吉村 昭 羆 目 次  羆《ひぐま》  蘭《らん》 鋳《ちゆう》  軍《しや》 鶏《も》  鳩  ハタハタ [#改ページ]   羆《ひぐま》     一  柩《ひつぎ》は、男たちの手で村落のはずれにある谷の奥にはこばれた。すでにせまい河原には山から伐《き》り出された松材が、井げたに積み上げられ、柩はその中央にさしこまれた。  小枝に火が点じられると、松材がはじけるような音を立てて燃えはじめた。柩はたちまち炎につつまれ、火の粉がさかんに夕空に立ちのぼった。  谷には、夜守の役を割当てられた三名の男が残ることになった。かれらは、夜を徹して火を絶やさぬように松材をくわえ、夜明けまでに焼骨を終えねばならなかった。  焼骨場まで葬列を組んできた者たちは、柩に火が入るのを見とどけると、思い思いに合掌して炎の傍からはなれ、渓流沿いの路《みち》を下りはじめた。  夕闇が、急速に落ちてきた。渓流の岩にあたる飛沫《ひまつ》がほの白くみえるだけで、両側の樹林には濃い闇がひろがっている。  村落の者たちは、足をはやめた。  やがて、路上は闇につつまれ、人の列の所々に懐中電燈の灯が湧《わ》いた。光は、ゆれながら路上を照らし、人々は、自然とその光を中心にいくつかの群れにわかれた。  かれらは、時折最後尾について歩く大柄な人影をふり返った。その影は、闇を一身に背負うようにゆったりとした足取りでくだってくる。  村落の者たちは、銀九郎が二日前から一言も言葉を発しないことを知っていた。銀九郎は、平生から無口な男だった。それでも言葉をかければ、素気ない口調ではあるが短い受けこたえはする。殊に三年前の晩春に光子を妻に迎え入れてから、口数も幾分多くなって、微《かす》かな笑みをうかべるようにもなった。  その銀九郎が、光子の死とともにかたくなに口をつぐむようになった。悔みを述べても、うつろな表情で挨拶も返さない。通夜、葬儀とつづく死にともなう行事の間も、かれの口は閉ざされたままだった。  村落の者たちは、その日葬列が村道を進みはじめた時、銀九郎の顔に目立った変化がおこっていることに気づいた。放心したような表情はあとかたもなく消え、顔には憤りにみちた色がふき出ている。そして、棺に火が入ったとき銀九郎の表情はさらに険しさを増した。身じろぎもせず炎を見つめているかれの眼の中には小さな炎が凝縮し、村落の者たちは、その眼の光に無気味なものを感じとった。  かれらは、銀九郎の胸にきざしている感情がどのようなものであるかを察していた。銀九郎の光子の死に対する悲しみは激しい怒りとなって、光子を死に追いやったものを斃《たお》すために、山に入る決意をかためているのだろうと思った。  銀九郎は、無言で渓流沿いの路を下りてくる。  村落の者たちは、かれの姿に畏怖《いふ》を感じながら、ようやく樹幹の間にちらつきはじめた人家の灯にむかって足を早めた。  ……翌朝、谷で骨拾いがおこなわれた。  村落の者たちは、銀九郎の眼に前日よりもさらに険しい光がはりつめているのをみた。顔に血の色はなく、頬には時折|痙攣《けいれん》が走っている。  焼けた材の中から長い箸《はし》で骨を拾う時、かれの眼には悲しげなうるみが湧いたがそれは一瞬のことで、骨のつめこまれた壺を手にしたかれの眼はすでに冷たく乾いていた。  かれは、骨壺を手に歩き出し、人々はその後にしたがった。銀九郎の足は早く、たちまち距離がひらいた。  人々は、銀九郎がその日のうちにも山へ入るため急いでいるのだろうと、路を下ってゆく銀九郎の姿を見送った。  銀九郎が山へ入るらしいという話は、またたく間に村落内にひろがった。人々は、興奮した表情で銀九郎の家の近くに寄り集まってきた。  銀九郎は、名の知られた熊撃ちの猟師だった。そして、その技倆《ぎりよう》は、女の熊撃ちとして知られていた母の八重からひきついだものであった。  八重は、大柄な体をした女であったが、それがわざわいしたのか長い間結婚相手に恵まれなかった。が、三十二歳になった年の秋、八重はみごもった。近親者や村落の者たちが、だれの子を宿したのかと執拗《しつよう》にたずねたが、八重は相手の男の名を明かそうとはしなかった。  八重は、早春になると山に入って熊を追う。気丈な女だが、山中で出会った猟師と夜をともにして子をはらんだのではないかと推測された。  やがて八重は、男の子を生んだ。その男児は母親に似て骨格が太く背丈も高かったが、成長するにつれて多毛の質であることが顕著になった。眉毛も髪も常人より濃く、十代の半ばに達すると剛《こわ》い髭《ひげ》が顔をおおい、胸にも背中にも黒々とした毛が皮膚をおおった。おそらく銀九郎の父は、熊を追うアイヌの猟師にちがいないと噂《うわさ》された。  銀九郎は、十五歳に達すると八重に連れられて山中に入った。日中戦争がはじまった頃で徴兵検査以前に猟銃を手にすることは禁じられていたが、八重は銀九郎に熊撃ちの勘をきびしく伝授したらしい。  その後、銀九郎は徴兵されて千島方面の警備隊に配属されたが、終戦後村落にもどると再び山に入った。すでに母は病歿《びようぼつ》し、かれは一人で猟師生活を送った。  それから二十二年間、かれは毎年熊を仕留めた。百貫を越える巨大な雄熊をとって、近隣の話題になったこともある。  かれは、人付き合いの少ない偏狭な猟師だった。ハンターや大半の猟師がライフル銃を携行するようになっても、かれは昔通りの村田銃しか使わなかった。ライフルは高価でしかも重いというのが表面的な理由であったが、機械的に連射できるライフルよりも、単発銃の村田銃を使ってただ一発の弾丸で熊をしとめるのが熊撃ちの矜持《きようじ》だと思いこんでいたのだ。  かれの仕留める熊の頭数が増すにつれて、その存在は猟関係者の注目を浴び、百頭の熊を撃った男として道内紙の記者の訪問を受けたこともある。  しかし、かれは、巧妙な記者の質問にもかたくなに口をつぐんでいた。そして、なおも質問をつづける記者に、 「百頭はとらないよ」  と、うるさそうに答えた。  手がけた頭数はたしかに百頭は越えているが、三人で行って仕留めた熊は、一頭と数えるべきではなく三分の一頭とするのが当然である。一人でとった熊の頭数の方が多いが、それらは七十頭程度だと、かれは重い口調で説明した。  その談話が記事になって道内紙にのると、銀九郎の声価はさらにたかまった。熊撃ちの話には、誇張がすこぶる多い。頭数も水増しして自慢する風潮の濃い世界の中で、銀九郎の態度は貴重なものとして受け入れられたのだ。  しかし、三年前に光子を妻として迎え入れた時から、かれは山へ入ることをやめてしまった。その理由をかれは口にしなかったが、村落の者たちは、結婚後はじめた小さな土産物店が忙しくなったためだろうと解釈した。  店はバス道路に面していて、夏季を中心にした観光シーズンには観光客でにぎわう。銀九郎は、妻とともに熊をはじめとした木彫り細工を店にならべて生活を送っていた。  店の前には、一頭の熊が檻《おり》の中で飼われていた。ほとんどの売店で飼われている本州産の黒い毛におおわれたものとは異って、銀九郎の飼っていた熊は、体も逞《たくま》しく茶褐色をおびた雄のヒグマだった。そして、それが店の客寄せに使われていたのだが、権作《ごんさく》とよばれていたその熊が、光子の華奢《きやしや》な首をへし折ってしまったのだ。  村落では、警察の依頼によって、三名の猟師が山にのがれた権作を射殺するため山中に分け入ることになっていた。警察では、他の地区からの猟師やハンターも動員する意向であったが、村落としては、地元の猟師の手でしとめたかったのだ。  しかし、銀九郎が山に入るらしいことを耳にした村の猟師たちは、申合せたように出発をとりやめた。銀九郎は、熊撃ちとして天性のすぐれた勘をもっている。三年前まで猟師たちは、銀九郎が山に入ったことを知ると、その方面での熊撃ちをあきらめて別方向の山に足を向ける。銀九郎と争うことは、徒労に終るということを充分にさとっていた。  それに、かれらは、銀九郎が常にない決意をいだいていることに一層ためらいを感じていた。妻を殺した権作に対する銀九郎の憎しみははげしく、必死になって権作を追うだろう。そして、かれは、自分の持つすべての勘と技倆をかたむけて権作を撃ち斃すにちがいなかった。 「銀九郎が山に入るのなら、おれたちが入っても仕方があるめえ」  猟師たちは、薄笑いしながら銃を再び家の奥深くにしまいこんだ。  しかし、その日、村落の者たちは未知の男たちが村に入ってきたことを知って顔をしかめた。正午を少し過ぎた頃、一台のライトバンが土埃《つちぼこり》をあげて林道を走ってくると、その中から四名の男が降り立った。かれらは、一人残らずライフル銃を肩にかけ、服装も充分な身ごしらえをし、敏捷《びんしよう》そうな犬も連れていた。それは、十キロほどへだたった町に住むハンターたちで、警察の許可を得て光子を斃した熊の射殺にやってきたのだ。  かれらは、村落の者から銀九郎が山に入ることを知らされ、そのために村落の猟師三名が入山を中止したことも教えられた。  しかし、ハンターたちは、なんの反応もしめさなかった。銀九郎の名はかれらも知っていたが、銀九郎一人で追うよりも重装備をほどこした自分たちが参加した方が、熊を仕とめる可能性は高いはずだと判断したようだった。むろんかれらには、人を死に追いやった熊を射殺したいという功名心がひそんでいた。  かれらは、村落の者たちの視線につつまれながら、銀九郎の家の前までゆくと破られた檻を点検し、犬に嗅《か》ぎまわらせた。  三頭の犬が、一定方向に歩き出した。ハンターたちは、犬に誘導されて銀九郎の家の背後にある傾斜にむかい、やがて深い樹林の中にその姿を没した。  村落の者たちは、苛立《いらだ》った眼を交わし合った。  新式銃をもち犬を連れたハンターたちの姿は、自信にあふれたものにみえた。もしもかれらが権作を射殺すれば、地元の村落の立場は失われ、妻を殺された銀九郎の怒りはいやされぬだろう。  かれらは、銀九郎の家を見つめた。戸はかたく閉ざされ、人のいる気配もない。が、家の軒から突き出た煙突からは、淡い煙が冷えびえとした秋の空気の中に流れ出ている。それは、銀九郎が山に入る準備をひそかにすすめていることをしめすように思えた。     二  銀九郎は、家の外で犬の声をきいた。人の歩きまわる足音も耳にした。  かれの髭におおわれた顔には、不快そうな表情がうかんだ。  かれは、犬がきらいだった。犬は、たしかに熊の匂いをかぎつけて人を誘導はするが、余程すぐれた犬でないかぎり逆にその存在を熊に気づかれて逃げるきっかけをあたえてしまう。もしも熊が追われていることを知れば、必要以上に警戒心も増してその行動も慎重なものとなる。  銀九郎は、犬を連れたハンターが裏山にむかう気配を耳にして顔をしかめた。かれらの入山によって山の静謐《せいひつ》はやぶれ、権作をさらに山の奥深く追いやる結果となるだろう。  かれは、火にかけられた鉄鍋《かななべ》の上の鉛を見つめた。鉛は、鈍いかがやきをみせて溶けはじめている。弾丸は買いもとめた雷管と火薬を使い、鉛をとかして自分の手で作る。二十発もあれば充分だった。  頃合いをみて溶けた鉛を火からおろし弾丸作りをはじめながら、かれは、権作のことを思った。  権作を捕えたのは、三年前の春だった。  その年は雪どけがおそく、四月中旬に山に入った。そして、二日目に仔熊《こぐま》をつれた母熊と出会ったのだ。  銀九郎は、雪の中に熊の足跡を見出した。それは、四十貫程度の熊らしく、傍に小さな足跡がつづいていた。雪解け期の足跡は一時間もたつと消えるが、その足跡は鮮明で十分間ぐらい前に印されたものであることは疑う余地がなかった。  かれは慎重に足跡を追ったが、或る個所までくると足をとめ、あたりの地形をうかがった。足跡を追う時、かれは、浅黒い母の八重のことを思い出すのが常だった。八重は、熊をとらえるのに最も重要なのは地形をみる眼を養うことだと言った。熊がどの方向に進むかを推察すべきだというのだ。  八重は地形をうかがってから、節くれだった指で或る方向をさして歩き出すと、熊は必ずといっていいほどその方向に姿をあらわした。すでに通りすぎた後であることもあったが、熊は八重の指摘した通りのコースをたどっていた。  銀九郎の眼に、なだらかな高みが映った。その南斜面は陽光にかがやき、雪中からフキノトウなどが萌《も》え出ているはずだった。仔を連れた母熊は、それらの芽をつまみながら南斜面をたどって進むにちがいないと判断した。  銀九郎は、足を早めて沢づたいに急ぎ山の根にたどりつくと、斜面に双眼鏡をあげた。予感は適中した。陽光にかがやく雪の頂《いただき》から斜面を、熊の足跡が点々とつづいている。しかも、それは斜面を一直線にくだっている足跡だった。  銀九郎は、樹幹のかげに身をひそめて前方をうかがった。かれは、待った。熊の嗅覚《きゆうかく》をおそれたが、風は三方が山にかこまれているので、ゆっくりと渦をまくように流れている。嗅覚を乱すのには、絶好の地形だった。  ふとかれの眼に、笹やぶから黒いものがのぞくのがとらえられた。来た、とかれは思った。黒いものは、母熊の頭部だった。  しかし、黒いものはそのまま動かなくなった。敏感に人の匂いをかぎつけたらしく、しきりにあたりをうかがっている。距離は、百メートル以上はあって射程外にあった。  逃げてしまうかも知れぬと思った時、突然母熊は全身をあらわすと仔熊とともに銀九郎のひそむ方向に勢いよく走り下ってきた。風がまわっているので、熊は、斜面の上方から人の匂いが流れていると錯覚したようだった。  銀九郎は、銃をかまえて母熊の近づくのを待った。かれの左手の指のつけ根には、弾丸が四発はさみつけられている。一発目が仕損じたとしても左手の指の弾丸を素早く装填《そうてん》して連射はできるが、毛皮を傷つけては価値も低下するので初発で撃ち斃したかった。そのためには、四十メートル以内で撃つのが効果的だった。  熊は、仔熊とともに駆け下ってくる。雪を蹴《け》ちらして走ってくる足音が、地響きのように銀九郎の体に伝わってきた。  と、熊は、三十メートルほど近づいた時、ぎくりとしたように足をとめた。その姿には、不審そうな気配がにじみ出ていた。人の体臭を間近にかぎとったためにちがいなかった。  今だ、と銀九郎は思った。そして、熊の左胸部に照準を定めると引金をひいた。轟音《ごうおん》が、雪山に木魂《こだま》した。熊は、斜面を横に走ったが、動きをゆるめると雪の上に崩折れた。  銀九郎は、銃をかまえながら雪の斜面をのぼった。熊の毛は、萎《な》えていた。それは、熊の生命がすでに失われている証拠であった。  熊の鼻孔から流れ出た血が、雪に浸《し》みはじめていた。弾丸が肺臓を射ぬいたことを、かれは知った。  かれは、仔熊をとらえると首に縄をまきつけて近くの木の幹にしばりつけ、母熊の処理にとりかかった。  かれの手にしたマキリは、素早くしかも慎重に毛皮をはいでいった。毛並みのひどく美しい熊で、顔にも体にも傷らしいものはなかった。  かれは、満足だった。母熊の毛皮は十五万円ぐらいで売れるだろうし、仔熊は観光地の業者が十万円程度で引きとってくれるだろう。  かれは、毛皮をはぎ終ると雪を掘り、穴の中に肉と内臓を埋め、その上から松葉をかぶせた。重い熊の体は一人で運び下ろすことはできず、人手をたのんでおろさねばならないのだ。  仔熊は暴れ、激しく鳴いていた。  銀九郎は、リュックサックをあけるとその中に仔熊を入れ山を下った。  光子との縁談があったのは、その数日後だった。  光子は、隣村の貧しい農家の娘だった。耕地も少ないため、彼女は、道路建設の日雇いなどに出たりして家計を助けていた。  光子は、二十八歳まで独身だった。肌は白く目鼻立ちは整っていたが、首筋から胸もとまで朱を流したような大きな痣《あざ》のひろがっていることが、結婚相手に恵まれぬ原因だった。  生れた頃痣は紫色だったが、思春期を迎える頃から朱色に変って、年を追うごとに鮮やかさを増した。村の者たちはその異様な痣を、光子の母が懐妊中に或る夜起った村内の火事を眼にしたため、炎の色が胎児に残ったのだと噂し合った。  四十二歳まで一人暮しをしてきた銀九郎は、縁談には気持が進まなかった。かれは、山中でも一人歩きを好むように孤独な生活の気安さになじんでいたのだ。  しかし、母方の伯父の強いすすめにさからうことができず、かれは隣村の光子の家に行った。かれは、部屋に通され光子と向い合うと、下を向いたまま口をつぐみつづけた。そして、腰にさげた手拭でしきりに額や首筋を拭っていた。  その夜おそく銀九郎は、伯父の家を訪れると、 「もらいてえよ」  と、ひとこと言って足早に夜道を去った。  祝言《しゆうげん》は、十日後におこなわれた。かれの家に人が集まり、酒宴がひらかれた。光子の華奢な体と対照的に大柄な銀九郎は、酒を飲みながらも顔の汗を手拭でぬぐいつづけた。  その夜、銀九郎は、光子の裸身をみた。痣は首筋から左肩にひろがり、形の良い乳房の隆起に滝のように流れ落ちていた。白い肌にしみついた朱の色は、かれの眼に痛々しいものに映じた。深山の山肌を彩る紅葉のように、それは燃えるような鮮やかな色だった。  光子は、朱の痣を恥じるように掌で乳房をおおい、顔をそむけて眼を閉じていた。  銀九郎の胸に、欲情がふき上げた。かれは、口中の激しい乾きを意識しながら光子の乳房をつかんだ。  その日からかれは、日に何度も光子の体を抱きしめた。 「こんな体で悪い」  と、光子は涙ぐみながら言った。  銀九郎は、その度に頭をはげしくふる。かれには、朱色の痣がむしろ好ましく感じられるのだが、それを言葉にあらわして説明することはできなかった。  かれには、猟の仕事が控えていた。熊や鹿を仕留めなければ生活の糧を得ることはできない。が、山に入れば、少なくとも一週間は家を留守にしなければならなかった。  結婚後十日ほどして、かれは朝早く銃を手に家を出たが、山道の中途から引き返してきてしまった。かれには、たとえ一日でも光子と別れてすごすことが出来ないことをはっきりと知ったのだ。  数日後かれは、伯父をたずねると小さな土産物店をひらきたいと言った。僅かながらも貯えはあったし、それを資本に店をひらくことは可能だった。  伯父は、その案に賛成した。観光客は年ごとに増し、村落にも食堂や土産物店が出来て乏しいながらも利益をあげている。光子が体を遊ばせているよりも、店番をさせて生活の安定をはかるべきだと思ったのだ。  銀九郎が光子にその計画を打ち明けると、光子は、店を経営することに異常なほどの関心をしめした。貧しい農家に生れ育った彼女は、人の出入りする土産物店をひどく派手なものに思うらしく、幼い頃からの夢だったと眼を輝かせた。  幸い伯父がアイヌの男を知っていて、その男の指示で家を土産物店風に改装し、木彫りをはじめとした陳列品もまわしてもらい、ともかく小さな店らしいものができた。  丁度観光シーズンのはじまった時期であったので、店をのぞく客も多く、夏季にはかなりの収入を得ることができた。  客の応接には無口な銀九郎は不得手で、専ら光子がそれに当ったが、彼女はそれが天性のものであるかのように客あしらいが巧みだった。  銀九郎は、奥の部屋からそんな光子をながめて暮していた。  その頃、アイヌの村の者が家の裏手で飼っていた仔熊を店の前に出すようにすすめてくれた。母熊の毛皮は期待通りの価格で売れ仔熊も買手がついたが、かれは、その仔熊を手放すことをためらっていた。  母熊を射殺してから山をくだる時、仔熊はリュックサックの中で絶えずもがいた。熊の仔づれは大半が二頭だが、同じ腹から生れた他の仔は死んだのか、その仔熊が天涯孤独の身となったことに銀九郎は感傷的になっていた。父も知らぬ私生児として生れ、母も失ったかれは、その仔熊に幼い頃の自分の姿をみたのかも知れなかった。  仔熊を鎖につないで店頭に出すと、アイヌの男の予言どおり道を通る観光客は足をとめ、その何割かは店の中に入ってくるようになった。自然と売上げは増して、商売に熱心な光子は自分でペンキの刷毛《はけ》をにぎり、ヒグマのいる店と書いた板を柱に打ちつけたりした。  銀九郎は、仔熊を可愛がり権作と名づけた。山羊《やぎ》の乳をあたえたり、山中でユリの根、野苺《のいちご》をはじめフキノトウやミズバショウをとってきてあたえたりした。  首の根にしるされていた白い月の輪も徐々に消え、毛並みも薄茶色をおびて、一年たつと権作は倍以上の体をもつ二歳熊に成長した。  銀九郎は、権作が稀《まれ》なほど賢い雄熊であることに気づいていた。夜道を家にもどってゆく時など、権作は遠くから銀九郎の足音を区別してききとるらしく、甘え声のような低い鳴き声を立てる。そして、檻に近づくと手足をばたつかせ、さし入れた銀九郎の手を両掌ではさんではなさない。銀九郎が檻からはなれて家の中に入ってしまうのを悲しんでいるのだ。  また或る時、かれが渓流で釣った鱒《ます》を五尾あたえると、権作は一尾を口にしただけで残りの四尾を水飲み用のバケツの水に投げ入れてしまった。そして、空腹になると一尾ずつ取り出しては食べる。銀九郎は、その行為をいぶかしんだが、それが権作の知恵から発したものであることに気づいた。権作は、鱒の腐敗をふせぐため水中での貯蔵をこころみ、その後魚類を余分にあたえるとその一部を必ず水に漬けていた。  銀九郎は、無聊《ぶりよう》をまぎらすようにアイヌから木彫りの技術を教わり、終日彫刻刀をにぎるようになった。かれの刀の使い方は大胆で、山から得た材を使用してもっぱら熊を彫り、一年もたたぬ間に店にも飾れるような作品を彫り上げられるまでになった。  かれの愛用していた銃は、棚の上にしまわれたまま手入れ以外に下ろされることはなかった。 「熊はとる気がなくなったのかい」  と、村落の者が言うと、かれは、ただ薄く笑っているだけだった。  熊を撃ちに山へ入りたいという欲求は、かれにも根強く残っていた。殊に四月初旬の雪解けがはじまる頃には、かれも平静さを失った。例年四月十日頃には、熊が穴から外に出る。熊を撃つ絶好の時期で、かれが射殺した頭数もその期間が最も多いのだ。  かれは、その季節になると苛立った眼で雪におおわれた峰々を見上げる。雪中に印された熊の足跡、それを追う時の緊張感、そして、熊にむけて発射する折の射撃音とその直後に流れる硝煙の匂いが切なく胸によみがえった。  しかし、かれのたかぶった感情も、光子とはなれて過さねばならぬ山中の生活を思うとたちまち萎えた。結婚してから、光子の容貌も体も瑞々《みずみず》しさを増してきている。店に立つため光子は薄化粧をほどこすようになっていたが、銀九郎はその細面の顔立ちに血のたぎるのを感じた。殊に、襟からわずかにのぞく朱色の肌を眼にすると、かれの欲情は、抑えがたいほど激しくつのった。  権作をとらえてから、三年間が経過した。権作は、手当り次第になんでも食べた。通りすがりの客が投げあたえる食パン、菓子、キャラメルなどもすべて口に入れ、殊に西瓜《すいか》や玉蜀黍《とうもろこし》の類いなどが大好物だった。  権作は、四歳の雄熊に成長していた。北海道庁では、当歳熊は鎖でつなぎ二歳熊は檻に入れ、四歳熊以上は飼わぬ方がよいと指示している。が、それも法的な性格をもつものではなく、あくまでも指導要領として出されている基準にすぎなかった。  銀九郎は、権作が飼育に適さぬ年齢に達したことをさとっていた。道内の観光地では四歳以上の熊を飼っている所も多いが、熊の本質を熟知している銀九郎は、道庁の指示通り権作をせまい檻の中で束縛しておくことは不適当であると思った。  権作は、体力を持てあましたように檻の中で絶えず体を動かしていた。横板に爪を立てたり、鉄格子に手をかけてゆすったりする。そうした姿におびえを感じるのか、客も檻に近づくことを避けるようになっていた。  かれは、店の前に権作を置くことは危険だと考え、家の裏手に鉄格子を二重につけた頑丈な小舎《こや》をつくり権作を移した。  しかし、権作は行動範囲が幾分広くなったのに新しい小舎には不服らしく、その動きは急にたけだけしくなった。人の姿を認めると唸《うな》り声をあげ、小舎の中を荒々しく動きまわる。  銀九郎は、自分に向けられる権作の眼の光にも著しい変化があらわれているのをみた。それは、親しい者にむけられる眼ではなく、敵意を露骨にしめした傲岸《ごうがん》な眼の光であった。  かれは、山中で出会う熊と同じ要素を権作にみた。全身の毛を逆立て荒い息をはき、眼は直線的に射てきている。鉄格子がなければ、後足で立ち上って襲ってくる山中の熊と寸分のちがいもなかった。  かれは、権作の足に眼をむけた。三年前にとらえたとき右足が白い毛におおわれているのを愛くるしいと思ったが、その足も無気味なほど太く逞しくなっている。すでに権作は、野性にかえって人の感情を受け入れぬ動物になっているのかも知れなかった。  しかし、かれは、権作の変化が、新しい小舎のためだという希望的な考えを捨てさることはできなかった。三年間の感情の交流は、たとえ野獣ではあっても権作の心のどこかに残されているはずだった。が、体の大きくなった権作をせまい小舎にとじこめておくよりも、動物園にでも引きとってもらった方が、権作のために幸いなのかとも思った。  惨事は、その翌日の夕方起った。  目撃者はなく詳しい状況はわからなかったが、小舎の板戸が破られ、その傍に頸骨《けいこつ》を打ちくだかれた光子の体が投げ出されていた。光子は、餌をやるために近づいたとき襲われたらしく、遺体の傍には餌を入れるバケツがころがっていた。  木彫りの材料をとりに近くのアイヌの村に行っていて留守だった銀九郎は、駆けもどってくると光子の体を抱いて肩をはげしくふるわせた。そして、警官が検視のため光子をしらべようとした時も、かれはその遺体をはなそうとはしなかった。  光子の顔半分は、肉がそぎ落されてくだけた骨が貝殻のように露出していた。血が首筋の痣の上にもながれ、血糊《ちのり》にそまった衣服はこわばっていた。  ようやく銀九郎の腕から光子の体をはぎとった警官は、慎重に遺体しらべをはじめた。  銀九郎は、その傍で膝《ひざ》をつき、意味もわからぬことを口走りながら虚脱しきった眼で光子の体をながめていた。     三  骨壺は、炉ばたにおかれていた。  銀九郎は、弾丸づくりを終えると棚の上から細い袋をおろし、銃をひきぬいた。  二十八番口径の村田銃は、猟をやめてからも手入れだけはつづけていたので、銃身も引き金の部分も適度に油をふくんでいて黒く鈍い光を放っていた。  手頃な軽みとほっそりした銃身の感触が、銀九郎の猟の感覚をよびさまさせた。と同時に、かれの咽喉《のど》に、熱いものがつき上げた。久しぶりの猟であるというのに、それが妻を殺した権作の射殺を目的とするものかと思うと、堪えきれぬような悲しさを感じた。  かれの胸の中には、複雑な感情が淀《よど》んでいた。  光子のくだけた顔と首を思い起すと、抑えきれぬ憤りがふき上げてくる。権作を切りきざんでも飽き足りないような感情が、全身を刺しつらぬく。が、権作のことを思うと、その怒りはわずかに薄れる。母熊を射殺した後、雪中をリュックサックに権作を入れて下った折のことがしきりに思い起される。リュックサックの中で暴れていた権作の体温が、背に今でも残っていた。  光子は餌をあたえることが多く、権作はなついていた。その権作が、なぜ光子を殺すようなことをしたのか。権作は、すでに人間とは根本的に相容《あいい》れぬ野獣にすぎないものなのだろうか。  かれは、傍の骨壺を見つめた。自分の考え方が甘すぎたと思った。山中で多くの熊と対してきた熊撃ちとして、権作に他の熊とは異なった特殊な感情をいだいた自分が愚かしく感じられた。光子は、夫の言を信じて痛ましい犠牲となってしまったのだ。  かれは、権作に裏切られた自分を恥じると同時に、妻を惨殺した権作を必ず自分の手で射殺したいと思った。  山に一刻も早く入りたかったが、その日、かれは家から外へ出なかった。午後になって山に入っても、歩きまわる時間はたかが知れている。準備を充分にととのえて、翌朝早く山へ入るのが得策だと判断したのだ。  かれは、夜になると匆々《そうそう》に横になった。光子のいない家の淋しさが、かれの胸をしめつけた。かれは、毛布をかたく抱くと眼を閉じた。  翌朝、銀九郎の家をのぞきこんだ村落の者は、かれの姿が消えていることを知った。 「銀九郎が山に入った」  という話は、村落内に口から口へとつたわった。  前日に四人のハンターが山に入ったが、銀九郎は、特有の勘で権作を探し出すにちがいないと村落の者は言い合った。それは、村落外の者に仕とめられては恥辱だという感情と、妻を殺された銀九郎の手で権作を射殺させたいという願いのこめられたものであった。  村落の者にとって、銀九郎は神秘的な存在だった。穴ごもりの熊を仕とめるのも長《た》けているし、春から秋にかけて季節に関係なく熊を射る。人食い熊の射殺にかり出されておもむいた時も、多くの猟師やハンターを尻目にただ一人で熊をしとめたことも数知れなかった。  村落の者たちは、期待をいだいて銀九郎のもどるのを待った。  一週間がたち、十日が経過した。猟師は山中で野宿するが、その食料もようやくつきる頃だった。  銀九郎が入山してから十二日目に、村落の者は、思わぬ報告を警察から受けた。  村落から七キロほどへだたった山麓《さんろく》の或る開拓村に、二日前から熊があらわれて収穫直前の西瓜畑を荒された。町のハンターが出て熊を撃ったが、肩を傷つけただけで熊は山中に没したという。その熊の特徴は、足の一つが白い毛におおわれていたという。  村落の者たちは、顔色を変えた。それは、銀九郎の追っている権作にちがいなかった。  山麓の各村落に、警報が出された。  権作は飼われていた熊なので、山中の植物よりも人間の口にする食物になれている。冬の穴ごもりをひかえた大食期を迎えて、権作の食欲はきわめて旺盛《おうせい》なものとなっているはずだった。西瓜畑を荒したのもその証拠だが、さらに人家の近くにおりてきて耕作物や人間の食物をねらう公算が大きかった。  それに権作がハンターによって手負い熊となっていることも、一層警戒を必要とする因となった。傷ついた権作は、人間を敵視し自らを守るためにも狂ったように襲ってくるおそれが充分にあった。  その危惧《きぐ》は、早くもその翌々日になって現実のものとなった。  手負い熊の出現を知らずに山中に入っていた営林署の署員二名が、突然|笹藪《ささやぶ》からとび出した熊におそわれ、署員一名がなぎ倒された。他の署員が、山麓の村に助けを求めて多くの猟師とともに現場に赴くと、肩の骨をくだかれ太腿《ふともも》をかみちぎられた署員の体がころがっていたという。  幸いその署員の生命《いのち》はとりとめたが、逃げた署員の話によると、片足の白い八十貫以上もある大熊だということが判明した。  村落の者たちは、苛立《いらだ》った。銀九郎が山中に入ってから、すでに半カ月が経過している。かれが山に入ったのは権作が裏山に没してから四日目で足跡は消えていただろうし、銀九郎は、ただ自分の勘だけをたよりに歩きまわり、権作のひそむ地域とは全く別の方向を探しているのかも知れなかった。  もしも銀九郎が村落にもどって権作の現われたことを耳にすれば、当然かれはその地域に急ぐだろう。村落の者たちは、一刻も早く銀九郎の帰ってくるのをねがいつづけていた。  しかし銀九郎は、一カ月間が経過しても村落へもどってはこなかった。  食料は完全につきているはずだし、遭難したのではないかという者もいた。が、村落の猟師は、一笑に付した。山に入る猟師は例外なく軽装で、食料も最小限度の量しか携行しない。それは、終日熊を追うため出来るかぎり荷を軽くしようとする配慮からだが、長年の経験で気温の変化や食料の欠乏にも充分に堪える用心深さはそなえている。食料は、山中の植物を採取したり小動物を撃てば事足りるし、野宿するのも温かい穴やくぼみに松葉を敷いて横になれば寒気は避けられる。むろん銀九郎は、そのようなことを充分知っているので危惧する必要はないという。  しかし、それにしても銀九郎の帰りは余りにもおそかった。村落の者たちは、裏山をうかがい銀九郎の家をのぞきこんだりしたが、かれの姿を眼にすることはできなかった。  紅葉が山火事のように山の奥からおりてきて、山麓の樹林を朱色に染めた。そして、やがて紅葉の色もさめると、風が渡るたびに樹林から雀の群れがとび立つように枯葉が空に舞い上って村落の上に降るようになった。  村落は、深い静寂につつまれた。その後、権作の現われたという話も絶え、村落の者たちは日を追うて冷えを増す空気の中で冬仕度に専念していた。  村落に、初霜が降りた。  その翌日の朝、村落の者たちは、銀九郎の家の煙突から淡い煙が流れ出ているのを眼にした。  村落の者たちは、銀九郎の伯父に使いを出して呼ぶと、連れ立ってかれの家に足をむけた。  戸をたたくと家の内部に人の気配がして、裏戸がひらいた。  伯父をはじめ村落の者たちの顔はこわばった。かれらは、眼の前に突き立つ男の顔を見つめた。銀九郎は、別人かと思うほど痩《や》せさらばえていた。密生した髭におおわれた銀九郎の頬骨は突き出し、深くくぼんだ眼窩《がんか》には射るような鋭い眼が光っていた。その変貌《へんぼう》は、権作をもとめて山中を歩きまわった苦渋のためにちがいなかった。  伯父と数名の者が、家に入った。が、伯父たちがなにをたずねても、銀九郎は炉の火に眼を向けたまま口をひらこうとはしなかった。  ただ村落の者が、銀九郎の山中に入った直後に権作が近くの村落に現われたことを口にした時、かれは顔をあげた。が、すぐにその眼は炉の火におとされた。  すでに熊は、穴ごもりの季節に入っていた。飼われていた権作は山中で初めての冬を迎えるわけだが、動物的な本能で適当な穴を探して身をひそめているにちがいなかった。  山は白雪におおわれ、村落にも雪が舞うようになった。そして、積雪が増すと定期バスも村落を訪れることもなくなり、村落は、孤絶した世界と化した。  銀九郎は、家の中から姿をあらわさなかった。時折、伯父の家の者が食料をとどけに行くだけで訪れる者もいない。山から下りてきた銀九郎の異様な風貌に、村落の者は為体《えたい》の知れぬ畏怖《いふ》におそわれて家に近寄ることを避けていた。  年が明けると、連日のように雪が舞った。そして、三月に入ると、珍しい大雪がつづき村落の家々は深い雪に埋もれた。  雪解けが、意外に早くやってきた。  山の奥から雪崩《なだれ》の音がしばしばきこえてきて、その度に家々はゆれた。日中には屋根の雪もゆるんで滑り落ち、村道や耕地の雪も水分をふくんでまばゆく輝いていた。  村落の者たちの関心は、再び銀九郎に注がれはじめた。  山中の熊は、雪解けを待ちかねたように穴の中から這《は》い出る。日当りの良い傾斜には植物の芽が萌え出し、熊たちはその新鮮な芽をむさぼり食って歩く。猟師たちが、それらの熊をもとめて山中に入る季節となったのだ。  村落の猟師たちは、四月初旬に思い思いに村落を後にしたが、銀九郎は家から出る気配もなかった。足音を忍ばせて銀九郎の家をのぞくと、かれは、いつも炉ばたの定まった場所に坐って熊の木彫りをつづけていた。  村落の者たちは、銀九郎が入山しないことをいぶかしんだが、その行為にはかれの慎重な判断がひそんでいることを理解した。銀九郎は、前年の秋あてもなく山中をさ迷い歩いた愚をくり返したくないのだろう。なんの手がかりもなく権作を探し出すことがほとんど不可能であることをさとっているのだ、と村落の者たちは噂《うわさ》し合った。  かれが家にとじこもっているのは、権作がどこかに現われたという報《しら》せを待っているからだと想像された。もしも権作の消息がわかれば、その行動範囲は限定されるし、足跡などが残されていれば確実に追うこともできる。  村落の者たちは、権作についての消息を心待ちに待った。  六月に入ると、観光客が姿を見せるようになった。村落には土産物店があらたに二軒ひらいて、バスからは前年に増した客が村落に降り立った。が、銀九郎の店はかたく戸を閉ざしたままで、ヒグマのいる店と書かれた板が塗料もはげ落ちて柱にうちつけられているだけであった。  その年も、新聞などに熊による被害が早くから伝えられていた。奥久著呂《オククチヤロ》では、彫刻に作るオンコの根をとりに行った男が熊におそわれて重傷を負い、留萌《るもい》郡では、牛二頭、緬羊《めんよう》三頭を斃《たお》した熊が、緬羊の体を引きずって山中に没したという。  村落の者たちは、狂暴な熊の出現を耳にするたびに胸をたかぶらせたが、いずれもそれらは権作とは別の熊であった。  夏がすぎ、秋風が吹くようになった。が、権作は山奥深くにでも入ってしまったのか、その消息は完全に絶えた。  と、十月上旬、隣村からつたえられた報に村落は騒然となった。  隣村の近くの山中を道路が走る計画が立てられ測量小舎が設けられていたが、その日の朝、小舎がはげしく震動し、窓からみると大きな熊が入口の戸を破ろうとしていた。  恐怖にかられた測量士たちは、二斗入りの米袋を外に投げ出し、熊がそれをひきずって山林中に姿を消すのを見定めてから小舎を出て村に駆け下りた。そして、再び猟師たちと小舎に行ってみると、熊はその間に一度もどってきたらしく桶《おけ》に入れられてあった味噌をなめつくし、さらに塩漬けにしてあった鱒を桶ごと持ち去っていた。その熊は片足が白かったことから、権作であると断定された。  村落の者たちは、銀九郎の家に走った。権作が測量小舎を襲ってからまだ四、五時間しかたっていない。権作の足跡も残っているはずだし、権作の姿をとらえる絶好の機会であった。  村落の者たちは、銀九郎の家につくと裏戸を押しひらき、 「権作がいた」  と、叫んだ。  炉ばたに坐っていた銀九郎がふりむいた。髭におおわれた顔の中で、眼が異様な光を放っていた。     四  銀九郎は、樹林の中の土のくぼみに松葉を厚く敷いてねぐらを整えた。明るいうちに野宿の準備を終えるのが、山歩きをするかれの習慣だった。  火を起し、携帯してきた米を飯盒《はんごう》で炊いた。  ……その日、測量小舎におもむいた銀九郎は、柔らかい土の上に深くきざまれた権作の足跡を見出し、さらにその足跡の近くに権作を追うハンターや猟師の足跡も眼にした。  銀九郎は、足跡をたどって山道をのぼった。一キロほど行くと、足跡は道からそれて深い樹林の中にふみ入っていた。そして、なおも足跡をたどって進んでゆくと、傾斜の上方から人声が近づいてきて、犬を連れた五名のハンターが姿をあらわした。  犬がはげしく吠え、ハンターたちは声をひそめ銃をかまえて立ちどまり、銀九郎の姿をおびえたように見つめた。  かれらの顔から緊張の色が消えたが、銀九郎の異様な容貌に眼をすえると、黙ったまま道をひらいた。その傍を、銀九郎は無言で通りすぎた。犬を連れたハンターたちが、権作の追跡を諦《あきら》めたらしいことに安らぎを感じた。  足跡は樹の林立する傾斜をくだっていたが、途中の深いくぼみに破れた米袋と鱒の桶のころがっているのが見出された。旺盛な食欲をしめすように米粒も鱒も荒々しく食い散らかされ、そこでしばらく身を横たえていたらしく草が一畳ほどの広さで倒されていた。  ハンターたちの足跡は、その個所から引き返していたが、熊の足跡には二人の人間の足跡がまといついていた。熊撃ちの猟師が、なおも追いつづけていることはあきらかだった。  かれは、猟師の足跡に苛立った。もしもかれらと顔を合わせれば、三人で協同して権作を射殺しなければならぬことになる。気心の合った親しい男たちならばよいが、未知の男たちと組むと必ずといっていいほど互いに牽制《けんせい》し合う妙な空気が生れ、熊を仕留める障害ともなる。  銀九郎は、単独で熊を追うのが好きだった。思いのままに歩くことができるし、冷静な判断もできる。自分のみを頼りに熊と対する孤独感が、かれには好ましいものに思えた。それに、妻の光子を殺した権作は、自分の銃から射出された弾丸で撃ち斃したかった。  熊の足跡は、急な傾斜をくだって、やがて沢におりていた。  銀九郎は、権作の賢さをあらためて意識した。猟師に追われていることに気づいた権作は、渓流の中を歩くことで足跡を消そうとつとめている。山中に入ってすでに一年、権作は野獣としての本能的な知恵を充分にそなえているように思えた。  猟師の足跡は、その個所でかなりためらったらしくしきりに歩きまわったあとを残していた。そして、かれらの足跡は下流にむかって去っていた。  銀九郎は、猟師たちが大きな過ちをおかしたことを知った。熊は人間の食物の味を知ると、連続的に人里に現われることが多い。猟師たちは、その習性にしたがって麓《ふもと》の村につづく下流へとむかったのだろうが、渓流におりて足跡を消すことを試みた権作は、いったん山中にかくれて充分な日をおいた後に人里に近づく慎重さをもっているように思えた。つまり、権作は渓流づたいに上流にむかったはずだと推測された。  銀九郎は、確信をいだいて渓流に足をふみ入れ、河床や両岸を凝視しながら一歩々々上流へとたどっていった。  五十メートルほど進んだ時、銀九郎は自分の予感が確実に適中していることを知った。水面からわずかにのぞいた石の表面をおおう苔《こけ》に、あきらかに太い足の爪ではがれた痕《あと》を見出したのだ。  銀九郎は、足をはやめた。そして、渓流に足をふみ入れてから五百メートルほど上流の左岸に、水から上った熊の足跡を発見した。  かれは、渓流から樹林の立ちならぶ急な傾斜を這いのぼった。足跡は、一時間足らず前にきざまれた真新しいものであった。  それから二時間ほど足跡を追った銀九郎は、前方に鋭い崖《がけ》が屹立《きつりつ》しているのを眼にした。そしてなおも足跡を追うと、それは岩の間を縫って崖の根にくだっていた。  銀九郎は、表情をゆるめると足をとめた。崖の根は袋小路のように行きどまりになっていて、出口は銀九郎の立っている場所しかない。  かれは、遂に権作を追いつめたことを知った。  日が傾きはじめた。かれは、風下の場所をえらんで恰好なくぼみをねぐらに定めた。  ……夕闇がひろがり、やがて夜空に星が散った。  かれは、焚火《たきび》に枯木をそえると毛布の中にもぐり、その上から夜露よけのシートをかけた。  一年がかりでようやく権作を追いつめることができたと思うと、胸が熱くなった。妻を殺した権作は、近くの崖の根に身を横たえている。  昨年の夏から初霜のおりるまで、山中を彷徨《ほうこう》した折のことが思い出された。権作を求めて山に入って十日ほどした頃から、かれの焦燥感は増した。かれは、野宿をかさね狂ったように山中を歩きまわった。その間、一度仔熊づれの雌熊を発見したが、かれは銃を使わなかった。かれの目ざすのは、権作だけだった。  権作に対するかすかな親しみは山中を歩きまわる間に跡かたもなく消え、激しい殺意のみが胸をやいた。殊に樹葉が紅葉しはじめると、権作への憤りは一層つのった。紅葉の鮮やかな色が、光子の首筋から乳房にかけてひろがっていた朱の痣を思い起させたのだ。  かれは、二カ月余にわたった山歩きが基本的に大きな過ちをおかしたものだということに気づいていた。熊をしとめるのには、素朴ではあるが基本的な原則を忠実に守らねばならぬことをあらためて知らされた。熊は、奥深い広大な山中を微細な点として移動してゆく。熊の姿をとらえるのは、その跡を確実に追ってゆかねばならぬのに、ただ野放図に山中を歩いたかれの行動は初めから徒労に終ることが約束されていたことになる。  そのことを充分にさとったかれは、それから一年間家にとじこもって権作の出現を待った。それは、かれにとって苦痛にみちた一年だった。腰を据えていることに堪えきれず、何度銃を手につかんで山中に入ろうとしたか知れない。が、その度にかれは、自分の感情をおさえつけ黙々と木彫りの熊を彫りつづけた。そして、ようやく権作の姿をとらえる機会をつかむことができたのだ。  かれは、星空を見上げながら自分がひどく冷静なことに満足していた。権作は、すぐ身近にいる。妻を殺害した後、営林署員を襲い測量小舎の食物をうばった権作は、本能のまま行動する恐るべき野獣以外のなにものでもない。  権作は、やがて崖の根から出てくるだろう。満腹感を味わった権作は、崖の根で数日をすごすかも知れない。が、冬ごもりの季節をひかえて限りない食欲に身をさらす権作は、再び食物をもとめて行動を開始することは疑う余地がなかった。  熊は、耕作物以外にも人や家畜の肉をむさぼり食う。墓をあばいて土葬の死体を食い散らかす熊もいる。権作をここでしとめなければ、人畜を襲うおそれは多分にあった。  待つことだ、と、かれは胸の中でつぶやいた。そして、毛布を頭からかぶると、闇の中で眼を光らせていた。  激しい寒気に、銀九郎は眼をあけた。  毛布から顔を出すと、樹林の中がわずかに明るみ、濃い霧が一面に立ちこめているのがみえた。  かれは、半身を起すと傍の消えかかった焚火に新聞紙と枯枝をそえ、埋もれた火に息を吹きかけた。そして、再び毛布の中にもぐると、赤々と起った炎の色を見つめていた。  霧が徐々に明るんできて、睫毛《まつげ》に宿った水滴がまばゆく光りはじめた。  かれは、起き上ると毛布をたたんでリュックサックにしばりつけた。そして、湯をわかし昨夜炊いた飯を味噌とともに口に入れた。野鳥のさえずりが増して、朝の陽光が樹林の梢《こずえ》にあたり出した。  食事を終えると、かれは手早く身仕度をし銃に弾丸が装填《そうてん》されているのをたしかめた。そして、リュックサックをかついでその場をはなれた。  権作が崖の根から出てくるのは、早くとも翌々日あたりだろうと思った。熊は、満腹感を味わえば同じ個所で休息し移動しない習性がある。が、その期間がどれほどかはわからないし、一応崖の出口を監視する必要があった。  風向は、昨日とは少し西に変っていた。熊の嗅覚《きゆうかく》は、鋭い。人間の匂いを空気の流れの中にかぎつければ、熊はたちまち逃げるか逆に襲ってくる。  銀九郎は、常に風下に身を置くようにして、樹幹に身をひそませながら崖の出口を望見できる位置にたどりついた。  かれは、身を伏すと古びた双眼鏡をとり出して眼に押しあてた。そして、崖の出口にあたるゆるやかな傾斜にレンズを向けた。  かれの双眼鏡は、少しずつ角度を変えて土の上をさぐっていった。  突然、双眼鏡の動きがとまった。かれの眼は、レンズの中の土の一点に据えられた。  予想もしていないことが起っていた。土の上には権作の足跡が印され、双眼鏡で追うとそれはさらに山の奥へとむかっている。  冷静にならねばならぬ、と、かれは錯乱した意識の中で思った。権作が崖の根を早くもはなれたのは、その場所に好ましくない要素があったためなのか。  銀九郎は、その想像をすぐに否定した。権作は、その鋭敏な感覚で自分を追いつづける者の存在に気づき、いったんは人間の近づけぬ崖の根に身をひそめた後、危険を感じて匆々にその場を去ったにちがいない。  権作の慎重さに、かれは唖然《あぜん》とした。と同時に、権作を必ず自分の銃で仕留めてみせるという激しい意欲にかられた。  かれは、傾斜をくだると崖の出口の土の上に膝をついた。眼の前に、雑草をふみしだいた大きな足跡がある。指先でその部分にふれてみた。草は湿り気をおびていて、足跡は新しい。  かれは、顔をあげて点々とつづく足跡に眼を据えると、再び銃に弾丸が装填されていることをたしかめて身を起した。そして、銃をにぎりしめて歩き出した。  足跡は、深い樹林の中に入ってから傾斜をななめにくだっていた。  かれは、足を早めながら前方の地形をさぐった。権作の進む方向が予測できれば、先廻りして現われるのを待つ。それは、母ゆずりのかれの最も得手とする方法で、失策をおかしたことはほとんどなかった。  しかし、かれは、その方法がこの場合には不可能だということを知った。樹林のきれたあたりからは地形がなだらかに起伏していて、しかもそこには一面に丈の高い熊笹が生いしげっている。熊笹は熊の体をかくし、いったんそこに入りこんでしまえば姿をとらえることはむずかしい。  かれは、双眼鏡に眼をあてた。熊笹の茂みは三百メートルほどつづいているが、それが絶たれると灌木《かんぼく》のまばらに立った日当りのよい高みがつらなっている。その地形は、かれにとって熊の進路を予測させるのに恰好のものに思えた。  権作をしとめるのは、熊笹の茂みを越えた地域だとかれは判断し、足跡を追って歩きつづけた。  左側の谷から淡い霧が逼《は》い上っていたが、視界はひらけ、空気は澄んでいた。  樵《きこり》の通う道が熊笹の繁みの間に細々と通じ、足跡はその上に重々しく刻みつけられている。銀九郎は、足音をしのばせながら早い速度で進んだ。  かれは、権作が身近にいることを知っていた。足跡は数分前に印された生々しいもので、おそらく二、三百メートル前方を、大地をふみしめながら歩いているはずだった。  かれは、身をかがめて歩きながらも双眼鏡で前方をうかがいつづけた。が、熊笹は高く、その間隙《かんげき》からのぞいてみても権作の姿を見出すことはできなかった。  道は、ゆるい曲りになっていた。そして、道にしたがって曲った時、かれは不意に足をとめた。  顔から血の色がひき、眼は大きくひらかれた。足跡が断ちきられたように消えている。  戻り足だという声が、閃光《せんこう》のようにかれの全身をつらぬいた。弱い小動物は、敵に追われていることを知ると再び足跡を慎重にふんで後退し、傍に逃げこんで足跡をくらます。賢い熊にも同じような動作をするものがあるが、それは、敵を待ち伏せして襲う方法なのだ。  権作が、戻り足をつかった。それは、執拗《しつよう》に追ってくる銀九郎を打ち斃そうとする目的をもったものであった。  かれは、権作の仕掛けた罠《わな》に完全にはまりこんだことを意識した。権作は、熊笹の中に身をひそませている。そして、銀九郎の歩く気配と不意に停止した気配をさぐりとっているはずだった。  熊笹は、かれの顔近くまで生いしげっている。突然とび出してくれば、かれはたちまちその大きな掌で叩きつぶされるだろう。  動いてはならぬ、とかれは思った。身を動かせば、熊は瞬間的に襲ってくる。  かれは、銃をにぎりしめた。そして、左手を徐《おもむ》ろに動かすとズボンのポケットに滑りこませた。手作りの弾丸が、指先に冷たくふれた。かれは、巧みに指のつけ根に三発の弾丸をはさみこんだ。  恐怖が、かれの体を痙攣《けいれん》させた。かれは、それまでただ一度十メートルほどの至近距離で撃ったことがあるが、弾丸は目的の場所から大きくそれた。幸い当った場所が腰骨であったため熊は崩折れたが、近すぎると弾丸の命中率はきわめて低い。  かれは、恐怖とたたかった。初めて母に連れられて山に入ってから三十年、その間に得た熊撃ちとしての技倆《ぎりよう》と勘をすべて傾注すれば権作にうちかつことはできるはずだ、としきりに自分に言いきかせた。  あたりには、深い静寂がひろがっている。かれは、身をかたくして耳をすませた。  風が起り、熊笹が遠くの方から波頭のようになびいてきて、銀九郎の周囲に茎や葉のすり合う音が満ちた。が、そのざわめきの中で、銀九郎はかすかに笹を踏みしだく音をはっきりとききとった。それは、十メートルほど後方の熊笹の中からだった。  かれの体からは、汗がふき出ていた。権作は、しげみの中で息をひそませている。至近距離であることが、かれにとっては不利であった。  かれは、意を決して静かに体をめぐらし通ってきた道に向い合った。と、体の中に、激しい闘志が突然のようにわき上った。三十年間の経験をもつ熊撃ちとして、熊と対決する自負が四肢にみなぎった。  権作のひそむ個所を知ったことが、かれの気分を落着かせた。そして、距離をなるべく遠く保つために、徐々にあとずさりした。  熊笹が、動いた。  かれは、銃を胸の位置にずり上げた。  不意に、道の上に薄茶色いものが姿をあらわした。口から白い息を吐く熊は、銀九郎の知っている権作よりも大きく逞《たくま》しくみえた。が、左足は白い毛につつまれ、それが山中で成長した権作であることはあきらかだった。  かれは、銃口を熊に向けた。  権作は、こちらに顔を向けて動かない。が、一瞬後に銀九郎の方にむかってすさまじい勢いで突き進んできた。  かれの指先が引金をひいた。すさまじい発射音と硝煙の匂いが、かれの体をつつみこんだ。  熊の顔が、眼の前いっぱいにのしかかってきた。が、足がくずれると頭部がさがり、熊笹を押し倒すと横に倒れた。  かれは、指の根にはさんだ弾丸を目まぐるしい速さで装填すると、三発連続的に権作の頭にうちこんだ。  かれは、権作の体を見下ろした。一年の間に権作は山の匂いを体中から発散し、雌の奪い合いで傷つけられたのか、耳がちぎれ鼻の傍にも深い爪あとが刻まれていた。山中の生活で、毛並みも荒々しく変化していた。  かれの咽喉に熱いものがつき上げてきた。光子を殺した権作の体が遺体となって横たわっていることに復讐《ふくしゆう》をはたした歓びを感じた。  かれは、マキリをぬくと権作の眼球をえぐりとり、リュックサックの中に無造作に投げこんだ。むろん毛皮や熊の胆《い》をとる気はなかった。  かれは、銃を肩にかけると権作の血に染まった頭部を何度も足蹴《あしげ》にし、後もふりむかず足早に道を下った。  熊をしとめた快感は、不思議にもかれの胸には湧《わ》いてはこなかった。歓喜もいつの間にか消えて、妙に物悲しい感情がしきりに湧いてくる。権作を射殺しても、光子がもどってはこないことに、かれは激しい苛立ちを感じていた。  熊笹に、風が渡った。  かれの歩みが、急ににぶりはじめた。権作は、なぜ熊笹から道に姿をあらわすような不用意なことをしたのだろう。それは、自らを危険にさらすことを意味している。  権作は、道に出たあと銀九郎を見つめながら身じろぎもしなかった。そして、その直後銀九郎にむかって突き進んできたが、それは不思議と殺意の乏しい、人を襲うたけだけしさには欠けていた。  権作は、飼育してくれた銀九郎の姿をみとめ、なつかしさで走り寄ってきたのではあるまいか。  銀九郎は、頭をふった。権作は、宿命的に人間と相容れることのできない野獣なのだ。権作は、自分を殺すためにつかみかかってきた。それを自分は、一発で撃ち斃したにすぎない。  村落での孤独な生活が思われた。権作を斃すという希望が、かれの生活に一つの緊張感をあたえていたが、それも果されたかれには、光子の遺骨をおさめた骨壺しか残されていない。  かれは、眼をあげた。重畳《ちようじよう》とつらなる山は、紅葉におおわれている。それは、山が雪におおわれる前の残照にも似た華やかな彩りだった。  かれは、リュックサックをゆすり上げると沈鬱な表情で傾斜をくだっていった。 [#改ページ]   蘭《らん》 鋳《ちゆう》     一  耳の中に、錐《きり》をもみこむような音が突き刺さってきた。  清夫は、その音からのがれるようにふとんの中にもぐりこんだ。が、その音が母から借りた目覚時計のベルの音だと気づくと、意識がさめた。  清夫は、ふとんを勢いよくはねると、急いでパジャマを脱ぎ捨て短いズボンをはいた。一番|仔《こ》の産卵は七日前だったが夜半であったため見る機会を失い、二番仔の産卵を心待ちにしていたのだ。  一番仔の産卵を終えた雌の玉姫も、休養池で三日前から餌をとるようになり元気を回復している。兄は、玉姫の腹部を軽くにぎったりしてしらべていたが、昨日の正午近くに玉姫を産卵池に放った。そして、金剛、若嵐、銀獅子《ぎんじし》の三尾の雄もその池に移した。  夕方近くになると、玉姫は雄たちと池のふちに沿って寄りかたまりながら泳ぎはじめるようになった。  ——今度こそ見たい。  と清夫が言うと、兄は、  ——明日の夜明けだ。  と、断言するように言ったのだ。  廊下を渡り、裏玄関から運動靴をはいて庭に出た。まだあたりはほの暗く、星の散る空に夜明けの色がわずかに漂いはじめている。  夜露にぬれた庭の飛石をふんでゆくと、金網をめぐらした庭の一郭にレインコートを着た兄の大きな体が見えた。兄は、秩序正しく並んだコンクリート池の最右端の池のふちにうずくまって水面を見つめている。  清夫は、金網のかこいの中に身を入れると、すり足で池の間をすすみ兄の傍にしゃがみこんだ。 「まだ?」  清夫は、低い声できいた。  兄が、浅い池の中の魚体に眼をすえたままかすかにうなずいた。  清夫は、安堵《あんど》をおぼえて眼を水面にむけた。雌の玉姫が、池のふちに沿って逃げている。唇のあたりに紅をふくんだような色彩が刷《は》かれ、盛り上った頭部は朱色に輝いている。蘭鋳《らんちゆう》特有の無器用な泳ぎ方だったが、玉姫は、平生とはちがう真剣さにあふれた動きをしめしている。体をくねらせ尾鰭《おひれ》をそよがせて泳ぐ姿は、華やかな衣裳《いしよう》をまとった女が、もどかしげに厚い裾をひるがえして逃げる姿を連想させた。  執拗《しつよう》に追っているのは、六歳魚の金剛と三歳魚の若嵐、銀獅子だった。  金剛は、父の代から交配につぐ交配によって作出された銘魚で、魚体もたくましく雄魚らしい雄渾《ゆうこん》さにあふれている。それが、二月初旬の大雪のあった日をさかいに、紅白のさらさ模様に彩られた腹部を水底に据えるようになってしまった。六歳という老齢が筋肉を衰えさせた結果だが、餌の食いも目立って少なく水中を泳ぐ力も失せて、二十センチほどの池の底をイザリのように物憂く動くだけになった。  しかし、兄は、玉姫にかけ合せる雄魚の一尾に金剛をえらんだ。  清夫は、兄の行為をいぶかしんだ。産卵に参加する雄が、どれほどの体力を使うかは、清夫も何度かの産卵を眼にして知っていた。ほとんど一昼夜、雌魚を激しく追いまわし、最後の瞬間には、余力をふりしぼるように雌の放った卵に射精をくり返す。泳ぐ気力も失われた金剛が、そのような作業に堪えられるはずはなかった。  しかし、産卵池に放たれた金剛の動きは、清夫の予想を完全にうらぎった。金剛は、池底に沈むこともせず、逞《たくま》しく尾鰭をあおって玉姫を追いはじめたのだ。  それからすでに十二時間以上が経過しているわけだが、眼の前を泳ぐ金剛には一晩中玉姫を追いつづけた疲労は全くみえない。若嵐や銀獅子と先を競いながら、玉姫の尾部にとりつこうとしている。その姿には、切迫した気力が感じられた。 「ホ、ホーッ」  兄の口から、異様な声がもれた。  清夫の体は、熱くなった。  玉姫の動きに乱れが起っていた。時折、玉姫は動きをとめると放心したように体を横たえて浮き上る。三尾の雄たちは、その瞬間を待ちかまえていたように、玉姫の横腹に荒々しく口吻《こうふん》を当てると玉姫の体を池のふちに押してゆく。  玉姫は、雄のなすままに体を横たえて水面を移動してゆく。その姿には、一種の陶酔感に似たものが匂い出ていた。  池のふちに押しつけられた玉姫は、体をくねらせ尾鰭をひるがえすと泳ぎ出す。雄たちは勢いよくその後を追うが、再び玉姫は泳ぎをとめて体を横たえた。その体に雄がまとわりつき、周囲に水しぶきがあがった。  そのうちに玉姫が、魚藻《ぎよそう》の茂りのあたりをさ迷いはじめた。  産卵の瞬間が迫ったことを、清夫はかぎとった。  玉姫の動きに切なそうな気配が濃くなり、急に尾鰭で水面をたたくと体を傾け、藻《も》の上を勢いよくかすめて通った。その瞬間玉姫の朱に彩られた腹部からは、真珠色の微細な卵が魚藻に放たれたのだ。  金剛と二尾の三歳魚が、競い合いながら入り乱れてその上に近づいた。そして腹部を魚藻にすりつけるようにして過ぎた。  玉姫が、また他の藻の上で尾をひらめかした。雄魚が、それに精液をふりかける。そうした動作が果てしなく反復されているうちに、いつの間にか朝日が庭樹に当りはじめた。  後方で、雨戸の静かに繰られる音がした。  振返ると、母が雨戸を手にしながらこちらに顔を向けている姿がみえた。  やがて、母が、庭下駄をはいて金網のかこいの中に入ってきた。 「いかがですか」  母は、低い声で兄に言った。  兄は、すぐには返事をしなかったが、水面から眼をはなすと、 「そろそろ終りのようです」  と、頬をゆるめた。その眼には、疲労と安堵の色が入りまじって浮んでいた。  兄は、魚たちの動きを見つめていたが、網を水に入れ一尾ずつ手もとに引き寄せて手でつかむと、隣接した池に玉姫を他の池に金剛と二尾の三歳魚を分けて入れた。 「お食事の用意をいたしますから……」  母は、小走りに池のほとりをはなれて行った。  清夫は、雄魚たちの姿に眼を据えた。二尾の三歳魚は、まだ興奮がしずまらないのか池の中を泳ぎまわっている。が、金剛だけは、池の底に近い個所であえぐように鰓《えら》をうごかしているだけだった。それは、激しい労働の後の疲労をいやしているようにみえた。  近隣の家々でも人々が起き出したらしく、澄んだ朝の空気の中で住宅街のかすかなざわめきがつたわってきた。塀の外を、車の通る音がした。そして、母屋の方からは電気掃除機のうなりもきこえてきた。 「顔でも洗おうか」  兄が、清夫に言った。頬に笑窪《えくぼ》がへこみ、唇のはしから金歯が光った。  清夫は、兄の後から歩いていった。  雨戸のくられた八畳の部屋に、嫂《あによめ》の姿がみえた。嫂は、化粧台の前に坐って髪をブラッシングしている。  兄は、視線をそらすように居間の方へ飛石をふんでいった。  兄は、清夫の母を「綾さん」と呼んでいた。  母が牧村家に後妻として嫁いできたのは、兄が大学に在学中のことだったらしく、父を中心に学生服を着た兄と面映ゆそうな若い母の並んだ写真がアルバムに残っている。  母が嫁いできたのは二十八歳の秋で、先妻の子である兄よりはわずか七歳|齢上《としうえ》であった。  清夫の記憶にある父は、銀髪を短く刈りこんだ長身の老人で、その膝《ひざ》に抱かれるたびに上質の香料のようなものが鼻をかすめた。  母は、雇われた女のような控え目な身の処し方をして父や兄に対していた。清夫は、同じ部屋で寝ている母が夜になると父の部屋へ行く後ろ姿を何度もみた。幾分淋しくはあったが、幼い時からくり返されていたことなので母を責める気にはならなかった。  庭には八面のコンクリート池があって、父は、蘭鋳の飼育に日々を送っていた。その魚にとりつかれてから職業をもたず飼育に専念してこられたのは莫大な資産をもっていたためだが、居食いをつづける父の生活は、徐々に縮小してきているらしかった。  清夫が物心ついた頃、兄は蘭鋳の飼育を手伝っていた。父にならって、池のほとりに立って魚の体を見つめているのをしばしば眼にしたこともある。麦藁《むぎわら》帽子をかぶってたたずむ兄の姿が、清夫の眼には若々しく爽やかなものにみえた。  父が死んだ通夜に、見知らぬ者をふくめた多くの蘭鋳飼育家が集まってきた。かれらは、父の飼っていた銘魚を譲り受けたいという希望をいだいていたのだ。  牧村家の縁戚《えんせき》の者たちは、兄に蘭鋳を手放すようにとしきりにすすめた。その魚のために父は資産をすりへらしたし、この機会に飼育を断ち切るべきだというのだ。  しかし、兄は、すでに蘭鋳の魅力にとりつかれていた。飼育をつづけても生活に支障はないと主張し、蘭鋳を手放すことは承知しなかった。ただ一尾、雌の親魚を父の飼育上の指導者でもある飼育の宗家に遺品として贈っただけであった。  初七日の夜におこなわれた親族会議で、母と清夫は牧村家にとどまることになった。母自身は父の死と同時に家を去る覚悟をさだめ、親族の中にもそれと同じ意見をもらすものもあったが、兄は、 「綾さんも清夫も、他人とは思っていません」  と、同居をつづけることを強く主張したのだ。  兄は、海運会社につとめていたが、父が死ぬとすぐに会社をやめた。父と同じように蘭鋳の飼育に専念する決意をかためたのだ。  初夏の餌食い時期にあたっていたので、兄は夜も明けぬ頃、小型車を運転しては家を出てゆく。丁度|孵化《ふか》も終えた頃で、稚魚の餌にするミジンコを毎日採集しなければならないのだ。  住宅地が郊外にも急速にひろがってゆくので、ミジンコは埼玉県や千葉県にしかみられなくなっている。その上朝の陽光とともにミジンコは泥土の中に身をひそめてしまうので、夜半に家を出てゆかねばならなかった。  兄の顔には、蘭鋳の飼育に専念している満足げな表情があふれていた。そして、蘭鋳に興味をもちはじめた清夫にさまざまな話をしてくれた。  亡父が、蘭鋳を飼いはじめたのは三十歳代であったという。江戸時代、大名や富貴者の愛玩《あいがん》していたその金魚を、父は、金にあかせて飼いはじめた。悪質な蘭鋳飼育業者に無駄な金も使わせられたらしいが、飼育の宗家の指導を受けるようになってから銘魚と呼ばれるものも出来るようになった。  蘭鋳飼育の世界の中で、今でも語り草となっているエピソードがある。戦時中も人目をおそれて飼育をつづけていた亡父は、焼夷弾《しよういだん》で家が焼かれた夜、蘭鋳を桶《おけ》に入れて炎の中を逃げまわったという。そうした血が、兄の体内にもそのまま受けつがれているにちがいなかった。  兄の飼育の仕事は、慎重をきわめた。朝の餌の採集からもどると、二歳魚以上の蘭鋳には赤ボーフラを、孵化した稚魚にはミジンコをあたえる。そして、水温をたしかめ水苔《みずごけ》の状態をしらべて、水替えを頻繁におこなう。  風の強い日には、魚が池の端に寄せられて酸素不足におちいらぬように池にスダレを立てかける。浮塵《ふじん》、糞《ふん》、残り餌などの除去をはじめ、猫、鳥などに魚をねらわれぬように金網を池の上にかけ、雨天の日には雨水を防ぐためビニール張りの屋根も立てかけた。  或る日、貧相な老人が兄と連れ立って池のほとりに立った。  黒い稚魚が白い洗面器に移され、老人と兄はそれを凝視していたが、池にもどされるのは十分の一ほどで、他の稚魚は老人の桶に移されて持ち去られた。 「よりっ子といって、傷のある稚魚は取り除かれるのだ」  兄は、数少なくなった稚魚の群れる池を見つめながら満足そうに言った。そして、よりっ子は、その後もくり返しおこなわれて、結局おびただしい稚魚の中から残されたのは数尾の当歳魚だけであった。  冬になった。  その頃、兄には数多くの縁談が持ちこまれていた。専ら市ケ谷の伯母の持ちこんでくるものだったが、兄は、それをすげなく断わりつづけた。 「お嫁さんをもらいなさいよ。お姉さんが欲しいなあ」  清夫は、少年らしい知恵をはたらかせて言う。  しかし、兄は、黙って笑っているだけだった。  その兄が不意に結婚する相手がいると言い出したのは、伯母が何度目かの縁談を持ってきた時だった。相手の女は、兄の勤めていた海運会社のタイピストで、兄はひそかに好意をもっていたのだという。  伯母は、由緒ある牧村家の後継者の嫁としては不適当だと、その女との結婚に反対した。北村由紀子というその娘は、伯母の調べによると孤児である上に、親代りになっている叔父が公立中学校の用務員をしているということだった。  清夫は、貧しい家の出である自分の母を蔑《さげす》むようにしか見ないその伯母がきらいだった。それだけに、兄が伯母の反対を黙殺するのが快かった。  兄は、相手の女性に結婚申込みをし、休日にはよくその女の人を家に連れてきた。女の人は、美しかった。小造りな顔の皮膚は透きとおるように白く、眼は水をはらんだように光っていた。 「清夫さん、お土産よ」  その女の人は、時折小型カメラや機関車などを持ってきてくれた。清夫は、おそらく兄がそれらを買い求めて女の人から渡すようにしたのだろうと思った。かれは、そうした兄の温かい配慮が嬉しかった。  女の人は、母の若さに驚きながらも、初めて会った時から母を「お母様」と呼んだ。  母はうろたえて顔を赤らめていたが、清夫は、この女の人が家族の一員になってくれることは一層家の中の秩序を維持するのに役立つだろうと思った。  家の中に、華やかな調度品がはこびこまれてきた。それらも、むろん兄が整えてやったものにちがいなく、兄は、その女の人と絶えず買物に出掛けていた。  その頃、兄にいちじるしい変化が起っていた。蘭鋳は、冬眠期に入っていたので餌食いもほとんどなくなっていたが、兄は池の傍に立つことがなくなったのだ。すでに十一月下旬、透明なビニールをはった戸で池をおおい、寒風よけの冬囲いも終ってはいたが、それでも飼育の仕事がないわけではなかった。暖かい晴天の日には、ビニール戸を除いて日光を水面に当ててやらねばならない。冬眠しているとはいえ蘭鋳は少量の餌をとるし、それに付随する池の底の餌の食べかすも丹念にとる必要があった。  しかし、兄は、そのような処置を忘れたように蘭鋳には一切無関心になってしまった。女の人と会うために出かける日は、夜おそく帰ってくることが多く、朝起きても放心したように庭をながめているだけだった。  母も清夫も、苛立《いらだ》った。母は、牧村家に嫁いでからいつのまにか得た知識をたよりに、池の状態に気をつかい、専門飼育家のもとを訪れては少量の餌をゆずり受け蘭鋳にあたえたりしていた。母の顔には、困惑の色が濃く、時折兄に蘭鋳の扱い状態を報告し、 「俊一さん、それでよいのですね」  と、念を押していた。  清夫は、兄の態度に失望した。素人の母の手では、蘭鋳を生かしておくことはむずかしい。わずかな気候の変化や餌の与え具合によって、蘭鋳は呆気《あつけ》なく水面に浮き上ってしまう。まして亡父の遺した銘魚の後継魚を生み出すことなどは到底不可能だった。  清夫は、兄の性格の一端を見出したように思った。一つのことに熱中すると、他は忘れる。兄の熱中している対象は、蘭鋳から結婚する女の人に移ったのだ。  結婚式は、都心のホテルでおこなわれた。  清夫も母とその末席につらなったが、牧村家側の来会者と女の人の側の来会者とは、すべての点で余りにも対照的であった。伯母をはじめ親族たちや亡父の知人は、上質の布地のモーニングと重々しい留袖や訪問着で盛装し、人数も多かった。が、女の人の側の来会者はわずかで、借着らしい式服をぎこちなく身につけて会場の空気に身をすくめていた。  清夫は、ウェディングドレスをつけて兄と並んでいるその女の人が気の毒になったが、その美しさが清夫の気分をわずかに救った。  新婚旅行に会場から出てゆく兄たちを見送りながら、清夫はその女の人をまじえた生活が数日後からはじまることに胸をときめかせた。兄は、顔を上気させてハイヤーの車窓から手をふっていた。  しかし、翌日の朝早く思いがけぬ報《しら》せが家にもたらされた。  電話のベルに起きた母の声が、急に不吉なひびきを含んだ。清夫が起きてゆくと、母は伯母の家へ電話をしているところだった。はっきりした事情はつかめなかったが、伊豆の海岸で兄が自殺未遂で警察に保護されたという。  清夫は、廊下に立ちすくんだ。兄が死を企てたということが実感にならなかった。そして、あの女の人はどうなったのだろうか、と体のふるえるのを意識しながら思った。  伯母や叔父や兄の従姉《いとこ》が、車でやってきた。叔父が、母からの報せを受けた後にすぐ伊豆の温泉地に向ったという。  伯母たちは、母に自殺の心当りがあるかどうかをしきりにききただした。が、母はすっかり平静さを失っていて、頭をひねっているだけだった。  清夫は学校へ行き午後急いで帰ると、まだ伯母たちは居間に残っていた。かれらの会話から察すると、叔父からは兄と由紀子が無事だという電話が入ったらしい。伯母たちの顔には安堵の色が浮んでいたが、兄が自殺をくわだてた動機をいぶかしむ表情は濃かった。  叔父に伴われて兄と由紀子が帰ってきたのは、その日の夜だった。  兄は、瘻《やつ》れきった顔をして無言のまま二階の部屋に上ってゆき、由紀子は別人のような白けた表情で、 「家に帰ってきます」  と言って、出て行った。  伯母たちがやってきて、叔父の報告をきいた。  兄は、新婚旅行で泊ったホテルを夜になって突然とび出し、由紀子の報せでホテル側もその行方を探したが、幸い崖《がけ》の上で裸足《はだし》のまま坐っているのを警邏《けいら》中の警官に保護された。原因は、警察側の調べによると新婦の由紀子が自分の過去について打ち明けたためらしく、急に黙りこんだ兄が寝巻姿のまま部屋を走り出たという。 「あの由紀子という娘に、男があったというんだね」  伯母が、顔をしかめた。 「それがそうでもないらしい。あの嫁の話では、単なる男友達のことを口にしただけだという。恋愛感情に近いものはあったが、肉体関係などはなかったというのだ。俊一にもその点についてきいてみたが、たしかに由紀子の言った通りだとうなずいていた」  叔父が、母の出したビールを飲みながら言った。 「本当に深い関係はなかったのかね、その男と……」 「それはわからんさ。しかし、あの嫁が口にしたのはそれだけだということはたしかだ」 「それならなぜ飛び出したんだろう。崖の近くまで行ったというのなら自殺を考えていたわけだね」 「実際に自殺する気があったかどうかはわからないが、地元の警察では自殺未遂者として扱っていた。俊一が、そこまで思いつめた気持がわからぬわけでもない。あいつは、純粋というか、病的なほど潔癖な男なんだ。好きで一緒になった女の過去に、恋愛関係にあった男がいたというだけで絶望的になったんだろう」 「嫉妬《しつと》心を起したというわけかい」 「それもあるだろうが……。奴は常人とはちがう神経をもっているんだ、一流会社をやめて金魚を飼おうという男だからね。普通の男とはちがうさ」  叔父の顔は、ビールで赤らんだ。 「嫁は家に帰ったらしいが、どうする?」  と、伯母が言った。 「呆《あき》れたらしいから、帰ってこないかも知れんな。しかし、これは当人同士のことだ。離婚するというのなら仕方もあるまい」  清夫は、次の間から叔父と伯母の会話を耳にしながら、男と女の結びつきが余りにももろいことに心の冷えるのを感じた。  しかし、嫂——由紀子は、翌日の午後家に帰ってきた。貧しい叔父の家にいることもできぬだろうし、叔父にももどるように説得されたのかも知れなかった。  嫂は、母に気まずそうな挨拶をすると静かに二階への階段をふんでいった。  危惧《きぐ》していたこととは逆に、穏やかな生活がはじまった。嫂は、若妻らしい初々しさで兄の身の廻りの世話をし、家事を手伝った。母にも優しかったし、清夫にも柔和な眼を向けてくれた。  ただ兄は、別人のように無口になった。顔色も冴《さ》えず、食事時ぐらいしか階下には降りてこなかった。学校からもどってきた清夫は、塀の外から二階を見上げる。そこには、広縁の籘椅子《とういす》にもたれて庭を放心したように見下ろしている兄の姿があった。  兄が再び蘭鋳の池に近づくようになったのは、二月に入って間もなくだった。兄の眼には思いつめたような光が湧《わ》き、母の手にゆだねられた池の整理に立ち働きはじめた。その動きには、兄が以前にも増して蘭鋳飼育に異常な熱意をしめしていることがはっきりとかぎとれた。  八面ある池の水は、青みどろに変化していた。青水は緑藻《りよくそう》,硅藻《けいそう》、藍藻《らんそう》などのプランクトンが浮游《ふゆう》している水で、太陽熱を吸収して保温力にも富み、昼間は日光の直射で酸素を多量に発散して池の水を浄化するという。つまり青水は、蘭鋳の飼育に欠くことのできないものなのだ。  しかし、藻が多すぎることは、逆に致命的な障害になる。夜間に藻は多量の炭酸ガスを発散し、蘭鋳を窒息死させることにもなる。長い間放置されていた青みどろの池の水は、その限界点近くに達していた。  兄は、清浄な井戸水を汲《く》んで二日間ほど冬の陽光にさらし、青水でにごった水の水面に近い部分を七〇パーセントほど残して汲み置いた水を加えた。  兄は、血走った眼をしてつぎからつぎへと池の水替えをすすめていった。そして、四日後には、すべての池の水替えを終えた。  兄の顔には、深い安堵の色があった。そして、その日から少量の餌をあたえたり、晴天の日に池の底の塵《ちり》を除去したりして終日池の傍をはなれなくなった。  兄と嫂との生活は、物静かなものにみえた。兄は嫂と諍《いさか》いをするようなこともなく、黙々と餌の採集に出掛けたり冬囲いの修理に時間を費やしていた。  ただ嫂は、そんな兄を不機嫌そうな眼をしてながめていた。兄の関心が池にそそがれていることが不服らしく、庭に出ても池の傍には近づかなかった。     二  卵は、早くも三日目あたりから内部に黒い点状の眼が透けてみえるようになり、ほの白い背骨ものぞきみえた。  兄は、竹スダレやビニール覆いで風をふせぎ雨水の入らぬような処置をほどこした。  おだやかな日がつづき、四日目には卵の皮がやぶれ、微細な下半身が水中に垂れた。そして、時折身をふるわせていたが、産卵後六日目には卵からぬけ出し藻にしがみついた。  清夫は、水面に顔を近づけて眼をこらした。透明な体をした小さな生き物が眼にとまり、なおも水中を見つめつづけていると、その付近にも孵化した仔が数多くいることに気づく。それは、夜空を長い間見上げているうちに星の数が無数に湧き出てみえるのに似ていた。  孵化が完全に終った頃、兄が魚藻を静かにとりのぞいた。水中に蘭鋳の仔があおり出され、心もとなそうに尾鰭をふるわせて動いているのがみえた。  小さなコンクリート池の一つに、ミジンコが朱色の塗料を流したように繁殖していた。池には、腐敗した米のとぎ汁や鶏ふんなどがみたされ、それを培養にミジンコの群れは初夏の陽光のもとに次第にその色彩をひろげていた。  兄は、ミジンコをすくうと、小さな絹糸製のフルイでこし、網の目から落ちたミジンコの仔を蘭鋳の仔の泳ぐ池に落す。たちまち仔が寄ってきて、ミジンコをつつく。やがて蘭鋳の透明な腹部に、淡紅色のミジンコがこまかい糸くずのように透けてみえた。  稚魚の成育は順調で一様に青黒くなり、四、五日目ごとに水替えをする池の中を回游するようになった。  玉姫とその後に産卵をした三尾の雌の生みおとした卵からそれぞれかえった稚魚の数は多く、その群泳する姿は壮観だった。兄は、夜間にも懐中電燈を手に稚魚の姿を見守っていた。  三回目の水替えから、稚魚の淘汰《とうた》がはじまった。  白い洗面器に三十尾程度の稚魚を入れると、兄は慎重に選別してゆく。尾の形、背の線、尾の根元の曲り具合をしらべ、欠陥のあると思われる稚魚を小さな網にすくって大きな盥《たらい》に落していった。 「眼を見てごらん。金色に光っているだろう。こういう稚魚は、カシラの浮肉が眼をおおって盲目になるのだ」  と、兄は、妖《あや》しく光る眼をした稚魚を盥に入れた。そしてそれらの欠陥のある稚魚は、惜しげもなく下水の中に捨てられた。  が、二回目の淘汰から小型トラックに乗った男がやってくるようになった。かれは、兄の除去した稚魚を桶に入れると幾許《いくばく》かの金を払って去った。それらは、デパートの金魚売場や夜店の金魚商人に売られるのだ。  最後の淘汰が終った頃、残されたのはわずかに二十尾ほどの蘭鋳だけになっていた。  しかし、兄は上機嫌だった。例年より上質のものが得られ、その中から銘魚の出ることが期待されたのだ。  金剛は、腹を水底にすりつけて身じろぎもしなかったが、時折尾部を浮き上らせると逆立ちするような姿勢をとるようになった。そして、夏の日射しが強くなりはじめた頃には、終日逆立ちしたまま水中にじっとしているのが常になった。  蘭鋳は、観賞という目的だけのために人工的な交配をくり返されてきた。頭部には、獅子ガシラのような浮肉が異常なほどの大きさで盛り上り、背鰭はない。それは一種の奇形であり、泳ぐ機能にも欠け、肥えた体をくねらせ尾鰭をひらめかせて動きまわるにすぎない。が、そのおぼつかない動きに妖しい色気が感じられ、いったん魅せられた者の眼には、気品のある麗魚として映るのだ。  金剛の逆立ちした姿は、蘭鋳が魚としては奇形であることをしめすものであった。老いが、辛うじて保っていた体の均衡を支えることができなくなったにちがいなかった。重い頭が水底に垂れさがり衣の裾のような尾が浮きあがるのは自然であり、背鰭のない金剛の体は、水平に体を維持することができなくなったのだ。 「金剛は、死ぬんじゃないの?」  と、清夫は、金剛の姿に顔をしかめながら兄にたずねた。 「まだ生きるさ。来年の産卵期には、また雌にかけてみる」  兄は、平静な声で答えた。 「雌を追えるの?」 「父の飼っていた老魚に金剛のような逆立ちした雄がいたけど、産卵池に放つと体もしゃんとして若い雄に負けずに雌を追っていた。金剛もそれと同じだ。この魚は、血筋のいい逞しい雄なのだ。来年も使える」  兄は、金剛の姿を見つめていた。  清夫は、蘭鋳に魅せられてゆく自分を意識していた。複雑な飼育によって美麗な魚が生み出されてゆくが、その確率はきわめてうすく、銘魚とよべるものは何十万個という孵化した稚魚の中から一尾得られるだけだ。  しかも蘭鋳は、果てしない出費のみを強いる。デパートや金魚店で売られている蘭鋳は、専門飼育家によって淘汰された屑《くず》の魚だ。金銭の対象となるのは、それらの欠陥魚のみで、銘魚と呼ばれるものは商品とはならない。  飼育家の中には、素人に成育した蘭鋳を売るのを職業としている者もいる。が、それらは、飼育家から蔑まれる存在となっている。専門家同士で金銭による親魚の譲渡はあっても、それは売買の空気とは程遠いのだ。  蘭鋳の池は、日当りのよい場所に設けられねばならないが、南の隣接地に二階屋でも建てられれば陽光の恵みから絶たれてたちまち蘭鋳の飼育には不適当となる。必然的に、飼育家は日当りのよい場所を求めて移ってゆく。  或る飼育家は、そうした理由から転居をつづけるうちに経済的な破綻《はたん》を起し、妻にも逃げられる結果となった。が、蘭鋳に対する魅惑はその男をとらえてはなさず、病歿《びようぼつ》するまで飼育をやめなかったという。  清夫は、そうした専門飼育家の話を素直に理解できた。たしかに蘭鋳は、人間を魅了する要素に富んでいる。蘭鋳は、浅いコンクリート池の中で孵化し、生涯を終る。水質、餌の選択等、人間の細心な注意によってのみ生きつづける魚だ。魚としては奇形であるが、それは人間の長い年月をへた工夫によって生み出された動く美術品だ。人間の豊かな飼育経験に支えられる以外には生きることのできない生き物。そのはかなさが、飼育者の心を強くとらえていることを清夫は知っていた。  清夫は、兄の仕事を手伝い、日曜日には車に乗って遠くミジンコや赤ボーフラの採集にも出掛けた。水替えの日には、兄の指示にしたがって桶で水をかい出したり、塵埃《じんあい》の除去にもつとめた。  水替えは午前中に終らねばならぬので母も手伝ったが、嫂は、全く関心がないらしく池の近くに立つこともなかった。  黒い稚魚が回游をはじめた時、清夫は、その見事さに興奮して居間の嫂にも見るようにすすめた。  が、嫂は、 「魚ってきらいなの。気味が悪いから……」  と言って、顔をしかめた。  その時から清夫は、嫂の前で蘭鋳のことについて話をすることは避けるようになった。  七月に入って黒い稚魚の体が色づきはじめた頃、友成が週に二回家にやってくるようになった。  一年後の中学校受験の準備に家庭教師をつけてやると言い出したのは兄で、区民新聞の案内欄に広告を出したのだ。  母は、兄の好意に戸惑っていたが、兄は、亡父が少年時代の自分にしてくれた通りのことを清夫にもしてやりたいと言った。母は恐縮し、清夫を傍にすえて手をつかせ頭を下げさせた。  数日後、学生服を着たひ弱そうな男が、玄関に立った。 「友成です」  男は、殊勝な表情で挨拶した。  応接間で嫂と母が応接し、清夫も紹介された。色素の薄い毛髪と垂れた肩が、友成を弱々しいものにみせていた。 「なんだか学生らしくない人ね」  嫂は、男が帰ると顔をしかめた。その大学生は、如才なく笑いを絶やさなかったが、眼には妙に老成した冷やかな光がただよっていた。  翌日の午後、清夫は二階の一室で友成と二人きりになって向い合った。 「清夫君と言うんだね。仲良くやろう」  友成は手をさし出し、清夫の手をつかんだ。その掌は妙に生温かく、女のように小さかった。  友成の教え方は、退屈そうだった。清夫に問題をやらせる間、庭に視線を向けたり天井を仰いだりしている。そして、上衣《うわぎ》のポケットからやすりを取り出すと、爪を丹念にみがいたりしていた。  清夫の終えた問題をしらべるのも億劫《おつくう》そうだったが、間違えた個所の説明は明快で、清夫にはよく理解できた。 「さ、休憩だ」  友成は、三十分ほどたつと体を崩す。そして、清夫に家族の構成などを執拗に質問した。 「すると、君は後妻の子というわけだね。それにしては、家庭教師をつけてくれたりして、兄さんという人は余程いい人なんだな」  友成は、分別くさい表情でしきりにうなずいていた。  かれは、むろん庭の一角にある池の群れにも眼をとめた。蘭鋳を飼育しているのだと言うと、友成は、ひどく興味をそそられたらしかった。 「あれが、兄さんという人かい。ばかに大きい体をした人だな」  友成は、頭をのばして庭をうかがった。まばゆい池の傍では、麦藁帽子をかぶった兄が立っていた。 「勤めにも出ずに金魚を飼っているなんて、結構な御身分だね」  友成が、薄ら笑いしながら言った。  清夫は、兄に批判的な言葉をはく友成に不快な感じがした。そして、返事もせずに教科書に眼を落した。  学習が終る頃になると、母か嫂が茶菓をお盆にのせて上ってくる。その足音をきくと、友成は姿勢を直し、授業に専心しているような態度をよそおった。そして、茶をのみながら母や嫂に誠実な学生らしい口調で言葉を交わした。 「御主人は、蘭鋳を飼っておられるようですが、高価なものなのでしょうね」  と、友成は嫂に言った。 「さあ」  嫂は頭をかしげ、清夫に答えをうながすような眼を向けた。 「高いものは限度がないようです。平均して一尾十万円ぐらいだそうです」  清夫が遠慮がちに答えると、友成は大袈裟《おおげさ》に感心するような素振りをし、 「いい御趣味をお持ちですね」  と、庭に視線を向けた。  しかし、嫂が蘭鋳に冷淡であることを気づいたらしい友成は、そのことにはふれず他に話題を変えるようになった。学校の生活、奇妙な趣味をもつ学生の話、無銭旅行の経験など、友成の話は豊富だった。嫂は、口数も少なく相槌《あいづち》を打っていたが、時折白い歯をのぞかせて笑うこともあった  友成は、自分の身の上話もした。父は高級官吏であったが、友成が小学生の頃汚職事件に連座して自殺した。そして、母も数年前理由もわからず失踪《しつそう》して、現在も行方知れずだという。 「生活が大変でしょうね」  嫂は、同情した。 「母がいなくなってから叔父の家に厄介になっていましたが、やはり居辛くて出てしまいました。仕方がないので、学習塾に教えに通ったりこちらへ家庭教師に来させていただいたりしてやっているわけですが、卒業まであと一年半ですから、頑張ってみたいと思っています」  と、友成は、少し沈んだ表情で言った。  夕食の折に、嫂が友成の境遇のことを口にした。 「そんな風には見えませんが、苦労している方なんですね」  母は、顔をくもらせた。  嫂と母の友成に対する態度は、その日を境に幾分変ったようにみえた。夕食は出さぬという約束だったが、茶菓の代りにサンドウィッチやホットドックに紅茶を添えて出すようになった。それは友成が、学費を捻出《ねんしゆつ》するために日に二食しかとらぬことを口にしたからだった。 「また参ります」  友成は、帰る折に玄関で殊勝げな頭のさげ方をすると、内股《うちまた》ぎみの足どりで門の外へ去って行った。  夏休みがやってきて、稚魚は急に成長し、体色もあざやかな色彩を帯びはじめた。  清夫は、毎朝兄と餌の採取に暗いうちから起きて出掛けるようになった。ライトバンの小型車は、暗い道を埼玉県境まで疾走する。ミジンコは、強い暑気で腐りやすいので、餌は赤ボーフラや糸ミミズが必要になっていた。  兄は、それらの生物が湧く池や沼をよく知っていて、一時間ほどの間に充分な餌を自動車の荷台に積みこむ。家に帰りつくのは、いつも七時を過ぎていた。  兄は、池のほとりにしゃがむと餌をあたえはじめる。稚魚は、親指ほどの大きさにまで成長して、体色も朱、白、更紗《さらさ》などさまざまな色をみせはじめている。そして、蘭鋳特有の体をくねらせるような泳ぎ方をしながら、糸ミミズや赤ボーフラを競って食べていた。  親魚の体色の輝きも、ひときわ増した。  兄は、時折餌を掌にのせて水中に沈める。親魚が、尾をしなわせて集まってくる。そして、鱗《うろこ》の光る体をかたむけて兄の掌の上に載った。  蘭鋳の口吻《こうふん》が、掌の上の餌をつつく。と、必ず兄は、指で軽く蘭鋳の肉づきのよい体をにぎる。蘭鋳は、身をくねらせ広く張られた尾を兄の掌にたたきつけ、しばらくすると落着きを得るのか兄の掌の中で口を開け閉じしている。  兄が静かに指をひらくと、蘭鋳は身を大きく動かして池の中に泳ぎ出る。そして、それを待ちかねていたように、次の蘭鋳が兄の掌の中に身をすべりこませてくる。  そんな折の兄の顔には、恍惚《こうこつ》とした表情がうかんでいる。兄は、掌の中で動く蘭鋳の体の感触をたのしんでいるようにみえた。     三  嫂は、結婚前にやっていたという毛糸の編物の稽古に通うようになった。  一日置きに、夕食後編機を入れたケースを手に家を出てゆく。そして、夜もおそく居間に機械を据えてキャリジを左右に動かしていた。  嫂は、その稽古をはじめたことで気もまぎれるようになったのか、明るい眼をみせるようになった。 「秋になったら、素敵な模様のセーターを編んであげるわね」  嫂は、キャリジの動きを見つめている清夫に微笑しながら言ったりした。  友成は、定められた日の定められた時刻に必ずやってきた。 「アルバイトに清涼飲料水の配達をやってみたが、二日でこりたよ。牛か馬みたいに働かせやがる」  友成は、舌打ちして言ったりした。  雨の少ない夏であった。庭の緑は濃く、池の水は、三日もたたぬ間に藻《も》の繁殖で緑色に染まった。  友成は、階下の編機の音にも気づいて、 「編物をやられるそうですね」  と、二階に上ってきた嫂に言った。 「夏に編物なんて、きいただけで暑苦しいでしょう。でも、なにかやっていないと所在なくて……」  嫂は、扇風機に髪をそよがせながら言った。 「夏は、どこへも行かれないのですか」  友成が、冷たいジュースに口をつけた。 「勤めていた頃は、それが楽しみで……。でも、家庭に入るとそんなこともできないし」 「清夫君は、どうするんだい」  友成が、清夫の顔に眼を向けた。 「去年は、母に連れられて東北の親戚の家に行ってお墓参りをしてきました」 「兄さんとは行かないのかい」 「兄には、その暇がありません。冬以外には、池の仕事が忙しく家は空けられないのです」  清夫は、蘭鋳について口にするのが嫂の手前ためらわれたが、自分の知識をしめすように説明口調で言った。 「それならお嫂《ねえ》さんに連れて行ってもらったら」  友成は、清夫と由紀子を同時にうかがうような眼をして言った。  清夫は、嫂が黙ったままかすかに頬をゆるめるのを見た。 「奥さんは、泳ぎの方はいかがなんですか」  友成が、嫂の顔をのぞきこむように見つめた。 「よく海に行きましたわ」  嫂が静かな口調で答えた。 「それならいい所がありますよ」  と言って、友成は、伊豆の西海岸にある町のことを口にした。  その町の海は、水も澄んでいて海水浴客も少ない。旅館以外に民宿も多く、今から申しこんでも部屋は必ずとれる。去年行って知った海浜だが、魚はむろん新鮮だし人情も温かいという。 「清夫君を連れて行ってみたらどうです」  友成は、熱心に言った。 「そうですね」  嫂は、曖昧《あいまい》な返事をしてそれきり口をつぐみ、まばゆい庭を見下ろしていた。  清夫は、小学校の三年生と四年生の折に、学校での企画で千葉の海岸に二泊どまりで行ったことがある。が、その後は海水浴に行った経験はなく、区民プールに友達とゆく程度であった。  夏休みが終って学校へ出ると、クラスの者たちは海や山へ行った話を熱っぽく交わしているが、そんな時に清夫はいつも話の輪から遠ざかっていた。兄が蘭鋳飼育に家をあけることはできず、母にも家事がある。そうした家庭的条件が行楽をさまたげる原因なのだが、清夫自身にも母とこの家に世話になっているという意識が強く、友達の誘いにも応じないのだ。  そうした清夫にとって、嫂と海水浴に出掛けたら……という友成のすすめは大きな刺戟《しげき》となった。嫂が家を留守にするのは可能だし、泳ぎのできる嫂と思いきり海水浴をしたかった。  しかし、生れついてから耐えることになれてきた清夫は、それが実現することはあるまいと自分に言いきかせた。編物教室に行く以外は外出もしない嫂が、自分を連れて遠出することはなさそうに思えた。もしも海水浴へ行くとしても兄の許可を得なければならないし、ほとんど兄と口もきかぬ嫂が、そんなことを頼みこむようなことはないにちがいなかった。  数日が過ぎ、友成も家にやってきて嫂とも会話を交わしたりしたが、それきり海水浴のことは話題にのぼらず、清夫はすっかり海へ行くことは諦《あきら》めた。  しかし、一週間ほどたった日の朝食の席で、嫂が突然清夫を海水浴へつれて行ってやりたいと言った。 「よろしいでしょう? 清夫ちゃんも夏休みにどこへもつれて行ってやれないのでは可哀想よ」  嫂は、兄にさりげない口調で言った。 「それはいい。本当はおれが連れて行ってやらないといけないのだが、今は眼をはなせない大切な時期なので家はあけられない」  兄は、清夫にすまなそうな眼を向けた。  母は恐縮していたが、その顔は明るんでいた。兄と嫂の間には、新婚旅行以来冷たい空気がよどんでいる。が、嫂が清夫を海水浴に連れてゆくという申出とそれに賛成した兄の態度が、兄夫婦の関係をいくらかでもなごませるきっかけになるのではないかと思っているようだった。  その日、嫂はデパートへ買物に出掛けると、自分の海水着と海水帽以外に清夫の海水パンツも買ってきた。友成の口にした伊豆西海岸の町役場にも電話をかけ、民宿の一室を予約した。  翌々日の朝早く、清夫は嫂と家を出た。母は、門の外まで見送ると、 「よろしくお願いいたします」  と、嫂に頭をさげた。  嫂は、大きな柄のワンピースを着て、頭にはつばの広い帽子をかぶっていた。ほっそりした体から形の良い足ののびた嫂の姿は、清夫の眼にも美しくみえた。それは、家の中で編物機を動かす嫂とは別人のように、いきいきとした未婚の女のようにみえた。  東京から湘南電車に乗った清夫は、眼を輝かせて窓外の風光をながめていた。車内には、家族づれの客がにぎやかな会話を交わして乗っている。生れついてから家族とともに旅をしたことのない清夫は、車内の客たちをまばゆそうにながめていたが、美しい嫂と旅をしていることを思うと、ようやく人並みの家庭的な生活がはじまりかけているのだと思った。  窓外に、海の輝きがよぎるようになった。清夫は、嫂の買ってくれた駅弁をひらいた。 「私も旅をするのは、結婚以来半年ぶりだわ。旅っていいわね。時々二人で旅行をしない? 清夫ちゃんと一緒だと、私も楽しいわ」  嫂は、機嫌よさそうに白い歯列をのぞかせた。  下田駅で降りると、観光バスに乗りかえた。バスは、海沿いの道を走り、魚の匂いのあふれた漁村をいくつも通りすぎた。  満員だった乗客が次第に降りて、バスの中の客はまばらになり、自然洞穴のようなトンネルをぬけると、前面に海の色がひらけた。海岸沿いの道の傍から背後のなだらかな傾斜に家々がつらなり、海面をかかえこむように岬が両側に突き出ている。  バスは、曲りくねった道を進むと、砂浜のひろがった海岸の近くで停車した。  清夫は、ボストンバッグを手に嫂の後からバスを降り、海浜に眼を向けた。おだやかな波が寄せていて、海水浴をたのしむ人々の姿がみえる。砂浜にはビーチパラソルが華やかな茸《きのこ》のように立ちならび、女の海水着も色彩をふりまいたように散っていた。  売店で民宿の場所をきいていた嫂が、清夫に声をかけた。  清夫は、嫂について石段をのぼり、石垣でこまかく区切られた家々の間を縫う路地を進んだ。そして、何度目かの路《みち》をまがった時、路の左側に「民宿・弥太郎」という看板を眼にした。  その家は、長い塀にかこまれていて、庭の一隅に木の目も新しい小さな家が四軒建てられていた。  嫂が、正面の大きな家の土間に入ってゆくと、家の主婦らしい中年の女と連れ立って出てきて、はずれに立つ家のドアをあけるとガラス窓をあけ放った。内部は、六畳と四畳半の和室で、家の隅には手洗いがもうけられていた。  女が、茶を持ってきた。 「料理などとよべるものではなく、お口にはあいませんでしょうが、魚だけはとり立てのものですから……」  と、女は、嫂をまぶしそうに見た。  女が出て行くと、嫂が、 「泳ぎに行きましょう」  と、ショーケースを手に隣室へ入っていった。  清夫は、海水パンツにはきかえると庭に下り立ち嫂の出てくるのを待った。  やがて家の中から淡いブルーの海水着と白い海水帽をかぶった嫂が、朱色のバスタオルを肩にかけて出てきた。紫外線よけのためか、顔には白い化粧品が塗られ、唇にも口紅が濃く彩られていた。  形よくのびた四肢の白さが、海水着の色に映えて一層際立ってみえた。嫂は、手にしたサングラスをかけた。  嫂は、軽い足どりで石塀の間の路をたどり、石段を下りた。そして、砂利道を横切ると、砂浜へおりていった。  貸ボートの看板にまじって、貸パラソルの旗がひるがえっていた。嫂が、その旗の下に坐った男に金を払うと、男は空いた場所にスコップで穴を掘り、パラソルを突き立ててくれた。  清夫は、緑色に淡くそまったパラソルの下に身を入れ、嫂の傍に坐ってあたりをながめた。海は内海になっていて、それを抱きこむように湾の内側から突き出している岬の先端には波の飛沫《しぶき》が白々と上っている。  清夫が水際に行こうと腰をあげかけた時、不意に背後で声がした。  ふり返ると、眼を大きくひらいた男の顔があった。 「偶然ですね、来ていたんですか」  男は、友成だった。 「あら」  と、嫂は、サングラスを向けた。 「偶然ですね」  と再び友成が言った。そして、 「よく来たね」  と、清夫に言った。  友成は、嫂の傍に坐った。  清夫は、ふと嫂の顔が少しこわばり、それとは対照的に友成の目もとに微笑がただよっているのに気づいた。嫂は、友成とたまたま出会ったことに気分が重くなっているのかも知れないと思った。  たしかに友成が、前年の夏につづいてこの海岸にやってきても不思議はない。が、友成は、今年もこの海岸へ行くとは言っていなかった。それだけに、清夫も友成に会うことなど予想もしていなかったが、嫂と二人だけの旅に友成がわりこんできたような不快な気分になった。 「泳いできたら……」  と、友成が言った。  清夫はうなずくと、海岸線に降りていった。  海水は冷たかったが、思いきって身をしずめると冷たさは感じられなくなった。波が寄せてくるたびに、波に乗ったりもぐったりしている者が多い。清夫は、その中に加わると、波のうねりに体を何度もはね上げさせた。  清夫は、嫂の坐っているパラソルの方に眼をむけた。  嫂がちょうど立ち上ったところで、友成と砂浜をおりてくる。そして、海水の中へ友成と並んで入ってきた。  波がきた。嫂の体が浮き上り、次の波がくると嫂はもぐり、顔を出した。次第に深みへ入って、やがて波をくぐりながら泳ぎ出し、その後を友成の頭がつづいてゆく。  沖にはボートがうかび、海は輝いている。その中を嫂の白い海水帽と友成の黒い頭が、わずかに上下しながら進んでゆく。  清夫は、体が冷えてきたのを感じて砂浜にあがって坐ると、後ろ手に手をついて海をながめた。  嫂の白い海水帽と黒い頭が波間に近々と並んでゆれている。二人は立泳ぎしているのか、その場で動かなくなった。  清夫は、嫂と友成が自分だけを残して沖に出ていったことに淋しさを感じた。友成は、一見弱々しげにみえるが、本質的にはふてぶてしいほどの強靭《きようじん》さがある。おそらく友成は、嫂を強引にさそって沖に出たにちがいない。  再び白い海水帽が沖にむかって動き出し、それを黒い頭が追ってゆく。しばらくすると、海水帽がとまり、黒い頭と重なり、海面から没した。  そんなことが何度かくり返された後、遠くはなれたブイに友成が上り、嫂の体を引き上げるのがみえた。そして二人は、腹這《はらば》いになったらしく、友成の体の皮膚の色と、嫂の淡青色の海水着の色が、ブイの上に横たわった。  清夫は、自分が全く無視されているような苛立《いらだ》ちを感じながら再び海水の中に入っていった。海はわずかに満ちはじめていて、波も大きくなっていた。  陽光が西にかたむき、沖に林立する雲が|茜色に《あかねいろ》そまりはじめた。砂浜を引き上げる者も出てきて、ビーチパラソルも徐々に閉じられてゆく。  清夫は、砂浜にあがると沖の方向にあるブイを見つめた。が、そこにはすでに淡青色の海水着も友成らしい姿もみられなかった。  清夫は、パラソルの傍にもどった。そこには、朱色のタオルの上に嫂のサングラスと小物入れがころがっているだけだった。  夕照が、海面を彩った。パラソルの貸業者が、パラソルをひきぬくと去っていった。  ようやく海面に白い海水帽がみえ、嫂が、砂浜にあがってきた。そして、海水帽をぬぐと、タオルで頭と顔をぬぐった。 「友成さんは?」  と、清夫はたずねた。 「さあ? 一緒に海に入ったけど別々に泳いだから……」  嫂は、さりげなく言った。  清夫は、沖にむかって泳いでいった二人が嫂と友成ではなかったのかと一瞬思った。が、自分は、二人がパラソルの下から連れ立って沖へと泳いでゆく姿を見つめつづけていた。それは決してまちがいない事実で、嫂の言葉は少しちがっていると思った。  嫂が、タオルを肩にかけて歩き出し、時折濡れた頭髪をタオルでかき上げた。  部屋にもどると、民宿の女が入浴をすすめにきた。 「私を先に入らせてね。海水で体がべたべたして気持が悪いの」  と、嫂は、親しげな眼をむけて家から出て行った。  電燈がともった。  民宿の女が、夕食をはこんできた。不恰好に切った刺身と魚の煮つけが、食卓にならんだ。 「友成さんと泳いだ?」  嫂は、箸《はし》をうごかしながら眼をあげた。 「いいえ」 「どこで泳いでいたの?」 「波乗りをしていました」 「面白かった?」 「はい」 「私も久しぶりで泳いで楽しかったわ。いつかまた二人で、こんな旅行をしましょうね」  清夫は、頬をゆるめるとうなずいた。  嫂は、家にいる時とはちがって生きいきしているようにみえる。結婚前の嫂の印象ともちがって、解放感につつまれているようにも感じられる。自分を見る眼にも、今までにない光がうかんでいた。  早々にふとんが敷かれた。一泊どまりの旅行なので、明朝早めに起きて午《ひる》過ぎまで泳ぎ、午後に帰ることになった。  嫂のふとんは六畳間に、清夫のふとんは四畳半の部屋に敷かれた。  清夫は、嫂が顔の手入れをしている姿をながめながら、ふとんに身を横たえると眼を閉じた。母の傍で眠るのが常であるのに、嫂と同じ家でふとんをならべていることが奇妙な感じであった。  遠く波の音がしている。母のことが思われた。ひどくはなれた所に来ているような気がしきりにした。  かれは、いつの間にか眠りの中に入りこんでいた。  尿意を夢現《ゆめうつつ》に感じながら、かれはふとんの中からぬけ出せなかったが、遂に堪えきれず起き上った。  手洗いを出て自分の部屋にもどろうとした清夫は、隣室の六畳間に嫂の姿がないことに気づいた  時刻は、何時であるかわからなかった。かれは、窓ガラス越しに空を見上げた。夜空には、冴《さ》えた星が散っている。  嫂は、どこへ行ったのだろう。海辺のせいか暑さは感じられず、嫂が涼をとるために戸外へ出て行ったとは思えない。窓ガラスに顔を押しつけて庭をうかがってみたが、人影はなかった。  清夫は、ふとんに身を横たえ軒の端に光る星を見上げた。  昼間眼にした光景がよみがえってきた。まばゆい海面を白い海水帽と黒い頭がもつれ合うように沖へむかって泳いでいた。それは、ひどく親しげなものにみえたが、もしかすると嫂は、友成と夜の海岸を散策でもしているのではないのだろうか。  清夫の胸にわだかまっていた疑惑が、はっきりとした形をとりはじめた。友成とこの海岸で会ったことは、余りにも偶然すぎる。友成が声をかけてきた時、その驚きの表現がどことなく不自然で、嫂の表情にも単純な意外さとは別の表情があった。嫂は、顔をこわばらせ口ごもりがちだった。  友成が家庭教師に家へきた折、自分が席をはずしたすきをねらって嫂との間に海岸で落合う約束を交わしたのではないのだろうか。それは、いかにも友成のやりそうなことに思えた。  庭にひそやかな足音がした。清夫は、寝返りをうつと隣室に背を向け息をひそめた。足音が家に沿ってまわってきて、ドアの静かにひらく音がした。  隣室に人の入る気配がし、衣服の着替える音もつたわってきた。やがてふとんに人の体が横たわり、深い吐息をつく音がきこえた。それは、あきらかに嫂の吐く息だった。  清夫は、かたく眼をとじた。自分の起きていることを気づかれてはならぬと思った。  しばらくすると、隣室からかすかな寝息がきこえてきた。清夫の体の緊張がとけた。かれは、かすかに眼を開けると軒端の星の光を見上げた。なんとなく夜空に、夜明けに近い青味をおびた色がひろがりはじめているように思えた。  ……翌朝、嫂は、朝食をすますと頭が痛いといって再びふとんに横になった。  清夫は、一人で浜に出ると前日と同じように波乗りをした。浜を時々見渡してみたが、友成の姿はなかった。  正午近く民宿の家にもどると、嫂は起きたばかりらしく髪の手入れをしていた。 「昼食をとったら帰り仕度をはじめるから、早く体を洗っていらっしゃい」  と、嫂は、鏡に顔を向けたまま言った。  母屋の裏にある井戸水で体を洗ってもどってくると、食卓の上には丼物《どんぶりもの》の昼食が出ていた。 「昨日、久しぶりに泳いだので疲れたわ。頭の痛いのはようやくなおったけど……。今日は一緒に泳ごうと思ったのに、残念だったわね」  嫂は、丼物に少し手をつけただけで箸をおいた。  帰り仕度をすませると、二人はバス停留所に行った。清夫は、友成が送りに出ているにちがいないと思ったが、その姿はなかった。  バスから電車に乗りついで東京へとむかった。嫂は黙しがちで、電車の中では顔にハンカチーフをかぶせて眠っていた。  清夫は、嫂と並んで席にもたれながら友成と海岸で会ったことは口外してはならないと思った。嫂には口止めされなくとも、家庭の平穏を保つためには、友成のことについて沈黙を守るべきだと自分に言いきかせていた。  家に帰りついたのは、午後八時すぎだった。嫂は、疲れたように二階への階段をふんで行った。  しかし、翌朝起きてきた嫂は、見ちがえるように元気な顔つきをしていた。そして、餌の採集から兄がもどってくると、いそいそと朝食の準備をととのえた。  食卓に坐ると、嫂は海水浴のことを話しはじめ、ふと思い出したように、 「偶然でしたけど、家庭教師の友成さんに海岸で会ったんです。毎夏行っているというから不思議でもないんでしょうが、急に声をかけられて驚きました。そうだったわよね、清夫ちゃん」  と、清夫の顔をみつめた。  清夫は、うなずいた。かれの頭は、錯乱していた。自分はつまらぬ想像をしていたのだろうか。もしも嫂が友成と海岸で落合う約束をしていたら、自分からそのことを口にするはずはない。嫂の言う通り友成と会ったのは、偶然だったのかも知れない。  清夫は、胸にわだかまっていたものが徐々に氷解してゆくのを感じた。夜、嫂が戸外に出ていったのも、ひとりで海岸を散歩していたにすぎないのだろう。嫂に疑惑をいだいていたことが恥ずかしい気がして、かれは嫂の顔から視線をそらすとせわしなく箸を動かした。     四  友成が家に姿をあらわしたのは、二日後であった。 「あの日の翌日帰ったんだってね。民宿の家にいったらそう言ってた。一緒に泳げなくて惜しかったな」  友成は、日焼けした顔で言った。  学習がはじまった。友成は、いつものように問題を清夫に出すと、所在なさそうに姿勢をくずした。ワイシャツをはだけて扇風機の風を胸にあてたり、小さなあくびをしたりしていた。  階下から、嫂の編機を動かす音がしてきた。それは、時々針の目を変えるためとまったが、再び単調な音が休みなくきこえてきた。  二時間近い学習が終った頃、階段をふむ足音がした。部屋に上ってきたのは、母だった。  友成の顔に、拍子ぬけした表情が露骨にうかんだ。おそらくかれは、嫂と海水浴の話をしたかったにちがいなかった。  母が部屋から出てゆくと、友成は食卓盆の上の西瓜《すいか》にかぶりついた。そして、種を口からはき出しながら、 「庭の蘭鋳を一度も見たことがないが、見せてくれないかな」  と、言った。  兄は、秋におこなわれる年一回の品評会の打ち合せに出掛けて留守だったが、蘭鋳を見せるだけのことなら許可を得る必要もないと思った。むしろ清夫は、友成に兄の手がけてきた銘魚をみせたい欲望にかられた。  西瓜を食べ終ると、清夫は、友成と階下におりた。そして、廊下を曲ると居間の前の庭石におかれた下駄をはいた。 「先日は失礼しました」  友成が、居間にいる嫂に軽く頭をさげた。  嫂は、編機の手をとめ無言で挨拶を返した。  清夫は、友成をつれて庭石をふんでゆくと八面の池をかこむ金網の戸をあけた。 「ずいぶん厳重だね」  友成が、金網を見まわした。 「猫の入るのをふせぐためです」 「なるほど、何万も何十万もする魚が野良猫の餌になっちゃ、泣くにも泣けないからな」  清夫は、顔をしかめた。友成の言葉に、冷笑するようなひびきがこめられているのを感じたのだ。 「いるいる。すごいな。こんな魚だとは知らなかった。グロテスクな形だけど、きれいなもんだな」  友成は、親魚の泳ぐ池に眼をかがやかせた。そして、傍におかれた手網をつかむと水面に近づけた。  清夫は、うろたえた。見るだけだと思っていたのに、友成は蘭鋳をすくう気らしい。 「だめです。蘭鋳をすくうのは兄だけなんです」  清夫は、うわずった声で言った。 「大丈夫だよ。高校の頃までは、魚釣りをして魚の扱いにはなれているんだ。弱らせるようなことなんかしないよ」  そう言っている間にも、友成の手にした網は、動きの鈍い朱と白のまだらな体色をもった御所桜という雌魚をとらえていた。そして、網に入れたまま水面をひきよせると、しきりにはねる魚体をみつめていたが、手をつき入れてその体をつかみ上げた。 「尾鰭《おひれ》がこわれるからやめて下さい」  清夫の顔は、ひきつれていた。 「そんなに気にすることはないよ。魚であることに変りはないんだ」  友成は、清夫を無視するように口をあえがせる御所桜の頭部や尾鰭に手をふれてから、水面に投げ入れた。  清夫は、顔色を変えた。兄が蘭鋳をすくう時は、尾鰭をいためぬように頭部から静かに網を入れ、引き寄せてから体をにぎることはあっても水からはなさない。まして、水面に蘭鋳を落すようなことはしなかった。  友成の網は、朱色の体をもつ匂紅という雌魚を追い、それを手もとに引き寄せた。 「やめて下さい。兄に叱られます」  清夫は、耐えきれずに友成の手にした網の柄をつかんだ。 「わかった、わかった。やめるよ」  友成が、笑いながら手網をはなした。  清夫の胸に、怒りと悲しみがこみ上げた。兄が一日も休まず手がけている蘭鋳を、駄金で弄《もてあそ》ぶように扱う友成が許せなかった。  清夫は、金網の外に出てゆく友成の後ろ姿をうるんだ眼をして見つめた。  友成が、居間の前の廊下に上った。そして、こちらをふり向きながら、なにか嫂に話しかけている。  清夫は、庭の暑い日射しの下で、友成が廊下を消えるまで立ちつくしていた。  その日、御所桜と匂紅は、血を吐いた。発見したのは一時間ほどして帰ってきた兄で、金網の中から顔色を変えて出てくると清夫を呼びつけた。 「蘭鋳を乱暴にすくったね。水温の高い季節だし、餌も食べた後だ。静かにさせておかなくては、血を吐くのだ」  清夫は、唇をかみしめた。自分は蘭鋳を貴重なものだと思っているし、その飼育が入念な注意と根気を要するものだということも知っている。兄の許可を得ずに、蘭鋳をいじるような気は毛頭ない。自分が疑われることは辛いが、友成が網を手にしたことを知れば、兄は蘭鋳が汚されたように激しい憤りをしめすだろう。  清夫は、兄の眼を見つめていた。兄の信頼を失うことは、なににも増して堪えがたいことだった。  かれは、事実を口にしようと決心した。  その時、かれの耳に嫂の思いがけない声が不意にきこえてきた。廊下に出てきた嫂は、 「清夫ちゃんじゃありません。私がすくったのです」  と、言った。  兄が、ぎくりとしたように嫂の顔を見つめた。 「初めて池の所に行って蘭鋳を見たのですが、きれいな魚だったので……。これからは、すくったりはしません」  嫂は、淡々とした口調で言った。  兄は、無言で立ちつくしていたが、こわばった表情でその場をはなれると池の方へぎこちない足どりで歩いていった。  清夫は、再び編機を動かしはじめた嫂の姿に視線を走らせた。嫂は、嘘をついた。友成をかばうために、自分がやったといったのだ。  清夫は、嫂と友成の間に秘事の匂いをかぎとった。  嫂が家から姿を消したのは、それから半月ほど後であった。その夜、編物教室に行くといって出ていった嫂は、翌朝になってももどってこなかったのだ。  母は、親戚《しんせき》の者たちの耳に入ることをおそれて、すぐに嫂の叔父の家にも行ってみたがそこにも嫂の姿はなかった。  嫂の行動には、不審な点が多かった。一日置きに編物の稽古に通っていたが、帰宅は急に不規則になって午前零時をすぎることも多く、外出もほとんどしなかった嫂が昼間でもしばしば家をあけるようになっていた。  ほとんど習慣的になっていた編機を動かすこともやめて、家にいる時も放心したように庭を長い間ながめたりしていた。  嫂の失踪《しつそう》には、当然男の存在が考えられた。そして、その相手が、ふっつりと姿を現わさなくなった友成らしいと察した母の驚きは大きかった。  母は、友成の下宿先を探して訪ねあてたが、二日前に旅行をするからと言ったままもどらないことがわかった。  兄の態度は、無気味だった。嫂を探し出そうとする気配は全くなく、かたく口をつぐんだまま池の傍に坐りつづけている。夕闇が池をつつむ頃になっても、兄は池のふちからはなれなかった。  嫂が失踪してから三日目の午後、警察から思いがけぬ電話があった。清夫と嫂とが海水浴に行った伊豆半島の西海岸の町付近で、男女の心中事件があり、女のみが入水《じゆすい》死体として発見された。所持品をしらべた結果、嫂にちがいないという。  母は、早速嫂の叔父と連絡をとり、夕方の電車で伊豆へとむかった。  母が帰ってきたのは、翌日の午後だった。兄は、池の傍に坐り、伯母が居間で母の帰りを待っていた。  母の話では、心中の相手の男は予想通り友成だった。二人は、前日の夜宿を出ると海岸に行き、そこで睡眠薬をのみ海にふみこんでいった。嫂はそのまま海中に没したが、友成は辛うじて砂浜に逼《は》い上ったという。 「しかし、由紀子さんはあの男に誘われたようです。警察の調べによると、友成という男は、過去に三度も心中未遂事件を起していて、そのうちの一回は女の方だけが死んだそうです。警察ではひどく腹を立てて、死神のようなやつだと言っていました。由紀子さんは魔がさしたのです」  母は、由紀子をかばうような口調で言った。 「理由はどうあろうと、恥さらしだよ。あんな嫁をもらったのがまちがいだが、その家庭教師をしていたとかいう男の素性も、あんたたちは気づかなかったのかね」  伯母は、顔をはげしくゆがめた。  母は、頭を深く垂れた。伯母の言葉には、後妻である母の子に家庭教師をつけていたという非難もふくまれていることはあきらかだった。 「嫁の遺体はどうしたんだね」 「あちらの町でお骨にしまして、叔父さんという方が持って帰りました」 「当り前だよ。そんなけがらわしいものを、この家に持ちこめるものかね」  伯母は、荒々しい語調で言うと顔を庭の池の方に向けた。 「俊一も一人前の年をして、金魚なんか飼ったりしているからこんなことになるんだ。あんたからも、よく言いきかせてくれないと困るね」  と言うと、伯母は立ち上って玄関の方へ足早に出て行った。  伯母を送り出してもどってきた母は、しばらくの間居間に坐っていた。が、やがて立ち上ると、裏玄関から庭にまわり、金網の中へ入っていった。  兄は、池のふちにおかれた木箱に腰をおろして池を見つめている。母が、その傍にしゃがんだ。嫂の死の状況を話しているらしく、時々目頭をぬぐっている。兄の体は、身じろぎもせず水面に視線を落している。  長い間、母と兄は、そのままの姿勢で動かなかった。  兄が、夜になると外出するようになった。帰りはかなりおそく清夫は兄の帰宅を知らなかったが、今までほとんど飲んだことのない酒を飲み歩いているようだった。  自然と朝起きる時刻もおそくなって餌の採集には出掛けなくなったが、一日置きに餌を売る業者がやってきては、赤ボーフラや糸ミミズを入れた餌箱を置いていった。  兄は、昼間ほとんど池の近くに坐っていた。五月に生れた稚魚は、鶏卵大の当歳魚になって、適度に青みをおびた水中を元気よく動きまわっていた。  その頃、学校からもどった清夫は、池の傍で母が兄と並んで坐っているのをよく眼にするようになった。時々母が、魚を指でさしながらなにか兄に話しかけている時もある。池の水面の波紋が母の横顔にゆらいで、母をひどく若々しいものに感じさせていた。  秋風が立ちはじめた或る深夜、清夫は、玄関の方で人声がするのに眼をさました。曖昧《あいまい》な男の声は酔って帰ってきたらしい兄の声で、母がしきりになだめている。  もつれるような重い足音が階段を上ってゆき、突然二階で人の倒れる音がした。  清夫は、耳をすました。兄のつぶやくような声がつたわってくる。母の声は、ほとんどきこえてこない。  そのうちに二階からの物音は絶え、家の中に深い静寂がひろがった。  清夫は、傍に敷かれた母のふとんを見つめた。母は、兄の介抱をしているのだろうか。それとも兄の眠るまで傍で見守っているのだろうか。  長い時間が流れた。  ふと清夫の耳に、階段の板のかすかにきしむ音がきこえた。それは、ききとれぬほどの音だったが、一歩々々足さきからひそかに階段を下りてくる足音だった。  清夫は眼を閉じた。  足音が、階段を下りきった。そして、廊下を歩いてくると清夫の傍のふとんに母の静かに横たわる気配がした。  その時、母の体から深い息がもれるのをきいた。それは、海水浴に行った日の深夜もどってきた嫂の、満ち足りた疲労感のにじみ出た吐息と同じものであった。  翌日、兄は、池の傍に姿をみせなかった。居間で庭をながめてはいたが、池に近づこうとはせず、それは翌々日もそのつぎの日も同じであった。  兄には、あきらかな変化が起っていた。嫂と婚約前の交際をつづけていた折、兄は、池を忘れた。その時と同じようにまた兄には、なにか蘭鋳以外の関心を寄せる対象が生れはじめているように思えた。  清夫は、階段をひそかにふむ音をしばしば耳にするようになった。母は、薄化粧をし、衣服も派手なものを着るようになっている。  池は、青濁りしはじめた。  池の傍に立つと、蘭鋳の体色も緑色の水の中に淡くすけてみえるだけになった。が、兄も母も遠く池をながめるだけで水替えをする気配もなかった。  或る日、学校からもどってきた清夫は、池の水面に雌の銘魚玉姫がうかんでいるのをみた。玉姫は、まだ生きて鰓《えら》を動かしていたがその動きは次第に力弱いものになった。  ふと耳に、階段の板のかすかにきしむ音がよみがえった。  清夫は、青みどろの水面に浮いた色鮮やかな蘭鋳の姿をうつろな眼で見つめていた。 [#改ページ]   軍《しや》 鶏《も》     一  軍鶏《しやも》は、籠《かご》の中で腹を地につけてあえいでいた。嘴《くちばし》をひらき、荒い呼吸をしている。  すでに次の取組がはじまっていて、蓆《むしろ》でかこった直径二メートルほどの円形の土俵の中では、軍鶏の荒々しい羽ばたきの音が起っていた。  四郎は、籠をあけると軍鶏を引きおこし砂地の上に立たせた。軍鶏は、倒れまいとして足をつっぱらせているが、体は今にも崩折れそうにゆらいでいた。  かれは、嵐《あらし》と名づけているその軍鶏をいだくと、空地の一隅にある水道の蛇口に近づいた。そして、軍鶏をおろして傍にしゃがむと、頭部を見つめた。それは、一つの血塊だった。とさかから嘴の下部まで血がこびりつき、その上に新たな血が湧《わ》いている。眼は開け閉じされていたが、それは右眼だけであった。  かれは、水道の蛇口をひねると、軍鶏の頭に水をそそぎ、左眼の部分を指先で何度も洗ってみた。が、左眼からは盛り上るように肉が露出し、指先で強引に瞼《まぶた》をあけてみても眼球はなかった。  片目になった、と四郎は胸の中でつぶやいた。  かれは、あらためて奥宮の持つ軍鶏の恐るべき強さに空恐ろしさを感じた。それは、カラスのように黒い艶《つや》のある羽と毛におおわれた黒駒と称される軍鶏で、右眼を昨年の暮の勝負で失っていた。相手は隣村の墓石造りの男の持つ銘鶏で、その鋭い蹴爪《けづめ》の一撃でつぶされたのだ。しかし、黒駒は、片目にされながらも闘いをやめず、逆に相手の頭の頂に蹴爪の先端をつらぬかせて即死させた。  黒駒は片目になったが、呆《あき》れたことに競技にはその後もつづいて出場した。片目はむろん不利なのだが、不思議なほど勘がはたらくらしく、見えない側にまわった相手に突然のように蹴爪をふるう。その意表をつく攻撃が効を奏し、片目を失ってからの黒駒にはむしろ凄味《すごみ》のある迫力が生れていた。  その日、四郎の嵐と奥宮の黒駒との闘いがくじびきできまると、軍鶏師仲間たちの間に緊張した空気がひろがった。  四郎は、正宗と称する軍鶏と嵐の二羽の強力鶏を持ち、その二羽とも十月はじめからひらかれている闘鶏対抗戦で連勝していた。そして同じように連勝をつづける黒駒を加えた三羽によって、その年のシリーズの優勝は争われるにちがいないといわれていた。つまり黒駒と嵐の闘いは、有力な優勝候補同士の闘いであったのだ。  黒駒の強さに自信をもっていつも悠然とかまえている奥宮も、組合せがきまったと同時に顔をこわばらせた。だれかが冗談を言っても、奥宮の顔にうかぶ笑いはすぐにひきつれた。そして、籠の中の黒駒に時折落着きのない視線を走らせたりしていた。  勝負の時間がきて、四郎は、嵐を籠から出すと蓆がこいの土俵の中へ抱き入れ、奥宮もそれにならった。  四郎は、奥宮の手につかまれている片目のつぶれた黒駒を見つめた。嵐はすでに闘志をみなぎらせて、四郎の手からはね出ようと砂地を蹴っているが、黒駒は奥宮に体をつかまれたまま身じろぎもしない。その姿には、多くの闘いを勝ちぬいてきた自信と落着きがにじみ出ているように思えた。  審判の合図で、四郎と奥宮は同時に手をはなした。  突き進んでいったのは、嵐だった。羽を大きくあおって跳び上ると、足首から突き出た鋭い蹴爪で黒駒の体をないだ。黒駒は、そのはげしい動きに足もとを乱し、蓆がこいに体をぶつけた。しかし、黒駒はすぐに姿勢をととのえると、逆に羽をあおり嵐の体を蹴った。  その直後、二羽の軍鶏は、申合せでもしたように土俵の中央で動きをとめ、頭部を前に突き出しにらみ合いとなった。長い首をおおう毛が、強風に吹かれたように逆立ち、羽を両脇にかたく密着させている。毛が、激しい興奮をしめして小刻みにふるえ、足の爪は砂地をしっかりとつかんでいた。  四郎は、黒駒の左の眼の光に恐怖をおぼえた。試合前の平然とした態度は消えて、多くの軍鶏を蹴倒し、蹴殺してきた軍鶏特有の残忍な光が眼にはらんでいる。  均衡をやぶるように、嵐が勢いよくつっかけ、その瞬間から凄惨《せいさん》な戦いがはじまった。  嵐は、若々しく元気だった。休むこともせず、羽をなぎ、足をふるう。その度に土俵の中には砂が舞い、羽が散った。そうした嵐とは対照的に、黒駒は老練な闘鶏らしく、攻撃を巧みに避けながら体をもたせかけたり首をひねるようにからみ合せたりして、嵐の疲労をさそっている。  試合が開始されてから、十分間が経過した。  黒駒のとさかは血に染まり、腹部からも血がにじみ出ていた。しかし、嵐は、さらに深い傷をおっていた。頭部の出血はひどく、脇腹と肩からは血が羽毛の上にふき出ている。それでも嵐は疲れも知らぬようにはばたき、足で黒駒をたたきつづけた。 「ほれ、突け、蹴殺せ」  奥宮は、蓆がこいのふちをつかんで叫んでいる。土俵をかこむ軍鶏師たちは、息をのんだように口をつぐんでいた。  十五分間が、経過した。  その直後、決定的な勝敗の分れ目がおとずれた。  嵐が攻撃を終えて砂地に足をおろそうとした瞬間、その折をねらっていたように黒駒が大きくはばたくと嵐の頭部を蹴った。  嵐の体が、もろくも横に倒れた。嵐は、うろたえたようにすぐに立ち上ったが、その頭部に再び黒駒の足がたたきつけられた。 「目ん玉やられたぞ」  だれかが叫ぶ声を、四郎は体をかたくしてきいた。  たしかに黒駒の鋭い蹴爪が嵐の眼を貫いたらしく、左の眼からおびただしい血がふき出ている。  嵐が急に闘志を失い、再び体を蹴られて倒れるとそのまま腹をつけた。  嵐は頭をかしげ、しきりにあたりの気配をうかがうような仕種《しぐさ》をしている。それは、あきらかに左眼が完全に視力を失っていることをしめしていた。 「やった、やった」  奥宮が、狂ったような叫び声をあげた。  嵐は、坐っている。|坐り《ヽヽ》は、規則で三点の減点になるのだ。  四郎は、ふと黒駒の姿に戦慄《せんりつ》をおぼえた。普通の軍鶏は、相手が倒れると勝ち誇ったように嘴を突き立て、羽でたたき、蹴爪をふるう。相手が完全に死んでしまっても、その死骸を容赦なく突きつづける。しかし、黒駒は、坐っている嵐を見つめているだけで動かない。  いつもの通りだ、と四郎は思った。黒駒は、相手が倒れると、必ずといっていいほど攻撃することをやめ、片目で相手の姿を見下ろしている。それは、負け鳥の姿を冷やかにながめているような傲慢《ごうまん》な姿にみえた。  四郎の胸に、屈辱感が湧いた。黒駒に見下ろされて坐っている嵐の姿がひどく惨めなものにみえた。立て、立つんだ、そして黒駒を蹴殺すんだ、とかれは胸の中で叫んだ。  嵐が、体を動かした。俄かに首の毛が逆立ち、嵐は余力をふりしぼるように立ち上った。  四郎の胸に、熱いものがつき上げた。嵐は、闘志にみちた強い軍鶏なのだ、片目になってもたたかうことをやめない軍鶏なのだと、しきりに自分に言いきかせた。  黒駒の体に、力感がみなぎった。そして、黒々とした羽をあおると、立ち上った嵐の頭に足をとばした。  嵐は、それに応じて羽をひろげたが、すでに跳躍する力は失われていた。そして、頭部をけられると横に倒れ、蓆がこいの隅にうずくまった。  |坐り《ヽヽ》が二度つづくと勝敗は決定し、中止される。 「勝った、勝った。どうだい、どうだい」  奥宮は歯列をむき出し、手をのばすと誇らしげに黒駒を抱き上げた。  悲哀感が、体にみちた。長い間手塩にかけて育ててきた嵐が、頭部を血に染めてうずくまっている。羽を萎《な》えさせ蓆がこいに身をすり寄せるように倒れている嵐の姿には、闘志を失ったおびえしかなかった。  四郎は、嵐を抱くと籠の方へ歩いた。嵐の無惨な負け方が、かれには堪えがたい苦痛だった。  ……四郎は、嵐の体に水を浴びせながら、倒れた嵐を攻撃もせずにじっと見つめていた黒駒の姿を思い起していた。  闘鶏は、たとえ軍鶏が眼をつぶされ倒されても中止されない。闘鶏に棄権というものはなく、定められた試合時間いっぱいつづけられるのだ。  そうした規則のもとでおこなわれる競技の性格からも相手が倒れたことは願ってもない機会で、再び起き上れぬように徹底的な攻撃を浴びせかける。倒れた軍鶏は、ただ一方的に突つかれ、蹴られ、傷を深くしてゆく。その結果殺されることもあるが、死が確認された場合をのぞいて試合終了時間がくるまで飼主は手を出すことも許されない。  黒駒が、倒れた嵐を攻撃せずに見下ろしていたことは軍鶏として異例のことであった。黒駒は、いきいきと動く相手でなければ闘争心がかき立てられないのだろうか。それとも自分の力で倒した相手をながめることに、小気味良い満足感を味わっているのだろうか。いずれにしても、その姿には、測り知れない自信が感じられた。  嵐は、十月初旬からの連続勝ちで二十五点の勝点をあげていたが、黒駒に負けたことによって無点となった。そして、その勝点二十五点は、黒駒の保持する点数二十七点に加算されて、黒駒は五十二点という大量点の保持鶏となり、二位正宗の二十六点に大きな差をつけた。正宗が優勝するためには、黒駒を倒す以外には考えられなくなったのだ。  四郎は、嵐の嘴をあけると水を注ぎこんだ。そして、水をきるように嵐の頭部を何度もふり下ろすと、その都度口の中からは血のまじった水が出た。 「大分やられたな」  頭髪のうすい宇川が、傍にしゃがみこんだ。そして、嵐の眼を指先でいじった。 「だめだ、つぶれている」  と、宇川は言った。  四郎は、羽毛をひらくと傷口をみせた。 「深いな。でも、黒駒の方にも脇腹に深い傷がある、こいつの蹴爪もすごいからな」  宇川は、嵐の足首から突き出ている三センチほどの長さの蹴爪を指でこすった。それは、鋭く尖《とが》った象牙《ぞうげ》製の槍の穂先のようにみえた。 「このシャモはどうする」  宇川が、嵐の羽をなでながら言った。  四郎は、宇川の言葉の意味がすぐに理解できた。深傷《ふかで》を負い片目をつぶされた嵐は、闘鶏としての価値を失っている。黒駒のように片目の軍鶏がすぐれた戦績を残すこともあるが、それはきわめて稀《まれ》な例で、しかも勝点ゼロになった嵐はレースの完全な脱落鶏になってしまったのだ。  そうした軍鶏の処置は、二通りしかなかった。不具のまま生かしておくか、それともつぶして食ってしまうか、そのいずれかであった。  宇川は、老練な軍鶏師であった。四郎が軍鶏を飼い銘鶏を得ることができたのも、宇川の指導によるものだった。  宇川は、価値の失われた嵐を思いきってつぶし処分してしまえ、と言いたいにちがいなかった。軍鶏を生かしておきたい気持はわかるが、それは軍鶏師にとって不必要な感傷であり、それに費やされる飼育代は、他の軍鶏の飼育にふりむけるべきだと思っているにちがいなかった。  四郎も、嵐が片目をつぶされて倒れた瞬間、処分してしまわなければならぬと思った。自分の家で食べなくても、軍鶏師たちが千円近い値段で買ってくれる。  しかし、四郎の口からは、 「生かしておきます」  という言葉が自然に流れ出た。  四郎は、思いがけないことを口にしてうろたえたが、それは黒駒が嵐を見下ろしていた折のたえがたい屈辱感のためだと思った。  嵐の姿は、余りにも惨めだった。その印象をかき消すためには嵐を思いきってつぶしてしまう方が好ましいのかも知れなかったが、その反面には嵐を生かしておいてそっと抱きしめていてやりたい気持もあったのだ。  宇川は、黙っていた。しかし、気分を害した様子もなく、短くなった煙草をもみ消すとその葉を消毒のために嵐の眼の傷口に押しあてた。 「正宗の調子はどうだい」  宇川が、顔をあげた。 「まずまずです」 「そうか、決勝まではあと一カ月だ。調子をくずさせるなよ。黒駒は、すごいシャモだからな」  宇川が、立ち上った。そして、また煙草に火をつけると、激しい羽ばたきの起っている土俵の方へ歩いていった。  四郎は、嵐をいだくと闘鶏場の持主である荒木に挨拶をして木戸を押した。  右手には土佐湾の海がひろがり、左手には丘陵が道のかたわらまでせまっている。荒木は、その景勝地|桂浜で《かつらはま》闘犬センターを経営し闘鶏場も持っているのだ。  四郎は、嵐を携帯用の籠に入れ、自転車の荷台にくくりつけた板の上にのせた。鋭い蹴爪のいたむのを防ぐため、籠の中にはボロ屑《くず》が厚く敷かれてある。  かれは、籠を震動させぬようにゆっくりと自転車を押した。  土産物を売る露店の前で、新婚らしい男女が色さまざまな貝殻の入ったケースをながめている。  かれは、ゆるい坂道を足をひきながらのぼっていった。     二  四郎は、家にもどると嵐の太腿《ふともも》にペニシリンを注射した。そして脇腹の傷口をひらくとヨードチンキをしみこませたガーゼをおしこみ、つぶれた左眼にも化膿《かのう》どめの手当をした。  鶏舎の中に入れると、嵐はすぐに腹をつけて坐った。頭を垂れ、じっと痛みにたえているようにみえる。  隣接した鶏舎の中の正宗は、血の匂いに気をたかぶらせたらしく、羽をあおり、短い啼《な》き声をあげながらせわしなく動きまわっている。  四郎は、正宗を見つめた。逞《たくま》しくはった胸、直立した首、強靭《きようじん》そうな脚、それらは殺気にみち闘志にあふれている。  奥宮の歯列をむき出しにした笑顔がよみがえってきた。正宗は、嵐と同じ親の血をひいた兄弟鶏だが、正宗の方が一格すぐれた力をもっている。嵐をふみにじった黒駒の強さは空恐ろしいが、正宗はそれを倒す力をひめていると思った。  四郎は、物置小舎から布袋をとり出すと、それを手に家を出た。石段をあがると赤松の林がつづき、その中に墓石がつらなっている。埋葬したばかりらしい墓所には、新しい卒塔婆《そとば》や花輪が松の幹にもたせかけられて立っていた。  かれは、墓石の間を縫うようにして松林のはずれに出た。海のかがやきが前面にひろがり、なだらかな弧状の線をえがいた浜が遠くまで伸びている。浜には人のうずくまる姿が点々とみえたが、それは五色石といわれる小石をひろって生計を立てている者たちだった。  四郎は、波打ちぎわに行くと右足を投げ出し、腰を下ろした。  かれは、七歳の折路上にとび出して乗用車にはねられ、その時から片足をひいて歩く体になった。中学校を卒業はしたが足の欠陥のため労働に従事することもできず、母にならって小石を拾うようになった。  小石拾いをしているのは、大半が中年以上の女か老人にかぎられていて、二十二歳の若い四郎には不均合《ふつりあ》いな仕事だった。  かれは、なれた手つきで小石をつまみ袋の中へ入れてゆく。白、青、緑、紫など色はさまざまで、肌がひどくすべすべしている。それらはこの地方の特産品として金魚鉢の底に敷かれたり細工物に使われたりして、朝から夕方まで一心に拾いつづけると二千円近くの収入が得られた。  四郎は、小学校から中学校にかけて成績はよく、中学校卒業時に労働をともなわぬ就職先を見つけることも決して不可能なことではなかった。しかし、幼い頃から足の欠陥を友だちにからかわれてきたことが、いつの間にか四郎を卑屈な少年にさせていた。人の視線のとどかぬ所でひっそりと暮したい、そうした願いから、四郎はすすんで浜での小石拾いをえらんだのだ。  初めの頃、四郎は、小石拾いに満足していた。だれの眼にもさらされず、ただ一人静かな浜で石を拾うことに深い安らぎを感じていた。  しかし、月日がたつにつれて徐々に四郎は落着きを失っていった。時折会う中学校時代の友人は、或る者はトラックを運転し、或る者は会社勤めをしているらしく背広を着て歩いていた。かれらの顔には活気があふれ、稀に声をかけてくることはあっても、四郎と話し合う時間も惜しいようにあわただしく去ってゆく。  四郎は、一人取り残されたような淋しさを味わった。と言っても、他の職業につくわけにもいかない。このまま小石を拾いながら、やがては老いてゆくのかと思うとはげしい苛立《いらだ》ちにおそわれた。  そうした四郎にとって、軍鶏師の世界はひどく魅惑的なものに映った。軍鶏を飼う人間が、概して自分と同じように社会の華やかな場所からはじき出された者の多いことに親近感をいだいたのだ。  軍鶏師たちには豊かな者もいたし、貧しい者もいた。しかし、かれらに共通していえることは、事情は異なっていてもさまざまな意味で不遇であるということだった。  軍鶏師の中には、もと高等学校の教師をしていた男もいた。その男は、妻子のある身で女生徒と関係し、それが発覚したため職を追われ木工場の発送係になっていた。また或る男は、かなりの遺産をうけつぎ不自由のない暮しをしているようだったが、自分に能力の全く欠けていることをさとっていて仕事もせずに日々を送っていた。かれも一種の不幸な男にちがいなかった。  古瓦再生業、糞尿《ふんによう》処理業などの職業に卑屈感をいだいていた者もいたし、妻に逃げられたり非行少年・少女を子供にもつ家庭的に恵まれない男たちもいた。  かれらは、そうした境遇の中で、ただ一つの救いとして軍鶏に自らを賭《か》けているようにみえた。  軍鶏は、無愛想な鳥であり、残忍で、傲慢な鳥でもある。それは、犬や猫や小鳥のように愛され飼育される資格には欠けていて、人の世界になじむことはできない。軍鶏の知っていることは、ただ相手を憎み、それと闘うことだけしかない。未知の軍鶏と対すれば、磁石と鉄片が密着するように互いに嘴を立て、蹴爪をふるい相手を殺そうと全力をふりしぼる。軍鶏にとって、眼の前にあらわれたものはすべて敵であり、飼主にすら傷を負わせようとする。  そうした本能は、必然的に軍鶏を孤立させ周囲に厚い壁をめぐらせる。  社会的に恵まれない男たちが軍鶏に魅せられるのは、その孤然とした姿に共感をいだくからなのだろうか。それとも卑屈になりがちな男たちにとって、軍鶏の傲慢な毅然《きぜん》とした態度は、自分たちの果し得ぬ理想的なものとして憧憬《どうけい》を感じているのかも知れない。  かれらの軍鶏に対する愛着は激しい。妻子よりも軍鶏が好きだと公言する者が多く、そのため結婚したばかりの妻に去られた者もいる。  初め村の者に誘われて闘鶏を見物した四郎は、軍鶏師たちの表情に感動した。かれらは、軍鶏を入れた籠を自転車にのせて一人々々やってきた。かれらの顔には、生れ落ちてからそうででもあるような物悲しげな表情がしみついている。  しかし、軍鶏師たちの屯《たむろ》する場所にくると、かれらの顔には別人のような安らぎにみちた明るい表情がうかぶ。そして、取組のくじびきがおこなわれる頃になると、その部分だけにスポットライトがあてられているようないきいきとした熱気が、かれらの体をつつんだ。  闘鶏がはじまると、それはさらに異様なたかまりをみせた。かれらは、興奮し、笑い、顔を紅潮させる。かれらは、闘鶏という小世界の中にひたりきって軍鶏の動きにすべてを忘れているようにみえた。  四郎は、かれらに羨望《せんぼう》をいだき、軍鶏を飼いたいと思った。自分の鬱屈したものを吐き出す対象として漸《ようや》く恰好なものを探り当てたと思ったのだ。  しかし、その夜、軍鶏を飼いたいと言った時、母は、 「お前もか」  と、悲しげな眼をして言った。  母は、初めて口にすることだがと前置きして、四郎の亡父が軍鶏を飼っていたことを打ち明けた。  父は、鳶《とび》職人だった。いつの間にか軍鶏に興味をもち、雄を二十羽ほどもつような名の知られた軍鶏師になった。  四郎が生れて間もない或る日の夕方、かれは高い足場から顛落《てんらく》した。奇跡的にも死はまぬがれたが、頭部に受けた衝撃のため痴呆に近い人間となった。  母は、父が足場から落ちた原因は軍鶏なのだ、と四郎に言った。その前日闘鶏があって、父の最も自慢にしていた軍鶏が相手の軍鶏に脳天を貫かれて即死した。父は、その軍鶏をいだいて帰ってきたが、一晩中眠ることもせず酒をふくみながら軍鶏の死体を愛撫《あいぶ》していたという。そして翌日仕事場へ出ていったのだが、足場から落ちたのは、前夜一睡もしなかった疲労と死んだ軍鶏のことが念頭からはなれなかったため、神経が散漫になっていたからにちがいないというのだ。  その後父は働くこともせず、家で放心したような眼をしてすごすようになったが、しばらくすると父は妙な特技を発揮するようになった。  桂浜の近くは、海の色が美しいためか入水《じゆすい》者が多い。死体探しは、村の警防団によっておこなわれるが、父は、海にとびこんだ者があるときくと、すぐに家をとび出し死体探しに加わる。どのような勘がはたらくのか、死体を発見し引き揚げるのは、必ずといっていいほど父だった。或る時などは、海岸の近くの山中にハンドバッグがあったということをきいただけで、雑木林のくぼみに横たわった女の白骨死体を発見したことすらあった。父は、その都度警察からほめられたが、それが父の無上の喜びであるらしかった。  そうしたことが度重なるにつれて、父の存在は神秘的なものとなった。仏になった自殺者が父を呼ぶのだとか、父は仏の使いとして死体を探し出すのだとかいう者も多かった。  しかし、或る年の秋、岩礁のくぼみにはまった水死者を引きあげようとした父は、足をふみすべらせて波にさらわれ、一カ月後には死体となって発見された。その死体は、魚にでもついばまれたのか甚《はなは》だしくそこなわれていた。  母は、軍鶏のために父の運命が変えられたのだと言った。しかし、母は、四郎の申出に反対もせず、そのまま口をつぐんだ。  母は、四郎が軍鶏に関心をいだくことをおそれて父が軍鶏師であったことを知らさずにおいたのだろう。さらに四郎が軍鶏を飼うことに対して積極的な反対をしめさなかったのは、軍鶏師としての父の記憶からも、軍鶏に魅せられた四郎の気持を変えさせることは不可能だと知っているからにちがいなかった。  事実、四郎は、母の沈黙にあっても軍鶏を飼うことを断念はしなかった。むしろ幼い頃の記憶にしかない父が、軍鶏師であったことに興奮した。父の子である自分が軍鶏を飼うことは決して不自然なことではないし、むしろそうした軍鶏に対する関心は、先天的なものなのかも知れないと思ったりした。  軍鶏を飼うことを決意した四郎は、同じ村に住む宇川という男に教えを乞いたいと思った。宇川は五十年輩の左官職人で、村内屈指の軍鶏師であると言われていた。  宇川は、十年以前闘犬師として高知県内の横綱をはった犬をもっていたことがある。しかし、犬を飼うための出費が増して借財もふえ、遂に犬をはなしその代りに軍鶏を飼うようになった男だった。  宇川の娘の千代子は、四郎と中学時代に同級生であった。そうした関係から宇川に近づくことは可能だったが、逆に千代子の存在が四郎をひるませた。千代子は村内でも評判の美しい娘で、宇川に軍鶏について教えを乞いたいという四郎の希望も千代子と近づきになりたいからだと勘ぐられるような気がしてならなかったのだ。  しかし、四郎は、意を決して宇川の家を訪れた。桂浜の水族館に勤めている千代子は、すでに出勤したらしくその姿はなかった。  庭先から入ってゆくと、宇川は軍鶏に餌をやっているところだった。  四郎は氏名を告げ、軍鶏をやりたいと言った。  宇川は顔をあげて四郎を見つめたが、すぐに餌をついばむ軍鶏に眼を落した。そして、そのまま黙ってしゃがんでいたが、やがて腰を上げると鶏舎の前をはなれ家の縁側に坐った。 「おふくろは、なんと言った」  宇川が、煙管《きせる》を手にしながら口をひらいた。 「黙っていました。承知してくれたのだと思います」  四郎は、答えた。 「おやじがシャモを飼っていたこともきいたかい」  四郎は、うなずいた。 「なぜ足場から落ちたのかということもか?」  四郎は、再びうなずいた。  宇川は、顔をしかめ口をつぐんだ。 「ひなから飼ってみたいんですが、分けてもらえませんか」  四郎は、すがりつくような眼で言った。が、宇川は、刻み煙草をくゆらしたまままばゆそうに空を見上げている。  沈黙が、長い間つづいた。四郎は、宇川の不機嫌そうな表情に気づまりになって頭をさげると路上に出た。  軍鶏師には、軍鶏師だけの世界があるのだろうか。紹介者もなく突然訪れてひなを分けて欲しいと頼みこんだ自分の行為は、かれらの世界には通用しないことで、宇川は憤っているのかも知れないと思った。  その日、四郎は鬱々とした気分で浜に出た。石をひろうだけの能力しかない自分が、みじめなものに思えてならなかった。だれでも手さえあれば、石拾いはできる。自分の一生が、ただ石をつまむことのくり返しだと思うと堪えがたい苛立ちが体をつつみこんだ。  かれは、仕事の手をとめると砂地に仰向けに寝ころんだ。闘鶏場に集まってきていた軍鶏師たちのいきいきした表情がよみがえってくる。ようやく自分の生甲斐《いきがい》とすべきものを探り当てたと思ったのだが、宇川の素気ない態度を思うと希望が完全に断たれたような気落ちを感じた。  しかし、翌朝早く宇川が四郎の家に自転車をひいて訪れた。荷台には、鳥籠が二個くくりつけられていた。 「かあちゃん、本当にシャモを飼わせてもいいのかい」  土間に立った宇川は、四郎の母に言った。 「だめだといっても、その気になってしまっていては仕方がないでしょう」  母は、弱々しげに笑った。 「おれも正直のところ飼わせたくはないんだが、あんたのせがれの眼の色が変っているしな。ただ犬とちがってシャモはそれほど金もかかりはしないよ。お前にひとこと言っておくが、酒も煙草もやるんじゃないぞ。シャモを飼ったために家の経済にさしさわりがあるようじゃ、おれが困る。酒と煙草を断って、その金でシャモを飼うんだ」 「私は、酒も煙草ものみません。これからも決してやりません」 「そうするんだ。このひなはな、おれの所で最も血筋のいいシャモの子だ。普通なら一万円ぐらいの価値は充分あるが、お前からそんな金をもらうわけにもいかない。だからその代りにこのひなが親になって子をかえしたら、ひなを二羽返してもらうということにする」  と言って、宇川は荷台からひなを入れた籠をおろした。  四郎は、大きな喜びを感じた。一方が雄であることは、かれにもすぐにわかった。直立した首の上にある硬そうな頭部には、尖った嘴と刺し貫くように光る眼がある。かれは、この雌雄から多くの子をとることを夢みた。  その日、宇川に教えられて日当りのよい物置の前の空地に鶏舎を作った。雄の背丈が伸びることを考えて、高さ一メートル幅八〇センチの鶏舎と、雌を入れる低い鶏舎を向い合せに作り、さらにそれを広く柵《さく》でかこんで砂地の運動場にした。  鶏舎の中には、餌箱と水を入れた容器がとりつけられた。雌の餌箱は、普通の鶏舎と同じように土の上におかれたが、雄の餌箱と水を入れた容器は、高い場所にくくりつけられた。  軍鶏は、頭を立てて上方から相手の体に嘴を突き立てる。低い姿勢は闘争に不利で、常に頭を直立させておく習性をつけるため餌箱も高い位置におかねばならぬのだ。 「詳しいことは、その都度教える。しかし、このことだけは言っておく。おれの教えることを他人に言ったり見せたりするな。だれもが秘伝をもっている。おれもお前に教えたくはないのだが、今後お前のシャモの飼い方がよければ、おれの秘伝を教えてやってもいい」  宇川は、険しい目つきで言った。そして、黍《きび》とぬかと野菜をまぜた餌を作ってくれると、自転車を押して出ていった。  その日から、四郎の軍鶏飼いがはじまった。  宇川は、大柄な軍鶏をつくり出す秘訣《ひけつ》は夜も眠らせずに出来るだけ餌を食わせることだと言った。その言葉にしたがって、四郎は室内の電燈を鶏舎のある窓ぎわにひき電光が鶏舎を照らすようにしたりした。  軍鶏は、逞しく成長していった。宇川は、時折やってきては軍鶏を長い間見つめていた。 「この軍鶏は、銘鶏だ。同じ親からかえったひながおれの所にいるが、お前の所に一番いいのを持ってきてしまったようだ」  と、宇川は苦笑しながら、もう少し成長したら餌を二等米にかえるようにと言った。  宇川は、教えに忠実な四郎の軍鶏の飼育ぶりに満足しているようだった。そして、二羽のひなを自分に返してくれるのはいつでもよいから、雄鶏を十羽近くそろえることに専念しろと言った。  餌を豊富にあたえたことが効を奏したらしく、雌は生後七十日もたつと早くも卵を生むようになった。  宇川の指示で、ひなをとることになった。  雄と雌が、運動場にはなたれた。雄が、雌の体にいどみかかった。その雄のはげしい動きに、四郎は軍鶏の荒々しい本性をみる思いだった。  雄は、長い首を立て雌を追うと、その嘴で雌を鋭く突つく。たちまち雌の頭部は、血に染まった。  殺される、と四郎は思った。が、宇川は、平然と柵にもたれて軍鶏の動きをながめていた。  雄の嘴が、雌のとさかをねじ上げるようにくわえこんだ。そして、その上に逞しい足をのせると、大きく羽をひろげておおいかぶさった。羽の下にかくれた雌は、砂地におしつけられ羽ばたいていた。  ようやく雄の体がはなれると、雌は立ち上り、おびえきった眼をして歩き出した。が、雄は再び体をかしげ宙をふむような足どりをすると、荒々しく雌の上にのしかかった。そんなことを何度もつづけているうちに、雌の動きは鈍くなり逃げることもしなくなった。  宇川が柵の中に入って、雌を鶏舎に入れた。雌は、小舎のすみに身をもたせるようにして眼をしきりに開け閉じしていた。  雌が、精卵を生んだ。  四郎は、宇川から土佐|地鳥《じどり》をわけてもらい抱卵させた。軍鶏は体が重く卵をつぶすおそれがあり、逞しい足でひなを踏み殺してしまう。そのため温和で小柄な地鳥に卵をいだかせ、さらにひなも育てさせるのだ。  ひなが、八羽かえった。  ……嵐と正宗は、その中にいた。     三  嵐の頭部は、翌朝になると二倍近くにはれ上っていた。とさかもつぶされた左眼のあたりも黒ずんでいて、ひどい内出血を起していることはあきらかだった。  四郎は、マッチの炎で焼いた木綿針の先端を皮膚に突き立て、指先で強く押して血をしぼり出した。嵐は、暴れることもせず片目を物憂げにしばたたいていた。  その日も、四郎は浜に出た。  小石のある場所をえらんで腰をおろすと、一心に石をひろった。  軍鶏を飼うようになってから、石を拾うことの意味が変った。石から得る収入は、家計を支えると同時に軍鶏の餌代やあらたな種鶏を買う費用にあてられる。同じ親の血をひく雌雄からはすぐれたひなを得ることはむずかしく、他人のもつ血統のよい雌を買い入れて交配させねばならない。そうした支出のためにも、四郎は一粒でも多くの石をひろわねばならなかったのだ。  石をひろって生計をたてている者は、四十名ほどいた。雨の日をのぞいて朝から夕方まで浜に出ているが、四郎は、石がいつかは拾いつくされてなくなってしまうのではないかという不安におそわれることもある。  かれは、時折手をとめて石を不思議そうに見つめた。小石は、浜一帯にひろがっている。かれは、すでに七年間小石をひろいつづけてきたが、石の量のへってきている気配はない。  小石は、海の彼方《かなた》からはこばれてくるのだろうか、それとも砂の中からでも湧《わ》いてくるのか。それは無尽蔵にみえはするが、その量には必ず限度があるはずだし、いつかは完全に絶えることがあるにちがいなかった。  もしも小石がなくなれば家計は破綻《はたん》するし、軍鶏を飼うこともできなくなる。それは、四郎に生きる希望を失わせるものだった。  背後に、砂地をふむ足音がした。ふり返ると、笑いながら近づいてくる宇川の娘の千代子の姿が眼にとまった。  かれは、投げ出した歪《ゆが》んだ足をひきこめた。  千代子が、四郎の傍に腰をおろした。四郎は、体をかたくした。 「シャモ、片目になったんですって」  千代子が、海に眼を向けながら言った。 「ああ、そうだよ」  四郎は、答えた。  かれは、自分の口から無造作な言葉が流れ出たのを意外に思った。それは、同級生として互いに交わしていた言葉づかいが自然とよみがえったためで、そのことが四郎の気持を落着かせた。 「お父ちゃんもお父ちゃんだけど、四郎君も四郎君ね。シャモって大きらいよ。可愛げなところはなにもないし……」  千代子の言葉に、四郎は苦笑した。 「今日は、水族館を休んだのかい」 「水がえよ。私、勤めがいやで。窓口で入場料をもらって、切符を渡して……。あの売場の箱の中に入っていると、小さな牢屋《ろうや》に押しこめられたみたいで息がつまるのよ。それにくらべて四郎君はいいわ。こんなひろびろとした所で海を見ながら石をひろっているのだから……」 「冗談じゃないよ。こんな単調でつまらない仕事はないさ」 「ぜいたく言ってるわね。私、一生この浜で石をひろってすごせたらどんなにいいかと思うの。夫婦で石をひろって、お爺さんとお婆さんになっても二人で石をひろうの。私も勤めなんかやめて四郎君と一緒に石でもひろおうかな」  四郎の顔が、こわばった。千代子は、なにを言おうとしているのだろう。本心から自分と一緒に石を拾ってすごしたいというのだろうか。  千代子は、中学校までは内気な目立たない少女だった。それが学校を卒業し水族館につとめるようになってから、急に美しく明るい娘になった。それを遠くからながめていた四郎は、自分の傍に坐った千代子に女を強く意識した。 「じゃ、又ね」  千代子が、立ち上った。  四郎は、海浜を歩いてゆくその後ろ姿を一|瞥《べつ》しただけで眼を落した。胸に、悲哀感が湧いた。自分は足に欠陥のある小石拾いの男にすぎない。美しい千代子が自分とともに一生石拾いをするなどとは到底想像もつかない。千代子が何気なく口にしたことに、かすかながらも胸をときめかせた自分が恥ずかしかった。  かれは、しばらくして浜辺に視線をのばした。しかし、石拾いをしている老婆のうずくまった姿がみえるだけで、千代子の姿はなかった。  五月に入り、決勝の日が三週間後にせまった。  嵐の眼は化膿もせず癒《い》えたが、その姿は以前の嵐とは全く別の軍鶏のように変ってしまった。ただ一つひらいた右眼の光にも生彩がなく、餌をついばむ動きも大儀そうであった。強烈な闘争力をもった嵐も、黒駒に惨めな敗れ方をしたため自信をすっかり喪失してしまったにちがいなかった。  四郎は、宇川がつぶしてしまえとほのめかした意味が、今になってよくわかるような気がした。嵐は、すでに軍鶏ではなくなっている。嵐を生かしておいたことは、その惨めな姿をさらさせることであり、それを眼にしなければならぬ四郎も苦痛であった。  しかし、四郎は、嵐の姿を眼にする度に闘志の湧くのを意識した。嵐を軍鶏として無価値なものにさせた黒駒の力は、たしかに強大だった。しかし、嵐の兄弟鶏である正宗は、必ず黒駒を打ち倒すにちがいないと思った。  正宗は、ひなの頃から類い稀な強い軍鶏としての素質を約束されていた。生後三カ月目に入ると、軍鶏の骨は柔らかくなって体を支えることもむずかしくなり、しゃがみこんでよく眠るようになる。が、その時期に軍鶏の将来を見分けることができるのだ。  四郎は、宇川に教えられた通りうずくまった正宗を立たせてみた。まず宇川は、腿のつけ根と足のつけ根を結ぶ線の垂直であることがいいと言った。そして歩かせてみた時、宇川は感嘆の声をあげた。正宗は、首を正しく直立させ、足の爪でしっかりと砂をつかみながら大股《おおまた》に歩く。その伸び上るようにして歩く姿はひどく軽快そうにみえ、正宗がすぐれた跳躍力を秘めていることをしめしていた。  四郎は、宇川の言にしたがって素質のないと思われるひなを二羽処分した。絶えず質の良いもののみを残せと、宇川はひなの首をひねりながら言った。  正宗は、嵐とともに成長していった。 「シャモをよくみることだ」  と、宇川は口癖のように言った。そして、体の諸部分を実際に指先でふれながら、軍鶏の優劣の判別方法について説明した。  闘鶏の良否は、跳躍力の強弱によって左右される。急所は頭部で、そこを目がけて,嘴《くちばし》をつき立て足首に突出した蹴爪《けづめ》でたたくのが効果的な攻撃方法なのだが、そのためには相手よりも高い位置にはね上る必要がある。  足は、細目の方がよく、体に脂肪がのりすぎることは好ましくない。そうしたことを総合した結果、正宗の体形は最も理想的で、嵐はそれに準じたものだという。  十月初旬からの競技に、正宗と嵐は出場した。体も大きく跳躍力のある二羽の軍鶏は、予想通りのすさまじい強さを発揮した。  正宗は、二羽を蹴殺し、嵐は一羽を蹴殺した。しかし、嵐は、遂に黒駒にやぶれ片眼を失ったのだ。  四郎は、すべてを正宗に託した。正宗は、数多くの闘いを経ながらもほとんど傷らしい傷を受けていない。とさかも耳たぶも美しく原形を保ち、羽も豊かに体をおおっている。それは、正宗が一方的に相手を圧倒し、反撃の余地をあたえなかったからだ。  決勝の日が二週間後にせまった或る日の朝、四郎は水族館に足をむけた。前夜からの雨がやまず、浜での作業も休みになっていたのだ。  四郎は、傘をさし足をひきながら海辺の道を歩いた。愚かしいことだと思いながらも、千代子の姿を眼にしたいという思いが胸を熱くした。  かれは、石拾いをしている間も、砂地をふむ足音を耳にしたような錯覚をおぼえてふり返ることが多くなっていた。千代子は、自分と浜で一生石を拾いたいと言った。それはなんの意味もない一時の感傷から流れ出た言葉なのだろうが、その折の千代子の声が日増しに息苦しくよみがえってくる。  水族館の屋根がみえてきた。かれは足をとめた。顔のひきつれているのが意識された。おれの所に千代子が妻としてきてくれることなど考えられはしない。家は貧しいし将来も小石拾いですごさねばならぬ自分には、千代子を迎え入れる資格はない。  かれは、雨の中で立ちつくした。このまま家に戻ろうかとも思った。千代子に会ってみたところで無駄にちがいない。おそらく千代子は、石拾いのことを口にしたことなどすでに忘れているだろうし、却《かえ》って自分が惨めになるだけだと思った。  しかし、かれの足は自然と動いた。たしかに千代子は石を拾って一生をすごしたいと言った。たとえそれがなんの意味もないことであったとしても、その言葉の真意をたしかめたいと思った。  水族館の前庭には雨のためか観光客の姿はなく、館内からレコードの音楽がうつろに流れ出ているだけだった。  四郎は、傘をすぼめると意識的に足をひかぬように努めながら、入場券売場と書いてあるボックスに近づいた。かれは、自分の顔から血の色がひいているのに気づいていた。が、かれは思いきってボックスの前に立つと窓口から貨幣をつき出した。  しかし、ボックスのガラスの中には千代子の顔はなく、中年の男が退屈そうに坐っていた。  四郎は、切符を手に館内に入ったが魚を観てまわる気にはなれなかった。おそらく千代子は欠勤したにちがいない。胸をときめかせながらやってきた自分が滑稽に思えて、かれは苦笑をもらした。館内に入場客はなく、四郎は、うつろな表情で大きな水槽《すいそう》の中を泳ぐ黒鯛《くろだい》の群れをながめていた。  館外に出ると、雨は一層はげしさを増していた。かれは、雨脚に煙る海沿いの道を家の方へ歩いていった。  その日の午後、四郎は、夕食の買物をしてもどってきた母から思いがけぬことを耳にした。千代子が、昨夜水族館の近くにある旅館の若い番頭と駆落ちしたという。宇川の家に残された手紙には、生活に飽いたので東京か大阪へ行くと書いてあった。狼狽《ろうばい》した宇川はすぐに高知駅に急いだが、すでに出発した後らしく千代子と番頭の姿はなかったという。  四郎は、放心したような眼で母親の言葉をきいていた。千代子が駆落ちしたことも知らずに水族館にまで行った自分が愚かしく思えた。千代子は、男とともに故郷を捨てることを決しかねていたにちがいない。浜にやってきて石でもひろいながら一生を送りたいなどと口にしたのも、そうした悩みから幾分自棄的な気持があったためかも知れない。  千代子が男と逃げたことを思うと、息苦しいような嫉妬《しつと》が胸につき上げてきたが、同時に体の萎縮《いしゆく》するような卑屈感にもおそわれた。  かれは、千代子が家出しようとしまいと全く関係のないことだ、と自分にしきりに言いきかせた。千代子にかすかながらも或る期待をいだいたことが、初めからまちがっていたのだ。自分は、ただの石拾いにすぎない。世間的な意味でなにも価値のない人間なのだ。ただ自分に生甲斐というものがあるとすれば、それは軍鶏だ。  四郎の眼に、物悲しい光が湧いた。多くの軍鶏師がそうであるように、自分も軍鶏にすべてを賭けて生きればそれでよいのだ。  四郎は、傘をさして家を出ると鶏舎の前に立った。正宗は、精力を持て余したように羽ばたきせわしなく歩きまわっている。かれの胸から、卑屈感が消えた。自分には、軍鶏がいる。しかも、それは決勝を争うような強力鶏で、そのような軍鶏を保持していることは選ばれた人間だけにあたえられた恵みなのだ。  かれの眼に、光が増した。かれは、雨の中で長い間正宗の姿を見つめていた。     四  決勝の取組表がまわってきた。決勝戦に出場する黒駒と正宗の名が太い文字で書かれ、その戦歴も詳細に紹介されていた。  四郎は、朝夕正宗を入念に観察した。とさかも耳たぶも艶《つや》やかな朱色を呈し、足にも血の色がすけてみえる。餌の食いも充分で、体調は好ましい仕上りをみせているようだった。  しかし、栄養価の高いものをあたえているためか、幾分肥え気味に思えた。かれは、正宗の体にさわってみた。肥満すれば当然跳躍力はおとろえ、闘争には不利になる。  四郎は次第に不安になって、自転車をひき出すと宇川の家に急いだ。千代子に去られた宇川の悲しみがわからぬわけではなかったが、かれには正宗の肉づきの方が気がかりだった。  宇川は仕事に出るところらしく、自転車に仕事道具をつけていた。四郎が、正宗の体のことを口にすると、宇川は、 「行ってみよう」  と、言った。  かれらは、細い道を前後してペダルをふんでいった。  鶏舎から出した正宗の体を凝視した宇川は、 「なぜこんな体にしたんだ。運動不足だ。こんな体では黒駒に蹴殺されるぞ」  と、荒い語調で言った。  四郎は、うろたえた。軍鶏を飼ってから二年以上がたつが、自分には軍鶏師としての資格がまだそなわっていないのだと思った。  宇川は、湯に漬けるか、と言った。肥えた軍鶏は、たらいに満たした湯にすっぽりと漬け、二十分間たって引き上げてから体を強くマッサージし、さらに二十分後再び湯に漬ける。そうしたことをくり返して脂肪をぬくのだが、当然体力の消耗はひどく、時折心臓|麻痺《まひ》を起して死亡してしまうこともある。しかも正宗の場合は闘鶏が一週間後にせまっているし、たとえ脂肪ぬきに成功しても疲労は回復せず、一時間にも及ぶ試合時間をたたかいぬく体力を維持できるかどうかは甚だ疑問だった。  当惑したように黙りこくっていた宇川は、 「嵐を使おう」  と言った。  四郎は、顔色を変えた。宇川は、正宗と嵐をたたかわせその激しい運動で脂肪をぬこうというのだ。しかし、嵐は、戦う力もなく一方的に正宗に突つかれ蹴られるだろう。  四郎は、ためらった。が、宇川の言葉通り柵の中に入ると嵐の鶏舎の扉をあけた。  嵐が、物憂げに運動場へ出てきた。嵐を使って正宗の脂肪をぬくという方法は、たしかに理にかなったものにちがいなかった。嵐には力がなく、正宗は傷つくことはない。試合前に正宗の闘争心をあおる意味でも、練習鶏とたたかわせることは好ましいし、激しい動きで体調もととのえられるはずだった。  四郎は、正宗の鶏舎の扉をひらくと柵の外に出た。たちまち正宗は、すさまじい勢いで嵐に突きかかっていった。  宇川が歩き出し、四郎も柵の傍をはなれた。  宇川は、 「一時間はつづけさせろ」  と言うと、自転車にまたがって庭から出ていった。  四郎は、縁側の前に立ちつくした。鶏舎の方からは、はげしい羽ばたきの音がきこえてくる。すでに嵐は倒され、正宗は、その体を嘴で突つき蹴爪を打ちおろしつづけているにちがいない。四郎は、片足を投げ出すようにしてうずくまった。  一時間後、四郎は、荒い息をつく正宗を鶏舎に入れた。  嵐は、ボロのように砂地に横たわっていた。四郎は、蓆《むしろ》をもってくるとその死骸とあたりに散った羽をまとめてくるみ、庭の隅に埋めた。正宗は、嵐の死体を飽きることもなく踏みにじり、ついばみつづけたのだろう。むろん兄弟鶏であることなど念頭にはなく、嵐の死体をさいなみつづけたにちがいない。  四郎は、その日正宗の疲労を回復させるため、夕方になって卵二個を半熟にしてあたえた。  正宗の体からは、たしかに脂肪がぬけたようだった。二日後に運動場へ出してみると足どりは軽やかで、体力を持て余したように時折羽をあおる。今までにない好調な仕上りにみえた。  試合の前日、四郎は、蹴爪とぎにかかった。  蹴爪は、足首から直角に突き出ているが、正宗の蹴爪は、四センチほどの長さをもつすばらしいものだった。淡黄色のギヤマンのようにかすかに透けたその爪は、ひどく固く強靭《きようじん》だった。  四郎は、やすりで槍先のように鋭くとがらせ、さらにガラスの破片で入念に仕上げた。  運動場に放つと、二本の蹴爪は短刀のように無気味に光った。  翌日の午後、四郎は、正宗を籠の中に入れ闘鶏場にむかった。朝から取組がはじまり、決勝は午後三時からと予定されていた。  闘鶏場の雰囲気は、いつもとは変っていた。観衆がせまい闘鶏場の空地にひしめき、新聞社のカメラマンもきているのか眩《まば》ゆくフラッシュがひらめいたりしている。  四郎が籠を空地に持ちこむと、多くの人々が正宗をとりかこんだ。すでに黒駒は来ていて、その籠にも人だかりがしていた。  取組は蹴倒しがつづいて、予定よりも早く進行していた。そして、三位と四位の軍鶏がタタキ分レ(引き分け)になると、急にあたりがさわがしくなった。 「準備はいいな」  闘鶏の主催者が、声をかけてきた。 「決勝戦にござります」  と、土俵ぎわの一郭から声がおこり、黒駒と正宗の名が紹介された。  四郎は、正宗を籠から出すと抱き上げ、人々の間をわけて土俵のかたわらに進み出た。観衆の間から感嘆の声がもれた。たしかに正宗の体は大きく、その蹴爪は長く逞《たくま》しかった。  反対側に、奥宮の抱く黒駒が姿をあらわした。四郎の体は、熱くなった。嵐が、黒駒に眼をつぶされて倒された折の記憶がよみがえった。黒駒の眼が、冷たく光っている。しかし、正宗は、黒駒に倒されることはあるまいと思った。  四郎と奥宮は、それぞれ正宗と黒駒を土俵の中へ抱き入れた。  主催者の合図で、四郎は正宗をはなした。正宗は、すさまじい速さで黒駒の体に突進し、羽をあおって跳び上った。黒駒が頭をさげて攻撃をかわし、体の位置が入れかわった。正宗の体は黒駒よりも大きく、その動きには自信があふれていた。  二羽の軍鶏が同時に跳躍し、壮絶な闘争が開始された。正宗の嘴は、的確に黒駒のとさかを突つき、早くも血をふき出させた。正宗は、黒駒のとさかを嘴でねじるようにくわえこみ、大きく羽ばたいて蹴爪を頭部にたたきつけようとする。が、黒駒は巧みにすりぬけ、逆に正宗の体を蹴る。  黒駒の頭部は血に染まり、その中で片方の眼だけが異様に光っていた。正宗のとさかからも血がふき出し、殊に肩から流れ出た血はかなりの量で、羽ばたく度に土俵の蓆がこいに飛び散った。  四郎の口の中は、ひりつくように乾いていた。正宗にとってこれほど強い相手とたたかったことはなかった。正宗は闘志をむき出しにして闘っているが、黒駒には無気味なほどの強靭さがあるらしく疲れは全くみられない。むしろその動きは、さらに鋭さを増してきているようだった。  五分間が経過した。正宗はしきりにとさかをねらい、黒駒も正宗のとさかをくわえてねじり倒そうとする。観衆のうわずった声が交差し、闘鶏場に異様な熱気がみなぎった。  試合開始後十分ほどが経過した頃、遂に正宗が機会をつかんだ。嘴で黒駒のとさかをくわえ押しひしぐようにした正宗は、勢いよく跳躍して足をふり上げた。その瞬間、黒駒の頭部から鮮やかな血が、土俵の砂地にとび散った。  奥宮の口から、悲痛な声がもれた。正宗の剣のような蹴爪の先端が、黒駒の片方だけひらいた眼を突き刺したのだ。  黒駒の体が、横倒しになった。そしてすぐに立ち上ったが、視力を完全に失った黒駒は、おぼつかない歩き方をしながらあたりをうかがうように頭をかしげた。  正宗が、荒々しく黒駒の体に襲いかかった。が、その直後、意外にも正宗は足もとを乱すと、前のめりに崩折れた。  四郎は、口を半開きにした。黒駒がおそるべき勘をはたらかせて、その蹴爪を正宗の頭部にたたきつけたことを知った。  倒れた正宗の足は、痙攣《けいれん》していた。 「脳天をやられた、脳天を……」  軍鶏師たちが、興奮したように声をあげた。  正宗は必死に立ち上ろうとしてはいるが、眼はすでに半開きになっている。立つんだ、立つんだ、四郎は、胸の中で叫んだ。しかし、正宗の眼は徐々に閉じられ、わずかに足が小刻みにふるえているだけだった。  清めの塩が土俵にまかれた。その中で、両眼を失った黒駒が、頭をかしげながらたたずんでいた。  勝負は黒駒の蹴殺し勝ちとなり、顔を紅潮させた奥宮が歓声をあげた。  四郎は、手をのばし正宗の体を抱き上げた。そして、人混《ひとご》みを分けて闘鶏場を出た。  かれの胸には、なんの感慨も浮んではいなかった。  正宗の足の痙攣はやんでいたが、体はまだ温かかった。  かれは、自転車の荷台に正宗を結びつけるとハンドルを押して歩き出した。五月の陽光はまぶしく、海から渡ってくる風が、軍鶏の羽毛をそよがせていた。 [#改ページ]   鳩     一  清司は、北の空を見つめていた。  周囲につらなる屋根の上には、夕焼けの色が華やかにひろがっている。  かれは、三時間近くも前から屋根の上の鳩舎《きゆうしや》の傍に坐りつづけていた。北の空に、鳩の姿が湧《わ》くのを待っているのだ。  三日前、かれは、六〇〇キロレースに参加させる鳩を三十二羽籠に入れると、小型車を運転して鳩レースの持寄り場所へ持ちこんだ。  四区合同のレースに参加した鳩の総数は千二百七十二羽で、主催者側の手によって、青森県の陸奥《むつ》湾に面した野辺地《のへじ》に列車で送られた。  レースは、天候状態に大きく影響をうける。一カ月ほど前におこなわれた仙台近くの松島海岸から東京までの三〇〇キロレースでも、参加鳩二千余羽のうち、その距離を飛翔《ひしよう》して参加者の鳩舎にもどることができたのは、一〇パーセントにもみたない百六羽だけであった。それ以外の鳩は途中でほとんどが死亡し、わずか七羽がコース半ばの未知の鳩舎にまぎれこんでいることが判明しただけであった。そのレースでは、天候がレースに適した好ましいものと予測されていたのだが、天候の急激な悪化にわざわいされて鳩の大半が失われたのだ。  短距離レースに属す三〇〇キロレースですら、たとえ好天に恵まれても帰還率の平均が五〇パーセントを下廻ることを考えると、その倍の距離にある野辺地から放たれる鳩の帰還率は、むろんかなり低いことが予測された。  鳩とともに放鳩地に赴いた役員は、そうした鳩の喪失をなるべく軽減するため、深夜から各地の気象台に問い合せて天気図を作成する。さらに、コース途上に鳩舎をもつ飼育家たちに電話連絡をとって、その地その地の天候状況を教えてもらい、それらを参考にして気象状態の検討をおこなう。そして、それらの結果をまとめて東京の主催本部に報告し、すべての条件が良好だと判断されると、朝もなるべく早い時刻に放鳩が決定される。  その日も野辺地に赴いている放鳩係からの連絡が夜明け前に入って、本部では、早朝六時三十分に放鳩を指令したのだ。  放鳩地では、四名の役員によって午前六時三十分、籠の戸が一斉に開け放たれ、千二百七十二羽の参加鳩が朝の陽光にみちた空に舞い上った。そして、鳩の大集団は、放鳩地の上空ではげしい渦流のように大きく円をえがいて旋回すると、やがて方向を見定めて、その頭部を南に向け飛翔を開始したはずであった。  鳩は、野辺地を後に一路南下する。そのコースはおぼろげながらしかわかってはいないが、北上山地の西側につらなる山間部を越えて盛岡に出、さらに北上川沿いに花巻、水沢の上空を通過して仙台方向にむかうと推定されている。  清司は、参加させた三十二羽の鳩のうち、その秋におこなわれた盛岡から東京までの五〇〇キロレースで三位に入賞した北斗号と、翌日帰還した鳩六羽を加えていた。それらの鳩は、少なくとも盛岡から東京までのコースを経験しているだけに、清司の最も期待をかける流星号以下の鳩を巧みに誘導してくれるにちがいなかった。  大集団で飛びつづける鳩には、さまざまな障害が待ちうけている。コース途上にある市町村の上空で飛遊する鳩の群れに加わってレースを中断する鳩などは論外だが、鳩の行手には山岳地帯がひかえ、天候の急激な変化やはげしい気流や突風にもみまわれる。  それに、鳩は、しばしば猛禽《もうきん》類に襲われる。長い距離をとびつづけて疲れきった鳩は、それらの恰好な獲物《えもの》となる。しかし、鳩は、天性の帰巣《きそう》本能からたとえ身を傷つけられても、ひたすら鳩舎を目ざして飛ぶことをやめない。はらわたを露出させ、帰巣と同時に絶命した鳩も数知れない。  そうした障害をくぐりぬけて鳩は飛びつづけるが、やがてそれぞれの体力の差で鳩の大集団は徐々にくずれはじめ、まず百羽ほどの集団にわかれ、さらに時間がたつにつれて三十羽、二十羽、数羽とこまかくわかれてゆく。  鳩は、餌を食べず水も飲まず、ただひたすら飼主の待つ鳩舎にむかって飛びつづける。  やがて、鳩の眼に見なれた風景がひろがり、鳩は正確に頭部を一方向にむけて一層激しく羽をあおる。  前方に展開された風景の或る一点に、鳩は、自分の生れ育った鳩舎を見出す。鳩は急角度に降下して、鳩舎の入口にはじめて下り立つ。  その瞬間、待ちかまえていた飼育者は鳩の脚にはめられたレース用ゴム輪をはずしてゴム輪ケースに入れ、レース記録用時計にさし込んで帰還時の時刻を記録する。  参加者の鳩舎位置はまちまちだが、あらかじめ五万分の一の指定された地図に鳩舎位置をしめす針穴がうがたれて、主催者側に提出されてある。  主催者側では、放鳩地とその針穴間の距離を測定して、鳩の飛翔所要時間で割る。つまり鳩の一分間単位の速度が算出されて、順位が決定するのだ。  天候状態が良好ならば、分速一〇〇〇メートル、つまり時速六〇キロは充分に記録されて十時間で鳩舎にたどりつく。放鳩時刻が午前六時三十分であったのだから、午後四時三十分には鳩舎にもどってくるはずだった。  清司は、時計に眼を走らせたが、すでに針は四時三十分近くをしめしている。  かれは、再び北の空に眼を向けた。  その秋のシーズンの間に、かれは三〇〇キロ、五〇〇キロレースに合計百八羽の鳩を参加させ、七十二羽を失っている。そして五〇〇キロレースで帰還した鳩の一羽は、猛禽類におそわれたらしく下腹部を傷つけていたので、すぐに首をひねって処分した。  しかし、かれは、そうした鳩の死を悲しむことはなかった。それは、二年前に死亡したレース鳩の飼育者であった父から無言のうちに教えこまれ習性化したものであった。  が、その日の六〇〇キロレースに、北斗号とともに初参加させた流星号だけは失いたくない気持が強かった。  その二歳の雄鳩は、父から残された銘鳩と昨年ベルギーから輸入した雌鳩を交配させて慎重に作り出した鳩の中の一羽で、姿態は均衡のとれた美しさにみち、その空気をきる翼の動きは力感にあふれていた。  清司は、その鳩をにぎる折の強靭《きようじん》さをひめた逞《たくま》しい骨格と、それとは逆の或る種の軽やかさに恍惚《こうこつ》とした。小学生の頃から大学卒業を間近にひかえた現在まで、父の飼育していた鳩を数多く眼にしてきたが、それらとはあきらかに異なった若々しい風格が感じとれた。それは、自分にとってようやく得ることのできた銘鳩にちがいなかった。  かれは、流星号を失いたくない気持から、殊にその日はコース途上の天候状態に注意をはらっていた。  午後になって耳にした短波放送によると、福島地方北部には雷雨が移動しているようだった。  清司はそのニュースに不安を感じたが、あの逞しい翼をもつ若鳩は、雷雨の中を力強くくぐりぬけてもどってくるにちがいないと思った。  かれの眼に、十羽近くの鳩が東の空を遠く飛んでいるのがみえた。しかし、その翼の動きからみて、それは夕方の運動をしている町の鳩で、レースに参加した帰巣を急いでいる鳩とは別のものであることはあきらかだった。  運動している鳩の翼のあおりは悠長だが、レースで飛翔する鳩の翼の動きには、殺気に似たすさまじい力感がある。翼は上下にほとんど交差するかと思うほどはげしくあおられ、しかも運動している鳩のように弧をえがいて旋回することはなく、鋭く直線的に飛んでくる。  それに、鳩が東の空をとんでいることから考えても、レース参加鳩でないことはあきらかだった。  東京に鳩舎をもつ飼育者の鳩レースでは、北方の遠隔地から放鳩されることにきまっている。つまり、レースに参加した鳩は、北の空からその鳥影をあらわすのだ。  稀《まれ》に東や西の空、または南の空からもどってくることもないとはいえぬが、それは集団を好む本能をもつ鳩が、他の巣にもどる鳩の群れにひきずられて自分の巣に帰ることを忘れてしまった結果で、レースには惨敗するにきまっていた。  清司は、北の空を見つめながら何度か味わった苦い記憶を思い浮べていた。  その秋の三〇〇キロレースでも、かれは北方の高い空に二羽の鳥影を発見した。その鳩はつらなるように突き進んできたが、下降する気配はみせず、かれの頭上はるか上空をすさまじい速さで通過していった。それは、むろん他の鳩舎に帰巣を急ぐ鳩で、その瞬間、かれはレースに破れたことをさとったのだ。  そんな不安が胸の中に絶え間なくかすめ過ぎたが、経験鳩北斗号と組んだ流星号に対する期待は消えなかった。たとえ六〇〇キロの中距離レースは初経験でも、その逞しい若さにみちた翼と鋭敏な神経で、群をぬいた速さで帰巣するにちがいないと思った。  かれは、身じろぎもせずに北の空を見つめつづけた。  夕照は西に傾き、周囲につらなる屋根は一層華やかにかがやいている。  と、北の空の一角に、微細な点状のものが湧き出るのをかれの眼はとらえた。それはかなりの高空で、茜色《あかねいろ》の空を背景に一つの黒色の点となって、徐々にその色を鮮明にしてくる。清司は、その黒点の直線的な動きに、決して他の鳥類ではない帰巣に全力をそそぐ一羽のレース鳩を認めた。  かれは、思わず立ち上った。  他の鳩舎の鳩だろうか。それとも、流星号か、北斗号か。もしも他の飼育者のレース参加鳩であれば、はるか頭上を通過してしまうはずだった。  黒色の点は、急速に大きくなって翼の動きもはっきりとみえはじめた。それは、上下に交差するほど激しい動きをみせ、正確に南にむかって直進してくる。  かれは、眼をこらした。  と、黒い鳥影は、丁度視線の四十五度ほどの高空から、一直線に下降しはじめた。  かれの胸に、熱いものがつき上げた。鳥影は、夕照に包まれながら、かれの立っている位置にすさまじい速さで直進してくる。 「流星号だ」  と、かれは思った。  その若々しい姿態と強靭そうな翼の動きは、かれの期待を寄せた鳩にちがいなかった。  羽ばたく音があたりにひろがって、空気が激しく乱れた。そして、鳩は、荒々しく翼をあおって身を浮かすと、鳩舎の前に突き出た到着台の上に下り立った。  清司は、鳩の体をにぎった。帰還時刻は、秒単位であらそわれる。かれの手は素早く動いて、鳩の脚にはめられたレース用のゴム輪をぬきとり、ゴム輪ケースに入れた。そして、それをレース記録用時計の穴に投入すると、時計の上部にあるハンドルを急いでまわした。  時計の針をみると、四時三十七分であった。  流星号は、長い距離を飛翔してきた興奮をおさえきれぬように、たけだけしく到着台の上を歩きまわっている。そして、鳩舎に入ると、飲水器に嘴《くちばし》を入れた。  清司は、流星号の水を飲む姿を見つめた。四時三十七分に帰還した流星号は、途中福島地方の雷雨という悪条件を思えばかなりの速度で帰ってきたことになる。しかも、流星号には余力が充分に残っているらしく、疲労の色もそれほどみられなかった。  水をうまそうに飲んだ流星号は、狂ったように鳴き声をあげている雌の巣房にあわただしく入って行った。  清司の顔に、微笑がうかんだ。レース鳩は、定った雌に会うことをねがって帰巣を急ぐが、大半の鳩は、鳩舎にもどるとまず水を飲み餌をついばむ。しかし、流星号は、水を飲んだだけで餌には目もくれず、雌の待つ巣へともぐりこんでいった。それは、強烈な性欲にあふれた若く強い雄鳩である証拠であった。  流星号は、雌鳩に荒々しく近づくと、くちばしをすり合せ咽喉《のど》を鳴らしながら体を寄せ合って歩きまわった。そして、やがて相擁するように巣わらの中に入るとうずくまった。  かれは、満足だった。流星号の帰還後の動作は、かれの期待があやまっていなかったことをしめすもので、おそらく流星号はかなり上位の着順で帰巣したにちがいないと思った。  かれは、再び北の空に眼を向けた。  夕映えがいつの間にかその光を薄れさせ、しばらくすると夕闇の気配が、急にひろがりはじめた。  と、昏《く》れかけた北の空に、二つの黒点が湧いた。そして、それは或る位置までくると互いに反撥するように分れて、その黒点の一つが急角度で降下してきた。  羽ばたきの音が接近し、灰ゴマ色の鳩が到着台に下り立った。  清司は、鳩の体をにぎるとゴム輪をはずして記録用時計に記録した。  北斗も帰ってきた……、かれは、その三歳鳩に眼を据えた。  北斗号は、水を飲んでいる、その姿には疲労の色が濃く、水を飲み終るとよろめくように腹をつけてしまった。そして、しばらく息をととのえるように柿色をした眼を力弱くしばたたいていたが、辛うじて立ち上ると餌箱に近づいた。  いつの間にか巣房では、雌の傍からはなれた流星号が餌を食べはじめている。その餌のあさり方は、北斗号とちがって旺盛《おうせい》な食欲をむき出しにしたもので嘴を餌箱に突き立てていた。  餌には、栄養価の高いものにビタミン剤が混入されている。清司は、流星号と北斗号が、一日も早くレースの疲労を回復させることをねがった。  空に、淡い星が散りはじめた。  鳩は、夜間の飛翔を好まない。日が没すれば、レース鳩も飛ぶことをやめて休息をとる。野性を失ってしまった鳩は、山間部の樹木などにはとまらず、必ず人家の屋根を探して夜をすごす。そうした習性を考慮して、鳩レースの順位を決定する分速の計算も日没後三十分から日の出前三十分までの間は鳩が飛ばぬものと定めて、その夜の時間だけ除外されるのだ。  清司のもとにもどってきた当日帰りの鳩は、結局流星号と北斗号の二羽だった。  かれは、鳩舎の傍からはなれると、記録用時計を手に梯子《はしご》をおりた。  三間ある家の内部は暗く、その闇の中から、 「鳩は、もどってきたのかい」  という母の声がした。  清司は、居間の電燈をつけた。隣室に横たわった母の静乃が、媚《こ》びるような眼を向けているのが電光に浮び上った。 「あたり前だよ。二羽もどってきた」  かれは、素気なく答えたが、その声には機嫌よさそうなひびきがふくまれていた。  清司は、居間に置かれた食膳の前に坐ると、その上にかけられた白い布をとりのぞいた。夜の勤めに出ている姉が家を出る前につくった食事で、いつものようになにもかも冷えきっていたが、かれは不服そうな表情もみせずに箸《はし》を動かしはじめた。  長年の勘で、他の飼育者の鳩舎にはレース鳩もほとんど帰還していないように思える。かれの眼にとらえられたのは、流星号と北斗号と、北斗号と並んで飛んでいた鳩だけだった。が、その鳩もさらに南下していったし、当然北斗号より帰巣タイムは劣っているはずだった。  かれは、自然と旗野君子の顔を思い浮べていた。  君子はレースに四十九羽の鳩を出場させているが、数多くの銘鳩を参加させてレースには自信をもっている。  鳩舎は、清司の家の南東に位置していて、その鳩舎に帰巣する鳩はかれの視野の範囲外にある。強敵は、君子の参加させた鳩だと思った。  母は、清司が食事をはじめるのを待っていたように箸をとった。かれは、そうした母の卑屈な態度が不快だった。  母は、三年前の秋、鳩レースに熱中する父に堪えきれずひとりで家を去った。それから二年後父が死亡すると、それを待っていたように再び姿をあらわしたが、母は心不全症で寝たり起きたりの身になっていた。  姉は喜んで母を迎え入れたが、清司は同居を拒みはしなかったものの母を心の底から許すことはできなかった。母がもどってきたのは、決して自分や姉に対する愛情からではなく、病気をいやすために転がりこんできたとしか思えなかった。  そうした清司の心の動きに気づいているらしく、母は、清司の顔色をたえずうかがっている。そうした母のおびえた表情に、清司は一層いら立ちを感じるのだ。  かれは、箸を投げ出すと記録用時計を手に立ち上った。そして、母の視線を背に家の外へ出て行った。     二  区役所に接した公民館の前庭に、清司は、赤い小型車が駐車しているのを眼にした。  やはり……と、かれは思った。その小型車は、君子の車だった。君子は、帰還した鳩の時刻を記録した時計をもって審査場にあてられた公民館に来ている。  かれは、車からおりると記録用時計をかかえて公民館の中に入った。  廊下をつたわって審査場という紙の貼《は》りつけられたドアをひらくと、十名ほどの人の視線が向けられてきた。  清司は、素早く部屋の隅の椅子に坐っているスラックス姿の君子を認めた。同じ地区の連合会の者は、君子以外に一人いるだけで、他は隣接した地区の飼育者ばかりだった。  かれは、当日帰りの鳩が少なかったことを知った。放鳩地で放たれた鳩がその日のうちに数多く帰巣すれば、それだけ記録用時計を持ち込む飼育者の数は多い。が、その夜は、参加鳩の数から考えると予想外の小人数だった。そしてそれは、かれにとってむろん願ってもないことであった。  清司は、審査委員の坐っている机に近づくと、その上に記録用時計を置いた。 「あんたのところは、何羽帰ってきた」  同じ地区に属する参加者が、さぐるような眼をして言った。 「二羽」 「それは大したもんだ。旗野君子さんと他地区の二人が二羽帰りで、それ以外はみんな一羽だ。福島あたりにかなりの雷雨があってね。鳩は、大分疲れていたろう?」 「いや、ぼくのところの鳩はそれほどでもない」  清司の答えに、その男は、 「そうかい」  と言ったきり、黙りこんでしまった。  部屋の一隅では、参加者たちが数人寄り集まってポケット瓶のウイスキーを飲んでいた。室内にはにぎやかな人声がみちていたが、かれらの眼には互いに他を意識する落着きのない光がうかんでいた。  日没後に帰還する鳩が皆無ともいえないので、午後八時まで受付を待ち、ようやくその日に帰還した鳩の記録審査がはじめられた。  持ちこまれた時計は十一個で、委員の手によってつぎつぎと時計の箱がひらかれ、その中からとり出されたゴム輪の番号と記録された時刻が読み上げられてゆく。  審査場には緊迫した空気がはりつめ、机の周囲に人垣がつくられた。  帰還時刻は午後五時すぎばかりで、清司の流星号の帰還が午後四時三十七分だと読み上げられると、参加者たちの間に動揺が起った。  しかし、旗野君子所有の鳩二羽と隣の地区で大鳩舎をもつ鳩業者の鳩が一羽、午後四時台にもどっていた。  記録の読み上げが終ると、審査員たちは、それぞれの時計の狂いがないかを確かめ、放鳩地から各鳩舎間の距離を所用時間で割って分速の算出を急いだ。  飼育者の中のただ一人の女性である君子は、いつの間にか最前列に出て審査員の計算する手もとを見つめている。そして時々清司と視線を合わせたが、その眼はなにも語りかけてはこなかった。  三十分ほどして集計が終り、仮発表がおこなわれた。その結果は、鳩業者の鳩が一位、君子の鳩が二位、流星号が三位の順位で、北斗号は八位の成績だった。  室内の緊張した空気がくずれ、その中で鳩業者が笑みを顔一面にうかべて、 「今夜は、一杯おごるぜ」  と、うわずった声で叫んだ。  一位の賞金は、この種のレースとしては十五万円という高額で、さらに優勝した鳩はかなりの高値を呼び、その血をひく仔鳩《こばと》も高い価格で取引されるのだ。  その夜はそれで散会となって、参加者たちはそれぞれ記録用時計を手に部屋を出て行く。  清司は、優勝を逸したことが口惜《くや》しかったが、流星号がはじめての中距離レースに参加して三位に入着したことは予想以上の好成績だと思った。優勝した鳩業者の鳩は、超銘鳩の名が高く、君子のもつ鳩も粒ぞろいで、それらに伍して接戦を演じたことは、かれを満足させるのに充分だった。  清司は、頬をゆるませながら公民館の外に出ると、赤い小型車の方をうかがった。  すでに車にはヘッドライトがともされ、エンジンの音も起っている。  清司は、車に身を入れ、ゆっくりと門の方へ動きはじめた君子の車を眼で追いながら、エンジンを始動させた。  小型車は大通りに出、その後から清司の車がついてゆく。  右手に公園の林が迫ってきて、君子の車の右後部に光る灯が、右折をしめして点滅しはじめた。  その光を眼にした瞬間、清司は、体中に熱いものがひろがってゆくのを感じた。それは、君子が自分といつもの場所で体を接触することをねがっている証拠であった。  清司は、君子と半月前から一度も会っていなかった。それは、二人ともレース前にそれぞれの鳩の体調をととのえることに専念していたからで、二人だけの時間をもつのは常にレース後かレースのおこなわれない時期にかぎられていた。  そうした習慣は、いつの間にか二人の間に無言のうちに定められた戒律のようなものになっていたが、それは清司たちがレース鳩に強いる方法と同じものであった。  鳩は、性欲がきわめて強い。鳩は厳しい一夫一婦制を守り、同じ巣房の中で絶えず発情して交尾し、雌はしばしば卵を生む。その発情期のさかりになると、雄は日に四十回以上も交尾をいどむのだ。  しかし、レース用の雄鳩にとって、そうしたはげしい交尾は体力を消耗させる因《もと》となるので、雄と雌は分離され、互いにその姿を眼にできぬような場所で飼育される。そして、レース直前、雄の籠に雌を入れると、極度な興奮をしめして刺戟《しげき》し合う。その直後、雄はレースの放鳩地に送られてゆくが、雌と再び交わることをねがってひたすら帰巣を急ぐ。そして、鳩舎にもどると巣房で雌と激しく交わるのだ。  車が、公園の中の道を尾燈をゆらせながら進んでゆく。そして、林の中の細い道に入るとライトが消え、静かに停車した。  君子が、ドアから身をすべり出させて林の奥の方へ歩いてゆく。  清司は、車からおりると足をはやめて近づき、肩をつかんで荒々しく唇を押しつけた。  闇の中でかれは、雄鳩と雌鳩のはげしい交合をしきりに思い浮べていた。  その夜、家にもどったのは、午前一時すぎであった。  清司は、すぐに中二階のせまい自分の部屋に上ると、ベッドの中にもぐりこんだ。君子は、自ら「鳩胸でしょう」と言っていたが、たしかにその乳房は豊かで激しい反応をしめす。  初めて君子の体にふれたのは、共同で放鳩訓練に出かけた日だった。  若い鳩に帰巣の習慣をつけるため、鳩舎の四方向から少しずつ距離をのばして鳩を放し鳩舎付近の風景をおぼえさせてゆくが、その日清司は、君子と若鳩を車にのせて鳩舎から約一二〇キロの距離にある日光の近くまで行った。  夜が明けた頃、鳩は、一斉に放たれた。  清司は、南の空に小さくなってゆく鳩を見送っていたが、傍に立つ君子のセーターの胸のふくらみを眼にした瞬間、不意にその隆起をつかんでいた。  君子は、胸の上の清司の手に掌を重ねたが、そのまま南の空を見つめて身じろぎもせず立っていた。眉根をかすかに寄せてはいたが、顔は無表情に近くただ咽喉のあたりがこまかくふるえているだけだった。そのうちに君子の膝頭《ひざがしら》が不意に折れると、体がくずれるように草むらの中に坐りこんだ。顔に血の気は失われ、胸の荒い動悸《どうき》が清司の掌につたわってきた。  その日から、清司は、君子としばしば体をふれ合うようになった。しかし、放鳩訓練の日の記憶が体にしみついているのか、君子は、草の上で抱かれることを好んだ。かれの激しい愛撫《あいぶ》に、君子の体の反応は回を重ねるにつれて増してきている。  君子は、清司の体がはなれると、眼を大きくみひらいて星の光を見上げたりしている。そんな折の君子の孤独な表情が、清司は好きだった。かれは、自分にとって君子は得がたい女だと思った。もしも結婚するとしたら、それは君子以外にありそうには思えなかった。  かれの頭には、父の生活がやきついてはなれなかった。レース鳩飼育者であった父は、生活|破綻者《はたんしや》として清司の母である妻にも逃げられた。  そうした宿命は自分にも共通したもので、かれは、尋常な女との結婚は諦《あきら》めていた。  父は旧満鉄の高級社員で、終戦時に引揚げてきた後虚脱した一時期を送っていたらしいが、いつの間にか鳩の飼育をはじめるようになった。  優秀な鳩は、すぐれた血統の中からしか生れ出ない。その原産地はベルギーをはじめとした北欧の国々で、湿度も低く寒冷な風土が強靭な羽をもつ逞しい鳩をはぐくむのだ。  父も、熱狂的なレース鳩飼育者と同じようにベルギー鳩を輸入して仔をとり、鳩舎も邸内に設けて、鳩は百羽、二百羽とその数を増していった。  しかし、ベルギー系の血をうけつぐ鳩も、湿度が高く夏季の暑さのはげしい日本の自然の中で徐々にその本質を変え、四、五代目になると日本的な鳩に退化してしまう。そのためベルギー系の種鳩を絶えず購入して交配する必要があった。  鳩レースのシーズンは春と秋で、鳩は短距離でも平均五〇パーセントしかもどらず、一年に少なくとも百羽や二百羽は失われる。その代償として入賞鳩には賞金があたえられるが、種鳩の購入費や飼育費などから考えれば問題にならぬほどの少額で、ただ表彰式であたえられる賞状とカップが飼育者の唯一の歓びであった。  そうした世界の中に埋没した父は、鳩のためにすさまじい消尽をはじめるようになった。遺された資産が次々に投じられ、広大な邸を手放し、転居が何度かくり返された。むろんその都度家は小さくなっていったが、鳩舎の規模は逆に大きくなり、鳩の数も増していった。  幼いながらも清司は、父の鳩に対する異常な執着が理解できなかったが、満州での敗戦時の記憶が、父を鳩にのめりこませた原因だということを叔父の口からきいたことがある。  父は一地区の管理者であったが、現地民が棍棒《こんぼう》や農具を手に来襲した折、近くの社宅に住む満鉄社員の家族たちに連絡をとることもなく脱出し、そのため多くの社員とその妻子が殺戮《さつりく》されたらしい。  そうした叔父の話を裏づけるように、父は、いつも暗い眼をしていて口数も少なかった。ただ父の眼に輝きがもどるのは、鳩に接している時だけであった。  家産が傾く中で、母は父を激しく責めつづけた。が、父は、母に胸倉をとられ泣き喚かれても、かたく口をつぐみつづけていた。  やがて、母は失踪《しつそう》した。一時は親戚《しんせき》の家に身を寄せて生命保険の勧誘員をしていたらしいが、その後料理屋の女になったともきいた。そして、父の死後家にもどってきた母は、そうした世界にいた女らしい空気を身につけていて、病床にふしながらも化粧は絶やさず、時折妙に媚びるような眼をする。父と諍《いさか》いをしていた頃の母の姿は、あとかたもなく消えていた。  清司が鳩に興味をもったのは、小学生の頃であった。鳩舎に近づくことは許されなかったので、庭や家の傍の路上から屋根につくられた鳩舎をながめ、鳩の飛翔する姿を見上げていた。  時折父は、屋根の上に立って赤い旗を先端にとりつけた長い竿《さお》を一心にふっていた。それは鳩の翼の力を強くさせるための訓練で、鳩を鳩舎で休息させずなるべく長時間飛ばせようとしていたのだが、幼い清司の眼にはいつも口数の少ない父が別人のように生き生きとした人間にみえた。  清司は、父の眼をぬすんで鳩舎に上るようになったが、それに気づいた父は不思議と叱ることはしなかった。  やがて中学校に入った頃、清司は鳩のひなが卵の殻をやぶって出るのを見ることもできたし、鳩の体を父の手つきをまねてにぎることもおぼえた。そうした清司を父は黙ってながめていたが、鳩を扱いたいと思いきって口にした時、父は頭をふった。 「おれだけでいい、お前は見ておればいいのだ」  と、父は、暗い眼をしてつぶやくように言った。  しかし、清司の鳩に対する興味は一層|昂《こう》じていって、高校へ入った年には、どうしても鳩をやりたいのだと父に真剣な眼をして頼みこんだ。  父は、しばらく黙っていたが、 「それでは、これをひねって殺せるか。この鳩は病気にかかっている。治療すれば治りはするが、今後レース鳩には使えない。優秀な鳩を飼うには、劣った鳩をどしどし処分しなければならないのだ」  と言って、一羽の栗ゴマ色をした雄鳩を指さした。  その鳩は、病気とは思えぬほど元気で他の鳩の中にまじってつぶらな瞳《ひとみ》を光らせている。  清司はためらいを感じたが、手をのばすとその鳩をにぎった。鳩の体の温かさと腹の毛の柔《やわ》い感触が、掌にふれてきた。鳩はつぶらな眼を開き、頭部を時々小刻みに動かしている。それは、清司の手の中に安らいで身をまかしているようにみえた。  清司は、鳩の頭部をつかむと思いきってねじった。頭が一回転してさらに力を入れると頸骨《けいこつ》の折れる音がし、鼻孔のついたくちばしが大きくひらいた。そしてその中から、粗い肌をした舌が痙攣《けいれん》しながら伸びて出た。  清司は、おびえたように父の顔をうかがったが、父は妙に悲しげな光を眼にうかべているだけで一言も口にしなかった。  その日から、父は、鳩の扱いを清司に教えてくれるようになった。二人で、北の空を見つめながら、レースに参加した鳩の帰巣を鳩舎の傍に坐って待ったこともあった。  そのうちに清司は、父がかたくなな飼育者であることを知るようになった。父は、レースに自分の飼育する鳩が好成績をあげることを願うだけで、レース鳩として劣った鳩は容赦なく処分し、むろん未帰還の鳩にはみじんも未練をもたない。  多くの鳩を飼育する者は、鳩を他人に売ったりするが、父はそうした金銭的なものを介在させることはしなかった。そのため、父は、家産を鳩のために注ぎこむ一方であったのだ。  鳩の飼育は金がかかるが、朝夕の運動を必要とするため生活も規則的になって、男の道楽としては健全だと言われている。しかし、鳩につかれた父には、そうした鳩を悠長にたのしむ生活とは程遠い執念のようなものが感じられた。  そうした父の鳩に対する態度は、そのまま清司に受けつがれた。そして、父の死後も鳩の飼育をつづけてきたが、清司の不安は、家に遺された金銭がようやく底をつきはじめたことであった。家を売却してさらに安い家に移転すれば問題は一時的には解決するが、果して鳩舎を設けられるような家を買い入れることができるかどうか疑わしかった。 「鳩気ちがい」  と、姉は、絶えず清司をののしる。  しかし、幼い時から父の鳩に対する執着の異常さにふれてきた姉は、清司を翻意させることは諦めているらしく、家計がひっぱくすると、あっさりタイピストをやめてバー勤めをするようになった。  姉は、夕方になると濃厚な化粧をして家を出て行く。 「鳩もいいけどね、大学を卒業して社会に出たら自分の稼ぎでやって頂戴よ。私だって、好きでバー勤めをしているわけじゃないんだし、それにいつかは結婚して家を出てゆく身なんだから……。それまでは面倒みるけど、後のことは知らないわよ」  姉は、眼をいからせてそんなことを口にしたりしたが、家計費や貯金通帳から清司が餌代や鳩の購入費をひき出すのは黙認していた。  しかし、清司は、大学を卒業しても会社勤めをする気は毛頭なかった。鳩の飼育やレースのことを考えれば昼間家をあけることはできず、時間的に余裕があるのは夜間だけで、結局夜警のような職業をえらぶ以外にはないと思っていた。  そうした自分のもとに、結婚相手がくるとは考えられない。たとえ妻を得ても、母と同じように逃げられるのが落ちだと思っていた。  しかし、旗野君子には、わずかではあるがその可能性があるように思えた。君子には弟が一人いるだけで両親はなく、遺された財産はかなりの額で鳩の飼育にも事欠くことはないらしい。  清司は、自然と一つの夢をひそかにえがくようになっていた。君子とはレース鳩の飼育者として相競う間柄だが、結婚すれば二人の飼う鳩を合流させて大鳩舎《だいきゆうしや》をつくり上げることも不可能ではない。鳩に対する執着は完全に合致していて、それは夫婦の間柄を破綻させるどころか逆に強靭なものにする。それに君子の持つ経済力は、清司の金銭に対する不安も解消させてくれるはずだった。  かれは、闇の中で眼を光らせた。鳩と君子を同時に得られる想像が、かれの胸をたかぶらせた。     三  表彰式は、十日後の夜に公民館の一室でおこなわれた。  レース日に帰巣した当日帰りの鳩は少なく、翌日からはさらに天候が悪化して鳩の帰巣はまばらだった。  レース鳩の記録は十日目まで受付けられるが、清司の場合も翌日帰りが三羽、三日目に一羽、七日目と八日目にそれぞれ二羽がもどり、結局流星号、北斗号をまじえた十羽が帰ってきただけで、三十二羽のうち二十二羽が失われた。  しかし、清司の鳩舎は損失が少ない方で、主催者側の集計によると全参加鳩数千二百七十二羽のうち帰還した鳩の数は、二〇パーセントにもみたない二百四十四羽で千二十八羽が未帰還になったという。  式の夜の講評では、思いがけぬ福島県下の悪天候にさまたげられて帰還率の低かったことは遺憾だと述べられたが、部屋の中には表彰式らしいなごやかな明るい空気があふれていた。  清司は、そうした中で鳩業者と君子についで三位の賞金五万円と賞状、カップを受けとった。  記念写真がとられ、簡単な祝宴がはられた。が、君子は、ビールのコップに口をつけただけで席を立った。  清司は、カップと賞状を手に参加者たちに気づかれぬように部屋を出ると、車の中に身をすべりこませた。  君子の車は、門を出ると舗装路をゆっくりと走ってゆく。が、公園の中へ通じる道路の入口近くにくると車からおりて近づいてきた。 「どうお、今夜は家に来てくれない? 弟が待っているのよ」  君子が、のぞきこむように言った。 「弟さん?」 「そうよ、弟はカップと賞状を見たくて帰りを待っているの。いいでしょう?」 「いいとも」  清司は、微笑してみせた。  弟の話は、君子から何度かきいていた。初めに鳩を飼っていたのは弟の方であったが、交通事故にあったため飼育もできなくなってやむなく君子が受けつぎ、そのうちに君子自身が鳩につかれるようになったという。  君子が自分を家へ招き弟に引き合せようと誘ってくれたことは、かれにとって意味があるように思えた。それは君子が、清司を充分に受け入れている証拠のように思えた。  君子の車は街道に出てしばらく走ると、私鉄のふみきりを越えて左に曲った。そして、両側石塀のつづいた坂をのぼり、やがて鉄製の門のある大きな家の前でとまった。  清司は、門の中に車を入れながら、予想以上に大きな家の構えであることに呆《あき》れていた。そして、習慣的に屋根の上を眼でさぐったが、鳩舎は家の裏手にでもあるらしく、それらしいものは眼にすることができなかった。  玄関の扉をあけると、六十歳ぐらいの家事をやっているらしい女が出てきて丁重に頭をさげた。  君子は、清司をうながして階段を上り、廊下の突き当りのドアをあけた。と、洋風の部屋に、十七、八歳の大柄な少年が椅子に埋もれるようにして坐っているのが眼にとまった。 「塩谷さんですね」  と、少年は眼を輝かせ、 「姉からお噂《うわさ》はきいています。三位入賞おめでとうございます」  と、言った。そして君子のさし出したカップと賞状を嬉しそうにかかえ、指先でカップの凹凸をしきりになぜた。  少年の背後にある長い棚にはカップが数多く並び、壁には額に入った賞状が飾られている。鳩の飼育専門誌や銘鳩の写真などが至る所に置かれていて、部屋は、鳩の匂いにみちているように思えた。  清司は、すすめられるままにクッションの柔らかい椅子に坐ったが、正面に坐っている少年の下半身にふと眼を据えた。  そのいぶかしそうな視線に気づいたらしく、少年が、 「ぼく、足がないんですよ。友達の運転する車に乗せてもらったんですが、車がトラックと正面衝突して友達は即死し、ぼくは両足をやられたんです」  と言うと、膝にかけていた小さな毛布をはらってみせた。ズボンははいているが、それはただ二本の布のように垂れ下っていた。  清司は、当惑して返事もできなかったが、少年は不思議なほど屈託のない明るい眼をしていて、暗い翳《かげ》も拗《す》ねたような気配もない。 「弟は鳩に夢中なの。ここに梯子があるでしょう」  君子は、頭をめぐらすと壁にとりつけられた梯子を指さした。 「この上に鳩舎があるんだけど、時々私がこのばかでかい弟を背負って上るの。今度のレースでも、二人で鳩舎にあがって鳩の帰りを待っていたのよ」  君子は、少年と顔を見合せて笑った。  それから君子と弟は、レースの話を熱っぽく口にしはじめた。君子たちは、参加させた鳩四十九羽のうち三十九羽を失っていた。その上、翌日帰りの鳩が、帰還後四日目を迎えても疲労がとれないので処分してしまったという。 「私は、始末するのがいやなの。ひねるのはもっぱら弟——」  と、君子は顔をしかめた。  たしかに鳩は、レース後すぐに疲労を回復させるようでなければ、レース鳩として使いものにならない。清司の場合も、そうした鳩は思いきって処分しているが、翌日帰りの鳩を四日目に処分した弟の飼育方法はかなり大胆なものに思えた。  清司は、あらためて弟の顔を見つめた。肩幅の広さや胸の厚みからみても体はすっかり成育していて、顎《あご》や口のまわりには青々とした髭剃《ひげそ》り痕《あと》がある。が、顔には少年らしいあどけない表情がうかび、眼には子供っぽい無心な輝きがやどっている。  弟の顔は、不思議なほど明るかった。弟は、笑いを顔に浮べながら鳩の首をひねるのだろうか。 「春のレースには、どんな計画をお立てですか」  弟が、清司の顔に眼を向けた。 「三位に入賞した鳩と八位のものを中心にして、まず八〇〇キロ、次に一一〇〇キロをやってみます。殊に三位に入賞した鳩はいいので、充分期待しています」  清司は、率直に言った。 「それでは、うちの鳩も八〇〇キロと一一〇〇キロをやらせようかな。実は今度のレースで二位に入った鳩は、ぼくたちの飼う鳩の中では大したものではないんです。それよりもこれからすぐにおこなわれる七〇〇キロに、すごい鳩を四羽加えようととってあるんです。それを八〇〇キロと一一〇〇キロにも出しますよ。すごいやつです。塩谷さんの鳩もいいらしいが、相手になるかな。ともかく超銘鳩の資格充分な鳩ですからね」  弟の顔に笑いは消えなかったが、その眼にはかすかに敵意に似た光がうかび出ていた。  清司は、挑むようなその言葉に顔のこわばるのを感じたが、レース鳩飼育者として競争意識をいだくのは当然のことだと思った。おそらく弟は、両足のない身だけに鳩そのものにすべてを打ちこんでいるのだろう。外出もできない弟は、生活そのものを鳩に傾けつくしているにちがいなかった。 「それでは、春は対決ですね。ぼくもそれまでに、負けないように調教しておきます。負けはしませんよ」  清司は、口もとをゆるめて言った。  弟の表情がさらにくずれた。 「対決ですか。いいですね、やりましょう、やりましょうね」  弟は、一層眼を明るく輝かせて興奮したようにくり返した。  その夜、清司は、君子の案内で梯子をのぼり、整備された鳩舎をみせてもらった。 「弟が失礼なことを言ってごめんなさい。変っているでしょう?」  と、君子は、暗い鳩舎の前で言った。 「鳩をやっている者は、みんな変っている。君だってそうだ」  君子が、首をすくめて笑った。  清司は、君子の胸をつかむと唇を吸った。  その日から二週間後に七〇〇キロレースがおこなわれたが、それを最後に秋のレースはすべて終った。  そのレースは、北海道函館市の北方にある七飯《ななえ》町から放鳩されたもので、君子と弟は五十二羽の鳩を参加させ、その中の一羽は当日帰りを記録して優勝した。薫風号というその三歳鳩は、盛岡・東京間の五〇〇キロレースに入賞後七〇〇キロに挑戦したもので、来春おこなわれる各種の長距離レースの有力鳩として俄《にわ》かに注目を集めるようになった。  しかし、津軽海峡を越えねばならぬその七飯・東京間の七〇〇キロレースの帰還率は当然低く、君子の参加させた鳩五十二羽のうち四十五羽が未帰還であった。その鳩の中には、君子の弟が超銘鳩だと自慢していた二羽の雄鳩もまじり、わずかに疾風号という三歳鳩が翌日帰りで五位に入着しただけだった。  清司にとって、薫風号と疾風号の存在は無気味だった。春におこなわれる長距離レースは北海道から放鳩されるもので、むろん津軽海峡をわたらねばならず、海に未経験な流星号と北斗号は、君子の鳩にくらべると不利な条件におかれていた。  空気がさらに冷えて、鳩舎にも霜がおりるようになった。冬の期間は、長距離レースのおこなわれる春のシーズンにそなえて、鳩飼育者たちが、レース鳩の体調の調整に全力をあげる時期でもあった。  清司は、朝、雌鳩の運動をさせ、夕方には雄鳩を舎外に放つ。鳩の翼の力をきたえるため、鳩舎にもどって休息をとろうとする鳩を、赤い旗をつけた竿で追い払う。  かれは竿をふりながら、白髪の父が屋根の上でそんな動作をつづけていたことを思い起す。その姿には、妙に物悲しい孤独な翳《かげ》りが感じられたが、自分の姿も第三者からは特異なものにみえるのかも知れないと思った。  かれは、時折家の近くの路上をうかがった。と、オーバーを着た通行人が、いぶかしそうにこちらに視線を向けているのを眼にすることが多かった。  清司が竿で追いはらうのは短距離レース用の鳩にかぎられ、長距離レースをねらう流星号や北斗号などは除外されていた。  長距離レースは、鳩に苛酷な体力の消耗を強いるだけに充分な休息をとらせる必要がある。かれは、春の八〇〇キロレースに流星号以下五十八羽の雄鳩を参加させる予定を立てていたが、それらの鳩は夕方自由に舎外を飛ばせ、鳩舎にもどって羽を休めることも意のままにさせていた。  君子とは、しばしば逢った。さすがに寒くなって林の中で体をふれ合うことはしなかったが、君子はそれが習性化したのか樹木や土の匂いのする場でないと落着かないらしく、車を林の中につき入れるとシートの上で清司に抱かれた。  年が明けた正月三日に、清司は君子の家に招かれた。 「どうです、鳩のコンディションは?」  と、弟はあの奇妙なほどの明るい眼をして言った。 「上々です。しかし、あなたのところの鳩が強敵だ」 「もちろんですよ。恐ろしいほど好調ですから覚悟していてください」  弟は、顔を輝かせて笑った。  一月下旬、清司は、流星号以下の雄鳩を予定していた通り雌と交合させた。  雄鳩を雌と制約なしに同居させれば、何度も発情して雌は年に六、七回も卵を生む。レースに参加させる雄にとって、そうした発情は体力を衰えさせるので雌との同居は許さず、その発情をおさえるため、餌に混合する脂肪分も一〇パーセント程度以下におさえていた。が、優秀な仔をとる必要から年に一回の巣引きをおこない、その時期を一月下旬にえらんだのだ。  流星号の相手の雌鳩は、ベルギーから輸入したファンネ系のもので、同じ巣房に入って三日目あたりから流星号とのはげしい交尾がはじまった。  流星号は、翼をひろげて鳴き声をあげながら雌のまわりを歩き、雌もくちばしを流星号のくちばしにさしこむようにして咽喉《のど》を鳴らす。そして流星号が雌の上に荒々しくのしかかると、雌は、体をすくめて眼をしきりにしばたたいていた。  やがて雌は卵を一個生み、さらに一日おいて一個産み落した。雌と雄の同居がつづけられればその後第二回目、第三回目と産卵がつづく。が、回を重ねるにしたがってヒナの質は低下し親鳩の疲労も増すので、産卵は二個の卵を得ただけで打切られた。  抱卵がはじまり、産卵後十八日目にヒナがかえった。  春のレースは長距離が主体で、秋以上に鳩は失われる。ヒナはそれを補うもので、孵化《ふか》してから一週間目に生年と登録番号のついた脚環《あしわ》が右脚にはめられた。ヒナたちは、雌鳩のまわりをおぼつかない足どりで歩いたりしていた。  雄鳩は、雌との同居を終えて本格的なレースにそなえた生活にはいった。  清司の眼には、鳩の体調は日毎に充実しているようにみえ、鳩は寒空に自由な運動をつづけていた。     四  三月上旬、早春には珍しい大雪があった。  夕方から降りはじめた雪は翌日もやまず、町は雪に埋もれた。  その夜、姉は家に帰ってこなかった。交通機関の麻痺《まひ》がつたえられて、姉もどこかで足どめを食っているにちがいないと思った。  雪がやんで、清司は、スコップを手に鳩舎に上った。そして、まばゆい雪の反射に眼を細めながら雪のかき落しをはじめた。  と、階下から母の清司を呼ぶ声がきこえた。その声に異様な気配を感じたかれは、スコップを置くと梯子をおりた。  家の入口に、若い男が一人立っていた。母は、ふとんから逼《は》い出して畳の上に坐っていた。 「華代が、この手紙を……」  と、母は、血の気の失せた顔で封筒からとり出した便箋《びんせん》をさし出した。  清司は、便箋をひらいてみた。そこには、家を出る決意をかためたので荷物を使いの者に渡して欲しいという文意がしたためられ、その後に荷物の名が長々と書きつらねられていた。封筒をひるがえしてみると、ただ華代という文字があるだけでむろん住所は記されてはいなかった。  かれは、入口に立つ男の姿をうかがった。もみ上げを長くしたその男は、背丈も低く貧相にみえ、靴もズボンの裾も雪で濡れていた。 「教えてくれませんか。華代はどこにいるのでしょうか」  母は、すがりつくような眼をして男に声をかけた。 「言わないでくれって、霞《かすみ》さんに言われているんです」  男は、薄笑いしながら言った。姉の店での名を口にするところをみると、同じ店に働くボーイかも知れなかった。 「お願いいたします。御迷惑はおかけいたしませんから、教えてください」  母は、頭を何度もさげた。  男は、当惑したように首筋をかいた。 「いいじゃないですか。持って行ってやってください」  清司は、箪笥《たんす》をあけると姉のものと思われる着物を手当り次弟にとり出しはじめた。 「清司さん、渡しちゃいけない。渡さなければ自分で取りにくる。そうしたらよく話をきいて思いとどまらせる」  母は、畳の上を逼うと清司の膝にしがみついた。 「出て行く者は、どんなにとめても出て行くんだ。お母さんだって出て行ったじゃないか」  清司の腹立たしげな声に、母の静乃は口をつぐんだ。  便箋には、鏡台、置時計、傘立てをはじめ使いかけの化粧品や草履、雨下駄の類まで書かれている。清司は、それらを畳の上に並べ、さらに歯|刷子《ブラシ》、茶碗、箸《はし》など目につくものをすべてとり出した。  男は、清司の手で荷がひろげられると入口から姿を消し、運送店の者らしい二人の男をつれて入口に立った。 「車は?」 「中型トラックです」 「それじゃ、この箪笥も持って行ってくれ」  清司が言うと、男たちは無言で家に上ってきた。  清司はしばらく立ってかれらの動きをながめていたが、再び梯子を上ると鳩舎に出た。かれは、スコップで雪をすくい落しながら、姉に男ができたのだと思った。  一カ月ほど前から、姉の帰宅はにわかに不規則になって、夜明け近くに帰ることも多くなった。昼間も放心したように黙っていることがあるかと思うと、同じ歌のリズムを飽きる風もなく口ずさんでいることもある。相手が店の客なのか、それともバーテンかボーイの類いかわからなかったが、たしかに男の匂いは充分にかぎとれた。  しかし、むろんそれだけが家を出る原因のすべてではないはずだった。果てしなく鳩に金銭を吸いとられてゆく家の生活に堪えきれず母が失踪したように、姉も鳩のために家を出る気になったにちがいなかった。  ふと清司は、預金通帳のことを思い起した。かれは、スコップを捨てて梯子をおりると、茶箪笥の抽出しをあけた。が、そこに置かれているはずの通帳と印鑑は、他の場所を探しても見出せなかった。  かれは、姉の持物の消えた家の中を放心したように見まわした。姉は、突然家を出たのではなく、かなり以前から計画を立てていたのだろう。  姉に対する怒りは、湧《わ》いてはこなかった。姉が家を去ったのは、自分の飼育する鳩が原因であるのだろうし、自分には姉を責める資格はないと思った。  しかし、父の代から現在まで遺されてきた金銭が、姉の手で持ち去られたことは痛手だった。春のレースは、近づいている。四百羽を越える鳩の飼料だけでも月に五万円はかかるし、レース参加費もそれに加わる。その上、病身の母をかかえた生活費を考えると、かれの気分は重くなった。  清司は、母の部屋に眼をむけた。母は、顔を天井に向けて身じろぎもせず眼を閉じていた。  卒業期になって大学の卒業証書を手にはしたが、就職希望も出していなかった清司は、勤めに出ることはできなかった。かれは、目先の家計費を捻出《ねんしゆつ》するため電話を売り、わずかに残されていた有価証券を売りはらった。  かれは、居直った気分になっていた。家に金銭が絶えれば、家を売って地価の安い農村地帯に土地をもとめて転居してもよいし、さらに家計がつまったなら夜警かバーのボーイにでもなればよいと思ったりしていた。  それに、君子との結婚が実現すれば、そうした経済的な問題は自然に解決するにちがいなかった。風変りな弟だが、鳩というものが媒介となってうまくやってゆけそうな自信もあった。  しかし、姉がいなくなったため家事一切が清司の肩にのしかかった。かれは、簡単な食事をつくると母の枕元に持ってゆく。が、母の寝巻もシーツも、洗濯してやることは億劫《おつくう》だった。 「すまないね」  と、母は、涙声で食事を置く清司に言うが、かれは返事もしない。自分の子供にまで顔色をうかがう母が、清司には哀れというより嫌悪を感じた。 「死にたい」  と、母は、清司にきこえるような声でつぶやくことも多くなった。  死ねばいいではないか、と清司はそんな言葉を浴びせかけたくなる。もしかすると母は、仮病なのではないかと疑うような気になることもあった。  清司は、そうした母との生活のわずらわしさをふり払うように、目前に迫った八〇〇キロレースの準備に専念した。  かれは、時折鳩舎の上から遠く連なる屋根の彼方《かなた》に眼をむける。レース前なので、君子と会うことはなくなっている。君子の鳩舎の方向とおぼしき空に、鳩の舞う姿がかすかにとらえられることはあったが、それが君子の飼う鳩かどうかはわからなかった。  八〇〇キロレースの持寄り日の正午近くに、清司はレースに参加する雄鳩五十九羽に雌を合せた。鳴き声が一斉に起って、雄は雌とはげしく体をすり寄せくちばしをすり合せた。  かれは、十分ほど雄を雌と放置させてから、雄を籠に入れて指定された場所に車で運んだ。  持寄り場所には多くの人々が集まってきていて、鳩の籠も広場にひろがっていた。  かれは、参加料を添えて競翔《きようしよう》委員に鳩をわたし、君子の姿を眼でさぐった。君子は、すでに手続きを終えたらしく、退屈そうに赤い車にもたれて立っていた。  持寄りが終了すると、参加者全員が記録用時計を手に集まってきた。ラジオの時報が午後三時を告げると、参加者たちは一斉にそれぞれの時計についたハンドルをまわし、秒針を始動させた。そして、さらに委員の手で時計の点検が一個ずつ入念におこなわれ、それが終了すると参加者に返された。  清司は、君子と言葉を交わしたかったが、レース前の戒律をやぶるような気がして君子の車が走り去るのを眼で追っただけであった。  その夜、鳩は、放鳩係員とともに列車で東京を発った。参加鳩数は千四百八十四羽で、三日以後に北海道の長万部《オシヤマンベ》付近から放鳩される予定が組まれていた。  落着かない日が過ぎていった。  清司は、公衆電話で主催者側の事務所にしばしば連絡をとっていたが、持寄り日から四日目の早朝五時三十分に長万部で一斉に鳩が放たれたことを知った。  清司は、ラジオの気象通報に注意しながら鳩舎の傍に坐りつづけた。食事も屋根の上でとって北の空を見つめていた。しかし、夕方になっても北の空に鳩の姿は湧かず、やがて夜の色が町に落ちた。  かれは、主催者事務所に電話を入れてみた。問い合せが殺到しているらしく電話はなかなかかからなかったが、ようやく電話口に出た係員は、当日帰りの鳩は一羽もいないことを早口に告げた。  清司は、安堵《あんど》したが同時に不安にもおそわれた。レースに参加した鳩が、悪天候に遭遇して一羽も帰還してこなかった例は稀《まれ》ではない。その朝の北海道地方の天候は曇ということだったが、鳩にとっては津軽海峡という難所が行手をはばんでいる。  鳩は、なぜか洋上を越える時高空を飛ばず、海面から二メートルほど上方を逼うようにして飛ぶ。そのためしばしば波にのまれて海上に落ちるが、再び飛び立つ能力には欠けていてそのまま水死してしまう。それに本州に入ってからも山また山の連続で、それを越えて東京に達するのは、たしかに苦難にみちた長い旅であるにちがいなかった。  すでに自分の鳩の何割かが海に落ちていることは想像できる。それとも流星号、北斗号以下のすべての鳩がレース途中で傷つき死に絶えているかも知れなかった。  かれは、眼が冴《さ》えて眠ることはできなかった。もしも君子の鳩舎の鳩が好記録で入賞し、清司の鳩が惨敗すれば、君子の弟はあの明るい表情で無遠慮に勝利をほこるにちがいない。そんな想像が、清司を一層|苛立《いらだ》たせた。  夜半になって眠りについた清司は、早朝に目覚時計のベルの音で眼をさまし、鳩舎に駆け上った。  夜はすでに明けはじめていたが、小雨が降っていて空は薄赤く染まっていた。  清司は、レインコートを頭からかぶって北の空を見つめていた。朝食は口にしなかったが、空腹感はなかった。  雨空に鳥影があらわれたのは、正午近くであった。急角度で降下してきたのは流星号で、さすがに疲労の色は濃く、鳩舎に入った流星号の足はよろめいた。そしてその日、他の鳩の姿を見出すことはできなかった。  かれは、大量の鳩を失った。四日目に二羽、七日目と九日目にそれぞれ一羽がもどってきただけで経験豊かな北斗号ももどってはこなかった。  主催者側の発表では、レースの二日目帰りは千四百八十二羽のうち十一羽だけで、流星号はその中で二位入賞を記録した。  君子の鳩舎での喪失は、さらにひどかった。三日目帰りが最も良い記録で、七十二羽のうち六十六羽が未帰還であった。 「弟は、さすがにがっくりきたらしいわ。でも気持も立ち直って、一一〇〇キロレースに期待をかけるようになっているの」  表彰式のおこなわれた夜、君子は、清司の腕の上に頭を置いて夜空を見上げながら言った。  しかし、君子と会ったのはその夜かぎりで、清司は一一〇〇キロレースの準備にはいった。  そのレースの放鳩地は、北海道の最北端にある稚内《ワツカナイ》で、東京に鳩舎をもつ飼育者にとっては最長距離のレースであった。かれの父も二度ほどそのレースに鳩を参加させていたが、二度とも十日以後に一、二羽の帰巣がみられただけで成績は無惨なものに終った。それだけに清司は、父のためにも流星号を中心とした六十七羽の雄鳩に期待するところが大きかった。  かれは、雄の体調をととのえるのに全神経をかたむけ、餌の混合率もレース日が近づくにつれて徐々に濃厚なものとしていった。そして夕方の飛翔運動も、疲労をさせぬように抑制するよう心がけていた。  かれは、家事を完全に放棄していた。三食とも食パンを買い求めて、牛乳とともに母の枕元に置く。家の掃除も洗濯も、すべてやめた。  母は、口をつぐんでただ天井を見つめて横になっているだけだった。  一一〇〇キロレースの持寄り日は、八〇〇キロレースの表彰式後三週間目におこなわれた。  が、その持寄り日の二日前、打合せのためレース主催者の事務所におもむいた清司は意外なことを耳にして顔色を変えた。すでに一週間前頃から、飼育者の間にかなりの量のレース鳩の取引がおこなわれていて、その経路をたどってみると会員の旗野君子の鳩舎から流れ出ていることがわかったという。 「いいものがそろっているからね、会員たちは争って買っているらしいが、あんたの所へはまわってこないかい。仔鳩《こばと》まですべて出したそうだし、今のうちならまだ残りがあるかも知れないから、ためしに当ってみたらどうだい」  と、役員は言った。  清司は、自分の耳を疑った。仔鳩まで売りに出したということは、鳩舎を閉じることを意味する。しかし、君子と弟の鳩に対する情熱を思うと鳩舎を閉鎖することは想像もつかないし、豊かな君子たちが経済的な理由で鳩を売りに出したとも思えない。  ただ一つ考えられることは、八〇〇キロレースで期待に反した不成績に終った反省からすべての鳩を処分し、第一歩から仔を得て再出発するということだった。それはむろん不自然な方法ではあったが、鳩に対する異常な熱意をもつ君子の弟ならば、そうした徹底した方法をとりそうにも思えた。  清司は、うつろな表情で家にもどった。鳩を売却することは、レースを放棄したことにもなる。たとえレース前に会わぬことにしてはあっても、君子から事前に相談があってもよさそうに思った。  清司は、家を出ると公衆電話のダイヤルをまわした。  電話口に出たのは、君子の家の家事をやっている老女だった。 「少々お待ちください」  と言う声がしてしばらく待たされたが、再び流れてきたのは老女の声だった。 「お嬢さんはおりますが、電話には出ることを御遠慮したいと申しております。実はお嬢さまの御縁談がまとまりまして、今後おつき合いをさせていただくわけには参らなくなりました。長い間お親しくしていただき御礼申し上げて欲しいとのことです。お嬢さまに代りまして厚く御礼申し上げます」  清司は、背筋の凍りつくような衝撃を感じた。そして、うろたえぎみに、 「鳩は、鳩はどうしたんですか。かなりの数を売ったということですが……」  と、言った。 「全部処分して、鳩舎もとりこわしました。十日ほど前のことですが、お坊ちゃまが、鳩舎にお上りになった時に庭に落ちてしまいまして、長い間意識がなくようやく二日前から口をきけるようになりました。それでお嬢さまも、鳩を飼うのを諦《あきら》めたのでございます。鳩舎は高い所にあって危のうございますから、今後はお坊ちゃまに鯉か熱帯魚でも飼ってもらおうと申しております」  老女は、淡々とした口調で言った。その声には、君子たちが鳩の飼育をやめた安堵感が濃くにじみ出ていた。  清司は、受話器を置くとしばらくその場に立ちつくしていた。君子は、鳩の飼育からはなれて結婚するという。あの豊かな乳房をもつ君子の体が他の男に抱かれるかと思うと、はげしい嫉妬《しつと》を感じた。  かれは君子に会いたい衝動にかられた。が、電話口にも出ずひっそりと身をひそめていた君子のことを思うと急に腹立たしさを感じた。君子や弟の鳩に対する熱意は、世俗的なものにひきずられてくつがえるような脆弱《ぜいじやく》なものだったらしい。かれらは、初めから鳩を飼う資格に欠けていたのだ。父は、家産をかたむけ、妻に失踪されても鳩を飼うことはやめなかった。それがレース鳩飼育者の本質であり、自分も父と同じような人間でありたかった。  かれは、公衆電話の傍からはなれると、家の方へ足をふみしめるように歩き出した。  一一〇〇キロレースは、関東地区一円の飼育者が参加し、千二百五十三羽の鳩によって競われることになった。  鳩は、持寄り場所で数羽ずつ輸送籠に入れられて封印され、羽田空港に送られた。そして特別にチャーターした大型輸送機で千歳空港まで空輸され、それから列車で稚内へと向った。  放鳩がおこなわれた日の朝は、五月らしいよく晴れた空がひろがっていた。気象通報によると稚内も晴れということだったが、北海道南部から青森県にかけては風が強く、岩手県、宮城県は雨ということでレースはかなりの困難が予想された。  清司は、鳩舎の傍で待ちつづけた。予想していたことではあったが当日帰りの鳩はなく、翌日も鳥影を見出すことはできなかった。  そのうちに東北地方一帯がはげしい風雨となり、東京の天候もくずれはじめた。  鳩は、北海道を縦断して疲れきった体で津軽海峡を越えねばならない。一刻も早く帰巣するようにしつけられた鳩は、水も餌もとらずにただ南へ南へと飛翔しつづける。かれらが飛ぶことをやめるのは、体力がつきて死を迎える時なのだ。  そのうちに主催者側から憂うべき報《しら》せがつたえられた。津軽海峡にはレース当日から二日間にわたって突風が発生し、そのため波は異常な高まりをみせて、それが鳩の帰還をさまたげているのではないかというのだ。そしてそれを裏づけるように三日目になっても、参加者から鳩の帰還をつたえる連絡は皆無だった。  清司は、鳩舎の傍で終日をすごした。北の空が晴れている日もあるし、雨でかすんでいる日もあった。かれは、その空間に黒い点状の鳩が湧く幻影をむなしく追っていた。  十日目がすぎても、かれの眼の前には一羽の鳩も姿をあらわさなかった。が、それはかれの鳩舎だけではなく、レースに参加した千二百五十三羽の鳩のうち関東北部の飼育者の鳩舎に息も絶えかけた三羽がわずかに帰っただけで、それ以外に帰巣したという連絡はなかった。  清司は、うつろな日をすごした。鳩舎の入口には鳩が入舎すると同時に鳴る到着ベルをとりつけてあったが、ベルは鳴らなかった。流星号をはじめ六十七羽の鳩は、すべて途中で力つきて死亡したことは疑う余地がなかった。  と、レースの日から二週間ほどたった或る日、レース鳩連合会の役員がスクーターに乗ってやってきた。 「あんたの所の鳩を、猪苗代《いなわしろ》湖のほとりで見つけたという電話があったよ」  と、その役員は言った。  電話をかけてきたのは学校の旅行で湖畔に来ていた女子高校生で、或るホテルの近くの湖畔で息の絶えた鳩を見つけた。その高校生は、弟が鳩を飼っているので脚環から連合会事務所をさぐって連絡してきたという。その脚環に刻まれた登録番号は、流星号のものであった。  清司は、役員に礼を言った。流星号は、福島県の会津まで飛んできていた。すでに体力はつきて、水をふくむため湖のほとりに身を置いて絶命したものにちがいなかった。  引き取りに行ってみよう、とかれは思った。未帰還の鳩は、人の眼にふれずに死亡し、その死骸《しがい》が見つかることは稀である。かれは、その秀《すぐ》れた鳩の死を自らの眼で確認したかった。柿色の眼はすでに腐って濁っているだろうが、その体を掌でにぎりしめてやりたかった。  翌日かれは、家にある金をすべて懐中に入れ、母の枕元にパンとバターを置くと家を出た。  かれは、鳩の死骸を引きとりに行く自分をいぶかしんだ。六十七羽の鳩すべてを失った打撃からか、それとも君子との別離がそんな感傷をよびおこしたのか、自分の行為が理解できかねた。  女子高校生の口にしたというホテルの前でバスをおりると、かれは湖畔に立った。そして湖岸をつたいながら長い間歩いてみたが、すでに犬にでも食われたのか、その死骸を発見することはできなかった。  かれは、暮れはじめた湖面を見渡した。死骸をもとめて猪苗代湖までやってきたことで、流星号に対する愛惜も充分いやされたような気持だった。  かれは、バスの停留所の方へ足早に歩き出した。  かれには、旅先で一泊する時間的ゆとりはなかった。鳩舎に残った三百羽に余る鳩たちに餌をあたえねばならないし、朝の舎外運動もさせなければならない。かれの頭からは、いつの間にか流星号に対する未練はあとかたもなく消えていた。  翌朝早く、清司は夜行列車で上野についた。残された鳩のことが、しきりに思われた。一月下旬、流星号と輸入雌鳩の交配によってかえったヒナは、血統の正しさをしめすように順調な成長をつづけている。来年秋には短距離レース、さらに次の年の春には長距離レース鳩として期待もできる。もしかすると、その仔鳩は、流星号以上の傑出した素質をしめしてくれるかも知れなかった。  かれは、あわただしく人気の少ない電車に身を入れていった。  やがて、自分の住む町の駅におりた。駅前にならぶ商店街はシャッターをおろし、わずかに歩道を勤め人が足を早めて歩いているのがみえるだけであった。  かれは森閑として道を進んだが、家に通じる道に足をふみ入れた時、異様な気配を感じて足をとめた。道が水びたしになっていて、両側の家の入口には家具などが投げ出されている。そして路上には、数人の人が無言でたたずんでいた。  清司は、不吉な予感におそわれて小走りに道の角を曲るとその場に立ちすくんだ。左手に建っていたはずの自分の家が消えて、その代りに醜く焼けこげた柱が不揃《ふぞろ》いに立っている。  かれは、口を半開きにあけて焼け跡に近づいた。火が消えてからそれほどの時間がたっていないらしく、焼け落ちた残骸の堆積《たいせき》から薄い煙が湧いている。 「塩谷さん」  背後で声がし、隣家の男がかれの顔に血走った目を向けた。 「夜中の火事で驚きましたよ。どういう事情か知らんが、あなたのお母さんが放火自殺をはかったようです。早く気づいたので、近所の者たちがお母さんを運び出しましたが、死にたい死にたいと手こずるんで弱りましたよ。かなりの火傷《やけど》を負いましたが、命に別条はないそうで救急病院に入っています。消防車が五台もきて消してくれたので、幸い類焼はなくすみました。早くお母さんの所へ行ってやりなさい」  男は、慰めるように言った。  清司は、焼け跡にうつろな眼を向けた。鳩舎に張られていたらしい焼けた金網が瓦の間からのぞいている。そして、その近くに黒々としたものが数多く重なり合っているのをみた。それは、大小さまざまな鳩の焼けこげた死骸であった。  鳩は、焼けた。流星号の血をひいた仔鳩も焼けた。かれは、すべてが焼失したことを知った。  かれは、顔をあげた。その眼に二羽の鳥の姿が映った。  奇跡的にのがれ出たのか、鳩が隣家の屋根の頂に並んでとまって、こちらに顔を向けている。その一羽が、羽をひろげてそのつけ根をしごくように脚先をしきりにうごかしていた。  清司は、鳥の姿を放心したように見上げた。いつの間にか朝の明るい陽光が、その二羽の鳩にまばゆくあたりはじめていた。 [#改ページ]   ハタハタ     一  初雪のちらついた日、沖で漁をする底曳《そこび》き網に数尾のハタハタが入った。その鱗《うろこ》のないハタハタは、他の魚の中にまじって氷の破片のように冷たい肌を光らせていた。  その報《しら》せは、沿岸の村落に素早い速さでひろがっていった。それは、沖合の深い海底に群れていたハタハタが、産卵のためひそかに動きはじめたことを意味するものだった。  俊一は、胸の動悸《どうき》がたかまるのを感じながら、沖合に棲息《せいそく》するハタハタの群れを思い描いた。  かれは、山一つ越えた隣の村落にある分教場に通学しているが、教師の話によるとハタハタは、海底に楔《くさび》のように鋭く刻みこまれた渓谷のような水深二、三百メートルの部分に群れて、春から夏にそして秋へとすごすという。  陽光もとどかぬほの暗い海底。そこには深い森の樹葉や蔦葛《つたかずら》の葉のような黒々とした海草がかさなり合ってそよぎ、岩肌には貝類やフジツボなどが螺鈿《らでん》でもされたようにびっしりとはりついている。その深い渓谷の中で、茶色いハタハタの群れは、ひんやりとした白い腹部をひるがえし乱舞し合いながら群れている。その谷間の海水は、かれらの棲息に適した冷えきった水温をたもっているのだ。  やがて秋も去り初冬をむかえると、北国の海の水は急速に冷えを増す。それにつれてハタハタの雌の腹部には、卵をはらむきざしがあらわれ、体色も徐々に黒ずみはじめる。そしてかれらの間にたもたれていた平静さは失われ、それは雌の腹部にいだかれた卵が成熟するにつれて一層異様な緊張感をたかめてゆく。  十一月に入ると、雌の腹部ははちきれそうにふくらみ、体色も黒みを増す。雌たちの産卵の機は熟し、三歳、四歳の雌の群れは五歳の雌の誘導で棲《す》みついた海の渓谷をはなれはじめ、それを追うように雄の大群も稚魚をのこして移動を開始するという。  産卵場所は、海岸一帯の湾内にひろがる藻場《もば》だ。そこには、卵を生みつけるのに適したオオバモク、アカモク等の海草が枝葉をひろげて繁茂している。  初めに海岸に殺到してくるのは、腹部をふくらませた雌の群れで、たちまち青澄んだ北の海はその瞬間からハタハタの肌の色にぬりつぶされ、またたく間に湾内は茶褐色の海と化す。そして雌たちは、体をすり合せるようにむらがって藻場にたどりつき、その口吻《こうふん》で海草をくわえて引っぱり充分な強靭《きようじん》さがあることをたしかめると、青ずんだ腹部からはちきれそうに詰った卵を一斉に放つ。その粘液状の卵は、嬰児《えいじ》の掌ほどの卵塊となって海藻の枝や葉などに付着する。  と、その頃、雌を追って沖合から雄の大群が、競い合いながら湾内に流れこんでくる。湾内は、雌雄入りみだれたハタハタの群れで一層茶褐色の色を濃くし、海面は泡立つ。そして、藻場に押し寄せた雄は、海草に無数に付着した卵に精液を浴びせかけ、そのため海水は白濁する。  教師は、黒板にハタハタを「鰰」とも「※[#「魚+雷」]」とも書いた。その字からもわかるようにハタハタは、雷をともなうようなシケの日に海岸に殺到してくるのが常だ。その理由はつまびらかではないというが、海が荒れることによって、海水の温度がハタハタに適した温度に低下し、またそうした気象条件によって他の魚類や海鳥に襲われることが少ないからだろうという。  海岸沿いの各村落では、年に一度やってくるハタハタの群れを待ちかまえている。海岸線には山塊がせまり、そのため耕地にも乏しくもっぱら生活の資は前面の海にたよる以外にない。しかし、遠方の大きな漁港から発した大型漁船が、沖合で魚類を大量に水揚げするため、海岸線の漁村は辛うじて湾内の魚介類をあさるにとどまっている。  そうした村落にとって、集団的に湾内に押しかけてくるハタハタの大群は天与の恵みであり、その漁獲から得た収入金は村落の一年間の生活を支えてくれるのだ。  俊一は、沖合から近づいてきているハタハタの群れを想像した。それらは、やがてシケがやってくると同時に、重なり合うようにして海岸線に突き進んでくるだろう。そしてその瞬間は、数日後にせまっているのだ。  しかし、村落の人々は、底曳き漁船からの報告があっても喜びの色を露《あらわ》にはしなかった。俊一の父も母も、そしてハタハタ漁を何度か経験している祖父も、ただ眼を異様に光らせているだけで不機嫌そうに黙りこんでいる。  俊一には、その理由がわかっていた。  ハタハタは、どこの湾にもやって来るわけではない。ハタハタは、ただ一つの湾を目ざす。ハタハタは、海岸線に大きく突き出した半島の突端に接近するとそこで一斉に方向を転じ、南下する海流に逆行して北国の海岸沿いに北上する。そして、産卵の機をうかがっているが、シケがやってきて水温が低下すると近くの湾に産卵のためなだれ込む。つまりハタハタは、その折の水温や風向によって任意に湾をえらぶのだ。  そうした事情から或る湾に押しかければ、その近くの一、二の湾にその僅かな残りがみられる程度で他の湾にはほとんど魚影をみせない。選ばれた一つの湾が豊漁ににぎわえば、他の湾の漁村は飢えにおびえて出稼ぎ人が漁村をはなれてゆく。  俊一は、ハタハタのやって来た年のことを記憶している。  それは五年前の俊一が小学校に入る前年のことで、村落は豊漁に沸き立ち、その興奮は正月をすぎた早春の頃までつづいた。それは、ひどく明るくにぎやかな一時期だったが、それから後は一昨年隣の漁村に入った残部が少量湾内に入っただけで漁獲もない陰鬱な年がつづいた。祖父も父も遠くの漁港に働きに出て、その間、母と妹の千代との三人の生活がつづいたのだ。  村落の漁民は、ハタハタの漁期がせまると神経を苛立《いらだ》たせる。他の湾にハタハタの到来があったときくと、村落はたちまち憂色にとざされる。その年に託した希望はそれで打ちくだかれ、来年の漁期まで飢えにたえながら待たねばならない。  父や祖父の沈黙は、ハタハタが今年もこないのではないかという不安におびえているからにちがいなかった。村落の前面の湾は、四年間ハタハタの恩恵から遠ざけられているのだ。  しかし、父や祖父は、ハタハタの接近をつたえる報せを受けた日から村落の漁民たちとハタハタをむかえる本格的な準備にとりかかった。  すでに産卵のため押し寄せてくる雌魚をとらえるため、輪壁網という定置網が湾内に三十以上も張られている。卵を抱いた雌でなければ高値には売れないし、産卵前に網にかけねばならない。  父と祖父は、二つの網をもつ菊地猪太郎に雇われていた。分け前は、網元が四割、雇われた漁師、手伝い人など二十名ほどが残りの六割を分配する。  その分け前の筆頭は、中心になって働く父だった。  父は、極端なほど無口で、酒を飲んでもほとんど口をひらかない。村落には喧嘩《けんか》が絶えないが、大柄な筋肉質の体とするどい眼をした父にいさかいをしかけてくる者はいない。父の右手の指は三本しかなく、小指と薬指が欠けている。流れ者の漁師が刃物をふるって暴れたのを取りおさえたときに落したものだが、その折父の突き出した拳《こぶし》でその漁師は失明してしまったという。  その父は、経験のゆたかな祖父には従順で、村落の者も祖父を、 「爺様」  と、畏敬《いけい》するように呼んでいる。  漁師たちは、網をはるのにきそって良い海面をえらぼうとするが、菊地組の網をはる位置をさだめるのは祖父だった。ハタハタさえやってくれば、菊地組の網には後から後からハタハタが入り、水揚げするのも間に合わぬほどの豊漁に恵まれるのが常なのだ。 「ハタハタは、来るの?」  村落の異常な空気を感じとったのか、妹の千代が俊一の顔を澄んだ眼でうかがう。  俊一は、言葉に窮する。かれには、父や祖父や母をはじめ村落の人々の沈黙が充分に理解できた。かれらには、だれ一人としてハタハタがやってくるのかどうかわかる者はいない。これだけは神や仏にもわからぬ……と村落の者は口癖のように言うが、たしかにだれにもわからないことなのだ。  雪が、連日舞うようになり、村落も裏山も白一色にそまった。  村落の漁師たちは、魚影監視のためせまい岩だらけの浜に建てられた番小舎《ばんごや》に泊りこむようになった。  時折、雪まじりの風が沖合から吹きつける日もあったが、その度に村落の者は、海岸に走り出て沖合を期待にみちた眼でみつめている。海が荒れれば、待ちかねていたものがやってくる。  しかし、海の色に変化はないと知ると、他の村落にハタハタがなだれこんでいるのではないかというおびえがかれらをとらえる。かれらの足は自然と漁業組合の事務所に向うが、やがてそれが杞憂《きゆう》であったことを知ると、たちまちその表情は明るさをとりもどす。 「ハタハタは、いつ来るの?」  磯に立って沖合を見つめている俊一に、千代が何度目かの質問をくりかえした。  俊一は、その問いに苛立った。そして、黙ったまま海の方向に顔を向けていた。     二  分教場を出ると、俊一は、村落の子供たちと帰路についた。  炭焼きとわずかな耕作で日々の糧を得ている貧しい村をはなれると、路《みち》は登りになって密度の濃い森の中に分け入る。風が梢《こずえ》をわたってゆくと、雪におおわれた森の中で雪塊の落下する音が随所におこり、路の上にもふり落された雪の細片が吹雪のように舞った。  やがて森がきれると、路は山腹ぞいに渓谷を左に見おろしながら蛇行してゆく。瀬音を立てて走る渓流も両岸が氷にとざされ、水の音もこもったようにわずかに湧《わ》き上ってくるだけだった。  渓流が左手に消え、路をまがると、急に前方に海の色がみえた。海岸線にへばりついた村落の家並の一部も、山肌の間からのぞいている。  俊一たちは、その地点までくるといつものように休息をとった。  かれらは石に積った雪をはらいのけてその上に腰をおろし、思い思いに教科書の入った布袋を雪の上に置いた。  かれらは、黙ったまま、鈍色《にびいろ》に光る凪《な》いだ海の方に眼を向けた。その眼には、一様に気ぬけしたような弱々しい光がうかんでいた。  その日の昼休みに、炭焼き村の男生徒の一人が俊一たちに近づいてくると、 「お前らの村落には、もうハタハタはこねえとさ」  と、言った。  俊一たちは、その体の大きな男生徒の顔を見つめた。 「県の役人さんがそう言っているんだとよ。ハタハタは、ずっと北の方へ移っていて、お前らの村落なんか見向きもしねえんだとさ」  その男生徒とそれをかこむ炭焼き村の子供たちは、小気味良さそうに頬をゆるませている。  俊一たちは、敵意をもった眼でその男生徒たちを見かえしたが反撥することはできなかった。  ハタハタは、たしかに五年前村落にやってきた時を最後に村落から北方の湾に入るようになっている。県の役人が……というのは男生徒の作りごとのような気がするし炭焼き村の子供たちのいやがらせだと察しはつくが、俊一たちにもそれに反論する材料はなにもない。ハタハタがやってくる保証は、なにもないのだ。 「本当にこないんだろうか」  石の上に坐って海の方を見つめていた一人が、つぶやくように言った。 「そんなことがあるか。だれにもわかることじゃないんだ」  小さな網元の息子である三郎が、その言葉を封じた。 「でも、婆ちゃんは、こないって言った」  ふと小学校二年生の時枝が、低いがかなりはっきりした口調で言った。  俊一たちは、ぎくりとしたように時枝の小さな顔に視線を向けた。時枝の祖父は老練な漁師であったが、三年前に烏賊漁《いかりよう》に出たまま帰らず、祖母は時枝の父母に養われている。 「なぜこないんだ」  三郎が、時枝の顔を見つめた。同じ村落の者の口からそんな言葉がもれたことに、三郎は一層苛立っているようにみえた。 「ハタハタは、もう村落にはこないんだって。今年も来年も、これから何年たってもハタハタはこないんだって」 「だから、なぜだって言うんだ」 「婆ちゃんにはよくわかっているんだって。もうハタハタは、決して来はしないと言ってる」  時枝の顔には、祖母の言をかたく信じこんでいるようなかたくなな表情がうかんでいる。  三郎の顔がゆがんだ。時枝の祖母は、村落に生れ子供の頃からハタハタ漁にふれてきた。もしそうしたことを口にしたことが事実なら長い間の経験から吐かれたものだろうし、三郎もそれを無視することはできないようだった。  俊一たちは、重苦しい表情で口をつぐんだ。そして、思い思いに海の方に眼をむけていたが、だれからともなく布袋をひろい上げ腰をあげると、村落へ通じる路をたどりはじめた。  俊一は、歩きながら白髪の時枝の祖母の顔を思いうかべていた。夫が帰らぬままに営まれた葬式の折にも、大柄なその老婆は、乾いた眼をして棺の後にしたがって焼場のある谷の方へ歩いていった。その後姿には、毅然《きぜん》としたおかしがたい落着きが感じとれた。  本当にハタハタは、もう永久に村落へはこないのだろうか。時枝の祖母の言だけに、異様な重みが感じられる。  俊一は、膝頭《ひざがしら》がくず折れるような気落ちを感じていた。  村落に入ると、俊一たちは、無言のまま別れた。  湾には凪いだ海面に輪壁網がおだやかにならんでいるが、俊一の眼にはそれらが全くむなしいものに感じられてならなかった。  家に入ると、俊一は土間で竃《かまど》の火をうかがっている母の傍に近寄った。母は臨月で、身をかがめることも大儀そうだった。 「時枝の婆が……」  俊一は、ためらいがちに口をひらいた。胸の中にわだかまっているものを、そのまま抑えておく気にはなれなかった。  母が、腰をのばした。 「婆は、もうハタハタは決してここへはこないって」  俊一がおずおず言うと、母の顔が俊一に向けられた。 「本当にこないんだろうか」  不安そうにそこまで言った時、母の眼に鋭い光が凝結すると同時に、母の掌が俊一の頬に強くたたきつけられた。 「あの婆がなんといったか知らねえ。ハタハタはくるかどうかもわからねえ。でも、こなくても網は張るんだ。こなくても網は張るんだ」  母の言葉は、激しくふるえていた。  俊一は、頬をおさえたまま立ちすくんだ。母の憤りが、俊一にも素直に理解できた。来るかこないかは、だれにもわからない。婆にもわからないし、神や仏にもわからないのだ。  俊一は、ふとハタハタの幻影をみた。  ハタハタは、卵を腹いっぱいはらんだ雌とそれを追う雄の大群にわかれ、壮大な集団となって沖合を游泳《ゆうえい》している。それは草原に陣を布《し》く大軍のように、一斉に殺到する機会をねらっている。海岸の十数個所の村落はその到来を心からねがい網を張って待ちかまえているが、そのやってくる湾の選択は、ハタハタの側にある。  俊一には、ハタハタの存在がきわめて尊大なものとして意識され、その動きに一喜一憂する人間そのものがひどく心許《こころもと》ないものに感じられてならなかった。  かれは、頬の熱い痛みが眼に涙をにじませているのを感じながら、竃の中で燃える火の明りを見つめていた。  シケがやってきたのは、その夜だった。  夕方、海は死んだように凪いでいたが、日没ごろから雪が舞い、風もわずかに起るようになった。そしてそれから一時間ほどたった頃、海面はにわかに騒ぎはじめ風も唸《うな》りをあげて走った。  轟音《ごうおん》をあげて押し寄せる波濤《はとう》が防波堤で白々とくだけ、風にのった雪が村落に吹きつけてくる。  母は、炉端で黙ってにぎり飯をつくっていた。家は風できしみ音をあげ、波濤の音が家の中に満ちている。  俊一は、頬のこけた母の顔にうかぶけわしい表情をひそかにうかがっていた。シケはやってきて、それは時を追うにつれて激しさを増してきている。シケがやってくれば、沖合で回游しているハタハタの大群は、近くの湾に向って移動を開始する。母の顔には、その湾が村落の前面の湾であることをねがう切迫した色が濃く浮んでいた。  千代は、すでに寝についている。時計を見上げると、針は十一時近くをさしていた。 「番小舎へもって行け」  母が、新聞紙につつんだにぎり飯をさし出した。  俊一は、すぐに手拭で頬かむりをしゴム合羽《がつぱ》をつけると、包みをかかえて家の外に出た。たちまちかれは、すさまじい粉雪と風圧につつまれた。  俊一は、息をあえがせながら身をかがめて海岸沿いの路を、祖父や父のつめている番小舎の方へ歩き出した。路の左方の闇に防波堤でくだける波が断続的に白々と立ち、海面にも白い波頭がつらなって押し寄せてきている。  磯に所々淡い光が湧いているのは、それぞれの網元の持つ番小舎からもれる灯であった。その灯のまたたきは、村落の漁師たちが、ひそかにやってくるものを待っている息づかいのように感じられた。  父たちのいる番小舎に近づくと、小舎の外にゴム合羽をつけた男が二人、横なぐりの雪にさらされながら闇の海面を見つめて立っているのがみえた。俊一は、その身動きもせず立ちつくしている男たちの姿に、身のふるえるような興奮を感じた。かれらは、このシケにのって海岸線に押しかけてくるハタハタの気配をかぎとろうとしているのだ。  俊一が小舎の戸をひらくと、炉のまわりに十人近くの漁師が坐っているのがみえた。かれらは口をつぐんで火の色に眼をおとし、祖父は煙管《きせる》をくわえ、父は数人の男たちと茶碗酒を飲んでいた。  若い漁師が俊一の差し出した包みをひろげると、にぎり飯がかれらの間にくばられた。 「薪《まき》を割れ」  父が、俊一に顔を向けて言った。  俊一は冷えきった手を炉の火にかざしたかったが、小舎の隅にゆくと薪割りを手にとった。磯に立てられた小舎は波濤の押し寄せる轟音につつまれ、今にも波頭が小舎の上に崩折れてくるような予感におびえた。  俊一は、かじかんだ手に息をはきかけながら一心に薪を割った。  漁師たちは、ひとことも口をきかず炉をとりかこんでいる。深い沈黙が炉のまわりにひろがっていた。 「どうもきそうな塩梅《あんばい》だ」  祖父のつぶやくような低い声がきこえた。  俊一は、ぎくりとして薪を割る手をとめると炉の方をふり返った。漁師たちの眼が、煙管を手にしている祖父の顔にそそがれている。その眼には、一様に期待にみちた光がうかんでいた。 「来るかね、爺様」  漁師の一人が、身を乗り出して祖父の顔をのぞきこんだ。 「きそうな塩梅だ」  祖父が、再び言った。  漁師たちは、その言葉に落着かぬように体を動かした。 「そう言えば、五年前と同じように風は沖合からまっすぐ吹いてきているし、シケ具合も似ている。爺様の言う通り、くるかも知れねえ」  中年の漁師が、眼を光らせて言った。  父は黙然と酒を飲み、祖父は炉の灰を木片でならしている。かれらの間には、息苦しい緊張感がひろがっていた。  扉がひらいて、網元の菊地猪太郎が入ってきた。 「爺様が、来るというんだ」  漁師の一人が、血走った眼をして菊地に言った。  小さな角ばった顔をした菊地の眼に、輝きが湧いた。そして、祖父の顔を熱っぽい眼で見つめていたが、その顔にわずかな曇りが浮んだ。 「網のことだが、シケはひどくなる一方だし、いったんおさめなければ網は流されてしまう」  菊地は、波濤の音に耳をかたむけるようにして言った。  菊地は漁師上りの小さな網元で、網が流れてしまえば再び一介の雇われ漁師にもどってしまう。その二張りの網も借金でようやく手中にしたものだときいているし、その流失は大きな痛手になるのだ。雇われた漁師たちにしても、網を失えばたとえハタハタがやって来てもそれを漁獲する方法はなくなる。利害は、網元と完全に一致している。  シケは不意にやってきたし、ハタハタはまだ行動を起したばかりにちがいない。ハタハタが実際に海岸線に姿をあらわすのは、早くとも明け方以後になるにちがいなかった。そうしたことを考え合せれば、網の流失をふせぐためそれをいったん引き上げることが好ましかった。  しかし網元にしても漁師にしても、早目に網を引き上げるわけにはいかなかった。網を張った場所は、ハタハタの最も多く流れこむ位置をえらんだもので、もしも早目に網を引き上げてしまえば、他の網元の漁師たちにその場所をうばわれるおそれが多分にある。  勢いよく扉をひらいてゴム合羽をつけた若い漁師が顔をのぞかせた。 「ほかの組では、網をおさめにかかっている」  かれは、不安そうに言った。  しかし、父や祖父をはじめ菊地たちも口をとざしたまま、炉の火を身じろぎもせず見つめているだけだった。かれらは、自分たちの得た網張り場をうばわれることをおそれて、他の網の大半が引き上げられるのを待っている。網の流失の限界ぎりぎりまで待とうとしているのだ。  俊一は、動悸のたかまりを意識しながら小舎の隅で薪割りをふるいつづけていた。  どれほど経った頃だろうか、俊一がかなりの量の薪を割り終えた頃、父が無言で腰を上げ、その後から漁師が一斉に立ち上った。網を引き上げる時がやってきたのだ。  かれらは、ゴム合羽、ゴム長靴をあわただしく身につけると小舎の外へと出て行った。  二トン足らずの小さなハタハタ舟が出され、祖父と父と菊地のほかに五人の漁師が乗りこんだ。海面は、全く様相を変えていた。降雪は少なくなっていたが、風はさらに強まり、波濤は荒れている。網を収容する舟がまだ出ているらしく、波に見えかくれした明りが所々ににじんでみえていた。  父たちは、肩から防水の懐中電燈をさげ櫂《かい》をあやつって波の中に舟をつき入れた。網の張られている位置は海岸から八〇メートルほどの岩礁の近くで、舟はたちまち闇の中に没し、父たちのさげた懐中電燈の明りが蛍の群れのように海岸から遠ざかってゆく。  俊一は、他の漁師たちと点状の明りが小さくなるのを見送っていたが、やがてそれも波間にかくれて眼にとらえられなくなってしまった。  俊一は、寒さに体をふるわせながら足ぶみをつづけていた。生れた時からひ弱なかれは、よく風邪をひいたり腹痛をおこしたりして寝込むことが多かったが、自分も漁師以外に生きる道はないことをさとっていた。五年ぶりにやってくるかも知れないハタハタの群れ。その得難い機会に、俊一は将来漁師になるためにも自分の眼ですべてを見ておきたかった。 「本当にやってくるのかな」  傍に立った漁師が、肩をならべた漁師に風に消されぬような大きな声で言った。 「そんなことがわかるか。爺様はな、きそうな塩梅だと言っただけだ」  漁師も、大きな声で答えた。  俊一は、祖父の名誉のためにも、その予言が当るようにとねがった。すでにハタハタの大群は、荒天をついて沖合から海岸線に向って突き進んでいるのだろう。しかしそれは、ただ一つの湾を目ざしているのだ。  風の勢いはようやく峠に達したのか、吹きつのる様子もなくかえって弱まる気配さえみせはじめていた。しかし、波濤は、一層狂ったように白い波頭を高々ともたげて押寄せてきている。  ふと俊一は、風と波の音の中で人声をきいたように思った。その方向に眼を向けると人影が寄り集まり、人の駈けてゆく姿がみえた。  傍に立っていた漁師がいぶかしそうに顔を見合せて走り出し、俊一もその後から駈けた。  喜一という名が、人影からもれた。 「喜一がどうした」  一緒に駈けてきた漁師が、人影に声をかけた。 「ああお前の組の喜一だ。今、岸の近くに流れているのを救《たす》けた。ずぶ濡れで気は失っているし凍え死にしそうなので、家の方へかかえて行った。舟がひっくり返ったらしいぞ、舟を出したろ、舟がひっくり返ったらしい」  漁師の声はうわずっていた。  俊一は、一瞬胸のしめつけられるような恐怖におそわれた。舟には、父も祖父も乗っている。くつがえったとしたら、父も祖父も冷たい海水に投げ出されてしまったのだろうか。  かれは、短い叫びをあげると磯の上を行ったり来たりした。 「舟がもどってきた」  という声が近くでした。  波にもまれながら明りをつけたハタハタ舟が岸に近寄ってくる。俊一は、漁師たちとその明りの方に駈けた。  しかし、その舟は他のハタハタ舟で、その中から三人のゴム合羽をつけた男が漁師たちの手でかかえ下ろされた。その水に濡れた男たちは網元の菊地猪太郎と漁師たちで、父と祖父の姿はなかった。 「どうした」  漁師たちが叫んだ。しかし、網元と二人の漁師ははげしく体を痙攣《けいれん》させているだけで、口を開け閉じしていたがその言葉は不明瞭でききとれなかった。 「転覆して一人残らず海に落ちた」  と、網元たちを救い上げたハタハタ舟の漁師たちが口々に言った。  かれらも輪壁網の流失をおそれて舟を出したが、網をおさめて引き返す途中、近くで網を引き上げていた舟が波にあおられくつがえるのを認めた。急いで舟をその海面に近づけると、海中に青ずんだ明りが数個透き通った光を放って動いているのが見えた。それは漁師が肩からさげている懐中電燈の光にちがいなかった。かれらは、青い光をたよりに竿《さお》や手をさしのべて三人の男を引き上げたのだという。  寒さにふるえる網元と漁師たちは、抱きかかえられて村落の家並の方に去った。 「何人乗っていたんだ」  漁業組合の役員が言った。 「八人だ」  俊一と並んで立っている漁師が答えた。 「喜一と今救った三人で四人か。すると後四人が行方不明というわけだ。舟を出せ、舟を出せ、早く救けてやるんだ」  役員が、まわりの漁師たちに叫んだ。 「バカ言え、この波に舟が出せるか」  老いた漁師が、怒ったように答えた。  たしかに波濤は一層の高まりをみせ、白い飛沫《しぶき》をふき散らしながら黒々とした波頭が重なり合うように押し寄せてきている。すでに海面には舟のともす明りはなく、漆黒の闇があるだけだった。  父と祖父は、流されてしまったのだろうか。俊一は口中の激しい乾きを意識した。  ふと、母のことを忘れていたことに気がついた。かれは、急に胸の熱くなるような悲しみにおそわれ、海に背を向けると家の方へ駈け出した。     三  磯に、十個ほどの焚火《たきび》が起った。  焚火には片側に蓆《むしろ》の風よけが立てられていたが、炎は風にあおられて布のような音を立ててはためき、おびただしい火の粉を撒《ま》き散らしていた。  俊一は線香を手に、母と千代の後について磯を行ってはもどることをくり返していた。家族が線香を手に岸を往復すれば、遭難者はもどってくるという村落の言い伝えにしたがっていたのだ。 「お戻しください、お戻しください」  俊一は妹と、母の言葉通りに唱えながら小走りに往復をくり返す。線香は風にあおられて、すぐに炎になる。俊一と千代は、母にならって線香の火を手でおおいながら歩きつづけた。  沖合が青ずみはじめ、それが頭上の空を染めると夜明けの気配がひろがってきた。  燃えつきた線香を何度とりかえただろうか。千代は疲れて焚火の近くで線香を手に坐りこんでしまっていたが、俊一は母の後にしたがって往復することをくり返していた。  岸に近い海面に白いものが発見されたのは、それから間もなくだった。  波もわずかに弱まっていたので舟が出されてそれを収容すると、明るくなった磯に横たえられた。  俊一は、母の後からそのまわりにできた人垣を押しのけて横たわったものを見た。それは、朱色に染まった皮膚をした岩蔵という老漁師の遺体だった。そしてその体に、俊一たちと同じように線香を手にした家族が老漁師の名を呼びながらとりすがっていた。 「相沢岩蔵さんに間ちがいないな」  隣村に駐在している警官が、遺体をしらべながら言った。  ゴム合羽も長靴もぬげ毛のシャツとズボンが体にはりつき、額には、落ちた時舟べりにでも当ったのかその部分も紫色をした傷ができていた。  俊一は、眼と口を大きくひらいた不思議なほど鮮やかな朱色をした死体に恐怖を感じた。警官の説明によると、酒を飲んで海中に落ちた遺体は、例外なく赤く染まるものだという。  母が、人垣の間からぬけ出すと、また線香を手に磯づたいに歩き出した。俊一は、赤らんだ遺体が人家の方にタンカで運ばれて行くのを見送りながら、母の後からよろめきがちな足をふみしめてついて行った。  俊一は、岩蔵の遺体を眼にした時から、祖父と父はすでに死体となっていることをさとった。頑健な祖父と父は、俊一にとって絶対的な存在だったが、それが海の力の前に屈してすでに死体と化してしまっていることが不思議に思えた。  線香を手に再び磯を歩きはじめた母を、漁師の妻たちがとりおさえた。身ごもっている体で夜を徹して歩きつづける母の身を案じているのだ。  しかし、母は、それを押しのけて歩こうとする。それを漁師の妻たちが、口々に母をいさめながらその体をおさえつけている。母の体には、すでに彼女たちにさからう力は失せていた。そして母は、女たちにとりすがられたまま線香を手に磯の上に膝をついてしまった。  波の勢いがいつの間にか弱まって、数|艘《そう》の舟が海面に出ていた。舟は、波にもまれながら父たちの遭難した網のはられていた岩礁に近づいてゆく。  やがてその岩礁に浮んだ舟の漁師が、こちらに向って手をふるのが見えた。 「見つかったらしい」  俊一の傍で海をみていた人が言った。  母が、眼を光らせて立ち上った。  舟は、海面に竿をつき入れ、しきりになにかを引き上げようとしている。網が手繰られて、その中から白いものが舟に引き上げられるのがみえた。舟が、岸へともどってくる。  俊一は、母と舟の近づく磯の方へ歩いて行った。 「爺様だ」  岸についた舟の漁師が言った。  遺体が漁師たちに抱かれ、磯の上に敷かれた蓆の上に置かれた。母は、その傍に坐りこんだ。そして、 「冷たかったでござんしたろう、冷たかったでござんしたろう」  と、不気味なほど青ずんだ祖父の顔をしきりになぜていた。 「発見した時は、どんな具合だった」  と、警官が死体を収容した舟の漁師に言った。 「逆さになって網の中に頭を突っこんでいた」  漁師が答えた。  祖父はゴム合羽も長靴も身につけず、ズボンも猿股《さるまた》も波にもまれて脱げてしまったのか下半身はむき出しになっていた。さらに体の皮膚には網の中でもまれたらしい傷が、入り組んだおびただしい筋になって刻まれていた。そして首筋には網のロープがからまったのか、太い傷痕《きずあと》がしるされていた。  半眼にひらいた祖父の眼を母が閉じさせた。 「運んでもいい」  警官がメモをつけ終ると言った。すぐにタンカがはこばれてきて、祖父の体はそれにのせられた。 「お前は、線香を持ってここに残れ、父ちゃんはまだもどっていない」  母は俊一に言うと、タンカに付き添って家の方へ遠ざかっていった。  俊一は、母の眼が乾いたままであるのを不思議に思った。遭難事故によって受けた衝撃の強さで涙も出ないのか、それとも母は泣くことをしない女なのか、俊一は虚脱したように母の後姿を見送った。 「お前の所は、うまいことをしたな」  漁師の一人が、祖父の死体を収容した舟の漁師に声をかけた。 「なぜだ」 「だってよ、死人を乗せればお前の舟は大漁まちがいなしじゃねえか」  その言葉に、漁師たちの顔はわずかにゆるんだ。  俊一も、その村落にのこされた言い伝えをなにかの折に耳にした記憶がある。それは、死体収容を美徳とさせようとする漁師村の者たちの知恵から生れたものだろうが、俊一には、漁師たちの会話に大人たちの冷淡な打算を感じとった。  俊一は、海に眼を向けた。  死体をさがす舟の数はさらに増し、殊に網のはられていた岩礁のあたりには舟が寄りかたまっている。未発見の死体はまだ二個あって、それを発見して舟に収容させようと競い合っているようにみえる。  俊一は、肌寒そうに舟の動きを見つめつづけていた。  正午近くに、俊一は家へ帰った。漁師や村落の女たちが、磯にたたずむ俊一の体を休ませようとして家に帰ることをすすめ、仏になった祖父のもとに行くべきだと言ったのだ。  俊一は、母のいいつけにそむくことを恐れたが、家に入った俊一に母はなにも言わなかった。  祖父は、顔を白布でおおわれてふとんに横たわり、その枕もとには線香がゆらいでいた。近所の漁師の妻たちが家につめていて、漁師たちも焼香のためにやってきている。千代は、多くの人々が出入りすることに興奮して上気した顔を輝かせていた。  時計の針が二時をさした頃、俊一は、にわかに磯の方向から異様なざわめきが起るのを耳にした。駈けながら甲高い声で叫んでいるような人声もきこえてくる。  俊一は、あらたに遺体が発見されたのかと耳をすましたが、鋭く交叉《こうさ》してきこえてくる人声にはなにか興奮しきった明るさのようなものが感じられる。そしてそれは、村落全体のどよめきとなって果てしなくひろがってゆくようだった。  家にいた男や女が、いぶかしそうに腰を上げると戸外へ出て行った。と、村道の方からなにか叫ぶ声がきこえると、たちまち家の前でもたかぶった声が乱れ合った。そして、一人の女が家へ走りこんでくると、 「来た、来た。ハタハタがミシミシやってきた」  と、眼を血走らせて叫んだ。  家に残っていた者たちが、はじかれたように立ち上った。 「湾の入口から流れこんできているそうだ。今舟が報《しら》せに帰ってきた」  女が、あえぎながら言った。人々は、外へ走り出た。  俊一もそれにつられて戸外に出ると、海に眼を向けた。が、いつの間に降り出したのか霙《みぞれ》が視界をとざしていて、湾の海面に異常を見出すことはできなかった。  家に入ると、祖父の枕頭には母が坐っているだけで人々の姿は一人のこらず消えていた。そして、千代も柱にもたれて、祖父の横たわっているふとんをうつろな眼でながめていた。  ハタハタが村落の期待通りにやってきたのだ、と俊一は胸の中でつぶやいた。沖合で回游しながら機をうかがっていたハタハタは、シケにのって海岸線に突きすすみ、村落の前面の湾を産卵場所にえらんだのだ。  俊一は、一層たかまってきた村落のどよめきに耳をかたむけた。しかし、ハタハタがやってきても、自分たちにはなんの関係もなくなっている。祖父は遺体となって横たわっているし、父は今もって冷たい海中に身を没したまま発見もされていない。  俊一は、母の横顔をぬすみ見た。母は村落から湧きおこる人声に耳をかたむけているのか、壁の方に眼を向けたまま身じろぎもしなかった。  村落は、大きく揺れ動いているように思えた。俊一は、気分が落着かず再び家の外へ出てみようと思った。そして出口近くまで行った時、不意に背後から、 「出るんじゃない」  という母の鋭い声がした。ふり向いた俊一は、そこに顔をひきつらせている母のけわしい表情を見た。  俊一は、顔を赤らめた。祖父と父を失った悲しみの中で村落の殷賑《いんしん》にふれようとした自分が、ひどく不謹慎なものに思えた。  俊一は、部屋の隅に膝をそろえて坐った。涙はみせないが、母は、深い悲しみとたたかっているのだ。  千代が、居眠りをはじめた。母は、黙って立つと千代を炉端に横たえ掻巻《かいま》きをかけてやった。  三十分ほどたった頃、隣家に住む漁師の妻が無言で入ってきた。その顔には、放心したような表情が色濃くうかんでいた。 「ハタハタがきたんですね」  母が、別人のようなおだやかな表情で声をかけた。 「海の色も変ってきたよ。でもね、遭難者がまだ見つからないというのに漁どころじゃないからね。漁協の事務所で今話し合いをしているのだそうだが……」  女は、複雑な表情で言うと、家から持ってきたらしい野菜を手にして台所へ入って行った。  いつの間にか村落からきこえていた人声も徐々に弱まってきていて、波の音が再び高くきこえるようになった。村落の人々は、父と他の一人の遺体捜索がハタハタ漁よりも優先しなければならぬものであることに気づいたのだろう。  俊一は、満足感に似たものをおぼえた。ハタハタの到来は、村落全体の待ちこがれていたものにちがいない。しかし、父の存在は、当然それよりも重要なものとして扱われなければならないはずだ。俊一は、再び静けさをとりもどした村落の気配を小気味よいものに感じていた。  俊一は、母の横顔をうかがった。が、母の顔には、俊一の予想に反してなにかしきりに思案しているらしい険しい表情が浮んでいた。  かれは、母の表情をいぶかしんだ。母は、父の遺体捜索がつづけられることに安堵《あんど》を感じていいはずなのに、母の顔にはその翳《かげ》すらみられない。 「ついてこい」  母が不意に立ち上ると、合羽を身にまとった。  俊一は、母がどこへ行こうとしているのか理解できなかった。再び磯に出て線香を手に、波打ち際を往き来しながら父の遺体の上るのを待とうとするのかも知れぬと思った。  母は、弧をえがいた村道を小走りに歩いて行く。その後姿には切迫した緊張感がにじみ出ていた。  人家がきれると、左方に海がひらけた。  その地点まできた時、母の足がとまった。俊一は自然と母の視線の方向に眼を向けたが、かれの足も釘《くぎ》づけになっていた。  海は、いつもの海とは異っていた。深い青みをおびた海水は淡褐色に変化し、それは湾全体をそめている。しかもその海面は不気味なうごきをしめし、大きくうねる波にも重々しい奇妙な起伏がみられる。  ハタハタは、湾内に充満している。海水の青さはハタハタの肌の色に塗りつぶされ、波のうねりもおびただしいハタハタの群れをふくんで動いているのだ。  海面を見つめていた母が、再び歩き出した。が、母は磯へはおりず人家の間の露地に足をふみ入れると、古びた木造建の建物に近づいてゆく。その周囲には、漁師が寄り集まり、苛立《いらだ》った表情で声高に話し合っていた。しかし、母の姿に気づくと、かれらは一様に口をとざし身を寄せて道をひらいた。  母は、顔を伏しながらその間を通りぬけると、建物の入口から身を入れた。その後から敷居をまたいだ俊一は、人の体でふくれ上ったすぐ前の部屋から、 「死んだ者は、もどりはしねえじゃねえか。生きているおれたちのことを考えてくれや」  という甲高い声がきこえてくるのを耳にした。  俊一は、漁業組合の事務所に殺気立った空気がはらんでいるのを感じた。しかも、その話の焦点が父と他の一人の死体収容にあるらしいことに、一層身のすくむのを意識した。  母は、入口をふさいだ人々に慇懃《いんぎん》に声をかけ空間をあけてもらうと部屋の中へ身を入れた。急に人声がしずまり、部屋の中をうめていた人々の視線が母にそそがれた。  かれらの顔には、はげしい議論をかわしていた火照りが妙なこわばりとなって残り、ひどく気まずそうな表情が浮び出ていた。  母が頭を下げると、部屋の中央に坐っていた組合の役員たちがぎごちなくそれにこたえ、母の顔を不安そうな眼で見つめた。  母は、顔を伏したまま祖父の遺体を収容してくれた礼を述べてから、 「ハタハタをとってください」  と、ふるえをおびた声で言った。 「父ちゃんは、もう死んでいます。探してくれるのはありがたいが、ハタハタをとることを先にしてください。ハタハタは、これからいつやってくるかわからない。ハタハタをとってください」  母は、一語一語くぎるように言った。  深い沈黙が、かれらの間にひろがった。が、俊一は、こわばったかれらの顔にかすかなゆるみが湧《わ》くのに気づいていた。  母は、入口から外に出た。  俊一は、無言で歩いてゆく母の姿を背後から見つめていた。母の申出は、村落のために父の死体を冷たい海水の中に放置することを意味する。  俊一には、母のとった行為が正しいのかどうか理解できなかった。  その夜、祖父の通夜がおこなわれた。が、焼香にやってきたのは、数人の親族だけで、かれらも匆々《そうそう》に家を出て行った。  ハタハタ漁は、母が漁協事務所を出てから三十分もたたぬ間にはじまった。  隣村からきていた警官は、遺体収容を先にすべきだと主張していたが、俊一の母につづいてまだ発見されぬ老漁師の遺族からも同じような申出があったことで、遺体収容の中断を黙認したのだという。  漁が開始されると同時に、村落は音と人声の世界に化した。  五年前とは比較にならぬほどのハタハタの大群が果てしなく押し寄せてきていて、どの網もハタハタでふくれあがり、岸にはこんで再び引き返してみるとすでに網ははちきれそうにふくらんでいる。村落では、女をはじめ老人、子供まで総出でハタハタを箱につめると貯蔵庫へはこぶ。漁獲量は箱の数を越えて、はげしい箱の奪い合いも起っているという。  トラックの走る音も、騒々しくきこえていた。すでに他の土地から商人も数十名くりこんできていて、ハタハタはつぎつぎと値をつけられて運び出されているらしい。  夜になると、磯には焚火がたかれトラックの放つヘッドライトの光芒《こうぼう》もひらめいて、騒音は一層たかまった。  トラックがあわただしく村道を往き交うたびに、家はゆれた。  俊一は、部屋の隅にふとんを敷くと横になった。昨夜の舟の転覆から丁度二十四時間経過していることになるが、その間にさまざまなものが詰めこまれていて、その時間がひどく長いようにも一瞬の間のようにも思えてくる。脳の襞《ひだ》にぎっしりとこまかい砂が食いこんでいるようで、頭が熱くほてっていた。  俊一は、父の体を思った。  父は、湾内のどこかの海水の中にたゆたって漂い流れているのだろう。おそらくその周囲には、なめらかな肌をしたハタハタの群れが白い腹部をひるがえしてひしめき泳いでいるにちがいない。  ふと俊一は、胸のあたりに疼痛《とうつう》を感じた。ハタハタの口吻《こうふん》は、父の体をついばんでいるのではないだろうか。祖父の下半身が露出していたことから察しても、父の体は、波にもまれて衣服もはがされ裸身に近いものになっているにちがいない。その全身を、ハタハタは競い合って口吻を突き立てているのではないだろうか。  俊一は、顔をゆがめると寝返りを打った。  と、耳の底でククーン、ククーンという音がかすかに湧いてきた。  かれは、その音がなんであるかを知っていた。幼い頃、岩だらけの海岸で遊んでいた俊一は、濡れた岩の上から足をふみすべらすと海中に落ちた。かれはもがきながら海中に沈んでいったが、その折、水の音をきいたのだ。  その後、小学校に入るまで海を見るたびにその音の記憶におびえて水際に近づくことも避けていたが、いつかその音のことも忘れてしまっていた。  俊一は、久しぶりにきく水の音に息をひそめた。  父は、冷えきった海水に沈んでいったのだろうが、おそらく霞《かす》んだ意識の中で同じような水の音をきいたにちがいないと思った。  トラックが、再び家をゆらせて村道を走ってゆく。俊一は、温湯につかったような気怠《けだ》るさが四肢にひろがってゆくのを意識した。  かれは、耳の中の水の音にきき入っていた。そのうちに、海水の中に自分の体がゆったりとただよい出るのを感じた。  かれは、いつのまにか深い眠りの中に落ちていた。     四  警笛を鳴らして走るトラックの音に、俊一は眼をさました。遠く近く人声と得体《えたい》の知れぬ物音が、自分の体を厚くつつみこんでいる。  俊一は、筋肉が弛緩《しかん》してしまっているのを意識しながら、ハタハタ漁が一層活気をおびつづけられているのを感じた。  すでに日は高くのぼっていて、窓には明るく舞う雪がみえた。  部屋の内部に眼を向けると、ふとんはいつの間にか片づけられ、祖父の体は棺の中におさめられていた。昨夜訪れてきた役場の吏員との打合せでは、先に発見され収容された相沢岩蔵の遺体を明け方から焼き、その後に祖父を焼く手筈になっている。焼骨の順序は発見の早いものが優先し、その後適当な日をえらんで営まれる葬儀も、その順序にしたがわなければならないのだ。  ふとんをたたみ、部屋を掃除すると、母と千代と三人で朝食をとった。その間も家を訪れてくる者は一人もいなかった。  母が着換えをし、黒い羽織を肩にかけた。千代も外出用の着物を着せてもらい、俊一は、父が出稼ぎ先から買ってきてくれた野球帽を母から渡された。  雪がやんで、日が射した。村落からの物音は、天候の好転によって明るいにぎやかさを加えたのかさらにたかまっているように感じられた。  人の気配がして、入口のガラス戸がひらいた。 「岩蔵さんのがようやく今終ったが、お棺は、すぐに運び出せるかね」  昨夜きた吏員が、事務的な口調で言った。 「ちょっと待ってください」  母は、立つと俊一と千代に、 「お別れをしろ」  と言って棺の傍に坐った。  千代は、おびえたように母の体にすがりつき、俊一は、その後ろから棺の中をのぞきこんだ。祖父の顔は粉をふいたように白っぽく、網でこすられた細い傷が糸みみずのように無数にきざまれていた。  合掌した母は、棺のふたをとざすと石を俊一と千代に渡した。俊一たちが石で釘の頭をたたくと、母は金槌《かなづち》で勢いよく棺を釘づけしていった。  吏員と役場の若い男が棺の前後を持ち、家からはこび出した。俊一は、母と棺の両側を支えながら雪の積った傾斜を村道に下りていった。  道には、古びた役場の小型トラックがとまっていた。棺は、ゴザの敷かれた荷台の上に載せられ、俊一たちは棺のわきに膝をかかえて乗りこんだ。 「じゃ、行くからね」  吏員は母に言うと、ハンドルをにぎった若い男の傍に身を入れた。  車が、雪道をうごき出した。  俊一は、タイヤに巻かれた鎖の鳴る音を耳にしながら、この荷台に乗っている三人だけが家族のすべてであることを感じていた。祖父も父もすでに亡く、男は自分一人になってしまった。妹は幼いし、母からはやがて子が生れてくるだろう。それらがすべて自分の背に負わされることを思うと、土中に果てしなく身の落ちこんでゆくような心細さにおそわれた。  村道には、あわただしげに歩く人の姿があった。箱争いがはげしいのか、背に箱を高々と背負って急いでゆく女の姿もある。  かれらは、俊一たちの乗っている車に眼を向けることはせず、稀《まれ》に俊一たちに気づいた者の顔にもなんの感慨もうかび出てはいなかった。かれらは、漁のことのみに没頭し、俊一の祖父に対する悼みも忘れているようにみえた。  磯からふき上げる人声と物音が近づいてきた。  俊一は、静かな村落でそれほどの喧騒《けんそう》を今まで耳にしたことはなかった。前方の道を、女たちが箱を手にあわただしく往き来している。道の上で一面に動いてみえるのは、箱からこぼれてはねているハタハタだった。  車は、警笛をならして近づいていったが、箱を次々と積みこんでいる大型トラックが、路《みち》に後部を突き出していて通りぬけることはできなかった。  車は、その地点で停車した。  俊一は、左手の磯にくりひろげられている光景に眼を大きく見はった。  海は、すっかり変貌《へんぼう》していた。茶褐色にそまった海面には、米のとぎ汁のような白いものが一面にただよい流れている。湾の藻場《もば》に産卵した雌を追って殺到した雄の群れが、精液をはなっているのだ。  湾は、雌雄入りまじったハタハタの群れで満ち、海水は泡立ちもり上っているようにみえる。そして、水ぎわ一帯にもハタハタが押され押されして寄せ上げられているのか、ハタハタのあげる飛沫が太い筋となって伸びていた。  湾は、魚と人で充満していた。海面にはられた網が上げられると、はね光ったものが舟の中に流れこんでいる。今にも沈みそうにみえるほどハタハタを満載した舟が岸にむかう傍を、網にむかって進む空舟がかすめ過ぎる。漁師たちの漕《こ》ぐ「オシコイ、オシコイ」という掛け声が海上を占め、それと競い合うように磯では、男や女の荒々しい声が入りみだれていた。  舟が岸につく度に、魚は箱に乱暴にながしこまれ、それを女たちが村道をわたって木造の古びた倉庫にはこんでゆく。磯はこぼれたハタハタですき間なくおおわれ、箱をはこぶ者の中には、ハタハタに足をとられて転倒する姿も多くみられた。  路に後部を突き出していたトラックが、すさまじいエンジンの音をとどろかせると路の上にのし上った。その荷台の上には、高々と積まれたハタハタの箱がつめこまれていた。  トラックが、路上のハタハタをふみつぶし警笛を鳴らして走り出した。  俊一たちの乗っている車体がゆれて、車が人々の間に入りこんだ。たちまち車は、箱を手に往き来する人々につつまれたが、かれらの顔には疲労の色が濃く、俊一たちに眼をあげる者はいなかった。  車は、警笛をならして時折停りながら徐行してすすんだ。  やがて磯からもはなれて、車は、タイヤの鎖をならしながら走っていったが、道の曲り角までくると突然停車した。  頭をアングルに打ちつけた千代が、声をあげて泣き出した。  車の前には、同じように急停車した大型トラックのたくましい車体がそびえ立っていた。 「バカヤロウ、気をつけろ」  鉢巻をした若い男が、助手席から身をせり上げるように眼をいからせて怒鳴った。そして、 「バックしろ、道をよけるんだ」  と、荒々しく拳《こぶし》をふった。  車にエンジンの音が新たに起って、道を後ろへさがりはじめた。大型トラックは、若い男の体をせり上げたまま威嚇するようにすすんでくる。  数十メートル後退して、車は、ようやく道の片側に身を寄せた。  トラックのシンバルを鳴らすようなすさまじい警笛があたりにひびき、若い男は助手席にもどった。そして、トラックは、大きな車体をすりつけるようにして傍を通りぬけると、タイヤの音をとどろかせて勢いよく走り出した。  俊一は、雪をはね上げながら遠ざかる緑色のトラックを見つめた。  遭難者を四人も出した村落がハタハタ漁をはじめることができたのは、父の遺体捜索を中断してもよいという母の好意的な申出がきっかけになっている。そうした事情があるのに、磯で働いていた村落の者たちは漁に心をうばわれていて、祖父の棺にも遺族である自分たちにも目礼を送ることさえしなかった。  さらに大型トラックは、道をゆずりもせず、若い男は罵声《ばせい》を浴びせかけ拳さえふった。そのトラックは、むろん町からやってきたもので乗っていた男たちも事情を知らぬ者たちなのだろうが、俊一は、不当な扱いをうけたような憤りを感じた。第一、ひとことも言葉をかえさず車を後退させた役場の吏員の気の弱さも腹立たしかったが、祖父の棺に手を置いたまま無表情に黙りこくっている母にも苛立たしさを感じた。  車が再び動き出した。俊一は、道の傍につもった雪の白さに眼をおとしながら車体の震動に身をゆらせていった。  やがて車は、村道から右手の細い道へ入った。雪がまたちらつきはじめ、両側に雪におおわれた山肌がせまってきた。  道沿いに流れている小川は氷でとざされ、灌木《かんぼく》にふちどられたうねった路をすすむと、山肌は一層路をせばめ、車は谷にはいりこんでいった。  俊一は、その谷の突き当りに焼場があることを知っていた。友だちとおびえながら谷へ入っていったことがあるが、谷の奥に古びた小舎《こや》を眼にして急いで引き返したことがある。その折見た小舎が、車の前方に見えてきた。  車は、小川にかけられた短い橋を渡ると、小舎の前でとまった。  と、車の音をききつけたのか、小舎の中から長身の老人が出てきた。顔立ちのととのった老人だったが、その片腕は付け根から失われているらしく作業衣の片袖が布切れのように垂れさがっていた。 「頼むよ」  役場の吏員は老人に言うと、棺を荷台からおろし、山肌にもたれるように設けられている窯《かま》のふちへはこんだ。そして、老人のひき出した車輪のついた鉄製の台の上にのせると、黒い窯の中に勢いよく押しこんだ。  老人が片手で窯のふたをかかえ、棺を入れた穴を閉じた。そして、窯の下の穴から火をともした小枝をさし入れた。  やがて火が起ったらしく、窯の上に立てられた錆《さ》びた煙突から紫色の煙が立ちのぼりはじめた。  俊一は、骨の焼きあがるのを待つため母の後から小舎の方へ歩きかけたが、ふと前方の山肌の中腹に人影をみとめて立ちどまった。  それは、老婆と中年の女と幼い男の子で、わずかに舞う雪の中で身じろぎもせずこちらを見下ろしている。その日の焼骨は祖父の遺体だけであるはずで、順番を待つ遺族とは思えなかった。 「あの人たちかい」  後から歩いてきた役場の吏員が、山肌に眼を向けて言った。 「お前の父さんと一緒に死体がまだ上らない久作さんの遺族だ。お前はまだ知らないかも知れないが、先に死体の上った人の骨を焼くのを見ておかないと、いつまで経っても自分の家族の死体は上らないといわれているんだ。声をかけちゃいけないぞ。同じ事故で死んだ者の遺族は、一年間交際してはならないことになっている。道で会っても、挨拶はなしだ。迷信というかも知れないが、悪いということはやらない方がいいからな」  吏員はさとすように言うと、俊一をうながして歩き出した。  小舎の中には、茶道具がおかれていて、母は、炉の釜《かま》から湯をくんで吏員たちに茶をいれた。  俊一は、窓の方に眼を向けて山肌の方をしきりにうかがっていた。しかし、雪におおわれた樹木にさえぎられて小舎の中から山肌に立っていた三人の遺族の姿を眼にすることはできなかった。  先に発見され収容された死体の焼骨を未発見の者の遺族が見守る習慣があるとすると、その三人の遺族は、その日におこなわれた相沢岩蔵の焼骨を夜明けから見つづけていたのだろうか。俊一の父の遺体は上らないが、祖父の死体の焼骨に立ち合う俊一たちは、同時に村落の習慣にしたがうことにもなっているのだろう。  吏員は、窯の傍からもどってきた老人に、村落を沸き立たせているハタハタ漁のことを明るい口調で話しはじめた。  押し寄せてきたハタハタは、例年にないほどの大群で、ひしめいて流れこむ魚にはちきれて破れてしまった網さえあるという。しかも、ハタハタは雌雄とも発育がよく、商人たちも大ぶりな魚体に満足して争うように買っているらしい。一箱には平均二百尾ほどのハタハタがつめられるが、獲《と》れはじめの頃は一箱千円という高値がつけられ、今になっても九百円以下の値はないという。 「全くハタハタボーナスとはよく言ったものだ。これもな、この母さんがハタハタを先にとっていい、と好意的に言ってくれたからだ。村落の者は、いい正月をむかえられると大喜びさ」  吏員は、母の顔を見ながら言った。  老人は、時折火加減をみるために窯の方へ出て行った。小舎の入口からうかがうと、火力は強まっているらしく、窯の傍に立つ杉の梢《こずえ》があおられるようにゆらいでいた。  骨の焼けるのを待つことに退屈した千代は、しきりとむずかって母の袖を引いたりしていたが、やがて母の膝《ひざ》の上で眠ってしまった。その額には、車が急停車した折にできた傷が青黒いしみになって残っていた。  谷に、夕闇がやってくるのは早かった。  骨が焼き上ったのは、棺を窯に入れてから五時間もたった頃で、俊一は、長い木箸《きばし》で窯の外に出された祖父の骨をひろった。  四角い木箱には、あふれるように骨が詰めこまれ、ふたが閉ざされると老人の手でかたく紐《ひも》でむすばれて母に手渡された。  母は、老人に金の入った紙包みを手渡し丁重に頭をさげると、裾をからげて荷台の上に乗った。ゴザの上には淡く雪がつもり、母は手で雪をはらい落すと千代を抱いて坐った。  俊一は、荷台に腰をおろすと山肌に眼を向けた。すでにその個所にも夕闇が濃かったが、雪におおわれたものが三つ身動きもせずに立っている。  ヘッドライトがともされ、車が反転すると動き出した。  俊一は、その人影を見上げつづけたが、やがてそれも闇の中にとけこんで見えなくなってしまった。  車は、ヘッドライトをひらめかしながら、細い山路をくだっていった。  村落の湾には、ハタハタの流入がつづいていた。  雌は産卵後一週間近くは藻場付近にとどまり、雄も雌の周囲からはなれない。しかし、雌も雄も生気を失って、水面を浮游《ふゆう》するように力なく泳いでいるだけだった。  こうした類のハタハタが網にまじって入るようになると、それがきっかけになって取引価格は低下のきざしをみせ、漁がはじまってから五日目には、早くも一箱五百円以下の値がみられるようになった。そして、日を追うてはげしくなる価格の低落はハタハタ漁の宿命にも似た現象で、それを知っている村落の者たちは、値下りと競うようにハタハタの水揚げに狂奔し、食物も磯で立ったまま口に押しこみ夜もガス燈をたいて舟を出し眠るひまも惜しんで働いた。  家には焼香客の訪れもなく、俊一たちは、ハタハタ漁が終りを告げて父の遺体捜索が再開されるのをひたすら待つだけだった。  祖父よりも早く遺体の上った岩蔵の家では葬儀も終っているというが、母は父の遺体が発見された後、二体一緒に葬儀を営むつもりであるようだった。  七日の忌があけると、俊一は、隣村にある分教場へ通いはじめた。しかし、俊一の村落から通学しているのは低学年の児童数名だけで、大半は磯での仕事の手伝いに駆り出されていて欠席していた。  俊一は、ただ一人村落の殷賑からはじき出されているような孤独感にとらえられた。気分もすっかり萎縮《いしゆく》してしまって、学校へ通う折にも人気のない間道をたどり、学校でも友だちと口をきくことを避けた。そして帰途も一人で山道をもどったが、海のみえる地点をすぎ村落の近くにやってくると、気分が一層重くなる。村落からわきあがる物音が歩むにつれて一層大きく体を包みこみ、俊一は顔をしかめて家へ足を早めるのだ。  母が、男の子を生んだ。その夜、俊一は、横たわった母が肩をふるわせて泣くのをみた。  それから数日後、網元の菊地が、遭難事故があってからはじめて顔を出した。  冷たい海水に投げ出されたため体の具合が悪くて寝こんでいたというが、その言葉どおり菊地の顔色は青白く動きも大儀そうだった。  小さな二張りの網をもつだけの菊地は、労災保険にも加入していず、そのため親族や知人の間をまわってようやく十二万円の金を借り集め、それを父と祖父を失った俊一の家に五万円、他の二名の遭難者の遺族にそれぞれ三万五千円ずつ見舞金として贈りたいというのである。  同行してきた組合の役員は、菊地の行為が村落の者に賞讃《しようさん》されていることをつたえた。網も舟も失った菊地はハタハタ漁にも参加できず、その上新たに借金まで背負いこんだというのである。 「かんべんしてくれや、おれも辛いんだ」  菊地は、頭を下げた。  俊一の家には、生活上の問題がさしせまってきていた。働き手を失った漁師の家には、自然と生活扶助の手続きがとられる。役場での説明によると、俊一の家に支給される金額は一カ月七千二百円だということだった。  十二月も中旬をむかえると、雪は連日舞うようになった。  ハタハタは依然として水揚げされていたが、価格は急激な低落をつづけていて、その頃になると一箱百円の声まで出るようになっていた。  初めの頃ハタハタを買い集めた商人は、それを小売商に卸していたが、価格がさがるにつれて小売商も店頭売りをやめてしまい、商人も自然と足を遠のけるようになった。二百尾以上もの魚を、たとえ利潤をとって一箱二百円か三百円に売ってみても、一尾一円か一円五十銭にしかならずそれでは労賃にもならない。  トラックは村落から姿を消し、やむなく村落の者たちは、近くの町や村にハタハタを売って歩く。それらは、しょっつる鍋の材料に利用されたり麹《こうじ》を入れた酢漬にされて保存されるのだが、売り競う村落の者によって一箱百円以下で売り渡されるようにもなっていた。  ハタハタ漁も、わずか半月ほどで終りをむかえていた。  産卵をすました雌は、雄とともに体をいやすため再び沖の深い海底にもどりはじめたらしく、海の色は再び青々とした色をとりもどしていた。そして、藻に生みつけられた卵は、三カ月ほど後に孵化《ふか》して藻場の近くで磯の魚たちに大半が食いあらされながらも、五月頃には一斉に親魚の棲《す》む沖の海底にもどってゆくのだ。  村落には、ようやく静けさがもどってきた。  網には、まだハタハタがわずかずつは入っていたが、価格が五十円にさがった頃には舟を出す者もいなくなった。海面を染めてやってきたハタハタは、短時日のうちに幻影のようにその姿を消したのだ。  十二月下旬、役場の吏員と組合の役員が家にやってきた。ハタハタ漁は予想以上の漁獲にめぐまれ、それによって得た金額から三戸の遺族に八千円ずつの見舞金を分け、中断されていた遺体捜索も村落の者たちの手で再開すると言った。 「お願いします」  嬰児《えいじ》を背にくくりつけた母は、祖父の骨をおさめた木箱の前に線香をくゆらした。  俊一は、のびのびとしたような解放感につつまれた。ハタハタ漁ににぎわう村落の中で、俊一の一家はただ息をひそめて日々を送ってきた。あたかも祖父と父の死が一種の罪過でもあるかのように、俊一たちは、人目を避けてハタハタの去るのをひたすら待った。  父の遺体は、やがて発見されて家にもどってくるだろう。帰ってくるべきものは、帰ってきてもらわねば困るのだ。  俊一は、その日千代をつれて海を見に行った。  村落の者に会っても、気分が臆すことはなかった。祖父と父との死が一つの価値を持っているように感じられた。 「父ちゃんは、どこに沈んでいるの」  千代が、海を見ながら言った。 「この湾のどこかだ。どこかきれいな海水の中で眠っているのだ」  俊一は、湾を見渡した。  それまでの遭難者の遺体の発見例からみても、遺体は、外洋に流れ出るようなことはない。必ず湾の中にとどまっているのだ。  湾には、小舟の姿はなく、ただ輪壁網がわびしげに点々と残っているのが見えるだけだった。  俊一は、おだやかな湾の海面を見つめつづけていた。     五  遺体探しは、翌日からはじめられた。  十名ほどの男が村落の家々から交代で出され、舟を出して海上をさがすグループと海岸線を巡回するグループとにわけられた。母は、嬰児を背に海岸線を歩くグループにくわわって夕方近くまで歩きまわった。  遺体が一個発見されたのは、年が明けて間もない頃だった。  その日、蛸《たこ》をとるため海上に出ていた漁師の一人が、ガラス板のはめこまれた桶《おけ》で海底をさぐっている折、岩礁のひそみにひっそりと沈んでいる人体を見出したのだ。  村落の者からの報《しら》せで、俊一は、嬰児を背負った母の後から家を走り出た。村落にもその報せがひろがったらしく、村道を駆けてゆく者も多く、磯にはかなりの人が集まっていた。  海岸から五〇メートルほどへだたった波のくだけ散る岩礁の近くの海面に数隻の小舟が寄り集まっていて、しきりと竿《さお》を海中に突き入れている。  やがて、遺体に竿の鉤《かぎ》がかかったのか、竿を海中に入れたまま舟が磯の方へと移動しはじめた。  村道に小型トラックがとまって、助手台から隣村の警官が下りてきた。 「一つだけか?」  警官は、波打ちぎわに立つと小舟の動きを見つめながら言った。 「見つけたのは一つです」  組合の役員が、答えた。  舟が岸に近づき、鉤にかけられた異様なものが浅瀬の水面から姿をあらわした。  と、磯に立った人々の口からおびえきった声が起った。かれらは水際から後ずさりし、中には村道の方へ逃げるように走る女もいた。そして、水際にのこされたのは、警官をふくめた数人の男と、母と俊一だけであった。  鉤で海水から磯に引き上げられた物は、すでに遺体という概念からは程遠いものであった。俊一は、意識のかすむのを感じながら磯に横たわった物を見つめた。 「思った通り大分こわれているな」  警官は、臆する風もなく遺体のかたわらに身をかがめた。  波にもまれているうちに岩にでも叩きつけられたのか、首から上の部分がなくなっている。そして片手も肩の付け根から失われ、片方の足も腰から断ち切れていた。衣服はむろんはがされていて、露出した体の表面には妙に白いものが所々に浮き出しすっかりふやけきってみえた。 「父ちゃんでしょうか」  かすれきった声が母の口からもれ、母は、足を一歩ふみ出した。  警官は、体の裏側をのぞきこんだりしてしらべていたが、顔をふり向けると、身をかたくして立っている組合の役員たちに、 「おい」  と、声をかけた。  数人の男たちが、顔をこわばらせて警官の方へ近寄った。 「この白いのは脂肪だが、大分肉付きのいい体だ。太っていたのはどっちだ」  警官は、腹部や腿《もも》の表面に浮き出た白いものを指さした。 「久作さんは、太っていた」  役員の一人が、ひきつれた声で他の男たちに同意をもとめるように言った。そして、俊一の父|氷室《ひむろ》健蔵は筋肉質であるともつけ加えた。 「背丈も余り高くない」  警官は、体を見まわすように言った。首から頭部のない体は、俊一の眼に少年のような小柄なものにみえた。 「久作さんの遺族はどこにいる。身許《みもと》確認をしてもらわなくては……」  警官が、周囲をながめた。  俊一は、口中のはげしい乾きを意識しながら、遠巻きにしている人々の方に眼を向けた。と、異様な姿勢をしている老婆の姿が眼にとまった。人々の背に支えられ、体をのけぞらせるようにして辛うじて立っている。そして、人々に支えられながら警官の方へ近づいてきたが、その硬直した足は宙をふんでいるようにみえた。  警官は、老婆の方へ歩み寄った。 「どうだね、久作さんには体になにか傷か痣《あざ》のようなものがあったかね」  警官が言うと、老婆は、眼を上ずらせて頭をかすかにふった。 「よし、もういい。婆さんを連れて行け。久作さんにまちがいないと思うが、遺体の見つかった近くに、頭と手足が必ずあるはずだ。念入りに探してくれ」  と、警官が役員に声をかけた。 「この仏は、どうしますか」  ようやく落着きをとりもどしたらしい男の一人が、警官にたずねた。 「海が冷えているので、腐敗はしていない。できれば頭と手足をそろえて身許をはっきりさせたいから、蓆《むしろ》でもかけておいてやってくれ」  警官は、事務的な口調で言った。  母が歩き出し、俊一もその後にしたがった。  俊一は、磯にころがった遺体が決して父のものでないことを知っていた。長身でたくましい骨格をした父の体は、今眼にしたような肉塊のようなふやけたものではないはずだった。  人垣をはなれ村道に出た母は、足をとめた。路の前方を、数人の女たちにかかえられてのけぞるように歩いてゆく老婆の姿がある。  母は、老婆と顔を合わせるのを避けるためか、しばらくその場でためらっていたが、迂回《うかい》して家に通じている細い露地に入りこむと足早に歩いていった。  その後一時間ほどして、遺体の出た岩礁の近くから手、足につづいて海底に沈んでいた頭部も拾い上げられた。その頭部は、顔面がえぐられるように欠落していて、ただ下顎《したあご》とそれに付着した数本の歯が残っているだけだったという。その歯の一本に古びたサンプラの冠がはめられていたことで、遺体は、久作のものと断定された。  しかし、先にあがった胴体は、磯の空気にふれてから急速な腐敗をしめし脂肪もとけて悪臭をはなちはじめたため、棺におさめられると匆々《そうそう》に焼場へはこばれたという。  母は、燈明をともし線香を立てると虚脱したように坐っていた。  俊一は、いつの間にか忍び寄ってきた夕闇の中で身じろぎもしなかった。  かれの胸には、磯に横たえられた白いふやけた物がいまわしい影像のようにしきりとよみがえってくる。俊一は、遺体がそれほどみじめな物になっているとは想像もしていなかった。むしろ澄んだ海水の中で、遺体は透明な浄化されたものとして沈んでいると思っていた。そして、まだ発見されていない父も同じような姿に化しているかと思うと、胸のしめつけられるような悲哀感におそわれた。  海は、父が遭難してから何度も荒れた。湾内を流れる父の体は、はげしい波に乗って岩に突き当り、こわれてしまっているのだろうか。  ふと俊一は、ハタハタが食ったのだ、と思った。湾にひしめき流れこんできたハタハタの群れは、当然餌の不足になやみ、手当り次第にさまざまなものを口に入れたのではないのだろうか。ただよい流れる久作の体にも、ハタハタは鋭い口吻を一斉に突き立て、食い散らしてしまったのかも知れない。  俊一は、押し寄せたハタハタの群れで茶色く変化した海面に、おびただしく流れていた乳白色の精液を不気味なものに思い起していた。  残された未発見の遺体は、父だけになった。  久作の遺体の発見にうながされたのか、父の遺体捜索は活溌にすすめられた。殊に久作の遺体が沈んでいた個所を中心に岩の多い海底が入念にさぐられた。  しかし、不思議なことに、十日たち二十日たっても父の体はどこへいってしまったのか見出すことはできなかった。  海底の岩のくぼみに深くはまりこんでしまっているのだろうという者もあれば、海流にのって湾外へ流れ出てしまったのかも知れぬという者もいた。  そして、いつしか効果のあらわれぬ遺体探しに、村落の者もようやく倦《う》みはじめていた。依然として十人近くの村落の者が、海へ舟を出したり海岸線を歩きまわって遺体探しに従事していたが、それも徐々に人数が減って、二月に入るとかれらはその作業を全く放棄してしまい、海岸線を歩くのは母と俊一だけになってしまった。  その頃になると、村落の者たちの態度にも或る変化が起っていた。  かれらは、遺体探しを中止した後ろめたさのためか俊一たちの姿をみると顔をそむけ、殊更冷淡な表情をする。連絡のためよくやってきていた組合の者も、いつの間にか姿をみせなくなっていた。  久作の遺族が深夜ひそかに村落を去っていったのも、その頃であった。  村落では、久作の遺体が余りにも無残な姿となって発見されたのでその衝撃に堪えきれず村落を出たのだろう、という解釈がもっぱらだったが、俊一は、ハタハタから逃れて行ったのだ、と思った。  村落には、ハタハタ漁の余映が充分に残されていて、男たちは昼から酒を飲み、女たちは衣類を買いこみ、時々寄り集まっては菓子をつまんで世間話に興じている。それにふんだんにとれたハタハタは、豊漁の輝かしい象徴のように家々の軒下に隙間なく垂れて干されている。そのため村落は、ハタハタの乾燥する匂いにむせかえっていた。  おそらく久作の遺族は、ハタハタの充満した村落にいたたまれなくなって、他の土地へ去っていったにちがいなかった。しかし、村落での生活しか知らぬ遺族にとって、村落という小世界をぬけ出すことはたちまち貧窮に身をさらすことにも通じているのだ。  俊一は、焼場の山肌に身じろぎもせずに立っていた久作の遺族の姿を思い起していた。  俊一の家でも、ハタハタはいまわしいものとして遠ざけられている。村落の主要な食物ともなっているハタハタはむろん食膳にはのぼらず、俊一は、ハタハタにおおわれた家並の間をぬける時も顔を伏して足を早めた。  母は、遺体探しに歩きまわっていたが、それに専念してばかりはいられなかった。  網元と村落から贈られた金はまだのこっていたが、居食い状態をつづければ近い将来にはそれも尽きてしまう。生活扶助金は二月に入ってから支給されるようになっていたが、母は嬰児を背にくくりつけて近くではじまった道路改修工事に出て働くようになった。賃金を得れば生活扶助金からその分だけ差しひかれてしまうのだが、母は、いたずらに他人の恵みを甘んじて受けたくはないようだった。  母が労働に従事するようになったので、俊一は学校から帰ると、母に代って炊事の仕度をする。竃《かまど》の中で燃える炎の色を見つめながら、かれはよく父のことを思った。  父の遺体は、いったいどこへ行ってしまったのだろう。もしも岩の間のひそみに沈んでいるならば、村落から数多く出ている蛸釣り舟の漁師の眼にとらえられるはずである。それとも、一部の者が口にするように、父の体は、湾外に出て遠く外洋を流れつづけているのだろうか。  もしかしたら、と、俊一は、空想する。ハタハタの群れは、体力の恢復《かいふく》をねがってすでに沖の深い海底にもどっていったが、父もそれらのハタハタの群れとともにその棲息地《せいそくち》に去ってしまったのではないだろうか。  ほの暗い海底に、父の体は水の動きに身をまかせながらたゆたっている。周囲には、海草の間を縫っておびただしいハタハタが、群れ泳いでいる。先頭の一尾が体の向きをかえると、後につづくハタハタの群れは次々に白い腹部をひるがえしてそれを追う。たちまち海底に、雪が霏々《ひひ》と舞う光景がくりひろげられる。  餌の豊富な棲息地では、ハタハタは、もう父の体をついばむことはしない。父の体は、海底の岩のひそみやゆらぐ海草と同じように、ハタハタが群れ泳ぐのに適した恰好な存在になっているのかも知れない。 「父ちゃんは、どこにいるの」  千代は、口癖のように言うが、俊一は、不機嫌そうに口をつぐんでいる。いつの間にかかれも父の遺体は決して発見されることはないと思うようになっていた。  母が遺体探しをするのは、休日だけであった。俊一と千代もその後から歩いていったが、それはすでに家族そろっての海岸の散策にすぎなくなっていた。  母の顔にもあきらめの色は濃く、せまい砂浜で貝をひろう千代の姿を放心したように見つめたりしていた。  しかし、三月も終りに近い日曜日に、父の体は出た。  その日の朝、海岸線を母たちと連れ立って歩いていた俊一は、かすかに人声のようなものを耳にしてふり向いた。と、弧をえがいた海岸線を手をふりながら駆けてくる女の姿がみえた。 「出たぞ。父ちゃんの体が出たぞ」  女の声は遠くなにを言っているのかわからなかったが、母は確信をもったようにつぶやくと、よろめくように女の方へ歩き出した。  遺体が発見されたのは、村落の南東にある微塵間《ビジマ》という波打ち際であった。そこは、山間部から流れてくる渓流の河口の近くで、その地名でもあきらかなように、流木やゴム靴、瓶などが打ち上げられる個所で、遺体はそれらの芥《あくた》にまじって横たわっていた。発見したのは、岩海苔《いわのり》とりの老人で、すぐに村落へ通報したのだという。 「気をしっかり持てや、しっかり持てや」  女は、母の顔を不安そうな眼で見つめ、しきりに同じ言葉を繰返していた。  しかし、母は、女に顔も向けず口をつぐんで海岸を歩いていった。  微塵間には、人の集りがみえた。千代は女が抱き、俊一は母と人垣の中に入っていった。  母の足がとまり、俊一もその場で立ちすくんだ。数名の男がおびえたようにたたずむ傍で、手拭で鼻をおおった警官が奇妙な物を前にしてしゃがみこんでいる。  俊一は、それがなんであるかわからなかった。砂地に横たわっているものは、あざやかな緑におおわれた物であった。藻の大きな塊のように、茶色い砂地の上で水々しい色を際立たせていた。  母に気づいたのか、男の一人が警官に耳打ちした。  警官はふりかえると、立って母に近づいてきた。 「見ないでいい、見ないでいい」  警官は、うなずきながら言った。 「父ちゃんですか」  母がかすれた声で言うと、 「あんたの家の父ちゃんは、右手の小指と薬指がなかったそうだね。幸い右手がついていてな、それでわかったのだが指は三本しかない。漁協の連中も証明してくれたから、もう見んでもいい」  と、警官は、母の肩をあやすようにたたいた。 「見ます」  母は、警官の体を押しのけるようにして足をふみ出した。 「もう、いい、見ない方がいいんだ」  警官は制止したが、母は、緑色のものに近づき、眼をすえた。 「首と左手はとれている。近くを探したら必ず出てくるだろう。長い間海の中にいたので、藻がすっかり湧《わ》いているんだ」  警官は、慰めるように言った。  腐臭がはげしく、風の流れにのって俊一の鼻にもその刺戟《しげき》的な匂いが流れこんでくる。  不意に嘔吐《おうと》感がつき上げてきて、頭の中で炭酸水の微細な気泡が一斉にはじけるような音が湧いてきた。  俊一は、足をふみしめて立っている母と同じようにしっかり立っていなければいけない、としきりに自分に言いきかせたが、気泡の音はさらに増し眼の前が急速にかすんできた。  かれの体は、ゆっくりと横にかたむき砂地の上に顔をめりこませていた。  役場の小型トラックに棺が乗せられ、その後を三輪トラックがつづいてゆく。  腐爛《ふらん》しきっている遺体はすぐに焼くことになり、母は嬰児を背にくくりつけたまま棺の脇に一人坐ってゆれていた。後方の三輪トラックの荷台に村落の者たちと乗った俊一は、嬰児が母の背でしきりにむずかっているのを見た。それは、濃厚な腐臭にあえいでいるためにちがいなかった。  父の頭部と左手は、微塵間の近くからすぐに発見された。顔はそげ落ちてわずかに後頭部が残っているだけで、左手からは骨が露《あらわ》になっていた。そして、それらも胴体と同じように青カナという藻に隙間なくおおわれていた。  二台の車は、谷に入った。焼場につくと、手拭で鼻をおおった男たちが棺をかかえて窯の中に押し入れた。  ふと、俊一は、久作の遺族が立っていた山肌の方に眼を向けた。が、そこには、雪の積った山肌があるだけだった。父は、最後の遺体なのだ。この後には、なにも遺体はないのだ、と俊一は、胸の中でくり返した。  男たちが、小舎の中で持参した酒を飲みながらハタハタ漁の思い出をにぎやかに話しはじめた。  小舟で海を行くと、それはハタハタの中を分けてゆくようであったことや、舟の中にもハタハタが数多くはねてとびこんできたことなどを恍惚《こうこつ》としたような表情で口にした。千円の高値で売った箱の数をたがいに自慢し合い、五十円にさがった折のことが話題になった時には、一様にかれらの顔には苦笑がうかんだ。しかし、かれらは豊漁で一年間暮してゆけるだけの金銭をつかみ、そのことにひどく満足そうだった。  そのうちに男の一人が、 「今年もハタハタがミシミシやってくるぞ」  と、眼を輝かせて言った。 「その話さ。仏が海に長くいた年は、必ずくるというからな。ここの父さんはいい漁師だったが、死んだ後まで恵みをたれてくれるというわけだ」  他の男が、笑顔でこたえた。  俊一は、急に熱した鉛のようなものが胸につき上げてくるのを意識した。  ハタハタは、父をうばった。父の体を食い散らした。そのハタハタの到来を、村落の者たちはねがっている。村落は、父の死体が長い間発見されずにいたことを喜んでいたのか。それを、ハタハタが再びやってくる吉兆として考えていたのか。  骨が焼き上り、母の手に渡された。  俊一は、母と小型トラックの荷台に乗り、村落の男たちは、連れだって三輪トラックに乗りこんだ。かれらはかなり酔っていて、呂律《ろれつ》のまわらぬ声で歌をうたっている者もいた。  三輪トラックは途中でわかれ、小型トラックが家の近くでとまった。  母は役場の吏員に頭をさげ、トラックを見送ってから家に入った。そして、木箱を祖父の骨箱に並べておくと、小さな蝋燭《ろうそく》をともした。 「母ちゃん、骨をもって村落を出よう。もういやだ、いやなんだ」  俊一は、ふるえ声で言った。胸に充満していたものが、一時にあふれ出るようだった。  母は、背の嬰児をおろして膝の上に抱いた。 「どこへ行く」  母は、抑揚のない声で言った。 「どこでもいい。どこか遠くへ行きたい」  俊一は、肩をあえがせた。  母の眼に不意にはげしい憤りの色がうかんだ。俊一は、一瞬母が立ち上ってその掌を自分の頬にたたきつけてくるような予感におそわれた。  が、母は、その場に坐ったまま顔をそらすと荒々しく胸をひらいた。浅黒い豊かな乳房が、はじけるようにむき出しになった。その乳房に嬰児の顔が押しつけられた。  嬰児は、しきりとうなずくように産毛のはえた頭を動かして乳を吸いはじめた。  俊一は、乳房を吸うひどく健康的な音を耳にしながら、母の横顔を放心したように見つめていた。