[#表紙(表紙.jpg)] ケータイ 吉村達也 目 次  一  パパの発作  二  ケータイが家族を壊す  三  視線恐怖症の男は語る  四  プリクラだらけのケータイ  五  殺人の生中継をはじめます  六  あいつは犯人か?  七  嵐の予感  八  疑心暗鬼  九  怨念のケータイ着信  十  破滅への集結  十一 再 会  十二 殺人鬼がきた!  十三 土壇場のシーソーゲーム  十四 からっぽのケータイ  十五 エピローグ [#改ページ]   あんたたちは、うその世界をほんとと信じ、       ほんとの世界をうそと決めつけているんだよ [#改ページ]   一 パパの発作  それはどこにでもある朝の光景だった。  横浜市|青葉《あおば》区にある新築建て売り住宅は、まばゆい夏の日差しを受けてピカピカに輝いている。一家の主、水守敦夫《みずもりあつお》が会社から住宅融資を受け、それまで持っていたマンションを売却して頭金にあてて、ついに手に入れた一戸建てである。  引っ越しは一人娘の千春《ちはる》が高校へ進学するのに合わせて、三月中旬に行なわれた。いまは七月初め。だから、まだ入居して四カ月も経《た》っていない。建物の完成から数えても五カ月に満たなかった。  坂の途中にある二階建てのこの家には半地下のガレージがあって、そこには車が二台入るようになっていたし、広くはないけれど芝生の敷き詰められた庭もあった。三人家族が住むにはぜいたくすぎるほどの間取りである。  青葉区という名前のとおり、周囲は緑がゆたかで空気もよい。それでいて都心への交通の便は申し分なく、駅の周りは大開発が進んでちょっとした未来都市という感じになっていた。  坂の多いことだけが難点といえば難点で、水守の家から高台にある駅までは、スキー場のゲレンデのような上り坂を歩いていかなければならない。これがいまのような暑い季節にはちょっとした運動だったが、それ以外には文句のつけようがない環境だった。 「千春が結婚することになったら、この家をそのままあげてもいいわね。私たちはどこかの賃貸マンションに引っ越しして」  その日の朝、水守の妻・悦子《えつこ》は夫のために朝食の支度《したく》をしながら、そんな話を持ち出してきた。 「結婚のとき、女の子はなにかと弱い立場だから、家ぐらい持たせておかないと、男の子の家の言うなりになっちゃうのもくやしいでしょ」 「おいおい、おまえは何年先の話をしているんだよ」  朝刊を広げながら、水守が笑った。 「千春はまだ高校にあがったばかりだぞ」 「だけど、女の子の結婚なんてすぐよ。私がいくつのときにパパと結婚したか、忘れちゃったの?」  悦子にそうきかれて、水守は「ああ」と納得してうなずいた。  ふたりは結婚十七年目になる『ベテラン』夫婦で夫の水守は四十五だったが、妻の悦子はまだ三十八。つまり、結婚したときに悦子は、短大を出たばかりの二十一という若さだったのである。 「おまえのケースを考えると、あと五年ってことか」 「そうよ。そう考えたらすぐでしょう」  こんがりときつね色に焼き上がったトーストにベーコンエッグを添えたものを夫の前に出しながら、悦子は言った。 「だから、もうあの子の結婚を考えた準備をあれこれはじめたって早すぎるということはないと思うけど」 「冗談じゃない」  水守は、トーストをサクッとひとかじりしてから、ちょっと不機嫌な顔で言った。 「二十そこそこで結婚だなんて、とんでもない」 「あら、自分がしたことは棚にあげて?」  悦子は笑った。 「私が若すぎるって、猛反対するうちの親に向かって、結婚のタイミングは年齢で決められるべきものではありません、って必死の説得をしたのはどこの誰《だれ》だっけ?」 「おまえのときは、おれがしっかりしていたから問題はなかったんだ」 「あ、パパったら、自分で自分をほめてるー」  悦子は笑ったが、水守は真剣な表情で言い返した。 「だってそうだろ。結婚したとき、おまえは短大を出たばかりだったけれど、おれはもう二十八だった。社会人の五年目か六年目だよ。それも、いちおうは世間に名の通った製薬会社のな。だからおまえの両親だって、おれを信頼して納得してくれたんだ。それをだな、千春に向かって、ママも二十一で結婚したのよ、なんて最初から言ってみろ、じゃあ私もとばかりに、どんなプータローを連れてくるかわからんぞ。最近の若い男は、髪は染めるわ、耳に穴開けてピアスはするわ」 「耳たぶだけじゃなくて、鼻とかにもね」 「どうしようもないんだ、あいつら。日本人はな、石器時代まで遡《さかのぼ》ったって鼻輪なんかしていなかったんだから……たぶんな。おい、早く紅茶」  飲み物をせかせてから、水守は読みかけの朝刊を脇《わき》に置いて、娘の結婚問題についてさらにつづけた。 「それはともかく、だ。どっちにしても、いまの時代は若くして結婚したらロクなことにならない。そもそも、女の子が必ず結婚しなくちゃいけないなんて、そんな法律はないんだし」 「もしかして、それって、千春をいつまでも手元に置いときたいってこと?」 「そうじゃなくて、結婚というものは、だ」  コホンと咳払《せきばら》いをして、水守は言った。 「女を家に縛りつけて、家事育児の奴隷にするようなシステムだ。そういう旧態依然とした構造の中に千春を置かせたくないんだ」 「私のように?」 「おまえは、幸いにもおれのご加護により、そうならずにすんでいるが」 「なによ、ご加護って。神さまみたいに」  悦子が、あきれた顔で七つ年上の夫を見た。 「たんにご都合主義の理屈じゃないの?」 「いいから聞けよ。とにかく、ここまで手塩にかけて可愛《かわい》がって育てた千春をだな、マザコン男などのところへ嫁にやって、住み込み家政婦みたいな暮らしを味わわせたくないんだよ。世の中の男の大半は、結婚して何年もしないうちに、女房のことなんかお手伝いのおばさんぐらいに考えるんだから」 「おれは別だけど?」 「そういうこと」 「まあ、そこは認めてあげてもいいけど。でも、千春の気持ちも確かめないで頭から結婚禁止だというのは、やっぱり父親の身勝手な独占欲じゃないの」 「かもな。でも、おれは親なんだ。娘を独占してなぜ悪い」  と言ってから、水守は目の前に出された紅茶をいきなりがぶ飲みしようとして、口をつけたとたんに吐き出した。 「あーちっちー、あっちー」  唇を押さえて、水守はわめいた。 「なんだよ、この熱さは」 「紅茶はチンチンに沸《わ》いたお湯でいれろっていうのがパパの口癖でしょ」 「それにしたって熱すぎるじゃないか」 「そうじゃなくて、千春のことになるとパパは周りのことが見えなくなるから、熱いのを忘れてがぶ飲みしただーけ。……まったくもー」  悦子は、軽い吐息とともに夫をにらんだ。 「こんな調子で親バカがエスカレートしたら、千春も先が思いやられるわね」 「そういえば、千春はどうしたんだ」  七時十五分を指している壁の時計を見やりながら、水守がきいた。 「もう起こさないと学校に遅刻するぞ」 「けさはいませんよ、うちのお姫さまは」 「いない? なんで」 「あ、そうか。パパはゆうべ残業で遅かったから知らなかったのね。千春は、友だちの家にお泊まりして、けさはそこから学校へ行くことになってるの」 「友だちの家から?」 「きょうはクラブの朝練があって特別早いから」  千春は通っている私立の女子校でバレーボール部に所属していたが、バレーの名門校として評判の高校とあって、その特訓ぶりは生半可《なまはんか》なものではなかった。しかも、都内でも千葉寄りにあるこの高校は電車の乗り継ぎの不便な場所にあり、横浜市青葉区の自宅からそこまで通うには、父親の水守が都心の会社に通うのに較べて倍近い時間がかかった。  だが、そうした事情は、水守にとって娘の「外泊」を容認する要素としては認められなかった。 「朝練なんか毎度のことじゃないか」  口をとがらせて、水守は妻に言った。 「バレー部の練習が朝早いという理由だけで、うちから通えないなんて理屈は成り立たないぞ」 「ただね、この夏の暑さの中で猛練習がつづいているし、おまけに期末試験も間近で、そっちの勉強もあるでしょう。だから、あの子も相当体力的にへたばっているのよ」 「悦子、おまえは甘やかしすぎだ。おれ以上に甘い」  こんどはそっと紅茶を口に運んでから、また水守はつづけた。 「夏の暑さぐらいがなんだ。そんなことでへばらない根性を養うためにも、あの子には小学校のころからバレーボールをやらせているんじゃないか。いまの高校を選んだのも、バレーの名門だからだろう。それに期末テストの猛勉強といったって、永遠にやるわけじゃないし。……で、友だちって、誰のうちに泊まっているんだ」 「葉月《はづき》ちゃんち。あの子の家は六本木《ろつぽんぎ》のマンションでしょう。だから」 「葉月って、例の女優の娘か。小学校のときからずっといっしょだった」 「そうよ。関口麗子《せきぐちれいこ》のおじょうさん」 「よさんか、芸能人の家に泊めるなんて」  水守は、その名前を聞いて相当不機嫌な顔になった。 「ろくな影響を受けないぞ」 「だいじょうぶ。実物の関口さんはね、テレビや映画で見るのとぜんぜん違って、とってもしっかりしたお母さんよ」 「わかるもんか。だいたい、あそこは離婚してるんだろ。平凡なサラリーマンだったダンナとうまくいかなくて」  離婚ということに古めかしい偏見を持っている水守は、いかにも見下したような口ぶりで言った。 「おまえは有名人病だから、PTAかなんかで本物の関口麗子に出会ったときから、ポーッとのぼせてファンになったんだろうが、ああいう芸能界の人間はな、モラルもへったくれもないんだ」 「そんなことないってば。私たちとおんなじよ、関口さんは」 「バカいえよ。どこがおんなじだ」  水守は、時計代わりにつけっぱなしにしているテレビのほうに目を向けて言った。 「彼女が離婚したとき、朝っぱらから、ああいうワイドショーで取り上げられていたじゃないか。離婚の原因は関口麗子の不倫か、なんて大々的に」 「それは有名税で、あの人の責任じゃないでしょう」 「だけど、子供の心は傷つくわな。離婚で苗字《みようじ》も変わったし。そうだろ。子供はダンナのほうの苗字をちゃんと名乗ってたんだろ」 「石沢《いしざわ》ってね」 「石沢葉月が、母親の離婚のせいで関口葉月になったわけだ。そういうのはな、トラウマになるんだよ」 「母親の離婚のせいっていうけど、離婚はおたがいの問題でしょ」 「いや、ありゃ母親が悪いな」  二枚目のトーストを頬《ほお》ばりながら、水守は決めつけた。 「だって、ダンナは平凡なサラリーマンだったんだから」 「平凡なサラリーマンには落ち度はありえない、ってこと?」 「そりゃそうさ。我々サラリーマンは常識のかたまり。ところが芸能人は、非常識のかたまり。一般庶民とは金銭感覚も道徳観念もまるで物差しが違うから、もとからうまくいくわけないんだ。その証拠に、関口麗子なんて結婚してもテレビドラマでベッドシーンをやってたじゃないか」 「女優だったら、あたりまえでしょう」 「悦子、おまえにも貞操の観念がないのかよ」  水守は、えらく古い言い回しを持ち出して嘆いてみせた。 「おれには理解できないね。ダンナがいるのに濡《ぬ》れ場《ば》を演じられるなんて。いいか悦子、もしも関口麗子がふつうのお母さんの感覚を持っていたら、ベッドシーンはもちろんのこと、キスシーンだって、台本にあったら断っているはずじゃないか」 「そんな」 「そんな、じゃないよ。それが夫を持った妻として、そして一児の母としての良識的判断というものだ。そういう常識もわきまえぬ母親のいる家にだな、千春を泊まりにいかせるなんて、非常識のバイキンを移されにいくようなものだ。今後二度と許すなよ」 「でも、葉月ちゃんは千春の大の仲良しなのよ。もう十年来の友だちなんだから」 「仲良しだろうが何だろうが、ダメなものはダメだ。おれは葉月っていう娘に会ったことはないが、どうせ母親ゆずりの飛んでる子なんだろ。友だちは選ばなきゃ」 「はいはい、もうわかりましたから。話に夢中になっていたら、パパこそ会社に遅れちゃうわよ」 「これだけは言っておくけどな」  紅茶の残りをすすってから立ち上がると、水守はネクタイを締めながら言った。 「千春は高校を卒業するまで、恋愛は御法度《ごはつと》だ。バレーボールと勉強だけに集中させておけ。そのために、遠いけれどあの女子校を選んだんだから」 「はいはい」 「はいはい、じゃなくて、監督者の母親として、おれにちゃんと約束しろよ」 「なにが?」 「千春をつまらん男なんかとつきわせるな、ってことだ。それから、たとえ女の友だちでも、男との恋愛を覚えさせるような子のところに泊まったりもさせるな、ってことだ」 「それは……」  無理よ、と言いかけたが、また話が長引くと思い、悦子は適当に言葉を濁した。 「パパがそう言っていたと、あの子に伝えておくわ」 「言っておくだけじゃダメだ。ちゃんと守らせろ」 「ちょっと、パパ。口の周りにトーストの屑《くず》がいっぱい」  悦子は背伸びをすると、水守の口の周りについたトーストを人差指で払いのけた。そして、顔を寄せたついでにチュッとキスをする。  そういうしぐさは、結婚のときからまったく変わっていなかった。悦子は決して美人ではないが、三十八になっても決して「オバさん」になっていなかった。そこは水守も認める妻の魅力だった。  それで水守は、口やかましい説教をうまくはぐらかされた格好になった。 「じゃあ、行ってくる」  背広を着込み、脇の椅子《いす》にのせておいた通勤カバンを取り上げると、水守は玄関へ向かった。  その背中に、悦子の声がかかる。 「あ、パパ、忘れ物。ケータイ忘れちゃ仕事にならないでしょ」 「おお、そうだそうだ」  水守はふり返って、妻の手から携帯電話を受け取った。  製薬会社の営業マンとして外回りが主な水守にとって、携帯電話は欠かせない商売道具である。電源が入っているのを確認してからその銀色のケータイをスーツの胸ポケットに入れると、水守は靴を履き、悦子に向かってもういちど「じゃ、行ってくる」と同じセリフを繰り返して玄関ドアを開けた。 「いってらっしゃい」  妻の声を聞きながら、水守敦夫は駅に向かう上り坂をゆっくりと歩きはじめた。  しかし——  そのときから、水守敦夫にとって不安な時間がはじまる。まだ、妻の悦子に打ち明ける勇気を持たなかったが、この新しい家に越してしばらく経《た》ってから、異様な出来事が毎朝彼を待ち受けるようになったのだ。  玄関を出るまでは、たとえばこの日の朝の場合は、彼の頭の中は一人娘の問題で占められていたが、いったん家の外に出たとたん、千春のことなどどこかにすっ飛んで、けさもまた不気味な「発作」に襲われるのだろうか、という不安に脅えなければならなかった。  またあの四つ角にさしかかったところで、恐ろしい身体の異変を体験しなければならないのか、と……。  発作—— それはこういうことだった。  通勤のために駅へ向かう水守を、その姿が見えなくなるまで玄関先で悦子が見送ってくれるのは、悪天候に見舞われた日や悦子が風邪《かぜ》などで体調を崩したときを除いて、結婚してからずっと変わることのない習慣だった。そして、自分の姿が妻から見えなくなる前に、もういちど家のほうをふり返って手を振るのも、水守が条件反射のようにつづけてきた習慣だった。  そういった点では、ふたりはじつに仲睦《なかむつ》まじい夫婦だった。そして、その朝の出勤時の習慣は、青葉台の新居に引っ越しても変わることがなかった。  ただし、こんどの家から駅に向かうには、玄関を出て二十メートルほどの先の角をすぐ右へ曲がらなければならない。以前よりも悦子が見送る距離と時間はだいぶ短縮されることになったのだが……その角にきたとたん、水守の身体に発作が起きるのだ。  水守が問題の発作に初めて襲われたのは、この家に越してきてから二カ月ほど経った五月初旬、ゴールデンウィークが終わって最初の出勤日の朝だった。いつものように自宅を出てこの角にさしかかったとき、何の前ぶれもなく、突然水守の肉体のある部分が、彼の意思とはまったく無関係な勝手な行動を起こしはじめたのだ。  ある部分とは、両方の目だった。  四つ角を曲がろうとする瞬間に、自分の両目が、いきなり白目をむいた。そして、いくら元に戻そうと思っても、上のほうに吊《つ》り上げられた眼球の位置は下がってくれない。  もちろん、その間はまともに視野も確保できない。後ろで見送る悦子にいぶかしがられるといけないと思い、水守は、とりあえずパッとふり返って手だけ振って、隠れるように四つ角の向こうに姿を消した。  悦子はふだんメガネをかけていないが、それほど視力がいいほうではなかったから、瞬時に夫の目の異常をとらえることはなかっただろう。だが、角を曲がってからも、しばらくの間は、発作は終わってくれなかった。  誰《だれ》かに見られたらどうしようと思って、水守はうつむきかげんに歩いた。といっても、白目をむいたままなので歩くのも困難だったが、立ち止まっているのも挙動不審に思われるから、水守はそろそろとした足どりで前進した。黒目の一部分が、わずかに出ているので、それでかろうじて周囲の状況を把握した。  それにしても、眼球が勝手に上方に吊り上げられる痛みは強烈で、しかも気分の悪くなるものだった。もう少しこの状態がつづけば、まちがいなく嘔吐《おうと》するだろうと思われたとき、突然、パッと発作から解放された。  吊り上がっていた眼球が、元の正常な位置に戻ったのだ。それと同時に、視野が回復した。  前方の高台に、前日までと同じように、駅を中心とした未来的な街並みが見えた。その背後には緑の森が控えている。太陽も明るく大空に輝いている。  まったく変わりのない、新居周辺の朝の風景だった。  だが、発作の余韻はまだ残っていた。強烈な頭痛と眼球の痛み、それに吐き気がまだ収まらない。 (いったい、何があったんだ)  水守はうろたえた。  彼は、それをストレスのせいだと解釈した。仕事も忙しかったし、この新居を買うにあたってのローンもけっこう過重で、昔と違ってサラリーマンも終身雇用が保証されない時代だから、数千万円の借り入れはかなりのリスクを伴うものだった。そうしたプレッシャーが無意識のうちに心にのしかかって、それで奇妙な発作が起きたのかと思った。  ところがその日以来、朝の出勤でこの角にさしかかると、突然白目がむき出しになってしまう発作が頻発するようになった。毎朝ではないが、三度に一度ぐらいの割合で発作は起きる。それに対抗しようと目をギュッとつぶっても、やはり勝手にまぶたが開き、黒目がほとんど隠れて白目だけが表に出て、ピクピクと痙攣《けいれん》をはじめる。  水守は、勝新太郎の「座頭市《ざとういち》」を思い出した。あんな状態である。そして、しばらく歩くうちに、発作は何事もなかったかのようにスーッと収まる。  その不思議な朝の現象が、断続的にもう二カ月もつづいており、水守はいささかノイローゼ気味になっていた。製薬会社の営業マンという立場上、医者のコネなら腐るほどあったが、診察を受けようという気になれなかった。その勇気が出ない、といったほうが正確である。あまりにも発作が奇妙なものだったから、どんな診断を下されてしまうのか、それが恐かったのだ。  そしてこの日も発作は起こった。  しかもこれまでと違って、四つ角のずっと手前、自宅の玄関から十メートルもいかないうちに発作がはじまった。  まだ間近で妻が自分の後ろ姿を見つめているのを感じながら、水守はあせった。もしもいまここで悦子のほうをふり返ったら、いくら近視ぎみの彼女でも、夫が白目をむいた異様な形相《ぎようそう》となっていることがわかり悲鳴を上げるだろう。  困ったことに、けさの眼球の吊り上がり方はいつにもまして強烈で、すべてが白目になって前がまったく見えなくなった。  歩く速度が急速にダウンする。と、そのとき、気配で前方から自動車が近づいてくるのがわかった。ヘタに歩みを進めれば、自分から車の前に飛び込んでしまうことにもなりかねない。  危険を感じた水守は、両目を真っ白にしたまま、その場に完全に立ち止まって車をやり過ごした。  その様子をいぶかしく思った悦子が、後ろから声をかけてきた。 「パパ、どうしたの?」 「いや、なんでもない。ちょっと忘れ物をしたかと思って」  水守は急いで、スーツの胸ポケットなどを探るふりをした。それで時間稼ぎをしている間に発作が収まってくれることを祈って。  だが、気分が悪くなるような痛みを伴ったまま、白目状態は収まってくれない。 「財布《さいふ》なの?」  なおも悦子が声をかけてくる。 「うん、……かと思ったけれど、ちゃんとあったよ。だいじょうぶ」  まったく悦子のほうをふり返らずに答えながらも、水守は依然として次の動作に困って立ち往生したままだった。前も横もぜんぜん見えないからだ。 「ねえ、パパ。どうかしたの?」  後ろから悦子の近づいてくる足音がした。 (まずい。この顔を見られちゃダメだ)  水守は無理やり前に向かってカンで歩き出した、白目をむいたままで……。  だが、明らかにまっすぐ歩いていないことが自分でもわかった。道路の中央寄りにフラフラと出ているなと思ったので、逆に右方向へコースを修正する。しかし、壁や電信柱にぶつかるのが恐いから、通勤カバンを持った右手を前方に突き出す。  その格好が後ろから見て異様にみえるのは当然だった。 「パパってば、どうしたのよ」  ついに悦子が駆け寄ってきた。  水守は反射的に逃げ出そうとしたが、数歩もいかないうちに電柱に身体ごと激突した。  その痛みで水守はうめき声をあげ、うずくまった。いまのショックで発作が終わってくれればと思ったが、やはり白目はむき出しになったままだ。打撲の痛みよりも、眼球が吊り上がった痛みのほうが数倍ひどい。 「いったい何やってるの。おかしいわよ」  悦子は、道路にしゃがみこんだ夫のそばに自分もかがんで、その顔をのぞき込んだ。 「ねえ、パパってば。身体のぐあいでも悪いの」 「悦子……」  もう隠しきれないと思って、水守は妻のほうに白目の顔を向けた。 「おれの目、こんなことになっちゃったんだ」 [#改ページ]   二 ケータイが家族を壊す 「とにかく二十一世紀の日本の家庭生活は」  夕刊ニッポン編集部長の蔵前賀寿雄《くらまえかずお》は、居並ぶ記者たちを見渡して大きな声を張り上げた。 「ケータイによって、大きな変貌《へんぼう》を遂げることになる。パソコンとかインターネットではない、ケータイだ。携帯電話だ」  大会議室に集合した、担当分野の枠を超えた二十人ほどの編集部員は、ホワイトボードの前に立って弁舌をふるういかつい顔の部長にじっと目を向けていた。  きょうの編集会議は、来月の紙面で一週間連続の特集を組む≪ニッポンの未来は?≫と題する企画記事の内容打ち合わせだった。  この特集は五日間にわたって、さまざまな角度から日本の近未来を予測するもので、政治・経済・社会・科学・エンターテインメントの五つの小テーマに分けて月曜から金曜の紙面に掲載することになっていた。  いま猪突《ちよとつ》猛進型の編集部長である蔵前が口角泡を飛ばして議論をはじめたのが、特集三日目の水曜日に載せる社会的視点からの未来予測だった。  その記事のアイデアを記者たちから募ったところ、経済や科学の特集曜日ともダブるパソコンとインターネットによる生活革命といった着想が続出したため、おまえらの発想はワンパターンだ、と蔵前が雷を落としたところである。  そして彼は、自分自身であたためていた携帯電話による家庭構造の激変について論じはじめたのだ。 「繰り返すが、パソコンやインターネットがもたらす情報革命に着目する記事なんか、もうどこのメディアでも腐るほどやっている。しかし、ケータイがもたらす家庭革命については……いや、家庭革命じゃないな、言い直そう。家庭崩壊だ。ケータイが引き起こす恐るべき家庭崩壊については、まだまだじゅうぶんなリサーチがなされていない」  そこで蔵前は、ホワイトボードに黒のマーカーで大きく≪家庭革命≫と書いてから、赤のマーカーに持ち替えて、『革命』の二文字を赤い×で消した。そして、その脇《わき》に赤字で『崩壊』と書き添える。 「たとえば、いまの高校生はもちろんのこと、中学生でも携帯電話の保有率は急速に上昇している。都会では、もはや持っていないほうが少数派といって過言ではない。では、ケータイが世の中学生の必需品となってしまったとき、その子供がいる家庭には、いったいどんな変化が起きるか。おい、成田《なりた》、おまえどう思う」  編集部長に指名されたのは、二十八歳の若手記者、成田|誠《まこと》だった。大学時代にラグビー部の主将を務めていたスポーツマンで、体力ならおまかせというタイプだったが、決して粗野ではなく、俳優にしてもいいようなマスクの持ち主であるため、女子社員からの人気はナンバーワンである。 「家庭の変化ですか……うーん」  夏の季節はとくに真っ黒に日焼けしている成田は、持っていたボールペンを指先でくるくる回しながら、うなった。 「電話料金がかさんで、親が大変ということですかね」 「それは大いにある。だが、もっと重要なことだよ」 「もっと重要なこと?」 「おまえは家庭持ちじゃないから、わからんか」 「うーん……」  なおも成田が首をひねっていると、来年五十の大台に乗るベテラン記者の小山内五郎《おさないごろう》が横から口をはさんだ。 「それはたぶん、電話のマナーが崩壊することではないかと思います」 「ほう。というと、具体的には?」  部長の蔵前にうながされ、部員の中でもきわだって小柄な小山内は、訥々《とつとつ》とした口調で語りはじめた。 「私のところは高校三年の娘がおりますが、これが友だちとケータイで話をしているのを聞くと、まったくあきれ返ります。なにしろ『もしもし』がない」 「もしもし、がない?」 「電話がつながると同時に、いきなり『あ、あんた?』ですから」 「あんたというのは、誰なんだね」 「私にだってわかりません。でも、あんたと呼びかけるのは同性の友だちのようです。しかし、電話の向こうで相手が名乗っているわけでもない。回線がつながると同時に『あ、あんた?』とはじめるわけです」 「ちょっと待てよ」  釈然としない表情で、蔵前が問い返した。 「電話口の相手を確かめもせずに話しかけるのか」 「部長、それは従来の家庭やオフィスにある固定式の電話に慣れた人間の疑問です。ケータイは、家とか会社に所属している通信機器ではなく、特定個人に所属しているわけですから、自分が意図した相手以外の人物がそれをとることはめったにない。だから、たとえば『もしもし、蔵前部長のお宅ですか、小山内と申しますが』というふうに名乗りあう必要がないんです。大前提として、自分がかけようと思った人間以外は電話に出ないんですから」 「ま、たしかに、おれも携帯電話のときはそうなるけどな」 「しかも通常の電話と違って、知らない人間のケータイにかけることはめったにありません。親しい者どうしだから、ケータイの番号を教えあうわけでしょう。とくに子供たちの場合は。だから、なおさら名乗りあう必然性がなくなってくる」 「だが、電話を受けるほうはどうなんだ」  ふたりの息子がすでに社会人となって独立している蔵前は、そのへんの実感がわからずにきいた。 「いきなり『あんた?』なんて呼びかけられても困惑するだろうが」 「いえ、あの世代の連中はバンツーが基本ですから」 「パンツ?」 「ちがいます、バンツーです」  お約束のような聞き間違いをする編集部長に、記者の間から失笑が沸《わ》き上がった。 「なんだよ、みんな知ってるのか、バンツーって言葉を」  蔵前は、憮然《ぶぜん》とした表情で周りを見回した。 「おれだけかい、仲間はずれは。……で、小山内君、何なんだ、バンツーというのは」 「発信者番号通知のことです。略して『番通』」 「なあんだ、それかよ。だったら知ってるさ」  蔵前は、うんざりという表情を浮かべた。 「ほんとに若い連中の造語感覚は下品でいかんよな。なんでも省略すりゃいいと思って、言葉の響きを大切にせん。バンツーかよ、やだねー、おしとやかな女の子が口にすべき言葉じゃないな。……それで?」 「ケータイが鳴ると、まずは液晶ディスプレイに表示される発信者番号を確認する。これは、我々もやる無意識の動作ですよね」 「まあな」 「その段階で番号非通知と表示されたら、これはもう仲間内からの電話じゃないということで、シカトして、自動的に留守電サービスにつながるまでほっておいたりします」 「だけど、親が緊急の電話を入れるケースもあるだろう。大人の場合は、イタズラ電話防止の意味もあって、ケータイも一般回線も番号非通知にしていることが少なくないと思うが」 「ですから、バンツーしてこない親の電話もあっさり無視されます。私も家内もしょっちゅう、それで娘にフラれます。で、めんどうでも電話をかけるときに、娘のケータイ番号の頭に186をつけて番号通知にすると、相手の液晶にこっちの番号が出ますから、それで初めて『あ、お父さん?』ってな感じで出てもらえるんです」 「やれやれ、親も疎外されるのかい」 「ふつうの電話を一般公開の通信手段とするならば、ケータイは、あくまで内輪の通信手段なんです。だから、番号を公開せずにかけてくる相手は部外者ということで、冷たくあしらわれても仕方がない。それがケータイ生活の鉄則です。非通知の電話は、とりあえず留守電にメッセージを入れさせて、その内容を確認してから折り返しかけるとかするんです。つまり若い子のケータイに電話して、留守番電話サービスの応答メッセージが流れても、決して電話に出られない状況だと思ってはいけない。あんたはふだんの仲間じゃないよ、ということで、いったん留守電回しにされるのです」 「へーえ。しかし、小山内君も私とたいして年が違わないのに、若い連中の現状をよく知ってるねえ」 「必死ですよ」  小山内は苦笑いを浮かべた。 「娘のノリに置いていかれないためにもね。……ともかくそういうことで、液晶に相手のケータイ番号と登録済みの名前が表示されたら、いちいち『もしもし』なんていう決まり文句を口にする必要がない。『はい』とか『あ、あんた?』ですむわけです。ケータイのベルが鳴る。液晶のバンツーをチェックする。それを見て、仲間であることを確認してから通話開始ボタンを押す。で、『はい』『あ、あんた?』で会話がはじまる。ときにはそういったやりとりすらなく『あんさー』でいきなりスタートすることもあります」 「なんだよ、その『あんさー』ってのは」 「『あのさー』をもっとけだるく発音したパターンです。通話がつながったとたん、いきなり『あんさー、あしたの渋谷《しぶや》の待ち合わせだけど』という感じで」 「はー……」  蔵前はため息をついた。 「情けないねえ。そういうノリが今後一般的になっていくとしたら、新入社員はどうなるんだよ」 「問題はそこですよ、部長」  小山内が言葉を強めた。 「若い世代における、こういったケータイ特有のマナーの省略が、通常の電話でも行なわれてしまう。プライベートならまだしも、業務としての電話会話にも、ケータイのノリが侵食してくる。そこが今後の重要課題だと思うのです」  小山内は、ほかの部員にも目を向けながらつづけた。 「私たちの世代のように、一般固定電話のやりとりに何十年も慣れてきた人間は、ケータイと通常電話との切り替えをすばやくやれますが、若い連中はケータイ専用の頭脳構造になっていますから、ふつうの電話で見知らぬ人間とフォーマルな会話を交わすことができなくなっているんです。そして、社会に出てもそれが直らない。とくにフリーターとかプータローと自称してはばからぬ連中は、企業組織の中できちんとした訓練を受けていませんから、そのへんがまったくデタラメです。  こういう連中を会社でアルバイトに雇うと、まず電話応対の第一声からできません。たとえば『夕刊ニッポン編集部です』なんて社名を名乗る常識すら持っておらず、自分のケータイにかかってきたときと同じように『はい』のひとことで済ませたり、伝言をことづかっても、先方の電話番号を聞いておくという気の利かせ方をまったくしない。電話機のメモリーに番号が自動的に記録されているんじゃないかと思い込んでるんです」 「実際、うちのバイトにもそういうのが多いんじゃないのか」  と、蔵前がため息をつく。 「それから、いまはケータイをかけるときの特殊性を申し上げましたが、通話を終えるときもマナーもへったくれもありません。我々は、いくら親しい仲でも電話を切るときには『それじゃ、そういうことで』というふうに、よくよく考えたらまったく意味のない言い回しなんですけれど、そういったシメの挨拶《あいさつ》をもって電話を切るという暗黙の了解がありますよね」 「そうだな」 「しかし、ケータイ世代は出るときも唐突だけど、切るときも唐突です。たとえば自分の部屋でケータイをかけている娘に用があって話しかけますと、いきなり通話中の相手に向かって『じゃ、切るね。切るよ』ですからね。なぜ急に電話を中断せねばならなくなったのかという状況説明など、いちいちしないんです。そして、赤い通話終了ボタンをプチッと押して会話が切れる。それがちっとも失礼じゃない世界です」 「その調子で仕事相手の電話を切られたんじゃ、かなわんな」 「ですから、こんどの記事ではそういったマナー崩壊という切り口からアプローチしていっては、と思うんですが」  小山内がひとしきり自分の意見を言い終えると、その隣にいた女性記者の奥村由香利《おくむらゆかり》がハイと手をあげた。三十七歳の由香利は、髪をソバージュにしていたが、誰に会ってもダイエットを勧められるその体型が、ふわふわとボリューム感をもって広がるヘアスタイルのせいで、よけいに横に広がってみえた。 「いまの小山内さんのお話をうかがってますと、ケータイのマイナス面ばかりが強調されているみたいですが、中学一年の息子を筆頭に、下は小学校三年の娘まで三人の子を持つ母として申し上げますと、ケータイのおかげで助かっていることもずいぶんあるんです」 「たとえば?」  と、蔵前が水を向ける。 「うちは、ぜいたくと言われるかもしれませんが、三人の子供全員にケータイを持たせているんです」 「小学校三年の娘さんにもかね」 「ええ。ただし、いちばん下の子のケータイは、自宅と私のケータイと主人のケータイの三カ所だけにかけられる発信先限定になっています。でも、これを持たせているおかげで、私のように不規則な職場で働いている母親でも、子供といつも連絡がとれて安心できるんです。仕事の都合で約束の時間に家に帰れなくても、そのことを三人全員に伝えられますし、逆に子供の帰りが遅くなった場合も、ケータイをかければ、どこで何をしているのかすぐにつかめます。それに中学のお兄ちゃんなんかは、夜、勉強中に友だちと連絡を取りあって、テストの範囲や宿題のわからない部分をたずねたりしていますし」 「いや、ユカちゃんなあ、問題はそこだと思うんだよ」  部長の蔵前は、ようやく自分の意見を述べるところに話題が戻ってきたという顔で、奥村由香利から話を引き取った。 「夜、試験勉強中にわからないところがあれば、ただちに友だちにダイレクトに電話ができる。これは子供の立場からすれば便利だろうよ。しかし、そこに落とし穴があるんだ」 「落とし穴って、どういうことですか、部長」 「親を経由しないで、子供どうしで直《じか》に電話の会話が成立する、というところだよ。三児の母として、この恐ろしさに気づいていないのかね、ユカちゃん」 「………」 「昔は『よその家の子』という概念が、子供の間にもきっちりあった。つまり友だちというのは、あくまでよその家のお父さんやお母さんに従属した立場の存在だったわけだよ。したがって、家に戻ってから宿題のことでききたいことがあれば、まずはよその家に電話をして、友だち本人が出る前に、その親と話すという大前提があった。だから、怪しげな電話は親のところで事前にカットされる。女の子の家に夜遅く男の子が電話をかけようものなら、口うるさい母親がまず応対に出て、『どちらさまですか』『うちの花子にどういうご用件でしょうか』などと、慇懃《いんぎん》無礼な口ぶりで目的を詮索《せんさく》される。カミナリおやじなんぞが電話口に出た日には、『いま何時だと思ってるんだ』ガッシャーン、でいきなり切られたりする。  我々が子供のころは、夜、友だちの家に電話するとは、そういうふうによその家庭におそるおそるおじゃまするという感覚があった。だから、とくに男でいえばガールフレンド、女でいえばボーイフレンドと電話でコンタクトをとるのは、それこそ清水《きよみず》の舞台から飛び降りるような一大決心が必要だった。心臓がバッコンバッコンと高鳴ったものだよ」  誰《だれ》かが、それは部長の体験談ですか、と声をかけると、おお、と蔵前はうなずいた。 「おれは大学も実家から通っていたんだが、その大学生のときですら、だぞ、夜になって好きな女の子のところに電話するのに、自分の親に聞かれちゃまずいから、自宅からは電話できなくて、自転車でバーッとひとっ走りして近くの畑まで行って」 「畑?」  きき返したのは二十八歳の成田誠である。 「でも、部長って東京育ちでしょう」 「東京も東京、大田区の久《く》が原《はら》だよ。高級住宅街だぞ」 「それなのに畑、ですか」 「おれが学生のころはな、まだいくらでも畑があったのよ。いまじゃ、そのほとんどが建て売り住宅に化けてるけどな。ともかく、うちから二百メートルほど行った畑の脇《わき》に公衆電話ボックスがあってさ、そこに十円玉いっぱい握りしめて飛び込んで、ぶるぶるワナワナ震える指先で女の子んちの番号回して」 「 プッシュボタンじゃなくて、ダイヤル式だったわけですね」 「いちいちうるさいね。そういう時代でしたよ。ところがおれの指は太いから、これがまた回しにくくてな。ともかくなんとか番号を回し終えたあとも、トゥルルル、トゥルルルという呼び出し音が、なんちゅうかね、爆発までのカウントダウンみたいな感じで伝わってくるんだな。いきなり親が出たらどうしよう。そのときには、なんて言えばいいんだ、とか頭の中がグルグル回ってさ」 「それって、もしかして電話で愛の告白でもしようとしてたんですか」 「おう」 「部長が?」 「おれの話だって、ちゃんと断ってるだろ」 「未来の夕刊ニッポン鬼編集部長が、好きですって告白するのに、わざわざ畑のそばの公衆電話まで行って、それで電話に相手が出るまで緊張して震えてたんですか? 大学生になってたっていうのに?」  成田のくどいほどの確認に、笑いが巻き起こる。 「おれだってな、そういう純情|可憐《かれん》な時代があったのよ」  ホワイトボードの前に立っていた蔵前は、会議室のテーブルの上に尻《しり》を載せ、脚をぶらぶらさせながらつづけた。 「ともかく昔はそんなふうに、まず親という関門があったから、そこで子供の動向がしっかり監視されていたわけだ。若い成田はからかうけれど、あのころは大学生ですら、自宅にかかってくる電話に関して、親の検閲が入って当然という時代だったんだ」 「信じられないですね」  成田は首を振った。 「ぼくだって大学生のころはケータイなんかなかったけど、それでも家にかかってくる電話に親は干渉しませんでしたよ」 「そういう親もいただろう。だが一方では、相手の性別を問わず、娘にかかってくる電話すべてに『ウチの子に、いったいどういうご用でございましょうか』などとネチこくたずね、その挙げ句にほとんど取り次がなかったという母親もいるんだ。そして、娘が二十歳《はたち》をすぎ、二十五を超えてもなおその調子で取り次ぎ妨害をつづけたために、とうとうその家の娘は婚期を逸してしまった、というエピソードが実際にあるんだよ。  そういった逸話が、いまや完全に過去の笑い話となってしまったのは、なにも親の世代の意識革命があったからだけではない。もっと大きな要因はケータイだよ。携帯電話の登場によって、どんな時間帯でも、監督者である親を経由しないで、子供どうしがダイレクトに会話できるようになった——このことが大きいんだ。ケータイの存在が、友だちにせよ恋人にせよ若者たちの人間関係の実態を、完全に親の目の届かないところへ運び去ってしまったんだ。それを危険だと思わないのか」  尻を載せていたテーブルの上から滑り降りると、蔵前はふたたびホワイトボードの前に立った。 「いい年をした大学生ならば、それこそ親の耳など気にせずに自由に電話ができてあたりまえだろうが、思春期の盛りである微妙な年頃《としごろ》の高校生も、はたしてそれでいいのか。あるいは、高校生以上に無茶な暴走をしやすい世代の中学生が、親に隠れてナイショの相談ができる環境を許していいのか。それで問題を起こさないのか」  蔵前は、部員ひとりひとりに問いかける口調になった。 「ケータイが若年齢層に普及するとは、そうした懸念があるんだよ。わかるか、つまりケータイによって、家庭の中に治外法権領域ができてしまう。親の立ち入れない子供の密室世界が確立してしまうんだ」  冗談めかして部長をからかっていた成田たちも、いつのまにかみな真剣な表情に変わっていた。 「その状況は、もはや中学生レベルにとどまらない。いみじくも、いまユカが打ち明けたように、小学校三年の子供がケータイを持つ時代だ。彼女は三児の母として、しかも働く母としてケータイの効用を述べたが、それはあくまで親の視点であって、最初は子供の安全を守る道具として買ったはずのケータイが、いつのまにか子供の好きなように使われてしまうんだよ。親を疎外するための絶好の小道具としてな。そして親の知らぬ間に、子供の都合でどんどん事が運んでしまうようになる。それも、小学生のうちからな」  そこで奥村由香利が反論しようと口を開いた。が、蔵前にギロッと睨《にら》まれて、由香利は言葉を呑《の》み込んだ。 「すでに一九九九年度未の時点で、ケータイとPHSを合わせた加入台数が一般固定式電話のそれを上回った。そのようにケータイの普及が急ピッチで進む日本の家庭に警告すべきテーマは、これしかない」  蔵前は、拳《こぶし》の裏でバンとホワイトボードを叩《たた》いた。 ≪家庭崩壊≫という文字を記した黒と赤のマーカーが、彼の手の甲に付着した。 「ケータイは日本の家族を崩壊させる——これこそが、夕刊ニッポンが読者に贈《おく》る二十一世紀最大の警告だ。そういう切り口で特集企画をまとめたいんだよ。必ずこれは反響を呼ぶ。そして、うまくやれば新聞協会の賞だってとれる。テレビの特番と連動して一大キャンペーンを張ることも考えられる。さあ、どうだ?」  編集部長の蔵前は、自信たっぷりに居並ぶ部下たちの顔を見回した。 「日本人家庭の未来像についての問題提起で、このおれの着想をしのぐプランを出せるやつがいるか? いたら手を挙げてみろ」  とりあえずは、シンとして反応がない。 「どうだ。わかったか」  汚れた手の甲をもう一方の手で拭《ぬぐ》いながら、蔵前は得意げに言った。 「読者がドキッとする記事というのはな、こういうふうに気がつきそうで気がついていない角度から攻め込んでいかなきゃダメなんだ」  そこまで言ったときだった。 「部長」  ボソッとした声で発言を求める者がいた。 「ぼく、もっとすごいアイデアがあるんです。部長のよりもっとエグいのが」  全員がその声の主に目を向けた。  社内一の変人として、同性の男からは煙たがられ、女性たちには気持ち悪がられている四十二歳の独身男、高沢公生《たかざわきみお》だった。 [#改ページ]   三 視線恐怖症の男は語る  小太りでふっくらした顔は、いつも湯上がりのようにテカテカ光っていて、ほっぺたはピンク。それと対照的に髭《ひげ》の剃《そ》り跡《あと》が青々としているのが特徴的な高沢公生は、とてもことしで四十二歳になるとは思えぬ童顔をしていたが、彼は話をするときに絶対に人の目を見ることがなかった。  いわゆる視線恐怖症である。  毎日顔をつき合わせる同じ新聞社の、しかも同じ部署の人間と話をするときも、決して真正面から目を合わせることができず、いつも斜め下のほうを見て語るのだ。そのくせ、しゃべり口調は決して臆病《おくびよう》ではなく、それどころか饒舌《じようぜつ》といってもよいほどだったので、そのアンバランスさも、周囲から気味悪がられる要因のひとつだった。 「まったく、役員は何考えてあんな男を採用したんだ」  編集部長の蔵前は、ことあるごとにそう言って高沢を批判してきた。  編集現場一筋のたたき上げで部長のポストまで昇りつめてきた蔵前は、同じ記者として高沢とコンビを組んだことも数知れずあったが、そのたびに思うのは高沢公生は『変人』の域を超えた『変態』である、ということだった。 「いずれあいつは性犯罪のような変態行為でつかまって、会社に泥を塗ってくれるぞ」  と、蔵前は、高沢の危険性に関する予告を昔からしばしば口にしていた。そして、いざ自分が編集部を統括する現場最高責任者の地位に就くと、高沢に泥を塗られるのは会社の看板ではなく、自分ではないかと真剣にその存在を疎《うと》ましく思うようになってきた。  日本の企業組織は連帯責任を重んじる。だから、高沢が変態行為で不始末をしでかしたときは、部長の自分も責任をとらねばならなくなるのは当然の流れだった。そこを蔵前は脅えるようになったのだ。 「組合が強い会社も善《よ》し悪《あ》しだよ。給与闘争のときは頼りになるけど、高沢のような変態のクビひとつも切れなくなるんだからな」  蔵前にとって、いまや高沢公生は完全にお荷物だった。その高沢が、蔵前よりももっと『エグい』アイデアがあると言い出した。エグいという単語を会議で持ち出す感性も、彼の変態性を象徴しているようで、蔵前は発言を許すのも忘れて顔を露骨にしかめた。  だが、視線恐怖症で饒舌な高沢は、居並ぶ部員の誰《だれ》とも目を合わせないようにして自分の意見を一方的にまくし立てはじめた。 「あのですね、あのですね。ケータイの急速な普及がもたらす人類の危機に関しては、ぼくにも持論があるんです」 「おい、高沢」  たまりかねて蔵前がさえぎった。 「いつおれが人類の危機だなんて大げさなことを言った。話を途方もない方向へ膨らませるなよ。日本の家庭、日本の家族の危機だという視点で捉《とら》えているんだぞ」 「いえいえ、いえいえ」  高沢は、テカテカに上気させた顔を左右に振った。視線を斜め下に落としたまま。 「だとしたら、それは部長の認識が甘いということです」 「おれの認識が? 甘い?」 「そうです。携帯電話の普及が招くのは、家庭の危機なんて小さなスケールのものではなく、地球規模、人類規模の危機なんです」 「よし、わかった。おまえの話はまたの機会にゆっくり聞いてやる」  蔵前は露骨なしぐさでスーツのソデをまくって腕時計を見た。 「この企画会議は時間無制限でやっているんじゃない。みんなだって、それぞれ忙しいところを、一時間限定で集まってもらっているんだ。面白おかしいSF話は酒の席に回してくれ」 「差別しないでくれませんか、部長」 「………」  そっぽを向いたまま、突然、恫喝《どうかつ》口調に切り替わった高沢を、蔵前はギクッとした表情で見つめ、成田誠、小山内五郎、奥村由香利らの他の取材記者も、驚きの目を高沢に向けた。だが、当人はみなの視線を一身に集めながらも、決してその視線を受け止めようとはしなかった。 「ぼくはですね、みんなから変わり者だと疎まれていることぐらいわかってるんです」 「そんなことは」 「ありますよ!」  なだめようとする蔵前の言葉を、高沢はピシャリと封じた。  会議室の机に目を落としたまま怒鳴るその姿は、まるで机に向かってケンカを売っているようにも見えた。 「いいんです、弁解なんかしてもらわなくたって。部長がぼくのことを変人だ、いや変態だ、いつかヤバいトラブルを引き起こすに違いない、なんて言いまくっていることが、耳に入っていないわけじゃないんです」 「高沢、それは誤解だよ」 「五階でも六階でもいいんです。七階でも八階でも九階でも百二十五階でもいいんです」 「………」 「変わり者で結構、変態で大いに結構。でもですね、変態には変態なりの個性的な物の見方があるということをわかっていただきたいんでよ」 「よし」  無意識のうちにネクタイを緩めながら、蔵前はかすれ気味の声で言った。 「それじゃ、ケータイに関する高沢の持論というのを聞かせてもらおうじゃないか」  会議室のあちこちで、部員がたがいに意味ありげな視線を交わしあっていた。  そんな目配《めくば》せのやりとりを気配で察しながら、高沢が切り出した。 「ケータイというプライベート通信器具を開発したことによって、人類は電気器具化の第一歩を踏み出したのです」 「人類の電気器具化?」  蔵前は、眉《まゆ》をひそめた。 「なんだ、そりゃ。人間が電気器具になっちまうということか」 「そのとおりです」 「意味がわからんな」 「それは部長の頭が固いからです」  高沢のその物言いに蔵前はムカッときたが、懸命に感情を抑えて、彼はほかの部員に問いかけた。 「おい、誰かいま高沢が言った意味のわかる者はいるか。携帯電話の普及によって人間が電気器具化するということを理解できる者」  反応はない。  それを確かめてから蔵前は、決して自分のほうを見ようとしない高沢の額のあたりに向かって呼びかけた。 「どうやら、頭の固いのはおればかりじゃないようだがな」 「それじゃ編集部というネーミングにした意味がありませんね」  高沢は歪《ゆが》んだ笑いを口元に浮かべた。 「社会部とか報道部といった新聞社にお決まりの部署名を避けて、まるで雑誌社みたいな編集部というネーミングにしたのは、夕刊紙らしい柔軟な紙面づくりを狙《ねら》う心意気を生み出す目的があったんじゃないんですか」 「ああ、そうだよ」 「だったら困るじゃないですか、頭が固いのは。ぼくみたいにプヨプヨの脳味噌《のうみそ》を持たないと。……ねえ、部長」 「そりゃそうだ。そりゃ、まったくそうだ」  クーラーが効いているにもかかわらず、蔵前は額にびっしりと汗を浮かべていた。かねてより警戒していた変態男を、直属の部下という立場で抱え込んでからずっと恐れていた『爆発』が、いよいよ現実のものとなってきた気がしたからである。  会議室には、さきほどから異様なムードが漂っていた。高沢公生の暴走が、容易に収まるかどうかを危ぶむ空気である。 「ともかく高沢君」  ついに蔵前は、相手に『君』を付けた。 「きみの意見を具体的に披露してくれないか」 「携帯電話というものがまだなかった時代」  会議室の机に向かって、高沢は語りはじめた。 「たとえばぼくが取材先から部長に連絡を取りたくて電話をかけるとしますよね、その場合、こちらはつねに部長の居場所を同時に意識するわけです。会社におられるのかな、と思えば、部長席の直通番号にかけるし、ご自宅かなと思えばお宅の番号をプッシュする。打ち合わせと偽って入り浸っている新橋のクラブかなと思えば、そのお店に電話して黒服のボーイに呼び出しを頼むかもしれません」 「おい、おれはそんなことは」 「冗談ですよ、冗談」  ぐふふふ、と高沢は、机を見ながら気色の悪い笑い声を立てた。 「いまはもののたとえで話しているわけですから、いちいち過剰反応しないでください」 「………」 「そのようにですね、ケータイ以前の時代には、電話をかける前に必ずやらねばならぬ作業がありました。それは、相手がどこにいるのかを確かめることです。あるいは推測することです。電話のあるところに目的の人物が必ずいるとは限らないからです。ところがケータイの普及によって、居場所確認作業がまったく不要となって、ケータイのあるところ持ち主の人物あり、という図式が定着してしまった。  じつはぼく、このあいだ出張で新幹線に乗ったとき、面白い場面に遭遇したのです。列車が名古屋から京都へ向かっていたあたりだと思います。突然、車内のどこかでケータイのベルが鳴り出して、それを受けた男が電話の相手に大きな声でこう言っているんですよ。『おお、おまえ、よくおれの乗ってる新幹線がわかったなあ』。  その驚きの声に、車内のあちこちでクスクスと忍び笑いが洩《も》れました。その人は、たぶん新幹線の車内電話の呼び出しを受けたような錯覚に陥っていたんでしょう。携帯電話へかけるときは、相手がどこにいてもつかまるという法則を忘れてしまって驚いているわけですね。しかし、これこそが人間の電気器具化現象の典型的な例なんです。  つまり、ケータイを持っている人間というのは、ケータイの電源を入れることによって、どこからでもアクセスできる存在になる。ところがケータイの電源を切ったとたん、その人間は存在しないも同然となるんです。わかりますかね、部長、ぼくの言わんとするところが」 「ああ、なんとなくな」 「なんとなくじゃダメだから、もっと詳しく説明しましょう」  視線恐怖症の男は、あらぬ方向に向かって身ぶり手ぶりを加えながら語りつづけた。 「いまや日本人は、パソコンメーカーや通信産業の宣伝に煽《あお》られて、一億モバイル大好き人間と化しつつあります。とくにぼくらの商売は、すばやい情報のやりとりが生命線ですから、ノートパソコンやPDA(Personal Digital Assistant=個人用情報機器)と、ケータイもしくはPHSあるいはデータリンクカードの組合せを持ち歩くのが常識となっています。一見すると、こういうモバイルライフはいかにも時代の最先端をいくカッコよさのようにみえますが、じつは自分が人間であることを捨てて、情報端末生命体に変化しつつある人類の末期症状なんですよ」 「情報端末……なんだって?」 「生命体です、情報端末生命体。言葉を換えれば、人間の頭脳を持った情報機器ですよ」 「我々人間が、そういうものになりつつあるというのかね」 「ええ」  高沢は、蔵前の問いかけに軽くうなずき、さらにつづけた。 「モバイル時代とは、人間にとって小型情報端末を持ち歩ける便利さを享受する時代ではなく、小さな情報端末であっても人間を持ち歩ける、電脳側にとって非常に都合のいい時代の到来を指すんですよ」 「情報端末が人間を持ち歩く、だって?」 「そうです。『モバイルする』という動詞のほんとうの主語は、人間ではなく電脳側にあるんです。主体はパソコンであり、ケータイなんです。人間は操られる側であって、主体的存在にはなりえない」 「………」 「そしていつしか人間は、その存在の有無すらモバイル機器に握られるようになってしまうのです。いまお話ししたように、モバイルの電源をオンオフすることで、その機器に隷属する人間の存在そのものがオンオフされるわけですから」  いつのまにか、会議室に集まった部員たちは、高沢の話に吸い込まれるように聞き入っていた。 「こういう例も考えてみてください。昨今、独り暮らしをする若者は、固定式の一般加入電話回線というものを契約しないケースが増えています。住まいに固定された電話などは不要で、ケータイかPHSがあればじゅうぶんという発想です。インターネット通信にしても、とりわけPHSの通信速度がぐんぐん延びているし、ケータイだって、それに追いつこうと技術革新が進んでいる。いまさら『家付きの電話』なんか、持つ必然性がないんですよ」  その現実は部長の蔵前も実感していた。採用試験の応募者が寄せる履歴書に記入された連絡先電話番号を見ると、090や070ではじまるものが非常に目立つようになってきた。通常の市外局番や市内局番からはじまる電話を持たない者が急増しているのだ。  そうした現状を踏まえてか、以前ならば、ちょっと高級なホテルやレストランに予約を入れるときに、連絡先として携帯電話の番号を告げると、それでは信用がないとばかりに、ご自宅か会社のお電話は、などときき返されたものだが、いまではそんな対応はほとんどなくなった。 「家に固定された電話を持たなくなると……」  高沢はつづけた。 「こんどは、家そのものを固定しないという発想が生まれてきます。自分の存在すべてをケータイが代表するのであれば、そのケータイさえ持っていれば、家なんかどうでもいいというふうに。実際、日本国内のどこに引っ越しをしても、ケータイの番号は変わりませんからね。それは所有者にとって不変のIDナンバーなんです。極論を言えば、定住する家を持たなくても、また決まった勤務先がなくても、ケータイさえあれば自分のアイデンティティは保たれる。  逆に、ケータイを新しい番号に変えれば、そこで所有者はまったく新しいIDを得ることになります。ケータイには、所有者がいままで蓄積してきた人間関係のすべてが集約されていると捉《とら》えるならば、そのケータイを破棄することで、ケータイによって得た人間関係を一括消去し、人生のリセットが可能になります。こういう生き方こそが、これからのケータイ生活なんです。それは、リセットボタンを押せば、メモリーされていたデータすべてを一括消去できるパソコンなどの情報機器となんら本質的に変わるところはありません。そういう意味でも、人間はケータイによって電気器具も同然の存在となったのです」  いまや会議室は高沢公生の独壇場となり、彼の大胆な持論展開に異論をはさむ者がいなくなっていた。 「さっき小山内さんは、ケータイっ子たち特有の電話マナーを嘆かれましたよね」  高沢は、こんどは小山内のほうに顔を向けながら、視線だけははずして言った。 「しかし、あの子たちを人間と思うから、マナーがいいの悪いのと腹も立つでしょうけれど、モバイル機器に生活を支配されてしまった現代の若者たちは、ケータイやPHSとの一体化が進んでいて、すでに純粋な人間ではなくなりつつあるんです。半分電話なんです。こう言えばわかりやすいでしょう」 「半分電話だって?」  小山内がつぶやいた。 「ウチの娘が半分電話……」 「そうです。おたくの高三でしたっけ、そのお嬢さんは、半分人間で半分電話なんです。半分電話になっちゃってる人間……半電人ですよ、半電人。あはははは」  空虚な笑いを、高沢は響かせた。  もちろん、それにつられて笑う者は誰《だれ》もいない。鳥肌を立てた者は多数いるが。 「若いやつらは人間じゃなくて半電人。そう思えば、不作法な電話マナーだって腹も立たないでしょう。相手は人間の子じゃなくて、電話とのハーフなんですから、人間社会の礼儀作法を心得ていなくたって、ちっとも不思議ではありません」 「ちょっと待ってもらえませんか、高沢さん」  そこでようやく奥村由香利が、五年先輩にあたる——しかし『ぼく』という言葉遣いや童顔のせいで、むしろ五年後輩にすら思える高沢に向かって、不服そうな声をあげた。 「それじゃ、ウチの子たちも人間じゃなくて半電人だっておっしゃるんですか」 「ええ、そうですよ」 「そんなバカな話ってないと思いますけど」 「じゃあね、じゃあね、こういう例を考えてくださいよ」  高沢は、目を伏せたまま口をとがらせた。 「蔵前部長が、ご自分の学生時代の体験を話されましたよね。好きな女の子に愛の告白をするのに、わざわざ近所の電話ボックスまで自転車|漕《こ》いでいったって」 「ええ」 「まさしくそれこそ人間らしい行動というものじゃありませんか。つまり、離れた場所にいる人の声を聞くためには、少しでも自分がそこに近づくために移動する。それが本来の姿でしょう」  興奮してきたのか、高沢の顔が赤くなってきた。 「電話がまったくない時代の恋人たちはどうしていましたか。声を聞くには、直接会いにいかなきゃならなかった。そこに情報機器の介在する余地はない。恋する男と女が会話をするには、手を伸ばせば肌に触れる距離に接近する必要があった。ところが、電話というものが発明されたために、恋人たちはヴァーチャルな世界を現実だと信じて疑わなくなってしまった。  恋人と長電話をしているとき、愛する人の映像をじかに見ることができないから、人は視覚映像の代わりに、自分の脳裏に恋人の顔を思い浮かべます。そうでしょう? そして受話器から流れてくる肉声に合わせて、勝手にその映像を動かすんです。もうそこからして、現代の恋愛は仮想現実なんだ。実際には、電話の向こうの彼女はそんな顔なんかしていないのに、自分の好きなように表情を作り替えている。世の中のほとんどの人が、電話でのラブトークを現実だと信じ込んでいるけれど、あれは虚構の世界なんです。  これが通常の電話からケータイになると、もっと虚構性はエスカレートして、電話の向こうの恋人は、テレビドラマのヒーロー、ヒロインと同じ存在になります。どういう意味かというと、こっちがベッドに寝転がっていようと、パンツ一枚のだらしない格好でいようと、あるいは乗り物で移動中であろうと、スイッチ一発で恋人の声が呼び出せて、それと同時に、自分で創造する仮想の映像が加わるからです。わかりますか、由香利さん」  高沢は、三児の母でもある後輩の女性記者のほうに身体だけ向けた。 「ケータイで恋人を呼び出す行為は、リモコンでテレビドラマのスイッチを入れるのと同じなんですよ。テレビと違うのは、主役がこちらの呼びかけにじかに反応してくれるところですけどね。でも、テレビドラマの主役にとって視聴者がどんな格好で自分を見ているのかわからない状況とはウリ二つです。気がついていますかね、みなさん。ケータイとは、通話相手がいまどこで何をしてるのか、まったく不明の状況で会話がはじまることに」  机の上に置いた視線を扇状に移動させながら、高沢は、会議室の面々を見渡した。もちろん、目は合わせていないが、それが高沢にとって『見渡す』動作なのだ。 「ケータイをかけるほうは、相手の状況などおかまいなしに追いかけてくる。だから受けるほうだって、自分が何していようと、それを電話のために後回しにしたり中断したりしない。電話を受けるとき、昔の黒電話時代のように、いちいちかしこまらないんです。したがって、飲み食いしながらの電話などは当然です。  ケータイの場合は、電話がかかってきたからといって、生活の流れは中断しないのが鉄則です。だから、食事をしているときにかかってきたら、そのままメシを食いながら応答する。食事が終わってからかけ直すね、なんて発想はない。クッチャクッチャ、ズルズルと飲み食いする音を立てながら、電話の会話をつづけて平気だし、相手もそれを当然だと思ってる。もっと極端なことを言えば、ウンコしているときにベルが鳴っても、電話に出る人は大勢います」 「そういえば……」  そこで部長の蔵前が思い出したように言った。 「ホテルのトイレの個室からケータイの鳴る音がしたかと思うと、そのまま受けて、平然と大声でしゃべっているやつがいたなあ。それも、すげえデカい音でオナラなんかしながらだぜ」 「常識ですね、それくらい」  高沢は、サラッと言ってのけた。 「さっき申し上げたように、ケータイ人間にとって『家』は必要不可欠な要素ではありません。家とは、自分が必ず帰っていかねばならない港ではないんです。彼らにとってのプライベート空間、やすらぎの港は、なにも『自分の家』とか『自分の部屋』のように物理的に囲まれた場所が必要なのではない。ケータイが造りあげる仮想空間こそがプライバシー領域なんです」  高沢は、こぶしをふるって熱弁をつづけた。 「したがって、ケータイさえ持ち歩いていれば、そこが私生活の空間となる。だからいまの若者は、平気で電車の中でも飲み食いができるのです。彼らの頭には『家』と『外』の区別がない。ケータイがつながるところが、すなわち『ウチ』であって、そこでは他人の目があろうと耳があろうと、何をしたってかまわないということになる。いま部長がおっしゃったような、ホテルのトイレにこもっているときにケータイが鳴っても平気なんです。ケータイがあるかぎりはプライバシー空間なんだから、個室の外にいる人間に不気味に思われようが、そんなことは知ったこっちゃなく、ベラベラと大声でケータイに向かってしゃべれるんです。ケータイがあれば、ホテルのトイレも自宅のトイレも同じだから、通話中にリラックスして、ぶりぶりとオナラもできる。あははは、ぐふふふ、こりゃおっかしいですよねえ」  高沢は机に向かって笑った。 「こっちは惚《ほ》れた彼女の可愛《かわい》い笑顔を想像しながら、そして実際に可愛らしい声を耳にしながら話しているのに、じつは相手は便器にまたがって排泄《はいせつ》行為のほうに懸命で、電話のやりとりなんて適当に聞き流している。そういう状況は、ケータイ時代にはザラに起きるんですから」  そこで高沢はひとり笑いを引っ込めて言った。 「繰り返し申し上げますが、ケータイ人間は現在進行中の行為については、電話がかかってきた程度では中断しません。メシを食ってるやつはメシを食いながら電話に出る。ウンコしてるやつはウンコしながら電話にでる。エッチしてるやつはエッチしながら電話に出る。そして……」  一瞬、高沢は間《ま》を置いた。  それから、身ぶりを交えながらつづけた。 「全身に返り血を浴びながらグサッ、グサッとナイフで相手の身体を突き刺している最中にも、ケータイの着信音が鳴ったら、かかってきた電話に平気で出られるんです」  部長の蔵前が、あぜんとして手にしたマーカーを取り落とした。 「想像してみてくださいよ、みなさん」  高沢は両手を広げた。 「最近は着メロといって、着信音に好きな音楽のフレーズを入力するのが流行《はや》りですけど、たとえばですよ、人を刺し殺している最中に、ディズニーランドのなんでしたっけ、あのパレードのメロディとかね、そういうのが流れたらシュールだなあ。うふふふふ」  高沢は楽しそうに笑う。  ほかの部員はますます沈黙する。 「だけど電話相手には決してこちらの状況がわからない。ただいま殺人実行中でもわからない。人を殺しながら、電話相手とは明日のデートの約束ができる。そこがケータイの恐ろしさです。声だけのウソがつけるというところがね」 「声だけのウソ……」  ソバージュの髪を揺らしながら、奥村由香利は首を振った。 「つまり、携帯電話は虚構に満ちた仮想現実を造りあげる道具だと」 「そうですよ。さっきからそう言っているじゃないですか、ぼくは」  ほんの一瞬だけ由香利と目を合わせてから、すぐにパッとその視線をはずして、高沢は答えた。 「そして、仮想現実の虜《とりこ》となった人間は、すでに電話に頭脳を取り込まれてしまったも同然なんです。いわば、ケータイに脳を奪い取られたといってもよい」 「ケータイに脳を?」  その着想に、奥村由香利は目を丸くした。  が、高沢は湯上がりのように顔を火照《ほて》らせたまま、ここぞとばかりにまくし立てた。 「強烈な情報伝達力を持つケータイにとって、欠けているものは頭脳です。携帯電話にあれこれと付属機能が与えられるようになったものの、現時点ではケータイにはパソコンのような本格的な頭脳がない。だから、ケータイのやつったら、脳味噌《のうみそ》がほしくてほしくて仕方がないんですよ。あは? あは? あははは」  高沢は、またも奇妙な笑い方をはじめたが、由香利だけでなく会議に出ている全員が、不気味なものでも見るような目つきで彼を眺めていた。  その偏見に満ちた視線の嵐《あらし》を感じ取ったのか、高沢公生はテーブルに目を向けたまま、フフンと自嘲的《じちようてき》にせせら笑うような声を洩《も》らした。  そして言った。 「わかってますよ。高沢のやつ、前から変だ変だと思っていたけど、いよいよ本格的に頭がおかしくなってきたな、と言いたいんでしょう」 「そうは言っとらんが」  やっと蔵前が口をはさんだが、もはや高沢の耳にその言葉は届いていなかった。 「でもね、この事実を見過ごさないでください。ケータイがこのまま普及していったらどうなるか。奥村さんの家がそうであるように、ケータイを使いはじめる年齢はどんどん下がるばかりだ。それはすなわち、ケータイの台数がかぎりなく人間の数に近づいてゆくことを意味している。一九九九年度末のケータイ+PHSの加入台数推計が五千七百万台ですよ。そして人口総数に匹敵するまでに増殖したケータイたちが、その持ち主の頭脳を占拠しはじめたらどうなるか。第二の人類ですよ、ケータイの形をした第二の人類が誕生することになるんだ」  高沢公生は興奮の度合いをさらに強め、しゃべるたびに口から唾《つば》を吐き飛ばした。 「ぼくたちはすでにケータイに魂を奪われ、ケータイの言うなりに動かされながら、それでいてケータイに操られていることに気がついていなーい。すでに自分のプライベート空間とケータイとが合体してしまった事実に気がついていなーい。ケータイによって私生活が持ち運びされている事実に気がついていなーい。そんな滑稽《こつけい》な電話人間社会が、もうはじまっていることにも気がついていなーい。  破滅は近い。人類の破滅は近い。地球上の人間は、核戦争で滅びるのでもなければ、化学兵器や細菌兵器、奇病伝染病で滅びるのでもない。よくSFで描かれるようなコンピューターに支配されるのでもない。そうじゃないんだ。電話ですよ、電話! ケータイなんだ、ケータイ! 地球はケータイに乗っ取られるんだ」  高沢公生の独りしゃべりは、ほとんど絶叫の域に入ってきた。 「ケータイが人間の生活をめちゃくちゃに乱し、モラルもプライバシーも、それからやすらぎも奪い取って、心をズタズタにして、そして人間の脳味噌までも自分の支配下に置くんです。その恐怖の現実を、我々夕刊ニッポンが大特集を組んで読者に警告せずしてどうするんです。それが新聞記者の使命というものでしょう。違うんですか、ぶちょーっ! こいつですよ、こいつが人間に代わって世界を制覇するんだ」  そう叫びながら、高沢はサマースーツの内ポケットに手を突っ込んでケータイを取りだした。  が、それは四十二歳の新聞記者が持つにはあまりにも不似合いな、プリクラで作ったシールだらけになった銀色のケータイだった。しかも、ハイビスカスの花を飾ったビーズのストラップまで付いている。  高沢はあわててそれを引っ込め、内ポケットからもう一台のケータイを——地味な黒一色のケータイを取りだして叫んだ。 「みなさん、こいつは生きているんです! ケータイは、人間の脳を食って生きる生命体なんです」 [#改ページ]   四 プリクラだらけのケータイ  同じころ——  茶の間のすぐ裏にあたる廊下のところで、高沢公生の母、節子《せつこ》は、愕然《がくぜん》とした表情で電話の受話器を下ろしていた。 (また女子高生だった……)  心の中でつぶやきながら、高沢節子は一覧表に書き出した数字とカタカナの文字列のひとつに、赤鉛筆でチェックを入れた。  もうこれでチェックの入った列は二十を超していた。  節子の手元にある一枚の紙に並んでいる数字は、すべて090ではじまるケータイ番号か、070ではじまるPHSの番号。そしてその脇《わき》に書き出されたカタカナの文字列は、電話番号とセットで登録されてある所有者の名前である。ぜんぶで百近くにも及ぶそのほとんどが、苗字《みようじ》なしの名前のみ。しかも女の名前ばかりで男の名はない。  ヨーコ・リカコ・マユミ・ミドリ・サユリ・アイ・ユカ……チハル・ハヅキ—— (どの子も高校生か中学生……なぜ公生は、こんな年頃《としごろ》の女の子ばかりが登録されている携帯電話を持っているの)  母親は、不吉な予感がザワザワと身体に駆け上ってくるのを感じた。  人の目をまっすぐ見ることができないコンプレックスが先なのか、それとも変わり者扱いされがちな性格になってしまったのが先なのか、それは母親の節子にもわからなかったが、四十二歳の一人息子公生が一般社会から受け入れられにくい人間であることは痛いほどわかっていた。会社では変態扱いされて、とくに若い女性社員からは毛虫のように気持ち悪がられる存在であることも、本人から直接聞かされていた。公生を生んだ母親としては、つらい現実だった。  けれども、少なくとも公生は間違ったことだけはしない。そう信じてきた。そして、信じるに足る人間だからこそ、夕刊ニッポンという新聞社にも雇ってもらえたのだと思っている。  だが——一昨日、節子は、公生がうっかり自室の机の上に置き忘れていった携帯電話を見つけて驚いた。  それは、ふだん息子が新聞社の仕事で使っている味も素っ気もない黒いケータイではなく、シルバーメタリックのボディに、制服や私服姿の若い女の子を写したプリクラのシールがびっしり貼《は》ってあった。そして、ハイビスカスの花をあしらったビーズのストラップが付いている。  息子のケータイでないのは明らかだった。女子高生か女子中学生の持ち物だろう。けれども、なぜ息子がそんなものを持っているのか。 (四十二歳の公生が、女子高生とつきあっている? 援助交際?)  一瞬、そんな考えが浮かんだ。  変わり者ゆえに、息子の公生には四十二になるこの年まで恋人ができたためしがなかった。その現実を節子はよく承知していたから、お金でかりそめの恋人を買おうとする気持ちが公生にあっても、それは無理からぬことだと思っていた。だが、仮に援助交際をやっていたにしても、相手の女の子のケータイを公生が所持しているということが変だった。  節子自身は自分のケータイを持っておらず、使った経験もなかったが、息子がいじっているのを横から見て、ケータイには電話番号や名前を登録できる電話帳機能があることぐらいは知っていた。だから彼女は、そのプリクラだらけのケータイを取り上げると、おそるおそるといった感じで電話帳機能を探ってみた。母親のカンが、そのケータイをじっくり調べろと訴えていたのだ。  電話帳にメモリーされていた電話番号は百件以上あった。そして、そのすべてに女の子の名前が添えられていた。  節子はしばらくの間、それをどうしたものかと考えていたが、もしものときのために、登録されている電話番号と名前を、すべて紙に写し取ろうと決心した。  もしものとき、というのは……公生が、よからぬことを企《たくら》んでいた場合に備えて、という意味だった。悲しいことだが、我が息子は間違ったことをしないという母としての信念が、プリクラだらけのケータイを見たときに揺らぎはじめていたのである。  かなりの時間をかけて、手書きで写し取ったその電話帳リストを見つめているうちに、節子は、こんどは実際にその番号に電話をしてみようという気になった。息子がなぜ若い女の子のケータイを持っているか、ヒントを得られるかもしれないと思ったからである。  そこで節子は、そのケータイからではなく自宅の電話を使って、ためしに『ヨーコ』という名前の番号に間違い電話を装ってかけてみた。  そのときの時刻は夕方だったが、電車の中にいるケータイの持ち主につながった。声の感じから、ヨーコというのは中学生か高校生と思われた。節子は、相手が若い子であることだけ確認すると、間違い電話であることを詫《わ》びて電話を切った。そして、登録番号順に並ぶ次の番号にもかけてみた。こんどはリカコという名前だ。  リカコの番号につながると、ちょうど物を食べている最中だったらしく、モゴモゴした感じの若い声が応じた。 「ほわーい……どなたあ」  こんどは節子は、ためしにこうたずねてみた。 「あの、公生の母ですが」 「キミオ?」  いぶかしげな反応が返ってくる。  そして、飲み物でごっくんと口の中のものを流し込む音がして、それからリカコという子はきき返してきた。 「キミオって、あたし知らないけど、間違いじゃないんですかあ」 「あの、あなた高校生のリカコちゃんでしょ」  適当に節子がきくと、 「ちがいますう。あたし中三ですけどー」  そう答えてから、リカコは送話口をふさぐというマナーも知らずに、横にいるらしい仲間に言った。 「バンツーしてこないコールとっちゃったら、なんかヘンなおばさんなんだよー。キミオがどうとか、ワケわかんないこと言ってるの。どうしよっかー」  切っちゃいなよ、という声が脇でして、いきなり通話が切れた。  そんな調子で高沢節子は、紙に書き取ったケータイ番号のリストからその日だけでも十人近くに電話をかけてみたが、どれも女子中学生か女子高校生で、公生の名前に反応する者はいなかった。  当の公生は、出しっぱなしのケータイに母親が不審を抱いたとも知らず、その日仕事から帰ると、さりげなくそのケータイを自分のスーツの内ポケットにしまい込んだ。そして節子も、そのことを話題には出さないまま夕食の支度《したく》をしてやった。  だが、翌日も節子は息子に内緒で、書き留めたリストから何人かの女の子たちに電話をかけつづけた。中には授業中の教室にかかってしまい、「授業中!」というささやくような一言だけですぐに切られたのもあったし、数回のコールで留守番電話センターにつながるものも多かったが、直接話ができた女の子で、高沢公生という名前に反応を示す者はやはりいなかった。  さらにきょうも、節子は何本かの登録番号に電話をかけたが、もう一本だけかけたら、この作業はもうやめにしようと思っていた。  息子が、なぜ女子中高生の名前がメモリーに満載されたプリクラだらけのケータイを持っているのか——その謎《なぞ》をあまり突きつめて追わないほうがいいような気が、しだいにしてきたからだった。  そして、もうこれっきりと選んだ最後の番号が、ユカという名前の子だった。 「はい、山之井《やまのい》ですけど」  いままでかけた中で、いちばんしっかりした応答が返ってきた。  ほとんどの子は「はい」か「もしもし」で、それもめんどくさそうな、けだるい口調の第一声を発するのだが、この子は自分からしっかりと苗字を名乗り、その声もいかにも利発そうだった。それで節子も、この子になら詳しい事情を聴けるかもしれないと思って、いままでよりも深く突っ込んだ質問をすることにした。 「山之井さん……ておっしゃったわね」 「はい」 「山之井、ユカ、さんね」 「はい」 「高校生かしら?」 「そうです……けど」  応じる声に少し警戒感が混じったので、節子はすぐにそれをやわらげようと、できるかぎりやさしく言った。 「ごめんなさいね、突然お電話して。私ね」  そこで高沢という苗字を名乗ろうかと思ったが、節子はためらった。 「私、町でケータイを拾ったのよ。誰《だれ》が落としたものなのかわからないけど」 「……はい」 「で、そのケータイの電話帳にあなたの番号が登録されてあったので、ちょっとかけてみたの。もしかして、誰のものかごぞんじないかしら」 「どんなケータイですか」 「銀色でね、それでプリクラっていうのかしら、女の子を写した小さな写真のシールがいっぱい貼ってあって……それから、えーと、ハイビスカスの花がついてるわ」 「ハイビスカスつけてる子はいっぱいいますから、それだけだと、ちょっと……」 「あ、そう。でも名前も書いてないしねえ」 「ユーザーの電話番号チェックしてみました?」 「さあ……そういうのは、私よく知らないのよね」 「会社や型番によって違いますけど、私のドコモだと、メニューボタン押してから数字のゼロ押すと、自分の番号が出ますけど」 「あ、そう」 「ちょっとやってみてもらえませんか」 「あ……でも、いまないのよね」 「ないって?」 「いま手元にないの」  四十二歳の息子が持ち歩いているとも言えずに、節子は返答に困った。  しかし、相手はかなり頭の回転が速い子らしくて、鋭いつっこみを入れてきた。 「手元にないのに、どうして私のところにかけられたんですか」 「だからね、紙にメモしたの。そのケータイに登録されてあった電話番号をいくつか選んで紙に写したの。それを見ながらかけているのよ」 「どうしてそのケータイからすぐかけなかったんですか」 「それはね、私の声を聞いておわかりでしょうけど、おばさんも年だから、ケータイっていじったことないのよ。それに人のケータイでしょう。だからいまこれは自宅からふつうの電話でかけてるんだけれども」 「そちらの回線、発信者番号、通知拒否しているんですね」 「え、そうなの? 私、そういうのはよく知らなくて、ぜんぶ息子に任せているから」  それは事実だった。発信者番号の通知非通知の区別など、節子はいちども気にしたことがなかったし、非通知にしている回線でも頭に186を付けてから電話すると、相手がケータイやナンバーディスプレイ付きの一般電話ならば自分の番号が通知されるということも知らなかった。 「失礼ですけれど……」  いっそう警戒の色を強めて、相手がたずねてきた。 「お名前はなんておっしゃるんですか」 「私? 私は高沢です」  とっさに偽名などを使う機転も利かなかったので、節子は実名を答えた。 「で、そのケータイ、どこで拾われたんですか」  こんどこそ節子は答えに詰まった。  どこで拾ったかと問われても、それは公生にきかないとまったくわからない。拾ったものであるかどうかということすら、じつはわかっていないのだ。 「渋谷よ」  節子は、若い子が集まる場所としていちばんありえそうなところを選んで答えた。 「渋谷のハチ公前で拾ったの」 「じゃ、どうしてすぐに交番に届けなかったんですか。目の前に交番があるのに」  また節子は答えられなかった。その場しのぎのウソをつけばつくほど、泥沼にはまり込んでいく感じだった。 「あの、私、気持ち悪いんですけど」  電話の向こうの女子高生は、ハッキリした意思表示をしてきた。 「突然こういう電話をもらって、私、ちょっと恐いんですけど」 「いえね、私はただ……」 「高沢さんっておっしゃるんですよね」 「そうですけど」 「どちらの高沢さんですか」 「どちらの、って」 「お住まいは」 「東京ですけど」 「東京のどこですか。住所は」 「………」 「言えないんですか」 「ですから、私はただ、ケータイが誰のものかなと思って、それでそこに登録されていた番号にいろいろかけてみただけなのよ」 「いろいろ?」  また女の子は節子の言葉尻《ことばじり》を咎《とが》めた。 「いろいろかけたんですか。メモリーされてた番号に」 「そうよ」 「ふつう、そんなことします? ケータイ拾ったからと言って」 「あ……いえ……」 「そのケータイ、ほんとに拾ったものなんですか」 「………」 「もしもほんとうにケータイを拾ったなら、それは警察に届けてください。私のところに連絡するんじゃなくて警察に。いいですか? それじゃ、切りますから」 「あ、ちょっと待って」 「もう二度と電話をかけてこないでください」 「待って」  節子が引き止める間もなく、通話は切断された。  仕方なく受話器を置くと、節子は、手元に広げておいた百件近い登録番号リストのユカのところに赤鉛筆でチェックを入れ、深いため息をついた。  これが最後と思ってかけてみた電話で、女子高生に妙な怪しまれ方をしたことがずいぶん後味悪かった。まるで節子自身が、あのプリクラのケータイを利用して何かいたずらを企んでいるかのような気分になってしまった。 (公生……)  節子は、心の中で息子に呼びかけた。 (あなた、未成年の女の子に、なにか妙なことをしようと考えているんじゃないでしょうね。まさか、もう何か取り返しのつかない真似《まね》をしてしまったんじゃないでしょうね)  ないしょで登録電話番号を書き写した後ろめたさがあったため、公生本人に直接、あのケータイはどうしたのと問いただすのをためらってきたが、ここでまた妙な介入をしたため、節子はよけいに事情をたずねにくくなった。 (ほんとに公生は、なぜ若い女の子のケータイを持っていたんだろう。あのケータイはどこで、どうやって手に入れたんだろう)  そんな自問自答を繰り返しながら、節子は登録されていた電話番号と名前の一覧表に重い気分で目を落とした。  ……と突然、節子はあることに気がついた。自分の書き写したリストに不自然な状況があるということに。  あまりにも自然すぎてこれまで気がつかなかったけれど、自然すぎるがゆえに、非常に不自然なことだった。  それは——あのケータイの電話帳にメモリーされていた名前のすべてが、苗字《みようじ》のない女子名であった点である。  女の子のケータイだから、女の友だちの名前がズラリ並んでいるのはきわめて自然だと思えたが、そこにまったく男の名前が登録されていないのは、はたして自然な状況といえるだろうか。  たとえ女子校に通う女の子であっても、いまの時代、男の子の名前のひとつやふたつがケータイに登録されていて当然ではないか。それだけではない。先生の連絡先や、自分の家、あるいは父親の勤務先や母親の携帯電話、さらには個人の番号だけでなく、学校とか塾とか、そういった団体組織などの名前がまったく登録されていないのは、はたして自然な状況といえるだろうか。  節子は、いまいちど自分が書き写したリストを上から下までじっくりと眺めてみた。  何度見ても結果は同じである。百件近い番号がメモリーされているというのに、そこに添えられた名前は、ぜんぶ女子名でしかも苗字がないものばかりだった。 (やっぱりヘンだわ)  節子の心にまた不安の波が押し寄せた。 (公生が持っていたあのケータイは、何かがおかしい)  そのとき、いま切ったばかりの電話がリリリとけたたましく鳴りだした。  節子はギクッと身をこわばらせ、おそるおそる受話器に手を伸ばした。山之井ユカといういまの子が、なにかの方法でこちらの番号を調べて警察に通報してきたのではないか、という連想が頭を走った。  胸を高鳴らせながら、節子は受話器を取り上げた。 「あ、母さん」  公生の声だった。  ホッとため息をついて、節子は言った。 「どうしたの、公生」 「きょうは晩ご飯うちで食べるって言ったけど、やっぱりいらないからね。仕事で遅くなることになったんで」 「ああ、そう。わかったわ」 「もしかして今夜は会社に泊まりになるかもしれないけど、帰ってこなくても心配しないでよ」 「帰ってこない……かもしれないの?」  また節子の胸に不安の波状攻撃が押し寄せた。 「そうだよ」  と、短く答えてから、公生は母親の様子をいぶかしがるようにたずねてきた。 「どうしたんだよ、母さん。ぼくが社に泊まり込むことなんかしょっちゅうじゃないか」 「それはそうだけど」  新聞記者の仕事が不規則なのは、もう二十年近くも息子の働きぶりをみていれば百も承知である。だから節子は、いままでならたとえ息子が連絡なしに帰宅しなくても、さほど心配はしなかった。  だが、いまは違う。  あのプリクラだらけのケータイが、さまざまな不吉な連想を節子の頭にかき立ててしまうのだ。 (やっぱり確かめなければ)  そう決心した節子は、思い切って息子に問いただした。 「あのね、公生、おとといあなたの部屋をお掃除してあげようと思ったら、机の上に見慣れない携帯電話が置いてあったんだけど」 「………」  節子がそこで間《ま》を置いても、公生は電話の向こうで黙りこくったままだった。まずい展開になる、と直感したが、もう途中で止められなかった。 「あれは、どこかの女の子の持ち物なんでしょう? どうして公生がああいうものを持っているの」 「………」 「ねえ、公生、黙っていないで答えてちょうだい」 「母さんまでがね」  ハッキリと怒りのこもった声で公生は言った。 「ぼくを色眼鏡で見るとは思っていなかったよ!」  ブチッという感じで、電話は唐突に切れた。 [#改ページ]   五 殺人の生中継をはじめます 「ねえ、夏休みどうする?」  あと二日で夏休みがはじまろうという日の夜中一時すぎ——  高校一年生の関口葉月は、自分のベッドルームから親友の水守千春とケータイで話していた。 「たぶん千春はバレーボールの練習で忙しいと思うけど、時間が空いたときにママの別荘にこない? 軽井沢《かるいざわ》の奥のほうにあるんだけど」  すでにいまは期末テストも終わり、夏休みが目前。もしかすると高校生にとっては、夏休みそのものよりも、いまがいちばんリラックスできて、遊びのプランにワクワクと胸躍らせる時期かもしれない。  生活サイクルはすでに夏休み入りしたのも同然で、葉月にとって夜中の一時などは『まだ宵《よい》の口』で、空が明るくなってから眠りにつくことも珍しくない。睡眠が足りなければ授業中に寝てればいいやという考えだから、葉月も相当にいいかげんな生徒である。  だが、葉月が特別反抗的というのではない。彼女のクラスメイトたちは——山之井|由佳《ゆか》のような特別にいい子ちゃんは別として——ほとんどが深夜型になっていて、午前一時や二時にケータイで長電話をするのは、少しも珍しくない光景だった。葉月たち高校生にとっては、それが夜中のなによりの楽しみなのである。 「七月の終わりから八月アタマのへん、時間あったら絶対おいでよ」  ベッドにうつぶせに寝転がってMDを流しながら、葉月はケータイでつながっている千春に向かって誘いつづけた。 「そのころママはね、秋からはじまるテレビドラマの撮影でずっと軽井沢なの。千春とちがって、私、クラブ活動やってるわけじゃないからヒマでしょ。それで、ママといっしょに軽井沢に移動するんだ。ときどきテレビでおなじみの役者さんとかくるんだけど、周りが大人ばっかりじゃねー、退屈しちゃうしさあ」  明日、教室で顔を合わせたときに話をしても用は足りるのだが、この深夜の会話が葉月は大好きなのだ。 「ね、千春。どう?」 「うーん」  ケータイの向こうで、千春は即答をためらっていた。 「どうしよっかなあ」  いつになく暗い声だった。  水守千春は小学校のときからずっと葉月と学校が同じで、ほとんどクラスもいっしょだった大の親友である。葉月には、もうひとり山之井由佳という秀才の親友がいた。彼女も小学校以来の友人で、この三人は性格も趣味もそれぞれ違っていたし、勉強のできぐあいにも差があったけれど、なぜか気が合って、おたがいになんでも話せる仲だった。  もう十年来のつきあいだから、千春は葉月が「石沢」姓だったころから知っている。そして三年前、中学一年のときに葉月の両親が離婚するというショッキングな出来事に見舞われたとき、いちばん相談相手になって支えてくれたのが、千春と由佳なのだ。  そういう関係だったから、葉月はしょっちゅう千春を自宅に泊まらせた。週末だけでなく平日でも、横浜に住んでいる千春がバレーボール部の朝練などで早いときは、そのまま六本木にある葉月の自宅から学校へ行くようにすすめることもあった。  しかし、その逆はあまりない。小学校のころは葉月も千春の家へ遊びにいくことがあったが、中学に入ってからはまったくない。千春の父親に会いたくなかったからだ。  これだけ長い友だちづきあいをしていたが、葉月が千春の父である水守敦夫と直接顔を合わせたことはない。たまたま会うチャンスがなかったのではなく、千春の母がそのタイミングを避けるように配慮していたのだ。理由は至って単純。千春の父は、葉月が女優の娘であるということだけで偏見を持っていたからだった。 「ごめんね、うちのパパって、芸能人をバカにしてるの」  千春に、そういって謝られたことがある。 「だから、もしも葉月と顔を合わせたら、きっと葉月にイヤな思いをさせるから」  聞くところによると、葉月の母・関口麗子が離婚してからは、その差別と偏見がますますエスカレートしたという。 「うちのパパの価値観て、よくわかんない」  千春はよくこぼしていた。 「もしも私のパパかママが芸能人だったら、絶対自慢するのに」  その千春を夏休みに別荘に誘うのは、きっと父親の反対があるだろうな、とは葉月も予測していた。だから、千春が返事をためらって口ごもっているのを耳にしても、葉月はそれほどガッカリはしなかった。 「千春、無理に誘ってるんじゃないからね」  気を遣わせないように、葉月は言った。 「さっき由佳にも都合をきいてみたの。ほら、あの子のうちって、しつけが厳しいから深夜のケータイ禁止じゃん。だから先に電話したんだけど、由佳は軽井沢に行きたいって返事だったから、千春もできればきてほしいなと思っただけ。でも千春は、よく考えたらバレーの合宿もあるんだよね」 「そうじゃないの。迷っているのは……パパのことがあるから」 「パパ? じゃ、やっぱり私とつきあうのが問題多いってこと?」  こんどは葉月のほうが暗い声を出した。 「千春、お父さんにいろいろ言われてるんでしょ、このあいだウチに泊まって学校へ行ったことも」 「じゃなくて……葉月、最近の私、落ち込んでいるのに気がつかなかった?」 「なんとなくヘンかな、とは思っていたけど」 「じつは……これ、誰《だれ》にも言わないでね」 「言わない、言わない」 「由佳にもだよ」 「わかった。私の胸の中だけ」 「ウチのパパ、頭おかしくなっちゃったみたいなの」 「え?」 「もう二週間以上前なんだけど、会社に行くときにね……ヘンなふうになっちゃって、道路で白目むいて……それをママが見てすごくショック受けて……」 「ちょっと待ってよ、千春」  寝ころびながらケータイを耳に当てていた葉月は、ベッドの上に起きあがって真剣な表情になった。 「言ってる意味がよくわかんないよ。千春のお父さんが道で白目になった、ってどういうことなの」 「だめ……うまく言えない」  ケータイの向こうで、千春は涙声になった。 「とにかく、いままでのパパじゃなくなったの。すごくやさしいパパだったのに、千春のこともよくわからなくなって、すぐにオバケみたいな目つきになって、それがもう治らないの。すぐに発作みたいなのが起きて、目が真っ白になって……だから、会社にも行けなくなって」 「それで、いまはどうしてるの」 「パパ、薬の会社に勤めてるでしょう。だから、いいお医者さんをすぐに紹介してもらって入院したんだけど、そこでも原因がわからなくて、けっきょくまた家に戻ってきたの。でも……」 「でも?」 「家に帰ってきたら、具合がもっとひどくなって、寝ていても、ケータイのせいだ、ケータイのせいだ、って、ときどきうわごとみたいにつぶやくの。それだけじゃなくて、夜中ガバッと起きたかと思うと、突然家の中をうろつきはじめたりして。ケータイ、ケータイって独り言を言いながら」 「ほんと?」 「それも、白目むきながらだよ」 「………」 「そんなことが毎日つづくから、ママはすっかりまいっちゃって」 「だよね」 「私だってこわいし。おたがいにひとりで眠れなくて、いつもママといっしょの部屋で寝るようになったの」 「いまもそばにお母さんがいるの?」 「ううん。いま、ママは車で外に出かけてる」 「外?」  問い返しながら、葉月は勉強机の上に置いたミッキーマウスの時計に目をやった。  まもなく夜中の一時十分になろうとしていた。 「こんな夜中に、どこ行ってるの」 「パパを捜しに」 「え?」 「いま話したみたいな状態のまま、ときどきパパは外にも出ちゃうの」 「パジャマのままで?」 「じゃなくて、会社に行くみたいに背広着て、靴はいて」 「夜中に背広に着替えて、外へ出ていっちゃうの?」 「そう」 「何をしに」 「わからない」  また千春は泣き出した。 「私もママもわからないけど、たぶんパパ自身もわかっていないと思う。自分で何やってるのかわからないまま、外に出て行っちゃうの。そのたびに、ママが近所を捜して連れて帰ってくるんだけど……きょうは一時間も前に出かけたまま、まだ帰ってこない」 「そう……」  葉月は無意識のうちに腕をさすっていた。  夜中でもクーラーをつけっぱなしにしておかないと寝苦しいほどの熱帯夜だったが、千春の話を聞いているうちに寒気が襲ってきて震えが止まらなくなった。 「こんなこと言っちゃいけないかもしれないけど」  消え入りそうな声で、千春はつづけた。 「これだったら、パパはずっと病院にいてくれたほうがよかった。なんだか、私もママも生活がめちゃめちゃになっちゃう」 「そんなことでずっと悩んでいたんだ」 「うん、この二週間ずっと」 「ねえ、千春。お父さんの発作って、ケータイと関係あるのかな」 「わかんない」 「でも、ケータイ、ケータイってつぶやくんでしょう」 「そうだけど」 「とにかくさ、千春」  葉月は勇気づけるように声を強めた。 「明日、もっと詳しい話を聞かせてよ。どうせ授業は午前中で終わるから、そのあとどこかのファミレスに行ってゆっくり話そう。そういうのって、独りで悩んでいてもしょうがないよ」 「ありがと……ねえ、葉月」  鼻をすすりながら、千春はつぶやいた。 「私、こわい。ほんとにこわいの。何かもっとすごいことが起こりそうな気がする」       *     *     *  その「もっとすごいこと」は、ケータイを切ったあと、すぐに彼女の身に起こった。千春ではなく、葉月のほうに。  まるで千春との会話を終わるのを待ちかねていたように、葉月のケータイにセットされた着メロが鳴り出し、着信を知らせるアンテナがピカピカ青く光り出した。 (また千春がかけてきたのかな)  絶対そうだと思って、液晶パネルの番号通知を確認すると、意外にもそれは山之井由佳からの電話だった。深夜のケータイはかけるのも受けるのも禁止と親から厳命され、その言いつけをきちんと守って夜間はケータイの電源を必ず切っている由佳が、こんな時間帯に自分から電話をかけてくるなど、いままでに一度もなかったことだった。  どうしたんだろうと思いながら葉月は通話ボタンを押し、由佳がまだ何も言い出さないうちに自分から切り出した。 「どうしたの由佳、こんな時間に珍しいじゃん」 「………」  応答がない。 「もしもし? 由佳?」 「………」  依然として応答がない。しかし、息遣いが聞こえた。荒い息づかいで、しだいにそれが泣いているようなしゃくりあげ方に変わった。  たったいまケータイで話した千春も、父親の異変が悲しいのと恐ろしいので途中から泣き出したが、いま葉月の耳元に聞こえるのは、もっと切羽詰まった泣き声だった。激しい恐怖によって絞り出される泣き声だ。 「あんた、由佳でしょ。そうだったら黙ってないで返事して」  問いかけながら葉月は、さっき母親が、今夜はテレビ局の人たちと食事をするのでだいぶ遅くなると連絡をしてきたまま、まだ帰宅していないことを思い出した。  広々としたマンションの部屋にいるのは、自分ひとりである。  場所は都心の六本木。マンションを出て二、三分も歩かないうちに、夜の眠りを知らないにぎやかな光の町に出る。そういう場所にいながら、急に葉月は、自分が暗い森の中にひとりぼっちでたたずんでいる気分になってきた。  こういうときは音楽をめいっぱい大きくかけたい。だが、電話の向こうのかすれるような泣き声をしっかり聞き取るために、葉月はベッドから降りると、逆にMDのボリュームをぐんと低くした。  部屋がシンと静かになった。  すると、間違いなく由佳だとわかる声が、泣きながらこう告げてきた。 「ただいまより……」 「え?」 「ただいまより、殺人の生中継をはじめます」 「なによ、それ」  ケータイを耳に押し当てる葉月の腕に、ざざざと鳥肌が立った。 「ちょっと由佳、私、いまひとりで留守番してるんだからさ、ヘンなこと言って恐がらせないでよ」 「ただいま……より……」  しゃくりあげながら、由佳はまた繰り返した。 「殺人の……ナマ……ちゅう……けい……やります」 「冗談はやめてってば、由佳。なんなのよ、この電話」 「そう言えって、命令されてるの」 「誰《だれ》に」 「………」 「ねえ、誰に命令されてるのよ」 「………」  すすり泣きの声しか返ってこない。 「由佳、そばに誰かいるの」 「いる」 「誰が」 「………」 「誰がいるのよ、言って、由佳」 「は……づ……き」  とぎれとぎれに、由佳が訴えてきた。 「わた……し……ころ……され……ちゃう」  その言葉に、葉月は目を見開いた。 「いまどこにいるの、由佳! うちなの?」 「ううん」 「じゃ、どこ」 「そと……」 「外って、どこよ」 「くらいとこ」 「暗いところって、どこなの」 「………」 「由佳、ちゃんと言って、教えて」  たずねる葉月の声も悲鳴まじりになってきた。 「あんた、いまどこで誰と何してるのよ!」  その問いかけの直後——  ギャーッという叫び声が、ケータイを伝わって葉月の鼓膜を振動させた。 「由佳! どうしたの!」 「いったあああああい!」  由佳がけたたましく叫んだ。 「いたいっ! いたい、いたい、いたい!」 「由佳!」 「あたし、切られてる。切られてるの、ナイフで、せなか」 「………」  葉月は凍りついた。  もう声が出なくなった。  ひたすらケータイを握りしめている以外に何もできない。その葉月の耳に、山之井由佳の悲痛な叫びが次から次へと飛び込んでくる。 「やだー、やだやだやだ! 顔はやめて、顔はやめて! おねがい、顔はやめて!」  さっきよりも、もっとけたたましいギャーッという絶叫が響いた。 「やだ、死にたくなーい! はづきー! たすけてー! たすけて、はづきー!」 (ゆ……か……)  もう、心の中のつぶやきすら震えて言葉にならない。  深夜のマンションで、関口葉月は、いったいどこから救いを求めているのかわからない親友の電話を聞きながら、完全に金縛り状態になっていた。  そして—— 「ぐわっ!」  生々しいうめき声がひとつしたかと思うと、急にケータイの向こうが静かになった。  そのあと、だいぶ長い間《ま》を置いてから、ド・ミ・ソ・ドというチャイムのようなメロディで口笛が吹き鳴らされた。  もちろん、由佳のものではない。私って、口笛ぜんぜんできないんだよね、と、いつか言っていた由佳の言葉が、葉月の脳裏をよぎった。  その短い口笛のあと、ケータイは切れた。  葉月の瞳《ひとみ》から、恐怖の涙がこぼれ落ちた。 [#改ページ]   六 あいつは犯人か? 「まったく驚いたものだ。携帯電話を使ったこんな残酷な事件が起きるとは」  ホワイトボードの前に立った編集部長の蔵前賀寿雄は言った。 「この夏……七月と八月の二カ月だけで七人もの女子中高生が惨殺されるという事件が、立てつづけに起こった。狂気は刃物。致命傷は決まって肝臓への深い刺し傷だが、それだけでなく、顔面、手足、背中などところかまわずメッタ切りの惨状で、家族などにはとても遺体と対面させられないようなむごたらしさだ。しかも犯人は、殺害直前に被害者にケータイで女友だちのところへ電話をかけさせ、身体中を刺しまくられる苦痛に満ちた断末魔《だんまつま》の悲鳴を生中継するという、残虐非道きわまりない趣向をこらしている」  日本人家庭の未来を変えるのは携帯電話か、という話題で盛り上がったあの企画会議から二カ月が経《た》った九月最初の月曜日夕刻——  夕刊ニッポン編集部では、部長の蔵前が緊急の会議を召集していた。今回は、以前のような漠然とした特集テーマの検討会議ではなかった。いま、日本中を震撼《しんかん》させ、そして夕刊ニッポン紙上でも連日大々的に報道している恐怖の「ケータイ生中継連続殺人事件」に関する取材報告会議である。  突然巻き起こった戦慄《せんりつ》のケータイ連続殺人によって、八月の紙面で特集する予定だった≪ニッポンの未来は?≫という企画は、すっ飛んでしまっていた。 「七人の被害者のうち女子高生が五人、女子中学生が二人。都内と横浜が中心だが、大阪と名古屋でも被害者は出た。被害者の名前と住所を事件発生順に記したのがこれだ」  蔵前はホワイトボードに並んだ女の子の名前を指し示した。  一.山之井 由佳(16)高校一年生 東京都大田区  二.真島 里香子(15)中学三年生 東京都|世田谷《せたがや》区  三.原 小百合 (17)高校二年生 東京都|練馬《ねりま》区  四.倉石 陽子 (16)高校一年生 大阪市|阿倍野《あべの》区  五.内藤 真由美(18)高校三年生 横浜市|瀬谷《せや》区  六.松岡 緑  (15)中学三年生 横浜市青葉区  七.奈良橋 愛 (16)高校一年生 名古屋市|熱田《あつた》区 「被害者はいずれも深夜、親も知らないうちに自宅の外に連れ出され、人気《ひとけ》のない公園や倉庫などに連れ込まれて刺し殺されている。七つの事件に関して目撃者はまったくいないそうだ。また、七人の被害者に共通する要素だが……そこはどうなんだ、小山内君」  蔵前部長は、警視庁を担当するベテラン記者の小山内五郎にたずねた。 「いまのところ、被害者どうしを結ぶ人間関係は、とくに見つかっていないんだろう」 「そうですね」  さきほど警視庁から戻ってきたばかりの小山内は、取材ノートを広げながら答えた。 「女子高生か女子中学生であるという以外には、なんの共通項も見当たりません。それぞれが別々の学校に通っており、その学校も公立もあれば私立もある。女子校もあれば共学もあります。そして、被害者でおたがいに面識があった者はひとりもいません」 「被害者どうしの横のつながりはまったくない、と」 「はい、そうです。そのへんは成田君もフットワークよく調べてくれているんですが……なあ、成田。やっぱり共通項は見つからないよな」 「ですね」  小山内に問いかけられた成田誠は、ボールペンを指先で器用にクルクル回しながら答えた。スポーツマンの成田は、ふだんからよく日に焼けていたが、真夏の間、ケータイ猟奇殺人の被害者たちのプロフィールを追って、足を棒にして取材活動をつづけていたため、日本人とは思えないチョコレート色の肌になっていた。 「それぞれの被害者が通っていた中学や小学校まで遡《さかのぼ》ってチェックしたんですが、殺された七人のうち、誰《だれ》かと誰かが知り合いであるとか、同じ学校に在籍していたという状況はまったく出てきません。また、親の間につながりがあるわけでもなさそうです」 「しかし、警察は七つの事件が同一犯人によって引き起こされているのは間違いないとみているわけだな」 「そうです」  と、部長の問いかけに、警視庁担当の小山内がまた話を引き取った。 「七つの事件では、いずれも被害者の断末魔の悲鳴をそれぞれの友人にケータイで聞かせるというひどい仕打ちが行なわれていますが、その最期の叫びを聞かされた者は、共通してひとつの証言を行なっています。それは、ケータイをかけてきた友だちが悲痛な叫びを発して沈黙したのち、電話が切れる前に口笛が聞こえたという点です。ドミソドと和音の音階に沿って上がっていく、呼び出しチャイムなどに使われるメロディの口笛を聞いているのです」 「それは初耳だな」 「初耳のはずです、部長。この事実は、いままでずっと我々報道陣にも伏せられていたのですが、きょうになって一部の週刊誌がこの情報をつかみ、事件担当の広報官に問いただしたところ、その事実は認めたものの、模倣犯を防ぐためにということで、報道各社に対して誘拐事件なみの厳重な報道規制を依頼してきました」 「その口笛の件を伏せておけば、次の事件が起きても模倣犯かこれまでの犯人かの区別がつくというわけだな」 「そうです。まあ、次の悲劇など起きてほしくありませんが」  と、小山内が言い終えたとたん、会議室に口笛が響いた。ドミソド、と……。  全員が、口笛のしたほうをふり返った。  高沢公生だった。  会議室の隅のほうに座っていた高沢が、いま話題に出たばかりの殺人鬼の口笛を再現してみせたのだ。あいかわらず湯上がりのように頬《ほお》を上気させながら。 「おい、高沢」  小山内が、不快そうに顔をしかめて言った。 「冗談にもそんなことをするんじゃないよ」 「あ、そうですか?」 「そうですか、じゃないだろ。こういう深刻な事件が起きているときに、変態殺人鬼の真似《まね》をして口笛など吹かないでくれ」 「高沢は変態ですから」  高沢は自分でそう言った。 「変態は変態の真似をするのが好きなんですよ」 「バカ!」  小山内は本気で怒《おこ》った。 「年ごろの女の子を持つ日本中の親がな、今回の連続殺人事件に対してはピリピリしまくっているんだ。ひょっとして、次に襲われるのは自分のところの娘の番じゃないかってな。それから日本中の女子中高生がおびえまくって、眠れない夜を過ごしているんだ。今夜、殺人鬼が自分の部屋に襲ってくるんじゃないか。あるいは、悲鳴がほとばしり出る電話が友だちからかかってくるんじゃないかと。ウチの娘だってそうなんだよ」  高校三年生の娘を持つ小山内は、いらだちを隠さずに言った。 「大学受験を控えているというのに、ウチの子はすっかりナーバスになって、夜になると勉強も手につかないほどだ。金に余裕があったら、娘に専属のボディガードをつけたいぐらいだよ。この事件に関しては、はっきり言っておれの立場は傍観者じゃない。対岸の火事ではなく、いつ自分の家にふりかかってくるかわからない恐怖なんだ。だから、そういう茶化すような態度はやめてくれ」 「それは私も同じです」  三児の母でもある奥村由香利もたたみ込んだ。 「うちは、いちばん上は中一の男の子ですけど、男だから心配じゃないなんてことはありません。それから、その下ふたりは小学生の女の子ですけど、連続殺人犯のターゲットがいつ小学生まで年齢を下げていくかもわからない。小山内さんが言ったように、年ごろの子供を持つ世の親はみんな不安になっているのよ。子供たちも精神的にパニックしているのよ。高沢さんもそういう状況を少しはわかってください」 「ふうん」  高沢公生は、四十二歳とは思えぬ子供っぽいしぐさで口をとがらせた。 「社内の変態男は何をやっても叱《しか》られるってことですね」 「ところで、成田」  部長の蔵前は、なるべく高沢を相手にしないようにして、話の矛先《ほこさき》を変えにかかった。 「最初の犠牲となった山之井由佳のケースだが、その殺人生中継を聞かされた関口麗子の娘の様子はどうなんだ。かなりひどいショックを受けて入院していたそうだが」 「ええ、すでに報道されているように、関口麗子も娘の精神状態を心配して、十月からはじまる連続テレビドラマの主役を降板することも、一時は真剣に検討したようですね」  ボールペンをクルクル回すしぐさをやめて、成田は答えた。 「なにしろ、よりによってそのドラマというのが、連続猟奇殺人鬼をテーマにしたホラー小説のテレビ化ですから。でも、なんとか娘も立ち直ってきたし、自分がいっしょうけんめい仕事をしていることがあの子の張り合いにもなるので、と言って、予定どおりドラマの撮影は進行しているようです」 「娘も退院したんだな」 「葉月という名の高校一年ですけどね、退院しました、でも、二学期ははじまったけれど、学校にはまだ行っていません。これはおそらくどのメディアも嗅《か》ぎつけていないと思うのですが」  成田は声をひそめて言った。 「いま娘は、離婚した父親のもとに預けられています」 「離婚した父親のところ?」  部長の蔵前も、それからほかの記者たちも、まったくその噂《うわさ》は知らなかったという顔で成田を見つめた。 「ほんとうか、それは」 「関口葉月と、それから殺された山之井由佳とも小学校時代から共通の友人だった水守千春という子がいまして、いまも三人は高校で同じクラスなんですが、この子から聞き出せたんですよ」 「そうか、よく調べ上げたな」  蔵前は、若手のエースとふだんから持ち上げている成田誠をほめた。 「他社はみんな関口麗子が軽井沢に持っている別荘をマークしているようだが、それは大ハズレだったわけか」 「ええ」 「関口麗子のダンナだったのは、たしか石沢という苗字《みようじ》のサラリーマンだったよな」 「そうです、石沢英太郎。五十少し前で、いまは電器メーカーでかなり上のポジションにいます」 「でも、その元ダンナと関口麗子は、ドロドロの愛憎劇を繰り広げて離婚したんじゃなかったっけ」 「三年前にね」  成田が答える。 「でも、娘の危機となれば話は別みたいですよ。それに、別れてからだいぶ時間も経《た》ったこともあって、もうあまり感情的にはなっていないようです」 「父親の居場所はどこなんだ」  いまにも突撃取材をしそうな勢いで、蔵前がきいた。 「東京なんだろ」 「勤務先も自宅も都内ですが、娘の葉月が精神的なリハビリをかねて保護されているのは、父方の祖母が住む鹿児島です」 「鹿児島?」  蔵前は意外そうに目を丸くした。 「鹿児島の田舎《いなか》のほうです。薩摩《さつま》半島の山あいに」 「そりゃずいぶん遠くに連れていかれたもんだな」 「たぶん、姿の見えない犯人から避難する意味もあるんでしょう。事件の大半は東京都内と横浜で起きていますからね」 「名古屋と大阪でも起きてはいるが、犯人も鹿児島まではやってこないだろう、ということか」 「東京から離れることが、はたして安全対策上有効かどうか、それはわかりませんが、精神的な安心感はあるでしょうね」  部長に向かって、成田はつづけた。 「いまのところ殺人鬼は、恐怖の生中継を聞かせた友だちのほうには危害を加えていないのでだいじょうぶだとは思うんですが、当人の立場になってみれば、自分もいつ襲われるかという恐怖がぬぐえないんでしょうね」 「その子に話が聞けないかな、関口葉月に」  蔵前が腕組みしながら成田に問いかけた。 「友だちのむごたらしい最期を聞かされた女の子たちは、警察や保護者が徹底的にガードして接触できないが、関口麗子の娘の話が取れたら、これはバーンと紙面を割いて特集が組めるじゃないか、一面トップから二面、三面と。なにしろ、彼女は人気女優のひとり娘だからな」 「はあ」 「成田、おまえが情報を聞き出した、そのクラスメイトに話をつけて、なんとか本人と接触できないか」 「部長」  そこでまた奥村由香利が発言を求めた。 「いくらスクープのためといっても、それはやりすぎだと思います。ショッキングな出来事から立ち直りつつあるといっても、まだ学校も休んでいる状態なのに、そこへマスコミが追いかけてきたら、また心が乱されるでしょう。いくら母親が有名な女優でも、娘には関係ないことですから」 「娘には関係なくても、読者には関係がある」  と言って、蔵前は由香利を見据えた。 「いいかい由香利ちゃんよ。あんたが新聞記者でありながら三児の母というスタンスをつねに意識しているのは結構なことだが、こっちも商売でやってるんだということを忘れないでくれよな」 「商売……ですか」 「ああ、商売だ。ウチは良識ある一流全国紙じゃなくて、つねに読者の好奇心を満たす話題満載のエンターテイメント夕刊紙なんだ。新聞というよりは『毎日発行される週刊誌』と思ってくれたほうがいい。あまりカッコつけてちゃ仕事にならんぞ」 「じゃあ、関口麗子の娘が、私たちの追っかけ取材によって心の平穏を乱されてもかまわないとおっしゃるんですか」 「かまわないとは言わないが、しかし、こういう見方もできる」  蔵前は、奥村由香利だけでなく、他の部員にも目を向けて言った。 「我々マスコミが騒げば騒ぐほど、犯人は次の行動がやりにくくなるという効果だってあるかもしれない」 「愉快犯でないという保証がどこにあるんですか」  由香利は食い下がった。 「こっちがのせられてハデに騒いだら、それこそ犯人の思うつぼかもしれないでしょう。またその逆に、関口麗子の娘にあれこれしゃべらせたことで、犯人を怒らせる結果になるかもしれません」 「ぼくだったら怒るなあ」  高沢が、そこでまた突然割り込んだ。 「断末魔《だんまつま》の生中継を聞かせた子は、いつまでもブルブルと震えていてほしいのであって、マスコミに向かってペラペラしゃべるような元気な子であっちゃ困るんだ。そういう子には、きびしーい追加のお仕置きをしたくなるんじゃないんですかねえ」 「おい、高沢」  部長の蔵前が、たまりかねて言った。 「冗談もほどほどにしてもらおうか」 「冗談ねえ……ふーん、冗談か」  小馬鹿にしたようにつぶやきながら、高沢は、またドミソドと口笛を吹き鳴らした。 「ぼくはみなさんが見落としている重大な事実に気づいているんですけど、それじゃ変態の話なんか聞けないわけですね」 「なんだよ、重要な話があるなら言ってみろ」 「でも、ぼくは変態ですから、会議での発言権なんかないのでは」 「高沢!」  部長の蔵前は、本気で怒《おこ》った。 「たんに会議をかき回すだけの発言なら聞きたくない。これ以上会議に参加してもらう必要もないから、この部屋から即刻出ていってもらうぞ」 「は〜、やっぱりね」  高沢はテカテカの頬《ほお》をさらに赤くして、わざとらしいため息をついた。 「やっぱりぼくは編集部内でも差別されてるわけですね。イジメですね、これは。こういうイジメにあった人間が、復讐《ふくしゆう》で残酷な殺人をするんじゃないのかなあ」  全員の白い目を浴びながら、視線恐怖症の高沢公生は、あらぬ方角を見つめたまま笑った。 「たとえば、この残酷きわまりない殺人生中継付きの連続殺人鬼が、このぼくだったらどうでしょう」 「なに?」  蔵前がひるんだ声を出した。  が、高沢はそっぽを向いたまましゃべりつづける。 「次々と女子中高生を襲う四十二歳の変態独身新聞記者」  けけけ、と、高沢はこんどは奇妙な笑い声をたてた。 「職場の仲間からも直属の上司からも、あいつは気持ち悪いと陰口を叩《たた》かれ、屈折しきった中年男が、セーラー服の女子高生に欲情してエッチしようと襲いかかる。ところが、そんなコギャルにも侮辱の言葉を投げつけられ、高沢はカッとなってナイフを取りだし、その子のケータイを奪い、無理やり友だちに電話をかけさせ、身体をゆっくり切り刻まれて悲鳴を上げる様子を電話で生中継させる。高沢公生なら、そういうこともやりかねない……ですよね、みなさん」 「おい、もうよせ」 「高沢さん、そんな話はやめて」  小山内と奥村由香利が同時に叫んだが、高沢はやめなかった。 「たった一件だけでも、ホラー映画並みのその残酷無比な殺し方に世間は大騒ぎとなったが、さらに第二、さらに第三、さらに第四、さらに第五……」  フーッと、途中で息継ぎをしてから、高沢はつづけた。 「さらにさらに第六、第七の殺人と続々つづいて、日本中が大パニックさ。夕刊ニッポンも他のマスコミに負けじと、推理作家や心理学者に犯人探しのコメントを求める。編集部長は会議でいきり立つ。ところがところが」  たははは、と高沢は、また別の笑い方をした。 「なんと、犯人は新聞社の内部にいた。自分の犯した連続猟奇殺人事件が、勤務先の新聞でデカデカと飾り立てられるんだから、そりゃもう快感」 「出ていけ! 高沢」  ついに蔵前が、ドアを指さして怒鳴った。 「もういいから出ていけ。会社にいる必要もなし! 家に帰れ」 「やーだよー、だ」 「………」  子供のようなゴネ方に、その場にいた全員がゾクッと身震いをした。 「しかし犯人の高沢公生は、快感の中にも大いなる不満があった」  高沢は、制止を無視してまくし立てた。 「それは自分で生みだした芸術的殺人事件の記事を自分で書かせてもらえないからだった。なぜぼくにこの事件の記事を書かせないんだ。ぼくに回ってくる仕事といえば『きょうからでも遅くはないインターネット』『やさしいWORDとEXCELの使い方』そんなのばっかしだ」 「それはおまえがパソコンが得意だからじゃないか」  蔵前が言った。 「だから、そういうおまえをパソコン関連記事のスペシャリストとして、原稿を書かせているのだ。私はちゃんと部員の特質をふまえて……」 「ぼくにも書かせろ!」  こめかみに青筋を立てて高沢が叫んだ。例によって、視線を合わせないまま怒鳴った。だから、その表情が怒りに歪《ゆが》めば歪むほど、不気味さは倍加した。 「なんで小山内さんや由香利や成田ばかりが、こんどの事件を担当するんだ。ぼくにも原稿を書かせてみろ。むちゃくちゃ恐い記事に仕立ててやる。『ぎゃー』とか『ひえー』とか、断末魔の悲鳴を具体的な音声入りでね。そういう擬声語はマンガでは許されてるのに、どうして新聞では禁止されているんだ。気取った一般紙とは違う興味本位の紙面づくりを認めているんだったら、それぐらいのことをやれっていうんだ。いったあい、いたい、いたい、いたい、おかあさ〜ん、たすけてえー」  高沢は、世にも悲しそうな表情をして被害者の泣き真似《まね》をした。 「殺された女の子たちは、きっとそういう悲鳴をあげていったに違いないんだ。だったら、それを新聞紙面で再現してなぜ悪い」 「高沢よ」  蔵前は、憑《つ》かれたようにしゃべりつづける四十二歳の部下の前に歩み寄った。  全員が二人の対決を注目する。 「高沢よ。いざとなれば組合の応援があるからクビにはなるまいという甘えの気持ちが頭の片隅にあるんだったら、そんな期待はさっさと捨てたほうがいい」  蔵前は顔を真っ赤にしながら、座ったままの高沢を見下ろして言い放った。 「おまえが新聞記者として不適格であることは、きょうこの場でイヤというほど思い知らされた。直属の上司としての権限で命令する。本日ただいまをもって、おまえの編集部記者としての職を解く。自宅待機して、追って総務からの連絡を待ってろ」  もちろん、直属の上司といえども労務管理上は独断でそのような決定はできない。だから、高沢が猛然と反発してくるだろうと、誰《だれ》もが次の展開をそう考えていた。  ところが高沢は、全員の予測を裏切って、驚くほどあっさりと部長の命令を飲んだ。 「わかりました、いいですよ」  会議室の机に目を落としたまま、高沢はゆっくりと立ち上がった。  そして、つぶやいた。 「どうせ道連れなんだ」 「なに?」 「どうせ道連れなんだ、と言ったんですよ。ぼくが殺人鬼なら上司はクビだな、監督不行届で。きゃはは。ぼくがクビなら部長もクビだ」 「………」 「こんな優秀な記者を現場から追い出そうとするような管理職には、遅かれ早かれ報いがきますよ。この事件の重大なポイントに気がついている人間を追い出すような愚かな真似をする管理職にはね」 「じゃあ言ってみろ」  すでにドアのほうへ行きかけている高沢の背中に向かって蔵前が言った。 「重大なポイントは何なんだ」 「タダで聞こうというんですか」  後ろ向きのまま、高沢は言った。 「部長もセコいな」 「だったらもういい!」  蔵前も最後の爆発をした。 「出ていけ! 家に帰れ!」 「でもね」  ノブに手をかけ、会議室のドアにキスをするのではないかと思えるほど顔を近づけて、高沢は言った。 「ぼくも人がいいから、自分を罵倒《ばとう》する上司に対してもちゃんと質問には答えるようにしますよ。……被害者はなぜ誘い出されるのか」 「なに?」  蔵前が問い返し、部員の目が高沢の背中に集中した。 「なんだって、高沢」 「被害者はどこで殺されていましたか。自宅の部屋ですか? 違うでしょう。外ですよ。深夜の公園とか倉庫だ。では、そんな時間帯になぜ被害者は誘い出されたのか。警察では、まったくその理由をつかみ出せていない」  コン、と音を立てて、高沢は自分の額を会議室のドアにぶつけた。 「そこに事件の真相を示唆する重大なヒントがあるというのに」  みんなに背を向け、会議室のドアに額をくっつけたまま高沢は語りつづけた。 「それからもうひとつ見逃せない事実がある。それは、被害者のケータイが奪われているということ」 「なんだって」  驚きの声を上げたのは、警視庁担当の小山内だった。 「おれは聞いていないぞ」 「そりゃそうでしょう。口笛の件と同様、捜査本部がひた隠しに隠している秘密ですからね」  当然のように高沢は言った。 「犯人が殺人生中継に使った被害者の携帯電話は、殺人現場からも被害者の自宅からも見つかっていません。つまり、犯人がそのまま持ち去ったということです」 「そんな話を捜査関係者の誰から聞き出した」  小山内が後ろ向きの高沢を問いつめた。 「おまえは警視庁に出入りしたこともないだろう。なのに、なぜ情報がつかめた」 「さあ、なぜでしょう」 「答えはかんたんさ。ウソだからだ」 「違いますよ。バッカですねえ、小山内さん」  高沢は、背中を揺すって笑った。 「答えはカンタンじゃないですか。ぼくが犯人だからですよ。犯人だから、被害者のケータイが奪われているという事実を知っているんです」  その答えに、奥村由香利の顔から血の気が引いた。 「ほんとなの……高沢さん」  ガタンと音を立てて椅子《いす》を倒しながら、由香利は立ち上がった。 「あなた、それ、冗談じゃなくて事実として言ってるの?」 「由香利さん、椅子、倒しましたよ」  ふり向きもせずに高沢は言った。 「よくいえばグラマー、ふつうに表現すればただのデブだから、由香利さんに座られた椅子もかなわないですね」 「はっきり答えてちょうだい。あなたは異常者を装っているだけなの? それともほんとうに異常者なの」 「決まってるじゃないですか、後者のほうですよ」 「………」 「いいですか、みなさん。私は犯人です。犯人だからこそ、なぜ殺人現場からケータイを持ち去るのか、その理由も知っています」 「なぜなの」  立ち上がったまま、奥村由香利は後ろ向きの高沢に問いかけた。 「なぜ犯人は、殺した女の子のケータイを奪っていくの」 「次の犠牲者の呼び出しに使うからです」 「次の? 呼び出し?」 「たとえ携帯電話の現物が奪われていても、電話会社に問い合わせれば、犠牲者の名義となっているケータイの発信記録はわかる。そのデータを見て、捜査本部は愕然《がくぜん》となっているはずですよ。なぜなら、第一の事件で殺された女の子は、殺されたあと、自分のケータイで第二の犠牲者を呼び出しているのですから」 「なんですって」 「第二の犠牲者は、殺されたあと、自分のケータイで第三の犠牲者を呼び出している。第三の犠牲者は、殺されたあと、自分のケータイで第四の犠牲者を呼び出している。第四の犠牲者は、殺されたあと、自分のケータイで第五の犠牲者を呼び出している。以下同文。  わかりますか由香利さん、むごたらしい殺され方をした死者は、まるで自分だけじゃイヤだと言わんばかりに、仲間を求めるように、次の犠牲者をケータイで呼び出すのです。あなたも痛くて苦しい死の世界へいらっしゃい、と」 「変なことを言わないで!」 「じゃあ、もう少し論理的に申し上げます。連続殺人事件の犯人は、殺した女子中高生から奪ったケータイを使って、次の獲物に呼び出しの電話をかけている。発信者は犯人です。生きている生身の人間です。殺された女子中高生ではない。しかし、その電話を受けた女の子からすれば、発信者番号通知——バンツーというんでしたっけね、小山内さん——それを見ると、なんとそこには最新の犠牲者の名前が浮かび上がっているわけですから、これは猛烈なショックでしょうね。  でも、逆らえない。決して抵抗することはできない。彼女は、死者からの電話に誘い出されるようにして自分の部屋を抜け出し、家族に気づかれないうちに家を出て、闇《やみ》の奥へと消えていくのです。自らの命を悪魔に捧《ささ》げるために」  そして高沢は、きゃはは、と少女のような笑い声をあげたのち、ドアノブをひねって会議室のドアを開けた。 「おっもしろいですねえ、この展開は。さあ、次はどうなるんでしょうか。楽しみですね。それではみなさん、さようなら。長い間、お世話になりました……もうこんな会社、絶対にこねえや。頼まれたってくるもんか」  強烈な捨てぜりふを残し、高沢公生は一切後ろをふり返らずに廊下に出た。そして、ドアをバタンと閉めた。 「……いいんですか、部長」  会議室に取り残された編集部の面々は、しばし呆然《ぼうぜん》として言葉もなかったが、ようやく奥村由香利が口を開いた。 「あのままにして、いいんですか」 「あのままに、とは」 「高沢さんを追いかけなくてもいいんですか、ということです」  由香利はせっぱつまった顔で、部長の蔵前を見やった。 「私……まずいと思います」 「なにがまずいんだね」  そう問い返す蔵前も、じつはその答えがすでにわかった顔になっていた。 「あの人」  由香利は、ソバージュにした髪を片手でわしづかみにしながら、うめくように言った。 「あの人の言っていることは、ぜんぶほんとうなんじゃないでしょうか。何から何まで、ぜんぶ……」 [#改ページ]   七 嵐の予感  高沢公生が自らをケータイ連続殺人鬼と名乗って社を飛び出してから四日|経《た》った金曜日の午後一時すぎ——  首都東京は、南からダブル接近してきたふたつの巨大な台風の影響で全天黒雲に覆われ、昼下がりというのに、車はヘッドライトを点《つ》けて走らねばならぬような暗さだった。  まだ雨は降り出していないが、それも時間の問題といった空模様で、雨より一足先に、湿った空気を含んだ生暖かい南風が強さを増していた。  日ごろはビジネスマンやOLたちの行き交う姿が目立つ丸の内のオフィス街も、いつ土砂降りになるかわからない天気とあって人通りは目立って少なく、青いまま枝から引きちぎられた街路樹の葉が、刻々と強まる風にあおられてブティックのショウウィンドウなどにへばりついていた。  そんな様子を五階の窓から見下ろしながら、石沢英太郎は会社の部長席からプライベートな電話をかけていた。つながったのは、三年前に別れた妻で女優の関口麗子が所有する携帯電話だった。  ただし、最初に出たのは彼女のマネージャーを務める女性だった。仕事中は、身内といえどもダイレクトに電話が「スター」につながることはない。それは結婚していたころからそうだった。 「ウチの……」  奥さんはいるかね、と言いかけて、石沢は言い直した。 「麗子さんは出られるかな。石沢だけど」  ちょうど撮影の合間だったらしく、三十秒も待たされずに電話口に聞き慣れた前妻の声がした。 「私です」  その声は、コマーシャルなどで笑顔をふりまきながら商品の宣伝をするときよりは、間違いなく一オクターブは低かった。  女優関口麗子がテレビや映画でみせる輝くような笑顔も、それからコロコロと軽やかに響く明るい声も、現実の暮らしではついぞ夫の前で披露したことがなかった。結婚して真っ先に石沢の戸惑ったところが、そのギャップだった。しかし、離婚騒動の最中に麗子がみせたすさまじい形相《ぎようそう》や声色にかぎっていえば、二時間推理ドラマの犯人役をやっているときのままなのだ。その皮肉に、石沢は何度苦い思いをさせられたかわからなかった。  しかし、最近では電話を通じて聞く前妻の声に、とげとげしさは薄れてきていた。むしろ、昔の夫であった石沢を頼るような響きすら感じられた。サラリーマンの夫を下に見るような言動の多かった以前の麗子にはなかったことである。葉月の身に降りかかった一大事件が、娘の親という共通の立場をふたりに思い起こさせることになったのだ。 「いまどこにいるんだ」  相手がケータイなので、石沢はまず麗子の居場所を確かめた。 「大阪よ、大阪のスタジオ。昨日からこっちへきているの」 「そっちはどうなんだ」 「どうなんだ、って、何が」 「天気だよ。東京はこれから本格的な嵐《あらし》になりそうだ。台風が近づいてきているんだ」 「ああ、そうなの。スタジオの中にいたら、外の様子はぜんぜんわからないわ」 「今回の台風はダブルで上陸しそうなんだ」  ますます暗さを増してくる外の様子をのぞき込みながら、石沢はつづけた。 「もうひとつのほうは沖縄から奄美大島《あまみおおしま》を通るコースで、ヘタをしたら明日の明け方にも鹿児島あたりを直撃するかもしれない」 「ほんと?」  娘の葉月を、鹿児島にある別れた夫の実家に預けている麗子は、その情報を聞いて少し声を曇らせた。 「おばあちゃんと葉月だけでだいじょうぶかしら」  かつての姑《しゆうとめ》を『おばあちゃん』と呼ぶのは、石沢と仲たがいする前のままだった。 「おれもそれが気になっているんだよ。実家は崖下《がけした》だからな。土砂崩れの心配もあるし、洪水の危険もある」 「十年ぐらい前の雨台風で近くの川が氾濫《はんらん》したときは、床上まできたでしょう」 「そうなんだよ」 「で、鹿児島の天気はどうなの。葉月に電話してみた?」 「ああ、さっきな。かなり強い雨がすでにゆうべからずっと降りつづいているそうだ」 「心配だわ。あの子とおばあちゃんだけじゃ。おばあちゃんは足が悪いし、耳も遠いから」  関口麗子は、いっそう不安げな声になった。 「あなた、明日は会社休みでしょう。今夜から向こうに行けないの」 「もちろんそうしたいけれど、今夜はどうしてもはずせない用があるんだ。行くとしても明日朝いちばんの飛行機になる」 「だけど、明日になったら飛行機が飛ばないかもしれないでしょう。東京にも鹿児島にも台風が近づいてきているんだったら」 「そうなんだよ、最悪のパターンだ。……あ、いよいよこっちも降り出してきたな」  石沢が見つめるオフィスの窓ガラスに、パラパラと音を立てて雨が降りかかってきた。 「おまえこそどうなんだ。そっちのほうが鹿児島には近いんだから、なんとかならないか。仕事は何時に終わるんだ」 「時間なんてわからないわよ」 「わからないってことはないだろう」  石沢はいらだった声を出した。 「テレビの連中は、終わり時間も決めずに仕事をするのか」 「昔から何百回同じ説明を繰り返させるの。私たちの仕事は、サラリーマンと違って何時何分にチャイムが鳴ったら退社というわけにいかないのよ」 「だけど麗子は主役だろう」 「そうよ」 「主役だったら、少しぐらいワガママが利くだろうが」 「逆よ。私がいなくなったら、撮影にならないんだから。それよりあなたこそ、夜の仕事なんかキャンセルできないの。どうせつまらないお酒の接待でしょう」 「バカ、そうやっていつもおまえはサラリーマンの仕事をあなどるけれど、おれだって何も好きこのんで接待など……」  と、途中までまくし立ててから、石沢は自制した。 「やめよう。こんなところで昔と同じ繰り返しはしたくない」 「そうね」  と、大阪のスタジオにいる麗子も同意した。 「私も、仕事が早く終わるようだったら、鹿児島に向かうように努力するわ。明日もこっちで撮影だけど、はじまるのは夜からだから、なんとか往復する時間を作れるかもしれない」 「なあ、麗子」  石沢は口調を改めて言った。 「台風も心配だけれど、おれもおまえも、いまひとつ心が晴れないのはもうひとつの心配がつづいているからだ」 「ええ」  関口麗子の答える声も、ぐんと暗くなった。 「嵐は一日か二日で過ぎ去っても、あっちの事件は二カ月経っても私の頭から離れることがないわ。葉月も少しは持ち直したけれど、まだとても元の状況には戻れないわ。犯人がつかまらないかぎりは」 「そりゃそうだよ。大の親友が殺されるところをずっと聞かされたんだから無理もない」  石沢は深いため息を洩《も》らした。 「じつは昨日も警察に連絡をしてみたんだ。ウチの子の事情聴取を担当した刑事に、その後の捜査の進展をな。だが、まったく何もつかめていないらしい。七人もの子供たちを殺し、七人もの子供たちに立ち直れないほどのショックを与えながら、異常者はまだつかまっていない。男か女か、大人か子供か、それもわかっていない」 「犯人が子供ということはないでしょう」 「わかるものか。おれなんかからみれば、いまの子供は悪魔みたいなものだ。おれたちが子供だったときと違って、道徳も規律もないから何をやっても不思議じゃない。麗子がミステリーやホラーのドラマを演じていることだって、きっと子供たちに何らかの悪影響を与えているに違いない」 「あなた」 「あ……すまん」  石沢は短い吐息とともに謝った。 「ほんとうにすまん。何から何まで、おまえが女優であることのせいにする癖がついちまって」 「とにかくね」  こみ上げてきた怒りをつとめて表に出さないようにしながら、関口麗子は言った。 「台風のことは別にしても、葉月をいつまでもおばあちゃんのもとに置いておくのは、あまりいいことじゃないと思うの。もちろん感謝しているわよ、お義母《かあ》さまには。でも、変則的な生活状態をつづけることは、葉月の心のリハビリにとってもベストの選択じゃないわ」 「それはわかっているが、マスコミの目をくらますにはほかに適当な場所がないだろう。だいたい麗子が女優だから葉月までがこんな目に……」  と、そこまで言って、また石沢は自分の無神経な発言に自分で気がついた。 「どうもいかんな」  石沢は、窓ガラスに叩《たた》きつける雨が急速に勢いを増してきたのを見つめながら、片手で自分の頬《ほお》を軽く叩いた。 「イライラすると、自分のイヤな面ばかりが前に出てしまって。……で、麗子としてはどうしたいんだ」 「しばらく葉月を友だちの家に預かってもらうのもいいんじゃないかと思ってるわ」 「友だち?」  石沢は眉《まゆ》をひそめた。 「おまえの友だちということか」 「じゃなくて、葉月のお友だち」 「あそこの家だったらやめとけよ」  即座に石沢は言った。 「小学校からずっといっしょだった千春という子の家。いまでも覚えているが、あそこのオヤジは、葉月を『芸能人の娘』と呼んで露骨に差別していた。あんな家に預けるな」 「千春ちゃんじゃなくて男の子の家よ」 「男の子?」 「大貫拓也《おおぬきたくや》くん。葉月より二つ上で、いま高校三年生」 「どういう関係なんだ、葉月とは」 「ボーイフレンドよ。男子校の子なんだけど」 「恋人が……いるのか」 「あなたが知らないうちに娘は大きくなっているのよ」 「………」 (将来、葉月が結婚するとき、おれは式にも披露宴にも出られないということか)  ボーイフレンドの存在を聞かされたとたん、突然、そんなことが頭に浮かんだ。いままで具体的なイメージとして考えたこともない、娘のウエディングドレス姿までがちらついた。  自分のせいとはいえ、娘を手放した父親の孤独が、石沢の胸を一瞬よぎった。  じつは今回の件で、石沢自身の手元に葉月を保護しなかったのは、彼のところにも『関口麗子の娘』を追ってマスコミが押しかけてきていたことが最大の理由だったが、それと同時に、三年の間に大きく成長した娘と、いまさらふたりきりで同じ屋根の下には住めないというためらいもあったからだった。  三人で暮らした最後の日々、葉月はまだ中学一年生だった。ところがいまや高校一年生である。この三年間の変化は、石沢が予想していた以上に大きかった。この事件が起きてから、ひさしぶりに娘と顔を合わせたのだが、一対一になったときに何を話せばいいのか、父親として、それがまったくわからなくなっていた。 「とにかく」  しばらく双方とも黙りこくっていたことに気がついた石沢は、話をつなぐ言葉を捜しながら受話器を持つ手を右から左に換えた。 「当座は台風が心配だから、おたがい仕事の都合がついたところで鹿児島へ向かうようにしようじゃないか」 「ええ、わかったわ」  麗子がそう答えたところで、「関口さん、そろそろお願いします」と彼女を呼ぶスタッフの声が電話越しに石沢の耳にも届いた。これから終わり時間のわからぬ撮影がはじまるのだ。 「それじゃ、予定が立ったらおたがいに連絡しあいましょう。あなたもケータイの電源を入れっぱなしにしておいてね。いつでもつかまえられるように」 「ああ。そっちもな」 「じゃね」 「うん」  まさか、それがおたがいに交わす最後のやりとりになろうとは関口麗子も石沢英太郎も思わずに、どちらからともなくあっさりと電話を切った。 (ひどい降りになってきたな)  前妻との電話を終えたあと、石沢は窓ガラスに額をくっつけて外を眺めた。  わずか数分のうちに様子は一変していた。強風に乗った横殴りの雨がオフィス街を灰色に煙らせ、一ブロック先のビルがまともに見えないような状態だった。 (台風はまだ南の海だというのに、いまからこんな調子だと、今夜も明日の朝も飛行機はダメだな)  石沢英太郎の脳裏に、郷里の山河が浮かび上がった。台風の季節になると決まって水害と土砂災害に襲われる山あいの集落の情景が……。 (仕事をキャンセルしてでも、いますぐ行くべきだ)  自分に命令するもうひとりの自分がいた。 (九州にこれから接近する台風は、東京を直撃しそうな台風より、さらに一回り大きいんだぞ。しかもおふくろと葉月がいる家は、コンクリートジャングルに守られた都会の真ん中にあるわけじゃない) 「よし、行こう」  仕事人間の石沢が珍しく思い切った決断をした。  今夜予定されていた、重要な取引先との会食を延期しようと決めたのだ。こんな天気では、先方もキャンセルしたほうがかえって喜ぶだろうと思った。  ところが——  取引先の役員は、石沢からの電話を受けるなり、開口一番こう言った。 「やあ、今夜は楽しみにしておりますぞ、石沢さん。嵐《あらし》の晩にメシを食うのもオツな趣向じゃありませんか。こういう記憶に残る日の出会いこそ、大切にしたいものですな」  それで石沢は何も言えなくなった。  サラリーマンとして仕事優先の考え方が完全に頭にこびりついている石沢は、悔やんでも悔やみきれないセリフを反射的に口にしてしまった。 「私のほうこそ楽しみにしていますよ、常務。それでは今夜、予定どおり赤坂《あかさか》の店でお待ち申し上げておりますので」  それが運命の岐《わか》れ目だった [#改ページ]   八 疑心暗鬼 「これじゃあ身内の不祥事を隠しつづけるどこかの警察を批判できないッスよね」  右手の指にはさんだボールペンをくるくる回しながら、成田誠は深刻な表情で言った。 「ほんとうに高沢さんが女子中高生連続事件の犯人である可能性がじゅうぶん考えられるのに、こうやって社内……というか編集部内だけで、その事実をひた隠しにするなんて」 「誠、おまえも新聞記者のはしくれなら、言葉の正確な使い方に気を配れ。『事実』とはまだ決まっていないんだぞ」  注意したのはベテランの小山内五郎だった。  第三会議室と呼ばれる小さな部屋には、彼の口から吐き出されたタバコの煙が漂っている。禁煙厳守の編集会議のときにはガマンしていた小山内も、いまは立てつづけにタバコをふかしていた。それが彼の精神状態を象徴していた。 「高沢が、いまや完全に頭の神経が切れた状態になっているのは事実といっていいだろう。しかし、彼の言っていることが真実だという保証はまったくない」 「だったら、なぜ犠牲者のケータイが奪われているという事実をあの人が知っているんです。これは事実だったわけでしょう」 「ああ、おかげで捜査本部からはおれのほうが妙な目で見られる始末だがな」  警視庁担当の小山内は、顔見知りの捜査官にハッタリで『消えたケータイ』のことを持ち出してみた。最初に返ってきた言葉が「なぜあんたが知っているんだ」だった。  取材源の秘匿《ひとく》を理由に小山内はその質問に答えることを拒んだ。だが、殺された女の子たちのケータイが犯人によって持ち去られ、そのケータイから次の犠牲者へ死の呼び出し電話がかけられていたという大スクープの事実確認ができても、それを特ダネ記事として紙面に載せることはできなかった。 「いずれ他社にも知られて、どこかが抜くかもしれない。だが、それでもやむをえん。ウチから新たな事実を出すな」  それが蔵前部長の命令だった。  どこよりも早く事件の真相のスクープを、と意気込んでいた蔵前が、百八十度姿勢を転換させた理由は、もちろん高沢にあった。  編集会議の部屋から飛び出す前に見せたあの異常な開き直りが、すべて真実に基づいた告白であったなら……奥村由香利が口走ったその恐ろしい仮定を頭に描いたとき、蔵前は上司の監督責任という問題によってがんじがらめになったのだ。 「部長には失望させられたよ」  十本目のタバコを灰皿でもみ消すと、小山内は、その場にいない上司の顔を思い浮かべながら、煙まじりのため息をついた。 「こんな重要な場面で保身に走るとはな」 「それで、高沢さんの行方《ゆくえ》はまだわからないのね」  会議室の窓際に立ち、大荒れになってきた都心の空を見上げていた奥村由香利が、ソバージュヘアを片手でかきあげてからつぶやいた。 「ぜんぜんわかりません」  と、成田が答える。 「月曜日の会議中に飛び出したあと、いったん自宅に戻って、旅支度《たびじたく》を調《ととの》えてまたどこかへ出ていったそうです。あの人はお母さんと二人暮らしだけど、どうやらお母さんには仕事で海外に行くと説明したらしい」 「ほんとに海外に?」 「行けませんよ」  相変わらずボールペンをくるくる回しながら、成田は答えた。 「あの人はパスポート持ってないですから」 「どうして」 「知らなかったんですか、由香利さん。高沢さんは極端な飛行機嫌いで、日本国内だって飛行機の移動はダメなんです」 「そういうこと」  小山内は、窓際《まどぎわ》に立つ由香利の肩越しに外の様子を眺めながら言った。 「高沢を殺すにゃ刃物はいらぬ。こういう嵐の日に揺れる飛行機に乗せたら一発だよ」 「じゃあ、どこにいるの、高沢さんは」  いらだちをあらわにして、奥村由香利は二人の男をふり返った。 「部長がどういう方針であろうとも、私たちには責任があるわ」 「どんな責任だ」 「高沢さんを探し出してつかまえる責任よ、そうでしょう、小山内さん」  由香利はベテラン記者の前に詰め寄った。 「もしもあの人が犯人だったら、この四日間姿を消していることが何を意味するか想像が付くでしょう。次の獲物を探しているのよ。第八の殺人を企《たくら》んで、いつ次の子供に電話をかけるかわからないわ」 「まあ、そうあわてなさんな」  小山内は、のしかかってくる由香利を片手で制した。 「少なくとも、この一両日は何かが起きるとは考えられない」 「どうしてそんなことが言い切れるの」 「この天気だよ」  小山内は、バラバラと雨粒が音を立てている会議室の窓に向かって、親指を斜めに立てた。 「どういうスピードで進むかにもよるが、最新の予報だと明日未明から午前中にかけて、首都圏と九州南部は超大型アベック台風の直撃をまともにくらいそうだ。こういうときは、いくら悪魔の電話がかかってきたって、子供たちは外に出やしないさ」 「そんなのは気休めにすぎないわ。頭が切れた人間にとってみれば、むしろこの嵐は神経を異常に刺激して興奮を募らせる効果をもらたすかもしれないし」 「なあ、由香利ちゃんよ」  小山内は三十七歳の奥村由香利を『ちゃん』付けで呼んだ」 「あんた、推理小説は好きかい」 「どういうことですか」 「ミステリーで名探偵が犯人を特定するときには、必ずやることがあるよな」 「トリックの謎解《なぞと》きですか」 「いちばんハデな見せ場はね。だが、もっと地味で基本的な作業がその前に必要だろう」 「なんでしょう」 「アリバイの確認だよ。容疑者が犯行推定時刻に実際にその現場に立ち会えたかどうか、そのチェックが犯人確定には欠かせない。その基本作業を、我々はまだ高沢公生に対して行なっていないということだ。わかるね、由香利ちゃん」  小山内は、十一本目のタバコに火を点《つ》け、その煙を由香利のほうに向かって吐き出しながらつづけた。 「七つの殺人事件の犯行時刻は、かなり範囲を絞り込んだ状態で特定できているが、その時間帯における高沢公生のアリバイの有無——こいつをきちんと確認しないうちは、いくら彼が変人だからといって、安易に疑ってはいけないということだ」 「でも……」 「いいかい、新聞記者は時間が不規則だから、夜中の犯罪を起こしやすいなんて考えているんだとしたら、由香利ちゃん、それはあまりに自分の職場というものを知らなすぎる発想だぜ」  小山内は、火の点いたタバコを由香利に向かって突き出した。 「あんたは女だし、三児の母というハンディ——いや、ハンディと言っては失礼だな。そういう家庭の事情があるから、夜間シフトには組み入れられていないけれども、我々男の記者は交替で泊まりがある。もちろん高沢もそのローテーションに組み入れられている。だから、泊まりに当たった晩は必ず会社にいなければならない。決して彼も、夜中になればいつでも自由に動けるというわけでもないんだ」 「それはわかってますけど……」 「正直言って、私だって半信半疑なんだよ、由香利ちゃん。高沢が怪しいと思う一方で、そんなはずはあるまいと否定もしたくなる。そのはざまで揺れ動いている。おそらく蔵前部長も同じだろう。ともかく、こういうときに大事なのは、ドラマじみた盛り上がり方をしないということだよ。わかるね、おれたちはホラー小説の主人公じゃないんだ。そうかんたんに身内から連続猟奇殺人事件の犯人が出るなんて期待しないことだ」 「そういえば、小山内さん」  成田誠が、ボールペンを回すしぐさをやめて、ふと思いついたように口をはさんだ。 「事の最初はどうなってたんでしょうね」 「事の最初って、なんだ」 「連続殺人鬼は、その直前に殺した被害者のケータイを使って、次のターゲットをおびき出していると推測されていますよね」 「ああ」 「第一の被害者のケータイを使って第二の被害者が呼び出され、その第二の被害者のケータイを使って第三の被害者が呼び出され、というふうに殺人の小道具としてケータイが使われているわけですけど、では最初に殺された第一の被害者は誰のケータイで呼び出されたんでしょうか」 「………」  成田から素朴な質問を持ち出され、小山内は返答に詰まった。 「第一の犠牲者である山之井由佳のケータイが持ち去られてしまったからには、着信記録は不明です。彼女のケータイから発信された記録は電話局のデータでわかるが、着信はわからない。では、山之井由佳を誘い出すための電話は、どこからかかってきたのか。それを知ることが、犯人の特定につながるんじゃないんですか」 「それはそうだ」 「だとしたら、警察はいまこういう作業をやっていると思いませんか。ケータイ、PHS、一般加入電話も含めたすべての契約回線の中から、第一の殺人が起きる直前に、山之井由佳のケータイ番号にかけた電話を洗い出す」 「そんな膨大な検索をやるかね」 「数は膨大でも、コンピューターがやる仕事ですよ」 「かもしれないが、たとえばNTTの一般加入電話の場合は、原則として電話番号の下二ケタはデータ上でも伏せ字になって記録されるはずだ。プライバシー上の問題と、それからすべての数字を入力していっては、電算処理の容量が膨大になるという二つの理由でな。だから、自分の電話の全発信記録を知りたいと申し出た希望者にのみ、有料でそのサービスを行なっていると思ったが」 「たしかに、すべての検索はできないかもしれないけれど、できる範囲のことはすべてやるのが、捜査本部のとるべき手だてじゃないんですか。これだけ世間を震撼《しんかん》させている事件なんですから」 「まあ、そうかもしれない」 「そのへんのことを、小山内さん、また取材していただけませんか」 「おれが?」  小山内は、自分の鼻の頭を指で指した。 「また警視庁に行くのかい」 「ひょっとして警察は、おおもとの電話番号をもうつかんでいるんじゃないんでしょうか」  成田の畳みかけに、小山内はフーッとため息をついた。  そして頭の後ろで両手を組み、横殴りの雨が吹き荒れる外の情景をじっと見つめていた。 「なあ、誠よ。それから由香利ちゃん」  外に目を向けたまま、小山内がつぶやいた。 「そんなに犯人を特定したいか」 「あたりまえですよ。小山内さんは違うんですか」 「おれは……違うな」 「え? なぜ? なぜ犯人を見つけたくないんですか」  と、成田が問いただし、奥村由香利もふたたび詰め寄った。 「それは、万一高沢さんが犯人だったら、たまらないというお気持ちからなんですか。蔵前部長と同じように、社員の不祥事が表に出たら大変だと恐れていらっしゃるんですか。でも、小山内さんはたったいま、部長には失望したと言われたばかりなのに」 「特ダネを封印しても、身内の社員の不祥事を隠そうとする部長の判断に失望した——これは偽りのない気持ちだ。ウソはない」  由香利のほうをチラッと見て、小山内は答えた。 「おれだって新聞記者である以上、事件の真相を徹底的に追い求めたい。もちろん、どこのメディアよりも早くだ。でもな、おれは自分たちがモンスターを捕獲しようと挑んでいる気がしてならないんだ」 「モンスター?」 「あるいは化け物といってもいいかもしれない」 「………」 「なあ、ふたりとも、最初の殺人が起きる直前に、ケータイが日本の家庭を変えるというテーマで編集会議で議論したときのことを覚えているよな。おれはね、あの場で高沢の発言したセリフが、いまも忘れられないんだ」 「なんでしたっけ」 「もう忘れたのか、由香利ちゃん。仮想現実の虜《とりこ》となった人間は、すでに電話に頭脳を取り込まれてしまったも同然だ、とあいつは言ったじゃないか。ケータイに脳を奪い取られたといってもよい、と」 「ああ、そういえば」  うなずく由香利に、こんどは真正面から向き直って小山内は言った。 「犯人が誰であれ、高沢の言うように、そいつがケータイに頭脳を奪い取られた結果、こんな残酷な事件が引き起こされたのだとしたらどうする」 「……まさか」  ちょっと間《ま》を置いてから笑って答えたのは、由香利ではなく成田だった。 「ケータイが人間の脳を奪うわけないでしょ」 「そうとはかぎらない」  小山内の表情は真剣だった。 「人間の神経だって、突きつめていけば陽イオンと陰イオンの交換で刺激を伝達していっているんだ。そこにケータイが発する電磁波の影響が皆無だと考えるほうがおかしいんじゃないのか」 「小山内さんまでが、そんな妙なことを言わないでくださいよ」  成田が反発した。 「そりゃ心臓にペースメーカーを入れている人には悪影響を及ぼすでしょうけれど、脳味噌《のうみそ》に直接くるわけないじゃないですか」 「いや、ケータイが放つ電磁波によって脳に深刻な影響を受けながらも、我々はその事実に気がついていないだけかもしれない。感染はしても発病していない結核患者が、身体の異変に自分で気づかないようにな。ところが、心臓にペースメーカーを入れている人は、健康体なら見過ごされてしまう脳の異常がダイレクトに機器に影響してしまうから、そこでケータイの作用に気づくんだ。  つまり、ケータイという機械がペースメーカーという機械に直接影響して誤作動を引き起こすのではなく、ケータイがまず人間の頭脳に作用し、それによって異常な働きをはじめた頭脳が、こんどは人工心臓の機能に悪影響を及ぼす。そういう因果関係が成立しているのかもしれない」 「そういうね、どこかのインチキ教祖がやりそうなワケわかんない解説はやめてくださいよ、小山内さん」  成田の笑いは、半分引きつっていた。 「小山内さんまでが高沢さんと同じレベルになったら、ぼくら、ここで真剣に事件の真相を討議する意味がなくなっちゃいますよ」 「誠、おまえがこういう突拍子もない発想を嫌悪する気持ちはわかる。おれだってそうなんだよ。だからこそ、おれは……」  小山内の目が鋭く光った。 「ケータイが人間の思考回路に干渉し、その行動を支配しつつあるという仮説が真実だという結論に直面したくないんだ。おれの言ってる意味がわかるか、誠」 「わかりませんよ」  と、成田が投げやりに否定する。 「由香利ちゃん……奥村君はどうなんだ」 「私も」  硬い表情で、奥村由香利も首を左右に振った。 「わからなければ、わかりやすく言い直してやる」 「もういいですよ、小山内さん」 「いや、よくない。聞け」  小山内は、まだ長いままのタバコをもみ消して、ふたりを睨《にら》んだ。 「一連の女子中高生殺人事件が犯人の意思によって行なわれた犯罪ではなく、ケータイの意思で行なわれていたら……人間の頭脳とケータイの情報発信力が合体したモンスターによって引き起こされた残虐な処刑行為だとしたら……これは恐ろしい展開になるじゃないか。なぜなら、伝染病が空気や水を媒介にして伝わっていくように、この殺人者は電波に乗ってあらゆるところに侵入できるんだから」  小山内の言葉の最後のほうは、ほとんど独り言のような状態になっていた。  そして、成田と由香利はあぜんとして顔を見合わせる。 「だが、恐《こわ》いとばかり言ってられないことも承知している。新聞記者として、真実を追求する職務があるってこともな」  つぶやくと、小山内は空になったタバコのパッケージを片手でつぶしてゴミ箱に放り投げ、ゆっくりと椅子《いす》から立ち上がった。 「こんな天気の中を出かけるのもおっくうだが、誠のリクエストには応《こた》えるよ。第一の殺人直前に山之井由佳の電話番号に発信した人物を求めて、ありとあらゆる電話契約者の発信記録をコンピューター検索しているのかどうか、質問だけはぶつけてみることにしよう。とうていまともな答えが返ってくるとは思えないけどな」  小山内五郎が部屋を出ていくのと同時に、バケツで思いきり水をぶちまけたような勢いで、ザッパーと音を立てて窓に土砂降りの雨が降りかかった。       *     *     * 「どう思います、由香利さん」  ふたりきりで取り残された会議室の中で、成田誠がつぶやいた。 「どう思うって?」 「小山内さんの発言ですよ」 「感想コメントは、この一言しかないわ。し・ん・じ・ら・れ・な・い」  奥村由香利は、天井《てんじよう》を仰いでため息をついた。 「部内でもいちばん冷静なあの人までが、高沢さんと同じようなことを本気で言うなんて信じられない」 「ぼくもです。ただし……」  由香利のほうに身を乗り出して、成田は言った。 「ケータイが脳味噌を乗っ取るなんて話を、小山内さんが本気でありうると思っているならば、ですけど」 「……どういう意味?」 「小山内さんらしからぬホラー仕立ての解釈を持ち出したのは、知られたくない真実をカムフラージュするための作戦だとしたらどうですか。みんなの推理を攪乱《かくらん》させるための戦略だったら」 「知られたくない真実って」 「恐るべき残虐処刑事件の殺人は、たしかにこの夕刊ニッポンの編集部内にいた。ただし、高沢さんではなくて」 「まさか」 「その、まさか」  成田は人差指で、たったいままで小山内が座っていた席を指さした。 「小山内さんこそが真犯人だった」 「………」  奥村由香利は絶句して成田の顔を見つめていた。  そして、かすれた声で言った。 「あの人は、まともよ」 「のように見えますけどね」  成田は、日に焼けた顔をしかめた。 「頭の中身の状態までは、ほかの人間にはわからない」 「そんな」 「はたして真相は二時間推理ドラマ風の結末なのか、それとも古典推理小説風の結末なのか。つまり、最初からいかにも犯人らしい人物がやっぱり犯人なのか、それともいちばん犯人らしくない人間が犯人という、意外なようでいて平凡な逆転劇に落ち着くのか」  滝のような雨水が会議室の窓ガラスを伝い落ちる。  その流れが会議室の机の上に写し出され、透明の川を走らせる。そこに人差指を突っ込み、濡《ぬ》れない川の流れを成田は何度もなぞった。  由香利のほうから先に口を利くのを待っているように、成田誠は無言でその動作を繰り返していた。 「成田君」  由香利が静かに口を開いた。 「小山内さんを犯人だと考えるなんて、どう考えても唐突すぎるわ。七人もの女子中高生をナイフでメッタ刺しにして、苦痛の叫びをあげる様子の一部始終をケータイで友だちに中継させるなんて残酷なこと、あの人がしたと思うの? 小山内さんだって人の親なのよ。女子高生の父親という立場があるのよ」 「わかってます」 「それでも、小山内さんを疑ったりするの?」 「このあいだの会議で、高沢さんが自分を連続異常殺人の犯人であるかのような言い方をして部屋を飛び出したあと、たしか由香利さんは、高沢さんがすべてほんとうのことを言っているんじゃないか、と言いましたね」 「言ったわ」 「それは、もしかすると偏見に満ちた先入観かもしれません」 「先入観って?」 「女子中高生を惨殺することは、同じ年ごろの親にはできっこないという先入観です。たしかに高沢さんもおかしいけど、由香利さんや蔵前部長は、異常犯罪というものは家庭を持たない独身男によって引き起こされるという決めつけをしていませんか」 「……それは、あるかもしれない」  奥村由香利は素直に認めた。 「だけど、小山内さんが犯人だとしたら、動機は何なの」 「ぼくは名探偵じゃありませんから、即座に動機付けなんかできません。でも、絶対に見逃せないポイントがひとつあるんです」 「なあに」 「小山内さんは警視庁の取材担当だということです。つまり、事件に関する捜査本部の動きをいち早く察知できる立場にいる」 「それで?」 「たとえば、殺人生中継の最後に決まって犯人がドミソドという口笛を吹くという情報がありましたね。あれはどこかの社が嗅《か》ぎつけて、仕方なしに警視庁もその事実を認めたという筋書きになっていますけれど、ほんとうにそうなんでしょうか」  成田は、十年近く先輩になる奥村由香利の顔をじっと見つめた。 「もしかすると、それは自分のやったことだから当然わかっていただけなのでは?」 「成田君」  由香利は真剣な声を出した。 「私も含めて、あなたも小山内さんも、もっと冷静にならないといけないわ」 「というのは?」 「よく考えて。そもそもウチの社の、しかも編集部員の中にあの事件の犯人がいるかもしれないなんてことを、まともに検討するほうがどうかしているのよ。もともとは、高沢さんが異常な捨てゼリフを残して姿を消したところから疑惑ははじまったわけだし、私も正直言って、高沢さんを疑っている。でも、疑うに値するのは彼だけよ」 「そうでしょうか」 「もしも小山内さんを疑うなら、同じように成田君、あなたも疑わなければならなくなるわ」 「ぼくを?」  成田は目を丸くした。 「どうしてです」 「あなたは、他のマスコミがまだぜんぜん嗅ぎつけていない関口麗子の娘の居場所を探り出したわね」 「ええ」 「どうやって知ったの」 「会議で説明したじゃないですか、足を棒にして稼いだ情報だ、って。ぼくのこの日焼けはダテじゃありませんよ」  成田は、チョコレート色の頬《ほお》を指さした。 「これは海やプールなんかで焼いたんじゃありません。取材焼けですよ。関係者をまめに当たっていった結果、関口葉月のクラスメイトの女の子から、とうとう聞き出せた情報なんですよ」 「ずいぶん粘ったんでしょうね」 「ぼくだって記者としての功名心はありますからね、そりゃ必死でがんばりましたよ」 「そうじゃなくて、あなたは心配で心配で仕方なかったんじゃないの」 「なんですって」 「最初の殺人生中継を聞かされた関口葉月は、じつはその電話で犯人の有力な手がかりをつかんでいた。そして、その重大情報を彼女は公表しようとしていた。それであせって、あなたは葉月の居場所を探し出そうとやっきになった」 「由香利さん!」 「怒《おこ》らないで」  由香利は両方の手のひらを広げて前に突き出し、ストップをかけた。 「何も本気で成田君を疑っているわけじゃないの。もしもあなたが小山内さんを疑うなら、同じようにあなたもこうやって疑うことができる、ということ。それを言いたかっただけよ。わかる?」 「………」  成田は、ぶちまけようとした怒りを懸命に押さえ込もうとして、胸を上下させていた。 「成田君、冷静にね」  由香利は、なだめるように語りかけた。 「高沢さんがふりまいた妙な波動に迷わされてはいけないわ。私たちは冷静に、論理的に、事件の核心に迫っていかないと」 「それは……わかりますけど」 「私のように子供を持つ親の身になってみて。今回のケータイ連続殺人は、決して他人事《ひとごと》じゃないのよ。そのことは小山内さんも言ってたでしょう。いつ自分の子供が犠牲になるかわからない危機感でいっぱいだって」 「ええ、それは前にうかがいました」 「ある意味で、私はいまとても自己中心的な目でこの事件を見つめている。私は自分の子供たちをなんとしてでも守りたい。だから、せっぱつまった気持ちになっているの。夕刊ニッポンの名を轟《とどろ》かせるためとか、ジャーナリズムとしての使命とか、そんな格好をつけたものじゃない。私の可愛《かわい》い三人の子供たちが次の犠牲者にならないために、事件の解決になんとか自分の力を役立てたい、そう思っているの。そういう自分本位の考え方だからこそ、誰《だれ》よりも本気でこの事件に取り組んでいる。  その私と同じ立場であるはずの小山内さんが、いまあなたも聞いたように、おかしな方向に考え方を変えはじめている。ものすごく歯がゆいし、とてもイライラさせられるし、そしてすごく恐《こわ》いわ。みんながそういうふうに冷静さを失ったら、真相にたどり着く者が誰もいなくなるんじゃないか、って。ねえ、成田君」  由香利は若い成田の腕をつかんだ。 「私はあなたの行動力を頼りにしてるのよ、心から」 「そう……ですか」 「そのあなたまでが、空想力を暴走させてその虜《とりこ》になってほしくないの」  由香利は相手の腕をつかんだまま、じっとその瞳《ひとみ》をのぞき込んだ。 「犯人がもしもウチの高沢さんなら、それはそれで仕方がない。でも、身内から殺人鬼が出るんだったら、せめてその動機や背景事情だけはきちんと解明したいの。もちろん、高沢さんだったというのは最悪のケースだけどね。とにかく私は、どういう事情があれば人はこんなむごい連続殺人を起こすのか、その動機探しから入っていきたいのよ。それが遠回りのようでいて、いちばん早く正確な結論にたどり着く方法じゃないかと思ってる」 「わかりました。じゃあ、ぼくは何をすればいいですか」  と、成田がたずねたとき、奥村由香利のケータイがプル、プルル、プル、プルルと断続的に鳴った。  その着信音は、通常の電話ではなく、ショートメールを受信したとき鳴るように設定した音色だった。 「メールだわ」  小さくつぶやいて、由香利はケータイのボタンを操作した。  たったいま、どこかから発信されたばかりのメッセージがグリーンの液晶パネルに現れた。 [#ここから2字下げ] ≪ごぶさたしてます。高沢です。いま、鹿児島に着きました。けけけけけ。 ぼくは何しにきたんだ。あててごらん≫ [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   九 怨念のケータイ着信 (すごい嵐《あらし》……いっそのこと、台風がこの家を吹き飛ばしてくれたらいいのに)  リビングの窓越しに、横殴りの豪雨が降り注ぐさまをぼんやりと眺めていた水守悦子は、心の中でそんなことをつぶやいていた。  時刻はまだ午後の一時半だが、横浜市の上空も一面の黒雲に覆われ、青葉区という名のイメージにふさわしい緑の爽《さわ》やかさは風景の中から消えていた。すべてが薄墨色の世界に浸っている。  しかも水守家のリビングには明かりひとつ灯《とも》されていないため、室内はなおさら暗く、ほとんど夜のようだった。その暗さは、水守悦子の気持ちをそのまま象徴していた。  あの夏の朝、自宅そばの四つ角で異様な発作を起こして以来、四十五歳の夫・敦夫は、まったく元の状態には戻らなくなっていた。神経科の名医と呼ばれる医学博士を頼って入院したが、快方に向かうきざしもないまま自宅に戻ってきた。家族といつもいっしょにいるほうが精神状態の安定にはよいかもしれません、というのが、あきらめ顔に退院を勧めた医者の言い分だったが、自宅療養でも好ましい変化は起きなかった。  とりあえず会社は休職扱いとなっているが、この調子では復帰のメドも立たず、いつまでお情けで会社に居させてもらえるかわからない。この念願の新築一戸建ても、会社で順調に働きつづけられることを前提として組んだローンによって手に入れられたものである。もちろん、こんな事態は予測のうちに入っていない。  リストラで仕事場を追われたなら転職という手段もあるだろうが、夫には、もう社会で働くということじたいが不可能に思えた。だから、水守家の生活の破綻《はたん》は目の前まで迫ってきていた。  いちども働いた経験のないまま結婚生活に入った悦子は、これから千春とふたりでどうやって家庭というものを支えていったらよいのか見当もつかず、途方に暮れる毎日を過ごしていた。 (こんな立派な家に引っ越してこなければよかった)  つい、そんな結果論のようなグチが出てしまう。個人の家でも、企業にとってのビルでも、新しいものを建てたり買ったりしたとたん、運が下向きになるというのは悦子もよく耳にする話だった。そのジンクスが我が身にもやっぱりふりかかってきたのかと、悦子は暗澹《あんたん》とした気分になっていた。  しかし、そういった経済的な展望もさることながら、いま悦子の頭から離れない重大かつ深刻な問題があった。それは、昼夜問わず突然背広に着替えてふらふらと外出する夫は、いったい何を求めてどこへ行こうとしているのか、という謎《なぞ》だった。  はたから見れば狂ったとしか思えない行動も、きっと夫にとっては意味がある行動なのだ、と悦子は想像していた。そうでなければ、あのようにきちんと身支度《みじたく》を調えてから出かけるはずがない。 (とくにあの夜……)  思い出そうとすると、悦子の頭は割れそうに痛んだ。その記憶を呼び起こさせまいと拒否するもうひとりの自分との葛藤《かつとう》がはじまるからだ。 (あの夜、パパはどこで何をしていたの)  千春の叫び声が、その夜の記憶とダブって聞こえてくる。娘までおかしくなってしまうのではないかと思ったすさまじい悲鳴と、恐怖の形相《ぎようそう》。 (ママ、ママ、葉月がたいへん! 由佳がたいへん!)  年ごろの娘を持つ世の親たちを恐怖のどん底に突き落とした連続ケータイ殺人の開幕は、水守悦子にはそんな形で告げられた。それは、夜中じゅう行方《ゆくえ》を捜していた夫が、多摩川《たまがわ》下流に架かる丸子橋のたもとで保護されたという連絡を受けた直後だった。  背広姿のままふらつく夫が、深夜警ら中だったパトロールカーの職務質問に引っかかった場所は、川崎市中原区に属する多摩川|河川敷《かせんじき》。それは、娘の大親友だった山之井由佳が同じ夜に惨殺された東京都大田区の現場とは、川をはさんで対岸にあたる場所だった。  神奈川県警と警視庁——所轄の違いのせいだろう、心神喪失状態で見つかった夫が、その晩に発生した第一のケータイ連続殺人と結びつけられることはなかった。しかし、妻の悦子と娘の千春にとっては、そのふたつの出来事は否応なしに結びついてしまったのだ。 (パパが……由佳を……)  その可能性に突き当たった高校一年生の千春は、母親の胸に飛び込んで震えだした。ガクガク、ガクガクと、抱きしめる悦子の身体までがいっしょに振動するほどの激しさで震えた。  その日から、水守家には地獄が訪れた。  ケータイ越しに断末魔《だんまつま》の悲鳴を聞かされた関口葉月も強烈なショックを受けたが、ある意味ではそれ以上の精神的衝撃に見舞われたのが、水守千春だった。  そして千春は、思春期特有の思いつめた正義感に突き動かされて、何度も繰り返し母親に訴えた。 「もう、私はじぶんの家がどうなってもいい。もしも由佳を殺したのがパパだったら、そして、そのあとの女の子たちを殺したのもぜんぶウチのパパだったら、絶対に警察に言わなくちゃおかしい。隠すなんてひきょうなことはできない。由佳に申し訳ないし、苦しんでいる葉月にだって申し訳ないから」  悦子は、激情に駆られる千春を思いとどまらせるのに必死だった。 「パパがこんな状態のときに、私たち家族が勝手に警察へ突き出すなんてことは絶対にできないわ。これまでパパが、ママや千春のためにどれほど一生懸命働いてくれていたか、それを考えて」  悦子はそう言って娘をいさめた。 「とにかくパパの状態が昔のように戻るのを待ちましょう。そして元気になったパパの口から、きちんと説明してもらいましょう。いい、千春。それまでよけいなことを人に言っちゃダメよ」  だが、悦子の知らないところで、千春は少しずつ抵抗をつづけていた。  夕刊ニッポンの記者・成田誠が関口葉月に関する情報を求めてきたときに、彼女の居場所を教えてしまったのも、千春の抵抗のひとつだった。千春は千春なりに、事件の真相を誰《だれ》かに突き止めてもらいたくて仕方がなかったのだ。  しかし、悦子は夫の関与を絶対に認めたくはなかったし、それを確かめる勇気も持ち合わせていなかった。 (この先、私たち家族の運命はどうなるんだろう)  外の嵐を眺めながら、そんな思いに囚《とら》われていたとき、カタンという音がしたので、悦子はハッとなって後ろをふり向いた。 「あ、パパ!」  激しい雨音で気づかなかったが、いつのまにか夫の敦夫が隣のダイニングにやってきてテーブルについていた。昼間からパジャマ姿のままで。  悦子は急いでそちらに駆け寄った。 「どうしたの、パパ。おなかすいた? お食事? それともおやつ?」  まるで幼稚園の子供を相手にしているような口調だが、最近ではこれが夫に話しかけるときの、ごくふつうのパターンとなっていた。敦夫の食事時間はまったく不規則になっており、七時、十二時、夕方六時に食事を出せばちゃんと食べてくれるという状況ではなかったから、悦子としては二十四時間オープンのファミレスのキッチンをひとりで任されたような毎日だった。  しかし、とりあえずいまの水守は、食事の用ではなさそうだった。 「悦子」  水守敦夫は、荒れ狂う風雨にかき消されてしまいそうな声でつぶやいた。 「悦子……話がある」 「なんなの、話って」  悦子は向かいの席ではなく、夫の隣の椅子《いす》に座った。  が、呼びかけておきながら、すぐに次の言葉は出てこない。うつろな目を宙に泳がせ、水守はハーッと重苦しいため息を洩《も》らした。  その横顔に、悦子は暗いまなざしを向ける。  まぢかに見る夫の顔は、日に日に青白さを増し、そして痩《や》せこけてきていた。少し白いものが混じった無精髭《ぶしようひげ》が中途半端な伸び方をしていたので、あとで剃《そ》ってあげなければ、と、そんなところにも悦子は気を配らねばならなかった。  発作を起こす前の水守は、毎朝コンマ数ミリの剃り残しもないようにきっちりと髭をあたり、そしてヘアスタイルもカチッと決め、さわやかな表情でこのダイニングテーブルについて朝刊を広げるのが習慣だった。そして、いれたてのコーヒーを味わいながら、トーストと大好物のベーコンエッグが焼けるまで新聞記事にゆっくり目を通すのだ。  結婚して以来十七年もつづいてきた、なにげないその朝の繰り返しが、いまはパッタリ途絶えてしまっている。出勤前の光景はとても平凡だったけれども、とても平和で心を穏やかにしてくれるものだった。そんなことに悦子はいまになって気がつかされ、淋《さび》しい思いをさせられていた。  あの朝もそうだった。朝刊を脇《わき》に置きながらトーストをかじっている夫と、たしか千春の将来のことを話し合っていた。千春の結婚が決まったらこの家をあの子にあげましょうと悦子が言い出したのをきっかけに、娘の結婚に関してちょっとした論争になった。  娘を溺愛《できあい》する夫は、千春には結婚などさせないと言い張っていたが、いまとなっては結婚を認めてやったにしても、父親として正気の状態で千春の花嫁姿を見ることができるかどうか、そこから疑問だった。少なくとも、水守がウエディングドレスに身を包んだ娘の腕をとり、バージンロードをエスコートしていくという光景は、望んでもかなえられそうになかった。  まして、一連の事件に夫が関与していたとなると……。 「パパ」  いろいろな思いが交錯して涙ぐみそうになるのをこらえて、悦子は夫の顔をのぞき込みながらもういちどたずねた。 「話ってなあに」 「……わかってきたんだ」  ポツンと、水守はつぶやいた。 「何がわかってきたの」 「どうしておれの身体がおかしくなったのか、わかってきた」  夫のしゃべり方は、歩き方にたとえればフラフラとした千鳥足という状態だったが、それでも意味不明のうわごとを一方的にまくし立てるいつもの状況とはちがうので、悦子はまともな会話の成立を望んで、ゆっくりと話を進めていった。 「なぜだったの? 教えて」 「ケータイだ」 「………」  またそれか、と思って、悦子はガックリきた。  発作以来、夫のうわごとには必ず『ケータイ』という言葉が出てくる。その意味がわからなくて、悦子は神経科に入院したときに、医者に意見を求めた。  おそらくご主人は、仕事で携帯電話を持たされて、いつもその呼び出しに追いかけられ、仕事のストレスから逃げる場所がどこにもないという強迫観念に襲われていたのではないでしょうか——医者はそう言った。そして、ケータイ恐怖症ともいうべき強迫観念が顔面の奇妙な痙攣《けいれん》発作を招き、さらには精神の不安定も引き起こした、というのが、医者の見立てだった。  実際、製薬会社の営業担当として外回りが主体の水守は、携帯電話の普及によって、四六時中、仕事ぶりを会社に監視されているような状態になっていた。  携帯電話が導入された初期のころは、通話エリアも限定されていたし、ちょっと物陰に入ったり、建物の中まで進むと電波を受信できなくなるのがあたりまえの状況だったので、会社から電話で追いかけられたくないときはケータイの電源を切っておき、連絡がつかなかったじゃないかと咎《とが》められても、電波が届かなかったんでしょう、という言い訳が容易に成り立った。  しかし、いまの時代は、電波が届かなかったので連絡がつかなかった、という弁解が成立しない。どこへ行ってもケータイの電波だらけなのである。これでは医者が言うようにケータイ・ノイローゼになる人間がいても不思議ではない。 「業務命令でケータイを持たされたときから、三百六十五日、二十四時間、まったく休みなく会社に拘束される奴隷になっちゃった感じだよ」  いつか、水守が笑いながら悦子につぶやいたことがあった。  そのときは笑顔で語っていたのでさして深刻にも受け止めなかったが、あれがSOSのはじまりだったのかもしれない、と悦子は思い返した。 「おれはケータイを受けている」  うつろな視線を泳がせながら、パジャマ姿の水守がポツンと一言つぶやいた。 「え?」  悦子がきき返すと、こんどは妻に向き直って繰り返した。 「おれはケータイを受けているんだよ、いま」 「いま……って、やだ、パパ」  悦子は、無理やりおかしそうな作り笑いを浮かべた。 「いまケータイもなにも持っていないじゃない」 「いいや、持っている」  水守は、ゆっくりと首を左右に振った。 「どこに」 「ここに」  水守は、自分のこめかみを指さした。  悦子の背筋に寒気が走った。  一瞬にして、作り笑いが消えた。 「おれはいま、ここでケータイを受信している」  水守敦夫という人格をどこかへ置き忘れたような瞳《ひとみ》で悦子を見つめ、さらに彼はつづけた。 「仕事でケータイ漬けの毎日を送っているうちに、なんだか知らないが、おれの身体の中にケータイが溶け込んできた感じがするんだ」 「パパ……」 「たとえば、ふつうの電話な、ふつうの電話」  水守は、ダイニングから見通せる廊下の電話台を指さした。 「あれが鳴り出す前、カチッと小さな音がするだろう」 「ええ」 「その音で、ベルが鳴る前に受話器を取ったりすることがあるだろう」 「あるわ」 「それと同じことが、ケータイで起きるんだ。ただし、ケータイが何か微妙な音を立てるんじゃなくて、おれの脳が察知するんだ。あ、ケータイがかかってくるぞ、って。ケータイが鳴り出すよりも前に、脳味噌《のうみそ》がわめき出すんだよ。ぴろぴろぴろ、ぴろぴろぴろ、って」 「………」  悦子は、片手で自分の口を押さえた。嗚咽《おえつ》をこらえるために。  例の猟奇事件との関連が、いやでも頭に浮かんできた。しかし水守は、そんな妻の心境も知らず、いつになく能弁だった。 「奇妙な感じは、前から気がついていたんだ。あれ、おれの脳が電波を受信しているぞ、ってね。ところが、まずいことに感度がよすぎるのか、自分のケータイだけじゃなくて、他人のケータイにかかってきた電波も感知するようになってしまった。  ほら、悦子、よく若い女の子がケータイのアンテナに付けているだろう。着信すると、イルミネーションがピカピカ光るやつ。あれって、自分のケータイが鳴り出すときだけじゃなくて、他人のケータイの着信電波にも反応して光るじゃないか。それと同じなんだよ。関係ない電話にも、おれの脳が騒ぎ出すんだ。ぴろぴろぴろ、ぴろぴろぴろ……ぴろぴろぴろ、ぴろぴろぴろ、って」  悦子は耳を塞《ふさ》ぎたかった。夫の口から発せられる携帯着信の擬音は、彼女の神経をささくれ立たせた。 「ぴろぴろぴろ、ぴろぴろぴろ」 「もういいわよ、パパ。やめて!」  ついに叫んだ悦子に向かって、水守はたたみ込んだ。 「いやだろう? 不愉快だろう? 耐えられないだろう?」 「ええ、耐えられないわ」 「それが頭の中で鳴っているおれはもっと耐えられないんだよ」  水守は顔をしかめた。 「誰《だれ》にも言えなかったし、あえて自分でも無視しようと思ってきたけど、おれの頭は知らないまにケータイと合体してしまったんだ」 「やめてよ、そんな話」 「やめたくても事実なんだよ、悦子。おれは人間なのに、ケータイの受信機にもなってしまったんだ。だから、あの四つ角にさしかかると、異様に脳味噌が振動して目ん球がひっくり返る。いまになってやっとわかってきたけど、あの四つ角から見通しが利く坂の上には、ケータイの基地局があるんだ。それも、おれたちが引っ越してきたあと、出力をぐんとアップしたらしい」  夫のその言葉に、悦子はハッとなった。彼の言っている基地局のことは事実だったからだ。 「昼夜問わずに、おれがふらふら出かけていくのも、あちこちの電波に誘われているからかもしれない」  問題の謎《なぞ》の徘徊《はいかい》行動に話が移ってきた。 「パパ……自分でわかってたの? 外に出ていっちゃってることが」 「わかってた。だけど、止められないんだ」 「背広に着替えるのも、ちゃんと意識してやっていたの」 「そうだ」 「じゃあ……」  と、言いかけたが、その先は切り出せなかった。  ピカッと稲妻が走り、薄暗い室内に銀色の光を浴びせかけた。  自分の頭脳に起きた異変を語りはじめた水守敦夫の顔が、銀と黒のコントラストに彩られて悦子を睨《にら》んでいた。 「たぶん背広に着替えるのは」  悦子が質問を呑《の》み込んだので、水守がひとりでつづけた。 「ケータイの電波を受けたとたん、精神状態が仕事モードに突入するからだと思う。こんなふとんの上で寝ていてどうするんだ、とせき立てられるんだ」  少し離れた場所に雷の落ちる音がした。 「じつは、いまもそうなんだ。ケータイ受信中だから、頭の中で働け、働けという声がする。悦子、ワイシャツ、ネクタイ、背広を出してくれないか」 「やめてよ、パパ。もう出かけないで」  悦子は泣き出しそうな顔で訴えた。  せっかく、いつになく筋道の通った話し方をしていたと思ったのに、やっぱり夫はおかしな方向に走りだしてしまったからだ。 「もう、どこにもいかないで」 「どうしてだ」 「だってパパ、自分でもわからないうちに電波に引きずられていっちゃうんでしょう」 「ああ」 「どこへ行くのかは、自分では決められないんでしょう」 「そうだ」 「だったらやめて、危ないから。第一、きょうはこんなに嵐《あらし》なのよ。ものすごく大きな台風が近づいてきているのよ。雨も風も、このあとどんどん勢いが強まるって天気予報でも言ってるわ。そんなときに出かけないで」  悦子が訴える間にも、また稲妻の閃光《せんこう》が走り、今度はほとんど間《ま》を置かずに落雷の音が響いた。さっきよりもずっと大きく、腹を揺するような振動がきた。 「あ、鳴ってる」  妻の必死の引き留めなど、まるで聞こえないかのように、水守は天井《てんじよう》を見上げて言った。 「ぴろぴろぴろ、ぴろぴろぴろ……ぴろぴろぴろ、ぴろぴろぴろ……鳴ってるよ、ケータイが。千春かな。千春のケータイかな」 「そんなことはないわ。千春はいま学校よ。ケータイは学校に持っていってるわ。そういえば、こんな天気だと授業が早めに切り上げられるかもしれないし、ケータイで連絡してくるかもしれない。そのときは私が車で駅まで迎えにいかなくちゃならないわ。だから、なおさらパパはじっとしていて」 「いや、そうはいかない」  水守は、なおも天井を指さして言い張った。 「だって、千春のケータイが鳴っているんだから」 「音なんかしないじゃない、なんにも」 「いや、鳴っている。ぴろぴろぴろ、ぴろぴろぴろ……」       *     *     *  水守敦夫の言葉に偽りはなかった。  娘の千春の携帯電話は、マナーモードで音を消された状態のまま、彼女の勉強部屋で着信を知らせる点滅を繰り返していた。きょうにかぎって、千春はケータイを学校へ持っていくのを忘れていたのだ。  勉強部屋に放置されたそれは、着信音を消され、バイブレーションモードになっている。そのケータイが、まるで生き物のように机の上で蠢《うごめ》いていた。ズズズズズ、ズズズズズと低い音を立てながら、その振動のせいでひとり勝手に円を描く運動をはじめていた。そしてグリーンの液晶パネルには、発信者の電話番号と名前が映し出されている。  アイ——  千春とはまったく一面識もない、名古屋市熱田区に住む高校一年生、奈良橋愛の名前だった。  連続殺人鬼の七番目の餌食《えじき》となった女の子である。  振動と光の点滅だけの無音コールは、出る者がいないためにおよそ十回つづいたのちに切れた。ズリズリと蠢いていたケータイは、ピタッとその動きを止めた。  だが、しばらく間を置いてから、また点滅と振動がはじまった。そしてケータイは机の上でふたたび微妙な動きをはじめる。  こんどは液晶パネルに別の名前と電話番号が出ていた。  ミドリ——  千春と同じ横浜市緑区に住んでいたが、やはり千春とは一面識もない中学三年の松岡緑。連続殺人鬼の六番目の餌食となった女の子である。  そのコールにも出る者がいないから、また電話は切れた。そして間を置いて、またケータイが蠢き出す。  それはマユミからの電話だった。五番目の犠牲者である。  それにも応じないと、ヨウコがかけてきた。  次はサユリ、次はリカコ、次はユカ。  世にもおぞましい殺人生中継付きの猟奇事件の犠牲となった女の子が、殺されたときとは逆の順番で、次から次へと水守千春のケータイに電話を入れてきているのだ。  そして、最初の犠牲者である山之井由佳の名前によるコールが切れたあと、いままでよりはずっと長い間があいた。  死者からのコールはこれまでかと思われた。  が、千春の勉強机の上で、ケータイがまたズズズズズと振動を開始した。ズリズリズリ、ズリズリズリと右回りの円を描きはじめた。  その液晶パネルには、まったく新しい女の子の名前が、こんどはフルネームで表示されていた。    フルサワ タマエ  古沢玉恵——  はたして千春の記憶に残っているかどうかもわからない。小学校一年生のときに、わずか三カ月だけ千春と同じクラスにいた女の子の名前だった。  彼女は一学期の終わりも待たずに、よその小学校へ転校していった。理由はいじめである。いじめた側の中心人物は、同級生の水守千春、関口葉月、そして山之井由佳——  いじめた側にはなんの悪意もない、幼い子供ならではのケンカにすぎなかった。だから記憶にも残らない。だが、いじめられる側はひどく傷ついた。それをきっかけにして、玉恵はどんな学校へ行ってもいじめられる人生がつづいた。  あれから十年、彼女はもうこの世にはいない。首を吊《つ》って自殺していた。ことしの四月、高校入学式のその日に……。  その古沢玉恵が、千春のケータイを呼び出しつづけていた。 [#改ページ]   十 破滅への集結 「あなた何を考えているの! やめてください、バカなマネは」  携帯電話に向かって、奥村由香利は叫んだ。 「関口麗子の娘に、いったい何をしようと考えているのよ」 「ぼく……殺し……みよ……思っ……………………鹿児……」 「え、なあに? 大きな声で返事して。聞こえないわ」  ケータイを押し当てていないほうの耳に指で栓《せん》をしながら、由香利はいっそう大きな声で叫んだ。 「こっちはそばで何人もケータイでしゃべってるからうるさいのよ。ときどき列車もすれ違うし」  そう言いながら、由香利は自分の周りを見回した。  彼女がいま話している場所は新幹線のデッキ。トイレと洗面所のすぐ脇《わき》である。しかし、同じようにケータイで話をするために指定席の車両から出てきたビジネスマンや女子大生など数人が声高にそれぞれの会話に没頭しているため、その雑音がすごかった。  ケータイでしゃべり出すと、人は通常の会話より格段に声が大きくなるが、それに加えて新幹線どうしのすれ違いがあると、その通過音に負けまいとして、さらに全員が同時にボリュームを上げる。おまけに上空に雷雲が広がっているためか、電波の受信状況もとぎれがちで、なおさら相手のしゃべっている声が聞き取りにくかった。  由香利がケータイで話している相手——それは、高沢公生だった。  会社の会議室にいるときに彼からのショートメールが入ってきたあと、由香利のケータイに断続的に連絡がきた。しかし、高沢の番号は非通知になっており、社員どうしで公開している仕事用のケータイとは違う番号からかけてきているようだった。だから、由香利のほうから高沢に連絡をとることはできず、受信のみの一方通行だった。  いまも由香利は、新幹線の指定席に座っていたところを高沢からケータイで呼び出され、デッキまで出てきたのだ。 「高沢さん、もう一回言って、いま聞こえなかったから」 「あ、そう。じゃ、耳ほじくってよく聞いてください、由香利さん」  ケータイの向こうにいる高沢は、五期後輩の由香利に向かって、バカていねいな言葉遣いで言った。 「ぼく、関口葉月を殺してみようかなと思ってるんですよ。それで鹿児島にきた。成田君が調べてくれたデータを拝借しましたのでね、父方の実家の住所もわかっています。もう少しで着くところ。それにしても、いやあ、鹿児島はすごい雨ですよ。そっちはどうですか、由香利さん。東京の天気は」 「もう東京じゃないわよ。いま私はそっちへ向かっているの、あなたのいる場所へ」 「へーえ、まだ飛行機飛んでるんですか」 「ダメだったわよ。JALもANAもJASもぜんぶ欠航。鹿児島だけでなく、西のほうへ向かうのはぜんぶダメ」 「おやおや、それじゃ新幹線で博多《はかた》まで」 「そうよ」 「それはごくろうさまです。蔵前部長の出張許可は下りましたか」 「こんな緊急事態のときに、出先の部長をいちいちつかまえてられないでしょう」 「ほう、無断出張ですか。いいのかなあ、そんな勝手をやって。超大型台風のダブル上陸となれば、被害状況の取材に人手も要るだろうに」 「勝手をやってるのはあなたでしょう、高沢さん」  由香利の声が高くなった。 「とにかく私がそっちに行くまで動かないで」 「動かないで? あはは」  高沢は、トレードマークの湯上がりのような顔が想像できる、妙にほがらかな笑い声を立てた。 「この嵐《あらし》の中、動かないでって、無理な注文はやめてくださいよ」 「私が言いたいのは、関口葉月に近づかないで、ということよ。あの子に手を出さないで、ということよ」 「それは無理かもしれないなあ」  奥村由香利の気持ちをじらすように、高沢は節回《ふしまわ》しをつけて言った。 「連続殺人鬼は、どうやったらその連続を止めることができるんでしょうかねえ。一度走り出したら、もうどうにも止まらないんじゃないかなあ」 「お願いだからやめて……バカな行動はやめて」  由香利はめまいを覚えて、乗降口のドアにもたれかかった。  すると、車体の揺れが直接身体に伝わって、さらに気分が悪くなった。  横殴りの雨を蹴立《けた》てて走る新幹線は猛烈な勢いで水煙を上げており、微粒子のカーテンが灰色に霞む外の景色を、さらに見えにくくしていた。 「とにかくですね、由香利さん」  ぐったりとドアに寄りかかる由香利の耳元で、高沢の声が明るく語りつづけた。 「ぼくをコントロールはできませんよ。なにか命令できると思ったら大間違いです。指示できるとお考えなら、それは大きな過ちです。ところで、いまあなたの乗っている新幹線はどのへんを走っているんですか」 「さっき名古屋を出て、京都に向かっているところ」 「岐阜羽島《ぎふはしま》は通り過ぎましたか」 「そんなことわからないわ。『のぞみ』だからどうせ停《と》まらないし」 「ふうん、そうですか。いまは午後の、えーと三時五十分ですか。なるほどなるほど、ふむ、なるほどね」  高沢は、ひとりで納得の声を出した。 「どっちにしても鹿児島までの道のりは遠いですねえ。じゃ、こっちもゆっくり食事をする時間はありそうだ。そうそう、由香利さん、新幹線は台風に弱いこともお忘れなく。いまダイヤどおり順調に走っているとしたら、それは奇跡だと思ったほうがいいかもしれませんよ。ダブル台風は時間とともに、どんどん日本列島に近づいているんですからね。ま、運良く会えたらお会いしましょう」  そして高沢は口笛を吹いた。ド・ミ・ソ・ド、という音階で。  そのあと、電話は向こうから切れた。       *     *     * 「どうでした」  ふらつく足どりで戻ってきた由香利を、窓際《まどぎわ》の席に座る成田誠が心配そうに迎えた。  高沢公生が鹿児島に避難している関口麗子の娘に手を出そうとしていることがわかって、ふたりはとるものもとりあえず、東京から新幹線に飛び乗って西へ向かっているところだった。  一刻を争う事態と判断した成田は、もちろん飛行機でダイレクトに鹿児島へ向かうことを考えたが、西日本方面の飛行機は全社全便欠航で、新幹線で博多まで行き、そこから特急で鹿児島へ向かうという鉄道コース以外に手段はなかった。  そして成田と由香利は、ふたりだけの判断で行動に出た。部長の蔵前は会合で不在、デスクもつかまらず、警視庁に出かけた小山内のケータイも何度か呼び出したが出なかった。  その時点で、成田と由香利はもう待っていられないと行動に踏み切った。本土上陸を狙《ねら》って二カ所から近づくダブル超大型台風の影響で、いつ新幹線もストップするかわからなかったからだ。それに順調に新幹線が運行されたとしても、鹿児島行きの特急に乗り継ぐには、もうギリギリの時間だった。 「ダメよ、ダメ……」  ドサッと投げ出す感じで席に座ると、奥村由香利はバッグを胸に抱え、リクライニングシートを倒して目を閉じた。そして、絶望感に満ちたため息をついた。 「何を言ってもムダ」 「高沢さんはどんなことを」 「あなたにはぼくをコントロールできないとか、連続殺人はどうにも止まらないとか」 「それから?」 「なんだか私も興奮してよく覚えていないわ。……ああ、そうだ、いまはどこを走ってるのかときいてきたわね」 「で、答えたんですか、由香利さんは」 「答えたわよ。名古屋を出て京都に向かっていると」 「それ、まずかったですね」  成田は、日焼けした顔をしかめた。 「どうして?」  閉じていた目を開いて、由香利は隣の成田を見た。 「こっちのタイムスケジュールがぜんぶ読まれてしまうからですよ。高沢さんとしては、ぼくらが着くまでどれくらいの時間的余裕があるのか計算できてしまいます」 「ああ、そうね。……ごめん」  由香利は謝った。 「私、成田君がいっしょだということだけは隠しておこうと思って、そっちにばかり気を取られてしまって」 「ま、仕方ないです」 「それで、私たちは何時に向こうに着きそうなの。関口葉月のおばあちゃんの家に」 「真夜中近くですね。ただし、すべてが順調にいけば、ですけど」  成田は、ポケット版の時刻表を取りだして、それを開きながら由香利に説明した。 「いま乗っている『のぞみ』は、これです。あと二十分ぐらいで京都です。16時10分着ですから。そして新大阪16時26分、岡山着が17時08分、あと広島と小倉に停まって終点の博多に着くのが18時45分です。そこから鹿児島本線の特急に乗り換えるんですが、タッチの差で一本前の『つばめ23号』をつかまえられないから、五十分の乗り換え待ちで『つばめ25号』に乗ることになります。これが19時35分発です」 「五十分待ち? 乗り換えでそんなに時間をムダにするの」  由香利は、抱えたバッグの上に載せた手の指をイライラと交互に動かした。 「ほかに早いコースはないの」 「残念ながらありません。でも、台風が接近中なんですから、むしろ五十分の余裕だって確保できるかどうかわかりませんよ」  と言って、成田は窓の外に目をやった。  相変わらず空には黒雲が低い位置に垂れ込め、雨も降りつづいていたが、それでも新幹線が岐阜県から滋賀県へと入っていくと、雨風はやや弱まっていた。アベック台風のひとつは九州南部に、もうひとつは関東から東海地方に豪雨と強風をもたらしていたが、その間にはさまった近畿地方から中国地方は、いまのところ大きな荒れ模様にはなっていなかった。 「この程度の崩れ方ですんでくれればいいんですけど、そうはいかないはずですから」 「で、最終目的の駅に着くのは?」 「鹿児島のひとつ手前の特急停車駅が伊集院《いじゆういん》で23時04分着。そこで降りて、薩摩《さつま》半島の背骨になっている山あいのほうへ入っていきます」 「車の手配は」 「地元のタクシー会社になんとか話をつけましたよ」  成田は、自分のケータイを由香利に示して言った。 「台風の取材だという名目にしたら、めいっぱいビビられましたけど、そこはギャラをはずむことで解決です。多少到着が遅れても待っているようにと言っておきました」 「あとで精算できなくても知らないわよ」  由香利は言った。 「高沢さんが言っていたとおり、私たちは無断出張なんだから」 「ですね」  うなずいてから、成田は低い声でつぶやいた。 「もし万一のことがあっても、社の誰《だれ》にもわからないということですね」 「え?」  由香利が問い返したが、成田は何も答えず、外を流れる灰色の風景に目をやった。       *     *     *  それはもしかしたら神からのメッセージかもしれない、と関口麗子は感じた。  葉月を年老いた姑《しゆうとめ》といっしょに置いている田舎《いなか》の一軒家は、洪水と土砂崩れの両方に弱い土地に建っている。そこへ、並みはずれて強力な台風が接近中——そのことに関して、いつになく不安な胸騒ぎが収まらず、とにかく一刻も早く撮影の仕事が終わることを願っていたとき、思いもよらぬ知らせが飛び込んできた。  麗子の相手役となっているベテランの大物男優が、京都から大阪の撮影スタジオへとマネージャーの運転するベンツで土砂降りの高速道路を走行中、玉突き事故に巻き込まれてケガを負ったというのだ。ケガの程度は軽かったが、監督の判断できょうの撮影は急遽《きゆうきよ》中止になった。  そのとき麗子は思ったのだ。これは、すぐに娘のもとへ駆けつけろという神の警告だ、と。  そして彼女は前夫の石沢に、急遽鹿児島へ向かえることになったことを連絡しようとした。が、彼のケータイは何度呼び出してもつながらなかった。話し中ではなく、電源が入っていないか電波の届かないところにいる、というメッセージが流れてくるのだ。 (あれだけ電源は入れっぱなしにしてと念押ししたのに)  麗子は心の中で文句をつぶやきながらケータイを切った。  ケータイがダメなら会社の通常の電話に、とも思ったが、ダイヤルインでも石沢本人に代わって秘書的な女の子が取ることが多いので、それはためらった。有名人である関口麗子は、私生活の姿をむやみに他人に見せたくなかったのだ。  そこで麗子は、葉月に直接連絡を取ろうとして、娘のケータイにかけてみた。ところが、なぜか同じように、電源が入っていないというメッセージが流れる。 (もう、こういうときにかぎって葉月までスイッチを切ってるなんて)  そのとき麗子は、姑の実家の電話番号の控えを持っていなかった。けっきょく夫とも娘ともじかに話ができないまま、麗子はマネージャーに前夫への伝言だけ託して、新幹線の『のぞみ』号に新大阪駅からひとりで乗り込んだ。  午後四時二十六分にホームに滑り込んできたそれは、夕刊ニッポン記者の奥村由香利と成田誠が乗っている列車だった。       *     *     * 「おかしいな、なんでつながらないんだ」  石沢は不満げにつぶやきながら、自分のケータイを見つめた。  たったいま、麗子のマネージャーから石沢のケータイに連絡が入って、きょうの撮影が突然中止になったので麗子さんは急遽鹿児島へ向かわれました、と教えられた。さらにマネージャーは、麗子さんからの伝言です、と断ったうえで、ケータイの電源は絶対に切らないでとの念押しをもらった。  しかし、石沢はずっとケータイの電源をONにしたままで決して切ってはいなかった。だからいまだってマネージャーからの連絡をすぐ受けられたのだ。逆に、石沢のほうから麗子のケータイにかけようとすると、電源が入っていないか電波の届かないところに、というメッセージが聞こえてくる。 「どうなってるんだよ、麗子。おまえのほうこそ電源切るなってば」  ケータイに向かって文句を言ってから、こんどは石沢は鹿児島の実家に避難中の葉月のケータイにかけてみた。するとやはり同じメッセージが返ってきてつながらない。そこで石沢は、実家の一般加入電話のほうにかけてみた。こんどはつながった。 「おい葉月、いまケータイの電源切ってたか」 「ううん、ずっとつけてるよ」  父親の質問に葉月は答えた。 「ほんとか。おかしいな。……ま、いいや。いまそっちの状況はどうなんだ。台風は」 「雨がすごいの。おばあちゃんち、トタン屋根でしょう。だからバケツの底|叩《たた》いているみたいなすごい音がして、こわい」 「役場のほうから避難命令は出ていないのか」 「それはまだみたい」 「おばあちゃんが耳が遠いし足も不自由だからな、葉月も大変だろうが、いざというときは頼むぞ」 「うん」  と答える葉月の声は、どこか心細げである。  そこで石沢は励ますように言った。 「いま、ママがそっちに向かってるからな」 「ほんと?」  葉月の声が急に明るくなった。 「撮影があるからずっとダメだと思ってた。何時にこっちにくるの」 「マネージャーから聞いたところによると、伊集院駅に夜の11時16分に着く『つばめ25号』だそうだ。そこからタクシーで……天気も悪いから三十分以上はかかるかな」 「わかった」 「ママからはそっちに電話がないのか」 「ないよ」 「ヘンだなあ。なんかケータイのつながりがよくないみたいなんだよ。台風のせいかもしれないが。……でも、電話線が切れたら、ケータイだけが頼りだからな。くれぐれも電源だけは入れておけよ」 「はい」 「充電器は持っていってるのか」 「うん」 「パパもできればすぐにおまえのところへ行きたいんだが……」 「仕事でしょ」  先回りして葉月に言われ、石沢はバツの悪い思いをしながら「ああ」と答えた。  離婚に際して葉月が父親と別れて暮らすことについてとくに悲しがらなかったのも、仕事優先主義できた自分とのコミュニケーション不足だということがよくわかっていた。 「とにかく、都合がつきしだい鹿児島に向かうから」 「あんまし期待しないで待ってる」 「………」  葉月の声は笑っていたが、しかし淋《さび》しげな笑いだった。  それで石沢は娘と話すことがなくなった。 「じゃあな、おばあちゃんを頼むぞ」  なんだか祖母の看病を頼んだような格好になってしまったな、と申し訳なく思いながらも、石沢は父親としてありきたりの言葉しか投げかけられないまま電話を切った。 (それにしてもヘンだぞ、ケータイの調子が)  石沢は、通話を終えた自分のケータイをじっと見つめた。  が、そのときの石沢は、携帯電話が意志をもって反逆しはじめた[#「携帯電話が意志をもって反逆しはじめた」に傍点]ことに気がついていなかった。       *     *     * 「部長……それはほんとうなんですか」  愕然《がくぜん》としたまま、小山内五郎はそのあとの言葉が継げなかった。  警視庁で思いもかけぬ人物——上司の蔵前賀寿雄部長とバッタリ顔を合わせた小山内は、会合があるといって社を出たままだった蔵前が、じつは重大な用件で警視庁から呼び出しを受けていたことを聞かされた。例のケータイ連続殺人に関する話である。そしてその内容は驚愕《きようがく》の一語だった。 「やっぱり……ほんとうに……ウチの社から……犯人が……」 「まだ犯人だと決まったわけじゃない。しかし、限りなくクロに近い目撃情報が寄せられていたんだ」  血の気の引いた顔を歪《ゆが》めて蔵前は言った。 「殺人現場で見られていたんだよ、ウチの人間が。第七の殺人現場でな。いままで一連の事件に関して目撃情報はまったくなかったが、七つ目にきて、ついに有力な証言が出てきたんだ」 「ちょっと待ってください、部長。なぜあいつだと……」  小山内は、蔵前から聞かされた実名を、あえて口にすることを避けて言った。 「なぜあいつだと特定できたんです」 「なぜかって?」  蔵前は小山内をじっと見つめて言った。 「目撃者が、その人物をよく知っている人間だったんだよ」 「誰です」 「………」 「部長なんですか、目撃者というのは」 「おれじゃない。おれだったら、警察に聞かされる前にとっくに直接本人をつかまえて問いただしているさ。やったのか、おまえが、とな」 「じゃあ」 「小山内、目撃者が誰であろうと、いまはそれを詮索《せんさく》せんでくれ」  蔵前は厳しい声で言った。 「そしてこの件は、きょうのところはおまえだけの腹に収めておくんだ」 「……わかりました」  これまで取材合戦で先頭を走っていたつもりが、むしろ捜査陣は夕刊ニッポン記者である小山内に情報を与えることを避けていたのだと知って、警視庁担当の彼は呆然《ぼうぜん》となっていた。 「警察も、容疑者の直属の上司としておれに事情聴取をかけてきたんだが、まだ社内ではオフィシャルの話にするな、というんだ。役員や社長にすら話を上げるな、とね」  蔵前は肩をすくめた。 「たしかに役員から社長というラインを通せば、必ず話は外に洩《も》れる。どこの会社でもそうだが、企業秘密をいちばん洩らしたがるおしゃべりは役員の中にいるものだからな。そしていったん話が洩れたら、夕刊ニッポンは新聞発行業務ができなくなるような大騒動に追い込まれる」 「だけど、こんな大ごとをそう何日も隠せないでしょう」 「わかってるよ」 「で、どうするんですか、これから」  喉《のど》の奥がカラカラに渇いてくるのを覚えながら、小山内はきいた。 「いったい我々はどうすればいいんです」 「さあな……少なくとも、おれにとっては、台風どころの騒ぎじゃない、ってことだ」  蔵前は、警視庁の窓から荒れ狂う都心の風景に目をやった。そして、低く圧し殺した声でつぶやいた。 「じつは、おれはついさっき辞表を書いた。警視庁の封筒と警視庁の便箋《びんせん》を借りてな。まったく警視庁で辞表を書くなんてシャレにもならんが」 「ほんとですか」 「ここにしまってある」  蔵前は自分の背広の胸をそっと叩《たた》いた。 「それは早すぎますよ、部長。まだいまの段階では、あいつが犯行現場近くで見られただけでしょう」 「ただ見られただけじゃない。右手を赤く血に染めて、指先から血が滴っているところまでハッキリと見られている」 「え……」  小山内は、言葉を呑《の》んで蔵前を見つめるよりなかった. 「ただ、目撃者がひとりだけなので、その情報を頭から信じてよいものかどうかは警察も疑っている。それでおれが呼び出しを受けたわけだ」  蔵前が事情を語り終えると、ふたりの間にしばらく沈黙がつづいた。  やがて、小山内五郎の脳裏にふとよぎった場面があった。その映像は二カ月あまりもの間、記憶の底に眠っていたものだったが、それが突然浮上してきたのだ。 「部長」  蔵前の腕をつかんで、小山内は言った。 「部長が最初に企画会議でケータイの問題点を持ち出したとき、高沢のやつがケータイとは情報端末生命体だとか、地球はケータイに乗っ取られるとか、ワケのわからないセリフを連発しましたよね」 「ああ」 「そのとき、興奮気味の高沢は自分のケータイを取りだして説明しようとして、間違って女の子の持ち物みたいなケータイを引っぱり出したでしょう、ハイビスカスの花をあしらったストラップがついた」 「そういえば、そうだったな」 「あれは、いったい何だったんですかね。なぜ彼があんなものを持っていたんですかね。娘もいない独身者なのに.恋人もいそうにない変わり者なのに」 「………」  自分をじっと見返す上司の部長に向かって、小山内は言った。 「もしかしてあれは、犠牲者の呼び出しに使われたケータイのひとつだったのでは」 「しかし、あの時点ではまだひとつも事件が起きていなかった」 「だから、第一の事件に使われたんですよ。最初の犠牲者を呼びだすために」 「でも高沢は……」  と、さらに反論しかけて、蔵前は言葉を途中で引っ込めた。 「よし、とにかく高沢をケータイでつかまえてくれ」 「つかまえられるものならとっくにやっています」  首を横に振りながら、小山内は言った。 「つながることはつながるけれど、すぐに留守番電話サービスに回されるんです。もちろんメッセージは入れましたが」 「居留守を使っているんだろう。じゃあ由香利だ、由香利を大至急こっちに向かわせてくれ。それと……成田もだ。台風の被害取材で出ているんだったら、すぐに呼び戻せ」 「私もさっきから彼らには連絡をとろうとしているんですが、こっちもケータイがつながらないんです。ふたりとも電源を切っているらしくて」  ケータイの反乱という異常事態の勃発《ぼつぱつ》にはまったく気づかず、小山内は理解できないという顔で言い添えた。 「ほかの連中は呼び出せるんですけど、由香利と誠のケータイはぜんぜん出ないんです」 「行き先は」 「まったくわかっていません。ただ、この嵐《あらし》の中、ふたりいっしょに血相変えて社を飛び出していったところは見られていますが」 「成田が、由香利といっしょに動いているのか」  蔵前が、驚いてきき返した。 「まずいじゃないか、それは」 「はい」  小山内は唇を噛《か》んだ。 「私もそう思います」       *     *     *  蔵前と小山内が警視庁の一角で深刻な表情で顔を突き合わせていたとき、篠突《しのつ》く雨の中を警視庁にタクシーで乗りつけた人物がいた。高沢公生の母、節子だった。 (もうすべてを話さなければ)  悲痛な覚悟を決めて、節子は警視庁にやってきた。 (息子が持っていたケータイのことを、すべて警察の人に話してしまわなければ.次々に殺されていった女の子たちの名前が、公生が持っていたあのケータイにぜんぶ記録されていたんです、と……) 「お客さん、すみませんけど早く降りてくれないと、車の中に雨が吹き込んでくるんですがね」  タクシー運転手に言われて、節子はハッと我に返った。 「あ、ごめんなさい」  気がつくと、運転手がいまにも舌打ちしそうな顔でこちらをふり返っていた。  フロントウィンドウのワイパーは、停車中にもかかわらずハイスピードで右に左にとあわただしく動いて雨を吹き飛ばしている。それでも滝のような流れで前方の視界が歪《ゆが》められていた。  高沢節子はあわてて傘《かさ》をつかむと、タクシーを降りた。が、あまりに強い横殴りの雨と風で、傘を差すことはまったくできなかった。警視庁の建物入口まではほんのわずかだったが、節子はあっというまに頭からずぶ濡《ぬ》れになった。  そのせいで、年老いた母が泣きじゃくっていることは、入口にレインコート姿で立つ警察官の目にはわからなかった。 [#改ページ]   十一 再 会 「どうしたの……ねえ、いったいどうしたの!」  頭のてっぺんから雨のしずくをポタポタと垂らしながら、水守千春は叫んだ。 「ママ、なにか言ってよ。なんとか答えてよ。説明してよ」  いつもは肌身離さずに持っているケータイを忘れたために、学校の公衆電話から何度も自宅に連絡を入れたが誰《だれ》も応答しないことに不安を覚えた千春は、不吉な予感に胸を高鳴らせながら、横浜市青葉区の自宅へ帰ってきた。  時刻は五時半過ぎだが、外は水銀灯の明かりに照らされる雨だけが目立つ暗黒世界だった。そして、築半年を過ぎたばかりの瀟洒《しようしや》な一戸建ても、いつもの輝きを失って黒い嵐の世界に溶け込んでいた。家にまったく明かりが点《つ》いていないのだ。  誰も応答しないので、千春は震える手で合鍵《あいかぎ》を使って玄関を開けた。  すると玄関口に父親の敦夫が背広姿のままうなだれて腰掛けており、そのそばに母親の悦子が茫然《ぼうぜん》自失のていでへたり込んでいるのが見えた。両親のその姿が、黒いシルエットとなって千春を迎えたのだ。 「パパ」  千春は、まるでいまから会社に出かけるように、靴も履いたままで玄関のところに腰を下ろしている父親に、おそるおそる声をかけた。 「パパ、なんでそんな格好のまま動かないの」  暗闇《くらやみ》の中でうつむきかげんに腰掛けている父親に、千春はかすれ声で呼びかけた。  だが、返事はない。  よく見ると、父親の背広は雨でぐっしょり濡れており、嵐の中を帰宅したばかりの千春と同じように、髪の毛の先から雨水を滴らせていた。そして、そのそばで尻餅《しりもち》をついている母の悦子も全身びしょ濡れで、前髪を額に貼《は》りつけていた。  そんな格好のまま、父と母は黒い彫像となって動かない。 「どうなってるの。どうしてパパもママも返事をしてくれないの!」  千春が叫んだとたん、玄関ドアがヒュウウウウという長い長いすすり泣きの声をあげた。強風がわずかな隙間《すきま》から室内に入り込もうともがく音である。 「もうやだ!」  千春はもういちど叫ぶと、玄関の照明スイッチに手を伸ばした。  目をしばたたかせなければならないほど、あたりは突然明るくなった。それでも、父と母は動かない。ふたりが全身ずぶ濡れ状態であることが、さらにはっきりと見てとれた。  そして千春は、玄関口に座り込んでいる母親のそばに、携帯電話が転がっているのを目にした。銀色のそれは見慣れた父親のものだったが、なぜかその携帯電話用のバッテリーが、本体に付いているのとは別に、もうひとつ脇《わき》に転がっていた。  裏向きになっているバッテリーパックは、小さな円の中にある赤いマークが変色していた。  大半のユーザーは気づかずに使っているが、携帯電話やPHSのバッテリーを取り外すと、電話機本体側には必ず、そして多くの場合バッテリー側にも、円形もしくは長方形にかたどられた赤いマークのシールが付いている。  これはケータイやPHSが水に濡れると変色するようになっており、故障のクレームがあったときに、ユーザーのミスで水に落としたかどうかを判別する目安となっている。水に落としたら、まず十中八九、本体のIC基板は助からない。電話機そのものがボツ、ということだ。したがって修理費用は膨大になるが、それをもともと機械の不良なのだとウソの抗議をユーザーにされないための予防措置である。  そのマークが変色した状態で取り外されているバッテリーに千春が目をやっていると、ようやく母親の悦子が口を開いた。 「バッテリー替えてみたけど……ダメなの」  うつろな目をしたまま、悦子はつぶやいた。 「新しいバッテリーに替えたんだけど」 「なに言ってるの、ママ」  なおさら不安を募らせた千春は、母親の手を取って揺すった。 「私がきいているのは、パパとママに何があったのか、ということなのよ。ケータイなんて関係ない」 「関係……あるのよ……千春」  悦子は、替えのバッテリーをとりつけた夫のケータイを手に取り、電源ボタンを押した。  だが、何も反応はない。 「こんな嵐だというのに、またパパがどこかへ行くと言い出して、背広に着替えて外に飛び出したので、あわててあとを追いかけたの。そしてパパにすがったら、ものすごい風にあおられてふたりとも転んでしまって、その拍子に、パパのポケットからケータイが飛び出して水たまりに落ちちゃった」 「だからどうしたっていうのよ」 「それでケータイがダメになったの」 「水に落としたら壊れるわよ」 「そしたらね、千春……そしたら……パパまでが動かなくなったの」 「ええっ?」 「ママ、パパのこと引きずって、やっと家の中まで連れ戻したけど、でもぜんぜん動かな いの。ケータイがダメになったら、パパも抜け殻みたいになっちゃった。パパはね、自分がケータイと合体したっていうの。ケータイに操られているんだって。そのケータイが壊れたからパパも壊れた」 「そんなバカなこと言わないで、おかしいんだったら救急車を呼んで」  そして千春は、うなだれたままの父親の顔を引き起こした。 「パパ、なんとか言って。パ……」  千春の声がそこで止まった。  そして、絹を引き裂くような悲鳴が彼女の口から洩《も》れた。  父親の水守敦夫は、白目をむいたままよだれを垂らし、不気味な笑いを浮かべていた。まったく声のない笑いを。       *     *     * 「千春、どうしてこんなときに出てくれないの」  親友が横浜でどういう状況に置かれているのか知らない関口葉月は、独り言をつぶやきながら、力なくケータイのスイッチを切った。  何度コールしても、水守千春のケータイ番号からは電源が入っていないというメッセージしか返ってこない。それだけでなく、母親のケータイにかけても同じメッセージが流れてくるだけだった。  祖母の家の茶の間に掛けられた古めかしい柱時計は、ついさっきボーン、ボーンと陰気な音で鐘を十鳴らしたところだった。  いまは夜の十時。台所の壁に貼ってある商店街の広告付きの鉄道時刻表で確かめると、母の麗子が乗っているはずの『つばめ25号』は、一時間以上も前に熊本を過ぎ、ついさきほど水俣《みなまた》の駅を出たところと思われた。伊集院駅到着まであとおよそ一時間.しかし、さらにそこから先、この山あいの集落までは、狭く曲がりくねった道を通って車で三十分以上かかるのだ。 (こんなひどい台風の中、ママはちゃんと車でこられるのかな)  そのことが不安で、葉月は何度も母親のケータイに連絡を入れたが、まったくつながらない。さらに、父親のケータイも応答がない。  そして、ためしに自分のケータイではなく祖母の家の黒電話からかけてみようとして、葉月は重大な事実に気づかされた。受話器を持ち上げても、ウンともスンとも言わなくなっているのだ。 (電話線が切れたんだ……)  葉月は、昼間祖母が不安げにつぶやいていた言葉を思い出した。電話線が切れなきゃいいねえ、という言葉を。  祖母の家は、山あいの集落のいちばん奥に孤立して建っていた。崖《がけ》が間近に迫っているため、好きこのんでこの周りに家を建てる人間が他にいなかったのだ。一軒だけ離れた場所に建つその家まで引かれた電話線の途中には、朽《く》ち果てていまにも倒れそうな樹木が数本頼りなげに立っていた。その木が嵐《あらし》で吹き倒されたら、電話線を引っかけて切ってしまうかもしれない。祖母の心配が現実のものとなったおそれがあった。  葉月は他の家に様子を聞きに行きたかったが、隣の家といっても五百メートルも先にある。猛烈な雨と風の中、満足な街灯もない山道を往復する勇気は葉月にはなかった。  雨音は耳を聾《ろう》するばかりとなり、風の唸《うな》りは猛獣の咆哮《ほうこう》にも似ていた。さらに、家の周りの地面を傾斜に沿って走る雨水の流れは、滝の音と聞き間違えるほどすさまじいものになっていた。それが葉月はいちばん不安だった。地表を流れる雨水よりもっと多くが地面に吸い込まれ、家の裏手にある小高い丘の地下水脈をパンク寸前にまで膨張させている状況が想像できたからである。  できれば祖母を連れて逃げ出したかったが、その祖母は奥にある部屋でもう眠りについていた。耳の遠い祖母にとっては、こんな嵐も眠ってしまえば関係がないらしい。  おかげで、ひとりぼっちで起きている葉月の不安感は募った。電話線が切れただけでなく、なぜかケータイがうまく機能せずに、両親や親友の千春とも連絡がとれないことも孤独と不安を増す要因となっていた。 (ママがきたら、そのタクシーにおばあちゃんも乗せて、町へ逃げよう)  葉月は決めていた。 (おねがい、ママ、早くきて)  そのとき、いままで使い物にならなかった葉月のケータイが突然鳴り出した。  葉月はすぐにそれに飛びついた。  液晶パネルを見た。  ところが、発信者番号の通知とともに現れた名前は、葉月にとって見慣れぬ名前だった。  フルサワ タマエ (誰《だれ》だろう、これ)  疑問に思いながら、関口葉月は、自分が登録した覚えのない名前がケータイの液晶パネルに浮かび上がってきたことを不思議に思った。  発信番号の通知とともに名前が表示されるのは、その名前を自分のほうでケータイにメモリーしておいた場合だけだ。名前付きでケータイにメモリーしておいた番号と、着信した番号とが一致したときのみ、登録済みの名前が液晶パネルに出てくる。  したがって、『フルサワ タマエ』という名前を自分で入力した覚えもないのに、それが液晶パネルに浮かび上がってくることじたい、本来ならばありえないことなのだ。  じっくり考えれば不気味な話だったが、暴風雨吹き荒れる中、どこともケータイがつながらなくて孤独な不安に陥っていたところだったから、葉月はかすかな疑問を抱きながらもその電話に出ることにした。 「はい、もしもし」  電話を受けたとき、自分の名前をいちいち名乗らないのは、ケータイでの応答の基本的な習慣である。すると、向こうのほうから問いかけてきた。 「あんた、葉月ね」  ずいぶん馴《な》れ馴《な》れしく、しかも敵意を含んだ声だった。年齢的には、葉月と同じ高校生か、さもなければちょっと下の中学生といった感じである。 「覚えてる? あたし、古沢玉恵」 「え、誰ですか」 「古沢玉恵よ」  相手は自分の名前がどういう字を書くのかを説明した。が、それでも葉月には心当たりがなかった。 「すみませんけど、間違い電話じゃありませんか」  やっぱりそんな名前をケータイに登録した覚えはないのに、と奇妙な思いを抱きつつ、葉月は問い返した。 「私の知ってる人で、そういう名前の人はいませんけど」 「いるわよ……っていうか、いたわよ、だよね」  相手は過去形で言い直した。 「葉月、記憶をたぐっていってごらんよ。あんたの人生の片隅に、ちゃんとあたしがいたんだから」 「でも、ほんとうに記憶がないんですけど」 「あるわよ」 「どこで」 「いまから十年前」 「十年前?」 「小学校一年のとき」 「同じクラスだった、っていうの? あなたと」 「そう」 「やっぱり間違いよ。古沢玉恵っていう子といっしょだった記憶はないもん」 「あれだけいじめておいて、よく言うよ」 「いじめた?」 「そう。千春と由佳といっしょにね」 「………」  小学校からいまに至るまで、ずっといっしょに過ごしてきたふたりの親友の名前が突然出てきて、葉月は息を呑《の》んだ。 「あんたたち、そんなにあたしをいじめて面白《おもしろ》かった?」 「絶対間違い、人違いよ」  葉月は言い張った。 「小学校のときは三年間クラス替えがなかったけど、私、古沢玉恵なんて子は知らないもの」 「あれだけいじめておいて、人が転校してしまうとかんたんに忘れちゃうわけね。サイテーに無神経で無責任」 「転校?」 「そう。あたし、あんたたち三人のイジメに耐えられなくなって、たった三カ月で教室から追い出された。あんたたちがいる学校をやめて、別の学校に代わった」  そこまで言われたとき、葉月の大脳の深くて暗い記憶の湖に沈んでいた過去のデータに一筋の光が当たった。 (そういえば……)  関口葉月は思い出しはじめた。 (千春と由佳と私の三人で、いつも仲間はずれにしていた子がいた……気がする) 「あたしはあんたたちと同じ通学路だったけれど、あんたたちはあたしの何が気に入らないのか、バイキン、バイキン、タマちゃんバイキンとからかって、毎朝登校のときに私だけをのけものにして列に加えなかった」  ケータイから聞こえてくる非難の声が、埋没していた古沢玉恵に関する記憶のかけらをつかみあげ、それをゆっくりと大脳の表面へ浮上させはじめていた。 「給食の時間、好き嫌いの多かったあたしがおかずを残すと、あんたたちは大声で騒ぎ立てたわ。ターマちゃんがのーこした。いーけないんだ、いけないんだ」  その節回《ふしまわ》しは、間違いなく耳にした記憶があった。小学校一年生のときの情景がゆっくりと思い浮かんできた。クラスでいつもいっしょにいた水守千春、山之井由佳、そして葉月自身の幼い姿が見えてくる。  その一方で、古沢玉恵という少女のイメージはなかなか復元されない。『顔のない子』として、身体だけが出てきて、顔はのっぺらぼうである。それほど印象の薄い子だった。 「どんなイジメでもそうだけど」  古沢玉恵の声は語りつづけた。 「いじめた側が想像しているより百倍も千倍も深く、いじめられた側は傷ついている。そして、いじめた側がそのことを覚えている百万倍も一千万倍も長く、いじめられた側は辛《つら》い思いを心に刻みつづけている。だからあたしは、あんたが軽く忘れたことをずっと忘れず、根に持ってきた」  ゾクッとするほど玉恵の声は怨念《おんねん》に満ちていた。 「あんたや千春や由佳にとっては、あたしの存在は記憶のかけらにも残っていないほどのゴミみたいなもの.でも、あたしにとっては一生背負いつづける心の傷を与えてくれた憎いやつら。  山之井由佳なんて、いまでこそ優等生でよい子の代表みたいな顔してるけど、あたしが給食のおかずを残したとき、真っ先に見つけて先生に言いつけると大声で騒ぎはじめるのが、いつも由佳。  水守千春なんて、いまでこそバレーボールに打ち込んでいるさわやかスポーツ少女って顔してるけど、毎朝学枚へ行くときに、あたしをのけものにすることを考え出したのが千春。家がいちばん近かったくせに、朝、いちどもあたしを誘いにこなかった。  関口葉月なんて、いまでこそスターの母親を真似《まね》して明るい女の子みたいにふるまっているけれど、バイキン、バイキン、タマちゃんバイキン、って陰険なイジメの大合唱のリーダーになっていたのが葉月。あのころから、あんた、歌だけはうまかった。とくにイジメの歌を歌うのがね」 「古沢さん……」  葉月は背筋が冷たくなってゆくのを感じながら、ともかく謝らなければと思った。 「もしも昔そういうことがあったら、私、謝るわ」 「もしも、じゃないのよ」  突き刺さるような口調で、玉恵は言い返した。 「実際にあったことを、仮の話みたいな言い方をしないで」 「……わかった.ごめんなさい」  そう答えながら葉月は、ケータイを押し当てている右の耳たぶが汗でぐっしょり濡《ぬ》れていることに気づき、ケータイを持ち替え、左の耳でつづきを聞くようにした。 「あんたたちのイジメで、最初の小学校を追い出されて以来……」  玉恵はつづけた。 「あたしは転校する学校、転校する学校で、いじめられつづけた。学校だけじゃない。近所の子供にも、塾の仲間にも、いろんなところでいじめられつづけた。あたし、だんだんわかってきた。葉月たちが言っていたように、あたしはほんとにバイキンに冒されているんだ、って。あたしを見るといじめたくなるようなバイキンがあたしに取り憑《つ》いて、みんなの意地悪な心をかきたててイジメに走らせるんだ、って。その証拠に、あたしから離れると、みんないい子になる。みんなやさしい子に戻ってしまう。由佳も千春も葉月も、ほかの女の子たちもみんなそう。あたしの前でだけ意地悪な子になる。いまの山之井由佳を見たら、誰《だれ》が陰気な意地悪娘だと思う? 信じっこないよね」 「ねえ、古沢さん」  葉月はおずおずとたずねた。 「あなた、どこかで私たちのこと見てるの?」 「見てるよ」  感情のない声で、玉恵は答えた。 「あたしをいじめたやつらは、ずっと覚えている。何があっても忘れない。絶対に目を離さないから」 「じゃあ、知ってるでしょう。由佳は……山之井さんは殺されたこと」 「知ってるよ。だって、由佳はあたしが殺したから」 「うそ!」  葉月は、自分の耳を疑った。あまりにもスラッとその言葉が出てきたからだ。 「殺したよ、由佳は」  古沢玉恵が繰り返した。 「うそ! だって……」 「だって、なによ」 「あのとき犯人は私のケータイに電話をかけてきて、由佳が殺されるところを私に聞かせたのよ。いたい、いたい、っていう悲鳴を」  由佳の悲鳴を思い出したとたん、少しふさがりかけていた葉月の心の傷が、またパックリと赤い口を開けた。  心臓がバクッ、バクバクと不規則な鼓動をはじめ、全身から冷たい汗が噴き出してきた。ケータイを握る手が小刻みに震え出した。そして、外で吹き荒れる暴風雨の咆哮《ほうこう》が、耳をつんざくまでに葉月を圧倒してきた。  そして鼓膜に古沢玉恵の声が響く。 「だからさあ、由佳はあたしが殺したんだってば。ほら、これ、覚えてるでしょ」  ド・ミ・ソ・ド、と口笛のメロディが鳴り響いた。 「………!」  葉月は目を見開いた。 (ほんものだ!)  忘れようにも忘れられないあのメロディ。他の人間が真似したって、それはニセモノだとわかる、単調だが特徴のある口笛の吹き方。まちがいなくそれは、あのとき聞いたものだった。 「どう? ちょーショック?」  玉恵は、ふふふと笑った。 「ほんとに、あなたが?」 「そうだよ」 「じゃ、ほかの殺人事件もぜんぶ……」 「あ・た・し」 「七人、ぜんぶ?」 「あ・た・し。グサッ、グサグサッ。血がビュー、ドバーッ」 「やめて!」 「だってほんとのことなんだから、しょうがないじゃん」 「うそよ、うそうそ!」 「葉月、あんたさー、何回うそ、うそ、って言ったら気がすむんだよ。あたしはうそなんかついてないからね」  玉恵の声に激しい怒りがまじった。 「七人殺したといったって、あたしにとっては、まだ復讐《ふくしゆう》はほんのはじまりにすぎない。だって、あたしの短い人生で、あたしをいじめたやつは百人近くいるんだから」  葉月は、玉恵の言葉の中に含まれた奇妙な言い回しに気づく余裕がなかった。『あたしの短い人生』という言い回しに。 「イジメをするやつらは、ほんとは弱虫。だから決してひとりではあたしをいじめられない。いつも二人か三人か、それ以上のグループでいじめにかかる」  玉恵はつづけた。 「だからあたしもセットで復讐する。ひとりは殺す。ひとりは友だちが殺されるところをケータイで聞かせて心をめちゃくちゃにしてやる。生殺《なまごろ》しってやつかなあ」  怒りの中に、楽しそうな笑いがまじった。 「おたくたちの場合は、由佳を殺して、そのときの状況を葉月に聞かせたわけ。そして千春はそれとは別に、お父さんを代わりにいじめてみた」 「千春のお父さんが病気になったのも、あなたがやったことだっていうの?」 「そうだよ。でも、あれは病気じゃない。あたしがケータイを使って脳味噌《のうみそ》をかき回してやっただけ。だから千春のお父さん、白目むいてぶっ倒れた。千春の心の中にイジメっ子の要素が隠されているのは父親からの遺伝。だから復讐してやった。あそこのお父さんは差別主義者だからね。そのことは葉月だって知ってるでしょ。あんただって、芸能人の娘だってことで差別されていたんだもんね。あそこの家はね、そうやって肩書きで人を差別するんだ。千春だって、将来子供を産んでお母さんになったら、きっと同じように、子供の友だちを差別するおとなになる」 「なんであなたがそんなことまで知っているのよ。小学校一年の最初のときにいっしょだっただけで」 「だから言ったでしょう。あたしはずっとあんたたちを監視している、って。ケータイの電波に乗ってあんたの頭の中にまでしょっちゅう入り込んでいるんだから、なんでもわかっちゃうのよ」 「ヘンなこと言わないで!」  恐怖のあまり、葉月は叫んだ。 「それじゃ、千春のお父さんが言ってることと同じじゃない」 「そうだよ。あそこのお父さんは頭がおかしくなったんじゃないの。ほんとうのことを言っているだけ。それをあんたたちが信じようとしないだけ」 「信じられるわけないじゃん」 「だったら、どうしてあたしがあんたのケータイ番号知ってると思う? それだけじゃない、どうしてこの電話を受けたときに、あたしの名前が液晶パネルに出たの? あんた、自分で登録した覚えはないでしょ」 「………」 「それはね、あたしが電波に乗ってそっちのケータイまで行ったからよ。間違えないでね、葉月。あたしはどこか遠くから電話をかけているんじゃない。いまは、あんたのケータイの中にいる。ケータイをよく見てごらん」  そう言われて、葉月はケータイを耳から離して目の前にもってきた。  キャッ、と葉月は小さな悲鳴をあげた。  グリーンの液晶パネルに、明らかに小学生と思われる少女の笑顔が、写真のような鮮やかさで浮かんでいた。もちろん、葉月が持っているケータイには、そんな機能はない。  しかもその画像は動き出した。 「あはは、こんにちは、葉月。十年ぶりだね」  液晶パネルの中の少女が、口を動かして語りかけてきた。  葉月は凍りついた。 「あのときのあたしは、こういう顔をしていたんだよ。思い出した?」  葉月のケータイにはスピーカー機能などないのに、耳を離しても声が聞こえてくる。ありえない現象が、次から次に起こった。 「葉月、さっきあんたはパパやママに電話をしようとした。それから千春にも。そうだよね。だけど、どこもつながらなかった。そうだよね」  液晶パネルの中の少女の問いかけに対して、葉月は反射的にうなずいた。葉月の動作は、相手が自分を見ているということを無意識のうちに認めているものだった。 「あれは、ぜんぶあたしが操作しているの。あたしに関するケータイ連絡網は、ぜんぶあたしがコントロールしているの」 「お願いだから……」  葉月は、左手に持ったケータイの中の少女に向かって訴えた。 「もうワケのわからないこと言わないで」 「しょうがないよね、あんたの理解を超えていても。あんただけじゃなく、ケータイを持っている人間のほとんどが、自分の頭脳がケータイに半分乗っ取られていることを知らないんだから、あたしの言うことを理解できないのも無理はないわ」  ホログラムのような揺らぎを見せながら、液晶パネルの中の少女は語りつづけた。 「世の中の人間は、コンピューターの発達ばかりに目を向けていて、その陰でケータイが自分勝手にものすごい進化を遂げていることに気づいていない。ねえ、よく考えてごらん、葉月、あんたコンピューター持ってる?」 「持ってる」  葉月は、少女を見つめながら答えた。 「B5サイズのノートパソコン」 「それを頭に近づけたことある?」 「え?」 「パソコンを、自分の頭に近づけたこと、ある?」 「なんでそんなことしなくちゃいけないの」 「だよね。するわけないよね。じゃ、ケータイは?」 「いつも……」  葉月は、空いているほうの手を無意識に自分の耳元へもっていった。 「いつも耳に当てている。頭にくっつけてる」 「だよね。みんな忘れているんだ。ケータイのように、いつも頭にくっつけている機械なんて、ほかにない。そのことをね」  少女の言葉を聞きながら、葉月は耳に当てた片手をゆっくりと頭から離した。 「人間の頭にぴったり押し当てられたケータイは、そこで人間の脳波をキャッチして、自分の中にデータとして取り込む。そしてケータイは、自分が発信する電波を使って、逆にその人間の脳の中に入り込んでいく。そういうやりとりが、人間の知らないうちに毎日行なわれる。ケータイを使えば使うほど、人間の大脳とケータイは同調していくのよ。だから、ひと月で四万円も五万円もケータイの電話料金を親に払わせているような子は、みんな知らないうちに、自分の脳味噌とケータイとがくっついて離れなくなっている。ケータイの奴隷になっている。アルコール中毒の人間が、お酒が切れると禁断症状を起こすように、ケータイをかけずにいると、気持ちが不安定になってどうしようもなくなる。  ほんとだよ、葉月。いま、日本中のケータイっ子からケータイを取り上げてごらん。みんなイライラしはじめて、怒《おこ》りっぽくなったり涙もろくなって情緒不安定になる。孤独に耐えられなくなる。そして、いままで自分たちがケータイが作りあげたヴァーチャルな世界にいかにだまされてきたことを知る」 「ケータイが作りあげたヴァーチャルな世界?」 「仮想現実ってこと、難しく言えばね」  小学校一年の顔をした緑色の少女が言った。 「いまの子は、ケータイで友だちとつながっていると思い込んでる。ケータイさえあれば、どこでも自分はひとりぼっちじゃないと思い込んでいる。ほんとうは恐ろしいくらいにひとりぼっちなのに。たとえばあんた」  いきなり、液晶パネルの中の少女が葉月に向かって人差指を突きつけてきた。 「あんたはいま、鹿児島のおばあちゃんの家で、足と耳が不自由なおばあちゃんとふたりきりでいる」 「どうして私の居場所がわかるの?」 「だから何度も言ってるでしょう。あたしはそこにいるんだから。あんたが手に持っているケータイの中に」 「………」 「そしてあんたは、嵐《あらし》の中の孤独をかき消そうとして、ケータイでいろんなところに電話をかけようとする。だけど、あたしがブロックして通信させないから、かりそめのにぎやかさも体験できない。都会にいる親や友だちと話せれば、自分がどんな山の中にいても都会にいる気分になれる。そうやってケータイっ子は、自分の現実をごまかしながら生きている。でも、それができなくなると、どうしようもない孤独と不安に震え出す」 「ねえ、古沢さん」  葉月は、どこまでが夢でどこまでが現実なのか、まったく区別がつかない状況に追い込まれながら、液晶パネルの少女に向かって問いかけた。 「ほんとにあなたはどこから電話しているの。教えて」 「何度同じことを言わせるの。これは電話じゃないの。あなたのケータイに入り込んだあたしが、しゃべっている」 「そんなこと、人間ができっこないじゃない」 「そうだよ。人間はできないよ」  小学生の顔をした古沢玉恵は、平然と答えた。 「だけどあたしは人間じゃないから」 「人間じゃない?」 「あたしには実体がない」 「なに、それ」 「そうか、葉月はまだ知らないんだ。あたしが自殺したってこと」 「自殺?」 「そうだよ。あたしの人生って、どこへ行ってもいじめられる運命だった。それでも十五年はガマンしてがんばって生きてきた。でも、もう限界。十六年目には入れなかった。だからあたし、ことしの四月、高校の入学式の日に自殺した。ひとりで遠くまで電車に乗って出かけて、誰《だれ》もいない広い原っぱの真ん中にポツンと一本立っている木にロープをかけて……死んじゃった」 「うそ……」 「また、うそって言った」 「だって」 「葉月、あんたたちは、うその世界をほんとと信じ、ほんとの世界をうそと決めつけているんだよ」 「だって、あなたが四月に自殺したなら、どうして七月に由佳を殺せるのよ。どうして九月のいま、私に電話してこられるのよ」 「何回繰り返させるの。バッカじゃない、葉月って。あんたとしゃべっているのは電話じゃない。ケータイの回路の中に、あたしの魂が入り込んでるだけ」 「じゃ、由佳を殺したのは」 「実体のない魂が、人を刺し殺すことはできない。だから現実に生きている人の身体を借りて行なった」 「どういうこと……」 「いま言ったように、あたしは四月に首を吊《つ》った。警察がくるまで、あたしは死んだまま、ぶーらりぶらり、その木の枝で揺れていた。首を吊ったのは朝なのに、昼になっても、お日さまが傾いてきても、誰も気づかなかった。周りの景色ぜんぶが夕焼け色に染められるころになっても、首を吊った私は、ひとりぼっちで揺れていた。こんなふうにね」  葉月のケータイの液晶パネルは、グリーンのバックライトで彩られている。ところが、その中でしゃべっていた小学生の女の子が突然消えたかと思うと、いきなり画面がグリーンからオレンジに変わった。そして、夕焼けの大草原が浮かび上がってきた。  広い野原のかなたに見える地平線に、オレンジ色の太陽がゆっくり沈んでいこうとしている。そして、黒いシルエットで浮かび上がる大きな木が一本。その枝には、てるてる坊主のような格好で首をくくってぶら下がっている女の子の姿があった。  それは小学生ではなく、一度も学校へ着ていくことのなかった女子高のセーラー服を身にまとった思春期の女の子——それがぶらぶら、ぶらぶらと風に揺れている。オレンジ色の風景の中で……。  葉月はさっきよりも大きな悲鳴をあげて、ケータイを畳の上に放り出した。だが、嵐の音すら気にせず奥の部屋で眠っている祖母には、葉月の悲鳴は届いていない。 「よーく見てごらん、葉月」  ケータイが呼びかけてきた。 「これがあんたたちにいじめられて、とうとう自分の命を絶ってしまった可哀相《かわいそう》なあたしの姿。あわれで、みじめな、どうしようもなく孤独なあたしの姿」  葉月の瞳《ひとみ》に、パニックが引き起こす涙が浮かんできた。  自分の目が見ている状況は、常識をはるかに超えたものだった。それが事実だと認められないなら、その代わりに自分の頭が狂ったことを認めなければならない。そのパラドックスに、葉月の精神が揺さぶられた。 「そして、もっとよーく見てごらん、葉月。あたしが首を吊っている、その真下の草むらを。そこにケータイが落ちているでしょう。プリクラをいっぱい貼《は》ったケータイが」  葉月が何もしないのに、オレンジ色の液晶パネルに写し出された風景が勝手にズームインをはじめて、草むらの一カ所をアップにした。  たしかにプリクラだらけのケータイが落ちていた。ストラップにはハイビスカスの花があしらってある。 「それはあたしが使っていたケータイ」  どこから聞こえてくるのかわからない声が解説をする。 「友だちになりたかったのに、友だちにしてくれなかった女の子たちの写真がいっぱい貼ってあるよ。葉月たちの写真も貼ってあるよ」  さらに画面がズームアップした。 「………!」  葉月は、叫び声もうめき声も出なかった。葉月を真ん中にして、千春と由佳が両脇《りようわき》に立ち、制服姿の三人がそろってピースサインを突きだして笑っている写真がそこにあった。  それをいつどこで撮ったのかという記憶は明確にあった。制服は高校のものではなく、中学のときのものだ。中三のとき、学校のそばのプリクラで撮った写真だった。アングルの中に三人がうまく入ろうとして、ぎゅうぎゅうと両側から押し合ったことも覚えている。  それがなぜ古沢玉恵のケータイに貼りつけられているのか。常識では考えられないことだったが、もう葉月には、そうした不可解な現象について「なぜ」という質問をする気力が残されていなかった。 「どう? あたしの言っていることを信じる気になった? 由佳はね、あたしの声に吸い寄せられるようにして、夜中出てきたの。十年前にいじめた女の子が、うちのすぐそばまできていて、絶対会いたいといえば、出てくるよね。ほかの子もみんなそうだった」 「ひとつだけ教えて」  あえぎながら葉月はきいた。 「あなたの魂が誰かの身体を借りて由佳たち七人を殺したというなら、その誰かって、誰なのよ」 「教えてあげようか。それはね、いまあたしのケータイを持ってる人」 「いま、あなたのケータイを持ってる人?」 「そう、ちょっとしたきっかけでその草むらに落ちているケータイを拾った人がいるの。あたしの呪《のろ》いが自分の脳味噌《のうみそ》に乗り移るとも知らないで、女の子のケータイを自分で使っちゃおうとした人」 「名前は」 「そんなこと、きく必要ないんじゃない」 「あるわよ」  額に汗をびっしり浮かべた葉月は叫んだ。 「必要あるわよ。私の友だちの由佳を殺したやつの名前を、私は知る権利があるわ」 「だから、殺したのはあたしだってば。殺すときの道具に使ったのが、その人間の身体」 「私はあなたなんか相手にしたくない。この世の中にちゃんと生きていて、実際に由佳をひどい目に遭《あ》わせた人間を知りたい」 「教える必要なんかないわ」 「あるって言ってるでしょう」 「ないわよ。だってね、あたしが教えなくたって、葉月はもうすぐその人間に直接会うことになるんだから」 「え……」 「近づいているよ。どんどん近づいている」  自殺した古沢玉恵の声が、歌うようにささやいた。 「大嵐《おおあらし》の中を、葉月のいる家にどんどん近づいているよ」 「……うそ」 「あ、またうそって言った」  ふふふ、と玉恵は笑った。 「あんたって、その言葉、好きねえ。うそって、すぐ口走る人ほどうそつきだって、葉月知ってた?」 「冗談はやめて」  畳の上に放り出したままのケータイに向かって、葉月は叫んだ。 「私、そんなおどしには乗らないわ。絶対に」 「ああ、そう。ま、いいけどね。でも、もうしばらくしたら、あたしの言っていたことがほんとだってわかるはず。それじゃ、お別れの前に……ほら、見て」  葉月が見つめる前で、ケータイの液晶パネルに写し出されていたケータイがズームアウトして、また広い野原の全景になった。  さきほどよりも太陽はぐんと地平線に近い位置まで落ちていて、オレンジ色がずいぶん暗くなっていた。そして、一本だけポツンと立っている木のシルエットも、格段に黒さを増していた。  その風景をいったんすべて写し出してから、また液晶パネルの映像はズームインしてきた。  こんどはケータイではなく、首を吊っている少女の顔に迫っていく。 (やだ……やだやだ、見ちゃダメ、見たらいけない)  そう思っても、葉月の目は液晶パネルから離れない。  てるてる坊主のように首を吊っている女の子にレンズがぐんぐん近寄っていき、そしてうなだれた横顔がアップになった。  しかし、その表情は垂れ落ちた髪の毛に隠されて見えない。  と——  突然、首を吊《つ》られていた女の子が、喉元《のどもと》深くロープを食い込ませたまま、葉月のほうにゆっくりと顔の向きを変えた。  唇の端から血を垂らした古沢玉恵が、葉月に向かってニッカーと笑いかけた。  同時に、柱時計がボーンとひとつ鳴って十時半を告げた。  外の暴風雨は、ますますその激しさを増してきている。 [#改ページ]   十二 殺人鬼がきた! 「これは台風のおかげ、と言えばいいんですかね」  伊集院駅から山あいの集落へと向かうタクシーの助手席に座る成田誠は、後部座席に奥村由香利と並んで座る、女優の関口麗子に向かって話しかけていた。 「あともう少しで終点の博多に着くというところで、なんということか大雨で一時間も足止めを食らってしまった。おかげで予定の『つばめ25号』に乗り継げなくて、本日最終の『つばめ27号』をつかまえるしかなくなった。急いでいるときにかぎって、と不運を罵《ののし》っていたら、なんと同じ新幹線にあなたも乗っていて、同じように『つばめ号』を一本乗り過ごした。そして、夜中の零時すぎに伊集院駅に着いてみたら、私たちが確保しておいたタクシー以外の車はすべて、この台風のせいで車庫に戻って駅前はガランとしていた、というわけです」 「………」  運転席の後ろに座っている関口麗子は、成田の言葉に返事はせず、雨粒にびっしり覆われた車の窓に目をやっていた。夜でも彼女はサングラスをはずさない。もちろん、タクシー運転手に素性を知られないためである。  しかし、サングラスをかけていようといまいと、外に見える光景は変わりがない。駅を出てしばらくの間は窓の向こうにぼやけて見えていた街明かりも、いつのまにか家の明かりひとつなくなっていた。ときおり思い出したように、弱々しい光を放つ街灯がポツンと浮かび上がっては消えるほかは、深い深い夜の闇《やみ》がつづいていた。  その暗黒のカーテンをタクシーのヘッドライトが切り裂いて進んでゆく。しかし、ワイパーをハイスピードにしても追いつかないケタはずれの土砂降りは、すべての風景を運転手の視界からさえぎるにじゅうぶんだった。道路を知り尽くしているタクシー運転手でさえ、ハンドルに前屈《まえかが》みでしがみつき、免許取り立てのドライバーのような慎重な運転に終始していた。スピードは、もちろん出ていない。車が山あいに入ってからは、なおさら速度は落ちた。 「私たち新聞社の人間といっしょのタクシーに乗るハメになったことは、関口さんにとってまことに不本意な展開であるのは承知しています」  助手席から顔だけ斜め後ろに向けて、成田はつづけた。 「けれども、あなたがご主人の実家へ向かうには、この車しか交通手段が残されていない。そしてこの車は私たちがチャーターしていた。となれば、こういう巡り合わせになるのもやむをえないところです。あなたにとっては、私たちが丸ごとタクシーに乗る権利をお譲りするのがいちばん望ましいのでしょうが、私たちもわざわざ東京からきた以上、職務を放棄するわけにはいきませんから」 「職務ともっともらしく言ったって、しょせんは興味本位の仕事なんでしょう」  ようやく関口麗子が口を開いた。だが、サングラス越しの表情はわからない。 「興味本位の部分があるのは認めます」  成田はうなずいた。 「でも、それだけではないんです」 「だったらほかにどんな大義名分があるの」 「それはちょっと」  高沢公生の件はまだ持ち出さずに、成田は視線でタクシー運転手を指し示した。第三者の耳があるから話せない、という意思表示である。 「よけいなおしゃべりをしたくないのは私も同じよ」  後ろから運転手の背中をアゴで示して麗子も言った。 「ただ、あなたたちが最後までついてくるのは納得がいかないわ。いくらあなたがたに用事があっても、向かっている先は主人の実家よ」 「関口さんにもご納得がいただけるように、私たちの訪問理由をご説明いたします。ただし、お宅に着いてから」  と、奥村由香利が口をはさんだ。  関口麗子は、ダークグリーンのレンズをはめたサングラスの奥から、隣に座る由香利をジロッと睨《にら》んだ。レンズの上に覗《のぞ》いている眉《まゆ》の形で、腹を立てている様子がありありとわかった。  が、由香利は平然とした顔をしている。 「あなた、立派な身体《からだ》なさっているけど、ほんとに新聞記者なの?」  由香利の身体をまじまじと見ながら、麗子が皮肉っぽく言った。 「どこかのオペラ歌手かと思ったわ」 「あいにく、歌は音痴ですから」 「あ、そう。でも、お願いだからもう少し向こうへ寄っていただけないかしら。あたくし、圧迫感のある環境で車に乗ると酔ってしまうのよね。それに、あなたのソバージュって、うっとうしいくらい広がっていて、いやだわ」 「それは失礼しました」 「ケータイもかけたいし、もうちょっとあっちに寄ってくださらない?」  いやみたっぷりの言い回しで奥村由香利を端のほうへ移動させてから、麗子はバッグからケータイを取りだし、これから向かう先で待っている娘の短縮番号を押した。  だが、またしてもケータイはつながらなかった。そして、夫のケータイもまた……。 「まったくもう……」  大きな吐息をついて麗子は言った。 「日本のケータイって、台風がくるとつながらなくなっちゃうのかしら」       *     *     *  ビッビー。  玄関のブザーが鳴った。  都会の住宅にあるような、しゃれたメロディを奏《かな》でるチャイムではない。葉月の祖母の古めかしい木造住宅に取り付けられたブザーは、まさしく『ブザー』という呼び名にふさわしい、味も素っ気もない単調な低音を室内に響かせた。  それを聞いたとたん、葉月は玄関へ飛んでいった。  時刻は午前一時十五分——  イジメに耐えかねて首吊り自殺をしたという古沢玉恵から、現実を超越した電話を受けた葉月は、それから三時間近くも、ずっと独りで震えつづけていた。  実体のない死者の玉恵に代わって、現実の肉体をもった殺人鬼が、どんどん葉月のいる家に近づいているという、その言葉がまったくの幻想であることを祈って、葉月は母の到着を待った。  何も知らずに眠りつづけている祖母を、いまさら起こす気にはなれない。無理に起こしたところで、なんの勇気づけにもならないことがわかっていたからだ。トタン屋根に豪雨が降り注ぐ猛烈な音と、ときとして女の悲鳴にも似た風の唸《うな》りに耳をふさぎながら、葉月は茶の間の柱時計を見つめながら、ただひたすら母の到着を待った。  予定されていた『つばめ25号』に乗っていれば、いくら駅からの山道で時間がかかったとしても、もうとっくに着いていていい時刻である。もしかして事故——不安の上に不安を重ねるような悪い連想ばかりが心の中に渦巻いていた葉月は、ブザーの音を聞いた瞬間、一も二もなく玄関へ飛び出した。  そして、曇りガラスの向こうに移る人影が母にしてはおかしいということにも気づかず、ネジ式の鍵《かぎ》を急いでゆるめ、引き戸をガラリと引いた。 「あ……!」  そこに立っている人物を見て、葉月の口から驚愕《きようがく》の声が洩《も》れた。  母ではなかった。  葉月は急いでドアを閉めようとした。が、遅かった。見知らぬ訪問者の足が、玄関の敷居に載せられ、引き戸が再び閉められるのを防いでいた。 「こんばんは、葉月さん」  頭から滝のような雨水を滴らせた男が、片足を前に突き出したまま、葉月をまっすぐ見ないでにっこり笑った。 「ぼくは高沢公生といいます。こうみえても、四十二歳のしっかり者です」 「な……なんですか……あなたは」  古沢玉恵を名乗る死者の魂が予言した、実体ある殺人鬼がとうとうやってきたのか——関口葉月は、新たな恐怖で身体を震わせた。 「いったい、だ、だ、誰《だれ》なんですか」 「ですから、名前はいま申し上げたとおりです。高沢公生です」  こんな暴風雨の中ですら湯上がりのように頬《ほお》をテカテカ光らせた高沢は、そっぽを向いて笑いながら、自分の名を繰り返した。その焦点の定まらない笑顔が、葉月にとっては凄《すご》まれるよりも百倍恐ろしかった。 「入ってこないで、家の中には!」  葉月は、玄関の引き戸に両手をかけたまま、相手を閉め出そうと懸命になった。だが、高沢はそれをゆっくり押し返す。 「無理ですよ、葉月ちゃん。きみの力じゃぼくには勝てない。ぼくも男としてはそんなに強いほうではないが、女子高生に負けるほど弱くもない」  高沢は、一気に戸を引き開けた。  ガシャーンという大きな音を立てて引き戸が柱にぶつかり、全開となった空間から、雨と風が猛烈な勢いで玄関の中に吹き込んだ。 「まったく、こんな天気の真夜中に人を閉め出そうなんて、葉月ちゃんも人が悪いや」  後ろ手に玄関の戸を閉めてから、高沢はずぶぬれの髪の毛を両手でかき上げた。そして、葉月の膝《ひざ》のあたりを見つめて言った。 「改めましてこんばんは。高沢公生です」 「警察……呼びますから」  ガクガク震えながら、葉月は言った。 「ほんとに、一一〇番しますから」 「できませんよ」  高沢は淡々と言った。 「ここから百メートルほど行ったところで電話線が切れている。大きな木が倒れ込んでいてね」 「でも、ケータイがありますから」 「ケータイねえ。どうかなあ」  葉月の膝から目を離さずに、高沢は首をかしげた。 「きっと、それはつながらないでしょう」 「どうして? どうして知っているんですか」 「ぼくのケータイもつながらないからですよ」 「そうじゃなくて、あなたはケータイだからなんでも知っているんでしょう」 「ぼくがケータイ?」 「そうよ。あなたもケータイの仲間なんでしょう」  自分の言っていることが支離滅裂になってきているのも気づかず、葉月は恐怖のあまり半分泣きながら言った。 「あなたが殺したのね」 「誰をです」 「由佳をよ!」  葉月は叫んだ。  自分に最後の勇気を与えるために叫んだ。 「由佳を殺して、そのときの泣き声を私に聞かせたのはあなたなんでしょう!」 「悲しいなあ」  相変わらず視線を落としたまま、高沢はつぶやいた。 「葉月ちゃんまでがぼくを殺人鬼扱いするなんて」 「葉月ちゃんなんて、馴《な》れ馴《な》れしく呼ばないで!」  真っ青になりながら、葉月は後ずさりした。 「待ってくれ、逃げないで、葉月ちゃん」  こんどは高沢は、葉月の腕にだけ視線を集中させ、そしてすばやくそれをつかんだ。  葉月は叫びながら抵抗したが、高沢は力ずくで押さえ込んだ。 「聞いてくれ、葉月ちゃん」  相手の両手をつかみ、その手に向かって高沢は訴えた。 「ぼくはヒーローになりたいんだ」 「なによ、それ」 「もうわかるでしょう、葉月ちゃん。ぼくは……ぼくは人の目を見ることができないんですよ。人の視線にはエネルギーがある。そのエネルギーが、ぼくは苦手なんです。視線エネルギー過敏症なんです」  高沢は、視線恐怖症の代わりに自分で造った病名を口にした。 「ぼくは、物心ついたときから、そのことがずっとコンプレックスでした。おかげでみんなから変人……いや、変態扱いされて、女の人からもまったくモテず、学校の仲間からも会社の連中からもヒソヒソヒソヒソ陰口ばかり叩《たた》かれて生きてきたんです。でも、そんなぼくでも一生に一度くらいヒーローになりたいんだ」 「人殺しがヒーローなんですか」 「ちがう! 人殺しからきみを守ることでヒーローになりたいんだ。このチャンスをきっかけにして、ぼくは自分を変えたいんです。ヒーローになれば、きっと人の目をまっすぐ見られるようになる」 「自分が人殺しのくせに、なに言ってるのよ、私の大切な由佳を殺したくせに! ほかの女の子たちを殺したくせに!」 「そうじゃない、そうじゃない」  高沢は土足のまま室内に上がり込んだ。そして、両手を拘束した葉月をぐいぐいと廊下の壁際《かべぎわ》に追いつめる。 「いいですか、葉月ちゃん、よーく聞いてください。きみを殺しにくる人間は、これからこの家にやってくるんです」 「うそよ! くるんじゃなくて、きたのよ。もうここにきている。殺人鬼はあなたよ。私、ちゃんと聞いたんだから」  ついさっきまで絶対に現実だと認めようとしなかった死者からのメッセージを、関口葉月は事実だという前提に変えていた。 「あなたは自殺した古沢玉恵のケータイを拾った。そして、そのケータイから出てくる命令にしたがって、人殺しをしていったのよ。玉恵の復讐《ふくしゆう》を代わりにやるために」 「そのはずだったんです」 「そのはずだった?」 「そう、ケータイとしては、そのつもりだったはずです」  葉月を壁に押しつけたまま、高沢は彼女の顔から十センチ左にある柱に向かって説明した。 「『あれ』との出会いを話しましょう。彼女の首吊《くびつ》り死体を見つけたのは偶然でした。あの日ぼくは、会社の休暇でひとり旅に出ていました。会社でも社会でものけもののぼくは、 仕事の休みがとれると、いつも孤独なひとり旅に出るんです。そのときもそうでした。そして、旅の途中で首吊りの木にバッタリ出くわしたんです。場所はあえて申しませんが」 「あなたが『あれ』を見つけたの」 「いいえ、違います。第一発見者はぼくではなかった。けれども、警察がくる前に集まりはじめていた野次馬の中に、すでにぼくはまじっていました」  高沢は、何かに取り憑《つ》かれたようにしゃべりつづけた。 「いまでも思い出します。空も、草も、木も、野次馬の顔も、そして首を吊った子の顔も、すべてが濃いオレンジ色に染められた風景を……。夕焼けが夕闇《ゆうやみ》に変わる、その直前にぼくは草むらに落ちているケータイを見つけて拾ったんですよ。それが新聞記者としての職業意識だったのか、たんなる好奇心だったのか、いまでもわかりません。とにかくぼくは、死んだ子のケータイに何か重大な秘密が隠されている気がして、それをこっそり旅の宿に持ち帰った。そうしたら……真夜中になって、突然ケータイが鳴り出して、緑色に光るはずの液晶パネルがオレンジ色に変わったんです。そして、あの風景が浮かび上がってきたんだ。何時間か前に見た、広い野原にポツンと立つ、首吊りの木が」 「………」  両手を頭の上で押さえつけられたまま、関口葉月は侵入してきた男の顔を見た。彼のしゃべっていることは、まさにさっき自分が体験したことそのままだった。 「そして、その枝にぶら下がって死んでいた女の子の顔がアップになって、そしてしゃべりだしたんですよ。あたしの名前は……」 「古沢……玉恵?」 「そうです。そう言って、ケータイの中から死んだ子がしゃべりかけてきたんです。驚いたなんてもんじゃありませんでした。でも、ぼくは、ぼくは」  息を弾ませ、高沢は苦しそうにあえいだ。 「視線エネルギー過敏症だから、その女の子の目をまっすぐ見つめられなかった。そうしたら、その子はあきらめたようにケータイから消えました。そして、電源が自然にオフになったんです」  至近距離から自分の顔をじっと見つめる葉月の視線を避けながら、高沢はさらにつづけた。 「ぼくは恐《こわ》かった。ほんとに恐かったです。けれども、古沢玉恵のケータイを手放すことはできなかった。旅先でそれを捨てることもせずに自宅まで持ち帰ったんです。そして、自分の部屋に置いて、三カ月間ずっと観察していました」 「観察?」 「ええ。……いや、観察というよりは会話でしょうか。ケータイの中に入り込んだ古沢玉恵の霊は、ひんぱんに自分のケータイや、ぼくのケータイを鳴らして呼びかけてきたんです。そのたびに液晶パネルに彼女の死に顔が浮かび上がる。死んでいるのに笑う顔が……。ぼくはすぐに目をそらしました。でも、しだいにぼくは玉恵と少しずつ会話をするようになったんです。目をそらしたまま、ね」  通常の人間が聞いたら気がふれたとしか思えない高沢の話も、いまとなっては葉月にもうそだと否定しきれなかった。 「やがてぼくには彼女のねらいがわかりました。実体をなくした自分の代わりに、誰《だれ》かの肉体を動かして復讐の連続殺人を企《たくら》んでいたんです。『なんであたしだけが死ななくちゃいけないの』——それが、古沢玉恵の根底の叫びでした。そして、たぶんそれは、この世の中で、イジメで死んでいった何百人、何千人、何万人という死者に共通する叫びだったと思うのです。いじめられた自分だけが死んで、なぜいじめたあいつが楽しそうに生きているの、と」 「それで、あなたはどうしたんですか」  葉月は、壁に押しつけられたまま話の先をきいた。 「これは危ないと思いました。人の目をまっすぐ見られないことが、こんなところで役に立つとは思わなかったけれど、とりあえずぼくは、液晶パネルに浮かび上がる古沢玉恵に射《い》すくめられることを避けてきたから、なんとか彼女の魂に入り込まれなくてすんでいました。でも、ふつうの人は、あんな奇妙な顔が浮かび上がってくれば、震えながらもそれを見つめてしまうでしょう。その隙《すき》に、古沢玉恵はヒュッと入り込んでいくんです。その人物の脳の中へ」 「………」 「しかし、これはぼくが拾ったケータイだけに生じる特別な現象ではなく、日本のどこかで同じような状況が起きていないという保証はない。第二、第三の古沢玉恵が、ケータイを通じてイジメの復讐作戦を展開しはじめていないともかぎらない。その恐ろしさに気がついたんです。ねえ、葉月さん」  高沢の妙に生臭い息が、葉月の顔に吹きかかった。いま、高沢の視線は葉月の額の生《は》え際《ぎわ》あたりをうろついている。 「この地球上の、とくに日本という土地の上には、いたるところでイジメ被害者の霊がさまよっています。死んでも死にきれないほどの怨《うら》みつらみを抱えて、霊魂になってもなお、くやしさで歯ぎしりをつづけている自殺者の霊が……。その霊たちは、いままではどんなに地団駄を踏んでも、人生を楽しんでいる加害者たちに復讐することはできなかった。でも、ここに至って、彼らはとてつもない武器を手に入れたんです」 「それが……ケータイ?」 「そうです。それがケータイです。ケータイは自殺者の怨霊《おんりよう》を、いたるところへ自由に運ぶ乗り物になってしまった。その乗り物に乗って、死者の魂は、加害者のところへ、あるいは無関係な人を利用するために空中を飛び交っている。ほら、ここにも」  高沢公生は、空間の一点を目で示した。 「そこにも、あっちにも、電波化した死者の魂が飛び交っています」  それにつられて、葉月は自分の周りを見回した。 「死者の魂を運べるケータイの普及によって、ぼくたちは四六時中、怨念《おんねん》のエネルギーに取り囲まれる状態になってしまった。そして、死者によって操られたケータイに自分の脳が占領される危機に、つねに見舞われているんです。ケータイとは、死者の霊魂とも生者の魂とも交信できる情報端末生命体として猛烈な進化を遂げている——ぼくは本気でその状況を心配したから、会社の編集会議でその問題を持ち出したんです。  ただし、さすがにそのときは、首を吊った古沢玉恵のことや、死者の魂がケータイ電波に乗って自由に行き来するという話は、あまりにオカルトじみているので出せなかった。それでぼくは、一般論として意見を述べたんです。やがて人類はケータイに頭脳を占領される。人類最大のピンチは、SF映画に描かれるような異常に発達したコンピューターによって招かれるのではなく、ケータイの普及によって招きよせられる、というふうに」 「そんな話を新聞社の人たちは信じたんですか」 「いいえ」  重いため息を、高沢は葉月の額に吹きかけた。 「会議ではまったく相手にしてもらえませんでしたよ。ふつうの人が口にしても一蹴《いつしゆう》されてしまう突飛な見解を、変態印の高沢公生が言ったんですからね。でも、たったひとりだけ、あとでこっそりとぼくのところへきた人間がいるんです。会議の場では言い出せなかったけれど、ケータイが情報端末生命体であるというぼくの持論に大いに興味を持った人間が。だからぼくは、そいつに詳しいいきさつを打ち明けて、信じるも信じないも、これと一晩いっしょに過ごせばわかるといって、例のケータイを渡したんです」 「古沢さんのケータイを?」 「そうです。プリクラだらけのケータイをね。そうしたら事件が起きた」  高沢は、葉月の両手を彼女の頭上で押さえつけたまま目を閉じた。 「案の定、そいつは脳味噌《のうみそ》をケータイに乗っ取られてしまったんです。自殺した古沢玉恵の思うがままに操られる殺人マシンとして動き出したんです。一方では、事件の報道を担当する新聞記者として真相を追いかけながらね」 「誰なの……それ」 「もうすぐわかりますよ」  高沢は、そこでゆっくりと葉月の手を放した。彼女が自分の言い分を認めはじめ、ヒステリックな抵抗はもうしないだろうと思ったからである。  そして彼は、いま自分が入ってきたばかりの玄関のほうをふり返って言った。 「たとえ途中で特急が停《と》まるようなことがあろうとも、やつは必ずやってきます。今晩のうちに必ずきます。古沢玉恵の命令によって、あなたを殺すためにね。それから、すべての真相を知るぼくの命も奪うために」       *     *     * 「どうなの、成田君」  土砂降りの雨に打たれながら、奥村由香利はきいた。 「その木、動かせる?」 「ダメですね」  狭い山道を真横に遮《さえぎ》る形で倒れている樹木を持ち上げようと、その脇《わき》にかがみ込んでいた成田誠は、ヘッドライトに照らされ輝いている濡《ぬ》れた樹皮をポンと叩《たた》き、あきらめ顔で立ち上がった。 「タクシーの運転手に手伝ってもらっても、由香利さんや関口さんに加わってもらっても無理です。三人や四人の力じゃとても動かせない」 「じゃ、どうするの」 「車が通れない以上、歩いていくしかありませんよ。タクシーはあそこに置いて」  成田は、後ろをふり返った。  豪雨が織りなす銀幕の向こうに、明るく輝く二つの光があった。関口麗子は、まだそのタクシーの中に座ったまま、行く手を遮る倒木が動かせるかどうか、その成りゆきを見守っている。成田はそちらに向けて、まばゆさに目を細めながら両手で大きなバツを作った。 「冗談じゃないわ。ここから歩いていけっていうの」  成田から状況を聞かされてタクシーから降り立った関口麗子は、傘《かさ》を差そうとしたが、開いた瞬間にそれはものすごい勢いで後ろに飛ばされ、暗い森の中へ転がっていった。 「ちょっと待って、傘が飛んでいったわ」 「傘なんか、あったって役に立ちません」  成田は雨音に負けない大声を出した。 「濡れないで行こうなんて考えは捨ててください」  彼らの足元では、傾斜に沿って流れる濁った雨水が川のように流れている。ハイヒールを履いた関口麗子の足でさえも、すでに半分は水に浸かっていた。  女優として、私生活では顔を隠す習慣のついている彼女も、さすがにこの天候ではサングラスをはずしていた。その目元が、雨で流れたマスカラで薄く黒ずんでいる。 「ほんとうに動かせないの、この木は」  麗子の質問に、成田は髪の毛から水しぶきを飛ばしながら首を振った。 「無理です。それより、お宅まではあとどれくらいあるんですか」 「さっき、農家が三軒固まっているところを通り過ぎたでしょう。あれが、主人の実家にいちばん近いよその家なの。そこまで五百メートルと言ってたから」 「じゃ、残り二百メートルぐらいですね。でも、明かりが見えないな」 「ここから道はずっと曲がりくねっているから、そばまで行かないと晴れた昼間でも見通しが利かないのよ」 「とにかく二百メートルならすぐです。行きましょう」 「成田君、私、タクシー代を払ってくるわ」  奥村由香利がそう言って、タクシーのほうへ向かおうとするのを、関口麗子が引き留めた。 「待って、車を帰しちゃダメ。とにかくおばあちゃんの家は後ろが崖《がけ》だし、そばの渓流が氾濫《はんらん》したら一気に水も押し寄せてくる危険があるの。こんな状況で一晩明かせっこないわ。だからタクシーは待っててもらってちょうだい。お金はぜんぶ私が払うから、葉月とおばあちゃんを連れて戻ってくるまでそこで待たせて」 「わかりました」  返事をしたのは、由香利ではなく成田のほうだった。 「運転手にそう言ってきましょう」  成田は由香利を制すると、ヘッドライトのほうへ自分で駆け出していった。  三十秒後——  ヘッドライトに照らし出されていた関口麗子と奥村由香利の周囲が急に暗くなった。  麗子がふり返ると、タクシーが狭い山道を何度か切り返して向きを変え、彼女のほうに赤いテールランプを見せたまま豪雨の中を走り去るところだった。 「なによ、どうして帰したの!」  関口麗子が驚きの声をあげた。 「成田君! 待たせるように言ったんじゃなかったの?」  由香利も咎《とが》めるように眉《まゆ》をひそめた。  だが、ずぶ濡れになりながら、ゆっくりとふたりのもとに戻ってきた成田は、奥村由香利に歪《ゆが》んだ笑顔を向けて言った。 「よけいな人間はいないほうがありがたいんですよ、由香利さん」 [#改ページ]   十三 土壇場のシーソーゲーム  茶の間の柱時計は一時四十五分を指していた。  座卓をはさんで高沢公生と向かい合って座っている葉月は、気が気でない表情で時計の分針がゆっくり動いていくのを見つめていた。  時が経《た》てば経つほど、母がこないのが気になった。それだけではない。あれだけ高沢が深刻な表情で殺人鬼の到来を訴えていたにもかかわらず、不審な人物がやってくる気配もないとなれば、いったんは信用しかけた高沢に対する疑惑が、ふたたび葉月の脳裏に湧《わ》き上がってきた。  そして表を流れる雨水の轟音《ごうおん》は、地質学的な破局の到来が近いことを予感させていた。 「おばあさんはよく眠っていられますね」  高沢が、座卓の表面を見つめておかしそうに笑いながら言った。 「こんな荒れ狂った天気だというのに、そしてよそ者がおじゃましているというのに、何も気づかずに眠りつづけていられるなんて、幸せ者ですね、葉月ちゃんのおばあさんは」 「こないわ」  高沢の言葉を無視して、葉月がつぶやいた。 「ママも、変な人も」 「必ずきますよ」  柱時計に目を転じて、高沢は言った。 「必ずきます。葉月ちゃんのママはこないかもしれないけれど、殺人鬼はきます」 「どういう意味?」  葉月は目を丸くして、濡れねずみになったままの訪問者を見つめた。 「ママはこないかもしれないけど、って」 「不幸なことに」  高沢は、浮かべていた笑みを消してため息をついた。 「たしかにこれだけ遅いと、あなたのお母さんに不幸があったかもしれない可能性はあります。つまり、この家に着く前に、殺人鬼と鉢合わせしてしまった場合です。そのときは残念ながら」  例によって、視線をそらしたまま高沢は首を振った。 「天下の大女優・関口麗子さんにご不幸が生じる公算は大です。ただし、必ず殺人鬼はくる」 「冗談はやめてよ!」  葉月は顔色を変えた。 「やっぱり……やっぱりあなたがケータイ連続殺人の犯人だったのね。いままでの話はぜんぶ作りごとで、ほんとうはあなたが由佳たちを殺したのね」 「いいえ、ちがいます」  高沢はそばの畳に目を落として言った。 「そこまで作りごとが上手なら、私はいまごろ小説家になっているでしょう。新聞記者などではなく」 「私、信じないわ」  葉月は、決して自分のほうをまっすぐに見ない男をキッと睨《にら》みつけて言った。 「警察、呼びます」 「どうぞ、お好きなように」  高沢は言った。 「でも、ケータイは通じませんよ」  葉月はその言葉には耳を貸さず、自分のケータイを手に取った。そして、110と押した。  しかし——  警察の番号を呼び出したのに、信じられないメッセージが返ってきた。 (おかけになった電話番号は、現在電源を切っているか、電波の届かないところに……) 「ほらね」  無関係な方角を見ながら、高沢は肩をすくめた。 「葉月ちゃん、あなたを助けるヒーローは警察じゃない。ぼくなんです。警察なんかに英雄の役回りをとられてたまるかっていうんだ」       *     *     * 「どうして……」  両手で腹を押さえながら、関口麗子は信じられない目で相手を見つめた。 「どうして、私がこんなことに」  麗子の指の間からは、真っ赤な血があふれ出していた。  しかし、噴き出していくそばから、それを雨水が流していく。麗子の足元に鮮血は落ちていくが、それもすぐに地面を走る大量の泥水に溶け込んで、坂下のほうへ運ばれていった。 「なぜなの?」  麗子は、自分を刺した人間を見て言った。 「なぜ、私が殺されないといけないの」  しかし、目の前の人間は苦しむ麗子を見つめるだけで何も答えない。 「私も……ああなるの?」  関口麗子が絶望的な視線を向けた先には、あおむけに倒れたままビクともしない人間の身体が横たわっている。 「お願いだから」  雨と区別のつかない涙を浮かべて、麗子は言った。 「死ぬ前に、葉月に会わせて」  しかし、殺人鬼は無言のまま、冷たく首を左右に振った。  何も答えない代わりに、麗子の片腕にまだひっかかったままのバッグのサイドポケットに突っ込んであったケータイが突然鳴り出した。  そして、ボタンを押したわけでもないのに勝手にそれは電波を着信し、スピーカー機能がないのに、電話をかけてきた相手の声を響き渡らせた。 「葉月を産んだ罰だよ」  サイドポケットの中で、ケータイがわめき出した。怒りに満ちた古沢玉恵の声でわめき出した。 「あたしをいじめた石沢葉月を、あんたが産んだからだよ」  電話の声は、旧姓で娘を非難した。 「母親として、あんたはあたしの怨《うら》みを受ける責任がある」  ひどい雨と風の中で、その声は関口麗子の耳にはっきりと届いた。鼓膜というよりも、直接脳に響いた。 「あたしにとって、葉月は悪魔だった。由佳も千春も悪魔だけど、葉月もひどい悪魔だった。その悪魔を産んだ母親は、きちんとその責任をとれ。あたしに謝れ。自分の命を差し出して謝れ。この世で生きることをやめて、地獄に堕《お》ちたあたしのところまで土下座しにこい!」  ケータイの叫びとともに、さらに次の一撃が——刃渡りの長いナイフが麗子の腹部に突き刺さった。  そこは肝臓だった。血液のかたまりにたとえてもよいその臓器に差し込まれたナイフは、内部で一回、二回、三回と刃先をぐりぐり回転させられた。 「あ……あ……あ……」  それだけしか声が出なかった。  漆黒《しつこく》の天空から降り注いでくる豪雨を顔面に浴び、天を仰ぎ、宙に向かって血まみれの片手を差し出しながら、関口麗子はその場にくずおれた。  最初は地面に両膝《りようひざ》をつき、そして次にゆっくりと上半身を前に傾け、地面を走る激流の中に頭から倒れ込んだ。  彼女の腕に引っかかっていたバッグが放り出され、そのサイドポケットに入っていたケータイが、勢いで外に飛び出した。  オレンジ色に輝く液晶パネルに死者の顔を浮かび上がらせていたケータイは、関口麗子がうつぶせに倒れた脇《わき》の水たまりに、しぶきを上げて落ちた。  茶色い泥水の中で、怒りで歪んでいた古沢玉恵の顔が一瞬だけ笑った。その首にロープが巻き付いているのが見えた。  そしてケータイは、水没したために、その機能を停止した。  二人が倒れている光景に一瞥《いちべつ》をくれると、古沢玉恵に操られた殺人鬼は、嵐《あらし》の中を最終目的地に向けて歩き出した。  葉月のいる家へ、と。  ド・ミ・ソ・ド……ド・ミ・ソ・ド……。口笛を吹きながら。       *     *     *  その口笛が遠ざかってからしばらくして、倒れていたひとりが、うめきながら半身を起こした。そして道ばたに放り出された『あるもの』を取り上げると、それを片手に持ち、血と雨に濡《ぬ》れた身体を引きずりながら、吹きすさぶ嵐の中を懸命に前進をはじめた。もうこれ以上、要らぬ犠牲者を出さないために。  上空で、音のない稲妻が光った——       *     *     *  ボーン、ボーンと柱時計が午前二時を打った直後だった。何の前ぶれもなく、玄関の引き戸がガラリと開けられた。 「ママ!」  高沢公生との窒息しそうな対決が耐えられなくなっていた葉月は、ひとこと叫んで玄関へ駆けだした。 「待って、葉月ちゃん。勝手に行っちゃダメだ」  あわてて高沢が止めようとしたが、そのときはもう葉月は玄関まで出ていた。  そして彼女は、またしても見知らぬ訪問者を目《ま》の当たりにして、その場に立ちすくんだ。 「……誰《だれ》なんですか、あなた」  突風とともにずぶ濡れになって入ってきた人物がいた。  外から吹き込む暴風が、葉月の髪の毛を逆立たせる。 「ねえ、誰なの、あなた」 「夕刊ニッポンの……記者です……奥村……由香利」  雨に濡れたために、いっそう収縮の度合いを強めたソバージュの髪から水を滴らせながら、奥村由香利は、あえぐように答えた。そのボリュウム感のある身体は、内面の興奮を表わして激しく波打っている。  由香利は荒い息を弾ませたまま、暴風雨をふせぐために後ろ手に引き戸を閉めた。それと同時に、暴れていた葉月の髪の毛が静かになる。 「夕刊ニッポンって……」  乱れた髪を片手でかき上げながら、葉月が問い返した。 「高沢さんのいる新聞社?」 「もうきてるのね、彼が」  逆にたずねながら、由香利は玄関の三和土《たたき》に目をやった。そこには男物の靴はない。だが、廊下に泥まみれの靴跡が付いていて、茶の間の入口のところでその靴が乱暴に脱ぎ捨てられていた。 「高沢さんが、家の中にいるのね」 「ああ、いますよ。私はここに」  葉月が答える代わりに、高沢公生が自分から玄関に姿を現した。そして彼は、五歳後輩の女性記者の胸あたりに目をやって言った。 「お待ちしていましたよ、由香利さん。やっぱりきましたね」 「うそ……」  信じられないという顔で、葉月は高沢をふり返った。 「この女の人が……殺人鬼なの?」  葉月の顔を見ずに、高沢はうなずいた。 「この女はケータイに脳味噌《のうみそ》を乗っ取られて、自分で自分のやっていることがわからなくなっています。この状況で、いままで彼女は七つの殺人を犯してきた」 「ちがうわ、葉月ちゃん。信じちゃダメ!」  由香利が、腹の底からふりしぼるような声を出した。 「罠《わな》にかかっちゃダメ。殺人鬼はそっちの男よ」 「ママは!」  葉月は叫んだ。 「ママはいないの?」 「ごめんなさい……葉月ちゃん」  悲痛な顔で、奥村由香利は首を振った。 「助けられなかったわ」 「そんな……」  そして葉月は、高沢をまたふり返った。 「やっぱり、あなたが何かひどいことをしたのね。私のママに」 「ちがいます、葉月ちゃん。そうじゃない」  高沢がずれた方向に目を向けたまま、由香利に指を突きつけた。 「ぼくが古沢玉恵の呪《のろ》われたケータイを渡したというのが、その女なんです。太りぎみの身体のおかげで、いかにも人がよさそうにみえる奥村由香利さんですよ。でも、もう彼女のうそもこれまでです。  由香利さん。ケータイが人間の頭脳に入り込むというぼくの意見に興味をもって、自殺した女の子のケータイを貸してくれとぼくに頼んだのは、きみじゃないですか。そしてきみは、死者の霊に取り憑《つ》かれてしまった。葉月ちゃんたちに復讐《ふくしゆう》を誓う、自殺したいじめられっ子の霊にね」 「ちがうわ。私はあなたからケータイなんて受け取ってない」 「よく言いますよ。みんながぼくを変態と決めつけているから、ぼくはそのことを利用して、あたかも自分が連続殺人鬼であるかのような態度をとってみせたんです。そしてきみの反応を観察しつづけた。ぼくが犯人でないことは、誰よりもきみがいちばんよく知っているわけですから、いったいどんな態度に出るのかとね」  高沢は、由香利の足元に向けてフフンとせせら笑った。 「ところがきみは、いい調子になって、みんなといっしょにぼくを犯人扱いしてくれた。まったく、よくぞトボケてくれたものですよ。二言目には三児の母という立場を強調して、いかにも次の犠牲に怯《おび》えるような顔をして。……それとも、自分のやっていることを自分でわかっていないのかもしれないですがね」 「何を言ってるの、高沢さん」  厳しい声で由香利はやり返した。 「あなたこそ、自分のやっていることを忘れているわけね」 「ではうかがいますが、きみはなぜここまできたんですか」 「あなたが鹿児島にいるとショートメールを打ってきたからじゃない。そのあとケータイでも連絡をしてきたからじゃない。関口麗子さんのお嬢さんのところにきていると」 「そう言っておけば、きみがシッポを出すと思ったからですよ。鹿児島にいる葉月ちゃんに、すべての真相を打ち明けるつもりだ、と言えば本性をむきだしにするだろう、と。案の定、きみはあわててぼくの口封じにかかってきた。まさか成田まで連れてくるとは思いませんでしたが」  ふたりのやりとりを、葉月は前を向き、後ろをふり返り、そしてまた前を向くという動作を繰り返して見つめていた。いったいどちらの言い分を信じたらよいのか、混乱した顔で。 「由香利さん、もう白状しなさい。きみはいま、葉月ちゃんのお母さんを殺してきたんでしょう。それから、きっと成田もだ」 「お願いだから、その男の言うことを信じないで、葉月ちゃん。彼にはもうひとり仲間がいるのよ」 「もうひとり?」  と、葉月がまた由香利に向き直る。 「いま彼が口にした成田という男。成田誠。同じくウチの記者。連続殺人の被害にあった関係者たちのことを、いかにも熱心に取材しているようにみせかけながら、殺人の成果を確認しながら楽しんでいた。ふだんはさわやかなスポーツマンを気取っているくせに、中身は血に飢えた異常者だった。私もきょうまでほんとにだまされていたわ。そこにいる高沢公生と同じようにね」  さらに由香利は、葉月に畳みかけた。 「葉月ちゃん、その成田はまだここにきていないの? 日に焼けた若い男よ」 「まだですけど……でも、ママは……」 「だから、成田があなたのママを刺し殺したの」  由香利はつらそうに眉《まゆ》を寄せた。 「私たちは駅からいっしょのタクシーに乗ってきたけど、途中で木が倒れていて車が先に行けなくなった。そこであなたのママは、葉月ちゃんとおばあさんを乗せて戻るためにタクシーを待たせるつもりだったのに、成田が勝手に帰してしまったの。自分のやる犯罪を見られたくないから。あなたのママを刺し殺すところを運転手に見られたくないから」 「そんな……」  葉月の表情がくずれた。  口に手を当てたまま、ボロボロと涙を流しはじめた。 「ほんとなんですか。ほんとにママが殺されんですか。……どうしてママが」 「私にもわからないわ。とにかく成田は、あなたのママを刺す前に私も刺した。でも、意識を失ったふりをして、それ以上の攻撃を避けたの。ほら、見て、葉月ちゃん」  奥村由香利は、着ていた上着の腹のあたりを両手で思いきり絞った。雨水と一緒に、真っ赤な血が流れ落ちた。  葉月は、由香利の足元に溜《た》まってゆく赤い水を呆然《ぼうぜん》と見つめた。 「成田は、私とあなたのママを刺して、ふたりが動かなくなったのを見てから、ひとりでこの家まできたはず。まだ部屋の中に上がり込んでいなくても、すぐ外で様子を窺っているのよ。そこにいる仲間の高沢から合図がくるのを待っているんだわ。ふたりがかりで葉月ちゃんを殺すタイミングを見計らっているの。死者の霊に取り憑かれたのは、彼らふたりのほうなのよ」  その言葉を聞いて、葉月が涙と恐怖のいりまじった顔でまた後ろをふり返る。  それに対して、再度高沢が首を横に振る。 「だまされてはダメです、葉月ちゃん。彼女が洋服から絞り出した血は、自分の身体から出たものじゃない。返り血です。きみのお母さんと、それから成田も殺したときの返り血をたっぷり吸い込んだジャケットを、ここで絞ってみせただけです」 「信じてちょうだい、葉月ちゃん」  高沢の言葉を無視して、奥村由香利は葉月と同じように涙を流しながら訴えた。 「私はうそなんか言っていないわ。私は三人の子供の母親よ。どうして私に、罪のない子供たちが殺せると思うの。どうして私に、同じ母親の立場であるあなたのママを殺せると思うの。そんなに信じないんだったら、これを見て」  奥村由香利は、鼻をすすりながら自分のジャケットのボタンをはずした。そして、ブラウスのボタンを引きちぎって、自分の腹部をあらわにした。 「………!」  葉月が息を呑《の》んだ。  そして、高沢も意表を衝《つ》かれた声をあげた。  たっぷりと脂肪のついた奥村由香利の腹には、作り物ではない生々しい刺し傷があった。深く皮膚が裂け、そこからドクドクと血があふれ出ていた。 「葉月ちゃん」  苦しそうに顔を歪《ゆが》めて、由香利は言った。 「これで誰《だれ》が正しいかわかったでしょう。私といっしょに逃げて。早くこっちへ」 「でも、おばあちゃんが……」 「おばあちゃんはほうっておいてもだいじょうぶ。彼らの目には入っていない。復讐のターゲットはあなたなのよ、葉月ちゃん」 「でも……」 「早く、早くしてくれないと、私も死んじゃうわ」  それで葉月は決断した。  待って、と高沢が引き留めるのをふりきって、葉月は由香利のそばへ言った。 「信じてくれてありがとう」  涙で潤んだ目で、由香利は関口葉月を見つめ、そしてしっかり手を握りしめて言った。 「さあ、葉月ちゃん、私といっしょに地獄へ行きましょう」 [#改ページ]   十四 からっぽのケータイ 「うそ……」  いったい今夜何度口にしたかわからない言葉を、葉月はまたつぶやいた。これまでで最大のショックを伴いながら。 「うそでしょう」 「ほんとよ」  左手を葉月の首に回してぐいと引き寄せながら、奥村由香利はベルトの後ろに差しておいたナイフを取りだした。そして、その先端を葉月の頸動脈《けいどうみやく》の真上にぴたりと押し当てた。  そこの部分の皮膚が凹《くぼ》んだ。 「ほーら、ちょっとでも動いたら、すぐ地獄に直行よ」 「………!」  葉月の涙が恐怖で乾いた。  由香利の嘘泣《うそな》きが、勝利の笑いにとって代わった。  そして、目の前で葉月を奪われた高沢は、頭を両手で抱えて嘆いた。 「ああ、葉月ちゃん。なぜ信じてくれなかったんですか、ぼくのことを。きみを守るのはぼくなんだって、あれだけ一生懸命訴えたのに。視線エネルギー過敏症の男は、そんなに信用できないですか。その女こそ、ケータイに操られた殺人鬼だって、あれだけ必死になって注意したのに」 「ごめん……なさい」  一ミリも動けぬ状況に拘束されたまま、絶望のまなざしを高沢に返して、葉月は謝った。 「お腹《なか》の傷が本物だったから」 「それは、由香利さんが自分以外のものに操られているからなんです。復讐の怨霊《おんりよう》に操られているからなんです。だから平気で、自分の身体を傷つけられたんです。葉月ちゃんをだますためなら、内臓がはみ出すぐらいに深くえぐることだってしたでしょう」 「あんた、よけいなおしゃべりはやめて」  腹から血を流している奥村由香利は、いままでとは別の声になって、高沢をピシャリと封じた。  そして、後ろから葉月の耳元にささやいた。 「葉月、とうとう直接会えたわね、十年ぶりに。さすが女優の娘ね。すっかり可愛《かわい》くなっているんで驚いたわ」 「まさか……」  葉月は凍りついた。その声は、さきほどケータイに現れた古沢玉恵の霊そっくりだったからだ。 「そうよ、私は古沢玉恵」  由香利は言った。 「小学校のとき、あなたたちにいじめられてから真っ暗な人生を歩きつづけて、とうとう首をくくるところまで追いつめられてしまった玉恵よ」 「うそ……」 「またそれを言った。さっきあたしが、あれだけケータイで注意したのに、どうしてあんたはワンパターンの言葉しか言えないのよ。うそ、うそ、うそ、って、うそばっかし。それでも女優の娘?」  三児の母でもある三十七歳の女性記者が、完全に少女の声になっていた。高校入学式の日に首吊《くびつ》り自殺を遂げた十五歳の女の子のしゃべりに。 「葉月ちゃん」  離れた場所から、高沢が叫んだ。 「そいつはケータイによって脳の中身をすり替えられている。もう奥村由香利という新聞記者じゃない。自殺した子の感情が、そのまま大脳の中に入り込んでいるんだ」 「おじさんは黙っててよ!」  三十七歳の顔をした十五歳の少女が叫んだ。 「あたしは、これから葉月に復讐してやるんだから。いい? よく聞きな、葉月」  首筋に突き当てたナイフの刃先に少し力を加え、濡《ぬ》れたソバージュの髪で相手の頬《ほお》をくすぐりながら、『古沢玉恵』は関口葉月の耳元で話しはじめた。それは、葉月や高沢がほとんど口をはさむ隙《すき》のない、滔々《とうとう》とまくし立てる独り語りだった。 「もしもこの世の中にケータイってものがなければ、まだあたしはここまで淋《さび》しい思いをしなくてすんだかもしれない。どの学校へ行っても、どのクラスになっても、絶対に友だちのできないあたしだったけど、ケータイがなかったころは、それでもひとりぼっちの淋しさを意識しないでいられる時間も多かった。  たとえば、ひとりで渋谷に買い物に出たって、これまではひとりで歩いていることに何のコンプレックスもなかった。でも、ケータイが広まってからは違う。恋人といっしょでもない、友だちといっしょでもない、たったひとりで街をゆく子でも、必ずケータイを耳に当てて、楽しそうに話しながら歩いている。純粋にひとりぼっちで街を歩いている子が、すごく少なくなってきた。みんなその場はひとりでも、ケータイを通じていつも心はふたりになっている。  夜中っていう時間帯もそう。ケータイのおかげで、夜中が夜中じゃなくなったよね、って、中学のときのクラスの子はみんなそう言ってた。夜更けの部屋にひとりぼっちでいても、ケータイがあれば、やっぱり心はふたり。友だちやカレシと明け方近くまで盛り上がって、次の日の学校なんて遅れても関係ない。だってその時間がいちばん楽しいんだから。ケータイっ子にとっては、物理的にひとりぼっちになれる時間は、ふたりで盛り上がれる時間なんだよ。だから、ひとりぼっちがちっとも淋しくないんだよ。  でも、あたしはいつだってひとりぼっち。あたしのどこが気に入らないのか知らないけれど、バイキン、バイキンって、のけものにされていた幼稚園や小学校のころから、ずっとあたしは百パーセントピュアなひとりぼっち。街を歩いても、部屋にいても、ひとりのときはそのままひとり。ひとりでもふたりになれるケータイっ子たちみたいな楽しみがひとつもない。  あたしみたいに友だちができない子には、ケータイなんて必要ない。それでも見栄で親にケータイ買ってもらった。中二のときだったよ。でも、買ってもらってすぐに後悔した。だって、誰からもかかってこないし、どこにもかけるところがない。もちろん、電話をかける用事はたまにあるよ。だけど、ただのおしゃべりができる友だちがいなかった。だったらケータイ持ってる意味がない。いくらケータイのメモリーダイヤルが三百件、四百件って電話会社が宣伝しても、あたしには何の意味もない。みんなが、メモリー二百件超えたよとか、こっちは三百オーバーって自慢している横で、あたしは電話帳メモリーがからっぽのケータイ抱えて、それを誰にも見せられなくて小さくなっている。  たまにケータイが鳴っても、テスト範囲どこだっけ、とか、運動会の予行演習は何時集合だっけ、とか事務的な問い合わせばかり。しかも、口できいてくるんじゃなくて、ショートメールだけ打ってくる。どうしてメールじゃなくて、直接ケータイでしゃべってくれないの、ってきいたら、『玉恵って、話しても面白《おもしろ》くないもん。話題がなくて、すぐに会話がとぎれちゃうから』だって。そういう人にはメールでじゅうぶんなんだって。  そうやって、ケータイを買ってもらってから、あたしが世の中ののけものだってことが、もっとハッキリわかってきた。だからあたし、くやしくてくやしくて、からっぽのメモリーに女の子の名前とケータイ番号を集めるようになった。友だちの番号じゃないよ。あたしをのけものにしたやつらのリストだよ。不思議だよね、小学校のころからあたしをいじめてきたやつらの名前を入れて、顔を思い浮かべただけで、自動的にそいつらがいま持ってるケータイの番号がわかっちゃう。そいつらのケータイにメモリーされた電話帳リストもわかっちゃう。  あたし、びっくりした。そのとき初めて気がついた。ケータイの神さまが、淋しいあたしに味方してくれてるんだって」 「それは……」  しゃべりまくっていた古沢玉恵の言葉を、そこで高沢がようやくさえぎった。 「それは神さまなんかじゃない。悪魔ですよ」 「なんだって」  奥村由香利の血相が変わり、古沢玉恵の声に凄《すご》みが増す。 「なんだって、もう一回言ってみな」 「由香利さん、きみは悪魔に取り憑《つ》かれているのです」  高沢は、由香利の足元に溜《た》まっていく血と水たまりに目を落として言った。 「目を覚ましなさい。早く死者の霊を追い出さないと、由香利さん自身が死ぬ」 「うるさい、あたしは古沢玉恵だ。ユカリとかいう女じゃない!」  葉月の首に突き立てたナイフを震わせながら、玉恵の声をした由香利がわめいた。 「みんながケータイ持って、みんなが楽しいケータイの輪にはまりこんで、その輪の中にあたしを入れようとしないから、あたしは怒《おこ》ったんだ。ケータイの神さまだって怒ったんだ。仲間はずれを作るためにケータイを産みだしたんじゃないぞって」 「古沢さん、頭おかしいよ」  首を抱えられたまま、もうやぶれかぶれで葉月は言った。 「ケータイ持ってて友だち作れないなんて、どうかしてる」 「なに!」 「ケータイはふつうの電話と違うのよ。知らない人どうしで知り合いになったり、知ってる者どうしはもっと仲良くなるための道具でしょ。友だちを増やしていくための道具でしょ。その道具を持っても友だちができなくて、そういうひがみ根性ばっかり大きくなるんだったら、ケータイがいけないんじゃなくて、あんたの性格に問題があるんだよ」 「なんだって、葉月。そういう言い方があるのかよ」 「あるよ」  首筋に突きつけられた刃先の痛みが強くなってきたのを感じながら、葉月は反論をやめなかった。 「ケータイは、ふつうの電話みたいに連絡事項を速く伝えるためにあるんじゃない。友情とか愛情をいつでもどこでも交換しあえるためにあるんだよ。そのケータイを悪く思うなんて、あんたの根性がひねてるからなのよ」 「葉月ちゃん、やめなさい!」  高沢が両手を前に突き出して葉月をいさめた。 「それ以上、古沢玉恵を興奮させてはいけない」 「じゅうぶんに興奮してるわ。完全に爆発してるわ」  ソバージュヘアから水滴をまき散らしながら、奥村由香利は首を振った。 「もう止まらない。もうダメ。もうガマンできない。あたしは殺してやる。このクソ生意気な女を殺してやる。高沢、おまえはそこで見ていろ。あたしがこのガキの肝臓をえぐりだすところを見ていろ」  そして由香利は、葉月の首に当てていたナイフをいったん引き、逆手に構え直して、こんどは肝臓に狙《ねら》いを定めた。そして思いきりそれを突き刺そうとしたとき—— 「やめろ、由香利さん」  いきなりガラリと後ろのドアが引き開けられた。  台風の突風が吹き込み、奥村由香利の濡れたソバージュヘアを乱した。一瞬、彼女の視野がふさがれ、葉月を抱え込んだ腕の力がゆるんだ。  同時に葉月は、誰《だれ》かの手にぐいと引っぱられ、そのまま高沢のほうへ突き飛ばされた。  パシンと引き戸がまた勢いよく閉まる音がして、横殴りの雨と突風がブロックされた。  ずぶ濡れで玄関に入ってきたのは、成田誠だった。彼の片手には、由香利のバッグが握られていた。 「成田君!」  葉月を廊下のほうへ引き上げながら、高沢が驚きの声をあげた。 「きみは生きていたんですか」 「とりあえずね」  前髪から鼻筋へ、唇へ、そしてアゴへと雨水をボタボタ垂らしながら、成田は顔をしかめて言った。 「でも、もうすぐ死ぬかもしれない。けっこう傷は深そうだし、救急車を呼ぼうにもケータイはつながらないし」  大量の雨水を含んだ成田の服がかなり広い範囲で、水で濡れたのとは違う色あいに変色していた。それは、由香利の傷など較べものにならない出血がつづいていることを示していた。あっというまに、彼の立っている足元に血だまりができていく。 「なりた……さん」  高沢に抱きかかえられた葉月が、か細い声でたずねた。 「ママは?」  葉月のほうに向かって、成田は無言で首を横に振った。そのしぐさは由香利がしたのと同じだった。それを見て、葉月は高沢の胸にとりすがるようにして泣き出した。 「葉月ちゃん、かわいそうに、かわいそうに」  高沢は、泣きじゃくる女子高生を胸に抱いて、その頭をなでた。  高沢公生、四十二歳にして人生で初めて女性を抱いた瞬間だった。初めて若い女の肌のぬくもりと柔らかさを感じた瞬間だった。 「ぼくがきみを守ってあげますからね」  葉月の髪に顔を埋めて、高沢がつぶやいた。 「どんなことがあっても、ぼくが守り通してあげますからね。ああ……これでぼくは葉月ちゃんのヒーローになれるんだ」  そんな高沢を横目で見やってから、成田誠は、土壇場で獲物を取り逃がして呆然《ぼうぜん》となっている奥村由香利に向き直って彼女のバッグを掲げてみせた。 「由香利さん、忘れ物ですよ。ほら」 「あ」  由香利の口から、小さな声が洩《も》れた。 「関口麗子さんやぼくを刺すことに夢中で、あなたはこれを山道に置きっぱなしにしておいたのを忘れたみたいですね」  そして彼は、そのバッグを高沢のほうへ放り投げた。  口が開いたままだったので、金属音を立てて中身が廊下に飛び散った。 「なんだ、これ……」  葉月の身体を離して、高沢は廊下に散らばったものを見つめた。  ケータイだった。明らかに女子中高生の持ち物とわかるケータイが、奥村由香利のバッグから七つも出てきた。  これまでの事件で犠牲となった七人の女の子たちのケータイだった。 「まさか由香利さんが、ぜんぶのケータイを持ち歩いているとは思いませんでしたよ」  成田は、由香利に向かって言った。 「でも、ぼくはこれの存在には気づいていたんです。新幹線に乗っている間にね」  成田は、ズボンのポケットからもうひとつケータイを取りだした。  プリクラだらけのケータイ——葉月と由佳と千春が仲良く三人で写っているショットも貼《は》られたケータイ——自殺した古沢玉恵のものだった。 「新幹線の中でひんぱんに高沢さんからの電話をケータイで受けていたとき、由香利さんは一度だけバッグから間違えてこのプリクラだらけのケータイを取りだしましたね。いつか会議室で高沢さんが間違えて取りだしたようにね。そしてあなたは、ぼくに見られたのではないかと、あわてて隣の席に目をやった。しかし、ぼくが窓の外に顔を向けていたのを見て、ホッとした表情を浮かべた。台風の接近で昼間から外は薄暗かったから、列車の窓には車内の様子が反射して映し出されていた。それをぼくが見ていたところまでは知らなかったようですが」  奥村由香利が愕然《がくぜん》とした表情を浮かべた。 「この家に到着する直前で車が先へ行けなくなったとき、ぼくが突然タクシーを帰したので、あなたはびっくりしたでしょう。まるで、ぼくが殺人鬼のような態度をとったわけですからね。関口麗子さんが勘違いして怯《おび》えたのも無理はない。でも、ぼくがタクシーを帰した理由はたったひとつしかなかった。呪《のろ》われたケータイに操られたあなたが、ぼくたちをみな殺しにして、知らん顔でまたタクシーに乗って逃げることを防ぎたかったからです。逃走手段を封じ込めるためにタクシーを帰したのです。あのまま待たせておいても、帰りに乗り込むのは、関口さん一家ではなく、ぼくでも高沢さんでもなく、由香利さん、あなたひとりだという展開が見えたからです」 「………」  由香利は、ナイフを持った右手をいまはだらりと力なく下げていた。 「そのぼくの行動を見て、あなたは……というよりも、古沢玉恵は、自分の存在がぼくに気づかれたことを悟って、由香利さんにぼくを襲わせた。そして、そのあとつづいて葉月ちゃんのお母さんも襲った」  そこまで言ったとき、成田誠が右手に持っていたケータイの電源が突然入り、液晶パネルがオレンジ色に輝きはじめた。  そして、着信音もなく唐突にケータイがしゃべりだした。 「そうよ。そのとおりよ」  液晶パネルには古沢玉恵の顔が浮かび上がっていた。その顔がしゃべりだした。  同時に、カランと音を立てて奥村由香利の右手からナイフが落ちた。  由香利はもう口をきかなかった。目はうつろで唇は半開きとなり、魂の抜け殻になっていた。 「成田誠。あたしはあんたがそんなに頭がいい男だとは思わなかった。もっと念入りに刺しておくんだったわ。ちょっとこっちを向いてごらん」  液晶パネルに現れた自殺直前の十五歳の少女が、成田に呼びかける。 「さあ、あたしを見て」 「その手には乗らない」 「いいからケータイのあたしを見てごらん。可愛《かわい》いから」 「いやだ」 「見てごらんってば。キスしてあげるから」 「うるさい」 「早く早く、さあ早く、首吊《くびつ》りの木にぶら下がっているあたしを見て。口からだらだら血を流しているあたしを見……」  ケータイの声が突然途切れた。  成田がケータイのバッテリーをはずしたのだ。そして彼は、玄関の戸を引き開けた。  土砂降りの雨音よりももっと激しい濁流の音が、突風とともに室内に飛び込んできた。いつのまにか葉月の祖母の家は、周囲を泥の川に囲まれていた。  玄関から洩《も》れる明かりに照らされた部分だけでも、泥水が渦を巻き、白く泡立ちながら猛烈な勢いで流れているのが見えた。  その濁流めがけて、成田は古沢玉恵のケータイを投げ込んだ。  バッテリーをはずしてあるにもかかわらず、闇《やみ》を飛んでいる間、ケータイの液晶パネルはオレンジ色に輝きつづけていた。  しかし、濁った水に落ちた直後、オレンジ色の光は消えた。そして激しい流れに運ばれて、古沢玉恵のケータイは闇の彼方《かなた》へと運び去られていった—— 「ケータイは水に弱い」  全身に横殴りの雨を浴びながら、成田誠はつぶやいた。 「ドラキュラが太陽の光で死ぬように、ケータイに取り憑《つ》いた悪魔は水で死ぬ……そしてぼくは、その悪魔の最後の犠牲者になったかもしれない……もう力が出ない……周りも急に暗くなってきた」 「成田君!」  高沢が呼びかけた。 「だいじょうぶですか、成田君」 「身体の中に……もうほとんど血が残っていない……みたいです」  成田は玄関の柱に沿ってずるずるとくずおれた。奥村由香利が抜け殻となって立ちつくしている、その脇《わき》に。  急いで高沢が助けにいこうとした。が、その瞬間、何の前ぶれもなく、家の明かりが消えた。  すべてが闇に包まれた。そして音だけの世界になった。  何も見えなくなったぶん、豪雨と暴風と激流の織りなす音のすさまじさは倍加した。 「こわい」  葉月が叫んだ。 「高沢さん、こわい」 「だいじょうぶです。これはただの停電です」  暗闇の中で高沢が答える。 「葉月ちゃん、ぼくのところにいらっしゃい。さあ、ぼくの手につかまって」 「高沢……さん」  玄関のほうから、成田がほとんど消え入りそうな声で呼びかけてきた。 「ライター……持ってませんか」 「いや、ぼくはタバコは吸わないから」 「じゃ、葉月ちゃん……ロウソクかマッチ……探して。早く……光を見つけないと……まずい」 「わかっています、成田君。大至急きみを病院へ運ばないと」 「そうじゃない。どうせ、ぼくは……もうダメです。それより高沢さんは、葉月ちゃんといっしょに……早く……この家から離れてください。ぼくと由香利さんは……見捨てていいから」 「なぜ」 「急がないと手遅れになります」 「だから、なぜ」  黒い空間で声が飛び交った。 「あの音……聞こえませんか」 「え?」  漆黒《しつこく》の闇に包まれた空間で、高沢と葉月は耳をすませた。 「聞こえるでしょう、ほら」  風と水の狂乱の奥から、低い地響きの轟《とどろ》きが聞こえてきた。  葉月には、その意味がわかった。 「崩れる!」  葉月は悲鳴を上げた。 「裏の山が崩れてきちゃう」 「だから逃げて」  成田の声がせかせる。 「なんでもいいから明かりを見つけて、早く逃げて」 「でも、おばあちゃんが!」  葉月が泣きそうな声で訴えた。 「おばあちゃんが奥で寝ているの。おいて逃げたりはできない」  そこまで葉月が言ったときだった。  強烈な地震でもやってきたようなすさまじい揺れとともに、バキバキバキと周囲の樹木がなぎ倒され、家の柱が折れ、窓ガラスがパリパリパリパリと立てつづけに割れる音が響いた。裏山が崩れ、大量の土砂が樹林をなぎ倒しながら、木造家屋の壁をぶちやぶって飛び込んできたのだ。  真っ暗闇の中、葉月の身体はむせ返るような土の匂《にお》いに包まれた。そして、ものすごいエネルギーで身体が持ち上げられたかと思うと、猛烈なスピードでどこかへ流されはじめた。 「葉月ちゃん!」  加速度のついた流れの中で、高沢の声がした。 「ぼくは、どこまでもあなたを守ってあげますから! 命と引き替えにしても!」  彼の身体が、葉月をくるむように覆いかぶさってきた。  そして葉月は、気を失った—— [#改ページ]   十五 エピローグ  台風が通りすぎたあとの晴れ間は、いつも物悲しい。とくに多くの犠牲者を出した台風のあとの晴れ間は……。  秋晴れのもとで行なわれた捜索作業の結果、関口麗子、奥村由香利、成田誠、高沢公生、そして葉月の祖母——みんな死体で見つかった。  助かったのは、葉月ひとりだけだった。高沢が約束どおり身を挺《てい》してかばってくれたために、彼の身体が作ってくれた隙間《すきま》に守られて葉月は窒息死を免れた。  悲報を聞いて東京から駆けつけた父親の石沢英太郎と対面したとき、茫然《ぼうぜん》自失の葉月は、こうつぶやいた。 「遅いよ。いつだってパパは、家族のために何かをしてくれるのが遅い」  泥流の中から掘り出された遺体のうち、関口麗子、奥村由香利、成田誠の三人の腹部には、明らかに山崩れとは無関係とみられる深い刺し傷が見つかった。自然災害とは別の、殺傷事件が存在していたことを明確に示す傷跡だった。  夕刊ニッポンの記者、奥村由香利のいちばん下の娘が、夏休みで母親といっしょに名古屋の実家へ出かけたとき、第七の殺人現場近くで、右手を血まみれにして立っている母を見たと言い出したことから、捜査当局はすでに由香利を連続殺人事件の重要参考人として聴取する方針を固めていた。その直後の突発的な出来事だっただけに、警察は、唯一の生き証人である関口葉月に、嵐の夜の出来事の説明を求めようとした。  だが、葉月はあの夜の出来事について何も語らなかった。刑事がたずねても、父親がたずねても、夕刊ニッポンの蔵前や小山内がたずねても、ひとことも口をきかなかった。  そして、すさまじい山崩れの爪痕《つめあと》からは、古沢玉恵のケータイはもちろん、一連の殺人事件で犠牲となった七人のケータイはひとつも見つからなかった。  やがて葉月は極端に寡黙となり、父親との会話もまったく拒絶するようになったあげくに、神経科の病院に入院させられた。いつ治るともわからぬ心の傷を癒《いや》すために。       *     *     * 「葉月のうちもメチャクチャになったけど、うちもそう」  ベッドに横たわる葉月の枕元《まくらもと》で、リンゴをむきながら水守千春は独り言のようにつぶやいた。 「パパが犯人じゃなかったのはよかったけど、ぐあいはますます悪くなった。パパだけじゃなくて、ママもあれからおかしくなって、けっきょくふたりとも入院。そして、私は親戚《しんせき》のおばさんのところにあずけられちゃった。うちも全滅だよ。……なーんて、こんな説明しても、葉月にはわかんないんだよね」  果物ナイフを皿の脇に置くと、千春は悲しげな目つきで親友を見やった。  葉月はベッドにあおむけになったまま、目は開けていた。意識はある。しゃべることもできる。しかし、すべてがすれ違いだらけの会話にしかならなかった。 「起こすよ、葉月」  そう言って、千春は電動式ベッドのリモコンを操作して、上半身が起きるようにした。もう何度も見舞いにきているから、手慣れたものだった。 「リンゴむいてあげたから、食べて」  小さなフォークに突き刺したリンゴをひときれ、千春が差し出すと、パジャマを着た葉月は、ありがとう、と小さくつぶやいて、それを口元にもっていった。  サクッという軽やかな音を聞きながら、千春はベッドサイドのテーブルに置かれたケータイに目をやった。 「ねえ、葉月」  まともな答えを期待できないのがわかっていたけれど、千春は呼びかけた。 「いつまでケータイ持ってるつもりなの? 私は解約しちゃったよ。あんな出来事があって気持ち悪いから、自分のもパパのもママのも、ぜんぶ解約して、電話機も要らないからって返しちゃった。いまは、おばさんの家にあるふつうの電話だけ使ってる。  不思議だよね。いままではケータイのない生活なんて絶対考えられなかったのに、いまはなくてもぜんぜん平気。っていうか、ケータイのない暮らしをはじめて、やっと何かから逃げ出せた感じ。それが何なのか、自分でもわからないけどね」  そして千春は、なにげなく葉月のケータイに手を伸ばした。 「ねえ、葉月。これ、解約しちゃいなよ。葉月が了解してくれたら、私が代わりに手続きをやってあげるから」 「貸して」  ひときれのリンゴを食べ終えた葉月が、ポツンとつぶやいた。 「それ、貸して」 「え、なにを」 「そのケータイ。私のケータイ」 「どこかへかけるの?」 「じゃないけど」  うつろな返事だった。  それ以上やりとりをしても、またいつものようにすれ違いになるだけだと思った千春は、そのままケータイをベッドの葉月のほうへ差し出した。 「はい、どうぞ」  その瞬間だった——  グサッと、千春の右手にフォークが突き刺さった。いま、葉月がリンゴを食べるために使っていたフォークが、千春の手の甲に刺さっていた。  強烈な痛みが走った。  しかし、悲鳴は出なかった。あまりの出来事に、千春の声帯はその機能を停止した。  信じられない、という顔で目を見開く千春に向かって、関口葉月は低い声で言った。 「ケータイの悪口を言うやつはゆるせない」 「はづ……き……」  必死の思いで、千春は声をふりしぼった。 「葉月、いたい」 「痛いのはあたりまえだ。もっと苦しめ」  ベッドに半身を起こした葉月は、親友の手の甲にグリグリとフォークをねじこんだ。 「いったああい、葉月。いたああい」  目尻《めじり》から涙をこぼしながら、水守千春は悶《もだ》えた。  そして、人を呼ぶためにもっと大声を出そうとしたとき、手の甲からフッとフォークが抜かれた。  三つの穴が開き、そこから真っ赤な血が噴き出してきた。 「いま、看護婦さん呼んであげるから手当してもらいなよ」  血の付いたフォークを右手に持ったまま、まるで何事もなかったように葉月は言った。 「よかったね、ケガをした場所が病院で」 「葉月……もしかして……あんた……」  血まみれの右手を左手で押さえながら、千春は恐怖の目で相手を見つめた。 「もしかして……」 「そのもしかして、だよ」  葉月は、白いシーツの上に放り出されたケータイに目をやって微笑《ほほえ》んだ。 「だってあたし」 『私』でなく、『あたし』になっていた。 「あのとき、見ちゃったからしょうがないんだよね。高沢さんと違って、玉恵の顔をじっくり見ちゃったから」  誰もさわっていないのに、自動的にケータイの電源が入り、緑色であるはずの液晶パネルがオレンジ色に輝きはじめた。 「うふふ」  葉月が笑った。 「うふふふふ」  その笑い声は、葉月のものではなかった。 「あたし、ケータイって、やっぱり好き」  関口葉月は、千春の血が付いたフォークをぺろりと舐《な》めた。 角川ホラー文庫『ケータイ』平成11年12月10日初版発行              平成12年10月30日4版発行