[#表紙(表紙.jpg)] 新装版 南太平洋殺人事件 吉村達也 目 次  序 曲——一九七七年 タヒチ  第一章——一九八七年 八丈島    ㈵ 魅惑の宵    ㈼ おいしいパン    ㈽ ブラディ・メリー    ㈿ やぶにらみの楽天家  幕《まく》 間《あい》  第二章——一九八七年 タヒチ    ㈸ ハッピー・トーク    � バリ・ハイ    � あの人を忘れたい    � 二人の独白  フィナーレ  自作解説 *本作品は作者初期の作品です。背景の理解のために自作解説から先に読むことをおすすめします。 [#改ページ]  登場人物 大谷浩吉…………………………WRC《ワールド・リゾートクラブ》会長 大谷 誠…………………………浩吉の息子。WRC社長 大谷芽里…………………………誠の妻。副島努の姉 副島 努…………………………WRC常務 副島 悦…………………………芽里、努の祖母 伊藤次郎…………………………『週刊芸能』編集長 沢田明梨…………………………   同  編集記者 久米………………………………WRC広報部長 山崎……………………………… 同 総務部長 田村麻美………………………… 同 社長秘書 小田………………………………チンピラ 健太………………………………チンピラ 財津大三郎………………………警視庁捜査一課警部 フレデリック・ニューマン……   同   刑事 烏丸ひろみ………………………   同   刑事 源 朝三…………………………八丈署警部 [#改ページ]   序 曲——一九七七年 タヒチ 「わあ、きれいな海」  沢田明梨《さわだめり》は思わず大きな声を出した。  目の前の海はエメラルドグリーンからアクアマリンへ、アクアマリンからインディゴブルーへと見事なグラデーションを見せている。  南太平洋の空と海が、はるか彼方で一つになっていた。 (伊藤さんも部屋なんかで寝ていないで、私と一緒にくればよかったのに)  明梨は島のバンガローで惰眠《だみん》をむさぼっているはずの編集長の伊藤次郎《いとうじろう》のことを、チラと頭の片隅に思い浮かべた。 (まあいいわ。彼が一緒だったらこんな格好はできないし)  明梨は、海水をころころと弾《はじ》いて光っているむき出しのバストに目をやった。  そこだけが陽《ひ》に焼けておらず真っ白で、Fカップのボリュームをさらに強調していた。  彼女はピンク色の双胴型《カタマラン》ヨットを岸辺から押し出し、海が膝《ひざ》までの深さになったところでそれに乗り移った。  珊瑚《さんご》で足を切らないようにはいていたゴム草履《ぞうり》を船底に投げ捨てると、身につけているものは真っ赤なビキニのパンティ、それに首から下げた水中メガネだけだった。  浅いところでは、海は白に近いグリーンだった。透明度は抜群だ。海をのぞきこむと、熱帯魚の群れがヨットの進入に驚いて、極彩色のダンスを踊って逃げていく。  波頭のつくる光模様が海の底に映って、波の満ち引きにあわせてゆらゆらと往復運動を繰り返していた。  珊瑚礁《ラグーン》に囲まれた海は、あくまで穏やかであった。  明梨は、後にしたばかりの島をふりかえった。  ボラボラ島——タヒチ本島からさらに赤道へ二百五十キロ近づいた、世界でもっとも美しい礁湖《ラグーン》に囲まれた島である。  タヒチに�最後の楽園�という形容がまだ許されるとしたら、それはこのボラボラ島をおいて他には考えられなかった。映画『チコと鮫《さめ》』の舞台にもなった島だ。  この島に近代文明に毒された雑音はない。光と風と空と海が、耳にはきこえないが肌で感じられる楽園のハーモニーを奏《かな》でている。  明梨は珊瑚礁の浅瀬に乗り上げぬよう、慎重にヨットをすすめた。幸い風は穏やかで初心者の彼女でも容易に進路を思う方向へすすめることができた。  後方にボラボラ島で彼らが宿をとっているホテル・ノアノアの水上バンガローが見える。  前方には小さな無人島モトゥ・タプ。これが彼女の目的地だった。  十分たらずのクルージングで、明梨は無人島の白い岸辺にカタマランを乗り上げた。  昨夜のピクニック・パーティの残骸《ざんがい》がヤシの木の根元にまとめて片付けられてあった。バーベキューの燃えくず、トロピカル・ドリンクを入れるために中身をくりぬかれたパイナップルの実、飾りに使われたティアレ・タヒチの花びら——。  沢田明梨と伊藤次郎は東京にある雑誌社につとめている。南太平洋のガイドブックをムック版でつくる企画があって、タヒチ、フィジー、サモアなどの島々の取材に二人で出かけることになり、その第一目的地がタヒチだった。  二人だけで取材に出すのは危ないという説が社内のあちこちで起こっていた。�危ない�という意味は、二十九歳の男と二十歳になったばかりの女の子をたった二人で長期海外取材にやってよいのか、あやまちが起きるのではないか、ということである。  とくに沢田明梨はキュートな顔だちの上に、日本人ばなれしたグラマーな肢体《したい》を持っていたから、その心配はなおさらだった。  明梨はそんな外野席の声をききながら、伊藤さんとだったらマチガイが起こってもいいな、と思っていた。  伊藤はいつも陽焼けした逞《たくま》しい身体《からだ》に、理知的なマスクを備えていた。頭も切れるし人当たりもよい。女性にモテすぎるのが玉にキズだったが、モテる男のほうが女性から無視される男より何百倍もよいに決まっている。  正直言って、沢田明梨としてはこの南太平洋の島々を取材する間に、伊藤に——古い表現で言うなら——すべてをあげてしまう機会を窺《うかが》っていたのである。  ところが皮肉な偶然が起きた。  ボラボラ島で、伊藤は昔の恋人に出会ってしまったのだ。さらに運命のいたずらがあった。相手の名前が自分と同じ『メリ』だった。ただし字だけは違っていた。  副島芽里《そえじまめり》——というのがその女の名前だった。  このモトゥ・タプ島をピクニックの残骸で荒らしたのは、彼女を含む日本人の一団と現地の実力者たちである。  日本人の一団は、ワールド・リゾートクラブと称するリゾート地建設企業の役員とその家族たちで、現地人はそれを迎える関係者だった。  なんでも、ボラボラ島に日本資本によるリゾートホテルとレジャー施設をつくる話らしい。伊藤次郎の昔の恋人は、その企業の社長の息子と婚約していた。  伊藤がギラギラと輝く太陽の下に出ず、部屋に閉じこもったままなのも、もと恋人の婚約話をきいてヤケ酒を飲んだためである。 (あんな子のことなんか忘れちゃえばいいのよ。だいいち神経質で暗そうな顔してるじゃない)  明梨はほぼ自分と同じ年ごろの、しかも同じ読み方の名前を持つ女に激しい嫉妬心《しつとしん》を燃やしていた。 (まあいいや。きょうはせっかくのオフだから、そんなことは忘れて思いきり泳ごう)  明梨はモトゥ・タプ島の反対側まで歩いて回ると、静かなエメラルドグリーンの海へ泳ぎ出した。  かなり沖まで泳いでもラグーンの中は静かである。  ときどき明梨はあおむけに浮かんで、南太平洋の陽光を思う存分浴びた。ぬるんだ水が耳もとで透明な音を立てていた。  どれくらい泳いだだろうか。そろそろ岸へ戻ろうと平泳ぎの体勢に入った時、明梨は身体が凍りつくような光景を見た。  彼女と無人島との距離は約二百メートル。その中間地点に異変があった。鮫《さめ》の背びれが円を描いて回っていた。その数は二つ。  ラグーン内には鮫は侵入してこないと言われるが、モトゥ・タプ島の外側を囲む環礁《かんしよう》には切れ目があって、そこから外洋を泳ぐ鮫が入ってくることがある。  明梨は不気味な背びれの円運動を見つめていたが、意を決して水中メガネをかけると、その方角へむかって泳ぎ出した。  ヨットは初心者だがダイビングには自信があった。南の海に潜《もぐ》った回数は優に五十回は超えていた。父親の趣味がダイビングだったから、小さいころから潜ることは得意中の得意だった。  その間に鮫と遭遇したことも何度かあった。一定距離をおいて無用な刺激さえさければ、一方的な攻撃を受けることは思ったよりない。  しかし、彼女の前方で円運動をつづける鮫はひどく興奮していた。いつのまにか背びれの数も五つに増えている。  両手をひとかきして水面下に潜ってみた。  まわりを泳いでいたコバルト色の小魚が、群れを二つに割って去っていった。  正面から近づいてきた黄色い熱帯魚たちは、目の前で素早いUターンを見せて、もときた方向へ逃げていく。  水中メガネ越しに明梨は目をこらしてみた。  遠くでホオジロザメの群れが水中の何か[#「何か」に傍点]をめぐって狂ったように舞っていた。それがブルーグレーのシルエットとして見える。  彼女は慎重に接近した。いったん水面に浮上して鮫との正確な距離を測ってから、息を思いきり吸いこんでまた潜った。  鮫は全部で七匹。意外な多さに彼女は緊張した。  水面下三メートルのところに、ちょうど人ひとり入りこめる珊瑚礁《ラグーン》の凹《くぼ》みがあったので、明梨はそこに身をひそめてしばらくの間、前方の鮫の動きを観察することにした。  一匹の鮫が何かを喰いちぎった。  肉片が水中に散った。  凶暴な歯をむき出しにしたホオジロザメが、グレーの目で明梨を睨《にら》んだ。それは錯覚かもしれなかったが、明梨は思わず珊瑚礁のシェルターにぴったりと身を隠した。  乳房が珊瑚《さんご》とこすれて赤くなった。隠れようとした拍子に、右腕も珊瑚で傷ついた。あわてて明梨は出血の有無をたしかめた。血の匂《にお》いをかぎつけられたらアウトだ。  幸い、血は出ていない。  その鮫は群れから離れ、勝ち誇ったように明梨の方へ泳いできた。透明度の高い昼間の海中で、至近距離に見る鮫の迫力はすごいものがある。  息を詰めて見守る明梨のわずか五メートル前を、鮫はゆうゆうと横切っていった。  通りすぎる瞬間、その歯に黄色いアロハシャツがひっかかっているのを見た時、明梨は恐怖で目を見開いた。 (人間を食べている!)  心臓の鼓動が耳もとで鳴り出した。 (ボラボラ島へ戻ってみんなに知らせなくちゃ)  呼吸を止めているのも限度にきた。  残り六匹のホオジロザメはまだ同じところで�餌《えさ》�を喰《く》いあさっている。獲物に喰らいつくとき、鮫は自分の眼球を守るために白目をむく。それが強烈に不気味だった。  とにかく遠回りをしてでも島に戻った方が安全だ。いつまでもこのへんをウロウロしていては、血の味を覚えた鮫の第二の標的になる。  水面へ浮上しようとして、無意識に彼女は手を上げた。その手に何かが触れた。思わず上を見た。  一瞬、別のダイバーが彼女にむかって手を差しのべてきたのかと思った。  それは、銀の指輪をはめた毛深い男の手だった。  だが、手首より上がなかった。  それは人間ではなく、ただの手首[#「ただの手首」に傍点]だった。  明梨は目をむいてそれを振り払おうとした。  しかし、それは水中でゆらりと回転すると、彼女の方に近づいてきた。 (いやー)  明梨は暴れた。  蒼白《あおじろ》い男の手首が彼女のまわりで生きているように動き、はずみでその指先が彼女の乳首に触れた。 (助けて)  明梨は水を飲み、錯乱状態で水面に浮かび上がった。  水を吐き出し、息を吸いこむと明梨は大声で叫んだ。 「たすけてー」  だが、その叫びを聞いていたのは、南太平洋の上空高く輝いている白い太陽だけだった。 「たすけてー」  何度も叫ぶ明梨の前方で、黒い背びれがぐるぐると輪になって回りつづけていた。 [#改ページ]   第一章——一九八七年 八丈島   ㈵ 魅惑の宵      1 「えー、こういう晴れがましい席で、当人の父親が乾杯の音頭をとるというのも妙なものでございますが、父親の立場でなくワールド・リゾートクラブ代表取締役会長の立場でマイクの前に立つのならおかしくはなかろうと役員たちにそそのかされまして」  笑いのさざめきが屋外に設けられたパーティ会場に伝わった。生温《なまぬる》い夏の夜だが、星の数はあまり多くない。 「とりあえず息子の——いや、もとい。大谷誠《おおたにまこと》新社長就任パーティの乾杯の音頭をとらせていただく次第でございます」  その言葉で、中央ステージの脇《わき》に立つ三十半ばの、長身だが神経質そうな男に一同の視線が集まった。  誠と呼ばれた新社長は胸につけた大輪のバラをいじって、まばたきをひんぱんに繰り返した。 「先々月、ちょうどいまから二カ月前にあたる五月十一日にこの�ワールド・リゾートクラブ八丈島�がオープンいたしました。  当クラブの開設にあたりまして陣頭指揮をとりましたのが、当時副社長の大谷誠でございました。そして、先頃の株主総会で五十嵐《いがらし》前社長の勇退を決め、誠の社長就任が決まりましたとき、じゃあその就任記念パーティは、彼にとっても思い出の地である八丈島でやろうじゃないかと役員会で会長より提案がありまして——いや、会長というのは私でございますが」  また笑いの渦《うず》が巻き起こった。  その半分は取り巻きによるお追従《ついしよう》の笑いである。 「皆様には遠路はるばる東京より——この八丈島も東京都ですから、そういう言い方をしては怒られるんですが——まあ、わざわざ羽田からチャーター機にお乗りいただいて当地までお越し願った次第でございます。  あ、どうぞ皆様、乾杯の挨拶《あいさつ》としてはちょっと長めになるかもしれませんので、シャンパンのグラスはテーブルにお置き下さいませ。気が抜けないうちに終わらせるつもりでございますので」  ユーモア口調で言っているが、実際には、おれの話は長くなるから、みんなゆっくり聞けという命令である。  会場がちょっとざわついて、ボーイたちの注《つ》いでくれたシャンパングラスをめいめいがテーブルの上に置いた。  |WRC《ワールド・リゾートクラブ》八丈島のメイン・ガーデンに設けられたパーティ会場は特設ライトで真昼のように明るく照らし出され、ブーゲンビリアやハイビスカスの花に飾られたトロピカル・ドリンクが彩《いろど》り鮮やかにテーブルに並べられていた。  会場のまわりを亜熱帯樹のシルエットが取り囲み、そのむこうは海——太平洋の海鳴りが轟《とどろ》いていた。  パーティがはじまった頃から風は次第に強くなり、波も高かった。  突風が吹くたびに女性は髪をおさえ、スカートをおさえ、ボーイたちは飛び散った紙ナプキンを拾いに歩いた。  夜風は強かったが夏である。どんなに激しく吹いても寒さを感じることはなかった。  WRC代表取締役会長の大谷|浩吉《こうきち》はシャンパングラスを両手に抱いて、居並ぶ二百五十人——チャーターというのは言葉のはずみで真実ではなかったが、定期フライト三便分にわけてジェット機で運んできた招待客の顔を眺め回して挨拶をつづけた。 「さて、ワールド・リゾートクラブは皆様もご承知の通り、その名に違《たが》うことなく、日本資本のリゾートクラブとしては他に類を見ない海外展開を行なってまいりました。  これまでにオープンいたしました海外のWRCは、近くはグアム、サイパン、ロタ、韓国の済州《チエジユ》島より、遠くは地球の真裏にあたるブラジル、リオ・デ・ジャネイロ沖合のイル・グランデまで、その数は二十七にものぼります。  そして、このたび我々は海外二十八番目のリゾート地建設に着手いたしました。それが大谷誠新社長の初仕事になります、ワールド・リゾートクラブ・ボラボラでございます。  ボラボラというと、それはどこにあるんだとおたずねの方もあろうかと思います。大ざっぱに言いますと、赤道をはさんでハワイと対称的な位置にソシエテ諸島というのがございます。オーストラリアからずーっと東に延ばした線と、ハワイから斜め右下に延ばした線の交差する南太平洋にあるのがこのソシエテ諸島。中でもゴーギャンで有名なのがタヒチ島で、そこから飛行機で一時間ほど飛んだところにボラボラ島がございます。  タヒチというと、なんだあそこかと皆様も納得なさいますでしょう。タヒチ本島のちょっと先にあるモーレア島は、有名なミュージカル『南太平洋』でバリ・ハイとして舞台になった島ですし、ボラボラ島は『チコと鮫』『ハリケーン』などのロケに使われました」  大谷浩吉はパーティに招いた客の中に、映画・テレビ関係者や俳優なども多数いることを意識したスピーチをした。  五十六歳にしては白髪《しらが》の多さが目立ったが、彼はこれを銀髪と呼んで自慢にしていた。  それをこざっぱりとスポーツ刈りにし、陽焼けした顔に銀縁の眼鏡をかけると、リゾートクラブの会長というより引退したプロゴルファーといった感じであった。  彼は早くに妻に先立たれていたが、そのような不幸な影はみじんも感じさせなかった。 「このボラボラ島へのリゾート建設は、私どもWRCにとっては悲願というべきものなのでございます。じつは十年前……」  大谷は急に言葉を強めた。 「私どもは海外三番目のリゾートクラブとして、ボラボラにWRCをオープンすべく休暇を兼ねまして二家族七人で当地へ視察旅行に出かけました。  二家族と申しますうちの一つは、我が大谷家で、私と社長の誠の親子二人。もう一つは、ここにおる常務取締役|副島努《そえじまつとむ》の一家でした」  大谷誠新社長の隣りに控える副島努は、そうした紹介さえなければ役員とは誰も思わないだろう。  とにかく若い。二十七歳の目のギラギラした男だった。夏|風邪《かぜ》でもひいたのか、しきりに鼻をすすっている。 「努君の父親副島|新吾《しんご》君は、当時社長だった私の片腕となり、専務取締役としてたいへんな働きぶりを示してくれました。私と年が近いということもあって、公私にわたるよき相談相手でもありました。  WRCボラボラ完成の暁《あかつき》には、これが軌道に乗るまで副島君に総支配人を兼務してもらおうと、こう思っておったわけでございます。  家族思いの彼のことですから、当然ご家族も一緒に住まわれた方がよいだろうと、一家の方にも現地を見ていただくために長旅をお願いいたしました。  副島新吾専務、その奥様の道子さん、当時高校二年生の努君、私の息子——新社長の誠と婚約中で女子大生だった芽里《めり》君、それに専務のお母様できょうもここにお見えの悦《えつ》様の五人でした」  最前列のテーブル——貴賓席《きひんせき》の一つに今年七十歳になる副島悦が和服の正装で座っていた。  背筋を正して会長のスピーチにきき入っている眼差《まなざ》しは、どこか鋭いものがあった。  その隣には、いまは大谷誠夫人となった副島努の姉芽里が、ブルーのロングドレス姿で控えていた。  色白でひ弱な印象の女性だった。まだ三十一歳で夫との間には子供もなかったが、実際の年齢より老《ふ》けて見られることが多かった。めでたいパーティの席——それも夫の社長就任祝いの席なのに、芽里はほとんど笑顔らしいものを見せることがなかった。 「七人でボラボラ島をくまなく視察し、まさに地上の楽園、リゾート地として文句のつけようがない場所だと感銘を受け、ボラボラ島から目と鼻の先の無人島で現地スタッフと将来を誓い合った懇親パーティを催したのですが、その翌日に……」  ここで大谷会長は言葉を切った。  私語を交わしながら会長のスピーチをきいていた客たちは、自らの声の大きさに気づき、ピタッと喋《しやべ》りを止めた。  強い風に木々が揺れる、そのざわめきだけがパーティ会場を支配した。  二百五十人の出席者全員の視線が自分に集まったことを確認して、大谷浩吉は言葉をつづけた。 「副島新吾君は不慮の死を遂《と》げました」  一瞬の沈黙の後、こんどは急に会場がざわついた。こんなおめでたい席で、会長は何ということを言うのだ、というささやきも聞こえた。 「あれだけ慎重だった男が、リゾート地建設の決定に浮かれてしまったとしか思えません。その日の夜、無人島の海へ一人で泳ぎに出た彼は、翌日、水死体となって発見されました。いえ、正確には亡骸《なきがら》もほとんど見つかりませんでした。身体のごく一部を残して鮫《さめ》の犠牲になっておられたのです」  何人かの婦人が驚きの声を洩《も》らした。 「それは、ここにおられる副島家の皆さんはもちろん、私にとっても息子の誠にとっても言葉に言い表せないほどショッキングな出来事でございました。……当然、WRCボラボラの建設は立ち消えになりました。とてもではありませんが、計画を続行するだけの気力が私には残っておりませんでした。  半年後、ご主人を亡くされた心労から、奥様の道子さんも後を追うように心不全で亡くなられました。  しかし、あれからちょうど十年の月日が流れました。当時十七歳の高校生だった努君はこのように立派に成長し、当社の常務取締役という大任をこなしております。  姉さんの芽里君も私の息子と結婚し、幸せな家庭を築いておるようです。二人の間にはまだ子供はありませんが、私も早くおじいちゃんと呼ばれる身になって、孫の顔を見ながらの隠居生活を送りたいものだと思っております」  浩吉会長は笑顔をつくったが、客の方はそこまで気持ちの切り換えができていなかった。  白けた間《ま》が流れた。  だが、大谷浩吉は気にとめる様子もなく話をつづけた。 「大谷家と副島家は、若い世代によって一つの家族としてのつながりを持ちました。そして、そのリーダー役として皆をひっぱっていく立場になった誠に、社長就任の内示をいたしました時に質問をしました。おまえ、社長としての初仕事として何をやりたい、と。そうしましたら、誠は即座に返事をいたしました。 �会長、私にワールド・リゾートクラブ・ボラボラの建設を手がけさせて下さい�……」  そこで大谷浩吉は新社長に就任した息子を手招きして、その肩を抱いた。 「皆さん、この男は燃えております。十年前に体験したあの悲しみを乗り越え、副島新吾君の遺志を継いだ努君と手をたずさえ、南太平洋の楽園に我が社屈指のリゾート地を建設すべく、めらめらと闘志の炎を燃やしております。さあ、皆さん。どうか新社長に就任した大谷誠、そして、常務取締役の副島努の若い二人の前途を祝し、十年越しの悲願を彼らの手で成し遂げることを祈って、杯を上げようではありませんか」  大谷会長はシャンパングラスを右手に持ちかえた。  それを合図に招待客はいったんテーブルに置いていた各自のグラスを手にした。スピーチの間にかなり気が抜けて、わずかばかりの炭酸の泡が頼りなげにグラスの内側にへばりついていた。 「それでは皆さん、乾杯!」  大谷会長がグラスを高々と掲げ、全員がそれにならって唱和した。  シャンパンに一口つけ、それを再びテーブルに置く間《ま》があって、次に大きな拍手が湧《わ》き起こった。  大谷浩吉は陽焼けした顔をほころばせて一礼してスタンドマイクから下がった。  その脇で、息子の誠社長が神経質そうなまばたきをしながらお辞儀を繰り返し、さらに少し離れたところで副島努が硬い表情でシャンパングラスをあけていた。      2 「どうなの、最近」  一通りの来賓祝辞が終わり、立食形式の歓談に移ると、海に面した庭園につくられたパーティ会場は賑《にぎ》やかな談笑の渦に包まれた。  ハワイアンバンドが『ブルー・ハワイ』を演奏していたが、この後にアトラクションで、現地からわざわざこの日のために呼び寄せたタヒチアンダンスのショーがある予定になっていた。  新社長夫人となった大谷芽里に近づいてきたのは、『週刊芸能』編集長の伊藤次郎である。真っ黒に焼けた顔を濃く密生した顎鬚《あごひげ》が囲っている。三十九歳という年齢より必ず若く見られるのは、その容貌とラフな服装のせいだった。今夜は麻のジャケットの袖を肘《ひじ》までまくり上げ、下はジーンズとバスケットシューズである。 「どうなの、って?」  テーブルに並べられたトロピカル・ドリンクに目を走らせながら、つとめて相手に視線をむけないようにして芽里がきき返した。 「結婚生活さ。満足してるわけ? ああ、わざわざ質問するだけヤボだったか。やっぱり満足してるんだろうな。ダンナは三十五歳の若さでワールド・リゾートクラブの代表取締役社長だし」 「そういう言い方はやめて下さい」 「あ、そ」  伊藤は芽里を斜めに見て言った。 「もう、おれには冷たくなっちゃったわけだ」 「あたりまえです」  芽里はブルー・キュラソーでアレンジした�サウス・パシフィック�と名づけられたオリジナルのトロピカル・ドリンクを手にとった。 「ブルーのドレスにブルーのカクテルか……。抜けるように白い肌によくお似合いのコーディネーションですね」  伊藤次郎のほうはタヒチ産のビール�ヴァヒネ�を飲んでいた。大谷浩吉がきょうのパーティに備えて空輸させたものである。 「しかし女というのはわからないものだ」 「………」 「三度のメシより海に潜《もぐ》ることが大好きな男に惚《ほ》れていたのが十一年前。次の年に、神経質、じゃなかった、繊細な神経の持ち主の男性が現れるとその優しさに魅《ひ》かれたのか、それとも家柄財産に魅かれたのか、さっさとその男と婚約しちまった。大学三年という若さでね」 「伊藤さん、もう酔っているんですか」 「酔ってなんかいませんよ。タヒチ産のビールを小びん二本あけたくらいで酔うわけないでしょう。……皮肉なことに十年前、君と婚約者の大谷誠、それに家族たちが揃ってボラボラ島を訪れたとき、偶然にもおれは取材でその場に居合わせた。当時は海外旅行シリーズのムックを手がけていてね」 「そんな昔のことをむし返してどうするんですか」  冷たく言い放って、芽里はカクテルに口をつけた。右手の小指が微《かす》かに震えていた。 「地上の楽園で愛《いと》しの人にめぐり逢《あ》えたと思ったら、相手は別の男と婚約していたとはね。�南太平洋の悲劇�ですよ、これは」  伊藤はグラスのビールを一気にあおった。鬚《ひげ》についた泡を拭《ぬぐ》い、ふーっとため息をついて天を仰ぐ。 「あのパーティのあった晩も、こんなふうに南国の花の香りがむせかえるようだった。見上げれば眩《まぶ》しいくらいの数の星……あれ、なんだか急に星が減ってきたな。雨か?」  さらに何か言いかけた彼の肩をポンと叩《たた》く者がいた。伊藤がふりかえると、そこに副島努の顔があった。  彼は姉にむこうへ行くよう目で合図した。 「昔の恋人気取りで姉さんをからかうのはやめろよ」 「これは副島常務。すっかり男前が上がって……どうですか、もう二十七なんだからそろそろカミさんの一人でもいたほうがよくありませんかね」  副島努は伊藤よりも上背で十センチ近く勝《まさ》っていた。百八十センチを軽く超した体格は、タキシードを着た上からでもそれとわかるほど筋肉が発達していた。ケンカ用に仕上げられた身体つきだな、と伊藤は目を細めて努を見た。 「結婚のことなんて大きなお世話だ。人のことを心配するより、あんたのほうこそ四十近いんでしょう。いつまでも独り身で女性の尻《しり》を追いかけてる場合でもないと思うが」 「まあ、そう話をそらさずに」  伊藤は世間ずれした薄笑いを浮かべた。 「努さん、大谷誠新社長の美人秘書に入れあげているそうじゃないですか」 「なに」  努はムキになった。 「たしかにあなたが夢中になるのも無理はない。ああいう女がそばにいたら、私だって独身主義をすぐに返上しますけどね。あなただけではない。どうも誠社長自身もフラついてるみたいだ。芽里さんがいるのにね」 「デタラメな噂《うわさ》をまきちらさないでくれ」 「まあ、せいぜいがんばって下さい。あなたがあの美人秘書を射止めてくれないと、昔の恋人が夫の浮気に悩む姿を見るのは辛いですからね」  伊藤はいまにも殴りかからんばかりの勢いの努をかわして、テーブルの間を人混みを縫って歩いた。  大谷誠の陰にぴったり寄り添うようにして、いま話題にした秘書の田村|麻美《まみ》がいた。  二十三歳にはまず見えない。  一メートル六十五という大柄の上に、ギリシア彫刻のような整い方をした顔立ちである。絹のパーティドレスがしなやかな身体のラインを浮かび上がらせていた。  大谷誠が招待客と挨拶《あいさつ》を交わすと、麻美もまるで本当の妻のように一緒に頭を下げた。  大谷芽里はその様子をわざと見ないようにしていた。ずっと離れたところで思いつめた表情で立っている芽里が、伊藤は気になっていた。 「編・集・チョッ」  伊藤の頬を女の指がつついた。 「なあに見とれてんの」 「ん?」  伊藤はふりむきもせずにあいまいな相槌《あいづち》を打った。見なくても声の主は誰だかわかっている。  オレンジから白へグラデーションのかかったサンドレスを着た女が、パイナップルの器に入ったサングリアを持って立っていた。  長く伸ばした髪に、タヒチ流にブーゲンビリアの赤い花を差していた。  右の耳に差すと独身、左の耳に差すと既婚であることを示す。彼女は右の耳にブーゲンビリア。流儀を正しく解釈していれば独身なのだろうが、見た目の雰囲気は熟女である。取り立てて美人というのではないが、目つきと唇に色っぽさがあふれていた。 「まさか芽里さんをあきらめきれないんじゃないでしょ」 「大きなお世話だ」 「あら、マジなの」 「おまえはよけいなことに首を突っこまないで、パーティの取材をちゃんとやってろ。とりあえず来週号見開き二ページの記事だぞ」 「わかってるわよ。有名人とか文化人ていうセンセー方のコメントはちゃんと集めたから。でも大谷家へのヨイショばかりでウンザリだわ」 「しょうがないだろ。この記事じたいがタイアップの提灯《ちようちん》モノなんだから」 「編集チョッ」 「おまえなあ、そういう言い方はやめろよ。きちんと�編集長�と言え、編集長と」 「はい、わかりました編集長。えーとですね。言い訳をしても私の目はごまかせません。いい加減に大谷芽里のお尻《しり》を追いかけ回すのはやめて、もう一人のメリーにターゲットを絞ってはいかがでしょうか」 「なに?」  やっと伊藤は女の顔を見て、しばらく考えてからうなずいた。 「なるほどな。沢田明梨——そういや、おまえの名前もメリーってことか」 「いまだったらまだ私もギリギリで二十代。秋までご返事を延ばしていらっしゃいますと三十の大台に乗ってしまいますから、いまが最後のお買得」 「何言ってんだ。最後のチャンスに賭《か》けなきゃいけないのはおまえのほうだろ。鮫に食われそこなったはいいが、その後、年ばっかり食って……。おまえの場合、熟《う》れ頃のときに男にもぎとってもらえなかったから、熟れすぎてグジュグジュだ。そのうち腐るぞ」 「ひどおい、その言い方。どうせ私は、あっちの芽里さんみたいに、三十過ぎても清楚《せいそ》な感じでいられる人とは違いますっ。十年前に南の海で鮫に食べられてしまわなくて悪かったわね」  沢田明梨はゆったりとしたサンドレスを着ても目立つ大きなバストを揺らして抗議した。 「だいたい『週刊芸能』編集部に、カッコよくて若い男の子が一人もいないのがいけないのよ」 「そういった抗議は人事のほうにしてくれ」  うるさそうに言って、伊藤はサングリアのストローに口をつけようとした。  そのとき、こちらへ矍鑠《かくしやく》とした足取りで歩いてくる副島悦に気づいて、彼は無意識のうちにトロピカル・ドリンクをテーブルに置いた。 「おばあさまの登場だぜ」  伊藤が明梨に小声で囁《ささや》いた。 「おれも七十になってあれくらいシャキシャキしていられたら嬉しいけどな」  言い終わらないうちに悦が声をかけてきた。 「久しぶりだわね、伊藤さん」  その声は七十歳とは思えないほど張りがあって艶《つや》やかである。戦前、外地の放送局でアナウンサーをつとめ、敗戦で内地に引き揚げてからしばらくの間もラジオで朗読やドラマの仕事をやっていたことがある。それだけに副島悦の喋りは年老いても素人とは違うものがあった。 「ボラボラ島でお会いして以来のことね」 「はあ、十年ぶりです」 「十年ぶりでも、新吾の事件があったから、あなたのお名前はハッキリ覚えているわ。お隣にいる沢田明梨さんが、息子の不幸を最初に見つけて知らせて下さったのね」 「ええ……」  思い出したくない場面が頭に浮かび、明梨の返事は小声になった。 「あのときは南太平洋の島々の取材のはずが、すっかり息子の水死事件の取材に変わってしまったわね。でも、あなた方が手伝ってくれたおかげで日本への連絡もスムーズにできました。私たち身内の者は気が動転するばかりで何もできなくて」 「いえ」 「海の底を網でさらって亡骸《なきがら》を集めるなんて、悲しい光景だったわよね」  悦は遠くを見る目つきになった。 「十年越しの悲願とさきほど会長がおっしゃっていましたが、ボラボラ島にリゾートクラブを建設したら、またお行きになりますか」  伊藤の問いに、悦はキッと彼を見返した。 「行く気になれると思いまして?」  伊藤は相手の気分を害したと知って少しあわてた。 「すみません。つい、無神経なことを申し上げて」 「いえいえ、そういうことじゃないけれど」  悦は取ってつけたような笑顔を見せた。 「まあ、今夜は新社長就任記念のお祝いですからね」 「はい」  伊藤は恐縮して頭を下げた。 「いつもは年も年だからお酒も控えているんだけど、今夜はちょっと飲んでみようかしら。昔は結構いけた口だったのよ」  副島悦はテーブルに手を伸ばして、カクテルグラスを取った。 「ところで、伊藤さん」  カクテルを一口飲んでから、副島悦が急に深刻な顔で話しかけてきた。 「なんですか」 「あなた、霊の存在って信じますか」 「霊?」 「そうよ」 「そういうのはあんまり信じませんね」  伊藤は笑った。 「なにしろ芸能スキャンダル誌を手がけてからは、オバケより人間のほうが数倍コワい生き物だってわかりましたからね」 「私は冗談できいてるんじゃないのよ」  悦の口調に、横で聞いている沢田明梨はゾッと寒気を覚えた。 「ゆうべ夢を見たのよ。十年前に死んだはずの息子が枕《まくら》もとに立ってね……」  その時、ドンドド・ドンドドとパーカッションが鳴り響いて会場の照明が落ちた。タヒチアンダンスのショーがはじまったのだ。  太鼓の音は人々を一気に南太平洋へワープさせる。そのリズムに導かれて、三十人を超すビキニに腰ミノ姿のタヒチ人ダンサーが登場した。粒よりの美人|揃《ぞろ》いである。  あいにく天候がくずれはじめたが、客はみなステージに気をとられていた。  月の上を黒雲が急ぎ足に走り、遠くで雷鳴が轟《とどろ》いたが、その雷鳴も情熱的なタヒチのリズムにかき消されて、会場の人々の耳には届かない。  ポツン、ポツンと空から雫《しずく》が落ちてきた。  副島悦の目尻《めじり》にも雨つぶが落ち、それが涙のようにみえた。 「母さん……て、息子が言うのよ」  ピカッと閃光《せんこう》が走って、パーティ会場が蒼白《あおじろ》く照らし出された。 「母さん、ぼくは誤って溺《おぼ》れ死んだんじゃない。殺されたんだよ……ってね」  ガーン、と激しい音がして近くに落雷した。  客がどよめきの声をあげた。  しかし、そんなことにはまったくかまわず、タヒチアンダンスのリズムはさらに速く、さらに激しくなっていった。      3  八丈島は中央部が少しくびれたひょうたん型をした島である。  くびれといっても大げさに凹《くぼ》んでいるわけではない。ちょっと太めの女性のウエストにたとえたらよいだろうか。  そのウエスト部の左右に連絡船の着く港がある。西側が八重根《やえね》港で、東側が神湊《かみなと》港。この二つの港を結ぶ島の中央線上に、羽田からの定期ジェット機が発着する八丈島空港があった。  平坦《へいたん》な空港用地をはさんで北側に八丈富士、南側に三原山が小高く盛り上がっている。  ひょうたんの丸みを形成するこの二つの山すそを囲むようにして、島内一周道路が走っていた。  WRC八丈島は、三原山の西側、樫立《かしだて》を走る外周道路よりさらに海側へ下りたところに建っていた。  この樫立地区から外周道路を左回りにぐるっと三原山を回りこんでいくと、島の東側で道は曲がりくねった上りになる。登竜峠《のぼりりゆうとうげ》である。 「おい、いま何時だ」  登竜峠の頂上に近い、道路から山側へ三百メートルほど入りこんだ茂みの中で男の声がした。暗闇《くらやみ》の一角がパッと明るくなった。 「九時五分すぎです、兄貴」  最初の男よりもずっと若い声が答えた。  強い風が吹いて、雑草が音を立てて同じ方向へなびいた。  オレンジ色の頼りない光の輪が茂みの上を左右に揺れた。 「いつまでも懐中電灯をつけているな」  年配の声が叱責《しつせき》した。  ちょっと間《ま》を置いて、周囲が再び闇になった。さきほどまでの月明かりも黒雲にはばまれて届かない。二人の男は十メートルの間隔を置いて茂みに潜《ひそ》んでいたが、互いの顔は輪郭ていどしかわからなかった。 「きますかね、奴《やつ》は」 「黙ってろ。船はもう八重根港に着いたことがわかっているんだ」 「畜生、雨がひどくなってきましたよ」  横なぐりの風がかなり混じってきた。 「兄貴、肝心の品物が濡《ぬ》れちゃったら大変ですよ」 「うるさいな、よけいな心配をしないで黙ってろってんだ」 「でも……」 「シッ」  遠くのほうからエンジンの唸《うな》りが近づいてた。峠を上ってくる自動車の音だ。 「きましたよ」 「違う。よく聞け、音は反対方向からだ」  二人の男が息をひそめて茂みの中に伏せていると、車のエンジン音はどんどん大きくなり、やがてヘッドライトが灯台の明かりのように回転しながら人気《ひとけ》のない峠の風景を照らし出した。 「違う車だな」  年配の男がつぶやいたとたん、車はすぐそばで停《と》まった。ヘッドライトが消える。 「やばいですよ、停まりました」 「シッ、おめえはうるさいってんだ」  ドアの開く音がして、薄闇の中に二つのシルエットが浮かび上がった。 「アベックですよ、兄貴」  若い男が年配の男のところへ這《は》ってゆき、耳打ちした。 「何もこんなところでイチャつかなくたって」  言いかけた男の口を、年配の男の手がふさいだ。 「わあ、強い風。峠の上だとすごいわね」  女の声が、風に乗って二人の男のところまで届いた。 「台風がきてるんだよ。下手《へた》すりゃ明日の飛行機は欠航だぞ」  男の声は少し酔っていた。 「じゃあ、パーティのお客さんたちは全員足止めね」 「忙しいのを売りものにしているマスコミの連中も大勢いるから、帰りの足の確保で一騒ぎになるかもしれないな」 「でも、雨が気持ちいいわあ。火照《ほて》った頬《ほお》に冷たくて」 「酔ってるからだろ」 「あなただって酔ってるでしょ」 「ああ、酔ってる。飲んだ、飲んだ。あのガソリンて奴をな」 「サングリアでしょ」 「タヒチじゃガソリンて呼んでたのもわかる気がするよ。水がわりに飲んでたら一気に足にきた」 「帰りは私が運転するから、あなたは助手席で寝てなさい」 「一人前に俺に命令する気か」 「ほら、少し舌がもつれてきた」 「もつれてなんかいないぞ。こんなによく動くだろ」 「アハハ、やだ、くすぐったい。犬みたい。やめてよ」 「やめないよ」  ング、という音がして沈黙が訪れた。  アベックの会話が止《や》んだとたん、今度は北のほうから近づいてくるエンジンの唸《うな》りがきこえてきた。 「馬鹿野郎、そんなところでキスなんかしている場合じゃないぞ」  茂みに潜《ひそ》んでいた年配の男のほうが、苛立《いらだ》った声を出した。 「ねえ、こんどこそあいつの車じゃありませんか」  若い男も焦《あせ》りが声に出ていた。 「たぶんな」 「どうするんです。アベックがあそこからどかなきゃ取引きがパアですよ。おどかしてやりますか」 「よせ」  起き上がりかけた若い男は、袖を引いて押しとどめられた。  絡《から》みあっていた二つのシルエットが離れた。 「ねえ」  女がすねた声を出した。 「私、あなたと結婚したくなっちゃった」 「社交辞令はよせよ」 「そんなんじゃなくて、本気よ」  また、キスの音がした。 「最初は奥さんに悪いなと思っていたけど、このごろじゃ遠慮する必要なんかないかしらって思いはじめたのよ」 「おいおい」 「だって、奥様、あなたのことを愛してないもん」 「厳しいことを言うな」 「いつも悲しそうな顔をして、ほとんど笑顔なんて見たことがないでしょ」 「まあな」 「あれじゃ、あなただって気が滅入《めい》ってくるでしょう。暗い過去でもあるんじゃないの」 「あいつはあいつで苦労もしてるんだ」 「あら、やっぱり奥様の肩を持つの」 「そうじゃないけど……」 「ねえ、あなたたちってまだ子供がいないでしょう」 「ああ」 「ということは、子供ができるようなことをしていないわけね」 「………」 「そうでしょ。奥様があんな調子じゃ抱く気にもなれないわよね。でもね……」  女が男の顔に音を立ててキスの雨を降らせた。 「セックスがない生活なんて不健康だわ」 「理知的な顔をしてすごいことを言うんだな。昼間の顔とは大違いだ」 「秘書の顔と言ってちょうだい」 「おまえ、本気で社長夫人の座を狙《ねら》ってるのか」 「うふふ」 「本気なんだな」 「そうよ」 「努の奴《やつ》がお前に入れあげているという噂《うわさ》もあるぞ」 「妬《や》いてくれるの? うれしい」 「そうじゃなくてたしかめているんだ」 「馬鹿ね。オーナー社長の妻になるのと雇《やと》われ常務の妻になるのと、どっちを選ぶと思うの」 「ハッキリした奴だな」 「当然でしょ。それに副島常務って、まだまだ子供よ。二十七の坊やに私の相手はつとまらないわ」 「わかったよ。じゃあ、本当におれと結婚する気があるんだな」 「ええ」 「それなら、おれもそのつもりで考えておくよ」  男が女を抱きしめ、ドレスの胸もとに手を入れた。 「待って、車がくるわ」  女がエンジン音に気がついた。 「もうホテルへ戻りましょう。こんなところを見られたらまずいわ」 「大丈夫だよ。招待客はみんなホテルのバーに移って二次会で盛り上がってるさ」 「あなたはこの島じゃ名士なのよ。地元の人に見られたら大変よ。それに、今夜のパーティの主役がいつまでも姿を消していたら怪しまれるし。さあ……」  女が男を助手席に座らせ、ドアを閉めると自分も運転席に回った。 「よかった、兄貴。奴ら、帰りますぜ」 「聞いたか」 「え?」 「いま、あの女、男のことを�今夜のパーティの主役�って言ってたな」 「そうでしたっけ?」  年配の男は押し黙って何かを考えていた。  アベックの車のエンジンがかかり、ライトがついた。  Uターンして元きた方向へ去っていくのと入れ替わりに、八重根港方面から上ってきたライトバンが、峠の同じ場所に停まった。 「兄貴、こんどは本物だ」  若い男が立ち上がった。  エンジンを止め、ヘッドライトを消したライトバンから、アポロキャップを目深《まぶか》にかぶった男が降りた。  あらかじめ打ち合わせをしてあったらしく、脇目《わきめ》もふらずに二人の男がひそんでいる茂みの方へ足を踏み入れた。 「井関《いぜき》か」  若い男が懐中電灯の光を相手に浴びせた。  男は本能的に左手をかざしてライトから顔を隠した。無精髭《ぶしようひげ》が目立った。 「井関|五郎《ごろう》だな」  若い男がもう一度確認すると、アポロキャップの男はゆっくりうなずいて口を開いた。 「小田《おだ》はどこにいる」 「ここだ」  年配の男が答えて、茂みから立ち上がった。 「約束の物《ブツ》はどこにある」 「ライトバンの助手席だ」  井関と呼ばれた男は、乗ってきた車のほうへ顎《あご》をしゃくってみせた。 「怪しいな」  小田という年配の男が言った。短く刈《か》った額《ひたい》の生《は》え際《ぎわ》に長い傷跡が走っていた。 「こういう場合はちゃんと手渡しするのが常識ってもんじゃないのか」 「先に金をくれたら渡してやるよ」  井関は帽子のひさしを人差指で押し上げた。 「品物と交換に弾丸《タマ》が飛んできたんじゃかなわないからな」  小田とその子分の若い男は顔を見合わせた。 「さあ、早く約束の代金を耳を揃《そろ》えて出してくれ」  井関は右手を差し出した。  その時、小田が若い男に目くばせした。  懐中電灯の明かりが消えた。  一瞬、闇《やみ》に目が慣れず、井関五郎は戸惑《とまど》いを見せた。  若い男の姿が消えた。  消えたと思ったら井関の真後ろに回りこんでいた。  グフッと言葉にならない呻《うめ》き声が井関の唇から洩《も》れた。アポロキャップが飛んだ。細い眼が苦痛を訴えていた。  小田がライトバンへ走った。 「あったぞ」  助手席をのぞきこんだ彼が声をあげた。 「健太《けんた》、早くこい」  健太と呼ばれた若い男は、井関を突き飛ばした。その右手に血で濡れたナイフが握られていた。 「悪く思うなよ」  古典的な台詞《せりふ》を吐いて、健太は井関の胸にとどめの一撃を突き立てた。 「早くしろ」  ライトバンのエンジンがかかった。  急に雨足が激しさを増した。  額にへばりついた髪をかきあげて、健太は車へ走った。シャワーを全開にして浴びているようだった。あっという間に服が重くなった。 「すげえよ、兄貴、すげえ。人を刺すって、すげえ」  助手席に飛びこんできた健太は、髪の毛から滴《しずく》をしたたらせながら興奮していた。 「バターみたいだった。バターを切るみたいにナイフがすーっとあいつの身体に入っていった」  彼の右手にはまだナイフが握られていた。 「初めて人を刺したときは、おれもおめえみたいに舞い上がったもんだぜ」  小田は薄い唇を歪《ゆが》めるとヘッドライトのスイッチを入れた。  目の前に銀色のカーテンが広がった。  太平洋の海水を巨大なポンプで汲《く》み上げては撒《ま》きちらしているような雨だった。  小田は紙マッチで煙草に火をつけようとした。湿っていて何度も失敗し、最後の一本でようやく火がついた。大きく煙を吸いこむと、窓を少し開けて用ずみの紙マッチを投げ捨てた。  彼はギアをローに入れ、ゆっくりとアクセルを踏みこんだ。ライトバンはUターンをせずに、WRC八丈島のある樫立方面へと峠を下りはじめた。  車が去った後、そこにはアスファルトの路面に叩《たた》きつける雨音だけが響いていた。  背の高い雑草に埋もれて倒れた井関五郎は、二度と起き上がることはなかった。  登竜峠は、漆黒《しつこく》の空と海の間で雨に煙って静かだった。 [#改ページ]   ㈼ おいしいパン      1 「どうしてこんなものが世の中に出とるんだ。おれは聞いとらんぞ」  警視庁捜査一課強行犯担当の財津《ざいつ》警部は、大部屋に響き渡るドラ声をはりあげた。  ドラ声の持ち主をイメージしたらこんな顔になる、という典型的なパターンを踏んでいる財津|大三郎《だいざぶろう》の容貌は、往々にしてクマやゴリラ、あるいはイノシシにたとえられる。いずれにしても知的、繊細といった言葉からはほど遠い。 「警部、なに怒ってるんですか」  雨に濡《ぬ》れた黒革のライダー・スーツをタオルで拭《ふ》きながら、烏丸《からすま》ひろみが大部屋に入ってきた。強行犯担当刑事というよりは、バイク映画のヒロインといった感じである。  ポニーテールをほどいて首を左右に振ると、艶《つや》やかな髪が肩に広がった。  無造作に髪の中に手を突っこみ、くしゃくしゃっとかきまぜた。その動作をポカンと見つめている捜査一課の猛者連《もされん》の視線に気づき、ニッコリと愛想をふりまく。  たいていの刑事たちはこの笑顔にまいって何も言わなくなる。|450cc《ヨンハン》バイク�愛車シルバー号�にまたがっての出勤も、特例としてお咎《とが》めなしである。  美人はトクだ、という声もあるが、美人のわりに、笑ったときの顔が何ともいえず愛嬌《あいきよう》があるので、それにコロッといってしまう刑事《デカ》たちが多いのだ。  ただし、けさの財津大三郎警部には、珍しくひろみの百万ドルの笑顔が通じなかった。 「雨の中をバイクでご苦労なことだ」  憮然《ぶぜん》とした表情でひろみに声をかける。 「台風の中を走るのって最高よ、警部」  ひろみは目をへの字にしてエヘヘと笑った。 「笑ってごまかすな」  財津警部はそう言うと、ひろみにむかって新書サイズの本をポーンと放り投げた。 「何、これ」  不思議そうな顔で、ひろみはその本のカバーに目をやった。 「逆密室殺人事件……?」 「中を読んでみろ」  言われて、ひろみはパラパラと頁《ページ》を繰《く》ってみた。 「へー、この間の事件のことが書いてある」 「へー、じゃないぞ、おれやおまえやフレッドのことが実名で出ている」 「だってノンフィクションなんでしょ、これ」 「そりゃそうだ」 「だったらしょうがないじゃない。アハハ、警部が私に気があるみたいに書かれてる」 「笑いごとじゃないだろう。そういう作り事の入ったニセ・ノンフィクションだから問題なのだ」  財津は鉛筆を両手でバキッと折って歯をむいた。 「外部の人間じゃわからんようなことも書かれている。そこでおれはだな、ひろみとフレッドが無断でこの作者の取材に応じたと判断した。どうだ、ズバリだろう」 「えーェ?」  ひろみは女子高生っぽいイントネーションで抗議の声をあげた。 「私、こんな名前の作者知らないもん」 「嘘《うそ》をつけ。本当は知っとるんだろう。おおかた警視庁詰め記者クラブの誰かがペンネームを使っているに違いない」 「それより財津警部」  ひろみがおすまし顔で財津に斜めに相《あい》対した。 「警部が私に気があるみたいな表現は、やっぱり作り事なんですか」 「決まってるだろ、そんなこと」 「ヒュー、ヒュー、警部、赤くなってるよ」  口笛を吹いてからかったのは烏丸ひろみではなく、フレッドことフレデリック・ニューマン刑事である。  彼も背広を雨でぐっしょり濡らしている。 「それにしても、この台風は雨台風だね。洪水の被害が出なきゃいいけど」  金髪、青い眼の捜査一課刑事というのは、烏丸ひろみと並んで異色の存在だったが、彼はれっきとした日本国籍を持つ日本人である。 「フレッド、おまえも共犯だろ」 「ちょっと、いきなり何ですか、財津警部」  フレッドは青い眼をくるっと動かした。 「こういうノンフィクションの本が出たんだって」  ひろみは彼に本を手渡した。 「逆密室殺人事件。あ、例のビデオ・エンジニアがカサブランカで殺された事件ね」  フレッドは漢字・カタカナ・ひらがなオールOKである。彼は中を走り読みした。 「なになに、ぼくのことが書いてあるよ。�身長百九十センチ、体重九十キロのフレッドは、イタリア系アメリカ人宣教師の父と、ポーランド人の母の間に生まれた。大阪生まれの東京育ち、二十七歳。血統的にはヨーロッパ系アメリカ人となるところだが、国籍は日本。父は任地の東京で死に、母も三年前に他界した。だから、一見ガイジンである日本人フレデリック・ニューマンに身よりはいない……�  ふーん、よく調べて書いてあるじゃないですか」 「また、おまえもそうやってトボける」  財津は鼻の穴を広げた。 「警部は、私たちが上に断りなしにこの作者の取材を受けたというのよ」  ひろみはライダー・スーツのジッパーを開けながら話した。大部屋のクーラーはフル回転しているが、台風が運んできた湿気であたりの空気はジトッとしていた。 「財津警部、わてらはそんな大それたこと、ようしまへんで」  急にフレッドは生まれ故郷の大阪弁になった。 「組織の人間がルール乱したらクビになりまんがな」 「なにが『まんがな』や。けったいな大阪弁を使うなっちゅーに。調子が狂う」  財津は机を叩《たた》いた。 「とにかくこの件については事実関係をよく調べるから。万一、おまえらが作者の取材に応じ、いやしくも金品の報酬を受け取っていた事実が明らかになったら……」 「してまへん言うてるのに、警部もひつこい人やね」 「大阪弁はあかんて」  財津はフレッドにつられて大阪弁で怒鳴った。  そのとき、彼の後ろで電話を取っていた若い巡査が話に割りこんだ。 「財津警部、一課長がお呼びです」 「ほーらみろ、きっとこのことで一課長もおかんむりなんだ。知らんからな、おれは」  鋭い一瞥《いちべつ》を二人にくれて、財津は席を立った。 「朝からボスはご機嫌斜めだ」  フレッドは肩をすくめた。 「この台風みたいに荒れ狂わなきゃいいけどな」 「でもフレッド。私、こういう本が出るのはいいことだと思うけど、どうかしら」 「名探偵烏丸ひろみの事件簿って感じだね。捜査一課のPRになっていいんじゃないの」 「でしょ」 「だけど、あらぬ疑いをかけられるのは迷惑だよな」  フレッドは口をとがらせた。 「だいたいさ、事件の連続で本の取材に応じているヒマなんかまるでないんだから。捜査一課がこんなに忙しいとは思ってもみなかった」  ちなみに、フレッドは財津警部と同じ日付で捜査一課に異動されている。 「私、着替えてくるわ」 「ぼくもだ。パンツまでぐしょぐしょだよ」  そう言ってフレッドは窓の外を見た。  だが、いつもの眺めは見られなかった。窓にむかってホースで水を撒《ま》いているような横なぐりの雨で、外の景色は歪《ゆが》んで見えない。 「おーい、このままだと台風は昼過ぎに八丈島を直撃だってさ」  テレビを見ていた巡査が言った。 「そのままこっちへくるかね」  年配の警部補がくわえ煙草でたずねた。 「きそうですねえ、このコースだと」 「七月の台風にしちゃ珍しいな」 「そういうときは事件が少ないことを願いますよ」 「皮肉なもんでね、こんなときに限って大事件が起きるんだ」  あちこちで台風を話題にした雑談の輪が広がった。きょうは大部屋に残っている刑事の数が比較的多い。  ちょうどフレッドも捜査に関わっていた大きな事件がゆうべ解決したばかりで、大部屋には忙中閑ありといったのんびりした雰囲気が漂っていた。  フレッドがスーツと下着を替え、ひろみがサックスブルーのツーピースに着替えてきた時、財津警部が難しい顔をして席に戻ってきた。 「フレッド、ひろみ、ちょっとこい」  呼ばれた二人は顔を見合わせてから、財津の席に歩み寄った。 「やっぱり規律違反でクビですか」  フレッドがたずねた。 「そんなことはこれっぽっちも思っていないくせに」  財津は見透かしたように言った。 「喜べ、事件だ」 「えー、昨日やっとデカいヤマが片付いたばかりなのに」  フレッドは文句を言った。 「ぶうぶう言うな。ひろみと一緒に出張だ。これでも文句あるか」 「え、ほんとうですか」  思わずフレッドは耳を疑った。  例の逆密室殺人事件で法師《ほうし》温泉方面に出張捜査の必要が生じたとき、財津は本来がデスクワークを主とするはずの警部職にありながら、フレッドを差しおいて自分が行くと言い出したのだ。仕事熱心なためではない。かといって、とくに法師温泉に興味があったわけでもない  早い話が、捜査一課のアイドル烏丸ひろみと二人で出張をしたかった、というじつに単純な動機によるものだった。  幸か不幸か、その出張は実現されずに終わったが、妻子もある財津の夢は、依然として烏丸ひろみとの出張捜査なのである。  それなのに、かくもあっさりとその夢をフレッドに譲り渡すとは、フレッドもひろみも俄《にわ》かには財津の本心が測りかねた。 「で、どこに出張なんでしょうか」  フレッドがたずねた。 「八丈島だ」 「八丈島?」  フレッドはその名前を聞いたとたんにイヤな予感がした。 「で、いつ?」 「すぐにだ」 「すぐにと言っても——いや、おっしゃられても」  フレッドは敬語に言い直した。 「警部、ご存じですか。いま台風がきてるんですよ。ニュースでは昼過ぎに八丈島を直撃の見込みと……」 「そんなことは当然知ってる」  財津は冷たかった。 「だからおまえに行かせるんだ。おれは揺れる飛行機が大嫌いだからな」 「道理でね」 「何が、道理でだ。意味ありげな顔をするな」 「でも、警部」  こんどはひろみが口を出した。 「八丈島行きの飛行機は全便欠航ですよ」 「そんなこともわかっとる。屋上のヘリポートにジェットヘリを呼ぶことにした」 「本気ですか」  フレッドは胸の前で十字を切った。 「そうまでして現地へ行かなくちゃならない事件て、いったいどんなことが起きたんですか」  ひろみがたずねた。 「まあよく聞け」  財津は二人に目の前の椅子に腰かけるよう命じた。 「けさ早く、八丈島の南東部、登竜峠《のぼりりゆうとうげ》の近くの茂みで刺殺体が発見された。台風の襲来に備えて島内一周道路の点検をしていた係員が偶然見つけたんだ。被害者の身許はまだわかっていないが、年齢三十二、三といったところの男だ。ナイフで背中から一突き、さらにダメ押しで心臓をモロにやられている」 「ちょっと待って下さいよ」  フレッドが財津の話をさえぎった。 「八丈島で起きた殺人事件だということはよくわかりましたが、その程度のことだったら地元八丈署にしばらく任せておいてよいんじゃないですか。少なくとも、台風のさなかにジェットヘリで突っこんでいくほどのこととは思えませんが」 「人の話は最後までちゃんと聞くんだ」  財津は机を叩《たた》いてから毛むくじゃらの指をポキポキと鳴らした。 「事件はそれだけじゃない。きのう捜査一課にもう一件、ちょっと気になる届け出があった」  財津は両手を組み合わせて、その上に顎《あご》をのせた。 「おまえらワールド・リゾートクラブというのを知ってるか」 「知ってます」 「もちろん」  ひろみとフレッドが異口同音に答えた。 「マリンスポーツからテニス、ゴルフまで、ドゥ・スポーツ派のリゾートクラブでしょ」 「海外各地にもネットワーク完備。グレードの高さとスケールでは世界でも屈指のリゾートクラブ」 「おまえら遊ぶことになるとよく知ってるな」  財津警部は呆《あき》れた顔で二人の部下を見た。 「まあいい。そのワールド・リゾートクラブ八丈島で昨夜盛大なパーティが行なわれた。大谷浩吉会長の息子の大谷誠の新社長就任を祝う夕べってヤツだ」 「そこで何かあったんですね」  ひろみが先回りしてたずねた。 「早とちりするな。きのうの夕方捜査一課あてに匿名《とくめい》の手紙が届いた。消印は渋谷でおとといの夜出したものだ。それはワープロで打たれた告発文書だった」 「内容は?」  フレッドが身を乗り出してたずねた。 「『ワールド・リゾートクラブのために、八丈島で人が死ぬ』という短い文面だった」 「へー」  フレッドとひろみは顔を見合わせた。 「八丈島で人が死ぬ……だって。けっこうこのコピー、考えた本人も気に入ってるんじゃないかしら」 「アホなこと言うな」  財津はドンと机を叩いた。 「しかし、そうすると予言が当たったわけですか。その登竜峠の一件は」  フレッドがきいた。 「この警告文が意味していたのが登竜峠の刺殺事件なのかどうかはハッキリしない。しかし、現場に近い路上で使い捨てられた紙マッチが見つかっている。ワールド・リゾートクラブ八丈島のホテルで使われている紙マッチだ」 「くさいですね、匂《にお》いますね」  フレッドが鼻をひくつかせた。 「パーティには東京から二百五十人の招待客がジェット機で運ばれている」 「その中に犯人がいるかもしれないんですね。登竜峠で男を刺し殺した犯人が……」  ひろみも身を乗り出してきた。 「しかも、折からの台風で彼らは島に閉じこめられてしまったのであった——ねえ、この状況ってほとんどミステリー映画のノリね」 「そういう好奇心旺盛な奴に現地へ飛んでいってもらおうと思ってな」  財津は二人の顔を交互に見較べた。 「ま、台風にむかって飛べとは言わん。上空の天候が極端に悪くなくなったら、すぐに出発してもらう」 「それじゃたいして変わりがあるとは思えませんけどね」  フレッドが反論したが、財津は首を横に振った。 「いいか、フレッド。完全に天候が回復してしまってはジェット機の定期便が飛ぶだろう。そうなると、島に招待された二百五十人の客が次々にこっちへ帰ってきてしまう。かといって、いまの段階では彼らを強制的に島にとどめておくわけにはいかない。したがってだ」  財津はバンと机を叩いた。よく机を叩く男である。 「自然の神が彼らを島に引きとめてくれているうちに、おまえら二人がむこうへ行くのだ」 「ああ、神さま」  フレッドが天を仰いだ。 「大丈夫。多少のことではヘリは落ちん」  財津は何の根拠もない気やすめを言った。 「本当に危なかったら誰が可愛いひろみを行かすものか」 「どうだかね」  フレッドがひろみにむかって眉《まゆ》をぴくつかせた。 「とにかく屋上のヘリポートにジェットヘリをスタンバイさせておくから、おまえらはいつでも発《た》てるように準備をしておけ」 「はあーい」  ひろみは頬をふくらませてシブシブ命令に従った。 「それじゃ、もう一度お洋服着替えてきます。雨に濡《ぬ》れてもいい格好に」 「ぼくも着替えてきます。海に墜落してずぶ濡れになってもいい格好に」 「縁起でもないことを言うな、フレッド」  財津は、大部屋を出てゆくフレッドの後ろ姿にむかってパンチを繰り出した。それから彼は二人の姿が見えなくなると、誰にも聞こえない声でそっとつぶやいた。 「もし怖《こわ》くなったらいつでも引き返してきていいんだぞ、ひろみ」      2 「昼の十二時か……。この暗さはまるで日が沈んだ後みたいだな」  大谷浩吉は、WRC八丈島のホテルのロビーでパイプをくゆらせながら荒れ狂う外の風景を眺めていた。  海はすぐ至近距離にあるのに、灰色のベールに包まれてよく見えない。磯に激しい勢いでぶち当たり砕け散った波しぶきが、暴風に巻き上げられて霧のカーテンを宙に広げる。それに加えて横なぐりの雨が吹きつける。  太陽はすっぽりとねずみ色の雲に隠れ、白い薄明かりすら洩《も》らさない。 「せっかくの記念行事でございましたのに、あいにくでございましたね、会長」  ございます言葉しか知らない茶坊主《ちやぼうず》の広報部長の久米《くめ》が、浩吉の後ろで両手を揉《も》みながら腰をかがめて声をかけた。小猿のような男である。 「ゆうべのパーティは盛大にやれたんだ。それだけで大成功といえるだろう」 「はあ。ですが、けさほどからの暴風雨で、飛行機も船も全便欠航という状態で」 「かえってよかったじゃないか」 「と、申しますと」 「海岸をのぞむ崖《がけ》っぷちに建っているにもかかわらず、台風がきたってビクともしないホテルだということが、ゲストに身をもって体験してもらえただろう。外がいかなる苛酷《かこく》な天候になっても、ホテルの中はつねに百パーセントの快適さを保ち、室内レジャーも完璧《かんぺき》だ。これこそ、全天候型《オール・ウエザータイプ》のリゾートクラブじゃないかね」 「は、それはさようでございますが。なにしろ予定通りに東京へお帰りになれないとあって、中にはずいぶんイライラなさっているお客様もいらっしゃいまして」 「そんなものは放っておけばいい」 「はあ……」 「で、連中は何をしているんだ」 「一応、お昼の時間でございますので、皆様を一階大ホールへご案内いたしました」 「そうか。いいものを喰《く》わせておけよ。至れり尽くせりのサービスをして、新社長の門出を好印象で飾ってやらねばならん」 「はっ」  広報部長は深々とお辞儀をした。  そこへもう一人の茶坊主、山崎《やまざき》総務部長がやってきた。銀行マンのようにカチッとした雰囲気の男だ。 「会長、ちょっとお耳に入れたいことが」  総務部長が広報部長の存在をわざと邪魔そうに装って、大谷浩吉に耳打ちをした。 「何、登竜峠で」  思わず浩吉が声をあげたので、久米広報部長は耳をそばだてた。 「ラジオやテレビのニュースでもとりあげられています」  総務部長は、思わず声高《こわだか》になる会長をいさめようと、懸命に小声で囁《ささや》きかけた。 「小田たちがやったのか」 「わかりません」 「もしそうだとしたら、早まったことをしてくれたもんだな」 「はっ」  山崎はかしこまって頭を下げた。 「何かあったら君の責任だぞ」 「はっ」 「事は重大だということは承知しているな」 「はっ」 「いいか、万一の場合は、総務部長の君が全責任を負うんだぞ。どんなことがあっても君のレベルでくいとめるんだ」 「はっ」  広報部長の久米は、自分の前で会長にコメツキバッタのように頭を下げている山崎を見て気分をよくしていた。  二人の会話内容はよくわからなかったが、少なくともライバルの山崎が何らかの失態を演じたことは確かだった。 「チッ」  大谷会長はきこえよがしに舌打ちした。 「せっかくの誠の就任祝いにケチがついたな」 「あなた、ゆうべどこへ行ってらしたの」  ホテル三階の三〇六号室で、大谷芽里が夫の誠に詰め寄っていた。 「どこにも行かないよ」  大谷誠はゆうべのタキシード姿から一転して、半袖のポロシャツにスラックスというラフないでたちになっていた。妻の芽里も、ドレスではなくカジュアルなグリーンのワンピースである。 「ウソよ。パーティの途中でどこかへ消えたわ」 「それは君がぼくを見失っただけだろ。二百五十人もゲストがきていたんだ。人混みに紛《まぎ》れてわからなかったんだろう」 「いいえ、あなたは八時半過ぎからいなくなったもの」 「ぼくはパーティの主役だよ。勝手にいなくなったら客に失礼じゃないか。オヤジだって怒るぞ、そんなことしたら」  誠はまばたきをしながら苦笑してみせた。金縁メガネを外しているので、神経質そうなまばたきの癖がよけい目立った。 「女の人とドライブに行ったでしょ」  誠は一瞬ドキッとした顔になったが、すぐに笑顔を取り戻した。 「芽里、そうやってカマをかけるのはよくないよ。さ、急いで一階のホールへ下りよう。みんな昼食に集まっているんだ。遅れちゃまずいよ」 「話をそらさないで」  スレンダーな芽里は、大谷家の嫁となってからさらに細身になった。むしろ痩せこけたといった方が正しい。美人だが頬骨《ほおぼね》が出て、そのために頬のこけ方が強調されていた。透きとおるような肌の持ち主で、怒ると首筋に静脈が浮いた。 「他の人の目はごまかせても、私の目はだませないわ」 「芽里、ちょっとくどくないか」  誠は、机に置いたメガネをハンカチで拭《ぬぐ》ってから耳にかけた。 「あなた……私がどんな思いをしてあなたと一緒になったか、忘れないでね」 「どういう意味だ」 「あなたが私を本当に愛してくれていたからこそ、私たち結婚したのよね。他に不純な理由はなかったわよね。そうでしょ」  芽里は泣きそうになって夫を詰問《きつもん》した。 「そうだよ、当然じゃないか」 「そうよね、そうよね」  芽里は誠にしがみついてきた。  誠は妻がなぜ急に取り乱してしまったのか、その理由がわからなかった。 「十年前のことを思い出して」  誠はギクッとした顔で胸にすがる妻を見た。 「縁起でもないことを言うなよ」 「そうじゃないの。十年前の二人の気持ちを忘れないでね、お願い。私たち、もっともっと純粋に愛しあっていたわ」 「そりゃ、婚約時代だからな」  あっさりと誠は言ってのけた。 「結婚したら違うっていうの?」  芽里は夫の蒼白《あおじろ》い顔を見上げた。 「おい、芽里。ぼくたち結婚して何年になるんだ。九年だよ。いまさらこんな恋人ごっこ、照れくさくてできないよ」  誠は妻の身体を両手で離した。 「私たちの関係って、やっぱりそんなものなの」 「芽里、きょうはどうかしてるんじゃないのか」 「お父さんに申し訳ないわ」 「え?」 「死んだお父さんに申し訳ないって言ったのよ」 「どういうことだ」 「私……勘違いしてたのね、十年間も」 「芽里、頼むからもうワケのわからない独り言はやめてくれ。気が滅入《めい》るばかりじゃないか」 「ああ……、お父さん」 「よさないか。ぼくの社長就任記念というめでたい行事の最中に、どうしておまえはそういう風に陰《いん》にこもったことを平気でするんだ。ぼくがどんな気持ちになるか考えたことがあるのか!」  耐えかねて誠が怒鳴った。 「なに言ってるのよ」  涙に濡れた瞳をあげて、芽里も言い返した。 「あなたこそ私の気持ち……私の気持ちを一つもわかっていないで……」  大谷芽里は声をあげて泣き出した。 「常務、ゆうべ一睡もされなかったんですか。不規則は身体に毒ですわ」  三〇八号室には大谷誠の秘書である田村麻美《たむらまみ》がいた。  この部屋は常務の副島努に割り当てられていた。そんなことはかまわず、チャイムを鳴らして田村麻美が平然と入ってきた。彼女は白のワンピースを着ていた。 「もうすぐお昼の十二時ですよ。いまごろ眠くなるなんて困りましたね」  麻美は腰に両手の甲をあてて、ベッドに倒れている努を見おろした。 「眠いんじゃないけど、身体が妙に疲れてるんだ」  副島努は、半袖シャツに麻のスラックスといった格好でベッドにあおむけになっていた。 「ティッシュくれ」 「はい」  麻美は自分のハンドバッグからポケットティッシュを出して渡した。  努は寝たままの体勢で、チーンと音を立てて鼻をかんだ。 「どうしたの、風邪?」 「いや、何でもない」 「何でもないのなら起きて下のホールへ行きましょう。台風のおかげでみんな東京へ帰れないから、昼食会を開くことになったんです。常務だけ出なかったりしてはいけませんわ」 「ふん、二十七歳の常務なんて、いてもいなくても同じさ」 「またそうやってワガママを言う」  麻美は肩をすくめた。 「いけません、さあ起きて」 「そういう生意気な口を利かれるとな、いじめてやりたくなるぜ」  急に努は麻美の腕をとってひっぱった。 「あ」  無防備だった麻美は、ベッドに引き倒された。 「ダメ」  抱きしめてキスをしようとする努の顎《あご》を、麻美は両手で突き上げた。 「ダメよ」 「いいだろ。社長の秘書なんかよして、おれの秘書になれよ。女房持ちで神経質なウラナリより、おれのほうがずっといいだろ」  努はワンピースの上から麻美の胸をつかんだ。 「社長に言いつけるわよ」  麻美は努の頬《ほお》を平手打ちにした。思わず努がのけぞった。  その拍子に、努の半袖シャツの胸ポケットから緑色の紙がベッドカバーの上に落ちた。  おみくじのようにクルクルと円筒形に巻かれた紙である。  麻美は咄嗟《とつさ》にそれを手にとった。 「なに、これ」  丸まった緑色の紙を広げてみた。アメリカ合衆国の一ドル紙幣だった。 「どうしてドル札をこんなふうにして持っているの」 「返せ」  たったいままで麻美を抱こうとしていた努が、血相を変えて彼女の手から一ドル紙幣をひったくった。  麻美の手からドル札が弾《はじ》け飛び、空中で再びくるくると丸まってベッドの上に落ちた。落ちた紙幣を努はわしづかみにした。そしてスラックスのポケットにねじこんだ。 「何を焦ってるの。それ、ただの一ドル札でしょ」  ベッドから起き上がり、髪の毛を整えながら麻美がたずねた。 「そうさ」  努は不自然に動揺したことを後悔した様子で、無理に笑顔を見せた。 「そのとおり。ただの一ドル札だよ」 「だったら、あわてて隠すことないじゃない」 「あわててなんかいなかったさ」 「ウソ。私が広げてみたらサッと顔色が変わったもん。まさかそれ……」  麻美は斜めに努を見た。 「ニセ一ドル札なんじゃないでしょうね」 「大当たりィ」  努は指をパチンと鳴らした。 「じつはワケありで手に入れたニセ札なんだ」 「やめなさい。そういう出まかせのウソは」  麻美はウンザリした風に首をゆっくりと左右に振った。 「本当にそれがニセ札だったら、そんなにあっさりと白状するわけないわ。それは本物の一ドル札よ。でも何か理由があって、あまり人には見せたくなかったのね。そうでしょ」  田村麻美は整いすぎて人造人間《アンドロイド》のような顔に、 これも人工的な笑みを浮かべて努に迫った。 「おまえはいつから探偵になったんだ」  努は麻美の脇《わき》をすりぬけてベッドから下りた。 「とにかく昼メシを食いに行くぞ。みんなはとっくに揃《そろ》ってるんだろ」  副島努はそう言って、大きなあくびを一つした。      3  台風のために足止めをくらった二百五十人のゲストは、一階の大ホールでバイキング形式によるランチのサービスを受けていた。  大谷浩吉会長は、八丈島という土地柄、万一の天候不順でゲストが予定通り帰京できなかった時の対策をあらかじめ考えていた。それが二百五十人分のランチ・バイキングである。  はじめのうちはスケジュールの狂いに浮き足立っていた招待客も、思わぬ豪華な立食パーティにいつのまにか会話もはずみ、ホールは賑《にぎ》やかな喧騒《けんそう》に満ちていた。  すでにランチがはじまってから一時間が経過している。 「ねえねえ、こういう話知ってる?」  沢田明梨が十人くらいの輪の中心で喋《しやべ》っていた。 「私、こないだパリに行ったんだけど、あそこは結構恐いところなんだって。女の子がお洋服を買おうとしてお店の更衣室に入ったらね、それっきり出てこないことがあるっていうのよ」 「それは香港の話だろう」  伊藤次郎が赤ワインの入ったグラスを片手に話に加わった。 「更衣室で人が消える話は香港が有名だよ。ぼくがきいたのでは、こんな話があります。  日本人の新婚カップルがハネムーンで香港の裏街を歩いていたら、チャイナドレスを仕立てる店があったんですね。それで奥さんが一着作りたいということで、試着室に入ったんです。で、旦那のほうは興味がないから店の外でブラブラと待っていた。ところがいつまでたっても奥さんが出てこないんです。不審に思って店に入り、薄暗い奥にある試着室をのぞいてみたけどモヌケのカラ、誰もいないんです。あわてて店の人間にたずねてみても、相手は広東《カントン》語しか話せない上に、首を横に振って知らないの一点張り」 「結局、奥さんは消えてしまったんですか」  大谷浩吉がブランデーを飲みながらたずねた。 「ええ、新婚わずか四日目にして花嫁が消えてしまったんです」 「それっきり行方不明?」 「一時は旦那もすっかりあきらめていました。ところが数カ月たって見つかったんですねえ」 「どこで」 「タイで」 「タイ?」 「小さな町のサーカスに売られていて、見世物になっていたんですよ」 「やだ……」  明梨が話の展開を予想して口に手を当てた。 「奥さんが見つかったという知らせを受けて、旦那はすぐにタイへ飛びました。そして、最愛の妻と再会したのです。が、妻の姿を一目見ると彼はショックで口も利けない状態になってしまった……。奥さんは両手と両足を……」  ザアッという音を立てて、ひときわ激しい雨がホールの大窓を洗った。 「もうやめて」  明梨が耳をふさいで頼んだので、伊藤は笑ってワインを一口飲んだ。 「じゃあ、ここでやめといてやるけどさ。明梨の知ってるパリの話というのはどういうんだ」 「えーとね。編集長のお話とちょっと似てるんですけど、パリで日本の女子大生が何人も行方不明になっているんですって。表立って報道されたことはないけれど現地では有名なのね。やっぱりお洋服の試着をするためにフィッティング・ルームに入ったきり出てこないわけ」 「彼女たちの行き先はどこです。香港からタイへ売り飛ばされたみたいなことがあったんでしょうな」  会長の浩吉がたずねた。声は深刻だが目は笑っている。 「売られていく先はモロッコだそうです」  明梨が答えた。 「パリとモロッコのマラケシュにはそういった人身売買の地下ルートがあって、麻薬|漬《づ》けで正常な神経を壊されてしまった日本の女子大生が、何人も売春婦として北アフリカで働かされてるっていう話なんです。だから、パリでは女の子一人で試着室に入るのは気をつけたほうがいいの。とくに裏街の小さな店ではね」 「ああ、その話はぼくもきいたことがあるな」  伊藤がうなずいた。 「試着室に入ったら最後、次にお日様を見るのはアフリカの売春宿だっていうヤツね。女子大生が何人もその犠牲になっているというのは有名だもんね」  ふうん、という感心の声が輪の中で起こった。  そのとき、田村麻美がカクテルグラスを手にして、よく通る声で言った。 「皆さんもいい加減な話を鵜呑《うの》みになさるのね」 「あら、これは本当の話よ」  明梨の言葉に伊藤も同調した。 「そうです。作り話でないから恐いんですよ。田村さん」  しかし美人秘書は、チッチッチッと人差指を立てて左右に振った。 「あなた方はフランスの学生の好奇心の犠牲になっているのよ」 「フランスの学生……?」  伊藤がきき返した。 「そうよ。いまから十年以上も前になると思うけど、オルレアン大学で社会学を専攻している学生たちが、噂《うわさ》はどれくらいのスピードで広まるかという実験をしたことがあるの。その時の噂のテーマとして選ばれたのが、いま、話題になっていたパリの更衣室の話だったわけ」 「うそー」  明梨は意外そうな声をあげた。 「嘘《うそ》っていうのは失礼じゃないかな」  その声で明梨がふりむくと、ジュニアの大谷誠が、ブランデーグラスを片手に赤い顔をして立っていた。一目で酔っているとわかる虚《うつ》ろな目をしている。 「まあ、社長。そんなに飲みすぎたらいけませんわ」  話を中断して、田村麻美が誠の手からグラスを取り上げようとした。 「おっとっと」  誠はグラスを持つ手を高くかざした。 「おれは自分で限界を知っているからさ」 「明らかにその限界を超えていますわ」 「なに言ってるんだよ。まだこれで二杯目だぜ」 「いいえ、二杯目でそんなにお酔いになるはずがありません」 「まあまあ……いいじゃないですか、ねえお父さん」  問われた大谷浩吉は、渋い顔で息子をたしなめた。 「いいかげんにせんか。おまえが主役だということを忘れるな」 「大丈夫ですよ。それより皆さん」  誠はずり下がってきた金縁メガネを中指で押し上げ、ゆらゆらと身体を左右に揺らしながら大きな声を出した。 「この田村麻美さんはね、パリの大学に留学していたんだ。フランス仕込みのインテリなんだぞ」 「そんなことはいいですから」  麻美は誠を睨《にら》んだが、まんざらでもない表情だった。 「いやいや、なにしろこの人の知識は広範囲にわたって詳しいからね。いまの話もぼくはだいぶ前に聞かされていた。噂の伝播《でんば》力は強大で、フランス国内はもとより世界中にそれが広まってしまったわけだ。更衣室の犠牲者もフランスの女性だったものが、日本に上陸した噂では日本人女子大生となるんだからね。まあ、社会心理学の考察としては非常に興味深いものがあるな。これは『オルレアンの噂』といってね、パリではこの実験に関する本も出版されているそうだ。それでこの田村くんはね……」  そこまで言ったときに誠の身体がグラッと傾いて、ブランデーグラスから琥珀色《こはくいろ》の液体がシャツにこぼれ落ちた。 「ほらほら、やっぱりお酔いになってるわ」  麻美がふらつく誠に肩を貸した。 「人前で醜態を見せんうちに部屋に引き取らせたほうがいいな」  大谷浩吉は周囲の目を気にしながら、小声で秘書の麻美に囁《ささや》いた。 「わかりました。じゃ、社長、こちらへ」  目立たないように腕をとって、彼女は大谷誠をエレベーターの方へ誘導した。 「あら、あなた具合が悪いの」  芽里がその様子を見て近づいてきた。 「おれ、こんなに酒が弱かったかな」  ずり下がったメガネの上から、充血した目で妻の芽里を見てつぶやいた。 「ゆうべサングリアを飲みすぎたのが、いまになって効いてきたのだろうか」 「とにかく部屋へ戻ったほうがいいわ」  芽里が手を貸そうとするのを、田村麻美が笑顔でさえぎった。 「あ、奥様はお洋服が汚れるといけませんから、私がお連れします」  洋服は、グリーンのワンピースを着た芽里に対し、麻美のほうがよっぽど汚れやすい白いワンピースだった。  誠も妻に手を貸してもらう気はまったくなさそうである。  気まずい雰囲気で三人はエレベーターに乗った。  三〇六号室の前まで、麻美がずっと誠を支えて先を行き、その後ろから芽里がついていった。 「奥様、部屋の鍵は」  ドアのところで秘書が社長の妻をふり返った。 「主人が持っているはずよ。鍵は一つしかないから」  このホテルではツインルームでも鍵は一つしか出さないことになっていた。 「おれの……ズボンの脇《わき》ポケットだ」  ろれつの回らない声で誠が答えた。 「こっち側ですか」 「ちがう、反対側。左のポケットだ」 「え、ありませんよ」 「もっと下のほうにあるだろ」  大谷芽里は、秘書が夫のズボンのポケットを奥深くまさぐっているのをじっと見つめていた。 (もしかしたら、あの子は夫のあそこに触れているかもしれないわ。いえ、そういう経験があるからこそ、平気でそんなことをさせられるのね)  芽里の瞳が憎悪で光った。 「ああ、ありましたわ。ちょっと待って、いま開けますから私の肩につかまっていて下さいね」  麻美は片手でドアに鍵を差しこんで開けた。 「ああ、いい匂《にお》いだ。きみは香水、何つけてるの。シャネル?」  誠は秘書のうなじに鼻を寄せてたずねた。 「きょうはゲランです」  答えながら、麻美はちらと横目で芽里の反応を窺《うかが》うような姿勢をみせた。  麻美がドアを半分開けて、大谷誠を抱《かか》えるように入れたところで、妻の芽里が声をかけた。 「じゃあ田村さん、あとの面倒は見てやって下さいね」 「え?」  秘書は意外そうな顔をして、その場に立ち止まった。ヒップでドアが閉まるのを支える一方で、大谷誠に肩を貸している窮屈な格好だ。 「私が面倒を見るより、あなたがしてあげたほうがこの人喜ぶわ」  ブレスレットをいじりながら、大谷芽里は敗北感を必死に隠した声で言った。 「じゃ、よろしくね」  そういうと芽里はくるりと踵《きびす》を返した。      4  午後二時。  台風は八丈島を通りすぎ、ようやく雨も風もおさまってきた。バイキング・ランチをはじめてから二時間がたち、天候回復の見通しもついたので、そろそろお開きにしようかということになり、最後に大谷誠新社長の挨拶《あいさつ》でしめることになった。 「一時間も横になったんだからもうアルコールも抜けただろう。誠を呼んでくれ」  大谷浩吉会長の命令で田村麻美が呼びに行ったが、ほどなく困った顔で戻ってきた。 「ノックをして声をおかけしたんですが、ぜんぜんご返事がありません」 「芽里君、君が行って起こしてきなさい」 「でも鍵が……」  そう言って芽里は秘書の顔を見た。 「ごめんなさい。鍵は社長のお部屋の中に置いたままなんです」  麻美は人工的な美人顔を少し曇らせた。 「ドアは全部オートロックだからな……マスターキーで開けるしかないんじゃないですか」  副島努が投げやりな調子で言った。 「とりあえず内線電話をかけて起こしてみろ」  麻美よりも早く、総務部長の山崎が近くの電話のダイヤルを回したが、受話器を耳に当てたまま眉《まゆ》をひそめた。 「やっぱりお出になりません」 「よし、山崎君。フロントでマスターキーを貰《もら》ってくれ。いつまでも客を待たせておくわけにもいかん」  そう言いながら、浩吉はしだいに深刻な表情になっていった。 「何を騒いでいるの」  副島悦が鬢《びん》のほつれを撫《な》でつけながら会話に加わったが、大谷誠社長の返事がないと聞いて顔色を変えた。 「それはすぐに見に行ったほうがいいわ」  慌《あわ》ただしい様子で山崎総務部長がマスターキーを持って戻ってきた。 「よし、三階へ行こう」  浩吉会長が椅子から立ち上がった。  彼を先頭にして、大谷芽里、田村麻美、副島努、山崎総務部長、久米広報部長、そしてしんがりに副島悦がつづいた。 「おい、アレを見ろよ」  伊藤次郎が沢田明梨の肘《ひじ》をつついた。 「幹部一同が青い顔をして上がっていくぜ」 「何かあったのかしら」 「あったんだろうな」  伊藤は左手で顎鬚《あごひげ》を撫で回した。 「いま、総務部長がマスターキーを持っていったろ」 「え、ほんと」 「もしかしたら大谷誠新社長が部屋で倒れたのかもしれないぞ。さっきの様子はどうみてもおかしかったからな」 「………」 「明梨、こいつは特ダネになるかもしれない。おれたちもこっそり三階へ行くんだ」  伊藤はグラスを置いて明梨の手をひっぱった。  大谷誠と芽里夫妻にあてがわれた三〇六号室の前に立ったときから、そこに集まった人間は一様に顔をこわばらせていた。  部屋の中で何かが起きている——。  その異変が、ぴったり閉ざされたドアから染み出してこちらに漂ってくるようだった。 「山崎さん……あなたが開けて下さい」  芽里はいったん手渡されたマスターキーを震える手で総務部長に返した。 「ちょっと待て、もう一度ドアをノックしてみよう。案外疲れて寝ているだけなのかもしれない」  大谷浩吉がつとめて楽観的な意見をつぶやくとドアを叩いた。 「おい誠、中にいるのか。いるんだったら返事をしろ、誠」  父親は息子の名前を何度も呼んでドアを強く叩いた。  だが、やはり返事はなかった。 「外に出かけたということはないだろうな」  浩吉会長は何とか希望を見出そうとしていたが、自分の意見を自分で否定した。 「いや、この天気の中をどこかに出かけたとも思えんしな」 「おれが開けますよ」  副島努がぶっきらぼうに言って、山崎からひったくるようにマスターキーを奪った。  誰かがゴクンと喉を鳴らした。  副島悦がしわがれた空咳《からせき》を一つした。  カチリと音を立ててロックが外れた。  副島努は肩で大きく息を吸いこむと、一気にドアを押し開けた。  まず、空っぽのベッドが目についた。ベッドで死んでいる姿を無意識に想像していた一同は、とりあえずホッと緊張をゆるめた。 「社長、いらっしゃいますか。社長」  ベッドの脇《わき》のところに化粧台がある。その鏡に、心配そうな顔をしている彼らの姿が映し出された。  努はちらとそっちに目をやってから、入ってすぐ左手のバスルームの扉を開けた。 「社長、いらっしゃ……」 「どうしたの、努」  言葉を呑みこんだ弟の様子に、芽里が駆け寄った。  バスルームの中を見た。叫び声をあげた。 「どうしたんだ」  大谷浩吉会長が二人をかきわけて前に出た。 「誠!」  腹の底から絞り出すような声を出した。  大谷誠は水をいっぱいに張った洋式のバスタブの中に、服を着たまま上半身をあおむけに突っこんだ状態で死んでいた。  嘔吐物《おうとぶつ》で濁《にご》った水の中から、灰色のベールをかぶった大谷誠の瞳が父親を力なく見返していた。 「誠! しっかりせんか、誠」  父親は腕まくりもせずにバスタブの中に両手を突っこみ、息子の身体を引き上げた。  ザーッという水音とともに上がってきた大谷誠の顔に、生命のしるしはかけらも見えなかった。 「努君、ボヤッとするな。救急車だ、救急車を呼べ」  浩吉は半泣きだった。  副島努は唖然《あぜん》としている姉の芽里を押しのけて、ベッド脇の電話へ走った。 「社長……」  田村麻美がわなわなと唇をふるわせ、両目にいっぱいの涙を浮かべていた。それでも彼女の泣き顔は人間味に欠けていた。 「誠、誠、死ぬんじゃないぞ、誠、何か喋《しやべ》ってくれ、誠」  目は開いているが、もはや大谷誠の瞳は父親を見ていなかった。  父親ががっくりとのけぞった頭を抱え起こすと、誠の口からほとんど未消化のパンの固まりがボッタリとこぼれてバスタブに落ちた。 「何だ、これは」  大谷浩吉は狂ったように息子の口の中に手を突っこんだ。  たっぷりと水を吸いこんでふくれあがった白や茶色のパンの固まりがいくつもいくつも出てきた。 「山崎、久米、くるんだ、早くきてくれ」  完全に浩吉の声は上ずっていた。  茶坊主の部長二人が、顔面を蒼白《そうはく》にしてバスルームへ飛びこんできた。 「ひどいな、おい、ひどいじゃないか。こんなに喉《のど》の奥までパンが詰まって……可哀相に」  帝王と恐れられた大谷浩吉会長の頬に涙が伝わるのを見ながら、二人の部長は急いで新社長の遺体を横たえるのを手伝った。  遺体——すでに二人は大谷誠に蘇生《そせい》の見込みがないことを見てとっていた。 「会長、私が喉に詰まったものをお取りして差しあげますでございます」  広報部長の久米が腕まくりをして、誠の口の中に指を突っこんだ。 「おい、山崎」 「はっ」 「おまえ、心臓マッサージを知らんか」 「はっ」 「じゃ、すぐにやってくれ」 「いえ、知らないのです。すみません」 「早くやってやれ」 「申し訳ございません、会長。私は心臓マッサージを知らないのです」 「早くやってやらないと誠が死ぬじゃないか」  大谷浩吉は陽焼けした顔を歪《ゆが》めて泣き出した。もう彼は他人が言っている意味を正しく理解する余裕がなかった。 「会長、すぐに救急車がきます」  電話を終えた副島努はそう報告したが、彼は同時に、一一九番に対して警察への連絡も依頼していた。 「姉さん」  努はロウ人形のように青ざめて動かない大谷芽里の肩をつかんだ。 「姉さん」  もう一度呼びかけて初めて、芽里は弟のほうをふりむいた。 「ああ……」  ため息が紅の褪《あ》せた唇から洩《も》れた。 「努……」  弟は姉の両肩をしっかりとつかんだ。姉の顔に年齢以上のシミやソバカスの多いことを、いまさらながらに努は気がついた。 「死んだのね」  芽里は、祖母にあたる副島悦が震える両手を合わせて念仏を唱えている姿を、視野の片隅でぼんやり見ていた。 「死んでしまったのね、あの人は」 「ああ」  努は短く答えた。  ウウッと言ってこらえきれず泣き出す者がいた。  社長秘書の田村麻美が、床に膝《ひざ》をついて肩をふるわせていた。      5  八丈島に上陸した台風は、その後勢力をやや弱め、関東直撃コースから進路を大きく東へ変えた。  フレデリック・ニューマン刑事と烏丸ひろみ刑事を乗せたジェットヘリが八丈島空港へ到着した時には、台風一過の青空が顔を見せはじめていた。しかし風はまだ強く、一般旅客機はもうしばらく離着陸を見あわせている状況だった。  空港ロビーは本来なら出発待ちの客で大混雑になっていて然《しか》るべきだった。それがこの程度ですんでいるのは、ワールド・リゾートクラブの招待客二百五十人あまりが、大谷誠の急死で現地に足止めをくっていたからである。 「ジェットヘリに無線連絡申しあげましたとおり、調べなければならない事件がまた一つ増えました」  出迎えにきた八丈署の源朝三《みなもとちようぞう》警部は、フレッドたちをパトカーに案内しながら、挨拶もそこそこに切り出した。 「はっきり申しあげて、大谷誠社長の死は九十九パーセント他殺でしょう。泥酔して溺《おぼ》れたとするには無理がある。現場の状況を鑑《かんが》みるに、自殺や事故死はありえんのです」  源警部はパトカーの助手席で腕組みをしたままもったいぶった口調で言った。  映画俳優の三船敏郎にそっくりだと島内で評判なのを自分でも意識してか、喋り方や立ち居振る舞いがいちいち重厚なのである。  本庁からきたとはいえ、若手刑事の二人に対してもかしこまった言葉づかいをする。そうしないと喋りに調子が出ないようだった。 「すでに現場検証及び検死をすませておりますので、むこうに着き次第、係官より詳細にわたるご報告を申しあげる予定です。ところで」  源警部は陽焼けしたシブい顔を後部座席の二人にむけた。 「八丈島は初めてですかな」 「はあ」 「はい」  フレッドとひろみはシートに背をあずけたまま力のない返事をした。  ジェットヘリで乱気流にさんざん揉《も》まれた恐怖の体験で、二人ともすっかり酔ってしまったのである。 「この先、左へちょっと入ったところにありますのが服部屋敷《はつとりやしき》。江戸幕府御用船預り役服部家の屋敷があったところなんですな。いまは石垣しか残っとりません。要は服部屋敷跡[#「跡」に傍点]なんだが、ガイドブックにも島の案内板にも�跡�の字は一つも出とらん。だから島を訪れる観光客の皆さんは武家屋敷でもあるのかと勘違いされてきて、現場を見てあららということが多い。現場へ上っていく小路のところまでは�服部屋敷�の表示になっていて、石垣がポツンと残っているところで初めて�服部屋敷跡�と�跡�の字の入った案内板が出てくる。こりゃちょっと不親切というか何でしてね。お客さんもだまされた気分になる。ガイドブックから案内板まですべて�服部屋敷跡�とすべきだと役場にも言っとるんですがね」  源警部は職業柄、観光名所のことまで現場という言い方をして熱心に案内をはじめたが、フレッドとひろみはそれどころではなかった。胃からこみあげてくるものをこらえるのに懸命である。  源警部は二人が観光案内に興味を示さないので、話題を事件のことに戻した。 「ところで大谷誠の死に方ですがね、ワールド・リゾードクラブでは正午から前夜のパーティの招待客のためにバイキングの昼食をはじめていた。午後一時ごろになって、どうも誠が飲みすぎて酔っ払ったようなので、秘書の田村麻美という女性が付き添って部屋へ送り届けた。  二時になって、お客に対して社長の彼が挨拶をしなきゃならんということになりましてね、呼びに行ったところ返事がない。これはおかしいとマスターキーで部屋に入ったら、水をいっぱいに張った風呂桶《ふろおけ》——いやバスタブというんですか、そこにあおむけに沈んでいた。下半身はバスタブの外に出ていたので、上半身は重しがなくても水面下に沈んだままになっていたわけです。いや、ずいぶんともがき苦しんだでしょうな。水の中に嘔吐物《おうとぶつ》が浮いていましてね」  ひろみは思わず片手で口をおさえた。 「しかし、ちょっと戻した物の量が少ないなと思ったら、口の中にいっぱいパンのかけらが詰まっていたんですよ。どっぷりと水と胃液を吸いこんだパンがね。……おや、どうしました」  源警部は後部座席の二人が顔面|蒼白《そうはく》であることに気がついた。 「すみません」  フレッドがかろうじて薄目をあけた顔で源警部に頼んだ。 「ちょっと車を停《と》めてもらえませんか」  ひろみに至っては声もない。 「ご気分が悪そうですな」  源警部は自分の話が影響しているとも知らずに同情のまなざしを投げかけ、パトカーの運転をしている警官に停車を命じた。  同時に転がるように外へ飛び出した二人を見ながら、源警部は野太い声で明るく言った。 「なあに、お二人とも現場へ行けば気分の悪いことなどすっとびますよ。なんといっても我々|刑事《デカ》にとっては現場が一番ですからな」  さっきまでの荒れ狂った天候が嘘《うそ》のように、青空の真ん中で白い太陽がギラギラと輝きを増しはじめた。 [#改ページ]   ㈽ ブラディ・メリー      1  八丈署に二つの捜査本部が設けられた。平和な南の島では異例のことである。  一つは「登竜峠不明刺殺体事件捜査本部」であり、もう一つが「大谷誠社長変死事件捜査本部」だった。  登竜峠で発見された刺殺体の身許は不明のままだったが、現場近くに落ちていたマッチがWRC八丈島のものだったため、大谷誠社長変死事件と関連して捜査が進められることになった。  そうでなくとも、八丈署に設けられた二つの捜査本部の顔ぶれはほとんど重複していた。八丈署の限られた人員では、メンバーを振り分ける余裕がなかった。  夜八時半から八丈署で二つの事件の合同捜査会議が行なわれたが、フレッドとひろみはそこに財津大三郎警部の姿を見つけて驚いた。 「あれっ、警部。いつのまに」  フレッドが大きな声をあげた。 「いくらなんでもおまえら若いの二人だけでは八丈署に対しても失礼だと思ってな。飛行機も飛びはじめたから、ちょっと顔を出しておこうと……よいしょっと」  財津警部は会議室の長テーブルの端の席にどっかりと座った。いちおう遠慮して末席に座ったつもりなのだが、態度と図体《ずうたい》が大きいので、ドカッと陣どったという印象になった。 「ずるーい、警部。自分だけ天気がよくなってからジェット機で優雅にきちゃって。私たちの乗ったヘリはすごかったんですよ。もう揺れて揺れて」  ひろみは形のいい唇をとがらせた。ふくれっ面《つら》をすると二十五歳という年齢よりずっと幼く見える。八丈署の若い刑事の中には、早くも彼女を意識してそわそわしている者がいた。 「いや、ひろみ、ご苦労だったな。本当は悪天候の中、おまえを行かせるのは心配だったんだが、フレッドの奴《やつ》が一人じゃ怖《こわ》がると思ってな」 「冗談じゃないですよ。八丈島に着陸するまで、十回は墜落を覚悟しましたからね」  フレッドは広い肩幅に怒りを表して抗議した。 「よかったじゃないか、フレッド。十回も死んだ気になりゃ当分怖いものはないぞ。さてと」  財津警部は身体の向きを変えて、テーブルの中央の源警部を見た。 「どうぞ、会議をおはじめになって下さい」  どうぞ、もないものである。本庁からきた三人がすっかり会議の冒頭でペースをかき乱した感じで、源朝三警部は腕組みをしたままブスッとしていた。  が、ひろみの�笑顔でごめんなさい�といった表情に出会うと、源は、まるで孫娘に愛想をふりまかれたように頬をゆるめて議事進行をはじめた。とっつきにくい見てくれのわりには単純な男らしい。 「……そういうわけでありまして、大谷誠社長は明らかに何者かの手によって溺死《できし》させらしめ……あ、いや、溺死せらしめた……いや、おかしいな、こういうときの使役動詞の活用はどうでしたかな。えー、溺死せしめた……」 「殺された、でいいんじゃないですか」  八丈署長にあっさり言われて、源警部は恥ずかしそうに咳払《せきばら》いをした。 「大谷誠社長が何者かによって殺害されたのはほぼ確実なのですが、いかんせん東京からきた招待客の足止めにも限度があると判断し、親族等ごく一部の者を除いて帰京を許可いたした次第でございます。もちろん、全員の連絡先は記録してありますので」 「八丈島に残っている関係者の顔ぶれはどうなんですか」  八丈署長がたずねた。どうも言葉づかいからすると、ここでは源警部の方が古株らしい。 「被害者の父親でワールド・リゾートクラブ会長の大谷浩吉、被害者の妻大谷芽里、彼女の弟で同クラブ常務の副島努、副島努及び大谷芽里の祖母にあたる副島悦、被害者の秘書田村麻美、ワールド・リゾートクラブの山崎総務部長と久米広報部長、以上の七人です。  フロント係などホテルのスタッフは、みな島に住居を構えている人間ですから、特に指示しなくともすぐに尋問が可能です。  その他に、取材にかこつけて『週刊芸能』編集長の伊藤次郎と同記者の沢田明梨が残っています。  十年前にタヒチのボラボラ島で当時専務の副島新吾——悦の息子で、努と大谷芽里の父親にあたる男ですが、彼が水死した事件の第一発見者が沢田明梨なんです。そして、伊藤次郎も一緒でした」 「ほう」  八丈署の署長は興味深そうに口をとがらせた。 「連中のかんたんな事情聴取は終わっておりますので、まずそれに基づいた本事件の概要からお話ししたいと思います」  源警部が立ち上がった。  そのとき、会議室に一陣の風が舞いこんで源の手もとにあったメモを吹き飛ばした。  夜になると八丈署内のクーラーは止められた。すべての窓を開けっ放しにして夜風を入れながらの会議だった。  南の島の夜風は生温《なまぬる》く、気のせいかひろみはその中に甘い花の香りが混じっているのを感じた。  閉め切った部屋での捜査会議になれてしまったひろみにとって、煙草を喫《す》う人間もほとんどおらず、自然の風で涼をとりながらのミーティングは新鮮だった。  源警部はまわりの人間に散らばったメモを拾ってもらい、端をトントンと机の上で揃《そろ》えると、それに目を落としながらラジオの朗読のような独特のリズムをつけて話しはじめた。      2 「とにかくこれはウチの大スクープなんだから、巻頭八ページを空けといてくれ。他にもマスコミ関係の奴らはきていたけど、警察がくるまでのドサクサに紛れて大谷誠の倒れている姿を撮影できたのはウチだけなんだからな」  救急車が到着する前に、伊藤はコンパクトカメラで現場写真を撮ることに成功していた。身内の者は誰もが興奮していて、彼が部屋の中に入ってきたことを咎《とが》める者すらいなかった。  伊藤はホテルの部屋から東京にある『週刊芸能』編集部に連絡をとっていた。その脇には沢田明梨も興奮さめやらぬ顔で座っている。 「おい、明日朝一番の飛行機で明梨を戻すからな。フィルムは彼女に持たせるから、すぐ現像してグラビアに突っこんでくれ。悪いけどネガカラーなんだ。咄嗟《とつさ》のことで、カメラは他人の借り物だったもんでね」  伊藤はタバコをくわえた。  明梨の方に顔をむけた。彼女がライターで火をつけた。  唇の脇でスパスパと喫《す》いながら、伊藤は指示をつづけた。 「それで、一番いいカットを引き伸ばして何枚か焼いてくれ。テレビのワイドショーに売るんだよ。かまわんからほしがるところ全局に売っていいぞ。値段は十分考えろよ。安売りするな。それから�写真提供『週刊芸能』�というクレジットを忘れずに入れさせろ。なに? いいんだよ、そんなことは。クソ真面目に心配するな。編集長のおれがいいと言ってるんだから」  伊藤は受話器を顎《あご》ではさんで、明梨のほうを見た。 「これから原稿を書き飛ばしてファックスでそっちへ送る。ファックスはこのホテルに何台かあるみたいだから。じゃ、いま九時だから明け方までにはぜんぶ送る。よろしくな」  電話を切ると、伊藤はフーッと大きなため息をついた。ノッてるときほど、いかにも大変そうにため息をつくのが彼の癖だった。 「提灯《ちようちん》記事を書きに行ったのに、そんなスクープをやっていいのかだってさ。まったく副編の臆病風は治らないな。タイアップ記事をボツにしたペナルティを払ったってまだおつりがくるくらいのスクープだっていうのに。  さてと、明梨。原稿を書きはじめる前に、頭の中を整理するつもりで記事の流れを喋るから聞いててくれ。おかしいところがあったら言えよ」  伊藤は自室に呼び寄せた明梨をソファに座らせ、自分はベッドの端に腰をおろして話をはじめた。 「大見出しはこうだ。『天国から地獄へ ワールド・リゾートクラブ新社長大谷誠氏、就任記念式典の直後に怪死』。いいか、怪死だぞ。『嵐の八丈島で何が起こったのか』とサブリードをつづける。『起こったのか』より『起きたのか』の方がいいかな。それでバーンと死亡直後の写真が入るわけだ。 『キャーッ、誰かきて……ただならぬ悲鳴で、バイキング・ランチでにぎわっていたWRC八丈島の大ホールは水を打ったようにシンと静まり返った』——どうだ、こういうイントロは。表現が陳腐かな。キャーッてのはねえよな、キャーッてのは。ま、いいや。とにかく風呂の中で大谷誠が溺れているのを家族が発見し、大騒ぎになったところからはじめるんだ」  伊藤は顎鬚《あごひご》をボリボリとかいてつづけた。 「それで『本誌編集長もその叫びをきいてすぐに階段を駆け上がった』とつづくわけだ。 『何かあったな。直感した本誌編集長は、咄嗟《とつさ》に近くの人間が持っていたコンパクトカメラを奪うようにして借り、現場へ走った。三〇六号室で大谷氏は死んでいた。バスタブにあおむけのまま上半身を突っこみ、目をむいて悶死《もんし》した大谷氏の顔が水の中で揺れていた——』  で、大谷誠社長の溺れていた様子を詳しく書くわけだが……」  伊藤は眉をひそめた。 「なあ、明梨。おまえは直接現場を見なかったからわからないかもしれないが、どうも彼の死に方は納得がいかないんだ」 「どういうふうに」  明梨は硬い表情でたずねた。 「ぜんぶで疑問は四つある」 「四つも?」 「そうだ」  伊藤は冷蔵庫から缶ビールを二本取り出して、一つを明梨にすすめた。 「ありがとう。それで疑問点ていうのは?」 「まず、ブランデー二杯程度で彼があんなにヘロヘロに酔っ払うかということだ」 「ああ、あのときのことね。私たちが『オルレアンの噂』で盛り上がってたとき」 「そうだ」 「たしかにゆうべのパーティでの飲み方からすると、ブランデー二杯でああなってしまうのはおかしいわ」 「だろ?」 「でも彼が嘘《うそ》をついていたとしたらどうなの。本当は五杯も六杯も飲んでいたけど、二杯しか飲んでいないと……」 「そんな嘘をつく必要があるかな。第一、いくら大谷誠がボンクラの二代目でも、自分が主役の席で前後不覚になるまで飲むような真似をするかな。しかも昼間からだぜ」 「それはそうね」  明梨はビールを一口飲んでまた考えこんだ。 「第二の疑問点は、犯人がどうやって鍵のかかっている三〇六号室に入りこめたかということだ」 「部屋のドアはオートロックだもんね」 「たった一つしかない鍵は、麻美が証言した通り、三〇六号室の机の上に置いてあった。マスターキーは誰も使用した形跡がない。  となると可能性は三つ残る。一つは、田村麻美が犯人だった場合。彼女だったら介抱するふりをして大谷誠を溺死《できし》させ、何くわぬ顔でキーを中に置いたまま部屋を出ることができた」 「みんなほとんど彼女を犯人扱いしてるみたいよ」 「そりゃそうだろ。警察が身柄を拘束《こうそく》しないのが不思議なくらいだ」 「彼女以外に犯人がいたとしたら、ロックされている部屋に入りこむ方法は何があるの」 「平凡だが合鍵を作っていたという考え方がある」 「なーんだ」 「小説だと平凡すぎて使われないけれど、現実の密室を解くカギは案外こういう方法だったりするんだ」 「でもここのは特殊な電子ロックでしょ。そんなにかんたんに合鍵が作れるの?」 「たとえ難しくたって時間があればできるさ。山崎総務部長のような立場の人間だったら、準備期間もじゅうぶんとれただろう」 「もう一つの方法は?」 「ドアをノックして大谷社長を起こし、殺される当人に鍵を中から開けさせた」 「ガクッ」 「なにがガクッだよ」  伊藤は明梨の頭を軽くこづいた。 「もっと華麗なトリックがあると思ったのに」 「馬鹿言え。現実的な方法を探していくのが真相への早道だ。ドアをノックして開けさせるのだったら、妻の芽里だけでなく誰でもできた方法だ」 「でもあれだけ酔っ払っていたら、ベッドにバタンキューじゃないの」 「そうなると侵入の方法が難しくなる」 「で、あと二つの疑問点があるわけでしょ」 「そうだ」  伊藤はビールを一気にあおってから、フーッと大きなため息をついた。 「どうして大谷誠の口の中に、あんなにたくさんパンのかけらが入っていたんだろう。それから、そもそもなぜ犯人は溺れさせるという方法を選んだんだろう」      3 「ここがこの事件に不可思議な要素をつけ加えている点です」  源警部は力をこめて言った。 「私も刑事生活二十五年の間、いろいろな溺死体《できしたい》を見てきましたが、口の中にパンがいっぱい詰まった死体というのは初めてです」 「パンを食べているときに襲われたわけでもないのにね」  ひろみがつぶやいた。 「ねえ、フレッドはどう思う?」 「急にこっちへ話をふらないでよ」  フレデリック・ニューマン刑事は青い目をくるっと動かした。 「だって、あなたパン食民族でしょ」 「わては日本人だす。何回言ったらわかるの」  金髪をゆさぶってフレッドは抗議した。 「あ、そうだった。ゴメン、つい」  ひろみ舌を出した。 「毎朝、味噌汁《みそしる》と海苔《のり》とあたたかいご飯、それにお新香が出てこなくちゃ一日がはじまらないんだからね。パンの朝メシなんて、パサついちゃってダメ」 「ほーお」  源警部が珍しいものでも見るようにフレッドを眺めて言った。 「ついでに納豆もどうです」 「納豆だけはあきまへん。ぼくは関西生まれなもんで」 「こりゃ驚いた。外人さんなのに一人前の理屈ですな」 「だからあ!」  フレッドは机を叩《たた》いた。 「ぼくはガイジンじゃありません。日本人です」  フレッドは、もうイヤになるほど繰り返してきた説明をまたここでしなくてはならなかった。 「ぼくは日本生まれの日本育ち、れっきとした日本国籍を持つ日本人です」  ふーん、というため息があちこちで洩《も》れ、フレッドをチラチラ見ながら私語を囁《ささや》く声が高くなった。  これではまるで江戸時代、長崎に通商に来航した南蛮紅毛人を囲んで見る武士之図、である。 「ぼくはそもそもガイジンというコトバが大キライです。ガーイジーンて何のことでーすかーあ」  フレッドはネイティヴの日本語が話せるくせに、わざと街角宣教師風のアクセントで抗議した。 「あなたたちの言うガイジン、金髪で白い肌の人のこと、ほとんどですねえ。中国や韓国の人に対して『ガイジン』言いませんねえ。ベトナムやフィリピンの人にむかっても『ガイジン』言いませんねえ。それぞれ『中国人』『韓国人』『ベトナム人』『フィリピン人』、こう言います。黒い肌の人に対しても『ガイジン』使いません。『黒人』言います。ところが、白人には『ガイジン』しか言わない。たとえば『アメリカ人』なんて言い方、ほとんど使いませーん。どーしてでぇすかあ。日本国籍以外の人がガイジンかというとそうでもない。『ガイジン』のコンセプト、とてもハッキリしません。はっきりしてない呼び名で呼ばれるのイヤでーす。ぼくのガイジンの友だち、みなそう言いまーす」 「フレッド、おさえておさえて」  ひろみが脇《わき》から彼の袖《そで》をひっぱった。 「すみません。ほんとにカレ、外人扱いされるのがキライなんです」  ひろみが代わりに謝った。 「さあ、フレッド、本論に戻って」 「どこまで話したっけ、そうだパン食——じゃなかった、死体の口にパンがいっぱい詰まっていたことだね」 「そうよ」  パン食民族なんてよけいなことを言ったから脱線してしまったのだ。ひろみはじっと黙ってフレッドの言葉を待った。 「なぜパンが口の中に詰められていたかを考えることも大切ですけど」  フレッドは立ち上がって、あたりをぐるりと見回した。大柄なだけにその動作一つとっても迫力があった。 「そのパンがどこから持ってこられたのかも重要なポイントです」 「なるほど」  財津がオーバーにうなずいた。 「それは盲点だったな。パンなんてどこにも転がってそうで、実際はそうでもないからな。もしも殺人の小道具としてパンが必要だったら、犯人はわざわざそれをバイキングのテーブルから持ってきたのかもしれない」 「バイキングに出したパンの種類をコックにたしかめる必要があります。それと、死体の口に詰められていたものとを比較するんです」 「なーるほどな。さすがフレッド、パン食……いや、米食民族のわりに、よくそういうところに気がついた」  財津はきわどいところでフレッドの抗議を受けずにすんだ。 「さて、もう一つの疑問は」  源警部が必死に自分のペースを取り戻そうとして声を張りあげた。 「そもそも、なぜ犯人は溺殺《できさつ》という方法を選ばなければならなかったかという点です」  捜査本部と伊藤次郎の着眼点はほぼ一致していた。 「手で首を締めたんではその際の扼痕《やくこん》から犯人がバレてしまうと思ったんではないでしょうか」  八丈署の若い刑事が意見を出した。 「刺殺という方法では返り血を浴びる危険性もあるしな」  中年の刑事がそうつぶやくと、ひろみはハッと何かに思い当たった顔をした。 「電気コードか何かを使って絞殺する手もあったはずだ」  と別の刑事が言った。 「こういう考えはどうですか」  フレッドが笑顔を見せて言った。  捜査会議で発言のたびに白い歯をこぼす金髪の青年を見て、八丈署の刑事たちは、やっぱりこいつはガイジンじゃないか、という顔をしていた。 「たまたまガイシャがバスルームに行ったとき、犯人は殺すならいまだ、と思った。そうなると方法は溺《おぼ》れさせるのが一番てっとり早い」 「そうかな、フレッド」  ひろみが反論した。 「フレッドの言い分だと、最初からバスタブに水が入ってなきゃおかしいでしょ。でも洋式のバスは日本のお風呂と違って、使うたびに栓《せん》を抜くから、バスタブに最初から水が張ってあったという前提はおかしいんじゃない?」 「そんなことはないよ」  フレッドは手のひらを上にむけてアピールした。 「これから風呂に入ろうと思ってお湯を出す。そろそろいっぱいになったかなと見にいく。そこを後ろから……」 「ねえ、待ってフレッド」  ひろみがさえぎった。白桃色のきれいな頬《ほお》に赤味がさした。 「源警部、現場のバスルームですけれど、壁や天井にお湯の飛び散った跡はありました?」 「それは当然です」  メモを見ながら源警部が答えた。 「バスとトイレが一つ所にある設計なんですが——どうも私はこういう配置は好かんですな。便器を見ながら風呂に入るというのは——まあ、いい。で、便器のほうにも、それからバスルームの床にもかなりの量の水が飛び散り、壁や天井まで水|飛沫《しぶき》の跡がありました。かなりガイシャも抵抗したんでしょうな」 「そこなんです」  ひろみは下唇をかんでぷるんと弾いた。 「さっき返り血の話が出ましたよね。刺し殺すという方法をとると返り血を浴びる危険性がある、と。  でも、それは溺れさせようとする際にも同じことが言えるんです。この場合は返り血じゃなくて、犯人は全身に大量の水を浴びるおそれがあります」  うーん、と八丈署長が唸《うな》った。 「そこまで犯人は考えずに大谷誠をバスタブに沈めたのかもしれません。もしそうだとすると、犯人の衣服はびしょ濡れになっていたはずです」 「そりゃそうだ」  財津が、ひろみの発言を我がことのように胸をそらして言った。 「どうですか、源警部。大谷誠が部屋に引き取った午後一時から死体発見の午後二時までの間に、衣服を濡らしてパーティ会場へ姿を現した者、または着替えをした者はいなかったでしょうか」 「服のことまではね、チェックしていませんでしたな」  源は正直に答えた。 「ホテルに残っている関係者についてだけでも、このことは早急に調べましょう」 「仮に犯人が水飛沫のことを計算に入れたとしたらどうでしょうか」  ひろみが新しい仮定を提示した。 「レインコートでも着て殺人をするかね。しかし、これじゃまるでサスペンスドラマだな」  財津警部が顎《あご》に手をやって考えこんだ。 「ひろみはどう思ってるんだ」 「服が濡《ぬ》れないように何かを羽織《はお》っていたのではなく、逆に服を脱いでいたとしたらどうでしょう」 「なに!」  財津だけでなく、捜査員全員が一斉に彼女の顔を見た。 「大谷誠をバスタブに沈めるとき、犯人が裸だったら服を濡らす心配もありません」 「しかしね、彼女」  八丈署の中年刑事がひろみのことをこう呼んだので、文字通り�彼女�はムッとした。 (よく喫茶店なんかでウエイトレスのことを�カノジョ�って呼んだり、一般の会社でも上司が部下の女の子を�ちょっとカノジョ、これコピーとってくれない�とか言ったりするらしいけど、最低ね、この呼び方。失礼もいいとこだわ)  ひろみの心の中を知るはずもない中年の刑事は、捜査一課の美人刑事に対して、ただ若いというそれだけの理由で小馬鹿にした物の言い方をした。 「いくらガイシャが酔っていたからって、目の前で突然服を脱ぎ出したら何事かと思って騒ぎ出すんじゃないかね」 「それはそうでしょうね。でも、服を脱ぎ出しても不思議には思わなかったであろうと推測される人物が二人だけいます」 「誰だね」 「大谷芽里と田村麻美です。前者は被害者の妻だから当然ですし、後者は被害者の秘書をしていましたが、すでに男女の関係を結んでいる愛人でもあります。この二人だったら、大谷誠の前で裸になったとしても少しも不自然ではありません」      4 「無念だ……。何度考えても無念だ」  大谷浩吉は三階のロイヤル・スイートルームの三〇二号室で頭を抱《かか》えていた。  三〇一と三〇二は、中でドア一枚を隔てたつづき部屋《スイート》になっていて、三〇一号室がベッドルームを兼ねた三十畳ほどのプライベート・スペース、三〇二号室はファクシミリやコピー機も備えた二十畳の事務スペースとして使われていた。  三〇二号室はいわば会長の仕事部屋だった。 「誠、なぜ死んだ!」  叫ぶと壁を拳《こぶし》で殴りつけた。 「私のあとを継いでこれから事業を発展させようというときに、なぜ死んだ」  頭をかきむしった。 「紅茶でもいかがでしょうか」  ルームサービスで取り寄せた紅茶を田村麻美が恐る恐る持っていった。 「そんなものいらん」  麻美のほうも見ないで大谷浩吉はティーカップを手で払った。 「いやっ」  麻美が思わず短く叫んだ。熱い紅茶の飛沫《しぶき》が彼女のワンピースにかかった。大谷会長は知らん顔である。  副島努はその様子を見ていたが何も言わなかった。じゅうたんに転がったティーカップを拾うのを手伝おうともしない。だが、麻美を見る目つきに少し同情の色があった。  麻美は泣き出した。  大谷誠への慕情がせきを切ったように溢《あふ》れ出たのか、会長の振る舞いにショックを受けたのか。ともかく、とりすました顔しか人に見せなかった彼女が、見苦しいほど顔をくずして泣き出した。 「君にそうやって泣く資格があるのかね」  総務部長の山崎が苦虫をかみつぶしたような顔で吐き捨てた。 「いろいろと君の行状については奥様から伺っていたんだ」  その言葉で麻美は大谷芽里を見た。  芽里はふだんから蒼白《あおじろ》い顔をますます蒼白くして、窓際に立ってホテルの外を眺めていた。外といっても、もう十時過ぎである。月明かりに照らされた亜熱帯植物のシルエットしか見えない。意図的に麻美と顔を合わさないようにしているのは明らかだった。 「こんなことなら、社長の介抱を君などに任せず自分がちゃんとすべきだったと、奥様はひどく後悔してらっしゃるのだぞ」 「それじゃ、まるで私が……」  田村麻美が叫んだ。 「まるで私が社長を殺したみたいな言い方ではありませんか」 「じゃあ違うのかね!」 「ちょ、ちょっと山崎君。それは言いすぎですよ、君」  広報部長の久米が手で制したが、山崎はきかなかった。 「社長が事故死でないことは確実だ。皆さんも見てのとおり、口の中に詰められたパンがそれを物語っている。泥酔した社長がパンを食べながらバスルームへ行き、そこで転んで溺れたなんてことは到底考えられない。  しかも、我々が三〇六号室の前に集まったとき、そのドアは固く閉ざされていた。当然だ。部屋はドアを閉めれば自動的に内側からロックされるのだからな。鍵は田村君、君が言ったとおり社長の部屋に置きっ放しだった。そうなると、君が出たあと、いったい誰がドアを開けられたかね」 「そんなこと私にきかれたってわからないわ」  麻美は激しく首を左右に振った。 「教えてやろう。誰もできなかったのさ。マスターキーはフロントで保管されたままだった。これはフロント担当の三人が口を揃《そろ》えて言っている。部屋の窓は転落事故防止のため、ある一定角度以上は開かないようになっている。仮に開いたって、何の足がかりもない三階の外壁では、隣の部屋へ伝って行くのすら無理だ」  山崎は田村麻美の真正面に立って、彼女を睨《にら》みつけた。 「さあ、どうだね、田村君」 「どうだね、とは?」  涙を手の甲で拭《ぬぐ》いながら、麻美は必死に強気の姿勢を見せた。 「強がりはやめなさい。いいかね。会長の落胆ぶりは我々としても見るに忍びない。お気の毒に、社長のご遺体は解剖のため飛行機で東京へ運ばれてしまったから、通夜も何もあったもんじゃない。会長も社長夫人も、今夜はとてもそんな儀式めいたことはする気になれないとおっしゃっている」  山崎はそこで表情を和《やわ》らげて、悟すように言った。 「隠したっていずれはわかることだ。君の他に社長を殺した人間がいると思うかね」 「思うね」  意外な声に山崎は驚いてふりむいた。  声の主は常務の副島努だった。 「山崎、君なら社長を殺すことができたかもしれない」 「何をおっしゃるんです、常務!」 「君だったら何カ月も前から合鍵を準備しておくことができた」 「ご冗談はおやめ下さい」  笑顔をとりつくろったが、山崎のこめかみには青筋が浮いていた。 「今回、部屋割りを決めたのも君だ。前もって三〇六号室の合鍵を作っておいて、社長夫妻の部屋をそこにすれば、君はいつだって出入り自由だ」 「常務、お言葉を返して申し訳ないのですが、仮に推測で物をおっしゃるにしても、言ってよいことと悪いことがあると思います」 「そのセリフはそのまま君に返すよ、山崎部長」 「努」  大谷芽里がむき直った。 「あなた、その女の味方をするの」 「さあ、どうかな」 「あなたまでその女にだまされるなんて、姉さん耐えられないわ」 「奥様」  田村麻美は怒りをこめた目で芽里を見た。 「何をおっしゃろうと勝手ですけれど、私は絶対に社長を殺していません」 「でも、あなたと社長は三〇六号室で二人きりになったのよ。それっきりあの人の生きている姿を見た者は誰もいないのよ」 「ええ、わかっていますわ。それはたしかにそうです」 「それでもあなたは白《しら》を切るのね」 「何度言ったらわかるんですか」 「何度言われてもわからないわよ」  二人の女は憎悪の火花を飛ばした。 「もうよしてくれ」  大谷浩吉はソファに背をあずけて大きなため息をついた。 「私は血圧が高いのは皆もよく知ってるだろう。胸がドキドキする。もうこれ以上、私を興奮させないでくれ」 「はっ」  山崎がかしこまって一礼した。  それを久米は軽蔑《けいべつ》の眼差《まなざ》しで見ていた。 「水をくんできてくれんか」 「あ、お薬の時間でございますね。それではただいま」  久米は腰を二つ折りにした姿勢のままで、グラスに水をくんできた。 「どうぞ、会長」  大谷浩吉は医者から処方してもらっている降圧剤を飲んだ。高血圧を治療中の彼にとって、それは常備薬のようなものだった。 「もう皆さん、めいめいの部屋に引き取ったほうがいいわね」  副島悦が、その場の気まずい雰囲気をとりつくろうように言った。 「会長もあちらのベッドルームでやすまれたほうがよろしいでしょう」 「ああ、そうしましょうか」  さすがに大谷浩吉も年配の悦に対しては一目《いちもく》置いた態度をとっていた。  彼がベッドのある三〇一号室へ引き上げたのを機に、その他の者もなにか中途半端な気持ちをひきずりながら、三〇二号室のドアから外へ出た。  一番最後に出たのは副島悦だった。 「会長、ここの仕切りのドアはどうしましょうか」  悦は、三〇一と三〇二をつなぐコネクティング・ドアを指した。 「そこは閉めといてもらえますか」 「承知致しました」  悦は仕切りのドアを閉め、皆と同じように三〇二号室側からスイートルームを出た。  オートロックがかかるカチリという音をたしかめると、副島悦はエレベーターの方へ歩いていった。  午後十時二十分だった。      5 「どう、原稿すすんでる?」  沢田明梨がベッドの上から伊藤に声をかけた。  明梨は白いサンドレスにショールをひっかけ、白いサンダルをはいたまま伊藤のベッドにうつぶせになって週刊誌を読んでいた。  十年間も一緒に伊藤と仕事をしてきたので、部下と編集長といった改まった関係はない。かといって、男と女の仲になっているわけでもない。  すっかり気を許しあった友だちというのが彼らの関係を一番正しく表現していることになるだろう。一応、表面上は……。  伊藤編集長は三十九歳、独身である。四十を目の前にしてまだ独身というのが、明梨は少し気にかかっていた。  彼に好きな女がいたのは知っている。他でもない、自分と同じ呼び方の名前を持つ大谷芽里である。ただしずいぶん昔の話だ。  芽里が大谷誠と婚約する一年前、まだ副島の姓であった頃、伊藤と彼女は恋人同士だった。ダイビングが共通の趣味で、それをきっかけに知りあったらしい。  ところがやがて芽里のほうから離れていった。大谷誠の猛烈な求愛を受け、二人の男を天秤《てんびん》にかけた結果である。  十年前、取材でボラボラ島を訪れた伊藤次郎は、偶然にも昔の恋人に出会った。実業家の一人息子と婚約して幸せそうな芽里と。  運命の皮肉である。  ボラボラ島ではホテル・ノアノアという海上バンガローに泊っていたが、芽里と出会ってからの伊藤は、同行した沢田明梨ともあまり口を利かなくなり、毎晩遅くまでヤケ酒を飲んでいるようだった。彼のバンガローは夜明けまで明かりがついていたし、朝起きて伊藤と会話を交わすと、ムッとするほどアルコールの匂《にお》いが漂った。  いまとは違う、もっと新鮮な気持ちで、当時二十歳の明梨は青年編集者の伊藤に好意を持っていた。  だから、昔の恋人に出会い動揺する伊藤を見るのがつらかった……。 「さてと、前半の原稿はできたぞ」  伊藤が原稿を投げてよこしたので、明梨の回想はそこで破られた。 (この人は、過去の恋人にふりかかった不幸をどういう気持ちでとらえているのだろう)  明梨は、タバコに火をつけて気持ちよさそうに缶ビールを飲み干す伊藤の横顔をちらっと見やり、それから原稿に目を落とした。  ホテル一階のロビーでは、ソファに身を沈めてマンガ雑誌を読んでいた八丈署の高橋巡査が大きなあくびをした。  時計を見ると、まもなく深夜の一時四十分になるところだった。  退屈な任務だった。  大谷誠の死に不審な点があるというので、親族がこのホテルに残され、明日からの本格的な事情聴取に備えることになった。彼らに何か変わったことがあるといけないので、いちおう一晩警備についておけというのである。 「いちおう」とか「念のために」という形容のつく任務ほど張りあいのないものはない。しかも、夜どおしの警備なのに話し相手はいない。八丈署に珍しく二つの捜査本部が設置されたので、よけいな人数がさけなかったのである。 「とりあえず巡回でもするか」  高橋巡査は独り言をつぶやくと、マンガ雑誌をテーブルに置いてソファから立ち上がった。  二百五十名余りの宿泊客で賑《にぎ》わっていた昨夜とはうってかわって、WRC八丈島のホテルは静かだった。高橋巡査は一階から見回りをはじめることにした。  ロビーからフロントの脇《わき》を通ると宿泊客以外立入禁止区域になり、その廊下をしばらく行くとサービスセンターと名づけられた部屋があった。  サービスセンターの中には、宿泊客が利用できるようにコピー機とファックスが備えられてあった。もちろん有料である。  ファックスは受信は無料だが送信は有料ということになっていた。本来なら受信時に消費されるロールペーパーの代金も無視できないのだが、それはサービスということになっていた。  高橋巡査がちょうどその前を通りかかったとき、リリンと電話のベルが短く鳴り、つづいてカタカタとファックスが通信用紙を吐き出す音がした。  サービスセンターのドアはガラスが使われていないので中の様子はわからなかったが、人がいる気配はなかった。  なんとなく気になって高橋巡査はそのドアを開けた。  電気は二十四時間つけっ放しになっているらしい。あかあかと灯った蛍光灯の下で、ファクシミリが非常にゆっくりとした速度でロールペーパーを吐き出していた。 (何を送ってくるのかな)  高橋はなにげなく目をやった。 (なんだ、マイホームの新聞広告か)  たぶん新聞広告の複写《コピー》だろう。網点の目立つ写真広告が吐き出されている。 �大きな生活 大きなゆとり� �ようこそニュータウンへ� �快適な住まいの空間をあなたに�  そんなキャッチフレーズが、モデルルームの前で楽しそうに語りあっている八人家族とペットの犬、といった構図の写真の中にレイアウトされている。  どこにでも見かける平凡な建売り住宅の写真広告である。 (どうせ誰かが仕事の打ち合わせに使っているのだろう)  それくらいにしか考えず、高橋巡査はサービスセンターを出た。  今夜はこのホテルに事件関係者しか泊っていないことを考えれば、彼はもっとそのファックスを注意深く見るべきだったかもしれない。彼は、ファックスに打ち込まれている発信者の登録コードすら確認せずにその部屋を出た。  無人となったサービスセンターで、ファックスはマイホームの写真広告を吐き出しつづけ、やがてピーという通信終了音とともに送信を停止した。  ハーフトーンモードで送られてきたB4サイズのマイホーム広告が受け皿にストンと落ちたのは、送信開始九分四十五秒後のことだった。 「編集長すごいわ、この記事」  前半の原稿を読み終えた沢田明梨は興奮してベッドから起き上がった。 「すごい迫力よ。すごいスクープになるわ、きっと」  明梨は�すごい�を連発した。 「推理小説とドキュメントを一緒に読んでいるみたい。読者だけでなくてマスコミ全体の話題になること間違いなしよ」 「そうか」  伊藤は満足そうに微笑んで四本目の缶ビールに口をつけた。 「やっぱり編集長は天才なんだあ」  明梨はテーブルのところへ来て伊藤とむかい合って座り、彼の鬚《ひげ》についたビールの泡を人差指で拭《ぬぐ》った。 「よし、それじゃこいつをファックスで本社へ送ってくれ。一階のサービスセンターに有料ファックスが置いてある。ほら、このカードを使うんだ」 「オッケー」  明梨は原稿をつかんで勢いよく立ち上がった。  そのはずみでプルンと揺れるバストを見ながら、伊藤次郎はこの女の抱き心地も悪くはないかもしれないな、とひそかに思った。  しかし十年も男友だちのようにしてつきあってきた明梨である。いまさら男と女の関係になれと言われても、近親|相姦《そうかん》のようなものでなかなか気分が出ない。  ボリュームのあるヒップを振りながら部屋を出ていく明梨の後ろ姿にむけて、伊藤は親指と人差指でピストルを撃《う》つ真似をした。      6 「いつかはこうなるんじゃないかって思っていたわ」  田村麻美はシーツを首のところまでひっぱって裸の胸を隠しながらつぶやいた。  セミダブルサイズのベッドなので、麻美と副島努はぴったりと寄り添う形で横になっていた。 「ねえ、電気消して」 「自分で消せよ」  努はあおむけになって天井を見つめたまま言った。  麻美は命令されたとおりに、枕もとのランプに手を伸ばしてスイッチを切った。  フットランプの微《かす》かな明かりだけが残った。 「クーラーが効きすぎたみたい。寒い……」  麻美は努の身体にしがみついた。 「ねえ、どうしてあのとき私をかばってくれたの」  闇《やみ》に目が慣れてくると、麻美は相手の瞳の中をのぞくようにしてたずねた。 「さあね」 「私と社長との関係を知っていた上での発言だったの?」 「さあね」 「私はただでさえあなたのお姉さんから恨まれて当然の立場にいるのよ」 「それで?」  田村麻美は、ゆうべのパーティを大谷誠と二人で抜け出して登竜峠《のぼりりゆうとうげ》までドライブしたことを思い出した。  近づく台風のために吹き荒れる風。その中で交わした愛の囁《ささや》き。  それが、わずか三十時間たらずのうちに副島努の部屋でこんなことになっているとは、まるで夢を見ているようだった。 「ああ、いろいろなことを考えると頭がおかしくなりそうよ」  麻美は努の厚い胸を叩《たた》いた。 「おれはあんたみたいにインテリじゃないからさ」  努は口を歪《ゆが》めて笑った。 「理屈ってものがないんだ。なぜとかどうしてとか、そんなことを考えて生きていたらいくら神経があっても保《も》たない。おれは文法の時間みたいなカッチリした生き方はイヤなんだ。わかる?」 「わかるわ」 「ほんとかよ」 「きのうまでは理解しようと思っても理解できなかったけど、いまならわかるわ」 「自分の感覚だけで、バッバッバッと生きるんだ。直感的にな」 「ええ」 「だからおれにとっちゃ、いまおまえを抱くことになった運命が不思議でも何でもない。何でこうなったのか、なんて考えないからさ」 「うん」 「おまえ、恐《こわ》いんだろ」 「え?」 「明日からの警察の取り調べが」 「はい」 「おまえ、いろんな答え方するんだな。『ええ』とか『うん』とか『はい』とか」  努は笑った。 「それで、どうなんだよ、本当のところは」 「殺してなんかいないわ! 私……本当よ、社長を殺したりなんかしてないわ」 「わかったよ。そう急に大声を出すなって」 「………」 「やってなきゃ恐がることはないさ」 「………」 「泣くなよ。よし、もう一回抱いてやるからさ」  努が麻美の太腿《ふともも》に手を這《は》わせた時、三〇八号室の電話ベルが鳴った。 「ちぇっ誰だ、いいところで」  努は手さぐりで受話器をとった。 「あ、会長ですか。……はい……はい……ええ……いや、ぼくはかまいませんが……わかりました。いますぐ行きます」  電話を切ると、努はシーツをはねのけルームライトをつけた。 「どうしたの、こんな時間に」  眩《まぶ》しさに目を細めながら麻美がたずねた。 「会長からだ。打ち合わせをしたいことがあるから至急きてくれってさ」 「打ち合わせですって。だっていま、夜中の二時過ぎよ」 「いろいろなことを考えて会長も眠れなくなったんだろう」 「呼ばれたのはあなただけなの」 「たぶんね」 「どうしよう、私、お部屋に戻ってようかしら」 「そうしたほうがいいんじゃないかな。遅くなるかもしれないし」 「わかったわ」  麻美もベッドから起き上がって下着をつけはじめた。  なにげなく努を見ると、彼はパジャマの上下を着てさらにその上からガウンを羽織るところだった。  ベッドから出てみると、努にとってはやはりエアコンの効きすぎがこたえた。部屋だけでなく廊下のほうも少し冷房過剰のようだった。  努はガウンの帯を締めると、ハンガーにかけたスーツの胸ポケットから財布を取り出した。  彼は麻美に背をむけて、そこからアメリカン・エキスプレスのゴールドカードと、一枚の緑色の紙幣を抜き取った。  抜き取られたとたん、その紙幣はクルクルッと円筒形に丸まった。 (あれは、昼間彼のシャツのポケットから落ちた一ドル札だわ)  努はクレジットカードとその一ドル札、それに切符ほどの大きさに畳んだ紙包みを財布から出してガウンのポケットに移した。 「じゃあ、おれは先に出る。鍵は持っていくからな」 「はい」 「ほんとにおまえ、急に素直になったな」  まだ下着姿の麻美に近づいてキスをすると、努はドアを開けて部屋を出ていった。      7  エレベーターを下りたところから、ファックスのあるサービスセンターまでは少し距離があった。  静まり返った夜更けのホテルの廊下を一人歩きながら、沢田明梨はサンドレスの上にかけたショールを襟《えり》もとでかきあわせた。  冷房が効きすぎていたためだけではない。  明梨は恐《こわ》かったのだ。彼女は恐怖映画の『シャイニング』のワンシーンを思い出していた。人気《ひとけ》のないホテルの廊下を、子供が三輪車をこぎながら音もなく走っていく。それをローアングルでカメラが追いかけていく、有名なあのシーンだ。 (やだなあ、夜中のホテルは)  しかも、大谷誠が怪死したその夜である。  三百人は収容できるこのホテルに、今夜泊っている客は彼女と伊藤を含めてわずか九人だ。  他にも宿泊客はいたが、事件が起こった後、警察のすすめもあって、皆ここを引き払ってしまったのだ。  明梨はサービスセンターのドアを開けて中に入った。  その部屋だけが煌々《こうこう》と明かりがついていて、薄明かりの廊下と妙な対照になっていた。  いったん恐いと思いはじめると、蛍光灯の明るさがかえって不気味だったりする。明梨は一分でも早く仕事を終えて部屋に戻りたい気分だった。  原稿をファクシミリに差しこもうと屈《かが》んだ彼女は、受け皿のところに広告が届いているのを見つけた。 「快適な住まいの空間をあなたに……か」  つぶやいて明梨はその原稿を脇《わき》へどけた。  そして、伊藤の書いた記事を送信口に入れようとした瞬間、大きな音でルルルルとファックスの電話ベルが鳴り出した。 「やだっ」  思わず明梨は短く叫んだ。  ベルは二回鳴って沈黙すると、それに代わってファックスがカタカタと動き出した。 (なーんだ、誰かが原稿を送ってくるのか。ほんとにもう、驚かさないでよ)  明梨は胸を撫《な》でおろして、先客の送信が終わるのを待った。 (それにしてもこんな夜中に誰がファックスを送ってくるのかしら)  そう考えると、明梨はまた恐くなった。  ファックスから吐き出されるロールペーパーを恐るおそる見て、明梨はアレと思った。  受け皿にあるのと同じマイホームの広告がゆっくりと送られてくるのだ。 「同じ原稿を二度も送らないでよね」  しかし、明梨のつぶやきは誤っていた。  六分近く受信したところで、紙の中央あたりに、写真の上から太い黒のサインペンで書いたらしいカタカナ文字が出てきた。  その文字のために、写真のモデルの顔がつぶされたりしている。 ≪メ・ー・リ≫  自分の名前が金釘《かなくぎ》流のカタカナ文字となって出てきたので、明梨は目を皿のようにして送られてくる原稿を見つめた。 ≪メ・ー・リ・サ・ン・ハ≫ (メーリさんは……)  彼女は口の中でその文字をつぶやいてみた。  ファクシミリはいまにも止まってしまうのかと思うほどゆっくりと、しかし鮮明な画像を送りつづける。 ≪メー・リ・サ・ン・ハ・シ・ン・ダ≫ (メーリさんはシンダ……?)  明梨は、最初はその文章の意味がわからなかった。  考えているうちに、ロールペーパーはのろのろと機械から押し出されてくる。  広告原稿の上から、誰かが意味不明の文字を書きなぐったらしい。筆跡を隠すつもりなのか、その文字はまさに金釘流というやつだった。 ≪メ・ー・リ・サ・ン・ハ・シ・ン・ダ・シ・ン・ダ・シ・ン・ダ≫ 「メーリさんはシンダ、シンダ、シンダ」  何度か口に出して繰り返しているうちに、それは自然と耳になじんだメロディになってきた。 『メリーさんのひつじ』のフレーズである。  歌いやすいように�メリー�がメーリ�になっている。 「メーリさんはシンダ、シンダ、シンダ」 「明梨さんは死んだ、死んだ、死んだ」  夜中のサービスセンターに自分の歌声が響《ひび》いた。  その意味がわかった瞬間、明梨は歌うのをやめた。 (うそ……)  歯のつけ根がカタカタと音を立てはじめた。  空白の時が流れた。  ピー、という通信終了音で、明梨はハッと我に返った。  平和そうなマイホームの広告の上に書かれた死亡通知文が、受け皿にコトリと落ちた。 ≪メ・ー・リ・サ・ン・ハ・シ・ン・ダ・シ・ン・ダ・シ・ン・ダ≫  明梨は自分の胸をギュッと抱きしめた。 (すぐにここから出なくちゃ)  そう思うのだが身体《からだ》が言うことをきかなかった。  やっとの思いで首だけ回してドアを見た。  超能力というのだろうか、それとも透視というのだろうか。  そのとき、沢田明梨は閉め切ったドアのむこうに人の形をしたものが立っているのを見た気がした。 (このドアのむこうに誰かがいる)  その人物はドア越しに彼女を睨《にら》んでいる。  明梨はそう確信した。  ドアを貫いて視線と視線がぶつかった。  その人物は間違いなく自分を殺しにきたのだ。 (明梨さんは死んだ、死んだ、死んだ)  またあのメロディーが心の中で繰り返し鳴り出した。  カチッという音で、明梨の視線はドアの取っ手に釘づけとなった。  取っ手が、透明人間のいたずらのようにゆっくりと回り出した。  恐怖が極限まで来た。  沢田明梨は口を大きく開けて息を吸いこむと、声を限りに絶叫した。  高橋《たかはし》巡査はホテル内の巡回を終えて、階段で三階から二階へ下りていくところだった。  彼のところへも明梨の叫び声は届いた。 「どうしたんだ!」  高橋は階段を三段とびに駆け下りた。  上のほうで部屋のドアが次々に開く音がした。  高橋は踊り場で足を止めると、上にむかって怒鳴った。 「皆さんは自分の部屋に入っていて下さい!」  それから一階まで駆け下り、廊下をダッシュした。  叫び声がしたところはすぐにわかった。  サービスセンターのドアが内側にむかって開いていて、中の明かりが廊下に洩《も》れていた。 「どうしたんですかっ!」  叫びながら高橋巡査は部屋の中に飛びこんだ。  沢田明梨が伊藤次郎にしがみついて泣きじゃくっていた。 「何があったんです」  息を切らしながら高橋巡査は二人にむかってたずねた。 「いや、彼女に原稿のファックス送りを頼んだんですが」  伊藤が明梨の背中を撫《な》でながら困ったような顔を高橋巡査にむけた。その顔はアルコールのために赤かった。 「うっかり最後の一枚を忘れましてね、それを渡しに部屋からここまで下りてきたんです。それで、このドアを開けたとたんにものすごい金切り声をあげられたもんで、もうこっちのほうが心臓が止まりそうなくらい驚いたんですよ」  伊藤が説明している間も、明梨は彼の胸に顔をうずめて「殺さないで、殺さないで」と繰り返している。 「お嬢さん、殺さないでとはどういうことなんです」  高橋がたずねた。お嬢さんというにはやや年がいっていたが、泣きじゃくるさまはほとんど女子高生である。 「これ、これ」  明梨が指さしたほうを見ると、マイホーム広告のファックスの原稿があった。 「なんだ、さっきも同じ原稿が送られてきていたけど……」  そう言いながら高橋巡査がそれを取り上げて読んだ。 「メーリサンハ、シンダ、シンダ、シンダ……何ですか、これは」 「わからないの? 私が死ぬってことなのよ!」 「この子の名前は明梨《めり》っていうんですよ」  伊藤が高橋巡査に説明した。 「タチの悪いイタズラですね」  警官は事態をそんなに深刻なこととは考えていなかった。むしろ、この程度のことで何を大騒ぎしているのか、といった態度である。  そのとき、パジャマ姿の副島努がドアのところに姿を現した。 「どうしたんです、この騒ぎは」 「すみません。ちょっと得体の知れないファックスが送られてきたもんでね」  伊藤は不吉な文章の入ったファックスを努に手渡した。  それを読んだ努の顔色が変わった。 「これは……姉さんのことだ」 「え?」  伊藤の胸で泣きつづけていた明梨が顔を上げた。 「メリはうちの姉さんの名前だ」  努はファックスの原稿を握りしめた。 「そういえば……」  伊藤は自分の昔の恋人の名前もメリと発音することを思い出した。 「もしかしたら手遅れかもしれない」  努は唇をふるわせた。 「この文章は過去形じゃないですか。『死ぬ』じゃなくて、『死んだ』になっている」  姉さん、と叫ぶなり、努はファックスの原稿をわしづかみにしたまま駆け出した。  伊藤も明梨をその場に残してあとを追った。  高橋巡査がそれにつづいた。  三人ともエレベーターを待つ余裕はなかった。階段を一足飛びに駆け上がった。 「芽里さんの部屋はどこなんだ」  走りながら伊藤がたずねた。 「三〇三号室だ、今夜から部屋を移ったんだ」  脚の長い努は、後ろの二人を引き離して階段を上った。伊藤はビールの飲みすぎで胃が揺れ、息が切れた。  二階と三階の踊り場のところに、久米部長と山崎部長の二人がジャージーのトレーニングウェア姿で立っていた。彼らの部屋は二階だった。 「どうしたんです」  たずねる山崎を無視して努は駆け上った。  三階の廊下には田村麻美がブラウスの上に生成《きな》りのカーディガン姿で不安そうに立っていた。 「姉さん、姉さん」  三〇三号室の前にたどり着くと、副島努は激しくドアを叩いた。 「姉さん、姉さん、何事もなかったら返事をしてくれ、姉さん、起きろ、姉さん」  伊藤と高橋巡査も駆け寄った。  その後ろから田村麻美が声をかけた。 「どうしたの。ねえ、奥様に何かあったの」  努はそれに答えず、激しくドアを叩きつづけた。 「なんだね、この騒ぎは」  三〇一号室のドアが開いてガウン姿の大谷浩吉が顔を出した。 「姉さんが死んだ」 「死んだァ!?」  浩吉が大声をあげた。 「どうしてそんなことがわかるんだ」 「死んでる。死んでるんだ。間違いない。姉さん、姉さん」 「常務、マスターキーを取ってまいりますでございます」  久米が踊り場から叫んで一階へ駆け下りた。  山崎は逆に三階へ上ってきた。明梨も一緒だった。 「どういうことなんだね。え、これはどういうことなんだね」  浩吉が八丈署の高橋巡査に詰め寄った。 「何が起きたのかしら、こんな夜中にみんな集まって」  一番最後に三〇七号室のドアが開いて、副島悦が浴衣《ゆかた》の襟《えり》をかきあわせながら出てきた。だが、彼女の問いに答える者は誰もいなかった。みな、不吉な予感に押し黙ったままだった。  久米広報部長がマスターキーをつかんで走ってきた。  彼はそれをためらうことなく高橋巡査に渡した。若い巡査は緊張で乾いた唇をなめてからドアの前に進んだ。皆が彼のために道を空けた。 「開けますよ」  一言いって、高橋巡査は鍵を差しこみドアノブを回した。  沢田明梨は、伊藤の胸をギュッとつかんだ。  はからずも最前列に押し出された形の総務部長と広報部長は、部屋の様子を一瞥《いちべつ》するなり「おお」という叫び声をあげて互いの腕をつかんだ。  めったに殺人などにはお目にかからない八丈署の若い巡査は、恥も外聞もなく「うわっ」と大声を出し、それ以上中へ踏みこもうとしなかった。 「見るな!」  伊藤次郎が明梨の目を手でふさいだ。  が、遅かった。  明梨は惨劇を瞼《まぶた》に焼きつけてしまった。 「ああ……」  と言ったきり、彼女はその場にくずれた。  田村麻美は最初から顔をそむけたままだった。  大谷浩吉と副島悦は、無感動な表情でそれ[#「それ」に傍点]を見つめていた。 「姉さん……」  副島努が、夢遊病者のような足どりで、部屋の中へ入っていった。  何かに導かれるように正面のベッドのほうへ歩いていく。  伊藤次郎は一般週刊誌を担当していた時代に、何度か事件の取材で惨殺体を見るはめになったことがある。  しかし、彼がいま目の前にしている光景は、過去に見たどんな酷《むご》たらしいシーンよりもショッキングだった。  まだ死体をじかに見たほうがましだった。  正面のベッドに、血染めのシーツが人が座っている形に盛り上がっていた。  中に人がいることは確実だった。ベッドの上に座って、後ろの壁に背中をもたせかけ、その人間の上からシーツをかぶせた格好だ。  そのシーツは白い部分を見つけるのが困難だった。  どっぷりと鮮血を吸いこんで、ピッタリ中の人間に貼《は》りついている。シーツの形がそのまま人の形だった。  顔のあたりはまさに血の色をしたデスマスクだった。  両眼のへこみに沿って赤く濡《ぬ》れたシーツが陰をつくり、鼻筋のところでは直線的に盛り上がり、鼻の穴まではっきりわかった。  口はたぶん開いたままなのだろう。ムンクの『叫び』を連想させる形に布が凹《おう》面をつくっていた。  この出血量では、中の人物はとても生きていられるはずがなかった。  副島努がベッドの脇《わき》に立った。  むせかえるような血の匂いである。  かろうじて白いところを残したシーツのすそに手をかけて、副島努は一気にそれを取り払った。  濡れた洗濯物の水気を切るのに似た音がして、血《ち》飛沫《しぶき》が少し壁に飛び散った。 「芽里!」  大谷浩吉がバリトンの叫び声をあげた。  副島努は、それ[#「それ」に傍点]とむきあったまま微動だにしなかった。  大谷芽里の顔は夥《おびただ》しい量の血にまみれ、表情がわからなかった。  最後に何を叫んだのか口は開き、ポッカリと黒い空間がのぞいていた。歯まで血に濡れていた。 「とにかく、とにかく、とにかく」  警官は顔面をひきつらせていた。 「本署に連絡をしなくては」 「おれの後ろにいるあんたたちの中に……」  副島努は、他の者に背をむけたまま言った。 「姉さんに、こんな酷《むご》たらしい死に方をさせた奴がいるんだ。きっと、きっとそうだ」 [#改ページ]   ㈿ やぶにらみの楽天家      1 「ひろみ、いいか、無理しなくていいんだぞ。この現場はちょっとおまえには荷が重い」  急報をきいて駆けつけた八丈署の捜査員でごった返す三〇三号室前の廊下で、財津警部は蒼《あお》ざめて声も出なくなった烏丸《からすま》ひろみ刑事のほっぺたを両手ではさんで言いきかせた。  財津は熊のような掌《てのひら》で、ひろみのすべすべとした頬《ほお》の肌ざわりを楽しむ余裕があったが、表面上は深刻な顔つきをくずさなかった。  長年|刑事《デカ》をやって修羅場をくぐってくると、ドサクサに紛れていろいろなことに神経が働く習性が身についてしまう。  財津は血まみれの惨劇に顔色を失ったひろみを見て、なんてウブで可愛い子なんだろうと、いとおしい気持ちでいっぱいになった。まったく、とんでもないときに妙なゆとりのある男である。 「さあ、ひろみは一階ロビーの方へ行って関係者の様子を見張っていてくれ。彼らの動揺は相当ひどいからな」 「はい」  ひろみは素直にうなずいて財津警部の指示に従った。 (ふだんナマイキなことを言っていても、イザとなりゃ女の子だ……)  そんなことを考えながらひろみの後ろ姿を見送っていると、フレッドがふらつく足どりで中から出てきた。 「どうした、フレッド」 「いや、血の匂《にお》いで目まいが……」 「バカタレ、これくらいの現場で目まいがしてどうする。捜査一課を代表して派遣されてきた者として、八丈署の連中に対して恥ずかしいと思わんのか」  両手でパーンとフレッドの頬をはさみ打ちにした。 「痛《いて》」  ひろみとはえらい待遇の差である。 「どうだ、目が覚めたろ」 「目なんか最初から覚めてますよ。そうじゃなくて気分が……」 「だめだ、サボるのは許さん」  喉《のど》をおさえてこの場を離れようとするフレッドの腕をつかんで、財津は彼を中に引き戻した。 「若いうちに修羅場をくぐっておかないと、年をとってから苦労するぞ」  フレッドは無理矢理、死体のそばまでひきずってこられた。 「ガイシャの傷は一カ所だけしかありません。しかし、この一発が致命傷だった。頸動脈《けいどうみやく》をスッパリいかれてます。シーツを被《かぶ》せられてなきゃ、そこら中血の海になるところでしたよ」  源警部が財津に説明した。 「シーツに大量の血が流れて、それが毛細管現象で広がったため、首から上も血まみれになっているんですな。ごらん下さい、このシーツの破れ跡を。犯人がここのところでシーツの上からズバッと刺したわけです」  フレッドは顔をそむけた。  赤い衣をはがされ、むき出しになった大谷芽里の死体は、ベッドの後ろの壁にもたれてバランスを保っていた。上半身を起こしているのが何とも不気味である。 「返り血を浴びないようにシーツをかけたんですな」 「ですが源警部」  財津も死体に近づいた。 「シーツをかけられたまま無抵抗でやられちゃったんですかね」 「たしかに、あまり揉《も》み合った形跡が見られませんな」 「凶器は?」 「これです。ベッドの上に落ちていました」  刃先だけに血のついた出刃《でば》包丁を源が示した。 「柄《え》のところにここのホテルのマークが入っているでしょう」 「そうですな」 「どうもこのホテルの厨房《ちゆうぼう》で使われている包丁らしいのです」 「なるほど」 「だからといって、ホテルの料理人を疑う気にはあまりなれんのです。関係者ならいつでも厨房には入れますから」  源警部はベッドの周囲を歩き回りながら、血染めの死体をいろいろな角度から観察していた。 「あの……」  フレッドがおずおずとかすれ声を出した。 「なんですかな」  源警部が冷たい視線を彼にむけた。 「そのシーツですが」  フレッドは、絞れば血が音をたてて滴《したた》ると思われる真っ赤なシーツを指さした。 「それは本来、掛けるほうじゃなくて身体の下に敷いておくやつですよね」  フレッドの指摘通り、それは掛け毛布をくるむためのシーツではなく、マットレスに折りこんで使われる敷布のほうである。 「つまり、犯人はベッドに座っていた大谷芽里をどかせてマットからシーツをはぎ取り、それを彼女に頭から被せて刺し殺したことになります。その間、大谷芽里がされるがままになっていたのはおかしいと思うんです」 「うーむ」  源警部は腕組みをして、顎《あご》をぐっと引きつけた。  フレッドは源警部の反応を待ったが、彼は「うーむ」という唸《うな》り声を繰り返すばかりである。内心、うまい解釈が思い当たらず困っているらしい。 「ともかく財津警部、ここは他の者に任せて我々は一階のロビーへ下りましょう。関係者から詳しい事情をきかねばなりません」  源はうまいことその場を切り抜けた。 「そうしましょう。おい、フレッド。おまえはここに残って、八丈署のスタッフと一緒に現場検証をみっちりやっといてくれ」 「そんな殺生な」  フレッドは両手をあわせた。 「あきまへん、警部。こういう横溝正史的世界はどうもぼくには……」 「殺しの現場を選り好みするんじゃない」  財津はぶ厚い唇をとがらせて叱った。 「ひろみには優しいくせに、どうしていつもぼくには辛く当たるんですか、警部」  フレッドは必死に訴えた。とにかく、ふり返れば血だるまの死体がまだベッドに恨めしげに座っている。彼はなるべくそれを見ないようにして財津に救いを求めた。 「あきらめるんだな、フレッド。まあ、もしもこんど生まれ変わることがあったら、そのときは金髪の美女にでもなることだ。それなら少しは優しくしてやってもいいぞ」 「もう……」  部屋を出ていく財津警部にフレッドは叫んだ。 「奥さんに言いつけますよ」      2  午前三時半になった。  惨劇の発見は二時半。混乱のうちに一時間が過ぎた。  ホテル一階ロビーのソファには、一日に二度の大ショックを受けた人々が、口を利《き》く気力もなくぐったりと座っていた。  彼らに対し、これから合同事情聴取が行なわれることになった。これは烏丸ひろみ刑事の提案である。 「こんなやり方は捜査の常道にない」  源警部はコメカミに青筋を立てて怒った。 「これじゃ、もしこの中に共犯関係にある者がいたら、互いに口裏をあわせることがいくらでもできるではありませんか。個別に事情聴取することで互いの主張に含まれる嘘《うそ》や矛盾を衝《つ》いていけるのに。これは手の内をさらけ出してポーカーをするようなものです」  源警部はシャレた言い回しをしたつもりだった。 「烏丸刑事のやり方を財津警部、あなたが黙認するとはまったく承服できませぬ」  怒りのあまり、語尾が�せぬ�になった。 「まあ、アレはアレで考えようがあるようだし」  アレとは烏丸ひろみのことである。財津は感情移入過多の目つきで彼女のやることを見守っていた。  もちろん、財津とてプロの警部である。ひいき目ばかりでひろみの行動を黙認しているわけではなかった。  逆密室殺人事件の時に見せたひろみの推理の冴《さ》えを、財津は忘れていなかった。 (あの子には我々常識人にはない自由な発想がある。それがこれからの時代の刑事には必要なんだ)  財津はそう認めていた。  だから、甘やかしすぎではないかと一部から批判が出るくらいに、ひろみには自由行動を許していた。たとえば、本庁へ通うのに450ccバイク——愛称シルバー号——に乗ってくるのを黙認しているのもその一例だった。  自由《フリー》な発想は自由《フリー》な気分から出る——というのが財津の持論だった。ゴリラのような風体《ふうてい》をしているわりには、なかなか財津大三郎、感性豊かな男なのである。 「それでは大谷芽里さんの死体が発見されるまでの皆さんの行動についておうかがいしたいと思います」  ひろみは丸く並べられたソファの中央に立った。  烏丸ひろみ刑事は涼しそうなマリンブルーの麻のスーツを着ていた。ジャケットはチャイニーズカラーで、スカートはミニだった。同系色のハイヒールが、もともときれいな彼女の脚のラインをさらに美しく見せていた。 (ひろみもしっかり着替えを持ってくるんだからな。まったく、スターになるよ、おまえは)  財津は素直に感心していた。  ソファに憔悴《しようすい》しきった顔で身体《からだ》をうずめているのは、大谷浩吉、副島悦、副島努、田村麻美、伊藤次郎、沢田明梨、そしてWRCの山崎総務部長と久米広報部長である。  ひろみは第一の質問を発しながら、全員の服装を素早く観察していた。  大谷浩吉はパジャマの上にタオル地のガウン。  副島悦はホテル備えつけの浴衣《ゆかた》。  副島努は大谷会長と同じ取りあわせで、パジャマの上にガウン。  田村麻美はブラウスに綿麻のカーディガン。  伊藤次郎はヘンリーネックのTシャツにバーミューダ。ついでに片手にクアーズのビール。やや酩酊《めいてい》気味である。  沢田明梨は白いサンドレスにショール。  そして、山崎と久米の両部長は、申し合わせたようにジャージーのトレーニングウェアを着ていた。彼らは夜を徹して新社長急逝の善後策を検討していたのだという。  伊藤と明梨は原稿づくりのために起きていたから寝巻に着換えてなくても不思議はなかったが、田村麻美の服装はどうしたことだろう。彼女も二時過ぎまでナイトウェアにもならず起きていたのか。  この格好で副島努の部屋へ行き、ベッドをともにした事情を知らないひろみは、彼女の服に注目していた。  麻美は、大谷芽里の死体が発見される直前までどこにいたかという問いに対し、三〇五号室、つまり自分の部屋にいたと嘘《うそ》をついた。  一方、副島努も部屋から出たことを隠し、沢田明梨の叫び声をきくまでは眠れずにベッドで本を読んでいたと答えた。  麻美は、努が何のために会長の部屋へ行ったのか気になっていた。  死体発見時の状況について三十分ほどあれこれ質問したときだった。 「お婆さん、冷えるといけないのでこれは羽織《はお》っときなさい。ちょっと冷房がきついね」  源警部が背広を脱いで副島悦の肩にかけてやった。 「まあ、これはご親切に」  悦は深々と頭を下げて礼を言った。 「あ、気がつかなくてごめんなさい」  ひろみは赤くなって、悦と源警部の両方にあやまった。女の子のくせしてこんなことに気づかないなんて、バカ——と、ひろみは心の中で自分を叱《しか》った。 「もしよかったらお部屋から着るものを持ってきてさしあげましょうか」  ひろみの言葉に、 「いえいえ、大丈夫」  と、悦は平気を装ったが、悦の顔には鳥肌が立っていた。 「どうですかね、烏丸刑事。悦さんはご年配でもあるし、もう部屋にお帰ししては」  最初から合同事情聴取に批判的だった源警部が、イヤとは言わせぬ口調で提案した。 「わかりました。どうも遅くまでありがとうございました」  ひろみは副島悦に対してていねいに頭を下げた。 「私ももういいんじゃないかね」  大谷浩吉が手をあげた。 「私は悦さんより一回り以上若いが高血圧持ちなんでね。降圧剤を常用して何とか限度ギリギリのところを保っている状態なんだ。睡眠不足がこういう病気には一番こたえるんだよ。もう四時だ。夜が明けるぞ」  そう言われれば拒否はできない。ひろみは大谷浩吉も部屋に戻すことにした。  悦は源警部に背広を返し、もう一度ていねいに礼を述べ、皆にも一礼してエレベーターへむかった。  大谷浩吉と副島悦の後ろ姿を見送っているうちに、ひろみはあることに気がついた。 (そうだ、さっきから服のことが気になっていたのよ。田村麻美が深夜なのにブラウスと綿麻のカーディガンを着ていたのも少し不自然だけど、もっと不自然なことがあったじゃない) 「ちょっと待って下さい」  ひろみは悦と浩吉を呼び止めた。 「副島悦さんにうかがいたいことがあります」  悦はまだ何かあるのかという顔でふりかえった。 「私がおたずねしたいのは、あなたのその格好です」 「格好?」  言われて、悦は自分の浴衣《ゆかた》に目を落とした。 「この浴衣に何かおかしいところでもあるかしら」 「悦さん、さっきは気がきかなくてごめんなさい。いろいろ動き回って汗をかいていたものですから、冷房の効きすぎに気づかなくて」 「ああ、そのことはもういいのよ」  悦はまたUターンしようとした。 「いえ、よくないんです」 「なぜ?」  悦は眉をひそめて立ち止まった。  ひろみは全員にむかって言った。 「皆さん、いま皆さんが着ていらっしゃる服は、沢田明梨さんがサービスセンターで悲鳴をあげ、大騒ぎになったときのままですね」  全員がそれぞれうなずいた。 「この中で一人だけ仲間はずれの服装をしている方がいます。さあ、それは誰でしょう」 「はい」  真っ先に伊藤次郎が手をあげた。 「それは、ぼく、で、しょう」  目が酔っている。  前夜から原稿を書きながらビールを飲んでいたらしいが、大谷芽里の惨殺体を見たショックを和《やわ》らげようと、警察が来た直後にウィスキーのストレートをあおったのが利《き》いてきたらしい。  クアーズを一気にあけて、そのアルミ缶を右手でクシャッと潰《つぶ》した。 「仲間はずれの服装はぼくです、よね。一人でバーミューダをはいてゴム草履《ぞうり》なんだから」  伊藤はすね毛をかきながら言った。 「いいえ、あなたじゃありません」 「わかったわ。私のことを言いたいのね」  田村麻美がひろみを見た。  一瞬、二人の女の視線が空中でもつれあった。  互いの美しさを認めあったような目の会話が交わされた。 「刑事さん、あなた、私がこういう格好をしているのが不審なんでしょ。他の人みたいにナイトウェアじゃないところが……」 「初めはそう思いました」  ひろみは、資料によれば自分より二つ年下の秘書と相対した。  正直言って、むこうの方がはるかに年上に見える。  麻美には、ひろみが持っているような愛らしい幼なさがなかった。ひたすらあるのは美しさのみ。文字通り非の打ちどころがない造形美である。  整いすぎて笑顔を想像するのが難しかった。 「でも、田村さん。あなたの服装も仲間はずれではありません」 「わかったわ。私の浴衣《ゆかた》が皆と違うというわけね」  悦が自分から言い出した。 「でも浴衣を着ていることがそんなに不思議かしらね」 「いいえ。その上に何も羽織っていないことが不思議なのです」  その場にいた者が全員不思議そうな顔でひろみを見た。 「皆さんもお気づきの通り、このホテルは少しクーラーが効きすぎています」 「それは私もそう思っていた」  大谷浩吉がガウンのポケットに手を突っこんで答えた。 「外は夜中でも二十七、八度あることはわかっているが、ちょっとこの冷房は強すぎるな。客がいなくなった分だけ効率がよくなったためもあるだろうが」 「はっ、まことに申し訳ありません」  恐縮魔の山崎総務部長が頭を下げた。 「たしかにパジャマだけだと寒いかな」  副島努はガウンを脱いで冷房の効きぐあいをたしかめてから言った。 「そうかな、おれはちっとも寒いとは思わないね」  伊藤次郎がやぶにらみの目つきでひろみを見て言った。 「あなたがその格好でも寒くないのは当然です」  ひろみは、Tシャツにバーミューダ姿の伊藤に微笑んだ。 「さっきから相当ビールを飲んでらっしゃるでしょ」 「途中でウィスキーも混ざってる」  伊藤はパーンと毛むくじゃらの太腿《ふともも》を叩《たた》いた。 「それだけアルコールが入ってればむしろ暑いくらいでしょう。酔いがさめたら急に寒くなるかもしれませんけどね」  捜査陣はすでに伊藤が十一年前に、旧性副島芽里と恋人同士であったという事実をつかんでいた。  平然を装ってはいても、彼がやけ酒を飲まざるをえない心境になっていることをひろみは見抜いていた。 「ここにいらっしゃる方の中で、薄着といえば伊藤さんと副島悦さんのお二人だけです。他の方はとりあえず寝巻や夏ものの上にもう一枚何かを羽織っている、あるいはジャージーの長袖を着ている」  そこでひろみは、再び悦に相対した。 「伊藤さんはアルコールが入って身体がポカポカだとしたら、悦さん、あなたはなぜ浴衣で平気だったのでしょう」 「興奮していましたからね、私も」  悦は背筋をしゃんと伸ばして、財津と源の方をむいて答えた。失礼なことを言う若い女性刑事など相手にしないという態度である。 「悦さん、もしかしてあなたは三〇三号室前で騒ぎが起こった時にお風呂に入っていらしたのではありませんか」 「な、何を言ってるのよ」  初めて副島悦の顔色に動揺が走った。 「お風呂に入っていれば外の騒ぎはきこえにくいし、すぐに浴衣を着て駆けつけるにも時間がかかる。だから、あなたはここにいる人々の中で一番最後に芽里さんの部屋の前にきました」 「ずいぶん想像力が豊かな刑事さんなのね。でも残念だけど違うわ。あのとき、私はベッドの中でぐっすり寝てたのよ。だから騒ぎに気づくのが遅れたわけ。だいたい、あれは夜中の二時過ぎ——二時半? そうね、その時分の出来事でしょう。寝ていて当然じゃないですか」 「そうでしょうか」  ひろみも譲らなかった。 「大谷社長が異常な死に方をしたその夜に、はたしてぐっすりと眠れるものでしょうか」 「………」 「現に、一階のサービスセンターで沢田明梨さんが悲鳴をあげたとき、高橋巡査によれば三階のドアが次々に開く音がしたそうですね。つまり、皆さんそれぞれに眠れない夜だったわけです」 「そうならそう思って下さって結構ですけどね」  副島悦は浴衣《ゆかた》の襟《えり》をピシッと正した。 「私はお風呂なんかには入っていませんでしたよ」 「でも悦さん。あなたがベッドに入っていたのなら、起きたときにクーラーの効きすぎで必ず寒いと思ったはずです。とりあえず、何か浴衣の上にひっかけて廊下へ出てみるのが自然な行動でしょう。ところが、お風呂に入っていたのなら、その温《ぬく》もりで浴衣一枚でも全然寒くなくて不思議はありません」  ふうん、という声を源警部があげた。 「だけど、ちょっと待てよ」  悦の孫にあたる副島努常務が口をはさんだ。 「刑事さん、湯冷《ゆざ》めって言葉があるだろ。そりゃたしかに風呂上がりは身体が火照《ほて》っているけど、これだけ冷房が効いてればすぐに身体は冷えるぜ。風呂に入っていない者よりもっと寒さを感じるはずだ」 「でしょうね」  ひろみは平然としていた。 「ただし精神的にショックなことがあれば寒さを忘れることがあります」 「それは誰だって同じことだ」  努は祖母を必死にかばった。  ひろみは財津警部をチラッと見た。  大胆な発言をしてもいいでしょうか、という許可願いの視線である。  財津は肩をすくめて、どうぞお好きに、と答えた。 「血を浴びれば……」  ひろみの口から洩れた言葉に、全員がビクッと緊張した。 「お風呂に入ってきれいにしたくもなりますよね」      3 「まったく、あんたは大胆な女だよな」  伊藤次郎はほぼ完全に酩酊《めいてい》していた。 「ふつう刑事って奴は、自分の考えることを隠して捜査をするものだと思っていたけど、こんなに思い切った推理をきかせてくれる人がいるとはね。しかも刑事にしておくにはもったいないくらいの美少女ときてる」 「これでも二十五ですけど」  ひろみが訂正した。 「へえ、じゃ田村さんのほうが二つ年下なのか」  伊藤は驚いて二人の女を見較べた。  夜明けの光が差しこみ、淡い紫色のフィルターを通して見るようなロビーには、まだ四人の事件関係者が残されていた。  伊藤次郎と沢田明梨、それに副島努と田村麻美だった。  副島悦は烏丸ひろみ刑事の発言に激怒して部屋に戻ってしまった。  大谷浩吉も体調を理由に引き下がり、二人の部長もそれに従った。 「明け方まで恐縮ですけれど、もう少しだけお話をきかせて下さい」  ひろみが言うそばで源警部が大あくびをし、つられて財津警部も連鎖反応を起こした。 「大谷芽里さんの死体発見に至るいきさつの中で、まだ疑問に思えることがあります」  ひろみは副島努に目をむけた。 「副島常務、あなたは沢田明梨さんの叫び声をきくと、高橋巡査が部屋に入っているよう指示を飛ばしたにもかかわらず、サービスセンターへ下りてきましたね」 「そうさ」  努はマールボロをくわえて火をつけた。  たっぷりと整髪料をつけているのか、水気を含んだように光った髪をオールバックに撫《な》でつけていた。  一メートル八十の長身にふさわしい長い脚を、乱暴にもう一つの椅子の背に投げ出していた。 「どうしてあなたはサービスセンターへ真っ直ぐに駆けつけたんですか」 「部屋に入ってろと言われたって、彼女のあんな絶叫をきいたら気になるじゃないか」 「彼女のって?」 「沢田明梨さんのさ」 「あなたは沢田明梨さんが叫んだのをきいて階段を駆け下りたのですね」 「そうだよ」  努はタバコの煙をひろみにむかって吐き出した。姉の死に直面しても、横柄《おうへい》な態度だけは変わらない。 「沢田さん」  ひろみは明梨にむき直った。  あくびをしかけたところを突然呼ばれて、明梨は口に手を当て、目尻に涙をためながら「ハイ」とくぐもった声で答えた。 「あなたはサービスセンターで不気味なファックスを受け取った時、そこに書いてあった『メーリ』とは、自分のことに違いないと思ったんですね」 「そうです」 「それで怖くなって叫び声をあげたのですか」 「いいえ」  明梨は首をふった。それにあわせて胸が揺れた。 「その気持ち悪いファックスを読んだとたん、誰かがここへ私を殺しにやって来るのだ、絶対そうに違いない、と思いこんでしまったのです」 「それで?」 「早くこの部屋から逃げ出さなくちゃと思うんですが、足が動かなくて」  明梨はその時のことを思い出して震え声になった。 「いまにも誰かが入ってくるんじゃないかとドアをじっと見つめていたら、ノブがゆっくり回り出したんです。それでもう耐えられなくなって……」 「叫んだのですね」 「……はい。叫んだというより、自然に喉《のど》の奥から声が出てしまったという感じでした」 「そうしたら実際には伊藤編集長が渡し忘れた原稿を届けにきたところだった」 「ええ」 「その後はどうしました?」 「よく覚えていませんけど、編集長の胸で泣いていたと思います」 「その通りだよ」  ロレツの回らない声で伊藤が答えた。 「そのうちにお巡りさんがきて、次に副島さんがきて、ファックスの原稿を見るなり、これは姉さんのことだ、と言ったんだな」  ひろみはとがらせた唇に中指を当てて少し考えこんだ。 「沢田さん、もう一回おたずねします」 「はい」 「ドアのノブがゆっくり回るのを見て叫んだとおっしゃいましたけれど、何か具体的な言葉を叫ばれましたか」 「いいえ」 「いわゆる金切り声でしたか」 「そうだったと思います」 「典型的な金切り声でしたよ」  伊藤がつけ加えた。 「それでは副島常務」  一転して、ひろみの矛先《ほこさき》はまた努にむけられた。 「たんなる金切り声だけで、三階の部屋にいたあなたが、どうしてそれが沢田明梨さんの叫びだとわかったのですか」  努の右手に持ったタバコが宙で止まった。 「少なくとも若い女性の叫び声ということでしたら、沢田さん以外にもあと二人考えられたはずです。田村麻美さんと、それから他でもない、あなたのお姉さんの大谷芽里さんです」  ひろみはじっと努を見下ろした。 「それなのに、あなたはどうしてすぐに沢田明梨さんのことを思い浮かべたのでしょうか」 「………」 「こう言っては何ですけど、あなたにとって沢田さんが三人の若い女性の中で一番その身を案じなくてもよい人だと思うんです」 「鋭い質問だね」  やっとタバコを口に持ってきて一服吸うと、緊張した声で努が答えた。 「おたずねしたいことは他にもあります」 「遠慮しないで言いなさいよ」  努は虚勢を張っていた。 「百歩譲って、何らかの理由でその叫び声が沢田明梨さんのものだと判別がついたとしましょう。そうだとしても、なぜあなたはサービスセンターへ直行したのです」 「え」 「階段を下りきった廊下は右へも左へも行けます。しかも、サービスセンターは階段の下り口から左へ走った後、途中でいったん角を右に曲がらなければなりません。単純に真っ直ぐ走っただけではサービスセンターの前へ出ないのです。それなのになぜあなたは叫びをきくなり、サービスセンターへ迷うことなく駆けつけたのでしょうか」 「鋭い質問じゃないの、なかなか」 「お答えいただけますか」  厳しい表情をすると、ひろみのきれいに通った鼻すじと形のよい唇が目立った。 「あんたがおれの行動を不思議に思うなら、同じ質問をまずあのお巡りさんにすべきだね」  努は高橋巡査を顎《あご》で指した。 「彼だって階段の途中で叫び声を聞いたんだろ。それですぐにサービスセンターへ駆けこんだんじゃないの」 「いや、自分は」  高橋巡査が肩を怒らせて前へ出て主張した。 「巡回の初めに、たまたまサービスセンターにファックスが送られてきているのを見かけていまして、そのことが頭にあったものですから、まず叫び声をきいた瞬間、無意識にそっちへ足がむいたのです」  ひろみは黙って努を見た。 「ま、おれの場合は」  平然を装って、副島努は長々と煙を吐いた。 「一種の予知能力ってヤツが働いたのかな」      4 「おかげさまで『週刊芸能』は大スクープがモノにできそうですよ。もちろん、刑事さんたちの許可なしに今夜のことは書けないでしょうけどね」  伊藤次郎は片手で肩を揉《も》みほぐしながら、ひろみに笑いかけた。  もう朝の五時が近い。  ロビーに残されたのは、ついに伊藤一人になった。 「『天下のワールド・リゾートクラブ副島努常務にも大きな疑惑が』か。見出しが浮かんできますねえ。『二度送られてきたマイホーム広告のファックス。二度目のそれには不吉な死亡通知』」  伊藤は歌うように独り言をつづけた。 「『二枚のファックスはドサクサに紛れて副島常務が持ち去る』——いや、それより先に書くことがある——『そのファックスが発信されたのは、なんと大谷浩吉会長の部屋からであった!!』」  ジャジャーン、と擬音《ぎおん》効果を織りまぜて、伊藤は居並ぶ捜査陣の前で弁舌をふるった。 「ねえ、そこのお巡りさんよりぼくのほうが注意力があったってわけだ。ちゃんとファックスに打ちこまれた発信者略称コードを見ていたんだから」  高橋巡査は苦々しい顔でそれを聞いていた。彼を見る源警部の視線が厳しい。 「といっても、見たのはぼく一人だから、ウソをついていると言われればそれまでですけどね。でもこれは神に誓って申しあげますよ。メーリさんが死んだ、という不気味なファックスは大谷浩吉の部屋から打たれた。『WRC302』というルームナンバーがちゃんとプリントされてありましたからね」  伊藤は半袖のコットンシャツにジーンズという服装に代わっていた。  ひろみの事情聴取の途中でフレッドが三階から下りてきて、関係者全員の着衣のルミノール反応検査を行なうことを通告したからだった。  部屋にひきとった者に対しては、すでに事件発生時の着衣の提出要請が実行されていた。 「伊藤さんがおっしゃることを信じる限り、そのファックスは大谷浩吉氏が打った公算が強いということになりますな」  源警部が油の浮いた額をハンカチで拭《ぬぐ》って言った。 「副島努氏がファックスを隠してしまうような真似さえしなけりゃ、レッキとした証拠が残っているんですがね」  伊藤は残念がった。 「しかし、副島常務は二枚のファックスをサービスセンターから持ち去ったことを否定している」  源がつぶやいたが、伊藤は反論した。 「なに言ってるんですか。ぼくらの面前で彼はそれをわしづかみにして三階へ駆けあがったんです。ぼくも沢田明梨も、そしてそこのお巡りさんもそれはハッキリ見ていたんですよ」  源警部は糸のような目をして部下を見た。 「もとはといえば高橋、おまえが大切な証拠物件の確保を怠ったのがいけないんだぞ」  まさに三船敏郎《みふねとしろう》ばりの低音で�おごそかに�高橋巡査を叱った。 「ファックスを誰が、何の目的で、どこから送ったのかは後で検討するとして」  ひろみは、化粧が浮いてきていないかをロビーの鏡で素早くたしかめてから会話の中心に入った。 「ファックスの発信コードは細工ができることを頭に入れておいたほうがいいと思います」 「そうです。そらそうです」  源警部は大きくうなずいたが、実際のところ彼のファックスに対する知識は皆無に等しかった。 「さきほど調べたところによりますと、このリゾートクラブには四台のファックス機が配置されています。  一台はサービスセンターに、一台はロイヤルスイートルームの一室——三〇二号室に、そしてあと二台がフロント内の事務スペースに置かれています。  一般的な常識として、ファックスがどこから何時何分に送られてきたかがわかるように、送信原稿には時刻と発信者コードと電話番号が自動的にインプットされるようになっています。  ただし、それはボタン操作でたやすく変更ができるのです」 「へえ、そうでしたか」  日頃そういったことに関心のない源警部が、素直に感心した。 「ここに設置されている機種の場合、発信者コードと電話番号を変更するのに要する時間は、三十秒もあればじゅうぶんです」 「へえ」  また源は感心した。 「したがって、実際はフロント内にあるファックスから送信していても、三〇二号室発信というコードを打ちこめるわけです。いえ、それだけではありません。たとえば遠く離れた沖縄のファックスから『メーリさんが死んだ』と送信されてきたとしても、もとの機械の登録コードと電話番号をこのホテルの三〇二号室のものに変えてしまえば、あたかも三〇二号室から発信されたように見せかけることができます」 「では、送信時刻も同様に……」 「もちろんです。送信時刻だって、その表示を細工することが可能なんですから、原稿にプリントされたファックス発信データというものは、少なくともアリバイの検討材料としてはアテにならないと思います」  ひろみはそう説明した。 「でも念のために三〇二号室のファックスにインプットされた発信データがどうなっているか、確認しておいた方がよいですね。大谷氏を起こすことになるけれど仕方ないでしょう」  ひろみの提案を受けて高橋巡査が確認に行くことになった。 「いずれにしても……」  伊藤次郎は鬚面《ひげづら》に皮肉な笑いを浮かべて言った。 「大谷浩吉、副島努の両氏が何らかの疑惑の対象になっているとは面白い限りだな」 「そうですか」  ひろみは伊藤のむかいのソファに腰を下ろし、斜めに脚を揃《そろ》えた。  伊藤の視線が、ひろみの形のよい脚の上をあつかましく何往復もした。 「だってそうでしょう」  ひろみの脚に目を落としたまま伊藤が言った。 「会長にしても常務にしても、亡くなった大谷誠・芽里夫妻の肉親ですよ。二つの殺人事件はなんと肉親の犯行だったということになる」 「そういう短絡は困るね」  財津がキッパリと言った。 「まだ我々は何ら犯人の限定を行なっていない」 「そうですかねえ」 「そうだとも」  財津はぶ厚い唇をとがらせて言った。 「伊藤さん。あなただって容疑の対象から外れているわけではない」 「ぼくですか。ぼくが犯人?」  伊藤はわざと笑った。まるで安手の推理ドラマなみの笑い方である。  烏丸ひろみとしては一つのエンターテインメントとして刑事ドラマのテレビをよく見る。ミステリーものの二時間ドラマも然《しか》り。  まあ状況設定に作り事があるのはかまわない。現実性ばかり追っていたのでは娯楽としての推理ドラマの魅力に欠けてしまう。  しかし、あの追い詰められた真犯人の馬鹿笑いだけはどうにかならないものかしら、といつもひろみは思ってしまう。 「光子さん、犯人は他でもない、あなただ!」 「まあ、私が犯人ですって? オホホホホホホ、おかしくて涙が出てしまうわ」  というヤツである。  だいたい、この犯人役は出演者の中でギャラの最も高そうな女優がやるので、のっけからネタが割れてしまうわけだが、おおかた大詰めでこのクサい演出が登場する。  少なくともひろみが現実の捜査で体験した限りにおいて言えば、刑事に追い詰められた犯人が高笑いをして白《しら》を切るということはまずなかった。  ところが、伊藤次郎はひろみのキライな�ドタン場の高笑い�をやってくれた。  ムッとする。 「ぼくには動機もないし、アリバイもある。大谷誠社長が部屋で溺死《できし》したときはずっと大ホールでバイキング・ランチを食っていたし、芽里さんが殺されたときもずっと部屋で原稿を書いていた。沢田明梨が一緒だったから彼女が証言してくれますよ。たしかに彼女はファックスを送るためにサービスセンターへ行ったが、すぐにぼくは原稿の渡し忘れを持って一階へ下りた。芽里さんを殺すヒマなんてありません」 「しかしあなたは、いまを去る十一年前、大谷芽里——いや、副島芽里さんと恋愛関係にあったはずです」  財津が野太い声で断言した。 「そうですよ」  伊藤はつとめて軽く受け流した。 「でも、そんなのは過ぎたことじゃないですか」 「いいや、違うな」  財津は食い下がった。 「あなたは大谷誠氏に芽里さんを横取りされた。その恨みがあるはずだ。十年前、タヒチのボラボラ島の視察にワールド・リゾートクラブの一行が訪れたとき、たまたま雑誌の取材であなたも現地にきていた。そして、そこで過去の恋人副島芽里さんに出会ってしまったんだ」 「すごいな」  伊藤は大げさにため息をついてみせた。 「刑事をやめて芸能週刊誌の記者になったらどうですか。パーティにきていた連中からいろいろ聞き込みをされた結果なんでしょうけど、それだけの取材力があるんだったら、ぼくはいつでも『週刊芸能』の編集長を譲ってもいいですよ」 「伊藤さん、私たちを茶化すと危険ですよ」  財津が凄《すご》んだ。  いつもは愛情をこめてゴリラ・フェイスだとからかわれる顔も、真剣に怒ると暴力団もハダシで逃げる迫力である。 「茶化してなんかいませんよ。基本的にぼくは楽天家なんでね」 「殺人事件が起きているときに楽天家もあったもんじゃないでしょう」 「知ってますか、刑事さん」  伊藤は一同を斜めにすかして睨《にら》んだ。 「タヒチで思い出したけれど、ミュージカルの『南太平洋』に メA Cockeyed Optimistモというタイトルの曲があるんですよ。日本じゃ『やぶにらみの楽天家』などと訳されていますけどね。コックアイってのは『やぶにらみ』という意味の他に、『酔っ払った』とか『馬鹿げた』『乱痴気騒ぎの』なんて意味もある。  まさにぼくのことかもしれませんよ。パッパラパーの楽天家ですからね。過去の恋人の死に衝撃を受けた伊藤次郎像のほうがキマるんだろうけど、あいにく性格がノーテンキにできてるもんで」  烏丸ひろみは伊藤が無理していることを承知していた。  何よりもヤケになって酔っ払ってしまったことが彼の内心の動揺を物語っている。それを楽天家と見せかけているだけのことだ。 「伊藤さん、いろいろとありがとうございました」  ひろみは財津警部に(もうこのへんにしておきましょう)と目でサインして、腰を上げた。 「また明日もいろいろお話をうかがわなくちゃなりませんから」 「明日? もうとっくに�きょう�になっていますよ」  そう言って伊藤も立ち上がった。 「とにかくぼくだってこんな目にあわされている代償は払ってもらいますからね」 「代償?」  ひろみがたずねた。 「次号以降の『週刊芸能』でワールド・リゾートクラブ八丈島殺人事件を、現地レポートという形で連載させてもらいますよ。年に一回あるかないかの特ダネですからね」  伊藤はひろみに挑《いど》みかかるように言った。 「なにしろウチの雑誌は最近部数が低迷しているもんで、ここらで連続ヒットを飛ばしておかないとね。ボーナスを稼ぐためだったら、刑事さんたちから疑いのマナコで見られたってガマンしますよ、ハイ。それにあなたは……」  伊藤は、烏丸ひろみ刑事のバストからヒップまでを舐《な》めるように見た。 「あなたは画《え》になる女性《ひと》だしね」 [#改ページ]   幕《まく》 間《あい》      1 「兄貴……、今週号の『週刊芸能』読みましたか」  川崎市の工業地帯の片隅にある煤《すす》けた壁の二階建て木造アパート。  すぐ脇《わき》を首都高速|横羽《よこはね》線が通っているため、一年中雨が降っているようなロードノイズが飛びこんでくる。  その一室で二人の男が暑さに噎《む》せ返りながら寝転んでいた。  カーテンを閉めると風通しが悪くなる。  カーテンを開けると日射しが厳しい。  どちらにしてもクーラーのない木造アパートの二階は炎熱地獄だった。  八月半ば。  猛暑はいっこうに衰える気配がなかった。 「まだ読んでねえよ。なんだ、例の八丈島殺人事件の連載がつづいているのか」  小田は面倒臭そうに手下の健太のほうへごろりとむいた。 「もう今週で四回目ですよ。いまじゃすっかり『週刊芸能』の目玉記事ですからね。『悪魔が降りてきた島——本誌独占スクープ短期集中連載第四回』って書いてありますよ」 「何が書いてあるんだ。ちょっと説明しろ、健太。おめえは漢字が読めるんだから」 「すぐに解決するかにみえたワールド・リゾートクラブ新社長夫婦惨殺事件は、真犯人逮捕の決め手がつかめぬまま一カ月が過ぎた。  容疑者はごく少数に絞られているものの、いずれも肉親、縁戚、社内幹部——と、誰が犯人であっても�身内の犯行�による虐殺事件ということになり、各方面に与える衝撃は大きいだろう。  また、たまたま現場に居あわせた本誌伊藤次郎編集長と沢田明梨記者にも嫌疑がかけられている。まったくお笑いぐさだが、裏を返せばこれは捜査陣の焦りの表れとも言えるだろう……てなことが書いてあります」 「ふーん」  小田は、短パンの脇から右手を突っこんで股間《こかん》を掻《か》いた。 「だけど驚いたもんだな。おれたちが井関の野郎を殺した翌日に、総務部長の山崎の周辺で連続殺人が起こったとはな」  小田は畳に肘《ひじ》をついて起き上がった。 「WRCはもうガタガタだぜ。あの野郎、それをいいことにブツの代金の払いを先延べにしてくれなどと言ってきやがった」 「兄貴、まさかOKしたんじゃないでしょうね」 「するもんか」  小田は太陽の熱で温《ぬる》くなったカップ入りの日本酒をあおった。 「とりあえず半額は、もらってある。あとの半額をいつ、どこで受け取るかだ」 「この記事によると、あいつらは今月末タヒチに行くらしいですよ」 「タヒチ? そりゃどこにあるんだ」  小田は酒で濡れた唇を手の甲で拭《ぬぐ》うと、しゃっくりをしながらたずねた。 「おれもよく知りませんけれど、ハワイよりもっと先らしいですよ」  健太は『週刊芸能』の該当ページを開いて小田に見せた。 「まさかあの野郎、その島に逃げるつもりじゃねえだろうな」 「わからないっすよ」  健太は最近かけたばかりのパンチパーマに手をやって答えた。 「内緒でおれたちとブツの取引きをしていたのに、例の殺人事件が起こって警察から注目されたもんで焦ってるんですよ」 「おれたちと手を切ろうってのか」 「さあ」 「そうはさせねえぞ」  小田は凄味《すごみ》のある顔をつくった。 「こっちだってあいつのために人ひとり殺してるんだ。もっとも手を下したのはおれじゃなくて健太、おめえだけどよ」 「兄貴……」  健太は不安そうな声を出した。 「見捨てないで下さいよ、おれを。頼みますよ、ホントに」 「どうだ、健太」  小田は空になった日本酒のカップを畳に転がして言った。 「おれたちも奴らを追いかけて、そのタヒチってところへ行ってみるか」 「海外旅行ですか?」 「心配するなよ。航空運賃もホテル代もあいつ持ちだ。イヤだと言ったって強引にそうさせるさ」 「はあ」 「当然、席はファーストよ。ファーストクラスのスチュワーデスはとびきり美人だっていうらしいじゃねえか」  小田は薄笑いを洩《も》らして、灰色に煙る窓の外を眺めた。 「こうなったらとことん、あいつをしゃぶりつくしてやろうじゃねえか」      2 「息子夫婦が死んでから一カ月が経《た》つ。世間ではあれこれ言う人間もいる。マスコミも騒ぎ立てている。しかし、それでもだ」  大谷浩吉は握りしめた拳《こぶし》で机を叩《たた》いた。 「私はワールド・リゾートクラブ・ボラボラの建設を諦《あきら》めると言った覚えはない。このままこの計画を放棄してしまったんでは、息子は死んでも死にきれないはずだ」  盆休みが明けた直後に急きょ召集された役員会で、社長兼任の座に戻った大谷浩吉会長は、役員たちの前で顔を朱に染めて演説をぶった。  事件後、取締役に昇格した久米と山崎が、その様子をハラハラしながら見守っていた。  ただでさえ高血圧持ちの会長が、最近は青筋を立てて怒ることが多くなっていた。  いつプッツリ血管が切れてもおかしくない状態である。  大谷浩吉にもしものことがあれば、ワールド・リゾートクラブは事実上崩壊の危機にさらされる。  サラリーマン役員の久米と山崎にしてみれば、その事態が一番恐ろしかった。なにしろそのあと社長の座に就《つ》く人材がいない。 (だいたい副島常務は、大谷誠前社長夫人の弟というだけのコネでいまのポストにいるようなものだ)  山崎総務担当取締役は、このごろとみに情緒不安定に陥《おちい》っている副島努の横顔を見てそう思った。 (かといって、自分にしても久米にしても社長の器《うつわ》でないことはよくわかっている)  そうなれば、浩吉会長に万一のことがあった場合は、メインバンクからの人材派遣がじゅうぶんに考えられる。そのときは、山崎にしても久米にしても、地位の保証は永くつづかないだろう。  だいたい、このあいだの連続殺人事件のおかげでワールド・リゾートクラブのイメージは大きく傷つけられていた。  いまだに警察が犯人の決め手をつかんでいないということが、かえって内部の犯行である印象を世間に強く植えつける結果にもなっていた。  大谷浩吉、副島努、副島悦——とにかく血縁にある彼らが疑惑の筆頭にあげられていた。  田村麻美や久米、山崎にしてもその例外ではありえない。  世間の好奇心と周囲の疑惑の目にさらされながら、なお新リゾート開発を推《お》し進めるのは無謀だった。  だが、役員会の席上で大谷浩吉に対してそう言い出せる者は誰もいなかった。 「予定より一カ月以上の遅れをみたが」  会長兼社長の大谷浩吉は、いまや自分の秘書にしてしまった田村麻美がコーヒーのワゴンを持って部屋に入ってくるのを見ながら言葉をつづけた。 「当初の計画通り、ボラボラ島新リゾート建設プロジェクトチームを現地へ派遣する。第一陣の団長は私だ。第一陣のメンバーは、私の他に副島常務、山崎、久米両取締役、秘書の田村君の以上五人だ。通訳は田村君が兼ねることにする。ご承知の通り、現地の公用語はフランス語だが、田村君はフランスの大学に行っていたのでね」  コーヒーを配りながら、自分のことが話題に上っているのをきいて田村麻美は意識してとりすました顔をした。 「会長」  副島努がけだるい声を出した。 「なんだね」 「お願いがあるのですが」  山崎と久米は、何を言い出すのかという目つきで努を見た。 「祖母の悦も同行させて下さい」 「しかし副島君、今回はだね……」 「お願いします」  努は会長の言葉をさえぎった。 「祖母にしてみれば、息子の死に場所をもう一度自分の目に灼《や》きつけておきたいのだと思います」 「それはわかるが、だったら別の機会にしたらどうかね」 「お願いします」  努はひたすら頭を下げた。  よぶんな言葉抜きで頭を下げた。  それはヤクザの低姿勢にも共通する、相手の弱味を握った者特有の脅《おど》しが含まれていた。 「……わかった」  大谷浩吉は、仕方なしに努の要求を呑んだ。 (会長は副島常務に何かを握られているな)  山崎と久米は、それぞれにそう直感していた。 「それではボラボラ島でプロジェクト第一陣のメンバーは、副島悦社友も入れて六人とする。現地への出発は八月二十四日、月曜日だ。諸君はこのスケジュールにのっとって、至急準備をすすめてもらいたい」  言い終えると大谷浩吉は銀縁メガネをはずし、パチンと音をたてて畳むと自分の前に置いた。 「諸君、私はボラボラ島という最後の楽園にWRCの社旗を翻《ひるがえ》すことに命を賭《か》けている。大げさに言うのでなく、本当に生命を賭《と》しているのだ」  そう言うと、大谷浩吉は役員の前で机に手をつき、頭を深々と下げてみせた。      3 「ねえ、あの田村麻美って秘書は、インテリぶってるけど、けっこういい加減じゃない」 『週刊芸能』編集部では、深夜まで残って連載企画の原稿をつくっていた沢田明梨が、編集長の伊藤にむかって言った。 「なにが」  伊藤も赤鉛筆を片手に原稿をチェックしていた。 「『オルレアンの噂《うわさ》』のことよ。覚えてるでしょ。大谷誠の溺死体《できしたい》が発見される直前に、バイキング・ランチの席で出ていた話題よ」 「ああ、あれね」 「麻美は、いかにも博学をひけらかすように『オルレアンの噂』について話してくれたでしょ」 「思い出したよ」 「たまたまオルレアン大学の聴講生になっていた人と会ったので、田村麻美の説が正しいかどうかきいてみたの」 「そうしたら?」 「麻美の話も正確じゃないことがわかったわ。ブティックの試着室から若い女性が消えてアラブ諸国に売られている、という噂がオルレアン市で広まって大騒ぎになったのは事実なんですって。一九六九年五月のことだったらしいわ」 「よくそんなことを覚えている人に会ったものだな」  伊藤は原稿に赤入れする手を休めてタバコに火をつけた。 「でもこれはオルレアン大学の学生が社会心理学的調査で意図的に流したものではなくて、本当の噂の出所は不明なんですって。ただ、若い女性が消えたとされる場所が主にユダヤ人経営のブティックだったので、この奇怪な噂は反ユダヤキャンペーンの一環ではないかという見方があるの。それをエドガー・モランなどの社会学者のグループが調査してまとめたのが『オルレアンの噂』という本だったわけ」 「なるほどね。だけど、それは田村麻美には言わないほうがいいぜ。プライドを傷つけられた腹いせに何をされるかわからないからな」  伊藤はキャスターつきの椅子《いす》を転がして、明梨のそばへ近寄った。 「そんなことより『八丈島の噂』ってヤツを心配したほうがいい」 「連続殺人事件の犯人探しでしょ。なにしろ犯人については好き勝手な説が飛び交ってるものね」 「ライバル誌では、あからさまにおれたち二人が怪しいと書いていた」 「冗談じゃないわ」  明梨は頬をふくらませて怒った。 「いずれにしても、捜査一課のあの可愛い刑事に尋問された八人の男女の中に犯人がいる可能性は非常に高い」 「八人? それじゃ私たちも入ってるじゃない」 「まあ、そういうことだ」 「よしてよ」  明梨は伊藤を睨《にら》んだ。 「だいたい、あの捜査一課の烏丸ひろみという刑事は何なのよ。ちょっと見てくれがいいと思って、出まかせの推理を言いすぎじゃない」 「ちょっとじゃなくて、だいぶ見てくれはいいけどね」 「その訂正はよけいだわ」 「まあまあ」  伊藤は明梨を手で制した。 「それより、おれは今回の殺人事件に関する一つの謎《なぞ》を解いたんだ」 「なあに」 「ファックスの謎だ」  伊藤は、まず最初に何の変哲もないマイホームの写真広告が送られてきていたこと、次にその写真広告の上に死亡通知の文章を黒マジックで書いたものが送られてきたことの意味を解釈してみせると言った。 「いいか、これは次号の記事の中核をなす謎解きなんだ」  前置きをしてから伊藤は話しはじめた。 「送信者がなぜ新聞のマイホーム広告を送ったか——それは、その広告が網点《あみてん》に分解されたモノクロの写真を全面に使っていたものだったからだ」 「言いたいことがよくわからないわ」  明梨が首をかしげた。 「ファックスは原稿の情報量が多ければ多いほど送信時間がかかる。情報量の多さというのは、黒い部分が多いか少ないかということではなく、むしろ網点に分解された点《ドツト》の量によって決まるものなのだ。つまり、真っ黒な紙を送るより、細かい黒い点の集合体を送ったほうが、同じ面積でも送信時間がかかる」 「むずかしいのね」 「言ってることはかんたんさ」  伊藤は笑った。 「明梨は覚えているかな。あのマイホーム広告の写真はすごく鮮明に出ていたことを」 「そういえばそうだったわね」 「ということは、送信をスーパーファインモードにして、しかも黒白の階調がなだらかに出るハーフトーン設定をしていたはずだ」 「そのことがどんな意味を持つの」 「つまり、クリアな画像を送るモード設定にすれば、通常の何倍もの送信時間がかかるということさ」  伊藤はタバコを突き出して説明した。 「わかるかな、送信者は時間をかせぎたかったんだ」 「………」 「あれと同じ広告は、新聞のバックナンバーを探してすぐにわかった。それをB4サイズにコピーして、あのファクシミリでスーパーファイン+ハーフトーンのモードで送ると、およそ九分四十五秒もかかるんだ。ベタ黒のB4サイズ原稿を同じモードで送っても三分とかからないのにだ」 「………」 「まだわからない?」 「うん」  明梨は素直にうなずいた。 「犯人はまず第一回の送信で、ファクシミリを送り終わるまでにかかる秒数をチェックした。およそ九分四十五秒であることが確認できると、次に彼は——いや、彼女かもしれないが、同じ広告の上に≪メーリサンハシンダ、シンダ、シンダ≫と書き加え、それを三〇二号室かフロント裏にあるファックスに入れて送信を開始する。終了まで九分四十五秒。その間に三〇三号室へ行って、大谷芽里を殺し、何くわぬ顔で自分の部屋へ戻る」 「待って……わからないわ」 「どうして」 「そんなのアリバイづくりにも何にもならないでしよ。わざわざ自分が大谷芽里を殺したことを、どうしてファックスでサービスセンターへ送らなくちゃいけないの。それに、私がサービスセンターにいることを知っていたのならともかく、そうでなかったら何の効果も生まないでしょ……」  そこまで言ってから、明梨は伊藤の顔をまじまじと見た。 「でも、編集長は私がサービスセンターにいることを確実に知っていた唯一の人間よね」 「おいおい、話を脱線させるな」 「だって……」 「だってもクソもない」 「ああ、もう誰を信じていいのかわからなくなっちゃった」 「近々、スッキリさせてやるよ」 「どうやって? 編集長が警察に代わって犯人を見つけるの?」 「もしかしたらね」 「本気?」 「本気さ。早ければ来週にも大谷、副島のグループがボラボラ島へむけて発《た》つ」 「結局リゾート建設は続行するのね」 「そうだ。そこへ俺たちも行こうと思ってね」 「えーっ?」  明梨は急に表情を変えて嬉しい叫びをあげた。 「このスクープの連載で、いまウチはこれまでの三倍の部数が売れている。いまのうちだったらタヒチ出張二名分の経費なんて軽いもんだ」 「二名って言ったわよね」 「言ったよ」 「じゃあ……」 「おれとおまえだ」 「わあ」  明梨は伊藤に抱きついた。 「編集長、さっきは疑ったりしてゴメンナサイ」 「現金な奴だな、おまえは」 「うれしいわ、本当にうれしい」  明梨の柔らかな、そして巨大なFカップのバストが伊藤の腕に押し当てられた。 「またあの島へ行けるのね。南太平洋の天国に。私、明日すぐに新しい水着を買いに行くわ!」      4 「おはよう」 「おはよー」  フレッドに声をかけられて、ひろみは本庁前の交差点でバイクを停《と》めた。 「朝から暑いね」  愛車シルバー号にまたがったままヘルメットを脱いだひろみの顔は、汗でキラキラと輝いていた。  黒塗りのバイクのボディは、太陽熱を存分に吸収して熱い。 「おい、これからその格好で財津警部におはようするわけ?」  フレッドが背広を肩にひっかけてたずねた。なんと烏丸ひろみ刑事は、真っ赤なタンクトップにモスグリーンのショートパンツ姿である。 「まあね。例によってご挨拶《あいさつ》だけしたらロッカールームで着替えるけど」 「ところでひろみ、聞いた?」 「タヒチ出張の件?」 「そう」 「聞いたわ」 「意外だったな、あの財津警部がまたまたぼくたち二人を海の外に出すとは」 「こんどは文字通りの海外出張よ」 「しかも南太洋の楽園だぜ」 「信じられないわ」 「ボラボラ島にハリケーンがくることを予知しているんじゃないのか、うちのボスは」 「フレッドが行く理由はわかるわよ。だって日本語と英話とフランス語の三つがペラペラなんだから」 「ひろみのほうこそ、八丈島のホテルで見せた推理の冴《さ》えが認められたんじゃないの」 「またヨイショしちゃって」  ひろみはバイクにまたがったまま背伸びして、フレッドの金髪をくしゃくしゃっとかきむしった。 「でも、今回は表面上は公用じゃなくて、休暇旅行ということで行くんだよな」 「そう、彼らより二日前に現地へ先のりしておくわけ」 「大谷会長たちも驚くだろうな。着いてぼくたちの顔を見たら」 「そうね」 「二日でたっぷり陽焼《ひや》けして現地人っぽくしておこうか」 「フレッドはどこから見てもフレッドよ」 「ひろみは灼《や》けたらけっこう日本人ばなれするんじゃないの」 「そうかもね。でも財津警部ほどじゃないと思うわ」 「アハッ」  フレッドはひろみの背中をパーンと叩《たた》いてウケた。 「あの顔でさあ、真っ黒に陽焼けして腰ミノつけたら、どう見たって南の島にいそうな感じだよな」 「タヒチアンダンスが似合ったりして」 「ちがうちがう。バナナの皮にくるんだ豚の丸焼きをつくる料理人」  アハハハ……と桜田門警視庁ビル前の交差点で馬鹿笑いした二人に、ヌーッと黒い影がおおいかぶさった。 「アハハハ、アレ?」  口を開けたまま、フレッドは凍りついた顔で後ろをふり返った。 「あ」  ひろみも思わずバイクをその場に倒して逃げ出そうとした。 「よう、ご両人」  財津警部の登場である。 「そんなにおれが南の島に行くとピタッとハマるかね」 「いえ……そういうわけじゃ」 「ご、ごめんなさい」  冷汗を流す二人を交互に見較べながら、財津は、 「ごめんですみゃあ小指はいらねえ、ってことわざもあるしな」  と、いきなり怖い顔をつくった。 「まあいいや。じつはおまえら二人の出張|稟議《りんぎ》はまだ回していなかったのだ」  フッフッフと意味ありげな笑いを残して、財津は本庁に入っていった。 「もー、フレッドがよけいなことを言うから南の島が遠のいちゃうじゃない」 「言い出しっぺはひろみだぜ」  フレッドも憮然《ぶぜん》として財津警部の岩のような後ろ姿を見送った。 「だいたい、あんなことわざがあるもんか」 「ゆうべ東映のヤクザ映画でも見てきたんじゃないの」 「影響受けやすいからな、ああいうタイプは」  フレッドはため息をついた。 「で、どうなるのかしら、私たちの出張は」  ひろみはヘルメットを小脇《こわき》にかかえて肩を落とした。 「ボラボラ島はあこがれの島だったんだからあ」 「いまさら泣いてもしょうがないよ。運を天に任せるしかないな」  宣教師を父に持つフレデリック・ニューマン刑事は、そう言って十字を切った。 [#改ページ]   第二章——一九八七年 タヒチ   ㈸ ハッピー・トーク      1  コンチネンタル航空041便パペーテ行きのジェット機は、定刻通り午後五時三十分、まだ青空の広がるハワイ・ホノルル国際空港を飛び立った。  離陸して水平飛行に移るとすぐにドリンクサービスがはじまった。  フレッドは慣れた調子で、英語でスチュワーデスにウィスキー&ソーダを頼む。 「ねえ、カンパリソーダがあるかどうかきいてみて」  横からひろみがフレッドの肘《ひじ》をつついた。  実際はけっこう彼女も英語を喋《しやべ》れるのだが、なんだかフレッドに甘えてみたい気分になっていた。 (うーん、これはアブナイぞ)  ひろみは自分の心の中で危険信号を点滅させていた。  捜査一課の大部屋で机を並べているときには意識したこともなかったのに、フレデリック・ニューマンという二十七歳の青年刑事のカッコよさが妙に目について仕方ない。  しかも、今回は八丈島連続殺人事件に伴う内偵捜査であるにもかかわらず、公用ではなくプライベートの休暇という名目を装っていたので、なおさら仕事意識が片隅に追いやられてしまう。  ひろみはトロピカル・フラワーのプリントデザインを大胆にあしらったビュスチエ姿である。当然、胸の谷間が強調されてしまうわけだが、気分がすっかり開放的になっているから少しもかまうところはなかった。  なにしろ目的地は南太平洋の楽園、タヒチである。  フレッドは黒のタンクトップにロールアップしたグルカショーツ。チェーンをつけたサングラスを首から胸に垂《た》らしている。  どこから見てもこの二人は内偵捜査におもむく警視庁の刑事たちとは思えなかった。 「はい、カンパリソーダ」 「ありがと」  スチュワーデスから受け取った飲み物を、フレッドはひろみに手渡した。 「でも、よく財津警部がオーケーしてくれたわね」 「まったくだよ。一時は完全に出張はパアになったかと思ったけど」 「タヒチかあ……。考えただけでもワクワクしてきちゃう」 「着いたら一泳ぎしようか」 「賛成!」  ひろみが目を輝かせた。 「ねえ、フレッドは水着持ってきた?」 「当然」 「私も」 「どんなデザインのやつ? ハイレグのワンピースかな」 「ハッズレー」  ひろみは楽しそうに笑ってカンパリソーダを飲んだ。 「どんな水着なんだよ」  フレッドが、ビュスチエのために大胆に肌を見せたひろみの胸もとをチョンとつついた。  あと五センチ下だったら、その人差指の感触も相当変わっていたはずである。 「あのねー」  ひろみは恥ずかしそうに顔の半分をカンパリソーダのグラスで隠した。  窓から入ってくる高度一万メートルでの陽差《ひざ》しが、カンパリの赤にぐんと透明度を加えていた。 「じつはタンガを持ってきたの」 「タンガ!」  フレッドはヒューッと口笛を吹いた。  言わずと知れたブラジル産�究極の水着�である。  イパネマやコパカバーナの海岸で見かけるビキニを超えたビキニ。  ブラジャー部分は、胸を隠す布を紐《ひも》に沿ってスライドさせることでいくらでも小さくなる。  バタフライ部分も然《しか》り。しかも後ろから見るとヒップのところには布はない。ほとんど紐が喰《く》いこんでいるだけという状態である。  トップレスや全裸よりもかえってセクシーな水着、それがタンガだった。  ハイレグが普及した日本のビーチでも、さすがにタンガまで踏み切る女性はまだ見かけない。 「大胆すぎるかなあ」  ひろみは顔の前からグラスをどけてフレッドを見た。 「いや、そんなことはないけど」  言いながら、フレッドはアクアマリンの海をバックに、タンガで波とたわむれる烏丸ひろみの姿を想像していた。 「だってタヒチにきたときにでも使わないと、日本じゃ無理だもんね」 「そりゃそうだ。浜辺にいる男たち全員が痴漢の目つきになっちゃうぜ」 「いっぱい写真撮ってね」 「ひろみのタンガ姿を?」 「そう。だってせっかくの記念でしょ」 「ま、まあね」  フレッドは赤くなっているのがアルコールのせいだと言い訳できるのでホッとしていた。 「なんだか捜査なのか遊びなのかわからなくなっちゃったな」  フレッドはウィスキーのソーダ割りをぐっとあおった。 「ハネムーンみたい……」  窓の外の輝く雲海を見つめながら、ひろみがポツリとつぶやいた。 「え」  フレッドは彼女の横顔を見た。  ひろみは彼の視線を感じると、もっと窓の方へ身体をねじってカンパリソーダのグラスを唇にあてた。 (なんだかヤバイ雰囲気だなあ……)  フレッドはフレッドで、財津警部の顔などを思い浮かべながら、不安と期待の入りまじったため息をついた。      2 「熱いっ」  財津警部は自分で淹《い》れた日本茶が熱すぎて腹を立てた。  熱帯夜がつづいて睡眠不足の上に、八丈島殺人事件の捜査も行き詰まり、財津は朝から苛立《いらだ》っていた。 「だいたい熱帯にいるわけでもないのに、熱帯夜などという気候が許せん」  彼は天気に八つ当たりした。 「いまごろあの二人はタヒチにむけて雲の上、か」  財津はフーフー言って湯呑《ゆの》みの茶を冷《さ》ましながら、窓際に立って外を見た。  灰色に濁《にご》った都心の空気は、不快な暑さを閉じこめて重く淀《よど》んでいる。 (ひどい天気だ。それに引きかえ、ひろみたちは……)  と、嫉妬の炎を然やそうかと思ったときに、捜査一課の大部屋に八丈署の源警部が入ってきた。  捜査の打ち合わせのために昨日八丈島から飛んできた源は、開口一番大声を張り上げた。 「東京の暑さは、こりゃ暑さじゃないですな。暑いとか寒いとかいう天気のレベルの問題じゃない。毒です。これはもう毒に浸《ひた》っているという感じだ。公害だらけの空気に限度を超えた湿気と熱気を混ぜあわせて……」 「まあ源さん。朝っぱらから暑苦しい話はやめにしましょうよ」  財津は湯呑みを片手に持ったままの格好で源警部に椅子をすすめた。 「いよいよ明晩、一行がタヒチにむけて発ちますな」  源は腰を下ろしながらそう切り出した。 「成田は取材の報道陣でごった返すでしょう。週明け早々マスコミもご苦労なこった」 「それは我々にも言えますがね」  財津は笑いながら自分の抽出《ひきだ》しを開けて、ワープロで打たれた資料を取り出した。 「大谷浩吉の一行は大韓航空を予約しています」 「タヒチへ行くのに大韓航空を使うんですか?」  源は怪訝《けげん》そうな顔をした。 「それが一番接続がよいんですよ」  答えながら、財津は源のために冷たい麦茶を部下に命じた。 「明日二十一時半発の大韓航空002便は、ホノルルに朝九時三十五分に着く——日付変更線を越えるので同じ月曜日の朝ということになりますな」 「そこで乗りかえですか」  源は出された麦茶を大きな音を立ててすすった。欧米のテーブルマナーをみっちり躾《しつ》けられ、しかも禅寺で修行を積んだフレッドがその場にいたら顔をしかめるところだ。 「ホノルルで三時間半ほど待って、十三時発のUTAフランス航空552便でタヒチ本島のパペーテに現地時間十八時半に着く予定です」 「彼らはむこうで何をする気なんですかね」 「リゾート建設の具体的な打ち合わせでしょう」 「それは聞いていますがね……」  源は窓の外に目をむけた。 「ただ、私はどうも合点がいかない」 「ほう」  財津は源のそばのデスクに腰をかけて足をブラブラさせた。 「彼らがなぜボラボラ島に固執するのか」 「十年前に果たせなかったボラボラへの進出に対する執念みたいなものがあるんじゃないですか」 「それそれ、そいつですよ」  源は財津に視線を戻した。 「ご承知の通り、当時ワールド・リゾートクラブの専務だった副島新吾がボラボラ島の海で水死体となって発見されました」 「事件前日、彼らは現地人スタッフも含めて二十人くらいのパーティで、ボラボラ島から目と鼻の先にあるモトゥ・タプという無人島でピクニックと称する宴会をやっています」  財津はすでに暗記していることがらを口にした。 「夕方になって、全員がボラボラ島へ引きあげたのですが、あまりその島が素晴らしかったので、夜、副島新吾が一人でヨットを操《あやつ》ってモトゥ・タプ島へむかった。泳ぎに行くと家族に言い残してね。それが彼の生きている最後の姿でした」 「財津警部、おかしいと思いませんか。いくら無人島が素晴らしかったからといって、夜泳ぎにいくというのはどういうものか」 「まったく同感ですね」 「ナイトスキーというのはきいたことがあるが、ナイトスイミングというのはね。私ら島育ちの人間だって、ただ泳ぐだけのために夜の海へ出ることはしませんよ。第一、それを聞いて止めようとしなかった家族もおかしい」 「源警部のおっしゃる通りです。副島芽里、努、悦、それに妻の道子らが、夜泳ぎにいくという一家のあるじを制止しなかったのは、不自然といえば不自然です」 「こう言っちゃ何だが、タヒチの警察はのんびり屋が揃《そろ》ってたんじゃないですかな。いい加減な捜査で事故死と決めこんでしまったに違いない」 「一番真相究明に熱心だったのは、現地の警察より日本の生命保険会社でした」  タバコを取り出して、財津は源に一本すすめた。 「副島新吾は二つの生命保険に加入しており、事故の報《しら》せをきいて双方の保険会社のオーストラリア支店の人間が現地へ調査におもむいたのですよ。だが、他殺であるような証拠はどこにも見つからなかったし、逆に自殺とする決め手も何もなかった。  泳いでいる間に心臓マヒでも起こしたのだろうということで、事故死の認定が下《くだ》った。一つには生命保険の受け取り額が妥当な金額だったもので、保険金目当ての殺人という推測の入りこむ余地がなかったんですな。受取人も奥さんだったし」 「しかしね、財津さん。私は最近になってあることに気がついたんですよ」  ちょうどそのとき、一群の刑事たちがドヤドヤと大部屋に入ってきたので、二人の周囲は急に騒がしくなった。 「十年前の一件で、副島新吾の死体を最初に発見したのは沢田明梨でしたね」  源の声が少し大きくなった。 「そうです」 「発見時刻は?」 「当時の証言では午前十一時ごろということです。なにぶんリゾート地なもので、いちいち時計などを持って歩かないというんですよ。ですから十一時といってもあいまいで、太陽の高さなどからそれくらいだったろう、ということなんですな」 「彼女は海中で鮫《さめ》の群れが副島氏の死体を喰《く》いちぎっているのを見たと言うんでしょう」 「ええ。すぐ近くに左手首が漂《ただよ》っていて、気づかずそれに触れてえらいショックを受けたらしい」 「財津警部、飢えた鮫というのはね、いつまでもごちそうを放っておきませんよ」  急に鋭い口調になって源が財津を見つめた。 「と、言いますと?」 「副島氏が無人島沖で泳いでいるうちに心臓マヒなどで急死し、それが前夜の出来事だったとしたら、次の日のお昼近くまで鮫がそれを放っておくとは考えられませんね」 「なるほど……」 「私も十年前の関係者の証言資料を読ませてもらいましたが、沢田明梨の表現から推測すると、鮫は彼女が気づくほんの数十分前に死体を発見して、それに襲いかかったような気がします。ボラボラ島の環礁《かんしよう》の外は鮫の銀座通りみたいなものですからな、環礁の中にだってことあるごとにウヨウヨと鮫が入りこんでくるらしい。そうしたことをあわせると、前夜からあった水死体が午前十一時ごろまで無傷でいたとは考えにくいのです」  さすがに南の島で育った警部は目のつけどころが違うな、と財津は感心した。 「じゃあ、警部は副島新吾は翌日の朝まで生きていたと……」 「それも一つの考え方です」 「もう一つは?」 「彼が死亡したのは前夜であっても、場所は海ではなく浜辺だった。それが潮の満《み》ち干《ひ》でさらわれて、次の日の午前中になって沖合の方へ流されていった。これも妥当な説明でしょうな」 「うーん」  財津は唸《うな》った。 「海の上で起きたことでないのなら、副島新吾事故死説は説得力を欠いてきますな」 「そうでしょうね」  源は財津の膝に手を置いて囁《ささや》いた。 「私はね、彼が何者かに殺されたことを確信していますよ、財津さん」      3  烏丸ひろみは頭をフレッドの肩にあずけて、気持ちよさそうにぐっすり眠っていた。  食事のサービスも終わり、機内は照明を落として映画を上映していた。  フレッドは映画には興味がなかった。ヘッドフォンでBGMをききながら、手もとの明かりをつけて日本から持ってきた捜査資料にもう一度目を通していた。  ひろみの髪の毛から甘い香りが漂ってくる。ときどき彼女の寝息が首筋にかかってくすぐったかった。  フレッドは、ひろみが目を覚まさないよう、リクライニングシートを少しだけ倒して書類を読みふけった。  大谷誠|溺死《できし》事件で最大の謎とされていた、死体の口内に詰められた夥《おびただ》しい数のパンのかけら——その種類が判明していた。  死体の口中にあったパンは二つの種類がミックスされたもので、その一つはライ麦系、もう一つは卵色をしたパンだった。  卵色をしたものはブリオッシュというフランス生まれのパンであることがわかった。水の代わりに卵を使って焼いたものである。  このパンは朝食のルームサービス用としては出されるが。昼間のバイキング・ランチの席上には用意されていなかった。  もう一つのライ麦系のパンだが、WRC八丈島のシェフによると、同ホテルで扱っているライ麦系のパンは全部で三種類あった。  キャラウェイ・ライブレッド、ドライ・コーン・ブロート、そしてパンパニッケルだった。  キャラウェイ・ライブレッドは、ライ麦三十パーセントにキャラウェイ・シードを入れて焼き上げたもの。  ドライ・コーン・ブロートは、ライ麦の粒とくるみとゴマの三種類の粒をライ麦生地に混ぜてつくられる。�ドライ�とは乾いたという意味の英語ではなく、三を意味するドイツ語である。  パンパニッケルはしっとりとして固く、密度のあるライ麦パンで、酸味を特徴としていた。  このうちバイキング・ランチのオープンサンドに使われたものは、パンパニッケルとキャラウェイ・ライブレッドで、ドライ・コーン・ブロートは朝食のルームサービスメニューにつけられるものだった。  そして、死体の口中からはゴマやくるみの粒が採取された。  言うまでもなく、詰めこまれていたのはドライ・コーン・ブロートだった。  ブリオッシュとドライ・コーン・ブロート——いずれも朝食メニューにあってバイキング・ランチには出されなかったものである。  その朝、大谷誠・芽里夫妻は二名分の朝食をルームサービスとしてとっていた。注文票の控えもあった。  彼らが注文したのは、それぞれプレーンオムレツにパンとコーヒーだった。パンと言った場合、WRC八丈島のホテルではバターロール、ブリオッシュ、ドライ・コーン・ブロートの三種類を一つずつバスケットに入れてサーブする。二名分のときは、当然それが二つずつとなる。  彼らがパンを残したか全部食べていたのか、ワゴンを下げにきた係のボーイはまったく記憶していなかった。  それが普通だろう。人の食べ残しまでいちいちチェックしたり覚えていたりするものではない。  ただし、大谷浩吉や取り巻きの幹部、それに秘書をしていた田村麻美から興味ある証言が得られた。大谷誠はライ麦系のパンが大嫌いで、日ごろ口にすることは絶対になかったというのである。  当然のことながらシェフにもその情報が伝えられ、彼はスタッフに、社長にはライ麦パンを出さぬよう指示したのだが、係がつい習慣でバスケットにドライ・コーン・ブロートを入れてしまったのである。  フレッドは考えた。  ルームサービスに出されたパンを溺死の際に利用したとすれば、まずは妻の大谷芽里に疑惑の眼が向けられることになる。彼女が次の犠牡者になったという事実を脇に置いて、だが……。  芽里がロックされた三〇六号室に入れた可能性は極めて薄い。  合鍵をつくっていたら……という仮説も持ち出されたが、そんなことよりもっとかんたんな入室方法があるにはある。 「あなた、私よ。ドアを開けてちょうだい」  と呼びかければいいのである。  妻にそう言われれば、夫がドアを開けるのは当然のことだろう。  ただし、この当たり前すぎる仮説も正解とするには矛盾をはらんでいた。  大谷社長は完全に泥酔していた、という田村麻美の証言がある。ベッドに寝かせつけてさしあげてからすぐに声をかけたのですが、もう返事がありませんでしたわ、と彼女は証言していた。  そんな状態の大谷がドア越しの妻の呼びかけに応えられたかどうか、はなはだ疑問である。  だが一方では、大谷誠はそんなに飲んでいなかったはずだ、という意見もあった。  そうだとすると、泥酔は演技だったということが考えられる。  しかし、ここにもう一つの矛盾が生じる。  酔っていたのが演技だったとすれば、大谷誠をバスタブで溺死させることが可能だっただろうか。  少なくとも老人や女性には無理だろう。三十五歳の男が必死に抵抗すれば、溺《おぼ》れさせるのは相当難しいはずだ。  副島努とか伊藤次郎だったら力ずくで成し遂げることができたかもしれないが、それだったらわざわざ溺死という手段を選ばなくてもいいはずだ。  溺死——まさにその方法の選択が大きな疑問だった。  なぜ犯人はそのような方法で大谷誠を殺したのか。  溺死させるにあたって、ブリオッシュとドライ・コーン・ブロートという二種類のパンがどういう役割を果たしたのか、捜査陣にある程度の推測はついていた。  解剖の結果、それらのパンのかけらが気管にびっしりと詰まっていることが確認された。  つまり、大谷誠は溺死《できし》する以前に、たっぷりと水を吸いこんだパンのかけらで気道を塞《ふさ》がれていたのである。  これでは、水中に顔を突っこまれて、もがくたびに苦しさは倍増し、抵抗する力は激減する。  犯人がどうやって彼の口にパンを詰めこんだか、それは想像するよりないのだが、溺死に至らしめる時間を短縮する効果を生んだことはたしかだった。 (それから大谷芽里の事件だ)  フレッドは別の書類に目をやった。  凶器として使用された包丁は、やはり同ホテルの厨房《ちゆうぼう》から持ち出されたものだった。  柄からはそれを使うコックの指紋が検出されただけである。そのコックのアリバイは完全だった。  フレッドは凄惨《せいさん》な現場を思い出さないようつとめながら、書類を読みつづけた。  現物がないので確かなことは言えなかったが、芽里が殺される直前にサービスセンターへファックスが送られてきた。 ≪メーリサンハシンダ、シンダ、シンダ≫ 『メリーさんの羊』をもじった気味の悪い文面は誰が送ったのか。  伊藤次郎によると、それは三〇二号室、つまり大谷浩吉会長が泊っていたロイヤル・スイートルームの一室にあるファックス機から送られたものだという。  だとすると、送り主は大谷浩吉ということになるのか。  大谷浩吉が嫁の芽里を殺した、という仮定はあまり現実的ではなさそうである。  いや、誰にとっても現実的でないことは同じだ。  あの夜、ホテルに泊っていたのは関係者ばかり九人である。  大谷芽里という被害者を除いた残り八人の中に彼女を殺した犯人がいたとすれば、その人物は相当な危険を冒したことになる。  確率の問題からいっても八人のうちの一人である。  しかも、いくらシーツを被《かぶ》せてその上から急所を一突きで仕止めたとしても、結果としてうまくいったからいいようなものの、もし途中で大谷芽里に大騒ぎされたらどうなっていたのか。 (そういえば……)  フレッドはあることに思い当たって、書類から顔を上げた。  七列ほど前にあるスクリーンに映画が映し出されていたが、彼の焦点はそれにあっていなかった。 (大谷芽里の死体はどういう状態だったか。あぐらをかいたような格好でベッドの上に座り、シーツを被せられていた。そして、シーツの上から一突きで頸動脈《けいどうみやく》をスッパリとやられていた……)  いいか、シーツの上から急所を一突きだぞ、とフレッドは自分に何度も言いきかせた。  他に刺し傷はまったくない。文字通り一突きで大谷芽里の生命は奪われていたのである。 (だけど、待てよ。シーツを被せた上から、どうやって急所がわかったんだ?)  シーツの存在は、被害者にとって目隠しの役割を果たすと同時に、加害者にとっても目隠しになっていた。  返り血を浴びることは避けられるかもしれないが、そのかわり相手の急所を直接自分の目でたしかめられなくなる。  当然、ナイフの攻撃は数にまかせて何度もポイントとおぼしきゾーンを刺しまくることになろう。  だが、犯人はそうしなかった。  ただの一発で、大谷芽里の喉《のど》をザックリと裂いたのである。  少なくとも芽里が抵抗したのでは、このような手際のよい結果は得られなかっただろう。 (無抵抗状態で大谷芽里が刺されることなんてありうるだろうか)  フレッドは考えた。  なかなか答は見つからなかった。  ボンヤリと見るともなしに映画のスクリーンを見ていると、少女が教会でお祈りをするシーンが出てきた。  ひざまずいて十字架を見上げ、両手を胸の前で組んで何ごとかつぶやいている。 (……!)  急にフレッドの焦点がスクリーンの上に定まった。  神に祈る少女の喉もとが何とも無防備に見えた。 (そうだ、神だ)  夫を失って精神的に動揺している芽里に対し、夫の冥福を祈りなさい、と命じたらどうか。  彼女は目を閉じ、両手を組み合わせ、攻撃からまったく無防備な状態になる。  そこで喉めがけて包丁をザックリやるぶんには、七十歳の悦にだって可能な行為である。  白いシーツも神がかった行為の中では、何とでも理由をつけて彼女の上に被《かぶ》せることができるのではないか。 (……となると、芽里にそうした祈りを自然に命じることのできた人物は誰かということだ。あの中で信心深い人間、宗教にのめりこんでいる人間は……)  飛行機が乱気流に突っこんでガタガタと激しく揺れた。  映画の画面がぶれて、そのうちにプッツンと切れてしまった。 「どうしたの、こわい」  ひろみが目を覚ましてフレッドにしがみついてきた。 「気流の悪いところにきたみたいだぜ」  ポーンとチャイムが鳴って、シートベルト着用サインがついた。  英語の機内アナウンスが流れた。 「やだ、こういうのダメなの、私」  言い終わらないうちに、エレベーターで急降下するような無重力感に襲われ、次にガッチャーンという音とともにものすごい衝撃が下から突き上げた。機体が壊れたかと思った。  したたか尻を打ち、反動でシートベルトに固定された腹を叩《たた》かれた。  ベルトを締め遅れた客が座ったままの格好で宙に浮き、天井に頭をぶつけて落ちてきた。  機内のあちこちで悲鳴が起こった。  コンチネンタル航空041便は南太平洋の上空で、乱気流に弄《もてあそ》ばれていた。 「フレッドたすけて、ひろみ死にたくない」  捜査一課の美人刑事が泣きべそをかいていた。 「呪《のろ》いだ……」  フレッドは、わざとおどろおどろしい声でひろみに囁《ささや》いた。 「これは財津大三郎警部の呪いだ……」      4 「いよいよ明日、ボラボラ島へ出発だ」  副島努はベッドにあおむけになってタバコに火をつけた。  一服吸ったところで赤いマニキュアを塗った指がソッと伸びて、彼の唇からタバコをはさみとった。  フーッと煙を吐き出す女のため息が洩《も》れて、再び努の前にタバコが返された。  白いフィルターに毒々しいまでに鮮やかな赤い口紅の跡がついていた。 「会長はあなたをボラボラ島のリゾートクラブ総支配人に任命するつもりよ」  田村麻美がうつぶせになったまま、顔だけ横にむけて努に話しかけた。 「因果はめぐり、って感じね。十年前にお父様が引き受けるはずの役が、あなたに回ってくるなんて」 「まさか水死体となって浮かぶところまで繰り返されないだろうな」 「縁起でもないことを言わないでよ」  怒った声を出して、麻美は努の指からまたタバコを奪った。 「おれに死なれたら困るのか」 「困るとは言わないわ。ただ……いやじゃない、そういうのって」 「相変わらず気の強い人だな」  努は身体の向きを変えて麻美の背中に唇を這《は》わせた。 「きれいな背中だ」  努は麻美の耳もとで囁いた。 「だから、いつもきみはおれの隣でうつぶせに寝るんだな」 「ふふ」  笑うと、麻美はゆっくりタバコをふかしながら努のするままに任せていた。 「あなたのお姉さんて、たいした人ね」  努の顔がヒップの割れ目にきたところで、麻美がそうつぶやいた。  努は思わず動きを止めて、彼女の顔をのぞきこんだ。 「何だよ、急に」 「あの人、自分の夫が死ぬとすぐに、私が浩吉会長の秘書になることを見越していたのよ」 「………」 「大谷誠社長が忘れもしない三〇六号室で溺れ死んだ日の夜、みんなで会長の部屋に集まったでしょ」 「ああ」 「あのとき芽里さんは私を片隅に呼んで、まだ泣き腫《は》らした目でこう言ったのよ。社長が死んだ後は、きっと浩吉会長はあなたを自分の秘書にするつもりよ、って」 「会長は社長職を退《しりぞ》いてからしばらくは、山崎総務部長を秘書がわりに使っていたからな」 「山崎部長はお役御免で、あなたが秘書に起用されるわ、とお姉さんは断言したの」 「あんなドサクサのときにか」 「そうよ、それで会長の身の周りのこまごまとした注意を教えてくれたわ」 「姉さんはどういうつもりでそんなことを……」 「どうだったのかしらね。お姉さんは私のことを敬遠していたから、そうやって声をかけられたのは意外だったわ」 「ふうん」 「そのとき、あなたのことも頼まれたわ」 「おれのこと?」  努は麻美の肩の下に手を入れて、彼女をあおむけにした。彼女の裸身は、その顔同様、不自然なまでに完璧《かんぺき》だった。 「姉さんは何て言ってたんだよ」 「お願いだから、あの子と結婚しないでねって」 「え」 「あなたは主人と浮気するだけじゃ気がすまなくて、私から弟まで奪う気なのね、ってすごい形相《ぎようそう》で言われたわ」 「姉さんが……そんなことを?」 「努と結婚したら、私、あなたを殺すかもしれないわ、って」 「嘘《うそ》だ」 「ほんとよ」  麻美はベッドの上に広がった自分の髪の毛を左手で梳《す》いた。 「その数時間後に、こんどはそう言った芽里さんが殺されてしまったわ」  副島努は麻美の右手からタバコを取り上げて、それを灰皿に押しつけて消した。 「ねえ、お姉さんの遺言《ゆいごん》を破ってみる? それともいい子になって守り通す?」  田村麻美はまったく感情を面《おもて》に出さずそうつぶやくと、挑発的に片膝《かたひざ》を立ててみせた。      5  大谷浩吉一行がタヒチへ向けて出発する月曜日の昼、浩吉は副島悦に連絡をとって彼女を一人で本社の会長室へ呼び出した。 「暑い中をお呼び立てして申し訳ありませんでした。ま、どうぞそちらへおかけ下さい」  浩吉はソファの中央の席を悦にすすめた。 「私は昼をすませてしまいましたが」  浩吉がたずねると、悦は儀礼的な笑みを浮かべて首を振った。 「私はまだですけれど、食欲がありませんの」  悦は質素だが品のよい抹茶色《まつちやいろ》のワンピースを着ていた。七十歳になっても姿勢がいいので洋服がよく似合った。  大谷浩吉は派手な柄《がら》のアロハシャツに白いスラックスである。  悦は会長室に入ったとたん、彼のいでたちを見て驚くとともに少々腹を立てていた。  気分は南国へすでに飛び立っているのはわかるが、ボラボラ島は同時に副島新吾という悦にとって最愛の息子が客死したところである。そういう場所へ行くのに、観光気分をまる出しにしたファッションをする神経が解《げ》せなかった。 「悦さんのお荷物は常務の車で成田へ運ばせる段取りになっています」  言いながら、立ったままで葉巻きをくわえ卓上ライターで火をつけた。  強い香りが部屋に広がった。  タバコならまだしも、葉巻を喫うのに面前の婦人客の許可を求めない浩吉の態度にも、悦は重ねて腹を立てた。 「わざわざお呼びしたのは他でもない。これから三週間の予定でボラボラ島に滞在する前に、あなたにだけは申しあげておかなくちゃならんと思うことがありましてね」  浩吉は悦の向かいのソファに音を立てて座った。  空調の関係で、葉巻の煙が悦の座っているところとは反対のほうへ流れていくのがせめてもの救いだった。 「むこうへ行ったら仕事やら何やらで、なかなかあなたと二人きりでお話しする機会がなくなるかもしれないし」  葉巻の先を見つめながら喋る大谷浩吉の顔は、意外に真面目だった。 「じつは……」  と言いかけたところで、会長秘書となった田村麻美がノックをして入ってきたので、浩吉は言葉を呑《の》みこんだ。  麻美は悦に黙礼して二人の前にアイスティーの入ったグラスを置くと、浩吉にむかって小声で言った。 「会長、食後のお薬の時間です」  浩吉のために、彼女はもう一つ水の入ったグラスを用意していた。 「おお、机の抽出《ひきだ》しに薬の袋があるだろう。それを取ってくれんか」 「はい」  麻美は音もなく会長デスクに近寄り、抽出しを開けて薬で膨《ふく》れあがった紙袋を持ってきた。  このへんの音無しの立ち居振る舞いは慣れたものである。動作ひとつひとつに秘書としての配慮が染みついているという風だった。  麻美は浩吉の指示を待たずに袋から錠剤のパックされたシートを取り出し、一回分を切り取って錠剤一粒を自分の掌《てのひら》に出した。 「どうぞ」  右手にのせた薬の粒と、左手のグラスを同時に差し出す。 「うん」  と、短くうなずいて、浩吉は指の長さが目立つ麻美の掌から錠剤をつまみ取り、グラスの水を口に含んでそれを飲み下《くだ》した。  すかさず麻美は純白のハンカチを会長に差し出す。浩吉は当然のことのようにそれを受け取って唇のまわりを拭《ぬぐ》い、また彼女に返した。 「この薬をタヒチに持っていくのを忘れないでくれよ」 「はい」  麻美は静かにうなずいた。 「降圧剤のおかげで最近は体調も安定してきましてね」  麻美がそっと部屋を出ていくまでのつなぎに、浩吉はそんなことをつぶやいてまた葉巻に火をつけた。 「田村さんはよく気がつく人ね」  麻美の姿が見えなくなってから、悦が言った。 「そうですかね」 「そうですわ」  会話の進まない、妙な間があった。 「きっと息子の躾《しつけ》がよかったんでしょう」  浩吉は窓の外に目をむけた。 「それで、お話って何ですの」  悦の方から話をもとに戻さなければならない雰囲気があった。 「烏丸……ひろみ、とか言いましたかな」 「は?」 「あの刑事ですよ、捜査一課の」 「ああ、あれね」  悦はひろみを物扱いにした。 「あれは失礼な女でございましたわね」 「私はそうは思いませんでしたがね」 「あら、そうですの」  悦は不満そうな顔をした。 「じつはね、悦さん。私は見てしまったのです」  浩吉は身を乗り出した。 「何を?」  悦は相手の銀髪に目をやった。  それは、直接視線をあわせることを嫌ったようにもとれた。 「あなたが芽里の部屋から出てくるのをね」  二人の間で時間が止まった。  悦をじっと見つめているうちに、大谷浩吉は写真を眺めているような錯覚に陥《おちい》った。  まばたきひとつしない年老いた瞳が、彼の銀髪に釘づけとなって動かなかった。 「見たんですって?」  一分ちかい沈黙の後に、悦の唇からやっとその一言が洩《も》れた。 「見ましたよ」  答えてから、浩吉は葉巻をせわしなく吸った。  ぎらついた太陽に照らし出された外の風景は二人にとって別世界だった。  互いの呼吸が耳もとできこえるほどの静寂があった。 「警察にも言ってないことなのだが、正直な話をしましょう」 「聞きたくはございません」 「いいえ、そうはいきません」  浩吉の語調は強かった。 「烏丸ひろみ刑事があなたに言いましたな。あなたは返り血を浴び、それを風呂で洗い落としていたのではないか。風呂に入っていたから浴衣《ゆかた》一枚で外に出てきても寒くはなかったのではないか……とね」 「ばかばかしい想像ですわ」 「それを聞いて私はゾッとしましたよ。彼女のカンのよさにね」  悦はやっと視線を相手の目に戻した。 「私は体調がすぐれないことを理由に、あのロビーでの取り調べを切り上げさせてもらったが、本当は彼女の推理が的を射ていることに怖くなったのですよ」  浩吉は葉巻を消して、両手の指を交互に組んだ。話が長くなりそうだった。 「あの日の夜中の一時から一時半にかけて、私は自分の部屋に芽里を呼びつけたのです」  無表情を装っていた悦の瞳が動いた。 「私は誠の死にざまにどうしても納得がいかなかった。いったい誰が誠をあんな目にあわせたのか。常識的に考えれば最後に息子を部屋へ連れていった田村君が一番怪しいということになる。だが、彼女はごらんの通りの人間だ。とにかく頭がよく切れる。滅多なことで感情をたかぶらせない。一言でいえばクールな女だ」  浩吉は話し声が外へ洩れぬよう、一段と小声になった。 「自分がもっとも疑われるような状況で殺人を犯すほど彼女は馬鹿じゃない。それに……」  浩吉は悦の反応を窺《うかが》うように上目づかいで言った。 「田村君は息子のことを愛していた」  悦が息を大きく吸いこんだ。  私は怒っていますよ、というアピールである。 「私は息子の夫婦仲について、もう一度嫁に本当のところをききたくなった。それで芽里の部屋に電話をかけ、ちょっと私の部屋までくるようにと言いつけました」  大谷浩吉は、そこまで言うとソファに背をあずけ、目を閉じてひとつひとつの光景を思い出すように喋《しやべ》りはじめた。      6 「もしもし、そっちは何曜日の何時だ」  国際電話にありがちな無駄なことを財津がたずねていた。 「日曜日の夕方ですよ」  ワンテンポ遅れてフレッドの声が返ってきた。 「そうか、こっちは月曜日の昼だ」 「………」 「こっちは月曜日の昼だと言ってるんだよ」 「はいはい、わか……」 「もしもし、聞こえてるのか」 「……ってますよ。……え? 聞こえていますよ、そんな大声張り上げなくても」 「いまどこなんだ」 「タヒチ本島の首都パペーテです」 「そうか、おれはいま捜査一課のな、自分のデスクからかけてるんだ」  わかりきったことを言っている。 「そっちは暑いか」 「暑いですよ、日中はね。それでも朝晩はけっこう冷え……」 「東京も暑いぞ、いま外は三十三度だ」 「……こむんですよ。は、三十三度。そうですか。で、何か変わったことでも……」 「ひろみは……え、変わったこと? それよりひろみはどうしてる。元気か」 「いますよ、ここに」  ほらきた、という感じでフレッドは彼の腕にしがみついて受話器に耳を寄せていたひろみにバトンタッチした。 「警部、ありがとう、出張させてくれて。ひろみ、うれしい」  調子のいい声を出している。  おおかた電話のむこうじゃ財津警部が目尻を下げまくっているに違いない、とフレッドは思った。 「ホテルの窓から見る夕焼けがね、すっごいきれいなの」  それはひろみの言うとおりだった。  オレンジ色の太陽がコバルトの空を時間とともに紫に染め上げていく。それに従ってオレンジの色もだんだん濃くなって、燃えるような赤に変化していった。 「ホテルって……? そうですよ。日本で予約しておいたマエバビーチホテル。いまですか? 部屋から電話してるんですよ。私のお部屋」  受話器のむこうで財津警部の顔色が変わってきたな、とフレッドは確信した。透視能力がなくたって、それは火を見るより明らか、というやつだ。 「やだあ、警部。フレッドはちゃんと別のお部屋をとっています。……はあい」  頬をふくらませて、またフレッドにタッチした。 「フレッドにすぐ代われ、だって」 「もしもし」  言い終わらないうちに怒鳴り声が赤道を越えて飛んできた。 「馬鹿モノ。おれはな、おまえたちを婚前旅行に出したつもりはさらさらないぞ」 「そんな、婚前旅行なんて」  じゃあ結婚してもいいんですか、と言いそうになってフレッドは思いとどまった。まだボスには脳卒中で倒れてもらっては困る。 「ひろみの部屋に入るとは何ごとだ」 「何ごとって……だってまだ夜になってないんですよ」 「夜じゃなくても夕焼けだろう」  財津も興奮すると論理的な回路が切れるタイプである。 「夕焼けというのが危ないんだ」  フレッドは受話器を耳から離してひろみと顔を見あわせた。 「ああ、こんなことならおまえら二人を一緒に出張させるんじゃなかった」  もう会話の中身はほとんどグチである。 「ひろみのご両親に何とおわびをしてよいか」 「警部、お願いしますよ」 「お願いしますよじゃない! とにかくフレッド、おまえはさっさとそこを出て仕事をしろ」 「仕事?」 「そうだ。やるべきことができたんだよ。おまえはフランス語が喋《しやべ》れるというからタヒチに行かせてやったんだぞ。夕焼けの添えものじゃない」 「はいはい」 「返事は一度でいい」 「はい」  フレッドは天井にむかってため息をついた。 「おまえ、いまイヤそうなため息をついたな」  財津も結構しつこい。 「おれの命令がきけんのなら、ただちに日本へ帰ってもらって結構だぞ」 「申し訳ありません」  とりあえず謝るより手だてはない。 「失礼があったらおわびします」 「あったら、じゃない。あったんだ」 「すみません」 「………」 「で、仕事というのは」 「明日のボラボラ島行きの飛行機と宿をキャンセルしろ」 「え。まさか日本に帰れというんじゃ……」  フレッドは心細い声を出した。  楽しみにしているひろみのタンガ姿も見ないうちにUターンだなんて、それはない。 「そのとおりだ……と言いたいところだが、残念ながらそうじゃない。行き先をモーレア島に変更するんだ」 「モーレア島?」  タヒチ島の西北十五キロ、まさに目と鼻の先にモーレア島はあった。飛行機に乗ればわずか十分のフライトである。 「今夜日本を発つ大谷浩吉の一行だが、そっちの月曜夜にパペーテに着いた後、翌朝ボラボラ島ではなく、まずモーレア島へむかうことが判明した。どうせだからバリ・ハイで有名なミュージカルゆかりの島を見ておこうというつもりらしい。あるいはこの島にもリゾートクラブを作る気なのかもしれんが」 「わかりました。でもエア・モーレアのオフィスはもう閉まってますから、飛行機の手配は明日の朝一番でやりますよ。最悪、チケットがとれなくてもモーレア島へは船も出ていますから。とりあえず宿の手配だけしておきます」 「二人は別々の部屋にするんだぞ」 「わかってますよ」 「それからな——なに、おれに電話? 後回しにしてもらってくれ。いまタヒチと話しているんだ……急用? 一課長からだって? わかったよ——おい、フレッド。とりあえず至急の呼び出しがかかったからこれで切るが、くれぐれもひろみと間違いを起こすんじゃないぞ」 「はいはい」 「返事は一度だ」 「はい」  ようやく嵐のような国際電話が切れた。 「あー疲れた。ボスの疑り深いのにもまいるな」  ひろみを見ると、いつのまにか窓際に行って、じっと夕焼けを見つめている。  財津が見たら目を回すかと思うほど背中をむき出しにしたペパーミントグリーンのラップドレス。ほとんどバックレスといってよいデザインの服をひろみは着ていた。  さっきまで向きあっていたから気づかなかったが、後ろ姿がセクシーなことこの上ない。 「疑われてもしようがないのかな、私たちって」  少し外が暮れなずんできたので、窓ガラスが半透明の鏡のようになっていた。  ひろみの眼差《まなざ》しが、夕焼けの中からフレッドをじっと見つめていた。 「たまにはボスも当たってることを言うのかもしれないな」  フレッドはつぶやきながらひろみに近づいていった。 「夕焼けはアブナイ……か」  肩越しにふりかえり、睫毛《まつげ》を伏せたひろみの横顔は、南太平洋の残照を浴びて燃えていた。 [#改ページ]   � バリ・ハイ      1 「諸君、あれがバリ・ハイだ」  緑の草原と背の高いパームツリーのむこうにそそり立つ岩山を指して、大谷浩吉が叫んだ。  三台のレンタルジープに分乗していた一行が、その叫び声でバラバラと道路に降り立ち、何人かはカメラのシャッターを切りはじめた。 「ごらんの通り、バリ・ハイは夕焼け空が一番よく似合う」  岩山のはるか上に茜色《あかねいろ》に染め上げられた雲の群れが浮いていた。 「私はバリ・ハイのシルエットが好きだ。この山はそのシルエットを見られるために生まれてきたに違いない」  正式名称はモウアロアというバリ・ハイはモーレア島西部にある標高八七四メートルの山である。  大谷浩吉が言うように、山というよりは岩山と称した方が当たっている。  このモーレア島に限らず、ボラボラ島も含めたソシエテ諸島の山々は、みなゴツゴツとした岩肌が特徴的である。  山頂だけに緑があって、山腹は木一本|生《は》えていない岩肌という山も多く、この南太平洋の島々に独特の雰囲気を与えていた。  もしこれらの山が平凡な形をしていたら、果たして南太平洋の楽園がいまほど魅力的であったかどうか疑問だった。 「いやあ、会長、あれでございますね。やはり何と申しますか、タヒチは違いますでございますねえ。いやあ、楽園だわ、これは」  南太平洋は初めてという久米が、素直に感動していた。  何を勘違いしているのか、アフリカ探険でもやった方がよさそうなサファリルックである。双眼鏡代わりに下げているのはコンパクトカメラで、しきりにバリ・ハイを中心としたあたりの風景を撮っていた。 「会長、帰りにタヒチ本島にあるゴーギャンの生家をゆっくりと訪れるというのはいかがでしょう」  久米のはしゃぐ姿を馬鹿にした目つきで見ながら、山崎が大谷浩吉に耳打ちした。  彼は半袖のポロシャツにスラックス。ブランドはアーノルド・パーマー。早い話がゴルフウェアで南洋の楽園を訪れているわけである。ラフな服装といえばこれ以外の取り合わせは彼の頭の中にはなかった。 「ゴーギャンかね」  大谷浩吉は派手なグリーンのサングラスにアロハとバーミューダ。彼がいちばんリゾートしている。 「はっ、ゴーギャンでございます」  タヒチにきても山崎のかしこまる癖は抜けなかった。 「最近は名画ブームですから、我がワールド・リゾートクラブもそのあたりにひとつ目をつけたらいかがかと思いまして。やはり億の単位で名画を買い取りますと、そのことだけで社の名前が内外に売れるというパブリシティ効果が生まれます」 「ふむ」  浩吉は片足をジープのバンパーにかけて、うまそうに葉巻をくゆらせた。 「何と申しましても話題をまいたのが今年の三月に安田火災海上が五十八億円という目をむくような大金で落札したゴッホの『ひまわり』です。これはもうニューズウィーク誌あたりでも取り上げられた大ニュースになりましたからね」 「かえって世のひんしゅくを買わんかね、そういうのは」 「ま、ゴッホは特例中の特例ですが、他にもクリムトの『オイゲニア・プリマベージの肖像』が五億三千五百万円、モネの『庭の池』が約四億円、ルノアールの『扇を持つ婦人』が三億二千百万円、同じくルノアールの『母と子』が二億五千二百万円……と、こういったぐあいに、いずれも日本人がオークションで落札しております」 「よくそうした数字が空で言えるな」 「はっ、数字に強いのだけがとりえなものですから」 「名画ねえ……」 「WRCボラボラをオープンさせるにあたっては、やはりゴーギャンの本物が飾ってあるということを売り物にせねば」 「なるほど」 「日本人は単純ですから、そうした付加価値にすぐ飛びつきます。それに巨匠の名画というものは、それじたいが一つの財テクです」 「さすが総務部長だな。考えてるじゃないか」 「はっ、それはもう」  山崎は一礼してから、浩吉の耳元でつけ加えた。 「それに、いつまでも危ない橋を渡っているのも何かと思いまして」  さっと浩吉の顔色が変わった。 「井関五郎の身許がいまだに判明していないことは、ほとんど奇跡、神の加護としか言いようがありません。ですからすべてが表沙汰《おもてざた》にならないうちに」 「知らんな、そんなことは」  大谷浩吉は急に不機嫌になった。 「それは君が心配すればよいことで、私は関係ない」 「はっ」  小声ながら怒気の激しさに山崎は身を強《こわ》ばらせた。 「井関などという男は知らんよ」 「はっ、そのとおりでございます」  山崎は黙りこくった。  しかし、怒鳴ってはみたものの、浩吉もやはり気になるとみえて、葉巻を横ぐわえにしたまま山崎にたずねた。 「で、小田はどうなった」 「ま、なんとか」 「こんどのことに味をしめて何か言ってきたりしていないだろうな」 「はっ」 「大丈夫だな」 「はっ」 「金のやりとりもすべてすんでいるんだな」 「はあ」  急に自信のない返事が返ってきたので、浩吉は咎《とが》めるような目つきで山崎を睨《にら》んだ。 「終わっとらんのか」 「はっ、大丈夫です」 「大丈夫ですじゃなくて、実際のところはどうなんだ」  浩吉はちらっと後ろのほうを見た。  副島努と田村麻美は恋人のように肩を並べてタヒチの夕焼けを眺めていた。  副島悦は久米ととりとめのない話をしている。  気になるのはもう一組の男女。『週刊芸能』の伊藤次郎と沢田明梨の存在だった。  彼らの同行を黙認したのは大谷浩吉の判断だった。  いわば政治家が番記者を同行させているようなもので、浩吉としては両刃《もろは》の剣として彼らの立場を逆利用できるチャンスを狙《ねら》っていた。  一緒に行動をすれば情も移ってくる。そうなれば悪いことは書きにくくなる。こういう心理を利用してやろうと思っていた。  が、油断ならない連中であることもたしかだった。  さっきから互いに記念写真を撮りあっているようなふりをして、さりげなく浩吉と山崎の様子に目を走らせている。 「じつはですね、まだ報酬の半額は渡しておりませんので」 「どうしてだ」  浩吉の声が高まった。 「どうしてそういうことは、さっさと片付けておかないんだ」 「ご承知の通り、うちは六月末締めの決算ですから、一括払いをしてしまいますと、どの項目に潜《もぐ》りこませましても、経常利益の前年対比がマイナスになってしまうのです」 「きみはそんなつまらんことのために……」  大谷浩吉は葉巻の端を歯でかみ切った。 「申し訳ございません」 「謝ってなんかほしくはない。そんなことよりも早急に残額を支払って、スッパリと彼らと手を切るんだ」 「はっ」 「今夜にでも国際電話を入れて、経理に指示して金を振り込ませろ」 「はっ」 「たびたび重ねて言うが、すべての責任はきみにあるのだからな、山崎君」  大谷浩吉はジープのボンネットをバーンと叩いてその場を離れた。      2 「八つ当たりをしても仕方ないが、いまになって登竜峠《のぼりりゆうとうげ》刺殺事件の被害者の身許がわかったというのは遅すぎる」  捜査一課に出張中の八丈署源警部は、地元捜査本部からの連絡を受け取って憮然《ぶぜん》としていた。 「でも、わからずじまいのままよりはいいでしょう」  財津がなだめ役に回った。 「井関五郎の母親も母親だ。一カ月以上経ってから息子が行方不明のままだと届け出る始末だ。せめて捜索願いが郷里の長野署にもっと早く出ていたら……」 「この母にしてこの子あり、と言いますかね。なんだかピントのズレた母親はよくいますよ」  長野市内に住む井関ミヨは、善光寺近くの土産《みやげ》店にパートで勤めている六十歳の女性だった。  彼女から、三十二歳になる息子が一カ月以上も行方不明になったままだという届け出が長野署にあったのが一週間前のことだった。  写真をもとに、いくつかの身許不明死体との照合がなされたが、七月十一日夜に八丈島登竜峠で何者かに刺し殺された男が井関五郎である可能性が強くなった。  遺体はとっくに荼毘《だび》に付されていたが、火葬前に撮った検死写真を見るなり井関ミヨは泣きくずれた。  左脚にある交通事故の傷跡と、歯の治療カルテが客観的な決め手となった。  登竜峠刺殺事件捜査本部は人数を大幅に縮小されていたが、身許の判明によりとたんに活気を取り戻した。  井関五郎が何の目的で八丈島を訪れたのかは、意外なところから推測がついた。  まず、捜査陣が真っ先に訪れたのは、母親ミヨからきき出した井関五郎のアパートである。  東京都大田区|六郷《ろくごう》土手に建つ木造アパートこがね荘に捜査員がたずねてみると、すでにそこは別人の住まいになっていた。  大家の話によると、七月二十日ごろ、人相の悪い二人組の男がやってきて、井関の家財道具一切をトラックで運び出していったという。  若い男は年配の男を�兄貴�と呼んでいたが、年配のほうは若い手下を�ケンタ�と呼んでいた。それが大家の覚えているすべてだった。  井関五郎が殺された七月十一日直後に、八丈島から飛行機もしくは船で本土へ渡った乗客リストが、航空会社とフェリー会社の協力により提出された。  目ざす人物は�ケンタ�である。  ケンタという名前の乗客は七月十五日までの乗客リストの中に、飛行機で二名、船で一名だけいた。  しかし、三人のうち二人までは四十代の人間で、いずれも身許のたしかな会社員だった。  ふるいにかけられて一人だけが残った。  七月十二日、台風通過後にダイヤ復旧した東京行きジェット機で島を発ったハシヅメ・ケンタという二十二歳の男である。  ちなみにこの男は、チケット予約時にもう一人の男性の分もあわせて申し込んでいた。その男の名前は、オダ・カツオである。  予約申し込み時に登録されたハシヅメ・ケンタの電話番号は、調べてみると川崎市にある広域暴力団系の小さな組事務所のものであった。  捜査四課の協力も得て、たちどころに二人のプロフィールが出た。  橋詰《はしづめ》健太二十二歳と、小田|勝雄《かつお》四十歳。  二人ともその組の下部構成員だった。  七月九日に八丈島入りして、七月十二日に東京へ戻っている。  もちろん、これだけでは井関五郎殺しの容疑者とするには不十分である。  一方、別のルートから貴重な物件が入手できた。  アパートの隣人が、井関五郎がときどきキャバレーのホステスを部屋に連れ込んでいたことを証言した。安普請《やすぶしん》の木造アパートでは、部屋の会話は隣に筒抜けである。  その愛人は、羽田空港に近い大鳥居《おおとりい》の交差点そばにあるうらぶれた安キャバレー『ドンキー』のホステス、通称アケミであることがわかった。  ところが、捜査員がドンキーに行ってみて驚いた。わずか二カ月あまりのうちに、その店には五人の�アケミ�が存在していたのだ。  仕事が不満で次々に辞《や》めていくたびに、新しいホステスが前のホステスの源氏名を引き継いでいくのだ。もちろん辞めたホステスの行く先はつかめるはずがなかった。  捜査員はあきらめてその店を出たが、ふと思い直してもう一度キャバレーのドアを押した。  勘は当たっていた。 �アケミ�というのは源氏名ではなく、本名だったのだ。  大和田明美《おおわだあけみ》——源氏名�マリコ�が井関五郎の愛人だった。  彼女は男からパスポートを預っていた。 「そのパスポートのコピーがこれです」  財津警部は資料を源警部に渡した。 「注目すべきは彼がつねに一定のルートの出入国を繰り返していることです。  成田↓パリ↓ロサンゼルス↓パペーテ↓ロサンゼルス↓パリ↓成田  または、成田↓パリ↓ロサンゼルス↓パペーテ↓ホノルル↓成田  と、こういう具合です。  アメリカとフランスのビザは観光及び商用目的でとっていますが、本当の目的は何なのか」  財津はコピーをパンパンと叩《たた》いた。 「源警部、ごらん下さい。タヒチのパペーテに彼は何度も入国しています。タヒチですよ、タヒチ」 「ここで大谷誠・芽里連続殺人事件とつながってくるんでしょうかね」 「そうでしょう。だって、いいですか。八丈島という平和な島で二晩のうちに三つの殺人事件が起こった。井関五郎、大谷誠、大谷芽里。その三人がすべてタヒチに関係していた。これは偶然の一致じゃすまされんことですよ」  財津は力《りき》んだ。 「それから、井関五郎の出入国を詳しくチェックしていると、おかしな事実に突き当たります」  井関五郎は日本の成田空港を発ち、その四日後[#「四日後」に傍点]にパリのシャルル・ド・ゴール空港に着いている。  帰りも同じで、パリのシャルル・ド・ゴール空港を発った四日ないし五日後[#「四日ないし五日後」に傍点]に成田へ戻っている。  これはいったいどういうことなのか。  出発時刻にもよるが、成田を発つとパリにはその日のうち、もしくは翌日に着く。  逆にパリを発つと、成田へは翌日付の到着となる。ところが井関のパスポートによれば、成田—パリ間の片道に四日ないし五日も要しているのである。 「私は海外旅行をしたことがないもんで」  源警部は気難しい顔をして言った。 「この現象を説明せよと言われても困りますな。財津さんのご意見はどうなんです」 「そうですね」  財津はぶ厚い資料をバラバラッとめくった。 「ここでもう一回、橋詰健太と小田勝雄のことに話を戻す必要がありますね」 「井関五郎殺しの疑いがある暴力団員ですな」 「そうです。彼らの所属する組は、いま捜査四課の連中がある件で徹底的にマークしています」 「銃器密輸ですか」 「いや、違います。中目黒の連中も独自に内偵をすすめていると言えばおわかりですか」  中目黒と言えば略称�麻取《まとり》�、厚生省関東甲信越地区麻薬取締官事務所がある場所だ。 「麻薬……」  源警部がつぶやいた。 「及び、覚醒剤《かくせいざい》大量密輸容疑です」  財津がつけ加えた。 「とくにコカインを中心とした覚醒剤密輸が注目されています。しかし、奴らもなかなか尻尾《しつぽ》をつかませない。そういった状況を背景に、井関五郎のパスポートを私なりに分析しますとこうなります」  麦茶で喉《のど》を潤《うるお》してから財津はつづけた。 「パリ↓ロサンゼルス↓パペーテというコースをなぜ彼がとったか。  一つには、もしエアフランスを使ってパリからタヒチへ行こうとした場合、必然的にロスが経由地になるのです。  しかし、彼はその経由地であるはずのロスからアメリカ合衆国への入国手続きをとっている。ということは、アメリカで何らかの用事があったと考えていいでしょう。  こじつけになるかもしれませんが、ロサンゼルスはコカインの売人《ばいにん》の溜《たま》り場《ば》です。というのは、国境近くのメキシコ領土内にコカインを安価に精製するルートが腐るほどあるのでね。そこから物《ブツ》がダイレクトにロスへ送られるわけです。  マイアミ経由でニューヨークへ入っていくルートもあるんですが、品質と価格の点で問題が多い。となると、いわゆる�ロスもの�がアメリカ国内でもコカイン取引きの中心となるわけです」 「そうすると、井関五郎はロスで覚醒剤《かくせいざい》を入手していた……」 「と、考えられなくもありません」 「だったら、成田から直接ロスへ飛べばよさそうなものだ」  源がもっともな疑問を口にした。 「ここで成田—パリ間に四日もかかっているということが問題になってきます」 「そう、それですな」 「いま航空会社にしらみつぶしに当たっていますから、早ければ今日中にもたしかなことが判明すると思いますが、私は大胆な仮説を立ててみたのです」 「ほう」 「井関五郎は成田からまずローマへ飛んだのではないか」 「ローマ?」 「そうです。彼の最初の投機地はフランスのパリではなく、イタリアのローマだった」 「しかしパスポートはどうするんです。イタリア出入国のスタンプは押されてないんですよ」 「イタリアの入国審査では、普通パスポートは見ないんです」 「何ですって?」  源警部は驚いた。 「見るとしたら表紙だけです。つまり、形ばかりの�私はパスポートを持っていますよ�というアピールをすればそれで通してくれます。スタンプなどは一切押しません。税関審査も事実上ノーチェック。自己申告しないかぎり荷物はまったく開けられないですむのです」 「それは知りませんでしたな」 「密輸を公然と認めているようなものですよ」 「まったく」 「そこでマフィアと何らかの接触を持ったとしたらどうでしょう」 「マフィア!」  また源はびっくりした。 「それじゃまるでギャング映画だ」 「覚醒剤の密輸は、多かれ少なかれギャング映画もどきのところがありますよ」 「じゃあ、井関はイタリアに入国してからパリへ行ったと」 「そうです。それならパスポート上での四日間の謎《なぞ》が説明できます」 「パリへは何のために? ローマからロスへ直接入ればよさそうなものだ」 「カムフラージュかもしれませんよ。あるいはもっと現実的な答かもしれません。たとえば、エアフランスでパリを起点としたタヒチへの往復切符を買えば航空運賃が安くなった、とかね」 「うーん」  源は考えこんだ。 「じゃあ、彼がロスからさらにタヒチへと足を伸ばした理由は何なんです」 「さあね。そのへんのところを、せっかくタヒチに飛んでいる我がチームの若手エースにつかんでもらわなくちゃならんでしょう」 「しかし財津さん。こう申し上げては失礼かもしれないが、見直しましたな。いや、国際的な視点がなくては、こうした推理の展開はできません」  ほめられて財津大三郎警部は照れた。と、同時に腹立たしくもあった。  何のことはない、これまで財津が源に話して聞かせたのは、フレッドの受け売りなのである。  捜査一課長から井関五郎の一件の報告を受けた後、財津は再びタヒチに国際電話をかけた。  その際に、井関のパスポートのデータを話すと、フレッドが自分なりの推理を聞かせてくれたのだ。  パスポートこそ持ってはいるが未使用で真っ白という財津に、国際的な視点に立った推理などできるはずもなかった。 「ところで、財津さん。橋詰健太たちを追いかけなきゃいけませんな」 「そうなんです。組の連中にたずねても、知らぬ存ぜぬの一点張りでしてね。どこかへ匿《かくま》っているのかもしれませんが、もう本人たちの写真は入手してありますから、ことと次第では指名手配に切りかえることも検討しています」  そう言った財津も、まさか彼らが大谷浩吉らと同じ便のファーストクラスに乗り、タヒチへ飛んでしまった後とは想像だにしていなかった。      3  エア・モーレアの双発小型プロペラ機は、パペーテのファアア国際空港の滑走路手前で離陸のスタンバイ態勢に入っていた。 「ずいぶん小さな飛行機で行くのね」  ひろみは、窮屈そうに折り曲げたフレッドの長い脚に手をのせてつぶやいた。  アイドリング状態でもプロペラ音は結構やかましい。  十人たらずで満席になってしまう小型機の中は、ムッとした熱気に包まれていた。  彼らの他にはフランス人観光客の一団が乗っている。老人から小さな子供までの六人構成。  彼らが首からかけているティアレ・タヒチの花飾りが、機内の熱気に南国の香りをブレンドしていた。 「家族でパリからバカンスにきてるんだってさ」  フランス人のグループと雑談をとり交わしたフレッドが、ひろみに説明した。 「モーレア島に二週間、ボラボラ島に三週間、あわせて五週間の滞在だって」 「五週間も」  ひろみは目を丸くした。 「バカンスとはそういうものさ」  フレッドはひろみを見つめて笑った。 「たっぷり働いたら、たっぷり休まなくちゃいけない。考えてみたら年に一カ月の長期休暇をとるくらいの余裕がなくちゃ、二十年も三十年ももたないだろ」 「うん」 「本庁でも勤続二十年、三十年のお祝いとかあるけどさ、このペースで二十年もがんばるなんて、ぼくは信じられないよ」 「私も」 「若いうちはいいけどさ。三百六十五日、事件事件で二十年もやってられないよ」 「刑事だって人間だもんね」 「そういうこと」 「まだまだ休暇は罪悪って雰囲気があるからなあ、日本は」 「ボスなんかその代表選手だぜ」 「そうかな」  ひろみは首をかしげた。 「財津警部は、そういうところはよく理解してくれている気がするの」 「ボスが?」 「なんだかんだと口は悪いけどね、八丈島の一件にかこつけて、私たちにタヒチ出張のごほうびをくれたわけでしょ」 「ごほうび?」 「うん。逆密室殺人事件でがんばったごほうび」 「なるほどね」 「警部って、すごい照れ性じゃない。面とむかってほめたりおだてたりすることが苦手なのよ」 「まあね」 「フレッドのこと、すごく買ってるしね」 「へー」  フレッドは驚いてみせた。 「とっくに落第生のレッテルを貼《は》られてると思ったけど」 「ううん」  ひろみは微笑《ほほえ》んで相手を見た。 「ボスはフレッドの才能と、それから人柄をちゃんと認めてるもん」  人柄というところを彼女は強調した。  それはひろみ自身の気持ちの代弁でもあった。 「そろそろ出発かな」  窓側の席に座っていたひろみが、フレッドの前に身を乗り出して操縦席のほうを見た。  操縦室と客席の間のドアは開けっ放しになっている。  天井にあるスロットルレバーに手をかけて、パイロットがしきりに管制塔とやりとりをしていた。  プロペラ音が何度か高くなったり低くなったりしながら、機はゆっくりと誘導路を回りこんで滑走路に近づいていった。  客席上部の吹出口から冷気が出ているのだが、機内はなかなか涼しくならなかった。  ひろみは胸に貼りついたタンクトップの布地をひっぱった。  貝殻でつくったネックレスがカラカラときれいな音を立てた。  ファアア国際空港からモーレア島のテマエ空港まで、小型プロペラ機でわずか十分のフライトである。  大谷浩吉たちは、すでに午前中の便でモーレア島に到着しているはずだった。 「ぼくたちの前にいるジェット機が飛び立ったら、次がこのプロペラ機の番だな」  フレッドが前を見ながら言った。  ゴーッというジェット機の離陸音が、彼の語尾をかき消した。  それに重ねるようにして、ひろみたちの乗る小型機のプロペラエンジンの回転音が一段と高くなった。 「兄貴、いいんですかね、おれたちだけボラボラ島の方へ行っちゃって」  ジェット機が離陸する時のGを背中に感じながら、橋詰健太は小田にむかってつぶやいた。 「しょうがねえだろ。ここへきて初めて、奴らがモーレア島に立ち寄ることがわかったんだから」  小田が憮然《ぶぜん》として答えた。  二人とも白の開襟《かいきん》シャツに白のスラックス、白いメッシュの靴、そして黒のサングラスといういでたちだった。 「でも、やっぱり一緒にモーレア島へ行ったほうがよくなかったですか」 「じゃ、どうやって切符を変更するんだよ」  小田は怒った。 「てめえ、英語|喋《しやべ》れるのか。それとかフランス語がよ」 「いえ」 「だったら切符買えねえだろうが」 「はい」 「このジェット機をキャンセルして、モーレア島への便に変更するのは大変なんだぞ。おまえ、できるか」 「できません」 「だろう。だったら文句言うんじゃねえ。ボラボラ島でじっと待ってりゃそのうち奴《やつ》らはくるさ。焦っちゃだめだ。おめえは若えからすぐ焦る」  スチュワーデスのアナウンスで、このジェット機はファヒネ島経由のボラボラ島行きであることが告げられた。 「なんつったんだ、いまの放送は」  小田がたずねた。 「わかりません」  健太が頭を下げた。 「チッ」  小田が舌打ちした。  成田からホノルルまでの大韓航空には日本人スチュワーデスが乗っていたから、小田たちはファーストクラスで我がままの言い放題で、スチュワーデスをメイド並みにこきつかって満足していた。 「ほらみろ、健太。生きててよかったろうが。やっぱり飛行機はファーストじゃねえと乗ったうちに入らねえな」  そう言っていた小田も、ホノルルからパペーテまでのUTAフランス航空では、フランス人スチュワード[#「ド」に傍点]が担当になったため、言いたいことが一つも表現できずに、結局ビールを飲みつづけて寝てしまったというていたらくだった。ほとんど眠るためだけに乗ったファーストクラスである。 「しかしですね、兄貴」  健太は話題を変えようとした。 「パペーテまであいつらとずっと同じ便だったのに、ぜんぜんこっちに気づかないんだから笑っちゃいますよね」 「こっちの顔を知っているのは山崎だけだからな。あいつはビジネスクラスの席だったんで、ほとんど顔をあわせるチャンスがなかった」  大谷一行は、浩吉会長、副島努、副島悦、田村麻美の四人がファーストで、久米と山崎はビジネスクラス、編集経費で出張の伊藤次郎と沢田明梨はディスカウントチケットでエコノミーだった。 「大谷浩吉の野郎なんて、トイレでおれとハチあわせしてるんですよ。それなのにまるで気づいたふうじゃない」 「あたりまえだ。むこうには名前しか知られてないんだ。じかに会っているのは山崎だけだから、大谷浩吉に気づかれることはありえない」 「で、これからどうします、兄貴」 「決まっているだろ。ボラボラ島で山崎の奴を脅《おど》しあげて、最低でも約束の四倍の金をむしりとってやる」 「四倍!」 「驚くなって。それくらい奴らはおれたちに弱味を握られてるんだ。もとはと言えば、ワールド・リゾートクラブの裏の資金源としてコカインの密輸を頼まれていたことをバラすと、井関が大谷を脅したところから始まるんだ」 「ええ、そうですよね」 「それで山崎が、井関の口封じをおれに依頼してきた」 「でも殺せという指示じゃなかったでしょ」 「もちろんだ。名の通った会社の総務部長が人殺しを頼むわけがないだろ。あいつは、総会屋対策の要領で事が済むと思ってたんだ。甘《あめ》えよな」  小田は笑った。 「殺しちまったほうが勝ちだよ。山崎に頼まれて殺《や》ったんだって開き直りゃ、おれたちのほうが立場強いだろ」 「さすがですね、兄貴は。偉《えれ》えな、やっぱり」  健太は感心したように首を振った。 「もともと裏の世界につながりのあった大谷のオヤジは、資金作りのために覚醒剤《かくせいざい》の商売に手を出した。こいつが世間にバレないためには、山崎たちは何だってやるぜ。しかも、いまあいつらには殺人事件のスキャンダルがある」 「そうです」 「もうむしり放題だぜ、これは」 「約束のギャラの四倍かあ」 「役満だぜ、役満」  小田はカッカッカと笑って健太の膝《ひざ》を叩《たた》いた。      4  フレデリック・ニューマン刑事と烏丸ひろみ刑事は、モーレア島での行動方針を決めていた。  ボラボラ島へ入るまでは彼らの存在を大谷一行に気づかれないこと——これが一つの戦略だった。  財津警部からの連絡で、大谷たちは島の北東部にあるホテル・バリ・ハイの海上バンガローに一泊することがわかっていた。  そこでフレッドは、自分たちの宿を少し離れた島の東部、テマエ空港から少し南に下ったテアバロ地区の白砂海岸に建つキア・オラ・モーレアにキープした。  夕刻の到着であまり時間はなかったが、ホテルにチェックインした後、すぐにひろみは近くの店でパレウを調達した。  タヒチの民族衣裳で、布一枚をうまく身体に巻きつけて使うものだ。巻き方一つでさまざまな形のファッションになる。  ひろみは黄色の地にオレンジでティアレ・タヒチのパターンがプリントされたパレウを買い、店員に手伝ってもらってラップドレスのように身体に巻きつけた。  髪には、香りの強いジャスミン、ブーゲンビリア、ハイビスカス、そしてティアレ・タヒチを王冠のようにあしらったものをかぶった。  こういうスタイルにしてみると、ひろみはハーフのモデルのようだった。 「似合う、似合う」  フレッドは手を叩いて喜んだ。  彼の言う通り、これで陽に焼けたら日本の女の子とは思えないだろう。  一方のフレッドは、さすがのひろみも頬《ほお》を染めてしまう超ビキニの海パンに、ハイビスカスを一輪横っちょに差したカンカン帽、そしてアホを画《え》に描いたようなまん丸レンズの黒いサングラスである。  ひろみはともかく、フレッドはどこから見ても脳天気なガイジンの若者である。  大谷たちが至近距離でバッタリ会っても、あの捜査一課の刑事だと気づく可能性はゼロといってよかった。 「さあ行こうぜ、ひろみ」  フレッドはひろみの手をとって、空港で借りたジープに乗せた。  空は日没まぎわの、なんともせつない色をしていた。 「ホテル・バリ・ハイへ行って、夕暮れの海でも見ながら軽く飲もうよ」 「賛成。なんだかお酒がすごくおいしく飲めそう」  フレッドはジープのエンジンをスタートさせた。 「あそこじゃ海に日が沈むのは方角的に見れないから、たぶん大谷たちは地中海クラブのバカンス村あたりでサンセット・ディナーと洒落《しやれ》こんでるかもしれない」  幌をとりはずしたジープは、モーレア島の周回道路を北へむかって走った。  適当に暑さのとれた風が二人の頬を撫《な》でた。 「タヒチの夕べは長いからね」  フレッドはアクセルを踏みながらひろみに笑いかけた。 「そうだね」  タヒチ娘になりきった烏丸ひろみが、花の王冠に手をやって答えた。      5  午後八時半。  ホテル・バリ・ハイのバーに三人の日本人が額《ひたい》を寄せ集めて何事かを話しあっていた。  そのテーブルのすぐ隣では金髪のカップルが、トロピカル・ドリンクを飲みながらバックギャモンを楽しんでいた。カンカン帽に丸レンズのサングラスをかけた男のほうは日本人に背をむけている。  ずっと離れたテーブルに一人座ってドライシェリーを飲んでいるひろみのところにまでは、日本人の会話はきこえてこなかった。 「久米はどうした」  大谷浩吉がたずねた。 「麻美にユ・ウ・ワ・クさせましたよ」  副島努が面白くもなさそうな笑顔をつくった。 「いまごろ年がいもなくディスコで踊ってますよ。ヤニ下がってね」 「ここのホテルのディスコか」 「いえ、わざと離れた所へ連れていかせました」 「チークナンバーになったらあいつどうする気ですかね」  山崎が馬鹿にした声で言った。 「田村君の首あたりに頭がくるんじゃないのか、彼の場合は」  誰も笑わなかった。 「集まってもらったのは他でもない」  大谷浩吉が葉巻に火をつけ、本論に入った。 「このメンバーだから包み隠さず話す必要があると思うので、前置き抜きできいてもらいたい」 「あの晩のことですね」  山崎が銀縁メガネの奥で目を光らせた。 「そうだ、あの晩のことだ」  浩吉は改めて周囲のテーブルを見渡した。  隣の金髪のカップルは、すっかりバックギャモンに夢中になっている。大谷らにはわからないスラングの混じった早口の英語が飛び交っている。 「あの夜、私は息子を失ったショックで、これまでに経験したことがないような精神的なプレッシャーに苦しんでいた。胸がつぶれそうだ、という比喩《ひゆ》が実感としてわかったという感じだった」 「それでおれが呼ばれたわけですよ」  空になったマティーニのグラスを目の高さに上げて、努はボーイにお代わりを頼んだ。 「さすがの会長も、あの晩だけは自分に課した掟《おきて》を破らずにはいられなかった。そうですよね、会長」  そう言って、努は浩吉を見た。  踊りの下手な——というより、まったくできない久米の相手にうんざりした麻美は、旅の疲れを理由に早々とフロアから引きあげ、片隅のテーブル席に座った。  久米が気を利かせたつもりか、食べたくもないバイキング料理をとってくるというので、断るのも面倒な麻美は彼の好きにさせておいた。  ハンカチで汗を拭《ぬぐ》いながらバイキングテーブルの方へ歩いていくサファリルックの久米を、麻美はため息をついて見送った。 (何の目的で彼を連れ出させたのか知らないけど、冗談じゃないわ。タヒチまできて中年の田舎者とディスコに行くとは思っても見なかったわよ)  心の中で努に毒づいて、麻美はタバコに火をつけた。  煙を吸いこみながらフロアをゆっくり見回す。  その視線が、薄暗いテーブル席の一角で止まった。  そこでは、金のブレスレットをジャラジャラとつけた、いかにもプレイボーイ風なラテン系の顔だちをした男を囲んで、化粧の濃い三人の女が顔をつきあわせていた。  男は、黒い大理石のテーブルに、ポケットから取り出した内服薬の包みのようなものを置いた。  それを指さしながら三人の女に何か喋《しやべ》っているのだが、フロアに大きなボリュームで流れる音楽のために麻美の耳には何もきこえない。  男は紙包みを開いて、中身を直接テーブルの上にあけた。  白い粉が小さな山を作った。小さじ一杯分にも満たないわずかな量である。  男は胸ポケットから財布を取り出し、そこからクレジットカードを一枚抜きとった。  田村麻美の頭で何かが点滅した。 (あの夜——芽里さんが殺された夜——彼は大谷会長から呼び出されて部屋を出ていった——その時、彼は何を持っていったか——小さな包み、アメリカン・エキスプレスのクレジットカード、そして……)  麻美は目を見開いた。  その男が財布から紙幣を抜きとっているのが見えたのだ。  男の手もとを三人の女が興味深そうにのぞいている。  男は、クレジットカードで白い粉の山を平らにならすと、それを包丁のように使って粉をさらに細かく砕きはじめた。一分くらいの間、そうやって粉を細かくする作業をつづけた後、彼はカードを器用に使って、白い粉を小指の長さほどの細い線に区切っていった。  麻美が見つめるうちに、黒いテーブルの上に一センチほどの間隔をおいて八本の白いラインが並んだ。  どこの国の紙幣かわからない。少なくともドル札ではないようだったが、男はそれを細い円筒形に丸めると、その端を片方の鼻の穴にあて、テーブルにかがみこんで一気に一本の白いラインを吸い取っていった。  紙幣でつくられたパイプを通して、白い粉が男の鼻の中に吸い込まれた。  黒テーブルの上の白いラインは七本になった。  男はグスンと片鼻を鳴らすと、丸めた紙幣を隣の女に渡した。  女は見よう見まねで次の白いラインを吸いこんだ。吸いこんでから、いまにもくしゃみをしそうな顔になった。  男は女の顔をテーブルと反対の方へ押しやった。女が大きなくしゃみをした。まわりの連中が笑った。テーブルの上の六本のラインを吹き飛ばされなくてよかった、といった風である。  女は何回もグスングスンと鼻に手を当ててすすりながら、紙幣のパイプを次の女に回した。 「お待たせしました。おいしそうな料理を取ってきましたよ」  久米が皿に山盛りのオードブルをのせて席に戻ってきても、麻美はじっと彼らの様子を見ていた。  八丈島にきてから、やたらに鼻をすすりあげていた努のことが思い出された。  夜眠れなくて、変な時間に眠くなると言った彼の言葉も思い出された。 (じゃあ、彼は……)  田村麻美は、副島努の暗黒の部分に触れてしまった恐ろしさで、腕に鳥肌が立つのを感じていた。      6 「おれはコークを一包み持って、三〇一号室の会長の部屋へ行った」 「そうだったんですか……」  山崎はちらっと会長の顔を見た。  裏の商売として取り扱ってはいるが、絶対に自分自身は覚醒剤《かくせいざい》に手を出さない、と日頃から浩吉は言明していた。  副島努が白い粉の誘惑に負けたとき、浩吉は激怒したものだったが、ついにそんな彼もコカインに手を染めることになってしまった。 「会長には前から何度も言ってますけどね、マリファナなんかよりコークのほうがずっと有益に使えるんだ。一種の気つけ薬だからね。アメリカのエグゼクティブでストレスを抱《かか》えてる連中はみんなやってますよ。徹夜つづきで銭を稼がなきゃならないミュージシャンとかね」  大谷浩吉の心中を先回りして、努はコカインを正当化する発言をした。 「私は、努君がやってくるのを、それとなくドアのマジックミラーからのぞいて待っていたんだ」  会長に割り当てられたスイートルームの三〇一号室のほうは、入口が廊下のつき当たりにあったから、マジック・アイで廊下が一目で見渡せるようになっていた。 「そうしたら、突然三〇三号室——芽里の部屋のドアが開いて、悦さんが出てきたんだ。手に何か封筒のようなものを持っていた」 「何時ごろのことです」  山崎がたずねた。 「だから、あの『週刊芸能』の女記者が叫び声をあげる少し前のことだよ。二時半前後だろう」 「いや、おれが会長に呼ばれて部屋を出る直前だから、二時十五分ごろでしょう」  努が訂正した。 「よくそんなに時間を正確に覚えてるな」 「麻美が、時計を見て覚えていたんです」  思わず努が口を滑らせた。 「なに?」  浩吉が色をなした。 「いや……じつは、彼女も社長の急死のショックで眠れないということで、おれの部屋でいろいろ話していたんですよ。今後のこととかね」  努は苦しい弁解をした。 「警察の取り調べではそんなことを言ってなかったじゃないか」  さらに浩吉が詰め寄ったが、努は肩をすくめてさらっと言ってのけた。 「夜中の二時過ぎに男と女が二人きりで部屋にいたとなると、あらぬ誤解を受けますから。嘘《うそ》も方便です」  誤解もなにもあったものではないが、大谷浩吉もいまさら努を問い詰めたところで何の意味もないと思ったのか、渋い顔で二、三度うなずくと話をもとに戻した。 「とにかくだ、その二時十五分ごろに、副島の婆さんが芽里の部屋から出てきた。夕方から着ていた黒いワンピース姿のままだった」  隣のテーブルでバックギャモンをやっていた金髪男の手が、ぴたりと止まった。 「悦さんが……ですか」  山崎が信じられないといった表情で椅子《いす》の背にもたれかかった。 「悦さんは三〇三号室のドアを閉めると脇目《わきめ》もふらず、自分の部屋——三〇七号室に戻った。私はそこまで見ていた」 「じゃあ、それと入れ替わりに、おれが三〇八号室から廊下へ出たわけだ。会長の部屋へ行くために」  努は音の出ない口笛を吹いた。 「もうちょっとで、おれは婆さんと鉢あわせするところだったんだな」  その言葉に、浩吉が無言でうなずく。 「しかしどうなんですかね、常務」  山崎が首をひねった。 「お婆さまが実のお孫さんを殺すなんて……」 「もちろん考えられないよ」  即座に努が断言した。 「だが、事実は事実なんだ」  浩吉が言った。 「そのときは、悦さんが芽里の部屋から出てきたからといって、特別怪しむ理由はなかった。祖母と孫で誠のことを語りあい慰めあっていたとしても不思議はないわけだからな。悦の婆さんが三〇三号室から出てきたのを見て、むしろ自然な出来事だと思っていたのだが……」  大谷浩吉は、副島努が何か言いかけたのを手で制した。 「話を先へ進めさせてくれ。さて、努君がやってきてコークを広げたときだった。彼が、隣の部屋——つまり、つづき部屋の三〇二号室に誰かいるんですか、とたずねるのだ」  浩吉は、主に山崎にむかって説明していた。 「いや、誰もおらん、と私は答えた。すると彼は、ファックスの機械が動いている音がする、と言う。私は耳を澄ませた。が、よくわからなかった。仕切りのドアを閉めておくと、隣の物音などほとんど聞こえないのだ」 「おれにはハッキリとファックスがカタカタいう音が聞こえた。どこかから原稿が送られているのだろうと、気軽な気持ちで三〇二へ入ってみたんだ」 「そうしたら?」  怪談でも聞くような顔をして山崎が努を見た。 「原稿を受けているのではなくて、送っているところだったんだ」 「努君が『ファックスを送っているところですよ』と言うので私はゾッとした。誰もいないのにそんなことができるはずがない。急いで三〇二号室へ入ってみると、確かにゆっくりした速度で妙な原稿が送られているところだった。マイホーム広告をコピーしたものの上に、黒マジックで�メーリサンハシンダ……�と書いてある。  送り先はどこかと思って機械の表示部に目をやると�WRCサービスセンター�と出ている。努君が『何か変だから、ちょっとサービスセンターへ行ってみますよ』と言ったが、私はまるで狐《きつね》につままれた気分だった」 「会長、それはタイマー予約がセットされていたか、相手がポーリング受信を使ったかのどちらかではありませんか。誰もいない部屋で勝手にファックスが原稿を送信しはじめるとしたら、それ以外に考えられませんよ」  山崎がこともなげに言った。  タイマー予約は、文字通りセットされた予約時間がきたら自動的に機械が原稿を送信しはじめる。  ポーリング受信とはこういうことだ。サービスセンターにあるほうのファクシミリからポーリング受信命令という電波を三〇二号室の機械に送ると、三〇二号室側にセットしてあった原稿がその電波で送信を開始するのである。  つまり、送信側に人がいなくても、原稿さえセットしてあれば受信側の操作でリモコン送信ができてしまう仕組みである。  だが、大谷浩吉はその二つの可能性を両方とも否定した。 「誠の死とは無関係に、私はロスのある所へファックスを現地時間午前十一時ちょうどに送る用事があった。むこうはサマータイムだから日本時間で午前三時だ。そのために、私はタイマー予約をして原稿もセットしておいたのだ。  私のセットしたタイマー予約をキャンセルすることなしに、新たなタイマー予約をすることはできない。チェックしたかぎりでは、私の予約はキャンセルされていなかった。ただし、送るつもりだった原稿は、誰かの手で脇へどけられていたがね」  空になった三人のグラスを見て、ボーイが追加オーダーをとりにきた。  会話が少しだけ中断した。  隣の外人アベックのふざけあう声だけが、妙に大きくきこえていた。 「一方、ポーリング送受信の可能性だが、これもない」  ボーイが注文をきき終えると、また浩吉が口を開いた。 「そのシステムを使うには、送受信両方の機械が同一のポーリング暗証番号を持っていなければならない。ところが私の部屋の機械にはポーリング拒否コードがインプットされている。  つまり、相手がいくらポーリング指令を出しても、こっちの機械はまったく反応しないようになっているのだ。そのIDコードが変更された形跡も見当たらない」 「要するに誰かが手動で送信動作をしないかぎり、ファクシミリは動かない状態にあったわけですね」  山崎はすっかり考えこんでしまった。 「ところが、会長のお部屋には会長と常務しかいらっしゃらなかった」 「その通りだ」 「三〇二号室の廊下側のドアも閉まっていた」 「なにしろオートロックだからな」 「人がいない三〇二号室で、突然ファクシミリが動きはじめた」 「そういうことだ」 「じゃあ、会長、まるで幽霊がボタンを押したみたいじゃないですか」 「そうなんだ。努君自身がスタートさせたものでないことも間違いない」 「おれはともかく気味が悪いので、送り先になっているサービスセンターへ行ってみようと、三〇一号室のドアを開けて廊下へ出た。その時に下から叫び声が聞こえたんだ」  副島努は、サービスセンターで改めて�メーリサンハシンダ……�のファックスを見て、急に不安に襲われた。  姉が殺されたのではないか、という不吉な予感が募《つの》ってきたのだ。  彼は、サービスセンターに二枚のファックスが送られてきていることを知った。  二枚とも送信主は三〇二号室である。 「送信時刻は一枚が午前一時四十二分。もう一枚が午前二時十七分だった。まあ、ファックスの時刻表示は当てにならないが、その通りだとすると、おれが会長の部屋へ入った一、二分後に機械がスタートさせられたことになる」  一枚はただのマイホーム広告で、妙な文章はなかった。  あとの一枚が�メーリサンハシンダ……�の文章入りである。  努は、その二枚のファックスをドサクサに紛れて隠してしまうことに成功した。後で追及されても彼は知らぬ存ぜぬを通した。発信主が三〇二号室となっているのを警察に知られたくなかったからだ。  大谷浩吉は、しばらくバーの外に目をむけていた。  南国の夜景はシルエットだけでもどこか現実離れした趣きがあった。  が、すぐに我に返ると、浩吉は話を再開した。 「ファックスの件は置いておこう。それより気になるのは、三〇三号室から出てきた悦さんのことだ。努君は認めたくないだろうが、私は悦さんに対し、疑惑の念を抱《いだ》かざるをえなかった。もちろん、実の孫を殺す祖母がどこにいるか、という反論はよくわかる。  しかし同時に、私は息子が嫁に殺されたのではないかと真剣に考えてもいたのだ」  努と山崎が驚いて浩吉を見つめた。 「たまらずにコークに手を出そうと思い立つ一時間以上前のことだ。午前一時過ぎ、私は芽里を部屋に呼びつけた」 「姉さんを? それは何のためにです」  努の声が険しかった。 「正直に言おう。私は、芽里を問いつめた。誠を殺したのはおまえではないかと」 「ひどいな、それは!」  努が声を荒らげた。  さすがにその声は、片隅のテーブルで様子を窺《うかが》っていたひろみのところまで届いた。 「三十分間、私は芽里を白状させようと懸命だった。だが、彼女は否定を貫いた」 「あたりまえじゃないか」  努は怒っていた。 「あの……こんなときに何ですが」  山崎が言いにくそうに口をはさんだ。 「会長の部屋に呼ばれた芽里さんが、隙《すき》をみて三〇二号室のファクシミリに何か仕掛けたとは?」 「山崎!」  努がキッとなって睨んだ。浩吉はそれにかまわず、山崎の問いにゆっくりと首を振った。 「二十分くらい経ったときに、私は一度トイレへ立った。ほんの一分足らずだ。その隙に隣の部屋へ行こうと思えば行けただろう。だが、ファックスには手をつけた形跡はない。なぜなら、例のロスへ送るファックスの件だが、芽里を帰したすぐ後でそのことに気づき、タイマー予約をして原稿をセットしたのだ。何かおかしなことをしていたらそのときに気づいていたはずだ」  浩吉は山崎の疑問をあっさりと否定してから、努の肩に手をやった。 「努君、なぜ私がこんな話を持ち出したか、はっきりしておこう」 「はっきりしてくれなきゃ困りますね」  ソッポをむいて努が吐き捨てた。 「君はしばらくの間、ボラボラ島リゾートの支配人という立場に専従してもらう」 「だって、そのためにここへきたんでしょう」  努はいまさら何を言うのかという顔をした。 「いいかね、私は専従してもらうと言ったのだよ」  浩吉が注意を促した。 「九月一日付をもってワールド・リゾートクラブの常務取締役は山崎君に引き継いでもらう」 「何だって」  努は浩吉をまじまじ見つめた。  山崎も寝耳に水だった。 「努君は、同じく九月一日付で発足する南太平洋開発企画室の室長ということで、当クラブと顧問契約を結ぶ」 「顧問……」 「役員を退任してもらい、新たに顧問契約を結ぶということだ」 「役員会の了承もなしにそんなことができるもんか」 「いやとは言わせんよ」  大谷浩吉はメガネを外して努を見た。 「ご親族に殺人事件について灰色の人物がいるのもまずいし、きみ本人は覚醒剤《かくせいざい》に手を染めている」 「そういう会長こそ!」 「私はやっていない……ギリギリのところで事件が起きたのでね」  浩吉は無表情のまま嫁の弟を見つめた。 「とにかく犯罪の匂《にお》いのする人間が役員をやっていてはマズイということだ」  そう言って浩吉は山崎にうなずいてみせた。  山崎はこのとき、一つの重荷がおりたことを悟った。  会長は副島家の人間が一連の犯行に関与していると判断し、副島努を切ることにした。そして山崎と浩吉会長しか知らない井関五郎殺しのことも、会長はいざとなったら努の罪にしてしまうつもりなのだ。  いけにえは一人でよい。その一人が他の者の罪もすべてかぶれば事はかんたんだ、という浩吉の恐ろしい割り切りである。さすがに人生の裏街道を知っている人間だ、と思った。 「ワールド・リゾートクラブは本日をもって一切闇の商売から撤退する。明日からのボラボラ行きは、そうした過去の清算も重要な業務なのだ。今後は名画のコレクションなど文化的な事業にも目をむけ、イメージダウン著しい当社の信用回復をはからねばならん」  山崎は驚いた。  つい数時間前に山崎が提言した名画戦略を、もう自分が考えついたようにしてしまっている。 「努君、金の点は安心したまえ。顧問となっても年収はこれまで並みの確保を約束しよう。だからここしばらく、君は一歩下がったポジションに引っ込んでいてもらいたい」  唖然《あぜん》としたままの副島努に、浩吉は念を押した。 「わかったね、努君」 [#改ページ]   � あの人を忘れたい      1 「まったく何が何だか、さっぱりわからなくなってきたよ」  翌日、朝一番の飛行機でタヒチ本島に戻る機上で、フレッドはひろみに頭を振ってみせた。  大谷たちは三十分後に出る便でタヒチ本島に戻ることがわかっている。そして、彼らは一緒のジェット機でタヒチ本島からボラボラ島へ飛ぶのだ。先月からモーレア‐ボラボラ間の国内線も開設されていたが、あいにくそれは満席だった。 「フレッドでもわからないことがあるわけ?」  ひろみは朝から少し機嫌が悪かった。  いくら作戦上必要があったからとはいえ、大谷たちの隣のテーブルで見知らぬオーストラリアの女の子とすっかり盛り上がっていたフレッドは、絶対に許せたものではなかったのだ。 「あれは演技、演技」  フレッドは必死にひろみをなだめた。 「演技じゃあんなに楽しそうにできないもん」  ひろみはプイと窓の方をむいた。  眼下には青い海が早朝の太陽を浴びて輝いている。  小型プロペラ機の高度が低いので、海面近くをかすめるように飛び交う海鳥たちの姿が見えた。 「とにかくワールド・リゾートクラブという企業が、ボラボラ島を拠点にして覚醒剤《コーク》の密売を行ない、巨額の利益を得たことだけはハッキリした」  フレッドは、ゆうべ遅くまでかかって一通りひろみに説明したことをもう一度繰り返した。  何か喋《しやべ》っていないと、ひろみの機嫌がますます悪くなりそうだったからだ。 「八丈島での若社長夫婦殺人事件で警察や世間の目が集まったので、これは危ないと裏の商売を撤収にかかった。でも、財津警部から連絡のあった井関五郎殺しは、彼らが関わっていることがこれで確実になったね」  ひろみはすねて横をむいたままである。 「それにしても、大谷芽里が殺された前後のいきさつをきいて、ますます混乱してきたよ。三〇三号室から副島悦が出てきたとはね……。やっぱり、ひろみの推理が正しかったのかもしれないな。副島悦が孫の芽里を殺し、身体についた血を拭《ぬぐ》うために風呂に入った……」 「でも、彼女の提出した黒いワンピースからルミノール反応は出なかったのよ」  やっとひろみが口を利《き》いてくれたので、フレッドはホッとした。 「副島悦だけじゃなくて、関係者すべての衣服から血液の反応は見られなかったんだよな」 「フレッド……悪いけど、私、二つの殺人事件の真相、わかっちゃったの」 「えー、本当」  フレッドはひろみの顔をのぞきこんだ。 「教えてくれよ、どういうことなんだ」 「教えてあげない」  ひろみは�イーだ�というゼスチュアをやってみせた。 「可愛《かわい》くないな、オマエ……」 「あ、そ。可愛くないのね、私って」 「ちがう、ちがう」  フレッドはあわてた。 「顔は可愛いけど性格は可愛くないって言っただけだよ……いてて」  グルカショーツの下からのぞいているすね毛をまとめてひっぱられて、フレッドは悲鳴をあげた。 「はー、ふー、ひでえなあ」  片足をくの字に折って胸に抱《かか》えこみ、日本語で呻《うめ》いているフレッドを、周囲の乗客たちは奇妙な顔をして見ていた。 「もうフレッドなんかと一緒に泳ぐのはイヤ」 「あー、そんな冷たいことを」  期待していたひろみのタンガ姿を拝めなくなるのかと思って、フレッドは泣きそうな声を出した。 「だって仕事にきたんだもん。海で泳いでいるヒマなんかないでしょ」 「あるある」 「八丈島殺人事件の犯人もわからないうちに遊んじゃっていいのかなあ」 「またそんな意地悪を言う。ボスに似てきたよ、だんだん」  しまいにはフレッドもふくれてソッポをむいた。 「どうせおれはひろみに嫌われてますよ」 「そうですよ」 「あ、そう」 「うん」 「へえ、そうなの。悪かったですね。烏丸ひろみさんはフレデリック・ニューマン刑事が嫌いなんだ」 「うん」 「………」 「なーんてね」  突然、くしゃっと顔をくずしてひろみが笑った。 「ウソウソ。もう、フレッドったら目がマジになってるんだもん」  フレッドの腕をとって揺すった。 「あのなあ、ひろみ。おれは……」 「いいからいいから」  ひろみはフレッドの頬《ほお》をつねった。 「ヤーキーモーチ」  そう言ってひろみは肩をすくめた。 「私がヤキモチを妬《や》いてただけなの。だって本当にあの子と仲よさそうだったんだもん」 「あーあ」  フレッドは深いため息をついた。 「日本へ追い帰されるかと思ったぜ」 「だってフレッドがいなくなったら、私ひとりで帰れないでしょ」 「またあ」  と言いながら、すっかりフレッドは目尻《めじり》を下げている。 「じゃ、ボラボラ島へ着いたら一緒に泳いでくれるかな」 「泳ごう、泳ごう。仕事なんてどうでもいいからさ」  ひろみは座席の上で腰を浮かせた。 「まったくこれで捜査一課の刑事なんだからなあ」  フレッドはまじまじと相手を見つめた。 「じゃあ犯人がわかったってのもジョークか」 「ううん」  急に真顔になって、ひろみは首を振った。 「本当に私、犯人のメドはついてるのよ」      2 「兄貴、もうすぐあいつらが着いていい頃じゃないんですか」  真っ白な砂浜の輝きに目を細めながら、橋詰健太はすぐそばのホテル・ノアノアの海上バンガローの方を眺めた。  ヤシの葉でふいた屋根が特徴的である。 「ねえ、兄貴ったら」  健太は、大の字になってビーチマットの上で寝ている小田を揺すった。 「うるせえな、着いたらイヤでもこのビーチにくるからよ。気にしねえでおめえも寝てたらどうなんだ」 「おれは眠くないっすよ」 「時差ボケってものがねえのか、健太は」 「はあ」 「デリケートじゃねえな」 「兄貴、外人の、しかも『男のスチュワーデス』ばっかりで気疲れしちゃったんじゃないですか」 「よけいなお世話だよ」  小田は手を伸ばして健太の頭をはたいた。 「あっ、兄貴。すげえ」  音が出るほど頭を叩かれたのも忘れて、橋詰健太はすっとんきょうな声を出した。 「なんだよ」 「見て下さいよ、あの女。ねえ、兄貴。あの女が着てる水着!」  彼らの横二十メートルの距離に、それほど大柄ではないが抜群のプロポーションをした若い女の子が、膝《ひざ》まで海に入って沖のほうを見ていた。 「おっ、なんだありゃ、裸か」  起きあがった小田は、目をこすって彼女の後ろ姿を見た。 「違いますよ。よく見て下さい、背中に一本ヒモが通ってるでしょ」 「そうじゃなくて、パンツだよパンツ。パンツはいてねえぞ、あの子は」  小田は持ち前の下品な言い方をした。 「兄貴、メガネ持ってくりゃよかったんですよ。お尻の割れ目んところに喰《く》いこんでるでしょう、ピンクのヒモが」 「すげえな」  小田がため息を洩《も》らした。 「前はどうなってるんだ」 「ちょっとだけ布がついてるはずですよ。ちょっとだけ。たしか、ブラジルではやってる水着です」 「こっち向かねえかな」 「あれでブスだったら許せないですよね」 「おまえ、ちょっと行って声をかけてこい」 「あっ、こっち向いた。うっわー」  大げさな声を出して健太が驚いた。  烏丸ひろみは気恥ずかしさが抜けないのか、ビーチの方にむかって照れたような笑顔をつくった。 「可愛いじゃねえか、健太。可愛いじゃねえかよ、え? 日本人か、あの子は」 「どうですかねえ、地元の子かもしれませんよ。あーあ、おっぱいがこぼれそう」  健太は砂浜に正座してひろみを穴のあくほど見つめていた。 「モロに出されるより百倍も色っぽいな」  小田も喉仏《のどぼとけ》を上下させた。  ボラボラ島にくる外人女性の多くは、ビキニのブラジャーをとってトップレスで日光浴やマリンスポーツを楽しんでいる。  日本だと、いまだに目を丸くする光景だが、南の島のトップレス姿は爽《さわ》やかさこそあれイヤらしさはまるでない。  だが、若い女の子だけならともかく、オバさんまで垂れ気味のバストをあらわにしているので、小田たちはいささか食傷気味だった。  そこへ、究極のビキニ姿で烏丸ひろみ登場である。 「なあ、健太。あの子の照れてるところがまた可愛いじゃねえかよお」  パーンと健太の背中を叩《たた》いた。 「いてて、陽《ひ》に焼けて真っ赤になってるんですから勘弁して下さいよ」  女の子はお尻《しり》に手をやって、喰《く》いこんだピンクの紐《ひも》をひっぱっていた。 「たまんないですね、兄貴」 「この野郎、健太。海パンがテント張ってるぞ」 「はい」  健太は、あわてて前を隠した。 「とにかく、あの子を連れてこい」 「ここへですか」 「そうだよ」 「日本人じゃなかったらどうします」 「裸のつきあいに言葉はいらねえだろ。ブツブツ言っていないで早く連れてくるんだよ」 「は、はい」  砂を払いながら海の中に駆け足で入っていった健太は、途中まで行ったところで水|飛沫《しぶき》をはね上げながら片足でケンケンをはじめた。 「いててて、珊瑚《さんご》で足を切っちまった」 「馬鹿野郎、日本の海の調子で入るからだよ」  二人の大声のやりとりを聞いて、烏丸ひろみがハッとした顔でそちらを見た。  人相よろしからぬパンチパーマの若い者が、顔をしかめ片足ケンケンでひろみの方へ殺気だってやって来る。  身の危険を感じたひろみは叫んだ。 「フレッド、ちょっときてー」 「どうした、ひろみ」  砂浜で男の声が答えた。  そっちを見た健太は、急に弱気になってつぶやいた。 「ちくしょー、ガイジンの男がついてるのか」  金髪青い目の外人コンプレックスがあるという点では、小田も同じだった。  逞《たくま》しい男に守られてビーチの方へ戻るタンガ姿の美人を、小田と健太は指をくわえたまま見ていた。 「足は切るし、女には逃げられるし……」  情けない声を出しながら健太が戻ってきた。 「兄貴、バンドエイド持ってませんか」 「そんなもの持ってきてるわけないだろう。放っとけ」 「だって血が出てるんですよ。ほら、こんなに」  健太の右足の裏がザックリと切れて血が流れ、それに白砂がこびりついた。 「人ひとり刺し殺して平気な奴が、珊瑚で足を怪我したくらいで何だ」 「兄貴、そんな大声を……。あいつらに聞こえちゃいますよ」 「少し脅《おど》してやりゃいいんだ。かまうもんか」 「だいいち、ここの海には血の匂《にお》いに敏感な鮫《さめ》がウヨウヨしてるんですよ。このまま泳いだら喰《く》われちゃうかもしれません」 「てめえみたいなマズそうな人間は、むこうの方から敬遠するぜ。だいたい……」  小田がそこで言葉を切って、海上バンガローの方を見つめた。 「きたぞ、健太」 「え?」 「大谷たちがきたんだよ」      3  小田勝雄と橋詰健太は、サングラスをかけてビーチに再び寝そべった。  彼らのすぐ隣に、花柄の海水パンツをはいたタヒチ人の若者が三人がかりで手早く砂を掘って大きなパラソルを二つ立てた。白い丸テーブルを二つと椅子を六脚運んできて、そのパラソルの下に並べる。  用意ができたところで、大谷浩吉を先頭にしてワールド・リゾートクラブの幹部がやってきた。  泳ぐ格好になっている者は誰もいない。  浩吉は白い開襟シャツに白のコットンパンツ。  副島努は白のタンクトップに白の短パン、それに白いデッキシューズ。ミラーグラスをかけている。  山崎と久米も、さすがに場違いなファッションを反省したのか、大谷浩吉とほぼ同じ格好である。  副島悦は、年齢を感じさせない白のノースリーブのサマードレス。  田村麻美は白いビュスチエのワンピースにジャケットを肩に羽織っていた。  全員白ずくめでまばゆいばかりの光景である。  そこへボーイが、オレンジ色のパッションフルーツジュースを満たしたタンブラーを持ってきてテーブルに並べた。  それにつづいて、浅黒い肌によく似合う明るい柄のパレウを着たタヒチ人の女が、バスケットいっぱいの赤いハイビスカスをテーブルの上にまきちらした。  並べるそばから海風に飛ばされて、真っ赤な花びらがそれぞれの白い服の上に舞い落ちていく。 「ねえ、フレッド、見てる? 隣のこと」 「見てるよ。いきなり|CF《コマーシヤル》の撮影がはじまるのかと思ったぜ」  フレッドは、寝そべったひろみの背中にサンオイルを塗りながら答えた。  大谷たちのテーブルは、小田と健太の二人組と、フレッド・ひろみ刑事コンビの間にセッティングされていた。  依然として大谷たちは、八丈島殺人事件で取り調べに当たった女性刑事がすぐ隣にいることに気づいていなかった。 「それでは諸君、ワールド・リゾートクラブ・ボラボラの成功を祈って、情熱の果実パッションフルーツジュースで乾杯だ」  大谷浩吉はタンブラーを目の高さに掲げた。 「乾杯!」 「乾杯!」  唱和したのは山崎と久米の二人だけである。  副島努はタンブラーを持ちもせず、じっとエメラルドグリーンの波打ち際を見つめていた。  努のかけたミラーグラスに、南太平洋と白いパラソルと、正面に座っている田村麻美の顔が映っていた。 (どうしたの)  麻美の唇がそういう形に動いた。  努は、なにもかも最低だよ、という風に首を振った。  副島悦は、超越した態度で扇子で顔に風を送っていた。 「十年ぶりの悲願達成でございますね、会長」  いまや取締役広報部長となった久米が、ハンカチで額の汗を拭《ぬぐ》いながら浩吉におもねた目をむけた。機嫌がいいのは、昨夜田村麻美にディスコへ誘われたからである。  そして、さっきからしきりに彼女へ視線をむけるのだが、ゆうべとは掌《てのひら》を返したような冷たい態度に、久米はとまどっていた。 「おい、久米君、あの二人はどうするつもりだね」  山崎が、落ち着かぬ様子の久米にたずねた。 「え、あの二人って」 「『週刊芸能』の伊藤編集長と沢田明梨だよ。あいつらもビーチに出てきたぞ」  山崎は顎《あご》をしゃくってみせた。  水着姿の伊藤と明梨がこちへやってきた。  明梨はいわゆるハイレグのワンピースである。 「マスコミ対策として彼らを好きに泳がせているのはわかるが、もう少し別行動をとらせたらどうなのかね。これではまるで我々のプライバシーがないじゃないか」  山崎は九月一日付で、努に代わって常務取締役に就任することを浩吉から言い渡されていたので、ヒラの取締役にとどまっている久米への言葉づかいが、同期のそれから目下へむけたものに変わっていた。  事情をまったく知らされていない久米は、内心で山崎の失礼な態度に腹を立てていた。 「山崎、もう少し物事を深く考えたらどうだ」  久米は力を入れて言った。 「我が社にとっていま必要なのは、シンパのマスコミだ。それがわからないのか」 「あいつらがシンパというのかね」  山崎は襟《えり》もとについたハイビスカスの花びらを指で弾《はじ》いた。 「結果的にこっちの味方になる、ということをだよ山崎。八丈島の事件に関して言えば、彼らだって我々と同じ重要参考人の扱いを受けている。カヤの外で騒ぎ立てる一般のマスコミは好きなだけ無責任な噂話《うわさばなし》を書けるが、『週刊芸能』は立場上、真剣に調べあげた真実しか書けない。結果として、そのことが我々にとって一番大切なんだ」  さらに久米は長広舌をふるおうとしたが、山崎の様子がおかしいので口をつぐんだ。  すぐそばに二人の東洋人らしい男が寝そべっている。だが、そのうちの一人がサングラスを外しながらゆっくりと起き上がったのを見て、山崎は呆然《ぼうぜん》としてつぶやいた。 「小田……」      4 「これは皆さんお揃《そろ》いで」  人相の悪い男が二人、海水パンツ一枚で近づいてきたので、昼下がりのランチを海辺で楽しもうとしていた大谷たちは眉をひそめた。 「誰だね、君たちは」  真っ先に大谷会長がたずねた。 「おやあ、ご存じないんですか」  小田がサングラスのつるを片方口にくわえながら、薄笑いを浮かべて言った。 「努君、きみの知り合いか」 「まさか」  浩吉にたずねられた努は、下唇を突き出して否定した。 「山崎はどうなんだ」 「いえ」  額からどっと汗を吹き出しながら、山崎はかぶりを振った。 「おいおい、知らねえってことはないでしょう。ボケるにはまだ若すぎると思いますがね。え?」  小田は山崎の目の前のテーブルに手をついた。  後ろでは健太が、サングラスをかけたまま口笛を吹いて身体を揺すっていた。 「タヒチまできてヤクザにからまれるとは思わなかったね。我々は夏休みを楽しみにここへきているんだ。どこのどいつかわからんような暴力団に用はない」  山崎は虚勢を張った。が、声に震えがあった。 「おっしゃいますねえ、山崎さん」  小田は相手の名前を一字一字刻むように言った。  浩吉がそれに即座に反応した。 「山崎、もしかすると彼は小田じゃないのか」 「そうですよ、会長。さすがに察しがいいですな。私が小田です。後ろにいるのが舎弟の健太でね」  浩吉は、うつむいたまま汗を流している山崎を睨《にら》みつけた。 「だから言ったじゃないか、おまえの後処理が悪いからこういうことになるのだぞ」 「はっ」  山崎は顔をあげなかった。 「なにしろ人を殺させて、そのギャラを半分しか払ってくれないんですからね、この人は」  小田は山崎の頭を人差指でつついた。山崎はされるがままだった。  久米は青い顔で成り行きを見守っていたが、伊藤と沢田明梨が近づいてきたので手を振って制止した。  しかし、伊藤はかまわずに彼らのパラソルのすぐそばまでやってきた。 「あなたたち、いま『人を殺させた』って言ったわね」  秘書の田村麻美が緊張した顔でたずねた。 「じゃあ、大谷社長と奥様は……」 「違う、社長夫妻のことではなくて、井関という……」  否定の声をあげたのは小田ではなく、山崎のほうだった。  言ってからシマッタという顔をしたが遅かった。 『週刊芸能』の二人は互いに顔を見あわせた。 「山崎、きみはなんということを……」  久米がうろたえた声を出した。 「会長、会長は最初からご存じだったのですか、山崎の動きを」  久米の問いかけに、浩吉は渋い表情しか返さなかった。 「常務、副島常務はどうなんです」 「知らねえよ」  努はワイングラスを空にして、さらにもう一杯自分で注《つ》いでまた空にした。 「とにかくおれたちは集金のためにわざわざタヒチくんだりまできてるんだ。元手がかかってるんだぜ、これには」  小田が凄《すご》んだ。 「あくまで白《しら》を切り通すつもりなら、こっちにだって考えがあるんだ」 「待て」  パラソルの外に立つ週刊誌の二人を気にしながら、大谷浩吉が小田を制した。 「私の部屋にきてくれ、一対一で話そう」 「だめだね」  小田も伊藤たちを意識しながら言った。 「もう交渉なんて段階じゃない。人殺しの代金を払ってくれるかどうか。その返事がほしい、いますぐにだ」  黙って聞いていた副島悦が、そこでゆっくりと口を開いた。 「会長、やっぱり本当だったんですね。ワールド・リゾートクラブの資金づくりのために、あなたが音頭をとって覚醒剤《かくせいざい》コネクションをつくっていたというのは」 「馬鹿な」  浩吉は吐き捨てた。 「そんな根も葉もない噂をどこから仕入れたんです」 「芽里ですよ」  その一言で、浩吉の顔がサッと蒼《あお》ざめた。 「芽里ですと」 「はい」  彼らの隣では、烏丸ひろみがタンガの上からボーダー・ストライプのTシャツを着ていた。出動準備体制である。  Tシャツの丈は長めのものを選んであったから、それだけでタンガのパンティも隠れた。     いちおう公務につくときは、刺激的な格好を避けておいたほうがよい、との判断である。  ひろみのボディラインに圧倒されっ放しだったフレッドも、目に緊張の色をたたえている。そこはさすがに彼もプロである。  しかし、財津警部から登竜峠刺殺事件の容疑者として報告を受けていた小田たちが、ボラボラ島へきていたとはフレッドも意表をつかれた。 「とにかく、おれたちゃ会長のあんたの返事がほしいんだよ」  小田が浩吉に迫った。 「わかった」  浩吉が言った。 「何がわかったんだよ」 「わかった、という言葉の含みを察してくれ」 「やだね」  小田はサングラスを海水パンツのゴムのところにひっかけ、浩吉に耳打ちした。 「ここまできたら、残りの半額だけでオーケーするなんて思わないでくれよ。約束の四倍の金額——それがほしい」 「無茶を言うな」 「四倍のギャラをくれないんだったら、井関五郎という運び屋殺しの一件をバラしちまうぜ。いいのか」 「浅はかな真似はよせ。そんなことをしたら真っ先に捕まるのはおまえらだぞ」 「かまわねえさ」  小田は小声のやりとりをやめて、大きな声を張り上げた。 「どうせおれたちは失うもんが少ないんでね」 「山崎……」  事態に窮した大谷浩吉は顔を朱に染めて、山崎を見た。 「どうするつもりなんだ。おまえの責任だぞ」 「はっ」 「はっ、じゃない。どうするつもりなんだ」 「いや……その……」 「なにもかもおしまいじゃないか!」  大谷浩吉は大声で怒鳴った。 「私がここまで築きあげてきたワールド・リゾートクラブが……」  そこで浩吉は言葉を途切らせた。  ガクッとテーブルに片肘《かたひじ》をついた。  その勢いで赤ワインのボトルが倒れ、大谷浩吉の白いシャツに紫色の液体が飛び散った。  メガネが鼻の下にずり下がり、浩吉は椅子《いす》から滑り落ちるようにして砂浜にくずれた。 「会長!」  隣に座っていた努があわてて浩吉の腕を抱え、上半身を起こした。 「胸……が……」  浩吉は呻いて片手を心臓のところにやった。 「田村君、水だ水!」  山崎が叫んだ。  麻美が自分のタンブラーに残っていたジュースを捨て、それにミネラルウォーターを注いだ。手が震えて半分が外にこぼれた。 「ひろみ、大谷会長が大変だ」  フレッドが飛び起きて白いパラソルへ走った。  ひろみもそれにつづいた。 「どけ、どいてくれ」  フレッドは伊藤次郎と沢田明梨をかきわけ、健太を突き飛ばし、小田の肩をつかんで脇《わき》へどけた。  その勢いに、みんながカンカン帽にサングラス姿のフレッドを見た。 「あ、おまえは」  副島努がフレッドとひろみを見上げて驚きの声をあげた。 「どうしてここに」 「話はあとだ」  大谷浩吉の顔はみるみるうちに赤黒くなっていった。 「シャツを脱がせるぞ。ズボンのベルトもゆるめるんだ」  ひろみが手際よくそれを手伝った。 「あの……お水」  真っ青な顔で麻美がタンブラーを差し出した。 「水はいりません」  フレッドは断って、浩吉の上に馬乗りになった。 「心臓マッサージをやる」  両手を重ねて大谷浩吉の胸に当てた。 「誰かホテルへ行ってお医者さんを呼んで下さい」  ひろみが叫んだ。 「わかりました、刑事さん。私が行きます」  久米が駆け出した。 「刑事さんだって?」  健太が、ひろみとフレッドを交互に見た。 「兄貴、ヤバイですよ、こいつら刑事《デカ》だ」 「健太、ずらかれ」  小田が叫んで二人は逃げ出した。 「フレッド、後を追って。会長は私が引き受けるわ」  言うより早く、ひろみは大谷浩吉の身体にまたがって心臓マッサージを交代した。 「頼むぞ」  フレッドは、ひろみに後を任せて追跡をはじめた。  ホテル・ノアノアの海上バンガロー近くに、帆をゆるめた二|艘《そう》のカタマランが停《と》めてあった。黒い胴と赤い胴の二艘だ。  小田は黒い胴のカタマランに飛び乗った。 「健太、ロープをほどいて飛び乗れ」  もやい結びをほどくのに時間がかかった。 「早くしろ」 「畜生、ややこしい結び方しやがって」  健太は目に入る汗を拭った。 「落ち着け、固かったら結び目に棒切れを差しこんでゆるめるんだ」 「とれました」  言うのと同時に健太が飛び乗った。 「最初はオールで漕《こ》ぐんだ」  指示をしながら小田はビーチをふりかえった。  カンカン帽を飛ばし、サングラスを投げ捨てて海水パンツ一枚のフレッドが全力疾走してきた。 「兄貴、おれは舟のことぜんぜん知りませんよ」 「任せとけ。むかし六本木をベースにして遊びまくっていたころ、よく湘南《しようなん》へヨットを乗りに行ったんだ」  小田は舵棒《テイラー》を握りセールをいっぱいに張った。  ぐんとヨットが加速した。 「よし、もうオールはいらないぞ。風の道に出た」  小田はフレッドのほうをふり返った。  彼は手間どっていた。  赤いカタマランに乗りこもうとしたときに、ヨットのオーナーが戻ってきて一もめしているのだ。フレッドが早口で事情をまくしたてているが、なかなかヨットの貸し出しにウンと言わないらしい。 「よし、いまのうちに差をつけておこう」 「だけど兄貴、どこへ行くんです」 「港だ、港。すぐそばに港があったろう」  まさに目と鼻の距離にボラボラ島の主要港ヴァイタペがあった。 「そこへ行ってどうするんです」 「パワーボートに乗りかえて、それでタヒチ本島に戻るんだ」 「だけど、荷物はさっきのホテルに置きっ放しですよ。パスポートも」 「頭を使えって。パワーボートを確保したらタヒチ人の若いのに金を握らせて取ってこさせるんだ」 「だけど、おれたち金を一銭も持ってないんですよ。身につけてるものは海パンとサングラスだけじゃないですか」 「だけどばっかり言うんじゃねえよ。金なんてものは盗むんだ」 「そんな……」 「パワーボートだって盗むんだよ。そのためにてめえがいるんだろ」 「はい」  小田は視野の片隅に、赤いカタマランがビーチを出たのを認めた。フレッドがようやく持ち主を説得して、追跡を開始したのだ。 「ぐずぐずしちゃいられねえ、急ぐぞ」 「だけど兄貴、方向が逆ですよ」  沖にむかって左に行かなければヴァイタペの港へは行けないのに、カタマランはものすごいスピードで反対方向へ進んでいた。 「しょうがねえだろ、風向きがこうなんだから」 「でもヨットってのは好きな方向へコントロールできるもんなんでしょ」 「これだけ風が強いときはそれができねえんだ」  小田はデタラメを言っていた。 「だけど兄貴」 「だけどは、いらねえんだよ」  叫んだ小田の顔に、強風で髪の毛がへばりついた。 「どんどん沖へ行っちゃいますよ」 「わかってるって」  本当は一度もヨットを操ったことのない小田は、内心パニックしていた。  帆をゆるめることをしないので、カタマランは飛ぶように海面を走った。転覆しないですんでいるのは双胴型のおかげである。  フレッドはヨットと名のつくものなら、小はディンギーから大はクルーザーまで何でもこなした。一級小型船舶操縦士免許を持っているのだ。  さすがに追撃のペースは速かった。  アクアマリンの海の上を、赤いカタマランが水切り石のようにピシンピシンと音を立てて飛んだ。  相手が風まかせに走っていることは一目でわかった。  このまま進むと環礁《かんしよう》の切れ目から外洋に出てしまう。  きょうの風では外洋はヘビーである。うねりも高いし、波頭が白くざわついている。  初心者が飛び出したら一気にバランスを失って転覆するだろう。カタマランの場合は横に倒れるのではなく、進行方向につんのめる恐れがある。  フレッドとしてもこの装備でラグーンの外へ漕ぎ出すつもりはなかった。外洋はホオジロザメの巣でもある。  何としてもラグーンの中で彼らを捕《とら》えようと、フレッドは最短コースを計算して突進した。      5  心臓マッサージをつづける烏丸ひろみ刑事の額から、汗がポタポタと滴《したた》り落ちて大谷浩吉の胸を濡《ぬ》らした。  会長の顔の赤黒さはいつのまにか引いていた。 「少し顔が穏やかになってきたみたいだぞ。助かるのか」  副島努がたずねた。 「逆です。もうほとんど反応がありません」  ひろみは絶望的に首を振った。 「そんな……」  山崎は、女性がするように手の甲を口に当てた。  久米がホテルの医者をひっぱってきたときには、すでに大谷浩吉の心臓・呼吸・瞳孔《どうこう》反応は完全に停止していた。 「手遅れだと思います」  英語でそう言うと、ひろみはフランス人の医者に場所を明け渡した。 「兄貴、あのガイジンの刑事がどんどん追いついてきます」 「わかってるよ」  ヨットはまともに追い風を受けて走っていた。  帆をゆるめようとかヨットの向きを変えようという余裕は、小田にはまるでなかった。 「兄貴、このままじゃ珊瑚礁《さんごしよう》の外に出ちゃいますよ」 「うるせえな、文句があるなら風に言ってくれ」  小田は帆の横木《ブーム》とティラーを一定角度に保っておくだけで精一杯だった。 「つかまってもいいから岸へ戻りましょう」 「大谷から金をむしりとるまでは警察につかまれるかよ」 「足の裏の血も止まらないし」 「うるせえってんだ。泣き事言わないで黙ってろ」  フレッドのカタマランは百メートル差まで追いついてきた。 「止まれー、前のヨット止まれー」  フレッドの叫びが追い風に乗って小田たちの耳にも届いた。 「止まれと言われて止まる馬鹿はいねえや」  小田は独り言をつぶやいた。 「帆をゆるめて、そのまま止まるんだ」  フレッドの声がすぐそばにきこえてきた。  距離は五十メートルに詰まっている。 「つかまるもんか」  小田は罵《ののし》りながら舵《ラダー》を滅茶苦茶に左右させた。  カタマランの進行方向が変わり、帆に受ける風の角度も変わった。  突然、帆を支える横木《ブーム》が、反対方向へ九十度猛烈な勢いで回転した。ワイルド・ジャイブだ。  そこに橋詰健太の上半身があった。  ボクッと鈍い音がして、肩を強打した健太が海に放り出された。一瞬の出来事だった。 「馬鹿野郎、ドジ」  罵声《ばせい》を残して小田は健太を見捨てた。 「大丈夫か」  追跡を中止して、フレッドが健太の転落地点へ急行した。  救命胴衣をロープの先に結びつけて彼めがけて放り投げた。  帆をゆるめ、ヨットを風に立てて何度も胴衣を投げるのだが、なかなか相手に届かない。強風の中での救助作業は思うにまかせなかった。 「おーい、意識は大丈夫だな」  カタマランの上からフレッドが叫んだ。 「肩をやられた」  呻《うめ》き声を混じえて健太が返事をした。 「右手も動かない。救命胴衣を投げてくれても無駄だ。浮かんでいるのが精一杯なんだ」  風はますます強くなっていった。  ラグーンの外は三角波が立っている。快晴なのに強風で海は荒れはじめていた。  小田の黒いカタマランは、外洋目ざして一直線に突き進んでいた。 「待ってろ、いま助けてやる」  フレッドは錨《いかり》を舷側《げんそく》から放り投げた。  次に救命胴衣をたぐり寄せ、それを外して代わりに自分の胴にロープを巻きつけた。  予備ロープを二つつなぎあわせると、ざっと三十メートルはある。フレッドはその一端をヨットのマストに固定した。 「早くしてくれ」  健太は悲痛な叫び声をあげた。 「俺は足の裏を怪我してるんだ。血の匂《にお》いを嗅《か》ぎつけて鮫《さめ》がくる。もうこの下にきてるかもしれないんだ。早く!」  ほとんど半狂乱の叫びになった。 「鮫に喰《く》われたくない。足を喰いちぎられるのはイヤだ。助けてくれ」  フレッドが頭から海に飛びこんだ。  抜き手を切って健太のところへ猛進した。  泣き喚《わめ》く健太を後ろから抱きかかえ、左手で彼の首をロックすると、右手と足の力だけでカタマランへ泳いで戻ろうとした。  何気なく海の中に頭を突っこんで目を開いたフレッドは、恐怖で凍りついたようになった。  五メートルから十メートルの深さにかけて、グレーの魚影が四つ、五つ、ゆっくりと円運動をしながらその間隔をせばめていた。  水中メガネをかけていない肉眼での水中像だったが、それがホオジロザメの一群であることは間違いがなかった。  フレッドは目の色を変えて水をかき、キックした。  だが、橋詰健太を小脇《こわき》に抱《かか》えているため、一人で泳ぐときの四分の一以下の速度になってしまう。  鮫は当然自分のバタ足の音をとらえているはずである。健太の足から流れ出ている血の匂いも……。  もう水中をのぞく勇気はフレッドにはなかった。  がむしゃらに泳ぎ、ついに右手がカタマランのフロートにタッチした。  放心状態になっている健太を、シートの上に押しあげる。  だが、一度乗せたはずの身体《からだ》がバランスを失って水中に落ちた。  フレッドはもう一度健太の身体を抱えあげ、力をこめてシートに押しあげた。こんどはうまくいった。  ホッと一息ついた瞬間、立ち泳ぎをしているフレッドの真下にグレーの影が現れた。 (ヤバイ!)  フレッドはカタマランのフロートにつかまって、上半身を引きあげた。  三メートル先の海面に三角の背びれがポンと現れた。  転がるようにしてヨットの中に倒れこんだ直後、いまフレッドの足がつかっていた海面スレスレのところを、のこぎり歯をむき出しにしたホオジロザメが横切った。  シートの端に突き出た健太の右足の裏から、わずかずつではあるが血の滴がポタリポタリと海に落ちていた。  気がついてみると、フレッドのカタマランを中心にして六つの背びれがぐるぐると回っていた。 「冗談じゃないぜ。スピルバーグの映画か、これは」  フレッドは健太の足を中に入れ、大急ぎで錨《いかり》を引き上げた。  帆を繰り出すと、ヨットは鮫の円運動の外へむけてスーッと動きはじめた。  風上にむかって斜めに進路をとる。  タック・インの繰り返しでジグザグコースをとって、ホテル・ノアノアの海上バンガローへ戻らなければならない。  ふと思い出して後ろをふりかえると、ラグーンの内にも外にも、小田の黒いカタマランの姿はなかった。      6  フレッドがやっとの思いでビーチに戻ってきたとき、すでに現地の警察が駆けつける騒ぎになっていた。 「ダメだったのか」  フレッドはひろみにたずねた。 「どうしようもなかったわ」  ひろみも肩を落としていた。 「ホテルのお医者様が駆けつけたときはもう遅かったの」 「死因は」 「心臓発作だと言ってるわ」 「毒物じゃないのか」 「飲み物は警察に分析を頼んだけど、何日かかるかわからないわ。本島のパペーテに持って帰らなくちゃならないだろうし」 「そうだ、あの薬だ」  フレッドは、ひろみの腕をつかんだ。 「大谷浩吉は降圧剤を常用していただろう。あれを確保しておかなくちゃ」 「もうしてある」  ひろみは内服薬の紙袋を目の前に差し出した。 「田村麻美が管理していたからすぐに提出させたの。これは私たちが日本に持ち帰って分析をした方がいいみたいね。私たちの身分と事情を話しておけば、まずいことはないでしょ」 「ああ、ぼくが責任者に事情を説明しておくよ。いちおう捜査権はこっちの島のほうにあるからな」 「ヤクザの二人組はどうしたの」 「若いほうはごらんのとおりだ。海に転落して鮫に喰われそうになっていたところを助けてやったから、とりあえずぼくに対しては素直になっている。もう一人の男は行方不明だ。素人のくせにヨットで逃げようなんてことを考えたから、自分で破滅を招いてしまった。遭難の可能性が九十九パーセントということは、いま警察に話しておいた。救助艇《きゆうじよてい》が出るらしいが……ダメだろうね」 「登竜峠刺殺事件の容疑者がボラボラ島でこういうことになるなんてね」  二人が話しているところへ、副島悦が近づいてきた。 「どうも、このたびはとんだことで」  と、フレッドが言いかけたのを制して、副島悦が口を開いた。 「このボラボラ島の沖合で息子が死んでから十年、私はひとときたりとも新吾のことを忘れたためしがありませんでした。どうしてあんな死に方をしたのか、無念でならなかったのよ」  悦は無理に笑顔をつくって、短いけれど大きなため息をついた。 「でもね、これで一区切りがついたわ」 「一区切り?」 「そうよ。烏丸さん……だったわね」 「ええ」 「もうあなたの名前もすっかり覚えてしまったわ」  悦はじっとひろみを見つめた。 「これで息子のことを忘れられる。それは一カ月にいっぺん、何週間にいっぺんだけのことかもしれないけれど、息子のことを忘れて過ごす一日がやっと訪れるような気がしてならないわ」 「それはどういうことでしょうか」  フレッドはある種の予感をおぼえて悦にたずねた。 「いろいろと、みんなに話しておきたいことがあるの」  悦は真面目《まじめ》な顔で二人を見た。 「私も七十だから、いつどんなことになるかわからないし。努のためにも真実はハッキリさせておかなくてはならないと思うのよ」  額に手をかざして陽をよけながら、悦は背の高いフレッドを見上げた。 「一晩心を落ち着けてから、明日の夜、みんなに集まってもらいたいわ。私の泊っている海上バンガローで結構よ。いいわね」 [#改ページ]   � 二人の独白      1  山崎・久米両取締役の放心状態は、翌日の夜になってもつづいていた。  伊藤次郎と沢田明梨のコンビは、またしても大スクープの決定的瞬間に居あわせたわけで、電話送稿で事件の第一報が日本に届けられていた。  ホテル・ノアノアの海上バンガローは、平和なときならば、こんなに素晴らしい宿はないと感激するところだろう。  ヤシの葉ぶきのバンガローが海へ突き出し、昼間はエメラルドグリーンの海の上に部屋が浮かんでいるようだったし、夜は夜で照明に誘われてやってきたエイの姿を寝室の窓から楽しめることもある。  リゾートホテルとしては申し分のないところで、大谷浩吉もここを一つの模範として新リゾートを建設するつもりであったらしい。  その夜は、副島悦のバンガローに一同が集まっていた。  副島悦、努、田村麻美、山崎、久米、伊藤次郎、沢田明梨、烏丸ひろみ刑事、フレデリック・ニューマン刑事、そしてフレッドに命を助けられた橋詰健太がいた。 「まずはじめに、皆様に大谷会長の検死結果をご報告しておきます」  ひろみが口火を切った。 「首都パペーテの病院で解剖を受けた大谷会長の身体からは、毒物の痕跡は何も発見されませんでした。検死結果は心臓発作による突然死というところに落ち着きそうなのです」 「会長は日頃から高血圧でいらっしゃったところへもってきて、おまえたちが何の前ぶれもなく姿を見せたから、ひどく驚かれたのだ」  久米が橋詰健太を指さした。 「もっとも、その責任は山崎君にもありそうだがね」  久米はライバルにむけて皮肉を言った。 「でも、ここで皆さんに一つの新しい事実をお伝えしなければなりません」  ひろみが言うと、彼女に視線が集まった。 「大谷会長は高血圧の治療のため、降圧剤を常用されていました。そうですね」  ひろみは田村麻美に確認した。 「はい、そうです」  秘書は乾いた唇を舐《な》めて短く答えた。 「どんな薬でした」 「白い錠剤です」 「一日に何回、何錠飲むことになっていましたか」 「一日三回、食後に一錠ずつ飲むきまりでした」 「あなたが会長秘書をされる前は、誰がその薬を用意していました?」 「社長夫人の芽里さんです。会長は、たまたま芽里さんが定期的に健康診断に行く大学病院の循環器科にかかっていらっしゃいましたから、薬はまとめて芽里さんがもらいに行くことが多かったようです」 「その役割を、芽里さんが亡くなってからはあなたがするようになったんですね」 「ええ。でも薬は特別にまとめて二カ月分くらいもらうことになっていたらしく、八月分までストックがありましたから、まだ私自身が大学病院へ薬を受け取りに行ったことはありません」 「どうもありがとうございます。これがその薬なんですが……」  ひろみは病院の袋を高く掲げてみせた。 「万一、これに毒性の強い薬が混ぜられていたり、別の劇薬とすり替えられているといけないと思い、タヒチの病院に分析をお願いすると同時に、日本に国際電話を入れて、その大学病院の担当医に確認をとってみたのです」 「そうしたら、どうしました」  久米が先をうながした。 「やはり、大谷浩吉会長の降圧剤は別の薬にすり替えられていました」  部屋の中がどよめいた。 「医師が処方する錠剤には必ず一つずつ識別コードが刻まれています。ここにある錠剤のコード番号を日本の担当医に教えたところ、その番号は彼が処方した降圧剤とはぜんぜん違っていたのです」 「じゃあ、やっぱり毒薬だったのか」  努がたずねた。 「いいえ。すり替えられた方の薬は総合ビタミン剤でした」 「ビタミン?」  努は拍子抜けした声を出した。 「本来処方されるべき降圧剤の代わりに、見た目のよく似た総合ビタミン剤が入っていたのです」 「誰がそんなことをしたんですかね」  伊藤次郎が興味深げにたずねた。 「ビタミン剤じゃ人は殺せないしなあ」  ひろみは伊藤の顔をじっと見つめてから、タイミングをはずすように一同を見渡した。 「たしかにビタミン剤そのものでは人殺しはできません。この中の一錠をいまパペーテで大至急調べてもらっていますが、いまのところ毒物が含まれていたという報告も受けていません。それでも犯人としては[#「犯人としては」に傍点]降圧剤とビタミン剤をすり替えておく必要があったのです」 「犯人?」  あちこちで声があがった。 「そうです」  ひろみはフレッドのほうを見た。  フレッドがうなずいて一歩前に出た。 「大谷誠・芽里夫妻の変死については、我々捜査一課と八丈署がその後も捜査をつづけていますが、昨日ビーチで突然亡くなった大谷会長を変死とみなす場合、当然その捜査権はタヒチの警察にあることになります。まして、私と烏丸刑事は公務による出張という形をとっていませんから、最初から申しあげておきますが、私たちのこの場での発言は公的なものにはなりません。皆さんにいろいろと質問をさせていただきますが、それも正式な事情聴取という形ではなく、あくまで雑談と解釈していただきたいのです。それを前提にして、烏丸ひろみ刑事の話をつづけさせて下さい」  金髪青い目の刑事が難しい言い回しをスラスラと話すので、みんなは呆気《あつけ》にとられて聞いていた。  ひろみが、またフレッドからバトンタッチした。 「大谷誠、大谷芽里、大谷浩吉——この三人の死は、たった一人の人間の復讐心によって引き起こされたものだと思います」  そう言って、彼女は副島悦の顔をじっと見た。 「ちょっと待ってくれ」  山崎が疲労のたまった蒼白《あおじろ》い顔で、ひろみの言葉をさえぎった。 「あなたは会長の急死も殺人だと言うのかね」 「そうです。あれは殺人です」  ひろみはきっぱりと言い切った。 「しかし、会長はたまたま心臓発作を起こされただけじゃないのかね。あえて殺人というなら、会長を興奮させた小田が犯人と考えるしかない」 「違います」  ひろみは首を横に振った。 「会長の担当医に問いあわせたところ、会長は高血圧と同時に頻脈《ひんみやく》性不整脈——鼓動が不規則に速くなったりする持病を持っていました。そのことを小田が知って脅《おど》したとはとても思えません。なぜなら、大谷会長が死んでしまっては、小田にとって元も子もなくなるからです。そうでしょう、山崎さん」  山崎は苦い顔をして黙っていた。 「じつは副島悦さんから、今夜、私たち捜査関係者も含めて、全員に話をきいてもらいたいことがあると言われました。  たぶん——私の推測が間違っていなければ、悦さんは三つの死についての真相をすべて話して下さるのだと思います」  夏むきの和服に着替え、りんとした表情で無言をつづけていた副島悦は、一同の視線を浴びてゆっくりうなずいた。 「その前に私の方から事件のポイント——つまり、一つずつ合理的な説明をつけていかなければならない謎《なぞ》の数々を列挙してみたいと思います」  ひろみはホテルのフロントに頼んでコピーしたメモ用紙を全員に配った。 [#ここから1字下げ] 【十年前の副島新吾氏水死事件】 ㈰前夜から行方不明になった副島新吾氏の遺体が、鮫《さめ》の餌食《えじき》となって発見されたのが翌日の昼前である。なぜその時間になるまで氏の遺体は鮫の餌食にならずにすんだのか。 【大谷誠|溺殺《できさつ》事件】 ㈪犯人はなぜ溺殺という手段をとったのか。 ㈫犯人はなぜ大谷誠氏の口にパンを詰めたか。 ㈬犯人はどうやってロックされた大谷誠氏の部屋に侵入したか。 ㈭大谷誠氏はなぜブランデー二杯程度で泥酔したのか。 ㈮犯人は大谷誠氏をバスタブに沈めて殺す際、衣服を水|飛沫《しぶき》で濡らさなかったのか。 【大谷芽里惨殺事件】 ㈯三〇二号室から死亡通知の不気味なファックスを送信した人間は誰か。その人物はどうやってロックされた部屋に入り、大谷浩吉氏と副島努氏の目を盗んで機械をスタートできたのか。 ㉀二枚のファックスはどういう目的で送信されたのか。 ㈷最初のファックスの元原稿はどこから送られ、どう処理されたのか。 ㉂大谷浩吉氏が事件発覚の直前、三〇三号室から出てくる副島悦氏を目撃しているが、これはどう説明するのか。 ㉃犯人はたんに返り血を防ぐために、わざわざ芽里さんのベッドのシーツをはがして彼女に被《かぶ》せたのか。 ㈹シーツを被せられた芽里さんの急所——喉《のど》を、犯人はどうやって一撃のもとに過《あやま》たず致命傷を加えることができたのか。 【大谷浩吉急死事件】 ㈺浩吉氏が常用していた降圧剤をビタミン剤とすり替えたのは、誰が何の目的で行なったか。それが同氏の急死とどういう関連があるのか。 [#ここで字下げ終わり] 「悦さんが三〇三号室から出てきた……」  山崎がプリントに目を通すなり驚いた声を出した。 「なぜ、そのことを……」 「おとといの夜、モーレア島のバーで会長と副島努さんとあなたの三人で極秘会談をしている時に、隣のテーブルでバックギャモンをやっていたガラの悪そうなガイジンのアンちゃんがいたでしょう」  フレッドがきいた。 「そういえばいたな」  努と山崎が異口同音に言った。 「そいつは、こんな顔をしていませんでしたか」  フレッドは笑いながらサングラスをかけた。 「あ」  山崎が声をあげた。 「じゃあ、君は私たちの会話を盗み聴きしていたのか」 「おかげで貴重な情報をたくさん教えてもらえましたよ」  フレッドはそう言ってサングラスを取った。その目はもう笑っていなかった。 「そこまでご存じなら私がいまさら大げさに告白することもなさそうね」  副島悦はコピーされたメモをテーブルに置くと、椅子《いす》から立ち上がって窓辺に歩み寄った。 「きれいなお星さまだこと」  夜の南太平洋は鉄紺色《てつこんいろ》の水をたたえ、砕けた波が星明かりで藍白《あいじろ》に光っていた。  海上バンガローにいると、夜の潮騒《しおさい》が足の底から湧《わ》き起こってくるようだった。 「烏丸さん、あなたが最初に話をされたほうがいいわ。すべて思った通りにね。たぶん、九割以上は真実を言い当てているでしょうから」  悦は皆に背中をむけたまま言うと、窓の外に上半身を出して、夜風を大きく吸いこんだ。      2 「この事件のポイントは、謎の㈰、つまり十年前に水死した副島新吾氏の死因にさかのぼることができます。これは八丈署の源警部が指摘したのですが、もしも夜遅く副島新吾氏が海に入って溺死《できし》したとすれば、その遺体が昼前ごろまで鮫に狙《ねら》われずにいたのはおかしいのではないかというのです。  新吾氏の無残な遺体は、ここにいらっしゃる沢田明梨さんが偶然発見されたものだそうですが、朝の十一時ごろ明梨さんが目撃したときに、ちょうど鮫が遺体に喰らいついたところだったんですね」  明梨は十年前の忌《いま》わしい記憶に身震いしながら、ええ、と答えた。 「夜、水死して漂いはじめた死体を、鮫がそんなに長い間放っておくはずがない。まして、あちこちに珊瑚《さんご》の浅瀬が突き出している海です。水死体は波にもまれ、珊瑚に傷つけられ、鮫の嗅覚《きゆうかく》——というんでしょうか——それを刺激するにじゅうぶんな状態になるはずです」 「ぼくらは身をもってそれを体験しましたよね、橋詰さん」  フレッドは部屋の片隅で小さくなっているパンチパーマの男に声をかけた。 「したがって、もし新吾氏が不慮の事故で水死したとするなら、その時刻は沢田明梨さんが発見したときよりそんなに前ではなかったと考えるほうが自然なのです」  ひろみは主に沢田明梨に目をむけながらつづけた。 「もう一つ不思議なことがあります。鮫が新吾氏の死体に集まっているのを見たとき、鮫の一群とあなたが隠れていた珊瑚との距離はどれくらいありました?」 「百メートルくらいだったと思います」  明梨が緊張した声で答えた。 「その百メートル離れた珊瑚のシェルターで、あなたはすごいものを見つけてしまうんですね。そう、副島新吾氏の片方の手首です。特徴的な指輪が目印だったんですね」  明梨は目をつぶってうなずいた。 「おかしいと思いませんか、皆さん。たったいま海中で鮫の餌食になっている副島氏の左手首だけが[#「左手首だけが」に傍点]、なぜ百メートルも離れた珊瑚にひっかかっていなくてはならないのでしょうか[#「なぜ百メートルも離れた珊瑚にひっかかっていなくてはならないのでしょうか」に傍点]」 「でも、それは本当なんです」  まるで犯人扱いされたかのように、沢田明梨が叫んだ。 「沢田さん、あなたのおっしゃっていることが本当だからこそ、事は重大なのです」  ひろみはキッと唇を結んで一同を見渡した。 「残酷な推理をします。副島新吾氏は、夜、何者かに呼び出された。そしてその人物に陸上で[#「陸上で」に傍点]殺された。最初は犯人は副島氏の死体を犯行現場に放置しておくつもりだったが、何かと証拠が残るような危険を感じたので、昼近くになってから死体の処理を鮫に任せてしまおうと考えた」  嘘《うそ》、と明梨がかすれた声を出した。 「犯人はボートに新吾氏の死体を乗せ、ある程度|漕《こ》ぎ出したところで左手首を切り落とし、鮫を呼んだ」 「酷《むご》い」  久米が呻《うめ》いた。 「ボートは作業中に風に流され、次に死体を海中に投げ入れたときは、かなり最初の地点から離れていた——というわけです」 「副島常務、こんな酷たらしい推理は私は許せませんでございます」  わけのわからない感情論を叫んで、久米はひろみを睨《にら》んだ。 「あんた、それで誰がオヤジを殺したと思っているんだ」  努が動揺を押し隠した声でたずねた。 「大谷誠さんです」  ひろみは即座に答えた。 「なにィ」  山崎と久米が合唱した。 「十年前に副島新吾氏を殺したのは、当時二十五歳で、新吾氏の娘芽里さんと婚約中だった大谷誠さんだったのです」      3 「根拠は何なんだ。誠さんがそんな大それたことをしたという証拠がどこにあるんだね、君」  忠臣を気取る久米が顔色を変えてひろみに詰め寄った。 「証拠はありません」  ひろみは平然と言った。 「でもそう考えたほうが、八丈島での二つの事件が矛盾なく解決できるのです」  久米は鼻の穴を広げて肩で息をしながら、ひろみの次の言葉を待った。 「社長就任パーティの翌日、大谷誠さんが殺されたときのことに話は飛びます。  この事件の犯人は、ホールでバイキング・ランチの昼食会が開かれている最中に、大谷新社長を溺《おぼ》れ死なせるという面倒なことをやっています。バスタブに突っこんで殺そうとすれば、大量の水を浴びる危険があることくらい考えればわかりそうなものです。それでもあえて犯人は溺殺という方法をとった。  このこだわりが、私に一つの推理をもたらしたのです」 「十年前の復讐か……」  伊藤次郎がつぶやいた。 「そうです、そのとおりなんです」  ひろみは伊藤の勘のよさに驚いた。 「その人物は、十年前の新吾氏の死がじつは他殺であることを感づいていたのでしょう。犯人が大谷誠氏だったということも含めてね。  ただし、私がさっきお話ししたような状況の把握のしかたではなく、新吾氏は海で溺れさせられたと思いこんでいたのです。  その恨みを晴らすには、大谷誠氏に同じ苦しみを味わいながら死んでもらわなければ困る——それが、溺殺という手法を犯人が選んだ理由です。  いわば�目には目を�です」 「刑事さん、例によってあなたはずいぶん大胆な推理をするけど」  伊藤は緊張をほぐすように、途中でタバコに火をつけてつづけた。 「副島新吾氏が殺されたことでそのような復讐を誓う人物と言ったら、家族しかいないんじゃないですか、その中で奥さんは新吾氏を追うように疲労がもとで亡くなったし、娘の芽里さんも凶行の犠牲になっている。とすると、残るは新吾氏の息子の努さんか、母親の悦さんしかいない」 「もう少し私の話をきいて下さいますか」  ひろみが穏やかに頼んだ。  伊藤はうなずいた。 「犯人は隙《すき》を狙《ねら》って、大谷誠氏のブランデーに睡眠薬を大量に混入しました。誠氏はアルコールに酔ったのではなく、実は激しい睡魔に襲われて部屋へ担がれるようにして運ばれた。犯人が予定したとおりに事が進んだのです」 「それじゃあ、まるで私が犯人のようね」  田村麻美が顎《あご》を突き出して抗議した。 「そうだよ。君が社長を殺したと考えるのが一番妥当なんだ」  山崎が興奮気味に麻美を指さした。 「だいたい私は初めから君が怪しいと睨んでいた。なぜ警察が君をすぐに逮捕しないのか不思議なくらいだったんだ」 「失礼ね!」 「ちょっと待って下さい」  ひろみが二人の間に割って入った。 「私は田村さんが犯人だとは、まだ一言も言ってないはずですよ」 「言ったも同然よ」 「いいえ」  ひろみは微笑んだ。 「もしあなたを犯人だと思っていたら、メモの㈬番、犯人はどうやって大谷社長の部屋に入れたのか、などと改めて疑問に思うはずがないでしょう」 「………」  麻美は押し黙った。  ひろみは唇を湿らせてから先をつづけた。 「犯人はまず部屋に入るとバスタブに水を入れ、次に服を脱いで裸になりました。もちろん、服を濡らさないようにするためです。そして、睡眠薬入りブランデーで前後不覚になっている大谷誠氏をバスルームへひっぱってきた。万一、水中で抵抗された時のことを考え、この時のために残しておいたルームサービスのパンをちぎって誠氏の口に押しこみました。そして、間髪《かんはつ》を入れず誠氏の頭をあおむけの状態でバスタブに突っこんだのです」  一同はひろみの話の迫力にシンと静まり返っていた。  悦だけが相変わらず窓の外の星空に目をやっていた。 「驚いた誠氏は無意識に息を吸いこもうとします。その瞬間、水でふくれたパンのかけらが気管に飛びこみます。あとは苦痛と混乱と、そして死が待っているだけでした。こうして大谷誠氏は殺されました。力のない女性でも容易に実行しえた殺人方法です」 「力のない女性……?」  久米がひろみの言葉尻を咎《とが》めた。 「そうです」  ひろみがキッパリと言った。 「殺す人間の口にパンを詰めこむという奇抜な発想は、ひとつには犯人が自分の非力をカバーしようとして思いついたものだと考えられます」 「腕力だけでは殺しきれないと思ったのかね」 「そうだと思います、久米さん。でも、その時にパンを利用するという発想がじつにユニークだと思いませんか」 「私にはとても考えつかないね」 「犯人が�パン�という要素に注目したのは、大谷誠社長がライ麦パンが大嫌いだという事実を思い出したからかもしれません。憎い男には、大嫌いなものを口いっぱいに頬《ほお》ばって死んでもらおう、という感情むき出しの着想だったとも考えられますし」 「なるほど」 「あるいは、誠氏がパンを食べているのを見ながらそのことを考えついた……」 「もうこのへんで犯人を明らかにしたらどうかしらね」  窓際に立っていた副島悦がくるりとふりむいた。 「烏丸さん、あなたは素晴らしい刑事さんだわ。わずかな手がかりをもとに、ほとんど百パーセント真相を言い当てているんですものね。さあ、あなたの口から犯人の名前をおっしゃい」 「わかりました」  ひろみは副島悦の目を真正面から見つめて宣言した。 「誠氏を殺した犯人は、大谷芽里さんです」      4  混乱をしずめるのに、ひろみは三分ほど待たなければならなかった。  意外にも一番取り乱したのは、伊藤次郎だった。  一度は恋人同士だった女が、幸福をつかんだ相手であったはずの夫を殺してしまったと指摘されたのである。しかも、ひどく残酷《ざんこく》な手口で。  伊藤は�信じられない�という言葉を連発して頭を抱えた。  その様子を沢田明梨が複雑な顔で眺めていた。 「社長を殺したのが姉さんだと言うんなら、姉さんを殺したのは誰なんだ」  副島努が怒気を含んだ声でたずねた。 「それも大谷芽里さんです」  ひろみは憐れみの表情を浮かべて答えた。 「ええっ、姉さんを殺したのも姉さん?」 「そうです。大谷芽里さんはご主人を殺したその夜、自らの命を断ちました」 「いい加減にしてくれよ」  副島努は腹立ちまぎれにバンガローの壁を足で蹴飛《けと》ばした。 「そうやって何もかも姉さんのせいにすればいいんだ。会長が死んだのも姉さんのせいだって言うんだろ。それくらい言いかねないよな」 「そうです」  努は唖然《あぜん》とした顔をひろみにむけた。 「なんだって?」 「きのうビーチで急死した大谷浩吉会長も、やはり芽里さんに殺されたのです」 「バカバカしい」  努は大げさなゼスチュアで額に手をやった。 「一カ月以上も前に死んだ人間が、どうやって会長を殺したんだ。まさか心霊現象を持ち出してくるんじゃないだろうな」 「別に怨念《おんねん》で呪《のろ》い殺したわけではありません。ビタミン剤で殺したのです」 「ビタミン剤で?」 「会長の常備薬であった降圧剤とビタミン剤をすり替えることで、芽里さんは会長の死を画策しました。大谷会長の心臓発作は、あらかじめプログラムされた�予定の死�だったのです」  ひろみは大谷浩吉の主治医に問い合わせた結果をもとにした話だと断って、薬のすり替えにおける殺意の証明を行なった。 「大谷浩吉氏が常用していた降圧剤は、塩酸プロプラノールをベースとした|β《ベータ》ブロッカーという薬でした。交感神経のβ受容体に作用するものなんです」  主治医の説明によれば、血圧降下剤には大きく分けて二つの種類があった。  体内の血液量を減らして圧力を下げる方法と、血管の太さを拡げて圧力を下げる方法である。  前者の方法をとるのが降圧利尿剤。つまり尿をたくさん体外に出して循環血液量を減らすやり方である。  後者の方法はさらに二通りに分かれる。交感神経抑制薬と血管平滑筋|弛緩《しかん》薬である。  大谷浩吉に処方された錠剤は、交感神経β受容体という刺激を感じる器官への伝達経路をカットして、交感神経の働きを抑制することによって血圧を下げる働きのものだった。  これをβ遮断薬——即ちβブロッカーという。 「糖尿病や気管支喘息等の持病がある人には与えられないのですが、その点は会長は大丈夫でした。しかし、この薬にはとてつもなく恐ろしい副作用がありました。それが中断症候群——薬の服用を急激にやめると、労作性狭心症や心筋|梗塞《こうそく》を誘発し、ひどい時には死に至らしめることもあるというものでした」  田村麻美が蒼《あお》い顔をしてひろみを見ていた。 「主治医は大谷会長が亡くなったと聞いてひどく動転していました。本来、こうした薬を二カ月分まとめて渡すことはないのですが、いちいち病院へ行くのが面倒だという会長の申し出を受けて——おそらく相応のお礼を包まれたのでしょうが、特別にまとめて薬を出していたのです。  薬を取りに来たとき、浩吉会長には芽里さんが付き添い、中断症候群に関する重要な注意も一緒に聞いていたそうです」  中断症候群を抑えるために、弱いβ刺激性(ISA活性)を持たせたピンドロールやカルテオロールというβブロッカーもあるにはあった。  しかし大谷浩吉のように頻脈性不整脈を伴う高血圧治療には、ISA活性がマイナスの塩酸プロプラノールが最適であると主治医は判断したのである。 「この薬をやめる場合は、一日十ミリの錠剤三回服用のペースをまず二回に減らし、しばらく経ってから一回にするというように時間をかけていかなければなりません。ところが、いつのまにか薬が総合ビタミン剤にすり替わっていた。このビタミン剤は、識別コードの違いに気づかなければ降圧剤だと思いこんで当然というほど外見が似たものでした。  その結果、大谷会長はβブロッカーの服用を突然やめたと同じ状態に、知らないうちに追いこまれていたのです。いつ中断症候群が現れても不思議はありませんでした」 「話はよくわかったよ」  努が上目づかいでひろみを睨んだ。 「だけどそうした薬のすり替えは、姉さんが死んでからでも彼女だったらじゅうぶんにできたじゃないか」  努は麻美を顎《あご》で指した。 「あなた、私よりお姉さんのほうが大切なのね」  麻美は目を吊《つ》り上げた。 「いいえ、努さん。麻美さんではなく、芽里さんが薬のすり替えを行なったという証拠があります」  ひろみが興奮する麻美を制して、努に言いきかせた。 「芽里さんはその大学病院で過去に一度、他の薬と併用してこのビタミン剤の処方を受けたことがあります。そして、七月七日——つまり八丈島でパーティが開かれる四日前に、主治医に頼みこんで大量のビタミン剤を出してもらっていたのです」 「じゃあ、姉さんは最初から社長と会長を殺すつもりで……」 「そうなのよ、努」  副島悦が窓辺からゆっくりと努のところへ歩み寄った。その目には涙が光っている。気丈な悦が人前で見せる初めての涙だった。 「あの子はね、すべてを告白した遺書を書き残していたわ。それを私に手渡した後で……自殺したんです」      5 「なぜあのとき芽里を助けてあげられなかったのか。本当に悔《く》やんでも悔やみきれない」  目を閉じて涙をはらはらと流し、副島悦は独り言のように八丈島の夜の出来事を語りはじめた。 「誠さんが殺された夜、私は眠れずにずっと起きていました。すると、夜中の二時十分頃、電話が鳴りました。三〇三号室の芽里からです。話をしたいことがあるのですぐきて、という電話でした。孫の芽里は、悩み事があると私に相談することがよくあったのです。父を亡くし、母も失った芽里にとって、私が親代わりのようなものでした。  私はまだ洋服を——黒いワンピースを着たままソファに座って考え事をしていたので、そのままの格好で芽里の部屋へ行きました。  芽里は蒼白《あおじろ》い顔でベッドの上に座っていました。そして、何もよけいなことを言わずにぶ厚い封書を差し出しました。 『読んで』  たった一言そう言うと、芽里は視線をそらしてべッドの上で膝《ひざ》を抱《かか》えこみました。  小さい頃から手紙のやりとりで悩み事を話す癖のあった芽里でしたから、私はさほど不思議にも思わず、それを受け取ると自分の部屋に戻りました。その時を浩吉会長に見られていたのでしょう。直後に芽里は自殺したのですから、私が芽里を殺して部屋から出てきたように思われても仕方はありません。  部屋に戻り浴衣に着替えると、私はベッドに入って芽里の手紙を読みはじめました。  初めに走り書きで『ショッキングな手紙だと思うけれど、最後の一枚を読み終わるまで私に声をかけないで』と書いてありました。  そして、まず十年前の出来事について驚くようなことが書かれていました。  新吾は、娘の芽里と誠さんとの結婚に猛反対しておりました。父親の直感として、誠さんの人格に疑問を抱《いだ》いていたようでした。大谷家が一方的に二人の婚約を取り決めたことも怒りの一因でした。ボラボラ島のリゾート建設計画が進む一方で、新吾は何とか二人の婚約を白紙に戻そうと真剣に考えていたのです。それは私も知っておりました。しかし、何よりも当の二人が互いに夢中で、新吾の言うことなどに聞く耳を持ちませんでした。  そしてあの夜、新吾は誠さんと膝を交えて話をしようと、モトゥ・タプという無人島に二人だけで渡りました。それは私にとっても初めて知る事実でした。  芽里の手紙によると、無人島ではこんなことが起きていたそうです。  婚約を解消しろ、いやしない、と新吾と誠さんは激しい口論になり、とうとう取っ組みあいの喧嘩《けんか》がはじまりました。そうなると若さに任せて誠さんの思うままです。興奮してブレーキの効かなくなった彼は、海の中に新吾を押し倒すと力ずくで押さえつけて、そのまま溺《おぼ》れさせてしまいました。  我に返った誠さんは、新吾を浜に引きあげましたがもう息はありません。驚いて死体を手近な茂みに隠し、ボラボラ島へ一人で戻ったのですが、死体が発見されたときのことを考えると不安で一睡もできず、結局、翌朝現場へ戻って、さきほど烏丸刑事が推理されたとおり、新吾の遺体を鮫《さめ》に処理させることにしたのです。  芽里がこうした恐ろしい事実を知ったのは、ことしの春になってからでした。そのきっかけとなったのが覚醒剤《かくせいざい》密輸計画です。  じつは、ここのところワールド・リゾートクラブの台所は火の車でした。新規に建設するリゾートのほとんどが、完成の予定を大幅に狂わせていました。現地労働力で思うに任せないことが多くなると、日程を取り戻すため日本から急きょ大量に作業員を動員しなければならず、採算割れのスタートを切るところが続々出てきました。  そのために何としてでも他の事業で利益を碓保しなければならなくなった経営陣は、なんと海外リゾートを拠点にした大規模な覚醒剤密輸ネットワークに手を染めたのです。  いえ、山崎さん。言い訳はおっしゃらないでね。これは大谷誠さん本人の口から芽里が聞かされた話なんですから。  誠さん自身がまず覚醒剤に手を出してしまいました。つづいて、悲しいことですけれど努もね。努、あなたの姉さんはすべて知っていたのよ。  そしてある日、覚醒剤を異常に多く服用した誠さんが、口をすべらせて十年前の出来事を芽里に事細かに喋《しやべ》ってしまったのです。  芽里は激しいショックを受けました。すでにそのとき、誠さんが秘書の麻美さんと浮気していることもわかっていましたし、覚醒剤中毒にかかりはじめていることも知っていた。こんな男と一緒になるために父親を、そして母親を失ったかと思うと、芽里は自分の愚かさを恨み、そして夫を激しく憎みました。  手紙には夫を殺害するに至ったいきさつが詳しく書き綴《つづ》られていましたが、ほとんど烏丸刑事の指摘されたとおりです。どうやってロックされた部屋に入ったかについては、芽里はこう書いています」  副島悦は、ナイトテーブルの抽出しから手紙の現物を取り出し、七枚目あたりから読みはじめた。      6 「予定通り睡眠薬入りのブランデーで前後不覚になった主人を、秘書の田村が抱えるようにして部屋へ連れていきました。私はドアのところで、彼女に後をよろしくと頼むとその場を去りました——いえ、その場を去ったふりをして、じつはドアのすぐ外に立っていたのです。  田村は主人をベッドへ連れていくのに一生懸命で、私がブレスレットを腕から外してドアの敷居に置いたことにまったく気づいていませんでした。そうです、ブレスレットがはさまっているためオートロックは完全にかからず、ドアは微かな隙間《すきま》を残して開いていたのです。  都合のよいことに部屋の突き当たりには化粧台の鏡がありましたから、ドアの隙間から中の様子をある程度|窺《うかが》うことができました。私は、田村が主人をベッドに寝かせつけているスキにドアをそっと開けて中へ滑りこみました。ブレスレットを拾い、腕に戻し、ドアをきっちりと閉めます。  ロックがかかる微かな音がしましたが、田村は気づきませんでした。私はすぐにバスルームのドアを開け、その中に忍びこんで田村が部屋を出ていくのを待ちました。  もしも田村がバスルームに入ってきたら、その時は堂々と応じるつもりでした。相手はびっくりするでしょうけど、何とでも言い訳をして、その日の殺人計画は延期することにすればいいのです。  しかし、田村は主人を寝かせたあとキスをすると——そうです。チュッという音が私の耳にきこえてきました——そのまま真っ直ぐに部屋を出ていきました。これで�密室�の中に私が入りこむことができた格好になったわけです。  私はすぐにバスタブに水を満たし、服をすべて脱ぎました。そして主人を揺すり起こし、なかば寝ぼけている彼をバスルームへ連れていくと、いきなり足をすくって頭から水の中へ落としました。驚いてもがく彼の口に、ルームサービスの残りのパンのちぎったものを突っこみました。これはあらかじめ洗面台の物入れに隠してありました。  大量のパンを口に突っこみ、それを手で塞《ふさ》いで、再び私は彼を水に沈めました。水と一緒にパンを喉《のど》に吸いこみ、彼は突然身体を痙攣《けいれん》させて激しく苦しみ出しました。でも、私は決して力をゆるめなかった。父がどれだけ苦しい思いをしたのか、思い知るといい。口に出してそう言いながら、私は主人がぐったりするまで腕の力をゆるめませんでした……」  悦はそこまで手紙を読むと眼尻の涙を拭《ぬぐ》い、まばたきを繰り返した。  居あわせた者は、告白の内容に気圧《けお》されて声もなかった。 「そのあとを読ませていただけますか」  ひろみが囁《ささや》き声で悦にたずねた。  悦はうなずいて手紙をひろみに渡すと、ソファにくずれるように身体を投げ出した。 「私は知らなかったよ、山崎君。覚醒剤のことは何も聞かされていなかった」  責任逃れをしようというのか、あるいはライバルを責めているのか、久米は口の端に泡をためてまくしたてた。 「おおかたそんな怪《け》しからんアイデアを会長や社長に進言したのは君だろう。おかげでこんなチンピラにしゃしゃり出てこられるし、週刊誌には格好のスキャンダルを与えるし」  久米は、橋詰健太と伊藤次郎と沢田明梨に軽蔑《けいべつ》の視線を走らせた。 「会長が築きあげてきたワールド・リゾートクラブもおしまいだ。つぶしたのは君のせいだぞ、山崎」 「黙れ!」  副島努が怒鳴った。 「姉さんがどういう気持ちで死んでいったのか、おまえら最後までちゃんと聞け」 「うるさい、この若僧《わかぞう》が」  茶坊主《ちやぼうず》を決めこんでいたはずの久米が、急に開き直って努を叱りつけた。 「ロクな仕事もせず、血縁だけで役員になってる奴が偉そうな口を利くんじゃない」 「なんだと」  努が気色《けしき》ばんだ。 「喧嘩《けんか》は外でやってね」  麻美が醒《さ》めた声を出して椅子《いす》から立ち上がった。 「私、いい人生勉強をさせてもらったわ。したくてもこんな経験はできないものね。どうもありがとう」  取り澄ました顔を努にむけてから、麻美はドアの方へむかった。 「どこへ行くんだ」  努が咎《とが》めた。 「自分のバンガローに戻って寝るのよ」 「まだ話は終わってないぞ」 「もう結構」  麻美はひらひらと手を振った。 「ホテルの便箋を使ってかまわなければ、すぐに辞表を書いて出すわよ。あなたにね」      7  ボラボラ島の夜が明けはじめていた。  ひろみとフレッドは白い砂浜を並んで歩いた。  陽がのぼりきる前の爽《さわ》やかな冷気が二人の頬《ほお》を撫《な》でた。南の島の小鳥たちがブルーグレーの空をバックに、まだシルエットとなって飛んでいた。 「しかし驚いたよな。大谷芽里は自分の命を断つことも含めて綿密に計画を練っていた。遺書まで事前に準備してね」 「遺書の署名は大谷芽里ではなく、副島[#「副島」に傍点]芽里だったものね。あのサインを見たときに、彼女の怨念《おんねん》の強さを感じたみたいでゾッとしたわ」 「芽里は夫を殺したあとで自殺のタイミングをはかっていたようだけど、夜中の一時に浩吉会長に呼び出されて、かなり厳しい口調で夫殺しの疑惑を追及されたときに覚悟を決めたらしいな」 「遺書の最後に追加して、時刻入りの自殺へのドキュメントをメモで残しているんだもんね。これを読んだときの悦さんの衝撃は大変なものだったと思うわ。浴衣一枚で冷房の効きすぎた部屋にいたって、そのことを忘れてしまうくらいのショックだったのね」  フレッドは砂浜の乾いたところに腰を下ろした。ひろみもその隣に並んで座る。  夜の眠りから覚めた南太平洋が、エメラルドの輝きを取り戻しはじめていた。 「会長に問い詰められた芽里は、隣のつづき部屋へ駆けこみ、ショックで泣いているふりを装って、すばやく�密室づくり�を行なった」 「トリックは極めてカンタン。夫を殺したときと同じ手口を使ったのね。三〇二号室の廊下側のドアを開けてその隙間《すきま》に指から抜きとったダイヤモンド・リングをはさみこむ。こうするとドアは完全に閉まらずオートロックは効いていない状態になる。でも一センチもない隙間だから、ちょっと見にはドアが開いているとは思わない。すぐ三〇二号室へ芽里を追いかけて入ってきた会長も、ドアの異状には気づかなかった」 「その指輪、十年前に大谷誠が婚約記念に贈ったものだったんだろう」 「そうなの」 「すごいよなあ、怨みの深さが」 「死の直前に書き残した分刻みのメモも鬼気迫るって感じよ」  ひろみは、コピーした便箋二枚分のメモを改めて読んだ。 ≪1・35 部屋に戻る。会長が憎い。予定通り彼も巻き添えにしてやる。  1・40 準備しておいた新聞広告のコピーを持って、そっと三〇二号室に戻る。スーパー・ファイン・モードとハイトーン・モードを組み合わせて、もっともゆっくりしたスピード設定でファックスのテスト送信を行なう。隣の部屋にいる会長はまったく気づく様子がない。送信時間九分四十五秒。  1・50 部屋に戻る。広告の上にサイペンで死のメッセージを書く。メーリサンハ、シンダ。  用意しておいた遺書をホテルの封筒に入れ、終わりにもう一枚、このメモを加えておくことにする。  2・00 小さくつけておいたラジオから午前二時の時報が鳴る。この世できく最後の時報。  シーツをベッドからはがしてお別れの準備にとりかかる。厨房《ちゆうぼう》から持ち出した包丁を枕《まくら》もとに置く。これが私の命を奪う包丁かと、しみじみ見る。  覚悟はできているから一突きで喉《のど》を刺せるはず。ためらい傷をつくったのでは警察に自殺と見破られてしまう。そうなっては会長を巻き添えにしようとファックスの細工をする意味がない。  2・10 おばあちゃんに電話をかけて、部屋へきてくれるように頼む。≫ 「遺書の最後に同封してあったメモはここまでだけれど、あとは容易に推測できるわね」  ひろみはフーッとため息をついた。 「死亡メッセージ入りの原稿を持って三〇二号室へ行き、ファックスの送信ボタンを押す。クサビ代わりにしていた指輪を拾いあげて、オートロックの効く状態にして部屋を出る。そして自分の部屋に戻って、キッ」  フレッドは喉をかき切るしぐさをした。 「シーツの上から包丁を握って一突きすることで、柄《え》に指紋はつかない。返り血を嫌って犯人がシーツをかけたようにみえる。毛細管現象でシーツ全面に大量の血が行き渡り、他殺の印象が強くなる。という一石三鳥の効果があった」 「芽里が自殺したあともファックスはゆっくりと死亡メッセージをサービスセンターへむけて送信しつづけていたわけ。本来なら、このファックス原稿が他の誰かに発見されて、その送信時刻から浩吉が窮地に追いやられるはずだったのに、皮肉ね」 「弟の努が浩吉会長に呼ばれて三〇一号室にいたこと、それから沢田明梨が東京へ原稿を送るためにサービスセンターにいた、という二つの偶然が重なって芽里の思惑《おもわく》は外れてしまった」 「芽里は二度目のファックス送信のときに、隣の部屋に弟がいたことに気づかなかったのかしら」 「さあね。気づいていたかもしれないが、もうあとにはひけなかったんだろうな」  フレッドが砂の中から白い貝殻を見つけて海にむかってそれを放り投げた。 「結局、沢田明梨の叫びを聞きつけた副島努がいちはやくサービスセンターに行き、原稿を始末してしまった。それが姉の最後の願いを砕いてしまったのね」 「でも最終的には薬のすり替えで大谷浩吉に対する復讐も成し遂げたんだからな。彼女は誠だけでなく浩吉のほうも憎んでいたんだ」 「悦さんの罪はどうなるのかしら」  首をかしげてたずねるひろみの頬《ほお》に、朝陽《あさひ》が当たりはじめていた。 「副島悦の罪?」 「遺書に薬のすり替えのことが書いてあったのに、知っていてそれを浩吉に警吉しなかったことよ」 「さあね、どうなんだろうな」  フレッドは立ち上がった。 「息子を殺され、嫁にも先立たれ、孫娘も自殺してしまった。もう一人の孫も覚醒剤密輸容疑と、運び屋の委託殺人の容疑で逮捕は時間の問題だ。残された七十歳のお年寄りを未必《みひつ》の故意《こい》の罪に問うのはどうなんだろう」  フレッドはひろみに手を貸し、二人は靴だけ脱いで海の中へ入っていった。  フレッドはコットンパンツの裾《すそ》を濡《ぬ》らしたが、ひろみは白いスカートをフラメンコダンサーのように巧みに翻《ひるがえ》して波をよけた。 「ねえ、フレッド」 「ん?」  ひろみが水平線にむかって深呼吸してたずねた。 「こんなにきれいな空と海の間で、どうして人が殺せたのかしら」 「本当にそうだよな。自然を前にして自然を見ていなかったんだろう。人間のことにばかり気がむいちゃってさ」 「考えてみたら私たちって、人間の一番イヤな部分を見つめて仕事しているんだもんね、三百六十五日」 「だから、一年のうちの何日かをこうやって過ごしたってバチは当たらないさ」 フレッドはTシャツを脱ぎ、コットンパンツも脱いで波打ち際に放り投げた。 「わ、フレッドったら海パンはいてる」 「当然でしょ」  フレッドは水しぶきをあげて海の中に倒れこんだ。 「じゃ、私も」 「え?」  ひろみもビュスチエとスカートをパッパッと鮮やかなスピードで脱いだ。  フレッドが目を丸くした。 「考えていることは同じだったんだ」 「そう、同じだったみたいね、私たち」  ひろみもニッコリ笑ってタンガの紐《ひも》をパチンと弾《はじ》くと、エメラルド色の海に身を投げ出した。 [#改ページ]   フィナーレ 「いい色に焼けて帰ってきたな、おまえたち」  財津警部は、夏の飲みものはこれに限ると日頃主張している氷入りカルピスのグラスをカラカラと揺すりながら、南太平洋帰りの二人を見較べた。 「焼け具合もまるで同じだ。おまえら、四六時中一緒にいたんだろう」  子供のようなヤキモチをやいてカルピスをあおった。 「警部、あの、これおみやげです」  ひろみはコーヒー色の笑顔に白い前歯を二本だけのぞかせて、財津に花柄のプリントが入った布地を差し出した。 「パレウといって、タヒチの簡単服です。巻きつけるだけで警部もタヒチ人」 「ブタの丸焼きをつくる料理人か」  財津は細かいことをよく覚えていた。 「またあ」  ひろみは笑いながらフレッドの袖をひっぱった。 「ぼくなんかと違って、警部みたいにお腹がバンと出た人にすごくよく似合うんですよ」  フォローになっていない。 「悪かったな。せっかくのみやげだからいただいておくが」  財津はギロッとフレッドを睨《にら》んでから、パレウを自分の机にしまった。  口では何だかんだと言ってはみても、結局ひろみからおみやげをもらったことが嬉しいのである。 「ところで、これを見たか」  財津は『週刊芸能』を二人のほうに投げてよこした。 「この事件でトクをしたのはこいつらだけだな」  財津が言う通り、伊藤次郎のスクープネタが毎週誌面を賑《にぎ》わしている『週刊芸能』は、ついに発行部数五十万部の大台を超え、六十万部に迫っていた。 「へー、ひろみのことが書いてあるぜ。現代のシャーロック・ホームズは大胆ビキニがお似合い、だって」  フレッドが面白そうに記事を指さした。 「やだ」  ひろみは赤くなってフレッドの手から雑誌を奪った。 「ずいぶん目の保養になったんだろうな、フレッド」  と、あくまで財津は冷たい態度である。 「目の保養だなんて……」  たしかになりました、と言いかけてフレッドは言葉を呑《の》みこんだ。 「まあいい。とりあえず今回は大目に見といてやる」  フレッドに厳しい一瞥《いちべつ》をくれてから、財津はひろみにむき直って笑顔を見せた。 「ところでな、ひろみ」 「はい」 「さっきから別室で関係者の事情聴取がはじまってるんだが、副島悦はおまえのことを感心していたぞ」 「私を?」 「そもそも事の発端となった捜査一課に送られてきたワープロの警告文書があったろう」 「『八丈島で人が死ぬ……』っていう手紙ですね」 「そうだ。あれは悦本人が打ったそうだ。まさか七十歳でワープロが打てるとは思わんかったがね。さっき取調室で本人が話してくれたよ」 「そうですか」 「年寄りならではの予感が悦にはあったらしい。だから、なんとか警察の関心をひいておきたかったそうだ。でも、おかげで烏丸ひろみさんという優秀な刑事さんに会えてよかった、と言っていたよ」 「そんな」 「本来なら孫娘の意を汲《く》んで、芽里はあくまで被害者の一人だったということにしておくべきだったが、おまえの真摯《しんし》な捜査姿勢に打たれて真実を告白する気になったらしい」  財津警部は微笑《ほほえ》んでひろみを見つめた。 「いえ、私はフレッドがいなかったら何もできませんでしたから」  その一言で財津の目が点になった。 「あ、そ」 「いや、警部。ぼくは何の役にも立っていません。偉かったのはひろみです。副島悦の言うとおりです」  あわててフレッドが口をはさんだが遅かった。 「タヒチまで行って何の役にも立たなかったのか、フレッド」 「警部、またそうやってすぐ絡《から》む」 「絡んでなんかおらん。とにかくおれは関係者の聴取に立ち会わなきゃならんからな。おまえらは南国ボケを一刻も早く直すことだ」  カルピスの残りをぐいと飲みほすと、財津は立ち上がった。  その時、大部屋に八丈署の源警部が入ってきた。 「やあ、どうも」  大部屋の刑事たちにうなずきながら歩いてくる。移動カメラで追っていきたいような役者ぶりである。  陽焼けしたひろみとフレッドを見ると、顔をほころばせてバリトンの声で言った。 「よくやってくれましたな」  二人の肩を交互に叩《たた》いて労をねぎらい、満足そうにうなずいた。 「財津警部は、優秀な部下をお持ちになって、すっかり鼻高々といった様子でしたぞ」 「いや、ぼくなんかどうせ……」  フレッドがつい卑屈になったが、間髪《かんはつ》入れず源警部が彼の両肩をつかんで揺すった。 「今後もがんばりなさい。ゆうべ私は財津警部と飲んだんだが、警部はきみを非常に買っておった」 「まさか」 「いやいや、本当です。烏丸刑事は娘のように可愛いが、フレッド君も息子のように可愛い。親というものは娘に甘く、息子には厳しく当たるものだ。果たしてフレッド君が自分の気持ちをわかってくれているかどうか、と財津警部は心配しておられた。だから私は言ってやったんだ。なあに、あなたの愛情はじゅうぶんあの二人に通じていますよ、と」 「警部……」  ひろみとフレッドがふりかえると、そこに財津警部の姿はなかった。 「あそこですよ」  源警部が指すと、窓際で後ろ手を組んで外を眺めている財津がいた。 「可愛い」  思わずひろみはつぶやいてしまった。  後ろ姿にテレがにじみ出ている。  フレッドに目をやると、彼がジンときて財津の背中を見つめているのがわかった。  涙もろい烏丸ひろみとしては、それだけで目頭が熱くなってきた。 「どうですか、お二人とも、事件が一段落したら八丈島へいらっしゃい。こんどは仕事でなく遊びで。タヒチも素晴らしいだろうが、八丈島も捨てたもんじゃありませんぞ」  源警部が笑って言った。 「あの……」  フレッドがたずねた。 「八丈島にボスも連れていっていいですか」 「もちろん、もちろん」  源警部は大きくうなずいた。 「ただしその時は烏丸さん、水着は地味なワンピースにしておいたほうがよさそうですな、財津警部の健康のためにも」 [#改ページ]  自作解説 [#地付き]吉 村 達 也    この今回新装版として復活した『南太平洋殺人事件』は私の初期の作品だが、私にとって≪初期の作品≫という位置付けは、プロの作家に転向する前の、ラジオ局や出版社に勤めながら小説を書いていた時代の六冊を指す。  それを処女作から発表年月日も含めて順番に記すと——  ㈰Kの悲劇     (一九八六・二)  ㈪逆密室殺人事件  (一九八七・四)      *原題‥カサブランカ殺人事件  ㈫創刊号殺人事件  (一九八七・七)  ㈬南太平洋殺人事件 (一九八七・八)  ㈭キラー通り殺人事件(一九八七・九)  ㈮エンゼル急行《エクスプレス》を追え(一九八八・三)  となる。  作家によって自分の初期作品に対する考え方はいろいろあるだろうが、大半の人は、作品はその時点で完結したものとして、十年二十年|経《た》ってもほとんど手を入れずにおくのではないか。  しかし、私はちょっと違った考えをもっている。家と同じで、書き上げた作品をいつまでも『新築』当時のフレッシュな状態に保つには、十年とか十五年にいっべんは『改築・増築』作業をやるほうがいいと思っている。とくに初期作品については現在の私とあまりにも作風が異なるので、読者のほうも読んでしっくりこないところがあるはずだから。  上記六冊のうち、㈭㈮を除く四冊は、プロ転向後まもなく角川文庫に収録されたものだが、それからしばらくして、私の作風がだいぶ変わってきたことに伴い、『Kの悲劇』を除く三冊(㈪㈫㈬)は、しばし読者のみなさんの目から遠ざけておこうと決め、書店の流通経路から引き上げてしまうことを出版社にお願いした。いわば封印である。  しかし、著作百冊突破を前に、これらの封印作品にも日の目を見る機会を、ということで、≪ページ数は変えられないので大幅な加筆訂正はできない≫といった制約の範囲内でこまかい言い回しなどに手を入れ、『逆密室殺人事件』『創刊号殺人事件』『南太平洋殺人事件』のリフレッシュ版をお届けすることになった。  そのへんの詳しいことは『逆密室殺人事件』巻末の自作解説にも述べているので、そちらもお読みいただくとして、本書の自作解説では、烏丸《からすま》ひろみシリーズについてふれておきたい。  |450cc《ヨンハン》バイクに乗る警視庁捜査一課の烏丸ひろみ刑事は、私の持つシリーズ物の中でいちばん最初に登場したキャラクターである。朝比奈耕作《あさひなこうさく》や永室想介《ひむろそうすけ》といった男性主人公の前に、まずこの可愛《かわい》らしくてスポーティーな女刑事が登場した。  この『南太平洋殺人事件』では、烏丸ひろみはずいぶんセクシーアイドル系に描かれているし、同僚のフレッド刑事とのいわば職場変愛に陥ってしまう展開にもなっている。シリーズ第三弾の『トリック狂殺人事件』以降の烏丸ひろみ像とはちょっと違っているので、アレッと思われたかもしれないが、執筆当時は、彼女をそういう方向に性格づけしようとしていたらしい。  らしい、と他人事《ひとごと》のような書き方をするのも妙な話だが、一九九〇年に専業作家に転向し、一九九二年あたりから作風の転換を迎えて以降、小説づくりのありとあらゆる側面で方針を変えてしまったので、それ以前の創作姿勢に関することが徐々に記憶から消えつつあるのは事実だ。だから、この『南太平洋殺人事件』にしても、発表から十年、文庫化されたときから数えても六年経っているので、久々に読み返すと、正直いって犯人を誰に設定していたのか、初めのうちは自分でも思い出せないくらいだった(自分で自分をだませるのだから、結構なことかもしれないが)。  物語の展開の仕方も、いまの好みとまったく違うので、まるで別人の作品を読んでいるような思いにとらわれる部分もあった。だがその反面、いまの自分なら次の場面できっとこういうセリフをこの人間に言わせるだろうな、と思いながらページをめくると、やっぱり想像していたとおりのセリフが一語一句たがわず出てくることも少なくなく、そういう点では、ああやっぱり基本的な部分では吉村達也は変わっていなかったのか、とちょっと安心もした。  そうした両方の思いをそのまま雰囲気に残しつつ、わかりにくい表現や、あまりにも古くなった部分を修正することを重点に、今回の『風通し作業』を行なってみた。あえて主役の性格づけを、いまの私ふうにアレンジすることはしていない。だから本書での烏丸ひろみは、のちの作品群に比べるとずいぶん子供っぽい感じがすると思う。  この烏丸ひろみシリーズは『トリック狂殺人事件』『血液型殺人事件』とつづいたあと、≪三色の悲劇シリーズ≫と題して、『美しき薔薇色《ばらいろ》の殺人』『哀《かな》しき檸檬色《れもんいろ》の密室』『妖《あや》しき瑠璃色《るりいろ》の魔術』という三部作が出て、そこでいったん彼女のシリーズは完結したような体裁をとった。なぜかといえば、未読の読者のために詳しくは書けないが、烏丸ひろみの身を重大な悲劇が襲ったかのようにして、この三部作が終わったからだ。  しかし、烏丸ひろみシリーズは意外な形で復活した。それが角川ミニ文庫シリーズで登場したアロマチック・ミステリー『ラベンダーの殺人』だ。  アロマとは芳香。いま流行のアロマテラピー(芳香療法)によって、心身ともに傷ついた烏丸ひろみが復活し、警視庁を退職した彼女がフリーな立場から謎《なぞ》めいた事件に挑戦するという構図になっている。そしてこのシリーズの目玉は、タイトルに冠せられた植物の香りが、実際に表紙から匂《にお》ってくるということ! つまり『ラベンダーの殺人』では、ミニ文庫の表紙をこするとラベンダーの香りがしてくるという趣向だ。  香りの出るミステリーで復活した烏丸ひろみ——ぜひ、こちらのほうにもお目通しいただけると幸いである。 本書は、'91年9月刊の角川文庫に加筆したものです。 角川文庫『新装版 南太平洋殺人事件』平成3年9月10日初版発行                   平成12年11月25日改訂初版発行