[#表紙(表紙.jpg)] トリック狂殺人事件 吉村達也 目 次  序章   トリック卿の招待状  第1問  いかにして彼女は氷の柩《ひつぎ》に閉じ込められたか  第2問  いかにして犯人はその部屋から脱け出したか  緊急出題 なぜ予定にない人間が殺されたのか  第3問  いかにして犯人は空中に消えたか  最終問題 いったい私は誰なのか   文庫版あとがき [#改ページ] 『うそつき荘』に招かれた七人 ≪男≫  鹿取昭造   製薬会社社長  利光太郎   野党の国会議員  伊吹 圭   恋愛小説で人気の若手作家 ≪女≫  池田正子   市民平和団体の事務局長  三条晴香   女優  蓮見サマーナ 心霊術師  烏丸ひろみ  警視庁捜査一課刑事 [#改ページ]  序章 トリック卿の招待状     1 「警部、この手紙をどう思います」  烏丸《からすま》ひろみは、財津《ざいつ》警部に三枚の便せんと、それが入っていた封筒を差し出した。 「どれどれ……警視庁捜査一課気付、烏丸ひろみ様、か。ずいぶん達筆だな、これは」  財津警部は、和紙で漉《す》いた淡い玉子色の封筒を手にとった。  砥粉《とのこ》色の罫線《けいせん》が引かれた枠の中に、美しい楷書でひろみの名前がしたためてある。  警部は、表書きに書かれた名前と、その当人の顔を見較べた。  烏丸ひろみ、二十四歳。  配属された当初は『捜査一課のマスコット』と呼ばれていたが、そのうちに『捜査一課のアイドル』、さらには難事件における活躍ぶりで『捜査一課のスーパースター』にまでなってしまった、四五〇CCのバイクにのる女性刑事である。  マスコミなどでは『美人刑事』という、ありきたりな表現でもてはやしていたが、ひろみの本当の魅力は、美貌《びぼう》と愛嬌《あいきよう》とがミックスされているところにあった。  事件の謎《なぞ》に熱中しているときや、バイクで犯人を追い詰めるときなどは、ゾクッとするほど美しい顔になる。  ところが、ふだんのひろみは陽気な甘えっ子で、むさくるしい男性刑事の中にあって、まさにパッと輝くひまわりのような存在であった。  そのひろみに悪い虫がつかないようにと、お目付け役をかって出ているのが、上司の財津大三郎警部だった。 「おまえに来た手紙だが、心当たりがないというわけか」 「変な手紙には慣れていますけど、それにしても奇妙すぎるんです」  ひろみは答えると、小脇に抱えていたバイクのヘルメットを机に置き、黒いライダースーツの胸のジッパーをゆるめた。 「ま、最近じゃ捜査一課に来る手紙の半分以上がおまえさんへのファンレターだからな。庶務の方で整理が大変だとボヤかれているんだ。……まったく、ここはテレビ局じゃないんだぞ」  財津警部は可愛い部下をひとにらみしてから、受け取った封筒を裏返した。 「なんだ、これは」  裏に書かれた差出人の名前を見て、警部は妙な声をあげた。 「トリック卿《きよう》だと?」  差出人の欄にあるのは、たった五文字。  トリック卿——  書かれているのはそれだけで、他に本名らしきものも住所もない。  警部は、もういちど封筒を引っくり返して消印を確かめた。  麹町《こうじまち》—— 「警視庁のすぐそばから出したというわけか、ふざけたやつだな」 「でも、警部。中を読んでみてください」  ひろみは便せんの方を指さした。  こちらも見事な毛筆でしたためられてある。よく見かける毛筆体を使った印刷ではない。正真正銘の手書きである。 「ミステリー・ハウスへようこそ……」  冒頭の一行を、財津は声に出して読んでみた。 「なんという思わせぶりな出だしだ」  警部は唇を突き出した。 「最初の一行で、差出人がまともじゃないとわかる手紙だな」 「でも、まともじゃない人の筆跡は、もう少し粘着質っぽく、ネトッとした感じじゃありません?」 「そんなもんかね」 「そうですよ。それに較べて、この筆跡はものすごくきれいだし、理知的です。プロの代筆かもしれませんけど」 「まあ、変態レターを受け取る点では、ひろみの右に出るものはないから、ご意見は拝聴しておきましょう」  そう言うと、警部はあまり気乗りしない様子で文面に目を落とした。      *   *   *  ミステリー・ハウスへようこそ——  私は『トリック卿』である。  この招待状は、あなたを含め七人の人間に出されている。  きたる二月十三日から四日間、私はみなさんを私の別荘『うそつき荘』に御招待する。  場所に関しては後に詳しく述べるが、この私の別荘が、世にも奇妙な名前を持っているのには理由がある。  じつは私は、嘘《うそ》つきな人間が大好きなのだ。そして、私自身もひどい嘘つきである。  だから、自分の館にこういう名前を付けた。  しかし、世の中には私を上回る嘘つきが大勢いるものだ。中でも、有名人というジャンルには重症が多い。  知名度と人間の信頼性とは正比例するという庶民の愚かな錯覚をいいことに、有名人のレッテルに隠れて嘘ばかりついている——そうした人々の中から選りすぐりのメンバーを我が別荘にお招きし、おたがいの嘘つきぶりを大いに楽しもうというのが、今回の企画である。  ただし、今回私が御招待する七人のうち、一人だけは嘘つきと縁がない。  その人は、いわば中立な立場での審判役として来ていただくことになる。  だが、他の六人は誰もかれもが大嘘つきである。  そして、その中に私もいる。  さて——  いくらなんでも、見ず知らずの人間からいきなりこのような手紙が来たのでは、みなさんも招待を受けるのに二の足を踏まれることだろう。  そこで、私はみなさんの参加意欲をそそるために、とても楽しいゲームと、目の玉が飛び出るような豪華な賞品を用意した。  ゲームがいかなる趣向で行われるかは、着いてからのお楽しみだが、豪華賞金のことは、あらかじめここで紹介しておこう。  みなさんが『うそつき荘』に到着すると、三十六時間のうちに次々と三つのクイズが出される。  このクイズ一問を正解するごとに、私、トリック卿より正解者に一〇〇、〇〇〇、〇〇〇円の賞金が提供されるのだ。  書き間違いではない。  一億円である。  すなわち、三問正解すれば、みなさんは三億円という大金を得ることができるわけだ。  もちろん、私も正体を明かさずにゲストの一人としてゲームに参加するから、時にはみなさんを差し置いて、正解者としての名乗りをあげるかもしれない。  その点は、どうぞご了解を。  なお、ゲームの最後に特別問題が追加出題され、これ一問だけで別途に三億円の賞金が用意される。  つまり、私が出すすべてのクイズに正解すると、合計六億円もの大金を手にすることができるわけである。  私のいうことがデタラメでない証拠に、些少《さしよう》ではあるが、その保証金をここに同封させていただいた。  大金のように思えるかもしれないが、なあに、一問あたりの賞金のわずか百分の一の金額である。  このお金については、あなたが参加しなくても返金を求めたりはしないが、これを百倍、あるいは最高六百倍にまで増やせるチャンスが目の前にあることをお忘れなく。  いかがだろうか。  私としては、みなさんが参加する意志を固めてくださったことを確信して、次に『うそつき荘』への道案内を申しあげる。  二月十三日、午後五時に上野駅を出る信越本線の特急『あさま31号』に乗り、終点の長野駅で降りていただきたい。  この列車は途中、大宮、高崎、横川、軽井沢、小諸、上田、戸倉、篠《しの》ノ井といった駅に停車するので、むろんそうした駅から乗り込んでいただいてもかまわない。  長野駅到着は午後七時四十七分である。  そこからの指示は、みなさんがホームに着いたところで与えられる。  見知らぬどうしの七人が集まる方法はただひとつ、長野駅のホームに降りたら、その場を動かないことである。  そうすれば、関係のない人間は改札口へと急ぐだろうから、ものの二、三分もしないうちに、仲間たちの所在が明らかになるだろう。  あとは黙って指示に従っていただきたい。  なお、駅から『うそつき荘』まではおよそ二時間の道のりであるが、雪が深ければもう少し時間を要するかもしれない。  もちろん別荘には、豪華な夜食を用意してご到着をお待ち申し上げるが、とりあえず夕食は各自すませておいた方が無難だろう。  なお寝泊まりについては、七人分の個室が確保されており、すべての部屋には内側から厳重な三重ロックが掛かるようになっている。女性の方も、プライバシーについてはどうぞご心配なく。  みなさんの方で用意していただくものは、とりたててないが、現地は非常に気温が低いので、防寒対策だけはしっかりお願いしたい。お送りしたお金で十分な身支度が整えられると思う。  そうそう、みなさんの銀行口座を書いたメモもお忘れなく。  せっかく巨額の賞金を手にしても、お金の振り込み先がわからなくては、無効となるので注意されたし。  最後に——今回『うそつき荘』に集まる七人は、男性三名、女性四名という内訳である。  再度申し上げるが、私はその中にいる。  では、雪深い山中のミステリー・ハウスでお目にかかれることを……。 [#地付き]二月十日  トリック卿       *   *   * 「それで?」  便せんから目を上げると、財津警部は言った。 「このクソふざけた手紙について、私に感想を言えとおっしゃるのかね、烏丸刑事」  凄《すご》みを利かせるのは財津の十八番である。 「いいえ……ただ、このお金をどうすればよいか伺いたくて」  ひろみは、警部の前に一万円札の束を置いた。 「同じ封筒の中に、無造作に突っ込まれていました。数えたら全部で百枚ありました。たぶん、すべて本物だと思いますけど……」  財津は目を丸くした。     2 「こいつはただの嘘つきじゃなくて、大金持ちの大嘘つきというわけか」  財津警部は、現金百万円を前にして唸《うな》った。 「手紙に書いてあったことが本当なら、自分の分を除いても、百万かける六で、計六百万円をすでに送ったことになるぞ」 「そうですね」 「信じられん。なんというゼイタクなやつだ」  財津はカッとなり、ひろみは笑った。 「警部は、ゼイタクな人間が大っきらいなんですよね」 「ああ、そうだ。ときどき、他人の家の郵便受けに札束を投げ込むようなやつがいるだろう。ああいうのはイタズラにしても許せん。金のありがたみをまったくわからんようなやつは」 「でも、イタズラにしては元手がかかりすぎていませんか」 「これが全部ほんとうの一万円札だったらな」  財津は札束を揃《そろ》えて、別の封筒にしまった。 「鑑定の結果、間違いなく本物ということになったら、番号を照会してみる必要があるだろう。なにか他の犯罪に関係した金かもしれない」  そう言って立ち上がりかけた警部に、ひろみが声をかけた。 「あの……」 「なんだ」 「このトリック卿が招待をする二月十三日といえば、もう明日のことです」  警部は、壁にかかったカレンダーにチラッと目をやった。  きょうは二月十二日である。 「ああ、そうだな」 「私、何もなければ明日、明後日の二日間お休みをいただくことになっていましたよね」 「もしかして、おまえ……」 「そうなんです」  ひろみはうなずいた。 「行ってみてもいいですか、この『うそつき荘』に」 「こんな手紙を真に受けるつもりなのか」 「半分くらいは」  警部とひろみは、たがいに立ったまま見つめあった。 「きっと、ここに書いてある審判役というのが、私のことだと思うんです」 「少なくともおまえさんは、六人の大嘘つきという方には入らないだろう。たしかに烏丸ひろみ、嘘つきではない。しかし……」  財津は、百万円をしまった封筒を指で弾いた。 「警視庁の給料ではいささか不満なので、欲が出てきたというわけか。つまり、こいつを百倍にするチャンスをものにしようと」 「そんな」  ひろみは、クリッとした大きな瞳《ひとみ》を動かして否定した。 「まさか賞金一億円なんて、本気にしていませんよ。ただ、この手紙は百パーセントのイタズラでもなさそうですし……」  ふたりは、見事な筆づかいでしたためられた招待状に目を落とした。 「これがワープロで打たれていたり、新聞の活字を切り貼りしたものだったら、かえって興味は引かないんですけど、これにはそうした胡散《うさん》臭さがないでしょう。手書きの毛筆で、しかも達筆。すごく堂々としています」 「まあな」  警部もうなずいた。 「たしかに、この筆跡には妙な説得力がある。しかも、同じ文面を何枚も手書きで書いたとなると、それだけでも大変な労力だ」 「トリック卿はあんがい本気なんですよ」  ひろみは言った。 「だから、どうしても、どんな人物なのか実際に会ってみたいんです」 「だが、この百万円と謎めいた手紙だけでは、まだ事件として扱うには不十分だぞ」 「わかっています。ですから、あくまで私が休暇を利用して、勝手に長野に行くんです。……ね?」  ひろみは首をかしげて、財津の前に顔を突き出した。 「うーん」  警部はためらっていた。 「おねがい、警部」  次にひろみは、財津の太い腕をとって揺すった。 「休暇中ですから、もちろん交通費も請求しません。長野まで行って、だいたいの様子がつかめたら、明後日じゅうには帰ってきます。勤務のローテーションは崩しません。だから、ね、ね、おねがい」 「うーん」 「明後日のバレンタインデーにちゃんと届くように、警部には特製のチョコレートを贈ったんですよ」 「そうなのか」  財津は相好《そうごう》を崩しかかったが、その手には乗らないとばかりに、すぐに表情を引き締めた。 「どうせ義理チョコだろ」 「ちがいますよー」  ひろみはニコッと笑って言った。 「第二本命チョコ」 「第二本命? そんなチョコレートがあるのか」 「勝手につくったの」 「じゃ、誰なんだ、第一本命は」 「いません、そういう人は。だから、第二本命がいちばんすごいの」 「何がすごいの、だよ」 「だからいいでしょ、警部」  ひろみは財津の手をつかんで、勝手に振り回す。 「まったく、おまえは甘え上手なんだよなあ」  捜査一課きっての鬼警部に無理をいえるのは、課内でも烏丸ひろみただ一人である。  とうとう財津は、そのいかつい顔をゆるめて言った。 「じゃあ、いいだろう。おれは何も聞かなかったことにする。休日に何をやろうと、警察官の名を汚す行為でなければ、おれは関知しない」 「やったー」  ひろみは笑顔を輝かせて、財津の腕に自分の腕をからめた。 「だから警部は好きなんだ」 「しかし、おかしなことに巻き込まれるなよ」  ひろみの腕をどうあしらってよいか迷いながら、財津は難しい顔を崩さずに言った。 「はい」  ひろみは元気にうなずいた。 「念のために、長野駅に着いたらおれに連絡を入れて、状況を知らせるんだ。自宅の方に電話をくれてもかまわん」 「はい」 「招待状をもらった連中が本当に集まって、うそつき荘とやらに行くことになったら、そこでまた連絡をしろ」 「はい」 「いいか、絶対だぞ」 「はい……警部って心配症なんですね」 「そうじゃない、おまえが可愛いだけだ」  言ってから、財津大三郎警部は赤くなった。  ちょうどその時、どこから見てもガイジンという格好の、金髪の刑事が仕事を終えて戻ってきた。  フレデリック・ニューマン刑事である。  身長一九〇センチでブルーの目を持つフレッドは、アイルランド系アメリカ人だった宣教師の父と、ポーランド人の母との間に生まれた。出生地は大阪である。  すでに両親はともに日本で他界していたが、残された一人息子の彼は、日本国籍を持つ金髪|碧眼《へきがん》の刑事として捜査一課に配属されていた。  年齢はひろみより三つ上だったが、本庁勤めでは彼女と同期になる。  標準語としての日本語はもちろん、大阪弁もペラペラであったから、これは重宝《ちようほう》された。  なにしろ、外見ではとても日本語を理解するようには見えないから、多くの人間がフレッドの前ではつい油断していろいろなことをしゃべってしまう。それで御用となったケースは数知れず、なのである。 「ボス……あれ?」  フレッドは財津警部の顔を見て、不思議そうにたずねた。 「どうしたんですか、ひろみの前で赤くなっちゃって。それに、腕なんか組んじゃって」 「赤くなってなんかおらん。腕を組んでないっ!」  あわててひろみの腕をほどくと、財津はもっと赤くなった。 「まさか……」  と言って、フレッドはひろみの顔を見較べた。 「二人で愛を語っていたんじゃないでしょうね」 「そうだよ〜」「バカいうな」  ひろみと財津が正反対の答えを同時に言った。 「ま、ようするに二人ともヒマを持てあましていたということですか」  フレッドは肩をすくめて、自分の席についた。 「ねえ、フレッド。質問があるんだけどな」  ひろみは青い目の同僚の前に立った。 「なんだよ」 「もしも急に一億円がもらえることになったら、何に使う?」 「一億円? なにそれ」  脱いだ背広を椅子の背にかけ、フレッドはサスペンダーを胸元でパチンと弾いた。 「いいから、きいてるの」 「そうだなあ……土地でも買うかな」 「やっぱりねー。で、候補地はカナダ? それともハワイ?」 「いやいや、やっぱり通勤に便利な東京のベッドタウンですよ。できれば田園都市線の沿線で……といきたいけど、一億なんかじゃとても足りないだろうから、たぶん群馬とか茨城あたりの物件になるんだろうけど」 「現実的なのねー、フレッドは」  ひろみは、あきれ顔で金髪の刑事を見おろした。 「そうだよ。いずれぼくだって可愛い日本人の奥さんをもらうつもりだから、いちおうマイホームは持っておかなくちゃね。それも、どんなに狭くても庭付きの一戸建てを」 「こいつは日本人以上に日本人しているんだよ」  財津警部はフレッドの頭をポンとたたいた。 「で、ひろみ。一億円の使い途をきくわけは、何なんだよ」  たたかれた頭をおさえながら、フレッドがたずねた。 「それがね、もしかしたら本当に大金が手に入るかもしれないんだ」  ひろみはバレエを踊るようにクルッと回った。 「しかも、場合によっては最高六億円よ! そうなったら、一千万円くらいの毛皮のコートを四、五着買って、バイクと車も二、三台ずつ買って、それから海外に別荘を買って、残ったお金で警部とフレッドにもプレゼントをあげるからねー」  ひろみは、ポニーテールにまとめていた髪の毛をバラッと広げ、ライダースーツを肩まで脱いで、タンクトップだけの素肌をちらつかせた。  冬でもこのスタイルで出勤して、それから更衣室で少しは刑事らしい格好に着替えるのである。 「よさんか、ひろみ」  財津警部は顔をしかめた。 「そういう挑発的なポーズを、本庁の中でするんじゃない。フレッドみたいに、さかりのついた男がゴロゴロしとるんだから」 「はーい……ま、警部もフレッドも、期待して待っててね」  ふたたび肩を隠すと、ひろみはバイクのキーをじゃらつかせながら、婦人警官用の更衣室へ口笛を吹きながら消えていった。 「どうなってるんですか、あの子」  ひろみの後ろ姿を見ながら、フレッドはあっけにとられていた。 「知らんよ」  警部は耳のつけ根を赤くしたまま、ブスッとして答えた。 「なんだかんだと、もっともらしいことを言っていたが、やっぱり一億円というエサに釣られたんじゃないか。休暇をOKさせてから本音を吐きおって……しょうがないやつだ、まったく」  財津は、フレッドにトリック卿からの手紙を投げてよこした。 「まあ、フレッドもこれを読んでみろ。ただし、おまえまでゲームに参加したいといっても、ひろみといっしょに休暇は取らせんからな」 「どうせ、ぼくはさかりがついてますからね」  ひとこと文句を言ってから、フレッドはトリック卿の手紙を読みはじめた。 [#改ページ]  第1問 いかにして彼女は氷の柩《ひつぎ》に閉じ込められたか     1  二月十三日、午後七時五十分。  雪の長野駅に『あさま31号』が到着してから、すでに三分が経っていた。  蛍光ピンクの派手なスキーウエアに身を包んだ烏丸ひろみは、降り立った場所から動かずにホームの端から端までを見渡した。  やはりいた——  列車到着後も改札口に向かわず、その場にたたずんでいる人間が、ひろみの他にも六人いたのだ。  男が三人、女が三人。  それは、トリック卿の招待状に記されていた人数とちょうど一致する。  そのうち女性二人と男性二人は、グリーン車から降りてきたようである。  嘘つきの有名人、というフレーズが思い起こされた。  しかし、いずれも顔見知りではないらしく、相手の様子にチラチラ視線を走らせるものの、自分から最初に口を開こうとはしなかった。  そうやってたがいに牽制《けんせい》しあっているのだが、このままでは埒《らち》があきそうになかった。  長野は、東京とは比較にならないほど冷え込みが厳しかった。顔の露出した部分が、キリキリと痛み出してしまうほどだ。  体を温めるために軽く足踏みをしながら、ひろみは自分から行動を起こそうかと考えていた。  と、そのとき、正面改札口から、一人の男が入場券を示して入ってきた。  濃紺のヤッケに同色のスキー帽をかぶり、口髭《くちひげ》をたくわえた色の浅黒い男である。  彼はホームに残っていた一行に目をやると、声高に叫んだ。 「うそつき荘に行く人。車、出ます。私について、きてください」  ひろみは途中で足踏みをやめ、その男に目を向けた。 「うそつき荘に行く人。車、出ます。私について、きてください」  寒さではなく、緊張のために身が引き締まった。  列車に乗ってここまで来るあいだに、招待状はやはりイタズラかもしれないと、トリック卿との対面をなかば諦めていたところだったのだ。  しかし、どうもこの様子では、まったくの冗談ではなかったらしい。  その男はラテン系の顔立ちをしており、発音も日本人とは微妙に違うところがあった。  年齢は四十前後だろうか。いや、もっと若いかもしれない。 「うそつき荘に行く人。車、出ます。私について、きてください」  白い息を吐きながら何度も同じセリフを繰り返し、男はホームに停車している列車に沿って、まず先頭方向へ歩いてゆき、そこから折り返して後方へ向かった。  すると、まるで男の尻《しり》に磁石でも付いているかのように、それまでたたずんでいた六人の男女が、彼の後に連なって歩きはじめた。  そして、七人目にひろみがついた。  彼女のすぐ前を歩いているのは、背が高くて、ちょっと見にはハンサムな青年である。  ザックリとした手編みのセーターを着て、片手にジュラルミンのトランクを提げている。  手袋やマフラーも、なかなかお洒落《しやれ》なセンスを感じさせた。 「ここまでは、トリック卿の話は本当らしいね」  首だけふり返って、その若い男が声をかけてきた。白い息の中にハッカの匂いがした。 「そうですね、私も半分は冗談じゃないかと疑っていましたけど」  ひろみは答えながら、足元に注意して歩いた。  さっきまでかなり吹雪いていたようで、ホームのところどころが、吹き込んできた雪のために滑りやすくなっていた。  雪はいまも降り続けていたが、風の方は止んでいた。 「きみも例の招待状を受け取ったの」  男は子供に話しかけるような態度で、ひろみにたずねた。 「はい」 「百万円の現金も?」  少しためらってから、ひろみは返事をした。 「ええ、受け取りました」 「じゃあ、封筒の中身はみんな同じだったんだ」 「そうみたいですね」 「だから、参加率百パーセントというわけか」  彼は、前を歩く連中に目をやった。 「それにしても、百万円の支度金と一億円の賞金は魅力だけど、雪の中というのがいやだな。ぼくは寒さが苦手でね。それでスキーやスケートもやらないんだけど。これからかなり山奥に連れて行かれるわけだろう」 「うそつき荘、っていう場所でしたよね」 「ああ、そうだ。でも、うそつき荘とはね。もう少しましな名前がありそうなものだが」  男は苦笑した。 「雪深い山荘に招待された七人……か。これじゃあ典型的なホラー映画かミステリーじゃないか。きっと、到着直後に大雪に見舞われて、ぼくらは雪の中に閉じ込められるんだ。そして、そこで世にも恐ろしい連続殺人が起きる……という、お決まりのストーリー」  皮肉っぽい調子で言うと、男はまた前に向き直った。  この若い男は、どこかで見たことがある——そう考えながら、ひろみは男の引き締まったヒップのあたりに目をやった。 「ところでさ」  急に男がふり返ったので、ひろみは目を上げた。 「きみって、なかなか可愛いじゃない」 「ありがとう」  この手のアプローチには慣れていたから、ひろみは間をおかず、表情も変えずに答える。 「もしかして、モデルかなんか?」 「『……かなんか』みたいな中途半端な仕事の就《つ》き方はしていません」 「おー、いいリアクションしてくれるじゃない」  彼はいったん立ち止まり、完全にひろみの方を向き直った。 「ぼくは伊吹圭《いぶきけい》というんだ。……知ってる?」  そうだったのか、と思った。  その名前ならひろみも聞いたことがある。 「もしかして、作家かなんかですか」  ひろみの言葉に、男はプッと吹き出した。そして、うなずいた。  伊吹圭といえば恋愛小説の若き旗手として、最近めきめきと頭角をあらわしてきた存在だった。  女性雑誌での対談やインタビューにも毎月のように登場し、その作品も次々とテレビ化されて、かなりの評判を呼んでいた。  たしか年は二十七、八のはずだ。  彼の作品はまだ一度も読んだことがなかったが、これをきっかけに一冊くらい目を通してもいいかな、とひろみは思った。 「で、きみは」 「烏丸ひろみといいます」  あえて職業は名乗らなかった。  バイクに乗った警視庁捜査一課の美人刑事というのは、マスコミにとっては格好の取材対象だった。そのおかげで、ひろみ自身もずいぶん有名にはなっていたが、こうやってスキーウエアに身を包むと、女子大生か普通のOLにしか見えないだろう。 「ひろみちゃん、か」  男は勝手にそう呼んだ。 「で、どんな字を書くの」 「全部ひらがなです」 「なるほど……いいねえ、やっぱり『ひろみ』というのは、全部ひらがなで書いた方が可愛らしくていいね」 「もしかして、こんど小説の中に使おうと思ってるでしょ」 「当たり」  男は芝居がかった笑顔を見せると、また歩きだした。 「もう決めたんだ。インスピレーションが働いた。きみは、ぼくの次の作品の主人公だ。名前だけでなく、きみのすべてを貸してほしい。その愛らしい笑顔も、しなやかな体も、そして愛も……」  彼は背中を向けたまま、そう言った。  よほど女性を口説くことに自信があるらしいが、そのセリフのあまりのバカバカしさに、ひろみは彼の本を読もうという考えを撤回した。  こんな調子では、作品の中の会話もしれている。  ひろみは、伊吹の後ろ姿に向かって頬《ほお》をふくらませた。  と同時に、ハタとあることに思い当たり、表情を改めた。  この男が、世紀の大嘘つき『トリック卿』である可能性だって、じゅうぶんにあるではないか……。     2  先頭の口髭の男は、すでに階段を上って構内の跨線橋《こせんきよう》を渡りはじめていた。  正面の善光寺口から出るのではなく、反対側の東口に向かうつもりらしい。  ひろみは伊吹との会話をやめて、右肩に引っかけていたデイパックをきちんと背負い直し、急ぎ足に一行の後を追いかけた。  財津警部にはとんぼ返りをするようなことを言っておいたが、その実、彼女は三泊できる用意を整えていた。どうも、その準備が役に立ちそうな雰囲気である。 (そうだ、警部に電話をしないと)  東口の改札を出たところで、ひろみは公衆電話に駆け寄ろうとした。  改札口に立っていた駅員が、そのひろみを目で追う。  どうやら七人の中に「有名人」の顔を見つけたらしく、さっきからその駅員は一行の様子を好奇の目で眺めていた。  ひろみは、さしずめテレビタレントにでも映ったのだろうか——  そのとき、例の口髭の男が目ざとくひろみの行動を見つけ、両手を広げて押しとどめた。 「ノ! ノ・テレフォーノ。電話ダメ!」  やはり日本人ではなかった。  さっきの呼びかけも、あらかじめ丸暗記したフレーズを繰り返していたのだろう。 「ちょっとだけよ。一分間電話するだけ」 「時間ナイ。車、のります」  ひろみの頼みを、男は険しい表情ではねつけた。 「だけど、私には連絡しなくちゃならない人がいるの」 「ノ・テレフォーノ、電話ダメ」  男は同じセリフを繰り返し、ひろみをグループの中に押し戻した。  その目は闇《やみ》の中で異様に光っていた。 「わかったわよ。そのかわり、うそつき荘についたらすぐにTELさせてよ」  しかし、男は彼女の日本語を理解した様子もなく、またもや同じ言葉を繰り返す。 「時間ナイ。車、のります」  仕方なく、ひろみは男の指示に従うことにした。 「いよいよゲームのはじまり……かな」  伊吹が囁《ささや》いた。 「そうですね。なんだか無気味なオープニング、というかんじ……」  ひろみは、小さな声で返事をした。  七人は男に導かれ、善光寺口とは比較にならないほどうら寂しい東口の駐車場に出た。  黒い夜空からは、音もなく雪が舞い落ちてくる。  静かな降りだが、その量は多い。  傘を持たない一行は、たちまち白いスプレーを吹きつけられたようになった。 「こっちへ……乗ります」  正体不明の男は、無料駐車スペースに止めておいたワンボックスカーのサイドドアを開けた。  ひろみは乗り込む前に、すばやく車のナンバーを記憶しておいた。  ちょっとした宝探しゲームのつもりだったのが、なにやら犯罪の匂いさえしてきたからだ。  伊吹とひろみが口を利いたほかは、招待状を受けたメンバーの間に会話はなく、一行は黙々と車に乗り込みはじめた。  ひろみはその際、さりげなく同乗者の顔ぶれを観察した。  彼女の他に三人いる女性のうち、ふたりの姿がとりわけ目を引いた。  ひとりは高価な毛皮のコートを身にまとい、これみよがしにダイヤの指輪を輝かせている。イヤリングもブレスレットもネックレスも、やはりダイヤをあしらったものだった。  その真贋《しんがん》は、ひろみにはわからない。だが、女の素振りから、それらの装飾品が本物の一流品であることが想像できた。イミテーションをまとう女は、それなりの引け目がどこかに滲《にじ》み出てくるものである。  彼女は濃い色のサングラスをかけていたが、そのレンズ越しには派手なつけ睫毛《まつげ》が見てとれた。化粧もかなり厚めだ。  周囲が薄暗いので年齢は推測しにくいが、二十代後半から三十半ば、くらいの大まかな見当しかつかない。  髪をアップにしているため、やや年がいっているようにもみえるが、口元には若さが残っていた。  そして、もうひとりの目立つ女性は—— 「ウン、ウン、ウウーン」  八人乗りのワンボックスカーに乗り込むとき、突然奇妙な唸り声をあげた女がいた。  黒いマントに身を包み、金髪を腰まで垂らし、顔を真っ白に塗りたくった上に、歌舞伎役者かプロレスの悪役のような隈取《くまど》りのメイク。  さすがに、ひろみも彼女のことは知っていた。  テレビなどで売り出し中の心霊術師、蓮見《はすみ》サマーナ——降霊術を行うときに、そのゆたかな乳房をあらわにするということで、一躍人気の出てきた女性である。  心霊術師というよりは一種のバラエティ・タレントだろうと、ひろみは思っていたが、なるほどFカップといわれるバストは、マントを羽織った上からもしっかりと目立っていた。  その蓮見サマーナが最後に車に乗り込むとき、彼女は両手の指を忍者がするように組み合わせて、祈祷《きとう》らしきことをはじめた。  黒いマントの肩に白い雪が降り積もるのもかまわず、心霊術師は目を閉じ、何かに神経を集中させていた。  やがて、体が激しく震え出す。 「ウーン、ウン、ウン、ウンッ!」  痙攣《けいれん》が絶頂に達したところで、さっきと同じ奇声を発し、その後、急速に表情を和らげて、彼女はようやく車に乗り込んだ。  ひろみには理解しがたい行動である。  有名人であることを誇張する演技なら納得もいくが、本気で何かに祈っていたのだとしたら、気持ちが悪かった。  おかげでその場の雰囲気は、ますます奇妙なものになってきた。  ワンボックスカーの後列に、蓮見サマーナと身なりの派手な女、さらにもうひとり、地味ないでたちの女性が座り、中央の列には、ひろみを真ん中にはさんで年配の男性が並んだ。  そして助手席には、作家の伊吹圭。  それぞれが荷物を抱えているので、車内はかなり窮屈だったが、ヒーターの余熱が残っており寒さに震えることはなかった。  口髭の男はサイドドアを閉め、運転席に回りこんでエンジンをかけた。 「それで……出発前に、何か説明はしてくれないのかな」  伊吹が、つとめて陽気に運転手に声をかけた。 「うそつき荘がどんなところか、トリック卿がどんな人か、今晩からはじまるゲームの規則がどういうものか……主催者側としては何かコメントがあっていいんじゃないの」  が、男は黙って首をふると、前を見つめたまま車をスタートさせた。  間断なく降り続ける雪がライトの中に浮かび上がり、チェーンをつけたタイヤが雪面に食い込むきしみ音がした。 「しょうがないから、ぼくたちで勝手に自己紹介をしますかね」  伊吹は運転手の無愛想にあきれたという顔をしてから、後ろをふり向いた。 「あの手紙に書いてあることが本当なら、この七人で賞金総額六億円のゲームを争うわけだ。それならば、おたがいのことはある程度知っておいた方がいいと思うんですが」 「なんだか、あなたがトリック卿みたいな口ぶりですわね」  真っ先にそう反応したのは、ひろみの真後ろに座った例の派手な女性である。 「でも、たしかにおっしゃるとおり、おたがいの紹介は必要かもしれませんわ。あの手紙によれば、この車に乗っているメンバーは有名人ばかりだそうですしね。他にどんな人がおみえになるのか、とても楽しみにしていましたのよ……」  彼女の言い回しも発声法も、どうにも芝居じみていた。たとえていえば、舞台|稽古《げいこ》を聞いているような感じなのである。 「それならば、最初にぼくから始めることにいたしましょうか」  こちらもわざとらしさでは負けない伊吹が、よどみない口調で自分のプロフィールを述べはじめた。  ひろみは、だんだん自分たちが劇中の登場人物になった気がしてきた。     3 「……ほう、きみが伊吹圭なのかね。あなたの作品は娘がよく読んでいるよ」  伊吹の自己紹介の途中で、ひろみの右隣りに座った男がガラガラ声をあげた。  浪曲でもうならせた方がよさそうなその声は、ひろみも聞き覚えがあった。  そして、その顔も。  野党の国会議員、利光《としみつ》太郎である。  利光は、もともとはテレビの人生相談番組などに登場していた社会評論家で、庶民派代表のイメージを全面に打ち出して、少数野党から出馬して当選を果たしていた。  年齢はすでに六十に近かったが、舌鋒《ぜつぽう》鋭い与党攻撃が売り物で、とくに国会中継があるときなどは、彼の代表質問が目玉になったものだった。  が、どういうわけか最近ではすっかり鳴りをひそめていたうえに、適当なポストを餌《えさ》に、与党に引き抜かれるとの噂《うわさ》が広まっていた。 「お嬢様がぼくのファンでいらっしゃるんですか。それは光栄です」  伊吹はていねいな会釈をしてみせた。 「こんどからは、新作が出るたびに、ぜひ先生のお宅へ本を送らせていただきます」 「そうしてくれるかね」  利光はトレンチコートのポケットに両手を突っ込んだまま、娘の名前を伊吹に告げた。サイン入りでよこせということらしい。  自分自身についてはいまさら紹介の必要もあるまいといった態度で、彼は名前すら名乗らなかった。コートの下の背広につけた金バッジを見よ、というわけである。 「じゃあ、どうせだから男性陣の紹介をすませてしまいますか」  こんどは、ひろみの左隣りに座っていた白髪の紳士が、穏やかな口調で後を続けた。  彼はロシア風の帽子に、温かそうな黒い毛皮のコートを羽織っていた。その下は、利光と同様、三つ揃えのダークスーツである。 「私は鹿取昭造《かとりしようぞう》といいます。鹿取製薬の七代目を継がせてもらっております」  彼もまた、ある意味で有名人だった。  創業は江戸時代にまで溯《さかのぼ》るという鹿取製薬は、きわめて閉鎖的な同族経営を続けていたが、最近になってガンの特効薬の開発に成功したという噂が流れ、業界の内外に話題をまいた会社である。  老舗《しにせ》の社長ではあったが人当たりはきわめて柔らかく、いかにもジェントルマンという雰囲気を漂わせ好感が持てた。  ただ、かなりのヘビースモーカーらしく、身動きしただけでヤニの匂いがふりまかれるのには、ひろみもいささか辟易《へきえき》した。 「さてと、じゃあ次は女性のみなさんですね」  伊吹が言うと、まず例の派手な身なりの女が、待ってましたとばかりに口を開いた。 「もうみなさんもお気づきかと存じますけれど、私は女優の三条晴香《さんじようはるか》ですの」  ところが、一同の反応は本人にとって可哀想なほど冷淡だった。 「三条晴香さん……ですか」  男たちの中ではもっとも芸能界に詳しそうな伊吹圭でさえ首をひねった。 「そうです、晴香は晴れるに香ると書きます」 「お芝居の方ですか」  儀礼的に鹿取昭造がきく。 「いいえ」  晴香は、なぜ自分のことを知らないのかというように、不満の色をありありと浮かべた。 「社長さん、時代劇とかはご覧になりませんの」 「テレビのですか」 「ええ」 「よく見ますよ。私は大の時代劇ファンなんだ」  鹿取は後ろをふり向いて答えた。 「でも、三条さんねえ……。いや、なにしろ我々しろうとは、出演者の名前のこまかいところまでは目がいきませんのでね」 「では、こんどぜひ私の出演番組を見ていただきたいですわ。すでに四月からの新番組で決まっているものが何本かありますから……。それから利光先生」  晴香は鹿取に対して突《つ》っ慳貪《けんどん》に言い放ったあと、後ろの座席から国会議員の耳元に口を近づけ、うって変わって甘え声で訴えた。 「先生もご公務でお忙しいでしょうけど、これを何かの縁に、私、三条晴香の後援会にお入りくださらないかしら。もちろん、名誉会長としてですわ」 「三条だか四条だか知らんがね」  利光は、しなだれかかってきそうな女にはふり向きもせず、ダミ声で言い放った。 「私はプロとして一流の人間しか応援しないんだ。きみも私に後援会長をやってほしいのなら、一流になりなさい、一流に。国民の誰もが知っているような有名人にだよ。そうでなきゃ、私がわざわざ名前を貸す意味がどこにあるね、え」  晴香はムッとして黙り込んだ。  それと入れ替わりに、彼女の隣りに座っていた地味な女性が、背筋を正して発言した。 「わたくし、池田正子と申します」  いきなり朝礼でも始まったのかと思わせる、大きくて歯切れのいい声だった。 「市民団体『戦争を憎み、平和を愛する会』の、事務局長をやらせていただいておりますので、みなさまとはテレビのブラウン管や雑誌の誌面などを通じ、何度かお目にかかっていることと思います」  優等生の朗読のように、一語一語ぎこちない正確さでしゃべるので、思わずひろみは声の主をふり返った。  昭和二十年代の日本からタイムスリップしてきたような女性だった。  頬骨が出ているせいもあるだろうが、かなり年齢のいった顔である。それなのに、長めの髪をセンターから左右に分け、背中の真ん中あたりまで垂らしていた。若い女性ならワンレングスと表現してもよいのだが、彼女の場合は妙にそれが旧式に映った。  グレーのセーターから白い襟《えり》を出し、紺色のウールのスラックスという取り合わせも、およそ流行とは無縁のものだった。 「トリック卿の招待状に書いてありました、ただひとり嘘つきでない人間とは、おそらくわたくしのことと思いますが、まさにわたくしのモットーは、清潔・信頼・平和、この三点にあるのでございます」  ひろみは、あっけにとられて池田正子の口元を見つめていた。 『あ』段の音を発音するときは、喉《のど》の奥が覗《のぞ》くくらいに大きく口を開け、『い』段では笑ったのかと勘違いさせるほどに唇を左右に引っ張る。  さらに『お』段になると、もはやその口の格好は、真面目さを通り越して滑稽《こつけい》ですらあった。  ひろみは、成人の日に行われる若者たちの弁論大会を思い出した。生真面目すぎて、かえって生きた人間を感じられない、そんな光景と共通するものがあった。  池田正子は、明らかに国会議員の利光を意識していたが、利光の方はこれまた無視の姿勢を貫いていた。  なおも彼女が続けようとしたとき、利光が突然、ひろみに話しかけた。 「きみはいくつかね」 「はい? 私ですか」  ひろみは国会議員に向き直った。  利光は人と目を合わせないことが威厳につながると思っているらしく、相変わらず前を向き、コートのポケットに手を突っ込んだまま答えた。 「そうだよ、きみのことだ」 「二十四です」 「そうか、二十四か。若いな……で、名前は」 「烏丸ひろみです」 「生まれはどこかね」 「東京です」 「住まいは」 「住まいも東京ですけど……あの……」 「ひとり暮らしかね」 「ちょっと、何なんですか、それ」  ひろみはムッとして言い返した。 「私、クラブのホステスじゃないんですから、隣りに座っただけでプライベートなことを根掘り葉掘り聞かれるのは困ります。このままだと、次はスリーサイズを聞いてくるんでしょ」 「いまから聞こうと思っていた」  顔色も変えずに利光は言った。 「洋服をプレゼントするときに必要だからな」 「…………」  ふたりのやりとりを助手席でニヤニヤしながら聞いていた伊吹が、会話に加わった。 「先生、そのデータはぼくにも分けてください。小説に書くときに必要なもので」 「もう……」  ひろみが怒って何か言おうとしたとき、後ろの席から池田正子が大きな声で割り込んだ。 「失礼ですけど、利光先生」  その声の迫力に、思わず彼も後ろをふり返った。 「先生は野党精神に満ちた、正義の政治家だったんじゃございませんか。清潔な政治を標榜《ひようぼう》なさっていたんじゃありませんか。それが何です、若い女に色目を使って」  正子は、自分を無視された腹立たしさも手伝ってか、金切り声でまくしたてた。 「先生は政府与党の諸悪を追及することに議員生命を懸《か》けた、真面目一筋の政治家だったはずです。あの利光太郎は、『怒りの利光』はどこにいったのです」 「あんなのは単なるパフォーマンスだ」 「なんですって」  正子は目をむいた。 「あんた、市民団体の幹部としては勉強不足なんじゃないかね。いや、たいていの市民団体は勉強不足だが」  利光は皮肉っぽく笑って、また前に向き直った。 「与党と野党という構図を、戦後まもないころのままの姿でとらえているのが、まだまだおおかたの庶民の見方だし、そういった選挙民のイメージを壊さないよう、私も努力はしてきた。他の野党議員以上にだ」  ひろみは、じっと利光の横顔を見た。 「しかし、人の批判ばかりしているうちは評論家にすぎない。私は評論家を辞めて政治家になったはずなのに、議員バッジをつけてもなお評論家にすぎなかった。私のやっていることは政治活動ではなく、政治評論なのだ。それに気がついた」 「いいえ先生、それは違います。腐敗した政府のお目付け役は……」 「黙りたまえ」  利光は正子の口をピシャリと封じた。 「野球にたとえれば、グラウンドでゲームをやっているのは与党だけなんだ。いまの野党では、その対戦相手にすらなっていない。与党の派閥どうしで展開される紅白試合を、解説席でああでもないこうでもないと論じている評論家にすぎない。そして、長い間そうした役回りだけを演じてきたから、もはやユニフォームを着せられグラウンドに出されても、空振りしかできない。そのくせ打撃理論だけは一人前だ」 「もしもそれが現実だとおっしゃるなら、先生方の努力不足です」 「違う、あんたらがいけないんだ」  利光はきっぱりと正子に言った。 「政治家も不勉強だが、それでもごまかしごまかし何とかやっていけるのは、あんたら庶民がもっとバカだからだ。特に、あんたのように、中途半端に政治に首を突っ込む庶民の代表がな」  正子は怒りで胸を上下させた。 「庶民がバカですって……とんでもありません、先生。私たちの正義感のおかげで、政治はどうにか間違った方向へ行かずにすんでいるんじゃありませんか」 「いいや」  利光は頑として首をふった。 「与党・野党というものに対する大衆のイメージは、十年一日のごとく変わっていない。それに迎合しつづけたから、われわれ野党は自分のすべき仕事がわからなくなってしまった。硬直化した大衆の正義論に耳を傾けているかぎり、政治家の進歩は止まるんだ。遅まきながらそれに気がついたから、私は国会の風雲児というイメージを自分から捨てた。むかしの国会中継のビデオを見ようとしたが、恥ずかしくて最後まで見られたものじゃなかった。何が国会の風雲児だ、ただの点数稼ぎのピエロだよ」  利光は吐き捨てるように言った。 「これからの私は、もっと自分に正直に生きる。噂どおり、私は与党に転向する。大衆とマスコミが目を覚まさないかぎり、日本で政治をやろうとしたら、与党にくみする以外にないのだ」 「へえ……利光先生の口からそういう言葉が出るとはね」  伊吹が素直に驚いていた。 「トリック卿が招待状に書いていた、ただひとり嘘つきとは縁のない人間とは、もしかすると先生のことなんですかね」 「そんなことはないだろう。私はたいへんな嘘つきだ」  利光は平然と言ってのけた。  池田正子は憤然として彼をにらみつけていたが、ひろみは、利光のストレートな発言に新鮮な衝撃を受けていた。     4  一行を乗せた車はやがて長野市の中心部をはずれ、戸隠《とがくし》方面に向かって急坂をのぼりはじめた。  車の通行量が急に少なくなったのと反比例して、周囲の積雪は目立って増えてきた。  除雪車は定期的に出動しているのだろうが、降りしきる雪がすぐさま路面を覆い、ヘッドライトに浮かび上がる光景は白一色である。  彼らの車もチェーンをつけて走っていたが、敷きつめられた雪の上では、布団を叩くようなこもった音を立てるばかりである。  車内では利光を中心とするやりとりがどうにか一段落し、あとは蓮見サマーナの自己紹介を聞くだけになった。  自然と一同の目が彼女に集まった。  その視線を受けて、後部座席に座っていた女性心霊術師は両手を組み合わせ、ふたたび獣の唸りに似たうめき声を出しはじめた。 「私の名は……蓮見サマーナ」  彼女はマントの前をはだけた。  バストを強調するような、ぴったりしたニットの黒いセーターがあらわれた。  このセーターには前開きのジッパーが付いていて、お告げを口にするとき、それを下げて見事な乳房を露《あらわ》にするのが、彼女の売りだった。 「ちょっと……この場で、テレビで見せるような下品な真似はしないでくださいよ」  さすがに池田正子もこの心霊術師のことは知っているらしく、いかにも不潔そうに彼女から身を離しながら注意した。  心霊術師は繰り返した。 「私の名は……蓮見サマーナ」  声だけ聞けばほとんど老婆であるが、もちろん明らかな作り声で、実際の彼女は二十代後半から三十代半ばあたりではないかと、週刊誌などで取り沙汰されていた。  金色に染めた長い髪が顔の両側を隠しており、そこからのぞく白塗り隈取りの化粧のせいか、目が黄色っぽく血走ってみえた。 「これから悪いことが起きる」  サマーナは、うめきながら予言した。 「世にもむごたらしい事件が起きる」 「何いってるのよ」  こんどは三条晴香が馬鹿にしたように言った。 「テレビの本番じゃないんだから、少しはまともなしゃべり方をしたらどうなんですの」  すると、サマーナはキッとした表情で相手をにらみ返し、指を突きつけ、それを震わせながら、しわがれ声を絞り出した。 「霊の光を見ようとしない者に、災いあれ。霊の光を見ようとしない者に、災いあれ」 「やめてちょうだい、気持ちわるいから」  晴香は、鼻先に突きつけられた心霊術師の人差指を押し戻した。  が、心霊術師はかまわずに続けた。 「ブラフマランドラの大予言!」  いきなり彼女はマントを脱ぎ捨て、セーターのジッパーを下ろした。  黒いセーターの間から、白いバストがこぼれ出た。 「うそつき荘では……誰かがきっと殺される」  それだけ言うと、すばやくジッパーを上げた。  彼女の乳房が実際に人目に触れたのは、わずか二、三秒にすぎなかった。  が、ずっと後ろをふり向いていた伊吹は、ポカンとした顔でそれを見て、次に、うれしそうに口笛を吹いた。 「これはいいものを見せてもらったな。まさか蓮見サマーナのFカップを生で拝めるとはね」  しかし、心霊術師は彼の言葉など聞こえない様子で、しわがれ声の警告をくりかえした。 「せっかくこの車を除霊したのに、悪霊が闇を飛んで追ってきた」  ひろみは寒気がしてきた。 「そして我らを追い越して、うそつき荘に先回り」  ひろみの左隣りで、鹿取昭造がいかにも馬鹿馬鹿しいというふうに吐息をもらしたが、サマーナは止めなかった。 「うそつき荘に入ったら、決して無事には帰れない……きっと誰かが、殺される」  殺すという言葉を耳にすると、ひろみの職業本能がつい敏感に反応した。  が、伊吹は声をあげて笑った。 「やれやれ、もうトリック卿の正体を自分からバラしちゃったわけですか、蓮見さん。もう少し面白いことを期待していたのに、どうもおそまつなゲームになりそうだな、これは」  鹿取も苦笑してうなずいた。  利光は腕組みをしたまま、まるで無関心を装っている。  そのとき、黙りこくって運転を続けていた運転手が、カーステレオにカセットテープを差し込んだ。 「ミステリー・ハウスへようこそ!」  突然、大音量で男の声が響いた。  笑っていた伊吹たちが、びっくりして身をこわばらせた。 「ご主人の、命令で、テープいれました」  運転手が、妙なアクセントの日本語で説明した。 「私はトリック卿である」  テープの声が続けた。 「本日は、我が別荘でのゲームに参加を決意くださり、うそつき荘の主人として、みなさんに心より感謝を申し上げる」  明らかにテープの声は、肉声を機械的に変調させたものだった。  ハーモナイザーと呼ばれる装置を使えば、人間のしゃべりを、速度を変えずにピッチだけ変えることができる。  そうすれば、だいぶ自然さを欠くことは否めないが、男性の声を早回しにせずに女性らしい声に変えたり、その逆も可能になる。  もちろん、男の声を別の感じの男の声に変えることもできるから、いったいオリジナルの声が誰なのか、見当はつかなかった。 「この車はおよそ一時間半ののちに、うそつき荘に到着する。すでに建物は居心地のよい温度に温められ、おいしい夜食も準備されて、みなさんの到着を待つばかりになっている」  三条晴香や池田正子は、まるで声の主がそこにいるかのように、じっと車の天井を見つめていた。 「だが、うそつき荘には執事や小間使いのような者はいないし、運転手もみなさんを送り届けたあとは引き上げる。したがって、到着後はすべて、セルフサービスになることをご容赦願いたい」  鹿取昭造は、胸ポケットからタバコを取り出して火をつけた。 「まず、玄関から入ってすぐの、吹き抜けになっている一階の広間に集まっていただきたい。私はここを『ラッセルの間』と呼んでいる」  トリック卿のメッセージは続く。 「ラッセルといっても、雪が深いからそう名付けたのではない。これは、ラッセル・パラドックスという集合論における矛盾を指摘した人物の名前にちなんでいる。彼は、『すべてのクレタ人は嘘つきである、とクレタ人が言った』という文章のパラドックスを指摘した。おわかりかな?」  利光太郎は腕組みをして目を閉じ、テープの声に聞き入っていた。 「わかりにくければ、別の例を挙げてみよう。いま、『この車に乗っている人間は、決して本当のことを言わない』と、みなさんの誰かが言ったとしよう。すると、たちまちその言葉は自己矛盾をはらむことになる。つまり、実際に全員が嘘しか言わない人間だったとしたら、まさにその事柄に関しては、発言者は真実を述べたことになる。すなわち『本当のことを言わない』という命題に反してしまう。いかにも、今回のゲームに参加されるみなさんにふさわしい、奇妙なパラドックスではないか」  トリック卿はわざとらしい笑い声をあげた。 「それにちなんだのが、暖炉前の広間の名前である。さて、うそつき荘には一階と二階に客室があり、それぞれのドアにみなさんの名前が貼ってある。一人につき一部屋を割り当ててあるので、しばらくはご自由におくつろぎいただきたい。バスルームは男女に分れて一つずつあるし、テレビは各部屋に一台備えてある」 「もったいぶらずに、着いたらすぐにクイズってやつを出題すればいいんだよ」  伊吹がつぶやいた。 「ゲームは午前零時にはじまる」  伊吹の質問が聞こえたかのように、トリック卿のテープが言った。 「みなさんは、その十五分前にラッセルの間に集合していただく。そこで、あらためてゲームの規則についてご説明を申し上げたうえで、第一問の出題に移りたい。……よろしいかな。それでは、真夜中までのしばらくのあいだ、ごきげんよう」  信号音が入り、テープは停止した。 「いまの声は誰なんだ」  蓮見サマーナをトリック卿だと決めつけていた伊吹が、自説を撤回して、あらためて同行するメンバーを見回した。 「あれは機械を通した声ですよね」  ひろみが言った。 「最近ではちょっとした装置で、女の声を男っぽく変えたりできるそうだからね」  伊吹が答えた。 「どうです、その運転手に詳しいことをたずねてみては」  鹿取が提案したが、伊吹が首をふった。 「彼は日本語がダメでしょう」  運転手は、まったくのポーカーフェイスでハンドルを握っている。 「どうでもいいが……」  利光が、あくびをかみ殺した。 「私は早寝早起きを習慣にしているから、とてもじゃないが、真夜中からのゲームなどにはつきあえそうにないな」 「でも、一億円のことを考えたら眠い目も覚めますわよ、先生」  晴香がねっとりした声で言った。 「みなさんだって、お金が目当てだからこそ、わざわざスケジュールをやりくりして参加なさったんでしょう」  たしかに彼女のいうとおりだ、とひろみは思った。  招待状によれば、一問につき賞金一億円のクイズが三十六時間のうちに三題出されるという。  午前零時スタートなら、終了は明後日の正午になる計算だ。  流行作家、国会議員、一流企業の社長、女優、タレント心霊術師——。  市民団体の事務局長である池田正子はともかく、他の五人はそれぞれ超多忙な毎日を送っているに違いない。行き帰りも含めて足かけ三日のスケジュールを空けるなど、決して容易ではないはずだ。  それでも都合をやりくりして謎の招待状に応じたということは、よほど賞金に目がくらんだか、それとも他に理由でもあるのか。  それぞれの参加の動機について、これからしっかり探ってみる必要がありそうだ、とひろみは考えていた。  やがて、車の中の会話が途切れがちになった。  一行はそれぞれの想いを胸に秘めながら、ヘッドライトが照らし出すモノクロームの風景を、押し黙って見つめていた。  沈黙のときが流れ、時刻は午後十時になろうとしていた。  長野駅を出発してから、いつのまにか二時間以上経った計算になる。  水滴で曇ったガラス窓を手で拭《ぬぐ》い、ひろみは夜の闇を透かして見た。  車は雪の深い、狭い山道をくねくねと走っていたが、これは鬼無里《きなさ》へ通じる道なのだろうか。  ついさっきまでは、戸隠に通じる有料道路を上っていたはずだったが、ひろみはこの辺りの土地鑑《とちかん》がなかったので、そのうちに現在位置がまったくわからなくなってしまった。  かなり高い標高まで上ってきたらしく、市街地では穏やかだった雪の降りも、ここにきて突然荒々しくなってきた。  山間部に入って風が急に強まったためだ。  吹雪のように横殴りの雪が、フロントガラスにぶつかってくる。  その様子をじっと見ていると、ナイトスキーで滑降しているような錯覚に陥った。  ライトに浮かび上がる前方の路面は、まるで雪の海だ。轍《わだち》一本ついてない新雪である。  警視庁捜査一課の刑事であることも忘れて、ひろみは次第に心細くなってきた。  財津警部のこわもての顔や、フレッドの笑顔が思い浮かんでくる。 (きっと、警部は心配しているだろうな……。うそつき荘に着いたら、とにかくすぐに電話をいれよう)  そんなことを考えていると、車はさらに細い道へ折れ、雪に覆われた針葉樹林の中へ入っていった。 「おお、あれか」  助手席の伊吹圭が声をあげた。  うたた寝をしていた利光太郎が、目をさまして思わず身を乗り出した。 「なんだか、ヒッチコックの『サイコ』に出てくるみたいじゃありませんの」  三条晴香が、サングラスを少し持ち上げて感想を述べ、池田正子がごくりと唾《つば》を呑《の》みこんだ。 「想像していた以上に……不気味ですな」  鹿取昭造が言うと同時に、蓮見サマーナが唸り声を発しはじめた。  その声を聞きながら、ひろみは眼前の光景に目をこらした。  吹雪に揺れる樹林の間から、オレンジ色の窓明かりを灯した二階建ての洋館が見えてきた。  うそつき荘が姿を現したのだ。     5 「運転手はどうした」  自分の部屋に荷物を下ろしてから広間へ戻ってきた利光は、そこにいた伊吹にたずねた。 「帰っちゃいましたよ」  伊吹は両手を広げて答えた。 「帰った?」 「そうです。ぼくらが荷物を運び込んでいる隙《すき》に、さっさとね」 「つまり、我々はここに置き去りにされたということか」 「らしいですね」  伊吹が頭の後ろを叩《たた》いた。 「ほんとうに小説みたいなことになってしまいました。雪の山荘に閉じ込められるという、ね」 「とにかく電話よ」  ひろみが言った。 「電話を見つければ、何が起きても外部との連絡が取れますから」 「どうだかね」  伊吹は悲観的な顔をした。 「こういう場合、電話線が切断されていて、外部との連絡はいっさい遮断されるというのが、物語の定石なんだ」 「これは物語じゃないんですよ。とにかく電話を探さなくちゃ」  そう言って、ひろみはすぐに館内の探索をはじめた。  吹雪がひどくなってきたために、外からの全貌《ぜんぼう》はじゅうぶんに観察できなかったが、うそつき荘は玄関からみてやや奥行きの長い、木造二階建ての洋館であった。  そして、その洋館の向かって右奥、およそ五十メートルほど離れたところに、小さなコッテージがポツンと建っていた。  この離れには電気が灯っていない。  本館の建物はかなり年月を経たものらしく、板張りの床は黒ずみ、壁の漆喰《しつくい》にはいたるところに亀裂が走っていた。  一階の床面積はおよそ八十坪で、大まかにいって四つのパートに分れる。  第一の部分は南に面した一角で、玄関からつながる吹き抜けのラウンジになっていた。  トリック卿が『ラッセルの間』と名付けたところである。  石造りの暖炉では、彼らが着いたときから、薪《まき》がパチパチと音をたてて燃えていた。  炎を吹き上げるその燃え具合からみて、一行が到着する少し前に、運転手とは別の誰かが火を熾しておいたものらしい。  一方の壁には、ベランダへ出られるガラス戸があった。ただし、いまは雨戸が閉まっている。  もう一方の壁には窓があったが、外側からびっしりと雪がこびりつき、ガラスの中央部に残された黒い円から闇が覗《のぞ》いていた。  だが、その小さな『覗き窓』も、吹雪のためにどんどん面積が狭くなっていく。  第二のパートは、西側に面したキッチン。  ラッセルの間と、洗面所の間に位置しているが、どちらの方向からも中をストレートには覗けないよう、出入り口の場所を工夫して、巧みに目隠しをしてあった。 「ここは大きさからして、キッチンではなく厨房《ちゆうぼう》と呼んだ方がふさわしいかもしれないな」  ひろみについてきた伊吹が言った。 「大きなパーティにも、ちゃんと対応できるようにしてあるみたいですね」  ひろみは、古いけれどもしっかりした設備を見回した。  流し台や冷蔵庫、冷凍庫など、すべてが業務用のものである。 「食料のストックはじゅうぶんだ」  伊吹が、まず冷蔵庫のドアを開けた。 「牛乳や卵の日付は新しいし、新鮮な野菜もたっぷりある。……ところで、ひろみちゃんの得意料理は何なの」 「私に作らせる気ですか」  ひろみは顔を斜めにして聞き返した。 「そうだよ。きみの能力に関しては、さまざまな角度から観察させてもらいたくてね。なにしろ、小説のモデルにするんだから」 「得意料理はインスタント食品にお湯をかけることよ。それでいい?」 「その謙遜《けんそん》を聞いて、ますますきみの手料理が食べたくなったな」 「おあいにくさま。お料理を作るヒマがあったら、バイクのメインテナンスをしている方がずっとマシです」 「きみ、バイクに乗るの」  伊吹は意外そうに聞き返した。 「そうよ」 「五〇CC?」 「冗談でしょ。生命保険のオバサンじゃないんですからね」 「じゃ、一二五?」 「ううん、愛車は|四五〇CC《ヨンハン》だけど、|七五〇CC《ナナハン》にもときどき乗るわよ」 「きみが? そんな可愛い顔をして」  伊吹は、ひろみをまじまじと見た。 「顔は関係ないでしょ」 「飛ばす方?」 「うん、けっこうスピード狂かな」 「じゃ、つかまったりするんだ」 「たびたびね」 「へえー」 「でも、ほとんど見逃してもらえるけど」 「やっぱり美人はトクだな」 「そうじゃなくて、捕まえる方が、たいてい顔見知りなのよ」 「顔見知り? じゃ、きみは警察に顔が広いわけ」 「まあね」  ひろみは笑いながら、ステンレスでできた冷凍庫の扉を開けた。  こちらは冷蔵庫よりも、さらに一回り大きく、大人の背丈よりだいぶ高い。  山奥という場所だけに、食料をたっぷりストックしておく必要があるからだろう。  その中には、調理済みの肉料理や魚料理が多数保管されており、温めればいいだけになっていた。  クラシックなうそつき荘だが、電子オーブンレンジが厨房の片隅に備わっていた。  調理台の燃料はプロパンガスだったが、そのボンベは外ではなく、厨房の奥をまわり込んだところの小部屋に固定されてあった。  あまりに外気温が低いと液体燃料が気化しにくくなるので、そのための措置と見受けられた。  そして、その小部屋の脇に、いわゆる勝手口と呼べるような外へのドアが取り付けられており、片隅に薪割り用の斧《おの》と薪の束が整然と並べられていた。 「とりあえず、飢え死にする心配はないというわけだ」  伊吹は安心したように言った。 「でも、ここにも電話がないわ」  ひろみの方は不満そうにつぶやき、次のコーナーに移った。     6  第三のパートは、北側に面した水回り関係の一角だった。すなわち、洗面所、バスルーム、それにトイレである。  だが、バスルームというよりは『風呂場』、トイレというよりは『便所』と呼びたくなるような、狭くて暗い和風の造りになっていた。  洗面所には、めったにお目にかかれない旧式の洗濯機が置いてあった。洗ったものをローラーにはさんで絞り出すタイプのものである。  ひろみは、この水回り周辺の湿っぽいカビ臭さが気になった。  そして、第四のパートが東側の客室部分である。  これは洗面所の先の廊下を挟んで二部屋ずつ、計四部屋が配置され、そのうちの三つに男性が割り振られていた。  女性の部屋は二階である。 「お邪魔していいですか」  ちょうど鹿取の部屋のドアが開けっ放しになっていたので、ひろみと伊吹が声をかけた。  製薬会社の社長は、スーツからセーターとスラックスに着替えをすませたところだった。 「まったく殺風景な部屋ですな。きみたちのもそうですか」 「ほとんど同じですね」  伊吹が、部屋をぐるりと見回してから鹿取の質問に答えた。  客室の広さはおよそ八畳で、簡素な木製のセミダブルベッドが一つ、枕元にはスタンドとテレビ。そして、飴色《あめいろ》をした洋服ダンスが部屋の隅にあった。  その他には、暖房のために円筒形の石油ストーブがあるだけだ。 「長旅でいいかげん疲れたから、このまま眠りたい気分ですよ」  そう言う鹿取の顔がやや赤らんでいることに、ひろみは気がついた。おまけに、部屋にはアルコールの匂いが充満している。  よく見ると、鹿取のスラックスの尻ポケットからは、フラスコと呼ばれる真鍮《しんちゆう》の携帯用ウイスキー入れがはみ出していた。  フラスコを持ち歩くようだと、アルコール依存度もかなり高そうだ。ジェントルマンという印象の強い鹿取が、この先、妙な変身をしなければいいが、とひろみは心配になった。 「とにかく、こんな馬鹿げた招待状を本気にした我々も我々だが……」  鹿取はしゃっくりをして続けた。 「本気になっているトリック卿もトリック卿ですな。いったいどんなゲームを仕掛けてくるんだか。ま、一億円を懸けるくらいだから、一筋縄ではいかない問題なんでしょうがね」  ひろみは、もしも鹿取がトリック卿だったら、というふうにも考えてみた。  資金力という点からみれば、野党議員の利光などよりも、鹿取の方がトリック卿である可能性がずっと高そうだった。  なにしろ一流製薬会社のオーナー社長である。その気になれば、総額六億円の出費など、絵画を購入するくらいの気持ちでたやすく出せるのかもしれない。  しかし、その目的がわからなかった。  うそつき荘にくるまでの道々、誰がトリック卿であってもおかしくない気がしてきたから困ったものだったが、その正体が誰であるにせよ、もしも本気で億単位の金を使うのなら、何か明確な目的があるはずだ。  単にうそつき荘に嘘つきを集めて楽しむというのは、現実ばなれしすぎていたし、みながその話に単純にのってきたというのも解《げ》せなかった。 (もしかしたら……)  ひろみは考えた。 (他の人間に出された招待状は私のものとは違う文面で、事実上の脅迫状だったかもしれない)  心霊術師、蓮見サマーナの『誰かがきっと殺される』という言葉が、案外的を射ているような気もしてきた。  殺人のためなら、二億でも三億でも金を使う人間がいてもおかしくない。  特に、その怨みが強ければ強いほど……。 「何、ボーッとしてるんだよ」  伊吹に声をかけられて、ひろみは我に返った。 「あ、なんでもないです」 「何か考え事をしていたみたいだよ」 「そうですか」  ひろみは笑ってとぼけた。  笑ってごまかすのは得意なのである。  こういうときのひろみの笑顔は、じつに無邪気で愛らしかったから、だいたいの男は参ってしまう。過去数回にわたって彼女のスピード違反を摘発した同僚の白バイ隊員も、このスマイルで何度違反切符を撤回したかわからなかった。 「まあ、いいや。じゃ、つぎに、二階へ行くか」  伊吹は馴れなれしくひろみの肩をたたくと、鹿取の部屋を出て、階段の方へ向かった。  階段から吹き抜けのラッセルの間を見下ろすのは、なかなかいい眺めだった。  大理石のテーブルの上に置かれた大皿に、オードブルがいかに芸術的に盛りつけられているかは、上から見下ろしてはじめてわかった。  そのテーブルを囲むようにして、アンティークな柱時計や暖炉がバランスよく配置されており、吹き抜けの天井からはシンプルな形のシャンデリアが下がっている。  その吹き抜けの分だけ二階のスペースは狭くなっていたが、それでも階上には客室が四つとトイレがひとつ、それに洗面所も作られていた。  四つの客室には女性四人が割りふられており、部屋の様子はほとんど下と変わらないが、ただひとつ、小さな化粧台が各部屋に備えてあることが男性用の部屋と異なる点だった。  また二階西側の角には、トリック卿のためのものか、広い主寝室があった。  ドアの鍵が開いていたので、ふたりはその中へ入ってみたが、キングサイズのダブルベッドが置いてあるきりで、備え付けのロッカーは空だった。  そして、ひろみの期待していた電話機もなかった。 「もう十一時半か……。なんだかんだやってるうちに、一時間以上経ってしまったんだな」  二階からラウンジへの階段を降りながら、伊吹が言った。 「結局、どこにも電話がなかったなんて……やな感じですよね」  と、ひろみは、すっかり不吉な予感にとりつかれた様子だったが、伊吹は当然といった顔をしていた。 「ここは人里離れた山の中らしいから、電話がなくたって驚くにはあたらないさ」 「だけど……」  ラッセルの間に下りて大理石のテーブルにつくと、ひろみは困ったようにつぶやいた。 「警部に連絡をしなくちゃならないのに」 「ケイブ?」  伊吹が聞きとがめたので、あわててひろみは首をふった。 「ううん、なんでもない」  だが彼女の脳裏には、財津警部の顔が浮かんで消えなかった。  連絡をすると言っておきながら、その約束をすっぽかすようなひろみではなかったから、きっと警部は心配しているだろう。  そのことが、ひろみは気になって仕方なかった。     7 「少し落ち着いたムードを出そうか」  伊吹はシャンデリアやその他の照明を消し、テーブルの上の太いロウソクに火を灯した。 「この方が雪の山荘っぽくていいだろう」  二階や厨房の方からもれてくる明かりの他は、暖炉とロウソクの炎だけとなった。  暖炉から発生する空気の対流がロウソクの炎を揺らめかせ、そこにいる者の表情に奇妙な影を落とした。 「トリック卿のお出ましまで、あと五分とちょっとか」  伊吹が柱時計を見て言った。  十一時三十八分だった。 「あの……この別荘に地下室はないんでしょうか」  暗がりの中から突然女の声がしたので、ふたりは驚いてふり返った。  いつのまにか、池田正子が立っていた。 「私の部屋の石油ストーブの燃料が少ないんですよ。でもどこを探しても、ポリタンクらしいものがなくて」  一語一語オーバーに発音する癖《くせ》は相変わらずだった。 「厨房の方にありませんでしたか」  ひろみがきいた。 「いいえ」  正子は首をふった。 「あちこち探したけれど、見つかりません」  答えながら、正子は暖炉の前に進むと、炎に向かって手の甲をこすり合わせた。 「あとは地下室しか考えられないんです」 「だけど、下へ降りる階段が見当たらないから、たぶん地下室はないんじゃないですか」 「いいえ、きっとありますよ」  正子は伊吹に反論した。  いかにも我の強そうな表情が浮かび出た。 「車から降りるときに見たかぎりでは、積雪は二メートル以上ありました。だから、建物は基礎土台をそのぶん上げて作ってあるはずです。現に、玄関に入るとき、階段を何段も上がったでしょう」 「そういえばそうでしたね」 「ということは、その空間を無駄にしているはずがないんです。つまり、この建物に地下室があるという証拠です」  理詰めの言い方に、伊吹もいささかうんざりした顔をした。 「雪が深い地域だからといって、基礎の部分を地下室として活用しているとはかぎりませんよ。布《ぬの》基礎という方式で、コンクリートの囲いがあるだけかもしれないし」 「どっちにしても、これだけ冷え込むのに、夜中に石油が切れたら困ってしまうんです」 「だったら、そこらへんの石油ストーブを持って上がられたらどうです。一階のあちこちに置いてあるでしょ」  暖炉だけでは暖房として不十分なので、伊吹がいうように、随所に石油ストーブが配置され、青い炎を上げていた。  加えて床暖房でもあればベストなのだが、そこまではなかった。だから、厚い靴下をはいていてもスリッパがなければ足先が凍えるようだった。  続いて三条晴香が、着替えを済ませて階段を下りてきた。  真っ赤なタートルネックのセーターに、真っ赤なニットのスカート。それと鮮やかな対照をなす純白の太いベルト。それに黄色いレンズのファッショングラスといったいでたちである。 「信じられない格好……」  その姿を一瞥《いちべつ》して、正子が聞こえよがしにつぶやいた。 「芸能人は、どんなときでもサングラスをかけなくちゃならないと思っているのかしら。部屋の中にいるときくらい、はずしておいたらどうなの」 「あら、これはファッションよ」  晴香が言い返した。 「ま、オシャレに縁のないあなたには、とてもわかってもらえないでしょうけどね」  晴香はテーブルのいちばん端につき、正子の怒りの視線を無視して、料理の皿にかぶせられていたクッキング・ラップを取りはずした。 「まあ、きれいなオードブルじゃない。素晴らしいわ」  晴香は手を合わせて喜んだ。 「お腹が空いたから、お先に失礼しますわね」  彼女は、砕いた氷の上に載せられた芸術品にフォークを突き刺した。  パセリやエストラゴンのみじん切りをあしらった生ガキの冷製である。 「おいしいわ。どう、あなたも」  ひろみもすすめられたが、いくらクラッシュト・アイスの上に載っているからといって、いつ冷蔵庫から出したのかわからない生ガキを、口にする気にはなれなかった。 「おい、年代もののワインがストックしてあったぞ。ただし、どれも赤だが」  国会議員の利光が、ワインのボトルをひとつ提げて厨房から出てきた。 「それは結構ですね。このさい、白だ赤だとゼイタクはいえませんよ」  伊吹がそのボトルとオープナーを受け取り、慣れた手つきでコルクを開けた。 「私は、勝手に持ち込みのウイスキーでやらせてもらいますよ」  その言葉は鹿取である。  フラスコを片手に心もとない足取りでやってくると、彼は中央の席にどっかりと腰を下ろした。さっきよりもさらに酔っ払ってきたようだ。 「なんだ、上等なデカンタがあるじゃないか」  利光は、テーブルの真ん中に置いてあるガラスの容器を見つけた。注ぎ口が花びらのように開いている美しいデザインのものだった。 「きみ、一度そのデカンタにワインを入れたらどうかね。赤だから、見た目にもきれいだぞ」 「そうしますか」  伊吹はガラスの容器に、なみなみと赤い液体を注いだ。  座っているひろみの位置からは、葡萄色《ぶどういろ》の向こうに暖炉とロウソクの炎が重なって揺らめいているのが見えた。 「全員そろったのか」 「いや、彼女がまだですよ」  伊吹が利光に答えた。 「あのオッパイ心霊術師かね」  国会議員は顔をしかめた。 「あの手の女は好かんな」 「政治家の先生が手を出すには、ちょっと危なそうですな」  鹿取が言った。 「肉体と引きかえに、政治家に接近をはかる女性占い師も多いとききますからね」 「ゲンをかつぐ連中が多いんだよ、永田町にはな。だから政治家にうまく取り入れば、おいしい商売になる。が、私はたくさんだ」  利光が鹿取に言った。 「でも、先生。あの豊満なバストは魅力でしたよ」  と、伊吹。 「いや、私は大きいだけのオッパイにはうんざりする」  利光議員は、あまり蓮見サマーナの話題に触れたがっていない。ひろみにはそう思えた。  と、照明を落として薄暗くなった階段から、その当人が下りてくるのに気がついた。  黒いセーターの上に黒のマントを羽織り、白塗りのメイクという格好はそのままである。  蓮見サマーナは一同の注目を集めながら大理石のテーブルの中央に進み、ロウソクの炎に手をかざした。  そして目を閉じる。  その動作には、なぜか周囲の者を沈黙させる気迫があった。  静かになると、外を吹き荒れる吹雪のざわめきがいやでも耳についた。  ひろみは天候の行方も心配で仕方なかった。  みんな平然とこの状況を受け入れているが、もしも本当にうそつき荘から脱出できなくなったらどうしよう……。  あの国籍不明の運転手が、明日になれば来てくれるという保証もないのだ。 (今晩はここに泊まるしかないけれど、明日になったらゲームの行方がどうであれ、うそつき荘から出て行かなくちゃ……)  警察官としての責任が、頭をもたげはじめた。  そのとき、また心霊術師が唸りはじめた。 「ウーン、ウン、ウン」  彼女は激しく体を震わせた。 「ブラフマランドラの大予言!」  しわがれ声で叫ぶなり、また彼女はすばやくセーターのジッパーを上げ下げして、乳房をのぞかせた。 「鹿取昭造」  サマーナは、震える指を製薬会社の社長に突きつけた。 「霊の尊厳を畏《おそ》れぬ冒涜《ぼうとく》に災いあれ。神聖なる魂を汚そうとした不逞《ふてい》の輩《やから》に災いあれ」 「どうしたんですか、鹿取さん」  伊吹が耳打ちした。 「なにか、あの占い師を怒らせるようなことでもしたんですか」 「まあね」  平然とした表情で銀色のフラスコに口をつけ、ウイスキーをガブリと飲んでから、鹿取は答えた。 「さっき廊下ですれ違った隙にね、あの見事なオッパイにさわっちゃったんですよ」     8  柱時計の針は、もう少しで十一時四十五分になろうとしていた。 「ま、なにはともあれ……最高賞金六億円を目指して乾杯をしよう」  利光太郎がワイングラスをかかげた。  大理石のテーブルを囲んだ七人のうち、蓮見サマーナ以外の六人が乾杯に応じ、ワインとオードブルを口に運びはじめた。 「おたがい、ここから先は賞金争いのライバルだ」 「つまり、敵というわけですね」  グラスを片手に、利光と伊吹が笑った。 「それにしても、トリック卿はどんなゲームをやろうというのかしら」  カナッペをつまみながら、三条晴香が言った。 「まあ、あとちょっとで、その答えも出るでしょう」  伊吹は時計を見た。  十一時四十四分。 「もしかしたら、クイズというのは宝探しのことではないでしょうか」  池田正子が言った。 「たとえば、このうそつき荘のどこかに隠されているダイヤを見つけるとか」 「ダイヤモンドなら結構よ。たくさんありすぎちゃって食傷ぎみなの」  指輪やイヤリングをきらめかせながら、晴香が言った。 「でも、池田さんだったら、きっと目の色変えて探すでしょうね。それを横で見ているのも楽しいかもしれないわ」 「なんですって」  市民団体の事務局長がかみつこうとしたとき、広間に機械的な男の声が響き渡った。 「みなさん、お待たせした。私はトリック卿である」  全員が驚いてあたりを見回した。  だが、声の出どころはわからない。  パチン、と大きな音を立てて暖炉の薪がはぜた。 「いよいよ、午前零時から始まるゲームの規則について、ご説明を申し上げる」  その声は、さっき車の中で聞いたテープと同じものだ。  池田正子はあわててグラスをテーブルに置き、手帳を開いてメモの用意を整えた。  利光はさきほどと同じように、目を閉じてメッセージに聞き入っている。 「うそつき荘に招待されたみなさん七人のうち、これから三十六時間以内に、三人が殺される」 「なんですって!」  正子と晴香が同時に叫んだ。  利光がピクンと片目を開けた。  鹿取はアルコールで赤くなった顔をこわばらせ、伊吹は天井に、ひろみは暖炉に目をやって次の言葉を待った。  心霊術師だけが平静さを保っていた。 「繰り返す。みなさんの中から幸運な三人が、これから三十六時間のうちに、順を追って神のもとに召されていくことになる」  ガラスの砕ける音がした。  三条晴香がワイングラスを取り落としたのだ。葡萄色の液体が大理石のテーブルに飛び散り、彼女の白いベルトを汚した。 「このワインに毒が入っていたんでしょう!」  芝居のクライマックスという調子で、晴香はわめいた。 「そうじゃなければ、このきれいなオードブルの中に……そうなのね。私たちの誰かは、もう手遅れなのね!」  利光も伊吹も鹿取も、そして正子も呆然《ぼうぜん》として自分のワイングラスを見つめた。  ワインやオードブルに口をつけていないのは、別の世界に入り込んでいる心霊術師の蓮見サマーナだけだった。 「しかし、三十六時間といえば一日半である」  トリック卿は続けた。 「毒殺を恐れるあまり、みなさんが一日半も何も口にしなければ、そのことで体力的にダウンしてしまうかもしれない。それではせっかくの趣向が興味半減となってしまう。したがって、トリック卿はお約束する。選ばれた三人が、食べ物や飲み物によって毒殺されることはない。どうか安心して、用意された料理をご賞味いただきたい」 「大嘘つきのトリック卿なんかに保証されたって信じられないわよ」  晴香は取り乱して、オードブルの皿をひっくり返した。 「いやよ、私は死にたくない。絶対に死にたくない」 「静かに!」  池田正子が鉛筆を持った手を唇に当てた。 「騒いだらテープの声が聞こえなくなるじゃありませんか」 「さて選ばれた三人は、それぞれアッと驚くような方法を用いて殺されることになる。その殺害方法に関連して、私、トリック卿から問題を出し、みなさんに答えを考えてもらおうというのがゲームの基本である」 「そんなゲームはお断りだ!」  利光がものすごい形相で怒鳴った。 「本気でやるつもりなら、殺人罪で訴えるぞ」  だが、テープの声は淡々とルールを述べ続けた。 「問いに対し、制限時間内にいち早く正解を述べられた方には、予告どおり賞金一億円を差し上げる。出題ならびに採点の方法は、そのときになればわかる、とだけ申し上げておこう。それから、特別問題についてご説明する」  ひろみはメッセージを聞きながら、各人の反応をつぶさに観察していた。  いったい、このテープを仕掛けたトリック卿は誰なのか。  利光がいうように、本当に殺人ゲームが始まるのなら、警視庁捜査一課の刑事として、それを黙って見過ごすわけにはいかない。 「もしも三十六時間のあいだに、この予告された連続殺人の犯人を、論理的に解明しうる人が現れたら、その段階でゲームは中断され、正解者に三億円をお支払いする。ある意味で、これが最もめでたい結末ではあると思うのだが、さて、自らが犠牲になる前に、みなさんは私の正体を暴くことができるだろうか。  つまりここにいる七人は、犯人であり、探偵であり、被害者であり……しかも大嘘つきであるという、一人四役を演じることができるのだ。いかがかな。うそつき荘にお招きしたゲストにとって、まことにふさわしい設定ではないか」  トリック卿は大声で笑い、その後に沈黙した。 「こんなバカげた遊びはやめましょうや」  ロウソクの明かりを見つめながら、鹿取昭造が静かに言った。 「だいたい賞金が一億円だの三億円だのというところから眉《まゆ》ツバものだとは思っていたんだが、冗談にせよ、人を殺すだなんて趣味が悪すぎる」 「本当に冗談なんでしょうか」  池田正子が不安げにつぶやいた。 「あたりまえですよ」  鹿取が噴然として言った。 「いくらなんでも、現実に三人が次々と殺されるなんて、ありえる話じゃない。また仮にそうした狂人がこの七人の中に交じっていたとしても、残りの六人で取り押さえればいいことです」 「それはそうですけど……」  それっきり正子は口をつぐんだ。 「ちょっとしたドラマね」  赤いマニキュアを塗った手を組み合わせながら、三条晴香がほほえんだ。  彼女には、まだ笑う余裕があるらしい。 「雪の山荘に閉じ込められた七人の男女。その中にゲームとしての連続殺人を宣言した狂人がいる。あらかじめ定められた犠牲者の数は三人。そして、いよいよゲームは始まった……」 「待ってください。私たちはまだ雪の中に閉じ込められたわけじゃありません」  ひろみが言った。 「車は帰ってしまいましたが、本当に危険だとなれば、歩いて山を下りればいいんです」 「よしてくれよ」  伊吹が手をふった。 「こんな真夜中に、しかもものすごい吹雪の中を歩いて下りるなんて、それこそ三人どころか七人全員が遭難してしまうぜ」 「この程度の吹雪が長時間続くとは思えません。いざとなれば私だけでも出ていきます」 「ようするに怖いわけだ、ひろみちゃんは」  伊吹は、からかうように笑った。 「でも、それは心配のしすぎだよ。トリック卿の言葉なんて、どうせ雰囲気作りのための演出に決まっている。ま、本当にこの場から逃げ出すべきか否かは、とりあえずひとり殺されてから考えればいいんじゃないの」 「ひとり殺されてからなんて、簡単に言わないでください。何かが起こってからでは遅すぎます」 「じゃあ、どうぞご勝手に、ひろみちゃん」  伊吹は玄関の方へ腕を広げた。 「可愛いきみがいなくなるのは淋しいけれど、競争相手がひとり減れば、それだけ一億円を手にする確率は高くなる。脱走者は歓迎しますよ」 「そんなに一億円がほしいんですか」  ひろみは呆《あき》れて言った。 「人殺しの犯人を当てて、それで一億円がもらえるなんて、そんなことを本気にしているんですか」 「ひろみちゃんこそ矛盾しているな。トリック卿の話を本気にしていないんだったら、なにも脅えることはないじゃないか」 「だけど……」 「ゲーム開始まで、あと七分」  ふたたびトリック卿の声が、ラッセルの間に響き渡った。     9 「お金に困った六人の大嘘つきと、ひとりの中立な審判のもと、殺人ゲームはいよいよ幕を開ける」  トリック卿の声が、さきほどよりも緊迫感を帯びてきた。 「何を言っとるんだ、お金に困った六人だと」  利光太郎は鼻で笑った。 「私には関係ないことだな。たしかに政治資金は不足ぎみだが、私生活での金だったら少しも困っておらん。勝手に貧乏人扱いされてはたまらんな」 「三条晴香」  利光の言葉をさえぎるようにして、トリック卿が女優を名指しした。  晴香は反射的に身をすくめた。 「おまえは俳優としての自分の限界に気づき、絶望感にさいなまれている。三流はいつまでたっても三流であり、いくら自分だけスター気取りでいても、もはや明るい未来は開けない。そうしたおまえにとって、一億という金は、幻想をある程度まで現実に変えてくれる貴重な資金であるはずだ」 「失礼な。私のことを三流ですって……」  周囲が暗いため表情は読み取れなかったが、晴香の声は侮辱された怒りをむき出しにしていた。 「鹿取昭造」  アルコールで顔を赤く染めた製薬会社の社長は、テーブルに片肘《かたひじ》をついて、トリック卿の言葉を待ち受けた。 「おまえの会社は、ガン治療の新薬を開発して話題を呼んでいる。だが、厚生省の認可を一刻も早く得たいがために、その安全性も考慮しないまま臨床データを集め急いだ。その結果、何人もの患者がモルモットとして犠牲になった」 「何を言うか。名誉毀損で訴えるぞ」  鹿取は顔色を変えて怒鳴った。 「その一方で、社長のおまえは、新薬開発の情報を証券筋にリークして自社株の暴騰を仕掛けた。ところが、そのもくろみは見事に失敗し、会社としても鹿取昭造個人としても莫大な借金を背負った。焼け石に水とはいえ、一億単位で金が入るチャンスは逃したくない」 「デタラメだ。ぜんぶデタラメだ」 「伊吹圭」  トリック卿の糾弾は、次の人物に移った。 「おまえはせっかく恋愛小説の若き旗手と期待されていながら、いま、女からの恐喝に脅えている」  伊吹の顔が赤らんだ。 「一夜の過ちから暴力団関係の女性を孕《はら》ませてしまい、その代償として巨額の慰謝料を請求されている。もしもそのスキャンダルが表沙汰にされれば、もはや人気作家としての将来はない」  伊吹は固めた拳でテーブルを思い切り叩いた。 「蓮見サマーナ」  自分の名前を呼ばれても、心霊術師は微動だにしなかった。 「占いの道に入る前のおまえは、どこにでもいる平凡な女性だった。そのおまえに甘い夢を描いてみせた男がいたことを忘れはしまい」  ひろみはサマーナの様子をうかがった。  だが、白塗りのメイクに隠れて、感情の動きは読み取れない。 「男はおまえを、霊感鋭い超能力者として世に出そうとした。だが、その約束は無残にも反古《ほご》にされた。おまえはそれでも歯をくいしばり努力を重ね、マスコミで注目されるまでに這《は》い上がってきた。が、男が約束していたものは、その程度のことではなかった……おまえは、本来ならとっくに億単位の金を手にしていたはずだったのだ」  サマーナは、じっとロウソクの炎を見つめるばかりである。 「池田正子」  名前を呼ばれ、正子は一重まぶたの目を宙に泳がせた。 「正義と清潔を売り物にしているおまえは、じつは欲望の塊《かたまり》だ」  正子の顔がこわばった。 「いまどき時代おくれなブルジョワ批判を繰り返しながら、じつはそうした贅沢に限りない憧れをもっている。おまえのストイックな清潔主義は、他人の幸福を妬《ねた》む、非常に了見の狭い感情に基づいたものだ」 「あなたね、口から出まかせはおやめなさい」  正子が叫んでも、当然トリック卿は無関係にしゃべり続けた。 「おまえは、あるきっかけで思いもよらぬ不労所得を得た。しかし、不慣れな財テクに走った結果、その蓄えのほとんどを失ってしまい、その後に残されたのは、いままで自分が否定し続けてきた金への執着心だった」 「取り消しなさい!」  相手がテープであるらしいことも忘れて、正子は叫んだ。 「いまの発言を取り消さないと、私は法的な措置を講じますよ」  が、トリック卿は勝手に次に移った。 「利光太郎」 「なんだ」  国会議員は見えない相手に挑《いど》んだ。 「おまえは自分に投票した国民を欺き、自分勝手な理屈をつけて権力に接近しようとしている。野党少数派のままでは、政治家であっても何のウマ味もないとわかったからだ。そして、いっぱしの政治家らしくハクもつけたくなってきた。家も欲しい、土地も欲しい、ゴルフクラブの会員権も欲しい……」 「黙れ!」  利光は怒鳴った。 「黙らんか、この大嘘つきめ。私の本心はそんな姑息なところにはない」 「さて、嘘つき六人に対してのメッセージは以上で終わる。残る一人は、中立なジャッジとしての立場で、このゲームに臨んでいただくわけだが……」  トリック卿の口調が、いくぶん柔らかくなった。 「ジャッジであるからには、犠牲者のリストに加えるわけにはいかない。これもふだんの人柄というものだろうか。……ご紹介しよう、警視庁捜査一課強行犯担当、烏丸ひろみ刑事だ」  全員の視線がひろみに集まった。     10 「刑事だって、きみが?」  伊吹がまさかというゼスチャーをした。 「こんな愛くるしい女の子が警視庁の刑事だなんて、それこそ大ウソに決まっている」  ひろみは一瞬ためらったのちに、ウエストポーチから警察手帳を取り出して見せた。  伊吹はそれをのぞき込み、びっくりしてひろみの顔を見つめ直した。 「ほんとうに本物の刑事……なのか」  彼はおおげさな身振りで、他の五人に向かって手を広げた。 「みなさん、ゲームの開始まであと二分だ」  トリック卿が、また口を開いた。 「六人中三人、つまり確率二分の一で、自分の身に死がふりかかってくるというのは、たいへんな恐怖だろうし、ここから一刻も早く逃げ出したくなるのも無理はない。心中お察し申し上げる」  トリック卿は、いやらしいほどゆっくりと間をおいた。 「だが、残念ながらもう手遅れだ。このうそつき荘は、まもなく雪に閉ざされた密閉空間となる」 「やっぱり逃げよう」  まず鹿取が意見を変更した。 「なんだか私には冗談とは思えなくなってきた。外は吹雪だが、いまなら出られる。いくらトリック卿でも超能力者じゃあるまいし、脱出が不可能になるほどの雪を、いっぺんに降らせるわけにもいくまい。逃げるならいまだ」 「私もそうします」  池田正子が同意した。 「ぼくは反対ですね」  伊吹が言った。 「外の気温はどれくらいだと思ってるんです。マイナス十度じゃききませんよ。さっきも言ったように、ここから出た方がよっぽど危険だ。凍死はごめんですからね」 「いや、ここで黙って殺されるのを待つよりも、ずっとマシだ」  と、利光も脱出に賛成した。 「一億円のチャンスをみすみす逃すのは惜しい気もいたしますけど……でも、私もみなさんのご意見に従いますわ」  迷った末に、三条晴香も脱出に傾いた。 「いいですか、みなさん。殺人者がぼくたちの中に混じっているのなら、外へ逃げたって危険なのは同じですよ」  と、あくまで伊吹は脱出に反対した。  蓮見サマーナは、ロウソクの炎に向かって何か唸りながら、ふたたび妙な祈りを始めている。 「烏丸さんていいましたっけ」  池田正子がひろみに声をかけた。 「はい、そうです」 「あなたはどう思うんです。本当に捜査一課の刑事さんなら、あなたが私たちの行動を決めてください。こういうときのための警察権力でしょ」 『権力』とはひとこと多い感じだが、いかにも彼女が多用しそうな語句だった。 「そうですね……」  ひろみは口を開いた。 「いまのようなメッセージを聞かされたからには、この別荘にとどまっているべきではないでしょう。三人も殺すと宣言されたんですから。ただし、脱出のタイミングが問題です」  ひろみは、窓ガラスからわずかにのぞく外の闇に目をやった。 「雪のことはそんなに心配ないと思います。少なくともここは、自動車が上ってこられた場所です。いくら吹雪いても、雪に閉ざされて物理的に出られなくなるほどのことは、まずないでしょう。問題は、ここを出てから短時間のうちに、別の人家にたどり着けるかどうかです」 「近所には、およそ人家らしいものは見かけなかったですからな」  鹿取が顔を曇らせた。 「となると、うそつき荘を出るのは夜が明けてからの方が安全だと思うんです」  ひろみは言った。 「それまでの間は、七人がバラバラにならず、ひとところに集まっているべきでしょう。トリック卿が危険な行動を起こさないよう、全員で監視するのです」  そのとき、突然建物が揺れはじめた。  ひろみはびっくりして天井を見上げた。  シャンデリアがカチャカチャと音を立てて、上下に揺れていた。 「なんだ、これは」  立っていた鹿取が、よろめいてテーブルに手をついた。  ギシギシときしみ音を立てながら、うそつき荘全体が動きはじめた。  燃え盛っていた暖炉の薪が、振動のために火の粉を散らして崩れ落ちた。 「地震よ、大地震だわ!」  晴香がテーブルにしがみついた。 「ちがう! 地震じゃない。建物が下がっているんだ」  伊吹が叫んだ。 「本当だ。地下の方へどんどん沈んでいってるみたいだ」  利光も叫んだ。 「どうなってるんです。窓から外が見えないんですか。そっちの窓から」  池田正子の悲鳴まじりの声に応じて、いちばん近くにいたひろみが窓際に駆け寄った。  窓の曇りを拭って外を見ようとした。  が、その瞬間、雪崩に似た激しい衝撃音がして、あっという間にガラスの向こうが真っ白になった。  さらに屋根の上に何かが落ち、それが滑っていく激しい摩擦音がした。  ラッセルの間にいた七人は騒然となった。  建物を取り巻く轟音《ごうおん》はさらに続き、その中で、壁の柱時計がこもった音色で、ボーン、ボーンと十二時の鐘を打ちはじめた。  だがその音は、建物の振動のために、ときどき歪んで聞こえた。  食器棚の中身も、天井で揺れるシャンデリアと合唱するように、カチャカチャと音を立てて暴れはじめた。  テーブルの上では、デカンタに残っている赤ワインが波打っていた。  そのそばに置かれた空のグラスが次々に倒れ、床に転がって砕け散った。 「玄関へ」  ひろみが叫んだ。 「みんな、早く玄関へ行ってください」  彼女は必死だった。  家ごと潰《つぶ》れてしまうのではないかと思った。  よろめきながら七人が走った。 「そうだ、石油ストーブを消さなくちゃ」  ひろみが戻りかけたが、利光がその手を引っぱった。 「戻らん方がいい」  玄関のところでは、伊吹が樫《かし》でできた分厚いドアを叩いたり蹴飛ばしたりしていた。 「ちくしょう! 全然動かない」 「体当たりをして開けよう。私が体ごとぶつかるから、きみはノブを回したままにしておいてくれ」  そういうと、鹿取はドアに突進した。  が、扉はビクとも動かない。  利光も加わって、男が総がかりで体当たりを繰り返した。  ようやく三センチだけドアが動いた。  しかし、開いたのはそこまでだった。  建物の振動がおさまると同時に、わずかな隙間から雪がこぼれてきた。 「信じられない」  その雪を手にすくって、鹿取がつぶやいた。 「うそつき荘全体が雪に埋もれてしまった……ということか」  轟音がおさまり、急に静かになったラッセルの間から、あざけるような甲高い笑い声が響いてきた。 「ようこそ、雪に閉ざされたミステリー・ハウスへ。改めてご挨拶を申し上げよう。私はトリック卿である」  玄関に集まった七人は、薄暗い暖炉の方に呆然とした目を向けた。 「二月十四日、バレンタインデーの午前零時、いよいよゲームが始まった」  その声につられるようにして、七人はぞろぞろとラッセルの間に戻った。  柱時計は振動のため斜めにかしいでしまい、振り子が箱の縁に当たって止まっていた。 「いかがかな、みなさん。嘘つきの私も、たまには本当のことを言うのだということが、よくおわかりになったであろう。予告した通り、うそつき荘は完全に雪の中に閉じ込められてしまった。信じないというのなら、二階へ上って確認するがよい。屋根裏の窓からのぞくがよい。みなさんは建物ごと雪の海に沈んでしまったのだ」  屋根の上から、何か車のエンジンのような音が聞こえてくる。 「どういうことなの……」  三条晴香がつぶやいた。 「私はゲームの実行に関しては、金に糸目をつけない」  タイミングよくトリック卿のテープが答えた。 「この建物は、あらかじめ地下八メートルの地点に設置された多数の油圧ジャッキによって、土台ごと持ち上げられていた。そのジャッキを一斉に下げた結果、うそつき荘はまるごと雪の下に沈んでしまったのだ。もちろん、油圧装置をコントロールする場所は、みなさんには教えられない」  鹿取昭造が、大きなため息をついた。 「そしていま、私の忠実な部下ゴメスの運転する除雪作業車によって、建物の屋根まですっぽりと雪で埋め尽くす最後の仕上げ作業が行われているところである」  全員が天井を見上げた。  たしかに、ブルドーザーが走るのに似た重低音が響いている。  ゴメスというのは、長野駅からここまで車を運転してきた、あの国籍不明の男のことだろうと、ひろみは推測した。 「さて、さきほど私は、選ばれた三人を毒物によって殺しはしないと申し上げたが、もうひとつ、みなさんを窒息死させることもないように配慮した。それが、厨房の換気扇である。このダクトは屋根の先まで突き出しており、ゴメスにも、このダクトだけは埋めないように命じてある。よって、その換気扇は回しっぱなしにしておくように」  トリック卿は得意そうに説明を続けた。 「また建物の電気や水道は、漏電防止あるいは凍結防止を施した伸縮パイプで本線とつながっているのでご心配なく。下水もこれまで同様に使っていただける。この辺は設計上最も苦労した部分である」  トリック卿は、そこで言葉を区切った。 「ただし、このうそつき荘には、電話は最初から取り付けられていない。したがって、みなさんがこの三十六時間の間、外部と連絡をとることは全く不可能なのである。仮に携帯電話をお持ちでも、それは役に立たない。この山から中継局までは電波が届かないのだ。——さあ、ワクワクするような舞台装置はこれで揃った。あとは、第一の殺人が起きるのをみなさんと共に待つばかりである。では、それまで。ごきげんよう」  高笑いを残して、トリック卿のメッセージが終わった。     11 「私たちがこれからやるべきことは……」  身分が明らかになったひろみが、必然的に七人のリーダーシップを握ることになった。 「まず、みんなで手分けして、このうそつき荘の建物中を調べることです。目的は三つです。ほんとうに脱出路はないのか。私たち以外に誰か潜んでいる可能性はないのか。そして、トリック卿のテープはどこから放送されているのか」  全員がうなずいた。 「ただし、絶対に忘れてはならないのは……」  ひろみの口調は真剣だった。 「私たちの七人の中に、これから殺人ゲームを始めようとしているトリック卿がいるということです」  重苦しい吐息があちこちからもれた。 「彼——いえ、彼女かもしれませんが、トリック卿は真剣です。家ごと雪の中に沈めるなんて、遊び半分でできることでしょうか」 「まったくだ」  鹿取がつぶやいた。 「建築士をやっている甥《おい》に見積りをさせてみたいよ。こんな仕掛けを作るのに、いったいどれくらいの費用がかかるのか」 「問題はそこです」  ひろみが言った。 「人が住むために作られた普通の家を、土台ごと八メートルも下げられるように後から改造するなんて、まず不可能です。ということは、このうそつき荘は、最初から人を殺すために設計された家なのではないでしょうか」 「まあ……」  三条晴香が身震いした。  そのとき、蓮見サマーナが、あたりを見回しながら低い声でつぶやいた。 「悪霊様が……」  ギクッとして、ひろみは心霊術師を見た。 「悪霊様が、この屋敷の中を大喜びで走り回っておられる」 「やめてくれ!」  利光が、いらいらを抑えかねて怒鳴った。 「馬鹿げた占いはたくさんだ」  すると、蓮見サマーナは、国会議員の顔に指を突き立てた。 「己の罪の償いに頬被《ほおかむ》りをしようとする悪人め、おまえは神聖なる霊の怒りを買った。悪人の身に災いあれ、ひきょう者に災いあれ」 「ちょっと待ってください」  ひろみがサマーナをさえぎった。 「このうそつき荘のことで、まだ言いたいことがあるんです」 「どうぞ」  伊吹が手を広げた。 「トリック卿が言うように、油圧ジャッキを多数用いてこれだけの家を上げ下げするには、それなりの技術が必要です。ところが一方で、うそつき荘の建物はきわめて古いものだという事実があります」 「たしかにね」  伊吹は納得して周囲を見回した。 「築五十年じゃきかないって雰囲気だもんな」 「でしょう? それなのに脅しのメカニックは新しい」 「矛盾だな」 「矛盾です」 「で、刑事さんの解釈は?」 「考えられる合理的な説明があることはあるんですけれど、あまりに飛んでるから……」 「飛んでてもいいじゃないか。教えてよ」  伊吹は迫った。 「……やっぱりそれは後にしましょう」 「思わせぶりだな」 「だって、まだトリック卿には私の考えを聞かれたくありませんから」  ひろみはそういって、みんなを見回した。 「とにかく、そんな議論はどうでもいいのよ」  女優の三条晴香が割り込んだ。 「それよりも、早くこの家から出ていきたいわ。私は、まともな世界に戻りたいのよ。こんなところに三十六時間もいたら、殺される前に気が狂ってしまうかもしれないでしょ」  さっきまでは、半分ゲームを楽しもうという様子の晴香だったが、うそつき荘が雪の中に沈んでからは態度を一変させていた。 「おっしゃるとおり」  鹿取が言った。 「こんなところに長居は無用だ。とにかく、烏丸刑事のいうように、手分けして邸内探検にとりかかろうじゃありませんか」 「その前に」  池田正子が甲高い声を出した。 「もうひとつ、やるべきことがあるように私は思います」  正子は、蓮見サマーナを指さした。 「いますぐに、この占い師の奇妙な化粧をとらせるべきではないでしょうか。蓮見さんがトリック卿でないのなら、この求めにはきちんと応じるべきです。七人の中でただひとり素顔でない者がいるというのは、こういう状況の下では不公平です」 「それはもっともなご意見ですな」  鹿取が同意した。 「はっきり言って、私は心霊だとか超能力だとか、そういうものは一切信用できない。どうせ蓮見さんも、テレビ局と段取りを組んでやっている商売人なんでしょう。つまり楽屋入りするまでは、素顔であるはずだ。だから、ここでも蓮見サマーナではなく、普通の姿に戻るべきだ」  サマーナは隈取りした目で鹿取を見据え、獣じみた唸り声をたてた。 「そうしたわざとらしい演技は、もうナシにしようじゃないですか」  鹿取はうんざりした口調で言った。 「だいたい、我々はあなたの本名すら聞いていないんだ。まさか、蓮見サマーナが本名ということはないでしょう」 「霊を恐れぬ無知で傲慢な輩に災いあれ!」 「芝居はやめなさい」  鹿取は、心霊術師が突きつけた人差し指を手で払った。 「蓮見さん」  ひろみが二人の間に入った。 「うそつき荘が雪の中に沈むなんていう、信じられないことが現実になり、しかもトリック卿は連続殺人を予告しています。こういう状況で、特別なメイクをなさっていることは、それだけで他の人間に不安を与えます。それに……」  ひろみは心霊術師をまじまじと見つめて言った。 「素顔を見せないということは、人間のすり替えを可能にしているということです」  伊吹が、なるほどと声をあげた。 「あなたが素顔になってくれないかぎり、ニセの蓮見サマーナを作ることはとても簡単なのです。多少顔立ちが違っていても、その歌舞伎メイクでどうにでもごまかせるのですから。それに、その金色の長い髪だって、自分の毛を染めたのではなく、カツラでしょう」  ひろみは見抜いていた。 「しかも、テレビでも有名なそのFカップのバストを印象づけておけば、別人があなたになりすましたときも、格好のカモフラージュ・ポイントになります。パットを入れてセーターの胸をふくらませておけば、それだけで心霊術師蓮見サマーナの特徴ができあがってしまうわけですから」 「さすが女性刑事。ぼくみたいに、目の前のオッパイに目がくらんだりしないわけだ」  伊吹が言った。 「おまけに、その老人のような作り声のために、あなたの本当の声を聞いた者もいません。……いかがですか、蓮見さん」  ひろみは迫った。 「そのお化粧を落として、素顔に戻っていただけませんか。それも自分の部屋ではなく、みんなの見ている前で」 「蓮見の蓮は、チャクラの蓮」  ひろみの言葉をさえぎって、心霊術師がしわがれ声でつぶやいた。 「体内八カ所に存在する生体エネルギーの中枢、咲き誇る蓮の花にも似た霊的エネルギーのフィラメント——それがチャクラだ」  蓮見サマーナは、両手で目の前の空気を包むようにした。 「そして、サマーナとは『平等』を意味する粘液状の生気。それは、人間の体を維持しつづけるための養分を、肉体のすみずみにまで平等に配分する働きをもつ。サマーナ気を克服するならば肉体から火炎が出る、との教えのように……」 「いまさら名前の由来などけっこうですよ」  鹿取が突《つ》っ慳貪《けんどん》に言った。  が、蓮見サマーナは続ける。 「眉間から脳の中へ七ないし八センチ入った所にある球体。それが千の花びらをもつ蓮の花、ブラフマランドラである。すべての意志や感覚をつかさどるブラフマランドラを霊視すると、そこに光り輝く数々の蕾《つぼみ》をみるであろう……」  サマーナの右手が、前開きセーターのジッパーにかかった。 「ブラフマランドラの大予言!」  黒いセーターの間から白い乳房がまろび出て、一瞬ののちにまた隠された。 「神聖なる大宇宙との媒介者、蓮見サマーナの姿を拒絶することにより、おのれらは救いの道を自ら閉ざしてしまうことになろう。愚か者め、愚か者め、愚か者め……」  つぶやきながら、心霊術師は階段を二階へと上っていった。 「だめだな、彼女とはまともな人間の会話ができないよ」  伊吹があきらめ顔で言った。 「とにかく電気の明かりをつけんかね」  利光が疲れた声で言った。 「このロウソクの明かりがいかんのだ。みんなの雰囲気を、妙に神秘がかったものにする」 「先生のおっしゃるとおりですね」  そう言って、鹿取がスイッチに手を伸ばした。  白熱球のダウンライトがあちこちにつき、ラッセルの間が急に明るくなった。 「やっぱりいいなあ、電気の明かりはいい。文明の輝きはすばらしい」  利光は感に堪えないといった表現で、天井の照明をあおぎ見た。 「じゃあ、はじめましょうか。うそつき荘の徹底検証を」  ひろみの言葉で、それぞれが四方へ散っていった。     12  二時間が経った。  それぞれが自由にうそつき荘の中を探索していたが、やがて鹿取昭造と伊吹圭が、疲れ切った表情で暖炉の前に戻ってきた。 「結局わかったことは、この建物の中には我々七人の他には誰もいないということだね」  ヘビースモーカーの鹿取は、そう言ってタバコに火をつけた。 「そして、この建物は本当に屋根の上まで雪に覆われ、外に通じる出口はどこにもない、ということもわかった」  伊吹は天井を見上げた。  すでに、ゴメスという名の男が運転していた除雪作業車の音もしなくなっていた。  止まったままの柱時計が、十二時ちょうどを指しているのが象徴的だった。  やがて、池田正子と利光も収穫なしという表情でもどってきた。  そのあとに、ひろみが続く。 「どうだい、刑事さん」  伊吹がたずねた。 「ダメ、なんにもなし」  ひろみは首をふると、止まっていた柱時計の蓋《ふた》を開けて、自分の腕時計の時間に合わせた。  午前二時二分。  そして、『4』と『8』の数字の所にあるネジ穴に巻きネジを差し込み、ゼンマイを巻く。 「ああ、ちょっと、鐘の方のゼンマイは巻かんでくれ」  利光が言った。 「あの、ボーン、ボーンという音は幽霊屋敷のようでいかん」 「ごめんなさい、もう両方ともネジを巻いてしまいました」  ひろみは笑って、蓋を閉めた。  こんなときに出る笑顔は、ずいぶん弱々しいものなのだろうな、と自分で思いながら。 「とにかく、出口という出口が、ことごとく雪のために塞がれています」  ひろみは、席に戻ると邸内探索の総括をした。 「玄関も勝手口もドアが開かないし、ラッセルの間に面した雨戸も、凍りついているのか、雪の圧力のためか、内側からはまるで動きません。それから一階や二階の各部屋の窓も、飾りの入った鉄格子でしっかりと固められています。つまり、ここは雪の海に沈んだ監獄なのです」 「地下室も探してみましたが……」  池田正子は、まだ地下室の存在にこだわっていた。 「どこにもそんな出入口は見つかりませんでした」 「唯一、脱出路として希望のあるのが、屋根裏の天井につけられた採光窓だな」  暖炉に新しい薪を足してから、伊吹が言った。  建物が完全に雪に埋まったため、かえって室温は安定しそうなものだったが、やはり厳しい冷え込みに変わりはなかった。 「その明かり採りの窓は、空気の入れ替えのためにハッチのように開く方式になっているんです。上に載っている雪さえなければ開けることができそうだが、いまの状態ではガラスを破った瞬間、雪がなだれ落ちてきて大変なことになるかもしれない」  そう説明してから、伊吹はふと気になった様子でたずねた。 「ところで、あとの二人はどうしたんですかね」 「そういえば、三条さんも心霊術師もさっきから姿を見ないな」  鹿取が首をかしげた。 「死んでいるんですよ」  ドキッとするようなことを、池田正子が平気な顔で言った。 「みんなが呼びにいくと、彼女は部屋の中で死んでいた——というのが、よくあるパターンでしょ」 「まあ、ドラマなんかでは、大方そういう筋書きになりますけどね」  作家の伊吹が苦笑した。  ちょうどそのとき、階段を静かに降りてくる人影があった。  五人がいっせいに振り返った。 「だれ!」  強い口調でひろみが詰問した。  まるで見たことのない女だった。  色白で、艶《つや》やかな黒髪を短めにカットし、ほとんどノーメイクなので、かなり若くみえる。おそらく三十にはまだ手が届かないだろう。  全体的に地味な感じだが、顔立ちはなかなか整っていた。素顔の印象をひとことで言えば、『清楚《せいそ》』といったところか。  真っ白なタートルネックに白のスラックスという、白ずくめの服装であることも、そうしたイメージを醸し出す一因になっていた。  一同が注目する中、彼女は静かな足取りで大理石のテーブルについた。 「いったい誰なんですか、あなたは」  もう一度ひろみが聞いた。 「成瀬智子《なるせともこ》です」  彼女は細々とした声で名乗った。  見た目の印象どおりの声だった。  もちろんひろみは、その名前にも聞き覚えがなかった。 「いままでどこに隠れていたんです」 「どこにも」 「だけど、みんなで建物じゅう探したんですよ。誰か他の人間がいないかと」  ひろみは納得しない表情だった。 「私はどこにも隠れていませんでした。最初からみなさんの前にいたんです」  成瀬智子は繰り返した。 「じゃあ、もしかすると……」  ひろみが最後まで言い終わらないうちに、彼女はうなずいた。 「そうです、さっきまで私は……蓮見サマーナでした」 「蓮見サマーナだって!」  伊吹はポカンと口を開けた。  鹿取も正子もびっくりした顔になった。 「そういえば……」  鹿取がつぶやいた。  その視線を追って、伊吹も彼女の白いセーターの胸に注目した。 「たしかに、蓮見サマーナですな」  さきほど酔っ払って彼女の胸をわしづかみにした鹿取は、バツが悪そうに頬をかいた。  バストのふくらみだけでは、さっきひろみが指摘したように、ニセモノである可能性もあった。  だが、ひろみは、その女性の首筋に目をやった。口に出しては言わなかったが、ひろみは蓮見サマーナのうなじにあった小さなホクロの位置を覚えていたのだ。  たしかに彼女は、あの白塗りの顔でおぞましい声をふりしぼる奇怪な心霊術師と同一人物だった。 「驚いた……いやまったく驚いたな」  伊吹はしきりに感心しながら、彼女の全身をジロジロ眺め回した。 「まさか、蓮見サマーナの正体が、こんなにおとなしそうな女性とは……ぼくは女というものが信じられなくなったな」  その横で、鹿取は一息つくためにタバコに火を点け、煙を吐き出しながら成瀬智子にたずねた。 「それにしても、どうやったらそんな風に別人に変われるんですかね。さっきあなたは、この私を指さして『無知で傲慢な輩に災いあれ』と、さんざん呪《のろ》いをかけてくれたんですよ」 「そうでしたか」 「そうでしたか、ってねえ……」  まるで他人事のような返事に、鹿取は開いた口がふさがらないという顔になった。 「蓮見サマーナに成りきってしまうと、そのときのことは覚えていないんです」  智子は、すまなそうにうつむいた。  そんな彼女の様子を、国会議員の利光は無表情に見つめていた。  なぜか、さっきから利光はひとことも発しないのだ。 「ちなみに、あなたがテレビ局に出演するときは、最初から蓮見サマーナの格好で行くんですか。それとも普通の姿で行って、楽屋で変身してしまうんですか」  池田正子が興味深そうにたずねた。 「自宅を出るときから、もう蓮見サマーナになっています」  細い声で智子は答えた。 「それじゃ、ふだん家にいるときは、この素顔になっているわけ?」 「はい」  智子は静かにうなずいた。 「私が成瀬智子に戻っている間は、蓮見サマーナは宇宙の彼方に帰っています。しかし、メイクをして瞑想にふけるうちに、大宇宙の果てから宇宙意識としての蓮見サマーナが、光よりも速い物質にのって、私の脳の中にあるブラフマランドラに飛び込んでくるのです」 「やれやれ」  タバコを消すと、鹿取は頭をふった。 「その手の話になると、どうしてもついていけませんな、私は」  そういって、彼はポケットからフラスコを取り出して、ウイスキーを一口あおった。 「とにかくこれで、あとは三条さんだけですね」  ひろみは二階を見上げた。 「ちょっと気になるから、私、部屋まで行って見てきます」 「たのむから、池田さんの筋書きどおりに悲鳴をあげないでくれよ。キャー、三条さんが死んでる——なんてね」  二階に上がっていくひろみに、伊吹がふざけた調子で声をかけた。  一分後、ひろみは伊吹の予想とは別のセリフを、階段の上から投げかけた。 「どこにもいないの、三条さんが。……どこにも」     13  午前七時——  外はもう朝を迎えているはずだが、雪の海に没したうそつき荘の中は夜のままだった。  ただ、柱時計と各自の腕時計が、たしかに午前七時であることを告げている。  誰もいなくなったラッセルの間の暖炉で、カサッと音を立てて、燃え残りの薪が崩れ落ちた。  伊吹がマメに何度か薪を補給していたが、しだいに火勢が弱まってきて、燃えさかっていた炎が静まり、ついには燠火《おきび》さえもその赤さを失った。  一同は厨房にいた。  第一発見者は、作家の伊吹圭だった。  忽然《こつぜん》と消えた三条晴香を探して、およそ五時間が経ったころ、彼は厨房におかれた高さ二メートルの巨大な業務用冷凍庫に目をつけた。  そこはすでに何度も内部を改められていたが、伊吹は、冷凍庫の外見の奥行きと、ドアを開けて中をのぞいたときの見た目に、ずいぶん差があると言い出した。  つまり、外部の奥行きに比べて、格段に内部が狭いというのだ。 「じゃ、この食品を全部どけてみましょう」  ひろみの指示で、中に並べられていた数々の冷凍食品が取り除かれた。  その作業をしながら、ひろみは自分の見落としに青くなりはじめていた。  たしかに、外から見た冷凍庫の容積のわりに、食品棚の奥行きはわずかしかなかった。大半のスペースは、棚の背にあたるプラスチック・パネルの陰に隠されていたのだ。 「この仕切り板をはずしましょう」  ひろみは伊吹に呼びかけて、背の高い白いパネルの端に指を引っかけ、ふたりでそれを手前に引き倒した。  白い冷気が、ひろみの頭の上に覆いかぶさってきた。  後ろで見ていた池田正子が悲鳴を上げた。  パネルの奥から、大きな氷の柱が現れた。  しかも、人間入りの……。  サングラスをかけ、鮮やかな赤いセーターを着た三条晴香が、氷の中にうつむきかげんに立っていた。  いや正確には、立つというよりも浮いているという表現が正しいかもしれない。彼女は氷詰めの死体となって、みんなの前に姿を現したのだ。 「どういうことなの!」  正子が金切り声を続けた。  彼女の突き出した頬骨は土気色だった。 「何なのよ、これは。誰がやったのよ、いいなさいよ。白状しなさいよ。誰なの……人殺しを本当にやったトリック卿は誰なのよ!」  錯乱状態になった正子を、後ろから伊吹が抱きかかえた。 「池田さん、落ち着いて」 「いやだ、いやだ、いやだ。私は殺されたくない。許せないわ、こんなこと。いや、いや、いや」  髪の毛を振り乱して泣きじゃくる正子を、伊吹はラッセルの間の方へ引きずっていった。 「なんということだ……」  呆然とした顔で、利光が氷の柱に手を伸ばした。 「触らないで!」  ひろみの厳しい口調に、彼はあわてて手を引っ込めた。 「死んでいるのか」  かすれ声で利光がきいた。 「氷の中で生きていられる人間はいません」  ひろみが固い声で応えた。  まさにそれは氷の柩だった。  高さおよそ一メートル八〇。幅と奥行きは、ちょうど人間がすっぽり入るくらいの氷の柱——その中に、三条晴香が閉じ込められていた。  氷の表面は低温のためにやや曇っており、しかもかなり歪んでいた。  そのために、中にいる三条晴香の姿は、見る者の角度によって伸びたり縮んだりした。  ひろみは氷に触れないようにして、前方と右側方から綿密な観察を行った。  三条晴香の身長はおよそ一六〇センチくらいだったが、その彼女が、頭の上と足の下それぞれ十センチを残し、真ん中に浮いた状態で氷漬けになっていた。  前から眺めると、彼女の体は氷の奥深くに閉ざされてみえたが、後ろ側——すなわち背中の方を透かしてみると、氷の表面にまで洋服の生地がはみ出していた。  つまり、晴香の体は後方に偏って凍結されているのだ。 「どなたか、カメラをお持ちですか」  ひろみが後ろを振り返ってたずねた。 「ああ、使い捨ての簡単なやつなら持ってきているが」  震え声で鹿取が答えた。 「すみませんけど、それをすぐに持ってきてください。現場を撮影する必要があります」 「わかった」  鹿取はうなずくと、ぎくしゃくとした足取りで自分の部屋へ戻っていった。 「あの……刑事さん。こんなものが」  外に取り出された冷凍食品の間から、蓮見サマーナこと成瀬智子が、ハガキ大の白いカードを拾いあげた。  ひろみは、指紋をつけないようハンカチを広げてそれを受け取った。  カードの片面だけに、クセのある太い文字で、短い文章が書かれていた。 ————————————————————————————————        第1問     いかにして彼女は氷の柩に閉じ込められたか        (制限時間…死体発見時刻より60分) ———————————————————————————————— [#改ページ]   第2問 いかにして犯人はその部屋から脱け出したか     1 「現場保存の鉄則です」  ひろみは厳しい表情で言うと、冷凍庫の扉を閉めた。  凍《い》てついた三条晴香の姿が、みなの視野から消えた。 「この冷凍庫のドアは、ガムテープで封印します。決して私の許可なしに、勝手に開けることをしないでください」  ひろみは、工具入れから見つけてきたガムテープで、冷凍庫の観音開きのドアをピッチリと貼り合わせ、さらに、ところどころに割り印のように石鹸でマークを入れた。 「それから、決してこの電源コードを抜いてはいけません」  ひろみは、コンセントにも同じような封印を行った。  彼女は、すっかり警視庁捜査一課烏丸ひろみ刑事の顔になっていた。 「県警に連絡が取れるまで、三条さんの死体はこのままの状態で保存します。皮肉なことに、殺害の手段が凍死ですから。……それと、鹿取さん、このカメラは、このままお借りしておきます」  ひろみは、ストロボ付きの使い捨てカメラをウエストポーチにしまった。  死体が氷の中に埋められていたので、撮影にあたってはストロボを使うわけにもいかず、感度一〇〇のフィルムでちゃんと写っているかどうかは自信がなかった。 「とにかく広間の方に移りましょう」  ひろみの指示に従って、一同は無言のまま場所を移した。  池田正子は、一時の錯乱状態はおさまっていたが、暖炉の前のソファに横たわったまま、泣いているのか肩を波打たせていた。 「生真面目な人間だからね、池田さんは」  付き添っていた伊吹が、ひろみに小声で言った。 「ああいうショックには弱いんだよ。ワインでも飲ませようか」 「ダメ」  ひろみは首をふった。 「気つけ薬にアルコールを、というのは、洋画っぽい発想でしょ」 「ヨウガ?」 「外国の映画ってこと」 「ああ……」 「日本人の場合は、冷たい水で頭を冷やしてあげる方がいいんじゃないですか」 「わかったよ」  伊吹はタオルと洗面器をとりに、浴室の方へ行った。 「寒いですね」  成瀬智子が腕を抱え込んで震えた。 「暖炉の火が消えてしまってるんですな」  鹿取がのぞきこんだ。 「厨房の奥に薪が積んであったはずだ。伊吹さんが戻ってきたら、彼に火を熾してもらおう。なかなか上手だったから」 「でも、さっきの火の消え方からすると、暖炉の煙突も塞がれているんじゃないでしょうか」  ひろみが指摘した。  半分生のまま燃え残った薪が、暖炉の灰の中に落ちている。 「煙突の先まで雪に埋もれているとなると、薪はうまく燃えないし、それに煙が部屋の中に逆流してきます」 「じゃあ、暖炉はやめにして、周りにある石油ストーブをもっとこっちへ持ってきますか」 「その方がいいですね」  鹿取とひろみが二、三カ所から石油ストーブを集めてきた。 「これでなんとか暖をとれますな」  鹿取がストーブに尻を向けて足踏みした。  伊吹は成り行き上しかたなく、正子のために冷たいタオルを額に当ててやっていた。 「これが、ひろみちゃんだったらね」  タオルを冷水でしぼりながら、伊吹は正子に聞こえるのもかまわずにつぶやいた。  コンコンコンと音がするので、ひろみは何だろうと目を動かした。  利光代議士がイライラと、大理石のテーブルを指でたたいているのだった。 「私は怖い」  利光が圧し殺した声で言った。 「本当に怖い。このままでは、きっと私もトリック卿に殺される」  国会議員は必死に冷静さを保とうとしていた。  が、顔色は真っ青で、額には脂汗すら浮かべていた。 「トリック卿は本気だということがよくわかった。彼女をあんなやり方で殺すなんて……じゃあ、次の人間はどんな死に方をするんだ。それを考えたら、不安で不安で居ても立ってもいられない」  利光はハンカチを取り出して額をぬぐった。 「一億円なんかにつられて……私はとんでもないところに来てしまった」 「私だってそう思いますよ」  ひろみが話の聞き役になってやった。 「烏丸刑事」 「はい」 「さっきのテープで、トリック卿はこう言っていたな。きみを除く六人の中から三人を殺す、と」 「ええ」 「しかし、トリック卿が自分を殺すわけはないから、そうなると犠牲者の候補は事実上五人。その中から三条君が殺されたから、残るは四人に二人。依然として、確率五〇パーセントの死だ」  利光はデカンタに残っていた赤ワインをグラスに注ぎ、一気にあおった。 「鹿取、伊吹、利光、蓮見……いや、成瀬か、それに池田。この中の誰かがトリック卿で、残り四人のうち二人が、その人物に殺される」  上ずった声で利光は続けた。 「いいかね、きみ。この場に殺人犯人がいるということを忘れちゃいないだろうな。そいつは、我々が脅え戸惑っている様子を、ほくそえみながら見ているに違いない。それなのにだ、我々は犯人も含めて、あたかも共通の被害者のような顔をして集まっている。なんという不自然な状態なんだ」 「ほんとにそうですね」  ひろみはため息をついた。  正直いって彼女も、事態にどう対処してよいか判断に迷っていた。  財津警部の鬼のような、それでいて優しくて頼りになる顔が、さっきから頭の中をちらついた。  あと数時間もすれば、配達時間指定の便で捜査一課の財津警部|宛《あて》に、ひろみからのバレンタイン・チョコレートが届くだろう。  ところがその贈り主は、信州の山奥で、建物ごと雪の下に埋もれてしまっているのだ!  いくら連絡がないからといって、まさかひろみがこんな目にあっているなど、警部は想像もしていないだろう。 「制限時間六十分というと、第1問の答えを出すリミットは午前八時だ」  利光の声に、ひろみはハッとなった。 「その時刻がすぎれば、きっと次の殺人が起きる」  いまは、七時二十分だ。 「しかし、利光先生」  鹿取が口をはさんだ。 「烏丸刑事も含めて味方は五人、敵はひとりです。これからの対応を冷静に考えれば、新たな殺人はきっと食い止められますよ」 「よくもそんな風に、簡単に考えられるな」  利光は、鹿取に詰め寄った。 「人が殺されたんだよ、きみ。この狭い閉ざされた空間の中でだ。あの壁の向こうの冷凍庫に、凍りついた三条晴香の死体があるんだぞ」 「承知しております。だからといって、どうやればトリック卿の正体がわかるというのです。無理ですよ。相手は知恵も金も、そしてきっと度胸も十分にあるやつなんですから」  鹿取は、議員の腕にそっと自分の手を置いた。 「先生、とにかくこの場はトリック卿が誰かなどと追及せずに、犯人も含めて全員で安全圏へ——つまり外部へ脱出できるよう、努力すべきではありませんか」  製薬会社の社長は、興奮する政治家をなんとか落ち着かせようとした。 「いや、このまま五人がタヌキの化かし合いをやっていてもしょうがない」  利光は、きっぱりと言った。 「誰がトリック卿なのか、ここでハッキリさせてしまおうじゃないか」     2 「少なくとも、私はトリック卿ではありません」  ソファで寝そべっていた池田正子が、急に起き上がって言った。  その唐突さに、そばにいた伊吹もびっくりした様子だった。 「トリック卿は金持ちです」  例のハキハキした口の動かし方で、正子は意見を述べた。 「これだけの家を、まるごと地下に沈めてしまうような装置を作れる上に、一問一億円のクイズを出すのですから、大金持ちに決まっています。その点、私の場合はお金とは縁のない暮らしをして参りましたから、どう考えてもトリック卿にはなりえません」 「それが嘘なんじゃないの」  まともに心配して損をしたという顔で、伊吹が切り返した。 「さっきトリック卿のメッセージにもあったじゃないですか。池田正子は、思わぬことから不労所得を得て……」 「デタラメです」  正子は最後まで言わせなかった。 「第一、私がトリック卿なら、自分でそのようなことを言うはずがありません」 「なるほど」  あんたの言い分は信じないぞとばかりに、伊吹は語尾を軽く上げて『なるほど』と言った。 「それがまたまた嘘だったりしてね」 「いいえ、私は嘘をついたことのない人間です」  正子は頑固だった。 「この六人の中で清潔さを誇れるのは、この私だけです。あとの人はみんな不潔です」 「まいったね」  伊吹はひろみを見た。 「この可愛い烏丸刑事まで不潔だと言われたら、ファンのひとりとして、ぼくはとても黙っていられないな」  そういう伊吹を、正子はキッと睨《にら》んだ。 「よろしいですか、警察官だから清潔ということはないのです。それが証拠に、警察官の犯罪がいっぱい表面化しているではないですか」 「あなたねえ」  こんどは鹿取が、うんざりした表情で言った。 「清潔清潔とおっしゃるが、あなたのいう清潔とは、いったいどういうことなんです」 「不潔の反対です」  まじめな顔で答えが返ってきたので、鹿取は頭を抱えた。 「鹿取さんご自身のことを考えれば、不潔とは何かがすぐにおわかりでしょう。で、清潔というのはその反対の概念です」 「なんだと」  鹿取は頭に手を当てたまま、顔を起こした。 「あなたのような大企業の社長は、つねに弱い立場の労働者を酷使し、消費者を欺いて巨万の富を得ます。そうした支配階級は不潔です。私ども『戦争を憎み、平和を愛する会』は、こうした強者の立場にある人間を糾弾し続けて参りました」 「黙れ!」  鹿取が怒るより先に、いらだちの激しくなった利光がテーブルを拳でたたいた。 「あんたのくだらん平和論を聞いているひまなど、今はない」 「いいえ、このさいだからハッキリと言わせていただきます」  正子の怒りはふたたび利光に向けられた。 「真の政治家とは、貧しさの尊さを知る者です」 「たわけたことを……。金の力がわからんやつに、日本を動かせるものか。庶民感覚しか持っていないのなら、政治家などやる資格はないのだ」 「まあ、なんて横柄な」  正子は目尻《めじり》を上げた。 「利光さん、議員バッジをおはずしなさい。そんな考えのあなたこそ、政治をやる資格はありません。いっそのこと、トリック卿に殺されてしまえばいいのです」  さらに正子は、返す刀で伊吹に立ち向かった。 「伊吹さん、私はあなたの恋愛小説を、本屋でパラパラと拾い読みしたことがありますが、とても不潔な感じがしました」 「それはどうも」 「どうも、じゃありません。まじめにお聞きなさい」 「聞いてますよ」  伊吹は腹立ちを抑えて背筋を正した。 「あなたの小説の中には、男女の猥褻《わいせつ》な行為を描いた場面が多く出てきます」 「ようするにセックスシーンのことでしょ」 「そもそも、その言葉! そういう言葉を女性の前で平気でしゃべれる神経は、私にはとうてい信じられません」 「ちょっと待ってくださいよ、池田さん。いまどきセックスを無視した恋愛小説なんて、魅力がありますか。ガラス越しのキスシーンとか、数寄屋橋でのすれ違いでも書いてろっていうんですか」 「数寄屋橋?」 「わからなきゃいいですよ」  伊吹は憮然《ぶぜん》として言った。 「とにかくね、池田さん。ぼくはやっと理解できましたよ」 「なにがです」 「あなた、おいくつですか」 「三十九ですよ、それがなんです」 「その年で、まだ処女でしょ」 「まっ」  正子は絶句した。 「来年は四十だというのに、女の歓びひとつ知らないから、すばらしい理想論がぶてるんだ。ぼくは感激しましたよ。無形文化財に認定してあげたいくらい、あなたはピュアな女性だ」 「いまのは女性差別の発言です。撤回しなさい」  正子は、怒りで顔を真っ赤にした。 「いちいち、そうしたことに目くじらを立てていなさいよ。それが楽しいんならね」  伊吹は吐き捨てた。 「池田さんには申し訳ないが、ぼくはトリック卿はやはりあなただと思う」  彼は断定した。 「清潔好きのあなたは、ぼくら不潔な人間が許せない。それで、この世から抹殺しようと考えている。どうです、ズバリでしょ」     3 「トリック卿が誰かという議論もたしかに必要でしょうが……」  伊吹、利光、正子の三人の険悪なやりとりをさえぎって、鹿取が口を開いた。 「とにかくいまは、第1問の答えを急いで出さなければならないんじゃないですか」  時刻は七時半を回っていた。 「いや、私は賞金の一億円がほしいのではない。もう金なんてどうでもいいんですが、トリック卿の指示にしたがわないと次の殺人が怖い」 「それは逆でしょう」  伊吹が反論した。 「早く答えを出してしまえば、トリック卿はそれだけ早く次のステップへ移れます。つまり、第二の殺人にね」 「そうか……」  鹿取はため息をついた。 「それにしてもトリック卿は、問題の正解をどのようにして発表するつもりなんでしょう」  成瀬智子が控えめな口調でたずねた。 「なるほど、そういえばそうだ」  鹿取も首をひねった。 「たとえば、二人同時に正解を言ったとして、どちらに一億円を与えるのか、あるいは折半するのか、そうしたジャッジを、正体を現さずにどのように告げるのか。わかりませんな、これは」 「じゃあ、どうしろというんだ!」  また国会議員が怒鳴った。 「このまま指をくわえて、ひたすら二人目が殺されるのを待てというのか」 「待っているうちに寝ちゃいそうだな」  伊吹は、両腕を上に伸ばしてあくびをした。 「もう外はすっかり朝ですよ。ぼくなんかは、ふだんから昼夜逆転した仕事のサイクルなので、まだ何とかなっているけど、先生や社長は眠いでしょ。それに、健全な暮らしを送られている池田さんも」 「こんな状況で眠れるもんか」  利光は吐き捨てた。 「自分が殺されるかもしれないときに、枕を高くして寝られるわけがないだろう」 「そういえば……」  ひろみが作家の伊吹を見た。 「孤島や山荘に閉じ込められるミステリーでは、どんなに恐ろしい殺人が連続して起きても、夜になれば、登場人物は平気で部屋に閉じこもって寝ちゃうんですよね」 「そして、朝になれば誰かが殺されている」  伊吹がふっと笑みをもらした。 「でも、いざ現実になってみると、絶対にそんなこと、できないわ。フラフラになって倒れるまで、とてもじゃないけど眠ることなんてできない」 「烏丸刑事のいわれるとおりです」  鹿取は言った。 「とくに刑事さんに先に寝られてしまったら、私たちは不安でたまりませんからね」 「しかし、起きていれば腹もへる」  伊吹は提案した。 「どうです。ここで、朝ご飯ということにしませんか」 「朝ご飯だと?」  利光は信じられないという顔をした。 「きみはよく食欲が出るな」 「きのう、横川駅で釜めしを買ったあとは、ロクなものを食べてませんからね」 「何か作ってきましょうか」  すっかり別人のように変身した成瀬智子が、厨房へ向かおうとした。  だが、途中で彼女は引き返してきた。 「ごめんなさい……だめ。やっぱりあそこへは行けません。三条さんが閉じ込められている冷凍庫のそばへは……」 「それはそうですよね。じゃ、私がやりますから、みなさんはここで待っていてください」  職業柄、いちおう死体に対する免疫のあるひろみが立ち上がった。 「あの、烏丸さん」  鹿取が声をかけた。 「冷凍庫に保存されていた食料は、気分的にいっても遠慮したいですな。それから、もうひとつの冷蔵庫にしまってある食べ物も、ちょっとね。いくら毒殺はしないとトリック卿がいっても、あらかじめ用意されていた料理を食べる気には、みなさんもなれないでしょう」 「それなら、簡単にインスタントラーメンにしましょう」  ひろみが言った。 「厨房の戸棚に、かなりの数がしまってありましたから、大きな鍋《なべ》でいっぺんに作っちゃいます。そうすれば、仮にトリック卿が嘘つきで、やはり食べ物に毒を仕掛けていたとしても、自分もいっしょに食べなくてはならなくなります」 「つまり、食べるのを拒否した時点で、その人間が犯人ということになるわけですな」 「ええ」 「なるほど、それは名案だ」  鹿取はうなずいた。 「烏丸さん、これからの飲み食いは全部その方式でやりましょう。個別の食事を摂らずに、みんなで同じ鍋をつつき合うというやり方を」  ひろみがラーメンをゆでると、その大鍋を鹿取が手伝ってラッセルの間に持ってきた。 「食欲のない人も、最低一口は食べる。これが、毒殺防止のルールです。残すのは自由ですが、絶対に一口は食べてくださいよ」  鹿取はそう言いながら、鍋から麺とスープを玉杓子で各自の器によそった。 「水も同じやり方で飲むのがいいですね」  伊吹は、さきほどまでワインの入っていた花びら型のデカンタを指さした。 「すみませんけど、烏丸刑事」  伊吹の『烏丸刑事』という呼び方には、まだなんとなく彼女をからかっている響きがあった。  見た目から、どうしても刑事だという実感が沸かないのだろう。 「お使い立てして申し訳ないが、あなたがこのデカンタとグラスを洗ってきてくれますか。それがいちばん安心だから。で、冷蔵庫にあったミネラルウォーターを、ここに入れてきてくれると嬉しいんだけど。あれは瓶詰だから安心だろう」 「わかりました」  ひろみは再び厨房に行った。  そして、流しでグラス類を洗いながら、もう一度あたりを見回した。  厨房、客室、ラッセルの間、そして洗面所や浴室というふうに、一階のスペースは大きく四つに区分されるが、この厨房は暖炉のある広間と洗面所に続く廊下の両方に出入口がある。  その出入口には簡単なドアがついていて、広間や廊下に対しての目隠しの役を果たしていた。  だからといって、三条晴香の死体を凍結させるという大胆な行為を、この場所で平然とできるものだろうか。 (それに……)  ひろみは考えた。 (氷漬けにされたのがこの場所だとしても、彼女が殺されたのはどこなんだろう)  冷凍庫の奥から発見された晴香の姿は衝撃的だったが、彼女の直接の死因が凍死であったとはかぎらない。  むしろ絞殺か毒殺か……とにかく、別の方法で殺された上で氷の柩に閉じ込められた、と考えるのが自然だ。  あるいは、殺すまでに至らなくても、睡眠薬で眠らせてから凍らせたのかもしれない。  その方法に関しては、県警の正式な検死を待ってから結論を出さなければならないが、トリック卿がどこで彼女を襲ったかという点については、自分がしっかり調べておかなければならない。  ひろみは、そう思った。  洗ったグラスを拭き終わると、ひろみは死体の入っている業務用冷凍庫の隣りにある、ふつうの家庭用冷蔵庫を開けた。その中に瓶詰のミネラルウォーターが入っているのだ。  ついでに氷のストックを取り出す。  このまま使うのは心配だから、氷のキューブを全部流しに開けて、あらたに水を注ぎ、冷蔵庫のフリーザーに戻した。  眠気覚ましのためにも、いずれこの氷は必要になってくるだろう。  そのとき、ひろみは重要なことに気がついた。 (もう……私って、どうかしている)  ひろみは自分の頬をたたいた。 (こんな大きな矛盾に気がつかなかったなんて)     4 「ところで、トリック卿の出した第1問だけど」  食事をおえると、伊吹が話し出した。 「『いかにして彼女は氷の柩に閉じ込められたか』という設問は、ぼくたちにどういう答えを要求しているんだろう」 「私もそのことを話そうと思っていました」  グラスの水を一口飲んで、ひろみが言った。 「みなさんは、三条さんの氷漬けの姿を見て不思議に思われませんでしたか」 「不思議とは?」  伊吹が聞き返した。 「三条さんが私たちの前から姿を消したのは、真夜中の十二時すぎです」 「ああ、うそつき荘が雪の中に沈んで大騒ぎになり、みんなで手分けして出口を探しはじめた。そのときから見かけないんだもんな」 「それから死体の発見まで、およそ七時間。あの強力な業務用冷凍庫なら、人間ごと凍らせてしまうにじゅうぶんな時間かもしれません。では、三条さんを入れた容器はどこに行ったんでしょう」 「つまり、氷の柩となる型枠のこと?」 「そうです」  ひろみは伊吹にうなずいた。 「それは、トリック卿がみんなの隙をみて取り外したんじゃないか。なにしろぼくらは、互いの行動に目を配る余裕もないほどパニックしていたわけだから、厨房がみんなの死角となった時間帯はいくらでもあった。そのチャンスをねらって、トリック卿は氷の柱から型枠をはがしたんだ」 「伊吹さん」  ひろみは、なぜわかってくれないのかという表情で、作家を見た。 「いいですか、氷の元の形は何でしょうか」 「水に決まっているじゃないか」 「それでは、凍る前の状態を想像してください。三条さんがああいう形になる前は、まず水——『氷』ではなくて『水』の中に浸かっていたわけです。そうですよね」  伊吹はうなずいた。 「ところが、三条さんの死体は、立ったままの格好で氷の柱に閉じ込められていました」 「そうだよ。ちょっとうなだれ気味にね」  伊吹は、言ってからゾクッと身震いをした。 「その姿を観察してわかったことがひとつあります。それは、彼女の体が氷の柱の中で後ろの方に偏っていた、という事実です。さらに彼女の足は、氷の床面から浮いた形になっていました」  蓮見サマーナだった成瀬智子が、しゃべり続けるひろみをじっと見つめていた。 「それらの状況は、三条さんが棺桶のような箱の中に、あおむけになった形で凍らされたことを示しています」 「なるほど」  うなずいたのは鹿取である。 「ところが、いくら業務用で大きいといっても、あの冷凍庫には、人を横に寝かせて凍らせるスペースなどありません」 「かといって、棺桶型の容器では縦にしたら水がこぼれるわけですな」  鹿取は腕組みをして考え込んだ。 「ですからトリック卿が使った型枠の箱は、縦に細長い形で、その上部に水を注ぐための開口部があったと考えられます」  ひろみは続けた。 「トリック卿は、まず冷凍庫の外で作業をしました。気を失っているか、あるいはすでに殺されてしまった三条さんの体を、箱の中に入れる作業です。縦長ですから、押し込むのにはだいぶ苦労をしたでしょう……でも、その割りには、彼女の衣服は乱れていないんですよね」  ひろみは意味ありげに言った。 「それが終わると、次にトリック卿は箱を立てて冷凍庫の中に入れます。その時点では、まだ水は入っていないでしょう。もしも最初から水まで入れていたら、箱はたいへんな重さになり、とてもひとりで扱うことはできないからです。いえ、水がなくても、相当な重さのはずなんですが……」  ひろみは一同を見回した。  みんなの視線と出会ったが、利光だけは、ひろみではなく智子を見つめていた。 「さて、箱を所定の位置に置くと、トリック卿は上から水を注ぎました」 「そして完全に凍らせてから、折りをみて型枠をはずしたってわけだな」 「そう簡単に言いますけど、伊吹さん。アイスキャンディを作るのとは、わけが違うんです」  ひろみが咎《とが》めた。 「三条さんがあのような形で発見されるには、まだいくつかの疑問点があるのです。たとえば、いま仮定したような状況で、高さ一八〇センチくらいのところから水を注ぎ入れるには、どうしてもホースが必要になります。冷凍庫の場所と蛇口までの距離を考えると……そうですね、だいたい五メートルくらいのものがほしいところです。でも、そうしたホースは見つかっていません」 「どこかに隠したんだろう、トリック卿が」 「だけど、ホースで水を注ぐというのは、あまりに大胆すぎると思いませんか。そんな姿を誰かに見られたら、言い訳のしようがないでしょう」 「まあね」  伊吹は短く答えて、自分のグラスにワインを注いだ。  その赤ワインは、いつのまにかもう三本目になっている。 「第二の疑問は型枠のことです」  ひろみはどんな反応も見逃すまいと、五人に均等に目を配りながら話した。 「その型枠は、水がこぼれないような密封性を保ちながら、いったん凍ったあとは、氷から簡単にはがせるような材質でなければならないわけです。仮にプラスチック・パネルで箱を組み立て、外から隙間を目地《めじ》でふさいだにしても、いざはがす段階で、きれいにとれるとは、とても思えません。水の氷結力はすごいものですからね」  池田正子はメモをとりながら、ときおり天井を見上げてはため息をもらした。  沈黙が周囲を支配した。 「それで……」  かぼそい声で、成瀬智子がたずねた。 「刑事さんは、そうした疑問に対する答えをお持ちなんですか」 「二つのケースが考えられます」  ひろみは即座に答えた。 「第一は、トリック卿がひとりではないという可能性です」 「なんだって!」  利光が叫んだ。 「トリック卿がひとりだけじゃないって」 「ええ」  ひろみは静かにうなずいた。 「いま申し上げたような作業をすみやかに、しかも人目にふれずに行うのは、ひとりではかなり難しいことです。ところが、共犯者の数が多くなればなるほど、複雑な作業もスムーズにできるし、目撃者を現場から遠ざけておくこともできます。つまり、極端なことを言ってしまえば」  捜査一課の女性刑事は一同を見回した。 「もしも、私以外のみなさん全員がトリック卿だとすれば、私の行動だけマークしておけばよいことになります」 「すごい発想だな、それは」  伊吹が笑った。 「いや、冗談じゃないぞ」  利光がやり返した。 「この私と烏丸刑事以外の全員がトリック卿かもしれない。どうなんだ、きみたち」 「利光先生、そんな小説みたいな筋立てだったら、ぼくは喜んでこの事件のドキュメントを書きますけどね。でも現実とは、そんなに突飛なものであるはずがないんです」  異様におびえる国会議員を、若い作家はやや馬鹿にしたような目で眺めた。 「それで第二のケースとは、何ですか」  メモを持ったまま池田正子がたずねた。 「第二のケースは……」  言いかけたところで、ひろみは急に口をつぐんだ。 「そうか……」  ひろみは、宙に目を泳がせながらつぶやいた。 「どうしたんです」  鹿取がきく。 「わかりました」 「なにが」 「トリック卿が、あのような第1問を出した意味がです」  ひろみは顔を上げた。 「『いかにして彼女は氷の柩に閉じ込められたか』——こうした質問を出して、私たちに賞金を与えていくなんて、このゲームはどこか不自然だと思っていました。それに、さっき鹿取さんが指摘されたように、問題を出したはいいけれど、採点は誰がするのだという疑問もありました。でも、いまわかったんです。トリック卿はクイズごっこを楽しんでいるんじゃない」 「じゃあ、何なんだね」  利光がきいた。 「質問に対する議論を戦わさせることで、誰がどこまで真相に迫っているか——トリック卿はそれを見極めようとしているんです」  伊吹と鹿取が顔を見合わせた。 「正解者に賞金一億円などというのは、それこそ大ウソだと思います」  ひろみはきっぱりと言った。 「トリック卿なる人物は、この中の三人を——いえ、あと二人を、ゲーム感覚ではなく、もっと現実的な理由で殺すつもりでいるはずです。その意図をカモフラージュするために、トリック卿はああいう質問を……」 「待て!」  彼女の言葉の途中で、利光太郎が叫んだ。  驚いて、みんなが彼を見た。 「おい、きみたち」  国会議員は壁の方にうつろな目を向けていた。 「みんな腕時計をはめているかね」  池田正子以外の五人がうなずいた。 「いま何時だ」  一、二分の差はあったが、誰もが、朝の八時まであと数分という答えだった。 「私の腕時計も七時五十九分を指している。だが、あれを見ろ」  利光はアンティークな柱時計を指さした。  それは、いつのまにか九時ちょうどを指して動いていた。 「あの時計は、夜中の十二時に建物が沈んだときの振動でいったん止まったが、そのあと二時すぎに烏丸刑事が正しい時刻に合わせておいたはずだ」  ひろみはうなずいた。 「たしかに、あの時計はさっきまで正しい時刻を示していましたよ。三条さんの死体を見つけるころまではね」  と、伊吹も証言した。 「そうだろう。ところがきみ、いつのまにか一時間も針が進んでいるんだぞ。これは、いったいどういうことなんだ」  利光は声を上ずらせた。  ひろみは、急いで柱時計のところに駆け寄った。そして、青ざめた顔で振り返った。 「みなさん、これを見にきてください」  ひろみは振り子の奥を指さした。  小さな白いカードが立て掛けられていた。 「また、トリック卿からのメッセージです」  カードには、氷の柩の中に残されていたものと同じ筆跡で、短い文章がしたためられてあった。 ————————————————————————————————      次の犠牲者の死亡推定時刻      いまから、およそ一時間後      (ただし、多少の誤差はあり) ————————————————————————————————     5 「やっぱりこの中にトリック卿がいるんだ」  利光がテーブルを叩いた。 「柱時計の針を一時間進ませて、次の殺人が起きる時刻を示したやつが……人殺しがこの中にいる。こんなことは我慢がならない。烏丸刑事、一一〇番をしてくれ」 「電話はどこにもないんです」  さきほどからの利光のうろたえぶりを不思議に思いながら、ひろみは答えた。 「じゃあ、誰か携帯電話を持っていないか。鹿取さん、あんたどうなんだ」 「いや、私はそういうのは……」 「伊吹君、きみは作家だろう。携帯電話くらい持ってないかね」  伊吹も首を横にふった。 「持っていたとしても、トリック卿がいうように、山奥の、しかも雪の下に埋もれた家の中からでは、使いものにならないでしょう」 「烏丸刑事は? 警察無線とかないのかね」 「あればとっくに使っています」  そう答えてから、ひろみは単刀直入にたずねた。 「教えてください、利光さん。さっきから、なぜそんなに脅えているんですか」 「…………」  利光は荒い息を繰り返していた。 「怖いのはみんな同じなのに、まるで次の犠牲者は自分だと、勝手に決めていらっしゃるみたいじゃありませんか」 「そのとおりだよ」  利光は椅子を蹴倒して叫んだ。 「なぜなら、次に殺されるのは、この私とわかっているからなのだ!」 「どうして」 「私は、トリック卿が誰であるかを知っている」  えっ、とひろみは声をあげた。  他の四人も息を呑んだ。 「誰なんです」  きいたのは伊吹だった。 「それは、ぜひ本人の口から言ってもらおうじゃないか」  国会議員はいきりたっていた。 「そいつは、私に大変な怨みを抱いている。なぜ三条晴香を殺したのかは知らないが、次の標的は私にちがいない。こっちも身に覚えがあるから、間違いはないんだ」  鹿取、伊吹、池田、成瀬——その四人が、おたがいの顔を見つめあった。 「こんな時計がなんだ。死亡推定時刻がなんだ。ふざけるな!」  利光は柱時計の蓋を開けると、ヒステリックな動作で針を一時間戻した。  時計は正しい時刻——午前八時二分を指して動きはじめた。 「午前九時までに私を殺すと宣告したつもりだろうが、そうはいかない。さあ、自分がトリック卿であると、早く白状しないか……それとも、最後まで白を切りとおすつもりか」  利光は四人を順番に睨《にら》んだ。 「よし、わかった。もういい」  彼はテーブルに背をむけて、一階の客室部分の方へ歩きはじめた。 「どこへいくんです」 「自分の部屋だ」  利光はふり返って、ひろみに答えた。 「私は部屋に閉じこもり、内側から鍵をロックしておく。決して私には手を出させない。殺すなら、他の人間を先にやってもらおうじゃないか。……それから烏丸君、きみも刑事なら、他の四人を絶対この場から離れさせないでくれ」 「その前に、トリック卿は誰だと思っているのか、それを教えてください」  伊吹がたずねた。 「ああ、教えてやろう。こいつだよ、蓮見サマーナだ」  利光は成瀬智子を指さした。 「トリック卿のメッセージにあっただろう。蓮見サマーナを超能力者として、世に出そうとしていた男がいると……あれは私のことなのだ」  ひろみは、そう主張する利光と、名指しをされた智子の顔とを見較べた。  成瀬智子は、あくまで表情を動かさない。 「なぜ、政治家のあなたが、蓮見サマーナを売り出さなければならなかったのです」  質問したのは池田正子だった。 「情報を探るためだ」  立ち止まったまま、利光は答えた。 「情報?」 「そうだ、与党閣僚級の情報だ」 「どういうことです」 「まだ、私が野党の力に幻想を抱いていたころ、自分の存在をアピールするために、あの手この手で閣僚スキャンダルを暴露していた時期があった。そうした国会での爆弾質問は、私のトレードマークでもあったのだが、そのうちに私は、女性占い師を使って政敵の動向に探りを入れることを思いついた」  ヘビースモーカーの鹿取が、またタバコを取り出して火をつけた。 「ふだんは権謀術数に長《た》けた政治家も、意外なところで油断をする。その一例が、占い師に対しての警戒心の薄さだ。いったん信じたら、驚くほど素直に胸の中をしゃべってしまう、というガードの甘さだな。まして、その占い師が肉体的魅力をもった女性なら、なおさら効果的だ」 「つまり、彼女に色仕掛けをさせたということなんですか」  古めかしい言葉を使って、正子が追及した。 「そういう表現もあろうかと思う」 「まあ、なんという……」 「不潔な男——そう、言いたいのだろう」  利光が先回りをした。 「このさい、好きに言ってもらおうか。そもそも、乳房をあらわにしてお告げをするというのも、私のアイデアだったのだからな」  みんなが成瀬智子の反応をうかがった。  が、あくまで智子はポーカーフェイスを装っている。 「見てのとおり、この子はもともと純朴な田舎の娘だった。東北の小さな町で、町会議員の選挙事務所にいたところを目をつけたのだ。この子は育つと思った。私の秘密兵器としてね。そして、スカウトしてから一年後、蓮見サマーナは与党の幹部をターゲットとして実働を開始した。その成果は驚くべきものだった。名前を出せばびっくりするような大物が、ゾロゾロと彼女の情報収集網に引っかかってきたのだ」 「本当ですか、成瀬さん」  池田正子が厳しい口調で、智子に迫った。 「本当のことだとしたら、あなた女として恥ずかしくないの。自分の体をそんなふうに使うなんて、女性差別者の手先になっていたわけなのよ」  その言い方のほうが、どれだけ相手を傷つけるかなど気にもせず、正子は智子を咎《とが》めた。 「とにかく一時的にみれば、私の作戦は大成功をおさめた」  利光は、正子のやりとりを無視して続けた。 「そのころの蓮見サマーナは、歌舞伎の隈取りのようなメイクではなかった。髪の毛も、毒々しい金髪のカツラなどかぶっていなかった。化粧はやや派手という程度に抑え、衣装だって占い師にしては珍しいくらいにフォーマルな格好をさせた」 「しゃべり方はどうだったんです」  鹿取がたずねた。 「それもごく普通だった。ただし、カリスマ性を持たせるために、どんなときでも絶対に笑うことは許さなかったが」 「そうだったんですか……それなら、先生の話も納得がいきますよ」  と、伊吹がうなずいた。 「智子の素顔は地味だが、ごらんのとおり顔立ちそのものは整っていたから、それなりの化粧をすると、智子は本当に魅力的だった」  利光は複雑な表情で続けた。 「だから、女好きの政治家は、ひとたまりもなかった。将来の展望を占ってもらえる上に、もうひとつの欲望も満たされるわけだからな」  智子は、依然として無表情である。  カリスマ性を保つための演技が癖になってしまったのだろうかと、ひろみは彼女から目が離せなかった。 「おかげで私は、いろいろな政治家の弱点を握ることができた。が、この戦法は長くは続かなかった。蓮見サマーナという占い師のバックに、私がいることがバレてしまったからだ」  利光は軽い吐息をついた。 「ドロドロした裏のやりとりがあって、最終的には、もちつもたれつの取引が成立した。私を与党内に取り込むかわりに、過去につかんだ未発表のスキャンダルはすべて握りつぶせ、というのが相手の指示だった。私はその条件に応じ、残る問題は蓮見サマーナの処遇となった」  国会議員は、素顔の心霊術師に目をやった。 「私は、智子にこう言った。なんとか別の道で食べていけるよう、後の面倒は見る。だから、政治の世界からは消えろ、と。そして、もしもこれまで知り得た政治家たちの秘密をバラしたら、おまえ本人はもちろん、田舎の両親も生きてはいけないぞ、とね。まあ、『生きていけない』とは言葉のあやで、いろいろな意味での警告だったわけだが」  池田正子が何かを言いかけたが、利光はさえぎるようにして後を続けた。 「しかし、智子は私の助力を断り、去っていった。その後、マスコミに登場した新しい蓮見サマーナの姿を見て、心底驚いた。肩書も占い師ではなく心霊術師と変わっており、なによりもびっくりしたことは、そのメイクと獣のようなしゃべり方だった。つまり、私に対するすべての怨念を、顔と声とに表していたからだ」  沈黙が漂った。 「失礼ながら……」  ポツンと、鹿取が言った。 「そうした話を、すんなりと信じていいものでしょうか。政治家にとって致命傷になるエピソードを、初対面の私たちに向かってそこまで打ち明けられるとは……」 「無理に信じてくれとは頼まない」  ぶっきらぼうに利光は言った。 「ただ、本来なら口にはできないような内幕を洗いざらいしゃべったのは、自分が殺されてしまっては元も子もないからだ……この女にな」  利光は成瀬智子を指さした。 「どういういきさつで、私への怨みを再燃させたのか知らないが、智子は私を殺す気でいる。だが、警視庁捜査一課の刑事のいる前で、ここまで内情をしゃべってしまったのだ。もう、智子も計画の実行には移れまい。私はこれから部屋に閉じこもる。後の処置は烏丸刑事にお任せするから、この女を何とかしてくれ。彼女を監禁状態に置いてくれるまでは、私は自分の部屋からは絶対に出ないからな」  利光はそう言い捨てると、踵《きびす》を返してラッセルの間を出ていった。     6 「成瀬さん……」  利光が去ったあと、鹿取が穏やかな口調で智子に語りかけた。 「蓮見サマーナになったときは、本来の自分がどこかへ行ってしまうというような嘘は、もうやめにしませんか。利光さんの話で、だいたいあなたの役回りも見えてきた」 「いまの話は嘘です」  智子は静かに言った。 「嘘をついているのは私ではなく、利光さんの方です。私はここに来るまで、あの人とは一度も会ったことがありません」 「しかし、政治家がああいう類いの嘘をつくとは思えないのだがね」 「政治家だから、ああいう嘘を平気でつくんです」  智子は譲らなかった。 「彼は私のことをトリック卿だと言っていましたが、私は利光さんこそトリック卿だと思います。ああやって、自分の部屋に閉じこもって、次の殺人の準備をしているのです。部屋の鍵を内側から閉めるなどとわざわざ断ったのも、そうした準備を他人に見られたくはないからです」 「そう疑い出したらキリがないな……どう思いますかね、プロの捜査官は」  鹿取が、ひろみの意見を求めた。 「利光さんの言い分は、説得力に欠けます」  ひろみは答えた。 「あの方の言葉を客観的に裏付けるものは、いまのところ何もありません。利光さんの話がすべて真実だという可能性は、すべてが作り話である可能性より高くもなければ、また低くもありません」 「なるほど、冷静なご意見ですな」 「全員が真実を語っているならともかく、誰が嘘をついているかわからない状況で、特定の人物を疑ったり、またその逆に信じたりすることは、一切できません。したがって私は、利光代議士のリクエストに応じて、みなさんに対しこの場から動くなという命令もできません」 「たしかに、ずっとここを動くなというのは無理な話です」  池田正子が立ち上がった。 「どちらへ」  ひろみがきいた。 「トイレですよ」  正子が答えた。 「人が殺されようが何しようが、自然現象は我慢できません」 「なるほどね」  伊吹が苦笑した。 「ぼくがいままでに読んだ『閉ざされた別荘モノ』のミステリーでも、さすがにトイレのシーンは出てこなかったな」 「私を殺す予定の人がここにいるなら言っておきます」  正子はまじめな顔で言った。 「少なくとも、ご不浄にいるときは襲わないでください。最低の礼儀です」  そういって、彼女は二階のトイレへ上がっていった。 「まったく、真面目なのかギャグを飛ばしているのか、全然わからないな、あの人は」  伊吹が首を振った。 「ユーモアが完全に欠落した人間は、かえって滑稽に映るものですよ」  製薬会社の社長である鹿取は、そういうと、自社製品のビタミン剤をポケットから取り出して、二粒を口の中に放り込んだ。 「正直いって、そろそろ眠気も限界にきた。アルコールをだいぶ飲んでしまったのでね。それに、トリック卿の声のメッセージがしばらくないので、気分的に緩んでしまったのかもしれないが」 「しかし、予告された第二の殺人まで、そんなに時間はありませんよ」  伊吹は柱時計を見た。  八時十五分を回ったところだった。 「こういう提案はどうですか」  伊吹が身を乗り出した。 「これから全員がそれぞれの部屋にこもって、とにかく仮眠をとるんです。このまま睡眠もとらずに張りつめた精神状態を続けたら、かえってその方が危険です」 「だけど、眠っているうちに何が起きるかわからないでしょう」 「だからこうするんですよ、ひろみちゃん——じゃなくて、烏丸刑事。あなたは目覚まし時計を持っていますか」 「ええ、持っていますけど」 「じゃあ、その目覚ましをお昼の十二時に合わせてくれませんか。とにかくその時刻までグッスリ寝ましょう。もちろん、部屋の中からしっかり鍵を掛けて。そして十二時がきたら……」 「私がみんなを起こすんですね」 「そういうことです」  伊吹がうなずいた。 「烏丸刑事が、一部屋ずつ声をかけて起こして回るわけです。それまでの間は、何が起きても烏丸刑事以外の声では絶対にドアを開けない。このルールを全員で守れば、安心して眠れるじゃないですか。そして体力と気力を回復したところで、お昼からもう一度、脱出方法を考え直すんです」 「私は賛成してもいいな」  あくびをしながら鹿取が言った。 「私もそれでけっこうです」  細い声で成瀬智子も同意した。 「わかりました。それでは、利光さんと池田さんにも、いまの話を伝えて、全員で一斉に仮眠をとりましょう」  ひろみが結論を下した。     7  各部屋の点検を終えて、ひろみが自分の部屋に入ったのは午前八時五十分だった。  洗面所の冷たい水で顔を洗い、シャキッとしたつもりだったが、ベッドに体を横たえると、さすがに睡魔が襲ってきた。 (ドアロックはしたっけ)  ひろみはもう一度起きてたしかめた。  廊下へのドアは、ノブの中央にあるボタンを押してロックできる上に、頑丈な差し込みのカンヌキがついていた。  さらに、ドアチェーンまで掛かるのである。  もっとも、これらはうそつき荘の主であるトリック卿が準備した部屋であるから、どんな細工が施されているかもしれない。  そう思って、ひろみは六人の部屋すべてを念入りに点検したのだ。  ドアの方は問題がなかった。  三重にロックをかければ、廊下の外からこれを開けることはまず無理だった。  しかも、ドアの材質は分厚い樫の木である。これを壊して侵入しようとすれば、その物音で全員が異常に気づくだろう。  一方、各部屋にひとつずつある窓には、人はもちろん、子猫一匹出入りできないような、狭い間隔の鉄製の飾り格子がついていた。  これは、金具で壁に頑丈に取り付けられており、侵入者にとって都合よくスッポリと抜けたりする代物《しろもの》ではなかった。  さらに窓のすぐ向こうは、雪の壁である。  ゴメスという名の運転手が、上から車で踏み固めたせいか、その圧縮された密度は、とても人が掘って進めるものではない。うそつき荘は完全に雪の中に沈んでいるのだ。  あとは室内に、隠された出入口があるかどうかが問題だったが、天井にも壁にも床にも、特別な仕掛けは見つからなかった。  また、不審人物があらかじめ隠れていないかと、収納棚の中やベッドの下まで覗《のぞ》いてみたが、人影も細工の跡もない。  こうした点検作業を各人の部屋で繰り返し、みなを納得させてから、ひろみは自分の部屋に戻ってきたのだ。  自室の戸締まりを確認すると、ひろみはデイパックから旅行用の目覚まし時計を取り出して、十二時に合わせた。  が、思い直して十一時に変えた。  伊吹という男にしても、百パーセント信用するわけにはいかなかった。  十二時という時刻は、あくまで彼の都合で決めたものである。そこには、何か意図があるのかもしれない。  捜査官であるひろみとしては、はいそうですかと単純に彼の指示に従うわけにはいかないのだ。  彼女は、伊吹の提案よりも一時間早く起きて、邸内の様子を探ろうと考えた。若いから、二時間程度の仮眠をとれば、十分にリフレッシュできる自信があった。  何か異変が起きればすぐ対応できるように、ひろみは着替えをせず、そのままの格好でベッドに横になることにした。  セミダブル・サイズの分厚いマットレスは適度に固く、寝心地はよさそうだった。フワフワと柔らかいベッドが嫌いなひろみには、この手のタイプはありがたかった。  時刻は八時五十五分。  柱時計に残されたトリック卿のメッセージでは、まもなく第二の殺人が起きる時刻である。  九時ちょっとすぎまで様子をうかがって、何もなければそのまま寝よう。ひろみはそう考えて、あと十分ほど睡魔をこらえることにした。  枕元にはテレビがあったが、これが何も映らないことはさきほど確認してわかっていたので、しかたなく、ひろみは天井を見つめた。  財津警部や、同僚のガイジン風刑事フレッドの顔がまぶたに浮かんだ。 (あーあ、ふたりに会いたいなあ)  ホームシックならぬ職場シックにかかって、ひろみの目に涙がにじんできた。  捜査一課の刑事として、彼女はさまざまな難事件を解決してきたが、それはあくまで捜査官としての第三者的な関わり方でしかなかった。  ところが今回は、まさに自分自身が事件の渦中に巻き込まれ、しかも仲間の応援はまったく頼める状況にない。  おまけにトリック卿と名乗る人物は、あと二人を殺す予定であることを宣言している。  あまりにも、ひろみには荷の重いシチュエーションだった。  階下で柱時計が鳴りはじめた。  九時だ。  ひろみは耳をすませた。  何事も起こらない。  五分が経ち、十分が過ぎた。  やはり、自室に立てこもる作戦がよかったのだろうか。さしものトリック卿も、狙《ねら》った人物に手が出せないようだ。  そんなことを思っているうちに、いつのまにか烏丸ひろみ刑事は、ウトウトと眠りの底に引き込まれていった……。     8 「ハハハ、みなさん、ごぶさたをした。私はトリック卿である」  びっくりして、ひろみは飛び起きた。 「あらかじめ予告しておいたとおり、第二の殺人が起きた」  しゃべっているのはテレビだった。  いつのまにか自動的にテレビの電源が入っており、画面にはトランプのジョーカーが大写しになっていた。 「さて、ここでみなさんに問題である。『いかにして犯人はその部屋から脱け出したか』——よろしいかな。もう一回だけ繰り返そう。『いかにして犯人はその部屋から脱け出したか』。制限時間はやはり六十分だ。健闘を祈る」  電源が切れた。  ひろみは時計を見た。  午前九時三十分。  長いあいだ眠っていた気がしたが、まだ二十分足らずしか経っていない。  ひろみは大急ぎでドアロックをはずし、廊下に飛び出した。 「成瀬さん!」  向かいの部屋を激しくノックした。蓮見サマーナであった成瀬智子の部屋である。 「烏丸さん」  青い顔で智子が廊下に出てきた。  彼女も白いセーター姿のままである。 「いま、テレビが……」 「あなたの部屋でも?」 「ええ、トランプのジョーカーが大写しになって、第二の殺人が起きたって……」  二人は、池田正子の部屋に目をやった。 「まさか……」  智子がかすれ声でつぶやいた。  ひろみは正子の部屋に走った。 「池田さん!」  ドンドンドンと、ひろみはドアをたたきながら叫んだ。 「大丈夫ですか、池田さん」  何度目かのノックでドアが開き、中から正子がよろめきながら出てきた。 「テレビが、テレビが……」  彼女は、そういうのがやっとだった。  頬は土気色で、恐怖のためか唇も指先も細かく震えていた。  これが演技だったら大したものだ、と思いながら、ひろみは二人の女性をしっかりと見つめた。 「いいですか、池田さん、成瀬さん。私の後を離れずについてきてください」 「どこへ行くの」  正子がきいた。 「下です。男の人たちの部屋です」  手短に答えると、ひろみは階段を駆け下りた。 「伊吹さん」  真っ先に、ひろみは作家の部屋をたたいた。 「よっぽど飛び出そうかと思ったが、きみが来るまではと、待っていたんだ」  伊吹は、スキー用のアンダーウエア姿になっていたが、頭からセーターをかぶりながら廊下に出てきた。 「テレビを見たかい」 「ええ」 「きっと、全部の部屋に共通したビデオ映像が流れるようになっているんだ」 「他の人は」 「わからない」  ひろみは国会議員の利光に割り当てられた部屋に目をやった。  イヤな予感がした。  十中八九、彼がやられた、という気がした。 「利光さん、利光先生」  ひろみはドアをたたいた。 「誰だ」  中から問い質す声が返ってきた。 「烏丸です」  返事をしながら、ひろみは安堵のため息をついた。利光は生きている。 「本当に烏丸君だな」 「そうです。どうぞドアチェーンの隙間からたしかめてください」  疑わしそうな利光の顔がドアの隙間から覗き、やがて彼はドアを完全に開けた。 「テレビは見た」  利光は言った。 「だが、これはフェイントかもしれない」  あくまで利光は疑心暗鬼になっていた。  その目は真っ赤に充血している。 「私はこの部屋からは出ないぞ」 「わかりました」  ひろみはうなずいて、彼の部屋の前を離れた。  残るは鹿取である。  彼の部屋は、廊下をはさんで伊吹の向かい側、そして利光の右隣りに位置していた。ちょうど、二階のひろみの部屋の真下にあたる場所でもあった。 「鹿取さん、起きてますか」  ひろみは、おそらく彼も無事であろうと考え、いままでよりも軽目にノックをした。 「鹿取さん、烏丸です。テレビから流れたトリック卿のメッセージをごらんになったと思いますが、そのことで、全員の無事をたしかめさせていただいています。どうぞ、無事でしたら返事をなさってください」  応答がなかった。  ひろみはノックの手を宙で止め、後ろにいる伊吹をふり返った。  彼も眉をひそめて、ドアに近寄った。 「鹿取さーん」  伊吹が大きな声で呼んだ。  それでも返事がない。 「鹿取さーん、起きてくださーい」  彼はドンドンドンと力いっぱい扉を叩いた。  だが、伊吹の大声にも反応がなかった。  池田正子と成瀬智子は少し離れたところで、息を詰めてその様子を見守っていた。 「どうしたんだね」  自分の部屋の戸口に立ったまま、利光が声をかけた。 「鹿取さんの返事がないんです」  ひろみが答えた。 「返事がない?」  利光が顔を曇らせた。 「それはどういうことだ」 「もしかしたら、ぐっすり寝こんでいるのかもしれませんよ」  と、伊吹は楽観的な意見を述べた。 「なにしろあの人は、ずいぶん酒を飲んでいたからな」 「だけど、あのトリック卿の声で目を覚まさないなんてことがあるかしら」  ひろみは焦っていた。  自分がわずか二十分眠っていた隙に、鹿取が殺されていたら……。 「彼の部屋だけはテレビが作動しなかった、ということも考えられる」  そのように、いくら伊吹がいい方へ解釈しようとしても、ひろみの不安は募るばかりだった。  彼女はさらに何度も大声で鹿取の名を呼び、伊吹といっしょに激しくドアを叩き続けた。  しかし、やはり部屋の中からは何の返事も返ってこなかった。 「ドアを開けましょう」  ひろみは言った。 「どうやって開けるんだ」  伊吹が聞き返した。 「こんな分厚いドアは、簡単に破れないよ。しかも中から金属製のカンヌキが掛かっているんだ」 「みんなで体当たりをしたら」 「無理だよ。それより、勝手口に薪割り用の斧《おの》があっただろう。あれを使ってこのドアをたたき割ってしまうしかない」  斧ときいて、ひろみはギクッとした。  もしも、その斧が消えていたら……。 「じゃ、ぼくが取りにいってくる」 「待って」  ひろみが伊吹を止めた。 「利光さん、すみませんけど伊吹さんと一緒に行ってください」 「私が? なぜだ」 「誰を疑うということではないんですけれど、とにかく鹿取さんがどういうことになっているか、それがハッキリするまでは、みなさんに単独行動をとってほしくないんです」 「オーケー、ひろみちゃん。わかったよ」  伊吹が肩をすくめた。 「それじゃ利光先生、烏丸刑事の指示にしたがって、厨房までぼくとご一緒してもらえますか」 「いやだ」  利光は頑《かたく》なに拒んだ。 「いっしょに斧を取りにいって、その場で君に襲われたらどうする」 「利光先生」  伊吹は両手を広げた。 「蓮見サマーナを疑うだけじゃ足りなくて、こんどは伊吹圭が怪しいというわけですか。娘さんがぼくのファンでいらっしゃるというのに、そのお父さんに妙なことができますか」 「軽口をたたくのはやめろ」  利光は青筋を立てて怒鳴った。 「鹿取社長が生きているのか、それともトリック卿の犠牲になってしまったのか、それがわからないうちは、私は誰も信じないぞ」 「私と行きましょう、伊吹さん」  池田正子が一歩前に進み出た。 「そして、斧は私の手でここへ運びます」 「いいですよ……だけど、ぼくも信用がないもんだ」  伊吹はため息をつき、そして正子について厨房へ向かった。     9  ガシッ、ガシッと鈍い音をたてて、樫の扉に斧が食い込んでいった。  斧を振り上げているのは伊吹である。  その様子を見守りながら、ひろみはジャック・ニコルソンが主演した『シャイニング』のワンシーンを思い出していた。  あれは、狂った男が、部屋に逃げ込んだ自分の妻を襲う場面だが、ここでは鹿取を救おうとして、斧が振りかざされている。  もしも間に合えば、の話だが……。  何度か打撃を繰り返しているうちに、ガシッという音が、ベキッという感じの音に変わり、やがてドアに裂け目が入った。 「もう少しだ」  そうつぶやくと、伊吹は力を込めてとどめの一撃を加えた。  ドアの一部が三角形に割れて飛んだ。  部屋の明かりはついたままだったので、中の様子がすぐに見てとれた。 「ああっ」  後ろからのぞいていたひろみが、絶望的な声をあげた。 「だめ……」  鹿取は、あおむけになったままベッドの上で死んでいた。  一見したかぎりでは、頸動脈《けいどうみやく》などを切断したためによる失血死と見られた。 「信じられないな……」  ひろみと共に部屋の中に踏み込んだ伊吹は、ふり絞った声を出した。 「この凶器は、まるで古典ミステリーじゃないか」  鹿取昭造の首には[#「鹿取昭造の首には」に傍点]、ツララが刺さっていた[#「ツララが刺さっていた」に傍点]。  いわば氷の短剣である。  それが頸部の動脈を直撃したのか、ツララの根元から喉を伝ってベッドへと血が滴り落ちていた。  脈拍ゼロ、呼吸ゼロ、瞳孔散大——  鹿取は死のベールに覆われていた。 「被害者はツララで刺し殺され、しかも部屋の中では石油ストーブが焚かれている……」  伊吹は独り言のようにつぶやきながら、部屋の中を見回した。 「これじゃあ使い古しのトリックだぞ。『消えた凶器』というやつだ。ツララで刺し殺して、ストーブの暖気でそれを溶かそうなんて」  いったんラッセルの間に運び出された石油ストーブは、鹿取自身の手で部屋に戻され、それが青い炎を上げていた。部屋の温度は、セーター姿では暖かすぎると感じるまでに上がっている。 「利光先生、来てください」  ひろみは伊吹のつぶやきには耳を貸さず、大きな声で国会議員の名を呼んだ。  さすがにこんどは、利光もすぐにやってきた。 「伊吹さんと利光先生は、この部屋の中を改めてください。私たち以外に、ほんとうに誰もいないのか、ということを」 「わかった」  二人の男はすばやく室内をチェックした。  といっても、わずか十畳くらいのスペースである。点検はたちどころに終わった。  収納扉の中やベッドの下から、誰かが飛び出してくるわけでもなかったし、機械仕掛けの殺人装置が発見されるでもなかった。もちろん、その痕跡もない。  その間、ひろみは鹿取の死体を点検した。  凶器のツララは、鹿取の頸動脈あたりに突き刺さっていた。  ただし、あくまで『……あたり』という表現しかできない。ひろみは検視官ではないから、断定した物の言い方はできないのだ。  その傷口から出血があったのは事実だし、それが決して少なくない量であるのは、見た目にも明らかだった。  だが、ベッドシーツの濡《ぬ》れ具合からいって、はたしてショック死を引き起こすほどまでの大量出血だったかとなると、それは疑問なのだ。  出血はむしろ体内に滞留しているのだろうか。  いずれにせよ、そうしたことも検視官がいなくては判断のしようがない。 「まいったね」  伊吹の声がしたので、ひろみはふり返った。 「この部屋は完全な密室だよ」 「完全すぎるくらいだな」  利光もあっけにとられた様子でつぶやいた。 「そうだ……そのストーブを消してください」  ひろみは言った。 「できれば、指紋がつかないようにハンカチか何かを使って」  ひろみの指示で、伊吹がストーブの消火スイッチを押した。  カタンと音がして、油芯が落ちた。  県警の救援を求めるのがいったい何時になるかわからないが、できるだけ死体の保存につとめなければならない。そのためには、室温が高くてはまずいのだ。 「このツララは、喉に刺さったままにしておくんですか」  伊吹がきいた。 「いいえ、抜きます」  ひろみは答えてから、ウエストポーチに入れておいた使い捨てカメラを取り出した。  それは、三条晴香の死体が発見されたときに、現場写真撮影のために鹿取から借りたものである。  そのカメラで、こんどは持ち主の死体を撮ることになろうとは、何という皮肉な運命か……。  フィルムの残数は12と出ている。  ひろみは無意識のうちに第三の殺人を想定して、フィルムの使用数を計算した。  まず、ツララが刺さったままの状態で、鹿取の死体をアングルを変えて二枚撮った。  それから凶器のツララを抜いて、そのアップを二枚撮り、それから刺創口をやはり二枚分撮影するつもりだった。  少なくとも、そこまでは手際よくやっておかないと、救援を待っている間に、それこそ凶器が消えてしまうのだ。  ひろみは自分のハンカチを使って、ツララの太い部分を握り、ゆっくりとそれを鹿取の喉から引き抜いた。  すでに脈拍はなかったから、仮にツララが動脈を直撃していても、血が噴水のように噴き出してくる心配はない。  それでもひろみは緊張した。  ツララが抜けた。  固まりきれない血が、わずかにドロッと流れ出ただけだった。  体温でだいぶ溶けたのか、先端部分はかなり丸みを帯びていたが、おそらく突き刺すときは、かなり尖《とが》っていたに違いない。そうでなければ、ここまで見事に奥深く刺さらないだろう。  ひろみは、凶器のツララと、それを抜いたあとの傷口を撮影した。  普通はゾンデと呼ばれる針金状のものを傷口に差し込み、凶器の進入角度を明示する撮影も行うのだが、それは省略した。  さすがにひろみは、鑑識係官のような死体慣れした図太い神経は持ち合わせていなかったのだ。  作業を一段落したひろみは、ふと窓辺に目をやった。  ガラス窓は旧式なネジで内側から完全に閉められていたが、その窓枠に水に濡れた痕跡があった。  水に濡れたというよりは、むしろまとまった量の雪が溶けた跡だ、とひろみは判断した。 これだけの室温にもかかわらず、まだ雪の形をしたものが残っていたからだ。  ひろみは、窓のネジをゆるめて開けた。  鉄製の飾り格子のすぐ向こうは雪の壁である。  格子の合間から圧縮された雪がはみ出しており、その固まりがポロッと窓枠に転がり落ちてきた。窓の開け閉めをしただけで、雪がこすれて崩れ落ちてくる状態なのだ。  窓枠に残った雪の溶け具合からみて、この窓が開閉されたのは、そんなに前ではないはずだ。  開けたのは鹿取自身なのか、それとも犯人か。  鉄格子はしっかりはまったままであるが、ひろみは念のために揺すったり叩いたりして、それが動かないことを再確認した。  鉄格子の向こうの雪も、密度高くギッチリと詰まっている。どう考えても、この窓は犯人の進入路や脱出路にはなり得なかった。  一方で、廊下側の分厚い樫のドアは、三重のロックが掛けられたままの状態だった。  ノブのボタン、金属製のカンヌキ、それにドアチェーンである。  また、室内の天井、壁、床、収納棚の中、どこを点検しても、他の部屋へ通じるようなからくりの痕跡はない。  利光が言ったように、この部屋はまさに完全な密室だった。  入ってくるときは鹿取本人にドアを開けさせたと考えるにしても、それでは、犯人は彼を刺し殺した後、どうやってここから脱出したのだろうか。  まさにトリック卿が出題した第2問の謎が、ひろみの頭を悩ませた。 [#改ページ]   緊急出題 なぜ予定にない人間が殺されたのか     1  ラッセルの間に集まった五人は、疲労とショックで、ろくに口も利けない状況だった。  鹿取昭造の衝撃の死に加え、さらに彼らを絶望の淵《ふち》に陥れる出来事があった。  またしても、柱時計の針が動かされていたのである。  正しい時刻は午前十時ちょうど。しかし、柱時計は十二時を示して動いていた。 「どこまでぼくらを脅かせば気が済むんだ」  伊吹は、大理石のテーブルに載っていた新たなメッセージカードを指で弾《はじ》き飛ばした。 ————————————————————————————————      第三の犠牲者の死亡推定時刻            正午 ————————————————————————————————  ひろみは黙って柱時計のところに歩み寄り、針を正しい時刻に戻した上で、簡単に蓋を開けられないように、ガムテープで完全に封をした。  もうこの時計を使って遊ばせないぞという、トリック卿への意思表示である。 「十二時になると、また人が殺されるんですね」  成瀬智子がつぶやいた。 「ああ、そういうことだろうな」  利光がうなずいた。  彼は、自分ではなく鹿取が殺されたことで、智子に対する警戒をやや緩めたようで、彼女の隣りに座っていても、以前ほどは気にする様子がなかった。 「正午って、いつの正午のことなんです」  利光の向かいに座った池田正子が言った。 「トリック卿が最初に宣言していたのは、三十六時間以内に三人を殺すということでした。つまり、正午といっても、いまから二時間後の正午なのか、それともタイムリミット直前の、明日の正午を指しているのか、二通りが考えられます」 「どうせならば早い方がいいね」  正子の隣りの伊吹が、自嘲的に吐き捨てた。 「こんな状態をあと丸一日も続けていたら、神経がまいってしまう」  ひろみが柱時計のところから席に戻った。  楕円形の大理石テーブルの左側には利光太郎と成瀬智子、右側には伊吹圭と池田正子が並んでおり、その間に座ったひろみは、必然的に議事を進行する司会役のような形になった。 「事態は深刻です」  ひろみは重々しい口調で始めた。 「第一の殺人は、まだ私たちがトリック卿の言葉を半信半疑の状態でいたときに起きました。たしかに油断もありました。しかし、第二の殺人は違います。あれだけ厳重な警戒をしていたにもかかわらず、信じられないことが起きてしまった……」  ひろみは唇をかんだ。  責任感の人一倍強い彼女だったから、鹿取の死はたいへんなショックだった。  安易に睡眠をとった自分の行動を、いくら責めても責め足りないと思っていた。 「ですから、この第二の殺人について、ここでみなさんとじっくりと考えてみたいんです」 「賛成だね」  伊吹が言った。 「トリック卿の制限時間なんてクソくらえだ。ぼくらがどのように考えているか、手の内がわかってもいいから、徹底的に意見を戦わせたほうがいい」 「だけど、本当にこのメンバーの中にトリック卿がいるんですか」  池田正子は、他の人間をじろじろと眺めた。 「そうだとしたら、いったいどういう神経で私たちを見ているのかしら」 「そういうあんたが、ひょっとしたらトリック卿なのかもしれないしな」  利光が斜め向かいに座る正子を見た。 「さっきから言ってるように、私はもう誰も信じられんよ」 「だとしたら、この刑事さんだって信用できませんよ」  正子はひろみを睨んだ。 「もうやめよう。いま、そんな議論を蒸し返しても時間の無駄だ」  と、伊吹がさえぎった。 「とにかく、話の進行は烏丸刑事に任せてしまいましょうよ」  そういって伊吹は、六枚の花びらをあしらった形のデカンタから自分のグラスに氷水を注いだ。  眠気を防ぐために、ひろみが用意したもので、五人の真ん中におかれていた。 「まず最初に、トリック卿が第2問として出題したテーマ、『いかにして犯人はその部屋から脱け出したか』——これを解くことが先決です」  ひろみが言った。 「なにしろ現場は……腹が立つくらいに完璧な密室です」 「まったく、ハンパじゃないからね」  伊吹も同意した。 「あの部屋の出入口は、廊下側のドアと窓しかないが、ドアには三重のロックが施され、窓の方は鉄格子プラス雪の壁だ」 「かといって、何か機械的な細工があったわけでもありません」 「そのとおり」  ひろみの言葉に利光がうなずいた。 「凶器がナイフだったら、どこかから飛んできて刺さったという——まあ、それだって非現実的な仮定だが——そういう無理なこじつけも考えられなくもないが、なにしろツララだ」 「ツララの遠隔殺人はできませんよ」  伊吹が首を振った。 「天井から落ちてきた可能性はないでしょうか」  聞いたのは成瀬智子である。 「まさか」  伊吹が笑った。 「じゃ、こういうことですか。犯人は、あらかじめ尖ったツララを天井に凍結させておいて、それがストーブの熱で溶けて落下するのを狙った、と。そして鹿取さんは、うまい具合にちょうどその落下地点に寝ており、しかも都合よく、喉の致命的な部分を上にしていた。そういうわけ?」 「…………」 「そんな方法で人が殺せるのは、何千億分の一という確率だろうね」  その言葉に智子は黙りこくった。 「だけど、ツララとストーブという取り合わせは気になりませんか」  ひろみがきいた。 「たしかに気になりますよ。だって、あまりに古典的な取り合わせだからね」  伊吹が答えた。 「ぼくは恋愛小説が専門だからミステリーのことは詳しくないが、それにしたって、この手法が密室物の初歩の初歩だってことくらい知ってますよ。ロックされた部屋の中で人が死んでいるが、凶器はどこにも見当たらない。ただ、現場にはストーブだか、暖炉の火だかが燃えさかっている。いったい、彼を殺した凶器はどこへ行ったんだ!」  伊吹は芝居がかった調子になった。 「……なんて、いまどき小説の中のヘボ警部だって叫びませんよ。溶けて消えたツララなんてね」 「だけど、現実にツララが凶器として使われたんですよ」 「じゃあ、烏丸刑事は、犯人が『消えた凶器の謎』を演出しようとしたんだと思うわけ?」 「いいえ」  ひろみは伊吹の質問に首をふった。 「それだったらトリック卿は、ツララが完全に溶けてしまうまで、もっと発見を遅らせるように時間稼ぎをしたはずです」 「そうだろうね……そういえば、あのテレビはどこで操作しているんだろう」 「そのことは後で考えましょう。まず、密室の謎です」  ひろみは本論に戻した。 「このうそつき荘の客室はホテルなどと違って、外からは鍵を掛けられません。あくまで、部屋の内側からしかロックができないのです。だから、犯人が部屋の中へ入るのは簡単なことです」 「だけど、ひろみちゃん」  伊吹は、また馴れなれしい呼び方に戻った。 「みんなが寝る前に、きみ自身が各部屋を点検したんだよ」 「そうです。鹿取さんの部屋もくまなくチェックしました。そのときには異常がなかったのです」 「となると、犯人はその後で彼の部屋に侵入したことになる」 「侵入したというより、鹿取氏が招き入れたんだろうな」  利光が訂正した。 「じゃあ鹿取氏は、その人物に対して何も警戒していなかったんですかね。あれほど烏丸刑事が注意したのに」  伊吹がきいた。 「油断したんだろうな」 「彼を油断させた人物とは誰です」 「それがわかれば苦労はしないが」 「私にはわかります」  利光と伊吹の会話に、池田正子が割り込んだ。 「鹿取さんが部屋のドアを開けるような相手は、二人しかいません」  正子は、口を大きく開ける教科書的なしゃべり方で断言した。 「誰だね」  利光がたずねた。 「一人はこの人ですよ」  正子は自分の正面にいる成瀬智子を指した。 「鹿取製薬の社長という紳士づらをしながら、いったんアルコールが入ると、鹿取さんはすっかりだらしのない男になるんです。そして、この成瀬さんの——というか、蓮見サマーナのオッパイに、すっかりご執心だったんですよ。私はちゃんと見てたんですから」    正子は、グラスに注いだ氷水を一杯飲んで、喉を潤した。 「まったく、男という生き物は不潔です。どうして、女性を性欲の対象としてしか見ないんでしょう。大きな乳房を見て欲情するという性的メカニズムが、私にはまったく理解できません」  正子はデカンタから水を継ぎ足して、さらに続けた。 「だけど、そうした男の欲望を百も承知な成瀬さんなら、色仕掛けでドアを開けさせることもできたでしょう。オッパイポロリでいいんですから」 「そういう言い方は……侮辱です」  智子が静かに言った。 「侮辱されたくなきゃ、やらなきゃいいのよ、蓮見サマーナのときに変な真似《まね》を」 「あれは宇宙からの……」 「そんなのは信じませんよ」  正子はフンと鼻で笑った。 「いまさら素顔になったからといって、純情ぶっても演技だとわかります。体を使って男に媚《こ》びる生き方なんて、最低ですよ」  智子も冷たい水を一口飲んで、気分を落ち着けようとしていた。  ひろみは、いつ智子が怒りを爆発させるかと心配して見守っていたが、なんとか取り乱さずにすんだようだった。  一方で、彼女の隣りにいる利光は、目をそらして憮然とした表情である。 「それからですね、鹿取さんがドアを開けたかもしれないもう一人の人物は……」  正子は得意そうに言った。 「他ならぬ烏丸刑事、あなたです」  ひろみは、そうくると思っていたので、とりたてて驚きはしなかった。 「警察手帳をみんなに示すことによって、あなたは信頼を得たけれど、本物の刑事かどうかなんて、私たちにわかりっこないでしょ」 「そう思われるのも仕方ありません」  ひろみは淡々と答えた。 「ですから、私や成瀬さんを犯人の有力候補とお考えいただいても結構です。ただ、ここでみなさんに強調したいのは、犯人がどうやって鹿取さんの部屋から出たか、ということなんです。とにかくあの部屋は完全な密室だったんですから。その謎を解くことが、次の殺人を防ぐ早道です」 「防げるのかね」 「出来るとか出来ないじゃなく、絶対に防がなくてはならないんです」  ひろみは語気を強めて利光に言った。  「もしかしたら、刺された後も鹿取さんはしばらく生きていたのかもしれないな」  伊吹が言った。 「そして、犯人が逃げた後で鹿取さん自身がロックをしたという可能性もある」 「何のためにだ」  利光が真っ向うから伊吹を睨んだ。 「意味がないじゃないか。そんなことをするくらいなら、廊下に出て助けを求めた方がいいに決まっている」 「それに……」  ひろみが引き継いだ。 「ベッドシーツや顔に付いた血痕からみて、喉を刺された後で、鹿取さんが起き上がったという可能性はまったくありません」 「じゃあ、自殺というケースは考えられないか」  伊吹がひろみを見た。 「自殺ですか」 「ああ」  伊吹はテーブルの上で手を組み合わせ、真剣な顔になった。 「鹿取さんは自分の部屋に閉じこもり、厳重に内側からロックをして、ツララで喉を刺して自らの命を断った——そうだよ、そうに違いない」  作家は、拳で片方の手のひらをたたいた。 「他殺だと考えるから密室なんて騒ぎになるんだ。そうじゃなくて、彼は自殺だったんだ」 「しかし、どうして彼が自殺なんかをする必要があるんだね」  利光が、依然として納得しない顔できいた。 「そうですね、その理由は……」  ちょっと考えてから、伊吹は言った。 「鹿取さんこそが、トリック卿その人だったからじゃないですか」     2 「なに、鹿取氏がトリック卿だった?」  利光は怪訝《けげん》な顔をした。 「ええ」  伊吹はきっぱりと言った。 「三条さんを殺したまではよかったが、烏丸刑事の厳重な監視態勢に入って、どうにも計画がうまく進まなくなった。それで、連続殺人を途中で放棄して命を断ったのです」 「でも、自殺するのに、どうしてツララなんかを使ったのです」  ひろみが疑問を投げた。 「それに、そのツララはどこから取ってきたのかという問題があります」 「自分の部屋の窓の外にあったのさ。軒先にぶらさがっていたんだ」 「いいえ」  ひろみは首をふった。 「部屋の窓が開閉された形跡があったので、私もその点は確かめました。でも、仮に窓のひさしにツララが下がっていたとしても、雪の中に沈むときの摩擦や衝撃で、全部折れてしまったはずです。実際、ひさしにはツララ一本ありませんでした」  さすがに伊吹も、それ以上自分の意見を押し通せず、黙ってしまった。 「他殺にせよ自殺にせよ、なぜ凶器にツララを選んだのかというのは、大きな疑問だな」  利光が言った。 「厨房にいけばナイフや包丁など山ほどあったんだから、何もツララなどという原始的な道具を使う必要はなかったはずだ」  それは、ひろみも気になっていたことだった。  ツララだったら、下手をすれば先端が折れて役に立たないこともあるだろうし、第一、溶けないように保管しておくことが難しい。  それでもトリック卿がツララにこだわったのはなぜか。  やはり、水になって消えてしまう点が都合がよかったのだろうか。 「ちょっとここで私の意見をきちんと言わせていただきたい」  利光が手をあげた。 「どうぞ」  ひろみがうながした。 「私は、きみだけは信用したい」  国会議員は、ひろみを見つめた。 「いままで政治家として大ウソがまかり通る世界に生きてきたからこそ、私は、嘘のつけない人間は本能的にわかる。烏丸刑事、あなたはトリック卿がいうとおり、この中でただひとり真実のみを語っている人間だと思う」  ひろみはひろみで、利光こそメンバーの中でいちばんまともな人間だと感じていた。  自分は嘘つきであるとはっきり言える人間は、真実の価値もまた十分にわかっているはずだからだ。 「だから池田さんがなんと言おうと、烏丸刑事は容疑者から除外すべきだと思う」  刑事が容疑者から除外される立場になるのも、妙なものだった。 「すると、残りは伊吹、池田、成瀬、利光の四人だ。この中にトリック卿がいて、虎視眈々《こしたんたん》と第三の殺人を狙っている」  利光はグラスの水を飲み干し、デカンタから新たに氷水を注いだ。  続いて向かい側に座った伊吹がそのデカンタを受け取り、三分の一ほど残っていた自分のグラスに、なみなみと氷水を注ぎ足した。  緊張のせいか、誰もが喉の渇きを覚えているようだった。 「しかも、このトリック卿というやつは、どんな手段を使ったのか知らないが、厳重なロックをした部屋に閉じこもった人間すら、刺し殺せてしまう能力を持っている」  利光は続けた。 「こんなやつを相手にして、自分の命を守るには、尋常な方法では無理だ。最良の選択はうそつき荘からの脱出だが、それもままならない状況とあっては、残された手段はひとつしかない。それを私は提案する」 「どんなことです」  伊吹がたずねた。 「全員が武器を持つんだ」 「武器?」  伊吹は驚いた声を出した。 「そうだ。ちなみに私は、厨房にあった出刃包丁にするつもりだ」  この大胆な提案をどう受け止めるべきか、ひろみは迷った。  本来なら、過剰防衛になりかねない護衛策は、警察官としてストップをかけるべきかもしれない。しかし、そんなことを言っていられない差し迫った危機感が、一同には満ちていた。  利光は力説した。 「このアイデアは、トリック卿にも武器を持たせるという逆の危険性もはらんでいる。しかし、どうせ第三の殺害方法は、もう決められているのだろう。それだったら、相手が予想もしなかった積極防衛策をとってやろうじゃないか。ひとりひとりが武装兵士になってトリック卿と戦うんだ」 「それは良い考えかもしれないわね」  池田正子がハキハキとした調子で言った。 「では、私は冷凍用の肉切り包丁にしましょう。ギザギザの刃がついた頑丈そうなのが、流し台のところにありましたからね」  正子は目を光らせた。 「じゃあ、私は……」  成瀬智子までが、細い声で言った。 「工具箱にあった錐《きり》にします。それと、ハンマーもいっしょに」  これは危険だ、とひろみは思った。  みんな正常な判断能力を崩しはじめている。 「面白いじゃないですか」  伊吹もニヤッと笑った。 「それならぼくは強力なやつにしようかな。さっき、鹿取さんの部屋の扉を割るのに使った斧ですよ」  そういうと、伊吹はグラスを口に運び、喉を鳴らして氷水を飲み干した。  つられるようにして、利光もグラスに満たした氷水を飲んだ。 「それでどうするのかな、烏丸ひろみちゃんの武器は」  グラスをテーブルに置いて、伊吹がたずねた。 「私にはそういうものは特別必要ありません。それに、みなさんも考え直して……」  ひろみの言葉が途中で止まった。  ゴーンと鈍い音を立てて、男の体が大理石のテーブルの上に倒れた。  成瀬智子が悲鳴をあげた。  それは絶叫といってもよかった。  ひろみの目の前で、男は両手を伸ばしたまま、ズルズルと床にくずおれた。  池田正子がびっくりして立ち上がった。  利光が呆然としてつぶやいた。 「ど、どうしたんだ」  床の上で、伊吹がもだえ苦しんでいた。 「飲んだものを全部吐いて!」  叫びながら、ひろみが駆け寄った。     3  あまりにも突然の出来事で、見ていた四人は声もなかった。  恋愛小説の若き旗手、伊吹圭は死んだ。  午前十時十五分。  こんどは、壁の柱時計が正確に現在時刻を示していた。 「ひどいじゃないの」  池田正子が青ざめた顔でつぶやいた。 「トリック卿は毒殺という手段を使わないと約束したはずよ。そこまで平気で嘘をついてしまうわけなの? だったら、ルールも何もないわね」  ひろみは、伊吹の死体のそばからゆっくりと立ち上がった。 「青酸化合物による中毒死——その可能性が高いようです」 「毒だって」  利光が驚いた。 「じゃあ、この氷水の中に毒が仕掛けられていたというのかね」 「たぶん」 「だけど、私だって同じ水差しから同じ氷水を、しかも彼と同時に飲んだんだぞ」  利光は、花びらの形をあしらったガラス製のデカンタを指さした。 「きっと、氷のキューブの中に毒が入っていたんですよ」  ひろみが製氷皿に氷を作った当人であることを承知で、池田正子が言った。 「そんなことはありません」  ひろみが否定した。 「ごらんのとおりデカンタの中の氷は、どれもだいぶ溶けかかっています。ですから、もしも青酸化合物が氷に入れてあったなら、その成分は水の中に溶け出しているはずです。そうなると、この水を飲んだ私たち全員に、中毒症状が現れていなければおかしいのです」 「じゃあ、グラスの方に毒が塗ってあったのかな。彼のグラスだけに」  利光がつぶやいた。 「でも伊吹さんは、それまでに何杯も水を飲んでいましたよ」  と、正子が言った。 「だったら、どうやって彼を毒殺できたんだ。水差しの中にもグラスにも、そして氷の中にも毒が入っていなかったとしたら、いったいどうやって伊吹君を毒殺できたんだ」  利光の質問に答えるものはなかった。  沈黙があったのち、利光は続けた。 「これで烏丸刑事をのぞいて、残るは三人。しかし、私がトリック卿でないことは、自分でよくわかっているから、そうなると君か、それとも君か、どちらかがトリック卿となる」  彼は、池田正子と成瀬智子を交互に指さした。 「なんて身勝手な言い分でしょう」  正子はそう吐き捨てて横を向き、智子は声を圧し殺して泣いていた。 「しかし、いずれにしても……」  利光は、いくぶんホッとした調子で言った。 「これで予定された三つの殺人はすべて終わったことになる。おそらく何かの怨念がこのような連続殺人を引き起こさせたのだろうが、ともかく彼——じゃなかった、もう『彼女』といっていいんだな——彼女にしてみれば、所期の目的を果たしたはずだ」  たしかに、利光をのぞけば残ったのは女性ばかりである。 「だから私は、ここでトリック卿に対してひとつの取引を提案したい」  利光は、いかにも政治家らしい言い方をした。 「我々にとっての、このあとの最優先課題は、うそつき荘からの脱出だ。もちろん、現在はそれが不可能だとわかっている。結局、トリック卿にもう一度この家を持ち上げてもらうしかないんだ。私はそのことをお願いしたい。そのかわり、この場ではこれ以上誰がトリック卿であるかということは追及しない。いかがだろうか、烏丸刑事」  ひろみはしばらく考えた。  利光の提案は現実に即した妥当な意見のようでもあるが、あまりにも安易なご都合主義ともいえた。少なくとも本職の刑事としては、連続殺人の犯人に対して、とてもそのような妥協を申し出るわけにはいかない。  ひろみは答えた。 「まだ判断を下すには早いと思います」  ひろみは、利光を、池田正子を、そして成瀬智子を順番に見た。  智子はまだすすり泣きを続けて、顔を上げようとしない。蓮見サマーナになっていたときとは、あまりに対照的な様子である。  ひろみは彼女から目を離して、話を続けた。 「これで三つの悲劇が終わったにしても、この殺人ドラマのラストシーンを、トリック卿がどのように描いているか、それがまだ見えていません」 「ラストシーン?」  利光が聞き返した。 「そうです。いま、利光さんはあえて無視しようとなさいましたが、これだけの人を殺した以上、トリック卿が社会の裁きを受けずにすむはずがありません。そうでしょう」 「まあ、それはそうだが」 「私たちがうそつき荘から脱出できたとしても、そのあとで当然、警察当局による本格的な捜査が始まります」 「もちろんだ」 「そうした展開が読めるのに、殺人マニアのトリック卿が、黙ってその筋書きを受け入れると思いますか」 「で、あなたは何がいいたいの」  代わって、池田正子がきいた。 「これから、まだ何かが起きる気がするんです」 「何かって、何よ」 「それはトリック卿にきいてください」  そういうと、ひろみは伊吹の写真を二枚だけ撮って、彼の遺体をシーツにくるんだ。 「すみませんけど、手伝ってください」  ひろみの指示で、伊吹の遺体は彼に割り当てられた客室に運ばれた。     4  それから一時間あまりの間、重苦しい沈黙が邸内を包んだ。  四人はふたたびラッセルの間に集まったが、もはや話し合いをする雰囲気にはなかった。  むしろ、険悪とも思える睨み合いが続いた。  しかも悪いことに、伊吹が毒殺されたことで、トリック卿に対する最低限の信頼性というものが崩れてしまった。  大嘘つきを自称するトリック卿も、殺人ゲームの展開においては、決めたルールをきちんと守る——ひろみは、このことを前提にしてやってきたのだ。  ところが、トリック卿がどこでどんな嘘をつくかわからないとなれば、もはやこの屋敷の中で信頼できるものは何ひとつないといってよかった。  これでは、ジャッジ役の烏丸ひろみは殺さないという言葉も怪しくなってきた。  連続殺人が三人でとどまる保証もなければ、ひろみ自身は安全であるという保証もない——もう、そう考えるしかなかった。 「喉が乾いたな」  ポツンと利光が言った。 「だが、どこに毒が仕掛けられているかわからないとなると、何も口にできないわけか……」  そういって、利光は額の汗をぬぐった。  室内は寒いはずなのに、ひろみも額に汗がにじんできた。  無意識のうちに、かなり緊張しているのだ。  行く手に数々の罠《わな》が仕掛けられているコンピューター・ゲームの主人公になった気がしてきた。  果たして無事に生還できるのだろうか。ふたたび生きて太陽の光を見ることができるのだろうか。  ひろみは、しだいに弱気になっていく自分に気がついていた。  彼女はぼんやりと柱時計に目をやった。  十一時半だった。  ひろみは、それが夜中の十一時半のような錯覚を覚えた。だが、そうではなく、まもなくお昼になろうという時刻なのだ。  雪の海に沈められるという異常な閉鎖空間に長くいるうえに、ほとんど寝ていないため、時間の感覚もおかしくなりはじめていた。 「で、どうするんだね」  利光が力ない言葉を吐いた。 「いつまでも、ここで黙りこくっていてもしょうがないだろう。何かの行動を起こさないと」  そのとき、しばらくぶりにトリック卿の声が響いた。 「みなさん、ごぶさたした。私はトリック卿である」  ぐったりとしていた四人は、いっせいに身を固くした。 「予告した第三の殺人の、正確な実施時刻を申し上げずにすまないことをした。単に『正午』といっても、これがいつの正午なのか、みなさんはきっと迷われたことと思う」 「何いってるの」  池田正子がかみついた。 「もう第三の殺人なんて終わりましたよ」 「第三の殺人は、ゲーム開始十二時間後の正午、つまりあと三十分後に行われる。どうぞ楽しみにお待ちいただきたい」  トリック卿は言い放つと、高笑いを残してメッセージを終えた。 「これから第三の殺人が起きるだって? 一体どういうことなんだ」  利光が言った。 「勝手に録音テープが動いたんですよ」  池田正子がそう解釈した。 「トリック卿の予定では、伊吹さんが死ぬのは十二時ちょうどだったんじゃないですか。それが何かの都合で早まったけど、テープの方はこの時間に動くようにセットしてあって変えられなかった。そういうことでしょ」 「そうかしら……」  ひろみは不吉な予感にとらわれていた。 「もしかして、伊吹さんの死は予定外の出来事で、予告された第三の殺人とは別のものだったとしたら……」 「冗談じゃありませんよ」  正子は怒った口調で言った。 「もう殺人なんてたくさん。三人だけで結構よ」 「それは私もそう思いますけど」 「どっちにしても、あと三十分も経てば結果がわかるんじゃないの」  そのとき、成瀬智子がスッと立ち上がった。 「どこへ」  三人が異口同音にたずねた。  みんな神経過敏になっているのだ。 「トイレです」  智子は答えた。 「トイレくらい我慢しなさいよ」  自分のときのことは棚にあげて、池田正子が咎《とが》めた。 「とりあえずお昼の十二時までは、様子をみるために全員でここに残るべきです」 「ごめんなさい。お腹が痛いんです」  正子は、応援を求めるように利光とひろみの顔を見た。 「体のことはしょうがないだろう」  利光が言った。 「その代わり、我々三人は彼女が戻ってくるまで、絶対にこの場を離れないことだ。そうすれば、彼女が加害者であろうと、あるいは被害者となる予定でいようと、三対一に分かれているかぎりは何も起こらない」  あまり説得力のない論法だったが、ひろみにも無理に智子を引き留めておく権利はなかった。  成瀬智子は、五、六分で戻ってきますからと言い残して、二階へ上がっていった。     5  それから十分近く待っても、成瀬智子は降りてこなかった。 「様子を見に行きましょう」  待ち切れなくなって、ひろみが腰を上げた。  利光がうなずき、池田正子も硬い表情で椅子から立ち上がった。 「また死体を見つけるはめになるのか」  利光の言葉が、寒々とした部屋に響いた。 「まさか……残りの三人はここから動かなかったんですよ」  そういって、先頭に立ったひろみが階段の上り口に一歩足をかけた。  そこで、彼女は急に歩みを止めた。後ろにつづいた利光と正子も、その場に立ちすくんだ。  上から女が降りてきた。  が、それは成瀬智子であって成瀬智子でなかった。  黒いセーターに黒いマント、腰のあたりまで伸びた金髪、そして白塗りの顔に歌舞伎のような隈取り—— 「蓮見サマーナ……」  利光の口からうめき声がもれた。 「おまえ、またサマーナになったのか」  心霊術師は獣じみた唸り声をあげながら、一歩一歩ゆっくりと階段を降りてきた。  池田正子が思わず後ろに下がった。  ひろみはすばやくサマーナの体を観察した。  別人とのすり替えが行われた様子はなかった。さまざまなチェックポイントから、ひろみはそれが間違いなく成瀬智子本人であることを確信した。  智子はトイレではなく、蓮見サマーナに変身するために二階へ行ったのだ。 「悪霊様はお怒りになった」  頭を左右に揺らし、老人のようなしわがれ声を出して、サマーナは言った。 「おまえらが蓮見サマーナを追放しようと勝手なことをするから、悪霊様は心の底からお怒りになった。霊を恐れぬ傲慢不遜な者たちよ、今度という今度こそは、おまえたちに大変な罰が下るであろう」  サマーナは両手の指を鉤形《かぎがた》に曲げ、それを前に突き出しながら三人に迫った。  その気迫に気圧《けお》される形で、ひろみと正子は大理石のテーブルの方へと後ずさっていった。 「馬鹿な演技はやめろ」  利光だけが、その場に立ち止まって言った。 「おまえを蓮見サマーナとして育てたのは、この私だ。おまえが普通の女であることは、私がよく知っている」 「黙れ!」  サマーナは、利光に向かって手を振り払った。  それが国会議員の頬に当たってパチッと音を立てた。 「貴様……」  利光はぶたれた頬を押さえて、怒りに顔を赤くした。 「利光太郎……いつまでも私を飼い犬のように思っていたら大間違いだ」  歯茎を剥き出しにし、鼻に皺《しわ》を寄せてサマーナは突っかかった。  そこには、あの素朴で気弱そうな成瀬智子の面影はまるでなかった。 「裏切り者め、裏切り者め、裏切り者め」  くり返しながら、サマーナは迫った。  あまりの形相に、利光もじりじりと後ずさりをしてゆき、ついには大理石のテーブルに背中を押し当てる格好になった。  その拍子に、誰かが飲みかけのまま残しておいた赤ワインのグラスが倒れた。  葡萄色のワインが飛び散って、ひろみの服にその飛沫《しぶき》がかかった。  そのとき、既視感《デジヤヴユ》とでもいうべき感覚が、ひろみの脳裏に走った。 (これと同じ光景をどこかで見たことがある) (それはとても重要なワンシーンだ)  パッパッパッと、頭の中で何かがフラッシュバックした。  殺人事件の謎を解くときに、過去にも何度か経験した感覚である。 (何なのだろう)  しかし、それを考える余裕はなかった。  蓮見サマーナの顔に浮かんだ憎悪は、ただごとではなかった。 「ブラフマランドラの大予言!」  サマーナは、これまでのようにセールスポイントのバストを見せなかった。  その代わりに、首を絞めるような手つきで利光に近づいた。 「すべての悪霊の御名《みな》において、利光太郎を征伐する!」  身の危険を感じた利光は、テーブルの上にセットされていたステーキ用のナイフを手にとった。 「だめです、利光さん」  ひろみが止めようと手を伸ばしたが、届かなかった。 「智子……やっぱり、おまえがトリック卿だったんだな」  興奮した利光は、握ったナイフをサマーナめがけて突き出した。  黒いマントをひるがえし、心霊術師はその攻撃をよけようとした。  が、間に合わなかった。  彼女の右手の甲に赤い筋が走った。 「やめなさい」  ひろみは大理石のテーブル越しにダイビングした。  向こう側にいた利光は、その体当たりをまともにくらって床に転がった。  ひろみはすぐさま彼の右手からナイフを奪い、遠くに放り投げた。 「放せ、このままでは智子に殺される」 「落ち着いて! 冷静になってください」  ひろみは、利光の両手をギュッと押さえた。  そのとき、突然うそつき荘が動きはじめた。  天井から下がったシャンデリアが、カチャカチャと音を立てて揺れだした。 「たいへんよ」  池田正子が叫んだ。 「また家が動きだしたわ」 「こんどは上に向かっている」  利光が暴れるのをやめて天井を見上げた。  蓮見サマーナも、振動に耐えるよう両足を踏ん張り、四方を見回した。  建物全体が激しくきしんだ。  いまにも潰れてしまいそうな不安な音だ。  バキバキッと、上のほうで何かが折れる音がした。  続いて、ガラスの砕け落ちる音がした。 「屋根裏の窓が割れたみたい」  ひろみがつぶやいた。  柱時計の振り子が箱の中で暴れ回り、時刻とは無関係にボーンと一つだけ鐘が鳴った。  急にラッセルの間が明るくなった。  二階の窓から吹き抜けに向かって、一条の光が差し込んできたのだ。 「太陽だ!」  利光が目を輝かせた。 「陽の光だ。うそつき荘が、また地上に浮かび出るんだ」  建物は細かい振動を繰り返しながら、ゆったりした速度で上昇していった。  屋根の上を雪のかたまりが滑っていく、波の音に似た摩擦音がした。  そして、その雪が建物の両側に落ちていくのだろう。ドドドドとこもった衝撃音が続いた。  やがて、一階の窓も、上の方から膜をはがすように明るくなっていった。  真昼の太陽が、伊吹の死を呼んだ花びら型のデカンタにも差し込み、ガラスの中にキラキラと輝く星を生み出した。  床の上に倒れているひろみと利光の顔の上を、光と影がゆっくりと弧を描いて動いていった。  振動がおさまり、静寂が訪れた。  午前十一時五十分。  ほぼ半日ぶりに、うそつき荘は雪の海から浮上した。 [#改ページ]   第3問 いかにして犯人は空中に消えたか     1  しばらくの間、ひろみはボーッとなって太陽の輝きを眺めていた。  まるで、宇宙船に乗って別の惑星に着陸したような気分だった。  窓は一面真っ白に覆われていたが、強烈な陽射しが雪のフィルターを通り抜けてやってきた。  ガラスに顔を近づけてみると、機械で描いたような六角形の雪の結晶が行儀よく並び、そのひとつひとつが陽射しを跳ね返していた。  その合間から、かすかに外の雪景色が覗《のぞ》いてみえる。  利光も、池田正子も、気の抜けたような顔で窓際に歩み寄った。 「本当に地上に出られたんだ」  利光がつぶやいた。 「風の音がします」  正子がポツンと言った。  ひろみの耳にも、窓越しに木々のざわめきが聞こえてきた。  そのとき、蓮見サマーナが喉を潰《つぶ》したようなしわがれ声でわめいた。 「おまえたちは出られない。このうそつき荘から、決して無事には出られない」  そういうなり、彼女は身をひるがえして玄関へ走った。 「どこへいくんだ」  利光が叫んで追いかけた。  ひろみと正子がそれに続いた。  蓮見サマーナは、あらかじめわずかに開いていた玄関のドアに、体ごとぶつかっていった。  雪の抵抗がないので、あっさりと扉は開いた。  白い光がハレーションを起こしながら、玄関になだれこんできた。  そのまぶしさに、ひろみたちは思わず顔の前に手をかざした。 「穢《けが》れ多き者たちよ、うそつき荘と共に滅びよ」  一声叫ぶと、蓮見サマーナは裸足《はだし》のまま外に飛び出した。 「待て」  利光が追いかけようとしたが、靴がなかった。  いつのまにか、全員の履物がどこかに片付けられていた。 「下駄箱はどこだ」 「ここですけど、中は空っぽですよ」  池田正子が答えた。 「そんなバカな。さっきまで、ここにあったのを私は覚えているぞ」 「だけど、ないものはないんです」 「じゃあ、探してくれ。誰かが全員の靴を隠したんだ」 「どこかって、どこです」 「じれったいな。もういい、自分で探す」  利光と池田正子がやり合っているうちにも、蓮見サマーナは黒いマントをひるがえし、雪の中をどんどん走っていった。  ゆうべからの吹雪も止み、あたりは見渡すかぎり純白のカーペットを敷き詰めたようになっていた。獣の足跡一つ付いていないその雪原を、蓮見サマーナは金髪をなびかせて走った。  踏み固められた雪面の上に、さらに六、七十センチの新雪が積もったようで、ときおりサマーナは大きく足をとられて雪の中に倒れた。そして、もがきながら、また立ち上がって走る。  だから彼女の逃げていくルートは、足跡というよりも大きな穴の連続になった。  ひろみは靴下のまま玄関から飛び出し、サマーナの逃げていく姿を目で追っていた。  心霊術師がめざしているのは、雪の中にポツンと建っている小さなコッテージだった。  ログを組んで作ったその離れは、うそつき荘の玄関から見て向かって右側、すなわちラッセルの間から臨む南の方角に、直線距離にしておよそ五十メートルの位置に建っていた。  玄関からだと、さらに大きな木立を迂回《うかい》していかねばならないので、だいぶ走ることになる。  サマーナはよろめきながらも、ようやくコッテージにたどり着き、ひろみの見ている前で木のドアを開けて、その中に姿を消した。 「みんなの履物があったぞ」  利光が、革靴やスノーブーツなどを一抱えにして玄関に持ってきた。 「洗面所にある旧式な洗濯機の中に放り込まれていたんだ。いったい誰がこんな真似を」  そういいながら、利光は自分の革靴を取り上げて履いた。 「すみません、蛍光ピンクのスノーブーツがあったら、こっちに投げてください。いま目が離せないんです」  ひろみが言うと、黒い長靴に足を突っ込みかけていた池田正子が、そばにあったピンク色のブーツを手にとって彼女に渡した。 「ありがとうございます」  ひろみは雪だらけの靴下を脱ぎ、裸足のままブーツに足を突っ込んだ。 「で、サマーナはどうした」  利光がきいた。 「あのコッテージ風の離れの中です」 「離れ? そんなものがあったのか」 「ええ、私はここに到着したときに気づいていましたけれど」 「なんだって彼女はそんなところにこもったんだ」 「さあ……」  ブーツを履き終わったひろみは、わからないというふうに首をふった。 「しかし、サマーナのやつ、初めて来たはずのうそつき荘なのに、まるですべてを計算しつくしてやっているみたいだな」  利光のその言葉には、ひろみも同感だった。  うそつき荘が浮上したとたん、いきなりその離れへ向かって駆け込むというのは、どうみても『予定の行動』という感じである。  となると……。 「やっぱりトリック卿は智子だったんだ」  利光は、蓮見サマーナの本名を言った。 「あの女、私が怖くて逃げ出したんだな」  靴を履くと、利光は外に飛び出した。  が、政治家の革靴は、雪の上ではまるで役に立たなかった。玄関を出たところの階段で足を滑らせ、利光はしたたか腰を打った。  彼のことは池田正子に任せ、ひろみが後を追いかけた。  ひろみは、サマーナが走った跡を追っていったので、いくぶん走りやすかったが、それでもわずかな距離の間に、何度か深い雪に足をとられて転んだ。  転んでみてわかったのだが、辺りの雪面には、ところどころに小さな赤い点が散っていた。おそらく、利光にナイフで襲われたときに負った、サマーナの右手の傷から出血したものだろう。  白い息を弾ませながら、ようやく前方のコッテージまであと三、四メートルの距離に迫ったとき、ひろみの背中で大きな声がした。 「めでたく殺人ゲームに生き残ったみなさん、わたしはトリック卿である」  ひろみは後ろをふり返った。  青空をバックに、建物全体に白い粉砂糖をまぶしたようなうそつき荘が見えた。  後から追いかけてきた利光と正子も、その声に立ち止まった。 「みなさん、第三の殺人を予告した時刻——正午がまもなくやってくる」  トリック卿の声は、建物外壁のどこかに設けられたスピーカーから聞こえてくるらしい。ひろみは周囲を見回したが、声の出ている方向はつかめなかった。  晴れ上がり、そして静まり返った雪野原に、機械で変調させた男の声が流れ、その言葉はほとんど残響を残さずに、次から次へと白い絨毯《じゆうたん》に吸い込まれていった。  しかし、かなりの音量だったので、玄関からおよそ十五メートルほど離れたひろみの位置でも、メッセージははっきりと聞き取れた。 「では、いよいよお待ちかねの第3問だ」  ひろみは固唾《かたず》を呑んで次の言葉を待った。  耳元を通り過ぎる風が、冷たくて痛かった。 「出題カードは、みなさんの目の前に建っている小さな離れに置いてある。それをごらんになって、じっくりと正解をお考えいただきたい。なお、うそつき荘が元どおりに浮上したからといって、ゲームがこれで終わったわけではない。またのちほどお会いしよう」  いつもの高笑いを残してトリック卿のメッセージが終わり、それを待っていたように、建物の中で柱時計が十二時の鐘を打ち始めた。     2  警視庁捜査一課の大部屋では、財津大三郎警部がボンヤリとNHKのニュースに目を向けていた。  視線はテレビの画面に向けられているのだが、心はここにあらず、といった顔である。  昨日もきょうも、ひろみからの連絡が全くないことが心配なのだ。  財津は無意識のうちに、金色のリボンと赤い包装紙で包まれた平たいパッケージを、片手で弄《もてあそ》んでいた。  さっき、配達時間指定の宅配便で届いた、ひろみからのバレンタイン・チョコレートで、それには『いつまでも元気でネッ※[#ハート白、unicode2661]』と、短いメッセージカードが添えられていた。  見慣れたひろみの丸っこい筆跡である。  文末のハートが、いい年をした鬼警部の心をくすぐった。  だから、なおさら彼女から電話ひとつないことが心配になった。  もちろん表むきには、ひろみは昨日きょうと二日間の公休をとっているわけだから、彼女がどこで何をしようと問題はないのだが、必ず連絡をくれるといったまま、その約束を果たさないことが、財津はどうしても気になった。  ひろみの住まいにも何度も電話をかけたが、留守番電話のテープが流れるばかりだった。 「トリック卿か……」  財津はつぶやいた。 「変なやつでなければいいんだが」  招待状に同封された百枚の一万円札は、すべて本物であるという鑑定結果が出ていた。  その点から考えても、トリック卿の招待状は冗談ではないのだ。 (ひろみに勝手に行かせたのは、やはり軽率だったかな……)  財津の頭の中を、後悔の念が渦巻いた。 「どうしたんですか、警部。ずいぶん暗い顔をしちゃって」  フレデリック・ニューマン刑事が大部屋に入ってきた。 「よかったら一緒にお昼でも食べに行きませんか……あれ?」  フレッドは目ざとく赤い包み紙を見つけた。 「それ、バレンタインのチョコレートでしょ」 「あ、いや、何でもない」  財津はあわてて包みを後ろ手に隠した。 「そうかあ、鬼の財津大三郎警部も、ついにバレンタイン・チョコをもらえるような身分に……といっても、贈り主の女性はひとりしか考えられないけどなあ」 「うるさい、うるさい」  財津は手をふった。 「それよりも、そのひろみのことだが……」 「『その』って?」  フレッドはしつこく包みに目をやって、ニヤッと笑った。 「こら、上司に向かって誘導尋問をするやつがあるか」  警部は赤くなって怒鳴った。 「とにかくだな、ちょっとこっちに来い、フレッド。相談があるんだ」  部屋の片隅に場所を移して、財津警部は烏丸ひろみに関する心配事を打ち明けた。     3  コッテージのドアを開けた瞬間、ひろみは唖然《あぜん》として声もなかった。  それを見たときの気分は、どう言葉に表してよいかわからない。  怒り。  驚き。  そして、自分に対する歯痒《はがゆ》さ。  ドアに手をかけたままの格好で、ひろみは利光たちに声をかけた。 「二人ともここへ来てください。大急ぎで!」 「どうしたんだ」  自分の革靴を脱ぎ、伊吹の持ち物だったグレーのスノーブーツを履いて、利光が走ってきた。  その後ろに池田正子がつづく。 「蓮見サマーナが……いえ、成瀬智子さんが刺されています」  ひろみは、一目見ただけで手遅れだとわかったが、それでもきちんと確かめるまでは『死んでいる』という表現は使いたくなかった。 「なんだって」  利光がひろみの横に進み出て、中をのぞいた。 「智子!」  血の気を失った顔で彼は叫んだ。 「どうしたんですか」  後ろから正子が背伸びした。 「池田さんは見ないほうが」  ひろみが注意したが、遅かった。  惨劇の場を見てしまった正子は、引き裂くような悲鳴をあげて、雪の上に尻餅をついた。 「いったい、おまえ……」  興奮した利光が中に入ろうとした。 「待って」  ひろみが押し止めた。 「被害者がいるということは、加害者もいるということです」 「どこにいるんだ。こんな場所に隠れようがないじゃないか」  利光が白い息を吐きながらわめいた。  ログハウスは正方形に近く、広さはわずか五坪程度しかない。  出入口のドアは一カ所で、四方の壁に小さな窓がひとつずつ付いているだけだった。  間取りはじつにシンプルで、板張りの十畳ほどの部屋が一室あるだけ。その他には、キッチンもトイレもない。  それどころか、インテリアの類も何ひとつなければ、こうした場所での必需品ともいえる暖房設備すらなかった。  そのガランとした小部屋の中央に、黒ずくめの衣装を着た蓮見サマーナが仰向けに倒れていた。  喉がぱっくりと割れ、床は血の海だった。  両手両足を大の字に広げた蓮見サマーナは、白塗りにした顔をひろみたちの方に向け、目をカッと見開いたまま動かなかった。  裸足のままここまで走ってきたので、入口から彼女の足元にかけては、雪のかたまりが点々と落ちていた。 「利光さんはここにいて」  手短に指示すると、ひろみはスノーブーツのままコッテージの中に踏み込んだ。  すぐに天井に目を向ける。  人影はない。  他に死角はなかったが、それでも周囲に目を配りながら、ひろみはサマーナの体に近づいた。  まさに、たったいま殺されたばかりという生々しさで、血の海は床の上にまだ広がり続けていた。  ひろみは、そっとサマーナの右手首を握った。  その甲には、さっき利光にナイフで切りつけられたばかりの傷痕があった。 (人間のすりかえは行われていない。間違いなく、ここに逃げ込んだ蓮見サマーナだわ)  死体をその位置から動かさないよう注意しながら、ひろみは心霊術師の脈をとった。  反応はなかった。  口元に顔を近づけてみた。呼吸もない。  見開いたままの瞳に手をかざしても、瞳孔反応は起こらなかった。 「死んでいます」  小さな声でひろみはつぶやいた。  喉を真一文字にかき切られ、大量の血をいちどきに失ったためのショック死とみられた。  ただし、その凶器は見つからない。いや、凶器どころか、殺人犯人そのものがいないのだ。  そのとき、サマーナの前開きセーターのジッパーが途中まで下げられていることに、ひろみは気がついた。彼女が売りにしているFカップのバストがのぞいていたが、その間に白いカードがはさまれていた。  ひろみはその端をつまんで、そっと外まで引き出した。  トリック卿の出題カードだった。 ————————————————————————————————      第3問      いかにして犯人は空中に消えたか             (制限時間…60分) ———————————————————————————————— (これが第3問だったの……)  ひろみは心の中でつぶやいた。 (じゃあ、伊吹さんが毒殺されたのは、何だったというの)  頭を振って、もう一度カードに目を落とした。 『いかにして犯人は空中に消えたか』 (ほんとに犯人はどこから逃げたんだろう)  ひろみは急いで窓辺に駆け寄った。  が、四つの窓は半回転する方式のネジで、内側からしっかりとロックされていた。  念のために、ひとつずつ窓を開けて、そこから身を乗り出して外を見たが、周囲に人影は見当たらない。  犯人が窓から逃げたのでないことは確実だ。  しかし、唯一の出入口であるドアについても、ひろみがずっと目を離さずにいた。  また、仮に一瞬の隙を狙って犯人がドアから逃げ出したとしても、雪の上にその足跡が残るはずだった。  ひろみは、呆然自失の利光たちの脇をすり抜け、コッテージの外に出ると、ゆっくりとログハウスの周りを一周した。  だが、強烈な紫外線の照り返しを受ける純白の雪面には、獣の足跡ひとつ見つからなかった。  いまひろみ自身がつけた足跡を除けば、被害者である蓮見サマーナ——すなわち成瀬智子が、建物に駆け込んだときにつけた一筋の足跡が残されているだけなのだ。  いったい犯人はどこへ消えたのか。  ふたたび中に戻って、ひろみは徹底的に建物を調べた。  しかし、人間が隠れるスペースはどこにもなかった。  利光と池田正子の前に戻って、ひろみは白い吐息をもらした。 「犯人は消えました」 「消えた?」  利光が聞き咎めた。 「ええ」 「だけど、智子がこの離れに入ってから君が駆けつけてドアを開けるまで、いくらも時間がかかっていないじゃないか」 「そのとおりです」 「そのわずかな間に、どうやって犯人は逃げることができたんだ」  利光は苛立ちをあらわにした。 「この不思議な現実を、合理的に解釈する唯一の方法は、成瀬さんの死を自殺にしてしまうことしかありません」 「そうよ、それしか考えられないわよ」  と、正子もかすれ声で言った。 「でも、一文字にかき切られた喉の周辺には、ためらい傷ひとつないんです」  ひろみは自殺説に否定的だった。 「また、即死に近い状態なのに、凶器がどこにも見当たりません。しかも、本人の手には返り血も付いていないんです。付いていたのは、さっき利光さんにナイフで切りつけられた傷から出た血の跡だけです」  ひろみの説明に、二人は黙りこくった。 「だからといって、他殺とも言い切れません。なにしろ最大の疑問は……」  ひろみは続けた。 「利光さんも池田さんも、そしてこの私も、絶対に成瀬さんを殺せる状況になかったことです」 「…………」 「四人のうち一人が犠牲者になり、しかもそれは自殺ではなかった。ところが他の三人は、物理的に加害者にはなりえない。……では、いったい誰が犯人だというのでしょうか」     4 「そんなことなら、ひとりで悩まずに、早くぼくに相談してくれればよかったんですよ」  長野駅との電話を終えたフレッドは、ボスの鬼警部を軽く咎めた。 「まったく警部は、ひろみのことになると、すぐ気が動転しちゃうんだから」 「いや、そういうわけではないんだが……」  財津はバツの悪そうな顔をした。  事情を聞いたフレッドは、トリック卿の招待状に、有名人を招くというようなニュアンスが書かれていたことに目をつけた。  しかも、一同が乗ったはずの列車まで特定できるではないか。  そこでフレッドは、長野県警を通さず、非公式に長野駅に聞き込みの電話を入れたのだ。  つまり、昨夜七時五十分に長野駅に到着した『あさま31号』の中に、誰もが知っているような有名人が乗っていなかったか、と。  すると、意外なほど簡単に反応が返ってきた。  じつはそのことが、若い駅員の間で話題になっていたのだというのだ。 「歌舞伎役者みたいなメイクで、オッパイを出しちゃう心霊術師がいま話題でしょう」  フレッドが言った。 「蓮見サマーナというんですが」 「ああ、知ってるよ」  財津はうなずいた。 「子供の教育に悪いので、あれが出るとテレビのチャンネルを変えるんだが」 「その彼女が『あさま31号』に乗っていたというんです」 「心霊術師がね……」 「それから、恋愛小説なんかを書く作家で、タレントっぽいマスクなので、テレビにもさかんに出ている伊吹圭という作家」 「ああ、そいつも知っている」 「彼も乗っていたそうです。さらにもう一人目撃された有名人は、ひところ国会の風雲児と騒がれていた政治家の利光太郎です」 「ほう、けっこう同じ列車にいろんな有名人が乗っているものだな」  財津は感心した。 「しかし、トリック卿の招待にあずかったのが、その中の誰かということまでは絞りこめないだろう」 「ところが警部」  フレッドが勢いこんで言った。 「その三人が、連れ立って改札口を出たというんですよ」 「連れ立って?」  財津の太いまゆがピクンと動いた。 「ええ、だからこそ何人かの駅員が話題にしていたそうなんです。それも、長野駅の表口にあたる善光寺口ではなく、乗降客の少ない東口の方だったので、よけい目立ったらしいんです。なんでも、彼らを含む男女六、七人が、ゾロゾロと同じ車に乗り込んだようです」 「…………」 「心霊術師に作家に政治家とくれば、けっこう嘘つきっぽいメンバーが揃っていると思いませんか、警部」  財津はじっと考えた。  そして、結論を出した。 「フレッド」 「はい」 「利光代議士の秘書に連絡をとってくれ」 「わかりました」 「それから、蓮見サマーナと伊吹圭の連絡先も調べるんだ」 「了解」  財津とフレッドは臨戦態勢の顔になった。     5  烏丸ひろみは、うそつき荘の周辺をぐるりと回り、ひとつの判断を下した。  それは、徒歩による脱出の試みはきわめて危険だということであった。  まず第一に、彼らが連れてこられたときの道路はゆうべの吹雪で完全に埋まり、あたりは白一色の風景で、どこに道が通っているのかまったく見当がつかなくなっていた。  つまり、道路を辿っての脱出が不可能になってしまったのだ。道筋をはずれてしまえば、周りの積雪はきわめて深く、これをかきわけて進むとしたら、一時間に稼げる距離など知れたものだった。  第二に、目をこらして周囲を見渡しても人家の影はなく、ただひたすら針葉樹林と雪野原が延々続くばかりで、いざというときの待避場所が徒歩の範囲内にある可能性はゼロに近かった。  さらに第三は、いまでこそ晴天に恵まれているが、山の天気はいつ急変するかわからない、という点が挙げられた。  現に、西の空の一角からしだいに雲がわいてきて、それが早いペースで広がっていた。  冬だから日照時間も短い。ちょっと道に迷っているあいだに、たちまち夜を迎えてしまう危険性がある。  そして第四に、三人ともほとんど眠っていないという現実があった。それに加えて、激しい死の恐怖と戦い続けてきたのである。肉体的にも精神的にも、ひろみたちは疲労の極に達していた。  ひろみの指示で、利光太郎と池田正子は、いったんうそつき荘の中に引き上げた。 「どうすればいいのよ」  正子は、暖炉の前のソファにぐったりと横になり、さすがにしゃべり方も歯切れ悪くなっていた。 「せっかくうそつき荘が地上に戻って、外の天気も最高にいいというのに、これで逃げられないのなら、私たちは永遠に助からないわ」 「池田さん、あんた、とぼけてそんなことを言ってるんじゃないだろうね。ほんとうは君こそトリック卿じゃないのかね」  大理石のテーブルに片肘をついて、利光が険《けわ》しい口調できいた。 「さっきまで心霊術師を疑っていたくせに、こんどは私になるわけですか」  正子は、うんざりした顔で言った。 「なんだかんだ言っても、自分の愛人だった女が殺されてみると、可哀想になったんでしょ。というより、蓮見サマーナは、何かの仕掛けを使ってあなたに殺されたのかもしれないけど」 「勝手にしてくれ」  利光は舌打ちをした。 「いったい、いつまでこんな馬鹿げた言い合いを続けなければならないんだ」  利光は柱時計を見上げた。  もう午後の一時を回っていた。 「そうか……」  そのとき、花びら形のデカンタを見つめながら考えごとをしていたひろみが、目を輝かせて立ち上がった。 「何が『そうか』なんだ」  利光が疲れた表情できいた。 「ちょっと席をはずします」 「どこへ行くの」  正子がきいた。 「これまでの四つの殺人事件のことで、見落としていたことを確かめたいんです」  ひろみは答えた。 「いままでは私も興奮して落ち着いた考え方ができなかったんですけど、いまあらためて半日の間の出来事をふり返ってみると、何か一本の縦糸が見えてきそうになっているんです……自分の発想が正しいかどうか、ちょっとそこの厨房と、それから鹿取さんの部屋に行ってきます」 「死体のある場所によく行けるな」  利光は首をふった。 「とても私はお供したくないよ」 「ええ、利光さんと池田さんは、どうぞここに残ってらしてください」 「待ってください」  正子がソファから身を起こして、ひろみを引き留めた。 「私を、この男と二人きりにさせないで」 「だいじょうぶだよ」  利光がさえぎった。 「池田さん、あんたがトリック卿でないかぎり、ここに二人きりでいたって、何も起こらん」 「いやです。いまさらあなたの言葉なんて信じられるわけがないでしょう」 「お二人とも落ち着いてください」  ひろみがなだめた。 「池田さんはそのままソファに、そして利光さんはこのテーブルのところにいてください。おたがい五メートルほど離れているから、この位置にいるかぎり直接の手だしはできないでしょう」 「そうかしら」  正子は、疑わしげな顔で利光を睨んだ。 「私は十分ほどで戻ってきますから、それまでの間に、どちらかが動こうとしたら、もう一人が大声で叫んでください。すぐに飛んできますから」 「すぐによ」  正子は念を押した。 「私が呼んだら、すぐに来てちょうだいよ」 「叫ぶとしたら私の方だよ」  利光はダミ声でやり返し、ひろみに行くように顎《あご》をしゃくった。     6  警視庁捜査一課では、財津とフレッドが手分けして電話をかけまくり、短時間のうちにかなりの事態を把握しつつあった。 「利光代議士は、明日夜まで静養をとることになっていました」  フレッドが報告した。 「あくまでプライベートということで、秘書にも連絡先は告げていなかったそうなんですが、静養先についたら必ず電話を入れる約束だったのに、その連絡がなくて心配していたところだったと、秘書も言ってました」 「それじゃあ、ひろみと同じじゃないか」 「ええ」  フレッドはうなずいた。 「ただし利光は、静養先で落ち合う人間の名前を、秘書にチラッともらしていたそうで、そちらにも当たってみるつもりだと……」 「それは誰だ」  財津は、すかさずきいた。 「二人の名前が挙げられました。ひとりは、鹿取昭造」 「カトリ・ショウゾウ?」 「漢字はこう書くそうですよ」  金髪碧眼《きんぱつへきがん》のフレッドが、なかなか達者な字のメモを見せた。 「誰なんだ、こいつは」 「ぼくも日ごろお世話になっています、風邪薬なんかでね。鹿取製薬の社長ですよ」 「鹿取製薬か」  財津は顔をしかめた。 「厚生省と国税局がそれぞれ狙《ねら》っている問題企業だな」 「たしか、ガンの特効薬開発に関するスキャンダルでしょ」 「ああ」  警部はうなずいた。 「人体実験問題と株価操作問題だ。そのテーマを、最近すっかり鳴りをひそめた国会の風雲児、利光太郎が、久しぶりに野党代表質問で取り上げると噂されていたじゃないか」 「それなのに、いつのまにかその話が立ち消えになって、しかも利光の与党移籍問題が浮上してきた……」 「フレッド」 「は?」 「それにしても、いろいろと難しい熟語を覚えたな、おまえ」 「何いうてまんねん、警部……」  フレッドは急に大阪弁になった。 「ぼくは元から日本人ですねんで。何べん言うたらわからはるんです」 「わかっちゃいるけど信じられん、というやつだ」  財津はフレッドをギロッと見た。 「こうみえても、ぼくはチャキチャキの浪速《なにわ》っ子でっせ」 「それは江戸っ子のときに使うフレーズだ」 「せやけど……」 「妙な大阪弁を使わんでくれ。頭が痛くなる」  財津は自分の頭をたたいた。 「どっちにしてもですね……」  フレッドは標準語に戻った。 「金髪で青い眼の日本人を差別しないでくださいよ。そういう偏見がですね、日本人特有の……」 「わかった、わかった」  財津は手をふった。 「ぐちゃぐちゃと難しいことをいうな。それじゃまるで、最近ちょくちょくマスコミに登場する市民団体のオバさんみたいだぞ」 「池田正子ですか」 「それそれ」  財津は首を縦にふった。 「戦争を憎んで平和をナンタラとかいう団体の事務局長だ。二言目には平和と清潔と福祉をお題目に、抗議ばかり仕掛けてくるガチガチの石頭」 「利光代議士が静養先で会うことになっていたもう一人の人物とは、そのガチガチの石頭オバさんのようですよ」 [#改ページ]   最終問題 いったい私は誰なのか     1  ひろみは、厨房の冷凍庫の封印を開け、氷に閉じ込められた三条晴香の冷凍死体を、まじまじと見つめていた。  時代劇に出ているというその女優は、真っ赤なタートルネックのセーターに、同系色のニットのスカート。そして、鮮やかな赤とは対照的に純白のベルトをしていた。  黄色いサングラスをかけた彼女は、うつむいて氷の中に浮いている。  何度みても気味の悪い光景だが、時間が経つにつれて、氷の表面にかなり霜が付着してきて、中の様子が見えにくくなっていた。  ひろみは手でこすって、氷の透明度を増した上でじっくりと観察を続けた。  その視線は、三条晴香の純白のベルトに集中していた。 「やっぱりね……」  ひろみはため息をついて目を離し、それから三条晴香の全身をもう一度眺めた。 「だんだん解ってきたわ」  ひろみは納得して、ふたたび冷凍庫の扉をガムテープで封印した。  次に彼女は、鹿取昭造の部屋へ入った。  完全な密室状態の中でツララにより刺し殺された鹿取の死体が、ベッドの上にそのままの状態で横たわっていた。 「三条晴香のことからすると、きっとこの部屋で起きた殺人は……」  ひろみはベッドの脇にひざまずいた。  死体そのものと、それからもう一つのことをチェックするために……。 「ああ、いやんなっちゃう。すごい見落とし……」  一分後、自分の注意力のなさに失望したという表情で、ひろみは立ち上がった。  そして、彼女は玄関に急いだ。  ブーツを履いて外に出る。  鹿取昭造に割り当てられた部屋を、外から眺めるためである。  いつのまにか青空の半分がグレーに変わり、気温がぐんぐん下がってきていた。  深い雪に足をとられながら、ひろみは東側に面した一階客室の方へ回り込んだ。  建物全体が雪の中で上下動したために、もともと黒ずんだ茶色をしている外壁が、白いスプレーを吹き付けたようになっていた。  その外壁を伝わりながら、ひろみは客室の窓の真下まで来た。彼女の腰から下は、もうほとんど雪に埋まっている状態である。 「つめたーい」  ブルッと身を震わせてから、ひろみは鉄製の飾り格子が入った窓を見上げた。  鹿取に割り当てられた部屋と、利光の部屋が隣り合わせに並んでおり、一方、廊下を挟んで反対側にあった伊吹の部屋は、外には面していないのでここからは見えない。  さらに上を見あげると、二階の女性用客室の窓があった。  ひろみと池田正子の部屋の窓が、ちょうど鹿取と利光の真上にある。  この四人に割り当てられた各部屋の窓のすぐ下——飾り格子から手を突き出して、まっすぐ下に伸ばせば楽に届く距離に、何か光るものが束になって固定されていた。  ひろみは鹿取の部屋の窓辺に近寄って、じっくりとそれを観察した。  表から戻ると、ひろみは凍えた指先をこすり合わせながら、伊吹の部屋に向かった。  ここには、さきほどラッセルの間で毒殺された作家の死体が、シーツにくるまれた状態で運び込まれていた。  鹿取の部屋も伊吹の部屋も暖房を止めてあるので、死体の保存にはおあつらえむきに冷えていた。  ひろみは、少しだけそのシーツを開いてみた。  人生最後の表情にしては、あまりにも酷《むご》たらしいな——と、反射的に顔をそむけた。  シーツを元どおりにかぶせると、ひろみは次にその部屋の収納棚を開けてみた。  伊吹が持ってきたジュラルミンのトランクが、端の方に置いてあった。それはコンビネーション・キーでロックできるタイプだったが、幸い鍵は掛かっていない。  ここまできたら、どうしても彼の私物を点検する必要がある——ひろみは、そう考えていた。  具体的に何を探すということではなかったが、伊吹の言動における矛盾を解き明かす何かが、彼の荷物の中から見つかりそうな気がしていた。  鈍い銀色をしたトランクは、さわった手をつい引っ込めてしまうくらいに冷えていた。  ひろみは指先を口元で暖め、それから二つの留め金をはずして蓋を開けた。 「ずるーい」  中を見たひろみは、思わず口をとがらせた。 「まったく嘘つきなんだから……」  伊吹のトランクには、小型の携帯電話機が入っていた。     2 「いよいよ、トリック卿の招待状が遊びでないことがハッキリしてきたな」  財津警部は、フレッドと膝を突き合わせてココアを飲んでいた。  寒い季節になると、すぐにフレッドがこれを飲むので、番茶一辺倒だった財津のメニューにもバリエーションができたというわけである。 「まず、国会議員の利光太郎、作家の伊吹圭、そして心霊術師の蓮見サマーナが、ひろみと同じようにトリック卿からの招待状を受け取ったのは、ほぼ間違いないだろう」  熱いココアの入ったカップを両手で抱えながら、財津が言った。 「さらに利光は、鹿取製薬の鹿取昭造社長と、市民団体の事務局長である池田正子とも合流する予定でいた」 「それから、蓮見サマーナの事務所の人間も、伊吹圭を担当する出版社の編集者たちも、それぞれ本人から三日間の留守を言い渡されていたと言っています。この二人も、申し合わせたように明日の夜まで休暇をとっているのです」  と、フレッドが調査結果を補足した。 「これだけの面々が、忙しいスケジュールをやりくりしてトリック卿の招待に応じたんだ。こりゃ、賞金一億円に目がくらんだ、などという単純な話じゃないぞ」 「そうですね」 「そんな妙な計画にひろみが巻き込まれたとなると、これはただごとじゃない」  財津は深刻な顔になった。 「いままでに判明した招待客は五人。これにひろみを加えると、男性三名に女性三名で合計六人になりますよね」 「トリック卿の招待状に書かれた人数には、あと一名足りないが」 「そのことですけど……」  フレッドがココアのカップを置いて言った。 「さっき電話で取材をした、伊吹圭担当の編集者なんですが、声からすると若い女の子らしく、けっこうベラベラと『先生』のプライバシーをしゃべるんです」 「ありそうな話だな。で?」 「つい最近、彼の仕事場に原稿を取りに行ったとき、今回の留守を申し渡されたそうなんですが、そのとき、なにげなく彼のスケジュール表を見たら、バレンタインデーのところに『大西静代《おおにししずよ》』という名前が書き込まれていたというんです」 「なにげなく見たらというが、それはきっと『なにげなく』じゃないな」 「ぼくもそう思いますね」  フレッドはニヤッと笑った。 「直感ですが、この女性編集者は伊吹圭に恋している——いや、もしかしたら、それ以上のところまで進んでいますね。でなければ、二、三日留守をすると言われたからといって、奥さんじゃあるまいし、いちいち作家のスケジュールなんかを盗み見たりしないものです」 「そのとおりだ」 「それで提案なんですが」 「何だ」 「彼女のいる出版社は、ここからすぐの隼《はやぶさ》町にあります。電話ではなく、直接ぼくが会いにいけば、もっとしゃべってくれると思うんですよ。なにしろぼくは、ブロンドの髪にブルーの瞳、身長一九〇センチの……」 「ハンサムなガイジンだからな」 「日本人ですよ」  フレッドは言い返した。 「オーケー。いずれにせよ、この際だ。おまえの提案を採用しよう」  財津は仕方なしにうなずいた。 「ひろみの身に何かが起きた可能性が高いとなれば、黙っているわけにいかんからな。ただし、あくまで非公式の捜査だということを忘れるなよ」 「了解。じゃ、行ってきます」  フレッドはサスペンダーをパチンと鳴らして、背広を肩に引っかけた。     3  十分ほどで戻るといったひろみだったが、実際には二十分以上経ってから、彼女はラッセルの間に戻ってきた。  時刻は一時半になろうとしていた。 「待ちくたびれたよ」  利光が言った。 「よっぽど、そっちへ様子を見に行こうかと思ったくらいだ」 「すみません。表にも出ていたものですから」  ひろみはお尻についた雪を、ストーブの前でパッパッと払った。 「で、何か進展があったのかね」 「ええ、そのことを今からお話ししようと思います。どうぞ池田さんも、こちらにいらっしゃってください」  ひろみは、離れたところのソファに腰掛けていた正子を呼んだ。 「どういうことがわかったんですか」  たずねながら、正子は大理石のテーブルについた。  ただし、利光を意識してか、彼とは反対側の席である。 「うそつき荘が雪の中に沈み、次々に殺人が起きはじめたときには、正直いって私もびっくりして、きちんと物事を考える余裕がありませんでした。刑事なのに、だらしなくてごめんなさい」  ひろみは素直に謝った。 「でも、また外の光を見ることができて、いまは落ち着いています」 「まあ、君はそれなりに刑事らしくふるまってくれていたよ。実際、君がリーダーシップをとってくれなかったら、我々はもっとひどいパニックに陥っていただろう」  利光がひろみの行動を評価した。 「しかしだ、ここからすぐに脱出できない以上、そろそろ事件を解決してもらわないと、もう私は精神的にも限界だよ……疲れた」 「私もです」  すっかり目の縁に隈を作った正子が、こめかみのほつれ毛をかきあげながら言った。 「もう一晩このうそつき荘で過ごすなんて、とてもそんなことは考えられないわ」  そういって、正子は不安そうな表情で外の空模様を眺めた。  さきほどまでの晴天が嘘のようだった。  空はどんよりと曇り、昼下がりとは思えないほどの暗さになってきた。山の天気は変わりやすいというが、それにしても早回しのフィルムを見るような急変である。 「お二人に安心していただけるだけの説得力があるかどうか、自信ありませんが……」  ひろみは静かに言った。 「トリック卿が出題したこれまでの三つの謎——いえ、伊吹さんの死も含めた四つの謎について、私なりの解答を見つけることができました」 「本当かね、それは」  利光が力を込めてたずねた。 「密室で人が殺されたり、雪に囲まれた離れから殺人犯が消えたり、そういった謎が全部解けたというのかね」 「ええ」 「じゃあ、さっそく聞かせてほしいわね、その解答を」  正子が注文した。 「わかりました」  ひろみはうなずいて、壁際の食器棚からガラス製のワイン入れを取り出した。  そのデカンタは、伊吹が毒殺されたときに水差し代わりに使っていたものと同じデザインで、注ぎ口が花びらの形をしたものだった。  ひろみはそれを持って、いったん厨房へ姿を消した。 「何のつもりかね」 「さあ……」  利光と池田正子が顔を見合わせた。  しばらくして、ひろみが戻ってきた。  彼女は片腕にミネラルウォーターの瓶を何本か抱え、もう一方の手には空のままのデカンタを持っていた。 「実際に私たちが使っていたデカンタは、証拠品として、このまま手をつけずに残しておかなければなりませんが」  ひろみは、最初からテーブルの上にあった方のデカンタを示した。 「たまたまこれと同じデザインのものが食器棚にもう一つあったので、これを使ってみなさんに面白いものをお見せしたいと思います」 「手品でも始めるのかね」 「そうです」  ひろみはニコッと笑って、食器棚から新しいワイングラスを三つ取り出した。 「お手数ですが、池田さん。このグラスを流しで洗ってきていただけますか」  不思議そうな顔をしながらも、正子は言われたとおりに、三つのワイングラスをきれいに洗って戻ってきた。 「さて、これで不純物などはいっさい付いていないと思いますが、念のためによくチェックしてください」  利光と正子はグラスの柄のところを持って、それを明かりに透かしてみた。 「さて、こんどはこのデカンタに、ミネラルウォーターを注ぎます」  三本のミネラルウォーターを次々と栓抜きで開け、それを順番にデカンタに注いでいった。 「では、グラスをお手元に」  そういって、ひろみもグラスを一つ引き寄せた。 「よろしいでしょうか。いまから、伊吹さんが毒殺されたときの再現をしてみます」  利光が緊張した目でひろみを見つめた。 「あのときは、鹿取さんがいかにして密室で殺されたかという謎について、みんなで議論を交わしていましたね」  そのときのことを思い出して、正子はゆっくりうなずいた。 「議論が白熱したことや緊張もあって、みなさんはしきりにデカンタから氷水を自分のグラスに注いでいました」  こんどは利光がうなずいた。 「いま、この中には氷が入っていませんが、氷の有る無しはトリックに関係ありませんので、ここでは省略いたします」 「トリックですって?」  正子が聞き咎めた。 「そうです。トリックです」  ひろみは二人を見つめた。 「あのとき、伊吹さんが何杯目かの水を飲んで苦しみ出すまでは、誰にも異常は起きませんでした。もちろん、伊吹さん自身にもです」  ひろみは洗いたてのグラスを指した。 「グラス自体に毒が仕掛けてあったのなら、最初の一杯で伊吹さんに症状が現れていなければおかしいですし、氷水あるいは氷そのものに毒が混入されていたのなら、全員が中毒症状を起こしたはずです。あのときにも申し上げましたが、デカンタの中に入っていた氷もだいぶ溶けていましたから、たまたま毒入りのキューブが伊吹さんに当たったという見方は、現実性がないのです」 「しかしだね」  利光が座り直して言った。 「グラスにも仕掛けがない、氷にも水にも仕掛けがないとしたら、いったいどうやって伊吹君は毒を口にしたんだ」 「もちろん、自分のグラスからです」 「しかし、たったいま君はグラスには毒は仕掛けられていないと」 「ええ、そう言いました」  ひろみは平然と答えた。 「それじゃあ、君の言ってることはメチャクチャじゃないかね」  利光は両手を上にあげた。 「テーブルの上に置かれたデカンタから、毒の含まれていない安全な氷水が、毒の塗られていない安全なグラスに注がれ、それをほぼ同時に飲んだ二人のうち、私は何でもなくて、伊吹君は毒殺された……。こんなことがどうやったら起こるんだ」  利光は上げた手をテーブルにバンと下ろした。 「伊吹君の服毒自殺だったという結論以外に、合理的な解決はないぞ」 「いいえ」  ひろみは首をふった。 「伊吹さんは、やはり毒殺されたのです。その方法をいまからお見せします」  ひろみはデカンタを持ち上げた。 「この中に入っているのは何でしょうか」 「何でしょうかって、ミネラルウォーターに決まってるじゃないか」 「色は?」 「透明だよ……君、頭はだいじょうぶなのか」 「だいじょうぶです」  ひろみは利光にほほえんだ。 「では、先生のグラスからおつぎしますね」  ひろみはデカンタを傾けた。  空中で、水が緑色に変わった。 「な、な、なんだ、これは」  利光はびっくりして自分のグラスを見つめた。  透明なガラスのデカンタから注がれたミネラルウォーターが、緑色の液体となってグラスに溜まっていった。  グラスの中で色が変わったのではない。  デカンタからこぼれ落ちたとたん、まさに空中で一瞬にして緑色に変化したのだ。 「驚くのはまだ早いですよ」  ひろみは、次に正子のグラスの上でデカンタを傾けた。  こんどは、空中で水が赤く染まった。 「えーっ」  信じられない叫びをあげて、正子は目の前のグラスを見つめた。  みるみるうちに、彼女のグラスは赤い液体で満たされた。 「では、私も一杯いただきますね」  ひろみのグラスには、黄色い液体が注がれていった。  しかし、グラスに注がれている最中も、デカンタの中の水は間違いなく透明なままなのだ。  ひろみはデカンタをテーブルの上に置いた。  あっけにとられる利光と正子の目の前に、赤、黄、緑の三色のグラスが揃った。     4 「ハハハハ、みなさん、いかがお過ごしかな。私はトリック卿である」  利光が、ひろみに手品の謎ときをたずねようとしたとき、またしてもラッセルの間に高らかな笑い声が響き渡った。 「これまでに示された三つの殺人に関する問題は、みなさんの頭には少々難しすぎたのではないだろうか。賞金の一億円をすっかりあきらめてしまわれた方もいるのではと、いささか心配になっている」  またトリック卿はカラカラと笑った。 「耳障りな笑い方をするやつだ」  利光が吐き捨てた。 「さてさて、いよいよお待ちかねの賞金三億円を懸けた特別問題を出す時間がきた。心の準備はよろしいかな——では申し上げる。  いったい、私は誰なのか。  ハハハハ。これまでで最も短く、最も難しい問題であろう。  いったい、私は誰なのか  さあ、賢明なるみなさん、じっくりと考えたうえで、どうか納得のいく答えを出していただきたい。なお、制限時間は……無制限とだけ申し上げておこう。では、みなさんの健闘を祈る」  高笑いと共に、メッセージは終わった。 「トリック卿の正体は、もうわかっているんです」  ひろみは顔色も変えずに言った。 「無制限の時間を与えられなくても、いまからすべての謎を解いてごらんにいれます」 「なんだって? 本当なのか」  利光がきいた。 「はい」  ひろみは毅然とした調子で答えた。 「お気づきのとおり、トリック卿のメッセージは、あらかじめ人間の声を機械的に変調させて録音し、それをリモコンかプログラムされたタイマーなどで再生させているものです」 「そうだろうな。どこでどうコントロールされてるかは、わからんが」  利光はラッセルの間を見回した。 「いまは、スピーカーや再生システムのありかを探しているヒマはありません。しかし、ここで重要なのは、伊吹さんの死は、トリック卿の予定にはなかったということです」  ひろみの言葉に、正子がごくんと唾を呑んだ。 「だからこそ、一貫してトリック卿のメッセージは伊吹さんの死を無視してきました。というよりも、それに即座に対応して臨時のメッセージを吹き込めなかったのです」 「そういえば、すでに四人死んでいるのに、さっきもトリック卿は『三つの殺人』と言っていたな」  利光が言った。 「そうです。で、この伊吹さんが殺された方法をご説明する前に、うそつき荘に関するすべての謎を整理しておきたいと思います」  ひろみは疑問点を羅列していった。 ㈰トリック卿は、なぜ烏丸ひろみを警視庁捜査一課の刑事だと知りながら招待客に加えたのか。 ㈪他の六人も、きわめて多忙なスケジュールをやりくりまでして、なぜ不可解な招待に応じたのか。それは、一億円というにわかには信じがたい巨額の賞金が目当てだったのか。 ㈫ゴメスと名乗る国籍不明の運転手はどのようにして雇われたのか。他に、この屋敷の歓迎準備をしたのは誰なのか。 ㈬築何十年という古めかしいうそつき荘の建物を土台ごと上下動させるような大規模な機械装置は、いつどのようにして取り付けられたのか。 ㈭三条晴香は、いつ、いかなる方法で氷の柩に閉じ込められたのか。 ㈮鹿取昭造を殺した犯人は、犯行後どうやって部屋から脱け出したか。 ㈯なぜ、鹿取はツララで殺されなければならなかったのか。 ㉀全員で同じデカンタから同じ氷水を飲みながら、なぜ伊吹圭だけを毒殺することができたのか。 ㈷蓮見サマーナ——すなわち成瀬智子は、なぜ自分から離れのコッテージへ走っていったのか。 ㉂サマーナを殺した犯人は、どうやって離れから忽然と消えたのか。 ㉃トリック卿は、なぜ一億円の懸賞金を懸けた問題を殺人のたびに出していくのか。 ㈹そして、そのトリック卿とは誰なのか。連続殺人の動機は何なのか。 「私は、ついさっきまでの再検証で、この十二項目にわたる謎に一通りの解決を与えることができました」  ひろみは時計を見ながら言った。  午後二時。  外はますます暗くなり、白いものがパラつきはじめてきた。 「その疑問点の中で、比較的単純なものからご説明しようと思って、不思議な実験をお目にかけたわけです」 「この謎が単純ですって」  池田正子は三色の水をたたえたワイングラスに目をやった。 「透明だった水が、急に赤や緑に変わって驚かれたと思いますが、これは食紅の色なのです」 「食紅?」  池田正子がグラスを持ち上げて、色水を透かしてみた。 「ええ、ここの厨房にはいろいろな物が揃っていて助かります」  ひろみはほほえんだ。 「ちょうどうまい具合に、食品用の人工着色料が三種類あったので、それを使ってみたんですが……」  彼女はそこまでいうと、ミネラルウォーターを入れたデカンタを指さした。 「さっき、テーブルについてボンヤリとデカンタを見ていたとき、私はこの注ぎ口が、六枚の花びらの形をしているという事実を、すっかり見過ごしていたことに気がついたのです」 「注ぎ口が花びらの形をしていることが、伊吹君の毒殺に何か関係があるのかね」 「大ありです」  ひろみはきっぱりと言った。 「つまり、デカンタを傾ける方向によって、別々の花びらの上を通って、グラスに水が注がれることになるからです——この意味がおわかりですか」 「すると、この花びらの部分に……」  利光は空中での色変わりを演じた、目の前のガラス容器に目をやった。 「ええ、ちょうど花びらの外側の縁にあたるところに人工着色料の粉を付けておいたのです。分厚いガラスの断面に近いところですから、ちょっと見にはわからないでしょう」  ひろみは指さした。 「六枚のうち、三枚の花びらの縁にそれぞれ赤、黄、緑の着色料の粉末を塗っておき、デカンタの向きをさりげなく変えながら水を注いでいくと、ちょうどそれがこぼれ出るときに、着色料を溶かしながらグラスへ落ちていくのです。これが、透明なミネラルウォーターの水が、空中でさまざまな色に変わるトリックです」  利光と正子は、ひろみが指摘した部分に目をやった。 「いまごらんになっても、着色料は全部水に溶けてグラスの中に移ってしまいましたから、跡形もないはずです。ですから、色水がデカンタの中に逆流することもありません。……もう完全におわかりですね。無害な食紅の代わりに、そこに青酸カリなどが塗ってあったらどうなるか」     5 「なんということだ……」  利光が愕然とした表情でつぶやいた。 「そんな仕掛けがしてあったなんて」 「鹿取さんが殺され、あらためてみんながラッセルの間に集まったとき、あのデカンタは私自身がきれいに洗って氷水を入れたのです」  ひろみは二人の顔を交互に見た。 「この際、捜査官として、あえて自分を容疑者からはずさせていただきますけど——そうなると、私がデカンタをテーブルの上に置いた後、誰かが隙をみて、注ぎ口の部分に青酸化合物を塗ったことになります。もちろん、その当人は、毒物を塗った場所をしっかり覚えていなければなりませんけど」 「あのときにテーブルを囲んだのは……」  池田正子が記憶をたどりながら言った。 「五人でしたわね。私の左隣りに伊吹さんが座り、わたしの前に蓮見サマーナ、そしてサマーナの隣りが利光先生でした。で、烏丸刑事は少し離れたところにいた」 「そのとおりです」  ひろみがうなずいた。 「でも……」  正子は疑問を投げた。 「デカンタからグラスに水を注ぐときは、みんな自分自身の手でやっていたはずでしょう」 「ええ」 「だったら、誰がどういうふうに水差しを傾けるかなんて、予測できないはずではありませんか」 「そりゃそうだ」  利光も同意した。 「特定の人物を殺そうとしても、その前に別の人間が毒を仕掛けた花びらの方向に水を傾けてしまったら……」  言ってから、利光は青ざめた。 「私も知らぬが仏だったわけだ」 「いいえ」  ひろみはゆっくりと首を横にふった。 「そうは思いません。決して犯人は、このデカンタでロシアン・ルーレットをやりたかったのではないと思います」 「どうしてだ」 「いいですか、あのときにそれぞれが座っていた位置を紙に書いてみますね」  ひろみは用意していたノートに、簡単な図面を描いた。  テーブルの向こう側に利光太郎と、変身前の成瀬智子。  こちら側には伊吹圭と池田正子。  つまり、男同士、女同士がそれぞれ向かい合っている格好である。  その中央に、氷水を満たしたデカンタが置かれていたのだ。 「この四人は、みな右利きであるのを私は確認しています」  ひろみは、デカンタを握った。 「ですから、隣り同士の利光さんと成瀬さん、そして伊吹さんと池田さんは、それぞれ同じ方向からデカンタを握る形になります。もちろん、利光さんや池田さんの場合は、自分の向かって左側にデカンタがあるわけですから、それを引き寄せるときには左手で行うのが自然です」  ひろみがその様子を再現した。 「しかし、氷水のたっぷり入ったデカンタは重く、しかも取っ手のようなものはありませんから、グラスに水を注ぐときは、やはり右手に持ち替えることになります。ところが、意外とそのときにデカンタの向きは変わらないのです」  利光と正子も実際にやってみたが、たしかにひろみの言うとおりだった。  水の量がかなりあるので、片手でクルッと動かしたりはできないのだ。 「さて、もしも成瀬さんか利光さんが犯人で、伊吹さんを狙っていたとします」  ひろみは口調をあらためて続けた。 「その場合、犯人は、伊吹さんと同じ側に座っている池田さんが、先に誤って毒の塗ってあるところから水を注がないよう、その行動に注意していなければなりません」 「なるほど」  利光がうなずいた。 「もしも、池田さんにあわやという動作が見られたら、すぐに何らかの形で水を注ぐのを阻止したはずです。どういうセリフでそれをやるのかまでは、想像できませんけど」  ひろみはいったん言葉を切った。 「ところが、自分と同じ側に殺したい人間が座っていたらどうでしょう。狙っている人間が、毒を塗った場所から水を注ぎやすい位置にデカンタを置いておけば、テーブルの向こう側の二人は、正反対の向きから水を注ぐことになり、誤って違う人間を殺す危険性もずっと低くなります。あとは、自分さえ気をつけていればいいわけです」  利光がゆっくりと池田正子の顔を見た。 「もちろんそこまで準備しても、狙われた人間が一回で、毒を塗った場所から都合よく水を注ぐとはかぎりません。結局、二杯目か三杯目のお代わりが命取りになったわけです」 「ちょっと待ちなさい!」  池田正子が金切り声をあげた。 「それじゃあ、まるで私が伊吹さんを毒殺したみたいじゃないの」 「違うのかね」  利光が冷たい目を向けた。 「まあ……あなたたちねえ……」  正子は、怒りで唇をわななかせた。 「グルになって私を殺人犯人に仕立てようというのね。私は冤罪《えんざい》の被害者になってしまうのね。官憲の暴力だわ。許せないわ」 「待ってください」  ひろみは興奮する正子を押しとどめた。 「私は、まだあなたのことを犯人だとは言っていません」 「言ったも同然じゃないですか」  正子は歯をむきだして怒った。その目には、涙さえ浮かんでいる。 「そりゃあね、七人いた人間が次々に殺されて、三人になってしまえば、先に二人で組んでしまった方が勝ちよ。おまけに、刑事さんと手を結べばなおさらのことだわ」  正子はハンカチを取り出して口に当てた。 「くやしい……こんな侮辱された目にあうなんて……私を誰だと思ってるの」 「いいですか、池田さん」  つとめて穏やかな口調で、ひろみが言った。 「あなたが犯人の有力候補となるのは、狙われていた人間が伊吹さんだ、という前提があってのことです」 「だって、そうじゃないの」 「いいえ」  ひろみが首をふったので、こんどは利光が顔色を変えた。 「狙われていたのは、伊吹君ではなかったというのかね」 「はい」  ひろみは利光にうなずいた。 「おそらく、伊吹さんは誤って殺されたのです」 「誤って?」 「犯人が目印の位置を勘違いしていたか、あるいは、目を離した隙に、デカンタの向きが変わったことに気づかなかったんでしょう。伊吹さんが毒入りの氷水を飲もうとしても、犯人は注意することができなかったのです……」 「じゃあ、もともと毒殺されるはずの人間は誰だったんだ」 「あなたです、利光さん」     6 「ボス、すごい情報ですよ」  外出先から電話をかけてきたフレッドの声は興奮ぎみだった。 「いま、例の編集者の女の子と話を終わったところなんですが」 「何かわかったか」  財津は受話器を持ち替えてメモの用意をした。 「わかったなんてもんじゃないですよ」  フレッドは大声を出した。 「彼女は伊吹圭の案内で、去年の暮れにうそつき荘に行ったことがあるというんです」 「なんだって!」  思わず財津は前のめりになった。 「その編集者の名前は関谷淑子《せきやよしこ》というんですが、こっちで想像したとおり、伊吹とはけっこう進展した仲のようです。これまでにも何度か、二人きりで泊まりがけの旅行をしたことがあると言っていますからね」 「いくら警察の聞き込みとはいえ、最近の女の子はなんでもしゃべるんだな」  財津はあきれていた。 「そうですよ。有名人との交際は、彼女らにとって勲章みたいなものですからね。しかも、男女の仲として深い関係であればあるほど、勲章のグレードも高いってわけです」 「おそれいったよ。で?」 「淑子の話によると、うそつき荘というのは伊吹の知り合いが持っている別荘で、かなり古い建物だというんです。まるで幽霊屋敷みたいだった、と彼女は表現していますけどね」 「幽霊屋敷か……」 「それで、その家を建てた主というのがトリック卿という名前の人物で」 「なに、トリック卿?」  財津が聞き返した。 「ええ、そういうふうに伊吹圭が解説してくれたらしいです。ただし、作り話が専門の作家ですから、淑子としては話半分に聞いていたそうですが、それにしても怖い伝説があって」  フレッドは息をついだ。 「このうそつき荘は、トリック卿なる人物が自分の怨念を晴らすために建てた館で、家そのものが人を殺すために作られている、というんですよ」 「なんだって……」  財津は青ざめた。 「それで、うそつき荘の具体的な場所のことは聞き出せたか」 「ええ。なんでも長野県戸隠村と鬼無里《きなさ》村の中間あたりから北へ折れて、どんどん山の方へ上っていくらしいんです。近くまで行けば道案内はできるかもしれない、と言っていましたけど」 「…………」 「どうします?」  電話口で沈黙した財津に、フレッドが判断をうながした。 「よし、わかった」  財津は、きっぱりとした口調で言った。 「責任は全部私がとる。烏丸ひろみの捜索願を出そう」 「捜索願!」  フレッドが驚いて口笛を吹いた。 「警視庁捜査一課の刑事が、捜索願を出されちゃうわけですか」 「そうだ」 「前代未聞ですね」 「前例はないだろうな」 「ひろみのやつ、本当はスキーをしてました、なんて明るい顔でノコノコ出てきたら、完全に懲罰ものだな」 「しかし、それを恐れて手遅れになったのでは元も子もない」  財津の決意は固かった。 「フレッド、その関谷淑子という子を大至急本庁まで連れて来い。現地の詳細な地図を見せて、うそつき荘の場所を確定するんだ」 「まるで、その後、ぼくに長野まで迎えに行けと言いそうな雰囲気ですね」 「そのとおりだよ。いやなのか」  財津は気色ばんだ。 「そうじゃありませんよ……もう、警部はすぐ興奮するんだから。そうじゃなくてですね、いまからすぐに長野へ向かったって、完全に日が暮れてしまいますよ。もう二時を回っているし、冬の日はつるべ落としですから……」 「それをいうなら、『秋の日は』だ」  かぶせるように財津が訂正した。 「とにかく足の手配は任せておけ。本庁屋上のヘリポートに、ちょうど任務を終えた『スーパー・ピューマ』が留まっている」 「『スーパー・ピューマ』? なんです、それ」 「フランスの陸軍用に開発された全天候型ヘリだよ。ノンストップで長野上空まで……そうだな、一時間半もあれば行くだろう」 「そんな大袈裟《おおげさ》なこと、認めてもらえますかね」 「おまえが心配することじゃない」  また財津は怒鳴った。 「野党議員の利光もかんでいるんだ。鹿取製薬の鹿取社長もな。彼らの身も危険にさらされているといえば、上だってオーケーを出すさ」 「大胆……」  フレッドはつぶやいた。 「とにかく、すぐに戻ってこい。いいな」 「了解です、ボス」  電話を終えてから、財津は興奮した息を静めるのにまるまる一分はかかった。  ようやく気持ちが落ち着くと、警部はひろみから贈られたバレンタインの赤い包みをギュッと握りしめ、自分の席から立ち上がった。     7 「狙われたのが、伊吹さんでなく利光さんだと、なぜ判断したかといえば……」  あっけにとられる利光と正子の前で、ひろみは続けた。 「理由は二つあります。まず、伊吹さんが被害者の立場になるとは思えなかった、という点があげられます」 「なぜかね」  何度も空咳をくり返したのちに、利光がたずねた。 「伊吹さんの言動に、いろいろな矛盾を感じたからです」 「たとえば?」 「長野駅でいちばん最初に会ったとき、伊吹さんは寒いのが苦手だ、と言っていました。スキーやスケートもやらないと言っていました。それにしては暖炉での薪の燃やし方など、ずいぶん手慣れていましたし、その他にも寒冷地の生活に慣れている様子がいろいろ見受けられました」 「なるほど……」  利光が納得した。 「そういえばそうだな」 「到着直後、私にぴったりついて屋敷の中を見て回ったのも、見方を変えれば、私に一通りの案内をしているふうにも思えました」  しゃべりながら、ひろみの脳裏に、そのときの伊吹の表情や言葉づかいが蘇《よみがえ》ってきた。 「それから、三条さんの冷凍死体が発見されたり、鹿取さんが密室の中で殺されているのを見つけたときの態度にしても……なんていうか……嘘っぽいんです。普通の人は、他殺死体を見るなんて初めてのことでしょうから、池田さんや利光さんがそうだったように、もっとびっくりするはずなんです」 「そうよ、三条さんの死体を見たときは、ほんとうに大ショックだったわ」  正子は、何回も首を縦にふった。 「ところが伊吹さんは、まさに小説の登場人物のように、饒舌《じようぜつ》でオーバーアクションで、少しもせっぱ詰まったところが見られませんでした」 「そういえば……そうだったわね」 「えてして、すねに傷を持つ人間は、こうしたわざとらしい言動をとるものなんです」 「じゃあ、彼がトリック卿なのか」  利光が結論を急いだ。 「いえ、そうとは言い切れません。ただし、彼が今回の計画のシナリオを書いた一人かもしれないという気はしています」  ひろみは微妙な言い方をした。  伊吹のトランクの中から、彼が所持を否定していた携帯電話が出てきたことを、ひろみはまだ伏せていた。  その携帯電話はバッテリーが上がっていたが、伊吹の荷物の中には専用の急速充電器もあったので、いま、洗面所のコンセントを使って、バッテリーの充電をしているところだった。  フル充電に必要な時間は約一時間半。  三時ちょっとすぎには、その携帯電話が使えるようになるだろう。  トリック卿は、ここからでは中継局まで電波が届かないと言っていたが、伊吹が携帯電話を隠し持っていた以上、その発言はウソだという気が、ひろみはしていた。 「それから、利光さんが狙われていたと確信するもう一つの理由は……」  ひろみは続けた。 「なんといっても、蓮見サマーナを——つまり、成瀬智子さんを恐れていらした様子が、とても演技などではないと見受けられたからです」  急に利光が苦い顔になった。 「利光さん、あなたは本気で成瀬さんに殺されると思っていましたね」 「…………」 「蓮見サマーナになったときの、彼女のあなたに対する憎しみも、真に迫ったものでした」  利光は唇をかんで黙っていた。 「奇妙なゲーム感覚で連続殺人が起きていく中、利光さんと蓮見サマーナとのいがみあいだけは、とてもリアルな、とても生々しい感情の爆発として私の目に映ったのです」 「それに関しては……」  政治家の利光は、懸命に冷静を装って言った。 「ノー・コメントだな」 「わかりました」  ひろみはうなずいた。 「しかし。もう一つ重要な光景を忘れてはなりません。それは、伊吹さんが毒殺されたとき、いちばん衝撃を受けていたのが成瀬さんだったという事実です」 「そうですよ、利光さん。彼女、ずいぶんと泣いていましたよ」  池田正子が、遠慮なく利光に言った。 「あの姿はずいぶん印象的でしたけどねえ」 「そうしたことを総合すると、伊吹さんの毒殺の背景はこう推測できるのです」  ひろみは正子の言葉を引き取った。 「蓮見サマーナこと成瀬智子は、利光さんの毒殺を計画し、デカンタに青酸化合物を仕掛けた。ところが彼女の見落としで、伊吹さんがその毒を誤って口にするのを見逃してしまった。その結果、殺したかった利光さんは助かり、伊吹さんが身代わりの犠牲になってしまったのです」  ひろみはそこで口をつぐむと、国会議員のそばに近寄った。 「おとなしい穏やかな素顔を演じる成瀬智子の中で、何かの感情が爆発しました。そこで彼女は、心霊術師蓮見サマーナの姿にふたたび戻り、極限の怒りをあなたにぶつけたのです」  利光は青ざめた顔でノー・コメントを押し通していた。 「……とりあえずこの話題は、ここまでにしておきます。次に、鹿取さんの死について触れなければなりません」  ひろみは話しかける相手を、正子の方に変えた。 「伊吹さんの殺害に青酸化合物が使われたことから、私は一つの連想をしました。つまり、鹿取さんの殺害にも毒物が使用されたのではないか、という連想です」 「だけど、あの人の場合はツララで刺し殺されていたわ」 「そうです。その凶器がツララだったということがポイントなのです」  ひろみは軽い吐息をついた。 「じつは、鹿取さんが部屋で殺されているのを発見したとき、私は大きな見落としをしていました」 「なんなの」  正子が問い返した。 「鹿取さんはヘビースモーカーでした。それにお酒もずいぶん飲んでいました。そうした匂いにかき消されて、私は鹿取さんの死体における青酸化合物特有の反応を見逃していました。喉からの出血量が、ショック死を引き起こすには少なすぎるなと思っていたのに、その場では真相に気がつかなかったのです」  ひろみは悔しそうな顔をした。 「ツララは一石二鳥の凶器でした。尖った先端に毒物を凍らせてあったのです。それが喉の刺し傷から血管に吸収され、鹿取さんは死に至りました」 「しかし……」  ようやく細い声で利光が口を開いた。 「そんな手間をかけなくても、単純にナイフで殺せばいいことだろう。暖かい部屋では、せっかく用意したツララもすぐ溶けてしまって、凶器としての役に立たなくなる。仕掛けた毒だって流れてしまうかもしれないじゃないか」 「私も最初はそう思っていました」  ひろみは言った。 「凶器としてのツララは保管するにも不便だと」 「そのとおりだよ」 「しかし、実際は逆でした」 「逆?」 「雪に囲まれた外の寒さは、まさにツララを保存するのにピッタリだったのです」 「外に保存とは、どういうことかね」  利光は首をひねった。 「私はツララが窓の外から持ち込まれたのではないかと、ひさしをチェックしましたが、うそつき荘が沈んだときの衝撃のためか、ツララは一本もぶらさがっていませんでした」 「ああ、そうだったな」 「でも、表から建物をよく見ると、外に面した四つの部屋の窓のすぐ下に、何かキラキラ光るものが見えました。それは、引っかけ金具に固定されたツララでした」  ひろみは観察の結果を報告した。 「部屋の中にいても、飾り格子から手を伸ばせば簡単に取れる位置に、尖ったツララが三本ずつセットされてありました。いえ、鹿取さんの窓の外には、二本しか残っていませんでしたけれど」 「その四つの部屋というのは?」  利光がきいた。 「一階では、鹿取さんと利光さんに割り当てられた部屋。そして二階は、ちょうどその真上、池田さんと私の部屋でした」 「我々の部屋の外にも?」 「はい。つまりトリック卿は、自分自身が凶器を携帯していなくても、この四人に関しては、いついかなるときでも、毒物入りのツララを使って就寝中を襲えるよう、ちゃんと準備を整えていたのです。一本で事足りないときのために、ごていねいにスペアまで用意して」  恐ろしい現実を突きつけられても、利光はまだ納得しかねるようだった。 「すると、鹿取社長を殺したのも智子だというのかね」 「いいえ、彼女が鹿取さんを殺すことは物理的に不可能でした」 「そうだわよ」  池田正子がうなずいた。 「なにしろ、鹿取さんの部屋は完全な密室でしたからね」 「しかし、彼女にかぎらず、誰も鹿取氏を殺せる状態にはなかっただろう」  利光が疑問を呈した。 「どうやって犯人は密室状態の部屋から出てこられたんだ。透明人間じゃあるまいし、そんなことはありえないぞ」 「池田さんは、トリック卿が出題した第二の問題文を覚えていますか」  ひろみがきくと、メモ魔の正子は即座に手帳を広げた。 「ええ、ちゃんと書き留めてありますよ」 「それを読んでいただけますか」 「いいわよ——『いかにして犯人はその部屋から脱け出したか』——こういう文でしたけど」 「まさに、その問題文そのものがトリックだったのです」  ひろみは穏やかに笑った。 「この文そのものがトリック?」  正子は手帳にもう一度目を落とした。 「そうです。非常に巧妙なトリックです」  ひろみはテーブルの上で両手を組み合わせた。 「私は最初から疑問でした。なぜ、賞金一億円などと言って、殺人のたびにもっともらしく問題など出すのだろうか、と」 「そりゃあ、トリック卿というやつが、一種の偏執狂みたいな人間だからじゃないのかね。殺人ゲームの謎について、我々が頭を悩ます姿を見て喜んでいるんだ」 「たしかに、あの高笑いから始まるメッセージテープを聞いていれば、そんなトリック卿のイメージも浮かんできますよね。でも、真の目的はもう少し現実的なものでした」 「というと?」 「私たちに最初から誤った先入観念を持たせるためだったのです」 「まだよくわからんな」 「いいですか、利光さん、池田さん。第二問は、どうやって犯人は部屋から脱け出したか、とたずねていますね」  うなずいた二人に、ひろみは静かに言った。 「ところが、犯人は最後まで部屋を脱け出してはいなかったのです[#「犯人は最後まで部屋を脱け出してはいなかったのです」に傍点]」     8 「刑事さん、伊吹さんに何かあったんですか」  タクシーに乗り込むと、関谷淑子はしきりに質問を飛ばしてきた。  彼女の勤める出版社から警視庁までの短い距離だったので、とにかくフレッドはよけいなことはしゃべるまいと決めていた。 「もしかして、犯罪かなにかに関わっちゃったんですか」 「だったらどうする?」  フレッドは意地悪な質問をした。 「私が伊吹さんとプライベートに関係していたことは、絶対内緒にしといてくださいね」  淑子は、真剣な表情で勝手なことを言った。 「編集者と作家の恋はタブーなの?」 「そうじゃないですけど……本番でお嫁にいくとき、差し支えるから」 「本番でお嫁に?」  フレッドは相手の奇妙な言い回しに戸惑った。 「うん」 「じゃ、本番じゃないテストがいっぱいあるわけだ」 「そりゃそうですよー」  当然というふうに彼女は言った。 「ゴルフだって、コースに出る前に打ちっぱなしで練習したりするじゃないですかあ」 「すると、君にとって伊吹先生は、打ちっぱなしの練習場みたいなもの」 「そう」  淑子は首をすくめた。 「向こうだって、けっこう遊んでいるみたいだし」  美人ではないが、淑子には一種男を魅《ひ》きつける媚薬をまとった雰囲気がある。  しかし、とことん口は軽そうだ。 「で、去年の暮れに伊吹先生にうそつき荘に連れていかれて、そこで何をしていたの」  タクシーの後部座席で長い脚の置き場所に困りながら、フレッドはたずねた。 「それがけっこう私ってミジメでー」  語尾を伸ばしながら言う。  これで小説の編集者とはおそれいるが、案外こういうタイプが作家に可愛がられるのかもしれない、とフレッドは思い直した。 「向こうに着いたとたん、小説の構想を練るからといって、放ったらかしにされちゃったんですよー。ひどいと思いません」 「ふうん」  フレッドはチラッと彼女を横目で見た。 「恋愛小説の新作を練るのなら、君と一日中じゃれあっていた方がよさそうだけどね」 「それがー」  ちょっと聞いてよ、というふうに、淑子は馴れなれしくフレッドの腕をたたいた。 「こんどは推理小説を書いてみるつもりなんですって」 「推理小説?」  警視庁の前に着いたので、フレッドは財布を取り出した。 「そう、なんでも連続殺人ものらしいんですよ。人がバカバカ殺されちゃうの。私、そういうのあんまり好きじゃないけど」 「え?」  釣銭を受け取りながら、思わずフレッドは相手の顔を見た。  何か背筋が寒くなるような、不吉な予感が走った。 「ところで刑事さん」  先に降りた淑子が、まじまじとフレッドの全身を見つめた。 「ガイジンなのに日本語上手なんですね」 「ぼくは日本人だよ」 「うそー」 「ぼくは嘘つきではありません」  ため息をついてから、彼はつけ加えた。 「いいかい。どうでもいいけど、この建物の中に入ったら、おしゃべりな自分を忘れてくれよ」 「え、私って口堅いからだいじょうぶですよー」  楽しそうに言いながら、関谷淑子は警視庁の正面玄関に向かった。     9 「最後まで犯人は部屋から出ていないとは……それはどういうことなんだ」  利光は、まるで訳がわからないというふうに首をふった。 「密室の中で鹿取さんを殺しても、そこから物理的に出ることが不可能だったら、犯人としては部屋に居残るしかありません。それだけのことです」  ひろみは淡々と語った。 「そうした可能性を詳細に検討させないために、トリック卿はあんな問題文を出して、私たちの目を真相から背けさせたのです」 「しかし烏丸刑事、我々は徹底的に部屋の中を調べあげたはずだ。だが、どこにも犯人の隠れる場所などなかった。おまけに、五人全員が最初から部屋の外にいたじゃないか」 「でしょ?」 「でしょ、じゃないよ」  利光は唾を飛ばした。 「この謎をどうやって説明してくれるんだ」 「みんな私がいけないんです」  急にひろみがそんな言い方をしたので、ますます利光は戸惑いの色を浮かべた。 「利光さんや池田さんは不思議に思われませんでしたか。なぜ、警視庁捜査一課の刑事である私が、こんな場所に招待されたのか」 「トリック卿は、ゲームの中立な審判役のために招いたと言っていたわね」 「それもウソです」  ひろみは正子に言った。 「閉ざされた別荘での連続殺人に警察官が居合わせれば、謎解き小説としては面白くなっても、現実に殺人計画を遂行する犯人としては、邪魔な存在であるに決まっているんです」 「それは、まあそうだが……」  利光は頬づえをつきながら相槌《あいづち》を打った。  国会議員の顔には、疲労の色がかなり色濃く出ていた。  彼だけではない。三人が三人とも、気力で起きているという感じだった。  中でも、トリック卿の謎に挑戦するひろみの気迫はすごかった。 「トリック卿は、どうして殺人や強盗事件専門の刑事である私をわざわざ招待したのでしょうか。しかも百万円まで添えて」  二人からの答えは期待できなかったので、ひろみは続けて言った。 「バイクを乗り回す女性刑事ということで、マスコミなどに出たのに目をつけたのでしょうが、トリック卿のメガネにかなった理由は——くやしいけれど、私がまだまだ経験の浅い未熟な刑事だったからなのです」  謙遜ではなく、ひろみは本気で言った。 「良くいえば、基本原則に忠実すぎるということかもしれません。すなわち、殺人現場については鑑識課員が到着するまで、しっかりと現状を保持せよという原則にね」  ひろみはゆっくりと立ち上がった。 「もしも刑事である私がいなかったら、どういうことになっていたか考えてみてください」 「君がいなかったらパニックになっていた。私はさっきそう言ったはずだがね」 「たしかに、次々と起きる殺人事件に対して、みなさんはただひたすら脅え、死体を遠巻きにしていただけかもしれません。でもその逆に、現場をメチャクチャに触ってしまったかもしれません。それがトリック卿は怖かったのです。とくに、三条さんのケースでは」  彼女はチラッと厨房の方に目をやった。 「刑事だ刑事だとトリック卿におだてられながら、じつは私は殺人トリックのお手伝いをするために招《よ》ばれたようなものでした。自分の果たしているそうした役回りに気がつかなかったら、私はまったくのピエロになるところでした」  ひろみはスキージャケットを羽織り、そのジッパーを首のところまで閉めた。  そしてラッセルの間を横切り、ゆっくりとした足取りで玄関に向かった。 「どこへ行くんだ」  利光が身を起こしてきいた。 「外です。蓮見サマーナが刺し殺された、あの離れです」  スノーブーツを履きながら、ひろみは利光たちに声をかけた。 「これからぶっつけ本番の実験をしてみます。たぶん、私のカンは当たっていると思いますけど……。池田さん、そこの窓からコッテージの扉が正面に見えますね」  正子はうなずいた。 「いまから私があそこに行きますから、絶対に目を離さないでいてください」  そう言い残して、ひろみは玄関を出た。  すでに空は濃いグレーに変わり、そこから雪が音もなく降ってきた。その密度はまだ薄いが、やがて大雪になりそうな雰囲気である。  髪の毛を雪で白く染めながら、ひろみはコッテージへ走った。  そしてドアを開けると、ラッセルの間の窓から眺めている二人に向かって手を振った。  向こうからも手を振り返すのを確認して、ひろみは中に入り、ドアを閉めた。 「あの子は何をやるつもりなんだ」  窓辺に立った利光は、隣りに並んだ池田正子にたずねた。 「さあ」  正子は首をふった。 「しかし、彼女は若いけれど馬鹿じゃないぞ」 「わかっています」 「君は……」  まじまじと池田正子の横顔を見ながら、利光はたずねた。 「ほんとうにトリック卿じゃないんだろうな」 「まさか」  正子は冷たい笑みをもらした。 「同じ質問をそちらにお返ししますよ」 「そうか……」 「私はトリック卿に脅されてやってきただけです。たぶん、あなたと同じように」 「なるほど」  利光はコッテージのドアに視線を固定したまま、手を後ろに組んだ。 「あの刑事は、どうやらその点は勘違いしているようだな。みんなに百万円入りの招待状が来たと思っているらしいが、私のところに届いたのは、招待に応じなければ世間に悪事をバラすという脅迫状だった」 「私のところに来たのも……おなじ文面です」 「そして鹿取のところに届いたのも……」  二人が外に目をやったままボソボソとしゃべっていると、突然、彼らの真後ろで大きな声がした。 「脅迫状がどうしたんですって?」  まさに心臓が飛び出したような顔で、利光と正子がふり返った。 「き、きみ……」  利光は口をパクつかせた。 「どこから出てきたの!」  正子も目をむいた。  コッテージの中にいるはずの烏丸ひろみ刑事が、いきなり吹き抜けの広間に現れたのだ。     10 「池田さん、トリック卿の第3問はどんな文章でしたか」 「えーと、それは……」  例の手帳を広げながら、正子の指は細かく震えていた。  ひろみの登場のしかたが、あまりにショッキングだったからだ。 「あったわ——『いかにして犯人は空中に消えたか』——これよ」 「お二人ともそろそろおわかりでしょう、トリック卿のやり口が」  ひろみは笑った。 「たった五坪足らずのコッテージ。室内はいたってシンプルで、板張りの部屋が一つだけ。そこに転がっていた蓮見サマーナの刺殺死体。周りは血の海。四つある窓は全部内側からロックされ、たった一つの出入口は私たちの監視下にあり、しかもコッテージの周囲には、被害者以外の足跡はいっさいなかった——こうくれば、犯人が空中に消えたと思いたくなるのも無理ありません。でも、そうした印象も、すべてトリック卿の問題文にミスリードされてしまっているのです」 「じゃあ、君はどうやってここに来たんだ」  利光が急《せ》いた口調でたずねた。 「私は空中ではなく[#「私は空中ではなく」に傍点]、地中に消えたのです[#「地中に消えたのです」に傍点]」 「地中だって?」 「そうです。理屈からいえばそれしかないと思ってはいても、実際に雪の下をトンネルが走っていたのにはびっくりしました」  ひろみはちょっと肩をすくめた。 「まあ、うそつき荘全体を雪の海に沈めるくらいのトリック卿にとっては、たいした仕掛けとはいえないかもしれませんが」 「しかし、私が見たときは、あのコッテージの中にそんな出口は……」 「あったのです、利光さん」 「どこにだ」 「蓮見サマーナの死体の真下です」 「なんだって!」 「おかげでお気に入りのウエアがダメになっちゃいましたけど」  ひろみは、血に汚れた自分のスキージャケットを見せた。 「智子の死体の下に抜け道があったというのか」  利光は愕然《がくぜん》となった。 「そうです。県警を呼べる状況になるまで、極力現場の保存につとめようという烏丸刑事としては、サマーナの死体はなるべく動かしたくなかった。かつて成瀬智子としてのサマーナを愛していた利光さんなら、興奮して駆け寄り、彼女を抱き起こして死ぬんじゃないと叫んだことでしょう。ところが職務に忠実な警視庁捜査一課の烏丸ひろみ刑事は、じつに冷静に……」  ひろみは、自分を責めるように乱暴な口調になった。 「冷静に対処しました。死体を動かさずに脈をとり、呼吸をたしかめ、瞳孔反応をみて彼女の死を確認し、現場検証に備え、ひたすら現状の保全につとめたのです。……これが、トリック卿が私に期待した役割だったのです」 「それで、トンネルの出口はどこに通じていたんだね」  すっかり疲れを忘れた表情で、利光がきいた。 「トンネルはコッテージの床下から下り坂になっていて、うそつき荘の西側地下へ回りこんでいます。うそつき荘が地上に出ている状況では、地下八メートルの油圧ジャッキ基盤の横——地下に潜っているときは、ちょうど勝手口に接するあたりの部分に開口部がありました」  ひろみは髪の毛をかきあげた。 「雪に埋もれているときに、私たちは勝手口脇のプロパンボンベ保管室のドアも調べましたよね。そこから外に出られないかと」 「ああ。しかしそのときは、押しても引いても開かなかったが」 「押すか引くしかないような格好をしたドアのくせに……少し持ち上げ気味にして横にスライドさせると、いとも簡単に開くのです」 「なんと……」  利光たちは、あっけにとられた顔でひろみの話をきいていた。 「休暇中の捜査一課の刑事として、私がどんな行動をとるか、トリック卿は憎いほど見透かしていました」  ひろみは、くやしそうに続けた。 「きっと私が、この場所は警視庁の管轄外《かんかつがい》であるという、無意識の配慮をすることまで計算に入れていたに違いありません。じっさい私は、ある程度の現場検証をした後は、地元の県警が正式な捜査活動をはじめるまで、よけいなことをせずにその場の保全につとめようと考えていましたから」  彼女は大きなため息をついた。 「そんな意識があったために、鹿取さんの殺害現場でも、犯人の隠れ場所として私が唯一見落とした場所がありました。部屋じゅうをくまなく点検し、ベッドの下まできちんと調べておきながらです」  ひろみは大理石のテーブルに片手をついた。 「わかったよ、烏丸君」  利光は首を振りながら言った。 「死体の下に抜け道があったというパターンの応用で考えれば、答えにたどり着くのは難しくない。彼の死体が横たわっていたマットレス——そこが犯人の隠れ場所だ」 「そのとおりです」  ひろみは唇をかんでうなずいた。 「ずいぶん分厚いわりには固いセミダブル・サイズのマットレスだなと思っていましたが、それも道理で、中にすっぽり人が隠れることができる枠がはめこまれていました」 「信じられないわ」  池田正子が口を手で覆った。 「じゃあ、殺された鹿取さんの部屋に入って、みんなで中を調べているときには……」 「殺人犯人であるトリック卿は、殺害現場の部屋から脱け出してはいませんでした。堂々とその場にいたのです。鹿取さんの死体の真下に——マットレスの中にね」 「ちょっと……ちょっと待ってくれ」  肩で息をしながら、利光が手で制した。 「しかし、あの場にはみんなが顔を揃えていたじゃないか。私も、池田さんも、烏丸君も、それから伊吹君も、智子も」 「ええ、たしかに」  ひろみはうなずいた。 「でも、もうひとり忘れていませんか」 「もうひとり?」  そのとき池田正子が、吹き抜けの階段を見あげて絶叫をほとばしらせた。  ひろみと利光は、正子の恐怖に歪んだ顔を見て、それからその視線を追った。  こんどは利光がウォーッと吠えた。 「幽霊だ、幽霊だあ!」  真っ赤なセーターに、真っ赤なスカート、黄色いサングラスをかけた三条晴香が、殺されたときのままの格好で、ゆっくりと階段を降りてきた。 「利光さん、池田さん、ご紹介します」  近づいてくる相手を睨みながら、ひろみが少し上ずった声で言った。 「うそつき荘連続殺人の犯人、トリック卿です」     11  ローターの直径は通常へリのおよそ一・五倍。  最大巡航速度、時速二五八キロ。  最大航続距離五五〇キロ。  乗員二名、乗客十八名の定員を持つ全天候型ヘリコプター『アエロスパシャル・スーパー・ピューマ』は、いま警視庁屋上のヘリポートから飛び立とうとしていた。  ブルーとシルバーのツートンに朱色のアクセントを入れた警視庁カラーのヘリコプターへ、一番最後に遅れて乗り込んだのが財津警部だった。 「捜索願を出したのは、おれだけじゃなかったぞ」  ローターの巻き起こす旋風でかき乱された髪の毛を整えもせず、財津は、先に乗り込んでいたフレッドに向かって言った。 「いまになって、利光代議士の秘書が極秘に捜査依頼を出してきた」 「え、あの秘書が?」  フレッドが警部の顔を見た。 「きょうの午後二時までに何の連絡もないときは、警察に届け出るようにという利光本人の書き置きがあったそうだ。そこには、うそつき荘という名前と具体的な場所まで記されていた」 「じゃあ、さっきの電話ではトボけていたわけですか」 「言われていたタイムリミット前だから、秘書としてもまだ打ち明けられなかったんだろう。だが、おかげであの口の軽そうな女の子を乗せなくてすんだじゃないか」 「ちょっと残念ですけどね」  フレッドは肩をすくめた。 「お尻も軽そうでよかったのに」  フレッドの頭を財津が引っぱたいた。 「現地の気象情報では雪です」  ヘリのパイロットが二人をふり返った。 「雪でも氷でも何でもこいだ」  財津の鼻息は荒かった。 「待ってろよ、ひろみ。必ず助けてやるからな」     12 「よくわかったわね」  芝居がかった声で三条晴香が言った。 「若いのにたいしたものだわ。さすがに圭が目をつけただけのことはあるわね」 「ケイ?」  利光が聞き咎めたが、晴香はひろみの顔を見つめたままだった。 「どうして私の計画がバレちゃったのかしら。聞かせていただけると嬉《うれ》しいわ」 「最初から、氷詰めの死体は不自然だったんです」  ひろみは答えた。 「冷凍庫のスペースから考えて、あんな格好で死体を氷に閉じ込めるのは絶対に無理でした。あらかじめ時間をかけて準備をしなければ出来っこない演出なんです。だけど……」  ひろみは、ますます降りの激しくなってきた外の雪に目をやりながら言った。 「私は、氷詰めの死体をそのまま保存しなくてはという気持ちが働いて、心理的に長い間冷凍庫のドアを開けっぱなしにしたまま調べられなかったんです。あなたとしては、そこが狙いだったんでしょう」 「もちろんよ」  生きている三条晴香は、歪んだ笑いを浮かべてうなずいた。 「ヘタに氷の柩を冷凍庫から出して溶かそうなんて考えられたら、その後の計画は全部中止にせざるをえなかったですからね。その点、プロの刑事がいてくれて助かったわ」 「すると、あれは人間ではなかったのか」  利光がきいた。 「私そっくりのロウ人形よ。最近は技術も発達してとても精巧なの。氷の中にうつむき加減の姿勢で入れておけば、すぐにはバレないくらいにね。おまけにサングラスをかけていたわけだし」 「もともと厚化粧だったし」  と、池田正子が憎々しげに言った。 「でも……」  ひろみがまた口を開いた。 「とてもよくできたロウ人形でしたけれど、ひとつだけミスがあったんです。それにお気づきでしたか、三条さん」 「ミス?」 「そうです。あなたそっくりのダミーでしたが、たった一カ所、ベルトにミスがありました」  そういわれて、三条晴香は自分のウエストを見下ろした。  真っ赤なセーターの上から、純白のベルトを締めている。 「このベルトがどうかしたわけ?」 「ええ」  ひろみはうなずいた。 「このラッセルの間で最初にトリック卿のメッセージが流れたとき、あなたはびっくりして取り乱し、ワインの入ったグラスをテーブルに落としましたね。あれも今から考えればお芝居だったわけですが、でも、結果的にはよけいなことでした」 「なぜかしら」  胸をそらすようにして、晴香はたずねた。  それは虚勢を張ろうとしている格好のようにも受け取れた。 「あなたのその白いベルトに赤ワインが飛び散ったのを、私はなんとなく覚えていたんです。セーターやスカートの色は赤だから目立ちませんけど、白いベルトに葡萄色のワインは、いやでも目につきますよね。しかも、そのベルトの素材は、水をはじくものではないでしょう」  晴香はハッとなって、もう一度自分のベルトを見下ろした。  赤紫色の飛沫が点々と付いていた。 「ところが、冷凍された三条さんのベルトを見ると、真っ白なままでした。事前に準備しておいたものだったから、仮にその違いに気がついても、いまさら氷の中の人形に手を加えることはできなかったんです」 「…………」 「冷凍庫の三条さんがダミーだとはっきりわかってからは、次々と謎が解けていきました。私がここに招待された理由も含めてね」 「負けたわ」  そういうと、三条晴香はゆっくりと歩いて大理石のテーブルについた。  が、他の三人は座らずに、彼女を囲むようにして立ったままでいた。 「ほんとに負けたわよ」  晴香はテーブルに片肘をたてて、手のひらに額をのせた。  ひろみは、その脇に置かれたままの食べ残しのオードブルに、ふと目をやった。 「そういえば、知らない場所に連れてこられたのに、真っ先にお料理を食べる神経もおかしいなと思っていたんです。とくに、いつ冷蔵庫から出したのかわからない生ガキを、平気で食べるんですものね」  それを聞いて、晴香はホホホと芝居がかった笑い声を立てた。 「ほんとにあなたは可愛いだけじゃなくて、才能のある刑事さんだわね。賞金総額六億円は、すべてあなたのものね」  晴香は、指先でカキの殻をつまみあげた。 「このお料理は、私がケータリング・サービスに頼んで用意させたものよ。こんな山の中まで来させるので、ずいぶん高いこと取られたけれど」 「ゴメスという名の運転手は?」 「父が可愛がっていたメキシコ人なの。美術の勉強をしに日本に来ていてね」 「父?」  利光がたずねた。 「父というのは誰なんだ」 「よくぞ聞いてくれたわね」  キッと顔をあげると、急に晴香は声に凄《すご》みを利かせた。 「まず、私の名前から訂正させてもらうわ。三条晴香なんて名前の女優はどこにもいないのよ。誰も知らなくて当然だったわけ」  彼女は、利光と池田正子をじっと睨んだ。 「私の本名は大西静代。この名前に覚えはない?」 「さあ……」  利光は首をひねり、正子もけげんな顔をした。 「よくも簡単に忘れられるものね。この大西という苗字《みようじ》を」  そこまで言われて、利光たちはアッと声をあげた。 「どう? 思い出したでしょ」  そういってから、晴香はひろみに向き直った。 「あなたには何のことかわからないでしょうから、教えてあげるわ」  大西静代と名乗った三条晴香は、ゆっくりとしゃべり始めた。 「私の父は大西|憲太郎《けんたろう》といってね、その道ではかなり名の知れた美術商だったの。その本業でもかなり儲《もう》けていたけど、祖父からの遺産もたいへんなもので、お金にはまるで困らない人だった。その父の最大の道楽は、マジックだったの」 「マジック?」  ひろみがおうむ返しにきいた。 「昔から人を集めては斬新な手品を披露して、相手がびっくりするのを楽しんでいた無邪気な人だったわ。このうそつき荘も、もとはといえば、父が友人たちをびっくりさせるために建てたのよ。お金に糸目をつけず、最新のメカと、ちょっとレトロな雰囲気を融合させて作った、まさに道楽の極致みたいな建物なの」 「道理で……」  ひろみは納得した。 「その父がガンに罹《かか》って、東京の病院に入院したのが二年前。父はある程度覚悟を決めていたから、ふつうのガン患者として治療を受けていれば、ある意味で平穏な最期を迎えられたかもしれなかった。でも、鹿取昭造との出会いが運命を変えたのよ」  晴香は声を震わせた。     13  大西憲太郎は、本業の美術品の売買で鹿取と知り合った。鹿取製薬は、輸入絵画の購入を積極的に行う上得意だったのだ。  その社長である鹿取昭造は、大西がガンに罹っていることを知ると、自分の会社で開発中だという新薬の臨床実験に協力してくれることを頼んだ。  話をきくかぎりでは、それは画期的な特効薬のように聞こえた。  すでに永田町や兜《かぶと》町ではひそかな話題となっており、あとは厚生省の認可を待つばかりで、もしもこれが承認され量産化されたら、世界の歴史は変わるとさえ、鹿取は言ったのだ。  人を疑うことを知らない大西は、ぜひ自分の体を使って試してくれと、自分からも頼み込むほどだった。 「その結果は、思い出したくもないほど悲惨だった……」  晴香は両手で顔を覆った。  そして、しばらくの沈黙ののちに、また話をはじめた。 「やがて、この臨床実験が引き起こした問題が外部にも漏れていって、いろいろな人間が患者の実情を取材にきたわ。父のところにもね。その中の一人が野党の国会議員である利光太郎。そして、もうひとりが市民団体の事務局長の池田正子」  名指しされた二人はビクンとなった。 「いまさら本人の前でくり返すまでもないけど、この二人は正義づらをして、鹿取製薬の黒い部分を告発するなどと父に約束しておきながら、結局、鹿取昭造に丸め込まれたのよ、多額のお金でね」 「いえ、そのことですけどね、あれは私は……」 「言い訳なんかしないでちょうだい! 苦しみながら死んでいった父は帰らないのよ」  三条晴香は池田正子を怒鳴りつけた。 「じゃあ、トリック卿の告発メッセージは本当だったんですね」  ひろみが確認した。 「私と圭の部分だけは、もっともらしい作り事だったけれどね」 「あなたはさっきから伊吹さんのことを『圭』と呼んでらっしゃいますけれど……」 「伊吹圭は、私とは腹違いの弟です」  その事実は利光たちも初耳だったらしく、彼らはびっくりした様子を隠さなかった。 「私と圭は決心しました。このうそつき荘を復讐《ふくしゆう》の館にしよう、うそつき荘を狡猾《こうかつ》な嘘つきたちの墓場にしよう、と」  横で聞いていた池田正子が、ブルッと身を震わせた。 「私たちは、玄人《くろうと》はだしのマジシャンでもあった父を追悼するにふさわしい、トリッキーな殺人劇を考え出しました。そして、そのシナリオは、作家である弟が中心となって練り上げました」  晴香は、ひろみに対する説明を続けた。 「まず私たちは、『トリック卿』という、いかにもいわくありげな人物像を思いつきました。この声は、弟の肉声に機械的な修正を加えたものですが、私たち姉弟の気持ちとしては、トリック卿とは、まさに亡き父の復活した姿なのです」  晴香は少し涙ぐんだかに見えた。 「蓮見サマーナという心霊術師とは、弟がたまたまテレビに出たときに知り合ったのですが、彼女が利光太郎の過去の愛人と知って、私たちはその奇遇を利用することにしました。彼女は彼女で、自分を裏切った利光太郎を心底うらんでいたのです」  当の利光は、しきりに額の汗をぬぐっていた。 「私たちには理解できない感情ですが、彼女は蓮見サマーナとして利光に復讐したあと、そのサマーナの存在をいっさい消滅させることで、罪の意識まで消してしまう、という割り切りを弟に示しました。こうして、表面上は私と圭に加えて、蓮見サマーナこと成瀬智子も復讐グループに入ったのです」  フーッと、利光が長い吐息を吐いた。  そして言った。 「私に弁解を述べるチャンスは与えてくれないのかね」 「あげません」  冷たく言い放って、三条晴香は続けた。 「私たちは、鹿取、利光、池田の三人には脅迫状同然のものを送りました。烏丸さん、あなたに送ったような招待状とは全然違う文面だったのです。もちろん、百万円などというお金も入れていません。しかし、身に覚えのある彼らは、この招待を断るわけにはいかなかったのです」  ひろみは時計に目をやった。  晴香の話が続くうちに、もう三時十分前になっていた。  携帯電話の急速充電が、そろそろ完了するころだった。 「鹿取たちは、大西憲太郎の娘としての私の素顔は知っていました。でも、その娘が架空の時代劇女優、三条晴香に変装していたことまでは気づかなかったようです。脅された側の三人は、あなたや私たちの手前もあって、おたがいに知っている様子は見せなかったようですが、内心では何が起きるかと戦々恐々だったはずです」  だから、最初に三条晴香の氷詰め死体が発見されたとき、池田正子はショックを受けたのだな、とひろみは思った。  やたらとアルコールに溺《おぼ》れた鹿取や、終始脅えたり苛立《いらだ》ったりしていた利光の心境もようやくわかってきた。 「当初の計画では、鹿取社長を殺したあと、蓮見サマーナが自分の責任において利光代議士を毒殺する予定でした。デカンタのトリックは、小さいころ父に見せられたマジックをもとにして、私が考えたものでした。そして、最後に池田正子を離れにおびき寄せ、そこで彼女を刺し殺すストーリーだったのです。すべてがうまくいけば、弟の圭と蓮見サマーナと、そして烏丸刑事が、完全犯罪の完璧な証人となってくれる。氷詰めの三条晴香がロウ人形とわかった頃には、その本物はどこかへ消え去って跡形もない。なにしろ、三条晴香なんて元々いない人間なんですから……。ところが、サマーナの失敗ですべてが狂ってしまった」  晴香の声は急に震え出した。 「彼女は、デカンタの向きがどこかで変わったことを見逃しました。その結果、弟が毒の塗られた注ぎ口から氷水をグラスに注いでも、危険信号のサインを送らなかったのです。その結果、弟は……」  晴香は声を詰まらせた。  何度か咳払いをくり返し、呼吸を整えてから、彼女は話を再開した。 「表向きは冷凍庫の中で凍っているはずの私でしたが、それはロウ人形であって、本物の私は地下トンネルを通って、離れとうそつき荘の間をひんぱんに行き来していたのです。圭が誤って毒殺されたとき、私は離れにいました」  晴香は初めてサングラスをはずし、あふれる涙を指の腹で拭った。 「その様子は、ここに仕掛けた隠しマイクの音を、無線でモニターして聞いていました。私はショックと怒りとで、錯乱状態になりました。池田正子を殺すために持っていたナイフで、その場で自殺しようかとも思いました。そこへ、すっかり動転した蓮見サマーナが飛び込んできたのです。彼女は私が離れにいることを知っていましたから、とにかく弁解と謝罪を言おうと、雪の上を裸足のまま走ってきたのです。彼女は板張りの床にひざまずき、泣きながら許しを乞いました。でも……」  短い沈黙のあとに、晴香はつけ加えた。 「私は許しませんでした」     14  呆然自失の利光と池田正子をよそに、ひろみは、本名を大西静代と名乗る三条晴香から、さらに詳しい事情を聴き出した。  殺人現場に居合わせた捜査一課の刑事として、必要最低限の報告書はまとめておきたかったからだ。  作業が終了して気がつくと、時刻はもう四時を回っていた。  窓の外は、もうすっかり暮れかかっていた。  そのダークグレーの空間に、密度を増した雪のシャワーが無限運動をくり返すように、上から下へ、上から下へと降り続けていた。 「それで……」  かすれた声で、ひろみが口を開いた。 「ここまですべてを告白なさったからには、覚悟を決められたんですね」 「ええ」  晴香は、こっくりとうなずいた。 「気持ちの整理はつきました」 「では、これから長野県警に連絡を入れますから、自首という形で出頭してください」 「連絡といっても電話がないだろう」  言いかけた利光に、ひろみは答えた。 「伊吹さんが携帯電話を持っていたのです。洗面所で充電していましたが、もう十分使える状態になったと思います」  ひろみが電話を取りにいき、ふたたびラッセルの間に戻ると、そこには三条晴香の姿がなかった。 「彼女は?」 「ここです」  晴香が玄関に通じるホールのところに、ゆっくりと姿を現した。 「じゃあ、いまから連絡をしますから」  ひろみは携帯電話を耳に当てた。 「いいえ、その必要はありません」  晴香が首をふった。 「烏丸さん、私は自首はいたしません」 「え?」  ひろみが聞き返した瞬間、天井のシャンデリアがカチャカチャと鳴り出した。  その一瞬後、建物全体がグラグラと激しく揺れ始めた。  立っていたひろみは二、三歩よろめき、ソファでぐったりしていた池田正子は、悲鳴をあげて跳び起きた。 「ハハハハ、みなさん、私はトリック卿である」  突然、例の高笑いがラッセルの間に響いた。  蓮見サマーナに誤って毒殺された伊吹圭の肉声をアレンジしたものだ。 「すべてのゲームは終わった。しかし、ゲストの皆さんをここから帰すわけにはいかない。うそつき荘への道程は、いつも片道切符。寂しがり屋の主人としては、みなさんに帰ってほしくないのだ」  ギシギシと音をたてて、うそつき荘が大きくきしんでいる。 「また沈むんだ!」  利光が叫んだ。 「うそつき荘がまた沈むぞ」 「逃げて!」  ひろみは絶叫に近い声を出した。 「早く玄関から……」  池田正子が、バネで弾かれたようなスピードで駆け出した。  が、その直後に悲鳴を上げて倒れた。  三条晴香の手にはツララが握られていた。     15  警視庁から飛び立った全天候型高性能ヘリ『スーパー・ピューマ』は、いままさに、うそつき荘の上空に差しかかっていた。  白色の衝突防止灯が、降りしきる雪の中で毎分六十回のペースで閃光《せんこう》を放っている。  すでに着陸灯も下方に向けて照射されているのだが、雪のスクリーンにはばまれて目的の建物は見えない。 「すごい雪ですね」  フレッドがつぶやいた。 「こんな状況で、ほんとにうそつき荘を発見できるかな」 「警部、このあたりでだいたい間違いはないと思いますが」  山岳救助ヘリのパイロットを務めた経験もあるベテラン操縦士が、財津をふり返った。 「もうちょっと高度を下げられんか」  財津も身をのりだして、足元の光景に目をこらしている。 「もう少し視界が確保できないと、これ以上の下降は危険です」  パイロットが答えた。 「わかった。じゃあ、このままの高度でいいから、なんとかうそつき荘を見つけてくれ。大切な部下の生命がかかっているんだ!」  財津はローター音にかき消されないよう、大声で怒鳴った。 「建物の特徴は、アメリカのホラー映画に出て来そうな二階建ての洋館で、外壁の色は黒に近い茶色なんだ」 「あ、警部、あれだ!」  フレッドが怒鳴った。 「左四十五度、目標発見!」  パイロットも同時に見つけた。  雪をかぶった針葉樹林の間から、うそつき荘が姿を現した。 「よし、できるだけ近づいてくれ」  財津はバッと背広を脱いだ。 「最接近したところでハシゴを降ろすんだ。おれが降りていく」 「警部、興奮しちゃダメですよ」  フレッドは、もろはだ脱いだ格好の財津の背広をまた元に戻した。 「外は寒いんだから、逆にこれを着ないと」  フレッドは備え付けの防寒着を警部に渡し、自分もそれを身につけた。  二人の降下態勢が整った。 「警部、建物の様子が変です」  突然、フレッドが叫んだ。 「どうしたんだ、あれは。下で地震でも起きてるのか」  財津も目を丸くした。 「地震だとしたら、これはマグニチュード8なんかじゃきかないですよ。だって、建物がどんどん雪の中に沈んでいるんだ!」  フレッドは、ヘリのガラスに額をこすりつけて見た。  うそつき荘は窓辺に明かりを灯したまま、もうもうたる雪煙を上げながら、その姿を徐々に雪原の中に沈めていった。  まるで、豪華客船がゆっくりと沈没していくような光景である。 「早くハシゴを降ろせ!」  財津がわめいた。 「あの中にひろみがいるかもしれないんだ。早くしろ」  利光は椅子を振り上げて、ラッセルの間の窓ガラスをたたき割った。  轟音と雪煙と寒風が、同時に広間に飛び込んできた。 「さあ、きみ。烏丸君、ここから逃げるんだ」 「利光さんが先に逃げてください」 「いや、きみからだ」 「そんなこと言わないで早く!」  ひろみは叫んだ。  すでに雪面の位置が、窓枠の下のところまでせり上がってきていた。  毒入りのツララで池田正子を倒したあと、三条晴香は利光太郎に目を向けた。 「嘘つきの裏切り者、死ね!」  窓際に立つ利光の体めがけて、ツララが突き出された。  タッチの差で、ひろみの足がそれを蹴りあげた。キンと音を立ててツララが飛んだ。 「いまです」  ひろみが叫んだ。 「すまん、先にいくぞ」  利光はひろみに断って、窓枠に頭から突っ込んだ。が、その足を晴香が抱え込んだ。 「だめっ、放しなさい」  ひろみが晴香の体をはがそうと必死になった。  しかし、憎しみに燃える晴香の力は異常なほど強かった。  ひろみは晴香に片腕一本で突き飛ばされた。 「苦しい……放せ」  窓の外でくぐもった利光の声がした。  建物が沈み込むことで相対的にせり上がってきた雪面は、すでに窓枠の中央あたりまできていた。  逃げ出そうとした利光の顔が雪の中に突っ込む形となり、建物がさらに沈むにつれて、その首が窓枠上部に近づいてきた。  そこには割れ残ったガラスが、鋭い刃先を下に向けて待ち構えていた。 「三条さん……大西さん」  ひろみは怒り狂う相手の二つの名前を呼びながら、がむしゃらに飛びかかり、利光の両足をがっちりつかんだ晴香の髪の毛を後ろから思い切り引っ張った。  晴香の頭が弓なりにのけぞった。  それでも『トリック卿』は耐えた。  首に青筋を浮き立たせながら、トリック卿三条晴香は、ひろみの攻撃に耐えた。  首の骨が折れても利光は逃がすまいという、鬼気迫る表情で歯を食いしばっていた。  上下に激しく振動しながら、さらにうそつき荘が十センチ沈んだ。  利光の首にガラスの刃が食い込んだ。  だが、断末魔の絶叫は雪の中に埋もれて聞こえてこなかった。  沈下を続けるうそつき荘の真上で、ヘリコプターはホバリング状態を保った。  現場はかなり山深いところだったが、ホバリング限界高度二三〇〇メートルの『スーパー・ピューマ』にとっては、まだじゅうぶん余裕がある。 「よし、ドアを開けろ」  財津警部の指示でハシゴが降ろされた。  降りしきる雪の中を、ヘリの着陸灯の光が貫いた。  建物の周辺の雪が、うそつき荘の沈下とともになだれ落ちていくありさまは、イグアスかナイアガラの滝を連想させた。 「警部、ぼくから行きます」 「いや、おれが先に降りる」  財津は何かを口に放り込むと、フレッドのがっしりした体を押しのけた。  下から吹き上げる突風が、財津とフレッドの髪の毛をオールバックにした。 「ボス、こんなときに何食べてるんです」 「おまじないだよ」  口を動かしながら、財津はハシゴの一段目に足をかけた。  うそつき荘の屋根に積もりはじめていた雪が、ヘリのローターが起こす風に吹き飛ばされ、雪煙を巻き上げている。  その中心部へ、財津のしがみついたハシゴが近づいた。  窓ガラスをふさいだ雪が真っ赤に染まったのを確認すると、ようやく三条晴香は力を抜いた。  魂の抜け殻になったように肩を落とし、トリック卿三条晴香は放心状態で床に尻餅をついた。 「こっちへ来てください」  半分泣きながら、ひろみは晴香を引き立てた。  警察官の職務として、絶対に殺人犯人をこのまま見逃すわけにはいかない。  事情はどうであれ、彼女は直接手を下しただけでも四人の男女を死に至らしめたのだ。 「私といっしょに外へ出るんです」 「もうだめよ」  虚ろな目で晴香は言った。 「もうどこからも出られないわ」 「そうは行きません」  ひろみは晴香の腕をとって自分の肩に回し、階段へ急いだ。  まだ二階は雪の下に沈んでいないはずだ。二階がだめなら屋根裏がある。  たしか、再浮上したときの衝撃で、採光窓のガラスが割れ飛んでいたはずだ。 「私はここで死ぬのよ」  三条晴香は、ひろみの耳元でつぶやいた。 「父と弟の眠る場所へ、私も行くのよ」 「どうぞ、ご勝手に。ただし、その前に警察に立ち寄ってもらいますから」  ひろみは、なかば無抵抗の晴香を抱えて階段を上った。  建物のきしみはますます激しくなり、シャンデリアがブランコのように揺れはじめた。  最初の沈下のときとはまるで迫力が違う。  階段を上っていても、ときどき足元がふらついて、手すりに掴《つか》まらなければならないほどだ。  ラッセルの間におかれた食器棚は何度も壁から離れて倒れそうになり、戻るときの反動で勢いよく壁にぶつかって、中の食器が次々に音を立てて割れていった。  伊吹の命を奪った花びら形のデカンタがテーブルの上で倒れ、ごろごろと転がったあと、そのまま床の上に落ちて砕けた。  二階まであと二、三段というところで、突然、大音響とともに、うそつき荘全体が大きく傾いた。 「あーっ」  悲鳴を上げながら、ひろみと晴香はもつれあって階段を転げ落ちた。  西側の油圧ジャッキ系統が一斉に壊れ、そちらを下にして建物全体が三十度近く傾いたのだ。  不安定だった食器棚がついに倒れ、ガラス片が飛び散った。  頭を強く打って、一瞬、ひろみの記憶がふっと遠のいた。  わずか数秒の間だったが、次に彼女が意識を取り戻したとき、ラッセルの間は火の海になっていた。  衝撃で倒れた石油ストーブの自動消火装置が働かなかったらしい。  引火した灯油が、あっというまに床を走ってあたりを埋め尽くした。 「大西さん!」  ひろみはトリック卿の本名を呼んだ。  トリック卿はラッセルの間の真ん中にいた。  迫りくる炎に囲まれた三条晴香は、喉元にツララを当てていた。  さっき、ひろみが蹴飛ばしたツララだ。  毒の仕掛けられた氷の先端が、炎を反射してオレンジ色に光っていた。 「早くこっちに来て!」  ひろみは叫んだ。  が、トリック卿の耳には何も聞こえていなかった。  晴香が自分の喉にツララを突き刺すのと、炎の輪に包まれるのはほとんど同時だった。  財津大三郎警部は、激しく揺れながら雪の中に沈んでゆくうそつき荘の屋根にへばりついていた。  続いて、フレデリック・ニューマン刑事が、空中のハシゴから屋根へ飛び移ろうとしていた。 「警部!」  フレッドが上から怒鳴った。 「なんだ」  着陸灯の光の輪の中で、財津がヘリを見上げた。  雪が目に入った。 「警部の五メートル右手の屋根に、窓が開いています」  ハシゴの下段にぶらさがったまま、フレッドが指さした。  振動で屋根の雪がすべてずり落ち、採光窓の存在が明らかになった。 「ガラスが割れて、中からの明かりがもれています。そこから入れますよ」 「わかった」  財津は右手の指で輪を作ると、フレッドの示した方向へ低い姿勢で移動した。  そのとき、うそつき荘全体が突然傾いた。  バランスを崩した警部は、尻餅をついたまま、凍った屋根の上をソリのように滑った。 「わわわっ」  一声叫ぶと、財津警部は割れた採光窓から建物の中へ落ち込んだ。 「ひろみ!」  階段の踊り場から炎に包まれた一階の広間を見下ろすなり、財津は大声で叫んだ。 「ひろみ、こっちへ上がってこい」  炎を見つめながら呆然とたたずんでいたひろみが、声のした方にゆっくりと顔を向けた。  その顔は涙に濡れていた。  だが、財津の姿を認めると、信じられないという表情になった。 「警部……」 「よかった、無事だったか」  財津は、したたか打った尻をさすりながら、階段を駆け降りた。 「どうして……どうしてここに」 「おれにもわからん」  全身に付いた雪を払いながら、財津は首をふった。 「バレンタインデーなのに、サンタクロースみたいなことになっちまった」 「よかったー」  ひろみは財津の胸に飛び込んだ。 「もうダメかと思った。死ぬかと思った」  ひろみは泣きじゃくった。 「よしよし」  財津は安心させるように、ポンポンとひろみの背中をたたいた。  燃え盛る炎の熱が、二人の頬をあぶった。 「とにかく話はあとだ」  ひろみの体をいったん放すと、財津は彼女の手をとって二階へ駆け戻った。 「急がないと、雪に埋もれながら焼け死ぬという歴史に残る死に方をするぞ」  炎の舌が、階段の手すりを舐《な》めはじめていた。  財津はひろみの体を屋根裏部屋に押し上げ、自分もそれに続いた。 「早く早く」  採光窓から顔をのぞかせたフレッドが、二人を手招きした。 「フレッド!」  またまたひろみは驚いた。 「ヤッホー、ひろみ」  こんな事態のときでも、フレッドは明るく笑って手をふった。 「休暇をたっぷり楽しめたかな」  フレッドは腕を伸ばして、ひろみの体を抱き上げた。 「警部、もう屋根が地面より低くなっています」 「すぐに雪の中に潜り込むぞ」  屋根の上に出た財津たちは、上空で待機するヘリに合図を送った。  猛烈な降りになってきた雪の中、ヘリがギリギリまで高度を下げてきた。 「ひろみ、これにつかまれ」  フレッドがハシゴをたぐり寄せた。 「次はフレッドだ。ひろみを下から支えてやれ」  財津が怒鳴った。 「もう時間がないぞ」 「警部……」  はしごに両手をかけたひろみが、ボスの顔をまじまじと眺め、泣き笑いの表情になった。 「なんだ」  厳しい顔のまま財津が聞き返した。 「お口のまわり、チョコレートだらけ」 「あ? ああ、これか」  警部はつとめて威厳をつくろった。 「ちょっとな……縁起ものだからな」 「ひろみ、警部、急いで」  フレッドがせかした。  屋根がどんどん沈んでいるため、彼らのほとんど腰の位置まで雪面がせり上がって見えた。 「よし、しっかりつかまれよ」  警部の合図でひろみがハシゴに取り付き、その下にフレッドが続いた。  いちばん最後に財津が飛びついた。  最後の衝撃とともに建物が一気に下がるのと、ヘリが高度を上げるのが、同時だった。  うそつき荘の屋根は、あっというまに三人の眼下で小さくなり、やがて、なだれ落ちる雪に覆われて、周囲の雪野原と区別がつかなくなった。 [#改ページ]  文庫版あとがき [#地付き]吉 村 達 也   烏丸《からすま》ひろみシリーズは、いくつかある私のキャラクター物の中で、いちばん最初にスタートさせたものです。まだ専業作家になる前に書いた『カサブランカ殺人事件』(一九八七・四)が烏丸ひろみのデビュー作品で、これはのちに『逆密室殺人事件』と改題して角川文庫に収められています。  同じ年にシリーズ第二弾として『南太平洋殺人事件』を書いたのち、長いブランクがあって、四年後——プロの推理作家になって丸一年経った一九九一年五月に、シリーズ第三弾として、この『トリック狂殺人事件』がカドカワノベルズで刊行されました。  以後、巻末の作品リストにもあるように、『ABO殺人事件』そして�三色の悲劇�と題した連作三部作『薔薇《ばら》色の悲劇』『檸檬《れもん》色の悲劇』『瑠璃《るり》色の悲劇』とつづいて……『瑠璃色の悲劇』をお読みになった方は、烏丸ひろみシリーズが終結してしまったような印象を抱かれたと思いますが、じつのところ作者にも今後をどうするかの結論はまだ出ていません。  ところで、この『トリック狂殺人事件』は、私がミステリーの様式美の破壊にチャレンジした第一弾でもあります。  様式美——いま風に言えば�お約束�——とは、つきつめて考えるとかなり不自然な設定だが、ミステリーの世界にはつきものの決まりごとだから、それには目をつぶって下さい、という部分ですね。  たとえば、俗にいう�雪の山荘�モノは、必ず吹雪によって登場人物が山荘に閉じ込められてしまいます。ところが本作では、雪原の中にポツンと建つ山荘に招かれた人間が、天候が快晴であるにもかかわらず、とんでもない方法によって外界との連絡を遮断されてしまいます。これがまず様式美の破壊その1。  さらにまた、ミステリーには、事件の渦中に都合よくシリーズキャラクターの探偵が巻き込まれてしまうというお約束がつきものです。今回も、烏丸ひろみが謎《なぞ》のトリック卿《きよう》の招待状を受けて、雪の山荘へ出かけていきます。……が、彼女が事件の現場に居合わせるというのが、たんなる偶然やお約束ではなく、そこに大いなる必然性があった——これが様式美の破壊その2です。  この二つの様式美破りによって、『トリック狂殺人事件』は�雪の山荘�型ミステリーの中でも、かなり独創性の強いものになったのではないかと思っています。  こうした様式美への挑戦は、私の作品の中では随時見られますが、とりわけそれをテーマにして三部作を組んだのが、軽井沢純子シリーズの『ピタゴラスの時刻表』『ニュートンの密室』『アインシュタインの不在証明』です。これらは、それぞれ時刻表ミステリー・密室ミステリー・アリバイミステリーのお約束に真向うから反旗をひるがえした作品です。人間ドラマとか旅情といった要素をヌキにして、純ミステリー的な仕上げの中に独創性を狙《ねら》った三部作ですので、この『トリック狂殺人事件』と併せてお読みいただけると興味深いのではないでしょうか。  話は変わりますが、この烏丸ひろみというキャラクターを登場させるにあたって、モデルにしたタレントさんがいます。いったい誰だとお思いですか? ヒントとしては、一九八六‐七年にかけて人気ウナギのぼりだった女性で、当時はまだ十代。最初に「バ」のつく曲名が大ヒットして、烏丸ひろみ同様、バイクにも乗れる人です。ちなみに、いまも現役のテレビ女優で、ときおりロマンスネタで週刊誌などを賑《にぎ》わしていますが……。  しかし、烏丸ひろみのモデルにしたころとはだいぶイメージも違いますし、また烏丸ひろみも作品を重ねるごとに独自のキャラクターとして確立していきましたので、書いている作者もこの『トリック狂……』あたりからは、モデルにした彼女をほとんど意識することはありませんでした。だから、あえてここでモデル名は明らかにしません。  なんだ、もったいぶって、という方に最後のヒント。烏丸ひろみシリーズの第一弾『カサブランカ殺人事件』(廣済堂ブルーブックス)のカバーイラストを見れば、ああ彼女か、とすぐにわかるでしょう。イラストがあまりにもモデルにした女性に似ていますので……。ただし、このオリジナル版、たぶんもう絶版になっていて図書館で探すより手がなさそうですけど。  さて、烏丸ひろみシリーズに関して、もうひとつ話題を。  この文庫版が出る前月(一九九四年一月)、私の手になる初めての舞台劇が新宿シアターアプルで上演されました。  三宅裕司氏が座長を務める劇団スーパー・エキセントリック・シアター(SET)の十五周年記念公演『新宿銀行東中野独身寮殺人事件』(演出・三宅裕司)がそれで、一月六日から二十三日まで計二十四公演行われたのですが、SETの人気たるやすさまじく、約一万五千枚のチケットが発売当日のわずか数時間で完売してしまうという勢いでした。  このお芝居は、推理ドラマをSET風のギャグを交じえながら独特のスピーディなノリで見せるものでしたが、そのときのメイントリックに使ったのが『逆密室殺人事件』で使った�開けっ放しの密室�でした。もちろん烏丸ひろみは出てきませんし、ドラマの内容もまるで違うものですが、資生堂の協力を得て、客席全体に香りを流す演出を試みるなど、ナマの舞台劇ならではの手法で観客に犯人当てを挑んだ面白い構成でした。  このように、推理小説を作者自身の手によって別の表現方法にリメイクするやり方に、私はいま非常に興味を覚えています。  できれば本作『トリック狂殺人事件』は、自分の脚本で映画化したいと考えています。なにしろ映画化が最初から念頭にあってのラストシーンなのですから……。 本書は平成三年五月「カドカワノベルズ」として刊行されました。 角川文庫『トリック狂殺人事件』平成6年2月10日初版発行                平成9年10月30日11版発行