血液型殺人事件 吉村達也 [#表紙(表紙.jpg)、横192×縦192] 目 次  プロローグ 開演十分前  第一章 血液型殺人講座  第二章 白い部屋の殺人  第三章 血液型別・無実の主張  第四章 二度目の招待状  エピローグ  あとがき [#改ページ]   ≪おもな登場人物と血液型≫   湯沢 康弘(76)………心理学者。A型(AA)。   湯沢 夏子(24)………テレビタレント。康弘の孫娘。AB型。   湯沢 泉美(21)………女子大生。夏子の妹。AB型。   先崎陽太郎(51)………広告写真家。A型(AA)。   星 真美子(30)………エッセイスト。B型(BB)。   大森 徹 (33)………青年実業家。O型。   峰村 準二(45)………精神科医。AB型。   烏丸ひろみ………………警視庁捜査一課刑事。A型(AO)。   フレデリック・ニューマン…同右。B型(BO)。   財津大三郎………………捜査一課警部。O型。 [#改ページ]   プロローグ 開演十分前 [#地付き]——港区赤坂、風月文化会館小ホール  [#地付き]心理学者・湯沢康弘教授講演会場  [#地付き]午後六時十分前          「ジャーン! 警部、お・ま・た・せ」 「おおっ、どうしたんだ、ひろみ……その頭は」  風月文化会館のロビーに飾られたスタンド花の陰からいきなり顔を出した烏丸《からすま》ひろみの髪型を見て、財津大三郎《ざいつだいざぶろう》警部はホールじゅうに響き渡る大声を出した。  なにしろ、日ごろは警視庁捜査一課の鬼警部と鳴らした財津である。ひとくちに大声といっても、その声量はハンパなものではなかったから、ロビーにたむろしている客がいっせいに彼をふり返った。 「もう、警部ったら、そんな声を出すからみんなに見られちゃって……恥ずかしいじゃない」  ひろみは咎《とが》めるように唇をとがらせた。 「しかし……それ……」  財津警部は、捜査一課のアイドルと呼ばれる烏丸ひろみ刑事のリーゼント風にまとめられた髪の毛を指さしたまま、なかなか次の言葉が出てこない。 「おまえの、あの長い髪は?」  やっとの思いで財津はたずねた。 「背中で波打っていた、あの豊かな黒髪はどこへいったんだ」 「見てのとおり、バッサリやっちゃったの」  ひろみは、いつもの黒のライダースーツに螢光ピンクのヘルメットを抱える格好でポーズをとった。  髪型が髪型だけに、視線をピシッと決めたときの迫力はなかなかのもので、財津警部は気圧《けお》されて、ついつい一歩二歩と後ずさりをした。 「それじゃあほとんど……暴走族『レディースなんとか』のメンバーのノリじゃないか」  財津は、『メンバー』という単語を、ちゃんと平坦なアクセントで発音した。 「そうかなあ」  ひろみはニコッと笑って小首をかしげる。  トレードマークのえくぼが、両方のほっぺたにキュッと現れた。 「まあ、その、……こういってはなんだが、おまえは顔が可愛《かわい》いから、その手のたぐいと間違えられはしないかもしれないが」  烏丸ひろみ刑事の保護者を自他共に認める財津大三郎は、おろおろした様子を隠せずに質問を畳みかけた。 「でも、どうしてまたそんな大胆な決断をしちゃったんだよ」  警部は責めるような嘆くような顔をして、ひろみを見つめた。 「ライダースーツにポニーテールという格好から、バサッと髪の毛をふりほどくポーズが好きだったんだぞ、おれは」  妻子持ちの上司がいうセリフではなかったが、ひろみは屈託のない顔で笑った。 「あ、そうだったの。ごめんねー、警部。でも、こういうヘアスタイルにしちゃいけないという職務規程もないでしょ」 「まあ……要は、警察官としてふさわしい髪型ならかまわないのだが」 「だったらいいじゃない。捜査一課の刑事としてみたら、このほうが少しは恐そうな感じも出てくるし」 「おれは、捜査一課の上司としておまえに話しかけているのではないのだ。個人的に話しているんだよ、おじさんは」 「おじさん!」  ひろみはプッと吹き出したが、財津は心配そうな表情でたずねる。 「とにかく、いったいどうしたんだ。なにかこう急に人生観でも変わったのか」 「人生観ですか? うーん」 「どうなんだ」 「さあねー」  ひろみは、ちょっと意味ありげに肩をすくめた。 「まさかおまえ、警視庁を辞めようっていうんじゃないだろうな。え、おい……そうなのか。そりゃ許さんぞ。断じて許さん。一身上の都合により、なんて辞表などクソくらえだからな。いまから言っておくが、おまえの辞表だけは何があっても受け取らない。受け取らんといったら受け取らんぞ、おれは」 「ちょっと、興奮しないでってばー。誰も辞めるなんていってないでしょ……あ、フレッド。遅かったじゃない」  息を弾ませる財津の肩越しに、ひろみは、にこやかに手を振った。 「ヤッホー……おいおいおいおい、どうしたんだよ、その頭」  金髪|碧眼《へきがん》の捜査一課刑事、フレッドことフレデリック・ニューマンも、ひろみの頭を見ておおげさにおどろいた。 「髪型が変わりましたねー、って歌がむかしあったけどさ」 「ジュリーでしょ」 「そうそう……で、なにか悲しいことでもあったわけ。失恋? それとも新しい男ができたとか」 「フレッド」  財津が部下の金髪を引っぱたいた。 「どうしておまえは発想が単純なんだ。髪の毛を切りゃあ、すぐ失恋だと考える」 「じゃ、警部はどう思ったんです」  はたかれた後頭部に手をやりながら、フレッドが聞き返した。 「一大事だよ、一大事」  財津は言った。 「失恋なんて甘いもんじゃないんだぞ、おまえ。ひろみの人生観が変わったそうだ。人生観が変わるということは、よっぽどとんでもない事件が身にふりかかったに違いない」 「相変わらずおおげさだなあ、警部は」 「でしょ?」  フレッドとひろみが意見を合わせる。 「どこがおおげさなんだ」 「だってね、ボス」  ひろみのほうを見やりながら、フレッドが財津に言った。 「髪型を変える理由が人生観の変化にあるなんて、出家するわけじゃあるまいし。どうせね、新しいボーイフレンドでもできたんですよ。で、彼の好みがこういうリーゼントなんだな。原因なんて、きっとそんな程度ですよ。まったく、このフレデリック・ニューマンという素晴らしい男がそばにいながら、灯台もと暗しの言葉どおり、きょうもひろみはふり向かない」 「なにいってんの」  ひろみは背伸びしてフレッドの頭をコツンとたたいた。 「大ハズレよ」 「で、正解は?」  フレッドがきく。 「おしえな〜い」  ひろみは笑顔で体を左右に揺らした。 「冷たいなあ。水くさいんじゃないの、そういうのって」  心理学者・湯沢教授の講演を聞くためにロビーで開演を待っている人々は、日本語ペラペラのハンサムだが軽薄そうなガイジンが、じつは国籍でいえばれっきとした日本人であるとも知らず、その様子を興味ぶかげに遠巻きにして見つめていた。 「とにかく、もうすぐ講演がはじまるから、ホールの中に入ろうよ」  話をそらせるように、ひろみが言った。 「そうじゃないと……なんだか私たち、注目されすぎてると思わない?」  三人が周囲を見回すと、次々と視線をそらす人々が目に入った。 「そうみたいだな」  財津は、バツが悪そうに咳払《せきばら》いをした。 「じゃ、中に入ろう」  その声と同時に、吸音効果の高いホールのロビーに、柔らかな声の女性アナウンスが流れた。 「本日は風月文化会館にお越しくださいまして、まことにありがとうございます。まもなく湯沢康弘教授の『血液型殺人講座』がはじまります。ロビーでお待ちの方は、お席のほうにお急ぎください。湯沢教授の『血液型殺人講座』、まもなく開演でございます」 [#改ページ]   第一章 血液型殺人講座     1  拍手とともに温かな色の照明に彩られた壇上に立った湯沢康弘教授は、真っ白なスーツの肩の辺りまで白髪を垂らし、胸には真っ赤なバラを差していた。  口元にたくわえた髭《ひげ》も髪の毛と同じように真っ白で、眼光も鋭い。なにか猛禽《もうきん》類の鷹か鷲《わし》をおもわせる目つきである。  配られたパンフレットによれば、湯沢康弘の年齢は、ことし七十六歳。  学生時代から心理学を専攻していた彼は、第二次大戦が勃発《ぼつぱつ》すると、軍の特命を受けて、心理戦の研究開発プロジェクトに大学の恩師とともに組み込まれた。当時二十代の彼は、チームの中で最年少のメンバーだった。  それがきっかけで、終戦後もしばらくの間は軍事心理学の研究に没頭し、その優れた成果は、国内よりもむしろアジア人種の心理研究に熱心だった米軍のために供用されていたという。  やがて時代の移り変わりとともに、彼の専門は犯罪心理学と呼ばれる分野へと変わっていった。  そして、昨今のように世相を反映した異常心理犯罪が増えてくると、新聞やテレビの求めに応じて湯沢教授がコメントを発表する機会も目に見えて多くなっていた。  したがって、犯罪心理学という地味な分野にありながら、湯沢康弘の特異な風貌《ふうぼう》はタレントなみに世間に知られていたのである。 「みなさん、ようこそおいでくださいました」  軽く咳払いをしてから、湯沢教授は切り出した。  ずっしりと重みのある声で、総白髪の風貌から連想されるような老人じみた声のかすれはまるでない。  彼が両手を載せた演台には、臙脂《えんじ》色の布が掛けられ、その上にマイクと水差し、それにタンブラーグラスが一つ置いてあった。 「本日の講演の題名は、『血液型殺人講座』……。題の付け方が、いささか興味本位に走りすぎたかな、とも思いましたが、おかげさまで超満員。じつはスタッフにうかがったところ、今回の講演に対しては予想を越える申し込みがあったそうで、この小ホールでは会場が狭すぎて申し訳ありませんでした、とお詫《わ》びを言われたほどなのです」  風月文化会館小ホールは、文字どおり小規模なホールで、学校の教室の四倍くらいの広さに座席数はおよそ二百。  そのすべてが埋まっており、空席はまったくない。最後列のさらに後ろには、立ち見の客が並んでいるほどである。 「また、題名が題名だけに、本職の刑事さんがたもお越しのようで、いささか緊張もしている次第でございます」  にこやかな笑顔の奥にきらめく鋭い視線が、客席後方に座った財津、ひろみ、フレッドの三人のところへ飛んできた。  前のほうの聴衆が、いちいちふり返らなくてもいいのにふり返る。 「さて、本日の演題であります『血液型殺人講座』とは……」  視線を、一般聴衆のほうに戻して、湯沢はつづけた。 「まさに題のとおり、血液型と犯罪パターンの関連性について、私なりの最新の研究成果を、みなさんにわかりやすく面白くお話ししてみよう、というものです」  講演慣れした湯沢は、目配りもしゃべるスピードも表情も完璧《かんぺき》である。 「ただし、犯罪パターンといっても、なにも実際に殺人を犯して投獄された人間の血液型を分析して、なんらかの結論を導くものではありません。私の行なった研究は、むしろ、ここにいらっしゃるみなさんのように、ごくごく普通の人々が対象になっているのです。  つまり、誰の心の中にも必ず潜んでいる潜在的な殺人者の要素を、血液型から推し量っていこうとする研究なのです。おわかりですか? あなたがどんな血液型をもっているかによって、あなたの中に住む殺人者の特徴をあぶり出していくことができる——そういう研究に、私はこのところ没頭してまいったわけです」  客席は好奇心でざわめいたが、本職の捜査官である財津警部は、湯沢の言葉に渋い顔をしていた。教授の論調は、やや興味本位にすぎると思ったからである。 「ところで本題に入ります前に、おそれいりますが、この中で自分の血液型をごぞんじの方は手をあげていただきたい」  聴衆のほとんどが手をあげた。 「では、その中でA型の方は」  およそ三分の一が手をあげた。 「へえ、ひろみがA型ねえ」  フレッドが言う。 「そうよ。見ればわかるでしょ」  片手をあげたまま、ひろみが答えた。 「見ればわかるでしょ、って、どういうふうにわかるんだよ」 「だって私って、A型の特徴そのままだもん。とにかく、キマジメ」 「どこが」  壇上の湯沢教授が手をおろすようゼスチャーをし、次にB型の人を求めた。  フレッドが手をあげた。 「やっぱりねー」  いかにも納得したようにひろみがうなずいた。 「なにが、やっぱりねー、だよ」 「ズバリ遊び人だから」 「Bが?」 「そうよ。とくにフレッドの場合は、B型しかありえないって感じじゃない」 「よくいうよ。そういう短絡的なクラス分けはやめてくれる? 謹厳実直、真面目《まじめ》一筋のB型だっているんだぜ。誠意の人だよ、ぼくは」  と、フレッドは口をとがらせた。 「さて、O型の方はどれくらいいらっしゃいますか」  財津警部が手をあげた。 「なるほどー」  こんどは、ひろみとフレッドが声をそろえてうなずいた。 「なにが、なるほどー、だ」  財津が低い声で問い返すと、若い二人はまた声をそろえた。 「O型は親分肌だもんねー」 「そうかそうか。ま、わかりゃいいんだ」  単純な財津は満足そうにうなずく。  さすがにAB型は数のうえでいちばん少なかったが、ひととおり聞き手側の血液型をたずねてから、湯沢教授は本題に入る姿勢になった。 「さて、いまおうかがいしましたように、ここにおられるほとんどのみなさんが、ご自分の血液型を知っていらっしゃった。しかし、それはいったい何のためでしょう」  教授は、笑みを含んだ顔で会場を見渡した。 「おそらく大半の方がこう答えるのではないでしょうか。交通事故に遭ったり病気で手術するときのために知っておかねばならない、と」  会場のあちこちで、頭を上下させる姿が見受けられる。 「もちろん、それはごもっともな意見です。あるいは自分のためのみならず、世のため人のために献血をするうえで血液型を知っておきたい。これもまた結構な心がけです。あるいは……」  そこで湯沢教授は、皮肉っぽく唇を歪《ゆが》めた。 「自分がほんとうに両親から産まれてきた子供かどうか、その真実を追究するために血液型を調べた人もいるかもしれない」  軽い笑いが場内を走った。 「ですが、血液型を知っておく必要性の最大のポイントはそんなところにあるのではないのです」  急に、湯沢教授の顔からも声からも笑いが消えた。 「自分と同一様式の精神構造を持った仲間と、そうではない人間とを、はっきりと区別する。これは人生を安全に快適に生きていくうえにおいて、非常に大切な知恵です。そのために、みなさんはおのれの血液型を知らねばならないし、また日常生活でつき合っている人々の血液型をも知らねばならないのです」  大胆な言い方に、聴衆は静まり返った。 「これはどういう意味か。まず、人間の分類について考えてみましょう」  教授は片方の足に体重を移し、少し体を傾けて話をつづけた。     2 「人間をある基準によって分類する方法は、いく通りもあります」  つややかな白髪を照明に輝かせながら、湯沢教授の口調は、しだいに独演調になってきた。 「いちばん簡単でわかりやすいのは、『国籍』別の分け方ですが、これはあくまで便宜上といった色合いが強い。たとえば一口にアメリカ人といっても、それこそ人種のるつぼですから、人種上の特徴を表す目的で『アメリカ人』と呼ぶ意味はまったくありません。  また、イギリス人とかフランス人、あるいはドイツ人などは呼び方としてもしっくりくるが、ルクセンブルク人、リヒテンシュタイン人、ギニアビサウ人、ブルキナファソ人、サントメプリンシペ人、バルバドス人、……などのように小国の名前に『〜人』をつけても、これまたピンとこないでしょう? なぜかといえば、あるていど数量的にスケール感がないと、『〜人』の概念が明確に浮かび上がってこないからなのです。  それよりは、純粋に『人種』で分けたほうが鮮明ですし、おたがいの仲間意識も国籍別よりもっと原点に根ざした強力なものになります。このほかにも分類方法として、文化社会的な特徴を基準として分ける『民族』という概念や、言語学的特徴で分ける『語族』という概念もあります。  このように、ある特徴をもった仲間ごとに人類を分けるやり方は、裏を返せば仲間はずれを作る分類方法でもあるわけで、古来人類が繰り返してきた愚かなる行為——戦争というものは、こうした人間の区分けを覚えたところから始まったといっても過言ではありません」  前のほうの聴衆がしきりにうなずいた。 「ところでこれらの分け方は、必ずしも性格的な分類とは一致しないことがわかります。たとえばラテン系は情熱的で、北方民族は忍耐強いなどといわれますが、ラテン民族でクールな人だっているわけですし、北方系で情熱的な人がいてもおかしくはない。そうでしょう」  湯沢教授は聴衆に同意を求めた。 「むしろ、性格面からみた人間の分類を大胆にやってしまうのは、文化人類学的な作業ではなく、占いの仕事であるのかもしれません。  四柱推命《しちゆうすいめい》、宿曜占星術、それから西洋占星術。こうした類《たぐ》いの占いは、いずれも生まれた日によって運勢や気質が定められるとするもので、逆にいえば、同年同月同日の同時刻に生まれた人は、みなまったく同じ運勢と気質を持つ、ということになるわけです。  これを大きな矛盾として占いを批判するか、これこそ宇宙の真理をついたものだと捉《とら》えるかは、みなさんの考えしだいですが、ことに女性のみなさんは、こうした星座占いが大好きのようですね。あなたは何座? さそり座、やっぱりね、などというふうに、あたかも誕生日の星座ごとに性格まで似通ってしまうという先入観念が、若い女性のみなさんの間などでは、常識にまでなりつつある」  湯沢教授は、会場に詰めかけた女性たちが隣どうしでひそひそと私語を交わすのを確認しながら、しだいに話題を核心に近づけていった。 「しかし、これらの分類方法よりもっと科学的で、それゆえに決定的な人間の分け方が存在する。それが血液型による分類なのです。  血液型というのは、ご承知かもしれませんが、赤血球表面の抗原型による特異性に基づく分類で、一九〇一年にオーストリアの医学者カール・ラントシュタイナーがABO型による分類法を最初に発見し、彼はその件で後年ノーベル賞を受賞しております。そして、一九一一年にドウンゲルンとヒルシュフェルトのふたりの医学者が、AB型も加えた四つの血液型を確立し、現在の基礎を築きました。もちろん、血液型にはこの他の分類方法もありますが、ここではもっともポピュラーなABO式についてお話ししましょう」  教授は軽く咳払《せきばら》いをして、水差しからタンブラーに水を注いだ。  その間、この白髪の老教授の一挙手一投足に、聴衆の注目が集まる。 「さて……」  水差しを元の位置に戻すと、教授はつづけた。 「日本人にもっとも多くみられる血液型はA型で、統計的には全体のおよそ三分の一強を占めるものと思われます。ついで多いのがO型。これも三十パーセント程度でしょうか。そしてB型が二割を超える程度で、AB型が一番少なく、私の手元にある調査データでは十パーセントを切る占有率になっております。  ここでちょっと基礎的なことを復習しておきましょう。高校の生物の時間などで習ったことをもうお忘れの方も多いと思いますのでね」  湯沢教授は、遺伝学的な見地からみた血液型の法則を簡単になぞった。  メンデルの法則で知られるように、遺伝子はそれぞれの形質について、一対の優性と劣性による対立遺伝子の組み合わせで、その表現型が決まってくる。  優性遺伝子にはアルファベットの大文字をあて、劣性遺伝子には小文字をあてて遺伝子記号とする。たとえば、有名なエンドウマメの実験では、草丈の高いエンドウマメを生じさせる優性遺伝子をTで、低いものを作る劣性遺伝子をtで表す。  これらの遺伝子の組み合わせを遺伝子型といい、この場合だと確率的にいって、TT、Tt、ttの三種類が1‥2‥1の割合で発生する。  そのうちTTとTtは背丈の高いものになるので、表現型としての背丈の高低の割合は3‥1になる。  ところが人間のABO式血液型の場合は、A・B・Oという三種類の遺伝子が組になって対立する複対立遺伝子の形態をとる。  したがって遺伝子型の種類としてはAA、AO、BB、BO、OO、ABの六通りが存在することになり、このうちAとBはたがいの優劣関係がないが、OはAにもBにも劣性である。  そうした優劣関係があるからこそ、AAとAOは血液型でいうところの『A型』になり、BBとBOは『B型』になる。また『O型』の組み合わせはOO一種類のみで、『AB型』もABという遺伝子の組み合わせからのみ生じる。  学校で習ったはずのこうした基礎知識をおさらいしてから、湯沢教授はつづけた。 「ちなみに、血液は全体重のおよそ十三分の一を占めるといわれ、このうち三分の一が失われると死に至ることになります。つまり、体重五十二キロの私を例にとりますと、およそ四キロの血液が体内に循環しており、そのうちの一・三キロが失われると死んでしまうわけです。献血での採取量が二百ないし四百ccであることを考えますと、意外と少ない量で人は死んでしまうものだな、という気がしますね」  その言葉を聞きながら、ひろみは、湯沢教授の白いスーツにワンポイント鮮やかなアクセントを放つ真紅のバラの存在が気になった。  あとでフレッドもまったく同じ予感——不吉な予感を、その白と赤のコントラストに見いだしたという。 「人体の生命を維持する重要な役割を果たす、その血液に」  湯沢教授はさらにつづける。 「四つの種類があるということは、これはすなわち、各々の血液型に影響された四種類の肉体的特徴が存在すると考えて、いったいどこに不自然があるでしょうか」  大勢の聴衆がうなずいた。 「もちろん、ABO式の血液型は——専門的になりますが——赤血球細胞膜表面の多糖鎖の構造の違いに由来するものですから、厳密には血液の総量をベースにした比率は持ち出せないのですが、ま、あえて大ざっぱな割り切り方を承知で申し上げますと、血液型が違うということは、人体の十三分の一に相当する部分の成り立ちが違うのだと、こう言えるわけです。  ……いかがですか。そう考えてまいりますと、その影響は決して軽視できないのがおわかりになりますね」  会場につめかけた主婦たちが、教授の言葉に感心して、またもやさかんにうなずいた。 「どうしておばさんたちは、ああいうふうにやたらとうなずくのかね」  財津は小声できいた。 「さあ……。でも、うちのおばあちゃんなんか、テレビに向かっても、しょっちゅううなずいているし……」  と、ひろみ。 「では、それぞれの血液型の特徴をどう捉えるか」  教授の声にいちだんと力が入ってきた。 「血液型に関してはさまざまな本が出ておりますが、そのすべてがA型はこういう性格、B型はこういう性格というふうに、性格づけで行なっている。むろん、これでもいいのですが、私はもっとわかりやすい表現法を用いたいのです」  いよいよ興味のポイントにさしかかったので、会場は私語もやみ、シンと静まり返った。 「じつは血液型の違いによって、人の行動基準とか価値判断が変わってくることに、みなさんはお気づきでしょうか。言い換えれば、何が人を動かすのか、人を支配する要素は何か——これが血液型によってまったく異なってくるのです」  湯沢教授は言葉を切り、演台に乗り出すような格好で会場全体を見回した。 「まあ、前置きはこれくらいにして、ただいまからズバリ、それぞれの血液型の特徴をひとことで申し上げますから、よくお聞きください。これは簡潔にして核心をついたもので、必ずや、みなさんに納得していただける内容のはずです」  教授は大きな咳払いをひとつし、水が満たされたタンブラーに手をかけた。  が、思い直したようにそれには口をつけず、ふたたび両手を演台の上についた。     3 「まずA型」  湯沢教授は声を張り上げた。 「ズバリ申し上げます。A型の人間は≪責任感≫というものによって動かされます」  なるほど、とか、ほう、といった声があちこちであがった。  そうなのよねー、とひろみがうなずく。 「詳細はあとでご説明するとして、とりあえず全部の血液型についてふれます。つぎにB型。B型の人間は≪感性≫によって動かされます」  いいこというねえ、とフレッドが感心した。 「O型はどうか。O型の人間は≪信念≫によって動かされます」  ご明察、と財津がつぶやいた。 「そしてAB型。AB型の人間は≪論理≫によって動かされます」  そこで教授は口をつぐみ、ほんの十数秒ほどだが、会場の聴衆に感想を勝手に話し合う時間を与えた。 「もういちど繰り返しましょう」  間合いを見計らって、湯沢康弘は、また口を開いた。 「何がその人を動かすか——つまり、その人を支配する最も重要な要素を血液型別に挙げますと、A型は≪責任感≫、B型は≪感性≫、O型は≪信念≫、そしてAB型は≪論理≫と、こうなります」  教授は得意げに会場を見回し、鋭い視線のままニヤッと笑った。 「どうです。ズバリ当たっているでしょう」  ピッタリよー、という黄色い声があちこちであがった。 「たとえば、肉体的にも精神的にも非常な困難を伴う仕事を人に頼むとします。そのとき、相手の血液型がわかっていれば、おのずから頼み方の方法も変わってくるわけです」  湯沢教授は具体例に入っていった。 「A型人間には、その人が負う責任の重大さを強調するのがいい方法です。相手が強迫観念をおぼえるくらいに、真剣かつ深刻な態度で迫ってください。A型人間は、そのほうが燃えるのです」  会場のどこかで賛同の拍手があがった。 「と申しますのも、A型人間を支配する要素には、≪責任感≫と同時に≪道徳観≫というものがあるからです。それゆえ、A型人間は与えられた責任を逃れることに、たいへんな苦痛を覚えます。これが、のちに触れるAB型人間との似て非なる部分であります。ですからA型は、責任感を感じれば多少納得がいかない部分があっても、目をつぶってやってしまうところがあります」  教授は会場の反応に満足しながら、先をつづけた。 「A型についてはまだまだ触れるべき内容がありますが、他の血液型との比較の際にまた出てきますから、つぎにB型へまいりましょう。  B型人間は理屈では動きません。これが大きな特徴です。何かのひらめきを感じないと動かないのです。したがって、B型人間に物事を依頼する際には、頼む側の表現力も大事になってきます。感性が非常に鋭敏なB型を動かすには、こちらも鈍感ではダメということです」  そうだ、B型人間は芸術肌なんだよ、とフレッドが聞こえよがしにひとりごとをつぶやいた。 「A型との比較で申しましょう。『あなたはそんな大変な仕事をなぜ引き受けたのか』という質問を受けたとき、A型は『これは自分がやらなければならないと思ったからです』というように、義務感をもって答えるケースが多い。ところがB型に同じ質問をぶつけると、『これは私の仕事なんだって、パッと思っちゃったのよね』というような答が返ってきます。  ついでですが、B型人間はこのように自分の心理の動きを表現するのに、『パッと思った』とか『ビビビッと直感で』といったふうに、きわめて感覚的な言い方を用います。これは、心の中の状態をそのまま見事に言い表しております。つまり、B型人間の行動基準には、まさに言葉では説明できないものが多いのです」 「わかんないやつ」  といって、ひろみはフレッドをにらんだ。 「また、いかに大変な仕事であっても、本人の裁量で自由にふるまえる部分が多いことが、B型を説得する絶対条件になってきます。B型人間は窮屈さが大嫌いです。とりわけ、不特定多数のために作られたルールに右へならえで従うことを、まるで人間性でも失われてしまうかのように嫌います。自由の匂《にお》いがどこかに嗅《か》ぎ取れないと、B型はなかなか重い腰を上げません」 「早い話が、極端なわがままということじゃないのか」  財津警部はフレッドを白い目で見た。 「そして根本的にB型は、陽性の明るい環境のもとで力を発揮するネクラ人間であることも覚えておいてください」  教授の言葉にクスクスと笑いがあがった。 「同じネクラ人間でも、A型の場合は、他人から性格が暗そうにみられても、それは本当なんだから仕方がない、と開き直ってしまうところがあります。でも、B型のネクラは、つねに明るいフリをしていないと不安です。したがって、たとえB型の人間が落ち込んでいても、それに合わせてジトーッとしたコミュニケーションをとってしまっては、こちらの同情も裏目に出て、あっさり嫌われたりします。  ことにA型人間とB型人間は、見事なまでに精神構造が違いますから大変です。その違いたるや、おたがいの理解をはるかに超えていると申し上げても過言ではない。しかも、こうした極端な気質の違いからくる誤解が生じた場合でも、A型は相手に納得のいく説明を求めようとするが、B型はそうした面倒な相互理解作業をしなければならないことにイラつきます。『いちいち言葉で説明しなきゃダメなら、いっしょにいないほうがマシ』というふうになってしまうんですね」  ひろみとフレッドが、複雑な表情でおたがいの顔を見合わせた。 「つぎにO型にいきましょう。O型人間に困難な仕事を頼むときは、これはもう、あなたの信念を自信を持って話し、それに共鳴してもらうしかありません。よろしいですか、ここがポイントですよ。あなたの信念を≪論理的に理解≫してもらうのではなく、≪心情的に共鳴≫してもらうのです」  頭じゃなくて肌でわかりあえっちゅうことだ、わかったかおまえら、と財津が部下たちにささやいた。 「O型は大陸的なスケールを持ったおおらかな性格が特徴です。なるほど、たしかにA型のように細かなことにはこだわりませんが、どこかに一本|芯《しん》が通っていないと首をタテには振りません。頑固という点では、AよりもむしろOなのです」 「そうだっ」  財津が叫んでひときわ高い拍手をした。 「親分肌といわれるO型人間の特徴は、仕事などでA型やB型の人間と組ませたときに、いっそうよくわかります。O型の上司に優秀なA型の部下がつくと、安心して仕事を任せることができ、まさに親分と参謀という名コンビをつくることができるでしょう」 「うん、うん」  と、財津は烏丸ひろみの横顔を見ながらしきりに感心する。 「同じ優秀でもB型の部下と組んだときは、O型はB型特有の長所を引き出させるために、ある程度相手を自由に泳がせます。さきほども申し上げましたが、B型人間にとっては自由さこそがエネルギーの原動力であり、感性がそのはずみ車となっています。したがいまして、一見放任主義のようなO型のやり方は、B型にとっては願ってもない指導方針といえましょう。  が、B型が甘えて調子に乗りすぎると、O型はとたんに冷たくなる。O型の太っ腹というのは決して無制限の優しさではない。むしろ、懐を深く構えておきながら、相手の出方を見るようなところがあります。そして、自分の信念に反する行為に対しては、O型は強烈な厳しさをもって臨みます」  財津警部は、フレッドの耳元で何度もわざとらしい咳払《せきばら》いを繰り返した。 「最後にAB型人間を説得するときはどうかと申しますと、これは筋道をたてて仕事の必然性を説くのがベストでしょう。あれ、論理的な体質はA型人間の特色ではないかと思われる方もおられるかもしれませんが、A型は論理的に正しいと思っても、自分に責任が与えられないとあんがい平気で物事を放り出します。  ところがAB型のほうは、論理的に納得できればそれでOKなわけで、非常にバランス感覚に富んだ判断を下します。が、裏を返せば、たとえ責任を押しつけられても、自分の頭の中できちんと理屈で割り切れなければ知らないよ、というふうにもなる」  湯沢教授は、胸元に差したバラの花の位置を無意識に直した。 「そんな具合ですから、なかなかウンといわない相手を説き伏せる場合、A型人間に対してなら、その責任感の強さをくすぐれるし、B型人間には情感に訴えられる。またO型人間には信念と信念のぶつかり合いという手段に出ることも可能で、いずれも日本人的な感覚での『お願い』が功を奏する余地があります。  しかしAB型人間は、平均的な日本人に比べると、どこかドライな印象がぬぐえません。バランス感覚が優れており、話のものわかりもよいのですが、それでいて、ある意味でもっとも扱いにくいのがAB型なのです」  この講座はけっこう面白いじゃない、という声が会場のそこここで聞かれた。  が、同時に、殺人講座と題した部分に早く話を進めてほしいというのも、聴衆の正直な感想だった。 「さて、これまで述べてきたのは、どちらかといえば長所ばかりで、短所についてはふれていませんでした。では、ざっと血液型別の短所のほうもお話ししておきましょう。いや、これは短所というより、むしろ『自分でもわかっているのだが、やめられない』癖のようなものと思ってください」  湯沢教授は、きわめて簡潔かつ皮肉っぽい表現で、各血液型人間の、欠点とも言い換えられる癖を指摘しはじめた——     4  湯沢夏子という二十四歳のテレビタレントは、器用さを買われて最近めきめきと頭角を現してきた。  もともとはアイドル系の歌手としてデビューしたのだがパッとせず、持ち前の愛嬌《あいきよう》を活かしてバラエティ番組への出演をメインに切り替えたところ、あっというまに人気が出てしまった。  もともと美形といってよい整った顔立ちであるにもかかわらず、平気でバカをやれて、性格も明るくほがらかな夏子は、アイドル歌手などという旧態依然とした殼を脱したとたんに、生き生きと輝きはじめたのである。  広告の代理店調査による好感度ナンバー1タレントにも選ばれ、CM出演の依頼も続々押し寄せ、テレビのバラエティ番組でも、ゲスト出演者からレギュラー出演者へ、そしてメインの司会役へと三段跳びの躍進を遂げた。アイドル歌手時代にはさっぱり売れなかったCDも、超人気タレントとなってからは、余芸のような感覚で発売した楽曲でも、たちどころに数十万枚のヒットを記録した。  まさに順風満帆、彼女の未来は無限に開けているようであった。  そんな夏子にも、暗い影はある。  幼いころに両親を事故で亡くしており、三つ年下の妹・泉美《いずみ》とともに祖父の男手ひとつで育てられてきた、という生い立ちの苦労がそれだった。  夏子の陽気で社交的な性格も、実際のところは、両親のいない淋《さび》しさをまぎらわせるために、無理をしてでも、いつもほがらかにしていようと努力してきた結果にすぎなかった。そうした小さい頃の習慣がいつのまにかすっかり身についてしまい、意識しなくても周囲に笑いをふりまくような性格になっていたのである。  だから湯沢夏子の明るさとは、じつは暗い孤独感から生まれてきたものといってもよかった。  そして、孤独を恐れる性格は、そのまま甘えっ子というイメージを彼女に与えることにもなった。ちょっとした『悩み』があるとすぐに誰かに相談をもちかけ、頼り、すがり、甘えきってしまうところがあるのだ。  相談された側が同性である女性の場合ならともかく、男だと、それが即座に勘違いにつながる。  テレビ画面での夏子は、無邪気さが強調されるあまり子供っぽくみえることも多かったが、悩み事を打ち明けるときの夏子は、意外なほど暗く、そしてゾクッとする色気をたたえていた。  ここに、多くの男たちが勘違いをした。  そこからくるさまざまなトラブルは、本来ならば芸能マスコミのターゲットとなるところだったが、湯沢夏子に関するスキャンダルめいた記事はいっさい表に出なかった。  理由は二つ。  昨今まれにみる好感度タレントを妙な噂《うわさ》話で汚したくないと思っているのは、夏子の所属事務所ばかりでなく、彼女が出演する全テレビ局、そして彼女のCM起用を仕掛けている大手広告代理店の共通した希望でもあった。そうした業界関係者の思惑に守られて、ワイドショーの取材の矛先が夏子に向かないことが理由の一つ。  そして夏子のスキャンダルが取り沙汰《ざた》されないもう一つの理由は、彼女の祖父で、日本を代表する心理学者として高名を馳《は》せる湯沢康弘の存在によるものである。  夏子の祖父は、心理学者である一方で、マスコミに対する協力姿勢も非常に積極的だった。その風貌《ふうぼう》からすると徹底したマスコミ嫌いのようでいて、じつはその逆だった。  凶悪犯罪や異常犯罪、あるいは社会や家庭の歪《ゆが》みを反映した事件などが起きたとき、テレビや新聞各社は、こぞって湯沢康弘のコメントを求めに走った。彼はじつに大衆受けをする、わかりやすくて鋭いコメントを放ってくれるからである。  こうした湯沢教授の協力姿勢がマスコミ各社で高く評価されている以上、その孫娘の夏子をスキャンダル報道の餌食《えじき》にすることは到底できなかった。  そうした二つの理由によって、タレントが最も恐れるプライバシーにかかわる報道から守られている夏子だったが、しかし、いま彼女は、その私生活において最大の危機に見舞われていた。  彼女が現在いる場所は、祖父の『実験室』だった。  閑静な武蔵野の街、小平《こだいら》市の表通りから少し裏に入った住宅街——その一等地に、竹林に囲まれた和風邸宅がある。  これが湯沢康弘の自宅だったが、政治家もうらやむ広大な敷地の中に、母屋からだいぶ距離をおいて、コンクリート平屋建ての離れが作られていた。  外壁には何の装飾も塗装も施さない、愛想がなさすぎるくらいにシンプルな直方体のコンクリート打ちっぱなしの建物で、間口はおよそ八メートル、奥行きもほぼ同じくらいで、高さは一般的な平屋よりもだいぶ高い感じがする。  南側を向いた壁には、直径一メートルはあろうかという大きな円形の窓が二カ所に設けられ、建物への出入口はその真裏の北側にあった。  そして、東西の壁には窓も何もない。  実際に中に入ってみると、建物は二つの部屋に二分されており、それぞれが間口二・七メートル、奥行き五・四メートル、高さ二・七メートルのこぢんまりとした造りになっている。  湯沢教授は、この二部屋の内装を目的に応じて随時変更しながら、さまざまな心理実験のために使用していた。  たとえば、あるときは部屋の内側に吸音板を貼《は》りめぐらし、『音の無反射状態で行なわれた討論会は白熱するか』という変わった実験を企ててみたり、またあるときは双方の部屋に一人ずつを一週間住まわせて、『自白に導きやすい取調室のインテリア』についての考察を行なったりする。さらにあるときは、二つの部屋を『欲望の部屋』『無欲の部屋』とそれぞれ題し、『ありとあらゆる人間の欲望に関する相対性理論』という、余人にはなかなか理解しがたい研究に没頭したりもする。  そうした実験室の片方の部屋に、いま湯沢夏子は、ある人物によって監禁されていた。  祖父の湯沢康弘教授は、こんどはどんな実験を試みるつもりなのか、最近になって部屋の内部を純白に塗り直していた。天井から壁から床に至るまで、その内側すべてが真っ白に塗りつぶされているのである。  そして、部屋の中には何ひとつ家具らしきものが置かれていなかった。  彼女の右手の壁の妙に低い位置に、八角形の時計と、それから縦長の額縁に入った風景画が掛かっている以外は、椅子《いす》ひとつ、クッションひとつない。  照明すらないのである。  したがって、部屋の中を照らす光源といえば、日中は大きな丸窓から差し込んでくる日射しに、そしていまのように夜ともなれば、庭先の水銀灯の明かりに頼るしかなかった。その薄暗いモノクロームの世界で、湯沢夏子は、はたしてほんとうに自分が死の危機に直面しているのかどうか、懸命に考えていた。  いまからおよそ二時間前に彼女をそこに監禁した人物の言葉を信じるならば、一歩でもその場を動こうとすれば、夏子の命は『自動的に』奪われてしまうというのだ。  実際、彼女の首には太い金色の鎖が幾重にも巻きつけられており、その鎖の片方の先端は、部屋を対角線上に走る頑丈な梁《はり》に結ばれていた。そして後ろに回された両手首は、別のロープでしっかりと縛られている。  鎖の長さにはあまりゆとりがないので、部屋の中を自由に動き回ることは無理だった。たとえば、北側の角にあるドアのところへたどり着くのも、とうていできない相談と思われた。  だが、いくら梁に結ばれた鎖が夏子の首に巻きついていても、両足がしっかり地についた状態であるかぎり危険はなさそうだ。この金色の鎖が、何か機械的な仕掛けによって梁のほうへ巻き取られていくようなことさえなければ、首が絞められる心配もないと夏子は思った。  それでも彼女は慎重を期して、およそ二時間もの間、部屋の真ん中から一歩たりとも動こうとはしなかった。  AB型の夏子は、ものごとをすべて論理的に解釈する。生命のピンチに陥っても、その習慣は変わらなかった。  彼女は考えた。  自分の首に鎖を巻きつけて出ていった人物は、ドアは閉めていったが、鍵《かぎ》は掛けていかなかった。  これはどういうわけだろう。  夏子が絶対にこの部屋から脱出できないというだけでなく、自分が立ち去っても、夏子の命は自分の思うままに操れる、という確信があるに違いない。そうでなければ、こんな中途半端な状態で出ていくはずがない。  まず、夏子はそう考えた。  その気になれば、身体の自由を奪われた夏子をすぐさま殺すことも簡単にできたのに、その人物は、思わせぶりな言葉を残して部屋を出ていってしまった。  これには何かの罠《わな》があるはずだ。  必死に考えをめぐらせながら、夏子は直径一メートルの丸窓から庭を眺めた。  水銀灯の明かりに照らされた日本庭園ごしに母屋の方を見ようとしても、枝ぶりのよい松や、その他の樹木に遮られて見通しが利かない。  祖父の康弘は、車を使ってもここから一時間以上はゆうにかかる赤坂のホールで講演を行なっている最中だ。  お手伝いの女性も帰ってしまっていないから、一千坪という広大な敷地の中にいるのは、鎖につながれた夏子ひとりである。  きょうは、売れっ子の彼女にとって何カ月ぶりかにとれた休日である。だから、急用でもないかぎり、マネージャーが彼女をつかまえるためにあちこちを捜し回る可能性もなかった。  こうなったら、祖父が帰ってきて彼女を発見するまで、じっと待つしかなさそうだ。  秋も終わりに近づいているためか、暖房のない実験室の中は日没とともに急速に冷えこんできた。小平市あたりになると、都心よりは一、二度気温が低い気がする。  夏子はピンクのセーターに黒のスカート姿だったが、コートは玄関先のハンガーにかけておいたし、靴も脱いでいるため、足先からゾクゾクと冷えが這《は》い上がってきた。 (どうしよう……)  なおも夏子は考えた。  彼女を縛り上げた人物は、一歩でもその場を動いたら夏子の命は自動的に奪われる、と言った。それはたんなる脅しなのか、それとも事実を警告しているのか、そこが問題だった。  けれども、脅しであるはずがない、と夏子は思った。  たんに口先で怖がらせているだけならば、もしも夏子がこの部屋から脱出したときに、彼女の口から監禁者の名前が明らかにされてしまうではないか。当然、相手はそんな状況は望まないはずだ。だから、これは脅しではない。一歩、この場から動けば、何か特別な状況が起こって自分の命が断たれてしまう公算が強い。  だが、不思議な点に夏子は気がついた。  たとえ警告が事実でも、夏子がじっとしたままだったら、いずれ祖父の湯沢教授が帰宅してこの異状に気づくはずである。そうしたら、けっきょくは犯人の名前が祖父に告げられてしまうではないか。  この点を犯人は見落としていたのか。それとも、絶対に夏子が生きて祖父と会うことはないと確信しているのか。それとも……。  その先が、夏子には読めなかった。  夏子は、自分の首に巻きつけられた金色の鎖の伸びていく先をじっと見つめた。 (この鎖は私を束縛すると同時に、いざというときには、私を殺す道具として使われるのだろうか。それ以外に、私を殺す道具なんてこの部屋には……)  真っ白な部屋をぐるりと見回す。 (……ほかに何もない。まさか、あの時計や額縁の絵に、なにか特別な仕掛けがあるわけでもないだろうし)  夏子は、八角形の時計をじっと見つめた。  ふつう掛時計というものは、大人の身長よりも高い位置にあるものだ。だが、その八角時計はそうではなかった。常識的な位置よりもずっと低い場所に掛けてある。隣の額縁との位置関係もアンバランスだった。  白木の枠をもった八角時計は、細い二本の針と細いローマ数字の文字盤をもっていた。だが、いま拘束されている場所からだと、夏子の視力ではその時計が正しい時刻を示しているかどうかハッキリわからない。  夏子は、テレビなどに出演するときはコンタクトレンズをはめていたが、公的な場所に出ないときはメガネをかけている。しかしそのメガネは、犯人に縛られるときに外され、どこかに持ち去られてしまった。  だから、彼女の目には二重にかすんだような映像でしか時計が見えていない。文字盤のローマ数字は灰色のかたまりにしか見えず、かろうじて二本の針が織り成す角度がわかるていどだった。  そのぼやけた形から判断すると、どうも時計は正しい時刻を示していない気がした。では、時計は止まっているのか。止まっているのだとしたら、あれは時計の形をした何か別のものなのか。……いや、それは考えすぎか。  額縁のほうは、やはり視力が悪いせいか、何の絵が描かれているのか夏子にはよくわからない。だが、それが夏子の行動を制限する役割を果たしているとも思えない。  めまぐるしく働いた夏子の思考は、やがて元の結論に戻ってきた。 (私を殺す道具があるとしたら、この鎖しか考えられないわ。だけど、どういうやり方でこの鎖が私の首を絞められるのだろう)  彼女の体は決して不安定なバランスにおかれているわけではなかったし、この鎖の一端が結びつけられている梁はガッチリと固定されており、それが上下したり、ウインチのように鎖をくるくる巻き取ったりする装置が仕込んであるとも思えない。  とはいえ、夏子の不安は収まらない。  このままあと数時間じっとしていることは可能だったが、その間にもヒタヒタと死が忍び寄ってくる気がしてならない。  犯人の言葉に束縛され、夏子が何の行動も起こさないでいることこそ、相手の狙《ねら》いだったのではないのか。こんどは、そんな気がしてきた。  心理学者の孫が、必死に犯人の心理を読み取ろうとした。 (あ……)  夏子の脳裏にひらめいたものがあった。 (毒ガス……ううん、違うわ。火事。……そう、火事!)  全身にサーッと冷たいものが走った。 (この場を動くと死ぬというふうに脅しておいて、この離れに火をつけるんだわ。なんで、いままでこんな単純なことに気がつかなかったのかしら)  その方法に思い当たったとたん、夏子は焦った。これまでの冷静さが、あっというまにどこかに消えうせてしまった。 (やっぱり動かなくちゃ。逃げるしかないんだわ)  では、どうやって。  夏子の視線が、慌ただしいスピードで白い部屋の中を走る。  丸窓は開閉できないから、脱出路は外開きになったドア一つしかない。だが、いまの状態では物理的にそこまでは行きつけそうになかった。  窓の方はどうか。  夏子は正確に部屋の中央部に座らされていたが、鎖が結びつけられているポイントは、梁の中央部ではなく、やや窓寄りの位置である。だから、鎖の長さが許す範囲ギリギリまで窓に近寄れば、腕はロープで後ろ手に縛られていたが、脚をふりあげればガラス窓に届きそうだった。こういうとき、身体の柔らかさに自信があるのは助けになる。  とるべき手段はひとつしかない。あの丸い窓ガラスを蹴破《けやぶ》るのだ。  ガラスは頑丈そうだったし、靴は離れの玄関で脱いでいるので、素足のままで蹴破るしかない。実行に不安はあったが、ガラス窓を割って大声を出せば、距離はあるけれども隣家の住人の耳に達する可能性は大いにある。  一刻も早くこの場から助け出してもらうには、そうするしかなかった。そのさいに足の裏をガラスで切ろうと、たいしたことではない。  夏子は決心した。  まず、彼女は身体をひねることによって軽く鎖を引っ張ってみた。それが何かの仕掛けと連動していないのを確かめるためである。  大丈夫。鎖がスイッチの役割を果たしているのではなさそうだ。  夏子は、行動を開始した。  一歩一歩慎重に、現在位置から窓辺の方へにじり寄る。両腕を背中のほうで縛られているため、歩くのにもバランスがとりにくかったが、ともかく、いまのところ取り立てて周囲の状況に変化は起こらない。  夏子はさらに歩みをゆるめ、まさに一センチずつ進むような慎重さをもって、丸窓に接近した。  首に巻かれた鎖がチャラと金属的な音を立てる。  彼女はギクッとして立ち止まったが、まだ異状は起こらない。深呼吸をひとつして、さらに夏子は右足を踏み出した。  そのとき、夏子は壁に掛かっている時計にもういちど目をやった。そして、その隣に掛けてある風景画にも……。  ともに、この部屋に存在するたった二つだけのインテリアである。  夏子は、ぼやけた映像としか映らなかった時計に向かって、目を細めるようにしてみた。すると、さっきよりは文字盤や針の角度がはっきりと見えるようになった。額縁の絵も、何が描かれているのかがようやく理解できた。が……。 (あれ……?)  彼女の頭の中に疑問がわいた。 (どうしてこうなってるの?)  夏子は、さらに時計をよく見ようとして、窓辺に向かっていた歩みの方向を変えて、少しだけ右手の壁際へと近寄った。 (あ!)  つぎの瞬間、心の中で夏子は叫んだ。 (大変だわ)  彼女の論理性に富んだ頭脳は、たちどころにして犯人の罠《わな》を見抜いた。  反射的に、首を守ろうとして手を上にもっていこうとした。が、後ろ手にロープで縛られているため、強い抵抗感が痛みとして走っただけで自由が利かない。 (だめ……元の場所に戻らなくちゃ!)  夏子はあわてた。しかし、遅かった。  つぎの行動に移る前に、激しい衝撃が彼女を襲った。  あっというまに金色の鎖が勢いよく首にからみつき、夏子の体は宙吊《ちゆうづ》りになった。まさに、ほんの一瞬の出来事だ。 (く……くるしい)  猛烈な勢いで首が締めつけられる。  ガーン、という音にならない音が頭の中で響き渡る。 (うっ、うっ、うっ)  声を出そうとするが、うめき声すら出ない。  強烈な苦痛だ。全身が痙攣《けいれん》しはじめるのが自分でもわかった。  だが、その苦痛も長くはつづかなかった。  まもなく、これまでの痛みと苦しみが嘘《うそ》のような平穏が訪れ、遠くのほうから虹色の光が近づいてくるのが感じられた。  死ぬときは暗黒世界へ堕ちていくと思っていたのに、いま夏子は輝くばかりの光に包まれる自分を感じていた。  音楽……ハープの調べにも似た穏やかなメロディすら耳元に聞こえてきた。そして、花の甘い香りも。 (死ぬって……こういうことだったのね)  夏子は、にっこりと笑った。  最後の最後で微笑《ほほえ》みを浮かべられる幸せを感じながら、湯沢夏子は二十四歳の生涯を閉じた。  そして静けさを取り戻した純白の部屋では、八角形の掛時計が、なにごともなかったかのように|正しい時刻《ヽヽヽヽヽ》を刻みつづけていた。     5  赤坂の講演会場の最後列に陣取った財津警部は、手帳をひろげて何やら熱心にメモをとりはじめていた。 「やだなあ、警部」  それを横目で見たひろみが言った。 「いちいち、そうやって講演内容を手帳に書き込まないでくれます。なんだか、ガリ勉の生徒みたい」 「そうはいってもだな、湯沢教授の話にはうなずかされる部分が多いじゃないか」  財津はかまわず鉛筆を走らせた。 「いやあ、知らなかったな、血液型がこれほど性格と一致するとは」 「あーあ、ひろみ。この調子じゃ、明日から大変だぜ。犯人の取り調べをするのにも、まず血液型から聞き出したりして」  と、フレッド。  しかし、すでに財津大三郎警部の手帳には、湯沢教授が指摘した各血液型の持つ性格的な欠点が羅列してあった。 [#ここから1字下げ] ・A型はつねに自分の慎重さに自信を持ち、安全な道を歩んでいるおのれの姿をつねに確認して安心する。それでいて、周囲に対しては自信のほどを隠し、悲観的な見方を捨てきれないふうを装い、万一の失敗に備えた予防線を張り巡らせるのを忘れない。  ところが、その『万一の失敗』に実際に遭遇すると、ミスの内容よりも、失敗したことそのものに動転してしまう弱さがある。  卑近な例を挙げれば、ゴルフでの空振り、スキーでの尻餅《しりもち》、英会話でのトチリ——こういった、一見格好の悪いミスを恐れるがゆえに、『つぎにつながる失敗のしかた』が下手である。 ・B型は世間的な常識がきちんと備わっているにもかかわらず、あえて非常識な行動を楽しむところがある。そして、自由気ままさが自分の持ち味だと位置づけることにより、他人との調和という面倒な気配りを逃れる便利なテクニックを、なかば本能的に会得している。  したがって、人の面倒見がいいことではO型と双璧《そうへき》にありながら、あくまでそれは自分に余裕がある場合のことで、文字どおり『面倒な』ことになりそうだと、突然奔放さを発揮して現実から逃げ出してしまう傾向がある。 ・O型はスケールの大きな人柄の持ち主である。そして、ものごとをつねに楽観的にみていくたくましさがある。が、その反面、本質は意外にもとても繊細でナイーブである。  ところが、えてして強気でタフなタイプに見られてしまいがちで、そのイメージとのギャップに本人が苦しむ場合が多い。  じっさい、O型は自ら作り上げた強い自分のイメージによって、自身を鼓舞していくところがあるのだが、ときとしてその自己暗示が負担となり、A型人間とは別の意味で、弱味を他人に出せなくなる。  O型人間にとって必要不可欠なのは、同性であれ異性であれ、ピンチに陥ったときの弱音を正直に吐露できる相手の存在であり、これがないと挫折《ざせつ》の際のダメージは、他の血液型以上である。 ・AB型は論理で動く。しかし、このAB型人間の論理性というのは、論争して相手を言い負かすような攻撃型のものでは決してない。他人の意見はじゅうぶんに尊重するのである。尊重はするが、自分はそれに従わない、という強情さがある。  理論武装では誰にも負けない自信があり、人の意見に安易に同調することを嫌い、自分独自の視点を保ちつづけることが、AB型人間の存在意義でもあるのだが、この理論武装に自信をなくすと、そこからなし崩しにダメージを受けていくことがある。  A型人間は、恥をかくことをおそれるが、AB型人間は能力面で他人に負けることを極端に嫌う。そのため、能力面での敗北という現実を認めたくないために、ときとして意図的に、空想と現実の混同を生じさせてしまうことがある。 [#ここで字下げ終わり] 「さて……」  話の一段落をつける意味で、湯沢教授は大きな声を出した。 「こうした血液型ごとの性格的特徴がはっきりしてまいりますと、ついつい私の専門分野である犯罪心理学とからめていきたくなってまいります」  いよいよ本題ということで、聴衆が居ずまいを正した。 「人々が犯罪に走るとき、血液型別にみて、何か際立った特徴のようなものが出るのでしょうか。これを類型化して整理することは可能なのでしょうか。——これから、いよいよ本日のテーマ『血液型殺人講座』の本題に入ってまいりますが、ここから先は一般論では面白くありません」  湯沢教授ははっきり言い切った。 「A型人間はこんな犯罪を犯しやすいとか、B型人間はこういう傾向があると申し上げたところで、これまでお話しした血液型別性格判断と異なり、話がかなり特殊な設定ですから、ともすれば絵空事になってしまう。そこで、以下の話は全部実名入りでやることにしたいと思います」  ほとんどの聴衆は、教授が言い出したことの意味を理解できずにいた。  ひろみたちもそうだった。 「警部……実名入りで話すって、どういうことなんでしょうか」  ひろみは少し不安な顔で財津にきいた。 「うーん」  警部は腕組みをしてうなった。 「まさか、『スポーツ選手の誰それはA型だが、彼が殺人を犯すときはこんな殺し方を好み、歌手でB型の誰それは性格的に異常犯罪を犯しやすい……』なんていうような仮定をやるわけじゃないだろう。それだと名誉|毀損《きそん》になりかねない」 「でも、実際に逮捕拘留中の犯罪者を実名で引き合いに出すのも問題でしょう」  と、フレッドも首をかしげた。  演壇上の湯沢康弘教授は、そうした聴衆たちの反応を楽しむかのように、しばし沈黙を保っていた。  そして、つぎに手元のタンブラーグラスに視線を移し、そそがれた水をじっと見つめた。やがて教授は、グラスの脚の部分を右手に持ち、ゆっくりとした動作でそれを口元に持っていった。 「ねえ……ちょっと」  ひろみが、フレッドの袖《そで》をつかんだ。 「考えすぎかもしれないけど」 「なんだよ」 「あの水差しを見ていると、この間の事件を思い出しちゃって」 「トリック狂殺人事件か」 「そう……なんかイヤな予感しない?」 「する」  そう答えたのは、フレッドではなく財津警部だった。  ひろみがふり返ると、警部はメモをとっていた手帳をパタンと閉じ、いかつい顔に深刻な表情を浮かべて壇上の教授を見守っていた。 「たしかに……どうも、あのグラスが気になるな……これは職業病かもしれんが」  しかし、ひろみたちの心配が通じたかのように、湯沢教授は唇のそばまで持っていったグラスに口をつけず、またそれを演台の上に戻した。そして白髪を片手でかきあげる。  ひろみがフーッとため息をついた。 「じつは……」  会場が妙に静まり返ったのを意識して、教授はひっそりとした声で切り出した。 「いま、この世の中に、私を——つまり、湯沢康弘という七十六歳の男を殺そうとしている人間がいるのです」  意外な発言に会場がざわついた。 「いや、もう少し正確に申し上げましょうか。きょう、私の講演を聞くためにこの会場に集まったみなさんの中に、私を殺したがっている人物がいるのです」  こんどはホール全体が大きくどよめいた。  ひろみは財津警部と、そしてフレッドと顔を見合わせた。 「まったく、何の怨《うら》みがあって、棺桶《かんおけ》に片足を突っ込んでいるようなこの老人を、わざわざ殺そうとするのでしょうか」 「おいおい……」  財津がひろみの耳に唇を寄せてささやいた。 「まさか、あのジイさん。急に頭がおかしくなったんじゃないだろうな」 「そんな……だって、あの目は真剣そのものだと思いません?」 「まあね」  財津は体を元に戻した。  ざわめきが収まらない会場をぐるりと見回したあと、湯沢教授は襟元の蝶ネクタイを無意識にいじりながらつづけた。 「犯罪心理学を専門とするこの私に殺意を抱くとは、こういうのを見上げた根性というのでしょうが、それにしても大胆不敵なものです。しかも、彼らは私の招待状に対し、ぬけぬけと出席の通知を出して、きょう、この場に姿を現しておる」  その言葉に憎悪がこもってきた。 「いま、私は彼らと申し上げたが、そのとおり、一人ではなく、じつに四人の人間がそれぞれ別の理由で私に殺意を抱いておるのです」  突然の成り行きに聴衆はとまどいを隠しきれず、場内はさきほどまで血液型の話で盛り上がっていたのとは違ったムードになってきた。 「まず、一人目はカメラマンの先崎陽太郎」  いきなり教授が有名な写真家の名前を口にしたので、驚きの声が上がった。 「それ、そこにいる男だ」  湯沢は壇上から指をさした。  その人差し指は、前から三列目の中央にいる、シックなデザインのスーツを着こなした男に向けられていた。  先崎は、髪にだいぶ白いものが混じっているのでわかるように、年齢は五十を超えていた。が、細面の顔立ちにスラッとした長身は、そこはかとない品の良さをたたえ、写真家というよりも文学者といったほうが似合いの雰囲気だった。  写真家としての彼の専門は広告写真である。大手広告代理店と組んで、有名企業のイメージ広告写真やカレンダー、あるいは商品カタログの撮影などを手がけている。いわゆる『婦人科』とよばれるヌードや女性ポートレイトのほうには一切手を出さない戦略が、写真家・先崎陽太郎の存在に、一種の高級感を与えていた。  殺人とか殺意といった剣呑《けんのん》な言葉とは、およそ縁のなさそうな人物である。 「会場のみなさんも驚かれたでしょうが、日本有数の広告写真家として名高い先崎陽太郎は、私にはっきりとした殺意を抱いています」  指摘された先崎は、壇上の湯沢から睨《にら》まれ、周囲の聴衆の注目を浴びて、困惑の表情を隠しきれずにいた。 「こりゃどういうことなんだ」  財津警部は、そわそわしてきた。 「講演の最中に、自分を殺したがっている人間を名指しするなんて、前代未聞だぞ」 「しかも有名人ですからね」  フレッドも湯沢教授から目が離せないといった表情だ。     6 「それぞれの人間を名指しした理由は、これから順次追ってお話しするが、まず四人の人物を一息に紹介しておきましょう。では二人目は……」  湯沢は、周囲の反応にお構いなしにつづけた。 「星真美子」  エーッという声が会場のあちこちで沸き起こった。  その反応の大きさは先崎のとき以上である。 「いうまでもなく、彼女は女性のみなさんに圧倒的な人気を誇るエッセイストです。さすがにきょうばかりは、トレードマークとなった斬新《ざんしん》なファッションに身を包んではおられない。サングラスをかけ、地味な紺のワンピースでひっそりと片隅に座っているが、私の目はごまかせない」  肩の辺りまで伸ばした白髪をサッと翻し、湯沢教授は芝居がかったしぐさで最後列右端のほうを指さした。  財津もひろみもフレッドも、それが自分の席の近くだっただけに、思わず身を乗り出して横のほうに目をやった。  前のほうの聴衆も、教授の指先を追って、いっせいに後ろをふり向いた。  ひろみと同じ列のいちばん端にサングラスをかけた女性が座っており、前を向いたまま右手の親指の爪《つめ》を噛《か》んでいた。  その視線がどこを見ているのかわからなかったし、表情も読み取れなかったが、顔の輪郭は、まさにテレビや週刊誌でおなじみの星真美子そのものである。  年齢は三十になったばかり。  エッセイストよりはテレビ・キャスターかドラマ俳優になったほうが……と周りから薦められるほど魅力的な容姿をしていたが、その辛辣《しんらつ》な男性攻撃の文章が大いに受けて、美人のわりには女性に支持者が多いという珍しいケースだった。  そして男性側も、真美子の美貌に免じて、何を書かれても何を言われても怒らないときているから、彼女の文章はあらゆる雑誌でもてはやされ、ゲスト・コメンテーターとしてテレビに出演することも多かった。 「三人目をご紹介しましょう」  湯沢教授の声が響いた。 「その人物はつい最近、有名女優との電撃結婚、そしてスピード離婚の相手となったことで芸能マスコミにもひんぱんに登場した青年実業家です。名前を大森徹といい、真ん中の右寄りに座っておられますな」  教授が指さしたのは、髪の毛にきつめのパーマをかけ、水商売じみた派手な色合いのスーツを着た男だった。  腕には金のブレスレット、広く開けた胸元にはやはり金のロケット。バブル全盛期の名残りを漂わせたようないかがわしさがある。  彼は周囲の注目を浴びると、怒りのためか顔を真っ赤に染め、両手を組み合わせて指の骨をバキバキと鳴らした。  彼は星真美子とさほど変わらない三十三歳だったが、十五も年上の大女優と電撃結婚して世間を驚かせ、さらにはたった三週間というスピード離婚を敢行して、周囲のひんしゅくを買った男である。 「そして最後は、テレビの人生相談などにもちょくちょく顔を出す、きわめて上昇指向の強いお医者さん。金持ち専属ドクターと噂《うわさ》の高い、精神科医の峰村準二氏です」  四番目に名指しされた人物に対し、また会場から大きなどよめきがあがった。  主婦の視聴率を荒稼ぎしているお昼のテレビ番組で、人生相談コーナーのレギュラー回答者となっている精神科医で、名医の声が高かった父の跡を継いだとき、銀座の一等地にリゾートホテルばりの豪華なクリニックを建設したことで、一躍世間の注目を集めた男である。そこは精神科のみならず、内科・外科・放射線科なども併設した個人総合病院である。  院長先生と呼ばれるわりにはまだ若い。四十の半ばである。なかなかの男前で、ちょっと突き放したようなクールな表情が持ち味の二枚目だった。もしも彼が俳優だったら、サスペンダー付きのパンツでもはかせ、ニヒルでダンディな刑事役を演じさせたら大いに似合いそうである。  この外見と、銀座に超高級病院を開業する院長というステイタス、そして財産——こうした要素に加えて、彼は妻と離婚して現在独身という立場だったから、世間の女性が放っておくはずがなかった。  そのもてはやされ方は並みではなく、愛人、恋人、ガールフレンド——呼び方はさまざまあれど、つねに三十人を下らない数の女性と交際があるといわれている。  彼だけは、他の三人のように黙ってはおらず、会場中央の席からゆっくりと立ち上がった。 「困りましたねえ、湯沢さん」  低い声でかつ抑揚の大きなしゃべり方は、まるで外国映画の吹き替えのようである。 「私の専門は精神科ですから、できればあなたのおつむの具合を診てさしあげたい。高名な心理学者も、どうやら自分の心理状態は読み取れないようだ。失礼ながら、あなた、完全におかしいですよ」  峰村の声はよく通った。  周囲は固唾《かたず》を呑《の》んで、この有名な精神科医の反撃を見守っている。 「ま、耄碌《もうろく》なさるのは勝手ですけど、他人まで巻き込んではいけないと思いますねえ。少なくとも、この場で四人の人間があなたからいわれのない中傷を受け、著しく名誉を傷つけられた。しかも、四人とも有名人だ。この後始末は大変だと思いますがね、金銭的にいっても」 「それは脅しのつもりかね。それともただの強がりかね」  マイクを通して湯沢教授が言い返した。 「何の根拠もなく、このような話をするほど私は老いぼれてはいない。そのことは峰村さん、あんたがよくご存じのはずだ」 「まあ、お二人ともお待ちください」  そう言って前の方で立ち上がったのは、写真家の先崎陽太郎だった。  どんなときにも腹を立てず、穏やかな話し方をすることによって、自らのイメージを上品に保つ——この心構えを、先崎はこういうときにも決して忘れはしなかった。 「峰村さん、あなたがお怒りになるのもわかります」  先崎は、まずは名指しされた仲間のひとりである精神科医の峰村準二に目を向けて言った。 「私だって、いきなり殺人者よばわりされたのではかないません。それも、一対一でならともかく、これだけ大勢のお客様の前で言われたのですからね。当然、言われっぱなしというわけにはまいりません。けれども、とりあえずは湯沢教授の言い分をぜんぶ聞かせていただこうではありませんか。そののちに、あなたも私も、それから……」  先崎は残る二人——星真美子と大森徹のほうにも顔を向けた。 「星さんも大森さんも、四人それぞれの反論を行なおうではありませんか。それもあくまで冷静にね。冷静に事を行なえば、ここにいらっしゃるお客様も、どちらの言い分が正しいか、おのずとわかってくださると思いますが」 「結構です。私は、先崎さんのご意見に異議はない」  また声優のような渋い声で、峰村が答えた。 「私もそれでいいわ」  と、後ろのほうから星真美子が声をかける。 「こっちも了解」  と、ややぶっきらぼうな声で大森が応じた。 「……ということです、湯沢さん」  壇上の教授に向き直って、先崎は言った。 「いらぬ興奮をして、この会場を大混乱に陥れたくありませんので、我々としては、ともかく湯沢先生のご主張を最後まで聞かせていただこうというふうになりましたが」 「よろしい」  先崎の返事を確認すると、湯沢康弘は自信満々のしぐさでうなずいた。 「それでは、きみらの殺意に関する背景をきちんと述べるから、立っている二人は、それぞれ着席していただきたい」  その言葉に、先崎と峰村は軽くうなずいて腰を下ろした。     7 「いま名前をあげた先崎、大森、峰村の男性三氏は、私の孫娘であるテレビタレントの湯沢夏子との結婚を企んでおる」  話題の四人に加えて、いま注目の人気タレント湯沢夏子の名前まで出てきたので、ひろみとフレッドはいっそう前のめりになって教授の話に聞き入った。  その湯沢は、会場のざわめきをよそに皮肉な笑みを顔に浮かべてつづけた。 「先崎陽太郎氏は——いちおう、いまのところ『氏』という敬称をつけさせていただくが——氏は、日本の広告写真の最高峰をいくという評価高き名写真家だ。いま立ち上がられたので、会場におられる諸兄も先崎氏の姿を目の当たりにされたと思うが、非常に物腰も柔らかく紳士的で、氏を批判したら、批判した側の人間のほうがいやしく思えるほど、人格的にもできあがった方のように見受けられる。しかし、それはあくまで『……のように』という段階にとどまるのです。つまり、彼の本性は外見からくるイメージとはおよそ正反対のところにある」  湯沢の論調は、さらに鋭さを増しそうだったが、前から三番目の席に腰掛けた先崎は、淡々とした表情で教授の話を聞いていた。 「先崎氏には、長年連れ添った奥さんも大きなお嬢さんもいる。そうした自分の家庭の平和は壊す気がないくせに、夏子に甘いことをささやいては結婚を匂《にお》わせている。いったい自分の年をいくつと思っているのだ」 「五十一ですがね」  先崎が答えると、湯沢はこめかみのあたりに青筋を立てて一喝した。 「恥を知れ!」  その怒声のすさまじさに、会場はシンとなった。 「平気でそんな答えができるということは、よっぽどきみは無神経な男なのだな」  先崎の後方に控える聴衆は、この高名な写真家の背中に視線を集中させたが、しかし、彼の後ろ姿に動揺の色はまったくない。 「きみは広告写真を専門にしており、いわゆる女性タレントなどの写真集には手を染めていない。けれども、夏子が起用された自動車のコマーシャル写真をきみが撮り、さらには夏子が全面的にモデルとして選ばれた家電メーカーのカレンダーをもきみが撮ったことで、きみは夏子に大いなる関心をもった。そして、仕事が終わっても、ひんぱんに夏子を食事に誘い、さらには、あの子の気を引くねらいか知らんが、ふだんは絶対にやらないはずの写真集の企画をあちこちの出版社にもちかけているそうではないか」  反論はない。 「そうしたやり方に腹を立てた私は、つい先日、きみを自宅に呼びつけ、徹底的に叱《しか》った。夏子から手を引け、とな。そうだろう」 「それはたしかに事実です。あなたに呼び出され、あなたに罵倒《ばとう》されたというのはね」  客席に軽いざわめきが起こった。  紳士の典型のような先崎陽太郎が、二十代なかばの人気タレントと不倫に陥るとは、とてもそのイメージから想像ができなかったからである。 「私に怒鳴られたとき、きみは何と言ったか」  湯沢はつづけた。 「あんたのようなジジイは早く死んだ方が夏子ちゃんのためだ——そう言ったではないか。世間に見せる表の顔とはまったく違った、エゴイズム丸出し、身勝手さ丸出しの先崎陽太郎を、私は見ているのだ。あのときの憎々しげな表情、憎々しげな口ぶりを、私は決して忘れはしないぞ」  そこまで言われても、先崎のポーカーフェイスは崩れない。  先崎が五十一歳とはいえ、高齢の湯沢教授からみれば、彼は二十五も年下という計算になる。つまり子供も同然という年齢差である。だから反論を謹んでいるのか、それとも紳士的なイメージをあくまで崩すまいと黙っているのか、そのへんの先崎の心理は、ひろみにもフレッドにも財津警部にも読めなかった。  写真家を睨みつけていた湯沢は、先方からとりたてて過激な反応がないので、やや拍子抜けした顔で、つぎに青年実業家の姿を目で追った。 「つぎは大森徹だ……いや失敬、『氏』をつけるのを忘れた。大森徹……氏だ」  教授は、いったん相手を呼び捨てにしてから、わざとらしい訂正を行なった。 「きみは、十五も年上のベテラン女優と結婚し、さらには芸能界スピード離婚の新記録という人騒がせなことをやっておきながら、そのほとぼりも冷めないうちに、こんどは夏子にちょっかいを出そうとしておる。そりゃあんたのように怪しげな金をたんまり持っている人間には、慰謝料の支払いなど痛くも痒《かゆ》くもないかもしれない。だが、まるで車でも買い替えるように、女性を自分のものにしては捨て、自分のものにしては捨てていく。その姿勢は絶対に許せない」  湯沢教授の声は、しだいに募ってくる興奮のためか、ときおり語尾がうわずるようになっていた。 「私はきみも自宅に呼びつけ、夏子に手を出したらタダじゃおかんぞ、と宣告した。きみの場合は、先崎氏と異なり、とりたてて反論はしなかった。だが、ハナから私の抗議など無視をするつもりだから、反論をしなかったのだろう。そういう不誠実な態度は、まことにもって許しがたい。そもそもきみがいかに誠意のない人間であるかは、興信所を使った調査などで明らかになっている」 「興信所?」  これまでは先崎にならって黙っていた大森が、興信所という言葉を聞いたとたん、血相を変えた。 「あんた、おれの身辺調査を興信所に頼んだのか」 「そのとおり」  湯沢は、相手の語尾にかぶせるようにして答えた。 「きみは夏子に対して二言目には『誠意』『誠意』とお題目のように唱えておるそうだが、誠意どころか、きみの女性関係の乱れようは、ふしだらの一語に尽きるではないか」  公衆の面前で『ふしだら』と呼ばれ、恥と怒りで大森は顔を真っ赤に染めた。 「そして金に飽かせたプレゼント攻勢をすれば女の気持ちはつかめると思っているのか、指輪、バッグ、靴、洋服、香水と、夏子を贈り物ぜめにした。だが、申し訳ないが、きみのプレゼントはすべて私が夏子から回収してダンボール箱にまとめてある。ひまなときに取りにきて、一つ残らず持ち帰っていただきたい。そのプレゼントを買うのに要した諸費用は、また別の女性をだまして借用した金によるものだとの報告もあるしな」  大森の肩が震えた。 「そしてつぎは、峰村準二氏に移ろう」  教授の目は、声の良さが自慢の精神科医に向けられた。 「きみも前の二人と同じような立場だが、大きな違いは、夏子との交際を止められた腹いせに、私への復讐《ふくしゆう》をすでに開始していることだ」  峰村は、目を閉じて教授の発言を聞いていた。 「たとえば、きみは最近発売されたある週刊誌に『犯罪心理学者の嘘《うそ》をあばく』と題した一文を掲載した。これは、世間をにぎわせた大事件のさいに私が新聞などへ寄せたコメントを引っぱり出し、それを面白おかしく批判してみせたものだ。明らかに私の名声を失墜させることを狙《ねら》ったものだろうが、内容たるやデタラメの一語につきる」  湯沢は、こぶしを握って演台を叩《たた》いた。 「いくらテレビで顔の売れた精神科医だからといって、きみのようないいかげんな男の文章を掲載した週刊誌も週刊誌だが、いちばん問題にすべきはきみの悪意だ。だいたい精神科医と心理学者の持ち分は、似ているようでいて異なるものだ。だから、おたがいの領域は聖域として踏み込まないのが礼儀と思えるのに、きみは土足でズカズカとこちらの領分に上がり込んできた。そしてマスコミという公器を使って、名誉毀損に相当する行為を堂々と展開した。許せん、こういうやり口は断固として許せん」  峰村は、目を閉じたまま動じない。 「しかも私がもっとも憤りを感じたのは、きみが精神科医という立場を悪用し、いつのまにか夏子の心理カウンセラーとして、あの子の公私にわたる悩み相談の相手役となっていた点だ。つまり、きみは夏子の弱みを握ることで、あの子がきみから離れようにも離れられない状況に置いた。そうした職権乱用たるや、精神科医の風上にもおけないやり方ではないか。それにだ」 「ちょっと待って」  突然、女性の声が湯沢の発言をさえぎった。  みんながふり返ると、最後列でエッセイストの星真美子が立ち上がっていた。 「三人の男性がやっつけられているのは自業自得って気がしないでもないけど、それにしても湯沢先生の論旨はあまりにも支離滅裂で、馬鹿馬鹿しくて、まともに聞いていられません」 「なんだと」  湯沢教授が真っ白な口髭を震わせた。 「どこが支離滅裂だというんだ」 「あなたは、私たち四人がいずれもあなたを殺そうと企んでいる、とおっしゃいますけれども……」  真美子は片手でサングラスをはずしながらつづけた。 「ここまでの話を伺うかぎりでは、むしろ湯沢先生の方が私たちを殺す動機を持っているんじゃないんですか」  前のほうで、オペラ歌手のように高らかな笑い声があがった。  精神科医の峰村だった。  よほど目立つのが好きなのか、彼はまた立ち上がって、星真美子のほうをふり向いた。 「さすが人気ナンバーワン・エッセイストのマミちゃんだ。なかなか鋭い指摘じゃないですか」  峰村は、つづいて会場を埋め尽くした聴衆のひとりひとりに語りかけるように、ゆっくりと身体の向きを変えながら言った。 「まさにそういうことなんですよ。湯沢先生は何を血迷われたか、いきなり私たちを悪人扱いされたけど、なんのことはない、そうおっしゃる先生自身のほうが我々に殺意を抱いていた。その事実がハッキリしたではありませんか。ねえ、みなさん、そうでしょう。そうじゃありませんか。え、どうです、そこの奥さん」  テレビの人生相談番組のときと同じような調子で峰村に声をかけられ、その視線の先にいた中年の女性はおもわず反射的にうなずいたりした。 「私は精神科医としてこなさなければならぬ用事があるのに、あえてスケジュール調整をしてこの講演会を聞きにきた。そうしていざ蓋《ふた》を開けてみたら、なんのことはない、湯沢先生の八つ当たり大会だ。これじゃあ、孫の夏子ちゃんがいろいろ悩んで私に相談してくるわけですよ。おじいちゃんの精神的束縛に耐えられない、とね」 「なに」  こんどは、湯沢のほうが血相を変えた。 「夏子が私に対する不平不満を言うはずがない。デタラメを並べ立てんでくれ。それにだ、百歩ゆずって夏子がそういった悩みをきみにもちかけていたにしてもだ、医師としての守秘義務というものがあるんじゃないのかね」 「ま、たしかにそれはそうでした」  峰村は、素直に謝った。 「いまの発言は撤回させていただきましょう」  彼が腰を下ろすと、すぐに真美子が発言をつづけた。 「いずれにしても、私もほかのみなさんと同じように、私に対する先生のご不満を一応お伺いしておきますわ。それはきっと、湯沢先生の私に対する殺意を証明するような結果にしかならないと思いますけれど。……それに、先生がおっしゃりたい内容も見当はついています。きっと、私のエッセイのことでしょう」 「そのとおりだ」  湯沢は怒りに満ちた目をもって、会場の後方で立ち上がった真美子を睨《にら》んだ。 「星君、きみはどこかのパーティ会場で夏子と会い、その後、意気投合して二人で飲みに行ったことがあるそうだな。夏子はそのときだいぶアルコールが入ったせいもあって、不用意にもきみの誘導尋問に引っ掛かって、プライベートなことをいろいろ口走ってしまった。早く小平の家を出てひとり住まいをしたいとか、誰かいい人がいたら早く結婚したい、とも……。たしかに夏子もいかん。あの子には相談癖というのがあって、とりわけ酒を飲むと、誰彼の区別なしに人生相談をもちかけたくなるらしい。峰村君の罠《わな》にはまったのも、先崎君の罠にはまったのも、大森君の罠にはまったのも、すべてはそうした夏子のもろさがきっかけではある。しかしだ、そうした酒のうえの相談事を、星君、きみは得意になってあちこちに撒《ま》き散らした」  湯沢教授は、また演台をバンと叩いた。 「私が言うのもなんだが、当代きっての人気タレントである湯沢夏子から相談をもちかけられれば、悪い気はしまい。だが、きみはなんという無神経か、その晩の個人的な会話を、そのまま週刊誌の連載エッセイのネタにした。題名は『祖父離れできない才能あるテレビタレントの悲劇』というものだ」  そのときの怒りを思い出したらしく、湯沢はこめかみに青筋を立てた。 「そのエッセイは、きみの交遊録という体裁を取ってはいるが、相手にはなんの許可もとらずに、プライベートで交わした会話をそのまま載せるというひどい代物だった。湯沢夏子の名前がそのまま出たのはもちろんのこと、あの子の結婚観から仕事の話まで、公にすべきではない話が山ほど紹介されていた」  会場は、教授の剣幕に気圧《けお》されるように静まり返っている。 「そしてきみは、人生相談おばさんよろしく、夏子の真剣な悩みをいちいち茶化しながら、よけいなアドバイスまで書きつらねた。祖父である私に対する皮肉も交えてだ。高名な心理学者湯沢康弘も、孫娘の心理ばかりは読み取れなかったのであろうか、などと得意そうにな」  湯沢の顔はますます朱に染まっていった。  一方の星真美子は、興奮する教授とはまるで対照的に、その場に立ったまま微動だにせず、少なくとも表面上は冷静な態度で相手の発言を聞いていた。 「きみは——星真美子という人気エッセイストは——そうやって、他人のプライバシーを肴《さかな》にしては、勝手にそれを文章にまとめあげて金にしていくわけだ」  湯沢の声がいっそう大きくなった。 「いいか……きみがいつもおしゃれな洋服や高価なアクセサリーを身につけていられるのも、毎晩のように都心のゴージャスなレストランで食事ができるのも、あるいはアメリカだヨーロッパだと海外旅行に好きなだけ出かけられるのも、みんな他人のプライバシーを無断で引用し、おもしろおかしくアレンジしたことで得た収入によるものなんだぞ。それがエッセイストというものなのか」  老心理学者の口元から飛び散る唾《つば》が、照明に当たって霧のように光った。 「エッセイとは、きみの周辺に近寄った人間の言動をネタにして、世の中にはこんな人もいるのでございますと、読者といっしょになって笑い飛ばすことなのか。そういう仕事なのか。それじゃあ、何かと批判の多い写真週刊誌などよりも数十倍始末が悪いぞ」  肩で息をつきながら、湯沢教授は一気にまくしたてた。 「そして私は、きみに対するこうした不満を先日、あるテレビの中でぶちまけた。きっときみも見たことだろう。『エッセイの中に無断で登場させられた側の被害者心理』というテーマでの話だ。そうしたら、きみはさっそく別のテレビ局で私の猛烈な悪口をやりはじめた……」 「それがどうして、あなたに殺意を抱いたことになるんでしょうか」  サングラスをはずし、自慢の美貌を聴衆の目にさらした星真美子は、落ち着いた口調で反論をはじめた。 「このままでは、私はつぎに『被害妄想に陥った有名心理学者の悲劇』というエッセイを書かなければならないと思いますけど」 「なに……」 「先生が被害妄想に陥っていらっしゃるんだったら……それならば、そのご病状に同情申し上げて、これまでの先生の失礼な行為もすべて許してさしあげましょうと言っているのです。そうでなくて、正常な頭でおっしゃっているのなら、これは完全な名誉毀損ですし、営業妨害にあたります」  真美子は起立した格好のまま、淡々とした調子でつづけた。 「ふつうの方ならばこうした失礼な行為に対して、裁判に持ち込むぞと息巻くところでしょうけれど、私にはペンという武器があります。ですから、あなたのことをエッセイに書きつづけることで、不条理な言いがかりに対抗していきたいと思います」  真美子は腰を下ろしながら、最後に一言つけ加えた。 「とりわけ、きょうの講演会場での出来事は、連載三回分は持つと思います。その点では御礼を申し上げますけれど」 「ふん、せいいっぱいの皮肉を言ったつもりかね……まあいいだろう」  湯沢教授はありったけの憎しみをこめて星真美子の方を見やったあと、大きな深呼吸をしてあらためて聴衆に語りかけた。 「みなさん……ごらんのとおり、この私——湯沢康弘という人間に対して激しい憎悪の感情を抱いている人物が、少なくともこの場に四人いることがおわかりになったはずです。はからずも星真美子などは、なぜこれが殺意になるのか、などと反論しましたが、みなさん、殺意というものは決して特殊な感情ではないのです」  湯沢教授はさらに一堂の注目を集めるため、マイクをスタンドからはずして手に持つと、演台の前に回り込んで、ステージの端ギリギリのところに立った。     8 「対人関係は、『好き』と『嫌い』というきわめて単純な感情からスタートします。他人との関係は、非常に大ざっぱに分けてこの二つに帰結する。そして、このうちの『嫌い』という感情が増幅してゆくと、『嫌い』が『憎い』になり、さらにエスカレートしていくと『殺したい』というところまで行き着くのです」  マイクを握り締めて、湯沢教授は手ぶりを交えながら訴えた。  演台のあたりに当たるよう設定されたスポットライトの位置からはずれたため、白髪を揺らしながら力説する老教授の顔は濃い影に覆われ、鬼気迫るものが感じられた。  会場の最後列にいた財津警部たちも、意外な展開にとまどいを覚えると同時に、この一種異様な雰囲気に完全に呑《の》み込まれていた。 「『殺したい』という感情を抱くことと、それを殺人という実行手段に移すこと。この両者の間には大きな隔たりがある。理性という大きな壁が立ちはだかっているからです」  湯沢教授は言った。 「しかし、心の中の動きとしての『憎悪』と『殺意』の間には、あまりたいした違いがありません。『憎い』という感情から『殺してやりたい』という感情への移行は、意外とあっさりいくものです。そして、いま私が名指しをした四人は、そういう精神状態にあるわけです」  教授は手を口に当てて、軽い咳払《せきばら》いを二、三度繰り返した。 「さて、この『殺意』という内的段階から、実際に『殺人』という外的段階に移行するには、理性の壁を取り払わねばなりません。そして、その方法——つまり、理性の壁を爆破する点火装置に火を点けるやり方が、血液型によって違ってくるのです。いいですか、ここからが血液型殺人講座のメインテーマです」  場内は、固唾を呑んで教授の演説に聞き入っている。 「私は週刊誌の記事や、あるいは本人に直接確認することによって、四人の血液型をすべて把握しております」  湯沢教授は、前方に座る写真家の先崎陽太郎から順番に目をやった。 「これがまた、おあつらえむきに、全員が違う血液型ときた。先崎陽太郎はA型、星真美子はB型、大森徹がO型、そして峰村準二がAB型」  すでに、教授は敬称をつけるのをやめていた。 「いかがかな、間違いがあったら、いまのうちに修正を申し立ててほしいのだが……」  四人からの訂正はなかった。 「では、順番に申し上げよう。A型の先崎陽太郎が、殺意という感情を殺人という行為に変えるとしたら、そのきっかけは……」  そこまでしゃべったところで、湯沢教授は興奮したのか、しきりに咳《せ》き込んだ。  そして、演台の上に置いてあったタンブラーグラスに手を伸ばした。  ひろみはハッとなって財津の顔を見た。  が、それより早く、財津警部は立ち上がって大声を張り上げた。 「ちょっと待ったあ!」  聴衆はびっくりして、いっせいに後ろをふり返った。 「ダメだ、その水を飲んじゃいかん」  突然の叫び声に、湯沢教授は反射的にグラスから手を引っ込めた。 「ひろみ、行ってくるぞ」  一言ひろみにそういうと、財津は『すみません、前を通してください』と最後列の客に声をかけながら、堂々たる体躯《たいく》を持てあますようにしてカニ歩きをし、ようやく通路に出ると一気に前に向かって駆け出した。  先崎陽太郎が、星真美子が、大森徹が、峰村準二が……そしてすべての聴衆が、ドサドサと音を立てて演壇に駆け寄る財津大三郎警部の姿を目で追った。 「湯沢さん」  下手《しもて》寄りの階段を一段飛ばしに駆けあがり、演壇の上に立った財津警部は、息を切らしながら白髪の心理学者と向かい合った。 「これは財津さん……なんですか急に」  湯沢はちょっとひるんだ表情になった。  仕事上これまでに何度か顔を合わせている白髪の心理学者に対し、財津はこの状況でどう言葉を切り出したものか迷っていた。  が、とりあえず警部は、演台に置かれたグラスと水差しを自分の腕で囲み、教授の手にふれないようにした。  そうしてから、つとめて落ち着いた口調で言った。 「湯沢さん、これは考えすぎかもしれないし、もしそうだったら、私はとんでもない道化役になってしまうのですが……この水は飲まないほうがいい」 「なんですと」  老教授は額に皺《しわ》を寄せ、財津の腕の中に囲われたタンブラーに目をやった。 「では、あなたはその中に毒でも入っていると」 「そうかもしれませんし、そうでないかもしれない」  財津は、やりとりを聴衆に聞かれないよう小声でしゃべった。  だが、相手が右手にマイクを握りしめているため、湯沢教授の声だけはやけに大きく場内に響いた。 「そうかもしれないし、そうでないかもしれない、ですと」  湯沢は馬鹿にしたような笑いを浮かべた。 「本職の警察官が、そんなあいまいなことでドタバタ騒ぎを起こすんですか」  騒ぎのきっかけを作ったのはそっちだろう、といいたいのをこらえて、財津はゆっくりと説得するようにしゃべった。 「湯沢先生、この場で早とちりだと笑われることになっても、後になって悔やんだりはしたくないのです」 「………」 「先生が、『この会場に、私を殺そうとしている人間がいる』などと思わせぶりなことをおっしゃるものですから、こちらもある程度の心配はしたくなります。少なくとも、警視庁捜査一課の三人がそろって見ている前で、事件は起きてほしくない」  だが、警部の心配をよそに、湯沢康弘は急に講演を中断されたことに対して不快感を隠さなかった。 「あなたのおかげで、盛り上がってきた講演が、すっかり水を差される形になってしまいましたな」 「どうぞお話はおつづけになってください。私はすぐに引っ込みますから。ただし、この水はダメです」 「いや、あんたがいきなり出てきたんで、すべてはぶち壊しだ」  教授はいらだった様子で首を振ると癇癪《かんしやく》を起こしていきなりマイクを床に叩きつけた。  スピーカーを通してゴトンという大きな音が場内に響き渡った。 「もうやめた」  湯沢は白髪を片手でかきあげ、客席に向かって地声でがなり立てた。 「せっかく、おまえらの心の中に潜むまがまがしい悪魔を暴きたてようと思ったのに……運のいいやつらだな」  それは、明らかに名指しされた四人に向かって投げつけられた言葉だった。  神経過敏なため、何か気に食わないことがあると、講演の途中だろうとテレビの生放送に出演中だろうと、平気で席を蹴《け》って帰るという定評のある湯沢は、唖然《あぜん》とする一般客に一言の断りもなく、さっさと上手《かみて》の袖《そで》に引っ込んだ。 「湯沢さん」  財津がその後を追いかけた。  すでに、場内は騒然としはじめている。 「私は帰る」  教授はステージ用の白いスーツを脱ぎ、付き添いの係が受け取ろうとするのを無視して、舞台袖の薄汚れた床に投げ捨てた。さらに蝶ネクタイもはずして、それをもっと遠くに放り投げた。ほとんど子供のようなゴネ方である。 「湯沢さん、待ってください」  薄暗い通路を通って楽屋へ早足で戻ろうとする老心理学者の腕を、財津警部がつかまえた。 「こうした混乱まで、あなたの計算のうちに入っていたんですか」 「なに」  湯沢はキッとなって警部を睨み返した。 「聞き捨てならんことを言うな、きみは。きみまで私を怒らせるつもりかね」 「いったいあなたは、どういう目的できょうの講演を——血液型殺人講座を開かれたのです」  財津はひるまずに詰め寄った。 「世間に名の知れた四人を公然と侮辱するためですか。それとも、あなたの身に何か危険が迫っていることを、まえもって私たちに警察関係者にアピールしておくためですか」 「きみは何もわかっとらんな」  湯沢教授は、財津につかまれたワイシャツの袖をふりほどいて、吐き捨てた。 「私は純粋に血液型別犯罪論を述べたかった。ただそれだけなんだ」  そう言い捨てると、もはや教授は財津の顔も見ず、その場を去ろうとした。  が、なおも財津は追いすがった。 「湯沢先生」 「………」  教授は財津の呼びかけを無視した。 「湯沢先生、ちょっと待ってください、お願いします」  重ねて呼びかけられても、まだ教授は立ち止まらなかった。 「先生、いまから申し上げることを、私に大声で言わせないでください」  その言葉で、ようやく湯沢は歩みを止めた。  財津は急いで教授に駆け寄り、背中から耳元にささやいた。 「私があの水差しの中身を気にしたのには、それなりのわけがあります。私が恐れている事態は、先生が誰かに毒殺されるというケースだけではない。……もしかしてあなたは……公衆の面前で自殺を図ろうとしたのではないでしょうな」 [#改ページ]   第二章 白い部屋の殺人     1  大混乱のうちに中断された『血液型殺人講座』の会場には、早くも情報をキャッチしたテレビ局が取材スタッフを続々と送り込んでいた。  客席の中に、タレント精神科医である峰村準二と湯沢夏子の不倫をひそかに追いかけていた数人の芸能レポーターが紛れ込んでいたのである。  湯沢教授が来場した有名人を次々と名指しして、あたかも彼らが教授の殺人計画を企てているかのように口をきわめた非難をし、そのことによって会場が混乱しはじめたのが、開演してからおよそ三十分後の六時半。  その時点で、各レポーターは一斉に本社芸能デスクとの連絡を取りはじめた。  彼らにとって運がよかったのは、湯沢教授が姿を消したあとも、騒ぎがすぐには収拾に向かわなかったことだった。  非難された四人のうち、とくに大森と峰村が、舞台裏に引っ込んだ湯沢教授をもういちどステージに立たせるべきだと騒ぎだし、その成り行きを見守るために、一般客も誰ひとり帰る気配をみせなかった。  場所がマスコミ地図の中心部ともいうべき赤坂だったこともあって、民放各局の芸能ワイド取材班が、間髪をおかずに駆けつけてきた。  すでにこの時間では生中継が可能な芸能ニュース枠はなかったから、中継車こそ出なかったものの、風月文化会館のロビーに殺到した取材陣の数は相当なものだった。  しかも警備態勢が整っていなかったから、誰も人の流れを整理する者がいない。  写真家の先崎陽太郎、エッセイストの星真美子、青年実業家の大森徹、そして精神科医の峰村準二のコメントを求めて、テレビレポーターにカメラマン、ビデオ・エンジニアに照明係が右往左往し、騒ぎに乗じてヤジ馬と化した聴衆も含め、あたりはパニック状況に陥った。  事情を知らないレポーターのひとりは、リーゼントに革のライダースーツというファッションの、なかなか可愛い女の子に目をつけ、コメントを取るためにつきまとった。  が、あまりにしつこくやりすぎたので、キッと睨み返されたうえに、突然、警察手帳を水戸黄門の印籠《いんろう》よろしく掲げられ、あわてて頭を下げながら退散した。  また別の女性レポーターは、壇上の財津警部と日本語でやりとりをしていた『カッコいい金髪のガイジン』を見つけ、身分もたしかめずにいきなりマイクを突きつけた。  しかし、ふり向きざまフレッドがものすごい剣幕で英語をまくしたてたので、これまた『アイム・ソーリー』を連発しながら、その場から逃げ出した。  そうしたドタバタ騒ぎをよそに、財津警部はすばやく疑惑の水が入ったタンブラーと水差しを回収し、警視庁に持ち帰るため、会館事務所の職員からクッキング・ラップを借りて、こぼれないように容器を密封した。  一方、湯沢教授が裏口から差し回しのハイヤーで混乱を脱出したのが七時すぎだった。  教授を乗せた車はそのまま首都高速に乗り、中央高速を通って国立インターで下りると、国立市と国分寺市を横切り、広大な敷地を誇る小平市の自宅へと向かった。  途中、交通渋滞に巻き込まれたものの、教授が戻ったときには、まだ報道陣は駆けつけておらず、夜の住宅街はひっそり静まり返っていた。  だが、ものの一時間もしないうちに、自宅前も大騒ぎになることは、教授にも容易に想像がついた。だから、不機嫌な表情は直らない。  ハイヤーから降り、森閑とした邸内に入ると、教授はマスコミの押しかけ取材を封じるため、門扉の内側から頑丈に鍵《かぎ》を掛け、さらに建物の窓という窓のシャッターを下ろして、外回りの照明を落とした。  二人の孫娘——テレビタレントの夏子と女子大の三年生である泉美も、この屋敷の中に寝起きするのを原則とさせていたが、今夜は二人とも家を空けることになっていた。  ここ一、二年、姉の夏子は仕事が忙しいのを言い訳にして、あまり実家には戻らないようになっていた。  不規則な生活を強いられる彼女にとってみれば、小平という環境のよい町並みも、たんに都心から離れすぎた不便な場所にすぎなかった。  それに、二十四にもなって、親離れならぬ祖父離れができないのも情けない——夏子はそう思っていた。早くに交通事故で他界した両親に代わって、ずっと面倒をみてきてくれた祖父ではあったが、さすがに最近ではその存在が煙たくなってきた。  だから、夏子はしきりに別居を望んでいたが、圧倒的な祖父の権力をもって、湯沢教授はその希望を拒絶していた。タレントという仕事柄、朝帰りも泊まりもあるだろうが、生活拠点はこの小平の家に置いておけ、というのである。  それは、湯沢康弘の時代遅れともいえる道徳観から出たものであった。  七十六歳の老教授は、いまだに結婚するまで女性は処女でいなければならないという哲学を持っていたし、また生娘でいつづけさせることが保護者の義務であるとかたくなに考えていたのだ。  一方、妹の泉美は、真っ向から反抗的な態度をとる姉と違って、建前と本音を巧みに使い分けて、この気難しい祖父をうまくあしらっていた。  泉美は、表向きはここ一週間、大学のゼミの研修で山中湖に合宿していることになっていた。  しかしそれは方便で、実際には銀座の帝国ホテルに部屋をとり、金銭面の心配はまるでしなくてもよいという気楽な立場で、恋人との優雅な同棲《どうせい》生活を送っていたのである。  イライラした気分をどこにぶつけてよいかわからない、といった様子で部屋の中をせわしなく歩き回りながら、湯沢教授はこの後の対処のしかたをどうしたものかと、しきりに考えを巡らせていた。 『血液型殺人講座』は、あの場できちんと完結されなければ意味がなかった。  途中まではうまくいっていたのだ。  それなのに、突然あの警視庁捜査一課の警部が登場して計画が狂ってしまった。  彼ら捜査一課の面々を招待したのは、あくまで湯沢康弘の告発を直接聞かせたかったからであって、それ以上の役割を期待していたわけではない。  それなのに、あの財津がでしゃばったことをしてくれたから……。  教授は歯軋《はぎし》りをし、白髪をかきむしった。  そのとき、リビングルームの電話がけたたましく鳴った。     2  風月文化会館の騒動について、さっそくマスコミから電話取材が入ったのかと思い、しばらくは鳴るがままに任せておいた。  が、あまりにしつこく鳴り止まないのと、その電話が、仕事用に公表している番号のほうではなかったのを思いだし、湯沢は皺《しわ》だらけの手を受話器に伸ばした。 「もしもし……あ、おじいちゃん、やっぱりいたんだ」  下の孫娘の泉美の声だった。 「なんだ、いまじぶん」 「なんだじゃないでしょ、赤坂の講演会場で何があったのよ」  いきなりそう切り出されたので、湯沢はひるんだ。 「大勢の人の前で、私は殺される、なんてバカみたいなことを口走ったんですって?」 「………」 「それ、ほんとなの。……ねえ、本当だとしたら、ちょっとどうかしてるんじゃないの。頭のほう、だいじょうぶ?」  電話口での泉美は容赦なかった。  祖父の威厳をまともにプレッシャーとして感じている姉と違い、妹のほうは、高名な老心理学者を、ただの『気難しいおじいちゃん』として扱っていた。  同じAB型の姉妹でありながら、表に現れる性格はだいぶ違う。 「だけど、おじいちゃんみたいな四角四面の性格の人は、そんなに簡単に頭がプッツンしないんだよね。いくら七十六歳だとしても……。だからこれは、きっと何かの計算があってやったことだと思うんだけれど、どう?」 「大きなお世話だ」  湯沢教授はとげとげしい声で孫娘に対した。 「泉美などに私の性格分析をやってもらおうとは思わん」 「あーあ、そうとうカリカリきてるな、この感じは」  泉美は聞こえよがしに、受話器に向かって独り言をつぶやいた。 「おじいちゃんがそうやって怒るのは、たいてい計画していたことが失敗したときなのよね。A型人間は予定外のアクシデントに弱いから」 「ふん、おまえはいつから血液型の分析をやるようになったんだ」 「祖父の影響」  といって、泉美はクスッと笑った。 「それにね、湯沢康弘という人間は……」 「うるさい」  湯沢はさえぎった。 「そうやってだな、他人の心理分析を得意げにするのがAB型の傾向なんだが、なんでもかんでも当たると思ったら大間違いだぞ。シロウトに血液型心理学が簡単にわかってたまるか。この学問は奥が深いんだ」 「そうだよね。やさしいことでも難しそうにいうのが学者の仕事だもんね」  泉美はまったく動じる気配がない。 「……まったく、相変わらず泉美は口だけは達者だな」  苦々しげにいってから、湯沢はハタと思い当たったようにたずねた。 「そういえばおまえ、いまは山中湖でゼミの合宿中じゃなかったのか」 「え……うん……そうだよ」  泉美は少し言葉に詰まった。 「そのおまえがどうして、一時間ちょっと前の出来事を知っているんだ」 「テレビのニュースでやっていたの」 「嘘《うそ》をつけ」  即座に湯沢はいった。 「あんなくだらん騒ぎを報道するような枠は、いまの時間帯にはない」 「あ……ほらねー、やっぱり『くだらん騒ぎ』があったんだ」  言葉|尻《じり》を捉《とら》えられ、また湯沢は話の腰を折られる形になった。  教授が黙っていると、泉美は屈託のない声で畳みかけた。 「とにかく、可愛い孫娘のことも考えて、あまり世間的に恥ずかしいことはやらないでね。これでもいちおう大学のほうでは、日本が誇る大心理学者湯沢康弘の孫ということで、注目はされているんだから」 「都合のいいときだけ私の名前を利用するな」  祖父は憮然《ぶぜん》として言った。 「で、つまらん忠告めいたことをいうために、わざわざ電話をよこしたのか」 「ううん、おじいちゃんは付録。そうじゃなくて、お姉ちゃんと話したかったの。ちょっと代わってくれる?」 「夏子か」  湯沢は聞き返した。 「夏子ならおらんぞ」 「うそー」  泉美は、祖父に向かって友達どうしのような口の利き方をした。 「だって、今晩八時から九時の間に電話をかける約束になっていたのに」  いまは八時半である。 「夏子は、その時間なら家にいると言っておったのか」 「その時間どころか、夕方からずっと家にいるって」 「夕方から?」  教授は眉《まゆ》をひそめた。  彼が小平の家を出て講演会場に向かったのが、午後の三時半である。夕方の渋滞に巻き込まれることを想定して、だいぶ早めに迎えを呼んだのだ。  そのときにも、家の中に夏子の姿はなかった。なんでもテレビドラマのロケに入っているということで、五日ほど前からこちらの家には顔を見せていなかったのだ。 「どっちにしても、夏子がいる気配はないな。いましがた戻ってきたら、中も外も真っ暗だったから」 「ほんとー?」  泉美は納得のいかない声を出した。 「でも、きょうはお姉ちゃんは仕事がオフだっていってたし、どうしても大切な話があるから絶対に家にいてねって頼んでおいたのに」 「何だ、その大事な話というのは」  教授は聞き咎《とが》めた。 「ナ・イ・ショ」  泉美は素っ気なくいった。 「親にも言えないような内緒の話があるのか」 「親じゃないでしょ、おじいちゃんでしょ」 「私は親だ」  湯沢康弘はムキになった。 「おまえたちの両親が交通事故で亡くなって以来、五つと二つだった幼い女の子をここまで育てあげてきたのは、いったい誰だと思っているんだ」 「またはじまった……」  泉美はため息をついた。  が、教授は真剣に怒りはじめた。 「またはじまった、だと……。冗談じゃないぞ、私は私で女房と離婚していたから、結局男手ひとつで、おまえら二人を育てあげなければならなかったんだ。そりゃあ、こまごましたことは家政婦などの助けを借りた。しかし実質的には、私が父親となり、そして母親となって面倒をみてきてやった。これを『親』と呼ばずしてなんとするんだ。それなのに、親じゃなくて、たんなるおじいちゃんだと?」 「わかった、わかった。もー、わかったってば。お願いだから血圧をあげないでね。そんなに若くはないんだから」 「茶化すな!」  湯沢教授は、受話器に唾《つば》を飛ばしながら怒鳴った。 「おまえたち最近の若い者は、何かというと冗談でその場をごまかすのが特徴だが、そんなものはユーモアのセンスでもなんでもないぞ。ただの逃げ腰というんだ」 「怒らないでよー」  電話口の向こうで、泉美はうんざりしたような声をあげた。 「私だってお姉ちゃんだって、おじいちゃんのこと、とっても好きなのよ。尊敬しているし、感謝しているし……。私たちが生活の心配もなくここまで来れたのも、みんなおじいちゃんのおかげなんだから」 「黙れ」 「黙ってたら誤解されるばかりだからつづけるけど、夏子も泉美もおじいちゃんのことを……」 「黙れ黙れ黙れ黙れ」  突然、狂ったように湯沢は繰り返した。 「おまえたち……おまえたち……」  荒い息が受話器にぶつかって、ものすごいノイズを立てた。 「おまえたち、一度くらい私を『お父さん』と呼んだらどうなんだ!」  湯沢は怒鳴りあげた。  電話口の声がピタッとやんだ。  こんどは、冗談めかした合いの手も、すねた調子の反論も返ってこなかった。  ただただ、息を呑《の》んだような沈黙が伝わってくるばかりである。 「……もしもし」  仕方なしに、湯沢は自分から呼びかけた。 「聞いているのか……もしもし」  教授は受話器を耳に圧《お》し当てたが、聞こえてくるのは、しゃくりあげるようなすすり泣きの声だけだった。 「泉美……」 「……ご……めん……なさい……」  とぎれとぎれの声で泉美は謝った。 「……なんか……すごいショックで……もう……なんにもいえなく……なっ……ちゃっ……た……」  電話は切れた。     3  泉美からの電話が終わったのを見透かしたように、リビングにあるもう一本の電話がけたたましく鳴りはじめた。こちらは仕事の連絡用に公表してある番号である。  黙って受話器を取り上げると、聞き慣れた声で「もしもし、恐縮です。こちらは……」と、やりはじめた。  民放テレビ局と専属契約を結んでいる、芸能レポーターの代名詞のようにいわれている男だった。  湯沢は反射的に電話を切った。  そして、モジュラーコードを本体から引き抜いて、電話が着信してもウンともスンともいわないようにした。 「くそっ!」  意味もなく罵倒《ばとう》のセリフが出た。  自分自身を罵《ののし》る言葉だ。 「なんで、泉美にあんなことを言ったんだ」  湯沢はひどく後悔していた。  早くに両親を亡くした孫に向かって、自分を父親と呼べというのは、あまりにも無神経な言葉ではなかったか。  いくら物心つく前に別れを告げたといっても、夏子にも泉美にも、ちゃんと『お父さん』『お母さん』と呼べる親がいたのだ。  当時わずか二歳だった泉美ですら、元気だったころの親の姿を、ちゃんと記憶にとどめているという。  そんな彼女に対して、祖父である自分を父と呼べと命ずることがどんなに残酷な仕打ちか——電話口で泣き出されてみて、はじめて湯沢は気がついた。  夏子や泉美の父親は、湯沢からみれば実の息子である。それも、中年になってからようやく授かった可愛い可愛い一人息子だった。  その息子が独り立ちしたころ、湯沢の妻は突然、性格不一致を理由に離婚を申し立ててきた。  いまから思えば、B型の血液型を持つ妻にとって、A型の典型ともいうべき几帳面で神経質な夫の存在は、つねに重荷であったに違いない。  しかも、湯沢は自分と同じものの見方・考え方をいつも妻に強いていた。それが彼女には息苦しい圧迫感となっていたはずだ。  そして窒息しそうな毎日に我慢ができず、人生を半ば以上過ぎた時点で、ついに妻は、すべてを投げうってでも、失われた自由を取り戻したくなったのだろう。  いまならば血液型の性格判断からそうした推測もできるのだが、そのころ軍事心理学と犯罪心理学の領域だけに没頭していた湯沢には、皮肉にも妻の心理的|葛藤《かつとう》が読めていなかった。  そんなわけで、息子と二人きりの生活がしばらくつづくことになったが、その息子もやがて可愛らしい妻を迎え、女の子も二人生まれ、ようやく小平の家にも平和な笑い声がよみがえってきた。  そう喜んだ矢先に、衝撃の交通事故である。  こうしていつも家族の絆《きずな》が不安定でありつづけた湯沢康弘にとって、晩年の最後の安らぎは、二人の孫娘の存在だったのである。  しかし、そのかけがえのない孫にとんでもない失言をしてしまった。  いったん後悔しはじめると、とめどもなく落ち込んでいくのが湯沢の癖だった。  講演の騒ぎだけでも相当いらだっていたのに、それに輪をかけて気分が滅入ってきた。このままでは、夜が明けるまで悶々《もんもん》と悩んでしまうのは目に見えていた。  酒もタバコも飲まない教授は、気分転換をするために、庭先の離れに建ててある『研究室』に行くことにした。なんといっても、この仕事場がいちばん心の落ち着きを得られるからだ。  研究室の鍵《かぎ》は、二階の書斎に置いてあった。  階段を上っていちばん突き当たりがその部屋になるのだが、その途中に夏子と泉美の部屋があった。  夏子がこの家で電話を待っていたという、さきほどの泉美の言葉を思いだし、教授は、ふと夏子の部屋をのぞいてみる気になった。  ノックをせずにドアを開ける。  十五、六畳ある部屋には電気がついていなかった。  もちろん、本人の姿はない。  当然の事実を確認してふたたび部屋を出ようとしたとき、湯沢教授の視線が窓に吸いつけられた。  カーテンが無造作に引き開けられたままになっていたのだ。  眠るときと不在のときは、自分の部屋のカーテンをきちんと閉めておくのが、夏子も泉美も習慣になっていた。  そういうふうに湯沢がしつけたのである。  広大な敷地に建っている母屋だから、どこから覗《のぞ》かれるというものでもなかったが、女はつねにスキをみせてはならない、プライベートな空間は他人の目にふれないよう、いつも細心の注意を払え、と湯沢は口を酸っぱくして教育してきた。  小さいときからそう言われつづけてきたので、二人ともそれが無意識の習慣になって身についていた。  ところが、いま、夏子の部屋のカーテンは両側に引き開けられたままとなっていた。  ロケで何日も家を空けるときは、必ずカーテンを閉めて出かけるはずだから、これは泉美が話していたように、自分が赤坂へ向かったあと、家へ戻ってきたのかもしれないと思った。  教授は手探りで壁のスイッチを探し、部屋の電気をつけた。  明るくなった部屋を一瞥《いちべつ》して、教授はうなずいた。やはり夏子は、湯沢の不在時に、この部屋に帰ってきていたらしい。  ガラステーブルの上に紺のハンドバッグが無造作に口を開けたまま置いてあり、中からコンパクトなどが顔をのぞかせていた。  そして、そのそばには、ピンク色の口紅をふき取ったティッシュペーパーが丸めて転がっている。 (こんなふうに、だらしなく散らかしたまま出かける夏子じゃないんだが……)  湯沢は眉をひそめた。  泉美もそうだが、夏子はとくに整理整頓をきっちりやらねば気のすまない子だった。  教授に言わせれば、それはAB型の女性にみられる典型的な特徴なのである。  論理で動くAB型は、身の回りのこまごました物まで、自分なりに決めた法則に従って配置しないと気が済まないのだ。  しかし、いま教授が目の当たりにしている夏子の部屋には、AB型らしからぬ乱れがあまりにも多すぎた。  教授はガラステーブルに近づくと、無意識に夏子のハンドバッグを取り上げた。  そのとき、いままでバッグの下敷きになっていたものが目に入った。  一枚の写真だ。  大きさは普通のサービスサイズで、横位置に撮られたカラー写真である。その写真に写っているものを見た瞬間、教授の顔色が変わった。  湯沢はあわててじゅうたんにひざまずき、その写真を手に取った。  それは戸外で撮影されたようで、背景には緑の木々がたくさん写っている。季節感はわからないが、さほど天気はよくなく、全体的にやや色が濁った感じになっていた。  だが、そんなことはどうでもよい。問題は被写体である。  そこには五人の人物が写っていた。  誰もがレンズの正面を向き、軽く微笑《ほほえ》んでいる。いかにもよくある記念写真のポーズだった。  真ん中でガーデンチェアのようなものに腰掛けているのは夏子だった。鮮やかな真紅のワンピースを着て、やはり同系色のつば広の帽子を斜めにかぶっている。  そして、その夏子を取り囲むように四人の男女が立っていた。  先崎陽太郎。  星真美子。  大森徹。  峰村準二……。  教授は我が目を疑った。  たったいま、赤坂の講演会場で『私を殺そうとしている』と名指しで槍玉《やりだま》にあげた四人が、こともあろうに孫の夏子を囲んで一枚の記念写真に収まっているのである。  あの講演会場では、峰村が星真美子のことを馴《な》れ馴《な》れしく『マミちゃん』と呼ぶ場面があったものの、それ以外の人物がたがいに面識がある様子は見受けられなかった。ところが、この写真はどうだ。最初から四人が知り合いであるのは明白ではないか。 「夏子……」  うめきにも似たつぶやきが、湯沢教授の口から洩《も》れた。 「いったい、どういうことなんだ」  そのとき、閉めた窓ガラスを通して、表のほうのざわめきが伝わってきた。  駆け寄って窓を開けると、たむろする人の話し声が一段と大きくなって教授の耳に飛び込んできた。それは喧噪《けんそう》と呼んだほうがよいほどの騒がしさである。  生い茂る庭の樹木と高く張り巡らした塀のために、直接人間の姿は見えない。しかし、玄関前の道路のほうで、煌々《こうこう》とした照明が輝いているのが見下ろせた。テレビ用のライトである。  そのまばゆい明かりは固定されず、たえず右に左に動いており、そのたびに隣家の建物に映し出された電柱の影などがつられて揺らめいた。  玄関のチャイムは鳴らないように先ほどスイッチを切っておいたが、おそらくインタホンの周りには、マイクを持ったレポーターが張りついているに違いない。  いよいよマスコミの取材陣がここまで押しかけてきたのである。     4  きっかり夜の十時に、財津警部は捜査一課の部屋に戻ってきた。 「どうでした」  ひろみとフレッドが同じセリフを口にしながら、立ち上がって警部を迎えた。  どうでした、というのは、例の水差しとタンブラーに入ってた水のことである。科学研に特急扱いでその分析を依頼してあったのだ。  財津はすぐには答えず、ひろみの席に座るとネクタイをゆるめ、背広の前をはだけてフーッと長いため息をついた。  ひろみとフレッドが顔を見合わせる。 「お茶でもいれましょうか」  と、ひろみ。 「いや、いらん……いや待て、やっぱり熱いのを一杯くれるか」 「わかりました」  給湯室のほうへ向かうひろみのライダースーツの後ろ姿にぼんやり目をやりながら、財津はもういちど大きなため息をついた。 「どうしちゃったんです、警部」  机の上に腰をのせ、長い脚を揺らしながらフレッドがたずねた。 「烏丸ひろみの可愛いお尻を見つめながら、何のコメントも出さないというのは珍しいですよ」 「……ああ……そうかね」  まったく心ここにあらず、という表情で、警部はうつろな返事をした。 「そういうことも……たまには……あるわな」 「はい、ボス。煎茶《せんちや》やほうじ茶もあったけど、これにしました」  二人のところに戻ってくると、ひろみは湯気の立ちのぼる湯呑《ゆの》みを財津警部の前に置いた。 「おう、こぶ茶か……気が利くな」  もたれかかっていた椅子《いす》の背から身を起こすと、財津は湯呑みを両手にくるんだ。 「うん、熱さかげんもちょうどいい」 「いいねえ、美人の女の子は」  フレッドが肩をすくめた。 「たんなる日本茶でなく、こぶ茶というチョイスをしただけで『おう、気が利くな』ってほめられるんだから。これがぼくだったら、『フレッド、おれはふつうのお茶が飲みたかったんだぞ』って怒られるに決まってるんだ」  ひろみはフレッドに向かって、得意そうに目をクリッとさせたが、財津はあいかわらずボーッとしている。 「それでだな……」  こぶ茶を一口すすると、財津はようやく重たい口を開いた。 「時間をかけた正式な分析には明日の朝回すそうだが、とりあえず当直の連中が簡単な検査をしたところ……」 「したところ?」  聞き返すフレッドに、財津警部は力なく首を振った。 「ただの水である可能性が強いと」 「はあ……」  フレッドは拍子抜けした顔になり、ひろみも大きな瞳《ひとみ》を見開いたまま、どういうふうに相槌《あいづち》を打てばよいかわからない様子だった。 「いまこの場で、この水を飲んでみろと言われればためらうが、少なくとも青酸カリやそれに類した毒物が混入されている可能性は、まずないとのことだよ。ただし、人体に有害な細菌や病原菌などの混入がないともいえないので、少し日にちをかけて精密な検査をするとの返事だ」 「………」 「つまりだ」  財津は湯呑みを置くと、両方の手で自分の頬《ほお》をピシャピシャ叩《たた》いた。 「おれは滑稽《こつけい》な独り相撲をとったうえに、湯沢教授の講演会をメチャクチャにしてしまった張本人ということになるわけだよ」 「そんな……」  机の上から滑り降りると、フレッドは財津の隣の椅子に腰を下ろした。 「警部があそこで出ていかなくたって、あのまま放っておけば、どっちにしたって修羅場になっていましたよ。なにしろテレビや週刊誌でおなじみの連中が、公衆の面前で殺人者まがいの非難を浴びたんですから、すんなりと講演会が終わるはずがありませんよ」 「だけど、おれがかき回すよりはマシだったはずだ」 「もう、ボスったら」  ひろみは机の上に頬杖《ほおづえ》をついて、財津の顔をのぞき込んだ。 「A型でもないくせに責任感が強すぎるんだから。O型っていうのは、もっと物事に対してゆったりと構える、大陸的なスケールの大きさがとりえなんでしょ」 「もしかしたら、おれは自分の血液型を取り違えているのかもしれん」 「もう……」 「明日になれば、朝の芸能ワイドなどでさっきの講演会の様子が逐一レポートされるだろう」  すっかり滅入った顔で財津は言った。 「そうなれば、捜査一課の財津というダンプカーみたいな体格をした男が、ダンプカーみたいな勢いで演壇に突進して駆け上がり、この水には毒が入っているかもしれないと叫んだ一部始終が、ぜんぶ放送されてしまうに違いない。それも日本中の国民に向かってだ。……まったく、ひどい早とちりをしたもんだよ。一課長や刑事部長になんと申し開きをしてよいやら」 「警部、そんなふうに自分を責めないで」  ひろみが財津の腕をとった。 「それに、あの水の中に毒が入っているかもしれないと最初に言い出したのは、私だったんですよ。責任があるなら警部じゃなくて私です」 「いや、おれがいかんのだ」 「警部、ひろみが言うとおりですよ。ボスのせいじゃない。といって、ひろみのせいでもない。悪いのは、もったいぶった演説をした湯沢教授、あの白髪のジイさんがいけないんだ」  フレッドもしきりに財津をかばった。 「私は殺されるかもしれない、なんて、ああいう思わせぶりなことを言われたら、こっちだって商売ですからね。万一の事態を考えて行動するのはあたりまえですよ」 「しかしなあ、フレッド。おれも完全に場の雰囲気に呑《の》まれてしまったからなあ。それが悔やまれてならないんだ。大声で叫んだり駆け出したりせずに、もっと冷静に行動していれば」 「だけど警部は、あそこで湯沢教授が水を口にするのを黙って見ていられましたか」 「……できんな」 「でしょ? それに、それまでにも教授は、何度もグラスを口元にもっていっては飲むのをやめたじゃないですか。ああいうわざとらしい行動は、絶対に計算ずくでやっているんですよ」  フレッドは強調し、警部からひろみのほうに向き直った。 「もしかしたらあの講演会そのものが、湯沢教授の仕組んだ心理実験の場だったのかもしれないしね」  フレッドに指摘されてみると、ひろみにもそれが正解のように思えてきた。  いくらなんでも、一般聴衆の前で『私を殺そうとしている人間がいる』と口走るのは不自然だったし、精神科医の峰村などが反論したように、名誉毀損で訴えられかねない行為でもある。  そんな無謀な行動を、地位も名声もある一流の心理学者が考えもなしにやったとは思えない。どこかに、はっきりとした目的があるに決まっているのだ。  財津もフレッドも、そしてひろみも、しばらくは黙りこくって、それぞれの考えにふけりはじめた。  なんとなく三人の間に重苦しい雰囲気が漂ってきたとき、けたたましい電話のベルがその沈黙を破った。  最初に受話器に飛びついたのはフレッドだったが、先方の話を聞いているうちに、みるみる彼の表情が深刻になっていった。 「警部!」  受話器を高く掲げてフレッドがいった。 「小平署からの出動要請です」 「小平署?」  けげんな顔で財津が聞き返した。 「小平市内の個人宅で、自殺なのか他殺なのかまるで見当のつかない首吊《くびつ》り死体が見つかったそうです」 「そんな遠くの事件は、このさいほかの班に任せたいな。鑑識だけ応援に回したらどうなんだ」  気がなさそうに言いながらも、財津は、なかば条件反射的に壁の時計に目をやった。  午後十時十分。 「そんなことを言っていいんですか、警部」  フレッドの声は張りつめていた。 「死亡したのは目下人気ナンバーワンのテレビタレントで、名前は湯沢夏子、年齢二十四歳」 「なに!」  財津が目をむいた。 「いうまでもなく、心理学者・湯沢康弘教授の孫娘です」  ひろみもポカンとして、フレッドの口元を見つめる。 「一一〇番通報してきたのは、被害者の祖父、湯沢康弘で、しかも……」  フレッドは言葉を切って、上司の顔を見た。 「警視庁捜査一課、財津大三郎警部の出動を自らご指名だったそうですよ」     5 「日付が変わらないうちにまたお会いしようとは思いませんでしたが……しかし、とんでもないことになりましたな」  殺到する報道陣の波をかきわけて湯沢邸のリビングルームに上がり込んだ財津警部は、憔悴《しようすい》しきった表情の老教授に同情の声をかけた。  だが、湯沢康弘はそれに返事を返す力も残っていないようで、ソファにぐったりともたれかかったまま、うつろな目で天井を見上げていた。 「教授にはもうひとり孫娘がいるようですが、連絡がとれないんです」  先着していた小平署の桑田警部補が、財津の耳元でささやいた。 「いざというときに駆けつけてくれる親戚もいないんですかね。我々が到着したあとも、ずっとひとりぼっちで涙を流して、見ていてちょっと哀れな感じもしましたが……」  財津は黙ってうなずくと、湯沢教授の正面に腰を下ろした。  フレデリック・ニューマン刑事と、烏丸ひろみ刑事がその両脇に立つ。 「外は大変ですな」  財津は雑談をはじめるように切り出した。 「マスコミの連中も、さっきの講演会騒ぎの件を取材するつもりでやってきたんでしょうが、思わぬ事件発生で興奮しまくっている。小平署員で夜勤だった連中は、ずいぶん路上の整理要員にかり出されたようですね」  湯沢はウンともスンとも答えずに、ソファの背に首をもたせかけ、天を仰いだままの格好で身動きをしなかった。  その皺《しわ》だらけの頬《ほお》には、桑田警部補が話していたように、涙が幾筋も伝い落ちた跡がある。 「で、これから現場を拝見させていただきますが、いっしょにおつきあい願えますね」 「また見るのか」  うつろな視線を泳がせながら、教授が言った。 「は?」 「また、夏子の死体を見ろというのかね」  湯沢の質問に、財津は、教授の背後に控えている桑田警部補に目をやった。  首吊り状態で発見された死体はすでに床に下ろしてある、というゼスチャーが桑田から返ってきた。 「恐縮ですが、もういちどご協力ください。ただし、夏子さんのご遺体はさっきのままではありませんので」 「……行きたくない」  教授は天井を見たままポツンとつぶやいた。 「きみらで勝手に行ってくれ」 「しかし、発見のときの様子などをお伺いしなければなりませんし」 「それはここで話す」 「説明は現場でお願いしたいのです」  財津は折れなかった。 「本庁で受けた情報を整理しただけでも、不思議なことが多すぎます。夏子さんは金色の鎖を首に巻きつけられ、天井の梁《はり》からぶら下がっていたところをあなたに発見された。しかし、その部屋の中には、首吊りを実行するさいの踏み台となりそうな物が、何ひとつ見当たらないという。ということは、自殺にしてはおかしいじゃありませんか」 「………」 「もちろん自殺の可能性だって消されたわけではないが、単純な首吊り自殺とは、あまりに様相が異なっているようです。したがって、夏子さんを発見されたときの模様から、その前後についても詳しくお話を伺わねばなりません。それも、現場でです」  財津は一気にしゃべった。  息もつがずに畳みかけるのは、相手を自分のペースに巻き込もうとするときの、いつものやり方である。 「するとあんたは……」  ようやく湯沢教授は、焦点の定まらなかった視線を財津警部に向けた。 「あんたは夏子は誰かに殺されたと……つまり、これが殺人だと最初から決めつけているわけだな」 「可能性が高いと申し上げているだけです」  財津はおだやかに言い直した。 「なにしろ私は現場をまだ見ていません。お宅へ着くなりこの部屋に直行しましたのでね。そこにいる小平署の桑田警部補から、立ち話のようにしてざっと補足説明を受けた程度なんです」 「無線の通報と、立ち話の情報程度で殺人という予断を抱くのかね」  さすがにその言い方には財津もムッとし、腰を浮かせかけたが、後ろに控える烏丸ひろみに肩をそっと押さえられ、辛うじて平静を保った。  ときどきカーッとなってしまうボスを案じて、ひろみはちゃんと然《しか》るべきポジションに立っていたのである。 「しかし、話によりますと……」  財津は、なんとか自制して落ち着いた声を出した。 「なんでも一一〇番通報をされたさいに、私の名前を出されたとか」 「ああ」 「それはどうしてです」 「別にあんたを信頼しているからではない」  憔悴しきった顔をしながらも、老心理学者は、またしても人を怒らせるような言い方をした。 「ただ、事情をある程度わかっている捜査官がいてくれたほうがいいと思ったからなんだが、いまではよけいな指名をしたと悔やんでおる。どうやらあんたという男は、物事を独断で決めつける傾向が強いようだな」 「独断で、ですって」  ふたたび財津の腰が浮きかかった。 「そんなに私が独断専行型に見えますか」 「独断という言葉がきつければ、思いつめたら脇目《わきめ》もふらず、と言い直してもよい。それが、警視庁捜査一課の警部として、良いことなのか悪いことなのか知らんが」 「………」 「で、水はどうしたかね」 「え」 「あんたが毒入りだと叫んだ水だよ。私が飲もうとした……」 「ああ、あれは……」  財津は一瞬ためらったが、隠しても仕方がないと思い、正直に打ち明けた。 「正式な検査は明日朝からはじめますが、いまのところ毒劇物が混入している確率はきわめて薄いと……つまり、私の一方的な思い込みであった可能性が大きいようです。まことにお騒がせして申し訳ありませんでした」  くやしいけれど、財津は頭を下げた。  湯沢教授はその様子を無表情にながめていたが、やがてポツンとつぶやいた。 「あんたはO型かね」     6  渋る湯沢教授を説得して、財津、フレッド、ひろみ、桑田警部補の四人は、教授ともども敷地の奥に建てられたコンクリート造りの『研究室』へと移動した。  あいかわらず塀の外ではマスコミの報道陣が、整理にあたる小平署員と押し問答を繰り返しているようだった。  一行が庭を横切っていく間にも、そうした騒ぎが聞こえてくる。敷地の中に向かって、一方的に大声を張り上げるレポーターも大勢いた。 「お取り込み中を恐縮です。湯沢先生、ひとことで結構ですから、お話を聞かせていただきたいんです」 「そちらで、湯沢夏子さんが首吊り自殺をなさったという情報が入っているんですよ」 「それは、今夜の講演会での騒ぎと関係はあるんですか」 「先生は、講演で『私を殺そうとしている人間がいる』とおっしゃいましたが、なんと、死んだのはお孫さんの夏子さんのほうだった。この皮肉な出来事について、何かおっしゃりたいことはありませんか」 「一部では殺人という噂《うわさ》も出ておりますが、それはどうなんでしょう」 「いま、どんなお気持ちですか。せめてそれだけでも」 「テレビの前の国民は、事実を知りたがっているんです」 「ちょっとだけ我々の前に顔を見せていただけませんか」  男女入り乱れてのレポーターの声が、夜の闇《やみ》を飛び交う。まさに近所迷惑も何もあったものではないという騒ぎである。電柱や隣家の塀によじ登って中の様子を撮影しようとするカメラマンまで出てきて、それを制止する警察官と喧嘩《けんか》になっていた。 「すごいよな」  フレッドがひろみにつぶやいた。 「国民のみなさんは何でも知りたがっちゃうんだから」 「それもタダでね」  と、ひろみ。  湯沢教授は芝生の上を歩きながら、そんなやりとりをする若い刑事たちに向かって、吐き捨てるように言った。 「こういうのはな、メディアを使った人民裁判というんだ」  何の装飾も施さない殺風景な四角い建物は、捜査陣の持ち込んだ照明で四方から照らされ、一種現実ばなれした姿を闇の中に浮かび上がらせていた。  南側の壁には直径一メートルの円形の窓が二つはめ込まれており、その片方には、青い出動服を着た鑑識係の姿がチラチラと映っていた。  一行は建物の反対側に回り込み、北側の玄関ホールから中に入った。  入るとすぐに、収納扉のついた書棚をはさんで、左右二つの小部屋につながるドアが対称の位置に並んでいた。  そして、外開きになったそれぞれのドアには『一号室』『二号室』という表記がつけられている(図参照)。  湯沢夏子の遺体が発見されたのは、向かって左側の一号室のほうである。  部屋の中で検証をつづけていた本庁と小平署の鑑識係がいったんホールのほうに引き下がり、入れ替わりに、財津警部たちがその中へ足を踏み入れた。  湯沢教授はためらったように、戸口のところにたたずんだままだ。 「遺体はあそこに下ろしてあります」  桑田警部補に指摘されるまでもなく、夏子の姿はすぐに目に入った。  部屋の中央の床に引き下ろされた彼女は、まだその首に金色の鎖を巻きつけられたまま、鑑識が用意したブルーのシートの上に、横向きの格好で寝かされていた。  あおむけにされていないのは、ロープで両手首を後ろ手に縛られているからである。鑑識がまだそのロープをほどいていないため、遺体をあおむけにできないのだ。  夏子は淡いピンクのセーターに、黒のスカート、そして、レース模様の入った黒のストッキングをはいていた。  その美貌《びぼう》と愛嬌《あいきよう》と頭の回転の素早さで将来を嘱望された人気テレビタレントの死に顔は、首吊り特有の悲惨なものだった。  ひろみはライダースーツのジッパーを襟元まで引き上げ、改まった表情で遺体に向かって両手を合わせた。  そして、クリスチャンのフレッドは十字を切った。 (図省略) 「それにしても、ずいぶんとあっさりした部屋ですな」  それが財津の第一声だった。  日本式にいうと、間口一間半、奥行き三間——つまり、二・七メートル×五・四メートルのこぢんまりとした部屋。その部屋の内側が、天井から四方の壁から床にいたるまで、真っ白に塗られていた。  サイズのわりにさほど圧迫感がないのは、内側全面を膨張色である白一色に塗ってあるためと、それから天井が高いのが原因だと思われた。  一般住宅の規格では、天井高は二・四メートルに設定されている場合が多いが、この部屋はそれより三十センチ高い二・七メートルであることが、鑑識の計測で明らかになっていた。  そして、広々とした印象を受けるもうひとつの理由は、部屋の中によぶんな家具が置かれていないせいだった。  なにしろ装飾品といえば、窓に向かって右側の壁に掛けられた風景画の額と、八角形の時計だけである。  風景画は、凱旋門《がいせんもん》を構図のメインに据えた晩秋のパリを描いた水彩画で、縦長の額縁に収められている。そして、白木の枠をもった八角形の掛時計は、正確にいまの時刻——午後十一時四十分を指して動いていた。 「上をごらんいただきたいんですが」  と、桑田警部補が言った。 「やはり真っ白に塗られた二本の梁が、天井の対角線を結ぶ形で交わっていますね」 「ああ」  財津たちも、警部補にならって一斉に天井を見上げた。 「夏子さんは、梁のあそこの位置にぶら下がっていたのです」  警部補は、一カ所を指さした。  ちょうど夏子の死体が横たわっている真上——二本の梁が交差する中心部よりも、やや斜め右よりのところに、鎖がこすれて付いたと思われる傷痕《きずあと》が見えた(図参照)。 「あの部分に、鎖がしっかりと結わえつけられてあり、その一端が彼女の首に巻きつけられていました」  現場に真っ先に駆けつけた桑田警部補は、まだ夏子が梁からぶら下がっている状態のポラロイド写真を財津に見せた。 「天井高が二メートル七十センチ。梁の上部と天井との間には、鎖を回し込めるようなわずかな隙間《すきま》がありますので、それを差し引くと、梁の上部から床までの距離は二メートル六十五センチ」  桑田警部補は、ボールペンの尻で写真を指しながら補足説明を行なった。 「梁の上に位置する鎖の結び目から彼女の首までの距離、すなわち鎖がピンと張ったときの長さは九十センチありました。ここの部分ですね」  桑田は、写真に写った金色の線に沿ってボールペンを往復させる。 「そして、身長一メートル六十センチである彼女の首から足の裏までが、およそ一メートル三十五。したがって、265ひく90ひく135というわけで、四十センチ床に届かない。爪先《つまさき》だちしたとしても、なお二十センチは不足します」  写真を見るかぎり、だらりとなった夏子の爪先から床までは、たしかに二、三十センチの距離があった。 「で、この差を縮めるものが、この部屋には存在しないのです。つまり、わかりやすく申し上げますと、自殺のための踏み台がどこにも見当たらないということです」 「ふむ」  短く相槌《あいづち》を打って、財津は部屋の中を見回した。改めてそうやって眺めたところで、新たな発見があるわけではなかった。 「たしかに、踏み台となるものは何もないな」 「ですから、仮に夏子さんが自分の両手首を自分で縛るという芸当ができたにしても、自殺とみるのは無理なようです」 「しかし、他殺にしても変だぞ……なあ、ひろみ、フレッド」  財津は、二人の部下をふり返った。 「彼女の死因は頸部《けいぶ》の圧迫——つまり、自分の体重をまともに首回りに受けたことで死に至ったとみられる。それ以外の方法で死んだとは思えない」 「ええ」 「そして、踏み台が残されていない点と、両手を後ろに縛られている点から、自殺ではないとしよう。しかしね、彼女を首吊りの方法によって殺すにしても、やはり犯人としては踏み台があったほうが便利なんじゃないかね」 「そりゃそうですよ」  と、先にフレッドが口を開いた。 「踏み台なしに、いきなり本人を天井の梁にぶらさげるのは、作業的に難しいですよ。残酷な想像ですけれど、まずは本人を踏み台の上に立たせて、あとからその踏み台を外すということをしたほうが合理的です」  戸口のところに立っている湯沢教授を考慮して、フレッドは小声になった。 「それに、犯人が鎖をああやって天井の梁に結びつける作業のときも、踏み台のようなものは必要だったはずです。身長が二メートル七十センチある怪物なら別ですけれどね」 「だから、どちらにしても犯行のさいに踏み台の存在があったのは間違いないということになるだろう」 「ええ、なりますね」 「では、犯人はどうしてその踏み台を隠したんだろう」  財津は疑問を呈した。 「このあと隣の部屋も見せてもらうつもりだが、廊下などに椅子が出してある様子もない。どうせ、状況からみて他殺であるのは明らかなんだから、この部屋に置きっ放しでもよかったんじゃないかね」 「それを残しておくと、犯人が特定できるからじゃないですか」  と、フレッド。 「そうじゃなくて、美的センスの問題かもね」  と、ひろみ。 「なんだ、その美的センスっちゅうのは」  財津がたずねると、ひろみは真っ白な部屋を見回して言った。 「よけいな小道具を残しておくと、この部屋のシンプルな美しさを壊してしまう。そうはしたくなかったから、犯人は踏み台を持ち去った……っていうのは?」 「まさか」  その意見には同意できんぞ、というふうに肩をすくめたが、財津はひろみが指摘した白い部屋の簡素なたたずまいを改めて一瞥《いちべつ》した。そして、部屋の入口にたたずんでいる教授をふり返った。 「湯沢先生」  部屋の中から目をそむけていた教授は、呼びかけられて顔の向きを変えた。 「この部屋はまたずいぶんとさっぱりしていますが、やはり何かの心理実験に使う目的でお作りになったのですか」 「ああ」  あらためて孫娘の遺体と対面したためか、教授はまた目に涙を浮かべていた。 「ちょうど模様替えの途中だったもので、まだほとんど何も運び込んでいないのだ」 「そうですか。しかし……」  財津警部は、周囲をぐるりと見回していった。 「部屋の中に照明設備がまるでないのはどういうことです」  財津に指摘されて、ひろみもはじめて気がついた。  天井は二本の梁《はり》が交差している以外はのっぺらぼうで、螢光灯や白熱灯などの照明器具が一切ついていない。それだけでなく、壁にも床にも電気のコンセントなどがまったく見当たらないのだ。 「いわば、この部屋は白い箱ですな。よけいなものがまるでない」 「それでいいのだ」  湯沢教授は、目尻の涙を指先でぬぐいながら答えた。 「窓から入ってくるだけの自然光で暮らしたときの、人間の心理と視覚的な反応の実験をやるつもりだったからね」 「そうなると、あなたが夏子さんの姿を見つけたときには、この部屋は真っ暗だったということになりますね」 「いや」  教授は首を横に振った。 「真っ暗というのは正しくない」 「といいますと」 「いまはサーチライトなどで照らしているからわからないかもしれないが、庭先の水銀灯の明かりが、この部屋の中にも差し込んでくるのだ。だから、その薄明かりで部屋の様子はじゅうぶん確かめられた」 「……そうですか。わかりました」  財津は教授の答えに、ちょっと間を置いてうなずいた。 「それで発見のいきさつですが、あなたは夏子さんを探そうとして、この研究室へきたのではなく、講演会の一件でマスコミの取材がうるさくなると思い、母屋ではなくこの建物に緊急避難するつもりだったとおっしゃる」 「そのとおり、この研究室はかなり防音設備をしっかりしているから、外の騒ぎも耳にしなくてすむのでね」 「ほう……」  財津警部は、教授のその言葉を確かめるかのように、壁に近寄って拳でそれを叩《たた》いてみた。  張りつけられた石膏《せつこう》ボードの向こう側は、コンクリート壁であるはずだが、ノックした響きは、何かクッションがはさまっているような柔らかい音となって返ってきた。  靴を脱いでいた警部は、靴下だけの素足で床を何度か踏んでみた。  白塗りの板張りに、これも独特のしなりが感じられる。 「床下にも壁の向こうにも、吸音材のラバーを敷き込んであるのだ」 「なるほど」  その言葉にまたうなずきながら、財津は教授に向き直った。 「先生が、母屋からこの研究室へ来られたわけはわかりました。で、そのときこの離れの入口——玄関と呼んでいいのですかな——その鍵は掛かっていたのですか」 「掛かっていた。だが、内側のノブについている真ん中のボタンを押し込んだまま閉めれば、ドアは自動的にロックできるから、正確には『鍵が掛かっていた』とはいえないかもしれない」  教授の答え方は慎重だった。 「で、この部屋のドアは」 「同じ方式でロックができるようになっているが、こちらはすんなりと開いた」 「それで、先生はどうされました」 「どうされたとは」 「つまり、夏子さんが首を吊っているのを見つけられ、どのように行動されたか、ということなのですが」 「きみはそのときの私の行動から、なにか心理的な分析を試みようとするつもりかね」  老心理学者は挑戦的な目を財津に向けた。 「いえ」  警部はあっさり答えた。 「たんに、物理的な動きを記録して置きたいものですからね」     7 「ねえ、フレッド」  戸口のところで財津が湯沢教授とやりとりしている間、烏丸ひろみは夏子の遺体のそばにひざまずいて、その様子をじっと観察していた。  が、何か気になることを発見したらしく、フレッドを手招きした。 「ちょっとおかしいと思わない。これを見て」 「何が」  と、ひろみのそばにしゃがみ込みながら、フレッドは素早く彼女に耳打ちした。 「金髪で青い目をしたハンサムな刑事がよほど珍しいらしくて、さっきから桑田警部補がチラチラとこっちばかり見ているんだ。もしかして、あのオジさん、ぼくに気でもあるのかね」 (バーカ)  口の格好だけでそういうと、ひろみはフレッドの頬を人差し指でつついた。 「いくらB型だからって、男とは浮気しないでよね」 「浮気?」  至近距離でフレッドが見返す。 「なんでもない」  ひろみはあわてた感じで打ち消すと、前を向いた。 「フレッドって自意識過剰なんじゃないの……っていうこと」 「ふうん」  意味ありげな納得のしかたをしてから、フレッドはまたひろみの耳元に顔を近づけた。だが、こんどは何かをささやくためではなく、しきりに鼻をひくつかせている。 「なによ」 「リーゼントの匂いっていいもんだな、って思ってさ。整髪料は何を使ってるの」 「やめてよ、こんなときに」  肘《ひじ》でフレッドをつつくと、ひろみはしゃがんだままの格好で一歩離れた。 「それよりもお仕事でしょ」  そういって、彼女は夏子の遺体に目をやった。 「私が気になるのは、彼女の唇なの」 「唇?」 「そう……ほら、彼女、赤い口紅をさしているじゃない」 「ああ。しかし、こういう状態で死体が化粧しているというのも、なんだか気味が悪いもんだな」  フレッドは教授に聞こえないよう、いっそう小声になってつぶやいた。 「美人のタレントも、こうなっちゃあオシマイだ……で、赤い口紅がどうしたって?」 「それなのにマニキュアがピンクなのよ」  ひろみの言葉に、フレッドはあらためて夏子の指先に目をやった。 「ピンクのセーターに赤い口紅という取り合わせだけなら、別におかしいとは思わないけど、ピンクのマニキュアに赤い口紅というのは、なんとなくおかしい気がするの。セーターとマニキュアの色を合わせているだけに、なおさらね」 「言われてみればそんな気もするな」  と、うなずきつつも、フレッドはまたひろみに視線を向けた。 「そういえば、ひろみは髪型をリーゼントに変えてから、完全にノーメイクになったんだな」 「いいでしょ、べつに」 「ほめてるんだよ、素肌美人なんだねって」 「こういう場所で言わないでくれる?」 「美人タレントのあわれな最期を見たあとの口直しにひろみに目を向けたら、けっこう新鮮だなと思ってね」 「悪趣味だなー、口直しに私の顔を見ないでよ」  ひろみは頬をふくらませた。  そんな二人の様子を、小平署の桑田警部補が興味津々という雰囲気で観察していた。 「すると、湯沢先生は……」  野太い財津の声で、ひろみとフレッドは会話を中断した。 「この建物に入ると、まずこちらの部屋——一号室を開け、夏子さんが首吊り状態でぶら下がっているのを見つけた。そこで急いで母屋へひき返し、一一〇番に通報を入れた——そういうことですね」 「ああ」  教授は、まぶたのところまで垂れてきた白髪をかきあげ、力なくうなずいた。 「実際に近寄って確かめられはしなかったんですか」 「確かめた」  急に腹立たしげな口調になって、湯沢は答えた。 「確かめたが、死んでいるのは一目|瞭然《りようぜん》だった。そちらの桑田警部補さんの話によれば、夏子の死亡推定時刻は、おおよそ午後の五時から七時くらいの間だろうということだが、それくらいの見当は私にだってついた。若いころは仕事がら死体を見る機会も多かったし、いまだって法医学の研究は怠っていないからな」 「そうですか。それはまた、ずいぶん冷静に観察なさったんですな」  財津は淡々とした口調でいった。 「これは職業的習性だ」  湯沢はすぐに言い返す。 「しかし、先生は犯罪心理学の専門家ではおられても、法医学者ではない」 「なにが言いたいんだね」  湯沢は神経を高ぶらせてきた。 「先生は、一般人よりは他殺体を見るチャンスもおありになったかもしれないが、法医学者や私たち強行犯専門の刑事ほどは、死体に馴《な》れていらっしゃらないはずです」  財津は言った。 「ましてや、赤の他人が首を吊《つ》ったのではない。可愛いお孫さんでしょう。もう少しなんとかしようとは思われませんでしたか」 「何とかするとは」 「たとえば、踏み台になるものを持ってきて、夏子さんをとりあえず床に下ろしてあげようなどと考えられなかったんですか」  その言葉に、湯沢康弘は怒りをあらわにした。 「それはなにかね、私の行動を非難しているのかね」 「そうではありません」  警部は首を振った。 「自分だったら、どうするだろうと想像してみただけのことです」  ひろみとフレッドが、O型人間のボスの広い背中を、後ろからじっと見守っている。 「私だったら——あいにくと、まだ孫はおりませんが——わが息子が首を吊っているのを見つけたら、自分が捜査一課の警部であることなど忘れて激しく取り乱すでしょう」  財津は哀れみに満ちた目で、夏子の遺体をチラッとふり返った。 「そして、仕事ならば一目で状況を判断できる経験を積んでいても、わが子だったらそうはいかない。どんなに絶望的な状況にあっても、急いで遺体を引き下ろし、たとえ体が氷のように冷たくても、マッサージをしたり人工呼吸をしたり、そこまでできなくとも、せめて名前を呼んで頬《ほお》を叩《たた》いたりすると思いますね。それが、世の親の自然な行動だという気がしますが」 「私は親ではない」  湯沢は投げ出すように言った。 「私は祖父で、夏子は孫だ。実の親子関係に比べて態度が冷静であることを責められても、返事のしようがないな」 「………」  財津は、老教授の複雑な心理をかいまみた気がして、ちょっとだけ口をつぐんだ。 「では、話をちょっと変えさせていただきますけれど」  警部は、くるりときびすを返して部屋の中のほうに向き直った。 「先生はこの戸口に立って、あそこの位置に夏子さんがぶら下がっているのを見つけられた。そのとき、きちんと部屋の中を観察する余裕がおありでしたか」  部屋の中央に置かれた湯沢夏子の遺体のそばまで歩くと、そこでふたたび財津は教授に向き直った。 「つまり、いまの状態がそうであるように、壁に掛かっている時計と風景画以外には、何ひとつこの部屋にはなかった。床にも何ひとつ転がっていなかった、と、そう断言できますか」 「できる」  湯沢は遺体から目をそむけながら、はっきりと答えた。 「踏み台なり椅子なり、そうしたものがあれば、夏子は自殺をしたのかと思ったかもしれない。だが、それがなかった」  教授は廊下のほうに目をそらしたまましゃべった。 「しかも夏子は、両手を後ろで縛られておった。だから、私は殺人だと確信して警察に連絡したのだ。たしか一一〇番をかけたときも、『孫娘が殺されている』というふうに伝えたはずだ」 「なるほど、よくわかりました」  理路整然と話す教授にいささかウンザリした様子で、財津はそこでいったん質問を打ち切った。 「では、おそれいりますが、隣の部屋も見せていただけますか」 「隣の部屋も見るのかね」 「そうです、二号室のほうです。何か差支えがありますか」 「いや……かまわん」  湯沢が先に立って、財津を隣の部屋に案内した。それに桑田警部補がつづいたが、ひろみはフレッドの袖を引っぱって一号室のほうに残った。ちょっと話がある、という顔つきである。     8 「ねえ、フレッド。どう思う」  白い部屋に二人きりになってから、ひろみはたずねた。 「首吊りの真相についてか」 「うん」 「二つの可能性が考えられるな」  フレッドの青い目は、このやけに人工的な白い部屋を見回していた。 「常識的なセンは、殺人ということだよな。つまり、誰かが彼女の手を縛って、あそこの梁にぶら下げたというわけだ。だけど、それにしたって『踏み台』が残されていないのがおかしい」 「だからそれは……」  黒いライダースーツのポケットに両手を半分突っ込む格好で、ひろみは言った。 「さっきフレッドが自分で言ったように、犯人を特定できる危険性が残されていたから持ち去ったんでしょう」 「だったら聞くけど」  フレッドは顎《あご》で天井の梁を示した。 「湯沢夏子を殺すのに、なんでまた、あんな高いところにわざわざ鎖を巻きつけたりして、ぶら下げたんだ」 「だって、自殺に……」 「自殺に見せかけるためか? それなら、踏み台になるようなものを残しておかなくちゃ意味がないだろう」 「あ……そうだよね」  ひろみはリーゼントにした頭を、自分でコツンと叩いた。 「だろ」  フレッドが言った。 「自殺に見せかけた殺人ならば、犯人としては、椅子なり箱なり、そういったものをこの場に残しておかなければ、偽装の目的を果たしたことにはならないわけだ」 「うん」  ひろみは唇を丸めてうなずく。 「仮に、踏み台となるようなものを消失させるトリックを使ったところで、捜査陣を惑わせる謎《なぞ》としては面白いかもしれないが、犯人にとって得になることはひとつもない」 「じゃあ、フレッド。その逆は考えられないかなあ」  丸窓のほうに歩いていったひろみが、くるっとターンしてフレッドに向き直った。 「逆というと」 「自殺に見せかけた殺人じゃなくて、殺人に見せかけた自殺だったら」 「その場合の方法は? 両手を後ろで縛るくらいは自分ひとりでやれるかもしれないけれど、どうやって彼女は、踏み台をこの部屋から外に出したんだ」 「それはわからないけど……。たとえば、踏み台の代わりにドライアイスのかたまりを使った、なんていうのは嘘《うそ》っぽいかな」 「そんなことをしたら、足の裏が凍傷にかかってしまうよ」  フレッドは夏子の遺体に目をやった。 「それを防ごうとして何かを敷けば、ドライアイスが空中に消えたあとでも、それだけは残るわけだし」 「氷だったら、床が濡《ぬ》れていなくちゃおかしいもんね」 「それよりもさ」  フレッドは金髪の中に手を突っ込んだ。 「二つ考えられるといった可能性の、もう一方のほうを検討したほうがいいかもしれないよ」 「それは?」 「湯沢夏子はやっぱり自殺だった——それも、典型的なパターンでの首吊り自殺だった、と仮定するんだ」 「典型的って」 「つまり、彼女は自分自身の手であそこの梁に鎖をかけ、覚悟の首吊り自殺をした。ちゃんと踏み台のようなものも使い、そのさい両手は自由になっていた」 「………」 「それを祖父の湯沢教授が発見する」  防音効果が高い部屋だということだが、フレッドはいちだんと声をひそめた。 「教授はびっくりする。しかし、何かの理由で孫娘の死を自殺にはしたくない。そこで、彼女の両手を縛り、踏み台をどこかへ隠して、いかにも殺人のように見せかけた——こういうストーリーだよ」  フレッドはじっとひろみの反応を窺《うかが》った。 「つまり、殺人に見せかけた自殺という点では、私の考えと同じだけど、その偽装を夏子本人がやったんじゃなくて、発見者の教授がやったとするわけね」 「そういうこと。どう?」 「その場合、教授が孫娘の死を自殺とは思わせたくなかった理由はなに」 「もしかしたら、生命保険の受取りに関する条件を思い浮かべたのかもしれない。契約後二年経つまでは、自殺には保険金が下りないケースが多いだろ」 「でも、それってあまりにクールすぎない」  ひろみは信じたくないという顔をした。 「まあね」  フレッドは肩をすくめた。 「だから、もうひとつのケースを考えてみた。それはメンツの問題だ」 「メンツ?」 「そう、湯沢教授は七十六歳。心理学者にしてはガチガチに古い道徳観念を持っているので有名じゃないか。だから、身内から自殺者を出したら大変な恥だという考えの持ち主だったとしても不思議はない」 「それで他殺に見せかけちゃうの」 「うん」 「なんか説得力ないなあ」  ひろみは納得しない。 「そうかな」  と、フレッドは不満そうに口をとがらせる。 「だって、フレッドの仮説には大きな弱点があるもん」 「なんだよ」 「ロープで両手首を縛っているところが問題だと思わない?」  ひろみはもういちど遺体のそばにひざまずいて、後ろ手に縛られた手首を観察した。 「とりあえず、外見の観察だけから経験則的に割り出された死亡推定時刻が、午後五時半から七時の間。湯沢教授が自宅に戻ったのが午後八時二十分ごろ。そして、死体発見を警察に通報したのが九時四十五分」  ひろみはポイントとなる出来事の時刻を並べ立てた。 「仮に、教授が嘘をついていて、死体を発見したのがじつは帰宅直後だったとしても、少なくとも、死後一時間半近くが経過している計算になるでしょ」 「そういえば……そうだな」  フレッドは、ひろみの言いたいことを理解して肩を落とした。  湯沢夏子の両手首には、生存中についたものとみられるロープによる擦過傷が、はっきりと確認できた。死体を発見してから工作をしたとするのには無理があるのだ。 「ちょっと失礼」  二人が意見を述べあっているところへ、鑑識係が戻ってきた。 「仕事の続きをやらせてもらうからね」  と、遺体のほうに向かって顎をしゃくる。  記録写真を撮りながら、着衣を一枚ずつはいでいって、最後には全裸にして検視を行なうわけである。  そうすれば、服を着たままの状況で判断したとりあえずの死亡推定時刻よりは、もっと正確なものが弾き出せる。  血のつながった遺族にはとても見せられる作業ではなかったが、捜査一課の刑事であるフレッドやひろみがその場にいて不都合ということはない。  にもかかわらず、ベテランの鑑識係は金髪|碧眼《へきがん》の『見た目ガイジン』刑事と、警視庁捜査一課のマスコットともてはやされている『可愛い女性刑事』を、まるで部外者扱いして、暗に部屋の外に出ろというしぐさをした。  たしかに四人も五人も部屋の中に入ると、間口二・七メートル×奥行五・四メートルのスペースではだいぶ窮屈である。けれどもフレッドは不満を洩らした。 「ぼくたちは子供かい」  と、聞こえよがしにフレッドが言ったが、ひろみはそんな彼の背中を押すようにしてその場から引き下がろうとした。  そのとき—— 「あ、いたっ」  ひろみが軽い声を出したので、フレッドは後ろをふり返った。 「どうした?」     9 「ううん……ちょっと額縁に腕が当たっちゃって」  壁際を歩いていたひろみは、そこに掛けられていた長さ一メートルほどの縦長の額縁に目をやった。パリの凱旋門を描いた水彩画である。  その額縁の端っこに腕が当たったというだけなのに、烏丸ひろみは、それをじっと見つめている。 「……どうしたんだよ、ひろみ」  フレッドがたずねた。 「なんか、重要な発見でもしたのか」 「したみたい」  ぶつけた腕をさすりながら、ひろみが言った。 「へえ……どんな」 「この額、真っすぐに掛かっているわよね。曲がっていないでしょう?」 「へんな質問」  と言いながら、フレッドは額縁に近寄ったり遠目に眺めたりしながら観察した。 「完璧《かんぺき》に真っすぐだね。床面に垂直ってところだ」 「でしょ?」 「でしょ、って……ふつう額縁というものは真っすぐ掛けるものじゃないのか。よほどヘソ曲がりの人間か、ひどい乱視でもないかぎり」 「ああ、だめだなあ、フレッドってば。シャーロック・ホームズのレベルには程遠いわ」 「どういうこと」  フレッドは金髪をかきあげ、あらわになった額をペチッと叩いた。 「ぼくのこのおつむに収納されている脳ミソの分量が足りないってわけ?」 「足りない、足りない」 「どうして」 「だって……」  ひろみが言いかけたとき、隣の二号室のほうに行っていた財津警部が、一号室の戸口に顔を出した。 「おい、ひろみ、フレッド、ちょっとこっちの部屋をのぞいてみろ」 「はい、ボス。じゃ、フレッド、つづきはあとでね」  ひろみは話を中断し、フレッドとともに一号室を出て二号室に移った。 「わ……」  隣の部屋に一歩足を踏み入れたとたん、ひろみとフレッドの二人は、思わず言葉を失ってその場に立ちつくしてしまった。  こちらの部屋の丸窓にはカーテンがついていたため、外から見たときにはわからなかったが、二号室は一号室と対照的に、内部をすべて真っ赤に塗りつぶされていたのだ。  窓のカーテンの色も、外に見えるほうは黒だったが、内側は赤である。  一号室と異なり、こちらの部屋の天井にはちゃんと照明もついているのだが、通常の螢光灯や白熱灯などではなく、赤のカラーレフ電球が使用されていた。  すなわち、部屋全体の内装の色も照明の光源もすべてが赤に染められているのである。そのため、中に入ったひろみたちの肌の色も、フレッドの金髪や湯沢教授の白髪も、あるいは財津警部のワイシャツの襟も、すべてが赤いフィルターをかけたように見えた。  なんとも異様な光景である。  おまけに、入口のわずかなスペースを残してすべての床には赤く染色した砂が敷き詰められており、赤い塗装をほどこしたデッキチェアと、やはり赤く塗られたガーデンテーブルがひとつずつ置かれている。  まるで、どこか地球外の惑星に降り立ったようでもある。  そして左右の壁際には、それぞれ畳二枚分くらいの大きさのガラスの水槽が設けられており、レッド・ソードテイルと呼ばれる赤い色をした体長十センチ未満の小さな熱帯魚が、無数に泳ぎ回っていた。  こちらの部屋は、純白の一号室とはうってかわってウナギの寝床のような空間の狭さが強調して感じられた。 「非日常空間を演出するのは、非日常的な光の色なのだ」  あっけにとられるフレッドたちの前で、湯沢教授は言った。 「自然光に馴《な》れた人間が、単一色の世界に放り込まれたとき、心理的にどのような影響を受けるか、それを研究してみたかったのでね」  そう言うと湯沢教授は、ひろみたちの見ている前で袖をまくり、熱帯魚が泳いでいる水槽に手を差し入れた。  泳いでいたレッド・ソードテイルの群れが、突然水の中に入ってきた人間の手に驚き、逃げ回る。  だが、そのうちの一匹が、教授の皺《しわ》だらけの手にすくいとられた。 「この魚は、赤い空間で生きている」  ピチピチと跳ねる魚が手のひらから飛びださないよう両手で囲みながら、湯沢教授はどこか常軌を逸した目で、とらえた熱帯魚を眺めている。 「赤い空間で生きている魚は、自分が赤い色をしていることを忘れてしまう。つまり、自然の摂理によって与えられた自分の『肌』の色の自覚を失ってしまう。そうしたとき、どのような異常行動が発生するか……これはまことに興味深いものがある」  ひろみたちにとってはまったく意味不明、理解不能なつぶやきを洩《も》らしてから、湯沢康弘は跳ねつづける熱帯魚を水槽の中に戻した。  とらわれの身だったレッド・ソードテイルは、文字どおり水を得た魚となってスイスイ泳ぎはじめる。  赤い光に満ちた空間の中で、教授の奇矯《ききよう》な行動にあっけにとられていた捜査一課の三人だったが、やがてひろみが口を開いた。 「あの……湯沢さん。ちょっとおたずねしたいことがあるんですけれど、よろしいでしょうか」  ひろみが言うと、教授は猛禽《もうきん》類のような目を、捜査一課のマスコットに向けた。  そして言った。 「きみのような下っ端の捜査員が、上司を差し置いて発言することがあるのかね」 「………」 「いや、教授」  財津警部が横から口を挾んだ。 「私らのチームはそのへんは自由にやっておりましてね」 「若いな」  財津をまったく相手にせず、ひろみから目を離さずに教授は言った。 「孫の夏子とほとんど変わらん年だろう、きみは」 「ええ」  ひろみがうなずく。 「夏子は二十四だが、きみもだいたいそのあたりかね」 「だいたい……そうです」 「それで、まだ生きているのか」  教授の言い方に、ひろみはドキンと胸を高鳴らせた。 「夏子はむごたらしい死に方をしたというのに、同じ年頃のきみは、そうやって生きている。許しがたい存在だな、きみは」  ひろみは寒気がした。  いまはそばに財津とフレッドがいてくれるからいいが、もしもこの真っ赤な空間で湯沢教授と二人きりだったら、恐怖のあまり部屋を飛び出していたかもしれない。 「何型だね」  唐突な質問だったので、ひろみは何のことかわからなかった。 「何型……とは」 「決まっているだろう、血液型だよ」 「………」 「警察官のくせに、自分の血液型も知らんのかね、きみは」 「Aです。A型です」  ひろみはやっと答えた。 「なるほど、私と同じというわけか。だが、表現型としては同じA型であっても、遺伝子的にみてAAかAOかで、人間の性質は大きく異なる。私の場合は純粋なA型、すなわちAA型だが、きみはどうなんだ」 「父がOで母がAですから、AOのほうになると思います」 「だろうな。同じA型にしても、きみの場合はO型要素も入っているから、私ほど緻密《ちみつ》な人間ではないし、私ほど責任感が強い人間でもなさそうだ」  その言葉に、ひろみよりも財津のほうがムッとした顔になった。 「するとなんですか、先生。私のようなO型人間は、おおまかで責任感に欠けるとでもおっしゃるのですか」 「そうは言うとらん」 「でも、Oの遺伝子が混じると、あたかもそんなふうに……」 「そのように物事を早トチリする傾向にあるのがO型の特徴なのだ。独断専行というやつだ」 「またそれですか」  財津は憮然《ぶぜん》とした。  が、教授はそれにかまわず、こんどはひろみの脇に控えるフレッドに目をやった。 「そこのガイジン、きみは何型だね」 「ガイジンじゃなくて日本人ですけど」  フレッドが訂正したが、湯沢は聞く耳をもたなかった。 「見た目がガイジンなら、きみはガイジンなのだ」 「………」 「で、何型なのかね、きみの場合は」 「Bですよ。父がOで母がBですからBOです」 「ふむ。夫がOで妻がBというのは、なかなかいいコンビかもしれんな。かなり自由な雰囲気のある家庭だろう」 「二人とも死んじゃいましたけどね。生きているうちは、たしかにそうでした」 「そういう家庭に育った子供は、逆に親とは正反対にきまじめになるか、親よりもずっとチャランポランになるかのどちらかだが……きみは後者のほうだろうな」  湯沢は遠慮なく言った。血液型の話になると、まるで孫を失った悲しみがどこかに飛んでしまうかのようである。 「ま、決してきちょうめんというほうではあるまい」 「それでは教授、おたずねしますけれど」  フレッドが問い返した。 「BOの男とAOの女が結婚したら、どんな家庭になるんでしょうか」 「フレッドってば、バカなこときかないで」  ひろみは肘《ひじ》でフレッドの脇腹をつついた。  さいわい、部屋全体が赤い光に満ちているので、頬の赤らみは目立たない。 「それで教授、質問の件に戻らせてください」  ひろみが急いでフレッドから話を奪った。 「お隣の一号室に飾ってあった凱旋門の水彩画のことで、ちょっとお伺いしたいことがあるんです」 「………」  こんどは湯沢は黙りこくってひろみを見返した。その鷲《わし》のような眼差しには、警戒の色が浮かんでいる。 「あの絵は、どうしてあそこに飾ってあるんですか」 「だから、さっきも言わなかったかね。これから本格的な内装をほどこそうとしている途中なので、とりあえず時計と水彩画だけをまず運び込んだのだ」 「あの絵は、教授がお買い求めになったのですか」 「いや、違う」 「贈り物ですか」 「ああ」 「どなたから」 「なぜ、そんなことまで私が答えなければならんのかね」 「私が答えてほしいと思っているからです」  意外に強いひろみの口調に、教授は眉《まゆ》をピクリと吊《つ》り上げた。  そして答えた。 「夏子だよ」 「たとえば、お誕生日のプレゼントに?」 「いや、殺風景な研究室に飾ってみたらどうか、と言われてもらったのだ」 「わりと気軽な感じで渡されたんですか」 「……気軽に?」 「ええ、つまりあの絵は高いものなんでしょうか。そこが知りたいのです」 「どうして値段などをきくのかね」 「ききたいからです」 「………」 「教えてください」 「値段は知らん」 「では、決して芸術的価値が高い作品というわけではないんですね」  そばにいるフレッドも財津も、ひろみの質問の意図をはかりかねて、けげんな顔をしている。 「それほど高価な絵でなければ、なぜあのように頑丈に壁に止めてあるんですか」  そこまでひろみが言うと、また教授は眉をピクリと動かした。 「頑丈にって、どういう意味だよ、ひろみ」  フレッドがきいた。 「さっき私があの額縁に腕をぶつけたのを見ていたでしょう」 「ああ」 「でも、そのあとも額縁はまっすぐに掛かったままだった。そうよね」 「……うん」 「ふつうは額縁って、一カ所か二カ所で吊ってあるものじゃないかしら。だから、それにぶつかっても、そんなに抵抗感は感じないと思うの。なぜかといえば、額縁のほうが勝手にずれてくれるから。だけど、一号室の凱旋門の絵が腕にぶつかったとき、ものすごい抵抗感があって痛かった。そして、額縁は私がぶつかったあとも、きれいに垂直のまま……。つまり、私の腕が当たってもぜんぜん動かなかったのよ」 「そうか……なるほど」  フレッドはひろみの注意力に感心したが、湯沢教授は無言のままである。 「ということは……もういちどみんなで隣へ確かめにいけばわかりますけれども、あの額縁は簡単には外れないようになっている気がするんです」  最後の言葉は湯沢教授に向けられたものだった。 「つまり、そのわけを説明せよ、ということかな」  白髪の教授が言った。 「ええ、そうです」 「こまかいところを気にする人だな」 「A型ですから」 「純A型は、もっとこまかいよ」  湯沢は唇を歪《ゆが》めた。 「だが、きみの注意力の鋭さは、頭のよしあしというよりも、A型人間の本質的な能力として認めておこう。……そのとおり、隣の部屋の額縁は、フックに紐《ひも》でぶら下げているのではなく、四カ所をビス止めしてある。だから、きみの腕がぶつかっても微動だにしなかった」 「どうして、そんなことをなさったんですか」 「地震対策だよ」 「地震対策?」 「いつだったかな、大きな地震がきたときに、この研究室ではなく、母屋のほうがひどく揺れてね、飾ってあった非常に重要な額縁やら時計が床に落ちて、えらい損害を被ったことがある。それ以来、壁掛けのたぐいなどはしっかり固定しなければ気がすまんようになった」 「とおっしゃいますと、八角形の時計もそうですか」 「もちろん」 「母屋の装飾品もみなそうしてあるのですね」 「ああ、なんなら確かめてもらってもよい。時計、額縁、鏡、本棚、そのほか倒れたり落ちたりする危険性のある家具調度品類は、どれもこれもしっかり固定してある」 「でも、この水槽は地震がきたら倒れそうですけれど」  ひろみは、レッド・ソードテイルが泳いでいる水槽に手をかけた。  それにはとくに固定具がほどこされていない。 「きみも物を知らん女だな」  湯沢は毒舌を吐いた。 「水槽というものは、だ。水そのものが重しとなって安定感を生み出すから、あえてそれを固定しておく必要などないのだ」 「そんなことはありませんよ」  そこで反論をしたのはフレッドだった。 「大きな地震がきたら、この水槽の中の水は波立ちます。右に左に大きくね。そしてその水の動きのエネルギーが、実際の地震の揺れを増幅する形となって水槽を倒してしまうことがある。水槽が置かれた台の揺れではなくて、中に入っている水の揺れで、内部から倒壊エネルギーが生じるんです。似たような現象は、嵐《あらし》の海をゆく船が沈没する過程でもみられます。最初はちょっとした浸水だったのが、入ってきた海水が船の揺れで振り子現象を起こし、エネルギーを増幅させて、ついには船のバランスを崩して沈没に至らしめる。これと同じですよ」 「ガイジンのくせに『至らしめる』などという言葉を知っているのか」 「だからぼくはガイジンじゃないんですって」 「で、あんたは大学で物理学でも専攻していたのかね」 「いえ。ただ物理は昔から好きですけれどね」 「B型には似合わん嗜好《しこう》だな」  湯沢は鼻を鳴らした。 「ともかく、私は心理学者であって物理学者ではない」 「は?」 「だから、ときにはいまのような間違いも犯す。物理学の好きなきみがそういう現象が起きると言うのなら、この水槽も固定せんといかんだろうな。ご忠告ありがとう」  教授はやけに素直になった。  が、それはほんの一瞬のことで、すぐに彼は財津に向かって皮肉っぽく言った。 「それで財津さん、孫娘を失ったショックでフラフラになっているこの老いぼれを、いつになったら横にさせてくれるのかね」 [#改ページ]   第三章 血液型別・無実の主張     1  高名な心理学者・湯沢康弘の講演会場での錯乱ぶりと、その孫娘であるテレビタレント湯沢夏子の衝撃的な死は、何日間もマスコミのトップニュースとして扱われた。  とくに夏子の死は、国民を一億総探偵にさせるにじゅうぶんな謎《なぞ》を含んだものだった。  司法解剖を経た上で、彼女の死亡推定時刻は、その日の午後五時半から六時半の間というところまで絞り込まれた。  それはいいのだが、問題は彼女の死が自殺なのか他殺なのかという点だった。  テレビや週刊誌の報道だけを頼りに、にわか探偵を気取る人々は、さまざまな名推理を展開するのだが、けっきょくのところ、フレッドとひろみがすでに検討しあったように、おおまかにいって三種類の結論しか出しえなかった。  すなわち——  ㈰自殺を装った殺人  ㈪殺人を装った自殺(夏子自身の意志による)  ㈫殺人を装った自殺(発見者による偽装工作)  の三通りである。  では、自殺だとした場合、いったいどんな理由が考えられるのか。  これについては、失恋説から仕事の悩み説、はたまたノイローゼ説にいたるまで、議論百出という状況であった。  こうした類《たぐ》いの事件があると必ずそうなのだが、たいして親しくもない『友人』、日ごろこれといったつきあいもない『隣人』、スタジオなどですれ違っただけの『仕事仲間』などが、わけ知り顔にマスコミに登場しては、いかにも事情通ぶった解説をした。  その手前勝手な推論が、一般の素人探偵たちにも引き継がれ、まことしやかな『真実』がひとり歩きするようになった。  さらに、殺人だったと想定した場合は、なおさら興味本位な推理が展開する。  犯人はどんな人物なのか。  動機は何か。  なぜ、首吊《くびつ》りという形をとらなければならなかったのか。  中でも≪犯人は誰か≫という疑問が、もっとも好奇心をもって語られた。  当然のことながら、マスコミも世間の素人探偵たちも、講演会で湯沢教授から名指しの非難を浴びた四人の関わり方については、大いなる関心を寄せていた。  それは財津警部ら捜査陣も同じだった。  だが、少なくとも湯沢夏子の死に関してのアリバイは、四人とも完璧《かんぺき》だった。  彼らはいずれも講演がはじまる十分前、すなわち夕刻の五時五十分までには、赤坂の風月文化会館にその姿を見せている。  したがって、死亡推定時刻の五時半から六時半の間に、直線距離にしても五十キロメートル以上離れた小平市の湯沢邸で夏子を殺すのは絶対に不可能だった。  もちろん、湯沢教授自身についても同様にアリバイが成立する。  実際のところ、捜査陣は夏子の祖父である老心理学者に対して、最初からかなり疑いの目を向けていた。家庭の事情を調べれば調べるほど、二人の孫娘にそそぐ教授の異常な愛情が明らかになってきたからである。  彼女たちが幼いころから、事実上の父親として、あるいはまた母親の役割まで引き受けて、教授は二人を手塩にかけて育てあげてきた。  ところが、一人の女として成長した夏子は、持って生まれた美貌《びぼう》と、後天的に体得した性格の明るさを生かして、超人気テレビタレントになってしまった。  その時点から、夏子の『親』離れがはじまり、同時に祖父の苦悩がはじまった。  湯沢教授は夏子を手元に縛りつけておくのに必死となったが、ほとんどそれは空しい努力に終わりそうであった。  美貌と愛嬌《あいきよう》と才能に恵まれた夏子には、噂《うわさ》も真実も併せて男性の噂が絶えなかった。それがどれだけ親代わりの老教授を苦しめていたかは、講演会で槍玉《やりだま》にあげた四人が、いずれも夏子がらみの理由であったことからも、じゅうぶんに察せられた。  孫娘に対するいきすぎた独占欲から出た殺人、という構図を財津が描いてみるのも無理からぬところがあった。  しかし、教授のアリバイは他の四人以上に完璧である。  あとは、もうひとりの肉親——夏子の妹である泉美にも、捜査陣は強い関心を向けていた。  事件当夜、彼女は居場所を偽って祖父に伝えていたために連絡がとれずじまいだった。そして、翌朝になってようやく、ニュース報道ではじめて事件を知ったと、動転した声で祖父に電話を入れてきたのである。  それでもなお、問題の日の夕刻から夜にかけて、泉美は、自分が誰といたのかを明かそうとしなかった。  なにか、彼女にも言いたくない事情があるのは明らかだった。  そこで財津警部は、先崎陽太郎、星真美子、大森徹、峰村準二、そして湯沢泉美の五人について、個別に入念な事情聴取を行なうことにした。  それも所轄署や警視庁に呼び出すというのではなく、まず相手のふところへ飛び込んでいく形をとった。  通常、こうした捜査には所轄署と本庁の刑事がペアを組んであたるが、財津はそうした慣例にはこだわらなかった。  とくに、今回の関係者はプライドの高い有名人|揃《ぞろ》いである。形式ばった二対一の事情聴取よりも、一対一のほうが何かと話はスムーズに運びそうに思われた。  そこで、財津は自分とフレッドとひろみの三人で手分けして、これらの人物への単独インタビューを試みることにした。『聴取』ではなく『インタビュー』という考え方が、捜査にあたる財津の柔軟な姿勢をよく表していた。  その初日——  烏丸ひろみはいつもの革のライダースーツを脱いで、シックなベージュのワンピースに着替え、ひさしぶりにナチュラルメイクをほどこし、めったにつけない香水を耳たぶにちょっとだけつけて、指定された銀座のコーヒーラウンジに向かった。  当代人気ナンバーワンのエッセイスト、星真美子に会うためである。     2 「私もエッセイストにしておくのがもったいないって、よく言われるけど……」  冬の到来を予感させる弱い日射しをガラスの向こうに眺めながら、星真美子はつぶやいた。 「あなたって、刑事にしておくのがもったいないくらい可愛《かわい》い人ね」  そういって、流し目でひろみを見る。 「ありがとうございます」  刑事とは思えないくらいに可愛いという賛辞に対しては——とくに初対面の男性からは必ずといっていいほどそう言われたが——ひろみは素直にお礼を述べることにしている。決して自分の容貌《ようぼう》を過信しているのではなく、人からほめてもらったときに、むやみに謙遜《けんそん》したり照れたりするのはかえって失礼だ、という考えをもっていたからだった。  だが、真美子はその反応にカチンときたらしく、急に鋭い目で相手を睨《にら》んだ。  この間はソバージュ・ヘアだったのに、きょうの真美子はストレートに戻した前髪をきっちり眉《まゆ》の上で切り揃《そろ》え、つばの広い紺色の帽子を目深にかぶっていた。  その帽子の奥から目が光っていた。 「あなたって、ずいぶん変わってない?」 「私がですか」  ひろみは自分の胸に手を当てて聞き返した。 「そうよ」 「いいえ」 「そうかしら……変わってるわよ」  ストローでジンジャーエールのグラスをかき混ぜながら、真美子は少し首を傾け、観察するようにひろみを見つめた。 「つまり、なんていうのかな」  真美子は口元に皮肉っぽい笑みを浮かべた。 「臆面《おくめん》もなく優等生ぶっちゃっている大胆さがあるのよね」 「………」 「しかも、自分ではそんなことはぜんぜん意識していないっていう屈託のない顔をして。そういうイイ子ちゃんて、男にはたまらないのよね。見た目も可愛いからなおさら。……あなた、男のペットになるタイプでしょう」  そんなこと全然ないのに、とひろみは内心で言い返す。  私は四五〇ccのバイクを乗り回すおてんばライダーなんだから……。  しかし、言われてみれば財津警部などは実の娘のようにひろみを可愛がっていたし、おまけにその可愛がり方といったら、まさに『目に入れても痛くない』というのがピッタリだった。  それに、『頭がいい、行動力がある、そして可愛い』と三拍子そろった警視庁捜査一課のマスコットとして、烏丸ひろみは、むさくるしい刑事たちからも特別扱いを受けていたのも事実である。  その意味では、星真美子に指摘されたように鼻持ちならない優等生なのかもしれないし、男たちのペットのようにみられても仕方がないのかもしれなかった。  湯沢夏子の現場で年配の鑑識係に冷たくあしらわれたように、捜査陣の内部でも、必ずしもひろみをチヤホヤする人間ばかりでないことは確かなのだ。 「私も顔ではずいぶんトクしているからわかるけど、美人は美人でも、あなたは男に媚《こ》びるタイプね」  真美子は決めつけた。 「きっとA型でしょう。A型美人には、いい子ちゃんが多いのよね」  血液型に関してはズバリ当たったので、ひろみは反射的にうなずいた。  そして、急いでつけくわえる。 「でも、Oが混じったA——AO型ですから、純粋なA型じゃありませんけど」 「AOでもAAでも、A型はA型よ」  真美子は無愛想に言った。 「私がB型だというのは、この間の講演会にきていたのならごぞんじよね」 「ええ」 「ただし、私の場合は純粋のBBよ」  真美子はまた挑戦的に笑った。 「男は別として、女どうしのAとBって、気が合わないの知ってる?」 「知りません」 「私、過去にA型のお友だちって、できたためしがないのね」 「………」 「だいたい仲良くなるのは同じBかAB。つまりB型の要素が入っていないとダメなわけ。Oともあまり合わないけど、Aとはぜんぜんダメ、ま〜るでダメ」  真美子は湯沢教授ばりの血液型論で、いきなりひろみを突き放しにかかった。 「とくに、イイ子ちゃんタイプのA型って、一目でハイ、サヨナラって感じよね」  そう言うと、真美子はバッグからタバコを取り出し、それをパール色のマニキュアを塗った指の間にはさんで火を点けた。 「例をあげて話しましょうか。たとえばね、あなたみたいな女の子って、男からあれこれ命令されるのに抵抗はないでしょ」  顔を横に向けて煙を吐き出しながら、真美子は言った。 「だから、いろいろと可愛がられるわけなのよね。でも、私はそういうのってガマンできない。ああだこうだと命令されるのって大っ嫌いなのよ。ああしろこうしろ、おれの言うとおりにしろ、とか頭ごなしに言われるとプツッと切れちゃうの。わかる? 最終的には『なにさ、ふん』って、開き直るからね、B型は」  真美子は強気一辺倒の口調になってきた。 「そこへいくと、開き直れないA型は悲劇よね。A型の女が対人関係で、『ああ、自分のここがいけなかったのかしら』『もしかしたら、あの人を傷つけてしまったかしら』なんてグチャグチャ悩んでいるのをみてると、腹が立つやらイライラするやらで、バカじゃないのあんたは、って怒鳴ってやりたくなっちゃうわね。まして、そういう配慮を恩着せがましくこっちに向けられると、もうそれは迷惑以外の何物でもないわけよ」  ひろみは返事のしようがなくて、ひたすら黙って真美子の言い分を聞いていた。  しかし、ひとしきり持論をぶつと、星真美子もいったん口をつぐんで、ひろみに本題に入るようにうながした。 「で、時間がもったいないから、用件に移ってくれるかしら」 「はい。じつは、湯沢夏子さんが亡くなった日のことなんですけれど、その日のお昼から夕方五時すぎにかけて、星さんは……」  ひろみがそう切り出すと、真美子はタバコの煙を吐きながらそっぽを向いた。 「ああ、アリバイってやつね。刑事ドラマみたい。ほんとにそんなこときくんだ、警察って」 「ええ、基本ですから」 「何の基本?」 「捜査の基本です」 「そうじゃないでしょ、人を疑うときの基本でしょ。……あ、違ったかしら。人に罪をなすりつけようとするときの基本戦略かな」 「………」 「アリバイなら聞いたってムダよ」  真美子は、プハーッとタバコの煙を吐き出した。 「そういうプライベートなことにはお答えしたくないもの」 「でも……」 「はっきりしているのは、私は五時四十五分には風月文化会館に着いていたということ。その前にどこでどうしていたかなんて、大きなお世話よ。そこまで突っ込んで聞きたかったら、私の逮捕状でもとってからにしてくださる」  ひろみを睨《にら》みつけるようにして、真美子は言った。 「それから、湯沢教授はずいぶん私のことを怒っていたけど、こちらには夏子ちゃんをどうこうする理由なんてまったくない。彼女の死に関わっているかのように詮索《せんさく》されるのは大迷惑。大、大、大、大、大迷惑。……それだけよ」 「でも星さんは、最近お書きになったエッセイの中で、夏子さんに同情するような形で湯沢教授のことをずいぶん批判なさっていますね」 「当然でしょ」  真美子は、まだ長いタバコを灰皿に押しつけ、肺にたまった最後の一服を、斜め横に向かって吐き出した。  真美子はひろみに対して徹底的に邪険な態度を示していたが、それでも、タバコを吸わない相手に向かって煙を直接吹きかけないように気遣っているマナーには、ひろみも素直に感心させられた。 「湯沢教授自身の血液型を知ってる? A型なのよ」  真美子は、肘《ひじ》のところで腕を抱え込みながらいった。 「とにかくA型男はガチガチの道徳観から抜け出せなくて、周りをぜんぶ自分の道徳ペースに引き込もうとするわけ。それでもって、自分が持っているモラルの物差しにちょっとでも合わないと、『おまえはよくない』ってことになるのね。だから、B型女なんて、とくにボロクソに言われてしまうんだけど、AB型の夏子ちゃんだって、とても可哀相《かわいそう》だった」  真美子はため息をついた。 「私が、ああやって湯沢家の祖父と孫娘の葛藤《かつとう》をエッセイに書いたのは、それこそプライバシーの侵害に思えたかもしれないけれど、あれはわざとやったのよ」 「わざと?」 「そうよ。ああでもしないと、夏子ちゃんは精神的にパンクするだけだもの。あとで夏子ちゃんから感謝の電話がかかってきたくらい」 「ほんとうですか」 「ほんとうよ」  真美子はうなずいてジンジャーエールを一口飲んだ。 「だって考えてもみてほしいわ。教授は、幼くして両親を亡くした女の子たちを、男手だけで育て上げたことをひとつ話にして自慢するじゃない。それを言われ続ける身にもなってごらんなさいよ。両親を早く亡くしたのは、なにも彼女たちのせいじゃないんだから。そうでしょ。それを、二十何年も恩着せがましく、おれが育てた、おれが育てたというなんて、ひきょうよ」  その意見には、ひろみにも賛成できる部分があった。  親子の関係は、ともすれば『おまえは誰に育ててもらったと思ってるんだ』という決まり文句や『あんたは、お母さんがお腹を痛めて産んだ子なんだからね』という愚痴などに代表されるように、親からの一方的な恩の押し売りに終始することが多い。  しかし、子供の側からみれば、それこそ『好きで生まれてきたんじゃないからね』という理屈も成り立つのだ。  だから、もしも自分が母親になることがあったら、そうした言葉だけはいわないように心掛けよう、とひろみは思っていた。 「ようするにね……」  星真美子はつづけた。 「夏子ちゃんが言いにくいことを、私が代わって言ってあげただけなのよ。あの子ったら、AB型特有の心配性でね。自分がこう言ったら相手はこう傷つくんじゃないか、とか、自分がここで反抗すると、相手は怒ってこんな行動に出るんじゃないか、とか……とにかく行動に移す前から、分析ばっかりしてるのよ。それでもって、自分の事前の分析が当たると安心するのよね、AB型の人間って」  真美子は、きれいな歯並びを見せて笑った。 「つまり、A型とは違う意味で遠慮があるの。だから夏子ちゃんは、自分の祖父に何も文句が言えなかったというわけ。そこでB型人間の私が、代弁者に立ってあげたというわけよ。ほら、B型って、あまり先のことは考えないで行動するから」 「じゃあ、星さんがエッセイに書かれた内容は、みんな夏子さんは承認済みのことだったんですね」 「あたりまえじゃない」  真美子は帽子の広いつばをツイと指で持ち上げ、理知的な額をひろみに見せた。 「私だって芸能界に近いところで生きているんだから、最低限の常識は心得ているわよ。本人の承諾なしにプライバシーをエッセイに書くわけがないじゃない。あの子も、あの子の事務所も、ちゃんと了解のうえの行動よ。だけど、夏子ちゃんも了解済みなんだからと言ったら、湯沢教授が逆噴射するでしょ。そしてあの子がいじめられちゃう。それが心配だったから、表向きには私の独断でやったことになってるの」 「そうなんですか……」 「けっこう優しいでしょ、私って。……なーんて、あはは」  笑うのに合わせて、大きな帽子が揺れた。 「B型人間ってね、A型人間には理解できない種類の優しさがあるわけよ。……ま、ともかく、私の書いたエッセイに含まれた警告もわからずに、ガアガア文句ばかりをわめきちらすなんて、けっきょくあのおジイさんには、夏子ちゃんの親みたいな顔をする資格はないって結論かな」  それだけ言うと、真美子はチラッと腕時計に目をやった。 「ごめんなさいね。私、次の打ち合わせがあるの。これで失礼するわ」 「あ、ちょっと待ってください」  こちらの都合もきかずに立ち上がろうとする真美子を、ひろみは呼び止めた。 「なによ」  シガレットケースをバッグにしまい込みながら、真美子はうるさそうにきいた。 「まだ質問があるなら早く言って」 「湯沢夏子さんは、赤い口紅をさしたまま死んでいました」 「………」  真美子は、浮かせかけていた腰をまた下ろした。そして、けげんな顔で聞き返す。 「それがどうしたのよ」 「でも、マニキュアがピンクだったんです」  ひろみは言った。 「そしてセーターも淡いピンク。これをどう思いますか」 「口紅の色の選び方がおかしいってこと?」 「はい」 「それは単純な発想じゃないかしら」  真美子は両手を広げて、パールカラーのマニキュアを塗った指を見せた。 「こういう色のマニキュアをして、口紅はくすんだ赤という取り合わせだってあるしね。ほら、見て。これがどこかヘン?」  いまの真美子がそうだった。 「なにも、口紅とマニキュアを同系色でまとめなくちゃいけないなんて決まりはないと思うわよ。その人のファッションセンスや、顔立ちとか雰囲気にも関係してくるし」 「それはわかっています。でも、ヘンだったんです」  ひろみはこだわった。 「少なくともあの場合は、色の組み合わせがまるで合っていませんでした」 「あの場合はって言われても、私はその日、夏子ちゃんとは会っていないからね。それとも、その質問は何かの引っかけ?」 「いいえ」  ひろみは首を振った。 「そうじゃなくて、星さんにうかがいたいんです。お化粧のセンスに敏感なタレントさんが、そういうチグハグなメイクをしていたとしたら、いったいどんな理由があるのかということを」 「そうね……」  少し興味を引かれたのか、真美子は落ち着いて考える顔になった。 「たとえばキスして口紅が落ちちゃったとか」 「はい?」  一瞬、言っている意味がわからず、ひろみはたずね返した。 「男と激しいキスをして、口紅がとれたとするでしょ。そのあと塗り直そうと思ったら、同じ色の口紅が手元になかったのよ。つまり、ピンクの口紅をつけていたんだけど、化粧を直そうと思ったときには赤しかなかった。そういうことって、私にはよくあるからね。かといって、落ちない口紅はあんまり好きじゃないし」 「………」 「あなたにはないの、そういう経験」  黙っているひろみに、美人エッセイストは問い返した。 「ねえ、ないの? 口紅がぜんぶとれちゃうような激しいキスをしたことって」 「ありません」  ひろみは、怒ったのか恥ずかしがっているのか、少し頬《ほお》を赤くして言った。 「それに私、ふだんはあまりお化粧はしませんから」 「じゃ、きょうの薄化粧は特別?」 「そうです」 「私に会うから?」 「はい」 「あはははは」  真美子は、さっきよりも大きな高笑いをした。 「あなたって、純情すぎて、素直すぎて、私みたいな女からみると、腹が立つやら羨《うらや》ましいやら……だわね。……じゃ、もういいかしら。ほかにあっても失礼するわよ。仕事に間に合わなくなるから」  こんどこそ真美子は立ち上がって、そしてテーブルの上に伝票を残したまま、さっさと出口のほうへ歩いていった。  が、ガラス戸を開けて表に出る直前に、真美子はまだ席についたままのひろみをふり返り、にっこり笑って言った。 「ごちそうさまー。お茶代くらい警視庁もちでいいわよね」     3  写真家・先崎陽太郎の仕事場は、鉄筋コンクリート三階建てになっている。  一階がスタジオで三階が資料機材保管室、そして真ん中の二階が広々とした打ち合わせ用の応接スペースである。  彼を『インタビュー』するために警視庁からやってきた財津大三郎警部は、その入口近くの椅子《いす》に座って、先崎の前の仕事が終わるのを待っていた。  財津が待たされている場所と、メインの応接スペースの間には何の仕切りもなかったから、先崎と仕事相手のやりとりの様子がよく見えたし、会話の内容もはっきり聞こえてきた。  察するに、先崎は広告代理店の担当者と何か仕事上のもめごとを引き起こしているようだった。 「ですからね、最初はたしかにぼくもモノクロ写真で行こうと言いました。口はばったい言い方かもしれないが、日本の広告写真家の中で白黒写真をもっともうまく撮るのは先崎陽太郎だとの評価も得ています」  もめごとらしいが、先崎の話しぶりは例によって穏やかである。 「そして、スポンサー側がカラー写真を要求しているのに、それをなんとか白黒でというふうに押し通したのも、ぼく自身の要望でした。それは認めます」 「なんといっても先生、あちらが新発売する商品は、最新式のカラープリンターですからねえ」  広告代理店の男はまだ若い。そして、よく日に焼けている。 「よりによってカラーの再現能力をアピールするための広告なのに、先崎先生はモノクロのみで行こうとおっしゃった。部分的にカラーを使うというなら、まだわかりますよ。でも先生の主張は、完全に無彩色の世界でいきたいとおっしゃる。白と灰色と黒の階調のみで色彩を表現する。しかもカラープリンターのコマーシャル写真で……。これこそ究極の写真技術だというふうに。当然、あちらは猛反対です。でも、白黒撮影が認められないなら先生は降りると言われるから、私もウチの部長も必死になってスポンサーを説得しました。そして、説得に説得を重ねて、ようやく了解を取りつけたんです。そうでしょう」 「ええ、そうでした。その節はご苦労をかけました」  先崎は、あくまで下手に頭を下げる。 「それをですよ、先生、いまになって、やっぱりオールカラーで行きたいと変更を申し出られても、それはまずいですよ」 「まずいですかね」 「まずいです」  代理店の若い男は、きっぱりと言った。 「べつに私は、スポンサーを説得した手間暇をムダにしたくないから申し上げているのではないのです。筋が通らないんですよ、先生。最初スポンサーは、宣伝する商品がカラープリンターなんだから、絶対にカラー写真でないと意味がないと主張する。そこを、天下の先崎陽太郎先生が白黒写真で表現してこそ大胆な広告戦略になるとおっしゃっているんですから、と、こちらも押したんです」 「ええ、そうでしたね」 「ほんとうにカラーの再現能力に自信があるならば、モノクロ写真だけで宣伝してこそ話題を喚起する——その先生の言葉に、あちらの社長も動かされたんです。宣伝部長じゃありません、役員でもありません、社長ですよ。代表取締役社長が先崎先生の言葉に共鳴されたから、よし、ここは先崎先生の言葉を信じて、カラープリンターの広告は全面的に白黒写真で作れ、ということになったんです」 「その話もうかがいました」 「あちらはトップダウンの社長命令で動いたんです。正直いって、現場の担当者や部長クラスは、広告にカラー写真を使わないなんて奇をてらいすぎると猛反対だったんです。ところが、社長が先生の意見に同調してしまったから、誰も文句が言えなくなった。そんな状況のところへもってきて、ですよ」  代理店の男は、自分の膝《ひざ》をピシャンと叩《たた》いた。 「先生のほうからカラーに戻したいと言い出したら、いったいどうなります。社長の顔に泥を塗るようなものですよ」 「わかっています、吉本さん。よーくわかっています」  細身でダンディな先崎は、白髪のまじった頭を何度もなでながらうなずいた。 「私も、自分の言い出したアイデアをいまになって引っ込めることに関して、強い責任を感じています」 「いまになって、って……先生、撮影は三日後ですよ。いろいろなセッティングをぜんぶキャンセルして、いまからカラー撮影用の準備をするなんて不可能です」 「それについては、私が責任をもって、やり直し態勢を組みます。よぶんにかかった経費はすべて私のほうでもちますし、ギャラを削っていただいても結構です。ただ、今回のコンセプトをモノクロで表現するのは、やはりどうしても無理だと気づいたんです。その無理を押し通すことは写真家の良心が許さないんです」 「その無理を、なんとかお願いしますと申し上げているんです」  こんどは、吉本という代理店の男が深々と頭を下げた。 「ここで先生がカラー案にこだわられたら、この仕事はパーになってしまいます。それだけではありません、長年培ってきましたウチとあちらの会社との友好関係も、ぜんぶグチャグチャに」 「吉本さん」  またまた先崎が、吉本よりも深く頭を下げた。 「どうか、なにとぞここは私のわがままを通させてください。このとおりです」 「いえ、こちらこそ、先崎先生にお願いです。どうぞ今回ばかりは、企画書どおりに、白黒撮影で……」  二人の男が交互に頭を下げあっているのを見ながら、財津警部は、先崎陽太郎という男はまれにみる腰の低い人間だな、と感心した。  まさに代理店の男が言っているように、広告写真界における先崎陽太郎の地位は不動のものだった。だから、もっと傲慢《ごうまん》で横柄な態度をみせても仕事はなくならないだろうに、あれだけ若い相手にも平気で頭を下げられる。  天下の先崎陽太郎にそこまでされると、頭を下げられたほうが恐縮してしまって金縛り状態になる。世間に名前が出た人間が妙に腰が低いと、ヘタに威張りちらすよりもずっと効果的なのである。  はたして先崎が計算ずくでそういう演出をしているのか、それとも地のままなのか、それは不明だった。しかし、いずれにせよ、例の血液型殺人講座の講演会場でもそうだったが、先崎はめったなことでは怒りをあらわにしない男のようであった。 「とにかく吉本さん、つぎのお客さんも控えていますので……」  先崎が財津のほうに目を向けたので、警部はいかにも聞き耳を立てているような姿勢を改めた。 「もういちど、明日の朝、お話をさせてください。よろしいですね」 「でも先生、時間が……」 「一晩眠ったら、おたがいに気が変わるかもしれません。もういちど、明日朝に電話をください」 「……はあ」  しぶしぶという表情で、広告代理店の男は立ち上がった。  そして、先崎に見送られながら階段へ向かう途中、財津に怨《うら》みがましそうな目を向けた。あんたさえいなければ、先崎先生をもっと説得できたのに、という顔である。 「やあ、どうも大変お待たせ申し上げました」  代理店の男を送り出すと、先崎はにこやかな表情を財津に向けた。 「ずいぶんお待ちになったでしょう」 「いえいえ……なんだか、お仕事のほうが大変なようで」 「ああ、お聞きでしたか」 「いえ、聞いていたわけじゃないんですが……聞こえてしまいまして」  財津は弁解がましく言った。 「カラーがどうの、白黒がどうの、と、門外漢の私にはさっぱり事情はわかりませんが、なにやらやっかいな状況であるのはお察し申し上げます」 「どうもね……職人気質といえば聞こえはいいんですが」  さきほどまで代理店の男が座っていた席に財津警部を案内しながら、先崎は苦笑を浮かべた。 「考えすぎというか、責任を感じすぎというか、妙なところでこだわってしまうものですから、いったん決めた段取りが急に不満になってしまうことがよくあるんです」 「なるほど」 「そうしますとね、相手の社長に恥をかかせるような状況になろうがどうなろうが、私は私で聞く耳をもたなくなってしまうのです。社会性がなくなってしまう、とでも申しましょうか」 「社会性がねえ」 「それも、仕事が目の前に迫ったときほど、こういう心理状況に追い込まれてしまうものですから。ほんとうにみなさんにご迷惑をおかけして……。でも、自分としては、責任を感じるからこそ、変更をしたくなるわけで」 「アレですかねえ、こないだの講演会で、湯沢教授はあなたの血液型であるA型人間の分析をあれこれ述べていましたが、やはりA型人間は責任感で動くものですか」 「そうですね。当たっていると思いますよ」  財津の向かいに座りながら、先崎はうなずいた。 「しかも、私は混じりっけのないAAですから」 「ほう、すると湯沢教授とまったく同じですな」 「湯沢さんもAAなんですか」 「そうだと言っておりましたよ」  烏丸ひろみと教授のやりとりを思い出しながら、財津は答えた。 「そうですか……だからなんでしょうか、血液型心理学に対する湯沢教授のこだわりが、私にも痛いほどわかるのです」  先崎は言った。 「大変なんですよ。血液型の呪縛《じゆばく》から抜け出すのは」 「血液型の呪縛といいますと?」 「湯沢教授が述べていたように、たしかに血液型というのは人間の性格を左右すると思います」  先崎は背筋を伸ばしたきれいな姿勢で、ゆっくりと話しはじめた。 「A型の、とくにAA型というのは、よほど努力して自分を改造していかないと、血液型によって与えられた宿命を打ち破れないんです。これは、湯沢教授は講演でふれていませんでしたけれどね」 「どういう宿命です」  興味深そうに財津はたずねた。 「主役になれない、という宿命です」  と言って、先崎は自嘲《じちよう》的に笑った。 「A型は責任感で動く、と湯沢教授は言いましたが、その言葉にはもう少し解説を加える必要がありそうです。自ら課した責任感で動くのではなく、与えられた責任感で動くタイプなのです」 「ほう……与えられた責任感でねえ」 「サラリーマンを例にとるとわかりやすいのですが、学友でいまだに会社勤めをしている者を見ていますとね、A型人間は中間管理職になったころから、徐々に悩みを深めてくるようです。はたして自分はほんとうに人の上に立てる人間なのか、とね」 「それはまたどうして」 「A型は、つねに誰かから責任を与えてもらい、その使命感をエネルギー源として、はじめて強力な勤労意欲が湧《わ》くんです。逆に言えば、自分自身だけで責任感を生み出すのが案外苦手なんですよ。まして、人に責任を与える立場となると、これはもう不似合いもいいところです。ですからA型人間は優秀な参謀にはなれますが、たとえば社長のように頂点に立つ人間にはなかなかなれません」 「そんなもんですかねえ」 「なれたとしても、遅かれ早かれ挫折《ざせつ》感を味わうはめになる」 「それはどうしてです」 「組織にいるA型は、上役にはよくて部下にはクールだという傾向があります。もしも、私がサラリーマンだったら、きっとそんなタイプになっている気がしますね。部下に安心して仕事を任せられない。なんでも自分でやらなければ気が済まない。おそるおそる部下に任せた仕事が失敗しようものなら、こんなことなら最初から自分でやればよかった、となる」 「ああ、先崎さんがどうかはともかく、警視庁の人間関係を見ていましても、それはいえるかもしれませんね」  財津は、おもわず自分の周囲の人間の顔をつぎつぎに思い浮かべた。  可愛《かわい》い烏丸ひろみがA型なのはともかくとして、上役に目を向けると、たしかにA型の上司はやたらと心配性である。そして、部下のやることにいちいち口を突っ込んで、任せきることをしない。  O型上司は太っ腹でドーンと構えているところがあるが、A型上司は、部下の仕事であっても自分の仕事のように百パーセント意のままに進行しないと不満なのだ。  そうなると、A型上司を持った部下としては、ああ、自分は完全には信頼されていないんだな、とか、この人は上からの評判さえよければいいんだ、と感じてしまい、このボスのために働こうという気分にはなりにくい。  その代わり、優秀なA型人間を部下に迎えたときの上役は楽なものである。なにしろ、責任を与えれば与えるほど張り切ってしまうのだから。  そうして考えていくと、たしかに先崎が指摘するように、A型サラリーマンは一定以上の地位は不似合いなのかもしれない。 「こういう商売をやっていますとね……」  先崎はつづけた。 「自分がO型とかB型だったら、どんなに気が楽だろうと思うことがあります」  その言葉には実感がこもっていた。 「A型は責任感をバネにして伸びていくタイプですが、ときとして責任感が重圧となってつぶされることがあります。そこへもってきて、広告写真家の世界は、一発大きなミスをしたらもうメシの食い上げという世界です。どうしても失敗の回避には全神経をそそがざるをえません」 「なるほど、なるほど」  財津は、なんとなくわかる気がしてうなずいた。 「こう言ってはなんですが、たとえば星真美子さんのようにエッセイや小説を書いている人たちには、消しゴムがあります」 「消しゴム?」 「書き直し、やり直しが利くということです」 「ああ、たしかに」 「私も以前、短い文章を月刊誌に頼まれたことがありますが、校正っていうんですか、ようするに書いたものが本に載る前に、もう一回手直しのチャンスをくれるでしょう」 「ええ」 「驚きましたね、あれには。正直いって、甘いもんだと思いましたよ」 「納得がいくまでやり直しができますからな」 「そうなんです。ところが私どもの仕事は、撮影が終了した時点で『お疲れさまでした』などと言われても、じつのところは結果が何も見えていません。うまく撮れているかどうかは、現像所からフィルムがあがってくるまでわからない」 「そうか……結果がすぐその場で出ないわけですね」 「はい。もちろん、ミスがないようにあらゆる手は打ちます。それに、経験を積み重ねていけば、どんな条件で撮影しても、その仕上がりは正確に想像できるようになるものです。でも、それでもなお、失敗がゼロになるという保証はないんですよ」  先崎は、フッと吐息を洩《も》らした。 「高いお金を使って海外ロケへ行ったはいいが、日本に戻って現像してみたら、露出が間違っていました、まるまる一本分写っていませんでした、なんていうとんでもない失敗が、ベテランでも起こってしまう危険性がある。しかも、失敗しましたからやり直しをさせてくださいといっても、そうはいきません」 「仮にそれができたとしても、莫大《ばくだい》な出費をご自分で負担せねばならなくなるでしょう」 「そのとおりです。でも、お金を損するだけならまだいい、取り返しがつきますから。しかし、取り返しのつかないのが失った信用です」 「でしょうねえ」 「いつも私たちは、そういう万一の危険を背負いながら、本番一発という緊張度の高い仕事をしているんです。A型人間がそういう仕事を選ぶと、これはきついです」 「ですから先程のような仕事のやり直しをする、しないのもめごとが起きるわけですか」 「ええ。私にだってわかるんですよ、けっきょくは広告代理店の言うとおり、いまさら方針変更ができないのはね。最終的には吉本君——さっきいた男ですが——彼の願いどおりの展開になるのでしょうが、しかしどうも……」 「ところで先崎さん」  本題に移るために、財津は居ずまいを正した。 「あなたは広告写真家ということですが、女性タレントの写真集などはお撮りにならないんですか」 「撮りません」  先崎は、明確な返事をした。 「広告写真のモデルとしては撮りますが、いわゆるアイドルスターのピンナップとか、そういうものはやりません」 「では、湯沢夏子さんに関しては……」 「ああ、例の話ですか」  先崎は苦い表情になった。 「あの講演会での湯沢教授の言い分を鵜呑《うの》みにされては困ります。いらぬ混乱を避けるために、あえて私は感情的な反駁《はんばく》を試みませんでしたが、あれは非常に悪意に満ちた発言です。夏子さんが亡くなったことは深い悲しみですが、さりとて残された湯沢教授に対しては、同情のかけらも覚えません」  温厚な先崎が、言葉こそおだやかだが、相当強い憤りの感情を込めて言った。 「私が彼女のコマーシャル写真を撮り、カレンダーを撮影したのは事実です。でも、それは私とスポンサー企業の広告写真契約の仕事の中で行なわれたもので、私からすると、夏子さんは一モデルの立場にすぎなかったのです」 「でも、そのお仕事がきっかけで、あなたと夏子さんの中が深まったと、教授は言っておられましたね」 「一度や二度は食事をしました。でも、それだって、スポンサーや代理店が同席しての会食ですよ」 「それ以外に個人的にお会いになったことは」 「ありません」  先崎は、きっぱりと否定した。  湯沢邸の庭で、夏子を囲んで問題の四人がにこやかに写っているスナップ写真の存在は、湯沢教授が捜査陣には隠していたため、財津警部は先崎の答えの矛盾を衝《つ》くことはできなかった。 「ともかく……」  先崎はつづけた。 「いったい誰が彼女を殺したのか知りませんが、湯沢教授が犯人にいらぬ刺激を与えたのではないかと思いますよ。あの講演でね」 「ほう?」  財津は、相手の言葉を聞きとがめた。 「そうしますと先崎さんは、あの講演会に招かれた中に犯人がいるとでも」 「ええ」 「名指しされたあなた以外の三人の中に、夏子さんを殺した犯人がいるとお思いなんですね」 「そうです」 「誰ですか、それは」 「………」  先崎は、少しの間だけ答えをためらった。  が、財津の大きな目がギロッと睨《にら》むのにせかされて、口を開いた。 「峰村です」  先崎が口にしたのは、精神科医の名前だった。  しかも呼び捨てである。 「峰村準二が、夏子さんを殺した気がします」 「それはまた、なぜ」 「カンですよ」  先崎は言った。 「直感です。それ以外の、何物でもありません」     4 「ぼくは、湯沢教授の発言内容など、ほんとうはあまり気にしていないんです」  捜査一課のフレデリック・ニューマン刑事をオフィスの社長室に迎え入れた大森徹は、椅子《いす》を持ってきて、フレッドを自分の机の真向かいに座らせた。  部屋の中央に応接セットは置かれていたが、そちらは使わず、大森はいかにも社長用といった重厚な造りのマホガニーの机についた。  きょうの大森のいでたちはフォーマルなダークスーツだったが、きつめのパーマをかけた頭と、あわせて四本の指にはめられた派手な指輪が、スーツの地味さを帳消しにしていた。 「そもそも夏子さんとぼくの関係については、ある程度までは事実ですからね」  金髪|碧眼《へきがん》の刑事に対する好奇心を目の奥に隠しながら、三十三歳の青年実業家はゆっくりとした口調でしゃべりはじめた。 「彼女を溺愛《できあい》していた教授にしてみれば、ぼくに対して猛烈に腹が立つのも無理はないでしょう。だから、ああいう八つ当たりみたいな言い方をされても、まあ仕方ないかもしれないな、と思っているんですよ」  講演会場では、顔を真っ赤に染めながら怒りを懸命にこらえていた大森だったが、さすがに時が経ったせいか、タテマエにせよ口調は落ち着いたものだった。 「それでですね……」  と、フレッドが口を開きかけたとき、社長室のドアが開いて、スラッと背の高い女性が紅茶を運んできた。  会社のユニフォームとなっているレモン色のツーピースに、ストレートロングの黒髪が鮮やかな、きわめつけの美人である。やや人工的ともいえるくらいに整った顔立ちなのが気になったが、それでもフレッドは、しばしポカンとなって彼女を見つめていた。 「ああ、紹介しておきましょう」  あまりにも遠慮なくフレッドが見つめているので、大森としても何か言わざるをえない状況になったのだ。 「ぼくの秘書をやっている朝岡真紀君です」 「秘書!」  フレッドはびっくりした声を出した。 「は〜、小説や映画に出てきそうな、絵にかいたような美人秘書ですね。……どうも、私は警視庁捜査一課のフレデリック・ニューマンです。いやー、あまりのお美しさに、すっかり見とれてしまいました」  フレッドはやや冗談めかして挨拶《あいさつ》をしたが、朝岡真紀と呼ばれた秘書は、とくに恥じらうでもなく、端正な顔にかすかな笑みを浮かべて会釈をし、そのまま社長室から引き下がった。 「あのう……」  彼女が出ていったあとも、まだフレッドはこだわっていた。 「この会社は、ずいぶん美しい方をそろえていらっしゃるんですね」 「そうですか」 「そうですよ。……警察なんか辞めて、明日からこちらに入社したくなったな」  ひろみが聞いたら怒り出しそうなセリフをフレッドが口にしたのは、たんなる場つなぎの冗談ではなかった。  なにしろ大森が経営する会社は、受付に座る女性から、廊下ですれ違う女性ひとりひとりまで、ことごとく『絵にかいたような美人』なのだ。そして大森の趣味を反映してか、彼女たちの顔立ちはだいたい似通っていた。  和風ではなく洋風。それも、愛嬌《あいきよう》があるとか可愛《かわい》いというタイプではなく、冷たさを感じさせるくらい整った美人なのである。 「ぼくらのように、いわばバブルのパワーでのしあがってきた会社の武器は、なんといってもゲリラ性とカリスマ性です」  尋ねられもしないのに、大森はそんなことを言いはじめた。 「社長のぼくにカリスマとしての求心力がなければ、こういう小さな会社に優秀な社員を引き留めておくことはできない。なにしろ、給料や福利厚生面では大企業に太刀打ちできませんからね。  と同時に、メジャーな会社にはとても真似《まね》のできないユニークなアイデアで、世間をアッといわせ、この会社を人々の記憶に残しておく必要もあるわけです。たとえば、この『株式会社OH!』という社名に決めたのもそうした理由からですし、女子社員がひとり残らず美人であるという発想も大胆で面白いでしょう」 「ひとり残らず美人!」  フレッドは驚いた。 「じゃあ、社内見学をさせてもらわないと」 「御用が終わりましたら、いくらでもどうぞ。さきほどの秘書に案内させますから」  大森は余裕|綽々《しやくしやく》の笑みを浮かべた。 「しかし、あれですよね。美貌《びぼう》を採用の条件にしては、なにかと問題になるでしょう」 「そうですか?」 「だって、雇用機会の不均等になるわけだし、こういう方針で社員を採用しているとなると、世の女性たちから反感を買いますよ。だいたい、美人の存在を喜ぶのは、当の本人と男だけなんだから」 「よくわかってらっしゃいますね」  大森はおかしそうに声を出して笑った。 「だから、最初からそういう法律や批判に引っ掛からないような採用方法をとっているんですよ」 「といいますと」 「これもアイデアです」  青年実業家は、パーマのかかった頭を人差し指でさし示した。 「そもそも、うちみたいな新興の会社が普通に女子社員を募集したからといって、これだけの美女が集まると思いますか」 「まあね」  言われてみればそうだった。銀座のクラブが、高給を餌《えさ》にホステスを募集しているのとは違うのだ。 「では、どういうことなんです」  フレッドは真相をたずねた。 「じつは我が社は、定款でモデル・エージェンシーも手がけられるようになっています。つまり、彼女たちは社員ではなく、当社が契約しているモデルなんですよ」 「モデル……」  あっけにとられた顔で、フレッドは朝岡真紀がいれてくれた紅茶に目を落とした。 「しかし、それではほとんど現代版ハーレムといったノリですね」 「かもしれません」  バイタリティにあふれる社長は、あくまでも平然としていた。 「いいじゃないですか、ハーレムでも。いけませんかね、刑事さん」 「………」 「それとも刑事さんは、こういうやり方を批判なさりたいですか」 「批判はしませんけどね。たんにうらやましいだけです」  と言って、フレッドは肩をすくめた。  この見た目ガイジンの金髪男は、意外にというか、イメージどおりというか、軽いところがあって、美女に関してはめっぽう弱い。 「うちにみえた仕事先のお客さんはね……」  大森はつづけた。 「みなさん口をそろえて我が社のこうした方針を絶賛されるし、つぎにこられるときは、必ず偉い人を三、四人連れてきますよ。もちろん、いろいろな契約の話などはすべてスムーズにいく」 「それは仕事相手が男の場合でしょ」 「ぼくは男しか相手にしませんから、仕事では」 「そうなんですか。すると、女の子たちはみんな見世物というわけですか」  自称フェミニストのフレッドは、内心、腹立たしさでいっぱいになってきた。が、その感情の変化は大森にも読み取られた。 「かっこうつけないほうがいいですよ、えーと……ニューマンさん」  名刺を見ながら、大森は言った。 「私のポリシーをタテマエ論で批判する人もいるけれども、外野は黙ってろ、ってことですよ」  そして、彼は挑戦的な目になった。 「刑事さんだって、たったいま、うちの女の子が美人ばかりだといって、鼻の下を長く伸ばしていたじゃないですか」 「ま、そうですよね」  情けないことに、フレッドはあっさりうなずいた。 「いいですか、刑事さん。永遠に輝く女性の美しさを求めてヴィーナス狩りをする——これが、原始の時代から受け継がれた男の本能というものなんですよ。その本能を否定するのは不自然です」 「どうでもいいけど、ヴィーナス狩りだなんて、わけのわからないことを言わないでくださいよ」  フレッドは両手で金髪をかきあげた。 「では、ひょっとして、あなたが前に有名女優と電撃結婚したのも、たんに彼女が美人だったからという、その理由だけだったんですか。そして、それに飽きたから、さっさとスピード離婚をした。そういうことなんですか」 「まったくそのとおりですね」  少しも悪びれずに、大森はうなずいた。 「ただし、そんなホンネをまともに告白したのでは世間に通用しないし、相手だって納得しない。だから、表向きには『性格の不一致』を理由にして別れたわけです」 「すると、湯沢夏子さんに対しても同じような感覚で……」 「まあね」  大森は下唇を突き出した。 「美人はいつもぼくの心を動かす。顔じゃないよ、心だよ、というセリフは何の説得力も持ちません。少なくともぼくにとっては……」 「う〜ん」  うなりながら、フレッドは考えた。  自分の場合、ひろみに対してはどうなのか。顔なのか、心なのか。 (あいつは、どっちもいいもんな)  心の中で瞬間芸の自問自答をしてから、フレッドは、やや表情を改めてたずねた。 「で、大森さん。あなたは夏子さんと、どういう関係だったんですか」 「どういう関係? つまり、『どこまでいった』という質問ですか」  大森が露骨な聞き方をし、フレッドが一拍おいてうなずいた。 「どこまでも何も……」  大ぶりの指輪を一方の手でこすりながら、彼は笑った。 「たんに、お茶を飲んで食事をしたというだけの関係ですよ。いや、言い訳じゃない。ほんとにそうなんです」  大森は頭をかいた。 「十五歳年上のつぎは、九つ年下というわけで、ぼくもつきあう女性の年齢層がずいぶん広がったな、と面白がっていたんですけどね。あんな悲劇が起きるとは思ってもみなかった。可哀相《かわいそう》なことです。それに惜しいですよ、あれだけ可愛くて才能のある人が若くしてこの世を去るとはね。テレビ界にとっても大きな損失だったんじゃないですか。……ま、ぼくにとっても大いなる損失ではありました。この世からひとりでも美人が減ることは、耐えられない悲しみだ」 「あなたって、O型にはみえませんねえ……」  フレッドが、やや呆《あき》れ顔で言った。 「浮気性なところはぼくと同じB型っぽいし、アイデアマンとしての柔軟な頭脳はAB型みたいだ。それなのに実際はO型とはね」 「ちょっと待ってほしいな、刑事さん」  こんどは大森のほうが、呆れ返ったという表情をした。 「あなたも信じているわけですか、血液型性格判断なんてバカなものを」 「少しはね」  美人秘書が出してくれた紅茶を一口飲みながら、フレッドは答えた。 「冗談じゃないな、刑事さん。あなたみたいな職業の人が、あんなデタラメを信じてどうするんです。湯沢教授の理論はただの寝言だよ。いや、寝言じゃなくて、うわごとかな。たわごとと言ってもいい」  鼻で笑いながら、大森はつづけた。 「だいたい血液型なんかで人の性格がわかってたまるもんですか。湯沢教授は『責任感』『感性』『信念』『論理』を、それぞれの血液型が代表する重要な要素のように言っていたが、そんなものは誰しもふつうに備えているものじゃありませんか。ただ、個人個人の性格によって、その配分のバランスが違うだけなんだ。O型人間は信念の人というけど、同時に責任感だって感性だって論理性だってあるんだからね。教授の主張を受け入れるなら、たとえば芸術家はみんなB型でなくてはおかしな話になる」 「血液型性格分析への反論はわかりました」  フレッドは、話が脱線しないようにコントロールした。 「ところで、ざっくばらんに伺いますが、あなたは湯沢夏子さんの死をどう思います。自殺なのか他殺なのか」 「他殺でしょうね」  拍子抜けするほど簡単に返事が戻ってきた。 「ぼくには犯人までわかっていますよ」 「ほんとですか」 「ええ」 「誰です、それは」 「最有力候補は湯沢教授自身ですよ」  なんのためらいもなく、大森は言い切った。 「そして、第二の容疑者は写真家の先崎陽太郎」 「そう決めつけられる根拠は」 「教授の場合は孫娘への溺愛《できあい》ですよ。彼女を誰にもとられたくなかった。ぼくにも、先崎にも、あのタレントドクターにも」 「どこかの男に奪われるくらいなら死んでくれ、というわけですか」 「そうです」 「なんだか時代がかった動機ですねえ」  フレッドはそんな感想を洩《も》らしたが、大森は首を横に振った。 「あなたは外人だからわからないだろうが、とくに昔気質の日本人の心の奥底には、そういう血の絆《きずな》に対するドロドロとした執着心があるものなんですよ」 「ぼくは日本人ですけどね」  アメリカ人宣教師の父とポーランド人の母との間に生まれたフレッドは、人種的にみれば日本人の血はまったく入っていなかったが、すでに亡くなっている両親が存命中に日本に帰化しており、国籍はれっきとした日本なのである。  しかし、大森はフレッドの言葉を本気にせず、そのままつづけた。 「それから先崎が怪しいと思うのはね、夏子のほうがあの中年カメラマンに夢中になりはじめたからなんです」  青年実業家は、死んだ女性をなれなれしく呼び捨てにした。 「正直いって癪《しやく》な話だが、彼女をねらっていた三人の男——先崎、峰村、このぼく——の中で、先崎が一歩リードして、夏子の気持ちをつかまえていた。たしかに物腰は柔らかいし、五十すぎのわりには見てくれもいい。いまの若い子は、ああいうのに弱いんだなあ」 「先崎氏を怪しむ理由はそれだけですか」 「いやいや、最後まで聞いてください」  大森は、手首にはめた金色のブレスレットをじゃらつかせて言った。 「もうご承知かもしれませんが、ぼくとドクター峰村は独身ですよ。といっても、いわゆる『バツイチ』で、一回離婚を経験していますけどね。それでも独身は独身だ。だから、湯沢夏子とどんな交際をしようと、少なくとも不倫にはならないし、いざとなれば結婚という形で責任をとれたわけです」  大森の場合は、はたして結婚という儀式に責任を感じるタイプかどうか不明だったが、フレッドは黙っていた。 「ところが、先崎には奥さんも子供もいる。だから、遊びのうちはいいが、もしも夏子が本気になった場合、困るのは彼なんです」 「家庭を壊されるなら、別れたほうがいい、と」 「ええ。そして、別れてくれないのなら、殺してやろうと——こういうわけですよ。だいたい、あの先崎陽太郎に不倫のイメージは似合わないでしょう。そういった噂《うわさ》が出ただけで、彼は商売上のマイナスになると考えるかもしれない。なにしろA型人間は神経質だからね」 「あなた、血液型別心理分析は信じなかったのでは?」 「都合のいいときには信じるんですよ」  臆面もなく言って、大森は、あははと高笑いした。 (彼はチャランポランのようでいて、言ってることにはもっともな部分もある)  フレッドは思った。  しかし、湯沢教授や名指しされた四人の誰かによる他殺説をとるかぎり、アリバイの壁は突き崩せないし、現場から消えた『踏み台』の謎《なぞ》も解けない。だが、そうした疑問は捜査陣の中で検討すればいいことで、それよりも、たったいま大森の口から出た言葉の中に、引っかかる一節があった。 「大森さん」  フレッドは、豪華な机をはさんで向かいあった青年実業家にたずねた。 「いま、あなたは三人が夏子さんをねらっていたとおっしゃいましたが」 「ああ」 「そのことは、先崎さんも峰村さんも承知していたんでしょうか。つまり、講演会場で湯沢教授に名指しされる前から、すでに三人はおたがいの存在を……」 「もちろん」  大森はフレッドの質問をさえぎるようにして答えた。 「知っていたどころか、私たち三人は、いっしょに飲みにいったりしたことが何度もあってね」  それはフレッドには初耳だった。 「まあ、私も前の女房が女優だった関係で芸能界の一端にふれていたわけだし、先崎氏はもちろんのこと、精神科医の峰村氏だって、ああいうぐあいにテレビの人生相談コーナーでレギュラー回答者だったわけでしょう。会社経営者に写真家に精神科医というと接点がなさそうだが、じつはまさに湯沢夏子のいる芸能界という共通の場を通じて、おたがいに知り合える機会があったんですよ」 「そうなんですか……」 「ようするにゲームみたいなものだったんですよ」 「ゲーム?」 「そうです。誰が最初に湯沢夏子の心を捉えることができるか、ってね。それを、弥次馬《やじうま》見物していたのが星真美子だった」 「ほんとうですか」  フレッドは驚いた。 「彼女は関わりあいになりたくなくて、あの会場ではぼくら男性陣とは面識がないふりをしていましたけれど、そんなことはないんです。みんな仲間なんですから」 「はあ……」 「だけど、それぞれが保身の術に長《た》けているから、面倒なことになりそうになると、すぐに逃げ出してしまう。逃げないで堂々としているのは、このぼくくらいなものじゃないですか。そういう意味では……」  大森はニヤッと笑った。 「O型人間なのかもしれませんけどね」     5  星真美子とのインタビューを終えた烏丸ひろみは、夜になると四五〇ccバイク——愛称シルバー号——を飛ばして横浜に移動した。  つぎの『取材相手』である峰村準二が指定したのは、横浜港を見下ろす高台にある小さなバーだった。  何を考えているのか、彼はわざわざそこまでひろみを呼びつけたのである。  さきほどまでワンピースを着ていたひろみは、メイクを落として素顔になり、黒革のライダースーツにピンクのヘルメットを小わきに抱えるといういつものスタイルで指定の場所に現れた。  いかにも横浜らしい小さな洋館の二階にある店で、そこからは港を取り巻く街の明かりが一望に見下ろせた。 「刑事にしておくのがもったいない人だな」  カウンターの止まり木で、ひとりぽつねんとシェリー酒を飲んでいた峰村は、隣のスツールにひろみが滑り込むと、わざとらしいため息とともにつぶやいた。  格好をつけたわりには、ひろみにとってそれはあまりにも平凡すぎる言葉だった。なにしろ、昼間、星真美子にも同じようなセリフを言われたばかりである。  ひろみは無言でヘルメットを空いているスツールの上に乗せ、リーゼントの髪を両手で押さえつけるようにして整えた。  近寄ってきた細面のバーテンは、ひろみからレモネードの注文を受けると、うやうやしくうなずき、次に隣の峰村へ意味ありげな視線を投げかけた。  どうやらこのタレント精神科医は、ここの店にお気に入りの女性をとっかえひっかえ連れてきているらしい。  ひろみはそう直感した。  しかし、そうした行動が峰村になかなか似合うのも事実だった。  一歩間違えるとキザの独り相撲をとることにもなりかねなかったが、ちょっとニヒルでハンサムで、しかも声が素晴らしいときては、女性がコロッとまいるのも無理はないかな、とひろみは思った。  とくに、虚無的な笑いをたたえるとき、頬《ほお》にえくぼができるのも素敵だった。えくぼが似合う男というのは、なかなかに珍しい。  ひろみとしても、峰村が魅力的な男性であることを認めないわけにはいかなかった。それこそ、精神科医にしておくのがもったいないような男である。  いや、もしかしたら……。 (この外見があるからこそ、精神科医がつとまっているのかもしれないわ)  ふと、そんな気もした。 「あなたが私に疑いを抱いて、いろいろ調べにきたのはわかる」  峰村は、グラスに残ったドライシェリーを、カウンターの向こうに掛けられたランプの明かりに透かし、それから一気に喉《のど》の奥に放り込んで、おかわりを頼んだ。  いちいちやることが洋画の一場面のようであり、しかもその声が外国の名優の日本語吹き替えといった雰囲気である。ひろみは、まるでテレビの洋画劇場でも見ている気分になった。 「しかし、私は警察のみなさんに申し上げたい。今回の出来事を論理的に検討すれば、すべては湯沢康弘のひとり芝居だということがわかる、とね」  銀座に贅《ぜい》を尽くした病院を開業した院長は、患者に淡々と病状を述べるように、ほとんど独り言に近い形でしゃべった。 「ほかの三人からすでにお聞きかもしれないが、このあいだの講演会には、私はなかば強制的に出席を求められていたのだ。もしもこなかったら、後で悔やむことになりますよ、と教授自身から電話をもらってね。多分、先崎、大森、星の三人もそうだったのではないかと思う」  そういう裏話を聞いたのは、ひろみにとっては初めてだった。 「つまり、あの場に私たちを集めたのは、そしてあなたがた捜査関係者を招いたのは、あらかじめ計算された教授の作戦だったんですよ」 「作戦って……どういう目的の作戦ですか」 「わかりませんか? お嬢さん」  いきなり『お嬢さん』と言われて、ひろみは吹き出しそうになった。  が、峰村のポーズが妙に決まっているので、その笑いは表に出てこなくなる。 「つまりですね」  バーテンダーから追加のドライシェリーを受け取りながら、峰村は言った。 「私、先崎陽太郎、大森徹、そして星真美子という四人が、湯沢教授に対して悪意と殺意を抱いている人物である——こういう先入観念を聴衆に、そしてあなたがた警察関係者に植えつけておくのが目的だったんです。それによって、教授ではなく孫の夏子君が殺されても、結果的にぼくらに疑いが向くようにしたわけですね。まあ、心理学者としては凝った作戦のつもりだったかもしれないが、精神科医の私からみれば一目で裏のカラクリが見抜けてしまいます」  ひろみの前にレモネードが運ばれたのを見て峰村は話を中断し、乾杯をするようにシェリーグラスを掲げた。  ひろみは軽い会釈だけ返して、まだ飲み物には口をつけない。 「教授は……」  ふたたび峰村は話に戻った。 「夏子君が許せなかったんですよ」 「どの部分が許せなかったんですか」  ひろみはカウンターに両腕をのせて、峰村の横顔を見た。  薄暗い店の中で、彼の瞳《ひとみ》だけがランプの光を受けてオレンジ色に輝いていた。 「目に入れても痛くない孫娘の夏子君がテレビの世界に入ってから、いろいろな男性と交際をするようになった。それが許せなかった——これは、あくまで表面的な解釈。そうではなくて、もっと深い懸念が教授にはあった」 「もっと深い懸念って?」 「教授は、いまだに夏子君が処女であると信じていた」 「………」 「二十四歳という年齢にも達し、しかもああいう業界にいるにもかかわらず、孫娘は男と女の世界を知らないものだと思い込んでいた。いや、自分にそう思い込ませようとしていた」  ドアが開いて新しい客が入ってきたらしい。店の出入口に灯っている螢光灯の明かりが、扇形にカウンターの上に広がって、そしてまた閉じた。 「なぜ、彼がそうしたことにこだわっていたのかといえば……」  峰村はつづけた。 「教授にとって湯沢夏子という女性は、たんなる祖父と孫娘という関係にあるものではなかったからです。あるときは実の親と娘であり、そしてまたあるときは、片思いの恋人でもあった」  峰村は、精神科医らしい分析をはじめた。 「下の孫娘である泉美君に対しては、どうなのか知りませんが、少なくとも夏子君は、老教授にとって永遠のマドンナだった。したがって、私や先崎や大森は、その可愛《かわい》い恋人を自分から奪おうとする許しがたい男どもであり、星真美子は、その企みを脇《わき》からそそのかす不届きな女だということになる」  シェリーグラスの台座を人差し指と中指ではさみ、カウンターの上をゆっくりと右に左に滑らせながら、峰村は語りつづけた。 「ところが、講演会のひと月ほど前に教授からかかってきた電話で、なかば喧嘩《けんか》のようになったとき、私はつい口走ってしまったんです。夏子君は、あなたが考えているような子供ではありませんよ。彼女はもう処女じゃないんです、とね」 「そんなふうにおっしゃったんですか」  ひろみは咎《とが》めたつもりだったが、峰村がそうしたニュアンスに気づいた様子はない。 「電話口で教授は絶句しましたね」  シェリーを一口含んでから、峰村はひろみに顔を向けた。 「そして、しばらく間をおいてから、貴様デタラメを言うなと怒鳴りだした。私は静かに言い返しました。たしかに私は内科的な診察はしていないが、精神科医として心の側面から診察していくと、その事実を証明することは容易ですからね、と」  聞いていて、ひろみは気分が悪くなった。  処女という言葉を濫発《らんぱつ》する男たちは、いったい女性の存在をどう思っているのだろう。 湯沢教授も感心しないけれど、この峰村という男はもっとひどい。さきほど、一瞬とはいえ、彼を素敵だなと思った自分に腹が立ってきた。 「……そういう意味では」  ひろみの心の動きも知らず、峰村は神妙な顔になってカウンターに目を落とした。 「教授が夏子君を殺すきっかけを作ったのは、この私なのかもしれません」 「まさか、そこまで計算しつくしたうえで、湯沢教授に残酷なことをおっしゃったのではないでしょうね」 「ほう……」  びっくりしたように、峰村は捜査一課の女性刑事を見返した。  が、すぐに表情を和らげ、低くて渋い声で言った。 「なかなか鋭い指摘をなさいますね」 「鋭かったですか」 「はは……鋭いです」  峰村は、声で笑って顔では笑わなかった。 「どうも私という男は、他人から誤解されることが多いようです。つまり、計算ずくの発言で人を動かそうとする男だ、とね。けれどもあのときは、本当に物のはずみだったんです。ですから、口を滑らせてから、しまった、と思いましたよ。その一言で、教授の心の支えをパッと取り外してしまったわけですからね。だから、結果論であなたに批判されてもやむをえないと思ってます」 「では、おたずねしますけれど」  ひろみは前を向いたまま言った。 「峰村さんの、あの日の午後の行動を教えていただけますか」 「あの日というと?」  峰村は眉《まゆ》を吊《つ》り上げた。 「湯沢教授の講演会があった日です。つまり、湯沢夏子さんが殺された日です。あの日、講演会にこられる前、あなたはどこにいらしたんですか」  ひろみの質問に、峰村は一瞬考え込んでから、自分の声の魅力を最大限に発揮するための間をおいてから言った。 「そんな昔のことは忘れた」 「………」  ひろみが言葉を返さずにいると、峰村はおおげさに落胆した表情を見せた。 「ああ、だめだなあ、最近の若い人は過去の名画を知らないから。そこですかさず『今夜、また会えるの?』ときいてくれなくちゃ。すると私は『そんな先のことはわからない』と答える」 「私はイングリッド・バーグマンで、あなたがハンフリー・ボガートというわけですか」 「なんだ、知っていたのか」 「『カサブランカ』」 「そう。きみはあの名画の主演女優のように美しい」 「やめてください、話をそらすのは」  ひろみはピシッと言った。 「私がおたずねしているのは、事件当日のあなたのアリバイです」 「アリバイ……おお、アリバイ。なんと無粋な単語なんだ」  峰村は、額に手をあてて首を振った。 「マスター、この美しいお嬢さんは、私のアリバイとやらをおたずねだ」  声をかけられたバーのマスターは、苦笑しながらグラスを磨いている。  これではダメだ、とひろみは思った。こんな状況でしゃべる内容に、真実が含まれているのを期待するほうが間違いだ。 「じつは私にはアリバイがない」  たいして困った様子もみせずに、峰村は言った。 「赤坂の講演会場に出かける前は、杉並にある自宅の書斎で、学会で発表する論文の整理に追われていたからね。独身貴族の私としては、自宅にいるかぎり、その存在を証明してくれる家族もいないわけだ。だが、どちらにしても、死亡推定時刻の問題があるからね。講演がはじまるよりも前の行動は、あまり詮索《せんさく》しても意味がないんじゃないかな。なにしろ夏子君は、午後五時半から六時半の間だったと思うが、その時間帯に、郊外の小平市にある自宅で死んでいる。とても、私にはできない仕事だね」 「でも、そうおっしゃるなら、湯沢教授のほうがもっとしっかりしたアリバイがあると思いますけれど」  湯沢教授は三時半に小平の自宅を出て、赤坂の風月文化会館に向かっている。これはハイヤーの運転手から確実な証言を得ている。  そして、そのまま会場に直行。  六時から講演がはじまり、やがて会場が混乱。七時すぎにハイヤーでそこを脱出して、夜の八時二十分すぎに自宅に戻っている。これも、運転手の証言がある。  つまり、午後三時半から八時半まで、湯沢教授は確実に自宅を離れているのである。 「仮に教授が犯人だとして、どうやって夏子さんを殺すことができたんでしょうか」  ひろみはたずねた。 「物理的にいっても、小平の自宅にいる夏子さんを赤坂の会場にいる教授が殺すことは無理なんです」 「そういう意味では、私だって同じ理由で容疑者から除外されると思うのだがね」 「それはそうですけれど……」 「しかしねえ、お嬢さん」  峰村は、またひろみのことを『お嬢さん』と言った。 「教授はあそこの家の持ち主なんですよ。それを忘れてもらっては困りますね。夏子君が死んでいた離れに、なにか特別な仕掛けをしようと思えば、いくらでも可能だったわけでしょう」 「仕掛けといいますと」 「私は、マスコミ報道から得た情報しかありませんが、夏子君が首を吊った現場には、踏み台に相当するものがなかった、という点が問題になっているそうじゃないですか。つまり、首を吊れる状況にないのに、彼女は首を吊っていた」  ひろみはうなずいた。 「もちろん、単純に犯人が現場から踏み台を持ち去ったという考え方もできるが、むしろあの状況は、機械的な仕掛けの存在を暗示しているように私には思えるのですよ。ようするに、遠くにいながらにして、夏子君を殺せるような遠隔装置ですね」 「たとえば?」 「たとえば、リモコンでロープ——いや、チェーンでしたか——それを巻き上げられるような装置が、どこかについていて、電話をかければその装置が動き出すとか……」 「そんなものは一切あの部屋から発見されませんでした。それに、もしもそういうリモコン操作ができるようでしたら、峰村さんのアリバイだって同時に崩れるんですよ」  横浜にくる前、ひろみは財津警部やフレッドとこれまでのインタビュー結果を持ち寄って検討をしていたが、各人のアリバイに関していえば、つぎのような結果が出ていた。  エッセイストの星真美子は、プライバシーを盾に、自分の居場所をまったく明らかにしようとはしなかった。  カメラマンの先崎陽太郎は、その日の朝まで軽井沢にいて、そこから一人で車を運転して東京に戻るところだったという。  青年実業家の大森徹は、午後は港区青山にある会社でずっと接客中だったことが明らかになっている。  峰村も含めて、アリバイのあるなしは四人四様だったが、湯沢教授に殺人可能な方法があるとすれば、他の四人だって同じことができないとは限らないのだ。  しかし、峰村はひろみの指摘にも揺るがなかった。 「あなたがた警察は、もっと単純に局面をとらえていったらどうなんでしょうかね」 「どういうふうにですか」 「夏子君は自殺か他殺か——まず、最初にこう問いかけてみるべきだと思う。自殺の可能性はありやなしや、とね。そのへんはどうなんですか」 「私からはお答えできません」 「口が堅いんだね」 「刑事ですから」 「ああ、そうか……ついつい忘れていたよ。あまりにもあなたは、この港町に似合うファッションをしているのでね」  ダンディな院長は、リーゼントヘアにライダースーツ姿のひろみを、改めてしげしげと見つめた。 「で、現場に遺書は残されていたのかな。それも答えられない?」  しだいに峰村の言葉遣いが馴《な》れ馴《な》れしくなってきた。 「遺書は見つかっていません」 「だったら自殺ではないだろう」 「そんなふうに単純に決めつけられるものではないと思いますけれど」 「単純にやるんだよ。そのほうがベターだ」  峰村は言った。 「患者に診察を下すときも、いつも私はそうしている。まず、自分としてひとつの仮定をたてなければ何も始まらない。その仮定を、面接やさまざまな検査などで裏づけたり、あるいは修正したりする」 「それは犯罪捜査だって同じです」 「違うね」  きっぱりと峰村は言った。 「いまのあなたは仮定の段階で揺らいでいる。自殺なのか他殺なのか、どちらかの視点に立って事態を検討していけば明確なのに、自殺かもしれないし他殺かもしれないという。少しでも可能性が残っていると、そこに妙にこだわりをもつ。よくいえば綿密だが、悪くいえば決断力がない」 「私の精神分析をおはじめになるんですか」 「精神分析というには、あまりにも簡単すぎるけれどね」  峰村はニヒルな笑いを浮かべてひろみを見た。  そして、氷をたくさん入れたミネラルウォーターをくれとバーテンに頼む。さきほどよりも、やや顔が赤らんでいる。 「きみの捜査方法のたとえとして、私の専門の精神科ではなく内科の例を引き合いに出そう。たとえば、世間で風邪がはやっているときに、ひとりの患者が高熱と悪寒を訴えて診察を受けにきたとする。その自覚症状を聞き、患者の顔色を一瞥《いちべつ》して、まずは単純に風邪を疑ってみるのが普通だ。そうだろう。そして、その予測に基づいて、心音や呼吸音を聴いたり喉《のど》を覗《のぞ》いたりという『現場検証』をしていくわけだよ。  さらに、その予測を二重三重に裏づけたい場合や、あるいは仮定そのものに疑問が出てきた場合には、レントゲンを撮ったり、血液・喀痰《かくたん》・尿などの精密検査を組み合わせ、別の結論が引き出される可能性も考慮していく。  ところがきみの場合は、患者がやってきたとたん、ありとあらゆる可能性を考えて、最初から検査のフルコースをはじめてしまうんだ」  峰村は、水よりも氷の分量が多いグラスを取り上げて、それをあおった。 「いいかい、湯沢夏子は殺された。それも、実の祖父である湯沢康弘にだ。そこまで踏み込んだ仮定を立ててから、すべてを検討していったらどうなんだ。このやり方のほうがよっぽど効率がいいと思う」  口元を指先でぬぐうと、峰村はつづけた。 「では、湯沢教授の動機は何か。さきほど言ったように、孫娘に対する屈折した独占欲が裏切られたからだ。その実行方法は? 教授にいわゆるアリバイがある以上、何か物理的なトリックが現場にあったと考えなければならない。  しかし研究室になんらかの仕掛けを作るには——それが大掛かりなものなら、なおさらだが——外部の人間では無理だ。おそらく、研究室には鍵《かぎ》だって掛かるようになっているだろうしね。そう考えていけば、湯沢教授が犯人で、殺害方法の裏には機械トリックが存在した、という結論が導かれてくるじゃないか。労せずして、あなたは事件の真相に最接近できるというわけだ」  峰村の言い分を聞きながら、ひろみは思った。この男は女を口説くときにも、こうやって独善的な決めつけ方をしていくのだろうか、と。 「ところで……」  峰村は思い出したようにつぶやいた。 「テレビのニュースでやっていたけれど、現場の部屋は非常に殺風景で、風景画と時計が掛かっているだけだったというじゃないか」 「ええ」 「まさかその絵というのは、凱旋門《がいせんもん》を描いたものではないだろうね」  ひろみは、あれ、と思った。  その絵の内容まではマスコミに公表していなかったからだ。 「やっぱりそうなんだね」  ひろみの反応を窺《うかが》うと、峰村は畳みかけてきいた。 「夏子君が首を吊《つ》った部屋に掛かっていた絵というのは、凱旋門を中心に晩秋のパリを描いた水彩画だったんだね」 「もしもそうだったら、どうなんですか」 「それは……私が彼女にプレゼントしたものなんだよ」     6  同じころ、湯沢康弘教授は、小平の自宅のリビングルームで、もうひとりの孫娘である泉美と向かい合っていた。  二人の間のテーブルには、教授が夏子の部屋で見つけた写真が置いてあった。  夏子を囲んで、問題の四人がいっしょに写っている写真である。 「正直に話してくれないか」  ここ数日でげっそりとやつれた湯沢教授は、泉美に向かって力ない声で頼んだ。 「おまえは、この写真について何かを知っているのだろう」  泉美は、さっきから祖父のその問いかけには無言で応じてきた。  つまり——知っていると告白したも同然の反応である。  人気テレビタレントとなった姉と同じように、女子大生の泉美もまた、天真|爛漫《らんまん》な陽性の女の子だった。  姉はテレビという華やかな表舞台で活躍しており、妹は平凡な女子大生という立場だったが、二人の明るい性格はよく似ていた。  だが、祖父に対する態度についていえば、姉と妹の間には大きな差があった。  最近の夏子は、完全に祖父に対して距離をおきはじめていたが、妹の泉美は、いつまで経っても『おじいちゃん』と馴《な》れ馴《な》れしく慕ってくる。  その湯沢教授本人に言わせれば、夏子はAの要素が強いAB型で、泉美はBの要素が強いAB型ということになるのだが、以前までは、A型の祖父と気が合っていたのは、姉の夏子のほうだった。  妹の泉美は、明るいばかりでなく、より奔放で無邪気な面が強く、いまひとつ祖父の手にあまるところがあったのだ。一方、夏子のほうは、きちんと常識をわきまえている面があって安心できた。  ところが、夏子がテレビタレントとして人気が出てきてからは、むしろ湯沢は夏子の言動に手を焼き、それに較べれば、泉美のほうがよっぽど純情だと思うようになっていた。その泉美も、さすがに姉を亡くしてからは大きく落ち込んでいた。 「私も昔は写真が趣味だったから、これが三脚とセルフタイマーを使って撮ったものでないことはすぐにわかる」  教授は、サービスサイズのカラー写真を手に取っていった。 「ピントは合っているのに、人物の輪郭が微妙にブレている。それだけでなく、風景ぜんたいにブレが見られる。すなわち、写される人間が動いたのではなく、カメラのほうが動いたのだ。もちろん、三脚を立てていたらこんな現象はありえない。つまり、カメラは手持ちだったということだ」  教授はとことん理詰めで迫った。 「このときの天気はあまりよくないようだから、たぶんシャッタースピードが遅く設定されていたために起きた手ブレだろう。では、このカメラを構えていた人物はいったい誰なのか、という問題が残る」  教授は、写真をふたたびテーブルの上に放り投げた。  泉美はまだ口をつぐんでいる。 「しかも、この背景はわが家の庭だ。この庭に、よりによって夏子をもてあそぼうとするけしからん連中が大集合だ。いったい、これはどういうことなんだ」  湯沢は声を荒らげた。 「そうだろう。この松の枝ぶりといい、植木の刈り込み方といい、研究室のすぐ前の場所で撮ったものじゃないか。では、夏子はこいつらを私に無断でこの家に連れてきたということか。冗談じゃない。私を馬鹿にするのもいいかげんにしろ」 「それは死んだお姉ちゃんに怒ってるの、それとも私に向かって言ってるの」  泉美は顔をあげて祖父に問いただした。 「両方にだ」  教授はこめかみに青筋を立てながら答えた。 「泉美、やはりこの写真はおまえが撮ったんだな。そうだろう」 「……そうよ」  夏子の妹は、しかたないという表情で白状した。 「やっぱりか」  予想どおりの答えが返ってきて、かえって教授はガックリきた。 「説明してくれ。何があった」 「とにかくお姉ちゃんは逃げ出したかったの、この家から」 「逃げ出したかった?」 「そうよ。いろいろな男の人とつきあったのも、この家から自分を連れて逃げ出してくれる王子様を見つけたかったからなのよ」 「王子様だと……馬鹿なことを言わんでくれ」 「冗談でいっているんじゃないわ。お姉ちゃんは真剣に悩んでいた」  泉美は大きな声になった。 「あの日、電話をする約束になっていたというのも、ほんとは私のほうに用事があったんじゃないの。お姉ちゃんが私と話したがっていたのよ。自分はあと二、三週間でこの家を出るつもりだけど、泉美はそのまま残っていても平気なのかって。その最後の確認をしたがっていたの」 「二、三週間で出るつもりだった、だと?」  湯沢は呆然《ぼうぜん》となった。 「私はね、お姉ちゃんみたいに責任感が強くないから、いやになったらパッておじいちゃんの前からいなくなっちゃえると思うんだ。いつでもそうできると思うから、かえって平気なの」 「………」 「でも、生真面目《きまじめ》な長女は違っていた。毎日毎日が窒息しそうに不自由だったのよ」  泉美の話に耳を傾けている教授の指先が、細かく震え出した。 「先崎さんも、大森さんも、峰村さんもお姉ちゃんに好意をもっていたけど、三人はおたがいにゲームみたいにして恋愛を楽しんでいるところがあった。つまり、誰が湯沢夏子を小平のお城から連れ出せる王子様になれるか、ってね。みんな大人だもん。若い者どうしみたいな、周りが何も見えなくなっちゃうような恋をしていたわけじゃないのよ」 「な……な……」  湯沢は、口をパクつかせるだけで、言葉が出てこない。 「それで、唯一の女性である星真美子さんが、審判役みたいになっていたの。……その写真はつい最近撮ったものよ」  そうした感覚がまったく理解できない老教授は、虚《うつ》ろな目を写真に落としていた。 「おじいちゃんは研究室に凱旋門の絵を飾ったでしょう。夏子が研究室のインテリアのためにプレゼントしてくれた、って、おじいちゃんは喜んでいたけど、あれはもともとお医者さんの峰村さんがお姉ちゃんのためにプレゼントしてくれたものなの」 「峰村が……」 「そうなの。でも、お姉ちゃんて趣味がいいでしょ。ということは、自分のセンスに合わない贈り物は、義理があっても使いたくないのよ。だから、おじいちゃんにあげちゃったの」 「おまえら……」  湯沢の体がさらにワナワナと震えた。 「いったい、おまえら姉妹はこの私のことを何と思って……何と思って、こんなにひどい裏切りをしてくれたんだ」 「興奮しないで、よく聞いて」  泉美は祖父のほうに身を乗り出した。 「お姉ちゃんは、どうしても自分の暮らしがしたかったの」 「すればいいじゃないか」  教授はわめいた。 「好きなようにここで暮らせばいいじゃないか。東京でこれだけの広い土地と家が、いまどき手に入れられるか」 「そういう問題じゃないの。お姉ちゃんは、おじいちゃんから独立したかったのよ。物理的にも、精神的にも」 「その話は前も聞いた」  教授は吐き捨てた。 「そんなにあの子は……夏子は私を嫌っていたのか」 「好きとか嫌いとかじゃなくて、とにかく束縛から逃れたかったの」 「私が何を束縛していたというのだ」 「わからないの」 「わからん」 「嘘《うそ》、わかってるくせに」 「嘘?」 「おじいちゃんは卑怯《ひきよう》よ!」  突然、泉美は叫んだ。 「なんだと……」  怒りに赤く染まっていた湯沢の顔から、みるみるうちに血の気が引いた。 「おじいちゃんなんか、大っきらい。恩着せがましくて、いつまでもいつまでも私たちに恩を売りつづけて」  泉美は立ち上がった。 「おじいちゃんが私たちのパパを作ったのも、パパやママが私たち二人を生んだのも、みんな親の勝手でやったことでしょ」 「泉美……」 「それも……どういうことをやって子供を作ったのよ。まさかコウノトリが袋に入れて運んできたわけじゃないでしょ。おじいちゃんだって、どういうことをしたのよ」 「けがらわしいことをいうな」  老教授は唾《つば》を飛ばして怒った。 「よくいうわよ。自分でやっといて孫にはやるな、結婚するまで処女でいろ、なんて勝手すぎない」 「おまえも夏子も女なんだぞ」 「女だからどうなのよ。男は勝手に女の人を抱いてもよくて、女は保護者の許可がなくては何もできないわけ?」 「あたりまえだ」 「ふざけないでよ!」  泉美の目には涙が浮かんでいた。 「そういう身勝手な理屈が、いまの時代に通用するわけがないのよ。戦争前までは、それがまかり通っていたかもしれないけどね」  湯沢は荒い息を弾ませるばかりで、反論ができない。  泉美はつづけてまくしたてた。 「女にばかり貞操を求めて、男は遊び放題。結婚相手には処女を求めて、自分は別のところで女の人をもてあそんで処女を減らしている。言うこととやることが矛盾だらけのメチャクチャなのよ。明治の男も、大正の男も、昭和の男も最低。サイテー!」  ほとんど、泉美は叫ぶようになっている。 「そんな時代の理屈を、おじいちゃんは私たちきょうだいに押しつけている。この家では、封建的でくだらない規則が通用している。でも、私たちはそれに反抗できない。なぜかといえば、おじいちゃんが私たちの不満を『お涙ちょうだい路線』で抑えているからよ」  泉美は拳を握りしめて訴えた。 「もしも私たちがさからったら、おじいちゃんは見捨てられた哀れな老人を演じて泣き崩れればいいのよね。そうすれば、私たちきょうだいが恩知らずと世間から後ろ指をさされるんだから。そういう予防線を張っておいて、人前では、男手ひとつで孫娘を育てたという感動のドラマの主人公に収まっている。……ずるいわよ、パパとママが早く死んだことを利用して」 「利用してだと……おい、なんだ泉美、そのいいぐさは。もう一回いってみろ!」 「何度でも言ってあげるわよ。おじいちゃんは、パパとママが早く死んだことを利用している。最低の人間だわ。心理学者のくせに、私たちの気持ちもわからないで」 「黙れ! くそっ、黙らんか!」  湯沢教授は、顔を真っ赤にしてテーブルを引っくり返した。  それは、かつて妻が彼の元にいたころの癖である。  八つ当たりの対象となっていた妻に逃げられてからは、湯沢は怒りをまともにぶつける相手をもっぱら外に探していた。  だから、家の中でこのように爆発するのは何十年ぶりのことだった。 「出ていけ!」  湯沢は立ち上がって怒鳴った。 「もう夏子だけでなくて、おまえもいなくてよし。この家から出て行け」 「いいわよ。でも、その前にちゃんとお姉ちゃんと私の現実を教えといてあげるわね」 「現実?」 「お姉ちゃんは、先崎さんと峰村さんの二人と関係があったの」 「やめろ……」  湯沢は青ざめながら首を振った。 「そんな話は聞きたくもない」 「ちゃんと聞かなくちゃダメ」  泉美はやめなかった。 「でも、お姉ちゃんが好きだったのは、奥さんがいる先崎さんのほう。だから、そのことでも悩んでいたみたい」  湯沢教授は両足を開いて泉美と睨《にら》み合っていたが、孫娘から次々と叩《たた》きつけられる言葉に、立っているのがやっとという状態だった。 「それから……ついでに言っちゃうけど、私は青年実業家という肩書の大森さんとつきあっているの」 「おまえまでが」  教授は目をむいた。 「そうよ。ただし、これはお姉ちゃんも知っていたことなの」  泉美は平然と答えた。 「大森さんはね、真っ先にお姉ちゃんにふられたのよ。でも、たまには美人よりも性格が明るいだけの子もいいな、なんて贅沢《ぜいたく》なことを言って、代わりに私とつきあうようになったの」 「おまえは、あんなデタラメな男と……」 「たしかに見た目はいいかげんぽいけど、中身はあんがいマジメよ。誠意もあるし、包容力もあるし、それに、おじいちゃんみたいに細かいことを気にしないし」  教授は歯軋《はぎし》りをした。 「なによりも楽観的だからいいわ。いっしょにいると、私まで気分がとっても楽になるから。それにオーナー社長なので、ずいぶんお金も自由になるの。いま、私のために都心の一流ホテルの部屋を借りてくれているのよ。でもね、大森さんも独り暮らしでしょう。だから、ときどきお弁当を作って会社まで届けてあげたりするの。海苔《のり》でハートのマークを切り抜いたりして」 「………」  もはや老教授は言い返す気力もなく、肩で息をついていた。 「ま、そんな具合ですから、ここを追い出されても私は平気だから……おじいちゃんは心配しないでね」  泉美はつとめて明るく言った。  そして、興奮冷めやらぬ教授をあとにリビングルームを出ていきかけ、そこで、ふと思い出したようにふり返った。 「そうだ……この家を出ていく前に、これだけはいっておかなくちゃ。私ね、お姉ちゃんは自殺だと思ってる」  祖父と孫娘の視線がぶつかった。 「それを見つけたおじいちゃんが、殺人に見せかけようと細工をしたんでしょ。だって、自殺だったら立場がなくなるもんね。なんたって、お姉ちゃんの自殺原因は、おじいちゃんの『教育方針』にあるんだから」 [#改ページ]   第四章 二度目の招待状     1  三日後の夕刻、財津警部はフレッドに捜査車両のハンドルを握らせて、中央高速を調布から国立へ向かっていた。  その横を、黒のライダースーツにピンクのヘルメットをつけた烏丸ひろみの四五〇ccバイク、愛車シルバー号がいく。 「絵本みたいにきれいな空ですね」  めずらしくフレッドがロマンチックなことをつぶやいた。  さきほどまで鮮やかなコバルト色に塗られていた大自然のキャンバスが、いつのまにかダークブルーとオレンジ色のツートーンに染め替えられている。  ところどころに刷毛《はけ》ではいたような白い雲が走っていたが、それもあっというまに濃いグレイの陰を強めてきた。  それにつれて、高速道路沿いの街明かりが輝きを増してくる。  ユーミンの『中央フリーウェイ』そのままに、右に競馬場、左にビール工場を見ながら、なかなかに情緒的な黄昏《たそがれ》のドライブである。 「これで仕事じゃなくて、隣に乗っているのが警部じゃなかったらねー」  聞こえよがしにフレッドがつぶやく。 「二人して流星になっちゃうんだけどなあ」  そんなフレッドの独り言が聞こえるはずもないひろみは、先行車がいないのを確かめると、シルバー号のヘッドライトをアップにして警部たちの車を抜き、一気に前へ飛び出した。  しばらくの間、財津たちに向かって赤いテールランプがどんどん小さくなるところを見せていたが、やがてまた減速して、助手席に座る財津の真横に並んだ。  そして、車の中をのぞき込むようにしてVサインを送ってきた。  フルフェイスのヘルメットだから表情は見えないにもかかわらず、愛嬌《あいきよう》をふりまいているという感じが彼女の全身から伝わってくる。 「まったく、警視庁捜査一課の烏丸刑事も、バイクに乗ったらタダのノーテンキなネーちゃんになるんだからな」  ひろみにVサインを返しながら、フレッドがつぶやいた。 「おまけに、髪型をリーゼントにしてからは、なおさらバイク姿が決まってきたからマズイですよね。警部、あれじゃ、そのうちヘンな方向へいっちゃいますよ」 「………」 「それにしてもあいつ、なんで髪型を変えたんだろう。ひろみのやつ、ほんとに恋人でもできちゃったんですかね」 「………」 「あれだけ可愛《かわい》いんだから、いままでカレがいないほうが不思議だったんですよね。ひと昔前のアイドルじゃあるまいし、『バイクが私の恋人よ』なんていう言い分を、バカ正直に信じてたぼくが甘かったんだ」 「………」 「どうしたんですか、ボス」  さっきから黙ったまま、ただひたすらボーッと前を見つめている財津の横顔を、フレッドが不思議そうにふり返った。 「何か考えごとですか」 「青春への嫉妬《しつと》……」  財津はポツンとつぶやいた。 「は?」 「青春への嫉妬——そう言ったんだよ」  警部はハーッと長いため息をもらした。 「なんですか、それは」 「おまえやひろみを見ているとな、うらやましいと、そういうことだ」  財津は、ただでさえいかつい顔に苦悩の色を浮かべていった。 「ぼくらに嫉妬しているんですか」  ハンドルを握ったまま、フレッドは意外そうな声で聞き返した。 「まあな」 「何に対して」 「だから、若さに対してだ。……勘違いするなよ。おまえらの関係に対してではないぞ。そもそも、おれが嫉妬しなければならないような妙な関係がおまえら二人にあるはずもなかろうし、あったら問題だぞ。おい、ないな、絶対に」  財津は怒ったようにたずねた。 「ありませんよ。なに興奮しているんですか、まったく」  フレッドは頭を振った。 「しかしなあ……」  財津は、やや口調を和らげた。 「恋愛ごっこでヤキモチをやいていたころが懐かしいなあ」 「はあ?」 「おれにだって青春時代はあった」 「まあ、そうでしょうね」 「そのころは、こんなに腹も出てなかったし、顔の輪郭もシャープでなかなかにいい男だった」 「よかったですね」  フレッドはいいかげんな相槌《あいづち》を打った。 「したがって、ずいぶん女性に人気もあったのだが、なんせ我々の時代は、女から感情をあらわにすることはハシタナイとされていたものだから、向こうの気持ちに気づかずに、だいぶチャンスを逃したこともあった」 「物は言いようですね」 「こうみえてもO型は内気で恥ずかしがり屋のところがあるから……」  フレッドの言葉が耳を素通りした財津は、回想にふけった顔でつづけた。 「恋愛戦争では、いつもおれは出遅れるんだな。そうして積極的な連中がいい目にあっているのを横目でみながら、毎日やきもちをやいていたもんだ」 「なんだ、それじゃあちっともモテなかったということじゃないですか」 「見方によってはそうなる」  財津は平然と答えた。 「だが、あの青春時代特有の甘ずっぱい思い出というのはいいもんだ。とくに片思いのせつなさというのは、たまらんな」  財津警部は太い眉毛《まゆげ》をハの字にした。 「胸が苦しくなる思いなのだが、そんな自分がいとおしくてたまらず、一種の快感さえ感じてしまう」 「そういうタイプだったんですか、警部は」 「ああ」 「その顔で」 「だから、当時はもう少しマシな顔だったと言っただろう」  財津は不愉快そうに訂正した。 「でも、どうしちゃったんですか。急にメルヘンチックになって」 「夕焼けのせいだ」  財津はまじめな顔で答えた。 「夕焼けを眺めていたら、昔のことが一気によみがえってきた。小さいころ、おつかいに出たはいいが、道に迷ってどうしていいかわからず涙ぐんだとき。学生時代、好きで好きでたまらない女性ができて、この思いをどうやって伝えようかと近くの川の土手に寝転がって考えたとき。それから、いまの女房とはじめてデートをして、ボンネットバスで伊豆《いず》の天城峠《あまぎとうげ》を越えたとき——  いつも空には夕焼けがあった。何年、何十年経っても変わらない美しさを見せてくれるのは、自然だけだ。大切な思い出を大自然の光景にひとつずつ重ねていくのはいいものだぞ、フレッド」 「……そうですね」  いつになくしんみりした顔の財津にとまどいながら、フレッドはブレーキを踏んで左にウインカーを出した。  ちょっと前を行くひろみのシルバー号が、一足先に黄色のウインカーを点滅させたのに気づいたからだ。  国立・府中インターの出口である。 「料金所を過ぎたら、しばらく道幅が広いから、そこで左に寄せて車を止めろ」  ようやく、いつもの職業的な顔に戻って財津がいった。 「湯沢教授の家に着く前に、三人でもう一度おさらいをしておく必要がある」     2  湯沢泉美は大森徹の運転するベンツに乗って、まだ首都高速の新宿あたりを走っているところだった。 「どういうことなんだろうな、その招待状は」  大森は、助手席の泉美が何度も読み返している手紙に目をやった。  速達できのう届いたばかりのものである。 「先日のご無礼をおわびするとともに、ぜひ皆様に大切なお話をいたしたく、ご多忙のおり大変恐縮ではございますが、小平の拙宅《せつたく》にお越しくださいますよう、平にお願い申し上げます——なんて、あの高飛車な教授が書いているかと思うと、くすぐったくなるね。まったくどういう風の吹き回しなんだか」  大森は電動サンルーフをスライドさせてから、シガーライターを押し込んだ。 「ただし、欠席なされました場合は、あなた様にいかなる不利なことが生じても仕方なきものと予《あらかじ》めご了承いただきたく——というところは、相変わらず脅迫めいた強引さがあるけどな。どうかな、孫の君からみて」 「そうね……」  泉美は、祖父が書いた文面にじっと目を落とした。 「おじいちゃんが、警察の人たちまで呼んでいなければいいんだけど」 「警察の人って、青い目の刑事のことかい」  飛び出したシガーライターでタバコに火を点けながら、大森がたずねた。 「そんな人がいるの?」  フレッドと顔を合わせていない泉美は、青い目の刑事、と聞いてずいぶん不思議そうな顔をした。  フレッドは泉美にも連絡を取りたがっていたのだが、祖父のもとを飛び出した彼女の居場所を、教授が教えてくれなかったのである。 「とにかく、警察まで小平の家に呼んでいたとしたら、いよいよおじいちゃんは覚悟を決めたんだと思う」 「覚悟を決めたとは」 「ついに事件の真相を話すつもりになった、ということ」 「ふうん」  煙を吐き出しながら、大森は目を細めた。 「やっぱり泉美は、教授がからんでいると思うのか」 「うん」  泉美は、はっきりと首を縦に振った。そして、震えた。 「おじいちゃんは恐い人よ。あの心理学者が本気を出して怒ったら、私たちなんか、いくらでも罠《わな》にはめられてしまう気がするの……」      *    *    *  先崎陽太郎は自分のアウディを運転して六本木のテレビ局に向かい、そこで星真美子をピックアップした。 「ありがとう、助かるわ。ちょうど車を車検に出したところだったから、タクシーで行くことになるかなと思っていたの」  アウディの助手席に乗り込むなり、真美子は先崎に礼を言った。 『血液型殺人講座』の講演会場などではよそよそしい態度をとっていたが、実際は知らぬ間柄ではない。  さほど仲がいいというわけでもなかったが、湯沢夏子という存在を核にして集まった四人の仲間であることには違いない。 「あの老教授はいったい何を考えているんでしょうかねえ」  二十以上も年下の真美子に対しても、先崎は敬語を崩さなかった。 「どこまで私たちをふり回せば気が済むのかわかりませんが、こちらは仕事もあるからスケジュールのやりくりが大変です。じつはコマーシャル撮影の大きな仕事がきょう入っていたんですが、たまたま先方の都合で三日ほど先送りになったので、どうにか時間はできたんですが」  実際は、カラープリンターの広告写真を白黒で表現するアイデアに急に逃げ腰になった先崎が、とりあえず理屈をつけて、撮影日の延期を図ったのである。 「私のほうは、いきなり届いた招待状のおかげで、仕事を二つもキャンセルしなくちゃならなくなったわ」  トレードマークのつば広帽子をとって後部座席に置くと、真美子はいかにも迷惑そうなため息をついた。 「あの教授はヒマだからいいかもしれないけれど、こっちは分単位で動いているのよ。こんなお遊びはいいかげんにしてほしいわ」 「とはいえ、夏子ちゃんの死にもかかわる問題ですからねえ」  アクセルを踏み込みながら、先崎が言った。 「ハナから招待を無視して、仕事を優先させるわけにもいきません」 「そうなのよね。私だって、このあと別のテレビ局で予定されていた対談の収録を、急病を理由にしてキャンセルしたんだけど、プロデューサーからさんざん皮肉を言われちゃったわよ。もうつぎから仕事がこないかもね」  不服そうに言うと、美貌《びぼう》が自慢の女流エッセイストは、バックミラーを勝手に自分のほうに向けて化粧の具合を確かめた。 「それよりも、大森さんに電話をしてみましたが、彼のところにも招待状が届いたようですね」  先崎は言った。 「峰村さんにはどうなの」 「彼とは連絡がつきませんでした。でも、たぶん同じような手紙がいっているのではないでしょうか」  真美子の動かしたバックミラーを元の位置に戻してから、先崎は答えた。 「そうなってくると、まるでミステリーのラストシーンね」  星真美子は皮肉っぽい笑みを浮かべた。 「ミステリーのラスト、ですか?」 「そうよ。ほら、よくあるじゃない。殺人現場に関係者全員が集められて、そこで犯人が名指しされるという、あれよ」 「まさかね」  先崎は笑った。 「湯沢教授が名探偵を演じるというんですか。冗談じゃありませんねえ。そんなことをされた日には、またあの人特有の独断と偏見大会になってしまう」 「探偵役になるのは、必ずしも湯沢教授であるとはかぎらないわ」 「というと?」  意外そうな顔で、先崎は真美子の横顔を見た。 「ほかに誰が探偵をやるんですか。夏子ちゃんの妹の泉美ちゃんですか」 「ううん」  真美子は真剣な顔になった。 「烏丸ひろみっていう子、知ってるでしょ。風月文化会館の講演会場にもきていた、警視庁捜査一課の女性刑事。……で、けっこう可愛《かわい》い子」 「ああ、いましたね。その子がどうしたんです」 「私のところに、いろいろ話を聞きにきたのよ」  中央高速に連結する首都高速の入口へと、車は向かう。 「それで?」 「あの子ね、まだ若いけどバカにできないわよ。かなり鋭い感覚を持っているから」 「ふうん」 「彼女が探偵役をやったら面白い展開になる可能性があるかもしれないわ」  真美子の推測に、ハンドルを握る先崎はちょっと口をつぐんだ。  が、しばらくしてから笑いを浮かべながら言う。 「しかし、どうなんでしょうか。あなたの予想のように推理小説のエンディングのように事態が展開すれば、それはそれで興味深いところですが、現実はそんな風にはならないような気がしますね」  首都高速入口の料金所を通過。 「どうせ、あの老教授のヒステリーじみた怒りの言葉を聞かされるだけがオチですよ」 「だったら、こんな招待状なんか無視すればいいのに」 「そうは思いました。思いましたけれど……欠席裁判にかけられて、ヘタに不利な立場に追い込まれるのもいやですからね」 「気になったのね。招待状の後半の、ちょっと脅迫じみた部分が」 「ええ、気になりました」  本線に車を合流させながら、先崎はうなずいた。  いつもなら混み合う時間帯だが、意外と車の流れはスムーズである。 「先崎さんて、神経質なところがあるから、ちょっとしたことでも気になるタイプなんでしょ」 「おっしゃるとおりです」  さして気にした様子もなく、日本有数の広告写真家は、美人エッセイストの茶化したような言葉にうなずいた。 「ただ、一種好奇心のようなものが働いて、この招待状に応じたという部分もあるんですよ」 「好奇心って?」 「ほかの三人の様子を、ひさしぶりに見たかったからです。とくに峰村準二さんの様子をね」 「どうして?」 「彼が夏子ちゃんを殺した犯人だと思っているからですよ」  先崎は、妙に表情のない顔で言った。 「峰村さんが? どうして」 「カンですよ」  先崎は、財津警部に向かって言ったのと同じセリフを口にした。  が、そのあとが違っていた。 「……といっても、あてずっぽうのカンではなくて、ピンときた、という表現のほうがよろしいでしょうか」 「どんなことに?」 「彼がAB型だからです」 「え?」 「今回の犯罪は、論理性と人間分析を好むAB型人間の犯罪だと思うのです」  先崎の言い分に、真美子は拍子抜けした顔になった。 「それだけ?」 「ええ」  車線変更のウインカーを出しながら、先崎はうなずいた。 「それだけです」      *    *    *  そのころ——  峰村準二は、すでに湯沢邸の玄関前に立っていた。  院長専用のロールスロイスは、少し離れたところで待たせてある。  テレビでおなじみのタレント精神分析医は、ブラウン管では決して見せたことのない、憮然《ぶぜん》とした表情をしていた。  教授から速達で届けられた招待状は、峰村の目にはほとんど脅迫状同然に映った。  偏執狂的な老心理学者がいったいどんな策略をもって彼を待ち受けているのか、まったく想像がつかなかったが、ひとつだけ確実にわかるのは、湯沢が、峰村を含む四人の人間を社会的に抹殺しようとねらっていることだった。  エッセイストの星真美子だけは、湯沢の攻撃をうまくかわしているような気がした。もともと彼女の仕事環境は、よきにつけあしきにつけ世間の話題になったほうが勝ち、というところがあるから、湯沢教授に殺人者呼ばわりされても、こたえるどころか、むしろそれを仕事のプラスにしていく勢いさえ感じられた。  だが、写真家の先崎や実業家の大森、そして精神科医の峰村は違った。  とくに、人間的な信頼性が切り札となる精神科医・峰村準二にとっては、湯沢夏子を殺した犯人候補のひとりに噂《うわさ》されることは、非常に大きなダメージだった。 (夏子に惚《ほ》れてしまったのが、人生の歯車を狂わせてしまったか)  峰村は考えた。  おとなしく銀座峰村クリニックの院長の座に収まっていれば、何の心配もない毎日が過ごせていたはずだった。  病院経営については、父の時代から引き継いだ優秀なスタッフが万事遺漏なく切り回してくれていた。したがって、二代目の峰村はおっとり構えて、シンボルとしての存在に徹していれば、すべては安泰だったのだ。  その彼に、いらぬ誘惑を教えてくれたのがテレビだった。  昼のワイドショーに設けられた人生相談コーナーで、健康問題についてのアドバイザーとして出演したのが、すべてのきっかけだった。  時間的にいってもほんのわずかの出演だったにもかかわらず、翌日から彼は、ちょっとした有名人になった。テレビというメディアのパワーを、イヤというほど思い知らされる出来事であった。  それだけでなく、局に出入りする俳優、タレント、歌手、文化人など『本物の有名人』を目の当たりにして、その見かけのきらびやかさに、峰村は圧倒された。  はじめのうちは、財布が豊かなのをいいことに、彼らに食事をおごったりゴルフに招いたりするなど、スポンサー気取りをしていたが、そのうち峰村準二の心の中には、自分自身がタレントになってみたいという欲望が沸いてきた。  そして、地位と金と、なによりもテレビ向きの容貌《ようぼう》が幸いして、峰村の望みは驚くほど短期間のうちに、現実のものとしてかなえられることができた。  そうなると、お決まりのように、つぎに欲しくなるのが華麗なる女性関係である。峰村は、妻と離婚をして独身中であるという立場を存分に生かし、あらゆるジャンルの有名女性と親密な交際を深めていくようになった。  そのうち何度かは、写真週刊誌にデートの場面を撮られたこともあった。最初はびっくりしたが、やがてそんな出来事にも動じなくなってしまった。本職のタレント並みに、これも一種の有名税さ、などとうそぶくほど厚かましくなった。  しかし、今回の場合はまったく様相を異にしていた。  講演会場の混乱までは、まだいい。しかし、そのあとがいけなかった。  一人の女性の死がからんでくる事件となると、これまでの単純な女性スキャンダルとはわけが違った。  すでにそれは本業に大きな影響を与えはじめていた。  最高の客筋である政治家たちが、峰村離れをはじめたのである。さらに、長い間つづけてきた人生相談のレギュラーも、今月いっぱいで降板となることを、突然プロデューサーから言い渡されてしまった。すべては『タレント』イメージの問題だ、というのだ。  峰村は、相当な危機感を抱くようになった。  もしも、これから湯沢教授がさらに事態をかきまわし、峰村準二の評判がますます貶《おとし》められるような展開になったらどうするのだ……。  夕焼け空を眺めながら、峰村は大きなため息をつき、そして覚悟を決めてインタホンのボタンを押した。 「誰だね、早すぎるな」  無愛想な湯沢教授の声が返ってきた。     3  見た目はふつうの乗用車である捜査専用車が、中央高速の国立・府中インター出口の少し先の路肩に、パッシングライトを点滅させて停車していた。  そのすぐ前には、四五〇ccのバイクが、やはりパッシングライトをつけ、スタンドを立てて止めてある。  そして、そのシートの上にはピンクのヘルメットがひとつ——  黄昏《たそがれ》時の冷たい空気とともに烏丸ひろみが車に乗り込んでくると、財津警部は、運転席のフレッドと後部座席のひろみの両方を見るような格好に向きを変え、真剣な表情で話をはじめた。 「我々三人だけに招待状が送りつけられたのか、それとも例の四人のところにも同じ文面の手紙が舞い込んでいるのか知らないが、湯沢教授がどんな狙《ねら》いを持って自宅への招待を決めたのか、おおよその見当はつく」  ひろみとフレッドは、黙って財津のつぎの言葉を待った。 「おそらく、教授は自分なりに事件に対する最終結論を出し、それを我々に披露しようとしているのだろう」 「いよいよ、犯人当てクイズの正解発表というわけですか」  フレッドがきいた。 「だろうね。あるいは、教授自身の告白が聞けるのかもしれないが」 「私が犯人です、と?」 「ああ」  財津警部は、ひろみの問いかけに軽くうなずいた。 「湯沢教授が保身のために嘘《うそ》を重ねるのか、それとも真実を発見したのか、あるいは懴悔《ざんげ》の覚悟ができたのか、いずれの場合にせよ、彼は重大発言をするものと思われる」 「だから、これが必要なんですね」  フレッドは、警部の指示で胸ポケットにひそませておいたマイクロ・カセットレコーダーを取り出してみせた。 「そういうことだ。電池は確かめたか」 「もちろん」  フレッドはうなずいて、またそれを元の場所にしまった。 「それでだ、わざわざここで車を止めたのは、湯沢邸を訪れる前に、ぜひおまえら二人の耳に入れておきたいことがあったからだ」 「ずいぶんもったいぶっていますね」  フレッドは笑ったが、財津は笑わなかった。 「三日前、ひろみが峰村にインタビューを試みたとき、あの医者はこう言ったそうだな。最初からすべての可能性をまんべんなくあたるのではなく、まず大胆な決めつけ方をしてから検討にかかれ、と」 「はい」  後部座席でひろみがうなずいた。 「なかなかナマイキなことを言いよるわいと思ったが、しかし、それなりに一理ある考え方なので、ちょっとばかり真似《まね》をしてみたら……」 「そうしたら?」  フレッドとひろみが同時にきいた。 「思わぬ結論が導き出せてしまった」 「警部……もしかして、もう犯人がわかっちゃったんですか」  ひろみが大きな目を丸くした。  フルフェイスのヘルメットをずっとかぶっていたせいか、彼女の頬はピンク色に上気している。 「犯人を断定できたとは言わん。しかし、あの湯沢邸の離れに設けられた研究室の謎《なぞ》が、おぼろげながらわかってきた気がするのだ」 「ずるいなあ、そういう話だったら早くぼくらにも教えてくださいよ」  フレッドは口をとがらせた。 「すまんな」  財津は素直に謝った。 「だが、あまりに突拍子もない結論なんで、自分でもまだ半信半疑の状態なんだ。しかし、考えれば考えるほど、結論はこれしかないという気がしてくる」 「またまた、そうやってエラリー・クイーンみたいにもったいぶる」  フレッドが言うと、ひろみも後ろの座席から身を乗り出し、財津の耳元でささやく。 「ボス、早く早く」 「くすぐったいな、ひろみ」  財津は自分の耳に指を突っ込んだ。 「よし、わかった。では言おう」 「待ってました。『読者への挑戦』の解答編発表!」  フレッドがヒューヒューと口笛を吹き、ひろみがパチパチと拍手をする。 「若いな、おまえら」  財津はちょっと苦笑したが、すぐにまじめな顔に戻った。 「まず、おれは大胆な決めつけ方として、湯沢教授主犯説をとってみた」 「それが結論ですか」  ひろみがきいた。 「そう、いつものおれなら、こんな大胆な決めつけは絶対にやらんが、ともかく峰村流にそう仮定してみた」 「なんか、結論から間違ってそう……」  ひろみはつぶやいたが、財津は首を左右に振る。 「まあ聞け」 「はあい」 「湯沢教授が孫娘を直接殺したのか、人に託して殺させたのか、あるいは自殺した夏子を他殺に見せかけたか、それは後回しだが、とにかくあの研究室を舞台にして起きた湯沢夏子の変死事件には、湯沢教授が主役級の働きをしていた——これがまず大前提だ」 「それはそうかもしれないな」  ハンドルに手を乗せたまま、フレッドがうなずいた。 「最初っから、そんな感じはしているんですよね」 「その場合、おまえらも見たあの奇妙な白い部屋が、教授の計画の中でどのような役割を果たしていたか、そこから検討をはじめていくことにしよう」  財津は話の順序を整理するためにしばし沈黙し、それからふたたび口を開いた。 「はじめ我々は、首吊《くびつ》りの現場に踏み台らしきものが残っていなかった点にこだわっていた。だが、それよりも前に、注目すべきもっと重要な事実があったのだ」 「なんですか」  と、フレッドが聞き役に回る。 「梁《はり》の隙間《すきま》だよ」 「梁の隙間?」 「そうだ、小平署の桑田警部補が、部屋のサイズを計測していたのを覚えているな」 「はい」 「彼はこう言っていた」  財津は手帳に記した数字を読み上げた。 「天井高は二メートル七十センチ。しかし、梁の上部と天井との間にわずかな隙間があるので、それを差し引くと、梁の上部から床までの距離は二メートル六十五センチになる、と」 「そうでしたね」  フレッドもひろみも、その数字はよく覚えていた。 「すなわち、梁の隙間は五センチしかなかった計算になる」 「そこへ、金色の鎖を差し込んで、ぐるっと梁に巻きつけたんですよね」  ひろみが確認を求めた。 「そこだよ、ひろみ。まさにそこが重要なポイントなんだ」  財津は声を強めた。 「いいか、いまから湯沢邸を訪れたら、ぜひこの目で再確認しなければならないが、たった五センチの梁の隙間の存在が、初めてあの部屋を訪れた部外者にわかるだろうか」 「あ、そうか」  運転席のフレッドと後部座席から身を乗り出しているひろみが、思わず同時に同じ言葉を発した。 「天井も床も壁もすべて白く塗られた部屋の中では、妙に距離感がなくなって、立体的な感覚がつかみにくい。しかも天井高は一般規格よりも高い二メートル七十センチだ。そうした条件の中で、梁の上にわずか五センチの隙間があるという事実は、よほど注意深く観察しないとわからないはずなんだな」  財津は言葉を切ってフレッドを見つめた。 「ところが、その梁と湯沢夏子の首とを結んだ金色の鎖は、首吊りを計算に入れた周到な準備があったことを想像させるものだ」 「そうですよねー。鎖の長さもピッタリという感じでしたからね。ただね、警部」  と、フレッドはつけ加えた。 「ぼくはあの鎖が金色だった点に、ちょっと引っ掛かりを覚えるんです」 「ほう、どうしてだ」 「実業家の大森徹をインタビューしたときなんですが、彼は指にやたらとデカい指輪をいくつもはめていて、金色のブレスレットを手首にはめていました。そういう光りモノというか、ハデなものが好きな人間が選びそうだと思いません? 湯沢夏子の首に巻きついていた金色の鎖というのは」 「そういえば……」  こんどはひろみが口を開いた。 「いくら女の子でも、人の体重を支えるわけだから、計画犯罪だったら、ふつうはもっと見た目に頑丈そうな鎖を選ぶかもしれないな。少なくとも、色は黒とか銀色で、金色は選ばない気がする」 「なるほどね」  財津はうなずいた。 「ですから、ひょっとしたら金色の鎖という小道具の選択は、大森の趣味に基づいたものではないかと……」 「それはそれとして、先に話を進めよう」 「あらま。ずいぶんあっさり」  フレッドが不満そうに言った。 「そう、脇道《わきみち》にそれた検討はあっさりでいいんだ。最初から結論を決めてかかっている場合はな」  財津の言葉に、フレッドはひろみと顔を見合わせた。 「で、つづきだ」  警部がまた話の主役になった。 「で、湯沢夏子の変死が他殺だとしたら、犯人はあらかじめ梁《はり》の隙間《すきま》の存在を知っていたと想定される。しかし、犯人が外部の人間ならば、たとえ事前に研究室を下見するチャンスを得たとしても、あの梁の隙間には気づきにくいと思う。となると、首吊《くびつ》りで殺すという発想が湧《わ》くとは思えない」 「たしかにそう考えていくと、研究室を作った教授が怪しそうですよねー」 「だろ?」  警部は、満足そうにひろみに目を向けた。 「どうだね、とりあえずここまでは、大前提とした仮説——湯沢教授主犯説——が肯定的に裏づけられていくだろう」  車の脇をバリバリと音を立てて暴走族風のグループが通りかかった。  財津はその騒音に顔をしかめたが、黙って彼らが行き過ぎるのを待つと、話を先に進めた。 「さて、相手が日本でも有数のキャリアを誇る心理学者だから、対抗するおれも同じ心理学者になったつもりで、さらにあの研究室が我々に与える心理的効果についても検討を加えてみた」 「心理的な効果って?」  ひろみが首を傾けながらたずねた。 「一号室と二号室——つまり、白い部屋と赤い部屋が並んで作られていた、ほんとうの目的だよ」  警部は答えた。     4 「湯沢夏子が天井からぶら下がっていた、あの白い部屋に入ったとき、おれたちはどんな疑問を抱いたか思い出してほしい」  財津警部は、信頼する若い二人の部下に意見を求めた。 「まずは、首吊《くびつ》りなのになぜ踏み台が残されていないのか、という疑問ですね」  フレッドがそう答えると、つづいてひろみが口を開いた。 「私は、なぜ部屋の中に時計と風景画だけしか飾られていないのか、それがとても気になったの。そして、そのたった二つのインテリアの役割はなんだろうって」 「もっと単純に、どうしてこの部屋は真っ白に塗られているんだろう、という不思議さも感じましたよね」  と、フレッドがつけ加えた。 「そのとおり。その時点では、そうした白い部屋に関するさまざまな疑問が集中して出てきた。ところがだ」  財津警部は太い指を組み合わせて、それをバキバキと鳴らした。 「あのコンクリートの建物の中には、まったく同じ間取りの部屋が二つ並んで作られていた。その片方で人が死ねば、当然、もう一方の部屋も捜査陣は覗《のぞ》くだろう。湯沢教授としては、それは計算済みの展開だったに違いない」 「警部が、もうひとつの部屋を見せてくれと頼んだときには、なんだか気乗りしない顔さえしていましたよね」 「フレッド、それはおそらく教授の演技だった、とおれは断定する。計算どおり、捜査陣がもう一つの部屋に興味を示したことで、シメタと思った。だが、それを表情に出すわけにはいかないから、あえて困惑の表情すら装った」 「峰村流に、何でも迷わず決めつけていくことにしちゃったんですね」 「そういうこと」  財津大三郎は、ひろみをふり返ってニヤッと笑った。 「さて、それで赤い部屋のほうだ」  警部は助手席のシートの上で、もぞもぞと座り直した。 「内装はすべて赤、照明も赤、ごていねいに水槽の中で泳いでいる熱帯魚も赤。このすべてが赤づくしの異常空間は、本当に教授がいうように、心理テストに用いるために作られたのだろうか」 「………」  フレッドとひろみは黙っている。 「どんな実験をするつもりだったのか、もっともらしい説明は、後からいくらでもデッチ上げられるだろうが、おれは赤い部屋の目的は別にあったような気がする」 「別の目的って?」  ひろみがきいた。 「白い部屋の真相から、警察の目をそらせるためだよ」  低い声で財津が答えた。 「いいか、白と赤の鮮やかな対照を見せられたら、誰だって、関心は部屋の色に集中してしまうのは当然だ。なぜA号室は白い部屋で、B号室は赤づくしなのか、とね」  話しながら、財津警部は対向車のヘッドライトのまぶしさに目を細めた。  いつのまにか空はすっかり濃紺一色になっていた。  財津は腕時計で時間を確かめたが、湯沢教授の指定した時刻には間があったので、そのまま話をつづけた。 「しかし、赤い部屋の存在理由が、他に何か考えられないだろうか。いろいろとおれは検討してみたが、最終的に思い当たったのが、サブリミナル・パーセプションだ」 「サブリミ……?」  ひろみは口の中で途中までつぶやいたが、すかさずフレッドが、 「subliminal perception」  と、流暢《りゆうちよう》な発音でフォローした。 「さすが『バイリン』」  ひろみが、日米バイリンガルのフレッドをほめた。 「で、なんなの、それ」 「日本語でいうと、『潜在意識下の認識』。そんな感じでいいんですよね、警部」 「そうだ」  財津はうなずいた。 「たとえばサブリミナル・パーセプションの有名な例として、こんなものがある。ある映画で実験的に、本筋とは無関係にほんの何コマだけ、つまりふつうに映画を見ているぶんには肉眼でとうてい認識できないくらい一瞬の間だけ、コーラの映像を挿入したことがあった。そうすると、観客の目は実際にはコーラの映像を捉えられないにもかかわらず、知らず知らずのうちに喉《のど》が渇いて、映画館の売店での飲み物の売上げが増えたという報告がある」 「ほんとー?」 「ほんとかウソかは知らん」  財津は、ひろみに言った。 「まあ、そんなのは極端な例だろうが、『ぼんやりと見ていた』光景が、自分でも意識しないうちに脳のどこかにストックされて、のちのちまで心理に無意識的な影響を与える場合がある。……それが、今回の現場でいえば、あの赤い部屋の床一面に敷かれていた砂と、何十匹もの熱帯魚が泳いでいた大きな水槽なんだ」  警部がそう言っても、フレッドとひろみはまるで理解できないという顔をしていた。 「砂と水——いいか、赤い部屋の床を覆いつくしていた砂と、大型水槽いっぱいの水が、無意識のうちにおれたちにある先入観念を植えつけていた。いや、事件の真相に近づくための推理の飛躍を無意識下で妨げていたといってもいい」 「もう少し詳しく説明してもらえませんか」  フレッドが頼んだ。 「いいだろう。おれが大胆きわまりない着想に思い至ったのは、まさに赤い部屋で潜在意識下に植え付けられた先入観念を取り払ったときだった。そして、そのきっかけを与えてくれたのは、ひろみ、おまえだった」 「私が?」  ひろみは、目を丸くして自分の胸に手を当てた。 「おまえは白い部屋で、偶然、額縁に腕をぶつけた。そして、その出来事によって、額縁がふつうの吊《つ》り下げ方でなく、しっかりと壁に固定されているのがわかった」 「時計もそうでしたよね」 「ああ」  財津はうなずいた。 「それに関して、湯沢教授の説明はこうだった。あれは地震対策です、とな」 「前に地震があったとき、母屋に掛けてあった高価な額縁が落ちて壊れたからだ、と言っていましたね。それで、研究室だけでなく、母屋にある主なものは地震がきても大丈夫なように固定してあると」 「そして、実際にそうした補強がなされていることは、我々三人の目でも確かめた」 「はい」 「だがな、よくよく考えると、だ、あの研究室はいろいろな実験を行なうたびに模様替えをするわけだろう」 「ええ」 「そういう部屋に持ち込む装飾品を、あそこまでしっかり固定するものだろうか。いつくるかしれない大地震のために」 「それに、外すときにたいへんですよね」  ひろみも言った。 「壁にいくつも穴があいちゃいますし」 「そのくせ、赤い部屋に置かれた熱帯魚の水槽に関しては、なんの固定措置も行なわれていなかった」 「教授は、水そのものが重しとなって安定感があるからいいのだ、と説明していましたけれど」 「とんでもない」  財津は首を左右に振った。 「あの水槽は、なにか機械的な振動を与えればすぐに倒れるという状況にあってこそ、サブリミナル・パーセプション効果を発揮するんだ」 「………?」  首をひねってから、ひろみはフレッドに向き直った。 「ボスの言ってること、わかる?」 「さっぱり」  フレッドは両手を広げた。 「いいかね、おまえら」  財津は、ここからが重要なのだと言いたげに、拳《こぶし》を握りしめた。 「あのとき、湯沢教授は我々の目の前で、水槽に手を突っ込み、熱帯魚をすくいあげた。そして、赤い色の部屋にいる赤い熱帯魚は自分の肌の色を忘れるとかなんとか、ワケのわからんことを言いおった。だが、そんなのはめくらましで、我々の無意識下の領域に、あることを働きかけたかったんだ」 「あることって?」 「この水槽の中には水が入っており、こうやって熱帯魚も泳いでいるんですよ、とな」 「そんなのは見ればわかるじゃないですかー」  ひろみは口をとがらせた。 「見ればわかることを、もっと強調しておきたかったんだよ。それから、床いちめんに敷いてあった赤く着色された砂も、同じ役割を果たしていた」 「………」 「まだわからんか」 「わかんない。……フレッドは?」 「右に同じ」 「しょうがないやつらだ。問題は、水と砂の存在だよ」  握りしめた拳を振りながら、財津は言った。 「それから教授が、白い部屋の額縁が固定されてあった言い訳に述べた地震対策——水と砂と地震、この三つの要素が、湯沢夏子の死の謎《なぞ》を解き明かしてくれるんだ」 「水と、砂と、地震?」  ひろみは、ますますわからないといった顔になった。 「もしも大きな地震がきたら、あの赤い部屋はどうなると思う」 「そうですね……水槽が倒れないにしても、水は床にこぼれるし、砂はあちこちに移動して……」 「そんな甘いもんじゃなくて、家がひっくり返るような地震がきたら?」 「そうしたら、床はびちょびちょ、魚は飛び出して死ぬ、砂は水を吸い込んでぐちょぐちょ……とにかく大混乱」 「そうなるわな。だけど、おれたちが見たときには、赤い部屋の中はきわめて整然としていた」 「あたりまえじゃないですか。そんな大地震なんて、きてないんですから」 「いいや」  財津はゆっくりと首を振った。 「大地震はきたんだよ。それも特大級のがね」 「ええっ?」  あまりに財津が不可解なことを言うので、ひろみとフレッドが、また声をそろえて叫んだ。 「だいじょうぶ、ボス? 頭のほう」 「やれやれ」  財津は吐息を洩《も》らした。 「ひろみにおつむのほうまで心配されたんでは、もったいぶるのもここまでにしないといかんな」  財津はパンと手を叩いた。 「いいか、二人とも。これから、おれが最終結論として導き出した湯沢夏子首吊りの真相を話すから、しっかりと聞いていろよ……」     5  およそ十五分かけて財津がすべてを話し終わったあとも、フレッドとひろみはボーッとなって言葉もなかった。  外は完全に夜。  ルームライトを点《つ》けていないから、ほとんどおたがいの顔はモノクロームの写真のようになっていた。  そして、ときおりそばを行き交う車のヘッドライトが、三人の顔を一瞬の間だけカラーに戻していく。 「どうかね」  財津警部は感想を求めた。 「どうかねと言われても……なあ、ひろみ」 「うん……コロンブスの卵っていうか、まいっちゃった」  二人の刑事は同時にため息をついた。 「でも、言われてみると、それしか真相はないような気がするし、それですべての説明がついちゃうのよね。たとえば、梁《はり》の隙間《すきま》のことも、それから、部屋の中にほとんど家具や装飾品がなかったことも」 「ああ……おかげで、白い部屋のほうには照明や電気の設備が一切なかった理由も、これでやっとわかったよ」  そう言うと、フレッドは運転席のヘッドレストに頭をもたせかけて、もう一度長い吐息をもらした。 「たしかに警部の指摘どおり、赤い部屋の床に敷かれていた砂と、熱帯魚の水槽が、ぼくらの頭の中に微妙な影響を与えていた。あの砂と水とが、白い部屋に対する柔軟な発想を妨げる働きがあったんだ」 「ついでに言うと、桑田警部補が測ってくれた部屋のサイズをよく検討してみれば、おれの推論を数字の面からも裏づけてくれることになると思う」  三人が乗った車の天井を指さしながら、財津が言った。 「天井高が通常の規格より三十センチ高い二メートル七十で、間口もそれと同じ二メートル七十。もう、この意味が二人にはわかるな」 「わかります」  フレッドとひろみは、いっしょにうなずいた。 「こうなると、防音壁の説明も怪しいもんですね。だいたい、防音性を高めるつもりならば、丸窓のある側の壁も厚くなければいけないのに……」  フレッドは、資料として作成した研究室の簡易見取り図を取り出しながら、感想を洩《も》らした。 「どっちにしても、警部の着想が正しいことを証明するには、もういちどあの白い部屋に入ってみる必要があります」 「そういう意味ではな、フレッド、今回の湯沢教授のご招待は願ったり叶《かな》ったりというわけだ」 「でも、警部……」  ひろみがつぶやいた。 「もしも警部の推理が正しかったら、湯沢教授だけでなく、先崎、星、大森、峰村の四人だって、じゅうぶん夏子さんを殺した犯人になりえますよね」 「可能性としてはあっても、現実的ではない」 「というと?」 「いま、おれが話した方法を用いれば、赤坂の講演会場にいながらにして、小平の研究室で湯沢夏子に対して首吊《くびつ》り処刑を行なうことが可能だ。だから、死亡推定時刻におけるアリバイを云々《うんぬん》する意味がなくなり、湯沢教授のみならず、ほかの四人もじゅうぶんに犯人になりうる。しかしな」  財津は言葉を強めた。 「あの研究室に壮大なるトリックを仕掛けることが可能だったのは、湯沢康弘教授をおいてほかに誰がいるかね」  その言葉に、ひろみは黙りこくった。 「さてと、そろそろ時間だな」  財津警部は時計を見て言った。 「パーティへの招待には、あまり早く行きすぎても失礼というが、もうそろそろ行ってもいいだろう」 「パーティと呼べるような代物ならいいんですけどね」  フレッドはシートベルトをはめて、出発の態勢になった。 「じゃ、ひろみ。向こうでな」 「はい」  警部の声にうなずくと、ひろみは車のドアを開けて外に出た。  そして、ピンクのフルフェイス・ヘルメットをかぶると、愛車シルバー号にまたがる。スロットルを吹かす。  ヘッドライトを点灯する。  ビッとフレッドが軽くクラクションを鳴らして、ひろみに先に行けと合図した。  右にウインカーを出したひろみが先導する形で、警視庁捜査一課の三人は湯沢邸へ向けてスタートした。     6 「ひとりの欠席者もないとはありがたい」  湯沢康弘は集まった面々を眺め渡して、満足げにつぶやいた。  先崎陽太郎。  星真美子。  大森徹。  峰村準二。  湯沢泉美。  財津大三郎。  フレデリック・ニューマン。  そして、烏丸ひろみ。  湯沢教授からの二度目の招待状を受け取った八人は、湯沢邸一階のリビングルームに集まっていた。  U字型に配置された革張りのソファの思い思いの場所に座り、一同は湯沢教授の言葉をじっと待っていた。  教授がみんなを集めた目的は何なのか。  これから何がはじまるのか。  正確にそれを知るものは、招待主である教授以外にはいない。 「私は、きのうの朝から一睡もしていないのだ。そう……まる一日と半分、寝ていない計算になるだろうか」  充血した目をしばたたきながら、白髪の老教授はそう切り出した。  彼の服装は、『血液型殺人講座』の講演会を行なったときと同じ純白のスーツ姿であり、その胸には、やはりあのときと同じように、真っ赤なバラが差してあった。  それがひろみたち三人の捜査官に、不吉な予感を抱かせた。 「じつは、どうしてもこの時間までに仕上げておきたい原稿があったので、寝る間を惜しんで執筆をつづけ、さきほどようやく完成にこぎつけたのだ。それで、一人で赤ワインで乾杯をしていたのだがね」  教授はそばのテーブルに目をやった。  そこには、栓を開けた赤ワインのボトルとワイングラスが置いてあり、ボトルの中身はまだ三分の二以上残っていた。  その脇《わき》には、四百字詰めの原稿用紙が、かなりの厚さに積み重ねられてあった。 「この原稿には、『ABOの悲劇』という題名をつけた」  教授は原稿用紙の山にそっと手を置き、いとおしさをこめて、それを見つめた。  顔をうつむけた拍子に、肩まで垂らした見事な白髪がハラハラと頬《ほお》にかかり、その表情の半分が見えなくなった。 「ただし、これは小説ではない」  教授はふたたび顔をあげてつづけた。 「ABOという言葉から推察できるように、この作品は、長年私が研究をつづけてきた血液型性格分析の本なのだ。いずれまとめて上梓《じようし》するつもりだったが、先を急がねばならぬ事情もできたために、予定を大幅に繰り上げて、さきほど脱稿にこぎつけた」  またしても、ひろみたちは不吉な予兆を感じとった。そして、老心理学者の様子を注意深く見守る。 「この作品には、もともと『新説・血液型性格分析』という堅い題名を予定していた。しかし、書き進めていくうちに、私の視点がやや変わってきた。つまり、たんなる血液型別の性格分析ではなく、人間関係における血液型の影響力を、もっと重視した内容に変更したのだ。  すなわち、人と人とのつきあいにおいて血液型の相性を無視すると、いかなる悲劇が起きるか。裏を返せば、たがいの血液型を知っておけば、どれほど人間関係のトラブルを未然に防ぐことができるか——こうした点に重きを置いて内容に朱筆を入れたため、最終的に本の題名を『ABOの悲劇』とすることに決めたのだ。私が言いたい内容は、だいたいわかってもらえるだろうな」  教授はほかの八人を見回したが、とりたてて反応が返ってこないので、そのままつづけた。 「人間の行動様式は、血液型によって決まる。したがって、血液型さえわかっていれば、相手がこれからとろうとする行動が予知できるのだ。その見事さにおいて、これは心理学というよりも超能力と呼んだほうがよいのかもしれない」  その話を聞きながら、ひろみは思った。 (教授はA型。それも純A型といえるAAのタイプ。それを動かすものは責任感。どんな種類の責任感が、どんなふうに教授を動かすのだろう……)  湯沢教授は、そこで原稿用紙の山から、一番上の一枚を取り上げた。 「ちなみに、最初のページに記す献辞はこういうものだ。『最愛の家族である夏子と泉美へ——』」  大森の隣に座っていた泉美が、びっくりした顔で祖父を見つめた。 「この原稿は明日、出版社の人間が取りにくることになっている」  教授はテーブルから離れながら言った。 「おそらく、世に出るのは二カ月ほどあとになるだろうが、その節はぜひみなさんもお読みいただきたい」 「すると、これはあれですか。内輪の出版パーティというわけ?」  青年実業家の大森徹がたずねた。 「いや、違う」  教授は首を左右に振った。 「多忙なみなさんを、そのような私的な理由で、わざわざこの小平までお呼びたてしたのではない」 「じゃあ、何のためですか」 「その前に……」  教授はいったん皆に背を向けると、リビングの端のほうに行き、その壁際に立て掛けてあった長方形のかなり大きな包みを抱えて戻ってきた。  そしてそれを持ったまま、峰村準二の前に立った。  精神科医は、けげんそうな顔で教授を見上げた。 「これはあなたにお返しする」  そう言われて、峰村はソファから立ち上がり、教授から大きな包みを受け取った。 「いったい、この中身は」 「知りたければ、いまこの場で包みを開けてみればよい」  その言葉にしたがって、峰村はハトロン紙の包装をほどいた。  中を見たとたん、彼の顔色が変わった。  晩秋の凱旋門《がいせんもん》を描いた水彩画が出てきたのである。  横から見ていた財津とフレッドとひろみが、たがいに目配せをし、そしてすばやく額縁の裏側に目をやった。  前に湯沢が説明したとおり、そこには通常の額縁のように紐《ひも》をぶらさげるフックが一カ所だけにねじ込まれているのではなく、上と下のそれぞれ二カ所に、壁に固定するための金具が取り付けられてあった。 「私はうかつにも、それがきみから夏子へ贈られたものとは知らず、あの研究室の壁に飾っておいたのだ」  湯沢教授は渋面を作って言った。 「思い返すだに不愉快だから、どうかその絵は持ち帰ってくれたまえ」  峰村は顔を赤らめて教授を睨《にら》んでいたが、歯をくいしばったまま、黙ってその絵を包み直しはじめた。  その作業が終わるのを見届けてから、湯沢教授はおもむろに口を開いた。 「では、これからみなさんを研究室のほうへご案内する。可愛《かわい》い孫の夏子が死んだ、あの白い部屋へ」  ひろみの身体が緊張した。     7  外には紺色の夜空が広がっていた。  庭先に出たそれぞれの吐く息が白かった。  空を見上げると、銀色に光る満月がぽっかりと浮かんでいる。 「いやな月」  エッセイストの星真美子がつぶやいた。 「ウサギさんがお餅《もち》をついているんじゃなくて、なんだか悪魔が笑っているみたい」 「たしかにそうです。私にもそう見えます」  写真家の先崎陽太郎がつぶやいた。 「月の光は、じつに怖いものがありますね」  庭全体が、月光と水銀等の明かりで銀色に染まっていた。  そして、教授と八人の招待客の顔色も光のかげんで、みな一様に蒼《あお》ざめてみえる。  湯沢教授を先頭にして、一同はろくに言葉も交わさず庭を横切り、敷地のはずれに建てられた殺風景な造りの研究室の前へやってきた。  中はまだ真っ暗なため、二カ所に設けられた丸窓が、コンクリートの壁に空洞のような黒い円を作っていた。その黒い鏡の中に、不安そうな表情を浮かべた招待客たちの姿が映っている。  教授は、その反対側にある玄関へ八人を案内し、研究室の中に入った。  建物の中も、外とたいして変わらないくらいに冷えきっていた。暗闇《くらやみ》で、手をこすり合わせたり足踏みする音がしきりにする。  教授が電気のスイッチを入れたので、廊下に螢光灯の明かりが点《つ》いた。しばらくの間、みなまぶしさのせいで、しきりに目をしばたたかせていたが、明るさに慣れると、それぞれが自分の周囲をぐるりと見回した。  捜査一課の三人にとっては、すでに現場検証のために何度か訪れた場所だったが、それでもただちに周囲の観察をはじめた。  財津警部の大胆な推測が、はたして正しいのか否か、それを真っ先に確かめていかねばならないからだ。  手前にある赤い部屋の二号室も、問題の白い部屋の一号室も、ドアが閉まっていた。  そのドアとドアの間を結ぶようにして、廊下側に沿って書棚が配置されている。 (図省略)  財津警部は、廊下側からみた二つの部屋の間口の合計が、実際に中に入ってみたときよりもだいぶ広いことを改めて確認した。  それぞれの部屋の内のりは、間口二・七メートル。したがって、二つ合わせても五・四メートルにしかならないのに、建物の外壁で測ると間口は八メートル近くになる。  この差は室内の防音効果を高めるために、壁の厚みをかなりとっているからなのだ、という教授の説明だったのだが—— 「じつは……」  廊下の真ん中あたりに立った湯沢教授が、入口の周辺にたたずんでいる八人をふり返った。 「きょう、この研究室に招いた人間が、あと二人いるのだ」 「それは誰なの」  たずねたのは、孫娘の泉美だった。  さすがに彼女は、いままでとは違って、祖父に対するしゃべり方もだいぶ改まったものになっていた。 「群馬のほうに住んでいる『丸健組』の、鈴木健太郎と健作の親子だ——といっても、彼らがどんな人物であるかは、おまえも知るまい」  泉美は、まったくの初耳であるという顔をしていた。 「それ、ヤクザの人?」 「いや」  孫娘の質問に対し、湯沢は首を左右に振った。 「彼らには、きみらより遅れてここへ到着するよう、少し時間をずらせて教えてある。たぶん、あと一時間くらいで着くはずだ。彼らがどういう人物かは、実際に会ってから、おまえが直接聞いてみればよいだろう」  意味ありげな言い方をすると、教授は踵《きびす》を返して一号室のドアの前まで、ゆっくりと歩いていった。  そして、ふたたび一同をふり返った。 「いまから非常に面白いものを、みなさんにお見せしたいと思う」  そういって、教授は一号室のドアのノブに手をかけた。 「まさか……夏子さんの霊を呼び出すなんていうんじゃないでしょうね」  大森が不用意なことを口走り、そばの泉美に咎《とが》められた。  しかし、教授からは意外な返事が戻ってきた。 「当たらずとも遠からず、かもしれんな」 「なんだって」  峰村が声をあげ、先崎が不安に顔を曇らせた。  コートの裾《すそ》からのぞいている星真美子の脚も、寒さのせいではなく小刻みに震え出していた。  ひろみ、フレッド、財津の捜査陣は、そうした各人の反応を見逃してはいなかった。 「まあ、詳しくは見てのお楽しみだ。ただし、申し訳ないが、みなさんはこの廊下のところできっかり一分間待ってくれたまえ。それだけの時間をもらえれば、ショータイムの準備は完全にできると思う」  老教授は純白のスーツの胸にさした真っ赤なバラを指で抜き取り、それをポトリと廊下の床に落とした。 「それでは……」  最後に泉美のほうをチラッと見てから、教授は一号室のドアを開け、素早い身のこなしで中に入ると、すぐにまた中からドアを閉めた。  玄関ホールで待たされる形となった八人は、重苦しい雰囲気に包まれて黙りこくっていた。  フーッと長いため息をついた人物がいる。  星真美子だった。 「教授って、A型でしょ」  脚の震えを隠すために、足踏みのような動作を繰り返しながら、真美子は言った。 「なんかA型人間のやることって、回りくどくってイヤね。私たちに言いたいことがあるなら、パーッと言っちゃえばいいのに」  だが、その発言に相槌《あいづち》を打つ者は誰もいなかった。 「三十秒経った」  峰村が自分の腕時計を見て、渋い低音でつぶやいた。 「あの教授のことだから、きっかり一分後にノックをしないと、また機嫌が悪くなるのかもしれない」  そのとき、一号室のドア越しに、チャラ、という軽い金属音が聞こえた。  財津警部が、その音にビクンと反応した。  ひろみと警部の目が合った。 「いかん!」  財津は大声をあげた。 「フレッド、ひろみ、来い!」  その言葉が飛ぶ前に、部下の二人も行動を起こした。  捜査一課の三人は、一号室のドアめがけて駆け寄った。  が、彼らがドアのノブに手をかけるよりも一瞬早く、ドーンという地響きのような音が起き、その振動で廊下の天井から埃《ほこり》が舞い落ちた。  ホールのほうで、男の叫び声があがった。 「湯沢さん!」  怒鳴りながら、財津は外開きのドアを開け、部屋の中に飛び込んだ。 「ああああ」  廊下から漏れてくる薄明かりに浮かび上がった光景を見て、財津警部はなんともいえぬ声を発した。  フレッドとひろみも、声もなくその場に立ち尽くした。  真っ白なスーツを着た湯沢教授の身体が、部屋のど真ん中で、振り子のように天井からぶら下がって揺れていた。  首に巻きつけられた金色の鎖は、天井の梁《はり》と結びつけられている。 「く、首吊《くびつ》り……」  フレッドがうめいた。 「ボヤッとするな!」  財津がフレッドの尻《しり》をたたいた。 「すぐに引き下ろすんだ。まだ間に合うかもしれない」  三人は、宙にぶら下がった教授の身体の下に駆け寄った。 「また踏み台になるものがない」  フレッドが叫んだ。  財津が部屋の中を見回した。  ひろみも、部屋の隅から隅までくまなく目を走らせた。  廊下の明かりを頼りにして観察するかぎりでは、白い部屋の中には、椅子《いす》はおろか針一本落ちていない。 「よし、おれを肩車しろ」  財津がフレッドに命令した。  すかさずフレッドがかがんで、大柄な警部の身体を両肩に乗せ、また立ち上がった。  ひろみは、ぶら下がっている教授の両足を抱えて、少しでも首にかかる荷重を減らすように持ち上げた。 「くそっ、前のときと同じ金色の鎖だ」  天井の梁にしがみついた財津が、くやしそうな声をあげた。 「これじゃあ金属カッターがないと切り離せないぞ」 「切らずにほどけませんか」  フレッドが聞き返す。 「いま、それをやっているんだが……」  財津警部は顔を真っ赤にして、結び目と格闘した。だが、ひろみが支えているだけでは梁にかかっている教授の体重を完全に減らすわけにもいかず、固い結び目を解くことができない。 「こうなったら、彼らにも手伝わせるしかない。フレッド、いったんおれを降ろせ。そしておまえは、ひろみを手伝え」  フレッドの肩車から降りると、財津は外にいる男たちを大声で呼び寄せた。 「おーい、みんな早くきてくれ」  そのとき、教授の足を持ち上げていたひろみが、短い悲鳴をあげた。 「どうした」  戸口のところへ行っていた財津警部が、驚いてふり返った。 「暗かったから気づかなかったけれど、あれを……」  両手のふさがっているひろみが、アゴで二号室寄りの壁を指さした。  ローマ数字の文字盤をあしらった八角形の時計があるところは以前と同じだったが、凱旋門の風景画が取り外された代わりに、それがあった場所に、黒枠の額縁が掛けられていた。  その中に収められているのは、葬儀に使われた湯沢夏子の笑顔の写真だった。 「おお……」  財津の口から、驚愕《きようがく》のうめき声が洩れた。 「なんてことだ」 「ボス、それからあっちを」  ひろみといっしょに湯沢教授の下半身を持ち上げているフレッドが、反対側の壁に顔を向けた。 「なんだ、何があるんだ」 「あれですよ、ほら」  薄明かりではよく見えないが、フレッドが顔の向きで示した先の白い壁には、びっしりと文字が並んでいた。  それは黒いサインペンでしたためられた、かなり達筆な文章であった。それが数十行にわたって縦書きに書き連ねてあるのだ。  ただし——  |まるで逆立ちして書いたように《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|その文章は上下が逆向きになっていた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。 「どうしたんです、いったい」  財津に呼ばれたので、大森を筆頭にして、廊下に控えていた面々が部屋の様子を見に戸口のところまでやってきた。 「あ」  先頭にいた大森徹が絶句した。  その後ろからやってきた峰村準二が真っ青になった。  星真美子は悲鳴をあげた。  先崎陽太郎は、ぶるぶると震え出した。  そして、湯沢泉美はその場に卒倒した。 「どうやって……」  震えながら真美子はつぶやいた。 「どうやって、一分もしないうちに、こんなことになってしまうの」  が、彼女は失神して倒れ込んだ教授の孫娘に気づき、急いで泉美を抱えあげると、なかば引きずるようにして玄関のほうへ連れていった。  大森と先崎は、戸口から数歩部屋の中に足を踏み入れ、左側の壁に張りつくようにして、湯沢教授の首吊り死体を見上げている。  峰村は、おそるおそるといった足取りで、戸口から部屋の左右中央のライン上に沿って歩きつつ、宙吊りになった教授の身体の真下に近づいた。  ぶらさがっている教授の周りに六人もの人間が集まると、間口二・七メートル×奥行五・四メートルのウナギの寝床のような白い部屋は、急に狭く感じられた。大森や先崎のごとく、首を吊った教授からできるかぎり離れていようと壁際にへばりついたところで、さほど距離感は保てない。 「峰村さん」  ひろみに声をかけられ、精神科医はビクンとなった。 「なんです」  トレードマークの低音もかすれがちである。 「私たちを手伝ってください。この教授の身体を持ち上げるようにしてほしいんです。結び目にかかっている荷重を減らすために。……あ、大森さんも先崎さんも」  ひろみは、壁際にへばりついている青年実業家と写真家にも声をかけた。 「怖がっている場合ではありません。湯沢教授の命が助かるかどうかの瀬戸際なんです。みんなで教授の身体を持ち上げて……。そうしたら、財津警部がフレッドの肩車に乗って、もういちど結び目をほどきにかかりますから」  湯沢教授の身体は、断末魔の痙攣《けいれん》がつづいている。  真っ先に真下まできた峰村も、ほかの二人の男も、怖がって教授の身体にさわれない。 「早くするんだ! 手伝え!」  いったん教授の下半身を支える側に回った財津警部が怒鳴った。 「あんたらはみんな男なんだろう。女性の烏丸刑事がこうやって頑張っているのに、男が指をくわえて見てていいのか!」  財津の叱声《しつせい》を受けて、ようやく大森と先崎が壁際から部屋を横切ってやってきた。そして、峰村も加わって老心理学者の下半身を持ち上げる。  それで、いままでピンと張っていた金色の鎖にたわみができた。 「よし、いまだ。フレッド、おれをもういちど肩車しろ」  教授の身体の支え役を峰村、大森、先崎とひろみの四人にまかせ、財津は長身のフレッドの肩にまたがった。     8  一時間後——  急報を受け、事件|勃発《ぼつぱつ》から二十分後に湯沢邸へ駆けつけた小平署の捜査陣は、すでに初動捜査をかなりのところまで進行させていた。  夏子のときと同じように捜査用の照明が運び込まれ、煌々《こうこう》とした明かりに照らし出された白い部屋は、目がくらみそうに眩《まぶ》しかった。  結び目と格闘すること十数分、小平署員の到着直前に財津が鎖をほどくことに成功し、湯沢教授の身体は床に下ろされた。が、すでに痙攣《けいれん》すら止んでおり、一縷《いちる》の望みを託して救急車で病院へ運ばれたものの、ほどなく死亡の知らせが無線で入ってきた。  ショックで呆然《ぼうぜん》自失の泉美と他の四人は、いったん母屋のほうに移され、その間に捜査陣だけで研究室の徹底検証が行なわれた。  小平署の桑田警部補は、最初に財津警部の大胆な仮説を耳にしたときは、なかなかそれを信じようとはしなかった。  が、現場検証で驚愕の事実が次々と明らかになるにつれて、懐疑的だった桑田の態度も変わってきた。  そしてついには、湯沢教授がわずか数十秒の間に、踏み台もなしに首吊《くびつ》り自殺を遂げた『トリック』を、桑田警部補も納得せざるをえなかった。  それは、まさに逆転の発想による大仕掛けであった。  その詳細の調査に取りかかったとき、まさに真相の究明にうってつけという二人の人物が、湯沢邸を訪れた。  鈴木健太郎と名乗るゴマ塩頭の老人と、その息子の健作という頭を五分刈りにした四十がらみの男である。  二人とも襟に防寒用の人工毛皮をつけたジャンパーを着込んでおり、その顔はたくましく日焼けしていた。  財津警部から湯沢教授の自殺を知らされ、彼らはしばらく口が利けないほど驚いていたが、やがてゴマ塩頭の父親のほうが、この部屋に関するすべての秘密をお話ししましょうと、重い口を開きはじめた。  財津に差し出された彼の名刺には、『丸健組|棟梁《とうりよう》鈴木健太郎』と書いてあった。 「夏子さんがこの部屋で首を吊って亡くなったというニュースをテレビで知ったとき、私も息子もそれはそれは驚きました。教授の珍しい注文に応じて設計施工を請け負った私たちにとってみれば、事の真相は一目|瞭然《りようぜん》だったからです」  大工の棟梁は悲痛な顔で語った。 「しかし、私は息子に命じました。湯沢邸の離れの秘密は絶対に外に洩《も》らしてはいかん。それが、湯沢先生との固い約束なのだ。職人は仕事上で知りえた秘密を、絶対に口外してはならぬ。それが仁義なのだ、と」  棟梁は言葉を継いだ。 「それだけではありません。私は湯沢先生よりも一つだけ年上ですが、ともに戦時中、軍が作った心理戦の研究プロジェクトで同じ釜《かま》の飯を食った同志でした。ですから、二人は五十年以上にもわたる長い長いつきあいになるのです。その信頼関係を、この期に及んで裏切るわけにはいきませんでした。しかし、こんどばかりは……」  実直そうなゴマ塩頭の棟梁は、声を詰まらせた。 「湯沢先生は私の口から真実を語らせるために、わざわざ東京まで呼びつけられたのでしょう。しかも、この時間に……」  捜査陣にすべての真相が明らかになった段階で、湯沢泉美、先崎陽太郎、星真美子、大森徹、峰村準二の五人が、ふたたび白い部屋の中に呼び込まれた。  姉につづき祖父が宙吊りの死を遂げた場面を、まさに目の前で見てしまった泉美は、正気を取り戻したものの、顔は血の気が引いて真っ白で、烏丸ひろみと星真美子に両側から支えられてやっと歩けるといった状態だった。 「まずはここの壁をごらんください」  緊張しきっている五人に対し、財津警部は壁に書かれた上下逆向きの文章を示した。  まっ白な一号室には電灯がなかったが、小平署が持ち込んできた現場検証用の照明設備により、財津が示した壁の文字は、くっきりと浮き上がっている。  かなりの行数にわたって記されたその文章は、一字一字の文字が小さめなのと、上下逆向きになっているため、明かりがじゅうぶんでも一瞥《いちべつ》して内容を把握することは難しかった。 「さきほどは教授を下ろす作業に集中していたのと、部屋が薄暗かったので、みなさんもこの文章に目を向けてはおられなかったでしょうが、これは湯沢康弘教授、最後の告白です——つまり、遺書ということです」  えっ、と泉美が小さな叫び声をあげた。  その目は泣き腫《は》らして真っ赤である。 「でも、文字が逆さまだ」  と、泉美の脇《わき》に立つ大森が、自分の首を上下逆にするようにしてつぶやいた。 「そのとおり。たしかに上下逆向きの文字は、このままでは読みにくいですから、ちゃんと読めるように直しましょう」 「ちゃんと読めるように直すだって?」  大森が不思議そうに聞き返した。 「そうです。……みなさん、すみませんが、ちょっとの間だけ外に出ていてください」  財津に命じられるまま、五人はドアのすぐ外まで引き下がり、最後に財津自身も一号室の外に出た。  ただし、外開きのドアは開けたままにしてある。つまり、白い部屋の中の様子が、廊下側からそのまま見える状態である。 「よし、フレッド。やってくれ」  財津の合図で、フレッドが廊下側に設けられた書棚の扉を開け、中に並んでいた学術書をすべて右端のほうに寄せた。  すると書棚の左の奥のほうに、丸いハンドルのようなものが見えた。その装置の存在は、この研究室の設計施工にあたった鈴木健太郎親子によって明らかにされたものである。  財津の合図で、フレッドはゆっくりとそのハンドルを回した。  全員の前で、ドア越しに見える白い部屋が、なんとゆっくりと回転しはじめた。  いままで床であった部分が、左の壁になり、そして天井になる。  湯沢教授の『遺書』が書かれた左の壁が、天井になり、そして右の壁になる。  教授が鎖を結びつけてぶら下がっていた梁《はり》の通っている天井が、右の壁になり、そして……床になった。  部屋がぐるり半回転してしまったのである。 「これこそが、湯沢教授がこの部屋に仕掛けた、文字どおり『逆転のトリック』です」  あぜんとする泉美たちに向かって、財津はつづけた。 「早い話がこの白い部屋は、コンクリートの外箱の中に取り付けられた、回転する内箱なのです。わかりやすくたとえますと、商店街のくじ引きに使われる、ガラガラ回す箱がありますな。あれを大きくしたものが、みなさんの目の前にあると思っていただければよい。いまフレッドが回した丸いハンドルが、くじ引きの抽選箱についている取っ手です。そしてみなさんは、その取っ手の方角から、箱が回転するのをごらんいただいた形になる」 「でも……」  星真美子がつぶやいた。 「どこに回転の軸があるの」 「疑問はもっともです」  財津はうなずいた。 「そこをうまくカモフラージュしてあるから、この四角い部屋が回転するとは誰も思わない。しかし、ヒントのひとつは天井の高さにあり、さらにあの表に面した丸窓にあり、そして湯沢教授が防音のために必要だといった壁の厚みにあるのです。まず天井高に目を向けてください」  財津は天井を指さした。 「この部屋の天井高は、一般住宅の平均値よりも高い二メートル七十センチあります。私ははじめ、研究の都合上、天井の高さにゆとりをもたせたのかと思いましたが、このサイズにはじつは別の必然性がひそんでいました。すなわち、部屋の間口の内のり部分と同じ長さとなっているんですよ」 「天井と間口が同じ長さ……」 「そうです、星さん。つまりドア越しにははっきりわからないが、この部屋の一方の断面は完全な正方形になっています。そして、その倍の長さがある奥行部分ぜんたいを回転軸として、いまごらんになったように百八十度、あるいは三百六十度ぐるっと部屋が回るようにできているのです」  財津警部の解説は、すべてこの研究室を作った鈴木親子の告白を受けたものである。 「ところがです」  財津はつづけた。 「この部屋がうまくできているのは、いまごらんになったような回転を目の当たりにしても、どうして部屋の回転が可能になったのかがわからない。星さんがおたずねになったように、回転軸はどこにあるのかという謎《なぞ》と、四角い箱が回るだけのよぶんなスペースが外側になければいけないではないか、という疑問です」  財津の言葉にうなずく者が何人かいる。 「四角い箱が回転するわけですから、当然、その直径は対角線の長さだけ必要になってくる。計算すればすぐわかりますけれども、間口あるいは天井高の二倍の長さが必要になってくる。それが、防音壁と偽った壁の厚み、そして床の厚みなのです」  財津は、さらにつづける。 「そして巧妙なのは回転軸の問題です。一見すると、いまのような回転を可能にするには、部屋の左右中央かつ上下中央のど真ん中を、こちらから向こうの窓に向かって一本の軸が貫いていなければならないように思えますね。しかし、そんな軸はどこにも通っていません」 「それに、不思議なのは窓よ」  星真美子が、直径一メートルはあろうかという丸窓を指さした。 「部屋が上下逆になったのに、あの丸窓の位置がぜんぜん変わらないわ。左右の位置が変わらないのはわかるけど、あの、窓はわりに高い位置にあったじゃない。だから部屋が回転したら、こんどは床に近い位置に変わりそうなものなのに」 「それを言うなら、ドアの位置も不思議でしょう」  財津が言った。 「このドアは同じ位置にそのまま残っている。しかも出入口の空間まで、そのままの位置です」 「あ……そういえば」 「ということはですよ、徐々に部屋の構造が見えてきませんか。この部屋は、じつは奥行きのある直方体の箱ではなく、円筒形をしているのです」 「え、この部屋が円筒形ですって」 「そうですよ、星さん」  驚く真美子に向かって、財津は説明用に即席で用意した半透明のフィルム容器をポケットから取り出した。これは、現場検証を行なっている小平署の鑑識係の持ち物を借りたものである。 「粗雑な掃除のやり方を表現する言葉に、『四角い部屋を円く掃く』という表現がありますね。これはその逆といいましょうか、四角い部屋が円筒形の中にすっぽり収まっているのです。こういう円筒にね」  財津は、フィルム容器をみんなに見せた。 「湯沢教授も大胆なことを考えたものです。この白い部屋の中に入った人間が、自分を取り囲む四角い空間が、じつは円筒の中に組み込まれた一部分であるなどと想像することができるでしょうか。どんなに柔軟な発想の持ち主でも、そこまでイメージを飛躍させることは不可能な気がします」 「だんだんわかってきたわ」  真美子がまたつぶやいた。 「円筒形に組み込まれた箱は、天井と床と四つの壁の合わせて六面のうち、窓側とドア側の二面は素通しなのね。つまり、窓のほうとドアのほうの壁は、建物に固定された部分であって、回転する箱の一部ではない」 「そこまで理解していただければじゅうぶんです」  財津は満足そうにうなずくと、フィルム容器をまたポケットにしまった。 「白い部屋を組み込んだ円筒が、さらに外側の円筒とベアリングによって回転可能な状態に置かれている——一言でいえば、これが秘密の構造なのです。そして、その操作をするハンドルが、書棚の奥に隠されていたわけです」 「すごいわ……」  星真美子だけが、素直に感心の言葉を洩《も》らした。  財津警部の説明の間、烏丸ひろみとフレッドは、さりげなく先崎、星、大森、峰村、泉美の五人の表情に注意を払っていた。  財津警部は、第一の事件——湯沢夏子の死を、祖父の教授が関与したものだと推測していたが、ここにきて、ひろみは別の結論を出しかかっていた。  その最初のきっかけが、ずっとこだわっていた夏子の服装と口紅の色のアンバランスである。  そして財津も、さきほどからの内輪のミーティングで、ひろみの考えに同調をしはじめていた。 「みなさんは、まだ隣の部屋をごらんになっていないでしょうが……」  財津の説明がつづく。 「二号室と呼ばれる隣の部屋は、こことは対照的に、すべてが赤く塗りつぶされた内装になっています。なにしろ電球の光まで赤なのです。そして、床には赤い砂が敷き詰められ、壁際には赤い色をした熱帯魚が泳ぐ大型水槽が据えられています。  この異常空間ともいうべき赤い部屋は、何のために作られていたか。それは現場検証にあたった捜査陣に、白と赤という鮮やかな色の対照に気を奪わせておきながら、その一方で、砂と水の存在によって、無意識のうちに『部屋が上下逆転するなどということは、考えもしない』心理状況に追い込む目的があったからです」  財津は、一同を見渡した。 「赤い部屋が逆さになったら、砂は散らばるわ、水槽から水はこぼれて魚は飛び出すわの大騒ぎになりますからね。赤い部屋がそんな状況ですから、その隣で起きた白い部屋での首吊りの謎を解こうとしても、なかなか『逆転の発想』は考えにくくなる——まさに、心理学者ならではの意表を衝《つ》いた計算です」  ひろみとフレッドに向かって、特大級の大地震がきた、と言った財津の言葉は、すなわち白い部屋のほうが上下逆さになるような大回転をしたという意味だったのだ。 「部屋が回転するからこそ、時計と風景画の額縁はたんにぶら下げるだけではなく、しっかりと固定されていなければなりませんでした。さらにその工作を怪しまれないため、教授は母屋のほうにも同様の固定作業をしたのです。地震がきたときの対策と称してね。まったく、万全の構えですな」 「すると、夏子ちゃんを殺したのは……教授なんですか」  その質問は、写真家の先崎の口から発せられた。 「そんなはずがありません!」  叫んだのは、泉美だった。 「おじいちゃんがお姉ちゃんを殺すなんて……そんなこと……絶対にあるわけないじゃないですか」  泉美の金切り声に、先崎は口をつぐんだ。 「でも……」  先崎に代わって、大森が口を開いた。 「泉美には悪いけれど、そうじゃなかったら、どうして教授は自殺なんかしたんだ」 「大森さんまでそんなことを言うの」  泉美は、恋人関係にある男の胸をぶった。 「ひどい……ひどい!」 「まあ、落ち着いてください」  財津が混乱を制した。 「ともかく、もう少し私の話をお聞きいただきたい」  そう言って財津は、上下逆転した一号室を入口のところから見渡した。 「さて、いまこの部屋は、床と天井とが逆転した格好になっていますが、そこにいるフレデリック・ニューマン刑事の操作により、回転機構にストッパーが掛かった状態になっています。ですから、こうやって私が中に足を踏み入れても……」  財津は話しながら白い部屋の中に入った。 「部屋のバランスはきわめて安定しています。しかし実際には、いま上になっている部分——すなわち、結果的には床になる部分の外側には、かなりの重量をもった錘《おもり》が取りつけられているのです。したがって、いったん安全装置をはずすと、ちょっとしたバランスの狂いで一気に元の位置まで回転して戻るようになっているのです」  警部はゆっくりと|天井の上を歩き《ヽヽヽヽヽヽヽ》、対角線に渡された二本の梁《はり》が交差する部分——すなわち、部屋の中心部のところで立ち止まった。 「ごらんのとおり、床と天井とが引っくり返れば、壁に書かれたあの文章も正しい向きになって、ちゃんと読めますね。なぜならば、我々が到着する前に、湯沢教授が遺書をあそこにしたためたときは、部屋はこの状態だったのです。もちろん、壁際に行って書くわけですから、いまのようにストッパーを掛けた状態でなければなりません。  ところが、さきほど我々の目の前で教授が一号室の中に姿を消したときは、部屋はこの状態にセットされてありましたが、回転防止の安全装置は外された状態でした。したがって、壁寄りのほうを歩いてしまうとバランスが崩れて部屋が回ってしまいます。そこで教授は、ドアを開けるとすぐに、この左右中央の線上を慎重に歩いて、梁が交差する中央部分に到達したものと思われます。そして、事前にセットしておいた金色の鎖を自分の首に巻きつけるのです」  財津は、その動作をしてみせた。 「あとは、教授がどんな行動をとったか、もうみなさんも想像にかたくないでしょう。しっかりと鎖を首に巻いたあと、教授がするべきことといえば、この中央線上から数歩脇へ動くだけでした。すると、ギリギリの平衡を保っていた部屋が、バランスを崩して一気に回転する」  孫娘の泉美が、声にならない声を洩らした。 「すべては三十秒から四、五十秒で終わってしまいました。あっというまの首吊りです。……おわかりでしょう。部屋のどこを探しても踏み台が見つからないはずです。踏み台は、この部屋そのものだったんですから」  みながシンとなった。 「それでは……」  また先崎が口を開いた。 「あの金色の鎖は、教授自身が用意していたわけですか」 「そうです」 「だったら、ますます……」 「やめて!」  また泉美が叫んだ。 「どうして先崎さんは、おじいちゃんを犯人にしたいの」 「だって……」 「そこで言い争いはおやめください」  財津が静かに言った。 「なにはともあれ、湯沢教授がこの世に残したメッセージを、みなさんに読んでいただかなければなりません。夏子さんの死に関する疑惑をあれこれ取り沙汰《ざた》するのは、そのあとにしませんか」  財津の言葉に異議を挾む者はいなかった。 「ただし、みなさんがこの中に入っていただくと狭くなりますので、いまから私が壁に書かれた文章を読み上げます。自らの命を断つ前に、湯沢教授がどんなことを書き残したのか、みなさんはそこでお聞きになっていてください」  財津はそう言って壁のほうを向いた。  泉美は、そばにいたひろみの腕にしがみつき、ギュッと目をつぶった。     9  私は孤独だった。  教授の『遺書』は、そういう書き出しではじまっていた。  七十六年間生きてきたが、つねに私は独りぼっちであった。しかし青年の頃から、私は自分がそのような宿命を負うであろうと、どこかで予感していた気がする。学生時代から心理学の領域に深く首を突っ込んだのも、いずれ孤独な自分自身の心と戦うときがやってくると予測していたからである。  それにしてもおかしなことに、心理学者の多くは自分自身を研究対象の外に置いている。私は長い学者生活の間に、自分自身を研究の対象とした心理学者をほとんど知らない。  他人の心を覗くのは得意でも、自分の心は覗きたくないし、他人の前にさらされるのもいやだという、まるでいまのマスコミの姿勢にも似た、非常にエゴイスティックで臆病な心を持っている者が多いのである。  かく言うこの私も、その一人である。  日本有数の心理学者とおだてあげられながら、私は自分自身の精神状態を制御する術を知らない。とくに、家族愛に恵まれないせいで、ここ数年は厭世観が募るばかりだった。それに反して肉体が健康なのは、まさに皮肉としかいいようがない。私の精神部分は恬淡として生への執着をやめたにもかかわらず、肉体が未練を引きずっていた。  これを解決するには、方法はひとつしかなかった。自殺である。  しかし、私は怖かった。  自殺そのものが怖いのではない。  湯沢康弘という高名な心理学者が自らの心を制御できずに命を断った——後世にそうした批判が残るのが怖くて、自殺に踏み切れないのである。  考えてみれば、くだらぬためらいである。死んでしまえば、どんな悪評が立とうが自分にそれが聞こえるわけではない。にもかかわらず、私は自殺後の自分の評判がやたらと気になった。  最後の最後まで、私は恥をさらしたくなかった。弱みをみせたくなかった。A型の最も典型的な精神的もろさが出た格好である。  そこで私は、自分の墓場を自分で作ることにした。首吊り自殺をとげながら、自殺にはみえない方法を考案したのである。  なにも保険金云々といった理由でこんな工作をしたのではない。心理学者が自殺をした、という恥を背負うよりは、殺人事件の被害者という悲劇の主人公となって死ぬほうが、どれだけ精神的に楽であるかわからない、と感じたからだ。  コンクリートの建物の中に回転する部屋をはめ込むという計画を実現化するにあたり、私はかつての同僚であり、いまは家業を継いで棟梁となっている鈴木健太郎君にすべてを託した。彼には詳しい目的を話さなかったが、この部屋の秘密だけは守ってくれるように念を押した。私の様子から、おそらく鈴木君も何かを察していたことだろう。  狭い部屋は回転するため、よぶんな家具などは配置できない。電気の配線も不可能だったから、天井に照明もつけられない。せいぜい、時計と風景画をしっかり壁に固定しておき、いちおう上下の位置関係が逆転するイメージを払拭しておくのが精一杯であった。  ただ、それだけでは不安なので隣に赤い部屋を作っておいた。この部屋が醸し出す心理的な効果については、わかる人にはわかるはずである。  さて——  ライフワークとして執筆をつづけていた血液型性格分析の本を書き上げたら、私は計画を実行に移すつもりであった。  その際、私はひとつの復讐をそこにはめ込むことを忘れなかった。実の娘のように可愛がってきた孫の夏子を、おかしな道に引きずり込んだ連中への復讐だ。  四人を『湯沢康弘殺人事件』の容疑者として世間に疑わせながら死ぬ——これが私の仕組んだ、彼らへの復讐である。彼らはみな有名人だった。有名人をつぶすには、噂という武器があればじゅうぶんなのだ。  私は『血液型殺人講座』の講演会場で、もっともっと彼らに疑惑がいくような話を続けるはずであった。それが、私のもったいぶった態度を勘違いした警視庁捜査一課の財津警部の介入により、筋書きがやや狂ってしまった。しかし、そんなハプニングも、この研究室で起きた事件に比べればささいなことだった。  まさか、私が自殺しようとした方法で夏子が殺されるとは——  あの晩、この部屋で夏子が首を吊っているのを見つけたとき、私は心臓が止まりそうなほど驚いた。  誰が、どうやって、この計画を察知したのか。私は最初まるで見当がつかなかった。  だが、この特製の回転装置を隠してある研究室の廊下の書棚から、白い部屋の設計図面が消えていた。それだけでなく、図面のそばに置いてあった予備も含めた二本の金色の鎖のうち、一本が夏子を殺すために使われていたのだ。  金色の鎖という色合いがいかにも非日常的で、自殺よりも異常犯罪めいた他殺を思わせるようでいて、踏み台のない部屋での『殺人』という状況にはぴったりの小道具だと思っていた。それが誰かに使われてしまったのだ。  もちろん、夏子が自殺だったという可能性は、万に一つもないと私は思っている。何者かが夏子を言葉巧みにだまして、この研究室の鍵を入手したに違いない。そして、偶然書棚を開けて設計図とチェーンを発見したのだろう。  それにしても、なぜ研究室の仕掛けがわかる前から、ここへ侵入することを狙っていたのか。なぜ、夏子が疑いもせずにその人物の言うなりになったのか。それがいまだに私はわからない。  犯人が誰であるかということも、だ。  しかし、もしもその人物が、ひとりの前途ある女性の未来を壊した責任を痛感するならば、どうか自分の犯した過ちを償ってほしい。それをしなければ、あなたは一生激しい罪の意識に苦しめられるであろう。  もちろん、この白い部屋を作り出した私にも大きな責任がある。したがって、私は潔く自らを裁くつもりである。  いま私は、この部屋に夏子の遺影を飾って眺めている。  そうしていると、不思議と自殺に対する恥の概念が薄れてきた。自殺を他殺に見せかけるというような姑息な小細工はせずに、夏子の死に対する責任をきちんととる形で、自分の人生に終止符を打つつもりだ。  最後に——  夏子、泉美。私にとっておまえたちは、やはり本当の娘だった。  そう信じながら、この世を去ろうと思う。  さようなら。     10  壁にびっしりと書き連ねられた湯沢教授の遺書を読み終えると、財津はふたたび白い部屋から廊下に出てきた。  廊下で聞いていた泉美は、ひろみの胸にすがりついて泣きじゃくり、顔をあげることもできないでいた。  他の四人も、一様に衝撃を受けた表情で、財津を見つめるばかりだった。 「さてみなさん」  財津は、教授が復讐《ふくしゆう》を誓った面々に向き直った。 「これで意外な事実が判明しました。教授の死そのものは自殺であるけれども、孫の夏子さんの死は、明らかに殺人であったということです。それも、教授以外の人物による犯行であった、と」 「ちょっと待っていただきたい」  精神科医の峰村がちょっと手を挙げて発言を求めた。  ようやく彼も持ち前の低音を発するゆとりが出ている。 「警部、このようなことを言っては申し訳ないが、あなたは捜査の本分を忘れて、心理学者の罠《わな》にはまろうとしていますよ」 「捜査の本分を忘れて、ですか」 「ええ」  財津がムッとしたのもかまわず、峰村はつづけた。 「たしかに湯沢教授は自殺なさった。そして、遺書らしき文面を書き残された。まあ、ここまでは信じてもよいでしょう。けれども、遺書に記された内容が百パーセント真実である保証など、どこにもないではありませんか。いや、むしろそこに湯沢教授のしたたかな罠があるのかもしれません」 「私も峰村さんの意見に賛成です」  おずおずと同意を示したのは、写真家の先崎だった。 「亡くなった湯沢教授には失礼かもしれませんが、教授は自らの死を代償にして、虚構を真実に見せかけようとしている気がしてなりません。みなの前で自殺を敢行し、ショッキングな遺書が壁にしたためてあれば、これ以上の説得力はありませんからね」  あとに残された孫の泉美は、つぎつぎと祖父の遺書に疑問が投げかけられるのを聞き、しだいに涙をおさめて愕然《がくぜん》とした表情になってきた。峰村や先崎の発言が、疑惑のがれの自己本位な弁解に聞こえてきたからである。  そして、大森までが—— 「ぼくもこれこそが、湯沢教授最後の復讐だと思うな。裏の裏の、また裏をかいたんじゃないかな、きっと」  と、言い出した。  泉美がもう耐えられないという顔になってきたのを見て、財津警部がまた口を開いた。 「もちろん、みなさんのご主張もわからないではありません。ですが、湯沢教授が自らの生命と引き換えに真情を吐露したこの遺書——これを頭から罠だと決めつけるのもどうかと思われます。そこで、これから私が夏子さんが死に至る状況を再現してみますので、それをごらんになりながら、もういちど湯沢教授の遺書の真偽をご検討ください」  財津は、そこでまた戸口から部屋の内部をふり返った。 「湯沢夏子さんは犯人によって両手を後ろ手に縛られ、首に金色の鎖を巻きつけられました。そして、その鎖の一方の端は天井の梁に結びつけられたのです。ただし、『天井』と申し上げても、犯人が仕掛けをセットする段階では、部屋はごらんの状態でしたから、天井は床の位置にあったわけです。だから見た目は、夏子さんは鎖で床に結びつけられていたことになります。しかし、じつは彼女はまったく身動きができない状況に置かれていたのです。それは両手を縛られているから動けない、といった意味とは違います」  そこで財津警部は、書棚のそばにいるフレッドに指示を飛ばした。 「おい、ストッパーを外してくれんか」 「了解」  うなずくと、フレッドは書棚の奥に隠された回転防止の安全装置を外した。  カチンという音がした。 「さあ、犯人は夏子さんを縛ったあと、このようにこっそりと安全装置をはずしました。ただし——ここは想像ですが——犯人は、おそらく夏子さんには詳しい説明をせずに、ただ簡潔に『動いたら死ぬぞ』というような漠然とした警告を発して部屋を出たのではないでしょうか。むろん、これは犯人にとって一種の賭《か》けです」  財津は、それぞれの顔色を窺《うかが》った。 「湯沢教授のように血液型で性格分析をしていたのか、あるいは自分なりに夏子さんの性格をしっかりと把握していたのか——いずれにせよ、犯人は夏子さんの行動様式をかなり綿密に研究し、そのヨミに自信をもっていたのでしょう。『動くな、動いたら死ぬぞ』と脅しておけば、夏子さんはその言葉を信用して、しばらくはじっとしているだろう——この予測に、犯人は相当な自信があったと思われます。その前提が保たれないと、この白い部屋の壮大なトリックを使ったアリバイ工作は無意味なものになってしまいますしね」 「アリバイ工作?」 「そうです」  聞き返す星真美子に、財津はうなずいた。 「犯人の描いたイメージはこうです。夏子さんはまず、犯人が立ち去ったあともしばらくは動かずにじっとその場で考えるだろう。いったい、ここにどんな仕掛けがしてあるのか、と」 「その時点で、夏子ちゃんは、祖父が仕組んだ白い部屋のトリックに気づいていないっていうこと?」 「ええ、知らなかったと思いますよ。もしも、この部屋がちょっとしたバランスの崩れで回転することを湯沢教授から聞かされていれば、とてもではないが、その場から一センチたりとも動こうとはしなかったはずです」 「なるほどね……でも、夏子ちゃんは仕掛けを知らなかったから、そのうちに動いてみようという気になる」 「そのとおりですよ、星さん」  財津警部は何度も大きくうなずいた。 「夏子さんの性格からいって、論理的な状況分析にはかなりの時間をかけるだろうと犯人は踏んだ。その夏子さんの考慮時間が、そのまま犯人にとってはアリバイ工作の時間となるわけです。夏子さんが考えている間に犯人は遠くへ逃げる。この部屋の回転の仕掛けさえバレなければ、犯人は遠隔殺人が可能になるわけですよ」 「………」  真美子は黙った。 「さて、犯人が立ち去ったあとの夏子さんの行動を想像してみましょう。両手を後ろ手に縛られ、首には鎖を巻きつけられているものの、夏子さんにしてみれば、まさか自分の生命が崖っぷちの状態に置かれているとは夢にも思わなかったことでしょう。なにしろ鎖は『床』に縛りつけられているのです。床に縛られている状態で、いったい誰が首吊りの危機を予感できるでしょうか」  妹の泉美が、またギュッと烏丸ひろみの腕にしがみつく。 「足元にはあのように太い梁がクロスしている。通常の部屋の床だとありえない構造ですが、ここは心理学研究のための実験室ですから、夏子さんもさほど疑問は抱かなかったでしょう。むろん、これがじつは天井の梁なのだという発想などわくはずもない。  ところで、恐ろしい仕掛けが潜むこの部屋に夏子さんを拘束した犯人は、さらに細かい点まで配慮をしています」  財津警部が語っているあいだ、ひろみも、泉美を抱きしめてやりながら各人の観察を怠らない。 「それは、鎖を梁に巻きつけた位置です」  財津は、対角線に交わる梁を指さした。 「ストッパーをはずしても、間口のちょうど中央部分の線上を歩くぶんには、バランスが保てるので大丈夫なのですが、実際にチェーンが結びつけられていた場所は、二本の梁が真ん中で交差するポイントよりだいぶずれていました」  鎖によってつけられた傷痕は、まだ梁の上に残っていた。 「心理的にいっても、拘束された人間は結び目を中心に動こうとします。そうでしょう、ちがいますか?」  財津の問いかけに、峰村が硬い表情でうなずく。 「そういった行動をとれば、いきおいバランスは崩れることになります。あの丸窓の枠にベアリングが仕掛けられ、そこを中心に部屋がくるっと回る仕掛けがあるとは予想だにしない夏子さんは、長いあいだ考えに考えあぐねたすえに、とうとう助けを求めて窓辺へ駆け寄ろうと決断したかもしれません。あるいは、壁に掛けられた時計や風景画が逆さまであることを不思議に思い、そこへ歩み寄ろうとしたかもしれない」 「お姉ちゃんは……」  かすれ声で、泉美がつぶやいた。 「お姉ちゃんは目が悪いんです。だからメガネがなかったら、何も見えない……」 「なるほど……だったら、かえって部屋の逆転に気づかなかったかもしれませんね。ともかくです、この部屋から逃れようとすると、窓かドアしかない。しかし、ごらんのとおりドアの位置は部屋の隅にあります。したがって、いずれにせよ、夏子さんは回転軸の中心線からはずれて行動することになる」 「でも、教授はこのドアから中に入っていったんでしょう。それも安全装置を外した状態で」  写真家の先崎がたずねた。 「ドアを開けてすぐに左右中央線上に第一歩を踏み出せばバランスは崩れない。そのあたりは、設計を命じた教授にとって百も承知のことだと思います。外開きのドアを閉めるときも、中央線上に立ったまま、そこから手を伸ばしてノブに届かなければならない。だから、我々を玄関のところに残して部屋に入るとき、教授は少ししかドアを開けずに、狭い隙間をすりぬけるようにしたのです。もちろん、天井と床がさかさまになっているのを見られないためもありますけれどね」  財津の説明に、先崎が納得の表情をみせる。 「しかし、もしも中央線上からだいぶ離れたところを踏んでしまうとどうなるか……」  財津警部は、あらかじめ用意してあった長い棒で、左右中央線をはずれたあたりの『床』を押した。  と——  財津がその棒を廊下側へ引っ込めるか引っ込めないうちに、白い部屋はバランスを失ってゆっくり左に傾き、そののち一気に加速して左方向へ百八十度回転した。  そしてドーンという衝撃音とともに、天井が床に、床が天井になった。  その様子が、外に向かって開いたままのドア越しに、はっきりと見てとれた。さきほどフレッドがハンドル操作によってゆっくりと部屋を逆転させたときとは較べものにならないほどの劇的な変換である。  その場にいた者は、声もなかった。 「ごらんのとおり……」  だいぶ間をおいてから財津が言った。 「夏子さんが部屋の中央から少し移動しただけで、『床』に縛りつけられていただけの状況から一転して、首吊り地獄が出現するのです。夏子さんの、そして湯沢教授の死の瞬間の再現を、いまみなさんは目の当たりにごらんになった。首吊り事件なのに、踏み台らしきものがどこにも見当たらない理由を、いまご自分の目で確かめられたわけです」 「なんという……」  峰村が声優じみた声でつぶやいた。 「なんという恐ろしい罠《わな》だ」  大森は荒い息をつぐばかりで、彼の口から言葉は出てこない。  星真美子も無言。  先崎は——手のひらの汗をしきりにズボンにこすりつけて拭《ふ》いていた。 「参考までに申し上げますと、いったんこの状態になれば錘《おもり》の作用で自動的にストッパーがかかり、部屋は安定します。ですから、外から入ってきた者に異変を察することはできないのです」  そこまで説明すると、財津はあらためて五人の顔を見渡した。 「そういうわけで、犯人は死亡推定時刻にこの場所にいなくても、湯沢夏子さんを首吊り状態で殺すことが可能だったわけです。では、その犯人とは誰なのか」 「おいおい」  実業家の大森が、青ざめた顔に歪《ゆが》んだ笑いを浮かべて言った。 「けっきょく警察は、湯沢教授の遺書を信じて、ぼくら四人のほうに疑惑のまなざしを向けるわけなのか。まいったな、それ。最初から先入観念でガチガチになっているんじゃないのか」 「もちろん、夏子さん殺害に関しては、湯沢教授も容疑者のひとりから外れることはできません。できませんが、教授が犯人であるとは思いにくい理由があります」 「なんですか、それは」 「峰村さんが夏子さんに贈った額縁入りの水彩画が、教授が犯人ではないと語っているのです」     11  自分の名前が出てきた峰村は、びっくりして問い返した。 「私が贈った絵が、教授が犯人でないことを示しているんですか?」 「ええ、さきほど教授が自殺をはかる直前、あなたに包みごと返した絵は、パリの凱旋門《がいせんもん》を描いたものでしたね」 「そうですが……」 「つまり上下逆に飾ったら、明らかにさかさまだとわかる構図でしょう」 「もちろん」 「では、犯人によって白い部屋に導かれた湯沢夏子さんの目に、額縁はどう映っていたでしょうか」 「さかさまに見えたでしょうね」  峰村は答えた。 「しかしね、峰村さん。最初から明確に水彩画がさかさまに掛かっているとわかったら、夏子さんは警戒したんじゃないですか。少なくとも、床に縛りつけられた時点で天地さかさまの絵を見たら、もしかしたら部屋が上下にひっくり返るのでは、という連想をした可能性がある。そうなれば、彼女はその場をずっと動かなかったかもしれない」  財津は畳み込んだ。 「だから、もしも湯沢教授が孫娘の殺害を企てていたならば、不用意に額縁や時計を側面の壁に飾らなかったはずです。どうせなら、部屋の回転とは無関係なドア側の壁に飾っておいたにちがいない。そうすれば、部屋を逆転させても額縁がさかさまになることはないですからね。むしろカモフラージュの役割さえ果たすことになるでしょう。教授が犯人だったら、きっとそこまで気を配りますよ。なにしろ、心理トリックのために赤い部屋まで用意した人なんですから」 「………」 「しかし、この部屋の目的はあくまで教授の自殺用だった。自殺を他殺にみせかけるためのカラクリ部屋だった。だから、峰村さんが贈った絵をあそこの壁面に飾っても支障はなかったんです。それがさかさまになっているのを見るのは、自殺直前の教授自身しかいないはずだったわけですから」 「いや、夏子さんはわからなかったんですよ」 「なにがです、峰村さん」 「さっき泉美ちゃんも言っていたが、彼女はとても目が悪かった。それは私もよく知っています。ですから、メガネなしでは額縁の絵はぼやけて見えなかったでしょう。間口がこれだけの狭さで額縁との距離がほんのわずかであっても、夏子さんの視力では無理だと思いますね」 「よくごぞんじですね」 「何を、です」 「夏子さんの目の悪さの程度を、ですよ」 「………」 「おそらく夏子さんは、テレビに出演しているときはコンタクトレンズをはめていたのでしょうから、一般の人には、彼女が極端に目が悪いのはわからないと思いますが」 「……私は『一般の人』ではないということですよ」  峰村は、仕方なさそうにつぶやいた。 「妹の泉美ちゃんの前だが、正直に言いましょう。私は、夏子さんと関係をもったことがあります。そのさいに……ベッドで気づいたんです。彼女がたいへんな近視だということにね。これだけ近くにいても、ぼくのこの顔をしっかりときみに見てもらえないなんて、これは悲劇だよ、と話したおぼえがあります」  最後のセリフ回しは、やはり芝居じみていた。 「しかし、それはそれとして、祖父である湯沢教授は私などよりも、夏子さんの目の悪さをずっとよくわかっていたはずですから、いまの警部さんの仮説は、あまり成り立たないような気がしますけれど」 「なるほど」  財津は、下唇を突き出してうなずいた。 「そこのところは、どうも峰村さんと私とで、湯沢教授の性格について解釈が違うようですな」 「かもしれません」 「しかしねえ、みなさん」  財津は、峰村に向けていた視線を、全員にまんべんなくそそいだ。 「私には、どうも湯沢教授が犯人の見当をつけていた気がしてならないんです。夏子さんを殺した犯人の見当をね」 「まさか」  先崎が言った。 「教授の性格からすれば、犯人の見当がついていたら、はっきりとそれを口にするなり、壁に記した遺書で明言しますよ」 「さあ、それはどうでしょうか」  財津は首をひねった。 「それこそ、教授の性格の解釈になりますが、私はこう思いますよ。あなたがた四人に腹を立てていた教授は、たとえ犯人が明確にわかっていても、その人物のみを糾弾することによって、ほかの三人を助けてしまう結果は望まなかったのではないか、と」  四人の顔色が変わった。 「ようするに、湯沢教授はあなたがた四人全員が嫌いだったのです。もちろん、夏子さんを殺した犯人は憎んでも憎みきれなかったでしょう。けれども、だからといってほかの三人を許す気にもなれなかった。夏子さんを死に至らしめたのは、必ずしも犯人ひとりのせいだとは教授は考えていなかった」 「困りましたね、警部さん」  先崎は、無理をして柔和な笑みを浮かべた。 「どうも警部さんは、独断で物事を決めつけられるのがお好きなようです。大森さんがさきほど言われたように、いささか先入観念がすぎるという気がしますが」 「私もそう思いますね」  峰村が先崎に加勢した。 「そうでしょうか、峰村さん」  財津は、精神科医のほうにふたたび向き直った。 「物事は大胆な仮定に基づいて検討をすすめていくほうがよくありませんか。仮定の段階でゆらぐのは好ましくないでしょう」  峰村は、ひろみにギロリと目を向けた。自分がひろみに言い聞かせた主張を、財津警部が口にしたからである。 「みなさん、湯沢教授は犯人はわからないと言いながら、じつはちゃんと暗示を残したうえで自殺を遂げているのですよ。それにお気づきになりませんでしたか」  財津の言葉に、四人がそれぞれ顔を見合わせた。 「湯沢教授にとって最後の講演となった『血液型殺人講座』で語られた話を思い出してください。血液型によって、人間を支配する要素は変わってくる——教授はそう言っていましたね。たとえば、そこにいるウチの烏丸ひろみはA型ですが、A型人間は……」 「『責任感』によって動かされます」  と、ひろみ。 「それから、私のもうひとりの部下であるフレデリック・ニューマン刑事はB型です。で、B型人間を支配する要素は……」 「『感性』」  金髪をバサッと片手でかきあげて、フレッドが言った。 「ちなみに、この私はO型で、O型は『信念』によって動くそうですな。そして、AB型は『論理』に支配される。さて……」  財津警部は、もういちど白い部屋の壁に目をやった。 「湯沢教授はあの遺書の中で、犯人にどういう呼びかけ方をしていたでしょうか。『もしもその人物が……責任を痛感するならば、どうか自分の犯した過ちを償ってほしい』——こう書いてありました。それにつづく部分でも、教授は『責任』という言葉をもう一度出している。これは、暗に教授の考えている犯人像を示唆してはいないでしょうか」  B型の星真美子、O型の大森徹、そしてAB型の峰村準二が、いっせいに残る一人を見た。  A型人間の写真家、先崎陽太郎である。 「ちなみに、血液型性格分析の権威を自他共に許す湯沢教授自身はA型でした。それゆえに、A型人間の行動心理は深く読めたのかもしれない」 「ひどすぎますね、これは」  先崎は、白髪まじりの髪を揺らして首を左右に振った。 「私はめったなことでは怒らないが、この言いがかりはひどすぎる。日本の警察が、こんないいかげんな段取りで捜査を進めていくとは思いませんでしたよ」 「誤解しないでください、先崎さん。私は決してあなたを追及しているのではない。いまから申し上げることも、私の独り言です。いいですか、たんなる独り言ですからね」  財津警部は、ひろみの着想をもとに、大胆な揺さぶりを相手にかけた。 「ここに一人のカメラマンがいます。彼は、若手ナンバーワンの人気タレント湯沢夏子さんに恋をしました。恋といっても片思いではない。それなりに踏み込んだ関係です。なぜそこまで夏子さんが思い切った行動に出たかといえば、彼女の心の奥底には、厳格なる祖父への反抗心があったからです」  夏子の妹の泉美は、財津警部をじっと見つめていた。  姉が峰村と先崎の二人と関係をもっていた事実は、ついさきほど、失神状態から立ち直ったばかりの泉美から、財津警部らに伝えられていた。  警部と泉美の目が合った。  財津は表情は変えなかったが、視線の中に優しさを込めて泉美を見た。そののちに、視線に厳しさを取り戻して先崎に向き直った。 「夏子さんはファザコンならぬ、グランドファザー・コンプレックスに陥っており、なんとか祖父の呪縛《じゆばく》から解放されようと毎日悩んでいました。夏子さんからそうした事情を聞かされるにつれ、カメラマンはこの老教授をからかってみたくなりました。  彼は教授の留守を狙《ねら》って、夏子さんとともに湯沢邸に何度か出入りはしていましたが、離れの研究室にある白い部屋を見せられたとき、彼の頭にひらめくものがありました。よけいなインテリアをほとんど置かない白ずくめの部屋は、彼に写真の撮影スタジオを連想させたのです」 「財津さん!」  先崎は、もうガマンも限界だという声を出したが、財津はやめなかった。 「その白い部屋をスタジオ代わりにして、夏子さんのプライベート写真を撮る。カメラマンは、そのアイデアはなかなかシャレたものだぞ、と思い、さっそく実行に移すことにしました。ひょっとしたら、愛人関係ならではのきわどいショットも頭にあったかもしれません。そうした写真を撮ることこそ、彼女を束縛する湯沢教授への最大の冒涜《ぼうとく》であり、最高の挑戦状になる」 「私は広告写真家であって、婦人科カメラマンではない」  プライドが許さないという顔で、先崎は言った。 「たとえ彼女に魅力を感じていても、写真をそういう手段では使わない」 「先崎さん。さきほども申し上げたでしょう。私の話に出てくるカメラマンは、必ずしもあなたを指しているのではないんですから」 「そういうイヤミはいいかげんにしたまえ」  紳士で定評のある先崎の言葉が、しだいに荒っぽくなっていった。 「誰が聞いたって、この先崎陽太郎を指している話だとわかるじゃないか」  それでも、財津は『仮定の話』をストップしない。 「カメラマンにとって夏子さんとの関係は、あくまで遊びの範囲を越えるべきものではありませんでした。彼には妻も子供もおり、その家庭を壊す気はまるでなかったからです。ところが、困ったことに夏子さんのほうが本気になりました」  峰村、大森、星の三人は、なかば呆《あき》れ顔で、財津の強引とも思える仮説に耳を傾けていた。 「夏子さんがカメラマンとの愛に溺《おぼ》れれば溺れるほど、彼はどんどん逃げ腰になりました。けれども、夏子さんはますます真剣になった。最初は祖父へ見せつけるつもりではじめた不倫ごっこが、いつのまにか本当の恋になったのです。カメラマンは、とんでもないことになってきた、と内心焦りはじめてきました。彼のイメージに不倫が似つかわしくないのも、焦りのひとつです。イメージダウンは仕事にも響きますからね。  精神的に追いつめられた彼は、やがて恐ろしい願いを心に抱くようになります。このまま湯沢夏子の存在がなくなってくれたら、という願望です」  先崎は、身体の両脇で拳を握りしめた。 「そんなある日、研究室での何度目かの撮影のときに、カメラマンは廊下にある書棚を開けて、偶然に白い部屋の設計図と金色の鎖を見つけました。そして、この部屋の仕掛けを知ったのです。これは使える——カメラマンの目は輝きました。そしてじゅうぶんに計画を練ったあと、あの日、いつものように撮影と称して夏子さんを白い部屋へ呼び込みました。そのとき夏子さんは、彼の指示で淡いピンクのセーターに黒のスカート。ピンクのマニキュアに濃い赤の口紅という、一見チグハグな色づかいのファッションでした」 「私の指示で、だって?」 「あなたとは限定していません。何度も申し上げておりますが、カメラマンの指示だ、と言ったつもりですがね」  財津は先崎の指摘を訂正した。 「赤い口紅とピンクのマニキュアの取り合わせがかならずしも奇妙だとは言い切れませんが、服装とのバランスも含めて考えると、あの場合、夏子さんが濃い赤の口紅を選んだのは、やはりいまひとつ納得がいかなかった。とくに、赤は赤でも、その色合いがおかしかった」  警部がひろみの受け売りをすると、星真美子がチラッとひろみに視線を走らせた。 「じつは、これは私のように無骨な男ではかんたんに見過ごしてしまうポイントなんですが……」 「おたくの可愛いお嬢さんが気づいたというんでしょ」  星真美子が、財津の言葉を引き取った。 「ええ、そうです」  真美子の言葉に含まれたひろみへの敵愾心《てきがいしん》を感じながら、財津はうなずいた。 「ピンクのセーターにピンクのマニキュアをつけていながら、濃い赤の口紅を差しているのは、テレビタレントのセンスとしておかしい——烏丸ひろみ刑事の着想は、とても男の刑事には思いつかない素晴らしい目のつけ方だと思います」 「まあ、ずいぶんと身びいきだこと」  いままで笑いを忘れていた真美子が、ひろみにチラッと目をやって皮肉な笑みを浮かべた。 「めったにメイクをしないお嬢さん刑事にしては、こだわるときはこだわるものなのね。けれども、取り合わせがヘンだというだけでは、たいした意味をなさないでしょう。ピンクと赤の取り合わせのちぐはぐさの理由が、犯罪に結びつくものでなければ」 「それがわかったんですよ、烏丸刑事にはね」 「え?」  真美子が、改めて意外そうな顔でひろみを見た。 「何がわかったの」 「では、ここらで話を烏丸刑事に引き継ぎましょう」  財津が、星真美子の問いかけを受ける形で、ひろみにバトンタッチした。     12 「この話を最初、星さんに持ち出したとき……」  ひろみは、自分に鋭い視線を向けてくる美貌のエッセイストに語りかけた。 「星さんは、こういう解釈をなさいました。夏子さんがこの自宅のどこかで誰かと激しいキスをして、そのために口紅が落ち、新たにつけ直そうとしたときに、合う色がなかったからだ、と。たしかに、そういう可能性もあるとは思いましたけれど、もしも赤の口紅が合わないと思ったら、なにもわざわざそれをつけなくても、口紅はとったままでいいはずでしょう。だって、夏子さんは自宅の中にいたんですから」 「………」  真美子は黙った。 「そんなことより、夏子さんはタレントさんです。いつも色々な種類の口紅をそろえているのがあたりまえではないでしょうか。なんといっても、お化粧に関しては夏子さんはプロのはずです。だから、気に入った色の口紅を切らしていたので、しかたなく別の色にしたという仮定はおかしいと思います」 「あ、そ。それならそれでもいいんじゃない」  真美子は、そっけなく言った。  が、ひろみはその話題から離れない。 「けっきょくあれは、本人があの取り合わせでいいと思ったからそうしていたのだ、というごくごく平凡な解釈が正解である気がします」 「ようするに、あなたと夏子ちゃんのセンスが違ったということでしょ。ううん、センスのレベルが違った、というべきかしら」  真美子は『レベル』というところに力を込めた。 「もちろん、お化粧のセンスは私なんか足元にも及びません。でも、あの場合は、夏子さん自身がそういう判断を下したのではなく、カメラマンのそうした指示に彼女が素直にしたがった結果だと思うのです」  またカメラマンの存在が出てきたので、先崎が口を開いた。 「いいかげんにしてくれ」  先崎一流の紳士的な態度は、すっかり鳴りをひそめていた。 「私を犯人役で登場させるなら、もっと現実的にやってくれないか。広告写真家としていちおう日本で最高峰という評価を得ているこの私が、ファッションセンスの悪いカメラマンとして描かれるのは、作り話にしても失礼だ」 「いえ、私はカメラマンのセンスのよさを強調しているつもりです」  ひろみは落ち着いて言い返した。 「殺人計画を実行する直前なのに、そのカメラマンはついついプロ意識を出してしまったのです」 「プロ意識?」 「はい。つまり、その色づかいはカラー写真としてならおかしなものかもしれませんけれど、色調を無彩色の濃淡で表現するモノクロ写真の場合だったら、かえってそれが効果的だったのかもしれません」  先崎の顔色が変わった。 「最近そのカメラマンは、カラーではなく白黒写真の良さを改めて強調しており、モノクロ復活の旗手として名乗りをあげておりました」  青ざめた先崎は、自分のところへインタビューにきた財津警部に目を向けた。  財津は、無言で肩をすくめる。 「白黒の写真を撮る場合は、肌の色や唇の色を鮮やかに出すために、色付きのフィルターをかけて撮影することも多いそうですね」  ひろみはつづけた。 「そして、フィルターでの補正だけでなく、ときによっては、仕上がりにおける白黒の微妙な階調を意識して、カラーに頼った肉眼での美意識とはまったく別の色づかいをすることもあると聞きました」  精神科医の峰村が、青年実業家の大森が、エッセイストの星真美子が、ひろみに追いつめられる形となった先崎陽太郎を見つめていた。  夏子の妹の泉美は、先崎よりも、語り手の烏丸ひろみに、尊敬のまなざしを向けている。 「つまり……」  ひろみは言った。 「そのカメラマンは、結果的に、夏子さんに対して白黒写真用の死化粧をほどこしたことになるわけです」 「烏丸さん……とおっしゃいましたね」  広告写真界の雄、先崎陽太郎は怒りのためか小刻みに震える声で言った。 「あなたは、追いつめられた私がここで一気に真相を告白するとでも思っていらっしゃるのですか。まるで推理小説の結末のように」 「………」 「もしも、カケラでもそのような期待を抱いていらっしゃるのなら、私は即刻この場を退場し、代理人として顧問弁護士を差し向けますが」 「その必要はないと思います」  烏丸ひろみは、穏やかな声で言った。 「ない?」 「ええ、ありません」  ひろみは、元の位置に戻った白い部屋に一歩足を踏み入れ、そして湯沢教授から名指しされた四人をふり返って言った。 「だって、犯人は先崎さんじゃありませんから」 「………」  沈黙——  その沈黙の種類は三つ。  ひろみが先崎を自白へ追い込むものだと確信していた湯沢泉美の、純粋に意外性からきた沈黙。  第二の沈黙の種類は、安堵《あんど》。もちろん、先崎陽太郎である。  身に覚えのない湯沢夏子殺しの罪を、財津警部と烏丸ひろみ刑事の強引な論法で押しつけられるのかと思っていたら、意外や意外、警視庁捜査一課のマスコット刑事は、一転して先崎は犯人でないという。それも、夏子の口紅の色の謎《なぞ》を、白黒写真撮影の一テクニックに帰結しながら、である。  安堵は安堵だが、先崎としてはキツネにつままれたような安心感といった種類のものだった。  そして、第三の沈黙の種類は恐怖——  真犯人は事の意外な展開にあわてていた。  見事に捜査陣は自分の仕掛けたワナにはまった——真犯人は、たったいままで完全にそう信じ込んでいた。  とくに、烏丸ひろみ刑事が口紅の謎から先崎カメラマンへ疑惑を向けたときは、よくぞこちらの仕掛けた『高級な』ワナにはまってくださった、と喜んだのだ。なにしろ、もしも捜査陣が、口紅の色合いの不自然さに気づかなかったら、自分のほうからそれを指摘しようと思っていたくらいなのだから……。むろん、先崎を陥れるために、である。  それなのに——  いったいどこがいけなかったのか。 「もしも湯沢教授の遺書を信じるならば……」  四人に背を向け、二人の命を奪い取った凶悪な白い部屋に向かって、烏丸ひろみは話しはじめた。 「犯人は、教授が偽装殺人用に作ったトリックのアイデアを、夏子さんを殺すための真の殺人トリックとして、無断借用したことになります。教授が遺書で推測しているように、犯人は夏子さんと親しくなり、教授に無断で湯沢邸に出入りしているうちに、この白い部屋の大仕掛けに気づいたのでしょう。ある理由によって夏子さんを殺害する願望をもっていた犯人にとっては、まさに格好の道具を得たことになります。  けれども、あくまでこの仕掛けは、みなさんに殺人の嫌疑がかかるようにしながら教授が自殺をするために作られたものです。ですから、本来、殺人には不向きな構造なのです。それを犯人は忘れていました」  問題の四人も、湯沢泉美も、息を呑《の》んで烏丸ひろみの背中を見つめている。  白い部屋を見渡しながら、ひろみはつづけた。 「たとえば、さきほども話題に出ましたけれども、床と天井を逆転させたときに、掛けてあった凱旋門の水彩画や、八角形の時計までが上下逆になってしまうのは、致命的な欠陥です。時計のほうは文字盤が細いローマ数字で書かれてあり、形も上下対称の八角形なので見すごすこともあるかもしれませんが、峰村さんが夏子さんのために贈ったという凱旋門の絵は、どうしたって上下逆であるのがバレてしまいます。  たまたま夏子さんは裸眼の視力がかなり悪いため、その異常に気づかなかったかもしれません。あるいは、犯人が夏子さんの目の悪さを承知で、かけていたメガネをはずさせたのかもしれませんけれどね。いずれにしても、額縁の絵の上下逆転現象は犯人にとって困ったものだったに違いありません。  けれども、もっとも殺人に不向きなのは、この仕掛けをアリバイ工作の一手段として使うには、あまりにも確実性が低い、という点なのです」 「どういう意味で、確実性が低いと言われているのですか」  無罪放免となった先崎が、すっかり余裕を取り戻した声でひろみにたずねた。 「じっとしていれば、何も起こらない、ということです」  ひろみは答えた。 「わかりやすく言い直しましょうか」 「ええ、お願いしたいですね」  と、先崎。 「犯人が、夏子さんを殺すために白い部屋の逆転トリックを使ったとしたら、その理由はアリバイ工作のためにほかなりません」 「でしょうね」  先崎は、ひろみの後ろ姿に向かってうなずき、さらにつづけた。 「その場を動いたら死ぬぞ、と夏子さんに警告を放って犯人は立ち去り、そしてアリバイが完全に成立するくらいに遠くへ逃げたころに、夏子さんが部屋から逃げ出そうと不用意な動きをすれば、部屋が回転して宙吊り完成。見事な遠隔殺人のできあがりになる」 「でも、それはあくまで理想的に事が運んだ場合です」  ひろみが静かに言った。 「たしかに、夏子さんの事件では、その狙《ねら》いが奇跡的にうまくいったようです。でも、それはあくまで犯人にとって運がよかっただけという見方もできます。なぜなら、夏子さんが動き出すのが早すぎても遅すぎても、犯人のアリバイ工作は成功しないからです。私が申し上げた『確実性が低い』とは、そういう意味です」 「それはそうだ。その場を動いたら死ぬぞという警告を無視して即座に動いたら、犯人のアリバイは成立しないし、その逆に、湯沢教授が講演会場から戻ってくるまで夏子さんがじっとしていたら、教授が彼女を助けてしまう」 「ですよね」  と言って、ひろみは四人のほうをふり返った。 (きれいな子だな)  まったく唐突に、先崎陽太郎は思った。  ふり返った瞬間のひろみの表情がいきいきと輝いており、被写体に女性は求めないはずの先崎に、シャッターを押したいという写欲を湧《わ》き起こさせた。  そのひろみの輝きが、事件の真相をつかんだことによって得られたものだとは、プロの写真家にも気づかなかった。 「でも、それでもなお犯人がこの方法に踏み切ったとすれば、その理由は二つにひとつです。ひとつは、犯人がそういったトリックの弱点に気づいていなかった場合ですが、これはあまりにも犯人の能力をみくびる仮定ですから、ここでは脇においておきましょう。そうなると、残る可能性はこれしかありません。犯人は大いなる確信があったのです」 「確信があった、とは?」 「第一に、その場を動くな、という指示を夏子さんが一定時間は守るだろうという確信。第二に、けれども夏子さんは、じっとしていることにかえって不安を感じ、最終的には助けを求めて動き出すだろうという確信。そして第三は、万が一、夏子さんがじっとしつづけて湯沢教授に助けられ、犯人を名指しして糾弾しても、それを明確に退けることができるという確信です」  ひろみの言葉に、焦りの色をみせた人物がいた。  財津は、その人物の表情の変化に気づいた。  フレッドも気づいた。  もちろん、ひろみもである。 「湯沢夏子という女性の行動様式を専門的に分析する能力があれば、犯人は第一の確信と第二の確信をしっかりともちえたでしょう。それは、犯人が単純に自らの性格分析能力に自信があったからではありません。ましてや、血液型がAB型ゆえに人格分析が得意だったというわけでもありません。ひとえに、自らの肩書が犯人に植えつけてくれた自信——自分は心理学者以上に、人間の心理分析や性格分析に長《た》けたプロフェッショナルであるという自信——が、根底にあったからです」 「おい!」  すばらしくよく通る声で、AB型で精神科医の峰村準二が叫んだ。 「こんどは私が犯人役になるのかね」 「役ではありません、ズバリ犯人そのものです」  ひろみの厳しい返答に、声にも容姿にも自信のあるダンディな院長は、その場に棒立ちとなった。  先崎、大森、星の三人の視線が、こんどは峰村に集中する。 「ばかな」  峰村はつぶやいた。 「何の根拠もなく、いきなり私を犯人扱いするとは非論理的もはなはだしい。犯人追及の証拠に事欠いて、たんなるハッタリで人の反応をみようとしているのだろう。そんな子供だましの手口が通用すると考えているのだとしたら、警視庁捜査一課の名前が泣くというものだ」 「私の決めつけは、ちゃんと納得できるデータに基づいたものです」 「データ? どんなデータだ」 「その前に、第三の確信について言わせてください。第三の確信、つまり夏子さんが最後までじっとしていて湯沢教授に救出された場合でも、あなただけには、うまい言い逃れのチャンスが残されていました。写真家の先崎さんや、エッセイストの星さん、それに実業家の大森さんが言い張ってもとうてい通用しない弁解が、精神科医であるあなたが言えば、それなりの説得力をもつ。この安全弁があったから、あなたは白い部屋のトリックを用いたアリバイ工作に踏み切ったのです」 「そんなすばらしい弁解とは、いったいどんなものだね。ぜひお聞かせいただきたいものだ」  せいいっぱい落ち着きのある態度で答えようとしたが、峰村の声はうわずっていた。 「それはこうです——夏子君は被害妄想に陥っている」 「………」 「私は前々から、専門家として彼女の異常に気がついていたのだ。精神面の危うさに」 「………」 「それが、万一夏子さんが湯沢教授に救出され、あなたの殺人未遂行為を訴えたときの対抗手段でした。つまり、夏子さんの狂言だと思わせる作戦です」 「………」  峰村は、無言のままひろみと向き合っていた。  そして、何度か喉仏《のどぼとけ》を上下させてから、彼は言った。 「最後は精神科医という職業に、ひどい役回りを押しつけてくるわけか。……それでお嬢さん、このあと私にどんな反応をお望みかね」  峰村は笑った。  いや、笑ったつもりだが、顔面の筋肉がマヒしてうまく笑えない。 「告白をお望みかね。それとも脱兎《だつと》のごとく逃走するシーンがお望みかね。あるいは意味もない高笑いをお望みかね」 「峰村さんのお好きなように」  ひろみはクールに言い放った。  が、峰村も崩れる一歩手前で踏ん張った。 「お好きなようにと言われれば、私のとる手段はひとつしかない。さきほど先崎さんが言われたことのマネになるが、人権無視の強引な警察の独断に対し、弁護士を立てて法的手段で対抗するよりない」 「でも、あなたには動機があります」 「そりゃあるさ」  峰村は、急に開き直りに転じた。 「ぼくと夏子は関係をもっていた。そういう深みにはまった男女の間には、何があってもおかしくない。たとえ殺意が生まれてもね」 「あなたは、夏子さんを先崎さんにとられた鬱憤《うつぷん》を晴らしたかった。あなたたちは、最初はゲーム感覚だった。祖父離れをしたがっている夏子さんの心を、どちらが先にとらえられるか、と……。でも、大のおとながそのうちに本気になった。それだけ夏子さんにはすばらしい魅力があったのでしょうけれど」 「結構」  峰村は、芝居じみた態度をとる余裕を取り戻した。 「いいじゃないか。その推理もおおいに結構。そして私は、素敵な中年おじさまの先崎陽太郎さんに敗れたというわけだ。こちらもじゅうぶんに素敵な中年のおじさまだと思ったのだがね。どうやらあちらのほうが、やさしさの点で一枚上手だったようだ。『人にやさしい』というキャッチフレーズがぴったりの先崎大先生の大勝利という結末だよ。まったく、妻子持ちで五十すぎというハンディがありながらご立派というよりないね」 「では、背景は認められるのですね」 「認めますよ、ええ」  ときおり、先崎にチラチラ目をやりながら、峰村は言った。 「夏子君がなぜ私を選ばなかったのか、不思議でなりませんがね。ま、彼女に男を見る目がなかったと言うべきか」 「その場合、あなたは先崎さんの犯行に見せかけるため、意図的に夏子さんにおかしな口紅をつけさせたという可能性もありますよね。さっき私が述べたような、ミスディレクションをさせるような」 「お好きなようにおっしゃってください」  抑揚をうんとつけて、峰村は言った。 「こちらは無罪なのですから、何を言われようと最終的には反駁《はんばく》が可能だと思っています。もちろん、それは法廷の場で行ないますけれどね。……ですから、いまは何をおっしゃっても結構です。推理を述べるだけなら勝手です。まあ、烏丸さんの刑事らしからぬ愛らしさに免じて、あなたを名誉毀損で訴えることはしないつもりですが」  峰村は、余裕の笑みさえ浮かべた。こんどは、顔の筋肉も引きつっていない。 「ただ、私としては、先崎陽太郎という真犯人をなぜ捜査陣が捕らえないのか、その歯痒《はがゆ》さでいっぱいなんですよ」 「峰村さん。私の歩き方をよく見ていてください」 「え?」  峰村の発言とは無関係に、唐突にひろみが言ったので、峰村は理解できずに眉をひそめた。 「見るって、何を」 「私の歩き方です」  もう一度繰り返すと、ひろみは踵《きびす》を返して白い部屋の中に一歩足を踏み入れた。  そしてすぐに左手の壁にへばりつくようなポーズを取った。 「これが、先崎さんと大森さんの行動でした」  部屋の外にいる峰村たちをふり返って、ひろみは言った。 「つまり、部屋の真ん中の天井から湯沢教授の死体がぶら下がっているのを見つけたときの、お二方の行動です。このあと、私がみなさんに呼びかけて、湯沢教授の下半身を支えるのを手伝ってもらいました」 「ああ、なるほど」  峰村は、それがどうしたという顔である。 「このとき星さんは、失神した泉美さんを連れて玄関のほうへ行きました。そして、峰村さんはどんな行動をとったか——また私の歩き方を見ていてください」  いったん部屋の外に出たひろみは、こんどはこわごわといった足取りでドアの敷居をまたいだ。そしてすぐに、部屋の左右中央線上に足を伸ばし、その線上に沿って、教授がぶら下がっていた部屋の真ん中へと歩いていった。 「ずいぶん変わった歩き方をする人だな、と思いました」  峰村のほうをふたたびふり返りながら、ひろみは言った。 「あまりにも変わった歩き方なので、あの混乱の中でも、私の目についたのです。あなた、なぜそんな歩き方をしたんですか」  余裕を取り戻していた峰村の顔がふたたび青ざめた。  財津警部とフレッドが、そんな峰村に厳しい目を向ける。  そして、いままで黙っていたフレッドが口を開いた。 「ぼくもあの大騒ぎの中で、峰村さんだけが部屋の真ん中を通って、教授の死体に近づいてきたのをよく覚えています。だいたい、ふつうの人なら、先崎さんや大森さんがみせた反応のように、死体から遠ざかるものなんですけどね。でも、あなたは近づいてきた。部屋の真ん中を通って……。ただ、ぼくは烏丸刑事と違って、その歩き方に含まれた深い意味までは気づきませんでした。彼女の観察眼は鋭かったですね」  峰村が何も言い返せないうちに、こんどは財津警部がたたみかけた。 「あの時点では、まだ我々の誰ひとりとして白い部屋のトリックに気がついていなかった。そもそもあの仕掛けは、設計施工を引き受けた鈴木さん親子がやってきてはじめてわかったんですからね。だから、安全ストッパーがはずれたら部屋が回転するという概念は、我々にはまったくなかった。それゆえに、先崎さんや大森さんたちは平気で部屋の端に集まれた。ところがあなたは」  ギョロリとした目で、財津は精神科医を睨《にら》んだ。 「部屋は回転するという頭があるものだから、定位置に戻った部屋が、自動的にストッパーがかかり安定しているにもかかわらず、本能的におずおずと部屋の真ん中しか歩けなかった。無意識のうちに、部屋のバランスを崩さないように気をつかっていたのです」 「しょ……しょ……」  声優のようなしゃべり方が得意な峰村は、すでにうまく言葉が回らなくなっていた。 「なんですか、峰村さん。しょ……しょ……とは」  財津が冷たく問いただす。 「しょーこだよ、証拠がない」 「何の証拠です」 「私がそんな歩き方をした証拠がないと言っているのだよ。部屋の真ん中をこわごわ歩いたという証拠が……。え? あるなら見せてもらおうじゃないか。ビデオか写真機で撮影していたのかね」 「峰村さん」  財津は、悪あがきはおやめなさいといった表情で首を振った。 「私はあなたのAB型的論理性を高く評価します。おそらくあなたは、犯行当日は細心の注意を払ったに違いない。たとえば、この白い部屋の中に指紋をつけないよう手袋もはめていたことでしょう。しかし、それはあくまで犯行当日の話です」 「………」 「湯沢教授の推測が当たっているなら、犯人は犯行の日より何日か前に……あるいは何週間か前にこの装置の存在を知ったことになります。書棚の奥に隠された回転装置のハンドルや設計図を見つけたときは、きっと犯人も興奮したでしょうね。しかし、その時点から手袋をはめ指紋をつけないように注意していたわけでもありますまい」 「………」 「人間の心理なんて、そんなものですよ。殺人を決意してからは慎重な行動をとっても、それ以前は、あなたにも自分が殺人犯人になるのだという自覚がない。当然、あなたは素手でこの研究室のあちこちを触ったはずです。犯人と教授以外はさわっているはずのない秘密の場所をね。……そのへんのところは、これから鑑識係がじっくりと指紋の照合に当たらせていただきますが」  湯沢夏子を殺した犯人は、論理的に逃げ場がないのを知って、がっくりとその場にくずおれた。  [#改ページ]   エピローグ 「ねえねえ、フレッド」  落ち葉が舞い散る公園通りを下って渋谷駅のハチ公前広場までくると、烏丸ひろみは同僚の金髪刑事の腕を引っぱった。 「なんだよ」  スクランブル交差点で信号待ちする人の群れの中から、頭ひとつ飛び出した感じのフレッドがふり返る。 「さっきからずいぶん目立ってるじゃん。けっこう、すれ違う女の子がふり返ってたよ、フレッドのこと」 「そういうひろみもね、ぼくがそばにいなけりゃ、『お茶でも飲みにいきませんか』の嵐だぜ」  けさの二人はどこからみても刑事ではない。仲のいいカップルが日曜日のデートを楽しんでいる、といった光景である。  珍しくひろみは、ベージュ系のシェットランドセーターにスウェードのロングスカートという、英国風のカジュアルな服装をしていた。そして、首にふわっとマフラーを巻いている。  そうしたファッションにリーゼントヘアが、また妙に決まっていた。  どちらかといえば愛嬌《あいきよう》のあるひろみの顔だちがリーゼントの持つ力強い雰囲気を和らげて、ちょうど服装とのバランスをうまく保っていた。  一方のフレッドも、オフホワイトのカーディガンにセピア色のパンツで決め、こちらは長身の上に金髪ときているから、さりげないファッションでも、モデル風に決まってしまう。  だから、この二人が街ゆく若者の注目を集めていたのは事実である。 「このまま、もうちょっと二人でいたい気もするよな」  いきなり、意を決したようにフレッドがつぶやいたが、間の悪いことに、ちょうど交差点の歩行者用信号が青に変わり、人の流れに押し出される形でフレッドとひろみはバラバラに離れてしまった。  そして、交差点を渡りきってハチ公の銅像前でふたたびいっしょになったときには、目の前に待ち合わせをしていた財津警部が立っていた。 「おうおう、おまえらも案外時間に正確だな」  あいかわらずの大声である。 「どうせなら、警部はもうちょっと遅れてくれてもよかったのに」  フレッドはため息をついてぼやいたが、 「おれも、おまえに対して同じことを言いたいよ」  と、すかさず財津に切り返されてしまった。 「それにしても、いいねえ。美人はどんな格好をしても決まるねえ」  そばにいるフレッドなどまるで眼中にないといった様子で、財津はひろみのスタイルに目を細めた。 「まるで、女の子のファッション雑誌から抜け出してきたみたいじゃないか」 「またまたー、そういう警部だって……」  といいながら、ひろみは思わず吹き出してしまった。  コーデュロイのパンツに革ジャン、そして頭にはハンチング。財津大三郎なりの休日のおシャレなのだろうが、どうみても競馬新聞に赤鉛筆を持たせたほうがよさそうな雰囲気である。  世間を騒がせた湯沢邸殺人事件も、一件落着をみてからもうすぐ一週間が経つ。  そこで、ちょうど三人そろって休みがとれたのを機に、財津警部が若い二人にごちそうをしてやろうということになったのだ。 「さてと、予約時間にはちょっと早いけど、とりあえず店のほうに行くか」 「はーい」 「でも、いいんですか警部。昼間っからステーキをごちそうしてくれるなんて。太っ腹だなあ、O型は」  持ち上げるフレッドに、 「ヨイショをしても肉のおかわりは出んぞ」  と、また警部が牽制《けんせい》する。 「だいたいな、ひろみ。B型の男というのは、お調子もんが多いから気をつけたほうがいい」  フレッドを尻目《しりめ》に、ひろみと並んで歩きながら警部は最近すっかり凝ってしまった血液型性格分析を展開した。 「まあ、ひろみのようにA型の女の子は、結婚するならAかOを選ぶのが無難だな。A型の男はなんといっても安心感があっていい。O型の男もいいぞ。おれを見ればわかるとおり、広い胸にドーンと飛び込んで甘えられる感じがするだろう」  ひろみは首をすくめるようにして笑った。 「もちろん、AB型にもいい男がいないわけじゃないがな」 「B型はダメ?」  ひろみは警部にきいた。 「いや、血液型占いの本によれば、だ、じつはハマッたときの相性の良さでは、B型男とA型女がもっとも強力というんだよなあ」  財津は不満そうに言った。 「いちばん対照的な位置にあるAとBとがわかりあえたら、こいつはパワーがある。だから、おれは恐れているんだ」  財津は小声でひろみにささやくと、チラッと後ろをふり返った。 「あれ、フレッドはどうした」  すぐ後ろについてきていたはずの彼の姿が見当たらず、財津とひろみは立ち止まってあたりを見回した。 「あいつ、冷たくしたもんだからスネて帰っちゃったかな」 「まさか……ステーキを目の前にして帰りませんよ、フレッドは」 「そりゃそうだな」  二人がそんなことを話していると、どこからかフレッドの呼ぶ声がした。 「警部、ひろみ。こっちこっち」  声がするほうを見ると、駅頭に駐車している献血車の前で、フレッドが手招きしていた。 「だめですよ、二人とも。話に夢中でさっさと行っちゃうんだから。彼女たちに協力してあげないとかわいそうでしょ。こうやって寒空でがんばっているんだから」  フレッドは駅頭で献血を呼びかける女性に目をやった。 「どうせこのあとステーキを食べて精力をつけるんだから、その前にほら……早くきて」  大声でそう言うハンサムな『ガイジン』に、献血車の係の女性は称賛の熱いまなざしを送っている。 「フレッドのやつ……まったく」  財津はいかつい顔をしかめていった。 「形勢不利とみるや、いきなり点数稼ぎに出おって」 「そこが彼のいいところじゃないですかー」  ひろみはフレッドの姿を見ながらニコニコ笑っている。 「ね、警部。私たちもあそこへ行きましょうよ。……そんなこわい顔しないで」  ひろみは、財津のごつい体を押してUターンさせた。 「もちろん献血するのはかまわん。かまわんが、だな……」  ぶつぶつ言いながら献血者を受付けるテントの前までくると、財津はフレッドの腕をつかまえ、白衣を着た女性の前に突き出した。 「我々三人で献血に協力させてもらいますが、とくにこの男からは、一リットルくらい血を抜いてもらえんかね」 「警部……」  情けない顔で抗議するフレッドを無視して、財津はつづけた。 「本人はB型だといっとるが、やたらとC調なんで、もしかしたらC型という新種なのかもしれん。研究の価値はあると思うから、思う存分採ってやってください」 [#改ページ]   あとがき  易とか星占いとか手相とか、いわゆる一般的に『占い』と総括されるものは、未来の予測というよりも、多分に人生相談的な部分が強いものであるべきだという気がしています。  当たるも八卦、当たらぬも八卦という言葉がありますが、いったい占いはほんとうに当たるのか、という根本的な疑問は誰でも抱いたおぼえがあるでしょう。しかし、我々一般人にとって占いの存在意義とは、未来の予測が当たるのか当たらないのかという確率論的な問題にあるのではなく、占術家が相談者の人生をどのように分析してくれるのか、という点にあるのだと思います。  仮に易学などをきちんと系統だてて学んでいても、B級、C級の占術家は、人を怖がらせるか、あるいは喜ばせるか、この二つをうまく使い分けて、相談者の心理を揺さぶってはお金をとっているだけで、マスコミなどで流行現象としてもてはやされる占術家や、よく当たると評判の近所の占い師などは、おおかたこのパターンにすぎません。  しかし、Aランクの占術家というのは、たとえば易で現れた結果は結果として横に置き、まず、相談者が何のために未来を知りたがっているのかを鋭く察知します。  悩みがあるからなのか、積極的に人生を変えたいからなのか、新しい仕事をはじめるからなのか——。それを豊富な面談経験から推察してゆき、最終的にはその人の人生にとって最良と思われるアドバイスを与えて鑑定を終える。これがAランクの占術家のやり方で、いわば占い師というよりも、人生相談の師なのです。相談者側から占術家を逆診断するポイントは、そこだと思います。たんにお告げを述べたてるような占い師は、どんなに有名であっても底が見えています。  先頃お亡くなりになった日本占術協会副会長の大熊茅楊先生は、『占いで人を怖がらせるのは最低の行為です』と断言しておられましたが、まさに至言といえましょう。  さて、プロの占術家をどこまで信じるかは別問題にして、友達どうしなどでごく気軽に、占いによる性格判断を行なうのは、日常的な光景としてよくみられます。  乙女座の女性はこういう性格だとか、三碧木星の男性はこうだといったふうに、学校の休み時間やオフィスの昼休み、アフターファイブの話題として盛り上がる話題のナンバーワンかもしれません。  ところで、血液型はどうなのでしょうか。  これも占いのジャンルに入れて、『血液型占い』という名目で雑誌のコラムに特集されたり単行本が出版されたりしていますが、調べれば調べるほど、血液型による性格判断は『占い』ではなく『統計的なデータに基づく分析結果』ではないかと思うようになってきました。  とくに、この『血液型殺人事件』を執筆しはじめてからは、会う人ごとに片っ端から血液型をたずねてまわりました。そこで得た意外な現実を二つばかり披露しておきましょう。  まず第一に、ほとんど全員の人が、自分の持つ血液型にはこういう性格的特徴があると、しっかり認識していることです。つまり、血液型によって性格が違うなんて、そんなのありっこないよ、という意見にはひとつもぶつからなかったのです。  もうひとつは、周囲の人間の血液型をじつによく知っていることです。友達の血液型ひとつとっても、十人分以上をデータとして把握しているなどザラ。いかに、日ごろ血液型性格分析が話題になっているか、という証拠だと思います。  ところで、本作品の中で湯沢教授に語らせている血液型別の特質は、さまざまな血液型性格分析の本を読んだ上で、さらに数多くの知人友人にインタビューを重ねた統計結果を加味して、私なりの味つけをしたものです。作中でふれていますように、独断と偏見による私の血液型論の視点は、血液型別に性格が異なるというよりは、血液型別に人を動かす要素が違う、というポイントにあります。  繰り返しになりますが、A型は『責任感』、B型は『感性』、O型は『信念』、AB型は『論理』。これが、その人を動かす最大の要因だと、私は結論づけました。  ちなみに、歴代の日本国総理大臣の血液型を列挙しますと、A型は佐藤栄作、三木武夫、海部俊樹。B型は田中角栄、竹下登。O型が多くて、福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸、中曾根康弘、細川護熙、羽田孜、村山富市。AB型が宮沢喜一、というふうになります。とくに五十五年体制崩壊後の総理は三人連続O型です。  けっこう当たっていそうな部分があるでしょう(……そうでもないかな)。  さらに今回、血液型をテーマにしたミステリーを書きながら思ったのは、『血液型が違うんだから、あの人とは性格的に合わなくてもしょうがない』という割り切り方をすれば、人生はずいぶん楽になるなあ、ということです。これが今回の作品を執筆して得た最大の収穫でした。こう考えると、対人関係はグッと楽なものになりますよ。  それにしても、周囲にA型、B型、O型、AB型とあらゆるタイプの知人友人がいるので(あたりまえですが)独善的な血液型論をぶつにも、いろいろ気をつかいました。ほとんど配慮のかたまりになってしまった部分があるのは、私の血液型による性格がなせるわざです。  なおこの作品は、一九九二年一月にカドカワノベルズより発表した『ABO殺人事件』を改題のうえ、全面的に改稿したもので、結末もまったくオリジナル版とは異なっています。  著作リストをごらんになればおわかりのように、私はこれまでにも初期作品のいくつかを文庫化するさいに、タイトルを変えたうえ完全改稿しています。たんに表現に手をくわえるだけでなく、ストーリーの流れをガラッと変えたり、犯人まで変えてしまう場合もありますが、『ABO殺人事件』を『血液型殺人事件』に模様替えするときも、やはり同じような大変更を加えました。長さも、四百字詰めに換算して、およそ百二十枚分ほど長くなっています。  なぜそんなことをするかという理由は『「伊豆の瞳」殺人事件』巻末の自作解説の中に記してありますので、なにかの機会にお読みいただいて、趣旨をご理解いただければ、と思います。   一九九四年十一月 [#地付き]吉 村 達 也   本書は平成四年一月にカドカワノベルズとして刊行された「ABO殺人事件」を改題し大幅に改稿したものです。 角川文庫『血液型殺人事件』平成6年12月25日初版発行              平成9年10月10日10版発行