[#表紙(表紙.jpg)] 時 計 吉村達也 目 次  一 ラスト・メッセージ  二 死よりも怖い生  三 大雪の朝に  四 プールを泳ぐもの  五 誰にも言えない話  六 過去を持ってきた女  七 封印されていた記憶  八 地獄のクリスマス・イブ  九 禁断の森へ  十 メタル・ベンダーの怒り  十一 最後の日記  十二 嵐の夜のシューベルト [#改ページ]  一 ラスト・メッセージ[#「一 ラスト・メッセージ」はゴシック体]  神保康明《じんぼやすあき》は夢をみているような状態でありながら、それが間違いなく現実であることをちゃんと認識していた。そして、自分にとっておそらくきょうが人生で最後の一日になるであろうと予感していた。  彼は、自分が病院のベッドに横たわっていることを理解していた。ただし、その寝心地は、通常の入院病棟に備えられている、多少なりとも「寝具」としての機能を持ったものではなかった。最初は救急車から運び出されるストレッチャーの硬い感触、つぎに救急救命室《ICU》の処置台、そのつぎに手術台、そしていまはのベッドに寝かされていた。どれもこれも一刻を争う死との闘いの舞台であり、心地よい眠りに誘ってくれるための配慮など一切ない無機質なものだった。  城南出版社の代表取締役社長を務める神保康明は、いま六十六歳という年齢に達していたが、彼は内科的な重病で床に臥《ふ》せっているのではなかった。昨夜遅く、晩秋の大雨に見舞われた東名高速道路下り線の厚木《あつぎ》インター手前あたりをひとりで運転していたところ、後方から猛スピードで突っ込んできた乗用車に追突され、それをきっかけとした多重事故に巻き込まれて重傷を負っての緊急入院だった。だから彼が運び込まれたのは、住まいのある東京都内ではなく、神奈川県厚木市内の救急病院だった。  ひどい事故だった。左腕切断、内臓破裂。生きて病院まで担ぎ込まれたのが不思議なくらいだと、救急隊員も病院の医師たちも、口にこそ出さなかったが、神保の悲惨な姿を見てそう思っていた。  だが、神保康明は生きていた。それどころか意識もあった。  ただし、それは一般的な概念でいうところの「意識」とは異なっていた。夢の中に置かれているような、あるいは冥界との境界線をさまよっているような、きわめて曖昧《あいまい》なものだった。その一種の浮遊感を伴う意識は、全身麻酔をかけられているにもかかわらず、自らの手術中も途切れることがなかった。  肘《ひじ》の上から切断された神保の左腕は接合不能で、切断面を縫って閉じる措置のみがとられ、十二時間に及ぶ手術時間の大半は、ひどいダメージを受けた内臓の処置にあてられた。しかし、医者であれば、誰が担当しても神保の命をながらえさせるのが不可能と判断するよりない状況だった。  それでも生命維持装置のモニターに表わされる波形は、なかなか死を意味する水平にはならなかった。不思議なことに、全身に激しい事故の衝撃を受けながらも、脳は無事だった。頭蓋骨《ずがいこつ》にもヒビひとつ入っていなかった。  手術が行なわれている間に、急を聞いて駆けつけた神保の家族が病院に集まってきた。手術が終了し、ICUに移された午後になって、家族は神保と対面した。医学的にはきわめて危険な状態にあったが、執刀にあたった主治医は、あえて面会謝絶にはしなかった。そう判断したのには、いくつかの理由があった。  即死は免れたものの、神保があと何日、いや何時間生きながらえるかわからなかったので、生きているうちに家族に会わせてやりたいとの考えもあった。また、胴体と四肢にはひどい損傷を負いながらも、奇跡的に頭部にはほとんど傷がなかったので、左腕の切断部さえ隠しておけば、家族に会わせても外見からショックを受けることはないだろうとの判断もあった。何より、意識を失っているから[#「意識を失っているから」に傍点]、家族の呼びかけが本人の肉体にこれ以上の負担をかけるとは思えなかったのである。  医師は知らなかった。目を閉じて微動だにせず、脳波計でもまっとうな思考活動は認められないにもかかわらず、瀕死《ひんし》の重症の患者が、じつは事故前と変わらぬレベルで物事を考えつづけていることを。  神保康明の頭脳は、事故の衝撃や手術の麻酔の影響を受けることなく、正常な思考レベルを維持していた。  現在の時刻は午後二時。外は晩秋の弱々しい太陽が雲間から覗《のぞ》いている天気だったが、ブラインドで遮断されたICU室内は照明によって奇妙に明るく、現実の時間と遊離した「夜のようでいて昼のような」不思議な雰囲気に包まれていた。病院の外が朝でも昼でも夜でも、集中治療室の中だけは時計とは無縁の時間が流れていた。  白衣を着て頭にキャップをかぶった家族三人が、ICUの一角でベッドに横たわる神保の周りに集まった。  妻の敦子《あつこ》、六十歳。長女|真美《まみ》の、三十一歳。長男の透《とおる》、二十六歳。それに、ことし初めに透と結婚したばかりのルイ、二十三歳。  その中でいちばん取り乱しているのが、神保と三十三年にわたる夫婦生活を送ってきた妻の敦子だった。 「パパ……どうしてこんなことに」  敦子はそう言ったきり、しばらくは涙で言葉にならなかった。  医師は、片腕がなくなったところを見せまいと配慮して、家族を神保の右側に立たせ、左腕の周囲をシーツで覆っていたが、そんなことをしなくても、さまざまなチューブがつなげられた、いわゆるスパゲティ状態になった夫の身体をまともに見る勇気は、妻にはなかった。 「もう年なんだから、とくに天気の悪い夜の運転は気をつけてね、って、あれだけ言ったのに」  太い黒縁のメガネを押し上げて涙をぬぐう敦子の口から、後悔の言葉が途切れとぎれに洩《も》れた。 「いやな予感がしていたのよ。あんなにひどい雨なのに、夜遅くになって急に出かけると言いだして……。何の用事なのか、どこへ行くのか、私にはぜんぜん教えてくれなかったけど、すごく顔色が悪くて、寒気がするのか身体も少し震え気味だった。きっと風邪《かぜ》でひどい熱があったのかもしれない。止めればよかった。私が引き留めていれば、こんなことにはならなかった」 「自分を責めないほうがいいよ、ママ」  ふたりの子供のうち、息子の透が母親の肩を抱いて慰めた。 「ママのせいじゃないんだから。猛スピードでパパの車に突っ込んだ学生の車が原因だって、警察も言ってただろ」 「そうよ。とにかくいまはパパが助かってくれることだけを祈りましょう」  と、娘の真美も弟といっしょになって、動揺する母を慰めた。だが、真美自身の声も涙で揺れていた。父の命があとわずかで尽きることは、彼女にもわかっていた。  そんな中、透と結婚して神保の苗字に変わった旧姓・村木ルイだけは、ひとり距離を取ってベッドの足元のほうで青い顔をして立っていた。神保家の家族の輪に溶け込めないというわけではない。別の理由があった。  じつはルイは妊娠していた。十週目に入ったところで、つわりもかなりひどくなっている時期だった。子宮内の胎児は、そろそろ顔・胴体・手足の形がはっきりしてきたころで、その成長にともなってルイは腹部の圧迫感や腰の痛みも覚えるようになっていた。  もちろん初めての妊娠だったから、そうした体調の変化がすべて不安で仕方なかった。そしてルイは、精神的なショックが胎児に与える悪影響を恐れ、神保家の悲嘆から物理的にも心情的にも距離をおこうとしていた。一種の自衛本能だった。  だが——  ICUに入ってからというもの、腹の中で胎児が微妙な動きをはじめたのをルイは感じていた。通常、胎児の動きを感じるまでにはあと二、三週かかると言われていたが、間違いなく、いま胎児は微妙な動きをはじめていた。もぞもぞ、もぞもぞ、と羊水の中でうごめきだしているのだ。まだ人間らしい体裁が整う過程にあるというのに。  もしかすると胎児が動いているのではなく、羊水そのものが振動をはじめているのかもしれない、という気がした。子宮の中で液体がさざ波だっている感覚だった。 (なんだか、ヘン)  悲嘆にくれる神保家の人々を見やりながら、ルイは無意識のうちに両手を腹に当てていた。 (私のお腹の中が、おかしい) (この部屋から出ていきたい) (何かよくないことが起こりそう)  恐怖の波動が押し寄せてきていた。  そのときだった—— 「時計を信じるな」[#「「時計を信じるな」」はゴシック体]  声が聞こえた。  え、と思って、ルイは見ないようにしていたベッドの義父に目を向けた。間違いなく、いまのは夫の父の声だとわかったからだ。しかし、ベッドの上でさまざまなチューブをつなげられた状態のまま、神保康明は目を閉じ、まったく動かなかった。  だが、錯覚ではない証拠に、真美と透の姉弟が驚いた表情で顔を見合わせていた。いまの声を聞いたか、というふうに。ひとり妻の敦子だけがハンカチで口元を押さえ、さめざめと悲しみの涙を流しつづけていた。彼女の耳には何も聞こえていない様子だった。  戸惑うルイは、一歩、二歩と透に近寄り、声をかけようとした、そのとき、また聞こえた。 「時間の概念を変えよ」[#「「時間の概念を変えよ」」はゴシック体]  ルイは凍りついた。  こんどは自分の目と耳ではっきり確かめた。ベッドの上の義父は唇を一ミリたりとも動かしていなかった。しかし、しゃべっていた。その声がルイの鼓膜を振動させていた。頭の中でテレパシーのように声が響いたのではない。はっきりと耳の鼓膜が振動していた。それなのに、声の主は口を開いていなかった。 「透」  ルイは、震える声で後ろから夫にささやきかけた。  が、透はルイに背を向けたまま、右手を腰の低い位置のところで動かし、「しっ、黙ってて」というしぐさをした。  いまの声も、透と真美に聞こえていたのは確実だった。ふたりの視線は父親の顔に注がれ、じっとつぎの言葉を待っていた。  すると、すぐにそれはきた。 「時は時計が決めるものではない」[#「「時は時計が決めるものではない」」はゴシック体]  娘の真美と息子の透が、母親を脇へ押しやるような形でベッドに身を乗り出した。 「人は、時の流れは目に見えないものだと信じ込んできた」  言葉が長くなってきた。しかし、依然として神保は表情筋ひとつ動かしていない。 「その時の流れをとらえるために、時計という道具を発明した。だが、時計など使わなくても、時間は見える」  いったいどこから声を出しているのだろう、と、ルイは呆然《ぼうぜん》として義父を見つめていた。あいかわらずその横では、敦子が「パパ、死なないで。私を置いて先に行かないで」と涙を流しつづけている。  やはり敦子には聞こえていないのだ。  だいぶ離れたところに控えている医療スタッフも、特別な反応を示していない。ベッドの枕元に置かれた、ルイには何を示しているのかわからないモニター画面にも格別な変化はなかった。それなのに神保康明はしゃべっていた、口を閉じたまま。 「時間の正体は波動だ。しかもそれは生命体そのものが発する波動であり、それぞれに固有の波形を持っている」  まるで、どこかの教授が大学で学生に向かって講義をするような口調だった。 「だから、時の流れは生命体の種によって大きく異なり、さらには同じ種の間でも個体別に異なる。それが時間の正体だ。時間は太陽や地球の動きが決めるものではない。天体の運行をもとに時間の概念を規定するのは、時の本質を見誤らせることになる」  真美と透の後ろに立っているルイは、姉弟がたがいの手を握り合っているのに気がついた。 「時の本質を見誤れば、生命の本質をも錯覚することになる。いいか、真美、透、よく聞け」  神保の声は、はっきりとふたりの子供に向かって呼びかけた。 「すべては波動だ。私はそれを伝えるために、この年まで生きてきた。本来なら高校三年生の春、中伊豆《なかいず》の森で自らの命を絶っていたかもしれない私は、その真実を後世に伝えるために生きながらえさせられてきた」  中伊豆の森、という言葉が、ルイの耳を貫いた。義父のそのエピソードは、夫の透から聞かされていた。  いまから五十年近い昔のこと、クラスメートや教師からもいじめられていた高校生時代の神保康明は、抗議の自殺をすることで彼らへの怨みを晴らそうと、卒業式の日に、式典には出席せずバイクを飛ばして中伊豆の森へやってきた。ハイカーすらめったに通りかからないような深い森の中で首を吊《つ》ろうと考えたのだ。  だが、何かが神保を思いとどまらせた。  土壇場で自殺を思いとどまったその理由について、息子の透は知らないという。また、父親にきくわけにもいかないと言った。だが、透の姉の真美は知っているらしかった。  その理由が何であれ、そこで神保康明という高校生が死を回避したからこそ、いまの姉貴やぼくが存在しているというのは不思議だよね、と透はルイに語ってくれたことがあった。 「パパ」  その声に、ルイはハッとなった。  こんどはまともな声だった。透が父に呼びかけているのだ。 「パパ、何か言いたいことがあったら、ちゃんと言ってくれよ。ぼくには聞こえるから」 「私にもよ」  と、真美も言った。  ルイも声を出さずに「私にもです、お父さま」と、心の中で思った。  しかし敦子だけは、百パーセント現実的な世界にいた。 「あなたたち、何を言ってるの。パパがしゃべれるわけがないでしょう。無茶を言わないで」  だが、神保康明の声は、子供たちの呼びかけに応《こた》えた。 「予定よりも五十年近く生き延びてきた私だが、まもなく人生の終わりを迎えようとしている。それは避けがたい確定的な運命だ。だが、最後におまえたちふたりに頼みたいことがある」  そして、耳に響く神保の声が一段と大きくなった。 「私が死んだら、私を解剖しろ。見落としがある」[#「「私が死んだら、私を解剖しろ。見落としがある」」はゴシック体]  直後、ベッドサイドのモニターが異変を知らせる警報音を鳴らした。  離れたところにいた医療スタッフが、ひとり、ふたり、三人と飛んできた。 「パパ!」  叫んだのは、妻の敦子だった。 「パパ、だめよ、死んじゃだめ。死なないで、おねがい」 「緊急措置を行ないます。ご家族の方は外に出ていてください」  白衣を着た医師のひとりが強い口調で命じた。 「いやよ、いやいや。このまま別れてしまうなんて、私、耐えられない」 「ママ、行こう」  硬い表情で、透が母親の手をとった。 「ぼくらがいれば、邪魔になるだけだ。さあ……」 「そうよ、ママ。出ましょう」  透と真美は、強引に母親をベッドのそばから引き離し、ICUの出口に向かった。そのため、ルイだけがひとり取り残される恰好になった。透は、ルイも自分たちのあとについてくるものと決め込んで、ろくに彼女をふり返りもしなかった。 「申し訳ありません、あなたも外に」  ベテランらしい看護師が、立ちつくしているルイに声をかけた。  だが、彼女は動かなかった。というよりも、足に根が生えたようにその場から動けなくなっていた。 「ルイさん」  医者たちに囲まれて緊急措置をほどこされている神保が、ルイだけに聞こえる声で死の床から呼びかけてきた。 「これからの人生で何が起ころうとも、あなたは正気を失ってはいけないよ」 「ど……どういう意味ですか」  おもわずルイは問い返した。  だが、看護師はそれを自分に向けて発せられたものと勘違いした。 「どういう意味もなにも、こういう状況になったらご家族でも退出していただくのがICUのルールです。わかりましたね、さあ」  看護師はルイの腕をとって、出口のほうへ身体を向けさせた。 「ルイさん」  ルイの背中に向かって、神保康明の声が呼びかけてきた。 「生と死の間を隔てる距離が時間なのだよ。そして、その時間は永遠なのだ。この意味がわかるかな」 「わかりません」  ルイの返事を、また看護師が勘違いした。 「とにかく、ここに居残っていただくわけにはいかないのです。お母さまもご主人さまもお出になりましたよ。さあさあ」  ルイの身体を押す看護師の腕に力が入った。否応なしに出口のほうへ押されながら、ルイは神保康明の最後のメッセージを聞いた。 「生命はリレーした。新しい時間がはじまった」[#「「生命はリレーした。新しい時間がはじまった」」はゴシック体]  ダーン、と音を立ててルイの子宮の中で大きな衝撃波が発生した。  そして彼女は気を失って、その場にくずおれた。 「午後二時七分」  遠くのほうで、ルイは医者の声を聞いていた。 「お亡くなりになりました」  神保康明の枕元で、すべてのモニター機器が波動の消滅を示していた。  それが「終わりのはじまり」だった—— [#改ページ]  二 死よりも怖い生[#「二 死よりも怖い生」はゴシック体] 「排気ガスで死ぬのって、どんな気分なのかなあ」  車の運転席で、四十五歳の営業マン・井上浩《いのうえひろし》がつぶやいた。 「苦しいんだろうか。それともフーッと気を失うだけなんだろうか」 「苦痛という点では問題ないんじゃない?」  助手席に座る二十七歳のOL・中嶋美紀子《なかじまみきこ》が、投げやりな口調で応じた。 「めまいや吐き気や頭痛を感じる段階を超えてしまえば、あとは気を失って楽勝で天国だってさ」 「楽勝で天国行き?」  相手のほうへは顔を向けず、フロントガラス越しにヘッドライトに照らされた深い森を見つめながら、井上が問い返した。 「いったい、あんたは誰からそんな話を聞いたんだよ」 「物の本で」 「物の本、かよ」  井上は、皮肉っぽく唇を歪《ゆが》めて笑った。 「その著者は、排気ガスで自殺した経験でもあるのかい」 「そんなの知らないわよ。ただ、そう書いてあったから言っただけのこと」  すると、後部座席にひとりで座っていたメガネの大学三年生・細野基樹《ほそのもとき》が感情のない声で割り込んだ。 「たしかに最終局面では意識を失って死を迎えますが、天国へ旅立つ前に、最悪の地獄を通り抜けなければなりません」 「どういう意味だ」  運転席からふり返ってたずねる井上に、基樹は言った。 「幻覚を見る可能性があります。そして人によっては、その幻覚から錯乱状態に陥ることもあります」 「ゾッとしないね」  井上は肩をすくめた。 「この車の中に三人がいて、死んでいく途中で誰かが先に錯乱状態になってみろ。落ち着いて死ねたもんじゃない」 「それから失禁、脱糞《だつぷん》もするでしょう」 「なに?」 「オシッコやウンコを洩《も》らす可能性も大、ということです」 「ほんとかよ」 「ちなみにぼくは、昨日から水以外に何も摂《と》っていません」 「きょうの自殺に備えてかい」 「そういうことです」  暗い車内で、ヘッドライトの輝きをメガネのレンズに反射させた基樹が淡々と言った。 「それはひとつのマナーですから」 「まいったな」  井上はため息を洩らした。 「おれは人生最後の食事だと思って、東京を出る前にラーメンを食ってきた。しかも大盛りだ」 「自殺決行直前に、そんな食欲が出るあなたの神経が信じられません」 「事実なんだから仕方ねえよ」 「ともあれ、それだけ食べたなら出ますね」  基樹が、おかしくもなさそうに言った。 「間違いなく、洩れます」 「かんべんしてくれよ。きたねえ死体になって発見されるのか」 「ふたりとも、死ぬ前に何をバカな会話してんのよ」  助手席の美紀子がうんざりした顔でタバコをくわえ、シガーライターを押し込んだ。 「自分はきれいに死ねるんだって信じなさいよ。信じれば、それが真実になるのよ。なぜなら、本に書いてあったことと違うじゃないかとか、こんなはずじゃなかった、なんて文句を言う時間は、自殺の後にはこないんだから。でしょ? 死とは、苦悩や後悔から永遠に解放されること」 「やれやれ……」  片手をハンドルに載せたまま、井上がもう一方の手で肩を揉《も》んだ。 「どっちにしても、家族にゃ見せられない姿になって発見されるわけだな」 「奥さん、いるの?」 「いるよ。中学生の娘もいる。ふたりもな。……女房子供のことは考えたくない」  井上は、つらそうに首を振った。 「家族がどう思うかを想像したら、頭がおかしくなりそうだ」 「もうなってるよ、あたしたちは」  美紀子が冷たく言った。 「おかしくなってるから、見ず知らずの人間といっしょに、こんな淋《さび》しい森のそばで自殺しようなんてことを考えたわけでしょ」  エンジンをアイドリング状態にした静かな車内に、ポンと、シガーライターの飛び出す音が響いた。  赤く熱せられたその電熱コイル部分をタバコの先端に当て、美紀子は頬をすぼませて息を吸い込んだ。タバコの葉の燃える匂いが漂った。  ダッシュボードのデジタル時計は、午前二時十五分を指していた。そしてカーナビの液晶画面は、いま車が伊豆半島中央部の山の中にいることを指し示していた。地図には曲がりくねった道が一本記されているだけで、ほかには何の目標物も出ていなかった。それだけで、いかに人里離れた場所であるかがわかった。 「人生最後の一服……か」  小さくつぶやくと、美紀子は煙とともに自嘲《じちよう》的な笑いを洩らした。 「ヘビースモーカーのあたしが、こんな形でタバコを辞められるとは夢にも思わなかったわ」 「おれにも一本くれ」 「どうぞ。それから、とりあえずヘッドライトは消してくれない? まぶしすぎて雰囲気出ないじゃない」  タバコを井上に差し出しながら、美紀子が頼んだ。が、 「いや、まだだめです」  と、井上ではなく、大学生の基樹が後ろから口をはさんだ。 「排ガスを車内に回し込むためのホースを取り付ける作業が残っています。そのためには、周りは明るいほうがいい。つけ方が中途半端で死ねなかったんじゃ、わざわざ伊豆の真ん中までやってきた意味がない」 「じゃ、早く準備してよ」 「命令はしないでくれませんか」  基樹が、あくまでクールな口調で言い返した。 「ぼくたちが自殺系サイトで知り合ったときには、おたがいに本名も年齢も職業も知らなかった。ハンドルネームで呼び合い、明らかになっていた要素といえば、男女の性別ぐらいなものです。ネットの世界で、ぼくたちは平等でした。いま、おたがいの『実体』をまのあたりにしたからといって、俗世間の肩書や年齢などを持ち出して、いまさら上下の関係を作ろうとしないでもらえませんか」 「はい、はい、わかったわよ。死ぬ前に説教なんてたくさん」  タバコの煙を乱暴に吐き出して、美紀子が言った。 「あたしは、ほかの人といっしょに死ぬんだったら、土壇場のためらいがなくなっていいと思ってた。だからあなたの呼びかけに応じたんだけど、まさか年下の学生さんとはね。ネットじゃ、ずいぶん老けた文章を書いていたのに」 「人間、ひきこもってりゃ老けますよ」  ずり落ちそうになっているメガネを人差指で持ち上げながら、基樹は言った。 「実際、自分がまだ二十一歳だなんて信じられませんからね」 「おい」  最年長の井上が、自分が吐き出したタバコの煙を手で追い払い、フロントガラスの向こうを指さして言った。 「見ろよ。雪が降ってきた」  森の入口を照らし出すヘッドライトが、白いものが舞い降りてくるのをとらえていた。 「そりゃ、もう十二月だもの。伊豆の山で雪が降っても珍しくないわ」 「わかってるのか、人生最後に見る雪なんだぞ。人生最後のタバコよりは、よっぽど心に沁《し》みるじゃないか」 「感動の持ち方なんて、人それぞれでしょ」  美紀子のクールな物の言い方に、井上はあきれた表情になった。 「あんた、そういうキャラだから職場で人間関係がうまくいかなくなって、自殺まで追い込まれたんじゃないのか」 「そういうあなたは」 「おれ? おれは最低の理由さ」  井上は自嘲的に肩を揺すった。 「億単位で会社の金の使い込みがバレて、ほとんどバクチですったものだから返せる当ては永遠になく……以下省略」 「後ろの学生さんは?」 「まあ、自分自身の存在において、生きる必然性が見いだせない、ということですかね」  基樹は老成した口を利いた。 「そもそも、ぼくという生命は、自分で希望して生まれてきたわけじゃない。人間という生き物の根源的な矛盾は、そこにあると思うんですよね。親の都合で勝手に誕生させられた子供が、なぜ生きる喜びを必ず感じなきゃいけないんです。そんな義務がどこにありますか。人間として生きることに、最初から乗り気でない子供だっているはずで、世の中に何百万人、何千万人、何億人そういうタイプの人間がいるか知りませんけど、少なくともぼくはそのうちのひとり、ということです」 「めんどくさい自殺の理由ね」  美紀子は、後ろをふり向かずに肩をすくめた。 「とにかく、早く準備をしてよ。あなたが言いだした集団自殺なんだから、責任もって段取りを済ませてちょうだい」 「やりますよ、いまから」  細野基樹は自分の隣に積んでおいたゴムホースとアルミ粘着テープを取り上げ、後部座席のドアを開けた。 「うひゃあ」  外に出るなり、基樹は身をすくめた。 「風が冷たい!」  開けたところから、寒風にまじって雪の粉が車内に舞い込んできた。前方のヘッドライトに飛び込んでくる雪の密度も、あっというまに濃くなってきたのが見てとれた。  黒い闇と、黄色い光と、緑の森と、白の雪—— 「開けっ放しにしないで、ドアちゃんと閉めてよ」  美紀子が半身をひねって言った。 「冷たい風にあたると、せっかくさっき飲んだアルコールが飛んじゃうでしょ」 「もうすぐ死ぬのに、いちいちうるさい人ですね」  基樹はひとこと文句を言ってから、後ろのドアを勢いよく閉めた。 「なんだか、急にすごい降りになってきたな」  車内に美紀子とふたりきりになったところで、井上は急に声のトーンを落とした。 「ひょっとしたら、かなり積もるかもしれない」 「いまさら天気の心配したってしょうがないでしょ」 「なあ、ちょっと聞いてくれないか」  井上は助手席の美紀子に顔を向け、真剣な口調でつづけた。 「あんたと同じように、まさか言いだしっぺが学生とは知らずに、あの子の誘いに乗せられてしまったけど、やっぱりおれたちは、明日の天気の心配をするような人生をつづけていたほうがいいんじゃないのか」 「どういう意味」 「どういう意味って……」 「もしかして、自殺する根性がなくなったってこと?」 「そうかもしれない」 「じゃ、帰れば、ひとりで」  美紀子はそっけなかった。 「あたしとあの子と、ふたりでやるから」 「やるって……これはおれの車だぞ」 「そういう言い分はナシ」  タバコの煙を中年営業マンの顔に吹きかけて、美紀子は言った。 「勝手に帰ってもいいけど、車は乗っていっちゃダメ。だいじな自殺の道具なんだから」 「意地を張らずに、きみもやめろよ」 「引き留めるわけ?」 「そういうことだ」 「冗談でしょ。あたしは死ぬのを変えるつもりはないわ。あなたより生きてきた時間が短いぶん、この世に未練はないの」 「きみより長く生きてきたぶん、おれには健全な良識もあるんだ。それは、家族にショックを与えるような死に方をしちゃいかん、ということだ」 「お金の使い込みがばれて、さんざん家族を悲しませてきたくせに」 「そのとおり。だからこそ、生きて合わせる顔がないと思ってここにきた。でも、やっぱり違うんだよ。そりゃ、おれのような最悪の亭主、最低の父親に、女房子供は怒り心頭だろう。すでにじゅうぶんショックを受けているわけだしな。だけど、そのうえに自殺などしてしまったら、もっと彼女たちの心は傷つくんだ」 「だからさっきから言ってるじゃない。やめたきゃ勝手にやめればって。大盛りラーメン食べてきたなら、歩いて山を下りるぐらいのエネルギーはあるでしょ」 「そっちこそ、死にたきゃ勝手に死ねばいい。車のトランクにたしか荷造り用のロープが入っていたから、それはくれてやる。大学生の坊やと仲良く首をくくりな。これはおれの車であって、きみらに貸したわけじゃない」 「ようするに、死ぬのが怖いんでしょ」  美紀子の鋭い言葉に、井上は一瞬言葉を詰まらせた。が、すぐに答えた。 「そうだよ。怖い。でも、それは決して恥ずかしいことではない」 「恥よ」 「なぜ」 「基樹君の言い分じゃないけど、人間は自分の意思とは無関係に生まれてきた。死ぬときも、自殺以外は自分の意思に反して死ぬことになる。だからみんな悪あがきをする。死ぬのはいやだ、怖い、なんとか助けてください先生……そうやって医者とかに見苦しいお願いをするんでしょ。最悪よ。知的じゃないし」  美紀子は助手席側の窓を下げ、短くなったタバコを外に投げ捨てた。  車内にこもっていた煙が森の闇に向かって吐き出され、代わりに冷気と雪の粉が舞い込んできた。美紀子の窓側の髪が白く染まりはじめた。 「私がこういう集団自殺に参加するのを決めたのはね」  まだ窓を開けたまま、美紀子が言った。 「自分のためらいを捨てるためもあるけど、土壇場で逃げ出そうとする仲間を引き留める仕事もあると思っているの。それが相互の助け合いというものでしょ」 「バカなことを言うな」  井上は吐き捨てた。 「他人を死に追いやるのが助け合いだって?」 「そうよ。だって苦しいから死を選んだんでしょう? 救済を求めるための自殺を決めたんでしょう?」 「もういい」  井上も運転席側の窓を開けた。  二カ所の窓が開いたので、雪を伴う冷たい風が車内に一気に吹き込み、ふたりの髪を激しく乱した。 「おれは目が覚めた。この雪のおかげかもしれない。文字どおり頭を冷やしてよく考えたら、なんてバカなことをしようとしているんだと、いまさらながらに気がついた。もちろん、自殺という選択肢を完全に捨てたわけじゃない。だけど、見ず知らずの若者といっしょに死ぬなんて、そんな流行にのった死に方は、四十五歳の自分として恥ずかしくてできたもんじゃないと思い直した。死ぬときはひとりで死ぬ」  興奮した井上は、一気にまくし立てた。 「さあ、車から降りろ。車に乗っていたいんだったら、おれといっしょに戻るんだ。どこかの町で降ろしてやる」 「そうはいかないわ」  美紀子は、いきなり隠し持っていたナイフを取り出して、井上の喉元《のどもと》に突きつけた。 「なっ……!」  井上は言葉を失った。 「排気ガスで死ねなかったときに備えて、第二案っていうのをちゃんと用意してきたのよ。ちょっと痛いけど、私はこれで死ぬ勇気があるし、あなたを行かせてあげることもできるわ。天国へ」 「おま、おま、おまえ……」  井上は唇を震わせた。 「バカじゃないのか」 「バカでけっこう。神聖な自殺の約束を勝手に破る人間は許せない」  愕然《がくぜん》とする井上の喉元めがけ、美紀子はナイフの刃を突き立てようとした。  そのときだった。そのナイフの刃先が、突然ブーンと音を立てて小刻みに振動をはじめた。突然はじまった異常現象に驚き、美紀子は口を半分開けたまま手元のナイフを見つめていた。  柄の部分をしっかり握っているのに、銀色の刃先が霞《かす》んで見えないほどナイフは激しく振動していた。そのバイブレーションが手のひらを通じて、美紀子の皮膚を細かく震わせはじめた。あまりにも猛烈な摩擦に、皮膚が破れそうになった。 「いたいっ!」  美紀子はナイフを足元にほうり出した。 「おい!」  一方、刃物を突きつけられた驚きに凍りついていた井上は、車の計器板を指さして目を丸くしていた。 「どうなってるんだ、これは」  車は止まっているのに、スピードメーターの針がぐんぐん右へ振れて、時速百六十キロのところまで一気に到達した。エンジンの回転数を示す針も、勢いよくレッドゾーンへ飛び込んだ。しかし、エンジン音は静かなアイドリングのままである。  異変はそれだけではなかった。距離を表わすトリップメーターの数字がぐるぐる回り出し、ダッシュボードの時計の針も、短針は右へ、長針は左へとまるで反対方向に動き出した。  その状況に目を奪われていた井上は気づかなかったが、彼のはめているアナログ式腕時計も同様に針がめちゃくちゃな動き方をしていた。彼の見えないところで、携帯電話の時計表示もおかしくなっていた。  つづいて、前方の森を照らしていたヘッドライトが激しい点滅をはじめた。そのストロボ効果で、天から降ってくる雪の粒が、宙に浮いた状態で止まって見えた。  きわめて短い間隔の点滅現象がつづいたあと、ヘッドライトはフッと消えた。  連動して車の計器類の明かりもすべて消えた。現在地が中伊豆山中であることを示していたカーナビの画面も消えた。  あっというまに暗黒がすべての存在を消した。井上と美紀子は、おたがいのシルエットさえ見えない闇の濃密さに驚いた。  エンジンも止まり、静寂が車内を支配した。運転席と助手席の窓は開けっ放しのままなのに、なぜか風の音も聞こえなくなっていた。あれだけ猛烈な勢いで吹き込んできた雪も、もはや皮膚に感じない。 「何が起きたの」  静かな暗闇の中で、美紀子が怯《おび》えた声で言った。 「わからない」  井上がうわずった声で答えた。 「とにかく、ここで信じられないことが起きているのは確かだ」 「早くライト点《つ》けてよ」 「やってるけど、点かないんだよ」  手探りでマルチレバーのスイッチをひねり、さらにイグニッションキーを何度も回しながら、井上は言った。 「エンジンもかからない。バッテリーがあがったのかもしれない」 「そういえば、基樹君は?」  美紀子は、排気ガスを引き込むためのホースを車のマフラーに取り付けているはずの大学生のことを思い出した。 「あの子、外に出たままじゃない」  ちょうどそのとき—— 「うわああああああ!」  開いた窓から、すさまじい悲鳴が飛び込んできた。細野基樹の叫び声だった。  黒という色ですべて塗りつぶされた空間に響きわたるその悲鳴に、美紀子と井上は心臓をひねり潰《つぶ》されるようなショックを覚えた。目を開けていても何ひとつ見えない世界での叫び声は、恐ろしさも格別だった。 「なによ、なによ、なによ!」  ついさきほどまで余裕|綽々《しやくしやく》で自殺の美学に浸っていた美紀子が、パニックを引き起こしはじめていた。 「あんた! どうしたのよ! 何があったの!」  外の方角に向かって美紀子が呼びかけたが、返事はない。その代わり、ダッシュボード中央に設置されたマルチディスプレイの画面が、ふたたび明るく灯《とも》った。  だが、カーナビ・モードになっていたはずなのに、地図は表示されておらず、いつのまにかリアビュー・カメラに切り替わっていた。車をバックさせるためにセレクトレバーをRに入れると、後部バンパーに取り付けられた小さなモニターカメラが自動的に起動し、そこに後方の状況をカラーで写し出すシステムである。  周囲はまったくの闇であるはずなのに、画面にひとつの映像が浮かび上がっていた。細野基樹の顔のアップである。ホース取り付けのためにマフラーのそばに屈《かが》み込んでいれば、自然とカメラの目の前に顔がくる形になる。そのアップの表情がカラーではなく、暗視カメラで捉《とら》えたような、緑一色の映像でカーナビ用のマルチディスプレイに映し出されていた。  超広角レンズのため、面長の基樹の顔が、鼻を頂点にした楕円体にデフォルメされている。悲鳴を上げるために大きく開けた彼の口が、画面の大半を占めていた。 「うわああああああ」  なおも彼は叫びつづけていた。 「ちょっと、説明してよ! 何があったの」  外に向かってではなく、モニター画面に向かって美紀子が問い質《ただ》した。 「こわい、こわい、こわい」  歯をむき出しにして叫ぶ基樹の声が、電源が切れているはずのスピーカーからも、窓の外からも聞こえた。 「何が怖いのよ」 「すごいものを見た! 表に凄《すご》い物がいる!」 「何がいたの」 「それを見たから、目がおかしくなっちゃった」 「え?」 「ほら……ほら……ほら!」  こんどは基樹の両目の部分がカメラの中央にきて大写しになった。  モニターでは、白目と黒目が濃淡の差がついた緑色で表わされていた。それが激しく上下左右に振動していた。どんなに人間が自力でやろうと思ってもできない動きだった。やがて右目の瞳は右回転を、左目の瞳は左回転をはじめた。 「うそでしょ」  真っ暗な車内で映像を見つめる美紀子が震える声でつぶやいた。 「人間の目があんな動きをするわけがない」 「でも、いま見たメーターの動きと同じだ」  と、井上もかすれた声で言った。  やがて基樹の眼球の動きがもっと激しくなり、ついには両方の瞳の部分がくるっと半回転して後ろに消えた。代わりに、引きちぎられた動眼筋《どうがんきん》が前面に表われた。  筋肉の目になった。  そして基樹は声を失って後方に倒れ、モニター画面の視界から消えた。つぎの瞬間、カメラの前を右から左へと小さなものが横切った。  ひとつではない、四つ。それがつぎつぎに画面を横切っていった。  それも緑一色で映し出されていたが、モニターを見つめる井上浩も中嶋美紀子も、その正体をはっきり見た。だが、あまりにも意表をついた物体だったため、自分の目で認識したものが信じられなかった。 「見たか……」  井上がきいた。 「見たわ」  美紀子が震える声で答えた。  やがてモニター画面が消えた。シルエットひとつ確認できない真の闇が、ふたたびふたりを包んだ。  美紀子は、手探りで井上の腕をつかんで激しく揺すった。 「逃げましょう!」 「逃げたいけど、エンジンがかからないんだよ」 「自分の足で逃げるのよ」  美紀子の声は、半分悲鳴になっていた。 「早く、外に出ないと」 「わかった」  が、ふたりがドアを開けるより早く、運転席の窓からふたつ、助手席の窓からもふたつ、問題の物体が入り込んできた。  井上も美紀子も、闇のためにそれを直接見ることができなかったが、存在はわかった。だから、いっそう焦った。  しかし、逃げ出す間もなく、ふたりは自分の眼球が激しい振動をはじめたのを感じた。 [#改ページ]  三 大雪の朝に[#「三 大雪の朝に」はゴシック体] 「うわ、雪か」  午前十一時すぎ——  昨夜が雑誌のしめきりで徹夜だったため、遅い目覚めとなった神保透は、パジャマ姿で窓辺に近寄るなり、驚きの声を発した。 「十二月の初めで、こんなにドカッと積もるなんて、東京じゃめったにないよな」 「すごいでしょう。早く教えたかったんだけど、死んだみたいに眠っていたから」  八時ごろからもう起きていた妻のルイは、そう言いながら透の隣に並び、五階の窓から純白の景色をいっしょに眺め下ろした。 「街じゅうが真っ白ね」 「ゆうべ、ぼくが帰ってきたのは何時だっけ」 「夜中の三時過ぎ、かな」 「そのときは、雪はぜんぜん降っていなかったのに……」 「東京はちょうど夜明け前から降り出したんですって。テレビが言ってた」 「それでもうこんなに積もったのか」 「そうよ。私も朝起きてカーテンを開けたらびっくりしたわ」  未明に東京で降りはじめた雪は、昼近くになってもいっこうに止む気配がなく、いまもなお無数の点を灰色の空間に鏤《ちりば》めていた。  ときおり風が強まると、その点のかたまりがあおられて、密な部分と疎《まばら》な部分に分かれるが、風が通りすぎると、ふたたびカーテンのごとく均一の幕となる。それの繰り返しが、見る者を吸い込んでいくようなリズムで繰り返されていた。  白と灰色だけの光景は、時計を頼りにしなければ、いまが朝なのか昼なのか夕暮れ時なのか、その見当もつかなかった。 「すてき。雪って、いいね。私、大好き」  ルイは、ふたりの息で曇った窓ガラスを手で拭《ふ》いて、また雪景色に見とれた。そして、冷え切った窓ガラスに額を押し当てて言った。 「それに、雪が降ると静かになるから好き」 「そうだな」  うなずきながら、透はルイの腰にそっと手を回し、もう一方の手で、だいぶふくらみが目立つようになってきた腹部を撫《な》でた。 「ただ、いくら雪が好きでもお腹は冷やさないようにしろよ。大切な赤ちゃんが風邪《かぜ》引いちゃうから」 「そうだね」  と、ルイはくすっと笑って、透の肩に頭を寄せた。  いまルイは妊娠十三週目に入っていた。つわりが最悪だった時期は通りすぎ、いわゆる安定期にさしかかってきたところである。胎児の身長は十二センチほどになり、体重は推定で六十〜七十グラム。人間としての姿もほぼ整い、手足を動かすようになっていた。だが、胎児のその動きをルイは察知するほどのところまではいっていない。  それでも新しい生命の存在は、日に日に明確になっていくのをルイは感じていた。 「なんだか不思議……」  ルイがつぶやいた。 「なにが?」  と、ルイの下腹部に手を当てたまま、透がきいた。 「透と私がパパとママになるなんて」 「そういえばそうだよな」  透は妻となったルイの顔を見つめて、感慨深げにうなずいた。 「ぼくたち、六年前は家庭教師とその教え子という関係だったんだもんな。それを思えば、いまこういう形になっているのは、たしかに不思議な気がする」  神保透と村木ルイが出会ったのは六年前、透が大学二年生で、ルイが高校二年生のときだった。知能指数は抜群なのに、学校の勉強が嫌いで成績が悪かったルイを心配して、母親がつてをたどって頼んだ家庭教師が透だった。  ふたりはいつしか恋におちた。そんな時期に、彼らは青木ヶ原の樹海で壮絶な超常体験をした(『樹海』参照)のだが、それはルイの恐るべき出生の背景を明らかにする出来事で、その大事件を同時体験したルイの親友・栗田杏奈《くりたあんな》以外には、決して他人には語ることのできないエピソードだった。  そうした共通体験を通じて、透とルイのふたりがいっそう強い絆《きずな》で結ばれ、やがて結婚に至ったのは、ごく自然な流れといってよかった。  大学を出た透は、先月事故死した父の康明が代表取締役社長を務めていた城南出版社の系列子会社で、「城南メディア」というIT専門出版社の社員として勤めており、コンピューターグラフィックス(CG)専門雑誌の編集者に就いていた。  ルイは高校を卒業後、都内の理工系大学に進学し、そこを卒業してまもなく透と結婚。現在は妊娠していることもあって仕事はしていない。一般的な言葉でいえば「専業主婦」という立場になるのかもしれないが、そんな感覚はルイにも透にもなかった。いまだにふたりは、現在進行形の恋人だった。  透が父親を悲惨な形で亡くしてから三週間が経った。さすがに事故直後は、透も精神的にかなりのショックを受けてはいたが、その彼を励まし、支えてきたのはルイだった。わずか三週間ではあったが、ルイのおかげもあって、透はどうにか元気を取り戻してきた。愛の力だ、と透は思っていた。  窓辺に立って都会の大雪を眺めながら、静かな時が流れていた。  だが、もしも寒さで曇りがちな窓ガラスが鏡の役割を果たしていたならば、ふたりはおたがいの表情が徐々に暗いものになりつつあるのを見てとれただろう。  なぜかいま、雪景色を眺めるふたりの心の中では、集中治療室のベッドで息を引き取る直前の神保康明が、言葉を介さずに訴えかけてきたメッセージが繰り返されていた。 「時計を信じるな」 「時間の概念を変えよ」 「時は時計が決めるものではない」  透の父親は、さらにこうも主張していた。すべては波動であり、それが時の本質であり、生命の本質でもあると。  その意味は、いまだに透にもルイにもわかっていなかった。  だが、透にとってずっと気になっていたのは、息子として彼が頭脳で受け止めた父のラスト・メッセージだった。 「私が死んだら、私を解剖しろ。見落としがある」[#「「私が死んだら、私を解剖しろ。見落としがある」」はゴシック体]  透にとって、交通事故で悲惨なまでに痛めつけられ、さらに半日に及ぶ大手術と闘って傷だらけとなった父の身体を、また新たに解剖に付するのは心情的に忍びがたいものがあった。しかもそのテレパシーともいえるメッセージは、自分と姉の真美には届いていたが、母の敦子には聞こえていない。だから、仮に子供ふたりがそうしようと訴えたら、母は仰天して、透たちの頭がおかしくなったとしか思わないだろう。  それで透と真美は、いかに父の人生最後の指示といえども、それに従うことはできないと話し合った。  ところが——  神保の遺体が病院から自宅に引き取られようとする直前、城南出版社の顧問弁護士であり、神保の個人的な顧問弁護士でもあった人物から、透たち家族は一通の法的効力を持つ遺言書の存在を知らされた。  それは、神保が生前に家族に内緒でしたためておいたものだった。といっても、相続に関する特別な指示などではなかった。記されていたのは、たった一行。 ≪私がいかなる死に方をした場合でも、私の遺体は左記に指定する病院に献体せよ≫  その文末に、都内の有名国立病院の名前が記されてあった。  真美と透の姉弟は、父親のあのラスト・メッセージが決してその場で思いついたものではなく、前から用意されていた指示であったことを察した。それで初めて透は、母に対して進言した。父を火葬に付さず、遺言どおり指定の国立病院へ献体すべきだ、と。  おそらく母親は猛反対するだろうと透は予想していたが、意外にも敦子は、パパがそう書き残していたなら、と、遺言書の指示に素直に従うことに同意した。  その結果、神保の遺体は所定の手続きを踏んで、厚木の病院から彼が指定した都内の国立病院へ移送された。だから神保康明の葬儀は、遺体なきセレモニーとなった。  千葉県外房の御宿《おんじゆく》にある老人専門の介護施設『ケアハウス御宿』には、神保の父・晴久《はるひさ》が九十九歳という高齢で入居していた。五十四歳という若さでアルツハイマーを発症した晴久は、そのとき以来、家族のことなど何もわからなくなっていた。それどころか、自分自身の正体もわかっていなかった。その状態で四十年以上を生きてきたのだ。  そんな晴久に、息子に先に逝《い》かれてしまった事実など理解できるはずもなかった。だから、その介護施設を経営する晴久の弟・行生《ゆきお》は、康明の事故死を兄に告げることはしていなかった。また、行生自身もすでに九十半ばの高齢となっていたため、健康上の理由で葬儀は欠席した。  そうした事情により、神保康明にとって最も近しい親族が通夜・葬儀にこなかったこともあって、遺体なき葬儀に表立って異論をはさむ者はいなかった。  遺言にしたがって国立病院に献体された神保康明が、その後、病院でどう処理されたかは、遺族には一切知らされないシステムになっている。新米医学生の解剖実習の素材にされる運命をたどるのか、人体標本に加工されて永久保存されることになるのか、それともほかの「使い途」があるのか、家族にはわからない。もちろん知りたくもない、というのが透たちの率直な心境だった。  そして死後三週間が経ったいま、いずれの用途に使われてしまったのか、それともまだ保管状態にあるのかも不明だった。  ただ、あれだけはっきりと遺言書に病院名を指定してあったからには、父と病院側との間に、事前に何かの取り決めがなされていたのではないか、という気が透はしていた。病院側もあらかじめ承知で、父の身体を調べる約束がなされていたのではないか。そしてそれは、本人が死亡してからでないと調べられないような場所——つまり、脳の内部ではないか、と……。  だが、いかに本人の希望とはいえ、透は、いまになって父の遺言の指示を守ったことを後悔していた。父の霊が安らかに眠っていない、という気がするのだ。もっと別の表現をするならば、父の死が未だに完結していない[#「父の死が未だに完結していない」に傍点]という感覚。  それが中途半端でいやだった。  一方ルイは、ICUのベッドに横たわる義父が、死の直前に放ったもうひとつの言葉を、より深く印象に残していた。そちらのほうが事実上、神保康明としての人生最後のメッセージだった。そして、それは子宮に直接響く衝撃音とともにやってきたのだ。 「生命はリレーした。新しい時間がはじまった」[#「「生命はリレーした。新しい時間がはじまった」」はゴシック体]  そのメッセージは、明らかにルイだけに向けられたものだった。  ショックだった。まるで死にゆく義父が、息子の透を介して、ルイの子宮に宿っている新しい命に乗り移ったことを宣言するような響きがあった。  ルイは義父の死後、ずっとその想像に悩まされつづけてきた。腹に宿した透との「愛の結晶」が、彼の父にすり替わったような妄想が取りついて離れなかった。悪夢もみた。  もちろん、そんなことを透に言うわけにはいかなかった。だから自分の中にしまい込んでおいたのだが、その妄想は現実的にひとつの問題を引き起こしていた。それは、かかりつけの産婦人科医で定期的に受診すべき超音波検診が、怖くて受けられなくなった、という点である。  胎内に、何か奇妙なものが宿っているのが発見されるかもしれないという恐怖が、彼女の足を病院から遠ざけていた。その気持ちを、ルイは透に言えないまま不安な日々を過ごしていた。だから、お腹の赤ちゃんが風邪《かぜ》引くぞ、と透に言われたときは自然に笑ったものの、すぐさまその不安がのしかかってきて、幸せな気持ちを壊してしまいそうになる。 「ねえ」  ルイは赤ん坊のことに話題を向けたくなくて、義父が言い残した「時間」に関するメッセージのことを口に出した。 「お父さまが最後に言った『時計を信じるな』って、どういう意味なんだろう。透には理解できた?」 「いや」  雪景色を見下ろしたまま、透は首を左右に振った。 「ぼくにもまだ、それはわからない」  透は、ルイも父のメッセージを受けていた事実を聞かされても、それじたいは驚かなかった。彼と同様、ルイも特殊な能力をもって生まれてきた人間であることを知っていたからだ。  透は指先から発する電磁波によって金属を自在に曲げるメタル・ベンダーであり、ルイには、自殺を試みようとする人間の思考電磁波を受けて、その苦悩を再現してしまう能力があった。それだけでなく、ルイは見たものすべてをカメラのように脳に記録してしまう、直観像能力の保持者でもあった。  彼女の場合、記憶と記録は別の概念で、記憶とは脳に記録されたデータを引き出す作業のことだった。  いずれにせよ透もルイも、人類が遠い過去に失ってしまったか、あるいは未来に取得するかもしれない特殊能力を授かっている人間だった。だからふたりにとって、神保康明が遺したメッセージのうち、「すべては波動だ」という抽象的な部分のほうが、まだ理解できるところがあった。むしろ「時計を信じるな」という言い回しのほうが謎だった。 「ひとつ考えてみたのは……」  ルイの身体からそっと手を離して、透は言った。 「ぼくたちは、人生の基準に時計を使っていて、その束縛から逃れられない状況に何の疑問も抱いていない、ということかな」 「たとえば?」  と、ルイが透を見上げてきいた。 「たとえば、妊娠してから出産までにはだいたい三十九週間から四十週間かかるもので、十三週目だと胎児はどれぐらい成長していて、二十週目だとどれぐらい、という標準的なものさしがある。人間は母親の胎内にいるときから、そうした標準的なスケジュールに縛られているんだ。時計とか暦にね」  避けていた話題に透のほうから近づいてきたので、ルイは表情をこわばらせたが、透の話はすぐに別のテーマへ移った。 「生まれてからも、何歳までには肉体的にはこれぐらい成長するものだという標準値がある。そうした基本的な目安は、年をとるにしたがって個人差が広がってはくるけど、どんなにがんばっても、まあ七十代から八十代あたりに人生の終末を迎えるだろうという前提で、自分の一生を描いているよね。そういう人生時計の平均的イメージみたいなものがある。うちのじいさんみたいに、もうすぐ百歳になるまで生きるなんて、いくら平均寿命が延びてきたとはいっても、まだまだ例外だ。  でも、そうした人間の平均的な一生のサイクルというのは、時計とか暦があるからこそ固定されてしまうものかもしれないんだ」  ふたりが語りあう前で、ますます雪の密度が濃くなってゆく。 「うちのじいさんが五十四歳でアルツハイマーの症状が出たのに、九十九歳のいまも身体じたいは健康で生きているというのも、あんがい本人が自分の年齢を忘れているところに原因があったりしてね。そう思わないか? つまり、時計を忘れた暮らしをしていることが長寿につながっているんじゃないか、と」 「ああ、なんかわかる気がする」 「肉体的な問題だけでなく、知能についても同じことが言えそうだと思わないか。日本ではあまりないけれど、アメリカやヨーロッパなんかだと、知能指数の抜群にいい子供が、いきなり大学に飛び級で入学してしまうことは珍しくない。そういう子は、天才とか神童なんて騒がれるけど、そういった知能の発達にしても、身体の成長や衰えにしても、年齢と比例した——つまり、時の流れと比例した標準値があると考えるほうが、おかしいのかもしれない」  限りなく降りつづける雪景色から目をそらせ、室内に向き直って透はつづけた。 「IQ二百を超す小学生が大学に入学して、ほかの学生と肩を並べて勉強することができても少しも不思議ではないし、七十歳の女優が四十歳ぐらいにみえても、九十歳の老人が十代の記憶力を持っていても、それは特別なことじゃなくて、ふつうにありうることだと思わなきゃならないのかもしれない。時が規定する人間のイメージにいつまでも縛られていたら、人間は少しも進化をしていかないだろう」  透の口調は淡々としていたが、同時に力強くもあった。 「いつのころからか、日本の学校教育は競争を悪と考え、平等こそが善だという哲学を持って子供たちを育ててきた。なにしろ運動会のかけっこですら、差別だといって順位をつけなくなったんだからね。でも逆に言えば、平均値のはるか上を行く者を例外的な存在だと決めつけ、その足を引っぱる点では、それもまた一種の差別意識とも言えるんだよ。むしろ、人には大きな個人差があって当然という考えこそが、ほんとうの平等だと思うんだけど、教育者とかお役所はまるでわかっていない。  そういう現状っていうものが、時計とか時間に支配されていることだと思わないか。時計が年齢別の人間の標準モデルを作って、そこからはみ出すことを許さなくなっているんだ。十代は十代らしく、三十代は三十代らしく、六十代は六十代らしくというふうに、年齢の枠にはめられたイメージを強要されている。もしも時計やカレンダーが発明される前の時代に生まれていたら、年齢という概念もなかったわけで、ぼくらはもっと自由だったかもしれない」 「年齢という概念がなければ……自由」  透の言葉を咀嚼《そしやく》するように、ルイが繰り返した。そして納得したふうにうなずいた。 「たしかに透の言うとおりかもしれないね。自分の年齢を最初から知らないで生きていたほうが、精神的にずっと楽かも」 「だろ?」 「誕生日が決まっているから、自分が年取っていくことを毎年確認させられて、それがつらくなったりするっていうのは、私も感じてる。この歳だから、もうこんな服は着られないとか、こんなバカなマネはできないっていうふうに、自分にブレーキをかけちゃうのかな。でも、年齢という考え方がなくなれば、たしかにもっと自由」  ルイは、その発想に目を輝かせた。だが、つぎの瞬間には、もういぶかしげに眉《まゆ》をひそめた。 「だけど透、それがお父さまが最後に言いたかったことだと思う?」 「さあ、どうかな」  透は首をひねった。 「時計を信じるな、とか、時の概念を変えよ、というメッセージを突きつめて考えていくと、ぼくが思いつく解釈といえば、そんなところしかないんだ。でも……」  透は窓ガラスが曇るほど大きなためいきをついた。 「瀕死《ひんし》の重傷を負って死ぬ間際に、そんな人生哲学をわざわざ言い残すとも思えない。それよりも、自分の身体の解剖を命じたほうがもっと重要だった気がする。死ぬ直前に、はっきりとおやじは訴えかけてきた。私を解剖しろ、見落としがある、と」 「それは、私にも聞こえたわ」 「それが何を指しているのか、いまでもいちばん気になる。見落としって、何のことなのか、って……。そして、もうおやじが解剖されたのかどうか、すごく気になる」 「ねえ」  ルイは無意識のうちに片手を下腹部に当てて言った。 「その話はやめない? 解剖とか、そういうのは」 「でも、気になるんだ」  透はこだわった。 「ほんとうは国立病院に献体するんじゃなくて、最初に運び込まれた厚木の病院で、死んですぐに調べてもらったほうがよかったかもしれない」 「そんなことをしたとしても、何が見つかったというの?」 「さあ……」  透は、わからないというふうに首を振った。 「じゃ、もうここまでにしよ」  気分を変えるように、ルイが意識的に元気な声を出した。 「朝ごはん作るね。朝っていうか、もう昼だけど」 「うん、そうだな」  ルイの言葉にうなずくと、透は着替えのためにパジャマのボタンをはずしはじめた。 「きょう、会社に行く予定はあるの」 「ああ、ゆうべ遅かったから、午後出でいいんだけど」 「もうすぐ午後よ」 「そのへんはテキトーで」 「編集者って、そんないい加減で許されるの?」 「まあね」  透は肩をすくめた。 「少なくとも総務や営業に較べたら、勤務体制は超デタラメかも」 「でも、行くつもりだったら、テレビで交通機関のニュースを確認しないと。こんな雪だと、電車もバスもまともに動いてないでしょ」 「了解。たしかめるよ」  透はリビングへ行くと、テレビのリモコンを取り上げてスイッチを入れた。  NHKでも、どの民放の朝ワイドでも、東京の大雪を取り上げていた。それらの放送で、大幅な間引き運転ながら都心の電車がまだ動いていることを確認した透は、とりあえず安心して顔を洗いに洗面所へ向かった。  そしてルイが用意してくれた朝昼兼用の食事を終え、そろそろ社へ出ようかと考えながら熱い紅茶を飲んでいたときだった。つけっぱなしにしていたテレビの音声に、透はおもわず画面のほうをふり返った。 「この大雪のさなか、中伊豆にある森の入口で、男女三人が車の内外で不審な死に方をしているのが、家族の依頼を受けて捜索をつづけていた警察によって発見されました」  テレビから聞こえてきた『中伊豆にある森』という言葉に、透が反応した。  先ごろ亡くなった父の神保康明が高校生のとき、周囲のいじめに耐えかねて、卒業式の日にひとりバイクを飛ばし、中伊豆の山中にある森へ行って首吊《くびつ》り自殺をしようとした経験があることを、透は姉の真美から聞かされていた。  なぜ父が自殺を思いとどまったのか、それは知らないが、もしもそのとき父が思い直さなければ、透も姉の真美もこの世に生まれることはなく、いまルイの子宮の中で育ちつつある赤ん坊も存在していないことになる。  したがって、中伊豆の森というのは、透にとって自分の「存在か、無か」を決定づけた場所にもなるのだった。だから、その言葉に反応せずにはいられなかった。  ルイは、いまキッチンの流し台の前にいるため、ニュースの内容には気づいていない。透は紅茶のカップを持ち上げた状態でいることも忘れ、手を宙に浮かせたまま、テレビに見入った。  画面には、東京よりもっとすごい横殴りの吹雪の中に立つ報道記者の姿が映し出されていた。防寒コートを着た記者の髪は雪で真っ白になっており、眉毛《まゆげ》も白く染まっていた。その背景には鬱蒼《うつそう》とした森が広がっていたが、冬場でも緑の色を保っている針葉樹林が、いまは白い衣をまとって幻想的な風景を作り上げている。 「えー、ごらんのとおり、現在伊豆地方は夜半から降りはじめた雪が、ますますその勢いを増して、強い風を伴った猛烈な吹雪になっています。私も目を開けているのがやっとという状況で、こうやってしゃべるそばから雪が口の中にどんどん入り込んできます」  しかめた顔を雪まみれにして、報道記者はつづけた。 「さて、今回の事件なんですが、発端は井上浩さんという千葉県に住む四十五歳の会社員から、奥さんの携帯に夜中の二時二十分ごろ、すさまじい悲鳴を発する電話がかかってきたことでした。井上さんの絶叫は数秒間つづきましたが、そのあと急に声が途切れ、奥さんが何度呼びかけても返事はなくなりました。ただし、通話状態は保たれたままだったということです。  そこで、奥さんから別の電話で一一〇番通報を受けた警察が、GPSの位置情報から割り出したところ、発信場所は中伊豆山中のかなり奥を走る林道の終点あたりだと判明しました。が、不思議なことに、この一帯は携帯電話の圏外なのです。いまや携帯各社、日本全土で圏外になる場所を探すほうが難しいほどのカバー率になっていますが、数少ない圏外エリアのひとつがここ中伊豆の山奥にあります。どうしたことか、井上さんの携帯電話の電波は、その圏外から発信されていたという、一見すると非常に矛盾するGPSのデータ分析に、警察も最初は半信半疑でした。  しかし、夜が明けてもなお降りしきる雪の中、すでに大人の太もものあたりまで達した積雪をかき分けながら捜索をつづけておりましたところ、いまから四時間ほど前の朝七時半ごろ、私が立っておりますこの場所から、およそ二百メートル先になる林道の終点、まさにGPSが示していたとおりの地点で、雪に覆われた井上さんの乗用車が見つかりました。その車内には井上さんと、身元不明の二十代後半から三十代前半とみられる女性の遺体があり、さらに車の後方には、二十代の若い男性が雪に全身を埋める恰好で死んでいるのが見つかったということです。  捜査当局は、井上さんが会社で深刻な金銭トラブルを引き起こしている事情を奥さんから聞かされており、追いつめられた井上さんが、インターネットの自殺系サイトなどで知り合った人間と集団自殺を企てた可能性を探る一方、現場の状況から、殺人事件の疑いも捨てきれないとしています」  猛吹雪の中、マイクを握る手も凍えそうになりながら、報道記者はさらに一段と緊迫した口調でつづけた。 「じつは、遺体は現在も現場にあって収容されていない模様ですが、一部捜査関係者の話によりますと、『死因はまだ特定できていない。きわめて特殊で、きわめて悲惨で、我々も経験したことのない状況だ』とのことです。この『きわめて特殊で、きわめて悲惨』というのが、具体的にどんな状況を指しているのか、まだ我々報道陣もつかみきれていません。なにしろ、現場はここから目と鼻の先にあるのですが、この猛吹雪だけでなく、警察側の厳戒態勢のために、取材陣はまったく近づけない状況なのです。  しかし、たったいま入ってきた情報によりますと、三人の被害者が装着していた腕時計や携帯電話、それに車に備え付けの時計すべてがバラバラの時刻を指しており、どれひとつとってみても正確な時刻を示しているものがない、ということです。もちろん、自然現象でそんなことが起こるはずはありませんので、誰かが何かの意図を持ってやったことに違いありませんが、では、いったい誰がどのような意図でそれぞれの時計を狂わせたのか[#「それぞれの時計を狂わせたのか」に傍点]——深い謎に包まれています。  以上、中伊豆の現場からお伝えしました」  カンカンカンカン、カンカンカンカン——  テレビを見ていた透は、いつのまにかティーカップをテーブルに置き、代わりにスプーンを取り上げて、無意識のうちに紅茶の缶を叩《たた》いていた。  カンカンカンカン、カンカンカンカン—— 「透」  キッチンからやってきたルイが、不安げにたずねた。 「何があったの?」 [#改ページ]  四 プールを泳ぐもの[#「四 プールを泳ぐもの」はゴシック体]  同じころ——  神保康明の遺体を引き取った国立病院で、ひとつの異変が起きようとしていた。  その病院の建物の最下部となる地下三階には、二種類の遺体保存室があった。ひとつは第一遺体安置室。もうひとつは第二遺体安置室。  第一安置室は低温保存された遺体がスライド式のトレイに載せられ、まるでコインロッカーのように整然と並べられた場所で、それらの遺体は医学生の解剖研修などに用いられるため、あらかじめ「血抜き」がされたうえで防腐措置《エンバーミング》が為《な》されていた。  もうひとつの第二安置室は、病院内部の人間でさえ、ごく一部の人間しか立ち入れない場所で、遺体保存用のプールがあるという噂により「ルームP」と呼ばれていた。  そこにはホルムアルデヒド水溶液——俗に言うホルマリン——を満たされた遺体保存用プールがあり、ふだんは照明も消され、真っ暗闇の中に二十から三十の遺体が水溶液の中に沈められているとも囁《ささや》かれていた。  しかし、病院に勤める者であれば、このような状況は現在ではありえないことがすぐわかるはずであった。第一に、ホルムアルデヒドはきわめて揮発性が高く、たとえそれをホルマリンと呼ばれる約四十パーセントの水溶液に希釈したとしても、プールに貯蔵した溶液はたちどころに揮発して減ってしまう。  第二に、シックハウス症候群を引き起こす最大原因とも言うべき有害物質が、まさにこのホルムアルデヒドであるように、新築家屋の建材や接着剤に一定量以上が含まれているだけでも結膜に激しい刺激を催すのに、それをプールのような場所に大量貯蔵していようものなら、その部屋は揮発した有害物質で充満し、そこに入った人間はたちどころに中毒の危険にもさらされることになる。  さらにホルマリンで固定された遺体は、保存液から外に出すと乾燥するスピードが速いため、日数をかけて行なう解剖実習には不向きというデメリットもある。  こうした常識があるにもかかわらず、遺体保存用のホルマリン・プールなるものが大病院や大学医学部の地下にいまもなお存在すると、まことしやかに信じられているのには文学的な理由があった。  ノーベル文学賞を受賞した有名作家が、一九五七年、まだ東大在学中だった二十二歳のときに書いた短編に、医学部地下室にホルマリンを満たした巨大なプールがあり、そこに解剖を待つ遺体がぎっしりと隙間もなく沈められ、浮かぼうとする死体を棒で沈める仕事もあって、衣服に染みついたホルマリンの匂いが取れなくなり……という趣旨の生々しい描写があり、それがあまりにも有名になったために、いまに至るまで病院に存在しつづける噂として一人歩きしていることが大いに影響している。  だが、だからといって、その小説の描写がまったくの空想で、ホルマリン・プールの中でゆらめく遺体の話を、一種の都市伝説と決めつけるのも事実に反する。  この小説が書かれた一九五〇年代ごろには、たしかにそれが実在した。  プールという表現は大げさだが、銭湯の浴槽といったイメージで、ホルマリンの揮発を防ぐためにふだんは蓋《ふた》がしてあった。ホルマリン漬けの遺体が空気に触れると組織がもろくなるため、体内に発生したガスによって浮かび上がろうとする遺体を棒で沈める作業が必要になるのも、理にかなったことだった。  当時はまだホルムアルデヒド公害に対する認識も甘く、そのため作業に従事する者がアレルギーで障害を起こしたり、ひどいときには死に至る事故も起きていた。  その後、ホルマリン漬けにする場合も、一体ごとに収納し、安全面にも配慮された容器が開発され、また専用冷蔵施設などの進歩もあって、ホルマリン・プールなるものは姿を消した。  しかし、神保康明の遺体が献体された国立病院地下三階の第二遺体安置室——ルームPには、実際にいまも遺体保存プールがあった。ただし、それはプールといっても幅四メートル、長さ八メートル程度のサイズで、その小プールに、縁から十数センチのところまで満たされているのは、ホルムアルデヒド溶液ではなく生理食塩水だった。  そして、その食塩水プールには定期的に高電圧がかけられ、水面下に固定された遺体を、特殊な環境下に置いていた。水中に設置された機器のスペース上、最多でも五体までしか小プールに収めることはできなかったが、現在はたった一体のみが入れられていた。  神保康明である。  ルームPを管理する担当の清水啓次《しみずけいじ》はことしで五十三歳になるが、彼はこの国立病院に所属する医者や事務員ではなく、外部の技術者だった。病院に設置された医療機器は、専門職の手を借りずに医者が扱えることが絶対条件だが、この部屋に置かれた装置だけは、そうはいかなかった。  清水啓次の兄で、東京郊外にある私立大学の理工学部教授を務める武信《たけのぶ》は、生体電磁波の研究で日本の第一人者となっていたが、その武信が設計したのが、この特殊な目的を持ったプールだった。  どんな医療機関でも世間に公開できない極秘の研究というものがあるが、まさにこれがそうだった。そしてその目的は、いままでにない概念での死者の復活——  首都東京が十二月初旬としては異例の大雪に見舞われたこの日の昼前、清水啓次は毎日のルーティーンワークとなっているルームPの点検にひとりでやってきた。  しかし毎日のことだけに、特別な緊張感はまったくなかった。実際、いま啓次の頭を占めていたのは、きょうの大雪から連想したスキーのことだった。雪国の出身でスキーが三度のメシより好きと広言する彼は、今シーズンはかなり早めにゲレンデが楽しめそうだと、そのことでうきうきした気分になっていた。さすがに人目のある廊下では抑えていたが、特殊プールのある部屋のドアを鍵で開けた瞬間から、もう『白銀は招くよ』のメロディーを鼻歌まじりに歌い出したほどである。  蛍光灯の照明を点《つ》けると、室内中央に銀色に輝く巨大な金属のかたまりが浮かび上がった。  いや、実際には金属のかたまりではない。プールの底面と壁面すべてが銀色の合金でできており、その金属の光沢が照明の加減で水面にも反射して、食塩水を満たされたプール全体が、まるでステンレスなどでできた巨大なかたまりに見えてしまうのだ。そして間近に歩み寄らないかぎり、中に沈められた神保康明の遺体は見えなかった。  清水啓次の仕事は、入口近くの壁に取り付けられた計器盤の数値チェックと、おおまかに室内を視認して異常がないかを確かめることだけだった。点検のたびに、プールの中の遺体をいちいち覗《のぞ》き込むわけではないのである。遺体そのものの監視作業は、彼の仕事の範疇《はんちゆう》ではなかった。  兄・武信と、この病院のごく一握りの医師たちが行なっている極秘研究に、啓次は首を突っ込む気がまったくなかった。だからこそ兄の信頼を得て、このような地味な保守要員を任されたのだった。  いつものように室温、水温、溶液濃度、電圧などの各計測データをチェックしながら、啓次は古典的スキー映画のメロディを口ずさみつづけていた。この設備ができたのは三年前だが、以来、ほぼ毎日同じ点検作業をつづけてきた彼にとって、視野の片隅に映る銀色のプールに沈められた遺体への関心は、まるでなかった。  死者の復活という研究テーマを知らない啓次にとって、そこにあるのは「人間の死体」というよりも「元人間」という名の物体にすぎなかった。人間、死ねばおしまい、という至って単純明快な論理に、啓次は支配されていた。  銀色のプールの中に沈んでいる遺体には、生前「神保康明」という名前があったことなど、啓次はまったく知らない。  その六十六歳の男性が城南出版社の代表取締役社長で、三週間前に東名高速の事故によって悲惨な死を遂げたことも知らない。  まして、神保が生前、啓次の兄である私立大理工学部教授の清水武信の薦めで、死亡時の献体を契約したことなど、かけらも承知していなかった。  異変が起きたのは、手慣れたデータ確認作業をまもなく終えようというときだった。啓次の視野の片隅に、銀色に輝く水面にさざ波が立ったのが映った。  啓次は、鼻歌をぴたりとやめた。そして、自分の左横五メートルほどの距離にあるプールのほうへ、ゆっくりと顔を向けた。  そのぎこちない動作は、決して恐怖によるこわばりではなかった。勝手にさざ波が立つはずがないので、瞬時にしてあらゆる可能性を考えていたため、動作がスローになっただけである。  だが、錯覚ではなかった。波紋はたしかに広がっていた。銀色のプールの中央に。  上から何か内装部品でも落ちたのではないかと、啓次は天井を見上げた。論理的な行動といってよかった。しかし、プールの真上に取り付けられた照明は天井に埋め込まれており、よぶんな部品は表面に出ていない。 (虫? ゴキブリ? ネズミ? そういう小さな生き物がプールに落ちたのか)  つぎに考えたのは、それだった。病院の内部とはいえ、この地下三階部分は一般病棟などに較べてさほど管理が厳しくないから、絶対にそういう可能性がないとは言いきれなかった。だが、それはルームPの外の話で、この室内にかぎってはそのような小生物が出入りできる隙間はないはずだった。 (遺体が動いた?)  一瞬、そんな想像が頭をよぎったが、現実主義者の清水啓次は、その可能性をすぐに否定した。  やがて、離れたところからじっと見つめる啓次の前で、プール中央のさざ波はゆっくり鎮まっていった。そして、元の静かな鏡の状態に戻った。  もっと近寄って覗き込めば内部がはっきり見えるのだが、なぜか啓次をためらわせる雰囲気が、室内に漂っていた。幽霊は信じない。だから、遺体が勝手に動いたとはまだ考えられずにいた。ただ、何か妙な現象を目撃したのではないか、という思いが、波紋が収まったあともどんどん募っていく。 (何も見なかったことにして、このまま外に出たほうがよさそうだ)  直感的にそう思って、きびすを返そうとしたとき、また水面に動きがあった。  こんどはもっとはっきりしたものだった。まるで水面下でミニチュアの潜水艦でも動いているかのように、水面をふたつに分けながら、プール中央から長い辺の端のほうへ進んでいく変化があった。  明らかに、プールの中を何かが進んでいた。  啓次は信じられないという表情を浮かべながら、プールのほうへ一歩、二歩と近寄った。そして、ギリギリのところまでくると、腰を下ろして床に片膝《かたひざ》をついた。  いままで水面の反射で見えなかった生理食塩水を満たしたプールの内部が、はっきりと彼の視野に入った。中央の水中で装置に固定され、あおむけに横たわる遺体がひとつ見えた。  その遺体はこのプールに三週間近く沈められているのに、少なくとも昨日の点検までは、形状の変化はまったくみられなかった。あおむけになった胸部から腹部にかけて、大手術を行なった縫い跡が、まるでファスナーのようにつづいていたが、その縫い目ひとつひとつの色合いにも変わりはなかった。  理屈からいえば、生理食塩水に浸しているだけで腐敗の進行が止まるはずもなく、そこには兄・武信がプログラミングして行なっている高電圧の定期放電が何かの作用を及ぼしているのは確実だった。だが、詳しい理屈は弟の啓次は知らないし、知りたいとも思っていない。  この施設点検を職務とする啓次にとって大切な認識はただひとつ。遺体の様相が変化しないということは、それを椅子や机と同じ、ただの物と考えてよい、ということだった。ところが……。  啓次は自分の目を疑った。  遺体は昨日までと同じように、目も口も静かに閉じた状態だった。だが、大きく開いているものがあった。胸部から腹部にかけての手術跡の縫い目である。そこが、まさにファスナーを引き開けたように大きく左右に広がっており、内臓が見えていた。 (これは、兄貴がやっている実験の自然な過程なのか?)  だが、そうではないという答えを、啓次はすぐ自分で出していた。そして彼の目は、プールの端のほうへ移動した、水面下の物体のほうへ注がれた。そいつが、遺体の身体から出てきたのだ。  啓次が、その結論を導いたのとほぼ同時に、それは水泳選手がターンするようにプールの端で折り返し、こんどは啓次がひざまずいているほうに向かって、水をかき分けながら静かに進んできた。  離れたところにあるうちは、光の反射で水面の変化しか見えなかったが、やがてそれが自分のほうへ近づくにつれ、啓次の目に水中を移動するものの正体がはっきりと見えてきた。 (うそだろう!)  啓次は、驚愕《きようがく》に目を大きく見開いた。 (おい……おい……こんなことって……あるのか)  小さなものが、水中をゆっくりと泳ぎながら啓次のほうへ近づいてきた。  赤ん坊だった。  啓次は過去に妻の出産に立ち会った経験があったが、それはまさに出産直後の嬰児《えいじ》といってよかった。それが巧みな平泳ぎで水中を進んでくるのだ。 (死体から、赤ん坊が出てきた? しかも、男の死体から?)  啓次は、夢をみているのではないかと思った。それも、悪夢。  やがてそれは、啓次のすぐそばまで泳いでくると、水面から小さな顔を出した。  まだ眉毛《まゆげ》は生えておらず、まぶたも腫《は》れぼったくて、目が開いているようには見えなかった。まさに生まれたての赤ん坊である。だが、突然そのまぶたが上下に大きく開いた。そして、ふたつの瞳《ひとみ》が真正面から啓次を見つめた。  おとなの瞳だった。  啓次はその視線に射竦《いすく》められ、身動きがとれなくなった。 (まずい……殺される)  根拠はなかったが、それが啓次の直感だった。水中から顔だけ出して啓次を見つめる嬰児には、明らかに敵意があった。しかし、危険を感じても身体が動かなかった。本物の恐怖が、彼の身体を彫像にしてしまっていた。  ピチャ。  いやな音が室内に響いた。  いつのまにか嬰児は、合金でできたプールの縁に手をかけていた。水位が縁まで十数センチしかなかったため、水中ではずみをつけると、楽々とそこまで手が届いた。もちろん、ここまで泳いできたことも含め、通常の嬰児の能力をはるかに超えていた。  つまりそれは、ふつうの赤ん坊ではなかった。  清水啓次の五十三年間の人生において蓄積してきた経験や知識では、いまの状況を真実として受け容れるのは不可能だった。理解不能な状況に直面した彼にできることは、何もなかった。  チャプッ。  両手をプールの縁にかけた嬰児が、その手に力を込め、プールから身体を引き上げた。  そして——  ピチャ、ピチャ。  赤ん坊がプールから完全に上がり、コンクリートの床に両足で立った。その動作は、大人のそれを、そのまま縮小したものだった。どこにも嬰児としての能力の限界はなかった。見た目は生まれたての赤ん坊だが、その瞳の輝きも含めて、すべてが大人だった。 (たぶん……)  全身に恐怖の粟粒《あわつぶ》を浮かべながら、清水啓次は確信した。 (こいつは、しゃべるぞ)  思った直後、頭の中に言葉が飛び込んできた。 「私の誕生を見た者は生かしておけない」  大人の声だった。そして嬰児が、カッと瞳を見開いた。  同時に、啓次は左手首に微細な振動を感じた。見ると、アナログ式の腕時計が、異様な速度で針を回転させていた。しかも、長針と短針の動く方向が逆だった。  驚いて見つめる啓次の視野が急激に霞《かす》んで、すべての光景が二重三重に重なって見えた。景色が動いているのではなかった。彼の眼球じたいが小刻みな振動をはじめたのだ。 (兄貴、兄貴……)  啓次は、理工学部教授で生体電磁波研究の第一人者である兄の清水武信に向かって、心の中で呼びかけた。 (あんた、ここで怪物を作ろうとしていたのか)  啓次は、なんとかしてこの場から逃げ出そうとした。這《は》ってでもいいから、室外に出なければ、と思った。  振動する視界の中で、両足で立った全裸の赤ん坊がすさまじい形相で自分を睨《にら》みつけているのが、啓次に見えた。その顔が、いまや十にも二十にも見える。  酔ってしまいそうだった。  と、そのとき、突然視界がぐるんと回った。目の前に立つ赤ん坊の姿が、下のほうへ移動したかと思うと、あたりが赤黒くなった。 (なんだ、これ) 「おまえの目の中だよ」  赤ん坊が、大人の声をして答えた。 「おまえは、自分の目の裏側を見ているのだ」 (まさか!)  と、すぐさま否定したものの、啓次は自分の身に起こったことを認めざるを得なかった。とうてい信じられる話ではなかったが、眼球が半回転したのだ。  そう察した直後に、両目の奥に猛烈な痛みがきた。常軌を逸した動きで引き伸ばされた動眼筋《どうがんきん》が、一気にちぎれてしまった痛みだった。 「兄貴ィ〜〜!」  啓次は叫んだ。 「うおぉぉぉおおおー、兄貴ー!」  顔を押さえながら、啓次は床を転げ回った。  こんどは彼の脳が、揺れはじめた。 [#改ページ]  五 誰にも言えない話[#「五 誰にも言えない話」はゴシック体]  クリスマスまであと数日と迫った十二月二十日——  東京都心にあるホテルのカフェテリアで、ふたりの男がテーブルをはさんで会話を交わしていた。 「もうお聞きでしょうけど、私、今月から週刊『キャッチ』の編集長になりましてね。当然のことですが、編集長が替わってから部数が落ちたなんてことにはなりたくない。大きなスクープがほしいのは言うまでもありません。そして、それにふさわしいネタは手持ちであるんです。でも、取材の突っ込みが足りない。悲しいかな、ウチの若手ではまだまだなんでね。それで金子《かねこ》さん、あなたにお願いするよりないという状況になってきたわけです」  そう切り出したのは、城南出版社が発行している男性週刊誌『キャッチ』の編集長に新しく就任した杉本不二夫《すぎもとふじお》だった。  銀縁メガネにチョビ髭《ひげ》を生やしたその風貌《ふうぼう》は、人に真面目な印象を与えるには程遠いものがあり、まるでドサ回りの売れない芸人のようだと周囲から冷やかされることがしばしばだった。だが、売れる雑誌づくりの手腕は自他共に認めるところで、ついに主力雑誌の編集長に抜擢《ばつてき》された。四十歳という年齢は、歴代編集長の中で最年少である。  一方、杉本に呼び出された金子|拓郎《たくろう》は、はるか年上の五十五歳のベテラン・フリーライターで、これまで数多くのスクープを同誌に提供してきた。いわば、外部の強力助っ人という存在だった。  金子のほうも、知らない人間から見れば凶悪犯人としか思われないと、よくからかわれる人相をしていた。開いているのか閉じているのかわからないほど細い目と、いかにも冷酷そうな薄い唇、そしてめったに笑顔は見せない。そのため、杉本は平気でつきあってきていたが、若手記者の中には、金子の風貌を恐れていっしょに仕事したがらない連中も多かった。  そういう意味では、編集スタッフの若返りが進めば進むほど、金子は煙たがられて仕事も依頼されなくなっている現状があった。 「あんたの編集長昇格は知ってたよ。……で?」  金子は猫背になってコーヒーをすすりながら、細い目を新編集長に向けた。 「まずそのネタっていうのを教えてもらおうか」 「聞くだけ聞いて、断るのはナシですよ」 「心配するなって。おたくのチンピラ編集者が持ちかけてきたならともかく、すぎもっちゃん直々の話とあれば、理由もなく断ることはしない」 「理由があれば断るんですか」 「そりゃそうさ」  コーヒーカップを置くと、タバコに火を点《つ》け、金子はそれをテーブルに向かって吐き出した。 「イヤな仕事は断る権利があるのが、おたくらサラリーマンにはないフリーの特権だからな。のっけからその自由さを奪われる筋合いはない。ただし、断る場合も秘密は守る。ほかの雑誌に持ち込むことはしねえよ」 「そりゃそうですよ」 「で?」  金子は、好みのタバコなのに、いかにもまずそうに顔をしかめて吸いながらきいた。 「早いとこ、用件言ってくれや」 「いまから二週間ほど前、東京に大雪が降った日に、中伊豆で起きた事件、金子さんもごぞんじですよね」 「中伊豆? なんだっけ」 「あれ、知りませんか。山奥の森の入口で、まったく無関係な男女三人が、車の中と外で死んでいたという事件」 「ふうん」  タバコをふかしながら、金子はつまらなそうな声を出した。 「おれにとって初耳だということは、もしかすると新聞やテレビで報じられているのを目にしたかもしれないけれど、まるで関心を引くことなしに、右から左へスルーしたってことだろうな。どうせ集団自殺かなんかだろうけど、このおれにそんな珍しくもないネタを追いかけさせるのかい」 「いや、それが違うんですよ」  杉本はぐんと声を落とし、テーブル越しに相手のほうへ身を乗り出した。 「おっしゃるとおり、多くのマスコミは謎の集団自殺という観点でこの事件を報じましたが、その後、ほかに大きな事件が相次いだこともあって、いまではすっかり過去の出来事になってしまいました。しかしこれ、じつはかなりヤバそうな話なんです」 「どういうふうに」 「まず第一に、被害者三人の腕時計や携帯電話の時刻表示が、めちゃくちゃになっていました。車の時計もです」 「そりゃ、ネットで知り合ったどうしの集団自殺っていうのが、昔と違って平凡な話になってしまった昨今、本人たちがなんとか目立とうとすりゃ、死に際に不思議なオカルト現象を自己演出したとしてもおかしくはないんじゃないか。自分たちの死を世間にアピールしたいという狙いがあったんだろうよ」  金子は依然としてつまらなそうな顔だったが、杉本はそんなレベルの話ではないというふうに、ゆっくりと首を振った。 「しかし、集団自殺とするには死に方がヘンなんです。車の持ち主である中年サラリーマンと二十代のOLは車の中で死んでいたけれど、大学三年生の男の子は車の外で、雪の中に埋もれるようにして倒れていました。しかも、彼ら三人には排気ガスなどによる一酸化炭素中毒の兆候は認められず、睡眠薬は多量に用意してあったものの、それを服用した様子もない。また車内にOLの指紋が付いたナイフも落ちていたんですが、それで自分やほかの人間を刺した形跡もない。誰かが誰かの首を絞めた痕跡《こんせき》もない」 「じゃ、凍死じゃねえのか。大雪だったんだろ」 「いや、そもそも彼らの捜索がはじまったきっかけというのが、サラリーマンが悲鳴混じりの電話を妻にかけてきたことなんです」  杉本は、事件発覚の発端をざっと話した。 「それで集団自殺にみせかけた殺人という見方も浮上したんですが、いま言ったように、刃物、銃、ロープ、薬物、毒ガスなどなどの凶器が使われた痕跡は一切ない」 「ようするに、死因が不明だというわけか」 「そういう考え方もできますが、捜査当局は詳しい死因をつかんでいながら、どうもそれをひた隠しにしているのではないかという疑問が、遺族の間からも洩《も》れているのです」 「じゃ、実際にはどんな死に方だったというんだ」 「ショック死です」 「何が原因の」 「それがわからないのですが、ここにきて私は重要な情報をキャッチしたんです」  杉本は、金子の関心をなんとか惹《ひ》こうとして、さらに身を乗り出した。 「この世の中には、さまざまな職種において守秘義務というのがありますが、あまりにも常軌を逸した出来事があると、それを誰かに話したくてウズウズする欲求に襲われることがあります。『ここだけの話なんだけど』という決まり文句とともに、誰かに話したい、という……。そして今回の事件にからんで、職業上の守秘義務に違反して、友人に思わせぶりな態度で極秘情報を洩らした人間がいたんです。ほかでもない、遺体の解剖にあたった医師でした」 「………」  それまで無関心だった金子が、細い目をいっそう細くした。  長年のつきあいで、その反応に好奇心をみてとった杉本はたたみ込んだ。 「その医師は、友人に囁《ささや》くように語ったそうです。それぞれの遺族に戻した三人の遺体には、じつは眼がないんだよな[#「じつは眼がないんだよな」に傍点]、と」 「眼が……ない?」  金子は、明確に興味を示した。 「そりゃ、どういうことだ」 「遺族というものは、家族の亡骸《なきがら》に触れるとき、顔をそっと撫《な》でるようなことはしても、まさか閉じているまぶたをこじ開けるような、そんな異様な行動は絶対にとらない。だから、遺体の眼球がじつはなくて、代わりに丸めた綿が詰められてあっても、絶対にバレることはない、と」 「綿が詰められていた?」 「ええ。ガラス玉なんかを代わりにしたら、火葬したあとに、これは何だということになりますからね」 「じゃあ、三人は目ン玉をくり抜かれて殺されていたというのか」 「いやいや、それもたしかに猟奇的な状況といえますが、まだそうだったほうが謎は少なかったでしょう。おぞましい行為ですが、人がやったことだとわかりますから」 「じゃ、実際には人がやったことではないというのか」 「三人の眼球は、いずれも反転していたそうです」 「目玉が反転?」  金子は理解不能といった顔で眉根《まゆね》を寄せた。 「そうです。両目がひっくり返って死んでいた。そのため、眼球の動きをコントロールする筋肉が引きちぎられていたらしい。しかし、それは人為的に暴力をふるわれた結果ではないというんです。何者かが目玉に指を突っ込んで、それをひっくり返したのではない、と。なぜなら、眼球そのものにはまったく傷がついていなかった。つまり、あたかも目玉が勝手に自分でひっくり返ったとしか思えない状況だと」 「バカバカしい」  金子が笑いもせずに吐き捨てた。 「それは医者が知り合いを怖がらせるためにやった作り話だろうよ。すぎもっちゃん、あんた、おれにそんな眉ツバものの取材をしろというのか」 「動いている形跡があるんです」 「ほかのマスコミが、かい」 「いえ、政府が事件の本格的調査に」 「政府が?」 「これは別の筋から入手した情報ですが、三人が死んでいた周辺で謎の足跡も見つかっているようです」 「ちょっと待てや」  金子は、タバコをはさんだ手を杉本のほうへ突き出した。 「あんた、その事件は東京に大雪が降った日に起きたと言ったよな」 「そうです」 「で、大学生が雪の中に埋もれていたということは、伊豆のそこも大雪だった」 「ええ」 「だったら、足跡が残るわけないだろう」  と、金子は相手の話の矛盾を鋭く衝《つ》いた顔になった。が、杉本はその反論は織り込み済みだというふうに、ゆっくり首を左右に振った。 「たしかに、大雪が降ってすべての足跡をかき消した、なんて表現がミステリーにはよく出てきますが、実際には、足跡の上に雪が降り積もっても、ある程度の積雪までは、くぼみがそのまま残ったりします。とくに車のあった場所から少し入ると、もう深い森の中です。だから、木々が降雪をだいぶカバーする形になって、無数のくぼみが見つかったらしいんです。ただし、あくまで足跡の上に降り積もった雪のくぼみなんで、具体的な足跡採取まではいかなかったようですが」 「人間の足跡なのか」 「それにしては、ずいぶん小さいらしいんです。人間にたとえるなら、赤ん坊ぐらいの足跡になるので、おそらく人間ではなく、もっと違う生き物ではないかと」 「リスかい。ウサギかい」 「リスやウサギが人を殺せるとは思えません」 「おいおい」  金子はタバコを灰皿でもみ消した 「ひょっとしてあんたが言いたいのは、未確認飛行物体が伊豆の森に着陸して、そこから出てきた宇宙人が三人を殺したとでも」 「ひょっとしたら」 「いいかげんにしろよ」  金子は、はねのけるようなしぐさで片手を振った。 「そんなネタなら、オカルト好きの若手にやってもらえ。つてがないなら、おれがいくらでも紹介したるわ。怪しげな超常現象専門誌に嘘八百書き連ねてる連中、いくらでも知ってるから」 「やっぱり金子さんもそういう捉《とら》え方ですか」  杉本は口元のチョビ髭《ひげ》をこすりながら、深いため息をついた。  が、金子も負けじとため息を洩《も》らした。 「あのなあ、すぎもっちゃん。おれは城南出版社の中でただひとり、あんたの才能だけは認めている。だから親心で忠告してやる。あせるな。いいか、あ・せ・る・な」  金子は、まぶたの隙間から微《かす》かに覗《のぞ》く瞳で相手を見据えて、一音一音区切りながら念を押した。 「編集長に就任したての気負いはよーくわかる。自分にバトンタッチされて、いきなりデカいスクープを放とうという気持ちはじゅうぶん理解する。だがな、そこが落とし穴なんだ。おたくの社にかぎらず、どこの雑誌社でも失敗するのがそこなんだよ。新任が肩に力入りすぎて、前任者のやったことすべてを否定したがって、いいところまで否定するというのがね。野球の世界でもそうだよなあ。せっかく優勝するほど力をつけたチームが、監督が替わったとたん、その改革が改悪となって、あっというまに元の木阿弥というのは、めずらしい話じゃないだろ」 「だめですか」 「だめだね」  金子はそっけなかった。 「あんたに恥をかかせないためにも、そういういい加減なオカルト話は、おれは引き受けない。かといって、どこかに言いふらしたくなるほどのネタでもないから、頼まれなくても秘密は守るよ。一晩寝たら、もう頭の中には残っていないだろう」 「わかりました」 「それよりな」  断られた以上、もうきょうの用件は済んだとばかりに立ち上がりかけた杉本を、金子が手を伸ばして引き留めた。 「おれもあんたに呼ばれてちょうどよかったんだ」 「なんです。金子さんのほうから、何か用でも」 「ああ」 「情報の売り込みですか」 「そんなところかな」 「私がお話ししたいまのネタよりも面白いんですか」 「そりゃあ面白いさ」  めったに笑わない金子が、そこでハハハと声を立てて笑った。それが杉本の心に引っかかった。  杉本は、浮かせた腰をふたたび椅子に落ち着けて、金子にたずねた。 「なんですか、教えてください」 「教えてやってもいいが、聞いたからには、おれの頼みを断るまいな」 「こんどは立場逆転ですか」 「そういうことだ」 「じゃ、ネタの中身を教えてもらう前に、金子さんの頼みというのを先に聞いておきますよ。そうじゃないと、あなたのことだから何を言い出すかわからない」 「よくわかってるな。だが、難しい話じゃない。金だよ」 「金?」 「そう。安売りはせんよ、ということだな」 「原稿料をふっかけようっていうんですか」 「ふっかける、というのはそのとおりかもしらんが、原稿料と呼んでよい種類のものかどうか、それはわからんなあ」  もったいぶって言うと、金子は背中を丸め、新しいタバコに火を点《つ》けた。 「原稿料じゃなきゃ、なんです。企画料ですか。情報提供料ですか」 「いや、そのどれでもないかもしれない」  煙を吐き出して、金子は言った。 「なぜなら、雑誌に載せられるような話じゃないから」 「え?」  杉本は眉をひそめた。 「雑誌に載せられないネタなら、取り引きにならないでしょう」 「ところが、なるんだなあ」 「どうしてですか」 「おれが払ってもらいたいのは、口止め料なんだよ」 「口止め料?」  その言葉を聞いたとたん、杉本の顔が引きつった。 「金子さん、あなた、私を恐喝するんですか」 「まあ、そうあわてなさんなって」  含み笑いを浮かべて、金子は言った。 「あんたにどんな後ろめたい事情があるか知らんが、すぎもっちゃんを脅すほど、おれはワルじゃない」 「だったら、どういう話なんですか」 「いいのか、言っても」  金子は、細い目をいっそう細くした。 「いったん聞いたら、聞かなかったことにしてくださいというのはナシだぜ」 「聞かないといっても、金子さんが勝手に言うんでしょう」 「よく知ってるじゃねえか、おれのキャラを」  こんどは笑わずに、金子は肩を揺すった。 「さすがあんたは、ほかのチンピラ記者と違って物わかりがいいや」 「だけど、一方的にそっちが言った場合は、金を出せるかどうかは」 「おたくの社長のことだよ」  杉本の言葉をさえぎるようにして、金子は言った。 「聞こえたかい。社長さんに関わる話だ」 「山田の、ですか」 「それは新しい社長だろう。それじゃなくて、先月亡くなったほうの」 「神保?」 「そうだ」 「神保がどうかしたんですか」 「耳を貸せ」  金子は、テーブル越しに杉本を手招きした。そして、近づけた彼の耳に二言三言、早口で囁《ささや》いた。  杉本の目が大きく見開いた。そして彼は金子から身体を離しながら、つぶやいた。 「ウソでしょう……」 「嘘だと思いたいわな。尊敬されていた前社長が、過去にそんなとんでもないことをしでかしていたなんて」  金子は薄い唇を曲げて言った。 「だが、事実なんだからしょうがあるまい」 「証拠、あるんですか」 「あるよ」 「どういう証拠です」 「だからさ、すぎもっちゃん、そこがお金の交渉ごとだっちゅうんだよ」  金子の口調は冷たかった。 「率直に言って、おれは生活が苦しいんだ。あんたんとこの若手が仕事を回してくれないようになったからな。で、収入がないから、サラ金で借りる。借りてもそれは右から左に生活費として出ていくだけで、返すあてがない。そうなりゃ利息は雪だるま。いま、おれが置かれた状況はもう想像がつくよな」 「………」 「あんた、たしか神保社長が編集部長時代から、可愛がられていたって言ってたなあ」 「え、ええ」 「そのチンケな手品師みたいなチョビ髭《ひげ》も、ほかの役員が、みっともないから剃《そ》れと強制命令を出したさいにも、神保さんは、これも彼の個性だからとかばってくれたそうじゃないか」 「………」  杉本は、無言で口元のチョビ髭を撫《な》でた。 「だから、あんたも神保氏の交通事故死を聞いたときは、ショックだったろう」 「それはもう……」 「そんな大切な恩人の大スキャンダルを、すぎもっちゃんとしては表沙汰《おもてざた》にしたくあるまい。故人の名誉を傷つけたくあるまい。いくら刑法上の時効が過ぎているといってもな」 「ですからね、金子さん。あなたの話の根拠を聞かせてくださいよ。それが事実だという証拠を」 「その前に、金の話をしようや」  金子の声に、凄《すご》みが増してきた。 「持って回った言い方はせん。ズバリ言おう。毎月百万、年間一千二百万。これを五年にわたって援助してくれ。経理の目をごまかせるように、それなりの仕事を回してくれたら、おれも原稿は書く。なにも、ただ金を無心しているんじゃないんだ」 「………」 「どうだい」  金子が催促した。が、杉本はテーブルに目を落としたまま、沈黙を保った。その杉本の頭頂部を、じっと金子がにらむ。  そんな時間が一分から二分つづいたところで、新編集長の杉本不二夫は、意を決して顔を上げた。  そして言った。 「おことわりします」  それを聞いた金子の唇が「ほう」という形に丸まった。 「私は神保さんの人柄を信じています。あなたの言い分を証拠なしに信じることは、私が神保さんを裏切るに等しいことです」 「証拠を示したら信じるかい」 「信じません」 「じゃあ、話にならねえじゃねえか」 「ですね」 「おまえよお」  ホテルのカフェテリアにいるほかの客に聞こえないよう、金子は小声で凄んだ。 「調子に乗るんじゃねえぞ」 「乗っていませんけど」 「おれが金に困っているのを知って、見下しただろう。人間として、ずっとずっと下に見ただろう」 「ありませんて、そんなこと」 「トボけんじゃねえ」  こんどは金子のほうから立ち上がった。 「後悔するなよ、新編集長」  それだけ吐き捨てると、金子はくるりと背を向け、カフェテリアを出て行った。  ありがとうございました、と金子に向かって挨拶《あいさつ》する従業員の声を聞きながら、杉本はテーブルに座ったまま、固まっていた。 [#改ページ]  六 過去を持ってきた女[#「六 過去を持ってきた女」はゴシック体]  フリーライターの金子が新編集長の杉本に捨てゼリフを吐いてから二日経った、十二月二十二日——  神保康明の妻・敦子は、抜け殻のような状態で自宅の整理をひとりで行なっていた。  夫を交通事故で亡くしてから、すでに一カ月以上が経った。ふたりの子供たち——真美と透はショックからだいぶ立ち直っていて、父親の死をすでに過去の出来事として、日に日に悲しみから遠ざかっていくように、母親の目には映っていた。  そんなものかもしれない、と敦子は思った。  子供といっても、ふたりとも立派な社会人である。姉の真美は早いもので、もう三十の大台に乗っている。敦子の世代と違って、真美は結婚適齢期などというタイムリミットの概念など、まるで持ち合わせていないようで、気楽な独身生活を楽しみながら、学生時代の恩師である理工学部教授・清水武信のもとで電磁波の研究に没頭していた。  弟の透は、父親が社長をやっていた城南出版社の系列会社に勤めているだけに、真美よりは父親の死を長く引きずるだろうと敦子は想像していたし、実際、姉ほど吹っ切れるのが早くはなかった。だが、こうした事態に陥ったとき、結婚してまもないルイの存在は大きかった。息子は、可愛らしいお嫁さんのおかげで、どれほど精神的に救われているかわからない、と敦子はうらやましく思っていた。  率直なところ、敦子は息子の環境に嫉妬《しつと》していた。  自分はつれあいを失ったのに、息子は愛する妻といっしょになったばかりである。こっちはひとりぼっちになったというのに、息子はふたり、いや、来年には三人家族になる。まさに人生の下り坂と上り坂の対比を見せつけられるようで、親子の間とはいえ、平穏な気持ちではいられなかった。  だから敦子は、娘の真美のほうが母親の気持ちがわかってくれると思って、葬儀のあとは、そちらを頼りにしていた。  事実、大学の近くにある小さなマンションにひとりで住んでいた真美は、葬儀から一週間ほどの間は、連日実家に泊まり込んで母親を励まし、何から何まで身の回りのことを手伝ってくれた。大学の研究室へも実家から通い、研究時間もいつもよりずっと短くする気遣いをみせていた。透が葬儀の翌々日には、もうルイといっしょに新居へ戻ってしまったのとは対照的だった。  敦子は娘のやさしさを改めて認識し、やはりこういうときには女の子のほうが何倍も助けになるものだ、と痛感した。が、しかし母親の孤独を慰めてくれたのは一週間だけで、そのあとは真美も自分のマンションに戻って、元どおりの生活をはじめてしまった。  実家に持ち込んでいた着替えなどを旅行バッグに詰め込んで出ていく娘に、敦子は「もう帰っちゃうの?」と、まるで彼女のほうが娘のようなすね方をしたが、真美は「ごめんね、研究のほうが急に忙しくなったから、先生にそろそろ元のペースに戻すようにって言われたの」と弁解した。  真美は、敦子と同年配の清水教授に絶対服従といってよいほど傾倒しているのを知っていたから、母として、それ以上は何も言えなかった。  親なんて孤独なものだ、と敦子は淋《さび》しいため息をついた。  娘が出ていったのと引き換えに、数年前に夫を亡くした友人が、いかにも「あなたもきょうから未亡人仲間ね」といった顔で近寄ってきたのには辟易《へきえき》した。そんな仲間にはなりたくなかった。 (これから私はどうやって生きていけばいいのだろう)  神保は生命保険も含めて、それなりの金銭は遺してくれた。娘や息子も、お父さんの遺産はお母さんがぜんぶもらえばいいよ、と快く申し出てくれたので、経済的な心配は当座はしなくてすみそうだった。コツコツとパートでもやっていれば、貯金の減り方もセーブできるだろう。  しかし、問題は精神的なものだった。  まさか新婚の息子のところへ転がり込むわけにはいかない。真美だって、ひとり暮らしだからこそ好きな研究に没頭できているので、母親が同居を求めてきたら、わずらわしいと思うに決まっている。  敦子はまだ六十歳である。この年で子供からお荷物扱いされる生き方だけはしたくなかった。だから、ひとりで住むには広すぎるいまの自宅を売却し、もっと狭いところへ移ろうと、遺品の整理も兼ねて家の片づけをはじめたのだが、その作業をすればするほど孤独が募った。  出版社の社長として交際範囲の広い神保だったから、会社の人間の助けも借りて、相当の枚数に及ぶ年賀欠礼のハガキも出さねばならなかった。もちろん、毎年正月に賀状をくれる自分の知人にもそのハガキを送ることになる。それがまた敦子の虚無感を募らせた。悲しみに押し潰《つぶ》されそうな、いまの自分の気持ちを、わざわざ世間に進んで晒《さら》すようで気が滅入った。  室内を見渡すと、あちこちの壁に、運送会社の持ち込んだ組み立て前の段ボール箱が十枚一組で結束されて立てかけてあった。荷物を詰め込んだものは、まだ五、六箱にすぎない。高いところにしまってあるものを出したり、重い家具を片づけるには敦子ひとりでは無理で、透の助けも借りなければならなかった。だが、実の息子であっても、嫁にも遠慮して、おいそれとは呼び出せない。  中途半端な状態で広げた雑多な品々に囲まれ、敦子は呆《ほう》けたように床にへたり込む。そんな毎日がつづき、きょうもそうだった。気分転換にとテレビをつけてみても、クリスマス・ムード一色で、ますます自分だけが世間から取り残された気分になった。そして、すぐにリモコンに手を伸ばし、電源を切ってしまう。  敦子は二十七歳のとき、六つ年上の神保康明と社内結婚し、三十三年間の夫婦生活を営んできた。その「先輩社員」が、ついに社長という最高の地位まで昇りつめたときには、感慨深いものがあった。長い長い夫婦の歴史だった。なにしろ、神保と知り合う前よりも、神保といっしょに暮らしてきた時間のほうが長くなったのだから。  しかし、ことしの暮れは三十三年ぶりに夫のいない年末年始を迎えることになる。クリスマス、大晦日《おおみそか》、正月——世間ではそういった恒例の行事が目白押しなのが、ますますひとりぼっちとなった孤独感を強めるようで、敦子はうらめしく思った。  クリスマスや正月は幸せな人のために——少なくとも不幸ではない人のためにあるものだ、と痛感した。そう思うと、涙があふれて止まらなかった。  敦子は昔から黒縁のメガネを好んでかけていたが、最近ではそのメガネをかけることも少なくなっていた。あまりもしょっちゅう涙が流れ出すので、それを拭《ふ》くときにわずらわしかったからである。  きょうも、外は冬にしてはまばゆいほどの日射しがあふれていたが、敦子の心は澱《よど》んでいた。そんな重苦しい気分に浸っていたとき、玄関のチャイムが鳴った。  神保家には玄関先の訪問者の姿をチェックできるカメラ付きインタホンが備えてあったが、敦子はそれで相手を確かめることもせず、じかに玄関のところまで応対に出た。そして、そのままあっさりとドアを開けた。  これまでの敦子には考えられないほどの無防備さだった。いまの彼女は、泥棒が入るなら勝手に入ればいいと思っていた。ドアの向こうに立っているのが凶悪な殺人犯で、包丁を突き出してきたら、それで刺されて死んでもいいと思っていた。  ただし、敦子は現実主義者なので、死ねば夫のいる天国へ行けるというような空想は抱いていなかった。この悲しくてやりきれない日々から解放されるには、死しかありえないと思っていただけである。だから、向こうから死神がやってくるようなことがあれば、あえてそこから逃げだそうという気持ちになれないだけだった。  人間、いったんそんな気分になると、これまでの防犯意識などが嘘のように、怖いものがなくなってくる。  しかし——  ドアの外に立っていたのは、敦子の予想からずいぶんかけ離れた人物だった。きれいに結い上げた銀髪の輝きからすると、還暦を迎えた敦子よりも年上で、六十代後半から七十代ぐらいかと思われる上品な女性だった。敦子にとっては初めて見る顔である。  冬物のコートの下は洋装だったが、着物姿のほうがずっと似合いそうな、日本的な顔立ちをしていた。若いころは、さぞ美人であったに違いない、と敦子はひとめでそう思った。いまも年齢相応の老いよりも、美しく整った顔立ちのほうに見る者の注意がいくほどである。  だが、その顔に社交的な笑みは一切なかった。穏やかさや、やさしさといったものもない。怒りを感じるところまではいかないが、少なくともこの年配の女性に、初めて訪問する家のあるじにお愛想をふるまうつもりがないことは確実だった。 「あの……」  敦子が、遠慮がちにきいた。 「どちらさまでいらっしゃいますか」 「湯浅《ゆあさ》、と申します」  銀髪の婦人は、見た目の印象よりはずっと太い声で、はっきりと苗字を名のった。そして一息区切ると、もういちど下の名前も添えて言い直した。 「湯浅|映子《えいこ》と申します」 「はあ……」  フルネームを聞いても、敦子に心当たりはなかった。香典返しや年賀欠礼の発送リストに、湯浅という苗字があった記憶はない。  だが、敦子は婦人の美貌《びぼう》から、もしや夫が自分に隠してつきあっていた愛人ではないか、という想像が浮かんだ。神保が生きていたときにそんな疑いを抱いたならば、正常な精神状態でいられなかっただろうが、いまの敦子は、仮にその想像が当たっていたとしても、特別な感情が湧き起こる気がしなかった。  だから皮肉を込めるでもなく、警戒心を抱くでもなく、自然な口調でたずねることができた。 「もしかして、主人のお知り合いの方でいらっしゃいますか」 「はい」  湯浅映子と名乗った女性は、静かにうなずいた。  それで敦子は、婦人が神保の死を知るのが遅くなって葬儀にこられず、いまになって個人的に弔問に訪れたのだろうと理解した。そうである以上は、あまり深い詮索《せんさく》をせずに、遺影の前で焼香をさせるのが礼儀だろうと、相手に向かって中へ通すしぐさをした。 「それでは玄関先で立ち話というのも寒うございますから、どうぞ中へ。散らかっておりますけれど、奥の部屋に主人を祀《まつ》ってございますので、お線香をあげていただければ、きっと喜ぶと思いますわ」 「まさか」 「は?」  相手の発した言葉のニュアンスがすぐにはわからず、敦子は問い返した。 「まさか……とは」 「もしも仏様に私の訪問が見えたなら、まさか喜ぶはずがなかろう、という意味で申し上げました」 「………」 「おたがいにとって愉快でない話は、お部屋の中まで上がり込んでいたしますと、別れ際が難しゅうございましょう? ですから、ここで結構です。玄関の中まで入れていただいただけでじゅうぶんです。ドアを閉めれば、寒い風も入ってまいりませんし」  敦子に恐怖感は湧いてこなかったが、上品な老婦人の意外な言葉のきつさに、戸惑いと疑問が生じた。 「恐縮ですけど、湯浅さん……でしたわね。お線香をあげにこられたのではないなら、いったいどういうご用件なんでしょう」 「これを見てくださいますか」  と言って、映子はハンドバッグを開けて、一枚の名刺を取り出した。  ただしその名刺は、じかに手が触れることのないよう、小さな透明セロファンの袋に入れられてあった。映子はそれを両手でつまみ、相手によく見えるようにかざしたが、直接手渡しはしなかった。  メガネをかけていないので、敦子はかなり名刺に目を近づけねば印刷された文字が読み取れなかった。 「シバタ……ジロウ?」  芝田次郎、と名前の書かれた上には「次長」と役職が記されてあり、右横には大手機械メーカーの社名が刷られてあった。ただしその会社は、十五年ほど前に倒産していることを敦子は知っていた。国民的に名の知れた一流メーカーの突然の倒産だっただけに、マスコミでも大々的に取り上げられた出来事だった。  つまり、その名刺は少なくとも十五年以上も前のものということになる。よく見れば名刺は新品ではなく、名前が印刷されている側に茶色の染みが点々とついており、全体として薄汚い印象があった。 「この名刺は」  婦人が言った。 「主人が殺された場所に置いてあったものです」 「え?」  敦子は、ますます混乱した。 「ご主人が、殺された?」 「そうです。いまから二十七年前か二十八年前か……もう正確なところを思い起こせないほど昔になってしまいましたけれど、あのときのショックはいまだに忘れることができません」  相手の言葉を聞きながら、敦子の脳裏で時計が逆回転をはじめる。  二十七年前か二十八年前——そのころ、神保と自分はすでに結婚している。長女の真美も生まれており、三歳か四歳だ。下の透はまだ生まれていない。  そんな昔のことに相手の話が遡ってきたので、敦子は当時の自分に、あるいは夫に何か記憶に残るような出来事があったか、それを反射的に思い出そうとした。話のつづきを耳から取り入れながら。 「芝田というのは殺された主人の苗字で、もちろん当時は私も芝田でした。芝田映子でした」  銀髪の婦人は、玄関の上がり口に立ったままつづけた。 「けれども、あの悲しい出来事のあとしばらくして、当時中学生だったふたりの息子といっしょに、主人のところから籍を抜いたんです。芝田の両親からは、孫を私たちから奪う気かと猛反対されましたし、向こうの一部の親戚《しんせき》からは、映子さんが怪しいんじゃないかとさえ噂されましたが、あのむごたらしい出来事を少しでも遠ざけるには、そうするよりなかったんです」 (真美が三、四歳だったころに、相手の子供は中学生……十以上違う。私よりもう少し早く結婚していたとしても、この人は私よりもだいぶ上のはず。……あ、もしかして、うちのパパと同い年? だとしたら、学生時代の同級生だったりして)  そんな想像が浮上した。 「ですから私は子供といっしょに、旧姓の湯浅に戻しました。その後、結婚はしておりません。そして、いままで心の支えになってくれた息子たちも、それぞれ四十を超えて家庭を持ち、立派な夫となり父親にもなってくれました。ええ、私は五人の孫に恵まれたおばあちゃんですの」  そのときだけ、湯浅映子の頬に微《かす》かな笑みが浮かんだ。が、すぐにそれは消えた。 「亡くなった主人に見せたかったですわ、可愛い孫たちの姿を。いまでも私、想像してみることがありますのよ。三十八歳というところで時計が止まってしまった主人が、もしもいま生きていたとしたら、どんな姿のおじいちゃんになっているかしら、と……。でもね、無理なんですよ」  悲しそうに、映子は首を左右に振った。 「若くして死んだ夫が、五十、六十と歳を取っていく様子を想像するのは無理なんですよ。実際に見られないものを見ようとしても、できないんですよ。誰のせい? 主人が孫とたわむれている平凡で幸せな姿を見られなくしたのは、いったい誰のせい?」  映子の語気がどんどん強まっていた。  そして、敦子は敏感に察した。 (もしかしてこの人、夫が殺されたのは、うちのパパのせいだとでもいうの?) 「主人は……」  ぐっと声を落として、婦人は言った。 「私が買い物に出かけて、子供たちも遊びに出ているときに、自宅で殺されました。真っ昼間にですよ。よく晴れたこどもの日でしたわ」 (こどもの日? よく晴れたこどもの日? 真美が三歳ぐらいのときの……)  急に特定の記憶が大脳の底からよみがえろうとしていた。  自分が体験した出来事は、音声、映像、文字、嗅覚、触覚など、情報の種類別に脳の各所に分散して記録されており、それをひとつの糸で紡ぎ上げて引き出せたときに「記憶」と名付けられる情報の復活に成功する。  ちょうどインターネットに乗せる情報が「パケット」という小さな情報単位に分割されて通信網を走り、相手に届く段階で、こまぎれのパケットがまた正しい順番に統合されて、意味を成す情報として復活するのに似ている。  人間の頭脳に蓄積されたデータは、決して思い出ごとにまとまった状態で保存されているわけではない。音声エリアはここ、映像エリアはここ、文字エリアはここ、というふうに別々の倉庫にしまわれてある。それをテーマごとにまとめて元の形に紡ぎ上げる能力こそが「記憶力」であり、別の言葉を用いて言えば、記憶とは分解された部品の組み立て作業なのである。  人の顔だけ思い出せて名前が出てこなかったり、反対に、人の名前は思い出せても、顔が浮かばないことがあるのは、まさしく情報が意味を成すセットで保存されているわけではない証拠だった。  そして、神保敦子の脳裏にまず浮上してきたものは、暖かい五月の日射しだった。「よく晴れたこどもの日」という映子の言葉を聞いて、いまは冬であるにもかかわらず、敦子は首筋や腕に、緑の季節の太陽を感じていた。  つぎに、ざわめきが聞こえてきた。 (これは、なんのざわめき?)  雑踏の中、三歳の真美の手を引いて歩いている自分の姿が見えてきた。  そのざわめきは、ガヤガヤと人が話し合う声だけで構成されていなかった。ところどころに動物の鳴き声らしきものが混じっている。  パオーンという、ゾウの声が聞こえた。つづいて、匂いもよみがえった。動物園特有の、獣の糞《ふん》や体臭が混じったあの匂いが。 (私は、こどもの日に真美をつれて、動物園にいた?)  あ、キリンさーん、とはしゃぐ幼い真美の声が聞こえてきた。同時に、首の長いキリンを見上げて「すごいねー」と歓声をあげる自分と真美の姿が見えた。  真美は、一日の大半を柵《さく》で囲ったベビーベッドの中で過ごしているような時期から、キリンのぬいぐるみに特別な関心を持っており、その嗜好《しこう》は成長してからもずっと変わらなかった。子供時代だけでなく、成人してからも、真美はキリンのぬいぐるみを飾ったり、キリンのアップリケを洋服に縫いつけたりする習慣をやめなかった。とにかく動物の中でキリンがいちばん好きなのである。  だからその日も、真美にいろいろな動物を見せるために動物園へ行ったのではなく、キリンさんが見たいと言い張るので、それだけが目的で連れていったのだと思い出した。  三十年近くも前の平凡な一こまを、敦子は、いま鮮やかに復活させていた。 (そんな日に、この人の旦那《だんな》さまが殺された……私と真美が動物園で楽しく過ごしているときに、ひとつの家庭が壊された……誰に……) 「主人は」  湯浅映子の声で、脳裏のスクリーンに投影されていた一秒にも満たない記憶の映画が、ぷつんと途切れた。 「金づちのようなもので、頭や顔をメッタ打ちにされて殺されましたの。自分の夫がそんなふうにされた姿を見た私の気持ちが、あなたに想像できます?」 「私だって」  と、敦子はとっさに言い返した。 「交通事故で病院に運ばれた主人を」 「ぜんぜん違いますね、ショックの度合いが」  湯浅映子が、言葉をかぶせるようにして敦子の反論を封じた。 「でも、誰しも自分の身に起きたことこそが、いちばん衝撃を受けるのは当然ですから、どちらがつらい思いをしたかという点で言い争うつもりはございませんわ。ただ、私が申し上げたいのは、この名刺のこと」  セロファン袋に入れた名刺を、映子はふたたび敦子の目の前に近づけた。 「これ、主人が倒れていたそばの、応接セットのテーブルに置かれてあったんです。だから警察はこう考えていました。私たち家族が留守をしているとき、自宅を訪ねてきた誰かを、主人は応接間まで上げた。そのあと名刺交換をしてから、いきなり殴り殺された。その証拠に、この名刺の横には五、六枚入った主人の名刺入れが置かれてあって、一枚だけテーブルに出されていたこの名刺には、主人のほかにもうひとりの指紋が付いていたそうです。  ですから犯人は、主人から受け取った名刺を残したまま逃げていったのです。それは自分のやったことに興奮していたせいか、それとも指紋のことなどまったく頭になかったのか、実際のところはわかりません。ただ、警察は犯罪歴のある人間の指紋と照合しましたけれど、該当者はいなかったということです」  芝田次郎と印刷された名刺をふたたびハンドバッグにしまいながら、彼の妻であった婦人は、低い声でつづけた。 「そこで警察は、犯人像について、このような意見を私に言ってきました。犯人は休日の昼間に芝田さんの自宅を訪れ、しかも事前にその訪問を奥さまが知らないことから、通常の仕事関係の人間とは思えない。でも、名刺交換をした点から考えると、初対面ではあったけれど、何かの話し合いをする必要性はご主人も感じておられたのでしょう。ですから、家の中まで上げたのは、決して親しい間柄だったためではなく、むしろ立ち話ではできないような深刻な用件を持ち込んできたからではないか、と」 「………」 「けれどもその一方で、奥の部屋では大きな音でテレビがつけっぱなしになっておりました。私が買い物から帰って主人が死んでいるのを見つけたときに、どんな番組が流れていたかなど、そのときですら覚えておりませんでしたが、警察の調べですと、犯行があった時間帯にはプロ野球の昼間の試合中継があったそうなんです。主人は大の野球ファンでしたから、それは自然なことですが、もしも大事な会談があると事前にわかっていれば、相手がきたときにテレビを消すはずです。突然きたとしても、話の中身が深刻であれば、テレビは消すか、少なくとも音は絞りますよね。それを考えると、主人が相手の用件を、そんなに深刻に受け止めていなかった可能性もあるのです」  二メートルも離れていない近さで敦子と対峙《たいじ》した訪問者は、まだその来訪の目的を明らかにしないまま、話を進めていった。 「いずれにしましても、事件直後の私はとても取り乱していて、警察の見解を検討するゆとりなどまったくございませんでした。誰が主人を殺したのかよりも、主人がいなくなってしまった事実のほうが何百倍も重要で、犯人探しなどに気が向くことはなかったのです。そして、いまが何月何日かもわからないような、心ここにあらずという日々が長く長くつづいたのです」  それはいまの自分もまったく同じ心境だ、と敦子は思った。  神保を死に至らしめた事故の発端を作ったスポーツカーの若者は、自らも重傷を負ったが命は助かり、業務上過失致死傷の容疑で警察に逮捕されていた。これからその青年に対する損害賠償請求を含めた長い裁判が予想されたが、そんなことよりも、敦子にとって重要なのは、夫がいなくなってしまったという変えることのできない事実だった。  その事実を変えられない以上、誰が加害者で、いくら賠償金をもらえるかということは、どうでもよくなっていた。  そしてもう一点、あの晩、いったい夫が何の目的で、どこに向かって車を走らせていたのかという謎も、もう追及しようと思う気持ちは敦子にはなくなっていた。 「やがて、殺人事件の時効がまいりました」  立ち話にしては長すぎるストーリーが、つぎの段落に入ったことを表わすかのように、湯浅映子の声のトーンが少し変わった。 「時効成立とともに、事件の証拠品として警察が預かっていた先ほどの名刺も、私の手元に返されました。それを十年以上も、私は大事に持ちつづけています。忌まわしい思い出につながるものは、すぐに破いて捨てればいいのに、なぜかそうさせない不思議な力を、私はこの名刺に感じてしまったからです。主人と犯人との指紋がいっしょに付いている一枚の名刺に……。  おかしなものですね。刑事責任を問えなくなってから、初めて私は、芝田を殺した人間が誰であるのかを知りたくなってきたのです。まるで主人が、おれを殺したやつをおまえの手で見つけ出してくれ、そうでもしないとおれは浮かばれない、と訴えているようにも思えました」 「………」 「そして、ついさきごろ、私に大きな出来事が訪れました。高校三年のとき、私の隣のクラスにいて、バスケット部のキャプテンで勉強もすごくよくできた篠原《しのはら》さんという男性から、どうしてもあなたに会って話したいことがある、という電話連絡がきたのです。湯浅映子としてではなく、芝田の奥さんとしてのあなたに、と……」  敦子にとって見ず知らずの登場人物がまた増えて、話の趣旨がますますわからなくなったが、ともかく相手が最後まで語り終えるのを聞いているよりなかった。 「篠原さんは主人と中学から高校までずっといっしょのクラスで、『篠原』と『芝田』で出席簿の順番もいつも隣同士ということもあって、とても仲が良かったんです。ただ、卒業後はおたがい別々の道に歩んだため、まったく音信不通になっていたのですが、二週間前に人づてに私の居場所を聞いたといって、突然電話をかけてきて、会いたいと申し出てきたのです。  私としても、彼と顔を合わせるのは高校卒業以来ですから、四十八年ぶりになるのでしょうか。ほぼ半世紀の空白があります。おたがい、あまりにも青春時代のイメージと違っていたので苦笑いの再会となりました。けれども、わずかでも笑顔を浮かべたのは最初の瞬間だけでした。篠原さんはすぐに表情を引き締め、そしてこう切り出してきました。神保が東名の事故で死んだのを知っているか、と」 「ちょっと待ってください」  突然、相手と自分の夫の関係が見えてきた。 「では、あなたは神保と同じ高校だったんですか」 「はい」 「私も、それから主人の芝田もです。ただ、神保さんと芝田は三年A組でしたが、私は隣のB組でした」 「それで……?」  夫の同期生だった銀髪の婦人に問いかけながら、よくない想像が急速にふくらんできた。というのも、記憶の形をまだとらない、情報データのパーツが敦子の脳裏に浮上しつつあったからだった。それは、血の匂い——  しかもその匂いは、動物園の匂いと結びついていた。 「それで……どんな話があったんですか」 「篠原さんによれば、神保さんが巻き込まれた高速道路の事故は新聞でもテレビでも報じられていたけれど、そのときは昔のクラスメイトとは結びつかなかった。けれどもそのあと、城南出版社社長・神保康明の死亡広告が各新聞にわりあい大きく出たので、それであの神保が死んだのだとわかった、と」 「で?」 「篠原さんは言いました。彼が生きているときは間違っても口に出せなかったけれど、いまだから言える。きみのダンナを——芝田次郎を殺したのは、神保康明だと思う、と」 [#改ページ]  七 封印されていた記憶[#「七 封印されていた記憶」はゴシック体]  キーンという金属音が耳の奥で鳴り響いた。  訪れてきた女が放った衝撃的なひとことをきっかけに、神保敦子の脳内で、突然猛烈なスピードで情報の再生作業がはじまった。三十年近く遡《さかのぼ》る過去の出来事に関する視覚、聴覚、触覚、嗅覚、さらには言語の記録と、各種の情報データが猛烈な速度で寄せ集められ、それらのパーツが論理的に統合されて、ある日の神保家の光景が、鮮やかな精密さを持って復活してきた。  当時は田園調布《でんえんちようふ》二丁目のマンションに住んでいた。その間取りが、立体的に浮かび上がってきた。  あれは夜の七時前だった。どこかで見た時計の記憶もよみがえった。こどもの日に真美を上野の動物園につれてゆき、お気に入りのキリンを好きなだけ眺めさせたあと、そのあと食料品を買うために渋谷《しぶや》に立ち寄り、そして自宅に戻ってきたのだ。  その光景が、生々しいリアルさをもって頭の中に広がった。そして、先月死んだ夫の康明が、三十八歳当時の姿で敦子と真美に笑顔を向けてきた。 「やあ、おかえり」  声も若々しかった。 「真美ちゃん、動物園は楽しかったかな〜」 「うん、たのしかったー」  大きな声で真美が答えた。 「キリンさん、いっぱいいたよ。ゾウさんもいたよ」 「そうかあ、真美ちゃんの大好きなキリンさんが、いっぱいいたんだ」 「うん!」  元気よくうなずきながら、真美は、キリンのアップリケが縫いつけられたブラウスの胸を得意げにそらせた。そんなところまで、三十年近い歳月が経っているのに、明確に思い出せた。 「ごめんね、遅くなっちゃって」  そう、買い物の紙袋を玄関のところに下ろしながら、自分はたしかにそう言った記憶がある。自分自身の声も若かった。 「上野はすっごい人だったの」 「そうだろうな、なにしろこどもの日だから」 「それに真美が先にごはん食べたいっていうし」 「いいよ、いいよ。きょうはこどもの日なんだから、真美の都合中心で」  なんで、なんで、なんで、と、敦子は心の中で叫んだ。どうしてこんな些細《ささい》な会話まで、私は覚えているの、と。  人間というものは、生まれたときから現在に至るまで、自分自身の行動も含め、五官で捉《とら》えたすべての情報を脳内に完全記録している、という説を、敦子は誰かから聞かされたことがある。  誰から? 他人ではない、娘の真美からだった。大学在学中からずっと清水武信研究室で生体電磁波の考察をつづけている娘は、将来の夢は清水先生にノーベル物理学賞をとらせること、と広言していた。その真美が、いつか語ってくれたことがあった。  お母さん、「記録」と「記憶」は違うんだよ。記憶力には個人差があるけれど、人間の目、耳、鼻、舌、皮膚という五官を通して入力されたデータは、すべて自動的に記録されてしまうの。それは個人個人の知能指数とはほとんど関係がない。人間に共通して備わった能力。  もちろん、生まれてから死ぬまでに入力される五官の全情報は、歳を取れば取るほど膨大な量になるけれど、それぐらいの収容能力が脳にはあるのよ。人間は、脳のほとんどを使わずに死んでいくというけれど、それは嘘。大いなる間違い。人間の身体に、退化もせずに働かずにいるムダな部分なんてないの。まったく機能していないと思われている脳の巨大エリアこそが、膨大なデータを収める倉庫なのよ。脳には、赤ちゃんとして誕生してから——ううん、そうじゃないわ——お母さんのお腹の中に新しい生命として宿った瞬間からの全記録が収められているの。  コンピューターでいえば、目や耳や鼻や舌や皮膚はキーボードで、脳はCPUであると同時にハードディスクね。そして、心臓や肺臓や肝臓が電源と思えばいいかな。そうなのよ、コンピューターと人間は基本的に同じものなの。人間がコンピューターを発明したというより、人間は自分の真の姿を知るために、コンピューターを発明するように導かれた、と思うほうが正確かな。  わかる、お母さん。コンピューターを機械と思うなら人間も機械だし、人間を生き物だと思うなら、コンピューターも生き物なのよ。どちらも本質は同じもの。だから、いずれそう遠くない未来に、ふたつのものは合体するわ。コンピューターは機械であることを卒業し、人間は生き物であることを卒業する日がね——  そんな話を真美が真剣な表情で滔々《とうとう》と語るのを見たときは、娘は難しい研究をやりすぎて、頭がどうにかなったのではないかと本気で心配したほどだった。  だが、いまになって娘の言っていたことが事実だとわかった。  その真美が、幼稚園の年少組に通っていた当時の、こどもの日の記憶が……いや、記録が、一気に敦子の脳の表面にあふれ出してきた。猛烈なスピードで、だ。  なぜその速度を猛烈だと感じたかといえば、敦子の脳裏で再生されている光景では、現実世界と同じスピードで家族が会話しているにもかかわらず、目の前に立っている湯浅映子は、いまのところ、まだ一回だけしかまばたきをしていないからだった。 「でも、パパ、おなか空いちゃったでしょ。晩はまだでしょ」 「ああ、まだだけど」  あの日のやりとりの厳密な再生がつづく。 「はい、これ。渋谷の東急のれん街で買ってきたお惣菜《そうざい》だけど、和風のお弁当とカレーと両方あるから、好きなほうをとってね。私は残りでいいから」 「ありがとう」 「お昼はちゃんと食べた?」 「お昼? ああ、うん」  そのとき、夫の表情が曇った。  そう、たしかにサッと翳《かげ》った。 「ま、適当に、そこらへんで」 「だけど、パパはいっしょに行かなくて正解だったわよ。人ごみだけでクタクタになっちゃうから。それじゃせっかくのお休みがパーだもんね」 「悪いね、こどもの日なのに」 「いいえ。パパのお仕事は、同じ職場にいた私がいちばんよくわかってます。世間が休みのときがいちばん忙しいって」 「そうなんだよなあ」  当時、まだ現場の一編集者として作家の原稿取りに追われる毎日だった神保は、笑いながら大げさにため息をついた。 「印刷所は連休中をぜんぶ休めていいけれど、こっちは作家のケツ叩《たた》きで休むひまもありゃしない」 「これだけ世間が遊んでいるのに、休みがきょうだけなんてねー」 「ま、そのぶん、みんなが働いているときに代休をとるからいいさ」  夫は軽く肩をすくめてから、真美を抱き上げた。 「さあ、真美ちゃん、高い高いやろうかな〜」 「うーん。ジャンプつきのー」 「よーし、わかった。いくぞー、高い高い、ぴゅーっ!」  まるでその場に自分が立ち会っているようなリアルさで。過去の家族のやりとりが展開する。  夫は娘の小さな身体を天井に向かってポーンとほうり上げ、真美はおかっぱの髪の毛を広げながら、きゃははー、とうれしそうに笑い声をあげて落ちてくる。それを受け止めて、また夫は娘を高くほうり上げる。  それの繰り返しだった。 「真美ちゃんのスカイダイビング、また行きま〜す。高い高い、ぴゅーっ!」 「きゃははー。パパー、もっと〜」 「もう、真美ちゃんたら」  敦子は、あきれたように腕組みをした。その動作をしている自分が、いまの自分でないのが不思議ほど生々しい立体感がある。 「ほんと、この子って、怖いことを平気でするのね。このぶんだと、大きくなったら空を飛ぶと言いかねないわ」 「それならそれでいいじゃないか」  ようやく満足した娘を床に下ろして、夫は言った。 「子供のときの『高い、高い』がきっかけでスカイダイビングの趣味をはじめたということになったら、それはそれで楽しいし」 「パパがそんなふうに言ったら、真美は調子に乗って、ほんとにそうするわよ。この子、動物園でもクマさんといっしょのところへ行きたいとか、いちいち言うことが大胆なの。しかも、口だけじゃなくて、ほんとにやろうとするから、こっちが手綱を引き締めておかないと何するかわからないの」 「いいねえ、そういう積極的な性格は」 「まったくどっちに似たんだか」 「ま、少なくともぼくじゃないだろうな」  ふっと、夫は顔を曇らせた。 「ぼくは暗い少年だったから」 「パパ」  敦子はポンと夫の腕をぶった。 「少年時代を自虐的に語るのはパパの悪い癖だ、って、私がいつも言ってるでしょ」 「ああ」 「人間、子供のころにどうだったかは関係ないわよ」 「冗談、冗談、いまのは冗談」  そんなやりとりがあったあと、時間的にはほんの一、二分ほど飛んで、場面は洗面所に変わった。  真美の足が汚れているのに気づいた敦子が、風呂場で洗ってやろうとして、洗面所へ真美をつれてゆき、靴下を脱がせた。そして洗濯機のふたを開けたとき、黒いウィンドブレーカーが無造作に突っ込んであるのが目に入ったのだ。  不審に思ってつまみ上げると、黒地のためにすぐはわからなかったが、そのウィンドブレーカーの広い範囲にわたって血が染み込んでいた。濡《ぬ》れたティッシュでこすってみると、たちまちそれが赤く染まった。  敦子の顔色が変わった。 「パパー」  敦子は、リビングにいる夫に呼びかけた。 「ねえ、このウィンドブレーカーどうしたの」 「ああ、それかあ」  のんびりした返事が聞こえてきた。 「汚れたから洗濯しといて」 「でも、この汚れ、血よ」 「わかってる。運動不足だからたまにはジョギングでもしようと思ってさ、走ったら転んじゃったんだよ」 「ほんと?」  敦子は洗面所に真美を残したまま、ウィンドブレーカーを手にリビングへ駆けてゆき、夫の鼻先にそれを突きつけた。 「でも、すごい量の血よ」 「ああ」  夫は、敦子が買ってきた弁当の包みをほどきながら、何事もなかったかのように平然と答えた。 「ほかの洗濯物といっしょにするとまずいから、それだけ別に洗っといてよ」 「どこをケガしたの」 「どこでもいいじゃないか」 「よくないわよ、見せて」 「子供じゃないんだからほっといてくれ」  急に夫の口調が険しくなった。 「だけど」 「鼻血だよ」  敦子の追及を、神保の鋭い声が封じた。 「転んで鼻血が出たんだ」  その答えに敦子が納得せずに黙っていると、夫はイライラした様子を露わにして弁解を重ねた。 「いや、そのときには自分でもびっくりしたけどね、血の多さに」  血の匂いの記憶。それはウィンドブレーカーにたっぷり染み込んだ、夫の身体から流れ出したものとは思えない血のことだった。  ここまで鮮やかに記憶がよみがえったのに、なぜかその先が思い出せない。血の正体をめぐって夫とのあいだに緊張をはらんだ空気が流れたところまでは覚えている。だが、そのあとが出てこなかった。  敦子の脳の奥底で、データの再生にブレーキをかけている何かがあった。それは、恐ろしい真実との直面を避けようとしている、深層心理のなせる業《わざ》だったかもしれない。  だが、いまそのブレーキが解除された。突然やってきた訪問者の言葉によって……。 「神保が、おたくの旦那《だんな》さまを殺した……ですって?」 「私だって、最初は篠原さんの言葉が信じられませんでしたわ」  どこまでも落ち着いた口調で、湯浅映子は言った。 「けれども篠原さんは、私が知らなかった恐ろしい事実を教えてくれたのです。それは、芝田が殺されてから二年ほど経った夏の日に、鳥取県にある砂丘の麓から、女性のバラバラ死体が見つかったという事件です」 「え……」 「それはほとんど白骨化しているうえに、首と手足が胴体から切り離され、しかも胴体も十以上に切り分けられていたそうです。ノコギリを使って」 「………」 「ですから、身元がわかるまでにはだいぶ時間がかかりました。そして最終的にわかったのは、発見場所の隣の県、島根県の松江市に住む宮田良乃《みやたよしの》さんという高校の英語教師。結婚してその苗字に変わっていたけれども、旧姓は有村《ありむら》。私たちの高校で、英語を教えていた先生でした。ちなみに、白骨化した遺体からは正確な死亡時期を割り出すのは難しいけれど、うちの主人が殺された時期と前後しているころだそうです」  敦子は、頭がくらくらしてきた。  ここまでくれば、夫のクラスメイトと結婚した女性が、何を言わんとしているか見当がついてきた。 「篠原さんが言うには、高校三年のとき、英語の有村先生とうちの主人が、神保さんをひどく傷つけた出来事があったというのです。それは『篠原』『芝田』『神保』と出席簿の順番がつづいていたことと関係するのですけれど」  倒れそうなほど身体を揺らしはじめた敦子を見据えながら、湯浅映子はつづけた。 「ある日の英語の授業で、テストの答案を出席番号順に返されていたとき、芝田が神保さんに答案の点数を覗《のぞ》き見られたと思って、ふり向きざま『見たな』と言って、いきなり神保さんの男性の急所を蹴《け》り上げたというんです。その場面は、先に答案を返してもらって席に戻りかけていた篠原さんもハッキリ見ていたそうです。  そんなとき、ふつうなら先生が止めに入るべきところなんですけれど、有村先生は薄ら笑いを浮かべて、面白そうにその様子を見ていたと、篠原さんは言いました。なぜなら、当時の神保さんは、生徒からも先生からも、何かにつけ面白半分にイジメられていた存在だったからです」 「うちの……主人が……」 「けっきょくその場は、クラスでいちばん背が高かった篠原さんがふたりのあいだに割って入っておさめたそうですけれど、ほうっておけば、教師黙認で神保さんはいたぶられつづけただろう、と言っていました。そして篠原さんは、引き離されぎわに神保さんが小さくつぶやくのを耳にしたんです。いつか、みんな殺してやる、と」 「………」  立っていられるのが不思議なほど、敦子は目の前が何も見えなくなっていた。  敦子は、また新たな出来事を思い出した。  血染めのウィンドブレーカーを見つけてから十日ほど経った、五月十六日のことだった。雨が降りしきる中、敦子は幼い真美をつれて、千葉県御宿町にある老人介護施設『ケアハウス御宿』にアルツハイマー患者として入居していた義父の神保晴久を見舞いに行った。敦子には詳しい事情を言わない親子間の確執から、夫がどうしても父親を見舞おうとしないので、妻として敦子が代理で格好をつけにいったのだ。  そのとき、夫からみれば叔父《おじ》にあたる施設理事長の神保行生から、敦子は初めて夫の過去を知らされた。  高校時代にいじめにあって、卒業式の式典には参加せず、ひとりでバイクを飛ばして伊豆の山へ自殺をしにいったということを。そして、結果的には思いとどまって戻ってきた康明から、そのいきさつを聞いた父の晴久は、自殺決行寸前までいった息子の心情をおもんぱかったり、詳しい事情を聞き出そうともせず、いきなり頭ごなしに怒鳴りつけたのだという。卒業式を無断で欠席して、どれほどみんなに迷惑をかけたのか、わかっているのか、と。  神保康明と父・晴久の確執は、そのときからはじまったと、叔父の行生は解説した。そして、さらに彼はこんなことを洩《も》らした。  その場面——二十七、八年前のケアハウス御宿の廊下に——敦子の意識がワープした。 「卒業式に出ないというのは、相当重いものを背負っていたに違いない。だが、そうした苦しみを乗り越えて立ち直ったからこそ、あんたと結婚もして、可愛い娘もできて幸せにやっているわけだからね。十五年も二十年も昔のことを蒸し返す必要はない」  ダンナの過去は過去として、妻として、あまり深い詮索《せんさく》はしないようにと敦子に忠告した神保行生は、しかしそのあと思わせぶりにこうつづけたのだ。 「ただねえ、敦子さん、こんな言い方もよくないかもしれんが、弟としての率直な気持ちを述べれば、兄貴が比較的若くしてアルツハイマーになってよかったと思う部分もあるんだ」 「どうしてですか」  問い返す敦子に、行生は答えた。 「あのまま、まともに生きていたら、兄貴は康明君の人生にずっと干渉しつづけていただろう。そうなっていたら、康明は爆発したに違いない。なにしろ彼は……」  そして行生は、まずいことを口走ったという顔で、急いで言葉を引っ込めた。が、敦子はそんな中途半端なところで話を切られ、かえって気になった。そして、さんざん問いつめた末に、神保の叔父は重い口を開いて、恐ろしい事実を打ち明けた。 「あれは康明君が五歳のときだったと思う、彼は当時飼っていた雑種の猫に手を噛《か》まれて、かなりひどいケガをした。そして数日後、康明はその猫を殺した。カナヅチで頭をかち割ってね」  愕然《がくぜん》となる敦子の耳に、夫の叔父の残酷な念押しが飛び込んできた。 「五歳でだよ」  敦子は絶句した。 「だから私は心配したんだ」  行生はつづけた。 「兄貴があまり康明君を精神的に追いつめたら、自殺をするか、さもなければ逆に、兄貴が猫と同じ運命になるかもしれない、とね」  そこから記憶は、いきなり翌五月十七日、夕方の場面になった  すでに日が暮れ、前日よりもっと強い雨が降っていた。  インタホンが鳴ったのでドアを開けると、スポーツバッグを提げたカジュアルな格好の神保が、妙にすっきりした顔で立っていた。 「おかえりなさ……」  ぜんぶ言い終わらないうちに、敦子は唇をふさがれた。夫の唇で。  靴も脱がないうちから、康明は敦子の腰を抱いて引き寄せ、いきなり濃密なキスを浴びせてきた。その激しさに、敦子がかけていた銀縁[#「銀縁」に傍点]メガネがずれた。  そう、黒縁のメガネが自分のイメージに絶対合うと信じて、OLだったころから一貫してメガネのフレームは黒と決めていた敦子が、なぜかその日はシルバーフレームのメガネだった。たしか、一度作ってはみたが、やはり銀色は自分の顔立ちに合わないと思って、そのままほうっておいたものだった。  だが、その日は、なぜか敦子はその銀縁メガネをかけていた。いや、前日ケアハウス御宿へ行ったときも、そのメガネだった。  なぜ? いつもの黒縁メガネはどうしたのか。  答えは敦子の脳の奥底に隠されているはずだ。しかし、出てこない。情報が統合されて記憶の形にならない。それもまた何かの防衛のための封印なのか……わからない。 「ちょっと……パパ……」  なんとか夫の唇から逃れると、敦子はずり落ちそうになった銀縁メガネをかけ直して言った。 「どうしたの、急に」 「セックスしたい」  神保の言葉は露骨だった。 「え?」 「えっちしたい」  それだけ言うと、こんどは敦子のスカートの中に手を入れてきた。 「なによ、だめだってば、パパ」  あわてて敦子は夫の手を押さえた。 「真美がいるのよ、それに友だちの純子ちゃんもきてるの」  敦子は後ろのほうを首の動きで示した。  ドアを閉じられた子供部屋から、きゃははとにぎやかな笑い声が伝わってきた。 「かまわない。すぐやりたい」 「なんで」  笑うこともできず、戸惑いで敦子は、むしろ泣きそうな顔になっていた。 「なんで急にそんなこと言うの」 「出張先の仕事がうまくいったんだよ」  明るい笑顔で、神保が答えた。 「分解作業がね」 「分解……作業?」 「ああ」 「パパ、編集者でしょ。なんで工事会社の人みたいなこと言うの」 「工事会社か、あはは、そいつはいいや」  明るく笑いながら、神保は手にしたスポーツバッグをじゅうたんの上にほうり出した。  ガチャ、と音がした。 「たしかにあれは工事だった。解体[#「解体」に傍点]工事だ」  バッグにチラッと目をやってから、神保は敦子のほうに向き直った。 「とにかく、お祝いの子づくりをしよう」 「なに言ってるの、パパ。私、ぜんぜんわからない」 「遺伝子だよ」  自分の頭を指さして、康明は言った。 「ぼくの新たなる体験を記憶させた遺伝子を、次の世代に伝えていかなければならない。これはね、敦子、親としての義務だよ」  そうやって生まれたのが、透だった。 (透は、パパが高校時代の先生を殺して、ノコギリでバラバラにした日に、私の子宮に宿った! あんなにやさしくて、いい子が!)  あまりにもショッキングな事実だった。  だが、敦子の脳の奥底から表面に出ようとしている記憶は、それだけではなかった。娘の真美に関しても、なにか恐ろしい事実を覚えているはずだった。それがいまは出てこない。自分の中に住んでいるもうひとりの自分が、記憶の再生作業を必死に止めようとしているみたいだ、と敦子は感じた。  ともかく敦子は、神保が「解体」という言葉を口走った事実を、明確に頭脳に記録[#「記録」に傍点]していた。床にほうり出されたスポーツバッグが、重い金属音を立てたことも。  篠原という神保の級友が、真相をズバリ言い当てているのは間違いないと思った。 「よろしいですこと、奥さま」  その声に、敦子はハッとなって目の前の人物に焦点を合わせた。  長い回想の間に、またしてもまばたきを一、二回しかせずにいた婦人が、いまは滑らかに唇を動かして言葉を発していた。  敦子の体感的な時間の流れが、現実的なものに戻った。 「はっきり申し上げておきます。私は主人のかたきをとらさせていただきますから」 「かたきをとるって……どういうふうに」 「もう動いておりますのよ」  怒りを必死に抑えた口調で、湯浅映子は言った。 「篠原さんが、知り合いのマスコミ記者に話を持ちかけているのです」 「え?」 「なんでもそのベテラン記者は、神保さんが社長をなさっていた出版社で、フリーの仕事をしているんですって。これ以上ない皮肉ではございませんこと」 「………」 「これで私は、言うべきことをすべて申し上げました。それではごめんくださいませ」 「ちょっと待ってください」  きびすを返して出ていこうとする相手を、敦子はあわてて呼び止めた。 「湯浅さんは、主人がふたりの人を殺したと警察に言いにいくつもりなんですか」 「警察? いいえ」  銀髪の後ろ髪を微かに揺らしながら、背中を向けたまま芝田次郎の元妻は答えた。 「時効になった事件を、警察がまともに取り上げてくれるものですか。だから私は、マスコミの力を借りようと思っているのです。できるだけ大きな騒ぎを引き起こしてくれるマスコミの協力をね。それが城南出版社であったら、どれほど天国の主人も溜飲《りゆういん》を下げることでございましょう」  女は、呆然《ぼうぜん》と立ちつくす敦子を尻目《しりめ》に、ドアを開けて外に出た。  そのドアが、自然にまた閉まるまでのあいだ、寒風が神保敦子の顔に容赦なく吹きつけていた。 [#改ページ]  八 地獄のクリスマス・イブ[#「八 地獄のクリスマス・イブ」はゴシック体]  土屋博《つちやひろし》と岡部秋絵《おかべあきえ》は、いわゆる「記念写真を撮りあえない」関係だった。おたがいに社内不倫をしている立場だったからである。ふたりとも静岡市内にある中堅製紙メーカーの社員で、四十三歳の土屋は営業課長、そして三十九歳の秋絵は経理部員だった。  土屋には結婚十五年になる妻と、小学校六年生の娘に四年生の息子がいる。子供たちに対しては、娘にはやたらと甘く、息子にも野球やサッカーを教えてやるよき父親だったが、妻とのあいだには寒々しいすきま風が吹いて五年以上になる。  一方の岡部秋絵にも、まったく同じように結婚十五年の夫がいたが、こちらには子供がいない。検査をしてもらった結果、夫のほうに不妊の原因があることが判明した。世の中には、子供がいなくても夫婦でいる意味を持てるカップルとそうでないカップルがいるが、秋絵も彼女の夫も後者だった。子供を持つことが医学的にもう不可能だと判明してしまうと、ふたりが夫婦という関係を保ちつづける意味を見出せなかった。しょせんふたりの愛情は、子供なしでは成立しないものだったのだ。  だが、医学的な結論が出たときには結婚から十年も経っていたので、いまさら離婚というのも世間体が気になって、しづらくなっていた。その段階で秋絵の年齢は三十四歳だったので、一から出直して、また別の男性と結婚する機会を見つけ、さらに子供を、となると、年齢的にもしんどいものがあると、そのときは思っていた。  そしてずるずると意味のない夫婦生活を、さらに五年重ねて合計十五年となり、虚《むな》しさばかりが募る毎日を過ごしていた。  そんな土屋と秋絵が同じ会社にいて、部署が違うとはいえグループで飲みに行く機会が何度かあれば、やがて似たもの同士で悩みを打ち明けあい、そして傷をなめ合う関係になっても不思議はなかった。  不倫関係に陥ったのは二年前で、それ以後、ふたりは人目を忍んだ旅行にたびたび出ていた。ときには香港へ二泊三日で出かけたこともある。そんなとき、土屋は妻にゴルフ旅行だと弁解し、秋絵は友だちと香港に行くと夫に言い訳をしていたが、どちらの配偶者もその言葉をいちいち疑うまでの関心を相手に抱かなくなっていた。  そうはいっても、おたがいに不倫がばれたときにパートナーから離婚の申し立てとともに慰謝料などを請求されるのを防ぐため、証拠となるものは極力残さないように気をつけていた。だからふたりで旅行に行くときに、おたがいにカメラを持っていても、風景や物を撮ることはあっても、決してたがいの姿を収めることはなかった。  そうやって秘密の関係を二年ほどつづけていたが、それぞれが相手に求めているものは違っていた。土屋にとって不倫の最大の目的は、専用のセックスパートナーを持つことであり、秋絵にとってのそれは、夫との間にはもう望むべくもない「愛のある暮らし」の復活だった。  もちろん、おたがいにいい歳をした大人だから、自分の目的と相手の願望が食い違っていることは察していた。だから土屋は愛があるふりをしていたし、秋絵は性欲よりも愛に飢えていることを口には出さずにきた。  そんなふたりに、いまから一カ月前、危機が訪れた。秋絵の妊娠だった。  いちばんあってはならない破滅のパターンに、土屋は頭を抱え込んだ。自分の油断を大いに悔やんだ。だが、もうあとの祭りだった。秋絵は彼が恐れていたとおりの態度に出た。三十九歳の女として、これが母になる最後のチャンスだから、なにがなんでも産む、と急に言い出したのである。そして、出産前に主人とは別れる、ときっぱり宣言した。  それに対する土屋の反応は、陳腐なほど典型的なものだった。彼女に向かって、そっけなく「堕《お》ろせ」と命令口調で言い、自分の不注意についてはひとことも言及しなかった。さらに、妊娠の責任はすべて秋絵にあるかのようにふるまい、きわめて不機嫌になった。当然、秋絵は泣き、わめき、怒り、土屋を身勝手な裏切り者と罵《ののし》った。  土屋は、四十を超えた年齢になって初めて、男女の関係と、新しい生命の誕生とが、容易なことでは両立しないものであることを思い知らされた。  男の身勝手かもしれないが、土屋にしてみれば、裏切り者は秋絵のほうだった。性欲と愛情という、おたがいの求めていた要素に違いはあったものの、結婚している身でありながら社内不倫というタブーの世界に踏み込み、それを二年にわたって継続してきたのには、暗黙の了解があったはずだった。それは、双方の家庭を壊さないというルールである。  そのルールの中には、「子供を作らない。万一できたら堕ろす」という条件が当然入っているものと土屋は考えていた。いちいち口に出さずとも、そんなことは常識であろうと思っていた。  それなのに、なぜすべてをぶち壊しにしてまで、子供を産みたがるのか、土屋にはまったく理解できなかった。男女の関係よりも子供のほうが大事ならば、最初から不倫などはしていない。それが土屋博の哲学である  だいたい、ふたりの家族を巻き込んだ破滅的な悲劇を招いてまで子供を産んだところで、幸せになれる人間はひとりもいない。それをわからずに、絶対に産むの一点張りで譲らない秋絵のほうこそ、まさしく身勝手の極致ではないかと、しまいには土屋の怒りも頂点に達してきた。  そうなると土屋にとって岡部秋絵という女は、性欲の対象でも愛情の対象でもなくなり、エゴイズムで凝り固まった醜い女にしか見えなくなった。自分を人生最大のピンチに追い込む、恐ろしい悪魔でしかなくなった。  秋絵のほうも、もはや土屋を愛情の対象とみていないのは明らかだった。ただ、決定的な違いは、腹の中の子供のために土屋を父親として必要としていることだった。最低でも認知だけはさせようと……。 (ほんとかよ)  ある日、土屋は自分自身に問いかけた。 (ほんとにおまえ、二時間ドラマばりの殺人をやるつもりなのかよ)  頭の中で別の声が応《こた》えた。 (それしか身を守る手段は、もうないだろう)  結論は出た。  クリスマス・イブに先立つ、二週間ほど前のことだった。  急にやさしくなった土屋を、秋絵がいぶかしく思ったのは間違いないだろうが、土屋が「おれも子供に対する責任がわかってきたので、自分の家庭をどうするかも含めて、いろいろ将来のことを考え直してみた。それについて、一晩ゆっくり話したい」と、クリスマス・イブから一泊二日の小旅行に出かけることを提案したとき、秋絵は一も二もなく賛成した。頑《かたく》なに「堕ろせ」の一点張りだった土屋の気が変わったようにみえたのだ。  ふたりが向かったのは、中伊豆の森のそばにある一軒の貸別荘だった。  当初土屋は、人けのないところへドライブに連れ出し、野外か車の中で秋絵を殺すつもりだった。そのつもりで、一週間前に彼は伊豆方面へ下見に出かけた。そして、中伊豆の山奥深くへ通じる林道に入り、このあたりを殺害場所にしようかと考えながら、車をさらに先へ進めていくと、林道が二股に分かれており、無造作に左のほうを選んでいくと、だいぶ行った先に、現在は使われていそうにない、枯れ草に入口を覆われた一軒の別荘らしき建物を見つけた。  グリム童話などに出てきそうな、こぢんまりとした平屋建ての木造で、個人の持ち物かと思ったら、家の前に「貸別荘」という立て看板が出ていた。そのとき土屋の頭に、この人里離れた別荘で秋絵を殺すのも悪くない、という発想がふと浮かんだ。ここならば誰にも見られないし、目的地が貸別荘なら、秋絵を誘い出すのにも理由がつけやすい。  刺し殺すなどの手段を使わなければ、室内での犯行の跡も残らないだろうし、殺したあとの死体の処理は、建物の奥に延々とつづく森の中にいくらでも「埋葬地」はあった。  立て看板には連絡先の電話番号も出ていたので、ためしにと思ってかけてみると、この番号は現在使われていない、という録音メッセージが流れた。  この枯れ草の伸び方からすると、貸別荘を運営していた会社が倒産などして、そのまま放置された物件なのかもしれない。土屋は室内の状況を見てみたくなり、窓から内部を覗《のぞ》こうとしたが、どこもカーテンが引いてあって見えない。それならばと、どうせ鍵《かぎ》が掛かっているとは予想しながら、玄関の扉をそっと引いてみた。  意外にも、すんなりと開いた。鍵は掛かっていないのだ。  中に入ってみると、平屋建てでこぢんまりとした造りながらも、長いあいだ掃除をしていないとは思えない整い方で、電気もブレーカーのスイッチを入れると点《つ》いた。  リビングのスペースには暖炉があり、壁に掛かっている八角形の時計は、正確に現在時刻を指していた。  キッチンに置かれたガスレンジは簡素な二口タイプだったが、裏手の壁に立てかけられてあったプロパンのボンベを開いてみると、ちゃんと着火した。水道の蛇口をひねると水も出た。トイレは水洗ではなく、薬液といっしょに流し落とす方式だが、その程度は気にならなかった。第一、トイレを使うまもなく事を運ぶつもりなのだから。  奥にはツインベッドの置かれた寝室があり、寝具も整っていた。しかし、これも使う予定はないので、シーツが新品かどうかなど、気にする必要はなかった。バスルームは、おせじにも上等とはいえないホーロー引きの小さな浴槽だったが、そこへ死体を持ち込むような展開にはならないだろう。風呂場で溺《おぼ》れさせるような勇気は土屋にはなかったし、まして死体をバラバラにするなどとんでもない話だった。 (よし、ここに決定だ)  土屋は思いもよらぬ発見に満足して、神の恵みのような幸運に感謝した。そして、表からの見た目が貸別荘として不自然に見えないよう、三十分ほどかけて、玄関回りの枯れ草だけは、ざっと引き抜いておいた。そして、車でその場を去った。  電気が点いたにもかかわらず、その別荘には電線が引き込まれておらず、周囲に電柱も立っていないことには気づかずに……。  殺害決行の日——クリスマス・イブに、土屋は秋絵を伴って静岡から貸別荘のある中伊豆の山中へと向かった。  途中で国道の幹線沿いにあるステーキ・レストランで食事をとり、少しでも秋絵を油断させようとして、それほど高いものではなかったが真珠の指輪をクリスマス・プレゼントとして贈った。  秋絵は、そこまで期待をしていなかったようで、顔を輝かせて喜んだ。そして、じつは私もあるの、と言って、土屋に包みを渡した。開けてみると、デザイナーズ・ブランドのネクタイだった。  数時間後に殺すつもりの女から贈り物をされて、さすがに土屋も、自分が鬼のように思えてきた。だが、彼はいかにもうれしそうに驚く演技をして、それを受け取った。そして実際には食欲が出なかったにもかかわらず、無理してステーキを平らげた。  ハーフボトルの赤ワインも頼み、自分は運転があるからと形だけ口をつけ、秋絵にほとんど飲ませた。「お腹の赤ちゃん、だいじょうぶかな」と言いながらも、気分をよくしている秋絵は、ハーフボトルの九割方をひとりで空けた。  それだけ飲ませたおかげで、幹線道路から名もない山道へと車を進め、さらに奥へ行くに従って周囲に明かりがひとつも見えなくなっても、秋絵は助手席のヘッドレストに頭をもたせかけたまま、不安そうな表情ひとつみせずに、ジングルベルなどを鼻歌で歌っていた。  ヘッドライトは、道ばたのところどころに白い根雪のかたまりがあるのを照らし出したが、月初めに大雪が降ったあとは、また気温が高い日々がしばらくつづき、大半の雪は解けてしまっていた。  目的の貸別荘に着いたのは、レストランでゆっくりしたこともあって、十一時を回った時刻になっていた。  およそ二十日前に、中伊豆の山中で三人の男女が謎の死を遂げたニュースは土屋も見聞きしていたが、彼がその事件を思い出すことはなかった。その現場が、直前のY字路を左ではなく、右に行った林道の終点であるとは、土屋は夢にも思わなかった。  秋絵が酩酊《めいてい》状態なら、自分のためらいを防ぐ意味でも、到着後すぐに殺害を決行するつもりだったが、いざ別荘の中に入ると、秋絵が意外にシャンとした様子になったので、土屋は調子が狂った。 「さ、それじゃ、先に話すべきことを話しちゃいましょ。そうじゃないと、クリスマス・イブをゆっくり楽しめないものね」  秋絵は、まだワインのせいで頬を真っ赤に火照らせているにもかかわらず、口ぶりはしっかりしていた。仕方なく土屋は、丸太を加工して作ったテーブルに向かい合って座った。テーブルをはさんだ体勢では、いきなり首を絞めにかかることもできないな、と思いながら。 「あのね、まず最初にもう一回お礼を言います。この指輪、ほんとうにありがとう。うれしかった。涙が出そうになるくらい。あそこがお店でなかったら、絶対泣いてた」  と言って、秋絵は自分で勝手に左手の薬指にはめた真珠の指輪を、愛《いと》おしそうにもう一方の手でさすった。 「これ、忘れられない思い出として一生大切にするわ」 (そうはいかないさ)  と、土屋は心の中でつぶやいた。 (足どりが付く証拠品を、死体に残してなどおくものか。悪いけど、殺したらすぐにはずさせてもらうよ)  だが、口では別のことを言っていた。 「おれもうれしかったよ。あのネクタイ、会社に締めていこうかな。女房には隠しておかないとまずいけど、家を出たら、どこかで取り替えて」 「もちろんよ、絶対そうして」  秋絵は身を乗り出して言った。 「私とあなただけがその意味を知っている秘密のネクタイなのよ。……あ、私もこの指輪、仕事納めの日にしてっちゃおうかな。ね、そうしよ。おたがいにそれを身につけて、ことし最後の出勤をするの。会社のみんなにはわからないだろうけど、婚約記念のしるしを見せびらかしちゃうんだもんねー」 (なにが『見せびらかしちゃうんだもんねー』だ。もうすぐ四十になるくせに、可愛い子ぶりっこしやがって、気持ち悪いぜ)  土屋は、また内心で吐き捨てた。 (おまえがそれを会社の連中に見せびらかすチャンスはないんだよ、永遠にな)  だが、秋絵は一方的に自分の解釈で話を進めていった。 「それで、奥さんにはいつ話してくれるの」 「話すって、何を?」  ついうっかり、土屋は演技を忘れて聞き返してしまった。  とたんに秋絵の表情が不機嫌になった。 「決まってるでしょ。私のことを、よ」 「あ、ああ……そうだよな」 「いきなり理由も言わずに別れてくれ、じゃ、奥さんだって納得しないでしょ」 「理由を言っても納得しないだろうけどな」 「それを説得するのが、あなたの仕事よ」 「まあね」 「私はもう、ちゃんとやってるから」 「え?」  土屋は、びっくりした声を出さずにはいられなかった。もしも彼女の夫に自分の存在を告げられていたら、殺人計画を実行はできなくなる。 「もう、ダンナに言ったのか」 「言ったわよ。私、別れたいの、ってね」 「いつ」 「ゆうべよ。そしたらダンナ、なんて言ったと思う」  テーブルに片肘《かたひじ》をつき、そこに頬を載せて面白そうに秋絵は笑った。 「おまえがそうしたいなら、いいよ、ですって。あっさりとね」 「ほんとうか」 「そうよ。『もうおたがいにいっしょにいるのが限界だということは、わかっていた。ただ、自分のほうから言い出すと秋絵が取り乱すんじゃないかと思って、なかなか切り出せなかったんだ』って言うのよ。なあんだ、緊張して損した、と思ったわよ」 「おれのことも話したのか」 「話そうと思ったけど、まだやめにしておいたわ。せっかくオッケーを取り付けたのに、詳しい話を聞くうちに気分を害して、また気を変えられたら困るでしょ」 「だけどダンナにきかれただろう。相手は誰なんだって」 「バッカねえ、浮気してるなんて、これっぽちも疑っていないわよ、うちのダンナは」  秋絵は赤い頬をして、クックックッと肩を揺らした。 「まして、お腹の中によその男と作った赤ちゃんがいるなんて、想像もしていないでしょうね。たんに、いまのしらけきった夫婦生活に愛想を尽かしたんだと思ってるのよ」 (それはよかった)  と、胸を撫《な》で下ろしながら、なにげなく土屋の目が、秋絵の肩越しに、向かい側の壁に向けられた。  そこには八角形の掛け時計が取り付けられている。それは先日、この別荘の中を覗《のぞ》いたときにも土屋は見ていたが、そのときは正確な現在時刻を示していたはずだった。だが、いまは四時二十分という、まるで違う時刻を指していた。  それだけなら、この一週間のあいだに時計が電池切れで止まったのだと思っただろう。しかし、時計の針の動き方がふつうではなかった。  短針は言うに及ばず、分単位を表示する長針ですら一分間に動く角度はわずかである。だから数秒間見た程度では、その動きを目で認識することは不可能だった。それなのに、土屋の目には長針がどんどん動いていくのが見えていた。しかも逆方向に。 (どうなっているんだ、この時計は)  殺人という一生一度の大冒険が控えているというのに、土屋は一時的に時計のほうに気を取られた。 「どうしたの」  土屋の視線が自分にではなく、自分の頭を越えているのに気づいた秋絵は、いったい何を見ているのかといぶかしんで、後ろをふり向いた。そして彼女も、すぐに掛け時計の異状に気がついた。 「なんなの、あの時計。どうしてあんなふうに動いてるの」 「わからない」 「なんだか気味が悪いわ」 「ああ……おれもそう思う」  土屋は、さっさとやるべき事を片づけて、こんな得体の知れない別荘は早く出るに限ると思った。  彼は、あれだけ枯れ草に覆われていた別荘の内部が、ここまできれいに整っているのは、あまりにも不自然だと最初に疑うべきだったと思いはじめていた。さらに、一週間前にここへきたとき、もうひとつ不審な点があったのを、いまになって思い出した。  それは、貸別荘という立て看板に書かれた連絡先に電話をしたときのことだった。この番号は現在使われていないという旨の録音メッセージが流れてきたが、それは女ではなく男の声だったのだ。 (何かの罠《わな》か)  そう思ったとき、時計が掛かっている壁に、楕円形をした青白い光が、右から左へとふわっと走った。 (なんだ?)  それは、ひとつでは終わらなかった。壁のほうを向いている秋絵の後頭部にも、楕円形の青白い光が投影され、彼女の頭から背中を撫《な》でるように移動したかと思うと、急に速度を速めて身体から離れ、壁を伝って消えた。  さらに、土屋が着ている黒いジャケットの腕の部分にも、それが映った。よく見ると、楕円形は数字の0にも見えた。 (どこから入ってくるんだ、この光は)  後ろの窓だ、とわかった土屋は、すぐさまふり向いた。  たしか、すべてのカーテンは引かれたままだったはずなのに、いつのまにか真後ろの窓だけ、カーテンが左右に引き開けられていた。そして、彼は窓の外に信じられない光景を見た。  この貸別荘の周囲から森の奥にかけて、無数の青白い楕円形が宙に浮かんで光っていた。室内に飛び込んできた光よりも、外のそれはもっと幻想的だった。その青白さは、まるで夜光塗料のようだった。しかも、明らかにずっと遠くにあるはずの光の輪が、手前にあるものと同じ大きさをしていた。人間の遠近感を無視した見え方だった。  やがて、あちらこちらで0の形をした光の輪が分裂をはじめた。闇に包まれていた森が、青白い0の群れが放つ燐光《りんこう》で、昼のように明るく輝きだしていた。 (何なんだ。これは現実なのか。それとも、おれは夢をみているのか)  土屋は、秋絵を殺すつもりでここにきたことも忘れて、その光景に見とれていた。  と、そのとき——  窓のほうへ向き直っていた彼の後ろで、秋絵が悲鳴をあげた。  驚いてふり返ると、あと五カ所の窓にかかっていたカーテンが、電動でもないのにつぎつぎと開きはじめていた。  すべての窓から青白い0の光の群れが見えた。 「なんなの、あの光! 怖い。土屋さん、怖い!」  よもや自分を殺すつもりで誘った相手とは夢にもおもわず、秋絵は土屋にしがみついてきた。もうこうなっては、土屋も秋絵を殺すどころではなかった。計画を遂行するには絶好の体勢になりながらも、彼は本能的に秋絵の身体をギュッと抱きしめた。そうすることで、自分の身も少しは安全になるかのように。 「おかしいわよ。絶対、この場所、おかしいわよ」 「あ、ああ」  土屋としても、「おかしい」という以外に、うまい表現が見つからなかった。 「見て、あれ」  秋絵が、窓の外から視線を転じ、震える指先で先ほどの掛け時計を示した。長針も短針も、いまやブンブンとすごい勢いで回っていた。  そのうち、土屋は秋絵の身体の震えではない振動を左手に感じはじめた。そちらに目をやると、腕時計が激しく振動して、デジタル表示の数字がランダムに点滅しだしていた。0から9までの数字を形づくるのではなく、ベースとなる8という数字を構成する七つの縦線と横線が、でたらめに点《つ》いたり消えたりしていた。  やがてそれはエラーを表わす「E」という表示だけになって、動かなくなった。  さらに胸にも奇妙な振動を感じたので、ジャケットの内ポケットに入れていた携帯電話を取り出してみると、液晶画面の時計表示が同じように狂いだしていた。  気持ち悪くなって、土屋は携帯電話を反射的にほうり出した。すると、床に落ちたそれが、振動しながら生き物のように木の床を這《は》い回りはじめた。 「こっちへくるな!」  土屋は片足でそれを遠くへ蹴飛《けと》ばした。  だが、携帯電話はすっ飛ばされた場所で、また弧を描きながら這いずり回っていた。 「逃げようよ!」  秋絵が叫んだ。 「外に出ないと!」 「でも、外に出たら、あの光が」 「ここにいたって、窓から入ってくるじゃない。早く車のとこ……ぐ……ぐ……」 「どうした」  秋絵が言葉の途中で、土屋の身体から手を放し、下腹部を抱えて苦しそうにうめきだした。 「おい、どうしたんだ」 「おなか……赤ちゃん……」 「え?」 「おなかの、赤ちゃん、動いてる……暴れてる」 「だけど、まだそんな時期じゃないだろう」  秋絵から妊娠を打ち明けられたのは、いまから一カ月前である。腹のふくらみも、まだまったくわからない。そんな時期に、お腹の中の赤ん坊が動き出すはずがなかった。そもそも「胎児」と呼ばれるようになる前の段階なのだから。  しかし、秋絵は下腹部を抱え込んだまま、その場にしゃがみ込んでしまった。 「くるしい……くるしい……病院……連れてって……出る」 「なんだって!」  土屋は、秋絵の言葉に驚いた。 「赤ちゃん、出てきちゃう」 「そんなバカな」 「見てみて。私のお腹、どんなふうになってるか、見てみて」  秋絵は洋服をたくし上げ、スリップも裾《すそ》からまくり上げ、下腹部の肌をあらわにした。 「………!」  それを見た土屋は、言葉を失った。 「どうなってるの」  土屋の沈黙が、秋絵を恐怖に陥れた。 「ねえ、どうしたの! 私のお腹、どうなってるの」 「か、か、か、顔が、み、み、み、見える」  土屋の言葉がもつれた。 「え?」  その表現が、秋絵には理解できなかった。 「おま、おま、おまえの腹の皮の下に、すごく小さな顔が、透けて……みえる」 「うそ……」  服を両手で胸のところまでたくし上げたまま、秋絵は泣き出しそうになっていた。 「うそでしょ、そんなの」 「ほんとうだ。しかも」 「しかも?」 「赤ん坊の顔をしていない」 「じゃあ、何の顔なの」 「おれだ……」 「え?」 「おれの顔をしている」 「そんな」 「嘘だと思うなら、自分で見てみろ」  土屋は、秋絵の服をさらにまくり上げ、彼女自身にも下腹部がはっきり見えるようにした。  手のひらの三分の一にも満たない大きさの、四十三歳の現在の土屋そっくりの顔が、薄皮一枚のところまで浮上してきて、ふたりの大人を見つめていた。  目も開いていた。歯も生えていた。 「………!」  秋絵は大きな口を開けた。  つぎに、すさまじい絶叫が秋絵の喉《のど》からほとばしり出た。  それは恐怖によるものだけではなかった。激痛による悲鳴も含まれていた。 「うわあああ!」  こんどは、土屋が負けないほどの大声で叫んだ。  ミニサイズの土屋の顔が、秋絵の皮膚を内部から思いきり押し上げ、そこの部分が、ちょうど焼いた餅《もち》がふくらむように、円形に膨張していった。  皮膚が伸びていくにつれ、小さな土屋の顔がますますはっきりしてきた。  そして、最後の一押しの段階で、腹の中の奇妙な生き物はカッと口を開け、歯をむいて皮膚を食いちぎった。  大量の血液と体液が四方八方にはじけ飛び、土屋の顔にふりかかった。  秋絵は、腹を破裂させたまま、後ろに倒れた。  ぴちゃ。ぴちゃ、ぷちょ。  手のひらサイズの赤ん坊が——しかし、顔だけはいまの土屋をコピーした赤ん坊が——床に転がり出たあと、ぬらぬらと赤く濡《ぬ》れて光る全身をくねらせ、粘っこい音を立てながら、指よりも細い二本の足でしっかりと立ち上がった。  そして、呆然《ぼうぜん》とする土屋を見上げて言った。 「マジだぜ、博」  三秒後、彼は、自分のコピーに殺された。  不倫のカップルは、ふたりともクリスマス・イブが命日になった。 [#改ページ]  九 禁断の森へ[#「九 禁断の森へ」はゴシック体]  生体電磁波研究の第一人者である理工学部教授の清水武信は、自分の車を助手の神保真美に運転させ、助手席で物思いにふけっていた。  ヘッドライトが照らす先は闇、また闇。クリスマスのイルミネーションに彩られた都会の夜からは想像もできない濃密な暗黒と静寂である。  中伊豆の目的地までは、あと三十分ほどで到着する。いまの時刻は午前三時。夜が明けるまでをクリスマス・イブと定義するなら、まだイブではあるが、カレンダー上はすでに十二月二十五日のクリスマスになっていた。  が、どちらにしても、このふたりにとっては関係のないことだった。少なくとも、ことしのクリスマスは。 「皮肉なもんだ」  長いあいだ沈黙を保っていた清水が、ポツリと口を開いた。 「警察当局から、極秘で例の事件の依頼をされるとはな」 「………」  真美は無言でハンドルを握っている。 「これじゃまるで……」  ヘアリキッドで固めた髪をそっと撫《な》でながら、清水は言った。 「犯人が探偵役を依頼されたようなものじゃないか」 「ですね」  と、真美は短く相づちを打った。 「しかも私の場合、弟を亡くしたという意味では、被害者の立場でもあるわけだ」 「ええ」 「推理小説なら犯人と探偵と被害者の一人三役も面白かろうが、実際に自分がその立場に置かれると、どうしてよいものやら、いまだに混乱しているよ。だが……」  冷え切った助手席の窓ガラスを曇らせる吐息を洩《も》らしながら、清水はつぶやいた。 「どっちにしても、自分の撒《ま》いた種は、自分で刈り取らねばなるまい。警察から依頼されなくても、それはもう覚悟を決めていたことだ。あの大雪の日に、ふたつの事件が相次いで起こった段階で、すべては私のコントロールの及ばぬ段階に達してしまったと、わかったのだから」 「パパの……」  と言いかけてから、真美は言葉を選び直した。 「父の身体から出てきたものが、先生の弟さんを殺したんですか」 「そうだ。だが、きみが責任を感じる必要はない。神保家の人々が、一連の騒動の発端ではないのだから」 「いいえ、発端です」  真美は、静かに言い返した。 「すべては父が高校三年生の卒業式の日に、自殺をしようとして中伊豆の森へやってきたことが出発点なんです。そうでしょう、先生」 「………」 「そして、それから二十年以上の時が経って、父はまた同じ場所に戻ってきました。三歳の私をつれて。父としては、自分の行動を母に怪しまれないように、幼い私をお供にしたつもりなんでしょうけれど、いまになって思えば、父から私へと生命のリレーが行なわれた証明を、誰かに見せなければならない運命にあったんだと思います。その『誰か』が、人間なのか、人間を超越したものなのかわかりませんけれど」  徐々にカーブが増えてきた道を、ハンドルを左右に動かして進みながら、真美はつづけた。 「そして私はその森で、高校生のときの父が実際に自殺をした場合の、空想映像を頭に焼きつけられたんです。強い電磁波によって、父の脳の中にある仮想イメージが、私の脳に転写され定着した。それ以来、私は父の考えていることがほとんどわかるようになり、それだけでなく、ときどき父の意思が私の声帯を勝手に動かして、私の喉《のど》から父の声が出てくるときもありました。母はずいぶん驚いたと思います」  第三者が聞けば、話し手の精神状態を疑いたくなる内容の話を真美は淡々と語り、そして清水教授も、それをあたりまえのこととして黙って聞いていた。 「父は、高校時代にいじめられた怨念《おんねん》を晴らすために、負け犬ではなく、復讐《ふくしゆう》の鬼と化すために、何者かの啓示によって、自殺を思いとどまらされたと思っていました。と同時に、人間の進化を加速して実現するために、生命のリレーが必要だと諭され、そして私だけでなく、もうひとり、透をこの世に生み出したのです。でも……少なくとも、高校時代の怨念なんかは、いつまでも引きずらずに忘れてしまえばよかったのに」 「もしかしてきみは」  清水が遠慮がちにたずねた。 「きみが三つか四つのころ、お父さんがしたことも知っているのかね」 「はい」  真美は硬い表情でうなずいた。 「先生もそれを?」 「神保さんから直接告白されたよ。彼を我々のチームで診察したときにね」 「そうですか……」 「私は人を殺しました——彼はそう告白した。すでに刑事事件としての時効が過ぎていたせいもあったのだろうが、明確にそう言ったよ。クラスメイトの男性をひとり、それから英語の担当だった女性教師を、と……」 「その殺人が、私にはぜんぶ見えていたんです。その場に立ち会っていないのに」 「やはりそうだったのか」 「そして恐ろしいことに、私がまだ物の善悪がはっきりしない年齢だったからではなく、純粋に殺人のイメージに興奮して、父はすばらしいことをやったのだと信じていた時期がありました。その真似ごとを遊びでやったこともありました」 「なるほど」 「ほうっておけば、私は父と同じように、猫を殴り殺して興奮するような子供になっていたかもしれません。でも、幸いなことに、理性がそれを抑えてくれました。そこの部分は、たぶん母親から譲り受けたものだと思っています」 「弟の透君は知っているのかね、父親のやったことを」 「それについて、きょうだいで話し合ったことはないんです。どちらからも切り出しにくい話ですから。でも……」  真美はつらそうに眉《まゆ》をひそめた。 「あの子は、感づいていると思います。父の犯した大罪は先生に告白した二件だけで、透が生まれてからはありません。けれども、透も独得の能力を授かっていますから、父親の過去に鈍感であるはずはありません。家族の中で、父の本性を知らないのは母だけです。母は完全にノーマルですから」  その母・敦子のもとに、恐るべき事実を暴露する訪問者がやってきたことを、真美はまだ知らずにいた。 「とにかく……」  ハンドルを握る手に力を込め、大きく深呼吸をしてから真美は言った。 「私たちきょうだいは、目に見えない力で誕生を義務づけられていた——私がこの話をしたから、先生は父という人間に興味を持ち、そして父の身体を診察して、とんでもないものを見つけたんですよね。それだけでなく、中伊豆の現場を調査するうちに、富士五湖の青木ヶ原樹海に至る広大なエリアに、人体に大きな影響を与える異常電磁波のフィールドが見つかった」 「そこで止めておけば、こんな騒ぎにはならなかったんだが……私の研究心がアダになった。人為的に生体に影響を及ぼす電磁波装置を作ろうなどとしたことが」 「先生、これから現場へ行く前に、ひとつはっきりと教えてください。父の身体にあったものは何ですか」 「………」 「もしかして、BIBですか」 「イエスとも、ノーとも言えるだろうね」 「どういう意味で」 「男性の中に胎児が存在していたという点では、BIBの一種だとも言えるだろう。だが、BIBと判断するには、主体となる側の肉体が年齢が行きすぎている。それからもうひとつ、体内に存在していた胎児が死亡しているのではなく、生存し、しかもきわめて凶暴な活動能力に満ちている点で、BIBの症例からは、相当逸脱していると言わざるを得ない」  清水と真美は、彼らには説明不要の用語「BIB」を使って話を進めていった。 「だからそこに、電磁波の強力な影響を認めざるを得ないのだ。たとえば、いまはもう再生医療としてごくありふれた手段となったヒトES細胞の活用だが、未分化の受精卵に放射線を照射したり遺伝子操作をすることによって、自在に望む臓器を作ることが可能だとわかった段階で、人間は自分の正体の恐ろしさに気づきだしたんだよ。  つまり我々人類は、精子と卵子が出会うことで最初の細胞分裂が行なわれ、母胎の中ですこやかな赤ちゃんに育つという、ごく通常の誕生プロセス以外に、条件を変えればいろいろな生物に変化する、ということなんだ。それを認めなければいけない段階にまできてしまっているんだ」 「人間を……卒業しつつある、ということですね」 「そのとおりだ」  助手席の清水教授は大きくうなずいた。 「ES細胞にスポットライトが当てられたのは二十世紀末だが、それよりはるか前から、産婦人科の医師たちは、人体の真実というものを知っていた。子宮|筋腫《きんしゆ》の摘出手術を数多くこなせば、腫瘍《しゆよう》の中に髪の毛や歯や、ときとして眼球に似た器官が存在するケースに、いやでも遭遇する羽目になる。そうすれば誰だって、人間という生き物に対する考えが変わってくるさ。ただ、昔は何かタブーにでもふれるように、そのテーマに深入りしないようにしてきたフシがある。  しかし、二十世紀の末に遺伝子の世界にまで人間が踏みこんだところで、禁断の領域はなくなった。たとえばES細胞の研究過程では、放射線という一種の電磁波が、ヒトの細胞を遺伝子レベルから根本的に変化させ、人間の形態そのものを変えてしまうという事実が明らかになった。こうなれば、人々が常識的に抱いている『人間』の概念は、すでに完全に崩壊してしまったといってよい。人間という生き物は、『波動』によって別の生物に変化するんだ。それはダーウィンやメンデルなど過去の学者たちが唱えた突然変異という概念とはまったく異なるステージにある。まさしく、きみが言ったように、人間はいよいよ人間を卒業する段階まで到達したんだ。ラスト数十年は、ものすごいスピードでね」  山道の傾斜が徐々に急|勾配《こうばい》になってきた。そして、真美のハンドルさばきも忙しくなってくる。  真美は沈黙し、代わりに清水教授が多弁になった。 「私の記憶に間違いがなければ、それまで一部の医療関係者だけに知られていたBIBの症例が、はじめて世界的に報道されたのは、今世紀に入ってすぐの二〇〇三年だったと思う。報道したメディアがいい加減なスキャンダル雑誌などではなく、イギリスのBBCだっただけに、人々は、中央アジアのカザフスタンで起きたその信じがたい出来事のニュースを、事実として認めざるを得なくなった。とくにインターネットを通じて、実際の画像まで出てしまったからね」 「それは、何年か前に私もライブラリーで見ました」  小さな声で、真美はつぶやいた。 「ショックでした」 「新約聖書の『ヨハネによる福音書』九章二十九節に、こうあるのをきみは知っているかね。≪我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこからきたのかは知らない≫と」  清水は、苦笑いを浮かべて言った。 「よりによってクリスマスに、こんな一節を引き合いに出して人類の本質を考えるのも、私ぐらいなものかもしれないが、しかし私は本心から思うのだ。私たち人類が、どこからきたのか、じつは誰も知らないのだ、とね。キリストでさえも、だ」 「そして、どこへ行くのかも……」 「そのとおり」  しばらく沈黙がつづいた。  真っ暗な山道を、真美は黙って車を走らせ、清水教授は黙って行く手の闇を見つめていた。  だが、あと二キロほどで到着という距離にきたところで、清水が急に低い声になって言った。 「神保君、ちょっと車を停めてくれたまえ」 「ここで、ですか」  ブレーキを踏んで速度をゆるめながら、真美がきき返した。 「そうだ。怪物退治に取りかかる前に、きみに言い残しておきたいことがある」 「言い残す……って」  真美は、清水の言葉に含まれた微妙なニュアンスが引っかかった。 「私には、自分の運命が読めない。あるいは今夜、私は禁断の森で命を落とすことになるかもしれない。自分の産み出した怪物を退治するのと引き換えにね」 「先生……」  真美は完全に車を停止して、サイドブレーキを引いた。  そして、助手席に向き直って言った。 「そんなこと、おっしゃらないでください」 「いや、私は本気で案じている。だから、私に万一のことがあったときを考えて、いまのうちにきみに言い残しておかねばならないことがあるんだ。ただし、この話にきみは相当なショックを受けると思う。だから運転を中断してほしかった」  清水の言葉に、真美は顔をこわばらせた。 「どんな話なんですか」 「きみの弟、透君の奥さんのことだ」 「ルイちゃん?」 「うむ」 「ルイが、どうかしたんですか」 「彼女、妊娠十六週目に入っただろう」 「なぜ、そこまで先生がごぞんじなんですか」 「関係者からの情報だ」 「関係者?」 「彼女の妊娠経過を定期的に診ている産婦人科医だよ。個人的に私の知り合いではないが、特別な事例があった場合は、ただちに情報提供がいくネットワークの仲間になっている。その男性医師から、報告があった」 「………」  聞く前から、真美の唇が震えていた。 「妊娠十週目までは、ルイさんは指示された検診日にやってきていたが、なぜかそれ以降、連絡もなしに急にこなくなったという。そして一昨日、ひさしぶりにやってきたのが十六週目に入るところだった。しばらくこなかった理由をとくに問うこともせず、超音波検診をはじめたのだが、彼はたちまち顔色を変えた。さすがに、その場で本人に伝えることはできなかったが」 「まさか」  真美は、片手を口に当てた。 「まさか、先生……」 「その、まさかなんだよ、神保君。ルイさんが子宮に宿しているのは男の子だった。ただし、BIB——|ベイビー《B》|・《・》|インサイド《I》|・《・》|ベイビー《B》であることが判明した。ロシアの民芸品マトリョーシカ人形のように、男の胎児の中に、小さなもうひとつの胎児が組み込まれていたんだ。しかもその胎児は通常のBIBのケースとは異なり……」 「やめてください!」  真美は絶叫した。 「そんなの……そんなの……ひどすぎる」 [#改ページ]  十 メタル・ベンダーの怒り[#「十 メタル・ベンダーの怒り」はゴシック体]  姉の真美が清水武信教授から、ルイの胎児に関する衝撃的な情報を告げられていたころ、弟の神保透は、午前三時という時間にもかかわらず、城南出版社の本社と目と鼻の先にある系列子会社、城南メディアの編集フロアにいた。  雑誌の入稿時期ともなれば、深夜だろうと明け方だろうと多数の編集者が働いている光景が珍しくない編集部も、いまはシンと静まり返っていた。時間に追われる年内の作業はすべて終了し、とくに今夜はクリスマス・イブということもあって、それぞれの恋人や家族と一夜を過ごすために、編集者たちも早々に会社を引き揚げていた。  天井の照明も、エレベーターホールにいちばん近い一角だけが灯《とも》っており、フロアの大半は薄闇に沈んでいた。その明かりが点《つ》いている下で、ひとり未明の来客を待っているのが神保透だった。  透は窓に掛かったブラインドの隙間を指で押し広げ、街の様子を眺めてみた。編集部は三階なので夜景を見下ろす高さとしては不十分だったが、周囲の雰囲気がうら寂しいものであることはよくわかった。  ここは東京ドームに近い場所だが、新宿や六本木のような不夜城とは言い難いエリアだった。だからこの時間帯ともなると、クリスマス用のイルミネーションを除けば、ネオンの煌《きら》めきもぐんと少なくなって、闇ばかりが目立った。  今月初めのように大雪でも降れば、ホワイト・クリスマスの素晴らしい演出になるだろうが、暮れなのに東京は妙に生温かく、夜空には月も星も出ておらず、雪の代わりに無粋な雨が降り出しそうな空模様だった。  新婚早々、クリスマス・イブを妻のルイといっしょに過ごせないのは申し訳なかったが、緊急事態ではどうしようもなかった。ただし、ルイには雑誌の締め切りに追われていることにしてあった。妊娠中の大事な時期に、よけいな心配をかけまいとして。 (どうなるんだろう)  淋《さび》しげな夜景を眺めながら、透は不安を隠せなかった。 (この先、うちの家族はどうなるんだろう……)  やがて、透の携帯が鳴った。あの男[#「あの男」に傍点]からだった。  透はその電話に応対しながら、夜間通用口のロックを解除するために、編集部の奥にあるリモコン装置に暗証番号を入力し、指紋認証でそれを有効にした。  ショルダーバッグを肩に掛け、革ジャンのポケットに片手を突っ込んでいる中年男の姿がモニターカメラに映し出された。 「金子さんですね」  透の問いかける声をスピーカー越しに聞いた男は、カメラのほうにチラッと顔を向け、軽くうなずいた。まぶたを開けているのか閉じているのかわからないほど目が細く、冷酷そうな薄い唇に、火の点いたタバコをはさんでいた。  透は、その映像を見ながら解錠ボタンを押した。 「ドアを開けましたから、お入りください。ただ、タバコは消してからエレベーターに乗ってください。警報装置が鳴りますから」  その指摘に、モニターに映し出された男は不愉快そうに顔をしかめた。  数十秒後、三階の編集部に上がってきた男——フリーライターの金子拓郎は、透に示された打ち合わせ用の楕円テーブルのそばに行くと、「ここはタバコが吸えるのかい」と、ぶっきらぼうにたずねてきた。 「だめです」  透の返事も負けないくらいにそっけなかった。 「じゃ、喫煙OKの場所に移動させてくれ」 「ありません」  またも透は短く答えた。 「我が社は全館禁煙で、来訪者にもそのルールを守ってもらっています」 「本社は違うぜ。編集部のフロアじゃ吸えないが、喫煙可の応接室がある」 「本社はそうでも、城南メディアは違うんです」 「無視したら」 「警報が鳴ります」 「また、それかよ」  金子はチッと舌打ちした。 「じゃ、警報を解除しておけ」 「できませんね」 「おまえさんなあ」  金子は、細い目をさらに細めて威嚇の表情を作った。 「おれが何しにきたか、わかっていながら、そんな態度に出ているのか」 「………」 「まあ、いいや。話をさっさと済ませられるなら、二、三十分はガマンしてやる。それ以上、おまえさんがゴネるなら、警報が鳴ろうが何だろうが、タバコは吸わせてもらうからな」 「それなら、早く用件を切り出してください」 「まずあんたに、面白い演《だ》し物を見せよう」  金子は肩に掛けていたショルダーバッグを下ろし、その中からスリッパでも入れておくような布袋を取り出し、それを逆さにして中身をテーブルの上に出した。  ガチャガチャという金属音を立てて、ステーキ用のナイフとフォークが一組、それから大型のスプーンが三本、机の上に落ちてきた。  金子はそれらの道具の使用目的は口にせず、まず透に近くの椅子に座るように指示した。そして自分はそのそばに立ち、広げたスプーン類を手にとって検《あらた》めるよう透に求めた。 「いいかな。どれもレストランに置いてある普通のスプーンやナイフ、フォークだ」  調べさせたあと、金子は最初にフォークを取り上げた。そして、いったんそれを両手で持ったあと、片手に持ち替え、フォークの先端部分がぶれてはっきり見えないほど大きく振りはじめた。それから、振る速度を徐々にゆるめていく。すると、四つに分かれたフォークの先端部の「歯」の一本が、徐々に曲がりだしてきた。  さらにフォークを振る動きをスローにして、最終的に動きを完全に止めると、一本の歯が大きく外側に反り返っているのが確認できた。 「………」 「………」  金子は無言で透の感想を求め、透も沈黙と無表情でそれに応じた。  つぎに金子は三本のスプーンのうち一本を取り上げ、それを透が着ていたジャケットのポケットに無造作にほうり入れた。それから二本目のスプーンを取り、それを揉《も》むようにして両手で回転させると、いつのまにかくびれた部分がねじれていた。力ずくではできそうにない変化だった。  金子は、ねじれたそのスプーンを透の目の前にかざしてからテーブルに置き、残るもう一本のスプーンを取り上げた。それを空中でサッと一回振ると、一瞬にして、首を垂れるように皿の部分がクニャリと折れ曲がった。  すかさず彼は、そのスプーンを透が着ているジャケットのポケット近くへ持っていき、衣服越しに念力でも送るようなゼスチャーをした。  そして言った。 「さあ、ポケットの中に入れたスプーンを取り出してみな」  言われるままに透が片手をポケットに入れ、スプーンを取り出すと、それは金子が空中で曲げた三本目のスプーンとほぼ同じ形に曲がっていた。  透は、ちょっとだけその形に目をやったが、とくに感想も述べずに、それをテーブルの上に置いた。 「どうかね」  金子がきいた。 「どうかね、とは」  透がきき返した。 「だから、あんたの感想が聞きたい」 「何もないですね」 「そっけないんだな、お兄さん」  金子は唇の片端を吊《つ》り上げた。が、まだ笑いの形にはなっていなかった。 「それとも自慢の超能力のネタが割れてしまって、あせっているのかな」 「ネタが割れたとは、どういう意味ですか」 「あんたがメタル・ベンダーを自称していることは知っている。スプーン曲げができる超能力者だということはね」 「誰から聞きました」 「すぎもっちゃんだよ。こんど本社で週刊『キャッチ』の編集長に就任した、杉本不二夫から」 「ああ、そうですか。……で?」 「ずいぶん彼は感心しておったよ。あんたの能力にな。世の中には、ああいう人間も実際にいるんだ、というふうに」  椅子に腰掛けた透を見下ろす位置に立ったまま、金子はその細い目を決して相手の顔から離さなかった。 「実際にあんたがどんな技を披露するのか、おれは知らないが、おおかた、いま見せたのと大同小異だろう」 「で?」 「だから、コメントはないんですかい、ときいてるんだ」  上半身をひねって、片方の肩を突き出す威嚇のポーズで、金子は迫った。 「振るだけでフォークの歯を曲げていき、スプーンを飴《あめ》のようにねじったり、一瞬で折り曲げたり、あらかじめ相手のポケットに入れておいたスプーンも、服の上からパワーを送っただけで曲げてしまう。特殊な素材でできた特注品などではない、ごくあたりまえに市販されているスプーンやフォークが、あっというまに形を変えたんだ。いま目の前でその現象を見て、おれのことをどう思ったか教えてくれないかね。たとえば『金子さん、あなたもぼくと同じ超能力者だったんですね』と、握手でも求めたくなったかい」 「………」 「返事がねえな」 「………」 「固まっちまったかい、お兄さん」  まだ二十代半ばの透を、五十五歳の金子が、年齢差だけでも見下すにじゅうぶんの要素だと言いたげな態度をとった。  それでも透がポーカーフェイスを保っているので、ややイラついた表情を見せながら、金子は自分ひとりで話を進めていった。 「二十世紀に登場したユリ・ゲラーを本物の超能力者だと信じるような連中なら、おそらくいまのおれのパフォーマンスを見て、うわ、すげえ、とびっくり仰天しただろう。その驚きにつけ込んで、そうなんです、じつは私には特別な能力が授かっているのです、と真顔でのたまうこともできる。  だが、いま見せたのは、ユリ・ゲラーのスプーン曲げと同じ現象をどうやれば手先のテクニックで再現できるか、その後、幾多のマジシャンたちによって研究され、編み出された手法のオンパレードにすぎない。実際のところ、ポケットに入れたスプーンを、服の上から曲げることなど物理的に不可能なのは決まっているし、振るだけでフォークの歯を一本だけ、どんどん反り返らせていくなんてことも、できるわけがない。だが、何の変哲もない市販品のスプーンやフォークを使って、目の前で不可能な現象が起きたように見せかけるトリックを仕掛けられるのが、マジックのすごさというものだ。ちなみにおれは、カナダの某マジシャンの演技を参考にしたんだがね」 「パトリック・カフスですか」 「ほう」  金子は肩をすくめ、それから初めてニヤッと笑った。 「その名前を知ってるとは、さすがにあんた、スプーン曲げトリックの研究には余念がないようだな。『問うに落ちず、語るに落ちる』とは、このことだ」 「あなたは手品を見せるために、こんな遅くまでぼくを待たせていたんですか」 「………」  透の言い方が気にくわない、ということを、金子は凄《すご》みを利《き》かせた目つきでアピールした。が、透はかまわずつづけた。 「ようするにあなたは、噂で聞いたぼくのメタル・ベンディング能力が、ただのマジックにすぎない、と言いたいわけなんでしょう」 「そのとおりさ」  向かいの席に腰を下ろし、金子は改めて透を睨《にら》みつけた。 「文句あるかい」 「そんなことで言い争っても時間のムダですね」 「逃げるなよ」  そこで金子は、まだ演技に使用していないステーキナイフの刃先を、透に向けた。 「おれはね、スプーンやフォークは超能力的なパフォーマンスを演じる小道具になれることを知っている。そしていま、それを実際に演じてみせた。だが、このナイフを曲げるのは無理だろう。いまと同じテクニックを使おうとしたら、ヘタすりゃ手をスパッと切っちまう」 「まあ、それは物騒ですから引っ込めておいてください」 「できねえんだろ、やっぱり」 「それより、ぼくは回りくどい用件の持ち出し方は嫌いだ、ということです」  透は、少しだけ語気を強めた。 「深夜の編集部でただひとり、ぼくがあなたを待っていたのは、あなたが先月死んだ父のことで重大な話をしたい、それもおおっぴらになっては困るような内容ですよ、と脅しをかけてきたからです。だから、面会の要求に応じたんです。決して、ぼくが超能力者か、ただの手品マニアかというテーマではなかったはずです」 「ふん」  金子は肩をすくめ、革ジャンのポケットに両手を突っ込んだまま、椅子の背に深くもたれかかった。 「じゃ、こっちも本題に入ることにするかね」 「そうしてください」 「じつは、このネタ、週刊『キャッチ』に売り込みをかけた。新編集長の就任祝いに最適だろうと思ってね。ところがあのチョビ髭《ひげ》編集長殿は、神保前社長にだいぶ可愛がられていたようで、おれの申し入れを却下してくれた。それが正しい判断だとは、とうてい思えないが」 「どうせあなたは、記事にされたくなければ金をよこせと言ったんでしょう」 「そんなとこかな」  平然と、金子は認めた。 「杉本さんは、そういうことが大きらいな人なんです」 「いかがわしいチョビ髭のわりにはな」 「だから父も、杉本さんを信頼していたんです」 「立派そうに言いなさんな。人殺しのくせに」 「誰が」 「あんたのオヤジが、だよ。神保康明前社長が、だ」  わずかに開いたまぶたの隙間から、金子の瞳が、「どうだ、驚いたか」と言いたげに、挑戦的な光を放っていた。 「息子のあんたは、恐らく父親の隠された一面を知るまい。だから教えてやるが、おたくのオヤジさんはな、あんたが生まれる少し前に、ふたりの人間を殺している。ひとりは高校時代のクラスメイトだった男で、もうひとりは高校時代の英語の女性教師だ。理由は、高校時代に仲間や教師からいじめられたことだ。ひょっとしたら、いじめられているという妄想に勝手に取り憑《つ》かれていただけかもしれないがね。その怨《うら》みつらみを、大人になってもずっとずっと忘れず、二十年以上の歳月を経て、復讐《ふくしゆう》を遂げたんだ。なんたる陰湿な粘着気質だ」  金子は、おおげさに身を震わせた。 「しかもその殺し方たるや凄《すさ》まじいもので、同級生だった男のほうはハンマーのようなものでメッタ打ちにされ、顔は原形をとどめないほどになっていた。女性教師のほうは、発見されたのが推定で死後二年経過していたころだったため、死因も特定できないほど白骨化していた。しかもバラバラに切断されて」 「………」 「それが、あんたのオヤジ、神保康明がやった鬼畜の所業だよ。その残虐な殺し方にもかかわらず、警察は真犯人にたどりつけず、殺人罪の時効も過ぎてしまった。そして幸か不幸か、犯人は自らの大罪をうまく隠し通したまま、交通事故でこの世を去ってしまったというわけだ」 「誰からそんな話を聞いたんだ」 「ニュースソースは言えない」 「父が犯人だという客観的証拠は」 「それはある」 「どんな証拠だ」 「まだ言えないね。だが、そいつはちゃんと手元に確保してある」 「そんなあいまいな話だったら、ぼくも信じるわけにはいかない」  そう言い返しながら、じつは神保透は、父の黒い過去をつかんだこの男をどうしようかと考えていた。  透は知っていた。  姉の真美が推測していたとおり、彼は物心ついたころから、父親が犯した殺人の記憶を脳裏に焼きつけていた。それは、神保康明の記憶が遺伝したというよりは、父親がその情景を思い出すたびに、その思考電磁波を透が浴び、親が思い出した光景が子の脳に転写されたためだった。透の妻・ルイが、これから自殺を企てようとする人間がイメージする自らの死に様を、リアルに受信してしまう能力を持っているように。  人間が物理的に動いたさいに生じる電磁波は、すぐさま四方に広がり、至近距離にいる人間は自らの身体がアンテナとなって、それを受信する。それはすでに二十世紀末の段階で科学的に立証されていた。また、密閉された空間では、当人が部屋から出たあとでも、その電磁波は一定時間滞留する。そのため、あとからそこに入ってきた人間は「気」を感じることになる。とくに敏感な皮膚の産毛がそれに反応するのだ。幽霊の正体の一部は、そうした滞留電磁波が引き起こすものである。  さらにその現象を深く研究していくうちに、「思考」という脳内電流の発生によっても同じように電磁波の情報転写が起きることを、清水教授と真美はつかんでいた。人間が頭で考えたイメージは、他人に転写するのだ。すなわち、テレパシーである。とりわけ一卵性双生児のあいだでは、思考の送受信は至近距離であれば、ほとんど情報の欠落なしに超短時間で行なわれる。  たとえば一卵性のふたごは、第三者の問いかけに対して一言一句たがわぬ受け答えを、斉唱するように発するが、その様子を録音したデータを分析すると、まったくの同時ではなく、片方がわずかに遅れて、一方と同じ言葉をしゃべっていることがわかる。  ただし、真似をしているのだと結論づけるには、あまりにも時間差が少ない。それは、一方が言葉に出す前に発信した思考電磁波をもう一方が受信し、それを自らの思考と思い込んだまま、即座に言葉に出すために生じる、微妙なタイムラグだからである。  そうした精密な思考電磁波の送受信は、一卵性双生児間だけでなく、親子のあいだでも行なわれることが珍しくない。とりわけ、自分が生まれてきた意味を「生命のリレー」として解釈している子供と親のあいだでは……。  だが、そうした思考電磁波の受信によって、父が過去に犯した殺人の状況を「見て」も、透は、父を殺人鬼のような恐ろしい人物とは思わなかった。  父は、ふたつの殺人を実行したあとに子供を作った。透である。それは、父が子供の身体を借りて生まれ変わり、過去の罪を清算して新たな人生をはじめようとした証拠ではないかと、透は感じていた。  この世に誕生してくる赤ん坊は、さまざまな理由があって新たな生命を授けられる。中には男女の性欲の結果だけ、というお粗末なケースもある。そうではなく、明確に赤ちゃんが欲しいという意思を持って子づくりに臨んだ両親にしても、その理由にはいろいろな種類がある。  子供のいる家庭を最初から当然のようにイメージしていたから。子供がいないと将来が不安だから。子供そのものが好きだから。母性本能が赤ちゃんを欲したから。家系や商売の存続のために後継ぎが必要だから——等々。  だが、自分の魂を子供という名の「別の容器」に移し替えることで、さらに延命しようという発想を抱く親は、まずいないだろう。だが父・神保康明は、そのめったにない発想のもとに自分を生み出したのだ、と透は察知していた。  姉の真美を作ったときは、ごくありふれた子づくりの発想だったかもしれない。だが、明らかに透の場合は、父親が違った目的で作ろうとした。そして透は、父の意図を幼いころからわかっていたのだ。自分には「父」の魂を受け継ぐ義務がある、と。  いや、もしかするとそれは父ではなく、自分を見失ったまま百歳になろうとする祖父の晴久かもしれないし、もっともっと前の世代の魂なのかもしれない。  いずれにせよ、そうした世界は透にとっての聖域だった。神保家としての聖域といってもよい。そこに、金目当ての恐喝者を土足で踏み込ませるわけにはいかないのだ。 「あんた、オフクロさんから何か聞いてないかね」  透の心の中を知らず、金子は問いかけてきた。 「うちの母親から?」 「そうさ。じつは一足先に、あんたのお母さんにも、この情報は行っているんだ」 「なんだって」  さすがに透は驚いた。  父と違って、母の敦子はまったく標準的な人間であることを知っているから、母の受ける精神的ショックに思いが及んで、身体がこわばった。 「ただし、それはおれがやったことじゃない」 「誰が言ったんだ」 「犠牲者の元妻さ。あんたのオヤジに殺された芝田次郎という人物の、当時の妻だ。いまになって彼女は、あるルートから夫を殺した真犯人をつかんだ。時効が過ぎていようと、殺人鬼の悪行を世間に訴える権利が、彼女にはあると思わんかね」 「そんな権利は、ない!」  透は、腹の底から怒りの声を発した。 「ぼくがそんなことは許さない」  叫ぶと同時に、透はテーブルの上に放置されていた、曲がったスプーン類を跳ね飛ばし、その中にあったステーキナイフを取り上げた。そしてそれを強く握りしめ、刃先を金子に向けた。まさに、反射的な行動だった。  どちらも座った体勢だから、テーブルの幅が邪魔をして、そのままでは透が腕を突き出しても刃先は相手に届かない。それがわかっているのか、金子は落ち着いていた。 「ほう、そうきたかね」  金子は笑みは浮かべずに、肩先だけでせせら笑いを表わした。 「さすがカエルの子はカエル、殺人鬼の子は殺人鬼だ」 「そういう言い方はやめろ」 「だって事実じゃねえか。おまえさん、そのナイフでおれを刺そうとしてるんだろ。いや、刺すだけじゃねえな、殺そうとしているんだろ」 「………」 「こいつは面白れえや」  金子は眉《まゆ》を吊《つ》り上げ、こんどは冷酷な笑みをその顔に浮かべた。 「城南出版社前社長・神保康明が連続殺人鬼だった事実を知られまいとして、その息子で、親のコネにより系列会社の社員となったインチキ超能力者の神保透が、取材に訪れたライターを殺害。……あははは、殺されてもいいから自分で書きたいねえ、この記事は」  強がりではなく、金子には余裕があった。  理由はふたつある。  第一に、彼は武術の達人であり、猛《たけ》り狂った相手がナイフを持っていようと、それをかわして逆襲することは朝飯前という自信があったこと。  第二に、スプーン曲げのマジックを終えて本論に入ったところから、彼は革ジャンのポケットに仕掛けておいた無線発信器をオンにして、すぐそばにいる「同志」に、透とのやりとりの一部始終を聞かせていたからだった。  その同志とは、神保康明のかつての級友であり、高校のクラスという共通項で結ばれたふたつの殺人の真相を見抜いた篠原|光雄《みつお》。そして、殺された芝田の妻・湯浅映子。彼らは、すぐそばの「ある場所」で、金子と透のやりとりを無線傍受していたのだった。そして、それを録音にも取っていた。 「どうしたんだね。親子二代にわたる殺人鬼の誕生を見せてくれるんじゃないのか」  つぎの行動に出るのをためらっている透に向かって、金子は嘲《あざけ》りの言葉を投げつけた。 「やっぱりどんな世界でも、優秀な先代のジュニアっていうのは、腰抜けになるもんかねえ。お父さんは立派な猟奇犯罪者でいらっしゃったのに」 「オヤジを侮辱するな!」  透は、金子の挑発に乗って立ち上がった。 「それ以上、失礼なことを言うと、ほんとにやるぞ」 「かまわんさ、やってみろよ」  金子は、決定的なセリフを録音に取れたなとほくそ笑みながら、なおも透をあおりつづけた。 「さあ、最初にどこを刺すかね。心臓か? 首筋か? それとも肝臓かい」  その言葉を聞きながら、ステーキナイフを握りしめる透の心の中には、必死に自制を求めるもうひとりの自分がいた。 (バカな真似はやめろ、透。怒りにまかせてその男をほんとうに殺したら、おまえの母親はどうなる。それだけじゃない、身重の妻はどうなる。最愛のルイがどれだけひどい心の傷を受けるか、わかっているのか) (そうだ、やめなければ。理性でコントロールしなければ、家族がめちゃくちゃになる)  透は懸命に怒りを制御して、ナイフをテーブルに置こうとした。  だが、そのとき——  殺せ[#「殺せ」はゴシック体]  突然、透の視野に真っ赤な文字が浮かび上がった。血の色である。  目の前に見える金子の姿にかぶさって、「殺せ」という二文字が立体的に浮かび上がった。それだけではない。こんどは血の色に染められたいくつもの単語が、ホームページの電光掲示板のように、視界の右から左へと流れはじめた。  憎め 殺せ 怨《うら》め 殺せ ためらうな 刺せ 刺せ 刺せ 殺せ 殺せ 殺せ[#「憎め 殺せ 怨《うら》め 殺せ ためらうな 刺せ 刺せ 刺せ 殺せ 殺せ 殺せ」はゴシック体]  強烈なメッセージだった。たぶんそれは死んだ父親の意思だ、と透は思った。これまで静かに透の脳内に格納されていたものが、いま金子の挑発に刺激され、飛び出してきた感じだった。 (まずい)  透は焦った。  ナイフを持つ手が自分の意思とは別に、金子を刺すために動き出そうとしていた。いったんブレーキをゆるめたら、相手がどんなにすばやい反応を見せようとも、自分のほうが先に目的を達成してしまう、と思った。  右腕が狙いを定めるように、ゆっくりと後ろに引いていくのを、透は他人事のような感じで見ていた。  金子が危険を察知して、腰を浮かせるのがわかった。  が、それより早く、透はテーブルの上にジャンプした。そして、空中でナイフを逆手に構え直すと、勢いをつけて飛び降りながら、金子の首筋めがけてそれを突き刺そうとした。武術の心得がある金子にして、まったく対応が取れないほどのスピードだった。 (やられた!)  さすがの金子もとっさに観念し、目をつぶった。 (やった!)  透も、取り返しがつかない暴走に、自分で凍りついた。  だが——  刃先が金子の喉《のど》に食い込む寸前、ナイフの先端がゼンマイのようにくるりと丸まった。そして金子の皮膚にその丸まった部分がぶちあたると、ナイフはあっさりと弾き返され、透の手から飛んで床に落ちた。  土壇場で、透の理性が勝ったのだ。 「………」 「………」  何が起きたのかわからず、恐るおそる目を開けた金子は、床に落ちたナイフの形状を見て、驚愕《きようがく》の表情を浮かべた。  そして、つぶやいた。 「あんた……本物だったのか」  透は、答えられなかった。  紙一重のところで自らのメタル・ベンディング能力が惨劇を防いだ、その興奮で荒い息がなかなか収まらなかった。  だが、それですべてが終わったわけではなかった。透は新たな異変を察知していた。何か非常によくない動きが、身近な人間に起こりつつあることを。 (ルイか?)  神経を研ぎ澄ませた。  いま、透の精神感応のアンテナは、通常の人間のレベルを超えた鋭敏さにあった。  ルイではなかった。ただちに救いに行かねばならないのは、母・敦子だった。 [#改ページ]  十一 最後の日記[#「十一 最後の日記」はゴシック体]  マンション五階の窓に、ポツリ、ポツリと雨粒が降りかかりはじめた。そして、みるみるうちに、それは窓ガラスが歪《ゆが》んでみえるほどの大雨になり、中庭で一晩中イルミネーションを煌《きら》めかせていたクリスマスツリーの明かりを、滲《にじ》んだ光の湖に変えてしまった。  クリスマス・イブの大雨——  その雨が雪に転じてホワイト・クリスマスとなる期待はまったく持てないほど、夜の空気は季節はずれの生温かさで、あまりに雰囲気のない夜景など見ても仕方ないとばかりに、神保ルイは窓のブラインドを下ろした。  時計を見ると、午前三時半になっていた。夫の透は、まだ会社から帰ってこない。  それじたいを心配して眠れないわけではなかった。透の職場が一般的な会社員からは想像がつかない時間が不規則な世界であることは、一年に満たない結婚生活でもうじゅうぶん理解していた。また、夫が自分に注いでくれる愛情の深さを心から信じていたから、彼がクリスマス・イブにほかの女性と浮気などをしているような妄想は、カケラも抱いていない。  仕事で遅くなるというからには仕事なのであり、それがときとして夜明けから朝方までかかる場合があるのも、ルイは経験的に知っていた。だから「先に寝ていていいよ」という彼の言葉どおり、ベッドに横になっていたが、穏やかな眠りを二度にわたって妨げるものがあった。  夢である。  日付が十二月二十五日に変わってまもない午前一時ごろ、ルイは悪い夢をみて、まず一回、目が覚めた。いまから六年前の秋、深夜の青木ヶ原樹海に、透と親友の杏奈と三人で分け入り、自らの出生に関わるすさまじい秘密を知るまでは、たびたび繰り返し悩まされていた悪夢と同じものだった。  樹海における強烈な体験のあとは、パッタリとその夢はみなくなっていたのに、それがひさしぶりに復活した。  それは、深い森の中をさまよう三歳の自分が登場する夢だった。  幼いルイは、森の中に浮かぶひとつの青白い「0」に似た光の輪を見つけるが、やがてそれはつぎつぎと分裂して、無数の0に増殖し、森の奥深くに向けて無限につづくかと思える、青白い光のトンネルを作るのだ。  その光のトンネルへ一歩足を踏み出そうとしたとき、突然、天地が逆転して—— (ゼロ、ゼロ、ゼロ、ゼロ、ゼロ、ゼロ、ゼロ、ゼロ……)  夢をみながら、「ゼロ」という言葉をしわがれ声でつぶやく自分がいるのを、ルイは深い眠りの底で意識していた。  そして—— 「ゼロ、ゼロ、ゼロ、ゼロ、ゼロ、ゼロ、ゼロ、ゼロ……」  こんどは実際に自分が、口に出してつぶやいているのを知って、驚いて目が覚めた。  六年ぶりの悪夢の復活に、ルイは身を震わせた。なぜ、あの夢がよみがえってきたのか、説明をつけようと思っても、それはできない。  ルイは混乱した。  ベッドの上に起きあがると、ものすごい寝汗をかいていた。そのままでは風邪《かぜ》を引いてしまうのは確実と思えるほど、大量の汗だった。  ルイは、熱いシャワーを浴びて着替えをしようと、バスルームへ行った。  洗面所の鏡の前で裸になってみると、妊娠十六週目に入った身体は、ほんの一週間前に較べても、だいぶ変わってきていた。乳房も大きくなっていたが、下腹部のふくらみは、妊娠出産の本で見る標準的な状況よりも、かなりふくらんでいるような気がした。 (大きな赤ちゃんなのかしら)  そう思いながら、ルイはそっと自分の腹を撫《な》でた。悪夢の復活を忘れるには、自分の身体に宿った新しい生命のことを考えるにかぎる、と思った。  義父の死に際して、子宮への衝撃とともに自分の脳に飛び込んできたメッセージ——生命はリレーした。新しい時間がはじまった——は、ルイを大きな不安に陥れ、一時は妄想がふくらんで、恐怖から定期検診を受けることを避けていた。だが思い切って、また病院の門を叩《たた》いて調べてもらったところ、何の異常もないと言われ、胸のつかえが一気にとれ、それからは気分的にまったく楽になっていた。  医者が、重大な情報を秘匿しているとは知らず……。 (あと二十三、四週間ぐらいか……まだまだ先のようだけど、あっというまかもしれない。すごく楽しみ)  いまは初出産へのおそれよりも、透とのあいだにできた赤ん坊と対面する日が近づいてくる喜びのほうが大きかった。  そんなことを考えているうちに、悪夢の復活をなんとか頭の片隅に追いやったルイは、シャワーを浴び、着替えをして、またベッドに行ってやすんだ。  だが、午前三時ごろ——つまり、透が静まり返ったオフィスで金子拓郎と顔を合わせたころ、また夢をみた。こんどは、誰かが首を吊《つ》って自殺する夢だった。しかし、その誰かがわからない。  ルイには、自殺を決意した人間が無意識のうちに自分の死に様を思い描く、そのイメージをキャッチする能力を授かっていた。だが、その場合はもっと鮮明で生々しくグロテスクな映像が脳裏に広がる。人物の顔もはっきり浮かぶ。いまのような曖昧《あいまい》さは決してない。  だから思考電磁波の受信ではなく、夢の一種だと思ったのだが、妙に気持ちが落ち着かなかった。それでまたルイはベッドから起きあがり、気持ちを鎮めようとして、窓辺に歩み寄ったのだった。  いつかのように純白の雪に覆われた街並みを見下ろせたなら、それだけで穏やかな気持ちになれただろうが、皮肉にも季節はずれの大雨が急に降り出してきた。それでは、かえって気分を落ち込ませるだけだった。  しかも遠くで雷鳴さえ轟《とどろ》きはじめていた。とんでもないクリスマスの天気だった。 (透……)  リビングのソファに腰を下ろしたルイは、はじめてそのとき、夫の帰りを待ちわびる気持ちに襲われた。 (早く仕事を終わらせて帰ってきて。イブだからとか、そういう理由じゃなくて、とにかくそばにいてほしいの。なんだか……)  無意識のうちに、ルイは片手で下腹部をさすっていた。 (夜が明けるまでに、なんだか、ものすごく悪いことが起きそうな気がする)  だが、すでに「ものすごく悪いこと」は起きていた。  透の母・敦子の家で。       * * *  夫の交通事故死からまだ完全に立ち直れていないというのに、湯浅映子の訪問を境に、神保康明の妻・敦子の精神状態は急速に悪くなっていた。  本来ならば、娘の真美や息子の透に助けを求めるところだが、それができずにいた。子供たちに父親が殺人者であることなど、言えるはずがなかった。じつは、子供たちのほうこそとっくにその事実を承知しているとは夢にも思わず、敦子は悩みに悩んだ。  湯浅映子は、篠原というかつてのクラスメイトと組んで、夫の復讐《ふくしゆう》を遂げようとしていた。有名出版社の社長も務めた男のショッキングな大罪という切り口で、マスコミを通じ、その事実を大々的に世間にアピールしようとしていた。  たとえば映子が人を使って敦子を殺させる、というような直接的な復讐をされたほうが、自分の命を失っても、まだマシだった。その加害者を追及さえしなければ、敦子が殺人事件の被害者として、悪人にならずに、すべては終わるからだ。  だが、マスコミを使って「神保康明の暗い過去」を暴かれたら、自分だけでなく、娘や息子の人生も終わってしまう。嫁であるルイの腹に宿った、敦子の初孫となる子供の人生も、誕生前から大変なハンディキャップを背負うことになる。殺人鬼の家族という烙印《らくいん》を押されて……。  きわめて残虐な殺害方法、二十年の長期にわたって怨念《おんねん》を継続していた陰湿さ、そして犯人の表の顔は有名出版社社長——まさに夫は、世間を騒然とさせる異常殺人鬼の要素を取りそろえていることになる。本人がすでに死んでいても、家族がいれば、たちどころに攻撃の的とされるのは間違いなかった。  とくにインターネットというメディアができてからは、世間を敵に回した人間には、マスコミよる攻撃ばかりでなく、匿名の一般市民からも情け容赦のない言葉を浴びせられる、いわば「公開リンチ」の場が待っていた。  すでに還暦を迎えた敦子も、ネットの掲示板が一種の公開処刑場に早変わりすることは、じゅうぶん承知していた。そんな場で誹謗《ひぼう》中傷、罵詈雑言《ばりぞうごん》の限りを尽くされたら、たとえその掲示板画面を自分で見ることがなくても、精神的に壊れてしまうのは確実だった。  敦子は、いっそ自殺をしようかと思った。が、いざとなると実行する勇気が出ない。  その揺れる精神状態ゆえに、自殺願望が高まっている人間を察知できるルイも、義母の発する思考電磁波を正確に捉《とら》えきれずにいたのだ。  敦子にとって、破滅までの時間をなんとか長引かせていられるのは、すでに週刊誌などの年末年始進行は終わっていたし、テレビも特番ラッシュで、夫のやったことがワイドショーなどで連日報じられることになるのは、早くても年明けになるだろうという状況があったからだった。  だが、来年はすぐにやってくる。自殺という逃避手段をとる勇気もないならば、猶予された年末年始のあいだに、何かの手を打たねばならなかった。  そんなふうに追い込まれた敦子は、ふと、あることを思い出した。それは夫の日記の存在だった。  長期療養を要する病気ではなく、発作や事故などによって唐突に人生を中断させられた者は、家族にさえ知られたくないプライバシーを始末する余裕がない。そして、残された故人の秘密資料を遺族が見つけたとき、その中身を見るか見ないかで、一種の葛藤《かつとう》が生じることがある。神保家の場合にもそれがあった。夫の日記がそれだった。  遺言による献体という形をとったため、神保康明の密葬には棺《ひつぎ》がなかった。もちろん出棺という儀式も、火葬のプロセスもない。そういったものがあれば、故人の日記は、へたに遺族が読むよりは、棺の中にいっしょに納めて燃やしてしまうほうがいいと判断しただろう。だが、そのチャンスがなかった。  そして日記は残った。それも一年一冊の形でちょうど五十冊も……。  神保は高校生のときから、一日も欠かさず日記をつけていたのだ。五十冊の日記は、彼が生きてきた証《あか》しだった。もしもそれをすべて通読すれば、神保康明の人生を正確にたどることができるのは間違いなかった。  敦子は遺品整理の過程で、その驚くべき分量の日記を見つけたとき、自分は絶対にそのページを開くまいと決めた。子供にも見せるべきではないと思った。そして、機会をみて焼却処分にするつもりだった。  だが、湯浅映子の脅しを受けて、事情が変わった。  神保が遺《のこ》した日記のうち、あの年の「こどもの日」にどんなことが書かれているか、それを確認すべきではないだろうか、と敦子は思い直しはじめた。かすかな望みではあるが、その日付に殺人とはまったく無関係な記述があれば、血染めのウィンドブレーカーから連想した恐ろしい出来事は、敦子の思い過ごしであったことが証明される。そして、湯浅映子たちの主張も、思い込みによる錯誤だと主張でき、夫の無実を堂々と言い張ることができるかもしれないのだ。  しかし反対に、そこに明確な殺人の告白が記されていれば、すべての望みは打ち砕かれ、敦子は三十三年にわたって知らずに済んできた夫の残虐性を、否応なしに見せつけられることになるかもしれない。  あの日、洗濯機の中で見つけた黒いウィンドブレーカーに染み込んでいた血液は、芝田次郎を殺したときの返り血なのか、それとも夫の主張どおり、たんに転んで鼻血を流したときのものなのか……。  問題の日の日記を読むリスクは大きかった。  時刻は午前三時半になろうとしていた。  透が会社で記事を出すぞと脅しにきたフリーライターと対決し、ルイが二度目の悪夢でまた目を覚ましていたそのころ、敦子は夫の書斎だった部屋のクロゼットを開け、いまもそのままにしまってある五十冊の日記を前にして迷っていた。読むべきか、読まざるべきか、と。  やがて敦子は、予行演習というつもりで、とりあえずことしの日記を取り出し、十一月半ばの、神保が死ぬことになった日を開いてみた。  たぶん、その日の分はまだ書き記さないまま、夜遅く車で出かけて帰らぬ人となったのだろうと想像していたが、意外にも神保康明にとって人生最後の日の欄は、ちゃんと埋まっていた。それどころか、一日分のスペースでは収まらず、翌日、翌々日の欄とつづき、けっきょく一週間分のスペースを使って書き綴《つづ》った、非常に長い文章だった。  その冒頭、天気は「ひどい雨」とあった。  敦子は思い出した。そう、たしかにあの晩は、ひどい大雨だった。そして、ふと気がつくと、いまも窓の外は季節はずれの土砂降りになっていた。しかも、かなりの風を伴っているため、窓の隙間部分がヒューヒューと唸《うな》りを立てていた。  それも同じだった。危ないからこんな晩に出かけないでと夫を引き留めた、あの夜の天候にそっくりだった。  まるで、自然条件までが神保の死んだ夜を再現しはじめたようで、敦子は気味が悪くなった。その風雨の唸りを聞きながら、敦子はいつものように愛用の黒縁メガネをかけ、夫の最後の日記を読み出した。  それは「清水武信教授」という、意外な人名からはじまっていた。  娘の真美が師事する教授の名前が、五十年にわたって綴りつづけられてきた夫の日記の最終日に出てきたことに、敦子はまず驚いた。 ≪清水武信教授によると、BIBの症例が衝撃をもって世界的に広く知られることになったのは、いまからずいぶん前のことになるが、二〇〇三年四月のイギリスBBCの報道が最初ではないかという。  中央アジアのカザフスタン共和国で、ムラット・ザナイダロフという七歳の男の子が腹痛を訴えて、チムケント小児病院に運び込まれた。診察した医師は、最初は腹部に腫瘍《しゆよう》ができて、それが臓器を圧迫しているのだと判断した。  ところが開腹手術を行なってみると、少年の腹から出てきたのは黒い髪の毛に覆われたかたまりで、明らかに胎児だった。  開腹した時点では、もはやその胎児に生命の兆候はみられなかったが、少年が腹痛を訴える直前までは、七年にわたって彼の腹の中で生きつづけてきたものと思われた。  ただし、ムラット少年が妊娠していたわけではない。彼がまだ母親の子宮の中にいたとき、じつは身体の一部が結合したシャム双生児の片割れであったらしい。ところが、成長途中で母胎になんらかの異常が生じて、片方の胎児がもう一方の胎児の内部に取り込まれてしまった。  胎児の中に閉じ込められた胎児だから、ベイビー・インサイド・ベイビー。その頭文字をとってBIBと呼ばれる非常に珍しい症例だった。  つまり、ムラット少年はひとりの男の子として誕生していたが、実態は、身体の内部に「弟」を抱え込んだ、特異な形式のシャム双生児だったのだ。  取り込まれてしまった胎児は、母親の子宮内にいるときだけでなく、取り込んだ側の胎児が分娩《ぶんべん》されたあとも、「兄」の血液から養分を供給され、サイズ的にも機能的にも胎児以上に成長はしなかったが、驚くべきことに七年ものあいだ、ベイビー・インサイド・ベイビーとして生きつづけてきた。そして「弟」の命が尽きた時点で、それが「兄」の身体にとっては異物として検知され、腹痛という症状が起きた。ほうっておけば本体の命も危なかったという。  二十一世紀の初頭時点で、中国でも、本体がまだ生まれたての嬰児《えいじ》であるBIBの症例が報告されていたが、カザフスタンの例はBIBとして奇跡的に長期間生きていたケースだった。そうしたエピソードを紹介したうえで、清水教授はこう言った。 「神保さん、あなたはカザフスタン・ケースをはるかにしのぐ、過去最長のBIBを胎内に抱えておられるようです。六十年以上も生きつづけてきたBIBを」≫  はじめ敦子は、ベイビー・インサイド・ベイビーという症例を初めて知り、びっくりしながらも、なぜそんな出来事を夫が長々と日記に綴っているのか不審に思っていた。だが、中ほどまで読み進んできた敦子は、清水教授の言葉の引用のところにきて愕然《がくぜん》となった。 (パパの身体に赤ちゃんがいた? 六十年以上も生きつづけた、赤ちゃんが? うそ!)  頭の中が真っ白になっていくのを感じながら、敦子は震える手で日記帳のページを繰った。 ≪自分の身体の中で何かが蠢《うごめ》いている異変に気づいたのは四年前の春だった。まるで妊婦が胎児の足蹴《あしげ》りを感知するような現象が、自分の下腹部で起きたのだ。最初にその現象を感じたときは、驚いたなどという生易しいものではなかった。驚きよりも恐怖と混乱だった。信じがたい肉体の現象に直面し、私はどうしてよいかわからなくなった。  本来なら、真っ先に妻に相談すべき問題かもしれない。だが、敦子にはとても話せたものではなかった。敦子は生真面目で、ほんとうに妻としてよくできた女性だが、常軌を逸した事態に対応できる想像力と、恐怖に耐える精神力があるかどうかは疑問だった。こんな話をいきなり打ち明けたら、どれほど取り乱すかわからない。  むしろ、大学時代から一貫して、生体電磁波という未開拓の領域の研究に取り組んでいる娘のほうが、相談相手としては適切かもしれないという気がした。なぜなら、以前真美が「電磁波の照射によって、人間を超越した人間を生み出す可能性」という突拍子もない発想を、熱く語り出したことがあったからだった。  しかし、そんなテーマを研究する真美であっても、実際に起きている父親の異変を聞いたら平静ではいられまい。そこで私は、あくまで一般論として、こんな現象が女性ではなく男性の身体に起きる可能性があるかどうかを真美にきいてみた。まるで他人事のように。  すると真美は、実際に私の知人にそういう症状を起こした者がいると早とちりしたようで、だったら、お医者さんよりも私の先生に相談をしたほうがいい、と言った。真美の恩師・清水武信教授に、だ≫  そこの部分は、まるでのちに敦子が読むことを想定したような解説になっていた。 (パパは妻の私よりも、娘の真美に先に相談した? 四年も前に?)  敦子は、こんどは自分が重要な問題から置き去りにされていたショックを覚えた。だが、このあとにつづく記述の衝撃に較べれば、まだそれは軽いものだった。 ≪私は清水教授と会ったとき、まず最初に約束をしてもらった。娘には、あくまで他人の話として打ち明けたが、じつは私自身の問題であり、そのことは真美にはぜひ内密にしておいてもらいたい、と。  その条件を了承してもらったうえで、私は自分の身体を調べてもらった。  結果を告げるときの清水教授の表情といったら、深刻そのものだった。教授はまずBIBについて解説したのち、こう言った。 「コンピューター映像の分析から推測するに、神保さんの体内に息づいている生命体は、ベイビーという概念では捉《とら》えられないほど、きわめて高度な知能を発達させていることが想像されます。そして、その表情はあなた自身よりも老けてみえるほど年輪を刻んでいます。しみだらけの老人の顔を想像してもらえばいいでしょう。その一方で、全体的な骨格は胎児でありながら、筋肉や心肺機能は格別の発達を遂げており、小さな身体を自在に動かす能力は、人間というよりも俊敏な小動物並みかもしれません。  そうなんです、神保さん、あなたの抱えているBIBは、人間の胎児ではなく、むしろまったく別の生物に進化していると考えられるのです。その証拠に、あなたのBIBは牙《きば》のような鋭い歯が生えそろっており、それはまるで獰猛な肉食動物を思わせます」  単純な言葉では言い表わせないほどの衝撃を、私は受けた。  顔は老人、身体は胎児、そしてきわめて高度な知能と、小動物のごとき俊敏な運動能力を備え、肉食をイメージさせる獰猛な歯並びをしている——  その姿を想像したら、まるでSF小説に出てきそうな宇宙人ではないか。怪物ではないか。そんな化け物が私の体内に棲《す》んでいるというのか。  そのような告知を下されて、冷静でいるのは無理というものだろう。私は清水教授に食ってかかった。電磁波が専門のあなたが、医者みたいな診断ができるのか、と。  すると教授は答えた。神保さんの興味深いケースには、国立病院の主任教授クラスが立ち会っており、現在の医学界で考えうる最高水準の精密な検査と分析が行なわれたのです、と……。  私の知らぬ間に、そうした研究チームが組まれていたのだ。さらに教授は、こんなことまでつけ加えた。 「縁起でもない話で恐縮ですが、あなたにもしものことがあった場合、当病院に研究のための御献体をお願いしたいと、医師団は申し入れています」  言葉を失った。  真美には内緒で検査はつづいた。  その結果、私の体内に棲んでいるものは、カザフスタン・ケースのような母胎内で起きたシャム双生児型変異ではなく、私自身がどこかの時点で特殊な電磁波を浴びたことにより起きた、「種の変化」である可能性を指摘された。  つまり、当初考えられていたような、ふたごの片割れとして私と同じ年数だけ生きてきた「兄弟」ではなく、それはもっと後天的な段階で、私の体内に発生したものだというのだ。人間が人間を超越した生命体を孕んだ[#「人間を超越した生命体を孕んだ」に傍点]というわけだ。  清水教授は、私に何か心当たりがないかと問い質《ただ》した。  思い当たることはあった。高校三年生の卒業式の日、死ぬためにバイクで出かけた中伊豆の森で遭遇した不思議な現象——あれだ、と思った。  私の話を聞いた清水教授は、まだ具体的なことを何も知らぬ真美を助手に、中伊豆の森一帯の電磁波調査を開始した。その結果、数カ月後に特殊なスポットの存在が判明した。中伊豆だけでなく、富士山麓の青木ヶ原樹海にも同様のスポットが複数存在することが判明した。  皮肉にもその発見は、学者としての清水教授の理性を狂わせることになった。  性別を問わず、人の体内に人間を超越した生物を誕生させる現象が、ある特別な条件下の電磁波照射で起こりうるならば、それを偶発的な現象ではなく、人為的な操作でやろうと教授は考えたのだ。それこそが、人類誕生の秘密を解き明かす、革命的な発見につながる、と信じて。  清水教授は私の身体に巣喰《すく》っている生命体を分析するうちに、人間もまた、類人猿などから、ゆるやかな進化ではなく、唐突な変異によって誕生したのではないか、と推測しはじめた。そして、そのきっかけを与えたのは、太陽の黒点活動や、オゾンホールといった自然の天体現象による電磁波照射であったろう、と。  壮大なスケールの理論革命だった。  自らが立てたその仮説のとりこになり、ひとりの人間としての倫理観を失ってしまうのも、無理からぬところだった。  その仮説の実証をライフワークと定めた清水教授は、めったに人が通らない林道の終点にある、森の中の広大な土地を購入し、そこに世間の目を欺くため、貸別荘を装った平凡な建物を建てた。だが、その地下には、地上に出ている部分の何倍もの広さを持つ巨大な実験施設が作られたのだ。  それらの建設に携わった業者には、もちろん目的が伏せられていた。まさか人類を超えた人類を生み出すための施設とは、口が裂けても言えまい。  完成後、当然、実験のための「モルモット」は用意された。社会から弾き出されて暮らしている人々が、金につられて雇われたのだ。そして、その大半が現在は行方不明になっていることを、私は知っている。  ただし、それは必ずしも実験の失敗を意味してはいない。本体は死んでも、新たな生命体が生み出され、それが独立して生存活動できるところまでいけば、プロジェクトは大成功なのだ。  そして事実、それは成功した。  だが私は、娘の真美がどこまでこの禁断のプロジェクトに関与しているのか、それを知るのが恐ろしくてならなかった。実の娘が、人間から新種を生み出す生体実験に関わっているなど、想像しただけで恐ろしかった。しかし、そのきっかけを作ってしまったのは、ほかでもない、父親である私の責任なのだ。  ことしに入って、真美はとうとう私にたずねてきた。 「パパの中に、何かいるのね」  無言でうなずくよりなかった。真美もそれ以上きかなかった≫  心臓が破裂しそうなほど鼓動が激しくなってきた。できることなら、もう日記を閉じたかった。しかし、敦子にそれはできなかった。  外が猛烈な嵐になっているのを窓枠の唸《うな》りとガラスの揺れで察しながら、敦子は、あと少しになった神保康明最後の記述を読みつづけた。 ≪最近になって清水教授は、発生させた新生物の成長速度を自在にコントロールする手法を編み出した。人間から下等生物まで広く存在する「時計遺伝子」を狂わせることで、新生命体の成長速度と寿命の限界を人為的な支配下に置いたのだ。また、通常の胎児を新生命体に変化させるプログラムも、まだ未成熟ではあるが完成した。  成人の体内に新生命体を発生させたり、人間の胎児をそれに変化させたり、BIB型の二重人格ならぬ二重人間——ロシアのマトリョーシカ人形のような入れ子式[#「入れ子式」に傍点]胎児を作ったり、それらの成長速度を自在に操ったりと、清水教授たちのプロジェクトが手を染めた禁断の人類改造計画は、際限なくその領域を広げていった。それも、おそるべき速度で。  私はあっけにとられた。彼らの技術力にではない。人間とは、かくもあっさりと形を変えてしまえる生き物であったことに、呆然《ぼうぜん》とさせられたのだ。  人間とは、これ以上ほとんど進化しようのない完全に近い存在で、その姿は永久に不変であるかのような神話に囚《とら》われていた私は、驚きの言葉を洩《も》らすことさえ忘れてしまうほどの衝撃を受けた。  いつかの日か、人間は神をも畏《おそ》れぬ所業に出るとは思っていたが、まさか自分自身の異変をきっかけに、こうしたタブーを破る行為が暴走しだすとは、想像もしていなかった。  二十世紀末あたりから、ヒトの遺伝子を操作する倫理的タブーが議論されはじめたが、ほんとうに恐ろしいのは遺伝子操作そのものではなく、それによって新種の生命体を生み出すことにあったのだ。その研究に国際的な制約がかけられたクローン人間などは、清水プロジェクトが生み出す怪物に較べたら可愛いものだった。なぜなら、クローンで生まれた人間は、あくまで人間だからだ。  清水教授は、あるとき私に言った。 「神保さん、過去・現在・未来とは何ですか」  唐突な質問に私が答えられずにいると、教授は自ら答えを言った。 「それは、ひとりの人間の主観によってのみ存在する概念です。壮大な時間の流れを扱う人類の歴史においても、過去・現在・未来は、それを取り扱う人間の主観によって区切られる便宜的な概念でしかありません。たとえばギリシア・ローマ時代の古代哲学者からみれば、私たちは未来人ですが、私たちは自らを現代人と認識し、古代の哲学者のことは過去の人間と捉《とら》えます。  おわかりですかな、神保さん。過去・現在・未来という概念は、すべてはそれを考えるひとりの人間の主観であって、絶対値で定義づけられるものではない。「時が流れる」という表現も、あくまで人間の主観的錯覚で、時計の発明はその錯覚をビジュアル化したものにすぎません。  時は流れではない。川のように流れてはいないのです。だから、時のA地点からB地点へ移動するようなタイムマシンなど、論理的にありえない。  では、時の正体は何か?  それはね、波動ですよ、神保さん。誤解を恐れずに平たく言えば、電気の波です。  私たち人類も、他の生き物も、細胞単位で電位の変化がないと生命を維持できない。その意味では、生物もパソコンと同様、電気で動くのです。電動生物なのです。プラスとマイナス、陰と陽の世界に支配されている存在というわけですよ。そして、その波動のサイクルが『時』であって、それ以外の何ものでもない。  ここまで私のプロジェクトに関わってこられて、理解できてきたでしょう。人の概念がぶち壊されたとき、時の概念も根底から覆るのです」  清水教授の話を聞きながら、私は、あの卒業式の日をきっかけに、完全に断絶してしまった父のことを思い出していた。五十四歳でアルツハイマーを発症し、まもなく百歳になろうとする現在まで、自分が誰であるかをまったく認識せずに生きつづけている父のことを。  私は一切見舞いに訪れていないが、妻の敦子によれば、父はこんなことをつぶやくのだという。 「私は誰でしたかな」 「私はいつ死にましたかな」  幸せだと思った。時の主観から解放された、自由で幸福な姿だと思った。  さて、私に残された「時間」は——この単語を、通常の定義で用いてしまうが——あまり多くない。清水教授から、ショッキングな宣告を受けたからだ。私の中の生命体が、まもなく「出産」をはじめるという。  誰がそんな状況に耐えられるというのだろう。  私は自殺する。自分のためにではなく、家族のために。自分を殺すのではなく、体内に棲息《せいそく》するもうひとつの生命を殺すために。  だから半世紀ぶりに、あそこへ行くつもりだ。そして、こんどこそ首を吊《つ》る。  ただし、その前にやっておくことがある。貸別荘を装った例の施設を破壊することだ。それが私の最後の義務であろう。真美を悪魔の世界から引き戻すためにも。  敦子、許せ。  真美、立ち直れ。  透、頼んだぞ。  いかん、腹が激しく動き出した。急がねば≫  神保康明、最後の日記はそこで終わっていた。  敦子は、日記帳を床に取り落とした。  夫の死が、単純な交通事故死でなかったことが、いまようやくわかった。きっかけは一台の暴走車でも、神保を死に至らしめたのは、その体内で出産のときを待っていた新しい生命体だったのだ。  そしてそれは、恐らく世に出たはずだった。夫の遺体を献体した病院で……。  気がつくと敦子は、食卓の椅子を踏み台にして荷造り用のロープを天井の照明器具に結びつけ、もう一端を自分の首に巻きつけていた。  あとに残す娘や息子や、嫁や孫のことに思いを馳《は》せる余裕はなかった。自分の死に様をイメージすることもなかった。生前の神保が懸念していたとおり、理解の許容範囲を超えた現実を突きつけられ、敦子の思考回路は壊れてしまったのだ。  最後に残された選択肢は、永遠の逃避しかなかった。  敦子は、椅子の上で目を閉じた。  外では十二月の嵐がますます猛威を増している様子が耳に入った。じつはキッチンの窓ガラスが一枚破れているために、風雨の音が一段と大きく聞こえていたのだが、敦子はガラスの割れた音にはまったく気づかなかった。 (さよなら)  心の中でつぶやくと、神保敦子は両足を前に投げ出す恰好《かつこう》で、椅子を蹴《け》った。 「敦子!」  宙に浮いた瞬間、敦子は自分を呼ぶ声を聞いた。 (パパ?)  間違いない。夫の声だった。 (パパなのね!)  なぜ、死んだはずの神保の声が耳に届いたのか、わからなかった。天国からの呼び声なのだろうか、と思った。  だが—— 「死ぬな!」  もっと大きな叫び声がした。幻聴ではない。現実の音声だった。  そして、そこまで聞こえた瞬間、ものすごい衝撃が首にきた。  黒縁メガネが飛んだ。  足が宙に浮いた。  意識が……消えた。  ぴちゃ。ぺちょ。  敦子の身体の痙攣《けいれん》が収まったとき、その足元の床に投げ出された黒縁メガネを、小さな手で触れるものがいた。手のひらのサイズは、メガネレンズ一枚分にも満たない。 「敦子」  メガネを撫《な》でながら、その生き物は涙声でつぶやいた。 「敦子、なぜ死んだ」  しみだらけの老人の顔をした胎児が、首を吊った敦子の足元に立って泣いていた。 「せっかく会いにきたのに、おれを見る前になぜ死んだ」  その顔は、神保康明が高校三年の卒業式の日に幻想世界で出会った、あの老人の顔そのものだった。 「くそ……許さない。敦子を追い込んだ、あいつらを絶対に許さない」  胎児のサイズしかない頭の中で異様に発達した脳は、ふたりのイメージを思い浮かべていた。湯浅映子と篠原、それにフリーライターの金子の三人だ。彼らの居場所も、すでに察知していた。 「殺してやる。三番目と四番目と五番目の殺人を、一気に済ませてやる」  生き物は牙《きば》をむいた。  そして、侵入するときに割ったガラス窓から、ふたたび嵐の中へ飛び出していった。 [#改ページ]  十二 嵐の夜のシューベルト[#「十二 嵐の夜のシューベルト」はゴシック体]  東京は嵐だったが、中伊豆の山は静かだった。  清水武信と神保真美は林道の終点で車から降り、歩いて貸別荘の入口に到達していた。建物の中で一組の不倫カップルが悲惨な死を遂げていることを、少なくとも真美はまだ知らなかった。清水は承知していたが……。  その貸別荘の地下に備えられた実験装置が不定期に発する、人体や計測機器に甚大な影響を与える強力電磁波は、不倫カップルの死が確認されたあとは止められている。オンにしたままだと、清水や真美たちも無事ではいられないからだった。  その静まり返った貸別荘を取り巻く森の闇の中で、無数の青白い0が燐光《りんこう》を放って浮遊しているのが見えた。それを無言で眺めながら、清水は真美に命じて、車から持ち出してきた大型発光装置をスタンバイさせた。  それは一千兆分の一秒に相当する「一フェムト秒」の、さらに一千分の一となる「アト秒」を単位とする、七十五アト秒という限りなくゼロに近い短時間の閃光《せんこう》を連続的に放つことができる装置だった。  それを発光しながら特殊カメラで撮影すると、原子の運動レベルで物質が移動する様子まで捉《とら》えることができる。言葉を変えれば、ほとんどの電磁波の活動をビジュアル化できる装置でもあった。 「あの光の大群は……」  燐光の群れに目をやりながら、清水が言った。 「特殊な磁場に捉えられた、残留生体電磁波だ。ここよりも樹海のほうがケタはずれに多い燐光が出現するのは、そのエリアで自殺直前の強力な思考電磁波を発した人間が多い証拠とも言えるが、ここもかなりの数だ。いわば死霊の森だよ。そして、この死霊の森のあちこちに、我々の実験室から逃げ出した子供たちが潜んでいる」  子供たち、という表現を平気で使う清水の横顔を、真美は嫌悪感を持ったまなざしで見つめた。  が、その視線に気づくことなく、清水はつづけた。 「だが、どんなに隠れていても、このスーパー・アルゴンレーザーが電磁波の活動を捉えて映し出し、彼らの居場所をあぶり出すことになる。ここにいる子供たちは、私の弟を殺した、きみのお父さんの分身とは異なり、まだ一定のエリアから外に出る勇気を持っていないようだから」 「彼らを見つけたら、どうするんですか」 「もちろん、殺す」  きっぱりとした口調で、清水は言った。 「すでにこのエリアに四体存在する彼らは、今月初めに三人の男女を犠牲にし、これからもここに近づく一般市民の命をおびやかす存在となるだろう。そんな危険きわまりない生物を放置しておくわけにはいかない」 「お言葉ですけれど、先生」  発光装置の準備をしながら、真美が言った。 「大雪の日にここで死んだ三人は、あの生命体に襲われたのではありません。遠隔監視装置でモニターしていた先生が、人がきたのを恰好の実験材料として、電磁波のレベルを急激に上げて……」 「まあ、その話はいい」  同じ遠隔実験を今夜も行なった清水は、その事実は真美に伏せたまま、うるさそうに手を振った。 「とにかく、もう私は反省しているんだ。だから、問題となったこの別荘地下の施設も、夜が明ける前に破壊する」 「父の身体から出たものは、どこへ行ったかわかっているんですか」 「わからん。だが、それもいずれ見つけて殺すさ」 「待ってください」  真美は声を強めた。 「どんな形をしていようと、それは私の父の分身です」 「分身でも、危険な存在であることは間違いない」  清水は即座に言い返した。 「なぜなら、あればかりは私が人為的に生み出したものではないからだ。きみの父親の身体に五十年ほど前から棲《す》みついていて、私には手なずけることのできない存在だ」 「………」 「わかったかね、神保君。きみのお父さんは、交通事故で亡くなったんだ。彼の命はそこで完了した。その後、お父さんの遺体から出てきたものは、まったく別種の生命体であって、決して神保康明氏の分身ではない。……さあ、用意を急ごう」 「でも、殺すって、森のあちこちに隠れているアレを、いったいどういうふうにやって殺すんですか」  真美は疑問を呈した。 「先生は銃か何かをお持ちなんですか」 「いや」 「火炎放射器とか」 「そんなものを使ったら、大変な山火事になるよ」 「じゃ、どうやって」 「まかせておきなさい」  青白い0の光が、夏の蛍のように闇を飛び交う光景を見回しながら、清水武信は得意の聖書の引用をはじめた。 「ルカによる福音書二十一章三十一節にいわく、『あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい』」 「どういう意味ですか」 「つまりそれは……」  と、言葉をつづけようとしたとき、突然、清水教授は「ぐわっ」と潰《つぶ》れた悲鳴を上げ、顔を両手で覆いながら、その場にうずくまった。  真美がスタンバイしていた強力なアルゴンレーザーの青い光が、彼の右目を射貫いたのだ。 「なにをするんだ!」 「ミスではありません。わざとです」  真美は平然と言った。 「わざと、だと?」  地面にひざまずき、激痛の走る右目を押さえ、もう一方の目も開けられぬまま、清水は見えない相手に向かってわめいた。 「神保君、それはいったいどういう意味だ」 「先生が、いまからやろうとすることがわかったので、こうするよりなかったんです」 「いまからやろうとすること? 子供たちの始末じゃないか。罪のない人々の命をおびやかす、電磁波研究の鬼っ子を処分しようと説明したばかりじゃないか。きみはそれを妨害するつもりなのか」 「いいえ」  相手を見下ろして、真美は言った。 「嘘をついたってわかります。先生は父の身体に起きた現象を知った瞬間から、人類の新種誕生を自らの手で実現させることを夢みられたんです。いままでの生体電磁波研究から、大きな一歩を踏み出して」 「それで?」 「そして先生は、それをライフワークとして、後半生のすべてを懸けられました」 「だから?」 「だから、その研究課題をあっさり捨てるはずがないんです。罪のない人々の命をおびやかしてはいけない、というようなモラルをお持ちなら、そもそもあんな残酷な人体実験をするはずがありません」 「………」 「変わりましたよね、先生」  震える声で、真美は恩師を咎《とが》めた。 「うちの父を診察されてから、別人になったみたいに変わりましたよね。私が学生のころに師事していた先生は、どんなに科学的に重要な研究も、決して人間の尊厳を貶《おとし》めるものであってはならないと口を酸っぱくして繰り返されていらっしゃったのに、いまは新しい種を作り上げるためには、人の命をなんとも思わない人間になってしまった。そして、電磁波マジックで人間をおもちゃにする喜びに没頭するようになった。……そんなのって、私が知ってる清水先生じゃありません」 「………」 「人間を改造することって、そんなに大切なことですか。人間が人間を卒業するってこと、それほど未来に役立つことなんですか。なぜ人間がこのままでいてはいけないんですか」  真美は涙声になっていた。 「いまだから言います。うちの弟、それから弟の奥さんになったルイちゃん、ふたりとも特別な才能を持っています。私、そのことを先生に話しそうになったことが何度もあったんですけど、ふたりを先生のおもちゃにされそうで黙っていたんです。まだ先生に対する尊敬と信頼を失っていなかったときでしたけど。……でも、ほんとに黙っていてよかったと思います」 「神保君、きみは何を勘違いしているんだ」 「言い訳は要りません。私だって、弟やルイちゃんほどではないけれど、人一倍敏感なんです。先生の殺意を感じないほど鈍感じゃありません。それに、先生ならわかっているはずです。この森のどこかに隠れているあの怪物たちを探し出すことは容易ではないし、もしも本気で彼らを殺すつもりなら、それなりの戦闘態勢を取るはずです。彼らの危険性は、先生がいちばんごぞんじなんですから。でも、そうした準備は何もなしにきた。先生が殺そうと企《たくら》んでいるのは、彼らではなく、私だったからです」 「何のために、きみを殺す必要がある」 「人類改造の秘密プロジェクトを知っているからです。とくに警察が三人の事件で動き出してからは、私が、人間の倫理観にもとる実験を世の中に告発するおそれがあると警戒しはじめたからです」 「………」 「理由はまだあります。先生は、私が憎いんです」 「なぜ」 「弟さんを殺したのが、私の父だからです。あの生き物と父は別個の存在だと口ではおっしゃっているけれど、本心ではそうは思っていない。弟を神保康明に殺されたと思っている。そして、その娘の私にも憎悪を抱いた」 「悪いか」  レーザーで灼《や》かれた眼球から薄赤い涙を流しながら、ついに清水は開き直った。 「おまえのオヤジを憎んで悪いか。おまえを憎んで悪いか」 「やっぱり、そうだったんですね」 「いったい、これまでおまえに、どれだけ多くのことを教えてきたと思ってるんだ。おまえはどこまでも忠実な助手だと信じていたからこそ、ずっとそばに置いてきたんだ。それがいまになって、この裏切りか」 「先生、私、小さなころからキリンが好きだったんです」 「………」  急に真美の話題がそれたので、清水は黙った。 「親はそのことに何の疑問も抱いていませんでしたし、私自身も、ごくあたりまえの子供としての興味だと思っていました。けれども、大人になってもキリンの魅力から離れられない自分に気がつき、いったいどうしてなんだろうと考えました。そして、わかったんです。あの五メートルあまりに達する首の異常な長さが、私を捉《とら》えて放さなかったんです」 「何が言いたいんだ」 「高いところにある木の葉を食べるために長さいっぱいに首を伸ばしたところから、地面の水を飲むために一気に頭を下げていく。その高低差五メートルに及ぶ頭の動きを考えてみてください。まるでジェットコースターに乗っているようなものだと思いませんか。もしも自分の首の長さがあれだけあったら、どんなに楽しいだろう——小さいころの私は、そう考えてキリンさんが好きになったんです」  無意識のうちに、真美は童女のようにキリンに「さん」をつけていた。 「そして私は、なんとかして自分の首がキリンぐらいに伸びないだろうかと、いつもアゴを引っぱっていました。そういう女の子だったんです。私は私で、幼いころから人間改造の夢を追いかけていたところがあったんです。だからこそ、先生が禁断の領域に踏み出したときも、正直なところ、最初は抵抗感よりも好奇心による興奮のほうが強かった。そして、恐ろしい人体実験がはじまっても逃げませんでした。……でも、もうだめです。父が死んだのも、神様の天罰だという気がしてならなくて」 「それで、私をどうしようというんだ」 「こうします」  真美は、さっきから足元にこぶし大のとがった岩が落ちているのを目に留めていたが、かがんでそれを拾い上げると、いきなり清水教授の頭に叩《たた》きつけた。  ぐわっ、という叫びとともに、額が割れた。 「先生に教えていただいた貴重な哲学に感謝します」  清水の血が付いた岩を握り直し、真美は言った。 「時間は流れていない、という哲学を……。人間はつねに現在しか生きられない。過去と未来は実在しない虚像であり、過去と現在と未来をつなぐ時計は、ないものをあるように見せかけるトリックの道具にすぎない。……ありがとうございます」  皮肉ではなく、心から真美は礼を言った。 「だから私は『過ぎ去った現在』を引きずることはしません。十分後には、もう存在しない幻となるこの時間を、いつまでも心の重しとして持ち歩くつもりはありません」  真美は、第二撃を清水のこめかみにふり下ろした。  そして、第三、第四、第五の攻撃をつづけた。 「えいっ、えいっ、えいっ!」  いつのまにか、真美は声を出していた。 「死ねっ、死ねっ、死ねっ!」  すでに抵抗できなくなっている清水を、なおも真美は殴打しつづけた。 「えいっ、えいっ、えいっ。死ねっ、死ねっ、死ねっ!」  幼いころ、どこかで同じような声を発しながら、思いきりハンマーをふり下ろしたことがあるような気がした。  だが、真美は細かいことは気にしなかった。過去は存在しないし、いまの瞬間も過去になったとたん、幻になるのだから。 「えいっ、えいっ、えいっ。死ねっ、死ねっ、死ねっ!」  森の闇に浮かんでいる青白い光の輪が揺れた。真美が発信する極度に強いパルスの電磁波に感応して、0の群れが踊るようにあちこちで揺れだした。  やがて、禁断のエリアで生み出された四体の新種生物が、隠れていた場所から這《は》い出してきた。そして、真美のやることをじっと見守っていた。  一時間後——  神保真美は、清水教授の遺体を脇に放置したまま、彼の血液で真っ赤に染まった岩を使い、意味もなく地面を掘っていた。  だが、彼女の目には、手にした血染めの岩が、金魚の絵が付いたスコップに見えていた。 「ねえ、パパー」  三十一歳の真美が、三歳の声を出した。 「ねえ、パッパー。はっくつ[#「はっくつ」に傍点]してー。ねえ、ねえ、マミちゃんに、いいもん、はやくみせてえー」  神保真美は時間の認識を失って、過去の世界にいた。清水理論によれば、存在しないはずの過去の世界に……。  そして、スコップに見立てた岩で、地面を引っ掻《か》きつづけていた。 「はっくちゅん」  可愛らしい声で、真美はくしゃみをした。  伊豆の森は、クリスマスらしい寒さになってきた。       * * *  この季節の午前五時は、まだ真っ暗である。その暗闇の中を、嵐が暴れ回っている。東京の悪天候は、まったく変わっていなかった。  神保ルイは、徐々に不安になってきた。透がまだ帰ってこないことに。  そして、めったにしないことだったが、帰宅時刻を確かめるために彼の携帯電話に連絡を入れてみた。 「もしもし」  ひょっとしたら応答がないのでは、と思っていたら、すぐに透の声が出た。  しかし、第一声は異様に暗かった。怒っているのかと思って、ルイは気になった。 「あ、透。ごめんね、仕事中にかけて」 「ああ、だいじょうぶだよ」  やはり、透の声は暗い。 「あのね、私……怖い夢を二回もみて、起きちゃったの。そしたら、外はものすごい嵐でしょう。だから、なんだか眠れなくなって」 「ああ」 「でも、あと一時間ぐらいしたら、少しは明るくなってくるよね」 「ああ」 「そうなったら安心なんだけど、なんだかいま、とっても落ち着かない気分で」 「ああ」 「………」  何をしゃべりかけても生返事しか戻ってこないので、ルイの不安が急速にふくれあがった。 「ねえ、いま、会社?」 「そうだよ」 「まだ、仕事かかりそう?」 「うん。分解作業が大変でね」 「分解?」 「そう」 「何の?」 「まあ、機械みたいなもんかな」  そこで透は、フッと笑いのようなものを洩《も》らした。 「それをパパといっしょにやってる」 「え」 「………」 「いま、透、なんて言ったの」 「ん?」 「パパと、って言わなかった?」 「言わないよ」  透は、また不機嫌な声になった。  パパ、と聞こえたのは間違いなかったが、ルイは透の機嫌が異様に悪いことに怯《おび》え、それ以上の追及はやめた。 「じゃ、電話、切るね。仕事中に、ごめんなさい」 「うん」  最後まで透はそっけなかった。  携帯を切ったあと、ルイの目から涙がこぼれだした。わけもなく不安で、わけもなく恐ろしく、わけもなく悲しかった。  窓に波打つようなリズムで叩きつけてくる雨と風の音を聞きながら、ルイはお腹をさすりさすり、子守唄《こもりうた》を歌い出した。  ねむれ ねむれ 母の胸に  ねむれ ねむれ 母の手に  こころよき 歌声に  むすばずや 楽しゆめ  ねむれ ねむれ 母の胸に  ねむれ ねむれ 母の手に  あたたかき その袖《そで》に  つつまれて ねむれよや  シューベルトの子守唄だった。  それに子宮の子供が反応して、足でルイの腹を裏側から蹴《け》った。  痛かったが、うれしかった。いまのルイにとって、腹の中の赤ちゃんだけが、自分の味方であるような気がした。  そして、歌いつづけた。  ねむれねむれ かわいいわが子  一夜《ひとよ》 寝《い》ねて さめてみよ  くれないの ばらの花  開くぞよ まくらべに  ねむれ ねむれ かわいいわが子  一夜 寝ねて さめてみよ  かおりよき 百合《ゆり》の花  におうぞや ゆりかごに  お腹の子が、元気にルイを蹴りつづけた。  赤ん坊の存在を、これほどはっきりと確かめられたのは初めてだった。ルイの涙が止まらなくなり、歌声が途切れ途切れになった。  幸せの涙なのか、不安の涙なのか、その区別は、ルイにつけることはできなかった。 [#地付き]※シューベルトの子守唄(訳詞・内藤濯) 角川ホラー文庫『時計』平成17年1月10日初版発行