吉村 昭 熊撃ち 目 次  第一話 朝次郎  第二話 安彦  第三話 与三吉  第四話 菊次郎  第五話 幸太郎  第六話 政一と栄次郎  第七話 耕平  あとがき  文庫版あとがき [#改ページ]   第一話 朝次郎     一  井沢朝次郎は、彫刻刀をにぎったまま口をつぐんでいた。膝の間には、ようやく輪廓をみせはじめた木彫りの羆《ひぐま》がおかれている。  中年の警官は、困惑したような苦笑をうかべながら、 「あんたに来てもらわないと、どうにもならないんだ」  と、何度も口にしたことを再びくり返した。  朝次郎は、人づき合いの悪いアイヌの猟師だった。七年前から、十五歳年下の妻と屈斜路湖に近い川湯温泉に小さな木彫りの店を出した。が、客が声をかけてもほとんど返事はせず、執拗に値切ったりすると、 「ほかの店へ行け」  と、鋭い口調で言う。  そのため妻がもっぱら客の応対にあたり、朝次郎はいつの間にか習いおぼえた木彫りの技術を生かして、店の奥で終日彫刻刀をうごかしていた。  店をはじめるようになってから、わずかながらも朝次郎は人と口をきくようになった。妻が留守の時は、店に入ってきた客に品物をわたし金をもらうようなこともできるようになったが、相変らずかれの口は重い。  朝次郎の無愛想な性格をよく知っている警官の顔には、媚びるような表情すらうかんでいた。  一〇キロほどはなれた村の裏山に、数日前一頭の羆が姿をあらわした。村では、有線放送で、 「羆が村に近づいてきている」  と、繰返し警告した。  秋の羆は、冬ごもりにそなえて驚くほどの旺盛な食欲をしめす。羆が山からさがってきているということは、村の食物をねらっていることを意味する。羆は、種類をえらばずどのようなものでも口にする。西瓜、トウキビ、ブドウ、林檎をはじめ、米、麦など耕作地に栽培されているものは、かれらのねがってもない食欲の対象となる。また、牛、馬、犬、緬羊等の家畜もねらう。羆の一撃は、牛馬の首もくだき、まず内臓を食い、死骸をひいて山中に没する。  人間も、飢えた羆にとっては一種の食物でしかない。羆が人間をおそい、その内臓を肉を食いちらす事件は、例年のように頻発している。そして、いったんその味を知った羆は、人間を専門にねらうようになるともいう。生きた人間だけではない。北海道に土葬の習慣があったころ、羆が墓地の死骸を掘りおこして食ったという例は、枚挙にいとまがない。悪食である羆は、飢えれば手当り次第に口に入れる。  殊にその年は、春から夏にかけてその地一帯に異常な冷気がおそい、降霜すらみられて植物の生育は大きくさまたげられた。山の果実類も実をむすばず、それらを常食としている羆に激しい飢餓がおそっていることは容易に想像されていた。それだけに羆が村に近づいてきているという情報は、住民たちをおびえさせた。かれらは、不安そうに裏山を見上げ、耕地で働く者たちも絶えずあたりに眼をくばっていた。  しかし、そうした恐怖と同時に、村の者たちには羆が姿を現わしたらそれを自分たちの手でしとめたいという気持もひそんでいた。熊の毛皮と熊の胆《い》と称される胆嚢は、かなりの金額で業者に買いとられるし、美味な肉も得られる。それに羆を斃《たお》すことは、村にとって一つの誇りともなる。そうした複雑な感情をいだいて羆の動きに大きな関心をいだいていたが、警告は的中し、羆は昨日の正午すぎ村のはずれに姿をあらわした。しかも、羆と住民との接触は村にとって最悪の結果をもたらした。  屈強な若い男が甥である少年と草刈りに行ったが、草刈り場に、いつの間にかおりてきていた羆がひそんでいた。少年の話によると、かれは身近に荒々しい息の吐かれる音をきいたという。そして、次の瞬間、薄茶色の体毛におおわれた羆が、雑草をふみわけて突き進んでくるのをみた。  青年が、大鎌をふりあげた。羆と青年の体が、接近した。鎌の刃が、ひらめいた。と同時に、ゴキッという音がした。羆の掌が青年の頭部をうち、その衝撃で首の骨が折れたのだ。  少年は、逃げた。泣き叫んでいるつもりだったが、声は出なかった。かれが人家にとびこんだ時、初めてその口から絶叫に似た声がふき出た。  村は、騒然となった。火の見櫓の鐘が乱打され、人々は家々の戸を閉ざした。村道には鍬や鎌をもった男たちが集ってきた。  村には、猟銃が二挺あった。持主は、農業のかたわら近くの山々を歩いて猟をしている男たちだった。  村の者たちは、その二人の男を先に立てて恐るおそる草刈り場に近づいた。羆はいなかったが、その代りにあたり一面に飛び散った血をみた。  草の繁みが荒々しくふみしだかれ、それは川の流れのように太い筋となって裏山の方へむかっている。……羆が、斃した青年の体をひきずっていったことはあきらかだった。  猟銃を手にした二人の男は、羆を追うことをためらった。かれらは他の町村のハンターたちと組んで羆をしとめたことはあるが、二人きりで羆を追うほどの技倆はなく、まして人間を食った羆と対決する勇気には欠けていた。  男たちの顔は、恐怖で青ざめていた。かれらは、その場から引返すと、近くの町の警察官派出所へ連絡をとった。  警察からの依頼をうけて近くの町や村からハンターが招集され、かれらは続々と村へのりこんできた。かれらの手には、黒光りしたライフルがにぎられていた。  村の猟師二名と十名ほどのハンターが、裏山へ足をふみ入れた。一〇〇メートルほどのぼったくぼみで、かれらは悲惨な光景を眼にした。羆は、青年の内臓を食ったらしく乾いた血があたりの土を染めていた。そのかたわらに肉のこびりついた人間の片足の骨がころがっていた。羆は、遺体をいったん穴に埋め、その地点でひと眠りしたあとが残っていた。そして、再び遺体を掘り起し、さらに山の上方へ曳きずりながらのぼっていったようだった。  猟師やハンターたちは、弾丸を装填した銃を手に身を寄せ合って山路の方向に進み、おびえきった表情で裏山に視線を向けた。山肌には鬱蒼と葉をしげらせ蔓のからみついた樹木が立ちならび、密度の濃い熊笹がその下部をおおっている。羆のひそむのには好都合な条件がそろっていて、そのまま森の中に足をふみいれれば不意に羆におそわれる危険は大きかった。  かれらは、足をとめ話し合った末、その場から引き返した。それ以上羆を追うことは、死を意味することを知ったのだ。 「結論として、あんたに来てもらう以外にないということになったのだ。羆にやられた青年は、母一人子一人の境遇で、半月後には嫁をむかえることになっていた。青年は親孝行であったので母親は嘆いてな。片足の骨だけじゃ、仏もうかばれないというのだ」  警官は、抑揚のとぼしい声で言った。  朝次郎は、胸苦しさを感じた。人の依頼で山にはいるのは億劫で、性に合わなかった。気がむいた折に、ぶらりと猟に出るのがかれの習慣だった。  初めて山にはいったのは、十八歳の春だった。マタギとして名の知られた父に連れられ雪どけの山中を歩いたのだが、それから七年間、かれは父から熊撃ちとしての技術を十分にしこまれた。  終戦後、父も病歿し、その時から朝次郎は一人で山歩きをするようになった。いったん山に入れば、少くとも十日間は山ですごす。野宿に野宿をかさね、山をひとりで歩く孤独な生活がかれの体にしみついたが、わずらわしい人づき合いを避けるようになったのも、結婚がおくれたのも、孤独の気安さを知っていたからであった。かれは小柄で、痩せていた。かれは長い間独身だったが、四十二歳の折に伯父のすすめで妻を得た。妻は二十七歳だった。  警官の乞いを入れれば、青年を殺されたことは村全体の問題だとして村の猟師やハンターたちが、自分の後についてくるにちがいなかった。かれは、他人とくんで猟をする気にはなれなかった。  羆は、鋭敏な神経をもっている野獣だ。それをしとめるのには、羆以上の神経をはたらかせて対決しなければならない。猟師やハンターたちが、自分と同一の慎重さをもっているとはどうしても思えない。かれらの不用意な動きは容易に羆に察知され、遠く逃げるかおそってくるかいずれにしても仕留める上で不利な条件をつくってしまう。また、十分に想像されることだが、羆に対する恐怖から、かれらは危険だと判断すると仲間を捨てて逃げ出すはずだった。  しかし……と、かれは思った。羆は、一人の若い男の肉体を食い、遺体をひきずってさらに山の奥へと没した。羆の傲慢さが、かれに激しい憤りをあたえた。男の遺族にのこされたものが片方の足の骨だけでは、たしかに仏がうかばれないと思うだろう。かれは、遺族の悲しみを痛々しく感じた。  かれは、無言で腰を上げ、部屋の壁ぎわに立てかけられた長い袋を手にとり、中から銃をひきぬいた。二十八番口径の村田銃だった。銃床には、かれの手で羆を浮彫りにした像が彫られていた。  かれは、ライフルがきらいだった。高価で重いことも一因だったが、殊にその新式銃が自動的に連射できる機能をもっていることに反撥を感じていた。村田銃は単発式の旧式銃で、銃から発射される弾丸がただ一発しかない……ということが、かれにはひどく気に入っていた。長い間の経験で、村田銃に弾丸を目まぐるしいほどの速さで装填する技術にも習熟している。が、かれにとって初発こそすべてであり、そこに熊撃ちとしての自分の全存在がかけられているのだと思っていた。  かれは、百頭の羆をしとめた名マタギといわれているが、そうした表現を好まなかった。たしかに百頭程度の羆はたおしたが、それは父や知人とともに組んだ時をふくめたもので、自分のしとめた羆の頭数は、あくまでもただ一人で羆と対決したときの頭数にかぎられると思っていた。自分が単独でしとめた羆の頭数は八十頭ほどにすぎず、第一、かれは百頭射ちなどとよばれることを好まなかった。  弾丸は丸玉で、買いもとめてきた雷管と火薬を使い、鉛をとかして自分で作る。  かれは、細身の銃を点検したあと、使い残されていた弾丸を袋の中からとり出した。そして、五発の丸玉を小さな袋に入れると、銃の傍に置いた。  妻が、衣服をそろえリュックサックに少量の米と味噌を入れてくれた。かれは、黙ったままズボンをはくと、リュックサックをかつぎ銃を手に店を出た。     二  路上には、ライトバンがとまっていた。運転席に坐っているのは、村の男らしかった。朝次郎は、後部の座席に警官と乗りこんだ。  車が走り出した。  朝次郎のもみ上げから顎にかけて、白髪まじりの剛い毛がのびている。かれは、五十歳半ばに達していたが、その体は筋肉質でかたくひきしまっていた。  砂埃をあげて、車は疾走した。夏の観光シーズンにはリュックサックを背に歩く若い男や女の姿がみえるが、秋も深まった路上に人の姿はない。道の両側に立ちならぶ白樺の樹幹が、冬の寒気をまつように純白の木肌をみせているだけだった。  二十分ほどして車が短い石橋を渡ると、点々と家がみえはじめた。車は古びた小さな役場の建物の前でとまった。  朝次郎は、警官の後から役場のガラス戸の中に足をふみ入れた。椅子に坐って茶をのんでいた男たちが、一斉にこちらに顔をむけた。  朝次郎は、気が重くなった。新式のライフル二連銃をもった男たちが、うさんくさそうな眼を向けている。この男たちと山へ入らねばならぬのかと思うと憂鬱な気分になり、このまま自分の村へ帰りたくなった。  紺の背広をつけた頭髪のほとんどない六十歳ぐらいの男が立ち上がって、近づいてきた。「あんたが熊撃ちの名人かね。私は、この村の村長だ。人がひとり殺されている。応援に多くの方々がきてくれているが、あんたも長年の経験を生かして羆を仕留めることに力を貸してもらいたい」  村長の顔には、悲痛な表情がにじみ出ていた。  朝次郎は頭をさげ、すすめられるままに椅子に腰をおろした。かれは、自分のまわりに坐るハンターたちが自分に反感をもっているらしいことを痛いように感じとっていた。  猟をする者には、それぞれに自尊心があるのは当然だった。かれらも何頭か羆をしとめたことがあるのだろうし、羆を斃す自信もあるのだろう。朝次郎も初めのころ羆をしとめることは、意外にたやすいものだと思ったものだ。それが自信ともなったのだが、やがて熊撃ちのむずかしさを強く感じるようになった。かれの四十年近い歳月の経験からして、羆をしとめる折りの条件は千差万別で同一のものはない。機にのぞんでそれに応ずる勘と決断力をもたなければ、羆をたおすことはできない。  羆を一カ月も追って射とめることができなかったことも数知れない。それは自分の内部に、いつの間にか焦りが生じて、羆との神経のたたかいに破れたからだ。  ガラス戸がひらいて、村の猟師が二人連れ立って入ってきた。さすがにかれらの顔には、朝次郎に対する畏敬の表情が浮び出ていた。そして、頭をさげると、 「どうにもこわくて追えないんだ。朝さん、ひとつ頼むよ」  と、言った。  猟師が、説明をはじめた。青年が襲われた日の前夜、降雨があったので、現場に急いだ猟師たちはしめった土にはっきりと刻まれている足跡を眼にした。逃げ帰った少年の話では百貫以上もある雄羆だというが、気が動転した者の眼には大きくみえるのが常で、それほどの大羆ではないのだろうと想像していた。が、現実に見た足跡の大きさから推定して、百貫以上はなくとも六、七十貫の体重はある羆らしいと判断したという。  朝次郎は、黙ってきいていたが、 「ともかく山へ入ってみよう」  と言って、傍の銃をとりあげた。  小柄な朝次郎の後から二人の猟師がつづき、ハンターたちも腰をあげた。猟師が、冷えきった空気の中を先に立って歩き出した。  村道に、人影は絶えている。住民たちはかたく戸をとざしていて、家の窓から不安そうな顔がのぞいているのがみえた。  畠の中の道をぬけて、猟師が草むらに近づいた。 「ここだ」  猟師が立ちどまると、草むらの中を指さした。  草がふみしだかれていて、黒ずんだ血があたりに散っている。土の上には、遺族でもさしたのか燃えつきた線香の灰がこぼれていた。  猟師が、草を分けて歩き出し、山の傾斜にかかった。  朝次郎は、歩きながら袋から弾丸を一個つまみ出すと、銃に装填し、あたりに視線をくばった。  一行の足どりは、次第に慎重になった。羆は人間の体を食いつくしたあと、再び食物をもとめて村の近くにもどってくるかも知れない。羆は、その鋭敏な感覚で、朝次郎たちの接近に気づき、身をひそめて突然おそってくるかも知れなかった。  樹々の葉は、紅葉しはじめていた。それらは、さらに寒気が増すとともに一斉に枯れ、やがて山は深い雪にとざされる。  一行は、時々立ちどまってあたりの物音に耳をすまし、再び歩き出すと、さらに傾斜をのぼっていった。  猟師が、足をとめて前方を指さした。朝次郎は、こわばった猟師の表情からその地点が片足の骨のころがっていた場所であると察した。  かれは、足早にその個所に近づいた。猟師たちの話によると、羆は青年の足を食ったあとその場でひと眠りしたらしいという。用心深い羆は一度身を憩わせた場所には再び近づかない。そうした習性を知っている朝次郎は、ためらうことなくその場へ歩み寄っていった。  むろん骨は遺族にひきとられたらしく眼にはできなかったが、羆が人体を食い散らした跡は歴然とのこされていた。熊笹にひからびた血がこびりつき、注意してみると小さな肉片も散っている。羆は遺体を曳きずっていったらしく、熊笹が荒々しくたおれ、傾斜の上方につづいている。  かれは、片膝をついて土に印された羆の足跡に指先をふれてみた。昨日の午後のことなので足跡はかわいていたが、遺体を曳いていったことを考えると、それほど遠くまでいっているとは思えなかった。  かれは、古びた腕時計をみた。針は、午前十時をさしている。日没までにはかなりの時間がある。出来るだけ追ってみよう……、とかれは決意した。  ふり返ると、猟師やハンターたちのこわばった顔がみえた。 「おれは、追う。お前らはどうする」  朝次郎は、低い声で言った。  かれらの顔に、申し合わせたように一瞬動揺の色がうかんだ。が、朝次郎の鋭い眼を見つめていたかれらの顔にきびしい表情がうかび、ついてゆく意志をしめすように足をふみ出した。  かれは、顔をしかめた。出来れば、一人で羆を追いたかった。十年ほど前だったら、かれは、 「お前らがいては邪魔だ。ここから帰ってくれ。もしついてくるというのなら、おれは山を下りる」  と、素気なく言い放っただろう。  しかし、かれは、年齢的な寛容さもそなえるようになっていた。たしかにかれらは荷厄介な存在だが、目的の羆は猟の対象ではない。青年を殺した羆は、村をはじめ人間社会にかかわる公的な意味をもつ。その羆を射とめることは、社会人の義務であり、個人的な好みをさしはさむべき性格のものではないのだろう。  朝次郎は、銃の中に弾丸が装填されていることを再びたしかめると、傾斜の前方を見上げた。そして、土の上にわずかに印された羆の足跡をたどりながら、一歩一歩傾斜をのぼりはじめた。  樹木の密度が急に濃くなり、熊笹が足もとにからみついた。土はしめっていて、足跡は、比較的はっきりと刻まれている。かれは、あたりの気配に耳をすませながら足跡を追いつづけた。  一時間近く歩いた頃、前方が明るくなった。樹葉の繁みがきれ、足跡は、その方向にむかってつづいている。  朝次郎は、足をとめた。羆は、日当りのよい南傾斜を好む。前方の森のきれたあたりは、羆にとって恰好の憩い場所のように思えた。強大な体力をもつ羆も、人の体をひきずって歩かねばならなかっただけにかなり疲労もしていたろうし、ここらあたりで休息をとったのではないかと思った。  朝次郎は、背後で足をとめた猟師やハンターたちの荒い呼吸をきいた。山歩きになれぬかれらには、一時間の森の中の歩行はかなり苦痛であったにちがいない。  朝次郎は、慎重な足どりで歩き出した。そして、森のきれ目を出た時、かれの眼は、或る一点に据えられた。熊笹におおわれた斜面が、なだらかに右手の方へとくだっている。そのくぼみに布切れのようなものがみえた。  かれは、銃をにぎりしめると、その地点に近づいた。悲惨な光景が、そこにひろがっていた。顔の肉をむしりとられた頭部がころがり、骨が露出している。胴体も一方の足も骨だけになっていて、血にそまった衣服がボロ布のように寄りかたまっていた。ハンターの嘔吐する音が背後で起った。  朝次郎は、あたりを見まわした。遺体から三メートルほどへだたった場所の熊笹がかなりひろく倒れている。近づいた朝次郎は、そこにおびただしい薄茶色の毛が落ちているのを見出した。羆は、満腹感をあじわってこの場で寝ころんだらしい。そして、再び起き上がってさらに山の奥の方へと歩いていっている。  そこから新たにはじまっている足跡を眼にした朝次郎の顔に、異様な輝きがやどった。かれは、片膝をつくと、くぼんだ足跡を指先でふれてみた。  足跡は、しめっていた。熊笹の折れ目にも、樹液がわずかに残っている。それは、三十分以内に刻みつけられた足跡にちがいなかった。おそらく羆は、夜をその場ですごし、日がのぼってからも快い眠りをむさぼっていたのだろう。  猟師たちが近づいてきて、朝次郎の足もとに眼をこらした。 「近いのか」  猟師の一人が、たずねた。  朝次郎はうなずき、猟師やハンターたちを見まわした。 「いいか、羆は、普通の羆ではない。人間の肉の味を知った羆だ。おれたちの姿をみたら襲ってくるだろう。これからはおれの言う通りにしろ。守れない者は、ここから帰ってくれ」  朝次郎の押し殺したような声に、かれらは黙ったままうなずいた。朝次郎は、決して声を立てぬこと、一団となって行動すること、朝次郎が発砲する前に発砲してはならぬことなどを声を低めて言った。  かれらの顔には、血の色が失せ、朝次郎の注意をうなずきながらきいていた。  朝次郎は、身をかがめて歩き出し、ハンターたちもその後にしたがった。足跡は、斜面をななめに横切り、再び紅葉した疎林の中へふみこんでいた。  朝次郎は、足をとめると、あたりの地形をうかがった。待伏せしてしとめよう、とかれは思った。その方法は、父から教わった独特のもので、羆が近いことを知った父は、地形をさぐりその進む方向を推測し、先廻りをして待ちかまえていると、必ず羆は姿をあらわすのだ。  疎林は、五〇メートルほどつづくと小さな谷におちこんでいて、前方に熊笹におおわれた高みがもり上がっていた。かれの眼は、その高みの南になだらかに起伏している斜面に据えられた。羆は、その斜面をくだってゆくにちがいなかった。  朝次郎は、不意に足を早めて歩き出した。身をかがめながら小走りに進むその動きには、山に棲む動物のような素早さがあった。斜面をおりると、沢があった。かれは、沢におり水の流れをふんで進むと、熊笹におおわれた斜面の根にたどりついた。  かれは、灌木のしげみに身を伏せた。かれの呼吸は乱れていなかったが、ハンターたちは荒く肩をあえがせている。  朝次郎は、風向をさぐった。羆の嗅覚はするどく、人間の体臭をかなりの距離からでもとらえる。幸い朝次郎たちの身をひそめた場所は、斜面の上方からは風下にあたっていて、待ち伏せするのに好適な位置にあった。  朝次郎は、背負ったリュックサックからメッキのはげた双眼鏡をとり出して、眼を押しつけた。斜面には風が渡っていた、熊笹の葉がそよいでいる。後方の山肌には、燃えるように鮮かな紅葉がひろがっていた。  かれは、待った。羆は、必ず斜面をくだってくる。かれの眼は、双眼鏡に押しつけられていた。  ふと、レンズの中に薄茶色いものがかすかにとらえられた。来た……と、かれは胸の中でつぶやいた。薄茶色のものは、羆の頭部にちがいなかった。 「羆だっ」  傍で、ふるえをおびた声がした。  朝次郎は、ハンターの顔をふりかえり鋭い眼を向けた。ハンターが、おびえたように口をつぐんだ。  朝次郎は、再び双眼鏡に眼をおしあてた。羆は、うごかない。早くもなにか異常な気配をかぎとったのか、頭を突き出してあたりをうかがっている。距離は、一二〇メートルほどあった。  かれは、息をころした。羆の周囲の熊笹が風にゆらいで、そのざわめきが斜面をくだってきた。  突然、羆が全身をあらわした。六、七十貫はあると思われる大きな羆だった。羆は、錯覚をおかしているようだった。斜面の上方に人の近づく気配を感じとったらしく、朝次郎たちの身をひそませている方向に駈け下りはじめた。  朝次郎は、双眼鏡をおくと、素早く銃を胸元まで引き上げた。走ってくる羆の背が波うち、足音が朝次郎の体にもひびいてきた。かれの好ましい射程距離は五〇メートル以内だが、出来れば三〇メートル以内に引きつけたかった。かれは、ただ一発の弾丸で仕留めたかった。  羆の走る速度がたかまった。羆との距離が、五〇メートルほどにせまった。  その時、かれの耳もとで突然耳を聾するような発砲音が起った。血が逆流するような激しい憤りが全身を熱くした。ハンターの一人が、恐怖にたえきれず発砲したにちがいなかった。  羆が、のめるように倒れた。が、それも一瞬のことで、立ち上がるとすさまじい勢いでこちらに走りはじめた。  落着かねばならぬ、とかれは自分に言いきかせた。斜面を駈けくだる羆の足音が、地響を立てて近づいてくる。荒々しい息の音が迫り、逞しい顔が視野いっぱいにひろがった。かれは、至近距離で射つ時いつもそうであるように、胸部に照準をさだめて引金をひいた。射撃音がとどろき、硝煙が鼻孔をかすめた。  かれの眼に、羆が数歩あるき、そして崩れるように倒れるのがみえた。  かれは、素早く第二弾を銃に装填すると、一五、六メートルはなれた場所に倒れている羆を見つめた。体毛が、徐々に萎えていた。それは、すでに羆の生命が絶たれていることをしめしていた。かれは、銃を擬して立ち上がると羆の体に近づいた。鼻孔から血が流れ出ていた。弾丸は、肺臓を射ぬいていた。  かれは、羆の体を見下した。大きな雄羆だったが、体はひどく痩せていた。骨格が浮き出ていて、体毛はひからびている。激しい飢えになやまされていた羆であることはあきらかだった。ふと、かれの胸に、羆に対する物悲しさに似た感情が湧いた。食料不足にあえいだ羆は、危険をおかして不本意にも村の近くにおりてきたのだろう。  かれは、ふり返った。ハンターや猟師たちが、おびえたように朝次郎の方を見つめている。沈鬱な気分におそわれた。羆を射とめても、殺された青年の生命はもどらない。  朝次郎は、銃を肩にかけた。ハンターの発砲音がよみがえった。いまいましかった。これだから他人と組んで羆を追うのはいやなのだ、とかれは胸の中で呟いた。そして、身をすくめたハンターたちの傍をすぎると、足を早めて沢の方へおりていった。 [#改ページ]   第二話 安彦     一  事故の起こったのは、昭和四十四年八月二十八日の午後であった。  北海道千歳市の水明郷には王子製紙株式会社千歳第一発電所があり、所員の住宅が三十軒ほど軒をつらねている。近くには、澄みきった水をたたえた千歳川が流れ、住宅の裏手五〇メートルほどの所には林がある。静かな風光の美しい土地であった。  その住宅の一つから、午後三時半ごろ白いゴム長靴をはいた和服姿の老婆が、ビニール袋を手に出てくると、家の裏手にひろがる林のふちの雑草の繁みへむかった。そこには、野苺がつぶらな実をむすんでいる。老婆は、孫に苺のジャムを作ってやるために野苺つみに出掛けたのだ。  老婆は七十歳だったが、健康な体をしていた。その首にまいたタオルが、草叢の中に没してゆくのを数名の人が眼にしていた。  日が、傾きはじめた。  老婆の家族は、彼女の帰りがおそいことをいぶかしむようになった。苺つみの場所は家の裏手だし、ビニール袋に入れるだけの苺をつむ程度なら一時間もたたぬうちに帰ってくるはずだった。家族たちは、老婆が近所の人と長い立ち話をしているのか、それとも野草でもつんでいるのかとも思った。  時計の針が、午後六時をまわった。西日はまだ残っていた。  ようやく家族は、老婆の帰宅がおそいことに不安を感じ、林のふちに行ってみた。が、そこに姿はなく、近所の人々にも伝えて老婆を探しはじめた。心臓麻痺でも起こして倒れているのではないか、それとも側溝にでも落ちたのではないかと危ぶんだ。  しかし、老婆の姿はどこにも見当たらない。日が没し、夜の闇がひろがりはじめた。騒ぎは次第に大きくなって、所員住宅の人々が老婆の家に集まってきた。  老婆の身になにかが起きたことは確実と判断され警察に電話で連絡をとり、午後七時半には佐藤巡査が自転車に乗ってやってきた。  その頃になると、老婆が羆におそわれたのではないかと憶測する者も出てきた。北海道には、羆が多い。千歳市もその例外ではなく、人家の近くにも姿をあらわす。第一発電所所員住宅の近くを走る自動車道路を、朝や夕方に羆が横切る姿はしばしば目撃されているし、老婆が草叢にひそんでいた羆におそわれたのではないかという想像も、決して根拠のないことではなかった。  佐藤巡査を先頭に、人々は懐中電灯をかざして老婆を探しまわった。そのうちに、懐中電灯の光に、草の上におちていたタオルが浮び上った。それを家族にみせると、苺とりに出掛けた折に老婆が首にまいていたタオルであることがあきらかになった。が、タオルには血のあともなくひきむしられた形跡もないので、人々はわずかながらも安堵した。  しかし、その付近をしらべていた佐藤巡査は、不吉なものを眼にして顔色を変えた。草叢の背後には、樹木の密生した林があるが、その雑草の上をなにか林の方へ引きずった跡があった。  佐藤巡査は、所員住宅の男たちとその跡をたどって林にふみこんでいった。林の中には、夜の濃い闇がひろがり、懐中電灯が数条、その中に放たれた。かれらは周囲に注意をはらいながら進んでいったが、やがて木の根近くに布が落ちているのを発見した。それは、老婆のはいていた腰巻で、近くに白いゴム長靴の片方がころがっていた。  佐藤巡査は、腰巻を手にとってみた。そこには、血のかたまりが数カ所附着し、小さな肉片もこびりついていた。  最も恐れていた事故が発生したことを、かれらは知った。老婆が羆におそわれたことは、ほぼまちがいないと推定され、羆が、林の奥にひそんでいる公算も大きかった。もしもこのまま林の奥に進んでゆけば、羆が佐藤巡査たちを襲うおそれが多分にあった。  佐藤巡査は、 「もう中に入るな」  と、男たちを制止すると、腰巻と長靴を回収して急いで林の外に出た。     二  老婆が羆におそわれたらしいという報告は、佐藤巡査からただちに千歳市警察署へ連絡された。  警察署では、それを市役所につたえ、市役所から千歳市ヒグマ駆除対策本部に緊急出動が要請された。  羆は、北海道に約四千頭いるといわれているが、実数は不明であった。増えているという者もいるし、横這い状態だという者もいるが、減少しているという声はきかれない。羆は、日本で唯一の狂暴な野獣であり、家畜を襲うだけではなく、人の姿をみとめるとその強大な力で人間を倒し肉を食い散らす。悲惨な人身事故は毎年のように起こり、羆の被害をふせぐために羆駆除機関が各地に設けられている。千歳市ヒグマ駆除対策本部もその一つで、老巧な猟師やハンターによって構成されていた。  部員の一人である多《おお》安彦の家に電話があったのは、午後九時すぎであった。多は、銃砲店を経営していて、閉店後でもあったので受話器を置くとすぐに愛用のライフル銃を手に、車を運転して店を出た。夜道を急いで対策本部の集合場所に行くと、すでに本部長の中松憲が姿をみせていて、その後、続々とハンターたちが集まってきた。  午後九時三十分、ハンターの村井茂信の運転する車に乗って、中松本部長、多安彦、多田澄夫が先行することになった。車は、千歳川沿いの舗装路を疾走し、支笏湖に近い王子製紙第一発電所の所員住宅に到着した。  車から降りた多は、住宅地が異様な空気につつまれているのを感じた。深い静寂がひろがっているが、為体《えたい》の知れぬ悲痛な気配が感じられる。露地にはパトカーと黒塗りの官用車が、灯を消してとまっていた。  多たちは、住宅の人に案内されて所員住宅の集会所に行った。すでに住宅地は、所用の男以外は外出することを禁止する命令が出されていて、どの家の戸もかたく閉ざされていた。  集会所の近くでは、住宅地の男たちが懐中電灯を手に警察署の次長や防犯係長たちをとりかこむように立っていた。男たちの眼は血走り、係官たちに一刻も早く行動を開始して欲しい、と興奮した声で要求していた。  次長が、多たちのやってくる姿を認めて、佐藤巡査が林の中で発見した遺留品をしめした。また、老婆のその日の行動を説明して、状況をどのように判断すべきかを問うた。  多たちは、中松本部長を中心に話し合った。その結果、老婆が羆におそわれて惨殺されたことはほぼ確実で、翌朝羆狩りをすべきであると進言した。  次長は諒承したが、住宅地の男たちは納得しなかった。 「なぜ死んでいると断定できるのか? もし生きていたらどうする。生きているとしたら、一刻も早くお婆さんを救け出すべきではないか。今すぐ攻撃してくれ。明日の朝攻撃するなどと悠長なことを言っていて、その間にお婆さんが死んだらどうなる? 警察の重大な責任問題だ」  男たちは、激昂した。  次長をはじめ警察関係者は、困惑したように口をつぐんでいた。猟銃の取扱いの規則では、日没以後日の出までの夜間の発砲がかたく禁じられている。それは、暗夜に発射された弾丸が人間を死傷させることを防ぐための処置で、警察としては法にそむくことは出来なかった。しかし、人命にかかわることなので攻撃を実施することも特例として認められるはずで、多たちは、住宅地の男たちの要求にもとづいて即時決行か否かについて協議した。そのうちに他のヒグマ駆除対策本部員も続々と到着して協議に加わり、結局「明朝に決行」と、決定した。その理由は、その夜が月も星もない全くの闇夜で、羆を発見するのが至難であるからだった。  住宅街の男たちは不満そうだったが、専門のハンターたちの慎重な話し合いの末の決定なので、それ以上反撥する者はいなかった。  多たちは、集会所に入ったが、翌朝の攻撃にそなえてハンターの下山光雄、志田数馬、塚原正嘉、多田澄夫の四名に休息をとらせるため就寝することを命じた。そして、本部長の中松憲を中心に多安彦、小田元一、中村益栄の三部員と住宅地に住む地元ハンター直山知夫の五名で、攻撃方法を打ち合わせた。  その席上、中松本部長は、多安彦に、 「あなたが指揮をとってくれ」  と、言った。本部長が指揮をとるべき立場にあるのに、中松がそのような依頼をしたのは、多が単なる部員ではなかったからである。  多は、異色の経歴をもつ男だった。生まれは奈良で、国学院大学を卒業後神官になるはずだったが、昭和二十六年に自衛隊の前身である警察予備隊に入隊した。その後、階級は昇進し、犬の飼育に才能があることが注目され、警備犬訓練所初代所長に就任したりして、昭和四十一年千歳基地の第二航空団を定年で退団した。最後の階級は三佐で、北海道に魅力を感じたかれはそのまま千歳市に住みついた。若い頃から猟を好み、銃砲に豊かな知識をもっていることを活用して市内に銃砲店を開いた。かれは射撃にも長じていて、北海道に来てから他のハンターや猟師たちと協力して自らの銃で羆を二頭射ち斃《たお》し、北海道猟友会千歳支部の総務理事にも任じられていた。中松が多を指揮者に指名したのは、そうした自衛隊三佐としての指揮能力を買ったためであった。  多は、中松の依頼を承諾して攻撃方法の検討に入った。  まず多は、小田、中村の二人に羆が林の中にひそんでいる可能性があるかどうかをたずねた。六十二歳の小田は、その席に加わった者の中で最も豊かな経験をもつすぐれたアイヌの熊撃ち猟師で、その銃によって射殺された羆の頭数は五十頭を越え、この附近を羆を求めて歩いたことも多く、土地に対する知識も深かった。また中村は、四十代のベテランハンターで、夕張地方で多くの羆を打ち斃している。それに、人を食い殺した羆を射とめた経験もあって、小野とともに最も頼りになる存在だった。  二人の答は、完全に一致していた。羆は、確実に林の中にひそんでいる。人肉を食った羆は、人間の体を半分ほど食うと土中に埋めて、数日間その体をたのしんで近くからはなれない習性があるという。攻撃地域は、それによって林の中と限定された。  ついで多は、林とその周辺の地形の確認に手をつけた。かれは、地図をひらき、詳細な地形を知るため大きな黒板を用意させた。そして、所長と地元ハンターである直山をはじめ住宅地の男たちに、 「みんなで記憶にある地形を出来るかぎり詳細に書いて欲しい」  と、頼んだ。  多は、長い時間をかけてかれらに地図を書かせた。行動開始は明朝であるし、別に急ぐことはなかった。黒板の上に、地形が徐々に形をとりはじめた。林は、住宅地の北側に太い帯のように伸びている。その奥は崖になっていて、下方に千歳川の沢がある。所長たちは、真剣な表情で林の端から崖までの距離を記入したり、主な樹木を白墨で書きこんだりした。多たちは、黙ってそれをながめていた。  やがて、地図が出来上がった。かれらが黒板に白墨を動かしはじめてから、すでに一時間三十分が経過していた。多たちは、黒板の前に集まった。  最初に問題になったのは、林の奥にある千歳川に面した崖を羆が降りられるかどうかであった。  その点については、崖の状態をよく知っているアイヌの猟師の小田と、地元ハンターの直山の意見が尊重された。それによると、崖はかなり切り立っていて羆が降りることは不可能であるという。ただ林の左手、つまり千歳川上流方向一〇〇メートルの所に沢へ降りられる場所がある。また下流方向二〇〇メートルほどの地点にも、林から降りられる個所のあることがあきらかになった。その結果、羆がもし逃げるとしたらその二個所以外にはないと断定された。 「小田さん、あなたの勘では、羆の逃げる方向は二個所のうちどちらだと思うかね。上流一〇〇メートルの所か、下流二〇〇メートルの所か?」  多は、口数の少ない小田にたずねた。  小田は、頭をかしげ、無表情な顔つきで、 「下流に行く方が多いだろう」  と、つぶやくように言った。 「すると上流へ行くことも考えられるのかね」  多はかさねてきいた。 「そうだ」 「上流と下流と、羆の逃げる確率は何割ずつぐらいかね」  小田は、また頭をかしげたが、 「上流が四割、下流が六割だな」  と、淡々とした口調で答えた。  多は、他の者たちと人員の配置地点について協議した。羆は、腰巻の落ちていた地点から奥の方にいると考えられる。その個所を中心に、部員たちは半円形をえがいて林の中に散開する。その人員は、正面から進むものと、上流と下流に待機する隊に三分させることになった。  多は、アイヌの猟師である小田とベテランハンターの中村を中心として攻撃すべきであると思った。羆の逃げ道として予想される下流二〇〇メートルの地点には小田を置き、上流一〇〇メートルの場所には、国体に射撃選手として参加した遠射に巧みな下山光雄と、地元ハンターの直山知夫を抑えとして配置することにした。  次に、正面から攻撃する隊員の人選にとりかかった。危険の多い部署であるので、ベテランハンターの中村益栄をそれにあて、補助として多自身が同行することになった。また、中村、多の進む左右の方向に、佐藤巡査をはじめ遠藤弘一郎、多田澄夫、中松憲、塚原正嘉、志田数馬のそれぞれハンターたちを散開させて進むことに決定した。  打ち合わせは、すべて終わった。翌日の日の出時刻は、午前四時五十八分であったので、午前四時に集会所に集合することになり、かれらは短い睡眠をとるため住宅地の中へ散っていった。     三  鼓膜に錐をもみこまれるような音で、多は眼をさました。目ざまし時計が鳴っている。時計の針は、三時四十分をさしていた。  多は、起き上がると身仕度をし顔を洗った。ガラス窓には、濃い夜の闇がはりついていた。  かれは、顔をタオルで拭いながら必ず羆は射殺しなければならぬ、と思った。もしも逃がしてしまえば、夏山なので追うことはむずかしい。小田や中村は、羆が林にひそんでいると断言した。人員もそろっているし、攻撃地域もかぎられているので射殺する条件はそろっている。  しかし、かれの胸には指揮者としての大きな不安がひそんでいた。人員は、羆のいると予想される個所を中心に半円形をえがいて配置されるが、もしも羆が逃げ出せば、その姿を追って発砲することも起こる。弾丸が羆に命中すればよいが、それた弾丸が半円形に配された部員を殺傷する危険があった。  多の胸の中には、重苦しいものが淀んでいた。しかし、羆を確実に斃すためには、そのような配置以外には考えられなかった。  戸外に出た多は、集会所に急いだ。住宅地には灯のもれている家が多く、人々がすでに起きていることが知れた。  集会所には、住宅地の家々に分宿していた部員が、警察官や住宅地の男たちにかこまれて待っていた。かれらの顔には、一様に緊迫した表情が浮び、入口から入ってきた多に血走った眼を向けた。  午前四時、部員は一人残らず集合を終えた。  多は、部員を集めると黒板にえがかれた地図を前に、あらためて説明した。佐藤巡査が腰巻を見つけた個所、林の状態、主な樹木の位置等を部員たちの頭にきざみつけさせることにつとめた。  また多は、中松本部長をまじえて千歳市警察署次長と危害防止についての打合わせもおこなった。羆をねらって発射された弾丸が人間を殺傷することも十分に予測される。その危険を出来るだけ防ぐためには、一般人の接近を絶対に避けねばならなかった。その結果、攻撃をあくまでヒグマ駆除対策本部員の猟師、ハンターのみでおこない、警察関係者も参加させぬことを決定した。ただ佐藤巡査はハンターの協会に所属し銃も携行しているので、唯一の例外として協力してもらうことになった。 「警察の人も住宅地の人たちも、ついてきては困ります。この線でとどまってもらいます」  多は、白墨をにぎると、林に面した住宅地の北端に太い線をひいた。 「羆がとび出してくるかも知れませんし、もしも雌羆なら仔を連れている可能性が大きい。当歳羆ならよいが二歳以上の羆ですと、きわめて危険です。われわれは慎重に攻撃しますが、成功させるためにも必ずこの線から出ないように……」  多は、再び白墨ですでに描かれた停止線の上を強くなぞった。  警察関係者も住宅地の人々も、無言でうなずいた。  多は、部員たちを集めると、それぞれ持っている時計の針を正確に合わせた。そして、黒板の前に立つと、  午前五時〇五分 [#1字下げ]行動開始  〃 五時三五分 [#1字下げ]現場に配置完了  〃 五時四〇分 [#1字下げ]攻撃  と、白墨で書いた。  行動開始から配置完了までに三十分間を予定したのは、上流、下流方向にむかう部員のためにとられた処置であった。上流一〇〇メートルの地点には下山、直山が、下流二〇〇メートルの個所には小田と多田がむかうが、羆にさとられぬように遠く迂回して目的の位置にまで達しなければならない。その所用時間を、余裕をもって三十分間としたのである。  部員は、それぞれ愛用している銃を点検し、弾丸を弾帯にはさみこんだ。準備は、完了した。  午前五時〇五分、多は、 「行動開始」  と、部員につたえた。  かれらは、無言のまま集会所を出た。下山と直山は、左手の上流方向に、小田と多田は、右手の下流方向に足を早めてゆく。あたりは、薄暗い。霧も湧いてはいなかった。  多たちの後からは、警察官にまじって多くの人々がひっそりとついてくる。前方に、黒黒と林の輪廓がうかび上がった。  かれらがさらに進んでゆくと、右手の家の前に立っていた老人が杖をついて近づいてきた。そして、多たちにむかって、 「仇をうって下さい。仇をうって下さい」  と、ふるえ声で言った。羆に襲われた老婆の兄だった。  ハンターたちは、黙ったままうなずいた。  住宅地の北端に達すると、多たちは足をとめた。五〇メートルほど前方に林がある。その中に羆がいるかと思うと、多は全身がかたく緊張するのを意識した。 「風はない」  傍に立つ中村益栄が、低い声で言った。  多は、中村が風のことを口にした意味をすぐ理解した。羆の嗅覚はするどく、風にのってくる匂いに人の気配をかぎとると、急に警戒の色を濃くする。そのため羆に接近する時は、常に風下からむかう必要があるが、無風であればどの方向からも接近できる。その上、さらに有利なことは、林の奥に深い沢があることだった。その谷からは風が立ちのぼり林の中に流れこんでいるはずだった。つまりその谷風で、多たちの散開する位置が、羆のひそんでいると思われる個所から常に風下に当っているのだ。  中松本部長と塚原が左手の上流方向に、遠藤と佐藤巡査と多田が右手の下流方向に歩き、所定の位置で立ちどまった。  多は、中村とその中央に並んで立った。夜空が青ずみはじめ、あたりが明るくなってきた。  多は、ライフル銃に弾丸を装填し、時計を凝視した。時計の針が、午前五時三十五分をさした。と同時に、散開していた部員が静かな足どりで林の中に入ってゆくのがみえた。多も中村と肩をならべて足をふみ出した。  ふと背後をふりむくと、停止線に遺族らしい男女をかこむように男たちがむらがり、それをおさえるように警官が拳銃を手に一定の間隔を置いてこちらにむかって立っているのが見えた。羆が手負いになって飛び出してきた時、警官たちは一般の人々を守るために射殺しようとしているのだ。  林の中には、まだ朝の明るみも達してはいなかった。多と中村は、林のはずれまで行くと足をとめた。最初の攻撃をするのは、正面から進む多と中村だった。多は、時計の針を見つめた。秒針が、ふるえるようにまわってゆく。時計の針が、午前五時四十分をさした。  二人は、足を前へふみ出した。林の中には、熊笹がひろがっている。不意に、かれらの足がとまった。佐藤巡査の報告通り、なにかをひきずった跡が林の奥の方へつづいている。多は、胸の鼓動が音を立ててたかまるのを意識しながら、中村とともに前進した。  前方五、六メートルほどの所にブドウ蔓があった。多は、身をかがめてその下をくぐった。その時、かれの眼に四〇メートルほど前方にブドウ蔓の繁みが映った。蔓はひどく入りくんでいるらしく、一〇メートル以上もある高さからスダレのように垂れ、その部分だけが闇につつまれている。  多は、羆がその中にひそんでいるのではないかと思った。そして、前へ歩きかけた時、二メートルほどへだてた位置にいた中村が、 「多さん」  と、低い押し殺したような声をかけてきた。  ぎくりとして中村に顔を向けると、かれは銃をかまえていて、銃口で或る方向をさししめしている。それは、ブドウ蔓の繁みの左手だった。  多は、眼をその方向にむけた。黒いものがみえる。かれは、それを中村が羆だと判断していることに気づいた。かれは、中村にならって銃をかまえ、引金に指をかけた。  その瞬間、中村の銃からすさまじい発砲音が起こった。多の銃口も、火をふいた。多は、突然黒い大きな岩石のようなものが二メートルほどはね上がるのを見た。そして、それが地響きをあげて落下すると、すさまじい呻り声がふき上がるのをきいた。  中村の第二弾が発射された。それにつづいて発砲音が、右手方向から四発起こった。それは、落下した羆の姿を認めた遠藤弘一郎たちの射出した弾丸の音だった。  硝煙が、あたりにたちこめた。羆の呻き声はやみ、黒い体は動かなくなった。しかし、完全に死んだかどうかはわからない。死んだと思って近づいた時、余力をふりしぼって襲ってくる羆もいる。多は、中村と羆の斃れている方向を見つめた。 「コッコ(仔羆)がいるかもわからんぞ」  中村が、言った。  その時、背後に人の近づく気配がした。多は、前方に視線を据えながら困ったな、と思った。羆はまだ生きているかも知れないし、仔羆が襲ってくるかもわからない。素人が近づくことは危険が多く、行動の邪魔になる。かれは、前方から眼をはなすこともできず苛立っていると、中村が四、五歩前進した。多は、中村のその動きに安心してふりむくと、すぐ後に警察の防犯係長と老婆の家族や住宅地の男たちの姿がみえた。 「まだ危い。さがって、さがって」  多は、眼をいからせて言った。  人々が、足をとめた。 「大丈夫だ。前進しよう」  中村が、声をかけてきた。  多は、銃を擬して林の中を進んだ。羆は、掌をひらいていた。羆の生命は完全に絶たれていた。かれは、羆がひそんでいたくぼみを見つめた。そこには羆の敷いていたらしい老婆の破れた着物があり、老婆が確実に殺されたことをしめしていた。 「コッコだ。下流の方でなき声がしたぞ」  という声が林の中でした。中松本部長の声だった。  集まってきたハンターたちは、再び銃を擬して散開し下流方向にむかったが、仔羆の姿をとらえることはできなかった。  多は、林の中にむかって、 「集合」  と、叫んだ。そして、羆を射ち斃した個所にもどると、人垣の中で激しい泣き声が起こっていた。  多の眼に熱いものがふき上げた。老婆の娘らしい四十歳ぐらいの女が、棒切れで羆を泣きながらたたいている。警官が女をおさえて、羆の写真をとっている。多は、女に思う存分たたかせてやればよいのに、と思った。  多は、下流方向二〇〇メートルの地点でじっと待っているはずの猟師の小田元一を思い起こし、多田澄夫に呼んできてくれるように頼んだ。  その時、後方で、 「死体があったぞ」  という声がした。  多たちは、声の方向に急いだ。それは崖に近い大きな樹木の下で、家族がかがみこんで落葉からのぞいた足を泣き叫びながらつかんでいた。老婆の死体は、仰向きになり落葉でおおわれていた。両乳房から腋の下と腹部、両腿部が食いつくされ、頭に一撃をくったらしく頭蓋骨が割れて脳が露出していた。  むごたらしい死体の姿に、近くにいた老人が毛布をかぶせた。タンカが持ちこまれて、老婆の死体は毛布につつまれて運び出されていった。  中村益栄の指揮で、羆が住宅地の男たちの手によって林の外へ曳き出された。顔の長い雌羆で、七十貫ほどの重量があった。  ヒグマ駆除対策本部員は、集会所に集まった。時刻は、午前七時近くになっていた。住宅地からは酒と朝食が出されたが、酒を飲む者はなく、香奠をつつむと遺族の家に赴いて一同頭を垂れて焼香した。かれらは、羆をトラックに載せ、千歳市役所に向かった。  羆を射殺したという報告はつたえられていて、多たちのくるのを報道記者たちが待ちかまえていた。羆は、そこから屠殺場へ送られ,小田元一の指示にしたがって解体された。胃がひらかれた。その中に、人体の表皮が消化されずに残っていた。それは両掌にのる程度の量で、どのように処理すべきかが話し合われた。その結果、死体の一部であることはあきらかなので遺族に渡すことに決定した。  表皮は水でよく洗い、ビニール袋に入れ、多が袋を持って車で住宅地にむかった。かれは、それを遺族に直接渡す気にはなれず、発電所所長のもとに赴いてビニール袋をさし出した。所長は、呆然とビニール袋の中にある表皮を見つめていたが、気をとり直したように深い感謝の意をしめして受けとった。  多は、車のドアをあけて運転台に入った。ビニール袋をさげた所長が、事務室を出て住宅地の方に歩いてゆく。多は、堪えがたい気持になって、車のエンジンを始動させると舗装路の方へ車を急がせた。 [#改ページ]   第三話 与三吉     一  加須屋与三吉は、立ちどまって前方を見つめた。視線の方向に、雪におおわれたなだらかな傾斜がある。南面した傾斜の雪は、陽光にまばゆく輝いている。  与三吉は、傾斜の七合目あたりに眼を向けた。あのあたりだ……と、かれは思った。  かれは、穴熊とり専門の猟師だった。かれは、毎年雪どけのはじまらぬ三月下旬に山へ入る。長い年月をかけて羆の冬ごもりする穴をつぎつぎと見つけ、今では二十個の穴を知っていた。二十という数は、穴熊とりの猟師にとって異例の数だった。羆は、秋も去り雪がちらつく頃になると穴にこもる。その穴は、早春までの安息を約束するものでなければならぬので、猟師にさとられぬような場所にひそかに設けられる。  山に入るようになってから初めの数年は、与三吉も羆の穴を一個も見出すことはできなかった。自分には才能がないのかと絶望的になり、徒労に終る穴探しを放棄しようと何度思ったか知れない。しかし、その後、穴を一個発見し中にひそむ雌羆を射ち斃《たお》してから、穴は少しずつ増していった。  羆の穴は、北風の吹きつけぬ南斜面にうがたれている。なぜかわからぬが、穴の近くには、かなり大きな樹木が一本立っていることが多い。しかし、そうした地理的条件だけでそこに羆のひそむ穴があるとはかぎらない。羆は、驚くほど賢い動物で、人間の頭脳をうわまわる智恵をはたらかせて自らの棲家を猟師の目からかくそうとする。かれらは、冬ごもりの穴を発見されることが射殺されることに直結することを知っている。  猟師にとって、そのような羆の穴を発見することは至難の術だった。十八歳の春、穴熊とりの名手である父について山に入ってからすでに二十年、その間に自分のものとした穴が二十個であることから考えると、年に一個の割でしか発見できなかったことになる。穴は、与三吉のかけがえのない財産であり、他人はむろん父にもさとられぬようにつとめていた。 「穴が二十一個にふえる」  かれは、前方の斜面に視線をそそぎながらつぶやいた。  与三吉は、夏から秋にかけて茸とりの収入で生計をおぎなう。穴熊とりの猟師が穴の所在を秘密にするように、茸採取人も茸の群生地を他人に気づかれぬようにするが、山歩きに精通しているかれは採取に適した数多くの場所を知っていた。  昨年の八月末、かれは、茸とりに山へ入って歩きまわるうちに灌木の林をぬけて熊笹のひろがる斜面をくだろうとした時、前面の南斜面に薄茶色い動くものを見出した。かれは、それが羆であることにすぐに気づき、身をかくしながら接近して眼をこらすと、八十貫程度の雄らしい羆だった。羆は、傍に立つ樹木の枝ぶりを見上げたりして歩きまわっていたが、或る個所でとまると、前足で土を掘り起しはじめた。  穴を掘っている……と、かれは思った。羆の穴は、どのような勘をはたらかすのかきまって土の柔い個所にうがたれる。穴の中に入りこんで仔細にしらべたことは数知れないが、岩や石はなく樹木の根もみられない。羆は穴を掘るのに容易な場所をえらび、しかもその個所の土は温かみをおびている。  二十年前から山歩きをしている与三吉も、実際に羆が穴を掘る姿をみるのは初めてだった。  かれは、胸をはずませた。羆は、その穴の中で冬ごもりをする。そして来春、雪がとけるころまでは休息をとるはずだし、その頃を見はからって穴を襲えば羆を射ち斃すことができる。  かれは、腰を据えると熊笹の繁みから顔をのぞかせて羆の動きを凝視した。羆は、一心に穴をほっている。その速度ははやく、二十分ほどすると羆の体は穴の中にかくれ、さらに十分ほどたった頃には穴が完全にうがたれたらしく、羆が穴から出てごろりと横になった。与三吉は、穴の周囲の地形や立木の状態を入念に観察した。来春やってきた時に穴のある場所をまちがえぬよう頭にきざみつけた。  緑におおわれていたその南斜面も、雪の輝きがひろがっている。  かれは、肩にかけた村田銃をおろした。いつものことだが、連れているアイヌ犬のムクの体毛が逆立っていた。そして、かれが歩き出すと、ムクは忍び足でついてくる。  熊笹の中を押しわけるように進んだ与三吉は、手製の弾丸を銃にこめた。穴にひそむ羆を、かれは四十一頭射ち斃してきた。父の口から伝授された方法で、一頭の仕損じもなく仕留めてきた。銃は、それらの羆をつぎつぎと倒した愛用の銃だった。  風向きは、絶好だった。風は、南斜面を下ってきている。与三吉の進む熊笹の原は、穴のあると推定される個所から風下にあたっていた。  かれは、斜面をひそかに登りはじめた。雪は深く、腰近くまで没する。が、春も近いため雪に水分のふくまれているのが感じられた。  左前方に立つ樹木の枝ぶりには見おぼえがあった。葉は落ちているが、その樹木のかたわらに羆の掘っていた穴があるはずだった。  羆を仕留めるのには、上方からねらうのが定石だった。羆に致命傷をあたえることができても、ころがり落ちてくる羆で大怪我をすることがあるからであった。かれは、ムクとともに大きく迂回するように斜面を上ると、樹木に近づき、樹木に手をかけて身を乗り出した。  思った通りの場所に、穴があった。かれは、銃をにぎりしめた。昨年の夏、眼にした羆の逞しい姿がよみがえった。雄は、母熊から乳ばなれすると常に単独で行動する。土を掘っていた羆は、十分に成長した羆であったことから考えて、雄であることは疑う余地がなかった。  その羆が、七、八メートル近くの穴の中にいると思うと、胸の動悸がたかまった。穴ごもりしている羆の胆嚢は干しあげて売薬業者に売るが、雪どけ前の羆のものは干し上げた折の歩留りがいい。穴から出て一度でも水を飲めば、胆嚢は、たちまち価格が半減する。与三吉が取引きしている業者は、一匁三千円の価格で買いとってくれる。おそらく穴の中にひそむ羆の胆嚢は二十匁はあるだろうし、毛皮も高価で売れるはずだった。  しかし、穴を見つめているかれの眼にいぶかしそうな光がうかびはじめた。かれの視線は、雪中にひらいた穴のふちに向けられた。穴の口をとりかこむ雪が、ひどくきれいだった。雪は一週間ほど前から降らず、新雪でおおわれているはずはない。  羆は、穴の中で冬ごもりしているとは言っても絶えず穴の中で動いている。羆の穴は、あぐらをかいて坐っても天井まで三〇センチほどの余裕があり、底には熊笹が厚く敷かれている。羆はその中でかなり動きまわるらしく、穴の中でしとめた羆の体毛は、普通一五、六センチも長いのに二センチほどにすりきれている。穴の中には埃が積り、羆は冬の間も時折り穴から外に出るらしく、穴の周囲は中から排出される塵埃で黒くよごれているのが常だ。  与三吉は、顔色を変えた。今までの長い経験からすると、その穴に羆はいない。  かれは、ムクの気配をうかがった。ムクも穴の方を見つめているが、その体には羆と対決する殺気は感じとれなかった。  かれは、銃を擬しながら穴に近づき、おそるおそる穴の中をうかがってみた。穴の内部は、薄暗い。雪の眩ゆさになれた眼にその闇は濃くみえたが、かれは穴がただの穴であることを知った。ムクが、穴に顔を突き入れた。それは、穴の内部がなんの危険もない証拠であった。  与三吉は、雪をかきくずし、大きくひらいた入口から穴に身を入れた。必ず敷かれているはずの熊笹もなく、羆の匂いもかぎとれない。かれは、苦笑して穴の外に出ると雪の上に腰を下した。  かれは、ふと妻のフミの実父からきいた話を思い出した。その義父も穴熊とりの猟師だが、或る早春に穴を見廻っていると、当歳羆をつれた母羆が散策でもするように穴から出るのを遠くから見た。注意してみると、穴の中にはもう一頭の当歳羆がいるようであった。義父は、母羆が残された仔羆のためにも必ず穴へもどってくるだろうと予想し、母羆をしとめると同時に当歳羆を二頭とらえようと思った。  義父は、遠方から穴を見張った。日がのぼり、日が没した。残された仔羆は、乳をほしがって穴から頭を出してなき、その声は悲しげに雪山に流れた。  義父は、四日間母羆が穴にもどるのを待ったが予期に反して羆は姿をあらわさなかった。仔羆のなき声は弱まり、これ以上放置しておくと飢え死にすることは確実となったので、義父は穴に近づき仔羆を背負って山を下った。 「羆は賢いものだ」  義父は、その時感嘆したように言った。  母羆は、義父が望見しているのを鋭い感覚で気づき、自分と連れ出した仔羆の身の安全をはかるために、穴へ近づこうとはしなかったのだろうという。  昨年の夏、羆がせっかく穴を掘りながらそれを冬ごもりの場所としなかったのは、自分が見守っていたことに気づいたとしか解釈できなかった。  ムクは、傍に坐って雪をなめ、かれの顔を明るい眼で見上げていた。  与三吉は、ムクに気恥しさを感じた。     二  かれは、その夜、山を一つ越えた沢に近いくぼみで野宿した。  山歩きは十日間の予定で、一日四合の割合で四升の米と少量の塩を携行していた。米は家を出る前によくといで天日でかわかしてある。山中ですぐに炊飯するための配慮だった。  かれは、日が没する前に寝ぐらの準備をした。携帯用の小さなシャベルで雪を地表に達するまで掘り、うがたれた立て穴の底に柴をならべ、焚火でこがした松葉を敷いた。かれは、野宿の道具として犬の毛皮一枚しかもっていなかった。その毛皮は敷布団代りに松葉の上にひろげられ、穴の上端には葉のついた松の小枝がかぶせられた。それで寒気は十分しのげるし、山中で風邪をひくこともない。  夕闇が落ちてきて、焚火が赤々と周囲を明るませた。かれは、米を入れた飯盒の中に雪をつめこんで火にかざした。雪が水になってやがて湯気が立ち昇り、甘い米の煮える匂いがしてきた。  穴熊とりはいつまでたってもむずかしいものだ、とかれはあらためて思った。  かれの父は、熊撃ちは自分一代かぎりだと口癖のように言い、かれを羆とりにも連れて行ってはくれなかった。与三吉が十八歳の折、父が母に明朝羆とりに行くと話しているのを耳にした。父が、銃を手に家を出ていったのは、翌朝まだ暗い午前三時頃だった。  与三吉は、いつか父と同じように穴ごもりの羆をとる名手になりたいと願うようになっていた。そして、午前六時頃家を出ると、父がたどっていったと思える山路を必死になって追った。  父の姿を見出したのは、八時間もたった午後二時頃だった。 「なぜついて来た」  父は、眼をいからすと与三吉の頬を強くたたいた。 「羆をとるのを見たかったから……」  かれは、頬をおさえながら答えた。 「帰れ、きさまには羆とりはやらせない」  父は、怒声をあげた。  しかし、あたりには濃いガスが湧いてきていて、山歩きになれない与三吉の下山は危険だった。父は、不機嫌そうに眉をしかめていたが、黙ったまま先に立って歩き出した。父の足は早い。藪をくぐり、沢を渡り、倒れた枯木を身軽にとびこえてゆく。与三吉は、父の後を追うことにすっかり疲れてしまった。  二時間ほど歩いた頃、父は足をとめると樹木のかげに坐って煙管をとり出した。その時、連れていたクロというアイヌ犬が鼻を雪にすりつけてあたりを嗅ぎまわりはじめた。 「羆がいるのかも知れん」  父は、そう言うと弾丸をこめた村田銃を薄笑いしながら与三吉にさし出した。父は、与三吉を一度でこりさせようとしていることはあきらかだった。  銃を手にした与三吉は、クロの後について灌木の中を進んだ。クロが、吠えた。かれは、ふちの黒くよごれた直径六〇センチほどの穴が、熊笹におおわれた斜面にひらいているのを見出した。与三吉は、父がしばしば他の猟師と穴ごもりの羆を仕留める方法について話しているのを耳にしていた。かれは、その話を思い出して、二メートルほどの長さの枝を見つけると、それを穴の中に突き入れてみた。  薄暗い穴の中に動くものがあって、突然動物の大きな顔があらわれた。 「羆だ」  かれは、叫んだ。  父が、走ってきた。が、そのまま足をとめると穴を見つめたまま身動きもしなかった。羆は穴の中にもぐって出てこない。与三吉は、棒を再び穴の中に突き入れた。すると、黒くひからびた羆の鼻がのぞいたが、すぐにひっこんでしまった。  与三吉の顔は蒼白になり、全身に冷汗が流れた。父は、黙って立っている。 「そんなことをしていては、だめだ」  父は、ようやく口をひらくと銃をとり上げ、棒を穴の中に入れた。  羆の顔がのぞいた。その瞬間、穴の入口に擬していた村田銃から弾丸の発射されるすさまじい音が起った。羆の前額部の毛が一個所ちぢれたようにへこんだ。弾丸は、頭部に射ちこまれた。  羆は、呻き声もあげず身じろぎもしなかった。  近寄ろうとした与三吉に、 「近づくな」  父の鋭い声がした。かれは、ぎくりとして足をとめた。 「掌がひらいているか」  父が、たずねた。  かれの眼に、だらりと雪の上に投げ出された羆の掌がみえた。かれがうなずくと、父は、注意深く銃を擬しながら羆に近づいた。  仕留めた羆は、四十貫程度の雄羆だった。そして、一夜を山中ですごした後、羆を二人がかりでひいて村に下した。 「もう二度と山へ来たらいかん」  父は、念を押すように言った。  その後、徴兵されたかれは、二十三歳の折に除隊になって帰郷したが、二十四歳の年に中国大陸に出征した。各地を転戦し、三年後に帰郷すると、再び山へ入るようになった。  父は、いつの間にか諦めたらしく与三吉の入山に反対しなかった。それから父は父、子は子の独自の生活がはじまり、かれらはそれぞれ確保している穴をまわって歩いては羆を射とめた。  米飯にわずかな塩をふりかけて夕食をとると、与三吉は、ムクを抱いて雪にうがたれた穴の中に入り、穴の天井を松葉ですき間なくおおった。北海道の早春は、夜になるときびしい寒気におそわれる。が、穴の中は温く、かれは身をとりかこむほの白い雪の壁をながめまわした。  かれには、登山者が山中でなぜ遭難死するのか理解できなかった。登山者は、寝袋をもったり衣服や食糧をふんだんにかついで山にのぼる。靴も立派だし、携帯ラジオや地図や磁石まで用意している。それにくらべて与三吉をはじめ熊撃ちの猟師たちは、防寒用具といえば犬の毛皮一枚だけで、靴もゴム長靴をはき食糧も最小限の量しかもっていない。それでいて猟師の遭難などは耳にしたこともない。  ただ一つ与三吉は、父から厳重にいわれて守っていることがあった。それは、山中で天候の変化にあった時に決して動いてはならぬということであった。 「山というものは、天候が良い時に歩くことのできる場所だ。もしも天候が悪化したら、山は人間の歩ける場所ではなくなる。さからわずに動かぬようにするのだ」  と、父は言った。  与三吉は、父の言葉を守って、ガスが湧いたりすると決して動かない。山が荒れると、二日でも三日でも天候の恢復をまって野宿する。それが、遭難をふせぐ道なのかも知れぬ、とかれは思った。     三  翌朝早く、かれは眼をさました。  身を起して松葉の間から顔を突き出すと、夜明けの明るみに浮び上った灌木の林に朝霧がよどんでいるのがみえた。かれは、犬を外に出して穴から雪の上に這い上ると、火をおこし飯盒をかけた。  昨年は、春に三頭、夏に一頭と計四頭の羆を仕留めた。それは、かれの十四年間にわたる猟師生活の中でも最も収穫の多い年であった。  かれは、毎年自分の発見し確保した羆の穴を丹念に見てまわる。三歳以下の羆は、前年の冬すごした穴にもどることが多いが、四歳以上の羆は警戒心が強く決してもどってはこない。また三歳以下の羆は、他の羆が冬をすごした穴に入ることもある。つまり一つの穴を確保しておけば、異った羆がもぐりこんでいるのを発見することがある。  そうした事情から、かれは、十四年の間に一つの穴で連続的に計四頭の羆をしとめた経験ももっていた。猟師たちは自分の所有している羆の穴を、他人にさとられまいと神経をはたらかせている。アイヌの猟師は、 「同じ穴に羆は二度と入らぬ」  といったりしているが、それは穴を自分一人のために確保しておきたいための口実だった。  与三吉にしても、羆を仕留めた場所は決して他人に教えない。他の猟師たちがそうであるように、羆を仕留めて村に持ち帰った時も、羆のひそんでいた穴からはるか遠くはなれた場所の地名を口にするのが常だった。  最も困惑をおぼえるのは、六十貫以上の羆を仕留めた時だった。腕力のつよい与三吉にも、それを山から下して村にはこぶ力はない。そのような場合には、やむなく山歩きになれない素人を頼みわざと山を迂回したり沢歩きをしたりして、穴のある地点までの筋道をさとらせぬように努めていた。  ただ一度与三吉は、あきらかに他の猟師の保有している穴を発見して中にひそむ羆を仕留めたことがある。他の猟師の所有する穴である証拠には、近くに立っている樹木の幹に小刀で刻みつけたらしい三角の印が残されていた。その時ほどかれは快感をおぼえたことはなかった。他人がひそかにかくしもっていた穴を発見し、しかも羆を射とめたことに小気味よさを感じたのだ。  かれは、身仕度をととのえると歩き出した。ムクが、前後してついてくる。かれは、ムクの頭部に眼を落した。耳が失われ、頭部に鋭い傷痕が二筋残っている。かれにとって、その傷痕を眼にすることは苦痛だった。  一昨年の四月下旬、かれはとけかけた雪の上に印された羆の足跡を発見した。三時間ほど追った時、かれは明るい雪の斜面に一頭の雄羆を発見した。  羆は、人間の子供がするような遊びを楽しんでいた。高い所へ上っていっては、尻をつけて雪の斜面をすべり下り、また斜面を上るとすべり下りる。そうしたことを飽きることなくくり返していた。  かれは、無心に遊ぶ羆に風下の方向から忍び寄ると、五〇メートルほどの距離で引金をひいた。羆はのめるように倒れて動かなくなった。その時、かれは不覚にも犬の綱をはなしていた。ムクは、走った。羆に近づいた瞬間、羆は余力をふりしぼって掌を横になぎはらった。ムクは、頭部をたたかれ、耳を引き裂かれた。  かれは、血に染ったムクを背負って山を下った。気丈な犬でうめくこともせず、治療も効を奏して健康を恢復した。かれは、ムクを充分に静養させた後、今年から再び使い出した。  一昨年までと異って、ムクの動きは慎重になっているようだった。それは、ムクが羆の恐ろしさを知った結果なのだろうが、十歳の犬とは思えぬほど闘志は却って激しくなっているようにも感じられた。  かれは、穴から穴へと山中を進んだが、どの穴にも羆はひそんでいなかった。確実と思われた初めの穴に羆がいなかったことが、ケチのつきはじめなのか、とも思った。それに、昨年四頭も羆をとったので、その反動から収穫に恵まれぬのかも知れぬと思った。  かれは、獲物のとれないことに苛立ちはじめた。今日こそは……と思って穴を見てまわるが、羆の姿はない。このような場合には、思いきって諦めるべきだということをかれは知っていた。あせりの出た時に、羆のとれたためしはなかった。  しかし、かれは、意地になっていた。かれの胸には、父へのはげしい競争心がわだかまっていた。かれは、家を出る時に昨年の夏に羆が穴を掘るのを見かけた話をし、その穴で必ず羆をしとめてみせる、と父に言った。  しかし、父は、 「どうかな」  と、頭をかしげただけだった。  父は、穴を少なくとも四十個ぐらいは確保しているようだった。与三吉が自分の穴の所在を教えぬように、父も穴の位置をかれに打ち明けない。それが、たとえ父子の間柄であっても、穴熊とり専門の猟師の不文律だった。  父は、山に入ると一頭か二頭は確実に羆を仕留めてくる。与三吉のように年に四頭も羆を射殺したことはないが、無収穫の年はなかった。父は、ゆったりと羆をとることを楽しんでいるようにみえる。年はすでに六十歳を越しているが、山歩きに必要な体力は若い時と変らぬようだった。  与三吉は、いつまでたっても父の技倆を越えられぬ自分が腹立たしかった。かれは、意地になっていた。羆をとらずに帰宅する気にはなれなかった。必ず父を見返さずにはおかぬと思った。  与三吉は、羆を求めて山を歩きつづけた。米も少くなったが一回の食べる分量を減らして野宿を重ねた。十日の予定が、二十日近くになった。かれは、札幌郊外の山に足をふみ入れてから遂に倶知安の近くまで歩いていった。途中、雪崩の危険に身をさらされながら峯を越え、谷を渡った。が、羆の姿も足跡すらも発見できなかった。  倶知安の町におりたかれは、半病人に近かった。足は今にも崩折れそうで、体中が熱をおびていた。かれには、再び歩いて帰る気力は失われていた。意識がかすみ、銃を肩にしていることすらわずらわしく思えた。かれは、自分が正常な気持を失っていることに気づいていた。  与三吉は、列車に乗って帰ろうと思った。かれにとって、そのようなことは初めてだった。父という厚い壁にいどんでそれを突き破れぬ自分が情無かった。懐中の金は乏しく、犬を列車で送る金はなかった。  かれは、ムクの首輪につけた綱をといた。犬の存在がわずらわしかった。どこへでもゆけ、と思った。犬を捨てようとしている自分になんの感慨もいだかなかった。投げやりな気分だった。  かれは、倶知安の駅に行くと札幌までの切符を買い、フォームに入った。列車がすべりこんできた。かれは、座席にくずれるように腰を下した。  かすんだ眼に、線路沿いの柵の外に立つムクの姿が見えた。  犬を置いてきたことは妻や娘を悲しませたが、父はなにも言わなかった。  与三吉は、ぼんやりと日を過した。父は、与三吉のもどる三日前に六十貫近い雌羆を射とめ、当歳羆をとらえて帰宅していた。かれは、父に敗北したことを身にしみて感じた。  ムクを置いてきた後悔が、胸にきざした。しかし、激しい疲労で歩いて帰ることはできなかったし、ムクを置いてきたこともやむを得なかったのだ、と自分に言いきかせた。  家には、ムクと同系の若い犬が三匹いた。ムクは年老いて、あと一、二年もたてば猟には使えなくなる。かれは、猟師のほとんどがそうであるように、犬を可愛がると同時に非情な気持もいだいていた。  かれは、ムクのことを忘れるため、若い犬をつれて訓練を目的に近くの山へ入って歩きまわったりしていた。  ムクを倶知安で放してから十日目、家族の不意の叫び声に炉端からはなれたかれは、思いがけず庭先にムクが立っているのを眼にした。  かれは、ムクの姿に胸をつまらせた。ムクは、痩せこけていた。体は泥まみれになり、足先には血が黒くこびりついていた。ムクは、食う物もなく再び山の中をたどって非情な主人のもとにもどってきたのだ。  かれは、ムクを抱きしめた。ムクは、弱々しくかれの頬をなめていた。  ムクは、急に老いた。体には肉がつき足の傷もいえたが、動作がひどくだるそうだった。走ることなど全くなくなって、腹をつけてうつらうつらと眠っていることが多かった。  翌年の春、与三吉は、若い犬を使って羆を二頭仕留めた。その年、父は珍しく風邪をひいて寝込み、山には入らなかった。  さらに一年がたち、ムクは十三歳になった。その誕生日がすぎて十日ほどした頃、ムクは家を出ていった。山に入る沢のふちで寝ころんでいるムクを見つけた娘が、抱いて家にもどってきた。与三吉は、ムクに死期が近づいていることを知った。ムクは、人の眼にふれぬ場所で死を迎えようとしているにちがいなかった。  かれの予想通り翌日の夜、ムクは綱をかみきって家から姿を消し、再びもどってはこなかった。かれは、ムクが山中に死場所を求めて入ったのだと思った。  それから一カ月後、父は、 「おれの穴を教えてやる」  と、言った。  与三吉は、深い皺のきざまれた父の顔を見つめた。 「穴は五十三ある。この十年間ふえもへりもしなかった。ひと夏では廻りきれぬから、今年と来年に一緒に山に入ろう」  父は、炉の火をいじりながらつぶやいた。  与三吉は、父の所有する穴の数に驚いた。それを父が教えるという意味は、いったいなんのためなのだろう。かれは、父の年齢を思った。父は、山歩きが大儀になったのだろうか。穴を教えることは、熊撃ちをやめることにつながる。かれは、淋しさを感じた。父が、自分の老いをさとったことが悲しかった。  しかし、かれの胸には身のふるえるような歓喜が湧いていた。十八歳の春に山に入ってから四十一歳の現在まで二十四個の穴しか発見していないのに、労せずして五十三個という想像を絶した多くの穴が自分の所有となることは、願ってもない好運に思えた。 「本当に教えてくれるのかね」  与三吉は、父の顔を燃えるような眼でのぞきこんだ。  父は、うなずいた。 「いつ、山へ入ろうか?」  かれの声はうわずっていた。  父は淋しげな横顔を見せて、赤々と起った炭火を見つめていた。  数日後、与三吉は、父とともに山中に入った。父の歩き方は、以前かれの知っていたものとは異りひどく鈍くなっていた。それでも山の傾斜をのぼり、沢を渡って、足をとめると或る個所をさし示す。そこには、羆の穴が開いていた。  二人は野宿をかさね、歩きつづけた。与三吉は、父が一人でこのように多くの穴を発見するため歩きまわっていたことに胸を熱くした。穴を教えてもらうことは嬉しかったが、足の弱った父がこれ以上歩くことに堪えがたいものを感じた。もうこの位でいいよ、と何度か言いかけたが、穴熊とりの猟師としての父の矜持を傷つけるような気がして口をつぐんでいた。  その年の夏、かれは父から二十一の穴を教えてもらった。父は歩いている時も野宿している時もほとんど口をきかず、穴をさし示す時にはその眼に淋しげな光がうかんだ。  与三吉も、ムクのことを思った。ムクは猟犬としての体力が完全に失われたことを知って姿を消したが、父も老いを意識し、自分の生命と同じように貴重なものとしていたすべての穴を自分に伝えようとしている。与三吉は、父に対する猟師としての敵意がうすれ、父親に対する感情が強く湧くのを感じていた。  その年の暮れ、父は風邪をひき、かなりの発熱におそわれ食欲を失った。与三吉は、不吉なものを感じ、父を無理に車に乗せると一時間ほどの距離にある市の病院に連れていった。  入院した父は、翌日の夕方、あっけなく息をひきとった。病名は、老人性急性肺炎であった。 [#改ページ]   第四話 菊次郎     一  昭和十七年十一月十九日——  北海道千歳市蘭越三区にある村は、沈鬱な空気につつまれていた。  その村は、アイヌの住むコタンで、近くに千歳川が流れている。川には、鱒、赤腹、ヤマベ、イワナ、ウグイなどが群れ、山に入ればさまざまな山菜やキノコ類が採れる。村は、自然の産物に恵まれていた。  太平洋戦争が一年近く前に勃発し、アメリカ軍の総反攻の気配も日増しに濃くなってきていた。村からは多くの若者が戦場へ出征していったが、千歳市郊外の地であるその村に戦争の危機感は淡かった。かれらは、生活必需品が不足しはじめていることを口にしながらも平穏な日々を送っていた。が、そうした空気は、前日の夕方から無残にもやぶられた。十九歳になる村の娘が、行方不明になったのだ。  その日朝早く、村に住む娘が三人、自転車に乗って村を出て行った。行先は、一四キロはなれた真町の奥の御料林だった。彼女たちは、そこに生えている万年草の採取に出掛けたのだが、万年草は生花に使われるため業者が高く買ってくれるのだ。  目的の場所について娘たちは、自転車を道ばたに置くと、別れ別れになって林の中へ入って行った。寒気がきびしく、その中を娘たちは万年草をもとめて思い思いに歩きまわった。数日中には雪がくるかも知れないし、そうなれば万年草も採れないので、彼女たちは熱心に採取をつづけた。  夕方近くになって、彼女たちは自転車を置いた場所にもどった。が、十九歳の娘だけが姿をあらわさない。他の二人は、広大な御料林の奥に声をかけたが応答がなく、そのうちにあたりが暗くなりはじめたので、自転車にのって村の方向にむかった。彼女たちは、娘が近くの道を走るトラックかなにかで先に帰ったのかも知れないと思っていた。が、村に入ると娘がまだもどっていないことを知って顔色を変えた。  その夜おそくなっても娘が帰ってこないので、村は騒然となった。御料林の中をよく知っている娘が、方向を見失って迷うとは考えられなかった。村の者たちは、不吉な予感におそわれた。羆は、御料林のあたりにも出没する。冬ごもりを前に羆の食欲がとみに旺盛になる季節であるだけに、娘が羆におそわれたのではないかと危惧された。  消防団員が集められて、翌朝早くから捜索が開始された。羆の現われる可能性もあるので、かれらは猟師を先頭に御料林の中に入っていったが娘の姿は見つからない。その日も翌日も、むなしく日が没した。  娘が行方不明になってから四日目の十一月二十三日、捜索隊は、遂に楢の木の根元にころがる無残な娘の遺体を発見した。衣服はひきむしられ、隆起していた乳房も荒々しく食いちぎられている。さらに腹部や腿や臀部など、肉のついている部分はすべて食い荒され、頭部にも鋭い歯の跡があり地下足袋もかじられていた。  村の者たちは、そのむごたらしさに慄然とし、匆々に毛布で遺体をつつむと村へ運んだ。  遺体をとりかこんだ村人たちは、羆の残忍さに恐怖を感じると同時に、激しい憎悪を感じた。悲嘆にくれる遺族のためにも、娘を惨殺した羆を射ち斃そうとかれらは口々に言い合った。  満腹感を味わっている羆が、御料林の中にいる可能性は充分にあった。羆は、娘を殺した場所の近くで休息をとっているにちがいなかった。 「山狩りをしよう」  と、だれからともなく言った。  興奮した消防団員たちは、鳶口《とびぐち》や鉄棒を手に出発の準備にとりかかった。が、村の猟師は必死になってそれを制止した。 「素人では逆に羆におそわれて食い殺される。それに経験の乏しい者が多くゆくと、羆は逃げてしまう。林の中にいることはほぼまちがいないが、もしも逃げられてしまったら再び射ち斃すことはむずかしい」 「それならどうすればよいというのだ」  消防団員たちは、眼をいからせた。 「菊次郎を待つのだ。山から降りてくる菊次郎を待つのだ」  猟師は、さとすようにくり返し言った。     二  村の人々は、待った。  小山田菊次郎は、近隣にもその名を知られた村随一の熊撃ちの名手だった。かれは数年前、猟師をやめて帝室林野局の木材伐採人になり、山頭《やまがしら》として山中に入っていたが、伐採人となってからも余暇を見つけて八頭の羆を斃している。  かれは、きわめて冷静な男だった。或る時、かれの飼う犬を親子二頭の羆が追ってきた。地響きをあげて急速に突き進んでくる二頭の羆にも、かれの冷静な神経はかき乱されなかった。かれの村田銃から発射された弾丸はまず母羆の胸部に射ちこまれ、さらに一〇メートル以内に迫っていた二歳羆の頭部にも素早く装填した第二弾を命中させた。つまり一瞬の間に単発銃で二頭の羆を射殺したのだ。  かれは、常に口癖のように言っていた。 「おれは、一度も危い目にあったことはない。羆を斃す準備を充分にととのえて斃しているだけのことだ」……と。  そうした菊次郎の冷静さこそ、悲痛な空気につつまれた村にとっては最も必要なものだった。  非番になった菊次郎が予定通りに山から村へ下りてきたのは、遺体の発見された日の翌日だった。  かれが家に入ると、村の者たちが警官とともにやってきた。菊次郎は、むろん遺体となった娘を知っていた。そして、そのむごたらしい遺体の様子を村の者たちからきくと、かれの眼に悲しげな光がうかんだ。 「やってくれるな」  という警官の言葉に、菊次郎はうなずいていた。  やはり菊次郎も、素人が山狩りすることには不賛成だった。かれは、同行を申し出た猟友会の四名の猟師を連れて林の中に入ることになった。  その夜、菊次郎は、愛用の村田銃をとり出すと、仔細に点検し、手づくりの弾丸をととのえた。かれは、銃というものが必ず弾丸を発射するものとはかぎらないことを知っていた。充分にその機能を発揮させるためには、あらかじめ入念な点検が必要だった。  かれは、ライフルというものが余り好きではなかった。遠射には効力があるが、近い距離で発射するとその射出力が強いため弾丸は羆の体を貫通し、死にまでは至らせない。つまり羆を危険な手負い熊にさせてしまうおそれがあるのだ。  かれは、羆の足跡を追う時は犬を使わない。犬が追いすぎると、羆は遠く逃げてしまうからだった。しかし、今度の場合には犬を使うべきだと思った。羆は必ず林の中にいるだろうが、林の奥は深い。熟練した犬を使えば、羆を発見する可能性は高かった。  かれは、銃の手入れを終えると家の外に出た。久しぶりにもどってきた主人にアカとアクが、尾をふっている。殊に人なつっこいアクは、身をよじらせて鼻をならした。その二頭の雄は、超名犬といわれたアイヌ犬の血をついだ犬で、十四歳のアカは十二歳のアクの父だった。  菊次郎は、長い歳月をかけて羆をおそれぬ犬を育て上げることに努めてきた。犬は、羆の強大な力と獰猛さをよく知っている。その羆に、勇敢に立ち向かってゆく犬を作るのには、それなりの工夫が必要だった。かれは、訓練中の犬を羆に積極的にかかる犬と同行させ、犬が羆に立ちむかってゆく様子をみさせ、射ち斃した羆の体に近づけてかみつくようにけしかける。さらに羆の体を解体したあと、その肉を犬に食わせてやる。そのようなことを反復している間に犬は羆をおそれなくなって、一年ほどたつと羆にかかるようになる。  しかし、父犬のアカは、修練もつませぬのに初めての猟で羆に立ち向かっていった。アカは、生れつきすさまじい闘志にめぐまれ、その子のアクも父の血をついで良い素質をしめしていた。その上、アカもアクも十歳を越えて、猟犬として年齢的な老練さもそなえていた。  或る日、村の近くの広場でアイヌ犬の試胆会がひらかれたことがあった。飼われていた四歳の羆をひき出し、アイヌ犬にかからせようというのだ。遠方からも近在からも名犬といわれているアイヌ犬が百八十頭も集ってきて、菊次郎も、アカとすでに死亡した同じ血統のシロというアイヌ犬を出場させた。  やがて、犬がはなたれて試胆会がはじまったが、その直後から飼主たちを失望させる光景がくりひろげられた。足をすくませて飼主たちの傍をはなれぬ犬が多く、広場に出た犬も遠くから羆を遠巻きにして吠えているだけだった。そうした百八十頭のアイヌ犬の中で、七頭の犬だけが四方から羆を攻めた。その中には菊次郎の飼うアカもシロもいたが、その二頭の犬は最も勇敢な動きをしめしていた。  そのうちに、一人の無思慮な男が、長い棒で羆の尻を突いた。羆は、憤然としたようにその男にむかって突き進んだ。主催者は、顔色を失った。見物人も多く、羆がその中に暴れこめば死傷者の出ることは疑う余地がなかった。しかし、シロとアカは、走る羆に追いすがると乳の部分にかみついた。羆はその攻撃で男を追うことをやめ、再び犬に取りかこまれた。菊次郎の犬は、惨事の起るのを防いだのだ。……そのアカも老いた。  菊次郎は、アカの傍にしゃがむと頭を撫でた。アカは、嬉しそうに眼を菊次郎の顔にむけていた。  かれは、二十三歳の時に初めて山に入った。しかし、その目的は羆を射つためではなく、リスを射とめようとしたのだ。季節は三月下旬であったが、珍しい大雪が降って、かれは膝まで没するような雪の中を歩きまわった。  或る日、大きな楢の木の近くにいると、連れていたアイヌ犬が吠えた。不審に思ったかれは、そのあたりを探ったが、原因もわからぬままその場をはなれた。  三日後、再びその近くにゆくとまた犬がほえた。理由は、かれにもすぐ理解できた。雪の上に腹をつけて獣の走っていった跡が残されている。よくみると木の近くに羆の冬ごもりをしたらしい穴があった。  かれは、その跡を追うと、黒いものが雪におおわれた沢を渡るのがみえた。さらに後を追ってゆくと、それは屹立した崖の根に入っていった。かれは、羆を完全に追いつめたことを知った。が、弾丸を二発しか持っていず、射ち損ずれば身に危険のふりかかることはあきらかだった。  しかし、かれは、樹木の傍に羆を認めると、三〇メートルほどの距離に接近して引金をひいた。弾丸は胸部に命中し、羆は余力をふりしぼって立ち上ると樹木に手をもたせかけた。その鼻孔と口からは血がおびただしく流れ落ちた。かれが残りの一発を発射すると、弾丸は肩に射ちこまれ羆は横に倒れた。  かれは近づくと、念のためリスを射つ散弾を射ちこんだが、それは皮膚の下でとまってしまっていた。恐るべき羆の体の強靱さであった。  かれは、羆を射殺することが比較的容易であることに驚いた。熊撃ちのアイヌが、羆を射つことはひどくむずかしいというが、それらの猟師たちは、そのような言葉を吐くことによって同業の者をふやさせまいと牽制しているのではないかと、菊次郎は勘ぐりさえした。それとも、自分が生れつき熊撃ちの猟師としてのすぐれた素質をもっているのかも知れぬとも思った。  しかし、そうした菊次郎の考えはたちまちのうちに崩れ去った。翌年山に入った菊次郎は、羆を射ち斃すどころかその姿も眼にすることはできなかった。さらに翌年もその翌年も同じ状態がつづき、四年間というもの一頭の羆もとれず、ようやく五年目の早春に羆を斃してから本格的な熊撃ち猟がはじまった。  かれは、毎年三月初旬の雪どけがはじまる頃山に入り、約三カ月間羆をもとめて歩く。そして、四十七歳に帝室林野局の伐採人になるまで八十余頭の羆を射とめた。  その間、かれは多くの羆の生態をみてきた。かれの結論は、羆は動物中最も賢くそして獰猛な野獣だということだった。羆は、人に追われていることを知ると、樹木と蔓のからみあった場所や人間の歩くことの困難な傾斜をえらんで歩き、機をみて人を襲ってくる。樹木の上でネグラを作って休息をとっている羆をみたこともある。その理由はしかとはわからなかったが、虫よけのためらしかった。羆が襲ってくる時に立ち上るという話はきいていたが、かれは二十年間のうちにそのような姿勢をとる羆に出会ったことは一度もなかった。かれは、その話を作り話だと信じこんだ。  羆の力が強大である証拠は、枚挙にいとまがない。或る時かれは、羆が直径一〇センチほどの楢の木を、あたかも草でも扱うように何本もひきぬいてその上に寝ているのを見たことすらある。  羆は、人間や家畜を餌としてねらうが共食いもはげしいようだった。或る時、かれは、すっかり原型を失った羆の死骸を発見した。その年は山に羆の餌となる食物が豊かにあったことから考えると、決して飢えにたえきれず同属を襲ったものではなかった。ただ餌として羆を襲い食べたにすぎない。肉は食いつくされ、骨もかじられていた。傍にある糞には、羆の毛が多量にまじっていた。  また雌争いに勝った羆が、相手の雄羆と同時に雌羆さえも殺して食べてしまった光景を見たこともある。羆は、生きているものならなんでも食う肉食獣なのだ。  菊次郎は、コタンの娘を食い殺した羆のことを思った。若い女の体は、羆にとって得がたい食物であったのだろう。かれの眼に、光るものが湧いた。自分の銃と犬を使って必ず娘の復讐を果たしたいと思った。     三  翌朝早く、五台の自転車が村をはなれた。  村人たちは、娘の遺族をとりかこむようにして道を遠ざかる自転車を見送った。自転車には、村田銃を肩にした菊次郎をまじえた五人の猟師が乗り、その後を五匹の猟犬が走ってゆく。  菊次郎は、熊撃ちの名手として知られている今泉吉之助をはじめ他の三名の猟師が名うての者ばかりであることに満足していた。かれらは一様に豊富な経験をもち、決して功名心にかられることのない冷静な猟師ばかりであった。集団で羆を射つ折には、全員が一致した行動をとらねばならない。一人でも個人的な感情をむき出しにしては統制がとれぬし、そうした意味からも同行の猟師たちは得がたい協力者だった。  かれらは、黙々とペダルをふんでいった。その沈黙は、娘を食い殺した羆に対する五人の猟師の激しい怒りのためであった。  広い舗装路から林道に入った。常緑樹の中に枯れた樹木が所々にまじっていて、葉の落ちた梢が鋭くとがっている。両側につらなる林には、深い静寂がひろがっていた。自転車は一列になって進み、その後を五匹のアイヌ犬が追っていた。  菊次郎は、ペダルをふみながら犬をふり返った。アカとアクの眼がいつもとちがって鋭く光っている。二匹の犬は、銃を肩にした菊次郎たちの姿に猟のはじまることを敏感にさとっているようだった。他の猟師たちの保有する三匹のアイヌ犬は若く、元気に走っている。それらの犬の表情にも緊張した色がにじみ出ていた。  一時間近くたって、かれらは或る個所までくると自転車から降りた。娘の遺体探しをした猟師の一人が、 「この奥だ」  と、言った。  猟師たちは、肩から銃をおろした。  菊次郎は、弾丸をとり出すと銃に装填した。いつもそうであるように、その瞬間からかれの心は冷えた。銃が、自分の肉体の一部に化したように思えた。かれの指が引金をひけば、弾丸は的確に対象物に突き進んでゆく。  かれらは、林道の傍でしばらく休んだ。気持を落着かせることが先決だった。ペダルをふみつづけてきたために汗ばんだ皮膚が冷えてきた。犬は、静かに飼主の傍に坐っていた。  菊次郎が立ち上ると、他の猟師たちもそれにならった。菊次郎は、再び銃の中に弾丸が入っているのをたしかめてから他の猟師とともに林の中に足をふみ入れた。  かれらは、無言のままひとかたまりになって進んだ。林の中には、枯葉がつもり、所々に腐った木が倒れている。初冬の陽が梢からもれて、林の中を幾筋もの光が斜めにきっていた。  周囲に視線をくばりながら、かれらは時々立ちどまっては進んでゆく。アイヌ犬は、主人たちの動きにならって足をしのばせるようについてくる。 「わしも行って羆を殺すーッ」  と、泣いていた娘の母親の声が、菊次郎の耳によみがえった。あの母親のためにも、羆は必ず射殺しなければならぬと自らに言いきかせた。  かれは、羆が恐しい動物であることを充分すぎるほど知っていた。自分がたとえ逃げても、羆はすぐれた脚力で追ってきて自分を殺すことは確実だった。そこからかれに、一つの信念が生れた。かれの胸からは、逃げるという概念は完全に消え、生きるためには羆に立ち向って絶対に斃すという信仰に近い決意をいだいていた。  猟師たちと犬は、道から二〇〇メートルほど入った林の奥で動きをとめた。案内の猟師が、菊次郎たちに顔を向けた。その眼の色に、猟師たちはすべてを諒解した。二〇メートルほど前方の土に敷かれた枯葉が乱れ、その上が赤黒く染っている。娘の遺体が発見された場所であることはあきらかだった。  かれらは、慎重な足どりでその場所に近づいた。枯葉を赤黒く染めていたのは、血液だった。肉片がいくつか落ち、都腰巻のちぎれた毛糸も散っている。今泉が、枯葉の上を指さした。そこには、羆の足跡がはっきりと残っていた。  猟師たちは、その跡を三〇メートルほどたどると足をとめた。菊次郎は、そこが娘のおそわれた場所であることを知った。羆の足跡は爪が深く土に食いこんでいて、その場所から羆が走ったことをしめしていた。娘は逃げたが、三〇メートルへだたった地点で羆に倒されたにちがいなかった。  再びもとの場所にもどった菊次郎は、ふと近くに立つ樹木に眼をとめ顔色を変えた。樹皮に羆の爪あとが深々とついている。近づくと、その爪跡以外にあきらかに人間の爪の跡も多くみえる。三メートルほど上に突き出た枝には、人間の毛髪がからみついていた。  菊次郎は、猟師たちと顔を見合わせた。娘は、一撃のもとに殺されたのではなかった。羆につかまった娘は、その手からぬけ出すと、樹に這いのぼった。が、羆は立ち上って手で娘を引きずり下した。娘は、また這いのぼる。羆がひきずり下す。樹皮がほとんどはがれるまでに羆と人間の爪跡が刻まれているのは、そうしたことがしばしばくり返されたことをしめしていた。  菊次郎は、猫が獲物をもてあそぶように羆が娘の体をもてあそんだのだと思った。樹木の下には、羆が嬉々としてころがりまわったらしいあとが残っていた。  菊次郎は、娘の受けた災いが余りにも過酷であることに居たたまれない思いだった。冷静なかれの胸に、激しい憤りがふき上った。 「行こう」  かれは、猟師たちに涙のにじんだ眼で合図した。そして、犬たちに、その場に残されている羆の匂いをかぎ廻らせた。犬が、一団となって歩き出した。よく仕込まれた犬だけに走り出すようなことはせず、枯葉を忍びやかにふみながら黙々と進んでゆく。菊次郎は、その動きに犬たちが確実に羆の匂いをとらえていることを知った。  遺体の発見された場所から二〇〇メートルほど進んだ時、犬が動きをとめ、枯葉の上をしきりにかぎ廻りはじめた。羆の匂いを追ってきた犬たちの嗅覚は、その個所で乱れたのだ。  菊次郎たちは、足をとめてあたりをうかがった。林の中には、木洩れ陽が落ち、物音一つしない。羆は、遠くこの林の奥に去ってしまったのだろうか。  犬たちが、ようやくなにかを探り当てたらしく左手の方へ歩き出した。が、それは三匹の犬だけで、アカとアクはなおも枯葉の上をかぎ廻り逆に右手の方へ進みはじめた。菊次郎は、アカとアクの年齢を考えた。アカは十四歳、アクは十二歳の老犬で他の三匹の犬は若い。かれは、アカとアクの年齢を信じた。菊次郎は、アカとアクの後に従ったが、今泉吉之助も菊次郎の後をついてきた。つまり五人の猟師は、三人と二人になって左右に別れたのだ。  菊次郎は、犬の後を追いながらも枯葉の上を凝視しつづけたが羆の足跡はない。かれは、アカとアクが誤りをおかしているのではないかと不安になった。あたりにはトド松が密生している。アカとアクは、その中を足早に進んで姿を消していた。  菊次郎は、吉之助と肩をならべ周囲に視線をくばりながら少しずつ進んだ。  その時、突然林の奥でアカとアクの激しい吠え声が静寂な空気をひき裂いた。見つけた、と、かれは胸の中で叫んだ。その吠え声は、羆を発見した時の闘志にあふれた声だった。  菊次郎は、吉之助とともに銃を擬して吠え声の方に足を早めた。前方のトド松の密生した場所に、アカとアクがなにかと争っているたけだけしい気配が感じられた。そのうちにアカとアクの執拗さを持て余した羆が逃げ出したらしく、狂ったようなアカとアクの吠え声が遠くなってゆく。菊次郎は、銃を手に走り出した。必ず羆を射殺してやると、かれは何度も胸の中で叫びつづけた。  不意に、かれの眼に黒いものが映った。六〇メートルほど前方にドロの大木がある。黒いものは、その樹を早い速度で駈け上ると、幹を抱きかかえるようにして二叉になった枝の間から顔を突き出して見下している。他の三匹の犬も駈け寄ってきたらしく、ドロの木の下の吠え声は数を増していた。  かれは走り、三〇メートルほどの距離で立ちどまると銃をかまえた。引金をひくと、轟然と発射音がとどろき硝煙の匂いがあたりに流れた。かれの眼に、羆の頭がのけぞり体が幹をはなれて落下するのがとらえられた。かれは、弾丸が頭部に命中したにちがいないと信じた。  かれは、素早く第二弾を装填すると銃を擬してドロの木の根元に近づいて行った。羆は仰向けになって倒れ、その回りに五匹のアイヌ犬が、甲高い声をあげて吠えながら走り廻っていた。  羆の毛は、萎えていた。かれの予期通り弾丸は頭部に命中し、そこからわずかな血が流れ出ていた。  吉之助をはじめ四名の猟師がドロの木の根元に集ってきた。かれらは、黙って羆の体を見下していた。  羆を射殺したという報せは、すぐに村へつたえられた。羆は林の中から引き出され、警察官立合いのもとに解体された。雌羆で三十貫ほどだったが、毛も艶々としていて丸々と太っていた。胃の中の肉は完全に消化されていたが、その中に奇妙なものがとけずに残っていた。それは赤くそして固い握り拳のようなもので、ほぐしてみると都腰巻の繊維と毛髪のからみあったものだった。普通ならば羆の肉は村一同で食べ、毛皮と胆嚢は売るのだが、村の者たちはその羆をばらばらにして川へ捨てた。  菊次郎にとって、羆を射殺した喜びは感じられなかった。娘の復讐を果たしたという安堵はあったが、樹皮にきざまれていた娘の爪跡を思うと胸が痛んだ。また胃の中から出てきた都腰巻の赤い繊維の固まりも、胸にやきついてはなれなかった。羆は、腰巻の上から娘の腿を食い荒したのだろう。  村に、雪がやってきた。  菊次郎は、山頭として再び山へ入るため村をはなれた。山路からふり返ると、村は降雪の中に沈んでいる。むごたらしい事件の後の悲哀を、村はじっと堪えているようにみえた。  菊次郎は、雪の山道を足早にのぼっていった。  ……名犬アカは二年後に、アクは四年後にそれぞれ死んだ。 [#改ページ]   第五話 幸太郎     一  昭和六年——  その年も三月下旬にはいると、村の男たちは落着かなくなった。雪はまだ厚く家々をおおっていたが、気温も徐々にゆるみはじめ雪解けも近づいている。  富山県下新川郡朝日村の家々の生活は貧しかった。米はほとんどとれず、田畠の収穫はたかが知れている。雪に埋れた村内にもその周辺にも、生活の糧となるような日雇仕事もない。やむを得ず家族の人糞を隣村の者に肥料として売って、わずかな穀物をわけてもらう家すらあった。  しかし、村の者たちは一様に陽気だった。かれらは貧しかったが、それは自分の家だけにかぎったことではない。だれもが貧しく、その点では全く平等だった。  自然と村人たちの間には、乏しい物をわかち合う気風が生れていた。それは、貧しさにあえぐ村の、遠い過去の時代からつたえられてきた約束事のようなもので、それ故に村の者は飢え死にすることもなく生きつづけられてきたと言っていい。  村の者たちは、時折り隣村の柳田にある精米所へ米を買いに出かける。買ってくる米の量は、必ずといっていいほど二合か三合であった。貧しくて買えないということが最大の理由だったが、もしも一升も買ってくれば、たちまち他の家の者が寄り集ってきて持ち去ってしまう。かれらは、花の蜜にあつまる蜂の群のように、食物がどこにあるのか特殊な嗅覚を本能的にそなえているようにさえみえた。  村の者たちが雪どけ期を待っているのは、月の輪熊と呼ばれる本州熊がとれるからであった。熊は猟師が仕留めるのが村のしきたりで、熊は猟師一人の所有にはならない。猟師について山へ入りさえすれば、仕留めた熊は参加した者全員の共同保有となる。熊の胆嚢は貴重な薬品として干し上げられるが、それは同じ重さの純金の約一倍半にも相当する価格で業者が買いとってくれる。一匁が六円で二〇匁の胆嚢が得られれば百二十円という大金がころげこむ。それに毛皮も売れるし、さらに肉は食料となる。日雇に出ても一日の手当は八十銭であることから考えると、猟師とともに山に入った方が分がいい。  その春の雪どけ期を前に、村人たちの関心を深めさせていたのは、仙名幸太郎が陸軍の現役をおえて村にもどってきていたことだった。  幸太郎は、少年時代から熊撃ちに異常な熱意をしめしていた。当時、猟期以外の季節に熊をうつことは法律的にかたく禁じられていた。現在は、熊一頭たおせば、親熊で一万円、仔熊で五千円の奨励金が県から出るが、その頃は厳しく猟期がさだめられていて、違反した者はきつく罰せられていた。幸太郎は、それを承知で人から借りた村田銃を手に山へ入った。いわゆる密猟だが、銃をかくして山へ駈けこむと、熊をもとめて山中をひそかに歩きまわった。  その後、幸太郎は、徴兵検査に合格して富士第三十五連隊に入隊した。体格もすぐれたかれは、陸軍歩兵二等兵になった。かれが一等兵になった秋、連隊内で恒例の射撃競技大会がおこなわれた。入営以来、幸太郎は密猟で腕をきたえていただけに射撃には中隊内でぬきんでた技倆をしめしていた。中隊は九中隊で、各中隊から大会参加者が十名ずつえらばれた。つまり九十名が技をきそうことになったわけだが、その中に仙名幸太郎陸軍一等兵もまじっていた。  競技はまず四〇〇メートルはなれた標的に向けて二発小銃弾を発射し、それから水濠や急坂のある場所を一〇〇メートル走って、三〇〇メートルの距離にある標的に三発弾丸を射ちこむ。それには時間的制限があって、一分三十秒以内に計五発の銃弾を発射しなければならなかった。  予行競技についで実習競技がおこなわれた。そして、参加者一人一人の成績が集計されたが、その結果、予行、実習あわせて十発射撃したうち八発が標的の中央部に命中していた二人の参加者が、同点で最高点を記録した。その一人は、連隊内きっての名射手といわれていた軍曹で、他の一人は幸太郎であった。  審判官は、再び両名に射撃競技をくり返させた。しかし、第二回目の射撃でも両者とも十発中八発命中で、優勝は軍曹と幸太郎がわかち合うことになった。幸太郎は、軍曹とともに最高の栄誉である特別射撃章をうけた。その幸太郎が、除隊して帰ってきたのだ。  かれは、村に帰るよりは軍隊に少しでも長くいたいと思っていた。軍隊の訓練はきびしいが、一日三度の食事を十分にとることができる。麦のまじった飯だったが、故郷で口にしなければならぬ食事よりもはるかに贅沢なものに思えた。  かれは成人してからも、幼い頃食事時にみた母の眼を物悲しい気分で思い起すのが常であった。母は、茶碗一杯ほどの米を大きな鍋に入れ、その中に野菜屑や山でとってきた山菜などをまぜて薄い雑炊をつくる。食卓のまわりには、幸太郎たち子供が坐って雑炊を口にすすりこむ。母は、じっと子供たちの食べる姿を見つめている。その眼は、長い歳月貧しさにたえてきた眼であった。そして、子供たちが箸をおくと、初めて鍋の底に残ったわずかな雑炊を茶碗にすくった。  幸太郎は、軍隊にいた頃もらった金を使わずに残してきていた。帰郷してから村田銃を買いたかったからであった。  かれは、故郷にもどると予定通り中古の銃を買いもとめ、県下でも名うての熊撃ちの名手といわれている同地区の長津由次郎に、熊撃ちの秘訣を伝授してもらった。熊撃ちは、その村落に幸太郎を加えて六名になった。雪どけ期がやってくると、熊は冬ごもりの穴から這い出る。それを待っていたように猟師たちは一斉に山へ入り、村の男たちはその後についてぞろぞろと山道をのぼってゆくのだ。 「幸太郎の腕をみたいものだ」  村人たちは、雪にとざされた家々の炉をかこんで、熊撃ちに参加できる喜びに眼をかがやかせながら噂し合っていた。     二  四月に入ると、気温はさらにゆるんで、屋根をおおう雪が時折音を立ててすべり落ちるようになった。  村の中には、明るい空気がみちた。雪どけが本格的になると、近くの山々をおおっている雪は、三分の一ほど近くがとけて消える。地表のあらわれたそれらの場所にはすでに草の芽が萌え出ていた。穴から出た熊は、冬ごもりの間の飢えを回復させるために芽をつまんで歩く。  村人たちは、熊がそうした行動を起す時を待っていたのだ。  かれらは、雪どけ期に地表が早く露出する場所をよく知っていた。そのような場所を探して歩けば、熊を発見する可能性は高かった。それに、村の男たちは、山の雪どけの状況をみるだけで、その春にはどこらあたりに熊があらわれるかも知っていた。村にとって、熊をとることは毎年くり返されてきた重要な行事になっていた。  四月も中旬近くになった或る日、熊撃ちの名人である長津由次郎たち猟師が、山の雪をながめてから、 「明日、熊撃ちに山へ入る」  と、村人たちに告げた。  村内は、沸き立った。その一言は、一時的ではあっても貧しさから解放される時期のやってきたことを告げるものであった。かれらの中には、前祝いだといって酒を探し出して来て飲む者も多かった。  翌朝、村道に四十人以上の人間が集った。猟師をのぞくかれらは、熊を追う勢子の役割を買って出ていた。  村の男たちは、いくつかの集団にわけられた。まずかれらは、熊をみつけることからはじめなければならなかった。かれらは、村を出発すると、山の傾斜をおおう雪をふんでそれぞれの方面に散っていった。  村の猟師は、犬を使わない。犬は熊の匂いをかぎつけて発見するのに長じているが、その早い脚で熊を遠くへ逃がしてしまうおそれがある。村の男たちは、猟犬の役目を代行していた。  村人たちは、雪のすっかりとけた場所を歩きまわって熊の姿を追いもとめた。が、その日は、どのグループも熊を発見することはできなかった。かれらは、夕方疲れきった足どりで村へもどった。  翌朝早く、かれらは再び山へ入った。  熊をグループの一つが発見したのは、正午近くであった。山の中腹で、合図の手拭がふられた。それを認めた他のグループが、さらに他のグループに手拭をふって熊発見をつたえ、たちまち四十余名の者が一個所に集合した。熊の姿を確認した猟師たちは、熊の移動すると思われる方向に先廻りをして待伏せ、村の者たちは、半円形に熊を遠くとりかこんで声をあげ、熊を猟師の待つ方向へ誘導させることになった。  勢子の役目は重要な意味をもっていた。熊は、勢子のあげる声の強弱によって、弱い方向へ逃げようとする。その方向が猟師の待つ地点であるならばよいが、それが逆であれば熊は逃げてしまう。そうしたことを防ぐため、各グループには声の大きな者を適当に配置させた。  幸太郎は、他の猟師たちとともに待ち伏せ地点に急いだ。かれらは、目的の場所につくと一定の間隔をたもって手頃な樹の上にのぼった。猟師たちは樹木の三メートルほどの高さに位置をしめてそこからねらい射つわけだが、下方にむかって射てば、流れ弾が勢子や他の猟師にあたる危険もない。それに熊の背中は広く、ねらい射つのにも容易だった。  幸太郎は、幹の分れ目に背中を押しつけて足場をかためた。  その時、勢子の追い出しが開始された。 「ホラーホラ、ホイ、ホイ」 「ホラーホラ、ホイ、ホイ」  山の斜面の下方から、遠く声がおこっている。  幸太郎の胸の動悸がたかまった。熊が予定通り追われれば山の斜面をのぼって尾根に出てくる。そして、幸太郎たちのいる地点に尾根づたいに近づいてくるはずだった。幸太郎は、念のため村田銃に弾丸がはいっているのをたしかめた。弾丸は、鉛をとかして自分で作ったものだった。かれは、除隊してから初めての猟なので自分の銃で熊をしとめたかった。 「ホラーホラ、ホイ、ホイ」  勢子たちの声が、斜面を徐々にあがってくる。  熊は、用心深い動物だ。人の声がすれば、身の危険を感じていち早く逃げる。熊が人間に危害をあたえるのは、突然出遭った時で、熊はその鋭い爪で人間の体を引き裂く。しかし、それも熊の恐怖心がそうした行為をとらせるだけのことで、本質的には人を恐れている。  勢子たちの声から察すると、かれらは秩序正しい隊形をくんで熊を追っているようだった。その声は、着実に斜面をのぼってきていた。  熊が近づいてきている、と、幸太郎は思った。かれは、銃をにぎりしめ樹上から前方を見つめていた。  尾根は、雪におおわれている。その雪の中に、突然黒いものが浮び上った。それは、足を早めながら頭をさげて近づいてくる。  来た、と、かれは胸の中で叫んだ。熊は、巧みな勢子の誘導にかかって追われている。頭を垂れた熊は、顔を左右にかたむけながら勢子の声を注意して歩いている。  幸太郎は、長津由次郎の言葉を思い起した。由次郎が熊をうつのは、四、五メートルほどの距離にせまった時だという。村田銃は遠射がきかないし、射ち損じるおそれもある。それに熊は、勢子の声に気をとられて樹上の猟師に気づかないから、ただ辛抱して待ちつづけることだ、と忠告してくれた。  熊は、幸太郎の登っている樹の方向に近づいてくる。胸の動悸が一層たかまり、体中が熱くなった。軍隊で特別射撃章をもらっているかれは、四〇メートルほどの距離に近づいた熊を一発でしとめる自信はあった。しかし、かれは、はやる気持を必死におさえた。一流の熊撃ちになるためには、老練な猟師の言葉を忠実に守ることが必要なのだ、と自分に言いきかせた。  熊は、幸太郎に気づかず足早に近づいてくる。一〇メートルほどに接近した熊は、笹くぐりをしたらしく黒い背に雪が附着している。かなり大きな熊であった。  かれは、引金に指をかけ、熊に銃口をむけた。  熊が、樹の下に近づいた。かれは引金をひいた。と同時に、轟音が山の空気を引き裂き、硝煙があたりにただよった。熊の体が一瞬はね上り、雪の上に音を立てて落ちるのがみえた。かれは、自分の銃から発射された弾丸が熊の心臓部を的確に射ぬいたにちがいないと思った。  かれは、そのまま樹上にとどまっていた。熊はまだ生きているかも知れないし、不用意に接近すると熊の掌でなぎはらわれる危険がある。  勢子の声が消え、人々のわめき声が近づいてきた。 「とれたか——?」  勢子のリーダーらしい声がきこえた。 「とったあ——」  幸太郎は、樹上で叫んだ。  雪の上を猟師が走ってくるのにつづいて、勢子たちが姿をあらわした。 「死んでいる」  長津由次郎が、熊の姿を見つめながら言った。  歓声が、村人たちの間からあがった。 「兵隊帰り、ようやったな」  老人の一人が、歯の欠けた口をひらいて叫んだ。  熊は、三十貫もあるこの地方では稀な大物だった。雄熊で、首の根の月の輪はクリーム色を帯び、体毛は艶々と黒光りしていた。村人たちは、その場で熊を解体し、村にはこび下した。その夜、村の家々からにぎやかな笑い声や歌声がながれ出た。熊の胆嚢は干しあげれば二十二、三匁はありそうだったし、毛皮も上値に売れそうだった。  かれらは、分けてもらった熊の肉を鍋に入れて酒を飲み、肉を食った。熊は、かれらにとって春を告げる物であるとともに貧しさを追いはらってくれる得がたいものであった。     三  幸太郎は、その春から熊撃ちの仲間に入った。  本業は農業で、結婚したかれは妻とやせた土地をたがやし、種をまいた。かれは、熊をとるのが最大の楽しみだった。出来れば熊撃ちだけで、生計を立てたいとも思った。  他の地方では、猟師が一人で山を歩いて熊を仕留め、それから得た収入で生活しているという話もきいている。それが当然のことなのだろうが、この村ではそのような事は許されない。熊は村の共同所有物であり、貧しい村に天があたえてくれる恵みなのだ。幸太郎は、それはそれでよいのだと思っていた。村の者たちと熊をとり、それから得た収入を平等に分けることになんの不満もいだいてはいなかった。  熊は、毎年春に四、五頭ずつとれた。  幸太郎は、北海道にいる羆の話を猟師仲間から何度も耳にしていた。重量も百貫以上ある大物もいて、家畜をさらい人間をも食うという。それにくらべると、本州の熊は小さく肉食もしない。重量も二十貫以上のものは大きい方で、三十貫以上の体重をもつ熊は稀だった。かれのしとめた熊のうち最大の熊でも四十貫を少し欠けていた。熊は、栗、ドングリ、クルミの実などを好み、ハシゴ酒でもするように少しずつつまんでは移動してゆく習性がある。羆のように自分の方から人間をおそうようなこともなく、人間の匂いをかいだだけであわてて逃げてゆくのが常であった。  村の男たちは、勢子としてすぐれた勘をもっている者が多かった。かれらは、声をあげて熊を尾根に追いあげ、待ち伏せする猟師のひそむ場所へ巧みに熊を進ませる。  幸太郎は、長い間熊撃ちをやっている間に、大きな熊ほど用心深いことを知った。大きな熊は、勢子に追われても決してあわてない。勢子の声をききながら、慎重な足どりでゆっくりと歩いてゆく。  幸太郎は、そうした大物を何度も仕留めたが、熊と勢子はほとんど一緒にやってくることが多い。熊が、「ホラーホラ、ホイ、ホイ」と声をかける多くの勢子をしたがえて、悠然と歩いてくるように思えることもあった。  熊に逃げられることはほとんどなかったが、夕方にしとめることは不可能に近かった。その時刻になると、風が尾根から山の斜面を下方に吹きおろす。尾根に待つ猟師の体臭は、たちまち風にのって熊の鼻に達してしまう。熊は、五〇メートルほどの距離に近づくと鼻をもちあげて空気をかぐ。そのような動作をした時は絶望的で、熊は他の方向へ逃げていってしまう。  熊は、富山県下にかなり棲息している。人間を傷つける事故もしばしば伝えられている。魚津の町では、結婚式の朝戸外で顔を洗っていた娘が熊に顔をひきむしられて、破談になったという悲劇もあった。  幸太郎は、春に村の者たちと熊をとるが、秋に熊を追うこともあった。いつの間にか三十年ほどの間に仕留めた熊の頭数は百頭をこえ、熊撃ちの名手として富山県下にその名を知られるようにもなっていた。  昭和三十二年、かれは、五十三歳になった。  その年の秋、隣村の柳田に熊が姿をあらわした。数年来、山の木の実は不作がつづいていた。その頃から、熊は、人里に夜おりてきては稲を食うようになっていた。それは今までにみられなかった現象で、幸太郎も熊が田に入ったなどということはきいたこともなかった。空腹から稲を試みに口にしたのだろうが、その味の良さを知った熊がもっぱら稲をあさり、他の熊もそれにならうらしく、田の被害は急に増していた。殊に冬ごもりをひかえた秋の大食期には、みのった稲の被害が相ついだ。  柳田にあらわれた熊も夜間に田に入り稲を食い散らしたが、夜が明けても村から立ち去ろうとせず、騒ぎは大きくなった。  警官がかけつけ、消防団員が集められた。幸太郎のもとにも報せがあって、かれは銃を肩に自転車に乗って柳田にむかった。柳田に行ってみると村の樹という樹には、何百人という見物の男たちがのぼっていた。  幸太郎は、村道に立つ警官に近づいて熊の行動をたずねた。それによると熊は、大胆な性格らしく村内をのし歩いているという。  かれは、銃を手に寺の境内や縁の下など熊のひそんでいるような場所を入念にさぐってみたが、どこにもその姿は見出せなかった。残された場所は、ただ一個所だけだった。それは、川岸にひろがる葦の繁みだった。  かれは、警官のいる所にもどると、 「あの中に必ずいる」  と、葦の繁みを指さし、 「おれが仕留めてみせる」  と言って、歩き出した。 「ちょっと待て」  警官が、かれを引きとめた。  幸太郎は、いぶかしそうに警官を見つめた。 「今、応援隊がくるんだ。一人でやってもらっては困る」  警官は、なじるような口調で言った。  幸太郎は、不愉快になった。一人でやってもらっては困る……という警官の言葉が、かれには気に食わなかった。警官は、幸太郎がしとめた熊を一人占めにすることをおそれているにちがいなかった。どこからともなくやってきた猟師が、熊を射殺して持ち去るようなことは迷惑だという表情が警官の顔に濃くあらわれていた。  幸太郎は、警官に自分の村のしきたりを説明してやりたかった。山に一人入って熊を仕留めれば、それはむろん自分の所有となるが、村の者たちが見守っているような場合には、たとえ自分が熊を仕留めても独占できない。それが、かれの住む村の暗黙のしきたりであった。かれは、警官に疑いをかけられたことが腹立たしかったが、顔をこわばらせた警官の顔をみるとその気も失せた。かれは、警官の傍に立って口をつぐんでいた。  騒ぎは次第に大きくなって、近隣の町村から消防団員をのせた消防車がつぎつぎとやってきた。その数はまたたく間に四十台にも達し、村道は消防車にうずめられた。  見知らぬ猟師が二名やってきた。 「やるかね」  猟師の一人が、言った。 「そうだな。しかし、朝日村から仙名幸太郎という猟の名人がきてくれるはずになっているのだが、どうしたんだろう」  警官が、村道の方に眼を向けた。  幸太郎は、苦笑した。それはおれだと叫びたかったが、不機嫌になったかれは口をきくのも億劫だった。 「仕方がない、それではやるか」  警官は、ふと気づいたように幸太郎に眼をむけると、 「あんたは、勢子を指揮してくれ」  と、言った。  幸太郎は、黙ったままうなずいた。  二人の猟師も、熊のひそむ場所を川岸の葦の繁みにちがいないと言った。そして、風下に猟師二名とピストルを手にした警官二名が待機し、勢子が繁みを半円形にとりかこみ追うことに決定した。消防団員二十五名がえらばれ、十五名のグループと十名のグループに分けられた。幸太郎は十五名のグループの指揮を引き受けることになった。  かれは、弾丸をぬいた銃を肩にかけ、十五名の団員を集めた。 「危険だから、決しておれより前に進むな」  かれは、注意した。  勢子が所定の配置につき、猟師と警官は、風下にあたる葦の繁みの一角に待機した。 「ホラーホラ、ホイ、ホイ」  幸太郎の声をきっかけに、 「ホラーホラ、ホイ、ホイ」  という勢子たちの声が一斉に起った。かれらは、恐るおそる葦の繁みに足をふみ入れていった。  幸太郎は、繁みの密度が余りにも濃いことに驚いていた。葦をすかしてみても一〇メートルほど先は葉にさえぎられてみえない。かれは、勢子たちを時々ふり返りながら、先頭に立って、 「ホラーホラ、ホイ、ホイ」  と、声をあげて進んだ。  かれは、繁みの奥に熊のひそんでいる気配を素早くかぎとっていた。そして、突然起った勢子のかけ声に、熊が予定通り風下にむかって移動していることも察していた。  うまくいっている、とかれは思った。素人ではあるが、消防団員たちは、巧みに陣形をしぼっているようだった。  その時、突然風下の方から、 「どうだ、熊はいたかぁー」  という大きな声がきこえた。それは、警官の発した声にちがいなかった。  かれは、愕然とした。せっかく勢子が警官たちのいる方向に熊を追っているというのに、その声で熊は風下にも人がいることを知ってしまった。それまで理想的に熊を追っていた陣形は、そのひと声で完全に破れたのだ。四囲を包囲されたことを知った熊が、次にとる行動は容易に察知できた。熊は、逃げ場を失い包囲網をつきやぶるために人に立ち向ってくるにちがいなかった。 「どうだ、熊はいるのかいないのか」  と、再び叫ぶ声がした。  かれは、舌打ちした。警官の無智が腹立たしかった。  その時、幸太郎は、不意に前方の繁みの奥からはげしい唸り声が起るのを耳にした。それはあきらかに熊の発する声で、かれは、とっさに熊が人間をつかんでいる……と思った。  かれは、 「ホラーホラ、ホイ、ホイ」  と、声をかぎりに叫んで足を早めた。銃を使うことも考えられたが、発射した弾丸が繁みの中にふみこんでいる人間を射殺する危険が多分にあった。  かれの眼に、葦の繁みの中を走る黒いものがとらえられた。それは、想像よりも小さい推定十二、三貫の熊だった。 「人がやられたぞー」  かれは、叫んだ。  繁みの中でのたうちまわっている男がいた。しかも、それは一人ではなく二人だった。殊に一人の男は、顔から肩、胸にかけて肉がひきさかれ、血にまみれてころがりまわっていた。  ただちに二人の男は、消防車で病院に運ばれた。  熊は、混乱する人々の間を巧みにすりぬけて村から姿を消した。  幸太郎は、腹立たしかった。熊を倒すのには、熊の習性をよく知った者のみでやらねばならない。余りにも素人が多かったことが、二人の男に傷を負わせることになったのだ、と思った。人々は、熊が三十貫もある大熊だと口々に言い合っていた。  かれは、自転車にのるとペダルをふんだ。その姿を見送る者はだれ一人としていなかった。  昭和四十四年の秋に、かれは十四頭の熊をとった。かれが熊撃ちをはじめてからそれほど多くの熊を射ち倒したことはなかった。  ……かれは、朝から夜まで冷や酒をのみつづけている。六十五歳になったかれの体は依然として逞しく、顔の肌は青年のようにつやつやとしている。  かれは、酒を飲みながら時々一頭の仔熊のことを思い出して眼をうるませる。  数年前の秋、仔をつれた雌熊を斃し、その仔を炉端において飼っておいた。或る夜、物音に眼をさました幸太郎は、仔熊が部屋に垂れた熊の皮にしがみついているのをみた。それは仔熊の母親の熊の皮で、仔熊はその干からびた乳房に口を押し当てていた。  かれは、仔熊を身近に置くことが堪えられず、ほとんどただ同然の値で売ってしまった。その折の記憶が、酒に酔ったかれの胸に物悲しい光景としてよみがえってくる。  朝日村の雪は、今年も深い。 [#改ページ]   第六話 政一と栄次郎     一  昭和三十五年十月——  北海道千歳市のはずれにある蘭越地区には、すでに秋色もうすらぎ気温は日増しに低下していた。  村落をとりまく山肌を鮮かに染めていた紅葉の色もさめ、樹葉は冬の訪れにそなえるように急速に枯れてゆく。風が起ると、小鳥の大群が一斉に飛び立つように樹林から枯葉が舞い上り村の上に降った。  傍を流れる千歳川の水も澄み、ヤマベやイワナのひらめきが氷の細片のように冷えびえとしてみえた。  その季節になると、これと言って産物にも恵まれぬ村では、近くの山々に分け入って茸採りをする者が多かった。茸を買い集める業者が巡回してくるので、かなりの収入になる。人々は早朝から籠を背負って山中に消えた。  或る夜、中年の村の女が猟師の姉崎政一の家にたずねてきた。藁縄でしばりつけた大根を手土産品がわりに政一の妻にさし出すと、ストーブの傍に坐った。 「今日、夕方近くに羆の姿をみてな」  女は、おびえたような眼をして言った。 「どこで」 「防風林の所だよ」  女は、膝の上の手をにぎりしめた。  その日、女は、国有林の中に入っていった。ひそかに探し当てた彼女自身しか知らぬ茸の群生する個所があり、それらをまわって茸採りに専念した。  日が西に傾きはじめ、女がその日の最後の採取を終ろうとした時、なにか枝の折れるような音を耳にした。人がいるのかと思い林の中をすかしてみると、茶色いものが樹の上で動いている。女は、すぐに羆だということに気づきあわてて林の中を出て逃げ帰ってきたという。 「こわくてよう。茸とりにもゆけなくて……。お願いだ、羆をブッて(仕留めて)くれよ」  女は、哀願するように言った。  政一は、十四歳の春から山に入った。むろん少年の身で銃を所持できるわけではなく、熊撃ちの猟師の下働きをしていただけであったが、熊猟に対する好奇心は強かった。村には、近隣にその名を知られた熊撃ちの名手である小山田菊次郎と今泉吉之助がいた。政一少年は、好んでかれらの後につき従って、羆をしとめる情景も何度かみた。  やがて、政一は徴兵年齢に達して入営し、五年間を軍隊ですごした。帰郷後、炭焼きなどですごしていたが、三十歳を越えた頃から専ら小山田菊次郎の後について山へ入るようになった。むろん銃を扱うことも許される年齢で、かれは銃の操作を小山田から教えられ、夜、山の中で野宿する時、羆の習性をきくことも多かった。  そのうちに小山田は、国有林伐採人としての仕事が忙しくなって熊撃ちから遠ざかるようになった。やむなく政一は、ただ一人で入手した村田銃を手に雪どけのはじまる山中に入って羆を追うようになった。羆の足跡を発見し、数日間追いつづけたこともある。仔づれの羆を遠く眼にしたこともあったが、かれは今もって自分の銃で羆をしとめたことがなかった。  かれは、小山田の下働きをしている間に羆を斃《たお》すことがいかに難しいものかを知っていたが、一人で山中に入るようになってから一層強く感じるようになっていた。 「羆をブッてくれよう」  と言う女の真剣な顔をみていると、かれはなんとなく気恥しい思いがしてならなかった。かれは、たしかに銃をもつ熊撃ちの猟師であり、千歳市猟友会にも属し、ヒグマ駆除対策本部の部員にもなっている。しかし、かれには羆をしとめた実績というものが全くない。  妻は、口もとに苦笑をうかべて黙っている。 「あんたは生れつき熊撃ちにはむかないんだよ」  と、妻は笑いながら言ったこともある。  政一は、ふと栄次郎のことを思った。栄次郎は小山田菊次郎の三男で、同じ猟友会の仲間である。栄次郎も羆を仕留めたことはないが、羆の習性には詳しく二人で協力すればなんとか仕留めることができるかも知れない。もしもそれに成功すれば、二人にとって初の成果となり、自信をもつこともできるだろう。猟師として得がたい機会に思えた。 「わかった、かあちゃん。小山田の栄次郎と二人で行ってブッてやる」  政一は、大きくうなずいた。  女は、安堵したように頭を何度もさげると腰をあげた。女が帰ると、政一は、懐中電灯を手に家を出ると夜道を栄次郎の家に急いだ。小柄な栄次郎は、炉端の傍で手枕をし、冷や酒を口にはこんでいた。  かれがすすめられた酒を飲みながら用件を話すと、栄次郎は顔をしかめた。 「タマを今年の春に全部使いはたして、一発もないよ」  栄次郎は、苦笑した。  政一が持っている弾丸の数も、八発しかない。しかも、栄次郎の銃は二八番、政一の銃は二四番と口径が異っていて、弾丸の大きさがちがう。政一の弾丸を栄次郎に貸しあたえることもできなかった。  政一は困惑したように口をつぐんだが、顔をあげると、 「大丈夫だ、おれの八発のうち三発をつぶして二八番用にしよう。今夜のうちに作り直しておくから……」  と、言った。  栄次郎は、政一の熱心さに根負けしたようにうなずいた。  政一は、すぐに家へ引返すと、鉄鍋を火にかけ、その中に三発の丸ダマの鉛を入れた。やがて鉛がとけ、かれはそれを栄次郎の銃の二八番用につぶし直した。     二  翌朝、政一は栄次郎の家に迎えに行き、袋の中に入れた三発の丸ダマを渡した。栄次郎は、握り飯を入れた風呂敷を背にしばりつけて道に出てきた。かれの妻と子供は、戸口に立ってかれを見送った。  二人は、村道を歩き、朝霧の流れる山中に入っていった。茸採りの女の口にした場所は、政一たちにとってなじみ深い所だった。その附近一帯は茸の群生している国有林で、かれらも秋になると茸採取に出掛ける。  政一は、栄次郎と林の中の道を歩きながら、前年の秋のことを思いうかべていた。国有林にはドングリの木が多く、羆はその実をあさり歩く。いわば羆にとって魅力のある地であったが、昨年秋、かれは女と同じように林の中で羆を眼にしたのだ。  仔羆が一〇メートルほどはなれた場所で、地上のドングリの実をひろっていた。かれは、恐怖にかられながらも灌木の茂みに身をひそませて母羆の姿をさぐった。動くものがかすかにとらえられた。一〇〇メートル以上はなれた太い幹の樹の上に母羆があがっていてドングリの実を食べているのが見えた。  かれは、銃を持ってはいなかったが、母羆が遠くにいることで大胆になった。剽軽なかれは悪戯心を起し、立ち上ると思いきり手をたたき大声をあげた。不意の音に驚いた仔羆が、ひっくり返った。仔羆は母羆のいる方向に逃げ出し、かれも逃げた。その話をきいた猟師仲間は、それを政一の作り話として信用しなかった。たとえ仔羆であっても人の声や拍手でそのような驚きをしめすはずはない、と口をそろえて言った。  しかし、その話をきいた熊撃ちの名手小山田菊次郎だけは、政一の話は事実にちがいない、と言った。羆はたしかに獰猛な野獣ではあるが、その反面臆病な性格をもっているともいう。小山田の話によると、銃声におどろいて糞をたれ流しながら逃げていった大きな羆がいたという。  政一は、その折の記憶を思いうかべながら栄次郎が三発、自分が五発計八発だ、と弾丸の計算をくり返していた。小山田菊次郎が熊撃ちに山へ入る時も、弾丸は十発か多くとも十五発しか持って行かないことを考えれば、決して少ない数ではないと思った。  政一が足をとめ栄次郎もそれにならい、無言で周囲に視線を走らせた。眼の前に防火線の路が一直線に伸び、左側に植林をした林と防風林がひろがっている。女は、その附近で羆をみたという。 「お前は、防火線をゆけ。おれは林の中に入ってゆく」  年長の政一は、栄次郎に指示した。  風呂敷包みを背負った栄次郎はうなずくと、防火線を慎重な足どりで進んでゆく。政一は、その背に、 「弾丸をこめてあるかどうか、もう一度たしかめてみろ」  と、低い声で注意し、自分の銃も点検した。  かれは、防風林の中に羆の匂いがかすかにただよっているように感じた。注意深く樹葉のそよぎをみると自分の立っている場所は風下にあたっていて、羆に近づくのには適した位置だった。  もしかすると初めて羆をしとめることができるかも知れぬ、とかれは思った。本格的に羆を追うようになってから五年が経過しているが、一度も家へ羆を持ち帰ったことはない。今日こそは、自分を軽視している妻を必ず見返してやろうと自らに言いきかせた。  かれは、枯葉の散りしいた林の中へ足を踏み入れた。落葉がしきりで、風もないのに林の中では枯葉が静かに舞いおりている。冬ごもりをひかえて、羆はドングリの実をあさりにきているのかも知れなかった。  林の中は、静まり返っている。かれは大きな枯木をまたぎ、銃を擬しながら進んだ。樹木の上にのぼっている場合もあるので、時折りかれは足をとめては樹木の上方にも眼を向けていた。  突然、後方で枯葉をふむ足音がした。  かれは、ぎくりとして振向いた。近づいてくるものがある。かれは、眼をこらした。それは羆ではなく、風呂敷包みを背負った小太りの栄次郎だった。  体の緊張が、一時にゆるんだ。栄次郎の青ざめた顔を見た政一は、栄次郎が防火線を一人で歩いていることに心細さを感じ、自分の所にきたのだろうと思った。 「どうしたい」  政一は、引金から指をはなすと栄次郎に声をかけた。 「いたよ。二歳仔を一頭つれた母羆が……」  栄次郎の顔は、こわばっていた。 「どこに」  政一は、背筋が凍りつくような恐怖におそわれた。 「おれが防火線の路を進んでいったら、羆が前方の路を横切って林の中へ入っていったんだ」  栄次郎は、ふるえをおびた声で言った。  政一は、栄次郎の顔を見つめた。落着かねばならぬ、と思った。栄次郎と力を合わせれば必ず羆を仕留められるはずだ、と胸の中でつぶやいた。 「よし、行こう」  政一は、銃をとり直すと樹木の間を縫うように小走りに歩くと林をぬけ、防火線の道路に出た。かれらは、足音をしのばせて道を急いだ。  栄次郎が足をとめ、 「羆をみたのは、ここだ。あそこに白樺の木が立っているだろう。あそこの下を通ってこっちの林に入っていった」  と、低い声で言って、左手の植林地を指さした。  政一は、銃を植林地の方に擬しながら白樺に近づいて行った。羆の入って行ったという個所には、二メートルほどの高さの植林された杉が整然とならび、右手に防風林がひろがっている。 「お前は、右の方から入れ。おれは真っすぐに入る」  政一は、栄次郎に指示した。  栄次郎はうなずくと、一〇〇メートル近く路を進んでから林の中へ入って行った。  政一は、その姿をたしかめてから林の中へ足をふみ入れた。かれの眼は、土の上にそそがれた。たしかに、羆の足跡がある。それも印されてから間もない足跡だった。かれは、銃を手に足を早めた。枯葉が静かに舞っている。  突然、林の中の静寂がやぶられた。右手前方で、銃声が起った。林の奥には、沢がある。かれは、栄次郎が羆を発見し発砲したことを知った。また二発目の銃声がひびいた。かれは、栄次郎が羆を仕留めたのかも知れぬと思った。  政一は、銃声の方向に走り出した。樹々の間を縫って、沢の方に駈けた。  かれの眼に、枯木に群生しているものが映った。足をとめたかれは、見事な椎茸であることを知った。それも形の良いものが三十個近くもある。茸採りとしての欲望が、かれの内部に湧いた。熊撃ちとしてはなんの利益も得たことはないが、茸は多くの収入をあたえてきてくれた。眼前の椎茸は、かなりの価格で売れることはまちがいなかった。  かれは、枯木に近づき、しゃがむと椎茸をとりはじめた。椎茸は水気をふくんだ素晴しい逸品で、かれは傷つけぬように慎重に肩から下げた布袋の中に入れていった。椎茸をとってから現場へ行ってもおそくはない。栄次郎がすでに羆を斃しているかも知れないし、たとえ逃げられても、足跡ははっきりしているのだからゆっくりと追えばよい、と思った。  ふとかれの耳に、枯葉の上を走ってくる足音がきこえた。  かれは、椎茸を捨てて銃をつかみ立ち上った。栄次郎が走ってくる。その顔には、血の気が失われていた。 「どうしたんだ」  かれが声をかけると、 「追ってくる」  栄次郎が、叫んだ。  政一は、初めて栄次郎が射ち損じたことを知り、栄次郎の背後に視線を据えた。  たしかに林の奥の方から、茶色い体毛を波立たせて近づいてくるものがある。それは、五十貫ほどの母羆と二歳仔の羆だった。  政一は、立ちすくんだ栄次郎に、 「仕留めるんだ。二頭いっぺんにやる。おれは親だ、お前は仔をねらえ。一、二、三で射とう」  と、口早に言った。  羆が、近づいてきた。それが三〇メートルほど接近してきた時、政一は、 「一、二、三」  と、叫んだ。  しかし、栄次郎は発砲しない。羆は近づいてきている。政一は、待ちきれず引金を引いた。つづいて、栄次郎の銃からも発砲音が起った。  政一は、羆が二頭立ちどまるのをみた。かれらの弾丸は、両方とも命中していない。が、羆は射撃音におどろいたらしく後退すると、体をひるがえして林の奥の方に逃げはじめた。  栄次郎は三発とも費消しているので、羆を仕留めることができるのは政一だけだった。かれに闘志が湧いた。この程度の羆なら自分でも射ち斃せそうに思った。  かれは、羆を追いながら弾丸を銃にこめようとした。が、意外なことに弾丸が薬室に入らない。ふくれケースになっている……、かれは顔色を変えた。紙製の薬莢が湿気をすっていて薬室の中に入らない。 「来たぞ」  という栄次郎のふるえ声がした。  逃げ出したと思った母羆が、仔羆とともに引き返して進んでくる。弾丸をつめようと必死になったが、力をこめても薬室に入らない。羆が一〇メートルほどまで接近してきた。 「逃げたらやられる」  政一は、叫んだ。  前年の秋、仔羆をひっくり返した時のことがとっさに頭にうかんだ。かれは、銃身をにぎり、突然大声をあげた。が、羆は動じる風もなく突進してくる。かれと栄次郎は、銃をふりまわしはじめた。  羆が五メートルの近さにまでやってきた。政一は、夢中だった。銃をふるい、 「わーッわーッ」  と、絶叫した。  羆は、立ちどまった。口を開き、眼を据えている。そして、急に後方へ走り出すと、樹木の幹をまわり、再びすさまじい勢いで走ってきた。  政一と、栄次郎は、また銃をふるい声をはり上げた。母羆は大きな口をあけて迫ってくる。牙が音高く鳴っている。  その時、栄次郎の銃の先に黒いものがひらめきはじめた。それは、肩に背負われた握り飯の入っている黒い風呂敷で、必死にふるう銃にからみついて、空気をあおっている。その布の動きに、羆は少しためらったらしく、再び後方へ走ってゆく。  政一と栄次郎は、後へ後へと小刻みにさがっていった。逃げ出したらたちまち羆にとらえられて殺されることを、かれらは知っていた。  また羆が、勢いよく進んできた。政一は叫び声をあげ、栄次郎は銃にからみついた黒い風呂敷を激しくあおった。そんなことが何度もくり返されるうちに、羆は諦めたのかゆっくりと林の奥の方へ去っていった。政一たちは、銃をにぎりしめながら後退をつづけ、ようやく防火線の路に出た。  駈けてはいけない、と政一は自分に言いきかせながらも足を早めて村の方へむかった。  国道へ出た時、政一は、栄次郎の汗にぬれた顔が別人のように面変りし土気色になっているのに気づいた。かれは、栄次郎に笑いかけたが、自分の顔の筋肉もつっぱって動かない。かれの声は、すっかりつぶれていた。  かれらは、ようやく村にたどりついた。栄次郎は羆を仕損じたことが恥しかったらしく、その日のことをだれにもしゃべらなかったが、気さくな政一は妻に話し、たちまち村の中にひろがっていった。政一は大きな声をあげつづけたため咽喉が激しく痛み、ようやく声が出るようになったのは一週間もたってからだった。  伐採の仕事が終って村にもどってきた小山田菊次郎はそのことをきくと、政一の家に訪れてきた。かれは、 「羆だって必死だ。必死なものを斃すのにはこちらにもそれだけの心構えがいる。熊とりにゆく時は、銃も弾丸も点検するのが常識だ。政一もおれの息子も点検を怠った」  と、低い声で言った。  政一は、黙って頭をたれていた。たしかに小山田の言うように、春に使った銃をしらべもせずに持ち出したことが、羆を射そこなった原因であることはまちがいなかった。  かれの袋の中に入れられていた椎茸はつぶれていた。さすがのかれも、椎茸のことはだれにも口にしなかった。     三  さらに三年がたった。依然として政一も栄次郎も、羆をしとめる機会には恵まれていなかった。  その年も、雪どけの季節がやってきた。栄次郎は、中古のライフルを購入していた。そして、政一に山中へ入ろうと誘った。政一は、承諾した。  かれらは、山中で二泊できる食物を携帯し、それぞれ一匹ずつのカラフト犬を連れて支笏湖畔におもむき、恵庭岳に入るとテントをはって野宿した。  翌朝早く起きたかれらは、深い雪の中を進んだ。雪どけといっても、地表がわずかにあらわれているのは南斜面だけで、谷や山のかげにはかなりの雪がつもっている。が、春の気配は濃厚で、日当りのよい場所には土の表面から青い芽がふき出し、沢の水も水蒸気をただよわせて流れていた。  沢づたいに進んで傾斜にかかった時、栄次郎が、 「いたぞ」  と、低い声で言った。  その視線の方向に眼をむけると、斜面に茶色いものが動いている。穴から出た羆が、雪にまみれて遊んでいるのだ。運悪く政一たちは風上に位置していて、近づけば必ず匂いをかぎつけられて逃げられてしまう。距離は、二〇〇メートル近くあった。政一のもつ村田銃は遠射がきかないが、栄次郎の手にしたライフルではそれが可能だった。 「やってみろ」  政一は、栄次郎にすすめ二匹の犬を手もとに引き寄せた。  栄次郎が、立ち上って銃をかまえた。銃声がひびいて、硝煙の匂いが流れた。羆の体が動かなくなった。が、命中したのではなく、じっとこちらをうかがっているようだった。そして、身の危険を察したらしく傾斜を横に早い速度で走りはじめた。  栄次郎が、舌打ちした。 「がっかりするな、あの方向に行ったら羆が大体どこにひそむかわかるんだ。お前のおやじについて行った時、羆の休み場を教えてもらった。あの方向には休み場所が三個所あるから、そこのどこかに行くはずだ」  政一は、栄次郎を慰めるように言った。  かれらは、犬を連れて傾斜を上った。雪の上には、点々と羆の足跡が印されていた。足跡の大きさから察すると四、五十貫の羆のようだった。かれらは、犬の綱をにぎって足跡をたどった。羆は、真北の方向にむかっている。追われていると察しているらしく、足跡を消すために沢の中に足をふみ入れていた。  政一は、栄次郎の父小山田菊次郎について足跡を追った時と全く同じルートを羆がたどっていることを知って自信をいだいた。小山田はためらわず沢の上流へと足をむけた。その方向に、羆の休み場所が三つあって、小山田はその一つで羆をしとめたのだ。  日が、傾きはじめた。 「羆のいる所はわかっているんだ。野宿しよう」  政一は、沢の近くで足をとめると、テントを肩からおろした。  翌朝、まだ暗いうちに起きたかれらは、あわただしく朝食をすますとテントをたたみ、沢の上流から稜線を越えた。  前方に、岩の露出した南斜面がみえた。 「あそこに崖があるだろう。あのつけ根に羆の休み場がある。お前のおやじが羆を追いつめて仕留めたのはあの場所だ」  かれは栄次郎に言うと、犬の首輪に縄をつけた。犬が先行して羆を遠くへ追ってしまうことをおそれたからだった。  政一たちは、銃に弾丸を装填すると身をかがめて進みはじめた。岩が多く雪もないので足跡はみえない。が、かれは、確信をもって崖の下に近づいていった。 「いないようだ」  栄次郎がつぶやいた。犬は忍び足をして歩いているが、近くに野獣の匂いをかぎつけないらしく、体に緊張した気配が感じられない。 「いないな」  政一も、銃をさげた。 「じゃ、次の休み場へ行ってみよう。そこには、きっといるはずだ」  かれは、自分に言いきかすように言うと斜面を上りはじめた。雪におおわれた峯々が、陽光を浴びて眩ゆく輝いている。時折り小雪崩の起るらしい音が、空気をふるわせていた。 「あそこなんだがな」  政一の声には、自信がなかった。屹立した山肌の下にくぼみがある。 「いたっ」  栄次郎の声がしたとほとんど同時に、政一は、羆が崖の下のくぼみにおりてゆくのをみた。やはりおれの勘は当っていた、とかれは思った。今日こそは羆を仕留めることができる、と胸の中でつぶやいた。  栄次郎が崖下の右方に、政一が正面にそれぞれ位置して、犬を放ち羆をくぼみから誘い出させることにした。栄次郎が犬をつれて、右方へと進み、政一は、そのまま崖に近づいた。  政一が手をあげると、二匹の犬の縄がとかれた。犬は、一直線に崖の下方に走り、またたく間に崖の付け根に姿を没した。その直後、すさまじい犬の鋭い吠え声が起った。栄次郎の犬は父親の菊次郎から譲りうけたものであり、政一の犬も同じ血をひいている。羆にかかることを恐れない犬だった。  吠え声が入り乱れ、そのうちに崖下に茶色いものがのぞいた。犬を持て余した羆が、くぼみから出てきたのだ。羆が、全身をあらわし、まといつく犬を手でふりはらっている。  栄次郎が引金をひいた。どこかに命中したらしく羆が腰を落した。が、すぐに立ち上ると足をひきながら斜面を走ってゆく。  政一は、その体に照準を合わせて引金をひいた。羆が、横に倒れた。犬が、狂ったようにそのまわりを走りまわり、体にかみついてはすぐはなれる。  やった! と思うと、眼に熱いものが湧いた。栄次郎が駈けてゆく。政一も、走った。近づいてみると、栄次郎の弾丸は羆の後足の付け根に食いこみ、政一の弾丸は頭部に命中していた。毛並の美しい雄羆だった。  政一は、栄次郎と足をつかんで羆を沢の傍までおろし、マキリで毛皮をはぎにかかった。小山田菊次郎のしとめた羆を処理しつづけてきた政一は、皮はぎが巧みだった。かれは、自分の仕留めた羆を処理することができる快感にひたった。皮をはぐと、内臓をえぐり出した。胆嚢は色艶もよく、体の割には大きかった。歩留りもよさそうで、かれはようやく羆で金銭を得られることに満足した。  解体が終ったのは、午後三時近くであった。かれは、栄次郎と生の羆肉に塩をふりかけて食べた。自分のしとめたものだけに、肉がひときわ美味なものに感じられた。携帯食糧はつきていたが、羆の肉があるので不安はなかった。  政一に、欲望が湧いた。小山田菊次郎は、運がついていなければ羆はとれないと口癖のように言っていた。今日は、自分にとって運のついた日だ。近くにもう一個所、羆の休み場がある。そこへ行けば、また羆を発見できるかも知れない、と思った。  政一が、そのことを口にすると栄次郎もすぐに同意した。かれもすっかり気をよくしていた。  二人は、雪中に羆の皮と体を埋めると沢をはなれて岩山の方へ行った。が、かれらの期待ははずれた。羆の姿はなく、犬を放ってみたがただあてもなく走りまわっているだけだった。やむなくその夜は、沢のほとりに野宿し羆の肉を食った。  翌朝、羆の皮を後でとりにくることにして肉をかついで沢をくだった。  その途中、かれらは羆の足跡が雪どけのぬかった土に印されているのを発見した。それは、ひどく大きな足跡だった。政一にもそれが百貫を越す大羆だということが理解できた。運がついてまわっているのだ、と、政一は思った。 「追おう」  政一が言うと、栄次郎もうなずいた。  かれらは、真新しい足跡をたどって進んだ。峯を越え、谷をわたった。糞が落ちていて、その大きさからみても羆は大物にちがいなかった。しかし、羆は老練な羆らしく休むこともなく進みつづけている。政一たちが追っていることを十分気づいているようだった。足跡は、同じ新しさで雪に印されている。追尾するのを困難にさせるように藪くぐりをしたり、急な傾斜を上ったりしている。  政一たちは、ひたすら追いつづけた。野宿が二日つづいた。しかし、羆は休まない。かれらは、恵庭岳から二〇キロ西方の尻別岳まで行ってしまった。 「もう帰ろう」  栄次郎が、言った。  かれは三日間羆の肉ばかり食べているのでひどい消化不良を起していた。しかも、その肉も残り少くなっている。政一は、栄次郎の申出に同意した。かれも、羆の肉を食べることにうんざりしていた。  かれは、羆の足跡をいまいましげに蹴散らすと道を引き返した。  ……羆の毛皮と内臓は、村の者の助けをかりて山から下した。  その夜、羆の肉を料理して、酒宴がひらかれた。政一は、羆の肉をみるのもいやで酒ばかり飲んでいた。かれの眼には、雪どけのぬかった土に印されていた羆の大きな足跡が焼きついてはなれなかった。もしかすると、その羆は北海道最大の羆かも知れぬと思った。  酒宴に、栄次郎は姿をみせなかった。かれは、羆の肉に消化器をおかされて寝ついていたのである。  栄次郎が健康を恢復したのは一カ月後で、その頃毛皮と胆嚢が業者の手で買いとられていった。 [#改ページ]   第七話 耕平     一  村は、燃えるような紅葉の中に埋れていた。  耕平は、炉端に坐って窓越しに裏山の紅葉をながめていた。部屋の隅には、従弟の俊一とその妻が見じろぎもせず頭を垂れて坐っている。銃をとるわけにはいかないのだ、と、耕平は何度もくり返した呟きを胸の中でもらした。  かれの妻の加代は、その年の春に病死した。耕平が加代と結婚したのは四十二歳の春で、加代は二十六歳だった。加代は、眼の張った美しい女だったが、右足が不自由なことからその歳まで結婚相手に恵まれていなかった。  耕平が四十二歳まで独身でいたのは、孤独を好む性格によるものだった。かれは、二十二歳の早春から山に入り羆を追う猟師になったが、他の猟師と異って先輩の猟師に実地で教えを受けたことはなく、それもかれの人とのつき合いを必要以上に避ける性格によるものであった。  長身のかれは、犬も連れずに一人で山中を一カ月以上歩きまわる。山そのものが好きであった。春の融雪期を迎えた山中には冬の厳しい寒さが残っているが、南斜面には新しい芽がみえて春の訪れの近いことをうかがわせる。両親に早く死に別れたかれは、銃を肩に峯から峯へと歩く。そんな時、かれは限りない解放感にひたった。  先輩の猟師に教えを乞うことのないかれは、長い間羆をしとめることができなかった。他の猟師たちは、そうしたかれを嘲笑した。熊撃ちには豊かな知識と経験が必要で、一人前の熊撃ちになるためには謙虚な気持で先輩の猟師から教えてもらうことが先決である。そうした常識を無視した耕平を、異端者扱いにしていた。  耕平自身も、他の猟師に教えを乞わなければ熊撃ちにはなれぬことを知っていたが、他人とともに山中へ入る気にはなれなかった。  入山するようになってから三年間が経過した。当然のことながら、かれは一頭の羆も仕留めることはできなかった。しかし、山を歩きまわっているうちに、いつの間にかかれは、山の息遣いのようなものに触れることができるような気がしてきた。山には土、岩、植物があるだけではなく、多くの動物たちが山とともに生きていることも強く感じるようになった。羆は、山という大自然の懐に抱かれ棲息して、耕平も自分が山と密接な関係をもちはじめていることを意識した。  四年目の早春に、かれは雪におおわれた斜面で遊ぶ羆を発見した。かれにとって、それは熊撃ちを志してから初めて眼にする羆であった。かれは、その羆をどのように仕留めてよいのかわからなかった。幸いかれの立つ場所は、羆のいる斜面から風下に当っていたので銃を手に接近していった。しかし、羆は、かれの気配を敏感に察知したらしく、かれが射程距離内に達する前に遊ぶことをやめ、ゆっくりと斜面を上って峯を越え姿を消した。  翌年、かれは仔連れの雌羆を初めて仕留めた。偶然にも羆の方から岩かげにひそむかれの方へ近づいてきたので、奇蹟的に射ち斃すことができたのだ。  その折の経験が、熊撃ちとしてのかれに大きな自信と技倆的な影響をあたえた。かれは時折り羆を仕留めることができるようになり、年を追うて猟の成果はあがっていった。十五年が経過し、仕留めた羆の頭数は、かなりの数になっていた。かれの羆を斃す方法は、初めての猟の折の経験を生かし、ひたすら待つことに終始した。長年の経験で、羆がどの方向に進むかを確実に知るようにもなっていた。かれは、羆を発見すると風向に注意しながら或る場所に腰を据え、そこで辛抱強く待つ。羆は、山とともに生きている。定った羆の道はないのだが、その日の気温、天候などによって羆は好ましい方向に進むのだ。  いつの間にかかれの熊撃ちとしての名声は、遠くの町村にもひろがるようになった。が、孤独を好む性格は変らず、仲間との付き合いもなく村はずれの家で一人ひっそりと暮していた。  かれが加代と結婚する気になったのは、加代の美しい眼の中に足に欠陥をもつ者の孤独な悲しみをみたからであった。かれは、加代と暮したいという激しい欲望に駆られた。結婚した耕平は、加代を愛した。融雪期に山へ入るため家を出る時、かれの眼には離れがたい切なそうな光が浮んだ。  結婚してから七年が過ぎた。その年の春もかれは山へ入ったが、猟を終えて二十日後に家に戻ってみると、意外なことに加代は遺骨になっていた。加代は、風邪だと思って医者にもかからず寝こんでいたが、親族の者が見舞いに訪れると、加代は高熱に喘ぎ意識もうすれかけていた。すぐに医者を呼んだが、病気は急性肺炎ですでに手遅れになっていた。  耕平にとって、加代の死は大きな衝撃になった。かれは、ただ一人家の中で病臥していた妻のことが哀れに思え胸が痛んだ。加代は、おそらく体に異常を感じて治療を受けたいと思ったにちがいないが、彼女には家を出て村落の者に救いを求める体力も失われていたのだろう。自分がいたなら……と、かれは悔んだ。山に入らなければ、妻は死亡することもなかったにちがいない、と思った。  遺骨を前に激しく泣きつづけた耕平は、一年間喪に服するために銃をとることはしまいと心に誓った。それが、せめてもの妻に対する罪亡しだった。  銃をとることはできないのだ、と耕平は裏山の紅葉を見つめながら思った。しかし、事情が事情だけに、かれの心は幾分ぐらつきはじめていた。かれには、頭を垂れて坐っている俊一夫婦の悲しみと憤りがよく理解できた。  前日の夕方、小学校三年生の俊一の息子が、友だち二人と山裾を流れる小川で蟹をとっていた。そこに山の傾斜をすべり落ちるように雄羆が近づいてきた。なぎ倒されたのは俊一の息子で、他の二人の子供は村に駈けもどった。俊一をはじめ村の者が現場に急ぐと、小川の傍に食い荒された無惨な遺体がころがっていた。片足の部分は持ち去られたのか、食いちぎられていた。  警官が駈けつけ、猟友会の町のハンターたちもやってきた。が、ハンターたちは熊撃ちの経験が乏しく、協議した末、村に住む耕平の指揮を仰ぐことになった。  翌朝、警官がかれの家を訪れ、俊一の息子を殺した羆を仕留めてやってくれと言った。が、耕平は、その依頼を断った。かれは、妻の喪に服するため一年間銃をとることはしないのだと説明した。喪という言葉に警官も口をつぐんだ。警官は、猟師たちがその職業柄精神的な戒律を自ら課すことに厳しいことを知っていた。耕平が喪に服することを誓ったかぎり、それを自ら破ることはできないと察した。  警官が去ってから一時間ほどした頃、俊一とその妻がかれのもとにやってきた。耕平は、顔をしかめた。 「頼みます。子供の仇をとって下さい」  郵便配達夫である俊一が、畳に手をついた。  耕平は、困惑した。かれは、俊一の息子を愛らしく思っていた。体は小さいが機敏な子供で、村の子供たちと元気よく走りまわっていた。熊撃ちの耕平が親戚であることを誇りにしているらしく、他の子供を誘って何度か耕平の家に羆の毛皮をみにきたこともある。  耕平は、俊一夫婦の憤りと悲しみがわかるだけに困惑した。長い沈黙がつづいた。  やがて裏山に眼を向けていた耕平が、 「それじゃ、山に入るよ」  と、俊一夫婦に言って立ち上り、棚の上に置かれた村田銃をつかんだ。     二  耕平が山に入るという話は、すぐに村の中にひろがった。集ってきていたハンターたちは銃を点検し、耕平のくるのを待った。  小さなリュックサックを背負い肩に村田銃をかけた長身の耕平が、村の集会所に姿を現わした。かれの出した条件は、 「山へは一人で入る」  ということであった。  かれは、二十二歳の春に山に入ってから二十七年間、常にただ一人で羆を追いつづけてきた。他人と山に入って羆を仕留めることはできないという。  ハンターたちは、素気ない言葉に不機嫌そうに口をつぐんだが、かれらはかれらなりに射撃に自信をもっていて、それを一言のもとに無視されたことが腹立たしかった。が、熊撃ちは特殊な知識と経験が必要とされることを知っていたかれらは、多くの羆を仕留めた実績をもつ耕平に反撥することはできなかった。  白けた沈黙がひろがったが、いつの間にかライフルを手に身仕度をととのえた俊一が同行させてくれ、と耕平に懇願した。俊一も猟友会の会員で、狸や猪などを撃った経験をもっている。 「耕平さんが羆を斃した後、おれは子供を殺したその羆の頭に弾丸をぶちこんでやりたい。殺す瞬間を見させてくれ。それでないと、おれは一生気持が晴れない。頼む、頼むよ」  俊一は、泣いた。 「父親だけは連れて行ってやれよ。邪魔はしないと言っている。仏の供養にもなることだ、連れて行きな」  警官が、言った。  耕平は、うなずいた。かれは、家にきて羆の毛皮を見つめていた俊一の息子の無心な眼を思い起していた。  かれは、警官たちの視線を背に俊一を連れて歩き出した。  村の外れにある小川に近づいた。 「どこでやられたのだ」  かれがたずねると、俊一は右手の方向を指さした。そこは小川の流れがカーブしている所で、浅い川床がすけてみえていた。  俊一は、息子の惨めな遺体を思い出したらしく堪えがたいように顔をそらせた。岸の石には黒々とした血がこびりついていた。  耕平は、足早に川床を渡るとそこからつづく山の傾斜に眼を据えた。樹木の根元に、羆の足跡がきざまれていた。六、七十貫程度の羆と推定できた。  振り返ると、すぐ背後に俊一が青ざめた顔で立っている。ついてこられるかな、と耕平は心もとないように俊一を見つめた。俊一は、郵便配達夫という職業柄、足は強靱だし、ハンターとして山歩きの経験もある。が、熊撃ちの猟師である耕平の足は早く、俊一がかれについてこられそうにもなかった。  耕平は、やはり山には一人で入るべきだったと思った。が、いったん承諾したかぎり俊一を引き返させることはできなかった。  羆の足跡は、斜面をのぼっている。かれは、勢いよく斜面にとりつくと足跡を追いはじめた。かれの眼に鋭い光がうかび出ていた。熊撃ちとしての執念が、かれの体を熱くしていた。  斜面をのぼりきると、平坦な熊笹におおわれた高原に出た。幸い数日前に豪雨があって土は充分に水分をふくみ、羆の足跡をはっきりと刻みつけている。その上、熊笹は踏みつけられて折れていて、足跡を追うのは容易だった。  俊一は、荒い息をついて必死についてくる。耕平は滑るような歩き方をしているが、俊一は時折走らなければ追いつかなかった。  熊笹が上り斜面をおおい、灌木のまばらに生えた峯に這い上っている。足跡は稜線に達すると、そこから斜めに灌木の繁みの中を下っていた。稜線に立った耕平は、遠くつらなる峯々に雪がきているのを見た。下方から吹きつける風は、肌を刺すように冷たい。  かれは、足跡をたどりながら灌木の林の中に入っていった。が、十分ほどして、かれは足をとめた。かれの眼は、前方のくぼみに注がれた。そこには、枯葉がうずたかく積もっていた。  ゆっくりと近づいたかれは、くぼみの傍にしゃがみこむと枯葉の上をみつめた。ズボンの切れ端らしい紺色の布切れがみえ、そのあたりに血の色が散っている。  俊一が、おびえたように近づいてきた。 「羆は、昨夜ここで寝たようだ」  耕平は、俊一をふり返って言った。  俊一の眼は、枯葉の上に注がれている。かれも、羆がその場所で息子の片足を食ったことがわかったらしく、膝をつくと顔をおおった。  耕平は立ち上ると、その場から新たにつづく羆の足跡を凝視した。足跡は生々しく、数時間前に刻みつけられたものであることはあきらかだった。日没までになるべく羆に接近すべきだ、とかれは思った。そして、すすり泣く俊一に、 「羆は、それほど遠くへ行っていない。早く行こう」  と、声をかけた。  俊一は、うなずくと立ち上った。耕平の足は、さらに早まった。一定の歩度で灌木の樹間を縫うように下ってゆく。俊一は、顔に汗を流しながらほとんど走るように耕平の後を追った。  灌木の林のはずれに沢があった。足跡は、沢づたいに下流方向につづいている。耕平は、歩き出したがすぐに足をとめた。沢の岸をおおう枯葉が荒々しく乱れている。ここでも休んだな、とかれは思った。しかも、枯葉の乱れ方からみると、羆はその部分で荒々しくころげまわったようだった。羆は人肉を食い、沢で水を飲んだ。ころげまわるのは上機嫌な折にみせる羆の習性で、羆は満腹感にひたっているのだろう。  羆が休息をとったことは、耕平にとって幸いだった。その時間だけ追いつめたことになるわけだが、事実その場からはじまっている足跡はさらに新しく、二、三十分前に刻みつけられたものであることはあきらかだった。  肩を大きく喘がせている俊一が、耕平の表情をうかがった。 「羆は近い。ここでも休んでいる。距離がつまった」  耕平は言うと、銃を肩から下して弾丸をつめた。  俊一も、ライフルを肩からはずし弾丸を装填した。  耕平が歩き出した。羆の足跡は、沢からはずれると東の方向にむかっている。耕平は、しめたと思った。その方向には岩山があり、絶壁がそそり立っている。羆は、その岩山のどこかのくぼみに夜の塒《ねぐら》を得るにちがいなかった。  日が傾き、枯れきった林の梢に西日が当りはじめた。耕平は、落日ときそうように足を早め岩山にとりついた。  眩い西日の中で、かれは足をとめると膝をつき、後からついてくる俊一に姿勢を低くするように手で合図した。そして、リュックサックの中から双眼鏡をとり出すと、前方の岩だらけの傾斜に向けた。  双眼鏡が徐々に移動し、或る個所までくると停止した。点々とつづく羆の足跡は、その場で消えている。耕平は、羆が崖づたいに下りて行ったことを知った。その崖には、所々に岩棚やくぼみがあるが、谷底に下ることは決して出来ない。  かれは、羆をようやく追いつめることができたことを感じた。羆は、岩棚かくぼみで一夜をすごすだろう。もしかすると、満腹感を味わっている羆は、その場で二、三日休息をとるかも知れない。いずれにしても、羆のひそむ場所は突きとめたし、耕平たちはやがて崖下から姿をあらわす羆を待てばよいのだ。  かれは、双眼鏡であたりの地形をさぐった。羆に自分たちの存在をかぎつけられぬ風下で、しかも野宿に適した場所が必要だった。  かれは、双眼鏡をしまうと俊一をうながして歩き出し、楢林の中に入ると枯葉の散り敷かれた土の上にリュックサックを置いた。  耕平は、リュックサックの中に入れてあるポリエチレンの容器の水を飯盒に注ぐと、米を入れた。米は、家を出る前に水洗いし乾してあったので、とぐ必要はなかった。  かれは、俊一と飯を食い味噌をなめた。常に一人で野宿をするかれは、俊一と向い合っているのが気詰りでならなかった。  俊一も野宿をした経験はあるらしく、犬の毛皮を敷いて寝仕度をはじめた。 「明日は、息子の仇を討てるかね」  俊一は、焚火に手をかざしている耕平に言った。 「多分な。しかし、二、三日は崖の下から出てこないかも知れぬ」  耕平は、腰から煙管をぬいた。  耕平は、どのようにして羆を仕留めようかと思った。自分一人きりなら、物かげにひそんで待ちつづける。羆は崖から這い上ると、この楢林の方向に進んでくるだろう。  俊一は、羆を追ったことはないがライフル射撃はかなり巧みだときいている。羆が楢林に入ってくる確率は八割、再び沢の方にもどる確率は二割。ライフルは村田銃とちがって遠射はきくし、確実を期するため、俊一を沢の方向に配置させるべきかも知れぬ、と思った。  しかし、羆と一度も対決したことのない俊一にそのような役割を課すことはできない。息子の仇を討ちたいという強い願いを持ってはいるが、羆は、猪や狸と本質的に異った獰猛な野獣なのだ。  耕平は、俊一を手元にひきつけて二人で羆の近づくのを待つべきだと思った。  星座が、夜空をゆっくりと移動してゆく。耕平は、毛布の中にもぐりこんだ。  俊一は、時折声を殺して泣いていた。     三  夜が白々と明けはじめた。霧が林の中を流れている。耕平は毛布をたたむと、枯枝を集めて火をおこし、俊一と飯を食った。  俊一の眼は、泣き疲れたように脹《は》れている。その眼には、激しい怒りの色がうかび上っていた。  朝の陽光が、林の梢に当り出した。 「さ、行こう」  耕平は、リュックサックを背負い銃をにぎって、林の中を歩き出した。  かれは林のはずれで足をとめ、風向をうかがって左の方向へ移動した。そこには、わずかなくぼみがあって、傍には岩が地表から突き出ていた。  かれは、身を伏すと双眼鏡に眼を押し当てた。羆の足跡は、昨日の夕方と同じように崖のはずれできれたままになっている。崖から上った気配はなかった。 「いいか、羆は崖から上ってこっちへやってくるはずだ。一〇メートル近くまで引きつけてからおれが射つ。お前はただ、岩かげにかくれていればいい。決して動くのではない。じっとしているのだ、いいな」  耕平が言うと、俊一は青ざめた顔でうなずき岩かげにしゃがみこんだ。  雲一つない秋晴れの空だった。遠くつらなる峯々の雪は、眩く輝いている。耕平は待った。かれには、待つことが少しも苦痛ではなかった。かれにとって羆を仕留めることは、待つことであった。  太陽が、頭上にのぼった。耕平は、午後の握り飯を食べた。妻のことが思われた。加代は、米を炊くのが巧みだった。夕餉《ゆうげ》の膳で、熱い飯を向い合って食べた折のことが切なく思い起された。一年間は銃をとらぬという誓いを破ったことが悔まれた。しかし、俊一の息子を食い殺した羆を斃すという目的のためなのだから、死んだ妻も許してくれるにちがいないとも思った。俊一は、黙々と握り飯を口に運んでいる。その悲しげな表情をみていると、この男のためにも必ず羆を射ち斃してやりたいと思った。  なに気なく崖の方向に眼を向けた耕平の口から、短い呻き声のようなものがもれた。崖の上に、こげ茶色の動いているものがある。かれは、双眼鏡に眼を押しつけた。羆だった。しかも、羆は、耕平の推測通りこちらに向って歩いてくる。 「来た。こっちへくる」  耕平の声に、俊一は握り飯を捨てると這い寄り、耕平の渡した双眼鏡に眼を当てた。 「畜生。あの野郎か」  俊一は、歯ぎしりするように言った。 「いいか、もう一度言うぞ。岩かげにかくれていて動くな。おれが近くに引きつけてから射つ」  耕平が念を押すと、俊一は憤りのみちた眼をして何度もうなずいた。  俊一が岩かげに入り、耕平はくぼみに身を伏した。羆は、頭を垂れ加減にして歩いてくる。耕平たちのひそむ場所は完全な風下に当っていて、羆は人の気配に全く気づいていないようだった。  耕平は、もう一度銃に弾丸がこめられているかどうかを確めた。羆が一〇〇メートルほどの距離まで近づいた。その時、耕平は自分の気持がいつもとは異っていることに気づいた。なんとなく冷静さを失っている。かれは、その理由がなんであるのかすぐに理解できた。かれは、いつでも羆の近づくのを一人で待った。他人と待ったことはない。俊一が傍にいることが妙に気になり、精神の集中力が分散している。冷静にならなければならない、と、かれは自分に言いきかせた。  羆は、一直線に歩いてくる。依然として頭を垂れ気味に、岩の多い土の上をふんでくる。五〇メートルほどの距離に近づいた時、羆は突然頭をあげて足をとめ、頭をかしげるようにして匂いをかぐ仕種をみせた。気づかれたか、とかれは思った。羆は、空気の流れの中に人の体臭をかぎつけたらしい。羆は後をふり返り、見じろぎもしなくなった。後方に人が近づいてきていると錯覚しているのかも知れなかった。  不意に羆は、こちらに顔を向けると小走りに歩きはじめた。大地をふむ重々しい足音が、かれの体にもひびいてきた。一〇メートル近くまで引きつけるのだ、とかれはしきりに自分に言いきかせた。荒々しい羆の息の音もきこえてきた。  羆が二〇メートルほどの距離まで迫った。かれは、引金に指をかけて待った。長いような短いような時間が流れた。かれの胸は、いつものように冷えきっていた。羆を仕留める直前の平静な空気が、かれを包みこんだ。  その時、かれは、不意に絶叫を耳にした。それは、激しい恐怖にかられた人間の叫び声だった。かれは、岩かげから俊一が走り出すのをみた。俊一は、林の中に叫び声をあげながら駆け込んでゆく。  耕平は、狼狽した。自分も逃げ出したいような恐怖が全身にひろがった。かれの耳に、荒い呼吸音が迫っていた。かれは、眼前に羆の眼をみた。開かれた薄赤い大きな口もみた。かれは、引金を無意識に引いていた。が、羆はかれの体におおいかぶさってきた。かれは横に倒れた。羆に抑えつけられたかれの胸に、稲妻のようにかすめ過ぎるものがあった。それは、死んだふりをすることであった。  かれは、死んだふりをすれば羆は殺さないという言い伝えが俗説であることを知っていた。が、隣りの村の猟師が、その方法で辛うじて死をまぬがれたことのあることを瞬間的に思い起していた。その猟師は羆を射ち損じ、やむなく死んだふりをした。羆はしばらくもてあそんでから立ち去りかけた。かれは、静かに手を動かして弾丸を銃にこめようとした。それに気づいた羆は再びもどってくると、動かした猟師の腕を食いちぎった。そして、猟師の体を荒々しくいじくりまわした末、動かぬことをたしかめてから去ったという。  耕平は、眼を閉じた。背には、羆の体が密着している。顔の横に、羆の頭がのしかかっている。今にも自分の頭蓋骨が羆の逞しく鋭い歯でかみくだかれるような恐怖におそわれた。意識が何度もかすみかけた。このまま失神して、無意識のうちに殺された方がよいとも思った。  白っぽい時間が流れた。羆の体は、重い。しかも、それは次第に重量を増し背骨が今にも折れてしまいそうであった。  そのうちに耕平は、妙な音を耳にした。それは、一定の間隔をおいて点滴する雨だれのような音であった。かれは徐々に眼をあけた。土の上に赤いものがみえる。血液であった。かれは、自分がすでに傷ついているのだと思った。血液の上に、また血液がしたたり落ちた。それは、彼の頭の上から落ちている。  かれは、身を硬くした。ふと、羆の荒々しい呼吸音がきこえていないことに気づいた。羆の重みはさらに増して、全身の骨がくだけ散るのではないかとも思えた。かれの眼が、大きくひらかれた。引金をひいたことが思い起された。羆が見じろぎもしない理由をようやく知ることができた。  かれは、全身の力をこめて羆の体の下から這い出した。羆は、死んでいた。肺臓に弾丸が命中したらしく、鼻孔から血が流れ出ている。かれは、腰を落した。涙が流れ出た。深い安堵が四肢にひろがった。  しばらくしてかれは立ち上ったが、足がよろめき、岩に手をついて体を支えた。  俊一のことが、思い起された。うつろな胸に憤りも湧いてはこなかった。仲間を捨てて逃げた男は、猟師の世界で生存することを許されない。かれは、ふらつく足どりで小刀をにぎると羆の腹を裂き胆をえぐり出した。これを売って酒でも飲むのだ、とかれは胸の中でつぶやいた。  胆嚢を油紙につつむとリュックサックの中に入れ、銃を肩にかけると岩の多いゆるやかな傾斜をくだりはじめた。  かれは、楢林の方をふりむいてみた。林のはずれにライフルをさげた俊一が、放心したように立ってこちらを見つめているのがみえた。  耕平は、視線を前方にもどすと大儀そうな足どりで歩き出した。  左方には雪をいただく峯々が、秋晴れの空を背景に鮮かな輪廓を描いてつらなっていた。 [#改ページ]   あとがき  昭和四十五年から四十六年にかけて、私は月に一度北海道へ渡った。総合雑誌「月刊ペン」の依頼をうけて、熊撃ちの猟師やハンターを主人公にした短篇を毎月書くためであった。  根気のいる仕事であった。札幌で著名な猟師の名をききこんで、住んでいる地に向う。阿寒湖の近くにも行ったし、日高方面にも足を向けた。おおむね口数の少ない人が多く、極端に気むずかしい人もいた。小説の主人公になるような名猟師ではないと頑なに口をつぐみ、一日がかりでようやく話をしてもらった人もあった。  熊撃ちの猟師の中には誇張した話をする人が多いらしいが、私が会った人たちの中には、そのような人はいなかった。必要以上に自らを律すること厳しく、自慢話などはしない。それがいかにも猟師らしく、その人たちと会った後の気分は爽快だった。  羆のみではなく内地の熊を撃つ猟師も書きたいと思い、富山県に行った。降雪期で、深い雪の中を歩いて仙名幸太郎氏の家に行った。氏を主人公にした短篇は第五話で、それのみが内地熊を撃つ猟師の話である。  この短篇集に書いた小説の主人公は実在する猟師、ハンターであり、物語も実際に起ったことである。短篇という制約のもとで、出来るかぎり簡潔な筆致と構成を念願とした。人間と土の匂いといったものが描出できれば、と思いながら筆をすすめた。  雑誌に第七話まで書き、私は筆を擱いた。月に一回の旅行、それも数日にわたることが多く、私はすっかり疲れきってしまっていたのである。それらを単行本にまとめるため加筆、訂正、削除をおこなったが、各篇を読み直すと、その頃の旅の疲れがあらためて体にのしかかってくるのを感じる。  取材に応じて下さった猟師、ハンターの方々、その所在と御氏名を教えて下さった方たちに、心から御礼申し上げます。    昭和五十四年夏—— [#地付き]吉村 昭   文庫版あとがき  この短篇集を書くため、私は、北海道の熊撃ちの六人の猟師またはハンターたちに会ったわけだが、最後の北海道への調査施行をした時、私は、次は、あれを書こう、と考えた。あれとは、留萌の町で耳にした苫前で起った熊撃ち事件のことである。  苫前は、留萌と稚内のほぼ中間にある日本海ぞいの町である。海口には天売、焼尻の両島が望める。  大正四年十一月、苫前の山間部にある六線沢に巨大な熊が現われた。開拓者の家を次々に襲い、妊婦をふくむ六人を殺害した。近くの町から警察署員が出動したが、熊撃ち専門の山本兵吉という猟師が熊を射殺した。  私は、山本兵吉氏のことを書こうと思ったが、事件の規模が大きなものであるだけに、短篇にまとめるのは到底無理であり、それに毎月一回の北海道旅行で疲れはててもいたので、断念した。  それから三年後、私は気をとり直して苫前におもむき、この事件の調査をした。少年時代、辛うじて難をのがれた二人の方から話をきき、その事件のきき書きをまとめていた農林局農林技官木村盛武氏から記録の提供もうけた。これによって、私は、長篇小説「熊嵐」(新潮社刊)を書き上げることができた。つまり「熊嵐」は、この短篇集「熊撃ち」の副産物として生れたのである。 「熊撃ち」に登場してくる猟師に、現場へ車で案内されたことがあった。欝蒼とおいしげる原始林は、物音一つせず、深い静寂が無気味であった。猟師は、銃を持っていなかった。私は、今にも熊が現われるのではないか、と恐しくてならず、猟師をうながしてそうそうに車にもどり、その場をはなれた。  内地の月の輪熊は植物性のものを主食とするが、北海道の熊は、植物性のものを食べると同時に肉食でもある。牛、緬羊などの家畜を襲い、人間も食い殺す。  熊は月の輪熊とは比較にならぬほど体が大きく、五百キロを越すものさえある。襲われた数頭の牛の写真を見たことがあるが、最初に牛の頭を殴って殺したらしく、牛の首が一様に直角に折れ曲っているのを眼にし、その力が強大であることを知った。内地の人間には、熊は愛らしく思えるのだろうが、熊は恐しい猛獣なのである。  昨年夏、「熊嵐」の舞台になった地を再訪するテレビ番組があり、事件の起った山間部に入ることになった。その地には今でも熊が出没しているので、ハンター三名が実弾をこめたライフルを手に同行してくれた。  ジープで山道をたどり、今はすでに朽ちてない襲われた家の跡に立った。沢の凄流の音がしているだけで、森閑としている。  三十分ほどその場にとどまり、ハンターたちと町にもどった。私には、その山間部に熊がひそんでいるような気がし、ジープに乗った時は安堵の息をついた。  この「熊撃ち」の調査をし短篇を書いていた時は、よく熊におそわれる夢をみてうなされた。今ではそんなこともほとんどなくなったが、まだ稀にはある。     昭和六十年晩秋 [#地付き]吉村 昭 吉村昭(よしむら・あきら) 昭和二年(一九二七年)五月一日、東京に生まれる。昭和四十一年、『星への旅』により太宰治賞を受賞。昭和四十八年、『戦艦武蔵』『関東大震災』などにより菊池寛賞を受賞。昭和五十四年、『ふぉん・しいほるとの娘』により吉川英治文学賞を受賞。昭和六十年、『冷たい夏、熱い夏』により毎日芸術賞を受賞。『破獄』により読売文学賞、芸術選奨文部大臣賞を受賞。昭和六十二年、日本芸術院賞受賞。平成六年、『天狗争乱』により大佛次郎賞を受賞。平成九年、日本芸術院会員。平成十二年、海洋文学大賞特別賞受賞。近著に『東京の戦争』(二〇〇一年、筑摩書房刊)がある。 この作品は一九七九年九月、筑摩書房から刊行され、一九八五年一二月ちくま文庫に収録された。