[#表紙(表紙.jpg)] スイッチ 吉村達也 目 次  序  遺書  一  鏡よ、鏡よ  二  黒い人形  三  自殺の研究  四  スイッチ  五  顔  六  忍び寄る呪い  七  アイリス  八  結婚の決断  九  黒の糾弾  十  ドライブ  十一 湖の見える町へ  十二 奈美絵  十三 結婚の予感  十四 熱球  十五 鐘 [#改ページ]   序 遺書[#「序 遺書」はゴシック体] ≪「自殺とは、自分が被害者で、同時に加害者でもある一種の殺人だ」と言った人がいたけど、それは違うよね。たしかに自殺は殺人だよ。でも、被害者は自分だけど、加害者は他人なんだ。あくまで他人による殺人なんだ。他殺なんだ、自殺っていうのは。  そりゃ、ナイフで死ぬにしても、首を吊《つ》って死ぬにしても、どこか高いところから飛び降りるにしても、ガスを吸い込むにしても、客観的にみれば自発的な行動に思えるかもしれない。自分で決断して実行したんじゃないか、ってね。  それが違うんだよ。自殺まで追い込んだのは自分自身じゃない。他人なんだ。特定の他人である場合もあれば、不特定の他人のこともある。そいつが「犯人」。その犯人はひとりの場合もあれば、複数の場合もある。いずれにしたって、自殺という名の殺人事件の犯人は、死んだ当人ではなく、ほかにちゃんといるんだ。  ああ、もう回りくどい書き方はやめよう。私を死に追い込んだのは私じゃない。茉莉《まり》なんだ。杉浦《すぎうら》茉莉。それから矢沢拓己《やざわたくみ》。このふたりが私を崖《がけ》っぷちから地獄へと突き落とした張本人。それでいながら、彼らは絶対気づいていないはず。自分が八木沢奈美絵《やぎさわなみえ》を殺した真犯人だということを。  だから私は書く。私の自殺は他殺であり、殺人犯はかつての同級生と先生なのだということを。  だけどバッカみたい。中学生や高校生じゃあるまいし、二十五にもなって、こんな芝居がかった遺書を書くなんて……。そう、おしゃべり過剰の遺書は、ガキが書くもんだよ、学校の制服着てるガキがさ。社会に出た、いい年の大人は、土壇場でこんな演技過剰な自己陶酔に浸ったりしちゃカッコ悪い。もっと無造作に死ぬべきもの。  でも、私はそうあっさりとは自殺できない。クドクド、クドクドと長ったらしい遺書を書いてから死ぬんだ。なぜなら、読ませたいからだよ。おまえたちが犯人なんだって、彼らに読ませたいからだよ。  もちろん、第一発見者は彼らにはならない。だってあいつらは、私の存在なんて、とっくの昔に忘れているはずだから。かといって、両親に最初に発見させるわけにもいかない。親不孝者の私も、さすがにそういう残酷なことはできないよ。やっぱり、私の死体はアカの他人に見つけてもらうのがいい。  申し訳ないけど、電器屋のおじさんにその役を引き受けてもらうことにしよう。蛍光灯のぐあいがおかしいからみにきてほしいと頼んでおいた。きょうの午後三時が約束の時間。あと三時間後だ。  チャイムを鳴らしても、ドアをノックしても返事がなかったら、電器屋さんは、とりあえず玄関のドアを開けてみようとするんじゃないだろうか。立派なマンションなら遠慮するかもしれないけど、ビンボー暮らしの私の住まいは、木造二階建ての安アパートで、その名も「みどり荘」。気軽にひょいと開けてみたくなる情けない玄関なんだよね。  ちょっとでも部屋のドアを開けてみれば、ガス洩《も》れの匂いに気づくはず。そして、狭い室内で倒れている私を見つけるだろう。驚いて救急車を呼ぶ。警察かもしれないな。で、この遺書が画面に映し出されたノートパソコンが私の枕元に置いてある、ってわけ。  これだけ「自殺は他殺だ」として茉莉と矢沢を名指しした遺書を書けば、警察はきっとパソコンの中身をぜんぶチェックして、そこにファイルされた私の怨念《おんねん》日記を見つけることだろう。そして彼らを追及する。  警察がそこまでやらなかったとしても、うちの弟がきっと調べる。あの子はパソコンが得意で、ミステリーも好きな子だからね。そして、なによりも姉の私を愛してくれているから。  ごめんね、昌夫《まさお》。おねえちゃん、あんたを置いて死んじゃって。  でも、とにかくこれで復讐《ふくしゆう》ができるんだ。茉莉は一生消すことのできない傷を心に負い、私の呪いに苦しみながら残りの人生を過ごすのさ。それでも、私が味わってきた苦痛の百分の一にも満たないだろうけどね。  ではでは、私も小心者ですので、まずはたっぷりと睡眠薬を飲んで、意識が朦朧《もうろう》としかけたところでガス栓を開くことにいたしましょう。じゃ、最後にもうひとこと。  茉莉、矢沢、あんたたちが私を殺したんだよ!≫     *  *  *  たしかに八木沢奈美絵は、饒舌《じようぜつ》な遺書を書いてから死んだ。ただし、彼女が予定していたガス中毒死という形にはならなかった。  睡眠薬の服用によって意識を失いかける直前に開いたガス栓は、安全装置の働きによって、大事に至る前にその噴出を自動的に止めた。安アパートでも、そうした設備は最低限の基準を満たしていたのだ。  ところがなんという皮肉なことか、ちょうどそのころ、奈美絵の隣に住む老夫婦の部屋から出火した。昼食の支度の最中に犯した、台所の火の不始末だった。  老夫婦はかろうじて逃げた。在宅していたほかの部屋の住人も、火に気づいて避難した。ただひとり、睡眠薬で意識を失った奈美絵を除いて……。  木造二階建て全六戸を全焼したのち、その焼け跡から、真っ黒に焦げて性別すら判らなくなった八木沢奈美絵の死体が発見された。それから高熱で変形したノートパソコンも。  もちろん、ハードディスクに記録された内容は、物理的に再生不可能だったし、そもそも焼け焦げたパソコンの中身を調べてみようと考える人間もいなかった。奈美絵の弟でさえも……。  いまから三年前の出来事である。 [#改ページ]   一 鏡よ、鏡よ[#「一 鏡よ、鏡よ」はゴシック体]  杉浦茉莉は、毎朝会社へ出かける前に洗面所の鏡を見て、そこに映っている自分の姿を最終チェックするのが習慣になっていた。  まずは鏡に近寄ってアップから。  キリッとした意志の強そうなラインの眉《まゆ》。くっきりした二重まぶた。感情を豊かに表わす大きな瞳《ひとみ》。カールした長い睫毛《まつげ》。  ツンと可愛らしく上を向いた鼻——決して鼻の穴を誇張しない程度に上を向いたところが、自分でも最高に気に入っている。  そしてキュッと引き締まったアゴのライン。 (きょうもバッチリ、メイクが決まった)  自然とハミングが出る。  そして鏡の自分に向かってニッコリ微笑んだ。自分の美貌《びぼう》に対する満足の微笑み。 「茉莉、最近すごくきれいになったよね」  と、友だちからよく言われる。自分でもそう思う。  初めてそれを自覚したのは一年ぐらい前だろうか。だが、すでにそのとき茉莉は二十七歳になっていた。先月、六月に誕生日を迎えて、いまは二十八歳。 「二十七、八にもなって、いまさら『私、最近きれいになったみたい』もないわよね」  と、いったんは自分で否定してみた。  だが、会社でもプライベートでも、「茉莉ちゃん、きれいになったね」と声をかけられることが多くなった。男からも女からもだ。だから最初は、その変化に自分でも戸惑った。  茉莉は滋賀県の近江八幡《おうみはちまん》市に生まれ、高校までをその故郷で過ごしてから、京都市内の短大に入った。そして短大を卒業したあとは、東京に出てOL生活をはじめた。いまから八年前のことだ。  あまり一カ所に腰を落ち着けるタイプではないので、これまでに三度勤め先を変えて、今回が四度目の会社になる。それが二年前のことだ。きれいになったね、と他人から頻繁に言われるようになったのは、いまの会社に入ってから一年経ったころで、それまではそんなうれしい経験は一度もなかったし、自分でも外見的には平凡だと思っていた。  それが去年から、急に自他共に認める変化が出てきたのである。  当然のことながら、周囲は何か精神的な変化があったのだろうと詮索《せんさく》してくる。そして誰もが言い合わせたように「いい人ができたんじゃないの」と、ニヤニヤ笑いながら問いかけてくるのだ。  ところが、その当時はまだつきあっている恋人はいなかった。いまでこそ竹下旭《たけしたあきら》という同い年の恋人がいるが、彼は合コンで茉莉の美貌に目をつけてアプローチしてきた男であって、変化が起きる前に恋人がいたわけではない。恋が自分を美しくさせたのでないことは、茉莉がいちばん承知していた。  茉莉の両親も、娘の変化に驚きの色を隠さなかった。東京に出てきた当初は、正月や夏休みにマメに帰省していたが、しだいに足が遠のき、まったく実家に帰らない年も珍しくなくなっていた。だからひさびさに会った娘の変化には、父も母も目を瞠《みは》った。 「いややわ、茉莉ちゃん。なんでそないに別嬪《べつぴん》さんになったん? お母さん、なんやらまぶしいわ」  母はそう言って目を細めて娘を見たし、父に至っては、 「おまえ、まさか整形したんじゃないだろうな」  と、疑わしげな顔で食い入るように見つめてきた。  整形疑惑——たしかに、それは日に日に茉莉の周囲でささやかれるようになっていた。面と向かっては茉莉の美しさをほめる会社の同僚たちが、裏では「茉莉、絶対に整形やってんのよ。気づかれないように少しずつ」と陰口を叩《たた》いていることは、人づてに耳に入ってはきている。  その噂を聞いても、茉莉はかくべつ腹は立たなかった。その陰口は事実に反しており、自分にやましいところはカケラもないからだ。正真正銘、親からもらった自分の顔のままで、どこにもメスは入っていない。  ただ、そうした評判が立つのも無理はないと思っていた。茉莉自身、自分がどうしてこんなにきれいになってきたのか、理由がわからないからだ。  お化粧の方法を変えたの? と、よくきかれる。  対外的には、いちおうそういうことにしておいてある。プロのメイクさんに習ってみたの、と。だが、それこそ化粧の工夫に余念がない同性たちを納得させるには最も貧弱な理由で、整形疑惑を増幅する効果しかなかった。 (ほんとに私、なんでこんなにきれいになっちゃったんだろう)  変化を感じはじめたころは、毎晩、独り住まいのマンションに戻ってきてメイクを落としてから、茉莉はまじまじと鏡の中の自分を覗《のぞ》いて不思議に思ったものだった。素顔になっても、間違いなくその変化が認められるからだった。決してメイクのせいなどではないのだ。  うれしい、けれども不思議——それが一年前の茉莉の心境だった。  だが、月日が経つに従って、茉莉はそうした自分の変化に馴《な》れを感じてきた。ひとつには、美しさを増していくカーブが最初のころに較べてだいぶ緩やかになってきたせいもあった。そして、周囲も茉莉の容貌の「進化」に馴れてきたこともあった。 (どうせだったら、顔だけじゃなく、このペチャパイがもうちょっと大きくなってくれたらいいのにな)  洗面所の鏡からちょっと身を引いて、夏らしいレモン色のブラウスに包まれた上半身を映すと、茉莉は胸元の布地をつまんで引っぱりながら、ぜいたくな願望を思い描いた。 (そうしたら、アキラよりもっといい男がいっぱい言い寄ってくるかも……でも、ま、いっか。これだけ顔がよけりゃ)  フフッと笑って、茉莉はまた鏡に近づくと、大写しになった自分の顔に向かって言った。 「鏡よ、鏡よ、鏡さん。この世でいちば〜ん、きれいな女の人は誰ですか」  と問いかけて、答えを待つように口をつぐんだ。  鏡の中の自分も口を閉じた。  もちろん、おとぎ話のようにどこからか答える声が聞こえてくるわけではなかった。だから茉莉は自分で返事をした。 「はい、それは茉莉さん、あなたさまでございます……な〜んちゃってね」  キャハハ、と笑ってから、茉莉は洗面所の壁に掛けてある時計に目をやり、あわてて肩をすくめた。 「ヤバッ、遅刻しちゃう」  傍らに置いてあったバッグを肩に提げると、杉浦茉莉は急いで洗面所を飛び出し、玄関へと急いだ。  玄関のドアを開けると、モワッとした夏の空気が茉莉を包み込んだ。 (やだなあ、きょうも汗だくの満員電車か)  ブルーなため息をひとつついてから、茉莉は廊下に出て、外から部屋の鍵《かぎ》をロックした。306号室と番号の入った扉を。  部屋の主が出ていったあと、こぢんまりとした2DKの室内は静まり返っていた。だが、茉莉の知らない光景がそこにあった。  洗面所の鏡——  そこには、すでに出ていった茉莉の笑顔が、まだ大写しで残っていた。 [#改ページ]   二 黒い人形[#「二 黒い人形」はゴシック体] 「三十九歳か……」  三杯目の大ジョッキを空にしたあと、口元の泡をぬぐいながら矢沢拓己は自嘲《じちよう》的に吐き捨てた。 「まだ若い、まだ若いと思っているうちに、ついに三十代最後の年に突入だよ。どんなに若作りしたって、もう立派な中年オヤジだ」 「悪いけど、その言葉を訂正させてもらうとな」  テーブルの向こうから、同僚の飯島宏《いいじまひろし》が指先を突きつけてきた。 「三十九になったということは、もう丸三十九年生きたってことだよ。つまり、おまえさんは人生の四十年目に突入したわけだ」 「なに?」 「みんなそこを勘違いしてるんだよな。たとえば成人式で、いよいよ二十歳になりました、って若者が気持ちを新たにしているけど、なんのことはない、二十歳の誕生日を迎えたということは、すでに二十年が終わっちまって二十一年目に入ったということなんだ。そのパターンでいけば、矢沢はもうすでに四十男ってわけだよ」 「妙な計算をしてくれるなよ」  銀縁眼鏡をはずし、酔いと夏バテでトロンとした眼差《まなざ》しになりながら、矢沢は反論した。 「おれはまだ三十九になったばかりだ。四十じゃない。十の位が三のうちは青春なんだ。正真正銘の四十歳になっている飯島とは、決定的な差があるんだよ」 「まあ、どうでもいいけど、矢沢が自分を若いと錯覚している根拠が薄弱なんだな」 「というと」 「独身でいることを心の支えにしている点だよ」  飯島は、中味を口に弾《はじ》き入れたあとの枝豆のサヤで矢沢を指し示した。 「いつまでも独り身でいることが精神的若さを保つ秘訣《ひけつ》だと勘違いしている。だから、おのれの老いに気づかずに若者ぶることになる。いいか、矢沢」  空になったサヤをポイと皿に投げ捨てて、飯島はつづけた。 「三十九だろうが四十だろうが、ぼくたちはもう中年だぜ」 「だからなんだよ、早く結婚しろとでもいうのか」 「命令するほどおこがましくはないさ」  小学四年生を筆頭に、すでに三児の父である飯島は笑った。 「ただ、不思議だというんだよ」 「不思議?」 「そう。おまえは二枚目とまではいかないが、そこそこいい男だ。我々のような地味な環境でなく、一般企業に勤めていたら、女子社員にチヤホヤされて、その中でいちばん可愛い子をパッと釣り上げてしまうタイプだろうな」 「………」  飯島の言葉に、矢沢は無言で苦笑いを浮かべた。 「そして早々に結婚して、ぼくのところよりもっと大きな子供がいたっておかしくない。それなのに矢沢拓己、三十九歳にしていまだ独身、ときた」 「悪いかよ」 「女に興味ないのか」 「そんなことはない」 「ほんとはコッチだったりしてな」  飯島は左手の甲を右の頬に当ててみせた。 「バカ言え」  と、矢沢が怒ったところで、飯島は笑顔を消して言った。 「ほんとは何もかもわかっているんだよ」 「え?」 「何もかもわかっている、と言ったんだ」 「だから何を」 「ぼくたち、初めて会ったのが三年前だとは思えないほど、ウマが合って仲良くやってきたよな。ウチのカミさんなんて、矢沢のことを大学時代の同級生だと勝手に思い込んでいたほどだ。おまえが三年前に名古屋の私立高から転勤してきたばかりと知って、驚いていたぜ。それぐらい、ぼくたちは同世代の人間として、何でも腹を割って話してきた。教師としての悩みも語りあってきた」 「いいから、何を言いたいのかハッキリさせろよ、飯島」  喧騒《けんそう》とタバコの煙に満ちた居酒屋の席で、矢沢が少し声を張り上げた。 「おれはもって回った言い方は好きじゃないんだ。おせっかいにも、おれに嫁さん候補の女を紹介するつもりなら、そうだとハッキリ言ってくれ」 「そんな話じゃない。矢沢、まっすぐぼくの目を見ろ」 「なんだよ、感じ悪いな」 「いいから見ろ」 「見たよ」 「そんなトロンとした目じゃなく、ちゃんと眼鏡を掛けて、しっかりとぼくのマナコを見ろ。おまえの視力の悪さは知ってるんだから」 「なんだよ、いちいちうるせえな」  ブツブツ文句を垂れながらも、矢沢は眼鏡を掛け直した。 「さあ、眼鏡は掛けた。だからさっさと用件を言え」 「我々は高校の教師だよな」 「それで?」 「もうすぐ学校は夏休みに入る」 「だから?」 「おまえ、どうするんだ。予定は」 「なんだよ、何かと思ったらそんな話か」  矢沢は肩を揺すって笑った。 「こっちは子持ちのおまえさんと違って、気楽な独身稼業だからな、前もって乗り物や宿を予約してスケジュールを決めておくなんて、しちめんどくさいことはしないよ。まあ、安月給の身としては、むしろ貯金をするいいチャンスぐらいに思って、家に籠《こも》ってビデオでも見てるんじゃないかね」 「ウソを言うなよ」 「ウソ?」 「誰かさんとグアムに行く予定を立てていないか」  飯島の言葉に、矢沢の顔からサッと血の気が引いた。 「繰り返すが、ぼくたちは私立高校の教師だ。年ごろの女の子も大勢いる。教師が独身であろうと妻帯者であろうと、生徒に対する行動には、誤解を招く余地がないよう、用心にも用心を重ねる必要はあることはわかっているよな。まして、ケータイで生徒と直接なんでもやりとりができるようになった現代では」 「何が言いたいんだ、おまえ」 「さっきから言ってるだろ。何もかもわかっているんだ、と。小林|巴恵《ともえ》のことだよ。二年B組——ぼくの受け持ちクラスの小林巴恵だ」  矢沢の頬が引きつり、眼鏡のフレームが動いた。 「つきあってるだろ、あの子と」 「バカ言うなよ!」  矢沢は怒った。 「いくら独身だからといって、そういうケジメはちゃんとつけてるぞ」 「ぼくに白々しいウソをついてどうするんだ、矢沢」  飯島は目の前の料理皿を脇へどけ、相手のほうへ身を乗り出した。 「巴恵の父親が感づいて、ぼくのところへ相談にきた」 「父親……が?」  矢沢の顔がこわばった。 「証拠があがっているんだ。写真も、ビデオも」 「証拠?」 「巴恵の父親はね、娘の行動に不審を抱いて、気づかれないように尾行を重ねてきたんだとさ。探偵事務所などに頼まず、自力でな。自営業じゃなくてサラリーマンだったら、そこまで時間の自由が利かなかっただろうが」  飯島は、周囲の喧騒にかき消されない程度に声を抑えてつづけた。 「そして、ぼくに大変なものを見せてきた。おまえと巴恵のただならぬ関係の証拠をね」 「どういうところまで」 「やっぱりホントだったんだな」 「おまえ、おれにカマをかけたのか!」 「違うよ。実際に証拠写真とビデオを父親から見せられたんだ。おまえのマンションに深夜ふたりで寄り添って入ったところとか、いったん部屋を出て、ふたりでコンビニで買い物をして、また部屋に戻っていくところとか」 「あれは違うんだ」 「なにが、どう違う」 「彼女の相談に乗ってやってたんだ、おれの部屋で」 「どんな相談だ」 「それは言えない」 「なぜ」 「あの子がおれを信頼して打ち明けてくれたことだから、秘密は守らないと」 「彼女の担任であるぼくにも言えない内容か」 「そうだ」 「ひょっとして、飯島先生にセクハラされて困っているんです、って悩みだったりなんかしてな」 「そうかもしれないし、そうでないかもしれない。相談された以上は、堅く口をつぐむのが教師の義務だ」 「やめろよ、矢沢、悪あがきは」  飯島の口調がいちだんと厳しくなった。 「とぼけるのは見苦しいぞ」 「とぼけてなんかいないさ。たしかに小林巴恵はおれのマンションにきた。それは認める。だが、それは個人的な悩みごとを持ちかけられただけなんだ。時間も遅かったし、深刻そうな内容だったので、外では話せなかったから部屋に呼んだ。……ああ、担任を差し置いて、と怒らないでくれ。進路とか授業についての相談じゃないし、クラスでのいじめという問題でもない。そういうたぐいのものだったら、ちゃんと飯島先生のところへ行けと指示するさ」 「じゃ、なんの相談だった。教えなきゃ、小林本人に確かめるぞ」 「待てよ。そうガーガー言うなよ。……仕方ないな。じゃ、ここだけの話にしといてくれ。恋愛相談だったんだ。思春期の恋の悩みってやつだよ。それも三角関係でややこしくなっている」 「………」 「ほんとうだぜ」  矢沢はムキになっていた。 「そういう内容だけに、あの子は教師の中でもいちばん話をしやすい英語の矢沢先生に相談を持ちかけた、というわけだ。巴恵が担任のおまえを敬遠する気持ちはわからないじゃないんだ。なんせ飯島先生は堅物だし、生真面目すぎるし、それに彼女と三角関係になった男のひとりが、同じクラスの男子生徒なんだ。つまりおまえの受け持ちだよ。具体的な名前までは言わせないでくれ」 「坂口誠《さかぐちまこと》だろ、知ってるよ」 「えっ!」  こんどは、近くの客がふり返るほどの大声を矢沢は出した。  うろたえるその矢沢を冷たい目で見つめながら、飯島はたたみ込んだ。 「そして、三角関係のもうひとりの登場人物がおまえなんだよ、矢沢」 「な、な、な……」  矢沢の口がもつれた。 「なにを、なにを根拠に」 「だからさっきから言ってるじゃないか。巴恵の父親が証拠を揃えて担任のぼくに相談を持ちかけてきたんだ、って。父親は娘のケータイもチェックしていたんだ。そして、おまえの名前で登録された携帯番号との異常な回数の発着信に気づいた。それからものすごい量のメールもだ。すごいのは量だけじゃなくて、内容もだけどな」 「ない…よう……」 「おまえも掟《おきて》やぶりをするわりには無防備だよな。親子にしても夫婦にしても恋人にしても、近しいわりには、しっかりした信頼を築いていない関係の場合、相手を疑《うたぐ》りだしたときにやる行為が、ケータイチェックなんだよ、最近はね。だから巴恵の父親は、娘の隙を狙ってケータイを開いて、そこにデータとして残っていた送受信メールを読んだ。生々しいというか、きわどいというか、親が読んだら怒りと驚愕《きようがく》で卒倒しそうな内容の『愛の通信』をね。この夏休みにふたりでグアムへ旅行へ行くという計画もそこにあった」 「………」 「父親の手によって書き写されたその文面を、おれは読ませてもらったよ、矢沢」 「現物を見たわけじゃないんだろう」  なんとか言い逃れようと必死の形相で、矢沢は言った。 「メールの実物じゃなくて、巴恵のオヤジが書いたものを読んだわけだろう。そんなの、いくらでも創作できるじゃないか。そんな作り事を信じたのかよ」  私立高の英語教師、矢沢拓己はどんどん興奮していった。 「教職員の中で飯島がいちばんの友だちだと思っていたのに、おまえはおれを糾弾するために呼び出したのか! しかもこんな居酒屋に」 「落ち着けよ、矢沢」  あくまで冷静に飯島宏は言い返した。 「糾弾するためじゃない。おまえの置かれた危険な状況を教えてやろうと思って呼び出したんだ。事態はぼくが救ってやれるほど甘いものじゃない。けれども、誰にもバレていないと思っているのと、そうでないのとでは、矢沢の心構えも違ってくるだろう。だから教えてやったんだ。自分自身で解決をつけるためにな。……ああ、それからこういう居酒屋を選んだ理由だが」  遠くの席ではじまったにぎやかな一気飲みを見やりながら、飯島は言った。 「誰もいない教室とか喫茶店だと、おまえが最初から警戒して身構えるだろうと思ったからだよ」 「飯島、おれは情けないぞ」  矢沢は身体を震わせた。 「いちばんの友人からこんな疑いをかけられるなんて」 「こっちこそ情けないよ、矢沢。いちばんの友人に、どこまでもシラを切られてね。おまえ、小林の父親を甘くみたらえらい目に遭うぞ。彼がぼくの前に提示した矢沢拓己に関するヤバいデータはそれだけじゃない。父親はおまえの過去を調べ上げてきた」 「過去」 「教師としての過去だ。もっと詳しくいえば、転々と勤務先を替わっていった過去だ」 「………」 「ぼくも知らなかったけれど、名古屋の高校からこっちへ移ってくるまでに、すでに三度も学校を替わっているんだってな」 「そりゃ私立高の教師として当然だろ。待遇が悪かったらいいところへ替わるのは」 「違うね。少なくとも二度の移籍は、赴任先でトラブルを起こし、事実上の追放になっていたからだよ。しかもそのトラブルは、いずれも教え子がらみだ。矢沢、おまえは教え子に手を出す問題教師なんだ」 「………」 「その性癖が直らないから……というよりも直したくないから、四十まぢかになる現在まで結婚をせずにきた。独身教師でいれば、教え子に結婚の夢を与えられるからな」 「ちょ、ちょ、ちょっと待った」 「そして世間知らずの女の子が抱いた夢を、おまえはことごとく裏切ってきた」 「待てよ、飯島。おれにも言わせろ」 「いまから十年ほど前」  割り込もうとする矢沢を無視して、飯島はつづけた。 「おまえは滋賀県の琵琶《びわ》湖畔にある小さな女子高にいた。そして、担当クラスの教え子に二股《ふたまた》をかけて手を出した。ひとりの名前は杉浦茉莉。もうひとりは八木沢奈美絵」 「う……」  矢沢は絶句した。  掛け直した眼鏡が鼻先までずり落ちていた。 「結論からいえば、おまえはどちらの生徒にも将来の結婚を匂わせながら、けっきょく弄《もてあそん》だだけだった。話によれば、八木沢奈美絵はかなりの美少女だったらしいが、どちらかといえばおまえが熱心だったのは杉浦茉莉という子のほうだった。彼女のほうが地味だったが、それだけに先生との恋により夢中になった」 「おまえ、どこでそんな話を仕入れた」 「ちゃんとぼくの話を聞いてないのか。小林の父親が調べたんだよ。すごい執念だよな」 「………」  興奮で矢沢の胸が激しく膨らんだりしぼんだりした。 「父親の追跡調査はそれだけではすまなかった。おまえが弄んだふたりの女子高生のうち、ひとりは三年前、二十五歳のときに不慮の火災で死んだ。しかし父親は疑っている。火災でなく、それは殺人ではなかったかとね。そして犯人は、いま娘とつきあっている矢沢拓己ではないかと」 「バカな! 何の証拠があって」 「焼死したとき、八木沢奈美絵が住んでいたのは名古屋だった。そのときのおまえの勤務地も名古屋だ。そして焼死事件の——あえて事件と言うが——そのあと、おまえは逃げ出すように名古屋の学校を辞めて、東京のここへ移ってきた。どうもこの転勤ばかりは、教え子とのトラブルではなく、別の理由によるものではなかったかと」 「やめろ!」  周囲の客が驚くのもかまわず矢沢は叫んだ。 「やめろ、やめろ、やめろ! やめろぉぉぉぉ!」 「矢沢」  対照的に静かな声で、飯島は言った。 「八木沢奈美絵の死体は、それはそれは悲惨なものだったらしい。まるで黒い人形のようだったと……。おまえさんは、黒い人形の呪いから逃げ出したくて、名古屋を飛び出したんじゃないのか」 [#改ページ]   三 自殺の研究[#「三 自殺の研究」はゴシック体] 「茉莉先輩、ちょっと相談にのっていただきたいことがあるんですけど、きょうの夜あたり、お時間とっていただけませんか」  杉浦茉莉が、短大出の新入社員・高瀬有紀《たかせゆき》から声をかけられたのは、週末、金曜日の昼休みのことだった。  有紀は小柄でぽっちゃりした感じの愛嬌《あいきよう》のある子で、同じ部署に配属されており、研修期間中の指導役が茉莉に任せられていたこともあって、なにかにつけて「茉莉先輩」を頼ってくるようになっていた。だから茉莉にとっても、七つ年下の高瀬有紀は、新入社員の中でいちばん可愛い存在になっていた。 「きょうの夜かあ……そうねえ……」  茉莉が口ごもると、 「あ、ダメならいいです。また来週でも」  と、有紀は遠慮して引き下がろうとした。だが、いつになく深刻そうな後輩の表情を見て、茉莉はできるだけ早く相談にのってやったほうがいいと直感した。 「ちょっと待って、先約があるにはあるんだけど、なんとかするから」  じつは今夜は恋人の竹下旭と食事をする約束があった。食事だけでなく、彼の部屋に泊まる予定だった。このところ週末の金・土は、だいたい旭のマンションに泊まるのが習慣になっていた。彼の部屋には自分のパジャマも洗面道具も化粧道具も、それだけでなく、いくつかの着替えも置いてある。もちろん下着も。いわば半|同棲《どうせい》状態だった。  といって、旭を近い将来の結婚相手として決めていたわけではない。そもそも結婚じたい、茉莉の人生設計図の中には存在していなかった。マイペースで生きていくのが好きな性格からいって、結婚生活が人生でベストの選択になるとは、茉莉はまったく考えていなかった。  たしかに同い年の旭とは話は合うし、彼はハンサムだし、カッコいいし、性格もやさしい。だからいまの段階では、茉莉はほかの男には目もくれず、彼をいちずに愛していた。よその女に旭を盗《と》られたくないと、はっきりそう思っている。  けれども、だからといって彼と結婚したいとは思わないのだ。茉莉にも純白のウェディングドレスを着て、教会のヴァージンロードを歩いてみたいという夢はある。だが、それは記念写真でも撮ればじゅうぶんという範囲の願望にすぎなかった。ウェディングドレスへのあこがれのために結婚を急ぐほど、茉莉は幼稚ではなかった。  なぜなら、美しい結婚|衣裳《いしよう》をまとった花嫁の命は、あくまでたった一日にすぎないとわかっていたからだ。結婚式一日だけの命。必死に延命したとしても、せいぜいがハネムーンどまり——それが「花嫁」の命。  ウェディングドレスを着たお嫁さんごっこを、結婚してからも永遠につづけていられると思うほど、茉莉は夢想主義者ではなかった。「花嫁」ではなく「妻」としての立場に縛られる自分を思い描いてみるだけの、現実的な想像力が彼女にはあった。男の独占欲が強ければ強いほど、生き方の自由が奪われると承知してもいた。  二十歳を超えてから二十八歳の現在に至るまで、茉莉が出席した結婚式はかなりの数になるが、すでに三組が離婚という形の破局を迎えていた。茉莉はその三組の彼らの、結婚式や披露宴における幸福に輝く笑顔を、いまでもはっきり思い出すことができる。どの新郎新婦も、挙式当日は見ているほうが恥ずかしくなるほど熱々《あつあつ》ぶりを見せつけ、茉莉もかなりの嫉妬《しつと》を覚えたほどだった。  にもかかわらず、彼らは数年で破局した。最も早い離婚に踏み切ったカップルの場合、一年もたなかった。  結婚式とはあくまで儀式であり、実生活の一部ではないということを——結婚式の幸福感は一種の舞台効果が生み出す幻影にすぎず、真の幸福は結婚後に地道に組み立てていかねばならないということを——当事者の新郎新婦は認識していなかったのだ。いまよりずっと若かった茉莉も、やはり当時は認識不足だったし、披露宴に出席した同世代の友人たちもおそらくそうだったろう。  いまふり返ってみれば、紋付姿で出席していた親戚《しんせき》筋のおばさん軍団が「いまがいちばんいいときよね」と、歯ぐきをむき出しにして笑っていたのが、結婚式の錯覚という真実を鋭く語っていたのかもしれなかった。  茉莉には和男《かずお》という名の四歳年上の兄がいて、結婚していまは商社の駐在員として香港に住んでいるが、その兄一家にしても、子宝に恵まれて幸せそうだが、それは男のほうの身内として見ているからなのかもしれない。兄嫁が抱える苦悩があったとしても、それは兄にはわからないだろうし、兄の身内である自分にもわからないだろうと茉莉は思う。もしも兄嫁に妻としての悩みが何もないとすれば、むしろそれは奇跡に近い出来事ではないか。 (私には結婚はできない。とくにお兄ちゃんみたいな人とは)  兄には申し訳ないが、茉莉はそう思っていた。兄のように情熱的で行動的な人間は、それじたいはすばらしいことで、妹の立場から兄として評価するならば、きわめて頼りがいのある男性といえるだろう。けれども結婚相手としては、兄のようなタイプはごめんだった。  一度きりの人生をどう進んでいくか、その航路を決める船長はあくまで自分自身でありたい。いかに最愛の男性とはいえ、兄のような我《が》の強い夫に絶対的な決定権を握られ、あれこれと生き方を指示されたくはない。それが茉莉の考え。まして、子供を作って育児にふりまわされる人生など、考えただけで吐き気を催すくらいだった。  だが、恋人の竹下旭には、そうした自分の結婚観をまだ伝えていなかった。旭も茉莉の兄と同じようなリーダーシップの強い男だったから、夫は夫、妻は妻、という独自性をすんなり受け止めてくれるとは思えなかった。それどころか最近の旭は、具体的な結婚話をいつ茉莉に切り出そうかと、そのタイミングをつねに計っているふしがあった。  それだけがいまの茉莉にとっては、ちょっと憂鬱《ゆううつ》な要素であった。 「先輩、もしかして大切な人との約束があるんじゃないんですか」  ケータイでメールを打ちはじめた茉莉を見て、有紀が遠慮がちにたずねた。 「もしそうだったら、私のお願いは後回しでいいですから」 「だいじょうぶよ」  ケータイの画面から目を上げて、茉莉は微笑んだ。 「夕食の約束を取りやめても、そのあとをキャンセルしなきゃ平気な人なの」 「あー、そういうことですかあ」  有紀は、こわばっていた顔にちょっとだけ納得の笑顔を浮かべてうなずいた。茉莉と恋人との、なまめかしい関係を感じ取った気恥ずかしさもそこに含まれていた。 「さ、これでオッケー」  メールを打ち終わり、携帯電話をたたむと、杉浦茉莉は改めて後輩に向き直り、少しおどけた口調で言った。 「じゃ、高瀬有紀さんのためにカウンセリングタイムをたっぷり三時間はとって差し上げましたから、どこかでお食事でもごいっしょしながら、ゆっくりとお話を聞くことにいたしましょうか」 「ありがとうございます。ただ……」  有紀は口ごもった。 「食事をしながらというのは、ちょっと……」 「どうして?」 「食欲がなくなるような話ですから」 「食欲が……なくなるような話?」 「はい。それでも聞いていただけますか」 「………」  意味深な有紀の言い回しに、茉莉はちょっとためらった。が、怖いもの見たさの好奇心が打ち勝って、少しだけ間を置いてから、また笑みを浮かべ——こんどはとってつけた笑顔だったが——可愛い後輩に向かって返事をした。 「いいわよ。私って、こうみえてもグロいホラー映画なんか平気で観るほうだから」     *  *  *  その夜——  杉浦茉莉と高瀬有紀は、六本木の再開発地区にある高層ビルのバーで、膝《ひざ》を突き合わせるように座っていた。いちばん奥の小さなテーブル席は、メニューの文字を読むのも苦労するほどの暗さだったが、その薄暗い闇に包まれることでプライバシーが保てる安心感があった。幸いにも隣りあったテーブルは空席で、BGMのサックスの響きがふたりの低いしゃべり声を消してくれていた。 「茉莉先輩、自殺って、どう思います?」  運ばれてきたカクテルに形式的に口をつけたあと、いきなり有紀がそう切り出してきた。  仕事上の悩みか、人間関係のトラブルか、あるいは社内恋愛か、せいぜいその程度の問題だろうと予想していた茉莉は、「自殺」という言葉を聞いて表情を変えた。 「自殺って……まさか有紀、あなたが」 「とにかく最初に、一般論として先輩の考えを聞きたいんです。自殺って、何だと思います?」 「ずいぶん抽象的な質問ね」 「かもしれないですね」 「いつもの有紀には似合わないテーマだわ」 「そうですか」  有紀は不満そうにつぶやいた。  仄《ほの》かな照明をたくわえたカクテルグラスに目を落とした彼女は、顔を前に傾けているために前髪が垂れ落ち、目の表情が見えなくなっていた。もしかすると意図的に表情を読まれまいとして、そうした姿勢をとっているのかと茉莉は考えた。 「なぜ自殺というテーマが私に似合わないんですか」  有紀は絡むように問い返してきた。 「先輩は私のこと、明るい、明るいって言いますよね。新入社員の中で、有紀はいちばん明るいって」 「ええ」 「だけど『明るい』は『暗い』の裏返しだ、って、知ってました?」 「え」 「泣きそうなときに、あえて笑う子っているじゃないですか。私って、ほんとはそういうタイプなんですよね。自殺問題を論じるのが似合わないんじゃなくて、似合う子なんですよね、ほんとは」 「………」  茉莉は、前髪の陰に隠れた有紀の目をなんとか覗こうとしたが、照明の暗さもあって、やはり無理だった。 「もう一回ききますけど、茉莉さんにとって、自殺とは何だと思いますか」 「どうもそのたずね方からすると、『自殺は自分で自分の命を絶つこと』なんて、国語の辞書みたいな返事じゃ納得してもらえないみたいね」 「当然です」  有紀の返事はそっけなかった。 「『遺《のこ》された人の悲しみを考えたら、自殺は許されるべき行為じゃない』って答えでも満足しないでしょ?」 「あたりまえです」 「『自殺とは、生きる勇気を持たない臆病《おくびよう》者のすること』なんて優等生的な回答も、きっとダメなんだろうしねえ」 「そういうような答えしかお持ちじゃないんだったら、もういいです」  有紀の突《つ》っ慳貪《けんどん》な口調に、茉莉は驚いた。 「なによ、怒ったの?」 「いえ、最初からそのあたりの答えが返ってくるだろうと思っていましたから、『あ、やっぱそうか』って感じですけど」 「ねえ、有紀ちゃん」  茉莉は、苛立《いらだ》ちを含んだため息を洩《も》らした。 「私、そういう言い方はきらいだな」 「茉莉さんこそ、怒ったんですね」 「そうじゃないわよ。怒っているんじゃなくて、あなたに社会人としての礼儀は守ってほしい、ってこと」 「礼儀ですか」 「そうよ。仮に私が勝手に有紀のプライバシーに好奇心を抱いて、何があったの、話を聞かせてよ、とおせっかいをやいたのなら邪慳《じやけん》にされても仕方ないけど、きょうは有紀のほうからどうしても相談したいことがあるっていうので、こうやって話を聞く場を設けたわけでしょう。いちおうカレシとの夕食もキャンセルしてね。だとしたら、あなたは私に対して、わかりやすく話をする義務があるはずよ。違う?」 「………」 「まるで怪談でもはじめるような、思わせぶりな演出はやめてほしい、ってことなの。わかった?」 「でも、ほんとに怪談をはじめるんだから、しょうがないです」 「え?」 「私はオバケの話をこれからするんです」  有紀は真顔だった。  茉莉は不快そうに顔をしかめた。 「なに言ってるの、有紀。あなたは自殺という問題について何かを語りたいんでしょ。それがなんでオバケの話になるのよ。ふざけてるわけ?」 「………」  前髪を垂らしたまま、有紀は黙りこくった。依怙地《いこじ》になっている雰囲気だった。それで仕方なしに、茉莉のほうから話を本筋に戻すようにリードしていかざるを得なくなった。 「回りくどいことはやめて、はっきり言ってほしいんだな、高瀬さん」  茉莉はあえて、相手の名字を一度口にした。 「あなた、何か深い悩みを抱えて、自分を自殺に追い込もうとしているのね」 「ワンパターンですね」 「は?」  唐突に繰り出された有紀の言葉に、茉莉は口を開けて問い返すよりなかった。 「何がワンパターンよ」 「先輩の発想が、です。杉浦茉莉っていう人にとって自殺とは何かが、なんとなくわかっちゃいました。たぶん、自殺|=《イコール》リスカ、みたいな決まり切った先入観があるんでしょ」 「リスカ……」 「リストカット」 「ああ、手首を切ることね」  茉莉は、わざとわかりやすい日本語で言い直した。リスカという短縮語だって、知らないわけではなかった。だが、知ってて知らんふりをした。  日ごろから茉莉は、ティーンエイジャーの一部が陥るリストカットのような自傷行為を、馬鹿げた自己満足として軽蔑《けいべつ》していた。さらに、いま有紀が言ったように、まるでレモンスカッシュのことをレスカと略すような感覚で、リストカットをリスカと呼ぶ感性を、最悪だとも思っていた。 「リスカなんて幼稚なマスターベーションよ」  茉莉は、突き放すように言った。 「ほんとに手首を深く切って死ぬならともかく、カッターナイフでピーッと皮膚を切りました。血を流しました。わー、私って、すごいことやったんだわ。死と直面している私って、なんて哲学的なの、みたいなね、そういう自己満足は最悪だと思ってる。そして、もしも有紀が、自殺をしようとしている自分に酔っているんだとしたら、まさしくリスカ系ジコマンギャルと、ほとんど変わらない存在だと言えるわね」 「自殺って、もっと奥が深いんです、茉莉さん」  まだうつむいたまま、有紀はつぶやいた。 「ひとりの自殺の陰に、いったいどんなドラマがあると思いますか」 「ドラマ? そうね、やっぱり泣く人がいるってことよね。たとえばあなたが死ねば、お父さんが泣く、お母さんも泣く。それから……たしか有紀には妹さんがいるのよね。だとすれば、彼女をも悲しませることになる」 「だから、そこがワンパターンなんです、茉莉さんは」 「どういうこと」 「百パーセント自分自身で完結している自殺なんて——つまり、すべては自分の責任なんだ、と割り切って死ぬ人は、自殺者ぜんたいの〇・一パーセントか、それ以下じゃないんですか? 九十九・九パーセント以上の人は、誰かを怨《うら》みながら死ぬ。それが自殺の本質なんじゃないんですか」 「………」 「たとえば重い病気にかかって、将来をはかなんで自殺する人がいますよね。遺書に『先立つ不幸をお許し下さい』なんて書いてあれば、身内も周囲も、ああ可哀相にという同情と悲しみで、その自殺を見送るかもしれない。でも、ひょっとしたら医者の無神経な一言が、その人を決定的な絶望へ追い込んだのかもしれないし、精神的な手助けをしなかった家族を怨んでいるかもしれない。病気の遺伝子を自分に送り込んだ親を怨む場合だってあるはず」  しゃべっているうちに有紀の前髪が揺れ、その間から燃えるような怒りをたたえた瞳《ひとみ》が覗《のぞ》いた。  茉莉はひどい寒気を感じた。そして、灰皿が置いてあり禁煙席ではないことを確認してから、バッグからタバコを取り出し火を点《つ》けた。  恋人の旭はだいぶ前に禁煙していて、茉莉にもしつこくタバコをやめろと勧めていた。その理由がどうやら健康な赤ちゃんを産ませることにあるらしいと気づいた段階で、茉莉は意地になって旭の前で、わざとタバコをスパスパ吸うようにしていた。だが、本質的にはヘビースモーカーではなく、全社禁煙ということもあって、ふだんは一日三、四本程度のペースだった。  しかし、今夜はほんの二、三時間で丸々一箱を空けてしまうことになるかもしれない、という予感がした。もっと軽い悩み相談だと思っていた有紀の用件が、ただならぬ内容になりそうだと気づいたからだった。とくに「自殺」という単語が——なぜだかわからないが——茉莉の精神状態を徐々に不安定なものにさせていった。気持ちを落ち着けるには、タバコの助けを借りなければならなかった。それも、かなりの量の。 「学校でいじめられて屋上から飛び降りたりする子がいますよね」  有紀のひとりしゃべりがつづく。 「そういうとき、学校はすぐに体裁を取り繕って『イジメはなかった』と発表するし、遺書にコレコレこういう人がぼくをいじめていたと名指ししてあっても、ひたすらその名前は伏せられますよね。少なくとも世間に対しては。でも、そこまで書かれてしまえば、名指しされた人間は、自分のせいで死んだんだな、ってわかるはずなんです」 「そりゃ寝覚めが悪いわよね」  タバコの煙を吐き出しながら、茉莉は言った。 「もしも私がそういう立場になったら、冷静じゃいられないわ。どうしよう、どうしようってうろたえて……きっと眠ったりはできないでしょうね」 「それが違うんですよね」 「違う、って?」 「人を自殺に追い込んだ人間の大半は、無神経なやつらなんです。無神経だからこそ、人を平気で自殺に追い込むんです。そして無神経だからこそ、その事実を平気で忘れられるか、さもなければその事実に気づくことさえない」 「有紀ちゃん」  火を点けたばかりのタバコを灰皿に押しつけると、茉莉は、うつむいた相手の顔に向かってうっすらとした煙を吐きかけながら言った。 「ねえ、顔を上げて。下ばかり見ないで、私の顔を見て」 「先輩の顔を見て、どうなるんですか」 「一方的な独り言じゃなくて、ちゃんとした会話をしたいのよ」 「してるつもりですけど、私」 「有紀ちゃん……高瀬さん……あなた、どうかしてるわ。いつもの高瀬有紀じゃない」 「かもしれないですね」 「………」 「会話、つづけていいですか」  不気味な間合いをとってから、有紀はそう言った。  そして、茉莉がどう返事してよいかためらっているうちに、有紀は話を先へ進めた。 「うちの父親、医者なんです。まだ五十半ばですけど、外科病院を開業してて」  もはや相づちを挟むこともできず、茉莉にできることといえば、二本目のタバコに火を点けるぐらいしかなかった。 「でも去年、医療ミスをやっちゃったんですよね。詳しいいきさつは省きますけど、手術のときの点滴ミスで患者さんの健康な片腕を壊死させて、結果的に切断までさせてしまうはめになったんです。それも利き腕の右腕を……。こういう被害には、お年寄りも若いも区別はないかもしれないけど、でも仮に年のいったおじいさんやおばあさんだったら、まだ少しは状況が違っていたかもしれません。けれども右腕を失ったのは、茉莉先輩と同じ年ごろの女性だったんですよね。しかも婚約者もいた」 「もしかして……」  話の先が少し見えてきたので、茉莉はおずおずとたずねた。 「その人、自殺したの?」 「結果はそうです。でも、それよりも前に問題があって、医療過誤が起きた直後に、うちの父親は、ミスをひとりの若い看護婦さんのせいにしたんです。看護『師』っていう呼び方がピンとこないぐらい若い子で、私よりも年下。その看護婦さんの実家が、人にだまされて大きな借金を抱えているのを知ると、かなりのお金をつかませて、きみがすべてを負ってくれと」 「有紀ちゃんのお父さんが、そんなことをしたの?」 「ええ」 「あなたはそのことを……」 「知ってました。家族に隠そうともしないから」 「隠そうとしない……」 「看護婦さんにすべての罪をかぶせることに関して、父親は父親なりに筋を通しているつもりなんですよ」 「どういう筋よ」 「第一に、お父さんにもしものことがあったら、おまえたちが路頭に迷うことになるんだぞ、と言うんです。それに衣子《きぬこ》は——衣子っていうのが、その若い看護婦さんなんですけど——実家の借金で苦しんでいるんだ。それを助けるいいチャンスじゃないか。お父さんは家族を守るために、そして人助けをするために、大人の対応をしているんだ……って。このピンチをベストの形で乗り切ろうとしているんだから、って」 「すごい『大人の対応』ね」 「勝手な父親の理屈ですけどね。でも、その理屈にもウソがあって」  うつむいたまま、有紀は肩をすくめた。 「ほんとうは、その医療ミスは新人看護婦じゃなくて、ベテランの看護師長——っていうんですか、正式名称は。でも『婦長』のイメージもろ出しの人——その人が薬を取り違えた結果、招いた事故なんです。おまけにミスに気づくのも、その後の処置も遅かったので、どんどん壊死が進行して、とうとう腕を切り落とさなきゃならないところまでいっちゃった」 「そこまでひどいミスなのに、あなたのお父さんは、婦長のミスをかばうの?」 「かばうっていうか、脅されているんですよね。父親と婦長、できちゃってるんで」 「は?」 「不倫してるわけっスね」  有紀の口調は投げやりだった。 「そのことがお母さんにバレると大変なことになる、という父親の弱みを、婦長は握ってるんです。それで、すべての責任を新人に押しつけることを院長に承諾させて」 「ちょっと待って、有紀。あなたはそういう舞台裏をぜんぶ知ってるの?」 「知ってます」 「どうやって知ったの」 「婦長さんが堂々と言うんです。高瀬家の中でいちばん正義感の強そうな人間が有紀ちゃんだと思うから、あなたがいちばん危なっかしい。秘密を嗅《か》ぎつけるという意味でも、その秘密をよそに洩《も》らすという意味でも危なっかしい。そういう人には、先に真相をぜんぶ話しておくのが私のやり方、って……そう言って、父親と組んでやろうとしていることを、ぜんぶ私に話したんです。お父さんと秘密を共有することで、あなたもいっしょに汚く、ずるくなりなさいって」 「汚く、ずるくなる……」 「ひどい言い方ですよね」  有紀の口元が歪《ゆが》んだ。 「でも、婦長さんは悪びれずに言いました。強い人間は正義感を軸にして生きていける。けれども、弱い人間はずるくなきゃ生きていけない。それが人生だって」 「………」  茉莉は二本目のタバコを消した。まだまだ長い状態だったが、タバコを灰皿にねじるように押しつけるという動作が、いまの彼女には必要だった。そういうことでもしないと、さらにこれから聞かされる内容に、ついていくエネルギーが湧いてきそうになかったからだ。  そして、すぐに三本目に火を点《つ》け、呼吸を整えるようにして煙を数度吸ったり吐いたりしてから、茉莉は質問を再開した。 「で、そのあとの話を聞かせて」 「そのとき父親と婦長さんの頭にあったのは、どのようにして示談に持ち込むか、でした。そして示談が不可能なら、どうやって裁判で言い逃れをしていくか、でした。だから、片腕を失った女の患者さんに謝ろうという気は、最初からぜんぜんなかったんです。謝れば自分の非を認めることになるから、って。それで『新人看護師の不注意で不幸な事態に陥ったことは遺憾だが、あってはならないこととはいえ、医療を行なう上において、いかなるミスも百パーセント完全排除することは不可能である。しかし、ミスが起きるまでの医療と、ミスが起きてからの処置は、すべてにおいて完璧《かんぺき》で適切だった』」  有紀は深いため息をついた。 「もう一語一句覚えちゃいましたよ、この最悪なメッセージを……」 「被害者側は、怒りでめまいを起こしそうね」 「そう思います。文書の形にまとめられた、この院長声明を読んだとき、私もヤバイな、と思ったんです。いくら弱い人間がずるく立ち回ろうとするにしても、これはひどすぎる、と。……それから何日か経って、最悪の事態が起きました」 「自殺ね」 「それも、ひとりだけじゃなく、ふたりも」 「ふたり?」 「患者さんと、罪を背負わされた看護婦の衣子さん」 「看護婦さんまでが……」  茉莉は絶句した。 「衣子さんにとって、患者さんの自殺はものすごいショックだったんです。自分のせいじゃないのに、精神的にパニックしてしまった。それで自殺の連鎖が起きたんです」  抑え気味にしていた有紀の声が、徐々に揺れはじめた。 「それでも、そういう悲劇が起きても、父親と婦長さんは鈍感なままでした」 「ほんとに?」 「悲劇を、いつのまにか衣子さんと患者さんのふたりの問題にすり替えてしまったんです。そして患者さんの遺族には、『どうか、当医院の看護師が死をもって償ったと思ってお許しください』なんて、神妙な顔をして謝って。まるで自分は関係ないって顔でね。婦長さんも、以下同文って感じの対応」 「謝っただけ?」 「いちおうお金は払いました。父親が院長として、病院の代表者として、それなりの弔慰金を患者さんの家のほうには」 「看護婦さんの遺族には?」 「一銭も」  有紀は首を左右に振った。 「むしろこっちが損害賠償をしてもらいたいぐらいだ、と、衣子さんの両親に向かって怒鳴ったりして」 「鬼じゃないの」 「鬼です」  有紀は、あっさり認めた。 「で、いまお父さんと婦長さんはどうしてるの」 「その後も、変わらず不倫をつづけてました。お母さんの目を盗んで」 「信じられない」  茉莉は呆《あき》れ顔でタバコの煙を吐き出した。 「自分たちのせいで、ふたりの女性が命を絶ったのに、まだ平気で不倫してるわけ?」 「さっきから言うように、自分たちのせいだとはぜんぜん思わないんです、人を自殺に追い込むような人は」  有紀の口元が、嫌悪と憎悪で歪んだ。 「だけど——親をかばうつもりはないけど——うちの父親が特別無神経なわけじゃないと思う。みんな同じなんですよ。自殺をした人の周りって、そういう鈍感な人間ばかり。『あいつは意志が弱いから自殺をした』『身勝手だから家族の迷惑も考えずに自殺をした』……けっきょくそういう批判をして、自分たちの後ろめたさを消そうとする。さもなければ『死ぬ前に、ひとこと相談してくれたらよかったのに』なんて、いかにも力になれたのに、みたいな言い方をするヤツ。ほんとは何の相談にものれないくせに、えっらそうに」  有紀は、まるで自分が自殺した当人であるかのように[#「自殺した当人であるかのように」に傍点]興奮しはじめた。 「ひとりの自殺者の陰には、必ずその人を死に追い込んだ犯人がいるはずなのに、その犯人を糾弾することなく、自殺者を落ちこぼれにして、悲劇の幕をなるべく早く下ろそうとする。それが世の中の法則。でも、いつまでも自分の罪に対して鈍感なままでいれば、必ず報いがくるんですよね」 「報い?」 「二週間前、婦長さんが取り憑《つ》かれちゃったんですよね」 「取り憑かれた、って。何に」 「幽霊に、です」 「………」 「だから言ったでしょ。今夜は怪談をすることになる、って」  ザワッと、茉莉の腕に粟粒《あわつぶ》が立った。  いまいるバーは、熱帯夜を払いのけるようなクーラーの利かせ方をしていたが、茉莉が感じた寒さはもっと別物だった。冷気というよりも霊気—— 「どういうふうに、取り憑かれたの」 「スイッチしたんです」 「スイッチ?」  茉莉は、有紀の発した言葉の意味がすぐにはわからなかった。 「スイッチって、電気のスイッチのこと?」 「そうじゃなくて、『交代する』という意味のスイッチです」 「まだ、わかんないけど」 「わからなければ、わからないでいいです」 「いやよ、そんな中途半端な言い方」  茉莉は有紀の片手をつかんで揺さぶった。 「ちゃんと話は最後まで聞かせて。思わせぶりだと、かえって恐ろしくなるじゃない。ねえ、きちんと話して。それが今夜の相談事だったなら、なおさらよ。婦長さんがスイッチしたって、どういう状況なの。早く教えて」  そこまで急《せ》かしたときだった。 「よけいなことは、知らねえほうがいいんだよ」 「………!」  茉莉は、有紀の腕をつかんだまま息を呑《の》んだ。  突然、有紀が別人の声になった。女の声だ。だが、決して有紀の声ではない。そして当の有紀は、まだ前髪を垂らしてうつむいたままの姿勢だった。 「だ、だ、だ」  舌が空回りした。 「誰なの」 「誰なの……か」  有紀が笑うように肩を揺すった。 「いい質問だな」 「あなた、有紀よね。ぜったい、有紀よね」  有紀が別人に『スイッチ』した事実を無意識のうちに認識しながらも、茉莉は必死になって常識的な判断を取り戻そうとしていた。 「私、ほんとは怖がりなんだから、そういうオバケごっこはやめてよ。それ、演技でしょ。ひょっとして、いま聞かせてくれた話、ぜんぶツクリなんじゃない? これって、ドッキリカメラみたいなおふざけ? ハメられちゃったの? 私」 「ぐだぐだ言わないで、腕を見ろ」 「え」 「おまえがつかんでいる、私の腕を見るんだ」  言われて、茉莉は視線を下方に落とした。  ショックのあまり、口をポカンと開けたまま、茉莉は動けなくなった。  夏物の半袖《はんそで》ブラウスから出ている、柔らかな有紀の腕をつかんでいたはずなのに、いつのまにか、まったく違うものを握っていた。硬くて炭のように真っ黒な腕だ。  いや「炭のように」ではなく、まさにそれは炭そのものだった。と同時に、人間の腕そのものでもあった。すなわち、炭化した人体——  かなり暗いバーの照明ではあったが、茉莉の目がとらえたものは、それだった。 「なに、これ……」  震える声でつぶやくと、それまでずっとうつむき加減で目の表情を見せなかった有紀が、ゆっくりと面を上げた。  前髪が割れ、その間からふたつの瞳《ひとみ》が覗《のぞ》いた。  燃えていた。両の眼が真っ赤に燃えていた。そして顔の色は、真っ黒だった。炭になった顔だった。 「わかったか、茉莉」  高瀬有紀ではない、別の女の声が呼びかけてきた。 「それとも、まだわからないか?」  答えられない。恐怖と衝撃で、茉莉は咳払《せきばら》いひとつできなかった。右手で握っている、炭化した黒い腕を放すこともできなかった。 「私は有紀ではない。別の女にスイッチした」  黒い顔がしゃべった。白い歯が目立った。 「人を自殺に追い込みながら、その事実にまったく気づかない無神経女を叱るために、私は有紀の身体を借りて語っている。どうだ、この声に、おまえは心当たりがあるか。この黒い顔、黒い腕を見て、蘇《よみがえ》る記憶はないか」  茉莉は、心あたりなどまったくないというふうに首を横に振った。 「そうか。まだ思い当たらないというならば、私の名前を言おう。私は……」  そのとき、茉莉は火の点いたタバコを左手にはさんでいることを思い出した。 (炭……こいつは炭でできた怪物……火を点ければ燃える)  そう思うのと同時に、硬直していた左手を必死に動かし、タバコの火を相手の片腕に押しつけた。押しつけたところがオレンジ色に輝いた。  同時に、悲鳴があがった。 「あっつ〜い! 何をするんですか、茉莉さん!」  叫び声をあげたのは有紀だった。炭でできた怪物ではない。いつものぽっちゃりとした高瀬有紀が、一瞬にして火ぶくれになった色白の腕を引っ込め、火傷《やけど》部分を冷やすため、急いでカクテルを浴びせかけていた。 (え……有紀だったの? やっぱり有紀だったの?)  ひどい意識の混乱と錯乱。  そしてバーぜんたいがぐるぐると回りはじめ、やがて茉莉は意識を失った—— [#改ページ]   四 スイッチ[#「四 スイッチ」はゴシック体]  腕時計を見ると、朝の九時半。  会社に遅刻した! と茉莉は思った。だが、きょうは週末の土曜日であることを思い出した。そして、ここが自分の部屋ではなく、恋人のマンションであることに気がついた。 「あれ、私、どうしたの?」  杉浦茉莉はベッドの上で半身を起こしながら、旭にたずねた。 「ああ、おはよう。やっと起きたか」  返事をしてきた旭は、パジャマではなく、もうTシャツにジーンズという格好に着替えて、隣のキッチンでコーヒーを飲んでいた。  ベッドルームのカーテンは、眠っていた茉莉に気を利かせてまだ引いたままになっていたが、その隙間から洩《も》れてくる夏の陽光だけで、部屋はじゅうぶん明るくなっていた。そしてキッチンのほうは、ダイレクトに窓から差し込む明かりで白く輝いていた。  きょうも朝から暑い日になっていることは間違いない。エアコンが冷たい空気を必死に吐き出していた。 「ねえ、ゆうべ私、どうしていたの」  茉莉はもういちど同じ質問を繰り返したが、 「コーヒー飲むだろ」  と、旭は、すぐには茉莉の問いかけに答えようとしなかった。声も硬い。  それが茉莉は気になった。 「私、どうかしちゃってたんでしょ」 「まあ、いいからコーヒーを飲めよ。話はそれからだ」  キッチンのほうからマグカップに入れたコーヒーを持ってくると、旭はそれを茉莉に差し出した。  とりあえず、ベッドの上で茉莉はそれを一口飲んだ。茉莉の好みをちゃんとわかってくれている薄味のアメリカンタイプ。  両手でマグカップをくるむようにして持つと、中味の熱さが伝わってくる。真夏に飲む熱いコーヒーが茉莉は大好きだった。朝はこれを飲まないと目覚めない。しかし、いまはコーヒーの味覚を感じるゆとりがなかった。寝る前の記憶が完全に欠落していることを悟ったからだ。  さらに、自分の格好にも気がついた。ベッドで目が覚《さ》めたのに、腕にはめた時計で時間を確認したとき、状況に気がつくべきだった。金曜日、会社に行ったときのままの服装だった。スーツのジャケットこそ脱いでいたが、ブラウスとスカートはそのまま。もちろんストッキングもだ。それに化粧は落としていなかったし、アクセサリーもつけたままだった。 「私、服を着たまま寝ちゃったの?」 「ああ、とりあえずジャケットだけ脱がせてやるのが精一杯でね」  ハッとなってあたりを見回す茉莉の動作を見て、旭がつけ加えた。 「心配するなよ。バッグならそこの椅子の上に置いてある」 「ああ、私、そのことぜんぜん覚えてないわ」  マグカップを片手に持ちかえ、茉莉はベッドの上でブラウスの胸にもう一方の手を当てた。 「ベッドに寝たのも覚えていないし、どうやってここにきたのかも」 「そりゃ、覚えていないわけだよ。ベッドの真ん中で大の字になったまま、意識を失って眠りこけていた」  いつもはふたりで抱きあうようにして寝るセミダブルのベッドの端に腰掛けると、旭は無理やり作った明るい口調で言った。 「だからぼくは、こっちのソファで寝たんだ」 「意識を失って? なのに、どうして私はアキラの部屋へこれたの」 「逆にぼくのほうから質問なんだけど、ゆうべ何があったのか教えてくれないか。ゆうべというのは、夜中じゃなくて、会社を出てからここへくるまでの間なんだけど」 「それが……」  もう一口コーヒーを飲んでから、茉莉は首を横に振った。 「ぜんぜん覚えていないの」 「少なくとも、会社を出てどこへ行ったのかは思い出せるだろう」 「……ううん」  じっと考えてから、茉莉はまた首を振った。 「だめ。わかんない」 「ほんとかよ」  さすがに旭も、明るい態度を装ってはいられなくなった。 「それじゃ、昼間ぼくのメールにキャンセルの連絡を入れてきたことは」 「キャンセル?」  まだボーッとした目を旭に向けて、茉莉はつぶやいた。 「キャンセル……って何」 「夜、いっしょに食事をする約束をしていただろう」 「ああ、そうだ。そういえば」 「ほら、これを見ろ。少しは思い出せるだろう」  旭は、自分の携帯電話に送ってきた茉莉のメールを見せた。 「あ、そうか……思い出したわ。有紀が折り入って相談したいことがあると言って、それでアキラとの夕食をキャンセルして、夜、あの子とどこかに行ったの」 「どこか、って?」 「う〜ん」  またそこで記憶の回復が止まった。 「ねえ、そういえば有紀はどうしちゃったんだろう」 「まだ思い出さなければ、ぼくが言おう。夕食の約束はキャンセルしたけど、ぼくの部屋に泊まりにくる予定は変わらないと思っていたから、こっちは会社を出たあと、ひとりでメシを食って、八時すぎにはこの部屋に戻っていたんだ。まあ、どんなに遅くとも終電車の前にはくるだろうと考えてたから、借りてきたビデオをのんびり見ていた。後輩社員から深刻な相談を受けるというから、その最中に電話やメールでわずらわせても悪いだろうと思って、こっちからは何の連絡も入れなかった」  説明をする旭を、茉莉はじっと見つめていた。 「ところが十時になっても、十一時になっても、茉莉からは何の連絡もない。なんとなく落ち着かなくなって、ビデオを見ているどころじゃない気分になった。それで茉莉のケータイを呼び出したのが……十一時十分ぐらいだったかな。……ああ、そうだ。十一時十二分に最初の電話をかけたんだ」  携帯電話の履歴を確認しながら、旭は話をつづけた。 「だけど、何の応答もなく留守番電話のメッセージになってしまう。そこでメールを入れたけど、やっぱり返事はこない。何回電話をかけても、何度メールを打っても茉莉は何も返してこなかった。そのうち、夜中の十二時を回って、電車もなくなってしまったから、もう気が気じゃなかったよ」  旭は、そのときの不安を思い起こして眉《まゆ》をひそめた。  茉莉を待っているあいだ、彼の頭によぎったのは二種類の不安だった。ひとつは、後輩の子と会っているというのはウソで、別の男と浮気をしているのではないかというもの。もうひとつは、不慮の事故に遭ったのではないか、という心配。  旭の脳裏を占めたのは、後者のほうだった。最近、とみに美しさを増してきた茉莉である。おそらく会社でも、男性社員からの注目を大いに集めているのは間違いなかった。けれども旭は、茉莉が裏切ることはないと信じていた。それよりも、茉莉の美貌《びぼう》が危険を吸い寄せる可能性のほうを、日ごろから懸念していた。  同僚の男性から言い寄られたり、上司からセクハラを受けるといった種類のものなら、まだ生命の危険とは無縁だが、それより心配なのは、まったく見ず知らずの男につけ狙われ、強引にレイプされるような可能性だった。そしてその夜、旭の頭の中では、その不安が急速に膨れあがってきたのだった。 「夜中の一時が過ぎた段階で……」  旭は言った。 「これはもう何かあったとしか思えなくなった。それでとにかく茉莉の部屋へ向かおうとして玄関まで行ったとき、インタホンが鳴ったんだよ」 「私が……きたの?」 「それも覚えていないのか」 「うん」  茉莉は不安げにうなずいた。 「でも、ちゃんと自分でここにきたのね」 「いや、ひとりでこられるような状況じゃなかった。送ってくれた人がいるんだよ」 「誰……」 「茉莉に相談を持ちかけた有紀という子だよ。高瀬、といったかな、名字は」 「有紀がここに? なんで?」 「なんで、じゃないよ」  旭はため息をついた。 「彼女がタクシーでここまで送ってきてくれたんだ。運転手に行き先だけは、ちゃんと茉莉が自分で説明したというんだけどね。それも記憶にないのか」 「言われてみれば、なんとなく。……あ、タクシー代はどうしたんだろう」 「ここまでのぶんと、彼女が自宅に帰るぶんを見積もって、多めに渡しておいたよ」 「ありがとう。あとで返すね。……でも、そうすると、有紀と飲みにいったあと、そこで酔っぱらっちゃったのかな」 「酔っぱらっていたというほうが、ぼくとしては心配はしないけどね」 「違うの?」 「違う」  旭は、短く刈り上げた髪の毛をガリガリと掻《か》いた。 「茉莉を連れてきたときの有紀ちゃんの言葉を借りれば、『茉莉さん、ちょっとヘンなんです。……いえ、すごくヘンなんです』ということだ」 「私が、ヘン?」 「おまえは後輩といっしょにバーに行った。そのバーは、ぼくらがいきつけの」 「『デイヴィス』?」 「そのとおり、六本木のね。本来ならそこで、有紀ちゃんの悩み相談を聞いてやらねばならないはずだったけど、途中まで話したところで」 「ああ、ちょっと待って」  茉莉が旭の話を途中でさえぎった。 「思い出してきたわ。たしかあの子、自殺がどうとかって言ってた」 「自殺?」 「そうなの。自殺がどうのこうのって話をしてきたのを思い出したわ」 「彼女が自殺を考えているってことか?」 「だったのかな。そこまでは覚えていないけど」 「そんな重要な話題なのに、覚えていないのか」 「しょうがないじゃない!」  突然、茉莉は叫んだ。 「覚えていないものは覚えていないんだし、思い出せないものは思い出せないのよ! なんでそれを怒るのよ」 「怒ってはいないだろ」 「イラついてるじゃない。アキラ、すごくイラついてるじゃない」 「そういうふうに聞こえたら謝るけど」 「これは刑事の取り調べなの?」 「よせよ、そういう言い方は」 「もうなんか私、耐えられないわ、この雰囲気。ちょっとバッグ取って……あ、いいわ、自分で取るから」  茉莉は勢いをつけてベッドから下り、椅子の上に置いてあった自分のバッグからタバコを取り出した。 「やめろよ」  旭がさえぎった。 「タバコはやめろ」 「アキラの好みにいちいち指図はされたくありません。部屋で吸われたくないのはわかるから、ベランダで吸います。ならいいでしょ」 「そういう理由じゃないんだ」 「わかってます。『決してぼくが禁煙したからといって、同じようにしろと押しつけているんじゃない。茉莉の身体を心配しているんだ』——でしょ。妊娠したら、タバコはお腹の赤ちゃんに害を与えるんですものね。ええ、わかってますけどね。でも、このさいハッキリ言わせてもらうけど、私はアキラと結婚なんて」 「自分がゆうべ何をしたのか、わかっているのか!」  こんどは旭が突然怒鳴り返した。  その大声にかき消され、茉莉の最後の言葉は旭の耳に届かなかった。仮に届いたとしても、いまの彼には結婚問題を論じる余裕などなかった。 「わかってるのか、茉莉。ゆうべ自分のしたことが!」 「な……なによ……逆ギレ?」  バッグから取り出しかけたタバコのパッケージを、また中に戻して、茉莉は顔をこわばらせた。 「私が怒鳴ると、そんなに腹が立つわけ?」 「自分がしたことを考えたら、平気な顔でタバコなんて吸えないはずだろうと言ってるんだ。ゆうべ茉莉を送ってくれた有紀ちゃんは、左腕のここに包帯を巻いていた」  旭は、自分の左腕の内側、肘《ひじ》より少し下のところを指さした。 「どうせそのことも覚えていないんだろうから先に言うけど、おまえがタバコの火を押しつけて火傷《やけど》をさせたんだよ」 「……うそ」  茉莉はポカンとした表情で答えた。 「私がそんなこと、するわけないじゃない」 「記憶がないのに、しなかったとどうして言い切れるんだ。ウソだと思うなら、いますぐ有紀ちゃんに電話をかけてみろ。どっちにしたって、月曜を待たずに、きょうのできるだけ早いうちに連絡をとらざるをえないんだから」 「なぜ」 「はっきり言えば、茉莉のやったことは傷害罪だ。彼女がその気になれば、訴えることだってできるんだぞ」 「………」 「彼女が言うには、悩みごとを打ち明けている途中あたりから、茉莉さんが何も聞いていない様子なのに気づいて、『どうかしたんですか』とたずねたら、いきなり自分の腕をつかまえて、吸っていたタバコを押しつけてきたというんだ」 「ウソよ」  反論する茉莉の言葉は力がなかった。 「それは有紀がウソをついているのよ」 「あいにく目撃者がいるんだ」 「誰」 「デイヴィスのウェイターがちょうどその場面を見ていた。有紀ちゃんがものすごい悲鳴をあげたので、急いで飛んできて、応急処置をしてくれたそうだよ。気丈にも有紀ちゃんは、事を荒立てないほうがいいと思って、警察を呼ぼうかという店の人間の申し出を断った。そして、茉莉のぐあいが落ち着くのを待っていたというんだ。落ち着くもなにも、気を失ったようにテーブルに突っ伏したまま動かなくなっていたらしいけど」 「私が……ほんとに有紀にそんなことを」  茉莉は明らかに動揺していた。 「有紀ちゃんは周囲を取り繕うために、おまえが酔っぱらったことにしてくれたんだ。なんて気が利いて心やさしい後輩なんだろうな。これからも可愛がってやれよ。そしておまえが、おぼろげながらも呼びかけに受け答えできるようになったのを待ってから、タクシーを呼んだんだ。ああ、いま話していて気がついたけど、おまえは店の支払いができるような状態じゃなかったから、たぶんそこの会計も彼女がもってくれたんだろう。あとで確認しておけよ」 「知らなかった……ぜんぜん知らなかった」  茉莉の顔から血の気が引いていた。 「おまえに確認をとらなければならないのは、それだけじゃないんだ」 「なにか、まだ、あるの」 「ゆうべ、とにかくおまえをこのベッドに寝かしつけたあと、ぼくはそこのソファで横になった。文字どおり、横になっただけだ。有紀ちゃんの話を聞いたあとでは、心配で眠りにつけるどころじゃなかった。言っとくけど、ぼくは一睡もしていないんだ」  そういう旭の目は、赤く充血していた。 「一度パジャマに着替えたけど、何かあるといけないと思って、この格好にすぐ着替え直した。そして、ずっと見守っていたんだよ、茉莉の様子をな。そうしたら、明け方の四時過ぎかな、そろそろ空が白みかけたころだったけど、いきなりおまえは目を覚ました」 「目を覚ました? だけど私、ずっと寝ていたんでしょう」 「目を覚ましたんだ」  旭は繰り返した。 「そして起きあがった」 「………」 「ぼくは、さっきと同じように声をかけた。起きたか、とね。そしたら茉莉はなんて答えたと思う?」  その問いに、茉莉は無言で首を振った。  その反応を見て、旭が言った。 「あなたが竹下旭さんね」 「え……」  茉莉の目が大きく見開かれた。 「ちょっと待って。私が……アキラに向かって……竹下旭さんね……ですって?」 「驚いたよ。しかもそのときの声が、茉莉じゃなかった」 「そんな」 「女の声であるのは間違いない。たぶんぼくらと同年代ぐらいの声だろうとは思う。でも、茉莉とはぜんぜん違う声質なんだ。ぼくはおもわず、そうだけど、と答えた。その時点で、もうふだんの茉莉との会話ではなくなっていたけど」 「そ、れ、で?」  ぶつ切りに問い返す茉莉をじっと見つめて、旭はつぎの言葉を発した。 「スイッチしちゃった——茉莉は……いや、茉莉とは違う声がそう言った——あなたに会ってみたいから、茉莉の家じゃなくて、こっちにきたのよ、ってね」  茉莉は、ふたたび気を失った。 [#改ページ]   五 顔[#「五 顔」はゴシック体]  一度別れた女とは、二度と会わない。それが竹下旭がずっと守りつづけてきた、恋愛に関する鉄則だった。  旭は、決して遊び人というタイプの男ではない。複数の女性と同時につきあったり、いわゆるセックスだけが目的で、つきあう女性を取っ替え引っ替えするということはできない。  そういう意味では、女性にモテる風貌《ふうぼう》のわりには、かなり生真面目な男なのである。だが、それだからこそ、何らかの事情で別れることになった女とは、二度と会うべきではないと自分を戒めていた。愛した女性に誠意を尽くし、のめり込むようにして愛するタイプだからこそ、会えばまた自分の恋愛感情が、本気で再燃してしまう可能性が高かったからだ。  それが相手にとってみても好ましい事態ならともかく、空白の時を隔てて再会した元恋人が、いきなり「やっぱりきみのことが忘れられない」と迫ってきても不愉快に思うだろうし、相手の新しい環境を壊すようなトラブルも引き起こしかねない。そして、せっかく思い出のファイルに閉じ込めた昔の恋が、ぼろぼろに傷ついてしまう恐れもある。  また、旭のほうも現在恋愛中だった場合、いまの恋人との関係がぎくしゃくすることにもなる。だから、別れた女とは二度と会わないという大原則を、旭は学生時代からずっと守ってきた。そしてその原則を決して破るつもりはなかった。つい数日前までは——  だが、状況が変わった。  といっても、過去の恋愛を再燃させようというのではなかった。また現在の恋人・杉浦茉莉に飽きたのでもなかった。それどころか、二十八歳になったいま、旭は同い年の茉莉との結婚を真剣に考えていた。  旭の感覚からいえば、三十の大台まで残り二年を切った女性は、結婚というものを真剣に前向きに考えているはずだった。古典的といえば古典的な考えだが、彼は女の結婚観というものを、そのようにみていた。当然、茉莉は自分との結婚を大前提としてつきあっているはずであり、彼女のその「希望」を叶《かな》えてやるのが自分の誠意であり、男としての義務でもあるというふうに。自分の独り相撲にまったく気づかず、そう思っていた。  だからこそ……だからこそ、茉莉の身に起きた異変を、これ以上知らん顔してほうってはおけないのだった。  あの土曜日の明け方の場面が、消し去ろうとしても、何度も何度も脳裏にフラッシュバックしてくる。薄暗い明け方、いきなりベッドの上に身を起こし、「あなたが竹下旭さんね」と、まるで別人の声で語りかけてきた茉莉の姿が……。  そして、その不気味な現象の謎を解き明かすために、どうしても彼はひとりの女性の力を借りる必要があった。四年前に別れた昔の恋人の力を。  時計を見た。  午後七時三十五分——  待ち合わせ場所に三十分も早くきていたから、すでにこのテーブルに着いてから一時間以上が経過していることになる。約束の時刻から計算しても三十分以上経った。 (相変わらずだな。いつも遅れてくる女だった。最低でも三十分以上、一時間遅れなんてザラだった。二時間遅れ、三時間遅れでも、くるだけマシだったよ)  フッと、思い出に苦笑する。  待ち合わせの場所は、渋谷《しぶや》マークシティの四階にあるカフェ。いつもここだった。最近ではあまり渋谷には立ち寄らない旭だが、ひさしぶりにくると、やはりマナミとつきあっていたときのことを思い出す。  旭もまだ会社に入ってそれほど年数が経っていなかったが、学生気分を引きずっていた当時の自分と、雑誌モデルをやっていた十九歳のマナミとの恋は、情熱のエネルギーに駆り立てられた一年間だった。いや、恋というよりは、セックスという名のスポーツにのめり込んでいたような関係だった、といったほうが正しいだろう。  それでも旭には、お遊びという感覚はなかった。肉体の関係を深めれば深めるほど、その行く末は、結婚という形の責任のとり方が男として正しい選択であり、相手にとっても望まれる結末だと信じていた。  しかし、マナミは違っていた。結婚を匂わせる旭に対して、予想もしなかった論理で結婚を拒否してきた。 「あたしは若さがウリなんだよね。アキラだって、年下のあたしの若さにコーフンしてるだけ。だから、年を取って太ったり、シワができたり、肌がくすんだり、そういうところはアキラには見せたくない。たとえダンナという立場になってくれたとしても、ヤだよね。だから結婚はしないよ」  そしてマナミは、成人式を済ませたころから、美容整形外科でひんぱんに整形手術を受けるようになった。  最初は目頭を切開して、目を大きく見せる手術だった。モデルとしてのマナミは、切れ長の瞳が魅力だと旭は思っていたのに、「自分の顔は自分でデザインするから、口を出さないで」と、恋人の制止をはねつけた。  つぎに鼻を高くした。つぎにアゴを削って小さくした。手術手順の詳細を聞いただけで、旭は気分が悪くなった。つぎにほお骨を削って低くした。  さらにマナミは胸に生理食塩水のパックを入れた。手術後数日経って、「ねえ、さわってみて。ギュッとやってもだいじょうぶだから」と裸になったマナミに言われたが、旭はふれてみるのがやっとで、乳房を揉《も》むなどとてもできなかった。  ふたりでいれば、あれだけ性欲のかたまりになれたのに、もはや旭は欲望も湧かなくなったし、愛情も消え失《う》せてきた。マナミが人間ではなく、サイボーグのように思えてきたからだった。  かなり気持ちがギクシャクしてきたころ、少しは気分転換になるかと思って、ふたりでミュージカルの『マンマ・ミーア!』を観に行った。日本で上演されているミュージカルの中で、最もノリがよくて楽しいという評価が定着している作品だった。その劇中、結婚という枠に縛られず、自由奔放な生き方をする大柄な美女が、しばらくぶりに再会する友人の娘に向かって、こんな趣旨のセリフを言う場面があった。 「まあ、しばらくぶり。私のことわかるかしら。ずいぶん整形したものねえ」  これで客席は爆笑となり、隣に座っていたマナミも自分のことを忘れてしまっているのか、声を上げて笑っていた。もちろん、旭は笑えなかった。そして舞台の幕が下りるまで、ひとりでしらけた気分になっていた。  そして、おたがいにもう限界がきているのをはっきり意識してきた冬のある日のことだった。いつものようにこのカフェで待ち合わせをし、いつものように——いや、いつも以上に遅れてやってきたマナミは、テーブルに着くこともせず、立ったまま旭を見下ろしてこう言ったのだ。 「あたし、微調整じゃガマンできなくなったの」  最初は何の意味かわからなかった。  眉《まゆ》をひそめたまま見上げる旭に対して、マナミは言った。 「もっと本格的に顔を変えることにする。『マナミ、整形したよね』とか言われるレベルじゃなくて、ぜんぜん違う顔になることに決めたの。たぶん、運転免許証やパスポートもやり直しかな。世間的には名前も変えるつもり。通称だけどね。あ、もしかしたらガイジンと結婚するかもしれない。ガイジンなんて、ぜんぜん興味ないんだけど、名前を変えるためにはそれもいいかもしれないしね」  立ったままぺらぺらとまくし立てるマナミに、旭は言葉が出なかった。 「ま、そういうことなんで、アキラのついてこれる世界じゃなくなるから、これでバイバイね。あ、それから、これまでいろいろありがとう。いろんなものプレゼントしてくれて」  いきなり別人宣言をし、別れを告げ、何の礼を述べるのかと思ったら、プレゼントのことだった。 「基本的には、もらえるものはもらっちゃうね。お古を返したって、アキラも困るでしょ。新しいカノジョにあげるわけにもいかないし。ただ、これはすっごく高いものだし、きれいに使っているから返しておくね」  左手ではなく、右手の薬指からはずしたのは、旭がひとりでニューヨークへ行ったとき、ティファニーでマナミのために買ったゴールドのリングだった。  そして、あっけにとられる旭の前に指輪を置き、マナミはきびすを返して人ごみの中へ消えていった。呆然《ぼうぜん》として、カフェのテーブルから立ち上がれぬまま数時間を過ごした記憶を、いまも鮮やかに蘇《よみがえ》らせることができる。  それから何人かの女とつきあったあと、旭は杉浦茉莉と出会った。茉莉の美しさに一気にのめり込んだ旭は、もうマナミのことを思い出すときもなかったのだが、突然、いまになって彼女の協力が必要になった。  なぜならば、顔を変えているからだった。顔を変えることに徹底的にこだわったマナミにでなければ相談のできない大問題を、いま旭は抱え込んでしまったのだ。  時計を見た。  八時を回った。渋谷の街は、どこもかしこも待ち合わせの若者や、デート中のカップルであふれている。夜になればなるほど、ひとりでいるのが淋《さび》しくなる街だ。 (これで一時間遅刻か。顔を変えることはできても、時間にルーズな性格は変えられない、ってわけか)  四年ぶりに会うことになった元恋人の大遅刻に、また苦笑いが浮かんできた。  外国人と結婚するかもしれないと言っていたマナミも、とりあえずメールアドレスは変えていなかったので、連絡はあっけないほどかんたんについた。そして詳しい理由を告げずに、とにかく相談に乗ってもらいたいことがあると持ちかけると、これもあっけないほどあっさり承諾の返事がきた。 (マナミは、おれが会いたがっている理由をどう推測しているだろう)  ぬるくなったコーヒーを飲みながら、せわしなく店を出入りする男女の流れに目をやって、旭は考えた。 (いくらなんでも、もういちどつきあおうという用件だとは思っていないだろう。そんなふうに受け取っていたら、会うことをあれほどかんたんに承諾するはずがないし。……それともマナミは、おれとより[#「より」に傍点]を戻せる日を待っていたのか。……いやいや、あの子はそんな受け身のキャラじゃないし、過去を大切にとっておくタイプでもない。むしろもっと単純に、ただ予定が空いていたから、何も考えずに再会OKの返事を出したんじゃないだろうか。でなければ、……新しい顔をおれに見せたくて)  と、あれこれ考えているとき、 「アキラ、ぜんぜん変わんないね」  突然、聞き慣れた声がしたので、旭はびっくりして周囲を見回した。  別れたときのマナミの面影を頼りに、それらしき女性を捜したが……いない。 「ここよ、ここ。ここだってば」  もういちど呼びかけられ、こんどは声の出所がわかった。  旭は絶句した。  その声の主は、約束の三十分前に旭が席に着いたときから、目には留まっていたのだ。自分のすぐ向かいのテーブルで、ひとり静かにタバコをくゆらせている姿が。  マナミはまだこないかと周囲を見回すたびに、その姿は無意識のうちに旭の視野に入っていた。だが、まさかその人物がマナミだとは、夢にも思わなかった。なぜなら、リーゼント風に髪を撫《な》でつけた、サマースーツにネクタイを締めた男[#「男」に傍点]だったからだ。 「お・ひ・さ・し・ぶ・り〜」  タバコを消して、飲みかけのホットチョコレートのグラスを自分で持つと、彼——いや、彼女は笑いながら旭のテーブルに移ってきた。向かい合わせではなく、直角の位置をとるところは、かつてのマナミの習慣そのままだった。それでもまだ、旭は信じられなかった。 「ほんとに……マナミ……なのか?」 「そうだよ。声、ぜんぜん変わらないでしょ」 「あ、ああ、たしかに」 「見た目は男になってるけど、男性ホルモン打ってるわけじゃないからね、声帯の質は変わんないのよ。でも、ビジュアルがこれだから、どっちかっていうとニューハーフに間違えられるわけ。逆だ、っつーのにね」 「性……転換?」 「してない、してない」  マナミは顔の前で手を振った。  その手には、かつてほどこされていたようなネイルアートはない。唇にも口紅は塗られておらず、そのほかの化粧もまったくしていなかった。その肌は適度に荒れていたが、それがかえって、男っぽかった。 「身体は、女のままなのか」 「うん。顔はあれから、かなり変えたけどね。できるだけ男っぽくなるように。それとおっぱい、もとのペチャパイに戻したの。デカけりゃいいってもんじゃないし、元々おっきいならいいんだけど、生理食塩水のパック入れてまで巨乳になるって、なんか男に媚《こ》びすぎじゃん。みっともないでしょ、そういう生き方。それに異物をあんまり長く入れているのも、身体によくなさそうだからさ。出しちゃった。そのほかは、とくに変わってないよ。裸になれば、なんの問題もなく、いままでどおり男とエッチできるよ」 「はあ〜〜〜」  旭は、まじまじと相手の顔を見つめながら、長いため息をつくばかりで、しばし感想の言葉も出せなかった。 「やっだあー、なによ、そんなジロジロ見ないで」  女の声と身体のまま、男になったマナミは馴《な》れ馴れしく旭の腕をつきはなすしぐさをした。 「でも、ひさしぶりにアキラからメールもらって、ケータイ見ながらキャーとか叫んじゃった。だって、アキラはあたしの身体をぜんぶ知ってるわけじゃない。それこそ身体のすみずみまで。そのアキラにいまのあたしを見せたいなーって、前々から思っていたから」  粋《いき》な男の見映えをしたマナミが、女の声を出して楽しそうにしゃべり出したので、それに気づいたほかの席のカップルが、チラチラと興味深げな視線を投げかけてきた。それが目に入って、旭は落ち着かない気分になった。  しかし、マナミのほうはかまわず、周囲に聞こえる声で話をつづけた。 「でもさ、でもさ、ホメてくんない? あたしのこと」 「ホメるって?」  そういえば昔から声の大きな女だったな、と思い出しながら、旭は、せめて自分が小声でしゃべれば相手のトーンも落ちることを期待して問い返した。 「何をホメるんだ」 「約束の時間より一時間も早くきていたことを、よ」  大きな声のまま、リーゼントにネクタイ姿のマナミは答えた。 「そういうところは変わったの。……っていうか、変えたの。……ああ、そうじゃない、そうじゃないな」  何度もパタパタと手を振ってから、マナミはもう一度言い直した。 「顔が変わると、自然と性格が変わってきちゃうんだよね。この顔だと、妙に几帳面《きちようめん》になっちゃってさ」  そう言われて、旭は改めて昔の恋人の顔を見た。たんに男っぽくなっているだけでなく、芯《しん》のしっかりした表情がかいまみえるのは、過去にはなかったことだった。  本格的に顔を変える、という言葉を最後に自分のもとから去っていったマナミは、おそらくもっとモデルっぽく、典型的な美人顔を目指して変身しているのだろうと想像していたのが、見事に裏切られた。女から男へ、という予想もしない変身の仕方だけでなく、チャラチャラしたキャラクターが——しゃべり方こそほとんど変わっていないが——かなり物の考え方がしっかり人間に変わっていた。 「ようするにさ、あたし、悟っちゃったのよね。人間は顔だ、って」 「人間は……顔?」 「誤解しないで。顔がいいのがいちばん、って意味じゃないよ。人間は、自分の顔が変わると、自然に性格も変わるんだってことが、すっごくよくわかった。女が化粧するのも、顔をきれいにみせる目的より、気持ちの持ち方を変えるためにやるんだ、ってことが最近になって、よ〜くわかってきたんだ。だから逆に言えば、化粧によって違う自分を演出することを、見栄《みえ》とかゴマカシだと思う女は、化粧にはかなりの抵抗感を持つよね。  ノーメイク主義の女って、素顔の自分じゃないとほんとうの自分じゃない、みたいなこだわりに縛られちゃって、化粧をしている女は——極端にいえば——ウソつきで中味がないっていうふうに軽蔑《けいべつ》する傾向があるんだよ。それもけっきょくは、深層心理として、顔が変われば中味も変わるって、自分で認めている部分があるからだと思う。でも、自分の心というものが、化粧で変わるほどふらついたものだとは認めたくないから、化粧を否定する……ううん、もしかすると化粧を怖がっているのかもしれない」 「あのさあ、マナミ」  男の姿になった昔の恋人の顔をまじまじと見つめながら、旭は言った。 「なんかおまえ、変わらないのは声だけで、しゃべり方もずいぶん違っちゃったな。使う言葉もだけど」 「あはは」  ネクタイの結び目を片手でいじりながら、マナミは笑った。 「深層心理なんて言い回しが、このマナミの口から聞かれるとは思ってなかったでしょ」 「正直、そう思ったね」 「……で、きょうの用件は?」 「相談したいことがある」 「そんなことわかってるよ。それもかなり深刻なものなんでしょ」 「なんでわかるんだ」 「あったりまえじゃない」  マナミは、また愉快そうに笑った。 「そうでもなきゃ、四年前に別れた女に連絡を取ろうとしないでしょ」 「おまえもだいぶ頭の回転がよくなったんだな」 「それも顔を徹底的に変えたおかげかな。顔をここまで変えて、ようやく昔のバカっぽいあたしとサヨナラすることができた、って感じ」 「バカっぽいマナミ……か」  旭は、マナミの表現に肩を揺すった。 「そう思ってたでしょ」 「思ってたかもしれない」  旭は素直に認めた。 「で、早く話を聞かせてよ」 「おれ、結婚しようと思っている女がいるんだ」  茉莉の前では『ぼく』という一人称を使っていたが、マナミの前では『おれ』だった。そして、その習慣が自然に口から出た。 「なにしろおれも、もう二十八だからな」 「年齢で結婚ラインを決めようとするところなんて、変わんないね、昔と」 「変わらないかな」 「十九、二十歳《はたち》のあたしをつかまえて、真剣に結婚に持ち込もうとしていたころと、ぜんぜん変わらないって、そう思う。どこまで行っても、アキラにとって恋のゴールインは結婚なんだね」 「悪いかよ」 「で、まさか結婚相談のためにあたしを呼び出したんじゃないでしょうね」 「もちろん、違うよ。女の名前は茉莉という。おれからいうのもヘンかもしれないけど、第一印象のときからきれいな女だな、と思った」 「タバコ吸っていい? ……あ、やめてるんだっけ」 「やめたけど、そっちは勝手に吸えよ。それで、その茉莉とはまだつきあって一年にもならないんだけど、どんどんきれいになっていくんだ」 「もしかして、ノロケてるわけ?」 「ふつうに聞いたらそう思うだろうな。実際、おれも日に日にきれいになっていく茉莉を見て、気分が良かった。すごい女だと思った。でも……なんかちょっと違うんだよな。そのきれいになり方が、ありえないパターンなんだ」 「ありえないパターンって」 「逆にマナミにききたいんだけど、女が日を追ってどんどんきれいになっていくときって、どんなケースがある?」 「平凡すぎる答えかもしれないけど、恋をしているときは間違いなくそうだよね。それから化粧や髪の毛のまとめ方がうまくなったとき」 「それから?」 「そりゃ極端にいえば、あたしみたいに整形した場合も入るでしょ」 「ほかには」 「茉莉さんって、いくつなの」 「同い年だ。知り合ったときが二十七で、いま二十八だ」 「じゃあ、ありえないかな。高校生ぐらいから二十代の前半って、どんどん顔立ちが大人っぽくなっていくでしょう。でも、二十八じゃねえ」 「だよな。でも、自分でいうのもナンだけど、やっぱりおれとの恋愛でハッピーになっているから、どんどんきれいになっていってるんだと、これまではそう思っていたんだ。頭のどこかで、それにしちゃ、ずいぶん変わっていくなあという気はしていたけどね。ところが……これを見てほしいんだ。この写真を」  そこで旭は、持参してきた小さな封筒から三枚の写真を取り出した。そして、まず一枚の写真をマナミのほうに向けてテーブルの上に置いた。 「これが現在の茉莉だ。二週間ぐらい前、ドライブに行ったときにデジカメで撮ったのをプリントした」 「ちょっと〜」  マナミは、大げさに目を見開いてみせた。 「かなりいい女じゃない」 「だよな。おれもそう思う。……で、残りの二枚なんだけど、つぎに見せるのが半年前に撮ったもので、最後に見せるのが、茉莉とつきあいはじめてまもないころ、だから十カ月ほど前の写真だ」  その二枚を、まだマナミに対しては裏向きにしたまま、旭はつづけた。 「デジカメって、フィルムのカメラと違って、撮りっぱなしのままパソコンに保存して、プリントアウトせずに、なかなか見返さない傾向ってあるだろ。だから、最近になるまでこうやって時間を置いたものを比較して見ることはなかったんだ。だから気づかなかったんだ、この状況に。……まあ、とにかく見てほしい」  旭はマナミの前に置いた最初の写真の右横に二番目の写真を、さらにその隣に三番目の写真を並べた。  マナミはじっとその三枚を見較べていたが、やがてゆっくりと写真から顔を上げ、旭と目を合わせた。 「これ……」  そのあとにづつく適切な言葉を必死に探そうとして、マナミは唇を舐《な》めた。が、自分の印象をうまく伝える単語が出てこない。 「これ……たった十カ月の変化?」  やっとのことで、マナミはそうたずねた。  旭は無言でうなずいた。 「あたし、自分がこうやって何度も顔を変えているから、整形の人間はパッと見てわかるの。どんな微妙な修正でもね、顔をやったらすぐわかる。でも、この人は整形の経験はないと思う。なのに顔が変わっていってる。たったの十カ月で。しかも……ねえ、アキラ、言っていい?」 「かまわないよ。整形のプロであるおまえの意見を聞くために見せたんだから」  整形のプロ、という表現も、いまは冗談にもならないほど、旭は緊張で表情をこわばらせていた。 「あたしも、アキラとつきあいはじめたころに較べたら、ずいぶん顔が変わっちゃったけど、でも整形っていうのは、手術をやったときにバンって大きく変わって、それっきりなわけよね。わかる?」 「ああ、一回手術をして変身したら、その後はずっとその新しい顔で変わらずにいる、ということだろ」 「そう。また新しくつぎの手術を受けるまではね。だから、整形手術を繰り返すときの顔の変化は、階段みたいなグラフになるわけよ。やるたびにカクンカクンと新たなステージに上っていくけど、手術と手術の間の期間に変化はない。あったら困るよね。勝手に自分の顔が変わっていっちゃったら」 「だから、新しい顔になってすぐは自分でも違和感があるけれど、何日もしないうちに、すぐ馴染《なじ》んでしまう——昔、おまえはそう言ってたよな」 「アキラもそうだったでしょ。あたしが顔のどこかを変えるたびに、なんかヘンだって文句を言うけど、二、三日もすれば、あたしの新しいイメージに馴れていった」 「たしかに」 「それに較べてこの女の人の顔は、ものすごく微妙に、だけど連続して変わっていってるんじゃないか、って気がするんだよね。細かく日にちを追った写真を見せてくれたら、もっとハッキリしてくると思うんだけど、日に日に……もしかしたら毎時間少しずつ変わっていって、その変化が十カ月分たまったらここまできた、って感じがするの。グラフだと階段型じゃなくて、連続したゆるやかなカーブ。だからそばで見ている人間も本人も、『あ、すごく顔が変わっちゃった』っていう気はしないけれど、その代わり、微妙な変化が毎日つづいている」 「そのとおりなんだ」  旭は認めた。 「つきあっている恋人が、どんどんきれいになっていくのはうれしかった。だけど、その変化が止まらないのが不思議だった」 「おまけに、まるで別の人間のようになっていくのが恐ろしくなってきた……でしょ?」 「………」  ズバリ、現在の恐怖を言い当てられ、旭は口をつぐんだ。  茉莉は周囲から、どんどんきれいになっていくね、どうしたの、と不思議がられながらも、大いにおだてられ、本人も有頂天になっていた。そして旭も、彼女の変貌《へんぼう》ぶりが得意だった。  茉莉といっしょに街を歩いているとき、行き交う男たちから彼女に浴びせられる感嘆の視線が、そして連れの自分に対する羨望《せんぼう》と嫉妬《しつと》の視線が、日を追って増してくるのが感じられ、まさに鼻高々の気分だったのだ。  だが、たった三枚の写真を見較べたマナミが鋭く指摘したように、茉莉の美貌の進化は、きわめてゆるやかではあったが、決して止まることがなかった。顔が変わりつづけているのだ。その事実に、いままで旭は目を向けたことがなかった。  しかし、茉莉の奇妙な「発作」に直面し、彼女の精神状態を深刻に懸念しはじめた彼は、ふと思い当たるところがあって、これまで撮りためていたデジカメ写真をプリントして見較べてみた。そして、ショッキングな現実を客観的に確認したのだ。  茉莉の容貌の変化は[#「茉莉の容貌の変化は」に傍点]、この先決して止まるところがないのではないか[#「この先決して止まるところがないのではないか」に傍点]、と——  それだけではなかった。茉莉の顔は……。 「あたしはどんどん手術で顔を変えていって、とうとう性転換ナシで男みたいになるところまできてしまった。そうまでしなければ気が済まなかったのは、顔を変えることで、自分を変えたかったから——さっきもそう言ったよね。顔が変わってこそ、性格も変えられるんだ、っていう信念があったから。そしてこうなってみて、その信念は正しいと思ったよ。だけどね」  リーゼントスタイルのマナミは、そこでキュッとネクタイを締め直し、初めて自分から声を低めて言った。 「その言葉と矛盾するようだけど、とことん突きつめてみると、もっともっと根本的な心の真実みたいなものに行き着いちゃうんだよね」 「心の真実?」 「そう。あたしは顔を変えることで、自分の心を変えることができたと思った。でも、やっぱ、それは違っていた。マナミという女が持っている果てしない整形願望って、けっきょくは自分の本質にいちばん合った顔を求めていたからなんだよ」 「おまえの本質に、いちばん似合った顔……いまのそれが、そうなのか」 「顔を変えて性格も変わった——あたしは最初そう思ったし、表面的にはそれはひとつの事実だと思う。だけど、男になるところまできて、初めてわかった。これが自分の根っこにあったものなんだ、って。モデルのマナミでいたときには、自分の心のいちばん芯《しん》になるところに男的な部分があるとは思ってもみなかった。だからあのころの整形は、路線を勘違いしていたんだよ。女っぽく、きれいになろうとしていたのはね、ああカンチガイ。  でも、ひとつだけ言えたのは、いちばん自分らしい自分を引き出すためには、あの顔じゃダメだった、ってこと。親からもらったあの顔ではね」  マナミはゆっくりと首を横に振った。 「もちろん、こんな言い分は親には通用しないよね。親はめちゃくちゃ怒ったよ、とくにお父さんは。最初の整形の段階でね」 「いまは?」  旭がきいた。 「いまのマナミを、お父さんやお母さんは知っているのか」 「言えるわけないじゃん、男になりました、なんて」  マナミは笑った。 「だからずっと会ってないんだ。でも、どうしても会わなきゃならなくなったら、この格好で会いに行くよ。恥じてはいないから。……とにかく話を元に戻すけど、あたしは『ほんとうのあたし』を見つけるために、顔を変えつづけてきた。そしていま、やっと自分の心にマッチした顔にたどり着いた。そういう変身だったから、顔は変わっても、瞳《ひとみ》は変わっていないの。ほら、見て、あたしの目を。男バージョンになっても、アキラを見つめる瞳は、昔のままだと思わない?」  そう言って、マナミはじっと旭を見つめた。  旭も元恋人の瞳を見つめ返した。その様子は、はたからみればおかしなものに映ったに違いない。若い男と若い「男」が、恋人同士のように見つめあっているのだから。  やがて、旭のほうから視線をはずしてうなずいた。 「たしかにそうかもしれないな。気のせいなのか、実際にそうなのかわからないけど、マナミの瞳だけは前と変わっていないような気がする」 「それが心なんだよ。ことわざどおり、目は心の窓なんだよ」  マナミは、人差指で自分の目を指した。 「そういう見方でこの人の写真を見ると」  つぎにマナミは、テーブルに並べられた杉浦茉莉の三枚の写真を指し示した。 「いちばん問題なのは、瞳が変わっていっているところなんだよね」 「え……」 「あたし、どんなに整形でまぶたを変えても、瞳そのものは変わらなかった。そもそも人間の瞳は、生半可な手術じゃ変えられない。それは心の本質を変えられない、ってことでもあると思うの。けれどもこの茉莉さんって人は、顔立ちがどんどんきれいになっていくだけじゃなくて、瞳までが変化しているんだよ」 「なんだって!」  旭は、マナミのほうに向けられていた三枚の写真を乱暴なしぐさで奪い取った。そのさいに、マナミがこちらのテーブルに運んできたホットチョコレートのグラスに手が当たり、それが床に落ちて大きな音を立てて割れた。  茶色の液体と砕けたガラスがあたりに飛び散った。  周囲の客が一斉にふり向いた。  マナミは片手を上げてウェイトレスを呼んだ。だが、旭はそんなことにかまわず、食い入るように写真を見つめていた。手にした三枚の写真を、トランプのカードを繰るように、何度も何度も順番を入れ替えながら見つめた。  やがて、旭の手が震えだした。 「ほんと……だ」  店内にクーラーが利いているとはいえ、その冷却機能が追いつかないほど蒸し暑い都心の夜だというのに、竹下旭は全身に鳥肌を立てていた。 「ほんとだ、ほんとだ、ほんとだ。茉莉の瞳が……目が変わっている」 「だからさ、あたしは思ったんだよね」  新しいタバコに火を点《つ》けて、マナミは言った。 「この人、別の人間に変化していってるんじゃないかって」  マナミの指先から立ちのぼる紫色の煙も揺れていた。彼女の動揺をそのまま伝えて—— [#改ページ]   六 忍び寄る呪い[#「六 忍び寄る呪い」はゴシック体] 「最初にお断りしておきますがね、矢沢さん」  私立高校の英語教師・矢沢拓己と向かい合った男は、怒りの形相を隠そうともせず、最初から挑戦的な態度をあらわにしてきた。 「私はもう、あなたを『先生』などという敬称をつけては呼びませんからな。まだこうやって『さん』付けにしてもらっているだけでもありがたいと思ってほしい」 「べつに……そんなことはかまいませんが」  銀縁眼鏡のフレームを片手でいじりながら、矢沢は硬い声で答えた。  警備員のほかに誰もいない学校は、恐ろしいほど静まり返っている。平日の午後なのに、ここまで森閑としているのは、夏休みに入ったから、というだけではない理由があった。  夏休み期間中でも運動部のクラブ活動などで、校庭は生徒たちの元気な声であふれているものだが、ちょうどいまは一年生と二年生が恒例の夏季野外学校の行事により、それぞれ山と海へ二泊三日の日程で出かけ、その間はクラブ活動も休止になっていた。また三年生は大学受験のために塾通いや個別の在宅学習を重視しており、もともと夏休みに学校へ出てくる予定がほとんどない。  そのため生徒たちの姿は校内になく、一、二年の担任を中心に多くの教師たちも林間学校と臨海学校へ付き添いで駆り出されていて、立派な鉄筋三階建て校舎の中には人の気配がまったくなかった。  唯一、常駐している警備員も、おそらくいまの時刻は扇風機でも回しながら昼寝などしているところだろう。強烈な陽光に白く輝く校庭に聞こえてくるものといえば、セミの鳴き声だけだった。はた目から見れば、これ以上平和な空間はない。だが、矢沢拓己にとっては、いまそこが静かなる地獄に変わろうとしていた。  同僚の飯島宏が事前に警告してくれていたとおり、二年B組小林巴恵の父親である小林|真之介《しんのすけ》が行動に出てきた。それも学校を通してではなく、また担任の飯島を通してでもなく、直接、矢沢のところへ連絡をとってきたのである。  まえもって飯島から警告を受けていただけ、少しは心構えもできていたが、それでも矢沢はかなり動揺した。そして、どこか人目につかない場所でお会いしましょうと持ちかけたが、巴恵の父親はそれを拒絶し、「ぜひ学校でお会いしたい」と言い張って譲らなかった。  その場所の選択じたいが、矢沢をかなり脅しあげる効果を持っていたが、彼の要求は呑《の》むしかなかった。ちょうど教師も生徒もほとんど不在になる日が控えていただけでもマシというもので、その期間をはずせば、生徒たちはクラブ活動のために連日やってくるし、教師たちも順番で登校する予定が組まれている。そんなときに巴恵の父親に乗り込まれて抗議されては、隠し通したい過去もすべてみんなの前でさらけ出すことになるおそれがあった。  だから夏休みに入ってすぐの野外学校開催中に、矢沢は巴恵の父親と会うことを承諾した。しかし、矢沢が生徒面談用に使う小部屋を用意しておいたのに、父親はそこを使うことを拒否し、別の場所を希望してきた。ほかでもない、二年B組の教室だった。  担任でもないのに、巴恵の所属するクラスの教室で彼女の親と話し合いを持つことは、矢沢をさらに心理的に追いつめることになった。しかも、初対面となる巴恵の父親とじかに会ってみて初めて、矢沢は相手が「カタギの職業ではない」ことを知り、ひるんだ。  矢沢の勤める高校では、種々の差別につながるという理由で、数年前から生徒名簿に保護者の職業は載せないことになっていたが、仮に掲載されてあっても、それを見て矢沢が警戒心を抱くことはなかっただろう。巴恵自身からも聞かされていたが、父親の職業は「経営コンサルタント」とのことだった。  だが、きょう名刺交換をした瞬間に、矢沢は凍りついた。経営コンサルタントには違いなかったが、その肩書の横には、矢沢もよく承知している、地元の暴力団が隠れ蓑《みの》として使っている企業グループの社名が印刷されてあった。小林真之介は、そこの契約コンサルタントだというのだ。  矢沢にとってみれば、バッと諸肌《もろはだ》脱いで倶利迦羅紋々《くりからもんもん》を見せつけられたも同然の威嚇効果がその名刺にはあった。しかも、日焼けした顔の中でランランと輝く小林真之介の鋭い眼光には、たんに暴力で威嚇するだけではない、冷徹な知恵も持ち合わせていることが推察された。  とんでもない親を敵に回した——と、矢沢はすくんだ。名刺を受け取った手が震えるのを隠すのに苦労した。  二年B組の教室には、窓ガラスを熱するほどの強い日射しが差し込んでおり、校内のエアコンも停められていたから、蒸し風呂《ぶろ》のような暑さになっていた。それなのに矢沢の全身には、暑さによるものとは別の種類の汗が出ていた。そして窓を開けたくても、ふたりの会話が外へ洩《も》れ聞こえるのが恐ろしくてできなかった。  小林真之介も額にびっしりと玉の汗を浮かべていたが、こちらも暑さから出たものではなく、怒りが噴き出させる汗かもしれなかった。彼のほうからも、冷房を入れて欲しいとも、窓を開けて風を入れようとも言ってこなかったからである。  ふたりの男は、たがいにワイシャツの背中や脇の下に大きな染みを作りながら、教室の中ほどの席に座って、椅子の向きを変え、睨《にら》みあっていた。 「それにしても、教師の分際で、よう生徒に手を出してくれましたな」  ハンカチで軽く額の汗を叩《たた》いてから、小林は言った。 「しかもそれが巴恵の件だけにとどまらず、もともとあんたの性癖だったというから恐れ入る」 「誰がそんなことを言ったんですか。性癖だなんて」  声がうわずるのを意識しながら、矢沢は必死に言い返した。  が、そんな反論に耳を貸す相手ではなかった。 「矢沢さん、あんたは過去に何度も学校を替わっているが、その原因は、いずれも教師の立場を利用して女子生徒と不謹慎な関係を持ったためらしいですな」 「違いますよ。それはまったくの誤解です。みっともない話かもしれませんが、安月給に不満だったもので、千円でも高い給料をくれる学校を探して……」 「しょうもない弁解はしなさんな! 教え子をひとり殺しておきながら!」 「なんですって」  こんどは完全に声が震えた。  巴恵の父親の凄《すご》みもさることながら、まさしくそれが事実として思い起こせたからだった。 「三年前、名古屋で八木沢奈美絵という当時二十五歳の女性が死んでおる。火事で焼け出されてね。その名前と出来事に聞き覚えがないとおっしゃりはせんでしょうなあ」 「………」 「なんでも死体は真っ黒焦げだったそうじゃありませんか。え?」  矢沢の反応を窺《うかが》うように、小林は顔を突き出して覗《のぞ》き込むポーズを取った。 「彼女は、アパートの隣に住む老夫婦が出した火の不始末による焼死ということになっておるようですが、年寄りがなんとか逃げ出せたのに、二十代の若い女性が逃げ遅れて焼け死にますかね。しかも時間帯は真っ昼間ですよ。で、この女性というのが、かつてはあなたの教え子だった」 「教え子であったのは事実です。しかし、それと彼女の不幸な死とを無理やり結びつけるのはやめていただきたい」 「無関係であったならば、当時名古屋の学校に勤めておられたあなたが、逃げ出すようにしてその地を離れる必要などなかったと思いますがね」 「それはまったくの誤解です」  矢沢は必死に言い返した。 「八木沢奈美絵が可哀相な死に方をしたのは私も知っています。けれどもそれは、高校を卒業してから七年も八年も経ったときなんですよ。それがどうして私のせいになるんですか」 「かんたんな話でしょうが。七年経とうが八年経とうが、生徒と教師のただならぬ関係が卒業後もつづいていた、というだけのことだ。おたくと八木沢奈美絵がいた高校は滋賀県の近江八幡市にあった。ところが彼女が二十五歳になったころ、ふたりとも名古屋市内に住んでいた。これはたんなる偶然ですか」 「それぐらいの偶然は珍しくないでしょう。滋賀県と愛知県は、さほど離れた距離じゃないんだ。仮に偶然ではなかったとしても……」  よけいなことを言うとヤブヘビになる、と思いながら、矢沢はつづけた。 「意図的に近寄ってきたとすれば、それは奈美絵のほうです。私にはまったく関わりのないことだ」 「ほう」  シッポをつかんだぞ、という表情で、小林は目を細めた。 「教え子のほうが追いかけてきた可能性を認められるということは、やはりふたりは、過去にそれなりの関係にあったわけだ。禁断の関係に」 「ないっ!」  怒鳴るように矢沢は否定したが、そんなことはないでしょう、と言いたげに小林は首を左右に振った。 「奈美絵が近江八幡市の高校にいたとき、あなたは彼女の担任の教師だった。そのときふたりに何がありました」 「何もない。担任と生徒という関係を超えるものは何もなかった」 「トボケちゃ困りますな、矢沢さん。あんたね、しらばっくれることで私の時間をムダにしようと考えているんだったら、こっちもそれなりの行動に出ますぞ」 「………」  いよいよ小林がその本性をむきだしにして、顔つきも言葉遣いも変わってきた。 「いいか、矢沢さん。あんた、知ってるのかね。同じ学年の友だちが楽しそうに臨海学校へ出かけていったというのに、うちの娘はその行事を欠席して、うちに引きこもっているのを」 「急に欠席になったということは……担任の飯島先生から聞かされていますが」 「理由はわかっとるだろ」 「いえ」 「なにィ」  眉《まゆ》といっしょに、小林は語尾を吊《つ》り上げた。 「ふざけんな、おめえ!」  矢沢はビクンとのけぞった。 「どこの学校に、生徒と夏休みにグアム旅行へ行こうと本気で予定を立てる教師がいるっていうんだ。こっちが計画をつかんだからよかったものの、親がボケッとしてりゃ、勝手にウソをついて連れ出されるところだった。それでこっぴどく巴恵を叱ったら、もう私は一歩も部屋から出ないのなんのとゴネだして、泣き出して、八つ当たりして、女房を突き飛ばして暴れ出して、うちの家庭はな、大変なんだよ、メチャクチャに荒れてんだよ。あんたのおかげでな、矢沢先生よ」  小林は、そこだけわざと「先生」という肩書をつけた。 「それでおまえのことをいろいろ調べたら、出るわ、出るわ、悪行の数々が。おまえ、学校を替わりゃあ、きたねえ過去が隠せると思ったら大間違いだ!」 「………」  矢沢は、口を真一文字に結んで肩を震わせていた。止めようとしても身体の震えが止まらず、せめて歯がカタカタ鳴るのだけは食い止めようとしているのだ。相手が徹底的に自分の過去を調べ上げてきたことを知ったショックによる震えだった。 「おまえが近江八幡市の高校で毒牙《どくが》にかけたのは、八木沢奈美絵だけじゃない。もうひとりいただろうが。杉浦茉莉という女の子が」  小林の追及がさらに厳しくなった。 「おまえは卑劣にも、教師の立場を悪用して受け持ちの女生徒をふたりもたぶらかし、それぞれ個人指導と称しては、自分のアパートに代わる代わる連れ込み、ときには親にうまいウソをつかせて何日も泊まらせ、事実上の『幼な妻』に仕立て上げた。幼な妻との重婚だよ。ひでえもんだ。しかも、ふたりの子にそれを隠すどころか、逆にたがいのライバル意識を競わせるようにして煽《あお》ったんだ」  ダラダラと汗を流しながら、小林はまくし立てた。 「世間知らずの女子高生ふたりは、おまえの作戦にはめられ、必死になって担任の先生に媚《こ》びる競争をした。媚びる、というのは性的な意味も含めてだ。十七、八の女の子が、まるで娼婦《しようふ》のようなことまでして、矢沢先生の歓心を買おうとしたんだよ。杉浦茉莉という子のほうは、卒業したらおまえのことをあっさり忘れたようだが、八木沢奈美絵はそうではなかった」 「ちがう」 「違わないんだ!」  小林は、大きな怒鳴り声で矢沢を黙らせた。 「おまえに殺されたのか、それとも自殺したのか知らないが、高校教師に弄《もてあそ》ばれた末に、彼女は自分の命を失った。そういう悲劇を起こしておきながら、おまえは性懲りもなくまた同じことを繰り返し、こんどはうちの娘をだまして生贄《いけにえ》にした。親として、これが黙っていられると思うか。おまえのような狼教師を、そのままほうっておけると思うか」 「ちょ、ちょ、ちょっと」  指先をぶるぶる震わせながら、矢沢は相手を制した。 「小林さん、あなたがどんなルートで情報を仕入れてきたか知りませんが、もしも探偵事務所などに委託して調べさせたのだとしたら、高い金と引き換えにとんでもない作り事を仕入れたことになりますよ。そもそも、娼婦のようにだなんて、そんな見てきたような話がどうしてわかるんです。しかもですよ……」 「弁解は要らん! 聞きたくもない!」  小林はピシャリと封じた。 「はっきりとこの場で認めろ。自分が人間として幼稚だということを」 「幼稚? 私がですか」 「そうだ。男として自信も誇りもない落ちこぼれで、まともに同年代の女を相手にできないから、社会の仕組みの右も左もわからぬ高校生をだますことにうつつを抜かすしかないんだ。それが、おまえが教師という道を選んだ理由なんだよ」 「いいかげんにしてもらえませんか!」  ついに矢沢も爆発した。 「侮辱するにもほどがある。私はあなたが考えているような男ではない!」  矢沢は拳《こぶし》でガンと机を叩《たた》いた。そうやって怒りのポーズでもとらなければ、どうにもならない局面だったからだ。そして、意味もなく勢いよく立ち上がってみせた。そのときだった。矢沢の視線が、窓ガラスの向こうに釘付《くぎづ》けとなった。  二年B組の教室は、三階建て鉄筋校舎の三階にある。そのため、教室の机に向かって座っているぶんには空か近隣の建物しか見えないが、立ち上がると校庭が眺め下ろせることになる。その校庭には、きょうは誰もいないはずだった。少なくとも、矢沢が学校に到着したときまでは。  だが、いま校庭の真ん中に、ポツンとひとりの人間が立っていた。  セーラー服を着た少女だった。  後ろ向きになっているから顔はわからないが、矢沢拓己の脳に激しく訴えかけてくる恐怖の情報があった。 (あれは……あの子は……)  少女が、プリーツの入った紺色のスカートをふわっと浮かせて回れ右をした。校舎のほうに正面が向いた。三階の窓越しに見下ろす矢沢のほうに向かって、顔を上げた。  八木沢奈美絵だった。女子高生のときの八木沢奈美絵—— 「うわあああ!」  矢沢は大声で叫んだ。  その叫び声が、自分の耳にはまるで他人の悲鳴のように遠くから届いてきた。だが、叫んでいるのは間違いなく彼自身だった。 「どうしたんだ、あんた!」  たったいままで鋭く矢沢を攻撃してきた小林真之介が、突然の出来事に戸惑いながら、外に何があるのかと立ち上がった。 「あれ、あれ、あれ、あれを見てくれ」  小林に恫喝《どうかつ》されていたときよりもはるかに激しく全身を震わせながら、矢沢は校庭を指で指し示した。 「あそこにいるだろ。女の子が……あいつが……」  その言葉に、小林も校庭を見下ろした。しかし、彼の目には何も見えなかった。  窓越しにも耳に響いてくる激しい蝉《せみ》時雨《しぐれ》。白い輝きを放つ校庭。そこには人影がなく、とくに目につくような異常な光景もない。 「おい、あの女って、誰もいないじゃないか」  外に目を向けたまま、小林は文句を言った。 「おまえ、都合が悪くなったからといって、ヘタな芝居でごまかそうと……」  そう言いながら、窓の外から教室の中にふたたび目を転じたとき、小林は言葉を途中で呑《の》み込んだ。  矢沢は腰を抜かしたように、ガクンと勢いよく椅子に尻《しり》を落とした。その反動で、かけていた銀縁眼鏡が彼の鼻先までずり落ちた。そして、愕然《がくぜん》とした顔で教室の前方を見ていた。  その視線を小林が追う。  教壇の中央に置かれた教卓の上にセーラー服の少女が腰掛け、力なく首を落とした格好で、両手を力なく下げ、足をぶらぶらと揺らしていた。 (これは……どういうことなんだ)  小林は混乱した。  教室の戸は、前も後ろも閉め切ったままだった。さっき入るときに戸を引くと、ガラガラとかなり大きな音を立てた。その音をさせずに、小林たちに気づかれないように中へ入ってくるのは不可能だ。しかも、ほんの十秒か二十秒のうちには。  それなのに、セーラー服の少女が忽然《こつぜん》と現れた。しかも、教卓の上に腰掛けるという格好で。  彼女が着ている制服は、ここの高校のものではない。おまけにセーラー服の白い部分が黄ばんでいて古着を連想させた。それは、少女の存在じたいが現在ではなく、過去のものであることを象徴しているかに思えた。  うなだれた姿勢のため、前髪が目のところまで垂れていて、少女の顔の印象はわからないが、はっきりしていることは、異様に顔色が悪い、という点だった。青白いというよりも土気色だった。 「きみは……」  小林が問いかけた。 「きみは誰なんだ」  しかし、少女はうつむいたまま答えない。その代わりに、矢沢が消え入りそうな声で小林に話しかけた。 「小林さんにも……見えるんですか」 「ああ」 「見えているのは、私だけじゃないんですね」 「そうだ。だが、校庭のほうには誰もいなかったぞ」  と、そこまで答えてから、小林はギクッとした表情で傍らの矢沢を問い質《ただ》した。 「おい、校庭に立っていたというのは、あの子なのか」 「……です」 「そんなバカな。校庭から三階のここへ、一気に移動できるわけがないだろう」 「しかし……」 「おい、きみ!」  小林は少女に目を転じ、大きな声で呼びかけた。 「きみはいったい誰なんだ。どこからこの教室に入ってきた」  ハアアアーッ。  突然、少女が息を吐いた。  真っ白な息だった。  小林と矢沢は、たったいままで言い争っていたのを忘れ、おたがいに顔を見合わせた。だが、どちらからも言葉を出せなかった。  ハアアアーッ。  誰も登校してこない日だから校内のエアコンは全面的に停められており、窓を閉め切った教室の中は蒸し風呂《ぶろ》だった。それなのに、少女の口からは白い息が吐き出されていた。急に室内の温度が下がったのではない。依然として汗が止まらないほどの蒸し暑さなのに、少女の吐息だけが氷のように冷たいのだ。 「おい」  小林が矢沢の腕をつかんだ。 「逃げよう」 「で、できない」  矢沢は首を激しく振った。鼻までずり落ちていた銀縁眼鏡が、ついにはずれて机の上に転がった。 「動かない。身体が。無理です」 「あれは化け物だ」  荒い息をつきながら、小林が言った。 「さもなければ、幽霊だ」 「ゆう……れい?」 「あんたのせいだろう」 「なにがです」 「あれは、あんたが連れてきたんだ、呼び寄せたんだ」 「まさか……」 「いいや、おれにはわかる。やっぱりあんたが八木沢奈美絵を殺したんだ。あの子を死に追い込んだんだ。だから彼女はあんたを怨《うら》み、化けて出てきた。あんたに弄《もてあそ》ばれたころの、女子高生の姿で」 「ちがう……違う違う違う」  泣き出しそうな声で矢沢は否定した。 「私は何にもしていない。私は何にも」 「後始末はあんたがしろ」  小林真之介は、突き放すように矢沢の肩を押した。 「化け物の相手はごめんだ」  小林は周囲の椅子や机をガタガタと乱暴に押しのけながら、その場を離れた。  だが、彼が向かったのは廊下への出入口ではなかった。 「小林さん!」  矢沢が驚いて大声をあげた。 「あなた、どこへ行くんですか」  小林は、廊下側とは反対方向の後方に設けられたドアのノブに手をかけていた。ベランダに出る扉だった。  まさか、と矢沢は思った。  だが、そのまさかが現実になろうとしていた。 「そこは出口じゃないぞ!」 「おれは帰る」  矢沢の必死の呼びかけに、小林巴恵の父親は見当違いの返事をした。 「おれは家に帰るぞ」  ドアを開けた。  止めなければ、と矢沢は思った。しかし、依然として身体は金縛り状態だった。  眼鏡がはずれてぼやけた視野の中で、矢沢は、小林がドアを開けてベランダに出たのを見た。 「小林さん、引き返せ! 目を覚ませ! 自分が何をしようとしてるのか、わかってるのか! おい!」  小林はベランダを少し歩いて、ちょうど教室の中から見ている矢沢の真横の位置まで移動してきた。そして、チラッと矢沢のほうをふり返った。感情がどこかへ消えた、まったくの無表情だった。 「戻ってこい! 教室の中に戻ってこい!」  窓越しにもういちど大声で呼びかけた矢沢に対し、小林真之介は虚《うつ》ろな目を合わせたまま、三階ベランダの手すりに背中をもたせかけた。  すると彼の両足がベランダから浮き上がり、鉄棒の逆上がりをするように下半身が大きく持ち上がった。 (ウソだろ……)  あっけにとられる矢沢が見ている前で、小林は手すりをしっかり持ったまま、その上で完全に倒立する格好になった。彼の意志ではなく、見えない力に操られているのが、直感的に矢沢にはわかった。  そして小林は、体操の選手が鉄棒のフィニッシュに入るのとそっくりの体勢で、手すりから両手を離し、勢いよく宙に飛び出した—— 「せんせえ」  少女の声に、茫然《ぼうぜん》自失の状態だった矢沢は、ゆっくりと前をふり向いた。  いなくなっていた。教壇の上に腰掛けて足をぶらぶらさせていたセーラー服の少女がいなくなっていた。  だが、声だけが残っていた。 「せんせえ〜、つらいよぉ、せんせえ〜、やざわせんせえ〜」  矢沢ひとりになった教室の中で、その声だけが動いていた。前から後ろへ。後ろから前へ。前から横へ。声だけが教室の中を歩いていた。  そして—— 「せんせえ。わたしのだいすきな、せんせえ。ぜったい、はなさない」  声は、矢沢の隣の席にきた。  ボワッと、白い息が顔に吹きかかってきた。 [#改ページ]   七 アイリス[#「七 アイリス」はゴシック体]  同じころ——  勤務先のエレベーターに乗って九階へ向かいながら、杉浦茉莉はある種の覚悟を決めていた。  オフィス最上階の九階には、世襲制をとっている会長と社長の豪華な個室や、彼らの来客のための超高級ホテルばりの専用ロビー、同じく経営者一族である副社長や専務・常務ら上級役員の個室などが、一室ごとに広大なスペースをとって並んでいる。ほかのフロアは、社員や来客のあわただしい出入り、デスク直通や各自の携帯にかかってくる電話のベルなどで日中はつねに騒然としているが、この九階だけは、いつも別世界の静寂に包まれており、これまた超高級ホテルのように足音のしない気足の長い絨毯《じゆうたん》を敷きつめた廊下には、優雅なBGMが静かに流れていた。  超高級ホテルのように、という比喩《ひゆ》を使いたくなる場所はもうひとつあり、それがエレベーターの停止階に関する制限だった。九階だけは、たんに行き先階のボタンを押しても停まらず、役員と秘書など限られた人間のみに渡されたカードキーを差し込んで初めてそれが可能になる。まるでホテルのクラブフロアとか、エグゼクティブフロアと呼ばれるワンランク上の客室に向かうことを連想させるシステムである。  そしてカードキーを用いて九階に到着しても、エレベーターホールのすぐそばには総ガラス張りの秘書室が設けられてあり、無許可で入ってこようとする者をシャットアウトする最終的な「関所」の役割を果たしていた。防災用の非常階段もあるにはあるが、会長の意向により監督消防署には無許可で、九階側からは開くが、非常階段側からは決して開かないようなオートロック形式に改造されてあった。  そのような厳重な措置をほどこしているのには、三つの理由があった。  第一は、独裁体制を敷く会長・社長が、その権威を社内外にひけらかすためのイメージ戦略のため。  第二は、独裁体制ゆえに社内クーデターに疑心暗鬼となっている創業者一族が、盗聴や盗撮を仕掛けられないようにとの警戒心から。  そして第三は、実際にさまざまな機密事項や資産の一部を格納した金庫室がこの九階に存在していたからであった。  ゆえにこの特別フロアに一般社員が呼びつけられることはめったになかった。上級管理職の部長クラスでさえも、よほど特別な報告を行なう場合でなければ九階に呼ばれることはない。社員にとって九階は、まさに「奥の院」の印象が強くあった。  その九階へ向かって、杉浦茉莉はエレベーターに乗っていた。もちろん、勝手に「9」のボタンを押したところで、それは点灯しない。そばに付き添っている役員が、カードキーを差し込んでいるからこそ、九階へ向かうことができるのだ。  その役員とは会長の孫にあたる常務で、一族で占める経営陣の中では最も若手で、年齢は茉莉とたいして変わらぬ三十歳だった。それでも人事部門の最高責任者として君臨している。その常務に呼び出され、私といっしょに九階へきてもらう、と厳しい口調で言われたとき、茉莉は完全に「あのこと」で咎《とが》めを受けるのだろうと覚悟した。「あのこと」とは、後輩の高瀬有紀の腕に、タバコの火を押しつけた一件である。  しかし問題は、あの夜、行きつけのバーで何があったのか、ということについて、茉莉を送り届けてくれた有紀が旭に対して説明した話と、茉莉がおぼろげに記憶している内容とがまったく食い違う点だった。  茉莉自身の記憶では、あの夜『デイヴィス』に行ったのは、有紀からぜひ相談にのってほしいと持ちかけられたからだった。その相談事とは「自殺」に関する話だった。  有紀の父親が院長として経営する病院で医療ミスがあり、それを苦にした患者と、責任を一手に押しつけられた若手看護師が自殺したが、その怨念《おんねん》で、父親と不倫関係にある看護師長が二週間前に霊に取り憑《つ》かれ……と、そういった現実離れした話を聞いているうちに、有紀が何者かに「スイッチ」した。そして、突然有紀の身体が真っ黒な炭のような身体に変わったのだった。  黒い人形のようになった有紀は、たしかこんなふうに言ったはず、と茉莉は思い出している。すなわち—— 「私は有紀ではない。別の女にスイッチした。人を自殺に追い込みながら、その事実にまったく気づかない無神経女を叱るために、私は有紀の身体を借りて語っている」と……。  その声は、たしかに有紀のものではなかった。そして、この声、この黒い顔、黒い腕を見て蘇《よみがえ》る記憶はないか、と問いかけてきた。が、あんな不気味な化け物に関して思い当たるような記憶があるはずもなかった。  恐怖を抱いた茉莉は、相手が炭のように真っ黒であるところから、とっさに炎に弱いのではないかと連想し、吸いかけのタバコを押しつけたのだった。相手が自分の正体を言いかけたことには気づかずに。  それら一連の出来事は、直後はまったく記憶になかったが、ここ数日かけて徐々に思い出してきたものだった。ところが有紀によれば、茉莉は店でしばらく話をしているうちに、突然意味不明のことをわめきながら、吸っていたタバコを有紀の腕に押しつけ、それから失神したのだという。しかもその夜、有紀が持ちかけた相談事とは、自殺とか幽霊などが主題ではなかった。プライベートな問題でもなかった。純粋に仕事上の悩みであり、会社での人間関係についてであり、それを途中まで話しているところで、唐突に茉莉が不可解な行動に出たというのだ。  だが、茉莉の脳内に残っている場面といえば、有紀がうつむき加減に前髪を垂らしながら、滔々《とうとう》と「自殺論」をぶっているところだった。自殺とは、必ずそこへ追い込んだ張本人がいて、実質的には「他殺」であること、しかしその「犯人」は無神経であるがゆえに、その事実に気がつかないこと、等々といった内容だ。有紀はたしかにそういう話をした覚えがあるのだ。そして、そののちに実家の病院で起こった悲惨な出来事について話を移していったはずだった。  この記憶の違いは何なのか。有紀がウソをついているのか、それとも自分自身の頭がどうかなってしまったのか、茉莉は判断しかねていた。  しかし当の有紀に確認をとろうとしても、あの日以来、彼女は目立って茉莉を避けるようになっていた。同じ部署にいるから、会社でまったく口を利かないということはないのだが、仕事で必要な最小限の会話しか交わそうとしてこなかった。  ただし、一度トイレの前ですれ違ったとき、有紀のほうから早口でこんなことを言ってきた。「あの晩の出来事は、旭さん以外には誰もしゃべっていません。だからもう、おたがいに忘れましょう。私の火傷《やけど》も思ったより軽くて、だいぶ治ってきましたし」  けれども、こうやって人事担当の最高責任者から呼び出しを受け、奥の院へ連れていかれることになったとき、茉莉ははっきりと悟ったのだった。やはり有紀が会社に報告をしたのだ、と。  彼女がそうするのはやむをえないと茉莉は理解した。客観的事実として、有紀の腕にタバコの火を押しつけたのはたしかなのだから。いくらそれが社外での出来事だとしても、人事的な問題として取り上げられるのは仕方ないと思っていた。ただ困るのは、そこに至ったいきさつを説明せよと言われても、それが不可能ということだった。  有紀がいきなり真っ黒な「炭人間」に変身したので、怖くなったからタバコの火を押しつけたんです、などと説明しようものなら、たちまち精神状態を疑われるのは間違いない。会社を辞めろという話になるのは避けられないだろう。かといって、ほかに適当な説明も浮かばない。  この問題を追及されたとき、いったいどのように申し開きをすればよいのか考えあぐねているうちに、エレベーターは九階に着いた。 「先に下りなさい」  低い声で、常務がうながした。  廊下に出たとたん、茉莉は、この九階だけがほかのフロアよりもはるかに天井が高く作られていることに気がついた。たしかに別世界の空間だった。  常務が茉莉を引きつれていったのは、なんと社の創業者であり、最高権力者である会長の部屋だった。現場業務の実質的な最高責任者は常務の兄である専務が担っていたので、そこへ連れていかれるものと思っていた茉莉は、さらなる緊張で身体を硬くした。  常務の兄が専務で、常務の叔父《おじ》が副社長、常務の父親が社長で、そのまた父親が会長となっている。つまり創業者一族のピラミッドの頂点に立っているのが会長だった。年齢はじつに九十歳を超えていたが、ボケの兆候などひとつもない矍鑠《かくしやく》とした老人との評判が高い一方で、かなりの変人であるという噂もささやかれていた。  しかし、会長が一般社員の前に姿を現すことはほとんどなく、実在していながら伝説的な人物ともなっていた。もちろん、茉莉も実物と対面するのははじめてだった。  通されたのは、広さ二百平米以上に及ぶ会長室の中に設けられた「書斎」と呼ばれる一角で、その重厚な雰囲気に満ちあふれた空間のいちばん奥に、これまで写真でしか見たことのなかった白髪の老人が、ステッキを支えにして革張りのソファに座っていた。日本人ばなれした鷲鼻《わしばな》と落ち窪《くぼ》んだ両眼の威圧感が、強烈な第一印象を茉莉に与えた。  だが、それ以上に茉莉を驚かせたのは、ソファの背後に設けられたレンガ造りの暖炉だった。こんなものが会社の中にあることじたい意表をつかれたが、なんとその暖炉に火が入っていた。電気照明による演出ではない。本物の薪《まき》がパチパチとはぜる音を響かせながら燃えさかっているのである。外はうだるような炎天がつづく七月だというのに。 「会長、杉浦茉莉を連れてまいりました」  孫に当たる常務は、そう言って茉莉を老会長の前に立たせた。そして自分は、さっさと部屋を出て行った。  茉莉は、またあっけにとられた。まさかそこで常務があっさりいなくなるとは思ってもみなかったからである。 「ふむ」  広い書斎にふたりきりになったあと、老会長は茉莉の顔をしげしげと見つめてから、フフンと笑った。 「噂に聞いていたが、美人だな」 「………」  なんと反応をしてよいかわからず、茉莉は立ったまま猛禽《もうきん》類を想像させる会長の目を見つめているよりなかった。いきなり怪しいムードになりそうだったが、相手が高齢の老人なので、肉体の危機といったものは覚えなかった。  自分が腰掛けてもよさそうな場所はすぐそばにあったが、座れと言われるまで勝手に腰は下ろせないと思ったし、長居もしたくない雰囲気なので、茉莉はその場に立ったままだった。 「どうだ、驚いたろう」 「何が、でしょうか」  やっと返答をしたものの、茉莉の声は緊張でかすれていた。 「こんな時期に、部屋で暖炉の火をおこしているのを見て、だよ。真夏にこんなことをするバカは、日本中でワシぐらいしかおるまい。さぞかしおまえも、『この年寄り、頭がおかしいな』と思ったであろう」 「いえ、そんな」 「このウソつき女め!」 「………」  毒舌なのか、本心から出た罵《ののし》りなのかわからず、茉莉はまた言葉に窮した。 「外が三十何度の猛暑のときに、部屋で暖炉を焚《た》いているような人間を見たら、頭のネジが百本ぐらい緩んでおるとみなすのが当然だろうが。それを否定するのは、自分の心を平気で偽れるウソつき、ということじゃな」 「………」 「念のため説明しておくが、薪が勢いよく燃えさかっているわりには、この部屋が暑くないことに気づかんかな? ちゃんと適温になるよう、クーラーを強く利かせておるのだ。冷やして熱して、ちょうどよし、と」  両手を支えているステッキを揺らしながら、カッカッカと、白髪の老人は大口を開けて笑った。総入れ歯のため、皺《しわ》とシミだらけの顔に似つかわしくないほど白く整った歯だった。 「どうだ。変人と思うじゃろ? ん? 天下御免の大変人だな、ワシは……あはははは。しかしのう、齢《よわい》九十を超えたこの年寄りの心をなによりなごませてくれるのは、薄暗い部屋の中で燃えさかる暖炉の炎なのだ。わかるかね、この炎のやすらぎが」  会長は、微妙に震える指先で暖炉を指さした。 「おそらくこれは、人間がナンタラ原人とか、カンタラ猿人などという名前で分類されておる時代からの本能なのであろうな。炎の存在こそがいちばん心安らぐというのはな。ゆえにこの部屋には窓をこしらえず、照明も暗いものだけにして、暖炉の炎をつねに楽しめるようにしてあるのだ」  理解不能といった表情の茉莉に向かって、会長はつづけた。 「どうかね、ムダな道楽と思うかね。たしかにムダかもしれんな。しかし、この会社で儲《もう》けた金は、みんなワシのものだ。まあ、その一部はおまえら使用人に仕方なく給料としてくれてやるがな、残りはどう使おうとワシの勝手じゃ。なんといっても創業者だからの」  またしても会長は大きな口を開けて、カッカッカと笑った。 「それで、あの……」  しだいに自分が想像していた理由とは違う目的で呼び出された気がしてきて、茉莉はようやく自分から積極的に質問をする気になった。 「どういうご用件で私をお呼びになったのでしょうか」 「ん? どういうご用件ときたか」  また老人はからかうように肩を揺すった。 「では、そのご用件とやらを言うてやろう。おまえ、裸になれ」 「え!」 「聞こえなかったのかな。裸になれと言うたのだが」 「会……長……」  いきなりふたりきりにされた時点で不吉な予感がしたのだが、まさかと思う展開が現実になりそうで、茉莉は反射的に一歩後ずさりをした。 「どういうことですか、会長」 「日本語がわからんのかね、おまえは。裸になれということは、服を脱げということだ。生まれたままの姿になれということだ。それぐらい幼稚園児でもわかる日本語だぞ」  いつのまにか老人の眼差《まなざ》しにはからかいの色が消え、凶暴な光が点滅しはじめていた。 「なにをぐずぐずしている。この会社で会長のワシがこうせいと命令したら、それに逆らうことは断じて赦《ゆる》されないのだ」 「裸になれと命令されるのですか」 「さよう、命令だ」 「聞けません」  茉莉は憤然として首を振った。 「それでクビになさるなら、それでも結構です。では、失礼させていただきます」  茉莉は勢いよく踵《きびす》を返し、書斎を出ていこうとした。が、その背中に向かって、会長がフルネームで呼びかけてきた。 「待てや、杉浦茉莉。おまえ、そうとうな演技力の持ち主だな」 「演技力?」  茉莉は一瞬立ち止まり、会長のほうをふり返った。 「演技力とは、どういう意味ですか」 「いらつく女だな」  老人は、チッと舌打ちした。 「何か言うたびに、いちいち日本語の意味を解説せんといかんのか。ワシは広辞苑《こうじえん》じゃないぞ。ようするにお芝居が上手なこった、トボケ上手な女だな、と言うておるのだ」 「そうおっしゃられても、私には何のことかわかりません」 「ワシはおまえに『裸になれ』とは言うたが、『おまえの裸を見たい』とは、これっぽっちも言うておらん」 「………」 「この老いぼれは、あいにくバイアグラを百錠飲んでも、ピンともシャンともせん身体じゃわい。いまさら性欲に駆り立てられて、無茶をするはずもなかろうが」 「では、何のために裸になれと」 「隠し持っているものがあれば出せと、そういうことだよ。この部屋にきてまで小細工などされとうないからな」 「隠し持っているもの?」 「盗聴器、録音機、小型カメラ——そういったたぐいのものだ」 「は?」  茉莉は、ポカンとした。 「なぜ私がそんなものを隠し持っていなければならないんですか」 「すっとぼけなさんな」 「とぼけてなんかいません」 「よかろう。かなり根性の据わった女とみた。よし、そこのソファに腰掛けい」  初めて会長は茉莉に座るように指図した。  色欲に溺《おぼ》れた老人の妄言かと思って、部屋を出ていくつもりになっていた茉莉だったが、どうも様子がおかしいので、とりあえず言われるままに、会長と向かい合わせになる形で腰を下ろすことにした。  すると会長は、両手を支えていたステッキの上にアゴを載せ、ソファから少し前屈《まえかが》みになる格好で、じっと茉莉を見た。穴が空くほどじろじろと。 「しかし、ナンだな。見れば見るほどいい女だ。ワシがもう百年若ければ、手込めにしたいと思うところだが」 「けっきょくそういう話になるんですか」 「逃げるなて」  腰を浮かせかけた茉莉に向かって、老人はステッキから片手を放し、制止のしぐさをした。 「世の男は美人に弱い。美人のおねだりならホイホイ聞いてしまうバカ者が大勢おる。それを狙って、美女を敵陣にスパイとして送り込むのは大昔から行なわれてきておった」 「私が……スパイ?」  茉莉は眉《まゆ》をひそめて問い返した。 「私が企業スパイか何かだとおっしゃるんですか」 「おまえ、途中入社だわな」 「そうです」 「おおかた面接試験官となった部長どもが、おまえの美貌《びぼう》にだまされたんだろうが、ワシは古い人間での、途中で勤め先を変わるような人間は根本から信用せんのだ」 「いったい私が、この会社の何をスパイしようとしていると」 「それはこっちがききたいことだ」  暖炉の中で、パチンと薪《まき》が大きな音を立ててはぜた。 「どこまでもとぼけるつもりなら、こちらから言おう」 「ぜひそうしてください」  身に覚えのないスパイ疑惑をかけられ、茉莉も挑戦的になった。 「おまえも知ってのとおり、我が社では全社的なセキュリティ体制を見直すことになり、要所要所に個人認証の関門を設けることにした。これまでは、この九階だけが特別管理区域で、ほかのフロアは社員であればどこへでもフリーパスで行き来できるようになっておった。これが当然のように考えられてきたが、しかしサラリーマンの終身雇用制が崩壊し、おまえのような中途採用の人間が外部からどんどん入ってくる世の中になってくると、経営者としては社員に対する信用度というものを、根底から考え直さざるを得なくなってくるのだ。社員は子も同然、だから無条件で信用する、という昔ながらのやり方は通用しない時代になったということだ。よそ者は、あくまでよそ者だからな」  老会長は、シミだらけの頬を片方の指でカリカリと掻《か》いた。 「そこでワシの発案で、九階のみならず、このオフィス全域をいくつかの区画に分け、そこを立ち入り許可制の部屋という概念で捉《とら》えたうえで、社員個々に与えられた許可レベルに応じて、それぞれの部屋に出入りできるようにしようと、こう考えたわけだ」 「承知しています。ですから、先日、全社員に個人認証システムのテストを行なったわけですね」 「さよう。入退室許可システムにはいろいろあるが、一昔前なら声紋による判別が、まるでSF映画を実現したかのように感心されたが、これの他人受入率は三十分の一だ。どういう意味かわかるかね」 「三十回に一回の割合で、その本人でない人物も通してしまうという確率ですね」 「そのとおり。これでは家族で共用するパソコンのユーザー認証程度にしか使えないだろう。そのほかに顔の輪郭と目鼻の特徴を分析する顔認証システムも出てきたが、これの他人受入率は百分の一と、声紋よりはマシだが、セキュリティシステムとしてはきわめて脆弱《ぜいじやく》だ。手のひらの形を分析する掌形認証になると、他人受入率は七百分の一に下がってきて、そこそこ使い物にはなるが、まだ不十分だ。  さらに指紋認証になるとそれが千分の一になる。だが、指紋でさえ千回に一回の確率で他人を誤認して通してしまう可能性があるという。いくら指紋が個人特有のパターンを持つといっても、パターンじたいが決して複雑なデータではないから、極端な類似を見きわめきれないのだ。人を疑うことを人生哲学としているワシにとって、そんなものはセキュリティシステムのうちに入らんのじゃな」  コホン、コホンと咳払《せきばら》いをしてから、老会長はつづけた。 「そこで注目されてきたのが虹彩《こうさい》認証方式だ。これはなんと他人受入率が百二十万分の一だという。ここまでくれば、ほぼ完全と呼んでも差し支えあるまい。そこで我が社の入退室認証システムに、虹彩認証方式を採り入れることにしたのだ」  虹彩《アイリス》とは、眼球の角膜と水晶体の間に存在する、色のついた円盤状の膜で、その中央には小さな穴が空いている。これが瞳孔《どうこう》で、カメラの絞りに相当する機能を持つ虹彩が伸縮することで瞳孔の大きさが変わり、光を採り入れる分量を調節できる。  人種によって異なる瞳《ひとみ》の色は、すなわち虹彩の色だが、よく見ると虹彩には独得の紋様があり、その紋様は個人個人でまったく異なり、一卵性双生児であっても決して同じではない。そのため虹彩認証方式は、バイオメトリクス生体測定学を利用したセキュリティシステムの中でも、最も信頼がおけるものとして位置づけられている。  虹彩認証は虹彩カメラに近づいてパネルを見るだけで自動的に行なわれる。まず広角レンズで顔を捉《とら》え、すぐさま望遠に切り替わって虹彩を撮影。所要時間はわずか二秒で、メガネやコンタクトレンズを着用していても支障はない。そして撮影した虹彩の紋様をデータ化して、あらかじめコンピューターのサーバーに蓄積してある入室許可者のデータとマッチング作業を行なう。これに要する時間、わずか一秒。計三秒で認証作業が行なわれ、システムに連動した解錠が行なわれる。 「おまえも記憶しておるだろうが、三カ月前に全社員の虹彩データを取った」 「覚えています」 「ふつうはそれで虹彩認証の基礎データとするものだが、さっきも言うたとおり、ワシは懐疑心のかたまりが人間の形をとったような生き物での」  会長は、こんどはフォッフォッフォッ、という笑い方をした。笑いの中に、威嚇があった。 「百二十万分の一の他人受入率という理論値を信用するためには、メーカー側の言い分を鵜呑《うの》みにするな、と現場担当に指示をしたのだよ。決して一ぺんの測定だけで、それを各社員の基本データにするな、とな。……かといって、その日のうちに何十回もデータを取り直せというのではない。一カ月おきに三度データを採取して、ほんとうに三回ともそのデータが一致するのかを確かめよ、と言うたんじゃ。  人間の虹彩の紋様は、一歳ごろに形が決まると、そのあと一生変わらないと言われている。だが『言われている』から『はい、そうですか』とは素直に信用しないのがワシの性分でな。どこまでも疑いをもって検証し、自分自身で確信をもってはじめて、世の中に通用しておる言い分を受け容《い》れるのが信条じゃ。まあ、メーカーのほうはこちらの要求に憮然《ぶぜん》としておったらしいが、そんなことは知るかいの。高い金を払ってシステムを導入するからには、とことん疑いを持たねばいかんのだ。さて……」  老会長は形ばかり浮かべていた笑みを完全に消して、茉莉を睨《にら》み据えた。 「一カ月ごとに三度採取した個人別虹彩データを照合したところ、たしかに学術的に言われておることは正しいと確認はできた。全社員の虹彩データは、三度ともまったく不変だった。やはり複雑な虹彩の紋様は、決して時間とともに変わるものではなかった。ただし、あるひとりの社員を除いてな」  ちょうど会長が言葉を区切ったところで、暖炉の中の薪がバチバチバチと激しくはぜた。 「杉浦茉莉」  また茉莉がフルネームで呼ばれた。 「おまえの虹彩の紋様は、三度の測定でみな違っておった」 「えっ……」 「それも測定システムの故障を予想させるようなバラバラの乱れではなく、第一回目のデータから第二回目のデータ、第二回目のデータから第三回目のデータへと、紋様が徐々に変化しておるというのだ。おまえの虹彩だけが、人類の法則を無視したかのように変化している」 「まさか……」 「まさか、だわな。ふつうの人間にはありえない話なのだから。しかし、現実問題としてそうしたデータの異常が見つかっているのだ。二回分の比較だけならば、ひょっとして機械の誤作動という可能性も考えなくもないが、三回比較して、おまえの虹彩データだけに決まって異常が発生しておるのだ。杉浦茉莉よ、いったいおまえ、どのようなトリックを使って機械にニセのデータを読み取らせた」 「私、疑われるようなことは何もしていません」 「何の目的で、我が社のセキュリティシステムを混乱させようとするのだ」  会長は、支えにしていたステッキで一回、床を打った。  絨毯《じゆうたん》が敷きつめられているために、ほとんど音はしなかったが、その動作には怒りが込められていた。 「我が社の機密書類が狙いか、それとも金なのか」 「そんなこと、ぜんぜん考えていません。誤解です!」 「誰に頼まれて小細工をしおった。前の勤め先か」 「ですから、会長! スパイなんかじゃありません、私は!」 「疑惑を否定するのかね」 「あたりまえです」 「それならばこの事態を説明する結論は、たったひとつしか残されていないではないか」 「どういうものですか」 「おまえがふつうの人間ではない、という結論だよ。一カ月経つごとに……いや、ひょっとすると日に日に別人へ移行していく化け物だということだよ」 「別人に?」 「そうだ。ひょっとしておまえ、誰かにスイッチするつもりなのか」  スイッチ——またしてもその単語が出てきた。  ショックで周りから闇が押し寄せてきた。その中で、暖炉の炎だけが対照的に輝きを増したように思えた。  それも束の間で、その炎も急速に衰えて、周囲の闇に溶け込んだ。 (ダメに……なっちゃう。このままだと私……ダメになっちゃう。壊れちゃう)  そう思いながら、身体がソファの上に横倒しになるのを感じた。 [#改ページ]   八 結婚の決断[#「八 結婚の決断」はゴシック体] 「会社を休みましょう……って、そういう言われ方をしたの」 「会社を休みましょう?」 「そう、運び込まれた病院に飛んできた総務部長からも、直属の上司からも……。まるで腫《は》れ物にさわるよう、って感じ。怒られもしないし、説教されもしない。ただ、やさしくなだめるように『杉浦君、きみもよその会社から移ってきて、慣れない環境で一生懸命やってきてくれたけど、目に見えないストレスがずいぶん溜《た》まっていると思うんだよ。だから、いちど会社を休みましょう。一カ月でも二カ月でもこちらはかまわない。きみがもうだいじょうぶと思えるまでたっぷる休養をとって、それで完全に元気になってからまた出てきてくれればいいんだからね』って……」 「………」 「ねえ、どう思う、アキラ」  恋人の胸に抱かれ、何度もすすり上げながら、杉浦茉莉は訴えた。 「ようするに、辞めろってことよね。会社からはクビにできないけど、組織の意を汲《く》んで、きみのほうから辞表を出しなさい、ってことよね。私を辞めさせろというのは、きっと会長からの命令なのよ。だとしたら、もう抵抗する方法はないわ。そう思わない? ねえ、アキラ」 「ああ……まあ……な」  竹下旭は、煮え切らない返事をするよりなかった。  茉莉が会長の前で倒れた、その日の夜——  会社側の対応がどうこうよりも、茉莉から聞かされた「二度目の発作」に、旭は暗澹《あんたん》とした気分にならざるをえなかった。  一度目のときは、その場に立ち会っていた高瀬有紀から詳細を聞くことができたが、今回は組織の頂点に君臨するカリスマ会長の前で気を失ったため、客観的な目撃証言が入ってこない。茉莉があとから同僚に聞かされた話によれば、救急隊員が九階までやってきて失神した茉莉を担架で運び出し、社内も騒然となったらしい。  しかし、茉莉が会長室で倒れたことに関しては厳重な箝口令《かんこうれい》が敷かれ、その密室空間でどんな出来事があったのかは社員たちの噂にすら上っていない。  そんな中で、当事者である茉莉が旭に語った話は、彼の背筋を寒くさせるにじゅうぶんだった。すなわち、虹彩《こうさい》認証システムの基礎データ入力過程において、茉莉の虹彩紋様が一カ月ごとに徐々に変わっていった、という話を会長が持ち出してきた、というのである。そして会長は茉莉に向かって、おまえは別人に移行していく化け物なのか、誰かにスイッチするつもりなのか、というふうに問い質《ただ》した、と茉莉は記憶している。  そして、スイッチ——その言葉を聞いた瞬間に、茉莉は気を失った。  あのときと同じだった。有紀に連れられて、失神同然の状態で旭の部屋に運び込まれた夜、突然目を覚ました茉莉は、別人の声で『あなたが竹下旭さんですね』と問いかけ、そして『スイッチしちゃった。あなたに会ってみたいから……』としゃべり出した。そのことを、朝になってから茉莉に告げると、彼女は大きなショックを受けた様子で気を失ったのだ。  スイッチという言葉が、茉莉に過剰な反応を引き起こさせる。それはまさに、彼女自身が別人にスイッチしていることを無意識に感じ取っている証拠のようにも思えた。  しかし、そんなことが現実にあるのか。そして、現実にあるのだとすれば、その原因はどこにあるのか。茉莉の精神状態がおかしいのか、それとも一般的な常識では解釈不能な超常現象が茉莉の身に起きているのか。旭には見当もつかなかった。 「ねえ、アキラ。私の目を見て」  旭の胸に抱かれている茉莉が、至近距離から見上げてきた。 「私の瞳《ひとみ》が、誰か別の人間のものに変わっているって、ほんと? そんなことって、あるの? 私、誰かに自分をのっとられるの?」 「まさか」  即座に旭は首を振った。 「そんなこと、ありえない」 「ありえるとか、ありえないとかじゃなくて、私の瞳がヘンになっていないかどうか、それを見てほしいの」  その要求に、旭は反射的に視線をそらそうとした。  すでにマナミといっしょに確認したとおり、この半年間で、茉莉は顔立ちだけでなく、目の表情そのものも変化していた。「目の表情」という言葉は、かなり情緒的で漠然としているが、老会長が指摘した「虹彩の紋様が変化している」というバイオメトリクスの観点から捉《とら》えれば、明確に茉莉の身体に物理的な変化が生じているのは疑いない事実だった。それも、人体には絶対に起こりえないような変化が。  ただし、いま茉莉の瞳を覗《のぞ》いただけでは、違和感はない。それは過去の写真を見較べたときのように、比較対象するものがないせいなのか。それとも……。 (カメラのような光学的な記録機器の「眼」はごまかせないけど、人間の目はだませるということなのだろうか。それとも、都合のよいときだけ茉莉の目になり、そうでないときに何者かにスイッチするのか)  さまざまな考えが、旭の頭をよぎった。  だが、口では心にもない返事をしていた。 「茉莉は、どこから見たって茉莉だよ。誰かにのっとられるなんて、そんなホラーみたいな妄想を描くなって」 「ほんと? 私、絶対だいじょうぶ?」 「ああ、だいじょうぶだ」 「だったら約束して」 「なにを」 「絶対に私を見捨てない、って。私と結婚するって、そう約束して」 「………」  旭は瞬間、返事に迷った。  その空白の時間を長く感じたくない、と思った茉莉は、さらにたたみ込んだ。 「正直に言うわ。私、いままでアキラと結婚するつもりはなかったの。あなたのほうが、結婚を前提にして私とつきあっているのはわかっていたけど」 「結婚するつもりが……なかった?」 「うん。ごめんね、ちゃんと言わなくて。私、ウェディングドレスとか、チャペルの鐘の音とか、たとえばハワイでの結婚式とか、そういうイメージで捉えられる結婚って、ぜんぶまやかしだと思ってた。そういう幸せはたった一日だけの特別なもので、ハネムーンが終わったら、現実の厳しさに絶望する——絶対そうなるって思ってたの。いっしょに暮らしていくうちにきっと感じるはずの、愛する人への幻滅。姑《しゆうとめ》のいじわる。つらい子育て。すべてを犠牲にして一生懸命育てた子供の反抗。家庭内暴力。ダンナの浮気。夫婦ゲンカ。なんのために結婚したのかわからなくなって、泣いてばかりの毎日。それでもごはんを作って、掃除をして、洗濯をして、ひとつの家に永遠に縛りつけられる地獄……。  そんなイメージばかりが浮かんできて、それに実際、たった二年か三年でそういうパターンに追い込まれて離婚した友だちが何人もいて、離婚までいかなくても、妻になってぜんぜん幸せそうじゃなくなった友だちもいっぱいいて、結婚なんて最悪だと思ってた」 「そんなふうに考えていたのか」 「だけど、いまになってわかるの。自分がこうなって初めてわかるの。私、アキラの助けがないとダメ。アキラがいないと生きていけない女だって、やっとわかった」 「………」 「おねがい、私を捨てないで」  すがるような眼差《まなざ》しだった。それを見て、愛《いと》おしいと旭は思った。改めて茉莉を美しいとも思った。一連の出来事を経て抱くようになっていた、恋人・茉莉に対するそこはかとない恐怖心が……消えた。  だが、確認をしておかねばならないことがあった。 「いいかい、茉莉」  胸の中に抱きしめていた茉莉をいったん身体から離すと、できるだけ相手を興奮させないように、そして決して「スイッチ」という単語を使わないように留意しながら、旭は静かに切り出した。 「ぼくは心理カウンセラーでもなければ医者でもない。だから、茉莉の心や身体に起きていることを論理的に解き明かすのはとうてい無理だ。でも、たったひとつだけ推測できることがあるんだ」 「なに」 「気を悪くせずに聞いてくれよ」 「そういう前置きはイヤ」  茉莉がピリピリしてきた。 「そんなふうに言われただけで、私、心臓がどきどきしてくるからイヤ」 「わかった。じゃ、ストレートに言おう。茉莉、ぼくに言えない過去を持っていないか」 「アキラに言えない過去?」 「おたがい二十八歳だ。これまでにいろんな恋の経験があるのも当然だし、そうした過去を打ち明け合うのがたがいの信頼につながるなんて、これっぽっちも考えていない。茉莉がいままでどんな男とつきあっていようと、そんなものはぼくが知らなくていい話だ。そうじゃなくて、誰かに激しい怨《うら》みを買うような経験がなかったか、それだけが知りたい」 「………」 「不愉快な思い出なら、それを具体的に口に出さなくてもいい。ただ、思い当たるような出来事が以前にあったか、それともまるでないのか、そのことだけでも考えてみてくれないか」 「どういう意味で、そんな質問をしているの」  明らかに茉莉は不快な表情になった。 「このさい、オカルト的なこじつけは脇に置いておく。しろうとなりに心理学的な切り口から考えれば、茉莉の潜在意識の中に強い罪悪感が刻み込まれている気がしてならないんだ」 「罪悪感?」 「いま茉莉は、結婚生活への否定的な要素を並べ立てただろう。そういう結婚観があるから、ぼくとつきあっていても結婚なんてまるで考えていなかった、と……。でも、実際はそうじゃなくて——厚かましい言い方かもしれないけれど——最初からぼくとは結婚したいと思っていたけれど、私には結婚する資格がないんだと、そう咎《とが》める内面の自分がいたと考えられないか」 「………」 「過去に人の心を傷つけるような出来事があって……たとえば、誰かの結婚を台無しにしてしまったことがあって……それに対する罪の意識から、自分は結婚してはいけないんだという心理的な縛りができてしまった。ただ、それを自分自身でも認めたくないから、いまぼくに聞かせてくれたようなマイナス要因こそが結婚しない理由なんだと、自分を説得しようとしていなかったか」 「………」  茉莉が黙りつづけているので、旭はどんどん一方的にしゃべった。 「後輩の有紀ちゃんの前で気を失ったとき、茉莉は自分だけの世界に入り込んでいたと思うんだ。目の前の相手としゃべっているつもりでも、実際には自分の心の中だけで会話をしていた。そして、そのときのテーマが自殺論だ。それはもしかして……」 「もしかして?」 「茉莉の深層心理の中に、誰かを自殺に追い込んだ罪の意識がへばりついているからじゃないのか」  その問いかけに、茉莉はゆっくりと首を左右に振った。 「ないわ」 「何が」 「だから、そういう罪の意識は、いくら自分の心をひっくり返して点検したって、出てこない、っていうこと。それに、有紀とバーにいたときの出来事は、私がひとりの世界に入り込んでいたという理屈で説明できるかもしれないけれど、きょう会長室まで呼び出されたことまで、私の妄想だったとすることは無理よ。私の虹彩《こうさい》データが異常で、企業スパイの疑いを持ったということ以外に、平社員と会うことのない会長が私を直々に呼び出す理由なんてないわ」 「……そうか」 「ねえ、アキラ。私を鈍感な女だと思わないで。もしも私が、自分の態度や言葉で誰かを深く傷つけたことがあれば、それを自覚しないほど鈍い女じゃないわ。ましてそれが自殺に追い込むほどの出来事なら、なおさらよ」 「わかった。じゃあ、しろうとの心理分析はここまでにする。ただ、あとひとつ、いいかな」 「まだあるの?」 「茉莉の昔の写真を見せてもらえないかな」 「え……」  茉莉の顔がピクンと引きつった。 「なんでそんなこと、必要あるの」 「茉莉とつきあってもうすぐ一年になるけど、その間に茉莉は驚くほどきれいになっていったよね。最初に会ったときから美人だなと思ったけど、それがどんどんレベルアップしてきた。いまじゃモデルか女優といっても通用すると思う。だとしたら、さらに一年前、二年前はどうなんだろう。もっとその前は、っていう興味が湧いてきた」 「昔がブスだったら、幻滅するの」 「そうじゃないよ」  旭は笑いながら首を横に振った。 「ただ、茉莉の変化があまりにすごいんで」 「整形していると思ってるんでしょ」 「そんなこと、ないよ」 「ウソ、顔にそう書いてある」  茉莉は人差指の先で旭の顔をスッと撫《な》でた。 「私のことを、そんなふうに思っていたのね」 「思っていないってば」 「私はきらい。整形なんて大っきらい! 整形する人間を軽蔑《けいべつ》するわ!」  急に茉莉は感情的にわめきだした。 「顔をいじるってことは、自分じゃなくなるってことじゃない。そうでしょ。他人の顔になることでしょ」 「そういうこととは違う気がするけどね」 「そうよ。自分の顔を捨てることよ。それは自分を捨てることでもあるわけよ」 「いや、違うと思うな」 「どう違うの」 「茉莉が考えているのとは逆に、整形して顔を変えることは、ある種の『自分探し』なのかもしれない」 「自分探し?」 「人間っていうのはさ」  旭は、自分が無意識のうちにマナミの受け売りをしていることに気づかず、言った。 「必ずしも性格とマッチした顔に生まれつくとは思えないんだよね。ともすれば、顔が人間の性格を表わしているかのように考えられがちだけど、内面がそのまま顔に出るというのは、もしかすると常識のウソなのかもしれない。けれども、その常識が世の中に蔓延《はびこ》っているから、顔が性格と合わない人間は悩む。そして悩んだ末に、美容整形の門をくぐることもある」 「それは違うわ。整形する子は、もっと単純な理由でやるのよ。男の子にチヤホヤされたいからよ。ブスよりも美人のほうが世の中を生きていくのにメリットがあるから、ただそれだけだと思う。化粧だけじゃどうにも追いつかないって子がやるもの、それが整形よ」 「キビシイね」 「甘いのね」  ついいましがたまでの、旭にすがるような弱々しさが消え、茉莉はムキになって反発した。 「もしかしてアキラ、昔、整形の子とつきあっていたりしたの?」  旭はビクッとなった。だが、「そんな経験はないよ」と反射的に否定しようとして、それができない自分に気がついた。マナミの存在を否定することは、いまの彼にはできなかった。そして言った。 「ああ、そうだよ」 「そうだ?」  茉莉はポカンとした顔になった。 「ほんとに整形の子とつきあっていたの」 「うん」 「最悪」  茉莉は吐き捨てた。 「そんなに最悪かな」 「人工的に作った顔の子を恋人にして、それで幸せだったの?」 「あのねえ、茉莉」  恋人の言葉が徐々に辛辣《しんらつ》になっていくことに堪《た》えかねて、旭もしだいにきつい口調になった。 「人間にとって大切なのは、顔なのか、心なのか、どっちだと思う?」 「心でしょ。そんなの決まってるじゃない。だから、うわっつらをいじるのは邪道だっていうのよ」 「ぼくの考えは、その反対だ」 「顔のほうが大切だっていうの?」 「そうじゃない。心こそが人間の価値を決める最大の要素であるのは当然だよ。だからこそ、その心のよさが——性格のよさが、と言い換えてもいいけど——そいつが顔のイメージのおかげで存分に発揮できないと本人が考えたならば、思い切って物理的に顔を変えたっていいと思うんだ」 「信じられないわ」  茉莉は髪の毛が乱れるほど強く首を振った。 「アキラがそんな考えの持ち主だったなんて」 「男だからこそ、わかるのかもしれないんだよね」 「なんで」 「最近は男でも眉毛《まゆげ》を剃《そ》って形を変えたり、髪の毛を染めたりするのは常識になってきたけど、それでもまだ男の化粧があたりまえっていうところまでは、世の中、進んでいないだろ。いくら髪を染めたって、眉毛を剃ったって、ほとんど素顔に近い状態でいることに変わりはない。だから、顔のイメージに自分で束縛されるという点では、男は女よりもはるかに重症なんだよ」 「じゃ、アキラもできれば整形をしてみたいと思っているの」 「いや、幸いにもぼくは、自分の性格とこの顔とが合っていると思う。だから整形を考えたことはない。しかし、口にこそ出さないけれど、顔を変えればもっと自分の性格的な長所が生かせると思っている男は大勢いると思うんだよね」 「で、その整形の子はどうしたの」  茉莉は、観念論よりもそちらのほうを気にした。 「いま私とつきあっているということは、その子とは別れたわけでしょ」 「うん」 「どうして別れたの?」 「彼女の過激な理論に、ぼくがついていけないと思ったらしい。向こうから去っていったよ」 「過激な理論って」 「まあ、そんなことはどうでもいいさ。それより、茉莉のことに話を戻そう」  これ以上、美容整形論を闘わせては、自分の心の中にいるマナミが傷ついてしまいそうで恐ろしかった。だから旭は話をそらせようとした。だが、茉莉は旭の言葉尻《ことばじり》に本能的な不安を感じ取ってこだわった。 「ちょっと待って。向こうから去っていった、ってことは、アキラはまだ彼女に未練があるの?」「ないよ」  旭はかぶせるように即答した。  そのすばやい返事が、かえってホンネを暴露しているようなものだった。そのことに、旭自身がまっさきに気づいた。もちろん、茉莉も感づいた。 「いやよ、その女の人のところに戻っちゃイヤ」  茉莉は旭の胸にすがりつき、またさきほどの心細そうな表情に戻って訴えた。男の保護者本能をくすぐるような、いたいけな表情になって。 「いま、アキラがいなくなったら、私、どうやって生きていけばいいのかわからない。おねがいだから捨てないで」 「だいじょうぶだよ、だいじょうぶ」  事実上の男になってしまったマナミに対して、自分の心の中にいまだに未練が存在していた事実を、思わぬ形で確認する羽目になった旭は、そのことに戸惑いを覚えながらも、つとめて軽い調子で茉莉をなだめた。 「とにかく、いまのぼくにできることは何でもやるよ。混乱している茉莉の助けになれることは何でも」 「その中に、結婚の約束もちゃんと入れてくれるのね」 「……だいじょうぶだよ」  さっきと違って、こんどは旭の返事にためらいの間があった。それを隠すために、彼は茉莉を腕の中に力強く抱きしめた。 「どんなことがあっても、ぼくはおまえを放さない」 「もっときちんとした返事をして。もっと正確に」  抱きしめられながら、茉莉は言った。 「絶対に、アキラは私と結婚してくれるのね」 「もちろんだよ」 「ダメ、もっともっとはっきり言って」 「どんなふうに」 「どれぐらい強く約束してくれるかを」 「ぼくの茉莉に対する愛は変わらない。何があってもだ」 「違うんだってば」  旭の胸に顔をこすりつけながら、茉莉は「そうじゃない」というふうに首を左右に振った。 「愛情の約束だけじゃイヤなの。はっきりと結婚の約束がほしいの。一生、私といっしょに暮らしてくれるという約束がほしいの」 「わかった」  茉莉の髪の毛を自分のため息で飛ばしながら、旭は言い直した。 「おまえが見抜いたとおり、ぼくはこれまで結婚を前提にして茉莉とつきあってきた。いまさらほかの女との結婚なんて考えられない。その気持ちはいまも変わらないし、これからも決して変わることはないよ」  そう言いながら、おれは卑怯《ひきよう》者かもしれない、と旭は思った。  巧妙なレトリックが、自動的に組み立てられていた。茉莉以外の女性との結婚は考えていない、しかし、茉莉と結婚の約束はそこに語られていない、という巧言が……。  さすがに茉莉は、その言い抜けは見逃した。 「私がどんなふうになってもね」 「ああ」  短く答えると、旭は急いで茉莉と唇を合わせた。強く、強く。  愛情や性的な欲望から出た濃厚なキスではなく、もうこれ以上の言質《げんち》をとられたくないという本能から出た強いキス。たんに物理的に茉莉の発言を封じ込めるためのキス。  だが、激しく吸われた唇を横にはずすと、口元を旭の唾液《だえき》で濡《ぬ》らしながら茉莉はもういちど確認を求めてきた。 「私がおかしくなっちゃっても、絶対、捨てないって約束してくれる。結婚してから、私が誰かに変わっても、離婚なんかしないと約束してくれる?」 「バカなことを言うなよ。そんなありえないことを」 「ありえそうだからきいてるの」 「いいから」  旭は、セミダブルのベッドの上へ茉莉を強引に押し倒した。 「いまは何も考えるな。いまは、何も……」  部屋の照明を最小限に落とすと、旭は茉莉の服をすばやく脱がせ、そして自分も裸になって肌を合わせた。何かをごまかすためのセックスだということは明確に意識していたが、ほかに方法はなかった。恐怖から逃れる方法は……。  それから一時間ほどのち——  快感の余韻で放心状態となった茉莉に、旭はよく冷えたビールをすすめた。たがいに裸身に汗の粒を浮かべ、ふたりで白いシーツにグレイの染みを描き出していた。エアコンの冷房では追いつかないほどの情熱が、狭い部屋を支配していた。 「よかった……」  いろいろな意味を込めて、茉莉はつぶやいた。 「ほんとうに……よかった」 「さあ、このビールをガーッと飲んで、それで寝ろよ。とにかくぐっすり寝て、気分を変えるんだ。朝になれば、またちがう明日がくるよ」  ヘタなドラマのようなセリフだなと思いながら、旭は水滴がびっしりついたグラスを茉莉に渡した。 「乾杯」  茉莉のほうからそう言ってグラスを合わせてきた。  その笑顔を見て、旭はホッとした。  旭よりも茉莉のほうが先にビールを飲み干した。そして、口の周りについた泡を中指の腹でそっとぬぐってから、旭にもういちど軽いキスを求めてきた。 「なんだか眠くなってきちゃった」 「ぼくもだよ」  じつは、そうではないけれど、旭はウソをついた。 「アルコールが回れば、一気に爆睡できるだろう」 「しっかり抱いていてくれる? 私が眠るまで」 「いいよ」  おたがいに下着一枚を身につけただけの格好で抱きあうと、旭はタオルケットをふたりの身体にかけ、たったひとつだけ灯《とも》しておいた豆電球も消した。 「それじゃ、おやすみ」 「うん、おやすみ」  暗闇の中でチュッと軽いキスの音が響き、あとはエアコンの回る静かな音が耳につくだけとなった。  茉莉の身体は柔らかく、温かだった。少なくともその感触は、初めてベッドを共にして以来、少しも変わるものではない、と旭は思った。 (たのむから、途中で起きないでくれ)  心の中で、旭は祈った。 (おれにだって精神的な限界はあるんだ。おねがいだから、絶対に夜中に起きないでくれ。別人になって話しかけないでくれ。頼むから)  茉莉に腕枕をしてやりながら、竹下旭は暗い天井を見つめていた。 [#改ページ]   九 黒の糾弾[#「九 黒の糾弾」はゴシック体]  二時間あまりが経った。  旭の身体にしがみつくようにして眠っていた茉莉が、軽くうなりながら寝返りを打ったのを機に、旭はそっとベッドから抜け出した。  茉莉が熟睡するまで、腕枕をしたままできるだけ動かないようにしていたので、肩が凝っていた。ベッドの脇に立った旭は、ブリーフ一枚の格好で両手を腰に当て、首をぐるぐる回した。ボキボキと首の骨が鳴った。  暗がりの中で茉莉の寝顔を確認してから、旭は足音をさせないように寝室の外へ出た。キッチンに移ると、明かりが洩《も》れないように間のドアを閉めてから照明を点《つ》けた。  さきほどふたりで飲むために開けた缶ビールが二本、流し台の上に置いたままになっているのが、蛍光灯のまばゆさに顔をしかめる彼の視野に入った。一本は完全に空だったが、もう一本は少し残っていた。口をつけたが、ぬるくなって飲めた代物ではなかった。途中で吐き出すと、生ぬるい夏の水道水で口をゆすいだ。  蛇口をキュッと閉めてから、旭は大きな吐息をついた。なにげなく流し台の上に目を戻すと、そこにはビール缶のほかにまだ置いてあるものがあった。口を破った粉薬用の袋がふたつ、空になったまま捨てるのを忘れられていた。  それは粉末状の睡眠薬が入っていた袋だった。自分が眠るために購入したものではなかった。茉莉に深い睡眠を与えるために、数日前に買い込んでおいたものだった。決して夜中に起きることがないように。  それが、こんなに早く入り用になるとは思ってもみなかった。さきほど、茉莉に飲ませたビールのほうにだけ、通常服用量の二倍の睡眠薬を入れておいた。そこまでなら危険はあるまいと見当をつけて。  べつに茉莉本人だったら、夜中にいくら起きてもらってもかまわないのである。それが茉莉本人であるならば……。  旭として二度と経験したくない場面は、「茉莉でないもの」が起き出して、自分にしゃべりかけてくることだった。それだけはもうたくさんだった。茉莉の身体にいったいどんな事態が起きているのか、それを理屈が通るように解き明かすことは不可能だったが、論理的な納得をすることよりも、とりあえず問題は、彼女といっしょの夜が無事に過ごせるかどうかだった。  今夜は、会社の会長室で「スイッチ」の発作を起こしたその当日である。また例の行動に出られたらたまったものではない。これ以上何度もスイッチ現象を見せられたら、茉莉と結婚する決意などは吹っ飛んでしまう。  だから旭は、茉莉に睡眠薬を飲ませた。ともかく朝になるまでは熟睡していてほしかった。昼まで寝てもらっていてもかまわない。旭は朝になれば会社へ行かなければならないが、茉莉は強制的に休みをとらされており、もはや出社の義務はないのだから。 (それにしても、この先、どうなるんだ)  旭は不安に頭をかきむしった。 (ほんとうに茉莉との関係をつづけていけるのか。……なあ、マナミ、おれはどうすればいいんだよ)  知らず知らずのうちに、頭の片隅に「男装の麗人」として再会した昔の恋人の顔を思い浮かべ、呼びかけていた。彼女への未練を、さきほど再確認させられてしまったマナミのイメージに向かって。 (こんな異常事態で、いまおれの頼りにできるのはマナミ、おまえしかいないんだ。このピンチを切り抜けるための相談相手は、おまえしかいないんだよ)  茉莉は旭に救いを求めてきたが、いまの旭にとって心の支えとして必要な存在は、マナミだった。茉莉ではなく……。  重苦しい気分を振り払うために、旭は冷蔵庫の扉を開けてミネラルウォーターのボトルを取り出した。そして、それをラッパ飲みにして冷たい水を喉《のど》の奥に流し込んだ。 「きょうも朝まで寝られそうにないな」  ボソッと独り言をつぶやき、キッチンを出ると、トイレに入った。そして用を足そうとしたとき—— (なんだ、これ)  旭は、自分の下着の異変に気がついた。  彼は白いブリーフをはいていたが、そのフロントが真っ黒に染まっていた。墨汁をこぼしたように。しかも、はんぱな量ではなかった。  もしかすると何かの理由で性器から出血して、その血が乾いて黒く見えるのかと思い、旭は驚いてブリーフを指でさわった。  濡《ぬ》れていた。  だが、水の感触ではなかった。墨汁など、この部屋には置いてなかったが、仮にそれが墨汁による染みならば、もっとさらっとした手ざわりになるはずだった。だが、その黒い染みには納豆のようなぬるぬるとした粘りけがあった。 (ど、ど、どうしたんだ、いったい……)  首筋に鳥肌が立った。その中がどうなっているのか不安になり、青くなりながら旭はブリーフを下げた。 「うわっ!」  思わず声が出た。  男のアレが真っ黒に染まっていた。震える指でじかにさわってみると、やはり納豆のようにぬるぬるした感触である。おまけに糸を引いた。黒い糸を……。 (なんだー、これは!)  理解不能な状況に見舞われ、旭は泣き出しそうになった。ガクガクと膝《ひざ》が震えだしていた。大急ぎでトイレットペーパーを引き出し、それで自分のものを必死に拭《ふ》いた。あっというまに紙が真っ黒に染まった。それでも黒い色が性器から落ちない。それどころか、先端からじゅくじゅくとした黒い液体がいまもにじみ出していた。  腰が抜けた。  黒く染まったブリーフを足首まで下げた格好で、旭は便座に腰を落とした。  心臓がバクバクと高鳴り、肺は自分の意思と無関係に速いピッチで空気を吐き出し、吸い込み、また吐き出し、吸い込み、を繰り返した。 (医者……病院……救急車……一一九番……呼ばなくちゃ……カッコ悪い……そんなこと言っていられない……どうしたんだ……おれの身体に何が起きたんだ……)  そのとき——  ドン、ドン、と激しい音を立てて、トイレのドアが外からノックされた。  自分のモノを見つめたまま混乱する旭は、その音にびっくりして顔を上げた。 「誰だ!」  問いかけてから、寒気がした。  この部屋には、自分と茉莉しかいない。 「茉莉なのか」  返事の代わりに、激しいノックがきた。  ドンドン、ドンドンドン。ドンドンドン、ドンドンドンドン。 (ちがう、茉莉じゃない!)  常識ある人間が、真夜中にやるようなノックではなかった。しかも茉莉は、アルコールと睡眠薬の力で爆睡しているはずだ。 (スイッチしたんだ)  旭は悟った。 (茉莉が別の女にのっとられて、起き出したんだ)  ザワリ、と首筋に虫が這《は》うような感覚が走った。 (扉を叩いているのは別の女) (茉莉の顔をした、別の……怪物)  便座に腰掛ける旭の目の前で、銀色のドアノブがゆっくりと回りはじめた。  あわててドアの内鍵《うちかぎ》を閉めようとした。  が、タッチの差で間に合わなかった。  ドアが数センチ開かれた。旭は必死に内側から引っぱり返した。隙間から黒いものが見えた。黒い人間が。 「わわわ、わわわわわ」  おもわず恐怖が声に出た。その恐怖のエネルギーが、彼に瞬発的なエネルギーを与えた。  旭の力が勝って、ドアがバタンと大きな音を立てて元の位置に閉まった。しかし、両手でノブを握りしめているために、その下にある内鍵をひねってロックすることができない。外からものすごい力でドアを引っぱられているために、片手を放しては一気に開けられてしまいそうだった。  茉莉の力ではなかった。 「竹下さん」  ドアを引き開けようとしながら、外から女の声が呼びかけてきた。 (やっぱりだ……やっぱり茉莉がスイッチして、別の女にのっとられた) 「睡眠薬を飲ませれば起きることはない、と思ったのが間違いよね」 (わかっていたんだ。薬を混ぜたことがバレていたんだ) 「竹下さん、ここを開けて。開けてください。話をしましょう」 「い、いやだ」  ドアノブに懸命にしがみつきながら、旭は答えた。 「絶対、開けないぞ」 「じゃあ、一生トイレにこもっているつもり?」 「ああ、そうしてやる」 「無理よ。あなたはいやでも私と顔を合わせなければならないの。第一、いつまでもそんなふうにドアを引っぱりつづけていられないでしょう。そのうち、力尽きるわ。その前に、素直に開けてしまいなさい」 「おまえ、おれの身体に何をした」  あえぎながら、旭はきいた。 「この黒い汁は何なんだ」 「私と交われば、そうなるのよ」 「どうして」 「だって、私は焼け死んだ女だから」 「焼け死んだ?」 「そう、真っ黒焦げになって死んだのよ」 「なんだって」 「黒焦げの女とセックスすると、そうなってしまうのね」 「バカな、おれは茉莉を抱いたけど、黒焦げの女なんて……」 「もうすでに、あの段階でスイッチしていたの。あなたが抱いていたのは茉莉じゃなくて、私」 「私って、誰なんだ、おまえ」 「そのうちに名乗りましょう」 「いま言え」 「あとでね」  ドアの向こうの声は、じらすように答えをはぐらかした。 「茉莉に怨《うら》みがある女なのか」 「あたりまえでしょう。怨みがなければ自殺したりはしないわ」 「自殺?」 「ええ、私は自殺した女。ただし、焼け死んだのは予定外。静かにガス中毒で死ぬはずだったの。なにかの本で読んだら、ガスで死ねば死に顔がすごくきれいだって聞いたから。それで睡眠薬を飲んで、ガスの栓を開けたの。ところが、ガスは安全装置で自動的に止まっちゃうし、隣の部屋のお婆さんが火を出しちゃうしで、シナリオはめちゃめちゃ。おかげで私は、眠ったまま火葬されたようなものよ。真っ黒な炭になるまでね。……でも、考えてみたらそのほうがよかったかもしれない。顔の見分けがつかなくなるほど燃え尽きてしまったほうが」 「その自殺が、茉莉のせいだというのか」  旭は、いつのまにか非現実的な状況を受け容《い》れてしゃべっている自分に気がついた。トイレの外にいるのは茉莉でしかありえないのに、それが茉莉とは別の女である前提で会話を行なっていた。 「茉莉がおまえを死に追い込んだというのか」 「そうよ」 「でも、自殺したのはおまえだろう。死んだのはおまえの勝手じゃないか」 「どうしてそういう受け取り方をするの!」  ドアの向こうで、女の声が怒った。 「自殺は他殺なのよ」 「ああ、わかっている。自分で自分を殺すという意味ではね」 「そうじゃない! 自殺は他人による究極の完全犯罪よ。自殺した人間は、殺人事件の被害者であって、殺人事件である以上は、ちゃんと加害者もいるの。それでいて加害者は殺人現場にいる必要がない。自分で手を下す必要もない。凶器も被害者が自分で揃えてくれるし、殺害の実行も被害者が自分でやってくれる。けれども、被害者をそうさせたのは加害者なのよ。犯人なのよ。ミステリー作家だって、これ以上の完全犯罪は書けないわ」 「では、茉莉がおまえを殺した犯人だと」 「ええ」 「茉莉がいったい何をした」 「………」 「答えろよ。茉莉がおまえに何をしたんだ。死ぬほどつらい目に遭わせたのが茉莉だというなら、彼女が何をしたのか答えろ」 「………」  返事がなかった。  それだけでなく、あれほど強くドアを引き開けようとしていた外からの力が、まったくなくなっていた。 (どうした。いなくなったのか。それとも罠《わな》か)  旭は迷った。  ドアノブにしがみついたまま、外の様子をじっと窺《うかが》った。ドアに耳をつけても、人の気配が感じられなかった。  一分、二分、三分と時間が経過しても、外は静かだった。ついに旭は意を決して、トイレから出ることにした。  が、一歩外に踏み出そうとして、彼は下ろしたままだったブリーフに足を取られ、つまずきそうになった。そして旭は、信じられない光景を目にした。  ぬるぬるした黒い汁で汚れていたはずの下着が、もとの白に戻っているのだ。それだけではない。自分の局部も、いつもの状態に戻っていた。先端からじゅくじゅくと糸を引きながら黒い汁を出していた状況は、幻影のように消え去っていた。 (おれも、とうとう茉莉と同じ状況になったのか。高瀬有紀の前で幻覚を見た茉莉と同じ状況に……)  呆然《ぼうぜん》としながら自分のものをさわり、つぎに真っ白なブリーフを引き上げて、下着の生地を何度も手でさわってみた。湿った感触はどこにもなかった。  狐につままれた思いでトイレから出ると、旭はいったん後ろをふり返ってみたが、トイレのドアが黒く汚れていることもなかった。蛍光灯の青白い明かりに照らし出されたキッチンも、まったく変わったところがない。 (ドアの隙間から一瞬見えた黒い人形……あれは錯覚だったのか?)  つぎに彼は寝室のドアに目をやった。閉まったままだった。  問題はそこだった。茉莉がどのような状況になっているかを確認しなければ、いま見たものすべてを錯覚とか幻影として片づけることはできなかった。  旭は深い深呼吸をして気持ちを整えてから、寝室のほうへゆっくりと歩いていき、そのドアを静かに引き開けた。 [#改ページ]   十 ドライブ[#「十 ドライブ」はゴシック体]  八月に入ると、日本列島は七月にもまして連日すさまじい猛暑に見舞われていた。  とくに関東以西のそれは強烈で、早朝、太陽が昇ると同時に気温は一気に三十度を超え、昼近くになると盆地を中心に各地で三十五度を超え、「うだるような暑さ」という月並みな表現では間に合わない「痛みを感じるほどの熱気」が容赦なく人々に襲いかかった。  そんな灼熱《しやくねつ》の晴天のもと、一台の車がフロントガラスに陽光をキラキラと反射させながら、名神高速道路を西へ、西へと進んでいた。朝早く東京を出た、矢沢拓己の運転する自家用車である。その助手席には同僚の飯島宏が乗っていた。  飯島は日除《ひよ》けのために濃い色のサングラスをかけていたが、度入りのサングラスを持っていない矢沢は、いつもの銀縁眼鏡をかけて、まばゆそうに顔をしかめっぱなしでハンドルを握っていた。  いま、車は岐阜県内の大垣から関ヶ原へと向かっているところだった。彼らが向かう目的地は、もう少し先の滋賀県内、近江八幡市だった。  誘い合わせて東京を出てから、すでに四時間以上が経過している。しかし、車内のふたりはほとんど口を利かなかった。仲たがいをしているわけではない。矢沢のほうは、これから自分が行なおうとしていることが、どのような結果をもたらすのか、それが不安で、しゃべるという行為にエネルギーを使う気力が湧かなかった。それからもうひとつ、詳しい説明を求める同僚の飯島に、どのように順序立てて話せば理解してもらえるのか、それがわからずに、言葉を呑《の》み込んでいたのだった。  一方、助手席の飯島は、矢沢がしゃべる用意を調えられるまで、いつまでも黙《もく》して待っているつもりだった。沈黙こそが最大の催促になるとわかっていたからだった。  しかし、東名高速の世田谷《せたがや》インターから乗って、東京、神奈川、静岡、愛知と各県をノンストップで通過し、名神高速に入ってからもなお沈黙がつづいたまま岐阜県までくると、さすがに飯島のほうがシビレを切らしてきた。  そして、サングラスの視線をフロントガラスの前方に向けたまま、ついに彼のほうから口を開いた。 「矢沢、おまえとはたった三年のつきあいだけど、前も言ったように、なんだか古くからの知り合いのような気がして仕方ないんだ」 「………」  唐突に飯島が切り出したが、矢沢はまっすぐ前を向いて運転に集中している様子で、返事はしなかった。 「だから、水くさい隠し事はやめて、何もかもぼくに打ち明けてほしい」 「………」 「たぶんおまえもそのつもりで、きょうのドライブにぼくを誘ったんだろう? ……まあ、ドライブというような気楽なものでないことはわかっているんだが」 「………」 「自分から話す気になれないんだったら、とりあえずこっちの話を聞くだけ聞いていてくれよ。……早いもので、もうあの事件から二週間だ」  語りながら、飯島はまぶしいのを承知でサングラスをはずし、折りたたんで胸もとに引っかけた。素通しの目で話さないと、相手からもホンネを引きだせないと思ったからだった。最後はおたがいの瞳《ひとみ》を見つめあってこそ、真実を語り合えるはずだ、という気がしていたから……。 「いま思い返しても、なにか悪い夢でもみているような出来事だった。あれは二年生の臨海学校がはじまった日の午後二時過ぎだったな。下田の海岸で泳げない生徒に特訓をしていたぼくは、ちょうどほかの先生と入れ替わりに海から上がり、教師の待機場所にしてあるパラソルの下で水泳帽を脱いで、身体を拭《ふ》いているところだった。そのとき、携帯電話が鳴ったんだよな。画面を見ると、東京に残っているおまえからの電話だった。  いまこっちが何をやっているか承知のおまえが、メールじゃなく電話を入れてきたから、よほど急用なんだろうと思って電話に出ると、驚いたよな、小林巴恵のオヤジさんが、二Bのベランダから飛び降りたというじゃないか。だけど、こっちが詳しいいきさつをたずねようとしても、おまえは興奮してしまって、まともな話にならない。そのうちに、周囲でぼくのやりとりを小耳にはさんでいた先生たちが何事だと騒ぎ出し、あっというまに下田のほうは水泳教室どころじゃなくなった。  ほかの先生には話していないが、小林さんから相談を受けていたぼくは、率直にいって、ふたりの間に最悪のトラブルが起きたんだと思った。ありていに言ってしまうが、小林さんから巴恵との関係を厳しく追及されたおまえが、発作的に彼を教室のベランダから突き落としたんじゃないかと思ったんだよ」 「当然の推測だろうな」  やっと矢沢が口を利いた。  が、すぐに黙りこくる。車内に沈黙が漂うと、平均時速百二十キロを超す速度で走る車のロードノイズだけが耳につく。そこでまた飯島が口を開いた。 「ともかくぼくは、学校の守衛室に電話を入れた。すると守衛さんは、きょとんとした感じで、小林さんのお父さんなら、ついさっき帰られましたよ、と言うじゃないか。こっちもその返事にあっけにとられたが、とにかく矢沢先生からこれこれの緊急連絡が入ったので、校庭と二Bの教室を大至急見てきてほしいと頼んだ。その一方で、おまえにも折り返し電話をかけ直したが通じない。それでこんどは、臨海学校を休んでいる巴恵の自宅に電話をかけようとした。そのときだった。まさに当の小林さんから電話が入った。おまえによれば、三階のベランダから飛び降りたはずの小林さんからな」 「………」  飯島が横目で運転席を見ると、矢沢の喉仏《のどぼとけ》がゴクンと上下に大きく動いたところだった。 「ぼくが電話に出ると、小林さんは、いきなりこういう趣旨のことを切り出してきた——先日は、いろいろご相談にのっていただいてありがとうございました。じつは矢沢先生との問題以前に、私たち家族は巴恵の子育てに失敗し、親子関係がめちゃくちゃになって悩んでいたのです。とくに父親の私と巴恵との関係が最悪でした。矢沢先生と娘の不謹慎な関係を問題にする以前に、親子の仲が完全に壊れていた。それがすべての原因なのです。巴恵とは、小さな行き違いの積み重ねでここまできてしまったのですが、たったひとりの娘に憎まれ、父親としてこんなに悲しいことはありません。妻は道連れにできませんが、私はすべての責任をとって死にます。巴恵を道連れにして……」  小林真之介から受けた衝撃の電話を再現したあと、飯島は相手に聞こえるような大きな深呼吸を何度も繰り返し、それからたすき掛けになっているシートベルトをはずし、また深呼吸を繰り返した。 「もう、ぼくの頭は大混乱だ。情報が錯綜《さくそう》して、何が何だかさっぱりわからない。いま覚えているのは、必死になって小林さんに呼びかけたことだよ。いますぐ東京に戻りますから、早まったことはやめてください、とね。しかし、電話は切れた。  皮肉を言うわけじゃないが、女子生徒の携帯番号を軒並み登録している矢沢と違って、ぼくの携帯電話には生徒の自宅の固定電話と、保護者の携帯番号しか入っていない。だから、うちの生徒に急いで巴恵の携帯番号とメールアドレスを聞いて、両方に連絡をとった。が、電話も応答しないし、メールの返事もこない。そうこうしているうちに、守衛さんから連絡が入り、校庭にはなにも異変はなかったが、二Bの教室で矢沢先生が失神して倒れているのが見つかったので、いま救急車の手配をしたところです、と言う」  飯島は、何もかもがわからない、といったふうに首を横に数回振った。 「事実はどういうことだったか。それはもう矢沢も承知のとおりだ。守衛さんの証言によれば、午後の一時過ぎ、ほかに誰もいない学校におまえがきて、それから五分遅れぐらいで小林さんが到着した。そしてふたりで二年B組の教室に行ったんだろう。それからものの三十分もしないうちに、小林さんは学校を出た。入退出届にちゃんとサインもあった。小林巴恵の自宅は、学校から歩いて二十分の距離にある。車を使っても、幹線道路の信号で待たされるから、どんなに急いでも五分はかかる。  小林氏はどうやら車は使わずに学校まできて、また歩いて自宅に戻ったようだが、帰宅直後と思われる午後二時過ぎにぼくに電話を入れ、これから娘と心中を図ると告げたあと、その五分後に小林家から火が出た。ガソリンを部屋に撒《ま》いて火をつけたとみられ、猛烈な火の勢いは、隣家にまで延焼するほどだった。そして焼け跡から、小林氏と巴恵の焼死体が見つかった……」  そこでまた飯島は、チラッと矢沢の横顔を見やった。 「話をまだつづけるけど、平気か、運転は」 「ああ」 「なんだったら、代わるぞ」 「かまわん。つづけろ」  矢沢の了解を得てから、また飯島は話を再開した。 「小林氏からぼくの携帯にかかってきた通話は、すでにおまえからの緊急連絡で大騒ぎになった直後だったから、そばにいた教頭先生がぼくの携帯に耳をつけて会話を聞き取っていた。それで、小林氏が心中宣言をしたというぼくの証言も、客観的に裏付けられることになって助かったんだがね。  そして警察と消防の現場検証によって、小林氏がポリタンに入れたガソリンを娘の部屋に撒き、自ら火をつけた無理心中ということで、ほぼ見解は定まった。残された母親も、父と娘の決定的な亀裂《きれつ》を認め、悲劇の原因も特定されたかに思えた。だが、問題はおまえからの電話だった。  矢沢からぼくに、小林氏が教室のベランダから飛び降りたという第一報がきてから、二、三分ほどのちに、小林氏が心中宣言の電話をかけてきた。そしてその五分後には出火。その時点で、守衛さんが教室で失神しているおまえの姿を見つけた。推理小説なら、それでも強引なトリックを駆使して、矢沢拓己真犯人説を成立させるのかもしれないが、現実にはとうてい無理な話だ。その結果、みんなの解釈はどうなったかというと」 「わかっているよ」  矢沢がそこではじめて話を引き取った。 「飯島が伏せておいてくれたにもかかわらず、小林巴恵とおれとの関係が取り沙汰《ざた》されることになったわけだ。つまり、こうだ。父親は娘とおれの関係を知ってひどい衝撃を受け、抗議のために学校へ出向いておれと話し合いをした。そのあと彼は、ショックのあまり私は飛び降り自殺をするかもしれないなどと言い残して立ち去った。おれはその言葉を真に受けて、父親が学校ですでに飛び降り自殺をしたものと勝手に決めつけ、飯島に連絡したあと、極度の興奮によって気を失った」 「そういうことだ」  飯島はうなずいた。 「おそらくそれが唯一の合理的な解釈という意見で、職員室では意見が一致した。しかもまずいことに、放火心中の背景を綿密に捜査しはじめた警察が電話局の通話記録を調べたところ、おまえと小林巴恵の間で、英語教師と教え子という関係を割り引いたにしても、常識外の頻度で電話のやりとりが行なわれていた事実が判明した」 「それでおれは理事長と校長に呼び出され、徹底的に追及され、とうとう白状した、巴恵との不適切な関係をな。おまけに、おれの過去もしっかり調べ上げられていて、この学校でも、あの学校でも女子生徒と関係を持っていたそうじゃないか、と、ふたりは赤鬼のようになって激高したよ。なんだね、きみは、学校や大切な生徒たちのことをどう考えているのかね、とな。でもって……」  片手で軽くハンドルを叩《たた》いて、矢沢は言った。 「おととい、おれの解雇が内定した。生徒たちへの発表は、おれが学校から立ち去ったのちの、夏休み明けになるそうだがな」 「ところがおまえは、二Bの教室で起きた事実はぜんぜん違うものだったと、ぼくに打ち明けた。しかし……」  カーエアコンの風が自分の顔にあたるよう吹き出し口を調整してから、飯島は額の汗を手でぬぐい、そして言った。 「おまえが語ってくれた、これが真相だというエピソードは、とうてい信じられる内容ではない」 「それぐらい、自分でもわかっているさ」 「わかっているんだったら、ついでに言うが、教室にセーラー服を着た女の子の幽霊が出たなんて話そのものより、それを真顔で持ち出すおまえの精神状態のほうを、ぼくは恐ろしいと思っている」 「うん。それも無理はない」 「小林氏がベランダの手すりに後ろ向きにつかまって、逆上がりだか逆手大車輪みたいな格好で宙を飛んだという話も、信じろというのが無理だ。しかも、三階から宙に飛び出した人間が、徒歩二十分の距離にある自宅で放火心中したなんて、ホラ吹き話にもほどがある」 「おれが飯島なら、やはり同じ感想を洩《も》らすね」 「しかもいま、そんなむちゃくちゃな話を真顔でする男にハンドルを握らせて、高速道路を百何十キロのスピードで飛ばされているわけだ。かなりお尻《しり》のあたりがムズムズする気分なんだけどな」 「不可抗力の交通事故じゃなくて、意図的にセンターラインにでも突っ込むんじゃないかって?」 「まあね」 「やってやろうか」  言うのと同時に、追い越し車線を高速走行していた矢沢は、さらにアクセルを強く踏み込んだ。スピードメーターが130、140、150と上がっていった。 「よせよ」  つとめて冷静に受け答えはしていたが、飯島は本気で腰を浮かせた。 「危ないおふざけはやめろ」  脅《おび》える飯島を横目で見てから、矢沢は笑ってアクセルをゆるめ、時速百二十キロまで戻した。そして、反論をはじめた。 「おれのオツムがぶっこわれていると思うならそれでも結構だが、こういう事実も忘れずに頭に入れておいてほしい。巴恵の父親小林真之介は、いわば暴力団のインテリ用心棒を務めていた。経営コンサルタントという肩書ではあったけれどね」 「それはぼくも今回の件ではじめて知ったよ」 「おまえが知るのははじめてでも、理事長や校長は、それを百も承知で子供の入学を許可しているんだ。親の職業で差別をしてはいけない、という論法でな。だが内実は、数百万円にのぼる寄付金をもらっているから何も言えないだけのことさ」 「………」 「飯島、巴恵の父親は、そのままヤクザの組長も勤まるんじゃないかと思うぐらいの男だという事実を忘れないでほしいな。実際、おれは巴恵との問題であの日、徹底的に脅し上げられたんだ。おまえだって、彼の抗議を最初に受けたんだから、いかにあのオヤジがしろうと離れした凄《すご》みを利かせてくる男か知っているだろう」 「うん、まあ」 「それほどの男が、娘との関係悪化に悩んで放火心中などすると思うか」 「……たしかに」  飯島は、指摘されてはじめて納得、というふうにうなずいた。 「じゃあ、矢沢はどういう理由で彼が自殺したと」 「自殺じゃないね。呪いだと思う」 「呪い?」 「そうだ。呪いだ……おっと」  中央のレーンから猛スピードで追い抜いてきたポルシェが、急な車線変更ですぐ前に割り込んできたので、矢沢はブレーキとハンドル操作でそれをかわした。 「この野郎、危ない運転しやがって」  会話を中断した矢沢は、中央車線に移動するなりアクセルを踏んで、いま追い越したばかりのポルシェと併走した。  左ハンドルのポルシェを運転していたのは、キャップをかぶり、ミラーグラスをかけた若い男のようにみえた。そのドライバーは、わざと速度を調整して矢沢の車に追いつかせると、窓ガラス越しに中指を突き立てて挑発し、それから一気に加速して、前方へすっ飛んでいった。 「このやろー」  あっというまに小さくなっていくポルシェの後ろ姿を見ながら、矢沢が罵《ののし》った。 「人をナメた運転しやがって」 「よせって、矢沢」  いまにも追いかけていきそうな矢沢を見て、飯島が戒《いまし》めた。 「相手はポルシェだぞ。この車じゃ勝負にならんよ」 「わかってるけど」 「おまえのほうが後ろの車をイラつかせるような走行になっていたんじゃないのか。話に夢中になっていて」 「まあ、そうかもしれない」 「事故はごめんだぜ」 「わかったよ、気をつける」  矢沢は気持ちを落ち着けて、飯島にオーケーサインを出した。 「それで? 話をつづけてくれよ」 「もう学校もクビになったことだし、隠さずにすべてをぶっちゃけることにする」 「ああ、ぶっちゃけてくれ。いまとなっては遅いくらいだが」  飯島にうながされ、矢沢はコホンと咳払《せきばら》いをひとつして本筋に入った。 「小林の父親がおまえに、三年前、名古屋でかつてのおれの教え子八木沢奈美絵が焼け死んだ事件を持ち出しただろう」 「ああ」 「その出来事の直後、当時名古屋の学校に勤務していたおれが、急に学校を替わったということも」 「うん」 「おかしいと思わなかったか」 「何が」 「情報が詳しすぎるってことに、だよ」 「そうかな。巴恵のオヤジさんは、娘をたぶらかした矢沢拓己という男を徹底的に調べ上げるために、全力を挙げて調査をかけたんじゃないかな。独立で調べたと言っていたが、じつは探偵事務所にも依頼して」 「その結果、過去におれが勤めていた学校で、つぎつぎに女子生徒と関係を結んでいたという事実を突き止めた、というところまではわかる」 「やっぱりそうだったのか」 「まあね」 「とんでもない男だな」 「本筋から脱線して、説教タイムにするかい」  矢沢は、銀縁眼鏡の奥から皮肉っぽい視線を横目で飯島へ投げかけた。 「説教タイムにする時間はもったいないからやめておくが」  飯島は硬い表情で言った。 「矢沢がやってきたことに感心しないのは事実だ。それだけは言っておく」 「まじめな先生だねえ、飯島宏は」  矢沢はハンドルに手をかけたまま、肩をすくめた。 「おまえも高校教師だろ。そのメリットをもっと図々《ずうずう》しく生かせよ」 「なに言ってるんだ」 「ピチピチの女子高生を間近にして、欲情しないのか」 「下劣なことを言うもんじゃないよ」 「へーえ、信じられないね。どこか身体が悪いのと違うか」 「矢沢こそ、どこか頭がおかしいのと違うか」 「はっはっは」  矢沢は乾いた笑い声をあげた。 「無理すんなよ、飯島。もっと男の本能に忠実に生きたらどうだ」 「おまえと違って、ぼくには女房子供がいるんだ」 「いなけりゃ、生徒と関係するかい」 「………」 「あはははは。ほらな」  矢沢はまた笑った。 「いきなり口をつぐんじゃって、飯島先生も正直者だねえ。どうだ、自分の潜在意識がわかったかい。それが男ってもんだよ」 「ぼくには欲望を抑える理性がある」 「そんなつまらない理性なんて、とっぱらっちまえよ。そもそも最近の女子高生なんて、こっちが気を遣うだけムダだぜ。セックスなんて、手をつなぐ延長ぐらいにしか思っていないし、その相手がクラスメイトだろうが先生だろうが、エンコー相手の中小企業のオヤジさんであろうが、なんら気にしてないんだから。巴恵の父親みたいに、娘と先生の不純な関係を文句垂れてくる親はな、自分がやりたいと思ってる若い子とのお遊びを教師に空き勝手やられて嫉妬《しつと》しているだけなのさ」 「もういい」  飯島は憮然《ぶぜん》とした顔で、サングラスをまたかけた。 「そういう正当化の論法は、聞いてるだけでも不愉快だ」 「自分の潜在意識を探り当てられたら、そりゃ不愉快だわな」 「矢沢、みっともないと思わないのか」  飯島は声を荒らげた。 「巴恵をめぐって、教師でありながら男子生徒と三角関係になる。そういう自分をみっともないと思わないのか」 「思わんね。……もちろん、こんなおれにも保身本能があるからさ、小林に血相変えて迫られたときには、これはヤバイなとビビッたよ。でも、もう学校をクビになっちゃったんだから、カッコつける必要もあるまい。だから親友のおまえさんには、正直な気持ちを吐露しているというわけだ。  ついでに言っておくとな、おれが教え子|漁《あさ》りをするのは、若い身体に魅力を感じているからだけじゃない。それよりもっと重要なことがある。生徒は世間知らずのバカだからさ、そこがいいんだ。いっぺんつきあってみな。可愛いぜ。理屈ばっかりこねる大人の女が、いかにクソ生意気な存在かわかるから」 「それはおまえが幼稚な男だからだよ。幼稚な男には、同年齢の女は手に余る。それだけの話だろ」 「辛辣《しんらつ》だねえ」 「おまけに、自分で『教え子漁り』なんて言葉を使うとはな」 「それが実態なんだから、仕方ない。こういう楽しみがあるから安月給でもガマンしているんじゃないか」 「元々、それが目当てで教師の道を選んだとしか思えないな」 「そのとおりだよ。悪いか」 「もうわかったから」  飯島は片手を振った。 「それより肝心の話を先に進めろよ。こんな脱線は、おたがい不愉快になるだけだ」  飯島の言葉に矢沢は唇を皮肉っぽく歪《ゆが》めて笑ったが、すぐにその笑みを消して、八木沢奈美絵に関する物語に移った。 「いまから十年ほど前のことになるが、おれは琵琶湖畔の小さな女子高に勤めていた時期がある。そこで三年生のクラスを受け持ったとき、女子生徒ふたりと、同時に深い関係を持った。……ああ、そんなふうに、いちいちわざとらしいため息を洩《も》らさんでくれよ。話が遅くなるからな。それで、その女子高生だが、ひとりの名前が杉浦茉莉で、もうひとりが八木沢奈美絵だった」 「そこまでは、もう小林さんから聞いてる」  ますます不快そうな表情になって、飯島は言った。 「そのふたりは、どんな生徒だったんだ」 「どっちも地味でね。おまけに素朴だった。でも地味で素朴だからこそ、よかったんだな。先生との恋に純粋に憧《あこが》れちゃってね」 「しかし小林さんは、八木沢奈美絵はかなりの美少女だと言っていたが」 「美少女?」  矢沢は、前を向いたまま「へ?」という顔をした。 「どこが美少女だ」 「まあ、そういう細かいことはどうでもいい。それで、彼女たちにおたがいを意識させて、おまえをめぐってわざと競い合わせたのは事実だったんだな」 「まあね」 「結婚を匂わせたのは」 「茉莉にも、奈美絵にもね、それなりに」 「本気で結婚するつもりがあったのか」 「とんでもない。たんに夢を持たせるためさ」 「夢を?」 「そうだ。純朴な少女に、すてきな夢をみさせてやっただけだよ」 「責任をとるつもりもないのに、か」 「バカだなあ、飯島は。十七、八の女の子相手に、結婚という形でいちいち責任をとっていたら、たがいに迷惑だろうが。結婚ごっこが楽しいんであって、それが本物の結婚になったら、幼な妻なんて、もたんよ。いろんな意味でもたんよ」 「………」 「しょせん生徒と教え子の関係なんて、相手が卒業したらおしまいさ。その後腐《あとくさ》れのなさがいいんだよ。向こうだって、卒業後もクドクドと先生が追いかけていったら、新しい恋の邪魔になるだろうしな」 「そうじゃなくて、相手の女の子が成長していったら、おまえの人間性の愚かさがバレるから、矢沢拓己という男に幻滅するから、そうなる前に、自分を守るために関係を切っていったんだろう」 「たいした心理学者だねえ、飯島先生は」  矢沢はまた唇を歪めたが、否定はしなかった。そして、つづけた。 「それから時は流れ、七年ほど経ったときのことだ。そのころおれは名古屋の私立高校で教師をしていたが、ある晩、自分の部屋でのんびりと深夜のテレビを見ていたとき、突然、八木沢奈美絵から電話連絡があったんだ。おれの携帯にね。七年ぶりにその名前を聞かされたとき、懐かしいというよりも、あまりに唐突だったもので、驚きのほうが先に立ったよ。何事かと思ったね」 「で、どういう用件だったんだ」 「いきなり電話口で泣き出された」 「なに……」 「矢沢先生ですね、奈美絵です。八木沢奈美絵です。おひさしぶりでございます——そう言ったきり、突然、すすり泣きをはじめたんだよ」 「………」  あいかわらず車の窓からは灼熱《しやくねつ》の太陽が熱線を浴びせかけていたが、飯島宏はブルッとひとつ身震いをした。 「おまえさんは、小林の父親から、あたかもおれが八木沢奈美絵と卒業後も延々、関係を保ちつづけ、抜き差しならない状況に陥ったような話を聞かされたかもしれないが、それはまったく事実と違う。いま話したように、杉浦茉莉ともそうだが、八木沢奈美絵とも、彼女の高校卒業を機に、きっぱりと関係を絶ったんだ。だから、その後は年賀状のやりとりもしなかったし、こっちから転居や転勤の案内もしなかった。まして、新しい携帯番号など、彼女が知るはずもない。というのも、そのわずか三日前に、携帯電話の会社を変えて、まったく新しい番号に契約し直したばかりだったからだ。それなのに、新しい携帯に電話がかかってきた」  矢沢は、女子高生漁りのくだりを自嘲《じちよう》的に述べていたときと違って、完全に真顔になっていた。 「いったいどうしたんだ、と問いかけたら——いいか、飯島。いままで冗談めかしたことを言ってきたが、ここから先はオール・マジだぞ。そのつもりで聞けよ。おれは一切ウソはつかずに、すべてを話すつもりだからな」 「わかった」  うなずいてから、飯島は半袖《はんそで》のポロシャツから出た腕をさすった。 「そのつもりで聞くから、つづけろよ」 「私はすでに生霊《いきりよう》でございます——奈美絵はそう言った」 「生霊?」 「生きながらにして怨霊《おんりよう》となった生霊でございます。ですから、先生の連絡先も、誰にもきかずにわかったのです、とね」 「おいおい、おいおいおいおい!」  飯島は、やたらと声を張り上げた。 「そんな話は信じられないぞ」 「だから、いま言ったばかりだろう。これから先は、すべて真面目な話で、一切のウソや冗談は含んでいないと」 「しかし、生霊だなんて」 「もうそのときからはじまっていたんだよ」 「なにが」 「八木沢奈美絵の復讐《ふくしゆう》が……そして、現実にはありえない現象がおれに襲いかかってくる運命が、そのときからはじまっていたんだ」  そう言って、矢沢は震えた。  その震えが彼の手からハンドルに伝わったかのように、高速走行中の車が、一瞬、不規則に震動した。  飯島はその奇妙な震動をシートにつけた背中で感じたが、あくまでそれは錯覚だと思い、矢沢の話を聞くことに集中した。 「ああ、思い出すだけで脂汗が出る」  いつのまにか、顔をぬるぬると濡《ぬ》らしながら、矢沢はつぶやいた。 「だが、おれは決めたんだ。いまのうちにすべてを飯島、おまえに告白しておこうと。そうしなければならない、と」 「ちょっと待てよ、矢沢」  飯島は、苦しそうに胸に片手をやった。 「そんな微妙な言い方はするなよ」 「微妙な言い方?」 「まるで遺言を残すような言い方はさ」 「遺言ね……たしかに遺言になるかもしれないな」  矢沢は片手をハンドルから離し、手の甲で顔じゅうの汗をぬぐった。 「飯島、おれはな、八木沢奈美絵に呪い殺される気がしてならないんだ。巴恵親子のようにな」 「なんだって」 「小林の父親と巴恵の死は、無理心中なんかじゃない。奈美絵が呪い殺したんだ。そうでなきゃ、誰があんな幻影を見るものか。教壇の上に腰掛けて、足をぶらぶらさせていた少女なんかを……。錯覚なら、おれだけが見るはずだ。おれの頭が狂っているなら、おれだけに見えるはずだろう。でも、小林のオヤジも見たんだ。見たからこそ、恐怖のあまりベランダから空中に飛んだんだ」 「それじたいも、おまえの幻覚じゃなかったのか」 「そう解釈したっていいさ。でも、その直後に、なぜ小林は娘を道連れにガソリンをかぶって火だるまになって死んだんだ! それだって八木沢奈美絵の呪いなんだよ。そしてその呪いは、あの日からはじまっていたんだ! あの日からだ。奈美絵の生霊が、おれに接触してきた日からだ!」 「危ない!」  飯島は叫ぶと、助手席から片手を伸ばし、ハンドルを取った。  興奮する矢沢は、車がいつのまにか真っ直ぐ走っていないことに気づいていなかった。車は時速百二十キロを保ったまま、追い越し車線から中央車線へ、そこからまたいちばん左の走行車線へと斜めに突っ走り、ほかの車の横腹に二度、突っ込みそうになった。  飯島が必死にハンドルを操作したが、矢沢もガッチリとハンドルを握って放さないため、高速のまま車はS字型に蛇行をはじめた。 「放せ、放せ、矢沢、ハンドルを放せ!」  飯島がわめいた。 「取れない!」  矢沢が大声で言い返した。 「ハンドルから手が取れない」 「じゃあ、アクセルを緩めるんだ」 「足が突っ張ったまま動かないんだよ」 「ふざけるな。死にたいのか!」 「きてる、きてるきてる」 「何が」 「八木沢奈美絵が、ここにきてる」 「ふざけんな」  飯島は、とっさの機転で、ハンドルを握る矢沢の片手に噛《か》みついた。食いちぎるほどの勢いで噛みついた。 「いてーっ!」  叫ぶのと同時に、矢沢は両手をハンドルから放した。アクセルを踏んでいた足からも力が抜けた。 「どけっ!」  飯島は助手席から完全に身を乗り出し、矢沢に覆いかぶさるような格好で運転を代わった。  必死になって揉《も》みあうふたりの男は気づいていなかった。そのとき、バックミラーに少女の姿が映っていることに。セーラー服を着て、前髪で表情を隠したまま悲しげにうつむいている少女が、後部座席に座っていることに—— [#改ページ]   十一 湖の見える町へ[#「十一 湖の見える町へ」はゴシック体] 「すばらしい車に乗せてくれるのはうれしいけど、あんまり飛ばしすぎないでくれよな。こんな大事な時期に、交通事故で死にたくはないから」 「わかってるよ」  ニューヨーク・ヤンキースのキャップをかぶり、車と同じブランドのミラーグラスをかけて真っ赤なポルシェを運転するマナミは、火のついていないタバコを唇の端にくわえたまま答えた。 「遅いくせに、いっちょまえに追い越し車線にチョロチョロしてる車がいたもんだから、ちょいイラついただけ」 「それにしても、挑発の仕方も、飛ばし方も、もろ男だな」  助手席のシートにもたれた旭は、感心した眼差《まなざ》しを運転席に座る元恋人に向けた。 「それにサングラスをかけたときの横顔も決まってるし」 「ホメてくれてるわけ?」 「そういうことになるだろうな」 「人の顔をホメるヒマがあったら、タバコに火を点《つ》けてくんない?」 「やだよ」 「なんで」 「狭い車内でタバコを吸われたくないんだ」 「だけどこれ、あたしの車だよ。あたしのポルシェよ」 「わかってるけど、いやなものはいやなんだ」 「朝っぱらから人を叩《たた》き起こしておいて、こんなクソ暑い日に東京から琵琶湖まで運転しろと命令して、それで何時間ものあいだ、タバコを一服も吸わせてくれないわけ?」 「サービスエリアで停めたら、そこで吸わせてやるよ。車の外でな」 「吸わせてやる? このあたしに許可制?」 「車内でモクモクやられたら気持ち悪くなるんだ」 「軟弱なヤツ」 「どうぞ好きに言ってください」 「昔、あたしとつきあってたときは吸ってたくせに。チョーヘビだったのに」 「なんだよ、チョーヘビって」 「超ヘビースモーカー。アキラのアパートに行くと、いっつも部屋の中が視界ゼロだったじゃん、タバコの煙で」 「そういうこともあったね。でも、いちどやめたら、あんなまずいもの吸えたもんじゃない。考えただけでオエッともどしそうになる」 「禁煙は、彼女の命令?」 「いや、茉莉も吸うよ。むしろおれがやめさせようとしてるぐらいだ」 「なんで禁煙なんて不細工なことするのよ」 「健康のためさ。自分だけじゃなくて、家族の健康のため」 「家族?」 「生まれてくる赤ん坊のため、とかね」 「アホかよ」  くわえたタバコを上下させながら、マナミは苦笑した。 「アキラはきっと、いいマイホームパパになるよ」 「そうかな」 「じゃ、もういいや。タバコとっちゃって。この格好で話してたんじゃ、腹話術師みたいなしゃべりになるから」  マナミに言われて、旭は片手を伸ばしてマナミの口からタバコを抜き取った。 「どこに置く?」 「ちょっとくわえてみて」 「なんでだよ」 「いいから」 「おれはタバコやめたんだぜ。禁煙中っていうより、もう一生吸わないんだから」 「吸ってたころのアキラのイメージを思い出したくてさ」 「そんなもの、思い出さなくてもいいよ」 「いいから、さあ」  マナミに何度もうながされて、旭はマナミの口から抜いたタバコをちょっとだけ唇にはさんだ。 「あははー、四年ぶりの間接キス」  ミラーグラスをキラリと光らせながら、マナミは旭のほうを向いて笑った。  男に変身したはずのマナミが、女っぽい笑顔を浮かべていた。ミラーグラスに隠れてわからないが、その奥の瞳《ひとみ》は、もっと女らしい輝きを放っているような気が、旭にはした。 「……はは」  なんとも複雑な笑いを、旭は返した。 「じゃ、もういいから、灰皿に入れちゃって。……ほら、早くってば」  こんどは、旭のほうがいつまでもタバコをくわえているので、マナミが手を伸ばして彼の口からそれを抜き取り、一度も火を点けないまま灰皿にねじ込んだ。  微妙な間《ま》が、あった。 「それでさ、茉莉さんのことなんだけど」  表情を改めて、マナミがきいた。 「もう一回、アキラが見たものを話してくれる」 「ああ」  灰皿に押し込まれたタバコのフィルター部分に目をやっていた旭は、我に返った表情で前方の景色に向き直った。 「どこからリピートしようか」 「トイレをドンドンドンってやられたところまではわかったから、そのあと、寝室に行ってみたらってところ」 「何度も繰り返し思い出したくないんだよなあ」 「でも、彼女がしゃべりはじめた重要な場面でしょ。茉莉さんの身体に乗り移った八木沢奈美絵がしゃべりはじめた……。そこをもういちどしっかり聞いておきたいの」 「わかったよ」  気合いを入れるための深呼吸を一度してから、竹下旭は、あの夜の出来事をもういちどマナミに語りはじめた。そのときの光景を、まざまざと脳裏に思い浮かべながら……。     *  *  *  寝室のドアを静かに引き開けると、キッチンの明かりが暗い室内に扇形に流れ込んでゆき、タオルケットにくるまれて、向こうむきにベッドに横たわる茉莉の姿が浮かび上がってきた。 (寝ている……ぐっすりと)  その状況に、トイレでのパニックの余韻を引きずっている旭は、拍子抜けした。 (茉莉は、寝たままだったのか。じゃあ、いまトイレのドアを外からたたいたのは何者なんだ)  と、考えたときだった。 「私よ」  旭の思考を読み取ったように、返事をする声がした。  一瞬、どこから聞こえてきたのか、わからなかった。  が、その直後、いきなりもっこりとタオルケットが膨らんで、そこから真っ黒な手がはみ出してきた。そして、手がしゃべった。 「私よ」 「………!」  説明のつかない現象だった。  パンティ一枚だけを身につけて、上半身裸のまま眠っている茉莉は、タオルケットの上に白い二の腕を出して眠っていた。その腕とは別に、タオルケットの中ほどから、一本の黒い手がにょっきりとはみ出してきたのである。しかも声を出した。  そして、その手は何かを探るようにシーツの上で五本の指をもぞもぞと動かしていた。 (やっぱり……化け物だ)  せっかく幻覚から醒《さ》めたかと思ったのに、また新たな幻影を見せられ、旭はその場に棒立ちになった。 (タオルケットの下に、何がいるんだ) (怖い。見たくない。この部屋から逃げ出したい) (いや、このままではいつまで経っても黒い魔物から逃げられないぞ。見るんだ。勇気を出して、タオルケットを引っぺがせ!)  弱気の自分と、強気の自分が交錯した。  そして最後に強気の自分が勝ったのは、得体の知れない化け物と茉莉とをいっしょにしておけない、という恋人に対する保護本能からだった。  旭は、意を決してタオルケットの端に手をかけた。そのとき、動きを察知したように、黒い手がスッと中に引っ込んだ。  一瞬遅れて、旭はタオルケットを宙に躍らせる勢いでベッドからはぎ取った。 (え……?)  ない。  何もなかった。  消失マジックを見るように、もぞもぞと動いていた黒い手が、一瞬のうちに消えてしまった。その代わり、茉莉の身体が起きあがった。  まったく手を使わず、脱力したままの上半身が操り人形のごとくスーッと引き起こされた。目もまだ閉じたままだった。 (出る……)  旭は緊張で身を硬くした。 (またアレが出る)  ベッドの上に裸身を起こした茉莉は、ゆっくりと旭のほうに向きを変えた。そして、目を閉じたまま口だけを動かしてしゃべりはじめた。 「こんにちは、竹下さん。トイレを開けてもらえなくて、淋《さび》しかったわ」  今回も茉莉の声ではなかった。 「誰だ、おまえ」 「私とセックスした気分は、どう?」 「答えろよ、おまえは誰なんだ」  旭の声は恐怖で一オクターブぐらい高くなっていた。 「茉莉じゃないんだろう。茉莉の中に、茉莉じゃないものが入り込んでしゃべっているんだろう」 「そのとおりよ」 「名前を言え」 「八木沢奈美絵」 「ヤギサワ……ナミエ? どこの誰だ」 「朝になったら、茉莉にききなさい」 「もしかして、おまえが……」  茉莉の昨日の出来事を思い出し、旭はきいた。 「茉莉の瞳《ひとみ》をのっとった女か」 「よくわかったわね」  と答えるのと同時に、バチンと茉莉の両眼が開いた。  明らかに違っていた。  薄暗い空間でも旭にはハッキリとわかった。それは、本来の茉莉とは違った意志を持った瞳だった。 「私は八木沢奈美絵」  また繰り返した。 「茉莉のせいで自殺した哀れな女。茉莉のせいで黒焦げになってしまったみじめな女」 「茉莉がおまえに何をしたというんだ」 「さっきと同じ質問ね」  茉莉に取り憑《つ》いた八木沢奈美絵は、トイレのドアを開けようとした張本人であることを認める発言をした。 「これだけはハッキリ言うけどな」  震えながら、旭は言った。 「茉莉は、誰かを死に追いやるような子じゃないぞ」 「あははは」  茉莉の顔をして、茉莉ではない瞳と声を持った女が、冷たい笑い声を響かせた。 「恋する者は何も見えなくなるというけれど、そのとおりね。第一、あなたに何がわかるというの。そもそも、茉莉自身が私を死に追いやったことを自覚していないんだから、あなたにわかるはずがないじゃない」 「だったら、彼女のせいにするのは間違っているだろう」 「いいえ、あの子のせいよ」  瞳が怒りで光った。 「自覚していようといまいと、あの子のせいよ。杉浦茉莉のせいで私は死んだ」 「だから、そのいきさつを話せ」 「必要ないわ。あなたが知る必要はない」 「だったら、なぜおれに語りかける。なぜ、茉莉が眠っているときに、そうやっておまえは出てくるんだ」 「まだわからないの?」 「こんな突拍子もない状況を理解しろといったって無理だろう」 「竹下さん、あなたはバカ?」 「なに」 「頭が悪いかどうかをたずねているの」  茉莉ではない瞳が、薄暗い部屋の中で旭をじっと見据えた。 「おれはバカじゃない。それが答えだ」 「……そう。お気の毒に」 「何が、お気の毒に、だ」 「自分の無能ぶりに気づかない愚かさを、憐《あわ》れんであげたのよ。あなたも他人を自殺に平然と追い込む、バカで鈍感なやつらと同じ人種だということがよくわかった。茉莉に恋するわけだわ。バカ同士、鈍感同士でね」 「出ていけ!」  真夜中という時刻を承知で、隣近所からクレームがくるかもしれないことを承知で、竹下旭は大声を張り上げた。 「茉莉の身体から、出て行け!」 「無理」  興奮する旭とは対照的に、冷静な声で相手は答えた。 「もう茉莉の身体と融合してしまっているから無理」 「いや、おれは絶対におまえを追い出してみせる。大好きな茉莉をのっとらせるわけにはいかないんだ」 「だから、どこまでバカなの、あなたは」  また相手は笑った。 「あなたが茉莉に恋をした段階で、すでに彼女の半分以上は私にスイッチしていたのよ」 「なに……」 「あなたは茉莉のどこに恋をしたの」 「どこにって……」 「言ってごらんなさいよ」 「ぜんぶだ。茉莉のぜんぶが好きになった」 「そういうゴマカシは、自分のためにならないわ。真実と直面しなさい。茉莉の何に最初に惹《ひ》かれたの? 少なくとも胸じゃないわよね」  茉莉でない瞳をしたものが、決して大きいとはいえない茉莉の乳房を下から両手で持ち上げ、手のひらで重みを量るしぐさをした。 「ペチャパイでもないけど、巨乳でもなし。少なくとも服の上から男の目を惹きつけるほどのものではないわね」  客観的にみれば、茉莉が自分の手で乳房をさわっている光景だが、いまの旭にとっては、茉莉の身体が他人に愚弄《ぐろう》されている気がした。 「性格だよ」  旭は答えた。 「茉莉の人柄が好きになった」 「どこまで自分をごまかすのよ。最初は顔だったくせに」  相手は、辛辣《しんらつ》な口調で断定した。 「あ、いい女だな——そこからはじまったんでしょ。顔がきれいだから、茉莉に惚《ほ》れたんでしょ」 「………」  図星だった。 「だけどね、そもそも、その段階からすでに私の顔なのよ」  相手は自分の顔を指さした。 「茉莉はノーテンキに自分がきれいになっていくと喜んでいるけれど、それは彼女の脳の中に入り込んだ私が疑問を持たせないようにしているだけ。それから彼女が何度か勤め先を変わっているのも、周りの人間に大きな変化を気づかせないため」 「それじゃ、茉莉はおまえに操られているようなものじゃないか」 「実際、そうなのよ。ただ、茉莉が起きているときは彼女の意識が邪魔をするから、静かにしているだけ」 「そんなことはありえない」 「どういうふうに、ありえないの?」 「化け物に取り憑かれて美しくなるなんて、聞いたことがない。もともと茉莉は美人だったんだ」 「救いようのないバカね、あなたは」  もう相手は笑っていなかった。 「化け物に取り憑かれて美しくなるなんて、聞いたことがない、ですって? そんなのは、ただの怪奇映画の公式にすぎないのに。現実には、その逆もあるのよ。茉莉の顔はね、あなたが知り合う前から変わりはじめていたの。しかも、私が死ぬ前からね」 「おまえが死ぬ前から?」 「怨《うら》みがあまりにも強すぎると、生きていても霊になれるのよ。私の生霊が、茉莉の顔を徐々に変えていくことにした。美しく……より美しく」 「そりゃ美人になれて、さぞ茉莉も喜んだことだろうよ」 「本気にしていないのね」 「おれが何かの幻覚を見せられていることは認める。おれのパンツが黒くなったのも、タオルケットの中から黒い手が出てきたのもそうだろう。それから、おまえが茉莉ではない声でしゃべり、茉莉ではない瞳《ひとみ》でおれを見つめていることも認める。常識じゃありえない現象が、いま起きていることじたいは否定しない。多重人格なんて甘いものじゃないことは、おれにだってわかる。だけど絶対に認められないのは、おれが恋した時点で、すでに茉莉の顔が茉莉のものではなかったという点だ。そんな話は認められない」 「意地を張るなら、お好きにどうぞ。後悔しても知らないわ。私があなたの前に現れた理由もわからないような男は、破滅あるのみ」 「破滅?」 「そう……破滅」  その言葉を最後に、八木沢奈美絵にスイッチした茉莉は、ふたたび力を失ってベッドに横になった。  何度呼びかけても、何度身体を揺すっても、すぐに目を覚ますことはなかった。朝になるまでは……。     *  *  * 「まず大前提として、あたしはアキラを百パーセント信じてるからね。いつだって。それを忘れないで」  ポルシェの助手席に座る旭が、茉莉のスイッチ現象を体験したことを話し終えると、マナミはミラーグラスをかけた顔を旭に向けて言った。  太陽がそのレンズに反射し、そこに歪《ゆが》んだ自分の顔が映っているのを旭は見た。最悪の顔をしている、と思った。  その自分に向かってしゃべる感じで、旭はきいた。 「百パーセント信じる、っていうニュアンスは?」 「つまり、アキラがウソをついたり、オーバーな話をしているとはまったく思っていない、ってこと」 「そう言ってくれると助かるよ。ほんと、助かる」  旭は本心から感謝した。あの晩、自分が体験したこと、見たことを人に話したところで、とうてい信じてもらえる内容ではないからだ。そもそも、当の茉莉からしてそうだった。そのことを、マナミも確認してきた。 「で、スイッチした茉莉さんの状況を本人には話したの?」 「朝、彼女がふつうに起きてからね」 「反応は?」 「マナミのように、すんなり信じてはくれなかった」 「そりゃそうだよ。あたしにとっては他人事《ひとごと》だけど、茉莉さんにとっては自分の話だからね。自分が寝ている間に別人になっていたなんて、かんたんに信じられるわけがない」 「まったく、これほど納得させるのに苦労するとは思わなかった。いまでも茉莉は納得していないし、たぶんこの事実を受け容《い》れさせるのは永遠に無理だろうな」  旭は、長い吐息をポルシェのフロントガラスに吹きかけた。  おまえは眠っている間にこういう行動をとったんだぞと言われても、寝言程度ならまだしも、もっと具体的にしゃべったり、まして歩き出したりしたなどと言われれば、人はその話を頑《かたく》なに否定するに決まっている。最初のスイッチ現象のときもそうだったが、二度目の茉莉は、とりわけ頑強に旭の言い分をウソだとはねつけた。  彼の伝えた内容がショッキングなものだっただけに、話の途中で茉莉はついに泣き出し、涙でぐしょぐしょに濡《ぬ》れた顔で、ヒステリックにこう叫んだのだ。 「そんなの、ぜんぶアキラの作り話よ! きっと私の頭をおかしくするために仕組んでいるんでしょ!」  その状況を語ると、マナミは無理もないというふうにうなずいた。 「あたしが彼女の立場に置かれたら、やっぱり同じように叫んじゃうと思うな。だって、眠っている間のことは絶対に本人にはわからないもんね」 「だよな」 「そういえばね、アキラにいままで言わなかったけど、あたしにも身体の秘密があるんだよ」 「どんな?」 「じつはね……」  追い越し車線の前方を行く車をパッシングライトで追い立てて脇へどかせ、一気に加速しながらマナミは言った。 「あたし、毎日必ず一回は失神するの」 「え?」  旭は顔色を変えた。 「毎日、失神する? ほんとかよ」 「うん。いままで黙ってて、ごめんね」 「おれとつきあっているときは、そんなこと一度もなかったじゃないか」 「ううん、あったけど隠してた」 「ウソだろ」 「……っていうか、生まれたときからかもしれないんだ。この発作は」 「おまえ、そんな大事なこと、なんでおれに言わなかったんだ」 「言ったら、きらわれると思ったから」 「冗談じゃない。おれをそんな冷たい人間に思ってたのか。医者へ行けよ、医者へ。第一、そういう持病があるんだったら、運転なんかすんな、危ないから。おれが代わろう」 「アキラにポルシェを運転させたほうが、よっぽど危ないよ」 「いいから、早く脇へ車を寄せろ」 「あはは」  あわてる旭を横目で見て、マナミは笑った。 「なんだよ、なにがおかしいんだ」 「アキラって、やっぱりいい人だね」 「は?」 「たしかにあたしは、いまでも一日最低一回は失神するよ。それを世間では『眠る』っていうらしいけどね」 「………」  旭はしばしポカンとした顔をして、それから怒りだした。 「おまえ、そういう悪い冗談はよせよ。本気で心配しただろ」 「ごめん、ごめん」 「眠ることを失神すると言うんだったら、おれだって毎日失神してるよ」 「だからね、そこを言いたかったわけよ」  マナミは、笑いを消して言った。 「誰もこんな捉《とら》え方はしないかもしれないけど、睡眠と失神は本質的に同じものなんだよ。意識を失っているっていう点ではね」 「またマナミらしくない、難しいことを言うんだな」 「ちっとも難しくないってば。眠ることは、イコール、気を失うことなんだ。失神は精神的ショックや物理的ショック、それに貧血や飲みすぎなんかが原因でも起きるけど、睡眠は眠気によってゆるやかに起きる失神の一種」 「まあ、そう言えなくもないけどな」 「失神は自分を失うこと。ということは、眠っている間も、やっぱり自分を失った状態、ってことなんだ」 「そんなことはないさ。寝ていても自分は自分だ」 「違うと思う」  ヤンキースのキャップをちょっと持ち上げて、マナミはつづけた。 「熟睡している自分の姿は、誰も自分ではわからない。寝言ぐらいは言ったかなという覚えはあるけれど、眠りながら笑ったり、泣いたり、しゃべったり、ベッドの上に起きあがって目を開いたって、自分じゃそれに気づかないことがある。誰かがそばに寝ていて、こうだったよ、と教えられてはじめてわかるんだよね、そういうのは」 「まさか、起きあがって目まで開けたら、自分でその事実に気づかないことはないよ。茉莉の例は特殊なんだ」 「ううん、そう思い込んでるだけだとあたしは思う。だから、あたしはぜんぜん自信がないんだよね。自分が寝返りとか寝言以上のことを絶対やっていない、って言い切れる自信ないもん。熟睡している間に、勝手におしゃべりしたり、立ち上がってどこかに行ったりしていないって、否定しきれないもん」 「………」  おもわぬマナミの発言に、旭は複雑な表情になった。 「眠っているときの自分は、空っぽなんだよ」  マナミはつづけた。 「だからそこに、するりと入り込めるものがある。それが強烈な霊魂。……ただし、霊魂といっても死者の霊に限らず、生きている人間の霊も入る」 「おまえまでそういうこと言うのかよ」  旭は、スイッチした茉莉から聞かされたのと同じ論法をマナミも言いはじめたので、顔をしかめた。が、マナミはかまう様子もなくしゃべりつづける。 「人に怨《うら》みを買っている人間は、眠って自分を失っているときがいちばん危ないんだ。そこにパッと怨霊《おんりよう》に入り込んでこられる隙がある。そして、いったん怨霊が組み込まれると、そいつは宿主が寝ている間に活動し、起きている間もその宿主の改造に取り組む」 「改造?」 「そう、いろんなパーツを自分のものにスイッチして、やがて完全にその身体をのっとるために」 「たのむよ、マナミ。なんか知らないうちに、マジになっておまえの話を聞いてしまうじゃないか」  ポルシェの助手席で、旭はゾクッと身をよじった。 「だけど、なんでそういうことがマナミにわかるんだ。おまえ、いつからオカルトの専門家になったんだよ」 「オカルトの専門家じゃないけど、あたしもアキラと別れてからいろいろあってさ。自殺願望の毎日を過ごしたことがあるんだよ」 「自殺願望?」 「そう」 「いろいろあったって、どんなことが」 「いろいろは、いろいろ」  無粋な質問はしないように、といった口調で、マナミは釘《くぎ》を刺した。 「別れたあとの話をきちんとしようと思ったら、このまま琵琶湖を通りすぎて鹿児島まで行っても終わらないから」 「そうか……」 「とにかくあたしも、一時期は本気で自殺を考えたんだよ。それだけは伝えておく」 「信じられないな」 「悩んで悩んで、悩みまくった末に自殺を考えるなんて、あたしのキャラに合わないと思ってるでしょ」 「少なくとも、そうやって男に変身したマナミを見てしまえばね」 「こうなるまでが大変だったんだよ」  ミラーグラスに隠れて目の表情までは旭に読めなかったが、マナミは少し切なそうな顔つきになった。が、すぐに元気な声に戻った。 「……ま、そんなわけで、けっこうズドーンと穴の底に落ち込むこともあったけど、いまはカンペキ元気。ただ、そういうピンチに陥った者だからこそわかるんだよ。自殺する人間っていうのは、死にたくて死を選んでいるんじゃないんだ、って……。そこをみんな誤解している。もしかしたら、自殺する本人も誤解しているのかもしれない」  マナミは言葉を強めた。 「生きたくて生きたくてしょうがないのに、生きるのがつらいから泣きながら自殺するんだ。生きつづけられない自分が情けなくて、思いっきり悲しくなって、暗くなって、自殺するんだ。最初から死ぬのが好きなヤツなんて、世の中にひとりもいない。誰だって楽しく生きたいんだ。人間としていちばん大切で、いちばん単純なそういう法則を、誰よりも痛感させられるのが、自殺をしようとする人間なんだよ。  でも、わかっていて、それができないから死を選ぶ。決して死にたくて死ぬんじゃない。消去法で、それしか残っていないから死を選ぶんだ。嫌々ね。嫌々やるんだよ、自殺っていうのは。だけど、そんなふうに思ったらあまりにも自分がみじめすぎるから、積極的に死を選んで、哲学的に人生とサヨナラするつもりになって、最後の一線を飛び越えていくんだ。  それをさ、そういう真実が見えていないヤツらが多すぎるんだよ。とくに自殺した人間のことを、『周りに迷惑をかけて』とか『命の尊さをわかっていない』なんて批判するヤツ——そういうおめえらが、いちばんわかってねえんだよ!」  マナミはこめかみに静脈を浮かせて、拳《こぶし》でハンドルをガンと叩《たた》いた。  その勢いに驚いて旭がマナミを見つめると、ミラーグラスの脇から涙が一筋こぼれ落ちていくのが見えた。 「……重いな」  旭としては、そうとしか言えない。 「だからね」  マナミは少し興奮を鎮め、鼻声で言った。 「だから、死んでからものすごく後悔する人間がいる。もういちど生身の身体を取り返したいと思う人間がいる。そのことは、あたしにはよくわかるんだ。そして、どうせなら自分を自殺に追い込んだ憎いやつに取り憑《つ》いて、そいつの人生を奪い取って、すべてを自分にスイッチしたいと思う。復活と復讐《ふくしゆう》の一石二鳥……」  マナミがしゃべり終えると、沈黙が車内を包んだ。  旭は、マナミがはじめて明らかにしたエピソードに、少なからぬショックを受けていた。そして黙りこくったまま、行く手の路面を見つめ、考えごとにふけりはじめた。  その間も、マナミが運転する真っ赤なポルシェは灼《や》けるような日射しを浴びながら名神高速を西へ進み、琵琶湖のすぐ東に位置する米原ジャンクションで北陸自動車道と分かれ、琵琶湖の南を走る形になった。  湖のある町へ——目的の近江八幡市が徐々に近づいていた。 [#改ページ]   十二 奈美絵[#「十二 奈美絵」はゴシック体]  かつての担任教師・矢沢拓己と恋人の竹下旭が、別々の車で自分の生まれ故郷へ向かっているとは夢にも思わぬ杉浦茉莉は、自分のマンションの部屋で、レースのカーテン越しにぼんやりと夏の空を見上げていた。  会社に行かなくてもよくなってから、まだそれほど日にちが経っていないというのに、自分が世の中から切り離された感覚になっていた。それは会社を休職扱いとなったことだけが原因ではなかった。むしろもっと大きなものがある。  それは、スイッチ——  自分が眠っている間に、別人にすり替わって起きている事実が、客観的に裏付けられてしまったからである。その瞬間から、茉莉は自分が「正常な世界」から「狂気の世界」へワープしたことを感じた。  旭から指摘を受けたときには、まだ信じなかった。彼が何かの理由で——もっとも疑っていたのは、かつてつきあっていた「整形マニア」の恋人に未練を残しているために——茉莉との関係を断ち切ろうとして、その言い訳づくりのために自分を異常者扱いしているのだと、本気で疑った。  それは決して被害妄想といった種類のものではなかった。旭が自分にくれるわけでもないゴールドのリングを隠し持っていたのを見つけたせいもあったが、なによりも、眠っている間におまえは別人になっているんだと恋人から二度も言われたら、その主張を信じるよりも、そこになにか悪意の計略があると勘ぐるのがあたりまえだった。  そして、旭が持ち出してきた話が茉莉にとってはあまりにも唐突であったために、もしもそれが作り話だとしたら、旭はなぜ八木沢奈美絵という名前を知り得たのか、という矛盾にも気づく余裕がなかった。  八木沢奈美絵——  その名前がいきなり持ち出されても、茉莉は「は?」という感じで、頭の中が疑問符だらけになるだけだった。  もちろん、奈美絵のことは記憶にある。あまり思い出したくない出来事に関連して、だ。それは近江八幡市の琵琶湖を望む女子高に通っていた時代のことだった。当時まだ二十代だった矢沢拓己という英語教師が自分たちの担任になったとき、茉莉も奈美絵も同時に彼に恋をした。高校三年のときだった。  カッコいい先生に憧《あこが》れる——それは女子高ならではの雰囲気の中で醸成された、独得の心理現象といってよかった。自分の心に芽生えた禁断の恋が、じつは教師の側から巧みに仕掛けられた罠《わな》の結果であると見抜く洞察力もなく、茉莉は自分の気持ちが担任に通じたと感じたときの興奮で、まさしく宙に浮くような気分になってしまった。  しかし、その実態は恋といったロマンチックなものではなく、教師専属の幼な妻として飼われるような立場で、茉莉は矢沢の思うままに弄《もてあそ》ばれた。身体も心も。  それでも自分が刹那《せつな》的な快楽のために遊ばれているのだという感覚は、当時の茉莉にはなかった。これが大人の恋というものなんだ、と、くる日もくる日も幸せに胸を弾ませながら、学校を終えると家には帰らず、矢沢の独り暮らしの部屋へ直行し、慣《な》れぬ手つきで夕食の献立などをこしらえていたのである。  やがて、矢沢が同じクラスの八木沢奈美絵とも同じような関係を持っていることに気づいたが、それは教師がふたりの女生徒のライバル心を煽《あお》るため、意識的に気づかせたということも見抜けなかった。  おそらく奈美絵も同じだったのだろう。ふたりは、自分のほうがより先生のお気に入りになれるよう、男の欲望が要求するところになんでも応《こた》えていった。どちらがより多くの日数、矢沢先生の部屋に泊まれるか、という競い合いもした。成人女性とはまともな交際ができない、小心者の男性教師の、鬱屈《うつくつ》した性の奴隷になっていることを、ふたりともまるで自覚していなかった。  ライバル同士となった茉莉と奈美絵は、どちらも同じように地味で、同じように無口で、同じように純朴で世間知らずの少女だった。だから女生徒|漁《あさ》りを趣味とする教師にとっては扱いやすく、すぐさまターゲットになってしまったのだった。  ふたりは同級だったが、親友と呼べるような関係ではなかった。かといって、「第一幼な妻」の地位を争う関係になっても、たがいを憎しみあうところまでは行っていなかった。それもまた彼女たちの素朴さを表わすところであったのかもしれなかった。  そんな教師との「おままごと」も、卒業と同時に関係がぷっつり切れてしまった。  女子高生から大学生へ、あるいは社会人へと成長した教え子は、矢沢拓己にとっては煙《けむ》たい存在でしかない。世間の知恵を身につけていく女は、彼にとっては自分の愚かさを糾弾されかねない危険な存在でしかなかったのである。  一方、杉浦茉莉のほうも「若気の至り」に気づき、自分のしている愚かさに目が醒《さ》めた。そして、できることなら青春の汚点を一刻も早く忘れたいと思った。  そう決断すると、茉莉は矢沢との関係を一切引きずらず、賀状を送るのもやめた。それは向こうにとっても願ったり叶《かな》ったりの状況だったらしい。また、奈美絵と共通の話題で連絡を取り合うこともなかったから、彼女がどうしているのか知らなかったが、矢沢との関係をつづけているという噂も耳にはしなかった。おそらく同じように、矢沢との縁を切ったのだと思っていた。  高校卒業から五年が過ぎ、十年が経とうとするころには、茉莉の記憶の中には矢沢教諭の存在はほとんど消えかかっていたといってもよかった。まして八木沢奈美絵については、その名前も顔も思い出すことはまったくなかった。  三年前、彼女が名古屋で悲劇的な死を遂げたというニュースすら、茉莉は知らなかった。なぜならば、矢沢教諭の記憶を完全に消すためにも、高校時代の友人とは意識的に接触をとらなくなっており、郷里の近江八幡市から東京へ出てきたこともあって、昔の仲間たちとの交流はほぼ完全に途絶えていたからだった。実家に送られてきたクラス会名簿の更新版なども、親に転送は不要だと言っていたほどだった。  そんな状況で高校卒業から十年が経ったいまになって、自分が寝ている間に八木沢奈美絵とスイッチしているだの、自分のせいで奈美絵が自殺をしただの言われても、最初は戸惑うしかなかった。  たしかに奈美絵とひとりの教師をめぐって競い合う時期はあったが、高校在学中ならばともかく、幼な妻ゲームが終了して何年も経てば、ライバルもなにもあったものではなかった。それなのに卒業後七年も経ってから、茉莉のせいで自殺をしたと怨霊《おんりよう》とやらに糾弾されても、原因が思い当たるはずもなかった。仮に当時のことで奈美絵が怨《うら》みを引きずる人物がいるとすれば、それは自分ではなく、矢沢教諭のほうであるはずなのだ。  しかも、旭が聞いたという「自分でない自分」の主張には、もうひとつ大きな疑問があった。八木沢奈美絵が茉莉の顔をのっとって、徐々に自分の姿に変えていっている、というところである。  なるほどこの数年、自分でも驚くほど美人に変身していっているのは事実だった。短期間で顔立ちが急激に変わってきたのだ。それに合わせてメイクも変えるから、他人から見た印象は、素顔以上に劇的なペースで変わっているといってよかった。しかし、それが八木沢奈美絵へのスイッチ現象だとするのは、無理がありすぎた。というのも、奈美絵は決して美人ではなかったからである。  高校時代の茉莉も目立たない女の子だったが、奈美絵はそれ以上だった。その奈美絵が大人になって、いまの茉莉のような美貌《びぼう》を得られるとは、とうてい考えられなかった。それこそ美容整形でもしないことには。  そうした背景があればこそ、恋人の旭が持ち出してきたオカルト現象の話は、別れ話を成立させるための小細工と思いたくもなったのである。もちろん、会長から指摘された虹彩《こうさい》紋様の変化という事実が、心の片隅にトゲのように引っかかっていたことはあったけれど……。  しかし、あまりにも旭がしつこいので、茉莉は昨晩、ひとつの実験を行なうことにした。旭のマンションではなく、自分の部屋でひとりで眠るとき、三脚で固定したビデオカメラを寝室に設置し、一晩中、記録を撮りつづけてみることにした。昨夜からけさにかけてのことだった。  そして、さきほどそれを再生してみて愕然《がくぜん》となった。  夜中の二時過ぎに突然起きあがって、杉浦茉莉に対する呪いの言葉を吐きつづけながら部屋じゅうを踊り狂う八木沢奈美絵の姿があった。茉莉自身の姿形のままで……。  ショックというかんたんな言葉では済まなかった。かといって、気を失うことも今回はなかった。衝撃の度合いがあまりにも強すぎて、身体中の神経が無反応状態になっていた。パソコンでいえばフリーズである。 (なぜなの……)  混乱した。 (なぜ私が奈美絵の霊に取り憑《つ》かれなければいけないの)  理由がまったくわからなかった。  そして、とにかく旭に連絡をとろうと、彼の携帯電話にかけた。電話に出られない、というメッセージが返ってきた。  矢も楯《たて》もたまらず、会社に電話をかけた。旭のデスク直通に。すると、女性社員が出て、竹下は三日間夏休みをとっております、と告げられた。そんなことは、まったく知らされていなかったのに。 (どうして……私に何も教えないで、どこへ行ったの、アキラ……)  打ちのめされる茉莉の脳裏に、まだ見ぬ旭の昔の恋人のイメージが勝手に浮かび上がってきた。  具体的な顔などなく、整形に整形を重ねたという話から連想して、透明プラスチックの仮面をかぶった得体の知れない女の像として、脳裏に浮かび上がってきた。 (だめよ、アキラ。こんなときに私を見捨てないで。昔の女のところになんか行かないで。奈美絵に……奈美絵に身体をぜんぶ奪われてしまいそうだというのに……)  そうした朝の衝撃を思い出しつつ、レースのカーテン越しに夏の青空を呆然《ぼうぜん》と見つめていた茉莉が、急に身体を二つに折った。突然、猛烈な吐き気に襲われたのだ。  身体の中で、何かがうごめいている感触——  これまで妊娠したことはないが、話に聞くつわりの症状とはまったく違う吐き気が腹の中で暴れ回っていた。内臓が何者かの手によってつかまれ、揺さぶられているような感覚だった。  トイレへ行こうと走ったが、間に合わなかった。内臓をつかまれる感覚から、内臓を引きちぎられる感覚に変わり、歩けなくなった。  強烈な痛みと違和感、そして嘔吐《おうと》感。洗面所のところまでようやくたどり着いたところで、茉莉は耐えきれずに吐いた。  真っ黒な液体が四方に飛び散った。粘土の高い液体は、排水口からすんなりと流れ落ちていかず、あっというまに洗面ボウルが黒い液でいっぱいになった。 (なんなの、これ!)  口元を押さえた手にも、ぬるぬると不気味なヌメリ気を持つ墨汁様の液体が付着した。  もう一度、強烈な嘔吐の波が押し寄せてきて、ふたたび茉莉は、真っ黒な液体を満たした洗面台にかぶさるように身を屈《かが》めた。  苦しむ彼女を、洗面台の鏡の中で、ひとりの少女が見下ろしていた。  セーラー服を着た八木沢奈美絵——  前髪を長く垂らしていたが、しかしはっきりと表情は見てとれた。おとなしそうな雰囲気で、女子高のクラスの中でも集団の中に埋没してしまいそうな無個性の、印象の薄い顔立ちだった。  だが、その瞳《ひとみ》だけは怒りに燃えていた。オレンジ色の炎が燃えていた。 (苦しめ)  絞り出すようなうめき声を洩《も》らす茉莉の耳に、その声が聞こえた。 (苦しめ。もっと苦しめ。私が経験した精神的苦痛に較べたら、そんなものはまだまだ軽いものだ)  記憶に残る八木沢奈美絵の声だった。 「うぐっ!」  喉《のど》の奥から声が出た。  いや、声ではない。何かが食道を胃から口元へと遡《さかのぼ》ってきて、それが声帯付近を圧迫して自然に出た物理的な音だった。  もう一回吐くことになるのだと思った。が、喉元まで込み上げてきたのは、液体ではなかった。 「ごえっ!」  ものすごい音を響かせ、茉莉は顔を真っ赤にして「それ」を吐き出そうとした。だが、なかなか出てこない。 「がっ……ごっ……ごっ……げっ」  こめかみに浮かんだ静脈がいまにも破裂しそうなほど膨らんだ。そして、胃がよじれるような苦しみに悶絶《もんぜつ》しかかったとき、そいつが喉を通過してきた。  手だった。  黒い手が、茉莉の口から出てきた。  前屈みになった茉莉は、恐怖で目を見開いたまま、自分の身体の中から現れた手の動きを見ているよりなかった。  たぶん右手だった。それがグイーンと一気に伸びて、肘《ひじ》のところまで茉莉の体外に姿を現した。焦げ臭い匂いで口中がいっぱいになった。  黒い手は、五本の指をくねくねと動かしながら宙をさまよい、ついで、洗面ボウルの中にたまっていた黒い粘液をすくいあげると、茉莉の顔にそれを塗りつけた。 「ご、ご、ご、ごごご……」  喉から伸びた黒い手に顔をつかまれたまま、潰《つぶ》れた悲鳴を発して、茉莉は後ろ向きに昏倒《こんとう》した。  鏡の中で、セーラー服の少女がうれしそうに笑っていた。  そして、奇妙なメロディをつけて歌い出した。 「鏡よ、鏡よ、鏡さん」  変則的なリズムとともに、首を左右に振る。  前髪が揺れる。 「鏡よ、鏡よ、鏡さん」  ラン、ラララ、ラン、と、どこからかコーラスも聞こえる。 「この世でいちば〜ん、きれいな女の人は誰ですか」  ソロで問いかけると、 「それは、そそそそ、それ〜は〜」  と、コーラスが追う。そして—— 「奈美絵さん、あなた様でございますー」  大合唱とともに、鏡に映っていたセーラー服の少女の顔が、一瞬にして美しい茉莉の顔に変わった。さらにその直後、二つの眼と、二つの鼻の穴と、大きな口だけがぽっかりと開いた、黒い人形の顔にスイッチした。 [#改ページ]   十三 結婚の予感[#「十三 結婚の予感」はゴシック体]  名神高速道路を時速百キロ以下に抑えて、ゆっくりと走行する車の運転席で、光線よけのサングラスをかけた飯島宏は、ときおり心配そうな視線を助手席に向けていた。  さきほどの蛇行アクシデント以来、飯島にハンドルを譲った矢沢拓己は、眼鏡もはずし、ポロシャツの襟元を広げて、リクライニングさせたシートにぐったりとした様子でもたれかかって目を閉じていた。顔に浮かんだ汗の粒が、車と相対的に移動する太陽の光を受けて、生々しくきらめいていた。  彼の精神状態が芳《かんば》しくないのは、さきほど大事故を引き起こしそうになったショックもあったが、より大きな原因は、やはり八木沢奈美絵にあった。彼女と自分との出会いの場所が、刻々と近づいてきているからだった。 「おい、もうちょっと行ったら多賀サービスエリアがあるから、高速を下りる前にそこで休憩をしよう」  同僚の体調を気にして、飯島が呼びかけた。 「そろそろ給油もしないといけないしな。メーターがエンプティに近づいてる」 「ああ」  矢沢は短い生返事をしただけで、まだ目を閉じていた。 「なあ、矢沢、いまさらこういう基本的なことをきくのもナンだが、いったい、きょうはなんのために琵琶湖まで行くんだ」 「おれと八木沢奈美絵が……同じ時間を過ごした場所だからだ」 「それはもう聞いてわかったが、どんな意味がある」 「もういちど十年前に戻るよりないんだ」  ヘッドレストに後頭部をこすらせるようにして首を窓の外に向けると、矢沢は薄目を開いてつぶやいた。 「昔の場所に立ってみないかぎり、いったいなぜ彼女があんな電話をかけてきたのか、答えが出てこないような気がするんだ。奈美絵とは卒業と同時にスッパリ縁を切ったというのに、七年も経って、なぜ怨霊《おんりよう》だ生霊だ、というおどろおどろしい電話をかけてきたのか、その答えが……」 「で、会ったのか」 「え?」 「八木沢奈美絵からその電話を受けたあと、おまえは彼女と会ったのか、ときいているんだよ」 「会おうと思った。誤解しないでほしいが、べつに奈美絵とまたつきあおうとか、そんな魂胆があったわけじゃない。とにかく、いまになって突然連絡をとってきた、その理由が知りたかった」 「彼女が接触してきた理由に、ほんとうに心当たりはなかったのか」 「ない」  その否定の返事だけは、きっぱりとしていた。 「まったくない」 「おまえが同時進行でつきあっていた、もうひとりの女子生徒……えーと、なんと言ったっけ」 「杉浦茉莉」 「うん、その杉浦茉莉とおまえの関係に嫉妬《しつと》して、ということはないのか」 「さっきも言っただろ、茉莉とも卒業と同時に別れた、と」 「その子は、いまどこで何をしているんだ」 「知らん」  またヘッドレストをこすりながら、矢沢は首を左右に振った。 「もう二十八ぐらいだから、結婚して平凡な家庭の主婦に納まっているんじゃないかな。なんせ、キャリアウーマンにはなりそうもないタイプだったから」 「それで? 八木沢奈美絵と会おうと思って、どうした」 「もうそのつぎの日に死んでしまったんだ。真っ昼間に」 「おまえに七年ぶりに電話をして、いきなり翌日にか」 「小林巴恵の父親は、おれに殺されただの、おれがらみの自殺だのとわめき立てていたが、警察の見立てでは、アパートの隣の部屋から出火した火事に巻き込まれた、ということだった。だが、昼間に逃げ出せなかったのはおかしすぎる。もしかすると、アクシデントに対応しきれない状況だったのかもしれない」 「というと?」 「病気だったのか、とも考えた。死にかけるような重病で、それで最後におれに会おうとしたが、運悪く火事に巻き込まれたとかな。だけど、そういう状況だったにしても、おれは奈美絵から、いまわの際に連絡をもらうような関係ではもはやなかった」 「その子は地味なタイプだと言ったな」 「ああ」 「もしかすると、高校時代のおまえとのつきあいが、人生でたった一度の恋だった、とは考えられないか。おまえはあっさり彼女を忘却の彼方《かなた》に押し流しても、彼女にとってはおまえが一生忘れられない存在だったとは」 「まさか。たとえあれ以降、彼女に本格的な恋愛体験がなかったとしても、おれは思い出の一コマに出てくる人物に過ぎなかったと思う。……なのに、それなのに奈美絵は、おれを糾弾するように化けて出てきた」  矢沢の胸が上下しはじめた。 「その理由がわからない。霊に取り憑《つ》かれる人間は、それなりにやましいところというか、心当たりがあるものだろう。だけど、おれにはないんだ。ほんとうにないんだ」 「しかし、おまえは彼女が焼死した直後に、名古屋の高校を辞めて、名古屋からも出ていったよな」 「ああ」 「その理由は、やっぱり奈美絵がらみじゃないのか」 「そうだよ。奈美絵が焼け死んだことを知って以来、夢をみるんだ。炎に包まれた奈美絵が、手招きしながらおれを呼ぶ夢を……。それをみるたびに、大声で叫んで飛び起きてしまう。その繰り返しに、精神的に堪《た》えられなくなった」  矢沢のこめかみから、汗が一筋垂れた。 「ほとんど誰にも番号を教えていなかった新しい携帯に電話があって、ひさしぶりの挨拶《あいさつ》が生霊になりました、という不気味な内容で、いかにもおれに怨《うら》みがあるかのような言い回し。そして翌日、火事に巻き込まれて死ぬ。そのニュースではじめてわかったが、いつのまにか奈美絵はおれのそばに引っ越してきていた——  偶然が重なったにしても、寝覚めが悪いとはこのことだ。そして、同じ悪夢の連続。はっきり言って、呪われていると思った。名古屋に住んでいる気分ではなくなった。部屋の中に奈美絵が化けてきそうな感じがして怖かった。学校を辞めたのも、奈美絵の霊が学校にまでくるような気がした。もちろん携帯番号も、すぐにまた新しいものに変えた。そして、できるだけ彼女の死に場所から遠く離れたかった」 「そこまで奈美絵の霊を本気で恐れていたのか」 「そのときは自分でも驚いた。自分自身の過剰な反応にな」  矢沢は、片方の指でまぶたを揉《も》んだ。 「あれから三年、勤め先と住まいを東京に変えて、名古屋での忌まわしい記憶もなんとか薄らいできたのに、こんどは自分がつきあっている女子生徒のオヤジが、娘とおれの関係を糾弾するのに、昔の出来事を調べ、おれの恐怖心を蒸し返すようなエピソードをつかんできた。どうしていまになって、と思ったが……しかし、最近になってだんだんわかってきたよ」 「なにが」 「ああ、あそこがサービスエリアの入口だぞ。左に寄っとけ」 「知ってるよ」  話の途中で、目を細めて方向指示をする矢沢に、飯島は苦笑いを浮かべながら言った。 「おまえと違って、ぼくは目がいいんだ。とっくに標識は読み取ってる。それより、話をそらすな」  車の速度をぐんと落とし、サービスエリアへの導入路へ車を寄せながら、飯島は質問をつづけた。 「最近になってわかってきたことって、なんだ」 「おれはおまえのクラスの小林巴恵と、いわゆる不適切な関係を持っていた。しかし、おまえにいい加減に結婚しろと説教されるまでもなく、四十の大台を前にして、頭の片隅に『結婚』の二文字がちらつく日が多くなってきたんだ」 「このあいだは、生涯独身主義を貫いて、教え子|漁《あさ》りに徹するようなことを言ってたくせに」 「強がりのウソもあった」  矢沢は正直に認めた。 「ホンネをさらすと、巴恵に対しては、それまでの女子高生遊びとは違って、彼女が再《さ》来年卒業したら、本気で結婚を考えようと思っていた」 「ほんとかね」  飯島は懐疑的に肩をすくめたが、矢沢は真顔でつづけた。 「この夏、グアムへ行く約束をないしょで交わしていたのも、婚前旅行みたいなつもりがあった。つきあっていた教え子と、そこまでしたことは過去に一度もなかった」  減速させるための急カーブに身体を引っぱられながら、矢沢はつづけた。 「おれだってバカじゃない。いくらグアムが近いからといって、海外にいっしょに出かければ、親にバレる可能性が大きいことぐらい承知していた。でも、そうなってもいいと思うところまで、気持ちが行っていたんだ。巴恵に対しては」 「ほんとかね、それにしては……」  サービスエリアの駐車場に入り、空いているスペースを探しながら、飯島は言った。 「父親の無理心中の犠牲という形で巴恵が焼け死んだとき、おまえは呆然《ぼうぜん》としてはいたが、愛する人間を失った悲しみにくれているというふうではなかったが」 「恐怖のほうが悲しみを上回っていたからだ。セーラー服の八木沢奈美絵が現れた恐怖の体験のほうが。それに、巴恵の死に方が……だからな、そこなんだよ、飯島」  倒していた助手席のシートを起こしながら、矢沢は言った。 「八木沢奈美絵は、七年ぶりにおれに電話をかけてきた翌日に焼け死んだ。そのときの奈美絵の心境など知るよしもないが、少なくとも、焼け死ぬという形は不本意だったろう。そして、小林親子がまさに奈美絵と同じ形の死に方をしたことに、おれはものすごく引っかかるものがあるんだ。だからこそ彼らの死は、父親による無理心中じゃなくて、奈美絵の霊が呪い殺したのだと考えている」 「なんで彼らが、おまえのつきあっていた女子高生に呪い殺されなければならないんだ」 「それが『最近になってわかってきたこと』なんだ。おれは小林巴恵に対して、はじめて結婚を意識した。その心の動きを、奈美絵の霊が読み取ったんだ。そして、おれの結婚を妨害しようとした」 「なんだって?」  空いている駐車スペースに車を突っ込もうとして、飯島はその動きを途中で止め、矢沢の顔をまじまじと見つめた。 「じゃあ、やっぱり八木沢奈美絵という子は、どこまでもおまえに恋をしていて、不本意な死を遂げたあとも、おまえの恋愛に嫉妬《しつと》しているというのか」 「いや、そうではないだろう。高校卒業後もおれのことを想いつづけていたなら、もっと早くに、もっとノーマルな形でアプローチがあってもいいだろう」 「そりゃそうだ」 「にもかかわらず、おれが今回の教え子とは結婚する可能性があったから、その子を焼き殺したんだ。その保護者ともども」 「………」 「いまとなっては、飯島、おまえに娘の件を相談しはじめたところからして、小林の父親もすでに取り憑かれていたのかもしれない」 「なんだって?」 「近江八幡市時代まで遡《さかのぼ》る、おれの教え子|漁《あさ》りの実態を彼が知ったのは、探偵事務所などに調査を依頼したんじゃなくて、奈美絵の霊が教えたんじゃないだろうか。……いや、彼の口を借りて、奈美絵の霊がしゃべっていたのかも。だからこそ、美少女でもない奈美絵のことを、美少女だと言ったのかもしれない」  あっけにとられて見つめる飯島をよそに、矢沢は一方的にまくし立てた。 「奈美絵の霊は、明らかにおれを怨んでいる。にもかかわらず、おれを怖がらせはするが、直接的な被害は、おれにはもたらさないんだ。たとえばセーラー服を着た女子高時代の姿で教室に現れ、小林のオヤジがベランダから飛び降りるという幻覚をおれに見させておれを失神させたのも、実際に巴恵親子が焼け死ぬ時間帯に、おれの明確なアリバイが成立するように気を遣ったからかもしれない」 「おいおい」  飯島は首を振った。 「おまえを怨んでいる霊が、ご親切にもアリバイ工作をしてくれたのかよ。おまえを容疑者に仕立てないために」 「そうとしか考えられない。もしも二年B組の教室でおれが失神状態で警備員に発見されていなければ、小林親子の放火殺害犯人として、警察の捜査線上のトップに浮かび上がっていたことは間違いない」 「それはたしかに言えるが……しかし、とんでもない発想だな。化け物がおまえのアリバイ工作をしてくれるなんて」 「そういう感想を抱くのも無理はない。だが、間違いなく奈美絵の霊は、おれと結婚する可能性のある女を殺しながらも、おれだけは安全地帯にいられるようにしている。そういう配慮をしているんだ」 「ということは、けっきょく奈美絵の霊がおまえの愛情を永遠に独占したがっているとしか思えないじゃないか」 「いや……よくわからないんだが……もっと違う目的があるような気がしてならない。まだまだおれに伝えたいメッセージがあるんじゃないだろうか」 「奈美絵の霊が、おまえの前にまた現れる可能性が?」 「あると思う」  矢沢は硬い表情でうなずいた。 「その前に、彼女の目的をつかむために、あの子とそれなりの深い交わりを持っていた時代にタイムスリップしてみようと思ったんだ。十年の時間を遡るのは無理だが、思い出の場所だけは訪ねてみようと……。それから、今回の旅にはもうひとつ目的がある。墓参りだ」 「墓参り?」 「奈美絵の両親が健在なら、彼らを訪ね、かつての担任として挨拶《あいさつ》したうえで、墓参りをさせてもらおうと思っている」 「慰霊か」 「そういうことだ」 「それは悪くないアイデアだな」  飯島は、こんどは納得の同意をした。 「これだけおまえに妙な出来事が起こって、その大もとが八木沢奈美絵という女にあるならば、彼女の墓前で真摯《しんし》に冥福《めいふく》を祈るのは必要なことだろう。ただし、矢沢拓己の友人として、ぼくにも言いたいことがひとつある」 「なんだ」 「おまえ、本気で怨霊《おんりよう》の存在を信じているのか」 「一般論としては、ノーだ。幽霊も宇宙人も信じない。だけど、自分の身に起きたことに限定するならば、答えはイエスだ。いや、信じるとか信じないではなく、事実として受け容《い》れざるを得ない」 「だったら、ひとつアドバイスをさせてくれ」  飯島はハンドルの上に両手を載せ、助手席の矢沢に顔だけ向けて言った。 「四十を前にして結婚観が変わってきたとは知らなかったが、これから先も、いままでどおりの独身主義を貫け」 「なに?」 「矢沢拓己は、生涯独身主義を貫くべきだと言ったのだ」 「へーえ、驚いたな」  矢沢は、眼鏡を外したせいで細くみえる目をさらに細めて飯島を見つめた。 「独身の中年男という存在に偏見を抱き、結婚しなけりゃまともな社会人じゃないみたいな言い方をしていた飯島が、いったいどういう風の吹き回しだ」 「ぼくもおまえと同じように、一般論として怨霊の存在など信じない。また、おまえと違って、今回の出来事に関しても、セーラー服の少女などは、いまだに矢沢の精神的な問題ではないかという気が半分以上はしている」 「まあ、理論派のおまえさんなら、そういう解釈に到達するのも当然だろう。いまさらそれを聞いても怒りゃしないがね」 「けれども、それでも理屈を超えた不吉な予感がする」 「……というと」 「これから先、どんな女性に恋をしようと、結婚はするな」 「なぜ」 「結婚をすれば、おまえの身にとんでもないことが起きるという予感がするんだ」 「………」  矢沢はじっと同僚の顔を見つめた。  そしてきいた。 「けっきょく飯島も霊の存在を信じている、ということか」 「そうじゃない」  飯島は首を横に振った。 「おまえの潜在意識の中に、なにか結婚に対する本能的な忌避がある気がする」 「忌避?」 「その本能に逆らおうとして、無理に結婚に踏み切ろうとすると、頭の中で怨霊が生まれるんだ。ただしオカルト的なニュアンスで言うのではない。おまえの精神回路が自己防衛のために怨霊というイメージを作り上げ、結婚を避けさせようとする」 「よせよ」  矢沢は、歯ぐきまで見せる笑い方をした。おかしくないときに彼がよくやる笑い方だった。 「妙な心理分析はけっこうだ。もちろん、こんなことがあった直後に結婚を考えようという気にもならないし、いまのところそんな相手もいない。だが、然《しか》るべき女性が見つかったら、おれもそろそろ身を固めようかとは思っている。飯島に、女子高生漁りの矢沢とおちょくられるのも、いい加減にしてもらいたいしな」 「………」 「だいじょうぶだよ、心配するな。少なくとも八木沢奈美絵の怨霊と結婚するようなマネはしないから」  そのとき、バックミラーにまた少女が現れた。セーラー服を着た少女が。  しかし、今回もふたりは気づいていない。 「矢沢」  飯島は真剣だった。 「この先おまえがどういう身の振り方をするか知らないが、おまえとの間にできた絆《きずな》は、今後も壊したくない」 「それはおれも同じだよ。飯島は生涯つきあっていきたい友人だ」 「そう言ってくれるなら、おれが将来おせっかいをすることになっても怒るなよ」 「おせっかい?」 「おまえの結婚話を、友として全力を挙げて阻止する行動に出るかもしれない。そのときは許せ」 「……飯島」  矢沢は、友をじっと見返して言った。 「むしろ、おまえの神経質なところのほうが、おれは心配だけどな」 「ぼくはまともだ。矢沢がまともじゃないから不安なんだ」 「それはそれは、ご心配いただきかたじけない」  硬い表情をしていた矢沢は、そこでわざとおどけてみせた。 「いちおう親友の忠告は忠告として耳に入れておくが、飯島もおれの身を心配するあまり、ムキになりすぎないでほしい。ひょっとしたら、危ないのはおまえのほうかもしれないからな」 「ぼくのほうが危ない? どうして」 「八木沢奈美絵の怨霊なるものが、おれに対して何かを仕掛けようとしているのなら、おまえのような冷静な頭脳の持ち主がアドバイザーとしてそばにいることが、いちばん邪魔だと思うんだよな」  バックミラーの中で、少女が前髪を揺らして大きくうなずいた。  と同時に、中途半端な位置で停まったままの彼らの車をせかすように、後ろからハデなメロディのクラクションが鳴らされた。  運転席にいた飯島はバックミラーを見た。  何かが後部座席からサッと消えてなくなった……ように、飯島の目には映ったが、真後ろに暴走族風の黒塗りの車が迫ってきていたので、その影だったのだろうと勝手に解釈し、急いで車を駐車スペースの枠内に収めた。 「まあ、とにかく冷たいものでも飲んで頭を少し冷やそう」  エンジンを停め、キーを引き抜いて、飯島は言った。 「どっちにせよ、きょうは長い一日になりそうだからな」 [#改ページ]   十四 熱球[#「十四 熱球」はゴシック体] 「うんめ〜……やっぱりタバコはうまいよね」  ゆっくりと煙を吐き出しながら、マナミは言った。 「どんなにアキラがうるさいこと言っても、タバコをやめるぐらいなら死んじゃったほうがマシだな。何時間ガマンしたのかな。もー、地獄だったぜ」  彦根インターを過ぎてしばらく行ったところにある多賀サービスエリアの休憩エリアで、マナミは車内でアキラに禁じられていたタバコを思うぞんぶん肺に吸い込んでいた。  平日ではあったが、サービスエリアは夏休みの行楽を楽しむ人々で混雑していた。旭たちの周囲にも、真っ黒に日焼けしたカップルや、これからどこかへ海水浴に行くのか、ビニールの浮き輪を身体にはめた幼児を連れた家族連れ、さらにはちょっと場違いな戦闘服ルックの暴走族グループも数人いた。  ニューヨークヤンキースのキャップをかぶり、ミラーグラスをずっとかけたままのマナミは、ちょっと見には若い男のように思えるが、そのわりには肌がきめ細やかで、そのアンバランスが「彼女」に妖艶《ようえん》な魅力を与えていた。  昔の恋人の向かいの席で、自動販売機から買ってきたコーラを飲みながら、旭はそんなマナミをじっと見つめていた。自分がつきあっていたときより、ずっといい「女」になったな、と思いながら。いつも直角の位置に好んで座るマナミが、自分から真向かいの位置をとった意味には気づかずに……。  渋谷のカフェで再会したときは、どこから見ても男だと思ったが、こうやってまたふたりきりの長い時間を過ごすと、どんな外見をしていても、旭にとってのマナミは、やはり女だった。実際、性転換の手術はしていないのだから、マナミはどこまでも男装の麗人だった。いわば、宝塚の人気スターといっしょにいるようなものだ、と旭は思っていた。 「よー、あいつ、ニューハーフじゃねえの?」  チラッと見かけた暴走族グループの中で、眉毛《まゆげ》をほとんど剃《そ》り落とした若者が、マナミのほうに向かってアゴをしゃくった。 「ほんとだ」  仲間の戦闘服が、ふり返って不躾《ぶしつけ》な視線をマナミのほうへ投げかけてきた。 「カッコつけて煙吐いてっけど、いまいち女になりきってねえよな」 「まだ手術受けてねえんだよ。胸見てみな。ぺちゃんこじゃん」 「まだニューハーフになりたてなんだろ。これからいっぱい男と寝て、手術代稼いで、そんで巨乳ギャルになるんだよ」 「じゃ、つれの男はホモかよ。スポンサー?」  と、こんどは旭のほうにも注目する。 「でも、金なさそうな若造だぜ」 「あいつら、どんなふうに寝るんだ?」 「げー、げげげげげ」  相手に聞こえることがわかっていながら、平気で大きな声であざけりの声をあげる。おかげで、それまでマナミのことを気にも留めなかった周囲の客たちも、改めて無遠慮な視線を向けはじめた。  その人ごみの中には、たったいま休憩所に入ってきたばかりの矢沢拓己と飯島宏もいた。だが、ほかのことで頭がいっぱいだったふたりは、マナミと旭にほんの一瞬、目を向けただけで、とりたてて好奇心も示さずに、そのまま飲み物の自動販売機のほうへ進んでいった。  一瞬の交錯だった。 「人を見る目がないガキだよねえ」  平然とタバコをふかしながら、マナミはそっぽを向いて言った。 「どこがニューハーフなんだよ。オナベだよ、あたしは。……ったく、世の中わかってない小僧にかぎって、人をからかうのが好きなんだ。しかも集団じゃなきゃ、できねえの。しょうもない連中だよ」  そして、旭に目を向けてたずねた。 「あたしはもう、ああいう声に馴《な》れっこだけどさ、いっしょにいるアキラには、ちょっと迷惑かもしんないね」 「べつに、そんなことはないさ」  コーラの紙コップから口を離して、旭は表情も変えずに答えた。 「世の中にはいろんなカップルがいるんだから、これはこれでいいんじゃないの」 「カップル?」  宙に煙のジェット噴射を吐き出してから、マナミは旭のほうに身を乗り出した。 「いまのあたしたちって、カップル?」 「あ、ごめん」  すまなそうに旭は訂正した。 「べつに、深い意味があってその単語を使ったわけじゃないけど」 「なんだ」  乗り出した身体を引きながら、マナミは、こんどは煙の代わりに落胆の吐息を洩《も》らした。 「あたしは、てっきり深い意味で言ってくれたんだと思ったけど」 「………」 「ねえ、見て。これ、気がついてくれた? ……ンなワケないよね。アキラってニブいから」  マナミは、タバコをはさんだ右手を旭のほうに向けた。 「あ!」  旭は驚きの声を上げた。  マナミの右手薬指にゴールドのリングがはまっていた。それは四年前に渋谷のカフェでマナミから別れを告げられたとき、ほかのプレゼントはもらっておくけど、これは返しておくねと、唯一、戻された指輪だった。それが、いつのまにかマナミの薬指にはまっていた。 「なんで? なんでだ?」  と言いながら、旭は反射的にズボンのポケットを探った。 「あ〜あ〜、あわてちゃって」  と、その様子を見ながら、マナミが笑う。 「おれ、落としたのか」 「そういうこと、ポルシェの助手席んところにね」 「ぜんぜん気がつかなかった」 「気をつけなよ。ティファニーのゴールドリングだよ。いくらすると思ってんの? もらったときに、あたしもびっくりしたぐらいなんだから。そんで、さすがにこれは『もらいっぱ』にできないなと思って返したんだから」 「あ、ああ」 「なんで持ち歩いてんのよ、こんなもの」 「いや……あの……」  旭は、耳たぶを赤くした。 「茉莉さんの指には合わなかったの? だったら、サイズ直してもらえばいいのに」 「じゃなくてさ、それ……やっぱ、マナミに受け取ってもらおうと思って。それで持ってきたんだけど。まさか車の中で落として、先にはめられちゃうとはな」 「どういうニュアンスで、あたしに?」 「なんかさ、おれ、こんな形でマナミと再会することになって、すごくうれしいんだよ」 「………」 「で、ずっと友だちでいられたらいいなと思って、前にあげたときとはべつのニュアンスで、もういちどプレゼントし直そうとして、それで持ってきたんだ」 「きっと、あたしの指にはめるときの演出考えてたんだよね。いきなりバッとはめて、驚かせようとか思って」 「なんで、そこまでわかるんだよ」 「箱とか袋に入れないで、はだかでポケットなんかに突っ込んでるから」 「あ……あはは」  旭は照れ臭そうに笑った。 「狙いがぜんぶバレバレか」 「どっか抜けてんだよねえ、アキラは」 「あの……それでさ、そのまま受け取ってもらえるかな」 「もうちょっとちゃんとホンネを言ってくれたらね」 「ホンネって?」 「いまのアキラの言葉はウソだとは言わないよ。でも、もっとほかにも理由があって、このリングを持っていられなくなったんじゃないの」  それをはめた手でタバコを灰皿に押しつけて消すと、マナミは一転して厳しい表情を旭に向けた。ミラーグラスのレンズに、おどおどした旭の表情が反射して映っていた。 「このリング、茉莉さんに見られたんだよね」 「………」  旭は、どうしてそこまでわかるのか、という顔になった。 「仮にオリジナルの箱入りで見せたところで、きれいに磨き上げてあったところで、いったんほかの女の手に渡ったものは、直感的にそうだとわかる。まして、いまいちばん警戒している、アキラの昔の恋人のものらしいとわかったら」 「マナミ、なんでそんなふうに見てきたような鋭いことを」 「カンだよ、カン。男の[#「男の」に傍点]カンってやつ」  マナミは、わざと「男の」と言った。そして、わざと男言葉でつけ加えた。 「当たっただろ?」 「ああ」  旭は正直にうなずいた。 「じつは、ちょっとした言葉尻《ことばじり》から、茉莉は誤解をはじめちゃって……おれが昔の恋人とヨリを戻したがっていると思い込んでしまったんだ。彼女のスイッチ現象を話しても、それはおれが勝手に作り上げたウソだと反発するのも、そこから出てきてる」 「じゃ、このドライブが知れたら、とんでもないことになるね」 「まあね」 「それで、どうなのよ」 「どうなの、とは」 「茉莉さんが、明らかに八木沢奈美絵という女に取り憑《つ》かれているとわかっても、アキラは結婚するつもりなの、彼女と」 「………」 「どうなの」 「その気持ちは変わらないと思う」  旭は真剣な表情で言った。 「おれは茉莉を救ってやりたいんだ。いまの彼女は、おれを必要としている。おれがいなくなったら、どうなるかわからない」 「その状況はわかるよ。だから茉莉さんの助けになるのはいいと思う。でも、彼女を助けること、イコール、結婚をすることなのかな」 「やめたほうがいいっていうのか」 「だよね」 「なんで」 「冷たい言い方かもしれないけど、茉莉さんにはもう近づかないほうがいい。アキラによくないことが起きる」 「どういうことが」 「そこまでは言わせないで」  マナミはミラーグラスの横顔を旭に向けた。 「言えよ」  旭は手を伸ばし、マナミのアゴをつかんで自分のほうへ向け直した。 「このまま茉莉といっしょにいたら、おれにどんなことが起きるんだ」 「いいよ、言いたくない」 「言えよ」 「あたしは予言者じゃないんだし」 「………」  旭は、マナミの顔をじっと見つめた。正確に言えば、マナミがかけているミラーグラスに映った自分の顔をじっと見つめていた。  そのすぐ横を、飲み物を手にした矢沢拓己と飯島宏が通って外へ出て行ったが、旭の目にはその動きは入らなかった。ふたりをからかっていた暴走族グループも、いつのまにか休憩所を出ていた。 「もしかして……マナミ」 「もしかして……なによ」 「言ってもいいか」 「どうぞ」 「怒るなよ」 「前置きの長い男はきらいなんだけど」 「おれと結婚したいのか」 「………」 「そうなのか」 「………」  ミラーグラスに隠れたマナミの顔は、動かなかった。 「こんな場所で、こういう言い方をしたら、ほんと悪いかもしれないんだけど、もしもマナミの本心がそこにあるんだったら、その期待に応《こた》えるのは無理だ。おまえが男になっているからじゃない。格好は男でも、おれの目にはちゃんと女に映っている。そういうことじゃなくて、おれは茉莉に対する責任があるんだ。いったん結婚して、それでうまくいかなくて離婚という展開になるかもしれない。それならそれで仕方ない。けれども、いちどはちゃんと茉莉の夫という形で、彼女を支えてやりたいんだ。茉莉がいなければ話は違ってくるけど、彼女がおれを唯一の支えにしている以上は……マナミとは結婚できない」 「………」 「わかってくれたかい」 「バカ」  ボソッと、マナミはつぶやいた。 「バカ?」 「天才的な鈍感男」 「ど……どういう意味で」 「あたしはね、そうだよ、たしかにアキラが好きだよ。好きじゃなきゃ、こんなふうに物好きに人の恋人を救う手伝いなんかしないよ。しかも愛車を持ち出して、東京から滋賀までずっと運転しっぱなしで、吸いたいタバコもガマンしてさ。それはアキラが好きだからだ。だけどね、それとこれとは話が別。茉莉さんと別れてというのは、警告」 「警告?」 「はっきり言うよ。自殺した人間の霊を甘くみちゃダメだ」  マナミの口調が、急にきついものになった。 「八木沢奈美絵の怨霊《おんりよう》は、アキラの手には負えない。その霊に取り憑かれた茉莉さんについても同じ」 「なんでおまえがそういう断定的なことを言えるんだよ。エクソシストかよ、マナミは」 「違うけどね」 「じゃ、すべてをわかったようなことを言わないでくれないか」  旭の言葉も荒くなった。 「もしも運転手役をやるのがイヤだったら、つぎの竜王インターで下りたところで別れよう。おれはタクシーでも拾って琵琶湖に行くし」 「わかんないなら教えてやるよ。あたしの目をまっすぐ見な」 「なんで」 「いいから見な」 「見ろと言われたって、そのスキーヤーみたいなサングラスをはずしてくれなきゃ、目も合わせられないぜ」 「見るんだ!」  鋭い語調に、旭はビクッとなった。  そして、ミラーグラスをかけたマナミの顔をじっと見つめた。  だが、十秒も経たないうちに旭は首を振った。 「おれには透視能力なんてないんだ。それだけ濃いレンズをはめてりゃ、マナミがどんな顔をしてるかわかんないよ」 「オッケー。も、いいや」 「なんだよ、その投げやりなため息は」 「いいの、いいの。じゃ、最後にひとつだけ教えてあげる」 「最後に?」 「スイッチの意味を考えて」 「は?」 「八木沢奈美絵の霊は、何のために茉莉さんとスイッチするのか考えて。眠るときだけ茉莉さんとスイッチして、それでアキラを脅すパフォーマンスをやるためじゃないんだ。すでにもう彼女の瞳《ひとみ》を自分のものに変えてしまったように、完全に茉莉さんの身体をのっとって、最後の復讐《ふくしゆう》に出かけようとしているんだよ」 「最後の復讐って」 「自分を自殺に追い込んだ、杉浦茉莉ともうひとりの男を一挙に滅ぼすための、最後の復讐に」 「もうひとりの男って、誰だ」 「たったいま、この脇を通っていった男」 「え?」  旭は、マナミの顔から視線をはずし、周囲を見回した。 「もう遅いよ。出ていったみたいだから」 「誰のことなんだ」 「言わない」 「マナミ、おれをからかってるのか」 「真剣」 「じゃ、なんで神様みたいに、何から何までわかるんだよ。おれと茉莉の問題なのに、おれ以上に、なんでもかんでも」 「はい、これ」  問いつめる旭をはぐらかすように、マナミは彼の目の前にポルシェのキーを差しだした。 「なんだよ。もうアタマきたから、ひとりで行けってのか」 「そうじゃないの。せめてガソリン代ぐらい払ってほしいんだよね」 「給油してこい、ってこと?」 「そういうこと。そこのスタンドまで行って帰ってくるぐらい、できるよね」 「バカにすんなよ。これでも免許歴十年だ」 「じゃ、行ってきて」 「なぜマナミもいっしょに乗っていかないんだ。そのまま高速に戻れるじゃないか」 「疲れてんの」  そっけなく、マナミは言った。 「ここで待ってるから、行ってきて」     *  *  * 「バカだよ……ほんと、あいつ、バカだよ」  釈然としない顔のまま竹下旭がポルシェを給油に行ったあと、マナミは硬い表情でつぶやいた。 「しっかりあたしを見ろって言ってるのに、何も見ていない。ミラーグラスをじっくり覗《のぞ》き込んでいたのに、それでも気がついていない。……鈍感男、バカ、アホ」  いま、マナミのかけているミラーグラスには、サービスエリアの休憩所の様子が広角レンズのように映し出されていた。  食事の券売機でチケットを買い求める者、家族の人数分のラーメンをトレイに載せて運んでいる者、地図を広げてドライブコースを確認している者、にぎやかに仲間と話で盛り上がっている者、テレビに目を向けている者——サービスエリアに立ち寄ったさまざまな人々の様子が、マナミのかけているミラーグラスに反射して映し出されていた。そして、そのいちばん片隅に、セーラー服を着て淋しげにポツンと座っている少女の姿も—— 「大好きなのに……」  マナミが唇を震わせながら、つぶやいた。 「アキラのことが大好きなのに……助けてあげられないなんて」  ミラーグラスの端から、涙がこぼれ落ちた。  その涙をぬぐうために、マナミはミラーグラスをはずした。そして、両手で顔を覆って声を押し殺して泣き出した。 「アキラ……八木沢奈美絵の霊にスイッチされちゃったのは、茉莉さんだけじゃないんだ。このあたしもなんだよ[#「このあたしもなんだよ」に傍点]」  両手をはずすと、マナミは整形で何度も変えた大きな両眼をカッと見開いた。  どんなに整形を繰り返しても、まぶたや目尻《めじり》をいろいろいじっても、眼球の中心部にある瞳《ひとみ》だけは変わらない、それは心の象徴だから、と信念のように語っていたマナミの、その虹彩《こうさい》紋様が別人のそれにすり替わっていた。現在の茉莉と同じものに。  八木沢奈美絵の瞳になっていた。 「ちくしょう……」  マナミは震えながらつぶやいた。 「あたしがなにも抵抗できないのを知っていて、よくも、よくも大切なアキラのことを、アキラのことを……」  怒りに震えながら、マナミは旭からプレゼントされたティファニーのゴールドリングを、右手の薬指から左手の薬指にはめ替えた。いまさらそれが何の効果を生むものではないと知っていたが、そうせずにはいられなかった。  そして、八木沢奈美絵の形になった瞳で、前方を睨《にら》みつけた。  視線の向こうで、セーラー服の少女がマナミを見つめ返し、得意げに笑っていた。  ニッ、ニッ、ニッと、不気味な笑い方で……。     *  *  *  引きつづき飯島に運転をまかせることにした矢沢は、高速本線に再合流する前に、給油のために車をガソリンスタンドに停めるよう頼んだ。そして運転席に飯島を残したまま、自分ひとりでスタンドの裏手にあるトイレに向かった。  たったいま、サービスエリアの休憩所隣にあるトイレに行ったばかりなのに、なぜかまた尿意を覚えたのだ。  二分ほど経ってからトイレを出ると、矢沢は前方の給油エリアに真っ赤なポルシェが滑り込んでくるのを見た。その車は、給油スタンドをはさんでちょうど自分の車の真横に並ぶ形で停まった。  さきほど走行中に乱暴な追い抜きをかけてきた車にそっくりだなと思ったが、運転している男は別人だった。だから車も別のものだと考えた。 (さっきのやつだったら、文句のひとつも言ってやるところだが)  そんなことを考えながら、自分の車に戻るために数歩歩み出したときだった。矢沢拓己は信じがたい光景を見た。  車に残っていた飯島が運転席から下りてくると、なにを思ったのか、車体後部の給油口の前でタバコをくわえ、ライターで火を点《つ》けて、ゆっくりとそれをくゆらせはじめたのである。 「飯島!」  反射的に、矢沢は叫んだ。 「おまえ、なにやってんだ。消せ!」  その声が、飯島の耳に届いた。  え? という表情になったあと、飯島は自分がくわえているタバコを指にとり、それをじっと見つめた。そして、その先端のオレンジ色の光が意味する危険性にはじめて気がついた様子で、びっくりした表情で矢沢のほうを向いた。なぜ自分がこんなことをしているのだろうと、問いたげに。 「消せ! 早くタバコの火を消せ!」  矢沢は必死にわめいた。 「捨てるんだ!」  その言葉に、飯島はとっさに反応した。なにも考えずに、とっさに……。  彼が投げ捨てたタバコは、火がついたまま車の給油口の中に転がった。給油ノズルと安全弁にはばまれて、そのままタンクの中に落ちることはなかったが、それで引火を防ぐ結果にはならなかった。  矢沢の目の前に、大音響とともにオレンジ色の熱球が現れた。  その熱球は、飯島ごと矢沢の車を吹き飛ばした。それだけでなく、隣に停まっていた真っ赤なポルシェも、同系色の巨大な球の中に包み込んでしまった—— [#改ページ]   十五 鐘[#「十五 鐘」はゴシック体] ≪人は何によって深く傷つけられるのでしょう。ナイフでしょうか。それとも拳銃《けんじゆう》でしょうか。あるいはハンマーでしょうか。いいえ、そういったいわゆる凶器と呼ばれる道具によるものではありません。  では、人の態度でしょうか。いえ、それも違います。  答えは人の言葉です。他人の発した言葉によって、人はいちばん深く傷ついてしまうのです。ナイフで刺されたときなどよりも、拳銃で撃たれたときなどよりも、はるかにその痛みは鋭く、致命的です。  中でもいちばん始末に負えないのは、手紙やメールに文字として書き残した言葉ではなく、人の口から発せられた言葉です。  なぜでしょう?  それは、傷つける側に加害者意識が残らないからです。それゆえに、傷つけられた側だけが、ひとりで苦しむ結果になるのです。  相手を誹謗《ひぼう》中傷するメールを打てば、自分のパソコンなり携帯なりに、残酷な文章がそのまま残ります。読み返すと、きっとおのれの非人間性に顔をしかめたくなるような気持ちにさせられるでしょう。そしてすぐさま消去してしまうに違いありません。でも、記憶にはしっかり残ります。自分がどれほどひどい言葉を相手に投げつけたかという、明確な記憶が。  それは手紙でも同じことです。コピーでも取らないかぎり、手元に自動的に複写が残ることはありませんが、それでもやはり文章というものは、手書きにせよワープロにせよ、時間をかけて綴《つづ》るものですから、相手を攻撃した文面の記憶は、やはり脳にしっかりと刻み込まれます。  ところが口から発せられた言葉は、一瞬にして消え去ってしまいます。もちろん、音声の暴力を受け取る側は、それがいつまでも記憶に残ってしまい、苦しみます。けれどもそれを発した加害者側は、一晩寝ればコロッと忘れて「あれ、私、そんなひどいこと言ったっけ」という顔をします。  そこが始末に負えないのです。  よく物事でもめるときに「言った、言わない」という表現を使うことがありますが、あれはじつに非論理的な言葉で、真実は「言った」か「言わなかった」かの、二者択一のどちらかでしかないのです。それなのに、音声で発せられた言葉は、録音でも録《と》っていないかぎり証拠として残すことができません。よって「言った、言わないはやめましょうよ」という曖昧《あいまい》な決着を招くことになるのです。  通常の殺人事件には、明確な凶器が存在します。ときには凶器そのものが発見できないこともありますが、遺体の状況から、どんな凶器が用いられたかという推測はじゅうぶんに可能となります。法医学的に言われるところの「遺体は語る」とは、まさにその真実を指し示しているといえましょう。  ところが自殺という形式の殺人事件では、めったに凶器が発見されることはありません。もちろん、死に追い込まれた者が自らの命を絶つために用いた道具は、一般の殺人事件以上にかんたんに見つかります。首を吊《つ》るためのロープ、手首を切るためのカッターナイフ、脳神経の活動を停めてしまうための薬物、目に見えない有毒ガスでさえ、死者の体内にその痕跡《こんせき》を明確に残します。しかし、それは第二段階の凶器でしかないのです。  自殺とは二段階に分かれて行なわれる殺人事件です。まず第一に、他人がその人を傷つけ、第二に、傷ついた人が自分の命を絶つ——その二段階殺人なのです。そして、第一段階に関与した人間の責任は、決して死の間接原因としてではなく、直接原因を招いたものとして、激しく糾弾されねばならないのです。  にもかかわらず、真の殺人者が用いた凶器は、ほとんどの場合発見不可能です。なぜなら、人の口から出た言葉という形をとる場合が多いからです。  八木沢奈美絵は、言葉によって死に追い込まれました。「八木沢奈美絵殺人事件」の第二段階の凶器は、みずから用意した睡眠薬と、偶然の不運で見舞われた隣家からの出火という複合要素でしたが、第一段階の凶器は他人の言葉でした。  そして、その凶器は自殺に先立つこと、じつに七年も前の、奈美絵が高校三年生のときに用いられたのでした。言葉とは、なんと恐ろしい凶器なのでしょう。七年もの歳月をかけて、それが最終効力を示すことになったのですから。  そのいきさつを語る前に、まず言葉の凶器を用いた犯人を名指ししておかねばなりません。犯人はふたりいます。ひとりは八木沢奈美絵が高校三年生のときの担任教師・矢沢拓己。もうひとりは奈美絵の同級生で、奈美絵と同じく矢沢教諭と禁断の関係にあった女子生徒・杉浦茉莉です。  ところが犯人でありながら、ふたりは自分たちの犯した殺人行為にまったく気がついておりません。凶器が一瞬にして消える言葉であったことと、それを受け止める側の気持ちも考えず、きわめて無神経に、きわめて気楽にそれを使ったため、罪悪感がないのはもちろんのこと、そんなセリフを発した記憶すら残っていないのです。  その言葉とは、「奈美絵って、性格の悪さが顔に出ているよね」でした。  最初、それは矢沢拓己と杉浦茉莉との会話の中で、矢沢の口から出たものでした。ふたりの女子高生を自分の専属幼な妻として競わせながら、それぞれの前では、その場にいないほうの子の悪口を言って、その場にいる子の対抗心をくすぐるという悪辣《あくらつ》な心理作戦を、矢沢はとっておりました。  つまり、茉莉の前では奈美絵の欠点をあげつらい、奈美絵の前では茉莉の陰口を叩《たた》き、というふうにです。そうやって、目の前の子がさらに自分におもねってくるのを楽しむという、教育者の風上にも置けない……それどころか、ひとりの人間としても許されざる行為を矢沢という高校教師は平然とやっていたのです。  おそらく茉莉も、矢沢と奈美絵の間で自分の悪口が語られるのを耳にしたかもしれません。けれども、茉莉は精神的にタフな女の子でした。もしかすると、ただの鈍感だったのかもしれませんが……。一方、奈美絵はそうしたことに、きわめて敏感な女の子でした。  矢沢の発した「奈美絵って、性格の悪さが顔に出ているよね」という言葉を、こんどは茉莉がそのまま奈美絵本人に伝えてしまったのです。矢沢先生がこう言ってたよ、と。  そのとき奈美絵は、そのセリフにきわめて大きなショックを受けてしまいました。私は性格の悪さが顔に出ているんだ、と、まともにそれを受け止めてしまったのです。  発言元の矢沢にしてみれば、それほど重いニュアンスをもって発した言葉ではなかったのでしょう。茉莉との間に交わされた、ほんの戯《ざ》れ言の一部だったに違いありません。だから茉莉も、それほど意地悪な行為とは思わずに、その言葉を本人に伝えてしまったわけです。  ところが、他人のちょっとした言葉に非常に敏感に反応する奈美絵は、ことのほか重大にその言葉を捉《とら》えてしまいました。  そして高校卒業後、彼女は第一回目の整形手術を受けました。その言葉のせいで。  それは決して矢沢先生に気に入ってもらおうと思ってやったことではありませんでした。もともと矢沢は、女子高生は在学中のみ弄《もてあそ》ぶといった、とんでもないポリシーの持ち主でした。純朴な奈美絵は、そんな矢沢の身勝手な哲学にもかかわらず、当初は彼との結婚を本気で夢みたようでしたが、例の言葉を耳にして以来、「矢沢先生は、きっと私のことがきらいなんだ」と思い込んでしまったのです。  実際、奈美絵は純朴な少女ではあるものの、ちょっと物事を屈折してみるところがありましたので、性格の悪さとはそのことかもしれないと、自分で悲観的に受け止めてしまったようです。  ですから、奈美絵と矢沢教諭の関係は、実際には高校卒業を待たずして、あっさり壊れてしまいました。茉莉と矢沢が別れる前に、もう奈美絵は矢沢から離れていたのです。それゆえに、奈美絵が矢沢におもねるために美容整形を行なったと解釈するのは誤りということになるでしょう。  そうではなく、奈美絵は性格の悪さが顔に出ているとひたすら信じ込み、その被害妄想に駆られた挙げ句に、性格のほうに目を向けるのではなく、とにかくいまの顔を変えなければ、と、そのことに執着するようになってしまったのです。  矢沢と茉莉の口を介して発せられた例の言葉が、そこまで奈美絵の人生に影響力を行使することになってしまったのです。  しかし、美容整形を受けるにあたり、奈美絵には明確なポリシーというものがありませんでした。タレントのこの人みたいな顔にしたいとか、自分はこういう性格なので、それに似合った顔にしたいとか、手術にあたってのはっきりした基本方針を打ち出せず、とにかく「違う顔にしてほしい」という漠然としたリクエストしか整形外科医に出せなかったのです。  医者のほうも困惑したようですが、たまたま当たった医者が悪かったんですね。そんな適当な要望でも、安易に受けてしまったのです。まあ、とりあえず一般的な概念の美人にしてしまえばいいのだろう、というふうに。そして、お金が貯まるごとにそれを手術費用に回して美容整形を重ねていった結果、奈美絵は、弟の私が見ても別人かと思うほどの美女に変身してしまいました。  ああ、申し遅れましたが、私は八木沢奈美絵の弟で昌夫と申します。  さて、美しい顔を手に入れ、そのおかげで性格までがよくなったと信じた姉の奈美絵は、一時期はたしかに非常に明るいキャラクターになって幸せそうでした。しかし、その幸せの時期は長くつづきませんでした。  医者の技量が稚拙だったせいか、それとも姉が限度を超えた手術を要求したためか、最初の手術から二年ほど経過したときから、急に顔が崩れはじめてきたのです。  たとえば鼻を高くするために入れたプロテーゼと呼ばれる人工鼻骨が勝手にずれたり、ほお骨を削った部分がむくみ出したり、くっきりした二重にしたはずのまぶたが老人のように垂れ下がってきたりと、衝撃的な顔面崩壊がはじまったのです。  その症状が急速に進行していくのを知ったときの姉のショックは、ひとことでは言い表せませんし、再現してみるのもつらすぎます。弟の私にはすべてが打ち明けられたものの、両親は娘のそんな事態に耐えうるはずもなく、悲惨な状況を親にだけは見せまいとして、姉は郷里の近江八幡市を離れ、最初は九州の福岡へ、つぎは東北の仙台へ、さらに四国徳島へ、それから横浜へ、最後には首都東京へと、まるで警察の追っ手を逃れる犯罪者のように住まいを転々としてゆき、それぞれの土地で新たな美容整形医に、すがるような思いで修復手術を依頼したのです。  しかし、どこでも門前払いを食らった末に、ついに東京の有名美容整形外科医から、恐るべき最後通告を言い渡されてしまったのです。  あなたの顔面を元どおりに修復することは不可能。さらに現在進行中の崩壊現象を停めることも不可能、と——  姉は、完全に打ちのめされました。そして、自分の顔をめちゃくちゃにしてしまった運命を激しく呪いました。  いきさつを聞けば、そんなものは自業自得だと言う人が世の中には多いでしょうが、姉はそうではありませんでした。矢沢先生と茉莉が、あの言葉を私に伝えなければ、すべての運命は変わっていた。私の顔はこんなふうにならずに済んだ、と考えたのです。そして、もう生きていても仕方がない。死にたくはないけれど、死ぬしか選択肢は残されていない、と。  それが自殺者の論理でした。彼女がそう考えてしまえば、他人が何と言おうと、第一段階における殺人犯人は確定したことになるのです。  姉は、衝撃の最後通告が出された日から、すさまじい怨念《おんねん》のかたまりになりました。まさに人間の形をした怨念といってもよかったかもしれません。その激しい復讐《ふくしゆう》のエネルギーをもって、八木沢奈美絵は生きながらにして怨霊となり、通常の人間にはない精神感応能力を得て、矢沢拓己と杉浦茉莉の現在の居場所と連絡先を突き止めたのです。人の怨みとは、それほどのパワーを生み出すものなのです。  しかし、その段階で姉が狙ったことは、復讐といってもあまりにも単純なものでした。当時名古屋に住んでいた矢沢のそばに転居し、彼に怨《うら》みの電話を入れ、さらに矢沢以上に憎んでいる茉莉の名前を遺書に残して自殺をする。そういう段取りでした。  そこには、まだまだ姉の甘い読みがあったのです。自分が自殺をすれば、電話と遺書で名指しされた矢沢と茉莉は、その罪悪感ゆえに、残りの人生を自責の念にさいなまれ、亡霊の出現に脅《おび》えながら精神的にひどく苦しんで過ごすことになるだろう、と。また、顔面崩壊状態のまま死ぬことで、そのすさまじいデスマスクの噂が、彼らの耳にも入って、ますます精神的に打撃を受けるだろうと計算しておりました。  ところがなんという皮肉なことか、アパートの一室で姉が睡眠薬を飲んで意識を失うのとタイミングを合わせたように隣の部屋から出火して、奈美絵は真っ黒焦げの死体となり、彼女の人生を狂わせた顔は、ただの炭のかたまりとなってしまいました。同時に遺書や、パソコンに記したさまざまな苦闘の記録も、すべて灰燼《かいじん》に帰してしまったのです。  おまけに矢沢も茉莉も、姉の死に自分が関与したことなど、微塵《みじん》も意識していない。姉の焼死事件後、怨霊のエネルギーで何度も悪夢をみせられた矢沢は、直前に電話を受けたこともあって、さすがに住まいや勤め先まで変えましたが、環境が変わると恐怖をコロッと忘れて、悪癖の女子高生|漁《あさ》りに精を出す始末です。  自殺とは、ここまで虚《むな》しい行為だったのか。姉は愕然《がくぜん》となりました。  死してなお感情を持つ姉の存在は、弟の私には霊的な波動として伝わってくるのですが、生身の人間である私には、奈美絵を救ってやれる方策が思い浮かびません。  そうこうしているうちに、怨霊としてこの世を徘徊《はいかい》しつづける姉は、新たな復讐の作戦を考えました。そのヒントをくれたのが、生前、横浜の美容整形外科で出会ったひとりの患者でした。  マナミ、と下の名前だけを教えた彼女は、自分で考えたオリジナルの病名を勝手につけていました。それが「顔面同一性障害[#「顔面同一性障害」に傍点]」というものです。 「性同一性障害」という言葉は、いまの時代、すっかり馴染《なじ》みのあるものになりました。つまり、医学的な性別は明確であり、しかも自分自身でその性別をきちんと認識していながら、人格的にはそれと反対の性に属していると確信している状況を指します。  ところがマナミの場合は、たしかに性同一性障害的な認識もあるのですが、それ以上に、自分の性格に自分の顔がマッチしていないと感じ、「自分の本質を生かすための最適の顔探し」を目的として、姉の奈美絵が体験した以上に、異様に多い回数の美容整形を繰り返し、それでもまだ満足が得られない、という精神的な症状を持っていたのです。  そして、その症状ゆえに、大好きだった恋人とも別れた、というエピソードを姉に打ち明けたのです。  自殺して死霊となりながら、その自殺のインパクトのなさに後悔していた奈美絵は、そこでマナミのことを思い出しました。そして、マナミが実際にやってきたことをヒントにしながら、マナミ自身をも利用して、もういちど自分を死に追い込んだ殺人者どもに、より衝撃度の強い復讐を仕掛けようとしたのです。  その作戦を、奈美絵は「スイッチ」と名付けた、と私に報告してきました。  まず奈美絵は、顔面同一性障害の自覚ゆえに、マナミのほうから進んで別れを告げたという元恋人の竹下旭を、重要な登場人物に据えました。そして、彼と杉浦茉莉との出会いを工作するのです。  すでにそのときには、茉莉への下準備も整っています。それが、茉莉に怨霊として乗り移り、奈美絵が初期の美容整形で最も成功した時期の「美の階段を駆け上がっていった」状況を再現したことです。  まさにこれは、復讐のかたまりとなっていた奈美絵にとっては、盲点ともいうべき戦略でした。茉莉を激しく怨むあまり、彼女の顔を自分と同じように、いや自分以上に醜くしてやろうと、そんな方向でばかり考えていたところ、マナミと出会い、美容整形が見事成功していったときのケースも考慮に入れる着想に思い当たったのです。  もしも自分の顔が、メスも何も入れないのにいきなり醜くなっていけば、人は直ちにあわてて医者の門を叩《たた》くでしょう。けれどもわけもなく美しくなっていけば、戸惑いはしても、それで病院へ行こうとは思わない。そして、日に日に美しくなっていく変化に得意絶頂となっているうちに、いつのまにか元の顔とは大きくかけ離れた杉浦茉莉ができあがることになる。そして彼女の美しさに惹《ひ》かれた竹下旭と恋人関係に陥る。これが第一ステップです。  しかし、美人となったがゆえに、茉莉は結婚という人生の一大イベントを男に隷属する儀式として軽蔑《けいべつ》し、いつまでも独身でやっていけるとの高慢な自信を持つようになったため、第二段階でその自信を打ち砕くことにしました。それが、別人にスイッチする現象を恋人の旭に指摘される、というプロセスです。  自分の肉体を突然襲った恐ろしい現象によって、進化する美貌《びぼう》に有頂天となっていた茉莉も、一転して旭に精神的な保護者の役割を求めることになる。そして結婚への意識も変わり、人が変わったように旭との結婚を急ぎはじめました。これが第三段階。  ところが第四段階で、唯一の心の支えとなった、その旭を失ってしまうのです。茉莉と同時にマナミにも乗り移った奈美絵が、マナミをコントロールしながら、旭を破滅へと追い込んでいったからです。  マナミは自分の身体が八木沢奈美絵に支配された自覚を持ちながらも、抵抗はできませんでした。もしも抵抗したら、ようやく完成形を得た整形だらけの顔を崩壊させると脅しあげていたからです。  一方で、小林巴恵という女生徒と交際中の矢沢にも、結婚願望を芽生えさせるように、奈美絵は仕向けていきました。そして、独身主義のロリコン遊び人だった彼が、結婚もいいものだと思いはじめたとき、悲劇によって未来の花嫁候補だった巴恵は失われてしまう。ちょうど、茉莉にとっての竹下旭がいなくなったように、です。  だって、それぞれもっとお似合いのパートナーがいるんですから、中途半端な相手で妥協してもらっては困るんですよね。姉の復讐が未完に終わってしまいますから。  ゆえに、矢沢に冷静な判断を求める飯島宏というすばらしき友人にも、人生劇場からの退出を願うことになりました。矢沢家と杉浦家にとっての佳き日を妨害する者は、良識あふれる飯島先生であれ、好青年の竹下旭さんであれ、死をもって消えていただくよりなかったのです。大変お可哀相ではありましたが。  ちなみに、それらの悲劇はすべて「大炎上」という形になるところが、怨念の本質を示唆する共通項なんですが……。  ねえ、ジェットコースターも最初に高いところまで上らなければ、一気に下るときの恐怖は演出できませんでしょう? それと同じで、茉莉にとっても矢沢にとっても、まず最初に幸せの階段を思いきり高くまで駆け上らせておいてこそ、一気に地獄へ突き落とされたときの恐怖と苦しみを何倍にも味わわせることができるというものです。  そして本日、どうやらジェットコースターは最高地点へ到達したようです。あとは一気に落ちるのみ。美しき花嫁の顔面崩壊劇の開幕を待つだけとなりました。  ああ、チャペルの鐘が鳴り出しました。どうやら教会のほうで結婚式がはじまったようですね。  卒業から十二年の歳月を経て、ふたたび結ばれた教師と教え子の感動の愛。前の学校をクビになったものの、新たな職場も見つかった矢沢先生は、よき伴侶《はんりよ》も得ることになって、幸せの絶頂ですよ。それから、一昨年の夏に恋人を衝撃的な爆発事故で失った茉莉さんも、一時の幻覚症状からも解き放たれ、ますますその美貌に磨きをかけられて、式のために集まった人々の感嘆の眼差《まなざ》しを集めておられました。  いやあ、矢沢先生ったら、「この幸せ者。四十を越えてから、こんなに若くてきれいなお嫁さんをもらって」などと、友だちからどつかれながらも、えへへへとニヤけた笑いが止まらないご様子です。よかったですねえ。  先生も茉莉さんも、どうぞほんとうにお幸せに。いまがいちばんいいときですからね[#「いまがいちばんいいときですからね」に傍点]。花嫁の美貌も含めてね。  茉莉さん、以前は「花嫁の幸せは一日のみ」と賢明にも悟っていたのに、いざその場に置かれると、幸せボケして忘れちゃってますね、大切な法則を。  まあいいでしょう。  さてと、そろそろ私は一足先に披露宴会場のほうへ向かわねばなりません。なにしろ、本日の矢沢家・杉浦家ご両家の祝宴の司会を務めさせていただくものですから。  はい、これでも一応プロのしゃべり手なんですよ。某地方局でアナウンサーをやっておりましてね。あなた、アナウンサーの八木沢昌夫という名前を聞いたことがありませんか。そうなんです、本日は会社にないしょでやるちょっとしたアルバイト。でも、プロである以上は粗相がないようにしなければ。えーと、服装はいいかな。鏡よ、鏡よ、鏡さん……と。  おお、私の蝶《ちよう》ネクタイ姿もなかなか悪くないではありませんか。鏡の中で、姉さんも喜んでくれていますよ。  では、宴会担当の方と最終打ち合わせに行ってまいります。  え? その後、マナミさんはどうしたか、ですって?  二年前に自殺をした人のことなんて、もう誰も覚えていないんじゃないんですか。  彼女を死に追い込んだ犯人はどうしてるかって? あはは、先に死んでいるんだから恨みっこなしですよ。  それでは——≫  司会者の服装をした八木沢昌夫は、そこまで書き終えると、満足げにペンを置いた。これを封筒に入れて投函するのは、今夜遅くでよい。バラ色の幸福に包まれた新婚夫婦の新居に送り届けるのは。  昌夫の目には怒りではなく、哀しみの涙が浮かんでいた。  その瞳は、姉のそれになっていた——。 角川ホラー文庫『スイッチ』平成16年1月10日初版発行              平成16年12月5日再版発行