[#表紙(表紙.jpg)] 観音信仰殺人事件 吉村達也 [#改ページ]     妹  妹が日傘を回す  くるっ くるっ くるっ  おひさまがつられて笑う  うふっ うふっ うふっ  陽のあたる場所が似合うのは  私よりも あなた [#改ページ] (写真省略) [#改ページ] 目 次  はじめに  第一章 盗まれた「観音」  第二章 人面木は見ていた  第三章 観音への執着  読者のみなさんへ  第四章 消せなかった真実  エピローグ  取材旅ノート [#改ページ]   はじめに      平田均(朝比奈耕作の友人)  みなさんは写真集というものを買ったことがあるだろうか。  写真集といっても、風景写真ではない。タレントの写真集である。最近では猫も杓子《しやくし》もヘアヌードという風潮があるが、脱ぐ脱がないは別にして、こうした写真集は、当然のことながら一冊の単価が非常に高い。  ちょっとしたハードカバー写真集なら、最低でも定価は二千円台。タレントの格や話題性によっては出版社側も強気で、三千円、四千円……中には、一万円の大台に手が届きそうな超豪華版まである。  ぼくの友人である推理作家の朝比奈耕作《あさひなこうさく》が出している新書判や文庫本の値段に較べると、四、五倍から十倍……。だから、写真集が当たれば大きい。印税にして何千万、バカ当たりしたら億単位のお金が転がり込んでくるのも夢ではない。  そしてこのぼくが、どういうわけか、その写真集制作の片棒をかつぐ羽目になってしまった。  もうみなさんはよくご承知だと思うが、ぼくは転職そのものが趣味ではないかといわれるほど、コロコロと仕事を変えている。周りの人からは、そんな不安定な暮らしをしていて、よく将来が心配にならないな、と呆《あき》れ顔にたずねられる。  だが、定期的に職業を変えることでいつも新鮮な人生を味わう、というぼくの哲学に自分で疑問をもったためしはない。  そんなわけで、つい先日も職業を変えて新しい仕事についたのだが、これが何かというと、弱小出版社のタレント本編集者なのだ。  いままで転職にあたっては、事前に他人の意見を聞くことはまったくなかったが、さすがにこんどばかりは、大親友の朝比奈耕作にアドバイスを求めた。推理小説とタレント本ではだいぶジャンルが異なるが、それでも出版という世界に変わりはないからだ。 「う〜ん」  海洋堂出版という名前を聞いたとき、朝比奈耕作は、なんとも複雑なうなり声を出した。 「海洋堂ねえ……」 「どうしたの」  ぼくは不安になって耕作にたずねた。 「評判悪いの? その出版社」 「そうじゃないけど……」  耕作は案じるような顔でぼくを見た。 「海洋堂出版って、マリンスポーツ専門の出版社みたいな名前だけれど、実態はほとんどポルノ系の雑誌しか出してないからなあ」 「それは知ってるよ」  ぼくは言った。 「それを承知のうえでの転職なんだけど」 「べつにぼくはポルノ系出版社をどうこう言うつもりはないけど、平田《ひらた》みたいに転職を繰り返す哲学の持ち主だと、次にまたどんな企業に勤めるかわからないだろう。ひょっとしたら超カタブツの企業へ行くかもしれない。平田の場合は守備範囲というか、攻撃範囲が広いから」 「うん」 「そういうときに、職歴の中に海洋堂出版という名前があると、損かもしれないよね。こんな言い方したら海洋堂の人には悪いけど」  さすが朝比奈耕作、先の先まで読んで心配をしてくれる。 「だけどね、耕作、このあいだ面接で会った社長の丸尾《まるお》さんは、ウチもいつまでもポルノばっかりじゃなくて、知名度のあるタレントの本を出して、出版社としてのイメージも変えていきたいというんだよ。ついては、あらたに編集部を設立させるから、その部門に新しい血を投入する意味で、ぜひ協力してもらえないだろうか、と」 「それで、面接に受かったわけ」 「うん。しかもいきなり副編集長だって」 「へえー」  耕作は、カフェオレ色に染めた髪に手を突っ込んで呆れた声を出した。 「まったく編集経験のない平田に副編かあ」 「すごい決断をしてくれたよね、社長も」 「すごいというより、いいかげんかもしれない」  耕作はひどいことを言う。  だが、言ったあとですぐにフォローする。 「だけど、平田の人柄だよね。いきなりそういうポジションにつけてもらえるなんて。出雲《いずも》で、どうにもならない旅館に勤めたときも、いきなり立て直しの責任者である開発プロデューサーに抜擢《ばつてき》されただろ」 「そういえばそうだったな。でも、あのときは殺人事件に巻き込まれて大変だった」 「ああ、出雲信仰殺人事件ね」 「そうそう」  うなずきながら、ぼくはハブがとぐろを巻いているイメージを思い浮かべた。  あのときは、ある意味でヘビが事件の主役だった。 「それからほら、北海道の大雪山にあるスキー学校に就職したときも、いきなり副校長だったじゃないか。初心者に毛の生えたような滑りしかできなかったくせに」 「毛も生えなかったよ」  ぼくは言った。 「直滑降に斜滑降、それからボーゲンがやっとだったんだから。それでよくスキー学校の副校長なんかにさせられたものだと、自分でも感心するよ。……だけど、あそこでも殺人事件に巻き込まれたんだ」 「ああ、『北斗の星』殺人事件ね」 「そうそう」  またうなずきながら、ぼくはソリに乗って滑ってきた生首のイメージを思い浮かべた。このときは、猛吹雪に閉ざされたスキー学校のロッジの中で、オカルト映画顔負けのとんでもない事件が連発した。  そのほかにも、舌切り殺人鬼の事件(『伊豆の瞳《ひとみ》』殺人事件)とか、顔をつぶされた富豪の娘の事件(『戸隠の愛』殺人事件)など、思い返すといろんな出来事に巻き込まれてきたものだ。 「するとこんども……」  ぼくの内心を見透かしたように、耕作が言った。 「平田は殺人物語の登場人物になるのかな」 「冗談じゃないよ」  即座にぼくは言い返した。 「勤め先を変わるたびに殺人事件とご対面なんて、そんな繰り返しはもうたくさんだ」 「だろうね」  耕作は笑った。 「で、とりあえずは副編集長としてどんな仕事をやるんだ」 「社長は、最初から大きな仕事をやってもらうつもりだと言ってるよ」 「大きな仕事とは?」 「さっき言った、脱ポルノ路線の第一弾としての大物タレント起用の写真集だって。それも世間がアッというような超人気タレントだって」 「ほんとかあ、それ」  耕作は懐疑的だった。 「売れなくなった『元・大物タレント』がお金目当てで見苦しいヌードになる、というんじゃないのか」 「ぼくも最初はそう思ったよ。だけど、絶対に違うって社長が言い張るんだ」 「で、具体的に誰なんだ」 「それが教えてくれないんだよ。正式にあなたが入社してくれたときに話す、って。ただ、若手の女優だと言ってた。若手女優で五本の指に入るくらいのランクだって」 「いまの若手女優でベスト5といえば……」  あんがいこういうことに詳しい耕作は、誰もが知っている名前を次々に挙げていき、その最後にこの名前を口にした。 「……あとは、鮎川麻貴《あゆかわまき》といったところかな」 「鮎川麻貴ねえ」  さすがに具体的に名前を列挙されていくと、どの女優も可能性がゼロに近いことを思い知らされた。  とりわけ耕作が最後に名前を挙げた鮎川麻貴などは、ベスト5どころかベストワンといってもいい存在で、しかも清純派。いくら社長が意気込んでも、ポルノ出版のイメージが強い海洋堂出版から写真集を出せるわけがない。  いや、彼女にかぎらず、人気女優だったらやはり海洋堂出版から本を出すのは避けるだろう。どんなにお金を積まれたって、タレントイメージというものは大切だからだ。  そう考えていくと、さすがにぼくも丸尾社長の言葉に疑問をもつようになってきた。 「やっぱり、なんか怪しげな出版社かな」 「少なくとも、社長の言う大物タレント起用路線というのは怪しいね」  耕作は言った。 「でもまあ、だまされるのも人生経験だと割り切るんだったら、いちど就職してみるのもいいんじゃないかな」 「ちょっと、そんなふうにいきなり突き放さないでよ」 「でも、平田はいちど出版社勤めはやってみたいと思っていたんだろ」 「それはそうだけど」 「だったら、話を受けてみろよ」  耕作もいいかげんなやつで、慎重な態度をとっていたかと思うと、怪しげな話なのを承知で就職しろという。  でも、たしかに編集の仕事というのは一度やってみたかったので、せっかく内定までもらった話を断るのももったいなかった。  それに……。  それに、ぼくがポルノ系出版社として知られた海洋堂への就職に前向きなのは、もうひとつ理由があった。 「じつはね、耕作」  ぼくはためらいがちに切り出した。 「ひとつだけまだ話していなかったけど、丸尾っていう社長だけど……」 「うん?」 「女性なんだよ」 「え、男じゃなかったのか」  思ったとおり耕作は意外そうな声を出した。  それはそうだろう、エッチな本ばかり出している出版社の社長とくれば、お腹が出ていて脂ギトギトの中年のオッサンを思い浮かべるのが妥当なところだ。 「で、どんなタイプの女性?」 「どんなタイプだと思う?」  と、逆にぼくは聞き返した。 「そうだなあ……」  耕作はちょっと考えてから言った。 「年の頃は五十代後半。髪をショートにしたオバサンで、いわゆる男まさりというか、女を感じさせない迫力がある。目は大きくて鼻も大きくて唇も厚い。しゃべったときのダミ声もすごいパワーだ。背は決して高くないが骨太の体型。当然のことながら、男性社員はすべてクン付けで呼ぶ。いや、ひょっとしたら呼び捨てかもしれない。派手な花柄模様のワンピースが好きで……そうそう、メイキャップだけれど、眉毛《まゆげ》を茶色っぽく描いてアイシャドーはブルー」 「おいおい」  ぼくは苦笑いを洩《も》らした。 「いくら想像力が商売の推理作家だからといって、ずいぶん事細かにイメージを決めつけちゃうんだな」 「でも、いかにも丸尾シャチョー、っていう感じだろう」  耕作は、自分の推理にかなりの自信のある顔をしてぼくに確認を求めた。 「どう? どれくらい当たってる」 「大はずれ」 「大はずれ?」  耕作は、いかにも意外だという声を出した。 「ぜんぜん当たってないの?」 「ぜんぜん」 「年も?」 「五十代後半など、とんでもありません」 「いくつなんだよ」 「三十六歳」 「へー」  耕作の目が見開かれた。 「それで超美人」 「うそだろう」  ますます耕作の目が大きくなった。 「顔立ちが整っているからヘタに化粧で作る必要もない。だからナチュラルメイク。服のセンスもシック。言葉づかいも上品で、声も穏やか」 「は〜」 「背もスラッと高くて、骨太どころかどちらかといえば華奢《きやしや》な感じだよ」 「………」  もはや耕作は言葉も発しない。 「あ、そういえばひとつだけ、当たっているところがあったよ。髪の毛がショートだというところ。ショートボブなんだ」 「それでポルノ出版の社長」 「そう」 「どうりで」  耕作はため息をついた。 「平田が就職にこだわるわけだ」 「まあね」 「じゃ、平田が就職したら、ぼくにも紹介して、その社長」 「ダメダメ」  あわててぼくは手を振った。 「耕作はモテるから会わせたくない」 「根はマジメだよ、ぼくは」 「それはわかってる」 「だったら会わせて、その美人社長に。なんだったら、海洋堂出版からミステリーを……」 「なにいってんだよ」  まったく朝比奈耕作という男は、小説を書いているときと殺人事件が起きたときは、えらくマジメになるのだが、ヒマをもてあますとこんなふうに軽薄になるときがある。 「耕作には草薙葉子《くさなぎようこ》さんという理想的なフィアンセがいるんだからおとなしくしていなさい」  ぼくは説教した。 「風吹村の事件で葉子さんと出会って以来、婚約まではトントン拍子にきたのに、そのあとの展開がちょっと遅いんじゃないの。長すぎる春ってやつになるよ」 「それは大きなお世話」  耕作はほおをふくらませた。 「きょうは平田の相談ってやつを聞くために会っているんだよ」 「そういえばそうだった」 「そういえばそうだった、じゃないよ。その調子だと、もう自分で結論を出しているんだろ」 「まあね」  ぼくは照れながら白状した。 「美人社長から副編集長にぜひ、とまで言われちゃうとねえ……会社イメージがどうとか、給料がどうとかって問題じゃなくなるでしょ。少しは不安もあるけれど、ともかくやってみるよ。殺人事件にさえ巻き込まれなければ、トラブルもまた人生勉強と思えるし」  耕作は、やれやれという顔でぼくを睨《にら》んだ。  彼が呆《あき》れるのも無理はない。けれどもぼくは、本気で社長に一目ぼれをしてしまったのだ。丸尾|涼子《りようこ》という海洋堂出版の社長に……。  だが——  ぼくの見通しは甘かった。  美人社長のもとで働けることになったのはいいが、またしてもぼくは、新たな殺人事件に巻き込まれ、いつものように朝比奈耕作の応援を頼まなければならなくなったからである。 [#改ページ]   第一章 盗まれた「観音」      1(証言) ◎財前和正《ざいぜんかずまさ》(55) 写真家 「ちょっと冗談じゃありませんよ。あたしゃね、わるいけど三十年以上もこの業界でメシ食ってきてるんですから……ええ。だから、年はとってもカタいところはしっかりカタいんだ。口がね、口が堅いっていうんですよ。  だってそうでしょ。天下の鮎川麻貴がですよ、あたしのカメラの前だったら脱いでもかまわないって覚悟決めてくれたんですから。こりゃビッグニュースですよ。もしもこの企画が公になったら、もう世間は大騒ぎで仕事になんない。だから撮影が終わるまでは完全極秘態勢ですすめようってことになっていた企画なんだ。  そういうマル秘事項をですよ、このあたしが口を滑らせたりするもんですか。だいたい、秘密を洩《も》らしたらこの企画はボツになる。そうなったら、本来あたしが頂戴できるはずのン千万円という印税だってパーになっちゃうんですから。そんなバカなことするわけないでしょ、いくらあたしがお金に不自由していなくってもさ。  どっちにしても、あたしに疑惑のまなざしを向けるところからして失礼だ、っていうんですよ。あたしはプロですからね。商売人の財前ですからね。いざ仕事となったら、いいかげんなことは絶対にしないんだ。その私に向かって、鮎川麻貴の事務所の連中がなんだかんだとウルサイこと言うから、あたしも怒ったんですよ。本気で怒らせたら恐いですからね、あたしは。いつもヘラヘラと幇間《たいこもち》みたいな言葉づかいばかりしてるわけじゃありませんよ、ほんとに。  ええそうです、ですからキャンセルしたんですよ、今回の仕事は。たとえ鮎川麻貴の仕事でも、やらねえって大ミエ切っちゃった。そしたら銀座プロダクションの梓《あずさ》社長なんぞは、いまになって引っくり返ってあわてているみたいだけどね。だけどあんた、いまさら詫《わ》びを入れられてもそうはいきませんよ。天下の財前和正をアイデア泥棒呼ばわりしてくれたんですから、あたしゃ許しません、絶対に。もう二度と鮎川麻貴の写真なんか撮るもんですか」 ◎伊東《いとう》 真《まこと》(21) 財前の撮影助手 「はい。自分は今回の件で、財前先生からぶん殴られました。おまえだろう、ペラペラペラペラ外に向かっておしゃべりしたのは、って。でも、自分は絶対にそんな軽率な真似はしていません。財前先生くらいの大物写真家になると、極秘の撮影というのはいくらでもあるんです。そのたびに企画を外に洩らしていたら、とても撮影の助手は務まりませんし、先生もこの伊東真を心から信用してくださっているからこそ、いままでずっとクビにならずにきたんです。  周りの人は誤解しているので、ひとこと言わせてください。たしかに自分の給料は安いです。でも、それを不満に思ったことなんかひとつもありません。日本じゅうのカメラマン志望者で、財前先生のアシスタントをやらせてもらいたいと願っている人間がどれだけいるか。  自分は、その何百分の一かのチャンスをいただいたんです。ですから、給料の金額なんて気にしたことはありません。まして、お金欲しさのために、鮎川麻貴さんの写真集で使うアイデアを誰かに洩らしただなんて……そういう疑いはひどすぎますよ」 ◎水田健二《みずたけんじ》(33)『四季書房』編集者 「いま人気抜群の鮎川麻貴が脱ぐというのは、そこらの女優が脱ぐのとはワケが違うんですよ。インパクトが違うんです、ぜんぜん。  こんなたとえは古いかもしれませんけれどね、十七歳のときにデビューして以来、麻貴ちゃんは吉永小百合《よしながさゆり》の再来かと騒がれつづけてきたという、いまどき珍しい清純派女優なわけでしょう。その彼女が、二十三歳になったのを期して、いきなりまばゆいばかりの裸身をさらけ出そうというんですから。  ……まばゆいばかり、といったって、もちろん実際に見たわけじゃありませんよ。でも、目にすることは不可能と誰もが思っていた麻貴ちゃんの裸身が、ついに見られるところだったんです。信じられないでしょう? 夢ですよ、これは。夢のような企画だったんですよ。  昔、『山口百恵《やまぐちももえ》は菩薩《ぼさつ》である』と言った人がいたじゃないですか。その言葉をちょっとアレンジさせてもらえば、『鮎川麻貴は観音である』といってもいいんじゃないですかね。今回企画された写真集のタイトルを『観音』としたのは、麻貴ちゃん自身だったんです。いいタイトルじゃないですか。鮎川麻貴の清楚《せいそ》なヌードを象徴するような題名でしょう。  四季書房もね、社運を賭《か》けてこの写真集制作に取り組もうとしていたんです。ウチも決して小さな出版社ではないが、本来もっと大手の出版社が手掛けるはずの企画ですよね。それを銀座プロダクションの梓社長がウチの社に回してくださったのは、四季書房が女性向けの雑誌を中心に出しているので、そのソフトなイメージがよいと判断されたからなんです。そういう配慮をいただいたら、こっちも燃えますよ。ぼくら編集だけじゃなく、販売や宣伝の連中も、やるぞー、売るぞーって気勢が上がっていたんです。  ところがですよ……わかりますか。この企画を盗作されたんです、ぼくたちは。海洋堂出版というポルノ本ばっかり出している三流出版社にね。  それも『観音』というタイトルばかりか、中に観音開きのパノラマページを作るという構成のアイデアまで、財前先生と相談していた内容そのままなんです。そして、矢島麗《やじまれい》という、どこかに消え去っていたタレントの、AVまがいの興味本位で下品な写真集のネタとして盗用されたんだ。これは黙っていられませんよ。  なんだって? おまえがネタを横流ししたんじゃないか、って? 殴りますよ、あなた」 ◎若林《わかばやし》 茂《しげる》(37) 銀座プロダクション制作課長          鮎川麻貴チーフマネージャー 「なんだかみんな舞い上がっているけど、いまさら興奮したって仕方ないんじゃないかな。出版社の連中や、財前先生までが助手を疑って殴るの殴らないのと……まったく大人気ないですよ。  誰が企画を洩《も》らした犯人なのか、などという問題は、もういいんです。どっちにしても、麻貴の写真集の話はもうナシだな。ウチの梓社長もそう考えていると思いますよ。マスコミときたら、海洋堂出版の盗作問題には少しも焦点を当てずに、鮎川麻貴が脱ぐ決心をしていたという点ばかり強調するでしょ。  こんな調子だと、仮にこれから仕切り直しをしたって、次はもうこんどみたいなショックを世間に与えることはできない。それでは麻貴にとって仕事としてやるメリットがないでしょう。  べつに、ウチの場合はね、写真集を何がなんでも出さねばならぬ、という状況にはないんです。なにしろ若手女優としての人気はナンバーワンなんだから。そうでしょ。こういっちゃナンだけど、ヘアヌードにならなきゃメシが食えない連中とは違うんだよなあ、麻貴は。安売りはしませんよ、麻貴のヌードは」 ◎梓圭一郎《あずさけいいちろう》(51) 銀座プロダクション社長 「この件に関してはノーコメントだ。私から言うことは何もない。麻貴がヌード写真集を出す企画があったかどうかについてもコメントできない。これから出す予定? ないよ、そんなもの。  うるさいな。もうしゃべることはなにもない。どけっ、どけよ、そこ。急いでいるんだ」 ◎早乙女慎太郎《さおとめしんたろう》(27) 鮎川麻貴担当ヘアメイク            &スタイリスト 「やあねえ、みんなアタシのこと疑っているのよ。慎太郎、おまえが計画を洩らしたんだろう、って。やめてちょうだいよ、っていうのよ。アタシ、こうみえてもおしゃべりなようでいて、ほんとメチャクチャ口が堅い人間なのよ。それにさ、アタシが麻貴ちゃんの不利になるような真似をするわけがないってば。だってアタシ、麻貴のこと愛してるんだから。  ちょっとちょっと、本気にしなさいよ。ほんとに心から愛してるのよ、アタシは麻貴のことを。……ったく、誰も信用してくれないのね。そうなのよ、麻貴だって、ちっともアタシのこと、男だと思っていないんだから。  そりゃたしかに、アタシは彼女のスタイリストよ。だけどいちおう男なのにさ、麻貴ったら衣装替えのときなんか、アタシの前だと平気でスッポンポンになっちゃうのよねー。だからヌード写真集なんか作らなくたって、アタシはとっくに麻貴のヌード見ちゃってるわよ。たしかにいい身体してるわよ、あの子。着やせするのよねー。外からじゃわからないけど。  ま、それはともかく、麻貴はね、ほんといい子なのよ。とっても気さくで、明るくて……。それなのに、ちょっと周りから誤解されるところがあるのよね。  なんでかっていうと、ほら、あの子って、いつも感性がビンビンにとんがってるじゃない。そうするとさ、鈍感な男にいらだっちゃうみたいなのよ。クリエイティブな感性に欠ける鈍感な人間にね。といっても、アタシからみれば、その人たちが鈍感なんじゃなくて、どっちかというと、麻貴のほうが敏感すぎるんだけど……。  だから、財前先生とかアタシはいいわけよ。それから、財前先生のアシスタントのマコトくんなんかもね。でも、出版社の水田なんかは嫌われてしまうわけね、麻貴から……。なぜかといえば、組織の人間だから。  麻貴もちょっと先入観念にとらわれすぎの傾向があるけど、とにかく組織にいてお給料で仕事をしている、いわゆるサラリーマンって立場の人間をバカにする傾向があるわね。そこが彼女らしいといえばいえるんだけど……。テレビ局でも出版社でも、サラリーマンとして組織の立場で物を言う人間は、とことん嫌うのよ、あの子は。  だからさ、そういう意味では、麻貴に対してよくない印象を持っている業界人は、あんがい多いかもしれないわ」 ◎丸尾涼子《まるおりようこ》(36) 『海洋堂出版』社長 「わたくしどもが鮎川麻貴さんの写真集の企画を盗んだという事実は、一切ございません。矢島麗さんで『観音』という写真集を撮る企画は、もうずっと前からございました。  そもそも今回の盗作騒ぎは、四季書房さんから持ち出されたものですけれど、これまで公式非公式を問わず、先方が鮎川麻貴さんの写真集について企画発表をなさったことがありますかしら。ないでしょう。それでは、いくらこっちが先だとおっしゃられても、企画を盗んだという客観的な証拠がありませんものね。  当方には少しも非はございませんので、黙って事態の成り行きを見守っておりましたが、わたくしどもに対する誹謗《ひぼう》中傷があまりにひどいと感じておりますので、場合によっては弁護士さんを通じて名誉毀損による告訴も検討しております。  え、実際に『観音』がどれくらい売れたか、ですか。わたくしどもは公称部数という上げ底の数字が嫌いですから実売で申し上げますけれども、定価は三千五百円で七万部は売れました。大ヒットというほどではありませんけれど、まずまずの成功ですね。  矢島麗さんが手にした印税ですか。それは具体的には申し上げられません。もちろん千万の単位になるのはおわかりですわね。  え? このわたくしがポルノチックな本ばかり出す会社の社長をやっているのが、そんなに不思議だとお感じになりますの? そうですかしら。どちらかというと、ファッション産業の社長のほうが似合いですって? まあうれしいわ」 ◎鮎川真知子《あゆかわまちこ》(47) 麻貴の母親 「娘がヌード写真集になる企画があったのか、ですって? ええ、ありました。私はきれいなものだったらかまわないと思いましたわよ。ただし、カメラマンは絶対に財前先生でという指定でね。財前先生ならば、きっと麻貴をきれいに撮《と》ってくれるはずですから。  一口にヌード写真集と言っても、ピンからキリまであるんじゃありません? 清潔感のある写真だったら、裸の美しさはすばらしい芸術だと思いますわよ。麻貴の年齢なら、まだ肌もきれいでしょうしね。その時期の自分の姿をベストの形で記録しておくことは、本人のためにもいいと思っています。  こんどのトラブルは困った出来事ですけれど、次のチャンスがあれば、前向きに検討してもよいと思いますわ」 ◎鮎川源三《あゆかわげんぞう》(51) 麻貴の父親 「娘がヌードになるだと? とんでもないぞ。噂《うわさ》であってもそんな話が出るだけで不愉快だ。だから私は麻貴の芸能界入りに反対していたんだよ。なに? 女房は娘が脱ぐことを認めているだと。バカ言っちゃいけない。うちは父親の私がすべてを決めるんだ。女房が何を言おうが関係あるもんか。  それにだいたいだな、きみらは何だ。こんな夜更けに、事前の約束もなく人の家に押しかけるなんて。芸能界とかマスコミの連中は、そういう非常識な輩《やから》が多いから私は好かんのだ。帰れ! 帰りたまえ!」 ◎鮎川麻貴《あゆかわまき》(23) 女優 「わたくしは、そういった騒ぎは少しも存じあげておりません。恐れいります、そこ、通していただけますか。次の仕事がありますので」      2 「平田くん」 「はいっ」  社長の丸尾涼子に声をかけられ、デスクに座っていた平田|均《ひとし》は、勢いよく立ち上がり、まるで授業中に先生から指された小学生、といった返事をした。 「いいお返事ね」  と、涼子はくすっと笑う。 「お行儀の悪い人たちに見習わせたいわ。ちょっと応接室のほうへきてくださる?」 「はいっ、社長」  と、また行儀のよい返事を繰り返すと、平田は自分の席を立って、社長席の奥の応接室へと向かう。  その後ろ姿を、七人ほどいた周囲の編集スタッフが興味深げに目で追った。  海洋堂出版は、新宿・歌舞伎町のすぐ裏手にある雑居ビルの五階と六階を借りている。五階が販売・広告・宣伝のフロアで、六階が編集と総務、それに社長席がある。  社長の居場所を部屋で囲っていないのは、丸尾涼子本人の方針で、つねに編集現場を自分の目で見るためだという。  それにしても海洋堂出版はこぢんまりとした所帯で、正社員の数は全部署を合わせてもたったの十五人。それ以外の人手は、すべて契約社員とアルバイトで補っていた。  とくに編集は、いちおう『部員』と呼ばれてはいるものの、そのほとんどは外部の契約社員で構成されていた。  雑居ビルの細長い間取りのフロアは、ただでさえ圧迫感を感じるが、そこへもってきて、オフィスの壁や天井にまで所狭しと貼《は》られたポスターの存在が、より一層、室内を狭苦しく感じさせていた。  しかもそのポスターたるや、どれもこれもすべてヌード。おまけに、裸の女性のポーズのとり方がすさまじい。  はじめて編集部に出勤してきた平田は、まずこの『内装』にギョッとなった。  くわえて、編集部の机は、どこをみてもこれ以上散らかしようがないほどグチャグチャに乱れている。その雑然としたところは、世間一般の編集部と似たりよったりだが、違うのは、机の上に置いてあるモノである。  これまた裸、裸、裸——  とにかく、いたるところにポルノ写真のたぐいが散らばっている。  現像所からあがってきたポジフィルム、モノクロの紙焼き写真、色刷りの校正紙になったもの、あるいは読者から送られてきた投稿のポラロイド写真——形態はいろいろあれど、ともかく編集部の机の上は、こうした写真で完全に埋め尽くされていた。世の市民団体の女性が見たら、ひっくり返りそうな光景である。  また、写真にまじってほうり出されている原稿用紙などに目をやっても、純情な平田などはドギマギして赤面してしまうような内容のものばかりだった。 「どう? ウチの雰囲気にもう慣れたかしら」  フロアの奥に設けられた応接室に平田を通すと、社長の丸尾涼子は、彼と向かい合ってソファに座り、まずそうたずねた。  ドキッとするほど短い黒のミニスカートから、すらりとした脚が伸びている。  上のほうに目をやると、身体にぴったり貼りついたニットのセーター。  そしてさらに視線を上にやると、ちょっと日本人ばなれした雰囲気を漂わせる、センスのよい顔立ちが平田を見つめている。  きれいとか美しいといった要素に知性が加わったとでもいえばよいのか、単純な表現では言い表せない美貌《びぼう》である。  そのポイントは目だ、と平田は思った。  丸尾涼子の瞳《ひとみ》は黒ではなく、かなり茶色味を帯びており、それが独特の透明感を彼女の容貌《ようぼう》に与えているのだ。 「どう?」  ポカンとして社長の美しさに見とれていた平田は、彼女に催促されて、あわてて返事をした。 「あ、その……まだ慣れていません」 「どんなところが?」 「いやー、なんといってもハダカだらけの環境に……」 「あらそう?」 「あらそう、って、社長。目のやり場に困ってしまいますよ」 「だけど、人間はみな裸で生まれてくるものよ」 「それはそうですけど……ふつうのハダカじゃないですからね」  平田が微妙な言い回しをした。 「たんなるヌード写真だけならぼくだって驚きませんけれど、ここの編集部にあるのはタダモノではありませんからね」 「純情なのねえ、平田くんて」  涼子は呆《あき》れ半分、感心半分のため息をついた。 「いまどきの若い男の人ではめずらしいわ」 「自分でもそう思ってます」 「でも、それくらいがちょうどいいのよね、こんどの仕事には」 「は?」 「あなたを副編として迎えるさいに、第二編集部というのを新たに作ったけれど、面接のときに話したように、そこの部署では、これまでの海洋堂出版ではなかったような本づくりをするつもりなの。だから、ポルノが苦手という純情青年は大歓迎よ」 「はあ……」  いつのまにか『純情青年』などという扱いになったので、平田はバツが悪そうな顔をした。 「そういえば社長、第二編集部の編集長というのは、どなたなんですか」  気を取り直して、平田はきいた。 「つまり、ぼくの上司にあたる人ですけれど」 「私よ」 「私って……社長が?」 「そう」  涼子はショートボブにした髪を揺らしてうなずいた。 「社長の私が編集長を兼ねることにしたの。でも、めんどうだから編集長という肩書の名刺は作りませんけれどね」 「そうなんですか。で、具体的にはどんな仕事をするんでしょうか」 「いまから説明するわ。……平田くん、吸う? タバコ」 「いえ、ぼくは」 「吸わないの? まあ、健康的ねえ」  からかうように笑うと、涼子は金色のライターでタバコに火を点《つ》け、少し目を細めて煙をゆっくりと吐き出した。  その様子に、また平田がみとれる。  それに気がついて、涼子が煙の向こうからたずねた。 「なに見てるの、平田くん」 「いや、なにをやっても絵になる人だなあ、と思って」  その言葉に、涼子は吹き出した。 「平田くんて、面白い人ね」 「そうですか」 「どうやら私の目に狂いはなかったみたいだわ」 「採用試験の基準は、面白い人がよかったんですか」  平田の言い方に、涼子がまた笑った。 「そうよ。面白い人がほしかったの。もっと別の表現でいうと、女の子が安心できる人」 「女の子が安心できる人?」 「そう。ウチのスタッフはポルノ雑誌の仕事ばかりやっているから、照れがなくなっているの。わかる? 事務的といえば事務的なんだけれど、かえってそういうのって、この世界とは無関係なところにいる女の子からすると、アブナイ感じに映るのよね。その点、平田くんは普通すぎるくらい普通でいいわ」 「はあ、なにしろ名前がそうですから」 「名前が」 「平田均の上と下をとると『平均』」 「なるほどねえ。それには気がつかなかったわ。それでね平均クン、きみにお願いしたい仕事とはほかでもないけれど、鮎川麻貴の写真集を作ることなの」 「鮎川麻貴!」  いきなり平田はびっくりした声を出した。      3 「社長、鮎川麻貴って……あの鮎川麻貴ですか」 「そうよ。どこにでもある名前じゃないから、該当する人物はたったひとりだと思うけど」  丸尾涼子は、平然とした口調で答えると、タバコをゆっくりとくゆらした。 「ほんと……ですか……」  平田がなかなか信じないのも無理はなかった。朝比奈耕作が若手女優ベスト5のトップに彼女の名前を挙げたように、鮎川麻貴といえば、清楚《せいそ》な雰囲気で男性のみならず女性からも好感度抜群という支持を得て、彼女が主演するテレビドラマは、つねにすばらしい視聴率を記録していた。  その人気最前線にある麻貴が、ポルノ系出版社の海洋堂から本を出すというのは、業界の常識では考えられないことである。  鮎川麻貴の写真集をやるという丸尾社長の言葉に平田が半信半疑なのは、ほかにもうひとつ大きな理由があった。  この海洋堂出版から先頃発売された矢島麗という女性タレントの『観音』と題するヌード写真集が、本来は鮎川麻貴のために用意された企画を盗用したものだという疑いがもたれていたからである。  事の真偽は別として、ただでさえポルノ出版のイメージが強いところへもってきて、そんな騒ぎを巻き起こした海洋堂である。とてもではないが、鮎川麻貴自身も事務所のほうも、話に乗ってくるはずがないと思ったのだ。 「まるで信じられない、っていう顔をしているわね」  平田の内心を見透かしたように、涼子は言った。 「だって、こちらの会社と鮎川麻貴とは、写真集の件でトラブっている最中でしょう」 「まあね」  涼子は軽く肩をすくめた。 「でも、あれは麻貴の周囲が勝手に騒ぎ立てているだけよ。麻貴本人はなんとも思っていないわ。……あ、そうだ。あなたにもあれを見せておいてあげるわね」  涼子はソファから立ち上がると、いったん応接室の外に出た。そして、つぎに戻ってきたときには、盗作問題で物議をかもしている矢島麗のヌード写真集『観音』を手にしていた。  矢島麗というのは、一時期、セクシーアイドルとして深夜テレビなどによく顔を出していたが、いつのまにか消え去って、最近ではその名前も聞かなくなっていた、いわば『終わってしまったタレント』の一人だった。  それが、いきなり海洋堂出版から『観音』なるタイトルのヘアヌード写真集を出して復活宣言をした。  しかし、男性読者もこの手の写真集にはもはや食傷気味となっている状況だったし、矢島麗という名前じたいにもインパクトがなかったので、企画が発表された時点では、ほとんど評判をよばなかった。  ところが中身の写真が過激なので、あっというまに口コミで広がって売れ出した。増刷を重ねてこれまでに七万部が世に出たのは、矢島麗クラスのタレントとしては異例の成功といえた。  A4ハードカバーで、表のカバー写真は、黒いシーツに横たわる全裸の矢島麗を俯瞰《ふかん》で撮影したものだ。  そして『観音』というタイトル文字は金箔《きんぱく》型押し——つまり、さわってみると金色の文字が浮き上がっているのがわかる豪華仕様である。 「黒と金という取り合わせはね、妖《あや》しいヌードに似合うのよ」  そう言って、丸尾涼子は写真集を平田の前に差し出した。 「うわっ」  はじめのほうのページを開くなり、平田は叫んだ。 「過激ですねー、これ」  彼が『過激』と評したのは、ポーズの大胆さもあったが、それよりも、ワイドな見開き構成のデザインに対して向けられたものだった。  エキゾチックなスカーフをターバン風にアレンジして髪に巻きつけ、籐《とう》で編まれたブレスレットを手首にはめている。そしてそれ以外は一切何も身につけていない矢島麗が、向こうむきにベッドに横たわり、半身を起こして顔だけカメラのほうをふり向いていた。  明らかに、アングルの名画『グランド・オダリスク』を意識したと思われるポーズだったが、そのヌードが、写真集を見開きにしたうえで、さらに折り畳んだ部分を両側へ広げて鑑賞する超ワイド画面になっている。 (写真省略)  つまり、写真の横の長さが、本を見開きにしたときのサイズの二倍あるわけで、一ページの大きさを基準にすると、通常の四倍ものワイド画面になる。いわばパノラマ写真のようなものである。それが冒頭のみならず、ぜんぶで八カットも挿入されているのである。 「それが観音よ」  感心して見ている平田に涼子が言った。 「観音?」 「そう、そのページの畳み方……というか、開き方を観音開きというのよ。ちょうど、祀《まつ》ってある観音様の扉を両側に開くようページを広げて開けるから、観音開き」 「へえ、そうなんですか」  平田は感心して、両側に広げたページを、また折り畳んでみたりする。 「ちなみに、あなたがいま見ているように、両方のページが折り畳んであって、それを左右に広げるタイプが『両《りよう》観音』、片方だけのページが折り畳み式になっているのを『片《かた》観音』というの」 「なるほどー。業界用語の基礎知識、ってやつですね。でも、こういうのって、お金がかかるんでしょう」 「そうよ。造本費は当然コストアップになるわ。なにしろ八カ所にその観音開きを入れたわけですからね。でも、それくらいのことをやらなくちゃ、矢島麗を復活させるだけのパワーが出ないのよ。写真の中身をただ過激にしただけじゃね」 「だから、写真集の題名が『観音』なんですか」 「それは業界向けの解釈。タイトルを『観音』としたのは、女性の魅力を象徴する意味よ」 「でも、そのタイトルが盗作だと鮎川麻貴サイドは言ってるんですよね」 「いいがかりよ」  新しいタバコに火を点けながら、丸尾涼子は少し怒った顔になった。 「題名の一致なんていう偶然は、出版の世界ではいくらでも起こりうる話よ。だいたいタイトルに著作権はないんですから」 「はあ……」 「ただ、鮎川麻貴のスタッフとしては、とっておきの企画を矢島麗ごときに先を越されたので、ずいぶんくやしかったんじゃない? いえ、矢島麗にではなくて、海洋堂ごときの出版社に先を越されたのがくやしかった、と言ったほうがいいかしら。そこでクレームをつけてきた。大人気ない対応ね」 「でも、当初鮎川麻貴の写真集を撮り下ろす予定になっていた財前カメラマンによると、あっちの写真集も、観音開きっていうんですか、こういうワイドなレイアウトを使う予定になっていたんでしょう。そこまで似ているとなると……」 「後からだったら、何とでも言えるわ」  涼子は、長い煙を吐き出した。 「ようするに彼らは、『観音』という題名が先に出たので腹を立てているのよ」 「そうですか……」  これ以上この話題にこだわると、社長の機嫌が悪くなりそうなのを察して、平田は話の矛先《ほこさき》を切り替えた。 「ところで、その盗作|云々《うんぬん》の騒ぎの中で流れてきたのが、あの鮎川麻貴がヌード写真集を撮る予定になっていた、という噂《うわさ》ですよね。それが『観音』だ、と」 「そうよ」  涼子はうなずいた。 「事務所の梓社長や麻貴本人は知らぬ存ぜぬを通しているけれど、財前和正や麻貴のマネージャーや、それに麻貴の母親までがその事実を認めてしまっているものね」 「信じられないなあ」  平田はフーッとため息をついた。 「あの清純派の麻貴ちゃんが脱ぐ決心をしていたなんて」 「まあ、あなたファンだったの」 「そんなこともないですけど……ただ、誰もかれもが平気で脱ぐ時代になっちゃって、あきれて物も言えないですよね」 「そんなことであきれて物も言えなくなる人が、ウチにきちゃったのね」  また涼子がからかい半分に言ったが、平田のほうはいたって真面目《まじめ》な顔でうなずいた。 「不特定多数の読者の前に裸をさらけ出すなんて、ぼくにはまるで理解できませんよ、そういう感覚は」 「そう?」 「だって、とくに鮎川麻貴クラスにもなれば、お金のために脱ぐ必要なんか、まるでないわけでしょう」 「それはそうよ」 「だったら、何のためにヌードになるんですか」 「その疑問は、ご本人と仲よくなって直接きいてみたら?」 「は?」 「ここから仕事の話に戻るわけよ」  社長の涼子はタバコをもみ消し、平田が見ていた矢島麗の『観音』をパタンと閉じると、私に注目しなさいといった態度で、ソファに背をもたせかけた。  そして、平田の目が自分に注がれたのを確認すると、超ミニをはいているにもかかわらず、ゆっくりとした動作で脚を組んだ。  どこかの映画で見たようなポーズだが、丸尾涼子がそれをやると心憎いほど決まる。 「あ、あの……」  目のやり場に困った平田は、少し赤くなりながらきいた。 「それで、仕事というのは、なんでしたっけ」 「鮎川麻貴の写真集よ」 「ああ、そうでした。でも、彼女が海洋堂出版からヌードを出すなんて……」 「誰もヌード写真集だとは言ってないでしょう。あわてないでね」 「はい。では、ヌードなしの普通の写真集ですか」 「それもちがうわ」 「………?」 「写真集といってもね、鮎川麻貴が撮られる側ではなくて、撮る側に回るの。つまり、鮎川麻貴撮影による写真集よ」 「麻貴がカメラを」 「ええ。ただしマル秘企画だから内密にね。この応接室の話し声って、あんがい外に筒抜けなのよ」 「はい」  声をひそめてから、平田は改めてきいた。 「彼女に、そういう趣味があったんですか」 「知らなかった? 彼女の腕はプロはだしよ」 「知りませんでした。……すると、写真集というよりは、鮎川麻貴作品集という感じですか」 「そうなるわね」 「で、どんなものを撮るんですか」 「大きく分けて二《ツー》パターン。ひとつは風景、もうひとつは麻貴の日常。ただし、風景のほうに関しては、すでに撮りためたものがずいぶんあるみたい。今回、ウチの本で撮り下ろすのは日常生活のほう。でも、日常生活というくらいだから、基本的には彼女が毎日の暮らしの中で、何か感じるものに対してシャッターを押すわけだけれど、一、二回はスタジオ撮影とか、風景撮影もかねて旅に出るのもいいわね」 「で、その本の担当をこの私が?」 「そうよ」 「で、現場の編集には誰がつくんですか」 「誰がって、あなたよ」 「え? だけどぼくは出版界のことは右も左もわからないんですよ」 「だいじょうぶ。入稿作業の具体的なやり方は、やっているうちに慣れるから。わからないことがあったら、ほかのスタッフや私にきいて。印刷所のほうにもよく言っておくから」 「そんな……」  平田は頼りなさそうな顔をしたが、丸尾涼子は、だいじょうぶよ、ともういちど繰り返した。 「いい、平田くん。大事なことを教えといてあげるわ。よいタレント本の編集者とは、編集のノウハウをたくさん知っている人間ではないの。人柄よ、人柄。キャラクターと言い換えてもいいけれどね」  涼子の話す声には説得力があった。 「タレント本人にしても、事務所の連中にしても、売れてくればくるほど無理難題をふっかけてくるのがこの世界の常道なの。それにうまく対処するには、知識よりも人柄が重要なの」 「人柄……キャラクターですか……自信ないけどなあ、ぼく」 「自分で自信がなくても私が保証するからだいじょうぶ。いいわね」 「はあ」 「じゃ、早速だけど具体的なスケジュールを入れておいてちょうだい。来週——つまり六月に入る週ね——その金曜日の夜九時から身体をあけといて。私とあなたとで、麻貴と会うから」 「えっ、ほんとうに!」  平田は大きな声をあげた。 「この話、ほんとうにほんとうなんですね」 「あなたって疑り深いのねえ」  涼子は、ことさらに長いため息をついた。 「私が嘘《うそ》やハッタリでこんな大きな話を持ち出すと思う?」 「では、ほんとうにあの鮎川麻貴が、この海洋堂出版から本を……」 「あの彼女が、この出版社からよ」  平田の口調をまねて、丸尾涼子は言った。 「では、きょうの話はここまで。自分の席に戻っていいわ。そしてお昼からリツコにくっついて、『月刊ピーチパイ』のアダルトビデオ潜入ルポの取材に行ってちょうだい」 「アダ……アダ……」 「興奮しないで。仕事のノウハウをおぼえる意味と、海洋堂出版の本業の部分をちゃんと理解してもらうために必要な研修です」 「研修、ですか」 「そういうこと。それじゃね」  と言って、涼子は立ち上がった。 「あ、ちょっと待ってください社長。ひとつだけ質問が」  あわてていっしょに立ち上がりながら、平田は言った。 「どうして社長みたいな……」 「え?」 「いや、その、どうして社長みたいなきれいな人が、こういうポルノ雑誌の仕事を」 「平田くん」  透明感のある瞳が、平田をキッと睨《にら》みつけた。 「そういうふうに、この世界のお仕事に偏見をもつような発言は今後一切許しません。わかりましたね」      4 「なるほどねえ、それはずいぶん謎《なぞ》めいた話だなあ」  その日の夜遅く、世田谷《せたがや》区|成城《せいじよう》にある自宅にやってきた平田からひとしきりいきさつを聞かされた朝比奈耕作は、カフェオレ色に染めた髪をかきあげながら、首をひねった。 「丸尾涼子さんなる美人社長がポルノ出版を手掛けている謎も興味があるが、なんといっても不思議なのは、鮎川麻貴が海洋堂出版の仕事を請け負ったという点だ」 「そうなんだよ」  平田は大きくうなずいた。 「いくら本人の写真集じゃなくて作品集だからといったって、出版社のイメージってものがあるだろ。しかも海洋堂と麻貴とは『観音』という題名の写真集をめぐって盗作騒ぎまで起きているわけだし」 「でも平田、聞くところによると、鮎川麻貴のほうは、盗作問題に関して大っぴらに事を荒立てられない事情があるんだろう」 「うん。理由は二つ。第一に、具体的な作品の盗作とちがって、企画段階でアイデアを盗んだというのは、客観的に証明のしようがない。第二に、盗まれたアイデアというのが鮎川麻貴のヌード写真集という衝撃的な内容だったために、事務所側としては、公式にそれを認めるわけにはいかないんだ」 「そうか……」  自分でいれたコーヒーを飲みながら、しばらくの間、朝比奈は考えにふけっていた。 「恐喝かな」  間をおいてから発した朝比奈の言葉がこれだった。 「恐喝?」 「そう。鮎川麻貴本人、もしくは事務所が脅されて、やむをえず海洋堂出版の仕事を受けなければならなくなった——そう考えるよりほかに、この謎を説明できる手段はない」 「あの丸尾社長が恐喝? そんなことをするはずがないよ」 「おいおい、美人に弱いやつだなあ」  朝比奈は苦笑した。 「平田の場合は、美人は犯罪的な行為に手を染めないという誤った先入観念があるから困ったもんだ」 「だって……」 「だって、それ以外に説明がつかないだろう。天下の人気女優・鮎川麻貴にとって、海洋堂出版から本を出すメリットはどこにもない」 「でも耕作、恐喝だというのなら話が逆だよ」  平田は言った。 「盗作問題でクレームをつけかかったのは、鮎川麻貴のプロダクションのほうなんだ。もしも恐喝行為があったとしたら、彼女の事務所が海洋堂出版を脅しあげるという図式じゃないと現実的ではないよ」 「そんなふうに物事を一方だけから見るなよ。盗作の過程について考えてみるんだ」 「盗作の過程って?」 「誰がどうやって、鮎川麻貴写真集の情報を海洋堂出版に洩《も》らしたか、だよ。その過程において、外部には知られてはならない出来事があったのかもしれない。表向きには麻貴の事務所が強気に出るべきトラブルなのに、真相はその逆だったということは、じゅうぶんにありうる話だ」 「そうかなあ」  平田は釈然としない顔だった。 「どう考えても、丸尾社長と恐喝なんて結びつかないけどねえ」 「ともかく、いよいよ来週、憧《あこが》れの鮎川麻貴ちゃんとご対面ということになるわけだな」 「そうなんだ。でも、初めてだからさ、芸能人と会うのは。おれ、あがっちゃうかもしれないな」  そのときの状況を思い浮かべて、平田は急にそわそわした態度になった。 「ねえ、耕作。最初、なんていえばいいのかな。鮎川麻貴に紹介されたときに」 「なんていえばって……ふつうに海洋堂出版の平田均です、と言えばいいだろ」 「そういうときって、名刺は出すべきなんだろうか。仕事相手といっても相手はタレントだから、名刺はヘンかなあ」  平田は細かいことまで心配した。 「名刺を出すのがおかしいとは思わないよ」  朝比奈は答えた。 「ちゃんと自分の立場を証明するものを差し出すのは、初対面の礼儀だと思うけどね」 「すると、麻貴ちゃんの自宅の名刺ファイルにぼくの名刺も入れてもらえるわけか……感激」 「そこまでは期待しないほうがいい」  あっさりと朝比奈は言った。 「打ち合わせが終わったら、その名刺は麻貴からマネージャーへと渡されると思うけど」 「あ、そ。ミもフタもないお言葉。……ま、冷静に考えるとそんなもんだよね、相手が人気女優だと」  ちょっと落胆した表情を浮かべたのち、気を取り直して平田はつづけた。 「とにかく、あの鮎川麻貴がポルノ系出版社から本を出すのは確定的みたいだから、どういういきさつがその裏にあるのか探ってみるよ」 「でも、あんまり深入りはするなよ」  朝比奈が警告した。 「人気女優のトラブルに巻き込まれると、あっというまに週刊誌ネタになる。芸能マスコミに平田の顔が登場するのは見たくないからね」 「うん、そのへんは気をつけるよ」  平田は素直にうなずいた。 「ところで耕作、今晩はもうひとつ話があるんだ。話というよりも報告だけど」 「なんの報告」 「会社の研修でAV撮影現場に出かけた話。まいっちゃうんだよね、これが」  身を乗り出すようにして、平田は、ついさきほど体験した取材同行記を語りはじめた。      5 「社長、どういうことなんですか」  同時刻——  東京銀座八丁目のビルにある銀座プロダクションのオフィスでは、鮎川麻貴のマネージャーである若林茂が、血相を変えて社長室に直談判に飛び込んできた。 「マスコミで騒ぎになっている麻貴のヌード写真集の話ですよ」 「ああ、あれか」  部屋の奥に置かれた黒い鏡面塗装の机の向こう側、事務所の人間からは『大臣の椅子《いす》みたい』といわれている本革張りのハイバック・シートに身を沈めて英字新聞を読んでいた社長の梓圭一郎は、机の上に広げた新聞から目を離さずに答えた。  興奮するマネージャーの甲高い口調とは対照的に、渋く落ち着いた声である。 「ああ、あれか、じゃありませんよ、社長」  若林は早足で部屋を横切ると、梓の目の前まで歩み寄った。  テカテカに照りを出した髪の毛をオールバックにして、もみあげを長めにとってあるところは、芸能プロダクションのマネージャーというよりも、どこかのクラブ歌手のように見えるが、実際、若林はマネージャー業をはじめるまでは、まさにそのクラブ歌手で生計を立てていた。 「対外的にはうまく取り繕っておきましたが、私はこんな話は聞いていませんよ」 「ときには現場のマネージャー抜きで決まる話もある」  相変わらず梓は、淡々とした口調で答えた。その視線は、広げた英字新聞の上に置かれたままである。  五十の大台にのり、こめかみのあたりにもだいぶ白いものが混じってきた梓だが、業界人の中で群を抜いたダンディぶりに変わりはない。  欧米人とのハーフといってもおかしくない彫りの深い顔立ちは、いかなるキザな装いも、それを自然なものに見せてしまう力をもっていた。  じつは英語力はさほどではないのに、梓が英字新聞を読むと、誰もそれを陳腐なパフォーマンスだとは思わない。  自分の容貌《ようぼう》、ファッション感覚、デザイン感覚には絶対的な自信をもつ梓は、よく口にする言葉があった。  世の中には二種類の人間しかいない。センスのいい奴と、センスの悪い奴だ——これである。  この社長室の内装も、梓の注文によってイタリア人デザイナーが仕上げたもので、黒と金とワインレッドの三色を基調にして構成されていた。  社長室の机や椅子、応接セット、収納キャビネットなどは、すべて鏡面塗装の黒に金のアクセントが入り、カーペットは渋めのワインレッドで、やはり金糸のラインが刺繍《ししゆう》されていた。  銀座の売れっ子ホストにはじまり、ファッションモデル、俳優というキャリアをへて、芸能プロダクションの社長業におさまったのが、いまから十六年前、三十五歳のときだ。  以来、タレント数は少ないながらも粒ぞろいの人材を育て上げ、小規模高収益によるきわめて効率のよい経営ぶりを誇ってきた。  とりわけその稼ぎ頭《がしら》が、鮎川麻貴である。  極端なことを言えば、社長室に豪華な内装をほどこせるのも、あるいは梓圭一郎が運転手付きのロールスロイスに乗れるのも、みな鮎川麻貴の稼ぎが可能にした贅沢《ぜいたく》なのである。 「社長」  いつまでも英字新聞から目を離さない社長に業を煮やした若林は、いちだんと声を張り上げて言った。 「麻貴の出版の件について、きちんとした説明を私にください。そうでないと、現場を仕切る人間として私は責任がもてません」 「まあ、そうがなり立てるな」  ようやく顔をあげると、梓は軽い苦笑を浮かべてソファにアゴをしゃくった。 「そこへ座れ。のしかかってくるように目の前に立っていられたら、息苦しくてかなわん」  そう言って、梓も席を立ってソファに場所を変えた。 「いいか、若林」  金色のライターでタバコに火を点《つ》けると、眉間《みけん》に縦皺《たてじわ》を刻んで、梓は話を切り出した。 「おまえには話していなかったが、麻貴は前々から自分が撮りためておいた写真を、一冊の本にまとめたがっていた」 「それは知っています。あの子のカメラの趣味はセミプロの域に達してますからね」  若林は言った。 「本を出したいという希望も、本人から聞いています。それが実現するのは悪くない話だと思います。けれども海洋堂出版から出すとはどういうことです」 「どこから聞いたんだ、その話は」 「麻貴本人からですよ」  梓の向かいに座った若林は、いらだちの気持ちを貧乏揺すりに表して言った。 「来週金曜日の夜に対談のスケジュールを入れようと思ったら、麻貴がその時間はダメだというんです。最初のうちは理由を言い渋っていましたが、問い詰めたら、なんと海洋堂出版の丸尾社長と本の打ち合わせで会うという。それも、マネージャーである私ヌキでね」  憤懣《ふんまん》やるかたないといった顔で、若林はつづけた。 「麻貴いわく、これは梓社長が了解しているからいいというんです。そりゃね、私だって麻貴と社長の間で話がついていることに関しては、あれこれ口をはさんだりはしてきませんでした。けれども、今回は別ですよ。まさか社長が、海洋堂という出版社がどんな会社かごぞんじないはずはないと思いますが」 「もちろん知っている。ポルノ雑誌の発行元として有名なところだ」 「信じられませんね!」  若林は大げさに驚いてみせた。 「そこまでご承知で、そこから麻貴の本を出すというのですか」 「そのとおり」 「バックグラウンドは何です」 「バックグラウンド?」 「背景ですよ、背景。社長と麻貴が、海洋堂出版とつるむ理由です」 「………」  一瞬、梓は沈黙した。  が、それはほんの一、二秒のことで、すぐに彼は落ち着いた声を発した。 「私は社長だ。社長決裁で決めた案件に関して、そのいきさつをこまごまとスタッフに説明する必要はない」 「それは困ります」  若林も譲らなかった。 「あんな出版社から本を出せば、業界の連中が黙っていませんよ。鮎川麻貴の本を出したいと企画をもちかけてきている出版社がどれだけあるかごぞんじですか。それも大手ばかり」 「知ってるよ。十社はくだらんだろう」 「十一社です」  若林は訂正した。 「いつゴーサインが出るかと順番待ちの彼らに対して、弁解する立場にあるのはこの私ですよ。とりわけ『観音』の企画が中止に追い込まれた四季書房の水田には、どんな言い訳をすればいいんですか。海洋堂にとっておきのアイデアを盗まれたばかりでなく、こんどはそこから実際に麻貴の本が出るなんて、水田が黙っているわけありませんよ」 「力関係を忘れるな、若林」  いちだんと渋い声で、梓は言った。 「鮎川麻貴は、若手ナンバーワンの人気と実力を誇り、あの子が主演したテレビドラマはことごとく高い視聴率をたたき出している。麻貴にそっぽを向かれたら、困るのはテレビ局のほうだ。だから、ワイドショーがらみのよけいな取材は入ってこない。出版社だって大半はウチとつきあいのあるところだし、逆に、つきあいのないメディアは、どれもこれも弱小三流だ。相手にする必要などない」 「しかし、四季書房が……」 「先方が何か言ってきたら、私が話す。それも水田などのチンピラではなく、社長同士のトップ会談でケリをつける」 「じゃあ、財前先生は」  若林は、麻貴がもっとも信頼をおいているカメラマンの名前を出した。麻貴のカメラの師匠は、事実上、財前和正であるといってよかった。 「あの先生は何も言わんよ」  梓は、まるで問題はないといった口調だった。 「ほかのカメラマンの前で麻貴が脱いだともなれば大モメになるが、こんど出すのは麻貴が撮る側に回った作品集だ。大先生からみれば、弟子のお稽古事《けいこごと》といった範疇《はんちゆう》にすぎない」 「しかし……」 「しかし、はもういい」  マネージャーがなおも食い下がろうとするのをピシャリと封じると、梓は、奥行きのある二重の瞳《ひとみ》を、じっと若林の顔に向けた。 「それよりも若林、おまえのほうこそ私に申し開きをすべき事柄があるんじゃないのか」 「なにが、です」 「矢島麗の『観音』と題した写真集を、鮎川麻貴の企画にそっくりだと最初に騒ぎ立てたのは、ほんとうはおまえなんだろう」 「そうです。ウチのスタッフの中で、私が最初にあの写真集の存在に気がついたのです」 「気がついたら、まず私に報告すればよいのだ。それを、なぜマスコミなどにリークした」 「リークじゃありません。スポーツ紙の連中と飲んだとき、海洋堂出版のやり方があまりに腹が立ったので、ぶちまけてやったんですよ」 「鮎川麻貴が脱ぐという情報もいっしょに、か」 「……すみませんでした」 「すみませんじゃないだろう」  梓の声が、急に厳しくなった。 「今回の騒ぎは、企画の盗作云々が問題じゃない。鮎川麻貴ヌード写真集の極秘計画について、おまえが口を滑らせてしまった——これが問題なんだ。マネージャーのおまえがそんな調子だから、財前先生も、どうせ企画は流れたのだろうと思って、麻貴が脱ぐつもりだったことを、あっさり週刊誌にしゃべってしまった。さらにはヘアメイクの慎太郎までいい気になってペラペラと……」  いらだつ気持ちを表すように、梓は、右手にもった金色のライターを何度も点けたり消したりした。 「おかげでおれは、麻貴の両親に言い訳するのが大変だったんだぞ」 「でも、麻貴が脱ぐ件については、彼女のオフクロさんの内諾をとってあったじゃないですか」 「あの母親は、麻貴の一挙一動が話題になればなんでもいいと思っているんだ。ステージママだといっても、しょせん素人だよ。だが、あそこの父親は厳格なんだ。オフクロがいいと言っても、最終的にオヤジを説得しなかったら、すべての話は壊れるんだ」 「あのオヤジさんの許可を待っていたら何もできませんよ」  若林は、リーゼント風のオールバックにまとめた髪を片手でなでつけながら言った。 「オフクロさんだけ納得させれば、あとは見切り発車をする。それ以外に方策はないんですから」 「その考えが甘いというんだ」 「だって、オフクロさんがそれでいいと」 「母親がなんと言おうと、あそこの家庭で実際に権限をもっているのは父親なんだ。その父親が、ヌード写真集の計画を耳にしたものだから、怒り狂って大変だったんだぞ。真夜中に、私の自宅にまで直接電話をかけてきて」 「それは知っていますが……」 「あのオヤジは、麻貴を芸能界から引き揚げるとまで言ったんだ。少なくとも、もう銀座プロダクションに身柄を預けるのはやめにしたい、と……。もしもオヤジの権限で、強硬な手段に出られたらどうするんだ」  梓圭一郎は、火の点いたタバコの先を、マネージャーの鼻面に向けた。 「いま麻貴に引き揚げられたら、ウチの売上は激減だ。そうした心配が、すべておまえのおしゃべりから出たんだ」 「その点はおわびします」  若林は、仕方なさそうに謝った。 「麻貴の趣味の写真を本にするのも、ひとつには父親の機嫌を直してもらうための作戦なんだ」  梓はつづけた。 「父親は、麻貴の写真の才能を認めている。そして、芸能界など辞めて、いっそ写真でメシが食えるようになったほうが娘にとっては幸せだとさえ言いはじめているんだ」 「社長……」  頭を下げていた若林が、また不服そうな声を出した。 「それじゃ矛盾しているじゃないですか」 「なにが」 「オヤジさんの機嫌を取り結ぶつもりで、麻貴の写真作品を本にするんだったら、なおさら海洋堂出版ではまずいでしょう」 「そこは私もちゃんと対応策を考えている」 「どんな」 「実際に本を作るのは海洋堂出版でも、発行元は別会社を使う」 「発行元はそうしても、発売元はやはり海洋堂になるんでしょう」 「それはまあそうだ」 「だったら、対外的なイメージは変わりませんよ。そんな複雑なことをしてまで、なぜあそこの出版社にこだわるんです」 「若林」  梓は威嚇《いかく》を含んだ声で言った。 「鮎川麻貴の代わりはいないが、マネージャーの代わりならばいくらでもいるんだ。それを忘れるな」 「………」 「わかったら仕事に戻れ。わからなければ辞表を書け。いま、この場でだ」  若林の顔が紅潮し、こめかみがひきつった。      6 「家族会議というような大仰なことは、できればしたくなかった」  三人の家族を前にして、父親の鮎川源三が深刻な表情で切り出した。 「いままでは麻貴のことは母さんに任せっぱなしだったし、私もいったんは芸能活動を認めた以上、よけいなところで口ははさむまいと考えてきた。しかし、このまま事を放置しておくわけにはいかなくなった」  東京・国立《くにたち》市にある鮎川家の食卓を囲むのは、父・源三、母・真知子、長女・麻貴、そして次女・亜貴《あき》の四人である。  人気スターの自宅とはおもえないほど、そのたたずまいは質素で、台所と隣り合わせになった八畳の板の間には、麻貴が生まれる前からずっと食卓として使われてきた細長いテーブルや食器棚などいくつかの収納家具が置かれているだけで、よぶんな装飾は一切ない。  私立高校で歴史の教鞭《きようべん》をとり、生活指導主任の地位にある源三は、華美な生活を極端に嫌っていた。それゆえに、女優としてきらびやかなスポットライトを当てられている鮎川麻貴の実家だとは、まるで想像がつかない暮らしぶりだった。  もちろん、ふだんの麻貴は家族と別居して、事務所が借り受けた港区青山の豪華なマンションに住んでいる。  青山のマンションには、母はほとんど毎日顔をみせ、妹もときどき訪れるが、父がたずねてきたことはない。家族の一員として大事な話があるときは、いつもこうやって麻貴が実家に呼び戻される習慣になっていた。 「まず、最初にはっきりさせておきたい」  とがった声で、父の源三は言った。 「事務所の梓社長はやっきになって否定しているが、ヌード写真集などといういかがわしい企画があったのかどうか、まずはその事実関係を知りたい」 「いえね、お父さん。それは……」 「おまえにきいているんじゃないっ!」  横から妻の真知子が口をはさんできたのを、源三はピシッとした口調でとがめた。 「麻貴、答えなさい。おまえが裸になるという企画があったのは本当なのか」  怒りを込めて追及する父親、憮然《ぶぜん》とした表情の母親、そして心配そうな顔で見つめる高校三年生の妹に見つめられ、麻貴は答えとなるべき言葉を探して、じっと食卓を見つめていた。  四人が囲むその食卓の上には、なにもない。  骨張った父親の手だけが載っている。 「ありました」  しばらくためらったのちに、麻貴が言った。 「盗作騒ぎになった『観音』という題名で、写真集を出す企画がありました。そこで私は裸になる予定でした」  厳格な父親に対しては、敬語でしゃべることしか許されない。それが、麻貴・亜貴の姉妹にほどこされた教育である。 「誰が言い出した計画なんだ」  たずねる源三の唇が、すでに怒りで小刻みに震えはじめている。  いまから一週間前、マスコミ報道を通じて、我が娘が人さまの前で裸身をさらすという噂《うわさ》を聞いたとき、衝撃的などという月並みな表現では言い表せないほどの強烈な驚きと精神的苦痛が彼を襲った。 「言いなさい。誰が考えた企画なんだ」 「………」 「おおかた、事務所の梓社長が思いついたんだろう」 「いいえ、ちがいます」  麻貴は、きっぱりと否定した。 「じゃあ誰だ。マネージャーの若林君か」 「いいえ」 「では……そうか、財前和正だな」  思いついたように源三は言った。 「あのカメラマンが、言葉巧みにおまえをおだてあげて、無理やりウンと言わせたんだろう」 「それもちがいます」  麻貴の声がしだいに大きくなった。 「こんな大事なことを、私は誰かに強制されて決めたりはしません」 「なんだと」 「自分で決めました」  その答えのあと、異様な静けさがテーブルを覆った。  クリッとした目が女優・鮎川麻貴の魅力のひとつだったが、それは父親の源三から受け継いだものだった。  いまでは父親の源三のほうが、お父さまは麻貴ちゃんそっくりの目をしていらっしゃいますね、と言われるようになってしまったが、源三は、その大きな目を見開いて、言葉もなく娘を見つめていた。 「おまえが、自分で脱ぐと決めただと?」  その言葉が出たのは、だいぶ時間が経ってからだった。 「え、おい、麻貴。ヌード写真を撮るというのは、おまえが決めたことなのか」 「そうです」 「なぜ……理由を言いなさい」  父親の質問に、麻貴はそっぽを向いた。  芸能界入りしたとはいえ、小さいころから厳しくしつけてきた麻貴は、つねに両親の前では一定の礼節を保ってきた。その麻貴が、父親の詰問にそっぽを向くという反抗的な態度を初めてみせたのだ。  源三は、ますます信じられないものを見たという顔になった。 「自分でそんな判断をしたという理由を話しなさいと言っているんだ」 「青春の記念ですよ」  脇《わき》から母の真知子がまた口を出した。 「麻貴は、いろいろな意味で写真の美しさを知ってしまったんです。だから、自分の身体がいちばんきれいな若いときの姿を、写真に焼き付けておこうと……」 「聞いたような理屈を並べるんじゃない。真知子は黙っていなさいと言っただろう」  テーブルクロスの上に載せていた源三の手が持ち上がり、両手をいっぺんに揃《そろ》えてバンとテーブルを叩《たた》いた。 「麻貴、おまえはお父さんの立場を考えたことがあるのか」  源三は、横を向いたままの長女に詰め寄った。 「お父さんは高校の教師だぞ。教育者だぞ。しかも、生徒達の風紀を律する生活指導主任だ。その娘が芸能人だということで、ただでさえ生徒たちに示しのつかないところがあるのに、ヌードなどになられた日には、どの面《つら》さげて教壇に立てると思っているんだ」 「ですからお父さん」  また真知子が割り込んだ。 「どちらにしても、その写真集の企画はお流れになったわけですから」 「企画は流れても、噂《うわさ》は立ってしまったじゃないか。麻貴が脱ぐかもしれないという話は公になってしまったんだ。おかげで職員室でもヒソヒソ話だし、校長が父さんに事情を聴くところまできているんだぞ。おまけに、だ」  源三は、さらに声を張り上げた。 「裸の写真集の題名を『観音』とするとは何事だ。おまえは父さんの信仰を侮辱しているのか。観音さまを穢《けが》すつもりなのか。え? 父さんは、そんな娘におまえを育てたつもりはないぞ」      7  それぞれの家庭にはそれぞれの信仰がある。むろん、日本では無宗教の家庭も多い。いまや宗教宗派とは、葬式を出すときにどこのお寺のお坊さんに頼むか、という問題だけになっている家庭はかなりの数にのぼるだろう。  しかし、こうした傾向とは裏腹に、鮎川源三には特別に傾倒している信仰があった。それが観音である。  彼は結婚と同時に、無宗教だった妻を観音信仰に引き入れ、さらに授かった二人の娘にも同じ信仰を教え込んできた。  観音——  日本人の庶民の暮らしの中で「観音さま」といえば、なんとなく「女性の仏さま」のようなイメージでとらえられることが多い。たとえば落語などの大衆芸能などにおいて、「観音さまを拝む」といえば、女性器を見るのと同じ意味合いをもっていたりする。  しかし、観音とは「女性」でもなければ、正確にいえば「仏」でもない。  インド仏教において、修行を完成し悟りを開いた者が「仏」であり、別名は「如来《によらい》」となる。  お釈迦《しやか》さまを釈迦如来というのは、すなわち仏だからである。同じように、阿弥陀《あみだ》如来も仏である。  ところが、観音は観音|菩薩《ぼさつ》と称せられ、仏像などでも阿弥陀如来の脇に侍《はべ》っていることでわかるように、仏の従者であり、まだ悟りを開くまでには至らず修行中の身である。もちろん一般大衆よりは、はるかに高い位置にあるが、正式な仏ではないのだ。  にもかかわらず、日本の信仰史の中でもっともポピュラーな存在である「阿弥陀さま」と「観音さま」を比較した場合、圧倒的に観音さまのほうが庶民に普及しているのは、阿弥陀信仰が現世を否定し、末法思想に基づく極楽浄土を説くのに対し、観音信仰は、いまの人生における救済=御利益《ごりやく》を説いているからだ。  とりわけ仏教が伝わってきたころの日本は古代貴族社会であり、現世を否定するような阿弥陀信仰は、支配階級にはすんなりと受け入れられなかった。その逆に、現世における苦悩からの解放を主眼とする観音信仰は、普及の余地が大いにあった。  たとえば、右大臣の要職にまで昇りつめながら、藤原時平《ふじわらのときひら》の謀略により、西暦九〇一年に大宰府《だざいふ》に左遷された菅原道真《すがわらのみちざね》は、その苦悶から救われるために観音信仰に傾倒した。  彼をはじめとして、権力闘争の渦中に巻き込まれ、おもに敗者の側に立つ者の多くが、観音信仰に救いを求めていった。京の都一帯に観音寺が多く建てられるようになったのも、このころからである。  ところで、観音という言葉の由来となった梵語《ぼんご》は「アヴァローキテーシュヴァラ」であり、これは「観《み》る」という意味の「アヴァローキタ」と、神や自在天を意味する「イーシュヴァラ」が合体した言葉である。  だからインド仏教が渡来した中国でも唐の時代以降は、アヴァローキテーシュヴァラを「観世自在」とか「観自在」と訳している。  あまりにも有名な般若心経でも、冒頭「観自在菩薩《かんじざいぼさつ》、行深般若波羅蜜多時照《ぎようじんはんにやはーらーみーたーじーしよう》……」と唱えられている。  しかし、それ以前の古い時代の中国では、同じ言葉が「観世音」あるいは「観音」と訳されていた。この形が日本に伝わって「観音さま」となっているのだ。  観音の解釈には諸説あるが、世の声を聞く、という理解が一般的である。つまり、苦しむ衆生の悩みを聞いてそれを救う、という意味だ。  仏教には輪廻《りんね》という思想があり、人は死んでも無とならず、さまざまな形に生まれ変わりながら六つの迷界を永遠にさまようとされている。  この六道《ろくどう》とは、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道。そして、この六道の輪廻転生《りんねてんしよう》の迷いを断ち切ったときに、人は苦しみから逃れられるとする。  その助けをするのが観音菩薩である。  日本では平安時代、真言宗の僧侶《そうりよ》によって、この六つの迷界ごとに、人々を救う観音さまが決められた。  地獄道は聖《しよう》観音、餓鬼道は千手《せんじゆ》観音、畜生道は馬頭《ばとう》観音、修羅(阿修羅)道では十一面観音、人間道では准胝《じゆんでい》観音、天道では如意輪《によいりん》観音が、それぞれの救済の役割を受け持つ。  ただし天台宗では、人間道の担当は准胝観音ではなく不空羂索《ふくうけんじやく》観音となっている。  こうした観音は、人々を救うさいにさまざまな形に化身すると言われている。  観音=女性のイメージも、その仏像が女性的な柔和さに満ちているところからきているが、実際には、観音菩薩は女にも男にもなる。また、正式な仏ではないにもかかわらず、仏にも変身する。それだけではない。竜にも夜叉《やしや》にも大蛇にも変身する。  つまり、六道迷界で苦しむ者を救うのにもっとも適切な形に、自らを変身させるのである。  これが観音の三十三化身で、その三十三という数から、西国《さいごく》(近畿)や坂東《ばんどう》(関東)の観音霊場めぐりは三十三カ所になっている。  秩父の霊場めぐりだけは三十四カ所だが、これは西国・坂東・秩父の三大霊場を合わせてちょうど百にするための数合わせからきたものと思われ、やはり三十三という数字が基本にあることに変わりはない。  この観音信仰には、阿弥陀信仰に極楽浄土があるように、観音さまの住む浄土という概念がある。  それが補陀落《ふだらく》である。  これは小さな花を咲かせる樹木「ポータラカ」からきた言葉で、インド南方の島スリランカ(旧セイロン)にポータラカと呼ばれる山があり、そこがアヴァローキテーシュヴァラ、すなわち観音さまの住む理想郷であると、古来より信じられてきた。  あるいは、実在のスリランカではなく、ポータラカとはインド南方海上の架空の島とする説もある。  このポータラカを漢字にあてはめたのが補陀落で、観音信仰が伝わるインド・中国・日本各地には、補陀落にみたてた場所がいくつも存在する。  たとえば、密教の色濃いチベット仏教などは、まさに観音信仰の代表ともいえるもので、十七世紀半ばにチベットを統一したダライ・ラマ五世によって建てられ、いまもなお首都ラサの丘にそびえるダライ・ラマの宮殿「ポタラ宮」は、すなわち観音の住む補陀落を表している。  法王ダライ・ラマとは観音の化身であり、活仏《かつぶつ》として輪廻転生を繰り返しながら時の流れを超えて人々を救う姿は、まさに観音そのものとしてみなされている。  ちなみに、ダライ・ラマと対立する、チベットを代表するもうひとつの活仏パンチェン・ラマ法王は、阿弥陀如来の化身とされている。  一方、日本に目を向けると、補陀落とはべつに、古来より常世《とこよ》と呼ばれる不老不死の国の概念があり、これは海のはるか南の彼方《かなた》にあると信じられてきた。  浦島太郎のおとぎ話にある竜宮城は、常世思想の象徴ともいわれている。  そして観音信仰の伝来によって、常世思想と補陀落思想が合体し、那智《なち》の浜から一人で小舟に乗って南へ向かえば観音浄土に到達するという、南紀・熊野那智における補陀落渡海の信仰が誕生するに至った。  この熊野の那智山と並んで、補陀落信仰の拠点となっていたのが、日光の男体山《なんたいさん》である。  男体山を補陀落山になぞらえ、それを御神体に祀《まつ》るのが、東照宮に隣接する二荒山《ふたらさん》神社で、この「ふたら」という地名は補陀落《ふだらく》に由来する。そして、「二荒《ふたら》」を音読みにした「にこう」から「日光《にっこう》」という地名が発生したといわれる。  そうした背景から、鮎川源三は日光という場所に特別強い思い入れを抱いており、ことあるごとに家族ぐるみで二荒山神社への参拝は欠かさなかった。  そんな源三であったから、娘の麻貴が、よりによって『観音』という題名でヌード写真集を出す計画があると聞いて、二重の意味で怒り心頭に発したのである。      *   *   * 「とにかく、おまえの心にそのような邪念が棲《す》みついたのだとしたら、それは日頃の信仰心が足りないからだ」  源三は、麻貴を厳しい口調で責めたてた。 「情けない……父さんは、つくづく情けないと思う」 「それは、お父さんの誤解です」  麻貴は静かに言った。 「これは私なりの考えがあって決めたことです。こんどは事情があって企画が流れましたけれど、私は、自分の身体で美しさを表現する機会がまたくるのを待っています」 「やっぱり、梓という男がおまえを洗脳したんだな」  唇だけでなく、源三の肩先までが怒りで震えはじめた。 「あの男は、金のためにおまえの身体を食い物にしているのだ。おまえは、あの男に道徳心というものを奪い取られてしまったのだ」 「梓社長は関係ありません」 「いいや、関係ある」  源三は、頑としてきかなかった。 「もう銀座プロダクションなど辞めろ。梓のやつ、おまえの撮った写真を作品集にするなどという話を持ち出して、ヌード写真集の問題をすり替えようとしているが、ああいう中年ドンファンの言うことなど、もう信用できん。辞めろ、銀座プロダクションを辞めるんだ」 「それはできませんよ、お父さん」  ステージママと言われる真知子が、そればかりは母親の自分も認められないといった口調で割り込んだ。 「お父さんは、いつまで経っても麻貴を自分の娘という立場でしか見ていませんけど、麻貴はひとりだちした女優なんですよ。それも、若手では五本の指に……いえ、完全にトップを走っているといわれる存在なんです」 「それがなんだというのだ」 「麻貴には何万人というファンがいます」 「そんな人気など、幻想だ」 「幻想ではありませんよ。なによりも、麻貴を中心に、いくつものテレビや映画の仕事が回っています。コマーシャルの仕事についていえば、大企業との契約がいっぱいあるんです。そんな状況にあって、突然、事務所を替われといったって、それは無理な相談ですよ」 「事務所を替われといっているのではない。芸能界を辞めろといっているのだ」 「お父さん……」 「真知子、おまえも母親の本分を忘れて、麻貴といっしょになって欲に目がくらみ、何がなんだかわからなくなっているのだ。そんなに金がほしいのか。私が教師として稼いでくる給料では不足だというのか」 「そうは言ってませんけど」 「言ってるじゃないか。真知子、おまえはこういう質素な暮らしに嫌気がさしたんだろう。麻貴にくっついてチョコチョコ、チョコチョコ芸能界に出入りしているうちに、あらぬ贅沢《ぜいたく》を覚えてしまったんだ」  源三の怒りは止まらなかった。 「だいたい、テレビをつけたら娘が芝居をやっていたり、自動車のCMに出ていたりするというのが、異常事態なんだ。朝、新聞を広げたら週刊誌の広告に麻貴の顔写真がデカデカと載っていて、いつもスキャンダラスな見出しが添えられている——こんな毎日が異常だというんだ。そうだろう。違うか」 「慣れなければ仕方ありませんよ。麻貴はふつうの女の子とは違う立場にいるんですから」  真知子は、なんとか夫を説得しようと懸命だった。 「こういう世界を選んだのは麻貴ですし、どうせ私たちは先に死ぬんですよ。親が子供の好まない生き方を無理やり押しつけても、子供が可哀相なだけでしょう。それに、麻貴はこんなに成功しているんですよ」 「バカを言え。世間に恥をさらして何の成功だ。ふざけるな!」  源三は、こんどは平手でなく、拳《こぶし》を握ってダンダンダンとテーブルを叩《たた》いた。 「女優の鮎川麻貴がどういう立場にあろうと、父さんは断固として麻貴をまともな世界に連れ戻す。常識が通用する世界にな。……いいか麻貴、一週間だけ余裕をやる」  父親は娘に向き直った。 「その間に、仕事の整理をしろ。そして青山のマンションを引き払って、うちに戻るんだ。わかったな」 「お父さん……」  こんどは麻貴が口を開いたが、源三は勢いよく席を立った。 「もうこれ以上、おまえの弁解はきかん。父さんは言うべきことを言った。あとは、おまえがそれに従うかどうかだ。麻貴に道徳心のかけらが少しでも残っているのなら、迷うことなく答えは出せるはずだ」  そう言い捨てると、源三は三人に背を向けて奥の六畳間に引っ込んだ。  その部屋には小さな祭壇がこしらえてあり、そこに木彫りの観音が祀《まつ》ってあった。  その前に正座をした鮎川源三は、祭壇の上の漆塗りの扉を両側に開き、観音菩薩と対面して深々と頭を下げた。  そして、「妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈《みようほうれんげきようかんぜおんぼさつふもんぼんげ》」と前置きしたのち、数珠をすり合わせながら偈文を唱えはじめた。  この観音経には観音菩薩の「七難を除き、三毒を離れ、二求《にきゆう》を満足する」という功徳が示されている。  七難とは、≪火難・水難・風難・刀杖《とうじよう》の難・鬼難・枷鎖《かさ》の難・怨賊《おんぞく》の難≫のことで、すなわち、≪焼かれる・溺《おぼ》れる・翻弄《ほんろう》される・斬《き》られる・鬼に襲われる・縛られる・奪われる≫ことから観音菩薩が身を守ってくれるというものだ。  三毒は≪貪《どん》・瞋《しん》・痴《ち》≫すなわち≪貪《むさぼ》る・怒る・愚痴る≫といった気持ちを指し、これらを観音菩薩が消し去ってくれるという。  そして二求は、立派な男の子や美しい女の子を求めれば、その望みを観音菩薩がかなえてくれる、とするものだ。  鮎川源三は、長女の麻貴がたぐいまれな美貌《びぼう》に恵まれたのも、観音菩薩の功徳であると、心からそう信じていた。  だから彼は観音菩薩に感謝し、ことあるごとに観音経を唱えることを忘れない。  観音信仰においては、この経文を唱えるだけで、観音の「七難・三毒・二求」に関する功徳が得られると説かれている。とりわけ、経文の中でたびたび繰り返される「念彼観音力《ねんぴーかんのんりき》」という言葉は、それのみで観音菩薩のもつ力を象徴するとさえ言われる。  源三は、これまで経験したことのない激しい怒りを鎮めるため、席を立って即座に観音菩薩の前に座ったのである。 [#ここから2字下げ] 「世尊妙相具《せーそんみようそうぐー》  我今重問彼《がーこんじゆうもんぴー》  仏子何因縁《ぶつしーがーいんねん》  名為観世音《みよういーかんぜーおん》  具足妙相尊《ぐーそくみようそうそん》  偈答無尽意《げーとうむーじんにー》  汝聴観音行《によちようかんのんぎよう》  善応諸方所《ぜんおうしよぼうしよ》  弘誓深如海《ぐーぜいじんによかい》  歴劫不思議《りやくこうふーしーぎー》  侍多千億仏《じーたーせんのくぶつ》  発大清淨願《ほつだいしようじようがん》  我為汝略説《がーいーによりやくせつ》  聞名及見身《もんみようぎゆうけんしん》  心念不空過《しんねんふーくうか》  能滅諸有苦《のうめつしようーくー》  假使興害意《けーしーこうがいいー》  推落大火坑《すいらくだいかきよう》  念彼観音力《ねんぴーかんのんりき》  火坑変成池《かきようへんじようちー》  或漂流巨海《わくひようるーこーかい》   龍魚諸鬼難《りゆうぎよしよきーなん》  念彼観音力《ねんぴーかんのんりき》  波浪不能没《はーろうふーのーもつ》  或在須彌峰《わくざいしゆみーぶー》  為人所推堕《いーにんしよすいだー》  念彼観音力《ねんぴーかんのんりき》  如日虚空住《によにちこうくーじゆう》  或被悪人逐《わくひーあくにんちく》  堕落金剛山《だーらくこんごうせん》  念彼観音力《ねんぴーかんのんりき》  不能損一毛《ふーのうそんいちもう》  或値怨賊遶《わくちーおんぞくによう》   各執刀加害《かくしゆうとうかーがい》  念彼観音力《ねんぴーかんのんりき》 ……」 [#ここで字下げ終わり]  源三が観音経を唱えている最中に、後ろの襖《ふすま》がスッと開いた。  部屋に入ってきたのは、さきほどの話し合いで無言を貫いていた、麻貴の妹で高校三年生の亜貴である。  姉の麻貴が華やかな薔薇《ばら》のイメージならば、亜貴は可憐《かれん》なひなぎくといった印象である。  陽のあたる場所を歩く姉の陰に隠れ、いつも亜貴は無口で、地味で、目立たなかった。  だが、亜貴はそれが自分に似合いの生き方だと思っている。 「お父さん……」  父親が観音経をあげ終わるのを待って、亜貴は小さな声でささやいた。 「お姉さんを許してあげて」 [#改ページ]   第二章 人面木は見ていた      1  平田均はガチガチに緊張していた。  六月三日金曜日の午後九時、場所は港区|西麻布《にしあざぶ》にある、業界人がよく使うイタリア料理店。  海洋堂出版の社長・丸尾涼子といっしょに、道路から一段下がった半地下の入口へと降りていくさいに、いきなり階段で足をもつれさせて転びそうになった。 「どうしたの、平田くん」  平田の腕をとって支えた涼子は、不思議そうな顔でたずねた。 「同じほうの手足がいっしょに出ていたわよ」 「は……そうでしたか」 「緊張しているの?」 「それはもう」  とっておきの背広にとっておきのネクタイで精一杯めかしこんだ平田は、引きつった笑いを洩《も》らした。  早くも梅雨の到来を思わせる蒸しむしとした夜だったせいもあるが、それよりもこれから『天下の』人気女優・鮎川麻貴と対面するとあって、その緊張で汗びっしょりになっているのである。 「まあ、すごい汗」  見かねたように言うと、涼子は自分のバッグからハンカチを取り出して、平田の顔をふこうとした。 「あ、そ、それはいけません」  平田は、あわてて手をパタパタと振った。 「社長の上等なハンカチを、私ごときの人間の汗で汚してはいけません。もったいない。自分のものがちゃんとありますから」 「私ごときの人間?」  涼子は、くすっと笑った。 「平田くんて、ときどき面白いことを言うのね」 「そうですか。でも、私は少しも笑える状況にありません」  取り出した自分のハンカチで顔をぬぐいながら、平田はこわばった表情を崩さずに言った。 「社長は平気なんですか」 「なにが」 「芸能人と会うことが」  その質問に、また涼子は吹き出した。 「これもお仕事ですからね。仕事なのに、いちいち舞い上がっていたらしょうがないでしょ」 「だって、社長も初めてなんでしょ、鮎川麻貴と会うのは」 「……ええ」  丸尾涼子は即答しなかった。  肯定の答えを返すまでに、微妙な間が空いた。  だが、緊張の極にある平田は、それに気がつかない。 「さ、入りましょう」 「は、はい」  涼子にうながされて、平田は、なおもぎこちない足取りで店の中に入った。 「いらっしゃいませ、丸尾様。お待ち申し上げておりました」  涼子はこの店では常連なのか、黒服のウエイターが丁重に頭を下げながら、彼女の名前を口にして近寄ってきた。 「お連れさまは、あちらの奥のお席でお待ちでいらっしゃいます」  ウエイターは、店のいちばん奥まったところのU字形にソファが配置された一角を示した。  そこには三人の人物が座っていた。  男が一人、女が二人。  男は、入ってきた涼子に気がついて、人差指を軽く立てた。そんなさりげない態度が自然と決まってしまうほど、彼はダンディだった。  平田は、鮎川麻貴と対面する前に、俳優かと見まごう事務所社長・梓圭一郎の存在に圧倒されてしまった。  そして、つぎに目が二人の女性にいく。  二人とも若い。一方の女性は誰だかわからなかったが、もう一人は……テレビや雑誌を通じてしか見たことはないが、しかし見間違いようがない。鮎川麻貴だった。  席に着くまで、そして席に着いてからも、平田は頭の中がカーッとして、何がなんだかわからなくなった。  丸尾涼子と梓圭一郎が親しげに挨拶《あいさつ》を交わし、さらに涼子が麻貴に目だけで挨拶するのを横目で見ながら、平田は、ひたすら鮎川麻貴の美貌《びぼう》に見とれてボーッとなっていた。 (やっぱり違う)  平田は心の中でつぶやいた。 (やっぱり人気抜群の女優は違うよ。そのへんの、ちょっときれいな程度の女子大生やOLなんかとは存在感が違う)  麻貴の座っている場所はU字形の席のいちばん奥で、平田とは、丸尾涼子を隔てた位置関係になっている。  間に丸尾社長が入ってくれてよかった、と平田は安堵《あんど》のため息をついた。すぐ隣りに麻貴がいたら、緊張と興奮の度合いはさらに増していただろう。 「あ、梓さん、紹介が遅れましたけれど、こちらがウチに副編として新しく入った平田……」 「あ、紹介といえば、丸尾さんは麻貴の妹は初めてだったな」  せっかく涼子が紹介してくれ、腰を浮かせて自分でも名刺を差し出しかかったのに、それをさえぎるようにして梓が口を開いたので、平田は名刺を手にしたまま立場をなくしてしまった。 「彼女、麻貴の妹で亜貴ちゃんだ。まだ高校三年生でね、こんなところは初めてだから、ちょっとオドオドしているが、彼女はお姉さんの写真作品集の手伝いをしたいというから、きょういっしょにきてもらったんだ。……亜貴ちゃん、こちらは海洋堂出版の丸尾涼子社長だ。こんな美人が、出版社の社長で収まっていることが業界七不思議のひとつと言われてね」  いつものように渋い声を出してそう言うと、梓は笑った。  すると、すでに全員が腰を下ろしていたにもかかわらず、鮎川亜貴は立ち上がって、ていねいにお辞儀をした。 「鮎川亜貴です。いつも姉がたいへんお世話になっております」 「まあまあ、礼儀正しいお嬢さんね。丸尾です、よろしくね」  涼子も立ち上がって、微笑とともに頭を下げた。 「でもね、亜貴ちゃん。私はお姉さんにお世話はなにもしていないのよ。こんどが初めてのおつきあい」 「あ、そうなんですか。ごめんなさい」  見当違いな挨拶をしたかと思って、亜貴は赤くなった。 「さてと……」  亜貴と涼子がまた座ったところを見計らって、梓圭一郎が口を開いた。 「早速だけど丸尾さん、こんどの麻貴の作品集の件だが……」 「あ、ちょっと待って。彼ね……」  涼子は、平田の肩に手をのせ、改めて梓に向かって言った。 「ウチに新しく入った副編の平田くんなの」 「平田です。まだ未熟者ですが、どうぞよろしくお願いいたします」  こんどこそ腰を折られまいと、平田はすかさず立ち上がって両手で名刺を差し出し、最敬礼をした。  が、梓は座ったまま「ああ、どうも」と面倒臭そうな声とともに名刺を受け取っただけで、すぐにその名刺を水の入ったタンブラーの脇に押しやった。  平田は、自分がきょうの打ち合わせの数の中に入っていないな、と感じ、ムッとするよりも情けなくなった。  が、ここで業界ノリについていけなくてどうすると自分を奮い立たせ、つづいて鮎川麻貴に向かって、名刺を差し出した。朝比奈耕作にまえもって相談したとおりの行動である。 「こんど鮎川さんの本の担当をさせていただきます平田です。よろしくお願いいたします」  そう言って、平田はまた最敬礼した。  耳の付け根までカッと赤くなって、両手で差し出す名刺が緊張で震えていた。 「お世話になります」  麻貴はいちおう立ち上がって、まるで舞台のセリフ回しのような抑揚をつけて挨拶し、ていねいな手つきで平田から名刺を受け取った。  ひょっとしたら名刺は受け取ってもらえないかと危惧《きぐ》していた平田は、そのことだけですっかりうれしくなってしまった。  それで、つい一言二言なにか話をしなければいけない気になった。  ただし朝比奈からは、これだけは言っちゃダメだぞ、とクギをさされていた言い回しがあった。それは——ぼく、麻貴さんのファンなんです——である。  その言葉は一般のファンから発せられるべきもので、仕事をいっしょにやるスタッフが口にしたら、その瞬間からタレントにみくびられるよ、と朝比奈は忠告をしてくれたのだ。  だから平田は、麻貴がふたたび腰を落ち着ける前に、なんとか適当な話題を探そうと必死に頭を働かせた。 「あ、すてきな傘をお持ちなんですね」  麻貴と亜貴の姉妹の間に、柄がチューリップの花をかたどったユニークな形の傘が置いてあったのを見つけて、平田はおせじのつもりでそう言った。  相手の持ち物をほめるよりも、ほんとうは『テレビで見るよりずっときれいなんですね』と言いたかったのだが、さすがに麻貴に対しては、社長の涼子をほめるときのような気やすい言葉は出てこなかった。 「傘?」  腰を下ろしながら、麻貴はけげんな顔をした。が、自分の脇に目をやって、平田の言っている意味に気づき、 「ああ、これは妹のなんです」  と、笑顔もみせずにそっけなく応じ、あなたとの会話はおしまいにします、とでも言いたげに、タンブラーに満たされたミネラルウォーターに口をつけた。  せっかく途中までうまくやっていたのに、よけいな一言を言い添えたために、平田はまた立場をなくしてしまった。  すると、その様子を見かねたように、妹の亜貴のほうが口を開いた。 「この傘、姉が『ときめき』っていう映画に出たときに、その撮影のために特別に作られたものなんです。だから、世界にたった一本の傘……。すてきだなあと思っていたら、撮影が終わったあと、姉が私にくれたんです」 「そうなんですか、どうりで……」  なにが『どうりで』か、よくわからなかったが、ともかく妹の亜貴の助け舟のおかげで、平田はなんとか体裁を繕って腰を下ろすことができた。  銀座プロダクションの梓社長からも、鮎川麻貴本人からも、平田がぜんぜん相手にされていない様子が、高校生ながら妹の亜貴にもハッキリわかったのだろう。一見して無口そうな彼女なのに、とっさに傘の話をフォローして平田の窮地を救ってくれた。  そんなところからみると、妹のほうは、ずいぶんこまやかな神経の持ち主のように思われた。  一方、姉の麻貴には、やはり当初懸念していたような慇懃無礼《いんぎんぶれい》なところがあるのを知って、平田は、いまのいままで浮わついた興奮に満ちていたのが、一転して暗澹《あんたん》とした気分になった。  平田をのけものにしてくれた目の前のダンディな社長と、どうも実像はお高くとまった感じの天下の人気スターとともに、不慣れな写真集制作の仕事をしなければならないからだ。 「それで、丸尾さん」  梓は、平田が座り終わる前から、もう本論に入っていった。 「条件面は、あとでごゆっくり相談させていただくとして、中身のツメをしていきたいと思うんですが……」      2  それから約一時間半ほどのあいだ、梓と涼子を中心に、それに麻貴が随時加わって会話が進み、鮎川麻貴初の撮り下ろし作品集の内容が決まっていった。  確認された事項は—— [#ここから1字下げ] ・作品集の判型は、通常のタレント写真集の半分のサイズにあたるA5判とする。 ・ページ数は百二十八。 ・写真集の題名は、最終的な写真選びのときまでに麻貴が考えてくる。 ・写真だけでなく、麻貴の自作の詩をあちこちにちりばめる。 ・「第一部 非日常的な日常」  「第二部 日常的な非日常」  という二部構成にする。 ・全体量の三分の二は、これまで麻貴が撮りためてあった写真で構成。残り三分の一を、新たに撮り下ろすことにする。 ・六月、七月のうちに撮影を終わらせ、八月中には編集作業を完了する。 ・その編集作業には、妹の亜貴も加わる。 ・発売は九月下旬から十月上旬ごろ。 ・発行元は、海洋堂出版の系列会社であるマリアンヌ・コーポレーションを使う。 ・最初の撮り下ろしロケは、翌週の日曜日、日光東照宮の周辺で行なう。そのロケには、海洋堂出版から社長の丸尾涼子と副編の平田均が立ち会う。また、妹の亜貴も学校が休みの日なので参加する。 [#ここで字下げ終わり]  こういった話が一時間半のあいだに詰められていったのだが、その間、平田はまったくカヤの外に置かれていた。  麻貴の事務所社長の梓は、麻貴と涼子の顔ばかり見て話し、ときおり妹の亜貴にも声をかけるが、涼子の隣りに座った平田には、話しかけもしなければ、顔を合わせようともしなかった。  見事なまでの無視である。  しかも悲しいことに、鮎川麻貴当人も、梓とまったく同じ態度をとるのだった。  黙って話を聞いているうちに、平田は、最初あれだけ胸をときめかせていたのがバカらしくなってきた。 (なんだよ、やっぱり売れっ子スターってこんなものなのか)  しまいに平田は、麻貴に対する反感すら感じるようになっていた。  その一方で、いつも控えめにしている妹の亜貴には、彼は、そこはかとない好感をおぼえるようになっていた。高校三年生といっても、昨今の女子高生と比較すると、おどろくほど純情で、おどろくほど礼儀正しかった。 (姉と妹とで、ずいぶん性格はちがうもんだ)  平田は思った。 (たしかに見た目は姉のほうが格段にきれいだけれど、性格は別問題だな) 「じゃ、そういうことで」  話を切り上げる梓の声で、平田はハッと我に返った。  梓が立ち上がり、涼子がそれにならい、そして麻貴と亜貴の姉妹が席を立つ。  平田もあわてて立ち上がり、奥にいた麻貴たちを先に進ませた。  と、そのとき——  平田は、がっかりさせられる光景を目にした。  梓社長の座っていたテーブルの上に、『海洋堂出版 編集部副編集長 平田均』の名刺が置き去りにされていたのだ。  でも、梓に関していえば、それは最初の態度からじゅうぶんに予測されたことだから、さほどショックではない。ガックリきたのは、鮎川麻貴の席のところにも、彼の名刺が残されていたことである。  初対面の挨拶とともに手渡したときは、あれほど丁重に受け取ってくれたのに、打ち合わせが終わって店を出る段になると、もう名刺の存在など忘れた、という格好である。  腹を立てたらよいのか嘆いたらよいのかわからずに、平田がじっとその名刺に目をやっていると、妹の亜貴が姉の放置した名刺を急いで取り上げ、それからすまなそうな目で平田に向かって会釈をした。  それでなんとか平田は救われた気持ちになったが、日光東照宮でのロケ立ち会いが、いったいどんな展開になるのか、いまから先行きが不安で、落ち込まざるを得なかった。  麻貴たちを見送るために店の外に出ると、ちょうどポツポツと雨が降り出したところだった。  すぐ前の路肩には、梓社長の専用車であるロールスロイスがハザードランプを点滅させて停まっていたが、麻貴たちが表に姿を現すと、若い運転手が車から出てきて、梓のために後部座席のドアを開けた。 「いや、今夜はおれはいいんだ」  梓は手を振った。 「麻貴たちを送ってやってくれ。麻貴は青山で、妹のほうは国立の実家だ」 「あ、私はいいです。電車で帰りますから」  高校生の亜貴は、遠慮して手を振った。 「いいじゃない、亜貴ちゃん。乗ったら」  すばやく先に車に乗り込んだ麻貴が車内から声をかけたが、 「ううん、ほんとに大丈夫だから。お姉ちゃんだけ行って」  と、亜貴は首を左右に振った。  結局、ロールスロイスは麻貴だけを乗せて発進し、つづいて、通りかかったタクシーを停めた梓が、涼子とともにそれに乗り込んだ。 「じゃあね、平田くん、今夜はごくろうさま」  涼子はそう声をかけてくれたが、梓のほうは一言の挨拶もなかった。  あっというまに業界人三人が姿を消し、イタリア料理店の前の路上には、平田均と鮎川亜貴だけが取り残された形になった。 「あの……」  亜貴が遠慮がちに声をかけてきた。 「平田さんは、これからどうなさるんですか」 「は? あ、ああ」  過ぎ去ってゆく車のテールランプを、ボーッと気が抜けた表情で見送っていた平田は、亜貴の声でようやく焦点の定まった顔になった。 「亜貴ちゃんって、ぼくの名前を覚えていてくれたの」  平田は、亜貴がきちんと自分の苗字《みようじ》を呼んでくれたことに感激した。 「だって、さっきのテーブルでちゃんと名前をおっしゃっていましたから。社長と姉に対して、二度も」 「そうか……でも、お姉さんのほうは、ぼくの名前なんか、もう忘れているだろうな」  つい愚痴っぽくつぶやくと、 「ごめんなさい」  と、亜貴は自分のことのように謝った。 「平田さんの名刺を置きっぱなしにしたりして」 「いや、しようがないよ」 「しようがなくないです」  ちょっと亜貴が怒った顔をみせたので、平田は意外に思った。 「ああいうところが姉のよくないところだと思うんですけれど、でも、あれ、礼儀にかなっていないのを承知で、姉はわざとやっているんです」 「わざと?」 「はい」 「ぼくの名刺を置き忘れたことが、わざと」 「そうです」 「どういう意図で」 「事務所の梓社長の教育なんです」  亜貴は言った。 「おまえみたいに一流のスターになったら、仕事のスタッフの中でも、口を利く人間と無視する人間とをはっきり区別するようにしろ、って」 「は……」 「仕事で重要な役割を担っている人に対しては、鮎川麻貴として個人的に口を利いてもいいけれど、その下で働いているスタッフとは、仕事場でのほんとうに必要最小限以外の口を利いてはいけない、と指示されているんです。名刺も受け取るな、と言われているみたいです」  話を聞いて、平田は怒るよりもあきれた。 「なんでまた、きみのお姉さんはそんな教育に同意しちゃってるんだ」 「最初は姉も、梓社長の指示には反発していました。姉だって常識をわきまえた人ですから、そんな横柄な態度はとれないと、はじめのうちはそう言っていたんです。だけど……」  亜貴の顔つきが暗くなった。 「何度か苦い目にあってから、姉もすっかり割り切って、社長の言い分が正しいと思うようになったみたいです」 「苦い目って?」 「マスコミの人にだまされたり、仕事相手の人にだまされたり……そんな裏切りを、あまりにも多く経験したからです」 「たとえば?」 「たとえば、あまり親しくない仕事相手の人に、気をつかって話しかけると、相手は『あの鮎川麻貴』が自分を特別頼りにしているのだ、と勝手に思って、それをいろんな人にいいふらすんです。ひどい人は『麻貴のことをほんとうに理解しているのはオレだけだ』とか『麻貴からいろいろ相談されちゃってさ』とか」 「なるほどねえ」 「マスコミ関係の人の場合は、もうちょっと違っています」 「どういうふうに」 「姉が自分をよりよくわかってもらおうとして、ていねいに話すと、そういう心遣いとは無関係に、正反対の記事が出るんです。どうしてそんなふうになっちゃうの、って、姉は何度も怒って叫んでいました。でもそのうちに、すっかりあきらめたみたいです。芸能界のマスコミって、最初に自分たちの言いたい結論があって、タレントのほうが何を言おうと、ぜんぶマスコミ側の都合に合わせて書かれてしまう——そういう実態がわかったとき、姉はすっかり人間不信に陥ってしまったようです」 「そうかあ……」 「ですから、平田さんに対してだけあんな態度をとるんじゃないんです」 「ありがとう、亜貴ちゃん。そういう状況を教えてもらっただけでも、少しは気が楽になったよ」  平田は、正直な心境を語った。 「でも、きみってほんとにいい子なんだね」 「え? そんな……そんなことないです」  急にはにかみの表情をみせたあと、亜貴は照れ隠しのように夜空を見上げた。 「雨……ですね」 「ああ、ほんとだ」  上を向くと、平田の顔にパラパラと雨粒が降りかかってきた。 「平田さん、これからどうされるんですか」 「ああ、そうだ。さっき、きみからその質問をされたんだっけ」  平田は笑った。 「うちに帰るよ」 「タクシーで?」 「いや、電車で。恵比寿《えびす》までは地下鉄に乗っていくけど」 「広尾《ひろお》の駅からですか」 「そう」 「じゃ、そこまでごいっしょしませんか」  と言って、亜貴は手にもっていた特注の傘を開いた。  ピンク、水色、黄色のパステルカラーで彩られた花をイメージした模様が、暗い夜空にパッと咲いた。 「ハデだなあ」  おもわず平田はつぶやいた。 「さすがに世界に一本しかない傘だ」 「目立ちますよね」  亜貴も笑った。 「でも姉が言うには、自分のように顔立ちが目立つ人間にはこういう傘は向かないって……。映画の中で傘を差しているシーンを自分で見ても、あまり気に入らないそうです。むしろ亜貴みたいに地味な女の子が差したほうが、あんがい似合うのよ、って言うんです」 「ああ、それはそうかもしれないね」  たしかに鮎川麻貴という女優は、清純派で売ってはいたが、顔立ちの存在感は抜群である。それに較べて素朴な感じの亜貴には、たしかにこういったハデなデザインが、かえって本人に華やかさを与えてよく似合った。 「この傘、雨のときも、日差しが強いときにも使っているんです。この模様から透かしてみるお日さまって、とってもきれいなの」  そうつぶやくときに、亜貴は、ずいぶん幼くてあどけない表情をみせた。 「行きましょうか」 「うん、それじゃ遠慮なく入れさせてもらうよ」  平田は、少し照れた顔で言った。 「女子高生と相合傘だなんて、感激だな」      3 「それにしても、話を聞けば聞くほど不思議な気がするね」  日光東照宮での撮影小旅行を明日に控えた日、平田から電話を受けた朝比奈耕作は、釈然としない声で語った。 「鮎川麻貴が、ほんとうに海洋堂出版から本を出すと決めたことも不思議だけれど、『観音』という写真集にからんだ盗作問題を起こした当事者どうしが、なごやかに語り合っているのは、どうみても変だ」 「だろ。打ち合わせのあと、二人でタクシーに乗ってどこかへ行っちゃうんだから」 「この間ぼくは、鮎川麻貴か彼女の事務所が海洋堂出版に脅されているのではないか、と推理したけれど、事態はぜんぜん別の方角に向いているかもしれないな」 「その先は言わなくてもわかるよ、耕作。銀座プロダクションの梓圭一郎と、海洋堂出版の丸尾涼子両社長は、男と女の関係にあった」 「……だという気がしてきたね」  朝比奈は同意した。  が、すぐに彼はつけくわえた。 「ただし、恋人関係だか愛人関係だか知らないが、いくら彼らが特別な仲だったとしても、麻貴をどうやって納得させたか、そこがまた不思議だよね。鮎川麻貴にとって海洋堂出版とは、自分の企画を盗んだ出版社で、しかもポルノイメージの強い会社だ。そんなところから、自分の大切な写真作品集を出す件を納得したというのが、これまた不思議だ」 「そこなんだよなあ」  平田も、わけがわからないといった声を出した。 「芸能界の裏側というのがどういう仕組みになっているか、ぼくにはさっぱり理解できないよ」 「で、明日からロケに行くんだろ」 「『から』というほどの長期間じゃないよ。たったの一泊二日だけどね。明日の土曜日の夜に、都内での仕事を終えた麻貴と梓社長、それにマネージャーの三人が、日光のホテルにチェックインする。ぼくと丸尾社長は先乗りしていて現地で合流。そして、日曜日の朝九時すぎに、麻貴の妹の亜貴が、東京から電車でやってくる」 「どこに泊まるの」 「日光|金谷《かなや》ホテル」 「ああ、明治時代から続いているクラシックなホテルだね」 「らしいね、ぼくは初めてだけど」 「あそこはいいよ。コロニアル風の造りと明治・大正の日本建築が合体して、なんともいえない雰囲気を醸し出している。本館二階のレストランで食事をしていると、日本にも上流社会があった時代にタイムスリップしていく気分になる」 「でも、今回はとてもそんな気分になれそうもないなあ。仕事のことで頭がいっぱいで」  平田は弱気な声を出した。 「それに、おれみたいな新入りって、なんだか完全にのけものにされている感じだし」  イタリア料理店での一部始終を聞かされた朝比奈は、同情半分からかい半分の声で、 「そういった人生を経験するのもまたよしとするのが、平田の哲学じゃなかったのか」  と言った。 「まあそうだけど……」 「それにしても、平田の話を聞くと、鮎川麻貴の妹はずいぶん性格がよさそうだな」 「そうなんだよ。あの子のおかげでずいぶん救われている」 「惚《ほ》れっぽい平田だから、もうその気になっているんじゃないのか」 「おいおい、相手は高校生だよ」 「最近の女子高生は、昔の女子大生以上にオトナだよ」 「いや、亜貴ちゃんは違う」  すっかり肩をもった形で、平田は言った。 「あの子は、ほんとうにいまどき珍しいくらいに純粋でいい子だ。精神的にすれていないという点では小学生並みだ」 「へんなたとえ方だなあ」  朝比奈は笑った。 「でも、その妹がなぜロケに参加するんだ」 「じつは盗作問題にからんで、彼女たちの父親は、麻貴を芸能界から引退させようとしているらしいんだ」  平田は、先日の打ち合わせの帰り道に、亜貴から聞かされた話を語った。  ヌード写真集の企画があったことを認めた麻貴に父親が激怒して、一週間以内に仕事を整理して芸能界を辞めろと迫った件である。 「もちろん、いまの鮎川麻貴が一週間以内に引退などできるわけがないし、当の麻貴にそんな意思はまったくないから、父親の命令は一方的に無視された形になっている。  そんな家族の争いを見ていて、妹の亜貴もだいぶ考えが変わってきたみたいなんだ。それまでは父親を絶対的な存在とみていたようだが、しだいに彼女も独り立ちしてなにかをやろうと思いはじめたようだ。このまま来春大学を受験するよりは、興味のあることを仕事としてやっていきたい、というふうにね」 「まさか、芸能界というわけじゃないんだろ」 「姉と違って、自分には表舞台は似合わないと亜貴ちゃんはよく自覚しているよ。それよりは裏方の仕事につきたいらしいんだ」 「それで、姉の作品集の制作を手伝って、編集の仕事を覚えようというわけか」 「それも父親にはないしょらしい。でも、母親のほうが理解があるから、なんとかこっそりやっているようだけど」 「ところで話は変わるけれど、銀座プロダクションの社長と怪しげな関係にあるという、おまえの美人の上司だけどね」  朝比奈は言った。 「惚れやすい平田クンとしては、高校生の鮎川亜貴はともかく、丸尾涼子社長にはかなり惹《ひ》かれていたんじゃなかったのか」 「うーん」  平田は複雑なうなり声を出した。 「すてきな人なんだけど、謎《なぞ》が多すぎるよなあ。いまだに、あの人がポルノ雑誌の発行元の代表者でいる理由がわからない」 「教えてくれないのか」 「きくと怒るんだよ」 「怒る?」 「そう。なんだか、人には知られたくない事情があるみたいなんだ」 「単純にもうかるからじゃないの?」  朝比奈は問い返した。 「たとえば小説という切り口でみると、ポルノのジャンルだと、まったく無名の作家でも、そこそこ名のある推理作家より売れたりするからねえ。まして雑誌で比較すると、ハードなグラビアで攻めてくるポルノ雑誌には、小説誌など手も足も出ない。それどころか、小説専門誌ですら、いまや官能小説とヘアヌードのグラビアは、売上げキープのためには絶対に欠かせない状況だ」 「耕作が言うように、海洋堂出版が儲《もう》かっているのは事実だよ。世の中、エッチなおじさんが多いということだな。いや、おじさんにかぎらず若い連中もみんなそうだ。海洋堂出版に入って改めて、そっち方面のパワーのすさまじさに驚かされたね。一億総エッチ傾向ってやつだ」  ため息をついてから平田はつづけた。 「だから海洋堂出版はものすごく儲かっている。不況なんかどこ吹く風だ。だけどね、耕作、あの丸尾社長にかぎっては、金儲《かねもう》けだけのためにこの仕事をやっているとは思えないんだ。あれだけの知性と美貌《びぼう》があれば、もっと世間的にいいイメージの仕事をやったって成功すると思うんだけれどねえ。……だけど、こういう言い方をすると社長は、ポルノ産業に対する偏見がとれていないのねって、怒るんだよ」  言葉を区切ってから、平田は、ふと思い出したようにたずねた。 「そういえば耕作のミステリーには、ほとんど濡れ場というやつが出てこないよな」 「まあね」 「どうして?」 「………」 「ね、どうしてなの」 「さあ」  電話口で肩をすくめる朝比奈の様子が、平田には手に取るようにわかった。 「性に合わないってことかな」 「でも、ポルノチックな場面をいっぱい出したら、男の読者にウケそうなのに。そういうリクエストって、編集者からこないの」 「こないね。朝比奈耕作に頼んでも、その手の場面は書けないだろうと見抜かれているんじゃないのかな」 「へえ、そんなもんかね」 「そもそも、エッチは書くもんじゃなくて、するもんだよ」 「またまたー」  平田は電話口で笑った。 「見た目は遊び人のわりに根はマジメという朝比奈耕作らしくない、妙にワルぶった発言じゃないの」 「それよりも平田」  朝比奈のほうから話題を変えてきた。 「日光でのロケ、気をつけてな」 「……なんだよ耕作、おばけが出そうな声出しちゃって」 「おばけが出るならいいが、殺人鬼が出るのは好ましくない」 「え?」 「たんに確率的な話でモノを言ってるだけなんだけどね。平田の場合、転職直後に殺人事件に巻き込まれるケースが非常に多い。それと、転職先に美人がいた場合にね」 「なんだ、そんなことか」  平田はホッとした声を出した。 「耕作が深刻な声を出すから、もうちょっと根拠がある話かと思ったけれど」 「ま、何事もなくこんどの仕事が終わることを祈るよ。でも……いろんな状況を聞いていると、何かが起きそうな気がしてならないけれどねえ」  大親友のこの推理作家は、からかい半分にそんな言い方をしているのだと平田にもわかっていた。  が、しかし、犯罪の予兆を嗅《か》ぎ取ることにおいては天才的な能力を発揮する朝比奈である。警告めいたその言葉は、百パーセント冗談とは割り切れず、平田の耳に妙にこびりついた。  そして——  いままでと同じように、こんども朝比奈のカンは的中してしまったのである……。      4  出発当日から、すでに異変の前兆はあった—— 「ガーン!」  自宅で電話を受け取った平田均は、マンガに出てくるような驚愕《きようがく》の叫びを、大きな声で発した。 「ほんとですかーっ。社長がロケに行けないんですって? どうしてまた」 「それがね、平田くん……」  電話の向こうで、社長の丸尾涼子は苦しそうな声を出した。 「熱が出ちゃったの。九度近くもあるのよ」 「風邪ですか」 「……みたいね。熱と寒気と吐き気で、ゆうべから寝られないでフラフラ」 「病院には行ったんですか」 「いいえ、行く元気もないわ」 「だいじょうぶですか」 「これがだいじょうぶそうな声に聞こえる?」 「まいったなあ……明日はどうですかね」  平田は、涼子の身を案ずるよりも、つい自分のほうの不安を先に洩らした。 「明日になったらこられそうですか」 「だめ……みたい」 「そんな」 「無理をして行っても、こんな調子だと平田くんをはじめとして、みんなに迷惑をかけるだけだわ。銀座プロダクションの梓社長には、私からごめんなさいって伝えておくから」 「だとしたら、ぼく一人で行くんですか」  情けない声を出しながら、平田は玄関口に準備しておいたボストンバッグに目をやった。  浅草から出る東武日光行きの特急『けごん号』に乗るためには、もうそろそろ家を出発しなければ間に合わない。 「まいったなー」 「だいじょうぶよ。平田くんならちゃんとその場を仕切れるから」 「仕切れませんよ。だってぼく、梓社長にも鮎川麻貴本人にも、完全に無視されてるんですから。おじゃま虫・平田ですよ。それに、麻貴が撮影をはじめたとき、どこで何をしていたらいいかサッパリわからないし」 「でもね平田くん、ホテルの支払いなどがあるから、海洋堂から人を出さないわけにはいかないのよ。おねがい、なんとか今回のロケはあなたひとりでやってみて。……ね」 「はあ……」      *   *   * 「え、社長がロケに立ち会われないんですか」  鮎川麻貴のマネージャー若林茂は、携帯電話にかかってきた梓圭一郎からの電話に、不審の声をあげた。 「どうしたんです、急に」 「ヤボ用だよ」 「ヤボ用って」 「おいおい、マネージャーのおまえが社長のスケジュールをこまごまチェックするなよ」 「でも、麻貴にはどう説明するんです」 「突発的な仕事が入ったとでも説明しておいてくれ」 「それはまずいですよ。自分の撮影よりも優先する仕事が社長にあると知ったら、麻貴は怒りますよ」 「ほかのタレントの仕事で麻貴の現場を抜けるんじゃないんだ。そこを彼女にうまく伝えておいてくれ」 「だったら、社長から直接麻貴に電話を入れてください。私の口からは、とても説得できませんよ。社長が現場にちゃんときてくれたというところに、立ち会いの意味があるんですから」 「わかったよ」  梓は怒気を含んだ声で言った。 「最近、おまえはおれに雇われているという認識がまったくなくなったようだな。毎回毎回、社長の指示にいちいち楯突《たてつ》くのならマネージャーとして置いておく意味がない。週明けの月曜朝いちばんで会社にこい。退職金を渡してやる」 「ああ、そうですか。私をクビにするつもりならそれで結構ですが、私をはずしたら麻貴を仕切れる人間は誰もいませんよ」 「それが人気スターについたマネージャーがよく陥る罠《わな》なんだよ。のぼせるな、若林」  そう言い捨てると、梓は電話を切った。      *   *   * 「真知子」  土曜日の授業を終えて自宅に戻ってきた鮎川源三は、妻の真知子を呼び寄せると、厳しい声で言い放った。 「おまえは母親失格だ!」  即座に言葉を返せずにいる真知子に向かって、源三はたたみかけた。 「一週間以内に仕事を整理しろと私が命じたにもかかわらず、麻貴にはその気配もない。そしておまえも、私の指示を実行に移そうという気構えがまるでみられない」 「だってお父さん」 「だってじゃない」  源三は、妻に弁解を許さなかった。 「人気者だから仕事のキャンセルが利かない、などというのは方便にすぎない。ようするに麻貴は父親の命令に従う気がなく、おまえは夫の命令に従う気がない、ということだ。ここまで夫婦や親子の間の統率がとれずに、なにが家族だ」 「ちょっと待ってください、お父さん」 「いや、待てん」 「いいえ、待ってください!」  めずらしく真知子が気色ばんだ。 「お父さんは勘違いなさっていますよ」 「なにが」 「父親が絶対的権威をもつことが家庭のまとまりだと思ってらっしゃるようですけれど、それは違います」 「なに」 「私は古い世代の人間だから、まだいいです。亭主関白のお父さんでもね。ですけど、麻貴にはその理屈は通用しませんよ。家族それぞれの気持ちを尊重するのが、ほんとうの家庭のまとまりじゃありませんか」 「どこでそんな理屈をおぼえた」  源三の顔が怒りで真っ赤になった。 「え、どこで覚えた」 「………」 「答えなくてもわかってる。おおかた芸能界の頭の軽い連中の影響を受けたんだろう。しかしな、おまえも自分を古い世代の人間だというのなら、なぜ麻貴にくっついてテレビ局や撮影所に出入りする。そんなおまえを世間がなんと言ってるか、知っているのか」 「ええ、ステージママと陰口を叩《たた》かれていることくらい知っていますよ。けれども、私が麻貴のそばにいてやるのは、麻貴が糸の切れたタコみたいに、親の手の届かないところへ飛んでいかないよう見守ってやるためなんです」 「そういう弁解は聞き飽きた。母親であるおまえに何かを期待するのが間違いだというのがよくわかったから、私はもう自分で行動に出ることにした。いや、もうその行動に出た」 「え?」  真知子の顔が不安で曇った。 「行動に出た、とは」 「ついさっき、梓社長に電話を入れた。ここは男どうしの話し合いで決着をつけようとな」 「あなた……」 「とりあえず明日の日曜日、事務所で会うことにした」 「明日の何時ですか」 「時間は未定だ。きょうのうちに、もういちど連絡を取り合うことになっている」 「だったら私も同席します」 「おまえはくるな」  源三はピシッと突き放した。 「私の決意は固い。こんどこそ麻貴を芸能界から引退させる。だから、外野席からよけいな口をはさまれたくないのだ」      5  結局、土曜日の夜、日光金谷ホテルにチェックインしたのは、平田とマネージャーの若林、それに鮎川麻貴の三人だけとなった。  スター本人はもちろんのこと、芸能界のマネージャーという存在ともどうつきあってよいかわからない平田は、若林にお伺いを立ててはそっけなくされる、といった連続だった。  予定よりも早めにチェックインしてきた若林たちに対し、夕食をごいっしょしましょうか、といえば、ルームサービスでいいと突き放され、そうかと思うと一転して、ホテルから車でちょっといったところに『明治の館』というクラシックな洋館のレストランがあるから、そこを予約してくれとの要求がくる。  それで車の手配をして、平田も同乗して送っていこうとすると、あなたはこなくていいですよ、と、またもや邪険にあしらわれる。  社長の梓だけでなく、現場のマネージャーからもそんな扱いを受けて、平田はすっかりめげてしまった。 「おれって、何なんだろう」  ホテルの回転ドアの前で、麻貴たちの乗った車を見送ったあと、おもわず平田はつぶやいた。 「なんだか意地悪されるために、ここにきたみたいだな」  人気スターを抱えるすべての事務所がそうではないのだろうが、ここまで横柄な相手に、ヘコヘコ頭を下げて仕事をするのは、あまりにも胃に悪い作業だった。  だが、じつは若林にしても、テレビ局や映画会社の有力プロデューサーの前に出ると、こんどは彼が平田と同じ立場に置かれてしまうのだ。だから彼は、少しでも自分が強い立場に出られる相手と対したときは、とことん傲慢《ごうまん》な態度に出て、日ごろの鬱憤《うつぷん》を晴らしている。  そうした人間模様が裏にあるのだが、初心者マークの平田には、そこまで読み取れない。 (あーあ)  こんどは、平田は心の中でつぶやいた。 (こんな仕事をするくらいだったら、アダルトビデオの撮影現場突撃取材でもやっていたほうが身体にいいよなあ)  平田は力ないしぐさで回転ドアを押し、ホテルの中へ入っていった。  平田は、まだ食事をとっていなかった。空腹でおなかが鳴っているのだが、いっしょに夕食をともにする相手もいない。  洋式の外観から一転して吹き抜けになった純和風のロビーのあたりには、二、三組のカップルが楽しげに語り合っている。腕を組みながら、二階へ通じる階段を上り、レストランへ向かうカップルもいる。  けれども、平田はひとりぼっちである。たったひとりでホテルのレストランに入るなんて、淋《さび》しさが募るばかりだと思った。 (しょうがないからルームサービスでもとって、早めに寝るかな)  意気消沈してうつむきながら歩みをすすめたとき、いきなりポンと後ろから肩を叩く者があった。  ゆっくりとふり返った平田は、おもわず「おー」と歓喜の声をあげた。 「耕作じゃないか。どうしたんだよ」 「どうしたもこうしたもないよ」  小さなショルダーバッグひとつという身軽ないで立ちの朝比奈耕作は、カフェオレ色に染めた前髪に片手を突っ込んで笑った。 「平田がさびしい思いをしているんじゃないかと思ってさ、はるばる日光まで激励にやってきたってわけだよ」      *   *   * 「いやあ、もつべきものは友だちだなあ」  二階のレストランで、このホテルの定番《ていばん》料理となっているニジマスのムニエルを口に運びながら、平田はつくづくホッとした表情で言った。 「もうおれ、泣いちゃうかと思ったよ」 「おおげさだなあ」  朝比奈耕作は愉快そうに笑った。 「芸能界って、それぞれの力関係がクールなまでに出る世界なんだから、いちいちその程度のことで傷つくなよ」 「だけどなあ……芸能界よりもポルノ界のほうがよっぽど健全だよ」 「相当こたえたみたいだな」 「はい、こたえました」  平田はペコンとうなずいた。 「はっきりわかったのは、かなり根性がすわっていないとこの世界ではやっていけない、ということだよ」 「そういうこと。だから作家の世界でも、人気が出るとすぐにテレビに出ていく人もいるけど、よほど本人に素質がないと、つぶされちゃうよね」 「耕作のみてくれもじゅうぶんテレビ向きだと思うけど」 「ダメダメ、ぼくなんかがテレビに出たら、みっともないだけだって」 「どうして」 「どうしてもだよ。……まったく、平田は人にポルノチックなシーンを書けといったり、テレビに出ろといったり、ロクな忠告をしないね」 「そうかなあ。耕作はテレビ向きだと思うけど」 「テレビはタダで見られるだろ。タダで見ているお客さんほど口うるさいものはないんだ。やれ、髪の毛をカフェオレ色に染めているのは軽薄だ、やれ、しゃべり方がどうの、服装のセンスがどうの……そんな勝手な感想ばっかり言われて、作品のほうはというと、ひとつも読んでくれないわけだろ。テレビに出るメリットなんてぜんぜんないよ」 「そんなもんかね」 「逆にいうと、そういう好き勝手な論評をされ放題な世界で、人気トップの座にのし上がってきた鮎川麻貴は、すごいと思うんだ。これ、茶化して言うんじゃなくて、まじめにそう考えているんだけれど、鮎川麻貴は天才だよ」 「天才?」 「そう。二十二歳の若さで、自分が大衆をどのように動かしていく力があるのか、ちゃんと心得ている。そして、たぶん実像と虚像の使い分け方を、知らずしらずのうちに体得してしまっているんだろう」 「実像と虚像の使い分けって?」 「彼女は二重の意味で演技をしているんだと思うね」  ナイフとフォークを持つ手を休めて、朝比奈は言った。 「ひとつは女優として、芝居の役を演じているとき。そしてもうひとつは、女優・鮎川麻貴を演じているとき」 「女優・鮎川麻貴を演じる? だってそれ、自分自身のことじゃないか」 「いや、彼女にとってほんとうの自分自身は、また別のところにあるのだと思うよ。そして、日常生活で他人に接しているときは、つねに女優・鮎川麻貴の理想形を相手に見せるようにしているんだ」 「じゃあ、ぼくに対してツンケンしているのも、演技のひとつだっていうの」 「たぶんね」 「………」 「タレントとしてテレビに出る怖さ・すごさというのは、そこにあるんだよ。マスメディア、とりわけテレビで、自分をありのままにさらけだしてしまったら、あっというまにその人間はつぶされるだろうね。よく、ファンの中にこんなことを言う人がいるだろ。芸能人と直接会ってみたら、テレビで見るのとぜんぜん印象が違ったって」 「ああ、お笑いタレントがまるで無愛想だったり、こわもてのタレントが意外と腰が低かったり、というやつね」 「うん。一般のファンは、それでタレントの素顔をかいまみた気になってしまう。だが、素顔だと思った部分も、これまた演技だったりするのがスターの裏側なんだ。つまり、テレビを通じて大衆や芸能マスコミの批判につぶされないための防衛策だよ」  水を一口飲んで、朝比奈はつづけた。 「たとえば、いつもテレビで生意気な発言を繰り返すタレントが、楽屋なんかでファンに接したときには、ものすごくやさしくてにこやかだったとなると、その意外性にファンは感動するだろ。テレビだと怖いけれど、ほんとは違うんだー、いい人なんだー、ってね。でも、そうした反応も計算ずくで『素顔』を作っているスターも、決してめずらしくはない」 「裏の裏の、そのまた裏を読まないといけない、ってことか」  平田は、長い吐息を洩《も》らした。 「そんな人たちとは、とてもじゃないけどつきあいきれないな」 「まともにつきあおうと考えなくていいんだよ。タレントとかスターと呼ばれる人々は、ドラマの世界だけでなく実生活でも、見知らぬ他人に対しては、決して真の素顔はみせずに演技をつづけている——この概念だけ頭に入れておけば、彼らと仕事をするときに、いまの平田みたいに、いちいち傷つかなくてすむ」 「もう少し早く耕作の話を聞いておけばよかったけれどね。もういいかげん傷ついちゃったよ」 「で、明日のロケは何時から」  ふたたびナイフとフォークを取り上げて、朝比奈がきいた。 「十時スタートだ」  平田が答えた。 「九時三十八分に東武日光駅につく『けごん3号』で、麻貴の妹の亜貴がやってくる。彼女がここのホテルで合流したところで、撮影に出かける」 「どんなところを撮るんだ」 「いまの予定では、ホテルのすぐそばにある神橋《しんきよう》を撮って、そこから太郎杉の脇を通って日光山内に入る。で、東照宮のほうへ向かって参道を歩いていって、陽明門の前で撮影」 「あのギンギラギンの門のところで写真を撮るのか」  朝比奈は、びっくりした顔になった。 「それじゃまるで、修学旅行の団体写真だぜ」 「まあね」 「たしかに陽明門のあのハデさは一見の価値があると思うけど、観光の記念に撮るならともかく、作品集に入れるのはどうなのかな。一歩まちがえば絵ハガキ用の写真になってしまう」 「でも、麻貴があそこの場所にこだわっているんだよ。日光は、小さいころから家族で何度もきているらしいんだ。それで、日光のおもな観光スポットを、このさい自分のカメラできちんと記録しておきたい。そんなふうに言っている」 「日光に家族で何度もきているというのもめずらしいね」  朝比奈が聞きとがめた。 「彼女にとって、なにか特別な思い入れがある場所なのか」 「妹の亜貴が語ってくれたところによると、鮎川家は観音さまを深く信仰しているらしいんだ」 「へえ、だから日光なのか」 「あ、わかる? 日光と観音信仰の関係が」 「だって、日光という地名は、東照宮のそばにある二荒山《ふたらさん》神社の『二荒』から出たわけだろう。つまり観音浄土がある補陀落《ふだらく》、梵語《ぼんご》でいえばポータラカに源を発する」 「さすが耕作」  平田は感心して言った。 「そこまで知ってるんだ」 「二荒山神社の中宮祠《ちゆうぐうし》は中禅寺湖方面にあって、湖畔近くには、勝道《しようどう》上人がカツラの木に彫ったといわれる千手観音像——別名・立木《たちき》観音も祀《まつ》られている。千手観音ということは、餓鬼道に堕《お》ちた人々を救う役割があったかと思うんだけど」 「耕作、なんで詳しいの? そんなに観音さまのことを」 「調べたんだよ。観音信仰について」  朝比奈は言った。 「平田から、鮎川麻貴が写真集『観音』の盗作騒ぎに巻き込まれている、という話を聞いたときに、ふと『観音信仰殺人事件』という題名が思い浮かんでね。それで、すぐに資料調べに取りかかったんだ」 「人の話を聞いて、すぐに推理小説を作っちゃうわけ」 「まあね」 「すると、きょうこのホテルに泊まりにきたのは、推理小説の取材旅行といった意味あいも含まれているんだ」 「そうだよ」 「なんだ……」  平田は、がっかりした顔をした。 「落ち込んでいるぼくを励ましにきてくれたんじゃなかったの」 「すねるなって」  朝比奈は笑った。 「平田の身を案じてきたというのが、いちばんの理由だよ」 「またまた、そこで急にフォローしなくたっていいよ」 「ただ、鮎川麻貴の一家が熱心な観音さまの信者だとなると、彼女の幻のヌード写真集のタイトルが『観音』だったのも、なんとなく意味深な気がしてきたな」  ふと真面目《まじめ》な顔に戻ってそう言うと、朝比奈耕作は宙に目を泳がせた。      6  翌朝、平田は東武日光駅まで亜貴を迎えに行った。  九時三十八分の定刻どおりに到着した『けごん3号』から降りてきた亜貴は、黄色のワンピースに例の特注の傘を手にもっていた。 「おはようございます」  明るく挨拶《あいさつ》をする亜貴に、平田も「おはよう」と元気な声を出した。  この女子高生といると、平田はなぜか気持ちが明るくさわやかになった。 「その傘、よほどお気に入りなんだね」 「あ、これですか?」  亜貴は、自分の手にある華やかな色合いの傘に目をやった。 「いまは晴れていますけど、きょうは天気が不安定だって予報で聞いたものですから」 「慎重派なんだね」 「……かもしれません」  はにかむようにして、亜貴は笑った。 「その黄色のワンピースもすてきだね。よく似合っているよ」  タクシーを待つ間、平田は、亜貴の着てきた洋服をほめた。  高校生が着るにはちょっと大人っぽい雰囲気のワンピースだが、傘と同様、その黄色の色合いが、亜貴に明るさを与えていた。 「これも姉のお下がりなんですよ」  袖を引っぱりながら、亜貴は言った。 「だいたいサイズが同じですから、よく姉の洋服をもらうんです。でも、そのうちに私のほうが背が高くなってしまいそうですけれど」 「それも映画用?」 「いいえ、これは姉が自分でデパートで買ったものなんです。まだいまみたいに有名になっていないころに」 「そうか……いまでは買い物に行くのも大変なんだ」 「ええ、人がワッと集まってきちゃいますから。そういう意味では、姉も可哀相なんです。プライバシーがほとんどありませんから」 「なるほどねー。ところで亜貴ちゃん」  だいぶ親しく話せるようになったので、平田は、前から気になっていたことをきいてみようと思った。 「お姉さんがヌード写真を撮ろうとしていたという話が噂《うわさ》として流れたけれど、ああいうのは妹としてどう感じているの」 「そうですね……」  亜貴は、ちょっと答えにくそうに口をつぐんだ。 「あ、言いたくなければいいよ」 「いえ、そんなことはありません」  長い髪を揺らして、亜貴は言った。 「私としては、もしも姉がそういう写真集を発表するのなら、それはそれでいいと考えています」 「へえ、どうして」  純朴そうな亜貴は、姉のヌード写真集に拒否反応を示すかと思っていたのに、そうではなかったので、平田は意外だった。 「この間、平田さんに、うちの父が熱心に観音さまを信仰していることをお話ししたでしょう」 「うん」 「父だけでなく、姉も熱心な観音さまの信者なんです」 「でも、そういう人が裸になっちゃまずいんじゃないの」 「常識的にみればそうかもしれません。父も、やはりそういう考えの持ち主ですから、姉のしようとしたことに対してものすごく怒りました」 「だろうね」 「でも、私には姉の考えがわかります。姉は……」  亜貴は、そこでまた言葉を区切った。  そして、深呼吸でもするかのように大きく息を吸い込んでから、思い切って言った。 「姉は、自分が観音さまの生まれ変わりだと信じているんです」      7  高台にある日光金谷ホテルから、坂道を下ると国道119号線にぶつかる。  そして日光橋のところで川を渡ると、そこから先は、徳川家康の霊を祀《まつ》るために建てられた東照宮をはじめ、二荒山神社、輪王寺《りんのうじ》といった二社一寺が集まる日光山内となる。  この日光山内へ入る手前、国道119号線と平行して川にかかる朱塗りの反り橋がある。  これが神橋《しんきよう》で、かつては将軍や勅使など限られた一部の人間しか渡れないとされた橋である。この朱塗りの欄干が、ちょうど川の向こうの木々の緑に映え、晴れた日などには、朱色と緑の鮮やかなコントラストを織り成すことになる。  だが、平田たちが歩いてその脇を通ったときには、地元日光警察署の立てた『交通安全』ののぼりが道路脇にはためいて、せっかくの神橋の景観をぶちこわしにしていた。 「無神経ね」  歩いていた鮎川麻貴も、平田と同じ感想を持ったらしく、妹の亜貴に話しかけていた。 「観光地の美しさを壊してまで交通安全ののぼりを立てても、何の意味もないじゃない」  そうつぶやく麻貴は、白いブラウスにジーンズ、そしてつば広の帽子にメガネをかけている。  そのメガネには着脱式の色付きレンズが装着されており、撮影を行なうときは、それをはずせば素通しのメガネとなる仕組みである。だが、ふだんは濃い色のサングラスをかけているのと同じ状態なので、すれ違う人間も、それが鮎川麻貴だとは誰も気づかない。  その後ろをマネージャーの若林、そしてさらに後ろを平田がついて歩くという編成である。  マネージャーの若林は、ほとんど平田と口を利かなかった。  例によって平田をのけもの状態にしているせいもあったが、それよりも、彼はこの仕事じたいに気乗りがしていないように見受けられた。 (どうにも間がもたないな)  平田は、内心ため息をついた。 (耕作がいっしょに回ってくれたら、話もはずむんだが)  その朝比奈耕作は、きょうの日中は日光山内から中禅寺湖のほうまで足を延ばすといって、平田たちよりも早くホテルをあとにしていた。 「ちょっと待って、ここで少し撮るわ」  麻貴が妹の歩みを止めると、肩に掛けていたキヤノンの35ミリ一眼レフ|EOS《イオス》を構えた。  彼女が今回の撮影のために用意したカメラは、ぜんぶで三台。いま彼女が構えているEOSが二台と、|6×8《ロクハチ》と呼ばれる、もっとサイズの大きなカメラが一台。こちらはイタリア製のシルベストリだ。  このシルベストリと予備のEOSなどが収められたカメラバッグはマネージャーの若林が肩に下げ、三脚は平田が肩に担いでいた。  麻貴は、無粋な交通安全ののぼりの列が途切れた日光橋の欄干越しに、朱塗りの神橋を狙《ねら》って何枚かシャッターを切った。  カメラはズブの素人である平田からみると、特別に魅力的なアングルとも思えなかったが、おそらく鮎川麻貴自身が撮ったという事実が、その写真に付加価値を生じさせるのだろうと思った。 (それにしても、彼女自身が観音とは……)  平田は、さきほど妹の亜貴から聞かされた言葉を、胸のうちで反芻《はんすう》していた。 (あれはいったいどういう意味なんだ)  もっと詳しくたずねようとしたところへ、ちょうどタクシーがきてしまったので、その会話は途中で途切れてしまった。  だが、きょうの撮影が終わったら、平田は妹の鮎川亜貴から、もう少し話のつづきを聞いてみたいと思った。 (そういえば、彼女がいま構えているカメラのメーカー『キヤノン』という社名は、『観音』からきているんだよな)  なにかの本で読んだエピソードを、平田はふと思い出していた。 (麻貴はそこまで観音にこだわってカメラを選んだのだろうか。それとも偶然かな)  そんなことを考えていると、 「あ」  という、小さなつぶやきが聞こえた。  撮影中の麻貴から少し離れたところに控えていた平田は、つぶやきのしたほうへ顔を向けた。  それは妹の亜貴の声だった。  姉の撮影の邪魔にならないよう、平田の少し前の位置まで下がっていた亜貴の口から「あ」という声が洩《も》れたのだ。  姉の麻貴は撮影に集中していて、妹のつぶやきは聞こえなかったようだし、マネージャーの若林も、麻貴がレンズを向けているほうに注意がいっており、彼もまた、亜貴の声は耳に入らなかったようだ。  気づいたのは平田だけである。  黄色いワンピース姿の亜貴は、たまたま傘と似た模様のバッグを肩からさげていたが、そのバッグの中から、急いで何かを取り出した。  よく見ると、それはシャッターを押すだけという全自動のコンパクトカメラだった。  亜貴はそのカメラを、神橋の向こう側——日光橋を渡ってからカギ形に左折し、川沿いにつづく国道119号線のほうに向け、とっさにシャッターを切った。そして、すばやくそれをバッグの中にしまった。  平田は、彼女が何を撮ったのかわからなかった。レンズが向けられたほうを見ても、国道を走る車の列と、脇の路肩を通る観光客の姿くらいしか目に入らなかった。  が、「あ」というつぶやきといい、カメラをそそくさとしまい込んだしぐさといい、亜貴が何か特別なものに気がついてシャッターを切ったのは間違いない。  そしておそらく亜貴は、すぐ後ろに平田が控えていて、その動作の一部始終を見ていたことを知らないのだろう。  平田も、なにか見てはいけないものを見た気がして、それ以上、亜貴の狙った被写体を追及しようとはせず、無関心を装って、姉の麻貴の撮影風景に目を転じた。  いったい何を撮ったのか、亜貴にきいてみたかったが、あまりあれこれ詮索《せんさく》すると、せっかくいままで築いてきた『友好関係』が水泡に帰すような気がしたので、平田はあえてたずねることはやめにした。  だが——  あとになって考えると、その気づかいが、取り返しのつかぬ悲劇を招いてしまったのかもしれなかった……。      8  神橋もしくは日光橋を渡って国道を横切ると、樹齢五百五十年、高さ四十五メートル、幹回り六メートルを誇る太郎杉とよばれる巨大な杉が立っている。  そこから拝観コースがはじまり、勝道上人像が立つ輪王寺を抜けると、東照宮にいたる表参道のはじまりとなる。  この参道を上ってゆくと、左手に『下新道《したしんみち》』と呼ばれる道が、時計盤でいう十時の方向に延びている。これを左に折れて進むと東照宮宝物殿が左手に見えてくるのだが、その方向に『人面木』があると記すかなり大きな看板が、下新道の曲がり角のところに掲げられていた。  人面木と呼ばれているのは、宝物殿入口脇に生えている大きな樹木のすぐ手前の、意外と細い木のことである。  宝物殿の石段を上がった回廊の端からこの木を眺め下ろすと、ちょうど太い枝が分かれるすぐ上の幹の部分に、目尻《めじり》を吊《つ》り上げぎみにして睨《にら》む、怖い表情の人の顔が浮かび上がって見えるというものである。  この人面木は、『人面魚』や『人面犬』などのいわば『人面ブーム』にのったもので、決して東照宮の雰囲気に似つかわしいものではない。どうやらその役割は、有料拝観となっている宝物殿への客寄せにあるのかもしれない。  麻貴たちの一行は、その人面木がある方向へは曲がらずに、表参道をまっすぐ一ノ鳥居をめざして進んだ。  畳一畳の大きさにもなる『東照大権現』の額が掲げられた一ノ鳥居の直前は、十段の石段が設けられてあった。  この石段に人を集めると千人は載るといわれることから、これは『千人枡形《せんにんますがた》』と称されていた。ちょっと見には気づかないが、千人枡形の石段は、先にいくほど幅が狭くなっている。つまり、遠近画法の効果を強調することで、実際以上の距離感が出るように設計されているのだ。  そして一ノ鳥居をくぐると、左手にかなり派手な色あいの五重塔がそびえたっているのが目に入る。朱色を基調に、赤、緑、青などの色合いがふんだんに使われている五重塔のたたずまいは、韓国の寺院建築の色彩をも連想させるものだった。そしてこの五重塔の前の広場を、さきほどと同じ理由で千人枡形と呼ぶ説もある。  そこからさらに先へいくと神廏《しんきゆう》とよばれる、神馬をつなぐための廏《うまや》があった。  この神廏の欄間の八カ所に、合わせて十六体の猿の彫刻が飾られている。  そのうちの一組が、有名な『見ざる・聞かざる・言わざる』で、この三猿のポーズは古代エジプトにまでその源流を求めることができる。  平田は、小学校の遠足で日光東照宮に来た記憶があったが、この三猿をじっくり見たのは、今回が初めてのような気がした。が、鮎川麻貴はそれに何の関心も示さず、早足で先に進んだ。  左手に神廏を見て、その先の角を右に曲がると、いよいよ東照宮のシンボルともいえる陽明門がそのきらびやかな姿を現す。  そのときの天候は、やや曇りがちで、雲の合間からときおり日差しが顔をのぞかせるという状況だったが、平田の記憶にあったよりも、陽明門はくすんで感じられた。  ふだんガイドブックなどで目にしている陽明門は、基本的には撮影のためにライトアップしている場合が多く、それゆえに金色の輝きがまばゆいほどに描き出されているが、実物の陽明門は、彫刻の凹凸があまりにも多いのと、上にいくほど外へ迫《せ》り出している構造のために、南向きの正面から太陽光が当たっても、かなり影の部分が生じてしまい、それだけではキンキラキンというイメージにはならない。  ましてこの日のように曇りがちな天候だと、たとえば京都の金閣寺を見るときのような衝撃的なまばゆさは感じられなかった。  色の濃いレンズをメガネにかぶせた麻貴は、マネージャーの若林からカメラバッグを受け取り、いままで手にしていたEOSに代えて、6×8のシルベストリを構えた。 「光の具合が気に入らないわ」  若林に話しかけるように、麻貴はつぶやいた。 「それに、人が多すぎるし」  実際、陽明門の前には、これでもかこれでもかというくらいに人が押し寄せてくる。  陽明門をくぐって右手にいくと、坂下門につづく東回廊の長押《なげし》の上に、左甚五郎《ひだりじんごろう》の作といわれる有名な『眠り猫』の彫刻がある。  そうしたことから、陽明門付近は東照宮一帯の中でもっとも混みあう場所といってよかった。  だから混雑時には、陽明門の正面石段はちょうど真ん中から柵《さく》で仕切られ、『右側通行』の立て札があるように、門に入る側と出る側の人の流れをはっきりと分けるようにしてあった。  平田たちはその石段の下にいたが、彼らの右手では、制服姿の中学生らしき集団が、クラス全員の記念写真を撮られるところだった。  プロのカメラマンが、「それではみなさん、私が『せーの』と言ったら、声をそろえて『チーズ』と言ってください。いいですね」と言って、大判カメラにかぶせた布の中に潜り込む。  そしてピントを合わせてから、また顔を出し、レリーズボタンに手をかけて「せーの」と号令をかけると、中学生たちは申し合わせていたように「チーズ」ではなく「カニー」といって大爆笑になる。  おもわずカメラマンがシャッターを押すのを忘れていると、引率の教師が「うちの学校ではチーズじゃなくてカニということにしてますの。なにしろ松葉ガニの名産地ですから。どっちにしても口の形が笑ったようになりますでしょ」などと言う。  その言葉にまた笑い転げる中学生たちの何人かは、さほど離れていないところに立つ鮎川麻貴のほうに顔を向けたりもするのだが、まさか天下の大スターがこんなところにいるとは思わず、すぐに視線を別のほうへ移動させてしまう。 「日光を見ずして結構と言うなかれ!」  いきなり耳元近くで女性の声が張り上げられたので、びっくりして平田がふり返ると、旗を高く掲げたバスガイドが、三十人くらいの団体を引き連れてやってきたところだった。 「日光を見ずして結構と言うなかれ……そんな言葉がございますが、その日光の中でも、あまりにも有名なのがこの陽明門でございます。え、どなたですか? 日光、結構、ダイワ観光なんて言ってる方は」  誰もそんなことは言っていないのに、お約束のギャグで無理やり笑いをとったあと、バスガイドはつづけた。 「ただいまより、じっくりとこの陽明門をごらんいただきますけれども、階段の途中では立ち止まれませんので、ここでちょっとご説明を申し上げておきましょう。この陽明門は別名『日暮門《ひぐらしもん》』とも言われておりまして、日が暮れてしまうまで眺めていても見飽きないというところから、この別名が付けられたのでございます。  さて、本名の陽明門のほうはどうやって付けられたかと申しますと、京都御所にあります十二の門のうち東の正門を陽明門といい、ここから名前を戴いたというのが、ひとつの定説になってございます。  ただし、こちら日光の陽明門は、東ではなく南向き。みなさまがごらんになっている正面表側が、ほぼ真南を向く格好になっております。東照宮の入口にふさわしく、陽明門もまた太陽の門と申すことができましょう。  ところで、色とりどりに見えますこの陽明門、彫刻も含めて、いったいぜんぶでどれくらいの色数が使われていると思われますか。三十色? ハズレ、ですね。え、百色? たしかにそう言いたくなるくらい、色数が豊富に見えますね。でも、じつはたったの七色で構成されているんです。わずか七色。信じられますか。  使われている色は、白・黒・金・朱・群青《ぐんじよう》・緑青《ろくしよう》・黄土と、これだけ。それだけの色を使ってこんな豪華|絢爛《けんらん》な建築物ができているのですから、すばらしいの一語ですね。  一方、飾られた彫刻の数はと申しますと、こちらは多くて、なんとぜんぶで五百と八体ございます。  種類としていちばん多いのが、ほらあそこに大きく見えますね、柱ごとに……。そう、唐獅子《からじし》です。これが六十六体。つづいて草花の菊が六十一に、牡丹《ぼたん》の彫刻が五十四。それから、真正面にとぐろを巻いている竜の彫刻が見えますね。これも大きくて目立つでしょう。この竜が四十五。それから人物が四十二などとなっております。  この数を覚えるのに、ゆうべ徹夜いたしましたんですのよ、はい。あ、拍手は要りませんからね。……あ、パラパラパラと盛大な拍手をありがとうございます。なんだか催促したみたいで悪いですね。  さて、人物像もいろいろなポーズがありまして、目につくところでは琴棋書画《きんきしよが》、つまり中国の代表的なたしなみごとであるお琴、囲碁、書道、絵画をやっている姿などが描かれております。ちなみにマージャンはありません。あはは。  それから細かいところで注目しておいていただきたいのが、ぜんぶで十二ございます柱——この柱に描かれた『グリ紋』と呼ばれる渦巻き模様でございます。  みなさまこのあと石段をのぼり切って上まで行かれましたら、陽明門裏側の柱の右側から二番目をご注目ください。その柱だけ、グリ紋が天地逆向きに彫られているのです。  これはなにも、うっかり間違えたのではなく、わざと逆にしているのです。これを逆柱《さかさばしら》と申しまして、陽明門に災厄がふりかからないための魔よけとなっております。  なぜ逆柱が魔よけになるかといいますと、建物は完成したときに崩壊がはじまる。したがって、完成させなければ崩壊ははじまらず、という理屈で、意図的に柱を逆にして、陽明門を見かけ上の未完成品にしたというわけでございます」 「行きましょう」  知らずしらずのうちにバスガイドの説明に耳を傾けてしまっていた平田は、鮎川麻貴の声が聞こえたので、あわててそちらに目を向けた。 「天気がもう少しよくなるか、人がもう少し減るか、そのどちらかでないと写真は撮れないわ」  そう言うと、麻貴はいったん手にしたシルベストリのカメラを若林に返した。      9  麻貴の要望によって、一同は車で『いろは坂』を上って中禅寺湖畔へと移動した。  標高一二六九メートルのところに位置する中禅寺湖畔周辺は霧もようで、それがかえって幻想的な風景を生み出し、麻貴はかなり早いピッチでシャッターを押していった。  だいぶ満足のいく風景撮影ができたようで、そのあと麻貴と亜貴の姉妹は、中禅寺の立木観音へお参りをした。  信仰心のまるでない若林マネージャーと、とんとその方面に詳しくない平田は、観音が祀《まつ》ってある建物の外で二人が出てくるのを待っていた。  そのあと観光スポットの定番《ていばん》である華厳滝《けごんのたき》に立ち寄り、それからふたたび『いろは坂』を下って日光山内に戻ってきた。それが、午後の二時近い時間だった。  全員昼食はまだだったが、陽明門とその周辺で撮影を済ませてから食事休憩に入ろうという麻貴の提案により、もういちど陽明門の前に足を運んだ。  平田としては、麻貴がそこまで陽明門にこだわる理由がよくわからなかった。  ともあれ、さきほどよりはずいぶん天気もよくなり、晴れ間ものぞいてきた。そして、天候の回復とは逆に、観光客の数はぐんと減っていた。とくに中高生や団体ツアーの波が引いたのが大きかった。  麻貴は若林に命じて、また6×8のカメラを出させ、平田の担いでいた三脚を、陽明門を正面からとらえる位置にセットした。  そしてカメラにはシュナイダー47ミリのレンズを取り付ける。6×8判で焦点距離47ミリといえば超広角レンズである。それは、陽明門の左右に広がる回廊まで画面の中に収められる能力をもっていた。  カメラ位置を決めた麻貴は、何枚かシャッターを切っていたが、いったんその動作をやめて、 「ねえ、亜貴」  と、妹の名前を呼んだ。 「亜貴、どこにいるの」  すぐに妹の姿を見つけられずに、麻貴はあちこちに目を配った。 「あ、ここよ。邪魔になるかと思って、横のほうにどいてたの」  そう言って、左手のほうから亜貴が近寄ってきた。 「なにか用? お姉ちゃん」 「あなた、モデルになってみて」 「え、私が?」  まったく意外なリクエストだったようで、亜貴は目を丸くして驚いた。 「そうよ。単純に陽明門だけ撮っても面白味がないから」 「だめよ、モデルだなんて。私はお姉ちゃんと違うんだから」 「だいじょうぶ」 「だいじょうぶじゃないってば」 「どうして」 「だって、これ、お姉ちゃんの作品集に載せる写真でしょう」 「そうよ」 「本になって、日本中で売られるんでしょう」 「そうよ」 「そんなの恥ずかしいもん。本に私の顔が出るなんて」 「アップで撮るわけじゃないから平気よ。ほら、ここをのぞいてごらんなさい」  麻貴は、三脚にセッティングしたカメラのファインダーを、妹にのぞかせた。 「あ、すごいワイド。周りの景色がぜんぶ入っちゃう」 「ね、だからあそこの石段の上あたりに立ったら、ほとんど顔はわからないから」 「でも……」 「あなたの着ているそのワンピースの黄色が、とってもいいのよ。陽明門の込み入ったデザインをバックにすると、その黄色のシンプルさがきれいに映えてすてきなの。……さあ、ちょっと門の前に立ってみて」  姉にうながされ、亜貴は仕方なしに指示されたとおりに石段をのぼり、陽明門のすぐ前の、向かって右側の位置に立った。 「はい、それでこっちを向いて」  メガネにかぶせていた濃い色の付いたサンシェードをはずすと、カメラのファインダーをのぞき込みながら、麻貴はさらに具体的な指示を出していった。  通りかかった観光客が、そんな様子を興味深げに見つめていたが、やはりカメラマンがあの鮎川麻貴だとは気づかない様子である。 「もうちょっと右に寄ってくれる。あ、それだと右に寄りすぎ」  手ぶりもまじえて、麻貴が言った。 「そうそう。……あ、それから、階段を一段だけ下りてみてくれる。いちばん上じゃないほうがいいみたい。ああ、いいわね。一段下りると、あなたの影があまり出なくていいのよ」  雲間から部分的に顔をのぞかせる午後の太陽は、陽明門に向かって左の、比較的高い位置から光を放っていた。  ちょうど亜貴の立っている一帯にその日差しが当たり、階段の中央部につらなる仕切り用の柵も左横から照らされて、石段に柵の形どおりの影を落としている。  けれども亜貴の影は、カメラが彼女をあおぎみる位置にあるから、ほんのわずかしか画面には現れない。そのため、部分的に光り輝く石段の上で、亜貴の足元が、浮かび上がるようにくっきりと見えた。 「オッケー、立ち位置はそこで決定ね」  声をかけた麻貴に、亜貴が無言でうなずく。  言われるままにぎこちないしぐさで立ち位置を決めた亜貴の向かって右側には、男女三人づれの外国人観光客が、石造りのてすりにもたれかかって談笑していた。  麻貴がのぞき込むファインダーの構図の中で、彼らもひとつのアクセントになっていた。 「それにしても亜貴、なんだか手持ちぶさたって感じね」  いったんファインダーから目を離し、メガネをサンシェードで覆ってから、麻貴は直接妹のほうを見つめた。 「そうだわ……あの、すみません」  麻貴が、急に平田のほうをふり向いた。  彼女のほうから平田に話しかけてくるのは、このロケ中、ほとんど初めてといっていいくらいだった。ただし、名前まではきちんと覚えていないようで、『平田さん』という具体的な呼びかけはない。 「その傘を、妹に渡してもらえますか」  麻貴は、妹がとても気に入っているという、世界で一本しかない特注のチューリップ傘を目で示した。  それは、平田が亜貴からあずかっていたものである。  平田は麻貴に言われるままに小走りに石段をのぼり、亜貴にその傘を手渡した。 「そうよ、そうやって何かもっていたほうが、やっぱり身体の流れが自然になるわね」  女優の麻貴と違って、高校生でモデルなどの経験もない亜貴は、手ぶらだとポーズの決めようがなかったのだ。 「じゃ、亜貴、その傘をパッと開いてみて。恥ずかしくないから……そうよ」  誰も傘など差していない状況で、亜貴は照れ臭そうに華やかな模様の傘を開いた。  そして、依然としてどこかぎこちないしぐさでそれを両手でもつ。  そばで撮影風景を眺めていた平田は、いつのまにか、また観光客の数が増えてきたのが気になった。  映画のロケなどではないから、一般の通行をストップするわけにはいかない。けれども、こんなに観光客が映り込んでしまっていいのだろうかと思った。  それで、彼は思い切って麻貴に声をかけた。 「あの……麻貴さん。人ばらいはしなくていいんですか。なんなら、ちょっとの間だけでもぼくが人の整理を……」 「いいです」  ファインダーから目を離さぬまま、愛想のない返事がかえってきた。  また平田は傷ついた。  と、その直後に、 「あ、いいわ。いまよ、いま」  と、麻貴がほとんど独り言のように叫び、急いでカメラのピントを合わせた。  何を興奮しているのだろうと、陽明門のほうに目をやった平田は、彼もまた「あっ」という表情になった。  モデルとなった亜貴自身は気づいていないが、彼女が立つ右斜め上、豪華絢爛たる陽明門の右側の空間に、赤・ピンク・黄色・白と色とりどりの風船が十個ほどまとまって、ゆらりゆらりと揺れながらその姿を現したのである。  おそらく、陽明門の裏側——眠り猫などがある回廊のあたり——にいた見物客の子供がもっていた風船が、その手を離れて飛んできたのだろう。そのカラフルな色合いが、カメラ位置からみると、ちょうど木々の緑をバックに鮮やかなコントラストをなす格好になったのだ。  この偶然の演出に、麻貴は急いでシャッターのレリーズボタンを押した。  浮上する風船は、風の流れのかげんか、一瞬、その場で動きを止めた。麻貴の切ったシャッタースピードは二分の一秒というゆっくりしたものだったが、風船の動きが止まったのと、カメラからの距離があったため、スローシャッターでもほとんどブレがわからない程度に、フィルムにその画像が記録された。  麻貴は急いで、もう一枚撮ろうとした。  だが、三脚にセットしたイタリア製の6×8カメラは、フィルムが自動巻き上げではなく、クランクを手で巻き上げる方式だった。  だから、そのクランクを回して、つぎに麻貴がシャッターを押そうと思ったときには、宙に止まっていた風船はその奇跡的なバランスを崩し、ふたたび浮力をつけて高く舞い上がりはじめ、あっというまにカメラの構図の外に出てしまった。 「たった一枚だけだったわ」  麻貴は少し残念そうにつぶやいた。 「でも、抜群のシャッターチャンスだった」  しかし——  そのたった一枚が、鮎川亜貴の生きている姿を記録した最後の写真になった……。      10  撮影直後におかしなことが起きた。  昼食は、昨夜麻貴と若林が夕食をとった『明治の館』と同じ敷地内にあるフランス懐石の店へ行こうということになったが、その前に、麻貴と亜貴の姉妹が陽明門のそばにあるトイレへ連れ立っていった。  そしてつぎに姿を現したとき、彼女たちの服装が逆になっていたのである。  黄色のワンピースは姉の麻貴が着て、白いブラウスにジーンズ、そしてつば広の帽子は妹の亜貴が身につけていた。  唯一変わらないのはサンシェード付きのメガネで、これは依然として麻貴がかけていた。  さすがにこの衣装交換にはマネージャーの若林もあぜんとして、 「麻貴、二人ともなにやっているんだよ」  と、けげんな顔でたずねた。 「ううん、なんでもない」  麻貴は首を左右に振ったが、若林は納得しなかった。 「なんでもないってことはないだろう。……亜貴ちゃん、どういうワケだよ、これ」  マネージャーは、麻貴の妹にもたずねた。 「なんでもないんです」  亜貴も首を横に振った。 「ただ、急にお洋服を取り替えてみたくなっちゃって……ほら、私たちって、ほとんどサイズが同じでしょう。だから、交換してもこんなふうにピッタリ」 「それはわかるけどさ、だけどなんでまた」 「なんでもないの!」  マネージャーの疑問を封じ込むように、黄色いワンピース姿になった鮎川麻貴が、ピシャリと言った。  その口調が意外に激しかったので、若林は口をつぐんだ。  しかし、サンシェードの端からのぞく麻貴の目尻《めじり》が、神経質そうにヒクヒクと痙攣《けいれん》している。  亜貴の顔も、どことはなしに暗い。  その二人の表情が、平田は気になった。  そしてもうひとつ、平田がハッとなったことがあった。いままであまり意識しなかったが、麻貴と亜貴の二人の髪の毛の長さが、ほとんど同じなのである。  つまり、後ろ姿だけみると姉妹の区別がつきにくい。まして洋服を交換したとなると……。  平田の脳裏に不吉な予感が走った。 「あの……亜貴ちゃん」  平田が口を開くと、サンシェードに隠された麻貴の目が彼に向いた。  何か言われるな、と思ったが、平田はかまわず妹のほうに向かってきいた。 「その洋服の交換って、亜貴ちゃんのほうから言い出したことなの。それとも麻貴さんから?」  亜貴がギクッとした表情になった。  この質問が、なんらかの形で核心をついた——平田は思った。  が、案の定、そこに麻貴が割り込んだ。 「私たちがどんな行動をとろうと、それは姉妹の間のことですから、どうぞお気遣《きづか》いなく」  どうぞお気遣いなく、という言い方が、いかにも慇懃無礼《いんぎんぶれい》だった。初対面のときに、芝居がかった抑揚で『お世話になります』と挨拶《あいさつ》されたときのことを平田は思い出した。  この手の言い回しを麻貴がしたときは、相手を軽んじているか、煙たがっているかのどちらかなのである。 「まあいいや」  その場のやりとりに決着をつけたのは、マネージャーの若林だった。 「とにかく食事の場所へ移動しよう。急に、また雲行きが怪しくなってきたし」  若林の言うとおり、さきほどまで陽明門を照らし出していた太陽はすっかり姿を隠し、かなり濃い灰色の雲が上空に流れ込んできた。 「若林さん、先に行ってて」 「先に?」 「だって、ここからなら歩いて行けるでしょう」 「そりゃそうだけど」 「私と亜貴、ちょっとだけ話があるの」 「なんの話だよ」 「だから、きょうだいの話」  そう言うと、マネージャーの返事も待たず、麻貴と亜貴はきびすを返して、さきほどきた道を引き返した。 『見ざる・聞かざる・言わざる』の脇を通り、五重塔を右手に見て一ノ鳥居をくぐり、千人枡形と呼ばれる石段を下りて表参道に出る。  そこまでは、若林と平田も後につづいた。  すると、麻貴はいったん彼らをふり返って、じゃあね、と手を振り、下新道の分岐を鋭角に右へ折れた。  客寄せ『人面木』があるほうの道である。 「しょうがねえなあ。なに考えているんだ、麻貴のやつ」  マネージャーの若林は、不服そうにつぶやいた。が、彼はそれ以上二人のあとを追うことはせず、軽くため息をつくと、平田に向かって言った。 「とにかく、我々は先にメシのところへ行ってようか」 「ええ……」  うなずきながら、平田はなおも姉妹の後ろ姿を目で追った。  ほとんど同じ長さの髪をして、ほとんど背格好もいっしょの二人を……。 「さあ、平田さん、ボケッと立ってないで行こうよ。麻貴のきまぐれにかまってたらキリがない」  こういうことには慣れているのか、若林はタレントをとことん監視しようとはせずに、彼女たちが歩いていったのとは反対の、東の方角に顔を向けた。 「なんだかワケわかんない撮影につきあわされて腹ペコだし喉《のど》も渇いた。とりあえずビールでも注文して待っていようよ。けっこう重いんだよな、このカメラバッグ」  若林は、右肩に掛けていたバッグを、反対の肩に掛け替えた。 「そうですね。じゃ、行きましょう」  平田も、麻貴と亜貴の後ろ姿から目を離すと、食事をとる場所のほうへ身体を向けた。  と、そのとき、肩に担いでいた三脚の間から何かがするりと抜けて地面に落ちた。  亜貴があずけていった、特注の傘だった。      11  それは偶然といえば偶然の出来事だったが、しかし、平田が東照宮の周辺で撮影に立ち会っているのを知っている朝比奈耕作にとっては、ある意味で、自然とひとつの流れに巻き込まれたうえでの、事件との遭遇かもしれなかった。 『観音信仰殺人事件』という題名のミステリーを書こうと思いついた朝比奈は、レンタカーを利用して中禅寺湖まで行き、湖の周辺を散策したりしながらのんびりと作品の構想を練っていた。  立木観音のある中禅寺にも足を運んだ。この観音はカツラの木を彫り上げたものだが、この境内のカツラの木のひとつが、「花も嵐も踏み越えて」という主題歌で有名な映画『愛染《あいぜん》かつら』の舞台となったものである。  結果的に朝比奈は、鮎川麻貴たちと同じ場所を訪れたわけだが、微妙に時間帯がずれていたために、一行と鉢合わせをすることはなかった。  そして彼は、やはり麻貴たちと同じように、ふたたび『いろは坂』を下って日光山内方面へ戻り、東照宮へと足を運んだのである。  その朝比奈が、敷地内で真っ先に訪れようとしたのが、陽明門でも神廏《しんきゆう》の三猿でもなく、宝物殿前の人面木だった。  あまり趣味がいい観光スポットとはいえないが、やはりミステリーの舞台には、こうした道具立てが欠かせないと思ったからだ。  が、朝比奈が人面木のある宝物殿に足を踏み入れたとき、あたりは騒然とした混乱状況に陥っていた。  何があったのか、宝物殿の周囲は集まってきた観光客でごった返していた。 「救急車は、救急車はまだなのか!」  宝物殿の係員らしき人間が、石段の上の一段高くなったところにある宝物殿出入口付近で叫んでいた。 「警察も呼べ、警察もだ……ああ、関係ない人は上ってきちゃダメ。下がって下がって」  そう叫びながら、その係員の表情は完全にパニック状態に陥っていた。  朝比奈はヤジ馬の輪をかき分けて前のほうへ進み出た。  一瞬、彼は騒ぎが起きている方向とはべつに、話題の人面木というのがどこにあるか、周囲に目を走らせた。が、どの樹木がそれなのかわからない。  地面に立っただけの視点からでは、人面は浮かび上がってこないのだ。  それはともかく、朝比奈はふたたび一段高い宝物殿のほうへ目をやった。  その回廊の端から見下ろすと樹木に取り憑《つ》いた人面が浮かび上がるとされる、まさにその人面木観察地点に、宝物殿の係員数人が輪を作ってしゃがみ込んでいた。  誰かが倒れている。  そして、少し離れているところに立った黄色いワンピース姿の女性が、半狂乱になって泣き叫んでいた。 「亜貴、亜貴、だめよ、死んじゃダメ」  その名前を聞いて、朝比奈は顔色を変えた。  平田から聞いていた鮎川麻貴の妹と同じ名前ではないか。 (だったら、黄色いワンピースの女性は……)  サングラスのようなもので目を覆っていたから確証はないが、顔立ちからすると女優の鮎川麻貴によく似ている、と朝比奈は思った。  あらかじめ平田に警告しておいた不吉な予感が、やはり的中してしまったのか。 「平田!」  おもわず朝比奈は、鋭い声を発した。  周囲のヤジ馬が、いっせいに彼のほうをふり返った。  が、そんな反応にかまわず、朝比奈は繰り返し叫んだ。 「平田、いるか。近くにいたら返事をしろ!」  しかし、返ってくるのは好奇の視線ばかりである。 (平田……いっしょにいないのか、おまえは)  友人の姿を見つけるのをあきらめた朝比奈は、決断した。彼は、宝物殿の石段を一気に駆け上がり、係員が制止するのも聞かず、回廊の端まで駆け寄った。  その途中で、たまたま群衆のほうを眺め下ろした朝比奈は、敷地の向こうに生えている木の樹皮に、不気味な人の顔が浮かび上がっているのに気がついた。  目もあれば、こぢんまりとした鼻もある、歪《ゆが》んだ唇もある。  木に取り憑いた悪霊ともおもえるその顔が、じっと朝比奈を睨《にら》んでいる。 (あれが人面木か)  朝比奈は、チラッとその存在を意識した。  が、すぐに彼の視線は、回廊の端に倒れている若い女性に移動した。  白いブラウスにジーンズをはいた髪の長い女性は、ときおり身体をピクピクと痙攣《けいれん》させている。  そして彼女の右目には——  なんと鋼鉄の矢が突き刺さっているのだ! (ボウガンで射たれたんだな)  朝比奈は即座に判断した。  水平にした弓矢を銃のような発射装置に組み込んだもの——それがボウガンである。  鋼鉄製の矢尻《やじり》がついたものを発射すれば、その殺傷力は頭蓋骨《ずがいこつ》さえ貫くともいわれている。 「誰だね、あんた」  そばにしゃがみ込んでいた、赤銅色《しやくどういろ》に日焼けした男が、朝比奈を叱《しか》った。 「関係ない人間は下がっていてくれ」 「関係あるんですよ」  朝比奈はそう言って、不規則な痙攣をつづける鮎川亜貴のかたわらに腰を下ろした。 「誰だね、きみは。誰なんだ」 「しっ」  詰問する係員に向かって、朝比奈は人差指を唇にあててみせた。 「なにかつぶやいている」 「え?」 「彼女、なにかつぶやいていますよ」  朝比奈の言葉に、異様な興奮状態に陥っていた姉の麻貴が、騒ぎ立てるのをやめた。周りの人間も静かになった。  朝比奈の指摘どおり、亜貴の唇がかすかに動いているのがわかったからである。 「ダイ……」  朝比奈は、もっとはっきり聞き取ろうと、鮎川亜貴の口元に耳を寄せた。 「ダイ……ヤ……」 「ダイヤ?」  そのままの姿勢で朝比奈は聞き返した。  すると、また亜貴は同じ言葉をつぶやいた。 「ダイヤ……」  そして、それきり動かなくなった。  鋼鉄の矢が突き刺さった右目を開けたまま……。 [#改ページ]   第三章 観音への執着      1  人気女優・鮎川麻貴の妹、亜貴が何者かにボウガンで右目を射貫《いぬ》かれて殺されるという衝撃的な事件からひと月が経った。  その間、芸能マスコミのみならず、一般ジャーナリズムも巻き込んで、日光東照宮における謎《なぞ》のボウガン殺人事件は大きな波紋を呼んだ。  しかし、いつものことだがマスコミ主導によって犯人と目される人物は数人出てきたものの、事件を扱う栃木県警および日光警察署の捜査陣としては、この人物が真犯人だと断ずるまでの確たる決め手がなかった。  とりわけ、現場に残されたのはボウガンの矢一本だけで、しかもそれは海外輸入品で、正規ルートではない持ち込みによるものと推定された。つまり、販売ルートから犯人の手がかりをつかむのが、最初から困難な状況にあったのだ。  また、発射されたその矢からだけでは、ボウガン本体の特徴などつかみようがなく、その点でも凶器から犯人を割り出す作業は、見通しがまったく立たない状態だった。  にもかかわらず、マスコミにおける『疑惑の人物探し』は大いに盛り上がった。  まず、大半のマスコミが論調を揃《そろ》えていたのは、殺されたのは妹の亜貴だったが、実際に狙《ねら》われたのは大スターである姉の麻貴のほうに違いない、という点である。  撮影に同行していた若林マネージャーや平田均の証言により、事件直前にこの姉妹がトイレで洋服を交換していたという、非常に興味深い事実も明らかになっていた。  そうした背景から、≪被害者になるはずだったのは姉の鮎川麻貴のほう≫との前提に立ったうえで、この人物が怪しいと噂《うわさ》の俎上《そじよう》に載せられたのは三人だった。  まず第一は、麻貴の所属事務所・銀座プロダクション社長の梓圭一郎。  彼を疑うべき理由は、いろいろ列挙された。たとえば、昨今、鮎川麻貴が事務所からの独立をほのめかし、社長である梓のコントロールが利かなくなっていた、とするものである。 『観音』と題する写真集の企画が外部に洩《も》れたのも、麻貴と社長の意思統一が図られていなかったからだ、との声もあった。  また梓は、麻貴の父親からも芸能界引退——最低でも銀座プロダクションとの契約破棄を迫られており、その件に関しても、たびたび麻貴と諍《いさか》いがあったという説もある。  さらには、梓と麻貴——すなわち社長とタレントの禁断の恋破局説をとるマスコミもあった。  ことし五十一歳の梓には、いちおう妻も子供もいる。しかし、家庭の不和は業界で周知の事実とされていた。  原因は、梓の不倫である。そして、その不倫相手が麻貴ではないか、という推察がなされていた。そして、麻貴が誰か別の男に走ったために、嫉妬《しつと》した社長の梓が……というもっともらしいストーリーが週刊誌上をにぎわせたりした。  容疑者としてテレビ週刊誌からの取材攻勢を受けている二人目の人物は、海洋堂出版の丸尾涼子社長だった。  そもそも日光の撮影は、カメラを趣味とする鮎川麻貴の写真作品集を出版するためのもので、この作品集の発行元は海洋堂出版のダミー会社、そして発売元は海洋堂出版そのものとなっていた。  なぜポルノ系出版社から、天下の鮎川麻貴の本が出るのか、という疑惑が、ここでも注目された。丸尾涼子が経営するこの出版社は、例の写真集の企画盗作問題の当事者でもある。  そんなことから、銀座プロダクションの梓社長がなんらかの弱味を海洋堂出版の丸尾社長に握られ、そのことで恐喝されていたか、あるいはその逆で、両社長が恋愛関係にあって、それで特別な便宜が海洋堂出版に図られたのではないかとも想像されていた。  そして恐喝説の場合は、梓が何かの取引に応じなかったために、涼子が彼のドル箱である鮎川麻貴を殺そうとした、と解釈する。  もう一方の両社長恋愛説の場合は、涼子が梓と麻貴の関係に嫉妬して殺害を図った、というきわめてわかりやすい解釈である。  第三の容疑者は——これは殺された鮎川亜貴の遺族が激怒した説だが——父親の鮎川源三がそうだというものである。  高校教師で生活指導の主任を務めている源三は、ただでさえ娘が芸能界にいることに強い不安を抱いていたが、写真集盗作問題をきっかけに、麻貴がヌードになる企画があったのを知り、かつてないほど怒り狂った。  娘たちに厳格なしつけをほどこしてきた源三にとって、不特定多数の人間に裸をさらすほど破廉恥きわまりない行為はなかった。娘がそんな真似をすれば、生活指導主任として、学校で自分の立場がなくなってしまうという困惑もあった。  そこで彼は、麻貴本人および事務所の梓社長に対し、即刻麻貴を芸能界から引退させるように迫った。  が、事務所よりもまず麻貴本人が頑として父親の命令を撥《は》ねつけた。それどころか、機会があったらヌードになることにためらいはない、とまで父親に宣言したと本人が認めている。  それで逆上した父親が、可愛さあまって憎さ百倍とばかりに、麻貴の殺害を謀った、という解釈である。  これら三人の容疑者説とはべつに、前提から異なる推理を展開するマスコミもあった。  それは、妹の亜貴が誤って狙撃《そげき》されたのではなく、≪最初から妹のほうが狙《ねら》われていた≫という考えを前提とするものだった。  この場合の犯人は、姉の麻貴というセンセーショナルなものだった。  ただし、事件当時宝物殿周辺にいた観光客などの証言により、麻貴が直接ボウガンを発射した可能性はゼロだったから、麻貴の依頼によって誰かが実行犯となった、というのが、この考えの基本だった。  この場合の犯行理由は、姉と妹との確執という以外に、明確な理由づけは行なわれていないが、息を引き取る直前に、亜貴が「ダイヤ」とささやいたことから、宝石をめぐる姉妹の口論といった仮説まで取り沙汰《ざた》された。  さらにもうひとつだけ、これも相当センセーショナルな視点に立った容疑者説を唱えるマスコミがあった。  それは、なんと≪殺された妹の亜貴が犯人だった≫という推測だった。  亜貴のふだんの性格が、非常に穏やかで純朴だという事実さえ脇にどけてしまえば、これは意外に説得力のある仮説だった。  すなわち、事件直前に姉妹が服を交換したのは、妹の亜貴から言い出したことであり、狙撃犯にとって黄色いワンピースのほうが白いブラウスよりも標的として狙いやすいからだ、と解釈するのである。  そして、人面木を見ようと現場に誘ったのも妹の亜貴で、姉をその場に立たせたまではよかったが、実行犯がミスをして、鋼鉄の矢は標的の麻貴に当たらず、依頼者である亜貴に命中してしまうという皮肉な結果を招いた——こういう推論だった。  この場合、妹が姉を殺そうとした理由に挙げられたのは、大スターである姉への羨望《せんぼう》と嫉妬《しつと》が殺意に転じた、とするものだった。  このように無責任な立場にあるマスコミは、好き勝手な仮説をミステリー仕立てにして並べまくったが、捜査陣のほうは犯人逮捕の決め手を欠くいらだちが日増しに募っていく——それが、事件発生から一カ月経ったときの状況だった。      2 「暑い日がつづくなあ。ま、冷たい麦茶でも飲めよ」  朝比奈耕作は、夜遅く成城の自宅にやってきた平田均に、氷をいっぱい浮かべた麦茶のグラスを差し出した。  七月に入るといちだんと蒸し暑さが増し、夜になってもクーラーは決して止められないようになってきた。  もともと風通しのよい日本家屋である朝比奈邸は、いつもの夏なら、夜などは窓を網戸だけにしてぜんぶ開け放っておけばじゅうぶん涼をとれるのだが、ことしの夏はそうもいかなかった。  見てくれが現代的なわりには、縁側に出てウチワ片手に涼むというスタイルを好む朝比奈も、ことしの夏ばかりは意に反してクーラーを多用せざるをえなかった。 「それで、どうだい」  平田がグラスの麦茶を一気に飲み干すのを見て、朝比奈がたずねた。 「どうだい、って?」  口の回りをぬぐって、平田が聞き返す。 「つまり、海洋堂出版の状況さ」 「見た目は平穏だよ」  カリカリと氷をかじりながら、平田は答えた。 「丸尾社長って、イメージ的には、知性と同時にモロさも兼ね備えた美人というところだけど、どうしてどうして、精神的にはめちゃくちゃタフだよ。マスコミによっては社長を犯人だと書き立てているところもあるのに、一向に気にしないんだな。犯人じゃないということは、自分自身がいちばんよく承知しているから、周りから何を言われても平気なのよ、ってね」 「なるほど」 「ぼくがあの人の立場に置かれていたら、とっくに精神的に参っていると思うけどね」 「平田の場合は、アリバイが確実で助かったな」 「そうなんだよ。ちょうど若林といっしょに食事の場所に向かっていたところだったから。……それにしても、耕作があの現場に駆けつけるとはねえ」 「おかげで、ぼくも警察からアリバイめいたことはチェックされたよ」  朝比奈は苦笑した。  が、平田は長いため息とともに表情を曇らせた。 「あれから一カ月……一カ月経っても、ショックは癒えないな」  空になったグラスをコトリと置いて平田がつぶやいたので、朝比奈も苦笑をすぐに引っ込めた。 「そういえば、平田は亜貴ちゃんがお気に入りだったもんな」 「ああ。可愛い子だったよ。性格がよくてね」  平田は、がっくりと首をうなだれた。 「ほんの短いつきあいだったけれど、なんだか恋人というよりも、自分の妹のような気がしてきてさ……。事件を聞かされたときは震えたよ。足がガクガクしちゃって、立っていられないくらいだった」 「そうか」 「こういっちゃナンだけど、彼女のむごたらしい死に様を見たのが、耕作のほうで助かったよ。鋼鉄の矢で目を射貫《いぬ》かれたなんて……。もしも、その姿を自分で直接見ていたら、一生まぶたから離れないだろうな」 「………」  しばらく、二人の間には沈黙が漂った。 「ところで」  うつむきかげんの平田の表情を窺《うかが》いながら、朝比奈が遠慮がちに会話を再開した。 「事件当時のアリバイなんだけど、マスコミに騒ぎ立てられている『容疑者』四人のうち、鮎川麻貴をのぞく三人には、決定的なアリバイがないんだろう」 「うん」  気を取り直したように、平田は顔を上げた。 「まず、おれの上司の丸尾涼子社長は、風邪を引いて高熱が出たと言って、土曜日からずっと自宅で臥《ふ》せっていたことになっている。でも、それを証明する者はいないし、医者に診《み》てもらったという形跡もないんだ」 「麻貴の事務所の社長は」 「梓社長も、日曜日の行動は客観的に証明されていない」  平田は言った。 「直前まで日光のロケには立ち会うと言っていたのに、マネージャーの若林に急に電話を入れて、ヤボ用ができたので撮影には同行できないと言い出した。  その一方で、麻貴の父親から、麻貴の芸能界引退問題についてサシで会いたいと申し入れがあったらしいが、けっきょくそれもスッポカシてしまったようなんだ」 「梓社長本人は、当日の行動を警察にはどう説明しているんだっけ」 「聞くところによると、隠れ家として使っている六本木のマンションに一日中いたと主張しているらしい。でも、丸尾社長と同じで、その場に居合わせた人間はいない。だから、アリバイにならないんだ」 「仮にそれが事実だとしても、六本木マンションに一日中こもっていて、何をしていたんだ」 「何をしようと勝手だろ、というのが、捜査陣に対する本人の言い分らしいよ」  平田は肩をすくめた。 「それに梓社長の反論は一貫している。いくらなんでも自分のところのドル箱スターを、社長の私が殺すはずがないでしょう、ってね。それが、自己弁護の切り札みたいだよ」 「麻貴の父親は?」 「麻貴の引退の件で話し合うと約束した梓社長から電話がかかってこなかったので、自分から銀座プロダクションに出かけていったという」 「事件の起きた日曜日に?」 「そう、あの日のお昼すぎに国立《くにたち》の自宅を出て、一時半ごろに銀座プロダクションへ着いたんだって」  亜貴がボウガンで狙撃《そげき》され生命を失ったのは、日曜日の午後二時四十五分前後である。 「銀座プロダクションは日曜日でも何人かのスタッフは事務所にいたんだが、訪れた鮎川源三に対して、梓社長の居所はわからないの一点張り。それで父親は、青山にある麻貴のマンションへ向かった」 「彼は、その日、娘が日光へ撮影にいったとは知らなかった、と主張しているらしいね」 「そうなんだ。麻貴の母親がモメるのを恐れて、源三には日光ロケのことを教えていなかったらしい。殺された次女の亜貴が同行していたのも初耳だった、と源三は主張している」 「で?」 「麻貴のマンションももぬけの殻とわかった父親は、そこでプッツンした。やりばのない怒りが爆発してしまったんだ。そして、新宿へ飲みに出たそうだ」 「暗くなる前から?」 「そう。そして見知らぬ店を何軒かハシゴして、夜中近くになって泥酔状態で帰ってきた。そこで、初めて娘の悲劇を知らされた、という次第だ」 「泥酔状態でねえ……」  平田の向かいの籐《とう》の椅子《いす》に座った朝比奈は、腕組みをした。 「もしも鮎川源三が犯人ではなかったら、それはかなり悲劇的な帰宅場面だったね」 「ああ、奥さんのほうも錯乱状態だったというからね」 「だけど、父親が犯人かもしれないという目で見てしまうと、娘を殺してしまった衝撃と自己嫌悪で泥酔せざるをえなかった、とも受け取れる」 「そうなんだよ」  平田はうなずいた。 「そんな調子だから、丸尾社長、梓社長、麻貴の父親というふうに、誰をとってもアリバイが不明確で、誰をとってもそれなりの動機がある」 「これが推理小説だと、いちおうは容疑者も含めて真犯人にも、見かけ上は完全なアリバイをもたせないと叱《しか》られちゃうんだけどね」 「実際の出来事は、むしろこういう状況のほうが自然なのかもしれないね」 「鮎川麻貴はどうなんだ。当人は」  朝比奈はきいた。 「鮎川麻貴犯人説はともかくとして、彼女は陽明門の前で撮影を終えたあと、洋服を妹と交換して、二人きりの話があるといって、平田たちと別れて宝物殿のほうへ行ったわけだ」 「ああ」 「このいきさつについての彼女の釈明は、その後明らかになったかい。つまり、第一に洋服の交換を申し出たのは、姉なのか妹なのか。第二に、二人きりで話し合おうとしていた内容は何だったのか。第三に、宝物殿という場所へ向かったのは、姉の意思なのか妹の意思なのか」 「依然として、黙して語らず」  平田は両手を広げた。 「捜査陣にどんな答え方をしてるのかは、ぼくのところまで聞こえてこない。でも、いま朝比奈がしたような質問をマネージャーの若林が問い詰めたとき、麻貴はこう答えたそうだ。  私がどんな答えをしようと、亜貴が死んでしまった以上、私の言葉が正しいと証明する方法はありません。自分が疑惑からのがれたいためにウソをついていると思われるのも本意ではありません。だから私は何も言いません——と」 「それはおかしいなあ」  カフェオレ色に染めた髪の毛に片手を突っ込んで、朝比奈は言った。 「麻貴がまったく犯行と無関係ならば、ありのままに事情を話してもいいはずだ」 「ぼくもそう思うよ」 「二人がトイレから出てきたときに服が取り替えられているのを見て、平田も亜貴ちゃんにたずねたんだよな。どっちが服の交換を言い出したのか、と」 「うん、たずねたよ」 「その質問に、亜貴ちゃんはギクッとした顔になったんだろう」 「そうなんだ。でも、じっと答えを待っていれば、彼女はちゃんとした返事をぼくにすると思ったね。亜貴ちゃんは、もったいぶった態度を見せたり、妙な隠し立てをする子ではなかったから」 「ところがその瞬間、姉の麻貴が割り込んだ」 「そう。『どうぞお気遣いなく』ってね」 「不自然だね」  髪の毛に入れていた手をはずして、朝比奈はつぶやいた。 「どうにも不自然だよ、姉の行動は」 「なあ、耕作はどう思う?」 「なにが」 「狙われていたのは、姉なのか、それとも妹なのか、っていう問題だよ。この大前提が違うと、事態はまるで正反対のほうに動くだろう」  平田は声を強めた。 「犯人は狙ったとおりに、妹を殺したのか。それとも姉を狙ったつもりなのに、妹を殺してしまったのか——どう、耕作?」 「そりゃあ決まっているだろ」  あまりにもあっさりと朝比奈が言ったので、平田は、「え?」という表情になった。 「そりゃあ決まっている……だって?」 「そう」  こともなげに、朝比奈は言った。 「わかっているのはそれだけじゃない。洋服の交換を提案したのが、姉と妹のどちらなのか、ぼくにはすでに見当がついている」 「ほんとかよ」  平田は、ますますびっくりした顔になった。 「警察だって、そのへんの証言がとれなくて苦労しているみたいなんだぜ」 「証言が取れなくても、状況を総合的に判断すれば、おのずから結論は出てくるよ」 「シャーロック・ホームズみたいなことを言うやつだな」  平田は、これまでにも数多くの難事件を解いてきた親友の推理作家を、まじまじと見つめた。 「で、答えは?」 「その前に確認だ」  結論を急ぐ平田に、朝比奈は待ったをかけた。 「ぼくは、鮎川亜貴のむごたらしい死に顔を見ている。けれども、あの状況では正確に比較できないので、あらためて平田にたずねるんだが、鮎川麻貴と亜貴の姉妹は、顔立ちが似ているかい」 「いや、似ていない」  平田は即座に答えた。 「姉の麻貴は父親似だが、妹の亜貴は母親似なんだ」 「妹の亜貴を単独で見た場合、彼女を、かの有名な人気女優・鮎川麻貴と見間違える可能性は?」 「ほとんどないといっていいと思うね。それどころか、麻貴の妹だということすら、言われなければわからないだろう」 「姉妹でぜんぜん顔立ちが似ていないケースは世の中で決して珍しくはないが、彼女たちもそうだと思っていいのかな」 「西麻布にあるイタリア料理店であの姉妹に初めて会ったとき、言われるまで、亜貴ちゃんが鮎川麻貴の妹だとはわからなかったよ」 「オーケー、それじゃ結論が出た」  朝比奈は、座っていた籐の椅子から立ち上がった。      3  同時刻——  東京都郊外の国立市にある鮎川麻貴の実家では、観音を祀《まつ》る奥の部屋で、ポツンとひとつだけ点《つ》いた豆電灯の明かりのもと、父親の源三と麻貴とが向かい合っていた。  鮎川家は、次女亜貴の悲劇とともに、崩壊の兆しをみせていた。  麻貴の母の真知子は、亜貴が無残な殺され方をしたショックからいまだ精神的に立ち直ることができず、千葉の外房に面した病院に入院してしまった。  また父親の源三も、事件以来、勤務先の高校には休職願を出し、すでに一カ月も欠勤をつづけている。そして今後も、復職する気持ちのメドがつきそうにない。  麻貴自身も、入っていた仕事のすべてを白紙に戻してしまった。  父親から引退を迫られたときには、あれだけ頑として拒否していたのに、妹の死とともに、彼女の気力はどこかへ失せてしまったようだった。  決定ずみの映画やコマーシャルの仕事をキャンセルし、レギュラーで主役を務めていたテレビドラマも降板した。それによって、連続テレビドラマのヒロインが途中から代役になるという異例の事態も起きてしまった。  ただし、正確にいえばひとつだけ、事件のあとも続けている仕事があった。  それは、海洋堂出版から出す予定の写真集の制作作業である。 「お父さん」  背筋を伸ばして正座した格好で、麻貴は父親に向かって言った。 「私は、観音さまの前で正直なことをお話ししたいと思っています」 「どんな話だ」  問い返す鮎川源三の顔は、げっそりとやつれていた。 「亜貴を殺したのは、この私です」  その言葉に、源三は薄暗闇《うすくらやみ》の中でカッと目を見開いた。 「なんだと」 「もちろん、私自身が手にかけたのではありません。私が誰かに命じて亜貴を殺したのでもありません。でも、あの子を死の流れに導いてしまったのは、この私なのです」 「もっと具体的な話をしなさい」 「その前に、観音さまの扉を開けて」  麻貴は、祭壇に目をやった。 「観音さまの前で、亜貴と最後に話し合ったことを打ち明けたいのです」 「わかった……」  娘の申し出にうなずくと、父親の源三はゆっくりと観音|菩薩《ぼさつ》を収めた扉を開いた。  いわゆる『観音開き』と称せられる、中央から左右に引き開ける形である。  そしてまずはじめに、源三はいつものように観音経を唱えた。 「世尊妙相具《せーそんみようそうぐー》  我今重問彼《がーこんじゆうもんぴー》  仏子何因縁《ぶつしーがーいんねん》  名為観世音《みよういーかんぜーおん》  具足妙相尊《ぐーそくみようそうそん》  偈答無尽意《げーとうむーじんにー》  汝聴観音行《によちようかんのんぎよう》  善応諸方所《ぜんおうしよぼうしよ》  弘誓深如海《ぐーぜいじんによかい》  歴劫不思議《りやくこうふーしーぎー》  侍多千億仏《じーたーせんのくぶつ》  発大清淨願《ほつだいしようじようがん》  我為汝略説《がーいーによりやくせつ》  聞名及見身《もんみようぎゆうけんしん》  心念不空過《しんねんふーくうか》  能滅諸有苦《のうめつしようーくー》  假使興害意《けーしーこうがいいー》  推落大火坑《すいらくだいかきよう》  念彼観音力《ねんぴーかんのんりき》  火坑変成池《かきようへんじようちー》  或漂流巨海《わくひようるーこーかい》   龍魚諸鬼難《りゆうぎよしよきーなん》  念彼観音力《ねんぴーかんのんりき》  波浪不能没《はーろうふーのーもつ》  或在須彌峰《わくざいしゆみーぶー》  為人所推堕《いーにんしよすいだー》  念彼観音力《ねんぴーかんのんりき》  如日虚空住《によにちこうくーじゆう》  或被悪人逐《わくひーあくにんちく》  堕落金剛山《だーらくこんごうせん》  念彼観音力《ねんぴーかんのんりき》  不能損一毛《ふーのうそんいちもう》  或値怨賊遶《わくちーおんぞくによう》   各執刀加害《かくしゆうとうかーがい》  念彼観音力《ねんぴーかんのんりき》 ……」  父親の唱える経文の意味は、麻貴にはすべてわかっていた。  紀野一義《きのかずよし》という人物の訳文をも、父によって暗記させられていたからである。 (世尊は、みごとな相を備えられていられます。わたくしは今、重ねて問い奉ります。  仏の子は何の因縁によって観世音と名付けられるのでありますか。  みごとな相を備えられている世尊は、詩によって無尽意に答えられた。  おまえは観音の行を聴け。  よくもろもろの方角や場所に応じて立てられた誓いの深いことは、海のようである。劫を経ても思議することはできない。  幾千億の仏に仕えて、大清浄の願いを起こしたのだ。  わたしはおまえのために略して説こう。  名を聞き、身を見て、心に念じて空しく過ごさなかったら、よく存在の苦しみを滅するであろう。  たとえ害意を興す者があって、大いなる火の坑に突き落とされても、  かの観音の力を念じたならば、  火の坑は変じて池となるであろう。  或いは大海に漂流して、竜や魚や鬼などの難があっても、  かの観音の力を念じたならば、  波浪もその人を沈めることはできない。  或いは須弥山《しゆみせん》の頂上から人に突き落とされても、  かの観音の力を念じたならば、  太陽のように虚空にとどまるであろう。  或いは悪人に逐《お》われて金剛山《こんごうせん》から墜落しても、  かの観音の力を念じたならば、  一本の毛さえも傷つけることはないであろう。  或いは賊が取り囲んで、各々刀を揮って斬《き》りつけても、  かの観音の力を念じたならば……)  念彼観音力、という耳に残る繰り返しをはさみながら、やがて父親は観音経を唱え終えた。  つづいて鮎川源三は、 「大悲心陀羅尼《だいひしんだらに》」  と、小さくつぶやいた。  日本における仏教関連の経文は、その語学的形態によって三つに分けられる。  ひとつは、日本語の文章に訳されているもの。  ひとつは、中国語訳を音読みしていくもので、この形態は非常に多い。たとえばいま源三が唱えた観音経がそうである。  そしてもうひとつは、梵語《ぼんご》の音そのものに特別な力が備わっており、またその中に秘められた教えはみだりに明かせないとして、各国語に訳すことができないため、そのまま原語を唱えるもので、これには二種類ある。  マントラとよばれる真言《しんごん》。  そして陀羅尼である。  このうち、陀羅尼は通常の経文の形式をもつ。  これから源三が唱えようとする大悲心陀羅尼は、バカヴァダルマという僧が唐に伝えたもので、大衆の苦しみを哀れんで涙の乾く間もない観音の心が『大悲心』である。 「ナム カラタンノー トラヤーヤー」  陀羅尼がはじまった。 「ナム オリヤー ボリョキーチー シフラーヤー フジサトボゥーヤー モコサトボゥヤー モゥコーキャールニキャーヤー エン サーハラハーエイ シュータンノー トンシャー ナムシキリート イモゥ オリヤー ボリョキーチー シフラー……」  たとえば『ボリョキーチー』は『観』を表し、『シフラーヤー』は『自在』を表す。  したがって『ボリョキーチー シフラーヤー』は観自在、すなわち観音である。  父親が陀羅尼を唱えるのに合わせて、麻貴の唇も動きだし、しだいに彼女の口からも陀羅尼の音が洩れてくる。 「……サーボーサーボー モーラーモーラー モーキィモーキィリートーイン クーリョークーリョー ケーモゥ トーリョートーリョー……」  当代きっての若手人気女優である鮎川麻貴が、このような一面をもっていることをファンはまったく知らない。  業界関係者でも、彼女が観音信仰に篤いことは承知していても、この姿を見た者はいない。 「シャーローシャーロー シーリーシーリー スーリョースーリョー……」  しかし、裏切りの連続に見舞われる芸能界において、自らの心をつねに平常に律するには、こうした人の世界以外の信仰の力に頼るほかはないのだ。 「フジヤーフジヤー フドヤーフドヤー ミーチリヤー ノラキンジー チリシュニノー……」  陀羅尼を唱える麻貴の声がしだいに高まり、それと同時に、身体が揺れてくる。 「シドヤーソモコー モコシドヤーソモコー シドユーキー シフラーヤーソモコー ノラキンジーソモコー モーラーノーラーソモコー」 『ソモコー』は『ソワカ』と同じく、『スヴァーハー』の音が訛《なま》ったものである。  スヴァーハーとは、成就。 「シラスーオモギャーヤーソモコー ソボモコシドヤーソモコー シャキラーオシドーヤーソモコー ホドモギャシドヤーソモコー……」  感涙のしずくが、まぶたを閉じた麻貴の目尻からあふれ出してきた。 「……ナムカラタンノートラヤーヤ ナム オリヤー ボリョキーチー シフラーヤー ソモコー シテドー モドラー ホドヤー ソーモーコー モーコーキャルニキャ キリダイン ダラニ」  大悲心陀羅尼、という締めくくりで、父と娘の陀羅尼の合唱が終わった。  しばし静寂——  父も娘も、たがいに息を弾ませている。  二人とも、額に汗が浮かんでいる。  麻貴は、人差指の腹でそっと目尻の涙をぬぐった。  陀羅尼を唱え終えたあとは、いつも一種独特の興奮状態に陥る。  いかに日常生活で父と娘とが対立しても、観音の前では、二人はつねに一体であった。  それゆえに麻貴は、父親に真実の糸口を話す前に、観音の扉を開けてほしいと願ったのだ。 「それで?」  観音に向き合ったまま、父親の源三はおごそかな声を発した。 「おまえの話を聞こうか」 「はい」  答える麻貴の声は、迷いからふっ切れて澄んだ響きをもっていた。 「私は、誰が亜貴の瞳《ひとみ》に矢を打ち立てたか、それを知っています」      4 「人面木を見下ろす宝物殿回廊で、鮎川亜貴は右目をボウガンの矢で射貫《いぬ》かれて殺された」  事件を整理するように、朝比奈耕作は言った。 「伝えられるところによれば、麻貴と亜貴の姉妹は、回廊から人面木を眺めていたときに、この惨劇に遭遇したという。なんのために人面木を眺めていたか——それは不明だが、ともかく、鮎川亜貴は正面から攻撃を受けた。ここがまず重要なポイントだ」 「つまり、彼女たちから犯人が見えていた、ということか」  平田がきいた。 「それもありうる」  朝比奈はうなずいた。 「しかし、常識的に考えれば、犯人は亜貴たちに見られないよう、自分の身を隠した状態でボウガンを発射したものと推測したほうがいい」 「警察では、入口近辺の木陰にひそんで、そこから射ったのではないかと考えているみたいだけどね」 「たぶん、それが現実を言い当てているだろうね。麻貴と亜貴の姉妹のほかに、数人の観光客が周囲にいたらしいが、犯人の行動は第三者の目をあざむくほど素早かった。袋にしまっておいたボウガンを取り出し、チャンスを見て狙撃《そげき》し、即座にその場を去る、という早業をやってのけたわけだよ。しかしここで重要なのはね」  朝比奈は言葉を強めた。 「犯人は、彼女たちの後ろ姿ではなく、顔を見てボウガンを発射した、という点だ。本格推理小説だったら、ここの文章の脇に『 ヽ 』を並べて打つところだよ」 「なるほど」 ≪犯人は、彼女たちの後ろ姿ではなく[#「彼女たちの後ろ姿ではなく」に傍点]、顔を見てボウガンを発射した[#「顔を見てボウガンを発射した」に傍点]≫  という文章のイメージが、平田の脳裏をよぎった。 「つまりだ、犯人が麻貴を殺すつもりだったならば、当然、サンシェード付きのメガネをかけた女性のほうを狙っていただろう。そばにいる亜貴は、姉の麻貴にはぜんぜん似ていないわけだからね」 「そうだよな。あれだけ有名な女優の顔と、それとはまるで似ていない妹とを取り違えるはずがない」 「また、犯人が亜貴を殺すつもりで、しかも二人並んでいる連れのうち、片方が有名な鮎川麻貴だとわかっていれば、メガネをかけていないほうが妹だというのはすぐに区別がつく。そもそも、亜貴ちゃんを殺すつもりなら、そのターゲットの顔は犯人もわかっていたはずだ。  これが後ろから狙撃されたというならば、麻貴と亜貴とを取り違えたという可能性もあるよ。なにしろ後ろ姿に関しては、二人は非常によく似ていたわけだからね。でも、正面から狙撃した場合には、そのような勘違いが起きる余地はない。  ということは、だ。いいかい平田、また本格推理風に文章の脇にテンテンを打つ部分だよ」  朝比奈は平田のほうへ身を乗り出して言った。 「トイレでの洋服交換をどちらが言い出したにしても、それは相手を身代わりにするための行為ではなかったことになる」 ≪トイレでの洋服交換は[#「トイレでの洋服交換は」に傍点]、相手を身代わりにする行為ではなかった[#「相手を身代わりにする行為ではなかった」に傍点]≫  平田は、心の中で朝比奈の言葉を繰り返した。 「だってそうだろう、平田。もしも姉か妹のどちらかが相手を殺そうと考え、第三の人物である狙撃者に殺人を依頼したにしても、洋服などを目安にして、ターゲットを区別させる必要はないわけだ。鮎川麻貴があまりにも世間に顔を知られた存在である以上、彼女がサングラスをかけていても、素顔の妹が横に並べば、姉と妹とを見間違えられる可能性はゼロだ。しかも狙撃者は、まともに顔が確認できる正面からボウガンを射っている」 「だとしたら、トイレで洋服を取り替えたのは、何のためなんだ」 「その前に、まだ指摘しておくことがある」  先を急ぐ平田を、朝比奈がとどめた。 「犯人はウィリアム・テルではない」 「は?」  朝比奈の言葉が唐突すぎて、平田には、すぐに意味がわからなかった。 「犯人はウィリアム・テルではない、と言ったんだよ。つまり、生命を懸《か》けてまで信頼できる弓矢の名人ではない、ということだ」 「………」 「まだわからないかい」 「わからん」 「姉と妹は、二人きりの話があるといって、宝物殿に向かった。数少ない目撃者の話を聞いても、彼女たちは、二人並んで回廊に立っているところを狙撃された。いいか、二人並んでいるところを、だよ」 「ああ」 「つまり姉と妹との距離は、数センチから数十センチしか離れていなかったことになる」 「そうだね」 「そうだね、って……まいったな、平田。そんな鈍い反応をしないでくれよ」  朝比奈はカフェオレ色に染めた髪をかきむしった。 「凶器はなんだ、平田」 「だからボウガンだよ」 「そのとおり。命中精度の高いスコープ付きのライフルじゃないんだ。ボウガンだよ。弓矢を銃のように発射するボウガンだ。わかるか。このボウガンという凶器の精度にどれくらい自信がもてると思う?」 「………」 「マスコミに流布されている、鮎川麻貴犯人説、あるいはその逆の鮎川亜貴犯人説、このどちらも、大前提に過ちがある。姉もしくは妹が第三者に狙撃を依頼したという前提がね」 「どうして」 「だって……」  まだわかってくれないのか、という口調で、朝比奈は言った。 「いずれが犯人にしても、自分のすぐそばにいる標的を、命中精度に確信がもてないボウガンなどで狙わせるわけがないじゃないか。一歩間違えば、自分が犠牲者になるんだぞ」 「あ……」  やっとのことで、平田は朝比奈の言わんとするところが理解できた。 「これでわかったろう。麻貴もしくは亜貴が誰かに頼んで、実の妹あるいは実の姉を殺害しようと企んだ——こんな仮説が過ちなのは明白なんだ」 「では、狙われたのは……」 「もちろん、姉だ。麻貴のほうだよ」  朝比奈は断言した。      5 「犯人だって、それなりのリスクを背負って殺人を実行したんだ。人気抜群の大スター鮎川麻貴だったら、相手にそこまでさせるだけの背景があるかもしれないが、純朴な高校生の亜貴が殺人の標的になるような理由があると思うか」  朝比奈の言葉に、平田は問い返した。 「じゃあ、やっぱり亜貴ちゃんは誤って殺されたのか」 「そう。ただし、人違いで殺されたのではない。純粋に技術的なミスで、本来、大スターを殺すべき悪魔の矢が、純真|無垢《むく》な妹のほうに飛んでいったんだよ」 「なんてことだ……」  平田はこぶしを握りしめた。 「そんなミスで、あんないい子が殺されるなんて」 「本来の標的は姉の麻貴、そして姉妹間の確執はなかった。これを前提にして、改めてトイレでの洋服交換の件に話を戻そう」  朝比奈はつづけた。 「姉妹が洋服を交換したというのが謎《なぞ》だと世間では言われている。平田もそう言っている。だけどぼくが感じる謎は、もっと別のところにある」 「どこに」 「トイレだよ」 「トイレ?」 「麻貴と亜貴がたがいの洋服を取り替えたのは、更衣室ではない、トイレだ。しかも、たとえばホテルやレストランなどのトイレではない。ありていに言ってしまえば公衆便所だ」 「何を言いたいんだよ、耕作」 「トイレは汚いという先入観念がある。とくに公衆便所はね」  朝比奈の言っていることは、あまりにもあたりまえすぎて、かえって平田には意味がわからなかった。 「実際に、その女子トイレの内部がどんな状況だったか、ぼくは知らない」  朝比奈はつづけた。 「ひょっとしたら、思いもよらぬきれいなトイレだったのかもしれない。しかし、通常は観光地のトイレというのは、決してきれいとは言い難いイメージがある」 「そりゃそうだ。不特定多数の客が押し寄せるからね。でも、陽明門の近くにあるトイレは予想外にきれいだったよ。よく掃除が行き届いていたしね。いわゆるアンモニア臭が漂うような、不潔なイメージはない」 「けれども、トイレはトイレだろ」 「まあ、そうだけど……」 「そういう場所で、天下の大スターが洋服を着替えようなどと思うものだろうか」 「………?」 「それに、亜貴が着ていた黄色のワンピースは、姉の麻貴のお下がりだったんだろう」 「うん」 「お下がりとはいえ、それを好んで着てくるのだから、亜貴にとってはとても大切な洋服であるのは間違いない。だから、汚したくないと思うのはあたりまえだ。とりわけワンピースだからね。トイレでそれを脱ぐとなると、これは非常に注意を払わなければならない。たとえ清潔なトイレであっても、必要に迫られなければ、わざわざそこを着替えの場所に選ぶこともないだろう」  黙っている平田に向けて、朝比奈はさらにつづけた。 「しかも公衆トイレには、いつ他の客が入ってくるかわからない。洗面台の鏡の前で着替えというわけにもいかないから、狭い個室に二人で入り、そこで窮屈な思いをしながら洋服を交換したものと想像される」 「そういうことだろうな」 「ここから、何を読み取る?」 「………」 「どう?」 「ゴメン、なんにも」  平田は両手を広げた。 「おれって、いろんな職業に就いてきたけど、推理作家だけにはなれそうもないよ」 「答えは緊急性だよ、平田」  朝比奈は言った。 「緊急性?」 「ああ。考えてごらん、彼女たちは撮影を終えたのちに、食事に行くはずだったんだろう」 「そうだよ」 「しかもその場所は、陽明門から歩いてでも行ける距離だった」 「そのとおり」 「何かの事情があってたがいの洋服を取り替える必要が生じたにしても、レストランで場所を借りて着替えたほうがずっときれいで便利なはずだ」 「それもそのとおり」 「ところが、彼女たちは食事の場所まで待てなかった。いいか、待てなかったんだよ。だからこそ不便を忍んででもトイレで着替えをした」 「せっぱ詰まっていた、ということ?」 「ああ」 「何に」 「生命の危機を感じていたんだ」 「誰が」 「妹の亜貴ちゃんが、だよ」 「だけど、たったいま耕作は、犯人の狙いは姉の麻貴を殺すことにあったと言ったばかりじゃないか」 「だから、妹の亜貴が、姉の麻貴の生命の危険を察知したんだ」 「え……」 「そこで亜貴ちゃんは、自分が犠牲になってでも姉を守ろうと、服を着替えることを提案したんだ」  朝比奈の発想に、平田は愕然《がくぜん》となった。 「つまり、整理するとこうなる。亜貴ちゃんは、あの日、撮影中になんらかの危険を予知した。それは、自分の身に降りかかる災厄ではなく、大スターである姉の身に襲ってくる事件だ。  それで亜貴ちゃんは、急いで姉に洋服の交換をうながした。ということは、亜貴ちゃんは、犯人がどこからどんな形で姉を狙ってくるか見当がつかなかったことになる。と同時に——いいかい、ここも大事だよ——犯人はすでに、黄色い服を着ているのが妹で、姉は白いブラウスにジーンズ、そしてつば広の帽子をかぶっているという服装上の区別を認識している、と亜貴ちゃんは感じていた」 「………」 「むろん、亜貴ちゃんにしても、犯人がどんな凶器で襲いかかってくるかまではわからなかった。けれども、彼女は直感的に思った。東照宮を訪れる観光客の雑踏にまぎれて、どこからか犯人が襲いかかってくる。それも、すぐにだ。  緊急性を帯びた危機感をもったからこそ、姉を守ろうという献身的な気持ちから、亜貴ちゃんは麻貴と服を取り替えることをうながした。その交換がどれほどの効果をもたらすか不明だったが、不安が募った亜貴ちゃんは、どうしてもそうせざるをえなかった」 「じゃあ、アレかよ。鮎川麻貴は、妹が自分の代わりに犠牲となる危険があるのを承知で、その交換に応じたのか」 「そうではないと思う」  朝比奈は首を左右に振った。 「あの姉妹は、強い愛情で結ばれている。だからこそ、亜貴ちゃんは自分を犠牲にしてでも、姉を救おうと思った。一方で鮎川麻貴も、亜貴ちゃんの訴えを本気に受け止めていたら、まさか妹を危険な目にさらすような真似はしなかっただろう。そこまで彼女がエゴイストだったとは思いたくない」 「では鮎川麻貴は、せっぱつまった妹の訴えを、考えすぎだとでも……」 「たぶんね」  朝比奈はうなずいた。 「おそらく麻貴は、そんなことまでする必要はないと妹に言ったのだろう。けれども、どうしても亜貴ちゃんは主張を曲げなかった。だから麻貴は、まさか実際に危険が身に及ぶとは考えなかったけれど、真剣そのものの妹を納得させる意味で、洋服の交換に応じたんだ。  麻貴は、洋服を交換したあとも相変わらずサンシェード付きのメガネをかけていたけれど、それは、命を狙われる確率よりも、ファンに顔を見られて騒ぎになる確率のほうがずっと高いと思っていたからだ」 「そうか……」 「それからもう一点」  朝比奈は人差指を立てた。 「いくら亜貴ちゃんの訴えが真に迫っていても、いきなりあの場で、お姉さんの命が危ない、などと言い出したのなら、姉にはとても本気にされなかっただろう。ところが、まがりなりにも麻貴は妹の発した警告に応じる形をとった。なぜかといえば、それなりの下地があったからだ」 「下地?」 「鮎川麻貴は、自分の命を狙っている者がいるのを、日ごろから薄々感じていた。だからこそ、妹の心配を、馬鹿げた妄想だと一笑に付すわけにもいかなかったんだ」 「でも、鮎川麻貴の命を狙う人物って、誰なんだよ」  平田は、半ば自問自答するようにつぶやいた。 「変態じみたファンなのかな」 「そうかもしれないし、ひょっとしたら内輪の人間かもしれない」 「内輪って?」 「さあね」  朝比奈は言葉を濁した。 「それから平田、あの事件に関してはもうひとつ推理を働かせなければならないポイントがあるんだよ」  朝比奈は、また新たな話題に移った。 「それは『ダイヤ』だ」 「ああ、亜貴ちゃんが死ぬまぎわに発した言葉だね」 「そう。これはぼくが直接自分の耳で聴いたのだから間違いがない。亜貴ちゃんは『ダイヤ』という言葉を、はっきり聞き取れただけでも二度繰り返している」 「謎《なぞ》のダイイング・メッセージか……」  平田がポツンと言った。 「死の直前に言い残した『ダイヤ』とは、何を意味しているのか」 「おいおい、そこで急にミステリーのキャッチフレーズみたいなことを言うなよ」 「だって耕作、これはまるでミステリーそのものじゃないか。なんだって彼女はこんな謎めいた言葉を言い残したのか」 「まいったな、平田。おまえは推理小説の影響を受けすぎているよ」 「ぼくが?」 「そう」 「推理作家からそんな批判をされる筋合いはないと思いますけど」 「あるんだよ」  朝比奈は苦笑いを洩《も》らした。 「なぜ平田は、亜貴ちゃんの最後の言葉を謎だと思うんだ」 「だって、ダイイング・メッセージは謎に満ちたものだと相場が決まっているだろ」 「ほらね、そこが推理小説の悪影響だというんだよ」 「どうしてさ」  平田は口をとがらせた。 「だって、謎は謎だからしょうがないだろ、耕作。どう考えても、亜貴ちゃんとダイヤモンドの関連性が見つからないんだよ。でも、あえて解釈するならば、姉の麻貴が高価なダイヤモンドをもっていて、それにからんだ殺人だとか……」  朝比奈がため息をついているのにもかまわず、平田はつづけた。 「あるいは『ダイヤ』というのは『ダイヤモンド』のことじゃなくて、なにか別の言葉を発しようとして、それが途中で切れたんだ」 「たとえば?」 「大《だい》や小《しよう》や……とか」 「意味あるの? それ」 「ないね」  平田は少し赤くなった。 「あ、待ってくれ、耕作。こういうのだったかもしれない。大薬師寺《だいやくしじ》……」 「大薬師寺?」 「そういうのがあるかどうか知らないけど……。あ、そうじゃなかったらこれだ。代役《だいやく》。ね、これならありうるだろう。代役がどうしたこうしたと言いたかったのかもしれない。あ、そうだ」  平田はパンと手を叩《たた》いた。 「麻貴はこんどの事件のあと、軒並み仕事をキャンセルした。レギュラー出演していた連続ドラマの主役まで降りちゃったんだよ。そして、急遽《きゆうきよ》麻貴の代役が当てられることになった。つまりだ、鮎川麻貴が死んでトクする人間は、彼女の代役で主役を勝ち取った、えーと、あのタレントはなんていったっけな」 「もういいよ、平田」  どうもごくろうさん、といった口調で朝比奈は言った。 「ほとんど意識を失いかけている人間が、そんなもってまわった表現をするはずがない。仮に代役の誰かが怪しいと思うなら、その人間の苗字《みようじ》を口にすればすむことだろう」 「まあね」 「平田は、まだ気づかないかい」 「何を」 「ダイヤと日光の関係だよ」 「日光でダイヤが採れるの?」 「ちがうってば」 「ダイヤモンド加工の本場とか」 「それも違う」 「えーと、だったら……」 「平田、彼女の一家が観音信仰の熱心な信者だった事実を忘れるな」  朝比奈はいったん立ち上がって、日光の地図をもって戻ってきた。 「これはおまえから聞いた話だよ。麻貴たちが小さいころから父親に連れられてたびたび日光を訪れていたというのは」 「ああ、そうだよ。二荒山神社とか、立木観音を祀《まつ》った中禅寺によく行っていたみたいだけど」 「そこだよ」 「そこって」 「原点は中禅寺にあり、だ」  朝比奈は、広げた地図の中禅寺湖のところを指さした。 「『いろは坂』で上ったところにある中禅寺湖は、湖そのものが有名だから、そもそもその名前が中禅寺というお寺に由来することなど、すっかり忘れ去られている」 「あ、そうか。ぼくも中禅寺湖のほとりにあるから中禅寺というんだと思ってた」 「その逆だよ。中禅寺がそばにあるから中禅寺湖という名前がつけられたんだ」 「よくよく考えてみるとそうだよな。湖の名前の前に、まずお寺の名前ありき、だったんだ」 「この中禅寺に、観音信仰の対象である立木観音が祀られているわけだが、地図をよく見てごらん。この中禅寺の少し北のところ、中禅寺湖の東端に大尻《おおじり》橋という橋が架かっているだろう」 「ああ、あるある」  いっしょに地図をのぞき込んだ平田がうなずいた。 「そして、この大尻橋のところから湖の水があふれ出て、川となる。これが大尻川だ」 「ずっといくと……あ、華厳滝にぶつかる」 「そうなんだ。つまり、中禅寺湖の水が華厳滝に流れ込んでいるわけだ」 「なるほど」 「そして、華厳滝を一気に落下した川が、上り下りの二つの『いろは坂』の間を通って日光市まで流れていくわけだが……その川は、途中で大尻川から別の名前に変わるんだ」 「あ、ほんとだ。オオヤ川だね」 ≪大谷川≫と地図に記された川を、平田はそう発音した。  だが、朝比奈はそれを訂正した。 「ちがうよ」 「何が」 「読み方が」 「どうして。だってこれ、大谷《おおや》石で有名な大谷と同じ字だろ」 「たしかに大谷は日光からそう遠くないところにあるけれど、この読み方は違うんだ」 「じゃ、オオタニかな」 「それも正しくない」 「オオヤでもオオタニでもない?」 「うん」 「でも、ほかにないだろ、日本語的に可能な読み方って」 「ダイヤだよ」  朝比奈は言った。 「日光の中心を流れる川はダイヤ川というんだ」      6  それから三日後の朝、午前八時——  銀座プロダクションの社長・梓圭一郎が、海洋堂出版のオフィスを訪れた。  しかし、オフィスという呼び名にふさわしい雰囲気がまるでないのが、海洋堂出版の入居しているビルである。  エレベーターや階段周りでは、雑居ビル特有の乱雑さが見受けられる。他のフロアの階段脇に置かれた出前の器から食べ残しの匂《にお》いが漂ってくるし、海洋堂出版のフロアでは、消防法に違反するのは確実と思われるほど踊り場にダンボール箱が積み上げられていた。  階段脇の小窓からは、このビルと似たり寄ったりの歌舞伎町の雑居ビル群がずらり並んでいるのが見える。  夜になると、密集する風俗営業のネオンの明かりが窓から差し込んできて、こちらのエレベーターホールの床までがカラフルな色に染まってしまうほどだった。  が、朝の歌舞伎町はネオンも消えて生気がない。とくに裏通りは退廃的である。夜明けまでに出された生ゴミの山を縫うようにして、大あくびを繰り返しながら歩く人がたまに見かけられる以外、動いているものといえばネコかネズミくらいのものである。  そうした光景に軽蔑《けいべつ》の視線を投げてから、イタリア製のブランド・スーツに身を固めた梓圭一郎は、『海洋堂出版』と曇りガラスに書かれたドアを押し開けた。  いつものとおり、中はポルノ写真の洪水である。  しかし、朝八時という早い時間のせいで、編集部のフロアはガランとしている。  そこにたったひとりだけ、編集部員の男が机に顔を突っ伏して眠りこけていた。  平田均である。  人の入ってきた気配で顔をあげた平田と、梓圭一郎の目が合った。 「あ、社長、おはようございます」  充血した目をこすり、あくびをかみ殺しながら平田は挨拶をした。  が、梓は肩で風を切るほどのスピードで歩きながら、 「丸尾社長は」  とだけきいた。 「いま、応接室です」  空になっている社長席の奥の扉を、平田は手で指し示した。 「来客か……じゃないよな、こんな朝早くに」 「印刷所からあがってきた色校《いろこう》のチェックをしているんです。例の麻貴ちゃんの作品集に使う写真の色校を。なにしろ出版を急いでいますからね。じつはぼくと丸尾社長は、ゆうべから徹夜なんですよ。ついウトウトしてしまいましたけど」  平田の言葉をそこまで聞くと、梓はありがとうのひとことも言わず、早足で応接室に近寄り、ドアをノックした。 「入るぞ、梓だ」  頭に取り憑《つ》いていた睡魔を追い払いながら、平田は、梓の丸尾涼子に対する言葉づかいが、ずいぶん乱暴になっていることに気がついた。  少なくとも、梓が涼子に脅されている事情があるとは思えない口の利き方である。  平田は、応接室の中でのやりとりが少しでもはっきり聞き取れるように、座っていた場所をこっそりと移動した。      *   *   * 「進行状況はどうなっている」  応接室に入るなり、梓は、向こう側のソファに座っている丸尾涼子にきいた。  顔をあげた涼子には、徹夜明けにもかかわらず疲れの色はない。  彼女の前のテーブルには、アート紙と呼ばれる質の高い紙にカラー印刷された、写真の色刷り校正紙が何枚も広げられている。  そこにはさまざまな風景が写っている。  白いクリスマスツリーが並ぶパリのシャンゼリゼ大通りの夜景。  アメリカ合衆国にあるホワイトサンズと呼ばれる真っ白な砂漠。  夕日に照らされ真っ赤に染まったオーストラリアのエアーズロック。  どこまでも澄み切ったブルーが続くタヒチ・ボラボラ島の海。  神秘的な月光のもとで撮ったエジプト・ギザの三大ピラミッド。  褐色の肌と原色の水着のコントラストがまばゆいブラジルのビーチ。  金銀赤黄緑と、闇《やみ》の中に光の洪水を放つ、夜の香港の空撮。  こうした数々の海外の風景写真は、鮎川麻貴が、あるときは映画の撮影で、またあるときはコマーシャルの撮影で各地を訪れたさいに、オフの時間をみてシャッターを切ったものである。  また、海外だけでなく、日本の風景も随所にちりばめられている。  新緑の京都。  灼熱《しやくねつ》の沖縄。  紅葉の信州。  豪雪の東北。  そうした四季おりおりの『日本の色』を中心に構成したページもあれば、麻貴にとってはきわめて日常的な、テレビ局での打ち合わせや劇場の楽屋でのスナップ、あるいはロケバスや新幹線の中の光景なども集められている。  それから、麻貴が可愛がっているペットの子猫の日常というのもあった。  こうしたさまざまな写真を、まず最初に麻貴自身が本に載せる予定点数よりも多めに選び、つづいてスライド映写機にかけたりライトボックスに並べたりして、スタッフとともに構成の順番を決める。  このさいに平田も立ち会ったが、もちろん彼は口をはさませてもらえない。  意見を言えるのは、海洋堂の丸尾社長と事務所の梓社長のみである。  本来ならば、『ポジ選び』と呼ばれるこうした構成作業は、和気あいあいとした雰囲気のもとで行なわれるのだが、事件の暗い余韻を引きずっているために、誰もが口数少なかった。  そして本番用の写真が選ばれたところで、それらは今回の本を担当するデザイナーのもとに渡される。  写真とともに、随所に麻貴の自作の詩も挿入されることになっていたので、そのバランスも考えながら、写真をどうレイアウトしていくかをデザイナーが決めてゆく。  そして、トレスコープという機械を使って、仕上がりの実寸どおりに拡大した写真の『アタリ』——つまり、構図の縁どりをレイアウト用紙に描き込み、そこに必要とあればデザイン的な指定もいっしょに加えて、写真原稿を添えて印刷所に手渡される。  印刷所では、このレイアウト用紙をもとにしながら、ポジ原稿を四色分解し、マゼンタ(赤)・イエロー(黄)・シアン(青)・ブラック(黒)の四つの版に分ける。  このそれぞれの版をセットした印刷機に紙を順番に通していけば、印刷原稿として写真が再現されるわけである。  そのいわば試し刷りのようなものが色校で、これをデザイナーやカメラマン——すなわち鮎川麻貴、あるいは編集者などがチェックし、色合いなどを修正すべきところは修正して、最終的な本番の印刷にかける版を仕上げることになる。  いまはその色校の第一回目の作業である。 「日光……か」  写真を一瞥《いちべつ》した梓がつぶやいた。  テーブルに広げられた校正紙の上のほうの数枚には、あの悲劇が起きた日に、日光東照宮およびその周辺で撮影したカットが印刷されていた。 「つらいわよ。見るのが」  小さな声で言うと、涼子はそれらの色校用紙を梓のほうに向け直した。 「そこに座ってゆっくり見て」  言われるままに梓はソファに腰を下ろし、前かがみになって色刷りの校正紙をパラパラとめくりはじめた。  霧の中禅寺湖がある。  中禅寺の境内に立つ、カツラの巨木がある。  くねくねと曲がる『いろは坂』を俯瞰《ふかん》で撮ったカットがある。  ロケのスタートに撮った、朱塗りの神橋がある。その橋の向こうから流れてくる川は、大谷川《だいやがわ》である。  そして——  陽明門をバックにした一枚の写真があった。  結果的に、生前の鮎川亜貴の最後の姿を記録したカットである。(巻頭パノラマ写真参照)  陽明門の右手に、特注の傘を広げた亜貴が立っている。  撮影前に麻貴が言っていたように、豪華|絢爛《けんらん》たる陽明門よりも、亜貴の着ている黄色いワンピースのほうが、はるかに際立って浮かび上がっていた。  そして彼女の右上、三人の外国人が談笑しているその真上に、絶妙のタイミングで色鮮やかな風船のかたまりが浮かんでいた。 「日常の中の非日常……」  金色のライターでタバコに火を点けながら、丸尾涼子がつぶやいた。 「麻貴の考えたテーマが、皮肉な形で現実になったわね。なんの作りもない観光客の自然な姿の中で、陽明門の前に立って日傘を差している亜貴の姿だけが、妙に非日常的。それから、ふんわり漂ってきた風船がね」 「………」 「麻貴は、きっとファインダーを覗《のぞ》きながら、これだ、と思ったはずよ。これが、日常の中の非日常だって。でも……もっと非日常的な悲劇に巻き込まれる運命にあったからこそ、亜貴ちゃんはこんなふうに周りの風景から浮き立っていられるのかもしれないわ」 「よくそんなふうに他人事《ひとごと》のように言っていられるな」 「え?」 「よくそんなふうに他人事のように言っていられるな、と言ったんだよ」  イライラした口ぶりで繰り返すと、梓は上着の胸ポケットからタバコを出して、ライターで火を点けた。  彼のライターもまた金色。  丸尾涼子とおそろいのデザインである。  贈ったのは涼子のほう。梓圭一郎の誕生日に、愛のしるしとして、自分とペアのライターをプレゼントしたのだ。  色の中でもとくに黒と金を好むのは涼子の嗜好《しこう》で、そのセンスに梓も影響されて、彼の根城である銀座プロダクションの社長室は、黒と金と、そしてワインレッドで統一されることになった。 「その陽明門の前で撮った写真に、麻貴が詩をつけたの、知ってる?」  涼子がきいた。 「詩を? いや、知らない」 「まだ印刷に回していないけれど、短いものだから覚えてしまったわ。朗読してあげるわね」  フーッと長い煙を吐き出してから、丸尾涼子は視線を上に向けた。 「妹——これが題名よ」 「妹……」  つぶやき返す梓にうなずくと、涼子は応接室の天井を見つめたまま、透き通った声で、麻貴自作の詩を暗誦《あんしよう》した。    妹が日傘を回す    くるっ くるっ くるっ    おひさまがつられて笑う    うふっ うふっ うふっ    陽のあたる場所が似合うのは    私よりも あなた  間をおいてから、涼子は梓に目を戻した。 「どう? 悲しい詩だと思わない」  涼子の問いかけに、梓は何も言わなかった。  が、うっすらと額に浮かんだ汗が、彼の内心の緊張を表していた。 「りょう……」  涼子、と名前で相手を呼びかけて、梓はあわてて言い直した。 「それで、社長」  外にいる平田の耳を意識したのだ。 「本の発売はいつになる」 「特急で進行してあと三週間」 「発売が?」 「いいえ、見本がよ」  本は書店で一般発売される前に、大手取次店に対して完成品の見本を提出しなければならない。これが、発売の五日から一週間前である。 「だったら、本屋の店先に並ぶのはお盆とぶつかってしまうじゃないか」 「ギリギリその前に出せるようにするわ」 「遅いな」  梓は、ハーフとみまがう彫りの深い顔を歪《ゆが》め、唇の間から煙を洩《も》らしながらつぶやいた。 「それじゃ遅い」 「なぜ焦るの」  涼子が聞き返した。 「そんなにお金儲《かねもう》けを急ぎたい?」 「金儲け?」 「だって、亜貴ちゃんを失ったショックで、鮎川麻貴は芸能界を引退したも同然。唯一残された仕事が、この作品集の出版。彼女が第一線で活躍しているときだったら、むしろこうした余芸の本は地味な存在だったでしょうよ。売上だって、さほど期待できなかった。でもいまは逆。傷心の鮎川麻貴にとって、映画・テレビ・舞台・エッセイといったすべての芸能活動の中で、ひょっとしたら最後の作品となるのがこの作品集。しかも、悲劇に襲われる直前の妹の姿を、麻貴自身がカメラに収めたショットが含まれている」  涼子は、タバコをはさんだ指で、陽明門の写真を指し示した。 「売れるでしょ、メチャクチャ」 「………」 「はっきりいって、私はとっても期待しているのよ」 「期待? 期待って、何の期待だ」 「決まっているじゃない。この作品集がベストセラーになって、海洋堂出版が潤うことよ」  丸尾涼子は周囲を見回すしぐさをした。 「私は新宿が好きよ。とくに、この歌舞伎町の猥雑《わいざつ》さが好き。でも、もう少し広いオフィスに移りたいし、借り物でもいいから、ビル丸ごとを海洋堂出版のオフィスにしたいの」 「あんた、人の死に便乗するつもりか」  声は低いが、梓の言葉は怒りに満ちていた。 「鮎川亜貴という一人の女子高生の命と、それから鮎川麻貴という一人の有能な女優のスター生命を引き換えにして作られたこの写真集で、あんたは金儲けをたくらんでいるのか」 「お金が儲かる点ではそちらもいっしょよ」  短い間隔でタバコをふかしながら、涼子は言った。 「あなたが私を非難するのはおかしいと思うけれど。だって、私を金銭的に支援してくださるために、天下の人気スター鮎川麻貴の写真作品集の版元をウチに回してくれたんでしょう」 「私の判断が間違っていたよ」 「あらそう?」  ショートボブの髪を揺らしながら、丸尾涼子は声のない笑いをたてた。 「いいか、涼子」  こんどは相手をまともに下の名前で呼んでしまったが、梓には、もはや平田の存在を気にしているゆとりはなかった。 「この写真集であんたが金を儲けるところまでは黙認してもいい。しかし、次の企画は絶対にないからな」 「次の企画?」 「わかっているくせにとぼけないでくれ。麻貴のヌード写真集だよ」 「ああ、あれね」 「あれね、じゃないよ」  梓は、自分のタバコを灰皿に思い切り強く押しつけた。 「あんたは、この写真作品集が鮎川麻貴の最後の芸能活動になると言った。世間一般も業界も、おそらくほとんど全員がそういう感想をもっているだろう。だが、麻貴は少しもあきらめていない。あの子は、この作品集でしばらくほとぼりをさましたあと、あらためてヌード写真集の話を持ち出すに違いない」  梓は、ダンディな見てくれに似合わぬ貧乏揺すりをはじめた。 「なにしろ、あの子にとって裸になることは一種の哲学的行為なんだ。私などにはまったく理解ができない。そして、こんど彼女がやると言ったときは、どんなに私が反対しても歯止めは利かないだろう。そもそも、ほかの芸能活動すべてを辞める覚悟ならば、彼女が銀座プロダクションにとどまる必要性も感じないかもしれない」 「それで?」 「いざというときに、あの子が頼りにするのはあんただ。自分の写真作品集を海洋堂出版から出すことにすんなり同意したのも、きっと将来のヌード写真集の版元として、あんたのところを第一候補に考えていたからだろう。麻貴は、自分に与えられた清純派のイメージに拘束されるのを、非常にいやがっていた。その抵抗の表れのひとつが、海洋堂出版という会社をすんなり受け入れたことだった。だが、少なくともあんたのところからヌード写真集を出すということだけは、私は阻止する。絶対に阻止するからな」 「愛しているわけね」  ポツンと涼子がつぶやいた。 「けっきょく、私よりも麻貴を愛しているわけなのね」      *   *   *  応接室から洩れてくる会話に懸命に聞き耳を立てていた平田均にとって、その内容は、理解しやすい部分と理解に苦しむ部分とにはっきり二分されていた。  丸尾社長と梓社長が愛人関係にあるのはわかった。  今回の写真作品集を海洋堂出版から発売することになったのも、海洋堂を金銭的に助けようという梓の意図から出たものだとわかった。  と同時に、梓社長が鮎川麻貴を愛していたこともわかった。  つまり、鮎川麻貴‐梓社長‐丸尾社長の三角関係がクローズアップされてきたわけだ。  けれども、鮎川麻貴が依然としてヌード写真集にこだわっている理由がよくわからなかった。  梓社長は、麻貴にとって裸になることは一種の哲学的行為だと言ったが、それはどういう意味なのか。これが不明である。  そのとき平田は、ふと、麻貴の妹の亜貴の言葉を思い出した。 (姉は、自分が観音さまの生まれ変わりだと信じているんです)  あの日光ロケの朝、東武日光駅まで迎えにいったとき、麻貴がヌード写真集を出そうと考えていたことについて平田が質問をすると、亜貴はそんな答えを返してきたのだが、その詳しい意味合いを、けっきょく平田は知ることができなかった。  でも、観音さまの生まれ変わりと信じているがゆえに、ヌード写真集の企画を考えていたとしたら、まさにその言葉は、『一種の哲学的行為』という梓の表現にも一致する。  いろいろな考えをめぐらせながら、なおも平田が耳を澄ませていると、しばらく沈黙が続いたのちに、「なんで大きいんだ」という梓の言葉が聞こえてきた。      7 「ところで、なんで大きいんだ」  いままで写真をそっちのけで話を進めてきた梓は、ふと気づいたように手元の校正用紙を見て言った。 「この陽明門で撮った写真だけ、やけに大きいじゃないか。ほかの写真とは横のサイズが何倍も違う」 「ああ、それね。それはパノラマ写真風に入れ込むのよ」 「パノラマ写真?」 「麻貴の希望で、とくにこのカットは大きく引き伸ばしてほしいと言われてるのよ。なにしろこの写真は、いってみれば妹の遺影なわけでしょう。麻貴としても特別扱いしたいんじゃないの」 「ふうん」  梓は、納得したような、納得しないような声を出した。  そして、しばらくの間じっと写真を見つめていたが、やがて彼の眉毛《まゆげ》がピクンと動いた。  その変化に、丸尾涼子は気づいていない。 「……なあ、社長」  梓は、ふたたび涼子を公的な肩書で呼んだ。 「このパノラマ写真は本の中にどういうふうに入るんだ」 「どういうふうに、とは」 「だって、これだけ大きければ、本からはみ出してしまうだろう。いや、はみ出すどころか、横幅に関していえば仕上がりの三倍から四倍の長さになってしまう」 「ええ、そうね」 「だから、本の中にどういうふうに収納するつもりなんだ」 「最初は、この横に長いサイズの紙を蛇腹折りにして畳み込む方法を考えたわ」 「ああ、アコーディオンの蛇腹みたいに、山折りと谷折りを交互に組み合わせていくやり方か」 「そう。たとえば、お経の本なんかがそうなっているわね。だから、その折り方を経本折りと呼ぶ人もいるけれど」 「それにするのか」 「ううん、それはやめたわ」 「どうして」 「蛇腹折りにすると、店先で本を開けられたときに、バラバラッと一気にこぼれ落ちてしまう危険性が高いの。そうなると、本がいたむでしょう。自然に広がってしまったものを、お客さんがまたきちんと畳んでしまってくれるかどうか、わからないから」 「なるほど」 「だから、巻折りにしたの」 「マキ折り?」 「ええ。べつに鮎川麻貴の麻貴じゃないわよ。クルクル巻くという字を書いて巻折り」 「それはどういう方式なんだ」 「ダシ巻卵を思い出して……といっても、男の人じゃ無理かしら。ようするに、端のほうから内側へ内側へと折っていくわけね。こんなふうに」  丸尾涼子は、手近にあったメモ用箋《ようせん》でその折り方を実演してみせた(巻頭パノラマ写真の折り方参照)。 「こうすれば、本を開いたときに一気になだれ落ちる現象は防げるのよ」 「すると、この陽明門の写真の、向かっていちばん左端が、本の背のほうにくっつくわけか」 「そういうことね。画面の左側に、ちょっとブレたかんじでメガネに帽子の男の人が写っているでしょう。そっちの端を本の背のほうに糊付《のりづ》けして、反対側から巻き込んで折っていくわけ。折り方を三回折りにするか二回折りにするかは、写真をどうトリミングするかにかかっているから、まだ決めていないんだけれど」 「ちなみに、このカットの別写真はないのかな」 「別写真?」 「うん。麻貴だってアマチュアとはいえ、シロウトじゃないんだ。一つの場面に一回しかシャッターを押さないということはないだろう」 「陽明門前で撮ったカットは、ほかにいくつかあるわ。でも。この写真以外は、どれも亜貴ちゃんがメインに入っていないのよ」  涼子は、平田から報告を受けた撮影状況を梓に説明した。  すなわち——  三脚を陽明門の正面中央に据えた麻貴は、最初のうちは一般観光客の自然な流れだけを入れ込んだ陽明門を撮っていたのだが、物足りなくなって妹の亜貴をモデルに加えることにした。黄色いワンピースを着た彼女の姿が、アクセントとして引き立つというのである。  改まって写真のモデルなど経験したことのない亜貴は、ずいぶん尻込《しりご》みしていたが、とうとう姉に説得されて石段の上部に立った。  そしてカメラマンの麻貴は、妹に立ち位置を細かく指示したり、傘を持たせたりしていたが、そのうちに、どこからか飛んできたカラフルな風船が陽明門脇の空中に現れたので、ここぞとばかりにシャッターを押した。  麻貴は、さらに同じカットをつづけて撮りたがっていたが、ゆらゆら漂っていた風船が、風の流れが変わったせいか急に上昇をはじめ、構図の外に出てしまった。しかし、シャッターチャンスを一発で押さえたことに満足した麻貴は、それ以上亜貴をモデルにして撮るのは止めてしまった。  だから、亜貴が構図の中心に入っているのは、たったの一枚だけとなった……。  そういった説明を聞かされた梓圭一郎は、しばらくアゴを撫《な》でながら考え事をしていたが、写真に視線を落としたまま、涼子にたずねた。 「その、亜貴が入っていない写真というのは、ここにあるのか」 「ないわ。写真集の本番に使わないものも含めて、ぜんぶデザイナーに預けてあるの。この作業すべてが終わるまでは、いつ予備カットが必要になるかわからないしね」 「そうか……」  また、梓は沈黙した。 「どうしたのよ、梓さん。なにかこの写真に不満でもあるの」 「いや、不満はない。……だけど」 「だけど?」 「なあ、観音にしないか」  唐突に、梓が言った。 「観音?」 「そうだよ、観音開きだ。知っているか? 観音開きというのを」 「え……ええ」 「その観音開きの中でも、本の見開きサイズのさらに左右両側に同じぶんだけ横幅を広げて、両方から畳んでくる方法がある。これは両観音と呼ばれているが」 「ちょっと待って、おかしいわね梓さん」  眉をひそめて涼子は相手を見た。 「釈迦《しやか》に説法という言葉はあるけれど、これはまるで観音に説法と言ったらいいかしら」 「え?」 「麻貴が自分のヌード写真集のためにとっておいた企画で、そのアイデアをウチから出した矢島麗写真集に使われたと騒ぎになった『観音』よ。あれは、まさに観音開きを多用したデザインだったじゃない」 「あ……ああ、そうだった」  梓は、急に思い出した顔になった。 「すっかり忘れていたよ」 「自分から観音開きのアイデアをこっそりこちらに横流ししておいて、そのくせ、その事実をもう忘れているの?」  涼子は、小さな声で皮肉っぽく言った。 「……いや、そうじゃないが」 「誰よりも観音開きのレイアウトには馴染《なじ》みのある私に、いちいち基礎的な説明をはじめるから、どうしたかと思ったわ」 「それはそうだ。よくよく考えたら、おたくから矢島麗の『観音』が出たんだもんな。……まったく記憶の定位置からその事実が飛んでしまっていたよ。それはともかくだ」  かなり横長になった色刷りの校正用紙を手にとると、梓はそれを真ん中から二つ折りにするポーズをとった。 「この陽明門の写真は、ちょうどこの真ん中のところでスッパリ二つに分けて、それを見開きに配置して、左右両脇にはみ出した部分を両側からパタパタと畳む両観音方式の畳み方がいい(P41イラスト参照)。巻折りなどよりも、やはり両観音のほうが好ましいと思うんだがね」 「それは『観音』という言葉にこだわっているための提案なの?」 「そうじゃないが」 「じゃ、どういうこだわり?」 「べつにこだわってはいない」  難しい顔をしながら、梓は言った。 「こだわってはいないが、デザイン的にそのほうがいいと思うだけだ」 「でもね、社長」  涼子は、初心者に手ほどきするような口調になった。 「たとえば、この写真を左右中央のところで分割して左ページと右ページに分けるとするわね」 「ああ」 「すると、センターはちょうどこのあたりになるでしょう」  涼子は人差指で線を引いた。  陽明門の屋根の真ん中から、東照大権現の額の真ん中を通り、観光客が出入りする門の真ん中を通り、さらには『右側通行』と記された看板の文字の真ん中を通る線である。 「こんなところで写真を二つに分けたら、すべてが台なしよ」 「なぜ」 「ノドの食い込みで、よ」  本を開いたとき、その真ん中の綴《と》じられる部分を『ノド』と呼ぶが、接着剤などで製本したときに、どうしてもこのノドの部分が百パーセントきれいに開かず、印刷されたところが完全に見えない現象が起きる。  そうした現象をなるべく避けるために、綴じしろに食い込んで見えなくなる部分には印刷をせず、余白を作っておく。これを『ノドアキ』という。  だが、食い込み予防策としてノドアキをとっても、本の真ん中の綴じ込み近辺は、どうしても見づらくなってしまう。  こうしたノドの食い込みに神経を遣わなくてはならないのが、タレント写真集などで顔を大アップにするときだ。  たとえば本の見開きいっぱいにタレントの顔を配置すると、校正刷りの段階では迫力が出る。  写真集の校正は、最初の段階では見開きを一枚の紙に印刷することが多い。最終的には、機械製本上の都合で右ページと左ページは対にならず、別の位置に印刷され、それを機械で折って裁断したときに、ちょうど隣り合わせになるような関係に配置されるのだが、ともかく最初の校正では見開きが一枚の紙に印刷される。  したがってデザイナーでも初心者は、うっかり見開き中央にタレントの顔をレイアウトしていても、その問題点に気づかない。校正では大迫力に満足しても、いざ本になると、製本後のノドの食い込みによって、鼻の真ん中や眉間《みけん》のところが、どんなに本を左右に開いても見えなくなってしまう。  つまり、せっかくの愛らしいタレントの顔が、両目の間がせばまり、鼻や唇の幅も妙にせまくなり、まるで別人のようになってしまうのだ。  そうなってからあわててやり直しをする、というケースが、不慣れなデザイナーの場合には起こりうる。  こういった見開きレイアウトのとき、デザイナーや印刷所の営業担当者が「ノドアキの余白をよぶんにとればそういう現象は防げますよ」と言うこともあるが、それは現実論でみると百パーセント誤りであるといってよい。  たとえば地図の見開きなどだったら、ノドアキを多めにとって、仮に中央部が開きすぎてもまだ違和感は少ないが、人の顔ではそうはいかない。  余白を大きくとりすぎて左右のページに隙間《すきま》ができたら、人の顔が分離してしまう。その危険を避けて『最小範囲での最大余白』を求めたところで、製本時の裁断のズレや糊付《のりづ》けの分量により、ノドが食い込みすぎる現象は絶対に避けられない。人の顔写真では、どこかで一ミリ違ってもおかしなことになる。  したがって、写真集における見開きレイアウトの場合は、その中心部にはあまり重要な要素はもってこられないことになる。  人の顔だけでなく、たとえば富士山のようなほぼ左右対称の風景も、つい見開き中央にドーンと配置したくなる。  しかし、これもまた本の真ん中に富士山の肝心の頂上がきてしまい、それがノドの食い込み現象により綴じしろの中に隠れることになる。  いくら見開きで大きく引き伸ばしても、富士山のあの美麗なシルエットが再現されなくなってしまえば、なんにもならないわけである。  こうした危険を避けて、たとえばアイドルスターの写真を撮るときは、それが見開きで使われるとわかっている場合、顔を画面の左側もしくは右側に寄せて撮る手法が用いられる。  しかし、これでも頬《ほお》や目尻のあたりがページ中央にかかると、やはり部分的寸詰まり現象を回避するのは難しい。  こうした悩みを解決するひとつの手段が、じつは観音開きのページなのである。  両観音だと、左右広げて四ページ分のサイズになるが、その左もしくは右二ページ分に顔のアップをもってくると、顔のどこかの部分が折られることはあっても、綴じ込まれることはない。  折り目の筋が顔のどこかに入ってしまうが、あまり目立つ位置を通らないようにすれば、ノドの食い込みにかかってしまうよりは、ずっと抵抗感のない画面となる。  海洋堂出版から出された矢島麗のヌード写真集でも、この観音開きの長所を多分に活かした構成がなされていた。  たんに通常の見開きの倍のワイド画面が得られるだけが、両観音のメリットではないのである。 「どう?」  陽明門の中心部が本の綴じしろに食い込んでは画面構成が台なしになる、という説明をひととおりし終えると、丸尾涼子は梓の答えを待った。 「わかったよ」  しぶしぶといった感じで、梓はうなずいた。 「この写真では観音開きが不適切なことはよくわかった」 「予定どおり、巻折りにしていいわね」 「ああ」 「じゃ、つぎの議題に進んでいいかしら」 「つぎの議題?」 「つまり、あなたと私の問題」 「………」 「亜貴ちゃんが殺された件について、あなたは私を脅そうとしている。でもね、言っておきますけれど……」  ここで涼子はいちだんと声をひそめた。 「私が犯人だということは、絶対に認めませんからね」      8  応接室の会話が終わりかけた雰囲気を察すると、平田均は急いで離れた窓際のほうへ場所を移した。そしてビニールレザー張りの安手のソファに身を沈めると、いかにも徹夜づかれでまた眠ってしまったという風を装った。  だが、心の中ではめまぐるしく思考回路が活動していた。 (やっぱり、鮎川麻貴の『観音』の企画を海洋堂出版に洩《も》らしたのは、事務所社長の梓だった) (矢島麗の『観音』という写真集は盗作ではなかった。梓のほうから積極的にアイデアを洩らしたんだ) (でも、なぜそんなことをした) (鮎川麻貴のヌード写真集を出せば、大話題でたいへんな売上が立つじゃないか) (仮にそれが時期尚早だと判断したなら、そのまま企画をあたためておけばよいのに) (ところが梓は、自分から海洋堂にアイデアを洩らし、そのせいで、まったく同じ企画で矢島麗の写真集が出てしまった。はっきりいって、矢島麗はB級タレントだ。そんなタレントにアイデアを先取りされた形になれば、麻貴としても当初のプランは完全にボツにせざるをえない) (梓社長は、どうしてそんな裏切り行為をしたんだ) (そして、いまになって梓社長は、麻貴の作品集の中で観音開きのレイアウトを使おうとするこだわりをみせた) (その理由は?) (それから、丸尾社長と梓社長の問題だ) (亜貴が殺された件で、梓が涼子さんを脅そうとしているとは、どういうことなんだ) (そのあとは完全にヒソヒソ話になってしまったから、内容は聞こえなかったけれど……)  応接室のドアが開く音がした。  平田は、その音で再度の仮眠から目をさましたフリをして、まぶたをこすりながらソファから起き上がった。  そして、オフィスを出ていく梓に頭を下げる。  梓は例によって何の返事もせずに出ていったが、ダンディな着こなしを誇る彼の後ろ姿が、妙に疲れてみえた。 「平田くん」  梓をエレベーターのところまで送っていった涼子は、編集部の中に戻ってくると、平田のところにゆっくりとした足取りで歩み寄った。 「じゅうぶん仮眠はとれたかしら」 「え、ええ……もうグッスリ」  いまのタヌキ寝入りを見抜かれまいと、平田はぎこちない笑いを浮かべた。 「社長も、色校チェック終わりました?」 「ええ、おかげさまで」  意味深な微笑を浮かべながら、涼子は、椅子《いす》に座っている平田の後ろに回り込んできた。  そして、彼の両肩にそっと手をのせる。 「ねーえ、平田くん」 「な……なんですか」  徹夜明けにいきなり誘惑されるのかと思った平田は、身をこわばらせた。  すると、涼子はおもねるような、人を試すような、ねっとりとした声で言った。 「あなた、聞いていたんでしょ。私たちの会話を、ぜーんぶ」      *   *   *  午後になって続々と編集スタッフが顔を出し、仕事の電話もジャンジャン鳴って、いつもの活気がフロアにみなぎってきても、ひとり副編の平田だけは心ここにあらずという顔をしていた。  あなた、聞いていたんでしょ——  丸尾涼子の言葉が、いつまでも頭の中に渦巻いていた。  たしかに平田は、応接室の会話に聞き耳を立てていた。しかし、そのすべてを聞いていたわけではない。むしろ、話が肝心なところにさしかかり、ヒソヒソ話となったところで、彼は危険を察して意図的に窓際のほうへ席を移したのだ。  だが、涼子は平田が会話のすべてを聞いたと思っている。  いや、彼女のほうから「あなた、聞いていたんでしょ」と言い出すからには、応接室で梓と話している最中でも、平田に聞かれているのを意識していたフシがある。  梓のほうは、平田の存在など忘れていたのだろうが、涼子は、意識的に平田に二人のやりとりを聞かせようとしていたのかもしれない。  少なくとも「私が犯人だということは、絶対に認めませんからね」と梓に語る前までは……。  平田が答えに詰まっていると、涼子は、彼の肩にのせた手を、そっと撫《な》でるように動かしながら、こう付け加えた。 「気をつけてね、平田くん。梓社長はとってもダンディだけれど、同時に、とってもとっても怖い人だから。とってもとっても、よ」  そんな言い回しでは、平田にとって、梓と涼子のどちらがほんとうに怖い人物なのか、見当がついたものではなかった。  そして、その意味ありげなコメントを残したまま、涼子はどこかに出かけてしまったのである。 (なんだか……)  平田は思った。 (亜貴ちゃんをボウガンで殺した犯人は、二人のうちのどちらかに絞られてきたような気がする。梓圭一郎か、それとも……) 「副編」  自分の肩書を呼ぶ声に、平田はハッとなった。  裸の写真が山積みとなったデスクの向こうから、若い女の子のスタッフが受話器を平田に差し出してきた。  海洋堂出版には、意外なほど多くの若い女性スタッフが働いている。どの子も、平田のようにポルノに抵抗感を示したりはしない。 「副編、お電話ですよ」 「ああ、ありがとう」  腰を浮かせて、その受話器をとる。  コードを引っぱった拍子に、ポルノ写真の山がくずれて、そこらじゅうが肌色の海となった。  なんとかそれを元に戻そうとすると、さらに新たな山がくずれる。  平田は自分の失敗と、すさまじい内容の写真の洪水に赤くなりながら、とりあえず電話の相手に話しかけた。 「お待たせしました、平田ですが」 「ああ、梓だが」  その声に、平田はびっくりした。  鮎川麻貴の所属事務所社長が、平田を名指しで電話してくるなど、とても考えられなかったからだ。 「あ、社長。けさほどはどうもお疲れさまです」  受話器を握っていないほうの手で、崩れたポルノ写真を整理しながら、平田はつづけた。 「社長、なにか……」 「デザイナーの連絡先を教えてほしい」 「デザイナーですか」 「麻貴の作品集のデザインを担当している人間だよ。あんたなら知っているだろう」 「ああ……ええ」 「ああ、ええ、じゃなくて、早く教えてくれ。電話番号と名前を」  横柄な口調は相変わらずだった。 「わかりました。事務所の名前は『ノックアウト』といいます」 「ノックアウト……ね」 「はい。そこの社長の太田健太郎《おおたけんたろう》さんという人が今回のデザインを直接担当しています。社長のイニシャルがKOだから、そういう事務所の名前なんですけど」 「そんなことはどうでもいい」  梓はぶっきらぼうに言った。 「で、電話番号は」 「えーと、ちょっとお待ちください」 「長く待てない。早くしてくれ」 「は、はい」  電話帳を引っ張り出すときに、またポルノ写真の山がくずれた。  ドタバタしながらも平田が電話番号を伝えると、梓は、はじめて彼に対して「ありがとう」と言った。  そして、そのあとにひとこと付け加えるのを忘れなかった。 「私から電話があったことは、丸尾社長には伏せておいてくれ。いいね」      9  それから二分後——  デザイナーの太田健太郎は、梓からの電話を受け取っていた。 「麻貴の写真集に使う陽明門のカットだが」  よぶんな前置きは抜きにして、梓は用件を切り出した。 「いま、それは巻折りにするつもりでデザインが進んでいるだろう」 「デザインが進んでいるというよりは、もう私の手は離れましたよ」  太田は言った。 「初校の色の調子もチェックしましたし、あとは再校と、念のために印刷立ち会いをやろうと思っていますけれど」 「やり直してくれ」 「は?」 「デザインをやり直してほしいんだ」 「どういうふうにですか」  いぶかしげな声で、太田は聞き返した。 「陽明門のちょうど真ん中を、本の見開きの真ん中に合わせるようにして、ぐんと左右に長いパノラマ写真にするんだ。そして、A4サイズからはみ出た分は、左右から内側に折り返す」 「つまり、両観音の折りにするということですか」 「そうだ」 「でも、そんなレイアウトにしたらノドの食い込みのために、真ん中のあたりが不自然になってしまいますよ。『右側通行』と書いた看板は、へんなふうに字が隠れてしまうし、陽明門に飾られた額も……」 「そんなことはわかっている」  ぶっきらぼうに梓は言った。 「きみは私の指示どおりにやってくれればいいんだ。あの写真を両観音開きになるようなデザインにやり替えてくれ」 「社長は了解しているんですか」 「社長は私だ」 「そうじゃなくて、海洋堂出版の丸尾社長です。丸尾さんの了解はとれているんですか、と伺っているんです」 「彼女は関係ない」 「だって、私は丸尾さんから仕事をいただいているんですよ。私が指示を受けるべき人は、あなたではなくて、丸尾さんだと思いますが」 「杓子《しやくし》定規なことを言うな」  梓は声を荒らげた。 「これは鮎川麻貴の作品集だ。そして私は、麻貴の事務所の代表だ。私がデザインを変えるといったら、きみは言われたとおりにすればいい」 「しかし……」 「それから」  梓は畳み込んだ。 「そっちに使っていないポジがいっているだろう。麻貴の撮った写真のポジフィルムが」 「ええ」 「それをぜんぶ返してほしい」 「でも、万一のために予備カットを保管してあるんです。なにかあったときのために、すぐ差し替えがきくように」 「万一はないよ」  そっけなく、梓は言った。 「それよりも差し替えてほしいのは、陽明門のカットのデザインのほうだ」 「………」 「わかったかね。私の指示は絶対だぞ。それから、残りの写真はただちに返却してもらう。写真の著作権と所有権は、鮎川麻貴の所属する銀座プロダクションにあるんだから」 「ですが……」 「いまからタクシーを飛ばして十分以内にきみのところへ行く」  梓は言った。 「それまでに、返却写真の整理と、それから新たなレイアウトを考えておいてくれ。わかったな。じゃ、十分後に」      10 「問題は、なぜ梓社長が観音開きに執着しているか、ということなんだよ」  その日の夜、またいつものように成城にある朝比奈の自宅を訪れた平田は、けさからのいきさつをひととおり話したうえで、朝比奈の意見を求めた。 「いくら鮎川麻貴が観音さまを信仰しているからといって……そして、観音信仰に縁のある場所で亜貴ちゃんが殺されたからといって、写真集のレイアウトまで観音にこだわる必要はないと思うんだけれどね」 「たしかに、それはおかしな動きだね」  平田と向かい合わせの籐《とう》の椅子に座った朝比奈は、コーヒーを口に運んでから、ふたたび考え込むポーズをとった。 「だいたい、社長がそんなデザイン上の問題に固執することじたいがおかしいね。亜貴が映っているたった一枚の写真をパノラマ風のワイド画面に引き伸ばす場合、それを巻折りという方法で収容しようと、両観音の手法で収容しようと、基本的な変わりはないと思うんだが……。  それとも、巻折りと両観音とでは、写真のトリミングが変わるのかい。つまり、写真の上下左右のどこかをカットしなければならなくなるとか」 「それはない」  平田は答えた。 「どちらの折り方をしようとも、使う写真の大きさは、ほとんど変わらない」 「ふーん」  朝比奈は、つぶやいてから、ふと思いついたように平田にきいた。 「その写真の現物は見られないかな」 「写真の現物?」 「ポジは印刷所に入っていてダメだろうけど、色校が出てきてるだろ」 「ああ。でも、いまおれの手元にはないんだ」 「いまはもっていなくても、会社に行けばあるんだろ。自分のデスクに」 「それもない」 「ない? なぜ」 「印刷所だって予算と手間があるから、校正用の色刷りは希望しただけたくさん出してくれるわけじゃないんだ。今回はぜんぶで三セット出してもらった。ひとつは、印刷所に戻す正式なやつで、これは最初にデザイナーの手元にいって、そこで色合いの変更の指示などが書き込まれて、丸尾社長のところに戻ってきている。  それとはべつに、編集の控えとして一部。これも、デザイナーの手が入っていないきれいな状態で見たいからということで、丸尾社長がもっている。そしてもう一部の色校は、鮎川麻貴本人のところに届けてある」 「なんだ、平田の手元には一部もないの?」 「そ、情けないだろ」 「情けないだろ、って……おまえ、この写真集の編集担当だろ」 「うん」 「編集担当のところに控えの色校がないの」 「まだ能力的に信用されていないってことだよ」  平田は肩をすくめた。 「数が限定された色校をぼくの手元に残しておいても、役に立たないってことだよね。涼子さんも、最初は平田くんにまかせるからと言っておきながら、実際に編集作業がはじまると、ぜんぶ自分が出てきてやっちゃうんだ。……まあ、たしかにおれは何をやるべきかサッパリわからないし、今回の写真集が、当初考えられていたよりも重要な位置づけになってしまったから、新入りの副編には任せられないってことだろう」 「そうか……」 「見たいんだろ、耕作、その陽明門の写真を」 「そりゃそうだよ」  朝比奈はうなずいた。 「どうしてそこまで体裁上の問題にこだわるのか、それが気になってしまうからね」 「ま、そうこうしているうちに本が出るからさ。それを見て検討してよ」 「ああ……」 「ところでさ、耕作」  平田は話題を切り替えた。 「例の亜貴ちゃんのダイイング・メッセージだけれど……」 「ダイヤ?」 「そう、それ。知らなかったよなあ、あの日光金谷ホテルのすぐそばを流れている川を、大きい谷と書いてオオヤ川じゃなくてダイヤ川と発音するなんて」 「日光で『ダイヤ』といえば、すぐに大谷川《だいやがわ》を連想するのが地元の人間、もしくは現地に詳しい人間だと思うんだ」  朝比奈は言った。 「鮎川亜貴の場合も、観音信仰のおかげで日光にはじゅうぶんな土地鑑があっただろうから、彼女がダイヤとつぶやいたからには、大谷川を指すのだと思って間違いはない」 「だけど、どうして死のまぎわに大谷川なんだろう」  平田が疑問を呈した。 「前にも耕作が言ってたけれど、もしも亜貴ちゃんが犯人を示唆《しさ》するつもりだったら、大谷川がどうしたこうしたと言うよりも、犯人の実名をつぶやくはずだろう」 「ぼくもそこが不思議だった。土壇場にきて、なぜダイヤなのか、とね。でも、じつは平田がくるちょっと前に、自分の発想が誤っていたのではないか、という気がしていたんだ」 「というと?」 「ぼくは平田に、決して推理小説っぽい視点でダイイング・メッセージをとらえるなよ、と言ったよね」 「ああ、言った」 「だけど、かく言うこのぼく自身が、やっぱり職業柄か、非常に既成概念にとらわれた発想で亜貴ちゃんのダイイング・メッセージを受け止めた気がするんだよ」 「………?」  平田は、親友の推理作家の目をじっと見つめた。 「死にゆく人のつぶやきというものを、ぼくは初めて耳にした。ぼくは小説の中でもあまりダイイング・メッセージというものを使わないけれど、現実にそういったものを聞いたのは、まさに初体験だった。  とくにあのときは、亜貴ちゃんが唇を動かして必死に何かを伝えようとしていることに、周囲の誰もが気づいていなかった。みんな、彼女の右目に突き立てられた鋼鉄の矢のほうに気をとられていたからね」  カフェオレ色に染めた髪を両手でかきあげると、朝比奈はつづけた。 「そしてぼくが真っ先に亜貴ちゃんのそばに屈み込んで、最後は、彼女の口のところに耳を当ててその言葉を確認した。ダイヤという言葉をね。だからぼくは……」  間をおいてから朝比奈は言った。 「つい錯覚してしまったんだ。そのダイイング・メッセージは、ぼくに向けて発せられたものだ、というふうに」  平田は、朝比奈の言わんとするところがわからずに、まだ黙っている。 「しかし、よく考えてみたら、亜貴ちゃんはボウガンで射たれる直前まで、姉の鮎川麻貴と並んで立っていたんだ。だから、狙撃《そげき》の激しいショックを受けたあとも、かすれゆく意識の中で彼女の頭にあるのは、そばに姉の麻貴がいるということだった。つまりだ」  朝比奈は平田を見つめ返した。 「ダイヤという言葉は、見知らぬ男、朝比奈耕作に発せられたものではない。集まってきた宝物殿の係員に向けたものでもない。ほかでもない、姉の麻貴に話しかけた言葉なんだ」 「なるほど」 「そして洋服交換の一件から推測したように、この姉妹が何者かに対して共通の危機意識をもっていたのは確実だ。そうだよな」 「うん」 「だったら、亜貴ちゃんとしては、死の危機に直面した土壇場で、いまさらわざわざ『犯人』に関する名前などはつぶやく必要はなかった」 「そうかあ……」  平田は感心したつぶやきを洩《も》らした。 「ダイヤは、犯人を直接暗示する言葉じゃなかったわけか」 「なんらかの形で犯人に関連した情報であるのは事実だろう。でも、姉の麻貴がパニック状態になっているとも知らず、亜貴ちゃんが必死に伝えようとしたのは、きっとその時点では姉も知らなかった新情報だったのではないだろうか」 「新情報……」 「そうでなければ、あれだけ必死に繰り返し『ダイヤ』とつぶやくはずがない」 「大谷川に隠された新情報か」 「どうだ、平田。何か心当たりはないか」 「うーん」 「いっしょにロケに行って、あのへんを回ったんだろう」 「うん」 「そのさいに、大谷川に関して麻貴と亜貴の間で話題になったことはないか」 「どっちかというと、ぼくは遠慮して遠くにいたからなあ」  平田は情けない声を出した。 「あんまり鮎川麻貴のそばにいたら煙たがられるみたいでさ」 「じゃ、いまからもういちど当日の行動を思い返してみよう」  朝比奈がうながした。 「なんといっても、平田たち撮影班は大谷川沿いに移動しているわけだからな。日光山内も、国道119号線も、『いろは坂』も、中禅寺湖も、華厳滝も、けっきょくすべてが大谷川沿いか、その源流というロケーションだ」 「たしかに……」 「まず、朝はどうしたんだ。ホテルから歩いて出発したんだろう」 「うん。ホテル前の坂を下って、国道119号線に出て……」 「それでどうした」 「日光橋を渡った。そのとき、あの有名な神橋を見て、麻貴が最初に写真を撮りはじめた」 「神橋も日光橋も大谷川に架かっているよな」 「あ、そうか」  朝比奈に指摘されて、平田ははじめて気づいた顔になった。 「あの川も大谷川だったんだ」 「そうだよ。それで?」 「それでぼくらは国道を渡って、太郎杉のところから拝観道を……あ、待った!」  平田は急に大声を上げた。 「なんだって、いままでこんな大事なことを忘れていたんだろう」 「どうした」 「カメラだよ、カメラ」  平田はテーブルをバンバンバンと叩《たた》いた。 「鮎川麻貴が神橋を撮影しているとき、亜貴ちゃんが『あ』と小さくつぶやいて、自分のバッグからコンパクトカメラを取り出したんだ。そして、国道の向こう側の日光山内のほうにレンズを向けてシャッターを切った」 「何枚」 「一枚だけ……だったと思う」 「それで?」  問い返す朝比奈の声が緊迫してきた。 「彼女はそのカメラをすぐにバッグにしまった。いまの行動を誰にも気づかれないように……そうだ、思い出してきたよ。亜貴ちゃんは、すぐ後ろにぼくがいたのを忘れていたようなんだ」 「妹の亜貴は、なにかに気づいてそれをカメラに収めた。そして、その事実を周りには隠そうとしていた」 「うん」 「それだよ」  朝比奈の声も大きくなった。 「そのときに、亜貴は姉の身を危険にさらそうとする人物の姿を見つけたんだ。当然、顔見知りの人間だったに違いない」 「わかってきたよ、耕作」  平田は、ますます興奮の度を強めてきた。 「ボウガンで射たれた亜貴は、姉にこう言おうとしたんだ。お姉ちゃん、ダイヤ川のところで撮った写真を見て。そこに、犯人の姿が写っているから、と」 「よし、平田、そのカメラを探すんだ」  朝比奈は言った。 「そういう品物だったら、遺体といっしょに火葬された可能性は少ないだろう。すでにフィルムが現像されているかどうかわからないが、そこに重要な人物が写っている可能性が大だ」 「でも、どうやって」  平田は絶望的な表情で両手を広げた。 「どうやって、その話を麻貴にもちかけろっていうんだよ。日本を代表する大スターの鮎川麻貴は、平田均みたいな平凡な男の存在そのものを無視してくれちゃうんだからさ。あの子にとって、気を許す相手かそうでないかは、相手が有名か無名かで決まってしまうんだよ」 「そうなのか」 「仮に警察にこの話をしたって、麻貴にとぼけられるのがオチだと思うよ。彼女にとっては、警察官だって、平凡な一庶民という位置づけになるんだろうから」 「なるほどねえ。……じゃ、わかった」 「何がわかったの、耕作」 「こうなったら、ぼくが直接あたってみるしかないだろう」 「耕作が? 鮎川麻貴に妹のカメラの件で?」 「そう」  朝比奈はうなずいた。 「あのときはとても挨拶《あいさつ》を交わす状況にはなかったが、ぼくは亜貴ちゃんの最期の場面に居合わせたわけだし、これでもいちおう……」  カフェオレ色に染めた髪に手を突っ込むいつもの癖をみせてから、朝比奈はかすかな照れ笑いとともに言った。 「鮎川麻貴の足元にも及ばないけれど、これでもいちおう、ぼくも有名人のうちに入るからね」 [#改ページ]   読者のみなさんへ [#地付き]平田均    今回の事件のドキュメントを、朝比奈耕作ではなく、このぼくがまとめることになったとき、耕作はこう言った。 「平田、肩の力を抜いて書けよな」  と。  けれども、推理作家を本職とする朝比奈耕作と違って、このぼくはドシロウトである。肩の力を抜けといわれても、そうそう思いどおりにリラックスすることはできない。  ともかくここまで曲がりなりにも事件のレポートをまとめてきたぼくは、朝比奈耕作大先生に原稿のチェックをしていただこうと、途中まで書き上がったところを彼のもとへもっていった。  そして、そのときこう言ったのだ。 「耕作。第三章まで終わったところで、ぼくはどうしてもやりたいことがある」  と。 「なんだい、やりたいことって」  和机に向かって、こちらは本職の小説執筆にいそしんでいた耕作は、ペンを走らせる手を休めてぼくにたずねた。  ぼくは意気込んで言った。 「読者への挑戦ってやつを入れたいんだよ」 「読者への挑戦?」 「そう、本格推理の伝統でしょ、あれは」 「あこがれているわけ?」 「うん、あこがれている」 「およしなさいって」  耕作は手を振った。 「あれは、本格派の作家がやるからサマになるんであって、平田均じゃあねえ。……いや、朝比奈耕作だって似合わないと思っているよ」 「だって……」  ぼくは食い下がった。 「鮎川麻貴ほどの有名人の妹が、鋼鉄の矢で目を射貫《いぬ》かれるという惨劇に見舞われ、しかも命を狙《ねら》われていたのは姉の麻貴のほうだったという公算が強いのに、事件はいっこうに解決のきざしがみられなかった。そして、夏の暑い盛りに麻貴の写真集が出版されたわけだけれど、その作品集を見たとたん、朝比奈が一気に事件を解決に持ち込んだじゃないか」 「ああ、あれね」 「だからさ、ひとつの区切りとして、写真集の発売まで話が進んだところで、読者への挑戦というやつを入れてみたいと思うんだ」 「くどいようだけれど、それはやめたほうがいいと思うよ」  耕作は、なおもそう言った。 「だってね、平田。たしかにぼくはあの写真集の、例の陽明門の写真を見たときに、重大な発見をした。でもそれは、犯人を言い当てたわけではない。梓社長が企んでいたことを読み取ったまでなんだ。そして、彼が犯人なのかどうかは、そのあとの展開を待たなければならなかった」 「それはそうだけれど……」 「だから、事件を解くカギはすべて出し尽くした、というフェアプレイの前提に立った『読者への挑戦』は、ここではまだ成り立たないと思う」 「ま、そうだけど」 「やるんだったら、せめて『読者のみなさんへ』くらいかな」 「なんだか迫力がないなあ」  ぼくは不満を洩らした。  が、耕作は笑って言った。 「いいじゃないか。平田にしたってぼくにしたって、読者に挑戦したり対決したりするようなタイプの人間じゃないだろ」 「まあね」 「だからさ、そんなにきばらずに、例の写真を読者のみなさんに提示したうえで、ぼくがあのとき気づいた発見を、みなさんにもわかっていただけるかどうか、おたずねしてみたら?」 「おたずね、ですか。ずいぶん下手に出るんですねえ」 「そ。ぼくは謙虚な人間だから」 「………」  ぼくは長いつきあいの中で、朝比奈耕作の強気な部分もじゅうぶん承知しているので、謙虚な人間だから、というコメントはそのまま鵜呑《うの》みにはできない。  けれども、本職の推理作家がそこまで言うので、彼の忠告にしたがって、このコーナーは『読者のみなさんへ』という題名になった。  そして、読者のみなさんに問題の写真を検討していただく前に、鮎川麻貴写真集発売に至るまでの、いくつかの出来事をかんたんにまとめておきたい。      *   *   *  まず、事件当日の朝、姉の麻貴が神橋を撮影中に、妹の亜貴が何かに気づき、それをカメラに収めたという件だ。  これについては、「ぼくもいちおう有名人だから」という朝比奈耕作が、鮎川麻貴への接触をこころみたが、結果は見事に失敗であった。  二人の共通の知人である大手出版社の編集長が間に立ってくれたこともあって、とりあえず麻貴は、耕作と会ってはくれた。  しかし、さしもの朝比奈耕作も、そこまでが限界だった。本論に入る前に、彼はいきなり麻貴からこんなふうにいなされた。 「恐れ入ります、わたくし、推理小説というものは一切読んだことがございませんので」  このひとことで、朝比奈耕作は一転してただの無名なお兄さんになってしまったのである。  と同時に、妹・亜貴のコンパクトカメラの存在について、彼女が一切のコメントを拒否する姿勢も明白となった。  あれこれ長々と言葉を連ねずとも、ほんのひとことの挨拶で、目の前の相手に立ち入るスキを与えない——この見事さに、耕作はほとんど『平田均状態』で、すごすごと退散せざるをえなかったのである。  耕作は言った。 「さすが女優だよ。セリフ回しが決まってる」  そんなことに感心している場合ではない。  ダイヤ……というダイイング・メッセージに秘められた事件解決の糸口は、これで姉によってプッツリと切られてしまった。  だが、さすがに耕作はぼくと違って、門前払いをくらいっぱなしではなかった。  彼はそのあと、鮎川麻貴の心理に関して、重大な疑問を投げかけたのである。  耕作の言葉をそのまま引用しておこう。 「たとえば父親、たとえば所属事務所の社長、そしてたとえば作品集の版元の社長——マスコミなどで取り沙汰《ざた》された『容疑者』のいずれに対しても、麻貴はその後も臆《おく》することなく接している。それだけでなく、あなたが犯人なんでしょうと表立って非難する様子もない。  惨劇の実行犯が狙っていたのは、ほかならぬ鮎川麻貴のほうである可能性が強いのに、彼女はなぜ怯《おび》えないのか。なぜ真犯人の可能性を探って騒ぎ立てないのか。  東照宮宝物殿の回廊で狙撃《そげき》され殺された亜貴が、もしも身代わりの犠牲者であるならば、姉の麻貴は、今後も引き続き生命を狙われる危険性が大いにあるはずだ。本人もそれを自覚していなければおかしい。それなのに、彼女はあまり恐怖感を覚えていないように感じられる。そして、真相解明への協力姿勢もみせていない。  これはなぜなのか。彼女に、真犯人をかばう何か特別な理由でもあるのだろうか」  朝比奈耕作は、この根本的な疑問をぼくに投げつけてきた。  だが、暑い夏が一日、また一日と過ぎていく中で、事件解決のメドは一向に立たず、そしてマスコミも、あれだけさまざまな推理——というか邪推——を並べ立てて大騒ぎをしたにもかかわらず、飽きっぽい体質は相変わらずのようで、事件から二カ月が経とうというころには、日光の惨劇はしだいに人々の記憶から薄らいでいった。  そんな時期に、鮎川麻貴の写真作品集が完成した。その題名は……。  麻貴がつけたこのタイトルをはじめて聞かされたとき、ぼくはその並ではない感性に驚かされてしまった。  題名は『観音』。  盗作騒ぎをものともせず、しかも同名の矢島麗ヌード写真集を出した海洋堂出版から、このタイトルで写真作品集を出すという。  それを許諾した丸尾社長も、なんらかの決断があったのだろうが、ぼくはこれを『観音』と名付けた鮎川麻貴の執念のようなものに、なにか寒気すらおぼえてしまった。  そして彼女は、この作品集の冒頭の扉に、こんなメッセージを載せている。    音は観るものです    光は聴くものです    愛は触るものです    そして——    命は失うものです  そこに秘められた鮎川麻貴のメッセージを、ぼくは百パーセント理解することはできなかった。  けれども、最終行の『命は失うものです』という一節を原稿の段階で読んだとき、ぼくは耕作が呈した疑問——鮎川麻貴はなぜ怯えないのか——に対する答えを見た思いがした。  麻貴は、自らすすんで犯人の毒牙《どくが》にかかろうとしている。そんな気がしてならなかったのだ。      *   *   *  鮎川麻貴作品集『観音』は、八月の十日に発売された。  初版十万部。  この手の写真集としては、特例といってもよい部数である。  むろん最大の話題は、麻貴が撮影した妹・亜貴の最後の姿である。  あの日の午後二時四十五分ごろ、日光東照宮境内陽明門の前で撮影された写真は、パノラマ写真というにふさわしい横長のワイド画面に収められた。  そして最終的にその写真は、当初、丸尾涼子社長が指示したとおりの巻折り方式によって、A4サイズの写真集の中に畳み込まれたのである。  けっきょく、梓社長がこだわった観音開きのデザインにはならなかった。  これについて梓社長ははじめ烈火のごとく怒り、しかしそののちに、不思議なほどすんなりとその怒りを鎮めたという。これはじつに非常に奇妙な反応だった。  次の章では、このエピソードから物語はスタートする。  そして、ぼくが朝比奈耕作の手元に写真作品集『観音』を届け、梓社長の反応を語りながら耕作と問題の写真をじっくり見ていくうちに、あっという発見があった——そのあたりを中心にまとめてある。  耕作から『読者への挑戦』だけはやめておけよと言われているが、しかし、読者のみなさんにはぜひ、朝比奈耕作の思考過程への挑戦を試みるつもりで、写真に隠された真相を考えていただきたい。  なお、この本の巻頭には、特別に『観音』に収録された問題の写真が、そのままの形式で再現されている。違うのはサイズだけだ。  本物の『観音』はA4サイズという週刊誌よりも一回り大きな判なのだが、そこまでは実物大にできないので、全体を新書判サイズに縮小して再現してある。(注・文庫版ではさらに縮小してある)  けれども、写真は本物をそのまま使ってあるし、巻折りという収納形式も、実際の鮎川麻貴作品集そのままとなっている。  つまり、読者のみなさんは手元に作品集『観音』があるのと同じ条件になっているわけである。  今回の殺人事件に関するぼくの事件簿を、いわゆるノベルズと呼ばれる新書判のサイズで出版することになったとき、この問題の写真の再現をどうするかということで、ずいぶん迷ったのだが、版元の角川書店が大胆な決断をしてくださった。海洋堂出版と鮎川麻貴本人の著作権のクリアさえできれば、そのまま復刻しましょう、ということになったのだ。  その時点では——つまり、ぼくの事件簿が出版の運びになった十一月までには——すでに海洋堂出版の社長は丸尾涼子ではなくなっていたし、ぼくも同社を退社していた。  けれども関係者がいなくなったことで、かえって写真転載についての海洋堂出版と角川書店との契約上の事務手続きは、すんなり進行したようである。  あとは、あまり前例のないパノラマ写真の巻折り三回という形態を再現する実務的な問題だが、これも製本所の担当者の方が、折り目が入る場所まで忠実に原本と一致させてくださったので、朝比奈耕作が作品集『観音』を見ながら問題点を検討してゆく場面との描写の一致に問題はないはずだ。  さて——  梓社長は、なぜこの陽明門の写真を観音開きのレイアウトに変えたかったのか。  その変更要請が実現せず、巻折りの形式になったとき、なぜ激怒したのか。  ところが、ふたたび急にその怒りを鎮めたのはなぜなのか。  そして、朝比奈耕作が気づいた真相とは……。  これらの疑問について、読者のみなさんは巻頭特別付録ともいうべき再現写真と、この先につづく第四章の第1節から第4節までの内容を照らし合わせながら、事件の解明にたどり着いていただきたい。  ミステリー作家としての朝比奈耕作は、犯人を最後までわからなくして読者に勝利する満足よりも、むしろ犯人を当てる喜びを読者に感じてもらうほうが数倍いいという考えの持ち主である。  知らない間にぼくもその思想に影響されているようで、読者のみなさんが朝比奈耕作よりも早く真相に到達することを心から期待している。  つまりこれは、読者側の全面勝利を期待した『読者への挑戦』なのである。  では、第四章へどうぞ。 [#改ページ]   第四章 消せなかった真実      1(証言) ◎財前和正(55) 写真家 「ええ、あたしんところにも届きましたよ。麻貴ちゃんの作品集の『観音』ね。本人の直筆サイン入りで届きました。  しかしまあナンだよねえ、麻貴ちゃんも強情というかなんというか。とことん『観音』のタイトルにこだわってしまったもんだねえ。まあ、いいですけどね。  しかし、さすがにこの財前和正の秘蔵っ子だけあって、写真の腕はたしかですよ。それから運ね。カメラマンにとっては運も実力のうちですけど、その運もある。  なにかっていうと、ほら、例の陽明門の前で撮った妹の亜貴ちゃんの写真ね。これ、たった一発だけど、うまいぐあいに風船が飛んできた瞬間をとらえているでしょう。  データをみると二分の一秒というスローシャッターだけど、その遅さにもかかわらず風船があまりブレていないのは、そのときに風の流れかなにかのせいで、奇跡的に風船の上っていく速度が止まったんだと思うよ。おかげで、これが色彩的なアクセントになっている。  この風船があるとないとじゃ、ぜんぜん写真の印象が違いますよ。才能のあるカメラマンはね、こういった運のよさも自分で呼び込んじゃうんだね。将棋の世界に『指運』っていう言葉があるんだけど、写真の世界にも『指運』はあるねえ。絶妙のタイミングでシャッターを切れる人。シャッターを切る瞬間に絶妙の運に恵まれる人。  ま、麻貴ちゃんもあれだね、事件のことを早く忘れて、芸能界もこのさい引退して、写真の道で再スタートを切るのもいいかもしれませんよ。  いや、彼女のヌード写真集はいまでもあたしゃ作りたいですよ。ご要望があればこの財前和正、いつでも飛んでまいりますけどね。  それにしても、あのパノラマ写真に秘められた真実ねえ、あれには気づきませんでした。いやほんと、プロのあたしもまったく気づきませんでしたよ」 ◎伊東 真(21) 財前の撮影助手 「ぼくは気がつきました。麻貴さんの作品集ということで、ぼくはすぐに本屋へ買いに行きました。本を開いてすぐに、あの陽明門の写真が目に飛び込みました。すごいですよね、巻折り三回のワイドパノラマなんて。  でも、すぐにアレッと思いましたよ。うちの先生は気がつかなかったみたいですね。でもぼくはすぐに『異常な点』に気づきました。なぜかっていうと、じつは亡くなった亜貴ちゃんですけど、麻貴さんの撮影現場にはちょくちょく遊びにきていて、ぼくとはわりに気が合ってよくしゃべっていたんです。  ぼくも彼女も内気でしょう。内気どうしでフィーリングが合ったんじゃないでしょうか。財前先生にこっぴどく叱《しか》られたあとで、高校生の亜貴ちゃんが、心配そうにぼくのことを見つめてくれてたりするんです。うーん、ひょっとしたら一種の恋心を抱いていたのかもしれません。  だから……だから、あの写真に秘められた特別な事情は、すぐに気づきました」 ◎水田健二(33)『四季書房』編集者 「ぼくはまだあきらめていません。本来ならウチの会社から衝撃のヌード写真集として出る予定だった鮎川麻貴の『観音』が、まるで違った切り口で、しかもよりによって海洋堂出版から発売になったので驚きました。  でも、結果的にこの作品集がきっかけで、推理作家の朝比奈耕作さんが隠された真実に気づいたわけですよね。それで、事件は全貌《ぜんぼう》が明らかになった。そういう意味では、鮎川麻貴写真作品集の出版は意義があったんじゃないですか。  彼女もこれで精神的に一区切りをつけて、早く女優としての復帰をめざしてほしいです。  引退? 引退だなんてとんでもないですよ。こんなスキャンダルでつぶれるような人材じゃないですからね、鮎川麻貴は。たしかに妹さんの死はショックだったと思いますけれど、これをまたひとつの貴重な体験として、いっそう演技に深い味わいが加わるんじゃないでしょうか。  もちろん、彼女の写真集はあきらめていませんよ。財前先生のカメラで彼女のヌード、という企画は依然として私の頭の中で生き続けていますから。実現させますよ、絶対に」 ◎早乙女慎太郎(27) 鮎川麻貴担当ヘアメイク            &スタイリスト 「事件のあとね、麻貴から電話があったわよ。オイオイ泣いちゃって可哀相だった。みんな信じないけどね、鮎川麻貴のいちばんの相談相手はこのアタシだったのよ。  でも、そのアタシにすら打ち明けられないほど、麻貴はずっとひとつの問題で悩んでいたみたい。ふつう、あんな問題をまともに悩まないと思うけれどねえ。とにかく最終的にたどり着いた結論が、自分は観音さまの生まれ変わりとして人々を救わなければならない、というものだったのよ。  まあ詳しくは本人の口から聞いてもらうのがいちばんいいんだけどね。  それはともかく、麻貴はね、自分がいつかこの人に殺されるかもしれない、ってハッキリ予感していたそうなの。そういったカンは鋭いからね、あの子は。ほら、アタシ前にも言ったでしょ、麻貴って感性がビンビンにとんがってるって。そのビンビンの感性が、自分の悲劇を予知していたのよ。  だけど、その予知された運命を、決して逃げてはいけない、定められたものとしてしっかり受け止めなければ、という悲愴《ひそう》な覚悟が、あの子にはあったみたい。とてもアタシなんかにはできない決意だけれどね。  ところがそんな覚悟を決めたにもかかわらず、自分は犠牲にならないで、妹の亜貴ちゃんが殺されたものだから、彼女も大ショックなわけよ。  なんで犯人はボウガンなんかで私を殺そうとしたの——麻貴は、そう言って嘆いたわ。あんな、命中精度の低い凶器で自分を狙ったから、間違えて妹が犠牲になったんだ、って。  もちろんアタシは、麻貴から誰が犯人なのかも聞いていたわ。朝比奈耕作っていう推理作家が真相を探り当てる前から、アタシは犯人を聞かされたわよ。  それならどうして警察に連絡しなかったのかって? できないわよ、そりゃ。麻貴からあれだけヘビーな話を聞いてたら、アタシごときが勝手に動いたりできないわよ。これはもう、麻貴自身が解決していくよりないと思ったもの。  だからね、いまでこそ言えるんだけど、アタシ、麻貴も近いうちに殺されると思ってた。それも、自分からすすんでね」 ◎若林 茂(37) 鮎川麻貴チーフマネージャー 「もうぜんぶすんだこと。自分から何か言うべきことはない。何もないよ。帰って帰って。え? 麻貴のマネージャーを今後もやるかって。やるわけないでしょ。この期《ご》に及んでこんな言い方はしたくなかったけど、麻貴とは住んでる世界が違うんだよ。人生観というか世界観というか、とにかくあの子は、なにもかも違いすぎたよ。おれの理解を超えてる子だよ、あれは。  以上。わかったね。じゃ、みんな帰って」 ◎鮎川真知子(47) 麻貴の母親 「亜貴ちゃん? ええ、亜貴ちゃんは元気ですよ。このあいだもね、姉の麻貴が写真を見せにきました。日光の東照宮の、えーと、そうそう、陽明門の前で撮った写真をね。  私たち家族は、ほんとうによく日光を訪れたものです。中禅寺にある観音さまへよくお参りに行きましたしね。ほんとうに思い出の深いすばらしい場所ですわ。  私も早くこの病気を直して、また四人で日光へ行きたいと思っているんです。  四人? ええ、四人ですよ。  誰と誰って……決まっているじゃありませんか。お父さんと私と、麻貴と、それから亜貴ですよ。  それにしても、まあまあ亜貴ちゃんは可愛いらしく撮れてよかったわ。本人もとっても喜んでいますのよ。きのうもここへきて話してくれたばかり。やっぱりお姉さんは、私のいいところをよくわかってくれているわ、って。  南無観世音大菩薩、南無観世音大菩薩……」 ◎太田健太郎(32)『観音』担当デザイナー 「いやあ、梓さんの怒りようはすさまじかったです。『観音』の見本が仕上がって、版元から届けられたとき、例の陽明門の写真が自分の指定した観音開きになっていなくて、巻折りだったもんで激怒したんです。マネージャーの若林さんに聞いたんですけど、『太田を呼べ、あいつは何やってるんだ、ぶっ殺してやる』とか、それはもうすさまじい剣幕だったみたいです。  ええ、その日のうちに若林さんから電話があったんですよ。社長が怒り狂って手がつけられない、と。だから、直接会って社長に事情を説明してくれって。  だけど私だって、独立してこの事務所をもって間もないのに、まだ殺されたくはありませんからね。  事情ですか? 事情もなにもありませんよ。最初、梓社長が直接みえて、なにがなんでもレイアウトを変えろというんです。なんとお金まで渡そうとするんですよ。札束見せて、丸尾社長じゃなくて、こっちの言うことを聞け、ってね。もちろん受け取りませんよ、そんなお金。  で、梓社長はひとしきりまくし立てると、絶対に私の言うとおりにしろよ、と念押ししたあと、こちらで預かっていた予備の写真をぜんぶ引き上げていきました。なんか感じ悪かったですね、非常に。  それで私は、そのあとでこっそり海洋堂出版のほうに相談したんですよ。これ、スジってもんでしょう。この仕事は海洋堂出版からいただいたわけですからね。  海洋堂の窓口には平田さんていう副編がいるんですけど、あの人はシロウトで何もわかっていないから、私は直接丸尾社長に連絡をとったんです。はい、あの美人の社長に。  いきさつを聞いた丸尾さんは、きれいな声でこう言いました。『だったら太田さん、両方作ってみて。両観音のレイアウトもね』と。  つまり、梓さんという人は、いちど言い出したことはそうかんたんに引っ込めないので、ともかく彼の好きなように、やらせましょう、というわけです。それで両方を比較して、やっぱり巻折りにしたほうがいいでしょうというふうに納得させるしかないわよ、とね。いやあ、さすが丸尾さん、落ち着いた対応ですよね。  どうでもいいけど、あの人、美人で声がきれいでスタイルがよくて、それで頭も切れて……それなのに、なんでポルノ雑誌の出版にこだわっているんでしょうね。ま、大きなお世話ですけど。  ともかく私は丸尾さんの指示にしたがって、急遽《きゆうきよ》、観音開き用のレイアウト指定を作りました。基本的には、最初に入稿してカラー分解にかけた版を流用できるんですけど、折りの指定を両観音用に変更したものを作るんです。作業は、ほんのかんたんなものですよ。要は、製本のときの折り方の違いだけなんですから。  だから、色校そのものは同じもので間に合います。そして、すでに出ている色校の控えを使って観音開きのように折って、こんなふうになりますよ、という見本も梓社長用に作ったんです。  あとは知りません。けっきょく丸尾さんの判断で、原案どおり、巻折りのほうを選んだんでしょう。私はそのさいに、当然、丸尾・梓両社長の話し合いがあったと思ったんですけどねえ。  それにしても、太田をぶっ殺せとわめいていた社長が、なぜか急に機嫌が直ったと知らされたときには、はじめあぜんとしましたね。  マネージャーの若林さんから社長激怒の一報があってから、そうだなあ、三十分もしなかったと思いますけれど、また彼から連絡が入ったんですよ。そしたら、こんどは何と言ってきたと思います? あれから社長がじっくり本を見直したら問題がないことがわかったので、もういいって。  こっちはキツネにつままれた気分ですよ。太田を呼べだの、ぶっ殺すだのと怒り狂っていたという社長が、三十分後には問題なし、でしょ。最初はワケわからなかったですよ、この反応。  でも、ずっとあとになって事情が明らかになったとき、なるほどーと唸《うな》ってしまいました。そういうことだったのか、とね。  あ、私ですか? はずかしながら、自分でこの仕事を担当しながら、写真の問題については気づきませんでした。やっぱり本になってしまうと安心して、細かいチェックはしませんからねえ」 ◎穂積伸宏《ほづみのぶひろ》(27) 株式会社活版印刷営業部          『観音』担当営業マン 「印刷所の営業というのは、お得意さんと印刷現場の技術者との架け橋をするわけです。たとえば今回の『観音』の場合ですと、海洋堂出版の丸尾社長や、デザイナーの太田さんとお会いしまして、細かなご要望をぜんぶ伺うのです。  予算、納期、部数といったお金がらみの部分から、具体的に入稿される写真原稿の指定など技術的な部分まで、すべて私が社を代表して話を伺うわけです。ただし今回は、陽明門のパノラマ写真をどのように収納するかという製本上の問題がありましたので、打ち合わせの場に製本所の担当者も同席させました。  写真集の場合、名のあるカメラマン——たとえば財前和正先生などの場合は、写真原稿を製版するプリンティング・ディレクターをご指名でくる場合がめずらしくありません。ウチの会社の技術者なら誰でもいいというものではないんです。つまり、写真家のクセとか好みを呑《の》み込んだ現場技術者が、毎回指名でコンビを組むんです。  なぜかといえば、最終的に製版の仕上げに関して印刷現場でゴーサインを出すのは、カメラマンでもなければ編集者でもなく、このプリンティング・ディレクターですからね。たとえば、ウチの五木田《ごきだ》というPDは、財前先生の好きな肌色とか、そういう微妙なところまでぜんぶ熟知しているわけです。  ですから、打ち合わせの場には営業の私だけでなく、こうしたPDを同席させることもあります。ただ、今回はそういった特別な指名はありませんでしたので、仕事の流れは技術的な指示も含めて、すべて丸尾さんから私へ、そして私から丸尾さんへ、というものでした。  その流れをきちんと守っていれば、こんな出来事は発生しなかったんですが、『緊急事態』と言われると、つい……。  おわかりいただけますでしょうかねえ。印刷所の営業は『緊急事態』という言葉に弱いんですよ。『大至急』とか『特急で』といった程度のせかされ方は日常茶飯事ですから、それには動じない図太さはあるんですけど、『たいへんだ、緊急事態だ』とせっぱつまった声で連絡をいただきますとねえ……。  それが、本来指示を出すべき丸尾社長でなくても……いや、これって弁解になりますから、ここで言うべきことじゃないんですけど……。  うーん……ごめんなさい」      2  発売一週間前に鮎川麻貴写真作品集『観音』の見本が仕上がった。  その日のうちに見本を届けられた銀座プロダクション社長の梓圭一郎は、最初、陽明門のパノラマ写真が自分の指定した観音開きではなく、巻折りのままで掲載されていたことに激怒した。  が、すぐに彼は、冷静さを取り戻した。  担当デザイナーが、この社長の豹変《ひようへん》ぶりを聞かされるにはおよそ三十分の間があったが、実際には、わずか三分の間に起こった感情の激変だった。  その変化があまりにも唐突だったので、マネージャーの若林もすぐにはデザイナーに言えなかったのである。  日本人ばなれした容姿に恵まれ、モデルや俳優などを経験し、自らのダンディぶりに絶大な自信をもつ梓圭一郎は、つねに『いい男』であるための自己演出に怠りはなかった。  だから、相当感情が激しても、人目がある場所ではそれをコントロールする術を心得ていた。  が、鮎川亜貴の悲劇が起きて以来、彼はときとして自己コントロールを忘れがちになり、そして『観音』の見本を手に取ったとき、かつてなかった感情の爆発をみせた。  特上仕立ての背広のボタンが弾けるかと思えるほど激しく胸を上下させて興奮し、デザイナーへ向けての『ぶっ殺してやる』発言も飛び出した。  が、そばにいた若林にひとしきり怒鳴りまくったあと、改めて問題の写真に目を通した梓は、急に「ん?」という表情になった。それは、なにか自分の思い違いに気づいたような顔付きだった、とのちに若林は語った。  そして、たったいままでの激高ぶりがウソのように、梓はふたたびダンディな紳士に戻ってしまったのである。  その情報は、その日の夕方までには、デザイナーの太田を通じて海洋堂出版の丸尾涼子にも平田にも伝えられた。  平田が、できたてのホヤホヤの『観音』をもって朝比奈耕作の自宅を訪れたのは、その日の夜遅くである。      *   *   * 「できたよ、耕作。ほら、鮎川麻貴の写真作品集『観音』だ」  平田は、白を基調とした清楚《せいそ》な雰囲気のカバーをもった作品集を、朝比奈の前に置いた。  朝比奈は、シュリンクパックされた封を切って、さっそくその本を開いてみた。  まず、いきなり朝比奈の目が、扉ページに記された麻貴のメッセージに吸い寄せられた。    音は観るものです    光は聴くものです    愛は触るものです    そして——    命は失うものです  しばらくそのメッセージを注視していた朝比奈は、やがてゆっくりとした動作でページを繰りはじめた。 「純粋に写真作品集としてみても、いい出来になっているね」  静かな声で、朝比奈は感想をつぶやいた。  彼の指先が、一定のリズムで新しいページを開いていく。  日本の四季がある。海外の風景がある。日常の光景がある。  そして—— 「ああ、これが問題の写真か」  陽明門のパノラマ写真は最終ページに織り込まれていた。  内側へ巻き込むように三回折って畳まれたその裏側は白地だったが、そこに一編の詩が印刷されている。  妹、という題である。    妹が日傘を回す    くるっ くるっ くるっ    おひさまがつられて笑う    うふっ うふっ うふっ    陽のあたる場所が似合うのは    私よりも あなた 「いたいたしいね」  朝比奈は独り言のようにつぶやいた。 「華やかな姉の陰にいつも隠れたまま、ついに姉の身代わりとして命を落としてしまった妹——ずいぶん後悔しているんだろうな、麻貴は」 「ああ」  短く平田が相槌《あいづち》を打つと、さらに朝比奈は言った。 「妹の霊を慰めるためには、自分も同じところへ行かないといけない——鮎川麻貴はそんなふうに思っている気がするなあ」  たった六行の詩をずいぶん長い間見つめてから、朝比奈は折り畳まれたパノラマ写真を、外へ外へと引き出した。  陽明門を中心に据えたワイドな画面に、朝比奈はじっくりと見入った。 「これが……亜貴ちゃんか」  まず最初に、朝比奈の目はそこにいった。  黄色いワンピースを着て、華やかな模様の傘を差して立っている亜貴の姿である。 「どう、可愛いだろ」  平田は言った。  朝比奈は、無残な姿の亜貴しか見ていない。  鋼鉄の矢を右目に突き立てられるわずか数十分前の姿が、そのパノラマ写真に記録されている。  なんとも複雑な表情で、朝比奈はそれを見ていた。 「ね、可愛い子だろ」  もういちど平田がきいた。 「可愛いけど、ちょっと悲しそうな顔をしているね。いや、不安そうな顔といったほうがいいかもしれない」  写真に顔を近づけながら、朝比奈は答えた。 「先入観念で見るからそう感じるのかもしれないけれど、決して明るい表情ではない」 「緊張していたせいもあるだろうけどね」 「緊張?」 「彼女、姉さんと違って、あまり出たがりじゃないから、観光客が行き来する中で、カメラに向かってポーズをとるのをずいぶん恥ずかしがっていたんだ」 「ああ、そういうことか。……ところでこの傘なんだけど」  朝比奈が指さした。 「これは誰の指示で」 「もちろん麻貴だよ。彼女が、それを差すように指示したんだ」 「なぜ」 「何も手にもっていないと、亜貴ちゃんがうまくポーズを作れなかったんだ」 「それで傘をもたせたと」 「うん」  うなずいてから、平田はつけくわえた。 「おもえば、いちばん最初に西麻布のイタリア料理店で彼女たちきょうだいに会ったとき、おれ、この傘のことを話題に持ち出したんだよ。大スターの鮎川麻貴を前にアガッちゃって、何を話していいかわからなくてさ。それで彼女の脇にあった傘をホメたら、これは妹のなんです、ってそっけない返事が戻ってきた」  そのときの場面を思い出しながら、平田はつづけた。 「そこでシラケたムードになりかかったんだけれど、亜貴ちゃんが助け舟を出してくれたんだ。姉が『ときめき』という映画に出たときに、そのために特別に作った傘なんです、世界にたった一本の傘、ってね。それがすてきだったので、姉から譲り受けて使っていると説明してくれた……。  あーあ、何度思い返してもやさしい子だったなあ、亜貴ちゃんは。姉の麻貴におれが無視されているのを、なんとか救ってくれようと……」 「この外国人は?」  回想にふける平田に、朝比奈は新たな質問を投げかけた。  朝比奈の指は、亜貴の向かって右手にいる男女三人の外国人を示している。 「彼らは特別に頼んでこの位置でポーズをとってもらったのかな」 「いや、たまたまそこに立って話をしていたんだよ。こういう場所でこんな感じでのんびり会話をはじめてしまうのは、日本人観光客ではいないからねえ。国際的な観光都市日光って雰囲気も出てよかったんじゃないかな」 「そこへ風船が飛んできた」 「うん」 「これは演出じゃないんだろ」 「ちがうよ。ほんとうに偶然なんだ。麻貴が妹の立つ位置を決めて、カメラのピントを合わせているときに、ちょうど飛んできた」 「でも、この写真、スローシャッターを切っているんだよな」  パノラマ写真の裏面、詩の下に小さく記された撮影データを再確認しながら、朝比奈が言った。 「きっとこの風船は、ふつうの空気よりも軽いヘリウムガスを詰めたものだろうけど、黙っていれば上へ上へと昇っていく風船が、二分の一のスローシャッターでもブレないっていうのは……」 「ちょうどぼくもその場で見ていたんだけれど、風船が一瞬、止まったんだよ。空中でね。たぶん、気流の関係かなにかで、風船が上へ行こうとする動きが、ほんのわずかの間だけ抑えられたんだ。そのときに、麻貴はシャッターを切った」 「運がよかったわけか」 「そうだね。……でも、そんなところで運がよくても、ほかで悪けりゃ何にもならないけど」 「……で、巻折りにした場合の折り目はここと、ここと、ここか……」  朝比奈は、こんどは構図からいったん離れて、巻折りにして畳み込んだときにつく折り目の場所を確認した。  巻き込むようにして三回折り畳んで、本のサイズよりも内側に収まるパノラマ写真には、折った回数だけ折り目がついていた。つまり、三カ所である。  いちばん左側の折れ目は、陽明門の向かって左、西の回廊の入口からちょっと中に入ったところにかかっている。  二番目の折り目は、全体の構図の中央部よりも、わずかに右、陽明門に掲げられた東照大権現の額の右側を通って下へ降りてゆき、もっとも目立つ『右側通行』の看板の右側をかすめていた。  そして、いちばん右側の折れ目は、風船から数センチ右横、外国人の右端の男性からさらに右のところに入っていた。 「もしも、これを両観音と呼ばれる、両側から折り畳む観音開きの方式に変えた場合……」  朝比奈は言った。 「まさにこの構図のど真ん中にあたる東照大権現の額の、そのまた真ん中が、見開き左右ページの間にかかってしまうわけだ」 「そうなんだよ。どんなにノドアキをとっても、中央部分は製本したときに隠れてしまう。これが、週刊誌みたいに中綴じの形式なら、両観音をセンターピンナップにもってくれば、ホッチキスで止めた部分が出てしまうけれど、画面の真ん中が隠れることもないんだけどね」 「ということは、だよ」  朝比奈の目が、パノラマ写真の中央部分に集中した。 「観音開きに固執していた梓圭一郎の狙いが見えてこないか」 「え?」 「だからさ、こうだよ。見開きページの真ん中にもってきたら、ページとページの隙間《すきま》に埋没してしまう『死角』が生じる。梓は、他人に見せたくない部分を、その死角に隠したかった」  朝比奈の言葉にしたがって、平田の目も写真の中央部にいった。 「いま平田の話を聞いてはっきりわかったけれど、絶妙のタイミングで飛んできた風船を入れ込んだカットは、たった一枚しか存在しない。だから、仮にその写真に、梓にとって何かまずいものが写り込んでいても、類似カットとこっそり差し替えるわけにはいかない」 「そうか……」 「もちろん、最近ではコンピュータ技術が発達しているから、この写真のオリジナルポジをパソコンに入れて、不要な人物だけを消すこともできる。だけど、そんな作業を印刷所に依頼したら、特別な経費がかかるうえに、工作したことがもろにバレてしまう」 「なるほどねー。写真のまるごと差し替えは利かない、部分的に修正を加えることもできないとなると、見られては困るカットを隠す方法がなくなっちゃうな」 「けれども、『隠したい部分』がたまたま構図のど真ん中にあったとしたらどうだ? その場合は、このパノラマ写真を巻折りではなく、観音開きのレイアウトにすれば、左右ページの間にそこが隠れてしまう」 「でも耕作、具体的に、この写真の中で隠したいものって何なんだ」 「そこだよな、問題は」  二人の視線が、写真の中央部に集中した。      3 「ねえ、耕作」  しばらくしてから平田がつぶやいた。 「製本したときに、いくら見開きページのノドの部分が隠れるといったって、何センチも見えなくなるわけじゃない。左右それぞれほんの二、三ミリ程度なんだよ」 「うん、わかってる」 「だから、この真ん中の線の左右二、三ミリくらいの狭い幅の中に、梓が隠したがっていたものが入っていたことになるわけだ」 「うん」 「でも……何かある? 不審なものが」  その問いかけに、朝比奈はもういちど写真の中央部を目で追った(巻頭パノラマ写真参照)。  まさか、陽明門に飾られた東照大権現の額を隠したいわけではあるまい。  その真下に、陽明門をくぐって東照宮拝殿へと向かう通路が見える。その近辺に数人の観光客の姿が見えるが、とりたてておかしな様子はない。ちょうど写真の中央線上にかかる位置にいるのは半ズボンの少年だが、彼が特別な存在意義をもつとは思えなかった。  そして、この少年の下へ目を向けていくと、もう『右側通行』の立て札となる。 「濃い緑色の服を着て金色のバッグを肩にかけた、このおばさんが怪しいのかなあ」  苦し紛れといった感じで、平田がつぶやいた。 「いや、そんなふうには見えないね」  と、朝比奈。 「じゃ耕作、これは? そのおばさんの頭に旗が立っているように見えるだろう」  平田が指さした。 「ああ、これね」 「それはどうだ」 「意味ないね。たんに観光バスのガイドがもっている旗だ。よく観察すると、バスガイドの帽子や制服が見えるじゃないか」 「そうだな……すると、もういちど陽明門の出入口のところに目を向けるしかないのかな。……あ、この人物はどう? さっきの小学生のすぐ右に、前を向いているのか後ろを向いているのかわからない、黒いシルエットになった人物がいるだろう。ちょうど立て札の右上だ」 「あるね」 「梓社長は、この人物を隠したかったんじゃないのかな」 「でも、写真で見るかぎり、顔もわからないくらいに黒くつぶれているだろう」 「うん」 「だったら、わざわざ観音開きにして隠すほどのこともないじゃないか」 「そりゃそうだけど……そうなると、この写真の真ん中あたりには、不審人物とか怪しげなモノは何もなくなっちゃうよ」 「まあね」 「あ、耕作。大きすぎて盲点になっていたけれど、ひょっとしたら、この立て札そのものが問題だったのかもしれないぞ」  観音開きにこだわる梓圭一郎の意図をなんとか見いだそうと、平田は必死だった。 「もしかして、この『右側通行』の立て札を隠すことに意味があったんじゃないか」 「どういうふうに」 「これ、見開きページの真ん中に埋没したら、ちょうど『右』という字のセンターが数ミリ見えなくなる。つまり、『右』という字か『左』という字か判別がつかなくなってしまうんだよ」 「それで?」 「『右側通行』を『左側通行』と読ませたりしたかった、とか」 「それで?」 「……だめ……だよね」  朝比奈に問い返されていくうちに、平田は自信を失って小さな声になった。 「なあ、平田」  気分転換をするように深呼吸をひとつしてから、朝比奈が言った。 「ぼくらは、根本的に間違った作業をしているような気がしてきた」 「間違った作業って?」 「この写真とにらめっこして、中央部分になにか異状はないかと探している作業が、まるで見当はずれじゃないかと思ってきたんだよ」 「どうして」 「梓社長は、できあがってきた本を見て、なぜ自分の指示どおりに観音開きにしなかったのかと烈火のごとく怒った。ところが、社長はすぐにその怒りを引っ込めた。それは、なんらかの勘違いに気づいたからだ。つまり、自分の怒りが的外れだったとわかったんだ」 「そうだよ。そこまではわかる」 「だから」  朝比奈は写真を指さした。 「もしも『何かまずいもの』が、この写真の中に残っていたら、社長は怒りを収めるはずがない。逆にいうと、彼が冷静さを取り戻したのは、よくよく見たら、この写真が世に出ても支障はないと思い直したからだ」 「うん」 「それならば、いくら目を皿のようにしてこの写真を眺めていても意味がないじゃないか」 「でも耕作、海洋堂出版の応接室で校正刷りを点検したときには、梓は明らかに『何かまずいもの』を発見したんだよ。だからこそ躍起になって、観音開きに体裁を変えて、それを隠そうとしたんじゃないのかな」  平田が反論した。 「わざわざぼくにデザイナーの連絡先をたずねたりしたのだから、あれはよっぽどの事情があったんだと思う。錯覚とか勘違いといったあいまいなものではないはずだ」 「しかし、最初に見たときには写真に問題点があったのに、本になった段階では問題なしとなると、写真を差し替えたか、写真に手を加えたしかないんだよ」  朝比奈は、さきほども触れた点を繰り返した。 「ところが、風船が飛んでいる写真はたったの一枚しか存在しない。いや、鮎川亜貴が写り込んでいるカットそのものが一枚しかないんだ」 「それはそのとおり。亜貴が入っていないカットは、何枚かあるんだけどね」 「したがって、写真の丸ごと差し替えが行なわれた可能性はない。また、見られては困るものを部分的に写真から消去するには、さっきも言ったけど、パソコンを使って処理しないとダメだ」 「梓社長の雰囲気からすると、彼がパソコンをいじれる可能性はありそうだけどね」 「パソコンそのものは個人で操作できても、高画質の条件でそれを印刷にまでもっていくのは、シロウトでは絶対に無理だろう」 「まあね」 「百歩譲って、印刷所の内部に協力者がいて、梓の希望する細工ができたとしよう。だとすれば、梓にとっての問題は完全に解決できたわけだから、なにも観音開きへのレイアウト変更にこだわることもなかったし、仕上がりの体裁が注文どおりになっていなかったからといって、怒ったりする必要もまったくなかったはずだ」 「そりゃそうだ……ああ、どういうことなんだろうな。なんだかもう、頭の中がグチャグチャになってきたよ」  平田は、髪の毛をむちゃくちゃにかきむしるゼスチャーをした。 「あれ?」  そのとき、朝比奈が疑問の声をあげた。 「この影はおかしくないか」  朝比奈が指さしたのは、『右側通行』の立て札の右、石段の上から数えて一段目から三段目までに写り込んだ細長い影だった。 「これって、陽明門から出てこようとするブルーのシャツにジーンズ姿の男の影だろう。それと、亜貴ちゃんの影を較べると、ぜんぜん方向が違うじゃないか」  亜貴の影は、ほんのわずかだが、石段の一段目の側面に映っていた。  朝比奈の表情が険しくなった。 「やっぱり、パソコンでの画像処理が行なわれているのか……」 「いや、それは違うよ、耕作」  平田が首を振った。 「立て札の脇の石段に映っている影は、陽明門から出てくる男の人の影じゃないんだ」 「だったら何だ」 「柵の影だよ」 「柵?」 「そうだよ。耕作だって見ただろう、あの石段が真ん中から柵で仕切られているのを」 「いや、ぼくは知らない。中禅寺湖方面の取材から戻ってきて、東照宮境内で最初に足を向けたのが、例の人面木のところだからね。そこで亜貴が射たれた事件に遭遇したから、陽明門までは見ていないんだ」 「そうなのか。じつはここはね、観光客が多い日には混雑を和らげるために、石段の真ん中に柵を置いて右側通行にしているんだ」 「それは知らなかった。右側通行というのは立て札で指示しているだけじゃなくて、実際に石段が真ん中から柵で区切られているのか」 「そうなんだよ。ちょうど立て札の裏側に隠れて、この写真では見えないんだけれど、立て札の支柱の左側、ちょうど緑の服のおばさんがさげている金色バッグのすぐ横に、その柵の一部分が覗いてみえるだろう」 「ああ、この横の桟が並んでいるみたいな」 「そう。この柵が石段の真ん中に並んでいるから、人の流れがちゃんと分かれているんだよ。向かって右側が陽明門に向かう人たちで、反対側が出てきた人たち、というふうに」 「なるほど、その柵の影が石段に投げかけられているのが、この濃い灰色の線なんだ」 「うん。この写真を撮ったのが午後の二時ごろだったから、太陽は、南に向かって建つ陽明門の斜め左方向から差してきていた」  平田は、手の動きで太陽光線の方角を示した。 「だから、石段の向かって右側に、柵の影が映るわけだ。その方向は、立っている亜貴ちゃんの影の方向と決して矛盾はしない。ちゃんと同じほうを向いている」 「それにしても、石段の四段目以降に柵の影が映っていないのは、どうしてなんだ」 「それは、画面の左上に張り出している大きな木の枝のせいだよ」  平田は言った。 「この木陰が石段の真ん中から下ぜんたいを覆っているんだ」 「そういうことか……」  一瞬、不自然なところを見つけたと思った朝比奈は、それが思い過ごしとわかって、がっかりした様子だった。 「ねえ、耕作」  平田が、なかばあきらめ顔で言った。 「たしかに、この写真とにらめっこしていても、しょうがないよ。いったん写真から離れて、もういちど事件の全体像を見直してみないか」 「いや、ちょっと待った」  朝比奈は、広げてあったパノラマ写真をいったん元のとおりに折り畳んだ。  すると、写真裏面に印刷された『妹』と題する詩がいちばん上に出てくる。  朝比奈は、その面にじっと見入っていた。  そしてふたたびパノラマ写真を広げた。 「おかしいな……」  カフェオレ色に染めた髪に片手を突っ込んで、朝比奈はつぶやいた。 「何がおかしいの」  平田がたずねたが、朝比奈は答えない。 「いま耕作は、写真の裏側を見ていたよな」 「ああ」  朝比奈が、やっと短い返事をした。 「そこに書いてあった、麻貴の詩の内容がおかしいのか」 「いや、詩じゃなくて、撮影データのほうを見ていたんだ」 「撮影データ?」 「そうだ。そこに、使用したカメラがシルベストリと書いてあるだろう」 「うん。あまり見かけないけど、イタリア製のカメラだとかいってたな」 「ぼくもその機種は実際に見たことがないが、これだけ大きく引き伸ばして使う写真なんだから、ふつうの35ミリ一眼レフじゃなくて、もっと大判のカメラだったんじゃないか」 「えーと、鮎川麻貴はロクハチがどうとかって言ってたな」 「|6×8《ロクハチ》か……」  朝比奈はつぶやいた。 「平田は、カメラのことはあまり詳しくなかったんだっけ」 「自慢じゃないけど、ぜんぜん」 「そうか……。この6×8のカメラは、使うフィルムの長さが六センチ掛ける八センチだから、そう呼ばれているんだ。つまり、フィルムのタテヨコの比率が六対八になるわけだ。けれども、この写真はずいぶん横長だろう。うっかりしていたけれど、6×8のカメラそのままで、こんなパノラマ写真は撮れないんだ」 「ああ、そのことか」  平田は、なんでもないというふうに言った。 「じつは、ワイドなパノラマ写真の雰囲気を出すために、デザインする段階で、上と下を少し切ったんだよ。それは麻貴自身の要望だったんだけどね。オリジナルのポジは、上の部分にもっと空が広がっていたし、下のほうももう少し見えていた。カメラのすぐそばにいる人物は、上半身だけじゃなくて、足のほうまで写っていたんだよ」 「それをデザイン処理でカットしたわけか」 「そうだよ。こういうふうに横長の画面にするために、上と下をね」 「では、これは一枚の写真に間違いないんだな」 「もちろん」 「そうか……」  朝比奈は、やや落胆した声を出した。 「となると、梓社長の言動の謎《なぞ》を解く最後の望みも断たれたかな。やっぱり、この写真にいつまでもこだわっていたら……あーっ!」  そこで突然、朝比奈が大声をあげた。      4 「な、なんだよ耕作」  平田が目を丸くした。 「いきなり叫ぶなよ。びっくりするじゃないか。心臓が止まるかと思ったぞ」 「これだ!」  朝比奈の目が、写真の一点に注がれていた。  そこは、二人がいままでこだわっていた中央部分ではなかった。 「なんだよ、これって」  平田は、朝比奈が見ているものを追おうとした。  が、そのとたん、朝比奈の視線が急に動き出した。そしてパノラマ写真の隅から隅まで、ものすごいスピードで走り回る。  それは、まるでコンピュータが何かの検索作業をやっているようでもあった。それほど目まぐるしい動きだった。 「まさか、そんな……」  つぶやきが朝比奈の口から洩れる。 「そんなバカなことがあるはずがない」 「どうしたんだ。なにを見つけたんだよ、耕作」  平田がきいても、朝比奈はまるでその声が耳に入らないといった様子だった。 「冗談じゃない……現実にそんなことが起こるはずがないんだ。だけど……これは……」  独り言をつづける朝比奈の腕に、いつのまにかザワザワと鳥肌が立っていることに、平田は気がついた。 「おい……耕作……」  平田がおずおずとたずねた。 「おまえ、腕に鳥肌が立っているよ」 「ああ」  自分でもわかっているというふうにうなずくと、朝比奈は両腕をさすった。 「寒いんだよ、寒気がする」 「寒気? こんなに蒸し暑い晩なのに?」 「暑さなんて吹き飛んだよ」  そう言う朝比奈の唇は、気のせいか紫色になったように平田には見えた。 「平田、撮影現場の状況について、いくつかたずねたい点がある。答えてくれ」  写真から目を離さずに、朝比奈が言った。  その声は、ピンと張りつめている。  張りつめているだけでなく、どこかに怯《おび》えた震えも感じられた。 「鮎川麻貴は、この写真を撮るときに三脚を使っていたんだな」 「ああ」 「では、彼女は撮影中に、その三脚の位置を動かしたことがあったか」 「いや、いったん場所を決めたあとは動かさなかったよ」 「それから、麻貴は亜貴ちゃんを入れ込んだカットを撮る前に、妹ぬきのカットを何枚か撮っていた。これに間違いはないね」 「うん。間違いない」  朝比奈の気迫に押されながら、平田は答えた。 「それから、亜貴ちゃんが差しているこの傘だが、たしか、これは世界にたった一本しかない傘だったね」 「そうだよ」  いきなり質問が傘のことに飛んだので、平田はいぶかしげに眉をひそめた。 「その傘は、鮎川麻貴が主演した映画のために作られたもので、市販品じゃないから、この世に同じ傘は一本もない」 「では、撮影のとき、平田はどこを見ていた」  また質問のポイントが変わった。 「どこって?」 「妹の亜貴が石段の上に立ったカットを麻貴が撮ろうとしているとき、平田はどんな場所にいて、どこを見ていた」 「場所は、麻貴の斜め後ろだよ。三脚を立てた斜め後ろだ」 「どっち側の後ろ?」 「右だよ。斜め右後ろだ」 「それで、どこを見ていた」 「前だよ。前を見ていたに決まってるだろ」 「前といっても、具体的にはどのあたりだ」  朝比奈はたたみかけた。 「陽明門か、亜貴ちゃんか、それとも亜貴ちゃんが差していた傘か」 「傘?」 「そうだよ。パノラマ写真の裏側に印刷された詩にも書いてあるように、亜貴ちゃんは、肩にのせた傘をくるっ、くるっ、とリズムをつけて回していたんじゃないのか。そして、その動きをおまえは見つめていた」 「亜貴ちゃんが傘を回していたかどうかまでは、よく覚えていない。けれども、彼女に目がいっていたのはたしかだ。着ていた黄色いワンピースは目立ったし、チューリップの花をイメージした特製の傘は華やかだったし、それに」 「亜貴ちゃんは可愛かった。そういうことだろ」 「まあね」  平田は照れ臭そうに答えたが、朝比奈の視線は、まだ画面から離れない。ただごとではない目つきである。 「では、マネージャーの若林はどうだった。彼のいた場所と、見ていた方向は」 「ほとんどぼくと同じだったと思うよ。とくに、この風船が飛んできたときは……そうそう、この色鮮やかな風船が現れたときは、若林もそうだったと思うけど、ぼくは亜貴ちゃんよりも風船のほうに目がいっていたな」 「すると、鮎川麻貴がシャッターを切ったとき、平田の注意は、亜貴ちゃんの斜め右上にある風船に集中していたわけだね」 「うん。その瞬間だけでなく、シャッターを切ったあともしばらくは、風船の行方を目で追っていたよ」 「では、ここに写っている少年が、こんな近い距離までカメラに近づいてきていたのを、平田は覚えているかい」  朝比奈が指さしたのは、『右側通行』の立て札のすぐ左にいる、青いTシャツを着て頭をスポーツ刈りにした少年だった。 「いや、その男の子がそんな位置にいたなんて、ぜんぜん記憶にない」 「では、少年の左隣の、青い帽子をかぶったおばさんは」 「いいや」  平田は首を左右に振った。 「その他大勢の人の顔まで、いちいち覚えていないよ。亜貴ちゃん以外は、みんな知らない顔なんだから」 「そうか」 「ほかにききたいことは」 「いや、ない。質問は以上だ」  うなずいた朝比奈の顔からは、さきほどまで浮かんでいた恐怖にも似た表情が薄らいでいた。 「やっとわかってきたぞ」 「なにが」 「世の中に幽霊は存在しないということが」 「は?」  幽霊という言葉に、平田はキョトンとした顔になった。 「それから、梓圭一郎のやりたかったこともわかってきた。観音開きにこだわった、一連の彼の言動の謎が解けたんだ」 「ほんと? それ、どんなことなんだよ」  平田は、身を乗り出した。 「梓社長は、やはりぼくらが見込んだように、このパノラマ写真に写っていた『あるもの』を隠したがっていたんだ」  朝比奈は自分に向けていた写真集を、百八十度回して平田の前に押し出した。 「そして、きわめて単純なやり方で、写真の中のある画像を消そうとした」  平田の目が写真にいく。  だが、どこを見ればよいのかわからず、平田の視線は定まらない。 「けれども、梓の考えた消去方法には弱点があった。単純すぎて、そのままでは細工がバレてしまうんだ。その弱点を補うために、どうしても観音開きの体裁が必要だった。だからこそ、本の仕上がりを見て観音開きが採用されていないのを知ったとき、梓は焦った、そして怒った」 「………」 「ところが、よくよく写真を見ると、意外にもその細工はうまくいっていた。観音開きのレイアウトにこだわらなくても、梓の作戦は成功したかにみえたんだ。だから、彼は急に冷静さを取り戻した。けれども、悪いことはできないものだ。彼には、とんでもない見落としがあった」 「たのむよ、耕作」  平田は、降参といったポーズをとった。 「もったいぶらないで、ぜんぶ教えてくれ。梓社長が隠したかったものは何なんだ。そして、それを消去する単純な方法とは何なんだ。それから、梓社長の見落としとは……」 「いまから説明するよ。あわてないで」  先を急ぐ平田を、朝比奈は手で制した。 「おそらく、梓の見落としについては、ぼくだけじゃなくて、写真を撮影した麻貴当人も気がついていると思うけれどね」 「麻貴も?」 「そうだ。写真の内容については、撮影した当人がいちばん細部まで記憶しているものだ。だから、鮎川麻貴は本に印刷されたこのパノラマ写真を見て、ものすごくびっくりしているはずだ」 「鮎川麻貴が、これを見てものすごくびっくりしているって?」 「たぶんね」 「ああ、早く教えてくれよ」  平田は、ガマンできないといったように身体を揺すった。 「もう、これ以上じらすのはやめてほしい」 「オーケー、では、これまでのぼくらの思い込みを改めるところからはじめよう」  朝比奈は自分の指で、陽明門を左右に二分するセンターラインを縦に引いてみせた。 「このパノラマサイズの写真を観音開きのレイアウトにする場合、よほどのひねくれ者でないかぎり、この真ん中のラインが、本の見開き中央にくるようにデザインをするだろう」 「もちろん」 「だからこそ、ぼくらはこの線上に怪しいものがないかと目を皿にして探したわけだ」 「そのとおり」 「しかし、よく考えたら、梓圭一郎にとって見られたくないものが、たまたまその中央線上に存在したという確率は、きわめて少ないんじゃないだろうか。純粋に確率的な問題としてとらえてもそうだし、物理的にいっても、心理的にいっても、やはり非常にありえないことだ」  真剣なまなざしの平田に向かって、朝比奈はつづけた。 「たとえば、写真から除外したかった対象が、じつは梓圭一郎自身の姿だったとしよう。つまり、その日のロケには急遽《きゆうきよ》立ち会えなくなったと言っていたはずの梓社長が、なんらかの変装をして、この撮影現場に紛れ込んでいたと仮定するんだ。そして、その姿がカメラに捕らえられてしまった……と」 「それは大いにありうる話だと思っていたよ」 「だけど、鮎川麻貴がシャッターを押した瞬間に、梓が画面の左右中央ピッタリの位置に立っていたというのは、確率的には非常に少ないと思う」 「それは同感だ」  平田がうなずいた。 「そもそも、石段の真ん中に柵が設けられていたからには、センターライン上に立つことが物理的にもとても難しくなってくる」 「それも同感」 「また、麻貴や亜貴や若林マネージャーに隠れてやってきた人物が、いくら変装をしていたにせよ、カメラの真正面にノコノコと出てくるはずがない。心理的にいってもそんな行動はありえない。ここがいちばん重要だ」 「それもまた同感」  三度同じ相槌を打ってから、平田は言った。 「耕作が言うように、たとえ梓社長本人でなくても、事件に関係していた人物が、鮎川麻貴のカメラが狙っている真正面に身をさらすとは考えにくいね」 「だから、撮影された写真の中央部分に梓にとって隠したいものがあったとしても、それが人物像である公算は薄くなってくる」 「だったら、モノか」 「いや、モノでもないだろう」 「人でもなければ……モノでもない?」 「うん。観音開きの体裁にすることによって梓圭一郎が隠したかったものは、人物でも物体でもなかった」 「人とモノ以外に、何があるんだよ」 「継ぎ目だよ」 「継ぎ目?」  平田が、おうむ返しに聞き返した。 「継ぎ目って、何のことだ」 「これを見てごらん」  朝比奈の指が、写真の中のある一点を指した。  ほんの一瞬だけ、平田はけげんな表情を浮かべた。  が、みるみるうちに、彼の目が大きく見開かれていった。  そして—— 「あーっ!」  ほとんど絶叫といってもいいような大声を平田があげた。      5 「人は、それぞれ『お役目』をもってこの世に生まれてきた。その思想をおまえが引き継いでくれたことは、父さんもうれしく思っている」  同じころ——  国立市の鮎川家では、できあがった写真作品集『観音』を前に、父と娘が向き合っていた。  すでに亜貴はなく、母親の真知子もまったく退院の見通しがつかず、事実上の家族は鮎川源三と麻貴の二人きりという状況である。  観音を祀《まつ》った部屋には、いつもの薄暗い豆電球すら点《つ》いていない。光といえば、祭壇に灯る蝋燭の明かりだけである。  源三の顔や麻貴の顔が闇の中に溶け込みそうになるのを、辛うじてその燭台の明かりが食い止めていた。 「しかし、父さんは……」  低い声で源三がつづけた。 「麻貴が、自らに備わった美を、世の人々を救うためのものと解釈するのは、納得がいかない。心の美しさによって人々を救うことは敬うべき行為だが、肉体の美しさによって大衆を喜ばせるのは、たんなる邪淫《じやいん》の業《わざ》にすぎない。父さんは、よもやおまえがそのような考えに取り憑《つ》かれるとは思ってもみなかった」 「でも……」 「黙って聞きなさい」  源三は、麻貴の反論を封じた。 「まず、おまえの根本的な誤りは、女優という職業を選んだところにある。たしかにおまえは美しい娘だ。しかし、芸能界に入ってからのおまえは、純な美しさだけでなく、そこに妖《あや》しさが加わった。その妖しさとは、どこから生まれてきたか。それは、女優として『演ずる快感』を覚えるところからはじまった」  正座をして向かい合う麻貴に、父の源三は淡々とした中にも、ときおり批判の強いアクセントを交えて語った。 「おまえは与えられた役になりきるために、芸に没入すると、意識的に自分というものをどこかへ置き去りにした。実生活の鮎川麻貴のカケラでも意識の中に残っていたら、理想の演技はできない——おまえはそう信じ込むようになった。やがておまえは、三通りの自分をもつようになった。本来の鮎川麻貴と、女優・鮎川麻貴と、そしてそのときどきに演ずる役柄の人物だ」  かたわらの畳に置いた湯呑みを取り上げ、源三は冷め切った番茶をすすった。  麻貴は、その父の顔をじっと見つめている。 「だが、いつのまにか……」  湯呑みを置いて、源三はまた口を開いた。 「おまえは、本来のおまえを見失ってしまった。なぜならば、女優としてのおまえにとってもっとも邪魔な存在は、自分そのものであったからだ。おまえは、ありのままの自分を否定した。そして、ことさら違う自分を作り出そうとした。だから、父さんが観音さまの教えにしたがってしつけた麻貴という娘はどこかに消え去り、四六時中、演技の世界のみに生きる女優・鮎川麻貴だけが残ってしまった」  父は娘を睨んだ。  が、娘は視線を合わせない。 「それまでのおまえは、観音信仰は大切な人生の一部分だった」  源三はつづけた。 「ところが、いまの麻貴にとって観音信仰は芝居の役どころのひとつにすぎなくなってしまった。つまり、畏《おそ》れ多くも観音菩薩を演じてしまうという不謹慎きわまりない演技を、信仰と勘違いするようになったのだ。おまえが自分を観音菩薩の生まれ変わりだと称するのは、信仰でも奇跡でもない。女優としての芝居にすぎないのだ。なんという不見識、なんという菩薩への冒涜《ぼうとく》か」  源三の口調が荒々しくなった。 「ましてそれをヌードになる口実に使うとは、観音信仰に対する侮辱もはなはだしい。姉のおまえがそんな態度だから、妹に因果が報いたのだ。亜貴があんな可哀相な目に遭ったのは、ひとえにおまえのせいだぞ」 「それは否定しません」  麻貴は、静かに言った。 「前にもこの部屋でお父さんにお話ししたでしょう。亜貴が死んだのは私のせいです、と……。私は、亜貴の死に対する責任をのがれるつもりはありません。私を殺そうとする者がいるのを知っていながら、私はそれをあえて避けなかった。そのために、亜貴は身代わりになってしまいました。そのことは、ほんとうにすまないと思っています」 「そこを反省しただけでは不十分だ」  父親が厳しい目を投げかけた。 「このあいだ、おまえは父さんに向かってこう言った。私は亜貴を殺した犯人を知っています、そして観音さまの前ですべてを正直に告白します、と」 「はい」 「だが、おまえはけっきょく何も打ち明けなかったではないか」 「観音さまにはきちんとお話をしました」 「だが、父に聞こえる言葉ではなかった」  源三は怒った。 「心の中でいかなる告白をしても、それは私には通じていない」 「私の行動を理解してもらえない人には、真実は打ち明けられません。たとえ、自分の親であっても」 「なんだと……」 「私の裸を見て、それで幸福感を味わえる人がたくさんいるのならば、なぜそれをやってはいけないのですか。決まりごとのお芝居をテレビや映画や舞台で演じるよりも、架空の世界ではない現実生活で、より多くの人の気持ちを動かせれば、それはもっとすばらしいことだと思うのです。それは女優・鮎川麻貴の演技などではなく、一個人としての哲学と思想に基づいた判断です。いえ、もしかしたら、鮎川麻貴という姿を借りた観音菩薩の意思であるのかもしれません」 「麻貴、おまえは本気でそんなことを言っているのか」 「お父さんは、私の発言を何から何までお芝居の延長だと思っているでしょう。でも、それは違うんです。私は真剣です」  麻貴は、少し早口になった。 「観音菩薩は人々を救うために三十三の姿に変身なさいます。私の心に芽生えた女優へのあこがれを突きつめていくと、自分ではないものを演じる喜びではなく、自分をたったひとつの姿に固定しない生き方——それを私自身が求めていたのだと気がついたのです」 「………」 「輪廻転生《りんねてんしよう》を繰り返しながら六道地獄をさまよう人々に対して、さまざまな姿に変身しながら救いの手を差し伸べる観音菩薩——それと自分の思いが一致しているのに気づいたからこそ、私は自分が観音菩薩のひとつの形ではないかと信ずるようになったのです」 「何を言っているのだ」  つぶやくと、源三は娘を睨んでいた顔を、祭壇の観音像のほうへ向けた。  観音開きの扉の奥に安置された観音菩薩は、頬にそっと指を当て、柔和な微笑をたたえながら、闇の中で展開する父と娘のやりとりを見つめている。 「こんどの事件のおかげで、私は女優としての活動をつづけるつもりはもうなくなりました」  麻貴は、父との精神的距離を置くように、徹底した敬語でつづけた。 「でも、最初にあった写真集の企画だけは、気持ちの整理がついたところで、さらに具体的に進めるつもりでいます。私がこの世の中に生まれてきた意味を、意義を、理由を、いまはっきりと知ることができた。だからこそ、どうしてもこれだけは実行に移したいのです」 「そういう身勝手な理屈を私に向かって並べ立てても無駄だ」  源三は、苦々しい表情を浮かべて、また麻貴のほうに向き直った。 「私には、おまえの言い分はとうてい理解できないし、理解しようとも思わない。それよりも、話をはっきりさせようではないか。自らの裸を世にさらそうという計画についてあれこれ論ずるのは後回しだ。まず私が急ぎ知りたいのは、亜貴に矢を突き立て、あの子を実際に殺したのは誰なのか、ということだ」  源三は、改めて正座に座り直した。 「おまえも知ってのとおり、マスコミは好き放題にデタラメをいいふらし、中には父親であるこの私を犯人だと名指しする週刊誌もあった。こんな言語道断の状況から一日も早く脱するには、真犯人をつかまえるよりない。しかし、捜査当局が有力な手がかりをつかめない以上、『犯人を知っている』というおまえの言葉に頼るよりすべはないのだ。わかるだろう、麻貴」  父親は娘ににじり寄った。 「この父の頼みを無視するほど、おまえも常識がないわけではあるまい。麻貴、教えてくれ。亜貴を殺した犯人を知っているのならば、その人物の名前と、そしてその人間がおまえを殺そうとした理由を教えてくれ」  父の訴えに対し、麻貴は、しばらくの間じっと黙っていた。沈黙の途中で、彼女は目尻に浮かんだ涙をそっとぬぐった。  娘が何に涙しているのか父親の源三にはわからなかったが、麻貴の両の瞳は、蝋燭のわずかな光にきらきらときらめいている。  やがて麻貴は、自分の脇に置いてあったコンパクトカメラを取り上げ、それを膝の上にそっとのせた。 「それはなんだ」  源三が見とがめた。 「亜貴がもっていたカメラです」  麻貴は、手元のカメラに目を落として答えた。 「カメラ?」 「そうです。東照宮の撮影に出かけたとき、ちょうど大谷川《だいやがわ》を渡るところで、亜貴は、ある人が道路の向こうを歩いているのに気がつきました。それは、そこにいるはずのない人でした」 「………」 「その人はいつもと違うセンスの服を着て、サングラスをかけていました。でも、亜貴にはそれが誰であるか、直感的にわかったのです。そして、その姿をこのカメラでスナップしました」  亜貴の持ち物だったカメラに、父親の視線がそそがれた。 「前々から私は、亜貴だけには話をしていました。私は、もしかしたらある人に殺されるかもしれない、と」 「それはどういう理由でだ」 「言いたくありません」  麻貴は、父親の質問に答えることを拒絶した。 「亜貴は、私の話を聞いてずいぶん心配してくれました。でも私はこう言ったのです。殺されるのはべつに怖くないわ、と」  源三は、ますます理解しがたいといった目で、麻貴を見つめた。 「殺されるのも、病気で死ぬのも、交通事故で死ぬのも、人間世界での活動の幕を閉じる点において、どれも変わりはないわけでしょう。仮にこの世で命を閉じても、私はまた別の世界で生が開かれるのです。生命とは、閉じたり開いたりを永遠に繰り返すものですから……。  そして何百年、何千年、もしかすると何万年かのちに、私はまた人間世界に戻ってくる。それを考えれば、死なんて少しも怖くない。それに、私は自分自身が観音菩薩の生まれ変わりと思っているし、万一それが勘違いであったとしても、観音さまはいつも私のそばについていてくださる——私は亜貴に、そんなふうに話をしたのです」 「それで……」  乾いた声で、源三がたずねた。 「その人物は、おまえを殺すために日光へやってきたのか」 「そうです。そうでなければ、私たちに黙ってそこへくるはずがありませんから」 「では、おまえたちが洋服を交換したのは……」 「亜貴が私を助けようとしたのです」  麻貴は唇をかんだ。 「陽明門の石段のところで撮影をしたとき、亜貴は、その人物が私のすぐそばにまで近づいていることに気がついたのです。そこでの撮影はすぐに終わりましたけれど、亜貴は真っ青になって私をトイレに誘いました。そして、小声で私に耳打ちしました。あの人がきている、と」 「だからその『あの人』というのは誰なんだ」  答えをせがむ父親に、麻貴は黙って首を左右に振った。そしてつづける。 「亜貴は言いました。ここはおおぜいの観光客がいるから大丈夫だったけれど、あの人はいつ牙をむくかわからないわ。サングラスをかけていたけれど、その黒いメガネの奥から、ものすごい憎しみの光が出ているのが私には見えたの、と」  麻貴は、妹が悲劇をはっきり予知していたことを明らかにした。 「亜貴は、私を守ろうと必死でした。殺されたなら殺されたでいいと割り切る私を説得しようと、懸命でした。あの子は、少しでも私に危険が及ばないように、二人の服を取り替えたほうがいいと言い出しました」 「それは亜貴の提案だったのか」 「ええ。でも、私は反対しました。洋服を取り替えるなんてぜんぜん意味がないわ、と。だって向こうは、私たちきょうだいの区別をちゃんとわかっているのですから」  麻貴は、自分をつけ狙う人物を『向こう』というふうにも表現した。 「だけど最後には、おまえは亜貴と洋服を交換した」 「そうです。亜貴があまりにも神経質になっていて、あまりにも真剣だったから、それをなだめる意味で交換に応じたのです。お姉ちゃんは死ぬのが怖くないかもしれないけれど、私はお姉ちゃんと別れるのはイヤ。だから死なないで。私と別のところへ行かないで——そう言って必死にせがむので、興奮する亜貴を落ち着ける意味で、あの子の言うとおりに洋服を取り替えたのです」  麻貴は、せつないため息を洩らした。 「私は、まさかそこで相手が本気で襲ってくるとは思ってもみませんでした。だからこそ、亜貴の頼みを聞きいれたのです。そうでなかったら、自分が助かるために妹を危険な目にさらすなんて、そんなことはしません」 「それでおまえたちは、宝物殿のほうへ行った。それはなぜだ」 「亜貴の心配を抑えるために、落ち着いた場所で話をしておきたかったのです。私にこっそりつきまとう人物が、いったいどのような気持ちでいるのか、そのことについて亜貴にはぜんぶ打ち明けようと思ったからです。でも、観光客の少ない場所へ足を向けたのが間違いでした……」  麻貴は言葉を切った。 「弓矢のようなものが飛んでくるなんて、そんなことは予想もしていなかった……」 「その人物は、おまえたちのあとをつけていったのか」 「たぶん」  かすれ声で麻貴は答えた。 「三叉路のところでマネージャーの若林さんたちと別れたあと、人目がなくなったのを確認してから、私たちのあとを追いかけてきたんだと思います。そして、人面木のそばの茂みに隠れてチャンスを窺《うかが》っていたんです……」  かすれ声が、すすり泣きに変わった。 「私は、ほんとうに死を怖いと考えてはいませんでした。でも、亜貴との別れがこんなにつらいとは思わなかった……。輪廻転生を心から信じていても、それでも死にたくない、死ぬのはいやだと思うときがあるのは、きっと愛している人との別れが怖いからなんですね。……そんなことをいまさらわかったところで、亜貴は帰ってこないけれど」 「話はわかった」  一区切りをつけるように、源三は咳払いを二度ほど繰り返した。 「それで、犯人は誰なんだ」 「言えません」 「またそれの繰り返しか」 「はい」 「だが、おまえが直接言わなくても、亜貴が撮ったそのカメラに、犯人の姿が写り込んでいるんだろう」 「そうです」 「現像はしたのか」 「まだです」 「その中に、フィルムが入ったままなんだな」 「ええ」 「顔まではっきり写っているのか」 「ですから、現像していないのでわからないんです。それに距離も離れていたし、こういうスナップ用のカメラですから、鮮明に写っている保証はないと思います」 「鮮明であるとかないとかは関係ない」  源三は気負い込んで言った。 「そんな大事なものがあるということを、いままでなぜ黙っていた」 「ほかの人に犯人を教える必要などないと思ったからです」  麻貴の頬に、新たな涙が一筋流れた。 「わけのわからんことばかり言うもんじゃない。とにかくそこに記録された画像は、亜貴が残してくれた貴重な証拠だ。すぐに焼き増しをして警察に届ける必要がある」 「警察に?」 「そうだ。そのカメラを貸しなさい。父さんが自分で現像を頼みにいく」 「……そうですか」  静かにつぶやくと、麻貴はカメラを父親には手渡さず、それをもったままゆっくりと立ち上がった。  いったい何をするのかという表情で、源三は娘の動作を目で追った。  麻貴の手が、部屋の天井中央から下がった電灯の紐にかかった。紐を引くたびに明るさが三段階に変わる方式のものである。  いま、電気はまったく点いていない。  が、麻貴が紐を引くと、チカチカッという音とともに、天井のメインの明かりが点いた。神秘的な闇に包まれていた観音菩薩の間が、一気に現実的な明るさのもとに照らし出された。  源三は、そのまばゆさに顔をしかめた。  と、部屋ぜんたいが明るくなったところで、麻貴はいきなりカメラの裏蓋を開けた。 「おい!」  びっくりして、父親の源三は叫んだ。 「何をするんだ」  その呼びかけには答えず、麻貴は途中まで撮影されたフィルムを取り出し、力まかせにそれを引っぱった。  未現像の部分が一気に照明の元に引き出され、それらはあっというまに感光して、記録されていた画像がすべて台なしになった。  鮎川源三は、娘のした行為をあぜんとして見つめていたが、麻貴は、それが予定の行動であったかのように落ち着き払っていた。  そして、記録されていた画像をさらに完全に消滅させるため、とぐろを巻いた蛇にも似た長いフィルムの束を両手にのせ、電灯のすぐ真下のところへ高く掲げた。 「なぜだ……」  座ったまま、源三はつぶやいた。 「なぜ、おまえは犯人の姿をそこから消してしまったんだ。なぜかばう」 「………」 「え、どういう事情があって犯人をかばうんだ」 「………」  父親の再度の問いかけにも、麻貴は口をつぐんで答えない。 「麻貴」  たまりかねたように源三は立ち上がり、娘の両肩をつかんで激しく揺すった。 「おまえは、妹を殺した犯人を助けてしまうつもりなのか。どうしてそんなことをする。どうしてなんだ。そのわけを言うんだ」  揺すられた拍子に、電灯の下にかざしていたフィルムの束がスルスルと麻貴の手を離れて畳の上に落ちていった。 「まさか……」  唇をわななかせながら、源三はつぶやいた。 「まさかおまえは、父さんをかばおうとしてやっているんじゃないだろうな。え?」  麻貴が目を伏せたまま何も言わないのを見て、源三は血相を変えた。  そして、さらに激しく麻貴の肩を揺すった。 「おい、どうなんだ。答えろ。答えなさい。おまえの命を狙ったのは父さんだと思っているのか!」 「私は犯人をかばっているんじゃありません。私は死にたいんです。どうしてお父さんはそれがわかってくれないの」  麻貴は叫び返した。  半分泣き声のまじった叫びだった。 「亜貴が身代わりに死んで、私がそのままだなんて、そんなの耐えられない。私は犯人に殺してもらいたいの。だから、犯人を警察に突き出したりはしないし、必要があれば犯人と電話で話したり面と向かって会ったりしているのよ。いつ殺されてもいいように」  麻貴の激した感情が一気に噴き出した。 「それなのに、あの人は私を殺してくれない。たった二人で会っているときにも……。だったら、私は自分で自分の命を断つしかないの?」  そこまで言うとあとは言葉にならず、麻貴は口を抑えてその場にくずおれた。      6 「ど……どういうことなんだ」  平田は、あっけにとられた顔で、鮎川麻貴作品集の目玉となっているパノラマ写真に見入っていた。 「どういうことって……こういうことさ」  朝比奈が言った。 「梓社長の隠したいものは、直接ぼくたちの目には見えない継ぎ目だったということが、これでハッキリしただろう」  朝比奈の指が、写真の中央を何度か上下に往復した。ちょうど、陽明門に掲げられた額から『右側通行』の立て札にいたるラインである。 「いくら目をこらしてみても、ここに継ぎ目があるなんてわかりっこない。しかし、この部分に目に見えない境界線が存在するのは絶対に間違いないんだ。そう仮定しなければ、いま平田が気がついたような現象が起きるはずがないんだよ。そうだろう?」  呆然《ぼうぜん》となっている平田を見やりながら、朝比奈はつづけた。 「それとも、亜貴ちゃんにはウリふたつの双子がいるとでもいうのかい」 「いや……そんな話は聞いたことがない」 「でなければ、成仏できない亜貴ちゃんの亡霊が写真に現れたとでもいうのか」 「まさか」 「そうしたオカルトめいた可能性を否定する以上、この現象を合理的に説明するためには、どんなに目に見えなくても、写真中央に境界線が存在することを認めざるをえないんだ」 「だけど……耕作に言われるまでぜんぜん気づかなかったよ。どうしたって、石段の上の亜貴ちゃんと、陽明門と、それから風船のほうにばかり目が行っていたから」 「梓にとっても、それは同じだったと思う。彼は、中央部分の接続状態ばかりを気にしていたから、写真の端のほうまで注意が行き届かなかったんだと思う」 「それにしても」  平田は、大きなため息をついた。 「写真の中に亜貴ちゃんが二人いるなんて[#「写真の中に亜貴ちゃんが二人いるなんて」に傍点]」      *   *   *  いつもは運転手にまかせるロールスロイスのハンドルを、今夜は梓圭一郎が自ら握っていた。  フォーマルなスーツに身を包み寸分のスキもないいでたちの梓は、飛ぶ鳥を落とす勢いの芸能プロダクション社長としてロールスロイスの後部座席に身を沈めているのが似合いの人種で、この豪華な車を彼自身で操る姿は、どうみても不釣り合いだった。  事件後の梓はげっそりとやつれ、そのために、風格を感じさせる彫の深い顔立ちが、いまでは鋭さばかりが目立つものとなっていた。  落ち窪んだ彼の瞳には、先を行く車の赤いテールランプが映っている。 「いったいこれからどうするつもりなんだ」  梓はつぶやいた。 「まさか、人をひとり殺して、そのまま無事ですむと思っているんじゃないだろうな」 「それは、あなた自身に向けるべき言葉じゃないかしら」  助手席のシートに深くもたれた丸尾涼子は、平然とした口調で応じ、ゆっくりとタバコの煙を吐き出した。  彼らが走っているのは、首都高速道路の都心環状線内回り——つまり、東京の中心部を左回りに回るコースである。そこをさきほどから、あてもなく何周もしていた。  夜更けの首都高速は空いていた。ほとんど渋滞らしい渋滞にもぶつからず、梓の運転するロールスロイスは一定速度で、深夜の都心の高架道路を時計と逆方向に延々と回り続ける。  それは、あたかも時の流れを逆に戻したいと願っている行動のようにもみえた。  車を走らせる梓にとって、場所としての目的地はない。探しているのは、事態をどういうふうに決着させるか、その目的地である。  一方、海洋堂出版社長の丸尾涼子は、さきほどから飽きもせずに窓の外の夜景を眺めている。  何周かしているうちに、オフィス街の窓明かりはどんどん少なくなってゆき、無人となったコンクリートの箱が増えていく。  繁華街の街明かりも、機械的に点灯しているネオンサインばかりが目立ち、人のエネルギーを感じさせる明かりは、一部の地域をのぞいて時間の経過とともにどんどん減っていった。  夏の夜明けは早い。  このまま走り続ければ、あとほんの数時間で東の空が白みはじめるだろう。  けれども、二人はまだ『目的地』に着かない。 「それで、どうするんだ」  ハンドルを指先で叩きながら、梓が言った。 「このまま延々と責任をなすりつけあっていても、ラチがあかないぞ」 「責任をなすりつけているのは、あなたであって私ではないわ」  いらだつ梓とは対照的に、涼子はまったく落ち着き払っていた。 「だって、あの子を殺したのはあなたなんですもの」 「何を言ってるんだ!」  前方の道路を見ながら、梓は怒鳴った。 「殺したのはきみじゃないか」 「いいえ、あなたよ」 「きみだ」 「あなた」  梓は必死に、そして涼子は悠然とした態度で言い返した。 「バカバカしい。おれたちはなんていう無意味なやりとりをしているんだ」  梓は笑った。  おかしくて笑ったのではない。怒りの爆発が、たまたま笑いに似た顔の歪《ゆが》みを生じさせただけである。 「犯人はたった一人しかいない。その犯人をめぐって、おれだおまえだという言い合いを二人でやっている。おたがいにどっちが真犯人なのか、ちゃんとわかっているくせに」 「もちろん、わかっているわ」  窓の外を眺めていた視線を、涼子は急に梓へ向け直した。 「だから犯人はあなたよ」  車がトンネルに入った。      *   *   * 「この写真のいちばん左端のほうに、茶色い半袖シャツを着た男がいる」  朝比奈が言った。 「その男の陰になって、ほとんど身体は隠れているが、顔だけ少しのぞいてみえる若い女の子——その彼女が手にしているものを見て、ぼくはあれっと思ったんだ。最初はチューリップの花を一輪、手にしているのかと思った」  朝比奈が示した女性は、画面左端、二つの小さな立て札の間にはさまれた場所にいた。 「しかし、こんな場所でチューリップを手にもっているなんて妙だなと思って、よくよく見たら、それは花ではなくて傘だった。握りのところがチューリップの花をかたどっている、特別な形をした傘なんだ」 「そうだよな……こんなところに、亜貴ちゃんの傘が写っているなんて」  平田が、小さな声でつぶやいた。 「だからぼくは平田に確認した」  朝比奈はつづけた。 「彼女のもっている傘は、世界でたった一本しか存在しないものなんだね、と。ところがその傘は、同じ画面の中で、陽明門の前の石段に立った亜貴ちゃん自身が差しているじゃないか。しかも、髪形といい顔立ちといい、男の陰に半分隠れた女性は、まさに鮎川亜貴そのものだという気がしてきた」 「ほんのちょっとだけれど、黄色いワンピースの袖口ものぞいているしね」 「そういうことだよ。でも、すぐにはこれが亜貴ちゃんだと認めるわけにはいかなかった。だってそうだろう、双子でもないかぎり、同一人物が同じ瞬間に同じ画面の違う場所に存在するはずがないんだから。しかも、どちらも世界にたった一本しかないという傘をもっている」 「ああ……」 「ぼくは一瞬、これは姉の麻貴ではないかとも考えた。もちろん、カメラのシャッターを押した当人が麻貴だということくらい、百も承知なんだけどね。しかし、この男の陰にみえる女の子は、そもそもあの有名な女優の顔立ちとはぜんぜん違うし、姉と妹が似ていないのは平田からも聞いていた。だから、こっちが麻貴であっちが亜貴ちゃんということはありえない。では、すぼめた傘をもって立っている女の子が亜貴ちゃんだとしたら、陽明門の前で傘を広げているほうは誰なんだ、という話になる」  カフェオレ色に染めた髪に片手を突っ込んで、朝比奈はつづけた。 「自分の分身がこの世に存在するというドッペルゲンガーじゃあるまいし、こんな矛盾が現実世界で成立するはずもない。だけど、なかば本気でこれは心霊写真じゃないかと思ったものだよ。殺された亜貴ちゃんが、その無念さのあまり、本に印刷される段階で、もうひとりの自分として写真の中に姿を現したのか、それとも撮影から数十分後にこの世から去ることになる彼女の霊魂が、悲劇を予知し、本人の肉体から遊離して、すでに撮影の段階で生霊《いきりよう》として現れたのか……」 「それで鳥肌を立てていたわけか」 「そうなんだ」  朝比奈はうなずいた。 「でも、そうした非現実的な解釈を認めず、なおかつ、この茶色いシャツの男の陰にいるのが亜貴ちゃん本人だとしたら、合理的な説明はただひとつしかない。それは写真の合成だ」  そこで朝比奈は、ふたたびパノラマ写真の中央部に指でタテ線を引いた。 「ぼくは、ある特定の人物もしくは物体を、写真の中から抜き出して消去するのは、パソコンを使った特別な技術を要すると言った。特定の対象を消すだけでなく、消した後に周囲の風景と同じものを埋め込まなければならないからね。こうした技術を正式に印刷所に依頼すると、予算もかかるし、なにより特殊な依頼をしたという実績が残ってしまう。このことは前にも言ったよね」 「うん」 「だけど、二枚の写真を左右半分ずつくっつける作業ならば、格段に簡単な作業ですみ、言い訳をうまくすれば、印刷所のスタッフにも怪しまれずにすむと、梓は考えた。彼がそんな行動に出た背景はこうだと思う」  朝比奈は座り直して、平田の顔を見つめた。 「海洋堂出版に行ったとき、このパノラマ写真の色校《いろこう》を見せられた梓は、そこに自分の姿、もしくは彼がかばいたい人物の姿が写り込んでいるのを発見した」 「その場所は、写真の真ん中じゃなかったんだね」 「そう、もっと目立たない端っこのほうだ。それも、画面の向かって左半分にあった。もしかしたら、ちょうどこの傘をすぼめて立っているほうの亜貴ちゃんのあたりの位置かもしれない」  朝比奈は指でその部分を示した。 「この巻折りになった裏に印刷されたデータを見ると、レンズは47ミリを使っているとあるだろう。6×8のカメラで47ミリといえば、超広角レンズにあたる。つまり、カメラそのものが向いている方向からずいぶん横にずれた場所でも、しっかりとレンズの撮影範囲に入ってしまうということなんだ」 「そうか……その人物は、まさかそんな超広角レンズが付いているとは知らないから、脇の方の人込みに隠れていれば大丈夫だと思ったんだね」 「うん。ところが色校を見てびっくりだ。なんと、そこに写されてはまずい人物の姿があった」 「ということは、涼子さんは……丸尾社長は、オリジナルの写真を見たときに、その人物の存在に気づいていなかったのかな」 「そこがポイントだよ」  朝比奈は強調した。 「彼女が何も気づいていなかったとすれば、その場にいたのは丸尾涼子ではないということになる。なぜなら、撮影現場ではレンズの広角性に気づいていなくても、彼女の場合、必ず仕事として出来上がった写真を見るわけだ。そして現像された写真を見れば、意外に広い範囲にまで風景が写り込んでいるのを知ってびっくりし、当然、自分の姿のあるなしを確認したと思う」 「でも、色校があがってきた段階では、涼子さんに特別おかしなそぶりはみられなかった。となると、そこに写っていたのはやっぱり涼子さんじゃなくて、梓社長本人?」 「その可能性が強いと思うよ。……なんだか、喉が渇いてきたな。寒気が収まったら、急に汗が出てきた。平田、冷たい麦茶でも飲むか」 「それより早く話のつづきが聞きたいけど……じゃあ、一杯だけもらうよ」 「オッケー」  すばやい動作で冷蔵庫から麦茶の入ったボトルをもってくると、朝比奈はそれを平田と自分のためにそそいだ。  そしてコップ一杯分の麦茶を一気に飲み干してから、話をつづけた。 「じゃあこの先は、写真に写っていたのが梓だという前提で進めよう」 「了解」 「よりによって作品集の中で最も大きく引き伸ばされるパノラマ写真に自分が写り込んでいるのを知った梓は、なんとかしてその写真をボツにしたかった。そんなところに自分がいるのがバレたら、亜貴ちゃん殺害の犯人として真っ先に疑われるからね」 「けれども、撮影者である鮎川麻貴に無断で写真をボツにするわけにはいかないもんな」 「そうなんだよ。無断でボツにするのはもちろんできないけど、まさか本当の理由を言うわけにもいかない」 「そりゃそうだ」 「また、こっそり類似カットと差し替えようにも、亜貴ちゃんが写っていて、風船も飛んでいるカットはたった一枚しかない」 「さらに、人物だけ消去する特殊技術を使うわけにもいかなかった……」 「梓は、窮地に陥った気分だったと思う。でも、たったひとつだけ、彼はチャンスを見つけた」 「そうか、わかったよ」  平田が納得顔でうなずいた。 「妹の亜貴を入れ込んで撮る前に、まったく同じ位置に三脚を立てて、陽明門と一般観光客だけのカットを、麻貴はテスト的に何枚か撮っていたんだ。それを利用しようと思ったんだね」 「そう。その着想は、陽明門が左右対称の構造であるところから連想したのかもしれない。つまり、自分の姿が写っている左半分を、そっくりそのままテスト撮影したポジとすり替えてしまおうという作戦だ。これだったら、パソコン処理などをしなくても、真ん中の継ぎ目さえ隠せばなんとかなりそうだ」 「ほんとかよ。ちょっと荒っぽい発想だなあ」 「いや、梓社長が観音開きの体裁にこだわったのは、まさにそうした荒っぽい方法しか残されていなかったからだろう。いわば苦肉の策だよ」  朝比奈は、かなり自信のある態度で断言した。 「いくら三脚を固定したところで、二枚の写真は微妙にズレが生じる。そうしたコンマ何ミリの食い違いでも、当然合わせ目はバレてしまう。だから梓は、デザインを観音開きにすることによって、その合わせ目の不自然さを隠そうとした」 「でも、その作業だって自分でやるわけにはいかないよ」  平田は言った。 「右半分と左半分を合わせるといっても、写真のオリジナルをちょん切って貼り合わせるんじゃなくて、製版の段階で合成するわけだからね」 「もちろんそうだ。えーと、この本の印刷所はどこだっけ」 「活版印刷という会社だよ」 「じゃあ、そこの営業担当に聞いてごらん。なんらかの言い訳をつけて、梓が写真をすっぽり半分だけ差し替えるように指示を出していた可能性がある。たとえば——どうしても写真の左半分の色合いが気に入らないから、これを差し替えたい、ついてはそのさいの不自然さをカバーするために、体裁を巻折りから観音開きに変えたい——などと話したんだと思う」 「出版社の窓口であるぼくとか、丸尾社長を飛び越えて、梓が直接印刷所に交渉しちゃったというわけ?」 「そりゃそうだよ。平田に相談するわけにはいかないだろう。それからデザイナーにも、体裁変更の件はやむをえないにしても、写真の差し替えについては言いたくなかった。デザイナーは専門的な観点から、いろいろ口をはさんでくるおそれもある」 「そうだよね」 「だからこそ梓社長は、よけいな説明抜きで観音開きのデザインへの変更を命じたんだと思う。そして代替えに使うための予備の写真も回収した。そうした強引なやり口は、天下の人気女優・鮎川麻貴の事務所の社長という立場があったからこそ、可能になったと思うけどね」 「なるほどねえ……」  つぶやきながら、平田は目の前の写真に目をやった。 「たしかに耕作が言うように、特定の人物を消してくれという指示だったら、印刷所もその理由を詮索《せんさく》したがるだろうけれど、写真全体のバランスからみて左側の雰囲気がいやだ、という漠然とした言い方だったら、本来の目的をカモフラージュすることもできるかもしれないな」 「梓としては、そこに賭《か》けるしかなかったと思うよ」  朝比奈は言った。 「幸い、写真の撮影者は自分の事務所の所属タレントだ。これが本職のしかも有名カメラマンだったら、写真作品集に使うポジを部分的にすり替えるなどとんでもないことだし、印刷所のほうだって、おいそれと納得はしないはずだ」 「麻貴をいつも撮っていた巨匠の財前和正あたりには通用しない手法だね」 「もちろんだよ。……ねえ、平田。この写真をもういちどよく見るんだ。平田は木陰のせいだと言っていたけれど、やっぱり右半分と左半分の光の加減がおかしくないか。いくらなんでも、左半分は日が翳《かげ》りすぎている」 「ああ、そういえば……」  当時の状況を思い返しながら、平田は言った。 「あの日は、曇ったり晴れたりと天気の変化が激しかったからな。ついさっきまで曇っていたと思ったら、雲間から日差しが覗いたりした」 「たぶん、石段に亜貴ちゃんが乗ったときは晴れ間が出ていたんだ。だが、その数分前のテスト撮影では曇り空だった」 「すると、このパノラマ写真の左半分がテスト撮影のときで、右半分が実際に亜貴ちゃんを入れ込んだときのカットなのか」 「そう解釈すれば、なぜ写真の中に亜貴ちゃんが二人写っているか、合理的に説明できるだろう。左側のほうの亜貴ちゃんは、自分が写真に撮られていることなどまったく意識していない表情だよね」 「うん」 「きっと彼女は、そこの位置なら姉のカメラに写り込まないと思っていたんだ」 「う〜ん、そうかあ」  平田が、納得のうなり声を出した。 「たしかに、超広角レンズがついていると知らなければ、ここまで下がっておけば撮影のジャマにはならないと思っちゃうよ」 「テスト撮影のときは亜貴ちゃんがこの場所にいたが、亜貴ちゃんがモデルとして狩り出されたあとは、梓社長がこのあたりにそっと近寄ってきたんだろうね。彼もまた、その位置ならカメラに写されるはずがないと考えていた。ところが、風船が飛んできたときに撮影された一枚に、自分の姿が入ってしまったわけだ」 「そのへんのいきさつはわかってきたよ。だけど耕作……右半分と左半分を別々のカットから選んでくっつけるとなると、どうしても継ぎ目がおかしくなるのに、この写真では、ぜんぜん不自然さがないよ」  平田は、顔を近づけて写真を点検した。  たしかに二枚の写真を中央部でつなぎ合わせたにしては、たとえば陽明門の何層にも重なる彫刻にもズレはないし、いちばん目立つ『右側通行』の立て札を見ても、そこに合成の痕跡はまるで見当たらない。 「これじゃ、どこからみても一枚の写真にしかみえないけれど……」 「そのあたりの事情は印刷所の担当者に確認するよりないが、ぼくの想像はこうだ。梓社長から、左半分は予備カットの写真に差し替える指示を聞いた印刷所の担当者は、表面的にはどうだったか知らないが、内心では、かなりその指示に難色を示したと思う」 「どういう意味で?」 「二枚の写真の右半分と左半分をくっつけて、その合わせ目はちょうど見開きの真ん中にくるようにすれば、本になったときに綴じしろの中に隠れるから合成したことがわからない——こういった梓の指示は、少なくとも、本の仕上がりにこだわりをもつ人間にはとうてい受け入れられない注文だと思う。  真ん中に隠れるから合わせ目はどうでもいい、などという考えは、良心的な印刷現場のスタッフにとっては、ちょっと許容できない粗雑さではないだろうか」 「なるほど」 「それと同時に、印刷所にとってはおそらく実務的な面でも、もはや観音開きに変更することが不可能になっていたのではないかと思うよ。純粋に制作進行上の問題としてね」 「それはありうる」  平田もうなずいた。 「この作品集の発売はかなり急がれていたから、印刷所の行程もギチギチで組まれていたんだ。締め切り遅れの常習犯・朝比奈耕作に負けないくらいの、綱渡りみたいなスケジュールで物事は進行していたからね。そんなところへもってきて、巻折りをやめて観音開きにしてほしいと注文をつけても、おいそれとは応じられないだろうな」 「だけど印刷所としては、銀座プロダクション社長のゴリ押しを完全に無視するのもまずい。なにしろ梓圭一郎は、作品集のいわば著者である鮎川麻貴の代理人だからね。もちろん、麻貴本人の知らぬところで梓は動いていたわけだが……。  かといって、いまさら観音開きに体裁を変えては発売時期に間に合わない。そのジレンマを海洋堂出版の丸尾社長に相談したいところだが、おそらく印刷所は、梓から何らかの口止めをされていたのではないか」 「あの社長だったら、そうした手口もやりかねないね」 「板挟みになった印刷所は、梓社長の主張する写真二枚の左右合体案は受け入れるとして、レイアウトは元のままの巻折りでいくよりないと判断した」  朝比奈は推理をつづけた。 「だが、左右の写真の継ぎ目が露骨に見えてしまうような写真を世に出すことは、印刷所としてのプライドが許さない。そこで、印刷所が独自の判断でパソコン処理をしたんだ」 「独自の判断で?」 「そうだよ」 「でも、パソコン処理にはかなりの予算をとるんじゃなかったのか」 「それは、設備投資や人件費を料金に反映させるから高額になるのであって、内輪でやるぶんには、技術者の確保をすればじゅうぶんなんだ」  出版社勤務とはいっても初心者マークの平田に対し、朝比奈はことこまかに説明した。 「だから印刷所としては、海洋堂出版に追加料金を請求せずに、自分のところの判断でパソコン処理をして、左右貼り合わせの仕上がりをきれいにしたんだと思う。これだけみごとに補正処理してあれば、誰が見たって一枚の写真としか思えないよ」 「まったくだ」  感心のため息を洩らしながら、平田は改めて写真の中央部分に目をやった。 「どう見たって継ぎ目はわからない」 「昔の写真の修整みたいにタッチペンでやっているわけじゃないからね。ごくごく小さな点のレベルで連続的に補正がなされているから、言われなきゃわからない。いや、二枚の写真を合わせたんだよと言われたところで、その作業の跡を目で確認することができないほどだ」 「ほんとに、この『右側通行』の立て看板も二枚の写真が合わさっているのか」  まだ信じられないといったふうに平田が言った。 「文字の右半分と左半分とが別々の写真からもってきたものだなんて……とてもとても……」 「そんなに信じないのなら、印刷所の人間に確認してごらん」 「ああ、そうするよ。しかしすごいもんだな、いまのコンピュータ技術は」 「画像処理能力がそこまで進んでしまっているから、推理作家も昔のような感覚で写真トリックを使うわけにはいかなくなっているんだ」  朝比奈は苦笑した。 「でも、これで梓社長の心理の動きも納得ができるだろう」 「できるよ。できる、できる」  平田は何度もうなずいた。 「梓社長も、最初は観音開きになっていなくて焦っただろうけれど、これだけ見事に継ぎ目を補正してあれば、『おお、問題ないじゃないか』ってなもんだ。これで印刷所さえよけいな裏話をしなければ、自分の小細工は表沙汰にならない。しかも、特定の人物だけの消去を命じたわけではないから、印刷所も犯罪との関係に気がつかない……なるほどなあ、なるほど、なるほど」  しきりに『なるほど』を繰り返しながら、平田は腕組みをし、さらにつづけた。 「それで梓社長は一安心……と思ったら、ところが大間違い。本番用の写真に写っていた自分の姿を消したのはよかったが、こんどはテスト撮影の分に写っていた亜貴ちゃんの姿が入ってきてしまったわけだ」 「ほんとに悪いことはできないもんだと、つくづく思うね」  朝比奈が言った。 「梓にしたって、テスト撮影の写真で亜貴ちゃんの姿がもっと明確に見えていれば、その段階で気づいて、それを差し替え用に選ぼうとは思わなかっただろう。またその逆に、亜貴ちゃんの姿がこの茶色いシャツの男の陰に完全に隠れていたら、こんどはぼくがこのパノラマが二枚の写真の合成であることに気がつかなかった」 「ほんのタッチの差で、小細工がバレてしまったわけか」 「そうだよ。運命ってやつだねえ。この茶色いシャツの男をよく見てごらん」  朝比奈は、その人物を指さした。 「亜貴ちゃんは立ち止まっていたから、顔もハッキリわかるし、傘をもつ手などは非常にくっきり写っている。けれども、茶色いシャツの男の身体はブレているよね」 「うん」 「歩いているところを二分の一秒のスローシャッターで写されたからこうなったんだが、もしもこの男の歩く速度がもうちょっと早ければ、亜貴ちゃんの前を完全に通り過ぎていただろうし、ほんのわずか遅ければ、亜貴ちゃんは彼の陰に完全に隠れて見えなかっただろう。まさにコンマ何秒かの差で、梓圭一郎の裏工作が露見してしまったんだ」 「そうかあ……この男もまた絶妙のタイミングで亜貴ちゃんの脇を通りかかってくれたもんだね。どこの誰か知らないけれど、表彰モノだな」 「それでだ」  朝比奈は籐《とう》の椅子から立ち上がって、仕事場にしている和室に場所を移した。  そこには旧型のダイヤル式黒電話が置いてある。 「なにはともあれ電話だよ。ほら、平田」  朝比奈は受話器を取り上げて、それを平田に差し出した。 「電話って?」 「印刷所の営業担当にだ。いまのぼくらの仮説を確かめるんだよ」 「確かめるって……耕作、いま何時か忘れているんじゃないのか。真夜中……というよりも、夜明けに近い夜中なんだぜ」 「だからこそ緊急性があっていいんだ」  朝比奈は平然として言った。 「印刷所の夜間警備の人間に営業担当の自宅を聞いて、すぐに電話を入れるんだ。こういう時間帯にかかってくる電話だからこそ、迫力があるんだ。その迫力の前に、相手は物事を取りつくろう余裕なんかなくなるさ」 「………」 「さあ」  朝比奈は、平田をうながした。 「印刷所の担当さんの証言が得られれば、あとはどうやって、梓社長のウソを追及するかだ」      7 「夢をみそう……」  ロールスロイスの助手席で、ポツンと涼子がつぶやいた。 「え?」  と、梓が聞き返す。  一周およそ十四キロメートルの首都高速都心環状線の内回りを、もう何周回ったかわからない。  真っ黒に見えていた空が、紺色という色彩を感じさせはじめていた。 「なんていったんだ、いま」 「眠いのよ……眠くなっちゃった。いまごろになってお酒の酔いが回ってきたみたい」 「冗談じゃない。こんなときによく眠いなんて言えるな」  梓の頬は、半日のうちに伸びた髭のために、いちめん影が落ちたようになっていた。 「きちんとした結論が出るまで、おれはとてもではないが眠気など感じられない」 「こういうときにね、眠りに陥ると、必ず悪い夢を見るのよ」  青白い肌とショートボブの髪形がよく似合う丸尾涼子は、機械的にアクセルを踏み続ける梓に向かって言った。 「ううん、夢という言葉はきっと正確ではないわね。夢ではなくて、記憶よ。悪い記憶が眠りの中で呼び覚まされてしまうの」 「その話はいい」  すでに何度も同じ内容を聞かされていた梓は、涼子の言葉を封じるように言った。  が、涼子はその話題をやめない。 「のしかかってくる男の饐《す》えた吐息、ザラザラした髭の感触、顔に滴ってくる汗のぬめり、そして……」  涼子は、窓の外を向いた。  宵っ張りも寝静まり、早起きはまだ目覚めぬ、都会がもっとも静かになった時間帯である。  格段に交通量の落ちた首都高速を、平均時速をさきほどよりさらに上げて、梓の操るロールスロイスは走る。 「……そして、身体の中での熱い爆発」  涼子の表情が能面のようになる。  表情を無にすることで、必死に過去の屈辱に負けまいとしている。 「忘れようと思っても、どうしてもあの男の顔が忘れられない。十五歳の夏、名前も知らない男に……しかも汚ならしい男に襲われたそのひどい体験が、私の心の中から大事なものを奪っていったのよ。それが何か、わかる?」 「わかっているよ」  前を向いたまま、梓が答える。 「わかっているなら、言ってみて」 「女としての欲望。ありていにいえば性的欲望だろう。それをきみは失った」 「もっと露骨にいえば、男とセックスをしたいという気持ちよ。そしてそれが満たされたときの幸福感」  歯を食いしばって、涼子がつけ足す。 「ふつうの若い女の子ならば、成長とともに自然に抱く健康的な欲望を、私はあの悪夢のような一夜で奪い取られてしまった。そして、その失ったものは一生戻ってこなかった」 「その話はもう何度もきみから聞かされている」 「何度でも言いたいの」 「その気持ちは理解できる。だが、いまはそんな場合じゃないんだよ。大事なのは、殺人事件の後処理なんだ」 「いいえ、この話も大切なの」  平板な表情だが、強引な口調で涼子は言った。 「眠りに落ちて悪い夢に襲われる前に、いま、もういちどあなたに、私の話を聞いておいてもらいたいの」 「………」 「三十をすぎてから私がポルノ出版を手がけるようになったのは、嫉妬《しつと》と復讐《ふくしゆう》——わかる? 私にない性欲という欲望をもっている人間に対する嫉妬と復讐の気持ちから、この仕事をはじめることにしたの。肉体の快楽に飢える者も、肉体の快楽を売り物にする者も、みんな私の敵。その敵を相手に商売をして、憎らしい人たちからお金をむしりとってやる。とことん……とことん……。それが私のライフワークだと信じていた」  梓はため息をつく。  もうその話はうんざりだという顔である。 「でも、復讐と嫉妬の合間に、私だって愛が欲しくなることがあった。だけど……男はみんな愛だけの愛なんかに見向きもしない。どの男もどの男も、愛が深まると私の身体を狙って……」  涼子の唇だけが動く。 「どんなに深く愛していた男も、私の身体の中に入ってこようとした瞬間から、あの十五歳の夏、私に襲いかかってきたけだものと同じになる。私は狂ったように叫び、男はバネ仕掛けの人形のように私の身体から飛びのく。あぜんとする男に、私は弁解の言葉もない。そして私は愛を失う」 「もういいよ」  梓は、整えた髪の毛の中に片手を突っ込んでかきむしった。 「もういい」 「よくないわ」  と言って、涼子はつづける。 「男を愛する、求められる、発作を起こす、逃げられる——その繰り返しに、私はもう疲れ果ててしまった。こんな情けない状態で人生の終わりに向かって走るのか……そんな絶望に包まれていたときに、私はあなたに出会った。そう、たしか三年前の秋の日だったわよね」  丸尾涼子は、二人の出会いをなぞった。  女性関係で家族愛を失い、その女性関係にも疲れを覚えていた梓圭一郎にとって、セックスレスの涼子との関係は妙に新鮮だった。  最初は警戒心のかたまりだった涼子も、梓だけはほかの男とは違っていることを認め、ひさしぶりに男に対して心からの安心を覚え、そしてひさしぶりに真剣な愛を感じた。  梓と残りの人生をいっしょに歩めるのなら、巨額の利益を生み出す海洋堂出版も人に譲ってもいいとすら思った。性への復讐はもう終わった、と思った。  だが——  そこに鮎川麻貴が出てきた。 「あなたは私を犯そうとはしなかった。けれども、鮎川麻貴に欲望を感じることで、けっきょくは野獣の世界に戻っていった」  涼子の口調に強い非難の色がまじった。 「清潔だったあなたの身体から、生臭い欲望の匂いが漂ってきた。あの女のおかげで……鮎川麻貴のおかげで」 「その件については、おれときみの間で、もう話し合いはついたはずだ」  うっすらと額ににじんだ汗を手の甲でぬぐうと、梓は車の冷房を強くした。  熱帯夜が明けようとしている。 「麻貴とおれの間に、特別な関係は何もない」 「いいえ、あります」  涼子の声は冷たかった。 「麻貴が、自分を観音菩薩の生まれ変わりだと本気で思い込み、ふつうの感覚では信じられないような発想からヌード写真集を企画しはじめたとき、あなたは私にそのアイデアを横流しして、事実上の盗作をさせてくれたわね。あれはなぜ?」 「裸になると言い出した麻貴は、誰の説得も受け付ける状態ではなかった。信仰の力があそこまで強いものだとは思ってもみなかった。だから非常手段として、説得ではなく、盗作騒ぎを引き起こすことで企画をつぶすよりなかったんだ」 「私が『なぜ』ときいているのは、盗作という手段を選んだ理由ではなく、あなたが麻貴のヌードを認めなかった理由よ」 「決まっているじゃないか。何回同じことを言わせるんだ」  梓は苛立《いらだ》った声を出した。 「麻貴は、うちの事務所の大黒柱だ。清純派女優として大成功をおさめている彼女をいまの時点で裸にしたら、話題性が先行するばかりでプラスになるものはひとつもない。CM契約にも悪影響を与える。仮にヌード写真集が売れたって、差し引きの損得を計算したらマイナス勘定だ。だから、何がなんでもその企画はストップさせなければならなかった。純粋にビジネス上の理由で、そう判断したんだ」 「純粋にビジネス上の理由で……ね。いちいちそう断るところに、あなたの疚《やま》しさが出ているわ」 「どうして」 「タテマエではなくて、ホンネが聞きたいのよ」  わざとそっぽを向いて、涼子は言った。 「ホンネはこうでしょう。あなたは麻貴の裸を独占したかった。たとえ彼女が脱げばビジネスとして莫大な利益を生むとわかっていても、麻貴の裸を世間の目にさらすのは耐えられなかった。なぜなら、あなたは麻貴を愛していたから。麻貴の身体を独り占めにしておきたかったからよ」 「………」  梓は黙った。  耳の付け根が赤くなった。  図星をさされたからである。 「私をとるのか麻貴をとるのか、どっちかにしてと私が迫ったとき、最初は答えを渋っていたあなたも、やっぱり私を選ぼうと思い直してきた。その理由は簡単よ。麻貴をもはやコントロールすることは難しいと判断したから。そうでしょ? そして、麻貴への愛情が憎しみに変わった。だから私の希望にも応えようとしてくれたのね。麻貴を殺して、という希望に」  梓は答えない。  涼子がつづける。 「麻貴に対する独占欲があまりにも強すぎたから、あなたは裸を世にさらそうとする麻貴の行動が許せなかった。絶対に許せなかった。けれども、麻貴の決心はあまりにも固かった。  ……なんという皮肉なのかしら、麻貴は、私の彼女に対する憎しみも知らないで、海洋堂出版から写真作品集を出そうと自分から話をもちかけてきた。  ポルノ系の出版社と知って意図的にウチを選んできたのは、作品集で足掛かりを作って、つぎに念願のヌード写真集を出そうと考えたわけ。あの子にはあの子の計算があって、大胆な戦略に出たわけよ。彼女は自分の美貌に絶対的な自信があったし、未公開の裸にも自信があった。  彼女の担当スタイリストでオカマの慎太郎君なんかがときおり洩らしていたみたいじゃない。麻貴のバストがすごいんだ、とか。アタシの前だと平気でスッポンポンになっちゃうのよ、とか。もともとそういう下地はあったわけよ。そうじゃなきゃ、清純派が急に脱いだりしないでしょ。観音信仰はたんなる弁解よ……最低ね、最低だわ、あの子。肉体を武器にする女なんて、私、絶対に許せない」  話の途中、青白い涼子の顔が、めずらしく怒りで赤くなった。 「……でも、そこまで麻貴が真剣になっていて、しかも常識的な論理では彼女の行動を押しとどめられないと知ったあなたは、もはや麻貴の出版計画を妨害するだけでは事足りなくなった。そんなときに、麻貴への憎しみを激しい形でぶつけようとする私の思いと一致して、あなたは」 「黙ってくれ!」  両手で握り締めたハンドルを激しく揺するようにして、梓は叫んだ。 「黙ってくれよ、たのむから」  梓は、声を立てて息を吸い、息を吐いた。 「そんな話を繰り返して何になる。きみの過去には同情する。だが、けっきょくはその同情から殺人が起きてしまったんだ。過去の話はもういい。それよりも現在だ。そして未来を考えるんだ。いいか、殺人者に未来はないんだぞ。どうするつもりなんだ、いったい!」      8 「とにかく結論を出すんだよ。我々のとるべき行動の結論を」  ギリギリのところで自分の感情をコントロールしながら、梓は言った。 「マスコミの報道では捜査が暗礁に乗り上げているような言い方をしているが、警察はバカじゃない。きっとおれたちに見えないところで、着々と網を絞っているに違いない。このままだと、二人ともその網から逃れられなくなる」 「二人とも……って、どういう意味?」  ふたたびとろんとなった目で、涼子は梓を見た。 「自分だけは助かりたいってこと?」 「そうは言っていない」  梓は片手をハンドルから離し、それを自分の言葉に合わせて振った。 「二人とも助からなくてはダメだと言っているんだ。あの子を殺したのはきみでも、きみがつかまったらおれの立場も危うくなる」 「またそれ?」  涼子は力のない苦笑いをした。 「そんなに人に責任を押しつけたいの」 「きみのおかげで、おれは危ない橋を渡っているんだ」 「危ない橋って」 「写真集の校正をしていて気がつかなかったのか。おれが写っていたんだよ」 「どこに」 「あのパノラマ写真の中に、だ。きみの会社の応接室で色校《いろこう》を見せられたとき、おれはすぐに気がついた。写真の左端のほうに、おれが写っているじゃないか」  話している途中で、合流してきたトラックとぶつかりそうになり、梓はあわててハンドルを切った。  狭い首都高速の車線の中で、ロールスロイスが何度も大きく蛇行した。  一瞬、側壁が目の前に迫った。  だが、助手席の涼子は顔色ひとつ変えない。  車が安定を取り戻してから、梓はつづけた。 「サングラスをかけて、そのほかにもおれらしくない格好をしてはいたが、それはちょっと見をごまかせる程度で、写真をじっくりチェックされたら、その人物が梓圭一郎だということがバレてしまう。本来プロダクション社長として同行すべきロケを急にキャンセルしたおれが、じつは変装までして近くの人込みに隠れていたとなると、麻貴に対しても警察に対しても説明のしようがなくなる。そうだろう」  夏の夜明けの速度は速い。あっというまに都会の空が白んできた。 「だが、そういうときにかぎって、きみはもっと離れた場所にいたからセーフだ。本当の犯人は安全地帯にいて、無実のおれが麻貴の写真に撮られたんだ」  梓はそこで、一気に自分のした工作をまくしたてた。  もっともかんたんな方法でその写真から自分の姿を消すには、類似カットを使って合成を行なうよりない。そこでデザイナーに預けてあった予備カットを回収し、本番用の左半分をテスト用の半分に差し替えて、二枚を張り合わせる案を思いついた。体裁を観音開きに変えれば、張り合わせ部分は綴じしろに食い込んで目立たなくなる。  そして、純粋に『芸術的観点』からという理由で、渋る印刷所の営業担当を強引に説き伏せて、その差し替え作業を申し渡した……。  梓は一連の行動を涼子に説明したが、その裏工作の結果、こんどは同一場面に麻貴の妹が二人写り込んでしまったという矛盾には、まだ気づいていなかった。 「おかしな人ね」  話を聞き終わった涼子は、すっかり白んだ空をフロントガラス越しに見つめながらつぶやいた。 「色校の中に自分の姿を見つけたというのなら、なぜその場で私に話してくれなかったの。ウチの応接室ですぐに」 「………」 「あなたと私は、たしかに陽明門の前にいたわよね。私は四、五メートルあなたの後ろだったから写真には写らなかったけれど、あなたといっしょに、麻貴たちを遠巻きに追っていたのは事実。だったら『仲間』として、私に写真問題の処理について協力を求めるのが賢明な態度だったんじゃないのかしら」 「仲間? 仲間か、このおれときみが」  梓は皮肉をこめて言い返したが、涼子はその言葉を無視した。 「私は、あの本を出版した会社の最高責任者よ。なにもあなたがドタバタと動き回るよりも、私に事情を話してくれれば、写真の合成作業はもっとスムーズに運んだはずじゃない。印刷所だってデザイナーだって、私からの変更指示だったら、何の疑いも抱かずにすんなり聞くわよ」 「信用できなかったからだ」  重苦しい声で梓が答えた。 「この写真におれが写っているのを知ったら、きみはそれを逆用すると思った」 「どういうふうに」 「わざとそのままにして、おれが写ったまま本にしてしまう。そして、それを犯罪の決定的証拠として、永遠におれを脅す」 「まあ、よくわかっているのね」  涼子は、おかしくもなさそうな笑いを浮かべて言った。さきほどまで怒りで上気していた彼女の頬は、また元の青白さを取り戻している。 「私の心がよく読めているわ」 「あたりまえだ。きみとのつきあいは長いんだからな」 「でも、百パーセント読めているわけでもなさそうね」 「なに?」 「私は気がついていたのよ」 「え」 「申し訳ありませんけれど、私はお飾りの社長ではなくてよ。海洋堂のように小さな出版社の場合、社長は経営のみに専念するなどという悠長なことは言っていられないの。私はふだんの仕事では、社長という肩書を忘れて編集長としてやってきたわ。その編集長の目が、いくら端っこのほうだからといって、写真の中に写り込んだあなたの姿を見逃すと思う?」 「なんだって……」  前方に注意を払いながら、梓は助手席の涼子をふり返った。 「きみは……おれが写真に写っていたのを知ってたのか」 「それだけじゃなくて、せっかくあなたが苦労して写真の合成を印刷所に命じたにもかかわらず、かえって大きなミスを犯してしまったことも気づいているのよ」 「おれが……大きなミスを?」 「そう、せっかく写真を差し替えたはいいけれど、こんどは亜貴が二人写ってしまったのよ」 「なんだって!」  梓は大声を出した。 「亜貴が二人って……どういうことなんだ、それは」 「予備の写真のほうをよくチェックしなかったあなたが不注意なのよ」  涼子の説明を聞くうちに、梓の顔がみるみる青ざめていった。 「……じゃあ、できあがった写真集のパノラマ写真には、亜貴の姿が二つ写っているのか」 「そうよ。ウソだと思ったら、事務所に戻って写真集をじっくりごらんなさい」 「事務所に戻らなくても、この車に積んである。後部座席だ」 「ああ、あれね」  身体をひねって後ろを見た涼子は、手を伸ばしてシートの上に無造作に置かれた『観音』を手に取った。  そして、三回たたみの巻折りになったパノラマ写真を引き出して、運転する梓の目の前にそれを広げてみせた。 「ほら、ここよ。ここに死んだ亜貴ちゃんが立っているでしょう。悲しそうな顔をして……」  梓は涼子が指さした部分に目をやった。  一瞬、彼の顔が凍りついたようになった。  そして—— 「うわあああああ」  絶叫がほとばしった。      9 「何から何まで、耕作の推理どおりだったよ」  長電話を終えると、平田は精根尽き果てたという顔で受話器を置いた。  夜明けの電話に出た印刷所の営業担当に真相を告白させるまで、ゆうに一時間はかかってしまったからである。  だが、けっきょくは朝比奈のヨミどおり、未明の電話という迫力に気圧《けお》され、穂積伸宏という若手営業マンはすべての事実関係を認めた。  彼は、梓から『緊急事態なんだから』と言われて二枚の写真の合成に応じたのである。その事実について、彼は平田から『緊急事態なんだから』と迫られて、ようやく告白した。  どこまでも『緊急事態』に弱い男であった。 「……で、どうする、耕作」  平田がたずねると、朝比奈は和机に向かって、原稿用紙に筆ペンでさらさらと箇条書きをしたためた。 「問題はこの三つだよ、平田」  書き上げた原稿用紙をつまみあげると、朝比奈はそれを垂れ幕のようにして平田に示した。  そこにはこう書いてある。 [#ここから3字下げ] 一.犯人はほんとうに梓圭一郎なのか。 二.麻貴の生命が危ない。 三.丸尾社長の生命が危ない。 [#ここで字下げ終わり] 「これ……どういう意味?」  文章に何度も目を走らせながら、平田がたずねた。 「二番目はぼくにもわかるけど、一番目と三番目が理解不能だな」 「ほんとうに二番目の意味もわかっているかい」  朝比奈が聞き返した。 「ああ、わかってるよ。まだ犯人が検挙されていない以上、そして、犯人の目的が亜貴ちゃんではなく鮎川麻貴にあると考えられる以上、麻貴はふたたび狙われる危険がある」 「それだけじゃないんだ、平田。麻貴は、自分から命を捨てにかかっている可能性がある」  朝比奈は言った。 「ぼくが気づいたこの写真の細工に、撮影者である麻貴本人が気づいていないと思うかい。そもそも彼女は、現場で妹から警告も受けていると考えられるんだろう」 「あ、そういえば……」 「だから、自分の事務所社長の不審な行動に、麻貴はとっくに気づいている。彼こそが犯人だと疑うにじゅうぶんな状況が揃っているんだ。にもかかわらず、麻貴は脅えもしなければ、梓を警察に訴えようともしない。これはどうしてだ」 「どうして……なんだろうね」 「それは、犯人にもういちどやり直しをしてほしいと願っているからさ」 「え?」 「妹が自分の身代わりになってくれた責任を痛感した姉は、もはやこの世に生きていても仕方がないと絶望し、妹のところへ行こうとしているんじゃないのか」  朝比奈は、まさに鮎川麻貴が父親に向かって叫んだ心境そのものを、ズバリ言い当てていた。 「でも耕作、いまだに彼女は自分のヌード写真集の実現を真剣に望んでいるという情報もあるんだよ」 「それが完成するのと、犯人に生命を奪われるのとどっちが先か。すべては運命だと思っているんじゃないかな」 「運命か……」 「それから、きみのあこがれの丸尾社長だけれども、彼女も危ないぞ」 「危ないって?」 「どこかで肚《はら》をくくっているフシがある」 「どうしてだよ」 「梓圭一郎が海洋堂出版をたずねてきたときがあっただろう」 「ああ、この写真の色校《いろこう》を徹夜明けでチェックしていた朝だったな」 「そのとき梓は応接室に招かれて、そこで丸尾涼子さんといろいろ突っ込んだ話になった。そのやりとりを、平田は立ち聞きしていたわけだ。それによって、彼女と梓との関係が明らかになってきた」 「うん」 「でも、そういった大事な話を、平田がすぐ近くにいるとわかっている場所でやるかな」 「………?」 「梓のほうは、よそのオフィスだから注意を払っていなかったかもしれない。けれども、涼子さんはその応接室がさして防音機能に優れていないことくらい、とっくに承知のはずだ。しかも、他の社員が出社する前で編集部のフロアはガランとしていた。そこに平田しかいなければ、当然彼女はおまえの耳を意識してしかるべきだ。それなのに、そうはしなかった」  朝比奈は歯切れのよい口調でつづけた。 「涼子さんは、平田にあるていど真相を暗示しておきたかったんじゃないのかな」 「ぼくに……真相を?」 「そうだよ。彼女はおまえが聞き耳を立てているのを前提にして、梓との会話を進めていたんだと思うね。ただし、ほんとうに聞かせたくないところは、ぐんと声を落とした」 「でも、なんでまた涼子さんがぼくに」 「梓との関係から推し量るに、彼女がなんらかの形で狙撃《そげき》事件にからんでいた可能性がある」 「えーっ、あんなにきれいな人が……」 「平田、美しさという物差しで女性を測るのはやめなさいって言ってるだろ」 「だって……」 「とにかく、犯罪に関与していたからこそ、どこかで涼子さんは破局の日を予感していたのではないか。仕上がってきた写真の色校を見ながら、その感を強くしたという想像も成り立つだろう」 「まあ、たしかに涼子さんは、徹夜作業中ひとりで応接室にこもったきり、ほとんど出てこなかったけどね」 「彼女は後ろめたさを感じながら、誰かには、ほんとうのことを知らせておきたいと思ったのかもしれない。罪の意識がそうさせた、と解釈してもいいけれどね」 「でも、まさか涼子さんが……」  平田は首を左右に振った。 「だいたい理由がないよ、耕作。涼子さんが鮎川麻貴を殺そうとする理由がない」 「天下の人気女優がポルノ系出版社から本を出す事情もつかめていないのに、何から何までそうやって既成概念で決めつけてはいけないよ」  朝比奈がやんわりと忠告した。 「ぼくらにはわからない特別な人間模様が、丸尾涼子と鮎川麻貴の間にあったのかもしれないじゃないか。梓圭一郎というダンディな中年男をはさんでね」 「……なる……ほど」 「それから誰が亜貴ちゃんを殺したのか、という問題だけれど」  箇条書きをしたためた原稿用紙を机の上に戻して、朝比奈は言った。 「なぜ、犯人がボウガンなどという凶器を使ったのか。ここがポイントだと思う」 「そりゃ、観光地で人を殺すとなると、飛び道具を使うしかないだろう」  平田が言った。 「まさか直接首を絞めたり、バットで殴ったり、ナイフで刺したりというわけにはいかないだろう。それに、ピストルはかんたんに手に入らないし、仮に入手できても銃声の問題などがある」 「だから、ボウガンを選んだ?」 「……と思うけど、耕作の意見はちがうの?」 「ちがうね」  短く応じると、朝比奈は、机の脇にあった輪ゴムをピストル型に構えた指に引っかけ、その『銃口』を、わずか二メートルしか離れていないところに座る平田に向けた。 「おいおい、何するんだよ」 「ピシッ!」  擬音とともに、朝比奈は輪ゴムを発射したが、至近距離にもかかわらず、それは平田の頬をかすめて右にそれた。 「あの状況でボウガンを使うことは、いわばいまぼくが平田を輪ゴムで撃とうとしたようなものさ。つまり、当たりはずれに、まったく自信がもてない」  朝比奈はもう一個輪ゴムを取り上げて、また平田を狙い撃ちにした。 「ピシッ!」  効果音もむなしく、また輪ゴムはそれた。 「こないだぼくは、麻貴が誰かに妹を狙わせたのではないかという説を否定するために、ウイリアム・テルはいない、と言った」 「うん、それは覚えているよ」 「しかし、純粋に狙撃犯側の立場にとっても、ボウガンなんて代物は危険で使えたものではない。はずれる危険が多い、という意味でね」 「そうか……そういえばそうだな」  自分の周りにちらばった輪ゴムを拾いながら、平田はつぶやいた。 「本気で麻貴を殺そうとしたなら、ボウガンなんて道具は選ばなかったかもしれない」 「そこだよ、平田」  朝比奈は声を強めた。 「ひょっとしたら、犯人は本気で麻貴を殺すつもりがなかったからこそ、ボウガンという手段を選んだのかもしれない」 「なんだって」 「いや、わかりにくければこう言い直そう。犯人が、本気で麻貴を殺そうと思っていたのは事実だが、同時に心のどこかで、その殺害計画が失敗してくれればいいと望んでいた。だからこそ、命中率のあやふやなボウガンを選んだ。つまり、犯人が心の片隅で願っていたのは、鋼鉄の矢の飛んで行く方向がずれて、鮎川麻貴の身体の脇を通り過ぎることだった。  そして現実はどうだったか。矢が麻貴に当たらなかったところまでは『予定』どおりだったけれど、代わりに隣りに立っていた亜貴ちゃんに命中してしまったんだよ」 「そんな……本気で殺したいのに、同時に失敗を望んでいたなんて。どういう事情があれば、そんな心理が成り立つんだ」 「そこは本人にきくしかないよ」 「梓社長に?」  平田の問いに、朝比奈は肩をすくめた。 「さあ、どうだろうか。彼自身が犯人であった場合ならば、そうなるけれどね」      10  走馬灯のように……という言い回しがあるが、まさにその瞬間の梓圭一郎がそうだった。  方向性を失ったロールスロイスが、首都高速のカーブを曲がり切れずに直進し、側壁に激突するまでのわずか数秒間のうちに、東照宮宝物殿での決定的な出来事に至る、数々の場面が次々とよみがえっていった。  鮎川麻貴への愛。それも性的欲望に満ちた愛。  それを拒否し、観音菩薩の生まれ変わりとして、不特定多数の男性に自分の裸身の美しさを与え、人々を幸福に導きたいとする麻貴。  説得、拒否。説得、拒否。説得、そしてまた拒否。  その繰り返しの中から生まれてきた憎悪。  同時に、丸尾涼子の心の中に芽生えてきた、麻貴への激しい憎しみ。  そして二つの憎しみが合体する。 「私のために麻貴を殺して」  という涼子の言葉とともに……。  涼子は、静かな狂気に満ちていた。 「殺すならハデにして。みんなの見ているところで」  それは、梓圭一郎という男の、自分に対する無償の愛を試す言葉だった。  梓は応じた。  涼子の妖しい魔力が、彼に決断をさせた。  だが、彼の心の中には、麻貴を憎み切れないもうひとりの自分がいた。その自分が、涼子の殺人命令に従いながらも、同時に麻貴の生命を救う余地を残すボウガンという武器を選ばせた。  狙撃のチャンスは一回のみ。そのチャンスを真剣に狙い、結果がはずれであっても、涼子には申し訳が立つと思った。  そして日光ロケの日、人生でこれ以上ない緊張の瞬間を迎えた。  宝物殿の回廊に立ち、人面木をながめる麻貴と亜貴の姉妹。彼女たちの目的が人面木の観賞にないことなど、梓は知らない。  麻貴の妹の亜貴が、丸尾涼子の存在に[#「丸尾涼子の存在に」に傍点]気づき、姉に警告していることなど知る由もなかった。  茂みにひそんでいる彼からみて、麻貴は斜め正面の位置。射撃には最高のポジションである。 「さあ」  隣に身をかがめている丸尾涼子がうながした。  梓が彼女をふり返る。  彼と同じ黒いサングラスをかけた涼子の表情は読み取れない。唇だけが動く。 「さあ……やって」  涼子がかけた黒いサングラスの表面に、脅えたようなサングラス姿の梓が歪んで写っていた。 「早く」  涼子の唇が命じる。  うなずく。  狙う。  できない。  手が震える。  できない。  どうしても、できない。  このままでは麻貴に当たってしまう。  命中率の不確かな武器をあえて選んだのに、手が震えているゆえに、かえって麻貴に当たってしまうという妙な確信に、梓はとらわれた。 「ためらわないで」  また耳元で涼子の声。 「身体を武器にする汚い女を殺して。そして、あなたと私の純愛を完成させるのよ」 「でき……ない」  梓はうめくように言った。 「こんなバカげたことはできない」 「やるのよ」 「できない」 「愛のために人を殺すことは美しいわ」 「やめよう」  ボウガンを麻貴に向けたまま、梓は言った。 「おれは熱にうかされていた。こんなことをやっては……」  最後まで梓が言い終わらないうちに、涼子の手が梓の右手に添えられた。  引き金にかかっていた彼の指の上に、毒々しい赤のマニキュアをした涼子の指がかぶさる。  特別の気配を察したのか、妹の亜貴が、梓たちのひそんでいる茂みのほうに目を向けた。  視線が合った。  梓は反射的に身を伏せようとした。  が、それよりも先に、涼子の指が梓の指を強く押した。  ビュン、という唸りとともに矢が飛んだ。 「ねえ」  助手席の涼子がつぶやいた。 「麻貴って、まだ殺されたがっているわよ」  そんな言葉を発する時間は、物理的にないはずだった。が、たしかに梓圭一郎は、丸尾涼子がそうしゃべるのを聞いた。  そして、その言葉と同時に走馬灯の回転は終わり、代わりに、現実に目の前に迫る首都高速の灰色の側壁が大写しになった—— 「ねむい」  涼子はつぶやいた。 「夢を……みるのが……怖い」  ロールスロイスの頑丈な車体すら破壊してしまった衝突の激しさは、梓圭一郎の生命を一瞬にして奪った。  そして、即死は免れた涼子にも、やがて死のとばりが降りてきた。 「ねむい……夢はみたくない」  救急車の中で発したそのうわごとが、丸尾涼子にとって最期の言葉となった。 [#改ページ]   エピローグ  二人の重要人物の事故死によって、鮎川亜貴を殺害したのが誰なのか、それは永遠の謎となった。  凶器となったボウガンも、すでに処分済みであったとみえて、丸尾涼子の自宅からも梓圭一郎の自宅からも発見はされなかった。  朝比奈耕作の一連の推理がどこまで正確であるかを評価し、殺された亜貴が陽明門の前で見たのは誰だったのかを証言できるのは鮎川麻貴ただひとりであったが、彼女は一切のコメントを拒否した。  マスコミに対してのみならず、警察の事情聴取に対しても、麻貴は「私は何も知りません」という答えに徹した。  見ざる、聞かざる、言わざる——  まさに東照宮の三猿そのものの姿勢を彼女は貫いたのである。  やがて、人面木の前の惨劇は犯人不詳のまま、人々の記憶から忘れ去られていった。  そして、その年のクリスマス直前、衝撃の鮎川麻貴ヌード写真集が発売された。  題名は『観音の愛、観音の涙』。  発売元は、以前盗作騒ぎによって写真集の計画を先送りされた四季書房、そして撮影は、当代きっての人気カメラマン財前和正であった。  初版五十万部がたちどころに完売というすさまじい売れ行きを示したが、その購買層の主流は、年配の男性だったという。 「耕作、どう、これ」  発売後一カ月経って、ようやく増刷分を手に入れた平田均は、その写真集をもって朝比奈耕作の自宅を訪れた。 「どう、これ、っていうのは、その写真集を見てみるか、という誘いか」  朝比奈がきいた。 「うん。まだパックの封を切っていないけど」  平田が示したB4サイズの大判写真集のカバーには、真っ黒のバックにスポットライトを浴びた鮎川麻貴が、肌が透ける衣をまとって観音菩薩のポーズをとっている写真があしらわれていた。 「見たくないね」  朝比奈はカフェオレ色に染めた髪を揺らして、首を左右に振った。 「どんなに彼女の裸がきれいでも、あの悲惨な事件を思い起こさせるばかりだから」 「ぼくもそうだ」  平田も、ため息まじりに言った。 「本屋で買ったあとに、すぐ後悔したよ。この写真集は見てはいけないんだ、って。少なくとも、あの事件にかかわってきたぼくは」 「鮎川麻貴は、自分の裸は人々を救うために使われなければならないと考えているようだけれど、ほんとうに救われなければならないのは、彼女自身だと思う。……かわいそうだよね」 「ああ……」  平田は、しんみりした口調でうなずいた。 「それよりも平田、これでも読んで気分を直さないか」  朝比奈は、和机の上に載せてあった十冊の新書判を指さした。十冊すべて同じ本である。 「ちょうど、きょう見本があがってきたばかりなんだ」 「おお」  カバーを見て、平田が声をあげた。  朝比奈耕作・著『観音信仰殺人事件』—— 「舞台は日光だけれど、東照宮は出てこない」  朝比奈が言った。 「あれからまた取材に行き直したんだよ。同じ日光でも、ちょっと場所を変えようと思ってね」 「どのへんを舞台にしたんだ?」 「霧降《きりふり》高原。いいだろう、ロマンチックな響きで」 「ああ、いいねえ」 「そこの別荘に住む清楚《せいそ》な少女が主人公となって、不思議な事件を解いていくんだ。いままでのぼくにはなかった、ミステリアス・ロマンとでもいったらいいかな」 「そうなのか……」 「それで、無断で申し訳ないけれど、平田の名前を借りたよ」 「え、ぼくの名前が出てくるの?」  平田はびっくりした顔で、できたての本を見つめた。 「主役か」 「主役は、いま言った女の子だよ」  朝比奈は笑って言った。 「平田均は、その女の子に片思いをする大学生」 「最後にはフラれちゃうんだろ、どうせ」 「さあね。それは読んでのお楽しみだ」 「ラブシーンなんか、あるわけ?」 「どうかな」 「名前を無断で使ったのなら、それくらいのサービスはしてよね」  そう言いながらパラパラとページをめくりはじめた平田は、タイトル扉のあと、本文第一ページを見たとたん、「あ」と声をあげた。  その作品の書き出しはこうだった。  アキは霧が好きだった。  霧の日に、傘を差して歩くのが好きだった。 [#改ページ]   取材旅ノート 日光 [#地付き]吉 村 達 也    私の取材旅行のやり方は、ある意味で映画の撮影と編集といった作業に似ている。『撮影段階』では、とにかくたくさんのフィルムを回す。つまり、作中に使う予定の必要最小限の場所だけを訪れるのではなく、欲張ってあちらこちらへと足を伸ばし、いざ執筆という段階にきて『編集作業』すなわち、撮ったたくさんのフィルムをバッサバッサと捨てていく工程に移る。  今回の『観音信仰殺人事件』でいえば、本文に登場した日光山内および周辺の場所を取材したのはもちろん、日本各地に点在する東照宮の中から、和歌山市和歌浦にある東照宮を選んで、そこにも足を伸ばした。この時点では、二つの東照宮を結ぶ事件が勃発する、といったプランが頭の中にあったわけである。  で、和歌浦の東照宮まできたなら、すぐそばの紀三井寺を見ないわけにはいくまい。いや、どうせならさらに南へ足を伸ばして、御坊から道成寺だ。おー、娘道成寺殺人事件となると、ほとんど山村美紗先生の世界だな、などと思いつつ、ついには南紀白浜までたどり着いたりする。  しかし、結局最終的に作品に使用するのは、日光だけになってしまった。もちろん、ほかの場所の取材がムダになったわけではないが、もしも道成寺を舞台にした作品を次に書くとなれば、改めてまたそのときに現地へ足を運ばなければ気がすまない。つまり、今回切り捨てた取材地に関しては、とりあえず土地鑑を養うための予備調査にすぎなかったことになる。  さて、日光。  日光といえば、修学旅行専用列車『日の出号』である……などと、切り出すと世代がわかってしまうが、日光訪問は、小学校五年だか六年だかの修学旅行以来、およそ三十年ぶりというごぶさたであった。  東京に住んでいながら、なぜこんなに長い間日光へ足を向けなかったかというと、地元の人には怒られるかもしれないが、「日光って場所は、ちょっと年寄りくさくないか?」という感覚があったからである。これを陽明門のせいにしては徳川家康に申し訳ない。申し訳ないが、やはり日光といえば東照宮、そして東照宮といえば陽明門というイメージが強烈で、この陽明門のセンスが、たとえばデートスポットに選ぶには、いささか不適当であったりするわけだ。 (写真省略) 「ねえ、軽井沢に行かない?」とか「箱根までドライブしよう」という誘い方はあっても、「こんどの週末、日光に行こうよ」という誘いはあまり聞かない。少なくとも、初めての遠距離デートの候補地として日光が選択される可能性は、非常に薄いとみていいだろう。  この日光の象徴ともいえる陽明門だが、現地に行ってみると、じつは写真で見るほどキラキラしたイメージではないことに気がつく。作中にも書いたように、絵ハガキや観光ガイドなどに載っている写真の多くは、撮影のさいにライトアップしているか大容量ストロボを何基も焚いているため、かなりきらびやかな写り方をしている。けれども、実物は本書巻頭パノラマ写真のように、予想外に暗っぽいトーンで目に映る。それでもぜんたいの印象は、かなりハデである。ゴテッという感じである。このゴテゴテ感は、五百体を超す彫刻によって醸し出されるものだが、この彫刻そのものに興味とか価値観を見いださないと、陽明門は、たんなるゴテゴテ趣味の建造物といった認識に終わってしまう。  なにも「わび・さび」ばかりが日本の美ではないと思うが、しかし陽明門のハデさは、嘆声をあげたくなるような華やかな美しさともちょっと違う。ありていにいえば、センスがいいとは言い難いのだ。これは、純粋に観光スポットとしてみた場合の陽明門の弱点だ。  デートでやってきた女の子が、陽明門を眺めながら「すてきねー」とうっとりカレの肩に頭をもたせかける、などという雰囲気には絶対にならない。そこが、日光東照宮が若い世代にいまひとつ訴求できない原因だと思われる。  しかし、これは造営当時といまの時代との平均的な美的感覚の違いだから致し方ない。というよりも、東照宮のデザインコンセプトが、現代建築の概念とは根本から異なっているのである。まずここを理解しないと、「陽明門? ありゃ悪趣味だよなー」で終わってしまう。関係者がただひたすら、きらめく美しさを強調して謳ったところで、観光客は自分の素直な印象を曲げてまで評価しようとはしない。実際、バスツアーの人々の群れの中に入り込んでいると、「ハデだなあ」という言葉は聞かれても、「きれいだなあ」という言葉は男女ともに聞かれない。これがいまの時代感覚からすれば正直な感想ではないか。  では、東照宮のデザインコンセプトは、どのように特殊なのか。通常の寺社建造物では、建物に装飾物としての彫刻をほどこすというニュアンスがある。しかし東照宮の場合は、建物そのものが壮大なる彫刻の集合体なのである。ここを認識しないと、境内にある一連の建造物のすごさを理解することはできないだろう。  それは一六三四年(寛永十一年)の東照宮大造替を記録した『日光御造営日記』の資料に目をやれば明らかとなる。集められた職人の総数はのべ百六十八万人。そのうち平大工が約九十五万人、そして彫物大工がなんと四十万人も動員されているのだ。こののべ四十万人の彫物大工を統括したのが、幕府作業方大棟梁|甲良豊後宗広《こうらぶんごむねひろ》という人物で、彼が中国の文書を研究するなどして、ひとつひとつの彫刻の意味付けと、その配置場所の青写真を描き、それを大工に発注し、あるものは造営現場で彫らせ、あるものは各自の仕事場で完成させて、その完成品を東照宮にもってきて組み上げていったのである。  その彫刻技術が『日光彫』としていまに伝えられているが、先端をおよそ六十度手前に折り曲げたヒッカキと呼ばれる線彫刀の醸し出す力強いラインが特徴となっている。これより歴史の古い『鎌倉彫』のほうは、ふつうの彫刻刀の使い方と同様、刃を押して彫っていくが、日光彫の場合はヒッカキという特殊な刀を手前に引いて線を彫っていく。この違いが、日光彫は男性的、鎌倉彫は女性的といわれるニュアンスの差を生み出している。  当時の技術の粋を集めた彫刻が東照宮をかたちづくっている——こう認識して陽明門などを見直すと、これは評価がまるで違ってくる。  まあ、そんな難しい問題をヌキにしても、たとえばかの有名な「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿は、いったいどこにあるのか、眠り猫はどこにあるのか、天井に鳴き竜が描かれたお堂はどこなのかといった、知っていそうで知らないことを再確認していくだけでも、東照宮見物はなかなか興味が尽きない。  いきなり話は飛ぶが、二年前、エジプトの首都カイロのハン・ハリーリ市場の奥まったところにある怪しげな人形店に入ったところ、ショウケースの中に「見ざる・聞かざる・言わざる」が並んでいるのを見つけ、なんでまた東照宮のシンボルがこんなところに、とびっくりしたものだが、むしろ三猿のルーツはエジプトにあると知って、なおさら意外な感に打たれた。  ついでですが、この人形店のエジプト人店員、三猿人形の存在にびっくりしている当方に向かって、日本語で「バザールでござーる」と笑いながら話しかけてきたのにはまいった。おおかた店を訪れた日本人観光客が教えたのだろうが、ようするにその日本人は「見ざる・聞かざる・言わざる」を見て、最初にNECのコマーシャルを思い出しちゃったわけですね。これでは東照宮の三猿も立場がありません。 (写真省略)  話を元に戻そう。  東照宮の神職である斎藤晴俊という人の書いた『謎と不思議 東照宮再発見』と題する本が、ここの境内で売られているが、さすがに著者が著者だけあって、じつに細かい視点から東照宮各ポイントのエピソードを綴っている。そしてなによりオールカラーで、写真の質も高いのがよい。これを片手に見ながら東照宮を回るのと、ただボケーッと見て回るのでは、理解度や好奇心の持ち方がぜんぜん違うので、熱心な方にはおすすめしたい。とてもいい本です。  ともかく東照宮というところは、予備知識ゼロで訪れると、なんじゃこれ、という感想のまま、ただひたすらゾロゾロと人のあとにくっついてオシマイ、ということになりかねない。小中学生あたりの年代で、団体旅行としてここを訪れることじたい、これはずいぶん無理があるのではないか、と私は思う。それこそ陽明門を見て「ハデー」と叫び、鳴き竜の下でパーンと手を打ち、その残響に「おー」と叫んで、あとは何も残らない。そういう感心のされ方は、東照宮にとっても本意ではないだろう。  子供だけではない、大人にとっても、たとえば京都ならば寺社の歴史的背景に首を突っ込まなくても、日本情緒に酔える部分がある。しかし、東照宮にはそれがない。だからこそ、わずかでもいい、付け焼き刃でいいから、たとえば無数にある彫刻について多少の予備知識をもって訪れるなどしないと、いったい私はなにしにここへきたの、となってしまう。誤解をおそれずにいえば、箱根彫刻の森美術館を見学するようなつもりで訪れるのが、東照宮の正しい鑑賞の仕方であると思う。ここまできて、いちばん印象に残ったのが「人面木」というのでは、ちょっと情けないですよね。 (写真省略)  さて、東照宮のある日光山内に入る手前、大谷川にかかる朱塗りの神橋《しんきよう》は、かつて山菅《やますげ》の蛇橋《じやばし》とも呼ばれていたが、寛永の大造替のさいに寄進され、神の橋『神橋』と名付けられた。その名のとおり、昔は一般人は渡れなかったが、いまでは渡橋料三百円(93年時点)払えばOKで、しかも神社創建一千二百年祭を記念してということで、渡橋記念の塗りのお箸までついてきた。  小学生のとき日光へきたさいに、神橋の人工着色写真カードを買ったことを妙に覚えているが、この神橋から大谷川の上流に沿って走る道路が、やがて『いろは坂』となり中禅寺湖へと導いてくれる国道119号線だ。  日光猿軍団というくらいで、この『いろは坂』には、マイカーの窓から投げられる餌を期待して野生の猿が出没する。それでたいていの車は速度を緩めて猿たちの群れにかまうから、ただでさえ混む紅葉のシーズンなどは車が数珠つなぎ。日光猿渋滞である。  日光山内方面から進むと、『いろは坂』を通って車は中禅寺湖のある高原地帯へと上っていくが、逆に、その湖から流れ出た川は、この高度差を滝という形で一気になだれ落ちる。それが名勝・華厳滝である。その落差九十九メートル。  意外に思われるかもしれないが、世界最大級の巨大瀑布ナイアガラの滝(カナダ滝、アメリカ滝いずれも)の落差は、華厳滝の半分とちょっとしかない。ナイアガラと並ぶ巨大瀑布で、映画『ミッション』やテレビCMなどにも登場しておなじみのブラジル・アルゼンチン国境に位置するイグアスの滝ですら、華厳滝よりも落差は十四メートル少ない。もちろん両巨大瀑布は、水量がケタはずれに多いからこそ「巨大」の文字が冠せられるわけだし、目の前で見たスケール感は較ぶべくもないが、少なくとも落差だけを比較すれば、華厳滝の勝ちなのだ。  この華厳滝から中禅寺湖あたりまでくると、日光山内や市街地とはまるで様子が変わってくる。それは見た目だけでなく気候もそうで、たとえば中禅寺湖一帯には梅雨がないとまでいわれる。地形上、水分を含んだ上昇気流が途中でさえぎられることが多く、日光市街で雨が降っていても、上のほうはさわやかな晴れというケースが多々あるからだ。その昔は、軽井沢同様、外国人の避暑地であったのもうなずける。  そういえば明治・大正のころ、日光を訪れる外国人や著名な日本人が観光の拠点としていたのが日光金谷ホテルで、開業はなんと明治六年。そのときは、いまの場所よりもう少し大谷川の上流に位置しており、『カッテージ・イン』と名付けられた民宿だったが、明治二十六年に現在地に移転し、同三十七年に『日光金谷ホテル』としての本館が落成している。  現在ある三階建ての本館は大正十年に改造されたものだそうだが、内部は明治の香りあふれるインテリアである。私が泊まったのは、昭和十年に完成したという別館。ベッドが置かれた洋室だが、内装は純和風。超レトロ。三階建てだがエレベーターがない。けれども、ちゃんとルームサービスがある。したがって食事を頼むと、係の人が料理の載ったトレイを本館から別館に運んできて、さらに階段を三階まで上って部屋に届けてくれるわけである。心なしかその息が弾んでいるようでもあり、なんだか申し訳ない気になってしまう。でも素敵なホテルだ。 (写真省略)  こうしたジャポネスクといおうか、レトロな和洋折衷ホテルは、日光金谷ホテルの他にも、箱根宮ノ下の富士屋ホテルや奈良の奈良ホテルなどがあり、いずれも創業は明治年間である。建物の耐久性なども考えれば、現在の内外装をこの先永遠に保ちつづけられるわけでもない。だが、一年でも長く明治・大正の香りを伝えつづけていただきたいと、心から願っている。  由緒あるものといえば、日光では日光彫に日光下駄がある。今回の取材のお土産は、日光彫の文箱《ふばこ》と日光下駄四足。文箱はA4サイズのワープロ原稿ジャストサイズで入るもので、村上豊八商店のご主人自らが、蓋の裏に彫刻刀で名前を彫ってくださった。日光彫の工芸品は、前述したように、東照宮の無数の彫刻を彫り上げた技術に由来する。  一方、日光下駄は、ふだんは草履をはく日光山内の神職・僧侶などが雪の季節に使うのに便利なようにと考案されたもので、草履に下駄の歯をつけて直接足が雪に埋もれるのをふせいだ、きわめてユニークな履物だ。見た目は、ふつうの下駄の台の上に草履のクッション部分が載っているようなものだが、発想的には草履に下駄の台と歯をつけた、というほうが正しいようだ。通常の下駄は、鼻緒を止めるための穴が台木の三カ所にあけられるが、日光下駄では雪の染み込みを防ぐため、後ろ二カ所は草履クッション部分と台木の間に挟み込んである。すなわち、ひっくりかえして裏から見ると、鼻緒の穴は一つしかあいていない構造で、なかなか芸が細かい。  この伝統工芸を伝えるのは、いまや山岡和三郎さんただひとり。そして、すべてが完全手作りであるため、一日に二足しか作れないという超希少価値の製品で、一般の土産物店を覗いてもどこにも売っていない。手に入れたければ山岡さんのご自宅に注文をして何週間か待つ、というスタイルだ。私が伺ったのは一九九三年の六月四日だったが、その二、三日前からようやく日光市の援助で後継者育成の講習をはじめたとのことで、自宅前の作業場には男性二名女性二名の見習いさんが修業に励んでいた。 (写真省略)  こうした日光のいろいろな側面を見てから東照宮へと足を向けると、ああ、なるほどなあと、その良さをまた再認識するものである。 本書は、'94年11月刊行のカドカワノベルズを文庫化したものです。 角川文庫『観音信仰殺人事件』平成9年11月25日初版発行               平成10年5月10日3版発行