[#表紙(表紙.jpg)] 出雲信仰殺人事件 吉村達也 目 次   はじめに  第一章 八匹の毒蛇  第二章 竜蛇の踊る夜  第三章 朝比奈耕作登場  第四章 神々の集う社《やしろ》  第五章 最後の逆転   エピローグ   ミニ取材旅ノート [#改ページ]    ※作者からのお断り [#ここから3字下げ] 本作品の冒頭で、毒蛇による殺人事件が出てきます。その現場を発見するシーン(第一章)ならびに、これに関する捜査陣のやりとり(第二章)の中で、ハブの現実に即していない描写がある、とお感じになる読者がいらっしゃるかもしれません。しかし、これは朝比奈耕作によって、のちに指摘され(第三章)、事件の本質を解く手がかりとなる『重要な矛盾』ですので、それをお含みおきのうえ、お読みください。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   はじめに [#地付き]平田均(朝比奈耕作の友人)    ぼく自身が直接巻き込まれることになった今回の連続殺人事件は、一九九二年の大《おお》晦日《みそか》の日に、その幕が切って落とされた。  例によって、転職癖のあるぼくは、このとき、縁結びの神様としても名高い出雲大社《いずもたいしや》の近くにあるホテルに雇われていた。  その肩書は『開発プロデューサー』という偉そうなものである。  ぼくにとってホテル勤めはこれが初めてではなかったが、以前、沖縄《おきなわ》のリゾートホテルにいたときはフロント係という、いわば現場の一担当者にすぎなかった。  ところが今度は——いったい、ぼくのどこをどう買いかぶってくれたのか——ホテルそのもののイメージチェンジ計画を一手に請け負うという、責任重大な役割である。  ただし、誤解のないように言っておくが、ホテルといっても、シティホテルやリゾートホテル、あるいは巨大な観光ホテルを連想してもらっては困る。また、ビジネスホテルのようなものを思い描いても見当はずれになる。  なにしろ規模は小さい。客室はわずかに二十、それもすべて八畳一間の和室だ。  だから施設の面からすると、ホテルというよりも、小さな旅館といったほうが、とりあえずはイメージがつかみやすいだろう。  しかし、それでは日本旅館に求められる居心地のよさや家庭的なサービスがあるかというと、そうでもないのだから困ってしまう。  どの部屋をみても畳は日に焼けて赤茶色に変色し、障子紙は煤《すす》け、天井も黒ずんでいる。また、蛍光灯の笠には埃《ほこり》がかぶり、おまけに羽虫の死骸《しがい》などが掃除もせずに放置されているために、本来の照度が確保できず、ただでさえ狭くるしい部屋がよけいに狭く、よけいに暗く感じられてしまう。  窓際の濡縁《ぬれえん》には形ばかりの『応接セット』が置かれているが、ソファに座ったとたん、お尻にコイルスプリングの存在を感じてしまうような代物だし、趣味の悪い朱色の布地は、購入以来いちどもクリーニングをしていないことを証明するように、これまた黒ずんでいる。  ソファが配置された、両手を広げたほどの幅もない濡縁の端には、ステンレス製の安っぽいタオル掛けと、小さな冷蔵庫が据え付けられてあった。  その冷蔵庫の上には、埃のたまった黒塗りの盆が載せられ、ビール会社の名前の入ったガラスのコップが四つ、消毒済みの紙をかぶせるでもなく、裸のまま伏せて置かれているが、洗い方が雑なのでガラスの表面は白っぽく濁っていた。  こうしたお粗末さ、無神経さは、客室だけにいえることではなく、とにかくロビーや売店から風呂場などに至るまで、どこもかしこもくたびれきった雰囲気に包まれているのだ。  また、建物全体の外壁も汚れに汚れ、信じられないことに、道路に面したガラス窓が一部割れているのに、それが平気でいつまでも放置されていたりする。  こう言っては申し訳ないが、マイナーな観光地によく見かけられる、たんに鉄筋コンクリート建てだから『ホテル』と名づけたとしか思えない代物——あれと同じレベルなのだ。  いや、意地悪な見方をすれば、名前に『ホテル』の三文字を冠したのは、それだけの理由によるものではなさそうだった。  一泊二食付きの料金を一名ごとにとるという形態は日本旅館そのものでありながら、ホテルという名のもとに、本来旅館に求められるきめこまやかなサービスは、いっさい免除してもらおうという横着さ——そんなものが感じられてならないのだ。  これが、ぼくが『全面的なイメージチェンジ』を担当することになった『ホテル八重垣《やえがき》』の現状だった。  しかし、この『ホテル』がある出雲大社は、マイナーな観光地どころか、日本中で知らない人がいないというほどの名所である。  荘厳な大社造りの本殿を中心としたこの大社には、出雲大社教や出雲教の信者のみならず、縁結びの神様を頼って、全国から幸せをもとめて人々がやってくる。  また、深い信仰や祈願を持った人だけでなく、純粋に観光目的で訪れる人も、年間を通して大変な数にのぼる。なにしろ、この出雲大社で団体客の姿を見かけない日はないのだから。  そういった土地柄であるからこそ、いつまでも名前ばかりのホテルに甘んじていては、みすみす目の前にいる客を逃がしてしまう——新たに『ホテル八重垣』の社長となった若主人は、そのように決断し、雇い入れたばかりのぼくを、イメチェン作戦の責任者という大役に抜擢《ばつてき》をしてくれたのだ。  この主人はとにかく若い。ぼくよりはだいぶ年上だが、それでもまだ三十五歳である。  先代社長だった彼の父親は——まあ多少の誇張はあるだろうが——出雲地方から一歩も外に出たことがないという人で、とにかく『ホテル』と名がつけばハイカラだろうと考える、非常に時代遅れな感覚で経営を行なっていた。  その先代が三年前に病死したために、それまで地元の新聞社で記者をやっていた長男が、急遽《きゆうきよ》、家業を引き継がねばならなくなった。  そして、若主人として三年ほど『ホテル八重垣』の経営をやってみたところで、父親のやり方を踏襲していたのでは客足が遠のくばかりだと気づき、思い切った大改革を実施することになったのだ。  その改革は、ことし(一九九三年)の一月中に基本プランをまとめあげたうえで、ゴールデンウィーク前の四月中旬までに改革の第一段階を、さらに夏休み前の六月下旬までに第二段階を実施し、最終的には、年末までにすべてのリニューアル作業を完了する、という三段階計画に基づいて行われる段取りになっていた。  そのとっかかりのところで、『ホテル八重垣』が連続殺人事件に巻き込まれてしまったのだ。  当然、ぼくとしては、親友である推理作家・朝比奈耕作の助けを借りることにした。  とんでもない殺人事件に巻き込まれて朝比奈に救援を頼むのは、いまにはじまった話ではない。  だが、これまでと勝手が違うのは、朝比奈自身が他のことで頭がいっぱいになっていた時期と重なってしまった点である。  前にも、朝比奈が新作書き下ろしの締め切りに追われて死に物狂いになっているときに、ぼくが北海道の雪の山荘で大惨劇に巻き込まれる、というケースはあった。  そのときも耕作は、彼を一歩も外に出すまいとする出版社の編集者の目を欺きながら、なんとか北海道まで駆けつけようと最善の努力を尽くしてくれた(結局、現地にきてもらうことはできなかったが……)。  しかし今回は、朝比奈自身が、彼の私生活にかかわる大事件に巻き込まれている最中だっただけに、ぼくとしても、いつものように気軽に相談にのってもらうのは、非常に気がひける思いだったのだ。  すでに読者の中にはご承知の方もいらっしゃるかもしれないが、それは『花咲村の惨劇』と呼ばれる事件にはじまった、一連の複合殺人事件のことである。(花咲村の位置は巻頭地図参照) 『花咲村の惨劇』『鳥啼《とりなき》村の惨劇』『風吹《かぜふき》村の惨劇』とつづき、『月影村の惨劇』がまさに解決するかしないかといった時期に、こちらの事件がはじまったのだ。  あとから考えると、一九九二年の大《おお》晦日《みそか》は、朝比奈耕作にとって生涯忘れられない日になるのだが(『最後の惨劇』参照)、まさにその日に、こちらの事件が勃発《ぼつぱつ》したわけである。  ぼくはその時点では、朝比奈が下北《しもきた》半島の月影村に行っているとは知るはずもなかったから、大晦日も、それから元日も、彼の自宅に何度も電話を入れ、空しく鳴りつづけるベルにいらだちを覚えたものだった。  そして、やっと朝比奈に連絡がとれたのは、松の内もすぎた一月八日の朝だった。  結果からみれば、年末から年始にかけて起きた『月影村の惨劇』と、四月から五月にかけて起きた、いわゆる『最後の惨劇』(これはまさに、朝比奈耕作の人生観を根底から覆した大事件だった)のはざまに、ぼくが巻き込まれた『出雲信仰殺人事件』が位置することになる。  だから朝比奈としては、きっと精神的に余裕がなかったはずなのだが、そんな様子はまるでおくびにも出さず、ほんとうに親身になってこちらの出来事を心配し、時間を割いて出雲にまで飛んできてくれた。  あとですべての事情を知ったとき、ぼくは朝比奈になんといって感謝をしたらよいか、言葉を見つけられないくらいだった。  さて——  前置きはこれくらいにしておこう。  事件は大晦日の朝、出雲に天から白い雹《ひよう》が降ってくるところからはじまる……。 [#改ページ]   第一章 八匹の毒蛇      1  一九九二年十二月三十一日、大《おお》晦日《みそか》——  午前九時十五分。  定刻より十五分遅れの朝八時ちょうどに東京を飛び立った日本エアシステムの271便は、出雲空港へ着陸するため、宍道湖《しんじこ》上空から下降態勢に入っていた。  この日の朝、関東地方は雲ひとつない快晴だった。  羽田《はねだ》を離陸してしばらくすると、雪化粧をまとった雄大な富士山の姿が、左手にくっきりと眺《なが》め下ろすことができ、乗客たちは、しばしその美しい光景に見とれていた。  しかし、飛行機が山陰地方に近づくにつれて、眼下はいちめん白く輝く雲の海に覆われ、地上の風景は一切見えなくなる。  そして出雲上空にさしかかったところで、その雲海の一部分に、ぽっかりと穴が開いているのが認められた。  その『穴』の部分に目標を定めるようにして、乗客百二十余名を乗せたDC9 - 41型機は機首を下げ、雲海を突き抜けて、宍道湖の上に出た。  そのとたん、いままで下のほうに見えていた真っ白な絨毯《じゆうたん》が、圧迫感をもって覆いかぶさる灰色の天井に変わり、あたりは夕闇《ゆうやみ》のように暗くなった。  窓ガラスの上を、水滴が斜めに走る。  いま、飛行機が雨雲を突っ切ったからだ。  だが、のしかかるような灰色の天井には一カ所だけ丸い穴が開いており、そこから金色の光が扇形に広がって、宍道湖一帯を照らし出していた。  墨絵を見ているようなモノクロームの風景の中で、湖面だけが、天空から差し込んできた光を跳ね返してキラキラと輝いている。 「不思議な景色だな」  婚約者の肩越しに窓の外を眺めていた東尾啓一《ひがしおけいいち》は、首から背広の胸へ垂らした白いマフラーの両端を無意識にさわりながら言った。 「いかにも神々の棲《す》む国、という感じだ」  湖を取り巻く小高い山々の上には、黒雲の群れがいくつも集い、鉛色をした空と大地の間を這《は》い回る蛇さながらに、くねくねと形を変えながら躍っている。  が、飛行機がさらに高度を下げるにつれ、その黒い蛇は、煙のようにかき消えてしまう。 「八雲《やくも》立つ……」  窓側の席に座った水沢めぐみがつぶやいた。 「出雲|八重垣《やえがき》 妻籠《つまご》みに 八重垣作る その八重垣を」 「なんだ、それ」  東尾がきいた。 「日本で最初の三十一文字《みそひともじ》の歌よ」  めぐみは、日本人形のような切れ長の目を婚約者の男に向けて答え、もういちど節をつけて歌を繰り返した。 「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を……」  そして、めぐみはふたたび外に視線を戻してつづける。 「『怪談』を書いたラフカディオ・ハーンっていう人がいたでしょう。あの人が帰化したときに、小泉八雲と名乗ったのも、たぶんここからきていると思うの。これはね、櫛名田比売《くしなだひめ》を守るためにヤマタノオロチを退治した須佐男之命《すさのおのみこと》が、出雲の空に立ちのぼる雲を見て詠《よ》んだ歌だ、といわれているのよ」 「クシナダヒメ?」  やや飛び出しぎみの大きな目をさらに開いて、東尾は聞き返した。 「なんだ、それは」 「だから、須佐男之命と結婚した女性よ」 「へえ……スサノオノ……」 「知らないの?」  めぐみは意外そうな顔で、近い将来夫になる男の顔を見た。 「知らんな」  女子大を卒業したばかりのめぐみより一回りも年上の東尾は、興味なさそうに肩をすくめた。 「でも、ヤマタノオロチというやつだけは知っている。たしか、頭が八つある蛇のことだろう」 「そうよ。頭だけでなく、尾も八つあるけど」  その言葉に、東尾はフンと小馬鹿にした笑いを放った。 「そりゃ、たいしたもんだ。だけど、シッポはひとつのほうがバランスがよさそうだがな」 「それでね、須佐男之命がヤマタノオロチを退治するいきさつなんだけど……」  女子大に在学中は、史学科で日本神話を主に研究したというめぐみは、ついつい説明に熱が入った。 「須佐男之命は、姉である天照大神《あまてらすおおみかみ》の怒りを買って高天原《たかまがはら》を追放されたあと、出雲の国へ降りてきて、そこで一組の老夫婦と出会うの。この老夫婦は足名椎《あしなずち》と手名椎《てなずち》というんだけど……」  めぐみが一生懸命語りかけるのを無視して、東尾は背広の袖口をまくると、派手な金の腕時計で時間をたしかめ、それから大アクビをした。 「……この老夫婦には美しい娘がいて、それが櫛名田比売なのよ」  めぐみは、東尾の態度を見て見ぬふりをしながら、話をつづけた。 「八つの頭と八つのシッポを持って、八つの山と八つの谷を巻いてしまうくらい大きいヤマタノオロチは、毎年その村へやってきては、娘を食べていくの。それで、その年はちょうど櫛名田比売が食べられる番に当たっていたのね」 「だが、櫛名田比売に一目惚《ひとめぼ》れした須佐男之命が、見事に怪物蛇をやっつける、っていう筋書きだろ……よくある話だな」  二度目のアクビをかみ殺しながら、東尾が言った。 「悪いけれど、めぐみ、おれはそういうさ、神話っていうのか? その手の類いの話には興味がないんだよ。興味があるのは、須賀の持っている土地だけだ」 「もうちょっとだけ聞いて」  飛行機は、下げていた機首をやや上げかげんに戻しながら、ぐんぐんと地面に近づいていく。 「その須佐男之命と櫛名田比売にとって、六代あとの孫が、大国主命《おおくにぬしのみこと》なの。ただし、出雲大社では須佐男之命の直接の子供ということになっているけど」 「それがどうした」 「出雲大社がお祀《まつ》りしているのは、その大国主命なのよ。つまり、大黒《だいこく》さま。せめて、それだけは覚えておいてね」  めぐみが言い終わった瞬間、ジェット音が絞り込むようにスーッと小さくなり、軽いショックを伴って、飛行機は出雲空港に着陸した。  朝の九時十八分だった。      2  同時刻——  新宿副都心にある高層ホテルの十七階禁煙フロアの廊下には、かけつけた四人の新宿署員が、1707号室の前に緊張した顔で待機していた。  ある者は大げさに拳銃《けんじゆう》を抜き、また、ある者は警棒を握り締めている。  その構え方は、まるで部屋の中に銃を持った凶悪犯人がたてこもっているかのようである。  だが、彼らがこれから対峙《たいじ》しようとしているのは、人間ではなかった。 「もういちど説明していただけますか」  いちばんドアに近いところに立ち、拳銃を抜いて構える国友警部補が、後ろに控えているホテルの客室マネージャーをふり返った。 「はい」  マネージャーは青ざめた顔でうなずくと、蝶ネクタイを片手で直し、次にごくんと唾《つば》を呑《の》み込み、それからようやく話しはじめた。 「さきほど、このフロアの清掃係の女性がですね、リストを読みちがえて、1707号室のお客様はもうチェックアウトなさったものと勘違いして、掃除のために部屋に入ったのです。もちろん、入る前には念のためにノックをいたしましたのですが、中からは応答がございませんでしたので、マスターキーを使いまして……」  その話を聞きながら、国友警部補の目は廊下の端へいく。  そこには客室清掃用のワゴンが置いてあり、その向こう側から、事件の第一発見者であるルームメイドが、脅えた目つきで警部補たちの様子を窺《うかが》っていた。 「それで、ドアを開けましたとたん……」  マネージャーはつづけた。 「ツインベッドの片方で、男性のお客様が裸のままあおむけになって、まるで動かなくなっている姿を目撃したのでございます」 「男性の名前は」 「はい、村木昇《むらきのぼる》様とおっしゃいまして……」  マネージャーは、フロントから持ってきたレジスターカードを読み上げた。 「お年は三十三歳、ご住所は奈良県|橿原《かしはら》市見瀬町、お勤め先はユニバーサル銀行|西大寺《さいだいじ》支店となっております」 「奈良県の人間か……で、連れは?」 「いえ、お連れさまの登録はございません。ツインルームのシングルユースをご希望でいらっしゃいましたので」 「なるほど……それで客室係の女性は、ともかくベッドのそばまで近づいたんですね」  マネージャーが「はい」と声を出して答え、当のルームメイドが、廊下の端のほうからうなずいて返答した。 「一目見て、これは大変だと思ったようでございます。なにしろ一糸まとわぬ格好で白目をむいたまま、びくとも動かないのでございますから」  と、マネージャーが代弁する。 「それでも、ともかくお客様の体に触れてみようとベッドに近づきましたときに……」  廊下の向こうに立っているルームメイドが、その場面は思い出したくないというふうに、口に手を当て、何度も首を左右に振った。 「ベッドのシーツの上を、蛇が何匹も這《は》い回っていたというのでございます」 「何匹も、とは、具体的に何匹なんです」  国友警部補は、マネージャーではなく、ルームメイドに向かってたずねた。  だが、ショックで満足な受け答えができなくなっているメイドは、ただ小刻みに首を左右に振るばかりである。 「……わかりました。ともかく、我々の目で確かめましょう」  国友警部補は、マネージャーからカード式のキーを受け取り、それをスロットに差し込んで真下に引いた。  カチッという音とともに、ドアノブのすぐ上に緑のライトが点灯した。  国友はノブを右にひねり、ほんの一センチほどドアを内側に押した。 「相手は人間じゃない。どんな隙間《すきま》から這い出してくるかわからないぞ」  他の三人に注意しながら、国友は自分の体が通れるギリギリの角度にドアを開け、部屋の中に入った。  あおむけになったまま死んでいる全裸の男——その男と目が合った。  白目をむいているのに、あたかも男に睨《にら》みつけられた気がして、一瞬、国友はその場に立ちすくんだ。が、すぐに男の死を見定めると、警部補はベッドに近づいた。  と、そのとき、後ろから部下の刑事が叫んだ。 「国友さん、あぶない! 横!」  入口とベッドの中間に置かれていたフロアスタンドの笠の上に、体に独特の模様を持つ長さ二メートルほどの蛇が二匹、たがいに絡み合うようにして鎌首をもたげ、舌をチロチロと出しながら、いまにも国友に襲いかかろうという体勢になっていた。 「ハブだ」  とっさに国友は、脇に身を引いた。 「だめです、そっちも!」  また、部下の声が飛ぶ。  かすかに開いたバスルームのドアの隙間から、くねくねと身を躍らせながら、別のハブが這い出してきた。 「まいったな」  国友は窓際のほうに飛び去った。 「あ、あ、あれ、あれ……見てください、あれを」  若い刑事が部屋の入口から、ベッドのほうを指さして叫んだ。  死んでいる男のひざから下はシーツの中にもぐっていたが、その白い布が部分的にふくらみ、もぞもぞと動いている。  と、シーツの端が持ち上がり、一匹のハブが頭をのぞかせた。  蛇は舌をチロチロと出したり引っ込めたりしながら、まるであたりの様子を窺《うかが》うように、頭をゆっくりと左右に動かしていた。  そして、安全を確かめたのか、いきなりスルッとシーツから抜け出すと、すでに血の気を失って黄白色になっている男の脚を伝い、かなり早いスピードで死体の下腹部のほうへ這っていった。  シーツの中に隠れていたのは、その一匹だけではなかった。  二匹、三匹、四匹と、次々に白い布を持ち上げて這い出してきては、男の両脚の上を文字どおり『蛇行』しながら進み、ちょうど局部のあたりまで来たところで、申し合わせたようにトグロを巻きはじめた。 「まさか、おたくのホテルで、こんな蛇を飼っているんじゃないでしょうね」  廊下にいる客室マネージャーに向かって大きな声で怒鳴ると、窓際に背をつけた国友警部補は、油断なく周囲に目を配りながら、すばやく蛇の数を数えた。  フロアスタンドの上に二匹。  バスルームから出てきたのが一匹。  そしてベッドの上に——いや、死体の上に四匹……。 「七匹……これでぜんぶか」  つぶやいたとき、国友は片腕に妙な重さを感じた。 「警部補、自分の右腕を見てください! ハブです! ハブが腕に!」  窓際のカーテンの陰に隠れていた八匹目の蛇が、いつのまにか国友の右腕に絡みついていた。  あわててそこに目を向けると、威嚇《いかく》なのか、それとも攻撃寸前の体勢なのか、逆に国友を睨《にら》み返すようにして、ハブは大きな口を開け、牙《きば》をむいた。 「うわっ!」  叫ぶなり、国友はほとんど反射的に左手でハブのシッポを掴《つか》み、勢いよく右腕から引きはがした。  それと、ハブが躍りかかろうとするのが同時だった。  いきなり国友に先手をとられたハブは、まるで海中を泳ぐウミヘビのように、牙をむいたまま空中で身をよじらせた。  そうすることによって、自分のシッポを掴んでいる人間の左腕に、なんとか喰いつこうとしているのだ。  それを許すまいと、国友は左手を振り回し、思い切り勢いをつけてから、不気味な模様に彩られた毒蛇を壁めがけて叩《たた》きつけた。  そして、死体の上でとぐろを巻くハブの集団には目もくれず、猛然とダッシュして部屋の外に逃げ出した。 「だめだ!」  廊下に飛び出し、バタンとドアを閉めるなり、国友はそこに背をもたせかけ、息をはずませながら言った。 「このぶんだと部屋の中に何匹ハブが放たれているかわからない。大至急、専門家を呼んでくれ。現場検証はそれからだ」      3  ホテル八重垣で開発プロデューサーとして働いている平田均は、若主人である須賀宏の指示で、『VIP』の出迎えのために、出雲空港のロビーに来ていた。  相手がVIPだというので、いちおう平田も三つ揃《ぞろ》えのスーツ姿である。  途中、ガソリンスタンドに立ち寄って車を洗ったりしていたものだから、相手を待たせてしまうかと心配したが、幸い、羽田から飛んで来た271便はたったいま到着したところで、タラップを降りた乗客が歩いて空港ターミナルへ向かい、到着口に次々と姿を現しているところだった。  平田にとって、そのVIP——東尾啓一という人物は初対面だったし、写真で顔を見ているわけでもなかった。  だが、ホテル八重垣の若主人である須賀宏は、平田に迎えを頼むとき、相手の特徴をきわめて簡潔にこう言った。「若くして父親の跡を継いで不動産会社社長に収まった男で、バブル時代からタイムスリップしてきたような雰囲気をふりまいている。外見は、アル・パチーノ演じるゴッドファーザー㈼世と、千昌夫を足して二で割ったものを想像してくれ」  まさに、そのイメージどおりの男が、到着客の群れの最後尾に、ひときわ浮かび上がってみえた。  ダークブルーに同系色の細いストライプが入ったスーツを着て、首から白いマフラーを胸の前に無造作に垂れ下げている。  磨き上げた靴は、いちおう黒の革靴ではあったが、先が異様にとがっていた。  オールバックにした髪は、グリースでもたっぷり塗りつけたのかテカテカと光沢を放ち、色付きのレンズをはめたメガネをかけているために、顔の印象ははっきりつかめないが、フレームの上にのぞいている眉はやたらに濃く、いかにも我の強そうな雰囲気がにじみ出ていた。  そして口にはくわえタバコ。片手にはルイ・ヴィトンのハードケースのトランクを提げている。  その右手首には金時計が輝き、指にはいくつもの大ぶりな指輪が光っていた。 (この調子だと、ネクタイを緩めたらワイシャツの襟元から、金色のチェーンと胸毛が顔をのぞかせそうだな)  平田は、そう思った。  東尾の背は決して高くはない。だが、たしかに周囲を威圧するオーラを発散している。  彼は、ホテル八重垣の須賀宏と高校時代に同級生だったというが、とても三十五歳の男とは思えない貫禄だった。  そして平田の目は、自然と東尾の連れの女性にも向けられた。  意外だった。  東尾の婚約者だというから、どちらかといえば水商売風のイメージを想像していたのだが、驚くほど古風な雰囲気をもった女性だった。  年齢が二十三であることは、須賀から聞かされていたが、ノーメイクの素肌は少女のように滑らかで、アップにした額の形といい、切れ長の一重まぶたの瞳といい、あるいはこぢんまりとした桜色の唇といい、また背中まで真っすぐに垂れた漆黒の髪の毛といい、まさに巫女《みこ》の格好をしたら理想的ではないかと思われる容姿をしていた。  だが、水沢めぐみという名前のその女性は、男に無理に合わせたように、ミンクのコートを羽織り、やはりヴィトンのバッグを提げていた。  平田は、そのいでたちが、せっかく彼女に備わっている日本的な美しさを台なしにしている気がしてならなかった。 「東尾様でいらっしゃいますね」  女性からふたたび視線を東尾に戻すと、平田は彼に近づいて声をかけた。 「お待ちしておりました。『ホテル八重垣』から須賀の代理でお迎えにあがりました」  いちおう愛想よく言ったつもりだったが、東尾のほうはニコリともせずに、軽蔑すら含んだぶしつけな目で平田を見返した。 「ああ」  一声言うと、東尾は当然のことのように、自分からトランクを平田のほうに差し出した。  お持ちしましょうと言う前に、そうした態度に出られたので、平田は内心ムッとしたが、ホテル八重垣にとってのVIPということなので、作り笑いを崩さずに荷物を受け取り、それから連れの女性のほうにも手を差し出した。 「そちらの荷物もお持ちしましょう」 「あ……いえ、自分で持ちますから大丈夫です。どうもありがとうございます」  水沢めぐみのほうは、男とは対照的に、にこやかな笑みを浮かべ、軽く会釈をしながら平田の申し出を辞退した。  第一印象どおり感じの良い人だな、と平田はホッとした気分になったが、それもつかの間で、東尾がぶっきらぼうな声で婚約者にこう言うのが聞こえた。 「めぐみ、いいから彼に持たせろよ。そういうところが、おまえはまだ不慣れだというんだ。もうすぐ東尾不動産の社長夫人なんだぞ。いまのうちから使用人の扱い方に慣れといてくれよ」 「だって……」  めぐみは、東尾の乱暴な言葉づかいが明らかに平田の耳に届いていることを察して、バツの悪さから耳の付け根まで真っ赤になった。  その様子が可哀想《かわいそう》なのと、東尾の物言いが腹立たしかったその両方で、平田はさすがにカッとなり、こわばった笑顔のまま、ほとんど強引にめぐみの手からヴィトンのバッグを奪い取った。 「さ、どうぞこちらへ」  両手に、それぞれタイプの違うヴィトンのバッグを提げた平田は、彼らにくるりと背を向けると表に向かって歩き出した。  と、めぐみから奪ったほうのバッグから、キャンキャンという声が聞こえたので、びっくりして平田は立ち止まり、おもわずそのバッグを目の高さに持ち上げてみた。 「あ、それ、子犬が入っているんです」  めぐみが言った。 「ヴィトンのバッグに……子犬が?」  平田が聞き返すと、めぐみはうなずき、一見すると普通のバッグにみえる、その短いほうの断面の部分に手をあてた。そして、垂れさがっていた革のフラップを、ロールカーテンのようにくるくると巻き上げ、スナップで止めた。  と、その下から金色をした網が現れ、網目の間から、白い色をした子犬がシッポを振っている姿が見えた。 「可愛《かわい》いでしょう? 生まれたばかりの紀州犬の赤ちゃんなんです」 「するとこれ……ペットを運ぶための専用のバッグなんですか」  さすがに平田はびっくりしてきいた。 「はい、サック・シャンという種類のものですけれど」 「じゃ、ほんとにイヌ用のルイ・ヴィトン……」 「ええ」  恥ずかしそうな表情で、めぐみは答えた。 「私は、普通のバスケットでよかったんです。でも、彼が何から何までこのブランドで統一しないと気が済まないらしいんです。それで、犬のカゴまでヴィトンで……」  東尾がタバコの自動販売機に立ち寄っているのを横目で確かめると、めぐみは平田にそんなふうに囁《ささや》いた。 (ひょっとすると、この人、あの男と結婚に踏み切るのをためらっているんじゃないだろうか)  平田は、直感的にそう思った。  二人はどうみても、イメージからして釣り合いがとれないではないか。 (この人は、そんな悩みの相談相手を探しているのかもしれない。だから、こうやっておれに積極的に話しかけてくるんだ。犬のバッグの話題は、たんなるきっかけづくりにすぎない)  ——という具合に、平田の連想は、頭の中でみるみるうちに膨らんだ。  世の中の多くの男たちがそうであるように、平田は、美人から相談ごとを持ちかけられると、すぐに、その女性に恋をしてしまう傾向がある。  いや、一目ぼれをした女性に対して、とにかくなんでも相談にのってあげたくなる癖がある、といったほうが正しいかもしれない。  いやいや、人生相談を方便に、なんとかして女性にいいところを見せ、そのまま個人的な交際に持ち込みたい、という図々しい魂胆がある、というのがいちばん正確な表現かもしれなかった。  いずれにせよ、出会ってからほんの数十秒のうちに、平田が水沢めぐみという女性に魅かれてしまったのは疑いないところだった。 「どこにあるんだ、車は」  タバコを買って戻ってきた東尾が、また横柄な言葉を放ったので、平田は妄想をストップさせて、また彼らに背中を向け、早足でターミナルビルの外へ向かった。  そして、表に停めてあった新車のクラウンのドアにキーを差し込んだ。  そのとたん、バラバラと音を立てて、天から何かが降ってきた。 「イテテテ、なんだ、これは」  東尾は顔を押さえ、次に、大きな指輪をはめた右手を目の前にかざすと、鉛色の空を見上げた。  小さな真っ白い粒が天空から勢いよく降ってきて、車のフロントガラスや屋根に、あるいは舗装された地面に当たって、弾けた音を立てる。 「雹《ひよう》ですね」  東尾のスーツケースをトランクにしまうと、平田は短く答えた。 「ヒョウ?」  東尾は不満げに顔をしかめた。  雲をつくような背丈の見えない巨人が、コンペイトウの粒を握っては、力いっぱい地上めがけて叩《たた》きつけている——そんな光景を想像させるような雹の降り方だった。  その粒が顔に当たると、ヒリヒリと痛いくらいである。 「雹ね……一年の最後の日に、このおれに氷のつぶてを投げつけてくれるとはな。けっこうなところじゃないか、出雲ってところは」  そう言い捨てると、東尾は、よいしょと声を出して、フィアンセよりも先に身をかがめて車に乗り込んだ。  水沢めぐみもそれに続こうとしたが、平田に子犬の入ったバッグを持たせたままになっていたことを思い出し、彼をふり返った。 「あ、どうもありがとうございます。私が抱いていきますから」  バラバラと雹が叩きつけているにもかかわらず、水沢めぐみは平田にていねいに頭をさげ、それから、子犬のキャリーバッグを受け取って、後部座席に乗り込むために身をかがめた。  彼女の漆黒の髪に、あるいはミンクのコートの肩先に、いくつもの白い氷の粒が載っていたので、平田はおもわず手を出してそれを払ってやりたくなった。  が、車の中からじっとこちらを見上げている東尾の視線に気づき、平田は伸ばしかけた手を引っ込めた。 「何分かかるんだ、ここから」  平田が運転席につくなり、東尾はぞんざいな口ぶりできいてきた。 「距離にすれば二十キロくらいですから、道がすいていれば三十分ほどで着くと思いますが」  バックミラーの中で東尾と目を合わせ、そう答えると、平田はクラウンのサイドブレーキ解除レバーを手前に引き、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。 「怒っていなければいいわね」  めぐみが、小声でつぶやくのが聞こえたので、平田はまたバックミラーに目をやった。 「誰が怒っているんだよ」  窓越しに外の景色を見ながら、東尾が低い声できいている。 「神……さま……が……」  と、反対側の景色を見つめて、めぐみがつぶやく。  その答えを聞くなり、東尾は外を向いたまま、ケッという笑い声を立てた。 「たのむよ、おまえ。雹が降ったのまで神様のせいにするわけか」 「だって……」 「だって、何だよ」 「心配なんですもの」 「なにが」 「あなたが信心深くないから」 「バカヤロ」  買ったばかりのタバコの封を切るかわりに、禁煙用のパイプをくわえた東尾は、歯の間にはさんだそれを上下させながら、めぐみに向き直って再度繰り返した。 「バカヤロ」  それっきり、めぐみは黙りこくって何も言わなくなった。 [#改ページ]   第二章 竜蛇の踊る夜      1 「静かね」  出雲大社のホテル八重垣の若主人の妻、須賀真理子は、横を並んで歩く平田に向かってポツンとつぶやいた。 「ええ、静かですね」  平田も小声で相槌《あいづち》を打った。  あたりの静寂は、自然と人のしゃべり声を低く抑える効果を持っていた。また、冬の早い夕暮れが、心理的に大きな声を出すのを阻んでいるせいもあった。  出雲大社の大鳥居から拝殿に向かう『松の馬場』と呼ばれる松並木の参道は、およそ五百メートルほど続いている。  あと六、七時間すれば、この参道は除夜の鐘とともに新年の参拝に訪れる人々でごった返すことになるが、いま——夕闇《ゆうやみ》迫る夕方の五時すぎ——は、意外なほど森閑としていた。  大鳥居に近い参道の両側にいくつか並ぶ露店が、タコ焼きやイカ焼き、甘酒にコーヒーなどの支度を始めているほかは、これといった人の行き来もない。  その静まり返った参道を、須賀真理子と平田均が、肩を並べて拝殿のほうへ歩いていた。  真理子が平田に、折り入って相談にのってほしいことがあると言ってきたのは、ついさきほどだった。  どんな内容なのかと平田が問いかける前に、真理子は、『主人や他の従業員には聞かれたくない話なのよ』と囁《ささや》いて、平田にホテル八重垣の名前が入ったバンを運転させて、大社の入口へと向かった。  さすがに年末最後の日とあって、ふだんは閑古鳥が鳴いているホテル八重垣も、客室は満室。おまけに、まもなく夕食が始まろうという時間だったから、本来なら、宿の女将《おかみ》である真理子がのんびりと外出している場合ではない。  それを承知しているからだろう。理由はうまく取り繕っておいたわ、という真理子の口ぶりにも、どこか後ろめたい調子が含まれていた。 「静かね」  真理子は、また同じ言葉をつぶやくと、歩きながら後ろをふり返った。  そのしぐさも、さきほどから何度か繰り返されている。まるで、二人で歩いている姿を誰かに見られてはいないか警戒するように……。  だからといって、平田は、真理子が自分を誘惑しようとしているのだとは決して思わなかった。  須賀真理子は、夫の宏より二つ下の三十三歳である。  結婚して八年になるというが、夫婦の間にまだ子供はなく、そのせいか真理子はずいぶんと若づくりだった。とりわけ、背中のあたりまで長い髪を垂らしている後ろ姿は、二十代前半といってもじゅうぶんに通用するほどである。  しかし、実際に話をしてみると、真理子は非常に知性の豊かな女性であることがわかった。  同じ美人でも、知性の伴った美貌というのは、たんに顔がきれいなだけの女性とは、明確に雰囲気の違いが出てくるものだ——平田は、いつもそんな思いをもって真理子を眺《なが》めていた。  なにかにつけ女性に一目惚れしやすく、また、相手が自分に気があるのではないかと、すぐに勘違いしがちな平田も、真理子に関しては——その美しさはじゅうぶんに認めながらも——特別な感情を抱くには至らなかった。  彼女が、自分の雇い主である須賀宏の妻であり、また自分よりも年上であることばかりが理由ではなかった。真理子の知的な部分が、平田によけいな期待を抱かせないのだ。  だから、彼女から相談ごとがあると言われたときも、平田は、純粋に仕事の話だと信じて疑わなかった。 「平田さん、出雲大社って縁結びの神様として有名でしょう」  近くに人影がないのを確かめると、真理子は、そんなふうに話を切り出してきた。 「ええ、そうですね」  同じペースで歩きつづけながら、平田はうなずいた。 「他の神社のように、商売繁盛や家内安全、それに健康や受験の合格などを祈願しにくる人もいるけれど、なんといっても『いい人が見つかりますように』『結婚がうまくいきますように』とお祈りする人が圧倒的に多いそうじゃないですか」  そういう彼も、出雲の地に来てからは、良縁に恵まれることを祈って、ヒマをみつけては何十回となく大社にお参りに出かけているのである。 「面白いなと思うのは……」  平田はつづけた。 「一般的には、神社では二礼二拍手一拝《にれいにはくしゆいつぱい》といって、柏手《かしわで》はポンポンと二回打つところが多いでしょう。でも、そうじゃないところもあって、伊勢《いせ》神宮では八度拝《はちどはい》・八開手《やひらで》といって、八回お辞儀をして八回柏手を打つし、この出雲大社では四拍手《しはくしゆ》なんですよね。で、その四回柏手を打つ理由づけが気に入っているんですよ」 「そうね。自分のために二回と、心に想っている相手のために二回打つから四拍手になるといわれているし、四回手を合わせるから『四合わせ』……『幸せ』に通じるという説もあるのね。いかにも縁結びの神様らしいわ」  話をしながら、平田と真理子は、自然と前方に控える大社本殿の方角を眺める形になった。  だが、拝殿も本殿も、まだ松並木に隠れて全貌を現さない。 「それでね、平田さん。相談というのは東尾さんのことなんだけど……」 「東尾さんのこと?」  きょう東京からやってきたばかりの東尾啓一の名前が飛び出してきたので、平田は意外に思って真理子の横顔に目をやった。 「新しい年を迎えるにあたって、縁結びの神様に、自分たちの結婚がうまくいきますようにとお祈りしたかった、というのが東尾さんたちが出雲大社に来た表向きの理由になっているけど、本音は違うのよ」 「本音は違う、といいますと」  巫女《みこ》のような神秘的な美しさをたたえた水沢めぐみの顔を思い出しながら、平田はたずねた。 「あの可愛《かわい》らしいフィアンセを連れてきたのは、完全にカモフラージュ」  真理子は表情を引き締めた。 「実際には、宏さんとビジネスの話をするために来たの」 「ビジネス?」 「そう、ビジネス。東尾さんはね、ホテル八重垣を乗っ取ろうとしているのよ」 「乗っ取り? ちょっと待ってください、真理子さん」  平田は急に歩みを止めて、大きな声を出した。  その拍子に、彼の足元で砂利が音を立てた。 「ぼくは、ホテル八重垣の全面的なイメージチェンジを行うために雇われたんでしょう、あなたのご主人に……。それが経営者が別の人間に変わるなんて……。だったら、話は一からやり直しになってしまうじゃないですか。しかも——こういっちゃナンですけど——あんな横柄な男がボスになるなんて。そんなのは、ぼくはお断りですよ。ぼくは、須賀さんの生真面目《きまじめ》な性格に惚《ほ》れたからこそ、いっしょに宿の再建をお手伝いしようと本気になっているんですから」 「生真面目……生真面目……ね」  数歩先を進んでから歩みを止めた真理子は、平田をふり返ると、意味ありげに口の中で繰り返した。 「そう、生真面目すぎるのよね、あの人は……。だからこそ、東尾さんの強引な申し出を、頭からつっぱねられないのよ」 「どういうことなんですか、説明してください」  小石を踏みしだく音をたてて、平田は真理子のところへ早足に駆け寄った。 「東尾さんが狙っているのは、ホテル八重垣そのものじゃないの。土地がほしいのよ」  また前を向いてゆっくりと歩みを進めながら、真理子は言った。 「東尾さんが、主人と高校時代の同級生だったのは知っているわね」 「はい」 「高校を卒業後、主人は福岡の大学に行って、それから出雲に戻って地元ローカル新聞の記者をやっていたわ。お父さまが倒れるまではね」 「『デイリー出雲』でしたね」 「ええ。小さな新聞社だったけど、いちおういくつかに部が分かれていて、主人は社会部の記者だったの。私と知り合ったのも、彼の仕事がきっかけで……あ、ごめんなさい。話が脱線するわね。よけいな寄り道はやめましょう」  真理子は、長い髪を揺するように首を振ってから、東尾のことに話を戻した。 「それで東尾さんのほうなんだけど、高校を出てからすぐに自分の父親が経営する不動産会社に入社したの。さすがにジュニアということで、いきなり常務という扱いだったらしいわ」 「その不動産会社というのは、地元に?」 「最初はね」  真理子はうなずいた。 「出雲市の中心地にあったんですって。でも、いまから十年前に、東尾不動産は会社ごと東京に移ったのよ」 「十年前といえば、本格的な土地ブームが来る前ですよね。するとやはり、これからは東京で商売をするのが一番効率的だ、という先読みがあったんですかね」 「ううん、違うわ」  真理子は首を横に振った。 「東尾さんの父親は、出雲にいられなくなったのよ。それも、私の主人のせいで」 「須賀さんのせいで、出雲にいられなくなった?」  平田は眉をひそめて聞き返した。 「当時は、まだ私が須賀と知り合う前だったから、そのいきさつは、人伝えにしか聞いていないの。そう思って聞いてね」  真理子は、さっきから話の中で、自分の夫のことを『宏さん』と言ったり、『主人』と言ったり、『須賀』と言ったりした。  その呼び方がクルクル変わることが平田は気になっていたが、『須賀』という言い方をしたときには、いいようのない冷たさが含まれていた。 「当時二十五歳の新人記者だった須賀が、鬼の首をとったような書き方でスクープした記事があるの。それは、東尾不動産の東尾禎一社長——つまり、東尾さんの父親ね——その人が、代議士と手を組んで、ここ大社《たいしや》町に十階建てのリゾートホテルを二軒建てようとする計画をつかんだ、というニュースなのよ。一軒は大社のすぐそばにある大社小学校の裏手に、もう一軒は、海をのぞむ稲佐《いなさ》の浜に……」 「それが、取り立ててスクープになるようなニュースなんですか」  ふたたび真理子と並んで歩きながら、平田は不思議そうな顔でたずねた。 「そりゃ、この町にないような大型ホテルが建つとなれば、同業者の間では騒ぎになるかもしれないけれど、観光客を誘致することができれば地元にも大きなメリットになるでしょう」 「そうじゃないの。問題は十階建てという高さなのよ」 「高さ?」 「十階建てともなれば、どうしたって地上二十四メートルを超えるでしょう」 「……でしょうね」 「それは、絶対に地元には受け入れられない話なの」 「………」 「出雲大社の本殿は、大昔は九十六メートルもの高さがあったと言われていて、その高さのあまり、何度か本殿が引っくり返ってしまったという言い伝えもあるくらいなんだけれど、一七四四年に建てられたいまの大社造りの本殿も、高さは二十四メートルもあるのよ」 「……そうか、わかりましたよ」  平田は納得して言った。 「つまり、出雲大社の本殿より高い建物を建てるのは、神様に対して失礼にあたると」 「そうなの。ただし、お役所はそういった理由を表向きには出さないわ。大規模建築は事前に届け出が必要で、その場合、場所によっては県条例で景観上の理由から高さが制限される——こんなふうに説明がなされるわけ。でも、ここ大社町では、二十四メートルを超える建物はひとつとしてないのよ。たとえば、うちのホテルからしばらく行ったところの宇迦《うか》橋に、コンクリートでできた大きな鳥居があるでしょう」 「ええ、『出雲大社』という額の飾られた鳥居ですね」 「あの高さは二十三メートルなのよ」 「へえ……ちゃんと一メートルだけ本殿よりも低く抑えているんですね」  平田は感心した。 「大社町だけでなくて、出雲市のほうをみても、二十四メートルを超える建物はあまりないみたいね。例外的に目立つのが、日本最大の木造建築というのをセールスポイントに作られた出雲ドームで、これは五十メートル近くも高さがあるけれど……」 「すると、東尾不動産の前社長は、地元のしきたりに反して、高層ホテルを建てようとした、と」 「もちろん、そのまま申請したって許可されるものではないから、代議士のコネを使って、いろいろと根回しをしようと思っていたらしいのね。その途中段階で、須賀が新聞に大々的に書いてしまったの。それも、いかにもお金で地元の信仰を踏みにじるような印象の記事でね」 「なるほど」  平田はため息をついた。 「地元の小さな新聞社といったって、それだけに住民への影響力は強いでしょうからね。どんな結果になったかは、じゅうぶん想像がつきますよ」 「そうなの。この土地で、あからさまに出雲大社に挑戦的な行動をとれば、その反発もたいへんなものがあるでしょう。東尾さんの場合も、そういった反応は予測して、いろいろと手を打とうとしていたんでしょうけれど、その前に、新聞が叩《たた》くだけ叩いてしまったのね」 「つまり、須賀さんが」 「ええ」  額にはらりと落ちた前髪を指でかきあげながら、真理子は答えた。 「結局、誰から言うともなく、土地の取引で東尾不動産を使うのはやめようということになって、とても商売ができる状況ではなくなったらしいわ。それで、やむをえず東京に……」 「だけど、東尾ジュニアの羽振りを見ていたら、その出来事も、いわゆる『結果オーライ』だったんじゃないですか」  平田は言った。 「東京に仕事の本拠を移さなかったら、思いっきりバブル時代の恩恵に与《あずか》ることもなかったでしょうしね」 「たしかに、東京に移ったことで、お金の面は恵まれたでしょうね。でも……」 「でも?」 「東尾さんの父親は、息子からは想像もつかないほど神経のこまやかな人で、須賀の書いた記事で地元の人たちから裏切り者よばわりされたことが、よほどこたえたのね、東京に越してすぐに……」  真理子は、暗い顔で口をつぐんだ。 「死んだんですか」  平田の問いかけに、真理子は無言でいることで肯定を示した。 「まいったな」  軽い吐息をもらして、平田は言った。 「それじゃあ、東尾氏は親の仇を討つために、この大社町に乗り込んできたってわけですか」 「そうとしか思えないわ。現に、主人は……宏さんは、私にこう言っているの。『東尾の目的は、おれを困らせることにある。旅館経営などにはまったく関心などないくせに、ホテル八重垣の経営権を譲らないかと言ってきたのも、たんに、おれから仕事を奪うことが目的なんだ』と」  真理子は、か細い声でそう返事をした。  それに対して、平田がどう応じてよいか迷っているうちに、二人は青銅の鳥居をくぐって拝殿の前に来た。  大社の拝殿は、松並木の参道から来た参拝客にとっては、最初に目に入る建物である。  これは総ヒノキの大社造りになっているが、昭和三十四年の再建と新しい。  その拝殿を回り込むようにして反対側に出ると、出雲大社のメインとなる本殿が、その雄大な姿を現す。  高さ二十四メートル、切妻造りの屋根の上で交差する千木《ちぎ》が印象的な、これこそ大社造りの代表建築物である。  ただし、この本殿は瑞垣《みずがき》にぐるりを囲まれており、ふだんは、その正面にある八足門《やつあしもん》の外から、一般客は参拝することになる。それより中に入るには、初穂料《はつほりよう》を払わなければならない。  しかし例外的に、すべての参拝客が八足門の階段を上がり、中に入っての参拝を許されるときがある。  それが、あと数時間後の、一月一日午前零時に始まる初詣《はつもうで》だった。 「私たちも、結婚前、ここに来てお祈りしたわ。幸せな夫婦生活を送れますように、って。ちゃんと四回、柏手《かしわで》を打ってね」  八足門の前にたたずむと、真理子は言った。 「たぶん、東尾さんも、可愛《かわい》いフィアンセと今夜ここにきて、お参りするんでしょうね。末長く幸せでいられますように、って。でも、あの人は同時に、私たち夫婦の不幸を祈るような気がしてならないの」  平田は、驚いて真理子を見つめた。  が、彼女は目を閉じ手を合わせると、ていねいに二度頭を下げ、それから、やや右手を手前に引いた形で、ポン、ポン、ポン、ポンと四回手を打った。  そして、もういちど深々とお辞儀をしてから、目を開けて平田に向き直り、言った。 「それでね、平田さん。相談というのは他でもないんだけど……」      2 「おう、そこにいたのか。入るぞ」  夕食を終えてしばらくすると、東尾啓一は浴衣《ゆかた》に丹前を羽織った格好で玄関先のフロントに顔を出し、その奥に主人の須賀がいることを確かめると、相手の返事も待たずに、脇にあるドアを開けて事務室の中へずかずかと入ってきた。  もともと『ホテル』といっても、旅館同然のつくりだったから、『フロント』も『受付』と呼んだほうがいいような代物で、その脇に、旧式な真鍮《しんちゆう》のドアノブがついているニス塗りの木の扉がある。その扉の向こう側が、六畳敷きの事務室になっており、フロントのカウンターへすぐ出られる控室の役割も果たしていた。  六畳の真ん中には掘りごたつが切ってあり、そこに主人の須賀宏と平田が、直角の位置に座って、ホテル八重垣の改装プランについて、打ち合わせをしているところだった。 「驚いたな……いや、まったく驚いたもんだよ」  大きな声で言いながら、東尾は須賀に向かい合う形でこたつにもぐり込んできた。 「え、須賀、こんな宿でよく商売ができるな。こりゃホテルというのもおこがましいが、旅館にしたってひどすぎるぞ」 「もっと小声でしゃべってくれないか」  須賀が、低い声でたしなめた。 「すぐそこを客が行き来するんだ。ロビーや売店にだっているだろうし」 「わかったよ。たしかに、大勢のお客さんがいるようだからな」  皮肉っぽい笑いを浮かべながら言うと、東尾は、こたつの上に置いてあったミカンに勝手に手を伸ばした。 「だけど、繁盛しているのは、どうせ年末年始だけなんだろう」  意地悪そうな目で、東尾はつづけた。 「悪いことはいわんから、こんな宿は、早いところ手放したらどうだ。このあいだおれが提示した金額は、決して安くないはずだ。いや、それどころか、実際に現物を見て、いささか高い値をつけすぎたかと、後悔しているところなんだ。どうせ買い取ったって、建物は潰《つぶ》すだけになりそうだからな」 「後悔しているんだったら、乗っ取りの話はさっさと引っ込めてくれないか」  須賀は苦々しい顔で言った。  クシでくっきりと分け目を入れた、典型的な横分けのヘアスタイルは、そのまま彼の律義な性格を表していたが、須賀の書く数字も、まさにきちょうめんな性格そのもので、ペン習字の手本ばりに整然としていた。  その数字がズラリと並んでいるノートがこたつの上に広げてあったが、須賀はさりげなくそれを閉じて、自分の後ろにやった。 「足元を見透かされるから、苦しい家計は見せられない、というわけか」  みかんの皮をむきながら、東尾は、須賀のしぐさをからかうように、そう言った。 「そうじゃない。仮に儲《もう》かっていたところで、部外者のきみに、帳簿を見られる筋合いはない」 「仮に……ねえ」  東尾は、須賀の言葉尻をとらえて、揚げ足をとった。 「仮に……儲かっていたところで……か」 「うちの台所の事情は、心配してくれなくても結構だ」  須賀は憮然《ぶぜん》として言った。 「たしかに、現状は不備な点だらけだろう。オヤジの代は、とにかく従業員がメシを食えればいいという感覚でやっていたのでね。だけど、ぼくにバトンタッチをしてから三年様子を見たが、これでは、大改革をほどこす以外にホテル八重垣が生き延びる手はないと判断した。そこで、いま平田君と具体的なプランを練っているところなんだ。……あ、きちんと紹介していなかったな。ここにいるのが、その平田君だ。開発プロデューサーとして、先月から来てもらっている」 「開発プロデューサー?」  みかんを一房つまみ、その中身をチューッと音を立てて吸い込みながら、東尾は横目で平田を見た。 「そうだったのか。おれはまた、宿付きの運転手かと思っていたぜ」  と言って、薄皮を唇の間からつまみ出す。  はだけた丹前の胸元からは、案の定、平田の予想どおりに金のチェーンと胸毛がのぞいていた。 「それで、あんたはこのボロホテルをどういうぐあいにリニューアルするつもりなんだ」  東尾の質問に、平田は一瞬、須賀を見たが、かまわないから説明してやれ、というサインを見て取ったので、口を開いた。 「予算は限られていますから、何から何まですべてを新しくするわけにはいきません。とりわけ、建物の外枠の構造に手をつけたら、いくらお金があっても足りなくなる」  東尾に向き直って、平田は話しはじめた。 「そこで、まずぼくは、客層を絞り込むことを第一に考えたい、と須賀さんに提案しています」 「客層を絞り込む?」 「ええ、ターゲットは女性です。それも、できれば四十代くらいまでの世代をメインに」  平田は言い切った。 「この宿は、施設面、サービス面の前に、まず、大社から遠いという地理的なハンディキャップがあります」  たまたま広げてあった地図に、平田は指を走らせた。 「ごらんのとおりホテル八重垣は、表通りに面しているとはいえ、コンクリートの大鳥居がある宇迦橋から、なお五百メートル以上も離れています。この宇迦橋の大鳥居から大社正面の大鳥居までは、やはり五百メートル。さらに、大社の大鳥居から松の馬場を通って拝殿までが、さらに五百メートルありますから、ウチに泊まったお客さんが出雲大社にお参りするには、じつに一・五キロも歩かなければならなくなります。往復にすると三キロです。これは、お年寄りにはきつい距離です。だが一方で……」  平田の指は、ホテル八重垣のすぐそばにある旧JR大社駅をさした。 「ウチのすぐそばにある観光ポイントを忘れてはならないと思います。この旧大社駅は、大正十三年に建てられた神社形式の非常に珍しい駅で、つい数年前まで実際に使われていたんですが、やはり大社から遠すぎるということで、利用客を私鉄の出雲大社前駅のほうにとられ、結局、廃駅となりました。ただし、このレトロなたたずまいが人気で、見物客は後を絶ちませんし、駅前の広場も観光バスの駐車場のように使われています。この絶好の観光スポットのそばにあるということを、まず最大限に利用します」  平田は、相手が地元出身者であることも忘れて、熱っぽく語りつづけたが、東尾はフンと鼻を鳴らして聞き返した。 「それほどの名所がすぐそばにあるんだったら、なぜ、いままでにも、その客をつかまえられなかったんだ」 「たしかに、この旧大社駅前でバスを降り、長い距離を歩かされて大社まで歩いて繰り出すツアー観光客は、実際、大勢いるのですが、彼らのほとんどは、大社町に宿泊するわけではないんです。あくまでも、出雲大社は、立ち寄り地点の一つでしかない」  平田は言った。 「それに、ツアー客は比較的年配者が多いのに、これだけの距離を歩かされたら、真夏や真冬、それに雨や強風の日などはうんざりして、もうこんなところはコリゴリというふうになるでしょう。お年寄りでなくたって、日本人観光客は、たっぷり歩いて目的地に到達するのを億劫《おつくう》がりますからね。  だから、旧JR大社駅で観光バスを降りて参拝に向かう人については——つまり、参拝のためにイヤイヤ長い距離を歩かされた人については、リピーターとなる効果はあまり期待できません。チャンスがあったら宿泊を兼ねてもう一回こようという気には、なりにくいだろうということです。  しかし逆に、戦後生まれの女性層にとっては、こういう場所こそが、旅に期待する大きな要素なんです。ひと昔前の鉄道キャンペーン風にいうと、『ディスカバー・ジャパン』ですよね。幼いころ見た風景へのノスタルジーが心に生きており、しかも、妙な近代化には飽き飽きしている世代——ここがターゲットです。  だから、出雲大社そのものではなく、神社造りの大社駅のイメージを徹底的に、ホテル八重垣のPRに利用します。旧駅舎見物を出雲観光の主眼の一つにおいてくれる客層を、確実にウチへ泊めるように仕向けるのです。少なくとも、そのためには、なにはともあれ、『ホテル』という名称を看板からはずさなければなりません」  卓の上にあった湯呑《ゆの》みを取り上げ、ぬるくなった煎茶《せんちや》をすすってから、平田はさらにつづけた。 「ここに限らず、日本の観光地で、安っぽいコンクリート建ての宿を、平気で『ホテル』と名づけているところがいっぱいあるでしょう。とりわけガイドブックで『近代的な』という修飾語つきで紹介されているところは、非常に怪しい。年老いたエッセイストなどが著者となった旅行ガイドなどでは、実際の質が悪くても、ホテルと名前が付いただけで、平気で一定の評価を与える傾向があるし、裏で旅館側とタイアップしている旅行会社系のガイドブックも、ときとして誇大な修飾語で宿を紹介することがある。申し訳ないけど、『ホテル八重垣』もそのひとつでした」  平田は、すまなそうに須賀の顔をチラッと見た。だが、これまでも差し向かいの検討会議で、さんざん言いたいことを言ってきたので、須賀のほうも、事実は事実として、とくに気にしている様子もなさそうだった。 「でも、そうした紹介のされ方は、これからの観光客にとっては、裏切りとか嘘《うそ》、誇大表示などと受け止められるに違いありません」  また東尾のほうに向き直って、平田は言った。 「なにしろ、若いうちからパーティなどでシティホテル慣れしている世代には、『ホテル』という概念に対して要求するものが、非常にハイレベルになっている。『ホテル』といえば、高級シティホテルかリゾートホテルのイメージが真っ先に浮かび、その次くらいに、ようやく温泉町にある巨大観光ホテルがくる。そうした女性たちの頭には、中途半端なみすぼらしい宿は、のっけから想像の外にあります。  はっきり言って、経営者だけが独りよがりでホテルと名づけているような宿は、ホテルの名称をはずしたほうが、利用客にとっては、よっぽどスッキリ割り切れるんです。そのことがわかっていない宿が多すぎる」  東尾は、平田を無視してミカンの房を口に運んではチューチュー吸いつづけている。 「そこで、まず宿の名称をたんに『八重垣』と改称します」  平田の口調は自信に満ちていた。 「もともと古風な名前なんですから、『ホテル』なんて肩書は切り離したほうがずっと生き生きしてきます。もちろん、ことあるごとに、この宿の名前の由来となった、須佐男之命《すさのおのみこと》が詠《よ》んだという日本最初の歌をアピールします。玄関の額に飾ったり、部屋の掛け軸に用いたり……」 「あんたもそれか」  東尾は、また鼻を鳴らして笑って言った。 「八雲立つ 出雲八重垣 なんたらかんたら……ってやつだな」 「ごぞんじですか」 「ウチのカミさん……になるヤツがお気に入りらしくてね」  その言葉に、平田はおもわず水沢めぐみの顔を思い出してしまった。  八雲立つ、の歌は、ヤマタノオロチを退治することによって櫛名田比売《くしなだひめ》を娶《めと》った須佐男之命が、新居を定めたときに、すがすがしい空に立ちのぼる雲を見て詠んだ、とも伝えられている。  そのゆかりある八重垣神社は、出雲大社から四十キロ以上離れた、松江《まつえ》市の南、その名もゆかしき『八雲立つ風土記《ふどき》の丘』にある。  平田は、なんとなく櫛名田比売のイメージが、水沢めぐみに重なり合う気がしてならなかった。  むろん、櫛名田比売の姿というのは絵として残っているだけだが、いかにもいにしえ美人に描かれたそれが、めぐみの顔とどうしてもオーバーラップしてしまうのだ。 「あの……奥さんは」  平田は、持論の展開を中断して、ついたずねてしまった。 「ああ、メシのあと、散歩に出かけると言っていたな。大社のほうにでも行ったんじゃないのか」  東尾は、そっけなく答えた。 「なにしろ、女性用の風呂に入ろうとしたら、その狭さにびっくりして戻ってきてね。それで、風呂はやめて散歩ということにしたらしい」 「そう、それですよ。施設面での改装のポイントは、女性用の風呂なんです」  東尾の皮肉をものともせず、平田は言った。 「日本旅館の典型的な男尊女卑ぶりは、浴場の差別に明確に出ていますが、ホテル八重垣も然《しか》りです。パンフレットに『大浴場』として出ているのは、あくまで男性用で——これだって、大浴場と呼べるだけの広さがあるかどうか疑問ですが——女性用にいたっては、湯船に大人二人が入れるのがやっと。身内ならともかく、他人どうしが文字どおり肌すりあわせて入浴するなんて、冗談じゃないって話になりますよね。これでは、完全にサギですよ、と須賀さんにも話していたところなんです」 「そういったパンフレットは、オヤジ時代に作ったまま、何の手も加えず、ぼくも改めて目を通したりしていなかった」  須賀は、あっさりと非を認めた。 「たしかに、『自慢の大浴場』などと写真入りで謳《うた》っておきながら、あの婦人風呂では客が怒り出すのも無理はない。きっと、いままでにも悪評サクサクだったんだろうが、それがフロントサイドまで聞こえてこなかったんだ。ところが、平田君の提案で、客室にアンケート用紙を置いてみたところ、女性客の不満が風呂に集中していることがわかった」  須賀は、セブンスターを一本口にくわえながら言った。 「まさに、怒り爆発という感想が続出で、ゾッとさせられたよ。出雲大社にまたくることがあっても、この宿には二度と泊まりません、と書き殴った文字が目に焼きついてね……。知らぬが仏とはよく言ったものだが、こうしたお客さんの不満も知らずに『またどうぞお越しください』と送り出していたのかと思うと、汗顔の至りだ」  カチッと音を立てて百円ライターでタバコに火を点けると、須賀は、渋い表情でゆっくりと煙を吐き出した。 「だから、臨時の措置として、年始の混雑が終わる三日すぎから、狭い女風呂は閉鎖して、時間帯別に男性用の大浴場を男女それぞれに割り当てて使おうと思っている。そして、いま平田君が言ったように、今度の改装では、女性用の風呂を文字どおりの大浴場にする。それも、男性用の二倍の広さにね。これが売り物だ」  自分の吐いたタバコの煙に目をしばたたかせながら、須賀はつづけた。 「それから、客室も思い切っていまの二十室から十二室まで減らそうと思っている。その代わりに、部屋のスペースをうんと広くとる。単純計算でいえば、客室数を四割減らし、一室当たりの面積を七割近く広げることになる。だけど、宿泊料は原則的に値上げをしない」 「机上の空論てやつだな」  東尾は肩をすくめた。 「そんなに部屋を減らしたんでは、とてもペイしないだろう」 「いや、そうは思わない」  須賀は、強い口調で反論した。 「年平均の客室稼働率が低いのに、年に数回の繁忙期のことだけ考えて、客室を多くとっておくやり方はヤメにしたんだ。それよりも、ゆったりとした客室と、広々とした浴場で満足感を得てもらい、口コミで『八重垣』の評判を広げていってもらったほうが、ずっと得策だ。それに……」  須賀は、まっすぐに東尾を見つめて言った。 「これは平田君から指摘されて、ハッと思ったことなんだが——旅館業というのは、泊まっていただいたお客様に、じゅうぶんな満足感を与えてこそ、プロの仕事といえるわけで、たんに宿泊費をいただいて、それで儲《もう》けるのだったら、素人《しろうと》でもできるんだよ」 「………」 「ぼくは不動産の売り買いをしているんじゃない。お金を右から左に動かして利益を上げればいいという商売じゃないんだ。そこに、利用客の満足感が生じなければ、サービス業とはいえまい。ぼくは新聞記者時代、プロであることに徹していたつもりだったが、家業を継いだときに、ついつい、新しい仕事のプロ魂がどこにあるのか、考えるのを忘れていた。創業者であるオヤジもそうだったんだと思う。つまり、『ホテル八重垣』はサービス業と呼ぶのもおこがましいほどの素人商売をやっていたわけだ。そこを一から改めてみたいんだよ。  こちらが客本位の考え方をしていけば、きっとその姿勢は報われる。そう信じて、新生『八重垣』をスタートさせてみたいと思っているんだ。だから、いまの時点で、ここを手放すなんて考えたこともない」  須賀は、東尾の瞳の奥を見つめるようにして反応をうかがったが、東尾はポーカーフェイスで無言を貫いていた。 「昔のクラスメイトだから、ぼくもできるかぎりの歓待はさせてもらうつもりだ」  須賀は、そう言ってから、灰皿でタバコをもみ消した。 「だが、それはあくまで、きみたちの婚約をお祝いしての話であって、わざわざ東京からぼくの宿に泊まりにきた目的が、『八重垣』の乗っ取りにあるのだったら、明日、早々にここを引き取ってもらいたい」 「なるほど……」  東尾がポツンとつぶやいた。  そして、平田が口を挟《はさ》むのも憚《はばか》るような殺気立った沈黙がつづいた。 「なるほど……」  長い間をおいてから、東尾が、また同じ言葉を繰り返した。 「プロの仕事な……そうか……おれのオヤジを殺したのも、新聞記者時代のおまえの、プロとしての仕事だったというわけだ……なるほど」 「東尾!」  須賀の顔色が変わった。 「そういう言い方はないだろう」 「ほう……そうかな」 「ぼくは、ジャーナリストの正義として、そして、この大社町を愛する者として、東尾不動産のルール違反を告発しただけだ。それと、きみのオヤジさんが心臓発作で亡くなったこととは、何の因果関係もないはずだ」 「因果関係……ね。非常に冷酷で、非常に機械的な言葉だな」  須賀を睨《にら》みつけたまま、東尾は言った。 「裁判じゃあるまいし、おまえの仕打ちを非難するのに、客観的に因果関係を証明する必要がどこにある。苦しみながら死ぬ前に、オヤジがふり絞るように洩《も》らした一言があればじゅうぶんさ」 「なに?」 「須賀が憎い……そう言い残してオヤジは死んだんだ」 「………」  須賀の唇がピクピクと痙攣《けいれん》するのが、横にいる平田の目にもはっきりと映った。  だが、彼はすぐに平静さを取り戻して言い返した。 「よくできた作り話じゃないか」  だが、東尾はゆっくりと首を横に振った。 「須賀は知らないだろうが、オヤジは発作を起こしてすぐに死んだのではない。救急車で病院に運ばれた後、一時的に持ち直したんだ。だから、急を聞いて、近くに住む親戚が駆けつける間もあった。その中の一人が、機転を利かしすぎたというか、カセットレコーダーを病室に持ち込んだんだ。ひょっとして、死期を悟った本人が、何か遺言めいたものを言い残すかもしれないと思ったらしい。……しかし、遺言はなかった。ただ一言、『須賀が憎い』という言葉を除いてはな」 「………」 「なんだったら、その言葉を聴かせてやってもいいぞ」  と言うなり、東尾は丹前のたもとに手を突っ込み、そこからカセットテープを取り出した。 「これは決して細工したものではない」  テープを顔の前にかざして、東尾は言った。 「正真正銘、オヤジの最期の声だ。ラジカセがあったら貸してくれないか。ぜひ、おまえに聴いてもらいたいのでね」 「ない!」  須賀は、何かを振り切るように、激しく頭を左右に振った。 「ラジカセなんかは、うちにはない。それに、そんなテープを聴く必要もない。……ない!」  また間があった。  重苦しい間だった。  須賀の後方、畳の隅のほうで、つけっぱなしになっていたポータブルテレビが、民放の夜のニュースワイドをやっていた。  音声を抑えてあるので、画面だけが静かに映し出されている。  須賀も東尾も気づいていなかったが、二人から目をそむけるようにしていた平田にだけ、その画面の伝えるニュースが見える格好になった。   現代版『まだらの紐《ひも》』? 事故か殺人か   高層ホテル宿泊客 8匹のハブに咬《か》まれて死ぬ  NHKとちがって、どちらかといえば、ショウアップされたニュースの伝え方をする番組だったが、それにしても『8匹のハブに咬まれて死ぬ』というスーパーが印象的だったので、平田の目は自然とそこに吸い寄せられた。  推理作家の朝比奈耕作を友人に持つくらいだから、現代版『まだらの紐』という言葉が、事件現場のどんな状況を指しているのか、平田は容易に想像がついた。 『まだらの紐』は、いわずとしれたコナン・ドイルの手になるシャーロック・ホームズものの中の、あまりにも有名な一編である。  つまり、密室状態の寝室の中で、一人の人物が不審死を遂げるのだが、その原因が毒蛇であり、蛇は天井に開いた小さな穴から、呼び鈴の紐を伝って部屋に侵入してきた、という内容である。  いま画面に映し出されている新宿の高層ホテルには、まさかそんな穴が開いているはずもないが、とにかく完全にロックされた客室の中に、八匹の毒蛇が放たれていたらしい。  犠牲者の顔写真が映った。  彫りの深い、ちょっと日本人ばなれしたハンサムな男で、≪ユニバーサル銀行西大寺支店顧客課主任 村木昇さん(33)≫と写真の下に文字が並ぶ。  つづいて音のない画面は、カメラに向かって状況を説明するキャスターの顔に変わり、すぐつづいて、現場検証後の客室内に入り込むビデオの映像になった。  平田は、チラッと須賀と東尾の様子をうかがったが、二人は、卓の上におかれた一本のカセットテープに視線を落としたまま、無言の対峙《たいじ》をつづけている。  仕方なしに平田は、音声を消したテレビ画面にまた目を戻した。  ハブのカラー写真が大写しになっていた。つづいて、資料映像と片隅に銘打って、マングースと闘うハブの攻撃的な姿がビデオで流される。  それが終わると、メインキャスターと女性アシスタント、それに解説委員とのやりとり。  キャスターがゾッとしたように顔をしかめ、その直後、なにか冗談を飛ばしたのか、思わず笑顔になった。が、すぐに顔を引き締める。  その口元が、『笑いごとでは済まされません』というふうに動いているのが、読唇術を知らない平田にも、はっきりと見て取れた。  そして、コーヒー飲料のコマーシャル。  聞こえないようにフッと軽く吐息をついてから、平田は須賀に向き直った。  いつまでも、こうやって無言の果たし合いをつづけているわけにもいかないだろうと思い、平田から重苦しい沈黙を破ろうとした、ちょうどそのとき、事務室の扉がコンコンとノックされ、こちらの返事を待たずに、セーター姿の四十がらみの女性が顔をのぞかせた。  宿を手伝っている須賀の姉、須賀伸江である。  昭和三十年代後半あたりの水商売の女性が好んでしていた髪形とでも表現したらいいのか、妙にレトロっぽい外巻きのヘアスタイルに、明らかにつけ睫毛《まつげ》とわかる、くどくどしい目元をしている。  メーキャップそのものに、時代錯誤の匂いがあるのだ。  伸江は、はたち過ぎに一度結婚したが、夫婦生活は五年ほどで破綻《はたん》をきたし、その後は現在に至るまでずっと独身を通し、父親の経営するホテル八重垣を手伝ってきていた。  弟である須賀宏の代になってからも、手伝いをつづけ、不慣れな宏の嫁・真理子に代わって、事実上、女将《おかみ》のような立場で現場を取り仕切っていた。  だが、平田に言わせれば——さすがに、こればかりは、面と向かって須賀には言い出せなかったが——決してセンスが良いとは言い難い伸江の存在が、ホテル八重垣のイメージを好ましくないものにさせる一つの要因にもなっていた。  その伸江が、こたつを囲んで深刻な表情になっている三人に目をやり、弟の友人と承知している東尾に軽く会釈をしてから、須賀に向かって手招きした。 「悪いけど姉さん、いま取り込み中なんだ」  しかめつらのまま、須賀は言った。 「あと三十分くらい待ってくれないかな。それとも急用?」 「いえね、急ぎといえば急ぎだし、急ぎじゃないといえば急ぎじゃないんだけど……」  伸江は、あいまいな言い方をして、また三人の顔を代わるがわる見た。 「なんだい、みんなの前じゃ言えないこと?」 「いえいえ、平田さんだったらいいけど」  と言って、伸江は東尾にも目をやる。 「それに、東尾さんも、まあ内輪のようなものだからいいけど」 「気を遣ってそんな言い方をなさらなくてもいいんですよ」  丹前の襟元をかき合わせながら、東尾が言った。 「とてもじゃないが、私は須賀君から内輪扱いなどしてもらえる分際ではありませんからね。なにか仕事の打ち合わせがあるんでしたら、私は席をはずしますよ」  カセットテープを卓の上に残したまま、東尾はこたつから抜け出して立ち上がろうとした。  が、伸江がさえぎるようにして、それをおしとどめた。 「いいのよ、いいの。一言で済んでしまう話ですから」  作り笑いを浮かべて東尾にそう言うと、伸江は弟に向き直り、小声の早口でささやいた。 「神楽《かぐら》の間に一人で泊まっているお客さんなんだけれどね、いまの時間になっても夕食が手つかずのまま、お部屋にもどこにも姿が見あたらないのよ」 「神楽の間? 誰だっけ」  めんどくさそうに須賀がきいた。 「長谷部さんという方、わざわざ北海道から初詣《はつもうで》に来られたという……ほら、顎髭《あごひげ》を生やして、ちょっと俳優のナントカに似たハンサムなお客さんよ」 「べつに気にすることはないじゃないか」  須賀は、片方の眉を吊り上げて言った。 「きょうは大《おお》晦日《みそか》なんだ。ひょっとしたら、どこかで一杯やっていて、そのまま大社で新年を迎えようというのかもしれない。今夜は、うちも一晩中玄関を開けているわけだし……」  人手を節約するのと防犯上の理由で、ホテル八重垣は、ふだんは夜の十一時には玄関の鍵《かぎ》を閉めてしまう。  もともと出雲大社周辺には、夜遊びをする雰囲気の場所もないし、そもそも、そういったことが目的でこの地に宿をとる者もいない。だから、午後十一時という『門限』を設けても、それに不満を申し立てる客はいなかった。  だが、さすがに大晦日は例外で、朝まで玄関の鍵は開けっ放しとなる。 「悪いけど姉さん、いまちょっと込み入った話をしているもんで……」  東尾のほうにアゴをしゃくりながら須賀が言うと、姉の伸江は「わかったわ」とうなずいて、顔を引っ込めた。  それから、また重苦しい沈黙が部屋によみがえった。      3 「よりによって、一年の最後の最後でこんな事件が起きるとはな……」  新宿署に設けられた『副都心ホテル銀行員ハブ毒死事件』の捜査本部では、新宿署長に代わって事実上の陣頭指揮をとる細井警視が、銀縁のメガネに手をやって、ため息をついた。  顔も細ければ身体もひょろりと細く、文字どおり『名は体を表す』という雰囲気の細井警視は、次に、天井の蛍光灯にメガネのレンズを光らせながら、会議室に集まった面々を見渡した。  午後十時三十分——  新年まであと九十分だが、この事件に投入された捜査員が、はたして元旦の酒肴《しゆこう》にありつけるかどうかは疑問だった。 「とりあえず、あらためて事件の概要を繰り返させていただきます」  さきほどから、発言のために立ったままだった国友警部補が口を開いた。 「被害者は、奈良県|橿原《かしはら》市在住の村木昇、三十三歳。ユニバーサル銀行西大寺支店の顧客課の主任をやっております」 「そういえば、西大寺支店というのは?」 「奈良市の中心部である近鉄奈良駅から二駅、距離にして四キロほど西へ行った、近鉄京都線と奈良線が交差する、大和《やまと》西大寺駅のすぐ前にあります」 「なるほど」  国友警部補の説明に、細井警視は納得してうなずいた。 「死亡した村木は……」  国友はつづけた。 「昨日の午後から、一泊二日の予定で、出張のため東京に出ておりました。ご承知のとおり、ことしは大晦日が平日ですから、きょうも銀行は午前中のみですが営業していました。が、しかし、それにしても、一顧客課員が、こんな時期に奈良から東京まで出張するというのは、いかにも珍しいので支店長に事情を聴きましたところ……」  手元のメモを見ながら、国友はつづけた。 「彼が担当する秋篠《あきしの》新町在住の金融業者、前川光雄、五十七歳に急遽《きゆうきよ》呼び出されての出張だとわかりました。前川は、個人としては、同支店における最大の大口預金者です。その彼が、『年内に新たに巨額の預け入れをしたいが、旅先の東京から離れられない。すまないが手続きのために、新宿まで出てきてくれないか』と、事件現場となった高層ホテルを指示したというのです。それが一昨日、つまり二十九日火曜日の夕刻のことです。年末ギリギリとはいえ、なんといっても、最大の顧客からの要請であり、預け入れ高も大きいので、担当の村木は、すぐに上司の許可を得て東京へ向かったらしいのですが……」 「ところが、調べてみたら、それがすべて嘘《うそ》だったんだな」 「そうです」  細井警視の確認に、国友はうなずいた。 「前川はすでに三日前から、観光でラスベガスに行っており——観光というよりもバクチでしょうけどね——さきほど現地で本人とコンタクトがとれましたが、そのような申し出をした覚えはまったくないということです。また、前川からの依頼を、銀行の誰かが村木に取り次いだという事実もない。そういったことが、村木が殺されてから判明したのですから、銀行は引っくり返るような騒ぎですよ」 「つまり、二つに一つだな。誰かが前川の名を騙《かた》ってニセの電話をかけてきたか、村木自身が嘘をついていたか」 「銀行側は体面がありますから、村木が騙されたのではないかという立場をとっています。しかし、現実的には、顧客担当がニセの電話に引っ掛かって、東京へ呼び出されるということは、まずありえません。電話でのやりとりのさい、顧客担当は、細かい話し方の癖や口調、それに本人でなければ知らない事実が会話の中にきちんと含まれているか、といったことから、電話の主が間違いなく本物であるかどうかの確認をしますからね。たんなるモノマネ上手が本人を演じても、すぐに不審を抱かれます」 「となると、村木が自分で出張をでっちあげた、と」 「その可能性がいまのところ大きいですね。しかし、銀行サイドの緊急調査では、村木が金融業者の前川あるいは他の顧客との間に、なにか金銭的なトラブルがあったという事実は、まだ発覚していないようです。また、村木が単独で、たとえば使い込みをやっていたような形跡も、いまのところ見つかっていません。あくまで、いまのところ、ですが」 「こりゃ、銀行の幹部は正月返上だな」 「我々もですけどね」  と言って、国友は肩をすくめた。 「そういえば、村木の家庭環境はどうなっているんだ」 「それは私から報告します」  若手の井手刑事が立ち上がった。 「村木には結婚八年目の奥さんがいます。年は二つ下の三十一です。それに子供が二人。小学校一年の女の子に、幼稚園の男の子です。橿原神宮の駅に近いところに、小さいながらも一戸建ての家を持っておりますが、さすが銀行員といいましょうか、ローンの支払い状況は健全です」 「夫婦関係はどうなんだ」 「遺体確認のために上京してきた奥さんは、ショックで取り乱して、満足に話もできないありさまでしたが、付き添ってきた村木の兄という人物にいわせれば、夫婦の中は非常に円満で、いわゆる『人もうらやむ』というようなおしどり夫婦だったそうです」 「しかし、村木昇はなかなか色男じゃないか」  細井警視は言った。 「こういう男は、さぞかし周囲の女性からモテるんじゃないかね」 「……ですね」 「なにより、ホテルの客室に全裸の状態で死んでいたのが気になる」 「それに関連して、現場の状況について復唱します」  また、発言者は国友に代わった。 「村木の死亡推定時刻は、本日の午前三時から四時の間ではないかとみられています。死因は、ハブに咬《か》まれたことによる中毒死です」 「ハブはぜんぶで八匹いたそうだな」 「ええ、大きいものでは二メートル近いものもいました。ですからマスコミの連中は、ヤマタノオロチの呪いか、などと騒いでいますが、その中で、実際に村木を咬んだのは、サイズ的に中型の二匹だけです。一匹は右太ももの付け根を、もう一匹は、喉《のど》に近い左肩の上をガブリとやっています。いずれも、かなり奥深くまで牙《きば》を食い込ませているため、毒液の分泌量も多く、致命的なものになったと思います。同じハブでも、ヒメハブやサキシマハブだと毒性も弱いのですが、こいつらは、たんに『ハブ』と呼ばれる、最も毒性の強い種類のものだったんです」 「ちょっと質問ですが……」  捜査官のひとりが手をあげた。 「こんなことを気にすると、推理小説の読みすぎかと笑われるかもしれませんが、村木を死に陥れたハブの毒というのは、ほんとうに蛇に咬まれたことで体内に入ったものなんでしょうか。つまり、たとえば、ハブの牙の形に似せた太い注射針のようなものを使ったとか……」 「遺体の咬み痕も、それから部屋で捕獲した八匹のハブについても、専門家に鑑定してもらいましたが、傷はハブによってつけられたことは間違いなく、また、それぞれの毒液の保有量を調べたところ、うち二匹の量が極端に少ないことから、村木を咬んだのは、そのハブだろうと推定されています」 「『犯人』が特定できた、ってわけか」  国友の説明に対し、誰かがそう混ぜ返したので、苦笑のどよめきがわいた。 「となると、誰かが村木を殺すために、部屋にハブを放ったと考えられるが、特別に容器らしいものは見つかっていないのだろう」  細井警視がきくと、国友は「ええ」とうなずいた。 「注目すべきは、その犯人が、いつどうやって村木の部屋に入り込み、どうやって村木に気づかれずにハブを放ったか、です」  国友は、現場見取り図の描かれたホワイトボードの前に進み出た。 「1707号室は、ごらんのとおりツインベッドルームですが、村木はこれを一人で使っていました。連れはいません。少なくとも登録上はね。いちおう、ベッドも片方は未使用のままの状態でした。また、バスルームを使った形跡はありますが、村木以外の毛髪は見つかっていない。もちろん、部屋の絨毯《じゆうたん》からは不特定多数の毛髪が検出されていますが、いくらホテル側がきちんと清掃をしたところで、客室の床からは、過去の宿泊客の髪の毛は出てくるものです」 「つまり、具体的に女と寝た証拠はないということだな」 「村木が寝ていたシーツにも、それらしき痕跡はいっさいありません。単純に女が寝た跡も、性交渉の跡も……」 「しかしだな」  照明が反射しているため実際の目の表情が見えず、メガネのレンズだけが目立つ顔で、細井が国友を見つめた。 「仮に、部屋に誰か別の人物が訪れていたとしても、村木が寝静まってからでないと、ハブを放つわけにもいくまい」 「そうですね」 「だとしたら、やはり彼が気を許すような存在の人間がそばにいたとしか考えられんな。つまり、一緒に寝ることを前提として、しかも、彼が先に寝てしまっても気を遣わなくて済む人物だ」 「奥さんには完全なアリバイがありますから、そうなってくると、このホテルで愛人と会っていた公算が強くなりますね」 「ただ、疑問が残るのは……」  顔の角度を変えたために、レンズの奥にある細井の目が見えた。 「たんなる逢い引きのためなら、銀行に虚偽の出張申請をしてまで東京に出てくるはずもあるまい。よほどの緊急性がないとな」 「おっしゃるとおりです」 「ところで、村木に睡眠薬の服用の痕跡はなかったのか」 「それはないようですが、血中のアルコール濃度が高いことから、酔っ払って寝ていたことが推測されています」  国友は言った。 「室内に備え付けられているミニバーは使用されておらず、ルームサービスも注文はしていないのですが、どこかで酒を飲んでいたのは間違いありません。ただ、カードキーはいちいちフロントに預けたりしませんから、村木が外出から帰ってくる姿などを記憶しているホテル従業員はいないのです」 「まあ、犯人が酒を部屋に持ち込んだかもしれないわけだ」 「ええ」 「そして、いいかげん酔っ払って、バタンキューとなったところを見計らって、毒蛇を放った……そういうことだろうな。まさか、こんな形で自殺などはしないだろうから、やはり犯人がいたのは間違いあるまい」 「すみません、質問です」  また、別の捜査官が手を挙げた。 「全国的に暖冬とはいえ、いまはいちおう冬ですよね。犯人がどうやって蛇を採集したのか知りませんが、そのハブってやつは、冬眠はしないんですか」 「専門家に言わせると、ハブに関しては『冬眠』という言葉は存在しないのだそうです。そうではなく、『仮眠』というらしい」 「冬眠ではなく、仮眠?」 「そうです」  国友は、うなずいた。 「というのも、ハブの棲息地である奄美《あまみ》大島や沖縄諸島では、冬でも本土並みに気温が下がったりしませんから、蛇のほうも本格的な冬ごもりをする必要がないのだそうです。一時的に寒くなったときには、冬眠に近い状態になることもあるらしい。ただし、気温が上がると、すぐに目覚めて活動をはじめるようです」 「なるほど……では、いまの時期でも、ハブを集めるのはじゅうぶんに可能なんですね」 「ええ。それから話が出たついでに、非常に注目すべきハブの習性について、お話ししておきますが」  会議室に集まった面々を見渡しながら、国友警部補は言った。 「私も専門家に聞くまでは、ハブというやつは人間を見た瞬間、無条件に飛びかかってくるものだと思っておりました。実際、現場に踏み込んだとき、私自身も、あわやという目にあわされたわけですが」  そのときの情景を思い出し、国友はゾクッと身を震わせた。 「本来、ハブは主たる食糧であるネズミを求めて活動するわけで、人間の姿を見たら、かえって逃げ出すくらいだそうなのです。ただし、エサを待っているところを人間が邪魔しようとすれば、攻撃を仕掛けてきますし、急に驚かせた場合にも、逃げるより攻めるのを選ぶケースもある。窓際に立っていた私の腕に、いつのまにかハブが絡みついたのも、攻撃よりは様子見だったのかもしれません。ところが、私がびっくりしたので、向こうもヤル気になった。……では、ベッドで熟睡している人間に対してはどうなのか」  国友の問いかけに、捜査陣はみな、その答えを待って無言で警部補を見つめた。 「これに対する専門家の答えはこうです。当然のことながら、ハブは熱により、そこに人間という生き物がいる事態は察知する。しかし、相手がまったく動かない状態でいるときは、ハブから攻撃を仕掛けることは稀《まれ》だろうというのです」 「でも、寝返りを打ったりすれば、ハブは驚いて咬《か》みついてくるんだろう」  細井警視がきいた。 「むろん、その可能性は大です。ただ、専門家が気にしているのは、二匹が二匹とも、致命傷を与えやすい部位に、都合よく毒牙《どくが》を立てていることなんです」  国友は、現場見取り図の横に、別の紙で貼り出された人型の絵を指さした。 「先ほども申し上げましたように、太ももの付け根と、喉《のど》に近い肩の付け根、この二カ所をガップリやられている。もしも咬みついた場所が、額とかアゴとか手の甲のように、すぐ下に骨があって牙《きば》を浅くしか入れられない場所だったら、それだけ毒液の注入量も少なくなるんですが、これだけ見事にポイントをつかれると、やはり……」 「つまり国友君、あれかね」  細井警視は言った。 「犯人は、ハブを放置したまま部屋を立ち去ったのではなく、自らハブを操って——『操って』というと、蛇つかいのようだが——蛇が確実に村木昇の体に致命傷を与えるようにした、と言いたいのかね」 「はい」 「でも、それだったら、凶器にわざわざ毒蛇を使う意味がないだろう」  年配の刑事が意見を言った。 「現場からは、蛇を入れていたと思われる容器のようなものは見つかっていないようだが、なんらかの形で、あるていど時間をかけて蛇が部屋に這《は》い出す仕掛けを作っておき、その間に犯人は逃走してアリバイを作る——それが作戦だったんじゃないかね。そうすればだ、死亡推定時刻が午前三時から四時であっても、犯人はそれよりずっと前にホテルを後にできたかもしれん。だからこそ、毒蛇による毒殺を試みたんだ」 「しかし、その方法では確実性がないように思います」  穏やかな口調ではあるが、国友ははっきりと反論した。 「これまでの状況からみると、犯人が村木と一緒に寝ると見せかけて、彼を酔わせ、その後にハブを部屋に放ったという仮定が、もっとも現実的です」 「それはそうだ」 「となると、毒蛇を放った以上、確実に村木が死亡しないことには、こんどは犯人の身が危なくなります。違いますか」 「………」 「だから、犯人にとってみれば、いったん計画をスタートさせたからには、ハブが確実に村木を殺してくれなければならない。しかしです」  国友は、ホワイトボードをコンコンと叩《たた》きながらつづけた。 「八匹ものハブを入手するくらいの人間なら、さきほどの専門家の話なども、とうぜん頭に入っているはずです。つまり、いくら数を放っても、それらのハブが寝入っている村木に必ず咬みつき、必ず致死量の毒液をそそぎ込むという保証など、どこにもないことを」  毒蛇によるアリバイ工作説を持ち出した老刑事に向かって、さらに国友は言った。 「なによりも見落としてはならないことは、犯行の舞台がホテルの一室であるということです。つまり、ハブに咬みつかれた村木がその痛みで跳び起き、内線電話でフロントに連絡するかもしれない可能性を、犯人はまったく考慮に入れていなかったというのでしょうか」 「………」 「仮に酒で酔わせておいたにしても、ハブに咬みつかれてもなおグーグー眠っていることを期待するのは、虫がよすぎはしませんか」 「そうなると、国友君」  かけていたメガネを外し、糸のように細い目をこすりながら、細井警視は言った。 「犯人は、村木昇が確実に死亡したのを見極めてから、部屋の外に出たというのかね」 「私にはそうとしか思えません」 「しかし、午前三時から午前四時という死亡推定時刻は、ホテルにとって、一日の中でも最も客の出入りが少ない時間帯ではないのかね。だから犯人も、おいそれとフロントの脇を通って出たりはできなかっただろう」 「それでも五時すぎからは、朝のチェックアウト客がポツポツと出はじめるころです。あのホテルは、朝の便で成田から帰国する外国人客なども多く泊まっていますからね」 「すると、毒蛇という手段は、アリバイ工作のためではないと」 「ええ、違うと思います」 「だがねえ、国友君」  ハンカチでメガネのレンズをふき、それをまた元どおりにかけてから、細井は改めて国友警部補の顔を見た。 「さきほどの誰かの質問の繰り返しになるが、何のために犯人はハブの毒で殺すという方法を選んだのだろう。それも、八匹も使って」 「実際、人を殺すためには八匹もハブを用意する必要はありません。それなのに、あえて八匹のハブを部屋に放ったのは、もしかすると……」  たっぷりと間をとってから、国友は言った。 「マスコミが騒いでいるようなヤマタノオロチ伝説との関連づけを、本気で犯人が狙っているのかもしれませんよ」      4  深い雪に包まれた下北半島の中央部、湯野川《ゆのかわ》温泉にあるひなびた旅館の二階にある小部屋では、推理作家の朝比奈耕作が、こたつをはさんで、犯罪心理学者の尾車泰之《おぐるまやすゆき》教授と向かい合っていた。  ガラス窓の向こうは闇《やみ》——  数時間前までは、表を走る車のチェーンの音が聞こえていたが、新年まであとわずかとなったいまは、夜の冷気と降り積もった雪が、すべての音を吸収してしまったかのように、完全なる静寂が訪れている。  わずかに聞こえてくるのは、階下の部屋で誰かが見ている『紅白歌合戦』のテレビのくぐもった音だけだ。  のちに『月影村の惨劇』と呼ばれることになった事件を追って、それぞれこの地にやってきた朝比奈と尾車教授は、新しい年を目前にして、二人の身の上に起きた、これまでの出来事をふり返っているところだった。 「……実際、花咲村から風吹村にかけてのきみの活躍は見事なものだった」  尾車教授は、朝比奈を見つめて言った。 「花咲村の惨劇では、複数の目撃者がいた飛び降り自殺の意外な空中トリックを明らかにし、鳥啼《とりなき》村の惨劇では、新宿副都心のホテルで起きた密室事件と青ケ島で起こった衝撃の殺人における、考えてもみなかった真犯人を暴き出した」  教授は、好物のハッカのキャンディを転がしながら、さらにつづけた。 「そして、風吹村の惨劇では、連続殺人事件の裏に隠された意外な真相に誰よりも早く気がついた。月影村だけは、きみの手を借りずに事件は収束しそうだが、一連の事件において、君の明晰《めいせき》な頭脳が果たした役割は非常に大きかった。しかしだ」  教授は、口の中のキャンディをガリッと噛《か》み砕いて、それを呑《の》み込んだ。 「それでもきみは『裏の裏』に隠された真相までは、まだたどり着いていないのだ」 「裏の裏に隠された真相……ですか」  朝比奈は意外だという顔をした。 「それはどういうことでしょう」 「花咲、鳥啼、風吹、月影という花鳥風月を冠した四つの村全体を通しての謎《なぞ》は、まだ解決されていないのだよ」  尾車はメガネを外した裸の瞳で、じっと朝比奈を見つめた。 「もう少しわかりやすくいうと、こうだ。きみはそれぞれの『村』に絡んで起きた惨劇について、その犯人と犯行の動機を見事に解き明かした。ただし、明らかになったのは表の動機だけで、裏の動機については、まだきちんと解明していない」  そういわれても、まだ朝比奈は納得できない表情だった。 「では、これまでの惨劇に、表の動機と裏の動機があるとおっしゃるのですか」 「そのとおり」  尾車はうなずいた。 「それぞれの惨劇にかかわった人物の個人的な動機が『表の動機』だとすれば、より大きな視点からみた、四つの村を結ぶ『裏の動機』が存在するのだ。表の動機を『殺意』と呼ぶならば、裏の動機は『宿命』とでもいおうか」 「でも……なぜ先生がそのことを」 「いろいろな事情があってね、私にはわかるのだ。それ以上は聞かないでくれ」  尾車は微妙な言い方をした。  そして、しばらく黙った後に言った。 「だが、いまの私の立場で、しかも朝比奈岳を望むこの土地で、きみとこうして共に新年を迎えるというのは、じつに感慨深いものがあるね。……いいものだ」  そうつぶやくと、尾車はこみあげてきた涙を隠すために、はずしていた鼈甲《べつこう》ぶちのメガネをとりあげて、また顔にかけた。  そして、天井を見上げて繰り返した。 「じつに……いいものだ」      *      *      *  山の向こう側に月影村を控える静かな温泉宿で、朝比奈耕作と尾車教授が——後から考えると『運命的な』と表現すべき——新年を迎えようとしているころ、その友人である平田均は、千キロ以上西に離れた出雲大社の松並木の参道を、人込みにまじって、本殿に向かって歩いているところだった。  東尾との話し合いも一段落したので、須賀の了解をもらって、新年一番乗りの初詣《はつもうで》にきたのである。 「しかし、まいったな」  平田はつぶやき、さらに心の中でつづけた。 (真理子さんの相談とは、東尾氏の乗っ取り計画を潰《つぶ》すよう、主人に協力してくれという話だとばかり思っていたのに……実際はその逆で、須賀さんに、ホテル八重垣の建物も土地も手放すよう説得してくれというんだから……いったい、どうなっているんだ)  須賀の妻・真理子は、夕刻、平田をこの大社に呼び出し、なんとか東尾啓一の乗っ取り話を実現する方向に導いてくれないか、と頼んできた。  もちろん、平田はびっくりして、言い返した。ぼくは何のために須賀さんに雇われていると思っているんですか。ホテル八重垣を立て直すためですよ。その仕事を請け負った人間が、須賀さんを裏切り、あのクソ生意気な東尾に加担して、逆に宿をつぶすことに協力するなんて、そんなひどい真似ができるわけないでしょう。  すると、真理子は訴える目で平田を見た。  いまがチャンスなのよ——真理子は言った——いまが、出雲の土地から離れる最後のチャンスかもしれないの。  出雲の土地から離れる最後のチャンス?  平田は聞き返した。だが、真理子は、いくら問い詰められても、それ以上の詳しい説明をしようとはしなかった。  そこで平田も、いくら奥さんの頼みでも、理由もなしに、そういった願い事をきくわけにはいきません、ときっぱり断った。  ただし——  平田は、真理子から顔をそむけるようにして言った。  ただし、いまの話は聞かなかったことにしておきます。  夕方、真理子と交わしたそんなやりとりを思い出しながら、平田は青銅の鳥居をくぐり、拝殿の前に出た。  あちこちで篝火《かがりび》が焚《た》かれ、パチパチと音を立てながら炎が天に向かって上ってゆく。その炎が、周りに集う人々の顔をオレンジ色に照らし出している。  元日を目前に控えた出雲大社は、夜更けだというのに、さほど寒さを感じさせなかった。たしかに、吐く息は白くなるのだが、皮膚が痛くなるような寒さではない。それは、境内に集まった何千人という人々の熱気のせいかもしれなかった。  つい数時間前の、あの静寂が、まるで嘘《うそ》のように、あたりは人、人、人……ほとんど人の海である。  家族連れももちろん多いが、若い男女の姿がかなり目立つ。  カップルで訪れ、二人の幸せを祈る人。具体的な相手を想定して、夢の実現を願う人。あるいは——平田もそうだったが——これといったアテはないけれど、新しい年こそ、きっといい人に巡り会えますように、と祈る人。  それぞれの思いを込めた男女が、縁結びの神を祀《まつ》る出雲大社に集い、午前零時になる瞬間を、いまかいまかと待ち侘《わ》びながら、大きな人のうねりを作っていた。  とりわけ本殿正面の八足門の前は、地面がまったく見えないほど、びっしりと人の波で埋められている。  その様子を撮影しようと、階段の上から皓々《こうこう》としたテレビライトの光が投げかけられる。それに向かって、あいかわらずのVサインを振ってはしゃぐ若者たち。  そんな人の波にまじって、平田は後ろから押され、脇から押されて、右へ左へ前へ後ろへよろめきながら、八足門が開くのを、いまかいまかと待っていた。 (縁結びの本場にきたんだから、ことしこそ、なんとかしなくちゃな)  そう思って、平田はじっと目を閉じた。  これまでにも、彼はいろいろなタイプの女性に対して、片想いの恋に陥ってきた。なかには、相手からの片想いというケースもあったが、いずれの場合も、残念なことに、相思相愛の大恋愛には至っていない。  その理由の一つが、彼の極端な転職癖にあった。なにしろ、さまざまな仕事を経験することで人生勉強をしようというポリシーのもと、北は北海道から南は九州沖縄まで、ユニークな仕事を求め、旅から旅を繰り返しているので、実る恋も実らないといったありさまである。  その一方で、親友の朝比奈耕作ときたら、人生観を一変させるような大事件に巻き込まれながらも、事件関係者の中から、しっかりとステディな恋人を見つけてしまっている。それも、なかなかにチャーミングな女性なのだ。(『風吹村の惨劇』参照)  自分もいつまでも足踏みはしていられない。そう思って、平田は閉じたまぶたの裏で、理想の女性像をイメージしようと試みてみた。  すると、なぜか、水沢めぐみの顔が浮かんできてしまった。 (馬鹿だなあ。東尾の婚約者に一目ぼれしてどうするんだ)  自分を叱って、また別のイメージを思い浮かべようとする。  しかし、またしてもめぐみの顔が現れる。  滑らかな肌、背中までまっすぐ伸びた黒髪、切れ長の美しい一重の眼。桜色の唇……。  正直な気持ちをいえば、あんなに清楚な女性が、横柄で傲慢《ごうまん》きわまりない、しかも毛むくじゃらの東尾に抱かれ、好きなようにされるのかと思うと、平田としては、居ても立ってもいられない気分なのである。  夫婦の取り合わせばかりは、他人には理解しがたいところがあるが、それにしても、東尾とめぐみが結ばれるのは、なんとも感情的に納得がいかなかった。 (もしも彼女が東尾という婚約者に不満だったとして、そこへ強引にこの平田均が割り込んだら……)  けさの空港でも思い描いた妄想を、平田はまたよみがえらせた。 (平田めぐみ……か)  彼女の名前と自分の苗字をくっつけて、悪くないなと感心したりする。  目を閉じているかぎり、いつまで経っても、めぐみのイメージは消えない。まるで、まぶたの裏側にカラー写真が貼りつけてあるかのように鮮明だ。 (まいったな……また片想いか……)  と、どうしたことか、めぐみの顔が一瞬にして、毒牙《どくが》をむき出す蛇の顔にとって代わった。  うわっ、と叫び出しそうになるのをこらえて、平田は目を開けた。  目の前には、人の頭、頭、頭……。  八足門の前に群がる人の数は、みるみるうちに膨れ上がり、ラッシュアワーの電車なみの混雑になっている。  コートのポケットに突っ込んだ両手が抜けないまま四方からギュウギュウと押され、平田はバランスを失うまいと必死に足を踏ん張りながら、いま、自分の脳裏に走った蛇のイメージに驚いていた。 (なぜ、彼女の顔が蛇に……)  原因はすぐに思い当たった。  さきほどホテル八重垣の事務室で、須賀と東尾が対決をしているときに、平田はなにげなく、音を消したテレビに目をやった。その画面で、東京のどこかのホテルで、宿泊客が八匹のハブに咬《か》み殺されたとかいうニュースをやっていた。  たぶん、それが無意識のうちに記憶に焼き付いていたのだろう。 (でも、なぜハブとめぐみさんのイメージが結びついたんだ)  押しくらまんじゅうを繰り返す人込みの中で、平田は自問自答した。 (なぜ……) 「もうそろそろ、紅白も終わりだぞ」  平田のすぐ隣で、ラジオのイヤホンを耳にやっていた年配の男性が、連れの女性に話しかけていた。 「北島三郎が出てきたところだ……」 (なぜ、めぐみさんのイメージが、テレビニュースに出てきたあのハブとつながるんだ……)  無意識下の自分の頭の動きをさぐっているうちに、あの歌が浮かび上がってきた。   八雲立つ 出雲八重垣 妻|籠《ご》みに   八重垣作る その八重垣を 「そうか!」  思わず大きな声を出したので、イヤホンで『紅白歌合戦』を聴いていた男が、平田の顔をふり返った。 (そうか!)  心の中で、平田はもういちど叫んだ。 (八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに……めぐみさんは、車の中で、しきりにこの歌を口ずさんでいた。これは、出雲大社にゆかり深い須佐男之命《すさのおのみこと》が、櫛名田比売《くしなだひめ》と結婚し、出雲の空に湧き上がる雄大な雲を眺《なが》めながら詠《よ》んだとされる、日本最古の歌だ。  その櫛名田比売と、めぐみさんの容姿を、ついついダブらせたりしたのだが……そもそも櫛名田比売は、なぜ須佐男之命と結婚することになったのか。それは、ヤマタノオロチの生け贄《にえ》となるところを救われたからではないか。そして、ヤマタノオロチといえば、頭が『八つ』に尾が『八つ』という化け物ヘビだ……)  水沢めぐみのイメージが、宿泊客が『八匹』の毒蛇に襲われたというニュースのイメージにつながった過程が、平田はようやく理解できたような気がした。 (そうなってくると、もしかすると東京の事件は、ヤマタノオロチと何かの関係があるのでは……?)      5  NHKの『紅白歌合戦』が白組の圧倒的な勝利に終わり、優勝旗が白組司会の堺正章に手渡されたところで、東尾啓一はテレビのスイッチを切った。  あと十五分ほどで、午前零時になる。  それなのに、いつまで待っていても婚約者の水沢めぐみが部屋に帰ってこないため、さすがに心配で、おちおちテレビなど楽しんでいられなくなったのである。 「紅白が終わる十分くらい前には、ここを出ましょうね。そうでないと、年の変わり目を大社の境内で迎えられないから」  夕食のとき、めぐみは何度もそういって東尾に念を押していた。 「元日の午前零時に、あなたといっしょに出雲大社の本殿でお祈りをするの。そうすれば、きっと幸せになれるわ」  そういうふうにも言っていたではないか。  それなのに、めぐみは紀州犬の子犬を抱え、散歩に出たまま、二時間以上経っても宿に帰ってこなかった。 「いやな予感がするな」  声に出してつぶやくと、東尾はタバコに火を点け、せわしなく煙を吐き出した。  が、やがて意を決したように立ち上がると、丹前や浴衣《ゆかた》を脱ぎ捨てて、洋服に着替えた。そして、革のジャンパーを引っかけると、タバコのパッケージをポケットに突っ込み、鍵《かぎ》を持って部屋の外に出た。      *      *      *  須賀宏は、あいかわらずフロント奥の事務室にいた。  テレビは『紅白歌合戦』から『ゆく年くる年』に代わっていたが、須賀は、さっきから意味もなく、音の消された画面に目を向けていた。  須賀もまた、テレビどころではないといった心境だった。  彼の耳には、ウォークマンのイヤホンが突っ込まれている。そして、右手に持ったウォークマンの再生ボタンと巻き戻しボタンを、さっきから交互に押しては、テープの同じ部分に繰り返し耳を傾けていた。 「須賀が憎い……」  しわがれた老人の声が、精一杯の力をふり絞るといった感じで、そうつぶやいていた。 「オヤジ」  横から、東尾啓一の声がする。 「オヤジ、まだ死ぬのは早いぞ。死ぬんだったら、仇をとってから死ね。恨みを晴らしてから死ね」 「そうよ」  少し離れたところから、正体不明の女の声が東尾の叫びに同調する。 「あの若造の新聞記者に復讐《ふくしゆう》をするまで、しっかり生きていなくちゃダメよ」  その後、急に周囲が慌ただしくなり、はっきりと聞き取れない意味不明の言葉が飛び交う。  録音に使われたテープレコーダーは病人の枕元に置いてあったのか、ガサゴソと布地がすれるような雑音が入る。 「あ……ダメだ」 「オヤジ」 「お父さん」  周囲の人間の、絶望的な声が聞こえる。  ガチャッというテープを止める音——   そこで須賀は、自分もテープを止め、次に巻き戻しボタンを押す。  そして、再生。 「須賀が憎い……」 「オヤジ……オヤジ、まだ死ぬのは早いぞ。死ぬんだったら、仇をとってから死ね。恨みを晴らしてから死ね」 「そうよ。あの若造の新聞記者に復讐をするまで、しっかり生きていなくちゃダメよ」  さっきから、その繰り返しだ。  須賀は、眉間に深い縦じわを寄せて聞き入っていたが、やがて、もう耐えられないといった表情でイヤホンをはずし、拳《こぶし》を叩《たた》きつけるようにして、ウォークマンの停止ボタンを押した。  そのとき、革ジャン姿の東尾がフロントのカウンター越しに顔をのぞかせ、こわばった声でたずねた。 「おい須賀、めぐみの姿をどこかで見かけなかったか」      6  睦月《むつき》、如月《きさらぎ》、弥生《やよい》、卯月《うづき》、皐月《さつき》、水無月《みなつき》、文月《ふづき》、葉月《はづき》、長月《ながつき》、神無月《かんなづき》、霜月《しもつき》、師走《しわす》——  旧暦の一月から十二月までの呼び方を表記するとこうなるが、その中で陰暦十月、神無月の語源は、出雲という土地と切っても切り離せない関係にある。  すなわち、この時期になると日本中の神々が出雲に集まり、氏子の行状について話し合うため、それぞれの地元を留守にする。だから、神がいない月‐神無し月‐神無月となる。  だが、出雲大社のほうからみればその逆で、日本中から八百万《やおよろず》の神々が集まってくるわけだから、旧暦十月は『神無月』ではなく、『神在月《かみありづき》』と呼んでいる。  旧暦十月十一日から十七日までの一週間、出雲大社では『神在祭』が催されるのだが、まず、日本全国から集まってきた神々をお迎えするために、十日の夜、『神迎え』の儀式が、大社からさほど遠くない稲佐の浜で行われる。  夜の海の彼方《かなた》から渡ってくる神々を、浜辺に明々と篝火《かがりび》を焚《た》いて出迎える儀式は、日本の出雲ばかりでなく、南方の島々でも似たパターンが見受けられる。  が、やはり神事としての神迎えは、情熱的な南方系の儀式とは違って、あくまで荘厳で神秘的な美しさに満ちている。  一辺がおよそ十メートルの正方形になるように砂浜に立てられた四本の竹に、注連縄《しめなわ》が張られて祭場の枠となり、そこに白木の八足机がしつらえられて、二本の神籬《ひもろぎ》が立つ。  神籬とは、榊《さかき》——文字どおり神の木——の枝に多数の紙垂《しで》を樹木の形のように垂らしたもので、ここに神が宿る、いわゆる依代《よりしろ》の役割を果たすものである。  この神籬の紙垂の一つひとつに、海を渡ってきた八百万の神々が休むことになっている。  そして、その神々を先導する形で、まず最初に海からやってくるのが、『竜蛇《りゆうじや》さん』だった。  トグロを巻き、その中央からシッポをピンと天に向かって直立された格好に固定された剥製《はくせい》のウミヘビが、この竜蛇さんの御神体として祀《まつ》られる。正式名称はセグロウミヘビである。  剥製になってしまってからでは、よくわからないが、このセグロウミヘビは、背中が黒で腹部が黄色という、鮮やかなツートンカラーの体をしている。  そして、効率的な泳ぎをするために平べったくなった尾部には、生き物というよりも装飾品を思わせるようなデザインの模様が、これも黒と黄の二色で描かれており、しかも体表を覆うウロコは、出雲大社の神紋と同じ亀甲形であった。  それゆえにセグロウミヘビは、出雲においては神の使いの蛇として扱われていた。  そのセグロウミヘビの死骸《しがい》が、弓なりにカーブする稲佐の浜の、弁天島に近い砂浜で見つかったのは、年も改まり、一九九三年となった元日の午前四時すぎのことだった。  さすがにこの時間ともなると、大半の人が初詣《はつもうで》を終えて眠りについたようで、稲佐の浜に面した民宿の明かりも消え、砂浜に波が打ち寄せる音が繰り返されるばかりである。  その人気のない夜明け前の海辺に、ペンライト一本の明かりをたよりに、地元高校生のカップルがやってきた。  二人乗りできた自転車を道路の端に停めると、少年はガールフレンドの手を握って、海のほうへ向かってゆっくりと歩いていった。  大《おお》晦日《みそか》からの年越しデートは、ロマンチックな夜の砂浜のキッスで幕を閉じるはずだった。  そして途中までは、その予定通りに進んだ。  波打ち際で、少年は少女と向かい合い、両手を腰に回して相手の体を引き寄せた。  そして、外国の映画で見たように、彼女のアゴを人差し指で持ち上げ、上向きかげんにさせてから、唇を近づける。  だがそのとき、少年の視野に、何か妙なものが映った。 「なんだ、あれは」  少年はおもわずガールフレンドの体を離し、そんな言葉をつぶやいた。  それにつられて、うっとりとした表情でまぶたを閉じていた少女も、目を開く。 「なあに、どうしたの?」 「あれだよ、あれ」  少年が指さすほうを、少女はふり返った。  二人のいる場所から十数メートル離れたあたりの砂浜が、こんもりと盛り上がっており、そのそばに、大人の脚の長さよりやや短いくらいの、細長い紐《ひも》状のものが落ちているのだ。 「なにかの海草?」 「かもしれないし、そうじゃないかもしれない」  もっとよく見るために、少年は片手に持っていたペンライトを、頭よりも高い所にかざした。 「ねえ、もしかしたら、ヘビじゃないの」  ボーイフレンドの後ろに半身を隠すようにして、少女がこわごわとした口調できいた。 「いや、普通のヘビじゃなくて、ウミヘビのような気がする。もうちょっと近くで見てみよう」 「大丈夫? 咬《か》まない?」 「もう死んでるみたいだけどな」  少年は砂浜の小石を拾って、その細長い物体めがけて投げつけた。 「ほら、まるで動かないだろ」 「でも、もういいわよ」  少女は首を振った。 「そんなの放っといて。気持ち悪いから、もっと向こうのほうへ行かない?」 「待てよ」  少年は、反対方向へ行こうとするガールフレンドの腕を引き留めた。 「なんで、あそこだけ、あんなふうに砂が盛り上がってるんだ」  少年は、ペンライトを左右に揺らしながら、闇《やみ》の向こうを透かして見た。 「なんだか、人間の形に見えないか」 「やだ」  少女は、恋人の腕にギュッとしがみついた。 「お正月早々から変なこと言わないでよ」 「だけど、どう考えたって、あの形は不自然だぜ」 「きっと、子供が砂山を作ったのよ」 「あんな細長い砂山を、か?」 「もうどうでもいいじゃない」 「よくないよ。気になる」  そう言うと、少年は恋人を後ろに残して、ひとりで不審な『砂山』に歩み寄った。  明かりをさらに近づけてみると、やはり細長い物体は、ウミヘビだとわかった。 「これは竜蛇さんじゃないか」  少年は、地元の呼び方でそう言った。  背が黒くて、腹が鮮やかな黄色をしているセグロウミヘビの死骸である。  ただし、神事に使う『竜蛇さん』のように、トグロを巻いた形で固定されてはおらず、ほとんど直線に近い形で死んでいた。 「めずらしいな。これが稲佐の浜に打ち上げられるなんて」 琉球《りゆうきゆう》列島以南に棲息《せいそく》するセグロウミヘビは、ときとして対馬《つしま》海流に乗って北上し、冷水|塊《かい》にぶつかる山陰沖あたりで力尽き、出雲沿岸に打ち上げられることがある。  しかし、そういったケースはごく稀《まれ》で、しかも、神迎えの言い伝えどおりに稲佐の浜にやってくる確率となると、もっと低くなる。  そのセグロウミヘビに稲佐の浜で出会えたのだから、地元高校生の目には、それが気味悪いものというよりも、むしろ幸運の象徴として映ったのも無理はなかった。 「おーい、きてみろよ」  少年は、離れたところで様子を見守っていた少女を手招きした。 「一月一日に、稲佐の浜で竜蛇さんに会えるなんて、ことしは……」  ラッキーな年になるぞ、と言いかけた彼の言葉が、そこで凍りついた。  指が見えた。  海にしっぽを向けた形で死んでいるセグロウミヘビの死骸《しがい》のすぐそばに、人間の指が二本、第一関節から先の部分だけ、砂浜から突き出しているのである。  少年は目を丸くして、こんもりと盛り上がった『砂山』を見つめた。 「ねえ、どうしたの」  たずねながら、少女が近寄ってきた。  だが少年は、答える言葉を失っていた。  彼は震える手で、二本の指の周りの砂を払ってみた。  手の甲が現れた。  さらに砂をどかす。  男物のローレックスをはめた手首が現れた。 「な……なに、それ!」  事態に気づいた少女が、両手で口を覆って立ち尽くした。  少年は、自分の行動を止めることができなかった。死にそうなほど怖かったけれど、砂山の下に埋もれた物の全貌を確かめるまでは、もう後に引き下がれなかった。  狂ったように砂をかいていくと、黒いセーターにモスグリーンの防寒コートを着た男の片腕が、はっきりと砂山の中から姿を現した。  少年は、荒い息をはずませながら、ペンライトを近くの砂に突き立てた。  そして、両手でその『腕』をつかみ、思い切り上のほうに引き起こした。  ザザザザと音を立てて砂山が崩れ、顎髭《あごひげ》をびっしりと生やした中年の男が、あおむけの格好で飛び出してきた。  少女が黄色い悲鳴をあげた。  少年も、わあっと大声で叫び、死体から両手を離した。  ズサッという音とともに、男の死体は地面に倒れ、その勢いで、唯一の明かりであったペンライトに砂がかぶって、あたりが暗くなった。  少女が、またしても金切り声をあげた。  だが少年は、彼女を抱きしめてやろうにも、足がすくんで動けず、ただただ、その場に呆然《ぼうぜん》と立ち尽くすばかりだった。  そして、彼らの後ろでは、夜明け前の浜辺に打ち寄せる波が、ザザーン、ザザーンと単調なリズムを繰り返していた—— [#改ページ]   第三章 朝比奈耕作登場      1 「……そんなわけだ」  一通りの話を終えると、平田均は、喫茶店のテーブル越しに、ひさしぶりに会った親友の顔を見つめた。  カフェオレ色に染めた髪。男でありながら、目元の鋭さを強調するように軽くメイクした顔。初対面の人間が彼をみたら、十人が十人とも、ロック・ミュージシャンかタレントだと答えるだろう。  それが、推理作家・朝比奈耕作の容貌である。しかし、しばらくぶりに会った平田は、まだ三十の声を聞かない朝比奈の顔に、いつのまにか、人生を感じさせる深みのようなものが刻み込まれていることに気がついた。  いまから十一年前の夏、成城《せいじよう》にある自宅の納屋で急な死を遂げた朝比奈耕作の父、耕之介——その父親が書き残した謎《なぞ》の四行詩に端を発する、巨大なスケールの事件が耕作の身に襲いかかり、去年は、推理小説の執筆どころではない状況がつづいたのを、平田は手紙のやりとりなどでよく承知していた。  これまでも決して多作ではなかった朝比奈だが、去年の長編書き下ろしの数は、わずかに二冊。このままでは、世の中から忘れ去られてしまいそうだよ、と朝比奈は苦笑していたが、決してアイデアに煮詰まっていたせいではなく、小説どころではない人生の一大事件に巻き込まれてしまっていたからである。  その事件も、『月影村』での惨劇を最後に、とりあえず一段落したかにみえたので、ようやく朝比奈にも、平田の頼みを聞いて、ここ出雲までやってくる余裕ができたのだった。一連の騒ぎからほぼ一カ月が経とうというころだった。 「キーワードは『出雲』だな」  平田の話を最後まで聞き終わると、朝比奈はそう言った。  そして、湯気の立つコーヒーを一口飲み、外の景色に目をやった。  ことしこそは平年なみの寒い冬になるという予測は見事に裏切られ、むしろ昨シーズン以上の暖冬を記録していたくらいだったが、そろそろ一月も終わりに近づいてきたところで、ようやく今季初の本格的な寒波がやってきた。  おかげで、いま出雲の町は白一色に覆わている。その雪景色を眺《なが》めながら、朝比奈耕作は、もういちど繰り返した。 「キーワードは『出雲』だよ」  正確にいえば、出雲大社は簸川《ひかわ》郡大社町に属し、出雲市の行政区域とは別になっている。  だが、やはり『出雲』といえば、出雲市ではなく大社町にある大社周辺のイメージで捉《とら》えるのが、平田にとっても、またこの界隈《かいわい》を訪れる観光客にとっても常識のようになっている。  朝比奈が『出雲』というのも、たぶん出雲大社周辺のエリアを指しているのだろうと、平田は推測した。 「まず、事件の復習をしようか」  平田に向き直ると、朝比奈はつづけた。 「一月一日の午前四時すぎ、出雲大社に近い稲佐の浜で、ひとりの男性の死体が見つかった。直接の死因は溺死《できし》だが、後頭部に金属バットのようなもので殴られた跡があった。頭蓋骨《ずがいこつ》にヒビが入っていたくらいだから、相当なショックを受けたにちがいない。また、かなりのアルコールが入っていたことも明らかになっている。  そのことから推察して、被害者の男は、いいかげん酔っ払った状態で、稲佐の浜の波打ち際を歩いていたところを、後ろから何者かに後頭部を強打され、脳震盪《のうしんとう》状態で海の中に顔を突っ込み、大量の海水を吸い込んで溺死したものとみなされている——ここまでは間違いないね」 「ああ」  軽くうなずくと、平田はコーヒーカップを口元へ持っていった。 「そして、おそらく犯人は、被害者を海の中から砂浜へ引き戻し、その上から砂をかぶせた。さらに——たぶんこれは犯人の作為だろうが——地元では竜蛇さんと呼ばれているセグロウミヘビの死骸《しがい》を、わざとらしくそばに置いた。ちなみに死亡推定時刻は、午前三時前後とみられている——ここまでもいいね」 「そのとおりだよ。そして、殺された男性がウチの泊まり客だったから、例によってこのおれが、殺人事件に巻き込まれる格好になった、という次第だ」 「殺人事件に巻き込まれたといっても、平田のアリバイはあるんだろう」 「ないよ」  平田は、あきらめ顔で肩をすくめた。 「新しい年を出雲大社で迎えたあと、本殿にお参りして、それで宿に戻ってきたのが二時半すぎだったからね。そして、またその後外出したんだ。だから、犯行時刻はホテル八重垣の一室でぐっすり寝ていました、というわけにはいかないんだよ」 「そんな時刻まで表で何をしていたんだ。デートしてくれる彼女がいたわけでもないだろうに」 「ところがいたんだよ」  平田は苦笑いした。 「ただし、一緒にいたのは二時半までだけどね。どうせだったら、もっとずっと一緒にいれば、こっちの立場も楽になっていたんだが」 「その相手の女性というのは?」 「さっきの話に出てきただろう。水沢めぐみという、それはそれは魅力的な女性だよ。ああいうのを『清楚な美しさ』っていうんだろうな」 「あいかわらず、のぼせやすい男だ」  笑ってから、朝比奈はつけくわえた。 「彼女は、ホテル八重垣の乗っ取りを企てている東尾啓一の婚約者だったな」 「そういうこと」 「その彼女が、なぜそんな時刻におまえと」 「めぐみさんは大《おお》晦日《みそか》の晩、食事を終えてから子犬を抱いて散歩に出た。最初は、大社通りと呼ばれるメインストリートをフラフラと歩いていたんだが、いつのまにか参道の入口まで来てしまったので、東尾と約束していた午前零時の初詣《はつもうで》の前に、いちど自分ひとりでお参りをしようという気になったそうだ。ところが……」  両手でコーヒーカップをくるみ、焦茶色の液体に目を落としながら、平田は言った。 「出雲大社の境内に入ったとたん、なにか自分が間違ったことをしようとしている、という思いに捉われたというんだ。つまり、『間違ったこと』というのは、東尾との結婚という意味だけれど」 「縁結びの神様からの警告か?」 「そう、まさにそのことを、めぐみさんも言っていた。出雲大社の神様が私に教えてくれている、あの男と結婚したら、決して幸福にはなれないと——彼女は、直感的にそう思ったらしい。インスピレーションというか、霊感というか、ようするに神のお告げを聞いたわけだ」 「そうではなくて、おそらく自分自身の正直な気持ちを、自分でしっかりと認める気になったんだろう。そういう心境になるためには、出雲大社の荘厳で神秘的な雰囲気が必要だった、というわけだ」 「たのむよ、耕作。シャーロック・ホームズみたいな理詰めの絵解きで、ムードを壊さないでくれ」  平田は手を広げて言った。 「この出雲の地に来てからというもの、無神論者のおれが、心のどこかで神を信じるようになってきたんだから」 「わかったよ。……で?」  カフェオレ色の髪をかきあげて、朝比奈は平田に先を促した。 「ともかく、突然の心境の変化に、めぐみさんは自分でも驚いたらしい。これから宿に戻って、ふたたび東尾といっしょに初詣のために出直す気には、到底なれなくなってしまった、という。で、子犬を抱えたまま、ずっと境内のあちこちを、あてもなく歩いていたそうだ」 「そうしているうちに、おまえと偶然会ったのか」 「うん」 「だけど、元旦の午前零時を期して出雲大社にお参りをしようという人の数は、千ではなく、万の単位だろう。よくもまあ、そんな人込みの中で出会ったものだな」 「だから、これもあらかじめ定められた宿命のような気がしてならないんだ」  平田は神妙な顔で言った。 「境内の左のほうに、神楽殿《かぐらでん》というのがあるのを知っているか」 「ああ、知っているよ。日本一の注連縄《しめなわ》が飾られているところだろう。出雲大社を紹介する観光写真にはつきものの……」 「そう、そこの真下でね、めぐみさんとバッタリ会ったんだよ。そして、いま話したような心境を聞かされた」 「その後は、平田お得意の人生相談……だろ?」  親友の手の内を知り尽くしている朝比奈は、おかしそうに言った。 「まあね。で、話がはずんで、気がついたら二時をとっくに回っていたというわけだ。それで、二人そろって宿に戻ったら、玄関口に、心配そうな顔で須賀さんが立っていた。いつまで経ってもめぐみさんが帰ってこないので、東尾が心配して、外へ探しに出たというんだ。そこで、おれは責任を感じたから、宿の自転車を借りて、東尾を呼び戻すために、また出かけたんだが……」 「水沢めぐみは?」 「不思議なもので、彼女はどこか開き直った様子さえ感じられたね。彼が戻ってきたらひどく叱られるでしょうけれど、その覚悟はできています、っていうふうに」  コップの水を飲んでから、平田は話を継いだ。 「それでおれは、自転車であちこち走り回って探したが、けっきょく東尾を見つけることはできずに戻ってきた。それが三時半。そして、当の東尾が帰ってきたのが、さらに十五分くらい遅かったかな。もちろん、彼はめぐみさんが戻っているのを知って、カンカンになって怒ったよ。正月早々の大騒ぎだ。ところが、一時間も経たないうちに、それ以上の大騒ぎが降ってわいたんだよ」 「稲佐の浜で発見された死体の件で、警察から照会があったんだな」 「うん。殺された男のポケットには、本人の運転免許証入りの財布といっしょに、ホテル八重垣のマッチも入っていたから、ウチの泊まり客ではないか、と見当をつけてきたらしい」 「だけど、その男は偽名で泊まっていたというんだろう」  平田から聞いた概略をふり返りながら、朝比奈がたずねた。 「そうなんだ。矢作賢作《やはぎけんさく》、四十五歳というのが、死体のポケットにあった免許証に登録された身許だったが、そんな名前の泊まり客はいなかった。しかも、警官が見せてくれた免許証の写真の男は、髭《ひげ》を生やしていなかったからね。ところが、この顔写真に山男のような顎《あご》髭を生やした姿を想像してくださいと言われて、ああ、それならあの人じゃないか、ということになったんだ」 「それが、長谷部憲二という名前で泊まっていた男だったわけか」 「そう。北海道から一人で初詣にやってきたという客で、びっしり生やした顎髭がけっこう似合うダンディな男だった。それでおれの印象にも残っていたんだが、あの晩は、夕食に手をつけないまま、ずっとどこかに外出して姿が見えなかったんだ」  須賀の姉である伸江が、その客の居所を探していた様子を、平田は思い出した。 「ちなみに、名前は偽名を使っていたが、住所は本物だったようだ。北海道の大沼ってあるだろう、函館《はこだて》の近くに。そこで小規模だが、牧場を経営していたらしい」 「家族は?」 「いるよ」 「どんな構成か知っているか」 「ああ、こっちの新聞なんかでは、けっこう詳しく報道されたからね。奥さんと中学生の息子が二人いるそうだ」 「ふうん……」  朝比奈は、いつもの癖でカフェオレ色の髪に手を突っ込みながら、なにかを考えていた。 「で、長谷部と名乗った矢作がホテル八重垣にチェックインしたのは?」 「大《おお》晦日《みそか》の昼すぎだよ」 「昼すぎというと、具体的には」 「二時ごろだったかな」 「だとしたら、朝、函館空港を出て、羽田で飛行機を乗り継いだという形かな」 「たぶんね」 「それで平田としては、自分の勤める旅館——いや、ホテルか」 「旅館だよ、事実上は」 「オーケー、その旅館の泊まり客が変死をとげたということだけでなく、東京で起きたもうひとつの事件と、なにか関連があるのではないか、という点が気になっているんだろう」 「そうなんだ。東京のホテルで、銀行員がハブに咬《か》み殺されたニュースは、けっこう大きく報道されたけれど、稲佐の浜の事件のほうは、まったくのローカル・ニュース扱いだ。だから、この二つの事件を結びつけて考える人間は誰もいないんだけれど、おれの目からみれば共通点が一つある。それはヘビだ」  言ってから、平田は朝比奈をじっと見つめた。 「いや、ヘビというよりも日本神話、あるいは出雲神話といったほうがいいかもしれない」 「かたや、稲佐の浜に泳ぎついた竜蛇さんで、かたやヤマタノオロチを連想させる八匹のハブ……か」 「そうなんだよ。東京の事件は、いまのところ犯人もつかまらずに三週間以上が経っている。こっちの事件も、やっぱり皆目、犯人の見当がつかない。でも、二つの事件がどこかで結びついたとしたら、なにか新しい展開が出てくるかもしれないだろう」 「なるほど」 「ただ、被害者どうしの関連性は、まるで見つからないんだ」  平田は言った。 「東京の被害者は、奈良県に住む三十三歳の銀行員。そして出雲での被害者は、北海道に住む四十五歳の牧場経営者。二人を結びつけるものは何もない。ただ、出雲神話を連想させるヘビのことを除けばね」 「そうかな?」  朝比奈が意味ありげに疑問を呈したので、平田は聞き返した。 「そうかな、とは?」 「はたして、共通点はそれ以外にまったくないのだろうか、ということだよ」  朝比奈は、旅支度として持ってきた小型の旅行バッグを膝《ひざ》の上にのせ、サイドポケットのジッパーを開けて、そこから二十枚ほどの綴《つづ》りになったコピーを取り出した。 「まえもって平田が電話で概略を伝えてくれていたので、東京の事件について、ひととおりの調べはしてあるんだ」  と言って、朝比奈は、まず最初に新聞や週刊誌の記事をコピーしたものを広げた。 「たしかに、平田の指摘するように、マスコミも警察も、二つの事件を関連づけて調べようという視点は、まったく持ち合わせていない。たしかに、ハブとセグロウミヘビという小道具を、二つの事件にまたがる共通項として扱うには、ちょっと根拠が薄弱のようだ。とくにセグロウミヘビの死骸《しがい》のほうは、犯人が残したという確証もないからね。だけど、探せば共通点というものはあるものだ。これをたんなる偶然の一致とみるかどうかは、平田の考え方にもよるけれど」 「なにか共通点を見つけたのか」 「たとえば、被害者の顔さ」  と言って、朝比奈は週刊誌の記事のコピーを指さした。 「村木昇という銀行員は、こうやって写真でみてもいい男だし、記事を読んでも、『ハンサムなうえに人柄もよく、同僚の女子行員からも人気があった』とか、『美男美女のおしどり夫婦ということで、近所でも評判』という論調が目立つ。それから長谷部……じゃなかった、矢作賢作のほうだけど、彼もおまえが言うようにダンディな男で、『デイリー出雲』や、矢作の地元である北海道のローカル紙の報道でも、やはり『家族思いのやさしい夫で性格も円満。人から恨みを買うようなおぼえはない』とある」 「おいおい」  平田は、頭をかかえる真似をした。 「出雲神話にこじつけるのも、いささか強引かと思ったけど、被害者が二人とも『いい男』だったという点を取り上げて、事件の共通項とするなんて、それこそ、こじつけも甚《はなは》だしいんじゃないのか」 「そうだろうか」  朝比奈は、平然として言った。 「ぼくは、決してそうは思わないね。殺人事件の被害者で、これだけ二枚目で、しかも家庭が円満となると、かえって引っ掛かるものを感じる」 「そうかなあ、それこそたんなる偶然じゃないのか」 「じゃあ聞くけど、家族思いだという矢作が、正月休みに、どうしてたった一人で出雲なんかにくるんだ」 「あ……そうか」 「銀行員の村木のケースも、三十日から大《おお》晦日《みそか》にかけて、嘘《うそ》の出張をしている。家庭円満のおしどり夫婦のはずが、奥さん子供そっちのけでね。そこには、会社にも家族にも言えない秘密の事情があったにちがいない」 「………」 「それだけで、ぼくはこの二つの事件に共通する匂いを嗅《か》ぎ取ってしまうんだよ」  朝比奈は、また外の雪景色に目を向けた。 「それに、東京の事件には、もっと大きな問題点がある」 「もっと大きな問題点?」 「そうさ」  朝比奈は、外を眺《なが》めたまま言った。 「事件が起きたのは大晦日の朝だろう。被害者の勤めていた銀行はさておき、世間では、完全に年末年始の休暇態勢に入っている。だから……」 「だから?」 「こんなことを言ってもピンとこないかもしれないが、事件を追及するマスコミも、しばらくはオトソ気分が抜け切れない、ってことさ。週刊誌はレギュラーの発売ローテーションじゃないし、テレビのワイドショーも、少なくとも三が日は特番で潰《つぶ》れてしまう」  朝比奈は、平田に目を戻し、友人の瞳をじっと見据えながらつづけた。 「通常の時期なら、高層ホテルで銀行員が毒蛇に殺されたとなると、もっとスキャンダラスに報道されてもいいんだが、時期的な問題でその受け皿が極端に少なかった。かといって、スポーツ紙や週刊誌、それにワイドショーは、ニュースの鮮度を問題にするから、日にちが経てば経つほど事件への興味を失ってしまう。  しかし、本来ならば、もっともっと事件の謎《なぞ》は追及されなければならなかった。それも、ある意味で興味本位の視点でね。ところが、せいぜい大晦日の夜のニュース枠で取り上げられた程度で、その後のフォローは非常に少なかった。NHKや民放にかかわらず、ニュースワイドでは、芸能ワイドショーのような不確定要素の強い伝え方はできないからね」 「何が言いたいんだよ、耕作」 「警察の捜査に関しても同じことが言えるかもしれない」  平田の質問には答えず、朝比奈は言った。 「捜査一課の志垣 - 和久井コンビは、ぼくとともに『月影村の惨劇』に関わっていたから、この毒蛇事件は直接担当していない。だけど、教えてもらえる範囲内で、捜査の状況をきいてみたんだ」 「で?」 「現場に放たれていたハブの捕獲も含めて、新宿署は専門家に協力を依頼したという」 「そりゃそうだろうね」 「だけどね、平田。ぼくが疑り深いのかもしれないが、ハブが棲息《せいそく》していない東京で、しかも、世の中の多くの仕事が休みに入っている大晦日に、そう都合よく『専門家』と連絡がとれたのだろうか、と疑問に思ったのだよ。現場が沖縄だったら、話は別だけどね」  平田は、友人であるこの推理作家が、いったい何を言い出すのかわからない、という顔つきになっていた。 「志垣警部に、それとなく確かめてもらったら、案の定、新宿署が協力を求めたのは、たんに蛇類を扱う専門業者の人間というだけだった。それも、大晦日の日なので、これぞという人間はつかまらず、やっと連絡がとれた業者を、ともかく現場に呼んだらしい。で、捕獲したハブの毒液採取なども、その業者が積極的にやってくれたというのだが、いかんせん、その業者はハブのプロとは言いがたかったのではないかと思っている」 「どういうことなんだ」 「平田……ハブに咬《か》まれてもね、人間はそうかんたんに死なないんだよ」      2  平田は、最初ポカンとして、朝比奈の顔を見つめていた。  そして、信じられないという顔で聞き返した。 「ハブに咬まれても、かんたんには死なない……だって?」 「そうなんだ」 「だけど、ハブは猛毒を持っているんだろう。だから、すぐに血清の注射を打たなければイチコロなんじゃないか」 「志垣警部に聞いたところでは、当初——つまり、事件当日は、捜査陣もそうした先入観念にとらわれていたそうだ。ハブが殺人に使われるという前例がほとんどないため、科学研でも即座に質問に答えられる人間がおらず、仕方なしに、例の『専門家』という業者から聞かされた話を、ある程度信用してしまったフシがある。  だけど、それも無理はないんだ。というのも、業者の知ったかぶりの説明が、ハブに対する素人《しろうと》考えと、いかにも一致するものだったからなんだ。だけど、年が明けてから、捜査陣が本格的にハブの毒に関する調査をしてみると、常識だと思い込んでいた事柄が、次々と覆されてきた。  蛇を扱う業者は、あくまでハブの捕獲の仕事だけをさせておけば十分だったのであって、すべてのハブの毒液の量を調べ、『犯人』役のハブを限定するなんていう、よけいなサービスは無視すればよかったんだ」  朝比奈は、カップに残っていたコーヒーを飲み干し、レジのほうにいたウエイトレスに、目で合図しておかわりを注文した。 「なあ、耕作」  平田は、朝比奈をまじまじと見つめて言った。 「素人がハブに対して抱いているイメージをどう覆してくれるのか知らないが、おまえは、いつからハブの専門家になったんだ」 「じつはぼくも……」  朝比奈は真剣な顔で言った。 「以前、ハブの毒で人を殺そうと思ったことがあるからさ」 「なんだって!」 「ただし、推理小説の中でだけどね」  朝比奈は、にこっと笑った。 「なんだ……驚かすなよ」  平田は、ため息とともに肩をガクッと下げた。 「そりゃあ、耕作は推理作家だからな、人を殺すのが商売にはちがいないけど……」 「それで、その作品を書くために、沖縄県立の研究機関であるハブ研究所などに問い合わせて調べてみたんだが、ハブを使って現代版の『まだらの紐《ひも》』事件を起こすには、かなり無理があることがわかった。それで、実際のストーリーには組み込まなかったという体験があるんだよ。だから、村木昇の事件報道を目にしたとき、何かおかしいな、と思ったんだ」 「じゃあ、具体的に聞かせてくれないか」  平田は言った。 「ハブの毒ではかんたんに人が死なないという話を」 「オーケー。まず、今回の事件と、シャーロック・ホームズの『まだらの紐』との決定的な違いは、同じ毒蛇による殺人でも、ホームズの物語に出てくるのはコブラで、東京で起きた現実の事件はハブだった、ということなんだ」 「どこが決定的な違いなんだ。どちらも同じ毒蛇だろ」 「同じ毒蛇でも、毒の作用の仕方が決定的に異なるんだよ。コブラの毒は神経に作用する。神経毒だ。けれどもハブの毒は血管に作用するタイプで、出血毒と呼ばれている。つまり、神経毒ではないんだ」 「そう言われてもピンとこないな」  平田は首をひねった。 「神経にダメージを与えるのと、血管にダメージを与えるのと、いったいどう違うんだ」 「神経毒は、出血毒に較べて、死に至る速度が比較にならないほど速いということだ。逆をいえば、出血毒の一種であるハブの毒は、必ずしも大急ぎで手当しないと致命的になってしまうとは限らない。ハブの棲息地《せいそくち》である奄美大島や沖縄では、当然、血清は病院にそろえてあるが、咬《か》まれてから一時間してやってきても、じゅうぶんに命は救うことができる。……というよりも、よほど運が悪いケースでないと、ハブに咬まれて死ぬことはないんだ」 「ほんとかよ……」  ハブに咬まれたら、一刻を争って血清の注射を打たないと助からないと思い込んでいた平田は、まったく意外だというふうに首を振った。 「じゃあ朝比奈、実際にハブに咬まれると、どんな症状になるんだ」 「まず咬まれたところに、毒牙《どくが》の穴がポツンと二つ開き、そこを中心にして強烈な痛みがはじまる。これはほんとうに猛烈に痛いそうだ。たんに皮膚に穴が開いたから痛いのではない。ハブの毒が作用して、血管が破壊される痛みだ」  朝比奈は、自分の腕を出して説明をはじめた。 「咬まれて五分ほど経つと、そこの部位がどんどん腫《は》れ出してくる。やがて、その周辺は内出血のために真っ黒けになる。ハブの毒で、咬まれた近辺の血管がやられてしまうためだ」 「話を聞いているだけで、痛くなってくるよ」  と言って、平田は顔をしかめながら自分の腕をさすった。 「ひどい場合は、腕をやられたのに、腫れが肩のあたりまで広がってしまうこともある」  朝比奈はつづけた。 「ここまで広範囲に激しい炎症が起きると、血液中の水分がどんどん外に出てしまう。その結果、血圧が低下し、それによってショック死を引き起こしてしまう——これが、ハブ毒でやられる不運なケースその一だ」 「その二は?」 「毒が腎機能に影響してしまう場合。そして、不運にも死に至る第三のケースは、ハブ毒アレルギーとでもいおうか、体質的にハブの毒に弱い人が咬まれたときだ。それも、初めて咬まれたときは、たいしたことにならなかったのに、運悪く、再度咬まれてしまったときにショック死を起こす場合がある」 「蜂に刺されたケースで、同じ話を聞いたことがあるな」 「それと同じだよ」  朝比奈はうなずいた。 「たぶん、第一回目の災難で、体の中にハブ毒に対するアレルギー抗体のようなものができてしまうんだろう。そいつが、二度目にハブ毒の侵入を受けたとき、過剰反応をするんだ。それで、体のバランスが崩れ、致命的なことになる」 「じゃあ、それ以外の場合は血清なしでも平気というわけか」 「そうは言い切れないよ。ただ現実は、ハブに咬まれて血清を打たない人はいないからね。血清なしで自然治癒するものかどうか、データがないんだ。たまに、なんの手当もせずに放置して死んでしまう人もいるが、沖縄でいえば、ハブによる毒死は二年前にそうしたケースがあったかな、と、そんな程度の頻度でしかない」 「そうすると、ハブの毒というやつは、思ったより弱いんだ」 「弱い、という言葉は語弊があるかもしれないが、少なくともコブラなどに較べたら、まだ救いようのある毒ということになる」 「救いようのある毒、ね」 「そういった事実を前提にして、もうちょっと東京の事件を掘り下げてみよう」  朝比奈は、手元のコピーを順番に繰っていった。 「これはおそらく、事件当日の、誤った認識のもとに発表された捜査結果を、さらにマスコミがそのまま報じたものだと思うが、被害者は、部屋に放たれた八匹のハブのうちの二匹に咬まれて、それが致命傷となって死んだことになっている。そして、毒液の保有量が極端に少ないハブが二匹いたことからも、その事実が証明される、とある。でも、ここにも重大な誤認がある」 「………」  平田は、無言で朝比奈に先を促した。 「ハブは、獲物を一回咬んだだけで、すべての毒液を放出したりはしないんだよ」 「というと?」 「だって平田、ちょっと考えてみればわかるだろう。もしもだよ、危険を感じて相手に咬みついたはいいが、そこで武器を使い果たしてしまっては、第二の攻撃があったときに困るじゃないか。いや、戦闘だけでなく、食料としてネズミをとるときのことを考えてくれてもいい。一匹のネズミを仕留めるのに毒液を全部使ったら、もっと欲しくなっても、毒液が再分泌されるまで待たねばならないのか、という疑問が出る。あるいは、ネズミを呑《の》み込んでいる最中に、敵に襲われたら、どうするんだ、とね。自然の摂理は、そんな不便なシステムを作ったりはしないものだ」 「では、実際には……」 「個体差はあるが、ハブがふだん蓄えている毒液の量は、おおよそ一ccといわれている。そして、一回の攻撃で放出する量は、平均して、だいたいその十分の一だという」 「じゃあ、毒液がすっからかんになっていたハブがいたというのが、そもそもおかしいんだ」 「そういうことだね」 「では、犯人が被害者の肩や太ももにハブをあてがって、強制的に毒液を全部吐き出させたのかな。ほら、よくテレビの科学番組なんかで見るじゃないか。ハブのアゴのところをギュッと押さえて、ガラス瓶《びん》の中に毒液を採取しているのを」 「そうやって咬《か》みつかせたにしても、はたして村木昇があっさりと死んでくれたかどうかは、やはり疑問なんだ。というのはね」  朝比奈は、コピーの余白に走り書きしたメモを、平田に示した。 「ハブの毒性を人間で調べるわけにはいかないから、ラット、つまり実験用のネズミで確かめたデータがあるんだが……」 「この『LD50』という数字の部分か」 「そうだよ」 「なんだい、この『LD50』っていうのは」 「実験動物十匹以上のグループの50パーセント、つまり半数にとって致死量となる毒物の分量を表したものなんだ。通常は『mg/kg』の単位で示される。つまり、実験動物の体重一キログラムあたりのLD50値をミリグラム表示するわけだ。それによると、ネズミで調べたハブ毒のLD50値を人間に換算すると、仮に一匹のハブが、蓄えているすべての毒液を注ぎ込んだとしても、人間を死に至らしめることはできない計算になる」 「二匹では?」 「さあね。単純に数値を倍加して検討するわけにもいかないのが、毒の有効性なんだ。人体実験をして確かめられない以上、あまり数字の遊びをするわけにもいかない。ともかく、最低限いえることは、二匹のハブが『自発的に』村木を襲っただけでは致命傷には至らない、ということだ」 「だけど村木が、いま耕作が話してくれたような、ハブに弱い特異体質だった可能性もあるだろう」 「それにしたって、ハブの毒は神経毒じゃないことを忘れないでくれ」  朝比奈は言った。 「村木が本気で助かろうと思えば、行動をとる時間はじゅうぶんにあったはずなんだ。裏を返せば、村木を確実に殺すには、犯人はずっとその場に付き合っていなければならなかったわけだ」 「なるほど」 「村木にハブを咬みつかせる段階までは、彼に酒なり睡眠薬を与えるなりして、無抵抗状態におけたかもしれない。けれども、いったんハブに咬まれたあとの村木は、激痛と死の恐怖とで、眠っているどころの騒ぎではなくなったはずだ」 「パニック状態になっていただろうね」  平田も同意した。 「と、すればだよ」  朝比奈は強調した。 「犯人としても、生半可なことでは、村木の抵抗を抑えられなかったのではないだろうか。村木は、当然、部屋の外に飛び出すなり、電話でフロントを呼び出すなり、あるいは大声で助けを求めるといった行動を考えたに違いない。そして、ハブの毒だったら、そうした懸命の抵抗を行う体力的な余裕はじゅうぶんに残っているものなんだ」 「だけど、報道でみるかぎり、村木は無抵抗に近い状態で死んでいたようだね。それも全裸で」 「そこが謎《なぞ》なんだ。それから、毒液の量が極端に少ない状態になっていた二匹のハブの存在も、これまた謎だ」 「でも耕作、おれがさっき言ったように、村木に咬みつかせたあとで犯人が強制的に毒液を吐き出させていたら、毒液の蓄えはどっと減るんじゃないのか」 「きっと、そういう過程があったのだろうが、問題は毒液の再分泌に要する時間だ」 「再分泌に要する時間?」 「例の、自称『専門家』の蛇業者は、警察から依頼を受け、ホテル客室内に放たれていた八匹のハブを捕らえ、すぐにそれぞれのハブの毒液の量を調べたらしい。一一〇番通報があったのが午前九時ごろということだから、毒液量の調査も、きっと午前中のうちに行われたのだろう。その時点で、八匹中二匹のハブの毒液保有量に圧倒的な差があったとすれば、強制的に毒を吐き出させられたハブは、まだ毒液をじゅうぶんに再分泌する間もなく調べられたことになる」 「そうか……」 「ということは、だよ」  朝比奈は、平田のほうに身を乗り出すようにしてつづけた。 「平田が推測するように、二匹のハブを村木の体に咬みつかせ、その毒を強制的に絞り出すような行為が犯人にとって可能だったとしても、その行為は、死体発見の直前に行われていなければならない」 「そうだよな……」  徐々に平田は、重大な矛盾に気づきはじめ、深刻な顔になってきた。 「ところが、村木昇の死亡推定時刻は、もっと前だったんじゃないか、平田」 「そうだ、そのはずだ」  平田は朝比奈の持っていた新聞記事のコピーを引っくり返した。 「午前三時から四時……とあるな」 「死んだのが、遅くとも午前四時ならば、ハブに咬みつかれたのは、もっと前になる計算だ。村木がなんらかのショック症状を起こし、急死したのでないかぎり、一時間か二時間という単位どころか、もっと時間がかかったかもしれない」 「うん……ハブは神経毒じゃないからな」  ようやく、平田もハブ毒の実情を把握した会話をするようになっていた。 「それなのに、ずっと後になって調べた時点で、毒液保有量の少なかった二匹のハブがいたというのは、なんだか矛盾する気がするな」 「仮に、そいつらをハブAとハブBと呼ぼう」  カフェオレ色の髪をかきあげて、朝比奈は言った。 「そのハブAとBが犯人の手によって、毒を無理やり放出させられたのが、死体発見の直前だとしたら、ハブABは、村木に咬みついたハブと同一である確証は何もないことになる。と同時に、犯人は、警察が現場に踏み込んだ時点で、まだ、そのホテル周辺にいた公算が大いにあるとみられるわけだ」 「じゃあ、毒蛇を使う殺害手段は、犯人にとってアリバイ工作の意味などは、まるで持っていなかった……」 「そうだよ。そのことがハッキリしただろう」  朝比奈はうなずいた。 「うーん」  平田はうなって腕組みをした。 「ちょっと整理をさせてくれないか、耕作」 「いいよ」  と言って、朝比奈は前のめりになっていた体を、椅子の背にもたせかけた。 「村木は十二月三十日に、問題のホテルにチェックインしている」  一語一語かみしめるようにして、平田は言った。 「そして、その日の深夜——十二月三十日から大《おお》晦日《みそか》の三十一日にかけて——1707号室で、村木は犯人と会った。犯人は男か女かわからないが、村木が全裸で死んでいたことから、犯人は女の可能性が強い気がする。でも、女の仕業にみせかける偽装工作だった可能性もあるから、なんともいえないけど……。  そして、村木はハブに咬まれた。犯人が直接ハブを操ったのか、ハブが勝手に襲ったのか、それは不明だが、ともかく村木は、肩の付け根と太ももの付け根をハブに咬まれた。  最初は、その毒が直接の死因になったと考えられたが、ハブ毒では、大いに助かるチャンスがあった。それなのに、村木は外に助けを求めなかった——というよりも、それができなかった。なぜなら、彼のそばに犯人がずっとついていたからだ。しかも、パニック状態になっていたと思われる村木を力ずくでも抑えられたわけだから、その観点からみると、さっきとは正反対に、犯人は男であった気もしてくる。いや……」  ちょっと考えてから、平田は言った。 「男と女がペアを組んで、犯行に及んだ可能性もあるな」  朝比奈が黙っているので、平田はつづけた。 「こうなってくると死因がほんとうにハブの毒だったのかどうか、疑わしいが、ともあれ村木は死んだ。それが、午前三時から四時の間だ。しかし、さらに、それからずっと後の段階で——ひょっとしたら、ホテルの清掃係が死体を発見した午前九時にかぎりなく近い時点で、犯人は、二匹のハブAとBの毒を絞り出した。この意味がわからない……そうだ」  テーブルに目を落としたまま語り続けていた平田は、そこで、顔をあげて朝比奈を見た。 「もしかしたら、犯人は、八匹のハブを部屋に放って立ち去る前に、少しだけ毒液を確保しておこうと思ったんじゃないかな」 「なんのために」 「おまえの推理小説みたいだけど、たとえば次の殺人のために」 「人を殺すには、たいして役立たないハブの毒を、か」 「たとえば、この毒を飲んだらどうなるんだ」  平田はきいた。 「血管にダメージを与えるくらいの毒液なんだから、太ももなんかに咬《か》みつかせるよりも、むしろ口から飲ませて、内臓をボロボロにしてしまったほうが致命傷になるんじゃないか」 「ぜんぜん」  朝比奈は首を左右に振った。 「ハブ毒はタンパク質の一種だ。ということは、人間の消化液の中に含まれるタンパク質分解酵素で、たちまち無毒なものに変えられてしまう」 「ほんとうかよ……」 「ああ、ほんとうだ」  朝比奈は、にべもない調子で答えた。 「じつはハブ毒による殺人というミステリーを考えたとき、最初に、ハブの毒を抽出《ちゆうしゆつ》して、それを人間に飲ませるアイデアを思いついたんだ。ところが、この方法では人は死なない、というふうにハブ研究所の人に一蹴《いつしゆう》されたよ」  苦笑いを浮かべて、朝比奈はつづけた。 「ほら、ハブに咬まれたら、すぐに傷口に口をあてて、血液ごと毒を吸い出せというだろう」 「ああ」 「あれは、ハブの毒を呑《の》み込んだって平気だからこそできる応急処置なんだ」 「そうか……」  平田は大きなため息をついた。 「じゃあ、ますます、何のために犯人がハブを使ったんだか、わからなくなってきたな」 「いや、そんなことはない。平田も、いいところまで漕ぎつけているんじゃないか」 「どういうふうに」 「東京の事件と、出雲の事件を結びつけようとしている点だよ。さっきぼくは言っただろう。キーワードは『出雲』だ、と」 「ああ」 「なんのために八匹もの毒蛇を部屋に放ったか、考えてみろよ」  朝比奈は、たたみかけるように言った。 「仮に、最初の二匹で村木を殺せたのなら、それ以上のハブを放つ必要はなかった。では、村木を脅すため、あるいは猟奇的な雰囲気を演出して世間を騒がせるために、たくさんのハブを放ったのか。だったら、なぜ七匹でも九匹でもなく、八匹なのか。『八』という数に何か特別な意味があるのか」 「………」  平田は、相手の勢いに圧倒され、黙ったままでいた。 「もしも、どうしても八匹にこだわる必然性があったとしたら……」  沈黙する平田に向かって、朝比奈はきっぱりと言った。 「それは、まさにマスコミがネーミングしたとおり、ヤマタノオロチとの関連性を、犯人が強調したかったためではないだろうか」      3 「なに、推理作家がウチに泊まる?」  フロントのカウンター越しに平田を見つめると、宿の主人の須賀宏は眉をひそめた。 「まあ、そこからの立ち話じゃナンだから、事務室のほうへ回ってきてくれないか」  須賀に言われて、平田は脇のドアから事務室として使われている六畳の和室に入った。 「突然で申し訳ないとは思いますが、この先しばらくは、予約もガラ空きの状況ですから、泊めてやってもかまわないかな、と……もちろん、客として、きちんと宿泊料を払うのはいうまでもありませんけど」  平田は、入口に近い畳の上に正座して言った。 「そりゃあ、お客さんは歓迎だよ」  須賀は、あいかわらずピシッとした横分けのヘアスタイルで、ワイシャツにネクタイを締め、その上からVネックのセーターを羽織るという格好だった。 「だけど、なんでまた推理作家がウチに」  須賀は、こだわって再度たずねた。 「新作の執筆のために、どこか籠《こ》もる宿がほしいというんです。なんでも、東京にいたのでは、編集者の催促が厳しいとかで」  平田は、朝比奈と打ち合わせ済みの話を、宿の主人に言った。 「それで彼は、きょう東京からこちらにきたんですが、宿も決めていないというので、じゃあ、私の勤めているホテル八重垣はどうかと薦《すす》めたんですよ。本人は、いま大社のそばの喫茶店で待っているんですけれど」 「どれくらい泊まるつもりなのかな、期間は」 「とりあえず一週間ほど、と言っています」 「一週間も?」  須賀が聞き返した。 「ええ、観光じゃありませんからね。それくらいの日数は滞在したいらしいんですよ。で、私からこんなことをお願いするのも厚かましいんですが……」  平田は、笑顔をつくって言った。 「一週間も泊まるわけですから、できることなら、長期滞在の割引をしてやってくれませんか」 「割引か」 「ちょうど、新生『八重垣』のサービスのひとつとして、それを検討していたところでしょう」 「まあねえ……」  須賀は、横分けにした髪を無意識に撫《な》でながら、しぶい顔をして返事をためらった。  日本の旅館に独特の人情味がなくなったのは、ひとつは長逗留《ながとうりゆう》の客に対して宿泊料の便宜を払うところが非常に少なくなったせいでもある、と平田はかねがね思っていた。  一週間泊まろうが、十日泊まろうが、単純に一日の料金×日数で機械的に処理してしまうところが多いが、贔屓《ひいき》の客を大切にしようという宿側の温かい気持ちが、もっと感じ取れるような粋な計らいがあってもいいのではないか。平田は、そう感じていたので、改装後の八重垣では、長く泊まれば泊まるほど、一日の宿代がかなり安くなっていくシステムを提案していた。  考えてみれば昔の文豪は、たいして経済的に恵まれていないにもかかわらず、馴染《なじ》みの宿に長逗留する習慣がよくあった。  川端康成はどこそこ、太宰治はどこそこ、といったふうに、一つの作品を仕上げるために籠もりきりになったという、いわれのある宿が、それぞれの文豪には必ずあるものだ。  ところが朝比奈耕作のような現代の作家は、それをしようにも、宿泊費の高騰と長期滞在の客に対するサービスがないために、一つの作品を日本旅館に籠もって仕上げるなどという『ゼイタク』は、まったく不可能になっている。  いわゆるシティホテルにカンヅメというのはあっても、和風の宿に籠もって作品を書き上げていたのでは、採算に合わないことおびただしい。  ホテル八重垣の再生計画のプロデューサーとして、平田はそこに目をつけた。  宣伝費と思って、有名作家に超格安で宿を提供する。そして、一作品書き上げてもらって、『○○先生が、△△という小説を書き上げた宿』としてPRするのである。  さすがに、朝比奈耕作のような推理作家では、出雲の宿のイメージにそぐわない。やはりここは、芥川《あくたがわ》賞か直木賞を取った経歴があり、見た目も風格のある作家がのぞましい。  だから、若手の推理作家ときいて須賀がためらうのも理解できたが、どうせいまは、女性用の風呂の改装工事に入ったところで、満足に客の予約も入ってこない。一週間も泊まってくださるお客に対しては、いくら割引したところでバチは当たるまい。 「ま、今回だけは平田君の顔を立てて、便宜を図るけど、しかし、推理作家というのはねえ……」  須賀がしぶい顔を崩さないので、平田は、なぜそんなにためらうのか、たずねてみた。 「この宿をモデルにして、殺人事件などを書かれちゃ困るからな。せっかく、新しく出直そうとしているのに」 「そういったことなら大丈夫ですよ」  平田は、須賀を安心させるように笑った。 「朝比奈がいま書いている作品には、出雲は出てきませんから。ただ、小説とはべつに、日本神話ゆかりの地として、彼もいろいろと興味は引かれているようなんですよ。とりわけ、縁結びの神として信仰されている出雲大社にね」 「ああ、縁結びといえば……」  平田の言葉で思い出したように、須賀がポンと膝《ひざ》を叩《たた》いた。 「東尾とめぐみさんは、別れることになったらしい」 「え?」  思わず平田は、明るい声で聞き返してしまった。 「あの二人が、結婚をとりやめる……んですか?」 「そうらしい。きのう、東京に戻っている東尾から電話があって、出雲なんかにきたせいで、めぐみと別れることになった、と、八つ当たりされたよ」  須賀は苦笑した。 「やっぱり、例の、大《おお》晦日《みそか》の行方不明事件がきっかけですか」 「どうもそのようだね」  平田の質問に、須賀も、どこか『いい気味だ』というような表情を浮かべて答えた。 「なんでも、めぐみさんは出雲大社で、お告げのようなものを聞いてしまったと言い張って譲らないんだそうだ。幸せになりたいのなら、いまの婚約者と結婚してはならぬ、と言われたとね」  平田が直接めぐみから聞かされたことを、須賀は繰り返した。 「それで、東尾としては、乗っ取り話どころではなくなってしまったようだ。ひょっとすると、須賀が要らぬ入れ知恵でもしたのではないかと、こっちにも八つ当たりの矛先を向けてくる始末だ」 「そうですか」  あいまいな相槌《あいづち》を打ちながら、平田は、年の変わり目に出雲大社の神楽殿《かぐらでん》の前で、めぐみと偶然出会ったときのことを思い出していた。  あのとき、東尾との結婚に疑問を抱きはじめたと告白するめぐみに対し、ぼくも同感ですね、といってけしかけたのは平田である。  そして宿に戻ってからは、姿をくらましていためぐみに対し東尾が激しく怒り、めぐみも清楚な容貌に似合わず、私はもう心変わりをしてしまいました、と言い張って譲らなかったため、二人の間には、決定的な亀裂が入ってしまったのだった。  須賀がいうように、当初の乗っ取り話は棚上げとなり、東尾とめぐみは、二人の問題の解決のために、元日早々にホテル八重垣を引き払い、東京に戻ってしまった。  その日は、ホテル八重垣の泊まり客であった矢作賢作が稲佐の浜で殺された事件で大わらわだったため、須賀も平田も、東尾たちの件はそっちのけという感があった。  だから、二人が急に帰ることになっても、そちらにまで注意を払う余裕がなかった、というのが実情であった。 「まあ、ともかく……」  膝《ひざ》に手をついて立ち上がりながら、須賀は言った。 「当座は東尾も、こっちの妨害などする余裕もないだろうから、宿の改革にしっかり集中できると思う。なんといっても、ことしが勝負だ。頼むよ、平田君」      4  出雲大社から山陰路を百三十キロほど東にいき、鳥取砂丘まであと七、八キロのところに『白兎《はくと》海岸』と呼ばれる、日本海沿いの砂浜がある。(巻頭地図参照)  ここは、『因幡《いなば》(稲羽)の白ウサギ』としておなじみの、日本神話の舞台となったところである。  ヤマタノオロチ退治で知られた須佐男之命から六代後の大国主命《おおくにぬしのみこと》(出雲大社での解釈では須佐男之命の子供)には、八十神《やそがみ》と呼ばれる大勢の兄弟神がいた。  この八十神が、稲羽の国に八上比売《やがみひめ》という美しい娘がいると聞き、我こそは妻に娶《めと》らんと出かけていった。  大国主命は、兄弟の中でいちばん年下だったため、荷物持ちとして、列の最後尾からついていった。  その道中、気多《けた》の岬にさしかかったところで、一匹の兎《うさぎ》が皮を剥《む》かれ、文字どおり赤裸になって泣いているのに出会った。  大国主命の兄弟神たちは面白半分に、海の水を浴びて風に当たっていれば治るとデタラメを教え、それに従った兎は、前よりももっとひどい痛みに悶《もだ》え苦しんだ。  そこへ遅れてやってきた大国主命が通りかかり、事情をきく。  それによると、兎は沖合二百メートルほどのところにある淤岐《おき》ノ島に住んでいたのだが、どうしても向こう側の陸地に渡りたくなり、そのために一計を案じて、周辺を泳いでいるワニザメに呼びかけた。  島に住んでいる兎と、おまえたちワニザメの仲間と、どちらが数が多いか較べてみようと、提案したのである。  そこでワニザメはすべての仲間を引き連れて、兎の指示どおり、淤岐ノ島から気多の岬までズラリと並んでみせた。  兎はその数を数えるフリをして、ワニザメの背中をピョンピョンと飛んでゆき、陸地まで渡り切ったところで、ワニザメにむかって、おまえらは騙《だま》されたんだと囃《はや》し立てたところ、いちばん岸に近い場所にいたサメが激怒して兎に襲いかかり、丸裸に皮を剥いてしまった——といういきさつである。  一部始終を聞き、かわいそうに思った大国主命は、川の真水でよく体を洗い、蒲《がま》の穂を敷いた上に寝転がるよう兎に教えた。  そのとおりにしたところ、兎の傷は癒えたので、感謝した兎はこう言った。 「八上比売は、あなたのように優しい方に娶られることになるでしょう」  そして兎の予言どおり、大国主命は、兄たちとの争いに勝ち、八上比売を妻に迎えることができた。  やがて、大国主命は国を興した。  それが、豊葦原《とよあしはら》の水穂国《みずほのくに》である。  ——これが『因幡(稲羽)の白ウサギ』として、よく知られる神話の概略で、舞台となった鳥取県白兎海岸周辺には、それに関連した神社や歌碑などが建っている。  奇しくも、朝比奈耕作が出雲を訪れた同じ日の朝早く、その白兎海岸の砂浜では、男性の絞殺死体が発見され、地元ではちょっとしたニュースになっていた。  被害者は、名古屋の私立大学に勤める三十一歳の文学部講師、葉山実《はやまみのる》。  首を麻紐状のもので絞められたのが直接の死因だったが、それだけならば、いかに凶悪犯罪の少ない土地であっても、さほど人々の関心は集めなかっただろう。  だが、捜査陣や地元の野次馬を仰天させたのは、死体に与えられた『猟奇的な』損傷であった。  唇をブルブルと震わせながら、興奮して警察に駆け込んできた第一発見者の弁を借りるならば、死体の顔は『赤剥《あかむ》け』になっていたのである。  その言葉だけでは状況判断できなかった警察官も、実際に砂浜に横たえられた遺体を見たときは、呆然と立ち尽くして、しばし言葉もなかったほどだった。  顔の皮膚が、まるで粗い目のヤスリか、おろしがねでもかけたように、ズタズタになっており、赤い真皮が露出して、すさまじい状態になっていた。  それは擦過傷というような生易しいものではなかった。まさに、ワニザメに皮を剥がれた因幡の白ウサギよろしく、顔が真っ赤に剥けていたのである。  被害者は、スーツにオーバーコートを羽織っており、背広のポケットには現金六万数千円の入った財布があり、その中に、身分証明書や運転免許証、それに名刺なども入っていた。  それらの持ち物から、身許はすぐにわかったのだが、いかんせん顔の損傷が激しいので、捜査陣としても、ほんとうにこの人物が、身分証明書の本人であるかどうか、慎重にならざるを得なかった。  身分証明書から名古屋の大学に連絡がとられ、さらに被害者『葉山実』の家族にも通報がいったのだが、問題は、遺族による遺体確認をどうするかだった。  被害者の同居家族としては、四年前に結婚した妻がひとりいるだけで、子供はない。  だが、この惨たらしい顔を、まだ年若い妻に見せるのは、あまりにも衝撃が大きすぎると思われたし、顔を見せたところで、本人か否かの確認を求めるのは、ほとんど無理といってよかった。それほど状態はひどいのだ。  そこで捜査陣は、少しでも冷静に判断をしうる人物として、大学関係者三名と、犬山市に住む被害者の実兄の到着を待つことにした。  いずれ血液型や歯型、それに比較照合サンプルがあればDNA鑑定を行なって完璧を求める必要が出てくるだろうが、初動捜査をスムーズに進めるためにも、この死体が葉山実本人である可能性がどの程度高いものなのか、身内の人間からの確証がほしかったのである。  肉親及び大学関係者の到着は夕刻になる見込みだったが、それを待つ間にも、鳥取県警ならびに所轄署は、被害者の死亡状況に関する捜査を進めていった。  死亡時刻は、前夜の十一時から午前零時の間と推定された。  では、夜更けに海岸を一人で歩いたところを物盗りなどに襲われたのか——しかし、その可能性は即座に否定された。  財布に六万数千円の金が手つかずで残っていたこともあったが、それとは別に、背広の内ポケットから、なんと現金五十万円の入った白い封筒が見つかったのである。  これは、第三者から受け取ったものなのか、それとも被害者自身が用意したものなのか、その確認が急がれた。  そこで、被害者の財布の中に残っていたキャッシュカードから調査した結果、前日の午後、名古屋駅前にある銀行のクイックコーナーにおいて、葉山本人が最初に十万円を、つづいて五十万円を引き出したことが、取引記録と防犯用ビデオの映像から確認できた。  つまり葉山は、名古屋から鳥取へ向かう当座の費用とは別に、何かの目的があって、五十万円もの大金——当人の給料や預金残高からすれば、まさにそれは『大金』だった——を用意したことがわかった。  しかも、五十枚の一万円札が入っていた白い封筒は、かなり上質のものだったので、それが誰かに封筒ごと渡すために準備した金である可能性は濃厚だった。  では、葉山が何者かに恐喝され、あるいは何かの報酬として渡すために五十万円を準備し、鳥取市近郊の白兎海岸を訪れたところを、殺されてしまったのだろうか。  それにしては、五十万円もの金が手つかずに残っていたのはおかしい。  いずれにせよ、本人を取り巻く詳細な事情を知るには、家族や関係者の到着を待つよりなかった。  が、その聴取が行われるほんの数十分前、現場一帯の遺留品捜索をつづけていたチームが、重要な発見をした。  葉山が倒れていた場所から二十メートルほど離れた砂浜で、半分ほど砂に埋もれた状態で『ある物』が見つかったのだ。  それには、明らかに被害者の顔を『赤剥け』にするために用いたとわかる証拠が付着していた。  その『ある物』とは——気の利いたそば屋などでざるそばなどを頼むと、生のワサビとともに出てくる、サメの皮[#「サメの皮」に傍点]を利用した小さな『おろしがね』だった……。 [#改ページ]   第四章 神々の集う社《やしろ》      1  改装工事の第一段階にとりかかったホテル八重垣に朝比奈耕作が荷物を下ろしたのは、夕方の五時だった。  すでに昼すぎには、平田のはからいで、格安料金にて一週間滞在できることが決まっていたのだが、朝比奈はすぐには宿にチェックインをしなかった。  明るいうちに出雲大社やその周辺を歩き回って土地鑑を養い、さらに稲佐の浜まで足を延ばして、北海道の牧場経営者、矢作賢作が殺された現場を確認しておこうと思ったからである。  主な道路は除雪してあったが、稲佐の浜は白一色に覆われた見事な眺めを呈していた。 弓なりにカーブする波打ち際に沿って、海の灰色と浜辺の白がくっきりと分かれている。  短めのスノーブーツを用意していた朝比奈は、雪の浜辺に足跡を残しながら、沖合をながめつつ、ゆっくりと歩いた。そして、ときどき物思いにふけるように立ち止まる。  ヤマタノオロチと竜蛇さん——いずれも出雲地方を舞台とする神話・伝説に登場するヘビだが、これを連想させる二つの殺人は、はたして、この出雲の地で何らかの結びつきを見せるのだろうか。  朝比奈は、そのことをしきりに考えていた。  もしもそのとき、東方百数十キロの、やはり日本海を臨む砂浜で起きた殺人事件のニュースが朝比奈の耳に入っていたとしたら、彼はもっと早く、一つの結論を導いていたかもしれない。  だが、この時点では、まだ朝比奈は解釈に迷っていた。  ハブを八匹放つ理由と、入手しにくいセグロウミヘビの死骸を被害者の死体のそばに置く理由、その理由に共通項が見いだせれば、両事件の犯人が同一である確信も出てくる。鍵は出雲にあり、と思うのだが、まだ、朝比奈自身も断定するところまでは踏み切れていなかった。  自分の足であちこちを歩き回ってから、夕刻にホテル八重垣に入り、夕食を部屋でとって一息ついた夜の九時ごろ、部屋の内線電話が鳴った。  平田の声で、宿の主人の須賀が朝比奈に会いたがっているという話だった。  宿泊スペースとは渡り廊下で繋がっているところに須賀の自宅があるのだが、そこの客室にきてほしいとの連絡である。  表向きには、平田君のお友達ということなのでお近づきのしるしに軽く一杯やりませんか、とのことだったが、須賀の狙いは、朝比奈耕作がどんな人物なのか見届けておく点にあるのだろう。朝比奈は、そう思った。  ホテルの裏側にある須賀の自宅は木造平屋建てで、さほど広いものではなかった。  雪をかぶった小さな中庭が、ホテルの裏窓の明かりに照らし出されている。それを横目に見ながら、歩くたびにギシギシと音を立てる廊下を進むと、左手に十畳ばかりの広さの客間があった。  たったいま点けたばかりという感じのガスストーブが、シューッという音とともに青白い炎を立てて燃えていた。  板張りの廊下も足に冷たかったが、客間の畳もじゅうぶんに冷えきっている。その中央に漆塗りの長机が置かれ、座布団が片方に二つ、その反対側に三つ出ていた。  客間に足を踏み入れた朝比奈と平田が、どこに座ったらよいのか、立ったまま迷っていると、閉まっていた反対側の襖がスッと開いて、須賀伸江が顔を出した。 「ようこそいらっしゃいました。あるじの須賀の姉でございます」  額を畳に擦りつけるようにていねいに挨拶をされたので、朝比奈もあわてて正座をして頭を下げた。 「平田君の友人の朝比奈です。一週間ばかりお世話になりますが、どうぞよろしくお願いいたします」 「いますぐ須賀が参りますので」  顔をあげながら、伸江はそうつけ加えた。  そのとき初めて、伸江と朝比奈がまともに目を合わせた。  たがいに、相手の容姿に注意を惹かれたのが瞳の動きでわかった。  伸江は朝比奈の髪の毛とメイクした顔に素早く目を走らせ、朝比奈は、伸江の昭和三十年代ごろの水商売の女性を連想させる、なんともレトロな髪形と化粧法に意表をつかれた形になった。 「では、すぐに弟が参りますので」  つけ睫毛をパタパタと動かし、同じことを言うと、伸江は朝比奈に上座を示し、いったん奥へ引き下がった。  伸江が姿を消すと、朝比奈は平田に向かって肩をすくめ、とりあえず指定された場所の座布団に遠慮なく腰を下ろした。そして、その隣に平田が座る。  やがて、咳払いがひとつして、カーディガン姿の須賀宏が入ってきた。      2  風呂上がりらしく、七三に横分けした須賀の髪は、まだ濡れて光っていた。 「寒いですね、この部屋は」  ウルルルというような声を洩らして身震いすると、須賀は、ガスストーブの炎がさらに強くなるようツマミをひねった。  そして、朝比奈の向かい側に腰を下ろし、机に両手をついて頭を下げた。 「やあ、ようこそいらっしゃいました。須賀です。平田君には、いろいろお世話になっておりまして、もはや八重垣の再建は彼ヌキでは考えられないくらいなんですよ」  そう言って、須賀は平田の方に笑顔を向けた。 「それにしても、あいにくの雪でしたね」  と、話を継ぐ。 「いえ、かえって雪景色の出雲大社を見ることができて、よかったです」  朝比奈は言った。 「とりわけ、本殿の大社造りの屋根が真っ白な雪に覆われている姿は、あまりに美しすぎて、ずいぶん長いあいだ見とれてしまいましたよ」 「ああ、そうですか。それはそれは……あ、これは愚妻の真理子です」  熱燗徳利《あつかんとつくり》を盆に載せて部屋に入ってきた真理子をふり返ると、須賀は、そう言って朝比奈に紹介した。  まだ三十半ばという年齢の須賀なのに、『愚妻』という呼び方はずいぶんと旧式だな、と朝比奈は感じた。  朝比奈は、愚妻とか愚息といったような、家族を必要以上に卑下した表現が嫌いだった。とりわけ、自分の妻を『愚妻』といって紹介するような男は、外づらばかりよくて、家庭内での夫婦関係は決してうまく運べない人間だという気がする。  ずっと上の世代だったら、そうした表現が口をついて出るのも仕方ない気がするが、須賀の若さで、愚妻という言葉を口にするのは、聞いていて気持ちのいいものではなかった。 「さ、まあどうぞ一杯」  須賀の差し出す徳利を盃で受けながら、朝比奈は、さりげなく真理子のほうに目を走らせた。  なるほど、平田のいうとおり、知的な美人だな、と思った。  ストレートロングの髪形が、三十三歳という実際の年齢よりも、真理子をずっと若く見せていた。  だが、彼女の顔立ちには、決して若々しさだけではない輝きが感じられた。それが知性の放つ輝きではないか、と朝比奈は思った。  須賀と平田の盃にも酒が満たされたところで、須賀の「ひとつよろしく」という言葉を合図に、三人は軽く頭を下げて盃に口をつけた。  その間にも、朝比奈は平田から聞いていた須賀夫婦のプロフィールを頭の中で復唱していた。  須賀と真理子が恋愛結婚したのは、いまから八年前。  当時は、ホテル八重垣は須賀の父親が経営しており、息子の宏は福岡の大学を卒業後、『デイリー出雲』という地元新聞社に入社し、そこで記者をやっていた。  一方、真理子は、やはり福岡の大学を卒業したのちに、博多の旅行代理店に勤めていた。  真理子は、たまたま取材で福岡に来ていた須賀と仕事の関係で顔を合わせ、偶然にも、二人が大学の先輩後輩の関係にあることを知った。そして、そこから一気に親しさを増し、結婚にこぎつけた、というものである。  結婚当初、須賀夫妻はホテルと同じ敷地にあるこの家ではなく、出雲市のほうに小さなアパートを借りて住んでいた。  宏の母親はだいぶ前に病死していたものの、当時はまだ父親がきわめて元気で、宏の姉の伸江と二人で、ホテル八重垣の切り盛りをしていたのである。  ところが三年前、その父親が急死するに伴って、一人息子の宏が後を継がざるを得なくなった。そこで彼は新聞社を辞め、実家に戻って宿のあるじの座に収まった。  この話を聞いたとき、朝比奈は、姉の伸江の立場が微妙なものであることに気がついた。  伸江は若いころに一度結婚に失敗し、その後は独身のまま親元で暮らしており、とりわけ母親が死んでからは、父と二人きりでホテル八重垣を運営してきた。  その彼女が、いくら父の死という事情があったにせよ、事実上、経営の主導権を弟夫婦に奪われることになった。  実の弟のことはまだしも、その嫁が自分に代わって女将的な立場になったのは、きっと面白くなかったに違いない。  その冷たい関係を象徴するように、伸江が弟夫婦とともに、この家に暮らしたのはほんの二カ月だけで、やがて彼女は近くに借家を見つけて、そこから通いでホテル八重垣の仕事を手伝うようになったという。  ひととおりの酒肴が机の上に並ぶと、伸江と真理子は、須賀宏を真ん中にして、その右と左に分かれて座った。  そして、長机をはさんだこちら側に、朝比奈と平田が並んで座るという位置関係である。 「それにしても、あれですね」  さほど酒が強くなさそうにみえながら、案外と早いピッチで盃を空けていく須賀が、改めて朝比奈を見つめて言った。 「前々から、推理小説を書く人には、いちどお会いしてみたいと思っていたんですよ。どんな頭の構造をしているのか、まったく想像もつかないものですからね」 「頭は普通ですよ」  朝比奈は笑った。 「でも、見た目は普通じゃないですけどね」 「そうそう、髪の毛を染めて、お化粧をなさっているのねえ」  伸江が、あたかもいま初めてそのことに気づいたように、朝比奈をしげしげと見つめながら言った。 「やっぱり、あれですか。ほら、著者近影っていうのかしら、本のカバーに写真を載せたりするから、そんなふうになさっているの」 「いえ、ぼくは、自分の写真は一切載せないことにしているんです」  朝比奈は答えた。 「いつごろから、ノベルズや文庫のカバーに著者写真を載せるようになったか知りませんけれど、あれは出版社にとっても得じゃないと思うんですね」 「ほう、そんなもんですか」  と、須賀がきいた。 「そりゃあ、森村誠一先生や内田康夫先生のようにハンサムだったり、夏樹静子先生や小池真理子先生のように綺麗な方はいいですよ。でも、そういうふうに、作品は面白いわ、顔はいいわってケースばかりとも限らないでしょ。こんなこと言うと、いろんな人から怒られちゃうかもしれませんけどね。でも、著者写真が、作品から受けるイメージと大幅に狂ってしまうことって、往々にしてあるじゃないですか」 「そういえばさ……」  平田が口をはさんだ。 「おれはハードボイルドが好きでよく読むんだけど、あのジャンルの作家は大変だよな。主人公だけじゃなくて、作家本人もカッコつけてなくちゃならないから」 「そうなんだよ」  朝比奈は、平田に向き直って言った。 「読者のほうで、作品のタッチから、どうしても男っぽい作者像を頭に描くからね」 「そうそう。ふだんから、きっとタバコはこんなふうに顔をしかめながら吸っているんじゃないか、とか。カントリー調のログハウスの暖炉の前に猟犬をはべらせて、ときおり銀のフラスコからウイスキーを喉に流し込みながら猟銃の手入れをしているんじゃないか、とか。原稿を書き終わるとトレンチコートの襟を立てて夜の街に出て、ワンショットバーでこんなふうに美女を口説いているんじゃないか、とか。その声もきっとシブイ低音なんだろうって、もう作家の私生活まで、ことこまかに、それも既成概念のかたまりで想像しちゃうんだよな」 「だから、北方謙三さんみたいに、読者側が期待するイメージにピタッとハマる人は、すごく得なんだよ。仮に、坂東玉三郎みたいな顔だったら、どんなに筆の力があったって、ハードボイルド作家でございます、って、みんなの前に出ていけない部分があるからね」 「いや、そこまで極端だと、かえってウケるかもしれないぞ」 「まあどっちにしても、作家はタレントじゃないんですから……」  朝比奈は、須賀のほうに目を戻して言った。 「写真映りの善し悪しが作品の売上げに影響するようなシステムは、出版社のほうも再考してほしいですよね。いわば作家というものは、ラジオのしゃべり手みたいなものでいいんです。ラジオのパーソナリティは声だけを武器に、すべての人柄を出そうとする。作家も、筆だけで作風を出せばそれでじゅうぶんでしょう」 「しかし朝比奈さん、推理小説のジャンルではないけれど、たとえば……」  須賀は、文学界の大家の名前を何人か列挙した。 「……のように、決してテレビ向きのお顔をしていらっしゃらない方も、堂々と写真を出して本が売れているわけですから、あまり気になさらなくてもいいんじゃないですか」 「いえ、いま須賀さんが名前を挙げられたベテランの方々は、著者近影なんて習慣が普及する前に、ちゃんと作家としての名声を確保なさっていますからね。不動の地位を築き上げた後なら後で、ああこんな顔をしていたのかと判って、たとえその顔が好みでなくても、作品のパワーの方が強ければ、たいした影響は出ません」 「なるほど、なるほど……さ、さ、どうぞもう一杯」 「いや、ぼくはもう……」  あまり酒の強くない朝比奈は、盃に手をかぶせ、須賀の差し出す徳利を断ってからつづけた。 「だけど、いまの時代は、新人のデビュー作からいきなり顔写真が載るでしょう」 「あ、そんなものですか」 「ええ、ハードカバーの単行本は別として、ノベルズと呼ばれる新書判の小説は、裏表紙かカバー袖に必ず作家の写真が出るんですよね。これは、新人にとってはきついですよ。ただでさえ、一般の読者は、『おなじみ』でない作家に対しては、なかなか警戒して手を出さない。  そもそも、本は中身をじっくり立ち読みされてから買われるものじゃありません。カバーとタイトル、オビのキャッチフレーズ、裏表紙やカバー袖に書かれた『あらすじ』——こういった外身が勝負ですからね。とりわけ新人の本に対しては、ほんとうに面白いかな、買ってもソンはしないかな、というふうに、本屋さんの店先に立った読者は、のっけから疑ってかかります。だから、少しでも減点要素があったら、せっかく手にとってくれた本も、すぐに元の位置に戻されてしまうわけですよ。それが現実なのに、あらすじどころか、写真を見ただけで、『あ、この人、好みじゃないからイヤ』なんて言われたら、作家のほうも立つ瀬がないでしょ」 「朝比奈さんのおっしゃることって、とてもわかる気がしますわ」  須賀の妻の、真理子が言った。 「私なんか、ほんとにミーハーな読者ですけれど、買うに値するかどうか判断材料の少ない新人の場合、たしかに、作家の顔に対する好き嫌いが、だいぶ影響してくると思いますね。まあ必ずしも好きなタイプである必要はないですけれど、少なくとも、生理的にいやな場合は、どんなに中身が面白そうでも絶対に買いませんね。  有名な作家なら、いまさら顔なんて関係ないですけれど、初めて名前を見るような人の場合は、やっぱりねえ……。いってみれば、作家と読者のお見合い写真みたいなものですから……」 「そうなんですよ」  朝比奈は、よくぞわかってくれたというふうに、うなずいた。 「著者近影の掲載をほとんど義務のようにしたおかげで、こと新人作家に関していえば、かなりの売上げを損しているんじゃないですか。ま、こんなこと言っても、同意してくれる出版社はあまりないんですけどね。でも、一方では、片岡義男さんのように、徹底して顔写真を出さないことでブランド・イメージを保ちつづけている作家もいるわけですから」 「すると、つまるところあれですか」  黙って酒を飲んでいた須賀が、ポツンと言った。 「朝比奈さんは、ご自分の顔がお嫌いだから、そう言ったメイクをなさっているのですか」 「いや……べつに……そういうわけでは」  朝比奈は、急に硬い表情になって言葉を濁した。  朝比奈がメイクをするようになった心理的遠因は、子供時代から積み重なってきた、父親との激しい確執にあると指摘したのは、犯罪心理学者の尾車泰之教授だった。(『花咲村の惨劇』参照)  朝比奈の父は、彼が高校生のときに変死を遂げているが、それから十年以上の歳月が経ってもなお、父親に対する説明のつかない憎悪が、心の中に深く根を下ろしているのは事実だった。  この心理的葛藤に、最終的な結着がつくのは、のちに『最後の惨劇』と呼ばれる事件に遭遇してからなのだが、まだこの段階では朝比奈には、父親に対する大きなわだかまりが残っていた。  だからきみは、年とともに自分の顔が父親に似てくるのを恐れている——尾車教授は鋭いところを衝いてきた——それが怖いから、メイクをすることにより父親からの逃避を図っているのだ……と。 「ところで……」  自分の顔のことから話題をそらすように、朝比奈は声のトーンを変えた。 「出雲大社といえば、縁結びの神様としても有名だそうですね」  朝比奈がそう切り出してきたので、横にいた平田は、さりげないふうを装いながら、いよいよ事件がらみの話に入ってきたなと、須賀たちの反応を窺った。 「ええ、そうですよ」  須賀はうなずいた。 「お祀りしてある大国主命を大黒《だいこく》様とも呼びましてね。たしかに、縁結びの神として慕われてもいます」 「ああ、大国主命と大黒様は同じものだったんですか」  朝比奈は、ちょっと意外そうな顔をした。 「それは知りませんでしたね」  だが、隣りにいる平田は、親友のその言葉を額面どおりには受け取っていなかった。  朝比奈耕作という男は、見た目のハデさとは裏腹に、非常に綿密な性格の持ち主である。  平田からの相談を受けて出雲にやってきて、しかも、キーワードは『出雲』だ、というような感想をすでに洩らしているのだから、当然、出雲神話に関する基礎知識も頭に入れているはずだった。朝比奈とは、そういうタイプの勉強家なのだ。  だから、大国主命のことを別名『大黒様』と呼ぶ事実を知らないはずがない。それに、きょう宿に落ち着く前に、出雲大社の境内もひととおり見たと言っていたから、当然『彰古館《しようこかん》』にも足を踏み入れているだろう。  この建物は、出雲大社本殿の裏にあり、いわば大社関連の資料館の役割を果たしているのだが、その一階には、大国主命にちなんで、大黒様の置物のコレクションがずらりと陳列されている。  出雲大社の主な見どころとしては——八足門からのぞむ本殿、青銅鳥居をくぐってすぐの拝殿、長さ十三メートル・胴回り九メートル・重さ三トンという日本一巨大な注連縄を飾った神楽殿、大国主命から六代溯った先祖にあたる須佐男之命を祀った本殿裏手の素鵞社《そがのやしろ》——などがあるが、それと並んで彰古館も観光ポイントのひとつとなっている。  朝比奈のことだから、そこを見落としているとは思えない。これはきっと、自分の知識をひけらかさずに、相手にどんどんしゃべらせるための、一つの手法なのだろうと思って、平田はしばらく朝比奈と須賀のやりとりを見守ることにした。 「大黒様といえば、ぼくなんかは、すぐに袋をかついだ姿を思い出しますけれど」  朝比奈は言った。 「あの絵は、何の場面で見たのかなあ……あ、そうだ。子供のころ見た絵本ですよ。因幡の白ウサギ……ね、そうでしたよね。あのウサギは、たしかワニザメに襲われて泣いているところを、大黒様に助けられたんじゃありませんでしたか」  さりげなく言った朝比奈の言葉に、ハッと身をこわばらせた人間がいた。  須賀の妻の、真理子だった。      3  東京の明治座に近い日本橋浜町の裏通りにある黒塀に囲まれた料亭『はま』——ここが、水沢めぐみの生まれ育った実家だった。  ちょうど須賀家がそうだったように、水沢家も、料亭と棟つづきの一角に自宅として使っている居住スペースがあった。  ただし、須賀家のそれに較べると、だいぶ格が上である。自宅の部分も、料亭として使われているスペースと、見た目にはまったく雰囲気が変わらない。  そのいちばん南の端に、めぐみの部屋があった。二十畳ほどの広さを持ち、造りは和室だが、インテリアは洋風のアレンジになっていた。  本来ならば、東尾との結婚にそなえて、この部屋に置かれた個人的な品物の数々は、引っ越しのために荷造りをされていなければならないのだが、結婚が宙に浮いた形となったいまは、その必要もなくなっていた。  めぐみの両親は、一人娘の心変わりがむしろ嬉しかったようで、東尾との結婚をやめるとめぐみが打ち明けたときには、娘の心情などを詳しく追及しようともせず、それはよかったと笑顔さえ浮かべて事態を歓迎したくらいだった。  この日は、出雲地方だけでなく、東京もかなり冷え込みがきつかった。  めぐみの部屋は暖房がよく効いていたが、カーテンを開けてみると、庭に面したガラス戸にびっしりと水滴がついていた。  その曇ったガラス戸をぬぐい、それを鏡代わりにして、めぐみは、風呂あがりの髪を指で何度か梳《す》いてみた。  下着の上に、だぼっとした大きめの白いセーターを一枚だけ着た格好は、意外にも、和風美人の彼女によく似合っていた。  むきだしの彼女の脚もとには、正月に較べればだいぶ大きくなった真っ白な紀州犬が、じゃれついている。  しばらく自分の姿を見つめていためぐみは、やがてシャッと音を立ててカーテンを閉めると、愛犬を抱きかかえて、テレビの前のクッションに腰を下ろした。  そして、しばらくの間、夜のニュース番組に合わせたテレビを見るともなしに見ていたのだが、画面に『葉山実さん』と記された、彫りの深いハンサムな男性の顔写真が映し出され、つづいて、『事件のあった白兎海岸』というキャプションとともに荒波の打ち寄せる山陰海岸の映像が流れると、めぐみは画面に向かって身を乗り出し、ボリュームを大きくした。 「……殺された葉山実さんは、名古屋の私立大学で日本文学の講師をしており、人柄は非常に温厚、私生活や仕事などで他人から恨みを買うようなことはまったく考えられない、と遺族や大学関係者などは口をそろえながら、事件のむごたらしさに、いちようにショックの色を隠せずにいるようです」  ちょっと鼻にかかった声の女性キャスターが原稿を読み終えると、隣りにいたメインの男性キャスターが、ボールペンを鼻の下にあてながら、しばし眉根を寄せて深刻な表情をつくり、それからぽつんとつぶやいた。 「しかし、考えられませんね、おろしがねで顔をすりおろすなんて……」  キャスターはボールペンをデスクの上に置き、代わりに別のものを手元に引き寄せた。 「カメラさん、ちょっとこれをアップにしてもらえますか」  モニター画面を見ながら、彼が言う。  キャスターの手に載せられた、手のひらの半分ほどのサイズの羽子板状のものが大写しになった。 「こういったものは、みなさんもきっとご覧になったり、実際に使ったりしたことがあると思うんですが、生のワサビなどをおろすのに使う『おろしがね』——金《かね》じゃないのに、おろしがねと呼んでいいのかどうか、私もよくわからないんですが——ふつう、おろしがねといえば、金属にイボイボを起こしたもので、いわゆる『大根おろし』ですね。みなさんのお宅の台所にあるのは、そのタイプだと思うんですが、これはもっと小型で上品で、高級なおそば屋さんに行きますと、こういうのが生ワサビと一緒に出てきたりしますね。さて、これが何でできているかといいますと……」  薄茶色でもなく、灰色でもなく、薄紫色でもない、独特の色合いの表面を、男性キャスターの指がそっとなぞっていく。 「サメ」  効果的な間を置いて言ったあと、もういちど男性キャスターは繰り返した。 「サメの皮を、木に貼りつけてできているんですね。それこそサメ肌というくらいにザラザラで……いたたた……ちょっと力を入れてなぞると、けっこう痛いものです。なにしろ、ワサビをおろせちゃうんですから。……で」  キャスターは、力をこめて言った。 「このサメのおろしがねで、犯人はワサビでなく、殺したばかりの葉山実さんの顔をおろしてしまったわけなんです」  横で聞いている女性キャスターが、酸っぱい梅干しでも口に含んだような顔をした。 「この状況から、当初、捜査陣は——推理小説みたいですが——殺されたのは葉山実さんではなく、まったく別人なのではないかとの疑いすら抱いたようでした。しかし、その後、被害に遭ったのは葉山さんご本人であることが、確実になっています。では、いったいなぜこのように、犯人はむごたらしい行為をしたのでしょうか。犯罪心理学を専門になさっておられ、また日本神話にも造詣の深い、おなじみ筑波山大学の小田桐先生にうかがってみました」  ピッという感じで語尾を区切ると、それをきっかけにして、ぶあついレンズのメガネをかけた大学教授のコメントビデオが始まった。 「あー、これはね、問題は、この残虐な行為に使われた道具が、一般的に手に入れやすい金属製の大根おろしではなく、ワサビを下ろすために使われるサメのおろしがねだったことですね。つまり、なぜサメかということなのです」  背広の上に白衣を着た教授は、どこを見ているのかわからない目つきで切り出した。 「これは、犯行の行われたのが白兎海岸という場所だったことに、大きく関連してくると思います。つまり、あそこは『因幡の白ウサギ』の伝説で有名なところなんですね。ウサギがサメを騙して淤岐《おき》ノ島から陸地に渡ったが、騙されたことに気づいたサメに、皮を剥かれて赤裸になってしまったというアレです。  えー、ついでに言っておきますが、淤岐ノ島というのは、島根半島のずっと沖合にある隠岐とは違います。発音が同じなのでよく間違えられるんですが、白ウサギが棲んでいたのは、陸地からほんの二百メートルほど離れた小さな島で、これが淤岐ノ島です。白兎海岸へ行けば、いまもちゃんと、その姿を見ることができますけどね。  で、今回の犯人は、わざわざサメ皮のおろしがねを使って被害者の顔を傷つけることにより、いま申し上げた因幡の白ウサギの神話を、世間に思い起こさせようとしているフシがあります」  犯罪心理学の教授は、切れ目のない早口で、どんどん話を進めた。 「では、あの神話の主人公は誰かといえば、あわれな白ウサギを救った大黒様——大国主命ですね。ただし、これは子供の絵本などに描かれているような、ウサギを助ける心優しいヒューマニズムが本題ではない。裏に、たいへんな含みのある話なんです。  ご承知かとも思いますが、大国主命には多くの兄弟神がいた。いわゆる八十神《やそがみ》です、そして、大国主命はそのいちばん下の弟だった。で、八十神はサメに襲われ泣いている白ウサギに、さらなる意地悪をすることによって、悪役として描かれている。一方、末弟である大国主命は、ウサギを助ける善玉に描かれる。それは、みんなで争った八上比売《やがみひめ》という美女が、けっきょく八十神の求婚をすべて退け、大国主命に対してだけ承諾の意を示すことにも象徴されているわけです。  そこで、兄弟神の恨みを買った大国主命は、なんと兄たちに殺されてしまうんですね。でも、人間と違って神様ですから、結果的には、蚶貝比売《きさがいひめ》と蛤貝比売《うぐいひめ》に助けられて生き返ってしまいます。そして、須佐男之命の本拠ともいうべき『根の国』に赴いて、須佐男之命の娘の須勢理比売《すせりひめ》と恋に落ちる——というふうに、話はつづいていくわけです。  補足しますと、古事記や日本書紀一書には、須佐男之命の六代後の孫が大国主命ということになっているけれど、日本書紀本文や出雲大社に伝わるいわれでは、大黒様は須佐男之命の直接の子供になっています。まあ、それは余談ですが」  VTRの編集のスキを与えないためにやっているのではないかと思えるほど、小田桐教授は早口でまくし立てた。 「ともかく、この神話で注意すべきは、なにゆえに大国主命が、ここまで兄である八十神たちから嫌われ、恨まれなければならなかったのか、という点です」  水沢めぐみは、食い入るようにして画面の中の小田桐教授を見つめた。 「これはですね、現代の常識からは想像もつかないしきたりでしょうが、古代の豪族たちは末子《ばつし》相続といって、いちばん末の男の子に、族長の座を継がせていた風習があった。それに関するトラブルを象徴する物語でもあるんです。  なぜ、末子相続の習慣が存在したのかというと、長男や次男については、親も自分たちが元気な間にじゅうぶんな面倒をみてやれる。しかし、昔は平均寿命が短いわりには子だくさんでしたから、親が死んだときには、いちばん下の子供はまだ年も若く、とても自立できる状態にないことが多い。そこで、親の築いた財産や地位の大半を、末の子供に与えることにした。考えようによっては、ひと昔前までの長子相続よりも、よっぽど合理的な考えなわけです。  でも、それでは兄たちは面白くありませんから、いろいろな形で末っ子をいじめた。そういった現実社会の背景が神話に投影されて『因幡の白ウサギ』の話ができあがったものと思われます。  で、今回の犯人は、こうした神話をじゅうぶんに研究したうえで、何かのメッセージを特定の誰かに伝えたくて、こんな真似をしたのではないかとも考えられるんですね。つまり、神話だの伝説だのといったものに託して、初めて自己主張ができるという、非常に屈折した内向的性格の持ち主ではないかと、こう思うわけです。昔の人が、和歌の中に暗号のようにして真情を詠み込んだ、そんな行為にも似た、ストレートな自己表現を決して善しとしない、よくいえば奥ゆかしい、悪くいえばオタクっぽい暗さが、今回の犯罪には感じられますですねえ」  長いわりには、よく理解できない内容で、しかも受け止め方によっては、八十神が大国主命を殺した神話に照らしあわせ、あたかも被害者の兄弟が犯人であるかのような誤解を招く危険性のある解釈を並べたてたのちに、教授はやっと口をつぐんだ。  そして、画面はVTRからスタジオのニュースに戻った。 「ちがうわ」  水沢めぐみは、紀州犬の頭をなでながらつぶやいた。 「そんなんじゃない……この事件は、三つつながっている殺人事件のうちの一つなのよ」      4  朝比奈は、ホテル八重垣にチェックインし、部屋で夕食をとっているときに、テレビニュースで鳥取県白兎海岸の事件報道を見ていた。  須賀たちの前で、因幡の白ウサギの話を持ち出したのは、ひょっとすると白兎海岸の事件も、東京や稲佐の浜の事件とつながるのではないか、と思われたからだった。  朝比奈としては、せっかく須賀一家と話ができたのだから、このチャンスをとらえて、ホテル八重垣の宿泊客だった矢作賢作が殺されたことに、話の矛先を向けてみたかった。  だが、因幡の白ウサギという言葉を聞いた瞬間の真理子の過剰反応が気になった。 「それで、朝比奈さんは……」  真理子は、明らかに作り笑いとわかる笑顔を浮かべて朝比奈にたずねた。 「ウチに泊まっていらっしゃる間に、どんな小説をお書きになろうとしているんですの?」  勘ぐりようによっては、因幡の白ウサギから白兎海岸の事件へ話が発展するのを恐れているような話題の切り替え方である。 「最初は、いまとりかかっている作品のつづきを書くつもりだったんですよ。奥多摩のほうを舞台にしたミステリーなんですけどね。でも……」  カフェオレ色に金色のメッシュを入れた前髪を触りながら、朝比奈はこともなげにつけ加えた。 「実際に、出雲に来てみて考えが変わりました。この場所を舞台にしようかな、と」  真理子だけでなく、須賀も伸江も顔を曇らせたのが、平田にもはっきりわかった。 「出雲大社の周辺というのは、じつに不思議な雰囲気がありますね」  朝比奈はつづけた。 「おなじ出雲でも、いわゆる出雲市内にいるぶんには、まったく神の『気』というものを感じない。ところが、大社通りからまっすぐ大社の境内に向かって歩いているうちに、ビンビン体に感じるものがあるんですよ。そして、その『気』が、本殿をとりまく瑞垣《みずがき》の周りを歩いているときに、最高潮に達する。いえ、きっと本殿の中まで入ったらもっとすごいんでしょうけれど」 「しかしねえ……」  アルコールで赤くなった頬をなでながら、須賀が言った。 「たとえ小説の中といっても、出雲大社の境内で殺人が起きたりするのは、あまりよろしくありませんね。やはり、あそこは篤い信仰の対象となっているわけですからね。国造《こくそう》様だって、決していい気はしないでしょう」 「コクソウ様?」  平田が聞き返したので、須賀は、彼に向けて、ややくだけた口調で解説を加えた。 「『くにのみやつこ』と言うのが正しいんだけれど、こちらでは、みんな国造様と呼んでいるんだよ。出雲大社の祭祀を司る宮司のことですよ。ただ、ふつうの神社と違って、はるか神代まで溯って、代々世襲で受け継がれてきているんだ。千家《せんげ》さんという家なんだけどね」  須賀の言うように、出雲国造家は、現在、千家一族によって継承されている。  神話の世界まで溯れば、そのルーツは天照大神の第二子、天穂日命《あめのほひのみこと》に至るが、西暦一三四三年、後村上天皇の時代に、第五十五代国造・孝示と、その異母弟・貞孝が家を分かち、千家と北島家の二つの国造家が並立することになる。  そして、奇数月には千家が、偶数月には北島家が出雲大社の祭祀を司る体制が延々つづいたが、明治になり、国家神道としての管理体制を強める政府の方針により、全国各地の神社における神職の世襲制が次々に否定され、伊勢神宮や賀茂神社などと並んで出雲大社もその例外とはならなかった。大宮司を千家から出し、北島家は小宮司にとどまるようにと政府の指令が出たのである。  この措置は、北島家にとっては大いに不服だったが、さらに岡山吉備津神社へ転任せよとの命令が出るに及んで、北島家は出雲大社の祭祀からいっさい手を引くことになった。  だが、千家の出雲|大社教《おおやしろきよう》と対抗するように、北島家は出雲教を興した。その信者の数は、千家系の大社教に比べ、およそ一割と、勢力には圧倒的な差があるが、現在も両家は、大社本殿の西と東に分かれて、まったく対照的な位置に国造館《こくそうやかた》を建てて対峙している。  地元では、依然として北島家も『国造様』と呼んでいるが、北島家は大社の神事にいっさい関わりを持たなくなり、たとえば稲佐の浜の神迎えの神事なども、同家では無視の構えをとっている。 「たしかに、大社の境内で人が殺されるという設定はよくないでしょうね」  朝比奈は、須賀の意見を認めた。 「だから、他にいい場所はないものだろうかと、昼間のうちにいろいろ探してみたんですが……たとえば、稲佐の浜なんかはどうでしょう」 「稲佐の浜?」  須賀の隣りに控える伸江が、明らかに不愉快な顔をした。 「ひょっとして朝比奈さんはご存じないかもしれませんけど、元日に、あそこでウチのお客さんが死体となって発見されたんですのよ」 「ええ、それは平田から聞いています」 「あら、ご存じだったら、少しは気を遣ってくれませんかしら」  伸江は語調を強めた。 「ただでさえ、宿泊客が殺されたということで、ウチのイメージは傷ついているんです。そこへもってきて、こんどは、あなたがウチに投宿しながら、稲佐の浜殺人事件みたいなものを書いてごらんなさいな。ホテル八重垣は、殺人事件と切っても切り離せない関係になってしまうじゃないですか」 「姉さん」  温厚そうな須賀が、興奮する姉の腕を片手で押さえた。 「べつに、朝比奈さんがどんな推理小説を書かれようと、ぼくらはとやかく言うべきじゃないですよ。ただ、希望として、出雲大社の境内が殺人現場になるのだけはご遠慮いただければ、と思っているんだけれど」 「それは当然ですよ」  伸江は、朝比奈を睨みながら言った。 「だいたい、人殺しの小説を書く人なんて、この出雲の地には不似合いですよ」  どうも雲行きが怪しくなってきたな、という表情で、朝比奈と平田は顔を見合わせた。 「あの……」  その場の雰囲気を察したのか、須賀の妻の真理子が、朝比奈に向かって、明るい調子で質問をした。 「立ち入ったことになるかもしれませんけれど、朝比奈さんは、ご結婚は?」 「まだです」  鋭い視線を飛ばしている伸江のパワーを横顔に感じながら、朝比奈は真理子に向かって返事をした。 「平田とおなじく、まだ独身ですよ」 「いや、こっちとちがって、彼は『花嫁募集中』ではないんです」  平田が横からつけ加えた。 「すでに婚約者というべき美しい女性がいますからね」 「まあ、そうですの。そんなにきれいな方?」 「ええ、まあ」  朝比奈は、ちょっと照れながらも、「きれいな方?」という真理子の質問に対して、決して謙遜めいた否定はしなかった。  風吹村の事件をきっかけにして知り合った草薙葉子とは、たしかに、平田が言うように、たがいに結婚を意識した関係にある。(『風吹村の惨劇』参照)  実際には、まだどちらからもプロポーズめいた言葉は口にしていないが、一生のパートナーとなるであろう予感は、おたがいに強く持っていた。  朝比奈も彼女と出会う前までは、愛車のBMWを運転しながら、街中を歩いている若い女性の姿などに、しきりに目移りしていたものだが、不思議なことに、葉子と知り合ってからは、彼女以外の女性に目が行かなくなっていた。  耕作もずいぶん変わったものだ、と、よく平田にもからかわれるのだが、こればかりは事実なのだから仕方がない。 「だったら、その方との将来のことを、出雲大社にお祈りなさいました?」  真理子がたずねた。 「大黒様は福の神様で、それに縁結びの神様でもいらっしゃるので、きっと御利益があるはずですよ」 「そうですね。……あ、そういえば、たしか以前、出雲大社で神前結婚式を挙げた芸能人もいたような気がしますけど」 「ああ、ジュリーだわね」  真理子の代わりに、伸江が言った。 「沢田研二が田中裕子と北島国造館で結婚式を挙げたときは、たしかに、この界隈は大騒ぎだったわよ。ほら、芸能人の結婚式は、東京でやるのが常識でしょう。それなのに、ジュリーみたいな大物が出雲にまでくるなんて、ほんとうにびっくりしたものねえ」  伸江は、ついさっきまでの突っ慳貪《けんどん》な態度をとりあえずは引っ込めていたが、それでも、朝比奈にではなく、弟の宏に向かって、思い出話をするように語った。 「おまけに、式に参列する芸能人やマスコミもたくさんきたし……そうそう、宏、あのときの内田|裕也《ゆうや》さんのファッションは、素敵だったんで、あんたと話題にしたものだったわね」 「そうだったかな」 「そうよ。あんたも忘れっぽいわね。とにかくあんな騒ぎはめったにない……というか、この辺では初めてだったからねえ」  と、伸江は、つけ睫毛をパタパタさせながら言った。 「芸能人といえば……」  どうやら伸江が芸能人好きらしいので、朝比奈は、さきほど機嫌を損ねた埋め合わせをしようとして言った。 「大社町でいちばん大きな旅館は、有名な歌手の実家だそうですね」 「知らなかったな、歌手って誰なんだよ」  横から平田がきいた。 「ほら、アレアレ、『かくしきれない、気分はピーチパ〜イ』ってやつだよ」 「ああ、竹内まりや」 「それそれ」 「へえ、そうだったのか……そうなんですか、伸江さん」  平田が、朝比奈から伸江に視線を移してたずねた。 「ああ、竹野屋さんね」  同業者の名前が出ると、とたんに伸江の口調はそっけなくなった。 「まあ、人気だわね、あそこは」 「それから……」  よかれと思った話題が逆効果になっているのを知ってか知らずか、朝比奈はつづけた。 「知り合いの、やはり推理作家をやっている男は、竹野屋の斜め向かいにある日の出館を推薦していました。慶応四年の創業というから、もう百三十年近い歴史があるそうですが、こぢんまりとした旅館ながら、宿の人がとっても感じがよくて印象に残ったと」 「朝比奈さん」  伸江は、たまりかねたという声を出した。 「あなたは、ウチにイヤミを言うために泊まりにきたわけ」 「は?」 「そりゃあね、竹野屋さんは全国的にも有名だし、日の出館さんの評判がとってもいいのも知っていますよ。だけど裏を返せば、ホテル八重垣はよくないってことを言いたいんでしょ」 「あ、すみません。決してそんなつもりで言ったのでは……」  朝比奈は、しまったという表情で謝った。 「ついつい、こういうお部屋でくつろいでしまったものですから、宿の方とお話ししていることを忘れてしまいました」 「いいんですよ、朝比奈さん」  怒りをあらわにした姉を懸命に手で制しながら、須賀が苦笑して言った。 「ウチの姉貴は、ちょっとしたことにカッとなりやすいもんで……あまり気にしないでください。毎度のことですから」 「宏!」  伸江は納得せずに、弟に噛みついた。 「私が言ってるのはね、あんたが早くしっかりしなさい、ということなの」  朝比奈や平田がいるにもかかわらず、伸江はバンと机を叩いて弟を叱った。 「こういう話になったから、ついでに言ってしまいますけどね。平田さんの言い分を、なんでもハイハイと鵜呑みにして聞くこともいいけど、ホテル八重垣は須賀家のものなのよ。それを忘れてはダメでしょう」  いきなりこっちにも火の粉がふりかかってきそうな雰囲気なので、平田はおもわず身を縮める格好をした。 「いいですか、宏」  伸江は、きつい顔で弟を睨んだ。 「この宿は、私たちのお父さんの、血と汗と涙の結晶なのよ。どんなに大変な思いをして、お父さんがこのホテルを築き上げてきたか、あなただって知っているでしょう。そりゃあ、たしかに女風呂は狭かったかもしれないわよ。部屋も薄汚くなっているかもしれないわよ。でもね、あんたが、こんなシロウトの人の言うことばかりをホイホイ聞いて、お父さんが作ってきたものを、容赦なく壊しているのを見ると、私はね……くやしくて、くやしくて」  伸江が、涙をこぼしはじめたので、すっかり座は白けた雰囲気になった。 「……わかったよ、姉さん」  長い沈黙を破って、須賀が吐息まじりに言った。 「姉さんに相談せずに、いろいろ話を進めたのは悪かった。これからは、ぼく一人で決めずに、姉さんにも平田君との会議に加わってもらうから」 「いいえ、いいんですよ」  ガーゼのハンカチで鼻を押さえながら、伸江は言った。 「この宿は、あなたと真理子さんのものなんだから、私なんかは放っておいて、どうぞあなたがた夫婦で好きなように決めてちょうだい」 「まいったな……ともかく姉さんが機嫌を損ねたら、一晩では治らないことはよくわかっている。明日の朝、またゆっくり話し合おうよ」 「いいえ、結構よ」 「あの……」  さすがに責任を感じたのか、朝比奈が申し訳なさそうな顔で口を挟んだ。 「どうもいちばんよけいなことを言ったのはぼくのようで……すみません、お詫びします」  だが、誰も返事をしなかった。  シューシューというガスストーブの音だけが妙に耳につく静寂の中、五人は立ち上がるきっかけもつかめず、気詰まりな沈黙をつづけた。  と、そのとき、部屋の隅に置かれた内線用の黒電話がジャーン、ジャーンと、けたたましい音を立てて鳴りはじめた。  その音に救われたように、真理子がパッと立ち上がって、電話のところに駆け寄る。 「……はい……はい……ちょっと待ってちょうだいね」  真理子は、受話器の送話口を片手で押さえて、平田のほうをふり返った。 「フロントのほうに平田さんあての外線が入っているんですって」 「ぼくに……ですか?」  自分を人差指で指して、平田は聞き返した。 「珍しいな、誰からなんだろう……ま、いいや。すぐに行きますから」  平田は真理子にそう言って、腰を上げた。  そのタイミングを待ってましたとばかりに、朝比奈も、「それではぼくも失礼します、ごちそうさまでした」と、須賀に頭を下げ、平田と連れ立って廊下へ出た。      5 「いやあ……」  宿泊棟へ通じる渡り廊下を早足で戻りながら、朝比奈と平田は、どちらからともなく、吐息をついた。  そして、先に平田のほうが口を開いた。 「朝比奈が、伸江さんを怒らせるようなことを次々に言うもんだからハラハラしたよ。あれはワザとだろ」 「まあね」  にこっと笑って朝比奈は言った。 「ちょっと人が悪かったかもしれないけれど」 「だけど耕作、正月の事件で、まさか須賀さんたちを疑っているわけじゃないだろう」 「さあね」 「さあね……だって?」  歩きながら、平田は朝比奈の顔をのぞき込んだ。 「だけど、いくらなんでもこじつけだぜ。稲佐の浜でウチの泊まり客が殺されたのは事実だけれど、その犯人がホテル八重垣の関係者だったりしたら、シャレにならないだろう」 「シャレになるとか、ならないとかの問題じゃなくて、なぜ、すべての事件が『出雲』を指しているのか、そこが問題なんだ」  朝比奈は、まじめな顔になって言った。 「それに、明らかに真理子さんは、因幡の白ウサギの話を持ち出したときに動揺を示していた。あの反応も非常に気になるところだ」 「だけど、因幡の白ウサギが、いったい事件に何の関係があるんだよ」 「そうか、おまえはまだテレビは見ていないんだな」 「見ていないけど……」 「けさ早く、白兎海岸で男の死体が見つかった。白兎海岸というのは、文字どおり『白ウサギ』と書く。ここから百何十キロか東へ行った、鳥取砂丘に近いところだ」 「白ウサギ……の浜辺で?」 「そうだよ。詳しい話はあとで部屋でしよう。おまえは電話に出なくちゃならないんだろ」 「うん」 「それじゃあ、あとで」  フロントのそばまで来たところで、朝比奈は平田に手を挙げて、自分の部屋として割り当てられた『神楽の間』に向かう階段を、ゆっくりと上りはじめた。      *      *      * 「もしもし、たいへんお待たせしました。平田ですが」  フロントのカウンターに、放置されたままの受話器を取り上げて、平田は電話の相手に呼びかけた。 「あ、平田さんですか」  その声を聞いた瞬間、平田均は胸をときめかせた。名前を告げられなくても、誰であるかは即座にわかった。  水沢めぐみである。  あの横柄な東尾との結婚話が白紙に戻ったという噂は、須賀から聞かされていたが、それが真実なのかどうか、すぐにでも確かめたい気持ちでいっぱいだった。  そんな感情を抑え、せいいっぱい冷静な声をつくろって平田は言った。 「めぐみさん……いえ、水沢さんですね」 「そうです。あ、私だってわかっていただけたんですね」  受話器の向こうからも、嬉しそうな声が返ってきた。  が、その声がたちどころに曇った口調になる。 「あの……こんな時間に突然お電話してごめんなさい」  めぐみは、せかされたように言った。 「私、とっても気になった出来事があったものですから。だけど、周りに相談する人がいなくて、それで平田さんのことを思い出したんです」  いいぞ、いいぞ、と平田は内心で手を叩いた。  日本神話の世界に登場するようなタイプの美女から、なにやら深刻な相談ごとを持ちかけられるなんて、願ってもない展開である。 「それで相談とは、どんなことでしょう」  平田は十中八九、東尾との破局についての相談に違いないと信じ込んでいた。  そして、『ほんとうは平田さん、あなたが好きなんです』と、告白されるシーンまで、一気に思い描いてしまった。  ところが—— 「因幡の白ウサギなんです」  いきなり、そう切り出されたときには、平田は期待がはずれて落胆するよりも、たったいま、朝比奈と交わしたばかりの会話の中身と一致する偶然にびっくりして大声を出した。 「因幡の白ウサギ……ですって?」 「はい。いま、テレビのニュースでやっていたんです。因幡の白ウサギの伝説で有名な鳥取県の白兎海岸で、名古屋の大学講師の人が殺されたって……。それも、顔を……」  言葉を詰まらせてから、めぐみは、小さい声でつづけた。 「顔を、サメ皮でできたおろしがねで……」 「なんですって」  問い返す平田に、めぐみは、ニュースで見た概略を手短に話した。  そして、言った。 「平田さん、お正月の事件を覚えていらっしゃいますよね。私と平田さんが、ずっと一緒に神楽殿にいた、あの夜のことを……」  ずっと一緒にいた、というところに、めぐみは力を込めた。 「あの晩、そちらの宿に泊まっていた男の人が、稲佐の浜で殺されたでしょう」 「ええ」 「それから、これは後になって新聞で知ったんですけれど、一日前の大晦日の朝、東京新宿のホテルでは、奈良から来た銀行員がハブの毒で殺されているんです」 「それは……ぼくも知っています」  背中にゾクゾクするものを感じながら、平田はめぐみの言葉を聞いていた。 「その部屋に残されたハブは八匹もいたそうです。八という数は、ヤマタノオロチを暗示する数字です」  めぐみさんは、まるで朝比奈と同じことを言っているじゃないか——平田は、内心かなり驚いていた。 「そして、稲佐の浜に残されていたセグロウミヘビは、出雲大社では『竜蛇さん』として、崇められているものでしょう。つまり、この三つの事件は、ぜんぶ出雲につながるんです」 「めぐみさん……」  かすれ気味の声で平田は言った。 「ぼくの友人で推理作家をやっている男が、同じことに気がついているんですよ」 「そうなんですか……それで……」  めぐみは、言いにくそうに、そこで言葉を途切らせた。 「それで……どうしたんです」  と、平田が促す。 「なんだか、三つの事件は同じ犯人のしわざのような気がして」 「………」 「それで……」  また、めぐみは言葉を詰まらせた。 「どうしました、めぐみさん。遠慮なく、なんでもおっしゃってください」 「もしも、私が稲佐の浜での殺人犯人を知っていたら、他の二つの事件も、ぜんぶその人がやったことになりますよね」 「めぐみさんが……元日の殺人事件の犯人を知っているんですって?」  平田は、反射的に周りを見回し、誰にも聞かれないように、懸命に声を抑えた。  とりあえずフロントの周囲には誰もいなかったし、控えの間になっている事務室も空である。最初に電話を受けた従業員も、きっと厨房の片付けなどに手を取られているのだろう。  だが、注意をするにこしたことはない。平田は、いっそう小声になって問い返した。 「めぐみさん、それは本当なんですか」 「たぶん……間違いないと思います」 「でも、ウチに泊まっていた矢作さんが稲佐の浜で殺された時間帯というのは、あなたはホテル八重垣の部屋にいたんじゃないですか」  平田は確認した。 「ぼくと一緒に大社から戻ってきたところ、東尾さんは、いつまで経っても散歩から戻らないあなたを探しに外に出ていた。で、ぼくはその東尾さんを呼び戻そうと、自転車で町じゅうを捜し回った。その間あなたは、部屋でずっと待機されていたのではないかと思っていましたけど」 「ええ、だからホテル八重垣で見たんです。『犯人』が矢作さんを殺すために出かけるところを……」 「ちょっと待ってください」  平田は空いているほうの手を額に当てた。 「あなたはどうして、その人物が犯人だってわかったんです」 「私、ホテル八重垣の裏口から、その人がこっそりと自転車に乗るところを見たんです。自転車の荷台には、細長い箱がくくりつけてありました。そしてその人は、出かける前に箱の中身を、いちど開けて確かめました。私、その様子を、二階の廊下の窓から見ていたんです」 「ああ……あそこは裏口が見下ろせますからね。……で、箱の中には、いったい何が入っていたんです」  喉の渇きを覚えながら、平田はたずねた。 「細長いものです……ヘビでした」 「ヘビ……」 「でも、死んでいるものだったのでしょうね。ぜんぜん身動きもしませんでした」 「じゃあ、それが現場に残されていたセグロウミヘビだったと」 「そう思います」 「でも、めぐみさん。そうだったら、なぜそのことをもっと早く」 「おっしゃりたいことはわかります」  めぐみは、かぶせるように言った。 「もしも、私がそちらにいる間に、事件の内容を詳しく知らされていたら——つまり、死体のそばにセグロウミヘビの死骸が落ちていたという事実を知らされていたら——とってもショックを受けて、その場で警察にいまの話をしたかもしれません。でも、ご存じと思いますけれど、あのときの私は、東尾とのいさかいで、殺人事件どころではなかったのです」  そう言われて、平田は納得した。  たしかに、めぐみの言うとおり、新年の幕開けは、ホテル八重垣のスタッフにとっても、東尾とめぐみのカップルにとっても、大騒ぎだった。  だが、その騒ぎの内容が違っていた。  須賀や平田は、宿泊客が殺されたということで舞い上がっていたが、東尾とめぐみは、婚約を破棄するか否かで、元旦の夜明け前から大モメになっていた。  もちろん、宿泊客として警察の事情聴取も受けたが、めぐみの頭は、自分たちのことでいっぱいだったのだ。 「平田さん」  黙りこくる平田に、めぐみは受話器の向こうから呼びかけてきた。 「大晦日の夜から元旦にかけて、大社通りは、ずっと交通規制がされていたでしょう」 「はい」 「コンクリートの大鳥居よりも先に自動車を入れないように、あの橋のたもとで、警察の人が交通整理をやっていましたよね」 「ああ、宇迦橋《うかばし》のところですね」  平田は電話口でうなずいた。 「ええ、あの警官の前を平気で渡って、犯人は自転車で稲佐の浜へ向かったと思うんです」  めぐみが指摘したように、宇迦橋の大鳥居から先の大社通りは、大晦日の夜から元旦にかけて、終日、車両通行止めとなっていた。  大社中学の方面から狭い裏道を使った迂回路が設定されていたが、とにかく対面交通も困難なほどの大渋滞が二十四時間近くつづくといった有り様で、とてもではないが、犯行現場となった稲佐の浜へ自動車で向かうのは不可能といってよかった。  そういった現実を考え合わせると、犯人は自転車に乗って矢作を殺しに出かけた、というめぐみの目撃談には現実味があった。 「それで、めぐみさん」  平田は、いちばん知りたい質問を切り出した。 「あなたが見たのは、いったい誰だったんです」 「ですから、そちらの人です。ホテル八重垣の人です」 「ホテル八重垣の……?」  背中に立っていた鳥肌が、首筋のほうまで上ってきた。 「ホテル八重垣の誰なんです」 「私は、名前までは知りません。ただ、そちらの従業員の方であることは確かです。働いているところを見ていますから」 「それは男ですか、それとも女ですか」 「………」  どういうわけか、めぐみは黙りこくった。 「どうしたんです、めぐみさん。そこまで話してくださったのなら、最後まで教えてください」  平田は勢い込んだ。 「セグロウミヘビを自転車の荷台に積んで、どこかへ出かけていった人物は、男なんですか、女なんですか」 「私……」  めぐみはポツンと言った。 「できるだけ早いうちに、そちらに行きます」 「こっちに?」 「ええ。そして、平田さんにお会いして、直接お話しします」 「しかし……」  もどかしい思いに、平田は五本の指でフロントのカウンターを叩いた。  水沢めぐみがじかに会いたいと言ってくれるのは、もちろん大歓迎だ。平田好みの、あの美しい顔をもういちど目の当たりにできるのなら、こんなに嬉しいことはない。  だが、そんなことよりも、いまは一刻も早く、彼女が目撃したという人物の正体を確定させたかった。  外部の従業員である可能性も、もちろん残されていたが、内部の人間——すなわち、須賀家の人だったらどうなるのだ。  須賀宏。  須賀真理子。  須賀伸江。  その三人の顔が、平田の脳裏に交互に浮かんでは消えた。 「私、平田さんに先入観念を抱いてほしくないんです」  めぐみは言った。 「名前も知らない人を、たんに外見の特徴だけで説明したら、もしも平田さんが違う人を想像してしまった場合に大変でしょう」 「それはそうですけれど」 「私が直接そちらに行って、もういちどその人の顔を確かめます」  きっぱりとした口調だった。 「そして、直接その人に問いただしてみます。それがいちばん確実ですよね」 「ええ……でも……」  平田は心配そうに言った。 「あなたが、あまり深みにはまるのは、ぼくとしても、非常に不安です」 「私はいいんです。もうヒマになっちゃいましたし」  水沢めぐみは、悲しみを含んだ快活な声を出した。 「それに、ほんとに平田さんと、もういちどお会いしたいんです」 「そ……そうですか」  話がそっちの方面になると、平田の声はどうしてもうわずりがちになった。 「早ければ明後日くらいに、そちらに行きます。迎えの心配はなさらないで。近くまできたところで電話をしますから」 「わかりました」  平田も、それ以上の追及はあきらめた。  たしかに、めぐみが言うように、彼女が従業員の名前を知らないかぎり、電話口の説明だけでは『犯人』を取り違えてしまうおそれもある。  二、三日のうちに彼女がこちらにくるというのなら、それまでじっくり待つことにしようと思った。 「それじゃあ、めぐみさん」  平田は言った。 「なるべく早くお会いできるよう、期待して待っています」 「はい……それじゃ、おやすみなさい」 「おやすみなさい」  挨拶を返すと、平田は静かに受話器を置いた。      *      *      *  平田均としては、じゅうぶんに注意を払って会話をしていたつもりだったが、彼は大きなミスをしていることに気づかなかった。  フロントにかかってきた外線は、須賀家の自宅廊下でも取れるのである。  たまたま、さっきは内線電話で電話の取り次ぎがあったのだが、その気であれば、須賀家の客間からちょっと奥に入った廊下で、外線は取れたのだった。  そこの受話器を持ち上げさえすれば、フロントにかかってきた電話に対して、親子電話のように話をすることができる。  つまり、フロントでの平田とめぐみの会話は、須賀家のほうにも筒抜けになるということだった。  平田が受話器を置いてから、およそ三秒後に、東京からかけてきためぐみが受話器を置き、双方の通話が途切れたのをしっかり確認したところで、第三の人物が受話器を置いた。  青|瑪瑙《めのう》の指輪をはめたその人物は、しばらくの間、下ろした受話器を握ったまま離さなかった。  傍聴した内容に激しいショックをおぼえ、指の震えが止まらなかったためである。      6 『神楽の間』と名づけられた客室で待っていた朝比奈耕作は、平田から電話の内容を聞くなり、ヒュウと低い口笛を吹いた。 「そこまで事態が一気に進展してしまうとはね。まったくぼくも予想をしなかったな」 「なあ、朝比奈」  親友の前に、あぐらをかいて座り込むと、平田は深刻な顔で言った。 「めぐみさんは具体的に、怪しげな行動をとっていた人物を見たというんだけれど、耕作はどういう理由から、須賀家の人々を怪しいと思うようになったんだ」  朝比奈がすぐには返事をしないので、平田はつづけてきいた。 「きょう、ここへやってくるなり、耕作は、キーワードは『出雲』だと言っただろう。あれはどういうことなんだ。最初から、東京と稲佐の浜の事件を結びつけて考えていたのか。それから、因幡の白ウサギを連想させるような白兎海岸の事件は、めぐみさんが主張するように、前の二つの殺人と関わりがあるのか。そもそも、須賀家の人々は、ほんとうに事件に関係しているのだろうか。どうなんだ、朝比奈」 「質問責めだな」  朝比奈はちょっとだけ笑ったが、すぐに表情を引き締めて平田を見た。 「まず、最初の質問に答えよう」 「キーワードは『出雲』ってやつか」 「そうだ」  いつもの癖で、朝比奈はカフェオレ色の髪をかきあげた。 「平田から、相談をもちかけられたとき、殺人はまだ二つしか起こっていなかった。だが、そこには、きょう喫茶店でも話したとおり、出雲神話という共通の匂いがあった。では、犯人は何のためにそんな芝居じみた演出をしなければならなかったのか。それを考えることが、最も重要なポイントになると思う」  朝比奈は、すでに一組の布団が敷かれた部屋の片隅に目をやりながら、話を進めた。 「まず、ぼくの最初の疑問は、なぜハブを使った殺人なんかを行ったのか、という点にあった。つまり、ハブ毒では人を殺せる可能性が低いことにくわえて、ハブそのものの扱いも難しい。それから入手方法もね。志垣警部から聞いたところによると、警察では、まだハブの入手経路について解明はできていないそうだ」 「犯人が奄美大島か沖縄に行って、自分の手でつかまえてきた可能性もあるな」 「それも考えられるだろう」  朝比奈はうなずいた。 「それから稲佐の浜の一件だって、犯人は演出のために、わざわざセグロウミヘビの死骸を手に入れているわけだ。これだって、砂浜で待っていれば、そのうち海の向こうからやってくる、といった代物でもない。やはり、入手には用意周到な準備がなくてはならない。こうしたことから、犯人はそれらのヘビに関してかなり研究をしている、と推測される」 「そうだね」 「それにしても、くどいようだが、なぜハブなのか。それもなぜ八匹のハブなのか。少なくとも、八匹の毒蛇という設定は、どうしたってヤマタノオロチを連想させる。セグロウミヘビはセグロウミヘビで、出雲信仰と大いなる関わりがある。すると、この二つの事件をとってみただけでも、犯人は殺人を犯しただけでなく、『出雲』を連想させる演出をほどこすことが、目的の一つにあったと考えられる」 「なるほど」  平田は短い相槌を打った。 「だけど、平田」  朝比奈は、急に言葉に力を込めた。 「これはテレビドラマの中の絵空事ではなく、現実に起きた事件なんだ。不気味なムードを醸し出すためだけに、犯人が出雲神話を持ち出してきたとは思えない。ドラマでよくあるだろう、たんなる雰囲気づくりの小道具として、殺人現場に妙なものが落ちている話が」 「ああ、あるな」 「八匹のハブは、ヤマタノオロチを暗示していたのでありました。おおこわ……というだけでオシマイになるのは、そういった作りごとの世界だけだ。ところが、現実の殺人に八匹ものハブが使われたとなると、どうしたって、もっと具体的な目的がなければおかしい」 「でも耕作、その目的というのが、たんに出雲を連想させるところにあるという解釈も、いまひとつ説得力に欠ける気がするな」  平田は言った。 「八匹のハブやセグロウミヘビの死骸から出雲を連想したからといって、それでいったいどうなるんだ」 「事情を知る人間への、恐喝じみたメッセージだとしたらどうだ」 「事情って?」 「いったい何のために殺人が行われているのか、わかっているのか。その原因は、ほかならぬ出雲にあるんだぞ——と言う具合に、犯人が、ある特定の人物に脅しのメッセージを送っているとしたら、どうかな」 「………」 「もうちょっと詳しく説明しようか」  不審顔の平田に向かって、朝比奈は言った。 「さっきニュースで伝えられたばかりの第三の事件も含めて、被害者のプロフィールと殺された場所を考えてみてくれ」 「被害者のプロフィールと、殺された場所?」 「そうだ。紙に書くとこうなる」  朝比奈は、すでに準備しておいたメモを平田の前に差し出した。  そこには、非常にわかりやすい形で、三つの事件に関するデータが並べられていた。 ≪第一の事件≫ [#ここから2字下げ] 死亡時刻……大晦日の午前三時から四時 殺害場所……東京副都心のホテル 被害者………村木昇(33) 職業…………銀行員 自宅住所……奈良県橿原市 家族…………妻と子供二人 ≪第二の事件≫ 死亡時刻……元旦の午前三時前後 殺害場所……出雲大社そばの稲佐の浜 被害者………矢作賢作(45)      ただし、長谷部憲二という偽名でホテル八重垣に投宿 職業…………牧場経営 自宅住所……北海道亀田郡七飯町 家族…………妻と子供二人 ≪第三の事件≫ 死亡時刻……昨夜十一時から深夜零時 殺害場所……鳥取市白兎海岸 被害者………葉山実(31) 職業…………大学講師 自宅住所……名古屋市 家族…………結婚四年目の妻 [#ここで字下げ終わり] 「第三の事件に関しては、テレビのニュースを見ながらメモを走り書きしたものだが、たぶん間違っていないだろう……そこでだ、平田」  朝比奈は、座卓に肘をついて、相手のほうに身を乗り出した。 「まず注目すべきは、被害者の相互関連性のなさだ」  言われて、平田は三人の被害者のデータに目をやった。  朝比奈の声がかぶさる。 「いいかい、第一の被害者は、奈良県の銀行員。第二の被害者は、北海道の牧場経営者。第三の被害者は名古屋の大学講師。年齢は、三十三、四十五、三十一」 「バラバラだな」 「だろ?」 「ああ、バラバラだ」  平田は、そう感想を洩らした。 「次に、殺された場所を見てみようか。東京副都心、稲佐の浜、白兎海岸……」 「第二と第三の場所は、同じ山陰の海岸という共通点があるように思えるけれど、第一の殺害場所は、そうした共通項でくくれないな」 「ところがだ、こんどは、殺された場所と彼らの自宅住所との関連性を見てくれ」 「というと?」  平田は首をひねった。 「えーと、奈良県に住んでいる人間が東京で殺され、北海道の人間が出雲で殺され、それで名古屋の人間が鳥取で殺されたわけか」 「どうだ、共通項があるだろう」 「共通項ねえ……」 「必ず、彼らは自宅から離れたところで殺されているだろう」 「ああ、なるほど」 「第一、第二の事件についていうと、家族思いと評判の被害者が、大晦日の日なのに、家族をほうって、自宅からずいぶん離れたところに一人できている。つまりこれは、否応無しに犯人に呼び出されたものではないかと推測ができる。第三の事件に関しても、被害者の大学講師は、結婚四年目という妻には何も知らせずに、五十万円もの大金を懐に入れて鳥取市郊外の海岸を訪れ、そこで殺されている。結果的に、その大金は奪われなかったが、何かのトラブルを金で解決しようとしていた様子がありありと窺えるじゃないか」 「つまり、恐喝にあっていたということか」  平田がきくと、朝比奈は首を左右に振った。 「恐喝といっても、決して金が目的ではなかっただろう。金目当てだったら、五十万円は失くなっていてしかるべきだ。むしろぼくはこう思う。被害者は五十万円で許しを乞うたが、金ですむ問題ではない、というふうに犯人に突っぱねられた、とね」 「そうか……第一の被害者の銀行員は、会社に嘘の出張申請をしてまで東京に出てきたというから、きっとこれも、やむにやまれぬ事情があったんだろうな」 「そして、同じことが第二の被害者である矢作賢作にもいえると思う。もしも、やましいことがなければ、堂々と本名で泊まればいい。それなのに、彼は偽名を使ってこの宿に泊まっていた。やはり、誰かに呼び寄せられたと考えるのが自然ではないか」 「そのことは、ウチに事情聴取にきた警察官も言っていたよ」  平田は言った。 「だから、大晦日の夜の宿泊客は、東尾やめぐみさんも含め、徹底的に身許を調べられたみたいだ」 「どちらにしても、被害者は犯人の命じるままに、指定された場所へ赴き、そこで殺された。では、何のために、彼らは呼び出されたのだろうか。そこでもう一回、被害者たちの住所に注目してほしいんだ」 「被害者の住所?」 「そうだ」 「えーと、並べてみるよ。奈良、北海道、名古屋——か」 「どうだい、共通項はなにか見つからないか」 「この地名に、共通項があるっていうのか」 「ああ」 「うーん」  平田はうなった。  朝比奈の理詰めの推理が、どんどん真相に迫っていく——そんな迫力のようなものを感じるのはたしかだ。  普通の人間からすれば、何の法則性もないバラバラな事象にしかみえないものも、朝比奈にとっては、その一つひとつが、事件の手掛かりとなる貴重な宝石なのだ。そして彼は、『論理』という名の縦糸をそれに通して、見事な首飾りに仕上げてしまう。  その作業が、いま行なわれつつあることを、平田はひしひしと感じていた。  しかし、悲しいかな、具体的にどんな首飾りが目の前に現れてくるのか、それは平田には見当もつかなかった。 「そう言われてもなあ……」  平田は、頭の後ろに両手を組んで、ため息を洩らした。 「奈良はともかくとして、北海道や名古屋だと、日本神話の香りもあまりしないし」 「そんな視点じゃない。もっと即物的というか、単純なことだよ。味もそっけもない答えだといってもいい。これを『共通項』だと言ったら、平田は怒り出すかもしれない」 「おいおい、いろんなことをいうなあ……でも、わからない。降参だ」  平田は両手を万歳の格好にした。 「じゃあ、言おう。ただし、ほんとに怒るなよ」  朝比奈は、にこっと笑った。  この笑顔がくせものである。 「怒らないから、早く答えを教えてくれ。エラリー・クイーンの小説みたいな、もったいぶり方はゴメンだよ」 「わかった。奈良、北海道、名古屋——いずれも、出雲からは遠い場所だ、ということだ」 「は?」  平田は、拍子抜けしたような顔で、朝比奈を見た。 「出雲から……遠い……だって?」 「奈良の場合は、たいして遠くなさそうにも思えるが、いざ、列車を乗り継いで出雲まで行こうとすると、予想外に時間を食う」 「どういうことなんだよ、耕作。そんなのって、答えにならないだろう」  平田は座卓を叩いた。 「言われるまでもなく、奈良も北海道も名古屋も、ここからは遠いよ。そんなことは、小学生の子供だってわかるぜ」  平田は半分呆れて、そして半分は本気で怒って言った。 「そんなくだらない答えを求めるために、ぼくに時間をつぶさせたのか」 「ほらね。だから怒るなよって頼んでおいたじゃないか」  と、朝比奈は笑顔をくずさない。 「怒るなというほうが無理だぜ」 「まあ待てよ、平田。ぼくは決してからかっているんじゃない。きわめてマジメに言っているんだ。よく考えてくれ。自分の生活エリアから遠く離れた場所というのは、いったいどんな魅力があるのかを」 「魅力?」 「そうだ。では、逆の視点からたずねよう。たとえば、出雲に住んでいる人間にとって、松江はどういう場所だと思う」 「うーん、たしかに松江は歴史を感じさせる素晴らしい街だとは思うけれど、出雲からだとちょっと近すぎて……なんて言ったらいいのかな、身近すぎて」 「あえて観光に行こうという気にはなりにくいんじゃないか」 「そうだね。ほんのご近所という感じだもんな。出雲と松江の距離といったら、おまえが住んでいる世田谷の成城からだと、鎌倉や逗子あたりに相当するわけだから」 「じゃあ、鳥取砂丘はどうだ。新鮮な場所に感じるか」 「いや」  平田は首を振った。 「東京にいたころは、いつか行ってみたいなと思っていたけど、こっちにきてみると、鳥取なんていつでも行けるって感じで、ある意味で目新しさは失せてしまった」 「じゃあ、奈良は?」 「奈良ねえ……まあ、一泊して見物に行くにはいいかもしれない」 「北海道は」 「そりゃ、ここからだと大旅行だよ。時間もかかるが費用もかかる。でも、このあたりの人間だったら、一度は北海道ってところに行ってみたいと思うだろうな」 「それが答えさ」  朝比奈は、あっさりと言った。 「それが答え……って?」 「出雲からみた奈良や北海道のイメージは、反対側からみても同じだろう、ってことさ。つまり、奈良に住んでいる村木昇、北海道に住んでいる矢作賢作、そして名古屋に住んでいる葉山実——彼らにとって出雲とは、旅の場所として、とても魅力的に感じたに違いない」 「………」 「奈良、北海道、名古屋という、まったく無関係な場所に住み、職業的にもまったく繋がりのない人間が、おなじ『出雲』という接点を持っていたとしたら、その共通項は『旅』にあった、とみても不自然ではない」  朝比奈は自信に満ちた静かな声で言った。 「ぼくが気になっていたのは、被害者のいずれもが——第三の被害者である大学講師も含めて、みんなハンサムな男性だった、という点だ。もうちょっと別の言葉で言えば、外見が魅力的だ、ということだね。と同時に、家庭的にはきわめて円満であるということ。一見、何の共通項も持っていないと思われる被害者像も、こうやって考えていくと、一つのイメージが沸き上がってくる」 「旅先の恋……か? いや、恋というよりも浮気かな。奥さんに内緒にしておかなければならないような」  平田がきくと、朝比奈は「たぶんね」という感覚でうなずいた。 「平田にとってみれば、強引なこじつけ方と思うかもしれない。だが、作家の頭脳ってやつは、ほんのちょっとしたヒントから、大きなドラマをふくらませてしまうものだからね」 「だけど……」 「もちろん、ここまでの段階では、あくまで仮定のレベルだよ」  朝比奈は断った。 「しかし、殺人現場の状況が、なぜこれほどまでに出雲神話を意識させる要素に彩られているのか。その犯人の心理を掘り下げていけば、どうしたって三人の被害者をこの出雲の地に持ってこざるをえないんだ。それと、もうひとつ大事なことは……」  朝比奈は、鋭い目で平田を見た。 「事件の背景は出雲にあり、と言いたげな犯行現場の演出は、いったい誰に向けて発せられたのか、という点だ」 「殺した人間に対する復讐のメッセージかな」 「悪いけど、そういうのが、いちばん嘘っぽい気がするね」  朝比奈は言った。 「死者に対して、手の込んだメッセージを送ったところで、それは犯人の自己満足にすぎない。たかだかそんな自己満足のために、ハブを使った殺人なんか、するわけがない」 「じゃあ、被害者の遺族——たとえば、奥さんに向けてのメッセージかな。おまえのダンナは、こういう理由で殺されたんだぞ、って」 「それはじゅうぶん考えられる。だけど、ぼくが引っ掛かるのはセグロウミヘビを小道具に使ったことなんだ」 「というと?」 「このセグロウミヘビってやつを犯行メッセージの小道具に使ったところで、メッセージを受け取る側の人間が、よっぽど出雲大社の風習に通じていないとピンとこないんじゃないだろうか」  朝比奈の目は、平田から離れない。 「たとえば、稲佐の浜で殺された矢作という男の地元北海道の人間に、セグロウミヘビという言葉をぶつけてみろよ。百人中いったい何人が、『ああ、それは出雲大社にお祀りする竜蛇さんのことだ』とわかると思う」 「百人中……ゼロって気もするな」 「だろう? だけど、出雲に住んでいる人間だったら、黒と黄色の鮮やかなツートンカラーを持ったウミヘビが、どんな存在であるかは、すぐにわかるわけだ」 「たしかにそうだ」  と、平田はうなずく。 「すると耕作……犯人は、出雲に住んでいる人間にメッセージを発信していると……」 「まずそれに間違いはないね」  朝比奈は断定的に言った。 「そういった推理を積み重ねていくと、ある具体的な構図が頭に思い浮かんでくる」 「どんな構図だ」 「それは、まだ言えない」 「耕作……」  たのむよ、といった表情で、平田はため息をついた。 「さっきも言っただろう。おれはそういう古典推理っぽい期待の持たせ方は嫌いだって」 「嫌いでもなんでも、周辺の証拠をもっと固めていくまでは、そうかんたんに想像を言いたくはない。これは、推理がハズレたときの名誉失墜を事前に予防する手段なんだ」  と言って、朝比奈は、また人なつっこい笑顔を浮かべた。 「エラリー・クイーンも、きっと、つねに自分のハッタリに自信がないから、そうしたんだと思うよ」 「わかったよ」  平田は、仕方がないといったふうに肩をすくめた。 「名探偵とつきあうのも、楽じゃないな」 「ただね、平田」  口調を改めて、朝比奈は言った。 「さっき、この宿の主人の奥さんが、因幡の白ウサギの話にビクンと反応したことといい、水沢めぐみさんが、セグロウミヘビの死骸を準備している人物を見たと電話してきたことといい、どうやら、このホテル八重垣が事件の中心にあるのは間違いない気がしてきた。そこで、頼みが二つあるんだ」 「頼み?」 「そうだよ、こんどは平田均が名探偵になる番だ」  朝比奈は、ぐっと声のトーンを落とした。 「これまでに起きた三つの事件に関する、須賀家の人々のアリバイを調べてほしい」 「アリバイ……」 「これだ」  朝比奈は、座卓の上に広げたメモを指さした。 「この一覧表にある死亡推定時刻を見ながら、この時間帯に、須賀宏、須賀真理子、須賀伸江のアリバイが成立するかどうかを確認してほしいんだ。とりわけ、第三の事件は起きたばかりだから、調べやすいだろう」 「まいったなあ」  朝比奈のメモに目を落としたまま、平田はつぶやいた。 「またまた雇い主を疑うハメになろうとはなあ……」  過去に巻き込まれたいくつかの殺人事件をふり返りながら、平田は言った。 「おれとしては、須賀さんたちを疑うよりは、あの傲慢な東尾って野郎を調べてみたい気分だけどね。つまり、めぐみさんの婚約者だったやつなんだが」  平田は、東尾啓一が須賀家に対する深い恨みを抱いている背景を、朝比奈に話した。  とりわけ、東尾の父が『須賀が憎い』と言い残して死に、そのテープを東尾が持参してきたエピソードを強調して語った。 「犯人でなくとも、東尾が一連の事件に関係していた可能性は捨て切れないと思うんだ」  平田は言った。 「というのも、いまは彼は東京暮らしだが、もともとは出雲の出で、しかも須賀さんとは高校時代の同級生だったわけだから」 「それなら、東尾もチェックリストに入れてくれて結構だ。ついでに、きみが惚れているらしい、めぐみさんもね」  えっ、という顔で、平田は朝比奈を見た。 「めぐみさんも疑うのか」 「悪いけど、平田。『風吹村の惨劇』では、ぼくは愛する葉子さんのことを、いちどはマークしてかかったんだぜ」 「わかったよ」  さっきよりも、もっと大げさなため息をついて、平田は言った。 「血も涙もないやつだ」 「それから、頼みごとはもう一つある」 「なんだよ」 「ホテル八重垣の宿帳は、どれくらい前のものまで保存されているんだ」 「さあ、わからないな」 「とにかく、宿帳をぜんぶ引っくり返して、殺された三人の男が、以前にもこの宿に泊まったことがあるかどうかを調べてほしいんだ。矢作についても、去年の大晦日ではなく、それより前の宿泊記録の有無を調べてくれ。平田の立場だったら、いろいろとうまい理屈をつけて、過去の宿帳を見ることはできるだろう」 「それはできると思うけど、ただ、矢作賢作が長谷部憲二と名前を変えていたように、偽名を使われていたら、探しようがないぜ」 「それはかまわない。本名での記録を調べてくれればじゅうぶんだ。ぼくはぼくで、明日朝いちばんで志垣警部に電話をかけて事情を話し、三人の被害者が、過去に出雲に旅行したことがあるかどうか、遺族に確かめてもらう手配を頼んでみるつもりだ」 「いいのか、そこまで志垣さんに頼んで」  平田は心配そうに言った。 「だって、東京の事件は志垣さんの担当じゃないんだろう」 「甘えるだけ、甘えてみるさ」  朝比奈は言った。 「どういうわけか、初対面がギクシャクしたわりには、いまではすっかり身内みたいな付き合いになっているからね」  そう言ってから、朝比奈は、ふっと気になることを思い出した顔になった。 「大事なことを言い忘れていたよ」 「なんだ」 「きみの惚れてるめぐみさんだが……」 「いちいち『きみの惚れてる』という修飾語をつけるなよ」 「気をつけてやれよ」 「なにが」 「鈍いなあ」  朝比奈は、腕組みをして親友の顔を睨んだ。 「めぐみさんの言っていることが正しければ、彼女は犯人の顔を見た重要な証人ということになるんだぜ。つまり、犯人にとっては、きわめて危険な存在、というわけだ」 「そうか……」  平田は顔を曇らせた。 「その危険性をすっかり忘れていた」 「彼女が単身出雲にやってきたら……」  朝比奈は言った。 「おまえがしっかりボディガードをしてやらないと、万が一ってこともあるからな」 「わかった」  平田は、硬い表情でうなずいた。 「わかったよ。じゅうぶんに気をつける」      7  次の日の朝、朝比奈耕作は志垣警部との電話連絡のためにホテル八重垣を出た。  そして、警部との連絡を済ませたあと、雪の残る大社通り商店街でこまごまとした日用品などを買い、またホテル八重垣のほうへ戻ってくる途中、宇迦橋の上で、反対方向からくる須賀真理子にバッタリ出くわした。 「おはようございます」  朝比奈は、きのう平田と話したことなどおくびにも出さず、須賀の妻に向かって明るい声で挨拶した。 「あ、おはようございます」  と、真理子も軽く会釈をし、二人は宇迦橋のちょうど真ん中あたりですれ違った。  そのまま二人の距離は離れていくかと思われたが、真理子は二、三歩行き過ぎたところで、ふっと後ろをふり返った。  朝比奈も、なにか呼び止められるような予感を覚えて、同時にふり返った。  上半身だけひねった形で、朝比奈と真理子は、もういちど橋の上で視線を合わせた。 「あの……」  先に真理子のほうが、きちんと朝比奈に向き直り、ほほえみかけてきた。  朝比奈も同時に回れ右をしながら、きれいな人だな、と、改めてその思いを強くした。だが、スキのない人だ、とも……。 「出雲大社に行ってこられたんですか?」  澄んだ声で、真理子がきいてきた。  冷たい風が吹き抜ける橋の上なのに、彼女の声はとてもはっきりと朝比奈の耳に入ってくる。 「いえ、買い物に出ただけで、きょうはまだ大社のほうには」 「そうですか」  真理子はうなずくと、大社町を横切る堀川の静かな流れに目をやった。  向こうのほうには、頭に雪をかぶった山が控えている。その山の方向から吹いてくる風に、真理子の長い黒髪が躍らされ、彼女の顔を隠したり表したりする。  髪を乱れるに任せながら、真理子はしばらく黙っていた。朝比奈としては、挨拶を残してそのまま立ち去ってもよかったのだが、なんとなく右と左に別れがたい気がして、彼のほうから言葉をかけた。 「寒いけれど、とっても空気が澄んでいますね」 「ええ……ここの空気は特別ですから」  そう言って、真理子は顔にかぶさった髪の毛を片手で梳き、それからまた、じっと川の流れを見つめる。 「ねえ、朝比奈さん」  川面に視線を落としながら、真理子はつぶやいた。 「この川って珍しいでしょう。ほら、川の真ん中にずっと仕切りがあって」 「ああ、ほんとだ。何度かここを往復しているのに、気がつきませんでした」  朝比奈は、真理子と肩を並べる格好で、欄干越しに下を見た。  川幅のちょうど真ん中あたりに、コンクリートで作られた仕切りの塀が設けられていて、その塀が何百メートルもつづいているのだ。  本来は一本の川でありながら、その仕切りによって真ん中から二分され、まるで二本の川が並行して流れているようにみえる。  下流のほうに目を向けると、宇迦橋の次の橋のところまで、そして上流のほうは、川がカーブして見えなくなる向こうまで、仕切りの塀は延々とつづいていた。 「どうして、こんなふうに川の中に塀を作ったのだと思います?」  真理子がたずねてきたが、朝比奈は、さあ、と首をひねった。 「推理作家でもおわかりになりません?」 「わかりませんね」 「向こうのほうで、この堀川に流れ込んでくる二本の支流があるんですけど……」  真理子は上流を指さした。 「その二つの川は、水位がだいぶ違うんですね。ですから、とりわけ雨が降って増水したときなどは、合流地点で流れがぶつかって、一方の支流に水が逆流したりするおそれもあるんです。それで、合流地点からしばらくの間は、本流の中に塀で仕切られた二つの流れを作り、水位を自然に調整させる区間を設けてから、あっちのほうではじめて流れを一つにするんです」 「なるほど……そういう目的があって作られたものなんですか」 「夫婦も……」 「え?」  真理子が小声でつぶやいたので、朝比奈は聞き返した。 「私たち夫婦も、あんなふうに、流れを調整する期間を作っておけばよかったんですよね、きっと……」 「………」 「私と須賀って、ちょうど堀川に流れ込む二つの支流のように、感情の水位が違いすぎたように思うんです」  真理子が、川の流れを結婚生活にたとえはじめたので、朝比奈は黙ってそれに聞き入った。 「だから、結婚した当初は、とっても驚かされることの連続でした。彼は仕事仕事で、それしか頭になくて……ローカル新聞だけど、自分は日本で屈指のジャーナリストになってみせるって、口を開けばそのことばかり」  真理子は、淡々とした口調で語った。 「私は、結婚生活って、もっともっと違うスタイルを想像していたんです。なんでも二人でいっしょに考え、二人でじっくり話し合って、ほんとうに二人三脚で歩いていくような人生を……。でも、須賀は、自分の妻にそんな役割は期待していなかったんです。相談役でも伴走者でもない、はっきりいって、世間体をとりつくろうために、妻という存在が必要だった。それだけなんです。あの人は最初から、人生は一人で走るものだと考えている人でしたから」  真理子の突然の告白はつづく。 「平田さんからお聞きになっているかもしれませんけど、私たちは結婚して八年になります。でも、子供はいません。彼は、いまでも子供を欲しがっているんですけど、私はずっと拒否しつづけてきました。もしも子供ができてしまったら、それこそ、私は何のために生きているのかわからなくなる。須賀と子供の奴隷になって、一生を終えてしまうことになるんじゃないかって……」  冷たい風にさらされているせいか、真理子の顔は、ずいぶんと青ざめてみえた。 「最初は避妊という形をとっていたんですけれど、須賀が猛烈に子供をほしがるようになってからは、それでは済まなくなって、私、彼に内緒で不妊手術を受けたんです。……たぶん須賀は、いまでもそのことを知らないと思います。きっと、私のことを妊娠しにくい体質だと思ってあきらめているのかもしれませんけれど」 「奥さん……」  どう呼んでいいのかわからなくて、朝比奈は、とりあえずそう言った。 「奥さんはなぜ、そんな話をぼくに」 「わかりません」  少しだけ悲しそうな笑みを浮かべて、真理子は首を振った。 「どうしてだか、わかりません。ただ、あなたとこの橋の上ですれちがった瞬間に、なにもかも話してしまいたくなったんです」  真理子は、出雲の地から出たがっている——その話は、朝比奈も平田から聞かされていた。  東尾がホテル八重垣の土地を乗っ取りにきたとき、できればその方向で話を進めてもらえないかと、真理子がこっそり平田に頼んだエピソードである。  なぜ彼女がそんなことを望んでいるのか、朝比奈は最初理解できなかったが、いまの話を聞いているうちに、どうやら彼女は、須賀との離婚か、さもなければ、離婚はしなくとも、新しい土地での新生活を望んでいることがわかった。 「朝比奈さん……」  真理子は、ようやく川面に投げかけていた視線を起こして、朝比奈に向き直った。 「もしもお時間がおありでしたら、私と一緒に、大社へお参りしていただけませんか」 「ええ、それはべつにかまいませんけど」  と返事をしながら、これは平田と同じ状況になったな、と朝比奈は思った。  大晦日の夕刻、平田もこうやって真理子に誘われて大社の参拝に付き合わされている。そして、そのときに、東尾の乗っ取り話に裏で協力するよう頼まれているのだ。  では、朝比奈も何か真理子から頼みごとをされるのだろうか。 「ごめんなさい、無理をお願いして」  朝比奈の返事に気乗りしないものを感じたのか、真理子はすまなそうに、そう言った。 「いえいえ、ちっとも無理なんかじゃありませんよ」  笑顔で答えると、朝比奈は大社の方角に目を向けた。 「さあ、行きましょう」 「ありがとうございます」  須賀真理子は礼を言いながら、風に乱された前髪をもういちどかきあげた。  その右手の薬指にはめられた青瑪瑙の指輪に、ちょうど朝日が当たって、透き通った緑の光を放っていた。      8  主人の須賀も、妻の真理子も、そして須賀の姉の伸江も外出して、フロントは空っぽだった。  通常のホテルではありえないことだが、このホテル八重垣では、小さな旅館なみに、午前十時のチェックアウト期限がすぎると、しばらくの間、フロントはほとんど無人同然になるのである。  ロビー周辺では年配の女性従業員がひとり、たいして魅力的とはおもえない土産物の在庫を調べている。  女性用の風呂の改装工事は、きょうもチェックアウト時間がすぎるのを待ってはじめられており、上の方でガタガタと機械の騒音がしていた。そして、工務店のジャンパーを着た人間がしきりに出入りする。  その慌ただしい雰囲気は、平田が内密の調査をやるにはもってこいだった。  とにかく、朝比奈から頼まれた仕事は、先を急いでやる必要があった。  というのも、今週中は、改装工事も時間を限定して行われ、宿泊客もほんのわずかだが滞在しているのだが、来週からは、しばらく宿を休業にして、本格的な改修工事に取りかかることになっていた。  だから、朝比奈が予定の一週間をすぎて宿泊を延長したいと申し出ても、それは困難な状況にある。  平田としては、頼りにしている朝比奈耕作が、自分の身近に滞在してくれている間に、なんとしてでも『疑惑』に結着をつけておきたかった。  そうでないと、今後、どこか割り切れない気持ちで、須賀家の人々と接していかなければならなくなるからだ。  過去の宿泊者リストは、フロント裏の控室の本棚に並べられてあった。例の、こたつのある六畳の和室である。  天井のほうから聞こえてくるガガガガという工事音も気にならないほど、平田はリストのチェックに没頭した。 「あった!」  調べはじめてから十五分ほどで、最初の名前にぶち当たった。  去年の五月——  ゴールデン・ウィークの後半に、男性ばかりのグループ客があった。  名古屋の私立大学の名前とともに、文学部ご一行六名様とある。  その中に、葉山実の名前があった。  白兎海岸で絞め殺されたうえに、顔をサメ皮のおろしがねで無残にも擦りむかれてしまった大学講師である。  平田は、急いでメモをとった。  もちろん、同行者の名前も記録する。  さらに五分後——  こんどは、さらに半年以上溯った二年前の十月に、北海道『牧友会』ご一行十二名様の記録がある。  その中に、矢作賢作の名前があった。  このときは偽名ではなく、はっきりと本名で宿泊していた。 (残る一人の村木昇もきっと……)  宿泊リストをめくる平田の指が、緊張で汗ばんできた。  朝比奈耕作のカンはズバリ当たっていた。出雲神話を連想させる死に方をした三人のうち、すでに二人までが、彼の予想どおり、過去にホテル八重垣に泊まっていたのである。  このぶんだと、残る村木に関しても、宿泊リストのどこかに名前が出てくるに違いない。平田は、結果が出る前から、そのことを確信していた。 (このホテル八重垣で、彼らの身に何があったんだ……)  旅先の浮気——  その文字が、平田の脳裏によみがえってきた。朝比奈の推測は、たぶんそのへんにあるはずだ。  では、彼らの相手とは……? (まさか……)  平田は、浮上してきた考えを、いったんは否定した。 (だけど……)  否定しても否定しても、その考えがまた浮かび上がってくる。 (まさか、真理子さんが泊まり客と浮気をするなんて……)  あの知的な容貌をした真理子が、須賀に隠れてそんな真似をするとは、すぐには信じられなかった。  しかし、彼女が出雲を離れたがっているのは事実だ。それに、いままで見てきたかぎりでは、夫婦仲も——決して悪いとは思えないが——仲睦まじいというレベルではなさそうだ。どこか冷めた関係のように感じられる。  もしも真理子が夫婦生活に不満を抱いており、その気になったなら、誘われた男だってグラッとくるだろう。彼女は、じゅうぶんすぎるくらい魅力的なのだから。  それに、忘れてはならないのが、被害者の男たちも、そろって二枚目であったことだ。つまり、真理子のほうから積極的になる要素も、多分にあったことになる。 (では……)  平田は考えた。 (仮に、真理子さんが浮気をしていたとして、その相手を殺そうと考えるのは誰だ)  ガーンという衝撃が、後頭部に走った。 (須賀さん……)  妻の浮気を知る。  激怒する。  相手を呼び出す。  事実関係を追及する。  相手が白状する。  そして殺す。  そういった図式が、一瞬のうちに頭に浮かんできた。 (それでいて、須賀さんは、あそこまで平然としていられるのだろうか。それに、真理子さんだって、自分の過去の浮気相手が殺されたとなると、やはり平常心を保っていられるはずはない。そうだ、そもそも……)  平田は思い出した。 (そもそも、大晦日からホテル八重垣に投宿していた矢作賢作のことはどうなるのだ。いくら偽名で泊まっていたとはいえ、顔を見れば、過去の浮気相手であることが、真理子さんには即座にわかるはずだ。仮に、須賀さんが報復を考えていたとしても、ホテル八重垣に相手を泊まらせるのは、どうしたっておかしいではないか)  そんな考えがグルグル頭の中をかけめぐった。  その間にも、平田の指はリストに載せられた宿泊者の名前を追っていく。 「あった!」  声が出た。  村木昇の名前が見つかった。  矢作から溯ること、さらに一年。三年前の秋の連休時期にユニバーサル銀行ご一行様、第一班六名様という記録がある。  察するに、銀行の行員旅行で出雲を訪れ、ホテル八重垣だけではなく、いくつかの旅館に分宿した中の一グループらしい。  大社町の宿泊施設は、ごく一部をのぞけば、大規模旅館というのはないから、社員旅行などで人数が多いときは、いくつかの宿に分かれて泊まるケースがよくある。  そういった場合も、当然のことながら、幹部クラスはよい旅館に宿泊し、平社員はそれなりの宿があてがわれる。  ホテル八重垣の場合は、施設も貧弱なうえに出雲大社からだいぶ距離があるので、どうしても平社員クラスが多用することになる。  その≪ユニバーサル銀行ご一行様、第一班六名様≫という顔ぶれをみても、明らかに若手行員ばかりである。  そしてその中に、当時三十歳だった村木昇の名前が記されてあったのだ。  三年前の秋といえば、須賀の父親が倒れ、須賀宏と真理子の若夫婦がここを仕切るようになって、ほぼ半年経ったころである。  新聞記者として多忙な夫の帰りを、ただ待つだけの主婦の立場から、小さな宿の経営を手掛ける、いわば『若女将』のような立場に変わったとき、真理子の心境にも大きな変化がおとずれたのだろうか。  すべてをメモしたあとも、平田は事務室の片隅に座り込んだまま、しばし呆然としていた。  どれくらいボーッとしていたのかわからない。  フロントの方から、すみませーん、と声をかけられたので、平田はハッと我に返った。  声のしたほうを見ると、黄色いヘルメットをかぶった、改装工事の現場責任者が顔をのぞかせていた。 「悪いけど、ちょっと電話を貸してもらえんかね。部品が足りなくなっちまってさ、ちょっと至急、事務所に連絡を取りたいもんで」 「あ、ああ、どうぞ。そこの黒電話を使ってください」  そう言ってから、平田は、あわてて宿泊者リストを閉じた。ぼやぼやしていたら、須賀たちが帰ってくるかもしれない。  年度別に三分冊になっていた、そのファイルをしまおうと、畳の上でいったん立てたとき、どこかにはさんであったらしい紙切れがハラハラと落ちてきた。  何だろうと思って拾いあげた平田の表情が、みるみるうちに強ばった。  電話用の小さなメモに、見慣れた筆跡で、次のように書いてある。   東京‐出雲 ヘリのチャーター   アエロ・スパシアル355F型機   所要 約四時間半(要・燃料補給)   チャーター料 1時間35万   (片道150万以上!)   でも、可能性あり  平田はしばらく目を見開いて、そのメモを見ていたが、やがて大急ぎでポケットから札入れを取り出すと、ゆうべ朝比奈から手渡された、事件の一覧表を引き抜いた。  第一の事件における村木昇の死亡推定時刻は、午前三時から四時の間である。  ハブ毒の矛盾もあって、殺人者がいったい何時まで犯行現場にいたのかは、まだ定かではないが、もしも犯人が須賀家の誰かであり、夜中もしくは明け方に東京を出て、なるべく朝早くに出雲へ帰ってくる必要に迫られた場合、時間的にいって、飛行機や新幹線など通常の高速交通機関は、使用不能である。  その他に、東京を夜の九時半に出る、寝台特急の『出雲3号』というのがあって、それに乗れば、たしかに朝の十時三十二分には出雲市に着くのだが、これでは、深夜に東京のホテルにいることは不可能である。  夜の九時半に東京駅から出発できるように、ハブを使って時間差殺人を行うというのは、ハブの毒性の現実を鑑《かんが》みた場合、絶対に不可能だったから、この仮説も成り立たない。  一方、出雲行きの飛行機の始発は、定刻七時四十五分羽田発の日本エアシステム便である。  これは、多少遅れても九時半前には出雲に着くもので、第一の事件があった大晦日の朝、平田は、この便でやってきた東尾啓一と水沢めぐみを、空港まで出迎えに行っている。  そのとき、須賀宏はホテル八重垣に残って、平田が東尾たちを連れてくるのを待っていたのだから、彼が犯人だとしたら、もっともっと早くに、出雲に戻っていなければならない。  では、真理子や伸江はどうだったか。  真理子は、まちがいなく朝からその姿を見かけていた。  だが、伸江が何時頃にホテル八重垣にやってきたのかは、平田は記憶になかった。  彼女の場合は、宿からちょっと離れたところにある自宅から通ってきているのだが、気まぐれというか、その日その日で出勤時間にもムラがあった。だから、伸江が毎朝何時にホテル八重垣に姿をみせるか、誰も見当がつかないところがあったのだ。  しかし、少なくとも東尾たちが乗ってきた飛行機に、その姿がなかったのは確実だ。  あのとき平田は、飛行機から降りてくる乗客はじっくり見ていたから、伸江なり、他の知った顔がいれば、必ず気づいたはずだからだ。  ということは、やはり通常の交通手段で考えるかぎりは、いわゆるアリバイというものが成立してしまいそうだ。 (だけど、ヘリコプターを使えば……)  平田は、見てはいけないものを見てしまった、という顔つきで、あらためてそのメモに目をやった。  そこに書かれた文字は、明らかに真理子の筆跡だった——      9  夜がきた——  平田均にとっては、非常に不安な夜がきた。  ホテル八重垣の宿泊リストに、三つの事件の被害者がずらりと顔を並べているのを見たとき、平田はいいようのない恐怖心に襲われた。  朝比奈の推理が核心をついていると証明された以上、須賀家の人々に対する疑心暗鬼はつのるばかりだった。  最初は、真理子の浮気説から、夫の須賀が怪しいと思った。  だが、宿泊リストの合間からハラハラと落ちたメモを読んだとたん、ガラリと見方が変わってしまった。  真理子の筆跡で書かれたあのメモは、明らかに東京‐出雲間を、チャーター便のヘリコプターで飛ぼうという計画に違いなかった。  その目的は何か。  いうまでもなく、ここ、出雲におけるアリバイ作りのためだ。  平田の心の中では、一転して、真理子が真犯人として浮かび上がってきた。  だが、あの知的美人の須賀真理子が、ほんとうに三人もの男を殺したのだろうか?  いまから数時間前の夕刻、平田は仕事の合間をみて、朝比奈を誘って車で大社町の外まで行き、ドライブインに入って、これまで調べあげた事実を彼に報告した。  ひととおりの話を聞き終わったあとも、朝比奈はカフェオレ色の髪に手を突っ込んだまま、長い間、身動きひとつしなかった。 「……無理があるな」  ようやく、朝比奈はポツンと言った。 「真理子さんが、三人の男を次々に殺したというのは、絶対に無理がある」  どうして、と聞き返す平田に、朝比奈はこう言った。 「真理子さんが浮気相手を殺す必要に迫られたとしたら、その原因は男から恐喝されたというケースしか考えられない。ご主人と別れて結婚してくれという話がモメたとか、金をくれないとすべてをバラすぞ、とかね。だが、そろいもそろって三人の男が同時期に、そんな脅しをはじめると思うかい」  言われてみれば、そのとおりだった。  たった一人の浮気相手から脅されていたというならともかく、三人から次々に脅迫されたと考えるのは現実的ではない。  となると、やはり、なんらかのきっかけで夫に過去のことがぜんぶバレて、怒った須賀が復讐に出たのだろうか。  だが、それでは、ヘリコプターに関するメモが、疑いなく真理子の筆跡だったという説明がつかない。  あるいは、真理子が浮気していたという仮定そのものが、やはりこじつけだったのだろうか——平田がそんな疑問を呈すると、朝比奈は、真剣な顔で首を左右に振った。  そして、低い声でこう言ったのだ。 「真理子さんは、実際に浮気をしていたよ。相手が誰であるかまでは言わなかったが……。きょう、出雲大社の本殿の前で、ぼくに打ち明けてくれたんだ」  きょう一日の出来事を思い返すたびに、平田は目が冴えて眠れなかった。  いったい、朝比奈と真理子は、出雲大社でどんな会話を交わしたのか。  例によって朝比奈は、まだ言えない、の一点張りだったが、そこまで彼の推理が的中しているのだったら、やはり須賀宏のほうが怪しいということになってくる。  宏なのか、真理子なのか。あるいは伸江が一枚かんでいる可能性もあるのか。 (いったい誰が、あんなむごたらしい事件を引き起こしたんだ)  考えれば考えるほど、平田は頭をかきむしりたい気分になった。  が、そのときふっと、水沢めぐみの顔が浮かんできた。  朝比奈を別とすれば、いまめぐみだけが、その解答を与えてくれる唯一の人間なのだ。  元日の午前三時前——水沢めぐみが目撃した人物は、いったい誰なのか。一刻も早く、その答えを知りたかったが、きょう一日待ってみても、彼女からの電話はかかってこなかった。  こちらから連絡を入れたいのは山々だったが、うかつにも、平田は彼女の電話番号を聞き忘れていた。宿泊リストを見ても、あの傲慢な東尾啓一の番号しか載っていない。  こうなったら、二、三日のうちにこっちへくるという彼女の言葉を信じて、じっと待つしかあるまい。  しかし、夜が更けていっても、ますます目は冴えわたり、とてもではないが、眠りにつける状態にはならなかった。  仕方がない。悪いけれど朝比奈を起こして、夜通し話し込もう——平田は、そう決めて、布団をはねのけ、パジャマ一枚の格好で、神楽の間をたずねてみた。  ところが——  電気の消えた真っ暗な部屋に、朝比奈耕作の姿はなかった。もぬけの殻である。  こんな時刻にいったいどこへ出かけたのか、ホテル八重垣の『門限』はとっくに過ぎたというのに、朝比奈の姿はどこにもなかったのである。      10  ホテル八重垣からすぐのところに一人住まいをしている須賀伸江は、深夜零時ごろにパチッと目をさました。  毎晩のことなのだが、この時刻になると、いくら熟睡していても手洗いに行きたくなってしまうのだ。 (四十になったばかりなのに、これじゃあ、まるで年寄りだわね)  布団の上に半身を起こしながら、伸江は苦笑した。  そして、手を伸ばして、豆電球だけになっていた照明を、いちばん明るいものにする。  横に誰かがいる——ハッと思って見たら、カバーをかけ忘れた壁際の鏡台が、彼女の姿を映し出しているのだった。  伸江はしばし、鏡の中の自分に、じっと見入っていた。  つけ睫毛をとり、メイクも落とした伸江の顔は、レトロっぽい水商売風の印象から、一転して、田舎の少女のようになった。  いくら年をとっても、この、おどおどとした自信のなさそうな素顔は変わらなかった。それがいやで、伸江は時代錯誤ともいえる、けばけばしい化粧をすることにしていたのだ。  電気毛布の温度調節を少し強めにしていたせいか、部屋は外の寒さを伝えてシンと冷えきっているのに、妙に暑苦しく感じ、寝乱れてしまったらしい。素肌に着ていた浴衣の前がはだけて、片方の乳房がぽろりとこぼれていた。  ふっと、そこに伸江の目がいく。  年を感じさせない張りのある乳房だった。  もしも男が、伸江の胸だけを見たとしたら、あるいは二十代の女性と勘違いしたかもしれなかった。形も崩れておらず、肌もしっとりと滑らかである。  乳房だけが、年を忘れて若やいでいた。  その若々しさに腹が立って、伸江は乱暴なしぐさで、胸を浴衣の下にしまいこんだ。  そして、鏡に背を向けて立ち上がる。  伸江は、もう十五年近くも男を知らなかった。  二十代に結婚に失敗してからというもの、彼女は一時的に男性恐怖症——いや、男性嫌悪症にかかり、いくらそれを治そうと努力しても、徒労に終わるばかりだった。  もちろん伸江は、二度と結婚をする気になれなかった。また、男と女の幸せを求めて、出雲大社に参拝にくる人間の気が知れなかった。  そんな自分が、まさに縁結びの神のお膝もとに暮らしているのは、皮肉というよりない、と思っていた。 (男なんて……)  心の中でつぶやいてから、伸江は、そっと自分の乳房を押さえた。 (男なんて……くだらない)  伸江は、そっと襖を開けて廊下へ出た。  襖一枚隔てた向こう側の冷気におもわずゾクッと身震いをひとつしてから、伸江は早足になって手洗いへ向かった。  鉤の手になった廊下の角にある手洗いの前まで来たところで、玄関になっている土間に、なにか白いものが落ちているのに気がついた。 (なにかしらね)  いぶかしげな顔をして、伸江は土間に近寄った。  それは一通の封書だった。  表書きには墨で「須賀伸江様」としたためてある。  旧式な木造家屋の玄関の扉は、立てつけが悪く、きちんと鍵を下ろしても、すきま風どころか郵便物も平気で差し込めるくらいの隙間が開いてしまう。寝る前に戸締まりをしたときには、そんな封筒は見当たらなかったから、伸江がいったん寝入ったあとに、誰かが差し入れたのだろう。  屈み込んで、その封筒を拾いあげる。  思ったよりも厚みがあり、手のひらにずっしりと重かった。  裏を返してみると、筆跡から想像したとおり、弟の嫁の真理子からだった。  とりあえず先に用を足し、それから寝室に戻り、伸江は鏡台の前でその手紙の封を開けてみた。 ≪ごめんなさい≫  いきなり一行目に、詫びの言葉が記されていたので、伸江はびっくりした表情になった。 ≪このお手紙を読み終えられたとき……いえ、何枚か後の便箋をめくられたときに、伸江さんはおそらくとても大きなショックを受けられると思います。  稲佐の浜の事件といい、他の出来事といい、もとはといえば、私のだらしなさからはじまったことは間違いありません。ですから、それについては弁解の余地もなく、幾重にも深くお詫びを申し上げる次第でございます≫  伸江は、片手で浴衣の襟元をギュッとかき合わせ、しばらくの間、弾む呼吸を整えていた。  鏡の中の自分が、現実の自分を脅えた目で見つめている。  それを見るのがいやで、伸江は鏡台の布カバーを上からスルッと下ろした。  そして、あらためて手紙に目を落とす。 ≪ただ、最初にどうしてもお話ししておきたいことがあります。  それは、私にとって、宏さんとの結婚生活の実態が、とてもみじめなものであった、という事実をわかっていただきたい、ということです。  伸江さんが、どんな形で結婚に失敗なさったのか、それは、宏さんも口を閉ざしていますから、私もよくは存じません。でも、そういった経験をなさった伸江さんだからこそ、私の気持ちは理解していただけると信じているのです。  もしも——という仮定の言葉は、私たち夫婦には、もうほとんど意味のないものとなっていますけれど——もしも結婚してすぐに、ホテル八重垣の経営を宏さんと二人で任されることになっていたら、私たちは、力を合わせて生きる慶びを、きっと知ることができたでしょう。  でも、宏さんは、ジャーナリストの道を目指す段階で、妻の存在がどういったものであるのかを、すっかり忘れてしまったようでした。いいえ、それどころか、妻とは、宏さんにとって、仕事の邪魔をする存在でしかなくなっていたのです。  仕事と私が天秤にかけられたとき、私のほうに重みがあったことは一度だってありませんでした。あの人にとって、私は仕事以下の存在でしかなくなっていたわけです。家庭の中で存在意義を失ったまま、毎日を過ごすのがどれだけ辛いことか……きっと、伸江さんも同じ思いを味わったでしょうから、想像をしていただくのも難しくはないと思います。  そんな私の様子が少しは気になったのか、宏さんは、あるときから、そろそろぼくたちも子供を作ろうと言い出しました。けれども、私はそれをきっぱりと断りました。宏さんは、私に子供を作らせることで、つまり、母親の役割を与えることで、家庭での存在意義を見出させようとしたのです。ヒマそうにしている新入社員に、つまらないスクラップの仕事を与えるように……。  でも、妻としての私の立場は、それで変わるわけがありません。宏さんは、妻を母に変身させることで家庭の崩壊は防げると思っているようでしたが、それは大きな間違いなのです。だって私は、妻や将来の母である前に、ひとりの女なのですから……。  しだいに、私は男の人の愛に飢えていきました。初めは精神的に、そしてそのうちに、身体も男の人の愛を求めてやまなくなりました≫ 「まあ……」  抑えようとしても、伸江の口から驚きの吐息が漏れた。 「まあ……なんてこと」 ≪それでも、実際にいろいろな男の人と接触する場がないときは、何事も起こりませんでした。  ところが皮肉にも、お義父様が亡くなって、いざ、宏さんと力を合わせてホテル八重垣を運営しはじめたときに、私の前に、次々とすてきな人が現れてしまったのです。  村木昇さん——  矢作賢作さん——  葉山実さん——  ほんの些細なきっかけから、私たちはおたがいに接近してゆきました。ある人は生真面目に、ある人は逞しく、ある人は繊細に私を愛してくれました。  それぞれ、ほんのわずかな期間であったとはいえ、宏さんとの結婚生活ではとても味わったことのない深い満足感に、私は心身ともに包まれる歓びを味わったのです。  もちろん、相手の男性には家庭がありましたから、決して深入りはしないつもりでした。そして実際に、どの人とも、半年も付き合わないうちに、私のほうからつとめて冷静に身を引く——そのルールを守ってやってきたのです。  思い出は心のページに刻み、いつまでも大切に胸のうちにしまっておこう——そう思って、これまでは何事もなく過ごしてきました。  けれども、最近になって、私は大きな過ちを犯してしまいました。  年とともに愛の記憶が薄れていくのをおそれ、これまでの三人の男性との出来事を、日記に具体的に記してしまったのです。  そしてある日、それをうかつにも出しっぱなしにしたまま宿の仕事にとりかかり、ハッと気がついたときには、もう宏さんにすべてを読まれてしまった後でした。  破滅は、そこからはじまったのです……。  伸江さん——  あなたに宛てた手紙はここまでです。  この先からは、『告白』がはじまります。  私は、その告白の部分を、すでに事務室のコピーで何部か複写をとりました。  いうまでもありませんが、これは『殺人の記録』です。  ですから、きっとこれは警察に届けられるべきものだと思うのです。そして私は、自分の良心にしたがって、そのようにするつもりです。  自分の手で直接警察に渡すことになるか、それとも警察に郵送するか、あるいはなんらかの形で警察に見つけてもらうことになるのか、それはわかりません。  でも、やはり真実は隠しておくべきではないのです。  最後に——  もう、伸江さんとも宏さんとも、お会いすることはないでしょう。少なくとも、いままでのような形では……。  どうぞ、宏さんにお伝えください。  私は、決して宏さんを嫌いではなかったのです。だからこそ、一生懸命努力もしてきました。  ただ……愛のない夫婦生活は、もう限界です。  家庭とか、社会とか、世間体とか、そんなものよりももっと大切な、基本的な一人の男と一人の女の愛の形が、私たちにはありませんでした。  昨日も、きょうも、そして明日も、この出雲大社には、愛の花を咲かせることを願って、数多くの人々が訪れます。そうした未来の可能性に満ちた人々を見るたびに、私は耐え難い絶望感に襲われてしまうのです。そして、なんとか自分もやり直しをしたいと考えてきたのです。  それが許されず、結果的に、こんな悲惨な結末を迎えてしまったのは、私だけでなく、伸江さんにとっても、宏さんにとっても、ほんとうに不幸なことでした。  でも……  時間の流れを逆さにすることは、もうできません。いくら嘆いても、いくら悔しがっても、失われた時は戻ってこないのですね。  そんなかんたんな真実が、どうして最初にわからなかったのでしょうか≫  伸江に宛てたメッセージは、そこで終わっていた。  だが、そのあとに、まだ便箋何枚にもわたって後半の部分がつづいていた。  伸江は、胸苦しさに襲われながら、次の便箋をめくった。  指がひどく震えて、紙がカサカサと大きな音を立てた。 ≪村木昇さんを、毒蛇を使って殺したのは私です。いまからその方法をご説明いたします≫  激しいめまいをおぼえて、伸江は鏡台に頭をぶつけた。  ガシャンという音で、かろうじて目を覚ました。  口紅や香水のビンが横倒しになった上に、便箋が散らばっている。 ≪村木昇さんを、毒蛇を使って殺したのは私です。いまからその方法をご説明いたします≫  いやでも、その部分が目に飛び込んできた。 「ああああ」  言葉にならない叫びをあげると、伸江は、まるで怖いものからのがれるように、手元に残っていた便箋を鏡台の上にぜんぶ放り投げ、枕元にあるダイヤル式の黒電話にかじりついた。  十回以上コールしたのちに、眠そうな声で弟の宏が電話口に出た。 「たいへんよ!」  相手がもしもしと言い終わらないうちに、伸江は振り絞るような声で言った。 「宏……真理子がね……真理子が取り返しのつかないことを……」      11 「日本人とは、面白い人種で、これほど宗教に無頓着でありながら、これほど多種多様の宗教を巧みに生活に取り入れてきた民族は、おそらく他に例をみないのではないでしょうか」  森閑と静まり返った深夜の出雲大社——  神々が集う、その社《やしろ》に、朝比奈耕作の声が響いた。 「明確な信念を持って宗教を信仰している家は別にして、私は無宗教だという人の家にも、必ずといっていいほど、先祖代々から伝わる、主に仏教系の宗派があるものです。当然のことながら、代々のお墓は仏式で祀られ、新たにお葬式を行うときも、何の疑問もなくお寺から僧侶を招いて仏式でとりおこなう。  ところが、赤ちゃんのお宮参りを筆頭に、七五三、初詣、それに結婚式——こういったものは、神社とは切り離して考えられません。  そうかと思えば、結婚式をキリスト教会でとりおこなう人も多い。キリスト教徒ではなくてもね。それに、いうまでもなく、クリスマスの行事は日本国民のお祭りにすらなっています。  こうした宗教的な混同は、いいとか悪いといった判断のレベルを越えて、もう完全に『事実』として定着してしまっています」  日本最大の大社造り建造物である出雲大社本殿——雪をかぶったその屋根に交差する千木《ちぎ》の勇壮な姿が、透き通った月明かりに照らされ、濃紺の空を背景にくっきりと浮かび上がっている。  千木には、その先端を垂直に切った男千木と、先端を水平に切った女千木があるが、出雲大社のそれは、力強さを強調した男千木である。  それを見上げながら、朝比奈は、隣りに立っている須賀真理子に説いて聞かせるように話をつづけた。 「国家の象徴であると同時に、神道の斎主としての立場を持つ天皇家に関しても、あまりにも『国民に近づく』という側面ばかりが強調され、宗教的な存在意義を、マスコミや政治家が妙に逃げ腰の姿勢でタブー視してしまうため、かえって、そんなに無頓着でいいのだろうか、と思われる状況も見られます。  たとえば、皇太子殿下のご婚約が内定したということで、それまでの軌跡をふり返るテレビ番組を放送するさいに、クリスマス近くの出来事を紹介する段になって、皇太子の映像にかぶせてBGMに『きよしこの夜』を選曲してしまう。  ここで違和感を覚える人は、ごくごく少数になってしまっているでしょう。おそらく選曲するにあたっても、NHKの担当者は、国家の象徴なんだから、宗教的な配慮はするほうがかえっておかしいとか、そんな肩肘張った考えがあったのではなく、何の考えもなく、ただ、たんに演出上クリスマス・ムードがほしかったから、ということで、『きよしこの夜』にしたのでしょう。  別に、こうした無頓着さは、とりたてて驚くにはあたらないわけで、皇太子の妃を選ぶにあたって、キリスト教徒ではないこと、という条件を持ち出しながら、いざご婚約内定といった段階で、宮内庁は、妃になる方が父親に宛てて出した『メリークリスマス』のコメント入りのハガキを、マスコミに対して公表してしまう。どういう意図があったのか知りませんが、なにも、わざわざメリークリスマスと書かれたものを選ばなくてもよさそうなものだと思いますけどね。メリークリスマスという言葉は、キリスト教の立場からすると、たんなる冬の歳時記的な挨拶とは違うんですから……。  ごった混ぜの宗教文化を認めていい場合と、しっかりケジメをつけるべき場合がある。中途半端な姿勢は、神道にとってもキリスト教にとっても、納得のいかないものとなる。そうしたTPOを、宮内庁はもっときちんと判断しなければならなかったのではないでしょうか」  少し間をおいて、朝比奈はつづけた。 「いまの日本では、宗教的に偏らないことが文化的であり、深い信仰を持つ人間に対しては色眼鏡で見る風潮が強くあるけれども、ぼくは、それは完全に間違っていると思います」  淡々と語る朝比奈耕作の横顔を、須賀真理子がじっと見つめている。 「そもそも宗教的に中立といえば聞こえはいいが、さまざまな宗教に関して、その立場を理解しておこうという姿勢がなく、無知であるがゆえに、論争になった場合怖いから何も言わずにいよう、という態度の『文化人』が圧倒的に多い。そういった思想なき無宗教人が、信仰深い人を、不用意に批判するべきではないと思うんですよ。  もちろん信仰を持たないなら持たないで、それはかまわないと思いますが、ただ、神道に対しても、仏教に対しても、キリスト教に対しても、イスラム教に対しても、その他の宗教に対しても、きちんとした尊敬の念を忘れてはならない気がします。なんでもかんでも宗教的なスタンスを無視してしまうことが知的である、という姿勢は、決して歓迎できるものではないと思う。  それぞれの宗教の尊厳をじゅうぶんに尊重したうえで、いままでどおり、さまざまな宗教文化をごった混ぜにして日常生活にたくましく取り入れていくのなら、それはそれで日本人特有のユニークな生き方のひとつだと思います。要は……」  暗いシルエットとなって周囲に林立する松並木——それに囲まれた境内を見渡しながら、朝比奈は言った。 「この出雲大社のように、古くから神々が集うとして崇め敬われてきた場所には、必ず、それ相応の『気』というものがある。それを鋭敏に感じ取れる感性を、自分の中に養うこと——ひょっとしたら、それが信仰の第一歩かもしれません。  なぜなら最終的には、自分の中に神を見なければ、どんな宗教を信仰しても意味がないと思うからです。たんに教祖様を崇めるだけでは、自分自身の進歩にはつながらない。そのことをしっかり把握していれば、へんな霊感商法なんかに巻き込まれたりするはずがないんです」 「自分自身の中に……神を見る……」  真理子が、朝比奈の言葉を繰り返した。 「そうです。それが信仰の基本ですよ」  朝比奈は静かに言った。 「ある人にとっては、『神』という概念が『信念』に置き換わることもある。そうした場合、その人は自分自身を無宗教であると思い込んでいるかもしれません。でも、それだって『神』を求める行為と本質的には何の変わりもないわけです。だから、神を信仰することは、一般に考えられているほど特殊な行為ではないんです」 「………」 「ところで須賀さん……あなたは、死のうと思っているんですよね」  朝比奈の言葉に、真理子はビクンと肩を震わせた。 「死ぬ前に、あなたは誰かに自分の心の叫びを聴いてほしかった」 「そうです」  と言って、真理子は朝比奈を見つめた。  月明かりが、彼女の瞳に溜まった涙の中で輝いていた。 「だから、私は朝比奈さんをお誘いしたんです。昼間のときには、まだ、とても切り出す勇気がなかったんですけれど……」  真理子はうつむき、涙をひとしずく玉砂利の上に落としてから、また顔をあげ、朝比奈と目を合わせた。 「朝比奈さんだったら、きっと私の気持ちをすべて理解してくださる。そんな気がずっとしていました。なぜって、初めてお会いしたときから、あなたにすべてを見抜かれているような気がしましたから……」 「あなたは、いますべてをぼくに打ち明けてくださったけれども、それは決して、ぼくがあなたに語らせたのではないと思います。この社に集う神様が……いえ、あなたの心の中にいる、あなた自身が、ほんとうのことを語らせたんでしょう」 「でも……もう遅いですよね」 「そんなことはない。決して遅くはありません」 「いいえ、だめです」  真理子は激しく首を振った。 「私、平田さんあてにかかってきた電話を、それとつながっているもう一つの電話で盗み聴きしてしまったんです。東尾さんの婚約者だった水沢めぐみさんが、大晦日から元日にかけての、あの夜に、とても大事な場面を見てしまったということを……。セグロウミヘビの死骸を準備して、矢作さんを殺しに稲佐の浜へ出かけていった人間の顔を見てしまったことを……。それを知ったときに、もうこれ以上、事実を隠しつづけることは無理だと思ったんです」 「でも、奥さん……」 「私を『奥さん』と呼ばないで!」  鋭く叫んでから、真理子はハッと口をつぐみ、ごめんなさい、と謝った。  そして、静かな口調を取り戻してつづけた。 「べつに、私は朝比奈さんに止めていただこうと思って、こんなお話をしたのではないのです。もう死ぬことは決めていましたから。その場所もすべて……。ただ、最後に、私の胸のうちをぜんぶ吐き出せる相手がほしかったんです……」  肩を震わせながら、そして涙を糸のようにこぼしながら、それでも、まっすぐに朝比奈を見つめて、真理子は言った。 「ありがとうございました。最後の最後に、神様を信じるということが、どういうことなのか、わかった気がします」  それだけ言うと、真理子は朝比奈にくるりと背を向けた。  玉砂利のこすれあう音が、真夜中の境内に響いた。 「真理子さん」  朝比奈は、相手の背中に向かって言った。 「死ぬ場所を決めていらっしゃるのでしたら、そこまでぼくも一緒にお供しますよ」  え、という表情で、真理子は朝比奈をふり返った。 「その場所でもう一度、考えてみませんか」  カフェオレ色の髪の中に手を突っ込んで、朝比奈耕作は優しいほほ笑みを浮かべた。 「死の淵のギリギリをのぞいてみたときに、自分がどういう気持ちになるか、まだあなたは想像でしか考えていないでしょう。だったら、実際にそれをやってみてください。最終的な結論は、その後でも遅くはないと思うんです」 [#改ページ]   第五章 最後の逆転      1  朝になった——  朝比奈耕作は、夜が明けてもとうとう宿に帰ってこなかった。  もちろん彼のことだから、姿を消したとしても、最悪の事態を懸念する必要はない——平田は、その点では心配はしていなかった。これまでいくつもの修羅場をくぐりぬけている朝比奈が、殺人事件の犠牲者になったりするはずはない。  ただ、いったいどんな事情があって、平田にも告げずに行方をくらましたのか、そのことが知りたくて仕方がなかった。  本来なら、宿泊客の一人がいなくなったのだから、元旦の事件を思い起こし、須賀のほうでも心配してしかるべきだったが、彼は彼で、朝っぱらから、心ここにあらずという状況である。  須賀の姉の伸江は、めずらしく早朝からこちらにきているようだが、彼女も目にくっきりと隈を作って、なにやら憔悴しきった表情である。 「真理子は、バンを持ち出したらしい」  須賀が姉にそうささやくのを小耳にはさんだので、平田は、「そういえば、奥さんをみかけませんね」と、話しかけてみた。  だが須賀は、まったくうわの空で、返事も返してこなかった。そして食事もとらずに、姉の伸江とともに、自宅スペースにこもってしまった。  いったい、須賀家の人々に何が起こったのか、平田はいぶかしく思ったが、まさか真理子の不在が朝比奈と関係しているとは、彼は知る由もなかった。  ともかく朝比奈が戻るのを漫然と待っていても仕方ないので、平田は、片付けておくべき宿の仕事を手早くやってから、近くの公衆電話に走っていった。  須賀真理子がヘリコプターを使って、東京から出雲へ飛び帰ったという可能性を調べてみたかったからだ。  なにしろ、それぞれの事件における須賀家の三人のアリバイを調べることは、予想外に難しかった。警察ではないのだから、事情聴取のような真似はできないし、かといって、須賀や伸江とのさりげない会話の端々に、何時にどこにいたのかといった類いの質問を織り込もうとしても、そううまくいくものでもない。  それだけに、平田は、偶然発見したヘリコプター関連のメモに関しては、納得がいくまで追及をしてみようと思っていた。  朝比奈が書くような推理小説の世界では、アリバイ・トリックを構成するのに、通常の交通機関だけを使って行なうのを暗黙のルールとしているらしいが、現実の犯罪は、むろんそんなルールに拘束されるはずがない。  チャーター便でもなんでも使って、とにかく明け方のうちに東京から出雲へ戻ってくる手段があれば、須賀宏だってアリバイ成立とは言えないのだ。  除雪した雪が氷のように固まって滑りやすくなっている路肩を飛び越えると、平田は電話ボックスに入り、あらかじめ調べておいた番号をプッシュした。東京に本社のあるヘリコプター運用会社の電話番号である。  応対に出た担当者に、平田は、ビジネスで使いたいのだがと断って、東京から出雲への片道チャーターの相談をした。  真理子の筆跡でメモされていたように、乗客数が一人の場合は、その会社でもアエロ・スパシアル355Fという機種を使用するらしい。  途中で燃料補給をして約四時間半という所要時間やチャーター料金も、だいたいメモにあったとおりである。  つまり料金は、ざっと百五十万円はかかるとのことだ。  その金額には驚かされたが、それを高いとするか妥当とするかは、『殺人』の価値によっても変わるだろう。 「それでですね……」  客を装った平田は、質問を重ねた。 「出雲に飛んでくる場合、やはり出雲空港に降りることになるのでしょうね」 「そんなことはありませんよ」  担当者は言った。 「空き地でも、広い駐車場でも、とにかく着陸に適するスペースがあれば、どんなところでもかまいません」 「えっ、ほんとうなんですか」  意外に思って、平田は聞き返した。  ヘリがさまざまなところに自由に発着するのは、たとえばロサンゼルスなどではよく見るが、そういうのはアメリカなどの話で、日本では数々の規制があるのだろうと思っていた。  ところが、あんがい融通が利くらしい。 「周囲に民家があったりするとまずいですが、そうでなければ、学校の校庭でもオーケーです」  ヘリコプター会社の営業担当者は言った。 「むろん、私有地の場合は、持ち主にそちらで了解をとっておいていただくことと、それから、着陸候補地が決定したら、私どもを経由して運輸省に届け出を出しておかなければなりません」 「たとえばですね……」  稲佐の浜を連想しながら、平田はきいた。 「海岸の砂浜のような場所でもいいんですか」 「ええ、いま申し上げた条件にあてはまればオーケーです」  やった、と平田は内心で手を打った。  まだ明け切らぬ稲佐の浜に、水平線の向こうから一機のヘリが飛んでくる——そんな情景が、平田の頭の中に思い描かれた。 (しかし、あそこには何軒か民宿があったな)  そんな思いがチラッとかすめる。 (それに、明け方なんて時間帯にヘリが飛来してきたら、周りの住人がびっくりして、外に飛び出してくるに違いない。これじゃあ、こっそりと出雲に戻ってくるという目的からは程遠い)  平田は、電話ボックスのガラスを指で弾いた。 (おまけに、いま担当者が言ったように、着陸地は運輸省に届け出なければならない。それだけでなく、もちろん詳細な飛行計画もだ。つまり、殺人のアリバイづくりの記録を、そのままお役所に提出するようなものじゃないか)  そう考えてくると、急に、ヘリコプターをチャーターするアイデアが非現実的なものに思えてきた。  だが、可能性が少しでも残されているかぎりは、それを追及してみなければならない。 「あのう、それで東京のヘリポートはどこになるんでしょうか」 「江東区の新木場《しんきば》にある東京ヘリポートです」  平田の頭の中で、すばやく計算が行われる。  第一の事件の現場は、副都心、すなわち西新宿にある高層ホテルだ。  そこからタクシーを飛ばして、江東区の東京ヘリポートまで何分かかるか。 (いや、待てよ)  またしても、疑問が生じた。 (未明や早朝の特殊な時間に、犯行現場からヘリポートまでタクシーを飛ばしたら、当然、運転手の記憶に残るだろう) 「それで、そちらの営業時間といいますか、ヘリを飛ばしていただける時間帯は、何時から何時までなんですか」  平田は重要な質問をした。 「何時から何時まで、というのではなく、日の出から日没を原則としております」 「日の出から日没?」  平田はガックリきた。  それでは、アリバイ工作としてヘリコプターは使えない。夜が明けてから飛んだのでは、結果的に、飛行機の定期便の始発に乗るのと変わりないことになるからだ。 「では、絶対に夜間飛行はできないんでしょうか」  あきらめきれずに平田はきいた。 「いえ……絶対にということは。有視界飛行の条件が確保でき、燃料補給地や着陸地にじゅうぶんな照明設備があれば結構です」 「照明ですか」 「そうです。まあ、出雲空港なら、そういった設備はあるでしょうから、大丈夫なんじゃないですか」 「あ、そうですか」  またまた、ヘリの可能性は復活してきた。  稲佐の浜に降りるなどという変則技を考えずに、正々堂々と出雲空港を使うことにすれば、どうやら、東京‐出雲間の真夜中の高速移動は成立しそうになってきた。 「では、仮にですね……」  平田は言った。 「出雲空港に夜明け前に降りようと思えば、それはできるわけですね」 「はい、できます」 (あ……そんな必要はないんだ)  ふと、平田は思い直した。 (ヘリの夜間飛行が可能ならば、なにも出雲到着を日の出前に限定することはない。午前三時半ごろに東京を発てば、出雲方面へ朝の八時までには着くことになる。夜が明けてしまえば、照明設備の有無に左右されることはないから、出雲大社の近くに、どこか場所を見つけて降りることが可能になってくるじゃないか)  平田は、これが正解ではないか、という気になってきた。 (そして、なにくわぬ顔でホテル八重垣に戻り、八時ちょっとすぎに、おれと顔を合わせて、出雲空港まで東尾を迎えにいってくれ、と頼むことも不可能ではない。うーん、これは朝比奈の推理小説のように鮮やかなアリバイ崩しだぞ)  急に、自分の推理に自信を持ってきた平田は、ダメ押しのつもりで、ヘリコプター会社の担当者にたずねた。 「では、午前三時とか四時とかに東京を発って、途中、夜間飛行を交えながら、出雲に八時近辺に着くというスケジュールは、じゅうぶんに可能なんですね」  もちろんです、という返事を期待して平田はたずねたのに、なんと予想に反した答えが返ってきた。 「いえ、そのフライトプランは、お受けできませんね」 「ええっ、なぜです」 「事実上、夜間の有視界飛行は困難が多いため、東京ヘリポートの発着は、さきほども申し上げましたように、日の出から日没までと限られているのです」 「………」 「ですから、午前三時に飛び立てとおっしゃられましても、それはちょっとできかねます」 「それは、おたくだけじゃなくて、他のヘリコプター会社もですか」 「ええ、どの会社も同じでございます」  電話ボックスから出てきた平田は、足取りもヨロヨロといった感じで、ホテル八重垣に戻ってきた。  ヘリコプター会社にいろいろ確かめた結果、ヘリをチャーターしてアリバイ工作に用いるというアイデアは、実行不可能という結論に達せざるをえなかった。 (すると、真理子さんは、なんのつもりであんなメモを残したんだろう)  平田は疑問に思った。  あれは、てっきりヘリコプター会社とチャーター契約を結んだときのメモだとばかり思っていたのに、そうではなかったということなのか。  たしか、あのメモには『でも、可能性あり』と記されていたと思った。 (あの言葉のニュアンスからすると、真理子さん自身が計画を立てたときのメモではなくて、むしろ、真理子さんも、おれと同じように『探偵役』となって、アリバイ工作の有無を検討した。そのときのメモだと考えるべきなのだろうか)  と、すぐに新しい疑問が湧いてきた。 (だったら、ほんとうの犯人は誰なんだ)      2 ≪村木昇さんを、毒蛇を使って殺したのは私です。いまからその方法をご説明いたします≫  須賀宏は、顔面蒼白になって、妻が書いた告白の文面を見つめていた。  彼の横では、姉の伸江が長机に肘をつき、その手に額を載せる格好でうつむいたまま、身動きもしなかった。 ≪村木さんが泊まっていたのは、ホテル十七階の1707号室です。だから警察の人は、村木さんがハブに咬まれたのも、その部屋だと思っていることでしょう。  もしも、村木さんが死んだのがまったく別の部屋だったら——  そんな仮定は、警察の人によって、即座に否定されたに違いありません。なんといっても、ホテルの中で死体を人目につかずに移動させるのは、とても無理な話です。仮に、隣り合わせの部屋から移動させるのだって、大きな危険が伴います。  それに、私は法医学のことはよく知りませんが、死体を移動させたら、きっとその痕跡は専門家にはわかってしまうのでしょう。  だから、事件の一部始終は1707号室で起きたものだ——そんなふうに、警察の人は、きっと決めつけていることでしょう。  でも、それは違うのです。  事件は[#「事件は」に傍点]、1707号室よりもずっと下の[#「1707号室よりもずっと下の」に傍点]、五階で起こったのです[#「五階で起こったのです」に傍点]。  524号室——それが私のとっていた部屋です。もちろん『須賀真理子』などという名前では泊まっていません。ぜんぜん別の偽名を使って予約していました。  その部屋に、私からの手紙を受け取った村木さんが訪れたのです。  その手紙——どうしてもこの十二月三十日の、この夜に、東京のこのホテルで会いたいのです、というような内容を記した、ワープロで打たれた手紙は、村木さんの自宅ではなく、勤務先のほうに送られました。  三年ぶりに『須賀真理子』から手紙が届いたと知ったとき、村木さんは、いったいどんな気持ちだったでしょうか。  最初に愛を交わしたときの思い出に、胸がときめいたのでしょうか。それとも、きれいに別れたはずの女から連絡があったことで、えもいわれぬ不安が胸をよぎったのでしょうか……。  その手紙には、四つのおねがいが書いてありました。  一つは、いま申し上げたように、どうしても指定の期日に会いたい、ということ。  二番目のおねがいは、この手紙を受け取ったことは誰にも口外しないこと。  第三のおねがいは、この件に関して、ホテル八重垣のほうに、電話連絡などを入れないこと。  そして最後のおねがいは——というよりも、これは脅迫といったほうがいいかもしれませんけれど——もしも、前三つのおねがいを破った場合は、過去の出来事すべてが、あなたの奥さんに伝わってしまうのを覚悟していただくこと。  この四つのおねがいを読んでしまえば、やはり、村木さんとしては、不安にかられざるをえなかったでしょう。  銀行員にとって、正月休みを目前にした、十二月三十日と三十一日の両日を休むなどということは至難の業だったにちがいありません。いえ、至難の業というよりも、ほとんど不可能に近い注文だったと思います。  でも、平和な家庭を営んでいる村木さんは、その幸せを絶対に壊したくはなかった。愛する奥さんにショックを与えたくはなかった。だから、必死の思いでウソの出張をでっちあげたようでした。  でも、私にとっては、そんなことはどうでもいいのです。どんな方便を使ってでも、とにかく、指定の期日に、指定の場所へ、村木さんがきてくれさえすれば……。  もちろん村木さんには、私とは別の部屋をとって、とりあえずはそこにチェックインしてもらいました。それが1707号室です。  こういった部屋割りは、ホテルのフロントで決めるわけですから、どの部屋があてがわれるかわかりません。でも、なるべく二つの部屋を無関係にみせたいので、私は予約時にできるだけ低い階の部屋を希望しました。  一方で、村木さんには、必ず禁煙フロアを指定して泊まるように、手紙の中で指示をしておきました。  そのホテルでは、十七階と十八階が禁煙フロアになっていることがわかっていましたから、これならば、おたがいの部屋が妙に接近してしまう危険性はないわけです。それに、村木さんはタバコを吸わなかったはずですから、その点でも都合がよかったのです。  村木さんがどんなルートで奈良から東京へ向かったのか知りませんが、私は十二月三十日の夜七時に出雲を発つ最終の飛行機に乗りました。  なぜ舞台に東京を選んだのか。  それは、万一のことを考えて、推理小説のようなアリバイ工作を考えていたからです。  所詮、素人の考えることですから、アリバイ工作といっても、はたして完璧なものであるかどうか、それは自信がありませんでした。  いちおう、そのプランをここに記しておきます。それは、あっけないほど単純なものでした。  アリバイづくりのポイントは、行きではなく帰りです。つまり、計画を実行して東京から出雲へ帰るときのことです。  東京を出て、もっとも早い時刻に出雲へ着く手段は、羽田を定刻七時四十五分に出る、日本エアシステムの始発便です。  逆に、この便に乗っておらず、しかも朝の十一時前後にホテル八重垣にいたとなれば、その人間が、早朝に東京にいることは不可能であるとみなされるでしょう。  その論法を、脇から支えるために、かねてよりホテル八重垣の土地を乗っ取ろうとしていた東尾さんが呼び寄せられ、さらに、それを迎えるために平田さんが出雲空港へ派遣されたのです≫  その部分に及ぶと、須賀宏は大きなため息をついた。 「ここまではっきり書いてしまったのか」  つぶやくと、須賀は、さらに先を読み進んだ。 ≪ところが実際には、東京‐出雲の始発便を使わなくても、明け方まで東京にいた人間が、十一時くらいにホテル八重垣にいることは可能なのです。それはエアーニッポンの東京‐米子の始発便を使うことです。  これはちょっとした盲点なのですが、宍道湖の西岸に位置する島根県の出雲空港と、宍道湖と一本の川でつながっている中海の東岸に位置する鳥取県の米子空港とは、直線距離で三十キロちょっと、道のりにしても五十キロたらずしか離れていないのです。東京からの定期便を持つ空港どうしで、これだけ距離が接近している例は、おそらく他にないでしょう。  しかも、米子行きの始発は、出雲行きより五分遅れて羽田を出るものの、到着は逆に五分早くなります。  飛行機のことですから、多少の時刻は前後しますが、これならば、出雲空港に出迎えに行った平田さんに目撃されることもなく、午前十一時ごろまでには、確実にホテル八重垣に到着していられる、という仕掛けです。  はたして、そんなアリバイ工作が、いざというときに警察に対して通用するものなのか、それはとても不安でした。でも、やっぱりアリバイは、ないよりはマシだと思ったのです。  ところが、現実というものは、小説と違ってプランどおりにはいかないものですね。結果からいえば、このアリバイ工作は、何の意味も持たなくなるような展開になってしまうのです≫      3  須賀宏は、告白文を読むのを中断し、目を閉じると、しばし瞑想にふけるような格好をした。  そして、ふたたび目を開けると、また便箋に視線を集中させた。 ≪さて、ハブのことをお話ししましょう。  このハブは、きのうやきょうに集めたものではありません。今回の計画を立てたとき——それは去年の夏でしたけれど——私は、沖縄に渡り、なるべく目立たないように、いろいろなつてを辿ってハブの採集に協力をしてもらいました。  今回の犯罪とは結びつけられないよう、言い訳はいくらでも考えられました。それに、行動が目立ちすぎないよう、一人の協力者からは、一匹かせいぜい二匹のハブを集めてもらっただけですから。  そうやって、私は予備も含めて十二匹のハブを準備しました。それから、セグロウミヘビの死骸も手に入れることができました。四カ月後の計画実行の重要な道具として……。  持ち帰ったハブは、私の家の、人目につかないところでこっそりと育てました。専用のガラス槽と、寒さ防止のヒーターなども用意して……。  ここで、なぜハブを『凶器』として使ったのか、そのことを説明しておかねばなりません≫ 「なにが『説明しておかねばなりません』だ!」  妻の書いた文章を読んでいた須賀が、突然、怒りを爆発させた。 「姉さん、なんでここまでペラペラと、真理子に一部始終をしゃべってしまったんだ」 「そうしたほうが……あの子は苦しむと思ったからよ」  消え入りそうな声で、伸江は言った。 「可愛いおまえを裏切って浮気などをした罰として、人が一人、また一人と殺されてゆく。その罪の恐ろしさを知るがよい。そう思ったから、私は、あの子に話して聞かせたのよ。詳しく……とっても詳しく」 「なんてバカなことをしてくれたんだ」  須賀はドンと机を叩いた。 「真理子のやつは、この手紙の途中から[#「この手紙の途中から」に傍点]、姉さんになりきって[#「姉さんになりきって」に傍点]、すべてを告白しているじゃないか[#「すべてを告白しているじゃないか」に傍点]。この文章のコピーが、警察に届くんだぞ。いや、もう届いているかもしれない。つまり、姉さん自身が自首したも同じなんだ」 「まさか、真理子が……自分を犠牲にしてまで、すべてをバラしてしまうなんて……考えてもみなかった……」 「真理子は、たんに怖がらせておけばよかったんだ」  須賀の声は、怒りと興奮で裏返っていた。 「犯人が誰であるのか見当がついても、証拠がまるでない。そういう宙ぶらりんな状況で、もっともっと真理子を苦しめるべきだったんだ」 「だけど、自分の浮気のせいで人が殺されたとはっきり知ったほうが、そして、男たちがどんなふうにして死んでいったのか、その詳しいいきさつを知らされたほうが、ずっとショックは大きく、罪の意識に激しく責めさいなまれる。そう思ったから、私はあの子に一部始終を聞かせてやったのよ」  伸江は、必死の面持ちで、弟に弁解した。 「そんなことをしたら、いずれ真理子が、おれたちを告発すると思わなかったのか」 「だから言ったじゃない。少しも思わなかったわよ」  伸江の声も、興奮でうわずってきた。 「基本的な責任は、ぜんぶあの子にあるんだから。私たちを殺人の罪で告発したら、それは自分自身も社会的に抹殺してしまう行為になるのよ。そうでしょ。そんな自殺行為を、あの子がするとは思わないじゃない」 「ヨミが甘いんだ」  須賀は姉をなじった。 「顎髭を生やしていたから、さすがに真理子もすぐには気づかなかったようだが、長谷部憲二と名乗っていた泊まり客が、じつは過去の浮気相手である矢作賢作であり、その彼が殺されたと知ったときに、真理子は取り乱したか。そんなそぶりは少しも見せなかったじゃないか。あの時点で、あいつは、おれたち姉弟の復讐作戦に気づいていたんだ。そして、決してそのペースに乗せられないよう、懸命に冷静さを保っていたんだ」  須賀は、握りしめた拳をブルブルと震わせた。 「真理子は頭がいい女だ。ちょっとやそっとのことでは感情的になったりしない。それをもっと肝に銘じておくべきだったんだ」 「そんなことを言ったってね、宏」  伸江も、たまりかねたという表情で、弟をキッと睨んだ。 「あんたは、あの悔しさを忘れたの。去年のゴールデン・ウィークに、あのモヤシみたいなヤサ男の大学講師と真理子が、どんなふうにして、いちゃついていたか。そのことで吊るし上げたら、あの女ったら、すっかり開き直って、前の二人との関係までシャアシャアと打ち明けたあげくに、いままでの恩を忘れて、おまえのことをなじり倒したじゃないの。まったく……まったく……まったく……」  伸江は、頬をブルブルと震わせ、歯の隙間からシューシューと音を立てて息を吐き出した。まるで、毒蛇の形相である。 「まったく……いったい誰のおかげで、いままで食べてこられたと思ってるのよ、あの女は。ええっ? 悔しいじゃないの。そうでしょう、宏。男がそんなに欲しかったら、商売女になればいいんだわさ」  伸江の男に対する生理的な拒否反応が、真理子への憎しみをここまで増幅させていることに、弟の宏は気づいていた。  だが、それに歯止めをかけることは、とうていできなかった。  よくよく考えたら、すべての原因は、真理子でもなく、宏でもなく、この伸江の屈折した心理にあったのかもしれなかった。  真理子の浮気を最初に知ったとき、宏は怒りよりもまずショックを受けた。だが、直接の当事者でない姉の伸江のほうが、いきなり逆上した。  おまえのために怒っているのよ、と宏には言いながら、じつは、女としての魅力を自由に活かしはじめた真理子に対して、伸江自身が猛烈に嫉妬してしまったのだ。  宏は、そういった姉の心理的なメカニズムがわかっていた。わかっていながら、彼も妻に裏切られた怒りが激しかったから、つい、姉のペースに巻き込まれてしまったのだ。  あんたを不幸にした人間はね——真理子の浮気が発覚したとき、伸江は弟の宏に言った——どいつもこいつも、あんた以上に不幸になるがいいのさ。真理子だけじゃなくて、相手の男も報いを受けるべきなのよ。あんたが家庭を壊されたのなら、相手の男の家庭も壊してやるべきだわ。そうじゃなくちゃ、気が済まないでしょう。よそ様の家庭をメチャクチャにしておいて、自分のところだけは平穏無事でいようなんて、それは考えが甘いというものよ……。  そこから殺人計画に至る論理は、完全に伸江のペースで進められた。  彼女をそこまで狂気に走らせた原動力は、弟への同情では決してなかった。弟を裏切った真理子への怒りでもなかった。男への愛を最優先させて生きていこうとする女への憎しみ——それが、すべての根源だった。 「おれは……くやしい」  いつのまにか目に涙をためて、須賀がつぶやいた。 「真理子に復讐するつもりが、いつのまにか復讐されている……もう……なにもかもおしまいだ。この宿も、おれの人生も」 「あの女がいけないんだわ」 「いけないのは姉さんじゃないか!」  須賀は怒鳴った。 「夫を裏切った真理子に、気が狂うほどの天罰を与えようと言ったのは誰なんだ。そのためには、男を殺すしかない、と提案したのは誰なんだ。すべての殺人の原因は出雲に——このホテル八重垣の中の裏切り者にあり、と暗示するような、まるでドラマみたいな演出を考えたのは誰なんだ。ぜんぶ姉さんがやったんだろ」  須賀の怒りは止まらなかった。 「村木にハブを咬みつかせ、さんざんいたぶったあげくにショック死させたのは誰なんだ。女とは思えない力をふり絞って矢作を殴りつけ、葉山を絞め殺したのは誰なんだ。言っておくけど、おれはそこまでして欲しくなかったんだ」 「よくも……よくもそんな勝手な口が利けるものだわね、宏」  伸江は、肩を上下させながら言った。 「あんたには一切危ない橋を渡らせまいと、汚れ役はみんな姉さんが引き受けてやったんじゃないの。あんたのために、死に物狂いで男たちにかかっていったんじゃないの。その恩も忘れて、姉さんばかりを責める気なの」 「わかったよ、わかった……もういい……もういいんだ。どっちにしたって、何をやっても手遅れなんだから」  須賀は、両方の手で頭を抱え、机につっぷした。 「終わりだ……もう、なにもかも終わったんだよ、姉さん」 「いいえ」  伸江は首を振った。 「まだあきらめちゃダメよ」  姉は弟の肩に手をかけて言った。 「真理子は、精一杯の皮肉を効かせたつもりで、『私は』という書き方で告白の文章を書いたんでしょうけど、そこがつけめよ」 「え……?」 「まだわからないの、宏。この手紙を額面どおり、真理子の告白に仕立ててしまうのよ」 「そんなことはムリだ」  須賀は力なく言った。 「いまごろあいつは警察に行って、すべての事情を話しているにちがいない」 「かまわないじゃないの」  伸江は平然と言った。 「だったら、私たちも同じことをやるの。いまからこの手紙を持って警察に行くのよ」 「姉さん……」 「現実にこの手紙を書いたのは真理子なんだから、いくらあの子が、ほんとうの告白者は私ではなくて別にいるんですと主張したって、そんな説明には無理が生じるのよ。そうでしょ。それにこっちは二人なんだから……。二対一だったら、どっちのほうが説得力があると思ってるのよ」 「この手紙を最後まで読めば、きっと告白しているのは真理子ではないとわかるはずだ」 「それなら、そこの部分は省けばいいのよ」 「でも……」 「ええい、ふんぎりの悪い子ね」  伸江は、また蛇が口を開けるような顔で、怒りをあらわにした。 「くだくだと迷っている場合じゃないだろうが」  急に伸江は男言葉を使った。 「こっちがやられるか、それとも向こうがやられるか。死ぬか生きるかなんだ。ハブとマングースの戦いを思い起こすんだ」 「ハブの話はやめてくれよ」  須賀は、顔をしかめた。 「もう、ハブはたくさんだ」 「とにかくグズグズしないで、いますぐに警察に行きましょう」  元の女言葉に戻って、伸江は弟の説得をつづけた。 「こういうのは先手をとったほうが勝ちなのよ。いい? 絶対の自信を持つの。自信をグラつかせちゃダメ。自分は何もやっていないって……ね。実際、あんたは自分で何も手を下していないんだから堂々としていなさい。犯人の私がこれだけしっかりしているんだから」 「姉さん……」  須賀は、信じられないものを見る目つきで、自分の姉を見つめた。 「そうだ」  伸江は思いついたように言った。 「あの男も利用しましょう」 「あの男?」 「平田よ。口ばかり達者な、ぼんくらの平田。こういった商売のことなんか何もわかっちゃいないくせに、生意気な理屈を並べて、お父さんが作り上げたホテル八重垣を好き勝手にいじろうとしている能なし男」  人の悪口をまくし立てるときの伸江は、一種異様な迫力があった。 「あの男も、このさいだから味方に引き入れるのよ。そうなったら三対一だわ」  言い終わるが早いか、伸江は座敷の隅にある内線電話を取り上げ、この時刻に平田がいると思われる事務室を呼び出した。 「あ、平田さあん?」  いままでの鬼のような剣幕が嘘のように、伸江は受話器に向かって頼りない声を出した。 「助けてちょうだい、平田さん。たいへんなことが起こったの。……いえね、真理子さんが……真理子さんが……」  さんざん声を詰まらせてから、伸江は言葉を継いだ。 「とにかく、こっちへきてちょうだい。いますぐに。私も弟も、あなただけが頼りなのよ」      4 ≪……ここで、なぜハブを『凶器』として使ったのか、そのことを説明しておかねばなりません≫  村木昇がハブの毒で殺された事件を指揮する新宿署の細井警視は、昨晩、はるか遠く出雲市内にあるコンビニエンス・ストアから送信されてきたファックスを、愕然とした顔で読んでいた。  同じものが何セットかコピーされ、国友警部補をはじめ関係捜査官にも配られており、みな、一心不乱に読み耽っている。 「いったい、これを送ってきた人間は、どうやって新宿署のファックス番号がわかったのかね。ここの番号は非公開なのに」  読んでいる途中で、細井警視が首をひねった。 「さあ……それがよくわからないんです」  若い刑事が答えた。 「そのコンビニエンス・ストアには、受信後すぐに事情を電話で問い合わせたんですが、依頼主は姿を消した後でした。なんでも男女のカップルだったそうで」 「店の防犯ビデオに記録は残っていないのか」  国友警部補がきいた。 「後ろ姿は映っていました。ですから、そのテープは保存させています。女のほうは長い髪をしており、男のほうは、なんていうんでしょうか、タレントっぽいヘアスタイルで、おそらく髪の毛を茶色っぽく染めているのではないか、ということです。ビデオはモノクロなんですが、黒髪にしては毛の濃さが、ずいぶん明るく映っているらしいので」 「……まさか」  国友が、独り言のようにつぶやいた。 「朝比奈耕作だったりしないだろうな」 「アサヒナ?」 「ええ」  聞き返してきた細井警視に、国友は答えた。 「警視も覚えていらっしゃるでしょう。去年の夏に、別の高層ホテルで起きたテレビ・プロデューサーの変死事件を」 「ああ……」  警視は納得してうなずいた。 「現場の部屋の中で、念仏を唱えるインコが飛び回っていたというあの事件……『鳥啼村の惨劇』か」 「そうです。あの謎を解決してくれた推理作家の朝比奈耕作だったら、ここのファックス番号を教えたことがありますから。それにヘアスタイルの感じもなんだか似ていますからね」 「だけど、なんで彼がこの一件にからんでいなければならないんだ」 「さあ……」 「まあいい。とにかく、この手紙をぜんぶしまいまで読んでしまおう」  そう言うと、細井警視はファックスのオリジナルに目を戻した。 ≪ハブを用いた理由——それは、ハブに対する誤った先入観念を逆用するためでした。  それからもう一つ。ヤマタノオロチを連想させることで、事件を出雲に結びつけるねらいもありました。東京の殺人が、いったい誰のせいで起きたのか、『あの人』にしっかりと思い知らせる必要があったからです。その目的を遂げるために、私はわざわざ沖縄にまで出かけてハブを集めたのです。  ただし、ハブを東京まで持っていくのに、飛行機に乗せるのはさまざまな危険がありましたから、二日前に、まえもって電車を使って運んでおきました。そして、年末年始を海外に出かけて留守にするという東京の友人宅の庭先に、容器ごとこっそり隠しておいたのです。  あの夜、どんなことが起きたのか。いよいよここからが核心の部分です。  1707号室に投宿した村木さんは、メッセージにしたがって、524号室に降りてきました。これが夜中の二時ごろです。深夜にもかかわらず、村木さんは背広姿でした。  彼は、部屋の中には当然、『あの人』が待っているものと思って、不安半分、期待半分の顔つきでやってきました。気持ちの動揺を鎮めようとお酒を飲んでいたのでしょう。ずいぶんアルコールの匂いがしました。  私は、すぐには彼に顔を見せないようにして、ドアを半開きにしてバスルームのほうに引っ込んでいました。中に入ってきた村木さんは、私の顔を見て、アッと声を上げました。部屋を間違えたのだと思ったのでしょう。  でも、私は間髪入れずにこう言いました。 「お久しぶりね。須賀真理子よ」  そんなバカな、人違いだ、と村木さんは言いました。そして、すぐに部屋を出ようとしました。そこへ私が言い放ちます。 「このまま帰ったら、あなたの家庭はメチャクチャよ」  その言葉に、ドアの取っ手に手をかけていた村木さんは、凍りついたように動かなくなり、それからゆっくりと私をふり返りました。 「それは、どういう意味なんだ……」  どういう意味もないでしょう——私は、冷たく言いました——あなたが、弟の嫁を寝盗ったおかげで、まじめな弟がどれだけショックを受けたのか、わかっているの……と。  あれは奥さんのほうから誘ったんだ——ようやく事情を察した村木さんは、そう弁解しました。  だから、私は言ったのです。だからどうなの、と。  その先のことは、思い出すのもおぞましいことです。いくら弟のためとはいえ、そして、いくらもっとも残酷な殺し方を実行するためとはいえ、男の肌に、自分の肌を重ね合わせることをしたなんて……≫ 「理解できんな」  小声で細井警視がつぶやいた。 「私もです」  国友警部補が、短く応じた。  そして、またあたりはシンとなった。 ≪私と寝ないと、すべてをバラす——その言葉に、村木さんは観念したのか、それとも、異常な女には逆らわないほうがいいと思ったのか、先に裸になった私の命じるままに、村木さんは服を脱ぎ、524号室のベッドに横たわりました。  もしかすると、まぢかに女の裸を見て、村木さんも、前後の事情とはまったく関係なく、劣情を催したのかもしれません。男とは、そういったどうしようもない動物ですから……。  部屋の電気を真っ暗にして、私は吐きそうになるのをこらえて、村木さんの体の上にかぶさりました。実際に最後の行為があったわけではありません。そうなる前に、例のものをベッドの下に隠しおいた袋から取り出したのです。  四、五カ月、ペットのようにして飼っているうちに、私はハブの扱い方をすっかり習得していました。そしてハブのほうでも、不思議なことに、人間をさほど怖がらなくなっていたのです≫ 「そうか……」  国友警部補がつぶやいた。 「だから、あのときハブのやつは、いきなり攻撃を仕掛けもせず、かといって逃げもせずに、偵察するようにおれの腕に絡みついてきたんだな」 ≪「目を閉じて」  真っ暗になった部屋で、私は言いました。 「お願いだから、目を閉じていて」  馬鹿な男です。きっと私が商売女のようにサービスをするとでも思ったのでしょう。戸惑いながらも、あおむけのまま、私の言うなりに目を閉じました。  だから、私の右手と左手の両方に、それぞれ首ねっこを押さえられたハブが握られているとは、気がつくはずもなかったのです。私は、一匹のハブを村木さんの肩の付け根に、そしてもう一方を、太ももの付け根にあてがいました……≫      5 「うわああああっ!」  悲鳴を上げて、村木昇はベッドの上に跳び起きた。 「なんで、そんなふうに思いっきり咬みつくんだ」 「私が?」  暗闇の中で、須賀伸江はフフフと笑った。 「男の裸なんかに、誰が咬みつくもんですか。それに考えてもごらんなさいな。あなた、肩と腿を同時に咬まれたんでしょ。私に口が二つあると思って?」 「じゃ……じゃあ、いったい……」 「スタンドの電気を点けて」  咬まれたところを押さえながら、村木は急いで枕元のナイトランプをつけた。 「ほら、これよ」  こんどは声も出なかった。  オレンジ色の薄明かりの中で、伸江の両手に首根っこを掴まれたハブが、自由になっている胴体をくねくねと不気味にくねらせていた。 「ヘッ……ヘッ……」  ベッドの上で、できるかぎり後ずさりをしながら、村木はあえぎながら言った。 「ヘッ……ヘビ……」 「ただのヘビじゃないわ。ハブよ」  村木の目が恐怖で丸くなった。 「お、おれは、それに咬まれたのか」 「そうよ。ほら、よくごらんなさい。ポツンと黒い穴が二つ開いているでしょう。あらあら、太もものほうからは、ずいぶん血が出てきたわね」  伸江は慣れた手つきで二匹のハブを袋の中に戻すと、シーツが血で汚されないよう、タオルをすばやく敷いた。 「い……いたい」  片手で腿を、もう一方の手で肩の付け根を押さえながら、村木は恐怖に引きつった顔で言った。 「痛い……痛い……すごく痛い」 「そりゃそうよ」  そっけなく言いながら、伸江は洋服を身につけはじめた。 「ハブの毒はマムシなんかの比じゃありませんからね。痛いのはあたりまえ。そのうち……そうねえ、五分もしないうちに、咬まれたあたりが真っ黒になるわ」 「ほっ、ほっ、ほんとうか」 「ええ、嘘を言ってもはじまらないでしょ」 「おれは……死ぬのか」 「当然」 「じょ、じょ、じょうだんじゃない」  二枚目が台なしになるような顔で、村木は訴えた。 「いやだ、おれは死にたくない。死ぬのはいやだ。助けてくれ……そうだ、救急車だ」  村木は、枕元の電話に飛びついた。 「おやめ!」  伸江の凛《りん》とした声が響いた。 「これをごらん」  手早く洋服を着終わった伸江は、ライティング・デスクの引き出しから銀色の細長いケースを取り出し、蓋を開けて、中身を見せた。  ウイスキーに似た薄い琥珀色の液体が満たされた、五ccサイズの注射器が一本入っていた。 「これはハブの血清よ」  それは嘘だった。  本物の血清も、万一の事故を考えて自分自身のために持参していたが、いま村木に見せているのは、まさに部屋に備え付けられていたウイスキーを水で薄めたものだった。  ちなみに本物の血清も、同じように薄い琥珀色をしているのだが、効力を得るには五ccではダメで、二十ccを静脈に打たなければならない。 「これを注射すれば、あなたは助かるのよ」  伸江は、相手をじらすように、注射器を取り上げて右手に構えた。 「た、頼む」  村木は受話器を元の位置に戻すと、酒臭い息を吐きながら両手を合わせて拝む格好をした。 「頼むから、早くそれを打ってくれ」 「だめよ」 「なぜだ」 「弟の嫁と関係したことを、じっくりと反省してもらわなくちゃね」 「だから、そのことは心から悪かったと思っている。ほんとうだ」  村木はベッドのシーツに頭をすりつけた。 「もしも金が必要だというのなら、それはなんとか工面する。だから、命だけは助けてくれ」 「お金ならなんとかする? さすが、銀行員さんね」  伸江は、ニセの血清入りの注射器を右手に構えたまま、フンと鼻で笑った。 「でも、残念ながら、お金の問題じゃないのよね」 「じゃあ、なんなんだ」 「精神的苦痛よ」  笑みを消して、伸江は言った。 「自分の信頼していた妻に不貞を働かれ、弟がどんなに心を痛めたか、少しはあなたも考えるといいわ」 「だから、謝っているだろう」  村木はほとんど泣き声になっていた。 「もしも、おれが死んだら、あんたの弟さんに謝ることもできないんだぞ」 「あら、あなたが苦しみながら死んだら、それが弟にとって、いちばんの慰めだわ」  村木は愕然となって、伸江を見つめた。 「じゃあ、あんたは最初からおれを助けるつもりがないのか」 「さあね」 「警察を呼ぶぞ」  そう叫ぶと、村木はふたたび枕元の受話器をつかんだ。 「おやめっていってるのよ」 「いや、やめない」 「言うことをききなさい」  フロントの番号をプッシュした直後に、伸江の手が伸びて、フックボタンが押された。 「あなたは自分の命を助けたくないの。それよりも、私を警察に突き出すほうが先ってわけ」 「その両方だ」  ツーという音を発している受話器を握ったまま、村木は額に汗を浮かべながら言った。 「一一〇番すれば、同時に救急車も駆けつけるはずだ。そうすれば、おまえは逮捕されて、おれは助かるんだ」 「馬鹿ねえ」  伸江は自信満々に笑った。 「ハブの棲んでいない東京に、ハブの血清なんかが置いてあると思う? ここは沖縄じゃないのよ」 「………」 「仮に、そういう珍しいものを置いてある奇特な病院があったとしても、それを捜し出すのはとっても時間のかかる作業でしょうねえ」  傷口を押さえながら顔面蒼白となっている村木を、伸江は見下すようにして言った。 「そうやってマゴマゴしている間にも、あなたは死に近づいていくのよ」  それは、半分は真実で、半分は誇張した表現だった。東京周辺には、ハブ毒の血清を置いてある病院はまずない。代わりにあるのは、マムシ毒の血清である。マムシはハブと同系統の毒だから、ある程度の効果は期待できるが、ハブ毒に対して完全に有効であるかどうかは確証がもてない。  それに関していえば、伸江は正しいことを言っていた。が、しかし、ハブ毒はコブラのそれと違って神経毒ではないから、よほど相性が悪い体質でないかぎり、一分一秒を争うというところまで焦ることもない。たとえ血清のない地域でも、なにはともあれ救急車を呼んで、専門家にベストの対応をとってもらうことが重要なのだ。  だが、本土に住む人間は、そこまでの知識をもっていないのが普通である。ハブに咬まれたということが、即、死につながると信じ込んでしまうのは無理もなかった。  まして、信じられないような傷口の激痛と、その周辺の皮膚の変化があれば、いやおうなしに、その不安は現実のものとなる気がする。  そこが、伸江のつけめだった。 「いいこと、あなたの命は、この一本の注射器にかかっているのよ」  伸江は念を押した。 「もしも、あなたが私に不利になるような行動をとろうとしたら、この注射器のピストンを押して、中の血清をピュッと出して捨てるわ。そうなったら、もうおしまい。助かる手段はなくなって、あなたは天国行きね。いえ、あなたの場合、行き先は地獄かしら」  ホホホと、心からおかしそうに笑ってから、伸江は一転して低い声で言った。 「服を着なさい」 「服を着て……どうするんだ」 「いいから早く着る!」  その声に、ビクンとはじかれたように、村木はベッドから降り、あわただしい動作で脱いだ洋服を身につけた。  もはや彼は、完全に伸江のいいなりだった。  一分たらずで、村木はダークグレーのスーツをふたたび身につけたが、あわてているのでワイシャツの裾ははみ出し、ボタンは掛けちがえ、襟元はだらしなくゆるみ、恐怖と興奮で指が震えているためネクタイは結べない、といったありさまである。  その姿をジロリと一瞥してから、伸江は許可を与えるようにうなずいた。 「まあいいわ。時間も時間だし、ちょうどお酒も飲んでいるようだから、酔っ払いらしくて、いいかもしれないわね。ただ、せめてワイシャツの裾くらい、ズボンの中に入れておきなさいよ……そう、それでよし。じゃあ、自分の部屋にもどりなさい」 「で……でも……血清は」  目をおどおどと左右に動かしながら、村木はきいた。 「すぐに行くわよ。血清を打つには準備がいるの」 「………」 「さあ、早くお行き」  伸江は命令した。 「一分以内に追いかけるから、私がノックしたらドアを開けなさい。言っておきますけど、フロントに助けを求めたり、警察を呼ぼうとしたりしたら、この血清はホテルの絨毯に吸い取ってもらいますからね」 「しない、しない」  村木は泣きそうな顔で首を左右に振った。 「あんたの命令にはさからわない。だから、早く、早く血清を打ってくれ。もうここがパンパンになってきたんだ」  実際、村木のいうとおり、彼の首から肩にかけての部分は暗紫色に変色し、その皮膚が光ってみえるほど腫れがひどくなっていた。 「泣き言を言わずに、早く部屋に戻って待っていなさい。その程度は、私の弟の受けた苦しみに較べたら大したことじゃないの……さあ」  伸江にアゴで命じられたので、村木は仕方なしに524号室を出ていった。      6 ≪我ながら名アイデアでした。ウイスキーを薄めた液体を血清と信じ込んだ村木は、完全に私の命令どおりに動きました。  その間にもハブに咬まれた周辺はどんどんひどい状況になり、彼の焦りはいっそう激しいものになりました≫  伸江が自慢げに語った犯行の一部始終を再現した、真理子の告白文章はつづいた。 ≪私は、彼に言ったとおり、一分後に1707号室を訪れました。時間差を作ったのは、エレベーターで一緒のところを見られないためです。夜更けであるがゆえに、同じ箱に乗っていたら、当然のごとくカップルと見られてしまう。そんなところを運悪く目撃されてはまずいからです。  さて——  ここで、私が八匹のハブを入れた袋を持って現れたと思われるかもしれませんが、そうではありません。  手にしていたのは、ニセの血清入り注射器一本です。  基本的な『仕掛け』を、私の部屋のほうで行なったのは、私の髪の毛などの証拠品が、村木さんの死に場所になるべき1707号室に残らないようにするためです。そういった点からも、1707号室では、私の行動は最小限にとどめなければなりませんでした。  部屋に入るとすぐに、私は、もういちど村木さんに服を脱ぐよう命じました。つまり、さきほどの524号室と同じ状況の再現です。こうしておかないと、太ももの咬み跡が不自然になりますから……。  あらためて裸になったところを見ると、傷口の状況の悪化が、はっきりと見てとれました。ひどいものでした。自分自身の目でそれを確かめた村木さんは、いっそう血の気の引いた顔になり、額にびっしりと脂汗を浮かべて、ほとんどうわごとのように「早くしてくれ、早く……血清、血清」と繰り返していました。  ひょっとすると、予想以上にハブの毒が効果をもたらせているのだろうか。そんな気にさせられてしまうほど、村木さんの傷はひどい状態になってきました。 「死にたくない……死にたくない……たのむ……早く……」  ベッドに仰向けになったまま、村木さんは、うつろな目でつぶやきます。  初めの予定では、その段階で、村木さんの静脈に、実際に注射をする予定でした。ただし、血清と見せかけたウイスキーの薄め液ではなく、空気を……。  それが、当初計画された殺人の段取りです。  もちろん、注射の痕跡は警察に発見されるでしょうが、べつにそれは気にする問題ではありませんでした。私の目的は、とにもかくにも村木昇を、恐怖のどん底に陥れてから殺すことでした。  でも、彼は想像していた以上に脅え、想像していた以上に無抵抗でした。  そこで、私の意地悪な……というよりも、残酷な気持ちが、まるでヘビが鎌首を持ち上げるように、ムクムクと湧き上がってきたのです。 「よくもこんなに長く持つものね」  私は、村木さんを見下ろしながら言いました。 「普通だったら、とっくに死んでいる時間よ」 「だから……早く……」  かすれ声で訴える村木さんに、私は冷たくほほ笑んでいいます。 「そうね。もう一分一秒を争う状況ですものね」 「だから……だから……」 「わかってるわよ。じゃあ、血清をあげましょうね。人妻泥棒さん」  そう言って、私は注射器のピストンをゆっくりと押しました。村木さんの体の五十センチ上の空間で……。  琥珀色の液体が、自分の体の中にではなく、お腹の上にポタポタと落ちてきたのを知って、村木さんは、目をカッと見開きました。 「うそ……だろ……」 「あら、ごめんなさい。間違えちゃったわ」  笑いながら言うと、私は自分のハンカチで、村木さんのお腹にこぼれた液体を拭き取りました。  そして謝りました。 「ごめんなさいね。もう予備の血清はないのよ」  と、まさにその瞬間です。彼は激しく痙攣しはじめました。  私はびっくりして、思わず後ずさりました。そして、声もなく村木さんの様子を見つめていました。  どれくらい痙攣がつづいたでしょうか……やがて白目をむいたまま、村木さんは動かなくなってしまいました——  私は、呆然としてその場に立ち尽くしていました。  人がこんなにかんたんに死ぬなんて……ほんとうに信じられませんでした。ハブ毒の影響もたぶんにあったでしょうが、それにしても、恐怖で人が死ぬなんて……≫  須賀真理子の文による、須賀伸江の犯行状況の描写は、その後も延々とつづいていた。  さすがに伸江も、気持ちを落ち着けるのに時間がかかり、午前七時すぎまで、自分の部屋に戻ってボーッとなっていたという。  つまり、計画に組み込まれていた東京‐米子便の利用によるアリバイ工作などは、できる状態になかったのである。  しかし、米子に飛ぶにせよ、出雲に飛ぶにせよ、これ以上グズグズしていると、飛行機の第二便の出発時刻にも間に合わなくなってしまう。  そこで、伸江は最後に残された一仕事をすることにした。  1707号室に、用意しておいた八匹のハブを放つことである。  別の袋に入れておいた、実際に村木を咬んだハブは、念を入れて残りの毒液も強制的に絞り出し、村木は、いかにもその二匹の毒のせいで死んだように見せかけた。  そして、他の六匹のハブも部屋に放つ。こうしておけば、よもや、フロアも異なるまったく別の部屋で、犯行の第一歩が記されたとは思われまい。いくら偽名で泊まっているとはいえ、524号室の客がマークされるようなことがあってはならないのだ。  それに八匹のハブがヤマタノオロチを連想させることによって、村木昇の殺人が他の原因ではなく、まさに出雲に端を発した事件であるのだと、暗に真理子に知らしめることもできる。  それだけでなく、連続殺人において『出雲』という共通項が存在すると世間が気づいてくれれば、かえって、真理子が罪の意識におののき、一種の共犯者意識から、事件の真相を知りつつも、口をつぐんでしまうだろうという計算もあった。  だが、その計算がはずれてしまったのが、この告白文書だった。 ≪すべての作業を終え、私は羽田から米子行きの第二便の飛行機に乗りました。出雲行きでは空港で知った顔に出会う可能性があるからです≫  第一の殺人に関する告白は、終わりにさしかかっていた。 ≪着陸態勢に入った飛行機が、中海の上空で旋回しはじめたとき、ようやく私は、肩の荷を下ろし、すがすがしい気分になることができました。  ご存じでしょうか。神代の話になりますが、ヤマタノオロチを退治なさった須佐男之命が、櫛名田比売と結婚され、出雲の国の『須賀』という地に来られたとき、須佐男之命は「この土地は、ほんとうにすがすがしい気分になる」とおっしゃったので、以来、その場所は、現在に至るまで『須賀』という地名を残しているのです。そして、もちろん、私たち姉弟の苗字も、この言い伝えにちなんでいると聞いております。  ちょうど私の席が出雲方面の空に向いたとき、私は、あと十数時間後に迫ってきた第二の殺人の成功を祈りながら、自然と、あの歌を口ずさんでいたのでございます。  八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに   八重垣作る その八重垣を≫      7  朝比奈耕作は、ホテル八重垣の名前の入ったライトバンを運転しながら、出雲市内を通り、大社町へと戻ってきたところだった。  助手席には、須賀真理子が乗っていた。  夜を徹して、朝比奈は真理子と付き合い、彼女が死に場所として選んだところも見てきた。  出雲市の南十キロほどのところにある立久恵《たちくえ》峡という、山あいの峡谷だった。その吊り橋から、彼女は青瑪瑙色をした川の流れに身を投げるつもりだったという。  だから彼女は、右の薬指に青瑪瑙の指輪をはめていた。  その青瑪瑙の指輪が、同じ色をした川の流れに溶け込まなかったのは、朝比奈耕作のおかげだった。  真理子としては、誰を殺したわけでもない。  しかし、彼女は三人の男性の死は、すべて自分の責任であると言い切っていた。  それゆえに死を覚悟し、その異常なまでの心理状態の中で、殺人の実行者である伸江にほとんど乗り移るようにして、あの告白文書を書いた。  あの文が『私』となっていたのは、伸江が考えたような、皮肉の現れでは決してなかったのである。  真理子を精神的に痛めつけるために伸江が語った、殺人の一部始終を、もういちど、まるで自分がその殺人を犯したように描くことで、真理子はおのれを責めたのである。  自分が文章を書く人間であるだけに、朝比奈は、真理子のその複雑な心境が、痛いほどよくわかった。  そして、朝比奈耕作という真の理解者を得たことで、須賀真理子は、初めて、自分の身をさいなんできた罪悪感から解き放たれることができたのである。 「真理子さん」  ハンドルを握る朝比奈が言った。 「大社警察署に着いたら、最初の説明はぼくに任せておいてください」  自分をじっと見つめる真理子の視線を意識しながら、朝比奈は言った。 「あなたは、じゅうぶん苦しんだのですから、もう楽になさってもいいんですよ」  真理子は、黙ってうなずいた。  朝比奈に対する感謝の気持ちを口に出して述べようとするのだが、胸が熱くなって、何も言葉が出て来なかった。 「ほら……出雲大社の入口が見えてきました」  いま、彼らのライトバンは、宇迦橋にかかるコンクリートの大鳥居をくぐりぬけ、まっすぐ出雲大社の参道を目指す格好になっていた。  参道前のT字路を右に折れれば、すぐ右手が大社警察署である。  ちょうど歩行者の流れがつづいたので、朝比奈はウインカーを右に出したまま車を止めた。  と、右側の歩道の方で、誰かがこちらに向かって大きく手を振っていた。  見ると、平田だった。 「どうしたんだ、耕作。ずーっと心配していたんだぞ」  大声で呼びかける平田に向かって、朝比奈は運転席の窓を下げ、返事を返そうとした。  が、その言葉を途中で引っ込めた。  平田の後ろに、須賀宏と須賀伸江がいるのが目に入ったからである。  真理子もそれに気づいたらしく、彼女のハッと息を呑む音が、朝比奈の耳にも聞こえた。 「とにかく大変なんだよ、耕作」  平田のほうは、光線のかげんでライトバンの助手席に真理子が乗っていることに気づいていないらしく、大声でつづけた。 「真理子さんがなあ……ここじゃ、具体的にいえないけど、やっぱりナニをナニしたのは、真理子さんだったんだ。それで、いま須賀さんと伸江さんといっしょに警察へ……」  状況に気づいていないのは、平田ひとりだけだった。  須賀と伸江は、ホテル八重垣のライトバンの助手席に座っている人物を認め、愕然とした顔になっていた。  だが、ひるんだ表情を見せる弟とはことなり、姉の伸江はツカツカと車に近寄り、堂々とした声を張り上げた。 「真理子さん、あなた、いいかげんになさいよね。ちょうどいいわ。とにかく逃げ隠れせずに、いっしょに警察署に来てちょうだい。話があるのよ」  だが、大国主命のいたずらか、はたまた須佐男之命のいたずらか、さらに皮肉な運命が、伸江を待ち受けていた。  大社での参拝をすませ、松の馬場を通って、参道入口の大鳥居の前に出てきた人の流れの中で、レモンイエローのコートを着た女性が、交差点の角に立っている平田を見つけ、華やいだ声を上げたのだ。 「平田さあん、水沢です。ついさっき、こっちに着いて、いま大社にお参りをしてきたところ……」  言葉の途中で、彼女は顔を強ばらせた。  そして、朝比奈の運転するライトバンに詰め寄っている人物を指さし、大きな声で叫んだ。 「平田さん! この人!」  立ちすくむ相手に向かって、めぐみは繰り返した。 「私が見たのは、この人なのよ!」 [#改ページ]   エピローグ  冬、春、夏と季節が過ぎ、須賀真理子が東京にやってきたのは、都心の木々も赤く色づくころだった。  彼女が上京してきたのは、朝比奈耕作に会うため。自殺を決意した自分を救ってくれた礼を改めて述べることと、その後の報告をするのが目的だった。  場所は表参道に面したカフェテラス。大きなガラス越しに望む舗道には、赤や黄色に彩られた落ち葉のカーペットが広がっている。店内に静かに流れるBGMは、十八世紀前半に活躍した作曲家アントニオ・ロッティの室内楽『トリオ・ソナタ イ長調』。吐く息も白くなり、温かいココアなどが恋しくなる晩秋の季節に似合いのバロック音楽だ。  まだ午前中のせいか、店の中は意外に空いていて、朝比奈と真理子が向かい合わせに座った席の周囲には、誰も客がいなかった。テーブルには朝比奈の頼んだモカのストレートコーヒーと真理子の頼んだホットココアが、ゆったりとした湯気を立ちのぼらせていた。  二人は室内楽の調べを耳にしながら、しばらくは揃って窓の外の風景を眺めていた。 「このあいだ冬が終わったと思ったら、もう次の冬がやってくる。早いですね、一年のサイクルが」  街を行き交う人々を見ながら朝比奈がつぶやいた。  すると真理子は、その言葉をきっかけに朝比奈のほうへ向き直り、ていねいに頭を下げた。 「ほんとうに、その節はいろいろお世話になりました。私がいまこうやって穏やかな気持ちで季節の移り変わりを眺めていられるのも、すべては朝比奈さんのおかげです」 「いいえ、ぼくが果たした役割は小さなものですよ」  カフェオレ色に染めた髪をかき上げながら朝比奈は言った。そして、須賀さんの決心が事件を解決に導いたのです、とつづけようとしたが、そこで朝比奈は言葉を途中で呑み込んだ。  ひさしぶりの対面なので、真理子を須賀という苗字のままで呼んでよいものか戸惑ったからだ。状況としては、真理子が夫と別れていたほうが自然な流れだった。 「ところで、失礼なことをうかがいますが」  朝比奈は遠慮がちにきいた。 「まだあなたのことを須賀さんとお呼びして構わないのでしょうか」 「いいえ、できればその呼び方は……」 「すると、宏さんとは別れられたんですね」 「そういうわけではないんです」  真理子は首を横に振った。 「彼とは離婚はしていませんし、これからもするつもりはありません。ただ、須賀という名前で呼ばれることには抵抗があるのです」 「ちょっと待ってください、真理子さん」  相手を下の名前で呼びながら、朝比奈はたずねた。 「いまあなたは、これからも離婚をするつもりはないとおっしゃいましたね」 「はい」 「すると、宏さんと伸江さんがあなたに対してした仕打ちにもかかわらず、なお結婚生活をつづけるというのですか」 「もちろん須賀が共犯者として逮捕された以上、世間一般でいう夫婦の関係は成り立ちません。それに、もしも彼が逮捕されていなくても、もともと一緒に暮らすのは限界のところにきていたのです」 「だったら、なぜ離婚を申し立てないのです」  朝比奈は不思議そうにきいた。 「あなたが離婚をしたいといえば、即座に成立するだけの条件が整っているんですよ」 「承知しています。でも、離婚はできません」  硬い表情で、真理子は答えた。 「私はこれからもずっと須賀真理子でいるつもりです。神に召されるまでずっと」 「なぜ」 「私は罰を受けたいのです」  うつむいたままの返事だったが、きっぱりとした口調で真理子は言った。 「私のせいで命を落としてしまった三人の男性におわびするために、私は自分にとっていちばん厳しい罰を受けたいのです」 「罰……ですか」 「はい。最初は、最高の罰とは死ぬことだと思っていました。ですから、朝比奈さんに止められるまでは、本気で自殺を考えていました。でも、死ねばそれが償いになると思っていた私が甘かったことが、最近になってやっとわかったのです。死とは、じつはとても楽な道だということを……。だって、死ぬことは逃げることですから」  隣の席に若いカップルが座ったのを見て、真理子は少しだけ声を落としてつづけた。 「私が死んでは、決して償いにならない。生きつづけることこそ——それも須賀真理子として生きつづけることこそ最高の刑罰になる。そのことに気がついたからこそ、私は須賀の家から逃げるわけにはいかなくなったのです。離婚はできなくなったのです」 「それではあなたは、残りの人生を幸せに送れないじゃないですか」 「当然です。だから償いになるんです」  意地を張ったように真理子は主張した。 「あなたが不幸になれば償いになるんですか」 「そうです。たしかに朝比奈さんがおっしゃるように、離婚をすれば私は楽です。須賀の家と縁を切ることで、いろいろな記憶も薄れていくでしょうし……。そして、もしかしたら私には人生のやり直しのチャンスがくるかもしれません。けれども、そうやって私が幸せになってしまっては、殺された三人の人があまりにも浮かばれないでしょう」 「そのお気持ちは理解できますけれど、あなたのそういった悲壮な決意が、はたして須賀さんにわかってもらえますか」 「わかってくれなくてもいいんです。須賀のためにやることではありませんから」 「では、自分のためですか」 「いいえ、亡くなった三人の男の人のためです」 「しかし、彼らはもう死んでいる」  割り切った響きに満ちているのを承知で、朝比奈は言った。 「遺族のために償いをするというのならわかりますけれど、死んだ人のために償うというのは、けっきょくは自己満足でしかない。つまり、自分を納得させるためにやる行為です。しかし、自分で自分を痛めつけるような自己満足は、ぼくは賛成できませんね」 「だけど村木さんも矢作さんも葉山さんも、私のせいで死んだのです。私を好きにならなければ、あの人たちは殺されずにすんだのです」 「たしかに、あなたが相手の男性を好きになったのはあなたが決めたことですよね。けれども、その一方で、あなたを好きになったのは彼らの選択です。どちらかの片思いでなかった以上、その恋で生じたトラブルの責任は、あなたとそれぞれの男性が半々で負うものではありませんか」 「理屈からいえばそうですけれど……」 「それに、独身のぼくが言うのもおこがましいかもしれませんけれど、幸福でない結婚はつづける意味がないんじゃないでしょうか」 「………」  真理子は、朝比奈が示したあまりにも単純な価値観に絶句した。 「水沢めぐみさんが選んだ道を、真理子さんは覚えていらっしゃいますよね」  朝比奈は、親友の平田均がすっかり夢中になってしまった巫女的な美しさをもった女性の名前を引き合いに出した。 「彼女は、東尾不動産の社長夫人の座を約束された結婚が目の前にありました。そして、その婚約者とともに縁結びの神といわれる出雲大社にやってきた。ところがこの地を踏んだとたん、めぐみさんは直感的に悟りました。東尾啓一の妻になっては決して幸せな人生は送れない、と……。そして、土壇場になって結婚をやめた。  めぐみさんの思い切った決断は、その時点では大きなトラブルを引き起こしたかもしれません。けれども、およそ十カ月が経ったいま、彼女は自分の判断が間違っていなかったことを身に染みて感じているようです。というのも、新しい恋人と出会えて、男女の相性の大切さを改めて思い知ったからです。あいにくその相手は、ぼくの親友の平田均ではありませんが」  水沢めぐみからの近況報告のハガキをもらい悄然と打ちひしがれていた平田の顔を思い出し、朝比奈はちょっとだけ苦笑した。 「ともかく、めぐみさんは婚約という形式に縛られることなく、幸せになれそうもない結婚を回避したのがよかったのです。それと状況は異なりますが、真理子さんの場合も、結婚という形式に縛られることなく、何はともあれ不幸な状況から脱することが先決ではないでしょうか。そして、幸せを取り戻したところで、事件を冷静にふり返ればいいんですよ」 「でも……」 「よく考えてみてください、真理子さん」  なおも自分の考えに固執しようとする真理子を遮って、朝比奈はつづけた。 「あなたは事件の原因を、三人の男性との浮気に求めようとしていますが、それは間違っています。それ以前の問題として、そもそもあなたと須賀宏さんが夫婦としてうまくいっていれば、一連の事件は起きていなかったんです。そこを忘れないでください」  朝比奈は、須賀真理子の瞳をじっと見つめた。 「夫婦仲が良くなかったから、つまり幸せな結婚ではなかったから、真理子さんは他の男性に心を動かされたわけでしょう」 「ええ……それはたしかにそうです」 「だったら、すべての原因を作った現在の結婚生活に終止符を打つことこそ、ほんとうの反省になるんじゃありませんか」 「………」 「でしょう? それなのにあなたは、償いとは自分を虐げることだと勘違いして、まるで正反対のことをしようとしている」 「正反対?」 「そうです。須賀さんとの結婚生活を今後もつづけるということは、三人の男性を死に導いた原因をそのまま保ちつづけることにほかならない。つまり、ヘタをしたら四人目の犠牲者が出る余地を作っているわけですよ。これは償いどころか、その逆じゃありませんか」  年下の朝比奈に理詰めで攻められて、真理子は唇を噛んだ。 「おせじではなく、真理子さんは男を引きつける魅力にあふれている。ぼくはそう思います。その魅力に吸い寄せられる男性が、これからも出てこないとは限りません。そのとき、たとえ形式的であれ、あなたが人妻という立場にあれば、また似たようなトラブルが起きる可能性が大です。それが犠牲者たちへのおわびになりますか?」 「………」 「ねえ、真理子さん」  それまで真剣なまなざしをしていた朝比奈は、そこでフッと緊張をゆるめる微笑をたたえた。 「出雲の縁結びの神様は、誰でも彼でもやたらと結びつけるものではないと思うんですよ。たとえ当人どうしが結婚を切に願っていても、それが将来的に不幸を招く組み合わせのときは、神様はちゃんと見抜いて、むしろそのカップルが別れる方向へと事を運び、そのつぎの正しい出会いへと導く役割も果たしてくれる。そんなふうにぼくは感じているんですが」 「朝比奈さん……」  須賀真理子は、涙を目にいっぱいためて言った。 「では、私は幸せになる権利があるのでしょうか。もういちど人生をやり直す権利があるのでしょうか」 「ぼくは一介の推理作家ですから」  朝比奈は肩をすくめた。 「あなたに対してえらそうなご託宣をする力量は持ち合わせていません。でも、仮にあなたがぼくのミステリーの主人公だったなら……」  カフェオレ色に染めた髪をかきあげ、朝比奈はさらに笑顔を輝かせて言った。 「絶対に、先に希望の光が見えるような終わらせ方にしますけれどね」      *      *      *  それから二カ月ほど経った十二月の下旬——すなわち、事件からほぼ一年が経過しようとする日に、真理子はついに役場に離婚届を提出する気持ちを固めた。考えに考え、悩みに悩み抜いた末の決断だった。  ところが——  弁護士を通じて離婚届の書類に捺印を求められた獄中の須賀宏は、意外そうな顔でこうつぶやいたという。 「なんだ、真理子のやつ、まだ手続きを済ませていなかったのか」 [#改ページ]     出雲大社の初詣 [#地付き]吉 村 達 也    昨今は海外でお正月をすごす人々が増えているという。しかし、我が家の元日は決まって日本である。どんなにつまらなくなっても大晦日の紅白歌合戦をきちんとテレビで見て、神社への初詣は欠かさない。そういうところは妙に律義に日本の伝統と風習を守っていたりするのである。  東京の城南地区に住んでいるから、マンモス級の人出を記録する明治神宮や川崎大師といった超メジャーな神社への初詣は、もちろん経験済みである。だが、旅先で迎える初詣もいろいろ気分が変わって楽しい。妻の実家がある三島では、三島大社へ出かける。長野の飯綱高原にも仕事場があるのだが、ここで正月を迎えたときは、車で十数分の距離にある戸隠神社へ行く。雪に覆われたこの神社は非常に荘厳で、しかもこの季節にはぐんと気温が下がるので、空気もキリッと引き締まって清々しい。ただし、神社へ至る階段が急なために、積雪があるとお年寄りや子供にはかなり足元が危ない。  雪の神社といえば、札幌の北海道神宮での寒さはまた格別だった。戸隠のように身が引き締まるとか清々しいと言ってる余裕がなく、零下何度という外気にひたすら震え、参拝も早々に温かい店へ飛び込みたくなった。だが、北海道神宮という名前がなんとも雄大で気に入った。  それとは対照的に、南国沖縄での初詣もこれまでに二度経験している。いずれも出かけたのは那覇の波之上宮。ここは東シナ海に面した文字どおり海のお宮さん。人々の服装にはまるで冬という季節が感じられず、トロピカルな初詣は、正月というよりも夏祭りといった感じ。  そして、出雲大社である。出雲地方を舞台にした作品を書くにあたって、大晦日から元旦にかけての大社の初詣の様子をどうしても取り入れたかった。それで一九九二年の大晦日から正月二日まで出雲に滞在することにした。しかし、予定を決めたのが十二月に入ってからだったから、旅館や飛行機の手配は大変だった。飛行機のほうは、のちに寝台特急『トワイライトエクスプレス』の幻のスイートをとってくれることになる剛腕エージェントのXさんにお願いしてなんとかなったのだが、宿はいつも取材条件に合わせて自分で手配することに決めているので、これは一苦労。大半の宿泊枠が旅行代理店にまとめ売りされている年末年始の宿を、個人で、しかもギリギリになってからとろうというのは、無謀ともいうべき行為である。だが、その苦労がまた面白いから私も好きものだ。  元日の夜のぶんは、本文中にも実名で出てくる日の出館という、創業百年の素朴でこぢんまりとしているが気配りの行き届いた宿がとれたのだが、その前夜、大晦日に泊まる宿がなかなか見つからない。リスト片手に旅館という旅館を片っ端からあたっていくが、大社に近いエリアは全滅。「大晦日の……」と言いかけただけで「あいにくその日はもういっぱいで」と断られる状況。  数十分間電話にかかりきりでようやくとれたのが、大社の参道からはだいぶ離れたところにある某旅館。正直いって、なんともわびしいたたずまい。ありゃー、ここで新年か、と家族一同ボーゼン。マンガなら額に何本もタテ線が入っているところである。これじゃ大晦日でも空いてるわけだわな、と納得するが、納得したからといって魔法のように周囲の見ばえがよくなるわけではない。  夜、ふとんを敷きにやってきたおばさん、ハーハーといかにもしんどそうに息を切らす。おもわず自分たちでやりますからと言い出したくなるほど哀れみを誘ったが、敷き終わったらそのまま我々の部屋で紅白歌合戦に見入ってしまうという、そこはなんとものどかな光景。ほかにも呆れることは山ほどあったが、そのおかげで作品のヒントももらえたのだから、まあ結果オーライというところか。  しかし、なにしろ大社から離れた宿なので、紅白歌合戦を見終わってからでは除夜の鐘に間に合わない。北島三郎が歌い出したあたりで、あわてて部屋を出たのだが、けっきょく長い参道を歩いているうちに新年を迎えることになってしまった。が、ともかく初詣の神社の押すな押すなの人込みは、やはりいいものだ。これを味わってこそ新年がきたという気分になる。煌々と灯されるテレビ取材のライトに照らされ、人々の吐く白い息が夜空をバックに鮮やかに浮かび上がる。細かい蒸気の粒までも見える。これもまた迎春の象徴ともいうべき光景か。  ことしはどこの神社へ初詣に行こうかと、いま(八月)のうちからあれこれ考えている。 本書は平成五年三月、自社ノベルズとして刊行されました。 角川文庫『出雲信仰殺人事件』平成8年9月25日初版発行               平成10年5月10日6版発行