇ』なんて言ってんじゃないの。それで奥さんの方が『あんまり○○ちゃんに食べさせないでよ。おなかこわすから』とかなんとか言うと、旦那の方が、『おなか痛い痛いになっちゃうって』なんて言って娘からスイカを取り上げてるんじゃないの」 「なるほどな」 「普通の夫婦なんて、そんなもんよ。あと、ちょっと頭のイカれた旦那だったら、『なぁ、普通の夫婦ってのは、スイカを食べながらどんな会話をしてるんだろうな?』なんて訊いてるかもしれないけどね」  真実はまた種をほじりだし、大輔は三つ目のスイカに手を伸ばした。 「楽しいのかな? そんな話してて」彼はそう尋ね、スイカにかぶりついた。「今、楽しい?」と言いながら、真実が指で弾いた種が、うまい具合に大輔の顎に命中した。 「なぁ、真実」 「なに?」 「ちゃんと籍入れようぜ」  大輔は種が命中した顎を掻いていた。真実はその指先を見ていた。 「普通の夫婦は、そんな会話しないわよ」 「茶化すなよ」 「急にどうしたの? 光男くんがいなくなって心細くなった?」 「光男は関係ねぇよ」 「さっきの今じゃ、そうとしか考えられないじゃない。それにね、心配しなくても光男くんは戻ってくるって」 「だから光男とは関係ねぇんだよ」 「そう?」 「それに、小麦はどうすんだよ? 可哀相だぞ、父親がいないと」 「大ちゃんだってお父さんいないじゃない」 「あ、そうか。……でも、ちょっとはつらい時期あったんだぞ。それに、ほら、小麦は女の子だしよ」 「そんなの関係ありません」 「そうか?」 「そうよ」  大輔の膝で、いつの間にか小麦が重くなっていた。覗き込むと、長い睫《まつげ》をやわらかく閉じ、半開きの口から微かな寝息を漏らしている。 「私も小麦を連れて出て行くと思った?」と、真実が笑いながら訊くので、大輔は、「いや、思わない」と答えて立ち上がり、小麦を奥のベビーベッドへ運んで行った。「もう食べないんでしょ?」と背中に真実の声がした。「ああ、いらない」と彼は答えた。小麦をベビーベッドに寝かせていると、ふと、なんの根拠もないのに、真実がここから出て行ってしまうような強い予感がした。ただ、いくら考えても、真実がここから出て行く理由が見つからなかった。そして出て行く理由と同じように、出て行かない理由も見つからなかった。襖の向こうで、真実がテレビをつけた。いつも見ているバラエティー番組が始まる前の短いニュースで「託児所立てこもり事件」の続報を伝えているようだったが、逮捕されたのか、それともまだなのか、ボリュームが低いせいで大輔の耳には届かなかった。彼はじっと小麦を見下ろしていた。ここ以外の場所でも、こんな寝顔で眠るのだろうか。そう思うと、つい小麦を揺すり起してしまいそうだった。  翌日は三十五度を超える猛暑になった。昼からの半日、残材の整理で汗を絞り出された大輔が、萎んだからだで家へ戻り、玄関先でぐったりと靴を脱いでいると、小麦が神妙な顔で駆け出してきた。そして、「ただいまぁ」と頭を撫でる大輔の手を引っ張り、光男の部屋へ連れて行こうとする。「どうした?」と尋ねながら部屋へ入ると、「いないの」と小麦が言った。「そうだねぇ、いないねぇ」と、大輔は力なく答えたが、小麦は手を放そうとせず、いっそう強く彼の手を引っ張り、「いないの! いないの!」と今にも泣き出さんばかりの声で叫んだ。疲れたからだに、小麦の甲高い声は拷問だった。大輔は思わず、「光男はもう死んだの。死んだから帰ってこないの」と小麦の手を振り払ってしまった。 「へんなこと言うのやめてよ!」とすぐに真実が廊下をすっ飛んできた。「光男くんが戻った時、混乱するでしょ」と、脅える小麦を抱き上げた。 「冗談だよ、冗談。そんなヒステリー起すことないだろ、悪かったよ」  大輔は、これまで見たこともない真実の凄まじい形相に、少しおどおどして謝った。 「死ぬとか生きるってことを冗談で小麦に教えないで!」と、真実がますます顔を険しくする。 「だ、大丈夫だよ。まだ分からないって」 「分からないから、言ってんじゃない!」 「怒鳴ることねぇだろ。ほら、小麦がビビッてるじゃないか」  真実は思い切り大輔の向こう脛を蹴ると、プイと顔を背けて居間へ戻った。当たり所が悪く、大輔は思わず声を漏らして脛を摩った。そして、「いい気味よ」と笑う真実の背中に、「ちょっと待てよ! 元はと言えば、お前が光男を追い出したんだろ」と怒鳴った。痛む足を引き摺ってあとを追うと、小麦を六畳間へ下ろした真実が、腰に手を当てて振り返り、「なんで私のせいなのよ?」と、人を小馬鹿にした笑顔を向けてきた。 「お前のせいじゃなかったら、誰のせいだよ? おれのせいか? おれが何した? お前がねちねち厭味言うから出て行ったんだよ」 「厭味なんて言ってないわよ!」 「言ってたよ。一日中ゴロゴロされて迷惑だって言ってたろ? 光男が出て行ったのはお前のせいだよ」 「ああ、そう? 私はそうは思いません。大ちゃんが恩着せがましい態度で、『あれやれ、これやれ』ってこき使うから出て行ったのよ」 「おれがいつ、あいつに恩着せがましい態度とったよ?」 「へぇ、気づいてなかったの? そんなに鈍感な男だった?」 「おれのどこが鈍感だよ? ただ親切にしてやっただけじゃねぇか。人に親切にして何が悪い」 「言っときますけどね、人って大ちゃんが考えてるほど単純じゃないのよ。親切にされればされるだけ、身動きできなくなる人だっているの。それにもし、その親切にしてくれる人が淋しそうな人だったら……」  真実は、そこまで言って口を噤んだ。からだごと裏返しにされたようだった。「ちょ、ちょっと待てよ……」その、次の言葉が喉に詰まった。真実も何か言おうとしていたが、同じように、その次の言葉が喉に詰まっているようだった。  大輔はその場に居づらくなり、背中を向けて玄関へ向かった。「ちょ、ちょっと、どこ行くのよ?」という真実の声は彼の背中まで届いたが、振り返ったところで、何か言い返す気力がなかった。なんだかひどく馬鹿馬鹿しかった。居間へ戻り、真実と顔を見合わせて、大声で笑い出すことだってできたはずだ。しかし大輔は、そのまま玄関で靴を履き、振り返らずに家を出た。マンションの廊下を進み、階段を降りる前に玄関の方を振り返ると、何度もペンキを塗り直されたドアに、三人の名前が彫られた表札がかけられていた。駅前の印鑑屋でわざわざ彼が注文して作らせたものだった。大輔は降りかけた階段から足を戻し、やはり部屋へ戻ろうかと思った。今、出て行けば、もう二度と真実や小麦に会えない気がした。連日、夏日に痛めつけられるからだが、そう思わせるのかもしれなかった。  しかし、マンションの階段を駆け下りた大輔は、「なにが、身動きできなくなるだ!」と叫び原付バイクに跨った。「黙ってたってめしが食えて、寝る場所があって、そんな生活に馴れてるくせに、なにがこれから苦労したいと思いますだ」大輔は声に出してそう言った。ただ、そう言う大輔の脳裏に浮かんでいたのは、「今日はお前らにビッグニュースがあるんだ」とプーケットのパンフレットを差し出す、嬉しそうな自分の顔だった。  光男が大輔のマンションへふらっと現れたばかりの頃、二人でよく兄弟だった頃の話をした。 「覚えてるか? 大輔のおふくろさんが集めてた百円ライターのこと」と光男が訊くので、「百円ライター?」と大輔は首を捻った。 「ほら、おれや大輔に『いいこと』があると、一コずつ増えるライターだよ」 「ああ。集めてた。おれのが赤っぽいライターで、お前のが青っぽいライター」 「そうそう」 「なんでもいいんだよな。テストでいい点とったり、女の子にラブレターもらったり」 「そうそう。それで、おれと大輔で『いいこと』なんか何もないのに、あったって嘘ついて、どっちのライターが増えるか競争したろ?」 「した、した。おれなんか、わざわざ自分で自分にラブレター書いたり、一票も入ってねぇのに、学級委員に選ばれたんだけど断ったとか……」 「おれなんて、学校で育ててる鶏の卵を自分で孵《かえ》したなんて、わけの分かんないことまで言って自分のライター増やそうとしたよ。それでも大輔のおふくろさん、嬉しそうな顔して、箱の中にライター入れるんだよな」 「あれ、知ってたんだろうな? おれらの嘘だって」 「そりゃ知ってたさ」 「それでも良かったんだろうな」 「それでも良かったんだよ」  光男と光男の親父さんがいなくなると、母はライター集めをやめてしまった。大輔としても、相手のいないゲームに興味は湧かず、そのうち思春期に入ったこともあって、どんなにいいことがあっても、母親には報告しなくなってしまった。  コンビニの弁当を提げた人。携帯で喋りながら歩く人。駅から遠ざかるいろんな人の背中をスキー回転競技のポールに見立て、大輔は原付バイクをのろのろと走らせた。先生の家には、まだ顔を出したくなかった。先週、先生は真実を誘ってプーケット旅行のために新しい水着とトランクスを買いに行ったという。光男のせいで旅行に行けなくなったと告げに行くのは、ひどく気が重かった。しかし、他に行くべき場所もなかった。  先生の家の玄関には鍵がかかっていた。ガラス戸を叩くと、廊下の灯りが順番につき、近づくにつれ先生の影が大きくなった。戸を開けた先生は風呂上がりらしく、紺色の甚平を着て、濡れた白髪頭をバスタオルで拭きながら、「ちょうど良かった。今、電話しようと思ってたんだよ」と大輔を迎え入れた。  先生のあとについて廊下を歩いていると、「光男くんがいなくなったんだってね」と先生が言う。 「なんで知ってんですか?」 「昼間、真実ちゃんが来て、『光男くんがいなくなって、大ちゃんが落ち込んでる』って心配してたよ」 「別に、落ち込んじゃいませんよ」 「そうか?」 「そうですよ。あんなにやさしくしてやったのに、恩知らずな奴ですよ」 「やさしくしてやった、か?」  先生は、振り返って笑った。 「あいつだけじゃないですよ。真実にだって、小麦にだって、やさしくしてるじゃないですか? でしょ? そう思いませんか?」 「でもな、大輔くん……誰にでもやさしいっていうのは、誰にもやさしくないのと同じじゃないか?」  真実は、光男が金を持ち逃げし、旅行に行けなくなった事までは言っていないらしかった。リビングへ入ると、先生が、「あ、そうだそうだ」と珍しくテレビをつけた。何を見るのだろうかとテレビの方へ目を向けると、画面に「託児所立てこもり事件」の現場が映った。思わず大輔は、「嘘でしょ! まだ解決してないんですか、これ」と叫んだ。「もう丸一日たつじゃないですか?」 「そうなんだよ。人質が子供たちだから、警察も慎重にやってるんだろうけど……」 「こんなのさっさと踏み込んで、とっ捕まえりゃいいんですよ」 「そう簡単にもいかんだろ」  先生はそう呟くと、改めて大輔の方へ目を向け、「仕事の帰りか?」と訊いた。作業着から汗の臭いがしたのだろうと大輔は思った。 「うちに電話かけようとしてたんでしょ? なんか用だったんですか?」と尋ねると、「あ、そうなんだ。実は、例の旅行のことで」と先生が言う。 「あの、そのことなんですけどね……」  消え入るような大輔の声は、先生の耳には届かなかった。あまりにも先生の落胆がひどければ、棟梁に前借りしたっていいか、とさえ大輔は思った。そのとき、「実はね、ほら、清水くんを覚えてるだろ?」と先生が言った。 「清水くん? ああ、あのインドの神様みたいな」 「インドの神様?」 「あ、いえ……、覚えてますよ。この前、ここで会った学生でしょ?」 「そう、彼だ。実はね、彼と一緒にあるシンポジウムに参加することになったんだ」 「なんすか、そのシンポジウムって?」 「討論会のようなもんだ」 「まさか、それに参加するから、おれらと一緒にプーケットには行けないって言い出すんじゃないでしょうね?」 「そう睨まなくてもいいじゃないか。ちゃんと連れてってもらうよ。ただ、どうしても出発が二日遅れてしまうんだ」 「たった五泊六日の旅行ですよ。二日も遅れたんじゃ、残りがないじゃないですか!」 「だから、そう興奮しないで」 「こっちはずっと前から言ってたんですよ。あん時は、そんなもんに参加するなんて言ってなかったじゃないですか」 「いや、だから……」 「あ〜もう、面倒臭ぇ! 分かりましたよ。先生はおれらとプーケットに行くより、あの腑抜けた学生と討論してる方がいいんでしょ! それならそうと言ってくれりゃいいんだ。なにも、二日遅れてくるなんて、中途半端なことしなくても。どうぞ、どうぞ、お好きに乳繰り合ってて下さいよ」 「ひどいこと言うじゃないか!」 「ひでぇのは先生の方だろ」 「仕方がないじゃないか。たまたま日にちが重なったんだから」 「だって悔しいじゃないですか」  大輔はすでに玄関へ向かっていた。後ろから、「ちょっと待ちなさい。大輔くん!」と呼ぶ先生の声が追ってきた。腹立ち紛れに縁側のカーテンを蹴ると、ふわっと広がったカーテンに顔をすっぽりと覆われた。思わず大輔は、「あ〜、ちきしょう」と叫んでしまった。  乱暴に玄関を開けた。勢い余って、扉がレールから落ちそうだった。原付バイクに跨ると、汗をかいた股に作業ズボンがはりつき、内腿にエンジンの熱が伝わってきた。ハンドルにかけたヘルメットを被ろうとした時、煮えたぎったようなからだ中の血管に、とつぜん夜風が流れ込んだ。『そうだよ。どっちみち行けないじゃねぇか』と思った。『二日遅れて先生が行っても、肝心のおれたちはいないじゃねぇか』大輔は被ろうとしたヘルメットをハンドルに戻した。玄関はあけっ放しのままだった。  小犬を払うように靴を脱ぎ、ずかずかと足音高くリビングへ戻ると、先生がテレビに齧りついている。そっと後ろから覗き込むと、毛布に包まれた赤ちゃんを救急隊員が抱いている映像と共に、「赤ん坊が解放されました! 赤ん坊が一人、解放された模様です。先ほど情報にあった熱を出しているという赤ん坊でしょうか。赤ん坊が一人、解放されました! 今、隊員の手で、救急車へ運び込まれようとしています」と絶叫するアナウンサーの声が聞こえた。 「つ、捕まったんですか?」と、大輔は先生の肩に手を置いた。振り向いた先生が、「いや、まだだ。赤ん坊が一人、解放された」と興奮気味に言う。 「どうして、踏み込まねぇかな」と大輔は呟いた。 「そう簡単にはいかないよ」 「でも、そんな悠長なこと言ってるから、こんなに時間食ってんでしょ?」 「そりゃそうだが……しかしこの犯人も、かなり追いつめられてるよ」 「どうして?」 「ほら、赤ん坊を抱いてカーテンの隙間から外を窺う回数が多くなったろ?」 「あ、ほんとだ」 「しかし、まぁ、そろそろ無事保護されて一件落着するんじゃないかな」  先生と並んで現場の映像を見守っていると、カメラがマンションの全景映像に切り替わった。先生がテレビの前から離れてソファに戻ったので、大輔も同じように向かいのソファに腰を下した。 「怒って出て行ったんじゃなかったのか?」と先生が大輔を見て笑った。  縁側のガラス窓に、自分の姿が映っていた。大輔はぼんやりとその姿を眺めながら、「先生、実は光男の奴が、金を持ち逃げしちゃったんですよ」と呟いた。 「光男くんが金を?」 「そうなんですよ。プーケットの旅費も、真実がへそくってた金も全部持って」 「……そうか、それは知らなかった」  ふと、水槽を覗く光男の背中が頭に浮んだ。 「あの馬鹿、どこ行くつもりなんだろ? 黙っておれの所にいればいいもんを、あれっぽっちの金、持ち逃げして、どこで何やろうってんだろ?」  先生は何も答えずテレビの方へ視線を逸らした。画面にはさっき解放された赤ん坊が病院へ運び込まれる様子が映し出されていた。「この赤ん坊、大丈夫なのかな? 病気だったんでしょ?」と大輔が訊くと、先生はテレビの方へ顔を向けたまま、「光男くん、その金で芝居でもやるつもりなんじゃないか」と言う。 「芝居?」 「ほら、芝居をやりたがってるって、この前、話したろ」 「ああ……」 「その金を資金にして……」 「それにしたって、持ち逃げすることないでしょ?」 「よっぽどやりたかったのかもしれないよ」 「……どっかでやるつもりなんですかね?」  大輔が真顔でそう尋ねると、「冗談だよ、冗談。資金が出来たからって、そう簡単に芝居が打てるわけないじゃないか」と先生は笑った。  大輔も、「そうですよねぇ」と笑いながら、「芝居やるとなりゃ、劇場も借りなきゃならないし、役者もいるし、それに舞台にでかい門も建てなきゃならないですもんねぇ」と付け加えてソファを立った。「帰るのか?」と尋ねる先生に、「また来ますよ」と答えて玄関へ向かった。脱ぎ捨てた靴を捜していると、「もし困ってるのなら、少し用立てようか」と言いながら、先生がいつの間にか後ろに立っていた。大輔は、「旅行に行けなくなっただけで、別に困っちゃいませんよ」と答え、「じゃ、また来ます」と玄関を出た。  原付バイクに跨ると、急に作業着の汗が臭った。ふと、託児所に立てこもっている犯人も丸一日風呂に入ってねぇんだろうなぁ、と思った。そしてすぐ、エアコンをつけっぱなしで、部屋の中は寒いぐらいかもしれない、と思い直した。  先生の家を出ると、当てもなく原付バイクを走らせた。蘆花公園を一周し、環八へ出る。疾走する車に並んでスピードを上げると、作業ズボンがバタバタと鳴った。環八からまた公園脇へと左折した。大気の感じがまったく違った。肌に熱かった空気が、公園脇を走れば急にひんやりと肌に触れてきた。  大輔は原付バイクを公園の駐車場に乗り入れた。ヘルメットをとり、園内へ入ろうとすると、鉄杭の柵の脇に真っ赤なりんごの絵が描かれた真新しい段ボールが捨ててある。思い切り蹴り上げてみると、段ボールは空中で一回転し、蓋を開いた状態で地面に落ちた。  園内は真夏の匂いがした。芝生を踏むと、濡れた草が足首を舐めた。群青色の空に、樹の輪郭が黒くくっきりと浮かんでいる。太い樹の下を通りかけた時、頭上で葉の揺れる音がした。見上げると、ひとかけらの空も見えないほど、枝々に葉が密生している。大輔は首根っこが痛くなるまでからだを反らせた。そして、そのまま身動きできなくなってしまった。密生していたのは葉ではなかった。枝々を黒く覆っていたのは、鴉の大群だったのだ。一瞬、身を竦めたが、彼はすぐに背を伸ばし、枝々で眠る鴉たちの様子を観察し始めた。最近どこかで鴉のことを考えたような気がした。しばらくの間、思い出せずにいたが、その場から少し離れて、樹全体の様子を眺めた瞬間、時先生に「羅生門」というのは狐狸や鴉が棲み着いている門だと聞かされ、光男がやる舞台に建ててやる門には、どの辺に、何羽くらい鴉を配置しようかと考えたことを思い出した。  大輔は鴉の群がる目前の樹を、漠然と構想していた「羅生門」の舞台と重ね合わせた。その舞台では、雨宿りする下人の役を大輔自身が演じていた。襤褸《ぼろ》を纏い、飢え死にしそうな自分が、門の上で屍体の髪の毛を抜く老婆を見つけ、蹴倒し、衣服を剥ぎ取ろうとする。完璧な演技のはずなのに、暗い客席から、「下人は腹が減ってるから追い剥ぎするんじゃない。よく考えてから演じてくれ」と怒鳴る声がする。眩しいライトを手で遮り、大輔は声のする方を見た。がらんとした客席の真ん中に、台本を持ち腕組みした光男の姿がある。 「腹が減ってるから、かっぱらうんだろ? これ売って食い物を買うんだよ」  大輔がそう言い返した瞬間、劇場のライトが一斉に消え、辺り一面真っ暗になる。  ふと我に返ると、目の前には鴉の群れがとまる樹があった。大輔はまた樹の下へ戻り、枝にとまった鴉を見上げた。羽をとじ、首を縮めた鴉たちは、街中でゴミを荒らしている時よりも小さく見えた。彼は樹を一周しながら、Tシャツを脱ぎ、それを丸めて作業ズボンの尻ポケットに突っ込んだ。汗ばんだ背中に、公園の空気は冷たかった。一番低い枝に鴉はとまっておらず、軽く背伸びをすれば手が届いた。しっかりとその枝を握り、右足を樹の幹の瘤にかける。枝にぶら下がり、二の腕に力を込めてからだを引き上げると、爪先が地面からふわっと浮いた。なるべく樹を揺らさないように、じりじりとからだを枝に寄せ、胸をつけて枝によじ登る。そのとき、何羽かの鴉が目を覚ましたようだった。大輔は息を呑んで、からだの動きを止めた。鴉たちに飛び立つ気配はなかった。枝に跨り、尻ポケットのTシャツを引き抜いた。枝の上に立てば、すぐそこにとまっている鴉に手が届きそうだった。枝の下で揺れる足を、慎重に引き上げる。そしてゆっくりと立ち上がり、手にしたTシャツを広げる。何度も何度も洗濯してすっかり色の褪せた赤いTシャツだった。大輔は右足で前の枝に踏み込んだ。体重で太い枝が大きく撓る。振動が樹全体に伝わって、頭上で鴉の群れが一斉に羽を広げる音がする。大輔はそのままの体勢で鴉がとまっている枝に倒れ込んだ。狙っていた鴉はちょうど胸の下にいた。鴉が大きく羽を広げる瞬間、大輔は赤いTシャツを必死に被せた。樹全体が大きく揺れた。腕の中で、捕われた鴉が濁った鳴き声を上げ、大輔がTシャツからはみ出た羽をもう一度包み直そうと体勢を変えた途端、バランスが崩れ、鴉を抱いたままの体勢で、からだが枝から落下した。落ちながら、大輔は腕に抱いた鴉を守るようにからだを捻った。濡れた芝生に横向きの姿勢で落ちた。肩をしたたかに打ち付けて、大輔は思わず「うっ」とうめいた。落ちた姿勢のまま上を見ると、まるで樹が膨らむように、鴉たちが空へ飛び立って行く。無数の羽音と共に、黒い輪郭が一気に崩れ、群青色の空へ黒い影が広がっていく。そのとき、また腕の中で鴉が暴れた。落ちた拍子に、黒いくちばしがTシャツからはみ出している。大輔は肩の痛みも忘れ、そのくちばしを鷲掴み、無理やりTシャツの中へ押し込んだ。鴉のくちばしは冷たくなかった。くちばしを押えれば、羽が広がる。羽を押えれば、脚で蹴られる。逃げようとする鴉を押える。その腕からくちばしが出る。大輔はすでに肩で息をしていた。やっとのことで覆い被さるように鴉を押え込むと、背中を丸めたまま深呼吸した。吐き出した息が、震える鴉の頭にかかった。  完全に呼吸が整うと、大輔は公園の入口に段ボールが捨ててあったことを思い出し、Tシャツで鴉を包んだまま、ゆっくりと立ち上がった。ふと頭上を見上げると、群青色の空に、すかすかになった枝々が黒々と伸びていた。  マンションの駐輪場へ原付バイクを乗り入れた時、ちょうど真実が階段を降りてきた。大輔はさっとバイクをUターンさせ、真実の前に横付けした。 「どこ行くんだよ?」  一瞬真実はとつぜん目の前に現れたバイクに驚いた様子だったが、すぐに大輔だと気づき、「捜しに来たのよ」と少し唇を尖らせた。 「誰を?」 「大ちゃんをよ」 「ここにいるよ」 「見れば分かるわよ。それより、どこ行ってたの? どうせ先生の家だろうと思って電話したら、一時間も前に帰ったって言うし……」  そのとき、大輔の足に挟まれた段ボールがガサガサと音を立てた。とっさに真実は階段の方へ飛び退いて、「な、何よ、それ」と脅えた目で段ボールを指差した。大輔はそんな真実の姿に思わず吹き出し、「鴉だよ、鴉」と笑った。 「か、か……」 「鴉だよ」 「わ、分かってるわよ」 「捕まえたんだよ」 「なんで?」  大輔が段ボールに触ろうとすると、「あ、開けないでよ!」と真実が悲鳴を上げた。 「大丈夫だよ。鴉だぞ」 「か、鴉でしょ? な、なんでそんなもん持ってくんのよ」  大輔は脅える真実の様子が可笑しくて、わざと蓋を開けるふりをした。大輔が段ボールに手を伸ばすと、真実が二、三段あとずさる。箱の中で羽を広げたらしく、バサバサと音を立て、けたたましい鳴き声をあげながら、くちばしで内側から段ボールを突つき始める。 「あ、暴れてるじゃないの! は、早く捨ててきなさいよ」 「大丈夫だって」 「何が大丈夫なのよ!」  大輔はバイクから降りると、十文字に重ねた蓋を押えながら、段ボールを階段下のコンクリートに降ろした。箱の中で逆さまになったのか、鳴き声がいっそう激しくなり、蓋を蹴りつける音がする。大輔は蓋が開かないように十文字の中心に足をのせ、「おれのこと捜してたんだろ? なんだよ、なんか用か?」と尋ねた。  真実は段ボールから目を逸らさずに、「み、光男くんが帰って来てんのよ」とおどおどと答えた。 「光男が?」 「そうよ。……ねぇ、早くどっかに持って行きなさいよ」 「あいつ、戻って来てんの?」 「だから、そう言ったでしょ!」 「なんで?」 「知らないわよ!」  大輔は段ボールを裏返し、きちんとガムテープで密封された方を上に向けると、「おい、逃げないように見ててくれよ」と言って階段を駆け上がり始めた。すぐに真実が、「嫌よ! ちょっと待ってよ。どうすんのよ、これ」と叫ぶ声が追ってきた。それでも彼は、「ちゃんと見てろよ!」と叫び返して、三階まで一気に階段を駆け上がった。  廊下を突っ切って玄関を開けると、バケツを持った光男が居間をすっと横切った。大輔は靴を脱ぎ捨てて居間へ飛び込んだ。水槽の前にしゃがみ込み、バケツの水に中和剤を入れている光男の背中がある。 「何やってんだよ?」 「水替え」 「違うよ。なんで戻って来たんだよ」  中和剤のキャップを締めながら、ゆっくりと光男が振り返る。 「なんだよ、あれっぽっちの金も持ち逃げできねぇのかよ」  大輔がそう言って笑うと、光男はその笑顔から逃れるように、またバケツの中へと視線を戻した。  目の前には再びバケツの水に中和剤を垂らす光男の背中があった。『親切にしてくれる人が、もしも淋しそうな人だったら……』といった真実の言葉が思い出された。大輔はその言葉を掻き消すように、「おい、水替えなんてあとでいいから、ちょっと来いよ」と大きな声を出し、無理やり光男の腕を引っ張った。 「な、なんだよ」 「鴉だよ、鴉」  大輔は玄関の方へ光男を引っ張りながら子供のようにはしゃいでみせた。 「鴉?」 「そう、鴉。……蘆花公園でさ、捕まえられるかなぁって試しに樹に登ったら、ほんとに捕まえちゃったんだよ。今、真実が見張ってる」  光男の背中を押して玄関を出ると、誰かが階段を駆け上がってくる音がした。大輔は慌てて光男のからだを押し退け階段の方へ走った。パタパタと草履を鳴らして昇ってきた真実が、「動き出した。動き出したのよ!」と顔を引き攣《つ》らせて大輔に抱き着いてくる。大輔はそのからだも振り払い、ほとんどいっぺんに飛び越えるような勢いで階段を駆け下りた。駆け下りながら、「ちゃんと見てろって言ったろ!」と叫んだ声は、今にも泣き出しそうに響いた。  一階へ着くと、ひっくり返った段ボールは、蓋が開き、鴉の姿はどこにもなかった。大輔はすぐに外へ飛び出し、暗い夜空を見渡した。しかし、どこにも飛んでいく鴉の姿は見当たらない。肩を落として振り返ると、階段に真実と光男が並んで立っていた。 「逃げちゃったじゃねぇか」と大輔は口を尖らせた。  階段に並んだ二人が何か言うのを待っていたが、二人はただじっと大輔を見ているだけで、その瞳の奥には少し脅えた色があった。 「なんだよ?」と大輔は尋ねた。 「怖い」と真実が言う。 「え?」 「その顔、怖い」  そう言って真実は階段を戻り始めた。その背中を光男が押しながら一緒に昇っていく。大輔は向けられた二つの背中に向かって何か言おうとした。しかし、その言葉が見つからなかった。ただ、そのまま二人のあとについて階段を昇る気がしなかった。  大輔は放置されたままの原付バイクに跨った。エンジンをかけると、二階の踊り場の窓から、「どこ行くのよ?」と真実が顔を出した。大輔はちらっと見上げ、「また捕まえに行くんだよ」と答えてマンションの門を飛び出した。  上京してきたばかりの頃、大輔は新宿の西口地下広場で人待ちしているお婆さんを見かけたことがある。そのお婆さんはきちんとした着物姿で、大きな円柱を背に立ち、恥ずかしそうにじっと自分の足元を見つめていた。その光景を見た瞬間、大輔は息が詰まるほどハッとした。恐ろしくて、膝が震えそうだった。お婆さんの首から「福永さち」と書かれた段ボール製の名札が、紐でぶらさげられていたのだ。  冷たい息子、意地悪な嫁、お婆さんの首に名札をぶらさげようとする、いろんな顔が浮かんで消えた。大輔はそのお婆さんに近寄った。なにも同情や親切心からではない。ただ、見ているのが恐ろしかった。お婆さんに何と話しかけたのかは覚えていない。気がつくと、大輔は無理やりお婆さんの首から段ボールの名札を奪い取ろうとしていた。お婆さんはひどく脅えて、「やめて下さい」と訴えた。大輔が「一緒に待ってますから」「ぼくが持ってますから」と懸命に説明しても、お婆さんは目に涙まで浮かべ、「お願い、やめて下さい」とその段ボールの名札を大輔に渡そうとしなかった。どうすればいいのか分からなかった。どうすれば自分が怪しい者ではないことを、このお婆さんに伝えられるのか分からなかった。  マンションを飛び出してきた大輔は、コンビニの前にバイクを止めた。店のライトに照らされる自分の顔が、バックミラーに映っていた。お婆さんの名札を奪い取ろうとしたあのとき、一体おれはどんな顔をしていたのだろうかと大輔は考えてみた。すると、烏帽子を被り、新宿駅を歩く自分の姿が浮かんだ。幅の広い作業ズボンも見方によれば昔の袴に似ていなくもない。  大輔はバイクを降りると、コンビニへ入った。別に買いたい物があるわけではなかった。もちろん蘆花公園へ戻り、また鴉を生け捕りにしようと考えているわけでもなかった。店内をぶらぶらと歩き回り、雑誌売場で何気なく一冊の雑誌を抜き取った。隣で立ち読みしている若い女が、ヘルメットを被ったままの大輔を、横目でちらっと見たようだった。大輔は雑誌を戻してレジの前へ行き、シュガーレスガムを一つ摘んだ。ふと横を見ると、幾色もの百円ライターが並んでいる。大輔は摘んだガムを元へ戻し、そこにあるすべてのライターを腕に抱えて、レジへ運んだ。店員が訝しげに、ヘルメット姿の彼を見た。  コンビニを出ると、目の前に夜間営業中の区営プールの照明が見えた。大輔は通りを横切りプールへと向かった。入口を抜けようとすると、監視員が、「もうすぐ閉まりますよ」と引き止める。大輔は、「ちょっと知り合いを捜すだけだから」と答えて中へ入ろうとした。監視員の座っているパイプ椅子にかけられた小型ラジオが、「託児所立てこもり事件」のニュースを伝えていた。大輔は足を止めたが、ボリュームが小さく聞き取れない。 「捕まったの?」と大輔は監視員に訊いてみた。 「え?」と監視員がTシャツについた染みを指で擦りながら顔をあげる。 「今、ラジオでなんか言ったろ?」 「ラジオ?」 「犯人、捕まったって?」 「さぁ」 「さぁって、聞いてたんだろ」 「つけてただけですよ……」  大輔はそれ以上訊くのをやめ、プールサイドへの階段を昇り始めた。後ろから、「あの、ほんとにもう閉まりますよ」と監視員が声をかけてきた。振り返ると、またTシャツについた染みを指で揉みしだいている。  プールにはほとんど人影がなかった。強い照明を浴びたプールの水面だけが、光を反射させて揺れている。大輔はプールサイドに立ち、その揺れる水面を見下ろした。反対側に立つ監視員が、じっと大輔を見つめていた。青いプールの水底では小さな光の輪が幾重にも重なっている。  大輔はコンビニの袋に手を突っ込み、百円ライターを鷲掴むと、空高く撒き散らした。色とりどりのライターが空中で強い照明を浴び、一つ一つ小さな水飛沫を上げてプールに落ちる。駆け寄ってくる監視員の姿が、横目にちらっと見えた。ふと、託児所に立てこもっていた犯人は、うまく逃げ遂《おお》せたんじゃないかと思った。足元に視線を戻すと、水に沈んだライターが、まるで生き返ったように、尾ひれを揺らし、水底を元気に泳ぎ回っていた。 [#改ページ]    グリンピース 「もう、どうでもいいじゃないか」と、僕は空き缶に書きつけた。少しだけ、楽になった気がした。  今度は、別の空き缶に「どうでもいいのか?」と書こうと思った。しかし、途中で黒いマジックがかすれてしまい、何度振っても再びインクは滲まなかった。  いつの間にか、僕はソファで眠り込んでしまったらしい。目が覚めた時、テーブルの上のコンビニ弁当が、すっかり冷たくなっていた。弁当を買いに出たのは、夜の十一時前だった。マンションから一番近いコンビニは、目の前にあるローソンなのだが、そこで深夜勤務のアルバイトをしている男を、僕はどうしても好きになれない。「いらっしゃいませ! またお越し下さいませ!」と、どんな客に対しても、ありがたそうに叫ぶのだ。たとえば、深夜三時にガム一つ買いに行ってもそいつは叫ぶ。奥でのんびりとマンガでも読んでいたくせに、レジまで出てきて「またお越し下さいませ!」と礼が言える、その無神経さが我慢ならない。  結局僕は歩いて五、六分かかるファミリーマートまで行き、弁当を買った。ビニール袋を提げて、マンションの前まで戻ってくると、玄関ホールから飛び出してきた若い男と危うくぶつかりそうになった。その瞬間、男がはめている旧ソビエト海軍製のダイバーウォッチが目に入った。昔からずっと欲しいと思っていたモデルだった。男は謝罪もせず、全速力で走って行った。アンバランスな組合せなのだが、男は腕時計をはめた手に、女物の白いハンドバッグを持っていた。  マンションの自動ドアを入って、エレベーターホールへ向かうと、運良く一階に停まっている。ボタンを押すと、すぐに扉が開いた。  開いたエレベーターの中に、ブラウスを破られた若い女が、腰を抜かしてしゃがみ込んでいた。女は僕を見上げるなり、いや、僕がぶら提げていたコンビニの弁当を見上げるなり、「あぁ」という溜息のような嗚咽を漏らした。殴られた形跡はなかった。ただ、首筋に痛々しい爪の跡が残っていた。  僕はエレベーターにゆっくりと乗り込んだ。女が言葉にならない声で、必死に何かを訴えようとする。さっきぶつかりそうになった若い男の、旧ソビエト海軍製のダイバーウォッチが目に浮かんだ。  何が言いたいのか、女は懸命に顎を震わせていた。  僕は無神経なものが好きではない。「またお越し下さいませ!」と叫ぶ店員とか、ぶつかりそうになっても謝らない男とか、そして何より化粧もせずに外出する女というのが、僕はどうしても我慢ならない。  エレベーターの中で、女はとうとう声を上げて泣き出していた。口紅を塗っていない唇が、カサカサに乾いていた。僕はできるだけ面倒臭そうな声で「何階ですか?」と聞いた。もちろん女は、一段と激しく泣き出した。  七階に着くまで、僕は一度も女の方を振り向かず、コンビニの弁当をぶらぶらと揺らし続けていた。  翌日、午後になるのを待って、僕は病院へ行った。  祖父を見舞うのは、今回が初めてではない。入院費を納めるために、月に二回はこの病院に通っている。ただ、病院に来ても毎回病室の祖父を見舞うわけではない。最後に祖父の顔を見たのは、もう三ヵ月も前のことだ。  その時、祖父は若い看護婦におむつを換えてもらっていた。見なかったふりをして、そのままドアを閉めようかと思ったが、運悪く祖父と目が合った。祖父は見るに忍びないほど、恥かしそうな顔をして、若い看護婦の前で足を広げていた。あの恥かしそうな表情を、僕はどうしても忘れられない。おそらく祖父は、あと数年で死を迎えるだろう。おむつではなく、死を受け入れなければならないその時、祖父がつい間違えて、あの恥かしそうな顔をしてしまうのではないかと、僕は今から心配している。  ナースセンターのカウンターで書類に記入していると、顔見知りの看護婦が、「もう病室の方へは行かれました?」と話しかけてきた。 「ええ、行ってきました」と、僕は平気で嘘をついた。 「今日はお元気だったでしょ?」 「そうですね。安心しました」  子供の頃から、僕の嘘には躊躇や後悔の微塵もない。蛇口を捻れば水が出るように、詰まりもせずに流れ出てくる。高校生の頃、こんな替え歌があるのを知った。 [#この行2字下げ]ヒトラーにゃ たったタマひとつ ゲーリングは二つ でも小さい ヒムラーも似たようなもの だが あわれ ゲッペルスはなにもない  ナチスを侮辱した『クワイ河マーチ』の替え歌と書かれてあったが、中でも「ヒトラーにゃたったタマひとつ」という箇所は、これが案外言い得て妙、事実に適合していたらしいのだ。睾丸欠如、睾丸不下降は、病因にはならないにしろ、次のような心理症状を招くことが多いと言われている。 『短気で過度に活動的。急に学習力、集中力を失う。時間と死について関心を持つ。自分を特別な人間だと思い込む。復讐の幻想……そして、嘘をつく』  そのとき僕は慌ててパンツの中に手を入れた。毎晩触っているくせに、こうはっきり言い切られると自信がなくなる。幸い、嘘つきだが、タマは二つあった。  この替え歌が載っていた本は、祖父の本棚に並んでいた。題名は忘れてしまったが、裏表紙にコーヒーカップの丸い跡が残っていたのは覚えている。  話しかけてきた看護婦は、僕が書類に記入するのを、最後まで眺めているつもりらしく、彼女をチラッと見上げると、白衣に醤油のシミらしき跡があった。僕の視線に気づいた彼女は、紺色のカーディガンでそれを隠した。 「今度の四階は完全看護ですから、ご家族の方も安心ですね」 「家族と言っても、僕しかいないですから」  この病院では、内側から鍵が開かない病室のことを、完全看護室と呼ぶらしい。 「でも、仙台にお父さんがいらっしゃるんでしょ?」 「母方の祖父なんですよ。だから、父とはあまり……それに父には新しい家族もありますし。ところで、いつ四階に?」 「明日にでも、すぐ移動できますよ」 「そうですか」 「ええ、これに記入さえしてもらえば」  書類を書き終え、しばらく看護婦と立ち話をした。看護婦は、頻りに僕のことを「身寄りの方」と呼んだ。そして「唯一の」という言葉を、嫌がらせのように付け足した。  僕は、「身寄り」という言葉を辞書で調べたことがある。そこには『いざという時、頼って行くことができる親類』と書かれてあった。続けて「老人」という言葉も調べてみた。 『人生の盛りを過ぎ、精神的にも肉体的にもかつてのたくましさの無くなった人』  どちらも、僕が期待していた解説ではなかった。僕は何を期待していたのだろうか?  看護婦と別れて、そのまま駐車場へ戻った。車に乗り込む時、チラッと祖父の病室を見上げてしまった。カーテンが揺れているような気がしたのだ。しかし、見上げた窓は、いつものように閉め切られたままだった。  こうやって祖父に会わず、病院から黙って去る時、僕は五年ローンで買ったこのローバー・ミニの助手席に「会ってやらなかった祖父」が座っているような気がしてならない。  病院からの帰り、僕はそのまま千里《ちさと》の家へと車を走らせた。彼女が住む荻窪の駅前には、ルミネとSEIYUが並んでいる。バスのロータリーがあって、ケンタッキーフライドチキンとドトールがある。もちろんマックとミスタードーナツも近くにあるし、カラオケボックスの入ったテナントビル、消費者金融の大きな看板だってある。たぶん隣駅の阿佐ヶ谷にだって、同じようなものがあると思う。京王線の桜上水にだって、小田急線の豪徳寺にだって……。要するに、千里が住む「カーサ荻窪」は、どこにでもある街に建っている。  車をアパートの前に停め、彼女の部屋へ向かった。玄関を開けてくれた彼女は開口一番「取ってきてくれた?」と、厳しい口調で聞いてきた。シャワーを浴びたばかりらしく、濡れた髪から甘い匂いがする。 「取ってくるって、何を?」  靴紐を解きながら、僕はわざと聞き返した。 「何をって、何度も頼んでるじゃない。伊勢丹に預けてある私の服! もう、いつになったら取ってきてくれるのよ」 「今度は忘れないって」 「この前もそう言ってた。今夜、着て行くつもりだったのに」  屈み込んだ僕の背中に必要以上の罵詈を浴びせてくるので、いい加減、うるさくなった僕は、「お前の服のことだけ考えてるわけにもいかないだろ! 病院に行ったり、俺だって大変なんだよ!」と怒鳴ってしまった。  最近僕は、こういう状況になると、何の廉恥もなく祖父のことを口にするようになっている。セックスをしたくない夜などは、ここぞとばかりに、弱り切った祖父の様子を嫌がるまで千里に聞かせる。 「ごめんなさい。直接ここに来たと思ってたから。おじいちゃんどうだった?」 「相変わらずだよ。俺だって行きたかないけど、顔を見せれば、やっぱ喜ぶし……」  彼女はいつものように、申し訳なさそうな顔をした。かと言って、一緒にお見舞いに行きたいと、これまで言ったことはない。  少し早めに千里のアパートを出て、鷹野たちと待ち合わせた原宿のスペイン料理店ドスガトスへ向かった。僕は、自分の友人に千里を会わせるのがあまり好きではない。しかし鷹野たちの誘いだけは断らないようにしている。  助手席に彼女を乗せて、順調に流れる青梅街道を走りながら、僕は彼女の長所を考えてみた。走っている最中には何も浮かばないのだが、信号で停まると不思議に浮かんでくる。  千里は子供のようなクシャミをする。「ヘプシュン」文字にするのは難しいが、だいたいこんな感じだと思う。付き合い始めた頃、僕はよく空き缶に「ヘプシュン」と書いて、一人で喜んでいた。千里は「今すごく楽しいの、お願い、会いに来て」というようなわがままを言う。「今すごく寂しいの、お願い、会いに来て」と言う女ならこれまでにもいたが、楽しいからすぐに会いに来い、と言ったのは千里が初めてだと思う。  山手通りとの交差点で、何気なく千里の方を見ると、偉そうに腕を組んだまま、小さな寝息を立てていた。たしかにその寝顔は可愛かったが、ドライブの最中、相手の長所を捜すようになったら付き合いも終わりだな、と冷静に感じてもいた。  僕はわざと急発進して、寝ている千里を起こしてやった。急発進に驚いた彼女が、宙で平泳ぎをするような格好をした。かなり面白かったが、僕は我慢して仏頂面をし続けた。  表参道のパーキングメーターに小銭を入れる時、千里が財布の小銭をこぼしてしまった。ポケットから手を出して拾ってやったが、すぐに手が冷たくなった。車の下にも、五百円玉が一枚転がっていったのは知っていたが、膝をついてまで拾ってやる気はなく、冷たくなった指で「ほら、そこにも」と指し示しただけだった。  ドスガトスに入ると、すでに鷹野と椿さんが仲良く席についていた。横に並んだ二人の前に、もちろん僕と千里が座る。図式としては、四枚のパズルがパチッと嵌まった感じなのだが、僕だけが今にも抜けそうな歯のように、一人グラグラしている。  椿さんはいつもハンカチを握っている。深い意味はないと思うが、どうも気になる。「久しぶりね」と僕に向ける笑顔にしても、友人に対するものではなく、何かを望んでいるように見えてならない。 「六本木の映画館でソフィア・ローレンの特集をやってるの知ってる?」  唐突な話題だったが、これは僕なりにかなり考え抜いたプランだった。 「古い映画なんでしょ? 退屈なんだもん」  予想通り、千里がそう答えた。 「俺たち、行ってもいいよな? 椿も行けるだろ?」  パエリアを小皿に取っていた鷹野の誘いに、椿さんは「うん、行きたい」と即答した。 「よし、決まりだ。何を観たい?『ひまわり』か『島の女』……『あゝ結婚』もやるみたいだけど」 「私『あゝ結婚』って観てみたいな。相手役、マストロヤンニだよね?」 「そうそう」  会話は僕の計画通りに進んだ。  たぶん今週、僕は椿さんと二人きりで『あゝ結婚』を観ることになると思う。なぜなら、どの映画の上映時間も、会社帰りの鷹野には間に合わないはずだからだ。鷹野はやさしさというものを勘違いしている男で、自分が行けないとしても、椿さんの楽しみまで奪うことはない。 「じゃ、時間を調べて……鷹野に連絡すればいいよな?」 「ああ。椿には俺が連絡するよ」  何も知らない鷹野が答えた。  四人でとる食事は、正直言って面白くもなんともなかった。どんなに手の込んだ料理が出てきても、その全ての手間が邪魔に思える。  ときどき、一緒にいて本当に楽しいのだろうか? と疑いたくなるカップルがいる。鷹野と椿さんがまさにそれで、ギャグを飛ばし合うわけでもなく、かと言って性的な匂いを搦め合っているわけでもない。あくまでも低いトーンで「この手長海老、美味しいよ」「ほんとね」と囁き合っているだけなのだ。いつまでも初めてのデートを繰り返している感じだ。そのくせ「彼の部屋の枕、柔らか過ぎるのよねぇ」なんて事を言ったりするものだから、やっぱりこいつらもやってるんだなぁ、と多少がっかりもする。と同時にベッドで寝ている椿さんの裸を想像してもいる。しかし、そういう甘美な想像に浸っている時に限って、横から千里が「うちの枕、ソバガラよ」などと口を挟んでくるのだ。  四人で食事をしている最中、少しでも会話の途中に沈黙ができると、たいてい僕か千里が話を始める。 「最近、中学生がナイフ持ってるって報道が多いでしょ? テレビでも新聞でも、ナイフ、ナイフって」 「まさか、お前も……」  千里と僕がこうやって話を始めると、鷹野と椿さんはわくわくした目で僕らを見る。漫才でも始めると思っているのだ。 「持ってないわよ。違うの、最近ね、そのせいだと思うんだけど、夢の中に出てくる人たちが、みんなナイフを持ってるのよ。道端で世間話しているおばさんとか、マクドナルドの店員なんかが『お飲み物は何にしますか?』ってナイフを持ったまま、普通に話しかけてくるの」  別に鷹野たちを笑わせなければならないという義務はない。ただ、どうしてもこの物静かな二人を前にすると、僕も千里もついその任務を負わされたような気になってしまうのだ。  食事が終わって、コーヒーが出てくると、珍しく鷹野から「最近、俺の同僚が失恋したんだ」と話題を提供してきた。この手の話題になると、千里は必ず身を乗り出して意見する。そんな千里を、僕は恥かしいと思っている。「誰かを本気で好きになったことがあれば、そんなことは言えないはずよ」なんてことを、平気で口にしてしまうのだ。  鷹野も椿さんも、千里がこの手の話を好きなことを知っている。知っているからこそ、わざと、いや、気を遣って食事の最中なんかに恋愛相談を始めてくれるのに、千里だけがそれに気づかず、真面目な顔で意見する。 「引き下がるべきじゃないわ。彼女だっていつか気がつくんだから」 「何に?」 「自分の隣に、彼がいないってことによ!」  僕は、千里の話を熱心に聞いてくれる椿さんに『こんな女、俺だって恥かしいと思っているんだ』と弁解したくて仕方ない。  その夜は青山の「φ」で一時近くまで飲んだ。珍しく酔った千里が、頻りに「今度うちで食事しようよ」と二人を誘っていた。僕がトイレへ行っている間に、勝手に日時を決めてしまったらしく、中華にするかイタリアンにするか、椿さんと二人で盛り上がっていた。  鷹野たちと別れ、僕は千里の部屋へ戻った。荻窪へ戻る青梅街道では、全ての信号に引っかかっているような気がして、つい千里に当たってしまった。 「あの二人って、ほんとに物静かなカップルだよね」 「お前が喋り過ぎるんだよ! 若手のお笑いみたいに、くっだらないことベラベラ」 「だって沈黙が続くと、私、首絞められてる気がするんだもん」 「俺はお前が喋り出すと、そんな気がするね」 「それ、どういう意味よ? 私にはお笑いのセンスがないってこと?」 「ああ、ないね」 「失礼ね。これでも学生の頃は文化祭のたびに友達と漫才やってドッカンドッカン笑わせてたんだから」 「へえ。そりゃ、さぞかしご両親も鼻が高かっただろうよ」  だいたい千里との口論は、爪切りを捜しているのに、綿棒が見つかってしまい、そのまま耳掃除を始めてしまうような感じで終わる。  結局その日千里の部屋に泊まった僕はやる気のない彼女を相手に一回半のセックスをして、いつもと同じく、彼女の太股にまだ硬いペニスを挟んで眠りこけた。  翌日は、昼近くまで眠ってしまった。慌てて路上駐車している車を見に行こうとすると、台所にいた千里が「もう動かしたよ」と声をかけてきた。千里のアパートの前は、ゴミの集積所になっており、曜日によってはボンネットに生ゴミを置かれるはめになる。 「動かしたって、お前、何時に起きたんだよ?」 「五時半。でも車を動かして、すぐベッドに戻ったから」 「お前また! パジャマのままで運転したんだろ?」 「だってわざわざ着替えることもないじゃない」 「今度、パジャマのまま外に出たら、恋人の縁、切るからな!」  彼女は返事もしないでトイレに入った。  千里は女のくせにアパートの一階に住んでいる。居間のサッシ戸を開けると、奥行三メートルほどの庭があり、今は殺風景なものだが、夏になるとキュウリやトマトを栽培し始める。もう二年続けて種蒔きを手伝っているが、僕には何が楽しいのか分からない。  部屋の暖房が利き過ぎていたので、サッシ戸を開けると、ゴミ袋が破られ、中身が辺りに散乱していた。どうも野良猫の仕業らしい。僕はトイレから戻った千里を手招きし、その惨状を見せてやった。 「またやられてる」 「お前、馬鹿か? ゴミの日だから車を動かしたんだろ。ついでに自分ちのゴミも捨ててくればいいんだよ」 「ゴミ袋、三枚も重ねておいたのに……」 「そういう努力をする前にだねぇ、溜めずにきちんと出せばいいだろ」 「だってねぇ、一人で暮らしてるんだから、二日でゴミ袋が一杯になるわけないでしょ……ゴミ袋だって、この部屋だって、鍋だって、茶碗だって、みんな二人用になってんのよ」  僕は顔を洗うために洗面所へ逃げた。いや、逃げるために洗面所で顔を洗った。  二時頃になって、千里がカレーを作り始めた。台所に立った千里の姿を、僕はいつものように手伝いもせず、ただなんとなく居間のソファから眺めていた。庭のゴミを片付けてやり、台所に立つ彼女の背中を眺めている自分の表情が、いつになくやさしいものだということを、僕自身気づいていたし、彼女の背中もそれを承知しているようだった。その時ふと、もしもこれが椿さんの背中だったら、僕は間違いなくあの鍋の中を覗きに行くだろうな、と思った。 「ねぇ、転職先決まりそうなの? その話ぜんぜんしないけど……」 「決まってれば話すさ……そういうことだよ」 「だって、そろそろ会社辞めて三ヵ月でしょ? いつも不思議に思ってるんだけど、生活費とかどうしてるわけ?」 「なんだよ、金貸してくれんの?」 「あれば貸すわよ……そういうことよ」  カレーの匂いが、居間に流れてくる。 「きのうね、椿さんに聞いてみたの。ほら、彼女、派遣会社に勤めてるから、そういうのに詳しいかなと思って」 「いつ、そんな話したんだよ?」 「草介がトイレに行ってる時。やっぱり難しいってよ。技術系じゃない、この歳での転職は」 「そんなこと聞いてくれって誰が頼んだよ」  僕はソファから立ち上がりかけていたが、とりあえず座り直した。 「あっ、そう言えば、きのう話してた映画の記事が、その雑誌に出てたよ。時間やなんかも書いてあったみたい」  テーブルの上にあった『Hanako』をぱらぱらと捲ってみた。置いてあれば自分も読むくせに、こんな雑誌を毎週買っているのかと思うと、段々腹が立ってくる。途中、くっついたまま離れようとしないページを思い切り引き千切り、映画の記事も見つけ出せぬまま立ち上がった。台所へ入って行くと、千里がグリンピースの缶をもって、缶切りを捜している。僕は千里の背後に廻り、その手から缶詰を奪い取った。千里は勘違いしたらしく、捜し当てた缶切りを僕に渡し、「鍋の中に入れないでよ。私、嫌いなんだから」と言いながら、おたまを握り、「ねぇ、子供の頃から好きなの?」と聞いてきた。僕は何も答えなかった 「グリンピースがのってないと、料理じゃないと思ってるでしょ?」 「………」 「しゅうまいみたいに、頭にのせとけば」  僕は千里を無視して缶を開け、そこから一粒つまみ出すと、「なぁ、なんで俺があの映画を観たいか、分かるか?」と千里のおでこにグリンピースを投げつけた。 「その、ソフィア・ローレンっていう女優が好きなんでしょ?」  グリンピースをぶつけられたおでこを、人差し指で掻きながら、千里は笑っていた。僕は缶の中からもう一粒取り出して、今度は思い切り千里の顔に投げつけた。一瞬にして彼女の顔色が変わった。一粒、また一粒、次第に投げる腕にも力が入り、つまみ出した何粒かが指の間でブチュと潰れる。千里の顔を逸れた粒が、冷蔵庫の扉でビチャッと潰れた。 「やめて! どうして? ねぇ、やめて!」  やっと本気だと悟った千里が、両手で顔を隠しながら床にしゃがみ込んだ。背後に立った僕は、蹲った千里の剥き出しの首筋めがけて、鷲掴みのグリンピースを投げつけた。バチッと皮膚が鳴り、千里は短い悲鳴を漏らした。  狭い台所に、グリンピースが散らばった。 「やめて!」と叫ぶ千里の声が、泣き声に変わっていた。僕は空き缶を思い切り壁に投げつけた。跳ね返ってきた空き缶が、派手な音を立てて床を転がり、蹲った千里の尻の下で止まる。  僕は声もかけずに、自分のカレーだけを皿についだ。千里は本当に怯えているらしく、顔さえ上げられずに床で体を震わせている。僕はカレーを持って居間へ戻り、あっという間にそのカレーを口の中に掻き込み、そして、すぐに台所へ戻ると、蹲った千里の体を跨いで、二杯目のカレーをよそった。もう一度、千里の体を跨いだ時、床に落ちているグリンピースを何粒か拾い、カレーの上にふりかけた。  二杯目のカレーを食っていると、とつぜん立ち上がった千里が、持っていたおたまを振りかざして襲ってきた。「出て行け! 出て行け!」と、しつこいほど叫び続ける。僕はそんな千里の体を床に押えつけ、「お前が出て行けよ」と耳元で嫌らしいほどゆっくり囁いた。 「大変なのは、あなただけじゃないんだから……みんないろんなことで悩んでるんだから」  彼女の口調からして、転職のことではなく、死にかけた祖父のことを言っているらしかった。  僕は押えつけた彼女の体を、玄関まで引き摺って行った。そして、脱ぎ散らかされた靴の上に彼女の体を投げ捨てた。すると、自力で起き上がった彼女が、なぜかしら靴の上で正座した。僕はポケットから取り出した車の鍵を、彼女の胸に投げ、「お前が出て行けよ! ほら、車やるから。二度と戻ってくるな!」と怒鳴った。  靴の上で呆然と正座していた千里が、荷物をまとめて、本当に出て行ったのは、僕が三杯目のカレーを食っている最中だった。  夜になっても、僕のローバー・ミニは戻ってこなかった。  シャワーを浴びたあと、ふと思いついて爪切りを捜した。たとえば鍋やフライパンなら、台所へ行けば見つかるし、枕ならベッドの上か押入れの中と、だいたい相場が決まっている。しかし、これが爪切りとなると話は別で、二年以上つき合っている彼女の部屋でも、そう簡単に見つけ出せるものではない。  結局、千里の部屋の爪切りは、テレビの上に堂々と置かれてあったのだが、鏡台を荒らしてみたり、タンスや押入れの箱という箱を引き摺り出したお陰で、部屋の中は足の踏み場もないほどになっていた。もしも今、千里が戻ってきたとしたら、きっと僕が逆上してやったと思うだろう。実際には、爪切りを捜していただけなのに。  ふとしたタイミングで、テレビの上に置いてある爪切りを発見した時、その「爪切り」は今にも噛みついてきそうな勢いで、僕のことを睨んでいた。前回、千里がいつ爪を切ったのか知らないが、その時以来、たぶんこの爪切りは、誰の手にも触れられず、そこでじっと出番を待っていたのだろう。どうせ爪しか切れませんから、という拗ねた態度で、テレビの上に鎮座していたに違いなかった。  僕はさっき飲んだ缶コーヒーに「千里へ さっきは悪かった」と書いてみた。書き終わってすぐに恥かしくなり、握り潰そうとしたのだが、そう簡単にスチール缶は潰せない。床に置いて、踵で踏みつけると、空き缶は靴の上で正座していた千里のような姿になった。  結局、朝刊が差し込まれる時刻になっても、千里は戻って来なかった。投げつけた時には、まさか自分で拾うはめになるとは思っていなかった台所の床のグリンピースを、僕は丁寧に一粒一粒拾い集めた。  もしかしたら、近所にいるかもしれない、という予感もあり、朝食を買いに行くついでにぶらぶらと歩き廻ってみたのだが、どの角を曲がっても、期待している景色は拝めなかった。  朝十時を過ぎた頃、電話が鳴った。てっきり千里からだと思った僕は、何の心構えもなく受話器をとった。しかし、電話は千里の会社からのものだった。咄嗟に口をついて出てきた嘘は、自分は千里の兄で、彼女は風邪で病院に行っているというものだった。もちろん、そんな都合のいい嘘は通用しない。千里の部下だと名乗る若い男が、「来てもらわないと困るんです。お願いですから、電話に出して下さい」と、今にも泣きそうな声で訴えてくる。 「だから、本当に病院なんですよ」 「本当に困るんです、だってこのプロジェクトの責任者なんですよ。責任者が会議に出られないなんて……」 「プ、プロジェクト? 責任者?」  僕は誰か別の人と間違えているのだと思い、「もしもし、ここ尾崎千里の家ですよ」と念を押した。 「知ってますよ。とにかく病院でも何でもいいですから、戻ったらすぐに連絡するよう言って下さい。もうすぐイタリアからのクライアントたちも到着するんですから」  男の声は、ほとんど悲鳴に近かった。  お茶くみ専門だと思っていた千里が、実はイタリアにクライアントを持つプロジェクトの責任者だと知らされて、僕は正直驚いた。 「分かりましたよ。戻ったら連絡させますから」  電話を切ったあとも、僕は騙されているような気がして、部屋の中を落ち着きなく行ったり来たりと歩き回った。  恋人だからと言って、なにも一から十まで相手のことを知りたいなんて思ってやしない。それこそ食品の成分表示じゃないが、添加物から保存料まで、何もかも表示されたら食欲だって失せてしまう。だからといって、賞味期限ぐらいは表示しておいてもらわないと、今日食おうが来年食おうが、自分の思い通りだと思ってしまう。  それにしても、僕らはこの二年の間、一体何を話してきたのか。  その後も、電話はひっきりなしに鳴ったが、二度と出なかった。午後になって、ぷっつりとかかってこなくなったところをみると、会議は責任者抜きで始まったらしい。もしかしたらと思い、千里の会社に電話をかけてみたのだが、やはり彼女は出勤していなかった。  自分の部屋に電話をかけ、留守電に何か入っていないか確かめてみた。メッセージは二件録音されていたが、どちらも千里からのものではなく、入っていたのは、先週面接を受けた外資系の保険会社から「今回は見送らせてもらいます」という不採用通知と、「今日暇か?」というダリルからの伝言だけだった。  ダリルと出会ったのは、三年前、アメリカへの一人旅から戻ったばかりの頃だった。当時、僕はサザエさん通りのある桜新町に住んでおり、駒沢公園へ行っては、退屈そうな外人を捜し歩いていた。旅行先のサンフランシスコの公園で、自分がどんな気持ちでイェーツの詩集なんかを読んでいたか、忘れていなかったのだ。  駒沢公園には花壇の並んだ広場があり、それを取り囲むようにベンチが備えつけられている。ダリルはそのベンチに座っていた。僕と同じ歳ぐらいの、体格のいい外人で、童顔のせいか話しかけやすそうに見えた。  異国の公園で一人読書をしているような外人に、寂しがっていない奴などいない、と固く信じ込んでいた当時の僕は、自転車を彼の前で止めると、「Can you speak Japanese?」と気軽に声をかけてやった。  ダリルは多少面食らった様子だったが、「ええ、まあ」と流暢な日本語で答えた。「ええ、まあ」という日本語が、どれくらい冷たい言葉なのか、初対面の外人に説明したって始まらない。僕は彼がどんな本を読んでいるのかと、無遠慮に覗き込んだ。 「日本語の勉強ですよ」と彼がいうので、てっきり「おはよう さようなら」とひらがなで書いてあるのだろうと思っていると、なんと「創価学会の自民党支持」と書かれてある。僕はたった今、口走ってしまった「Can you speak Japanese?」という拙い英文を、自転車の籠に入れて、すぐにでも逃げ出したい気持ちになった。  ダリルは日本の大手新聞社を一年で退職し、今は、ある女性参議院議員の秘書になるために勉強中なのだ、と完璧な日本語で僕に語った。  その日、ダリルとは残念ながら政治ではなく、サッカーの話で盛り上がった。話が高じて世田谷区のサッカーチームに一緒に入ったほどだ。二ヵ月くらいは、お互い真面目に練習に顔を出していたのだが、見かけによらずダリルの運動神経は鈍く、僕は僕でキャプテンの熱意が、どうも肌に合わなかったせいで、いつの間にか、練習の前日になると「明日は休むよ」と電話をかけ合う、仲の良い補欠同士になっていた。  相変わらず戻る気配のない千里を待ちながら、ビデオ屋から借りてきた『ワイルド・アット・ハート』を観る前に、ダリルの家へ電話をかけてみると、今夜下北沢で知り合いが芝居に出るから、一緒に行かないかと言う。「千里が家出中だから行けない」と断ったのだが、すでにチケットも買ってあるから頼む、としつこく誘ってきた。 「そんな元気ないんだよなぁ。嫌なことばっか続いてさ」 「なんで家出したの? 喧嘩?」 「いろいろあってねぇ。これから『ワイルド・アット・ハート』でも観て、気分転換しようと思ってたんだ」 「『ワイルド・アット・ハート』? 荒療治だねぇ」 「よくそんな日本語知ってるな」  結局、ダリルの誘いは断れなかった。もしかすると、僕がいない方が千里も帰ってきやすいかもしれないとも思った。  待ち合わせた下北沢の駅へ着くと、すでにダリルが待っていた。説明によれば、劇団員の殆どが外国からの留学生らしく、観客から与えられた言葉(題目)によって、その場で物語を作る即興劇なのだという。聞いただけで鳥肌が立った。  劇団員と同様、五十人ほどいる観客も大半が留学生らしかった。最前列に座った僕は、どうか指を差されませんように、と祈った。しかし、こういう祈りが神様に届いたためしがない。案の定、妖精の格好をしたブラジル人に指名され、スポットライトを浴びてしまった。 「言葉を下さい。私たち妖精が動き出せる力を下さい」  舞台で金縛りになっている妖精たちが、僕に詰め寄る。なにかしら言葉を与えれば、それをテーマに劇が始まるらしかった。僕は思いついたまま「逆立ち」と叫んでしまった。たぶん劇の主催者たちも「愛」だとか「夢」だとか、そういうオーソドックスな言葉を期待していたのだと思う。多少、天の邪鬼がいたとしても「地獄」ぐらいがいいとこだろうと。  舞台では、妖精たちの金縛りが、今や演技を越えたものになっていた。 「逆立ち」と名づけられた即興劇は、鑑賞に堪えられるものではなかった。  劇が終わった時には雪山で遭難していた気分だった。逃げるように会場を出て、ダリルの友人である小鴻《シアオホン》と三人で、メキシコ料理店に向かった。小鴻は赤ん坊のような肌をした女の子で、ダリルほど日本語に熟達していないせいか、二人は専ら英語で会話を弾ませていた。  コロナの瓶にライムを突っ込みながら、ダリルが「勉強のつもりで、これからは日本語で話しましょう」と小鴻に提案した。彼女は自信ありげに大きく頷き、「アノ、クドウサン、ゲンキデスカ?」とダリルに尋ねた。 「くどう?」 「ハイ。イッショニ、アサクサヘイキマシタ」  二人は共通の知り合いの話を始めたらしかった。 「ああ、セミナーで知り合ったあの工藤か」 「ソウデス」 「あいつなら、切った。一緒にいても面白くないし」 「き、切った?」  僕は思わず口を挟んでしまった。 「切ったなんて……そんな日本語、どこで覚えるの?」と尋ねると、「みんな使ってるよ」とダリルは笑った。  その後もダリルと小鴻は、タコスを食べながら、日本語の勉強を続けていたが、僕はどうも「切った」という言葉が気になって仕方なかった。途中、何度か席を立って、千里の家へ電話をかけてみたのだが、呼び出し音がむなしく続くだけだった。  ダリルたちと下北沢の駅で別れたあと、別に戻る必要もなかったが、僕は千里のアパートへ帰った。  千里のいない千里の部屋というのは、居心地が悪そうで、案外そうでもない。たとえば壁にかかっている彼女のコートや、テーブルに置かれた彼女のマニキュア、彼女のタンス、彼女のクッション、僕を取り囲んでいるのは、全て「彼女の」という言葉がつく物たちだ。そして現在、彼女だけがここにはいない。  こんな部屋で、僕が居心地の良さを感じるのはなぜか? まさか「彼女の僕」なんて甘ったるい感傷で、部屋の物たちと同化しているからではないと思う。僕はもう一度、部屋の中を見渡した。壁にかかっている僕の彼女のコート、テーブルに置かれた僕の彼女のマニキュア、そして「僕の」彼女が付き合っている男。  この部屋の中にも、千里と全く関係のないものが二つある。テーブルの上に置かれた缶コーヒーと、灰皿に溜まった吸い殻だ。この二つだけは、彼女が買ってきた物でもないし、彼女の手に触れられてもいない。僕がダリルたちと会いに出かけた時のまま、テーブルの上に置いてある。僕は、なぜかしら祖父のおむつを換えていた、若い看護婦の顔を思い出していた。  実は、千里にさえ話したことがないのだが、僕には祖父と暮らしていた時期がある。母方の祖父だったし、僕が小学生の頃、その母が亡くなって、年々付き合いは浅くなっていたのだが、高校をあと半年で卒業という時になって、とつぜん父が仙台へ転勤になった。大学の事もあり、もちろんついて行くわけにはいかなかった。本当は一人暮らしをしたかったのだが、学校から許可がおりなかった。その時、引き取ってくれたのが、一人で暮らしていた祖父だったのだ。  もう十年近く前のことだし、これと言って楽しい思い出もない。借家ではあったが、案外広い家だったので、一度も顔を合わせずに過ごす日の方が多かったと思う。玄関を入って廊下を通ると、いつも閉め切った祖父の部屋から、古いジャズが流れていたことを覚えている。たまに「遅かったな」と声をかけてくることもあったが、たいていはビリー・ホリデーを聴きながら眠ってしまっているらしかった。  祖父が初めて倒れたのは、僕がいよいよ来週からアパートを借りることになった、寒い冬の夜だった。いつものように最終電車で渋谷のバイト先から戻り、脱衣所で服を脱いで風呂場の磨りガラスを開けた。すると、タイルの上に祖父が真っ裸で倒れていたのだ。濃い湯気が、霧のように祖父の体を包んでいた。僕は慌てて抱き起こそうとした。しかし、まだ濡れたままの祖父の体はつるつる滑って、何度も僕の腕から抜け落ちた。それでも僕はだらりと垂れた祖父の腕を自分の首にかけ、柔らかい太ももを掴んで、どうにか立ち上がった。未だにあの皮膚の感触は、僕の肌に残っている。  冷たい廊下を引き摺って、祖父の体を居間まで運んだ。このまま床に寝かせておいてもいいのか、それとも、いつも使っている椅子に座らせるべきなのか、僕はかなり迷ったと思う。結局、僕は祖父を椅子に座らせることにした。両足を広げ、滑り落ちないように固定した。少しでも手を放すと、頭がガクンと後ろへのけ反った。  気が動転していたのだと思う。あの時僕は、自分のパンツを穿くのも忘れ、濡れた祖父の体を、一心にタオルで拭いてやった。そして、祖父の体に下着をつけ、靴下まで穿かせてから、やっと119番に電話をしたのだ。  戻ってこない千里の部屋で、置きっぱなしになっていた缶コーヒーを見て、どうして祖父のおむつを思い出したのかは分からない。僕はテーブルの上を片付け、冷蔵庫からワインを持ってきた。ついでに自分の部屋へ電話をかけ、留守電を再度確認してみた。しかし、千里からの連絡は入っておらず、一件だけ録音されてあったメッセージは、鷹野からのものだった。 「あの、話しておきたいことがあるんだ……電話をくれ」  相変わらず物静かなトーンで、いかにも訳ありげに喋っていたが、どうせ大した事ではないのだろう。しばらくの間、ワインを飲みながら履歴書を書いていた。すると、とつぜんビデオのスイッチが入り、何かを録画し始めた。僕は千里が帰ってきたような気がして、わざわざ玄関まで確かめに行った。もちろん千里の姿はない。  彼女がどんな番組をタイマー録画しているのか気になり、表示されたチャンネルをつけてみた。番組は「世界の車窓から」という短い紀行ものだった。画面に映る雪を被ったドイツの山々を眺めながら、僕は「連れて行ってなんかやるか!」と声に出して言っていた。  千里はその夜も戻らなかった。事件、事故、ワイドショーでよく見る陰惨な光景が、浮かんでは消えた。それでも結局、ソファで眠り込んでしまい、朝方慌てて池袋の自宅へ戻った。  この日、面接の予定があった。銀座にある船会社で、英語の試験さえ突破できれば、かなりの報酬が約束されていた。あまり期待してはいなかったが、いざ受けてみると、思いのほか問題がスラスラ解けた。  ありきたりな面接が終わり、新宿に着いたのは六時を少し過ぎた頃だ。地下鉄が新宿駅に到着し、ドアの前に待機していた僕は、真っ先にホームへ飛び出した。自分では誰よりも早く飛び出したつもりだったが、考えてみれば八輛編成の各車輛には、四つずつドアがついている。誰よりも早く飛び出したと思っている僕のような人間が、他にいてもおかしくはない。改札を抜けた時、今回も不採用だろうなと直感した。  JRへと向かう人の流れに逆らって、高野フルーツパーラーの階段から地上へ出ようとすると、三人の少女が横一列になって降りてきた。三人とも足首まであるロングコートを着ていたが、千里の買い物によくつき合わされる僕には、それが揃いも揃って安物だと分かる。高いヒールのついたブーツで武装された六本の足が、上がっていく僕を威嚇する。狭い階段なのだから、誰かしら道を譲ってくれないことには、僕の通る隙間がない。三人娘と擦れ違うまであと二メートル。伊勢丹の紙袋を覗き込んでいる少女たちは、僕の存在にすら気づいていない。  その場で立ち止まると、擦れ違う間際になって、やっと紙袋から顔を上げた三人が、憎らしいほど面倒臭そうな顔をして、一列になり僕の脇を擦り抜けていった。僕は瞬時に、この憎々しい三人娘に「ネタ美、ソネ美、ヒガ美」と、ぴったりなあだ名をつけてやった。  紀伊國屋の前で信号待ちをしていると、向かい側に見覚えのある男が立っていた。こっちに気づいている様子はないが、高そうなスーツケースをぶらぶらと揺らしているのは、間違いなく幼なじみの三上だった。このまま歩いて行けば、必ず三上に捕まってしまう。今では殆ど交遊のない高校時代の友人たちから「三上が司法試験に受かったらしい」という電話を、少なくともこの一年で三本は受けている。いったい三上は、何人に自慢の電話をかけたのだろうか?  信号が青に変わった。僕は後ろに立っていた少年に押されるような格好で、足を前に踏み出すしかなかった。予想通り、軽やかに片手を上げた三上が、微笑みながら近寄ってきた。  たとえば、集団から抜け出した一人のマラソンランナーが、ぐんぐんスピードを上げて、後方の集団を引き離す。その時、自らも苦しいはずの彼が、わざわざ振り返って「みんな、頑張れ、もう少しだ!」なんて言葉をかけたとする。沿道の観衆には、感動的な場面に映るかもしれない。しかし、置いて行かれた方にしてみれば「黙って走ってけよ」と思うのが本音だろう。そんな慎みのない言葉に、感動する観衆も観衆だし、それを思いやりだと勘違いしているからこの世はたちが悪い。  僕が三上を嫌いなのは、彼がまさにそういう言葉を平気でかけてくるランナーだからだ。  紀伊國屋の前でしばらく立ち話をしていると、「これからパーティーがあるんだけど、お前も来ないか?」と言い出した。 「俺はいいよ」 「来いよ。彼女いるんだろ? 呼んでもいいし、結構集まるみたいだから楽しいと思うけどな」  何度断っても、三上は聞く耳を持たなかった。結局、千里の代わりにダリルと小鴻を呼ぶことにした。電話をかけると、ダリルは大喜びで「すぐに行く」と答えた。僕と三上はタクシーを捕まえ、一足先にパークハイアットへ向かった。ホテルへ向かうタクシーの中で、三上がニヤニヤしながら電話をかけ始めた。 「……遅くなってもいいから、おいでよ。待ってるから」  どうやら女らしく、電話を切ったあとも、意味深な笑みを浮かべている。 「彼女か?」 「ははっ、違うよ。俺もそろそろいい歳だし、多少は自由にできる金も増えたしな」 「もしかして女子高生?」 「そういうこと」  前を走る三上が、ニッコリ微笑んで振り返ったところを、僕は想像していた。  ホテルの部屋には、すでに五、六人の男女が来ており、リビングとベッドルームに分れて、好き勝手に酒を飲んでいた。壁に枯葉をレイアウトしてあるリビングでは、スチュワーデスだと紹介された女が、先月行ったというギリシアのビデオを音を消したまま再生していた。いかにも素人が撮った映像だったが、どんなに画面がぶれたとしても、空と海の青さだけは、少しも揺らぐことはなかった。  ビデオを観ながら、しばらくそのスチュワーデスとシャンパンを飲んだ。いつの間にか、部屋の中には人が増えており、ダリルと小鴻が到着した時には、すでに二十人ほどに膨れ上がっていた。男たちは殆どが三上の仕事仲間らしく、それに伴われてやってくる女たちも、楽しむための準備を怠っていない。みんな見せるための服を着ているし、どこをとっても無理がない。  別に乾杯するわけでもなく、自然にパーティーは始まっていた。ダリルや小鴻は、それぞれ勝手に仲間を作って打ち解け合っていた。  横にいたスチュワーデスが、誘うように窓辺へ立ったので、僕もすぐにあとを追った。地上四十三階にある窓からは、東京の夜景が一望できた。眼下には渋滞した新宿の街が見える。彼女は、僕のことも弁護士だと思っているらしかった。 「歩いている人も、はっきり見えるのねぇ」  彼女が覗き込んだ場所を見ると、確かに駅へと向かう人々の姿が見えた。タクシーの運転手が、車を停めて公園の便所に駆け込む。横断歩道を信号無視して走っていく男がいる。  そのとき、地上にいるこれらの人間たちが、一斉にこのビルの壁をよじ登ってくるような気がした。砂糖に群がる蟻みたいに、他人の頭を蹴落としながら、みんながこのビルに登ってくるのだ。僕は寒気を感じて窓を離れた。  その時、三上が呼んだ女の子が現れた。小麦色によく灼けた可愛い女の子で、目にはブルーのコンタクトを入れていた。一斉に部屋中の男たちが彼女を見た。他の女たちに比べると、一見して鮮度の差を感じる。ダリルがすぐに僕の側へ飛んできて「あの女の子、三上さんの恋人?」と聞くので、僕はなんとなく三上を馬鹿にしてやりたくなり、これこれこういう関係だと説明してやった。その時、ダリルの横で熱心に僕の説明を聞いていた小鴻が「アア、売春婦デスネ」と言ってしまった。タイミングも悪かった。ちょうどかかっていた曲が終わったところで、小鴻の声が部屋中に響き渡ってしまったのだ。女の子をみんなに紹介していた三上も、その場をどう取り繕えばいいのか、途方に暮れた様子だった。 「ち、違う。あの……違うんだ、小鴻」  僕は慌てて叫んだ。 「ワタシ、マチガエタ? ミカミサンガ、オカネ、ハラウ、マチガイ?」 「いや、それは……」  窓辺に立っていた女が、堪え切れずに吹き出した。もう笑うしかないと思ったのだろう、女の子の肩を抱いていた三上も、無理に大声を出して笑い始めた。最悪なのは当の女の子で、黙って泣き出せば可愛いものを「売春婦なんかじゃないわよ。だって、だって私、女子高生よ!」と叫んでしまったのだ。  もう誰も止められなかった。次の曲が鳴り出すと共に、そこにいた二十人ほどが、一斉に腹を抱えて笑い始めていた。  女子高生が怒って帰ったあとも、僕はスチュワーデスと飲んでいた。彼女は一人暮らしをしているとのことだったが、敢えて場所は聞かなかった。代わりに、今までどんな街で暮らしたことがあるか聞いてみた。 「富ヶ谷に住んでたことがあるわ」 「いつ頃?」 「学生の頃。さっきの女の子より、もうちょっと大人だったかな」  僕は昔住んでいたそのアパートが現在どうなっているか、これから見に行こうよ、と誘ってみた。彼女はしばらく迷っていたが、当時の思い出が蘇ったのだろう、「近くに小さな喫茶店があったんだけど、まだあるかなぁ」と懐かしそうな顔をした。 「あったとしても、もう閉まってるかも」 「そこ、私が初めてバイトした場所なんだぁ。でも一週間で辞めちゃったから、その店の前を通る時はいつも走らなきゃいけなかったの」 「店の名前は?」 「忘れちゃった」  僕はダリルと小鴻に別れを告げ、彼女を部屋から連れ出した。車がなかったことに気づいたが、今更後戻りはできない。僕らはタクシーを使って富ヶ谷へ向かった。  喫茶店は花屋に変わっていた。ただ、彼女のアパートは明るい街灯に照らされて、昔のまま残っていた。この部屋に住んでたんだぁ、と彼女が指差した203号室の郵便受けには、「本間」と書かれた表札があった。 「男の人かな、女の人かな」 「行ってみる?」  本気で行く気などなかった。 「とつぜん行ったら迷惑でしょ?」 「とりあえず、玄関の前まで行ってみようよ」  僕は彼女の手を引いて階段を上がった。ポケットから出したばかりの彼女の手は、朝の枕のように温かく、そして柔らかだった。玄関の前に、ゴミ袋が口を開けたまま置いてあるところを見ると、本間というのは男らしい。僕は開いたままのゴミ袋の中から、もみくちゃにされた一枚の便箋を摘み出した。 「そんなことしたら悪いわよ」  彼女はそう言って逃げ出そうとしたが、僕は彼女の手を放さなかった。部屋の明かりはついていないようだった。 「さぁ、何が書いてあるでしょう? 遺書だったりして」 「もっとロマンチックなこと考えてよ。例えば、出せなかったラブレターとか」 「さて、どんな人でしょう……開けるよ」  僕は背中から抱きついて、彼女の顔の前でゆっくりとそれを開いた。小さかった紙の塊がだんだんと手足を伸ばしていく。広げた紙には、アニメのキャラクターらしい女戦士が描かれてあった。何度も描き直ししたらしく、胸の膨らみの線が、細い鉛筆で何重にもなっている。  彼女は「ねぇ、行きましょ」とだけ呟いて、僕の腕から体を離した。  井の頭通りへ出る途中に、一軒家を改造したBarを見つけ、しばらく二人でワインを飲んだ。たぶん彼女も、ここから渋谷の円山町がそう遠くないことも、そして、これが一夜だけだということも、分かっていたのだと思う。僕たちはお互い初体験が車の中だったという話で一時間も盛り上がった。閉店時間になってしまい、追い出されるように店を出た。飲んでばかりいたせいで、僕は空腹を感じていた。熱いラーメンを汁を飛ばしながら思い切り啜りたかった。 「これからどうする?」と聞く彼女に、僕は誠実そうな顔を作って「俺、実は結婚してるんだ」と言った。彼女はそれほど驚かず「私も同棲している彼がいるのよ」と笑顔で答えた。 「どうしよう、もう一軒どこかで飲もうか? 渋谷まで出てもいいし」  僕はそう言いながら、タクシーを捜すふりをした。彼女は「また今度にしない」と言って、本気でタクシーを捜し始めた。捕まえたタクシーに彼女が一人で乗り込み、「じゃ、また今度」と言ったところでドアが閉まった。  僕はしばらくその場に立ち、やっと現われたタクシーに乗り込むと、「この辺に旨いラーメン屋ないですかねぇ」と聞いていた。  その夜、千里のアパートへ戻って、玄関で鍵を差し込んだ瞬間、彼女がまだ戻っていないと分かった。なにも部屋の様子が外から見えたわけではない。鍵を差し込んだ時、スルッと穴に入ったのだ。もしもガチガチとぶつかりながら入っていれば、僕は彼女が帰ってきていると思って、部屋へ飛び込んだことだろう。  テレビをつけると、若い女たちが「いくらならヘアヌードになるか」と、コメディアン相手に、真剣な顔で話をしていた。  僕は先に服を脱いで、風呂にお湯が溜まる様子を、飽きもせずに眺めていた。お湯が半分くらい溜まったところで、ふと鷹野から電話をもらっていたことを思い出した。「あの、話しておきたいことがあるんだ……」と入っていた昨夜の留守電だ。根拠があるわけではなかったが、その話というのが三日も姿を見せない千里となにかしら関係があるような気がした。  腰にバスタオルを巻きつけ、鷹野に電話をかけた。 「もしもし、鷹野か? 話しておきたいことって何だ? 千里のことだろ?」  鷹野はすでに寝ていたようだったが、僕の声を聞いて、慌てて身を整える様子が受話器の向こうから伝わってきた。 「千里ちゃんから何か聞いたのか?」 「聞いてないから、お前に電話してるんだろ!」 「お、落ち着けよ。話すよ。正直に話すから……」  沈黙がやけに長く感じられた。 「……彼女は、千里ちゃんはお前のことが好きなんだよ。好きだからこそ、俺を誘って……断れなかった俺も悪い。でも、これだけは信じてくれ。彼女が俺と寝たのは、お前のことが好きだったからだ。俺は、ただ正直に話しておきたかったんだ。正直に、お前に謝っておきたかったんだ……」  ボソボソと語り始めた鷹野の話を聞いて、驚くよりも先に、完全に力が抜けてしまった。正直に、正直に……と鷹野は言うが、正直者なんて奴は、たいがい厚かましい奴と相場が決まっている。厚かましいからこそ、正直にもなれるのだ。 「……で、千里はどこ行ったんだよ?」 「あ、うん」 「お前と会ったあと、どこ行ったんだよ。まだ帰ってきてないぞ!」 「お、俺は止めたんだけど……」 「どこだよ?」 「浦安の……タツヤのところ」 「タツヤ? なんでタツヤのところなんか……」 「だから、それは……」 「お、おい、ちょっと待てよ。だってタツヤは……あいつ女が駄目じゃないか!」 「俺もそう言ったんだけど……」  僕は電話を叩き切った。千里は俺の友達全員とやるつもりなのか? グリンピースを投げつけられたくらいで、どうしてこんな行動に出るんだ! それにしてもタツヤに拒絶される千里の顔が目に浮かぶ。あいつは胸毛がないと駄目なんだぞ!  早速タツヤに電話をかけると、知らない男が出て、タツヤは外出中だと言う。一応、変な女が来ませんでしたか、と尋ねてみた。 「その子と一緒に外出したんだよ……もしかして、君が草介くん?」 「ええ、恥かしながら、そうなんです」 「九時ぐらいだったかなぁ、女同士で話してくるって出て行って、まだ戻ってないんだ」 「あの、そこに戻って来るんですかねぇ」 「さぁ?」 「そうですよねぇ、そんなこと知らないですよねぇ」  電話を切ろうとすると、タツヤが帰ってきたと男が言った。早速代わってもらったのだが、千里は相談する相手を間違えている。  千里とタツヤはデニーズで四時間も話していたらしい。お互いに恋愛談義が好きな者同士だ、よほど話も盛り上がったのだろう。その上、タツヤは「どうせやるなら、とことんやれ」と千里をけしかけた、と言う。どういうことだ? と僕が詰問すると、自分のアドレス帳をコピーして、僕の知り合いに丸印までつけて渡したと言うのだ。 「で、千里は?」 「そんなの知るか。順番まで決めてやったわけじゃないし」 「なぁ、そんなことして楽しいか?」 「お前こそ、女に暴力振るって楽しいか?」  電話はタツヤの方から一方的に切られた。  風呂に戻った僕は、タツヤと自分との共通の知り合いの顔を、一人一人思い描いてみた。浮かんでくるどの顔にも、情や理性の欠片も見えやしない。すでにバレた時の言い訳まで考えて、湿った指で、千里の髪を触るような奴らばかりだ。僕は握っていた石鹸を、思い切り壁に投げつけた。跳ね返ってきた石鹸が、狙ったように急所に当たった。 「おぅ」  自分の呻き声が情けなく「おぅおぅおぅ」と狼の真似をして誤魔化した。  翌朝、ふと思い立ち、電車ではなくわざわざバスを乗り継いで、祖父の病院へ見舞いに行った。荻窪から川崎の病院まで、バスで行くには、かなりの時間と綿密な下調べが必要だった。  病院の入口で缶コーヒーを買って、祖父のいる四階ではなく、まず三階の喫煙室へ向かった。タバコを吸っていると、看護婦が廊下を慌ただしく走って行くのが見えた。僕は置いてあった新聞で、その日の干潮時間を調べてみた。東京湾の干潮は13:30と出ていた。腕時計を見ると、すでに一時を廻っている。  タバコを揉み消した僕は、走って行く看護婦のあとを追った。病室には「面会謝絶」と書かれてあったが、看護婦の出入りが激しいせいか、ドアは開けっ放しになっていた。  僕は重い足取りで四階へ上がると、ナースセンターへ寄って、祖父の病室がどこか尋ねた。四階に移って見舞いに来るのは、もちろんこれが初めてだ。 「この廊下の突き当たりですよ」  と教えてくれたのは、かなり年配の看護婦で、僕の顔を繁々と見る。 「お孫さんでしょ? 一緒に暮らしてた」 「え、ええ。お世話になってます」 「二、三日前だったかしら、夜中に大きな声で笑っててねぇ」 「祖父がですか?」 「そうよ。隣の患者さんから苦情が来て、慌てて病室に行ってみたら、本当に大声でゲラゲラ笑ってるのよ」 「……?」  僕が顔色を変えると、彼女は「違うのよ」と手を大きく振った。 「寝てるのよ。夢を見てたんですって」 「夢見て、笑ってたんですか?」 「そうなの。だから『どんな夢を見てたんですか?』って聞いたのよ。そうしたら『孫が中国語で話しかけてくるんだよ』ですって」 「僕が中国語で?」 「そうなのよ。そう言いながら、また笑ってるの」  自分が中国語で祖父に話しかけている様子を思い浮かべてみた。確かに、大声で笑いたくもなる。  立ち去ろうとすると「お一人で面倒を看るのも大変ねぇ」と彼女がねぎらってくれた。  月に一度も会いに来ず、そのくせ毎月十八万円の年金だけは、律儀に貰っていることを世の中では面倒を看ると言うのだろうか?  長い廊下を祖父の病室へと向かう途中、足がふと止まった。夜中に笑っていたという祖父が、急に頼もしく思えたのだ。  結局僕は、この日も祖父の病室へは寄らず、病院をあとにした。  病院から、また千里の部屋へ戻った。部屋には空き缶が散乱していた。コーヒー、ペプシ、りらく茶、ポカリスエット……。僕は一日に何本くらい缶飲料を飲んでいるのだろうか。自動販売機で飲み物を買う時、僕はたいてい二本買ってしまう。烏龍茶とコーヒーだとか、炭酸飲料と果汁100%のオレンジジュースだとか。実際、二本とも飲んでしまうこともあれば、半分ずつ捨ててしまうこともある。  缶コーヒーのボタンを押す瞬間に『これを飲んだら、口の中が甘くなってすぐに烏龍茶が飲みたくなるな』と思うのは、僕以外にいないのだろうか? たかが一本120円ではあるし。  この前、ワイドショーを見ていたら『キレる子供たち』という特集で、缶ジュースばかり飲ませていると、苛々しやすい子供になると言っていたが、あれは大人にも当てはまるのだろうか?  一応、寝室や台所を調べてみたが、千里が戻った形跡はなかった。暖房がやっと利き始め、僕は服を脱ぎ捨て、裸のまま毛布に包まりソファに座った。テーブルの上に、空き缶の下敷になっている『Hanako』を見つけた。ソフィア・ローレン特集の記事があって、ふと椿さんの顔が浮かび、彼女の携帯に電話をかけた。  まだ仕事中のはずだが、彼女は電話に出た。彼女が観たいと言っていた『あゝ結婚』は、今日が最終日だと嘘をつくと、これから鷹野に連絡してみる、と言って電話を切ろうとする。僕は慌てて「今、外なんだ。とりあえず俺は観に行くけど……来れたら来て下さいよ。六時半頃から映画館の前で待ってる」と一方的に約束して電話を切った。  鷹野がこんな早い時間に会社を抜けられるわけがなかった。椿さんから連絡をもらった鷹野が、どう答えるだろうかと考えてみた。千里とのこともあるし、自分たちの関係に自信がなければ、椿さんを僕の元へは寄越さないだろう。椿さんが来れば、鷹野は僕を馬鹿にしている。逆に椿さんが来なければ、鷹野は千里を馬鹿にしている。  時計を見ると、すでに五時を廻っていた。シャワーを浴びて、そろそろ出かけないと六時半には間に合わなかった。  毛布をマントのように靡かせて浴室へ向かうと、玄関に千里が立っていた。田舎道に立っている自動販売機みたいな感じだった。 「荷物を取りに来ただけだから」 「………」 「荷物を取ったら、すぐに出ていくから」 「どうぞ。俺もシャワー浴びたら出かけるし」 「……い、言いたいことがあれば、言いなさいよ!」 「ないよ」  僕は千里を無視して、浴室に入った。扉を閉めた途端、急に心臓が高鳴った。洗面所の鏡に、毛布をマントにした自分の姿が映っていた。千里が本当に出て行ってしまうのか、しばらく聞き耳を立てていた。居間の方へは歩いて行った様子だったが、寝室のタンスを開ける気配はない。  元々、のんびりとシャワーを浴びる時間はなかったが、必要以上の速さで髪と体を洗った。バスタオルを巻いて浴室を出ると、ソファに千里が座っていた。 「まだいたのかよ?」 「ここ、私の家よ」  まるで、僕がシャワーを浴びている間に思い出したような言い方だった。さっきとは打って変わって威勢もいい。僕は巻いていたバスタオルを彼女の顔に投げつけ、「今、ここでフェラチオしたら許してやるよ」と言った。  彼女は濡れたバスタオルを顔から取り、ゆっくりとそれを畳み始めた。 「許してもらうことなんて、何もないわよ」 「あ、そう」 「い、言いたいことがあれば、言えばいいでしょ!」 「だから、ないって」  僕は脱ぎ捨ててあった服を拾い、彼女の目の前でゆっくりと着た。手持ち無沙汰の彼女はテーブルの空き缶を、チェスのように並べ替えていた。 「チェック!」 「え?」 「今、ファンタの缶を烏龍茶の横に置いただろ? 王手ってことだよ」  僕がそう言うと、千里は急に嬉しそうな顔になり「私が勝ったんでしょ?」と会話の糸口を見つけたように顔を上げた。僕はこれ以上ないほど冷ややかな目で、そんな彼女を一瞥した。 「俺、出かけるからさ。車の鍵、返してくれよ」 「私はどうするのよ?」 「そんなの、知るかよ。早く、鍵!」 「荷物を取ったら、私が出ていくんだから!」 「鍵!」  千里はしぶしぶバッグの中から、鍵を取り出した。いつの間につけたのか、猫の尻尾のような毛が、キーホルダーについていた。  結局鷹野は、僕のことを馬鹿にしていた。時間通りにやってきた椿さんは、妙に沈痛な面持ちだった。映画が終わって、西麻布のおでん屋に入った。椿さんは映画を観ている時も、そしておでん屋でガンモを食っている時でさえ、花柄のハンカチを握っている。 「なんでいつもハンカチ握ってるんですか?」  玉子にカラシをつけながら聞くと、彼女は「癖なのよ」と答えた。 「へぇ、そうなんだ」  返す言葉はこれしかない。もしもこれが千里なら「いつも茹で玉子を握ってるよりはいいでしょ」くらいのことは言ってくれると思う。だからと言って、ガンモを切り分けている椿さんの魅力が翳ってしまったわけではない。  あくまでも上品な彼女の前で、僕は生苺をジャムに変えようと必死になった。果肉を潰し、砂糖も混ぜ、煮詰める。彼女の唇から溢れる言葉を、甘く艶のあるものにしたかった。  僕は、お得意の「車の中での初体験」の話や、高校の頃、誰もいない美術室に女の子を連れ込み、無理やり服を脱がそうとした時の話を披露した。一向に興味を示さない椿さんに苛立ち、いつもなら、美術室に連れ込んだ女の子が服を脱いだところまでしか話さないのに、この時ばかりは、服を脱いだ女の子が、その後なんと言ったかまで話してしまった。  窓から差し込んでいた陽の感じを思うと、あれはまだ午前中だったのかもしれない。お互いに授業を抜け出していたのか、それとも何かの行事で自由な時間があったのか、とにかく、裸になった彼女の腹に生えていた産毛が、白い陽を浴びて濡れているように見えた。彼女は「見たかったんでしょ?」と言って、目を逸らす僕の前に悠然と立っていた。そして、「今度は、私の言うことを聞いてもらうわよ」と言い出したのだ。しかし、この後言った彼女の一言が、僕にはどうしても思い出せない。ペニスと言ったのか、それとも、あなたのモノと言ったのか。僕は言われた通りファスナーを開け、興奮したペニスを中から出して見せた。覚えているのは、天井を向いているペニスがなんとなく格好悪く思えて、何度も指で水平にしようとしていたことだ。その後、彼女が触ってきたような気もするし、ただ見ていただけのような気もする。  新しいビールが運ばれてきて、僕は話を中断した。チラッと横を見ると、椿さんが居心地の悪そうな顔で「ねぇ、そういう話するの止めましょうよ」ときっぱりと言った。僕は急に照れ臭くなり「これでも口説いているつもりなんだけどなぁ」と笑った。 「草介くんって、いつもそうやって茶化すのね」 「茶化してなんかないですよ」 「ねぇ、今日は真面目に話しましょうよ」 「いいですよ。真面目な話は大好物だし」 「千里ちゃんと彼のこと……私、聞いたの。きのう、彼から」 「鷹野から?」  煮詰めていたジャムの鍋を、とつぜん床に落としたような感じだった。僕は慌てて「こっちも負けないようにしないと」とふざけてみせた。しかし椿さんは、ニコリともしなかった。 「気持ちは複雑だけど……正直に話してくれた彼には感謝してるの」 「正直に……」 「そう、正直に。私だって四人の関係を壊したくないの。いい友達でいたいのよ」 「四人の関係?」 「草介くんと千里ちゃんも、もっと話し合うべきだと思う。正直に話し合えば、道は開けると思うの。どうして千里ちゃんが彼を誘ったのか、どうして家出をしなきゃならなかったのか、どうして喧嘩になったのか……」 「俺のじいさん、ジャズなんかを聴いてたんですよ……」 「また茶化そうとしてる!」 「……ビリー・ホリデーなんかを聴いてるから『じいさん、少しくらい意味分かるの?』って聞いたら、『分からないからいいんだ』って。『だから日本の歌は聴かないんだ』って言ってた」  椿さんはそれからもしばらく、千里の気持ちを考えろだとか、もっと大切にしてやるべきだと喋っていたが、その隣で僕は、金曜の夜だし早くしないとホテルが混むだろうな、とかなり焦り始めていた。  椿さんの話が一段落ついたようだったので、我慢の限界を感じてトイレへ向かった。我慢していたせいで小便の勢いもいい。便器の中にくだらぬ説教をする椿さんの顔が浮かんで、声を上げて笑ってしまった。丹念に手を洗いながら、作戦を変えるべきだなと思った。  その時、かなり酔っている若い男が、素面の女に支えられてトイレのドアを開けた。一人で歩き出した男に「本当に大丈夫?」と心配そうに女が声をかけている。僕はゲロでも吐かれたらたまらないと思い、慌てて外へ逃げ出した。女はじっとドアを押さえて立っていた。その心配そうな顔を見て、僕ははっと閃いた。今夜はこの手でいこう。  少し酔ったふりをしながら、テーブルに戻ると、なんと椿さんはすでに勘定を済ませていた。 「も、もう出るんですか?」 「うん。なんか気分悪くなっちゃって」  さすがに「俺のせい?」とは聞き返せなかった。  僕は電車で帰るという彼女を、吉祥寺まで送ると無理やり車に乗せた。しばらく黙り込んでいた椿さんが、六本木通りに入ったところで「二人きりで会うのは、これで最後にしましょう」と言った。結局椿さんには、初めからその気などなかったわけで、それなのに僕は、誘えば踊ってくれると思っていたし、誘われるのを待っているのだとさえ思っていた。こういう身勝手な勘違いほど、むなしいものはない。僕は車が吉祥寺に辿り着くまで「初めて会った時から好きだったんだ」などと、とにかく真実味がなくなるまで「好きだ、好きだ」と何度も繰り返すしかなかった。椿さんが重荷に感じているほど、僕はあなたのことが好きではない。それを彼女に伝えたくて「好きだ、好きだ」と、相手がその言葉自体を疑うまで言い続けていたわけだ。  車は五日市街道に入り、次第に吉祥寺へ近づいた。 「分かったわ。明日の約束は決めた通りに実行しましょう。四人のためだし、私たちのためにも、ここで会わなくなったら気まずくなると思うの」 「明日の約束?」 「千里ちゃんの部屋で、食事しようって決めてたじゃない」  椿さんは「分かったわ」と言ったが、一体何が分かっているのか、僕には見当もつかなかった。  吉祥寺の駅前で椿さんを降ろした。歩き出した彼女の背中を眺めながら、僕はふと思い出した。あの日、美術室で、腹の産毛を輝かせていた女の子がなんと言ったのかを。彼女はペニスでも、あなたのモノでもなく、ディックを見せて、と言ったのだ。そうだ。あの時僕は、必死に笑いを堪えていたのだ。どこで仕入れた言葉なのか知らないが、彼女はその突飛な言葉を、心の中に用意しておいたのだろう。「ディックを見せて」と言った彼女が、とにかく格好悪くて、僕は机の間を転げ廻りながら、「俺は外人じゃないっつうの」と、腹が捩れるほど笑っていたのだ。  何も考えずに環八との交差点を荻窪の方へ曲がっていた。100円パーキングを覗いて見たが、やはりその時間では空きがなかった。仕方なく、アパート前のゴミ集積所に車を停めた。  合鍵を使って入ってきた僕を見ても、千里は「おかえり」とも言わなかった。部屋の掃除をしたらしく、テーブルの上の空き缶も、すっかり片付けられていた。サッシ戸の前に空き缶のつまったゴミ袋があった。  千里はすでにパジャマに着替えていて、戻ってきた僕を見るなりパックを始めた。パックをしているから無表情なのか、それとも無表情を装いたいからパックなのか?  僕は台所からグラスと氷を持って来て、残っていたバーボンを注いだ。ソファに座っている彼女は、できるだけ僕を見ないようにしている。僕は彼女の前にあるテーブルをずらし、わざと彼女の目の前に胡座をかいて座ってやった。バーボンの入ったグラスが、お互いの唇に触れるくらいだ。 「あによ?」  パック中の彼女は、まともに発音できない。 「別に」 「言いだいごどがあどぅんだっだら、はっぎり言いださいよ」 「だからないよ」 「あだじは、あどぅのよ! やばほど、言いだいごどがあどぅの! 正直に、でんぶ言ってじまいだいの!」  僕はグラスのバーボンを飲み干し、「お前まで、正直に……かよ」とため息をついた。 「ぞうよ。わどぅい?」 「聞いてやってもいいけど、金、取るぞ。正直に何か言いたい奴は、これから金を払うことにしよう」 「いぐら?」  普通「どうして?」と聞き返すのが妥当な気がする。まさか僕も「いくら?」と聞き返されるとは思っていなかったので、金額までは考えていなかった。 「そりゃ、内容にもよるさ。重大なことを告白したい場合は高いし、そうでもない場合は安くしとくよ」  台所にナッツがあったのを思い出した僕は、考え込んでいる千里を置いて、その場を去った。まさか本気で自分の告白したい内容が、いくらぐらいなのか心配しているとは思えなかったが、頭を抱え込んでいるところを見ると、案外本気で財布の中身を心配しているようにも見えた。 「明日の晩、鷹野たちを呼ぶ約束したんだろ? 二人とも来るらしいぞ」  そう声をかけてみたが、千里は返事をしなかった。 「今まで通り、四人仲良くしたいんだとさ……二人で俺たちのこと笑いたいんだろうよ。どうせ、これまでだってお笑い担当だったんだから、今更気にする必要もないけどな。今日な、椿さんと二人で飲んでて『俺とやらない?』って誘ってみたんだけど、きっぱり断られたよ」 「………」 「あ、これも正直に言ったことになるよな? いくら払えばいい?」  そう言いながら、僕はあったはずの場所にないナッツに苛々してきた。中のスプーンが飛び出すほど、乱暴に引き出しを開けた。振り返ると、パックをしたまま涙をボロボロこぼしている千里が、上の棚を指差して立っていた。その棚を開けてみると、確かに捜していたナッツの缶があった。 「泣くんだったら、パック取れよ。みっともない」  ナッツの缶に手を伸ばした僕の背中に、千里が抱きついてきた。僕は取れないふりをして、しばらくそのままにしておいた。 「おい、離れてくれよ。俺、もう寝るから。お前パックの続きやるんだったら、寝室でやれ。こっち電気消すぞ」 「どごで寝どぅのよ?」 「ソファだよ」 「どうじで?」 「そんなの俺の勝手だろ」 「まぐらは?」 「いらないよ」  やけに聞き分け良く、寝室に入ろうとする千里に「夜中に毛布なんかかけたら、殺すからな!」と僕は怒鳴った。返事の代わりなのか、千里は乱暴に扉を閉めた。  しばらく寝室から音楽が聴こえていたが、僕はすぐに眠ってしまった。  どんな嘘をつくか、僕はそれで人を判断する。だから僕自身、みっともない嘘はつきたくない。  翌日、昼過ぎに起きた。ソファで寝たせいか背中が痛んだ。寝室を覗くと、千里はまだ眠っていた。昨夜眠れなかったのか、それともここ二、三日の疲れが出たのか。  ベッドに近寄ってみると、相変わらず頭が枕から落ちている。寝る時には、異常なほど枕の位置を気にするくせに、起きた時には枕に頭が乗っていたためしがない。 「起きろよ。買い物に行くぞ」  そう声をかけると、千里は何度か手足を伸ばしたり縮めたりしたあと、「まだ早いわよ。夕方でいいじゃない」と喉仏があるんじゃないかと思えるほど低い声で答えた。 「今夜は本格的にいくことにしたんだよ」  千里をベッドから引き摺り出し、顔を洗うように洗面所まで背中を押した。歯を磨きながらも、彼女は「ラッキーで買えばいいでしょ」と言い続けたが、僕は断固「いや、横浜の中華街まで材料を買いに行くんだ」と言い張った。「たかが酢豚でしょ? それに、どうせ私が作るんだし」と言う彼女に、「いや、今夜は俺が作る」と僕は宣言した。 「珍しいじゃない」  結局、千里は僕の意見に従うことになった。横浜までの道は、全く渋滞もなかったが、中華街で鶏ガラなどを捜していると、あっという間に時間が過ぎた。千里は「そこまで本格的にやらなくてもいいでしょう」と言いながら、すぐに喫茶店で休もうとした。文句ばっかり言っている千里が邪魔になり、ひとり喫茶店で待たせておいて、僕はひとりで全ての材料を買って歩いた。  帰りの車中、とつぜん千里が「おじいちゃんの病院ってこの辺なんでしょ?」と尋ねてきたので、「なんだよ、見舞いにでも行きたいのか?」と笑うと、「うっ……お金払うから正直に言っていい? あんまり行きたくない」と千里も笑った。  僕はなんとなく嬉しくなって「よし、じゃ行こう」と次の出口で高速を降りた。 「行きたくないって言ったのに、どうしてよ!」 「病人の顔を見たがるような奴は連れて来るなって、じいさんが言ってたから」  どうせ行くんだったら、花ぐらい持って行きたいと千里は言ったが、僕はさっき買った肉まんの方が喜ぶだろうと、彼女を止めた。  祖父の顔を見るのは、おそらく三ヵ月ぶりだった。病院のエレベーターを降りて、長い廊下を突き当たりまで歩いている途中、しばらく来なかったことを先に謝るべきか、それとも、千里を連れて来たことを自慢するべきかと迷った。だいたい祖父を見舞う時の第一声は「しばらく来れなくて悪かったね」だった。そう言うと、祖父は必ず「死ぬ時はどうせ一人だ。かまうもんか」と笑った。  病室のドアは閉まっていた。千里と並んでゆっくりとドアを開けた。病人独特の匂いがドアの向こうから溢れてくる。祖父の部屋は二人部屋だったが、手前のベッドは使われていなかった。  三ヵ月ぶりに見る祖父は、鼾《いびき》をかいて眠っていた。僕の背中ごしに覗き込んでいる千里が「やっぱり似てるわね」と言った。 「どこが?」 「鼻の形」 「俺、こんなに意地悪そうな鼻してるか?」  祖父に目を覚ます気配はなかった。それに起こすほどの用もない。持ってきた肉まんをどうしようか、と千里が聞くので、冷えても旨くないから持って帰ろうと答え、音を立てないように部屋を出た。廊下を戻る途中、買わなきゃよかったね、と言いながら、千里がポケットから缶コーヒーを三本出した。僕はふと思いついてナースセンターに寄り、看護婦に太いマジックを借りた。そして、千里と一緒にもう一度病室へ戻り、「孫参上」と書いた缶コーヒーを、祖父の枕元にそっと置いた。マジックを千里にも手渡すと、彼女は自分の缶コーヒーに「孫の恋人同行」と書いた。もう一本、缶があるので、何か書こうと思ったのだが、うまい文句が浮かばなかった。結局僕は、残った缶コーヒーをポケットに入れ、祖父を起こさないように部屋を出た。  鷹野と椿さんは、六時過ぎにやって来た。二人は台所で仲良く並んで料理する僕らに、安心した笑みを浮かべていた。灰汁《あく》を取った鶏ガラスープを、布濾ししているのを見て、「本格的だねぇ」と驚いている。  さすがに四人全員で台所に立つことは出来なかったので、たとえば僕がザーサイと豚肉のスープを作っている隣で、鷹野がネギを切ったりした。千里と椿さんは、寝室で化粧品を見せ合っていた。たぶん重い空気の中なのだろう。 「仲直りしたみたいだな?」  鷹野がネギを切りながら、笑いかけてきた。 「してないよ。お前が突っ込んだ女なんか、見てるだけで吐き気がするね」  僕の言葉に動揺したのか、鷹野が切るネギの幅が、より細くなる。 「冗談だよ。仲直りしたよ」 「……だよな。電話でも言ったけど、千里ちゃんは……」 「ああ、分かったから、喋らずに作れよ。不味い炒飯なんか食いたくないぞ」 「そうだな。……あっそう言えば、椿が今度四人で旅行にでも行かないかって」 「四人で?」 「ああ、安く取れる温泉があるんだって」 「なぁ、お前の彼女って馬鹿?」 「え?」  僕はしばらく鷹野の顔を眺め、ギリギリのところで「冗談だよ」と笑った。  寝室から出てきた千里を呼んで、豚肉に下味をつけるように命じた。肉は、三枚肉ではなく、わざわざ骨付き肉を買ってきていた。後ろに立ち、しばらく千里の手つきを監視していたのだが、どうもなじませ方が巧くない。 「もっと肉を握るようにギュッ、ギュッってやれよ」 「分かってるわよ」 「揚げる前に、余分な片栗粉は落とすんだぞ」  そう言い残すと、僕はビールを持って、居間へ戻った。台所に鷹野と千里が二人でいると思うと、やはり不愉快で、戻ろうかと思ったが、ちょうどその時、寝室から椿さんが出てきた。「安く取れる温泉ってどの辺ですか?」と声をかけると「鬼怒川の方なのよ。千里ちゃんも誘って行きましょうよ」と言う。僕は「温泉、いいねぇ」と言いながら、観たくもないテレビをつけた。  僕らのペースに合わせて、ゆっくりと作っていた鷹野と椿さんの炒飯は、もうすぐ出来上がりそうだった。台所で鷹野と二人きりになった時、どんな言葉をかけられたのかは知らないが、千里の殺気立っている様子を見ると、たぶん鷹野のことだ、「この前のことはなかったことにしよう」とかなんとか言ったに決まっている。それは千里の台詞であって、鷹野が言うべき台詞ではない。  野菜の油通しを始めた千里に「鷹野に何て言われた?」と聞くと「仲直りできて良かったねって言われたわ」とかなり憤慨していた。鷹野や椿さんが、人を傷つけないように生きていこうとしているのは分かる。ただ、傷つけないようにといたわられることに、一番傷つく人間だっているのだ。そういう意味では、たぶん千里も僕の仲間なのだと思う。 「ピーマンの色で加減見てやれよ」 「分かってるわよ」  鷹野と椿さんはテーブルをセットして、僕らの酢豚が出来るのを待っていた。中華鍋で調味料を合わせ、沸騰するのを待って水溶き片栗粉と植物油を垂らす。待ち構えていた千里が横からサッと野菜を入れると、甘い匂いが二人の間にゆっくり広がった。  全体をさっくりと混ぜ合わせたあと、ピーマンを一切れ味見してみた。酢が足りないのか、それとも砂糖が少なかったのか、思ったような味になっていなかった。千里にもタマネギを一切れ渡してみたが、どうやら彼女も僕と同じ意見らしい。  待ちくたびれた鷹野が「なぁ、そろそろできた?」と様子を見に来た。僕は鷹野の顔も見ないで、「味がいまいちなんだ。作り直すから、もうちょっと待てよ」と答えた。  材料なら腐るほど買ってある。 「こ、これから作り直すのか?」  鷹野の後ろから椿さんも顔を出し、「美味しそうな匂いじゃない。大丈夫よ、それで」と言った。理由は分からないが「大丈夫よ、それで」と言った椿さんの言葉が、妙に僕の癇に障った。 「いや、作り直す!」と僕は言った。 「なぁ、それで大丈夫だって。これから作り直したら時間かかるし……」と鷹野が言い、「そうよ。何もそんなにムキにならなくても……美味しそうじゃない」と椿さんも口をそろえる。  その時だ。横に立っていた千里が「この人が作り直すって言ってるんだから、作り直すの!」と叫んだのだ。  呆気にとられている鷹野たちの前で、僕は千里の怒声に背中を押されるようにして、出来損ないの酢豚を流しに捨てた。 「なにもかも初めから作り直す! 酢豚を作り直すぐらいで、ガタガタ言うな!」と僕は叫んだ。  鷹野と椿さんは、僕らの剣幕に驚いたのか、何も言わずに居間へ戻った。しばらくすると、鷹野が申し訳なさそうな顔で戻ってきて、「あのさ、今日はなんか様子が変だし、俺ら帰るよ。また今度、一緒に飯でも食いに行こうぜ」と言った。  僕は野菜を切っていたし、千里は肉の下ごしらえに忙しく、鷹野にかまっている暇などなかった。鷹野と椿さんが玄関を出て行ったあとも、僕らは一言も喋らず、黙々と肉を揚げたのだ。  絶妙な酸味と甘み、カリッとした肉の食感、艶やかな野菜の色合い。これぞ、酢豚の出来上がり。  僕は千里が差し出した大皿に、気分よく酢豚を盛った。 「よし、グリンピースとってくれ」 「……ないわよ」 「なんで?」 「ないものはないの。ダーツなら押入れにあるわよ」 「………」  大皿を抱えて居間へ戻ると、鷹野たちの炒飯が、テーブルの上ですっかり冷えていた。  ワインを開け、千里と二人でテーブルについた。「これどうする?」と千里が聞くので「手を抜いた炒飯なんか捨てろ、捨てろ」と言うと、千里は嬉しそうに皿ごとゴミ袋に捨ててしまった。 「よし! いただくか」 「あっ、ちょっと待って。今日は本格的にいくんでしょ? いい物を買ってきたのよ。奮発したんだから」  そう言って千里が取り出した紙袋の中には、チャイナドレスとカンフー着が入っていた。僕が材料を買い歩いている間に、中華街の雑貨屋で買ってきたらしい。僕らはすぐに衣装を替えた。カンフー着の赤い帯を締め、蛇拳のポーズを取る。チャイナドレスの千里が大きな扇をつかって舞ってみせる。  湯気の立つスープも、作り直した酢豚も、最高の出来だった。ただ、あまりにも大量に作り過ぎたせいで、両方ともかなり余ってしまった。それでもワインを飲み、ビールを飲み、これ以上先が見えないくらい気分は良かった。  テーブルには、ビールの空き缶が何本も並んだ。僕はマジックを取り出して、「これで好きなこと書いてみろよ、すっきりするから」と千里に渡した。  千里はしばらく空き缶を見つめてから「ごめんなさい」と書きつけた。 「何に対する、ごめんなさいだよ? まさか浮気したからじゃないだろうな?」と僕が尋ねると、「違うわよ。あんな男と浮気したから……ごめんなさいよ」と千里は言った。 「あいつら、もう家に着いたかな?」 「悪い人たちじゃないんだけどね」 「悪い奴じゃないから、手に負えないんだよ」  皿を片付け始めた千里を眺めながら、僕はこの部屋に大きな地図があったことを思い出した。僕が車に地図をのせていないのを知って、千里が縦横二メートル近い大東京地図を買ってきたのだ。もちろん、そんな大きな地図を、車で広げたら事故になる。皿を片付けた千里が風呂に入ると言うので、僕は一人で地図を捜し、部屋の中に広げようと思った。しかし、大き過ぎて広げられるスペースがない。  ふと思いつき、サッシ戸を開けてみた。冷たい風が部屋の中に吹き込んできた。外の砂利の敷いてある場所に広げてみると、大きな地図はぴたりと嵌まった。  僕はゴミ袋の中から缶コーヒーの空き缶を取り出し、自分の名前を書いて池袋に置いた。地図が大きいせいか、とても寂しそうに見える。次に千里と書いて荻窪に置いた。祖父の名前を書いたバドワイザーを川崎に置き、鷹野を三鷹に、椿さんを吉祥寺に置いた。地図の上の缶が増えてくると、段々賑やかになってくる。ダリルを駒沢、小鴻を成城に置く。  僕は、わざわざアドレス帳まで取り出して、自分の知り合いを次から次に空き缶に書き、彼らが住んでいる場所に置いていった。しばらくすると、各沿線に沿っていろいろな空き缶が並んだ。  風呂から出てきた千里が「何やってんのよ?」と聞くので「別に」と答えておいた。 「出すのはいいけど、ちゃんとゴミ袋に戻してよ」 「ああ、戻すよ」  僕は生返事をして立ち上がり、そのままにして風呂に入った。  その夜、酔った千里をベッドで抱いた。もっと熱くなれるかと思ったが、読んだ手紙をもう一度読み返すようなセックスだった。結局僕は、いつものように彼女の太股にペニスを挟んで眠ったわけだ。  翌朝、先に起きたのは僕だった。部屋の中がやけに冷たく、吐き出す息も白かった。枕から落ちている千里の寝顔を眺めながら「やっぱり無理だな」と僕は思った。彼女のパジャマ姿でさえ、他人に見られるのが嫌な男だ。そんな男がこのままうまくやっていけるわけがなかった。では、このまま別れてしまった方がいいのだろうか?  ベッドに千里を残して、居間へ向かった。ソファに座り、ぼんやりとタバコを二本吸った。千里の浮気を許してやることは、とても簡単なことに思えた。僕はテーブルの上にあった空き缶を掴み「許さない」と大きく書いてみた。しばらく、その空き缶を見つめていた。これが本当に正直な気持ちなのかどうか、僕は何度も何度も確かめた。本当に許さないのか? それとも、許さないふりをしているだけなのか?  考えた末、僕は財布から五百円玉を取り出した。そして「許さない」と書いた空き缶に、セロテープで貼りつけた。  しかしそこで、僕はとつぜん困ってしまった。許さないと結論を出したのはいいが、人を許さないとは、どういう風にすればいいのか? その方法が、いくら考えても浮かんでこないのだ。人を許すことならこれまでも何度かやってきた気がする。それなのに人を許さないと決めた時、何をどうすればいいのか、分からなかった。 「許さない」と書いた空き缶を、僕は手のひらで転がしていた。  しばらく休んでいたので、今日は休日出勤すると千里は言っていた。もうすぐ起き出してくるだろう。それまでに、どうにか答えを捜さなければ。  靴下を穿きながら、なにげなくテレビをつけた。驚いたことに、画面に映し出されたのは、一面銀世界の東京だった。新宿の高層ビルから郊外へと、街中が真っ白な雪に埋もれていた。上空を飛ぶヘリコプターの轟音が、画面の中から伝わってくる。 「奇麗ですねぇ、東京は一面の雪景色です」  女子アナが叫び声を上げていた。  僕はソファから立ち上がり、カーテンを開けてみた。サッシ戸の向こうに、朝陽を浴び、白く輝く雪があった。寒さも忘れ、僕はサッシ戸を開け放った。寝乱れたカンフー着が、冷たい風にはためいた。ふと足元を見下ろすと、地図の上に並べた空き缶が、白い雪に埋もれていた。 [#改ページ]    突  風  さっきから道が裏に、表に、まるでよじれたリボンのようにフロントガラスへ迫ってくる。道の上を走っているのか、それとも裏か──。暗い田舎の一本道では道端の自動販売機だけが目立ち、その光の中を車は突き抜ける。ハンドルを握る手が震えているのは、なにも怯えているからではないが、それ以外の理由も見つからない。  前を走るワゴン車が、ウインカーを出したり、ブレーキを踏んだり、曲がりたいのか、止まりたいのか、一向に決断する気配がない。新田はギアを落としアクセルを踏み込んだ。加速した車体は対向車線へ飛び出し、あっという間にワゴン車と並ぶ。すると今度は追い抜かせまいと速度を上げてくる。曲がりたいのでも、止まりたいのでもなく、ただ邪魔したかっただけかもしれない。ワゴン車の運転席に人影がない。まさか無人の暴走車でもあるまい。新田が軽くアクセルを踏み直すと、まるで紙屑が吹き飛ぶみたいに、ワゴン車はあっさりと後方へ退いてしまった。そのまま反対車線を突っ走る。対向車のライトはまったく見えない。気分良くウッドステアリングの感触を指で味わっていると、しばらく助手席で黙り込んでいた奥さんがクスッと笑うのが横目に見えた。新田はできるだけ運転席のシートを下げて乗る。そうすれば助手席の女の動きがよく見える。 「なんですか、今、笑ったでしょ?」 「別になんでもないんだけど、急におかしくなっちゃって」 「どうして?」 「ねぇ、新田くん。私に運転させてよ」 「え?」  急に奥さんが手を伸ばし、助手席からハンドルを握った。スピードを出していたせいで、車体が大きく右にそれる。 「危ないじゃないですか!」 「平気よ。アクセルとブレーキは新田くんに任せたわよ」  身を乗り出してきた奥さんの横顔は真剣そのもので、新田も面白半分にハンドルを任せた。 「もうすぐカーブですからね。ちゃんとハンドル切って下さいよ」  そう言った瞬間、対向車のライトが飛び込んできた。新田が慌ててハンドルを切る。激しいクラクションを浴び、間一髪、巨大なトラックが積み荷を揺らして、擦《こす》れんばかりに通り過ぎていった。  新田はハンドルと一緒に奥さんの手も握りしめていた。奥さんがハンドルから手を放し、大袈裟に深呼吸して目を丸くする。 「びっくりしたぁ」 「危ないなぁ。死ぬところでしたよ!」 「対向車線を走ってたからよ。ちゃんとこっちを走ってれば……」 「もういいから、おとなしくそこに座ってて下さい」  新田はさっきまで握っていた奥さんの指を捜すようにハンドルを握り直した。  信号で右折して、大きなカーブを曲がると、ライトに照らされた料金所が現れた。平日のこの時間、東京湾アクアラインを渡る車はほとんどいない。道幅が急に広がり、青信号のついた料金所へ吸い込まれるように入る。車体を料金所に横付けすると、愛想のいいおやじが顔を出し、「海ほたるで引き返されますか?」と妙なことを言った。 「は?」 「向こうへ渡るんですね?」 「え、ええ」 「いやね、海ほたるでUターンして来ることもできるから」 「そうですか」 「観光の人はほとんどそうねぇ」  おやじはなかなかチケットを渡そうとせず、無遠慮に車の中を覗き込んでくる。料金所のライトで奥さんの横顔が青白く見える。新田は奥さんのからだに覆い被さるようにして、おやじの手からチケットをひったくり窓を閉めた。 「奥さん、エアコンを切ってホロを上げましょうか?」 「え?」 「ホロを上げるんですよ。気持ちいいですよ。橋の上を走ると」  料金所脇の側道に車を停め、新田が留め具を外していると、「こんなオバサンを乗せて恥ずかしくない?」と奥さんが笑う。 「なに言ってんですか」  車に乗り込み、アクセルを踏んだ。道幅が急激に狭くなり、加速した車体がズンと沈む。ボンネットを駆け上がってくる風が見える。本道へ絞り出され、小さくなる料金所がルームミラーに映った。奥さんが振り返って木更津の夜景を眺め、風に乱れた髪を押さえて、また含み笑いを浮かべる。 「また笑ってる。何がそんなにおかしいんですか?」 「ねぇ、新田くん」 「なんですか?」 「私たち、笑い出したいのを無理に我慢してない?」 「え? どういう意味ですか?」 「今、笑い出しちゃえば、海ほたるでUターンして帰ることもできるんだって」 「……別におかしくないですけど」 「そーお?」 「もう帰りたいんですか?」  新田の問いに奥さんはなにも答えなかった。何気ない言葉のつもりが、沈黙をつくった。  まっすぐに延びた橋は、暗い東京湾に浮んだ「海ほたる」へ続いている。他に走っている車は見当たらない。道に引かれた白線だけが前から後ろへと流れていく。もしこの白線の角度がわずかに歪めば、道から外れて壁と交わり、車はそこに衝突する。シートベルトをしていない奥さんのからだは、フロントガラスをつき破り、血だらけになって転がるだろう。潰れたドアをこじ開けて、傷だらけで這い出たら、奥さんのからだを抱きよせて、乱れた髪を撫でてやり、血の泡を噴く奥さんの言葉を聞いてやろう。炎上する車の横で抱きしめて、歪んだ白線を恨んでやろう。      ◇  久しぶりに取れた長期の休暇を、マレーシアのランカウイ島でも、紹介してもらった川奈でのゴルフでもなく、千葉の九十九里へ一人で向かうことにしたのは、へんな「勘」が働いたからだ。新田は「勘」を信じる。ライオンの子ではないが、何度も崖から突き落とされ、傷だらけで這い上がってきた「勘」だけを。  休暇の直前になって、新田はランカウイ島の「ダタイ」をキャンセルした。同じ部署のチーフから預かっているパーティー・コーディネーターの女と一緒に行く予定だったのを、中止にしたと彼女に連絡もせず、車に乗って九十九里までやってきた。これといった計画もなかったが、ゴルフやアジアンリゾートより刺激的な休暇を過ごせそうな「勘」がした。  民宿のご主人に案内された部屋は、母屋から分離した小屋で、元々は子ども部屋として作られたらしかったが、結局子どもはできず、その代わり夏ごとにやってくるアルバイトに使わせているという話だった。  とつぜん車で乗りつけて、しばらく働かせてくれませんかと頼んだ新田を、ご主人はしばらくじろじろと眺めていた。 「やっぱり履歴書か何か必要ですか?」  なるべく好感を持たれるように溌剌とした声で新田が聞くと、「履歴書かぁ」としばらく考え込み、「……いらねぇな。それより今日から働けんのか?」と無愛想に言った。 「ええ、今日から」 「ほら、こんな海辺の民宿で住み込みのバイトしようなんて奴は、なにかと訳ありの人も多くてな、別にあんたがそうだなんて言ってるわけじゃねぇけど、とにかく、こっちとしては真面目に働いてさえくれりゃ、詮索する気もねぇし……」  ご主人はずっと咥《くわ》えていたタバコにやっと火をつけ、「だから、その代わりと言っちゃなんだけど、こっちもあんたのこと信用しないところもあるから。その辺で気を悪くしないでくれ」と、新田にもタバコを一本勧めた。 「大したことじゃねぇんだ。ほら、宿泊代のやり取りとか、そういった金銭的な仕事は俺がやるってことだ」  何もない小屋の中を見回す新田に、ご主人が押入れを開けて布団の在り処を教えてくれた。 「本当は女がいいんだけど、今から募集しても間に合わねぇし、ちょうど良かったんだ」 「あの、バイトは俺ひとりですか?」 「そうだよ。こんな小さい民宿、そう何人も雇えるわけねぇだろ」  ぶっきら棒なご主人の話によれば、つい四日前にも女子学生のバイトに逃げられたばかりで、「若い奴がとつぜん辞めることなんて珍しくないけどな」と口では言いながらも、かなり落ち込んでいるようだった。 「荷物は?」 「あ、車の中に入れときます」 「下着やパンツもか? 出し入れするのに面倒だろ?」  ご主人はそのまま小屋から出て行った。部屋の真ん中に突っ立っていると、背後でバタンと扉の閉まる音が聞こえた。 「一休みしたら、フロントの方に来てくれ」  外から聞こえたご主人の声は、すでに小屋からだいぶ離れていた。  畳の上に寝転りタバコに火をつけ、新田は天井に昇る煙を目で追った。十八やそこらの学生アルバイトならいざ知らず、ふらっとやってきた三十近い男をよくもこう不用心に雇えるものだ。こっちもあんたのことは信用しない。こっちもあっちも、あんたのことは信用しない、か。  小さな窓があって、夏雲が浮かんでいた。窓辺に立つと、ちょうど波が押し寄せてくるように、遠くから水平線が、海が、砂浜が迫り、五つ並んだ「海の家」では「貸ボート」「かき氷」と書かれた幟《のぼり》が激しい潮風になぶられている。外へタバコの灰を落とした時、ふと何者かの視線を感じた。見下ろせば、窓の真下に犬がいる。小屋の壁に身を擦りよせて、暑さにぐったりと蹲《うずく》まり、だらしなく舌を垂らして、こちらを不思議そうに見上げていた。 「なんだよ、犬か」  新田はつい声に出して呟いた。いったん目が合うと、犬は面倒臭そうに首を縮めて昼寝に戻った。繋がれた鎖の先、日の当たる場所に犬小屋があった。誰の仕業か、薄汚れた屋根に青いペンキで「バカ犬」と書かれている。文字自体ではなく、その青いペンキの色に新田はぞっとした。タバコの吸い殻を寝ている犬の顔に投げつけると、目元に当たって鼻先に落ち、犬はしばらく臭いを嗅いでから、のそのそと犬小屋の裏へ隠れてしまった。言われた通りにフロントへ戻ろうかと窓を閉めた途端、とつぜん犬が激しく吠えた。腹から絞り出すような吠え方で、首輪の鎖がジャリンジャリンと地面でしなる。なにごとかと窓を開けると、さっきまでおとなしかった犬が首輪を喉元に食い込ませ、歯を剥き出し、涎《よだれ》を垂らして、何者かを威嚇している。姿勢を低くしてガゥール、グゥールと血走った眼で唸っているのはいいが、どこを捜しても肝心な敵の姿が見当たらない。しばらく眺めていると、低いブロック塀の向こうをさっと動く女の背中が見えた。背中は一番手前まできて止まり、ブロック塀からゆっくりと顔が現れる。女は犬に吠えられおどおどしていた。新田に気づくと慌てて目を伏せ、また塀の裏に隠れてしまった。 「あの、……あのぉ」  いくら声をかけても、顔も出さなければ返事もしない。新田は仕方なく裸足のまま窓から飛び降りて、吠え悶える犬の頭を強く押さえつけた格好で、ブロック塀の裏を覗き込んだ。不思議なことに犬は女にしか吠えなかった。 「見ーつっけたぁ」  冗談交じりに声をかけたが、女の背中はピクリとも動かない。 「あの、どうしたんですか?」  今度は真面目に言ってみた。すると女が顔を上げ、照れ臭そうに生肉の入った皿を差し出す。歳はいっているが可愛らしい顔で、少し突き出た唇が日を浴びてキラッと光った。 「餌ですか?」  新田は皿を受け取って犬の鼻先に置いてやった。犬がしっぽを振って生肉に食らいつく。おとなしくなった犬の頭を撫でてやり、「怖がるから吠えるんですよ。犬は怖がる人間を怖がるから」と女の方を振り返った。  ブロック塀の向こうで女が立ち上がっていた。胸をはだけた赤いシャツの中の、夏日を浴びた濃い谷間の影がなんだかひんやり見える。もしも粘土で理想的な女のからだを創れと言われたら、間違いなくこんなからだを創るだろう。 「こ、こちらの奥さんですか?」 「え? あ、そう」  奥さんは瞬きの回数が多く、新田までつられて目をしばたたかせた。 「いつもこんなに吠えるんですか?」 「え?」 「いや、この犬」 「あ、ああ」  奥さんは犬がいつも吠えていたかというよりも、もっと重大なことを思い出そうとしているように見えた。  新田には年間購読している雑誌が四種類ある。【Esquire】【NATIONAL GEOGRAPHIC】【日経ビジネス】【PLAYBOY】どの雑誌もオフィス宛てに送られてくる。革命四十周年を迎えたキューバの写真であれ、高脂血症治療剤を開発した医薬品メーカーの広告であれ、気になったものは全て切り抜き、ジャンル別にスクラップする。同僚やアシスタントの女性には悪趣味だと非難されるが、【PLAYBOY】のヌードグラビアには必ず黒マジックで落書きをする。パメラ・アンダーソン、シンディ・クロフォード……、特に栗色の髪、栗色の瞳を持ったグラビアクィーンたちには、異常なほどの情熱で、乳首を黒く塗り潰し、尻に、乳房に、太股に、卑猥な言葉を書き綴る。 「あなた……」  とつぜん目の前の女に声をかけられ、新田は太陽が眩しかったことに気づいた。目を細めると、背後から照りつける太陽で、奥さんの髪が乱れて見える。 「あ、今日からここで働くことになった、新田です」 「新田さん」 「はい」  ふと気がつくと、塀を挟んでお互いの息がかかるくらいの場所に立っていた。自分から近づいたのか、それとも奥さんの方が寄ってきたのか、新田には分からなかった。  栗色の髪、栗色の瞳を持った女のからだに、特に執着するのには理由がある。おそらく十歳、いや玄関先に男たちが座っているのを見て、裏の藪に逃げたのだから、もう十一歳になっていたかもしれない。とにかく台所で怯えているだろう母親を置いて、マンション裏の藪に隠れた。何気なく足元の泥を掘っていると、一冊のポルノ雑誌が出てきた。ページの間にも泥が入り込み、いくら唾をつけて擦ってもきれいにならない。どのページも金髪碧眼のヌードで、ぺらぺらとページを捲ると、中から折りたたまれたポスターが落ちた。細長いポスターには栗色の髪、栗色の瞳を持ったはだかの女が黒塗りのメルセデスのボンネットで露わなポーズをとっていた。はじめ泥がついているのかと思った。女のからだのあちらこちらに、細かい文字でいろんな言葉が書いてあった。乳房には「ここをゆっくりとなめて唾でよごす」と書かれ、口の周りには「ここにつっこんで窒息させる」、腹には「メスブタ」とあり、手のひらや指の一本一本にまで「ここでにぎらせて、こすらせて」……他にも「アホ」だとか「バカ」だとか、とにかくからだのあちらこちらに、難しい漢字も含め様々な言葉が書かれていた。丁寧に一つ一つ読んでいると腰の辺りが重たくなり、膝を屈伸させてみたり、その場で足踏みをしてみたりしたが、むず痒さはおさまらなかった。樹々の間からマンションのベランダが見えた。玄関先に座り込んだ男たちが、ドアを蹴り破り、台所で怯えている母を殴っているのではないかと思うと、むず痒さはますます増した。  知らず知らずに太陽を直視していたのかもしれない。新田の目から涙がこぼれていた。こめかみの脈が音を立て頭痛もする。そのとき、目の前に立っている奥さんのからだがビクンと震えた。身震いというより、痙攣《けいれん》に近かった。飼い主には聞こえない遠い声に、耳を立てる犬のような──、とすぐに「おい!」と呼ぶご主人の声がした。ガラガラッと窓が開き、今度ははっきりした声で「おい!」と聞こえた。 「あ、俺を呼んでるんじゃないかな。さっきフロントへ来いって言ってたから」  新田が声のする方へ首を伸ばした時、ふっと奥さんの髪が頬に触れた。  母屋へ戻ろうとする奥さんの肩を掴もうと新田は手を伸ばした。しかし、ちょっとのところで届かなかった。すると、奥さんが急に足を止め、クルッと振り返って、「私、大ッ嫌い!」ととつぜん叫んだ。 「え?」  慌てる新田に、奥さんはもう一度「大ッ嫌い!」と叫んだ。  新田の足元で餌を食べ終わった犬が、また獰猛《どうもう》な唸り声を上げていた。  新田は民宿での仕事の要領を一日で掴んだ。学生の頃、清里のペンションで働いたことがあったし、客室も五つしかなかったから、ご主人と二人で分担すれば、前に通ったことのある道を久しぶりに通っているような感じで、道に迷うことはなかった。ご主人と厨房に並んで朝食や夕食を準備し、テーブルのセッティングをして客に食事をさせる。ときどき部屋のエアコンの調子が悪いなどと苦情を言いに来る客もあったが、たいていの客は一泊七千五百円という料金をわきまえた、おとなしく行儀のいい人たちで、てこずらされることはほとんどなかった。新田は毎年チーフのお供でシンガポールへ出張する。そのたびに、「ホテルというのはマゾだ。苛めれば苛めるほどサービスしてくれる」とチーフは笑うが、ここ民宿「海ほたる」では通用しない。客と口をきこうともしないご主人は、どう見ても苛められて喜ぶタイプじゃないし、元来無口な人らしく、仕事中に話しかけてくることも滅多になかった。  朝は、わざわざ小屋へ迎えにくるご主人に五時半に起こされ、布団をたたんでから、フロントへ向かう。すでに起きている客もいて、新聞はまだかと催促され、朝っぱらから顔を洗う暇もなく新聞を捜し客に渡して厨房へ入り、スクランブルだとか、目玉焼きだとか、客一人一人違う卵料理を作らなければならない。  初めての朝、新田はうんざりして、「どうして奥さんは手伝わないんですか?」と尋ねそうになって踏みとどまった。しかし厨房の流し台で顔を洗おうとして、「そんなところで顔を洗う奴がいるか!」とまるで子どもを叱りつけるようにご主人に怒鳴られ、ついカチンときて、「奥さんは手伝わないんですか?」と結局聞いてしまった。ご主人はチラッと睨みをきかせたあと、何も言わずにフランスパンを鷲掴みにし、乱暴に包丁で切り分けただけだった。  その朝、歯ブラシを取りに戻った新田は、小屋の窓を開け風を通した。外で犬が丸くなっていた。ところどころに毛の抜けた痕があり、よく見ればかなりの老犬らしかった。白いボウルに入った水に、黒い虫が腹を浮かべて死んでいた。「おい、起きろ」と声をかけても、老犬はピクリとも動かなかった。  洗面所で歯を磨き顔を洗って厨房へ戻った。「犬の餌はいいんですか?」とご主人に尋ねると、「ここが済んだら、俺が持っていく」とジャムを小皿にとり分ける手さえ休めない。  犬の死を知らされたのはその日の昼時で、泊り客たちは全員砂浜へ出ていた。ご主人と二人、厨房でタバコを吸っていると、「犬、死んでたよ」とご主人が言った。すぐに、歯を剥き出して吠えていた犬の様子と、血のしたたる生肉を差し出した奥さんの姿が重なったが、新田は敢えて何も言わずに「そうですか」とだけ呟いた。 「お前、先に二階へ上がって昼めし食ってろ。俺は犬を埋めてから行く」  力なく立ち上がったご主人が、そう言って裏口で草履を履く。 「手伝いますよ」  新田もすぐにタバコを消して、出て行くご主人のあとを追った。  いつの間に掘ったのか、中庭の隅に小さな穴があった。乾いた表面とは違い、黒々とした土が掘り返されている。新田は老犬のうしろ脚を持った。ご主人の膝の辺りで、犬の頭がだらりと垂れ、今にも千切れて地面にボトッと落ちそうだった。 「この犬、何歳くらいですか?」 「人間なら八十近いだろ。大往生だよ、大往生」 「昨日まで生肉に食らいついてたのに、分からないもんですねぇ」 「生肉?」 「ええ。奥さんが……」 「お前、あいつと会ったのか?」 「ええ。昨日、犬小屋の所で。餌をやるのを怖がってて、代わりに俺が……」  ご主人が急に犬の屍骸を穴に投げ、タイミングの遅れた新田の手でその屍骸が宙吊りになった。慌てて手を放すと、犬の屍骸は穴の中で丸まった。 「あいつ、なんか言ってたか?」 「え? あ、奥さんですか? 別に何も……」 「なんか言われても無視していいからな」  新品のシャベルでご主人が泥を掬《すく》い上げ、口を開いた犬の顔を真っ先に埋めた。  シャベルはご主人の分しかなかった。穴の横に置かれた「リサの墓」と書かれている薄い板を見て、この犬は雌犬だったのか、と新田は思った。埋まっていく屍骸を眺めていると、「二階へ上がって、先に昼めし食ってろ」とまたご主人が言った。  二階が夫婦の住居になっているのは知っていた。フロント横の階段にも、廊下と同じ安手のカーペットが敷かれ、踏むたびにミシッ、ミシッと心もとない音が立つ。白い壁には剥き出しの五寸釘が何本か打ち付けてあり、絵でも飾られていたのだろうが、今ではその五寸釘しか残っていない。階段を上り切るとカーペットが途切れるせいで、白木の廊下が皮を剥がれたように痛々しく見えた。突き当たりが夫婦のダイニングで、廊下の左右にも一つずつ部屋がある。新田は足を止めた。どの部屋にも扉がなかった。壁にぽっかりと穴だけがあり、よく見ると、毟《むし》りとられた蝶番《ちようつがい》の痕が木枠に残っている。左側の部屋を覗いてみた。八畳の和室で奇麗に整頓され、隅に古い箪笥が一つ置いてある。歩を進めて右側の部屋を覗くと、巨大なダブルベッドがその大部分を占領している。よほど入ってみようかと思ったが、そのままいい匂いのするダイニングへ足を向けた。扉のない木枠を抜けると、窓からの日差しで一瞬視界がぼやけた。左奥にシステムキッチンがあって、奥さんが立っていた。 「あ!」  新田がつい声を上げたのは、奥さんが立っていたからではない。ご主人に「先に昼めしを食ってろ」と言われた時、頭に浮かんだのは焼飯やラーメンといった簡単な料理だった。しかし、目の前のテーブルには、大皿に赤身白身の刺し身が盛られ、香ばしく焼けたステーキがあり、小鉢に酢の物、コーンスープ、サラダ、生ハム、お椀にはそばまで入っていた。これだけでも、昨夜宿泊客へ出した料理など比べものにもならない豪華さなのに、テーブルの中央にはすき焼き用の鍋まで用意されている。 「こ、こんなに……」  すき焼き用の具を入れた大皿を持った奥さんに、新田はどう対処してよいのか分からず、もう一度テーブルの料理を見渡した。 「こんなに食べ切れるかなぁ」 「残してもいいわよ」  明るい笑い声を上げ、奥さんがすき焼き用の卓上コンロに火を入れる。片手で持った大皿がゆらゆらと不安定になり、新田が慌てて手を差し出した。 「こんなにしてもらわなくても……」  両手で抱えた大皿には、白菜、ネギ、椎茸、しらたきがある。ただ、一塊になった牛肉が少し悪くなっているようだった。そこへ、荒々しい足音を立てて、ご主人が入ってきた。この豪勢な料理を前にどんな反応を示すかと新田は目を向けたが、ご主人はチラッとテーブルを見ただけで、泥のついた手をキッチンで洗い始めた。ご主人も知っていたのだろうと思って、新田が思わぬ歓迎に礼を言おうとしたその瞬間、 「鍋の火、消せ!」とご主人が怒鳴った。 「このクソ暑いのに、誰がすき焼きなんか食うんだよ! お前、馬鹿か?」  濡れた手を激しく振り、雫《しずく》がテーブルの料理にかかる。奥さんは慌てて卓上コンロの火を止め、口を真一文字に結んで、隣の寝室へ逃げて行った。突っ立っている新田をよそに、テーブルについたご主人が刺し身を頬ばる。  新田は椅子に座り、ご主人のごはんもよそって渡した。緊迫した状況に、何も喉を通らなかった。ご主人はまるで呪うように刺し身やステーキに箸を刺す。テーブルに豪勢な料理が並んでいることにご主人が驚かなかったのは、知っていたからではなく、慣れていたからなのだ。 「お前も早く食え。食ったら、駅まで客の迎えだからな」  そう言ってご主人は早々と席を立ち、コップの水を飲み干すと、荒々しい足音を立て、フロントへの階段を下りていった。  一人とり残された新田は、テーブルに並んだ料理を改めて見渡した。どれもこれも手の込んだもので、刺し身にはちゃんと小菊まで添えられている。もちろん一人では食べ切れないし、この大量に残った料理を奥さんはどうするつもりだろうかと考えていると、寝室でカタンと音が立った。  夫婦の寝室には厚いカーテンが引かれたままで、奥さんは鏡台の前に座っていた。鏡に映った自分ではなく、鏡を鏡として眺めているようだった。入口に立った新田の姿も、その鏡に映っているが、奥さんと目が合うことはない。部屋へ入った新田は、奥さんの背後に立った。相変わらず鏡の中でも目が合わない。持ってきたコーンスープを鏡台に置くと、奥さんはそれを一瞥したあと、すぐに視線を鏡へ戻した。かけるべき言葉はいくらでも浮ぶのだが、どうしてもそれが口から出てこない。「大丈夫ですか?」「あまり気にしない方がいいですよ」思いつく言葉とは裏腹に、まったく心配などしていないのだ。鏡台に置いたカップをゆっくりと奥さんの手元へ押し出してみた。カップが触れると、奥さんの手がさっと離れる。新田は恐る恐る手を縮めて、奥さんの髪に触れてみた。奥さんはちょっとだけ身を引いて、腕の産毛を逆立たせた。からだの緊張が新田の指にも伝わってきた。物怖じせずにやさしく力を込めて頭を撫でると、奥さんはまるで背骨をすぅっと抜かれたように、その愛撫を受け入れた。 「いつも大変でしょ? すごいご馳走だもんなぁ」  そう囁くと、初めて鏡の中で目が合った。どれくらいの時間だったか、鏡の中で目を合わせたまま、新田は奥さんの髪をただ撫でていた。スリルと退屈は両極端なものではない。二つは大観覧車の同じ籠に乗っていて、スリルの前の席では、いつも退屈があくびをしている。 「じゃ、俺、駅まで客を迎えに行ってきますから」  新田の声を耳元で聞いた奥さんの表情が、鏡の中でハッとした。どうしても新田より早くこの部屋を出なければならないと思ったのか、奥さんは足がもつれるほど慌てて、台所へ戻っていった。  新田が階段を下りていくと、すぐに厨房からご主人が出てきて、車のキーを差し出した。ただ、受け取ろうと新田がキーホルダーを掴んでも、肝心の鍵を握ったまま放そうとせず、しばらく、互いに引っ張り合った。ご主人は奥さんのことについて、なにか告白しようとしているのだろうが、うまく伝える言葉が見つからないらしかった。そのとき、ふっとご主人の指から力が抜けて、離れた鍵が新田の手の甲にパチンと当たった。草履を履いて、ご主人が玄関から出ていく。手に太い釘ぬきを持っている。 「どこへ行くんですか?」 「犬小屋をバラすんだよ。いつまで放っておいても仕方ねぇだろ」  小屋の方へと向かうご主人の草履を引きずる音がしばらく聞こえた。告白は楽だと新田は思う。手の内を見せて、あとはすべてを相手に任せる。告白は卑怯だとも新田は思う。負けを認めて、あとは相手の情に頼る。告白は癖にもなる。曝け出せばすべてが終わると楽観する。しかし世の中、そんなに甘い相手ばかりは揃っていない。手の内は利用され、敗者として扱われ、終わるどころか別の道を背中を押されて歩かされる。悲観的すぎるのかもしれない。しかし、新田は肌で感じる。いくら高くても悲観論を買え。騙されちゃいけない、元々楽観論は無料《タダ》なのだ、と。  翌日からも、奥さんはテーブル一杯に料理を並べ続け、ご主人さえ怒鳴り出さなければ、気分良く給仕もしてくれた。食べ終わると、「果物でも切る?」と冷蔵庫を開け、鼻歌交じりに梨の皮を剥く。たいていご主人はガッと掻き込んで、すぐに下へ降りていくので、新田は奥さんと差し向かいでフルーツを食べたり、お茶を飲んだりしてしばしの時間を過ごすことができた。民宿の泊り客というのは、そのほとんどが一泊か二泊で、三泊する客は珍しい。だから、夕食の献立もハンバーグとスペアリブの二種類を交互に出していればいいのだが、その日たまたま三泊の客が来てしまい、特別に伊勢海老のグラタンを作らなければならなかった。 「面倒ですよ。グラタンって時間かかるでしょ」  梨を摘みながら新田が愚痴をこぼすと、奥さんも一口|齧《かじ》り、「あんまり甘くないわね」と笑った。 「そうかなぁ。甘いじゃないですか」 「なんとなくパサパサしてない?」 「東京じゃ一人暮らしだから、果物を剥いて食べるなんてぜんぜんないなぁ……あ、そうだ。ご主人にも持って行ってあげましょうか?」 「あの人、梨は嫌いだから、あとでスイカでも持ってくわ」 「おいしいのに」 「そうなの、もったいないわねぇ」  梨を剥いたナイフに大きな蠅がとまった。 「あのぉ、どうして奥さんは下の仕事を手伝わないんですか?」 「え? なに?」  奥さんが手で蠅を追い払う。 「民宿の仕事が嫌いなんですか?」 「うーん、あんまり好きじゃないかな」 「どうして?」 「だって、毎日知らない人が来るのよ」  剥いたばかりの梨に蠅がとまった。奥さんがフォークでグサッとそこを刺す。勢い余って、他の梨が皿から転がり落ちる。蠅は天井を旋回していた。奥さんはそこへ梨を刺したままのフォークを投げつけた。 「放っておけば窓から出ていきますよ」  新田は慌てて奥さんの手を押さえた。そのとき新田は奇妙な感覚を味わった。天井を飛ぶ蠅の目線で奥さんを見下ろしていたのだ。魚眼レンズのように景色が歪み、椅子に座りこちらを見上げる奥さんから、梨のついたフォークを投げつけられる。もちろんさっと避けたのだが、その拍子に擦り合わせる自分の手が見えた。  仕事の最中にご主人が奥さんの話をすることはなかった。ただ、長い時間、奥さんと話し込んだあとなどは、「あいつ、どうしてた?」と尋ねることがあって、ご主人の機嫌がいい時は、「別に、普通でしたけど」という新田の答えで満足するのだが、たとえば客との間で宿泊料金での小さないざこざがあった時など、「普通でしたって、どういう意味だよ? お前にはあの女が普通に見えるのかよ? お前の普通って何だ?」と口から泡を飛ばしてからまれた。  ご主人は客がいる時に奥さんが二階から降りてくるのを嫌った。客のことを「知らない人」と呼んだ奥さんの既往を新田は漠然と想像していた。  ご主人から民宿の仕事が暇になる午後の時間を、知り合いの海の家の手伝いに充てろと言われたのは、泊り客ゼロが二日続いた翌日だった。新田は民宿「海ほたる」と同じ名前の海の家が、砂浜にあることを小屋の窓から見て知ってはいたが、なにか関係があるのかと聞くこともなく過ごしていた。  ご主人に連れられてその海の家へ行くと、漁師上がりらしいおやじさんが飛びついてきて、「助かるよ、なにしろ忙しくてさぁ、こいつらに誰か暇にしてる友達でも連れて来いって言ってあるんだけど、いつになっても連れて来ねぇしよぉ」とひとりで汗をかき、早口に喋り出した。おやじさんがこいつらと言って指差した場所には、どす黒く日に灼けて、あばら骨が出るほど痩せこけた金髪の少年たちが、不服そうな顔で立っていた。 「夕方まで借りてていいんだろ?」  拝むようなおやじさんに、「四時には返してもらわないと、こっちも困る」とご主人は答えた。自分の「身」が、借りる、返すと不安定に揺れる状況を眺めているのが、新田には不思議と心休まる感じで、もう何年もこんな気持ちになったことがなかったなぁと、へんに懐かしくさえあった。店を出ていくご主人と入れ替わりに、ふとももに砂をつけたままの少女がボートを借りにきた。痩せこけた少年たちが肩を並べて、すぐに外の受付テーブルへと連れて行く。 「おい、今日からこの人に手伝ってもらうからな。ちゃんと言うこと聞けよ」  少年たちはおやじさんに返事もせず出て行った。  とにかくバイトの少年たちが反抗的で言うことを聞かない。カレーはこの鍋、ご飯はこっち。まあ、時給だって違法すれすれにしか払ってないから大目に見るしかないが、少しでも叱りつけると仕事中でもプイといなくなる。  奥にある調理場で、新田は右に立ったおかみさんから調理場での仕事を、左に立ったおやじさんから少年たちの愚痴を同時に聞かされた。説明と愚痴が一段落すると、「あんた、この兄さんの顔、ちょっと強面《こわもて》だから、元やくざだって言っちゃえばいいのよ。それならあの子たちも少しはおとなしく言うこと聞くかもしれないわよ」とおかみさんが笑った。 「そうだな。この人の素性をあいつらは知らねぇしな」  おやじさんも満更ではない様子で、日に灼けた毛の濃い腕を組んでいる。 「花魁《おいらん》ってのは、おいらの姉さんって言葉が変化したらしいですね」  と、新田はわざと突拍子もないことを口走ってみた。おやじさんたちがどんな顔をするだろうかと見ていると、案の定顔を見合わせた二人の目に不安の色が浮かぶ。あんたらだって俺の素性を知らないじゃないかと新田は心の中でクスッと笑った。  調理場の仕事と言っても、焼きそば、ラーメン、うどん各種にかき氷。一流レストランではないから、すぐに仕事は覚えられる。調理場にはおかみさんの他に、もう一人年配の女性が手伝いに来ていたが、それでも新田が入る午後二時から四時は、遅い昼食をとる客たちで店の中はごった返した。客あしらいがおやじさん一人の手に負えなくなると、外にいる少年たちのどれかが呼ばれ、裸の上半身にエプロンをつけさせられて、ブスッとした顔で、「ラーメン二つとおにぎり」と厨房に注文を伝えにきた。「海の家」で働く少年たちの間にも、彼らなりの不文律があるらしく、貸しボートの受付や屋外でのジュース売りは花形で、屋内でうどんやラーメンを運ぶのは賤しい仕事とされているらしかった。  調理場からは、すぐそこにある海が見えなかった。煮立った鍋と、熱い鉄板に囲まれて、まるで濡れたように汗をかく。砂浜の粗悪なスピーカーからはJ−POPが四六時中流れてくるし、「あんた、二卓にうどん、持ってって!」と怒鳴るおかみさんの声も毎年この調理場で働いていないと出せないような、殺気を帯びた声だった。それでも新田は嫌な気がしなかった。慌ただしければ慌ただしいほど、落ち着ける人間もいる。その上ここでは、慌ただしさの中に余裕がある。画面上での取引に神経を集中させ、わずかな隙が命とりになる、いつもの仕事とは緊張の種類が違う。  午後、民宿からおりてくると、砂浜には無数のパラソルが立ち、大勢の海水浴客で埋まっている。風はココナツの匂いがする。海の家には専用の駐車場があって、民宿からはそこを通るのが最短距離だったが、新田はわざわざいったん砂浜へおり、ぐるりと回って、表から調理場へ入っていた。  坂道を駆け下りてきて、砂の上へ一歩足を踏みおろすと、砂浜の喧騒が消え、太陽の音だけが耳に残った。ちょうど水が入ったみたいに、頭の中で音が響く。新田は好んで砂浜を歩いた。ときどき、ゆらゆらと揺れているのが自分なのか、景色なのか分からなくなった。目が眩んで、砂の上に倒れそうになるのだけれど、そこにはもう先に倒れている自分の姿があって、あっという間に、影になり砂に滲んでしまう。焼けた砂浜を踏み、新田は調理場へと向かう。焼けた鉄板からは白い煙が立ち、豚肉を焼き、野菜を炒める。しんなりしたところで塩胡椒で味をつけ、金色の麺にゆっくりからめる。艶が出て、ソースの匂いが立ち昇る。  取り出した皿に熱々の焼きそばを盛ると、すぐにおかみさんが持っていく。店のテーブルを埋めた客は、バスタオルを肩にかけ、背中を丸めてうどんや焼きそばを食っている。新田は鉄板の隅にこびりついた焦げを、執拗に削ろうとする。そんなところまでやらなくていい、とおかみさんに言われても、どうしても気になって仕方がない。鉄板を丹念に削っていると、風に乗って波の音がはっきりと聞こえる。 「またやってる。そんなのあとでいいから、キャベツ切ってよ」  戻ってきたおかみさんに、新田はコテを奪われた。 「まだ切るんですか?」 「今日はなんだか忙しくてさ。まだ続きそうだから、念のために切っといて」 「どれくらい切ります?」 「てきとうでいいよ。新田くんに任せるから」  足元の段ボールには新鮮なキャベツがいくつも入っていた。一つ取り出して、丸ごと俎板に置く。菜切り包丁は使い込まれ、取っ手には黒ずんだ握り痕がついていた。俎板に置いた新鮮なキャベツには艶があって、包丁を落とすと、パクッと二つに割れた。一玉を半玉、半玉を四分の一にし、ザクッ、ザクッ、ザクッ。押さえつけては乱切りする。次のキャベツを俎板に置く。二つ目、三つ目……。 「ちょっと、いくつ切るつもりよ!」  おかみさんに肩を叩かれ、新田はふっと我に返った。 「任せるって言ったじゃないですか」 「限度ってもんがあるでしょ!」  おかみさんに使えない奴だと思われることが新田には不思議と心地よかった。もういいんだよ、無理しなくてもと、誰かが耳元で言ってくれているような気がした。ただ、そんな声は普段の職場でもいつも聞こえる。悪意に満ち、人を蹴落とそうと畳み掛けてくる低い声。でも調理場で新田の耳に聞こえた声は、聞こうとすると聞こえなくなる、どこか信じられそうな声だった。 「すみれさんの所で働いてるからって、あの人の真似しなくてもいいんだからね!」 「すみれさんって、うちの奥さんのことですか? お知り合いなんですか?」 「お知り合いもなにも、親戚よ。あそこの旦那とうちの旦那は兄弟だもの。あんた知らなかったの?」 「え、ええ」 「どうでもいいから、早くそのキャベツ片づけて」 「あの人の真似ってどういう意味ですか?」 「え? あの人? ああ、すみれさんね。一生懸命なのはいいけど、度が過ぎるってことよ。義父さんを看取る時だって、毎日毎日馬鹿みたいに病院に泊り込んで、結局自分が倒れて入院するんじゃ、なんにもならないじゃない。通夜だの葬式だの、結局私一人でやらされて、その上、民宿の手伝いまでさせられたんじゃ、文句もいいたくなるでしょ」  おやじさんが汚れた皿を抱えて、調理場へ入ってきた。おかみさんの話が聞こえていたのか、「あの人には、客商売は向かねぇんだ」と言い捨てて、今度はきつねうどんを持って出た。 「お客さんにちょっと何か言われれば、おろおろして、最後にはめそめそ泣き出すし、採算も考えないで、鯛だの松茸だの客に出そうとするしで……。あれじゃ、たもっちゃんが可哀想よ、まったく」  おやじさんがまた皿を抱えて戻ってきた。「相手が美人だから嫉妬してんだよ」と新田の耳元で笑った声が、おかみさんにも聞こえていた。 「いくら美人だろうが、なにもできないんじゃ、どうにもならないじゃないの。そりゃ若けりゃ、美人だ美人だで、ちやほやされてれば済むよ、でもすみれさんだって、あたしと一緒に歳をとるんですからね」 「ごちゃごちゃ、うるせぇババァだなぁ。口じゃなくて手を動かせってんだよ」  新田は二人に気づかれないようにエプロンをとった。調理場の脂ぎった時計を見ると、約束の四時を二十秒過ぎていた。  民宿の仕事は、客のチェックアウトを済ませ、客室の掃除やベッドメイクが終わると、当日客がチェックインするまでに多少の空き時間ができる。海の家へ手伝いに行かない時は、新田は小屋へ戻って一時間ばかり昼寝をしていた。  小屋の畳に大の字に寝転ぶと、窓に夏空だけが残った。ある日、ぼんやりと雲を眺めていると、そこへ奥さんの顔がぬっと現れた。海からの風で髪が逆立っている。じっと話しかけられるのを待っている風にも見えるし、自分からやってきたくせに話しかけられるのを拒んでいるようにも見えた。 「どうしたんですか?」 「別に……お昼寝?」 「え、ええ」 「こんなに暑いと、昼寝もできないでしょ」  奥さんは乱れた髪を必死に手で押さえていた。これといって用もないらしく、ときどきニコッと微笑みかけてくる以外、何をするでもなく窓の外に立っている。 「そんな所から見られてると緊張しますよ」  新田が笑いながらそう言うと、強い風が部屋に吹き込み、せっかく整えた奥さんの髪がまた逆立った。そんな所に立ってないで、中へ入ってきませんか、と新田は手の動きだけで奥さんを誘ってみた。しかし、微笑みながら首を横に振るだけで、奥さんはその場から動こうとしなかった。 「ねぇ、新田くん」 「はい?」 「どうしてこんな所に働きに来たの?」 「こんな所? さぁ、どうしてだろう……でも居心地いいですよ」 「ほんと?」 「ほんとですよ。のんびりできるし、なんていうか、安心していられるって言うのかな、嫌な夢も見ないで、朝までぐっすり寝てるんだから、自分でも驚きます」 「東京じゃ、よほど張りつめた生活してたのねぇ」 「奥さんは、ここが嫌いなんですか?」  奥さんはなにか言いかけて、結局その言葉を飲みこんだ。 「もし嫌なんだったら、逃げ出せばいいじゃないですか?」 「え?」 「逃げ出すんですよ」 「む、無理よぉ」 「どうして? 槍を持った門番がいるわけじゃなし、逃げ出せば逃げ出したで、どうにかなるかもしれませんよ」 「無責任な人ねぇ」 「そうかなぁ」  新田は顔では笑いながら、その通りだと思っていた。逃げ出したところで、どうにかなるわけがない。一旦逃げ出せば、あとはずっと逃げ続けるだけ。もちろん、逃げて、逃げて、逃げ続けられる奴もいる。でも、どこかでふっと立ち止まり、そのまましゃがんでしまう自分の姿が目に浮ぶ。  窓の外で奥さんが手招きしているように見えた。しかし、奥さんは指一本動かしていない。たしかにさっき、新田の方が手招きをして、奥さんに小屋へ入るように勧めた。でも、思い返してみると、手招きしたのは奥さんの方で、拒んだのが自分だったような気がする。そうなると、間違いなく手招きしたのは自分なのに、さっきはどうして外へ出るのを拒んだのかと、あらぬことを悩み出していた。 「下着で寝ていいのよ」 「え?」 「暑いでしょ?」 「あ、ああ。いや大丈夫です」 「こんなオバサンにはだかを見られたって、恥ずかしくないでしょ?」 「オバサンだなんて思ってませんよ」 「あら……でもほんとよ。暑かったら脱いで」 「暑くないから大丈夫ですって」  拒み続けているうちに、奥さんが小屋の中へ入ってきて、無理やり服を脱がせてくれるのではないかと、新田は真剣に夢想した。まさかそんなことはあるまいと思いながらも、汗臭いTシャツを脱がされ、ベルトを外される感触を、畳に寝転がったまま味わった。 「どうしてそんなに脱げ脱げって言うんですか?」 「え?」 「分かった。奥さん、俺のはだかが見たいんでしょ?」  子どもを脅かす時のように、新田はガバッと両手を広げて立ち上がった。とつぜんのことで足が竦《すく》んだのか、奥さんは一歩も動けず、窓越しに新田から手首を掴まれた。  まだきょとんとしている奥さんの顔に、脅えの混じった喜色が浮ぶ。 「もう、びっくりしたぁ」  奥さんが腰を引いて、新田の手から逃れようとする。 「いくら暴れたって、放しませんよ」  新田は笑いを堪え、無理にしかつめらしい顔をつくった。奥さんの手首を握ったままTシャツを脱ぐと、奥さんが、「キャッ、キャッ」とはしゃいだ声を出し、からだを捩《よじ》って悶え嫌がる。 「奥さんは捕虜です。これから拷問します」  振り払おうとする奥さんの手を引っ張り、新田は無理やり自分の乳首を触らせた。真顔で胸を突き出す新田から、奥さんが必死に腰を引き、逃げ出そうと地面を蹴る。汗でつるりと手首が離れ、まるで鬼ごっこでもするように、奥さんは一目散に駆け出した。新田はそのまま姿を消すだろうと思っていたが、奥さんは充分に距離を置いた場所で立ち止まり、新田が追いかけて来るかどうか、子どもっぽい真剣な目で窺っている。新田はカーテンの裏にからだを隠した。奥さんの荒い息遣いが段々窓辺に近づいてくる。新田は奥さんが充分に窓へ近づいたところで、「わぁ」と大声を出して脅かした。一瞬、腰を抜かしそうになりながら、奥さんが「いやぁー、いやぁー」と逃げていく。新田はすぐに窓から飛び降りて、中庭まで追いかけた。物置の裏に隠れたのは見ていたが、わざと捜せないふりをして、「どこだ? どこに隠れた?」と言いながら、後ろ向きで近づいた。そしてさっと振り向いて飛びつくと、また無理やりからだを触らせた。奥さんはぜいぜいと息を切らして逃げ回る。追いかけるから逃げるのか、逃げるから追いかけるのか。ぐるぐる回っているうちに、それがどっちでもよくなった。奥さんはとうとう敷地の外まで逃げてしまった。さすがにそこまで追いかける気にはなれず、新田は小屋へ戻って服を着た。  蒸し暑い夜になりそうだった。民宿の玄関先に立つと、風もないのに波の音がはっきり聞こえた。食堂で夕食をとっていた客が、「1mgのタバコ置いてませんか?」と言うので、新田は自分用に買い置きしているKENTを小屋へ取りに戻った。泊り客は一組だけで、食堂も彼らが使う食器の音だけしかしない。駐車場の砂利を踏んで小屋へ入ると、窓が開けっ放しになっていて、畳まれた布団を月明かりが照らしている。新田は布団の上に腰を下ろした。タバコに火をつけようとすると、ふと背後に誰かの視線を感じた。振り返って窓を見ると、月だった。食堂へ戻る時、自分の車の中をちらっと覗いた新田は、運転席に携帯電話が置いてあるのを見た。一瞬留守電をチェックしようかと思ったが、結局やめた。  食堂へ戻って客にタバコを渡し、厨房でテレビを見ているご主人に、「お客さんの食事が済むまで、砂浜へ散歩に行っててもいいですか?」と尋ねると、ご主人は、「今日はもういいよ。あとは俺がやるから」とテレビのチャンネルをリモコンで次々に変え、NHKのニュース番組になったところでパチンと消した。画面には円相場と東証平均株価が映っていた。それらの残像に、新田の顔が重なった。  玄関を出て、砂浜への坂道を歩いていると、また背後に視線を感じた。振り返ると、二階の窓から奥さんが新田を見ている。声をかけようかと思ったが、なんとなくやめた。すると、「お散歩?」と奥さんの方が声をかけてきた。 「ええ」  口の中で呟いた。奥さんには聞こえないはずだった。窓からふっと奥さんの影が消え、ダイニングの白い壁だけが残った。新田は後ろ向きのまま、ゆっくりと坂道を下りた。玄関が開き、奥さんが駆けてくる。ご主人の草履を履いているらしく、砂利を踏むその足取りが覚束ないが、月を浴びたその表情があまりに真剣で、そのままどこかへ駆けていってしまうのではないかと新田は思った。 「どこに行くの?」 「ちょっと砂浜まで」 「あの人、知ってるの?」 「ご主人ですか? え、ええ。言ってきましたけど」  二人並んで坂を下りた。月が海の上に浮かんでいた。薄い雲が重なる水鏡のような夜空の中へ、小石を一つ投げ込んで、うち毀《こわ》してみたいと新田は思った。  砂浜へ出ると、海の家の食堂は終わり、代わりに店先に置かれた大きな板の上で花火が売られていた。見知った金髪の少年が簡易椅子に座っている。昼間は上半身はだかだったのに、日の落ちた今では赤いアロハシャツをボタンを外して羽織り、つけすぎた香水の匂いが鼻につく。中を覗くと、おやじさんがナイター中継を見ながらビールを飲んでいた。 「お前が並べたのか?」 「ああ、そうだよ」  相変わらず無愛想な少年に話しかける新田の横をすり抜けて、奥さんがおやじさんの元へ近寄った。おやじさんは少し驚いたようだったが、その表情はすぐに華やいだものに変わった。久しぶりだねぇとか、今年は暑いからねぇ、ところでもうからだの調子はいいの? とまるで奥さんを懐へ抱え込むように椅子を勧める。それに応える奥さんも、歓迎されたことを素直に喜び、あっさりと椅子に座った。  店先に吊るされた裸電球の明かりが、海水浴客の引けた暗い砂浜に伸びていた。 「誰もいないじゃないか、花火なんか売れるのか?」  新田がそう尋ねると、少年はブスッとした顔のまま、「まだ七時だし、みんな民宿でメシ食ってる時間だよ。すぐに出てくるよ」と説明した。 「夜はお前ひとりだけか?」 「ああ」  さっきまでぼやけていた海と砂浜の境界が、暗闇に白く立つ波のせいでくっきりと浮かび上がっていた。どの「海の家」の店先にも同じような裸電球が吊るされ、オレンジ色の光の中で動く影が砂浜へと伸びている。海水浴客たちの消えた夜の砂浜は驚くほど狭い。砂浜に残された幾千もの足跡がアラビア文字の羅列に見えた。  花火と一緒に冷えたビールやジュースも売っていた。氷の入った容器の前に立つと、立ち昇る冷気が汗ばんだ肌に心地いい。新田は手のひらに氷を握りしめてみた。冷たさが痛みに変わって、それでも我慢していると、麻痺して痛みもなくなった。店の中を覗くと、奥さんがおやじさんの話に声を上げて笑っていた。 「なぁ、あんたリストラされたんだろ?」  突然少年に声をかけられた時、新田の手の中で氷はすっかり溶けていた。痺れてはいるが、痛みはない。 「リストラ? そう見えるか?」 「じゃ、なんでこんな所にいるんだよ? まさかその歳でプータローはまずいだろ」 「まずいなぁ」 「なんでクビになったの?」 「クビになるのに理由なんてないさ」 「なんかあんだろ? 上司の女に手を出したとか、会社の金を横領したとか」  そう言うと、少年は「ガハハ」と大笑いした。 「実力がなければクビさ。金もうけのできない奴は切られる。ただそれだけのこと」 「あっさり言うなぁ」  少し酔ったおやじさんの相手をさせられて、奥さんがなかなか出てこないので、新田は仕方なく店先にぼんやり立っていた。目の前には真っ暗な海があった。夜の砂浜のあちらこちらで花火の白い煙と炎が上がり始め、店の前にもちらほらと客が姿を見せるようになる。風にのった硝煙の匂いが、鼻先を流れていく。新田はふらふらと波打ち際まで歩いていった。靴を脱ぐと、足が波に舐められる。打ち上げ花火が自分を狙うように飛んできた。花火を囲んだいくつもの人影がぼんやりと見えた。暗い海が鏡のように砂浜の花火を映していた。  店先へ戻ると、原付バイクに二人乗りした少年たちが現れた。虎ノ門と代々木を往復する新田の日々の暮らしではまずお目にかかれない、まるで愚連隊のような少年たちだった。花火売りの少年も彼らの仲間らしく、砂浜へおりるとバイクの脇に座り込んだ。新田がぼんやり眺めていると、ついさっき花火を買いにきた二人組の少女が、ぶらぶらと退屈そうに通りかかった。バイクに跨ったままの少年がすぐに声をかけ、少女たちはアイスクリームを舐めながら、拒むでも喜ぶでもなく、なんとなく少年たちの横に座った。店先に立っている新田に気づいた赤い髪の少女が、「ねぇ、あのオレンジ色のオープンカー、あんたの?」と妙にはすっぱな口調で話しかけてきた。  砂浜に座り込み、背中を丸めてアイスクリームを舐める姿が痩せた猫のように見える。 「あんたオープンカーなんかに乗ってんの?」  花火売りの少年が大袈裟な声を上げる。 「なんに乗ってんの?」 「バルケッタ」 「フィアットの?」 「そう」 「ねぇ、こっちにきて、おしゃべりしない?」  赤い髪の少女に手招きされて、原付バイクの少年たちが冷ややかな視線で迎える中、新田はなんとなく砂浜へおりてしまった。フィアット社は車を造り、販売するだけのメーカーではない。たとえば海外の公共事業を担当する総合建築会社インプレジットもフィアット傘下で、モンテカルロの港湾整備やアルゼンチンの高速道路を手掛けている。 「この人、会社をリストラされたんだって。だろ?」  紹介しているつもりか、花火売りの少年が新田を見て言った。  少女の手でとけたアイスクリームが、その細い指の股へ流れている。少年たちの間に座って、少女の手でとけていくアイスクリームを眺めていると、ふと新田の耳の奥で野太い声がした。──汚ねぇ真似するんじゃねぇ! 損はさせねぇって言っただろ!──誰の声だか分からなかった。というかあまりにも浮かんでくる顔が多すぎて、その中の誰が叫んでいるのか分からなかった。 「さっさと食えよ。ぽたぽた子供みたいに落として」  バイクに跨った少年が笑いながら少女を注意した。少女の指をバニラクリームが螺旋《らせん》状に流れている。 「ほら、舐めろよ。そこ、肘のところ」  少女が腕を上げて、肘から垂れるアイスクリームを舐めようとする。そのとき、さっとかがんで、新田がそこを舐めてしまった。 「やだ!」  少女の悲鳴で一斉にみんなの視線が新田に集まった。もちろんすぐに、冗談だよと新田は笑おうとした。しかし少年たちの方が先に笑い出してしまい、その機会を失った。新田はもう一度、同じところを舐めた。舐められた少女も気味悪げに新田を見るが、くすぐったそうにされるがままになっている。新田の舌が少女の肘から手首、手のひらから指の股へと動く。 「この人、イカれてるよ」  肩に刺青をした少年が手を叩いて喜んでいた。足をばたつかせ、砂を蹴って笑っていた。 「いやぁ、くすぐったーい」  身をくねらす少女と一緒に誰もが砂の上を転げ回り、大袈裟に腹を抱えて笑っていた。正直なところ、何がそんなにおかしいのか新田には分からなかった。見ず知らずの少女の腕を、四つん這いになった大の大人が、真顔で舐めている様子は確かに変だが、こうまで喜ばれると、どうも引っ込みがつかなくなる。イカれてしまう人間というのは、こんな感じで素に戻る機会を失うのではないだろうかと、新田はぼんやりと考えた。数ヶ月前、ニューヨーク本社へ栄転した新田の先輩は、フェラガモかエドワード・グリーンの靴しか履かなかった。毎朝、鏡代わりになるほどピカピカに磨いてくるので、「どうしていつも、そんなにきちんと磨くんですか?」と新田が尋ねると、先輩は「誠意だよ」と真顔で言った。「この靴で踏みつけられる人たちへの心ばかりの誠意だよ」と、真顔で、言った。 「新田くん、そろそろ帰らないと、まだ仕事が残ってるんじゃないの?」  店先におやじさんが呆れ顔で立っていた。すぐ後ろに奥さんの姿もある。 「あー、おもしろかった」  急にシラけて立ち上がった少女たちを、原付バイクの少年たちが追い、松林の方へ肩を抱いて歩いていく。 「そろそろ戻りましょうか?」  新田は立ち上がって砂を払い、奥さんに言った。深々とおやじさんに頭を下げた奥さんが砂浜へ下りてくる。 「新田くん、何やってたの?」 「え?」 「みんな、楽しそうに笑ってたじゃない」 「あ、ああ。別になんでもないですよ。ちょっとふざけてただけです」  歩くたびに、奥さんが履いているご主人の草履から砂が流れ落ちた。砂浜を出て、波に背中を押されるように民宿への坂道を上った。お互いに一言も口をきかなかった。奥さんの足音と新田の足音はときどき重なり、すぐにズレてばらばらになる。いつもと変らぬ坂道が、新田には長く感じられた。奥さんが急に口を開いたのは、民宿の玄関が見えた時だった。 「ねぇ、新田くん、空港で何日間も迎えの人を待っていた外国人がいたの知ってる?」 「成田空港の待ち合い室ですよね? ニュースでやってたのを見たな。何日も何日もベンチで待ってるから、空港の人が哀れんで、食べ物を差し入れしたり、シャワー貸してやったりしたんでしょ?」 「そう。あの外国人、本当に誰かと約束してたのかな?」 「え?」 「だから、本当に誰かが来ることになってたのかなぁ?」 「そりゃ、そうでしょう。約束してなければ、待たないでしょ?」 「そうなんだけど……私、あのニュースを見てて、待つのって辛いだろうなぁって思ったの。見てるとだんだんこっちまで悲しくなってくるし。でもね、そうやって見てるうちに、『本当はこの人、誰とも約束なんてしてなかったんじゃないか』って思ったの。そう思ったら急にうれしくなっちゃって、何がうれしいのか自分でも分からないんだけど、成田空港のベンチに座ってるその人に会いに行きたくなって……」 「行ったんですか?」 「まさか」 「ですよね。ところで、あの外人どうしたんだろ? やっぱり、諦めて帰ったんだろうな」 「そうねぇ。諦めるしかないもんねぇ」 「俺ね、待たれるの大嫌いなんですよ。彼女と待ち合わせなんかして、仕事で遅れるじゃないですか、三十分も遅刻してるからもう待ってないだろうと思って行くと、ちゃんと立ってるんですよ。その姿を見た瞬間、なんていうのかなぁ、ぞっとするんですね。本当なら感激すべきなんだけど、それがどんなに好きな女の子でも、ぞっとしてしまうんですよ」  民宿の駐車場へ入って、新田は足を止めた。埃を被り、野良猫の足跡までついていた自分の車がいつの間にか奇麗に洗われ、指で撫でるとワックスまで塗ってある。 「こ、これ……」 「今朝ね、ちょうど曇ってたし、私、最近運動不足だから」 「ワックスまで?」 「ちゃんとコンパウンドの入ってない液体のでやったから」 「コンパウンド?」 「磨き粉の入っていない……ボディーカラーを選ばずに使用できるって本に……」 「本まで読んだんですか?」  砂利を踏みながら、奥さんは後ろ向きで玄関へ向かっていた。新田はふと二階の窓を見上げた。誰かが見ているような気がした。しかし、二階の窓は一時間前「お散歩?」と声をかけてきた奥さんの影が、ふっと消えたままだった。 「あのぉ、奥さん。これからドライブに行きませんか?」 「え?」  奥さんの立ち止まり方が、妙にぎこちなかった。ご主人の草履を履いているからだろうと新田は思った。 「この車でドライブしましょうよ」 「これから?」 「そう。これから」 「でも、あの人が……」 「大丈夫ですよ」  新田が手を引っ張ると、奥さんが足を踏ん張った。無理に誘っても失礼かと思い、新田が手を放すと、奥さんは玄関に駆け込み、へんに切羽詰まった感じで自分の靴を下駄箱から出そうとする。 「いいですよ。そのままで」 「でも、この草履……」  奥さんは結局スニーカーに履き替えた。助手席に乗せ、ドアを閉めてやる。運転席に回る時、犬小屋のあった場所が目に入った。犬に吠えられ、脅えながら皿を差し出す奥さんの顔が思い出された。      ◇  東京湾アクアラインの料金所を抜けてしばらく走ると、青白く発光する人工の島「海ほたる」がフロントガラスに迫ってくる。新田がアクセルを踏み直すと、インパネの針が三つ同時にビクンと振れた。 「……らない……」 「え?」  海からの突風で奥さんの言葉が千切れた。 「寄らないの? 海ほたる」 「寄りたいんですか? ただのパーキングエリアですよ」  入口が音もなく背後へ流れていく。対岸の川崎の夜景が、海と空の間で天の川のように見える。東京湾を横断する橋は、ここから海底トンネルへ入る。前を走る車は一台もない。数百メートル毎に『速度を落とせ』と電光掲示板がつき、そのたびに新田はメーターを見る。タイヤが踏みつける地面で、ときどきキーンと音が立つ。 「ねぇ、新田くん」 「はい?」 「新田くんって、パーキングエリア嫌い?」 「どうして?」 「ただなんとなく、そうじゃないかなぁって」 「うーん。そうだなぁ、言われてみると、そんな気もする。あそこって一方通行でしょ、だからあそこに入って停っていると、後ろからくる車にどんどん抜かれていくみたいで、なんていうか、落ち着けないんです。競走しているわけじゃないから、抜かれたっていいんだけど」  トンネルの出口が見え、ちらほらと他の車のテールランプも現れた。どの車もまるで止まっているように遅い。追いつき、追い越し、次々と抜き去る。ふと新しい光が差し込み、浮島JCに出た。横浜からの車の流れに合流し、何かに誘導されるように羽田へ向かう。  低い空を旅客機が飛んでいる。レインボーブリッジへ向かう湾岸線をおり首都高速に入ると、車の流れがぐっと増えた。どこへ向かう車なのか、横を走る車も、前を走る車も、後ろから来る車も、どの車も慌ただしいわりに寂しそうに走っていく。 「トイレは大丈夫ですか?」 「大丈夫。私より新田くんは? 一日に十回以上行くでしょ」 「どうして知ってるんですか?」  新田はふと、客に頼まれて小屋へタバコを取りに戻った時、視線を感じて振り向いた窓に、ぽっかりと浮かんでいた月を思い出した。  無数の窓に明りを灯した高層ビルが、倒れ込んでくるように迫り、立体交差で道が重なる。よじれたリボン。道の上を走っているのか、それとも裏か。多摩ナンバーのパジェロを煽ってさっと抜き去り、アウディの横を突き抜ける。東京タワーが遠くに見えた。暗い森に無数の窓明り。林立する高層ビル群。上り、下り、曲がり、くねる道。次々に現れる出口への側道。銀座、京橋、宝町──。ビルの窓で、誰かが笑っているのが見える。巨大な看板が行く手を遮る。 「高速の出口っていっぱいあるのね」  奥さんがへんに感心したように呟いた。  九十九里浜に沿って、ほんの二、三十分ドライブするつもりが、奥さんの話を聞いているうちに、新田は民宿へ戻れなくなった。車が走り出すとすぐに、奥さんはご主人の話を始めた。新田から話をふったわけではない。ただ唐突に、奥さんが話し出したのだ。あの人はぶっきら棒だけれども、やさしいところもある。私を大事にしてくれるし、人望もあって町内会の会長も三期連続でやらされている。民宿経営はあの人の夢だったから、私も私なりに手助けできればと頑張った。勤めていた会社を辞める時も、びっくりするような借金を抱え込んだ時も、私は何も言わずにあの人を信じた。あの人は私を大事にしてくれる、今の生活に不満はない。奥さんがそう言えば言うほど、新田の耳には「助けて」という悲鳴にしか聞こえなかった。  トンネルへ入ると、とつぜん車がつまった。慌ててブレーキを踏み、ギアを落とす。礼儀正しく並んだ車が、出口の方まで続いている。ちょっと進んですぐに止まる。クラッチが噛んでくる感じは好きだが、こうたびたびだとうんざりするし、トンネル内の重くて、濃くて、熱い空気に肌が汗ばんでくる。前のベンツがさっとハンドルを切って側道へ入り、一台分の隙間ができた。進もうとすると、すぐに横から別の車が入ってハザードを点滅させる。新田はサイドミラーも確認せずにハンドルを切ってベンツのあとを追った。そこには別のトンネルが延びていた。  奥さんの奇妙な物言いに気づいたのは茂原市内を通り過ぎた辺りで、新田がふと思いついて、「東京まで足を延ばしてみましょうか?」と提案した直後だった。そのとき新田が話していたのは、たしかモニカ・ルインスキーのことだったのに、どこでどう繋がるのか、「人間には覚悟が必要な時があるのよ」と奥さんが言ったのだ。そのあとはもう、新田がどんな話をしても、妙な具合に会話の中に「覚悟」という言葉を差し込んできた。奥さんの表情をじっと眺めているわけにもいかず、助手席から漂ってくるなにか切羽詰まった空気だけを感じていた。疑念が、確信に変わったのは、東京湾アクアラインへの料金所を抜けたあとだった。奥さんが頻繁に含み笑いをするようになり、新田が気味悪くなって理由を尋ねると、「私たち、笑い出したいのを無理に我慢してない?」と言ったのだ。  これから起こるだろう出来事への照れ笑いらしかった。  たとえばもし奥さんがそんなことを期待して、この車に乗ったのだとする。しかしいったいどこに、奥さんが自分の愛情を期待できるような出来事があっただろうかと新田は思う。犬に餌を置いてやった。しょぼくれた奥さんの髪を撫でてやった。退屈しのぎに追いかけっこをしてやった。車を洗ってもらったお礼にドライブに誘ってやった。もしもこの車に乗った奥さんが、そんなちっぽけな好意にしがみついているのだとしたら、あまりにも哀れじゃないかと新田は思った。そして、奥さんが哀れなら、いったい自分は人に誇れるような何にしがみついているつもりだと腹立たしかった。  車はいくつかのトンネルを抜け、目の前に新宿の高層ビル群が現れた。神宮外苑の深い森の香りが、匂うはずもないのに匂った。 「奥さん」 「なに?」 「新宿に着きましたよ」 「高速を降りるの?」 「はい、ここで降ります。奥さん、追いかけっこしたの、覚えてますか?」 「もちろん覚えてる。新田くんが昼寝しようとしてて」 「奥さんが窓から覗いてて。どうしてこんな所に働きに来たの? なんて聞いて」 「新田くんがどうして逃げないんですか、なんて言ったのよね」 「そう。逃げ出せば逃げ出したでどうにかなるって」  大きなカーブでスピードを落とし、車は高層ビル群の真っ只中へ滑りおりた。まるで巨人の足元を這い回るように、右へ折れ、左へ曲がり、赤信号で止まる。背伸びをして、再び腰をおろすと、尻の下に携帯電話があった。新田は、「あ!」とわざと大袈裟な声を上げ、携帯電話を掴んだ。 「どうしたの?」 「いや、携帯が震えてて……」  新田はかかってきてもいない携帯を耳に当て、聞こえもしない声に、「そうですか、そうですか」と返事をした。助手席から奥さんが心配そうな顔で覗き込んでいるのは視野に入っていたが、正面の信号から目を離さなかった。信号が青に変わり、すぐに背後からクラクションが鳴らされる。新田は「分かりました」と呟いて携帯を切り、ギアを入れてアクセルを踏み込んだ。携帯は股の間に置いた。奥さんがじっとそこを見ている。 「奥さん」 「なに?」 「あのぉ、申し訳ないんですけど、この先の駅で降ろしますから、電車で帰ってもらえませんか?」 「え?」  携帯から逸らした奥さんの視線が、新田の顎、ハンドル、窓の外を、まるで蠅のようにおろおろと動いた。 「実は、俺、会社の休暇を利用して民宿の手伝いをさせてもらってたんですよ」 「そ、そう。あ、あの人もそうじゃないかって言ってた」 「それで」 「今の電話、会社から?」 「え、ええ。それでちょっと会社に行かなきゃならなくなって……」 「こ、これから?」 「すいません」  京王百貨店の前にちょうど一台分スペースが空いていた。車はまだ動いているのに、奥さんがドアを開けようとして、新田は慌ててロックをかけた。 「ちょ、ちょっと待って下さい」  車を停め、新田が肩を掴むと、ドアを開けようとする奥さんの手が止まった。 「だ、大丈夫ですか?」 「え?」 「いや……まだ終電はあると思いますけど……」 「だ、大丈夫。ちゃんと靴も履き替えてきてるし……」  奥さんは足を上げて、少し汚れたスニーカーを見せた。 「それで、もう民宿には戻れないと思うんです。そういう風にご主人に……」 「分かった。分かってる」 「あ、あのぉ。金ないでしょ。持ってきてないでしょ?」  新田が財布から一万円札を出して渡すと、奥さんは何も言わずに受け取った。ドアが開く。信号待ちをしている人々が、オレンジ色の車を見ている。 「あの、奥さん。俺……」  降りようとする奥さんの腕を、新田は掴み、すぐに放した。 「なに?」  引き止めるつもりはなかったのに、振り向いた奥さんが微笑んでいた。 「あ、あの……そ、そうだ。来週、来週の土曜日。ここで会いませんか? この時間にここで」  奥さんが車の時計を見る。十一時になろうとしていた。民宿では新田が小屋へ戻る時間だった。  奥さんは返事をせずに車を降りた。そのまま行ってしまうかと思っていると、歩道で振り返り、通行人たちに遠慮しながら、新田に小さく手を振った。後ろから来た男にぶつかられ、フラッとよろける。そのまま奥さんは駅の方へ歩き出し、新田は遠ざかるその背中を見送った。背中はすぐに人込みに紛れてしまい、どの背中を追っていたのか分からなくなった。いろんな背中がこっちへ歩いてくるように見え、逆に人々の顔が遠ざかっていくようだった。新田は奥さんのいなくなった助手席を見た。この人のことをすぐに忘れてしまいそうで、ぞっとした。  その夜、代々木の自宅へ戻ると本当に会社から連絡があって、シャワーも浴びずに会社へ向かった。隣のデスクの奴が米国債の先物で出した損失を何年も隠蔽していたのが発覚したのだ。休暇は切り上げられ、自宅へもなかなか帰れない日々が続いたが、新田はうまくチーフに取り入って、解雇される同僚のおいしい仕事だけを手に入れた。  奥さんとの約束を思い出したのは、パーティー・コーディネーターの女を車に乗せて、新宿の駅前を偶然に通りかかった時で、約束した日をすでに三週間も過ぎていた。  信号で停まっていると、助手席の女が、「オープンカーって寒くなると不便よね」と言った。  京王百貨店前の歩道を大勢の人が歩いていた。車は、奥さんを降ろした場所より、少し前方に停まっていた。成田空港で友達を待ち続けた外国人の話を知っているかと新田が聞くと、助手席の女は「知らない」とあっさり答えた。  初 出    熱 帯 魚 「文學界」平成十二年十一月号    グリンピース「文學界」平成十年五月号    突  風  「文學界」平成十一年十二月号  単行本 平成十三年一月 文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 平成十五年六月十日刊