[#表紙(表紙.jpg)] お見合い 吉村達也 目 次  一 比較の相手  二 写真の男  三 二回まで  四 お見合い  五 追 及  六 ゴースト・バスターズ  七 夜の準備  八 真由子の濡れた髪  九 透視の解明  十 雨  十一 お見合いの真実  十二 許されぬ拒絶  十三 赤いメッセージ  十四 墜 落  十五 エピローグ [#改ページ]    一 比較の相手  暗闇《くらやみ》の中で閃光《せんこう》がきらめき、巨大な恐竜が突然、滝真由子《たきまゆこ》の頭上へのしかかるように現れた。  頭の部分しか見えないが、その頭部だけで真由子が乗っている大型ボートの船体と同じぐらいありそうだった。そして、壊れたトランペットと調律の狂ったバイオリンを何百も一斉にかき鳴らしたような咆哮《ほうこう》を上げながら、銀色の鋭い歯が並ぶ口を大きく開いて、一気に真由子めがけて襲いかかってくる。  キャーッと叫び声を上げ、真由子は隣に座っている恋人の新谷史也《しんたにふみや》の胸に顔を埋《うず》めた。史也もウォーッと大きな悲鳴を発している。  このままふたりとも恐竜に噛《か》みつかれてしまう——と思った瞬間、こんどはいきなりボートが急角度につんのめった。暗黒空間の奥で、轟々《ごうごう》たる水音が響いているのが聞こえた。あっと思った瞬間、ふたりは奈落《ならく》に向かってボートごと急角度でなだれ落ちていった。  真由子や史也だけでなく、乗客全員が金切り声の大合唱を張り上げた。真由子は目をつぶった。一瞬、何か以前に体験した恐怖感がよみがえる気がした。それしかできなかった。髪の毛が後ろに飛ばされるような落下のGがかかり、身体が船外にほうり出されそうになった。  どこまで落ちていくんだろうと思った瞬間、身体が水平になり、同時にすさまじい水しぶきがボートの両側に噴き上がって、端の席にいた真由子は大量の水を浴びた。 「すげえなあ」  史也の胸に当てた耳を通じて、興奮する恋人の声が真由子に聞こえてきた。 「あんなところで、いきなり落ちるとは思わなかったよ」 「ねえ、ねえ、もういいの? もう顔上げても平気?」  極端に恐《こわ》がりの真由子は、まだ史也の胸に顔を埋めたまま怯《おび》えていた。 「だいじょうぶだよ。ほら、みんな笑っておれたちを見ているよ」  おそるおそる真由子が目を開けると、彼女が乗っていた大型ボートは、いつのまにか池に浮かんでおり、恐竜が咆哮する暗黒世界がウソのような五月の青空が頭上に広がっていた。そして、池の周りでボートが落下してくるのを見物していた客たちは、悲鳴を上げる乗客たちを面白がって見ていた。  大阪湾を望むベイエリアに誕生したユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)——  その人気アトラクションのひとつ『ジュラシック・パーク・ザ・ライド』に入ろうと史也から誘われた真由子は、行列待ちのときにスプラッシュ型のジェットコースターであることがわかるビデオ映像が流されていたにもかかわらず、それを別のアトラクションの説明だと思っていたので、いざボートが動き出して急勾配《きゆうこうばい》を上りはじめてからあわてた。ジェットコースターのたぐいは大嫌いで、ディズニーランドのスペース・マウンテンで懲りてからは一生乗るまいと堅く心に誓っていたのに、である。  そういう天然ボケというか、真由子は周囲の状況をあまりよく見極めないのんきさがあった。史也は、そんな真由子のピントはずれなところを可愛《かわい》いと言ってくれるのだが、真由子は自分でピントがはずれているとは思っていない。だから史也から「天然ボケ」とか「ノーテンキ」と言われると本気で怒ったりする。だが、そういう真由子を、また史也は可愛いと言ってからかうから、けっきょく真由子も怒りきれなくて、最後はじゃれあいになってしまう。  なにをやっても楽しいまっさかりのふたりは、一年以内に結婚しようとふたりだけで決めていた。  新谷史也、二十八歳。  滝真由子、二十二歳。  五つの年の差が、甘えっ子の真由子をさらに幼い甘えっ子にさせていた。史也の前では真由子は恋人であると同時に妹にもなり、子供にすらなってしまう。すべてをゆだねて甘えられる懐の広さが、新谷史也という男にはあったのだ。  ふたりの出会いはバレーボール。男女共学の私立高校で二年生の夏、女子バレー部のキャプテンに就任した真由子は、当時社会に出たての先輩としてコーチにやってきた史也をひとめで好きになった。  バレー部のキャプテンを務めるだけあって、真由子は身長が百七十三センチあった。だから将来の恋人は、ヒールを履いても自分より背の高い男であることが絶対条件だった。その点、百八十三センチもある史也は文句なしに合格だった。  最初は片想いだったが、高校卒業直前に真由子のほうから告白すると、史也も第一印象から真由子を好きだったと打ち明けてきた。そして大学時代の四年間、真由子は脇目《わきめ》もふらずに史也を愛してきた。    真由子は東京の大学を出て、この四月からは叔父の経営する写真スタジオで働いていた。写真スタジオといっても町の写真屋などではなく、都心に地下一階地上四階のスタジオビルを構えたもので、真由子はそこで事務手伝いをしていた。  何が楽しいといって、人気絶頂のタレントや歌手、有名人、ファッションモデルなどに会えることだった。叔父のスタジオビルは最先端の撮影装置を備えており、写真集やメジャーな雑誌のグラビア撮影などが、毎日そのビルで行なわれているのだ。「会える」という表現は正確ではなく、じつは「見る」という感じで、スタジオ予約の受付や雑務など事務スタッフの真由子としては、タレントたちと会話ができるわけではなかった。それでも、テレビの向こうの世界が一気に身近になった気がした。  一方の史也は、東京に本社を持つ食品会社に勤務し、首都圏営業部に所属して都内近郊のスーパーマーケットへの営業が主な仕事だった。ところが、ことしの四月に人事が発令され、主任に昇格するのと同時に輸入食品業務部へ異動となり、突然|神戸《こうべ》への赴任を命じられた。  それは史也にとっても意外な人事であったろうが、真由子にとってもちょっとした誤算だった。大学時代の四年間の交際を経て、真由子としてはことしの暮れには史也と結婚したいと思っていた。最近では結婚しても働きつづける女性のほうが多そうだが、真由子は逆で、最初の何年かは「新婚奥さまライフ」にどっぷり浸《つ》かってみたいと思っていたのだ。  もともと仕事と家庭を両立させられるような器用な性分ではなく、ひとつのことを不器用なまでに一生懸命打ち込むタイプだったから、それならば彼のためにつくす人生があってもいいと真由子は考えていた。およそ昨今の女性とは思えない、えらく古典的な「つくすタイプ」の女だと、真由子は自分のことを分析していたのだ。  だから大学を出ても企業に就職はせず、以前からときどき手伝っていた叔父の写真スタジオに契約社員という形で勤めさせてもらった。これならいつでも自分の都合で辞められるという計算があったからだ。  ただ、真由子は史也との結婚を決心したことを、両親にはまだ打ち明けていなかった。真由子の父・滋夫《しげお》も母の千恵《ちえ》も非常にオープンな性格で、なんでも話せるタイプだったから、真由子は史也との交際も隠してはいなかった。だが、両親はそれをたんなるボーイフレンドのひとりと思い込んでおり、そこから一歩踏み出した存在であるという捉《とら》え方はしてくれていなかった。  父・滋夫の口癖はこうだった。 「なあ、真由子。男性経験が豊富というのは、決して悪いことではないぞ。それを不道徳とか淫《みだ》らだというのは、女を独占的に所有したい男の、ご都合主義に満ちた言い分だ。女にばかりモラルを押しつけておいて、じゃ、男どもはどれほど勝手な遊び方をしているんだ、とパパは言いたい。これからは女の子も、いっぱいいろんな男と遊んで、その中からベストパートナーを見つけだす時代なんだ」  そんな父親の言葉を女友だちに話したら、「理解しすぎで、真由子のパパはキモイ」などという反応が返ってきたが、実際、ガンコおやじも困りものだが、話がわかりすぎるのも油断はならない、と真由子は思っていた。  母の千恵も、「真由子ちゃんはまだまだ男を知らなすぎるわ。もっと社会勉強を積まなきゃね」などと言う。しかし、その理解あふれる言葉の裏には、まだまだひとり娘を手放したくはない、という親の心理が見え隠れしているようにも感じられた。  父も母も、新谷史也とは何度も会っている。彼を入れてバーベキューの卓を囲んだこともある。だから史也のほうは、すっかり滝家に溶け込んだ気分になっていたが、両親をよく知る真由子は、必ずしもそこまで安心はできないとみていた。つきあっている恋人という段階では彼を歓迎しても、いざ史也が「真由子さんと結婚させてください」と申し込んできたら、とたんに態度を豹変《ひようへん》させる気がした。とくに父のほうが。  それで真由子は、なんとなく結婚の話を切り出しにくくなっていた。    そんなときに、史也の神戸転勤の話が降ってわいてきた。  史也によれば、最低でも五年は向こうにいることになるらしい。二年ぐらいまでなら、東京—神戸の遠距離恋愛も悪くないと思ったが、五年となるとそうもいかない。それに単身で神戸に赴任してからの史也は、東京での独り暮らしとはまったく別の淋《さび》しさが募ってきたらしく、しきりに真由子を呼び寄せようとする。そして、いままではっきりと切り出してこなかった結婚話を、具体的に進めようとしてきた。  もちろん真由子にとって、結論は決まっている。神戸だろうとアフリカだろうと、史也の行くところなら、どこへでもついていく、と。真由子にとっては、史也との暮らし以外の別の選択はまったく考えられなかったから、その点の迷いはなかった。  だから史也から「いっしょになる時期をはっきりしたい。できれば一年以内に」と、四月のなかばに言われたとき、真由子は「うん」と即答した。  即答してから、心の片隅に「それでだいじょうぶ?」と疑問をささやく自分の声が聞こえてきた。  ひとつは親の問題だった。  改めて結婚相手として史也を紹介したら、突然、親の反応が変わる気がした。真由子は父も母も大好きだったから、その大好きな両親から厳しいことを言われる自分の姿を想像しただけで胸がどきどきしてきた。  もうひとつは、意外にも写真スタジオの仕事が面白くなってきたことである。当初は結婚までの腰掛けのつもりだったものが、世の中にこういう世界があったんだと、真由子の好奇心を大いに刺激しはじめていたのである。「いいなあ、真由子はしょっちゅう芸能人を見られるんだ」という友だちの反応も、ちょっと真由子の優越感をくすぐった。  どんなに夜遅くても「おはようございます」という挨拶《あいさつ》を交わす芸能界のしきたりにも慣れてくると、なんだか自分が「一般人」とは別の世界に住む人種だと思えるようにもなってきた。そして、ときにはこんなグチを史也に洩《も》らすようにもなっていた。 「最近、大学時代の友だちと会うと、いっつも同じことをきかれるんだよね。『ねーねー、あの芸能人とも話ができるの?』とか、『あのタレント、ふだんはどんな感じ?』とか、『サインもらえないかなあ』とか。そういうの、疲れると思わない?」  すると史也は、 「おれも同じことききたかったんだけどね」  と言った。そこにちょっとだけ嫉妬《しつと》のようなものが混じっているのを感じて、真由子はハッとなった。  史也の反応をみて、真由子は自分の心に芽生えたマスコミ業界志向を認めずにはいられなかった。そして、大学を卒業するまでは考えたこともなかった、働くことの面白さを認識しはじめた自分にも気がついた。史也と結婚して、ただの奥さんになって東京を離れれば、刺激的ないまの世界から遠ざかることになる——その淋しさのシミュレーションが、心の中で徐々に具体的な形を取りはじめていた。  五月中旬の週末、史也に呼ばれて神戸へ行き、ふたりで大阪のUSJへ遊びにいったころの真由子は、そうした心理状態だった。   「今晩、もちろん泊まっていくだろ」  ひとしきりアトラクションで楽しんだあと、施設内の一角にあるカフェへ休憩に入ったとき、史也が切り出した。 「うん、泊まっていくよ」  アイスコーヒーに入れたクリームをかき混ぜながら、真由子はうなずいた。  当然、真由子もそのつもりできた。親には、神戸にいる女友だちの家に泊まると言ってある。昔と違ってケータイ時代は、いちいち相手の連絡先などを親に伝える必要がないので、ウソをつくには便利だった。それに史也が神戸へ転勤になったことは、まだ父にも母にも話していなかった。だから、なおさら疑われることはない。  しかし、これからたびたび関西へ泊まりに行くようになったら、友だちの家という弁解も通用しなくなるだろうな、とは真由子も思っていた。 「じゃ、ゆっくり話そうな。将来のこと……っていうか、近い将来のこと」 「そうだよね」  真由子はにっこり笑い、いまのアトラクションで濡《ぬ》れた髪の毛を手で梳《す》いた。  史也と離れているときは、親の反応や仕事のことなどいろいろな問題が頭に浮かんでくるが、こうやって最愛の彼からじかに結婚の話を持ち出されると、やっぱり迷いは吹っ切れると思った。 「結婚したら、当分の間は須磨にある社宅に入ることになると思うんだよな、団地形式の。ほんとは自分たちの新居を持ちたいけど、まだマンションを買ったりする金もないしさ」 「うん、それでいいよ」 「社宅といっても、団地ぜんぶがウチの人間で占められているわけじゃなくて、団地の中の一部分だけで、それも部屋の並びとかはバラバラだから、そんなに気兼ねをすることはないと思うんだ」 「だいじょうぶだよ。あたし、人づきあいって、あんまり苦にならないから」 「そうだよな。マユはいい意味で鈍感だからな」 「もー!」  真由子はアイスコーヒーのカップからストローを引き抜いて、それで史也をぶつまねをした。 「なんだよー、鈍感っつーのは」 「だってさ、マユは宿屋の女将系でもホステス系でもないだろ」 「なにそれ」 「人づきあいが苦にならないのと、人あしらいがうまいのとは別ってことだよ。マユはね、宿屋の女将さんやホステスみたいに、人あしらいがうまいのとは違うんだ。女将さんっていうのは、人一倍気が利かないと務まらないだろ。そういうタイプじゃないもんな」 「たしかに、気は利かないと思う」 「それからホステスの人あしらいのうまさは、やっぱ心理学に裏打ちされた話術だと思うんだよ。でも、マユはとろ〜いからさ」  史也は「とろい」という単語を、思いきり長く引っぱった。 「話のうまさで人を惹《ひ》きつけるタイプでもない」 「言えてる」 「だけど、けっこう人気あるもんな、おまえ」 「えへへー」 「えへへー、じゃねえよ」  こんどは史也が自分のストローで真由子をぶつまねをした。 「とにかくマユは超すなお人間だから、人の言葉の裏に何か隠されているんじゃないかっていう深ヨミはしないし、仮に意図的なものがあっても、それに気づかない鈍感さのおかげで、人間関係のストレスが少なくてすむんだよ」 「ほめてんの、けなしてんの」 「ほめてるに決まってるだろー。何百回も言ってるじゃないか、おれはおまえの、人を疑うことを知らない純粋さがすごく好きなんだって」 「それって、バカとおんなじとちゃうの?」 「ちゃう、ちゃう」 「ほんと?」 「ほんとだってば」 「あたし、これでもけっこう人を疑うタイプなんだからねっ」 「はいはい、わかりました」  頭を下げてから、史也はまた話題を元に戻した。 「ところで結婚式は、こっちの教会でやるのがいいんじゃないかと思っているんだよな。北野町にある教会。そして二次会を、ウチの会社の顔が利く外国人|倶楽部《クラブ》でやるんだ。どうかな、マユの意見は」 「いいよ。あたしは史也が決めてくれたプランならなんでも」 「おれ、早く見たいんだよなあ」  史也は、まじまじと真由子を見つめて言った。 「マユのウェディングドレス姿をさ」 「似合わないよ、きっと」 「なんでだよ」 「なんでかわからないけど、ああいう改まった服装ってむかないんだよね、あたしには」 「服装って言うかよ、ウェディングドレスのこと」 「言う」 「ふーん、まあいいけど……。でも、ウェディングドレスじゃなきゃどうするんだ。言っとくけど、和風の花嫁姿は、マジで似合わないと思うよ」 「タッパありすぎだもんね」 「文金高島田のカツラつけたら、もっと背が高くなるしな」 「だけど、いよいよ結婚かあ」  ストローをまたアイスコーヒーのカップに戻し、それで氷を回転させながら、真由子はつぶやいた。 「いわゆるゴールインってやつだよね」 「なんだよ、ゴールインしたくないのか」 「じゃなくて」 「じゃなくて?」 「あたしたちの恋人時代が終わっちゃうのかと思うと、なんかねー」 「どうして終わるんだよ」  歯磨きのCMに使えそうな白い歯を見せて、史也は笑った。 「結婚したから恋人関係が終わるっていうのは、昔の人間の感覚だろ」 「でもさー、釣った魚にエサはやらないって、よく言うし」 「言わねえよ」 「言うよ」 「おれは言・い・ま・せ・ん」  一語一語区切りながら、史也は強調した。 「ほんとに?」 「ほんとだよ。おまえ、たしかに人を疑うタイプだなあ。知らなかったよ」 「疑うっていうか、あたし、心配なんだよ」 「なにが」 「ほんと心配なの」 「だから、なにがだって」 「あたしは史也の専属の恋人でいたいの。それが史也の奥さんになるって意味なの」 「それでいいじゃん」 「でも、いまのゴールインって言葉が引っかかった。ゴールのあとは発展ないもん」 「ンなことはないって」 「考えてみれば、あたしって高二のときに史也に会ってから、史也以外の男にぜんぜん目もくれなかった」 「そりゃ、おれよりいい男なんかめったにいないからな」 「だけど、ほかの男と比較したことないんだもんね」  と言いながら、真由子は混みあっているカフェの店内を見回して、男を捜すポーズをとった。遊び場には似つかわしくないスーツにネクタイ姿の、ちょっと「いい感じ」の若い男がコーヒーを飲んでいた。 「おいおい」  史也は真顔になった。 「それじゃアレかよ、新谷史也が結婚相手として最適かどうか、改めて再検討の段階に入ったってわけ?」 「うん」 「マジかよ」 「あわてない」  真由子は右手をピッとまっすぐ史也のほうに伸ばして、ストップの格好をした。 「史也よりいい男を捜そうとしているんじゃないから」 「じゃ、どういうことだよ」 「史也がやっぱり最高だって確認できるプロセスがあたしには必要みたい」 「え?」 「史也があたしにとって理想のカレシであることは絶対に間違いないと思うし、もっといい人がいたら、なんて欲張りな考えは持ってないよ。でも、逆に言うと、史也にめぐり逢《あ》えた幸せに甘えきっちゃって、史也のありがたみがちゃんとわかってないかもしれない」 「そんなもん、改まってわかんなくてもいいよ」 「ううん、わかりたい」 「それで」 「お見合いする」 「お見合い!」  史也はびっくりして、周囲の客がふり向くほどの大きな声を出した。近くにいた例のスーツ男が、チラッとふたりのほうを見た。 「そう、お見合い」  とうなずきながら、じつは真由子自身、自分の発した言葉に驚いて、クリームでベージュ色になったアイスコーヒーを、意味もなくストローでぐるぐるかき回した。  少なくともこのアイスコーヒーにクリームを入れたころまでは、お見合いなんて発想も単語も、まったく頭の片隅にすら浮かんでいなかったのだ。それなのに、気がついてみたら、その言葉を口に出していた。 (落ち着け、落ち着け)  真由子は自分に言い聞かせた。 (へりくつ、へりくつ)  お見合いを持ち出した理論武装をしなければ、と必死に考えた。 「なあ、なにかそういう話が親のほうからきてるのか」  史也は急に不安そうな顔になって問い質《ただ》してきた。 「べつに、そういうんじゃないけど」 「ちゃんとおれのことは言ってあるんだよな」 「え?」 「だから、お父さんやお母さんに、新谷史也はただの恋人じゃなくて、私が結婚する相手なんです、ってちゃんと伝えてあるんだよな」 「親だって、わかってるに決まってるじゃん」  結婚に伴う自分の微《かす》かな揺れを見抜かれた気がして、真由子はいつになくうろたえた笑顔を浮かべた。 「わかってるに決まってるじゃん、じゃなくて、ちゃんと親に報告してあるんだろ、って確認をしたいの、おれは」 「ああ、うん……してるよ」  ウソをついた。  高二で初めて彼と出会ってから六年目、恋人としてつきあってから四年数カ月目にして初めて「まずいウソ」をついた。ご愛嬌《あいきよう》のウソなら何度かあるけれど、気まずい味わいのするウソを大好きな史也についたのは初めてだった。  その自分の裏切りに、真由子はまたうろたえた。 「心配しないでよー、そんな顔してさあ」  仕方なしに、真由子はわざとらしく笑った。 「そういう深刻な顔はUSJに似合わないぞお」 「USJは関係ねえよ」  まだ史也は、もとの表情に戻らない。 「おれがフィアンセとして決まりなら、なんで真由子の口からそういうお見合いなんて言葉が出るんだよ」 「だって出ちゃったんだもん」  言いながら、こういう開き直り方があるのか、と真由子は自分であきれていた。 「あたしの深層心理のどこかに、お見合いへのあこがれがあって、それがパッて出ちゃったのかな」 「なんでそういう深層心理があるんだよ」 「だからあ、ようするにーぃ」  いろんな言葉を使って引き伸ばすよりない。いい考えが頭に浮かぶまでは。 「ほら、よく聞くじゃん」 「なにを」 「お見合いにくる男って、いいのが残ってないよねー、って」 「それで?」 「まゆこ、こないださ、電車の中でも聞いてたんだ。三十まぢかだぞ、って感じの女の人がふたりで話してるの。お見合いでもしようかなー。でも、お見合いにくる男って、ロクなのがいないよねー。ようするに売れ残りだもんねー、って」 「それで?」 「こんなことお見合いで結婚した人には言えないけどさあ、あたしもそれはアタリかな、って思ったりするんだ。いまどき恋愛しないでお見合いに頼る男って、なんかアブナそーじゃない」 「それで?」  史也はまだ真顔で先をせっつく。 「だからね、まゆこね、どうせならぶっさいくな男とお見合いしてみようかなって思ってるの」 「はあ?」 「大好きな史也と結婚することに、あたし、ためらいもないし、思い残すこともないよ」  ついさっき「ゴールイン」という言葉にこだわっていたことなどすっかり忘れたように、真由子は言った。 「だけどね、たったひとつだけやり残すことがあるとしたら、それはお見合いだと思うんだ。だって、あたし、まだ一度も経験ないんだもん」 「いいじゃないかよ、そんなもの経験しなくて」 「だけど、なんか面白そーじゃん」 「どこが」 「あのね、むっちゃくちゃダサい男とお見合いすんの。それでね、そのお見合いの席で幸せを実感するんだわあ。あー、こんな男と結婚する星のもとに生まれなくてよかったあ、史也とめぐり逢えて、ほんとによかったあ、って」 「おまえ、なんてこと考えんの」  史也はあっけにとられた顔で言った。 「それじゃ、最初から遊びでお見合いするわけ」 「そー。両方必死なお見合いって、なんだかキモイじゃん。できるだけ向こうはマジでくる人を選んで、こっちは余裕だよ〜ん、ちゃらら〜ん、って感じで会うのよ。そうすると、いろんな人間観察ができると思うんだ」 「ふーん」  警戒心をあらわにしていた史也も、少し興味をそそられた表情になってきた。 「そうかあ、余裕のお見合いかあ」 「ね、面白そうでしょ」 「たしかに」 「あ、そういえば」  真由子は急に思い出した表情で、くりっとした目を見開いた。 「史也って、いつか小説の新人賞に応募したことなかった?」 「ああ、マユとつきあうずっと前な。大学二年のころだよ」 「コーヒーショップのマスターと、バイク好きの青年と、バレリーナ志望の女の子が織りなす、ちょっとアダルトな三角関係ってやつだっけ。わりとエッチなベッドシーンも多かったりして」 「あれ、読ませたっけ」 「読ませたじゃ〜ん。で、なんだかんだあって、最終的に主人公の青年は、彼女をマスターにとられちゃうの。しかも最後は、泣きながら北海道の原野を時速百二十キロでバイクかっ飛ばしてて、突然牧場から逃げ出してきた馬をよけようとして急ハンドル切ったら、電柱に激突して死んじゃうの」 「おまえ、よく覚えてんなあ、そんな細かいところまで。書いた本人が忘れてるのに」 「だって、画期的につまんないストーリーだったんだもん」 「このやろ」 「ねーねー、そんなのより、あたしのお見合い経験をネタにしたら、面白いかもよ」 「………」 「ね、悪くないでしょ」 「もういいよ、小説の新人賞は。どうせ予選で落ちるんだから」 「ちがうの。売り込み先はテ・レ・ビ」 「テレビ?」 「そう。これでもまゆこ、顔が広いんだよ。芸能界に」 「ウソつけ」 「ウソじゃないも〜ん。スタジオのバイトで、けっこうテレビ局のDやプロダクションのマネージャーさんとなかよくなったんだから」 「テレビ局のDってなんだよ、Dって」 「ディレクター」 「ふ〜ん」 「だからさー、まゆこのお見合い経験をもとに、面白いテレビドラマの台本書いたら、あたし、一生懸命売り込んじゃう。タイトルはね、もろ『お見合い』」 「お見合い……」 「うん。ストレートで、それでいてレトロで、けっこうウケると思わない」 「かもしんないな」 「人気タレントをブッキングして、月九《げつく》の連ドラでバーンとレーティング取ったら、新谷史也、サラリーマン生活なんかしてらんないぞー」 「あのさ『ゲツク』ってなんだよ、ゲツクって」 「月曜九時からのゴールデン枠のドラマのことだよ」 「ふ〜ん」  史也はちょっと複雑そうな顔で、唇をとがらせた。 「なんかおまえ、やたら芸能界っぽくなったんとちゃう?」 「そーゆーのはね、『芸能界っぽい』って言わないの。『業界っぽい』って言うの」 「あ、そ」 「でも、どう? いけてるアイデアでしょ」 「ああ、たしかにね」  史也は、また笑顔を取り戻した。 「じゃ、なるべく不細工で冴《さ》えない男と見合いしろよ。どうせなら、そのほうがドラマになる」 「とかいって、ハンサムな男とお見合いしたら妬《や》くんでしょ」 「まあな」 「だいじょうぶ。顔だけよくたって、史也よりすてきな心の持ち主なんて、この世の中に絶対いないんだから。男は顔じゃないぞ。心だぜい」 「ほめてんのか」 「ううん」  真由子は首を横に振って答えた。 「けなしてるに決まってんじゃん」  そして、ふたりは大笑いした。ほかの誰ひとりとして入り込むことができない、恋人どうしの会話—— 「ねえ、もう五時だよ」  腕時計を見て、真由子が言った。 「これぐらいの時間帯から、アトラクションは空《す》きはじめるんだって。まだいくつか見られるから行こうよ。3Dの『ターミネーター2』とか『ウォーターワールド』なんかもまだだし」 「オッケー。じゃ、行くか」  残っていたアイスコーヒーを一気に飲むと、ふたりは席から立ち上がった。 「いまの話、決まりでいいよね」  トレイを片づけながら、真由子が念を押した。 「あたしがほんとにお見合いしても、史也、怒んないよね」 「怒るどころか笑っちゃうよ」  史也も、最後はすっかりその企画を楽しみにしている顔になった。  そしてカフェを出ると、ふたりはなかよく手をつないでアトラクションへ向かう人ごみの中へとまぎれていった。    映画なら——  そう、映画ならばクレーンに載せたカメラをぐーんと引きながら、新谷史也と滝真由子の仲睦《なかむつ》まじげな姿を群衆に溶け込ませ、USJの俯瞰《ふかん》画面から五月の空をアップにするところだ。  澄み切った青から徐々に茜色《あかねいろ》へ染まりゆく美しいその空は、しばらくの間は平和な夕焼け雲をぽっかり浮かべていることだろう。  だが突然、不気味に速度を上げて雲が流れはじめ、同時にみるみるうちにぜんたいが黒ずんでゆくのだ。そして最後には、とぐろ巻く黒雲の中を稲光が走る、暗黒世界への場面へと切り替わるはずである。 [#改ページ]    二 写真の男  そんな偶然があっていいものだろうか、と神戸から帰ってきた滝真由子は、母親の笑顔を前に愕然《がくぜん》となっていた。 「ねえ、これもひとつの人生経験だと思うのよ」  母の千恵は、にこにこしながらリビングのテーブルに置いた純白のアルバムを指さした。アルバムといっても薄手のファイルで、上質光沢紙で作られたA4サイズのものである。それを開けば、ひとりの男の写真とプロフィールが入っている。  お見合い写真——  そう、まさに真由子の思いつきを見抜いて先回りされたかのように、東京に戻ってきた彼女を待ち受けていたのが、親戚《しんせき》筋から持ち込まれた見合い話だった。  しかも、親戚といっても遠縁ではない。ほかでもない、真由子が働いている先の叔父・陽夫《はるお》の妻・静子《しずこ》から持ち込まれた縁談なのだ。 「あのね、真由子」  真っ白なアルバムをなかなか開こうとしない真由子に向かって、母は説明をはじめた。 「あなたが陽夫さんのところで働きはじめてまだ二カ月だけど、叔父さん、とっても真由子のこと気に入ってくれてね。もちろんあなたのことは小さいころからよく知っていたけれど、こんなに素直で気だてのいい子に育っていたとは知らなかったって、ものすごく感心してくれているのよ」 「あ、そりゃどうも」 「静子さんもね、だらしない若者ばっかり目につく時代にあって、マユちゃんは天然記念物みたいに貴重な存在だわって言ってるの」 「あたしゃトキかよ」 「まじめに聞きなさいね、マユちゃん」 「はいはい」 「それで、静子さんがどうしてもいい人を紹介したくなったんですって。それであなたが神戸のお友だちのところへ行ってる間に、このお話を持ってきてくださったのよ」 「………」  真由子は、黙って白い扉のアルバムを見つめていた。  どちらかといえば田舎の人が多い滝家の親族の中で、叔父の陽夫と静子夫妻は、都心でスタジオビルを経営しているだけあって、そのセンスの良さは群を抜いていた。とくに義理の叔母にあたる静子は、吊《つ》り上がった目がちょっと恐そうだったが、とても四十なかばに差しかかっているとは思えない知的な輝きを持った人で、ひそかに真由子はあこがれていたのだ。自分も静子さんのように、頭のよさそうな人になりたいな、と。  だから、その静子おばさんが選んできた見合い話となると、これは、ひょっとするとひょっとするぞ、と妙に緊張した。なんといっても芸能人を見慣れた叔母である。いい男を山ほど見ている肥えた鑑賞眼で選んだ人物となれば、「お見合いにやってくる男はイモばかり」などという法則は当てはまらないはずである。 (どうしよう)  真由子は本気で心配しはじめていた。 (史也よりカッコいい男だったらどうしよう)  いきなり真由子の脳裏に、史也に向かって涙ぐみながら謝っている場面が浮かんだ。   (ごめんね、史也)  ぽたぽたと涙を床に落としながら、うつむいたまま告白している自分がいた。 (こんなふうになるとは思ってもみなかったの。お見合い相手を本気で愛してしまうことになるなんて) (………)  史也は憮然《ぶぜん》とした顔で真由子を睨《にら》みつけている。 (あたしにも信じられないの。ここまで急に自分の気持ちが変わっちゃうなんて。自分で信じられないよ。あたしには史也しかいない。史也以外の男の人を愛することがあるなんて、絶対に百二十パーセントありえない、って思ってた。でも、ありえないことが起きちゃったんだよ) (ようするに、滝真由子にとっては、男の見た目がすべてだった、ってことだよな)  憤然とした口調で、史也が言った。 (おれもね、背の高さと脚の長さじゃ、そこらの男には負けない自信があるよ。でも、顔は並みだからな。それでもマユは、いっつも言ってたじゃないか。男は顔じゃないよ、心だよ、って。おれはさ、その言葉を信じて、真心を込めてマユを愛してきたんだぜ) (わかってる) (わかってたら、どうしてこんなことになるんだよ) (………) (え、説明してくれよ) (むり) (むり?) (なんでこうなったか説明できない、ってこと) (説明できない、じゃねえよ。自分の本心を言うのが恥ずかしいんだ。ホンネは、顔のいい男が好きでした、ってことだろ。けっきょくおまえなんて、ただの面食い女じゃないかよ、バカヤロー) (………) (最初っからな、おれはヤな予感してたんだよ。おまえがスタジオで働きはじめたときからな。芸能人とかモデルとか、そういうチャラチャラした連中ばっかり出入りするところにいたら、おれみたいに食品会社に勤めている男なんて、地味でダサくて、ぜんぜんつまんねえ存在にみえるだろうな、って、危惧《きぐ》してたんだよ。わかります? 危惧って言葉、あんた) (ごめんね) (へーえ)  イメージの中の史也は、どこまでも突《つ》っ慳貪《けんどん》だった。 (謝ったら、おれが理解するとでも思ってんの?) (思ってないけど、ごめんね) (思ってないんだったら謝んなよ、うぜえから) (……はい) (森中公一《もりなかこういち》か)  なぜか史也は、やけに具体的な名前を口にした。そして不思議なことに、その字面までがはっきりと真由子の脳裏に浮かんできた。「森」「中」「公」「一」—— (じゃ、おまえは新谷真由子じゃなくて、森中真由子になるわけか。そうですか。それはそれはおめでとうございます。森中さんの奥さま) (やめてよ、史也!)  つらくなって、真由子は叫んだ。 (あたし、そんなつもりじゃなかったんだから) (そんなつもりじゃなかったなら、どんなつもりだったんだ)  いつのまにか、史也は純白のお見合い写真アルバムを手にしていた。 (たしかにいい男だよ)  アルバムの表紙を開いて、その陰に顔を隠した状態で史也は言った。 (タレントかい、それともモデルかよ。まいりましたね、このハンサムなお兄さんには。負けましたよ、おれは。ケッ、ばかやろー)  いきなり史也は、お見合い写真を真由子に向かって投げつけた。  顔に当たって床に落ちたその写真を見ると、信じられないほど美形の男だった——   「ちょっと、真由子」  母親の声で、真由子はハッと我に返った。 「あなた、ちゃんと話聞いてるの?」 「あ、ごめんごめん、聞いてる、聞いてる」  頭の中に突然|湧《わ》き上がってきた史也との修羅場のイメージをしまい込んで、真由子は現実に戻った。 「それで、なんだっけ」 「なんだっけ、じゃないでしょう。とにかくこれを開けてごらんなさいな」  母の千恵は、純白のアルバムを指さした。 「釣書《つりがき》も入っているから」 「なに、釣書って」 「プロフィールよ」 「ふうん、プロフィールね。なんかタレントみたい……なーんて、パッと開けたら、ほんとに超有名なタレントさんだったりして」 「そんなバカなことはありませんよ」  千恵は、真由子の想像を打ち砕くようにあっさり言った。 「芸能人との結婚なんて、いくらなんでも静子さんが持ってくるもんですか。仮にきたって、お断りよ」 「あ、そうなの?」 「あたりまえでしょ」 「まゆこが大スターの新妻になったりしたら、お母さん、うれしくない?」 「うれしいもんですか。芸能人の結婚なんてね、いつだって離婚とセットになっているんだから。ウチの可愛《かわい》い一人娘をそんな悲しい目に遭わせるわけにはいきませんよ」 「へー、とりあえずはあたしのこと、可愛いと思ってくれてるんだ」 「四の五の言わないで、早くごらんなさい」 「へい、へい、かしこまりやしたっと」  おどけた返事をしながら、じつは真由子は内心で胸の高鳴りを感じていた。  たったいま頭の中に湧き上がった空想のように、史也が嫉妬《しつと》するくらいの男であったらどうするんだ、と自問自答した。すでにお見合い写真の中身を見ているはずの母親が、これだけ自信満々に薦めるのだったら、相当いい男であるのは間違いない。もしかすると史也を裏切ってしまうような展開が現実のものになってしまうのだろうか——そんな期待と不安が交錯しながら、真由子はお見合い写真の扉をそっと開いてみた。  写真の上にはもっともらしく、薄手の和紙がかぶせてあった。なんとなく下の写真は透けて見えるのだが、はっきりとした顔はわからない。  母親が見つめる前で、真由子はその和紙をそっとつまんで右に開いた。  スーツを着て、ちょっと斜に構えた男の上半身が現れた。 「………!」  自分の目が丸くなるのが、自分でわかった。  そしてつぎに爆笑が込み上げてくるのを抑えきれなかった。 「たはははー!」 「なにが、たはははー、よ」 「だって、お母さん、この人」  真由子は笑いが止まらなかった。 「ひどすぎるうううう」  現れたのは、ゆでたまごのような楕円形《だえんけい》の輪郭をした男だった。輪郭だけでなく、顔の造作も、むき身のゆでたまごのようにツルッとしている。  髪の毛は決して薄くはないのだが、上に行くほど尖《とが》った感じの顔立ちゆえに、正面から見ると、頭髪の面積が極端に少なく見える。眉毛《まゆげ》も決して薄くはないのだが、まるで製図用のペンで描いたように細く、楕円の弧のようにカーブしていた。  目は吊《つ》り目で、いわゆるキツネを連想させるタイプ。そして鼻は、ゆでたまご型の顔の中でもっとも凸面のピークに位置するため、やけに目立って見えた。  唇は薄く、両端がくいっと持ち上がっているために、気取った顔をしても笑っているように見えた。 「キモ〜い、この人ぉ」  笑ったあと、こんどは眉毛を下げて真由子は嘆いた。 「なんでこういう人がきちゃうわけえ」 「あのね、真由子、男は顔じゃないのよ」 「それは誰かも言ってましたけどね。でも、いくら男が顔じゃないといったって、滝真由子・人生初のお見合い相手がこれじゃ、あんまりだー」 「そんなにひどいかしら」 「ひどいなんてもんじゃないよお」 「正直言うとお母さんもね、これはないでしょうと思ったの」 「もしもし」  真由子は母親に向かって、伏せた手をパタパタさせた。 「あなたはそれでも私の保護者ですか」 「静子さんも、もうちょっとマシな人を選んでくるだろうと思ったけどねえ」  母の千恵は、片方の頬《ほお》に手を当てて吐息を洩《も》らした。 「だけどねえ」 「だけど、なんなのさ」 「せっかく太鼓判を押して持ってこられた見合い話を、むげに断っても角が立つじゃない。そりゃ、お母さんの親戚《しんせき》筋だったら言いやすいわよ。でも、お父さんのほうだし」 「じゃ、お父さんから言ってもらってよ。不細工にも限度がありますぜい、って」 「でも、陽夫叔父さんが持ってきた話ならいいけど、静子さんでしょう」 「おんなじじゃない。夫婦だよ」 「夫婦といったって、静子さんはけっきょく滝家の血筋ではないわけだから、やっぱりお父さんとしても気をつかうと思うのよねえ」 「するとなんですか、うちのお父さまとお母さまは、親戚づきあいのためなら一人娘に犠牲をしいてもかまわないと」 「うん」  母は真顔であっさりうなずいた。  こういうギャグの遺伝子が真由子にも伝わっているらしいのだが、いかんせん、この状況では真由子も笑ってはいられなくなった。 「あのねえ、お母さん、じつはまゆこも思っておりました。あたくしも妙齢の美女でございますから、いちどはお見合いなるものをしてみたいなというふうに。両家の両親が付き添うまでのおおげさなものではなくても、お見合いの仲立ちに立ってくださった方を交えて緊張した顔合わせがあって、そのあと仲介者の方が『それでは、あとは若いおふたりだけで。おっほっほ』と高笑いをしながら席をはずす、あのトラディッショナルなパターンを踏んだお見合いを体験してみたいものだと思っておりました。でも、これはバツ」  真由子はお見合い写真をテーブルの上に戻すと、両手を顔の前で大きくクロスさせて×の字を作った。 「小説のネタにするにしてもバツ」 「小説のネタ?」 「あ、いえいえ、それはこちらの話」 「でも、とにかく写真ばかりでなく、釣書のほうを見てごらんなさいな」 「どうせ一流大学を出てるんでしょ」 「ピンポーン」 「そんで、一流企業に勤めているんでしょ」 「ピンポン、ピンポーン」 「んもー、軽い親だなあ」  真由子は天井を仰いで嘆息した。 「それでいくつなの、この人」 「自分で見なさいな」 「いいから、お母さん、もう知ってるんなら教えてよ」 「自分で釣書をごらんなさい。この写真の後ろに入っているから」 「お・し・え・て」 「じゃあ言いますけど、気をたしかに持って聞いてね」 「おいおい、なんだいそれは」 「気を失っちゃ、やあよってこと」 「わかった。まゆこ、ピンときた」 「なによ」 「すんげー年なんだ」 「まあね」 「何歳よ」 「何歳にみえる?」 「う〜ん……あ、パッて数字が浮かんだぞ。三十三!」 「ブッブー。四十三」 「………」  真由子は凍りついた。  年齢そのものも驚きだが、四十三歳に見えないところも驚きだった。といって、決して若々しいのではない。若作りで四十三なら、むしろ好感を持った驚きになっただろう。だが、四十代とは思えぬ知性のなさ……いや、理性のなさとでも表現すべき幼稚さが、そのゆでたまご男の風貌《ふうぼう》に漂っていたので引きつったのだ。  三十秒以上は間を置いてから、真由子は言った。 「まじですか、お母さま」 「まじですわ」 「どうしてよー!」  こんどは怒りが込み上げた。 「静子おばさん、なに考えてんのよ。お見合いっていうのはさあ、女に幸せをもたらすためにやるもんだろー。これじゃ、不幸を約束されたようなものじゃない」 「真由子、落ち着きなさい」 「いやっ、興奮してやる」 「あのね、静子さんの顔を立てて、一回だけ会ってくれればいいのよ」  母はなだめすかすように言った。 「お母さんだって、なにも真由子をこういう人のところへお嫁にやりたいとは思わないわよ。忘れないでね、真由子。お見合いというものは、なにも必ず話をまとめなきゃいけないというものではないの」 「あったりまえだい」 「とくに女のほうはね、自分から断る権利はじゅうぶんにあるのよ。ほらテレビのねるとんとかナントカ、そういう番組だってそうでしょ。男から断るのはちょっと相手を傷つけたりしてつらいけど、女が断るのはなんの問題もないんだから。相手がよろしくお願いしますって、手を差し出してきても、『やっぱりごめんなさい』って、頭を下げればいいんだから」 「それぐらいわかってるよ。そういう問題じゃなくて、会う前からNGだよ、こんな人」 「会う前からNGでも、練習と思って」 「なんの練習よ」 「お見合いで断る練習よ」 「は?」 「お父さんもお母さんも、一回や二回のお見合いで、真由子のだんなさんとしてピッタリの人に出会えるとは思ってないの。それほど甘い見通しは持ってません。いずれにせよ、真由子はお見合い話をお断りするという場面にこれから何度か出会うはずなの。それに慣れておかなくちゃ」 「お母さん」 「断るといってもね、あなたが相手の男の人に直接言う必要なんかないのよ。こんどの場合でいえば、静子さんにお断りを入れればいいんだから」 「お母さんてば」 「真由子から言いにくければ、お母さんから静子さんに伝えてあげるし。……ね、そういうやり方があるから、お見合いっていうのはダメなときの打ち切り方も、とっても事務的でいいの」 「ちょっと、かーちゃん」 「恋愛だと、別れ話を切りだしたとたん、大もめにもめて殺人事件にまで至るケースも珍しくないけど、その点、お見合いは安心。だから気楽に考えましょうね」 「あのですね、お母さま!」  四度目の呼びかけのときは、真由子はかなり強い口調になった。それで、しゃべる一方だった母の千恵も黙った。 「うちは、娘を見合い結婚させる方針なわけ?」 「いいのよ真由子、恋愛はいっぱいしていいの」  また母はしゃべり出した。 「お母さんもお父さんも、恋愛は大賛成だわ。だけど、恋愛と結婚は別だから」 「うっそー!」  真由子は心底驚いた。  恋人として公認している新谷史也を結婚相手として改めて引き合わせたら、一波乱はあるかもしれないとは覚悟していた。ただ、それは娘が選んだ恋人を気に入るか、気に入らないかという問題であって、まさか親がお見合い優先主義だとは思ってもみなかった。この二十一世紀の世の中に、だ。 「あのね、真由子」  母は急に真剣な顔になった。 「お父さんが元気なうちはいいけど、いなくなったらあんた、頼る人はいなくなるのよ。そういうときに結婚相手がしっかりした男性じゃないと、女は悲劇よ」 「やめてよ、そういう五十年ぐらい前の感性を押しつけるのは」  真由子は憤然として言った。 「あたしはひとりぼっちでも生きていけるよ。自立するための仕事なんか、いくらでもあるんだから」 「若いうちはね。でも、年取ったらそうはいかないわ。よぼよぼのお婆さんなんか、誰が雇ってくれますか」 「お母さんは極端なんだよ、話の持っていき方が」 「極端にしなきゃ、真由子はわからないから極端にしてるんです。あなたがちゃんとした家庭を持って、元気な子供を作って、お父さんとお母さんを『おじいちゃん、おばあちゃん』と呼んでくれるようになったら安心して死ねるけど、そうじゃなかったら、お嫁にも行かない一人娘を置いて死ねますか」 「なにもあたしは結婚しないと言ってるわけじゃないでしょう」  真由子は、もうこのさいだから史也のことを切り出すべきかと思った。そして半分言いかけた。 「親に心配してもらわなくても、結婚ぐらい自分でできます」 「いいえ、真由子の若さで何がわかりますか。男を見る目は二十二、三じゃ養われないわよ」 「それじゃ、親が決めた男と結婚しろってえんですかい」 「またそうやって、真由子こそ極端に走る」 「どうしてよ。お母さんの話をまとめれば、けっきょくそういうことじゃない」 「ちがいます。お見合い経験を重ねながら、真由子に結婚相手にどういう人がふさわしいかを勉強していってもらいたいの」 「そんな勉強しなくたって、あたしにぴったりの人はわかってるから結構です」 「史也さんでしょう」 「………」  意外にも先回りされたので、真由子は黙った。 「わかってますよ、それぐらい」 「史也のこと、ワン・オブ・ザ・ボーイフレンズとしてみてたんじゃないの」 「とーんでもない」  母は首をゆっくり左右に振った。 「マユちゃんの考えてることなんか、お母さんにはぜーんぶお見通しよ。ああ、史也さんと結婚したがってるんだなって」 「そうしちゃダメなわけ?」 「ダメとは言いませんよ」 「じゃ、いいってことね」 「ほら、またそうやって極端に走る」 「ダメの反対はOKだと解釈して、それのどこが極端なんでえ。切れるぜ、まじに」 「可愛《かわい》い顔して、そういう乱暴な言葉は使わないのよ、マユちゃん。あなた、ただでさえ男勝りの背丈してるんだから、言葉遣いぐらい可愛くしなさい」 「史也はあたしより十センチも高いから、彼の前じゃ、いつだって可愛いまゆこよ」 「結婚相手を背丈で決めちゃダメ」 「だから、そんなことひとつも言ってないじゃん」 「言ったでしょう、いま」 「話になんねーよ、我が家のかーちゃんは」 「とにかく、まあ見なさいよ、釣書を」 「ちなみに身長は」 「いいからごらんなさい」 「あたし、ヒール履いた自分より背の低い男は絶対やだからね」  そう言いながら、真由子は写真の後ろに差し込まれていた、ゆでたまご男のプロフィールを抜き取った。 「だーめだ、こりゃ」  身長百六十五センチ、という数字を見て、真由子は即座に釣書を写真の後ろにしまい込んだ。肝心の男の名前すら確認しなかった。 「こういう男って、きっとあたしと会うときは、シークレットブーツでも履いてくるんだよ。それで座敷に上がったとたん、バレバレになったりして」 「ねえ、マユちゃん」  母は批判めいたため息を交えて言った。 「男を背丈で判断してはダメよ、って何回言ったらわかるの」 「お母さんはさあ、身長百五十だっけ」 「とんでもございません、失礼しちゃうわね。百五十二よ」 「変わんないじゃん、百五十も百五十二も。あたしから見たら、ミクロの差だよ」 「またそういう傲慢《ごうまん》な発言を」 「とにかくね、お母さんには背の高い女の悩みはわかりませんてば。すんげーデカい女だな、こいつ、って感じの視線を浴びたときの気持ちなんて、わかりませんてば。男よりも背が高いという、ただそれだけの理由で女らしくないと言われる女の悩みは絶対にわかりませんてば」 「そりゃわかりませんねえ」  千恵は、娘の怒りを軽くいなした。 「お母さん、真由子の脚を十センチぐらい切り取って、自分の短い脚に継ぎ足したいぐらいだもの」 「気持ち悪いこと言わないでよ」 「だってあなた、大学三年のときだったかしら、夜道をボケーッと歩いていたら、建設現場の足場か何かに頭をぶつけて、脳震盪《のうしんとう》起こしてしばらく気を失っていたってことがあったでしょう」 「最悪でした、あれは。気がついたら洋服も砂だらけになってたし、おまけにびしょ濡《ぬ》れ」 「あのときマユちゃんは言ってたじゃないの。あと十センチ背が低かったら材木が頭にぶつかったりしなかったのに、って。脚が長すぎるのも考えものだわねえ、って、お母さんの下半身をじろじろ見ながら、イヤミったらしくおっしゃいましたわね。十センチくらいあげようか、って」 「話をそらさないで。とにかくお母さんも知ってのとおり、あたしは本質的に超甘えっ子……っていうか、甘えたいっ子でしょ。そういうまゆこがゴロニャーンってしたくなったとき、やっぱり彼の胸に顔を埋《うず》めたいじゃない。逆だったらシャレになんないでしょ。あたしの胸に男が顔を埋めたりしたら」 「あはは」 「あはは、じゃないの。背の高い女にとって、そういう物理的な問題って、すっごく大切なのよ。あたしに平穏とやすらぎを与えてくれるのは、あたしよりずっとずっと背の高い人に限定されるの。もちろん内面的にもやさしくて包容力があることは絶対だけどね。そしてそういう心身両面の条件を、新谷史也という男の人は完全に満たしてくれているわけなんですぅ」 「では、それほど背丈が問題ならば、お母さんもつぎの手を打ちましょう」 「つぎの手?」 「はい、それではこちら」  真由子の母は、テーブルの下に隠していたもうひとつのアルバムを取り出した。見た目はまったく同じ、純白の輝きを放つ光沢紙で作られたものである。 「なによ、第二候補があったの?」 「そうよ」  母親はいたずらっぽい顔でふふっと笑った。 「じつはね、本命はこちらなの。人の輝きは引き立て役があってこそ、なんて静子さんも言っててね、前座の人には悪いけど、二組セットでお見合い写真をもらっていたの」 「なあんだあ。じゃ、あの四十三歳の人はダミー?」 「そういうことね」 「四十三歳というのもウソだったの」 「それはホント」 「本物のお見合い写真?」 「そうよ。あの人はあの人で、本気でお見合い相手募集中なの」 「ひえー。だからお見合いって、恐ろしいんだよなあ」 「でも、本命はぜんぜん印象ちがうと思うわよ。はい、どうぞ」  母の千恵は、お見合い写真を収めた第二のアルバムを娘に差し出した。  それを受け取った真由子は、最初のときと異なり、期待や不安などなしに、すんなりとその扉を開くことができた。さっきと違って、がぜんリラックスした気分で「お顔拝見」に臨むことができる感じだった。  写真に薄手の和紙がかぶせてあるところも、前と同じだった。 「こんどひどかったら、ほんとに怒るからね」  母親にじろりと威嚇の一瞥《いちべつ》を投げてから、滝真由子は和紙の紙をそっとつまんで開いてみた。 「うそ……」  真由子は小さくつぶやいた。  顔から血の気が引いていくのがわかった。母親に指先の震えを気取《けど》られまいと必死になったが、手にした写真がぶるぶると振動して真由子の動揺を暴露した。 「どうしたの、マユちゃん」  母の千恵がいぶかしげにたずねてきた。 「あなた、震えてるじゃない」 「うん、まあ……」 「なんで?」 「ちょっと……あまりにもいい男すぎちゃって……ははは」  真由子は、硬い作り笑いを浮かべた。  たしかに、いい男というのは事実である。まさにタレントかモデルといってもおかしくない。第一の見合い写真と較《くら》べたら月とすっぽん、天と地ほどの違いがある。  顔立ちが整っているだけでなく、健康的な若々しさに満ちあふれたエネルギーが感じられるのだ。おそらく年齢も史也とたいして変わりはあるまい。上半身の写真だけでは背の高さはわからないが、肩幅の広さなどから察すると百八十センチ台あってもおかしくはなさそうだ。  もしも……そう、もしもさっきのイメージが頭に思い浮かんでいなければ、真由子はその写真の男性のカッコよさに、うれしい悲鳴をあげていたかもしれなかった。  だが——  真由子はにわかには信じられない事実に直面し、その衝撃で身体の震えを抑えることができずにいた。  さきほど、最初の見合いアルバムを開こうとする直前に、突然頭に浮かんできた新谷史也とのいさかいの場面。あそこで史也が真由子に向かって投げつけてきた見合い写真の男の顔と、いま目の前で見ている見合い写真の男の顔が同じなのだ。  イメージの中の見合い相手と、現実に親戚《しんせき》から持ち込まれた見合い相手の顔が完全に一致している。ありえないことが実際に起きていた。 (どうして……どうしてそんなことがあるの?)  真由子は混乱した。  一瞬彼女は、自分の頭脳が時系列的な判断を乱したのかと思った。つまり、このハンサムな写真の男を見た直後に、それに対して嫉妬《しつと》する史也のイメージを連想したのではないかと。それなら、想像の中の史也が怒って投げつけた写真が、この男の顔であっても不思議はない。  けれども、どう考えてもさっきのイメージは、第一の見合い写真すら開いていない段階で頭に浮上してきたものなのだ。 (もしかして、あたしって)  異様な興奮が湧《わ》き上がってきた。 (透視能力があるんじゃないの) 「ちょっと、真由子」  娘の様子に異変を感じた千恵は、いちだんと眉《まゆ》をひそめてきいた。 「なんか、あんた、目が飛んでるわよ」 「そう?」 「そんなにびっくりした? その男の人がハンサムすぎて」 「じゃなくて」  真由子は母親の腰のあたりにじっと目を注いでから言った。 「ねえ、お母さん、きょう穿《は》いてる下着、ダサ〜い肌色のデカパンでしょ」 「なに言ってんの、あんた」 「ちがう?」 「当たってるけどね」 「やっぱり……そうなんだ」 「なによ、急に変なこと言わないでよ、そこらのセクハラおやじみたいに」 「あたしって、透視能力があるのかもしれないの」 「バカ言いなさい」  千恵は苦笑して手を振った。 「お母さんは、あんたと違ってパンツは肌色か白しか持ってないんだから、確率二分の一で当たるわよ」 「ううん、そういう問題じゃないの」 「いいからいいから、ワケわかんないこと言ってないで、見た目がお気に入りなら、釣書《つりがき》のほうをごらんなさい」 「うん」  真由子は、こんどは素直に男のプロフィールを引き抜いた。  年齢は史也よりひとつ上の二十九歳。札幌出身で、高校から大学までは東京の私立で、ブランド的にも有名なところだった。そして現在は名の知れた出版社で、ビジネスマンを読者対象とする週刊誌の編集部にいた。  そして、真由子がいちばんこだわっている身長も、写真から予想していたとおり百八十センチジャストだった。史也よりは三センチ低いけれど、百七十三センチの真由子との釣り合いはなんら問題がない。  しかし、真由子はそんな細かなデータにはまったく目が行っていなかった。もっともっと基本的な項目を目にして、さらに表情をこわばらせていた。 「ね、なかなかのお話でしょう」  母が問いかけてくる声も、真由子の耳にはほとんど入っていない。 「お母さんね、なんだかんだ言って真由子が面食いだってこと知ってるから、きっとこの人なら気に入ると思ったの。いい男じゃない。もう二十年若かったら、私がお見合いしたいぐらいだわ。大学もおしゃれなイメージのあるところだし、マスコミに勤めているというのも、真由子の趣味に合うでしょう。そして背丈」  母はそこを強調した。 「背丈で結婚相手を決めるもんじゃない、っていう意見は、お母さん、頑として持ってるんだけど、高くて悪いということはないわ。百八十センチもあれば、あなただって文句のつけようがないでしょう。静子さんだってね、そのへんのことはちゃんと考えてくれているのよ。ある程度の背がないと、真由子ちゃんには釣り合わないだろうって」 「そりゃどうも」 「どう、真由子。すてきな人よね」  一枚目の写真と違って、真由子がまったく拒絶的な態度をとらないことを気に入った証拠とみなした母親は、にっこり笑って確認をとってきた。 「じゃ、いいのね」 「え?」 「この話、進めてもいいのね、ってことよ」 「あ……ああ、うん」  ぺこん、という感じで、真由子はうなずいた。 「ああ、よかった。それじゃお母さん、静子さんのところに電話をしてくるわ」  ソファから立ち上がった母親がリビングを出ていったあと、真由子はそっと自分の左胸に片手を当ててみた。  トットットと、心臓がものすごい勢いで鼓動を打っていた。真由子の目は、さっきからプロフィールの一点に注がれて動かなかった。男の氏名である。  森中公一——  ほんとうに信じられないことが起こっている、と真由子は震えていた。 (やっぱりあたしには透視能力がある)  前もって頭に浮かんでいたイメージと合致しているのは、写真の顔だけではなかった。名前もだった。 「森中公一」という名前は、さきほど空想の中で史也がはっきりとつぶやき、その漢字一文字一文字が、真由子の頭脳に食い込むように刻み込まれていた。そして、一字一句たがわぬその文字が、いまお見合い相手の経歴書の最上段に明朝体の活字で印刷されているのだ。  すさまじい衝撃が引き起こした激しい寒気に真由子は包まれていた。ありえない、という否定よりも、自分にはこういう特殊能力が備わっていたのか、という驚愕《きようがく》のほうが大きかった。それで指先だけでなく、座っているのに膝《ひざ》までが震え出していた。  そして、なにがなんでもこの男に会わずにはいられなくなった。  見た目がハンサムとか、身長が百八十センチあることなど、もはや問題ではなかった。また、この不思議な体験を材料にして、史也にテレビドラマの脚本を書かせてあげたいという思いが募ったからでもなかった。  それよりも、自分の頭脳の特殊能力がどのようにして生じたのかを、透視した森中公一本人と会うことで、もっと深く研究してみたくなったのだ。    しかし——  USJで、ふと史也にお見合いの話を持ち出したことが過ちの第一歩とすれば、突然持ち込まれたお見合いを承諾したことが、滝真由子にとって過ちの第二歩となった。  そして第一歩ならばまだ引き返せた地獄への坂道を、第二歩を踏み出したことによって、真由子はもう後戻りのできないところまで突き進んでしまったのだった。ちょうど奈落《ならく》へまっさかさまに落ちてゆく『ジュラシック・パーク・ザ・ライド』のように……。 [#改ページ]    三 二回まで  その日がやってきた。森中公一とのお見合いの日である。  約束のホテルへ向かう前に、神戸にいる新谷史也から真由子のケータイに電話がかかってきた。 「どうだよ、お見合い直前の心境は」  史也は、前置き抜きにきいてきた。 「仕事さえなきゃ、東京に行って物陰からマユのお見合い姿を観察していたいところなんだけど、こういうときにかぎって日曜出勤なんだよなあ」  史也には、例の話は告げていない。森中公一というお見合い相手の名前と顔を事前に透視してしまったという衝撃のエピソードは、いっさい話していなかった。打ち明けてみたところで、それはマユの思い込み、あとになってわかった事実を、前もってイメージしたと思い込んでいるだけ、などと、もっともらしい解説が返ってくるのがオチだった。  また、森中が非常に見た目がハンサムであることも隠してあった。なぜならば、それは史也に対する完全な「約束違反」だったからだ。  史也にお見合い計画を持ちかけたときは、不細工な男とお見合いをする面白さ、というテーマで盛り上がったのだ。そのときに真由子がイメージしていたのは、たとえば度の強いメガネをかけて、やたらニキビの跡が多くて、髪の毛がぼさぼさで服のセンスも悪い、それでいて結婚には人一倍執着心のある三十なかばの婚期を逸しかけた男。そういう相手を余裕でもてあそんでしまうお見合い体験、という予定だったのだ。それをネタにテレビの脚本を史也に書かせようと。  だから、もしも母親が見せた最初のお見合い写真の男が、「許容範囲内の冴《さ》えない男」であったならば、史也に話したコンセプトどおりの遊び半分のお見合いをやって、相手の男の思いつめた様子を面白おかしく史也に報告していたことだろう。だが、いかんせん、最初の写真がひどすぎた。遊びのお見合いにしたってかんべん、というレベルの四十男だった。そしてつぎの写真は、こんどは逆にカッコよすぎる相手だった。しかもそこに、自らの透視能力の発現という予想もしなかった事態が浮上してきた。  いくら史也に言葉を尽くして不思議な現象を説明しても、けっきょくはハンサムな男とお見合いをすることになった言い訳にしか思われないだろう。そして、まさしくあのイメージどおりの諍《いさか》いが史也との間に起こってしまうおそれもあった。だから真由子は、真実を隠した。  真実を隠しただけでなく、ウソもついた。  男の顔立ちに関しては、中年漫才師を引き合いに出して、それにそっくりと言った。背丈は百八十センチではなく、十センチも差し引いて百七十ということにした。出身地が札幌であることや、東京の有名私立を出ていることなどは、そのまま伝えた。有名出版社のよく知られた週刊誌編集部に勤務していることも、そのとおりに史也へ告げた。  森中公一という名前に関してはどうしようかと思ったが、そこまで偽名にするのもおかしな話なので、それはありのままに伝えた。  最初に釣書《つりがき》を見たときは、名前と顔のショックでほかのところまで目を配るゆとりもなかったが、その後、叔母の静子からの追加情報などと合わせると、以下のようなプロフィールが明らかになってきた。  札幌生まれの森中公一はひとりっ子で、両親は札幌で牧場経営をしていたが、すでにふたりとも亡くなっていた。森中自身は牧場経営にはまったく興味がなかったので、その権利は親戚《しんせき》筋に譲り渡して、単身東京でマスコミ界に身を投じることになった。いまは江東区のリバーサイドにあるマンションに住んでいるが、親の残した財産が相当あるので、財政的には非常に豊かである。乗っている車はベンツにRV車のランドクルーザー。別荘も北海道と伊豆にひとつずつあるという話だった。  こうした森中のゴージャスな暮らしぶりについては、やはり真由子は伏せておいた。これもまた史也の誤解を招いてしまうと思ったからだった。  史也に匹敵する身長、客観的にみて史也よりもはるかに整った顔立ち、そして史也が逆立ちしてもかなわない財力——それらの要素すべてが、史也の誤解と嫉妬《しつと》と怒りを招くにはじゅうぶんだった。真由子だって、あの一件さえなければ、こういうレベルの高すぎるお見合い相手は敬遠したに違いなかった。いまでも最愛の男性は新谷史也しかいないのだし、両親の方針がどうであろうと、真由子には史也しか結婚する相手は考えられなかったからである。  だが、たった一点、森中公一の顔と名前を透視してしまったという不可思議な現象の背景を確かめたくて、真由子は「条件の整いすぎた相手」とのお見合いを決めてしまったのだ。  条件が整っているといえば、ひとりっ子でありながら森中に親がいないことも、仲介者の静子叔母によれば「面倒がなくていいわよお」と言える要素だった。ひとりっ子を溺愛《できあい》する姑《しゆうとめ》とのいざこざなどという、ホームドラマにありがちなトラブルを心配する必要などまったくないんだから、と母の千恵もそこを強調した。  やはり可愛《かわい》い一人娘を送り出す親としては、我が娘が、結婚相手本人とケンカをするならともかく、相手の親にあれこれ厳しい指図をされたり、おたくの育て方が違うと言われたりするのはガマンならないことだろうと、真由子も想像がついていた。その点では、史也のほうにはハンディがあった。    先日、USJの帰りに史也の部屋に泊まったときだった。彼はいつにない硬い口調でこう切り出した。 「じつはさ、明日の昼に鹿児島からオヤジとオフクロがくるんだよな」  無言でその先をうながす真由子の目をまっすぐ見ようとしないで、史也はバツが悪そうにつづけた。 「なんだか、いつもおれのほうばっかり真由子の家に遊びにいってたけど、よく考えたら、真由子を一度もうちの親に会わせてないだろ。それでさ、いい機会じゃないかと思って」  その言葉を聞きながら、真由子は初めて気がついた。神戸への転勤で史也が遠くへ離れてしまったと感じるのは、あくまで東京にいる真由子の視点であって、鹿児島に住んでいる彼の両親からしてみれば、息子はぐんと近くにやってきてくれたという印象になるのだ。とくに高校のときからひとりで東京へ出しているのだから。きっと、これからは史也親子の間は、東京にいた時代とは比較にならないほど緊密になるはずだった。  ということは、仮に神戸で新婚生活をはじめた場合、彼の親が——とくに母親が介入してくるおそれはないだろうか。真由子は急に心配になった。 「それでさ」  史也はたたみ込むように言った。 「いちど会ってくれないかな」 「うん、もちろんいいよ……でも、今回は」  つとめて笑顔を浮かべながら、真由子は言った。 「史也と遊ぶだけだと思っていたから、お洋服もちゃんとしたのは持ってきていないし、美容院にもこのところ行ってなかったし」 「いいんだよ、そういうのは。いつもおれと会っているときのままのマユを、オヤジやオフクロに見せたいんだ」  見せたい、という言葉を聞いて、真由子はなんだか自分が動物園のパンダにでもなったような気がした。 「お父さんとお母さん、あたしと会うために鹿児島からくるの?」 「いや、そうじゃないんだ。いちどゆっくり神戸を見物したいというから、出ておいでよとよんだんだけどね。そのついでに、と思って」 「だったら、今回はパスさせて」  必死に明るい声を出して、真由子は言った。 「こんどの機会にちゃんとご挨拶《あいさつ》するから」 「そうか……ま、そうだよな。こっちも切り出したのが急だったからな」  史也も明るい声を出してそう言った。  が、ちょっと気まずい雰囲気がふたりの間に漂った。  史也は真由子のことを天然ボケなどと言うが、実際のところ、それほど鈍感な女というほどでもない。だから、史也の両親が神戸にくるのは、神戸見物よりも真由子と会うのが主目的であったに違いないという推測を働かせるぐらいのことはできた。  にもかかわらず、真由子はむしろ天然ボケのキャラを逆用して気が回らぬふりをした。なぜ史也の両親と会うことを敬遠する自分がいたのか、帰りの新幹線でも思い起こすたびに気まずさが心に走ったが、けっきょくのところは、結婚によって「嫁」という立場が生じることへの恐れではないかと解釈せざるをえなかった。  真由子が愛しているのは史也であって、思いきり甘えたいのも史也であって、その史也とのふたりきりの暮らしをしたいから結婚を決意したのだった。それなのに、そこへ親の存在が出てくると、なんだかぜんぜん話が違ってくるような気がした。  自分は彼を両親に早々と紹介しているくせに、逆に史也の両親に紹介される段になると抵抗するのは身勝手と言われても仕方がない。しかし、結婚話を具体化させようと決めたとたん、急にその実現に尻込《しりご》みをしだした自分がいることに、真由子は気づいていた。  結婚相手の身長や顔立ちや学歴や財産よりも、もしかすると相手の親子関係がいちばん注意を払わねばならない問題かもしれない、との思いが、ちらりちらりと真由子の脳裏を掠《かす》めはじめていた。もしも史也が、絵に描《か》いたようなマザコンだったりしたらどうしよう、と……。  その点、叔母によって持ち込まれた森中公一との縁談は、最初から相手の親がいないのだから、たしかに気楽であるに違いはなかった。   「で、どうなの、いまの心境は」  お見合いへ出かける直前にかかってきた電話の中で、史也は重ねてきいてきた。 「心境ですかあ」  ふっと、言葉尻に敬語が出た。  六つ年上の史也に対していつもタメ口で接してきた自分にしては、なんかおかしいぞ、と真由子は思った。 「心境は……まあ明鏡止水《めいきようしすい》ですね。澄み切って、落ち着いてます」  まるで政治家のコメントのような言葉が口をついて出た。 「それできょうの予定はどんなふうなの?」  史也の言葉には、しだいに不安の色が濃くなってきたように、真由子には思えた。 「予定って?」 「その森中公一と、ホテルのどういう場所で会うんだよ」 「私も初めていくホテルなんだけど、べつに改まった席というわけじゃないみたい。ふつうのコーヒーラウンジだって。ただ、ガチャガチャした雰囲気ではなくて、すごく静かな場所らしいけど」 「親もついていくのか」 「ぜんぜん。見合い話の口利き役になった静子おばさんが立ち会ってくれるだけ。それとあと先方の三人だけよ」 「三人でお茶を飲んで話すのか」 「そうね」 「どれぐらいの時間?」 「さあ、そこまではわかんないけど」 「何時からはじめるの」 「三時」  と、答えながら、真由子は腕時計に目をやった。  そろそろ出かけなければいけない時刻だった。案の定、リビングのほうから母親の呼ぶ声がする。「真由子ちゃん、遅れるわよ」と。 「三時ってことは」  ケータイの向こうからは、史也の声がつづいていた。 「二時間ぐらいお茶を飲んで話して、それから例の『あとはふたりでごゆっくり』というパターンになるのかな」 「かもしれないね」 「それで、どこかでメシを食うのかな」 「かもしれないね」  同じ返事を繰り返している真由子の目の前まで母の千恵がやってきて、身ぶりで早く行きなさいと急《せ》かせた。 「……あ、ねえ、そろそろ出かけなくちゃいけないから、またあとでね」 「またあとでって、これ、ケータイで受けてるわけだろ」 「そうだよ」 「だったら、歩きながらでも話せるだろ」 「じゃなくて、おばさんも迎えにきてるから」  それは事実で、和服姿でやってきた叔母の静子は、さきほどまでリビングで紅茶を飲んでいたが、すでに玄関口へ移動して履き物を履こうとしている様子が見えた。真由子にしても、淡いピンクのスーツを着て、あとは揃《そろ》いのヒールを履けばよいという状態になっていた。柄にもないおしゃれ、というヤツである。ふだんはめったに口紅もささないのだが、母親のすすめでスーツと同じ色の口紅をつけた。  近くにあった鏡に自分の姿を映してみたら、すべてが淡いピンクで統一されすぎて、なんだかバカみたいと思った。 「それじゃ、電話切るけどさ」  史也が言った。 「マユ、ひとつだけ約束しておいてほしいんだよ」 「なあに」 「どんなことがあっても二回までだぞ」 「二回まで、って?」 「相手がどんなに積極的に出てきても、食事に応じるのはきょうと、あと一回だけにすることを忘れるなよ」 「なんで二回までなのよ」 「おれ、人から聞いたんだけど、見合いには暗黙の了解があって、同じ相手と三回デートしたら、もう基本的に合意に至ったとみなすものらしいんだよ。断るならば二回目までだって」 「ふうん、知らんかった」 「マユも好奇心の強い女だから、面白がって何度も会おうとするんじゃないかと思って、おれはそれが心配なんだよ」  電話口の史也の声は、しだいに大きくなってきた。 「いいか、絶対に二回までだぞ」 「わかった。二回ね。二回までにするよ」  そう答えて、真由子はケータイの電源を切った。  とたんに、イライラした調子で母親が突っ込んできた。 「真由子、こんなときに誰と電話してたのよ。女子高生じゃあるまいし、場もわきまえないケータイの長電話なんておよしなさい。静子さんが玄関で待ってるのよ」 「へいへい」 「そういうおしゃれな格好をして、へいへいなんて言わないの」 「へいへい、わかりやしたっと」 「で、誰だったの」 「なにが」 「いまの電話よ」 「友だち」 「まさか史也さんじゃないでしょうね」  ドキッとしたが、真由子はそしらぬ顔で答えた。 「ちがうよー。ジュンコだよー」 「それで、二回までにする、ってどういうこと」 「は?」 「いま電話で、二回まで、って何度も言ってたでしょ」 「やだなー、かーちゃん、自立した女の電話に聞き耳立てんなよ」 「カンがいいのよ、お母さんは。あんたみたいに背が高くないぶん、知恵は回りますからね」 「だから千恵っていうのか」 「話をそらさないで。二回までにするって、まさかきょうのお見合いのことじゃないでしょうね」 「どういうことよ」  と問い返しながら、真由子は母親の鋭さに舌を巻いていた。 「最初からこのお見合いを遊びだと考えているんじゃないでしょうね、ってことよ。二回だけおつきあいして、はいさよなら、っていう計画を最初から立てているんじゃないでしょうね、ってこと」 「まさかあ」 「これはお見合い体験ツアーじゃないのよ」 「わかっております」 「結果としてダメになるのは仕方ないけど、最初から遊び半分の気持ちで臨むのは、静子さんにとっても大変な失礼にあたるんですからね」  そこの部分は、千恵はいちだんと声をひそめて言った。 「お父さんの顔をつぶすようなマネをしたら、あなただってスタジオのお仕事をつづけていられなくなるわよ」 「はいはい、はいはい。親戚《しんせき》第一、娘は二の次。その基本ポリシーは了解済み」 「真由子!」 「それじゃ母上、不肖・滝真由子、人生初のお見合いにただいまから行ってまいります」  ピンクのスーツを着たまま、真由子は敬礼をしてみせた。  お見合いのことでおどけるのは、それが最後になるとも知らないで。 [#改ページ]    四 お見合い 「それじゃ、うるさいおばさんはこれで席を外しますから、あとは若いふたりで自由にやってくださいな。……では、公一さん、よろしくお願いしますね。真由子さんもね」  パターンどおりのセリフを残して静子が去っていったあと、真由子は緊張でいちだんと喉《のど》の渇きを覚えた。  目の前にいる実物の森中公一は、写真以上に素敵な男性だった。スタジオで見かける芸能人やモデルではなく、一般人で、しかもお見合い相手としてこれだけカッコいい男にめぐり逢《あ》えるなんて、奇跡のようだと真由子は思っていた。  きょう、この場へくるまでに真由子の頭を占めていた問題は、いうならば超能力の有無というオカルト的なことだった。しかし、さわやかなライトグレーのスーツに身を包んでやってきた森中公一と向き合った瞬間、真由子は興奮で頬《ほお》が赤くなるのを抑えられなかった。それはまさに一目惚《ひとめぼ》れといってよい種類の感情だった。そして、彼の顔や名前を自分が事前に透視したという不可思議な謎《なぞ》を解明しようという意気込みは、いつのまにかどこかへ吹き飛んでしまった。  叔母の静子がそばに立ち会っていたのは、意外に短くて三十分ほどだったが、その間、真由子は心の中で「これはまずいことになるかもしれない」と真剣に戸惑っていた。新谷史也よりもこちらの男性のほうを本気で好きになってしまうのではないかと。  よもやそんなことが起きるとは思ってもいなかった、史也に対する愛情が揺らぎはじめるなんて。 「さてと」  森中はスッと左腕を伸ばしてから、ピッと顔の前で折り曲げて腕時計を見た。 「静子さんはもう少しいっしょにおられると思ったんですが……どうしましょうか。食事でもごいっしょにと思って、じつはこのホテルの最上階にあるフランス料理の店を予約してあるんですよ。真由子さん、フランス料理は?」 「あ、はい。あたし、きらいなものは何もありませんから。フランス料理でもラーメンでも」 「ははは、愉快な人だな」  森中は目尻《めじり》に皺《しわ》を寄せて笑った。 「お見合いでラーメン屋に入るのも悪くありません。でも、もう予約をしてあるからなあ。それともキャンセルして、旨《うま》いラーメン屋でも行きますか」 「あ、いえいえ」  真由子はあわてて手を振った。 「ラーメンっていうのは、ほんの冗談ですから」 「それじゃ、時間がくるまでこのホテルの庭園でも散歩しましょうか。さわやかなお天気だし、暑からず寒からずでちょうどいい」 「はい」 「では、行きましょう」  森中が立ち上がり、真由子はその後ろに従ってレジのほうへ進んだ。  森中は正面だけでなく後ろ姿にも寸分の隙《すき》がなく、颯爽《さつそう》とした歩き方はファッションモデルとしてのトレーニングでも積んでいるかのように美しかった。  そして真由子は、そういう彼から数歩遅れてついていく自分に、女として新しいキャラクターのあり方を見出したような気がした。五つ違いなのに同年代の友だちといった感じの史也といるときと違って、森中といっしょの空間にいると、おしとやかな女らしさが自分の気持ちの中に湧《わ》いてくる感じがした。  実際、真由子の目には、史也よりたったひとつしか年上でないのに、森中ははるかにおとなの男に感じられたのだ。    コーヒーラウンジを出て、ちょっと低めの天井がつづく廊下をしばらく歩くと、このホテル自慢の日本庭園へと通じるドアがあった。森中は真由子のために先にそのドアを開けて待ってくれていた。 「あ、どうもありがとうございます」  ぺこんとお辞儀をして森中の脇《わき》をすり抜けながら、真由子は、史也は絶対こんなことをしてくれないよな、と心の中でつぶやいた。  お見合いだから、森中もよそゆきを気取っているところはあるだろう。しかし、そのエスコートぶりは、決して付け焼き刃のものには思えなかった。真底レディファーストの精神が染みついている男性のように思えた。 (やさしくて、カッコよくて、仕事はマスコミの最先端で、しかもお金持ち)  真由子の気持ちはどんどん揺らいでいった。 (どうしよう……ほんと、どうしよう……)  まもなく六月を迎えようとする日本庭園は、みずみずしい緑に満ちあふれていた。その緑の中を森中公一と並んでゆっくり歩きながら、真由子の脳裏には「ねるとん式」という言葉を流行《はや》らせたテレビの合コン番組の一場面に登場する自分の姿があった。  直立して立つ真由子の前に、プロポーズ宣言のために新谷史也が駆け寄る。 「真由子さん、ぼくと結婚してください。お願いします」  頭を下げて、真由子に向かって右手を差し出す史也。  すると「ちょっと待ったあ」と声がかかり、悠然と歩いてくるひとりの男がいる。森中公一だ。  真由子に向かって手を伸ばしたまま、ギョッとしてライバルに目を向ける史也。  そんな史也をまったく無視して、ゆっくりと真由子のところまで歩いてくる森中。身長はわずかに森中のほうが低いのに、並んで立つと、その存在感は森中のほうがはるかに史也を圧倒していた。  そして自信満々に手を差し出し、「真由子さん、どうぞぼくを選んでください。お願いいたします」とまっすぐ目を見つめて言ってから、頭を下げる森中。  史也の手。  森中の手。  それをじっと見較《みくら》べた末に、真由子の右手は森中のほうに……。   「ねえ、真由子さん」  森中の声で、真由子はハッと我に返った。 「ぼくはすごく不思議に思っているんです」 「はい、なんでしょうか」 「あなたみたいにチャーミングな女性が、お見合いという、ある種古めかしい儀式に自分の将来を託そうとしたことが不思議でならないんです」 「そうですか」 「だって、真由子さんは男性にモテてモテて仕方ないでしょう」 「あ、そんなことないです、ぜんぜん」  真由子はぱたぱたと顔の前で手を振った。なんだか我ながらイモっぽいしぐさだなと思いながら。 「ほんとあたしって、モテないですぅ」 「どうして」 「トロいっていうか、天然ボケっていうか、どこか世の中の流れから取り残されているところがあるんですよー」 「そうかなあ」 「静子おばさんみたいに、てきぱき、てきぱきっとしたキャリアウーマンのかっこよさなんて、いくらあこがれていても無理ですし」 「あははは。じゃ、真由子さんは、てきぱきしたキャリアウーマンがカッコいいと思っているんですか」 「はい。だって、森中さんの職場なんかもそうでしょう。週刊誌の編集部にいる女性記者なんて、みんなすごいんでしょう」 「たしかに有能な女性記者はキビキビしていますよ。だけど、仕事のできる女性と、男が魅力を感じる女性とは、それはまた別物です」 「そうなんですかあ?」 「どうもあなたは男の気持ちをわかっていないようだなあ。まあ、女性なら男の心理がわからなくてもやむをえませんが、男というものはね、真由子さん」  ゆっくり並んで歩きながら、森中は空を見上げて言った。 「守ってあげたくなるような、か弱い女性を望むものなんですよ」 「それもあたしと違いますし」 「とんでもない」  森中は大仰に驚いてみせた。 「あなたみたいな女性こそ、男は守ってあげたくなる」 「えー?」  とびっくりした声を上げながら、真由子は自分がヘラヘラとみっともない笑いを浮かべていないか、心配になってきた。こんな持ち上げられ方をしたのは、生まれてこのかた初めてだったからだ。そしてうれしいのだ。くすぐったいようなうれしさ。  新谷史也は、つねに自然体だった。ストレートな物の言い方をして、気取った言い回しなど絶対にしない。だからこそ、彼の言葉はいつだって信じられると思っていた。  だが、芝居じみたセリフを森中から浴びせつづけられるうちに、真由子は、装飾に満ちた言葉でおだてられるのも悪い気分ではないと感じはじめていた。 「あのー」  いつしか真由子は、森中が口にしたとおりの、か弱い女を演じ出している自分に気がついた。 「失礼にあたるかもしれませんけれど、あたしのほうからもおたずねしていいですか」 「どうぞ、どうぞ。質問はなんでも」 「森中さんのほうこそ、ものすごくおモテになるはずなのに、どうしてお見合いなどなさったんですか」 「学生時代ならともかく、社会人となってからの結婚を前提とした恋愛は、うまくいかなかったとき、おたがいが傷つきます。まあ男のぼくが傷つくのはかまわない。けれども女性がぼくのために傷つくのは耐えられない」  森中はアメリカ人などがよくやるように、ゆっくりと首を振った。 「そこへいくと、お見合いはダメなときに事務的に処理ができるでしょう。それなら、もしもこちらからお断りすることがあっても、女性の受ける精神的なダメージは少ない。だからぼくは結婚相手を選ぶときのやり方としては、これがいいと思ったんです」 「やさしいんですね、森中さんて」  おもわず真由子はそう口にした。 「いつもそんなふうに、女の人の立場を考えていらっしゃるんですか」 「え?」  森中は意外そうに目を丸くした。 「そんなことは、とくに意識していませんよ。ごく自然にそう考えるだけです」 「でも、本質的に女性にやさしくないと、女の人を傷つけたくないから恋愛はできない、なんて言葉は出ませんよお」 「そうですかね」  森中は眉《まゆ》をピクッと上げて微笑《ほほえ》んだ。そしてつづけた。 「ただね、真由子さん、お見合いがなぜ人を傷つけないかといいますと、間に静子さんのような仲介者が立っているからではないんです。いいときだけでなく、ダメなときも、その結論をすばやく出す。だからたがいに深手を負わない。そこがポイントです」 「ダメなときも結論を早く出す……ですか」  繰り返しながら、真由子は史也とはもう初めて会ってから六年、恋人としても四年つきあってきたんだなあ、と思い返した。  そして、これでもしも史也との関係を白紙に戻すことになったら、どんな騒ぎが待ち受けているだろうか、とチラッと思った。かりそめにも考えるはずがないと思っていた史也との破局の仮定が、ごく自然に脳裏に浮上してきたのだ。 「真由子さんもごぞんじかもしれませんが、お見合いの場合、ひとりの相手とつづけて三度会ったら、それはもうOKも同然なんです。逆に、ちょっとこの人とはうまくいかないなと感じたら、遅くとも二度目のデートを終えた段階で仲人さんに断りの結論を出さなきゃいけない」 「ああ、そうらしいですよね。あたしも聞いたことがあります」  うなずきながら、真由子の耳に、出がけに聞いた史也の声がよみがえってきた。 (いいか、絶対に二回までだぞ)  そして、真由子も二回までにすると約束した。だが、この森中公一という男と二度だけで別れることなどできるだろうか。それが心配になってきた。 「お見合いを敬遠する人の意見として代表的なのは」  森中がさらにつづける。 「一度や二度会っただけで、はたしてその人間性がわかるだろうか、というのがあります。けれどもそんな疑問を呈する人にかぎって、実を結ばない恋愛ゲームをズルズルとつづけていたりするのです。幸せを約束されたカップルというのは、出会った瞬間に、おたがいを結んでいる赤い糸が見えてしまうものなんです。そうは思いませんか、真由子さん」 「え、ええ」  急いで相づちを打ちながら、真由子は、たしかに新谷史也との出会いの瞬間はそうだった、と思い返していた。高校二年のとき、バレーボール部のコーチとしてやってきたOBの史也をひとめ見たとき、絶対にあたしはこの人と結ばれる、と確信に満ちた直感が頭に降ってきたのだ。森中流に言えば、史也と自分を結ぶ赤い糸が見えていたのだ。そして、その直感は正しかったと、ずっと思い込んでいた。  だが、それなのにいま自分の心は大きく揺らいでいる。それは結論を急がなかったせいなのか。 「出会った瞬間にこの人、と思ったら、そこで即決しないとだめです。ぼくはそう思いますよ」  森中の声にドキッとする。 「正直に申しますが、ぼくだって二十九のこの年までに、何度か結婚を前提とした恋愛を経験してきました。でも、いつだって結論を出すのが遅すぎた。おたがいうまくいかないとわかっていても、もしかしたら相手のいいところをこれから見られるのかもしれない、などと淡い期待を抱いて交際期間を引き延ばしたりしました。でも、いくら延ばしても、けっきょく最初に感じた結論は変わらず、延ばしたぶんだけ別れがしんどくなるだけだったりする。  逆に、彼女こそベストパートナーだ、と直感したにもかかわらず、もっといい女性が現れるかもしれない、などと欲張って結論を出さなかったために、大切な人に去られてしまった苦い経験もあります。そんな失敗を繰り返した末に得た結論が、『お見合いこそ最良のパートナーを選ぶ最良の方法だ』ということなんです」 「はあ〜」  真由子の口から、圧倒されたため息が洩《も》れた。  いくら自分が大学生であったとはいえ、史也との四年のつきあいの間にはっきりとした結論を出しておかず、大学を卒業してからようやく結婚の段取りを進めようとしたことが、いまさらながらに遅すぎた気がしてならなかった。  もしも在学中に史也との婚約を正式に決めるか、あるいは思い切って女子大生のまま結婚に踏み切っていれば、彼の神戸転勤などが心理的に影響することもなかったのだ。 「ねえ、あれをごらんなさい」  ホテルの敷地に作られた日本庭園をゆっくり歩いていた森中は、池に架けられた小さな太鼓橋の上まできたところで水面の一角を指さした。 「大きな鯉《こい》がたくさん群れていますよ」  森中の指さす先には、赤、黒、白、金など、さまざまな色合いの錦鯉《にしきごい》が狭いところに固まっていた。 「何事もないときはあのようにおとなしくひとところにじっと固まっていたり、あるいは悠然と池の中を泳いでいる。しかし、ひとたびあそこにエサを撒《ま》いたらどうなるかわかりますか。水面が泡立つほどの激しい奪い合いが展開されます。自由恋愛とはそういうものです。女に男が群がり、あるいは男に女が群がりはじめたとき、ねたみそねみ、ウソ偽りが横行する争奪戦の幕が切って落とされる。そして、美しい装いに隠されていた夜叉《やしや》のごとき激しい本性をむき出しにして、敵を蹴落《けお》とす戦いに出るのです」  森中は、渋面を作って言った。 「コイというのはね、真由子さん、エレガントのようにみえて、じつは醜いものなんですよ」 「あ……あははー。そうですよね」  たぶんいまのは鯉と恋をひっかけたシャレなのだろうと思って、真由子は笑った。が、森中は笑わなかった。 「そこへいくと、お見合いはじつに優雅です。少なくとも一定期間は、ライバルの存在など気にせずに、ふたりの行く末を検討できるわけですからね」  と言って、森中は真由子をじっと見つめた。  ライバルの存在、という言い回しに、真由子の胸がずきんと痛んだ。森中に対しても、史也に対しても自分は裏切り行為を働いている、との思いが募って、自己嫌悪に陥りそうになった。   「あの……森中さん」  太鼓橋を先のほうへと降りはじめた森中に並んで追いつくと、おずおずとした口調で真由子はたずねた。 「こんなことうかがってもいいでしょうか」 「どんな質問でもしてください、遠慮なく」  森中はふたたび笑顔を取り戻して応じた。 「森中さんは、お見合いは何回目ですか」 「過去に五回やっています。きょうが六度目です」  少しもためらわずに、森中は即答した。  だが、真由子の感覚としては、六度目のお見合いというのは、ずいぶん多いように思えた。つまり、過去五回は話がまとまらなかったということである。  いったいそれはなぜなのか。  そもそもいまの時代、森中ほど若くて見映えのいい男性がお見合いで結婚相手を求めることなど、ほんとうにあるのだろうか。  森中に名門の令嬢を射落とそうとする政略結婚的な狙《ねら》いがあるなら、それもわかるが、真由子はそんな作戦の対象となるような名家に育っているわけではない。平凡なサラリーマンの娘である。  それに森中ほどの男なら、恋愛ゲームをたくましく勝ち抜いて、狙った女性を奪い取るほうが似合っているのではないか。  そんな疑問を抱いていると、真由子の内心を見透かしたように、森中が言い添えた。 「きっと、理由を知りたいですよね」 「え?」 「ぼくが五度お見合いに失敗したいきさつを知りたいですよね。ぼくと相手のどちらから話を断ってきたのか、それを知りたいですよね」 「あ、いえ、そんなことはありません。そういうのはプライバシーですから」 「ははは、いいんですよ、そんなに気を遣ってくださらなくても」  森中は明るく笑い飛ばした。 「五回とも相手に断られてしまったんですよ」 「ほんとですか?」 「いずれも最初の顔合わせはうまくいったと思ったんです。すぐにつぎのデートの約束を取り付けられましたからね。でも、どうも二度目がよくないのかなあ。決まって二度目のデートが終わったあと、先方から断りの連絡がきてしまうんです」 「そんな、もったいない」 「もったいない?」 「だって、森中さんみたいにすてきな人を断る女性なんているんですか」  そこまで言っていいのか、と警戒する自分の声が頭の中で響いた。だが、その声を封じ込めて、真由子はさらに言った。 「もしかして、相手の女の人って、男を見る目がなかったんじゃないんですかあ」 「はははははは」  また森中はうれしそうな笑い声をあげた。  その笑い方がちょっと異常かな、と真由子は不安になった。が、その気持ちもまた自分ですぐに封じ込めた。 「それはどうなんでしょうかねえ。むしろ、男を見る目があったから、ぼくを断ってきたのかもしれません」 「え? それはどういう意味ですか」 「たぶん、遊び人に見えたんでしょう。マスコミに勤めているとなると、どうしても女遊びがハデに思われるようなんですね。実際のところは、週刊誌の記者をやってたら、そんなヒマはないんですけどね」 「ですよねえ」  わかりもしないのに、真由子は相づちを打った。 「仕事に熱心な男の人って、遊ぶヒマなんてないですもんねえ」 「ところで真由子さん」  こんどは森中のほうから、真由子がしたのとまったく同じ質問を返してきた。 「あなたのほうは、お見合いは何度目なんですか」 「きょうが初めてなんですぅ」 「へーえ、そうですか。ご両親のすすめで?」 「ですね。ある日突然、ポンとお見合い写真を渡されて、それで開けてみると森中さんだったんです。あたし、びっくりしちゃってー。えーっ、こんなすてきな人がお見合いをするのー、信じられなあい、って」  しだいに真由子は、森中に媚《こ》びるようなしゃべり方が板についてきた。そんな真由子を満足げに見ながら、森中は言った。 「いや、すてきなのは、ぼくよりも真由子さん、あなたのほうですよ。さっきの繰り返しになりますけど、大学時代はずいぶんモテたんでしょう」 「いえいえ。あたしこそ、さっきの繰り返しになりますけど、トロ〜いキャラが災いして、あまり目立つ存在でもなかったですし、なんか恋愛に夢中になるという積極性もなかったですしー」  真由子はウソを並べ立てた。  実際には、新谷史也という男しか眼中になく、ただひたすら史也を愛しつづけ、想いつづけた四年間をすごしてきたのだ。  それなのに、こんなウソが平気でつけるあたしって、なんなの、と真由子は自分という女がすっかりわからなくなっていた。 「じゃあ、決まった彼はいないんですか」  いきなり森中がきいてきた。  さすがに真由子は答えに詰まった。 「カレ……シ……ですか」 「ええ」 「いたら、お見合いなんかしませんよぉ」  モテないからお見合いに頼っているというスタンスをあくまで貫こうとして、真由子は懸命に弁解した。 「こんな調子じゃ一生独身だあ、って焦ったから、お見合い作戦をはじめたんです」 「そうかな」 「そうかな、って?」  真由子は不安げにきき返した。 「いや、あなたは若すぎるから」  森中は言った。 「まだ大学を出たての二十二でしょう」 「ええ」 「こんな調子じゃ一生独身、などと焦るには早すぎる」 「あ……あはは……あたしって、ちょっと自分に自信がなさすぎるのかもしれないですけどー」 「つきあっている男性がいたらいたで、いいんですよ」  前を向いて歩きながら、森中はつづけた。 「ひとつのお見合いが進行中に、その結論を出さないまま別のお見合いをするのはマナー違反だけれど、お見合いと恋愛のかけもちは、そんなに珍しいことではない。とくに恋愛がうまくいっていないときなどには、往々にしてみられるケースです。ただね」  そこで急に森中が立ち止まったので、並んで歩いていた真由子は、いったん彼を後ろに取り残してしまったほどだった。 「ただね、真由子さん」  戻ってきた真由子の目をじっと見つめて、森中は言った。 「恋愛中の相手に不満で、もっとよりよい相手を求めてのお見合いならいいですが、最初からひやかし半分のお見合いはダメですよ」 「………」  鋭い槍《やり》を心臓に突き立てられた気分だった。  見抜かれているのではないか、という恐ろしさで、真由子は言葉を返せなかった。そして、自分の作戦を自分で否定するために、本気になろうとした。本気で森中公一という男を愛そうと——  ずぶり、と気持ちの悪い音を立てて、自分の足首が泥沼にめり込んだ感触を、そのとき真由子はたしかに実感した。 「絶対にひやかしや遊びなんかじゃないですぅ」  眉毛《まゆげ》をハの字に下げて、真由子は笑った。 「あたし、本気でお見合いしにきました」 「では、信じてもいいんですね」 「信じても、って?」 「あなたがまじめな態度で、いまここにいるのだと信じてもいいんですね」 「あ、もちろんですぅ」  その「あ」の一呼吸に、真由子の後ろめたさが象徴されていた。  だが、すかさず森中がたたみ込んだ。 「では申し上げますけれど、真由子さん、ぼくはあなたがひとめで好きになってしまいました」  耳鳴りがした。  激しいショックで、真由子は自分の聴力が正常な機能を一時的に失ったことを知った。森中のひとことを聞いたあと、風にそよぐ木々のざわめきも、立ち止まった自分たちの傍らを通り過ぎてゆく中年夫婦の語らいも、そして池の片隅で錦鯉《にしきごい》が跳ねた水音も、なにも聞こえなくなっていた。  その音のない世界で、森中公一のまなざしが、じっと自分を捉《とら》えて放さなかった。 (史也……)  真由子は心の中で謝っていた。 (ごめんね、史也。ごめんね)  その謝罪がどういう意味におけるものなのか、真由子は自分でまったくわかっていなかった。  聴力を失った真由子の視界の片隅で、池の錦鯉が突然激しく跳ねあがる姿が見えた。  いつのまにか真由子たちは回遊式の日本庭園をぐるりと回って、さっきの太鼓橋のところへ戻ってきていた。その間の記憶が、完全に欠落していた。  森中がエサをやっていた。どこで手に入れたのか、彼は手のひらに握りしめていたパンくずをつぎからつぎへと池の水面に放り投げていた。そして、それを狙《ねら》って赤、黒、白、金の錦鯉が一斉に躍りかかっていった。  金縛りにあったように立ちつくしたまま、滝真由子は錦鯉の乱舞を呆然《ぼうぜん》と見つめていた。  と、突然、聴力が戻った。大きな錦鯉がエサを奪い合って跳ね回るバシャバシャという水音が、実際の何倍もの迫力で真由子に襲いかかってきた。  猛烈な吐き気がした。真由子はその場にうずくまった。太鼓橋の朱塗りの欄干にもたれかかり、ピンクのスーツの胸に片手を当ててあえいだ。  それなのに、森中は知らんふりだった。真由子の異変などまったく気づかぬ様子で、跳ね狂う錦鯉の群れにエサをやりつづけていた。 「おねがい……森中さん」  完全に腰を地面に落とした格好で、真由子は声をふりしぼった。 「それ、やめて……鯉にエサをやるのは……やめて」  ようやく森中は、真由子をふり返った。  その|瞳に《ひとみ》は、驚きの表情などまるで浮かんでいなかった。完全に感情の消え失《う》せた目で真由子を見つめていた。まるで、そうなるのは最初からわかっていたように。 [#改ページ]    五 追 及  森中公一とのお見合いを終えた翌日の月曜日から、滝真由子は四日連続して床に臥《ふ》せってしまった。原因不明の高熱に襲われたのだ。  父の滋夫、母の千恵、アルバイト先の経営者でもある叔父の陽夫、そして見合いの仲人となった叔母の静子らは、全員が判で押したように同じことを言った。慣れないお見合いのストレスだろう、と。  とくに叔母の静子は、真由子が高熱で苦しんでいる枕元《まくらもと》で、「マユちゃんもやっぱり女の子ねえ。あれだけハンサムな男性が現れたら興奮で熱も出るわよ」と、からかうように言った。  冗談ではありません、叔母さま、などと、余裕があれば改まった口調で反論したりもするのだが、その元気も出なかった。  ダウンしてしまったほんとうの原因は四つある。いや、それはひとつにまとめられる種類のものかもしれなかった。もちろん、すべてはあのお見合いのせいだった。  まず第一に、森中公一が「全身全霊を傾けて真由子さんを愛したい」と、強烈な言葉を使っていきなりプロポーズしてきたことである。  そんな言葉で真由子に迫ったことを、森中は仲介役の静子叔母には伝えていないようだった。静子が言ってきたのは「先様も真由子ちゃんに相当よい印象を持たれたみたいよ」程度のことだった。  だが実際は、相当よい印象どころか、初日からいきなり強烈なプロポーズを浴びせられてしまったのだ。日本庭園を散策中に、いきなり「ぼくはあなたがひとめで好きになってしまいました」と告白してきたのは、まだほんの序章にすぎなかった。  その言葉だけでも、真由子は精神的な動揺をきたして太鼓橋の上にうずくまってしまったほどなのに、体調を取り戻した数時間後、ホテルのフレンチ・レストランの席で、またしても森中は強烈な愛の告白を投げてきた。それが「全身全霊を傾けて真由子さんを愛したい」というフレーズだった。  そのプロポーズの言葉には、説明不能のエネルギーが込められていた。愛のエネルギーと表現できるような単純なものではない。もっと複雑な人間の感情が込められたもので、真由子の神経をすり減らしてしまうほどのパワーがあった。  第二の理由は、自分自身の感情の動きに驚いたことだった。  好きになってしまったのだ。森中公一を本気で好きになってしまったのだ。こんなはずではなかった、と思った。いくら自分に面食いの傾向があっても、またいくら森中公一がずば抜けてハンサムな男であっても、たった一度会っただけで、吸い込まれるように彼の心に引き寄せられていってしまうなんて、想像もできない展開だった。  催眠術——そう、まさにその感覚は催眠術と呼ぶのがぴったりだった。自分の感情が自分でコントロールできなくなっている、その奇妙さが真由子の心を混乱させた。  ダウンした第三の理由は、そうやって好きになった森中公一の身体から、ときおり奇妙なオーラが発せられ、それに「あたって」しまったことだった。  これもまったく説明のできない現象だった。まず最初の波動は、日本庭園の池のほとりで真由子に襲いかかってきた。ひとめ見たときから好きだと言われた瞬間に、一時的に失った聴力。いつのまにか鯉のエサを手にして池にばらまいている森中。跳ね回る錦鯉の群れを眺めるうちに、以前にもまして鋭敏になって戻ってきた聴力。そして猛烈な吐き気。金縛り状態。真由子がくずおれたのに平然としている森中。その無表情な瞳。  だが、つぎの瞬間には、びっくりした声を出している森中が自分のそばにいた。「真由子さん、だいじょうぶですか。いったいどうしたんです、だいじょうぶですか」と。  その森中の豹変《ひようへん》の仕方は、まるで自分を取り巻く時間の流れが連続しておらず、随所で分断されたために起きた現象のように感じられた。録画したビデオテープのあちらこちらをハサミで切って中抜きをして、また貼《は》り合わせたものを見せられている感じなのだ。  最後に、第四の理由は——  こんな自分の心境の変化を、どうやって新谷史也に伝えればよいのか、という大問題である。ストレスによる高熱が出た最大の要因は、この第四の要素であることは間違いなかった。  そして、その史也がいきなり神戸からやってきたのだ。まさかこの日にくるとは予想もしていなかった平日木曜日の昼に、彼は突然上京してきたのである。   「どうしたの、史也」  真由子の母に案内される形で真由子の部屋までやってきた史也は、明らかに思いつめた表情を浮かべていた。肩にリュックを引っかけていたが、それは宿泊のための用意など入っていそうにない小さなものだった。  お見合いのあと、史也とはケータイで連絡を取り合っていたから、高熱を出してずっと臥せっていることは彼も知っている。しかし、たんなる病気見舞いの目的であるならば、なにはともあれ笑顔でくるはずだ。真由子の好きなフルーツでも持って。  ところが史也の顔に笑みはまったくなかった。そして、手みやげ代わりに怒りの拳《こぶし》を握りしめていた。  ああ、わかってしまったんだな、と真由子は悟った。あたしの心が揺れはじめたことがわかってしまったんだ、と。 「すみませんけど、お母さん」  トレーナーの上下を着た格好でベッドに半身を起こした真由子を見つめたまま、新谷史也は自分の後ろに立つ真由子の母に言った。 「しばらくふたりきりで話をしたいので、ここの扉を閉めておいていいですか。お茶もお菓子もいりませんから」 「でも、そんなこと言ったって、史也さん、神戸からわざわざこられたんですってよ。何も出さないというわけにはいかないわあ」  千恵は引きつった表情のまま、声だけには愛想を込めて言った。 「コーヒーがいいかしら、それとも冷たい麦茶はどう? もう麦茶がおいしい季節よ」 「なにもいりません」  ふり返りもせずに、史也は言った。  四年以上のつきあいで、彼が何に対して怒っているか、真由子はピンときた。真由子に対してなのはもちろんのこと、母親にも怒っているのだ。そうでなければ、とりあえず母親にそつのない挨拶《あいさつ》ぐらいはする史也である。  きっと母は、史也を家に上げようとしなかったに違いない。真由子はそう推測した。いまの母は、森中公一との見合い話を成功させることしか頭にないのだ。そんな母にとって、新谷史也は見合い結婚の成功を邪魔する一種の敵である。きょう初めて史也の神戸転勤を知り、娘の関西旅行の目的がどこにあったのかを悟ってからは、なおのことだろう。  そんな史也が、まだ森中公一との見合い話が継続中にわざわざ上京したのは、母からすれば、明白な妨害行為と映ったに違いない。だから、できることなら真由子の高熱を理由に門前払いをしたかったはずである。そのガードを押し切って真由子の部屋まできたのだから、史也も相当ハッキリした物言いをしたのだろう。  この部屋へやってくるまでのふたりの間に、感情的な衝突があったのは間違いないと真由子は確信した。 「お母さん」  真由子は、史也の後ろで憮然《ぶぜん》とした顔になっている母親に言った。 「史也がいらないっていうんだから、いいのよ。それとドアは閉めておいてね。べつにあたしたち、こんな場所でエッチするほど飢えてないから」 「なに言ってるんですか」  いつもならその程度の軽口にはギャグで応酬する千恵だったが、さすがに今回はシャレにならないとみえて、怒りをあらわにした顔で史也の背中を睨《にら》んだあと、バタンと勢いよくドアを閉め、足音高く廊下をリビングのほうへ去っていった。 「そこのリモコンでMDかけてくれない。偵察隊が戻ってきたときのために」  真由子はベッドと反対側に置かれた机の上のリモコンを指さした。  史也は黙ってそれをオーディオセットに向け、スイッチを押した。この部屋でふたりきりで音楽を聴いたことは何度もある。だから史也は、真由子の部屋にあるオーディオ機器の扱いには慣れていた。  ブルーのランプがついてMDレコーダーがデータを読み込み、やがて真由子お気に入りの七〇年代のロックが流れてきた。史也が音量ボタンを調節し、話の邪魔にならない程度に、しかし戸口で聞き耳を立てられたときの「妨害音波」の役割は果たす程度にボリュームを合わせた。  そしてリモコンを床にほうり出すと、ベッドの脇《わき》のカーペットにどさっと勢いよく腰を落とした。その史也をベッドの上から見下ろす格好で、真由子がきいた。 「会社、休んだの?」 「ああ」  山型に立てた両膝《りようひざ》を抱え込むポーズをして、史也はうなずいた。 「このあいだの日曜は、休日出勤だったからな」  その日曜は、まさに真由子が森中公一とお見合いをした日である。 「その分の代休だよ」 「でも、あたしに会いにくるためにとった代休でしょう」 「もちろん」 「あたし、仮病だと思った?」 「いや」  首を横に振る史也の視線は、イコライザーの目盛りが上下するオーディオセットのほうに向けられていた。真由子は史也を見て語りかけているのに、史也は決して真由子を見ようとはしなかった。 「マユはそういうジャンルのウソはつかないから、九度以上の熱がつづいてダウンしているというメールは、そのまま信じた」  そういうジャンルのウソはつかない、という言い方は、いまの真由子にはかなりこたえた。実際、違うジャンルのウソはついているからだ。 「いまは少し下がって、七度五分になったの」 「あ、そう」 「だけど、けさまではほんとに九度以上あったのよ」 「だから、それは信じてるって言ってるじゃねえかよ!」  史也は、突然乱暴な口調になって言い返した。 「おれが知りたいのは、日曜日の見合いで何があったんだ、 ってことだよ」 「何がって」 「森中公一って男と見合いして、それで何があったんだ」 「だから、べつに何もないよ」 「ウソだ」  依然としてオーディオのほうを見つめたまま、史也が言った。 「何もなかったら、面白おかしく見合いの席の出来事をおれに電話してきたはずだ」 「だから、熱が出てそれどころじゃなかったのよ」 「ちがうね。その熱は、おれに言えない展開が見合いであったから、それを隠そうとするところから出た発熱だ。すなおなマユが、柄にもなくウソをつこうとしている罪悪感から出た熱だよ」 「………」 「風邪や疲れが原因だったら、マユは思いっきり甘えっ子になっておれに電話してくるはずだ。そして、くどくどとグチを洩《も》らしただろう。サイテー男と見合いなんかしたから、ひどい熱が出たよ、とかなんとか」 「………」 「原因は、おれを裏切ろうとしている自分との葛藤《かつとう》から出た精神的ストレスだよ。そうだろ」 「………」  ベッドの上に半身を起こしたまま、真由子はひとつも反論ができずにいた。何から何まで図星だった。 「とにかく見せてくれないか」  そう言って、史也はそっぽを向いたまま、左手だけをベッドにいる真由子のほうへ差し出した。 「なにを」 「写真だよ。見合い写真、受け取ってるだろ、森中公一の」 「あ、ああ」  そういう角度から攻めてくるとは、真由子は予測していなかった。 「それを見せてくれよ」 「いま持ってないの。お母さんが預かってて」 「じゃ、お母さんに見せてもらっていいか」 「だめよ」 「どうして」 「お母さん、史也のことを警戒してるの。せっかく持ち込まれたお見合いをぶち壊してしまうんじゃないかと思って」 「それじゃ、マユは今回のお見合いを成立させたいのか」 「………」  しまった、と真由子は唇を噛《か》んだ。もう自分の本心が、隠しようのないところまできていると思った。  史也はゆっくりと立ち上がった。そして、ベッドに身を起こしている真由子をまっすぐ見下ろした。 「真由子」  史也がいままで見たことのない怖い表情をして低い声を発したので、真由子は殴られるのではないかと思った。そして実際にものすごい勢いで手を伸ばしてきたので、とっさに身をすくめた。  だが彼が手を伸ばしたのは真由子に対してではなく、ベッドの向こう側、出窓の置物スペースに立てかけてあった何冊かの外国の風景写真集——その間にはさんであった純白のお見合い用写真アルバムだった。  カーテンを開け放った窓からは、まだ梅雨に入らぬ五月末のさわやかな陽光が射し込んでいる。その日射しを受けて、アルバムはいちだんと表紙の白い光沢を際立たせ、輝いていた。だから史也の目に留まったのだ。  あっ、と声を出した真由子が止めようとする間もなく、史也はそれを抜いて手元に引き寄せた。 「なにがお母さんが持っている、だ。ちゃんとあるじゃないかよ、ここに」  そして史也は勢いよくアルバムを開いた。 「………」  しばし史也は言葉を出せずに、目にした見合い写真を信じられないといった顔で見つめていた。 「なんだよ、こいつ」  ようやく発した言葉がそれだった。 「おまえ、こんなひどい男に惚《ほ》れたのか」 「………」  こんどは真由子が黙った。  史也が引き抜いたのは、いわゆるダミーの男のほうだった。一流大学を出て一流企業に勤めている、身長百六十五センチで四十三歳の「ゆでたまご男」。もちろん、釣書《つりがき》にはきちんと氏名が記されてあったが、真由子は記憶にもない。  本来なら、不要となったそちらの男の写真は静子叔母に返してもよいものだったが、母がたぶんうっかり森中公一のアルバムと重ねて真由子に渡したのだ。真由子も「ゆでたまご男」のアルバムがいっしょになっていることに気づいてはいたが、いかんせん熱にうなされて、細かなところまでは気が回らなかったので、そのままにしておいたのである。  真由子は一瞬、見合いの相手はそっちの男だったことにしようかと思ったが、すぐにそんな姑息《こそく》なウソをつくのはやめにした。プロフィールを見れば名前が森中公一でないのはすぐバレるし、なにかといえば史也に対して平気でウソをつこうとする自分に嫌気がさしたためでもあった。  案の定、プロフィールを引き抜いた史也が言ってきた。 「なんだよ、こいつは森中公一とは違うじゃないか。……ああ、そっちのほうか」  史也は、写真集の間に挟まっていたもうひとつのアルバムに気がついた。万事休す、と真由子は思った。そして、もうひとつのアルバムを開いた史也は、真由子に聞こえるような荒い息をつきはじめた。   「なるほどね」  長い時間をかけて、森中公一の見合い写真とプロフィールを確認した新谷史也は、経歴の一部をメモに書き留めてから、アルバムを閉じた。 「こういう話がきていたから、USJであんな計画を持ち出したのか。史也と結婚する前に一度はお見合いをしてみたいって」 「そうじゃないの」 「そうだよ」  かぶせるように、史也は言った。 「この男に一目惚れしたから、おれに対して伏線を張っておいたんだ。なにがあたしのお見合い体験で、史也にテレビドラマを書いてもらいたい、だよ。よくもそういうウソが言えたもんだな」 「ウソじゃないってば、信じて、史也」  真由子は必死に弁解した。 「神戸から帰って初めてあたしのところにこういう話がきていたの。まったく偶然なのよ。あたしがお見合い計画を思いつく前にこの話があったわけじゃないし、東京に戻ったあと、あたしからお見合いをしたいと親に頼んだわけでもないの。そんな話をこっちから持ち出す前に、静子おばさんから……」  弁解をまくし立てながら、真由子の声が興奮でうわずっていった。 「あたしにも……あたしにもわかんないのよ。どうしてこんなふうに話がどんどん進んでいっちゃったのか、ぜんぜんわからない。面白半分に史也にお見合いの話をして、それで家に帰ったら森中さんの話がきていて」 「そこまでは、真由子の意思とは無関係に事が進行したと認めてやってもいい。だけど、あとの展開はどう説明するんだ。なぜおれはこの家で急に邪魔者扱いされて、なぜ森中公一という男が、いつのまにかマユのフィアンセみたいな扱いをされるんだ」 「なぜって……それはあたしにも」 「わかんなきゃ、おれが代わりに答えてやるよ。かんたんじゃないか。おまえがこの男を好きになったからさ」  閉じた見合いアルバムを、史也はパンパンパンと片手で叩《たた》いた。 「新谷史也よりは森中公一のほうが好きになったからだよ。そんな娘の気持ちを確認したから、お母さんだって手のひらを返したようにおれに冷たくなるんだ。そしておまえは、恋人を裏切った後ろめたさで四日間も熱にうなされたんだ。ほんとにマユは素直でいい子だよな。心やさしい子だよな。裏切った恋人に申し訳なくて、自分をとがめているうちに熱を出しちゃうなんてな。ほんとにいじらしいよ。可愛《かわい》いよ。……ケッ」  ものすごい形相で、史也は吐き捨てた。 「いったい、この四年間は何だったんだよ! え、おれたちの長い長いつきあいは何だったんだよ! 千日以上もおまえの恋人でいたおれが、たった一日だけ、それもほんの数時間だけお茶を飲んだりメシを食ったりしたお見合い男に負けるのか! なぜだよ! それはどうしてなんだ! しかもおれたちの仲はさあ……おれたちの仲は、真由子のほうから望んではじめたことだろう」  不満をぶちまけている史也の唇が激しく震えているのが、真由子の目にはっきり見てとれた。もしかすると、泣き出すのではないかと思った。  それはそうだろう。たしかに史也は、四年間ずっと脇目《わきめ》もふらずに真由子をひたむきに愛しつづけてくれた。真由子も史也をひたむきに愛したが、史也もほんとうに誠実な態度を貫き通してくれた。  口の利き方こそ乱暴なところはあるが、それも史也特有の愛情表現だとわかっていた。彼がいかに誠実な男性であるかの証拠に、六年も早く社会に出ていたのに、史也はほかの女性に一度も浮気をすることなく、真由子が大学を卒業するのをずっと待ってくれたことが挙げられる。それもひとえに、真由子のほうから言いだした愛の告白を真摯《しんし》に受け止めてくれたからではないか。  そんな史也を、顔がよくて話が上手で、マスコミの一線にいて財力もある森中公一の登場で、自分はあっさりと裏切ってしまったのだ。もしも自分が彼の立場だったら、泣き出して当然だ。そう思ったとたん、ぼろぼろと涙が出てきた。あたしって、なんてひどい女なんだろうと真由子は思った。 「ごめんね、史也」  泣きながら、真由子は謝った。正直な現在の心境を、これ以上隠しきれなくなって告白した。 「こんなふうになるとは思ってもみなかったの。お見合い相手を本気で愛してしまうことになるなんて」 「本気で……そう言ってるのか」  史也は愕然《がくぜん》とした顔で真由子を見つめていた。その視線と自分の視線を合わす勇気など、真由子にはとうていなかった。 「あたしにも信じられないの。ここまで急に自分の気持ちが変わっちゃうなんて。自分で信じられないよ。あたしには史也しかいない。史也以外の男の人を愛することがあるなんて、絶対に百二十パーセントありえない、 って思ってた。でも、ありえないことが起きちゃったんだよ」  鼻声でいまの気持ちを打ち明けながら、真由子はどこかで聞いたセリフを口にしている自分に気がついた。 (どこで聞いたの、このあたしの言葉?) 「最初っからな、おれはヤな予感してたんだよ。おまえがスタジオで働きはじめたときからな」 (ちょっと待って、史也の言葉もどこかで聞いたことがある) 「芸能人とかモデルとか、そういうチャラチャラした連中ばっかり出入りするところで働いていたら、おれみたいに食品会社に勤めている男なんて、地味でダサくて、ぜんぜんつまんねえ存在にみえるだろうな、 って、不安だったんだよ」 (言い回しの一部分は違う。でもほとんど同じ……ほとんど同じセリフを史也がしゃべるのを、あたしはどこかで聞いたことがある) 「森中公一か」  史也がポツンとつぶやいた。 「じゃ、おまえは新谷真由子じゃなくて、森中真由子になるわけか。そうですか。それはそれはおめでとうございます。森中さんの奥さま」 「やめてよ、史也!」  史也の言い方がつらくて、真由子は叫んだ。  叫んだと同時に、猛烈な恐怖が脳天から心臓めがけて突き刺さってきた。 (あたし、あのときと同じ会話をしている! 史也も、あのときと同じ会話をしている! あたしのイメージに浮かび上がってきた、想像の場面とほとんど同じやりとりを……) 「どうして!」  たったいま発した「やめてよ、史也」という叫びと、まったくつながらない悲鳴を真由子は張り上げた。 「どうしてなの?」 「それはおれが言うセリフだろう。こっちがききたいって、さっきから言ってんだよ。どうしてこんなことになったんだって!」  真由子の叫びの意味を勘違いした史也は、そう怒鳴ると、手にしていた純白のアルバムをベッドにいる恋人めがけて思いきり投げつけた。  真由子の顔に命中してベッドの上に落ちたアルバムは、ぱらりと勝手に扉を開いた。森中公一のハンサムな笑顔が真由子に笑いかけていた。 (真由子さん、ぼくはあなたがひとめで好きになってしまいました)  男の声が真由子の大脳にささやきかけ、真由子は気を失ってベッドに倒れ込んでしまった—— [#改ページ]    六 ゴースト・バスターズ 「それで?」  一連の話を史也からきいた父親の新谷|洋次郎《ようじろう》は、実家を訪ねてきた息子の顔をじっと見つめてたずねた。 「それでおまえは何が言いたいんだ」 「なにが、って……」  と、つぶやき返しながら、史也は即答は避け、窓の外に見える桜島に目をやった。  鹿児島市の少し北の高台にある史也の実家からは、海越しにいつもこの活火山を眺めることができる。いまは白い煙をかすかにたなびかせているだけだが、ひとたび噴火をはじめれば、風向きによっては流れてきた火山灰で庭の芝生が真っ白に、あるいは薄茶色に染められたりする。  小さいころから桜島の噴火活動を見て育ってきた史也は、まるでオヤジみたいな島だ、といつも思っていた。中学校の国語教師だった父・洋次郎は、ふだんから何かしら怒りのノロシをぷすぷすとあげていて、つねに爆発スタンバイの態勢をとっていた。そして、なにかのきっかけでドーンと勢いよく噴き上げるのだ。いったん父親が怒りだしたら手がつけられないので、ひとりっ子の史也と母親は、ふりかかってくる「火山灰」を浴びながら、ひたすら噴煙が鎮まるのを待つしかない。  だが、六十を超えて教育現場の一線から退き、いまは友人がやっているミニコミ誌の編集顧問として静かな毎日を暮らすようになってからは、これまでの噴火体質がウソのように好々爺《こうこうや》となってしまった。年を取ると活火山型の人間も休火山になってしまうのかなあ、と史也は感慨深いものがあった。  二週間前、真由子に会わせるためにわざわざ両親を神戸までよんだのが空振りに終わったときも、母の妙子《たえこ》が無駄足になったと憤慨していたのに、逆に父は「まあ、真由子さんも恥ずかしがっておるんだろう。わかる気がする。またの機会を待とうじゃないか」と、やさしすぎるほどの理解を示し、緊張していた史也はすっかり拍子抜けしてしまったいきさつがある。  父親のそうした性格的な変化が、今回の事態に直面したときの相談相手として、まっさきに父を史也に選ばせたひとつの要因にはなっていた。そして東京からとんぼ帰りで神戸に戻った史也は、その週末の土曜日に、こんどは鹿児島へと飛んだのだった。  今回の混乱する事態に父親を相談相手として選んだのは、それだけが理由ではなかった。父はオカルトとか超常現象と呼ばれるものを信奉する人間が大嫌いで、しかしただ嫌悪するだけでなく、それを論理的に排除しようとする考えの持ち主であることを、昔から知っていたからだった。  子供のころ、史也が幽霊の存在に怯《おび》えると、幽霊は人間の恐怖心が作り出す錯覚であるということを、噛《か》み砕くように説明してくれた。同じように、父親に言わせれば心霊写真やUFOとは、自己顕示欲の強い人間が、これは捏造《ねつぞう》なのだと頭の片隅で意識しながら、自分に信じ込ませて造りあげる錯覚なのだそうだ。  国語教師として中学校に勤務していたころ、史也の父は、ある意味では生徒から煙たがられる存在でもあった。オバケの実在を信じることが面白い年ごろの子供たちに対して、それを片っ端から論理的な説明でつぶしていくからである。まさにその点において、新谷洋次郎とは「ゴースト・バスターズ」なのだった。  そういった父親の頑《かたく》なな一面は、言葉づかいにも現れていた。洋次郎は生粋の鹿児島人であるにもかかわらず、職業として国語教師を選んだからには、自分自身が生きた標準語の手本にならないと、方言を使いながら標準語を教えるのは矛盾すると考えた。日本人教師が日本語を使って英語を教えるよりは、ネイティブの教師が英語で英語を教えるほうが生きた言語を教えられる、という発想と同じだった。  そのポリシーを貫くために、洋次郎は若いころから方言を矯正し、いまではかすかにその名残が感じられる程度の、完全な標準語人間となっていた。おかげで地元の旧世代の人間からはすっかり変人扱いされていたが、洋次郎はまったくそんなことは意に介していなかった。  そうした「論理のかたまり」のような父親に救いを求めるのが、今回の事態を乗り切る唯一の方法だと史也は思ったのだ。    新谷史也に突然のしかかってきた問題は二つあった。  ひとつは、ある日突然、恋人をお見合いの男に奪われてしまったという感情的な部分だった。もちろん史也は、はいそうですかとかんたんに引き下がるつもりはない。しかし、自分でもわからないほどお見合いの相手が好きになってしまったと泣きじゃくる真由子を前にして、史也は呆然《ぼうぜん》、愕然《がくぜん》、唖然《あぜん》とするほかに、なすすべがなかった。  第二の問題は——これこそが父親の助けを借りなければならないところだったが——真由子が泣きながら訴えてきた不思議な体験が、ほんとうにこの世に存在するものなのか、それとも百パーセント彼女の捏造なのか、ということだった。  お見合い写真を開く前に、突然、史也との諍《いさか》いのイメージが浮上し、そのトラブルのもととなったお見合い相手の男の名前が森中公一であることが「予知」あるいは「透視」できた。そして、顔までが具体的な映像として浮かび上がって、現物のお見合い写真を広げたら、そのとおりの顔をした男がそこにいた。  何か見えない力に引き寄せられるようにして、森中公一とのお見合いが設定され、男をまのあたりにしたところから、真由子は恋の魔力のとりことなってしまった。しかし、「ひとめみたときからあなたが好きになってしまった」という愛の告白をささやかれたときから、真由子の脳にふたたび異常事態が起きる。  激しいショック。一時的な聴力喪失。音のない世界で、男にもらったエサを求めて跳ね回る錦鯉《にしきごい》の光景。聴力の回復とともに襲ってきた鯉の跳ねる水音のすさまじさ。猛烈な吐き気。救いを求める真由子に向けられた無表情な森中の視線。  間を飛ばしてビデオテープを見るような、とぎれとぎれの記憶。  そして、気持ちの動揺が収まったあとについたフレンチ・レストランの席で、改めて発せられたプロポーズの言葉。「全身全霊を傾けて真由子さんを愛したい」という言葉を聞いてからの猛烈な発熱。  こうした一連の事態を、真由子の「思い込み」または「ウソ」と捉《とら》えるか、あるいはストレスから彼女の精神状態に異変が起きてしまったと解釈するか、それとも——これがもっともありえそうにないことだが——真由子に突然透視能力が授かってしまったと結論づけてしまうのか。  その謎《なぞ》を解かないかぎりは、こんどは史也の精神状態がおかしくなってしまいそうだったのだ。   「父さん、ぼくは……」  長い沈黙ののちに、史也は言った。 「ぼくは真由子を取り戻したい。彼女に何が起きたのか、その説明は後回しでもいい。とにかく、ぼくの手元に真由子を取り戻したいんだ。望んでいるのは、ただそれだけだ」  口に出してみて、その単純な気持ちこそがすべてだと史也は確認した。  母の妙子は、神戸のすっぽかし事件以来すっかりヘソを曲げていて、「女は真由子さんだけじゃありませんよ」などと、もう完全に突き放していた。だが父・洋次郎は、同じ男として恋する者の心理がわかるようで、史也と同じ立場に立って、真由子との関係復活を前提としたアドバイスをしてくれそうだった。そこに史也は期待をかけた。 「私は真由子さんと会ったこともないし、電話で話したこともない」  カチッと音を立ててライターでタバコに火を点《つ》けてから、洋次郎は静かな口調で話し出した。 「だから、彼女の人となりについては、史也の言葉を信じよう。ずるいウソをつくような女の子ではない、というところはな」 「それはもう……絶対だよ」 「ただし、悪意のないウソならつくかもしらんな」 「え?」 「森中公一が登場する前の、彼女のおまえに対する気持ちはどうだったんだ。百パーセント疑いのない愛情がおまえに注がれていたと思うかね」 「間違いないよ。だから父さんと母さんを会わせようと思ったんじゃないか」 「そうとはかぎらんなあ」  吐き出したタバコの煙越しに、洋次郎はじっと息子の顔を見つめた。その目尻《めじり》には微笑《ほほえ》みの皺《しわ》が刻まれている。 「結婚への段取りをおまえが急ぎはじめたのは、どこか真由子さんの態度に心理的な不安を抱えていたからではないのかな」 「不安?」 「そうだよ。結婚という法的な形態で真由子さんを縛ってしまわなければ、彼女が手元から離れてしまう。そんな不安を無意識のうちに感じはじめたから、彼女を私や妙子に会わせて、既成事実を早く作ってしまおうと思ったのではないかな」 「そりゃ、そういう部分がないとは言えないよ」  史也は認めた。 「いちばん大きな要因は、やっぱりぼくの神戸転勤だろうな。いままでの四年間、ずっと真由子と同じ東京にいたから、住まいは別でもいつも同じ空間にいるという一体感があった。でも、神戸に引っ越してからはその距離感がぐーんと離れちゃって」 「それだけでなく、真由子さんの仕事先の問題もあろうが」  父親は、さすがに鋭いところを衝《つ》いてきた。 「叔父さんの経営する写真スタジオには、おまえの話によれば、芸能人やらマスコミ関係者やら、ハデな世界の人間が出入りしておるそうだな」 「うん」 「そんな環境に入ってみなさい。いまの女の子なら、誰だってその刺激に興奮するだろう。そして、そういう楽しい世界での仕事は、若いいましかできないと思うものだ」 「若いいま……か」 「そうだよ。その若さの特権を、新谷史也ひとりのために犠牲にしてよいものか、と真由子さんが考えはじめても、その気持ちを責めるのは酷というものだろう」 「父さん、いつからそういうフェミニストになったんだ」 「私は昔からフェミニストだった」 「ほんとかよ」 「母さん以外の女に対してはな」  最後はそっとささやいて、洋次郎は笑った。  父親がそういう洒落《しやれ》っ気のある人間であることに気がついたのは、ほんとうに最近になってからのことだが、さすがにいまの史也は苦笑を浮かべるのが精一杯だった。 「ともかくだ、おまえが結婚を急げば急ぐほど、真由子さんの心には、無意識のうちにそれに抵抗する心が芽生えていったとしても不思議ではあるまい。だから彼女は、父さんや母さんと会うのを拒否したんだ。たんに恥ずかしさから出たものではない。そしてその気持ちをおまえには隠しつづけていた。決してウソをついているという認識ではなく、要らぬ真実は語らない、というレベルでな」  たしかにそれは言える、と史也は思った。ほんとうに結婚を急ぎたいのだったら、真由子は史也の両親に素直に会っていたはずである。  これまでのつきあいにおいて、真由子は口を開けば、「史也のしたいとおりでいいよ」「史也の考えでいいよ」というふうに「従う女」であることをみせてきた。それはたぶん本心だろう。しかし、もっと心の深いところで、従うだけの女に反発する部分が芽生えていたのは事実かもしれない。そして、その気配を察したからこそ、こちらも結婚を急いだところがあったのだろう。真由子の心変わりの予感をかすかに察知して。  けれども、そんな彼女の心理をいまさら分析してどうなるのか。 「あのさあ」  史也は言った。 「ぼくが父さんに頼みたいのは、恋愛感情面での心理分析じゃないんだよ。子供たちのオバケ退治役だったキャリアを生かして、真由子が直面した不思議な現象の謎《なぞ》を解いてほしいんだ」 「だから、それをこれからやろうとしているところじゃないか」 「できるの? ほんとに」 「どうだかなあ」  史也がいらだつようなのんびりした返事をすると、洋次郎は大好きなタバコをまたうまそうにくゆらせた。  父の口から吐き出された白い煙が、史也の目の前を波打ちながらゆったりと漂い、開け放された窓から青空に散って、桜島のうっすらとした煙と区別がつかなくなった。 「ぼくはね、父さん。楽しかったこの場面をもういちど取り戻したいんだ。お見合いの話なんて、かけらも出ていなかったこのときのふたりに戻りたいんだよ」  外の景色からふたたび室内に視線を戻した史也は、『ジュラシック・パーク』に出てきた恐竜をあしらったハデなファイルケースをテーブルの上に取り出した。 「なんだい、それは」 「真由子とUSJに行って、『ジュラシック・パーク・ザ・ライド』っていう、一種のジェットコースターみたいなものに乗ったときの記念写真だよ。開けてみてよ」  史也にうながされて洋次郎がファイルを開けると、そこには二枚のカラー写真がレイアウトされていた。開くとそのまま写真立てにもなるスタイルだ。  一枚は、急降下するボートに乗って二十人ほどの客が悲鳴をあげている全景を俯瞰《ふかん》で捉《とら》えた写真で、絶叫する史也と、その胸に顔を埋《うず》めている真由子の姿も、前から四列目、後ろから数えると二列目の左端に写っていた。そしてもう一枚は、史也と真由子の姿をメインにしてもう少しアップに引き伸ばしたものだった。  ボートは横に五席、タテに五列あって、計二十五人がいっぺんに乗れる。ほとんどの人間がフード付きの使い捨てレインコートを羽織っているのは、ジェットコースターの最終着地点が水上であり、そのさいに大量の水をかぶってしまう可能性があるからだった。  USJにはこのほかにも『ウォーターワールド』や『ジョーズ』など観客に水がかかる可能性のあるアトラクションがいくつかあるため、その入口では安価な使い捨てレインコートを販売している。だが、史也と真由子はこのときは買い忘れてレインコートを着ていなかった。それで、とくに端の席にいた真由子がかなりの水をかぶったのも、いまとなっては複雑な気分とともによみがえる懐かしい思い出だった。 「ぼくも真由子も、乗っているときはぜんぜん気づかなかったんだけど、このアトラクションの最後の場面で、恐竜に食われそうになったあと、一気に水面に向かってボートが落ちていくところを、自動的にカメラが撮影するようになっていたんだ」 「それをあとで買わせようという商売だな。長瀞《ながとろ》や保津川《ほづがわ》下りなどでもよくやる手だ。それの現代版か」 「ボートから下りたときに、自分たちの写真があることに気がついたんだけど、最初は、もったいないから買うのをやめようって、真由子が言ってたんだけどね、そのあといくつかアトラクションを回って、じゃ、帰ろうかという段になって、やっぱりあの写真がほしいって、真由子が言いだしたんだ。それでぼくがお金を払って買ったんだけど、こまごまとした荷物はぜんぶぼくが持つことにしていたから、真由子に渡すのを忘れちゃって、そのまま彼女は東京に帰ってしまった。  で、おととい真由子の家に行ったとき、これを置いてこようと思ったんだけどさ……でも、できなくて」  史也は、唇の端を歪《ゆが》めて自嘲《じちよう》的に笑った。 「この写真、焼き増しできるわけじゃないから、このワンセットだけだからね。真由子にあげたら、ふたりの最後の思い出が何もなくなっちゃうじゃないか。ふたりでいっしょに暮らすつもりだったから、一時的に彼女にあげたって、どうせ近いうちにふたりの部屋に飾って見ることができる。そう思ったから同じものを二組も買ったりしなかった。当然だよね。でも、もしかすると、もう真由子と暮らすことはないのかと思うと、あげられなくなったんだ」 「なるほど」 「真由子のやつ、恐《こわ》がりだから顔を伏せっぱなしで、ぜんぜん表情が写ってないんだけど、もしかすると、これがぼくと真由子がふたりで写った最後の写真になるんじゃないかと思うと……」  史也の言葉の最後は、情感に溺《おぼ》れて震えていた。  父・洋次郎は、タバコが短くなるまでその写真にじっと見入っていたが、やがて灰皿でタバコの火をもみ消したあと、写真から顔を上げて息子に問いかけた。 「なあ、史也。おまえ自身は透視能力の存在を信じるのか」 「信じないよ、絶対に」  史也は激しく首を振った。 「そんな現象があってたまるもんか」 「しかし、真由子さんはお見合い写真を見る前から、森中公一の顔と名前をイメージしていた。ついでに、史也との破局もな」 「ぼくたちはまだ破局してないよ!」 「わかった、わかった。そう興奮するな」  父親は苦笑して、息子を手で制した。 「とにかくだ、おまえが絶対に否定したい超常現象を、真由子さんはあったという。では、なぜありえないことが起きたのか」 「顔に関しては説明ができるよ」  荒い息を鎮めて、史也が言った。 「きっと森中公一は、もともと真由子が理想とする男の顔立ちだったんだ」 「理想は史也じゃないのかね」 「顔以外はね」 「はっはっは」  洋次郎は声を立てて笑った。 「父さん、ぼくはまじめに答えてるんだぜ」 「すまん、すまん。それで?」 「真由子の外見的な好みは、彼女の親も親戚《しんせき》もだいたい知っていたはずだ。とくにお見合いの仲人となった彼女の叔母さんは、真由子の気に入る相手を探そうとしていたわけだから、さりげなくふだんから好みを聞き出していたに違いない」 「それで、真由子さんの好みどおりのお見合い相手を、数ある候補者の中から選《よ》りすぐったと」 「うん。それがあまりにもピッタリきていたんで、真由子は写真を見る前に思い浮かべた理想像と、森中公一の写真が一致したと思い込んだ」 「結構」  洋次郎は満足げにうなずいた。 「きわめて論理的なオカルト退治だ」 「ほめられてもうれしくないけどね」 「では、名前のほうはどうだ。森中公一という名前を、その文字遣いまではっきりと真由子さんが脳裏に浮かべられたのはなぜか、と」 「それの説明がつかないから、父さんの助けを求めに鹿児島まできたんじゃないか」 「だから、いま助けの手を差し伸べているところだろうが。いいか、史也。おまえが直面する問題の答えを求める方向性は五通りしかないと思う」  元国語教師というよりは、数学教師のような論理的な口ぶりで、洋次郎は話を進めていった。 「ウソか、錯覚か、精神上の問題か、超常現象か、それからもうひとつの可能性か——その五通りの中から正解を選ぶしかないんだよ」 「もうひとつの可能性、って、何だよ」  史也はたずねたが、父親はあえてその質問を無視して先をつづけた。 「この五種類の答えの中で、もっともおまえが安心できるのは『錯覚』という結論だろうな。森中公一の顔を写真を見る前に、真由子さんがそれを頭に思い浮かべていたと感じた謎《なぞ》について、おまえは非常に合理的な解答を提示した。見合いアルバムを開く前に想像したのは、あくまで漠然とした理想の顔立ちにすぎなかったが、その直後に見た森中公一があまりにも理想に近かったため、最初から彼の具体的な顔を透視していたと思い込んだ。そういう錯覚を引き起こしたと」 「うん」 「だが、この説明方法は、名前の一件には通用しないのだ」 「だから困ってるんだ」 「かといって、真由子さんは史也のほかに好きな男ができたことについて、超常現象を持ち出して正当化するような、タチの悪いウソをつく女性でもないようだ」 「もしもそうだったら、それがいちばん怖い結論だけどね」 「そのときは、彼女といっしょになる価値など最初からない」 「そんな仮定はやめてくれよ、父さん。真由子は絶対にそういうたぐいのウソをつく子じゃないんだ!」 「わかった、わかった、わかってるよ」  同じことを重ねて強調しようとする息子に、父親はストップをかけた。 「錯覚でもない。ウソでもない。かといって、超常現象も認められないとなれば」 「真由子の精神に異常が起きたという可能性は……正直言って……ぼくは」  一転して、かすれ声になって史也は言った。 「完全に否定はできない。四日間も高熱を出してうなされたせいかどうかわからないけど、真由子がいつもの真由子じゃなくなったのは間違いないんだ。ふつうの精神状態じゃなかったんだよ」 「まあ、その可能性は脇《わき》に置いておこう。なぜならば、もうひとつ有力な方向性が残されているからだよ。それはな……」 「………」  史也は固唾《かたず》を呑《の》んで、父親の解答を待った。  間を持たせるように、洋次郎は新しいタバコに火を点《つ》けた。そして、吐き出した煙を目で追いかけながら、ぽつりと言った。 「それは記憶だ」 「記憶?」 「合理的な解答はそれしかない。記憶だよ」 「どういうことだよ」 「おまえはデジャ・ヴュというのを知ってるか」 「既視感ってやつね」 「うん。見たはずがないのに、絶対以前に見た覚えがあるという心理だ。顔立ちに関する既視感は、錯覚で片づけられる。しかし、森中公一という具体的な漢字四文字の既視感については、錯覚という現象では絶対に説明できない。具体的な記憶がそこに存在しないと、人の名前の既視感は成立しない」 「そのことなら、ぼくだって真由子に確かめたんだ」  史也が反論した。 「彼女があまりにも興奮して、自分には透視能力があるとか、不思議な現象が私の周りに起こっていると、泣きながらわめきだしたから、確かめたんだよ。もしかして、森中公一という男を以前から知っていたんじゃないか。おまえの人生のどこかの場面に、この男が登場したことがあるんじゃないかって」 「ほう」  史也の父は、唇をまるめて感心した表情になった。 「あんがい、おまえもいい線を衝《つ》いているんじゃないのか」 「だけど答えはノーだった」  史也は肩をすくめた。 「森中公一なんて名前はもちろん、森中という苗字《みようじ》の男にも、公一という名前の男にも、出会ったことがないっていうんだ」 「それは、彼女がそう思い込んでいるだけだとしたらどうだ」 「だって本人が否定しているんだよ」 「いくら否定しても、記憶の要素がなければ森中公一という漢字が脳裏に浮上することはない」 「だとしたら、本しかないよ」  投げやりに、史也は言った。 「真由子は推理小説が好きだから、そういう名前の登場人物が出てきた物語を読んだことがあるのかもしれない。お見合いかなにかのシーンでね。そのこともぼくは考えてみたんだ。そして真由子にきいた。でも、そんな記憶はまったくないって」 「史也」  くわえタバコのまま、洋次郎は手元にあった『ジュラシック・パーク・ザ・ライド』の記念写真を、息子のほうへ向けて押し返した。 「もしかすると、ここに答えがあるんじゃないのか」 「え?」 「さっきから聞いていると、ユニバーサル・スタジオに行ったおまえたちは、この乗り物を楽しんだあと、すぐには記念写真を買わなかった」 「そうだよ」 「そしてお茶を飲んだり食事をしたりしたんだろう」 「食事はしなかった。お茶だけだね」 「そのときに、真由子さんからお見合いの話が出た」 「うん。史也のありがたみを知るために、ダサい男とお見合いするっていう計画を真由子のほうから持ち出してきた」 「そのあと、またおまえたちは、ほかのアトラクションを楽しんだりした。そして帰り際になって、真由子さんは急にこの記念写真をやっぱり買って帰りたいと言いだした」  そこまで語ると、父・洋次郎は息子の顔をじっと見つめて言った。 「ひさびさに私も『ゴースト・バスターズ』の役目を仰せつかったかもしれないな。見ろ、これを」  並んだ二枚の写真のうち、ボート全景が俯瞰《ふかん》で写っているほうのショットに洋次郎の人差指が伸びた。 「このボートは一列五人掛けだが、カップルどうしが二組乗ったときは、一列四人に抑えて配分している。最前列には親子づれの三人と、カップルの五人。二列目は女の子ばかり五人。三列目はカップルが二組で四人。四列目はおまえたちともう一組のアベック。そして最後列だが、子供を間にはさんだ親子連れが一組と、そしてたったひとりで乗っている男がいる」  洋次郎の指先が、その男のところで止まった。 「おまえも含めて、ほかの乗客は絶叫するにしてもみんな笑顔だ。面白いもので、ジェットコースターの急降下というスリリングな場面でも、それが娯楽の一環だとわかっているから、叫ぶにしても笑いながら叫んでいる。つまり本物の恐怖ではないわけだ。ところが、この若い男はどうだ」  洋次郎の指し示した男は、端に乗った真由子の真後ろに位置し、例の使い捨てレインコートを羽織っていた。そしてフードもかぶっているのだが、透明なので表情はよく見ることができた。  その男の顔にも、恐怖と表現してよい表情が浮かんでいた。だが、ほかの乗客と決定的に異なるのは、笑顔なき恐怖なのだ。まったく笑っていないのだ。おまけに、その恐怖に彩られた目は、真ん前にいる真由子の背中へと向けられていた。  これまで史也は、この写真を見ても自分たちふたりと、あとは全体的な雰囲気にしか目が行かなかったため、いちいち他の乗客の表情をこまかくチェックしたりはしなかった。真由子の真後ろにレインコートのフードをかぶった男がひとり座っていることも、視野には入っていたのだが、意識にはとどめていなかった。  しかし、父親に言われてまじまじと見ると、その男だけは、スリルとサスペンスのエンターテイメントからまったく遊離した世界にいるようだった。顔に浮かんでいる恐怖は、まさに娯楽ではない、ほんものの恐怖だった。いったい何に怯《おび》えているのか。  しかも彼は、史也と同世代ぐらいの若さなのに、スーツにネクタイを締めていた。  そして——  あらためて見ると、あの男にそっくりだった。 「父さん……あいつだ……」  新谷史也は、その男に視線をくぎづけにしたままつぶやいた。 「あいつだよ。お見合い写真の男が、こんなところにいる!」 [#改ページ]    七 夜の準備  遠く離れた鹿児島で、新谷史也が父親から重大な事実に気づかされていたころ、滝真由子は、東京の自宅リビングでぼんやりとテレビを見ていた。  テレビはプロ野球のデーゲームを生中継していたが、それに興味があったわけではない。一戸建てにひとりぼっちで留守番をしている、その静けさがいやで、テレビの電源を入れたまでのことだった。  父の滋夫と母の千恵は、会社の部下の結婚式に夫婦で招かれて、千葉のホテルまで出かけており、きょうの帰りは遅くなるとのことだった。  いまの真由子は、結婚式と聞いただけで、反射的に拒否反応を起こしてしまうほどだった。四日つづいた熱はどうにか治まった。だが、気分的な落ち込みは前にもましてひどくなっていた。とくに、木曜日に突然やってきた史也が、真由子の支離滅裂な説明を聞いていっそう不快そうな顔になり、そのまま黙って神戸に戻ってしまったことが、かなり彼女にショックを与えていた。ふたりの仲はこれで完全に終わってしまった、と思った。  その一方で、森中公一からこの数日間、なかなか連絡がないことも、真由子の気持ちを滅入らせていた。  史也を失うという大きな犠牲を払ってまで、森中を本気で好きになってしまったのに、その森中にまさか捨てられてしまうのでは、という不安が波状的に襲ってきた。叔母の静子に状況をきいてみたい気もしたが、もしもよくない情報を間接的に教えられたらどうしようと思って、それもできずにいた。  時間が経《た》つにつれて、森中公一という男は、真由子にとって神さまがつかわした特別な使者のような気がしてならなくなった。透視とも予知ともいうべきあの既視感についても、いまや真由子は、論理的な説明をそれに求めようとはしなくなっていた。 (とにかく、あたしと森中さんは結ばれるように運命づけられている)  真由子は、理屈抜きでそう決めつけていた。 (あのままほうっておけば、あたしは史也のお嫁さんになっていた。それではいけないのだと教えるために、神さまが森中さんを急いであたしのもとにつかわしてくださった。そして、迷うことなく新しい人生を選ばせるために、お見合いの相手という形で彼を登場させたのだ)  論理のかけらもない結論だったが、真由子はそれが正しいのだと自分に思い込ませた。  史也との別れに関して、まだ釈然としない気持ちが残っているのは事実だった。けれどもそれは、自分の身勝手さに対する罪悪感であって、史也に対する愛情というものは、恐ろしいほどあっさりと消え去ってしまっていた。  木曜日、史也はほとんど泣き出しそうな表情で真由子を問いつめてきた。お見合い相手を好きになったというけれど、おれのこともまだ愛しているのか、それとも、おれに対する愛情は消えたのか、と。  それに対して、真由子は答えた。「いまも史也のことは好き」と。  だが、「好き」と「愛している」の違いがわからないふたりではなかった。「好き」が友だちどうしにも使えるレベルの表現にすぎないことを、言った真由子も、言われた史也もわかってしまった。  白い空気がふたりの間に流れた。  そして、史也は何も言わずに去っていったのだ。力なく落としたその肩にひっかけられたリュックの中に、真由子がほしいと言いだした『ジュラシック・パーク・ザ・ライド』の記念写真が入っているとも知らず、真由子は玄関のほうへ去っていく彼の後ろ姿を、涙に曇る目で見送った。  あれから二日経ち、週末を迎えたが森中からの連絡はない。週末には電話をくれるはずだったのに、と真由子は不安のまじったいらだちを感じていた。  と、そんなときに、彼女のケータイが鳴った。 「もしもし、真由子さん? いま話をしてもだいじょうぶでしょうか」  男の声は森中公一だった。 「ああ、公一さん」  いつのまにか、真由子は相手を下の名前で呼んでいた。そして、じれて、じれて、じらされ切った女の切なさをもろに表わした声で訴えた。 「あたし、すごく心配していたんです。このまま公一さんから何の連絡もないんじゃないかと思って」 「まさか。どうしてぼくが真由子さんをほうっておいたりするんです」  電話の声は笑っていた。  真由子のしゃべり方にも艶《つや》っぽい情感がこめられるようになっていたが、森中のしゃべり方も、かしこまったものから、かなりくだけた調子に変わっていた。間違いなく、ふたりの電話のやりとりは、恋人どうしのそれに近いものになっていた。 「だって、約束の日になっても電話がこないんですもの」  史也との電話ではありえないことだったが、真由子はケータイでしゃべりながら、ねっとりした話し方に合わせるように身をくねらせていた。 「あたし、もう森中さんとの話は一回きりで終わりかと思っちゃって」 「冗談じゃありませんよ。ぼくが言った言葉を忘れたんですか、真由子さん。全身全霊、あなたを愛すと言ったことを。それが信じられないんですか」 「そんなことありませんけど、でもお昼になっても電話がないから」 「ぼくの仕事を忘れないでください。週刊誌の記者ですよ。ふつうのサラリーマンとは違うんです。週末のきょうだって仕事なんです」 「あ、そうだったんですよね。あたし、すっかりそのこと忘れちゃっていて」 「いいんですよ。でも、きょうは早あがりなんで、もうフリーです。いま車でそっちへ向かっているところなんです」 「え、ほんとに?」  反射的に、真由子は自分の襟元をギュッと握りしめていた。  車、という言葉がドライブを連想させ、さらにドライブの先にあるものを連想させた。たしか森中は、北海道と伊豆に別荘を持っていると言っていた。北海道は無理でも、伊豆ならば車で行ける距離である。  真由子は、相手の考えていることが読めてきた気がして、胸の高鳴りを感じた。千葉に行っている両親には、きょうは森中さんの別荘に行きますと書き置きを残しても、心配はかけまいと思った。  まだ両親は森中本人と直接は会っていないが、母はプロフィールだけでもうすっかり森中を気に入っている。彼の別荘に泊まりにいくとメッセージを残せば、それが何を意味するか、当然両親にはわかる。だが、その方面では非常に進歩的な親である。むしろ、縁談の進展と思って喜びこそすれ、怒ったりはしないだろうと思った。 「あとどれくらいでいらっしゃるんですか」 「そうだな、道の混み方にもよるけれど、二十分から三十分」 「もうそんな近くに?」 「あはは、だって真由子さんと会うのが待ちきれないから、取材先から首都高をぶっ飛ばしてきたんです。もう下に降りたんだけど、土曜なのに意外と道が混んでいてねえ。それが誤算だったけど」 「あの……」  こんなことまできくのは、いかにも物欲しげにみられるかもしれないと思ったが、真由子はたずねずにはいられなかった。 「きょうは、どこかに行くんでしょうか」 「ええ。せっかくのいい天気だし、もうお昼過ぎだけれど、よかったら伊豆のほうまでドライブに行きませんか」  カンが当たった。  真由子の胸がジョギングをしたときと同じぐらいに弾んできた。 「はい……あたしは喜んで」  そのとき、お見合いの仲介になってくれた静子叔母の顔がちらっと浮かんだ。  ちょっと目尻《めじり》の吊《つ》り上がった叔母は、まじめな顔をしたときは、その目がとくにきつい表情を作ってしまうことを気にしてか、よく笑顔を作った。だが、根っから天真|爛漫《らんまん》な真由子の母・千恵などと違って、静子叔母の笑顔は、明らかに作り笑いとみえることが多かった。心は笑っていないのに、表面的な笑いを浮かべるようなところがたびたびあって、先日の見合いの席でも、そんな作り笑いがずいぶん見受けられた。いつも前向きに輝いている叔母のそこだけが、真由子はあまり好きになれなかった。  陽夫叔父は気兼ねの要らない人だったが、静子叔母には真由子もなにかと気を遣ってしまう。作り笑いをする人は、すなわちホンネを隠す人でもあるからだ。だから、叔母の許可もなしにドライブなどに出かけていいのだろうかと心配になったので、そのことを森中にたずねた。  すると森中は、またおかしそうに高笑いをした。 「真由子さん、子供じゃないんだから、ドライブに出かけるのにいちいち他人の許可などとる必要がありますか」 「でも、叔母はあたしたちのお見合いの仲人ですから」 「いいんですよ。一回目は世話になっても、二度目、三度目、四度目は当事者どうしで進めていってかまわない」 (三度目……四度目……)  森中が意図的にその言葉を出したことが真由子にはよくわかった。お見合いは、どちらかが気乗りしなければ、二度目のデートまでで結論を出すべし、というマナーを思い出した。それは森中自身も口にしたことだった。その森中が、三度目、四度目をここで言い出すということは……。 「あの、それじゃあたし、急いで着替えますから」 「わかりました。ぼくもなるべく早く着くようにしますよ」  うれしそうな声を出して、森中は電話を切った。    ケータイを切ると、真由子はバスルームへ急いだ。 「着替え」というのは、なにも普段着をよそゆきのワンピースなどに替えるだけのことではない。下着もぜんぶ新しいものに替えるつもりだった。そして下着を替える前に、身体もきれいにしておきたかった。森中公一にすべてを見られてもいいように……。すべてをさわられてもいいように……。  真由子は裸になり、バスルームに入ってシャワーの蛇口をひねった。  ぬるめの温度に設定したお湯が、かすかな湯気を立てながら真由子の肌に注がれる。ボディシャンプーで身体の隅々まで洗った。髪の毛を乾かす時間があるかどうか気になったけれど、頭も洗うことにした。そして最後に目を閉じて、勢いよく噴き出してくるシャワーを顔いっぱいに浴びた。  もう真由子の頭には、新谷史也の存在はかけらも思い浮かんでいなかった。ついさっきまで、史也を裏切った後味の悪さを思い起こしていたのに、森中からの電話を受けたとたん、真由子の頭には、今夜、彼に抱かれる場面ばかりが浮かんでは消え、消えてはまた浮かび上がってきた。  シャワーを受けるためにあおむけに傾けていた首の形が、そのままキスシーンを連想させ、真由子は目を閉じたまま、唇をちょっと丸めて突き出してみた。  その桜色をした小さな筒の中に、シャワーの湯が飛び込んでくる。それでもかまわずに、真由子は唇を突き出したままにした。  身長百七十三センチもある自分に覆い被《かぶ》さってきてくれる百八十センチの彼、森中公一。その相手の姿まで見えるような気がして、真由子は壁の高いところに固定されたシャワーヘッドを手探りで捜し当て、それを森中の首に見立てて両手を回し込んだ。  キスシーンの練習だった。自分が高いヒールの靴を履いていれば、もう少し身長差は縮まるが、ふたりとも裸だった場合は背伸びをしなければいけないな、と思いながら、真由子はシャワーヘッドを両手で抱いたまま、つま先立ちした。  そのつま先立ちの感覚は、史也とバスルームでキスをするときのものが基準になっていた。だが、そんなことすら、いまの真由子は意識に留めていなかった。 [#改ページ]    八 真由子の濡れた髪 「お父さん、史也、ふたりともどこへ行くの」  近所のスーパーマーケットから戻ってきた新谷妙子は、夫の洋次郎と息子の史也がそろって玄関先で靴を履いているところに行きあって、びっくりした声を出した。 「飛行場」  靴ひもを結びながら、史也が答える。 「飛行場?」 「鹿児島空港ってことだよ」 「誰かを迎えにいくの」 「じゃなくて、私らが乗るんだよ」  と、先に靴を履いた洋次郎が身を起こして妻に言った。 「急に決まったことなんだ」 「どこへ行くんですか」 「東京だよ」 「東京?」  妙子は素《す》っ頓狂《とんきよう》な声を上げた。 「神戸じゃなくて、東京へ行くんですか」 「ああ」 「なんですか、それ。そんな話、聞いていませんよ」 「だから、いま急に史也と決めたんだと言っただろう」 「でも、私は聞いてません。ちょっと史也」  妙子は、まだ屈《かが》んだままの息子の背中に呼びかけた。 「母さん、ひさしぶりに帰ってきた史也のために、晩ご飯はあんたの大好きなすきやきを作ってあげようと思って、おいしいお肉を買ってきたのよ、ほら」  長ネギが隙間《すきま》から首を出し、牛肉やしらたきや白菜などで膨らんだスーパーの袋をかざして、妙子はがっかりした声を出した。 「それなのに、何なのよ」 「ごめん、母さん」  靴ひもを結び終わった史也は、スッと立ち上がると、三十センチ近く低い母親の肩に手を置いて謝った。 「こんどまたゆっくり食べさせてもらうよ」 「こんどまた、と言ったって、あんたいつくるのよ」 「わかんないけど」 「お父さん」  妙子は泣き出しそうな顔を夫に向けた。 「いったい何があったんですか。説明してくださいな」 「妙子、おまえとおれは見合い結婚だったよなあ」 「それがどうしたんですか」 「思えば危険な賭《か》けに踏み切ったもんだよな、と感心しているんだ」 「私が、ですか。あなたが、ですか」 「おまえが、だよ。おれの勤務先の校長の口利きで、郵便局長の娘のおまえと見合いをすることになって、好きも嫌いもなしに、第一印象が悪くなきゃそれでよし、と決めちまった。おたがい、どんな背景があるかも知らずにな。こっちは男だからいいが、おまえのほうは、将来を託す男がどんな人間か、ロクに知らないまま嫁にきた」 「そりゃ、そこんところを保証してくれるのが、仲人口を利いてくれる人の仕事じゃありませんか」 「だが、仲人といったって、どれほどのことを知って見合い話をコーディネートしておったのか、わかりゃせんだろう」 「なんですか、コーデなんとかって」 「ようするにな、男と女をひっつける仲人口なんて、結果に関する責任など一切負わないくせに、ようやるよ、ということなんだ」  白髪まじりの後ろ髪をかきながら、洋次郎は言った。 「考えてみればおかしなことじゃないか。お偉いさんの口利きで見合いをして、そのすすめを信じて結婚したがうまくいかずに離婚となった場合、いつだって当事者のほうが仲人に謝るじゃないか。せっかくよいご縁を紹介してくださったのに、私どもの努力が足りなくて、とかナントカ」 「そりゃ、それが仲人さんへの礼儀でしょう」 「だが、ほんとうは仲介役の人間に文句を言ってもよいはずなんだよ。よくも大ハズレを紹介してくれやがったな、と」 「それはアレですか、ようするに私が大ハズレだったと」 「ちがうよ。どうしてそこへ持っていくんだ。まったくおまえも話を聞かない女だなあ」  洋次郎は天井を仰いで嘆息を洩《も》らした。 「そうじゃなくて、見合いの仲人なんて、しょせん大した保証もなしに『いい人がいるんだよ』と人と人とをひっつけてる無責任な稼業かもしれん。そういう口利きでおれを紹介され、たった一度の見合いだけで、よくもまあウンと首をタテに振ったわな、と、おまえの勇気を感心してるんだよ」 「そりゃ、私だってバカじゃありませんから」  スーパーの袋を右手から左手に持ち替えて、妙子は言った。 「一目見て、ああ、この人は誠実でやさしくて、頼りがいがあるなとわかりましたよ。その見立ては、この年になっても間違っていなかったと思ってますけどね。……思ってましたけど、ちょっときょうから考え直すかもしれません。こんなふうに、せっかく人が買ってきた食べ物をムダにするなんて」 「母さん」  史也が言った。 「ノロケてるんだか、文句を言ってんだか知らないけど、買い物袋が重かったらそこに置けよ」 「置けよ、ですって? これはあんたのために買ってきたんでしょうが、史也。まずはありがとうと、それからムダにしてごめんなさいと、それを言うのが礼儀でしょ!」 「父さん」  史也はあわてて父親に向き直った。 「いまから急げば、四時前の飛行機に乗れるよ。行こう」 「よっしゃ」  洋次郎と史也は、買い物袋を下げたまま憤然としている妙子を残して、家を飛び出していった。   「じゃ、今晩はほんとうにぼくの別荘に泊まってくれるんですね」  ハンドルを握る森中公一の念押しに、真由子は「はい」と短くうなずき、たすき掛けになっているシートベルトを、無意識のうちに片手でギュッと握りしめた。  森中の運転するベンツは、東名高速から小田原厚木道路を経て、箱根《はこね》の入口に差しかかっていた。ついさきほどまで外は明るい日射しに満ちていたが、箱根に近づいてきたあたりから、空にはダークグレイの雲が広がりはじめていた。  森中の別荘は、箱根|駒ヶ岳《こまがだけ》の山麓《さんろく》に建つログハウスだという。真由子は、しだいに怪しくなってゆく雲行きを眺めながら、どうせなら土砂降りの中に閉じ込められてみたいと思った。丸太の壁越しに、箱根の森をざわめかせる大雨の音を聞きながら、森中に抱かれたいと。  すると、唐突に森中が言った。 「いい匂《にお》いですね」 「え?」  何のことかわからずに、真由子はきき返した。 「真由子さん、髪の毛、洗ったでしょう」 「あ……ごめんなさい」  ヘッドレストに頭をもたせかけていた真由子は、反射的に身を起こした。 「森中さんがいらっしゃるのが急だったので、どうしようかと思ったんですけれど、やっぱりシャワーを浴びておこうと思って……でも、乾かす時間があまりなくて……濡《ぬ》れちゃいますよね、シートが」 「いいんです、いいんです」  森中は笑いながら首を振った。 「シートのことなんか気にしないでください。ぼくは、あなたの濡れた髪の匂いが好きなんですよ、真由子さん」 「……はあ」  とりあえず笑顔でうなずきながら、真由子は森中の言い回しにどこか異様なものを感じた。 「おとなの女性といえば、香水をつけるのが常識みたいなところがあるでしょう。でも、ぼくは香水、だめなんです」 「あ、そうなんですか」 「ですから、お見合いのときに真由子さんが何も香水をつけてこられなかったんで、ぼくはその点でも大変感激いたしました」 「ああ……あたし、ぜんぜん気がつきませんでした、自分で」 「というと」 「もともと香水をつける習慣がないんです。ですから、お見合いという特別な席でも、そんなところに気が回らなくって」 「そういうところがいいんですよ。これまでのお見合い相手は五人全員、ものすごくきつい香りを漂わせてきました。自分を主張しないで、香水を主張してどうするんですか。ねえ、そうでしょう」 「え、ええ」 「もっとね、女の人は自分の身体から放たれる、生身のメスの匂いを大切にしないといけないですよ」 「………」  シートベルトを握っていた真由子の片手に、ふたたびギュッと力が入った。  メスの匂い、という言い回しをあまりにも自然に出すその言語感覚が、真由子を緊張させた。 「女の人は、いろいろなところからメスの匂いを放っている。あそこからも、あそこからも、そしてあそこからも」  あそこという代名詞がどこを指すのかを真由子に想像させるように、森中は思わせぶりに語りつづけた。 「でも、いちばん好きなのは髪の毛の匂いです。女性の美しい髪に顔を埋《うず》めて、その香りに酔いしれるのは男として最高の悦楽ですよ。そう思いませんか、真由子さん」 「そう思いませんか、と言われても……」  真由子は必死に作り笑いを浮かべた。まるで静子おばさんみたい、と思いながら。 「あたしは女ですから、そういう気持ちは……あまり」 「ああ、なるほど。そりゃそうだ」  森中は納得して何度も首をタテに振った。 「でもね、どんな女性にもいきなり髪の毛の匂いを嗅《か》がせてほしいとは頼めないでしょう。だけど洗いたての髪というのは、そこに顔を埋めなくてもじゅうぶんにエロスのアロマを周囲に蒸散させている。いまの真由子さんのように」 「………」  なんだか勝手が違ってきている、と真由子は思った。  真由子は今夜、森中に抱かれることを期待しながらドライブに応じた。しかし、森中の性的な表現は、熱く燃え上がろうとしていた真由子の心をスーッと冷やしていった。 「とにかくぼくは」  森中はもういちど言った。 「あなたの濡れた髪の匂いが好きなんですよ、真由子さん」  同じセリフを繰り返されて、真由子は初めて気がついた。 (ぼくはあなたの濡れた髪の匂いが好きなんですよ……? それって、まるであたしの濡れた髪の匂いを、前にも嗅いだことがあるみたい) 「あの、森中さん」  頭の片隅で、その質問はやめたほうがいい、という声がかすかに聞こえたが、真由子は止められなかった。 「もしかして森中さん、あたしの髪の匂い、ごぞんじだったんですか」 「え?」  運転する森中の横顔がぴくりと引きつった。 「どういう、どういう意味ですか、それ」 「なんだか森中さんて」  また真由子は作り笑いをした。そんな世間ずれした演技が得意であるはずもないのに。 「あたしの濡れた髪の匂いを、前から知っているような言い方をされるから」 「あ……あは」  笑おうかと思ったが笑いが出ず、何か言葉を継ごうかと思ったがその言葉も出ない、という感じで、森中は口を開けっぱなしにした。顔立ちの整った二枚目の男がやるにしては、あまりにもそぐわない表情だった。  そして、ずいぶん長い時間をかけて、森中はゆっくりと口を閉じていった。あまりにもその動作がスローすぎて、人間というよりは機械のようだった。  沈黙がつづいた。  なぜ森中が黙りこくったのか、真由子にはわからない。だが、真由子のほうからその沈黙を破りづらい雰囲気がベンツの車内に漂った。  やがて車は本格的な山道に差しかかり、それと同時にポツリ、ポツリと雨粒がフロントガラスを叩《たた》きはじめた。鬱蒼《うつそう》とした針葉樹林が道の両側から張り出してきたうえに、空に雨雲が広がりはじめたことで、日没にはまだ間があるのに、周囲はかなり暗くなりはじめた。  山のほうから降りてくる対向車は、いずれもヘッドライトを点《つ》けていた。だが、森中はまだライトを点けない。フロントパネルのメーター類がかなり見づらくなっていたが、それでも森中はまだ明かりを灯《とも》そうとしなかった。  ベンツの中も相当暗くなり、真由子のほうから見える森中の横顔も徐々に闇《やみ》の色を溶かして無彩色に近くなってきた。そして、間歇《かんけつ》モードでゆっくり動かしていたワイパーを、ノーマルスピードに上げなければならないほど、雨の降りが強まってきた。 (このまま彼の別荘に行っていいんだろうか)  フロントガラスを叩く雨音が大きくなっていくのを聞きながら、真由子の心に不安の黒雲が広がっていった。 (箱根の山の中にあるログハウスに、この人と一晩いっしょに泊まって、ほんとにいいんだろうか)  抱かれることじたいは覚悟ができている。問題は、もっと異常な体験をさせられるのではないか、という思いが募ってきたことだった。  よくよく考えたら、渡された釣書《つりがき》と、先日の見合いの席で話したこと以外に、森中公一という人物に関するデータは、真由子は何も持っていないのだ。静子叔母が彼を紹介してくれたきっかけにしたって、陽夫叔父のスタジオに出入りしていたマスコミ関係者からの依頼を受けて、ということらしい。  見合いなんて、その程度の情報ではじめるものだと言われてしまえばそれまでだが、いまになって真由子は、相手の人間性をあまりにも知らなさすぎることが心配になってきた。笑顔でいるときはいい。だが、現在のように奇妙な沈黙がつづいたりすると、その人柄に対する不安が急速に広がってくる。  と、いきなりバスンという低い音がして、車のドアロックが一斉に下がった。  ベンツのドアは一般の乗用車に較《くら》べて非常に重くできており、めったな衝撃では勝手に開いたりしない。むしろドアロックを掛けることによって、万一の事故のさいに脱出が困難になる場合がある。だからメーカーでは、通常の運転ではドアロックを下げないことを奨励していた。真由子自身は運転したことはないが、陽夫叔父がベンツに乗っていたからその習慣は知っていた。そして森中も、同様にドアロックは上げたまま東京からここまで走行してきたのだ。  ところが彼は、いまになって突然そのロックを下ろした。実際には、助手席のドアの取っ手を引けばドアロックは解除される。それを知らない真由子には、心理的なロックが掛かった。 「どうしたんですか」  とうとう真由子のほうから沈黙を破った。 「なぜ急にロックを」 「鋭いですね、真由子さん」 「鋭い?」 「そうです。あなたは大変に鋭敏な感覚をお持ちの女性です」  ハンドルを握りしめ、前を向いたまま、森中は言った。 「なにがですか」 「ぼくはあなたの濡《ぬ》れた髪の匂《にお》いを、以前にも嗅《か》いだことがあります。それも、一度ならず二度までもね」 「えっ」  真由子は目を見開いた。 「どこで」 「そしてきょうが三度目なのです」 「一度目と二度目はどこなんです」 「三度目がきょうなのです」 「あたしがたずねてるのは、三度目じゃなくて、一度目と二度目なの」 「ええ、三度目がきょうなのですよ」 「森中さん、話をそらさないで。前に二回あたしの髪の匂いを嗅いだことがあるというのは、いつといつなの、という質問をしているのよ!」  ついに真由子の口調が変わった。 「答えて、森中さん」 「なにを興奮しているんですか、真由子さん」  ますます激しい勢いでフロントガラスに降りかかってくる雨粒を、ハイスピードにしたベンツの一本ワイパーが拭《ぬぐ》い、その動きに伴って、扇形の空間がクリアになったりぼやけたりする。  真っ黒に濡れてゆく前方の路面を見つめながら、森中はあくまで静かに言った。 「怒ったりしたら、可愛《かわい》いあなたの顔がだいなしですよ」 「だいなしでもかまわないわ。あたし、イヤなの」 「なにがイヤなんです」 「ワケのわからないことを言われるのがイヤ。ワケのわからないことをされるのもイヤ」 「ぼくが何かしてますか」 「なんでロックを掛けたの」 「危ないですから」 「どこが危ないのよ。ここはふつうの道路よ。それにこれはベンツよ。危ないからじゃなくて、あたしを逃がさないようにするためなんじゃないの?」 「まいったな、真由子さん」  にこりともせずに、森中は言った。 「イメージ壊さないでくださいよ、真由子さん。ぼくはせっかく理想の花嫁像をあなたに見出したのに、そんなにキャンキャンと子犬みたいに吠《ほ》えられたのでは、ほんとにイメージが狂ってしまいます」 「あたしに何をするつもりなのよ」 「わからない人だなあ。安全のためのロックだと言っているでしょう。ここはふつうの道路なんかじゃない。舗装はされていますが、急カーブのつづく山道ですよ。しかも周りは暗くなってきたのに、ぼくはまだライトを点けていないし、雨もこんなに激しくなってきた……あっ!」  突然大声を上げると、森中はわざと急ハンドルを切った。  ベンツはふわっと対向車線に飛び出し、ちょうどやってきたダンプカーのヘッドライトが、真由子の目を鋭く射た。  光る目の怪物がのしかかってきた。USJで史也といっしょに乗った『ジュラシック・パーク』のアトラクションを思い出した。あの最終場面で頭上から巨大な恐竜が襲いかかってくる場面を。  恐竜の咆哮《ほうこう》の代わりに、ブワワワワ〜ンと、すさまじいクラクションが浴びせかけられた。ギラつく二つの目がさらに大きくなり、ダンプカーという名の恐竜がベンツに噛《か》みつこうとした。  真由子は金切り声を張り上げた。  間一髪のところで、森中がハンドルを左に切った。  バッシャーンと音を立てて、ダンプカーの跳ね飛ばした大量の水しぶきがベンツのフロントガラスにかかった。アトラクションのボートが急降下して水面に突っ込んだときのことが真由子の脳裏をよぎった。  こんどは目を閉じなかった。恐怖で閉じるひまもなかった。  しかし、目を開いたままにしていても、大量の雨水を浴びせられ、前方は何も見えなくなった。  つぎにワイパーが滝の雨を振り払ったとき、逆側の山肌が真由子の目の前に迫っていた。  もういちど真由子は叫んだ。 [#改ページ]    九 透視の解明 「いいか、史也。おまえには幼いときから何度も繰り返し繰り返し教えてきたように、この世の中に伝えられる怪奇現象や心霊現象は、ことごとく科学的、論理的な説明がつくものばかりだ。いわゆる超常現象は、少しも科学の常識を『超えて』はいない。超えたようにみえるだけで、決して超えてはいない」  東京へ向かって飛ぶ飛行機の中で、新谷洋次郎は隣に座る息子に淡々とした口調で語った。 「ただし、超常現象のごく一部は、我々人類がこれまでに得た科学のレベルがまだ低いために、それを解明できずにいるものがある。たとえばその好例が、指先でふれるだけで硬い金属を曲げることができる人間の存在だ。あれは、その人間が特異な才能を持っているのではなく、じつは金属を指先で軽く曲げられる力が人間に標準装備されていながら、そのメカニズムが現代の科学知識では説明不能であるという理由により、頭脳がその能力を発揮できないだけなのだ。ごく一握りの人間を除いてな。  わかりやすく言えばだ、人間とは、秀逸な機能を数多く備えたスーパーメカなのに、その機能の一部分については取扱説明書がないために、それを使いきれずにいるという状況なのだ」 「一部の人間だけが、マニュアルなしで使い方を自己流に開発しているだけなんだよね」 「そのとおり」  洋次郎は息子の言葉にうなずいた。 「それ以外の大半の超常現象は、現代の科学レベルですべて説明がつく。人間のウソが引き起こした、という説明も含めてな」 「それで真由子が森中の名前を透視した件だけど……」 「森中公一という男が、USJでおまえたちの後ろの席に座っていたという客観的事実が、不可思議な透視現象の解明にかなり役立つはずだ。理詰めでいくぞ、史也」 「うん」 「まず真っ先に除外すべき仮説は、森中公一が偶然ユニバーサル・スタジオの園内で真由子さんを見かけて一目惚《ひとめぼ》れし、ストーカーのごとく尾行しまくったあげくに、お見合いの相手として現れた、という筋書きだ。時間があればそういう段取りを組むこともまったく不可能ではないが、東京に戻ってすぐ真由子さんに森中との見合い話が浮上したというのは、あまりにも話が早すぎる」 「だから、森中公一と真由子との見合い話は、真由子の叔母さんによってもっと前からセッティングされていたわけだよね」 「そういうことだ。それを知らずにいたのは当人だけだった」 「ということは、森中はUSJで真由子を尾行するよりずっと以前に、彼女の存在を知っていた」 「うん。そこまではかんたんに推論を進めることができる。だが問題は彼の行動ではなく、真由子さんの意識の中に、いつ森中が入り込んできたのか、なんだ。彼の顔だけでなく、彼の名前が、だ」  窓際に座っている洋次郎は、そこで言葉を切ると、夕陽を浴びて輝く翼の下に広がる雲のじゅうたんを眺めた。  鹿児島を出てしばらくは、眼下に海や陸地をストレートに見通すことができていたが、東へ進むにつれて雲が多くなっていた。けさがたまで鹿児島の天気は悪かったが、それが東へ移動しているのを追いかける形になっているのだ。  東京へ着いたら雨かもしれないな、と思いながら、洋次郎はまた息子のほうに向き直ってつづけた。 「たとえ事前に森中公一が真由子さんのデータを仲人から入手していたにせよ、そして実際にお見合いをする前に、ひそかに彼女の私生活を調査しようとみずから行動に出たにせよ、それは男の側の行動で、真由子さんは彼の存在を知らなかった。だが、それでは透視現象は絶対に起きない。だから、さっきも言ったように、彼女の記憶のどこかに森中公一の顔と名前がすり込んでいった瞬間があったはずだ」 「だけど、それがわからない」 「いや、わかってきた」 「ほんと?」  史也は、深い皺《しわ》の刻まれた父親の顔を見た。 「キーワードは『お見合い』だ」 「お見合い?」 「ユニバーサル・スタジオへ遊びにいった段階では、おまえと真由子さんとの間に、表面上の亀裂《きれつ》は何もなかった。そして例の恐竜ボートに乗っかって遊び、そのあと休憩に立ち寄ったカフェで、おまえは結婚話を具体的に進めようとして真由子さんにその話題を切り出した」 「うん」 「その段階で、すでに男は真由子さんのあとを尾《つ》けていたのだから、おまえたちが仲睦《なかむつ》まじく将来の計画を話している様子を、同じ店内のどこかで見つめていたに違いない」 「……そうか」  史也は、ゾクッとして半袖《はんそで》シャツから出た自分の腕をさすった。真由子の部屋で見つけた見合い写真でしか知らないと思っていた森中公一が、直接自分にも視線を注いでいたことをいまになって気づき、寒気が押し寄せてきた。そういえば、周囲の雰囲気にそぐわないスーツ姿の男が、あのカフェにいたような気がした。 「ぼくの存在も森中には完全に知られていたわけだ」 「そういうことだよ。さて、結婚の具体的な相談を持ちかけたおまえに対し、真由子さんは一度だけお見合いをやってみたいと言いだした。そんなプランをなぜ彼女が急に持ち出したのかと考えたとき、ひとつには、東京の仕事が面白くなってきて、神戸へ転勤したおまえに従ってただの主婦になることにためらいが生じたのではないか、という理由が想像できる。しかし、もっと直近のタイミングで彼女の深層心理を刺激したものがあったのではないか、と私は考えてみた」 「真由子の深層心理を刺激したもの?」 「ひとつには森中公一の姿だ」  飲み干して空になったコーヒー用の紙コップをくしゃっと押し潰《つぶ》して、洋次郎は言った。 「同じアトラクションで行列待ちをしていたとき、森中の姿が自然と目に留まって、そこから『お見合い』というキーワードが出てきた可能性はないだろうか。あるいは『ジュラシック・パーク』の乗り物じたいに『お見合い』を連想させる要素がなかったろうか」 「なんで恐竜とお見合いが関係あるんだよ」 「それはわからん。だがな、真由子さんはユニバーサル・スタジオから帰る段になって、突然思い立ったようにアトラクションの記念写真を買いたいと言いだした。そこにもなにか深層心理の刺激があったとしか思えないのだ」 「やっぱり森中の姿が無意識のうちに気になったんじゃないかな」  いくらなんでも恐竜は無関係だろうと考えながら、史也は言った。 「あの写真は、乗り物を降りた出口のところで、すぐに見られるようになっているんだ。ぼくたちも最初は買わなかったけれど、見るだけは見た。そのとき、真由子の真後ろに座っている森中の姿も、意識に留めなくても物理的な視野には入っていたわけだから、それが気になって、けっきょく彼女はあとになって写真を買おうとしたのかもしれない」 「もうひとつ気になるのは、お見合い本番の日、日本庭園散策中に気分が悪くなって倒れ込んでしまったという彼女の話だ」  洋次郎は話題をそちらに移した。 「なんでも、おまえに語ったところによると、森中からひとめで好きになったと言われたとたん、激しいショックを受け、そのあと聴力を失ったそうだな」 「うん。そして錦鯉《にしきごい》にエサをやる森中の姿を見つめているうちに聴力を取り戻したけれど、こんどは鯉の跳ねる音が耳について気分が悪くなり、その場にくずおれた。それなのに森中は、無表情に真由子を見つめるだけだったらしいんだよ」 「でも、次の瞬間には、心配そうに彼女を介抱していたんだろう」 「そこに時間の流れの断絶があることから、気を失っていたんじゃないかと真由子は言うんだけどね」 「なあ、史也。真由子さんは交通事故に遭ったことはないのかね」 「交通事故?」 「物理的に脳にダメージを受けた経験はないかね」 「どういう意味、それ」 「彼女が過去に事故などで脳に物理的ショックを受けて、一時的に意識を失ったことがあれば、そのショックのメカニズムが、精神的な動揺によっても再現されることがあるんじゃないかと考えたんだけどね」  空の容器を回収にきた客室乗務員に潰した紙コップを渡し、出していたテーブルを元の位置に収めると、洋次郎は脚を組み直してつづけた。 「おまえたちが乗った『ジュラシック・パーク』のボートは、最後に真っ暗なトンネルを急降下して水面に出るわけだろう。それは娯楽とはいえ、かなりの恐怖だ。そのショックが、彼女に何かを思い起こさせた可能性はないだろうか」 「恐怖といったって、しょせん遊びの乗り物だからねえ」 「だけど写真を見るかぎり、顔を伏せていたのは真由子さんだけだ」 「そりゃ真由子は恐《こわ》がりだから」 「それで片づけていいのか」 「というと?」 「おまえの胸に顔を埋《うず》めている間、真由子さんがどんな顔をしていたのかは、写真でも確かめようがない。だが、そのとき彼女は、真後ろに座っていた森中公一が浮かべていた本物の恐怖とまったく同じ表情をしていたとは考えられまいか」 「なんだって!」  史也は、大きな目を見開いて父親の顔を見た。 「なぜ森中は、ボートが落下中に本物の恐怖に凍りついていたんだろう。真由子さんの背中を見つめながら、なぜ。もしかするとそれは、森中と真由子さんは過去に同じ恐怖体験をしているのではないか」 「………」 「そして、その恐怖体験には水の音が関係していなかっただろうか」 「どうして」 「アトラクションのボートは池に突っ込んで激しい水しぶきをあげる。日本庭園の錦鯉は、エサを求めて激しい水音を立てて跳ね回る。なにか水音が真由子さんの恐怖を呼び覚ます要因にはなっていまいかね」  父親の指摘に、史也は黙りこくった。  そして真由子とつきあってきた四年間を順々にふり返っていったとき、史也はひとつのエピソードに思い当たった。いまから二年前、真由子が大学三年生のときのことだ。夜道を歩いて建設現場に差しかかったとき、飛び出していた足場か材木のようなものに激しく頭をぶつけて脳震盪《のうしんとう》を起こし、しばらく気を失って倒れていた、という話を聞いたことがあった。  その失敗談の最後に、真由子は史也に笑いながらこう言い添えたものだった。「あのときだけは、背の高い自分をうらんだよ。あと十センチ背が低かったら、頭をぶつけずにすんだのに」と。  それが雨の日の出来事かどうか、そこまでは史也も聞いていない。   「なるほどな。やはりそういうアクシデントがあったか」  史也が思い出したエピソードを聞くと、洋次郎は得心がいったというふうに大きくうなずいた。そして言った。 「では、こうした推論が可能になったと思う。すでに二年前の段階で、真由子さんは森中公一のお見合い写真を見ていたが、脳震盪事故のハプニングによって、その記憶を一時的に失ったのだ」 「え……」  父親が新たに提示した、あまりにも意表をついた仮説に、史也は顔をこわばらせた。 「真由子が二年前に森中の見合い写真を見ていた?」 「そう考えれば、お見合い写真の彼の顔や、森中公一という名前の四文字が、真由子さんの記憶の深い谷間に沈んでいた説明もつくじゃないか。お見合い写真という形で取り入れた記憶だったから、お見合い写真という形でふたたび森中と出会おうとしたとき、中身を見る前にそれがわかったのだ。もしかすると、写真や釣書《つりがき》を収めたアルバムの種類までまったく同じだったかもしれない」 「それじゃ父さんはこう言いたいのか。真由子は以前にも森中公一とお見合いをしたことがある、と」 「いや、それは妥当な推測とは言えまい」  洋次郎は首を左右に振った。 「おまえと熱愛中のうえに大学在学中では、仮にそんな話がきても真由子さんは応じなかっただろう。私が考えているのは、ほかの女性とのお見合いのために準備された森中のお見合い写真を、なにかの拍子に真由子さんが見たのではないか、ということなんだ」 「なにかの拍子とは」 「それは、おまえが真由子さんの記憶を引き戻して調べることじゃないかね」 「………」  史也は、真由子が泣きじゃくりながらお見合いの一部始終を説明した中に、森中公一という男が過去に五回見合いをやって、五回ともうまくいかなかったと語っていた部分があったのを思い出した。 「今回の見合い話は、真由子さんの叔母が仲介したそうだな」  洋次郎がつづけた。 「東京に着いたら、おまえがやることは私の立てた仮説を確認するために、まず真由子さんとしっかり話をすることだ。彼女に『ジュラシック・パーク』で撮られた写真を見せながらな」 「ああ、写真ね」 「おまえが何百何千の言葉を使って翻意を促すよりも、写真に捉《とら》えられた森中公一の姿を見せることが、真由子さんにいまの見合い話を再考させるもっとも効果的な方法だと思うんだ」 「わかった」 「そして私は、その静子さんという人に会ってみよう。森中は、過去の見合い話もすべて静子さんに依頼している可能性がある。ひょっとしたら彼女は、森中公一の秘密を知っているのかもしれない」 「ぼくもそんな気がしてきた」 「鯉《こい》のエサのこともあるしな」 「鯉のエサ?」 「そうだよ。見合いで訪れたホテルの日本庭園を散策しながら、池の錦鯉《にしきごい》にエサをやる男がどこにいるね。第一、そのエサはどこから持ってきた」 「………」 「たぶん、森中公一はそのホテルで過去にも何度も見合いをして、同じように日本庭園を歩いたことがあるのだ。そして、何度目かの見合いのときから、あらかじめ錦鯉のためにどこかでパンくずなどを用意して、散歩のさいのアクセントとして、見合い相手の女性へのちょっとしたサービス演出を心がけることにした。これは森中公一の見合いという儀式が、何度も同じスタイルで反復されていたことの証明だ。それについても、仲人役の静子さんが何か知っているかもしれない」  洋次郎は史也が右から左へと聞き流したような部分についても、とことん理詰めでその背景にある事情をあぶり出していった。まるで推理小説の名探偵のようだ、と史也は父親が示す論理の力に圧倒されていた。 「ついでに言えば」  洋次郎はつけ加えた。 「有名出版社の週刊誌記者が、いまどき五回も六回も見合いという方式にこだわる理由がわからん。見合いに頼るしかないという男でもないしな」 「それどころか、ほうっておいても女が寄ってくるタイプだよ」 「だから史也、この男の見合い目的は別にあるんじゃないかね」 「どういう目的?」 「わからん」  そこから先は自分で考えろ、というふうに、父親は口をつぐんだ。  が、しばらくしてから、もうひとつあった、と言い添えた。 「真由子さんが頭をぶつけて失神したという建設現場の事故だがな、仮にそれを彼女の不注意から起きたものではなく、人為的な暴行だったとすれば、森中公一の位置づけがより明確になってくるかもしれないのだがね」  ポーンとチャイムが鳴って、シートベルト着用サインが点灯した。  父親が提示した最後の仮説に驚きの感想を洩《も》らすこともできず、史也は機内アナウンスにしたがって、少しだけ倒していたリクライニングの背を元に戻した。  飛行機は羽田の東京国際空港へ向けて、徐々に下降態勢に入っていた。窓越しに見る眼下の雲は、いちだんとその厚さを増しているようだった。  数分後、飛行機はぐんと機首を下げ、分厚い雲のじゅうたんの中へと突入した。はるか上空から眺めていたときには純白に輝いていた美しい雲も、その内部にもぐり込んだとたん、陽光が遮られ、ダークグレイの濃密な霧に変わった。それはまさに、純白の表紙に飾られたお見合い写真のアルバムを開いたとたん、森中公一という正体不明の人物が現れた不気味さに似ていると史也は思った。  さらに高度を下げていくと、飛行機の窓に雨粒が付着し、それが下方から斜め上へと流れていった。窓際に座った父親の身体越しに外の様子を眺めていた史也は、いまの自分が置かれた状況を空の天気が象徴している気がしてきた。  やがて飛行機は雨雲を突き抜け、雨に煙る工場地帯が眼下に現れた。びっくりするほど地上は近かった。それだけ低い位置まで雲が垂れ込めていたのだ。視線を上に向けると、たったいままでその中を通過してきていた雨雲が、予想以上のどす黒さをもって渦を巻いていた。 「史也」  窓の外に目を向けたまま、父親が言った。 「何があっても、真由子さんとの絆《きずな》を取り戻したいか」 「もちろん」  史也は即答した。 「何があっても、そうしたい」 「わかった」  洋次郎はキュッとアゴを引いた。 「父親として、できるかぎりの協力をしよう。どこまで力になれるかわからんが」  飛行機は大きく旋回して、羽田の滑走路へ機首をまっすぐに向けた。 [#改ページ]    十 雨 「どうでしたか、真由子さん」  ギリギリのところでダンプカーをやり過ごし、山肌への激突も回避した森中は、いまのピンチにまったく動じた様子もなく、ようやくヘッドライトのスイッチを入れた。  箱根の山道を上るにしたがって、雨は猛烈な土砂降りとなり、遮音効果の行き届いたベンツの車内にいても、車体を叩《たた》くその激しさが耳につくほどだった。  その豪雨の中を運転しながら、森中公一は能面のような無表情で真由子に問いかけた。 「ぼくが安全のためにドアロックを下ろしたことを理解していただけましたか」 「わかったわ」 「それはよかった」 「そうじゃなくて、べつのことがわかった、っていうの」  激突の恐怖からまだ醒《さ》めやらず、シートベルトに締めつけられた胸を激しく上下させながら、真由子はかすれた声で言った。 「いまのダンプカーが恐竜に見えて、フロントガラスにいっぱい水をかけられて、それで思い出した。あなた、ユニバーサル・スタジオにいたでしょう」 「大阪のですか」 「そうよ。あたしと史也……」  恋人の名前を口走ってから、言わないほうがよかったか、と思った。が、真由子はそのままつづけた。 「あたしと史也は、使い捨てのレインコートを買わなかった。だから最後のところでずいぶん水を浴びたし、髪も濡《ぬ》れたわ。そのときの匂《にお》いを、あなたは知っているのね。同じボートに乗っていたんでしょ。あたし、思い出した。あなたの顔をたしかにUSJで見たことを思い出した」 「ほう」 「みんな遊び着なのに、あなたはスーツにネクタイという格好だった。そして濡れないようにレインコートをかぶっていた。たしか、カフェテリアにもいた」 「まあ、仕事をさぼって出かけるとそういうスタイルになるかもしれませんねえ。そしてスーツは濡らしたくないから、二百円払って使い捨てのレインコートも買うでしょう」 「あたし……あたし……ときどき記憶がとぎれとぎれになるの。なんでそんなふうになるかわからないけど、ビデオテープの一部分を消したみたいに、バツン、バツンって、記憶が途切れることがあるの。でも……」  真由子は忙《せわ》しく動くベンツの一本ワイパーを見ながら、真由子は言った。 「なぜかわからないけど、雨の音とか、水しぶきの音を聞くと、消えた部分が取り戻せることがある」 「なるほど」  うねうねと連続するカーブを右に左にとハンドルを切りながら、森中はかすかに頬《ほお》に笑みを浮かべた。  急なヘアピンカーブに差しかかると、シートベルトをしていても遠心力で身体が大きく横にずれ、森中にくっつきそうになる。それを真由子は必死にこらえた。 「それじゃ、神戸から戻ったあたしのところに、あなたのお見合い話がきたのは偶然ではなかったのね」  脚を突っ張って身体のバランスを取りながら、真由子は言った。 「いったいあなたは、いつからあたしにつきまとっていたの」 「複雑なことはわからなくても結構です」 「知りたいのよ!」  真由子は助手席から身をひねって森中のほうを向き、叫んだ。 「USJであなたと会っているのが二度目だとして、その前にもあたしたちはどこかで会っているんでしょう」 「そうですよ」 「どこなの、それは」 「思い出せませんか」 「わかるわけないでしょう」 「では、ほんとうに記憶を失ってしまったんですね。それに関しては、私もお詫《わ》びしなければなりません」 「記憶を失った?」 「ええ」 「あたしが記憶を失ったっていうの?」 「くどいですね。そうですよ。その後遺症があるから、おそらくあなたは記憶の断片を見失い、そしてまた雨音や水音をきっかけにそれを蘇《よみがえ》らせる。逆にぼくの場合は……」  森中公一は、ベンツのハンドルを忙しくさばきながら言った。 「真っ暗な空間を落ちていくときに恐怖を思い出す。たまらない恐怖を思い出す」 「どういうこと」 「あなたは知らなくてもよいことです」 「だったらもういいからここで降ろして」  真由子は、急カーブで身体が左右に振られる中で、シートベルトのバックルをはずした。 「車を停《と》めて。いますぐ停めて」 「停めたらどうするんです」 「降りるわ」 「濡れますよ、雨に。こんな土砂降りだと、下着までぐしょ濡れだ」 「かまわないわ、そんなこと」 「いけません。それは許さない」  急に森中の口調が厳しくなった。そして改まった言い方に戻った。 「私はガムテープ男です。一度くっついたら離れません」 「なに、それ……」  ハンサムな顔立ちをした男の口から飛び出した異常な宣言に、真由子は全身を凍りつかせた。 「真由子さん」  激しい雨の中を、いっそう車の速度を上げながら、森中公一は前を向いたまま言った。 「私と会ったのが運の尽きですね」  真由子は、とっさにハンドバッグからケータイを取り出した。  ワンタッチでつながる短縮番号の1番には、新谷史也のケータイ番号が登録されている。自分の急激な心変わりにより、彼とはもう恋人関係で会うことはあるまいと思っていたが、そのメモリーダイヤルは削除していなかった。  一一〇番を押すよりも少ないプッシュ回数でつながる史也こそ、いま頼りにできる最高の人物だった。真由子は親指をすばやく動かし、「1」と通話ボタンを押してケータイを耳に当てた。 「よしなさい!」  真由子の動きに気づいた森中が片手を伸ばした。だが、シートベルトが彼の動きを封じた。  真由子は助手席側のドアぎりぎりに身体を寄せて森中の手をかわし、史也が応答するのを待った。彼は留守番電話が嫌いで、留守電サービスの契約には入っていない。その代わりにめったなことでは電源を切る習慣がないのを、真由子は知っていた。だから通話はできなくても、最悪でも不在着信の記録は残せるはずだと思った。  だが、聞こえてきたのは—— 「ただいま電源を切っているか、電波の届かないところに……」  よりによって、この最大のピンチに史也のケータイはつながらなかった。彼を捨てた報いなのか、と真由子は思った。  気を取り直し、改めて警察の番号一一〇を押そうとしたとき、シートベルトをはずした森中が、片手でハンドルを握ったまま思いきり身体を伸ばして真由子の手からケータイを奪い去った。そして、猛烈な吹き降りが飛び込んでくるのもかまわず運転席側の窓を開け、ケータイを豪雨のカーテンの向こうに投げ飛ばした。 「真由子さん」  ずぶ濡れになって髪の毛から雨水を滴らせながら、森中公一は興奮に肩を上下させて言った。 「私は大好きですよ。あなたの髪の毛が濡れたときの匂いが大好きだ」  真由子も飛び込んできた雨で前髪をまぶたに貼《は》りつかせていた。そのため、森中の顔がブラインド越しに覗《のぞ》いたように見える。その異様な興奮をたたえた美しい顔を見つめながら、真由子は震えた。  生まれて初めて死の恐怖を感じながら、震えた。    一年のうちでも日の長い季節でありながら、新谷洋次郎と史也の親子を乗せた飛行機が羽田に到着したときは、日没前なのにほとんど夜の暗さだった。上空を旋回していたときにはかろうじて眺めることができた街並みも、おそらくいまは豪雨のカーテンに遮られてにじむ光の集合体にしか見えないかもしれない。  飛行機を降りるとすぐに、史也は習慣でケータイの電源を入れた。それは滝真由子が必死のSOSを発信しようとして失敗し、森中にケータイを奪われてから、わずか三分後のことだった。  史也はタクシー乗り場へと急ぎながら、片手でケータイのボタンを押していた。ワンタッチボタンの1番には、まだ真由子のケータイ番号が登録されている。父親のアドバイスで、鹿児島からは電話連絡を入れないようにと言われていた。真由子に拒絶の言い訳を与えないためだった。だが、こちらが東京に着いてしまえば、真由子もいまさら逃げられないだろうし、真剣に事態の深刻さを訴えれば、必ず会う時間を作ってくれると史也は確信していた。  しかし、ケータイの受話口から流れてきたのは虚《むな》しいメッセージだった。 「ただいま電源を切っているか、電波の届かないところに……」  つづいて史也は真由子の自宅の電話にかけた。こんどは聞き慣れた真由子の母親の声で、「ただいま外出しておりますのでメッセージを」という録音が流れてきた。  何も吹き込まずに史也は切った。真由子の家族と連絡が取れなければ、静子の連絡先もわからない。 「どうした」  硬い表情の息子を見て、父親がきいた。 「誰も出ない」  首を左右に振りながら、史也は言った。 「それならそれで後回しだ。東京でやるべき仕事はたくさんある」  こんどは洋次郎が自分のケータイを胸ポケットから取り出した。 「私の教え子で東京のマスコミ関係に勤めている者が大勢いる。それから、写真業界にいる人間もな。教師を永年やっていた最大の財産がこれだよ。人脈というやつだ。真由子さんと連絡がつくまでの間、森中公一の人物調査に入ろう。それと写真関係者にきけば、滝陽夫という人間が経営する都心のスタジオビルも容易にわかるだろうよ」 「父さん」  史也は、感謝と尊敬の気持ちを込めて言った。 「ほんとにいろいろありがとう」 「なあに、礼には及ばん」  ちょっとだけ照れ臭そうに洋次郎は言った。 「ひさしぶりに頭脳をフル回転させてもらって、こっちもいいボケ防止になるわい。それに……」  突然早足になり、息子を数歩後ろに取り残してから、洋次郎は小声で言い足した。 「可愛《かわい》い息子には幸せになってもらいたいからな」  空港ビルの自動ドアを開けて表に出ると、天から銀色のカーテンを下げたような土砂降りの夜がふたりを待ち構えていた。 [#改ページ]    十一 お見合いの真実  駒ヶ岳|山麓《さんろく》のログハウスの中に入ったとき、真由子も森中も全身ぐしょ濡《ぬ》れという状態だった。猛烈な降りにもかかわらず、真由子の逃走を恐れた森中は、傘も差さずにベンツからログハウスへと彼女を引きずるように連れ込んだのだ。  吹き抜け式の二階を持つログハウスは、しばらく使っていなかったために特有の木の匂《にお》いがこもっていた。そして、若干の黴《かび》臭さ。さほど大きくはないログハウスの階段を、真由子を先にして上らせると、森中は簡素なベッドがふたつ並ぶ一角へ彼女を進ませた。 「もうあきらめてください、真由子さん」  真由子をツインベッドのひとつに腰掛けさせた森中は、雨水を全身から滴らせながら、その前に立ちはだかった。 「ほんとうにあきらめてください。あなたにとっての選択肢は、ふたつにひとつしかないのです。私のお嫁さんになってくれるか、それとも死を選ぶか。それ以外に選ぶ道はありません。絶対にありえないのが、新谷史也の妻となることです」 「やっぱり、史也のことを知っているのね」 「もちろんでしょう」 「あたし、やっぱり間違っていた。史也を捨てて森中さんを選ぼうとしたことは間違っていた」 「どうしてです」 「変態だからよ!」  もうどうなってもいいという投げやりな気持ちで、真由子は叫んだ。その結果、森中を激高させて殺されることになっても仕方ないと思った。 「あんたなんか、変態だ!」  怒るうちに、日ごろ史也と話している自然なしゃべり方に戻ってきた。  こんな異常な男に抱かれようとして身体を隅々まで洗い、こともあろうにシャワーヘッド相手にキスシーンの練習までした自分が、滑稽《こつけい》で大バカに思えた。史也に見てもらうために買っておいた新品の下着まで身につけて……。  そういう愚かな裏切りをするから、すべての報いが自分にきているのだと思った。  だが、意外にも森中公一は冷静さを保っていた。 「人間は」  もうひとつのベッドに腰掛けると、森中は濡れた髪をかき上げて言った。 「自分に理解不能な哲学を持つ他人と出会うと、その人を変人とか変態扱いする」 「だって、実際にそうじゃないよ」 「違います。私はノーマルです」 「ノーマルだったら、そんなしゃべり方しないよ。ノーマルだったら、USJなんかまでついてきて、人がデートしている後ろをつけ回したりしないだろ。それにノーマルだったら、いやがる女と無理やり結婚しようなんて思わない。自分のことをガムテープ男だなんて言うわけない」 「たしかに私は部分的にバランスを崩しているかもしれません」 「ほら、認めたじゃない」 「だけど、完全に狂っている人間ではない」 「うそ、狂ってるよ。狂ってなければ、こんなことするわけないんだ」 「いいでしょう、真由子さん。私はあなたにすべてを説明します。その代わり、説明したあとは、私の妻になってください」 「それがイヤだって言ってるんだってば」 「話を聞けば、イヤとは言えなくなるはずです」 「じゃ、教えてよ」 「まず真っ先に重要なことを申し上げましょう。あなたは二年前、大学三年のとき、自らの脳に重大な損傷を負いました」 「ああ、あのことね」  真由子は軽く受け流した。 「静子おばさんから聞いたんでしょ。あれはたんに夜遅くに、建設現場のそばを歩いていて材木かなにかに頭をぶつけただけ。あたしの背が高すぎた悲劇よ」 「具体的に、その建設現場とはどこです」 「どこ?」 「どこですか。おっしゃってください」 「えーと」  と言ったきり、真由子は黙りこくった。  欠落しているのだ。どこでそんな目に遭ったのか、その記憶が欠落しているのだ。 「その夜の天気は覚えていますか」 「晴れでしょう」 「残念ながら小雨です。激しい雨が長時間にわたって降りつづいたあと、しだいに小ぶりになってきたときでした」 「いい加減なこと言わないで」  相手を嘲笑《ちようしよう》しようとして、真由子は引きつった笑いを浮かべた。 「あたしが失神していたからといって、勝手な話を作らないでよ。その場にいもしないくせに」 「いえ、いました」 「え?」 「私はその場にいたんですよ」 「………」  予想もしなかった男の切り返しに、真由子はうろたえた。  この変態男なら、その場限りのデタラメをどこまでも並べ立てるだろうと思う反面、なぜか森中が真実を語っているという直感めいたものも頭をよぎった。 「具体的な日付まで申し上げましょう。二年前の六月十六日。季節はいまとほぼ同じですが、その当時はすでに梅雨入りしておりました」 「なぜそういうことが、あなたにわかるの」 「何度同じことを言わせるんですか、真由子さん。その場に私が居合わせたからですよ。だから、あなたが記憶を失うにいたるいきさつを、ぜんぶ説明できるのです。なんといっても、あなたの頭に損傷を負わせたのは、直接的にはこの私自身なんですから」 「あなたが?」 「そうです」 「どんなふうに? あなたがあたしを殴ったの?」 「いいえ。詳しいことはあとでお話ししますが、私のせいで失神状態に陥った真由子さんは、その状態から回復すると周囲を見回しました。そして、たまたま周囲に建設工事用の足場が組まれていたり、頭の高さあたりに多数の建材が置かれているのを見て、それに頭をぶつけてしまったと思い込んだんです。けれども、一般道路を歩く人にケガを負わせるような建材の置き方など、建設工事関係者はしませんよ。あなたは敷地の中に入り込んでいたからこそ被害に遭い、そして敷地の中にいたからこそ、建材置き場の光景がリアルに記憶に残ったんです」 「それ……どこの話なの」  いつのまにか真由子は、森中が真実を語っていることを前提にした質問をしていた。 「ねえ、あたしはどういう場所で気を失ったの」 「いま申し上げたように、ビルの建設現場です。その敷地の中です」 「そんな場所、絶対に立ち入らないわ」 「ふつうならね。でも、あなたにはそこへ立ち寄ってもおかしくない事情があった。なぜなら、そこはあなたの叔父さん滝陽夫氏と、叔母さんの静子夫妻が建設中のスタジオビルだったからです」    いつのまにか、真由子が座っている部分を中心に、シーツの上に大きな染みが輪を作っていた。それはずぶ濡《ぬ》れになった彼女の衣服から染みだした雨水だったが、真由子はそれをぼんやり見つめながら、自分が驚愕《きようがく》のあまり失禁してしまったのではないかという錯覚に囚《とら》われた。  それほど森中の話は衝撃的だった。話そのものの意外性もじゅうぶんだったが、森中が披露するストーリーを聞くうちに、欠落していた記憶のパーツが徐々に埋まっていく驚きのほうがはるかに勝っていた。 「ここでいったん、話を私自身のことに戻させてください。真由子さんの前に体験した、私の五回の見合いの話を。五回ともことごとく相手から断られたと申し上げましたが、あれはウソでした」  頭の混乱をまとめきれない真由子の前で、向かい側のベッドに腰掛けた森中は、ときおり額から垂れるしずくを手の甲で拭《ぬぐ》いながらつづけた。 「真由子さんは私に、なぜあなたのような人がお見合いをするのか、とたずねたことがありますね。その問いかけに対して私は、お見合いこそはノーであった場合の結論出しを早め、無用に女性を傷つけることがないからだというような趣旨のことを述べたと思います。しかし、それはあとからつけた理屈なんです。ほんとうは……最初は仕事でした」 「仕事?」  真由子は意味がわからなかった。仕事でお見合いをするとはどういうことなのか。 「ご承知のように、私は週刊誌記者です。それも殺人事件のような社会ネタから、政治経済、はては風俗ルポまで、あらゆるジャンルの取材を手がけます。そんな日常の仕事の中で、いまから三年前、ある編集者が立てた体験取材企画が実施されることになりました。それが『新世紀お見合い物語』と題されたプランでした」    森中の説明によれば、その企画はこんな趣旨のものだった。かつてのお見合いに代わって合コンが男女出会いの定番イベントとなり、それに加えてネットの出会いサイトなどが社会現象となるにつれ、いまや伝統的なスタイルのお見合いは、名家の御曹司や令嬢は別として、一般人の間では急速にすたれつつある。その現状を憂《うれ》えて、お見合いのよさをもういちど見直そう、という特集だった。  人生の達人たる仲介者の「保証書」付きフォーマルデート。結婚のイエス・ノーはできれば二度のデートで、最大延長しても三回目のデートで結論を出す即決主義。その結論を出すまではエッチ厳禁の清潔交際。会話も敬語が大前提——そういったレトロなお見合いの長所を再認識する企画趣旨だったが、それはヤラセなしの編集部員体験取材の形をとることになった。  これが週刊誌の取材だとは告げずに、仲人口を利いてもらって、編集者が実際のお見合いをし、もしも当人どうしのフィーリングが合ってしまったらほんとうに見合い結婚をしてもかまわない、というところまで踏み込んだものだった。 「いま、レトロなお見合いが新しい」とのキャッチコピーのもと、一大お見合いブームを創り出そうという編集長の号令がかかり、実際にお見合い結婚をした編集者には、社内規定以上の祝い金を出すというところまで悪ノリが進んだ。  その体験取材の「突撃隊員」には二十代の独身編集者四人が選ばれた。男女二名ずつだが、なんといっても編集部内の注目は、編集長じきじきの指名で選ばれた、当時二十六歳の森中公一だった。自他共に認める色男で、しかも遊び人、そんな彼がお見合いに登場すれば、女性側は大興奮、という記事的にも非常に面白い展開が期待できた。  この編集方針が決定した時点で、最年長の男性編集者と、女性編集者数人から企画の趣旨を危惧《きぐ》する声が出た。つまり、いくらヤラセなしの体験取材と銘打っても、突撃隊員となる編集部員はどうせ遊び半分である。規定以上の祝い金が出る程度のエサでは本気になるはずもない。結果として、まじめな態度でお見合いの席に出てきた相手を愚弄《ぐろう》することにはなるまいか、という懸念だった。  だが、相手側のプライバシーがわかるような誌面への出し方は一切せず、なおかつ編集者側が真摯《しんし》な態度で望めばだいじょうぶだと、企画実施にもっとも熱心な編集長がゴーサインを出した。そして、ふざけすぎとの批判を避けるため「突撃隊員一名につき、一お見合い限り」のルールを作った。  そして男女四名の突撃隊員が、それぞれ独自のルートで仲人口を探し、お見合い体験取材がはじまった。だが、それは森中公一にとって、まったく予想もしない展開を生むことになった。   「私が仲人口として選んだのが、あなたの叔母にあたる滝静子さんです」  仕事としてのお見合い、という意味合いを説明し終えてから、森中は自分の身に起きた話へと進んでいった。 「静子さんは、ウチの社から出しているグラビア週刊誌の担当役員が紹介してくれました。よく使っている写真スタジオの経営者夫人で、非常に面倒見がよくて、これまでもお見合いだけでなく結婚の仲人も数多くこなしているとのことで、企画がスタートしてすぐ、会いにいきました。もちろん、間に立った担当役員も手の内はばらさず、ほんとうに私が見合いで結婚相手を探したがっているというふれこみでした。  真由子さんもご承知のとおり、ちょうどそのころ静子さんのところは新しいスタジオビル建設で大わらわで、電話で挨拶《あいさつ》をした段階では、あまり気乗りした反応ではなかったのです。ビル建設の雑務に忙殺されて、お見合いの仲介まで手が回らない、と。でも、私が直接会いにいくと、静子さんは非常に驚かれました。ほんとにあなたがお見合いをするの、と」  森中の言葉に、ちょっとだけ自負の色合いが混じった。 「あなた、遊び半分なんでしょう、とか、恋人がいるんでしょう、などとずいぶん警戒されました。けれども、私が本気でお見合い結婚を考えていることを告げると、それならこちらも本気でお世話しましょうということになったのです。実際、その時点で、私には将来をともにするタイプの恋人はいなかったから、場合によっては編集長の狙《ねら》いどおり、見合い結婚でゴールインする可能性がないではなかったんです」  森中公一が淡々と語るうちに、真由子の脳裏にお見合いプロデューサーとでもいうべき静子叔母の、ちょっと目尻《めじり》の吊《つ》り上がった、作り笑いの得意な表情が浮かび上がってきた。と同時に、その叔母にやけに気を遣っていた母の態度も思い起こされた。  森中の引き立て役の気色の悪い「ゆでたまご男」の見合い写真を見て、絶対こんな気持ち悪い人とお見合いするのはいやだとゴネたとき、母は森中公一という隠し球を持っていたとはいえ、お見合いそのものを断ることが、静子叔母の手前非常に難しいニュアンスを強く匂《にお》わせていた。 「ともかく静子さんの仲介によって、第一回のお見合いがセッティングされました。いや、本来ならば、編集長が決めたルールどおり、成功しても失敗しても、お見合い相手はひとり限りで終わるはずだったのです。私もそのつもりでいました。渡されたプロフィールによれば、その女性は当時の私より三つ上の二十九歳のOLでした。  べつに年上であることに抵抗はなかったです。なぜなら、本気でお見合い結婚を望んでいるというのはウソで、じつのところは仕事の一環と割り切って、フォーマルなお見合い体験と、そのあとのデートを一回すれば記事が書けるな、という程度の姿勢でしかなかったからです。その後、相手から断ってきてくれればそれにこしたことはないし、そうでなければこちらからノーと言えばいい。ですから、取り立てて美人でなくても、なんでもいいやと、じつに傲慢《ごうまん》な態度でお見合いに臨んだのです」  話を聞きながら、真由子はなんだか勝手が違ってきた、と思っていた。そこには、真由子との見合い結婚にとことん固執する森中公一とはまったく別の人物像があったからである。 「静子さんによって決められたお見合いの場所は、真由子さんと会ったあのホテルの、あのコーヒーラウンジでした」 「もしかして……」  真由子がたずねた。 「その人とも日本庭園を散歩したの」 「そうです」 「鯉《こい》にエサをやったの」 「いえ。私にとっては初めての庭園散策だったので、そんなところに池があることも知らなかったから、最初はそんなことはしませんよ」 「それで?」 「できることなら、私はその一回きりで即座に静子さんに断りを入れようと思ったのです。ちょっとしんどすぎたんで」 「しんどいとは」 「彼女は三十前にどうしても結婚したいという、よくある年齢の区切りへのこだわりが強いうえに、私は年下が好みだったの、とか、あなたみたいにハンサムな人がお見合い要員で残っているなんて奇跡だわとか、さらに、その日のうちに父親に会ってほしいとまで言いだしたので、かなり腰が引けたんです。でも、これは仕事なんだと割り切って、二回目のデートもしました」 「ドライブ?」 「いや、そこまでしたくなかったので、映画と食事にしました。そうしたら、映画館の暗がりの中で、私のあそこに手を……」  森中は唇を歪《ゆが》めた。 「手を伸ばしてきて、ズボンの上から刺激しようとするんです。だから『ここじゃまずいですよ』と小声でささやくと、『それなら、まずくないところへ行きましょう』と、映画がはじまって間もないのに、さっと席を立つ始末です。ホテルへ直行したがる彼女をなんとか説得してレストランへ行くと、こんどは食事が運ばれてくるのも待たずにこう言いました。『いますぐここでプロポーズしてちょうだい。そしたら私はすぐに、ハイって答えるから』と」  森中はフーッとため息を洩《も》らした。 「正直なところ、とんでもない相手に引っかかったなと思いました」 「引っかかった?」  真由子が聞き咎《とが》めた。 「引っかけようとしたのは、あなたのほうじゃないんですか」 「まあ、そう言われても仕方ないでしょう」 「仕方ないでしょう、じゃなくて、そうなんですよ」  真由子は、もっと自分を抑えなければ、と内心で思っていた。が、口が先走った。 「お見合いを遊びにするから、そういう目に遭うんじゃないんですか」 「なるほど……いまのあなたのように、ですか」 「………」  いきなり鋭く言い返され、真由子は、相手が危険人物であることを再認識して黙った。森中公一という男は、いかに礼儀正しい話し方をしていても、決しておとなしい良識ある人物ではないのだと肝に銘じて、しばらく発言を自制することにした。 「それで私は、そのデートをなんとか切り上げたのちに、静子さんに電話を入れたんです。ちょっと今回はカンベンしてください、と。すると……」  森中公一は突然、濡《ぬ》れた髪の毛に両手を突っ込んで大げさなしぐさでオールバックにかき上げ、天井を仰いで、さきほどよりもずっと長いため息をついた。  そして言った。 「予想もしていなかった言葉が返ってきたんです。それが……それが私の地獄のはじまりであり、あなたの地獄のはじまりでもあるんですよ、真由子さん」  言い終えると、森中公一は目を閉じた。  その場面を思い起こすために。 [#改ページ]    十二 許されぬ拒絶 「あなたねえ、それはないんじゃございませんの」  断りの電話を入れてきた森中に対し、滝静子は一言目から怒りをあらわにしていた。 「あたくし、最初にあれだけ念を押したでございましょう。遊び半分のお見合いならお断りよ、と」  よそよそしい丁寧さが、静子の怒りを如実に表わしていた。  だが、森中はなぜそこまで腹を立てられてしまうのかわからなかった。お見合いとは一定のルールにしたがって進行する、一種の「双方向面接」ではないか。入社試験における面接は、会社側が受験者を面接する一方通行だが、お見合いは男が女を、女が男をたがいにチェックする相互面接だ。  そして、双方とも合格の判定を出したときだけ、結婚へこぎつけることができる。双方不合格の判定のケースはもちろんのこと、どちらか一方でもノーを出せば、そのノーがイエスに優先する。これがお見合いの基本ルールである。  双方の合意ではじまった恋愛が壊れるときと違って、ノーが出る可能性をじゅうぶん予測に入れたお見合いの場合、断りを入れることは少しも問題ではないはずだ。それなりに相手が納得する理由をつければ。  ところが、森中が出したノーに対し、お見合いをした当事者ではなく、仲人からクレームが突きつけられたのだ。 「いったい鈴原《すずはら》さんのどこがお気に召さなかったんですか」  鈴原というのが、森中が見合いをした女性の名前だった。 「言っておきますけどね、年上はどうも、なんていうのは理由になりませんよ。最初からそれはわかっていて、お見合いしているんですから」 「え、ええ」  戸惑いながら、森中は用意しておいた答えを口にした。 「女性の年齢が上であるのは一向にかまわないんですが、なんと言いますか、その年齢差を先方が意識しすぎて、あれこれ命令調でこられるのがしんどいんです。言葉がきついかもしれませんが、まるで女王様と使用人みたいで」 「あら、そういうのはおイヤなの」 「ええ」 「だったらそうと、ハッキリ最初から言ってくださいな!」 「……とおっしゃいますと」 「女房の尻《しり》に敷かれるのは好きでないと、最初から教えておいてくだされば、別のタイプの女性を紹介したんですよ。あたくしだって、それなりに顔が広いからあちこちでお見合いの仲人を務めさせていただいているんでね」 「はあ」 「あなたが曖昧《あいまい》な希望条件を出して、曖昧な態度でお見合いに臨んで、それで勝手にお断りになると、傷つくのは女性のほうなんですよ」 「申し訳ありません」 「それに、あたくしだっていい恥をかかされるわけですからね」 「恥……ですか」 「そうでしょう。あたくしが自信を持って鈴原さんに薦めたんですのよ。森中公一さんという、それはもうハンサムですばらしい男性がいらっしゃるのって。で、お見合い写真を見た彼女はもう狂喜乱舞でございましょう。ああ、あたくしも良い人助けができるわ、と温かい気持ちになっておりましたの。あとはふたりがうまくやってくれれば」 「ですから滝さん」  森中は、静子の苗字《みようじ》を口にした。 「滝さんのお気持ちはわかりますが、当の私が、鈴原さんとはちょっとやっていけないなと思いましたので、結論は長引かせるよりは早めにと思いまして」 「ああ、そうですか。さよですか」  静子のそっけない言い方は、もうあなたとは話したくもありません、と言っているように森中には思えた。それならそれでかまわないと思った。やはりこういう企画を体験レポートしろといっても無理なのだ。記事には『M隊員大失敗の巻』とでも題して、面白おかしく綴《つづ》ろうかと思った。  そして、感情を押し殺して世話になった挨拶《あいさつ》を述べようとしたとき—— 「ようございます。あたくしも意地がありますから、森中さんが気に入ってくださるようなお嬢さんを新たに紹介いたしましょう」 「え?」 「本気でお見合い結婚をなさりたいのなら、その望みを叶《かな》えてさしあげるまでは、あたくし、一歩も引き下がれませんことよ」 「………」  森中は困惑して黙り込んでしまった。  まさか週刊誌の記事を書くためなので、一回きりでかまわないのです、とは言えない。それで静子の勢いに押される形で二回目のお見合いをすることになった。  だが、編集部にはルール違反をしてお見合いを重ねているとは言えない。かといって、一人目の見合い相手は、匿名にしたところであまりにも激しい特徴がありすぎてバレてしまうので、その体験は秘密にしておいて、森中は二度目のお見合いを記事に用いようと考えた。    滝静子が持ってきた二人目のお見合い相手は、繊維メーカーの秘書課に勤務する二十四歳の女性だった。写真で見るかぎりは、きわめておとなしそうで、しかも暗い印象があった。 「この生田《いくた》さんはね、周囲の人がみんな口を揃《そろ》えて保証する『男を立てるタイプ』なの。そして『男につくすタイプ』なの。性格的には、このあいだの鈴原さんとは正反対」  静子は、失敗例の反対は成功例になるという、きわめて単純な論法で攻め立ててきた。  森中はすっかり気が重くなった。「会うだけは会いましょう」というような逃げ腰の態度は仲人の静子を激高させると思ったので、ともかく静子の顔を立ててもう一度だけお見合いをして、こんどは最初の顔合わせのあとすぐに断りの返事を入れようと思った。そして、もう今後一切静子の世話にはなるまいと決めた。  お見合いは、また同じホテルの同じ場所で行なわれた。写真で見ると無口そうな子だったので、庭園散策のときに間が持たないといけないので、池に錦鯉《にしきごい》がいたことを思い出し、そのエサのためのパンくずを紙に包んでスーツのポケットに入れていった。  実際に会ってみると、写真から想像していた以上に無口な子だった。静子が入っての三人の席でもまったく会話が弾まず沈黙が流れるばかりで、ふたりきりにさせられると、なおさら話すことがなくなった。庭園の池に飼われた錦鯉にエサをやってみせても、黙ってそれを見ているだけで間が持たなかった。  そこまで極端にしらけてしまうと、逆に森中にとっては気が楽だった。これなら一回で断っても文句はあるまい、と思ったからだ。そして、お見合いを終えたその日のうちに静子に断りを入れた。  また電話口で興奮されるかと思ったら、意外にあっさり「そうですか、わかりました」と引き下がったので、森中はホッとした。そして彼は、仕事が急に忙しくなり、これでは家庭を持ったとしてもかえってお嫁さんに負担をかけるばかりなので、しばらくは結婚を考えずに週刊誌記者の職務に集中したいと話し、これ以上の見合い話を受けるつもりはないことを匂《にお》わせた。それに関しても、静子はとくに文句を言わなかった。    滝静子というちょっとエキセントリックな感じのお見合いプロデューサーと、とりあえず無事に訣別《けつべつ》できたことにホッとしたものの、二度目のお見合いも体験記事にはできなかった。  やむをえず森中は自分の親戚《しんせき》筋に頼み、あくまで週刊誌の記事にするためと、こんどは最初から目的を明らかにして、「体験お見合い」を伝統的な作法にのっとって実施した。ヤラセ厳禁を命じた編集長の意向には反したが、安全な立場で記事を書くことが先決だと判断した森中は、そこは割り切って、彼にとって三度目となるお見合いで予定どおりの仕事をこなすことができた。  だが——  とてつもない事態がその直後に待ち構えていた。 [#改ページ]    十三 赤いメッセージ 「どうしたの、父さん」  とりあえず今晩の宿と定めた品川にあるビジネスホテルの一室で、新谷史也は部屋の電話にかじりついていた父親が、重苦しい表情で受話器を置くのを見て問いかけた。 「いや……」  眉間《みけん》に深い皺《しわ》を刻んだ新谷洋次郎は、すぐには息子の問いかけに答えず、タバコに火を点《つ》けて深々と煙を吸い込んだ。そして、部屋ぜんたいに紫煙が行き渡ったころ、ぽつりと口を開いた。 「いま話していたのは、森中公一と同じ出版社に勤めている教え子だ。女の子なんだがね。彼女は週刊誌のセクションではないが、もちろん森中のことは知っていて、いろいろ教えてくれたよ」 「で?」 「森中公一は、もう週刊誌の編集部にはいないそうだ」 「じゃ、どこに」 「総務部付」 「………」  父親の発した言葉のニュアンスを、同じサラリーマンである史也は即座に察した。 「総務部」と「総務部付」とでは、まるで意味合いが違う。前者は総務部の仕事をする部員だが、後者は在籍上は総務部にいるが、ほとんど何も仕事をしない。病気または不祥事が理由で一時的に総務部預かりになっている場合が多いのだ。  そして、つづく父親の言葉がそれを証明した。 「彼女の話によれば、三年前のある時期から、森中は仕事中に突然言動がおかしくなることが増えてきて、その状態が二年前からさらにひどくなったらしい。ただし、おかしな言動というのは、週刊誌記者として仕事をしている最中には出なかったらしい。初めのころはな。プライベートな時間とか、社内でぼんやりしているときに、ちょっと言動が普通じゃなくなることがあった。しかし、そのうち仕事にもそれが影響してきたので、去年から総務部付となって、いまは事実上休職状態だそうだ」 「会社には出てきていない、ってこと?」 「ああ」 「それじゃ、お見合いのために真由子に渡されたプロフィールにはウソが書いてあったんだ」 「そういうことになるな」 「そしてお見合いの席でも、真由子にしゃあしゃあとウソを騙《かた》っていた。いまも週刊誌の記者であるように」 「うむ」 「だけど、仲人は何をやってたんだ、静子さんは。そうした森中のウソに、いっしょにだまされていたんだろうか」 「そこまでは本人に確かめんとな」 「じゃあ、森中はノイローゼか何かに罹《かか》っているわけ?」 「どういう病名を診断されたのかは公になっていないようだが、私の教え子が言うには、二年前の夏ごろから、彼の妄想世界にはひとりの恋人が住んでいて、その彼女と結婚できる日を夢見ているようなことを、真顔で同僚に話すようになったらしい。で、その恋人の名前は」 「まさか……」 「マユコ、というそうだ」  父親は煙まじりのため息を吐き出し、息子はうめき声を洩《も》らした。 「そんな前から真由子は狙《ねら》われていたのかよ」 「そう考えるのが妥当だろうな。つまり、先日の見合いが最初の出会いではなかったということだ。また、ユニバーサル・スタジオでの尾行が最初の出来事でもなかったことになる。もっともっと前から、森中公一は真由子さんをつけ狙っていたんだ」 「でも真由子は、森中の存在について、一度もぼくに話したことがない」 「真由子さんは森中に狙われていることを知らなかったんだろう。あるいは、さっきも言ったが、彼と接触していながら、その記憶が欠落しているのか」 「父さん、マジにその可能性を信じているのか。真由子が脳震盪《のうしんとう》を起こした一件は、単純事故でない可能性を」 「まあね。道路を歩いていて足場か材木にぶつかるなんて、ふつうはありえない。工事現場の安全配慮を考えればな。それよりも、夜道を歩いているときに他人に襲撃されて失神し、その直前直後の記憶を失ったということはじゅうぶん考えられる。さっき、脳神経科の医師をやっている教え子とも連絡をとったが、私の見方は決して非現実的ではないと言っていたよ」 「………」 「で、おまえのほうは」  父親の問いかけに、史也は右手にケータイを握ったまま首を横に振った。 「あいかわらず、真由子のケータイは電源が切れたままだよ。それから、こんな時間なのに彼女の自宅も応答がない」  ベッドサイドの時計は午後十時すぎを指していた。  真由子の両親は千葉にいる部下の結婚披露宴の二次会を終え、ようやく家路についていることを、史也は知らない。そして、当の真由子が箱根駒ヶ岳|山麓《さんろく》のログハウスで森中公一といっしょにいることも。 「ああ、それから静子さんの連絡先はわかったぞ。ただし、自宅ではなく、スタジオビルの代表電話だが。どうする、史也、電話をしてみるか」 「いや」  短く答えると、新谷史也はカーテンを開けたままにしている窓辺に歩み寄った。 「とにかく真由子と連絡をとることを最優先にするよ」  そして史也は、外の夜景に目をやった。横殴りの雨が窓ガラスに向かって波状的に襲いかかり、都会の街明かりがそのたびに変幻自在に歪《ゆが》んだ。    箱根の山は、都会とは比較にならないすさまじい豪雨に包まれていた。そして、暗黒の山並みを銀色に照らし出す稲光が、これでもか、これでもかと連続して夜空に走った。  その稲妻が閃《ひらめ》くたびに、森中公一のログハウスとその脇《わき》に停《と》められたベンツが闇《やみ》に浮かび上がった。まるで見えない洗車機の中に入れられているように、ベンツのボディには激しい水流が走り、その勢いが凄《すさ》まじすぎて雨粒という形での水滴の付着は許されなかった。そして、オレンジ色の窓明かりが洩れるログハウスの二階では、森中公一の独白がつづいていた。 「真由子さん、あのまま何事もなければ、私のお見合い体験はたった三度で終わったのです」  ツインベッドの片方に腰掛けた森中は、強引に拉致《らち》してきた真由子をもうひとつのベッドに腰掛けさせたまま語りつづけた。 「そして、私とあなたが出会うこともなかったでしょう。おそらくあなたは、新谷史也との愛をはぐくみつづけ、しかるべき時期に彼とのゴールインを迎えたに違いありません。ところが、新谷史也ではなく、この森中公一と結婚しなければならない運命の転換は、まさにこのログハウスで起こったのです」 「ちょっと待って」  真由子が遮った。 「あなたと結婚する運命なんて、あたし、認めないから」 「それはないでしょう、真由子さん」  淡々とした口調で、森中は言った。 「四年間つきあってきた恋人を捨てて、この森中公一の妻になろうとしたのは、どこの誰です」 「そんな決心をした覚えはないわ」 「覚えがなきゃ、なぜドライブに誘い出されたんです。なぜ、このログハウスに一泊するプランを受け容《い》れたんです」 「さっきはそうだったけど、いまは違うわ」 「だめですよ。そんなご都合主義の変更は認められない」  森中は痙攣《けいれん》をはじめたかと思うほどの小刻みなピッチで、首を左右に振った。 「認められないといったら、認められないよ」 「………」 「ともかく私の話を聞きなさい。あなたとの出会いを運命づけることになった、あの日の出来事を——」    それは森中公一がお見合い特集の記事を書き終え、その号が発売されてから一カ月後のことだった。ひさしぶりに三日間の休暇をまとめてとることができた森中は、箱根駒ヶ岳山麓に所有する別荘へ向かった。季節は三年前の晩秋だった。  そのころ、森中はひとりの女性とつきあっていた。栗色《くりいろ》に染めた長い髪をした二十一歳の女の子で、五日前にレースクイーンの取材をして知り合ったばかりだった。レースクイーンに選ばれるだけあってスタイルは抜群で、顔立ちも森中の好みだった。  ただし、結婚の対象とはまるで思わなかったし、向こうも森中のことを何人かいるセックスフレンドのひとりに加えてみたばかり、という感じだった。おたがいにそう割り切っていたから、知り合って五日目にして、快楽だけを楽しむ小旅行に出かけることを了解する、いかにも現代風な関係だった。  彼女の名前はカタカナでレミ。本名ではないけれど、本名を知る必要など感じていなかった。どうせ期間限定のつきあいとなることはわかっているからだ。滝静子の仲介による二度のお見合いで、最初から結婚を前提としてスタートラインにつく重苦しさにうんざりさせられていた森中は、本来の持ち味である「見た目のいい男」という利点をぞんぶんに生かした、お気楽遊び人生活をエンジョイすることに決めていたのだ。  そのレミをつれて駒ヶ岳山麓のログハウスに到着したのは、日が傾きかけたころだった。これから三日間の別荘滞在でやることを想像し、うきうきした気分でドアを開けた瞬間、森中は妙な空気を察知して表情を曇らせた。留守の間もきちんと鍵《かぎ》を掛けておいたはずなのに、誰かが侵入したような雰囲気があるのだ。それは一種のカンだった。初めてここにくるレミにはわからない、所有者の森中だけにわかる違和感だった。  だが、レミがいっしょにいる手前、まだ具体的な証拠もないのに大騒ぎをすることは憚《はばか》られた。それに、この別荘には金目のものは何も置いていない。仮に泥棒が入ったとしても、持ち帰るに値するものは何もないはずだった。せいぜいテレビにビデオ、オーディオ機器といったところだ。だから、奇妙な雰囲気を察知しても、森中はさほどあわてたわけではなかった。  ここにくるまでにかなり道路が渋滞していたので、レミはだいぶ疲れており、少しだけ仮眠をとっていいかと言ってきたので、二階のベッドでしばらく横にさせることにした。  そして彼女が二階へ去ってから、森中はまず勝手口へ向かった。内側からドアノブ中央のボタンを押してロックするシンプルなものだったが、そこに異状はない。ログハウスの出入口といえば玄関とこの勝手口しかないから、その戸締まりが完璧《かんぺき》だった以上は、違和感は自分の思い過ごしかと思って、森中はリビングに戻った。  が、そこで彼は、侵入者がいた証拠を見つけた。  リビングの中央に備えたテレビの主電源が入っていた。それに接続されているビデオデッキの電源も入っていた。そして、デッキには見覚えのないテープが一本差し込まれてあった。背中にはラベルが貼《は》っていない。  森中はそれを引き抜いてみた。テープ上面にはラベルが貼ってあった。鉛筆書きの繊細な字でこう書いてあった。     雅美です。さようなら    寒気がした。  長い間別荘を留守にしていた間に、誰かが玄関も勝手口も開けずにこっそり忍び込み、そして一本のビデオテープをデッキに差し込んだのだ。  そのタイトルが「雅美です。さようなら」。  森中には、雅美という名前の女がすぐには頭に浮かんでこなかった。過去につきあった女、一晩限りの遊びで寝た女、さらには森中に交際を迫ってきている女、などなど、数え切れないほどの女の顔を思い浮かべたが、雅美という名前に心当たりはない。  しかし、最後に森中は答えを見つけた。  最初の見合い相手に辟易《へきえき》した森中に対して、滝静子がセッティングしたふたりめの女。苗字《みようじ》が「生田」であることは記憶していたが、そういえば下の名前が「雅美」だったと、森中はいまになって思い出した。お見合いの間、ほとんど自分からしゃべろうとしなかった、無口で陰気な女だった。  その彼女が、このログハウスに無断で入り込んで、このテープを残していったというのだろうか。森中はとっさにリビングの三方に開かれた窓に目をやった。だが、どの窓もしっかり内側から鍵が掛かっており、ガラスが割られた形跡もない。  では、いったいどこから入ってきたのだろうと疑問が湧《わ》いたが、それよりも、このビデオテープに何が録画されているのかが森中には問題だった。「雅美です。さようなら」という題が、いかにも不吉だった。  不安で胸が高鳴ってきた。  森中はそっと階段を上って、レミが服を着たまま、すでにすやすやと寝息を立てていることを確認すると、足音を忍ばせてリビングへ戻り、ビデオテープをローディングして、テレビ画面をビデオモードに切り替え、再生スイッチを押した。  が、いったん停止ボタンを押し、ヘッドホンがあったことを思い出してそれをかぶり、コードのジャックをテレビに差し込んだ。音がスピーカーから洩《も》れないようになったところで、ふたたび再生ボタンを押した。  いきなり全裸で直立不動の姿勢をとる生田雅美が画面に大写しになった。  のっけから驚かされる映像だった。お見合いのときには地味なワンピースに隠されていた裸身は、痛々しいほど痩《や》せて、あばら骨が浮いてみえた。胸は平らで、乳房と呼ぶにふさわしいふくらみはなく、乳首だけがポツンとふたつ、まるで絵の具で塗ったような立体感のなさで付いていた。  脱げばこんな身体をしていたのか、と森中は、その痩せこけた肉体にまじまじと見入った。彼女は左手にタオルを下げており、白い布地が下腹部を隠していたが、たとえその部分があらわになっていても、それを見て性的に興奮する男などめったにいまい、と森中は思った。頭上には白熱球の明かりが灯《とも》っていたが、その温かみのある光線に照らされてもなお、彼女の肌色の悪さはカムフラージュできなかった。  十秒ほど、タオルで下腹部を隠した直立不動の場面がつづいたあと、雅美がカメラのほうに近づいてきた。どうやらビデオカメラは三脚に固定してあるらしく、撮影角度の調整でもするためか、画面いっぱいに雅美の上半身が覆い被《かぶ》さって暗くなり、干しぶどうのような乳首の片方がレンズをこすった。  そしてふたたび身体がレンズから離れると、カメラの向く角度が変わっていた。そこはバスルームであることがはっきりわかった。カメラはバスルームの外の脱衣スペースに据えてあるようで、曇りガラスを嵌《は》めたドアが、フルに開けた状態で画面右手に映っていた。  バスタブには七分目ほど湯が張ってあった。そしてバスタブの上の窓は開け放たれていて、暗い夜空が覗《のぞ》いていた。撮影時刻は夜である。  こんなに病的に痩せた裸身をさらけた入浴シーンなど撮影して、どうするつもりだろうと思いながら、森中は成りゆきを見守った。  と—— 「森中さん、こんにちは、生田雅美です」  ヘッドホンをした森中の両耳に、女の声が飛び込んできた。生身の彼女がすぐそこにいるようで、森中の首筋に鳥肌が立った。 「覚えていらっしゃいますか、先日、森中さんとお見合いをさせていただいた生田雅美です。そのせつは貴重なお時間をとっていただいて、どうもありがとうございました」  片手にタオルを持ったままバスタブの前に立った雅美は、カメラに向かって深々と一礼した。  それに合わせて、無意識のうちに軽い会釈をしている自分がいることに気づき、森中はハッとして身を起こした。 「森中さん、私みたいな暗い女じゃ、やっぱりだめですか」  身体を起こした雅美は、レンズに向かって問いかけてきた。お見合いのときの無口さがウソのように、彼女は饒舌《じようぜつ》だった。 「私、誰も理解してくれませんけれど、ほんとはとっても明るい女の子なんです。そうでなきゃ、秘書という仕事も務められないでしょう。ただ、結婚とか、そういうものを意識して男の人に会うと、すごく人見知りするんです。緊張もしてしまうんです。それで、いつもの自分が出せなくて……。でも、そんな言い訳はしちゃいけませんよね。けっきょく、私に魅力がないから、森中さん、お断りになったんですよね」  いったい彼女は何を言いたいのか。「さようなら」とはどういう意味なのか。彼女に対するノーの返事は、お見合い当日の夜に、静子にとっくに伝えてあった。あれからおよそ一カ月半が経《た》ついまになって、なぜ「さようなら」を言わねばならないのか。それもビデオテープという手段で。しかも裸で。  森中は、口の中が徐々に渇いてくるのを覚えながら、ヘッドホンを両手で上から押さえ込み、固唾《かたず》を呑《の》んで画面を見守りつづけた。 「私ね、おとといの晩、静子さんにものすごい勢いで叱《しか》られたんです」  え、と森中は前のめりになった。 (おとといの晩?) 「あんたがハキハキしないから、またお見合いを断られたじゃないのって、めちゃくちゃ怒られました。森中さんみたいに理想的な男性は、めったなことではお見合いでめぐり逢《あ》えないのよ。その最高のチャンスを、あんたはまたこのあいだと同じ失敗で、むざむざとつぶしてしまった。陰気で無口な女になって、せっかくのチャンスを台無しにした。よくもあたくしに恥をかかせてくれましたね。森中さんもさっきの電話で言ってましたよ。あんなにしゃべらない人では、どうしようもありません、って……」  おとといの晩に叱られた、という言葉から、森中は理解した。このテープは一カ月半前の、あのお見合いをした翌々日の夜に撮影されているのだ。 「森中さん、私、滝静子さんに五回もお見合いの世話になったんです。そして五回とも男の人に断られてしまいました。私のほうは、どの方も好きだったのに……。私、お見合いの席になると緊張して暗くなるので、ぜんぶお話がつぶれちゃうんです。そして、そのたびに静子さんに叱られて」  滝静子は森中に対してだけでなく、生田雅美に対しても、自分のセッティングしたお見合いが失敗した責任を当事者に求めて罵倒《ばとう》していた。仲介者の責任などそっちのけで。  世話好きの滝静子とは、じつは自分の手がけた縁談が成立しなかったとき、異常なヒステリーを起こして荒れ狂う女だったのだ。そして生田雅美は、その罵倒の嵐《あらし》を五度も浴びているのだ。 「私……なんだかもうやんなっちゃいました。生きているのがやんなっちゃいました」  おいおいおい、と森中はあわてた。 「森中さん、私、これから死にますね」  耳に密着しているヘッドホンから、生々しい言葉が流れてきた。森中は凍りついた。  雅美はカメラに背を向けると、バスタブをまたいで湯の中に身を沈めた。いや、それは湯ではなかった。身体を沈めるときに雅美がぶるっと身震いをしたこと。寒そうに肩をすくめたこと。そしてレンズが曇るような湯気がまったく立ちこめていないことから、バスタブに張ってあったのは冷たい水であることを森中は知った。  後ろ向きになって水に浸かった雅美は、そこでゆっくりと正面へ向き直った。前を隠すために持っていたタオルを洗い場のほうへ投げ捨てた。と、いままでタオルに覆われて見えなかったガラスの破片が森中の目を射た。ちょうど包丁の刃先に似た形にとがっている半透明のガラス。 (待て!)  森中は声に出さずに叫んだ。 (これ、この家の風呂場じゃないか!)  森中は、惨劇の舞台が、ほかでもない、この別荘のバスルームであることに気がついた。  バスタブの上に設けられた窓は、たんに開け放っているように見えたが、そうではなかった。ガラスが割られ、窓枠から取り外されていたのだ。つまり生田雅美は、森中公一への怨《うら》みを込めて、彼の別荘のバスルームの窓を割って侵入し、そのガラス片を使って首を刺そうとしているところだった。  そのとき、あまりにも画面に夢中になっていた森中は、二階で寝ていたレミがトイレのために目を覚まし、階段を降りてきたことを知らなかった。そして「トイレって、あっちだよね」と声をかけてきたことにも気づかなかった。  レミのほうも森中の無視を気にしていない様子だった。彼女はコンタクトレンズをはずしていたから、森中がテレビに見入っていることはわかっても、その画面に映し出された映像までは見えていなかった。そして、リビングの端を通って、トイレのほうに姿を消した。  そのとき、大画面のテレビでは生田雅美が鋭いガラス片で首を切っていた。手首ではない、首である。頸動脈《けいどうみやく》のあたりを狙《ねら》って、とがったガラスの刃先を突き立てたのだ。  ぐええ、という声が、ステレオで森中の左右の耳に響き渡った。  すさまじい勢いで鮮血が一・五メートルほどの高さまで噴き上がり、空中で赤い放物線を描くと、こんどは水面に向かってなだれ落ちてきた。あっというまにバスタブの水が真っ赤に染まった。  そして雅美の身体がぐらりと傾くと、こんどは鮮血はカメラのレンズめがけて吹きかかってきた。  森中公一は、反射的にリモコンスイッチを押してビデオの電源を切った。  惨劇を映し出したテレビ画面が真っ暗になった。恐怖で森中の歯がカチカチと鳴った。 (あの子、うちの風呂場で死んだ……)  彼女がそのまま死んだなら、その模様を録画したテープを誰がデッキに入れたのか。  滝静子。  答えはそれしかなかった。たしかに静子には、箱根の駒ヶ岳|山麓《さんろく》に別荘を持っていると話したことがあった。その情報をもとに、お見合いプロデューサーとしてのメンツを完全に潰《つぶ》された静子は、そんなに死にたきゃ、死に場所を探してあげるわよ、と言って森中の別荘を雅美に教えた。いや、静子自身がここまで生田雅美を連れてきて、自殺の一部始終を森中に見せつける段取りをすべて整えたに違いない。自分の仲介責任を脇《わき》に置き、雅美の怨みつらみの矛先を森中に向けさせたのだ。  そして自暴自棄になった雅美が自らの命を絶ち終わると、一部始終を記録した撮影道具を片づけ、あらかじめ雅美本人に書かせたラベルをテープに貼《は》ってビデオデッキにセットし、勝手口から出た。ドアノブ中央のボタンを押せば、鍵《かぎ》なしでドアロックは完了する。 (なんてことだ……)  静子のやったことがわかって、全身の血の気が引いた。彼女は、お見合いプロデューサーの顔に泥を塗りつづけた女を死へ追い込み、同時に、遊び半分でお見合いに臨んだハンサム男を修羅場に巻き込んだ。  そこには、自分自身が警察に訴えられたらどうなるのかという理性的な計算など、かけらも感じられなかった。  その狂気のお見合いプロデューサー滝静子の手によって、森中公一の別荘は惨劇の館《やかた》に変えられていたのだ。  しかも——  その惨劇から現在までに、およそ一カ月半もの時が流れているのだ。その間に、浴槽に沈んだ生田雅美の死体はどうなるか?  頭のてっぺんからつま先まで、全身の毛穴が逆立った。くらくらと激しいめまいがした。と、そのとき、遠くで女の悲鳴が聞こえた。  ソファに座ってテレビに向かっていた森中は、弾かれたように立ち上がった。その拍子に、耳を覆っていたヘッドホンがすっ飛んだ。とたんに、遠かった悲鳴が近くの絶叫に代わった。  レミだった。レミがバスルームの惨状を見てしまったのだ。一カ月半、赤い液体の中に放置された女の死体を。 「公一、公一!」  まさに転がってくるという感じで、レミがリビングに駆け戻ってきた。  その恐怖に見開かれた目を見たとき、森中の脳で何かが弾けた。神経と神経がショートして、まともな思考回路が断絶した。  本来ならば、彼はこう言わなければならないはずだった。 「わかっている、レミ。とにかく一一〇番しよう」  しかし、代わりに出た言葉はこうだった。 「見たな」 [#改ページ]    十四 墜 落  ベッドの端に腰掛けたまま、滝真由子は金縛りにあっていた。  恐怖を超越して感情が凍りついていた。  叔母の静子がやったこと。森中公一がやったこと。そして、いま自分がその惨劇の館に現実に連れてこられていること。それらすべてが織りなす異常世界のレベルがあまりにも飛びすぎていて、彼女の神経を凍結させていた。  神経といっても、所詮《しよせん》は刺激の電気信号を伝達するコードのようなものにすぎない。感情も理性も、その電気コードを通って脳内を行き来し、正常な人間の思考形態を形成する。その水分をたっぷりふくんだ生体電気コードがショックで凍結すれば、まともな思考が望めなくなるのは当然だった。  だが、まだかろうじてその障害をバックアップする回路が機能しているために、真由子はギリギリのところで思考能力を保っていた。 「真由子さん、私は滝静子という女を通じてひとつの恐怖を知ったんです。それは仲人という存在の恐怖です」  惨劇場面をリアルに描いたあと、森中はまた淡々としたしゃべりに戻っていた。 「結婚はあくまで当事者同士の問題だとわかっていながら、結婚が壊れたときには、必ず仲人に謝りにいかねばならない。仲人に恥をかかせたといって詫《わ》びなければならない。形式的な仲人口であってもね。ときには仲人のメンツもあるから離婚しない、というケースだって珍しくない。  お見合いも同じです。仲人口を利いた人の顔を立てて一回は会ってみるとか、断りにくいとか、実際に断ったときに仲人からひどく気分を害されたという話はいくらでもあります。例の特集企画をまとめる段階の取材で、お見合いとか、仲人というシステムが抱える裏の恐怖というものを、私はつぶさに知ることができ、皮肉なことに、それを自分で身をもって体験してしまったのです。つまり、プライドの高い人間に仲人口を頼んではいけない、という鉄則を、もっとも極端な形で体験してしまったのです。  お見合いのときにもっとも重要な要素は、お見合いをする相手ではなく、じつはその紹介者であり保証人でもある仲人だという大原則を、私は初めて思い知らされたのです。週刊誌の記事に載せるにはとっくに間に合いませんでしたけどね。  それとは別に、極限のショックというものが、どれほど人間の神経をぶち壊し、通常では考えられないミスジャッジを引き起こし、そのミスジャッジが新たな恐怖とパニックを生むものか、これも身をもって体験させられてしまいました」 「その……」  肺から口に至る気道が痙攣《けいれん》しているのを感じながら、真由子はとぎれとぎれにきいた。 「そのひと……どうなっ……たの」 「レミですか」  森中の問い返しに、真由子は無言でうなずいた。 「直前に生々しいカラー映像を見ていたせいでしょう、まるで私自身が犯した殺人をレミに見られてしまった気分になって、気がついてみたら彼女の首に手をかけていました」 「………」 「そして、息絶えた彼女を引きずってバスルームまで行き、ギュッと目をつぶったままドアを開けました。すると、ものすごい悪臭とハエの大群が」 「もういい!」  真由子は叫んだ。 「それ以上言わないで!」  森中は、真由子の訴えをきいて、ログハウスの惨劇についてはそれ以上ふれなかった。だが、真由子の叔母との出来事に関しては説明をつづけた。 「自分の設定した見合い話を成立させなかった人間には、さまざまな報復を行なうという怒りをむき出しにしたあなたの叔母さんに対し、私は殺人という弱みを握られてしまったために、突きつけられた新たな条件を呑《の》まざるを得ませんでした」 「どういう条件?」 「静子さんはまだあきらめていなかったのです。これ以上恐ろしい思いをしたくなければ、これからあたくしが持ってくるお見合い三件のうち、どれかで話をまとめなさい、と」 「そんな……」  もしも森中の言っていることが真実なら、叔母は狂気の人だと思わざるをえなかった。 「お見合いの仲人として、自分の紹介した話が成立しないということは、静子さんにとって耐え難い屈辱だったのです。とくに私みたいな遊び人タイプの男をお見合いシステムに服従させることは、ああいう人の夢だったかもしれません」 「めちゃくちゃじゃない。静子おばさんて、それじゃ異常性格者よ」 「実際、そうだと思います。でも、現代の感覚で捉《とら》えると異常な発想であっても、昔はそれがあたりまえだった。親の決めた縁談、親戚《しんせき》の長老が決めた縁談、勤務先の社長が決めた縁談というものには、絶対に従わねばならなかった。そういう時代が、まちがいなく日本にはあったじゃないですか」 「それは、話では聞いてるけど」 「当時はそれが正常で、少しも異常ではなかった。そして年長者の定めた縁談を、自分の好き嫌いで壊そうものなら、激怒されて当然でした。そうやって、若い世代の人生を自分の思うままにプロデュースするのがあたりまえという発想を持った人が、少なくとも半世紀前までの日本には大勢いた。静子さんは、それらの人々の遺伝子を受け継いだだけですよ」 「遺伝子?」 「ええ、自分は自分、他人は他人という分け方ができない、他人のプライバシーを自分のそれと区別できない欠陥だらけの感情プログラム。その遺伝子が静子さんに伝わっていたと考えればいい」 「それで?」 「ほとんど静子さんに操られるような状況で、私は翌年にかけて、三件の見合いを受けることにしました。見合い成立に賭《か》ける静子さんの執念はものすごく、私の引き立て役として気持ちの悪い中年男の見合い写真も作りました。これを見せてから、私の写真を見せれば、相手の女性の気持ちも単独で見るよりもぜんぜん違うだろうと」 「あんな気持ち悪い人間、どこで見つけてきたの」 「あれも私です」 「え?」 「あの写真も私なんですよ、真由子さん」  唖然《あぜん》とする真由子に、森中は言った。 「さすが写真スタジオ経営者の妻というか、あれは私の見合い写真をもとにCG処理をして作った架空の人物像なんです。もちろん、プロフィールはでたらめです。あんな男と見合いをしたがる女性なんているわけないから、でたらめでも差し支えない」 「なんでそんなことまでして」 「所詮あなたの顔も、バランスを崩せばこんなものなんだから、傲慢《ごうまん》にならないで適当なところで手を打ちなさいよ、という静子さんの脅しのメッセージなんです。私がお見合い相手の女性に対してイエスと言わないのは、顔のよさを鼻にかけているからで、そのプライドをいちどぶち壊してやる必要がある、というわけです。心理療法なんですかね、よくわかりませんが」 「………」  森中の整った顔を見つめながら、真由子は絶対に忘れることのできない、あの「ゆでたまご男」を思い浮かべていた。そして、森中の顔から変態男の画像を産み出すことを発想した叔母の狂気に震えがきた。 「そういう万全の態勢のもとに、新たな三つのお見合いに挑戦しはじめましたが、一件目も二件目もだめ。もちろん、こちらが気乗りしないからです。いや、気分的にのるとかのらないより、こんな異様な事情を背景に抱えたまま、相手の人生を決めることにひけめがあったからです。それで、残された最後の一件の見合いを控えたある日、静子さんに直談判に行くことになりました。六月の雨の日でした」 「もしかしてそれは……」  真由子がきいた。 「あたしが脳震盪《のうしんとう》を起こした日?」 「そうです。そのころには、私はかなり精神的におかしくなっていたと思います。会社のほうでも薄々変化に感づいていたようですけどね。静子さんと同じように、正常と異常の区別がつかなくなってきていたのです。そして私は、三件目のお見合い——私にとって都合六件目の見合いは断固拒否することにしました。忍耐の限界にきたからです」 「でも、おばさんが許さないのでは」 「ですから、殺すつもりでいました」 「………」  たしかに森中はおかしくなっていた。 「それで夜になるとまったく人がいなくなる、建設中のあのビルを選んだのです。まだ窓ガラスも嵌《はま》っていない状態のビルの最上階、四階が待ち合わせ場所でした。ところが、そこへあなたがやってきた」 「どうしてあたしが」 「そこの記憶も、やはり戻っていないんですね」 「ぜんぜん」 「あなたは、在学中にも叔父さんのスタジオの仕事を不定期に手伝っていて、ビル新築の事務雑用などにときおり駆り出されていました。そして、具体的にどういう用件だったか、それはあなた本人ではないからわかりませんが、雨の日の晩、あなたはあのビルの前を通りかかって、偶然、静子さんの姿を目にしたんです」  言われていくうちに、しだいに真由子はその記憶が頭の中で形を取り戻していくのを感じた。いま、窓の外でざわめいている騒然たる雨音とは別種の、まもなくやもうとする静かな雨の降り方も聞こえてきた。 「そしてあなたは勝手知ったる通用口を開けて、階段を上って四階へと向かっていった。ちょうどそのとき、私は静子さんのやった残虐行為を興奮気味にまくしたてて糾弾しているところでした。そこにあなたが顔を覗《のぞ》かせた」 「………」  真由子は口に手を当てた。  ショックが全身を貫いた。  そこの記憶も戻ってきたのだ。 「あなたは、私たちの話の内容を少しは耳にはさんでしまった。そして、そのとき静子さんが持参していた私のお見合いアルバムを目に留め、奪って中を見た。私がどういう人物かを知るために」  やっと真由子はわかった。なぜ自分が、まだ中身を見もしないうちから、お見合いアルバムの表紙を目にしただけで、森中公一の顔と名前が具体的に浮かんだのか。 「唐突な姪《めい》の登場に、最初は静子さんも相当驚いた様子でした。でも、次の瞬間、私にこう命じたのです。殺しなさい——あの子を殺してちょうだいと」 「うそ!」 「ほんとうです」  悲しそうな目をして、森中は言った。 「静子さんは落ち着いた口調で言いました。森中さん、どうせあたくしを始末しようと思ってきたんでしょう。わかっていますよ、それぐらいのこと。でもね、その気持ちがあるんだったら、あの子もできるでしょう」  真由子は震えた。  全身をガクガクと震わせた。  そこも思い出したのだ。あまりにもショッキングな叔母の言葉。その般若《はんにや》のように吊《つ》り上がった目。そして、魂を失った森中公一の目。逃げなければと思っても、根が生えたように動かない脚。そのすべてを思い出した。 「私はノーと言いました。これだけは信じてください、真由子さん。そんなことはできない、と静子さんに言いました」  思い出せない。そこは思い出せない。  森中公一に、そうした善の部分があったのか、それとも静子叔母の言うなりにコントロールされた抜け殻であったのか、記憶は戻らない。 「私は、静子さんが何をしようとしているか、わかりました。窓枠のない四階から突き落とし、事故死に見せかけようとしたのです。私はあなたをかばうように、ふたりの間に立ちはだかりました。が、静子さんのどこにそんな力があったのかと思うほどの強さで、私は弾き飛ばされました。そして、勢いでこんどはぼくの手があなたを突き飛ばし、ふたりはいっしょに四階から落ちていったのです。夜の雨に打たれながら、まっさかさまに」  USJの『ジュラシック・パーク・ザ・ライド』の最終場面が頭の中を走った。  なぜあのとき、史也の胸にとりすがってしばらく頭が上げられないほど恐ろしかったのかがわかった。 「静子さんは、ふたりとも始末したかったのかもしれません。でも、奇跡が起こったんです。ふたつの奇跡が」  森中公一はしゃべりながら、ベッドの端からゆっくりと立ち上がった。  そして、もう一方のベッドに腰掛けている真由子のほうへと近づいていった。 「奇跡のひとつは落下地点の真下に、建設工事に使う砂利が山のように積んであったことです。それがクッションとなり、その下の水たまりまでふたりで転げ落ちました。大きな水音を立てて……。私はまったくケガをせず、あなたも一時的な記憶喪失に陥っただけで、ほとんど外傷らしき外傷を負わなかったことです。そしてもうひとつの奇跡は、水たまりに倒れ込んだ真由子さんを背中から抱きかかえるようにしたとき、濡《ぬ》れた髪の匂《にお》いに恋を感じ、そして気を失っているあなたの美しい顔に、自然な恋心を抱いてしまったことなんです」  語りながら真由子のところへきた森中は、金縛り状態のまま動けずにいる彼女の顔を自分の胸のところへ引き寄せて抱きしめ、まだ完全に乾ききらない髪の毛に顔を埋《うず》めた。 「ああ……この匂いだ。真由子さんのこの濡れた髪の匂いに、私は恋をしてしまったんです。そして、ふたりともケガひとつせず生きているという予想外の展開に、あわてて下まで降りてきた静子さんに私は言いました。真由子さんは突き落とされる前の記憶を失っているようです。だから、取り引きをしましょう。私はあなたのやったことを口外しない。その代わり、あなたの可愛《かわい》い姪御さんとお見合いをさせてください。そして、絶対に私たちを結婚させてください、と」  身体は動かないが、口だけは動かせる真由子は、すべてが明らかになった衝撃に痙攣《けいれん》しながら、言葉だけでも反抗しようと思った。絶対にあなたと結婚なんかしないわ。あたしがいちばん愛しているのは新谷史也。あたしがウェディングドレスを着ることがあるとすれば、それは史也のためなのよ、と。  しかし、あまりにも強く森中の胸に顔を押しつけられているため、言葉が出なかった。それだけでなく、呼吸も困難になっていた。 「真由子さん、ほかの男との結婚はあきらめてください。新谷史也はあきらめてください。なぜならば、もしも私との結婚を拒絶すれば、私は静子さんが魔女であることを世間にばらさねばなりません。それが困る静子さんは、あなたを殺しにかかります。その前に、あなたの最愛の彼氏を殺しにかかります。それだけではない、大切なあなたのお父さんやお母さんを殺すことも厭《いと》わないでしょう。  わかりますね、真由子さん。物事を穏便にすませるには、あなたがぼくと結婚するしかないのです。先日のお見合いを成功させるしかないのです。さもなければ真由子さん、あなたをこのログハウスのバスルームにご案内するしかありません」  アームロックをかけた真由子の頭をぐいぐいぐいと自分の胸に押しつけながら、森中公一は憑《つ》かれたようにしゃべりつづけた。 「二年物ですよ、真由子さん。私との結婚を断れば、いますぐバスルームへお連れして、熟成された二年物の赤ワインを心ゆくまで飲ませてあげることになりますよ」  その言葉を聞いて、真由子は完全に切れた——  怒りが沸騰し、それが恐怖を押し切った。  洋服の上から、思いきり力を込めて森中の胸にかぶりついた。服の布地ごと、彼の皮膚を自分の歯の間に捉《とら》えた感覚をつかんだ。さらに力を込めて食いつき、頭を左右に振った。まるで獲物に食らいついたサメのように。  ぎゃっ、と短い悲鳴をあげて、森中は真由子を突き放した。そして、真由子に噛《か》みつかれた胸のあたりを両手で押さえ、苦痛に顔を歪《ゆが》めた。 「森中さん」  拘束から解き放たれた真由子は、髪の毛の乱れを直そうともせず、ベッドから急いで立ち上がり、そして寝室の戸口まで一気に下がってから森中を睨《にら》みつけた。 「あなた、わかっているの?」  自分でも驚くほどしっかりした声が出た。 「ねえ、わかってこういう行動をしているの」 「なにが……言いたい……のですか」  痛みをこらえながら、森中がきき返した。 「結婚って、場当たり的な遊びじゃないのよ。五年や十年で終わらせるものじゃないのよ。長い長い人生をいっしょに走るパートナーを選ぶことなのよ。それを本人どうしの気持ちじゃなくて、お見合いの仲人のメンツで無理やり決めるなんて、めちゃくちゃじゃない」 「そんな説教を真由子さんにされなくても、わかっておりますよ。ええ、じゅうぶんにわかっておりますとも」  森中の瞳《ひとみ》は憎悪でぎらぎら輝いていた。それでいて、言葉遣いのていねいさは変わらない。だから、かえって不気味だった。 「最初は、私もあなたと同じ考えでした。けれどもしだいに考えが変わってまいりました。静子さんの影響でね」  苦痛で唇を歪めたまま、森中は笑った。 「いまの時代だからこそ、仲人の推薦を素直に受けて、何も考えずにお見合い結婚に踏み切るほうが健全なのです」 「どうして」 「愚かな錯覚に惑わされなくてよいからですよ」 「錯覚?」 「では質問させていただきますが、真由子さんは、もしも新谷史也と結婚したら、死ぬまで変わらぬ愛を誓うつもりですか」 「あたりまえじゃない」 「なるほど。そのさいあなたは、彼につくすタイプの妻になるつもりですか、それとも自分の意見をどんどん主張して、彼のほうを従わせようとするタイプですか」 「つくすほうよ」 「ほう……」  森中は、あざけるように唇を丸めた。 「つくす女ねえ。いいですねえ。なんといじらしい。抱きしめて頭を撫《な》でてあげたくなります」 「なによ、その言い方。バカにしているのね」 「ええ、バカにしていますとも」  肩をすくめて、森中はうなずいた。 「真由子さんはまだお若いのに、非常に古典的な考えにとらわれているから、おかしくてならないのです」 「愛情に古典的も現代的もないわ」  戸口の敷居を乗り越え、部屋を出て少しずつ階段のほうへ後じさりしながら、真由子は言った。 「大好きな人と死ぬまでいっしょにいたいと思うのは当然じゃない」 「好きな人のためにつくしながら、ですか」 「そうよ」 「そういう考え方がそもそも古すぎるのです」 「なぜ」  問い返しながら、さらに真由子は後じさる。逃げることを考えていた。何が何でもこの悪魔の館から逃げ出すことを考えていた。 「人間というのはね、真由子さん」  森中のほうは逆に、じわりと前に進みながら言った。 「絶対的な主従関係を継続できるのは、どんなに長くても十年ですよ。いや、もっと短いかな。五年と考えたほうがいいかもしれない。たとえば、親と子の関係を考えてごらんなさい。四、五歳までは計算に入れないとして、物心ついた小学校一年ぐらいから先、いったいいつまで子供は親の従属物でいますか。せいぜい小学校の六年生までですよ。中学に入ったら、自己主張のかたまりとなって、親の支配を必死に逃れようとする。それを教育者たちは『反抗期』というけれど、そうじゃない。反抗ではなく、ごくあたりまえの感情なのです。親の支配下で絶対服従を強いられる暮らしへの精神的耐用期間が切れただけの話なんですよ。それを、さらに無理に引き戻そうとするから親子のトラブルが起きる。結婚もそれと同じでね。自分はつくす女と思っている人ほど、服従生活への耐用年数がすぐに尽きてしまう。そして、破綻《はたん》が早くくる」 「こないわ」 「きますよ」  すかさず言い返して、森中はまた一歩前に出た。  それに合わせて、真由子は一歩後ろにさがる。階段まであと少し。 「私は予言してもよい。もしも新谷史也と結婚したら、あなたはつくす女でいることに五年か六年で飽きる羽目になるでしょう。いや、飽きるのではないですね。彼という人間にひどく幻滅して、つくすことが馬鹿馬鹿しくなるんです」 「ならないわよ」 「なりますよ」  また短い言い合いが繰り返された。 「史也でそうなるんだったら、あなたといっしょになったら、もっと早く限界がくるわ。そうね、一カ月も保《も》てばいいかもしれない」 「ちがいますね」  森中公一は右手の人差指を立て、スローテンポにセットしたメトロノームのように、それをゆっくり左右に動かした。 「恋愛というのはね、芝居ですよ、真由子さん。おたがいに最高の男、最高の女を演じて、その演技のピークでプロポーズをする。だから、恋人時代の愛情が濃ければ濃いほど、その虚構の頂は高くなる。エベレストのようにね。その代わり、そこから滑落するときには、ひどい目に遭う。そこへいくとお見合いは、演技を重ねるヒマがなく結論を出す。だからよいのです」 「それは逆よ」  新谷史也を裏切ったことへの償いと、そしていまでも彼を心から愛していることを自分に絶対信じ込ませたくて、恋愛のすばらしさをムキになって強調した。 「愛のない結婚なんて、したって意味がないじゃない」 「それはそうです」 「だったら、あなたとの結婚なんて、する意味がないということよ」 「そこが間違っているんだ」 「どうして」 「真由子さん、なぜあなたは何でもかんでも自分を中心に考えようとするんですか。つくす女を自称するなら、もう少し人の心をおもんぱかる習慣を持ったらどうですか」  片手はまだ噛みつかれた胸に当てたまま、もう一方の手で、森中は真由子を鋭く指さした。 「あなたは私を愛していなくても、私はあなたを愛している。それでいいんだ。それでじゅうぶんなんです」  森中の声が高くなった。 「そのほうが、結婚したあとのあなたの楽しみが増えてくる」 「どういう楽しみよ」 「徐々に私を愛していく楽しみです」 「バッカじゃない」  真由子は笑った。  ときとして笑いは、怒りの表現手段になることがある。いまの真由子の表情に浮かんだ笑いがそれだった。 「誰があなたみたいな変態を、人殺しを、悪魔を愛せるのよ」 「愛せるようになります。私の愛が強ければ、必ずあなたの愛も強くなる」  森中の目は飛んでいた。 「相思相愛の恋愛は、結婚した時点で、もうやることがなくなってしまっている。文字どおりのゴールインで、ゴールしたあとはなにも残っていない。愛が燃え尽きた白い灰しか残っていない。だけど、お見合い結婚は違う。これから愛をはぐくむ喜びがある。ウェディングベルはフィニッシュの鐘ではなく、愛の旅立ちの調べになる。  馬鹿ですねえ、真由子さん。お見合い結婚の価値を知らず、おたがい愛情を出し尽くしたあとの出涸《でが》らしみたいな状態で結婚するのを最高の幸せと錯覚しているなんて、馬鹿ですねえ。それよりも、白紙の状態からこの私を愛する感動を味わってみたらいかがです」  そう言って、森中はぐいと大きな一歩を踏み出した。 「ねえ、真由子さん。お見合いのすばらしさを勉強なさいよ」  その瞬間、性格はともかく見た目だけは最高だと思っていた森中公一の顔が、鼻のあたりから急に膨らみ、髪の毛が一気に後方に後退し、目が左右に吊《つ》り上がりながら引っぱられ、唇もキュッと笑いの形に歪んで、あの「ゆでたまご男」になった。  コンピューター・グラフィクス処理の過程が、現実の人間の顔で起こったのだ。それも、目の前で。  幻覚だ、と真由子は自分に言い聞かせようとした。自分は幻を見ているのだと。  だが—— 「無理なのよ、マユちゃん」 「………」  濡《ぬ》れて重くなっていたはずの自分の髪の毛が一気に逆立つのを真由子は感じた。  森中の顔は、ゆでたまご男に変身した。しかし顔だけでなく、声も変わっていた。中年女の声に。静子叔母の声に—— 「マユちゃん」  ゆでたまご男が、静子の声で言った。 「あなたはね、逆らえないのよ。私の決めたことに逆らえないのよ」 「うそ……」  真由子は目を大きく見開いた。  こんどは、ゆでたまご男が目の吊り上がったところだけ残して、静子叔母に変身した。CG処理でいうところの3Dモーフィングが、生身の人間の身体で起きたのだ。森中公一からゆでたまご男へ、そしてゆでたまご男から静子叔母へ。 「マユちゃん。私の言うことをお聞き」  手が伸びて、真由子の髪の毛をつかんだ。 「あんたはもう逃げられないのよ」 「いやあ!」  叫ぶのと同時に、真由子は自分の髪をつかんでいた叔母の手をたぐり寄せ、階段の手すり越しに、その身体を思いきり放り投げた。  ドスン、というひどい音がした。  恐る恐る下を覗《のぞ》くと、板張りのリビングに大の字になって動かぬ森中公一の姿があった。静子叔母でもなければ、ゆでたまご男でもない。整った顔立ちの森中公一が、鼻と耳から真っ赤な血を流して動かなくなっている姿が——   (どうしよう)  ビルの四階から墜落したときに傷《いた》めた脳神経の回路が、恐怖のショックでまた異常をきたした。その結果招いた現実の光景に真由子は混乱した。 (あたし、森中さんを殺しちゃった。おばさんじゃなくて、森中さんを……。やっぱりあたし、頭がおかしくなっていたんだ……。ああ、どうしよう。人殺しになったら、史也と結婚なんかできなくなる)  パニックに陥る真由子の耳に、ログハウスの壁を通して聞こえてくる、猛烈な土砂降りの音が急に耳につくようになった。  と、そのときだった。 (いいのよ)  どこからともなく、声が響いてきた。  また静子叔母の声だった。雨音に溶け込むような形で、叔母の声が真由子の鼓膜を振動させた。正常に戻りかけた神経回路がまた切れた。 (心配しなくてもいいの。恋愛結婚はね、いちど失敗したら立ち直るのが大変だけど、お見合いはその点安心よ。間をおかずに、すぐ次の段取りが組めますからね) (だけどあたし、森中さん、ころし……ちゃった) (いいじゃないの、ひとり死のうが、ふたり死のうが)  雨音の中で、叔母の声がケラケラと笑った。 (男の代わりなんていくらでもいますよ。また叔母さんが探してあげるから。森中さんも顔はよかったんだけどねえ、性格がちょっとおかしかったかもしれないわねえ。マユちゃんが背丈のことをうるさく言わなけりゃ、百七十センチちょっと超えた程度のストックに、気だてのいい候補者がいっぱいいるんだけどねえ) 「叔母さん」  いつしか真由子は、口に出してつぶやいていた。 「でも、あそこに死んでる森中さんをどうすればいいの」 (かんたんなことよ。まず、階段を降りなさい) 「はい」  素直に返事をするのと同時に、真由子の足が勝手に動き出した。 (板張りの床にはワックスがきれいに掛けられているから、よく滑るわ。そのまま足をつかんで引きずっておいき) 「どこへ?」  と、たずねているときには、もう真由子は階下に降りて、森中公一の両足首をつかんでいた。 「どこへ引きずっていけばいいの」 (バスルームよ) 「バスルームって、どこ」 (耳を澄ませてごらんなさいな)  叔母の声が言った。 (何かが聞こえるでしょう。そっちよ)  真由子は、持っていた森中の足首をいったん放した。  ゴン、という音を立てて、彼のかかとがフローリングの床を打った。だが、死者はビクともしない。  死体の脇《わき》に立ったまま、真由子は耳を澄ませた。  夜空からなだれ落ちてくる豪雨のカーテン。断続的に鳴り響く遠雷と落雷。箱根の森を揺るがすそのざわめきの中で、異質な音がたしかに聞こえてきた。  ブーンともワーンとも聞こえる羽音だ。 「なんなの、あの音」  真由子はきいた。  しかし、叔母の返事はもうない。  好奇心があったわけでもないのに、羽音の答えを知りたくて、真由子はその音が大きくなっていくほうへと歩いていった。リビングを抜け、玄関を横切り、そして洗面所へ向かうにつれて、羽音はどんどん大きくなってゆく。  そして洗面所の奥の脱衣場に入り、曇りガラスを嵌《は》めたバスルームの扉の前に立ったとき、その羽音は耳を聾《ろう》するまでになった。もはやそれは、外の雨音や近くに落ちる雷の音すらかき消すほどの音量になっていた。 (電気をつけてごらん)  黙っていた叔母の声が、こんどは羽音に混じって聞こえてきた。  迷う間もなく、勝手に真由子の手が壁のスイッチに伸びた。そして、スイッチを押し上げた。  曇りガラスの向こうの浴室が明るくなった。それに合わせて、いちだんと羽音が高くなった。だが、曇りガラスがすべてを遮って、何も見えない。 (マユちゃん、その曇りガラスをね、軽くコンと叩《たた》いてごらんなさい)  叔母の命令と同時に、また右手が勝手に動いて、曇りガラスを軽くノックした。  とたんに、ウワーンと猛然たる羽音が響くと、曇りガラスめがけて黒いかたまりが飛んできて、向こう側から一面にへばりついた。  直接見えなくても、真由子にはその正体がわかった。  無数の蝿《はえ》だった。  ノックの音に反応して、何千匹という単位の蝿が曇りガラスめがけて襲いかかってきたのだ。そして浴室の明かりを完全に覆ってしまうほどの高密度でガラスを覆い尽くした。 (わかるわね、マユちゃん)  叔母が語りかけた。 (そのドアの向こうに、何があるかわかるわね) 「二年物……」  勝手に真由子の口が動いて、答えを言った。 「二年物の赤ワインが、湯船にいっぱい」 (そうよ。よくわかったわね。それじゃ、真由子ちゃんも、そこにいっしょに浸《つ》かりましょうね) 「え?」  真由子は戸惑った。 「森中さんを入れるんじゃないの」 (あんただよ)  突然、叔母の声が低くなった。 (さっき私を殺そうとしたのは誰だい) 「違うわ、おばさん」  真由子はあわてて首を振った。 「あれは、ゆでたまごみたいな変な男だと思ったから」 (ウソをおつき、私を殺そうとしたんじゃないか。可愛《かわい》くない子だね) 「ちがうの、ちがうの、おばさん」 (違わないよ) 「おねがい。静子おばさん、聞いて」 (言い訳無用)  ピシャリと叔母の声が言った。 (あんたみたいな子はね、殺してやるよりも生き地獄を見せてやったほうがいいのさ。さあ、お開け)  叔母の声が命令した。 (早く風呂場《ふろば》のドアをお開け)  勝手に右手がドアノブへ伸びた。 「いや、いや!」  叫んで必死に抵抗するが、自分の手なのに言うことを聞いてくれなかった。 (ほーら、おいで。これを見てごらん)  その言葉に導かれて、ドアノブに注いでいた視線が、また曇りガラスに向けられた。  真っ黒なかたまりとなってへばりついていた蝿が、いつのまにか唇の形になっていた。そして、蝿の大群が作る唇が、静子の声に合わせて動いた。 (おいで、マユちゃん。さあ、おいで)  ドアノブをつかんだ自分の手が、それをゆっくり回しはじめていた。 「やだ、やだ、やだ」  真由子はまた泣き出していた。 「おねがい、おばさん、許して」 (ゆるさない)  蝿でできた唇が、うるさい羽音を響かせながら答えた。 (恋愛という妄想ゲームにうつつを抜かし、お見合いを見下す人間は許さない。悪霊に形を変えてでも懲《こら》しめてやる) 「史也ああ!」  真由子は恋人の名を呼んだ。 「ふみやあああ。たすけてえええ」  しかし、真由子の右手はドアノブを完全に右に回しきっていた。  そして、それを押し開けた。 [#改ページ]    十五 エピローグ 「史也さん、どうぞお力落としにならないでね」  病院の出口まで新谷洋次郎と史也の親子を見送りに出た滝静子は、真夏のぎらつく太陽に目を細めながら言った。 「真由子さんのあんな姿を見て、どれほどショックをお受けになったか、あたくし、親戚《しんせき》のひとりとして痛いほどわかりますの。それから……」  史也から洋次郎へと視線を移して、さらに静子はつづけた。 「お父さまのお気持ちもお察しいたしますわ。本来なら、可愛い可愛い真由子さんを、実の娘のように愛されるお立場でいらしたのに」 「ああ、いや」  と、短く応じたまま、洋次郎は言葉がつづかなかった。自分自身のショックよりも、息子の気持ちをおもんぱかってのことだった。 「あたくしも、お見合いの仲立ちをした人間として、ほんとうに責任を感じておりますわ。でもね、不幸中の幸いと申しましょうか、森中公一という異常殺人鬼の毒牙《どくが》に真由子さんがかからなかったことが、せめてもの救いじゃありませんの。そして、二階の階段から下のリビングに転落した森中の死が、逃げる真由子さんを追いかけるときのはずみだったと警察がみなしてくれてほんとうによかったじゃありませんの。ええ、あんな男、仮に真由子さんが直接突き落として殺していたって、誰ひとり咎《とが》める者なんぞ、いやしません。ほんとうに、一度や二度突き落としても死にそうにない悪魔なんですから」  静子は、一方的に自分ばかりしゃべっていることに気がつき、ちょっと言葉を区切ったが、すぐにまた史也のほうに向かって言った。 「あのね、史也さん。真由子さんは、いま自分が誰であるのかもわからない状況だけれど、でも、あなたへの愛は永遠だと思うわ。そして、あなたが新しい幸せをつかむことを、きっと望んでいると思うのよ。あの……こんな話をいまするのも早すぎるかもしれませんけれど、お父さま」  また洋次郎のほうに向いて、滝静子は言った。 「史也さんのお嫁さんのことで、あたくしにお役に立てることがございましたら、どうぞ遠慮なくお申し付けくださいませね。あたくしみたいなおばさんは、若い人の幸せだけが生きがいのようなところがございますから」 「いや」  はっきりとした侮蔑《ぶべつ》の苦笑を放って、新谷洋次郎は言った。 「息子はそういう話は望みもせんでしょうし、真由子さんも同じでしょう。私は、真由子さんの心が治るのをいつまでも待ちつづけるという史也を誇りに思っています。たとえ治らなくても、私は真由子さんを私の娘とすることに、ひとつも迷いはありません」  そして洋次郎は、くるりと背を向け、息子を促した。 「行こう、史也」 「うん」  史也も短く答えた。  ふたりは病院を背にして歩き出し、真っ白な照り返しを受けて立ちつくす滝静子の姿だけが、あとに残された。   「ふん」  静子は額いっぱいの汗を浮かべ、憎々しげに新谷親子の後ろ姿を見てつぶやいた。 「いいわよ、また新しいおもちゃを見つけてやるから」 角川ホラー文庫『お見合い』平成13年6月15日初版発行