TITLE : 新・水滸伝(二) 講談社電子文庫 新・水滸伝 吉川 英治 著  目 次 新・水滸伝 秋を歌う湖島《ことう》の河童《かつぱ》に、百舟ことごとく火計《かけい》に陥《お》つこと 林冲《りんちゆう》、王倫《おうりん》を面罵《めんば》して午餐会《ひるめしかい》に刺し殺すこと 人の仏心は二婆《ば》の慾をよろこばせ、横丁の妾宅は柳に花を咲かせる事 女には男扱《あつか》いされぬ君子《くんし》も、山野《さんや》の侠児《きようじ》には恋《こ》い慕《した》われる事 悶々《もんもん》と並ぶ二ツ枕に、蘭燈《らんとう》の夢は闘って解《と》けやらぬ事 ふと我れに返る生姜湯《しようがとう》の灯も、せつな我れを失う寝刃《ねたば》の闇のこと 地下室の窮鳥《きゆうちよう》に、再生の銅鈴《どうれい》が友情を告げて鳴ること 宋江、小旋風《しようせんぷう》の門を叩くこと。ならびに瘧病《おこりや》みの男と会う事 景陽岡《けいようこう》の虎、武松《ぶしよう》を英雄の輿《こし》に祭り上げること 似ない弟に、また不似合な兄と嫂《あによめ》の事。ならびに武松《ぶしよう》、宿替《やどが》えすること 隣で売る和合湯《わごうとう》の魂胆《こんたん》に、簾《すだれ》もうごく罌粟《け し》の花の性の事 色事五《い》ツ種《いろ》の仕立て方のこと。金蓮《きんれん》、良人《おつと》の目を縫うこと 梨売《なしう》りの兵隊の子、大人《おとな》の秘戯《ひぎ》を往来に撒《ま》きちらす事 姦夫《かんぷ》の足業《あしわざ》は武大《ぶだ》を悶絶《もんぜつ》させ、妖婦は砒霜《ひそう》の毒を秘めてそら泣きに泣くこと 死者に口なく、官《かん》に正道《せいどう》なく、悲恨《ひこん》の武松は訴える途なき事 武松、亡兄の怨《うら》みを祭《まつ》って、西門慶《せいもんけい》の店に男を訪《おとな》う事 獅子橋畔《ししきようはん》に好色男は身の果てを砕《くだ》き、強慾の婆は地獄行きの木驢《きうま》に乗ること 牢城の管営《かんえい》父子、武松を獄の賓客《ひんかく》としてあがめる事 蒋門神《しようもんしん》を四ツ這《ばい》にさせて、武松、大杯の名月を飲みほす事 城鼓《じようこ》の乱打は枯葉を巻き、武行者《ぶぎようじや》は七尺の身を天涯《てんがい》へ托《たく》し行くこと 緑林《りよくりん》の徒《と》も真人《しんじん》は啖《くら》わぬ事。ならびに、危なかった女轎《おんなかご》のこと 花燈籠《はなどうろう》に魔女の眼はかがやき、またも君子宋江《そうこう》に女難のあること 待ち伏せる眼と眼と眼の事。次いで死林にかかる檻車《かんしや》のこと 秦明《しんめい》の仙人掌《さぼてん》棒《ぼう》も用をなさぬ事。ならびに町々三無用の事 弓の花栄《かえい》、雁《かり》を射て、梁山泊《りようざんぱく》に名を取ること 悲心《ひしん》、長江《ちようこう》の刑旅《けいりよ》につけば、鬼の端公《たんこう》も気のいい忠僕に変ること 死は醒《さ》めてこの世の街に、大道芸人を見て、銭《ぜに》をめぐむ事 葦《あし》は葦の仲間を呼び、揚子江《ようすこう》の“三覇《さんぱ》”一荘《そう》に会すること 根はみな「やくざ」も仏心の子か。黒旋風《こくせんぷう》の李逵《りき》お目見得《めみえ》のこと 新・水滸伝 秋を歌う湖島《ことう》の河童《かつぱ》に、百舟ことごとく火計《かけい》に陥《お》つこと  風は身が緊《し》まるほど冷たい。水も空もまっ青に冴《さ》え切った秋の大湖だ。  湖は海のごとく、山東《さんとう》の河川《かせん》を無数に吸い容《い》れ、そしてまた山東の外洋へと、その漲《みなぎ》りはどこかで吐き出されているらしい。 「アアあれだな。——いち早く石碣村《せつかそん》を立退いて、奴ら七人が、隠れたと聞く浮巣《うきす》のような島というのは」  真ッ先をゆく一艘の舳《みよし》に立って、刑事頭《がしら》の何濤《かとう》は小手をかざしている。そのあとからは大小数十隻の捕盗船《ほとうせん》が、舳に官旗をひるがえし、捕兵の弓や矛《ほこ》や刺叉《さすまた》を満載して、白波を揚げながら迫ッて行く。  すると、どこかで粋な漁歌《ふなうた》が聞えた。見れば芦間《あしま》隠れの洲《す》の蔭から、ただ一人の漁夫が、こっちへ小舟を操《あやつ》ッて来る。  ぎょっとしたように、捕手の内のひとりが叫んだ。 「あっ、阮小五《げんしようご》だ」 「なに、あいつがか?」  捕盗隊は櫓《ろ》舟、櫂《かい》舟、棹《さお》さし舟、狩り集めなので船種もじつに雑多である。それが一令のもとに扇開《せんかい》して、小舟一ツを遠巻きにかかった。  阮小五は、櫓柄《ろづか》を片手に、けらけら笑った。 「ようっ、おいでなすったね役人衆。捕手と蝗《いなご》は、あたま数で脅《おど》かすものときまってるのか。意気地なしめ」  何濤《かとう》はみずから接近しつつ、 「うぬ、不敵な奴。……それっ、弓で射て取れ、弓で」 「おい、笑わしちゃいけねえよ。人民いじめの大官の手先め。てめえらこそ、盗《ぬす》ッ人《と》役人というもンだ。覚悟をしろ、逆に召捕ってくれるから」  とたんに、彼の姿と小舟をつつんで、一せいに矢かぜが唸《うな》った。けれど同時にザンブとばかり水ばしらを宙《ちゆう》に残して、阮小五の影はもう青い水中に透いて見え、怪魚のごとく泳ぎ廻っていたのだった。 「しまった。——逃がすな」  水へ向って射込んでも、矢は用をなさず、刺叉《さすまた》で掻き廻しても、投げ鑓《やり》を抛《ほう》りこんでも、笑うが如き泡沫《あ わ》が一面ぶつぶつ明滅するのみである。  ぜひなく、さらに芦間《あしま》を漕ぎすすむと、やがてのこと、またもや人を小馬鹿にするような鼻唄が聞えた。きッと見れば、こんどは二人を乗せた小舟の影が、さながら水馬《みずすまし》のような速さで、同勢のすぐ鼻先を横ぎッた。 「や、やっ。阮小七《げんしようしち》と阮小二《げんしようじ》だぞ」 「引ッ捕えろ。何をしている」  何濤が、叱咤《しつた》すると、彼方の舳《みよし》では、 「何濤、この江には、間抜けに釣られる魚はいねえぜ。それとも蜻蛉《とんぼ》捕りか」  竹の皮笠に、半蓑《はんみの》を着、手に管鎗《くだやり》を持った男が、白い歯を見せてからかった。  怒りにまかせて、何濤は手の鎗をぶんと投げたが、むなしく水面に落ちてしまう。そのほか群舟の一せいな攻撃も、先の小舟は尻目にかけて、彼方の水路へさして一散に逃げ込んで行く。そのまた舟脚《ふなあし》の速さといったらない。 「しめたぞッ」と、何濤は一同を鼓舞《こぶ》した。「——両岸はもう浮巣の島だ。この水路にはきっと、どん詰りがある。いまの二人を追いつめろ」  ところが、予想はちがった。まるで逆だ。進めば進むほど水路は狭《せば》まり、そこへ沢山な捕盗船《ほとうせん》が無二無三につづいて来たため、舳《みよし》と艫《とも》、櫓《ろ》と櫂《かい》などが絡《から》みあって、果ては味方同士、にッちもさッちも動けなくなってしまった。 「ええい、程にしやがれ、まごつくのも」  何濤は部下を罵《ののし》ッた。 「てめえたちは、日ごろ陸《おか》の上だと、目から鼻へ抜けるような奉行付きの人間どもじゃねえか。いくら水の上だって、このざまア何だ。——少し退《さ》がって、横の沼へ出ろ、沼の方へ」  それからすぐ、十人二十人ずつを、手分けして、 「広くもねえ浮巣の島だ。葭《よし》の根を分けても程が知れている。奴らの隠れ家を見つけて来い。いや見つけたらすぐ合図をしろ」  と、陸《おか》へ放った。  ところが、その幾組もが、いつまで待っても一ト組とて帰って来ない。やがて陽は傾き、蕭条《しようじよう》たる水も芦《あし》も茜《あかね》いろに染まっていた。 「やい、この小舟に、五、六人乗り込んで俺について来い。おれ自身、廻って視《み》よう」  赤い沼のおもてを、彼の早舟は影黒く、岸から岸を二、三十町ほども漕《こ》ぎ巡っていた。——と鋤《すき》をかついだ百姓の影が岸にみえた。何濤はそれへ呼びかけて、 「ここは何処だい。お百姓」 「旦那は何だね」 「見た通りだ。官のお役人よ」 「こんなところに、なんの御用かえ、ここは断頭溝《だんとうこう》ッてえ、沼の袋小路でがすぜ」 「阮《げん》の兄弟の漁小屋があるだろうが」 「あ。そんなら、すぐそこの林の蔭ですわえ」 「や、ありがてえ」  何濤《かとう》の起《た》つより早く、手下《てか》の捕手三人が先へ陸《おか》へとび上がった。——それが土を踏むやいな、ぎゃッといったので、何濤は仰天した。待ちかまえていたらしい百姓の鋤《すき》が一気に三名をもう打仆《うちたお》している。 「うぬっ」  舟べりから躍って、何濤ともう二人の部下が、汀《なぎさ》へ跳ぶと、さながら河童《かつぱ》のようなものが、いきなり水中から半身を出して、何濤の足をつかみ、あッというまに、ぶくぶくぶく……と沼底へ深く消え込んでしまった。 「……おおい、小七《しようしち》小七、いい加減に浮いて来いよ」  やがてのこと。  兄の阮小二が、水のおもてを見て呼んでいる。すると、少し離れたところの岸で、げらげら笑っている者があった。いつのまにか、そこで満身の水を切っていた弟の小七である。そばには、何濤の体が、雑巾《ぞうきん》みたいに、草むらへ抛《ほう》り出してあった。 「なアんだ、そんなところか。広言どおり、まんまと捕手の総頭《そうがしら》を召捕ッたぜ。さあ、料理はこれからだ。……何濤《かとう》、つらを見せろ」 「ゆるしてくれ、兄哥《あにき》、このとおりだ」 「わははは。兄哥だなんて言やあがらあ。やいやい日ごろはさんざッ腹、お上《かみ》の禄《ろく》を食らって、贅沢三昧《ぜいたくざんまい》、あげくに下々《しもじも》の中を、肩で風を切って歩く奴がよ、俺たちの前に両手をついて、兄哥なんていっていいのかい。……それでおめえ、すむのかい」 「家には、八十にもなる老母がいるんです。どうか一命だけはひとつ怺《こら》えておくんなさい」 「おやおや、泣キの手と来たぜ。どうしよう、弟」 「簀巻《すまき》にして、舟底へ抛《ほう》りこんでおこうじゃねえか。息の根をとめるなら、いつでもだ」 「よし来た。……じゃあ呼ぶぜ」  小二の吹く指笛が、水に谺《こだま》してもの凄い。忽ち薄暮を破って数名の漁夫がむらがって来た。その者たちへ、蓆巻《むしろま》きにした何濤の身を預け、小二小七のふたりは、二そうの小舟に乗り分れて、また何処へともなく漕ぎ去った。 「どうかしてるぜ、今日っていう日は」 「おん大将の何濤まで行ッたきり雀で帰って来ねえや。一体どうしたんだろうな」 「あれ、いやな雲だぜ。こいつはいけねえ。空模様まで、ヘンてこになってきやがった」  星屑《ほしくず》降るような宵だったが、忽ち芦《あし》のざわめき、波を捲く風《ひようふう》だった。そしてそれとともに、ごうっと冷たいまばら雨をまじえた怪風が、とつぜん、真ッ黒な舟溜《ふなだま》りの群れを、山のように揺り上げ揺り下ろした。 「あっ。南無三《なむさん》」 「舟と舟が、芋《いも》を洗うようだ。あぶねえ、あぶねえ。舟がぶち壊《こわ》れるぞ」  まさに、危険はそれだ。舟べりがメリメリいう、櫓《ろ》がくだける、梶が裂ける。——夕方からここに舟屯《ふなだむろ》して、何濤や仲間の合図を待っていた大小数十そうは、滝壺《つぼ》の中の木ノ葉みたいに揉《も》まれ始めていた。  しかも、それだけではない。沼のはるか風上から、団々たる二つの火が、闇の水面《みずも》を辷《すべ》るように飛んで来る——あッと、立ち騒ぐまもなく、それは眼前に来ていた。二そうの小舟に枯れ柴《しば》を山と積んだ大紅蓮《ぐれん》なのである。  はやくも、炎の柴は、こっちの舟団にぶつかって、凄まじい火を所きらわず撒《ま》きちらした。防ぐ手段は何もない。舟から舟へ、火は燃え移り、狂い廻るばかりなのだ。居所を失った人間は、蛙に似ていた。水中よりほかに逃げ場はなく、浮き沈みしつつ火の粉をかぶッた。  なお、憐《あわ》れをとどめたのは、岸へ逃げ上がった輩《やから》である。そこには、 「ござんなれ」  と、待ちかまえていた戒刀《かいとう》の持ち主があった。腕の冴えは、まさに彼の異名、入雲龍《にゆううんりゆう》の名を思わせるもので、これぞ道士《どうし》公孫勝《こうそんしよう》その人だった。  さらには、管鎗《くだやり》を持った阮《げん》小七だの、野太刀や櫂《かい》を振りかぶる小二、小五などの三兄弟のほか、この浮巣島の漁民十数人も加わって、 「——一匹も生かして帰すな」  と、うろたえ廻る官兵を追っかけ廻したものである。そのうえ彼らの逃げまどう先々もまた、いたるところ、野火の焔と化している。  暁もまたず、大小の捕盗船はことごとく覆没《ふくぼつ》し、あわれむべし、この夜助かった捕兵といったら、そも、幾人あったろう。——やがて夜は白み、水のおもての狭霧《さぎり》には、まだ黄いろい余煙が低く這い、異様な鳥声が、今朝は劈《つんざ》くように啼《な》き響く。 「どうだ何濤《かとう》。ちったあ懲《こ》りたか」 「さあ、こんどは、てめえの番だぞ」 「首の座となってから、泥亀《すつぽん》みてえに手を合せたって追いつくもんか。きれいに往生しやあがれ」  阮《げん》の三兄弟は、ゆうべの小舟の舟底から、簀巻《すまき》の何濤を引っぱり出して、岸の上にひきすえていた。  やや離れたところに腰かけて、ニヤニヤ笑って見ているのは、公孫勝と晁蓋《ちようがい》だった。——晁蓋はほとんど蔭の指揮だけをして、ゆうべの修羅場には腰の一刀も抜いてはいない。 「おい、三兄弟——」と、その晁蓋は、頃あいをみて言いだした。 「やっちまう気か。よせよせ。そんな奴、斬ッたところで、何になるものか。それよりは、押ッ放してやれよ」 「えっ、助けてやれと仰っしゃるんですか。そんなお慈悲は、済州《さいしゆう》の百姓町人にとっちゃ、かえって恨まれもんですぜ」 「なアに、これほどな目をみせて帰しゃあ、もう人民いじめの元気も出めえ。それに事の次第を、そいつの口から、済州奉行所やら都の蔡《さい》大臣へも、つぶさに報告させたほうがいい。おれたちはコソ泥じゃあねえ。当代宋朝《そうちよう》の腐れ大官や悪役人どもと対決しているんだ。帰してやれよ、そんな三下《さんした》は」 「ちぇっ、命冥加《みようが》なやつだ。おい小七、晁蓋さまのおことばじゃ仕方がねえ。ご苦労だが、こいつを石碣村《せつかそん》の街道口まで持って行って、押ッ放してこいや」 「よしきた、ちょっくら、行ってくるぜ」  早舟を漕がせて去った小七は、やがて、二時間ほどもすると、帰って来た。そして四人にこう復命した。 「ただ帰しても、どんな法螺《ほら》を吹くかしれず、また人民の中で威張りさらすかも知れねえから、匕首《あいくち》で奴の両耳を削《そ》ぎ落してくれましたよ。すると野郎、火の玉みたいな顔をかかえて、赤《あか》蜻蛉《とんぼ》みてえに、素ッ飛んで行ってしまった」 「ま、それくらいはいいだろう」  晁蓋も苦笑し、ほかの三人も笑いあった。  そしてさっそく、その日の午後、江《こう》を渡って、さきに呉用《ごよう》と劉唐《りゆうとう》が行って待っている梁山泊《りようざんぱく》の渡口《とこう》——李家《りけ》の四ツ辻にある——偽茶店《にせちやみせ》の亭主朱貴《しゆき》のところで七名全部、落ち合った。 林冲《りんちゆう》、王倫《おうりん》を面罵《めんば》して午餐会《ひるめしかい》に刺し殺すこと  ここに一軒の偽《にせ》茶店を構えて、多年、梁山泊の渡口《とこう》を見張っている旱地忽律《かんちこつりつ》の朱貴《しゆき》だったが、まだかつて今日までには、こんな堂々たるお客様を、お迎え申したことはない。  しかも、七人連れ、いずれも一トかど。  ずいぶん人間という人間は舐《な》めつけている朱貴だが、この一行には、多少畏《おそ》れを抱いたようだ。七名中の最年長者、智多星《ちたせい》呉用の口から、これへ落ちて来たいきさつの一ぶ一什《しじゆう》と、各自の年齢、異名、苗字《みようじ》姓名までをすっかり聞き取り、それを書状にするやいな、すぐ手下の一人に命じて、対岸の山寨《さんさい》へ持たしてやった。 「何もございませんが、頭領《とうりよう》からおゆるしが参るまで」  と、その晩は、羊を屠《ほふ》り、酒甕《さけがめ》を開いて、一同をもてなした。  山寨の返牒《へんちよう》は、夜半に来ていた。夜明け早々、かなりな大船が廻されてきた。案内として朱貴も乗り込む。  この朝の彩雲《さいうん》はすばらしい。いちめんな芦《あし》の洲《す》は、紫金青銀《しこんせいぎん》の花を持つかと疑われ、水は色なくして無限色をたたえる瑠璃《るり》に似ていた。漕ぎすすむことややしばらく、近づく一口の江の蔭から、たちまち銅鑼《どら》や鼓笛《こてき》の音がわき起った。見れば、一陣の物見舟である。賓客《ひんきやく》の礼をとって、歓迎の楽《がく》を奏したものか。  さらに、二つの江の口を過ぎると、やがて金沙灘《きんさたん》の岸には、幾旒《いくりゆう》もの旗と人列が見えた。頭領の王倫《おうりん》以下、寨中《さいちゆう》の群星が、関《かん》を出て、立ち迎えていたものだった。  七名、船を出て、粛《しゆく》とした沙上《さじよう》へ進む。  晁蓋《ちようがい》の礼をうけて、王倫が大容《おおよう》に言った。 「あなたが、世間で名高い托塔《たくとう》天王の晁蓋どのか。ほかの方々の尊名も、昨夜書中でみな伺った。いずれも名だたるお人々、いや山寨《さんさい》にとってもこんな光栄なことはない」 「どう仕りまして。そう仰っしゃられてはかえって身が縮む。てまえは名主あがりの無学者。ほか一同も、今は天下に身のおき場なき巷《ちまた》の落人《おちゆうど》。ただただご仁義の下におすがり申すばかりです」 「ま、ここではご挨拶も。……ともあれ、山の本郭《ほんぐるわ》までお越しなすッて」  と、王倫は先に立った。  閣《かく》に閣を重ねた梁山泊のいわば本丸。そこを“聚議庁《しゆうぎちよう》”とよんでいる。  庁堂の一段たかいところに、王倫以下のものは左列を作《な》して居流れ、晁蓋たちは右側に並んだ。寨《さい》中の小《こ》頭目《がしら》たちは、ことごとく階下だった。  ここで順次、正式の名《な》のりがおこなわれ、鼓楽《こがく》、歓迎の祝辞などあって、 「お疲れでしょう。あらためて、いずれ後刻」  と、客側は、朱貴にみちびかれて、一応、客廊を渡って客舎の棟《むね》へひきしりぞく。  さて、午後からは大宴だった。二匹の牛、十匹の羊、五匹の豚が、あらゆる物に調理され、酒は山東《さんとう》の生粋《きつすい》、秋果《しゆうか》はこの山の実《みの》りだし、隠れたる芸能の粋士もまた寨中《さいちゆう》に少なくない。歌絃《かげん》、管笛《かんてき》は水に響き、雲も答えるばかりだった。 「……ああ、つい酔った。久しぶりだ。こんな愉快な日はない」  よほど欣《うれ》しかったとみえ、晁蓋《ちようがい》は、客舎の自房へ帰って来てからも言っていた。そして側にいる呉用へ向って、 「先生、まったく渡る世間に何とやらですな。寄るべない一同を、こんな温情のもとに迎えてくれた王倫《おうりん》の心のあたたかさ。なんと感謝していいかわからない。きっと恩義には報いねばならん」 「あはははは。ハハハハ」 「や、先生としたことが、なにを冷笑なさいますか」 「余りにお人がいいからじゃよ」 「晁蓋がお人よしですッて」 「そうだ。さいぜんも酒宴の席で、あんたは王倫と杯を交《か》わしながら、何度もそれを言っておられた。また、賊にはなっても不義無情の徒にはなるまいとか、世相の不平、悪政への怒り、胸を開いて、さまざま訴えておいでたろうが」 「それが、なぜいけないので」 「いや、そのことではない。——さらに話がすすんで、断頭溝《だんとうこう》の奇策やら、何濤《かとう》を押ッ放してやったこと、公孫勝や三兄弟の豪傑ぶりなどを披露におよぶと、王倫の顔は、さっぱり冴えなくなってしまった。のみならず、眼は狐疑《こぎ》をあらわし、暗《あん》にあんたやわれわれを、忌《い》み恐れる風もみえた」 「はてな。そいつア、気がつかなかったが」 「彼の幕僚、杜選《とせん》、宋万《そうまん》の二名は平凡、ひとり豹子頭林冲《ひようしとうりんちゆう》なるものこそ英俊《えいしゆん》と見えた。——林冲はいぜん京師で、近衛軍《このえぐん》の兵法師範を勤めていた者とか。おそらく彼は心から王倫に服している者ではないとおもう」 「王倫の小人物であることは、かねがね聞いてはいましたが、しかし、ここへ来て、こう厄介になる以上は」 「いや、どっちみち、このままではおさまらんよ。わしに一計がある。寨《とりで》の内輪に同士討ちを起させ、一ト波瀾《はらん》はみようが、その上でここの不満不平を一掃させ、そして規律と序列を正そう」  翌朝のことである。——前夜、噂をしていた林冲が、朝のあいさつに見えた。  呉用が、皆に代って、昨夜の礼をのべると、林冲は、薄ッすら笑って、 「いや、ほんとのご歓待なんてものは、形や物ではありません。その点、御気色《みけしき》にさわるふしもありましょうが、それがしは寨中の末端者だし、何かとつい行き届きません。どうかおゆるしのほどを」 「おことばで充分だ」呉用は、親しみを示して、なお話しかけた。「——ご辺《へん》のお名まえは、夙《つと》に都の東京《とうけい》でも名高い。さるを何で、高《こうきゆう》(宋朝の権力者)に厭《うと》まれ、滄州《そうしゆう》の流刑地などへ追いやられた末、かかる所にまで身を落されておいでたのか」 「高」  きっと、林冲《りんちゆう》は唇《くち》を噛んで、 「——高と聞くだけでも、この髪の毛が逆《さか》だちます。流刑地のくるしみも、涙なくしては語れません。……が、恩人柴進《さいしん》どのの添え状に依り、ここへ仲間入りできたものです」 「と、仰っしゃるのは、あの小旋風《しようせんぷう》柴進と世に響いている大旦那ですか」 「されば、古い周《しゆう》皇帝のご子孫だとも伺っている、あのお方です」 「ほ。そんなお人の推薦《すすめ》もあり、しかもまた、ご辺ほどな履歴と腕のある人物を、なぜ王倫《おうりん》は、寨《とりで》の主座にすえないのでしょう」 「はははは。拙者などは、彼の下風《かふう》でも、あまんじましょう。しかし、あなた方には、必ず非礼の惧《おそ》れが生じる。それがちと不安です。せっかく加盟のお心で臨まれ、寨上《さいじよう》に花を添えた心地ですが、さあその点が……」 「王倫が本心では、よろこばないので?」 「嫉妬《しつと》があの人の瑕《きず》です。人を容《い》れる度量がなく、疑い深い。もうここまで申し上げたのだから申しましょう。じつはここの客舎も、関外の低舎《ていしや》です、まあ、ざっとした通り一ぺんの旅人を泊らせる雑房にひとしい粗末。じつはその失礼も、おわびせねばなりません」 「いや、ご辺のおさしずではない。なんのなんの。……しかし王倫がそこまで吾々を気厭《けうと》くきらッているのだったら、一同は山寨《さんさい》の和を破らぬため、即座に退散してもよろしいが」 「お待ちください。かえってそれは、頭領と拙者どもの間に、異な感情をわきおこしましょう。王倫主座としては、あきらかに、あなた方を、ていよく追っ払うつもりでいますが、せっかくな天与《てんよ》の邂逅《かいこう》、なんとも、拙者にはお別れしにくい。いや皆さんと、このまま、むなしく袂《たもと》を別ってよいものか。……ま、それがしにお任せあって、お胸をなでていて下さい」  林冲は耳をほの紅くして去った。そして午《ひる》ごろ、南山の水寨《すいさい》から、その日再び、午餐《ひるめし》の招待があった。  会場へ行くべく、みな身ぎれいに、支度しだした。その間に、晁蓋《ちようがい》が小声で、呉用の耳へささやいた。 「どうでしょう、この午餐会《ひるめしかい》は」 「何事か、起らずにいまいな。……おそらくは林冲《りんちゆう》が、くち火を切るに違いない」 「そしたら、黙って見ていますか」 「やれば、やらせておく。もし王倫《おうりん》と林冲の二人の舌火《ぜつか》が、あやふやな妥協にでも終りかけたら、この呉用が横ヤリを入れ、三寸不爛《ふらん》の舌さきで、二人の舌戦《ぜつせん》を煽《あお》り立てる。見てござらッしゃい」 「それやおもしろい」  晁蓋もいまはすっかりその気になった。そこで呉用は、他の面々へも、言いふくめた。 「……いよいよの土壇場《どたんば》いざとなったら、この呉用が、左の手で、こう髯《ひげ》をひねる。……と見たら、おのおのは一せいに、隠し持った短剣でな。……よろしいか、髯が合図でおざるぞ」  客舎を出ると、宋万《そうまん》が騎馬で迎えに来るのに会った。七台の山輿《やまごし》を舁《かつ》いだ山寨《さんさい》の手下《てか》が、七名の客を乗せて、山ぞいを蜿《うね》り、峰道を越え、やがて南山の一亭へと運んで来た。  閣は水に臨み、欄《らん》は外洋の眺めまでを入れ、風光なんとも絶佳である。  主客の列は、左右に椅子《いす》を並べて分れた。捲き掲《かか》げた珠簾《しゆれん》の下から、後亭の池園《ちえん》を見れば、蓮葉《はちすば》のゆらぎ、芙蓉《ふよう》の色香、ここも山寨の内かと怪しまれるほどである。やがて酒もめぐり、談笑にわき、午餐会《ひるめしかい》もようやく酣《たけなわ》と見えてきた。  しかし、誰の口からでも、ふと話題が、七名の仲間入りのことになると、王倫《おうりん》はすぐ話をほかへそらしてしまった。そのたびに、白々しい空虚ができる。そして、木に竹をついだような話が宋万や、杜選《とせん》の口から、無理に出された。  午餐なので、杯盤《はいばん》はまもなく退《さ》げられ、甘い酒と、果盆《かぼん》が代って出た。いや、さらに美々しい一盆には、五箇の銀塊が乗っていた。 「——ところで、豪傑がたに、心ばかりなお餞別《はなむけ》を仕りたいが」  王倫は、突如として、その銀塊の盆を、晁蓋《ちようがい》のいる卓の方へさし向けた。 「思わざるご来訪、王倫、身にとってこんな欣《うれ》しいことはござらん。しかし、ごらんの通りな波濤《はとう》に囲まれた一山寨《さんさい》、いわば雨水の溜《たま》り桶を分けて暮らしているようなもの。龍宮住居《ずまい》というわけのものでもない。……で些少《さしよう》なれどこの銀子《ぎんす》をお持ちあって、諸州を見くらべ、他の大きな寨《とりで》に身を寄せ、おのおののご雄志を充分に、よそで伸ばしていただきたい」  晁蓋《ちようがい》は、来たナと思ってか、くすんと微苦笑を、鼻で鳴らした。 「いやこれは、とんだご会釈《えしやく》です。一同浪々の身なので、どいつもこいつも寒々しくお目に見えたかもしれませんが、じつは小遣銭《こづかいせん》ならあり余っているのです。せっかくですが、ご斟酌《しんしやく》なく」 「なぜ取ッて下さらんのかな。ご遠慮は抜きにしましょうや」 「お心の底は見えた。しからば、これで私どもはおいとまいたしますよ」 「ま、そういわんでもよかろう。何も無下《むげ》に仲間入りをお断りするわけじゃない。じっさい、冬にでもなると、この大家内、糧《かて》や酒は足らなくなるし、住居も不足でな」  ここまで、黙って聞いた林冲《りんちゆう》は、ついにその双眉《そうび》をきっと青白い炎にして、末席の椅子から大喝《だいかつ》を発した。 「嘘を申せっ、王倫っ」 「な、なんだと。きさまは林冲、頭領のこのほうに、何をいうか」 「聞いてはおれん。そもそも、拙者が初めてこの山寨を頼って来たときも、いまいったのと同じ口上《こうじよう》だったではないか。しかも、穀倉には蓄《たくわ》えも山と積みながら」 「だまれ、この忘恩の徒め。——柴進《さいしん》旦那の紹介と思えばこそ、能もないのに、むだ飯食わせて飼いおけば、いい気になって」 「能なし?」 「山寨へ来てから、どれほどな功をたてたか」 「まさに何の稼《かせ》ぎもしていない。しかし、汝もまた、無能の飾り物ではないか。官途を望んだ落第書生が、流浪の果てについこんな巣を見つけて、やくざを集めたというだけのはなしだ」 「いったな林冲《りんちゆう》、後刻、眼にもの見せてやるぞ」 「おお、いま見せて貰おうか」 「喝《か》ッ。うごくな」  せつな、呉用が大手をひろげて、両者の間に立ちはだかった。 「ま。お待ちなさい。……要するに、これはわしたちがこれへ来たことがいけなかったのだ。晁蓋さん」 「おう、先生。なんですか」 「見た通り、わしたちのため、とんだ不和を山寨に招いてしもうた。きれいに、お暇《いとま》して、ここは退散しようじゃないか」  眼くばせすると、ほかの五名も、いちどに、どやどやと椅子《いす》を離れて、 「さあ、行こうぜ」  とばかり、一トかたまりになって、亭の階段を降りかけた。  王倫も、これにはちょっと、いやな気持ちを覚えたらしい。あわてて、追っかけるように、 「やあ待ち給え。そいつはちと気が早い。もう一盞《さん》、機嫌直しを飲《や》って、こころよく乾杯した上、お別れしよう」  とたんに、末席の椅子が、横に仆れた。卓の果盆も引ッくりかえる。ずかずかと、林冲の大きな背丈《せたけ》が、王倫の方へ真ッ直に向って来かけたのである。  と見るや、呉用は、 「えへん!」  と、咳《せき》払いしながら、左の手で、長いあご髯《ひげ》を一つ横へしごいた。それを合図に、 「あっ、同士討ちはおよしなさい」  と階段の中途から、皆、どたどたと引っ返して来た。戻るが早いか、阮《げん》小二は杜選《とせん》に抱きつき、小七は朱貴を、小五は宋万を抱きとめた。  そして、晁蓋と劉唐《りゆうとう》とは、ぴたと、王倫の両わきへ寄り添い、 「まあ、そうお腹を立てないで」  と、袂《たもと》の下から、環帯《かんたい》の腰の辺を、ぎゅっとつかんで離さない。 「なんたるつらだ。王倫っ。それが頭領の態度か。恥を知れ、この落第書生め、仁義の皮をかぶッた偽者《にせもの》め」  一方の林冲は、なお罵《ののし》りつづけている。その林冲の胸先をかろく制して、呉用の位置は、彼を遮《さえぎ》るような恰好を見せてはいたが、眼《まなこ》は王倫の姿を焦点に燿《かがや》いていた。 「女の腐ッたような奴だ。それで梁山泊《りようざんぱく》の頭目などとは片腹いたい。いやこの梁山泊は、きさま一個のものじゃあない。人をそねむ賊の頭目など、舌を噛んで死んじまえ。さもなくば、きさま自身、どこへでも立ち去るがいい」  林冲は罵《ののし》りつづける。その面罵《めんば》に、王倫はぶるぶる五体をふるわせ、地だんだを踏み鳴らしたが、足掻《あが》きも、前へは踏み出せない。  しかもまた、杜選《とせん》、朱貴、宋万といった手輩《てあい》も抱きとめられてはいるし、辺りの空気もただならないので、みずから行動には出なかったが、 「喝《か》ッ。き、きさまたち……この王倫が、こんなに侮辱されているのを見ているのか。やあ。わしの味方はどこにいるんだ。ほかの手下《てか》ども、林冲《りんちゆう》を捕り抑えろ、ぶッた斬ってくれねばならん」  と、吠え猛《たけ》った。すると彼のその鼻さきへ、 「おおもッともだ。さあ、斬っておやんなさい」  と、呉用が手を退《ひ》いて、林冲のからだを、突き放してやったのだった。  王倫は、佩剣《はいけん》へ手をかけた。しかし抜けない。いやそれよりもはやく、豹子頭《ひようしとう》のその青額《あおびたい》が、低くどんと、彼の心窩《みずおち》の辺へぶつかって来た。同時に、その脾腹《ひばら》へ深く刺しこんでいた彼の手の短刀が、しずかに王倫の立ち往生のままな苦悶を抉《えぐ》っていた。……ポト。ポト。ポトと音せわしく糸をひいて垂れた鮮血は、絨毯《じゆうたん》模様のような緋牡丹《ひぼたん》を床《ゆか》の足もとに大きく描いた。 「…………」  どたんと、林冲は、王倫の大きな図ウ体を、手から離した。晁蓋《ちようがい》以下も、みな片手に白刃を隠し持っていたのである。呉用は、大音声《だいおんじよう》で言った。 「言い分のある者はここへ出て来い。——今からは豹子頭《ひようしとう》林冲をわしたちの頭領として、山寨《さんさい》の主座にいただこうぞ。文句はないか」  朱貴、杜選、宋万らは、床《ゆか》にへたばッて、ただ叩頭《こうとう》するのみである。堂外の手下《てか》や小頭目もみな、わっと、どよめきを揚げただけで、その後の声もない。  だが、林冲のみは、仰天してこう叫んだ。 「滅相もない宣言だ。先生のおことばとも思われん。それではこの身の立つ瀬がない。頭領を殺して自分がその位置を奪ったことになってしまう。そんな事ア出来ない。義に生きる仲間同志のいい笑い草だ。無理にと押しつけるならぜひもない。林冲はどこかへ姿を隠すしかございませんぜ。……それよりもどうか、この林冲の意見を、皆してお聞きねがいたいんです。さ、それを聞いてくれますか、くれませんか」 「聞きましょう!」と、異口同音にみな答えた。 「——ほかならぬ、あなたのご意見とあるならば。これや静粛に、伺わずばなりますまい」 人の仏心は二婆《ば》の慾をよろこばせ、横丁の妾宅は柳に花を咲かせる事  さて。林冲《りんちゆう》の提言とは、こうであった。 「人には天性おのずから器《うつわ》というものが備わっている。林冲は器にあらず。晁蓋《ちようがい》どのこそ人の上に立つべきお人だ。晁《ちよう》君を以て今日より山寨の首長に仰ぎたいと思います。ご一同にも、ぜひご賛成ねがいたい」 「いけません、いけません」  晁蓋は手を振って固辞した。——そんな柄《がら》ではないと、再三再四断ッたが、すでに満堂一せいの拍手だったから、林冲はすばやく、 「では、諸兄にもご異存はありませんな。晁頭目《ちようとうもく》、衆議の決ですぞ」  とばかり、彼の手を取って、正座の一番椅子《いす》に据え、その前に香炉台《こうろだい》を置き、王倫の兜巾《ときん》を外《はず》して、晁蓋《ちようがい》の頂《いただき》に冠《かぶ》せた。 「いざ呉用先生。先生は軍師として、第二席にお着きください」 「とんでもない。わしは根ッからの寺小屋師匠、孫呉《そんご》の智識など思いもつかん」 「ご遠慮は無用、先生がそう仰っしゃると、あとが困ります。——第三は、道士《どうし》公孫勝どの、先生の帷幕《いばく》を助くる副将として、ご着位のほどを」 「それやいかん。林冲どの、あなたこそ、その位置に」  これは一同で薦《すす》めたのだが、林冲はなお譲ッて四番目の座を取った。  五位には劉唐《りゆうとう》、六位に阮《げん》小二、七位に小五、八位に小七。——それから杜選《とせん》は九位にすわり、宋万は十位、朱貴が十一位と順位はきまって、ここに新選梁山泊《りようざんぱく》の主脳改組《かいそ》もできあがった。  あくる日、これを全山に布告して、聚議庁《しゆうぎちよう》は清掃された。星を祠《まつ》る祭壇には牛馬の生血を供え、天地神明に誓いをなした。 「さあ、飲む時は飲め。三日間は遊び飽きろ」  祝いは毎日つづいた。島は祭り気分である。穀倉も酒倉も押ッ開かれた。しかし胃の腑《ふ》には限度があった。七、八百の手下《てか》どもはまったく堪能したかたちだった。  しかしその後は、刀、弓、箭《や》、戟《げき》、矛《ほこ》などを寨門《さいもん》に植え並べ、陸上の陣稽古《げいこ》、水上における舟いくさの教練など、いや朝夕の規律まで、前よりもはるかに厳しい。  けれど、晁蓋の大人《たいじん》の風《ふう》、呉用の学識、公孫勝や林冲の英気などが、自然、下風《かふう》に映るものか、不平などは見たくも見られない。それどころか、一種の和楽が醸《かも》し出され、それが一だん男仲間の結束と侠を磨《みが》き合った。  まもなく、灰色の外洋に冬が来る。  霜白き芦荻《ろてき》には、舟が氷《こお》りつき、鴻雁《こうがん》の声も、しきりだった。 「都に残した妻はどうしているだろう?」  ふと、雁《かり》の渡るを見ても、林冲は独り腸《はらわた》をかきむしられた。或るとき、その想いを呉用や晁蓋に語ると、もっともだと同情して、さっそく人を派して山寨に迎え取らせることにした。ここの山蔭の一端には、先に呼びよせた阮《げん》兄弟の老母や妻子を初め、子供だけの一部落もあったらしい。  ところが、二た月ほど費《つい》やして、やがて帰ってきた使いの話によると、林冲の妻は、その後も、高《こう》大臣父子の迫害やら、無態《むたい》な縁組みに迫られて、ついに自害して果て、彼女の父親も、首を縊《くく》って死んだという報告だった。 「……そうか。さぞ口惜しかったろう。しかも良人《おつと》のわしにそれほどまで、貞操《みさお》をたてていてくれたのか」  林冲はポロリと涙をこぼした。かかる男でも、泣くことがあるのかと思い、晁蓋や呉用までみな瞼《まぶた》を熱くした。  ——春の訪れと共に、梁山泊《りようざんぱく》に一舟《しゆう》の注進《ちゆうしん》が聞えた。——再編成された官軍の捕盗船隊三、四百艘が、石碣村《せつかそん》の入江から沖を埋めて、機を窺《うかが》っているという報である。  しかもこんどの総指揮官は、済州《さいしゆう》奉行所付きの黄安《おうあん》という者で、手勢二千人、戦備も前よりは格段な物々しさであるという。 「さア、いらっしゃい。氷も解けたし、雑魚《ざ こ》も蓮《はす》の根から泳ぎ出す陽気だ。——こち徒《と》にとっても、長い冬籠りの退屈醒《ざ》ましにはちょうどいい折、いでや眼にもの見せてやろうぜ」  山寨《さんさい》の驍勇《ぎようゆう》どもは、手に唾《つば》して待ちかまえた。——かくて、金沙灘沖《きんさたんおき》の水戦は展開され、蕩《ひようとう》たる白浪《はくろう》は天を搏《う》ち、鼓噪《こそう》は芦荻《ろてき》を叫ばしめ、二日二た夜にわたる矢風と剣戟《けんげき》と、そして雲に谺《こだま》する喊声《かんせい》のうちに、さしもの官船数百隻を、枯葉《こよう》のごとく粉砕し去った。  げにも皮肉だ。この一戦こそは、求めもしないのに、官から賊寨《ぞくさい》へ、わざわざ貢《みつ》ぎの贈り物を運んできたようなものだった。分捕《ぶんど》り品だけでもたいへんな量である。馬匹数十頭、兵舟百余艘、弩弓《どきゆう》、よろい甲《かぶと》、石火矢砲《いしびやほう》、帆布《はんぷ》、糧食など、すべて梁庫《りようこ》に入れられた。 「冬じゅうの居食いで、山寨の倉も少々お寒くなっていたら、この到来物《とうらいもの》ときたぜ。なんとこんな疾風《はやて》なら、ときどき襲《よ》せて来てもらってもいいな」  凱歌の角《つの》笛は、春を高々と吹き鳴らされ、梁山泊の意気、ここに全く革《あらた》まる概《がい》があった。  それにひきかえ。  船も装備もみな失い、あげくに、指揮者黄安も賊に生け捕られ、散々なていで済州《さいしゆう》へ逃げ帰った官兵は、ただ事の顛末《てんまつ》を奉行所の門へ哀号《あいごう》し合うだけだった。  折ふしまた、庁内の接官亭には、蔡《さい》大臣の使者と、大臣府の辞令を帯びた新任官が、都から到着していた。——それにより、旧奉行は官職を解かれ、旅装して、ただちに開封《かいほう》東京《とうけい》の問罪所へ出頭すべし、との厳令なのだ。 「さては、責任を問われるのか」  と、旧奉行は青くなって萎《しお》れたが、新任の奉行もまた、門前の哀号《あいごう》を耳にして、 「なんと。お取立てと思ってよろこんで下向《げこう》して来たら、豈《あに》はからんや、こんな土地の、こんな群盗退治が、これからの仕事なのか」  と着任早々、ぼやいている。  とまれ両三日のまに、事務引継ぎもすまされ、旧奉行は都へ召還されて行ったが、やがてこの奉行交代の通知とともに、梁山泊にたいする協同警戒の布告が、隣県城《うんじよう》の県役署へも廻送されて来たのだった。  城県《うんじようけん》の知事時文彬《じぶんぴん》はいま、庁の書記長の宋押司《そうおうし》に、一書類を示して、 「どうも気の毒なことになったな。済州《さいしゆう》の奉行は失脚して、次の新奉行と代ったらしい。これは先の七人組の大盗《だいとう》の逃亡始末と、梁山泊一帯の地理やら内容を報じてきたものだが……。ひとつ、これを書記班《はん》で複写させて、至急、県下一帯の郷村に配布させてくれんか」  といった。 「承知しました。大変ですなア、どうも」  宋江《そうこう》はすぐさま、書記室へ行って、その手順をとった。  彼には若くて頭のいい助手がある。張文遠《ちようぶんえん》という者だった。村里《そんり》への配布は張にまかせ、黄昏《たそが》れごろ、宋江は、役署を出て、いつも見馴れた町角へかかってきた。 「おやまあ……。これはこれは、押司《おうし》さまじゃございませぬか」  出会いがしらの声に、誰かと思えば、横丁《よこちよう》に住む周旋屋《しゆうせんや》の王《おう》という痩《や》せ婆さんだ。この口達者な婆さんがまた、もひとり後ろに、肥《ふと》ッちょなでぶ婆さんを連れていて、 「閻婆《えんば》アさんよ、お前はまあ運がいいよ。ついさっき、私がお噂をいってたろ。……あの押司さんだろうじゃないか。よくよくご縁があったんだよ、さあご挨拶でもおしなねえ」 「これこれ婆《ばば》ども。ご縁があったとは、一体なんのことだ」 「まア押司さん、お聞き下さいましよ。ゆうべポッキリと、閻《えん》の老爺《おやじ》が亡くなりましてね。……酒のみで、歌謡《う た》狂《きちが》いといわれた道楽者じゃござんしたが、あれでも親娘《おやこ》三人ぐらしの稼《かせ》ぎ人《て》だったんでございますよ」 「ふム。……それは可哀そうに」 「まったく、気のいいおやじさんでございましたからねえ。それだけに押司さま、死んだあとは借金ばかり。……それでまアお葬式も出せないッて、私みたいなところへ泣きつきに来るような始末。ところがこの私も、病人やら物費《ものいり》やらで、このところ、どうしようもございません。……こんな往来中で、なんともかンともすみませんが、お慈悲と思し召して、この閻婆《えんば》に、棺桶《かんおけ》の一つでも、お恵みなすってやっちゃあ下さいますまいか」 「王婆、ほんとかね、それは」 「まア旦那、なんだって、お葬式をタネに嘘なんかいえましょう」 「じゃあ、これも仏への供養だ。わしの名刺《めいし》を持って、葬式屋の陳三郎《ちんさんろう》の店から、棺桶と華《はな》を貰って行くがいい」 「あれ、まあ。やっぱり宋押司さまは、噂にたがわぬお情け深いお方だった。さア閻婆《えんば》さんよ。なにサ、おまえのためじゃないか。お礼をお言いよ、こっちへ来て、お礼をさ」 「よせよせ、往来中でそんなペコペコをくり返すのは。しかし、棺桶一ツだけでは始まるまい、雑費はあるのか」 「とんでもない。棺桶にさえ、途方に暮れていたところ、お供《そな》えのお団子《だんご》や煮《に》しめ一つ買うお金さえも、じつはもう……」 「ないのか。じゃあ仕方がない。これで万端をすますがいい」  宋江《そうこう》は、持ち合せの銀子《ぎんす》二枚を与えて立ち去った。  歓喜した婆さん二人は、眼でも眩《まわ》したようにチョコチョコ露地の横丁へ走り込んだ。そこの露地からは、翌日葬式《とむらい》が出た。また数日おいて、王婆さんは饅頭《まんじゆう》を持って、宋押司の自宅へお礼に行って戻って来た。 「世間もひろいが、まア、あんないい人って見たことないね」  ——王婆さんは、賞《ほ》めちぎるまいことか。そのあげくに「……行ってみたら、ご家族はみんな宋家村においてあって、この町では、まるで書生さん同様な下宿暮らしの独り者さ。それでいて、人の貧苦はよく見てやるんだから、全く感心しちゃったね、出来ない芸だよ」 「あたしにとッても大恩人さ」と、閻婆《えんば》も負けずに褒《ほ》めたたえた。そして、苦《にが》み走った好い男だの、横顔の容子《ようす》がいいのと、男振りの品さだめまでしたあげく、 「これでわたしが、もう三十も若かったら、あんな人を独り下宿屋などに寝かしちゃおかないんだが……」と口惜しそうに言ったりした。すると王婆はげたげた笑って、 「なんだね、お前さんたら、まだそんな色気があるのかい。婆惜《ばしやく》さんというあんな妙齢《としごろ》の娘を持ッてるくせにさ」 「措《お》いとくれよ。この年じゃあ、どう思っても、高嶺《たかね》の花だぐらいなことがわからないでどうするもンかね。だからもし、押司《おうし》さんさえよかったら、わたしゃあ娘の婆惜《ばしやく》を、あのお方に持っていただきたいと願っているのさ。わからないかえ、それが本心なんだよ」 「ほんにねえ、婆惜さんは十九だっけね。閻婆の娘とは思われないッて誰もいうほど、ひと目見た者はみんな一ト目惚れする縹緻《きりよう》よし。それに芸事といったら、道楽者のおやじさんが可愛がって仕込んだだけに、たいそうなもんだのに」 「それやあお前、こんな山東《さんとう》の田舎とは生れが違うよ。死んだおやじがまだ都の東京《とうけい》で盛んに商売をやっていた時分は、わたしも朝湯寝化粧だったけれど、あの娘《こ》も蝶よ花よと小さいときからの芸仕込み。それを色街の姐《ねえ》さん芸者だの料理屋の楼主が惚々《ほれぼれ》と見ては噂して、ずいぶん養女にくれの何のといわれたものさ」 「ほい、また娘自慢が始まったよ。そうかい、そうかい」 「お茶化しでないよ。こっちが真面目にはなしているのに」 「こっちも大真面目さ。いったいどうするんだよ。押司さんの方は」 「おまえさん、周旋屋だろ。まかせるといってるじゃないか。大恩人の押司さんには、それよりほかご恩返しはないと思っているわけだよ」 「なるほど、ご恩返しにかえ。じゃあ、わたしも欲得なしに一ト肌ぬいでみようかね。ちょっとこの相手は、孔子《こうし》様みたいで、なんだか恐《こわ》くて難かしい気がするけれどね」  とはいえ、王の婆さんも海千山千。その男性観にはべつな信条があろうというもの。以後折々に宋江《そうこう》を訪ね、そして宋江の閑暇《かんか》をよく笑わせ、やがて打ち解けた頃合いを計って、或る日、美人婆惜《ばしやく》の執《と》り持ち話をもちかけた。  宋江とてももとより木でも竹でもない。ふと好奇心をもったのは事実である。自分の地位で女の一人ぐらい囲っても誰が怪しむわけでもあるまい。むしろ独居《どつきよ》の生活こそ下僚からもいぶかられている。——いや、そう思ったのは、すでに王婆の口舌《こうぜつ》に口説き落されていたものといえよう。  とにかく彼は、ふと彼に似げない心になって、つい役署の西の横丁に、そっと、近所も静かな一軒を借り求め、そこに婆惜を囲うことになってしまった。  この道のみは、聖賢の道ではどうにも割り切れない。初心《う ぶ》な若旦那が、何かに憑《つ》かれたようなものだ。反対にわずか一ト月ほどの間に、水を得た魚とも見えたのは閻《えん》の母娘《おやこ》である。家具衣裳は買い込むし、髪には珠を、沓《くつ》には珊瑚《さんご》を、食べ物の贅沢《ぜいたく》、臙脂《べ に》おしろいから香料など、母娘《おやこ》二ツの鏡台の飾りたてはいうまでもない。  が、宋江はそれに惑溺《わくでき》しきれない不幸児でもあったのだ。なるほど十九の婆惜《ばしやく》は佳麗絶世といっていいが、その口臭《こうしゆう》にはすぐ下品を感じ出し、玉の肌にもやがては何か飽いてくる。——自然、泊ってゆくこともない。婆惜も何となくあきたらなかった。男の情炎に焦《や》き爛《ただ》れたいのに、いつも焦《じ》れッたいだけで狂炎の情に突き刺されることがない。もどかしい思いが積ッて自然、不満が醸《かも》される。艶眉《えんび》がそれを怨《えん》じて見せても宋江には通じないのだから、なお焦々《いらいら》するし、しまいには男を小馬鹿にしたくなってきた。  ところへ、或る夕のことである。 「婆惜……。今夜はね、ひとつ面白く飲もうと思って、友達を連れて来たよ。婆さん、美味《う ま》い物をひとつうんとご馳走しておくれ」  めずらしく、宋江が一名の客をつれて来た。 「よう、いらっしゃいました」  婆惜はこぼるるような愛嬌であいさつした。宋江は間に立って、やや羞恥《はにか》ましげに、 「こちらはね、役署の属僚《ぞくりよう》で、書記室の次長をしている張文遠《ちようぶんえん》——またの通り名を、小張三《しようちようさん》というお人だ。なにかと、仕事の上でもわがままをいっているし、お前もまた、親しくしていただくようにと思ってね」 「どうぞ、ふつつか者でございますが」  鬢《びん》の簪《かざし》を重たげに、婆惜はかしらを下げ、張三もいんぎんに礼をしたが、年ばえから見ても、この二人の対比は、一対《つい》の美男美女であったばかりでなく、婆惜のひとみには、張三を見たとたんに、性来の多情がたっぷり色となって、耳朶《みみたぶ》までほの紅く染めていたにもかかわらず、そばで眺めていた宋押司《おうし》は、それを嫉《ねた》むということすらも、知らなかった。 女には男扱《あつか》いされぬ君子《くんし》も、山野《さんや》の侠児《きようじ》には恋《こ》い慕《した》われる事  たださえ美人の婆惜《ばしやく》が、その夜は、わけても艶《えん》だった。宋江《そうこう》へ愛相《あいそ》がいいのは当り前だが、張三《ちようさん》への執《と》りなしも並ならず細《こま》やかだった。杯のひまにはふと、化粧崩れを直したり、いつのまにか衣裳を着代えて現われたり、いつにない酔艶《すいえん》、妖《あや》しいばかりに見える。 「ああ、いい月だこと。今夜は燭《あかり》もいりませんわねえ。こんな愉《たの》しい晩ってないわ」  彼女のいずれへいうともない独り言へ、客の張三は如才なく相槌《あいづち》を打って、 「お部屋を見ますと、ご夫人はいろんな楽器をお持ちですな。音楽はお好きですか」 「ま、いやですわ、ご夫人だなんて」 「じゃあ、婆惜嬢《ばしやくじよう》さま」 「ホホホホ、お嬢さんでもないわね私は。……でも、その小嬢《としごろ》だった頃、わたし開封《かいほう》の都で育ったでしょ。そして近所が色街でしたからね、しぜん稽古事は、ずいぶん仕込まれてきたんですって」 「ひと事みたいに仰っしゃるけれど、それじゃあずいぶんお上手なんでしょう。どうです、てまえが笛を吹きますが、ひとつ胡弓《こきゆう》をお弾《ひ》きになりませんか」 「そして、何を奏《や》るの」 「その東京《とうけい》で一ト頃流行《は や》った開封《かいほう》竹枝《こうた》でも」 「開封竹枝、ああなつかしいこと。奏《や》るわ、久しぶりに。……お母《かあ》さんも、旦那へお酌《しやく》でもしながら、そこで聴いててよ」  二人は、笛と胡弓を合奏《あ わ》せて、ひとしきり他愛もなく陶酔《とうすい》していた。婆惜が愉しそうであれば宋江の心も愉しむ。妾宅の旦那でこそあれ、いわゆる世の旦那型ではない、彼の君子人《くんしじん》的な性質は、女を持っても酒を飲んでも根ッから常日頃の——及時雨《きゆうじう》、宋《そう》公明の人柄をちっともくずす風がない。  だが、女とすれば、こんな堅人《かたじん》は面白くでも酢《す》ッぱくでもないのだろう。一しょに寝てさえ何となく味気ないやらぎこちなくて、地獄で母子《おやこ》が救われた恩人とは思ってみても、ついぞ真底《しんそこ》、自分の男と抱きしめる気にもなれぬし、抱きしめられて、枕を外《はず》したこともなかった。 「……それにひきかえ、旦那の連れて来た張文遠《ちようぶんえん》さんは、役所では旦那の下役だそうだけど、なンてまあ、ほどのいい……」  彼女はその晩、すっかり張三《ちようさん》(文遠)に魅されてしまった。色の黒い黒宋公《こくそうこう》旦那が、色白な張三の肉付きに見較《くら》べられては、よけい虫が好かなくなった。恋情《おもい》は別れ際の眼もとにあふれていたろう。またそこは色道にかけての玄人《くろうと》張三のことだから、 「……ははあ、こいつは、ものになるナ」と、早くも見ていたにちがいない。  その後、いつのまにやら張三は、こッそり、ここへ一人通《がよ》いをしはじめていた。つまり客ならぬ妾宅の間夫《まぶ》——。娘で食っているおふくろなので、閻婆《えんば》もそこは巧く逢う瀬のやりくりをお膳立てしてやるしかなかった。後で思えば、これや“猫にかつぶし”のたとえ。下役の張三を、わが妾宅へ連れて来たなど、宋江としたことが一代の大失策だったといっていい。  しかのみならず、ひとたび、張三というその道の達人にかかったおぼこ同様な婆惜は、初めて男を知ったなどという生やさしいものではないその性来の性に、われながら持て余してきた恰好だった。元々、淫蕩《いんとう》の血は母の閻婆《えんば》にあったものだろうが、その閻婆すらが、時には階段の下で舌ウチするほど、二階の帳《とばり》の内で男にさいなまれる彼女の体が、囈言《うわごと》じみた情炎の悲鳴を洩らしているなども、再々だった。  自然、これは宋江の耳にも入らないわけはない。近所の囁《ささや》きばかりでなく、婆惜の冷たいしぐさにでも薄々わかった。しかし、それにも彼は、彼独自な考え方で、ぼそと、独り呟《つぶや》いていたにすぎなかった。 「仕方がない。……女のほうからあッちへ血道を上げているのではぜひないことだ。父母《お や》が選んでくれた女房じゃなし、なにも、行かないでいればすむことだ。当分、足を抜いていよう」  近ごろは、とんと婆惜《ばしやく》のことも忘れ、県役署へも精勤して、さばさばと、今日もそこの門から宋江は退庁していた。  時刻は、たそがれ頃である。  町角の髪結床《かみゆいどこ》で、ひげを剃《そ》らせていた旅人ていの男がふと、往来を行く彼を見ていた。 「おや、あれやあ、宋押司《そうおうし》さんじゃねえか」 「お客さん、ご存知ですかい。あのお方が、及時雨《きゆうじう》といって、県でも良吏《りようり》と評判な宋押司さんでございますがね」 「そうか。置いたぜ、髪結《かみゆ》い賃《ちん》を」 「あッ、だんな、まだ片《かたびん》が残っていますよ。それにおつりも」 「いいよ、いいよ」  男は後も振り向かない。  八《や》ツ乳《ぢ》の草鞋《わらじ》に、白と緑の縞脚絆《しまきやはん》、野太刀をぶっこみ、片手に范陽笠《はんようがさ》という身がるさ。  燕のように軒並びの町の灯を過《よ》ぎって追ッ馳けていって、 「もしっ、お待ちなすって」  と、宋江の後ろ姿へ呼びかけた。 「え? 私ですか」 「お見忘れでござんしょうか。名主の晁蓋《ちようがい》さんの屋敷に身を寄せていた者の一人。赤髪鬼《せきはつき》の劉唐《りゆうとう》でございますが」 「あ。あの赤馬どのか。……これは驚いた。意外な所で」 「おなつかしいやら、あの節のお礼やら……。ま、何から申していいか分りません。ちょっと、そこらの酒屋《のみや》までお顔を拝借できますまいか」  町端れの仄暗《ほのぐら》い一紅燈。そこの二階の小部屋におちつき、劉唐は、野太刀を壁の隅に立てかけると、下にひざまずいて、 「……昨年の秋、九死に一生を得させていただいた大恩人の宋江さまへ、あらためて、頭領の晁蓋《ちようがい》以下、呉学人、公孫勝、阮《げん》の三兄弟などに代りまして、このように、真底《しんそこ》、お礼申しあげます。……一別以来のご無沙汰の段を、悪しからずと、一同からもくれぐれな伝言でございまして」 「ヤ、お手をお上げ下さい。給仕人が来る、そんな慇懃《いんぎん》では怪しまれます」 「では、ご免なすって」と、劉唐も椅子《いす》につき、杯、数献《すうこん》を交《か》わしながら、声ひそめて、「——お蔭でただ今では、梁山泊《りようざんぱく》に七、八百人の子分を擁《よう》し、山の規律なども一新してうまくいっております。これもみな、大恩人のお蔭と、晁頭領《ちようとうりよう》以下、無寐《むび》にも忘れたことはございません」 「そうかい。それはまあ、みな息災《そくさい》で、何よりでした。それにいい便りを聞かして貰ってわしもうれしい」 「ところで、まことに、失礼ではございますが、何をもって、一同の心をお報《むく》いしたらいいかと相談の末、ここに晁頭目のお手紙と黄金百両とを、てまえ托されて参りました。どうぞ一同の寸志と思って、お収めなすっておくんなさいまし」 「それほどまでに……」と、宋江はうやうやしく頭を下げ、 「ではいただいておく」  と、差出された書簡ならびに封金十箇のうちの一箇だけを取って、ふところへ納めた。  劉唐《りゆうとう》は、ちょっと、まごついて言い足した。 「押司《おうし》さま。どうぞあとの九十金も、そちらへ」 「いやいや、本来は貰うべきではないが、ご一同のおこころざし、身に沁《し》みてうれしい余り、一封だけは頂戴したのだ。官の年俸もいただいている身、なに不自由な身でもござらん。あとはお持ち帰りあって、よろしく、おつたえ願いたい」 「それじゃあ、てまえが困ります。ご恩報じの使いとして来て」 「でも、おこころざしは、これで充分いただいたのだから」 「ところが、山寨《さんさい》の内も、王倫《おうりん》が頭《かしら》だった頃とちがって、掟《おきて》きびしく、いやしくも、使命をうけて、使いの役を果たせないなンて奴は、仲間の内に、面《つら》をおいてはいられません」 「では私から、ご一同へ宛てて、一札《さつ》、返書をしたためましょう。それならお顔も立とうし、私の心もとどく」  さっそく懐中《ふところ》硯《すずり》を出して、一文を書いて封じ、なおお互いの消息を、なにくれとなく語りながら、彼も劉唐も、思わずぼうと頬も染まるほど数角《すうかく》の酒をかたむけ合った。 「じゃあ、お名残はつきませんが、山寨でも一同待っておりましょうから、これでお暇を」  二人は、酒店の横の露地を出た。——ちょうど初夏ごろ。宵の月がまんまると、町の屋根の上に出ていた。 「ここからすぐ、山寨へ向けて、お帰りか」 「いえ、あのせつ、県の与力《よりき》の雷横《らいおう》さんと朱同《しゆどう》さんにも、蔭ながらお助けをうけたので、ついでにそちらへもちょっと、お礼を言ってこいと申しつかって来ましたんで」 「左様か。礼はよいが、しかし、金などは一切やってくれぬほうがいいな」 「へえ。いけませんかね」 「雷横もいい人物だが、与力のくせに、大酒呑みだ。身不相応な金などは持たせぬほうが当人のためだろう。……かたがた、事件いらい、ここの町には目明しが増員され、わけて他州者にはすぐ犬が尾《つ》くぞ、油断はあるまいが、気をつけるがいい」 「ありがとうござんす。ヘンな禍風《まがつかぜ》でも背負った日にゃあ大変だ。さっそくに退散します。どうかまあ、押司《おうし》さまにはごきげんよう」  いうやいな、劉唐は、范陽笠《はんようがさ》を眉深《まぶか》にかぶッて、蝙蝠《こうもり》のように、県外の街道へ、消え失せてしまった。  あと見送ってから、宋江は呟いた。「……他人《ひ と》事《ごと》ではない。危ないのは自分も同様だった。もし、梁山泊の使いと、こっそり出会っていたことなどが、役署の誰かにでも知られた日には……」と、急に宵風も肌にソワソワ刺す心地だった。——で、にわかに足をいそぎかけると、あいにく、辻の出会いがしらに、ばったり、婆惜《ばしやく》の親の閻《えん》の婆さんにぶつかってしまった。 「あらまあ、だんな、どうなすったんでございますよ。ちか頃は」 「や、閻婆《えんば》か。なアに、どうもせんさ、役署が忙しいだけのことでね」 「いけませんよ、だんな。てんで、この頃はお見かぎりで……。娘が可哀そうじゃござんせんか」 「でも、達者なんだろ」 「あれ、あんな水くさいこと仰っしゃッてさ。憎いわねえ、いったい、どこの奴が、水を差したんだろう。……さ、とにかくだんな、今夜はお連れせずにいませんよ」 「おい、離せよ、人が見るではないか」 「じゃあ来てくださるでしょうね。道でお会いしたのに、お連れもしなかったなんて聞かせれば、娘は泣いて、わたしに食いつくかもしれません。いいえ、毒でも飲みかねないから」 「おどかすなよ、婆《ばば》」 「この婆だって。……だ、だんなさまに、これきり見放されたら、ど、どういたしましょう……」 「おや、泣くのかい。往来中で見ッともない。行くよ、行くよ」  宋江《そうこう》は負けた。  閻婆《えんば》の老舌《ろうぜつ》とソラ涙に負けただけでなく、この君子人《くんしじん》にも、おのれに負ける一面があったといえる。微酔以上なそぞろ心地も手助《てつだ》っていたことだし、稀れには、彼女がどんな愛相《あいそ》を見せるかと、ふと見たい気もしたものにちがいない。 悶々《もんもん》と並ぶ二ツ枕に、蘭燈《らんとう》の夢は闘って解《と》けやらぬ事 「オヤ、オヤ。灯《あか》りも消えているじゃないか。若い娘《こ》って、ほんとにまア仕ようがないね。……だんなさん、ちょっと、ここでお待ちなすって」  わが家の門《かど》へ入るやいな、閻婆《えんば》はわざと大きな声して、階下から二階へどなった。 「むすめよ、婆惜《ばしやく》よ。おまえが待ちこがれていた押司《おうし》さまにお会いしたから、むりやりお連れ申してきたんじゃないか。……そんなに鬱《ふさ》ぎ寝《ね》していないで、はやく灯りを点《つ》けて、お化粧《めかし》でもしておきなよ」  すると、真っ暗な二階では、俄《にわか》にばたばた物音がしだしていた。 「……しッ」  と、そこで声をころしていたのは娘の婆惜である。男と寝ていたものらしい。刺繍《ぬ い》の枕も寝台の下に転がし、真白な深股もあらわに、もつるる裳裾《もすそ》を掻き合せている。みだれた雲《うんびん》は、たった今まで、張三《ちようさん》の秘術にあやなされていた身もだえを、どんな白裸《びやくら》な狂痴《きようち》にしていたことか、指で梳《す》いても梳ききれない。 「ど、どうしよう?」  もっと仰天したのは、張三のほうだった。上役のそして旦那の、宋江が来たと聞いては、巣箱を引っくり返された二十日《は つ か》鼠《ねずみ》のようなもの。あっちへ打《ぶ》つかりこっちへ戸惑い、チョロつくひまに、婆惜はすばやく、二階の裏窓を開けていた。 「張さん、なにしてんのさ。こっちよ、こっちよ。屋根からお隣の塀を伝わってさ。だけど、向う見ずに跳び降りると溝《どぶ》があるわよ。いいこと。二、三日うちにまた来てね」  男の尻を押し出して、あとの窓を閉め終ると、彼女はもう何食わぬ姿態《し な》だった。しぶしぶ蘭燈《らんとう》に明りを入れ、そしてお化粧台から階下《し た》を覗《のぞ》いて舌打ちした。 「チっ……。うるさいわね、おっ母《か》さんたら。なにさ、天帝様のお出《い》ででもあるまいし」  閻婆《えんば》はあたふた上がって来て、 「しっ、静かにおしよ。たんと楽しんだ後じゃないか。少しぐらいな勤めは、商売だとお思いよ」 「いやですよウだ。おっ母《か》さんだって、若い頃には覚えがあるでしょ。なンともかンとも、あたしゃあ、あの虫蝕《むしく》い棗《なつめ》みたいな押司《おうし》さんの顔を見ると、胸がムカムカしてきて、義理にもお世辞がいえないんですもの」 「そんなこといったっておまえ、母子《おやこ》こうして、贅沢《ぜいたく》に暮していられるのは、なンたって、あの人のお蔭だものね。足を途絶えさせちゃったら、こっちの頤《あご》も干《ひ》あがるだろうじゃないか」 「ああ、辛気《しんき》くさい。来たくないっていうものを、なにもむりやりに連れて来なくってもいいじゃないの」 「そうはいかないッてばさ。おまえもほんとに駄々ッ娘《こ》だね、まあ、嘘でもいいからさ、酒でも飲ませて、ぽんとこう背中の一ツも叩いておあげよ、世話になった冥利《みようり》にさ」  娘の耳へ口を寄せて、一方へはなだめ、一方には、階段の下に待たせておいた宋江《そうこう》へ向って、閻婆はやきもき、両面二タ役を使い分けていた。 「さあさあ、だんな、どうぞお上がりくださいませな。あんまりお見えにならないので、この娘《こ》はすッかり辛気《しんき》になって、この通りなんでございますの。……いいえもう、心のうちでは、お声を聞いて、わくわくなンでございましょうが、わざと拗《すね》ているんでございますよ。ほんに、待ち焦《こが》れ過ぎた女心ッてものは、ツンとしたり、泣いてみせたり……。ほほほほほ。……はいはい今すぐ階下《し た》から御酒《ごしゆ》でも支度してまいりますから」  あとはあとのこと。二人だけでおけばどうにかなるだろう。閻婆《えんば》は狡《ずる》い眼つきを宋江の姿に交《か》わして、するりと階下《し た》へ抜けてしまう。  部屋には螺鈿《らでん》ぢらしの塗卓《ぬりたく》、朱《あけ》の椅子《いす》。百花模様の帳《とばり》で室の半ぶんを仕切り、奥に片寄せて寝台が見える。  衣桁《いこう》の下には、脱ぎっ放しの絹の寝衣《ねまき》やら、刺繍《ぬ い》枕《まくら》が乱れていた。錫《すず》の燭台の明りが流れている床に、珠の釵子《かざし》が一本落ちているのを、宋江もチラと見た風だし、婆惜《ばしやく》もはっと気がついた。彼女はついとそれを拾って、髪の根に挿《さ》し込みながら、 「いらッしゃいまし。……どこで召し上がったの。いいお色ネ」 「ちょっと役署の友人と会ってね」 「あら、なにもお役署の友達なら、毎日お役署で会ってるんでしょ」 「ははは。どうでもよかろう、そんなことは」 「そうねえ、どうでもいいわ」  そこへ閻婆がさっそく酒を運んで来る。婆は娘の仏頂面《ぶつちようづら》に気をつかいながら、お酌《しやく》して、 「女の虫ッ気って、ほんとにもう、自分でさえどうにもならないもンなのでございますよ。今夜はひとつ……ほほほほほ、だんなの男の腕にかけて、この娘《こ》の虫のおさまるような得心《とくしん》をさせてやってくださいませな。……さ、もうお一杯《ひとつ》」 「なにか知らんが、たいへん、ご機嫌が悪そうだな。よしよし、婆惜《ばしやく》には、私が酌をしてやろう。おい取らないか、杯を」 「……じゃあ、だんな、あとはおよろしく。……あとからまた沢山、お料理を持ち運んでまいりますからね」  逃げるように閻婆《えんば》は出て行く。——宋江もくだらなくなって、ともに席を蹴って出て行こうとしたが、一ト足先に出た閻婆が、カチャリと外から錠《じよう》をおろしてしまった。しまったと思ったが、もう間に合わない。  台所へ入った閻婆は、鶏の肉をほぐしたり、窯《かまど》の火を見たりしながら、内心、舌を出していた。男と女とは、窒塞《ちつそく》する場所へ一ツに入れておけば自然なるようになるものというのが婆の哲学だった。やがて焙《あぶ》り肉や羹《あつもの》も出来、飴煮《あめに》も皿に盛られ、婆はほどよいころと、料理盤《ばん》を持って、二階部屋をそっと開けた。……ところがである、婆の哲学は、案に相違していた。 「…………」  見れば、どっちも黙りこくって、じっと向いあっているだけのことだった。——呆れた! という顔つきで、閻婆はわざと大きく笑った。 「ま! どうしたの、だんなもこの娘《こ》も、まるで花聟《はなむこ》花嫁さんだよ。いいえ、この頃の新郎新婦はもっとひらけていますとさ! さあ、これへお箸《はし》でもつけて」  また、婆さんの酌《しやく》である。酌《つ》げば飲む宋江だった。酔わせるに限るとしてか、たてつづけに閻婆は酌《つ》ぐ。——そのうちに、 「酌《つ》いでよ、おっ母《か》さん」  と、婆惜も杯を持った。閻婆はやれやれと思ってか、 「そうれごらんな。やっぱり、お腹《なか》のなかでは欲しいんだろ。さあお飲《あが》り」 「なにいってんのさ、ひとの気も知らないで。やけ酒よ、これは」 「だんな、やっと、この娘《こ》のしんねりむっつりが解けましたよ。だんなだって、殿方じゃござんせぬか。ちっとはその、女ごころにもなって、なンとかしておやんなさいましなねえ。……おっと、あとのお料理が焦げつくかもしれない」  また外《はず》して、厨房《かつて》に戻り、腰を叩いて、 「ああ、なんていう世話のやけるだんつくだろう」  と、呟《つぶや》いた。  それからまた、かなりな時間をおいてから、もう何とかなったじぶんと、抜き足差し足、上がって来てみた。しかし座景は変っていない。依然たる睨《にら》めッ子。……ただ婆惜の蘭瞼《らんけん》がほんのりと酒に染まり、宋江も酔って沈湎《ちんめん》といるだけだった。いや夜も更けたし、宋江は帰るに家も遠く、進退きわまったともいえばいえる姿であった。  すると誰なのか、こんな深夜なのに、階下からとんとんとんと上がってくる跫音《あしおと》がして、 「押司《おうし》さんは、ここにおいでですかい」  と扉を叩く者があった。 「なんだえ、まあこの人は?」  内から扉を開けて、男の前に立ちはだかった閻婆《えんば》は頭ごなしに、がなりつけた。 「——だれかと思ったら、おまえは漬物屋の唐牛児《とうぎゆうじ》じゃないの。人の家へ断りなしに入ってくるなンて、泥棒のするこったよ。なにサ馴々《なれなれ》しそうに」 「泥棒とはひどい。なにも黙って入ってきたわけじゃあねえ。階下《し た》でさんざん、今晩は今晩は、といってみたが、返辞がねえから、灯《あか》りを見て、神妙に訊きに来たばかりじゃねえか。……ちょっと、旦那にお顔を貸してもらいてえんだ」 「おまえの旦那って、誰さ」 「いわずと知れた押司《おうし》さまだ。宋公明及時雨《きゆうじう》さまは、常日頃、おれの恩人とも親分とも思っているお方だが、どうしてもまた、お助けを仰がなくっちゃならねえ始末で、宋家村《そうかそん》のおやしきから町中を尋ね廻って、やっと探しあててきたわけさ。あ、いるネ旦那、そこにいらっしゃる旦那」 「オ……唐牛児か」  宋江も声を聞いて、椅子《いす》を立ちかけた。  思うらく——これは飛んだいい奴が舞い込んで来たもの——。市井の小輩、日ごろなら顔見るたびに小費《こづか》いセビリばかりする厄介者だが、時にとっては天来の救い。これを機《しお》に、牛児を連れて、この場のヤリきれない泥沼から、ていよく外へ出て行こうとしたのである。  だが、そこは勘のいい海千婆さんのこと。扉口へ立った宋江の体を、何のかのと、花言巧語のありッたけを尽して、元の座へ押し戻しておき、そしてまた、漬物屋の牛児へ向って、 「いけない、いけない。さア、出なよ、出なよ。図ウ図ウしいったらないね、お前は」 「おっ……な、なんだって人を突き飛ばしゃあがるんだ。おらあ、牝豚《めすぶた》に用があって来たんじゃねえぜ。旦那にちょっと」 「それが虫のいい無頼漢《ごろんぼう》の科白《せりふ》というものさ。いいかい。日ごろご厄介になっている恩人様が、たまにこうして、世間離れてシッポリと愉《たの》しんでいらっしゃるのにさ、何だって、お愉しみの邪魔をするのだい。さ、階下《し た》へ降りなよ、降りなってばさ」 「あっ、あぶねえ」 「見損《みそこ》なッちゃいけないよ」  と閻婆《えんば》は、酒の酔いにまかせて、いきなり唐牛児の横っ面へ、ぴしゃっと一つお見舞い申した。  宋江のてまえ、多少怯《ひる》んでいた牛児も、こうなっては腕を捲《ま》くッて、居直らざるをえない。とつぜん、どたんと家鳴りがしたのは、こんどは婆さんのほうが、壁の下に大きな尻もちでもついたらしい。取ッ組み合いが始まった。しかし婆さんの毒舌と腕力もなかなかである。とうとう唐牛児も尻《し》ッ尾《ぽ》を巻いて、 「死に損ないのどら猫め。覚えてやがれ」  と、捨て科白《ぜりふ》を吐いて、どうやら露地から往来の方へ逃げ失せてしまった様子。  水瓶《みずがめ》の水を柄杓《ひしやく》からがぶがぶ呑んで、ひと息入れると、婆さんはすぐもとの二階部屋へあがって来た。そしていよいよチーンと冴え白《し》らけている娘と宋江の仲を笑って、さらにペチャクチャ執《と》りなし言に努めたり、また寝室の帳台を開けて、そこの香炉《こうろ》に、春情香《こう》を焚《く》べたりした。 「さあ……枕も二つ、こう鴛鴦《おしどり》に並べておきますからね。娘や。まあおまえも、いつまでそんなに拗《す》ねているのさ。夜が明けてしまうじゃないか。可愛い殿御《とのご》をお床《とこ》へ寝せて、もすこし色ようしてお上げなねえ」  遊廓にむかし遣手婆《やりてばば》というものがあった。まさにそんな呼吸をよくのみこんでいる閻婆《えんば》のしぐさ。宋江は居るに苦しく帰るに帰れず、ただ理性と凡情と、そして瞋恚《しんい》の炎《ほむら》に、てんめんたるまま、妖《あや》しき老猫《ろうびよう》と美猫《びびよう》の魔力に、現《うつつ》をなぶられているのみだった。 「ね、だんな、お気色を直して、もうお寝《やす》みなさいましてはいかがですえ。娘や、おまえも、たんまりと愉しみなよ。そして朝になってごらん。女ってえものは、すっかり気鬱《きふさ》ぎ病なんか癒《なお》ってしまっているものさね。……ほほほ」  二つの灯りのうち、小さい寝室の蘭燈《らんとう》だけを残して、閻婆《えんば》はふッと灯を吹き消し、やがてコトコト階下へ沈んでしまった。  あとの二階部屋は、青白い湖《うみ》になった。窓から映《さ》す残月が町屋根を黒々浮かしている。初夏ながら肌さむい。星が飛ぶのがスーと見えた。  悪酔いしたにちがいない。ころして飲んだ酒がツーンと宋江のこめかみに疼《うず》く。——宋江はふと思った。「……婆惜《ばしやく》と張三の仲はどうも怪しいが、といって見とどけたわけでもない。そうだ、女がどんな風におれに接するか、そしらぬ振りで見てやろう」と。  そもそも、これが宋江によく出来る芸か否か。——みれば、婆惜はすでに、着た物を脱がず、刺繍《ぬ い》の枕にふて寝のすがただ。ふて寝とあるからには後ろ向き。まるっこいお尻はもう宵のくち情夫《おとこ》の張三の甘美するにまかせて、なお飽かない不足をぷっと怒っている恰好といえようか。さあれ、その艶姿は、海棠《かいどう》が持ち前の色を燃やし、芙蓉《ふよう》が葉陰に棘《とげ》を持ったようでなお悩ましい。いってみれば、これや裏店《うらだな》の楊貴妃《ようきひ》ともいえようか。あたりに競《くら》ぶべき絢爛《けんらん》がないだけに、その妖姿はよけいに猥《みだ》らな美を独り誇ってみえる。  いまいましいし、宋江の性情としては、なんとも屈辱的な気がされたが、彼も冠《かぶ》り物をとって帳台わきの小卓におき、するりと脱いだ上衣《うわぎ》をも衣桁《いこう》へかけた。 「…………」  彼女はこっちを見向きもしない。けれど、かそけき気配もじつは全身で聞いているのがこの性《たち》の女の常である。「……小面憎《こづらにく》さよ」と、宋江はその姿態《し な》を見すえながら、白い絹足袋をぬぎ、帯を解き、そしてふところの書類挟《ばさ》みと紙入れとを、小卓の上におこうとしたとき、ことんと、床《ゆか》の上に何かを取り落した。  ひと振りの短刀と、宵に、劉唐《りゆうとう》から受けておいた十両の封金とだった。——そしてあのときの晁蓋《ちようがい》の手紙は、ついまだ読むひまもなく書類挟みに入れてあるので、それらを大事にまとめて、寝台の細い手欄《てすり》へ掛けておく。——そしてさて、蒲団《ふとん》の中へ身を入れかけたが、やはり男として、おいそれと女の背を拝して横になる気にはなれない。女の寝姿とは逆に向いて、その足のほうから体を入れ、女の背と肩の辺へ両足をやって、夜具のすそをそっとかぶった。 ふと我れに返る生姜湯《しようがとう》の灯も、せつな我れを失う寝刃《ねたば》の闇のこと  かたちでは、眠りについたが、宋江《そうこう》も婆惜《ばしやく》も、じつはまんじりともしていない。男女の体は電体のものだろうか。溶《と》けあえば血は一つにながれる。だが闘えばバチバチと音もない青い火花を発しる。「……畜生」とお互いのうち、いよいよ研《と》ぎすまされるばかりだった。  そのうちに「……ク、ク、ク」と、女が笑った。冷侮《れいぶ》、氷刃《ひようじん》のごときものだ。宋江はかっと蒲団《ふとん》のうちで熱くなった。女は、もひとつ体を硬《かた》めて、じゃけんに宋江の足さきを、うるさそうに肩で払った。「……ちッ」と舌打ちしたのも聞えた。でもまだ宋江は怺《こら》えていた。かえって、わが愚が憐《あわ》れまれた。何をか好んで物ずきに、かかる売女《ばいた》の侮辱を忍んでいなければならないのか——と。 「ええもう、寝ぐるしい」  再度、女が呟《つぶや》いたのを機《き》ッかけに、彼はバッと蒲団を刎《は》ねて脱け出していた。女の白い足がとたんにむきだされたので、反射的に婆惜も壁へ向ったまま叫び出した。 「なにするのッ、イヤな人ね! ほんとにもう!」 「おまえこそ。なにを笑うんだ、ばかにすなっ」 「いけないの。おかしいからよ。そんな男ッて、あるかしら。男なの、あんた」 「言ったな。婆惜。もう来ない!」 「おお、うれしい。決して、おひき止めなんかしませんわよ」  宋江は耳朶《じだ》の辺に、じんと鎚《つち》で焼《や》き鉄《がね》を打たれたような鈍痛を感じた。ぐらとしてくる。下袴《したばかま》をはくのも帯を締めたのも夢中だった。両手で扉を突くやいな、どどどと階段を降りて行った。 「……あらっ、だんな。どうなすったんですよ、だんなってば」  後ろに閻婆《えんば》の仰山な声は聞えたが、一顧《いつこ》をくれる余裕もなかった。そこの横丁から盗児のごとく逃げ出していたのである。町はとっくに丑満《うしみつ》過ぎ、人ッ子ひとり往来の影もない。  すると四ツ辻に、ぽちと赤く、露灯《かんてら》の灯が見えた。それは夜ッぴての遊蕩《あそび》客《きやく》のためにある夜通し屋の一荷《か》で、生姜湯《しようがとう》売りの王爺《じい》さんだ。ひょいと見かけて。 「おやおや、押司《おうし》さまではございませんか。お役署御用で、夜明かしでもなすったんで」 「なあに、友達の家で少し飲み過ぎてね、つい家へ帰りそびれたのさ」 「酔いざましには、二陳湯《にちんとう》などいいもンでございますが」 「そうだ、一杯もらおう。……おっと、ありがとう、いつもよく稼《かせ》ぐなあ、爺さん」 「お蔭さんで、正直に働いておりますせいか、皆さんから、ご贔屓《ひいき》にしていただいておりまするで」 「考えてみると、役署勤めの深夜には、こうして、爺さんの梅子湯《ばいしとう》やら生姜湯《しようがとう》などに、ずいぶん長年のあいだ温《あたた》められてきたなあ。そしていつもお前さんは、代金も取ってくれない」 「なんの、押司《おうし》さま。当りまえでございますよ」 「どうしてね?」 「だって、しがない私どもが、こうして真面目《まじめ》にやっていけるのも、旦那がたお役人が、寝る眼も寝ず、悪い奴に悪いことをさせねえように守っていて下さるからこそで」 「ああそういわれちゃあ、面目ないよ」 「どういたしまして、まったく警邏《けいら》のお蔭さんでございますよ。こうして、町の衆が、夜を安楽に寝ていられますのもね」 「そうそう、思い出したよ、爺さん」 「へい、なんでございますえ」 「いつかおまえに、何か望みはないかと訊いてやったら、人並みに棺桶《かんおけ》ぐらいは買って備えておきたいと言ったッけ。よろしい。その棺桶はわしが買ってやると約束したことがあるなあ」 「よくお覚えおきくださいました。……それやもう、分《ぶん》に過ぎた望みか存じませんが、もしそれが能《かな》うなら、来世は馬にも驢馬《ろば》にもなって、ご恩報じをいたしまするで」  王爺さんは、さびしげに笑った。——宋朝《そうちよう》その頃の風習として、生前に自分の棺桶を買って家にそなえて置くことが、老後の人の最大な美風とされていたからだった。  ふと。宋江は今、この王爺さんに、それを買ってやるといった旧約を思い出したのである。余りな自己嫌厭《けんえん》や慚愧《ざんき》のあとでは、人間はふと、他の人間の中に“真”を求めたり美徳のまねごとでもして自己の救いに置き代えてみたくなるものらしい。——で、宋江は、しきりに懐中をさぐり出した。心なく劉唐《りゆうとう》から受けておいたあの十両。  あれを、王爺さんの棺桶代にめぐんでやろう、という気もちからだった。 「……おや。……はてな。たしかに手紙は書類挟みに。……金も一しょにしていたはずだが」 「押司さま。なにも急に、今でなくても」 「……いや、待ってくれよ。……やや、こいつは」 「いつだっておよろしいんですよ。この爺《じい》の棺桶などは」 「いや、しまった! なんとその棺桶は、自分の使い物になるかもしれん。こうしちゃあいられない。——爺さん、じつはよそで泡《あわ》を食って、その金包み以外、大事な物まで置き忘れて来たんだ。宋江嘘はいわん。きっと後日買ってやるからな」  言い捨てるやいな、彼は疾風のように元の道のほうへ引っ返し、婆惜《ばしやく》の家のある横丁へ馳けもどって行った。 「……いい気味だ、あんなやつ。これで清々《せいせい》と、あしたの昼まで寝てられるわよ」  さきに宋江が憤然として帰った後。——婆惜はいちど起き直って、薄衣《うすもの》を解き、裙子《はかま》のひもから下の物まで脱いで、蒲団を払い、 「嫌だとなると、同じ男でも、こんなものかしら。いちどあいつが寝た蒲団だとおもうと、この温《ぬく》みやら匂いまでいやらしい」  と、ばたばたさせて、二つの枕の一つまでを、部屋のすみへ放りなげた。  そして、おや? と気がついた風である。  寝台の手欄《てすり》へと、彼女の白い手が走った。蜀江織《しよつこうおり》の薄むらさきの鸞帯《らんたい》——つまり大事な物入れとして肌身につけておく腹おび——に、釵《かんざし》にでもなりそうな翡翠玉《ひすいだま》と瑪瑙《めのう》の付いた括《くく》り紐《ひも》が、たらりと、それにかかっている。 「……ああわかった。目玉に油を塗られたトンボみたいに、あの黒《くろ》二(宋江《そうこう》のあだ名の一つ)が、きりきり舞いして出て行ったから、腹立ちまぎれに忘れたんだわ。……いいわねえこれ。そうだ張三《ちようさん》にやって、よろこばしてやろう」  持って寝て、寝ながら愉しげに蘭燈《らんとう》の明りで中を調べ初めたものである。見ると、鸞帯《らんたい》の中には、かの短刀、かの十両、さらに書類袋《しよるいたい》のうちからは、梁山泊《りようざんぱく》の晁蓋《ちようがい》から彼に宛てた書面まで現われてきた。  まだ封も開いてないそれを、女は小指の爪で器用に剥《は》がしていった。——梁山泊がどんなところかは、三ツ児でも知っている。去年はこの土地で大捕物の騒動もあったほどだ。彼女は、息をつめて、繰り返し繰り返し読んでいた。……ところへ、みし、みしと、忍びやかに上がって来る足音だった。彼女はあわててそれらの物を鸞帯《らんたい》(胴巻)へおしこみ、腹の下に抱いて、そら寝入りをつかっていた。もちろん、その足音は、宋江だった。悄然《しようぜん》として、しかも下《し》タ手《て》に、 「……おや、見えないが。……ああわかった、婆惜《ばしやく》、おまえが仕舞っておいてくれたのか」 「だれ? うるさいわね、また」 「ちょっと、起きてくれないか。忘れ物をしたのだ。それをここへ出してくれい」 「知りませんよ、そんな物」 「知らんはずはない。たった今のことだ。……あの鸞帯《らんたい》には、役署の書類やら大事な物が入っている。後生だ、返してくれ」 「ふふン……だ。なんでもお役署風さえ吹かせばすむと思ってるのね。婆惜はそんなお人形さんじゃありませんわよ」 「さては、鸞帯を隠したな」 「泥棒だと仰っしゃるの」 「いや、つい語気を荒くしたが、何もおまえを泥棒にする気はない」 「もちろんでしょ。泥棒とお親《ちか》しいのは、そちら様ですものねえ」 「げっ……。よ、読んだな、中の手紙を」 「あいにく、寺小屋ぐらいの読み書きは、婆惜《ばしやく》も習《まな》んでいましたからね」 「たのむ! ……」と、宋江は、女の寝台のそばに片膝をついて、首をさげた。 「大きな声をしてくれるな。あの一書は、宋江には無関係な者の手紙だが、知られては、世間に誤解される。宋江の身の破滅だ……」 「あんたを賊の一味だとは思っていませんわ。けれど、梁山泊から、なんであんたに、金百両を贈ってきたのかしら。……なにか、よッぽどなことでもなくっちゃ……」 「しっ、しずかにしろ。おまえのいうこと、望むこと、何でもきくから、ここはもんくなしに、その品だけを、返してくれい。……このとおりだ、婆惜。男が頭を下げてたのむ」 「おもしろいわね。じゃあわたしのいうこと、なんでもきく?」 「きこう。きっときく」 「三つの条件があるわよ。いいこと」 「たとえ、何ヵ条の難題でも」 「いいわね、じゃあ第一に——わたしの妾《めかけ》証文をわたしに返すこと。そして張三《ちようさん》のところへお嫁に行っても、一さい苦情のない一札《いつさつ》を入れることよ」 「よろしい」 「第二には——ここの家財道具、わたしの髪かざりまで、すべて、わたしの物よ。みんな俺が買ってやった物だなンて、野暮なもんくをいわないことね」 「それも合点だ。して、あと一条は」 「それが、たいへん、難かしそうなの。あんたに、それが肯《き》けるかしら」 「どんなことか、いってみろ」 「百両、ここへ並べて頂戴。……手切れ金に」 「いまはない」 「そら、出しおしんでるくせに、梁山泊の使いから、あんた、たしかに受け取ったでしょ」 「じつは、十両だけ取って、あとは返したのだ。九十金は、後から工面しよう」 「嘘ばッかり。さ、きれいに出しておしまいなさいよ。それがいやなら、こっちも鸞帯《らんたい》は返さないからいい。返すもんか。どうあっても」 「返せ。なんでわしが嘘をいおう。家財道具を売り払っても、きっと数日中に持ってくる」 「じゃあ、その時の引き換えよ。なんでも現金取引きに限るわ。それとも、わたしを泥棒だといって、お白洲《しらす》へ突き出しますかね。わたしは、どっちでもいいの」 「なんといっても」 「くどいわねえ。この人」 「……な、婆惜」と、宋江は起って、我れを憐《あわ》れむ涙につい眼を曇らせながら——「きっと、金は後から揃えて来る。な……気を直して、あれを返してくれ。おまえの気にさわったことがあるなら、わしが悪かった。あやまるよ……。婆惜」  彼女の硬《こわ》ばった肩ごしに、その顔を覗き込み、必死に機嫌をとると、よけい宋江の弱味に誇った女は、その顔を、うるさげに突きのけて、 「いやよ、いやよ! わたしは、あんたのその口の臭《にお》いを嗅《か》いでもムカつくのよ。百両出すのが惜しければ、貰いたくもないわ。——その代り、晴れてお上《かみ》からご褒美を頂戴するわ。百両の半ぶんでも、お上からなら大威張りだし……さ」 「うぬっ」  今はとばかり、宋江の眼《まな》じりが裂けて見えた。とたんに、蒲団の下の白裸《びやくら》が双肩《もろかた》にかかった男の力で引っくりかえされ、乳ぶさの下から、鸞帯《らんたい》の錦、翡翠《ひすい》の玉が、チラと見えた。 「なにをするのッ。呶鳴《どな》るわよ」 「おっ、これだ! あった。これさえ返れば」 「離すもンか、死んだって」  闘う女の真白な玉裸《ぎよくら》が、また無性に俯《う》ッ伏してそれを押し隠す。その弾《はず》みに、短刀だけが、寝台の下にころげ落ちた。あわてて、宋江《そうこう》の片手が、短刀を拾い上げたのを見ると、婆惜《ばしやく》は本能的に、ひーッと悲鳴を発し、つづいて、 「ひッ、人ごろしっ」  と、刎《は》ね起きた。  その絶叫が、かえって、宋江の一瞬の狂気を呼んでしまった。——せつなに「うむッ……」とのけ反《ぞ》ッた重い肌と黒髪が、宋江の顔から胸元へかけて仆れてきたとき、いつのまにか、刃《やいば》はふかく婆惜の脾腹《ひばら》をえぐっていたのである。温《ぬる》い、いや熱くさえある血潮が彼の二ノ腕までまみれさせ、彼は蒼白となった面《おもて》に、その双眼を、じっと、ふさいだままにしていた。 「…………」  どたん、と床へ死骸を投げ出すと、大きな息を肩でついた。  彼は手ばやく、鸞帯《らんたい》を肌の下に締めた。そして晁蓋《ちようがい》の手紙は灯にかざして焼きすてた。それが早いか、物音に眼をさました婆が、階下から上がって来るのが早いか、間髪な差でしかなかった。 「……あっ、閻婆《えんば》だな」  ふッと、蘭燈《らんとう》をあわてて吹き消す。しかしもう窓は明けていた。明け方の光が微かに、血のなかの海藻《うみも》にも似る黒髪と、白蝋《びやくろう》のような死者の顔とを、無常迅速のことば通り、冷ややかに照らし出している。 「……だんなえ。今、どすんといったのは、なんの音ですかえ。夜が明けてまで、痴話《ちわ》喧嘩のつづきじゃしようがありませんね」 「婆か。……み、みてくれ。みろそこを」 「なんですの。まあ、らちゃくちゃない」 「……ついに、堪忍ぶくろの緒《お》を切って、おまえの娘を殺してしまった」 「ごじょうだんでしょ、だんな。えんぎでもない」 「ほんとだ。……下手人のわし自身でも信じられん。だが、やってしまった。人間とは、あてにならないものだなあ。ああ、日頃の知識などは役にも立たんものだなア。おれも田夫野人《でんぷやじん》と何ら変るところのない物騒な人間だった」 「いやですよう、だんな。そんな妙な科白《せりふ》を、恐《こわ》い顔して仰っしゃってちゃあ」 「それ、婆。おまえのいる、そこの寝台の後ろの蔭だ。それが婆惜だ」 「ひぇッ……」と、婆は腰を抜かしかけた。がたがたと、骨ぶるいして、急に歯の根も合わぬらしい。 「……ど、ど、どうぞだんな。この婆は、おたすけなすってくださいまし。ま、まったく、むすめが、わるかったのでございますで……。ばばは、べつにもう」 「こっちこそ、ぞッと後悔したところだ。その上、おまえまでを殺すほど狂乱はしていない。ふびんなことをした。ばば、かんべんしてくれい」 「も、もッたいない。わ、わたしさえお助け下されば。……けれど、アアどうしましょうぞい。この婆は、もう喰べてはゆかれません」 「仏への追善だ。それだけは、ひきうける。一生末生《まつしよう》、おまえは食うに困らせぬ。……そうだ、夜が白む。はやく葬儀屋《そうぎや》へ行って、棺桶をあつらえて来い。そして隣《となり》近所へは、急病のていにでもしておいてくれ」 「よ、よろしゅうございますとも。決して、この上ご恩人のだんなへ、ご迷惑はおかけいたしません。けれど、どうぞ万端《ばんたん》のこと、この婆の身の行くすえは」 「ああ見てやるとも、案じるな」 「だが、だんな、もう癲動《てんどう》しちまって何だか物もいえません。それに、婆惜《ばしやく》がお世話になっていることは、近所の衆も知っていること。葬儀屋まで、ご一しょに行ってはくださいませんでしょうか。助かります。この娘《こ》もまあ、あんまりわがまま育ちから、ついまアこんな……」  ぼろぼろ泣き沈むのを見ては、宋江も胸をかきむしられるようだった。で急いで、台所で手くびなどの血糊《ちのり》を洗い、婆を連れて、夜明けの町へ出て行った。  まだ朝霧の町はしんとしている。ぼつぼつ戸を開ける音や往来の車がカラカラ鳴るだけだった。横丁を出るとすぐ役署の門と大きな楊柳《ようりゆう》の茂みが眼につく。宋江は、後ろめたさに、 「婆。こっちから行こう」  と、べつな横丁へ交《か》わしかけた。 「あら、どうしてです、だんな。葬儀屋の陳三郎《ちんさんろう》はこっちですのに」 「だってまだ、起きていまい」  婆は、眼つきを、けわしくしていた。が、神妙に後について遠廻りしたあげく、やがて町中の大通りへ出た。そのころもう店屋もあらかた開いて、往来の人通りもふえていた。わけて四ツ辻には、毎朝の朝市が立ち始めている。 「だんな……。よくやったね」  婆はふいに立ちどまった。宋江はその眼光にぎょっとした。婆の両手の爪は自分の袖をかたくつかんでいたのであった。 「なんだ婆。ひとの袂《たもと》をつかんで」 「覚えておいでよ。……おういっ、町の衆、人殺しだよ、人殺しだよっ。……この押司《おうし》が、むすめの婆惜をたった今、殺しゃあがった。かたきを取ってくださいようっ」 「あっ、なにをいうか」 「ええい、この人殺し。人殺し——いッ」 「よせ、よせ吠《ほ》えるのは」  宋江は狼狽《ろうばい》のあまり、両手で婆の口を抱きふさいだ。 地下室の窮鳥《きゆうちよう》に、再生の銅鈴《どうれい》が友情を告げて鳴ること 「なんだなんだ。人殺しだって」  附近には朝市も立っている。それに軒並みの商家、往来の男女、たちまちまわりは黒山のような人だかりとなった。  中にはすぐ飛んできた目明しの顔もみえたが、しかし、閻婆《えんば》に手を貸そうとする者はない。ただ怪しみながらゲラゲラ笑っているばかりである。——いかに婆さんが「こいつは、わたしの娘を殺した人殺しだ」と衆へ向って訴えても、町中知らぬはない温厚人の宋江《そうこう》を目《もく》して犯罪人と信じる風はちッともないのだ。かえってこれは飛んだ宋江の迷惑事と察して同情をよせ、逆に閻婆《えんば》の狂態を弥次《やじ》り仆す有様だった。  それさえあるに、不意に群集を割って飛び込んできた一人の男は、いきなり宋江の体から婆さんをもぎ離してイヤというほどその頬げたを撲《は》り仆《たお》した。そして猛《たけ》る閻婆を、もういちど蹴離しながら、 「さ、旦那。こんな気狂《きちが》い婆におかまいなく、早く行っておしまいなせえ。あとは唐牛児《とうぎゆうじ》がひきうけましたから」  と、追い立てた。  まさにこれは宋江の平常の人徳がしからしめたもの。諺《ことわざ》にも——好《ヨ》キ人ノ難《ナン》ハ人ミナ惜シミ、奸悪ニ災《ワザワイ》ナキハ人ミナ訝《イブ》カル——とある通り、天の救いといえるものか。  宋江は絶体絶命、眼も昏《くら》むばかりだったが、彼の声を耳にするやいな、われも覚えず脱兎のように逃げて行った。あとも見ずに姿を消す。  だが、承知しないのは婆さんの方である。腰をさすって起き上がるやいな、 「おやっ。おまえは漬物売りの唐牛児だね。そうだ、おまえも下手人の片割れだよ、さあおいで」 「ど、どこへ来いっていうンだよ、どこへでも行ってやるが」 「知れたこと。お役署へさ!」  閻婆《えんば》は、宋江の身代りに、彼の胸ぐらをつかんだまま、わいわいいって散らかる群集の間を割って、近くの県役署の門内へ入って行った。  知事は“早暁に行われた美人ごろしの事件”と聞いて、さっそく官舎から庁《ちよう》へのぼり、閻婆と唐牛児を白洲《しらす》にすえて、吟味《ぎんみ》をひらいた。  知事の時文彬《じぶんぴん》は仰天した。  下手人とみられる宋江は、彼が厚く信頼もし、部下ながら尊敬すら抱いている稀れな良吏《りようり》である。「……どうして宋江が?」と情けなくもあり、同時に助けてやりたい気もちのほうがいっぱいだった。  そこで彼は、取調べも緩慢に、努《つと》めて婆の心をいたわり、なんとか示談の方へ持ちこもうとしたが、婆はもってのほかな形相《ぎようそう》をすぐ現わして、 「人を殺せば殺されるのがお上《かみ》の掟《おきて》。掟どおりにあいつを縊《しば》り首《くび》にしてくんなされ」  とばかり、ここでも吠《ほ》え猛《たけ》って止《や》まばこそである。  ぜひなくその日は一応、婆を帰宅させ、唐牛児の身は前夜の関《かか》り合いもあるので、一時仮の牢舎へ下げた。そして何かと事件の処理は遷延《せんえん》させ、その間に、宋江にとって有利な緒《しよ》を見つけようとするのが、知事の腹らしかった。  ところが、ここに、 「そうはさせぬ」  と、躍起な活動を暗に起していた一部下があった。  殺された美人婆惜《ばしやく》の情夫《い ろ》の張文遠《ちようぶんえん》(張三)である。——彼はすすんで事件の捜査係を買って出、兇行現場の死体調べから近所衆の口書《くちがき》あつめまで手を廻していた。かつまた当夜、宋江が婆惜を刺した短刀をも提示して、 「知事。これではもう、犯人宋江の兇悪さは、疑う余地もありますまい。それにあれきり宋江は役署へも出てまいりません。悪くすると逐電《ちくてん》のおそれもある」  と、小気味の悪い含み笑いをもちながら、再三にわたって知事へ逮捕《たいほ》の断《だん》を迫った。  張文遠にすれば、宋江は憎い女讐《めがたき》だし、上役ながら、日頃の余りに良い彼の評判をくつがえしてくれたい気持ちやら、またその椅子《いす》へ累進《るいしん》の野心なども手伝っていた。だが、時《じ》知事の方でも町の者などの密告でほぼ彼の行状やら腹の中は見ぬいている。——だから、逮捕令を出せ、出すまいとする、両者の心理的葛藤《かつとう》は、どうしてなかなか微妙なのだ。  とはいえ証拠品やら閻婆《えんば》の提訴状まで並べられては、ついに知事も折れて、  宋江逮捕  の令状を下さずにいられなかった。しかし、それはすでに遅く、捕手の群れはやがて空しく引き揚げて来て復命した。 「はや犯人は宿所におりません。杳《よう》として以来、姿を見ぬということです」  すると、側で聞いていた張文遠が、俄然、青すじを立てて怒鳴った。 「そんなばかなことはない! 今頃まで日頃の下宿にいないのは当りまえだ。元来、彼奴は宋家村《そうかそん》の生れ。村には今も父親の宋老人と弟の宋清《そうせい》が一しょに住んでいる。なぜそこを突かんか。そこに潜伏しているに違いないわ」  宋家村の宋江の実家は急襲された。  ところが、老父の宋老人の神妙な応対と、袖の下をたんまり受けて来た捕手たちは、またも手ぶらで時文彬《じぶんぴん》知事に、こんな復命をもたらした。 「当主の宋老父の釈明によりますと、実家とはいえ、すでに四、五年前に家督は弟の宋清に譲ッているそうで、その宋江は、官途へ立つ身に縁類があっては私心の煩《わずら》いになるとかいって、独り宋家の戸籍を脱けておる由。……このとおり、書類の写しもこれにあり、他人同様な宋江のこと、一切知らんと申して受けつけません」  知事はむしろ、ほっとした顔いろである。 「ふふむ、そうか。左様な証拠があるとあっては、無礙《むげ》に老父や弟を拘引《こういん》もなるまい。宋江の追捕《ついぶ》は、懸賞金をかけて、ひろく他を捜《さが》させることにしよう」  もちろんこれは張文遠の服従するところではない。二、三日すると、裏面から彼に突ッつかれた閻婆《えんば》が形相をかえて県役署へやって来た。そして知事室の外でがんがんわめきたてた。 「へん、なにが知事様かよウっ。知事面《ちじづら》しくさってよ。人殺しの下手人ひとり捕まえられんのかい。それも眼の前にわかりきっている悪党をさ!」  婆は図にのッて、いよいよ声をあららげたり床《ゆか》を踏み鳴らした。 「ひとの身にもなってごらん。娘を亡くしたこの婆は、このさき誰に食わしてもらうのさ。役署で食わしてくれるかね。それも出来まいがよ。それも出来ず、犯人も捕まえず頬冠《ほおかむ》りしていようというなら、もういいよ。婆にも婆の考えがある。——ほかの奉行所へ行って訴え出るのさ。そこでもいけなければ都へ行って、おそれながらと、大官のお輿《こし》へ直訴《じきそ》してでも、この讐《かたき》はきっと取ってみせずにおくもんか」  そこへ、あわただしげに、一室から、 「まあ、まあ」  と、婆をなだめに飛び出して来たのは、婆とはちゃんと諜《しめ》し合せのついている張文遠であって、 「ともかく、今日は帰んなさい。決して役署でも事件を軽く見ているわけじゃないのだから」  と、すったもンだをわざと演じて、やっとのように、婆を庁外へ追い出した。  そして張文遠はすぐ、またぞろ時文彬《じぶんぴん》へ迫って、ついに再度のかつ大規模なる捕手の出勢を知事に余儀なくさせたのだった。  捕手頭《とりてがしら》にも、こんどは名うてな朱同《しゆどう》と雷横《らいおう》が立ってそれを引率して行った。  同勢は、ぐるりと宋家をとりかこみ、二人は内へ進んで宋老人へ令状を示し、 「これだ! 老人。日ごろの誼《よし》みも、悪くおもってくんなさるな。家探《やさが》しするぜ」 「ご苦労さまです。どうぞご自由に」  老父はもう観念のていだった。  二人は邸内を一巡し、やがて土蔵廊下みたいな暗い奥の間へ進んで行った。——と持仏堂がある。四壁は陰々として冷たい。一方の厚戸の閂《かんぬき》を外《はず》すと、仏具入れの長櫃《ながびつ》がある。位置が変だ。二人がかりで横へ移す。——と、たしかに下へ降りられる穴倉の口。  雷横はなに思ったか、 「朱同、あっちにも、変な一室がある。おまえは残って、この下を調べてくれ」  と、眼顔のうちに、何かを語って、ぷいとそこを外《はず》してしまった。  まっ暗な階段を降りると、何か顔に触る物がある。布縒《ぬのより》の細綱らしい。引いてみると、りりりん……と頭の上で銅鈴《どうれい》がいい音《ね》で鳴った。 「だれか……?」  奥のほうから這い出してきた人影がある。じっと見れば、それなん宋江《そうこう》その人にちがいない。ここ久しく日の目も見ず、蒼白の面《おもて》に《びん》のほつれ毛も傷々《いたいた》しく、暗闇の中でも肩の窶《やつ》れがわかるほどだった。 「や、朱同じゃないか。ああついに来たな!」 「押司《おうし》。びっくりなさることはない。雷横も自分も、日頃のあなたは知っている。公私にわたって、多年温情を蒙《こうむ》っている二人が来たのだ。なんでその恩人を、縄目にかけていいものか」 「でも、それでは、お身方が役署へ対して、申し開きが相立つまい」 「なあに、どうにだって、虚構《きよこう》はできる。知事も内々はあなたを逃がしたいのだ。庁内でもあの張文遠のほうがよっぽど憎むべき悪人だといっている声は多い。……どうか、他国へ逃げておくんなさい。どこかお心当りはありませんか」 「かたじけない」と、宋江はしばし頸《うなじ》を垂れて——「どこといって、さし当り確《かく》たるあてもないが、思いうかぶのは第一に滄州《そうしゆう》の名士、小旋風柴進《しようせんぷうさいしん》」 「なるほど」 「第二は、青州清風寨《せいふうさい》の小李広《しようりこう》、花栄《かえい》。——次には白虎山のご隠居と、そのご兄弟なども頼って行けば、どうにかして下さるとは思われるが」 「平常《ふだん》、おつき合いも広いあなた。そうした先にはご心配もありますまい。とにかく早速、身仕度だけでもしておいでなさい」  と、朱同は別れをつげて地下室から上へ戻った。そして雷横とともに、なおそこらを愚図《ぐず》ついたあげく、一度門外へ出て、手下の捕手へわざと仰山な身振りで言った。 「宋江は早やここにはいない。邸内隈《くま》なく検《あらた》めたが何処にも見えん。あとは屋根裏と床下だけだ。念のためそこを捜せ。その間におれたちはもういちど宋老人を糺問《きゆうもん》してみる」  やがてその宋老父を拉《らつ》した朱同と雷横《らいおう》は、いぜんの持仏堂へ入ってかたくそこを閉め、密々声をひそめ合っていたのだから、ここではどんな相談事が成り立っていたかわからない。  捕手たちは正直に、その間、屋根裏やら床下を這い廻った。もとより何の異状もない。そうこうするうち夕方になると、宋家では、酒肉を盛って彼らを饗応《きようおう》し、またそれぞれにそっと銀子《ぎんす》をつつんだ袖の下を賄《まかな》った。宋朝治下の上から下まで、こんなことは通例だった。雷横も酔い、朱同も酔い、ほどなく夜空の下をどっと潮《うしお》のように引揚げてしまった。 「残念でした」  二人は、知事に復命した。 「宋江はすでにこの地におりません、事件いらい実家にも姿を見せないという老父の言はほんとでしょう。いや実家といっても、籍は脱《ぬ》けている他人同様な奴の身軽さ。どうも致し方ございません」 「む……」と、知事はもっともらしく呻《うめ》いて、 「やはり他州へ逐電《ちくてん》ときまったか。最初から宋家に潜伏していると、強情《ごうじよう》に言い張っていたのはかの張文遠じゃ。ぜひもない。この上は、罪状触れと人相書を作成して、諸州の役署へ布達しておけ」  知事はしたり顔である。常套《じようとう》的な公式の手続きを運ばす一方、ひそかに朱同から、張文遠と閻婆《えんば》を裏からなだめさせた。  内心、張にも痛い脛《すね》がある。  自分と宋江のいきさつについて、部内にはヒソヒソ声があるふうだし、婆さんはすぐ金にころぶ。痛し痒《かゆ》しだ。このうえ下手にごねてみずから現職の地位を失うよりはと、彼もそこは利に賢《さと》く、軟化の色をやがて見せた。  こうして、とにかく“婆惜《ばしやく》殺し一件”は、城県署《うんじようけんしよ》のあぶない網の目から、ひろく懸賞金付きで諸州布令《ぶれ》となり、そして、時の無数な波紋のうちの小波紋として、いつか見送られて過ぎたものだった。 宋江、小旋風《しようせんぷう》の門を叩くこと。ならびに瘧病《おこりや》みの男と会う事  暁の星が白っぽく、旧家の池の枯れ蓮《はす》に風もない。一葉一葉と落ちる梧桐《き り》の木に、いつも来て歌う鳥の音も、今朝は何か宋家の父子の腸《はらわた》には、沁《し》み入るような悲しみがある。 「気をつけて行けよ。あとのことは案じるなよ」  宋老父は、老いの眼に、涙をためて、この朝、二人の子を、家の裏門から小雨のような霧の小道へ見送った。  宋江《そうこう》とそして、その弟の宋清《そうせい》とをである。  宋清は罪もないので、「家に残って、老父の余生に孝養をつくしてくれ」と宋江は言ったのだが、老父は「いやいや、いつまた、知事が代って、再吟味されまいものではなし、また、今の世相《せそう》はあてにもならぬ。こんな旧家を持ち支えるため、宋清も、あたら一生をつぶすことはないわ。兄に従ってどこへでも行き、悔いない一生を送るがいい」と、たって共に旅立たせたものだった。  老父の慨嘆も、理由《ゆ え》なきではない。  たとえば。  宋家の内に、地下の穴蔵があったことなどもその一端をものがたっている。——当時の宋朝廷下の官吏には、奸佞《かんねい》、讒訴《ざんそ》、賄賂《わいろ》、警職の乱用、司法の私権化など、あらゆる悪が横行していたので、その弊風《へいふう》は、州や県の地方末端の行政面にも、そのまま醜悪を大なり小なりつつんでいた。  したがって、宋江の就いていた押司《おうし》の職なども、重要なだけに、ちょっとした私意や違法の間違いを犯すと、讒《ざん》に会って、すぐ流罪《るざい》だの家産没取の厄《やく》にあい、その連累《れんるい》は、一族にまでおよぶ有様。そこで官吏の多くは、戸籍を抜いて、あらかじめ九族の難にそなえ、また、穴蔵など造って内々家産を地下に匿《かく》しておいたり、日常何かの生活にわたるまで苦心のひそむものだった。——で、 「そんな生き方はもう鬱々《くさくさ》だ。宋清までを一生の穴蔵の番人にはさせたくない」  というのが、偽《いつわ》らざる老父の真情だったに相違ない。 「さらば、ごきげんよう。今日の不孝はおゆるしください。いつかはまた、このおわびを」  宋江は幾たびも振り返り、宋清も名残り惜しげに、老父の影を遠くにした。この日、霧はやがて冷たい細雨と変り、県境の長い楓林《ふうりん》の道は、兄弟の范陽笠《はんようがさ》と旅合羽《たびがつぱ》をしとどに濡らした。  二人の旅は長かった。  日かずをかさねて、やっと辿《たど》りついたところは、滄州横海県《そうしゆうおうかいけん》の小旋風柴進《しようせんぷうさいしん》の門前。——かつては、かの豹子頭林冲《ひようしとうりんちゆう》が、むじつの罪で滄州《そうしゆう》の大流刑地にひかれてゆく途中、一夜の恩をうけ、また後には、梁山泊《りようざんぱく》へわたる手びきなどもして貰ったことのある——あの地方名望家柴進《さいしん》の門だった。 「兄さん、えらい大構えですね」 「そのはずだよ、祖先は大周皇帝のお血すじの別れ。……今の世の孟嘗君《もうしようくん》ともいわれているお人だからな」  門側へ寄ってゆくと、荘丁《いえのこ》長屋が見える。名を告げて、主《あるじ》の在否を問うと、近村まで行って留守とのこと。 「では、ここでお待ちしようか」  と、門前の溝川《どぶかわ》ぞいに、笠をぬいで腰を下ろしかけると、何かささやきあっていた荘丁らが来て、 「もし大切なお客様でもあると、てまえどもが叱られます。どうぞあちらの亭《ちん》でお待ちなすって」  とのこと。——伴《ともな》われるまま庭園の四阿亭《あずまや》に入って、腰《こし》の刀《もの》や荷物を下ろし、ふたりは主《あるじ》を待っていた。  見わたせば、庭園の広さ。桃林はかすみ、柳圃《りゆうほ》は小さい湖をめぐり、白鵞《はくが》、鴨《かも》、雁、おしどりなどの百鳥がわが世のさまに水面を占めている。畑の童歌《わらべうた》がどこかに遠く、羊や馬、牛の群れまでがまるで画中の物だった。そうした一方には楼台《ろうだい》二座、書院や待客堂《たいかくどう》なども、廊から廊へ、つづいて見える。 「やあ、お待たせしました」  彼方《かなた》の馬舎の横に、馬や従者をのこして大股にやって来た柴進《さいしん》。すでに壮丁《わかもの》から、宋江の名は聞いていたものとみえ、ただちに、 「ともあれ、こちらへ」  と泉楼《せんろう》の一客室へみちびき上げた。  あらたまって、名《な》のり合う。名のるまではなく、いずれもその人となりその名声は熟知し合っている間なのだ。 「時に、なんとも思いがけないご来訪ですが、そもそも、こんな僻地《へきち》へのご旅行とは、何か、官命のご出張でもございますのか」 「いや、おあるじ、笑って下さい。じつはこの宋江は、押司《おうし》の職にもあるまじき大罪を犯し、県城の椅子《いす》や家郷の老父も捨てて、ぜひなく落ちて来た漂泊《さすら》い者でござりまする」 「ほう、君子《くんし》の風《ふう》があるといわれているあなたがですか」 「しかも、つまらぬ女にひッかかって、情痴にひとしい過《あやま》ちから」 「はははは、それは愉快だ。あなたにしてさえ、そういう色事《いろごと》があったとは」 「愉快どころではありません、過失ではありましたものの、じつは女殺しの科《とが》を犯して、諸州に人相書まで手配され、一身、置き場もない者です」  聞くと、柴進はいよいよ相好《そうごう》をくずして、むしろ一そうな親しみさえ見せだした。そして宋江がやがて打明けた一切の事情にも、何ら冷たい風はなかった。 「そうですか。仔細を伺ってみれば、いよいよもって、あなたらしいご失策だ。いやしかし、これが生涯の破れか開花かは長い目で見なければわかりません。まあご安心なさい。大船に乗った気で」  客の絶えぬ家である。客を遇すことも厚い彼だが、とくに宋江と宋清に対しては親切だった。頼みがいのある人のところへ来てやはりよかったと、二人は世間のひろさを感じながら、つい数日もすぐ過ぎていた。  と或る日のこと。 「そうご書見ばかりでも飽きましょう。すばらしい珍味が今日は揃いましたから」  柴進《さいしん》が特に心入れの宴をもうけ、その日は夜まで興に入って飲みあった。上《かみ》の悪政、下風の頽廃《たいはい》、男と男の胸襟《きようきん》を解けば、人生如何に生くべきか、まで話はつきない。  そんな間に、宋江《そうこう》はふと、 「ちょっと、失礼を」  と、厠《かわや》へ立った。そして紙燭《ししよく》を借り、用をすますと、ふと夜風恋しく、べつな廊下を曲がって行った。そしてなおまた、廊づたいに暗い一室の前まで来て、何かにごつんと躓《つまず》いたものだった。  悪いことには、その弾《はず》みに、手の蝋燭《ろうそく》が、そこの暗がりで背を丸くしていた男の頸《くび》すじへでも落ちたらしい。男はふいに、 「ア熱《ち》、熱《ち》、熱《ち》っ……」  と大げさに跳び上がり、やにわに宋江の胸ぐらつかんで突ッかかった。 「眼はねえのか、この野郎っ」  驚いたのは、宋江の方だって同じである。  こんな暗い廊下で、かがんでいる奴もないものだと思ったが、客の身として、平身低頭、詫《わ》び入った。  だが、聞かばこそ。  男はわめきにわめきつづける。 「てめえもここの居候《いそうろう》か。いやに尤《もつと》も面《づら》していやがって、見ろッ、俺の頸《くび》ッ玉に火ぶくれが出来たろう。てめえの面《つら》を蝋燭でいぶしてやるからそこへ坐れっ。……なに、気がつかなかったと。ふざけるな。瘧《おこり》は俺の持病なんだ。この持病の苦しみを、いちいち他人へ断《ことわ》ッてから寝ろというのか」  この騒ぎに、家人も騒ぎ出し、やがて柴進《さいしん》自身、何事かと飛んで来た。 「まあまあ」と、彼は瘧《おこり》の男をなだめ、 「——おまえさん、昨日から体の調子がわるいというんで、今日も酒の座に誘わなかったが、そんなに怒れる瘧《おこり》なら、なにも大したことはあるまい。とにかく奥へ一しょにやって来ないか」  と、もとの酒席へ伴《ともな》って来た。そして及時雨《きゆうじう》宋江と、弟の宋清《そうせい》とを、あらためてそこで紹介したのである。  聞くやいな、男ははるかに飛び退《しさ》って、まえの気色《けしき》もどこへやら平伏したまま、しばしは面《おもて》も上げえない。 「なんともはや面目次第もございません。世上、よくお名は伺っておりました。その及時雨宋公明さまが、あなた様とは、まったくもって、夢にも知らないでいたしたこと。どうか最前の悪タレは平《ひら》にご用捨くださいまし」  腋《わき》の下に冷や汗をたたえているような詫び方だった。 「ご主人」  と、宋江は静かにかえりみて訊ねた。 「いったい此方《こなた》はご家人《かじん》か、それともご当家の食客か」 「なあに旅人《たびにん》ですよ。といっても、もう一年近くも家人同様に、わがままをいっている気楽者《きらくも》ンでごさいますがね」 「申しおくれました。名のるほどの者ではござんせんが」と、男も慌《あわ》てて、同時にこう行儀をした。 「——てまえは清河県《せいかけん》の生れ、苗字を武《ぶ》、名を松《しよう》と申し、兄弟順では二番目の武二郎《ぶじろう》でございまする」 「ほ。清河県の武二郎、その武松《ぶしよう》さんとは——あなたですか。いやこれは奇遇、かねがねこの宋江も、お名まえだけは伺っていました」 「てまえ如きが、お耳にあったとは、いよいよもって、赤面至極です」 「が、武松どの。当所にはどういうわけでご逗留かな」 「どうも至ってやくざな身性《みしよう》で、故郷《く に》の清河県でちょっとした喧嘩《でいり》をやり、そのため、草鞋《わらじ》をはいて、ここの大旦那のご庇護《ひご》にあずかり、もう故郷のほとぼりも冷めた頃なので、近くお暇《いとま》をと思っていると、持病の瘧《おこり》。それでついまた、お厄介を重ねていたところでございます」 「では、瘧《おこり》が取り持つご縁だったか」 「襟首《えりくび》の蝋燭《ろうそく》焼きなんてものは、瘧に効《き》くもンでございましょうかね」 「ほ。どうして」 「なんだか、けろりとしてしまいましたよ」 「はははは。そいつあ奇妙だ」  満座は腹を抱えて笑い、さらに杯盤《はいばん》を新たにして、男と男の心胆をそそぎ合う酒幾斗《と》。やがて鶏鳴《けいめい》まで聞いてしまった。  こんなことから、宋江、宋清も日々を愉しく過ごし、武松もまたつい旅立ちをのばして、その交わりを深めていたが、 「故郷《く に》にのこした兄貴が気がかり、どうして暮らしているのやら、いちど兄貴のこの頃も見ておきたい気がしきりにしますので」  と、武松は或る日、急に暇を告げだした。 「まあ、待ちなさい、明日《あ す》一日は」  と、柴進《さいしん》は彼への餞別《せんべつ》をかねて、倉の中から秘蔵の織物一巻を取り出し、それを三つに裂いて、一は宋江の衣裳に、二には宋清に、次には武松への旅の晴れ衣に仕立てさせた。  はるか西の沙漠《さばく》を越えて輸入されたすばらしく新鮮な色感と匂いのするそれは布地だった。それを着て、白紫《びやくし》の縞脚絆《しまきやはん》に、緋房《ひぶさ》の垂れた黒の乾漆笠《かんしつがさ》をかぶり、野太刀を打《ぶ》っ込み、樫《かし》の一棒を手に、武松は、 「いずれぜひまた、お目にかからせていただきますが、ひとまずは、長いご厄介と、思わぬお方へお目にかかったお礼をのべ、ちょっくら故郷《く に》へ行ってまいります」  と、その日、清々《すがすが》しい別れを酌《く》んで、恩家柴進《さいしん》の門を立って行った。  宋江のことは一応おいて。——ここで旅の武松の姿を追って行くと、彼の大股は闊達《かつたつ》そのもの。日をへて、すでに陽穀県《ようこくけん》の一山の裾にさしかかっている。 「おや、何だと?」  立ちどまった酒屋の門《かど》。制札《せいさつ》まがいの看板を読めば、  三碗《ワン》ニシテ丘《オカ》ヲ不過《スギズ》  と書いてある。 「亭主、一杯くれ。面倒だから大きな器《の》で」 「へい、いらっしゃい」  猪肉《し し》か牛肉の串《くし》刺しが付いているのを見ると、 「おいおい、こんな物じゃ腹の足しにならねえよ。脂《あぶら》のいいところ、二斤《きん》ほど、こってり煮込んだとこを持ってこいや」 「たいそうお飲《い》けになりますな」 「ヘンな面《つら》するない。飲むほど売れ、売れるほど商売になるンじゃねえか」 「ところが、てまえどもの酒は、看板にいつわりなしの上々の吟醸《ぎんじよう》。コクのある地酒ってんで評判物です。どうかそのおつもりでお過ごしを」 「あの判じ物みてえの看板がみそかい」 「みそじゃございませんよ、銘酒の生《き》一本という意味です。つまり三杯も飲むと、この先の丘も越えられなくなるほど廻るンで」 「ふ、ふ、ふ。おかしいぜ、おれはもうとうに三杯やってるが」 「旦那はどうかしていなさる。こんなお客って見たことがない」 「冗談いうな。俺が飲むのはこれからだよ。もう三碗《わん》並べておけ」  それも飲み干し、あきれる亭主を尻目に、 「おいっ、もう三碗」 「げっ。……ま、お止しなすっちゃいかがですえ」 「俺を、ただ飲みして逃げる男とでも思っているのか」  銀子《ぎんす》をそこに並べ、さらに肉を食らい、香《こう》の物をばりばり噛みながら、やがてやおら、 「ああすこしいい気もちになった。これが三碗ニシテ丘ヲ越エズの酒か。高価《た か》いものにつきゃあがった」  と、棒を片手に、ぶらんと軒を離れて行った。  すると、彼の後を追って来た亭主が呼んだ。 「もし旅の衆、旅の衆。どっちへ行かっしゃる」 「なにをいッてやがる。向いてる方へ向いて行くしかねえじゃねえか」 「そっちへ行っては、景陽岡《けいようこう》にかかりますぜ」 「それが、どうしたと」 「途々《みちみち》、お上《かみ》の高札《こうさつ》が目にとまりませんでしたかえ。近ごろ景陽岡には、額《ひたい》の白い大虎があらわれて、たびたび往来の旅人や土地《ところ》の者さえ食い殺されていますんでね」 「ふウむ。虎ッてえなあ、おめえんとこの店でよく暴れる奴のことじゃねえのか」 「ちッ、真顔《まがお》で聞いておくんなさいよ。親切気でお止めしているんですぜ。命が要《い》らないわけじゃありますまい」 「といったッて、清河県《せいかけん》へ行くには、この峠《とうげ》を越さずにゃ行けねえ」 「だから峠先きへ行く道づれを待って、二、三十人になったら、松明《たいまつ》を先頭に、わいわい囃《はや》しながら押し通ることにしているんでさ。——お上の高札にも、夜明け、明け方、午《ひる》でも一人歩きはならぬと、辻々に書いてあるじゃございませんか」 「そうだったかなあ。俺は見なかった。どウれ、それじゃあ虎が虎にご見参と出かけようか」 「あれっ、強情ッ張りだな。旦那、旦那。食われたって知りませんぜ」 「おれが食われたら、骨はきさまにくれてやる。茶代に取っておけよ。はははは」  彼の笑い声は、もう麓《ふもと》の木暗《こくら》がりへ入っている。亭主は耳をおさえて舞い戻った。 景陽岡《けいようこう》の虎、武松《ぶしよう》を英雄の輿《こし》に祭り上げること  麓道《ふもとみち》二十町ほど行くと、鬱蒼《うつそう》たる山神廟《さんじんびよう》の一地域がある。  そこからが、景陽岡《けいようこう》の峠路だった。  武松《ぶしよう》が酒屋を出たころは、まだ午《ひる》さがりまもなくだったが、蹌々踉々《そうそうろうろう》の足どりのまに、いつか千古の樹林の先が血みたいな夕陽に染まり、そのくせ足もとはもう陰々とほの暗い。 「ははあ、こいつだな。県の告示ってえのは」  見れば、高札《こうさつ》にいわく。  近来、巨虎《キヨコ》、峠ニ現ワレ、頻々《ヒンピン》トシテ人命ニ害ヲナス。官民、捕殺ニ力ヲ協《アワ》スト雖《イエド》モ、虎爪《コソウ》血ニ飽カズ、惨害日ニ増スノミナリ。単身ノ旅ハ慎《ツツシ》ミ、近辺ノ民モソレ心セヨ 陽穀県告示   「なあるほど! ……。こいつあまずい、すこし背すじが涼しくなってきやがったぞ」  しかし、ままよといった風な武松の姿である。或いは酔中朦朧《もうろう》の一興と逆に愉《たの》しんでいたことかもわからない。  とっぷり暮れた。峠も三合目あたりである。虎の眸《ひとみ》のごとき半月が脚下の谷にあった。なお酔いはある。足が気《け》だるい。 「……虎よりは、こんなとき、また瘧《おこり》が起らなけれやいいが」  やっと頂《いただき》に近づいた。と見る、疎林《そりん》の中の杣道《そまみち》に、青い巨大な平石がある。武松は笠をぬいで仰向けに転がった。寝るつもりでもなかったが酔余《すいよ》の快《こころよ》さ、いつかすっかり寝こんでしまったものである。  どこからか映《さ》す半月の月光は、この巨漢の姿と凜《りん》たる相貌を、石の表に陽刻《ようこく》した一個の武人像のように露《つゆ》めかせていた。年は二十六、七を出ず、唇朱《あか》く、《びん》はややちぢれ気味、閉《と》じてはいても眼《まなこ》は不敵なものを蔵し、はやくも雷のごとき高いびき。  ——まさにこれもまた、かりの地上に宿命して、清河県《せいかけん》の市井《しせい》に一侠児として生れた、百八星中の一つのまがつ星の性《さが》なるものにちがいあるまい。  ——するとやがて、がさッと微《かそ》けき木揺《こゆ》らぎがしたようだった。天地は寂《せき》とし、およそ鳥けもの、地虫の類までが一瞬、しいんと密《ひそ》まった感じである。それもそのはず、葉摺《ず》れを戦《そよ》がしつつ、のそ、のそ、と巨大な身躯《しんく》に背うねりを見せながら近づいて来る生き物がある。満身は金毛黒斑《きんもうこくふ》、針のごとき鼻端《びたん》の毛と、鏡のような双眸《そうぼう》は、  くん! ぶるる…… ぶウっ……  と人間の香を嗅《か》ぎ知って、しきりに異様な戦意と欲情の昂奮を、尾さきにも描いている。  が、虎も怪しみを抱いたにちがいない。獣王はそのりっぱな体躯に似合わず、どこか小心恟々《きようきよう》として平石のぐるりを何度も大股にめぐり出した。そして、武松の顔の辺で、ゴロ、と喉《のど》を鳴らし、前肢《ぜんし》を突っ張ったせつな、今にも何かの行動に出そうな爪牙《そうが》の姿勢をピクと見せた。けれど、虎はそれにも出なかった。とたんに、ふと眼をさました武松《ぶしよう》の眼と虎の眼とが、そのとき、らんらんと睨《ね》めあっていたのである。武松は内心ギョッとしたが、石その物のように身じろぎもせず、虎を睨めすえたものだった。  どう思ったか、虎はまた平石を巡りまわる。同時にその尾を窺《うかが》って、武松もむくりと突っ立った。虎は性来、敵が尾へ廻ることはおよそ嫌いだ。うしろは彼がもっとも弱点とする急所なのである。だから怒った。ばっと一躍するなり武松を搏《う》ッた。 「おうッ」  と、武松は身を沈め、次の攻勢もスラと軽くかわした。すると虎は外《はず》された体をまるくちぢめ、背すじの峰を高めて、ふうッと唸《うな》った。その腥《なまぐ》さい鼻風《びふう》は砂礫《されき》を飛ばし、怒りは金瞳《きんどう》に燃え、第三の跳躍をみせるやいな、武松のからだを、まッ赤な口と、四ツ脚の爪の下に、引ッ裂かんとしたが、これまた武松にかわされると、彼のさいごの手とする素早い“払い”をこころみた。  撲《う》つ、蹴る、払う。虎の戦法はこう三つを奥の手とする。そのすべてが効《き》かないとなると、さしもの獣王も気萎《きな》えをするものだとか。武松は知っていたわけではないが、活眼、虎の虚《きよ》を察するやいな、こんどは彼から跳びかかった。額《ひたい》の銀毛の斑《ふ》を狙って、一拳《けん》を食らわせ、また二拳《けん》、鼻を搏《う》ち、三打《だ》、虎の眼を突いた。  虎はクシャミのような悲鳴を発した。——が、もちろん、そんな程度では怯《ひる》まない。とたんに武松の体が鞠《まり》のごとく七尺も先へ転がった。転がった上へは、間髪を入れず、黄まだらな蜒《うねり》が尾を曳いて走り、武松のどこかを咥《くわ》えたかと見えたが、逆に虎の体がもんどり打った。彼の足業《あしわざ》は虎をして狼狽させた。しかも尻へ尻へ狙《つ》け廻って来る人間の素早さに、虎はクルクル自転せざるを得ず、それには虎もいささか眼が眩《くら》み出して来たように見える。  武松は手馴れの棒を拾って小脇に持った。棒の秘術は虎の眸《め》のなかに奇異な幻覚を持たせたにちがいない。何十人もの人間の影がまわりにあって、じぶんを弄《なぶ》るように見えたであろう。その猛吼《もうく》も飛跳《ひちよう》も次第に弱まり、いくたびか棒を咬《か》んだが、その棒テコでも苦闘に落ちる。武松は迫って、また白額《しろびたい》の毛の根をつかみ、十打《だ》二十打の鉄拳をつづけさまに下《くだ》した。虎は目鼻から血を噴《ふ》き出す。呻《うめ》きは全山を震撼《しんかん》する。さらに蹴る。滅《め》ッ多《た》打ちに打ちのめす。苦しさの余り虎は腹の下の土を掘った、虎のからだの両側に小山ができる……。ついに、みずから掘ったその坑《あな》に虎はがくんと躯体を鼻をついた。  武松もまた、ぐたっとなった。大息ついたまま茫然《ぼうぜん》としていたが、はっとわれに返るや短刀を抜き、虎の脾臓《ひぞう》、心《しん》、肺のあたりに幾太刀となく、とどめを刺した。鮮血は腕を濡らし、袖は緋《ひ》のまだらに染まった。  ——その姿が、やがて景陽岡《けいようこう》を西へ越え、夜明けぢかくの道をふらふら村のほうへ降りかけていた。土地の者が怪しく見たのは当然で、 「旦那、旅のだんな……」  三人ほどが、追ッかけて来て、彼に訊ねた。 「もし、ゆうべは、どちらからおいでになりましたえ?」 「なに、どこからだと。知れたことよ、景陽岡《けいようこう》を越えてきたのだ」 「へえ。虎に会いませんでしたか」 「虎か。虎はこの鉄拳で、撲《は》り殺してきた」 「ご冗談を」 「冗談と笑うほどなら、なぜ訊くのだ。ばか野郎め」  また、行きずりの猟師二人が、彼にむかって同じことを問うた。武松の返事は同じだった。が猟師は、武松の袂《たもと》の血を見て、半信半疑に峠の上へ馳けて行った。さあ大変、まもなく、虎の死体が四纏《よてん》に絡《から》められ、十数人の肩棒で、やッさもッさ麓へかつぎ降ろされてきた。  村では鐘を鳴らし、板木《ばんぎ》を叩き、一大事でもわき起ったような騒ぎである。女子供も出てくるし、鶏も羽バタキ、羊もさけび、豚も啼《な》く。 「虎だ、虎だ、虎が退治されたとよ!」と呼び交わしつつ群れ集まって来る見物だった。たちまちそれは村道を人の山で埋めてしまう。  また、急を知って、土地《ところ》の名主《なぬし》、年寄りも出て来るし、やや時をおいては、県役署の役人大勢が、馬を飛ばして馳けつけて来た。そして名主や猟師らを呼び集め、何事か訊問していたが、 「なんと申す。では虎を退治いたした者は、そのほうらではなくて、旅の者か。しかも若い旅人ただ一人で打ち殺したと申すのか。どえらい人間もあったものだ。……して、して、その者は一体どこにおるか」 「それが、麓《ふもと》へ下ってから、どこへ行ったやら、見あたりませんので」 「なに、見当らんと。まさか何かの化身《けしん》でもなかろう。探せ探せ、まだ遠くへは行っていまい」  武松はくたくたな姿である。村端れの居酒屋のすみで、正体もなく眠っていたのだ。ここでも空《す》き腹へ一杯あおったに違いなく、もう欲も得《とく》もないといった恰好だった。 「豪傑、豪傑。どうか、ちょっとその、お眼をおさましなすってください」  急に耳もとで何かガヤガヤ騒々《そうぞう》しいし、しきりに揺《ゆす》り起こす者があるので、武松がふと眼をあくと、県の役人やら名主やら……のみならず往来いっぱいな群集までが、 「虎退治のお客さんはあれだ。あれが虎退治の豪傑だ」  と、まるで祭りのような騒ぎでわんわんと歓呼《かんこ》している。  寝足らない眼をこすっているうちに、彼は、酒屋の軒から設けの駕籠《か ご》に乗せられた。——見れば組み立てられたもう一台の台の上には、大虎の体が横たえてある。彼はまだ夢見心地で、 「やいやい、こんな物に、俺と虎を載せて、いったいどこへ持って行く気だよ」  と、何度もどなった。  役人や名主は、あたかも英雄に仕える奴僕《ぬぼく》のごとく、彼を敬《うやま》って、 「ともあれ、県役署までお越しねがいまする。この凶害を除いていただいた大恩人、村民はあなたを救いの神とあがめ、県知事閣下は、領下の難を救った殊勲者として、お迎えして参れとのおことばです。どうかご迷惑でも」  と、はや担夫《たんぷ》に命じて、虎の台と、彼の駕籠《か ご》とをかつぎ上げさせた。駕籠(手輿《てごし》)には、晴れの紅絹《も み》やら花紐《はなひも》が掛けてある。  列が進みかけると、群集の老若男女は、われがちに寄って来た。そして、武松《ぶしよう》の駕籠を目がけて五色の紙きれを花と投げた。またその膝のうちへ、羊の肉やら酒の壺やら饅頭《まんじゆう》などをかわるがわるに捧げてきた。また辻では、爆竹の花火とともに、別れを惜しむ歓呼やら手振りやらで、列も行きよどむばかりである。  さらにこのお祭り騒ぎは、その日、陽穀県《ようこくけん》の県城へ入っては、いよいよ白熱化されていた。もう町中も聞きつたえており、沿道は堵《と》をなす人の垣である。武松は変な気持ちだった。 「……なんだいこれは。……まるで俺を帝王あつかいしていやがる」  知事は、彼を迎えるに、賓礼《ひんれい》をもってした。大餐《たいさん》を設けて、酒席の主座にすえ、そして感謝状を読みあげた。あまっさえ、土地《ところ》の金持ちから集まった一千貫の金を、賞として、彼に授与すると、讃辞に添えて申し述べた。 「そいつあ、ありがたいこってすが」と、武松は、あいさつに窮したようにいった。 「なにも、虎の一匹ぐらいを拳《こぶし》で撲《は》り殺したぐらいなことは、資本《もとで》のかかったわけじゃなし、たまたま、あっしが拾った道ばたの運みたいなような出来事。——どうか、お金はこれまでにくそ骨おった猟師さんやら、虎に食われた土地のあわれな遺族方にでも頒《わ》けてやっておくんなさい」 「それでいいのか」  知事は彼の無欲に驚いた顔つきだった。 「へい、いいにもなんにも、それで大満足でございます」 「むむ、見上げたものだ。では金は彼らに分配してやるとして。……どうだな武松とやら、今日よりそちを県の都頭《ととう》(伍長)に取立てたいが、仕官の心はないか」 「ないどころじゃございませんが、じつはその、清河県の兄に会いたくて、ここまで来た旅の途中でございますんで」 「清河県なら何もここから遠くではない。つい隣県だ。いつでも会えよう。……では、書記、武松は今日から都頭に任じるぞ。さっそくその手続きをはこんでおけ」  武松は、この出世も、事の弾《はず》みみたいな気持ちでただ「オヤオヤ」と言いたげだった。あんまり欣《うれ》しそうでもない。  四、五日は県の庁舎で身を休めていた。会う人、会う人から、祝福されたり虎退治を賞《ほ》めそやされる。そのたび彼はむず痒《がゆ》そうな顔をして、 「やあ。どうもねえ。やあ」  とただ、頭を掻いて、柄《がら》にもなくテレるのだった。  そうした或る一日のこと。  庁舎を出て、用もないまま町の公園をぶらついたすえ、子供らの騒いでいる鞦韆《ぶらんこ》のある遊び場までくると、そこの一隅に荷を下ろしていた、うすぎたない饅頭屋《まんじゆうや》の小男が、 「あっ。……武松じゃないか」  と、立ったとたんに足もとの天秤棒《てんびんぼう》に蹴つまずき、そのまま身を泳がせるように寄って来て抱きついた。 「あれっ?」  武松は唖然《あぜん》とした。いや次には、顔を笑《え》み破って、やにわに、背のずんぐり低いその饅頭屋の双肩《もろかた》へ両手をかけた。 「兄さんじゃないか。一体どうしたんですえ。こんな所で」 「武松よ。ああやっぱり弟の武松だったか。面目ない」 「泣きなさんな、こんな道ばたでよ。まさか兄さんがこの紫石街《しせきがい》に来ていようとは思わなかった。何か清河県の生まれ故郷に、まずいことでもあったんですかえ」 「何も悪いことなんかしてないさ」 「そうだろうなあ。自体お人よしな兄さんのことだもの。じゃあ借金のためにでも」 「うんにゃ。女房をもらったからだよ」 「女房を娶《もら》ったために土地をかえたというのも、おかしなはなしじゃねえか。俺には腑《ふ》に落ちかねるが」 「話せばわかる。弟よ、こっちへ来てくれ。こういうわけだ」  と、兄の武大郎《ぶたろう》は、彼をつれて元の位置に返り、商売物の揚げ饅頭《まんじゆう》の荷担《にない》をうしろに、公園の池へ向って坐りこんだ。  一つ腹の兄弟だったが、武松は以前から「兄貴は人がいい。おまけに醜男《ぶおとこ》だ、体も畸形《きけい》だし、なんてえ気のどくな……」と、逆に、目上の兄を不愍《ふびん》がっている。  だから子供のじぶんから、近所の童《わつぱ》仲間が、 「ぶだ! ぶだ! ちんちくりんのぼろッ布《き》れ」  などといって揶揄《からか》うと、いつも武松が怒って相手をこッぴどい目にあわせて懲《こ》らした。——長じて、大人になってからも、そんな例は何度もある。だから武松が草鞋《わらじ》をはいて他県へ飛び出さない前までは、武大《ぶだ》も人から馬鹿にされずに庇《かば》われていた。  ところが去年、彼の留守のまに、武大は思いがけない女房をもらう破目になった。それがしかもたいへんな美人だった。たとえば、羽衣を地におき忘れた天女がやむなく下界の下種《げす》の女房になったかと思われるような……潘金蓮《はんきんれん》という女。  もちろん、それにはわけがある。  元々、この金蓮という小娘は、姓を潘《はん》といい、清河県の大金持ちの家へ買われた女奴隷《めどれい》だったが、やがてその美が熟してくると、主人の狒々《ひひ》長者は、のべついやらしいことを言い寄りはじめた。女奴隷は財物なので、狒々《ひひ》長者の欲情視は特にふしぎなことではない。  だが、金蓮の花芯《かしん》はまだそこまで開意をもっていなかった。いやがったり、泣いて逃げたり、あげくに長者の本妻へ告げてしまった。  長者は嫉妬《しつと》ぶかい本妻にいためつけられ、家人子供らには笑われるしで、赤恥をかいた。ために可愛さ余ッての憎さも百倍、金蓮《きんれん》の身は奴隷《どれい》仲買人の手にもやらず、彼女の持ち物だけを嫁入り支度として、これを町じゅうで小馬鹿にしている醜男《ぶおとこ》で生活力もない評判の武大《ぶだ》へ女房にくれてしまったのである。つまり「——一生、憂き目を見さらせ」という意趣返しだ。  ところで、武大はお人好し。よだれを垂らして、金蓮をあがめ迎え、朝飯晩飯の支度から使い走りまで自分がやって、 「女房よ、金蓮よ」  と、随喜渇仰《ずいきかつごう》の有様なのだ。そこでその妻《さい》のろ振りがまた、さあ町じゅうのいい笑い草となった。いや岡焼きも手つだっていよう。寄れば触れば、「あの三寸男が」だの「ちんちくりんのボロ布《ぎ》れが」のと、武大の家には町中の目が見通す節穴でもあるような騒ぎだし、あげくには、 「いやはや、惜しい美肉が、犬コロの口へ落ちたもんさ」  と、囃《はや》されたりした。  その漫罵《まんば》と人々の意地悪さには、さすがの武大も耐えかねた。金蓮をつれて、とうとう生れ故郷を逃げ出し、隣県の紫石街に小世帯を持って、じぶんは毎日、揚げ饅頭《まんじゆう》を売りに歩いていたものだった。 「ム、そうか。……そいつあ兄さん、俺のいないまに、とんだ苦労をしなすったね。が、まアいいじゃありませんか。そんな別嬪《べつぴん》を女房に持ちゃあ一生の得だ。ちっとやそっと世間に妬《や》かれたって仕方がねえや」 「そうだよ、武松。わしもそう思ってな、今じゃ気楽に稼いでいるのさ。女房の金蓮もほんに気だてのいい女でね」 「そりゃお仕合わせだ。嫂《ねえ》さんがそんないいお人なら、いちど会わせておくんなさい」 「おお会ってくれるか。まだおまえの妹みたいな若さだから、ひきあわせるのも何だかちょっと気まりがわるいが。……じゃあ、一しょに家《うち》へ来ておくれ」 「あいにく手ぶらで、今日は何の土産《みやげ》も持たねえが、じゃあ行きましょうか。……おっと兄さん、その荷物は俺が担《かつ》いでやろう」 「だめだめ。おまえとわしとでは、荷担《に な》いの寸法が違い過ぎるよ」  なるほど、五尺たらずの武大。天秤《てんびん》の荷綱もそれに合せてある。——途中話し話し公園を出て、二人は町中を連れ立って来たが、たれもこれを同胞《はらから》と見た者はあるまい。知る者は、武松ばかりを振り返って、 「虎退治の豪傑だ。あれが武松だ」  と、囁《ささや》いては摺《す》れちがって行く。 「なあ武松。わしもあの評判は聞いていたが、まさか自分の弟とは思わなかったよ。金蓮が聞いたらどんなに歓《よろこ》ぶだろう。おれもちょっぴり鼻が高いで」  いうまに、武大はわが家を見ていた。人通りも少ない裏町で、堀の石橋が枯れ柳に透《す》いて見え、角に一軒の茶店がある。——武大の住居《すまい》は、その茶店をやっている王婆さんの北隣だった。門佗《かどわ》びしげな、一枚の芦簾《あしすだれ》へ向って、武大が、 「女房や。お客さんを連れ戻ったぜ。そらもう珍らしいお客さんでな」  と、外から声をかけると、とんとんとんと二階から降りて来るらしい跫音《あしおと》がした。同時に、ぱらと白い女の腕《かいな》が、内から芦簾《あしすだれ》をかかげて、 「あら……お帰んなさい。まあ、どちらのお客さま?」  と、愛相《あいそ》のよい笑みを外へこぼした。——そしてちらと、武松の姿へ流し眼をむけた金蓮の明眸《めいぼう》といいその艶姿といい、はっと、男を蠱惑《こわく》するかのような何かがある。  なるほど、これでは兄の武大が世間から妬《や》かれたり騒がれたりして、故郷にいたたまれなくなったというのも無理はない。突嗟《とつさ》、武松でさえも変に眩《まばゆ》いここちがした。 似ない弟に、また不似合な兄と嫂《あによめ》の事。ならびに武松《ぶしよう》、宿替《やどが》えすること 「さ、弟。二階へお上がり。狭いけれど誰に遠慮もない家だよ」  巡り会った弟を連れて帰ったよろこびで、武大《ぶだ》はただもうころころしている。さっそく女房の潘金蓮《はんきんれん》へも鼻高々とひきあわせた。 「ねえ金蓮。……ほら、お前にもしょッちゅう噂をしていたろ、これがあの弟だよ、長いこと旅に出ていた弟の武二郎《ぶじろう》さ」 「ま。こちらが弟さんですの」  金蓮はそのしなやかな両の腕を柳の枝のように交叉《こうさ》して、初見《しよけん》の拝《はい》をしながら、濃い睫毛《まつげ》の翳《かげ》でチラと武松の全姿を見るふうだった。——武松もまたひざまずいて、この美しい嫂《あによめ》の絹縢《きぬかが》りの可愛らしい沓《くつ》の前に額《ひたい》を沈めた。 「初めてお目にかかります。途々《みちみち》、嫂《ねえ》さんのことは兄からも伺いました。兄は今たいそう倖《しあわ》せらしく、久しぶりで会ったこの武二郎までうれしくてたまりません。それでついとつぜん一しょにお邪魔してしまいましたが」 「あら、そんなお堅いことを仰っしゃらないでください。……親身な兄さんのお家ですもの。さあ、どうぞもうお気らくに」 「金蓮、お前も評判を聞いてるだろうが、あの景陽岡《けいようこう》で虎退治をした人というのは、この二郎なんだぜ」 「へえ、では今、大人気な県城の都頭《ととう》(伍長)さんは、この弟さんだったんですか」 「違うよ金蓮。虎を退治たもんだから、県の知事さんが、無理に弟を都頭に取立てたので、弟はこの街へ来る前までは、ただの旅人《たびにん》だったのさ」 「どっちだって、同じもんじゃありませんか。ホホホホ、ねえ二郎さん」  白珠《しらたま》に紛《まご》う金蓮の歯が笑《え》みこぼれる。眼いッぱいな愛嬌というか一種蠱惑《こわく》なもの、これが自分の嫂《あによめ》だろうか。これが兄の妻なのか。武松にはまだ身に沁《し》みてこない。 「二郎。今夜はゆっくり泊って行っておくれ。いま何か買って来て、精いッぱいご馳走を作るからな」  兄はころころ出て行ってしまった。「——なんだ! 女房にさせりゃあいいに」と、武松は少々むくれたが、金蓮はさっきから武松にばかり見惚《みと》れている。  おなじ兄弟でいながら、なんていう違いだろう。良人の武大《ぶだ》ときては、背も五尺たらずのちんちくりんでおまけに猪首《いくび》で薄野呂《うすのろ》で、清河県《せいかけん》でも一番の醜男《ぶおとこ》と笑われていたのに、武松の身長《みのた》け隆々たる筋骨は、男の中の男にも見える。どこ一つといって兄の武大とは似ていない。金蓮はひどく惹《ひ》かれたらしい流し眼だった。 「……あの二郎さんのお宿はいま、どちらですの?」 「まだ、都頭《ととう》になりたてのほやほやですからね。県城の官舎に独りでおりますよ」 「ま、お独りで」 「なアに気らくなもんですよ、兵隊暮らしは」 「だって、なにかとご不自由じゃありませんの? これからは、なんでもここへ来てわがままを仰っしゃってくださいましな。ご休暇といわず、いつでも来て」 「嫂《ねえ》さんだって、お忙しいでしょ。兄はあの通りな真正直者《ましようじきもの》。清河県にいた頃から、鈍《どん》で才覚なしでただ稼ぐ一方と、世間さまからもとかく小馬鹿にされ勝ちな兄でしたからね。ほんとに、嫂さんも大変に違いない。どうかお願いしますよ、あんな兄でも」 「もったいない、そんな他人行儀なんか仰っしゃらないでよ。でも、その兄さんに、あなたみたいな立派な弟様があろうとは思いませんでしたわ、ほんとに。——二郎さんはお幾歳《いくつ》ですの」 「二十五ですよ。はははは、旅の草鞋《わらじ》もいつの間にか」 「じゃあ、わたしと二つ違いですのね」  ひょいと、彼女の眸《め》を眼にうけて、武松はいわれもなく胸がどきっとした。——そこへ階段の下から武大《ぶだ》が魚菜《ぎよさい》や肉を籠いッぱい入れたのを抱えて上がりかけて来た。 「金蓮! ……。ほら、ほら、こんなに仕入れてきたぜ。市場の衆がみんなびっくりしてやがるのさ。武大さん、今日はいったい何のおめでたがあるのかネって」 「あらっ、この人ッたらまあ」  金蓮はつい日頃の調子を出して、武大の出鼻を口汚くののしった。「——そんな物、なんだって、わざわざ二階へなぞ持って来るのよ。台所へ置いといて、料理の手伝いには、お隣の王の婆さんにでも来てもらえばいいじゃありませんか。……これですものネ、二郎さん」  さて、その晩は、ともかく兄夫婦のもてなしに、武松もすっかり酔っぱらった。わけて金蓮のとりなしは手に入っている。武大と連れ添う前までは、さすが清河県第一の富豪の邸に飼われていた女奴隷《めどれい》の使女(こしもと)だけのものはあった。どうすれば男が歓ぶかを知っている。  泊れ、泊れと、夫婦《ふたり》してすすめるのを謝して、武松は深更に帰って行ったが、あくる朝、眼をさましてから、ゆうべ酒の上で兄夫婦と約束して帰ったことを思い出し、さっそく県役署の知事室へ行き、知事に会って、諒解を求めた。 「閣下、じつは偶然なんですが、この街で、久しく別れていた兄に巡り会いました。四方山《よもやま》の話のすえ、強《た》って家《うち》へ来て家から役署へ通ったらどうだと親切にいってくれるのですが、よいでしょうか」 「実兄の家に下宿して、そこから通勤したいと申すのか」 「はい、幼少から一つに育って、とかく淋しがり屋の兄だもんですから」 「よかろう。引っ越しには従卒にも手伝わせるがいい」  一方、武大《ぶだ》の家でも、階下の一間に寝台を入れたり壁紙を貼り代えなどして、にわかな歓迎ぶりである。やがて引っ越しの日には、荷物は少ないが、武松は従兵三人に、手車など曳かせてやって来た。近所隣《となり》では眼を瞠《みは》る——。 「じゃあ兄さん、今日からご厄介になりますぜ。嫂《ねえ》さんにも一つよろしくおねがいします」  下宿もただの下宿屋と違う。これから一つ屋根の下ぞと思うと兄弟久々に愉しげである。武松は日を措《お》いて、隣近所の衆を茶菓で招き、また、嫂《あによめ》の金蓮には、緞子《どんす》の反物《たんもの》をみやげに贈った。——和気藹々《あいあい》たる四、五日だった。  さて、おちつけば、武大は毎日、荷担《にない》をかついで例の饅頭《まんじゆう》売りに出かけ、武松もきちんきちんと県役署へ出勤して行く。……だがしがない饅頭売りのほうはどうしても朝は早いし帰りは晩《おそ》い。自然、狭い家には金蓮と武松のただ二人だけの時がまま多かった。  潘金蓮《はんきんれん》は、めッきり綺麗になりだした。  女の中の秘密が醸《かも》されて色となり美となって女の熟《う》れをみせてくる生理には何か凄いものがある。朝夕の化粧や身飾りもそれを研《みが》いているが、皮膚そのものの下にいつも仄《ほの》かな情炎の血を灯《とも》し、絖《ぬめ》やかな凝脂《ぎようし》は常にねっとりとその白い肌目《き め》からも毛穴からも男をそそる美味のような女香《によこう》をたえず発散する。 「……あ、嫂《ねえ》さん。毎朝、顔を洗うのにお湯などはいりませんよ。こっちは兵隊だ、下宿人だ。打っちゃッといて下さい」 「だって、せっかくお汲みしたのに、二郎さんてば」 「その親切は、どうか兄さんにしてやって下さいよ」 「良人《う ち》にだってしてるじゃないの。さ、食事がすんだらお茶を一盞《さん》上がって」 「こうどうもな世話をかけちゃあ……。さ、もう役署の時間だ」 「でもあなたのお世話がわたしうれしいのよ。帰りもお早く帰って来てね。いいこと。晩にはまた何かお美味《い》しいものを考えて待ってますわ」  外へ出ると、武松は何かやれやれと思う。嫂《あによめ》のやつ、亭主を弟の俺と取ッ違えてやがる。親切もありがたいが、こう毎朝毎晩、肌着の下まで撫《な》で廻されるように行き届き過ぎるのもやりきれない。  夕方帰ればなおさらだった。湯に入れば後ろへ来て背中を流す。時により酒など支度していることもある。 「いや嫂《ねえ》さん、兄さんが帰ってから一しょに飲《や》りましょうぜ。独りで飲んだって美味《う ま》くねえ」 「いいえ、良人《う ち》は今夜晩《おそ》いのよ。粉問屋《こなどんや》へ帰りに廻るっていってましたもの。二郎さん、わたしじゃいけないの」 「何がですえ」 「何がって、このひと焦《じ》れッたいわね。頂戴よ、お盃を」  彼女が沸《たぎ》らせてみせる女情の坩堝《るつぼ》も、武松にはさっぱり通じないものだった。いや兄思いな彼は、兄の家庭の平和を朝夕に見ていられればそれで充分楽しいのである。だからまた、金蓮《きんれん》の触れなば崩《くず》れんとする花の猥《みだ》らにも、姿態《し な》に示す柳の糸の誘いにも、怒りはつつしんでいた。むっとはしても、笑っている。だが、そう交《か》わされれば交わされるほど、 「……もう、ほんとに。わたし、どうかしちまいそうだわ」  ひとり焦々《じりじり》、髪の根をかんざしで掻く金蓮の思いは、無性に募《つの》るばかりだった。  時しもその日は、朝からの大雪。——金蓮が積もる思いをはらすのは今日だとしていた。  良人《おつと》の武大《ぶだ》は、今日も、饅頭《まんじゆう》売りに出してやったし、帰りも晩《おそ》いように、わざと二つ三つの用事まで背負わせてやってある。彼女は午《ひる》過ぎると、隣家の王の婆さんに手伝わせて、こってりとした汁、焼肉、羹《あつもの》料理など拵《こしら》えておき、さて武松の部屋も火気で火照《ほて》るばかり温めておいて。 「ああ……よく降ること。なんて静かな雪の昼だろう。まるで真夜半《まよなか》みたい」  と、武松の帰りを待ちぬいていた。  その日は兵営祭りで、武松も半日帰りと知っていたからだった。繽紛《ひんぷん》と舞う雪のなかを、彼はやがて、赤い顔して帰って来た。——そしてこんな日のこと、さだめし兄も饅頭売りはお休みだろうと思っていたらしく、 「兄さん、えらい大雪だ。みやげの折詰を提《さ》げて来たぜ。一杯飲《や》ろうや」  芦簾《あしすだれ》の雪を払って、家へ入って来るなりそう呼んだ。ところが兄は見えず、出て来たのは、いつもの深情《ふかなさ》けな嫂《あによめ》の金蓮だけ。 「……なんだい、いねえのなら、兵舎で兵隊と飲んでいたのに」  武松は急に無口になる。取りなす金蓮は、かえって、一倍まめまめしい。下心《したごころ》とともに、耳たぶの紅から爪の先まで研《みが》きに研いていたことである。窓外の雪明りは豪奢《ごうしや》に映《は》え、内の暖炉《だんろ》はカッカと紫金《しこん》の炎を立てる。武松が制服を脱いでくつろぐ間に、彼女は裏口を閉め、表の扉にもカギを卸《おろ》してしまった。深夜のように、酒肴《さけさかな》がいつか並ぶ。武松はうんもすんもいわずに見ていた。 「どうなすったの二郎さん。いやよ、そんな顔をなすっちゃあ。……ねえ、わたしにだって稀《たま》には兄さんにするように優しくして下さらない?」 「いや、話し相手がないと、つい武二《ぶじ》って奴あ、こういう顔になるんですよ。何も嫂《ねえ》さんのせいじゃない」 「じゃあお杯を持ってよ。そして私にも酌《つ》いで下さいな」 「酌《つ》ぐことは酌ぎましょうよ。だが、あっしはもう沢山だ。兵営祭りで兵隊と、たらふく飲んだあとだから」 「あら、嘘ばッかり。兄さん飲もうよって言いながら家へ入って来たじゃないの。もう意地よ、私だって」  金蓮は三つ四つ手酌《てじやく》でつづけた。今日こそぶつかってやれ、と心に潜《ひそ》めていたものの、やはり勇気が欲しい。自分で自分がもどかしい。彼女は泣きたくなった。体の中で狂う性の翼《つばさ》に気が狂いそうだった。 「二郎さん! 飲ませずにはおかないわよ。お嫌いなの、私のお酌が……。あっ、こぼれる」 「嫂《ねえ》さんどうかしてますね、今日は」 「わかること、それが。……私の眼を見てよ、眼を」 「あっ、無茶だ、嫂さんがそんなに飲んじゃいけねえよ」 「じゃあ、助《す》けてちょうだい。……うれしい、飲んでくれたわね。もひとつよ。嫌アん……それを空《あ》けてからよ」  そして彼女は椅子《いす》ごと寄って、素早く武松の膝へ姿態《し な》だれかかった。と、もう白い手は武松の厚い肩を半ぶん捲いて、髪の香もねッとりと、男の胸を掻きみだすばかり甘えかかる。まるで魔女の身ごなしだ。朱い唇が罌粟《け し》の花さながらに仰向いて何か喘《あえ》ぐ。……どうかしてよ! どうかしてよ! 彼女自身すら持て余しているものを身もだえに揺すぶるのだった。 「あ。……ど、どうしたのさ嫂《ねえ》さん。くるしいのかい」 「くるしいわよ、わかんないこと? ……抱いて、抱いてってば」 「こうですかい」 「もっと、ぎゅっと。いっそ絞め殺してよ」 「じゃあ、こうして貰いたいんだね」  武松は抱いたまま突ッ立ちあがった。——ひぇッっ、と天井の辺で潘《はん》金蓮の四肢《しし》と裾《すそ》が蝶の舞いを描いた。武松の両手に高々と差し上げられていたからである。 「たいがいにしやがれっ。この女奴隷《めどれい》め!」  とたんに、部屋の扉口《とぐち》の下で、ぺしゃんと濡《ぬ》れ雑巾《ぞうきん》でも叩きつけたような音がした。そのままかと見ていると、彼女は跳ね返っていた。泣きもしない。痛い顔もしない。眦《まなじり》の紅を裂いて、武松を睨《ね》めつけ、恨みの声を投げてきた。 「よくも恥をかかせたわね。なにさ! 女が男を思ったって、ちっとも不思議はありゃしないわよ。それが通じない男のほうが、よッぽど片輪か木偶《で く》ノ坊か、どうかしているのよ!」  それでもまだまだ、容易に腹は癒《い》えないらしく、にんやり自分を見すえている武松の醒《さ》めた顔へもう一歩迫って、 「二郎さん、覚えておいでね。ひとがこんなにも親切に……わ、わたし……自分の身もわすれて可愛がッてあげたものを、よくもひどい目にあわせたわね。もう何もしてやらないからいい」  後ろの扉を開けるやいな、ぴしゃっと風を残して、台所のほうへ行ってしまった。  しいんと、そのまま、雪のたそがれが来る。  灯ともし頃、武大《ぶだ》は雪で丸くなって帰って来た。物音を知ると金蓮はすぐ門口へ走り出て良人を見るなり泣いて見せた。武大はのそのそ物置小屋へ商売道具を入れて戻るとすぐ訊ねた。 「どうしたのよ金蓮。何か、弟と口喧嘩でもしたんじゃないか」 「そうよ。あんたが余り弟を大事にし過ぎるからさ。今日みたいに口惜《く や》しいことってありゃしない」 「よせよ。あいつも口は悪いが、腹ん中はいいもんだぜ。いい弟なんだよ」 「へえ、いい弟が嫂《あによめ》にへんな真似《まね》をするかしら。ほんとに馬鹿にしてるわ」 「なにしたのさ、武二が」 「いえませんわよ、そんな恥かしいこと。ごらんなさいな、わたしのこの髪を。ちょうど、あんたが帰ってきたんで、猥《みだら》な真似もされずにすんだからいいけれど」  武大《ぶだ》もそれには動揺したらしい。ちょっと暗い顔したが、すぐ笑った。兵営祭りだ。飲んで帰った酒の上から、つい冗談でもいったのだろう。弟の酒好きはわかっている。 「金蓮《きんれん》。武二は部屋かい」 「およしなさいよ。ふて寝しているらしいから」 「じゃあ、そっとしておくか。……明日になったらきっと頭を掻いてあやまるよ。おまえもいつまで、つンつンしているのはおよし。なあ、せっかく一つ屋根におさまった兄弟だ。俺にめんじて勘弁しなよ」  その晩、武大は妻の腕《かいな》に愛撫された。厚い雪の屋根の下だった。小心で善良な彼は、金蓮の蛇淫《だいん》の性《さが》を思わす白膚《びやくふ》から、初めてな狂炎と情液をそそがれて、心ではびッくりもしていたし、また金蓮のうつつない媚叫《びきよう》や無遠慮な狂態が余りなので、階下《し た》の弟にそれが聞こえはしまいかと、内心びくびくしたほどだった。  ——で、いつになく武大はくたくたになって寝坊した。金蓮もまた今朝だけは何のかんのの文句もいわない。やがて起きて、階下へ降りて行くと、金蓮が独りでケラケラ笑っていた。 「あんた、行っちまッたわよ、あの人」 「え、武二がいないって。なあに今朝《け さ》は遅いよ。もう役署へ出かけたんだろ」 「でもさ! ごらんなさいよ。部屋の荷物が引っ絡《から》げてあるじゃないの。やっぱり気まりが悪いのね。あんたに合せる顔がないのよ」  いっているところへ、三人の従兵が、武松に代って荷物を取りに来た。——都合で下宿をかえたいからという言伝《ことづ》てだけである。武大はその日も解けぬ大雪のため、珍らしく饅頭《まんじゆう》売りを休んだが、一日中、ぽかんと虚脱状態だった。 隣で売る和合湯《わごうとう》の魂胆《こんたん》に、簾《すだれ》もうごく罌粟《け し》の花の性の事  兵隊仲間における都頭《ととう》(伍長)武松《ぶしよう》は、いたって人気者だった。威張らない。規則ずくめで縛らない。わかってくれる。 「伍長、知事がお呼びですぜ」 「おれか。……おやおや、こないだ貴様たちが酒場で喧嘩したのがバレたのかもしれないぞ。また俺の黒星だ」  ほどなく、彼は知事室で直立していた。 「まあ、かけ給え」と、知事はおっとりと構えこんでいう。やがて公用筥《こうようばこ》から一書類とともに、もう出来ていた辞令を取出して、武松に命じた。 「たいへんご苦労だがな、従兵一小隊をつれて、急に開封《かいほう》東京《とうけい》まで行ってもらいたいのだ。この公文を殿帥府《でんすいふ》までお届けすればよい。そして、もう一つついでに、わしの親戚《しんせき》の家へ、一ト行李《こうり》の財宝を送り届けて欲しいのだが」 「出立はいつですか」 「明後日、立ってくれ。何しろ遠隔だし、知っての通り途中の山海《さんかい》には賊の出没もまま聞くところだ。で、君を見込んでやるのだから、しっかり頼む」 「見込んでと仰っしゃられたんじゃ、否やもありません。承知しました」  次の日である。武松は旅の具などを買い漁《あさ》りに街へ出ていた。出張旅費もたっぷり懐中にあった。兄の好きな物などがやたらに目につく。  兄の家へはあれきり足ぶみしていない。考えてみると四十日余りの不沙汰《ぶさた》だ。開封《かいほう》東京《とうけい》といっては早くても二ヵ月余、もし天候にめぐまれなければ三月《みつき》は旅の空になる。 「そうだ。あれきりじゃ何かお互いに気まずいままだ。ひとつ酒でも提《さ》げて行って、ひと晩、機嫌直しをして立とう。あんな嫂《あによめ》でも、兄にすれば満足している大事な女房だ。俺さえ折れていればいいことだし」  彼は酒や肉を買って片手に抱え、また嫂のよろこびそうな手《て》土産《みやげ》なども二つ三つ持って、久しぶり紫石街《しせきがい》の茶店隣の芦簾《あしすだれ》を覗《のぞ》き込んだ。 「まあ、二郎さんじゃないの。どうしたの、いったい」 「嫂《ねえ》さん、どうも、いつかは何とも相すみません。いくら酒の上でもね」 「もういいわよ、そんな過ぎたこと。まアお上がんなさいな二階へ。良人《う ち》もじきに帰るでしょうから」 「じゃあ、待ってましょう。嫂さん、これ、ほんの手土産ですが」 「あら、わたしにまで。すみませんのね。まあまあお肉やらお酒もこんなに沢山に」  金蓮《きんれん》はすっかり穿《は》き違えてしまった。女にはよくありがちな心理でもある。武松がてれ臭そうに訪ねて来たのは、私に未練があるからだと自分に都合のいい解釈をしたものだった。もちろん未練なら彼女のほうこそ、たッぷりである。武松を二階へ上げて引っ込むと、金蓮はあたふた鏡台へ向った。髪をつかね、香油を塗り、すっかり化粧や着がえも凝《こ》らしたうえで、また上がって来た。 「二郎さん、見てよ。これ、いつかあなたにいただいた緞子《どんす》で仕立てた袿袴《うわぎ》なのよ。どう似合うこと?」  と、姿態《し な》を作って、横へ向き、後ろを見せ、そして武松の椅子《いす》の廻りをそっと巡り歩いた。  さきの一例で懲《こ》りているので、今日は大事をとるつもりだろうが、その妖艶《ようえん》な媚《こ》びといったらない。たとえば蜘蛛《く も》がその獲物《えもの》を徐々に巣の糸に縢《かが》り殺して、やがて愉しみ喰らおうとするようだった。武松は嫂《あによめ》のあれがまた始まるかと気が重い。ただ固くなっている。そのうち兄の武大《ぶだ》が帰って来た、武大はよろこぶまいことか。 「おお、武二。よく来てくれたな。ほんとによく来てくれたよ。どうしたい近頃は」 「兄さんじつは、お別れに来たんです。といっても二タ月三月《みつき》のことですがね」 「えっ、どこか遠方へでも行くのかい」 「公命で開封《かいほう》東京《とうけい》まで行って来ます。いずれまたすぐ帰りますが、どうも何だか、兄さんに気まずい思いをさせてるようで、そいつが一つの旅路の気がかり。どうかいつかのことは、兄さん堪忍しておくんなさい」  兄へもわび、また、嫂《あによめ》にも傷をつけないように武松は下げないでもいい頭を下げた。さすが金蓮《きんれん》もちょッぴり沁《し》んみりした容子《ようす》。階下では隣の王婆さんがお料理が出来ましたよと告げている。さっそく酒盃や皿数《さらかず》が並ぶ。しばしの別杯というので、その夜は三人仲よく杯を交《か》わしていたが、やがてのこと。 「ときに兄さん。嫂《ねえ》さんもそこにいて、一つ、とっくり聞いておくんなさい」  武松はいつになく改まった。兄夫婦へ面と対《むか》って、こんな態度は初めてなのだ。 「——生まれ故郷の清河県《せいかけん》でもそうだったが、この街でもそろそろ兄さんを小馬鹿にする餓鬼《がき》どもの声が立っている。饅頭《まんじゆう》売りの人三化七《にんさんばけしち》だとか、ぼろッ布《き》れの儒人《こびと》だとかろくな蔭口《かげぐち》を言やあしねえ。小耳にするたび、畜生と俺あ腹が立つ。俺にとっちゃあ血を分けたたッた一人の兄さんだものな……。だが、やくざの俺と違って兄さんときたら、天性のお人好しだ。世間に苛《いじ》め抜かれても苛《いじ》め返すことなんざ知らねえんだ。それがまたいいところさ。だがね兄さん」  武松は自分の声に自分で瞼《まぶた》を熱くした。兄の武大《ぶだ》は首を垂れる——。どっちが兄か弟かわかりゃしないと、金蓮は横目で見ていた。 「この武松が一つ街に居るうちはよござんすが、たとえ百日でも、留守となるとそいつが弟の身には心配でなりませんのさ。どうかあっしの留守中は、人の騙《だま》しに乗ったり、人のダシに使われないように、気をつけておくんなさいよ。……また嫂《ねえ》さんへもだ。どうぞお願い申しますぜ。夫婦は二世とやら、こんな兄でも連れ添う良人《おつと》、大事にしてやっておくんなさい。よくよく嬶《かかあ》の尻に敷かれッ放しな洟《はな》ッ垂らしの亭主だと、世間の奴アいってますぜ。ねえ嫂さん、世間態《てい》だけでも、そこはすこし良人を立てて、どうか仲よく暮しておくんなさいな」  風向きが自分へ変って来たとみると、金蓮は耳もとを充血させて、ついと横を向いてしまったが、いきなり袂《たもと》の洟紙《はながみ》をさぐって、良人《おつと》の武大の前へ抛《ほう》ッた。 「あんた。それで洟《はな》でもかンでよ、見ッともない。洟も涙も一しょくたにこぼしてさ。……だから私までが二郎さんから、まるで悪女か人非人《ひとでなし》みたいにいつもコキ下ろされているんだわ」  武松はそれを機《しお》に立った。そして路銀の一部を割《さ》いた金を卓の上に残して、 「嫂さん、これは先ごろお世話になった下宿料だ、と思って取っといておくんなさい。そしてあっしの留守中は、なるべく兄さんの稼《かせ》ぎも楽にしてやって、夕方は必ず早目に帰るように。——晩には仲よく寝酒でも飲むっていう風にね、とにかく無事に機嫌よく毎日を送っていてくださいよ。くどいようだが頼みますぜ。……はははは何だかまるで、媒人《なこうど》の言い草みてえになッちゃったなあ。——じゃあ兄さん、行ってきますよ」  武松は階段を下りて行く。武大《ぶだ》もついて行く。そのときも、武松はまた、小声で言った。 「兄さん、忘れなさんなよ、今夜、あっしが言ったことを」 「うん、うん……」  弟の影が見えなくなると、武大は軒下で声を上げて泣いた。——その泣き顔を持って二階へ戻ると、金蓮はケラケラ笑った。残りの酒を独りで仰飲《あ お》ッていたのである。そればかりか卓にトンと頬づえ突いて顔を乗せると、良人の泣き面《つら》を見ながらつくづく呟《つぶや》いた。 「オオいやだ、夫婦は二世だなんて。——半世でも、うんざりなのにさ!」  翌日、武松は県城を離れて、はるか東京《とうけい》の空へ旅立ったが、彼の気がかりとしていた饅頭《まんじゆう》売りの兄の武大には、以後一こうに良い変り目もなさそうだった。 「あら、お前さんたら。なんだってまだ陽も高いうちに、商売から帰ってきたの」 「だって、弟が言ったもの。兄さん、俺の留守中は、必ず早目に毎日帰んなさいよって」 「おふざけでない。やっとこ喰べるがせきの山の饅頭売りのくせにしてさ。こんな甲斐性《かいしよう》なしの亭主ってあるかしら。ちッ、薄野呂《うすのろ》の、おんぼろ宿六、勝手におしッ」 「晩の酒は買ってあるかい。ねえ金蓮《きんれん》、何をぷんぷんするんだよ」 「お酒。そんな稼ぎを誰がしたの」 「弟がお金をくれて行ったじゃないか」 「あれッぱかしの金、いつまであると思ってるんだ。とうに近所の払いに消えてますよ。あしたから、こんな早くに帰って来たら、飯も食べさせないからいい……」  遠山の雪肌も解け初めて、この陽穀県《ようこくけん》の小さい盆地の町にも、いつか春の訪れが萌《も》えかけていた。ひとり萌えるにもやり場のないものは、金蓮の肉体にだけ潜《ひそ》んでいる。  金蓮はその日、桟叉《さんまた》(竹竿に叉をつけた物)を持って、門口へ出ていた。廂《ひさし》の芦簾《あしすだれ》の片方が風に外《はず》れたので掛け直していたのである。——が、冬中の雪に廂《ひさし》の釘も腐ッていたのだろうか、一方を掛けているまに一方がバサーと落ちた。「あっ」と金蓮は、簾《すだれ》を避けてよろめいた。と、後ろに人がいた。通りかかりの往来の者らしい。その者も軽く「ア。あぶない」といって金蓮の体をささえ、そして、相顧《あいかえり》みてわけもなくニッと笑いあった。 「すみません。とんだ粗相をして。……もしやお沓《くつ》でも踏みはしませんか」 「いえ、なあに」  男は洒落者《しやれもの》ごのみな頭巾《ずきん》をかぶり、年ごろは三十四、五。ぼってりと色の小白い旦那風《ふう》であった。  ほんの行きずりの出来事。それ以上は、多くをいう機《き》ッかけもなく、男は行き過ぎてからチラと振り返った。すると金蓮もまた振り返っている。  男はせつなに何かぞくとでもしたらしい。急にその足を斜めに向けて、金蓮の家のすぐ隣の茶店の内へ入ってしまった。 「まあ、おめずらしい。なンてまあ、今日は風の吹き廻しなんでしょうね」  茶店の王《おう》婆さんは下へも措《お》かない。——これなん、こんな安茶店の床几《しようぎ》へなど滅多にお腰をすえる旦那ではなかったもの。  県城通りの槐《えんじゆ》並木に、ひときわ目立つ生薬《きぐすり》問屋がある。陽穀《ようこく》県きっての丸持《まるも》ちだともいう古舗《しにせ》だ。男はその薬屋の主人で名は慶《けい》、苗字《みようじ》は二字姓の西門《せいもん》という珍らしい姓だった。  この西門慶は、男前もちょっと良かった。それに県役人の間にも頗るな顔きき。とかく金の羽振りというものか街中では彼の姿に小腰をかがめて通らぬはない。——で、王の茶店婆さんなどにしてみれば、なおのこと、掃溜《はきだめ》の鶴とも見えたに相違なかった。 「婆さん、ちょっと訊《き》きたいがね、折入ってだ。……耳を貸してくんないか」 「いやですネ旦那、こんな婆の袋《ふくろ》蜘蛛《ぐ も》の巣みたいな耳、お側へなんか持って行けやしませんよ」 「なにサ、おまえを口説《くど》こうというのじゃない。……いまチラと門口で見かけたんだが、この隣にゃあ、すごい美女《た ぼ》がいるじゃないか」 「ま、お眼がはやい。見ましたかえ」 「ありゃあ、さだめし亭主持ちだろうな」 「ええ、それがまあなんと、可哀そうに、あんな縹緻《きりよう》を持ちながら」 「とはまた、どうしてさ、可哀そうたあ?」 「だって旦那、人もあろうに、あれが饅頭《まんじゆう》売りの武大《ぶだ》ッていう薄野呂《うすのろ》のおかみさんじゃござんせぬか」 「ひぇっ。ほんとかい……ふ、ふ、ふ。……いやほんとかね、婆さん」 「つい去年、清河《せいか》県から引っ越して来た夫婦者。ずいぶん世間にはいろんな夫婦の組み合せもありますけどさ、武大と金蓮みたいなのは、なんの因果といっていいやら、縁結びの神さまも、ずいぶん罪な真似《まね》するもんですね」 「……オ、婆さん。梅湯を一杯美味《う ま》く煎《い》れてくれないか。ただの茶よりは梅湯の方がいいぜ」 「あら、ごめんなさいましよ。ついついお喋舌《しやべ》りばかりしていて」  王婆が梅湯を茶托《ちやたく》にのせて奥から出直して来ると、その間も西門慶《せいもんけい》は、床几《しようぎ》を少し軒先へずり出して、しきりに隣の二階を見上げている様子だった。 「……旦那。……もしえ旦那。うまくお口にあいますかしら」 「オ、梅湯か。ム、たいそう薫《かお》りがいい、酢味《すみ》もちょうどだ。ところで婆さん、梅っていう字は楳《ばい》とも書く。楳の意味はまた、媒人《なこうど》にも通じるッてね」 「やはり旦那は旦那。味なことを仰っしゃいますこと。婆には学問のことはなにもわかりませんけれどさ」 「文字の講釈などいってるんじゃない。おまえを楳《ばい》と見立てていったんだ」 「あらいやだ、旦那はいつのまにか、わたしの内職までご存知なんですね。……だって仕様がございませんものね。こんな人通りの少ないところの安茶店じゃ、正直食べても行かれやしません。暇にまかせて、こっそり妾《めかけ》のおとりもち、出逢い茶屋まがいのチョンの間《ま》貸し、そんなことでもしてお小費《こづか》いをいただかないことにゃあ」 「なるほど、看板にはないが、ここは梅湯、生姜湯《しようがとう》のほか、和合湯《わごうとう》の甘ったるいのもございますッていうわけか」 「旦那へも、その和合湯をトロリと一服おいれいたしましょうか」 「婆さん、さすがだ、おれの渇《かわ》きは、もう読めたな」 「この年ですよ。そんなことぐらい読めないでどうするもんですか。……けれども旦那え、チョンでも馬鹿でも、亭主ってものが、にらんでいる花ですからね。そうやすやす、手折《たお》れると思ったら、大間違いでござんすよ」 「おっと、今日は急ぎの用先きだっけ。薬種《くすり》を煎《せん》じるにも気永が大事さ。辛抱はするからね、たのんだぜ」 「あらお待ちなさいましよ。床几《しようぎ》の下にまでお金が散らばッてさ。お忘れ物じゃございませんの」 「オ、紙入れからこぼれたね。ええ、めんどうだ。婆さんそっくり拾って取っておきな」 「ひぇっ……。まあこんなに」  数日措《お》くと、西門慶《せいもんけい》はまたやって来た。いやそれからは、三日にあげずだ。時によると一日に二度も三度も来るといったぐあい。大熱々《おおあつあつ》なのぼせ方である。王婆さんには思いがけない福運の春告鳥《はるつげどり》は、こことばかりな手具脛振《てぐすねぶ》りだ。  元々、この王婆たるや、ひと筋縄の婆ではない。近所界隈《かいわい》の事情《わ け》合《あ》いには精通しており、戸々の収入《み い》りから女房たちの前身、亭主の尻の腫物《はれもの》までも知りぬいている。堕胎《こおろし》、姦通、妾《めかけ》の周旋、あいびき宿、およそ巾着銭《きんちやくぜに》の足《た》しには、なんでもござれとしていたのである。そこへ鴨《かも》も鴨、断然そんな手輩《てあい》とは、金の切れが違う西門慶という大鴨がかかったのだから、婆としては千載《せんざい》の一遇《いちぐう》だ。ほかは一切お断りの態《てい》で、旦那旦那と彼一人へ手練手管《てれんてくだ》をつくしにかかったものだった。 色事五《い》ツ種《いろ》の仕立て方のこと。金蓮《きんれん》、良人《おつと》の目を縫うこと  堅々《かたがた》しい古舗《しにせ》の旦那も、あてにはならない。昼もまぼろし、夜はうつつなさだ。これまでずいぶん、街の商売妓《しようばいおんな》には鍛《きた》えられてきた西門慶だが、チラと見染めた潘金蓮《はんきんれん》だけには、全くどうかしてしまっている。  みすみす王《おう》の婆さんに巧く絞《しぼ》られているとは百も承知の上ながら、通わずにいられなかった。こんどは、今日こそはと、つい通いつめ、さすが色事にかけては自負《じふ》満々だった西門慶も、もうふらふらな様子だった。 「婆さん、いつまで焦《じ》らすんだい。おれはもう死にたくなった。今日は約束どおりおまえの棺桶代《かんおけだい》(養老金)もここへ積むぜ。さあ、どうしてくれる」 「おやまあ、すみませんねえこんな大金まで戴いちゃって。……けれどさ旦那、なんたって亭主持ちでしょ。それに女拵《おんなごしら》えには、五つの条件てものがありまさアね。ほほほほ、旦那に色事の講釈など、釈迦《しやか》に説法ですけれどさ」 「いや色道《しきどう》は底が知れないよ。こんどは参った。俺としたことが、こんな初心《う ぶ》にもなるもんかとつくづく思って」 「それそれ、それですわよう旦那。女をコロとさせるには、初心《う ぶ》っぽくまず見せかけて、次に大事なのがいまいった五つの条件。一が拍子合《ひようしあ》い、二がお容貌《か お》、三がいちもつ、四がお金、五が暇のあること」 「暇と金なら、あり余るぜ」 「お容貌《か お》だってとてもとても。もしわたしが若けりゃあ捨ててなんかおきはしない」 「三の男の物なら、おれのものは、驢馬《ろば》ほどなものはある。どんな商売妓《おんな》だろうが、嫌泣《いやな》きにでも泣き往生させずにはおかないよ」 「おやまあ、たのもしい。けれどまだありますよ、いッち難かしい一つがね。拍子合いといって、首尾と縁の機《き》ッかけ。これがねえ、旦那え」 「まだ、渡りがついてねえのかえ」 「あれでもやっぱり亭主は亭主で、朝に晩に饅頭《まんじゆう》売りの武大《ぶだ》めが、金蓮《きんれん》や金蓮やで、くっついていますしね。その隙《すき》を狙う才覚ですもの、生やさしい苦労と芸当じゃございませんでしょ」 「わかってるよもう、その骨折りは。まだ何か所望があるのか」 「じつはね旦那、たび重なって申しあげにくいんですが」 「ああよそにいる息子の嫁娶《よめと》り入費か。それも要《い》るだけは出してやる。……やるがさ、どうだよ、隣の鶯《うぐいす》は」 「あしたの昼、そっと籠から盗んで、うちの奥へ誘い込んでおきますから、いいようにお啼《な》かせなさいましな」 「えっ。ではもうはなしは出来てるのか」 「お気が早い、まだまだ細工はこれからですよ。以前、清河《せいか》県の大金持ちの家に小間使いをしていた時から、あの娘《こ》はお針が上手なんですとさ。そこをつけ目に、ごひいきの旦那衆から、何かのお祝い事で、晴れ衣裳の仕立物を頼まれたから、金蓮さん、ひとつ家へ来て、仕立て物を手助《てつだ》ってくれまいか……と、まア持ちかけてみるつもりなんですがね」 「うまい。そいつあいい首尾になりそうだ」 「じゃあ早速ですが、白綾《しらあや》、色絹、藍紬《あいつむぎ》、それに上綿を添えた反物《たんもの》幾巻と一しょに、暦《こよみ》とお針祝いのお礼金《こころざし》をたんまり包んで、夕方までにここへ届けて下さいましな」 「よろしい、そして明日の昼間だね」 「いいえ、明日はちらと、お顔見せるだけのこと。わたしが、座を巧くとりもって、ひと口、お酒を出しますから」 「念入りだなア、どうも」 「お美味《い》しい果物は皮もていねいに剥《む》いて食うことでしょ。よござんすか。そして四、五日はまあ品《しな》よく顔を見合ったり言葉の一つもかけたりしなさる。折にはまた、お気前を見せたりしてね」 「いつになるんだい、ほんとの首尾は。寝られないよ、その間なんざ」 「さ、そこが拍子合い。舟も揺れ頃、潮も上がる時分とみたら、わたしがその日、たんまりお酒に媚薬《びやく》を入れて、眼合図でおすすめしましょう。そしてわたしは買物に出て行っちまう。あとは旦那の腕しだい。といっても、あせッて事を仕損じちゃいけませんから、しばらくは酌《さ》しつ酌されつ。そして試しに、卓のお箸《はし》を下へ落としてごらんなさい。いいえ、術《て》ですよ。箸を拾う振りをしながら、わざと手をさしのべて、裳《も》のすそからちょっと深めに、あの娘《こ》の股《また》へ手を触《さわ》ってみるんですよ。……声でも揚げて、怒るようだったら、またこの話は練り直しだと、諦《あきら》めなくっちゃいけませんがね」 「ううむ、そんな心配がありそうかね」 「女心ですもの。どう現われるか、わかりゃしません。自分にだって、わかりゃしない。けれど、その前にわたしが二人ッ限《き》り残して、裏口を閉め、表も閉めて出ていくでしょ。……もし女に気がなければ、そのときジタバタするにきまってますよ。それでも残っているようなら、まず八、九分までは脈のあること。あとは箸落としが、枕外《まくらはず》しとまでなるかどうか。ほほほほ、旦那え、出来ちまったら、あとは邪魔物だなんて、わたしを粗末になんぞなさると罰《ばち》があたりますよ」  近所も近所、すぐ壁隣《かべとなり》の家で、いつのまにかそんな運びが出来ていようとは、ゆめにも知らない武大《ぶだ》だった。春は日永《ひなが》になり、武大の帰りもだんだん遅くなっている。早く帰れば金蓮に頭ごなしに呶鳴られるからだった。 「ああ、くたびれたよ金蓮。稀《たま》にゃ半日でも休ませてもらえねえかなあ」 「好きなこといってるわ。あらなアに。蒸籠《せいろう》のお饅頭《まんじゆう》がまだ幾つも売れ残っているじゃないの」 「だって、仕方がねえわ。日はどっぷり暮れちゃうし、晩に饅頭なぞ売れやしねえもの」 「おまえさんはまた公園で居眠りばかりしてるんでしょ。いつぞやは、饅頭をみんな、犬に食われてベソを掻いて帰って来るしさ。……それで休みたいもないもんだ」 「おや、金蓮。おまえ酒機嫌《きげん》じゃないか。それに、どうしたんだい、後ろに綺麗な糸屑がたかっている」 「あんたが意気地がないからよ……わたしここ五、六日ほど、毎日お針仕事に通ってるんだわ」 「そうかい。……すまねえのう金蓮。いったい、お針仕事とは、どこへ通っているんだね」 「お隣の王《おう》婆さんよ。お婆さんが親切に言って来てくれたの。どこかご大家のお祝い着を頼まれたんですって。そして小費《こづか》い稼ぎにどう? っていうからさ」 「だが、酒振舞いは、おかしいじゃねえか。何もお針仕事の針子《はりこ》にさ、酒を出すなんて」 「貧乏性だわねえ、あんたは。今日は黄道吉日《こうどうきちにち》でしょ。お大尽《だいじん》の仕立て物には、裁《た》ち祝いということをするもンなのよ、知らない?」 「知らねえ……」武大は暗い顔して、うなだれていたが「なあ金蓮よ、稼《かせ》ぎの弱いおらが、こんなこというと、またおめえの気を悪くするかもしれねえが、弟の武二も、くれぐれおらに言いのこして行った」 「また、弟さんのご託宣《たくせん》かえ」 「だって、弟がの、兄さん忘れなさんなよと、おらを案じて言っていたもの。世間は恐ろしい、小馬鹿にはされても、人のダシには使われなさんなよって」 「だれがダシに使われたのよ。だれがさ」 「隣の王婆さんは、じたい、おらは虫が好かねえんだ」 「なにもあんたがお針に行くわけじゃないんでしょ。ふン、虫が好くの好かないのと、人並みなこといってら」 「金蓮《きんれん》、後生《ごしよう》だ。やめてくれ、おら晩まででも稼《かせ》ぐよ。だから家にいてくんな」 「ひとを二十日《は つ か》鼠《ねずみ》だと思ってるのね。いいわ。その代りに、明日からはもう一ト蒸籠《せいろう》も二タ蒸籠もきっとよけいに売っておいでよ。もし明るいうちになぞ帰って来たら家へ入れないから」  いちぶ一什《しじゆう》は、のべつ隣の王婆が、裏の台所口へ来ては、偸《た》ち聞きしている。  朝々、武大《ぶだ》を稼ぎに追い出してしまうと、金蓮はもう翼を翻《かえ》して隣の奥へ来ていた。この間じゅうから縫いにかかった白綾《しらあや》や青羅紅絹《せいらこうけん》がもう裁《た》ちもすんで彼女の膝からその辺に散らかっている。 「まア、なんて早い針運びだろう。金蓮さんみたいなの、見たことないよ、お世辞でなく」 「いやですわおばさん、そんなに褒めちぎッちゃあ、はずかしくって」 「だって、見事だもの、ほんとにさ——針も針だけど、指といったら、まるで何か美しい蝋細工《ろうざいく》が動いているみたいだし、こう覗《のぞ》き込んでると、わたしだって、この可愛い襟《えり》くびへ食いつきたくなっちまう。……薬種《くすり》問屋《どんや》のあの旦那が、ずいぶんお目も高いお方だのに、精いッぱい賞《ほ》めておいでたのも無理はないね」 「あのお方、なにかわたしのことを、仰っしゃってましたの?」 「ままになるならって」 「あら、あんなことを」 「きっと、お淋しいんだよネ、あの旦那も。お金はくさるほどあるけれど、おかみさんには死に別れたし、お子はないしさ。いくら番頭や親類があったって」 「おだやかなよいお人柄ですのにね。……おや、おばさん、どなたか表に」 「あら、旦那らしいよ。噂をすれば影。……おお旦那、いらっしゃいませ。いいえもう、店のほうよりは、奥がたいへんなんですよ。少しは休みながらといってるのに、金蓮さんときては、真正直《ましようじき》に、もうせッせと、針の目ばかりに暮れッきりで」  西門慶《せいもんけい》は、今日も身装《みな》りを着かえていた。めかし頭巾も紫紺色《しこんいろ》の、まるで俳優めかしたのをかぶり、少々は薄化粧などもしているらしい匂《にお》い。なにやら如才ない手《て》土産《みやげ》などを婆に渡して、やや離れた椅子《いす》に腰をおろすと、大容《おおよう》に言ったものである。 「ご苦労さまね、金蓮さん。そう急ぐわけでもなし、からだに障《さわ》っちゃいけませんよ。すこし話しませんか」 「いいえ、お針は好きですから……」と、金蓮はいっそう肩をすぼめて、恥じらしげに、針も休めず顔も上げない。 「……でも、こんな下手《へ た》なお仕立てが、お気に召しますかしら、しんぱいですわ、わたし」  婆はもう台所から、土産物の果物に、一煎《せん》のお茶を添えて、そこの卓へ運んで来た。そして、 「さ、金蓮さんも、ご一しょに……。これでお口を濡《ぬ》らしているまに、すぐお料理やお酒を持って来ますからね」と、すぐまた席を外《はず》して行った。 「ア、おばさん。そんなに関《かま》わないで頂戴、毎日のことですのに」 「いや金蓮さん。酒はてまえが、飲みたいんでさアね。つきあってください。それとも、お嫌?」 「いやなんてこと、ありませんけど。いつも、甘えてばかりいますもの」 「いいじゃありませんか。どうしたご縁やら、茶屋酒には飽いているてまえも、ここへ来ると、何かしらこう、あなたと一しょに、ひとくち過ごしたくなりましてね」 「ま、お上手なこと仰っしゃって」 「ああ、ざんねんですな。この西門慶が、そんな男に見えますか。……お婆さん、酒のしたくはよしておくれ。今日はもう帰るから」 「あら、お気を悪くしたんですか。どうしよう、わたし。……ごめんなさい。ごめんなさいね」  潘金蓮《はんきんれん》は、おろおろと膝の上の縫《ぬ》いかけ衣《もの》を床に曳《ひ》いて、西門慶の前へ立った。 梨売《なしう》りの兵隊の子、大人《おとな》の秘戯《ひぎ》を往来に撒《ま》きちらす事  もとより西門慶《せいもんけい》は、本気で帰るつもりなのではない。小当りにちょッと金蓮の“気”を引いてみたまでのことだ。  王《おう》婆もまた、もちろん今日の寸法は呑みこんでいる。いい首尾を作るにも、男の逸《はや》り気を撓《た》め、女の待ち汐《しお》を見、そこの櫓楫《ろかじ》の取り方は媒《なかだ》ち役の腕というもの。「……まあ、まあ、ふたりともおとなしく、お婆《ばば》のいうことを肯《き》くもんですよ」とか何とか言いつつ、とにかく予定の小酒盛《こざかもり》にまで持ち込んでいくところ、さすがに婆だわと、男の西門慶には頼もしい。 「旦那え……」と、酒もそろそろ廻るほどに、婆までがいやに色っぽく眼もとを染めて「どういうンでしょうね、旦那ってお人は」 「なにがさ? 婆さん」 「なにがじゃありませんよ。こちらのお内儀《か み》さんにも、お杯ぐらい上げたらいいでしょ」 「だって、金蓮さんは、迷惑そうなお顔じゃないか」 「ま、お察しが悪い。旦那と一しょなので、恥かしいんですよ。ほんとは、飲《い》ける口なんだもの。さあ、おかみさんも、お杯を受けたらいいじゃないの。焦《じ》れッたいねえ」 「まるで、わしとおかみさんとで、叱られてるみたいだな、はははは。時に、あなたはお幾歳《いくつ》ですか」 「もう二十三ですの」  金蓮は、やっと答えて、同時に、貰った杯へ、唇《くち》を濡らした。 「じゃあ、わたしのほうが、九ツも上だな。お針は上手だし、礼儀作法といい、人当りの姿態《し な》もよし……、武大《ぶだ》さんとやらが羨《うらや》ましいね」 「オヤ、禁句ですよ旦那。おかみさんは、とても亭主運が悪いんで、武大の武の字を思い出しても、すぐ気が鬱《ふさ》いで来るんですとさ」 「それはまあ、似た人もあるもんだね。この西門慶《せいもんけい》も女房運が悪くッて悪くって。もう女は持つまいと思ったほどだ」 「だって、おくさんは、おととしお亡《な》くなりになったでしょ。……まあ旦那のほうで仰っしゃるから、あけすけに言っちまいますが、陽穀《ようこく》県一の薬種《くすり》問屋《どんや》、西門大郎の御寮人《ごりようにん》にしては、亡くなったおくさんは、余り良妻じゃなかったんですってね」 「悪妻も悪妻だし、嫁に来てから病《や》み通しだったんだよ。のべつ医者よ薬よ、別荘行きよと、贅沢三昧《ぜいたくざんまい》をやったあげく、亡くなったのさ。番頭手代、数十人も召使っているが、いらい女房だけは、それに懲《こ》りてね」 「だけど旦那え。外にはたんと、美《い》い妓《こ》をお囲いなんでしょ。お隠しなすっちゃいけませんよ」 「ああ。あの小唄の女師匠のことかえ」 「あの女《ひと》もだけれど、新道《しんみち》の李嬌《りきよう》さんなぞも、向うから旦那に首ッたけだって噂じゃありませんか」 「違う。違う。あれもね、弟を官学校へ入れたり、母持《おやも》ちなので、つい面倒をみてやっているが、向うですまないすまないと言い暮らしているだけで、こっちは正直、足も余り向かないほうなのさ」 「でしょうね、どうせ。なにしろ、色街でも引く手は数多《あまた》な伊達《だ て》者《しや》ではいらっしゃるし、お金はあり余るうえ、おまけに、女には人いちばい、お眼が肥《こ》えているんだから、めったに、旦那のお気に召すような女なぞありッこなしでござんしょう」 「ところがさ、世はままにならないものでね」 「おや、旦那にも、ままにならないことなんか何かおありですかえ」 「小唄の文句じゃないが、あちらで想ってくれるのは、こちらはさほどでもないし、こちらで想う人には……」  西門慶は、思い入れたっぷり、金蓮の顔を眼のすみから偸《ぬす》み見る。さっきから少しずつ酒も入っていた金蓮の皮膚は、そのとき名の如き蓮花《はちす》の紅をぱっと見せて俯《ふ》し目になった。その眸《ひとみ》の留守を、婆の眼と西門慶の眼がチラと何かを語りあっていた。 「あら、あいにくだよ、もうお銚子《ちようし》が……。旦那え、お酒が切れましたから、役署前の上酒を買ってまいりますよ。その間、ご退屈でも、おかみさんと話していて下さいませんか。いいかえ、金蓮さんもここにいておくれね」  汐《しお》と見て、王婆はするりと、座を外《はず》す。そして部屋を出ると、外から扉《と》の把《と》ッ手を紐《ひも》で絡《から》げてしまった。のみならず、自分もそこに屈《かが》まり込んで、内の首尾《しゆび》に、かたずを呑んでいたのであった。 「金蓮さん。いや、おかみさん。も一ついかがです。まだお銚子《ちようし》には少しはある」 「もう、もう。こんなに頬が火照《ほて》ッてしまって。くるしいほどなンですの」 「だって、いける口だっていうじゃありませんか。おかみさんは」 「おかみさんだなんて、仰っしゃらないで。……なんですか私、かなしくなる」 「そう、そう。禁句ですってね。わたしもあのお喋《しやべ》り婆さんに、亡くなった家内のことやら、あの女この女の、街の取り沙汰など持ち出され、あなたの前でてれ臭くってしようがなかった。といって、私もまだ男の三十そこそこ。この幾年は童貞も同じような独り身ですものな。心からの浮気ではなし、察して下さいよ」 「でも。ひとから見れば、さぞかしと思うでしょうね。そう見えたって、無理ありませんわ」 「じゃあ、金蓮さんから私を見たら? ……」 「わからない! ……」と、艶《あで》やかに、かぶりを振って「わかりませんわ、わたしなどには、殿御のほんとのお心は」 「うそばっかり。あなただって、まんざら男を知らないでもないのに」 「だって、わたしの知った男といっても」 「おや、涙ぐんで、どうしなすった。いやもう、つまらないことは思いッこなしにしよう。さ、さ、涙なぞ拭《ふ》いて、も一つどう」  銚子を向けた肱《ひじ》の端で、西門慶は、わざと卓の象牙《ぞうげ》の箸《はし》を、下へ落した。  かねて、婆さんからも、言いふくめられていたことである。 「試しに、卓上の箸を落して、拾うと見せ、そっと女の脚へ触《さわ》ってごらんなさい。女に水心《みずごころ》がなければ、怒り出すにきまっている。もしまた、なすがままにさせているようだったら、もう大丈夫、さいごのことへ」と。——つまり西門慶は胸ドキドキそれを実行してみたものなのだ。  が、彼より早く、金蓮の体のほうが、 「……あら、お箸が」  と、すぐ椅子《いす》をうごかして、その嬋妍《せんけん》な細腰《さいよう》を曲げかけた。しかし「いや、いいんですよ」とばかり、西門慶もそれより低く身をかがめる。そして彼女の裳《も》の下へ手を触れた。いや、もうそのときは、試すなどの“ためらい”を持っている余裕はない。本来の彼そのものが、爬虫類《はちゆうるい》のような迅《はや》さと狡《ずる》さで彼女のおんなを偸《ぬす》んでいた。「……あ。……アア」と金蓮は柳腰をくねらせたが、叫びを出す風でもない。深く睫毛《まつげ》をとじたまま、白い喉《のど》を伸びるだけ伸ばし、後ろへ悶《もだ》え凭《もた》れただけである。それをもう冷然と、西門慶の眼《まな》じりは女の小鼻のふくらみから、あらい息づかいまで見すましていた。あらゆる女を経てきた彼の自信は、いまやどうそれを欲《あくよく》すべきか、愉しもうかと、まずは思案するほどな、ゆとりと狡智《こうち》なのだった。  金蓮はくるしくなって、椅子から下へ落ちかけた。その体を片手すくいに抱いたまま、西門慶《せいもんけい》がひたと唇を近づけると、彼女の乾いて火を感じさせるような唇は烈しく男の唇をむさぼり吸った。それは西門慶ほどな男さえも、かつて味わったことのない無性な挑みと情熱のふるえだった。 「どうしたい。え。なにを慄えるのさ、金蓮さん」 「だって。……だって、もう」 「怒るかしら」 「なぜ」 「こんな目にあわせてさ」 「知らない。どう、どうにでもして」 「しずにはおかないよ」  西門慶は体も大きい。金蓮のしなやかな四肢は、締めころされるようなかたちを乱した。しかも悠々と男には余裕があるのに、彼女の指の先は処女のごとくどこでも無性につかみ廻って、背は、床をズリながら身伸びに身伸びをつづけてやまない。が、すぐ男の胸の下に、死に絶えたような息をつめてしまった。——そして今し、彼女の枕なき枕もとには快楽《けらく》の国がうつつと入れ代りに降りていた。とつぜん、金蓮の飛魂《ひこん》のすすり泣きは、西門慶を狂猛にさせた。男のふところ深くへ細やかな襟頸《えりくび》を曲げ、また仰《の》け反《ぞ》っては、狂わしげに唇をさがしぬく黒髪にたいして、彼は意地わるく唇を与えないのだった。彼女は悲鳴のうちにいちど気を失って徐々に力を脱《ぬ》いた。男の唇はやっと彼女に与えられ、神丹《しんたん》を含ますように、彼女の精気を気永に扶《たす》けた。まもなくまた、彼女は濡れた眸《ひとみ》で虹のような妖笑をふとあらわした。それを官能の合図と見たように、西門慶はやおら彼女の体をまるで畳《たた》んでしまうような自由さで持ち扱かった。そして貪欲《どんよく》な自己を一そう赤裸にした。金蓮はそのせつなに初めて武大《ぶだ》にあらざる男を体のおくに知って何かを生むような呻《うめ》きにちかい絶叫を発した。それは香《かん》ばしい汗と獰猛《どうもう》な征服欲との闘いといってもいい。西門慶の予想は、はるかに期待を超《こ》えていた。不覚にも彼さえつかれはてていた。 「…………」  部屋の外の王婆は、さっきから何度、そこを離れてみたり、また、抜き足で戻ってきたりしていたかしれない。ついには、余りにも余りなので、婆の根気もしびれを切らしてしまったらしい。わざと二ツ三ツ咳《せき》払いしながらそこの扉へ手をかけた。 「あ。戻って来たよ、婆さんが」  内の男女《ふたり》は、身仕舞いにうろたえながら、慌てて立ち別れた気配である。婆が入って行くと、金蓮はまだ髪の乱れも掻き上げきれず、後ろ向きに腰かけて、化粧崩れを直していた。 「あれ。……いやらしい」と、婆は仰山《ぎようさん》に、男女《ふたり》を見くらべて、「まさかと思っていたら、なんてことなさるんですよ。人の家《うち》でさ!」  金蓮は、婆の胸へ走り寄って、 「おばさん、かんにんして! ……わたしが悪いの」 「ま、あきれた。この通りだよ女ってものは。男に罪を着せまいとしてさ」 「婆さん、静かにしろよ。もうできちまったものは仕方がないやね」 「旦那も居直りなさるんですかえ」 「遠くて近きは何とやらだよ。この上は隣の武大《ぶだ》に知れないよう、頼むは神様仏様、次いでは王婆様々だ。今日だけでなく極く内々《ないない》に、この後の首尾もひとつたのむぜ」 「それはもう、知れたらこの婆だって、同罪でござんすものね。その代りに旦那え、一生末生《まつしよう》、婆を大事に、お礼のほうもいいでしょうね」 「わかったよ、わかったよ。河豚《ふ ぐ》と間男《まおとこ》の味は忘れられない。ここで逢曳《あいび》きするからには、わたしたちだけでいい思いをしているわけはないやね」 「じゃあ、この婆も腹をすえたとして。……金蓮さん、おまえも覚悟はしたろうね。これッきりじゃないんだよ」 「ええ、それはもうおばさん、こうなるからには私だって」 「倖せだよ、おまえさん」と、婆は彼女の背を一つ叩いて「これからは、間《ま》がな隙がな、可愛がっていただきなよ。……だけど、いくら頓馬《とんま》の武大《ぶだ》でも、勘づかれた日には事だからね。さ、今日はもう帰っておいで」  追うように、金蓮を裏口から帰してしまうと、婆はさっそく、西門慶《せいもんけい》から当座の大枚《たいまい》な銀子《ぎんす》を褒美に受けとった。そのお世辞でもあるまいが、婆は、西門慶が女にかけての凄腕を、聞きしに勝《まさ》るものだったと、舌を巻いて驚嘆する。西門慶は「その道にかけての俺を今知ったか」といわぬばかりに、ヘラヘラ脂下《やにさ》がった顔してその日は戻って行った。  さあそれからは、ここを痴戯《ちぎ》の池として、鴛鴦《えんおう》の濡れ遊ばない日はなかった。西門慶も熱々《あつあつ》に通ってくるが、むしろ金蓮こそ今は盲目といっていい。彼女の眠っていた女奴隷《めどれい》の情火は、逆に、男を喘《あえ》がせて男の精を喰べ尽さねば止まぬ淫婦の本然を狂い咲きに開かせてきたすがたである。ただの一日でも西門慶の愛撫がなければ焦々《じりじり》してきて、いても起ってもいられない。  が、こんな逢曳《あいび》きが、世間誰にもわからずに、永続きするはずはなかった。いつしか二人の密会は近所合壁《がつぺき》の私語《ささやき》となっていたが、知らぬは亭主の武大ばかり……。それがまた、他人《ひ と》眼《め》の哀れと苦笑を誘って、噂に噂を醸《かも》していた。  ここに、州《うんしゆう》生れの兵隊の子で、哥《うんか》という十三、四のませた小僧ッ子がいる。  州兵の父親は、戦傷で寝たッきりなので、母親一人の細腕の家計を助けているというちょッと感心なところもある少年だった。その哥《うんか》は、毎日、果物籠《くだものかご》を頭に載せ、足ははだしで、 「桃はいらんか。雪梨《な し》を買ってくんなよ。姐《ねえ》さん」  などと街の酒場を歩いたり、くたびれると、籠を辻において、往来の男女へ呼びかけたりしていた。  或る日、彼はへんな立ち話を小耳にはさんだ。梨の皮を剥《む》き剥き客の二人が囁《ささや》いていた噂なのである。やがて、その一方が去ってしまうと、待ちかねていたように哥が訊《たず》ねた。 「小父《お じ》さん、今あっちへ行った人が話していたことは、ほんとなのかい。……西門慶《せいもんけい》の旦那と、武大《ぶだ》さんの女房が、毎日、隣の茶店の王婆《おうば》の家《うち》で逢曳《あいび》きしているッてえのは」 「おや、この小僧、小耳が早《は》ええな。ほんとだとも。世間、隠れもねえことだ」 「そしたら、武大《ぶだ》さんが可哀そうだね、武大さんに教えてやろうかしら」 「止せ止せ。あの薄野呂《うすのろ》な武大公にいってみたって始まらねえや。それよりは、こう公《うんこう》、おめえは子供だからちょうどいいぜ。それをたねに金を儲《もう》けろよ、金をよ」 「へえ、何かそれが、金儲けのたねになるかしら」 「なるとも。これから王婆の茶店へ知らん顔して乗り込むんだ。そしてな……おい耳を貸しな」  事を好む人間はどこにもいる。何を教えられたか、哥《うんか》は眼をまろくしてよろこび、さっそく果物籠を頭に乗ッけて、もう歩き初めたものである。 「小父さん、巧くいったら、小父さんちの台所へ、雪梨《な し》を一籠タダで届けるぜ。おらもおふくろに金を見せてよろこばしてやれるもンなあ」 「ばか。往来中だぞ。大きな声をしねえで、早く行ってみろ」 「あいよ」  紫石街《しせきがい》の街端《まちはず》れ、彼の裸足《はだし》の軽ろさでは、またたくまだった。  見ると。  茶店の王婆は、店さきの床几《しようぎ》で糸を紡《つむ》いでいる。隣の武大の家はといえば、あいかわらずな芦簾《あしすだれ》の掛け放し。人が住むとも留守ともみえないような静けさだ。「……ははん」と、哥は猿の目みたいな小賢《こざか》しさで頷《うなず》いた。 「おばあさん、こんちは」 「えい! びっくりするじゃないか、この子は。なんだよ素大《すで》ッかい声をして」 「雪梨《な し》を買ってもらいに来たんだよ。——今日はいい杏《すもも》もあるしさ」 「また、おいで!」 「婆さんにいってるんじゃねえや」 「なンだって。じゃあ誰に売ろうっていうのさ」 「奥にいる旦那にだよ」 「だんな?」 「西門慶《せいもんけい》の旦那さんに買ってもらいてえんだ。きっと買ってくれるよ、籠ぐるみ」 「おふざけでない、このこけ猿め。いったい、どこに旦那がいるッてえのさ。水を浴びせるよ、寝呆《ねぼ》けたことを言い散らすと」 「だって、いるものは、仕方があンめい。こう見えても、おらア千里眼迅風耳《じんぷうじ》だぜ」 「そうだよ、ちょうど悟空猿《ごくうざる》の手下みたいな面《つら》ツキさね。だけど、出放題《でほうだい》もいい加減にしないと、どやしつけるから、気をおつけ」 「ふふん。おらが悟空の手下なら、婆さんは何だい。逢曳《あいび》き宿などしてやがって」 「いったね。《うん》坊。一体、誰がそんなことを言やがったんだい」 「天知る地知るさ。ざまア見やがれ、慌《あわ》てやがって」 「もう承知しないぞ」 「旦那あっ。奥の旦那あ、婆さんが、邪魔していけないよっ」 「いるもんか。その人は」 「じゃあ、探してみようか」 「この野良犬め」 「ア痛っ、撲《なぐ》ったな」 「こんなことで、腹が癒《い》えるもんか。この盗ッと猿め。これでもかっ、これでもか」 「ア痛ッ。ア痛たたた。くそっ。負けるもんか。死に損《ぞこな》いの掃溜《はきだ》め婆」  四ツに組んだが、しょせん、王婆の骨ッぽい体を捻《ね》じ折るまでにはいたらなかった。のみならず、ぴしゃぴしゃ太《びんた》を食ったあげく、哥《うんか》は往来に突き飛ばされて、したたかに尻餅はつくし、果物籠は引っくりかえされるし、散々な敗北だった。 「み、みてやがれっ。くそばばめ」  ベソを掻き掻き、哥はそこら中にころがり出した梨や杏《すもも》を籠へ拾いあつめ、あとも見ずに、その日はついに逃げ出してしまった。 姦夫《かんぷ》の足業《あしわざ》は武大《ぶだ》を悶絶《もんぜつ》させ、妖婦は砒霜《ひそう》の毒を秘めてそら泣きに泣くこと  武大《ぶだ》はいつもの公園に出て、蒸饅頭《むしまんじゆう》の蒸籠店《せいろうみせ》をひろげていた。陽《ひ》も午《ひる》さがりの頃である。池の鵞鳥《あひる》ばかりガアガア啼《な》いて、ここの蒸饅頭は一こう人も振り向かない。 「ええおい、武大さんよ。嘘じゃないよ。ほんとのことを教えたんだぜ。だのに、まだ疑っているのかい」  哥《うんか》はくやしまぎれに、また日ごろ親しい武大でもあるので、ここへ来てのこらず喋舌《しやべ》ってしまったらしい。  ところが、肝腎《かんじん》な武大《ぶだ》のほうでは、一こう真《ま》にうける風《ふう》がないのだ。あくまで金蓮《きんれん》を庇《かば》っている。しかも街道一の古舗《しにせ》の大旦那が、ひとの女房に手を出すはずがあるもんか。と笑ってばかりいるのである。 「焦《じ》れッてえな、武大さんときたら。だから世間でいうんだよ。《はな》ッ垂らしの薄野呂《うすのろ》だッて。——見ねえな、おらの顔や手頸《てくび》を」 「あれ坊《うんぼう》。その傷はまあ、どうしたわけだい」 「これもみんな武大さんのためじゃないか。みすみす今日も、王婆《おうば》のうちの奥で、おまえンちのかみさんと西門慶《せいもんけい》の旦那が、しんねこで、ちちくりあっていたからさ、言ってやったんだよ、おいらがね。……そしたら婆の奴が、怒りやがって、逢曳き宿とはなんだと、いきなり、おらの頭をぽかぽかやりゃアがった揚句《あげく》によ。ええ畜生め、もう腹が立って堪《たま》らねえや」 「じゃあ、ほんとかね。まったくかね」 「あれ見や。まだあんなこといってら。自分の女房を盗《と》られてさ、よくも、おッとりいられたもんだな。武大さんは、偉いのかなあ?」 「う、うん坊。……ど、どうしよう」 「あら、泣き出したぜ、こんどはまた。泣いたって、どうにもならないや」 「くやしい。……もし、坊《うんぼう》のいう通りなら、おらは、首を縊《くく》ッて死んでやる」 「じょ、じょうだんだろ、武大《ぶだ》さんよ。おめえが首を縊《くく》れば、よろこぶのは男女《ふたり》じゃないか。そんなことお止しよ。おらが力になってやるからさ」 「ど、どういうふうに」 「なんたって、淫婦姦夫《いんぷかんぷ》の現場をふンづかまえなくっちゃ駄目だろ。だから明日、西門慶が通って行くのを尾《つ》けて、おらが武大さんに教えてやるよ。武大さんも一生涯の一大事だぜ。商売なんか打《う》っちゃっても、すぐおらの後から尾《つ》いておいで」 「だけど、西門慶《せいもんけい》は、強いんだろうな」 「いくら強くったって、近所の眼というものがあるよ。古舗《しにせ》の看板や大金持ちの外聞《がいぶん》もあらあね。まずおらが先に、王婆を店先から釣り出して、しがみついたまま、離さずにいるから、それを機《き》ッかけに武大さんは、男女《ふたり》がしけ込んでいる奥へ飛びこんで、間男《まおとこ》見つけたとでッかい声できめつけるのさ」 「うん、うん。……だけど坊《うんぼう》、金蓮の方はどうしよう」 「どうしようと、自分の女房じゃないか。ほんとなら、重ねておいて四つにするんだが」 「そんなこと出来ない。恐ろしくって」 「だからせめて、男には詫《わ》び状を書かせて、以後は決して致しませんと、拇印《つめいん》を捺《お》させ、女は二つ三つしッぱだいて、自分の家へ連れて行ってからの処分とすればいいだろ」 「そうだな。うん、そうだ。……じゃあ明日、手を貸してくれるかい」 「いいとも。武大さんこそ抜かッちゃいけないぜ。ところでお腹《なか》が減《へ》っちまった」 「さあ、幾つでも饅頭《まんじゆう》を食べておくれ。そしてこれは少ないけれど、今日の売上げを半分上げるよ」 「ありがと。じつはお小遣《こづか》いも欲しかったんだ。饅頭も貰って帰るよ。おふくろに喰べさせたいから」  哥《うんか》とはこれで別れたものの、武大はもうそのことだけでいっぱいだった。思いつめると、涙がこぼれ、腹は煮えくりかえってくる。  そうして、浮かない顔は持って帰ったが、しかしその晩、家では彼も、さあらぬ振りして、妻の金蓮にも逆《さか》らいなどはしなかった。いや近頃の金蓮には以前のような棘々《とげとげ》しい目かどは見えない。さすが心の疚《やま》しさに、どこか良人《おつと》へのとりなしも違っている。その晩とても、わざとらしく、 「どうなすったの、あんた。いやに、むッそり沈んでいて」  と、宵にはもう灯りを消して、武大の寝床へ寄り添って来たりしたが、武大にだって嗅覚《きゆうかく》はある。その肌には他の男性の香《にお》いが感じられ、その唇には空々しい粘液《ねんえき》しかないのがわかって、 「なんだか、すこし風邪《か ぜ》ぎみなんだよ。からだが懶《だる》い……」  と、空寝入りのうちに、独り悶々《もんもん》と、夜明けばかりが味気なく待たれた。  次の日。——風邪気味とはいっても、金蓮は決して「お休みなすっては」とはいわない。彼もまた、期するところがあるので、いつもの蒸籠《せいろう》荷担《にない》をかついで、さっさと、家を出かけてしまう。 「……おい武大《ぶだ》さん。西門慶があっちへ行くよ。はやく後からついておいで」  午《ひる》ごろである。  約束の哥《うんか》が、公園の木陰から手を振った。武大は慌《あわ》てる。店を仕舞う。おまけになにしろ、荷を担《かつ》いでのよたよた歩き。見るまに、哥の影は見失った。  しかし、方向はわかっているのだ。それにまた、男女《ふたり》の濡れ場を抑えるのが目的だから、そう急いでも、かえってまずい。  一方は、哥《うんか》。  西門慶が、いつもの俳優頭巾《ずきん》ののっぺり姿で、すうと、王婆の茶店のおくに消え込んだのを見とどけて、 「ちッ。愚図《ぐず》だなあ武大さんときたら。何をまごまごしてるのか」  と、物陰で首を長くしていたが、さて待てど待てど姿は見えない。そのまに、近所の犬が吠《ほ》えかかってきたので、居《い》たたまれず、往来を斜めに飛び出して、 「やいっ、ばばあ。きのうはよくも、ひどい目にあわせやがったな」  茶店の前に、立ちはだかった。  ちょうど、王婆は奥から店さきへ出たところだった。「……ふ、ふん」と鼻の小皺《こじわ》で笑ったものである。「チビなぞ、相手にしないよ」という無言の返辞であろう。いつもの紡《つむ》ぎ鞠《まり》や糸筥《いとばこ》を床几《しようぎ》に持ち出し、さも実直そうに手内職などしはじめる。 「つんぼかっ、周旋婆《しゆうせんばば》」 「…………」 「盲《めくら》じゃないぞ、こっちは」 「…………」 「やいっ、なんとかいえ。逢曳き宿の才取《さいと》り婆め」  婆は手をやめた。そして、おっとり腰を上げたと思うと、哥の方へ歩いてきた。 「坊《うんぼう》、よく来たね」 「あッ」  逃げようとしたが、せつなの婆の手の迅《はや》さといったらない。いきなり哥の襟がみを引ッつかみ、ぴしッと一撲《なぐ》りくれるやいな、 「こっちへおいで、文句があるなら」  いきなり耳を引ッ張って、隣家との境の狭い路地へグイグイ持って行こうとした。  哥も今は必死である。往来に坐って婆の脚をつかみ取った。そして、武大を待つ間の持久戦に獅子奮迅《ししふんじん》していると、 「あっ、やってる!」  武大の声が近くでした。武大はそれを見るなり、荷担《にない》を道ばたに捨てて、裏口から王婆の家へ入ろうとしたが、そこでは婆と哥が泥ンこに番《つる》み合って格闘している。しかも婆は武大の姿を見るや「かッ」と、鬼婆のような口を見せたので、武大は度を失ってしまい、うろうろまごまご立ちすくみに慄《ふる》えてしまった。 「ばか、ばか。武大さん、この隙だよ。はやく奥へ踏ン込まないと逃げられちまう」  チビの哥に叱咤《しつた》されて、武大は勇を奮い起された。茶店の口から、大股ぬいで、 「畜生、もうだめだぞ、間男《まおとこ》は見つけたぞ。どうするか見ていやがれ」  と、野猪《のじし》のような勢いで陰湿《いんしつ》な奥の一ト間《ま》へ躍り込んだ。 「あっ、うちの声だわ」 「えっ、武大《ぶだ》か」  男女《ふたり》は狼狽して、寝台の上《う》わ掛《がけ》を刎《は》ねのけた。金蓮《きんれん》は白い脛《はぎ》もあらわに、下袴《はかま》を穿《は》く。裳《も》の紐《ひも》を結ぶ。男の西門慶も度を失って、彼にも似気なく、寝台の下へ四ツん這いに這い込んで行くしまつ。 「あんた、もう度胸をすえましょうよ! こうなったら仕方がないもの」  金蓮が慄《ふる》えたのは一瞬で、次のことばは、男の卑怯を罵《ののし》るように強かった。しかし、西門慶の返辞よりも早く、 「わッ。この阿女《あま》め」  彼女の髪は、武大の手に、後ろからつかまれていた。 「あれっ、なにをするのさ、気狂い」 「どっちが気狂いだ。さあ、男も出ろ。やい間男《まおとこ》」 「なんだ、武大」  西門慶の長い体が、ぬうっと、寝台の下から出て来るやいな、まるで居直り強盗のような科白《せりふ》で、儒子《こびと》の武大を睨《ね》めおろした。 「静かにしろ。静かに話しても用は足りる」 「うぬか。ひ、ひとの女房を盗《と》ったのは」 「おれだが、どうした。盗《と》られる間抜けもねえもんだ」 「詫《わ》び状《じよう》書けっ。なにっ、なにを笑う」  武大はくやしさに、西門慶の胸ぐらをつかむ。それもしかし、やっと、手が届くほどで、相手の背丈は高いし、こっちは低い。 「えいっ、何しやがる」  西門慶は一ト振りに振りもいだ。でんと、屋鳴りの下に、一方は尻もちをつく。そして起き上がるところをまた、西門慶得意の足業《あしわざ》らしく、武大のみぞおちを狙ってばっと蹴とばした。 「……ううむ」  と、武大は体を丸く縮めてしまった。死にもしないが、伸びてしまった容子《ようす》である。西門慶は金蓮の眼へニコッと一顧《いつこ》を残すやいな、裏の木戸からさっさと帰ってしまった。往来では婆が体じゅうの土をはたいて何か呟《つぶや》いている。すでに哥《うんか》も敵《かな》わじと見てか、雲かすみ、何処かへ逃げ去っていたのである。  騒ぎは近所合壁《がつぺき》で見ていたに違いない。しかし西門慶の羽振りは知っているし、婆のあとの祟《たた》りも空恐ろしい。目引き袖引き、覗《のぞ》き見していた近所のほうが、かえって、罪を犯したみたいにしいんとしていた。 「どうしたのさ、金蓮さんしっかりおしよ。これくらいなこと、覚悟の前じゃないか」  王婆は彼女に手をかして、半死半生の武大の手を取り足をとり、隣の金蓮の家の二階へ運び上げた。武大は苦しげに、何か黄いろい物を口から吐き、夜どおし囈言《うわごと》を口走っていた。  まずは、武大《ぶだ》もそんな程度と聞くと、西門慶は大胆にも、たった二日ほど措《お》いただけで、またぞろ隣家《となり》へ来ては金蓮に呼びをかける。金蓮もまた、世帯臭《しよたいくさ》いものを消して、娼婦のごとく隣へ辷《すべ》りこんで行く。——あとの暗い北窓には枕をつけたままの武大が、口の渇《かわ》きにも、白湯《さゆ》一つままにはならず、身を起そうにも、肋骨《あばら》が痛んで身動きもできない有様。そして、ようやく近所の灯とともに金蓮が帰って来れば、あきらかに淫《みだ》らな紅《べに》や白粉《おしろい》の疲れを見せているのだった。武大はいくたびとなく、歯がみして「畜生、畜生」と男泣きの涙にただれた。時には、悶絶《もんぜつ》して、黒い唇を噛みふるわせ、 「……見てろ。いまに見てやがれ。おらあ死んでも、いまに旅の弟が帰って来るから。ああ息のあるうち、武二郎(武松)よ、帰って来てくれ。このかたきをとってくれ……」  力なく、暗い天井へ向って、独り叫んでやまない時などある。  金蓮から、これを聞くと、西門慶も色をなして、 「えっ。あの虎退治をやった弟の武松《ぶしよう》が、もう程なく帰る時分なのか。こいつあ、なんとか今のうちに」  と、さすが穏やかならぬ風もある。 「旦那え……」と、婆はその耳へ顔を寄せて「もう待てやしませんよ、なんとか、ここでご思案をきめなくては」 「といったって、おれの身じゃ、金蓮と手に手をとって道行きということも出来やしないよ」 「ですからさ、きのうもちょっと、お耳に入れたじゃありませんか。旦那のおたくは薬種《くすり》問屋、砒霜《ひそう》なんかもおありでしょう」 「あ、あれか」 「毒をくらわば皿までとか。一服そっと、金蓮さんにお預けなさりゃあ、なあに惚れた旦那のためですもの。きっとうまくやりますよ」  ここに、恐るべき相談が、金蓮も加えて、三人のあいだに成りたっていた。知らないのは、武大だけである。いや、ろくな食餌《しよくじ》も医薬も与えられているではなし、武大は青黒く眼を落ち窪《くぼ》ませ、意識もすでに普通ではない。 「……あなた、何か美味《お い》しい物でも喰べないこと。……ねえ。仰っしゃって下さいよ。わたし、つくづく悪かったわ」  或る日彼女は、良人《おつと》の枕もとに顔をよせて、さめざめと泣いてみせた。 「ねえ、あんた、ゆるして……」 「そ、そりゃあ、おめえ、ほんとにいうのか」 「もう隣へは行きません。昨日だって行っていないでしょ」 「ああ。……そう聞くと、急に体を早く癒《なお》したくなった。金蓮、おらあやっぱり死にたくねえ。働くよ。癒《なお》ったら、うんと働くよ。そしたら、いくらおめえだって、浮気心もおこすめえ」 「いいえ。わたしこそ悪かったのよ。はやく癒って……ね。ねえ、おくすりでも飲んで」  彼女は婆からそっと授けられた劇毒の砒霜《ひそう》をつねに身に秘《かく》していた。とはいえ、疑い深い病人に滅多にはやれないと思って細心に機を窺《うかが》っていたのである。 「からだに力をつけなければ」  と、やたらに美食を与えるのを、武大《ぶだ》は逆に、金蓮が改心した証《しるし》と感じて、よく喰べる。一夜、そのために、武大は夜半に苦悶しだした。今こそと、彼女は砒霜《ひそう》の粉を碗《わん》に溶《と》かして、武大に飲ませた。劇毒のあらわれは、たちどころに、武大は七顛八倒《しちてんばつとう》もがき廻った。そして近所へも響き渡りそうな絶叫を発しるので、彼女は武大の体に蒲団《ふとん》をかぶせた。絹を濡らして、武大の鼻から口を塞《ふさ》いだ。夜は深沈……まだ燭《しよく》に油は尽きてもいないのに、ジジジ……と灯火《ともしび》が哭《な》く。  金蓮は恐ろしくなって、ととと、と二階を馳け降り、王婆《おうば》を呼ぶと、かねて諜《しめ》し合ってはいたことだ。王婆は一人、二階へあがって、明けがたまでに、死骸の様をとり繕《つくろ》い、誰の眼にも、病死としか、見えないように拵《こしら》えた。 「さ。……これからだよ大事なやまは」  ここ気懸りなので、西門慶も早朝にやって来た。婆から「うまいこと、行きましたよ」と囁《ささや》かれて、彼もまずは、ほっとした色だが、近所の外聞、人目の偽瞞《ぎまん》、そして役署の検死やら火葬の認証やら、無事、灰にしてしまうまでは、まだまだ、安心とはいいきれない。 「ねえ旦那、役署の隠亡《おんぼう》がしらは、何九叔《かきゆうしゆく》って男ですが、あいつはひどく、死人調べには眼が利《き》く男だと聞いてますが」 「よしよし、役署向きなら、どうにでもなる。九叔《きゆうしゆく》のことなら、心配するな」 「お願いしますよ。そこでバレたら、葬式も出せませんからね」 「それよりは近所が恐《こわ》い。金蓮にも、よっぽどうまくやらせないと」 「抜かりはござんせん。なんなら、ちょっと覗《のぞ》いてごらんなさいましな」  確かめたさも半分、不気味も半分、西門慶は隣の二階へ梯子《はしご》段から顔だけ出した。もう棺桶《かんおけ》も来ていて、仏前仏具の手廻しも、なるほど万端抜かりはない。そして金蓮は、夜どおし泣き疲れたような姿で、祭壇の前にうな垂れていた。  チラと、彼女が振り返ったので、西門慶は慌《あわ》てて顔を振って見せ、一語も交《か》わさず外へ戻った。入れちがいにもう近所の衆が、婆の泣き触れで、ぞろぞろお哀悼《くやみ》にやって来る。 「もしもし。西門大郎の旦那じゃござんせんか。たいそうお早く、朝からどちらへ」  役署前の大通りの角だった。 「おう、九叔《きゆうしゆく》さんか。おまえこそ、どこへ行くのだ」 「なあにね。饅頭《まんじゆう》売りの武大《ぶだ》が、昨晩、病死したっていう届けなので、今し方、手下の者を出してやったんですが、最後の判証《はんしよう》をしてやらなくちゃなりませんのでね」 「判証は、やはりおまえが下《くだ》すのか。そいつあどうも、ご苦労だな」 「いえ、職掌《しよくしよう》ですから、そんなことあ、なにも」 「親方。ちょっとそこまで、つきあってくれないかい。じつあ、朝飯もまだやってないのさ」 「朝飯ってえと、気のきいた茶館は、色街しかありませんぜ」 「いいじゃないか。遊里《あそび》風景の朝を見るのも」  何九叔《かきゆうしゆく》は「はてな」と思った。朝飯の馳走ぐらいなら何も首を傾《かし》げるほどなこともないが、別れ際に「……たのむよ」と一ト言、西門慶が彼の袂《たもと》へずしんと落してくれた物がある。後で開けてみると、何と、隠亡頭風情《おんぼうがしらふぜい》では、一生にもお目にかかれないほどな大金が、しかも、無造作に鼻紙にくるんであった。 「こいつあ、くさいが?」  ぴんと直感に来たものはあるが、西門慶といえば、役署の上司からして、一目《もく》も二目も措《お》いている人物なのだ。すべては、金の力だが、署内における勢力の隠然たるものは無視できない。 「……おっかねえ物だが、強いものには巻かれろだ。口を拭《ふ》いて戴いとくか」  やがて、九叔《きゆうしゆく》は、喪《も》の簾《すだれ》を揚げて、線香臭い家へ入った。二階へ上がって、武大《ぶだ》の女房金蓮を見ると、近所のくやみの入り代り立ち代りに、泣き腫《は》らしている態《てい》だ。しかしながら、多年の職業的直感では「ははアん」と、わかる。西門慶のおひねりは、これだったに違いないと。 「……どれ、納棺の前に、型どおりじゃございますが、お屍《かばね》を調べさせて戴きましょうかな。いや、動かさないで、そのままにしておいておくんなさい」  九叔は馴れた手つきで、物質の検査でもするように、死骸の眼瞼《がんけん》、口腔《こうこう》、鼻腔の奥、腹部、背部と引っくり返して視《み》ていたが、そのうちに自分のこめかみを抑え出して、 「……あ。……ああ、こいつあ、どうかしてきた。む、胸くるしい。もうたまらねえ」  と、癲癇《てんかん》のように、床《ゆか》へ俯《う》ッ伏してもがきだした。  居合せた近所の者は驚いた。いや仰天したのは王婆と金蓮である。万が一、砒霜《ひそう》の毒気が残っていて、それに中《あ》てられたとしたら大変である。と思って一瞬、色蒼《いろあお》ざめたが、九叔が悶掻《も が》きながらも「早く、駕《かご》でも戸板でも呼んでくれ。家へ帰って養生したい」と叫ぶので大慌《おおあわ》てに人を頼んで、九叔を家へ送らせた。  今朝は、あんなに元気で家を出た人が、と九叔の妻は泣き泣き良人《おつと》を病床に宥《いたわ》り寝かせた。——だが、誰もいなくなると、 「女房、罪なことをしたな。じつあ、おれの悶掻《も が》きは仮病《けびよう》なのさ」  と、けらけら笑って起き直った。  彼は妻に、一切を話した。西門慶から貰った金も出して見せた。「……案のじょう、武大はただの病死じゃない」とも鑑定したところを、つぶさに聞かせた。 「まあ、私もいまだから言いますけれど、王婆の近所の者から、へんな噂を耳にしていたんですよ。だけど、なにしろ相手が西門大郎の旦那でしょう。ですから、めったなことは口にするのも慎んでいたんですの。……もう金輪際《こんりんざい》、こんなお金には手をつけますまい」 「もちろん、俺もぶるぶるだが、しかし、金を費《つか》わねえたって、万が一の時になりゃあ、疑われるぜ」 「ですから、こうなすっては」  と、彼の妻女は、女らしい細心な一策をささやいた。九叔《きゆうしゆく》はそれを聞くと、 「なるほど! そいつあ妙案だ。よし、そうしよう」  と、即座に腹をきめ、「おまえがそんな智恵者とは、多年連れ添っていながら、いま知ったよ」と、膝を叩いた。  ところへ、部下の隠亡《おんぼう》が、三人でやって来た。あの後で、王婆は自分らを下にも措《お》かずもてなし、銀子《ぎんす》十五両を出して「仏の供養ですから、お三人で分けて下さい」と、いったという。その下心は、検死の判証《はんしよう》をどうかしてくれということらしい。 「いいじゃねえか」と、九叔はあっさりいった。 「くれる物は、取っておきなよ。判証《はんしよう》は俺に代って、おめえたちでしてやるがいいや。何しろ俺は、急病人だからね……。なに? 役署のほうが違反になるだろうって。大丈夫さ、そいつあ。なンたって、西門慶旦那がついていらあね。いいようにするだろう」  こんな風に、通夜の三日祀《まつ》りもすぐすんで、武大《ぶだ》の葬儀は、無事に終った。ところが、城外の化人場《や き ば》でそれが行われた直後、そっと何九叔《かきゆうしゆく》がやって来て、前もって、彼が取り除かせておいた武大の遺骨の一片を持ち帰ったとは、世間、誰も知った者はなかった。  もとより西門慶も、そこまでは勘づかない。ほとぼりがさめるとまた、王婆の奥に入り浸《びた》って、金蓮相手に、したい三昧《ざんまい》な痴戯《ちぎ》に耽《ふけ》った。——女も今では、誰におどおどすることもない。晩になってもせかせか帰る灯はないのだった。深間《ふかま》の仲は、こうしていよいよ深間の度《ど》を増し「もう離さない」「離れない」「いっそ、こうして」というような痴語口説《ちごくぜつ》のあられもなさに、王婆さえ、時にはうんざりするほどだった。  歓楽きわまって、哀愁生ず——とか。陽春の花もいつか腐《す》え散って、この陽穀《ようこく》県の街にもぬるい暖風が吹き初めていた。  かねて、県知事の命をうけて、遠い開封《かいほう》の都へ使いしていた武大《ぶだ》の弟——武二郎の武松《ぶしよう》も、はや帰路について、県の近くまで来ていたのである。だが、その道すがらも武松はしきりに、 「はて……妙だな。……いやに毎晩、兄貴の夢ばかり見るが」  と、虫のしらせか、なんとなく胸さわぎに衝《つ》かれつつ、ほとんど、何ひとつ道草もせず、まもなく県城へ立ち帰って来た。 「やあ、大儀だった。ご苦労ご苦労」  知事は満悦のていで、彼の復命を聞き終り、賞として、銀一錠《じよう》を与えた上、 「ゆっくり休暇をとるがいい」  と、長途の労をねぎらった。  身の休養を思うよりは、武松は一刻も兄の顔を見たいのが、帰心の的《まと》であった。旅の垢《あか》を落して、涼衣《すずぎ》に着代えるまも惜しむように、さっそく都の土産《みやげ》物《もの》など持って、街端《まちはず》れの紫石街《しせきがい》へ出向いて行った。 「おや、あれは都頭《ととう》の武松じゃないか」 「そうだ、武松だよ、帰ってきたね!」 「さあ、たいへんだぞ。なにか起るよ、あのままじゃすむまいよ」  道を行く者、軒さきに立って見送る者、みな天の一角に、颱風《たいふう》を告げる一朶《だ》の黒雲でも見出したように囁《ささや》きあった。  ——とはまだ、何事も知らず、武松は、なつかしさいっぱいな足どりで、はや兄武大《ぶだ》の家の前までもう来ていた。そして軒の芦簾《あしすだれ》を片手にかかげて、つと土間へ入ってみると、壁をうしろにした祭壇に“亡夫武大郎之位《ぶたろうのい》”と紙位牌《かみいはい》が貼ってあるではないか。 「やっ? ……。門《かど》違いしたかな? ……。いや、そうでもねえが。はて、おれの眼でも、どうかしているのか」  胸の鼓動《こどう》とともに、髪の根までが、ぞくッとして来た。たとえば、意《こころ》にもない穴洞《けつどう》に立ち迷って、思わず、四辺《あたり》のしじまを試してみるように、奥へむかって、彼は大声で言っていた。 「姉さんっ。……だれもいねえんですか。あっしだ。……武二郎ですよ。いま旅から帰って来ましたよ」 死者に口なく、官《かん》に正道《せいどう》なく、悲恨《ひこん》の武松は訴える途なき事  武松《ぶしよう》の訪れを階下《し た》に聞きながら、二階では何か慌《あわ》てふためく物音だった。とっさに、情夫《おとこ》の西門慶《せいもんけい》の姿が梯子段《はしごだん》をころげるように降りて来るなり、隣家の王婆の裏口へ消えて行ったし、女の金蓮《きんれん》は金蓮でまた、俄《にわか》にわが手で髪を揉《も》みくずし、紅《べに》白粉《おしろい》を洗い落すなど、今日も二階で逢曳《あいび》きの痴夢《ちむ》に現《うつつ》なかった男女《ふたり》には何ともやさしい仰天ではなかったらしい。  けれど金蓮はたちどころに、愁然《しゆうぜん》と泣き窶《やつ》れた身をやっと奥から起たせて来たように、見事自分を作り変えている。そして、武松の前へ出てくるやいな、 「まっ……二郎さんでしたか。どんなに帰りを待ってたか知れませんのよ。もう、どうしましょう。何からお話ししてよいやら」  と、わっと泣き伏さんばかり空泣《そらな》きに身をふるわせて見せた。  武松も一瞬《いつとき》は真正直《ましようじき》にうけて、つい共に瞼《まぶた》を熱くしてしまったが、 「……ま、姉さん。そう泣いてばかりいたって始まらねえ。たった今、旅から帰って来て、何よりは兄さんに会わねえうちはと、この家《や》へ入って見れば、あの一室の祭壇に『亡夫武大郎之位《ぶたろうのい》』とお位牌《いはい》が見えるじゃねえか。思わずここで腰が抜けそうだった。いったい、ほんとに兄の武大《ぶだ》は亡くなったんですかえ?」 「……ええ。じつはあんたが開封《かいほう》へお立ちになってから、つい二十日余りほど後に」 「あのおとなしい兄さんだ。まさか街の与太《よた》もンと喧嘩したわけでもあるまいが」 「出先で、何か悪い物でも喰べたんでしょうか。急にその日の夜半頃から胸が痛いと言い出したのが始めで、私はもうただびっくり、薬よお祈りよと、帯紐解《おびひもと》かず七、八日は必死に看病をしたけれど、とうとう病床《と こ》に就いたまま逝《い》ってしまったんですよ。急に、私もひとり取り残され、どうしていいのかわかりません」  ところへ、さっそく隣の王婆もやって来た。「武松が帰って来た」と西門慶から今聞いたので、婆としても胸は早鐘を突かれたろうし、もし金蓮が下手《へ た》な尻《し》っ尾《ぽ》をつかまれでもしてはと、それの庇《かば》い立てにも馳《は》せつけたに違いない。 「おや二郎さんかえ。よくまあ無事に帰ってくれたね。武大《ぶだ》さんも飛んだ夭逝《わかじに》だったけれど、天子にも死ありとか、病《やまい》では諦《あきら》めるしか仕方がない。さあさあ、お線香の一つも上げておやり。誰の供養よりは、さぞ兄さんもよろこぶだろうよ」  金蓮もその尾について、 「ね。二郎さん。お隣のおばさんには、良人《う ち》が病《や》んでいるうちからお葬式のことまで、ほんとにご厄介になったのよ。あんたからもよくお礼を仰っしゃって下さいな」  と、相槌《あいづち》を打った。しかし武松は、まだ腹から礼をいう気にはなれないらしい。 「どうも夢のようだな。なんとも変だなあ?」 「弟さん。何がそんなに変だというのさ」 「だって、日頃はあんなに達者な兄貴だ。それが胸の痛みぐらいでコロリと逝《い》ってしまうなんて」 「だけど案外、その達者があてにならない例は、世間でよく見ることだからね。だから坊さんがいうじゃないか。無常迅速《じんそく》、人の命は露みたいなもンだって」 「して、兄の遺骸《いがい》は、どこへ埋葬《まいそう》したんですか」 「三日三夜、通夜や御法事をした後で、かたのとおり火葬に附しておいて上げたよ」 「それから、今日で幾日目ですえ?」 「あと二日で、ちょうど四十九日の忌明《きあ》け。忌明けを前に、弟さんが帰ってくるなんて、やはり争えないもんだね」 「いや、また出直して伺いましょう。こんなことたあ知らなかったんで」  武松は半ば眩々《くらくら》としたまま、ぷいと戸外《そ と》へ飛び出してしまった。やや我に返っていたのは、外の風に吹かれてからのことである。  彼はもう冷静だった。県役署の私宅にもどると、白い浄衣《じようえ》に着かえ、麻の縄帯を締め、その内懐《うちぶところ》へは鋭利な短剣一振りを秘《かく》していた。 「おい従卒、一しょに来い」  ふたたび街へ出ると、途中で従卒に野菜、穀類《こくるい》、供物《くもつ》、香華《こうげ》の物などを買い調《ととの》えさせ、それを持って夕方また亡兄《あ に》の家を訪《と》い、 「姉さん、今夜はひとつ弟の施主《せしゆ》で、回向《えこう》をさせてもらいますぜ」  と、祭壇の前にぶッ坐《つわ》った。  そして連れて来た従兵にいいつけて、精進飯《しようじんめし》やら団子《だんご》などを作らせ、まず祭壇へ供えてから、近所の者二、三を呼んで振舞った。そしてその中で、武松は仏の位牌《いはい》へ坐り直し、胸元に掌《て》を合せていたと思うと、生ける人へでもいうように、 「兄貴。あんなに俺が言っといたのに、なぜ死になすった! よもやただの不養生や病気で死になすったわけじゃあるめえ。迷っているなら迷っているとそこから化《ば》けて出ておくんなさい。生きてるうちから愚図で煮《に》え切らねえ兄さんだったが、死に方までがはッきりしねえたあ一体どうしたわけなんだ。もしいわれのねえ非業《ひごう》な死をでも遂げなすったンだったら、この弟は、きっと仇《かたき》を取って上げますぜ。夢でもいいから武松にそこをお告げしておくんなさいまし……」  と、酒を位牌《いはい》にそそぎ、また冥土《めいど》供養の紙銭《かみぜに》をつかんで燻《く》べ終ると、彼は声を放っておいおいと泣きだした。  つねには、どんなことがあろうと涙を知らない、しかも景陽岡《けいようこう》の猛虎をも打ち殺したほどな男が、こう満身を打ちふるわせて泣いたのだから、居合せた近所の衆もぞッとさせられたのは無理もない。ほどなくみなこそこそと腰を上げて去り、片隅に居てともにすすり泣きを装《よそお》っていた金蓮も姿を消して、いつか二階の自分の居間に寝込んでしまった。 「……おや。もう三ツ刻《どき》か」  真夜半《まよなか》の街を行く刻《とき》ノ太鼓に眼をさまして、武松はふと周囲を見まわした。祭壇の前の菅莚《すがむしろ》の上で、通夜の自分はゴロ寝していたのである。  二人の従者も酒に酔って、庭向きの廂《ひさし》の下に倚《よ》ッかかったまま性体《しようたい》もない。深沈《しんちん》と夜は更《ふ》けに、更けて行き、まさに屋《や》の棟《むね》も三寸下がるという丑満刻《うしみつどき》の人気《ひとけ》ない冷たさだけが肌身にせまる。 「ああ、この世でたった一人の兄貴ももういないのか。……ええ残念な。兄貴の弱虫め。なぜ死ぬなら死ぬように、はっきり死んで行かないのだ」  またしても、独り泣きに彼が呟《つぶや》いた時だった。  サヤサヤと壁の紙銭の吊り花が灯影《ほかげ》にうごいた。風もないのに、瑠璃灯《ラ ン プ》の灯はボッと墨《すみ》を吹いて、いつまでその灯はゆらゆらと蘇生《よみが》えりの冴えに戻ろうともしない。惨々幽々《さんさんゆうゆう》、なにか霊壇《れいだん》を吹き旋《めぐ》る形なきものが鬼哭《きこく》してでもいるようだ…… 「あっ! 兄さんっ」  武松は確かに何かを見た。  総身の毛を逆立ッて、思わずその人影へ抱きつこうとしたのである。が途端に、彼は膝へ水を浴びていた。花瓶《かびん》の花が彼の手に仆れたのだった。  ——同時に、瑠璃灯《ラ ン プ》の明りは何気なく元の光に返っている。彼はびッしょりと汗をかいていた。夢だったのか、と思い直した。 「だが、夢にしても?」  彼の姿は腕拱《うでぐ》みのままだった。その腕拱みにいつか厨《くりや》の方から朝の明るみが映《さ》している。彼はむッくり起《た》って水瓶《みずがめ》のそばで顔を洗い出した。  とん、とん、とん……とその襟元《えりもと》へ二階から女の足音がすぐ降りて来た。如才《じよさい》なく彼のそばへ手拭《てふ》きやら嗽《うが》い碗《わん》など取り揃えて、 「お疲れでしょう、二郎さん。だけどゆうべは、兄さんもきっとよろこんでいたに違いありませんわ」 「お。姉さんか。ところで姉さん。ほんとのとこ、兄貴は何で死んだんですか」 「あら、また同じことを仰っしゃってるわ。きのうも、よくお話ししたじゃありませんか」 「だがさ、病気にしても、薬はどんな薬を服《の》ませたんですえ?」 「お薬の包みなら、まだそこらに残っているですよ」 「そして棺桶の支度などは」 「親切者のお隣のおばさんが、何から何までしてくれましたのよ」 「まさか焼き場の隠亡《おんぼう》までは、婆さんがしてくれたわけじゃありますまい」 「それやあ、何九叔《かきゆうしゆく》というお役署の人ですわ。でなければ、焼き場の認証書が出ませんもの」 「なるほど。そいつあそのはずだ」  それから小半刻《こはんとき》ほど後だった。  獅子街《ししがい》の四ツ角まで来て、そこで従卒を先に帰した武松は、ただ一人で、何九叔の家を訪ねていた。 「これは都頭《ととう》さん。たいそうお早く。……して、いつお帰りでしたえ」 「きのう帰って、知事へ報告をすましたばかりさ。ところで九叔、すまねえが、ちょっとその辺まで顔を貸してくれまいか」 「ようがすとも。だが、折角のお久しぶり、取り散らしておりますが、まあお茶でも一つ」 「いやまたとしよう。今日のとこは、ちと野暮用だ。まあこっちにつきあって貰おうよ」  九叔は心のうちで「さては」と、もう合点していた。奥へ入って、かねて妻に預けておいた西門慶《せいもんけい》から取っておいた銀子《ぎんす》、それとまた、焼き場から持ち帰っておいたお骨《こつ》の一片を包んだ物とを懐中《ふところ》に、 「や。どうもお待たせいたしました」  と、連れ立って外へ出た。  客もまだない午《ひる》まえの横丁《よこちよう》の一酒館。まいど武松には顔馴染《かおなじ》みの飲み屋らしい。あっさりした肴《さかな》二、三品に、酒だけは、たっぷり取っておいてから、 「おい、お女将《か み》も丁稚《でつち》も、今日は御用なしだ。呼ばねえうちは、お愛相《あいそ》なんぞを振り撒《ま》きに来るなよ」  武松はのッけから店中の者へ、こう断わったものである。  従って、初めからして変テコな対座となった。黙って酌《さ》し、黙って受け、九叔も話の継《つ》ぎ穂《ほ》がないように、むっそり飲んでいるほかはない。 「どうも相すみませんね、都頭《ととう》さん」 「なにがよ」 「手前の方こそ、一杯宅《たく》で差上げなくっちゃならねえところを、こんなご散財をかけちゃって」 「こっちの勝手だ。まあ飲みねえ、あるッたけは」  すでに語気からして妙に絡《から》み調子である。しかし九叔の方では「ははん……」と帰結のおよそは読んでいた。それだけにまた、その腹を据えている態度が、逆に武松にとっては「こいつ一ト筋縄では泥を吐くまい」とする腹拵《はらごしら》えを、いちばい強めさせていたものだった。 「……おっと、もうねえや。三角(一升二合)ほどのお銚子が、二人でペロと一滴なしだ。いいだろう。一つここらでご相談といきやしょうかね」 「都頭さん、なにか手前に」 「おおさ、九叔《きゆうしゆく》、白《しら》を切ると承知しねえぞ」  武松はふところへ手を突っ込んだ。かねて隠し持っていた薄刃《うすば》作りの短剣がいきなり卓の厚板へぽんと突き立てられた。 「……?」 「九叔、なにもそうおれの顔をマジマジ見てるにゃ及ばねえよ。こいつに」と、その白刃を顎《あご》でさして「——こいつに向って返辞をする気で、嘘いつわりのねえとこを素直に白状してしまうがいい」 「ほほう。飛んだご挨拶ですね、都頭さん」 「そうよ、折角、あったかい酒を飲ませておいて、氷をぶッかけるような話だが、関《かか》り合いじゃ仕方もあるめえ。どっち道、美味《う ま》い物食いをした後にゃ、腹くだしか腹痛《はらいた》は通り相場だ」 「へへへへ。都頭さんにも似合わねえ、妙に人の腹を勘ぐりなさる。それよりもなんでズバリと、兄の武大《ぶだ》の死因を知っていないかと、事を割って、あッさり訊いては下さらないんでございますか」 「やっ。それじゃおめえも、兄の死因を」 「まあ都頭さん、気を落ちつけて、こいつをご覧なすって下さい」  ふところの包みを解いて、その上に彼が並べたのは、十両の銀子《ぎんす》一錠《じよう》と、焼け脆《もろ》んだ人骨の一片で、その黒ずんだ灰白色の人骨はどこか紫ばんだ斑点《はんてん》をおびていた。 「あッ、もしやこれは兄の?」 「ま、お聞きなさいまし。あれは確か正月の二十二日。朝ッぱらから茶店の王婆がやってきて、隣の武大さんが亡くなりました。ひとつご検死のときはよろしくと、妙な口振り……。はてなと、ひと先ず手下を先にやっておき、手前はぶらと出かけて行くと、忘れもしねえあの紫石街《しせきがい》の四ツ辻でしたよ」 「お。そして」 「すると、お役署前の生薬問屋《きぐすりどんや》、例の西門大郎とも呼ぶあの西門慶が、あっしを待ちうけていたような様子で、近くの酒館へ誘いますのさ。なにかと従《つ》いて行ってみると、この銀子一錠《じよう》を差出して、武大の納棺のときには、一切、この唇《くち》にも蓋《ふた》をしてくれまいかと——、いってみれやあまあ、その金は口塞《ふさ》ぎ。ははアんと、それでわかったが、しかし何しろ奴は役署きッての顔きき。そこでその場はヘイヘイと先ず呑込み顔で別れましたのさ」 「むむ。あの西門慶の奴がだな」 「案のじょう。それから検死先の家の二階へ上がって、武大郎《ぶたろう》さんの死体を調べにかかってみると、一見、ただの病死じゃあない。苦悶《くもん》の形相《ぎようそう》は眼もあてられません。鼻や口にも吐血《とけつ》した塊《かたま》りが残っているし、五体は紫斑《しはん》点々で、劇毒の砒霜《ひそう》を一服盛《も》られたナ……と、すぐ見当がつきましたから、こっちも途端に、腹を抑えて、ウウムと苦しんで見せたんですよ」 「そいつあまた、どういうわけで」 「この九叔としては、納棺の判証は下せませんから、じつあ仮病《けびよう》をつかって逃げたんです。あとは子分委せとしましてね。だってもし、そのさい不審を申し立てれば、西門慶の手がまわって、こっちの馘《くび》は飛んじまうし、毒死の処置も、別な検死が出向いて揉《も》み消されてしまうに違いありませんからね。……と、いう実あ苦肉の策で、わが家に一時引き籠っていましたが、それから三日後、手下の隠亡《おんぼう》へ申しつけて、後日の証拠にこのお骨《こつ》の一片を、こっそり盗ませておいたような次第。……都頭さん、これで一切はもうおわかりでございましょうが」 「いや、すまなかった」  深く、頭を下げて、武松は短刀をふところの鞘《さや》におさめ、 「……つまり下手人は、嫂《あによめ》の金蓮なんだな」 「それと、隣の王婆」 「砒霜《ひそう》は、何処から?」 「お手のものの生薬問屋《きぐすりどんや》。金蓮にやらせたのも、つまりはその男でしょう」 「情夫《ま ぶ》は西門慶か。むむ、すっかり読めた。とはいえ、もっと動かぬ生き証人は誰かいめえか」 「証人といやあ、世間みんなが証人ですがね、誰も西門慶をこわがって、噫《おくび》にも公然とは口に出しません。そうだ、ご存知もありますまいが、果物売りの哥《うんか》ッていう小僧に、なおよくお訊きなすってごらんなさい」  ほどなく、二人はそこの酒館を出ていた。  路次から路次を曲がりくねった貧民街の一軒だった。ちょうど、哥は空《から》になった果物籠《くだものかご》を肩に掛けて、わが家のかどに帰って来たところ。ヘンなおじさんが二人、佇《たたず》んでいたので、 「やい、なんだッて、ひとの家を覗《のぞ》いてるんだよ。オヤ、九叔の親方さんだな」 「おお《うん》坊、いいとこへ帰って来た。こちら様を知ってるか。都頭の武松さんだぞ」 「ヘエ、あの虎退治のかい」 「折入って、おめえに訊きたいことがあると仰ッしゃるんだ。いい子だから、正直に何でも知ってることをお話ししろよ」 「あっ、あのことだな」 「あのことって?」 「うんにゃ、おらは何も知らねえ。うちの父《と》ッさんに叱られたよ、子供のくせに、大人の世界のことに出洒張《でしやば》るな、ヘタするとお白洲《しらす》へ曳かれるぞッて」 「そんなことはあるもんか。そうそう《うん》坊の父《と》ッさんは長の病《やまい》で、おめえの稼ぎを杖とも柱ともしてるンだってな。都頭さん、この小僧はとても親孝行なんですよ」 「そうか、じゃあその孝行にご褒美をやろう。小僧、手を出しな」 「やっ。これや銀子《ぎんす》で五両……。どうしよう、親方さん」 「いただいておきねえ。《うん》坊の小世帯なら、十月《とつき》や一年は暮らせるだろうが」 「ありがと……」と、哥はすっかりよろこんでしまった。だが、そいつが何の代償か、町ずれしている少年だけにすぐ察していた。「……じゃあすっかり話すけどね、おじさん怒ッちゃいけないよ」  彼はぺらぺら喋《しやべ》り出した。——もう五十日ほども前のこと。西門慶の旦那がよく行く王婆の茶店の奥で、その日も旦那と金蓮が逢曳《あいび》きしているから、そこへ行けば小費《こづか》い銭になるぞと人に唆《そその》かされて、さっそく果物籠を頭に載《の》ッけて行ってみた。  すると。——店先で張番《はりばん》していた王婆のやつが、何としても寄せつけない。  まるで人を野良犬かなんぞのようにあしらッて、あげくには打《ぶ》ン撲《なぐ》ったり、果物籠まで往来へ抛《ほう》り出して、水でも打《ぶ》ッかけそうな権《けん》まくだ。  さあ、おらも口惜しくて堪らない。「みていやがれ……」と今度は別な日。——日ごろ仲よしの、饅頭《まんじゆう》売りの武大《ぶだ》さんを公園で見つけて「おまえの女房は間男《まおとこ》してるよ」と、すっかり告げ口してやった。  そこで武大さんと諜《しめ》し合せ、姦夫と淫婦の現場を抑《おさ》えろと、二人で二度目の襲撃をこころみたのだが、何しろ王婆の警戒がきびしい。その日も自分は往来中で忽ち婆に捻《ね》じ伏せられてしまい、一方、武大さんの方は、首尾よく奥の部屋まで飛び込んで行ったらしいが、後で聞けば、これもまたあべこべに、間男《まおとこ》の西門慶のため、脾腹《ひばら》を蹴られて、意気地もなくその場で気絶してしまったそうな……。  なんでも、武大さんが病床《と こ》についたのは、それからのことで、その日以後は、いつも見える公園にも饅頭売りに出なくなった。——と、すぐ四、五日してから死んだという世間の噂だった。なんだか自分までが空恐ろしい気がしてきて、そのことは、つい今日まで噫《おくび》にも出さずにいたが、何で武大さんが急に死んでしまったのやら、その辺のことはさッぱり知らない——と、いうのであった。 「よし、よし。よく話してくれた。それに相違ねえな」 「ちッとも嘘じゃないよ」 「じゃあ、どこへ出ても、その通りに言ってくれるか」 「ああ、白洲《しらす》へでも何処へでも出ていうよ」  その日、武松はこの哥《うんか》と九叔とを連れて、県役署の門に入り、直接、知事の面前へ出て、逐一《ちくいち》を訴え出た。  この知事は、かねがね武松には好意的である。  大いに驚いた容子《ようす》ではあるが、その供述は、よく聞いてくれた。しかし、一応三名を別室へ退《さ》げ、さっそく庁の部局長らを呼び入れて、 「どうしたものか」  と、会議にかけた。 「さあ? ……」  と役人たちはみな言い合せたように、妙な懐疑的の生返事《なまへんじ》である。いうまでもなく、西門慶とは公私にわたって、昵懇《じつこん》な者ばかりなのだ。いや官と政商の腐れ縁といったほうがいい。知事自身にしてさえ、多少なりともその悪因縁に関《かかわ》りのない、きれいな身だとはいえなかった。 「知事閣下」  ひとりが、ついに結論を出してすすめた。 「まずこれは、お取上げにならんほうがいいでしょう。自体、男女の情痴《じようち》が因《もと》ですからな。洗い立てすればするほど、なにかと工合の悪いことも生じてきますし」 「うん。……厄介な事件とは思うのだが」 「事件といっても、多寡《たか》が一個の饅頭売りの死。しかも愚鈍で頭の足らない男ということは、世間周知の者であるのです」  結局、知事は、武松をふたたび召し入れて、慰撫《いぶ》に努《つと》めた。もちろん、武松は不平である。 「——いや、確たる証拠もないと仰ッしゃいますが、この二品をご覧ください。これでも兄の死は、ただの病死でしょうか。毒殺ではないといえましょうか」  武松は、兄のお骨の一片と、西門慶が九叔《きゆうしゆく》へ賄賂《わいろ》した銀子《ぎんす》一錠《じよう》をさし出して、卓を叩いた。  が、知事はなお、煮え切らない。言を左右にするだけで、 「とにかく、二《ふ》た品は一応預かって、鑑定《めきき》役《やく》へ廻しておくが、武松、そちも篤《とく》と、ここのところは穏便に考え直すがよいぞ」  遮二無二《しやにむに》、その日は彼をなだめて引き取らせた。つまり早や訴訟《そしよう》は却下《きやつか》の形である。 武松、亡兄の怨《うら》みを祭《まつ》って、西門慶《せいもんけい》の店に男を訪《おとな》う事  西門慶は恟々《きようきよう》だった。さっそく役署の下僚《かりよう》からは内報があるし、彼自身も昨日からは、おさおさ油断はしていない。  彼の手廻しによる金力が、暮夜《ぼや》ひそかに、各役人の私邸をたたいて、あらゆる手を一夜に打っていたなどは、いうまでもないだろう。  果たせるかな、次の日の強訴室《ごうそしつ》においては、武松の眼にも、知事の態度が従来の人とはまるで別人のような知事に見えた。 「武松。昨夜一ト晩考えて、どう分別をいたしたな」 「今さら、分別も何もございません。西門慶を召喚《しようかん》して、手前と白洲《しらす》においての対決を、希望しているばかりです」 「それや悪い分別だ。聖賢の語にも“背後ノ言、豈《アニ》ヨク信ナランヤ”とあるではないか。果物売りの小僧の言など、取上げられん」 「でも九叔《きゆうしゆく》から差上げられてある紫斑歴々《しはんれきれき》な兄の遺骨は、なんとご覧なされますな」 「あれとて、どうして武大《ぶだ》の遺骨だという証拠になろう。他の隠亡役《おんぼうやく》にいわせれば、あんな物は、火葬場附近では、いくらでも拾って来られると申しておる」 「ば、ばかな!」 「武松っ、激《げき》すな。いかに激しても、訴訟の上に、感情は酌《く》まれんぞ。総じて、殺害の訴えには明らかな犯行の動機と現場の物件、死体の傷痕《しようこん》、犯人の足跡、その他の傍証《ぼうしよう》、五ツの要目がなければ断《だん》は下せぬものだ。……しかもそち自身は旅先にあって、何一つこれと目撃していたことはなく、すべてつまらん輩《やから》の臆測《おくそく》だけではないか」 「臆測ですって?」  奮然と、武松は凄い眦《まなじり》を切って、知事の顔を見上げたが、ぐっと胸をさするように落ちつきを待って、さて不気味なほど、あとは柔順な態《てい》で言った。 「そうですか。……いや、そうまで知事さんとして仰っしゃるなら、こいつあご意見どおり分別を仕直さなくっちゃなりますまい。どうもお手数をおかけしましたよ。はははは、もう無駄事はあきらめて、兄貴の供養は、ほかですることといたしやしょう」  突き戻された銀子《ぎんす》と遺骨を、何九叔《かきゆうしゆく》の手にわたし、彼は大股にそこを出て、県城内にある自分の兵隊部屋へ引き取った。 「おい従卒、飯を食わせろ」  ムシャクシャ紛《まぎ》れの声である。そして、 「さあ、坊《うんぼう》も食べな。九叔も一杯飲《や》ってくれ。明日は兄貴の四十九日だ」  と、自分もともに痛飲し出した。怏々鬱々《おうおううつうつ》、遣《や》りばなきものが眼気の底にギラギラ沸《たぎ》る。  まもなく彼は、九叔と哥《うんか》をそこへ待たせておいて、ぷいと外へ出かけてしまった。従卒二、三人を連れている。そして街へかかると、 「あれを買え、これを買え」  と、気前よく銭《ぜに》を渡し散らす。——従卒は命じられるまま文房具屋では、筆、墨、硯《すずり》、紙など買入れ、市場では蒸《む》した鶏一羽、酒一荷《か》を。また花だの線香だの、さらに神仏の供え物には一番な豪奢《ごうしや》とされている丸煮《まるに》の豚の頭まで買って、持ちきれないほど抱えこんだ。 「……姉さん、こんちは」  彼が、その家の軒下へ立つと、金蓮の返辞は二階でしていた。 「たれ?」 「あっしですよ。武松です」 「あら、二郎さんですか。ちょっと待ってね」  どきっとしたに違いない。  だが、彼女の許《もと》へも、武松の訴えが却下となったことは、とうに知らせが来ていたから、その点では安心し抜いていたのである。ただ、「また、なにしにやって来たのか」と、うるさく思い「ままよ、その場その場で扱《あしら》ってやるばかり……」と、不敵な気を持ち直すまでの、ほんの寸時を措《お》いていただけなのだった。  ——そして、降りて来て見ると。  武松はもう祭壇の前に坐っている。  兵卒に手伝わせて、豚の首を供え、二本の朱蝋燭《しゆろうそく》をあかあかと灯《とぼ》させたり、また、紙銭《かみぜに》や花をかざり、その間には香煙縷々《こうえんるる》と焚《た》いて、およそ兄の武大が生前好きだった種々《くさぐさ》な供物は、なにくれとなく、所せましと壇に供えているのだった。 「まあ、二郎さんたら、ほんとに兄さん孝行ですこと。四十九日のお供え物に来て下すったの」 「いや、それとね姉さん。ちっとばかり酒肴《しゆこう》を仕込んで来ましたから、今日は近所の衆にも、ようっくお礼を申したいと思ってさ」 「あらお礼は私がしてあるのに」 「でも、都頭《ととう》の武松が、弟としているからには、黙ってもおけませんやね。そうでしょう、弟として」 「お気がすまないなら、どうにでも」 「おい従卒。大皿を出して、酒、さかな、果物、肉、ずらりと並べろ。そして貴さまたちは、ご近所の衆を、ていねいにお迎えして来い。おれは隣の王婆さんを誘って来る」 「二郎さん、隣のおばさんなら、私が行って——」 「なあに、それには及びませんよ。今日は弟が施主《せしゆ》だ」  と彼は自身でもう一トまたぎの垣隣りへ出向いて、何か言っていたが、間もなく恐縮し抜く婆の手を曳かんばかりにして、連れ戻って来た。 「さあ、お年順だし、兄の武大《ぶだ》や嫂《あによめ》が、始終ごやっかいになってきたお婆さんだ。……どうぞ姉の金蓮のわきにお坐りなすって下さい」 「二郎さんえ。あなたは県の都頭《ととう》さんという偉いお方。それなのに、婆が上座になんて坐れますかいな。婆はこっちの隅で」 「まあまあ。今日だけは、そんな辞儀をおっしゃらないで。さあ姉さんも先に坐って……。それから」  と、武松は集まった近所の顔一同へ、挨拶《あいさつ》を述べ、亡兄に代って、ねんごろに生前の誼《よし》みを謝した。  集まった銀細工師の姚次《ようじ》、葬具屋の趙《ちよう》四郎、酒屋の胡正《こせい》、菓子屋の張爺《ちようじい》さんなど、どれもこれもただ、眼をまじまじ、硬くなっているだけだ。というのも、近所合壁《がつぺき》、西門慶《せいもんけい》と金蓮のわけあいを知らぬはなく、どうなることかと、内心、関《かか》り合いを極度に恐れていたからである。 「さあ、仏事じゃございますが、そうご窮屈になさらないで」  と、武松はみずから執《と》り持って、杯をすすめ、しきりにくだけて見せるが、誰ひとり浮いてもこないし、酔いもしない。  そのうちに早や、小役人あがりの酒屋の胡正《こせい》は「……こいつは、あぶない」と勘づいたらしく、浮き腰を上げて、辞しかけた。 「どうも、どうも。今日は飛んだご馳走さまに。……ええと、ところで都頭さま、あいにく、よんどころない用向きを控えておりますで、手前は勝手ながら、お先に失礼させていただきまする」 「なに、お帰りだって」 「へえ、なんとも忙がしい体なので」 「待った。そいつあいけねえ」  胡正の尻《し》ッ尾《ぽ》について、葬具屋の趙《ちよう》もあわてて立った。 「そうだ、あっしも、急用があったッけ。都頭さん、申しわけございませんが」 「駄目だよ」 「でも、じつは」 「坐れっ」  武松は、隊で号令をかける時のような声を発した。が、すぐ顔を直して。 「とにかく、せっかくお越しいただいたんだから、しまいまでいてもらいましょうぜ。こら従卒、ご一同へお酌《しやく》せんか」 「はっ」  兵は、卓のまわりを酌《つ》ぎ廻った。——気がつくと、ほかの二人の従卒は、裏と表の口を立ち塞《ふさ》いでいる様子だ。いくら酌《つ》がれても、これでは飲めたものではない。近所の顔と顔の一トかたまりは、みなベソを掻《か》き掻き、いやおうなしに、ただ杯を上《う》わの空《そら》に、上げたり措《お》いたりしているに過ぎなかった。  時分はよし、と武松は従卒に命じて、卓の酒さかなを、一応退《さ》げさせた。そして彼自身が、卓上を拭き浄《きよ》めだしたので、客一同も機《しお》は今と見たように、挙《こぞ》ッて帰りかけようとした。 「おッと。まだまだ、お話はこれからだ。ええと……お立会いの皆さん、この中で文字が書けるのはどなたですえ」 「……?」  なんのことやら、わけはわからないが、自然、小役人上がりの胡正《こせい》の顔へ、みんなの横眼がうごいていた。 「ははあ。酒屋の胡正さん。あんたがこの中では手書きとみえるな。ご苦労だが、ひとつ書き役を勤めてもらいたい」  すでに、従兵の一人は、胡正の前に、用意の筆墨《ひつぼく》と料紙を突きつけている。いや一同がぎょッとしたのは、それではない。  とたんに、異様な精気に膨《ふくら》んだ武松の五体が眼をひいた。左右の諸袖《もろそで》をたくし上げ、内ぶところからは短剣の柄頭《つかがしら》をグイと揉《も》み出して、その鯉口《こいぐち》をぷッつり切った。——同時に、あッというまもない。ひだりの猿臂《えんぴ》は、嫂《あによめ》の金蓮の襟元をつかみ、右手は王婆の方を指さしていたのである。 「みなさん……。どうかじっとそのままに。決して決して、みなさんにご迷惑はおかけしません。ただ武松は、仇《あだ》には仇をもって、見せしめを、お目にかけるだけのこと。かたがた、証人になっていただけたら結構千万というだけのもんですよ。どうぞ、お静かに」 「やいっ、王婆っ」  武松は、はったと睨みつけた。あの景陽岡《けいようこう》の虎をさえ射竦《いすく》ませたといわれている眼光である。 「よくも、隣《となり》住居《ずまい》をいいことにして、いろんなからくりをしやがったな。兄貴の非業の死も、因《もと》はといえば、みんなくそ婆め、うぬの所為《せ い》だ。見ていろ、泥を吐かせてくれるから」  一転、その巨眼は、金蓮の顫《おのの》きを、冷ややかに睨《ね》めすえて。 「こう。虫も殺さねえ面《つら》をしやがって、このすべた阿女《あま》の潘金蓮《はんきんれん》め。よくもおれの兄貴をさんざん小馬鹿にしたあげく、砒霜《ひそう》の毒を盛って殺しゃあがったな」 「ちッ……お離しよ、この気狂《ちが》いめ! 何さ! 人聞きの悪い」 「笑わすな。毒婦、淫婦、妖婦、どう言っても言い足らねえや。さ、せめては兄貴の霊前で、一切懺悔《ざんげ》をしてしまえ」 「馬鹿馬鹿しい、なにを懺悔しろというのさ。よっぽど真《ま》ともな兄さんとでも思うのかえ。よく世間様にも聞いてごらんよ。あの薄野呂《うすのろ》を亭主に持った女房って者は、どんなだか」 「いったな」  ぐざと、短剣が床に突き刺さった。  武松の足は、とたんに卓を、遠くへ蹴仆《けたお》していた。左の手は、金蓮の黒髪をつかんでいて離さない。金蓮は、ひイっ……といって弓形《ゆみなり》に身を反《そ》らす。武松の片腕が軽々と抱え上げたからである。どたんと、彼女の体が祭壇の前へ叩きつけられたのがほとんど同じ瞬間だった。  武松は片膝折りに、すぐ彼女の鳩尾《みぞおち》の辺を踏まえてしまった。そして右手に、床の短剣を取って持ち直し、こんどは、王婆の土気色《つちけいろ》になった顔をその白刃の先で指して言った。 「ばば。逃げてみないか」 「に、に、逃げなんか、出来るもンかね。いうよ、もう、こうなったら……」 「じゃあ、まっすぐに言ってみな。……こう、胡正《こせい》さん、筆記だぜ、書き役を頼むよ」  近所の衆は、もう悉《ことごと》く失心の姿である。胡正はぶるぶる慄《ふる》えながら筆を持った。じろと見届けてから、武松は、また、 「さあ、吐《ぬ》かさねえか。牝豚《めすぶた》」 「なにをいえというんだよ。物々しいねえ。知らないよ、わたしは何も」 「ふ、ふん。くたばり損《ぞこな》いめ。急に気を変えやがったな。ようしッ、あとで一寸試《だめ》し五分試しだぞ。……じゃあお手元から先に洗おうか。やい金蓮」  短剣のヒラで武松は女の頬を二つ三つ叩いた。金蓮は悲鳴を発した。もがいたために、われから刃に触れて、顎《あご》のあたりを濃い桃色に少し染めた。 「じ、二郎さん。いッちまうよ。……いうからさ、堪忍して」 「さあ、その口で早くいえ」 「だ、だって、くるしい」 「それ、こうしてやらあ。神妙に泥を吐けよ」  女の鳩尾《みぞおち》から膝を離して、引きずり起し、その眼さきには、依然、短剣を突きつけていた。  もう半ば人心地はない金蓮に見える。青白い瞼《まぶた》をふさいで、西門慶と出来た事の始めから、王婆のとりもち、毎日の秘《ひそ》か事まで、神おろしの巫女《み こ》が喋《しやべ》るように、また、他人《ひ と》事みたいに、それからそれと、自白しだした。 「……ちいッ、引っ腰もない」  と、歯がみをしたのは婆である。婆には娑婆気《しやばけ》や妄執も一倍深い。だが、とどのつまりは、王婆も一切を白状するしかなくなった。——そして、両者こもごもの自供は、胡正の筆記で、洩らさずそばから口書きとなっていった。 「ようし、ひと先ずすんだ。その口書きを、こっちへよこしてくれ」  武松は入念だった。婆と金蓮の二人にそれへ爪印《つめいん》を捺《お》させ、名まで書かせた。同様に立会人として、近所一同の署名を乞《こ》い、それは折り畳んで、自分の肌身に深く仕舞い入れる。 「従卒。祭壇のお明りが消えてるぜ。新しいお燈明と、もいちど、お酒を上げてくれ。……さあ、そこでだ」  彼は、金蓮を引きずッて来て、祭壇の前の菅莚《すがむしろ》の前にぬかずかせ、自身は手を伸ばして、香炉《こうろ》に香を燻《く》べた。そしてまた、祠《まつ》りの紙銭《かみぜに》へも火をつけたので、女は、せつなに、何か直感したらしい。 「たッ、たすけてえッ」  逃げかけるのを、 「どこへ行く」  武松はむずとひき据える。いや、勢いのまま、仰向けにひっくりかえる。  武松は踏みまたいで、彼女の両手を、両の膝で抑えつけた。そして女の胸を開けはだけた。かの男の西門慶が眼をほそめたであろうふくよかな乳ぶさがむっくりと見えたのもつかのまのこと。武松が逆手《さかて》にとった短剣は、一声の絶鳴を揚げさせたのみで柄《つか》の根際《ねぎわ》まで突きとおしていた。ぶるんッと女の白い脛《はぎ》が最期の硬直を見せたときは、すでに武松の手には、女の生首がつかみ上げられていたのである。 「兄貴! 見ていなすったか……」  武松は、金蓮の首を、壇《だん》に供えた。そしてまたすぐ、従卒にそれを渡して、布ぐるみに包ませ、剣を拭《ふ》いて、 「みなさん、とんだものをお見せしてすみません。だが、こいつもご近所のご災難と諦《あきら》めておくんなさい。そして手前はこれから、ちょっとほかへ用達しに出かけますが、その間、さあ小半日とも申しません。すぐ戻りますから、二階で一ト休みなすっていておくんなさいまし」  という挨拶。  もう一同は、気も魂もない顔色である。いやという声もしない。性気《しようき》のない“影”だけの人間みたいに、黙々とみな二階へ上がって行った。 「ついでに、この牝豚《めすぶた》の張番《はりばん》もお願いしますよ」  婆の身もまた、二階へ追い上げられて行った。二階の窓、扉《と》の口、ことごとく堅く閉め切り、階段には、従卒二人を、番人として残しておく。  そして、武松一人は、布ぐるみにした金蓮の首を小脇に抱え、紫石街《しせきがい》を折れて、役署前の大通りを、こともなげに歩いていた。  ほどなく、きれいな楊柳《ようりゆう》並木の繁華街の一軒に、古舗《しにせ》めいた大店《おおだな》の間口が見える。朱聯金碧《しゆれんこんぺき》の看板やら雇人《やといにん》だの客の出入りなど、問わでも知れる生薬問屋《きぐすりどんや》の店だった。  武松はずっと入って、そこらを見廻し、一人の手代をつかまえて言った。 「ええと、たしか西門慶さまのお店《たな》は、こちらさんでございましたね、大旦那は、おいでですかえ?」 獅子橋畔《ししきようはん》に好色男は身の果てを砕《くだ》き、強慾の婆は地獄行きの木驢《きうま》に乗ること  その日、西門慶《せいもんけい》は留守だった。事実、店にも奥にもいないらしい。番頭たちはそれと告げて、武松の血臭《ちぐさ》い風態の前に、おののいた。 「ど、どういたしまして、決して居留守など申すんではございません。さきほど、商用のお客を連れて、いつも行きつけの、獅子橋《ししきよう》のお茶屋へちょっと商談にお出かけなんで……」 「きっとだな」  武松は一言、凄《すご》ンでみせて、 「そうか。もしそこにいなかったら、すぐにまた、引っ返して、ここへ来るぜ」  ぷいと、身を一転するなり、彼はそこの店頭《みせさき》から往来へ出て行った。  獅子橋畔《ししきようはん》の繁華な大通りを前にして、一流どこの名代《なだい》な料亭がある。  武松は、ずっと入って行って。 「ごめんよ。西門慶の旦那は、どちらのお座敷においでかね」 「いらッしゃいまし……。あの、お連れさまでいらっしゃいますか」 「ああそうだよ。おっと仲居《なかい》さん。案内には及ばねえ」  連れと間違えて、案内に立つ女中の先を追い越して、武松は、とんとんとんと、表二階へかけあがって行った。  つき当りの大廊下から左の広間に、簾《れん》を透《とお》して、ひと組の客が見える。幾人もの歌妓《かぎ》、女中たちに囲まれて、客二人は上機嫌で、はしゃいでいた。 「居るな」  やにわに、武松はそこの簾《れん》を上げて、ぬっと顔を突き出した。  きゃっ——と妓《おんな》たちは散らかった。そのはずである。何か、血の滴《したた》りそうな丸い物を小脇に抱え、しかも、ふと振り向いた西門慶の眼とぶつかった彼の双眸《そうぼう》は、なんとも名状しがたい復讐の殺気に燃えていたのだ。 「やっ、武松だな」 「おお西門慶。ふふふふ、ひどい驚き方じゃねえか」 「こ、こんなところへ、なにしに来やがった」 「さすが胸に覚えのあることあ隠せねえ。なんてえざまだ、その顔色は」 「か……帰れ。……は、はなしがあるなら、ほかで聞いてやる」 「いや、ここがいい、てめえの好きな肴《さかな》を持って来てくれたんだ。それっ、この世の名残に会っておけ」  抱えていた包みの内から、潘金蓮《はんきんれん》の生首のもとどりをつかむやいな、西門慶の顔を目がけて抛《ほう》り投げた。 「——あっ」  首は西門慶の沈めた肩を越えて、思わざる彼の相手客の横に落ちた。  しかし、その客はもうとッくに自失して腰が抜けていた。女たちはすでに一人もいない。武松は薄刃《うすば》の短剣を抜いて、西門慶の前へ迫った。 「…………」  巨獣が闘いの全姿態を作るときのように、西門慶はジリジリと及び腰を上げかけている。金蓮の首を見ては、彼も今は、死か生かの、腹をすえたものに相違ない。  ガチャンと、すさまじい一音響とともに、彼の前にあった卓が、武松の方へ躍ッて仆れた。——彼の得意な足蹴の業《わざ》で、卓上の器や酒や肉片は、まるで一抹《まつ》の飛沫《しぶき》のように武松の姿をくるんで散った。  そして、その間髪に、逃げようとするのを追って、 「うぬっ」  武松の短剣が彼の脾腹《ひばら》を突き抜けていたかと見えた。  ところが、刹那は逆な危機に変った。身をひねった西門慶の片脚が、予測し得ぬほど長く伸びて、槍のように、武松の顎《あご》の下を一蹴したのである。ために、武松はふた足ほどよろめいたが、 「味な真似《まね》を」  とばかり、ふたたび三度、短剣の突きをくりかえした。しかし、室内ではあり、足元の悪さに、またしても西門慶の一蹴が成功して、彼の剣は蹴落され、剣は氷片《ひようへん》のごとく、欄《らん》を越えて、どこかへ素ッ飛んだ。  相手の素手《すで》を知ると、西門慶はもう武松を恐れなくなった。また、自己の足業《わざ》にも自信をもった。だが、これは彼の誤算である。むしろ武松にとっては、素手で組んだほうが始末がいい。いくら西門慶が死にもの狂いになッたところで、しょせん景陽岡《けいようこう》の虎ほどなことはない。当然その帰結は、そう長くもない格闘のすえ、勝負の上にあらわれた。——あッ、と天井のへんで西門慶の叫んだ一と声が彼のさいごであったのだ。  武松は、暴れ廻る相手の体を両手で高くさしあげていた。そして往来に面する欄《らん》から、 「えいっ、これでもか」  真下をのぞんで、抛《ほう》り投げた。  足を上に、あたまを下に、文字どおりな、真ッ逆さまが、西門慶の末期の相《すがた》だったのだ。——これなん、ひとつには怨霊《おんりよう》の報い、ふたつには人道のゆるさざるところ、三つには、いうまでもない武松の神力。——どっちにしても、魔園の美果を盗み食らった償《つぐな》いとして、彼のこの横死は、のがれようもないものだったといえようか。  武松はすぐ、金蓮の首をかかえて、おなじ欄から、往来へ跳び下りた。  見れば、西門慶の体は、頭から脳漿《のうしよう》を出して伸びている。彼は、短剣を拾って、慶《けい》の首を掻き、金蓮の首を併《あわ》せて、袖ぐるみに横へ持った。——そして往来の群集が、ワイワイと立ち騒ぐ中を、元の紫石街の方へ、風のごとく走り去った。 「……兄さん、どうかこれで成仏《じようぶつ》しておくんなさい」  あれから瞬時の後。  武松は、亡兄武大《ぶだ》の家へもどり、武大の霊前に、男女二つの首を供えて、滂沱《ぼうだ》とこぼれる涙も拭《ぬぐ》わず、位牌《いはい》へ向って言っていた。 「まるで夢のようだった。何から何まで、こいつアみんな約束事かもしれませんや。だがね、兄さん。かたきを取った今日限り、祭壇のおかざり物も、ここの家財も、一切きれいに片づけますよ。どうか兄さんの霊も、行く所へ行って、安らかに眠ってください」  それから彼はまた、従卒にいって、二階へ閉じこめておいた人々を下へ呼び降ろした。 「ご近所の衆、どうも、とんだご迷惑やら、暇つぶしをおかけして、申しわけございません。……ごらんの通り、骨肉の怨み是非なく、兄貴のかたきを討ちとりました。これから手前は、おかみへ自首して出ます所存」 「…………」  連中はただ生唾《なまつば》呑んで聞いているばかりだった。まるで地底のようである。 「ついては、ご近所の衆。兄貴の祭壇は、ただいま裏で一切焼き捨てさせますが、貧乏世帯ながら、この家の家財、ありとあらゆるがらくたまで、すべてはどうぞみなさんでお頒《わ》けなすっておくんなさい。もしまた、手前が自首した後で、みなさん方へ証人の呼び出しでもかかった場合は、どうかそんな雑費の足《た》し前にもなすって」  かくて武松は、わざと生かしておいた王婆を自分で引っ立てて、県の白洲《しらす》へ名のッて出た。  すでに町中は坩堝《るつぼ》のような騒ぎである。知県《ちけん》の役署でも、はや獅子橋畔《ししきようはん》の事件は知っていたし、刑事役人は、諸方へ飛んでいたことだから、手順、取調べなども、なに一つさし障《さわ》りはない。  第一日は、まず王婆が訊問された。  王婆の自白と“近所ノ衆ノ口書”とは、ぴったりしている。  これで一応、これはすむ。  第二日の呼び出しには、隠亡頭《おんぼうがしら》の何九叔《かきゆうしゆく》と、果物売りの哥《うんか》少年——それから以後、続々と、料亭の女中やら、西門慶《せいもんけい》の家族やら、また武大《ぶだ》の近所隣の顔やらが、入り代り立ち代り、白洲にみえた。  調書、物件、すべてが揃う。  それを見て、知事は密かに、 「惜しい男だのに。ああ、なんとかならんか」  と、考えた。  さきには、都に使いして、自分の依頼もよく果たしてくれた武松である。しかも兇行の因《もと》となった武大の死や、淫婦姦夫《かんぷ》の悪事は、すべて武松が旅の留守中に起ったものだ。 「調書の辞句によっては、上司の心証も大へんひびきが違ってくる。少々、上告の辞句を直してくれんか」  彼は、下部の吏員《りいん》へ、諮《はか》ってみた。  たれひとり異存はない。  期せずして、武松の上には、日ごろの同情があつまっていたのである。獄卒の端にいたるまでが、獄内の彼を遇するに「烈士《れつし》」としていたのでもよくわかる。  こうして、およそ一ヵ月余の後、 「武松、よくうけたまわれ」  知県《ちけん》は、彼を白洲へ曳き出して、調書一切を読み聞かせ、さらに次の通り言い渡した。 「人を殺せば、すなわち死罪。これはうごかし難い大法だ。しかも男女二人を殺《あや》め、その噂は、四隣の州にまでひろまっている。人心の影響もまた、少なしとせぬ。……よって、なんじの身柄と、証拠物件一切を差し添え、関係者すべての者も、東平府《とうへいふ》の奉行所へさしまわし、そちらで判決を仰ぐことに相成ろうぞ。左様、心得ませい」 「ありがとう存じまする」  唯々《いい》として、武松は獄へ下がってゆく。そして次の日には、重罪犯の檻車《かんしや》に載せられ、東平府へ送られて行った。  府の奉行所は県役署の上位にある。つまり裁判も管轄権《かんかつけん》も、奉行の職柄《しよくへい》にあるのだった。  その人は、陳文昭《ちんぶんしよう》といって、なかなかな人物だという市評がある。陽穀県《ようこくけん》から廻ってきた公文書を一瞥《いちべつ》すると、 「来たか」  と独りつぶやいた。  すでに彼も事件の全貌だの、武松のことは、聞きおよんでいたのである。 「武松の首枷《くびかせ》は、なるべく軽いのと取り換えてやれ。王婆の身は、提事司監《ていじしかん》にあずけ、死刑囚の牢獄へ下せ」  また、数日のうちに、 「亡き武大《ぶだ》の近隣の者どもや、何九叔《かきゆうしゆく》、哥《うんか》などは、その口書によって証言も明らかなことゆえ、めいめい自宅へ戻ってよろしい。……また西門慶《せいもんけい》の家族は、所内の揚屋《あがりや》へ拘置しておき、追っての、中央のご裁決を相待つように」  一々の処決、流れるが如くであった。  なお、奉行の陳文昭《ちんぶんしよう》は、そうした公的な半面、ひそかに人をやって、獄中の武松を宥《いた》わった。武松は義人である、その行為は、猛《もう》に過ぎて惨酷な犯行を敢てしたが、心情愛すべきところもある。——人にも洩らしたほどだった。  だから、彼が都の省院(司法省)へ差出した裁決を乞うための上申《じようしん》には、その同情と手加減が多分に籠《こ》められていたのはいうまでもない。  かつまた、中央には、文昭と仲のいい高官もいる。それへ私信を送られてもいたことだろう。やがて降された判決は、ほぼ彼の満足に近いもののようだった。 「みな揃ったか」  判決申し渡しの日。  白洲《しらす》は、武松、王婆、そのほかの関係者で、みちあふれた。 「何九叔、および果物売りの哥《うんか》」 「へえい」 「無罪であるぞ」 「ありがとう存じまする」 「ただし、後刻、説諭《せつゆ》申しつける。……また、近隣の者どもは、おとがめなし。……西門慶の家族らも、同様なれど、あるじ西門慶の生前の非道は人みな憎むところ。供養《くよう》など派手《はで》派手しくせず、追善の施行《せぎよう》に心がけたがよい」 「はい。慎《つつし》んできっと左様にいたしまする」 「まった、武松事《こと》は」  白洲じゅう、しいんとなった。 「——兄のかたきを報じたるものとはいえ、殺人の重罪はゆるしがたい。しかし、自身自首して出たかども神妙なうえに、近隣の輩《やから》、そのほかの証人、また全く縁故もなき陽穀《ようこく》県の一般市民よりも、あまたな助命の嘆願が、当奉行所や県城に聞えておる。よって、情状を酌《く》み、死一等を減じて、背打ち四十となし、刺青《いれずみ》を加え孟州《もうしゆう》二千里の外へ流罪といたすものである。……ありがたくおうけいたせ」 「はっ……」  武松が、首枷《くびかせ》の首を下げたとたんに、その隣の荒むしろに据《す》えられていた王婆が、身をのばして叫んだ。 「お、お奉行さん! ……わしも、うちへ戻っていいのかね。わしのことはまだ何もいわっしゃらぬが」 「だまれ。王婆は死罪申しつける」 「げっ、死、死罪だって」  わっと、婆は泣き仆れた。 「立て」  一同は退《さ》がる。  奉行も、王婆のわめき声をうしろに立つ。  翌日、王婆はふたたび、大牢からひきずり出され、木驢《きうま》というものに乗せられた。馬の恰好をした台である。それに縛《しば》りつけられ、四本の五寸釘で手足を打たれ、刑場まで、引き廻されて行くのであった。  それを曳き、それにつづく獄卒たちは、罪状書きの捨て札を先頭に弔《とむら》い花をかかげて行く。  また、やぶれ太鼓《だいこ》や、やぶれ銅鑼《どら》を打ち鳴らすので、町中の男女や子供がわいわいと寄りたかり、木驢《きうま》の上の罪人を目がけて、 「こんどの世には生れ変れ」 「人になるな、馬になれ」 「馬がいやなら豚になれ」 「豚になれなんだら、鼠《ねずみ》にしてもらえ」  と口々に謡《うた》って、小石をぶつける、わらじを投げつける。誰も止めようとはしないのである。  王婆は、竹矢来《たけやらい》の中でも、泣きどおしに泣いて斬られた——時刻もちょうどその頃であった。一方の武松は、奉行所の裏門外で、四十打《だ》の“青竹叩き”を背にうけていた。  しかし、刑吏や獄卒までも、彼にはひそかな好意をよせていたので、一つも皮肉を破るような烈しい打ち方はしていない。  が、刺青《いれずみ》だけは、庇《かば》いようもなかった。また薄鉄《うすがね》の首枷《くびかせ》も約束どおりに首の輪へ篏《は》め込まれる。 「じゃあ、出発するとしようか」  流謫《るたく》の公文を持った小役人二人が、これから遥か孟州《もうしゆう》の流刑地まで、彼を護送して行くことになる。  奉行所の門を離れると、武松の姿を待っていた人々が、道ばたに堵列《とれつ》していて、みな別れを惜しむふうだった。或る者は、彼に衣服や食物を贈り、或る者は道中の薬などを餞別《せんべつ》にくれた。特に武松が眼を熱くしたのに、例の“隣《となり》近所ノ衆”が見送りのうちに交《ま》じっていたことだった。それさえあるに、中の一人が出て来て、武松の手へ、 「どうか、これはあなたが、お旅先でお費《つか》いなされて下さいまし。とても私たちには、冥利《みようり》が悪くッて、お頒《わ》けいただくなんてことはできません」  とかなりな額の金を渡した。 「えっ? ……これはなんです」 「お兄さんの家と、悉皆《しつかい》の家財道具を売り払ったお金ですよ。あなたは、近所の者で頒《わ》けてくれと仰っしゃいましたけれど」 「だれも取ってくれないんですか。それじゃあ皆さんへ、ご迷惑のかけッ放しになってしまう」 「とんでもない。お科《とが》めなしの言い渡しだけで、みんなほっとしておりますよ。考えてみれば、私たちも、武大さんにとって、近所効《が》いがなかったというもんです。なんでその上、こんなお金をいただけましょう。どうかまあ、孟州の刑地でも、お体だけは大事になすって下さいまし」 牢城の管営《かんえい》父子、武松を獄の賓客《ひんかく》としてあがめる事  季節はもう六月の初夏だった。武松《ぶしよう》、つらつら思うに、ここ七、八十日は悪夢の如く過ぎていた。人生測《はか》りがたし。明日はどんな日が孟州《もうしゆう》の先に待つことか。 「都頭《ととう》さん。孟州までは二十日もかかる。途中、人里離れたら、なんでも気ままを言いなせえよ」  護送役の二人の小吏も、途々《みちみち》、武松を宥《いた》わって、苛烈《かれつ》な風《ふう》は少しもない。武松もまた、餞別物《せんべつもの》から持ち金まで、悉《ことごと》く頒《わ》けてやって、あくまで淡々たるものだった。  ただ、宿籠《はたご》宿籠やまた山中でも、酒屋の旗を見るともう目がない。——そしてすでに、あすあさってには、孟州に入ろうかという十字坡《じゆうじは》の嶺道《みねみち》で、ついその酒の誘惑から、危ない罠《わな》にかかッてしまった。  ここに一軒家の居酒屋がある。  もちろん峠を通る旅人だけが目あてのもの。 「ま。一杯やろう」  と、はや孟州もまぢかと見て、護送役の二人までが、気をゆるして、したたか飲《や》ったのが過ちの因《もと》だった。  酒には、麻睡薬《ますいやく》が混《ま》ぜてあったらしい。三名とも、蒟蒻《こんにやく》のように正体なく、よだれを垂らして伸びてしまった。  不覚だった。  この辺では、山猿のような童《わつぱ》までが唄に謡《うた》って、 十字坡《じゆうじは》の毒苺《どくいちご》は、蛇も食わないよ 苺酒《いちござけ》は人間の血 肉饅頭《まんじゆう》を割ると、亡霊の声がするよ  と、いっているほど、その峠《とうげ》酒屋とは、じつは隠れない追剥《おいは》ぎ渡世の夫婦者が、旅人をおびき込む悪の巣だったのである。  しかも、その兇行がまた残虐《ざんぎやく》だった。ひとたび毒酒に酔わされると、生きてその屋の軒を出た者はない。 「ホ、ホ、ホ、ホ。いくらでも、お後の客は絶えないもんだネ」  店の看板女房は、厚化粧して、緑紗《りよくしや》の袍衣《うわぎ》に、真紅《しんく》の裙《はかま》を着け、生《う》ブ毛の光る腕首には、黄金の腕輪を篏《は》めたりなどしているジプシーのような女だった。  女の異名は母夜叉《ぼやしや》、親の名は孫《そん》。  人呼んで、母夜叉の孫二娘《そんじじよう》という。  これの亭主は、菜園子《さいえんし》の張青《ちようせい》という者で、元、光明寺の畑番をしていた男だ。腕だけはすこぶる強い。  ところが、こういう悪業の成果も相手による。いつもそうそう巧くいくものではない。——武松のときが、その一例だ。武松は現につい先ごろ、兄の武大《ぶだ》が人に毒殺されていたので、 「はてな、この酒の味は?」  と、すぐ感づき、最初の一ト口から、女に内緒でべッと吐き出していたのである。——それから飲んだと見せたのも、ぐたと仆れて見せたのも、すべて彼のは偽態《ぎたい》だった。そして罠《わな》に陥《お》ちたのは、彼ではなくて、賊の母夜叉と張青夫婦の方だった。 「いざ、料理を」  と、母夜叉が、彼のそら死の体へ手を出したとき、武松はむくと起き上がって、女を取ッちめ、そこへ現われた張青も、難なく叩き伏せてしまった。そこで、鬼の夫婦が、泣いて懺悔《ざんげ》をするという場面になってしまった。  ここで。  この夫婦の口から、武松は、かの花和尚魯智深《かおしようろちしん》や、青面獣楊志《せいめんじゆうようし》らの消息を聞き知った。  すでに、花和尚の名は、五台山の大暴れから、都でも、大相国寺《だいそうこくじ》を震駭《しんがい》させて、天下にとどろいているほどなものだが、山中の夫婦者は、ついそれと知らずに、同じ手でこの旅僧を眠らせようと仕《し》かかったものらしい。たちまち、看破されて、その花和尚からも、こッぴどい目に会わされたあげく、やっと命だけは助けてもらったので——という懺悔《ざんげ》ばなしなのだった。 「いやはや、どうも」  張青は、頭を掻いた。 「それにも懲《こ》りず、またぞろ、人もあろうに、虎退治をなすった有名な都頭《ととう》武松さんとも知らず、とんでもねえ烏滸《おこ》な真似《まね》をいたしやした。どうか、お見のがしなすっておくんなさい。その代りにゃ、どんなおいいつけでも、いやとは申しません」 「よし、助けてやる。だが、おれを護送して来た小役人ふたりは、毒酒に中《あ》てられて眠ってらあ。早く、あいつらの手当をしろ」 「でも、あの二人は、あのまま逝《ゆ》かせてしまったほうがいいンじゃありませんかえ。都頭さんのお身にとっては」 「どうして」 「噂には、いまお話しした花和尚魯智深《ろちしん》は、その後、二龍山の宝珠寺《ほうじゆじ》に居坐って、もう一人の青面獣楊志《ようし》といっしょに、でんと大きく山寨構《さんさいがま》えをしているそうです……。なにも、これから都頭さんも、孟州の刑地へなんぞへ、神妙に曳かれて行くにゃ当らねえじゃございませんか。もし、お気持ちがあるなら、手前が二龍山へご案内してまいりますが」 「いや、そんなケチな真似《まね》はしたくねえ。おれが逃げたら、おれによくしてくれた東平府《とうへいふ》の奉行陳文昭《ちんぶんしよう》さまの落度になる。それにあの小役人ふたりも、途中なに一つ、おれには辛くしなかった。はやく毒消シでも服《の》ませて、息を吹ッ甦《かえ》させてやれよ」  母夜叉も張青も、彼のさっぱりした気性には感に打たれた。さっそく介抱して、二人を蘇生させ、翌日は、詫びの一宴《えん》を張って、心から謝し、なお後日の義を約して、夫婦、孟州大街の入口まで送って来た。  鬼の眼にも涙。いざ別れとなるや、張青夫婦は、 「……お大事に、どうか都頭さん、郷《ごう》に入っては郷に従え。巧く、刑をおすましなすって」  と、涙さえ浮かべていた。  州尹《しゆういん》(州の長官)の公署に着くと、護送役人は、ただちに彼の身柄に、東平府の文書を付けて、 「おうけとりの公文をいただいたら、すぐ立ち帰りたく存じます」  と手続きを運んだ。  州尹は、一瞥《いちべつ》して、 「武松は、牢城の獄へ廻せ。——東平府の使いは大儀であった。帰府してよろしい」  と、幾通もの文書へ、ベタベタ判を捺《お》して下僚《かりよう》へ手渡した。  すでに“牢城”とは、名からして恐ろしい。まさに煉獄《れんごく》の城である。  いったい、世には、こんな巨大な獄房の数を必要とするほど、悪人が多いのだろうか。——だが、武松の眼で見ると、監房《かんぼう》の中にウヨウヨしている顔よりも、警棒や鎖《くさり》を鳴らして、監外《かんがい》を威張ッて歩いている顔のほうが、どう見ても“善”でなく“悪”の徽章《きしよう》に見えてしかたがない。 「おい、新入り。おめえ、金を持って来たかい。ここは世間以上、金がものをいう地獄だぜ」 「金。……金なんぞ、一文も持たねえよ。牢内には、酒屋もあるめえ」 「だって、まず初手《しよて》からして、差撥《さはつ》(獄吏《ごくり》)や監察《かんさつ》に、ごあいさつの銀子《ぎんす》をお供えしねえと、これだぜ」 「これたあ、なんだい」 「お約束の殺威棒《さついぼう》で、百打《だ》の叩きを食らうのさ。まともに食ったら、血の泡を口から吹くンだ」 「ふうむ。それで新入りの者の、土性ッ骨を脱《ぬ》こうてんだな。ま、いいようにやってくれ」 「冗談じゃねえよ、新入り、気はたしかかい」 「気はたしかだが、生れつき、ちっとばかり臍《へそ》が曲がって付いてるんだ。こいつあ、母親《おふくろ》のせいだから仕方がねえや」 「片意地を言いなさんなよ。……あれあれ、差撥《さはつ》がやって来たぜ。みんな、静かにしろよ」  彼らは靴音に敏感だった。獄中は薄暗くシーンとなる。鉄錠《てつじよう》の音が、不気味を誘う。 「陽穀《ようこく》県の前都頭《ととう》——武松と申すやつはその方か。こっちへ出ろ。ついて来い」  点視庁の広場には、管営《かんえい》(牢獄の長官)以下の軍卒十名ほどが、待っていた。  管営は、部下に命じた。 「罪人の首枷《くびかせ》を外《はず》せ」——そしてまた言った。ひきすえた武松の上に向ってである。 「——太祖《たいそ》武徳皇帝いらい、定めおかれた刑法の一として、牢城初入りの流人《るにん》には、一百打《だ》の殺威棒をくだす掟《おきて》だぞ。——それっ者ども、叩きのめせ」 「あ。どうなさるんで」 「ジタバタいたすな」 「騒々しいのはそっちだろう。おれはピクともしてはいない。だのになんで、両手をつかまえ、おれの周《まわ》りを取り囲むのか」 「悲鳴をあげて狂うからだ。どんな奴でも十打《だ》、二十打《だ》と食えば、暴れ廻って打ちすえ難《にく》い」 「はははは。撲る方から先に要心してやがる。そんなンじゃねえや。おい、屁《へ》ッぴり腰はみッともねえぜ。しっかりやんな」 「こいつが」  棍棒を振りかぶッた軍卒二人が左右から迫って、交互に、あわや一百棒をかぞえだそうとした。  すると急に、なに思ったか管営が「待て!」と止めた。その側にいた一人の若い男が、管営の耳もとへ何か囁《ささや》いて、制止させたものらしい。  それは二十四、五歳の白皙紅唇《はくせきこうしん》の若者だった。細い美しい髭《ひげ》を生《は》やし、その髭を唐風《からふう》でなく、北欧人のように上へピンと刎《は》ねあげている。身装《みなり》は黒紗《くろしや》の袍衣《うわぎ》に白絹の帯を横結びに垂れ、そして、頭にも手頸《くび》にも白い繃帯《ほうたい》をまいていた。  管営はその若者から、なにかもいちど、囁きを耳にうけると、 「百棒は中止せい。いずれまた、武松の体が癒《なお》ってから申しつける。——それまでは独房へ抛《ほう》り込んでおけ」  と、軍卒に命じたまま、すぐそこを立ち去りそうにした。 「なにいってやがる」武松は叫んだ。「おれは病気でも何でもねえぜ。なぜやめるんだよ、おい」 「だまれ。上司から来た調書によれば、元来汝には、時折り狂癲《きようてん》の発作《ほつさ》があるよしが認《したた》めてある。狂気を打ちすえても、御法の殺威棒の主意にかなわん。正気の折に打ってくれよう」  言い捨てると、側の異彩な若者もともに、さっさと彼方へ行ってしまった。  むしろ、ぽかんとしたのは武松である。そして獄卒に曳かれて、以前の石壁《いしかべ》隧道《トンネル》の監房前を通りかかると、 「おや、あの野郎、平チャラな面《つら》して帰って来たぜ」 「おい、どうしたい新入り」  などと同囚の仲間が寄りたかって彼に委細を訊きただした。そしてわけを聞き知ると、妙にみんなチーンと沈んで、武松の姿を、影の薄い人間みたいに憐《あわ》れがッた。 「……じゃあなにかい。おめえはここの管営さん宛に、誰か偉い人の添え状を貰って来たわけでもないんだね」 「むむ、そんな物あ貰ってねえよ」 「そしてまた、差撥《さはつ》にも監察《かんさつ》にも、そっと、袖の下ッていうこともしなかったんだろ」 「知れたこッた。嫌えだよ、そんなことあ」 「やれやれ、それじゃあ、いよいよ晩にゃ、白飯《しろめし》のご馳走に決まったね」 「なんだい、白飯の馳走たあ?」 「仏さまのお好きな物だ。そいつをお椀《わん》に山盛り一杯ゴチになって、あとは土牢行きの逆さ吊《づ》りで、あしたの朝は、土の中で蟻《あり》と仲よしになるんだよ」 「縁喜《えんぎ》でもねえ」  武松は苦笑した。 「ヘンなことを皆して言やがる。ははン、それで俺一人は今夜から独房入りか?」  しかし独房遠くひとり隔離されてみると、武松にしてもいい気持ちはしなかった。  果たして夜に入ると、べつな老軍卒が、獄に似合わぬご馳走を差入れてきた。それは一椀の白飯などではない。煎肉《いりにく》、うどん、汁、酒までが付いている。 「おいでなすったぜ。ままよ、飲《や》っちまえ」  満腹するなり、あとは高鼾《たかいびき》の彼だった。  翌朝の食事もまたすばらしい。 「酒はねえが、果物まで付いてやがる。ふふふふ、こうなると、この世に妄念《もうねん》が多くなるな」  いや晩にはまた、前夜にまさる調理の品の数々だった。しかも酒は上酒。鯉の飴煮《あめに》などの美味《う ま》さといったら堪らない。  こんな待遇が七日もつづいた。 「はて? いったい俺を、どうする気なんだろう?」  すると、いつも一人で来る老軍卒が、その晩は、もひとり兵隊をつれて来た。大盥《おおだらい》を抱えて来て、湯を運び「入浴しろ」とすすめるのである。あげくに理髪師がやって来て、きれいに結髪《けつぱつ》し、肌着、袍衣《うわぎ》まですっかり新調の物とかえて行った。いよいよ彼にはわけが分らない。 「武松都頭《ととう》。そこを出て、どうぞこっちへ移って下さい」  翌朝のこと。  例の老軍卒が彼をみちびいて、監房隧道《トンネル》から、陽の目のある階段を先に登って行った。いよいよ土牢行きかな? 思っていると、さにあらず、清洒《せいしや》な一屋《おく》の明るい部屋だ。見れば調度の品やきれいな寝台まで供えてある。  昼飯には、丸焼の鶏一羽、野菜の煮合せ、白い麭《パン》、汁《スープ》、それにしかも葡萄《ぶどう》の酒。 「ああ腹がくちくなった」  何気なく扉《と》を押してみると、錠《じよう》もおろしてない。そこで武松は一ト散歩を思い立ち、獄営の広い牧場ほどな所を、あっちこっち歩き廻った。  真夏の入道雲の下には、蟻地獄《ありじごく》のような囚人の群れが、腰鎖《こしぐさり》のまま、気息奄々《えんえん》と働いていた。  なにしろ、六月末のカンカン照りだ。囚人たちには汗をふく木蔭もない。鍬《くわ》の下から火が燃え、担《かつ》ぐ石材は熱鉄の焔《ほむら》を立て、汲《く》む水も湯のような焦熱《しようねつ》の刑場だった。 「おい、みんな」  ぶらと、武松は来て、暢気《のんき》そうに、手をうしろに組んで話しかけた。 「なんだって、昼寝もしねえで、こんな炎天に働いているのよ」 「え。昼寝だと」  囚人たちの半分は笑いだし、あとの半分は、糞《くそ》ッ腹を立てたらしく、中の一人がこういった。 「何ってやンでい。どこの米の虫か知らねえが、後生楽《ごしようらく》な音《ね》を吹きやがって、おらたちの身になってみろい。でもナ、ここは終身牢や死刑牢とは違うから、こんな日向《ひなた》はまだ、この世の極楽だと思って、苦役の汗をしぼッてるんだ。世間並みに見やがっておつりきなことを吐《ぬ》かしゃあがると、向う脛《ずね》を掻ッ払うぞ」  武松は、彼らの語気に、はッと気づいた。「——そうだっけ。おれもその囚人の一人だったのだ」と、何かに追っかけられたように、もとの家屋の内へ駆けこんでいた。そして奇妙な部屋の中で「……はあて? 一体おれはなんだろう?」と独り物思いに、鬱《ふさ》いでしまった。  或る晩。そして、いつもの如く。  美食と酒に倦《う》んで、寝台にゴロとしていると、例の老軍卒が、旅館《ホテル》の小僕《ボーイ》のように、おきまりの食器のとり片づけに入ってきた。 「今夜こそは」  と武松はまた、彼をつかまえて、なぜこんな破格な待遇をするのかと、彼にたずねた。 「どうも弱りますナ、都頭さん」  老軍卒は、その主人から、かたく口止めされていたらしい。しかし、武松の執拗《しつよう》な詰問に、ついにその晩は口を割った。 「じつはその……なンです……若殿のご命令では、三月か半年、時いたるまでは、わが名を明かしてはならんといわれておったんですが」 「と聞くと、なお訊きてえや。若殿とは、いったい誰ですえ?」 「いつぞや点視庁《てんしちよう》の広場で、あなたの一百棒を中止させた管営《かんえい》様のご子息ですよ」 「じゃあ、あの時、管営のそばにいた、手や頭に繃帯《ほうたい》していた美男子だね」 「左様で……。無類に剣術がお達者なので、人呼んで金眼彪《きんがんひよう》と綽名《あだな》され、ご本名を施恩《しおん》さまと仰っしゃいますんで」 「ふウむ。にらんだとおりな好漢《おとこ》だったか。だが、その若殿の施恩さんが、なんだってまた、縁もねえ一介の懲役人《ちようえきにん》に、こんな思いもよらねえご好意を見せなさるんだろ」 「さあそのお胸は、手前どもには」 「なんの、知っているに違げえねえ。さ、ここまで話しといて後はいわねえなンて法はねえ」  すると、思わぬ方の声であった。扉《と》を排《はい》して、颯《さつ》と入って来た人がある。 「いや、そのわけは、この施恩からじかにお話しいたしましょう」 「や! あなたは」  武松は寝台から立つ。——老軍卒はあわてて食器箱を提《さ》げて立ち去って行く。 「都頭。いつぞやは、どうも」 「こちらこそ。あなたが金眼彪施恩《きんがんひようしおん》さんか」 「そうです。つまらん疑念をおかけしたようで申しわけない」 「それどころか、過分な恩恵。ただ気にすまないのは、その理由が分らねえからですよ。なんのご縁もねえこの武松に」 「いや、お名はとうに存じている。また失礼だが、お人柄もこの眼で先日しかと見とどけました。そこで父の管営《かんえい》に耳打ちして、百棒も止め、そしてご休養を摂《と》るため、いささかご起居や食事にも注意を与えおいた次第です」 「ご監下《かんか》の受刑者に、休養はちとおかしいじゃございませんか。なにか他に、おめあてがあるんでござんしょう」 「じつは大いに、あなたへお願いがあるのです。あなたならではの切なるお願いの儀が」 「いったいなんです。仰っしゃってみて下さい」 「ただいま、父も連れて来て、あらためて、三拝の上、お願いすることにいたしますから」 「そんなお堅い礼儀にゃ及びません。手前、まどろッこいことア大嫌いです。手っとり早いとこ、こうだと打ち割っておくんなさい」 「では、お聞きくださいますか」  施恩は語り出した。要を得て、語るところも明晰《めいせき》だった。  ——孟州大街の東門外に、俗称、快活林《かいかつりん》という盛り場がある。  山東《さんとう》、河北《かほく》の旅商人が取引にあつまる市場、駅路《うまやじ》に隣接しているので、俗に、妓家《ぎか》千軒、旅籠《はたご》百軒といわれ、両替屋《りようがえや》だけでさえ二、三十軒もかぞえられる。  もちろん、ばくち場は旺《さかん》だ。  大小の顔役が、それぞれ縄張《なわばり》を持ち、乾分《こぶん》を養い、旅烏の客をつかまえて、好餌《こうじ》としているが、その中で、管営《かんえい》の若殿金眼彪《きんがんひよう》の施恩《しおん》も、一ト縄張の株を持っていた。  その株というのは、酒と肉を売る大きな店で、盛り場のまッただ中。——一には父の背景、二には彼自身の剣の腕前、三には獄営内から引っこ抜いた気の利《き》く乾分《こぶん》七、八十人。それらの条件にものをいわせて、花街一帯から、宿屋、ばくち場、両替屋出入りの客などをお花客《とくい》にして、大きな商賈《しようこ》となっているうえ、渡り職人や、旅稼《たびかせ》ぎの女芸人にいたるまで、他国《よ そ》者《もの》が入市するには、ぜひとも、 (ここで幾月稼がせていただきます)  と、施恩の店へあいさつに出て、つけとどけをしなければ土地で働けないような仕組みになっていた。  で、その収入《みいり》は莫大なもの。少ない月でも、銀子《ぎんす》で二、三百両のあがりは欠かさない。 「はははは、そいつあちっと、良すぎますなあ」  武松は聞いてるうちに笑いだした。  しかし、施恩は、雑談も交《ま》じえず「あなたを見込んでの、事情というのは、これからで」と、いよいよもって、熱語をつづける。  流刑地のつねとして、この孟州にも、強力な一師団の兵営がある。  近ごろその軍団長の張《ちよう》という将軍が、東《とうろ》州から赴任してきた。さらに、その張将軍が腰巾着《こしぎんちやく》として連れて来た男もある。  それが、あだなを蒋門神《しようもんしん》という稀代《きたい》なのっぽで、身の丈《たけ》九尺余り、槍も棒も、拳《けん》も脚もきくという凄者《すごもの》。なかんずく、角力《すもう》の上手で、本場所の泰山《たいざん》でさえ、三年間も勝ちつづけたという剛の者とあって、さあ、孟州大街でも、俄然《がぜん》、羽ブリはきかせるし、手もつけられない。 「……残念ですが」  施恩はここまで語ってくると、まだ繃帯《ほうたい》のとれないでいる額《ひたい》を抑えた。 「その蒋門神の奴に、私の縄張も店もすっかり奪《と》られてしまったのです。元よりただは渡しません。こっちも対抗しましたが、奴に立ち対《むか》われては当る者なく、私もまたこの通り、みじめな傷手《いたで》を受けてしまい、どうにも無念ですが、正直いって歯が立ちませぬ。そのうえ彼奴《きやつ》には、張《ちよう》軍団長という睨みが背後にきいているしで……」 「いや分りました。おたのみの主旨は。——だけどまた、なんだって、張とかいう軍人野郎が、そんな野放図もねえ暴れン坊の贔屓《ひいき》をしているんでしょうな」 「それはもとより金の欲です。なにしろ月々二、三百両の銀子《ぎんす》が上がる店ですから」 「そうか。まず、あらまし心得ました。ご安心なせえといっておきましょう。由来、この武松の性分として、軍権をカサにきる似非《え せ》軍人、なんでも腕ずく力ずくで非道を押ッ通そうとする手輩《てあい》、そんな奴を見ると、ぐっと虫が癇《かん》をおこしてきて堪《たま》らなくなる」 「じゃあ、一臂《ぴ》のお力を」 「貸すも貸さねえもありゃしません。蒋門神《しようもんしん》とかいう獣《けだもの》、我慢はならねえ」  そこへ、施恩《しおん》の父の管営《かんえい》も入って来て、ともども、武松の義気に訴え、管営みずからこういった。 「伜《せがれ》も不肖《ふしよう》な者ですが、しかし金ほしさだけで、やった仕事ではありません。孟州大街には、諸州の雑多な人物も集まるので、有為《ゆうい》な男とみたら扶《たす》け、かたがた、豪侠の気風を、この地に興《おこ》さんなどの望みもあったわけなのでした。——しかるに、蒋門神のため、その素地《したじ》を蹂躪《じゆうりん》され、しかも軍権力もあるため、無念をのんでいた折です。そこへはからず高名な足下《そつか》をここに見いだして、まさに雲を撥《はら》ッて陽を見るの思いです。……どうか、長く伜をお見すてなく、弟とも思って、お叱りねがいまする」 「と、とんでもねえ。冥加《みようが》にあまる」  武松は、低く、末座に退《さ》がって起たなかった。 「いやいや、そうでない。男は男の真価のみ、管営の若殿などと呼ばれても、施恩はまだ、しょせん、足下の片腕にも及ばん者です」 「そうです、父のいう通りです。武松どの、あなたはどうあれ、私は以後、あなたを義の兄と立ててゆきます」  施恩は、武松にむかって四拝の礼をとった。武松もおなじく礼にこたえないわけにはゆかない。  翌晩、父子はあらためて、武松をべつな館に招《しよう》じた。そして夜すがらの饗宴と歓談に更《ふ》かした。武松は、久しぶりに闊然《かつぜん》たる胸をひらいて、愉快でたまらず、大酔して蹣跚《まんさん》とした足もとを、やがて召使の手に扶《たす》けられながら、外へ出て、 「ああ、秋が近いな、銀河が見える」  やっと、自室へよろめき込み、横たわるやいな、前後不覚なていだった。 蒋門神《しようもんしん》を四ツ這《ばい》にさせて、武松、大杯の名月を飲みほす事  あくる日、武松は若殿の施恩《しおん》とともに、さっそく孟州東門外へ出かけて行った。  が、たぶんに二日酔の気味である。途々《みちみち》小酒屋の旗を見かけると、 「ちょっと、ゆうべの迎え酒に一ト口」  と立ち寄り、また少し行っては、 「どうもいけねえ。なんだか半ちくな気分でぱっと来ねえや。もう一杯」  と、施恩やその家来下男を、外に待たせておいては、幾度となく、朝酒をひッかけ、ひッかけ、炎天を歩いた。そしてやがて午頃《ひるごろ》、孟州大街の市《いち》の人声や蝉《せみ》の声が一つにわんわん沸《わ》いている城外の辻へかかって来た。 「や、あんな所に、蒋門神の野郎が涼んでいますぜ」 「ど、どれ、どこに?」 「往来から引っ込んだ広場の柳の蔭に」 「あいつか。そして野郎が亭主になっている飲屋の店はどこなんだ?」 「あの広場の道を斜《はす》かいに抜けた所の大通りの角店《かどみせ》ですが」 「わかった。みんなは遠くに散らかって隠れていろ」  武松はただ一人となって、わざと男の休んでいる柳並木の前を通った。じろとこっちが横目で見流すと、蒋門神《しようもんしん》も半眼で武松を見ぬ振りで見ている風だ。  なるほど恐ろしい長身《のつぽ》である。椅子《いす》に掛けて突ン出しているその両脚は人の二倍もありそうだ。面も馬面《うまづら》であり、紫ばンだ疣々《いぼいぼ》だらけな皮膚に黄色いヒゲが唇の辺を巻いている。——手には蠅払《はえはら》いの払子《ほつす》、上衣《うわぎ》も下も白麻ずくめ。何とも、底気味わるい薄眼の眼光が、武松の踵《かかと》を見送ってから、また半眠りの態《てい》に返った様子である。  こっちは武松。大通りでも一番の角店で、ひと目にもわかる繁昌らしい大酒屋へ、ずっと入って、腰かける。  午《ひる》なのでまだ客も少ない。武松は酒板に頬杖ついて、 「おいおい。兄《あ》ンちゃん。早く持って来ねえかよ早く」 「ほい」と若い給仕人が素ッ飛んで来て「何か、ご註文をうかがッてましたか」 「べら棒め。うかがわなくっても、飲屋へ入って来た客なら、酒にきまってら」 「あいすみません」すぐさま二角入りの碗《わん》になみなみと注《つ》いで来て「へい、お待ちどおさま」  武松は、ちょっと、鼻をやってみただけだった。 「おい。とり代えて来な、こんなもなあ、酒じゃあねえ」 「いけませんか」  給仕人は、上酒の甕《かめ》から、べつなのを汲んで来て、武松の鼻っ先においた。 「ぶッ……」  と、一ト口、霧に吹いて、武松は呶鳴《どな》った。 「孟州一番の酒場だなンてえ評判は嘘ッ八だな。もういちど、取り代えて来い」  すると、奥の帳場内《ちようばうち》からこっちを睨みながら、その給仕人を呼んだ女がある。肉づきのいい雪膚《せつぷ》の腕《かいな》もあらわにむき出した羅衣軽裳《らいけいしよう》の若い女将《おかみ》で、柘榴《ざくろ》色の唇をキュッとゆがめ、金蛇《きんだ》の腕環《うでわ》のみえる手を頬の辺りにやって、さっきから虫を抑えていた風だった。 「ちッ、小癪《こしやく》だね。だがまあ、もう一ぺん代えておやりよ。それでもゴネたら、私がつまみ出してやるから」  ところが武松。三度目の酒は、ぐうっと一ト息にほして、 「すこし、いける。おい、もう一つ」 「こんどはお気にめしましたか」 「だまって持って来い。こう、すぐおあとだよ。それから、女将《おかみ》にここへ来て、お愛相《あいそ》でもしねえかといってやれ」 「そんなことあ、いえません」 「なぜいえねえ」 「ただの酒場や料理屋とは違います。おかみさんは、蒋門神親分のお持ち物でございますからね」 「だからよ……蒋門神を呼びにやるより、そこのすべたを泣かした方が、野郎をここへ素ッ飛ばせて来る早道だろうじゃあねえか」  聞くと、帳場の女は、横の肉切り台に向って包丁《ほうちよう》をうごかしていた数名の料理人に向って、女将軍のように、往来を指さして叫んだ。 「おまえたち、あのゲジゲジを外へ、抓《つま》み出しておしまい!」  しかし、ことばも終らぬまに、武松の体は前の酒板を躍り越えていた。そして女の金蛇《きんだ》の腕環《うでわ》を取って、そこからつかみ出すやいな、土間の一隅に埋《い》けてあった三箇の大きな酒甕《さけがめ》のうちの一つへ、女将《おかみ》の体を逆《さか》しまに放《ほう》り込んでしまった。  わっと一面な酒《さか》飛沫《しぶき》。それとともに、渦《うず》となッた乱闘の下から、肉切り包丁やら手玉に取られた人間が三つも四つも往来へすッ飛んで行った。つづいて武松も、すばやく往来へ出て突ッ立っている。いやその前には、すでに急を知って飛んで来た蒋門神《しようもんしん》が仁王立ちとなり、武松をにらまえて眉に憤怒の炎《ほのお》を立てていた。  蒋門神と武松との素手の格闘は、しばし辻の群集を沸きたたせた。  武松も巨漢だが、蒋門神の長身には、顎《あご》の下にもとどかない。しかし、蒋はこのところ、女色と酒にすさみきり、相手が相手だったせいもあろうが、たちまち脾腹《ひばら》に雷霆《らいてい》の一拳《けん》は食うし、額《ひたい》にも一蹴《しゆう》をうけてよろめき、見かけほどもなく、その精彩を欠いていた。  もっとも武松の拳法《けんぽう》“玉環《たまめぐり》”の一手や、“龍髯打雲《りゆうぜんだうん》”とか“水斬《すいざん》”の術などは、景陽岡《けいようこう》の猛虎ですら、眼を眩《まわ》したほどなもの。いかに蒋門神でも、しょせんは及ばなかったにちがいない。やがてはくたんくたんにたたまれて、呼吸《い き》もありやなし、地面にへいつくばッていた。 「おい、どうした。青大将」 「お、おそれいりました」 「ただ恐れ入るじゃあ、勘弁できねえ。おれのいう三箇条《かじよう》を呑むなら、命だけは助けてやらあ。どうだ?」 「おっしゃっておくんなさい」 「第一は、即刻、ここの店を、元の持主の施恩《しおん》へそっくり返上いたすことだ」 「わかりました」 「第二は、盛り場の顔役全部をここに集め、大衆の前で、地にひたえをスリつけ詫《わ》びをいえ」 「おっしゃる通りにいたします」 「次には、即刻ここを立退いて、二度と孟州の盛り場に面《つら》を出すな。見つけたがさいご、その馬面《うまづら》を引ン捻《ね》じるぞ」 「へい。異存はございません」 「よし、そのままでいろ。すぐ段取りをつけてやる」  武松が手をあげて呼ぶと、物蔭にいた施恩以下の主従が、ぞろっと前へ押出してきた。  附近の顔役といえば、これは呼ぶまでもなく、騒ぎと同時に群集の中へ来ていた。すでに誰いうとなく「あれは虎退治の武松だ」「陽穀《ようこく》県で兄のあだ西門慶《せいもんけい》をころして流されてきた武都頭《ぶととう》だ」との囁《ささや》きが流れていたので、たれひとり彼の前に来て慴伏《しようふく》しない者はない。 「ご見物のお立会、どうぞ証人となって、よくよくこのざまにお目とめておくんなさい。今日以後、非道な青大将はこの快活林《かいかつりん》の盛り場からつまみ出し、以前通り管営《かんえい》殿の若さん金眼彪《きんがんひよう》の施恩《しおん》がここのお店と、界隈《かいわい》の縄張りとを締めくくることになりました。……さあ、青大将、三べんお辞儀をして、とッとと何処へでも消え失せろ」  なにしろ盛り場の真昼である。物見高い上のこの騒ぎ。埃《ほこ》りの上にはどっと見物人の笑い声やら雑言が旋風《つむじ》を描いた。  このことあって以来、快活林第一の酒舗《しゆほ》といわれる角店は、また一倍の大繁昌を呼び直した。施恩が主《あるじ》に坐ったのはいうまでもなく、父の管営も、ときどき騎馬で景気を見にやってくる。——附近の宿屋、両替屋、ばくち場、旅芸人などからのツケ届けも以前にも増す景況だった。 「都頭《ととう》。このご恩は決して忘れるこっちゃございません。どうか、あなたも月の内半分は、ここにいて自由に何でも好きにして、お暮しなすって下さいまし」  施恩は言った。  世辞ではない。父は牢城の管営という要職にある。武松の労役は、その職権と金の力で、どうにでもさせようという意味だ。  それに負《お》ぶさる気もないが、酒は飯より好きな武松である。それに身《み》ままも出来るとあっては、ついここへ入り浸《びた》りの恰好となったのもむりはない。  いつか、風も秋めき、酒の味も、いちばん美味《う ま》くなってきた一日《あるひ》のこと。 「こちらに、虎退治の武《ぶ》都頭がおいでなさいますか」  と、見事な鞍をおいた黒鹿毛《くろかげ》を一頭曳いて、二人の兵が訪ねてきた。  モールで縁《ふち》を繍《と》った草色の制服は総督府《そうとくふ》の従兵と一ト目でわかる。施恩が出て用向きを聞いてみると、 「わが張《ちよう》総督が、一度、都頭の男振りを見たいとの仰せです。即ちお召状はこれに」  と、一通の書面を差出した。裏面には、  孟州守備軍総督、張蒙方《ちようもうほう》  という大きな角印。  施恩は、裏の小園に榻《とう》を持ち出して昼寝していた武松をゆり起して、書面を見せ、 「どうします? 使いが待っているんですが」 「総督ってえと、お父さんの上役ですね」 「父はまあ、文官ですが、牢城監視《かんし》隊の張軍団長には、直接の上官です」 「何だか知らねえが、こち徒《と》は元々裸の流人《るにん》だ。万一管営の落度ッてなことにでもなるといけませんから、ちょっくら顔出しのつもりで行って来ましょうや」  武松は昼寝の顔を洗ってすぐ気軽に、迎えの馬に乗った。張総督邸は城内小高い風致《ふうち》のいい丘にある。  広壮な一閣のうちで、総督は彼を待ち、かつねんごろに、こういった。 「武《ぶ》都頭の名は、わが輩《はい》、かねてから聞いておった。お互いは軍人、士は士を知るというものだぞ。どうだ再び軍に返るつもりで、わが輩の身辺に仕えてみんか」  これには武松もつい乗ってしまった。悪かろうはずはない。こっちは服役中の囚人の身だ。それに管営の方へも施恩《しおん》の店へも、いいように言っておいてやる、このままいろ、といわれたのである。ここらが身の堅《かた》めどきか、そんな考えもふとわいて、 「冥利《みようり》です。犬馬の労もいといません。どうか真面目に一人立ちのできますよう、おひきたて願いまする」  と、答えたのだった。  武松には、一つの小部屋が与えられた。私邸の奥と、総督の公式の座との中間にあり、なにくれとなく、 「武松、武松」  と呼ばれて、新参者には過ぎたほどな、朝夕の寵愛ぶりだ。  本来は彼、ここらで、はてなと思いそうなものだったが、根が情にもろく、人の愛に渇《かわ》いていた人間なのである。真底《しんそこ》、居どころを得たかのごとく、そして真人間に返らんものと、総督の靴を磨く仕事一つにも真心の光をみせていた武松であった。  早くも秋は、仲秋の一夜となった。  その夜、鴛鴦楼《えんおうろう》の台《うてな》には、仲秋の宴があった。ここのみならず、孟州の城内外の灯も、地の星と眺められる。 「武松、そちは酒好きと聞いていたが、さっぱり飲まんじゃないか。こっちへ進め」 「はっ」 「なぜ、そう固くばかりなる?」 「ご夫人から、ご一族、将校がた、歴々たる大勢さまの席などでは」 「はははは。豪傑にも似合わん卑下《ひげ》を。……これ武松、わしはそちを、一箇の義士として、世話しているつもりだ。わからんか、この情けが」 「閣下……」武松はひざまずいて、声をうるませた。キラと顔の下から月光が涙を見せた。 「ありがとうございます。おことば、身に沁《し》みまして」 「なにをメソメソ。さあ飲め」 「いただきまする」 「玉蘭《ぎよくらん》、酌《つ》いでやれ。いやいや、大丈夫たる者に、そんな小さい杯はいかん。大きいので酌《つ》いでやれ」  侍女の玉蘭が、瓶《へい》を持って側へ寄って来た。  武松は久しぶりに、それを一ト息で飲んだ。 「見事、見事」と、辺りで称《たた》える。さらに二杯三杯、眼をつむりながら、月を吸うごとく立てつづけに傾けた。 「さあ面白くなったぞ。玉蘭、ひとつおまえの故郷《く に》の歌謡《かよう》でも舞うて見せんか」  この玉蘭とは、おそらくは閣下ご秘蔵のお小間使をかねた愛妾にちがいあるまい。 「はい」  といって、すぐ月の楼台《うてな》の中央に立った。  襞《ひだ》のある桃色の裳袴《もばかま》には銀モールの縁繍《ふちぬ》いが取ってあり、耳環《みみわ》の翡翠《ひすい》はともかく、首飾りの紅玉《こうぎよく》やら金腕環《きんうでわ》など、どこか中央亜細亜《アジア》の輸入風俗の香がつよい。いや女の白い皮膚とか眸など、はるか西域《せいいき》を越えて買われて来た白色人系らしい女奴隷《めどれい》の血がはっきりしていた。  しかし、やがて彼女が歌い出したのは、やはりこの国の詩人蘇東坡《そとうば》の一詩を俗歌とした一トふしで、 君、いつの世よりか、世にありと 酒まいらせて み空に、問わん 玉のみや居に、玉のきぬ 高きあたりは寒からん 君、いくとせにましますか そのかんばせに 老いを見るなく たち舞えば、いつも若やぐ雲の裳《も》の 人の世の君とは 似つも、似ざりけり  彼女の歌と踊りにつれて、彼女の両の掌《て》に握られていた象板《カスタネツト》(よつだけ)の活発な音階が、その足踏みを弾《はず》ませていた。細腰《さいよう》は風に旋《めぐ》り、鳳簪《かんざし》は月光にかがやき、しばらくは、仲秋の天地、虫の音までが彼女の舞にその鳴りをひそめてしまった風情《ふぜい》だった。  とつぜん、醒《さ》めたように、一同の拍手がおこる。  終るやいな玉蘭《ぎよくらん》は、お辞儀を一つして、飛鳥のように侍女の群れの中へ逃げ込みかけた。 「待て待て、玉蘭——」と、張《ちよう》総督は呼びとめて「ついでに、みなの杯へ、酒をついで廻るがいい。武松にも、もっとすすめてやれい」  武松は、あわてて、 「いやもう、てまえは」 「はははは、嘘を申せ。それしきで酔う武松とは聞いていないぞ。どうじゃ武松」 「はっ」 「気に入ったか」 「なにがでございますか」 「もし玉蘭が好きになったら、行く末、そちの妻に娶合《めあわ》せてつかわすぞ」 「滅相《めつそう》もない」  彼の言い方が、余り真剣だったので、あたりの者は、どっと笑った。その笑い声で、武松もいちどに酔を発した顔つきだった。あわれやこの正直者、みなの肴《さかな》にされているとも知らず、玉蘭がおもしろがって強《し》いるままに、なおも大杯を何度となく吸い干してみせた。  歓楽終って、月も傾き、人もすべて眠りに入った。彼は自分の小部屋で前後不覚に横たわっていたが、ふと目がさめた。——奥の方で、きれいな声が、一ト叫び、 「泥棒ッ……」  と、聞えたからだ。  がばと、武松は刎《は》ね起きた。彼の主人思いな良心は、聞きのがしをゆるさない。長い廊を一足跳びに馳けて行った。すると奥庭の欄《らん》の階段《きざはし》に、玉蘭が倒れていた。玉蘭は指さして、 「あっちです。曲者《しれもの》は。……早く行って」  と、息も絶え絶えにせきたてる。  武松は身を転じて、大庭の暗い松林の中へ走りこんだ。とたんに、もんどり打ッたのは、蜘蛛《く も》手《で》に張ってあった罠《わな》の一条《すじ》に足もとをすくわれたものらしい。起き上がるまもなく、無数の衛兵に圧《お》しつぶされ、うむもいわせず、高手小手に縛《くく》られていたのであった。 城鼓《じようこ》の乱打は枯葉を巻き、武行者《ぶぎようじや》は七尺の身を天涯《てんがい》へ托《たく》し行くこと  一夜のうちに、観月の楼台《うてな》の夢は、暗湿《あんしつ》な奈落《ならく》の穴の、現実と変った。  ここは孟州《もうしゆう》奉行所の地下牢か。  すべて、いまだに、武松《ぶしよう》自身には、不可解千万だったが、ぶち込まれるさい、奉行から読み聞かせられた罪状はなんとも心外で忘れえない。  其方《ソノホウ》コト。  日頃、総督ノ愛顧《アイコ》ニ狎《ナ》レテ、トカク盗ミヲ働キ、ソノ贓品《ゾウヒン》ヲ、自己ノ小僕部屋ニ匿《カク》シオキ、十五日夜半モ又、夫人ノ深窓ヨリ金銀珠玉ヲ盗マントシテ、ツイニ衛兵ノ手ニ縛《バク》サレタリ  重罪ノ上、更ニコノ重科ヲ重ネタルカド、尋常ニ非ズ、中央ノ処断ヲ待ツノ間、土牢ヲ申シ付ク 「やっぱりおれは騙《だま》されていたのか? ……だが、張《ちよう》総督にも、あの女にも、おれは何の恨みもうけている覚えはねえが」  彼はもがいた。こんな犬死はしたくねえ! よしっ、隙《すき》を見て、破牢してやる!  ところが、四十日ほどするうち、牢屋あずかりの康与力《こうよりき》が、ある折、彼にささやいた。 「じつあ、牢城の管営《かんえい》と、施恩《しおん》さんの父子が、蔭ながら、たいそうお前さんの身を案じていなさる」と前提《まえおき》して、 「じつは蔭では内々、要路要路の役人たちへ、何百両とも知れないほどな賄賂《も の》をばら撒《ま》き、なんとか、お前さんの身を助け出そうとしていなさるんだがいかんせん、相手が総督ときちゃあ、これに立ち向う者はねえ。……だが、くれぐれも短気を出してくれるなというお言伝《ことづ》てだったぜ。よろしかね、武都頭《ぶととう》」 「ありがとうござんす。……ああ、そんな人の情けにはほろりとするが……しかし与力さん、いったい、総督はなんであっしをこんな冤罪《むじつ》の罠《わな》に陥《おと》したものでございますかえ」 「そりゃあ、知れているじゃないか。張蒙方《ちようもうほう》総督と、その配下の張軍団長とは、同姓の一族だぜ」 「はてね? どうもよく分らねえが」 「おまえさんが快活林《かいかつりん》の盛り場で、こッぴどい目にあわせた蒋門神《しようもんしん》は、張《ちよう》軍団長がこの土地へ赴任して来たときに連れて来た腰巾着《こしぎんちやく》だッてことぐらいは知っているだろ」 「へえ。そして」 「だからよ、その蒋門神が、あそこの大きな角店《かどみせ》と、盛り場一帯の縄張りを、施恩から奪い取っていたからこそ、その顔で日々莫大《ばくだい》な日銭もあがり、その悪銭の何割かが軍閥《ぐんばつ》一家の張家の内ぶところへも、たんまり廻っていたものだ。……よしかね、考えてもみるがいい。……向うにすれば、大事な金ヅルの水の手を、一囚人の武松如きに断《た》たれたんだから、戦法の巻き返しとして、今度はおまえさんの生命《いのち》を断ちにかかったわけだよ」  こう聞かされ、初めて、 「おれは、馬鹿だった」  武松は独り頭を叩いた。  けれど、施恩父子の情誼《じようぎ》を聞けば、まんざらこの世も見捨ては出来ない。——ともあれ、父子の温情にたいしてもと、彼は、破牢の自暴《や け》くそだけは思いとまった。そしてどうなる運命か、まっ暗なまま、まっ暗な明日をむなしく待っていた。  ところが、康《こう》の親切や差入れ物も、やがてぷッつり絶えてしまった。総督方の監視《かんし》は水も洩《も》らさぬ手を打って、それを出来なくしていたらしい。——そして程なく、武松の身柄《みがら》は、この地からさらに遠い、  恩州牢城送り、  となって、即日、腰グサリ首かせの身を、二人の獄役人の手で押送《おうそう》されて行ったのだった。 「はてな、なんでわざわざ、そんな遠くへ俺を持って行って処刑するのか?」  武松には変なと疑われても、総督側にすれば、いうまでもない外聞《がいぶん》のためだったろう。蒋門神の人気は悪い。その無頼漢の肩持ちと世間に見えては、張《ちよう》軍閥一家の威信にかかわる。  果たせるかな、その底意は、孟州を離れて三日目の街道で、はや兆《きざ》しが見えた。——途中から後になり先になりして、護送の武松を尾《つ》けて来るうさん臭い三名の剣客風の男があった。 「……ははあん、おいでなすったな」  いくら鈍《どん》な武松にでも、その三名の殺気満々な眼つきには、すぐこう気づかずにいられないものがある。  その夕、飛雲浦《ひうんぽ》の江頭にかかった時である。武松はとつぜん駄々ッ子みたいに体を揉《も》んで屈《かが》まッた。 「も、もう、いけねえ、こらえられねえ……お役人、小便がしたくなった。ちょっと、手錠《てじよう》だけゆるめてくれ」 「なに、尿《いばり》がしたいと」  護送役人は目くばせしあった。時はたそがれ、所は蕭々《しようしよう》たる江のほとり。わざと二人は鎖を追って、下は不気味な深い瀞《とろ》と見える崖ぷちへ連れて行った。 「……アア、いい気もち!」  武松が用をすましたか否かの一瞬である。一颯《さつ》の剣光がサッと彼の影をかすめた。と見えたと思うとドブンと瀞《とろ》の水面に飛沫《しぶき》が上がり、つづいてもう一人は彼の足蹴を食って、 「あっ——」  と、後ろの役人と共仆《ともだお》れによろめいていた。 「見損なうな! 俺を」  一喝《いつかつ》、朱をそそいで太く膨《ふく》らませた武松の喉《のど》首から、ぱんと首カセの蝶番《ちようつが》いが刎《は》ね、喉輪《のどわ》の邪魔物は、二ツになって飛んでいた。  わっと、逃げる役人を、両の手につかんで、江のうちへ叩き込み、さらにもう一名の刺客《しかく》へ追ッついて、 「野郎っ」  と、どなった。その声だけで、男は意気地もなくヘナヘナと腰をついて、 「都頭っ、命だけは」  と、地に這って拝んだ。  刺客《しかく》三人は、蒋門神の弟子だと分った。武松はその男を裸にさせた。そして自身の獄衣を脱ぎ、そっくり着がえて、男の持っていた大きな野太刀まで召上げてから、 「てめえ一人が無事で帰っちゃ、仲間の義理が欠けるだろう。生き死には、水神《すいじん》様に相談してみろ」  と、それも一ト抓《つま》みにして、江の急流へ投げ飛ばした。  かくてまた、二日二た晩を、元の孟州へ馳けもどった武松は、おそらくは憤怒のあまり復讐の鬼と化していたものにちがいない。着いたその晩、総督邸の深くへ忍びこんでいた。——とも知らず、当夜もまた、鴛鴦楼《えんおうろう》の灯は歓宴《かんえん》のさざめきに星空の更《ふ》くるを忘れ、玉蘭の象板《カスタネツト》が「王昭君」を歌っていた。  いやなお、その内輪だけの集《つど》いには、いつぞや仲秋の宴にはここにいなかった蒋門神のがらがら声や、また、張家《ちようけ》の同族、張軍団長の豪傑笑いも交《ま》じっていた。  まだ暁《あけ》の星も淡い五更《よあけ》の頃。  孟州四つ城門の太鼓が、時ならぬじぶんなのに、いつにない乱打調子で鳴りぬいた。 「なんだろう? 刻《とき》の太鼓でもないらしいが」  街の者は、外へ飛び出して見るなり、すわ暴動か、戦争かと、仰天したほどだった。総督邸を中心に、ひきも切らない早馬がどこかへ飛ぶ。辻々には兵隊が立つ。——顔いろを変えた牢城役人や奉行が、馬にムチ打って、官邸の方へ馳《か》けてゆく。  そのうちに、はや午《ひろ》ごろ。 「わっ、大変の何のッて」  と、官邸の馬院《うまや》にいる馬丁や小者らの口から街の耳へも、真相が伝わっていった。  ゆうべの深更、宴が終ってからのこと。——張総督の夫妻から、小間使の玉蘭、そして客の張軍団長、蒋門神などの五人が、楼台の下や、廊の口や、室などで、すべて野太刀のごとき兇器で斬り殺されていたのが、わずか一刻《とき》の後に発見され、すわと、大騒ぎになったものの、すでに犯人の影もみえず、ただ官邸の白壁に血しおをもって、  是《コレ》ニ来《キタ》ッテ是《コレ》ヲ為《ナ》セルハ打虎武松也《ダコノブシヨウナリ》  と、書いてあった、というのである。 「ひぇっ……。よくもまあ大胆な」  噂は、醒《さ》めぬ悪夢のように孟州城内を暗くした。以後幾日かは、城外盛り場の灯すらともらず、沼のような凄気《せいき》が昼も冷たく吹いていた。  なにしろ、これは一地方の行政では到底処理もつくまい。総督、軍団長の横死とあっては、中央政府の威信にもかかわろう。そして当座たちまち、武松の人相書、生地年齢、罪歴などとともに逮捕《たいほ》の官令が、諸道諸県へわたってひろく配布されたようではあるが、しかし犯人武松の足蹟《そくせき》には、かいもく何のつかむところもなく、ただ、血まなこな狂奔《きようほん》にくれていた密偵群の網の目にも皆目《かいもく》行方知れずであった。  では、当の武松はどこにいたか。  その間《かん》、彼が身を匿《かくま》ってもらっていたのは、かの十字坡《じゆうじは》の一軒家だった。——とだけでは、読者もはや思い出せないかもしれぬが、そもそも、武松が孟州《もうしゆう》入りの前日に義を結んで別れた例の峠茶屋の夫婦者——菜園子《さいえんし》の張青《ちようせい》と、その女房、母夜叉《ぼやしや》ノ孫二娘《そんじじよう》にわけを打明けて、身を潜《ひそ》めていたのである。 「それ見なッせい。あのとき、おれたち夫婦ですすめたように、二龍山へ突ッ奔《ぱし》ってしまえば、よもや、こんなことにはならなかったろうによ!」  張青は嘆じたが、武松もおのれの馬鹿を知ってるように薄く笑った。 「だが兄弟、男は後悔しねえもんだ」  そのうち、街へ放《はな》っておいた張青の子分が、報《し》らせに帰って来た。 「いやもう、いまだに城内外は、しらみつぶしの探索騒ぎだ。高札《こうさつ》はいたる所だし、一町五軒の五人組、十人組の町目付《まちめつけ》が出来、万一犯人を知って、届け出ぬ者は、町中同罪の触《ふ》れ廻しでさ。その代り、武松の足どりを告げた者には、三千貫の賞金をくれると、奉行所の触れが、今日、出たばかりでございましたぜ」 「こいつアいけねえ」と張青は舌打ちして「そろそろ、ここも峠の一軒と、安心しちゃいられそうもねえ」  と、その日武松へあらたまって、再度、二龍山落ちを切にすすめた。  じつは、武松もすでに、その気ではあったらしい。 「じゃあ一つ、おそれいるが、その二龍山宝珠寺《ほうじゆじ》にいるっていう花和尚魯智深《かおしようろちしん》と青面獣楊志《せいめんじゆうようし》ってえお人へあてて、一本、添え状を書いちゃくれませんか」 「おやすいこった。しかし、その身装《みなり》じゃ、道中のほどもおぼつかないな」 「では、どうしたらいいってえのか」 「お怒ンなすっちゃいけませんぜ。いっそ頭陀《ずだ》(蓄髪僧ノ事、行者トモ呼ブ)におなんなさいよ」 「なるほど」 「ずっと以前、ここで殺《あや》めた一人の頭陀の衣、帯、兜巾《ときん》(細がねの鉢巻)、度牒《かんさつ》。それに人間の白骨を玉として百八粒の数珠《じゆず》とした一ト掛まで、ちょうど、今日のためのように、そっくり仕舞いこんである」  すると、女房の母夜叉も言った。 「そうそう、それにまだ、凄く切れ味のよさそうな鮫鞘《さめざや》の戒刀《かいとう》までがありますしね。……そして行者《ぎようじや》作りに、髪も切りそろえ、額《ひたい》の金印(いれずみ)のとこは、前髪でかくし、もっと念入りに、小さい膏薬《こうやく》でも貼《は》っておけば、おそらく、ちょっとやそっとじゃ、お尋ね者の武松さんとは見えますまい」  張青は手を打って、 「よく言った。さっそく、髪を剪《き》って、切下げにして上げるがいい」  その夜から翌《あく》る日は、こっそり山家の内の別れの酒。張青はくれぐれ言った。 「人に意見がいえる柄《がら》じゃあねえが、どうか酒の上は慎《つつし》んで、せっかくな出家姿の尻《し》ッ尾《ぽ》を人中で出さないように気をつけておくんなさいよ。それに兄貴は、馬鹿正直に人のことばを信じすぎる。その辺も、どうか要心に要心して」 「ありがとうよ。骨身にこたえる」  草鞋《わらじ》をはいて、ここを立つのも、わざと夕方をえらんで立った。折ふし、頃はすでに十月の短か日。落ちかける薄ら陽の林から舞いとぶ落葉が、振り返り振り返り行く、白い行者姿を横に吹いていた。  音に聞く蜈蚣峰《ごこうほう》の晩秋もうしろに越えて、道は青州《せいしゆう》二龍山の方へと、一日一日、近づく冬の歩みとともに、二十日余りを重ねていた。 「ううっ……。めっきり寒くなったぞ」  その日、武行者《ぶぎようじや》は一軒の山里の小酒屋にとびこんで、思わず、赤子《あかご》が乳を求めるように呼んでいた。 「亭主、熱いとこを一本飲ませてくんな」 「行者《ぎようじや》どん。濁酒《どぶろく》ですかえ」 「うんにゃ、上酒がいいね。それと肉のうまいとこを二斤《きん》ほど」 「そいつあ、おあいにくさまです。どぶろくのほかはございませんよ」 「肉もか」 「煮しめの一皿もさし上げましょうか」  武行者は、おもしろくない顔で独酌《どくしやく》をやっていた。とかく張青の意見があたまにある。この虫がいけないンだな、と思いながら飲む酒なのでよけいに何かホロ苦い。 「オオこれはこれは、いらっしゃいまし」  急に愛相《あいそ》変りな亭主の声に、ひょいと入口を見ると土地《ところ》の者か三、四人連れ。  わけて一トきわ目立ったのは年二十四、五の白面の少年郎《わかもの》。まだ女ずれもしてない美丈夫で、身のたけ七尺ほど、紅花頭巾《こうかずきん》に緑戦袍《りよくせんぽう》を着、金革《きんかく》の帯には長やかな太刀一と腰、にこやかに卓へ寄るなり、 「友達をつれて来たよ。ご亭主、誂《あつら》えといた料理は出来ているだろうね」 「へい、へい。羊も鶏も、今日のはまた、すばらしい上肉でございますから、どうぞまあ、ごゆっくりと」  彼らの卓は、たちまち、次々と運び出される佳肴《かこう》で埋まった。うま煮、焼肉、丸揚げ、菜汁、果盆《かぼん》。こなたの武行者が、ちらちら横目で見たぐらいでは、品数もかぞえきれない。 「おもしろくねえな……。おい亭主、ここへもう一本」 「へい、どぶろくのお代りで」 「ばかアいえ、そっちにある青花《せいか》模様の酒甕《さけがめ》のを、おれにも二角《かく》ほど貰おうか」 「これはいけません」 「なぜ、いけねえ?」 「だって、こちらの若旦那様からお預かりしといたのを、封を切ったわけでして」 「嘘をいえ、肉の一片も俺には出さねえところを見ると、俺を銭《ぜに》なしのうらぶれ行者と思やがって、出し惜しみをしていやがるな」 「困りますね、言いがかりをおつけなすッちゃ。そんなに、喉《のど》が鳴るなら、よそへ行って、どんな上甕《じようがめ》の飛び切りでもなんでも飲むがいい」 「なにを」  軽く撲《なぐ》ッたつもりだったが、なにしろ武松の掌《て》のひらである。亭主は顔をかかえながら、横ッ飛びに、彼方《かなた》の四人の卓へぶつかって、ひッくりかえった。  怒ったのは、卓の主人役をしていた紅帽青襟《こうぼうせいきん》の少年郎《わかもの》だった。ぬっと立って、 「君。戸外《おもて》へ出給え」 「よしっ、出てやる」  躍り出た二人はすでに、二羽の闘鶏《とうけい》が、逆羽《さかば》を立てて、戦意を研《と》ぎ合う姿だった。 「——行者。出家ハ瞋《イカ》ルベカラズ、マタ、貪欲ナルベカラズ——とか聞いてるが」 「洒落《しやら》くせえ、うぬはこの村の青二才か」 「大きなお世話だ。察するところ、きさまは出家の道も恥も知らぬ偽《にせ》行者だな」  偽行者か、との一言には、武松をドキとさせたものがあったに相違ない。彼の手はほとんど無意識に戒刀の柄《つか》へ走った。  しかし、もっと迅《はや》かったのは、少年郎《わかもの》の姿だった。飛燕《ひえん》の業《わざ》といってよい。武松の柄《つか》の手をばッと間髪に蹴上げていた。 「やったな、味を」  武行者は、肘《ひじ》を蹴られて、かえって相手の力量の程度をすぐ察知したかのようだった。戒刀にはおよばない。そして敢て、素手を示しつつ身をすすませた。ばッと格闘の卍《まんじ》がおこる。少年郎《わかもの》の巨体が大地へ叩きつけられ、刎《は》ね起きたが、また投げられ、ついに武行者の下となって、その鉄拳《てつけん》の乱打にウもスもいわなくなった。 「美《い》い男《おとこ》! 顔を洗って出直して来い」  武行者は、少年郎《わかもの》の革帯《かわおび》をつかんで、酒屋の前の谷川へ抛《ほう》り投げた。連れの三人は青くなって「——若旦那ッ」とばかり崖の下へ向って、その体を拾いに行った。 「わははは。まるでこの行者に、お布施《ふせ》を授けてくれたようなもンだ」  武行者は、店へ入るやいな、かの垂涎《すいぜん》三尺の眺めにたえなかった青花模様の上酒甕《じようがめ》を抱え込んで大いに笑った。そして羨望《せんぼう》の甘露をごくんごくんと飲みはじめ、またたくうちに空ッぽにしてしまった。  のみならず、そこらの肉を腹いッぱい平らげた上、腰を抜かしている亭主を尻目に、 「ああ、いい気分、冬も忘れる……」  蹌々踉々《そうそうろうろう》、村道を風に吹かれて歩み、一つの桟橋《かけはし》の向うから、谷川ぞいの道を、のぼりまた降り、いつか夜はとっぷりとなったのも忘れ顔に、鼻唄で歩いた。 「おや、行き止まりか? はてな」  戻ろうとしたのは、やたらに鹿柴《ろくさい》みたいな枯れ木や竹が道をふさいでいたからだった。ところが、ちょいとまごつくと、縄やら何やらがすぐ足を取る。大酔していたせいもあろう。武行者は二度も三度も谷水の汀《なぎさ》にすべってズブ濡れになった。冬十一月の寒冷な谷水、さすがの酔も、ぶるッと一瞬に醒《さ》めかけた。  すると、頭の上でガサゴソしていた無数の人影の気配が、いちどに笑って、 「まるで鯰《なまず》が酒を食らったようだ」 「もう足掻《あが》きはつくめえ。足掻いたところで逃げ道はねえしよ」  と、言い囃《はや》している風だった。  あとで思えば、桟橋《かけはし》を渡って東へ行くべき本道に偽装垣《ぎそうがき》が作られていたため、酔眼朦朧《もうろう》、いつも村人が猪《しし》を追い込む猪落し穴の横道へ誘い込まれていたものらしい。  口笛がつんざく。松明《たいまつ》が集まって来る。  やがて無慮《むりよ》七、八十人もの荘丁《いえのこ》や百姓たちが、思い思いな得物《えもの》を手に、武行者の体を、猪捕《ししと》り手だてで押っ取り囲んだ。いかんせん、醒《さ》めたとはいえ、泥酔の果てである。井桁《いげた》に結んだ丸太担架《たんか》に五体をくくしつけられた武行者の体は、かつて彼自身が景陽岡《けいようこう》でしとめた大虎そッくりな恰好にされ、わッしょわッしょと村の地主屋敷の門内へと担《かつ》ぎ込まれて行ったのだった。 「兄さん、首尾よく捕まえてくれたそうですね、いや私は面目ないが」  地主屋敷の門へ、いま、こう言いながら帰って来たのは、最前、武行者に谷川崖《がけ》へ投げ込まれた例の白面の少年郎《わかもの》だった。  対するは、その兄か。  苦みばしった面ざしの、これも眉目秀《ひい》でた大男で、 「だからまだ、お互い、修行は足らんといっているのさ。おまえにとっては、いい経験だったよ。凄い行者もあったもんだ」 「して、どうしました、あの怪行者は」 「庭の槐《えんじゆ》にふん縛ッておいた。半ば昏々《こんこん》として、何かぶつくさ言っている」 「どんな文句を吐《ほ》ざくのか、ひとつ聞いてやりましょう。おい誰か、籐《とう》の鞭《むち》を持って来い」  一人の荘丁《いえのこ》の手から、それを受けとった兄弟の者は、大庭の西にある槐の大木の下へつかつか寄って、やがて四、五打《だ》の籐《とう》の唸《うな》りと罵声《ばせい》を、武行者の上にあびせかけていた。 「……あ、ご兄弟」  すると、書院とおぼしき一亭の前から呼びとめる人があった。静かに、散歩でもするような足どりで、側へ来て、 「ま、およしなさい。ご自身そんな手くだしは、つまらんではありませんか」 「いや先生。こいつ捨ておけん曲者《しれもの》ですぜ。村のしめしのためにもです」 「聞きましたよ、委細のいきさつは。けれど人間、せつなの感情では、時に思慮を欠くことはお互いにもありますからな。ましてご舎弟《しやてい》を屈伏させた腕前もあるほどな男と聞いては、どこに見どころがあるかもしれない」 「じゃあ、助けろと、仰っしゃるんで?」 「もしまた、真の悪党だったら、どんなにでもなさるがいい。だが一応は、私に篤《とく》とその人間を見させて下さらんか。私が糺《ただ》してみる」 「おお、ごらんなさい。弟、松明《たいまつ》を」 「いやどうも、お手数、おそれいる」  こういって、槐《えんじゆ》の根がたへ、屈《かが》み加減に身を寄せた人は、ここの家人ではないらしい。しかも兄弟が尊敬している客と見えた。 「はてな」  と、その客は、兄弟を振り向いていった。 「行者の額《ひたい》の膏薬《こうやく》は、どうもわざとな面霞《つらがすみ》か、金印(いれずみ)隠しによくやる手かも知れません。ひとつ、引ッ剥《ぱ》がして見て下さらんか」 「されば、私たちもさっきから、そう睨んで脱《と》ってやろうとしたんですが、歯を剥《む》いたり、首を捻《ね》じ伏せたり、どうしても脱《と》らせません」 「むむ、無理に見るにも及ぶまい。肩の肌に残っている背打ちの傷痕も、まちがいなく罪囚の持っているものだ。しかし……?」と言いつつ、槐《えんじゆ》の根を向うへ廻って、行者の面貌を見ようとした。すると武松はまたすぐ、逆に、こっちへ顔を捻じ曲げて、あくまで見さだめさせまいとする。 「ふふふふ。見かけによらぬ、未練な男だ」  と、その人は、軽侮と愍笑《びんしよう》を交《ま》ぜて言った。その言に、むッとしたか、突如、吼《ほ》えるように、 「なにッ」  武松は顔を振りあげて、上から覗《のぞ》きこむ顔を、はッたと、睨みすえたのだった。そして、そのまま異様なまでに、彼のらんらんたる双眸《そうぼう》は、次第に雨雲のような掻き曇りを見せ、あわや、この不敵無双な男が、いまにも泣き出すかと思われるばかりに顔のすじをひッつらせた。 「……おおほ! ……おうっ。あ、あなたは」 「武二郎か。……」  その人の弾《はず》んだ声は、半ばで切れて、あとは声高に、兄弟の者へ、さいそくしていた。 「すぐ縄を解いてやってくれ、心からいたわってやってくれ。これは私の弟分だ」 「げっ。先生の弟分でございますって」 「されば、この辺へも、お尋ね書《がき》が廻っていたからご存知だろうが打虎《だこ》武松だ。景陽岡《けいようこう》で猛虎をなぐり殺したあの男さ」  驚いたのは、兄弟の者であるが、この兄弟とて、ただの山家地主の息子とも見えず、ましてここの一書院に閑居しながら、いまや世間に身もおくところなき行者武松をよく知って、わが弟分と呼ぶこの客こそは、一体いかなる素姓《すじよう》の人であったのだろうか。 緑林《りよくりん》の徒《と》も真人《しんじん》は啖《くら》わぬ事。ならびに、危なかった女轎《おんなかご》のこと  めったに自分を見限るなかれ、である。寸前の運命が分らないのと同様に、寸後の転換だってまた測《はか》り知れないことは往々《おうおう》といっていい。  今夜の武松がそれだった。  一刻後の彼は、縄目の死地から俄《にわか》にその家《や》の客院の客としてあがめられていた。浴室で負傷の箇所には手当をうけ、また肌着《はだぎ》や衣帯《いたい》なども、すべて新しいのとかえられていた。 「ここで先生にお目にかかろうとは?」  武松は何度となくいって、人の世の流転邂逅《るてんかいこう》の奇に浩嘆《こうたん》を発するのだった。  彼を見て「——これは自分の弟分だ」と驚き、すぐこの家の兄弟に命じて、彼の縄を解かせた人は、じつに故郷城県《うんじようけん》の宋家村《そうかそん》を立退《たちの》いた以後その消息を世に絶っていた宋押司《そうおうし》——かの及時雨宋江《きゆうじうそうこう》だったのだ。  かつて武松とは、妙なことで、お互いに忘れがたい印象をのこし、しかもその場で兄弟の約までむすんでいた。  あれは滄州《そうしゆう》の小旋風柴進《しようせんぷうさいしん》の屋敷だった。故郷を落ちて、そこの客となった宋江が、邸内の暗い廊下を行き迷って、瘧病《おこりや》みの男の足を踏ンづけて呶鳴られたことがある。  それが武松だったのだ。  あるじの柴進《さいしん》のとりなしで、その晩、杯をともにしまた数日をともに送って、じつに愉快な男であることを知ったが、その武松はまもなく兄を慕って、旅へ去って行った。しかし以後もしばしば、武松の名はいろんな事件で江湖《せけん》に高くなり、「——あいかわらず、やっているな」と、離れてはいてもその噂だけは、宋江もつねに耳にしていたのである。 「だがその武松に、この白虎山の孔家《こうけ》で巡り会おうとは?」  と、宋江もよほど今夜は驚倒した容子《ようす》であった。いや、もっとびっくりしたのは、二人の関係と、武松その人を、目の前に見て初めてそれと知った孔家《こうけ》の若い兄弟で、 「先生。どうか武松殿にあやまって下さい。まったく夢にも気がつかず、とんでもないご無礼をしてしまい、お詫《わ》びのことばもありません」  と、九拝百拝、ただただ恐懼《きようく》してやまなかった。 「しかたがない、お互いは神ならぬ身」と宋江は仲をとって、 「——武松、これからはこれを縁に、親しく義を交《か》わして行くがいい。こちらは白虎山の由緒《よ し》ある旧家で、昼、おぬしが村の居酒屋で出会ったのはご舎弟のほうで独火星の孔亮《こうりよう》とよばれ、そちらはご総領の毛頭星の孔明《こうめい》と仰っしゃるお方だ」 「これは……」と、武松もへりくだって、床にひざまずこうとすると、兄弟は双方から彼の手を取って、 「とんでもない。どうか上座にいてください。打虎《だこ》武松のご高名は雷のごとしで、義に強い数々《かずかず》なお噂も夙《つと》に伺《うかが》っております」  と、下にもおかず、やがて孔家の老主まで出て来て、もてなしの善美をつくした。  かくて武松は孔家《こうけ》にひきとめられていること一週日ほどのうち、宋江も近くこの家の客分を辞して他県へ移るつもりだという身の上を聞かせられた。 「じつはその後、故郷における私の詮議《せんぎ》もだいぶほとぼりがさめたので、弟の宋清《そうせい》はいま、宋家村の家へ帰っています」  そう前提して、宋江は意中を語った。 「……で、その弟宋清からは折々の便りを手にしているわけだが、この県の清風鎮《せいふうちん》の長官で小李広花栄《しようりこうかえい》という人物がある。その者からぜひとも私に清風鎮へ来てくれという勧《すす》めなのです。かねて旧知の縁でもあり、余りに切なすすめなので、孔家へもわけを告げて、近日そちらへ出向くつもりでいるのだが」 「先生、よけいなことをお訊ねしますが、こちらの孔家はそれでいいんですか」 「ム。孔亮《こうりよう》、孔明の兄弟へは、いささか剣法や兵学などをここで教授していた次第だが、この師匠が持っているものは、あらかた教えおわっている。……どうだな武松、おぬしも私と一しょに、道をかえて、その清風鎮へ行ってみないか」 「いや、よしましょう」 「なぜ」 「先生のつい犯した過失同様な女殺しの科《とが》とは違って、この武松のやった罪科《つみとが》は、血の池、針の山を追われる地獄のようなもんです。あなたに巻き添えを食わせては申しわけない。——そのうちに天下大赦《たいしや》の日でも来たら、晴れてまた、お目にかかろうじゃありませんか」 「じゃあ君にも、いつかはお上《かみ》に帰順して、まじめな良民になりたいという希望はあるんだな」 「それやあ先生、だれにだって、そういう希《ねが》いはありますよ。ところがその希いを逆にひン曲げて、悪へ悪へとこち徒《と》を追い込むようなのが今の宋朝の官人どもではありませんかね」 「いや悪吏は跋扈《ばつこ》しているが良吏だっているにはいるのだ。君に一点の耿心《こうしん》さえあればいつか天のおたすけもあろう。悪い治世もそうそう長くは続くまいからな」  宋江は言った。こんな境遇にさすらいつつも、依然彼は彼らしい君子《くんし》の風《ふう》を失っていない。  それから五日ほど後、孔家では旅立つ二人のために、一家挙げての惜別の宴がひらかれた。老主から兄弟までが、なんとかして引き留めようと努めたのはもちろんだが「またのご縁をたのしみ」という強《た》っての辞意に諦《あきら》めのほかなく、衣服銀子《ぎんす》などの餞別《はなむけ》を積んで、この歓送宴となったものだった。  さらに孔明、孔亮の兄弟は、荘丁《いえのこ》を連れて、二人の立つ道を二十里も送って行った。そして、別れにのぞんでは、 「いつかまた、再会の日の来るのを祈っています」  と、振り返り振り返りあとへ帰った。  さて、道連れは、二人きりとなったが、武松の目的地は二龍山だし、宋江は清風鎮へ行く身なので、 「二人もまた、やがてすぐ西と東だな」  と、壮士の腸《はらわた》も淋しげに、相かえりみて微笑しあった。  数日の後、とある田舎《いなか》町に着いた。土地《ところ》名《な》を訊いてみれば瑞龍鎮《ずいりゆうちん》。  ついでに、二龍山はどっち? 清風鎮《せいふうちん》へはどう行くか? とたずねてみると、 「ここはちょうど追分で、町端《まちはず》れから西へ遥かに行けば二龍山。東の道を行って、清風山を越えれば、峠向うはすぐ清風鎮の官城が見える街ですよ」  とのことだった。 「さあいよいよお別れだな」  二人は居酒屋で、小酌を汲《く》んで惜しんだ。  その杯を持つにつけ、宋江は武松の度《ど》に過ぎた従来の義憤と暴勇が、大半みんな酒の業《わざ》するところと見て憂《うれ》えていたので、 「君、酒は愛して飲むべしだよ。くれぐれも酒に呑まれて、可惜《あたら》、好漢《おとこ》を滅茶苦茶にしてくれるなよ」  と親身になって戒《いまし》めた。  そして、いざ酒屋の払いをと、旅包みを解くと、宋江のそれにも武松の頭陀《ずだ》にも、思いきや大枚銀五十両ずつ入っていた。孔《こう》兄弟の心入れなのはいうまでもない。二人はそこでも再び孔家《こうけ》の方へ恩遇《おんぐう》を謝し、やがて西と東へ袂《たもと》を別った。  ここで行者《ぎようじや》武松の行く先は、ひとまず後にゆずって。  ひとり清風山へ向って、そしてほどなく、山路へさしかかっていた宋江の足どりについて行ってみると、案外この山は、名のようなやさしい山ではない。  峠に立って打見やれば、八面嵯峨《さが》たる谷の断岸《きりぎし》。  どこかを行く渓流は、とどろの谺《こだま》を呼んで物凄《ものすさ》まじい。老木のつた葛《かずら》は千条の黒蛇《こくだ》に見える。人の足音に驚いて跳《と》ぶ氈鹿《かもしか》。かえって人間に興味をもつかのように梢《こずえ》から梢へ奇声をあげてついてくる群猿の影。——宋江はつい自然のおもしろさに釣られて歩いた。  ところが、やがて原始林の青ぐらい道へ入ると、とつぜん彼の足元で、リ・リ・リ・リン……と鈴が鳴った。 「おや?」  と足にからみついた葛縄《くずなわ》を取りのぞいているまに、すでに彼の運命は変っていた。豹《ひよう》のごとき男女が無慮《むりよ》二、三十人も跳びついて来て、彼のからだをがんじ絡《がら》めに、どこかへ引ッかついで行ってしまったのだ。  ここにも緑林《りよくりん》(盗賊)の巣があった。  洞窟《どうくつ》を背景に、ひとつの賊殿《ぞくでん》ともいえる山寨《さんさい》を築造し、その頭《かしら》は姓を燕《えん》、名を順《じゆん》といい、あだ名を錦毛虎《きんもうこ》とよばれているものだった。——もとは山東莱州《らいしゆう》で馬や羊の売り買いをしていた博労《ばくろう》なのだ。  また、彼が片腕の小頭《こがしら》には。  両淮《りようわい》生れの荷馬車曳き上がりで、短小《ち び》で素ばしッこくて、兇暴無残な王矮虎《おうわいこ》。——またもう一人は、蘇州《そしゆう》の産で、銀細工《ぎんざいく》屋の若旦那くずれの、色が生白くて背のひょろ長い鄭天寿《ていてんじゆ》、またの異名を白面郎《はくめんろう》ともいう男もいた。  この三人三様の風貌をもった賊の頭目は、折ふし山寨《さんさい》の一窟《くつ》で、博奕《ばくち》か何かに夢中になっていたところから、子分の報《し》らせも耳の外に、 「なに、いい獲物を捕まえたと。そこらの柱へでも引ッ縛《くく》っておけ。どうするのかは、あとでゆっくり人態《にんてい》を見てからでいい」  と、晩になるまで、放置しておいた。  そして、それに飽きると酒もりだったが、酒のなかばに「そうそう、子分の奴が、昼間くくッておいた肴《さかな》があったはず」と、王矮虎《おうわいこ》が言い出して、宋江を眼の前へ曳かせ来てみると、これはめッたに山寨《さんさい》などではお目にかからない端厳《たんげん》な人品だ。 「ちと色は黒いが」  と、王矮虎は舌なめずりして、ほかの二人へ目くばせた。  当時、宋朝の文化は、帝室や都府の中心では、はやすばらしい発達途上を示してもいたが、未開大陸の僻地《へきち》では人肉嗜食《ししよく》の蛮風《ばんぷう》などがなお一方にはのこっていたらしい。とくに人間の生肝《いきぎも》は美味で精力薬になるという迷信があり、その生肝《いきぎも》をとるには、さんざん冷水をあびせて、肝臓の熱い血をちらしておき、そこを抉《えぐ》りとるのがいいなどといわれていた。 「そうだ。したくしろ」  それと呑みこんで、錦毛虎はすぐ、手下の者へ、生肝《いきぎも》料理の準備を命じた。  するとその間に、宋江の持物を、卓に取寄せて、仔細にしらべていた白面郎が、オヤと目をみはった顔つきで、隣の錦毛虎燕順に、一通の反古《ほご》手紙をみせていた。——宋江の名があったからである。 「やいやい、そんな物は、一度そっちへ持って返れ」  燕順は急に呶鳴った。生肝とりの大俎板《おおまないた》やら包丁《ほうちよう》水桶などをかついで来た子分どもを慌《あわ》てて追い返してから、宋江へ向って訊いた。 「旅人《たびびと》。おめえの名は?」 「わしは、宋公明だ」 「あの城県《うんじようけん》宋家村の、及時雨《きゆうじう》宋江とよく似た名だな」 「その宋江なのだ」 「だれがよ」 「わしが」 「この手紙の名宛人がつまりお前さんだというのかね」 「宋家村の宋江は二人とはいない」 「げっ! それじゃあ、あなたは」  燕順以下、賊頭二名は、腰をぬかすほど仰天した。  彼らの仲間内で、及時雨《きゆうじう》宋江の名は、仁愛と畏敬《いけい》の対象として、広く絶大な響きをもっていたらしい。暗闇の仲間ほど、じつは心から服したい人間中の人間を欲《ほつ》し、また心から敬《うやま》いたい光明をつよく求めているものかとも思われる。  何しても彼らは、その人の生肝《いきぎも》を食らうどころの騒ぎではない。次の日には、手下一同にも告げて、賓客《ひんかく》の礼をとらせ、彼を豹《ひよう》の皮の椅子《いす》にあがめて、賊首三名は下にへりくだり、 「いつまでも、お飽きになるまで、この山寨にいていただきたい」  というほどな変り方だった。  そして宋江の口から、武松の話を聞くにおよんでは、なおさらなこと、 「そいつア惜しい。二龍山など行かずに、都頭武松も、こっちへ来てくれたら、どんなに歓呼《かんこ》して迎えたかもしれねえのに、千載一遇《せんざいいちぐう》の機を逃がしたようなもんだ」  と残念がり、一そう宋江をひきとめて、日々彼に仕えるような歓待をみせるのだった。  とはいえ宋江は、いつまで賊飯《ぞくはん》にもてなされて遊んでいる心はない。それに清風鎮《せいふうちん》の長官花栄《かえい》を訪ねてゆく途中でもあること。心ならずもつい七、八日をいてしまったというにとどまる。  するうちに季節は早くも臘月《ろうげつ》(十二月)のはじめ。この山東地方では月々八日の臘日《ろうじつ》には先祖の墓掃《ぼそう》まいりをする風習がある。 「親分っ」  勢い込んで、その日、麓道《ふもとみち》から戻って来た子分の幾人かが、 「ちょっとした別嬪《べつぴん》でしたぜ。たぶん今日の墓詣りでしょう。女は女轎《おんなかご》に乗って、お供七人ほど連れ、提《さ》げ重《じゆう》二つに、お花を持たせて、街道を練って来ましたよ」  と、王矮虎《おうわいこ》のいる所へ知らせていた。色好みな矮虎は、きくや否、 「ほんとか」  眼いろを変えて、すぐ手下四、五十人を集めにかかった。そして宋江や燕順がそれを止めるのもきかばこそ、槍や刀をかつぎ出し、銅鑼《どら》、角笛《つのぶえ》の音脅《おとおど》しも物々しく、女狩りに出て行った。 「はて、どうしたろう? 耳にしては放《ほ》ってもおけず、なにやら気がかり」  宋江は、夕方ぢかく、ふと、昼間小耳にはさんだ婦人のことを思い出した。  矮虎《わいこ》の手下にきいてみると、あれから女轎《おんなかご》の供の兵隊七、八人を追っ払い、女の身は轎舁《かごか》きぐるみ、矮虎が自分の住居へ連れ込んでしまったきりだという。  すぐ燕順の所へ行って、 「人妻にせよ娘にせよ、女隠しなどは罪深い。義で生きる好漢《おとこ》のすることではありませんな。どうもあなたの義兄弟らしくもない」 「いや、どうも」  燕順は、自分のことみたいに恥じた。 「——あいつも、事に当れば負《ひ》けをとらない男ですが、たった一つ、そいつが彼《あ》れのやまいでしてね」 「どうです、ひとつ一しょに行って、ご忠告をしてみては」  いわれると、ぜひがない。燕順と白面郎《はくめんろう》が先に立ち、山寨《さんさい》附近の山蔭にある矮虎《わいこ》のねぐらへ彼を案内して行った。  戸を叩くと、内では慌《あわ》てた気配である、「まずいところへ」と言いたいような王矮虎の面《つら》つきだった。彼に挑まれていたところだろう。土間の一隅にしどけない女の姿が簪《かんざし》のない髪をみだして俯《う》っ伏していた。 「…………」  一瞬の気まずい黙《もだ》し合いのなかにチラと見ると、女は良家の内室らしい白妙《しろたえ》の喪服《もふく》がかえって似合わしく、臙脂《べ に》白粉《おしろい》気《け》がなくてさえ、なんとも婀娜《あだ》な艶《なま》めきをその姿は描いている。 「もし、そこなご婦人。そう、わななくことはありませんよ。お宅はどこです」  そういう宋江の姿を、女は恐々《こわごわ》見上げて、 「親分さま。どうぞお助け下さいまし。……わ、わたくし、清風鎮の長官の家内なのでございますが」 「え。長官のご家内ですって」 「はい。今日の臘日詣《ろうじつまい》りで、母のお墓へ行った帰りなのです。こんなこととは知らず、どんなに良人《おつと》は案じているかもしれません」 「奇遇ですな。じつは私は、近日その花《か》長官をおやしきへお訪ねして行こうと思っていた者で、ここの賊の頭《かしら》ではありませぬ」 「いいえ! ……」と、女は急に顔を振った。 「ちがいます、その長官の妻とはちがいます」 「なぜ違うんですか」 「清風鎮の長官は二名おります。ひとりは武官の長官。——わたしの良人は文官の方です。文長官劉高《りゆうこう》でございますから」 「ははあ」  宋江はうなずいた。そしてすぐ矮虎《わいこ》へむかい、 「王君」 「へえ。なんですか」 「頼みがあるが肯《き》いてくれないか」 「分ってまさあ。女をおっ放してやれというんでしょうが。……だが、あっしには女房もねえんだ。ここは大目に見ておいてくだせえよ」 「だが、いま訊けば、歴《れき》とした文官の細君だろうじゃないか。なにもそんな人泣かせをしないでも」 「いやこの女には、あっしはもう一ト目惚れだ。長官だろうが何だろうが闘ッてやる」 「まアさ、そう強がらなくてもいい。私が頼むのだ。こう頼む」と、宋江が地に膝をついて、王矮虎を拝したので、燕順と白面郎はびっくりして、 「あなたにそんな礼をとらせちゃ勿体ない。どうかお膝をお上げなすッて」 「いやいや、知人花長官《かちようかん》の友人の奥さんだ。この難を見捨てることはできない。……なお王君、約束しようじゃないか。そんなにつれあいが欲しいなら、君のためにきっと自分がいまに適当な女を見つけ、嫁入り支度も添えてお世話しよう。だからこのご婦人は放してやってくれ。たのむ」  こうまでいわれては、矮虎《わいこ》も不承不承《ふしようぶしよう》、指を咥《くわ》えてあきらめるほかはない。もちろん燕順も白面郎も切にそれをすすめ、気まずいながら、事はやっと一段落を見たかたち。  女は身づくろいもそこそこ礼をくり返して轎《かご》のうちへ入る。轎夫《かごかき》も九死に一生をえた思い。肩を入れるやいな、飛ぶが如く山をくだって行く——。  さて此処、清風鎮《せいふうちん》の街は、はや宵過ぎの灯であった。  いやその城外まで轎《かご》が馳けまろんで来ると、彼方《かなた》から七、八十人の兵隊が、何かわいわい騒ぎながら疾走して来た。兵は口々に轎《かご》を迎え、 「やあ、ご夫人だ、ご無事にもどった」 「おお奥方には、なんのお怪我《けが》もしていない」  夫人は、良人《おつと》の部下と知ったので、 「おまえたちは、私を案じて、探しに来てくれたのかえ?」 「そうです!」異口同音に兵たちは「いやもう、劉《りゆう》長官のご心配ッたらありません。——夜に入っても帰らぬからには、清風山の賊に引ッ攫《さら》われたに違いないと仰っしゃいましてね。おかげでわれわれどもは、なにしておるかと、恐ろしいお叱りを食い、万一があったら兵長は縛《しば》り首、兵一同は減俸だと呶鳴りつけられました」 「まあいいよ、おまえたちは案じぬがいい」  夫人はツンとして艶麗な威厳を兵どもに誇って見せた。 「山賊に襲われたに違いないが、わたしが劉《りゆう》長官の夫人だよっていってやると、彼らは恐れをなして、私に指もさわれないのさ……。お前たちも可哀そうだから、長官へは私から、いいように申し上げといてあげるよ」 「どうぞ、おねがいいたしまする」 「おくがた様、ありがとう存じます」  彼女は兵の百拝を浴びると、まるで凱旋《がいせん》の女王かのような心理に酔い、その轎《かご》を大勢に打ちかこまれつつ官邸の門へなだれ入った。  良人の劉高《りゆうこう》は、彼女の姿を見るやいな、 「オオよく帰って来たな。どうして無事に戻れたのか」  と、強烈な抱擁《ほうよう》を惜しまなかった。 「あなたのご威光ですの……」と、夫人は良人の腕の中でいった。「賊は、私が劉長官の夫人と知って、急に態度をかえてしまったんですの。——そこへ兵隊たちが、喊声《かんせい》を上げて来ましたから、みんな雲霞《くもかすみ》と逃げ散ッてしまいました。兵隊たちの功も褒めてやってくださいまし」  ふしぎな女性心理である。こんな嘘ッぱちも彼女自身にはおのれを誇る快楽のいい刺激になっているものらしい。  すると、それから数日たった後のこと、清風鎮の街中の三叉路《さんさろ》に佇《たたず》んで、 「はて、どっちへ行ったものか?」  と、思案顔している旅人がある。  宋公明《そうこうめい》——宋江《そうこう》であった。  山寨《さんさい》の連中にはしきりに引きとめられたが、その日ついに、錦毛虎《きんもうこ》燕順以下に麓まで見送られ、袂《たもと》を別って、ひとり鎮城《ちんじよう》の巷《ちまた》へ入って来たものだった。  街は青州清風寨《せいしゆうせいふうさい》の要害の地にあるので、かなりな繁華を呈し、各州へ通じる三街道の起点をなし、人家四、五千、小高いところに鎮台《ちんだい》がある。 「あ。花《か》長官のお住居ですか」と、道行く人は、宋江の問いに、鎮台の方を指さした。 「鎮台大路《たいろ》へむかって、南側の官邸が、劉《りゆう》文官のおうちで、もうすこし先の北側のおやしきが、武官の花栄《かえい》閣下のおすまいでございますよ」 「ありがとう」  宋江はやがて、宏壮な一門の前に立ち、衛兵に刺《し》を通じて面会を求めた。  すぐ応接へ通され、待つほどもなく、 「やあ、よくやって来られたなあ」  と、小李広花栄《しようりこうかえい》その人の快活な声を目のまえに聞いた。  この青年将軍は皓歯明眸《こうしめいぼう》で、よく贅肉《ぜいにく》を除いて筋骨にムダのない長躯《ちようく》は、千里を行く駿馬のごとき相があった。  金翠《きんすい》の綉《ぬい》キラやかな戦袍《せんぽう》に、武長官の剣帯《けんたい》をしめた腰細く、犀《さい》の角《つの》(これを吹いて軍を指揮する)を併《あわ》せて飾り、萌黄革《もえぎがわ》の花靴の音かろやかに歩きよって来、 「お久しいなあ。じつにお久しい」  と、なつかしげに遠来の客の手をかたく握った。 花燈籠《はなどうろう》に魔女の眼はかがやき、またも君子宋江《そうこう》に女難のあること  小李広花栄《しようりこうかえい》の家と、宋家村の宋江《そうこう》の家とは、元々浅からぬ旧縁の仲だった。  だから宋江の犯した一身上の過《あやま》ち。その以後の流浪の境遇なども、よく知っていて、蔭ながら案じる余り、「ぜひこの地へ来給え、どんなにもして匿《かく》まってあげる」と、常々、宋江の郷里へ宛てて音信していたものだった。 「おことばにあまえて、あつかましく、やって来ました」  という宋江へ、花栄は大きく手を振って、 「なんだ、水くさいことを。さあもう我が家とおもって、おちついてくれ給え。そうだ、妻の崔氏《さいし》へも紹介しよう。そして妻の妹へも」  何不自由ない官邸だし、気のおけそうな家庭でもない。その日から宋江には、特に庭園ぞいの一室があてがわれ、侍者《じしや》小間使いなどまで付けて、賓客《ひんかく》の扱いであるのみでなく、花栄が一日の軍務から帰邸すると、夜ごと夜ごとが、家庭的歓迎の宴みたいであった。 「花君《かくん》。こうお世話をかけては恐縮です。もうご家族なみに、放《おう》っておいていただいたほうがありがたいですよ」 「いや、ご迷惑とは察しるが、こうして毎夜、あなたの口から、広い世上に遊弋《ゆうよく》している奇骨異風さまざまな好漢《おとこ》どもの存在を聞くのは、なんとも愉快でならんですな。じつに愉しい」 「そうですか。いやそれで思い出したが」 「何かまた変った話がありますか」 「清風山の三賊首のことは、先日お耳に入れましたね」 「む。うかがった」 「じつはまだ言い残していたが、文官劉高《りゆうこう》という人の細君が、そこで危ない目にあっていたのを、私が救ったことがあります」 「ほ……。劉高は同僚ですが」 「ご友人の妻ときいたので、なおさら、助けねばならぬと思い、たって女を手籠《てご》めにする。といって肯《き》かない賊の王矮虎《おうわいこ》を、やっとなだめて、事なく帰してやりました」  すると、花栄はちょっと、眉をひそめた。 「——よけいなことをなさらねばよいに!」と、その顔つきは明らかに不服である。  で、宋江が、胸をたたいて訊いてみると、 「いや同僚を悪く言いたくはないですがね、劉高もあの細君も、とかく評判のかんばしからぬ方でしてな。ひと口にいえば、夫婦とも陰険で強欲《ごうよく》なんです。賄賂《わいろ》ずきの金持ち泣かせ、貧民いじめというやつで、取柄《とりえ》なしの文官だ。わけてあの、それしゃ上がりの細君ときては、虚栄心のかたまりみたいな女なんだ。そんなやつを、助けてやることはなかったですよ」  と、いっそ山賊の女房が適しているといわんばかりな口吻《くちぶり》だった。  が、宋江は笑って、 「女子と小人。珍らしくもありませんよ。恨みは解くべし、結ぶべからず。いつか鎮台《ちんだい》でお会いになったら、それとなく劉高《りゆうこう》へはなしておやりなさい」 「おう、ぜひ言ってやりますとも」 「いかに小人でも、救われた恩は忘れてはいないでしょう。自然、君にたいしても以後は好意をよせるにちがいない」  花栄《かえい》は感服した。宋江のどこまで人を憎まない寛闊《かんかつ》な態度には自然頭が下がる。  彼ばかりではない。宋江はよく郊外の仏寺や盛り場などを見物に出歩いたが、花栄がつけてよこす従者たちには、酒食その他、びた一文も支払わせたことがなく、それが彼らの収入《みいり》にもなったから、 「いやしくない客人《まろうど》だ。温雅なお人だ。ご親切なお方だ」  と、下僕《しもべ》の端にまで、その気うけは頗《すこぶ》るいい。  はやくも年は明けて、街は初春《は る》気分だった。  その正月十五日の元宵祭《げんしようさい》は、大王廟《だいおうびよう》の境内を中心に、鎮城《ちんじよう》の全街が人出に沸《わ》く。  辻には燈籠門《とうろうもん》が建ち、軒々から大王廟《びよう》の参道まで、花燈籠《はなどうろう》の千燈にいろどられ、掛け屋台の芸づくしやら、龍神舞やら獅子《しし》行列やら、夜どおし、月の傾くまで、上下の男女、歓《かん》をつくすのが慣わしだった。 「……おおこの絵燈籠《えどうろう》はおもしろい。芙蓉燈籠《ふようどうろう》、れんげ燈籠、百合《ゆ り》燈籠、白牡丹《はくぼたん》燈籠。これも街の衆が、筆を競ったのか。……玉梅の図、金蓮《きんれん》の意匠、とりどり余技とも思えんな」  宋江は人波の中に揉《も》まれながら、官邸の者二、三を連れてのそぞろ歩きに、 春の月  いそぐなかれ 人の子ら 惜しむこの夜を 火光樹《あかりのき》  並木をなして 虹の花  地に星橋を架《か》す わするなり 人みな人の世の火宅《かたく》を  と、彼には珍らしい微吟《びぎん》を口誦《くちず》さみなどしつつ、浮き浮きと見物して廻っていた。  するうちに、烈しい人渦《ひとうず》に巻き込まれ、われにもなく、一門の内へ入っていた。道化踊りの一群と、それにくッついて歩く群集の中にいたのだ。そして宋江も周囲の男女とともに、道化踊りに気をとられて、笑いこけた。時に余りなおかしさには、老幼とともに手を叩いて喝采《かつさい》した。  ところが、後ろの一段高い桟敷《さじき》にあって花燈《かとう》の映《は》えを横顔に、玉杯をあげていた綺羅美《きらび》やかな人々があった。これなん文官の劉《りゆう》長官夫妻であったのである。「……オヤ?」と、眼をみはったのは夫人のほうで、 「あなた! ……」と、袖を引っぱって、 「ほら、あの色の黒い、すらっとした男がいま、手を叩いて笑っているでしょう。あの男ですよ。清風山の賊のかしらは」 「なに、こないだおまえに危害を加えかけた山賊の頭《かしら》っていうのは、あの黒奴《こくど》か」 「そうですよ、忘れっこありませんわ」  劉高《りゆうこう》はびっくりして、下に控えている兵長へすぐ命じた。 「あいつは山賊だ。あの色の黒い男を召捕えろ」  あたりの異様な叫びが、自分へ迫る何かの予告と知って、宋江はとっさに、人を掻き分けて遠くへ逃げ走った。しかし、のがれ得べくもない。たちまち追いつかれて、五体は麻縄《あさなわ》の縞目《しまめ》にされてしまった。  翌朝である。彼は官邸の一階下に引き出され、上の廊《ろう》から劉《りゆう》長官の大喝《だいかつ》をあびていた。 「賊の頭《かしら》! つらを上げろ。……燈籠《とうろう》見物にまぎれていたら、誰にも分るまいと思っていたのだろうが、なんぞ知らん、天網《てんもう》恢々《かいかい》疎《そ》にして漏《も》らさずだ。恐れ入ったか」 「おことばですが」と、宋江は夜来《やらい》の沈湎《ちんめん》たるおもてを振り上げて「——私は花《か》長官の客で城県《うんじようけん》の張三《ちようさん》と申す旅人、賊をはたらいた覚えはありません」 「だまれっ。清風山の追剥《おいは》ぎめ。証人があることだぞ」  良人《おつと》の言下に、嬋妍《せんけん》たる衣摺《きぬず》れとともに、廊口の衝立《ついたて》から歩み出て来た夫人が、柳眉をきっと示して言った。 「おまえ、お忘れかい! このわたしを」 「あっ、ご婦人は」 「そうれごらんな。よくも山寨《さんさい》でさんざんわたしを脅《おど》したね。ほかに三名の頭目もいたが、たしかおまえが一番敬《うやま》われていたっけね。大親分はお前なんだろ」 「とんでもない。奥方! あなたこそ、何かお忘れではありませんか」 「なにをさ! 馴々《なれなれ》しいことをお言いでない」 「賊首の三名を説いて、あなたを救って上げた覚えはあるが、大親分などとは迷惑千万です。恩人の私へ、なぜ悪名を押しつけねばお気がすまないのでしょうか」 「まあ、しらじらしくいうわね! あなた、とてもこんな人非人、一ト筋縄では白状しそうもありませんわ」 「いや、吐かせてやる。者ども、こいつを打ちのめせ」  と、あたりの部下に命をくだした時である。門の衛兵が馳けて来て、 「ただ今、花長官の使いがまいって、ご返辞をお待ちしています」  と、一書を彼の手に捧げた。 「……ふむ」と、ひとまず鼻息をひそませて、彼が読みくだしてみると。  昨夜お手にかかって貴邸に捕われたと聞く劉丈《りゆうじよう》は、わが家の身寄りにて、最近、済州《さいしゆう》から来た者です。田舎者とて何か尊威を犯したかもしれませんが、平常のよしみ、偏《ひとえ》にお目こぼしにあずかりたく、いずれ拝面、万謝申しあげますが、懇願までを。恐惶謹言《きようこうきんげん》 小李広花栄《かえい》   「なんだ、当人は、城県《うんじようけん》の張三だといい、花栄の手紙には、済州《さいしゆう》の劉丈《りゆうじよう》とある、察するに、どっちみち出たらめだろう。なに、使いが待っておると。返辞はないッ。追っ返せ」  そしてまた、ただちに檻車《かんしや》の支度を命じ、宋江を、賊名城虎《うんじようこ》の張三《ちようさん》として、州の奉行所のほうへ、差廻す手順にかかりだしていた。  夜来、花栄《かえい》は一睡《すい》もしていなかった。  いやその花栄も燈籠《とうろう》まつりで他家の宴に招待され、明け方帰って、初めて宋江の奇禍《きか》を知ったのである。 「日頃も日頃、もう我慢はならん」  劉高《りゆうこう》の悪罵《あくば》だけを浴びて、追ッ返されて来た使いの言を聞くや、花栄は烈火の如く怒って即座に、 「馬を曳《ひ》けっ」  と、身に鎧《よろい》を着けて、馬上から犀《さい》の笛を吹いた。そしてたちまち調練場の兵舎から馳け集まって来た一隊をひきいて、遠くもあらぬ劉高の官邸へ襲《よ》せて行った。  かくと聞いて、劉高は奥でふるえ上がった。  相手は、同じ長官でも、一級下だが、兵力を握っている軍官である。官級は上でも文官では勝負にならない。 「劉長官はどこにおられるのか。お目にかかってはなしをつけたい」  花栄は外でどなったが、うんもすんもないので業《ごう》を煮やし、ついには、 「空家《あきや》と見えるわ。ええい面倒だ、家探《やさが》しして、わが家の大切な客を助け出せ」  と命令した。  兵はなだれ込んだ。こうなれば理も非もない。狼藉《ろうぜき》乱暴《らんぼう》はつきものである。とどのつまり、宋江を見つけて、その縛《いまし》めを切って助け出し、 「やい劉家の奴ら、文句があるなら言って来い。いつでもあいさつは受けてやる」  と、鬨《とき》の声をあげつつ潮《うしお》の如くひきあげて行った。  あとでは劉高、またその夫人、 「畜生、よくも辱《はじ》を与えたな」  足ずりして口惜しがり、一族の手までかりて、約二百の兵をその夜、逆襲《さかよ》せに、花栄の官邸の門へ差向けた。  防ぐ側、押しかける側、半夜は攻防区々《くく》な揉《も》み合いだった。劉高の寄手のうちには、武芸師範の猛者《も さ》が二人もいて、これが指揮をとり、勢い旺《さかん》だったからである。 「弓をかせ」  花栄は、夜明けがた、わざと正門を八文字に押し開かせ、 「劉家の雑輩《ぞうはい》めら、命がいらぬなら、そこを真っ直に入って来い」  と、手なる強弓に大鏃《おおやじり》の矢をがッきとつがえた。  門外の寄手はさすがたじたじと後ずさッた。花栄はふたたび大音に、 「来ないな、どいつも。——ならば眼を澄まして見物しろ。そこの門の両柱に、泰瓊《たいけい》敬徳、二門神《もんじん》の絵像が貼《は》ってあるだろう」 「…………」 「まず、この第一矢《し》で、右の泰瓊神《たいけいしん》の手こぶしを射当ててみせる」  言下にびゅんと鋭い弓唸《ゆみな》りが人々の耳を搏《う》った。矢は奇術のように、右門神の拳に立っていた。 「次には——」と、早や二の矢をつがえ、花栄は一ばい声を張上げて、「こんどは、左の敬徳神の兜《かぶと》のまッただ中を射よう。眼の玉をひっくり返すな」  きゅっうと、一線の空気が裂けた。はっと我れに返った人々の眼が、左門神の兜《かぶと》に突ッ立った矢を知ると、思わずわっと嘆声をどよめき揚げた。  しかし花栄の手には、さらに第三の矢が用意されかけていた。そしてつがえた鏃《やじり》を、寄手の中へ向けて叫んだ。 「その中の赤い戦袍《せんぽう》と、白い鎧の奴が、雇われて来た師範だな。覚悟をしろ」 「うへッ」  と、彼らの影はすぐ没してしまい、同時に二百の寄手は、蜘蛛《く も》の子になって潰乱《かいらん》してしまった。  こんな大騒動の起因が、自分にあるものと考えては、宋江の性格として、もう晏如《あんじよ》とこれを見てはいられない。  その晩、宋江は花栄へ告げた。 「花君《かくん》、あなたのご懇情は、身に沁《し》みて忘れませんが、しかしこれでお暇を告げるとしたい」 「えっ、どうしてです。劉高《りゆうこう》ごときに恐れをなしてきたんですか」 「一身を恐れるのではありません。あなたも武の長官、彼も文の長官。官紀の紊《みだ》れを恐れます。また両者の私怨がこれ以上深まることを恐れずにいられません」 「だって、元来が没義道《もぎどう》な劉長官だ、こんなときにこそ懲《こ》らしめておかなければ癖になる」 「いやいや諺《ことわざ》にも、物はのどに閊《つか》えないように食え——です。意趣遺恨は人間を変化化道《へんげけどう》にするものです。いったんは君の弓に驚いて引き退がっても、このままでいるものではありません」 「なんの、幾たび襲って来ようとも」 「よしてください。帰するところは、宋江の罪業になるばかりです。また、まずかったのは、私は張三と偽名を言い、君の手紙では、劉丈とお書きになったことでした」 「同じ劉姓を用いたら、多少文字に目のある奴なら、同情もすると思ったからです」 「が。万一にも後々、公事《くじ》沙汰にでもなると、嘘を構えたことだけは争えません。いずれにせよ、私がここから退散すれば、自然、事は氷解《ひようかい》いたしましょう」 「といっても、そのお体では」 「劉の家来に打たれた足腰の痛みぐらいは何でもない」 「しかし、ここを出て行くにも、俄にどこへというあてもないでしょうに」 「ぜひないことです。好ましくはありませんが、一時、清風山の山寨《さんさい》をたよって行き、体の傷が癒《なお》ってから、いずこへでも身の落ちつきを見つけましょう。ま、人間到ルトコロ青山《セイザン》アリですよ。しかし市民の平和を守る鎮台を、逆に修羅《しゆら》としては、宋江の心も愉《たの》しむわけにゆきません」  かくて彼は、五体の諸所に膏薬《こうやく》を貼り、手の肱《ひじ》足くびには繃帯《ほうたい》などして、その夜、花栄《かえい》の家族にいとまを告げた。花栄は心ならずも、軍兵十人をつけて、清風山の麓《ふもと》まで見送らせた。  ところが、宋江の希《ねが》いもとどかず、彼はそれからの山街道の途中で、ふたたび異様ないでたちの同勢に取囲まれ、即夜、元の鎮台大路《ちんだいたいろ》の一門内へかつぎ戻されてしまった。  陰険で、しんねり狡《ずる》い劉高《りゆうこう》は、そんなこともあろうかと、花邸《かてい》の諸門に見張りを伏せておき、その狡智《こうち》がまんまと図に中《あた》ったことを、 「どうだ。案のじょう!」  と独り密《ひそ》かに誇っていたものだった。  そんな結果とは、花栄は夢にも知っていない。以後、劉高が出直して来ないのを、 「はてな?」  と、不審にしていたぐらいなもの。そして宋江の身は、清風山へのがれたものとばかり思っていた。  かかる間に、一方の劉高は、巧妙な偽証《ぎしよう》をならべたてた上申書を作り上げ、その密封を、腹心の家来へ持たせて、時の青州府の奉行、慕蓉彦達《ぼようげんたつ》のもとへ、上申して出た。 ×      ×  今上《きんじよう》、徽宗《きそう》皇帝の後宮三千のうちに、慕蓉貴妃《ぼようきひ》という皇帝の寵姫《ちようき》がいる。  青州奉行は、その貴妃《きひ》の兄にあたる人なので、姓にも二字の慕蓉《ぼよう》、名も二字名で、彦達《げんたつ》といい、妹の威光を逆に兄がかさに着て、いやもうえらい羽振りなのだった。 「なに。——劉《りゆう》長官の上申だと。どれ見せい」  慕蓉は側近の手からそれを取上げ、一度ならず読み返した後、はたと文書函《もんじよばこ》の蓋《ふた》をした。 「これで見ると、鎮城《ちんじよう》の花栄は、軍を私兵化して人民の財をしぼり、あまつさえ清風山の賊魁《ぞつかい》と通じて、事《こと》ごとよからぬ働きをしているとあるが……。花栄も都の功臣の子、劉高《りゆうこう》はまた文官のきけ者。はて弱ったものだな」  と、熟考のすえ、「しかし、捨ててはおけん。黄信《こうしん》を呼べ」  となった。  州軍の警備総長黄信、あだ名は鎮三山《ちんさんざん》、さっそくにやって来て、慕蓉の台下に、拱叉《きようさ》の拝を執《と》ってひざまずいた。  州の管下には、古来警備に手を焼いている険悪な山岳が三ツある。一が清風山、二が二龍山、三が桃花山、それである。  いずれも山は険《けん》で、強盗追剥《おいは》ぎの屈強な雲窟《うんくつ》だった。けれど武技腕力にかけて絶倫な黄信が、みずからその警備軍の長を買って出て「——我れ出でて三山《ざん》に鬼声《きせい》なし」と大言を払ったところから、人呼んで鎮三山のあだ名が呈《てい》せられたわけである。 「こりゃ黄信。きさまは日頃、乃公《ダイコウ》出デテ三山ニ鬼声ヲ絶ツ——などと大言を吐いていたが、なんとしたこと、これを見ろ」  慕蓉は言って、劉高からの上訴の状を読んで聞かせた。そしてこう命じたのである。 「山窟《さんくつ》の賊が、鎮台の将と内通しているような紊《みだ》れでは、まるで無政府同様なざまではないか。すぐさま赴《い》って、黒白をつけてまいれ」  黄信の豪傑がりも、かたなしである。「はっ」と恐懼《きようく》してひき退《さ》がり、即刻、官兵百人の先頭に立ち、馬上、金鎧《きんがい》長剣の雄姿を風に吹かせて、夜どおし道をいそぎ、やがて清風鎮《ちん》の鎮台大路《たいろ》、劉高の公邸の前でまず馬をおりた。 待ち伏せる眼と眼と眼の事。次いで死林にかかる檻車《かんしや》のこと 「なんとも、このたびは恐縮にたえません」  文官劉高《りゆうこう》は、元々社交性には富んでいる。武辺一徹な黄信《こうしん》を、公邸の貴賓室《きひんしつ》へ通して、あくまで恐れ入って言った。 「われわれどもの、地方民治がいたらぬ結果、官辺のご出張をわずらわし、為に、夜どおしのご急下を仰ぐなど、赤面の至りでございまする」  彼の妻女もやがて盛装して、賓客にまみえ、その夜は夫婦しての歓待だった。また、黄信のひき連れて来た一百の官兵も、公邸の庭園で大振舞いをうけていたりした。  使命の負担は忘れ得ぬにせよ、黄信とて悪くない気もちである。現地へ臨んでの事情の聴取なども、つい酒間のうちにすませていた。わけて劉高夫人の口は巧い。 「よろしい、いやよく分った。さっそく明日、鎮台の大寨《たいさい》へ花栄《かえい》を呼びつけて、断乎たる処決をする」  黄信は言ったものである。夫妻のもてなしにチヤホヤされて、権威のてまえ、ついいわざるをえない破目と錯覚《さつかく》におちてしまった形であった。  一方。その翌朝のことだったが。  武官花栄の公邸のほうへは、青州府警備総長黄信の名による令状をたずさえた官兵一小隊がやって来て、 「正午までに、鎮台へご出頭ありたい」  と、かるく告げて立ち帰った。  令状とはいえ、はなはだ私的な文面で、それには、  近来、当地清風鎮のあいだで、頻りに武官の貴下と、文官の劉高との仲に、軋轢《あつれき》が絶えないとの風聞があり、青州御奉行の慕蓉《ぼよう》閣下におかれても、いたくお心を悩ませておられる。  そこでわが輩《はい》に命ぜられ、両者の円満なる和解をはかり、文武官心をひとつに、一そう民治の実績を上げしめよ、との仰せつけ。——万語は拝姿のうえとし、とりあえず右の公命をおびて、大寨《たいさい》の閣中にてお待ち申す。  と、ある。  しかし花栄《かえい》の妻や妹は心配そうに、彼の身支度にいそいそ侍《かしず》きながらも言いぬいた。 「大丈夫でしょうかしら。何かあったんじゃないでしょうか」 「なにもこっちに疚《やま》しいことはないのだから、正々堂々たるものさ」 「でも、宋江《そうこう》さまの経緯《いきさつ》がありますもの」 「その宋江大人はもうこの地を嫌って、清風山へ去ってしまった。あれだってすべて劉《りゆう》夫人の毒のある舌と劉高《りゆうこう》の小心からおこったことだ。こっちで怯《ひ》け目《め》を持ついわれはない」  花栄はやがて出かけたが、わざと従者は五名しか連れていなかった。  しかるに、鎮台《ちんだい》の城寨《じようさい》を一歩入ってみると、この日、なんとなく営庭から庁閣にいたるまでが物々しい空気である。  もっとも日ごろの鎮台兵以外に、官兵一百人が階前に整列して、旌旗剣槍《せいきけんそう》、ひときわ燦《さん》としていたせいもあろう。 「やあ、よくおいでられた」  黄信は彼を待っていた。  見れば、和解のための大饗《だいきよう》の食卓は、すでに設けられている。——黄信からみじかい挨拶があって、 「ここに慕蓉《ぼよう》閣下はおられぬが、これは慕蓉閣下のくだされたお杯といっていい。いざご両所とも、杯を持って、仲よく並んでいただこうか」  と、彼も立って、一方の劉高へ眼くばせした。  とたんに、花栄の背後にいた給仕人たちが、やにわに彼へ組みついた。絶叫《ぜつきよう》、物音、すべて一瞬のまである。閣外の官兵もザワザワと混み入って来て、たちまち花栄の体を高手小手の縄目としてしまった。  それにも怯《ひる》まず、花栄はありったけな声をして周囲を睨み、そして黄信を罵《ののし》った。 「なんで拙者を縛るのだ! これが公平な和解なのか!」 「おお公平なる法規のご処置だ」 「理由をいえ、理由を」 「おのれの胸にあるものを、人に糺《ただ》すまでもあるまい。……だが、白々しい吠《ほ》え塞《ふさ》ぎに、動かぬ証人を突き会わせてやろう。劉《りゆう》君」  と、うしろの劉高を振り向いて。 「かねて君が捕えておいた清風山の紅巾《こうきん》の賊を、這奴《しやつ》の前へ突き出しておやんなさい」 「こころえた」  劉高はすぐ閣外からべつなもう一名の縄付を引っ立てて来た。花栄は一ト目見て仰天した。つい先夜、別離を惜しんで立った宋江ではないか。——相見て、茫然たるばかりである。いうべき言葉も知らず、とはまさにこの刹那の二人の驚きといっていい。 「多言は要すまい」  黄信は、傲然《ごうぜん》として言い払う。 「言いたいことがあるなら、両名とも、青州御奉行の慕蓉《ぼよう》閣下のお白洲《しらす》でいえ」 「あいや」  花栄は満身の怒りをこめ、 「片手落ちだ。なぜ劉高には手もくださんのか。慕蓉閣下直々《じきじき》のお調べは大いに望むところだ。しかし、われらばかりをこの縄目とは心得ぬ」 「だまれっ。鎮台の武官たる公職にありながら、密《ひそ》かには、清風山の賊と好誼《よしみ》を通じ、軍を私兵化して、人民の財をしぼり上げるなど、平素のことは残らず慕蓉閣下のお耳にも入っているのだ。——何よりの証拠は、その賊魁《ぞつかい》の男を見たとたんの貴さまの顔にも現われていた。——それ者どもこの両名を、用意の檻車《かんしや》へすぐ打《ぶ》ち込め」  二輛《りよう》の囚人車は、すでに営庭の一隅に支度されてあったのだ。そして、せっかくの午餐《ごさん》の卓は、それから後、黄信とその幕僚とまた劉高《りゆうこう》とが、わが事成れりと、杯を上げあう談笑の座と変っていた。 「オオまだ春先だから日は短い。こうしても居られまいて」  すぐ黄信が立つ、幕僚は出発を部下へ命じる。  いざとの立ち際にも、劉高はそっと一嚢《のう》の沙金《さきん》を袖の下へつかい「諸事、よろしく」と黄信の沓《くつ》をも拝さんばかりな媚《こ》び方《かた》、ともに、青州行きの列に従った。——すぐ鼓楽《こがく》、角笛《つのぶえ》のうちに官兵の旗は列をととのえ、二輛の檻車を中にくるんで鎮台大門から整々《せいせい》として出て行った。  浅春《せんしゆん》の陽は白々と薄ら寒い。  すでにしてこの日のたそがれ、護送の官兵は、清風山麓《さんろく》の冬木林へかかっていた。骸骨《されこうべ》にも似た梢《こずえ》に烏の大群は何かを待つらしく引ッ切りなしな啼き声をあげている。そのうちに、先頭の兵が、 「オヤ、これで二度見たぜ」 「おれも見た、いやだぜ、おい」 「あっ、また先にいやがる。なんだろ? 林のあッちこッちの蔭から人間の眼が覗《のぞ》いていやがる」  自然、足がにぶり出した。  黄信の直感もまた、そのせつな何かにそそけ立った様子で、 「劉《りゆう》君。何か事が起ったら、君は檻車《かんしや》のそばを離れるな。檻車をたのむぞ」 「はっ」  とはいったが、根が文官育ちの劉高、サッと途端にもうその顔には血の気もない。  はたせるかな、ほどなく林道の彼方《かなた》に躍り立つ三彩の三獣みたいな人影がある。  一個の男は黒色の袍《ほう》を着て戦斧《せんぷ》をひっ提げ、次の大男は赤地金襴《きんらん》の戦袍《せんぽう》に卍頭巾《まんじずきん》といういでたち。また三番目の野太刀を持ったひょろ長い男は緑衣《りよくい》であった。 「やい、待てっ」  彼らはまるで、戦陣の将軍気取りに、こう名《な》のりを揚《あ》げ連《つら》ねたものである。 「おれを知らねえか。清風山の頭領、錦毛虎《きんもうこ》の燕順《えんじゆん》たあおれのこった」 「おなじく兄弟分の矮脚虎《わいきやつこ》王英」 「つづいては、白面郎の鄭天寿《ていてんじゆ》だ。——世間は知らず、ここへおいでなすッちゃ、てめえらのお上《かみ》かぜも効《き》き目《め》はねえぞ」 「二つの檻車をおれたちへ献上して退《ひ》きさがればよし、さもなくば」 「一匹でも生かして帰すことじゃあねえ。性《しよう》をすえて返答しろい!」  聞くと、黄信は馬の鞍ツボに立って、怒髪《どはつ》を衝《つ》いた。 「よくぞ出て来た。泣く子もだまる鎮三山《ちんさんざん》と異名のあるこの州軍総長の黄信を、うぬらはまだ知らねえな。……それッ陣を開け」  ところが、日頃の訓練も用をなさず、部下の兵は逆にわっと四散し出した。数知れぬ賊の手下が前後に見えたばかりでなく、伏勢は頭上にもいて、樹々の梢《こずえ》から雨とばかり毒矢を射浴びせてきたからだった。 「残念っ」  と叫びながら、林の小道で、黄信《こうしん》も馬の背から振り飛ばされていた。逃げる三彩《みいろ》の賊魁《ぞつかい》を追ッかけたのが因《もと》だった。“引伏セ”という茨《いばら》や張縄《はりなわ》の陥《おと》し穴に落ちたのである。すぐ狂い馬に取ッついて、再び馬上には返ったものの部下の一兵も早や辺りには見えない。  喊声《かんせい》は諸所に聞える。陽は早や暮れて、それが一そう不気味だった。のみならず得態《えたい》の知れない火光が林を透《とお》して方々に見えたから、 「やっ。これは火計だ。焼け死ぬぞ」  とばかり黄信は無性にムチで馬腹を打ちつづけた。そしてひとまず元の鎮台大寨《たいさい》へ馳けもどり、鎮台兵を挙げて非常の備えにかかるとともに、事の異変を青州奉行の慕蓉《ぼよう》閣下へ早馬で急報した。  慕蓉は深夜、それの急使に起されて、 「何事か?」  と、黄の一書を見るに。  ——上命を拝して現地へ臨み、反逆人花栄《かえい》と一賊を檻車《かんしや》に乗せ、かつ劉高《りゆうこう》を証人として、青州へ立ち帰らんとする。途中、清風山の群賊、道をはばめて、檻車もろとも花栄、劉高の身をも奪い去って候《そうろ》う。……為に、県下の騒乱ひとかたならず、すみやかに二次の官軍と良将を御派遣あって、治安のため焦眉《しようび》の御指導を給りたく……云々《しかじか》。恐惶《きようこう》謹言。 「すぐ秦明《しんめい》を呼べ!」  夜中ながら彼はさっそく登庁して吏《り》を走り廻らせた。  召しに応じて、霹靂火《へきれきか》の秦明は、ただちに庁内へその姿を見せた。  彼は、青州第一の兵馬の家の者である。性、気みじかで、すぐ雷声《かみなりごえ》を出すところから霹靂火のあだ名があり、ひとたび狼牙棒《ろうがぼう》とよぶ仙人掌《さぼてん》のような針を植えた四尺の棒を打てば万夫不当な概《がい》があった。 「総監。すぐさま一軍をつれて、清風寨《せいふうさい》の鎮圧にまいってくれ。云々《しかじか》な次第で、黄信も手を焼いてしまったらしい」 「心得ました。大言ながら秦明が馳せつけるからには、ご憂慮には及びません」 「だが、軍官の花栄が寝返ッて賊中で指揮をとっている由だぞ。油断するな」  慕蓉は兵を鼓舞するために、自身、城外の鼓楼《ころう》へ床几《しようぎ》を移して、兵一人宛《あ》てに酒三杯、肉まんじゅう二箇ずつを供与して、その行《こう》を壮《さかん》にした。  やがて紅《くれない》の縁《ふち》をとった紅炎旗に「兵馬総監秦《しん》、統制」と書いた大旆《たいはい》を朝風にひるがえして、兵五百の先頭に立った秦明は、馬上から鼓楼《ころう》の床几《しようぎ》へ向って、 「では行って来ます。吉報は旬日《じゆんじつ》のまにお耳に入りましょう。おさらば」  とばかり軍鼓《ぐんこ》堂々と、東南の道へくだッて行き、その歓呼と狼煙《のろし》の下に、慕蓉《ぼよう》もまた手を振ってその征途を見送ったものだった。  ところで、一方、清風山上の賊寨《ぞくさい》では。  あの日、黄信の不意を突いて、首尾よく宋江と花栄の檻車《かんしや》を打ち破り、二人の身を山上の砦《とりで》へ助け入れてから、さてその夜は、再生再会のよろこびと事のいきさつの語り合いで、一朝の悲境も一転、まるで凱旋《がいせん》の宴《えん》にも似ていた。 「憎むべき奴は、文官の劉高」  すべては、彼の拵《こしら》え事にあるとなして、宋江が、 「劉高も捕えたでしょう。這奴《しやつ》をここへお連れ下さらんか」  というと、賊のかしらたちは、事もなげに笑って言った。 「その劉高は、とうにあの世の亡者です。連れて来るには十万億土《おくど》まで呼びに行かなければなりません」 「や、もう斬ってしまったのか。やれやれ、無造作な」 「でも先生。あんな野郎は、なにもそう惜しがることアございますまいに。……それよりは今度こそ、劉高が持っていたあの女を、この王矮虎《おうわいこ》に授けておくんなさるでしょうね」 「まだあんな執着を捨て切れねえでいやがる。なんて鼻の下の長い奴だろう」  矮虎の顔を指して、一同はどっと笑った。  あくる日になると、物見《ものみ》の報が入った。——先に黄信が劉高の手に乗って宋江と花栄を檻車に封じたことも、また何から何まですべての予察は、みな彼ら特有なこの“飛耳張目《ひじちようもく》”の探りによっていたのである。 「黄信が鎮台兵を召集している!」  するとまた、翌々日には。 「いやそれよりも、青州一の兵馬総監、霹靂火《へきれきか》の秦明《しんめい》が、兵五百騎でやって来る!」  つづいては、同日の晩から翌朝にかけ。 「一路、青州街道からここの北麓《ほくろく》の下へ近づくらしい」 「すでに七十里先に見えた」 「麓から十里ほど手前で兵馬をとめ、今夜は野営する様子!」  刻々の物見の声は、まるで颱風来《たいふうらい》のようである。が、山寨《さんさい》の中はしんとしていた。  宋江がいる。  また小李広花栄もいる。  おそらくは、清風山全体の賊は、二人の智と勇に恃《たの》んで「——来たら来た時、ござンなれ」としていたのではあるまいか。 秦明《しんめい》の仙人掌《さぼてん》棒《ぼう》も用をなさぬ事。ならびに町々三無用の事  わざと山麓《さんろく》に一夜を明かして、大いに英気を養った官兵は、黎明《れいめい》と同時に、山へむかって、ど、ど、ど、どウん……  と砲口を揃えて、まず石砲をぶッ放した。  つづいて銅鑼《どら》や陣鼓《じんこ》の音が、雲を裂くかとばかり野に起ると、山上からも狼煙《のろし》が揚がり、山くずれのような一陣の賊兵が麓ぢかく陣をしいた。 「やあ、洒落《しやら》くさい草賊めら」  秦明《しんめい》は、金鎧《きんがい》さんらんたる馬上姿に、例の鉄の仙人掌《さぼてん》棒《ぼう》を小脇に持ち、近づいてみると、賊兵の中に擁《よう》されている大将風なのは、まぎれもない小李広花栄《かえい》ではないか。  かっとなって、馬をすすめ、 「やい花栄《かえい》。なんじの家は代々朝廷の一武官たる上、身は鎮台《ちんだい》の将として地方へ赴任していながら、山賊の仲間に落ち入ったとは何事だ。恥を知れ」 「おう秦《しん》総監か。まず聞き給え。これには深い仔細のあること」 「言い抜けは無用だ、公辺にはもう真相は知れている」 「そもそも、その真相とは、劉高《りゆうこう》の拵《こしら》え事です。まったくは」 「問答無用、陳弁ならば公庁で吐《ほ》ざけ。おれはきさまにお縄を頂戴させるまでのことだ」 「上官と仰いで、一応のことわけを申すに、それすら聞いてくれないのか」 「叛乱人《はんらんにん》のくせに虫がよすぎる! 縛《ばく》に服せ、小李広っ」 「なんの! かくなる上は」  広場をえらんで、双方の馬と馬、卍《まんじ》にもつれた。花栄の閃々《せんせん》たる白槍《びやくそう》、秦明の風を呼ぶがごとき仙人掌《さぼてん》棒《ぼう》、およそ四、五十合の大接戦だったが勝負はつかない。  その間じゅう、敵味方の金鼓《きんこ》と、わあッという喊声《かんせい》は、山こだまを揺《ゆす》り鳴らす。それはすばらしい二人の剣戟《けんげき》俳優の熱烈な演舞をたすける、劇音楽と観衆の熱狂みたいな轟きだった。——そのうちに花栄のほうが、 「これは勝てん」  と、あきらめたか、急に道をかえて逃げ出した。 「卑怯《ひきよう》っ」  追ッかけた途端に、秦明のかぶとにカチンと矢が刎《は》ね返り、朱い房が切れて飛んだ。  見れば、花栄はすばやく手槍を鞍わきの了事環《りようじかん》(槍挟み)へ預けて、その手には半弓を持ちかえていたのである。 「あっ、這奴《しやつ》は弓の名人!?」  身を、馬のたてがみへ俯《う》っ伏せたすきに、すでに花栄の姿は雲林《うんりん》の裡《うち》に消え去っていた。  あちこちにおける部下と賊兵の小ぜり合いは、らちゃくちゃもない。彼は一たん兵を平野へ下げて兵糧《ひようろう》をとり、再度山へ攻め登った。 「オオ。西の峰だぞ、あのドンチャンな銅鑼《どら》や鬨《とき》の声は」  しかし、秦明がその西の峰を、えいえい声で攻めて行くと、応《こた》えは谺《こだま》ばかりだった。 「ヤッ、賊は東谷の向うです。谺《こだま》のせいで、西に聞えたのかもしれません」  部下の注意に、きっと谷向うを見渡すと、なるほど賊の紅旗が見える。 「それ行けっ」  だが、道を急ぐだけでも、百難の思いがあった。細い杣道《そまみち》にはわざと大木を伐《き》り仆してあり、枯れ柴を踏めば、陥《おと》し穴ができている。  その上、からくも沢を渡って、東の峰へたどりついてみると、何としたこと! ここにも人の気《け》はないのである。森閑として春浅き樹海にはただ鳥の音が澄んで聞えるだけだ。 「くそうっ。この秦明《しんめい》を小癪《こしやく》な偽計《ぎけい》でたばからんとするのだな。いまにみろ」  一ト息入れるまもなかった。またたちまち、百雷のような銅鑼《どら》の乱打がどこかでする。銅鑼の打ち方もただの戦陣拍子《びようし》でなく、まるで人を揶揄《やゆ》するような囃《はや》し方としか聞えない。 「下だ、下だ! もうすこし下の東寄りだ」  上からの攻勢は戦法の利と、無造作に雪崩《なだれ》かけたのが、またぞろ重大な過誤とはなった。途中、山肌の剥《は》げている片側道が削られていたのである。土砂もろとも、人馬は谷底へころげ落ちた。「止まれッ、止まれ!」と叫んでも後からの勢いに、瞬時、歯止めの効《き》かない車覆《くるまがえ》りの如き惨状を見てしまった。 「ひとまず退《ひ》けい。道をあらためて、こんどこそは潰滅《かいめつ》してやる!」  短気で鳴っている秦明も、いまはただ呶号《どごう》に呶号するばかりだった。怪我人を谷から拾い集めて一たん野営の場へひきあげた。そして休息ついでに早目な晩の兵站《へいたん》に夕煙を揚げはじめた。  するとつい今しがた降りて来たばかりな山中で、またも前にもまさる鬨《とき》の声や金鼓《きんこ》のひびきだ。自身はヘトヘトだったので、一隊を割《さ》いてまず前哨戦にやってみると、これがなかなか帰って来ない。  しかも、銅鑼《どら》の乱打はなお嘲《あざけ》るごとくつづいていたから、たまりかねたか、彼は再び馬上となって全軍へ号令した。 「兵糧は賊徒を踏みつぶしたあとでゆっくり食おう。山寨《さんさい》には酒や肉もうんとあるに違いないぞ。奮《ふる》えや者ども」  しかし、再び山へ馳《か》け入ると、東山《とうざん》の音声《おんじよう》はバッタリ消えて、かえって反対な西山の一角にチラチラ数知れぬ松明《たいまつ》の火が見える。 「さてはやはり、賊は西か」  と、昼の一道をとって引っ返せば、さらに思わぬ高い所に炬火が見えて、ここ西山の山ふところは、ただ暗々黒裡《あんあんこくり》の闇でしかない。秦明は切歯した。怒髪をサカ立て、毛穴は血の汗を吹きそうだった。 「兵卒、あの高い所へ行く道はないか」 「南へ迂回《うかい》すれば本道があるそうですが」 「さてはそっちが奴らの大手口とみえる。ぜひもない。南へ廻れ」  そこで東南路へ向ったが本道へ出るにもさんざんな苦心があった。すでに陽はとっくに暮れている。ぼやっと黄色い月があった。月光をたよりにやっと大道を見つけだし、折々、暗がりから射てくる伏勢の矢風だった。無二無三それを突破しながらすでに登りつめること数十町、ふと仰ぐと、やっと頂上へ出たか平《たい》らかな岩盤とかなり広そうな平地がある。  頂上には赤々と幾つもの篝《かがり》が燃えさかっているらしい。賑やかな笛や太鼓の音はまるで遊興の場のようだ。しかも何事ぞ! と秦明の怒気はいまや頂点に達していた。そこの平らかな岩盤を酒の場として、花栄や宋江や頭目《とうもく》どもが、杯を手に、風流な談笑でも交《か》わしているかのような姿ではないか。 「うごくなッ。賊どもっ」  彼らの前に、こう馬を躍り立てて大喝《だいかつ》したが、 「おう、秦《しん》総監、遂にやって来られたか」  誰かがそれにこう答えたのみである。驚く者などは一人もない。 「さぞおくたびれであろう。馬を降りて、あなたもここで一献《こん》なさらんか」 「ば、ばかなッ。賊ども、神妙にお縄をいただけ」 「わはははは」  その笑い声が合図だったと見える。秦明《しんめい》の体は竿《さお》立ちになった馬の背から抛《ほう》り出され、馬は体じゅうに矢を負ったままどこへともなく狂奔してしまった。  同時に、秦明も横ッ飛びに危地を避けて、うしろへ続いていた味方の中へころげ込んだ。とたんに四面四山は耳も聾《ろう》せんばかりな陣鉦《じんがね》、陣鼓《じんこ》、陣螺《じんら》の響きであり山の人間どもの諸声《もろごえ》だった。——無我夢中で秦明は兵とともに逃げなだれた。——けれどもその疾走よりも速い谷川水が彼らを追ッかけ、ついに道を失ってしまった。道が河に変じてしまったのである。  この計略たるや、すべて宋江と花栄《かえい》の方寸から出たものだった。東峰と西峰にいわゆる兵法の“まぎれ”を伏せ、山の小道を“悩乱《のうらん》の迷路”に使い、また道を河にするには山寨《さんさい》の貯水池を切って落したものなのだ。  官兵五百のほとんどは、これでかたがついてしまった。しかしかねてから賊の手下に命じておいたことだから、いちど溺死しかけた秦明の身だけは、やがて縄目にされて曳かれて来た。場所は賊殿《ぞくでん》の本丸である。賊は“山寨《さんさい》の聚議場《しゆうぎば》”とそこを呼んでいる。 「やっ、花栄だなきさまは。おれは生け捕られたのか。だのになぜおれの縄を解く。……さ斬れ、花栄。なぜこの秦明を八ツ裂きにせんのだっ」 「秦《しん》総監。——夜来の失礼はおゆるし下さい。あなたを殺すなといっているのは、そちらにおられるお方です」 「なにっ?」  秦明は血走った眼を横へやって。 「さては、なんじが一山の賊の首魁《しゆかい》か」 「ちがいます——」花栄が言って、彼の眸《ひとみ》のやりばに注意を与えた。 「賊のかしらは、こちら側に居並んでいる者たちで、上から順にいえば、錦毛虎の燕順《えんじゆん》、矮脚虎《わいきやつこ》の王英、白面郎の鄭天寿《ていてんじゆ》」 「賊でない奴が、ここにいるはずはない。花栄、きさまも今は張本《ちようほん》の一人だろうし、そこの椅子《いす》にいる色の黒い男も、いずれは悪党の頭株にちがいあるまい」 「いいやそのお方こそ、宋押司《そうおうし》です」 「押司だと」 「山東の及時雨《きゆうじう》、宋公明さんですよ」 「げえっ。この人が?」 「よっく心をおちつけてご対面なすってごらんなさい。かねて城県《うんじようけん》から諸州へ配付された“宋江人相書”なるものはご記憶にあるはずではございませんか」  穴のあくほどじイっと宋江の顔やら風采を見つめていた秦明は、やがてのこと、がくんと肩を落して平伏した。 「いったい、これはどうしたわけか。どうして、かのご高名な宋押司《おうし》が、こんな所におられたのか。……まるで夢のようだ。自分のしたことの恐ろしさに身がふるえる」 「どうぞお手を上げてください。いかにも宋江は自分ですが、それではお話もできかねる」  宋江はしいて彼を対等な一椅子《いす》につかせ、そして、城県《うんじようけん》出奔の事情から、つい先ごろ、花栄の家に身を寄せているうちの奇禍《きか》と、劉《りゆう》夫妻の奸計におちたことなどを、逐一諄々《ちくいちじゆんじゆん》とはなしてゆき、その理非黒白をほぐしながら話して聞かせた。 「過《あやま》ッた」と、まっ正直なだけに、秦明は、慚愧《ざんき》と義憤におもてを焼いて——「すぐ拙者から慕蓉《ぼよう》閣下へ釈明しましょう。まるで事実はうらはらだ。明朝ここを放してください」 「いやまあ、そのお体では、即座にご出発は無理でしょう。まあ、ごゆるりと」  いわれてみれば、豪気な秦明も五体節々《ふしぶし》痛い所だらけである。手当をうけてつい二日は過ぎた。しかし考えると居ても起ってもいられない。 「山寨《さんさい》の衆、お願いがある。すでに亡《な》い命を、拙者におあずけ下されたうえ、なお虫のいいお願いだが」 「なんですか、いってごらんなさい」  そばにいた燕順がこう聞いてやる。秦明は首を垂れて言った。 「拙者のよろいかぶと、狼牙棒《ろうがぼう》。それと馬やら兵器やら、なお生き残りの部下がいたら、あわせて、返して下さらんか」 「で、どうなさるつもりです?」 「州へ戻って、慕蓉閣下のまえに罪を詫び、また、文官劉高の日ごろの悪と、偽訴の次第を、事つまびらかに申し上げて、治下の秕政《ひせい》を正す献策《けんさく》の資《し》といたしたい」 「それはご殊勝なこッてすな」と、燕順はニガ笑いして——「ですが総監、そいつアどんなもンでしょう。五百の官兵を失ッて逃げ帰った不届き者と、逆に暗い所へぶち込まれるのがせきの山じゃございませんか。どうです! それよりはいッそこのまま、ここの荒山草寨《こうざんそうさい》をお住居として、ひとつ渡世の道を考え直してみなすッては」  すると、秦明は奮然と色をなして、賊殿《ぞくでん》の一室から外へ出てしまった。 「いかに囚《とら》われとなろうが、この秦明の腸《はらわた》はさほど腐ッてはいませんぞ。家代々朝廷のご恩をうけ、身は州の兵馬総監。なんで忘恩の賊となり、おかみへ反抗できようか。いざ、弓でも槍でも持って来て、この胸板をグザとやって下さい。——霹靂火《へきれきか》秦明の血はまだきれいなはずだ」  それを見ていた花栄は、聚議場《しゆうぎば》の階を馳《か》け降りて来て、 「まあ、まあ」  と、彼をなだめて連れもどった。 「お心もちはよく分りますが、ともあれそのお体ではまだご無理。もすこしご養生をしなくッちゃいけません」  秦明の立場は同情にあたいする。特に宋江はよく察していた。それにほだされて彼は泣いた。宋江や花栄や頭目《とうもく》たちは彼を慰《なぐさ》めるべく小宴の酒盛りをひらいた。しかしほがらかに酔いもできない秦明《しんめい》だった。  またそれから五日ほどおいて、彼はいよいよ山を降りた。宋江以下は麓《ふもと》まで見送って来て、彼の甲冑《かつちゆう》や狼牙棒《ろうがぼう》を返してくれた。彼は恩を謝して、馬にまたがるやいな、青州の方へさして飛ぶが如く帰って行った。  ところがである。その次の日だ。青州郊外十里の辺まで来た秦明は、 「や、や、これはどうしたことだろう?」  と茫然《ぼうぜん》、馬をとめた。街道口の人家から城内へわたる町屋根は、一望瓦礫《がれき》の焼け野原と化しているではないか。  しかもただの火災や野火ではない。行く行く見れば、兵の死骸や黒焦《くろこ》げの男女の死体もころがっている。あきらかにこれは戦《いくさ》の酸鼻《さんび》であった。秦明は我を忘れて馬にムチをくれ、一気に州城の城門下まで飛ばして行った。そして城壁の下から、 「開門、開門っ。……おれだ、おれだ、城門を開いてくれ」  と、どなった。 「なにっ、秦明が立ち帰ったと」  どよめきの中ではこんな声がして、城壁の墻頭《しようとう》から無数な人間の首が外を覗《のぞ》いた。しかし鉄扉《てつぴ》のひらく様子はない。のみならず一声の喇叭《らつぱ》がつんざき渡り、鼓楼《ころう》の太鼓がとどろくと、彼のあたまの上から奉行慕蓉《ぼよう》の声が、こう聞えた。 「やあ人非人! むほん人めが! ぬけぬけ開門とは白々しい。またも我れらをあざむくため、その姿をば見せしよな。何条《なんじよう》、再びその手に乗ろうか。そこうごくな、引ッとらえて火あぶりの極刑に処してくれん」  秦明は仰天して、上へ哀号《あいごう》した。 「閣下、閣下。何かのお間違いではありませんか。重々不覚は取りましたけれど、むほん人などとは、心外な仰せ」 「だまれ、その甲冑《かつちゆう》、その二つとない狼牙棒《ろうがぼう》。馬もまたそれだ」 「それがどうしたのですか」 「とぼけおるな。一昨夜の深更、賊兵を指揮して、大胆にも、州城の内外を荒し去った賊の中に、はッきりと、なんじの馬上姿を見た者がある!」 「げッ。この秦明が?」 「覆面こそしていた由だが、火光歴々《れきれき》、骨柄《こつがら》から働き振りまで、秦明その者にまぎれなしと、目撃した兵のすべてが一致した声だ。憎ッくい奴め。よくも慕蓉《ぼよう》の恩寵を裏切りおったな。その報復には、なんじの家族はこれこの通りだ。……天罰のほどを見よや秦明」  と、慕蓉が手をあげると、かたわらの兵が数本の槍を壁上からさし出した。見ればその槍の穂には彼の家族の首が一個ずつ刺しつらぬいてある。最愛な妻の首も中に見えた。 「あさはか者め! 五百の兵は失い、賊にはそそのかされ、あげくに何か嘘言《きよげん》をかまえて、家族を連れ出さんの所存であったろうが、そうはさせん。——それっ、這奴《しやつ》をのがすなッ」  一下の号令とともに乱箭《らんせん》の雨がたちどころに彼の姿をつつみ、その口からは哭《な》くが如く、また血を吐く如き一声が、 「ああっ……」  と、聞えた。  けれど刹那には、本能的な一鞭《べん》がビシッと馬腹を打っていた。そして飛鳥のようなひるがえりを見せたと思うと、城壁の蔭からそれを狙ッて石砲の石弾がドドドッと撃ち出された。ばッと黄色い砂塵が立ち、つづいて吶喊《とつかん》してゆく一隊二隊が辻に見えた。しかし彼を乗せた悍馬《かんば》はいくたびとなく歩兵を蹴ちらし、槍ぶすまを突破して、見るまに郊外十里の外まで彗星《すいせい》のように飛び去ッていた。  ——と、行くての木立の蔭に、一陣の旌旗《せいき》と人馬が屯《たむろ》していて、 「やあ秦《しん》総監、どこへ行かれる?」  と、横ざまに五騎の馬首を並べ立てて、彼の道をさえぎッた。  みれば一人は宋江である。また花栄、燕順、王矮虎《わいこ》、白面郎らの面々なのだ。 「青州の灰燼《かいじん》には、さだめし仰天なされたであろうが、仔細はあとで申しあげる。われらはお迎えに出ていたもの。ともあれ、再び山寨《さんさい》へお戻りください」  山兵二百人に擁《よう》されて、ぜひなく秦明はまた山へ返った。聚議場《しゆうぎば》では、彼を正座にすえて、はやくも酒餐《しゆさん》の卓が飾られる。と見るや秦明は、 「あいや」と、つよくその杯を拒《こば》んだ。——「お笑いを受けるかしれんが、自分の心中はいま酒どころでない。断腸の念にたえないのです。どうかごめん蒙《こうむ》りたい」 「わたくしが悪かったのだ」  宋江は深く謝罪して言った。 「いわばあなたの人物を惜しむの余り、奇計をめぐらし過ぎて、その結果、あなたの家族らを非業な死に目にあわせてしまった。なんとも申しわけありません」 「えっ。では宋押司《おうし》、足下《そつか》がやった仕業《しわざ》だと仰っしゃるのか」 「手をくだしたのは、私ではない。しかし私の策がその奇禍を招いたといえましょう。……じつは花栄、燕順らのすべてが、あなたの人物に惚れ込み、どうしても仲間に入れて、刎頸《ふんけい》の誓いを結びたいとの願い。しかし、あなたはおききいれがない」 「……?」 「で実は、ご辺《へん》が山寨《さんさい》にいるうちに、山兵のうちからあなたの背丈《せた》け風貌にそっくりな者を選び出し、それにご辺のよろいかぶとを着せ、また狼牙棒《ろうがぼう》を掻《か》い持たせて、燕順、王矮虎《わいこ》らの手下二百とともに、夜半、青州城を襲って、城内外を荒し廻ったというわけです。……そうすれば、あなたは山寨にもどるしかないという目算から」 「さてはそうだったのか……。むむ、宋江っ、外へ出ろっ」  秦明は憤怒して、仙人掌《さぼてん》棒《ぼう》を持ちかけた。 「あっ、待ってください」  花栄以下の者、みな彼の足もとに、平身低頭して、 「やりばないご忿怒《ふんぬ》はもっともです。しかし宋先生お一人へ恨みをかけるのは当っていません。元々、霹靂火《へきれきか》秦明なる男に惚れ込んでこんなにまで執着を持ったのはわれわれどもなんです。これや何かの因縁でもありましょうか。どうにも思い切れなかった。今はこの罪の償《つぐな》いもできませんが、未来へかけてお詫《わ》びします。どうかここは怨涙《おんるい》を忍んで、われらの杯を受けてください。いや、われわれを義の弟として、長く引ッ提《さ》げて行ってください」  こう首を揃えて詫び入られ、また、こうまで、男が男に好かれたのでは、果てなく愚痴をいってもいられない。  かえりみれば、秦明《しんめい》もいまは天涯孤独だ、死んだ者が生きて還るわけでもない。かつは官途の腐敗も痛感している。ついに彼は杯をうけて、ここに山沢《さんたく》の同じ悲命児らと、生涯の義を結ぶこととなってしまった。——これや後々になって思えば、すべて天地の不可思議というしかなく、百八の宿業星が、自然この土《ど》に生れて相会す奇縁《えにし》というしかないものだった。  一方。——清風鎮《せいふうちん》の鎮台大寨《たいさい》に軍備をしいて、慕蓉《ぼよう》閣下の救援を待っていた黄信《こうしん》は、或る日、「おや、あれへ来るのは、秦《しん》総監ではないか。たった一騎で、はて何しにこれへ?」  と、そこの望楼《ぼうろう》から、鎮台大路を見下ろしながら怪しんでいた。  まもなく、大寨門から伝令が来た。やはり秦明であったのだ。彼にとっては上官でありまた武術の師でもある秦明である。自身、出迎えて、柵内《さくない》の接官亭に請《しよう》じ、つぶさに秦明の口から、こんどの事件の表裏やら、また秦明自身の境遇の一変をも、聞いたのだった。 「へえ? ……ではすべて、劉《りゆう》夫妻の悪だくみだったんですな」  事ごとに、黄信は意外な眼をみはって、 「道理で、ここにいてみると、城下一般の声は、みな花栄を惜しみ、文官の劉を憎む者ばかりです。だが総監、あなたまでが、花栄につづいて賊寨《ぞくさい》に身を投じたというのはどういう発心なのかわかりませんな」 「運命の悪戯《いたずら》か、おれにも発心は分っていない。けれど山東の及時雨《きゆうじう》、宋公明《そうこうめい》がそこにいる。おれは夙《つと》に宋江の人柄には心服していた。会ってみても義心厚く、心のきれいな人とは信じられた。そうだ、おれの発心は宋江を信じたことによるものだろう」 「えっ、宋公明がどこにいるんですって」 「はははは。黄信、貴公はその人を現在手にかけていたではないか。檻車《かんしや》に乗せて君が護送して行った城虎《うんじようこ》の張三《ちようさん》というのが、じつはその人だったのさ」 「ほんとですか」と、なお半信半疑のていだったが「——知らなかった。さりとは口惜しい。もしそれが宋公明とわかっていたら、身をかえても、逃がしてやったものを。……それにつけ、おれはなんと馬鹿だったろう。まんまと口上手な劉《りゆう》夫妻の甘言にもてあそばれていやがった」  黄信は自分の頭を叩いて悔《く》やみぬいた。 「……ところで」  と、秦明は目的の要談に入った。  いわずもがな、彼の目的とは、黄信を説いて、血を流すなく、花栄の官邸にのこしてある妻や妹たちを寨外《さいがい》へ救出させることにあった。  また自分とともに、黄信をも、一味へ引き入れる誘いでもあったのだ。 「ぜひ仲間の内へ」  と、黄信はそれに応じたので、ただちに、秦明と二人で、鎮台城頭の官旗を下ろした。  遠くで、それを合図と見ていたものか、たちまち清風鎮の街中へ、約二百の山兵が、燕順、王矮虎《おうわいこ》、白面郎などに引率されて粛々《しゆくしゆく》と入って来た。 「や、官軍じゃないぞ」 「山兵だ、山賊だ」  町民はふるえ上がり、家々では戸を閉めた。  けれどこの山兵軍は、規律整然、さもしげな他見《よそみ》もしない。  鎮台の諸門は開け放たれ、宋江はただちに“市札《しさつ》”を辻々に立てさせた。  閉業《へいぎよう》、無用  恟々《きようきよう》、無用  隠匿《いんとく》、無用  こう三無用の触れだった。  しかしただ一ヵ所、文官劉高がいた公邸へは、すぐ山兵が殺到していた。そして劉《りゆう》の家来は殺戮《さつりく》され、奥に隠れていた夫人は引きずり出されて山へ送られた。——さらにその倉庫からは、種々《さまざま》な財宝が道へ積み出され、牛、馬、鶏、羊などとあわせて、それら財物はすべて貧民たちの手へ公平に分配された。  一面、花栄の公邸から、花栄の妻や妹が救出されていたのはいうまでもない。が、花栄はその肉親たちを連れたのみで、公邸の家財はやはり困窮者の布施《ふせ》に頒《わ》けてしまった。  かくて、山兵が獲《え》た物は何かといえば、鎮台内の備品や食糧や兵具であった。それだけでも彼らの凱旋《がいせん》を賑わすには持ちきれないほどの分捕り品であった。——全員、歓呼のうちに山寨へひきあげる。当夜の大宴は、山寨中の端から端までの大はしゃぎ。  ところが、いつのまにか、王矮虎ひとりだけが宴の中に見えない。 「ははアん。……あの女好きめ、もうはやいとこを、やってやがるな」  白面郎の岡焼きを小耳にとめて、燕順が、 「そうだ、宋先生、あの劉夫人めの処分は、どうしましょうか」 「つれて来給え」  即座に、白面郎と燕順がどこかへ行って、劉夫人を拉《らつ》して来た。それに従《つ》いて、いかにも不服面《づら》なのは、王矮虎だった。矮虎は宋江を見るやいな先手を打った。 「先生、かまッておくんなさるな。女はもう自分の体を、この矮虎にまかせてしまったんですからね」 「そうか、思いをとげたのか」 「へへへへ、いわば今からはてまえの女房ッてわけですからね」 「それは考えものだろう。思ってもみろ。かつてこの宋江が、危難を助けてやったのに、その恩をアダで返し、ために以後の大きな禍《わざわ》いをよび起した毒婦ではあるまいか」 「毒婦結構、先生の前ですが、河豚《ふ ぐ》にはまた、河豚の巧味《うまみ》がありましてね」 「でも生涯の伴侶《はんりよ》にするものではない。おまえはいいにしろ、周囲に不和と不慮のいざこざが絶えぬ。たとえば秦明《しんめい》の家族があえない死を遂げたなども、もしこの女がなかったら、起りうる事件ではなかったろう」  こう二人の間で“毒婦問答”が交《か》わされている隙に、後ろで突然、劉《りゆう》夫人の絶叫が聞えた。——あっと王矮虎《おうわいこ》がふりむいてみると、女はすでに乳のあたりに短剣を突き立てられて鮮血のなかに仆れていた。 「矮虎、いい加減にしろ」  叱ったのは兄貴分の燕順である。矮虎は、首を垂れてしまった。  だがべつに、ここは女禁制の世界というわけでもない。矮虎も恰好なのをそのうちに見つけるサと皆してなだめ、また宋江は、秦明の癒《い》えない孤愁を思いやって、自分が媒人《なこうど》の労をとり、花栄の妹を、秦明の妻にめあわせた。その儀式や祝宴がまた両三日つづいたのである。 「やあ、こんどこそは、大がかりな官兵の討伐がやって来ますぞ」  俄然、物見の一報は、山上の気を醒《さ》ました。  花栄、秦明、黄信の名は、むほん人として官簿《かんぼ》から抹殺《まつさつ》され、代るに、青州奉行や中書省の発令で近く追捕《ついぶ》の大軍団がこれへ急派されるという取り沙汰だ。 「さて、どうする?」  聚議場《しゆうぎば》では評定の額《ひたい》があつまる。 「いかに智恵袋をしぼッても、こんな山寨《さんさい》では防ぎきれまい。第一、麓《ふもと》をぐるりと取巻かれて持久戦と出られたら、たちまち干乾《ひぼ》しに見舞われる」 「いまは捨てるときでしょう」宋江の説である。宋江はいう。 「天地はひろい」 「広いったって、これだけの同勢が、どこへ行ったらいいんです?」 「梁山泊《りようざんぱく》という地がある」 「梁山泊? 聞いたようだが」 「山東一の水郷《すいごう》です。周囲八百余里、芦荻《ろてき》にかくれ、渡るに難《かた》く、しかも内は一島国のごとき山野をかかえ、宛子城《えんしじよう》を中央に四、五千人の者が、晁蓋《ちようがい》という自分の知人を首領に仰いでみな楽しく住んでいる」 「はてね宋先生は、そんな人物とも、知り合いがあるんですかい」 「仔細があって」  と、宋江は微笑した。そして掻いつまんだ由縁《ゆかり》をはなすと、 「それだ、そここそは、おれたちに打ッてつけの天地だろうぜ。どうでしょう先生、何か手引きがなくても仲間入りの見込みはありましょうか」 「なくはない。これほどな男揃い。むしろ、よろこんで迎えよう」 「ならば、さっそくがいい。善は急げだ」  十数輛《りよう》の江州車《ておしぐるま》が準備された。荷馬にも行李《こうり》や金銀や何くれとなく括《くく》られる。  そして、ここで別れを望む者には、かねや物を与えて立ち去らせ、残部の四百人ぢかくの同勢と、馬百数十頭、車十数輛という編制の大人数が、その隊伍の上に、  草匪討伐官《そうひとうばつかん》第一軍  という大旗を持って出かけた。  すなわち、梁山泊討伐の偽《にせ》官軍を装《よそお》って、公然、南へさして立ったのである。宋江、花栄がその先鋒を行き、つづいて秦明と、黄信が、  官軍第二隊  の旗をすすめた。そして燕順以下は、第三隊となって山を離れ、さいごの者が山寨《さんさい》に火をかけて立ち去った。車輛のうちの六、七輛は、輿造《こしづく》りの式で四方布《よもぬの》を垂れ、内には女たちの姿がちらちら見える。宛《えん》として、これは世帯持ちの軍隊の大引っ越しといえなくもない。  だが、春はようやく日も遅々《ちち》として、駅路山村、どこでも怪しむ者などなかった。とはいえこの同勢で梁山泊への道はそうかんたんな行旅でもない。果たして道中無事か否かは、百八星をこの世界に生ませた魔か神のみが知るであった。 弓の花栄《かえい》、雁《かり》を射て、梁山泊《りようざんぱく》に名を取ること  旅もただの旅ではない。なにしろ男女三隊四百人の大移動である。目ざす梁山泊《りようざんぱく》までの幾山河《いくさんが》は越えていたが、 「まだあと幾日の道のりか?」  行くての山、行くての雲、ただ漠々《ばくばく》な感だった。  そのうえ人員もついに五百人からに殖《ふ》えていた。——というのは、対影山《たいえいざん》の山賊、呂方《りよほう》と郭盛《かくせい》の二人を、その手下ぐるみ、途中で仲間に加えていたからだった。  呂方は、あだ名を小温侯《しようおんこう》という、根は生薬屋《きぐすりや》あがりだが、方天戟《ほうてんげき》の無双な達人。  また郭盛も、西川《せいせん》は嘉陵《かりよう》生れの水銀売りだが、ともにこれも方天戟の使い手であり、呂方と張りあって、一つ対影山に二寨《さい》を構え、賊同士勢力争いをしていたのである。ところが、 「山東の宋公明《そうこうめい》について、花栄知寨《かえいちさい》、秦明《しんめい》総監、鎮三山の黄信《こうしん》など、みな官途をすてて義を誓い、それに清風山の燕順《えんじゆん》、矮虎《わいこ》、白面郎まで従がッて、これから梁山泊へ行く途中だそうだ」  と聞き、ふたりは喧嘩どころでなくなった。たちまち首をそろえて、仲間入りを志願してきたものだった。 「……それはいいが」  と宋江はこの途方もない人員の膨脹《ぼうちよう》をみて一同へ計《はか》った。 「もし梁山泊の物見《ものみ》が、これをほんとの討伐軍と見て、先に山寨《や ま》へ知らせようものなら、それこそ、えらい間違いの因《もと》になる——。わしと燕順とは、ひと足さきに行って、前触《ぶ》れをしておくから、一同はあとからやってくるがいい」  そこで、二人だけは先へ馳けたのだ。単騎の方が、道のりはずっと捗《はか》どる。  すでに別れてから三日ほど後のこと。宋江と燕順が、とある道ばたの居酒屋で馬をつなぎ、腹ごしらえをしかけていると、 「おやっ? 宋江さまじゃございませんか」  と、店の薄暗い隅ッこで独りチビチビ飲んでいた豚の鼻みたいな頭巾をかぶッた大男が、のそっと、こっちへ寄って来た。  ぎょッとしたが、こう図ボシをさされたのでは隠しようもないままに。 「いかにも、私は宋公明だが。して、おまえさんは」 「やあ、いい所でお会いしましたが、こいつは何やらどうも不思議だ。草葉の蔭の人のお引き合わせかもしれませんな」 「はて、草葉の蔭の人とは」 「ま……。とにかく、この手紙をごらんなすって」 「や。この手紙は、わしの実弟、鉄扇子宋清《てつせんしそうせい》の筆蹟にちがいないが?」 「てまえは、石勇《せきゆう》というケチな男で、あだ名を石将軍といわれ、元は大名府《だいみようふ》で、博奕《ばくち》渡世などしておりました」 「どうして、弟の宋清と、ご昵懇《じつこん》なのですか」 「いや、ご昵懇というほどなお近づきじゃございません。じつア盆茣蓙《ぼんござ》のまちがいから土地を売り、ひと頃、滄州《そうしゆう》の柴進《さいしん》旦那にかくまわれておりました。——するうちに、その柴《さい》旦那のお添え状をもらっていたので、そのご旅烏に出た途中、城県《うんじようけん》のお宅様で、一ト晩ごやっかいになったもんなンで」 「あ。わしの郷里の家に」 「そのときお噂が出ましてね——。弟様が仰っしゃるには、兄の宋江は、白虎山の孔家《こうけ》にいると聞いているが、もしあの地方に行くんだったら、この書面を渡してくれまいか……と、こうお頼みをうけたわけでございまして。——ま、とにかくそれをご一読くださいますように」  何げなく、宋江は封を切った。いや切りかけながらすぐ気づかれたのは、極《き》まり文句の“平安”の二字も上に見えないし、封も不吉な“逆《さか》さ封じ”になっていたことだった。 「…………」  一読して宋江はガバと卓に顔を伏せてしまった。  《びん》の毛は泣きそそげ、耳の裏までが血の気を失い、まっ青に変っている。——怺《こら》えに怺えるらしい嗚咽《おえつ》がついには全身の慟哭《どうこく》となってゆき、それを見て、唖然《あぜん》としていた連れの燕順も、宋江がもしや気でも狂ッたことかと、怪しみに痺《しび》れてしまったほどだった。 「ど、どうなすったんです。先生、先生」 「ああっ……。燕順、すまないが、後から来る同勢の人々へは、君からあやまっておいてくれ。わしはここからすぐ、郷里の家へ帰らなければならぬことになった」 「だって、あなたがお出《い》で下さらなくなっちゃ、梁山泊《りようざんぱく》だって、仲間へ入れてはくれねえでしょうに。五百人が路頭に迷うじゃございませんか」 「いやいや、いま筆紙を借りて、梁山泊へは私の名で一札《さつ》を書く」 「いったい、どういうご事情なんで?」 「郷里の父が亡くなったのだ。……弟の手紙には、これを見たらすぐ帰ってくれとある。……ああ、わしは何たる不孝者か。燕順、笑ってくれ。泣かずにいられない! ……。この旅空でついに老父の死水もとれず、何一つ安心させてあげることも出来ずにしまった」  宋江は見得もなく、哭《な》いて、哭きやまないのだった。これが宋江の素裸な人間そのものであるを思えば、もうその意志を曲げようもなく、燕順のごとき男すら、つい貰い泣きして、一も二もなくそれには同意を寄せてしまった。  花栄、秦明《しんめい》、黄信らの大人数は、例の大旗を押したてて二日後に三隊とも、同じ土地へさしかかって来た。  すぐ旅籠《はたご》から飛び出して迎えた燕順と石勇とが、ここにいない宋江のわけを話すと、 「えっ、じゃあ宋《そう》先生は、独りでここから故郷へ帰ってしまったというのか。ちぇっ、なぜ引きとめてくれなかったか」  一同は、ひどく落胆したり恨んだものの、すでに別れ去った人である。今さらどうしようもなく、石勇も隊に加えて、そのまま行旅を続けて行った。  かくて。——すでにその日は、山東梁山泊《りようざんぱく》の近くかと思われる水郷《すいごう》地帯へはいっていた。  すると、蕭々《しようしよう》たる平沙《へいさ》や葭《よし》の彼方《かなた》にあたって、一吹《すい》の犀笛《さいぶえ》が聞えたと思うと、たちまち、早鉦《はやがね》や太鼓がけたたましく鳴りひびいた。  見れば、野山いちめんに、翩翻《へんぽん》たる黄旗、青旗、紅旗がのぞまれ、遠い岸の蔭から、二そうの快舟《はやぶね》が、それぞれ四、五十人の剣戟《けんげき》を載せて、颯々《さつさつ》とこなたへ向って近づいてくる。 「やあいっ、待てーえっ」  舳《みよし》から呼ばわったのは、梁山泊の一将、豹子頭《ひようしとう》の林冲《りんちゆう》、もうひとりは赤髪鬼の劉唐《りゆうとう》だった。  こなたでは、花栄やら秦明たち。 「おうっ梁山泊の一手の衆か、おまちがえ下さるな、官軍の旗は、道中の眼をあざむくための物。われらは官軍ではござらん」 「では、どこの何者だ」 「宋公明どのの添え状を持参しておりますれば、それをご一見ねがいたい」 「なに、宋先生の手紙をお持ちだと?」  船上では、小さい信号旗が振られていた。  ——と、陸寄《おかよ》りの入江から、一そうの漁舟と、三人の漁夫ていの男が、花栄の前へこぎ寄ッて来て、ひらと陸《おか》へとびあがり「さ、こっちへ」と、道案内に立ってゆく。  車も埋まるばかりな葭芦《よしあし》の間の道を幾曲《いくま》がり、やがて、かの埠頭《ふとう》の朱貴《しゆき》の茶店までやって来ると、早やさっきの二艘《そう》も何処やらに着き、 「いざ、お手紙を拝見しよう」  と、林冲《りんちゆう》が先に来て待っていた。  しかし、林冲はそれを自分の手で開封したのではない。ただちに、鳴鏑《なりかぶら》の遠矢を射、対岸から使い舟を呼んで、それをどこかへ持たせてやったのだ。 「みなさん、さだめしお疲れだろう。おそらく吉左右《きつそう》は明朝のことになる。今夜はここでゆるりと、野営なさるがいい」  林冲は、一同をねぎらった。  また茶店の朱貴は、大甕《おおがめ》十箇の酒をあけ、三頭の黄牛《あめうし》をつぶし、ぞんぶんに大勢の腹を賑わした。  あくる朝。美しい桃色の春の晨《あした》だ。  山寨《さんさい》の軍師、呉用《ごよう》学人は颯爽と一舟をこがせて、これへ先に渡って来た。  そして、花栄、秦明《しんめい》以下の、おもなる面々と、いちいち親しく名《な》のりあって。 「宋《そう》公明君のご書状に照らして、寨中《さいちゆう》の頭目ども評議の結果、よろこんで、ご一同を梁山泊へお迎えいたすことに決めた。……いざこれよりご案内申す。お支度あれ」  やおら呉用は、こういうやいな、埠頭《ふとう》へ出て、十二隻の大きな白棹船《はくとうせん》をさしまねいた。  五百余人が、それへ乗りわかれるまでの雑閙《ざつとう》といったらない。女づれ、馬、車、牛、行李《こうり》、まるで難民の集団移住だ。——しかしひとたび岸を離れるや、先駆の一船が、金沙灘《きんさたん》の白波を切って、整々とさきを進み、ほどなく上がった岸から松林の道にかけては、楽隊、爆竹、そして聚議庁《しゆうぎちよう》(本丸)までの峰道も、すべて五彩の旗波だった。 「やあ、ようこそ」  岳城《がくじよう》の大広間には、人々が出迎えていた。  すなわち、左側《がわ》の椅子《いす》には。  晁蓋《ちようがい》、呉用、公孫勝《こうそんしよう》、林冲《りんちゆう》、劉唐《りゆうとう》、阮《げん》小二、阮小五、阮小七、杜選《とせん》、宋万、朱貴、白勝《はくしよう》。  なかでもこの白日鼠《はくじつそ》の白勝は、つい数日前に、済州《さいしゆう》の牢屋からぬけ出して、ここにつらなっていたのである。それも呉用学人のはかりごとであったとか。  次に、右側を見れば。  花栄《かえい》、秦明《しんめい》、黄信《こうしん》、燕順、矮虎《わいこ》、白面郎、呂方《りよほう》、郭盛《かくせい》、石勇、と今日の新顔がすえおかれた。そして、両列の間には、大香炉《おおこうろ》に薫々《くんくん》と惜しみなく香《こう》が焚《た》かれ、正面に神明を祭り、男と男との義の誓いがここに交《か》わされる。  式終って。  聚議庁《しゆうぎちよう》から山じゅうは、楽《がく》の音になった。  女たちや年寄り連れの家持ちには、それぞれ山裏の谷にある土の家が与えられ、その日は夜へかけての祝宴だった。  その祝宴中のこと。  当然ながら、宋江のうわさも出る。  そして、宋江が、老父の死の報らせに会い、ついにこれへ来なかったはなしを聞くと誰もが、 「ああ、あの人らしい」  と、その孝心にひとしく嘆声《たんせい》をもらし合った。  また、清風鎮《せいふうちん》の一件では、聞く者みな血を沸《わ》かし、ひいては、花栄が弓の名人たる話も出たが、これには晁蓋はじめ、呉用も林冲《りんちゆう》も、耳を外《そ》らした顔していた。——この顔ぶれの中で、武芸自慢などは、ちとおこがましいといった空気でないこともない。  あくる日。  花栄以下、新参加の九名は、晁蓋やほかの面々にみちびかれて、梁山泊一帯の木戸や地形、隠し砦《とりで》などを一巡してあるいた。  折ふし、春靄《しゆんあい》の江山江水《こうざんこうすい》は、絵のようだった。そして時々耳には、  キロロ、キロロ……  と帰る雁《かり》の声が聞え、仰ぐと、竿《さお》のような雁の列が、しばしば水の彼方《かなた》へ消え去った。 「どなたか、弓をお貸しくださらんか」  花栄がふと言い出したので、 「これでおよろしいか」  一人が携《たずさ》えていた弓を与えた。  黒地に金の箔《はく》を散らし、それに密陀絵具《みつだえのぐ》でかささぎが画いてある細弓だった。ぷーんと、弦鳴《つるな》りをひとつ調べ、矢をつがえて、花栄はあたりの人へいった。 「ほんの余興にすぎませんが、これで空行く雁のあたまを射てみましょう。仕損じたらおわらい下され」  人々は顔見合せた。  ゆうべのことがある。花栄の気もちはわかるが、片腹いたいとする風が誰にも見えた。  しかし、矢は弦《つる》に、はやまんまると、弓はひきしぼられていた。頭上へかかる一ト連《つら》の雁《かり》がねがあった。花栄はさけんだ。 「あの三番目を射る!」  びゅんと、弦は返った。そして、矢はたしかに三番目に飛んでいた雁を射て地へ落ちてきた。すぐ兵をやって拾わせてみると、何と、矢もまさに雁のあたまを見事に射抜いていたのであった。  いらい梁山泊のうちでは、花栄をさして、  神臂《しんぴ》将軍  と呼び、また、むかしの養由基《ようゆうき》もおよぶまいほどな名人であるともいって、その弓の神技を疑う者はなくなった。  義の仲間では、席次、つまり階級が厳格だった。やがて席次がさだめられる。——すなわち従来の首席や軍師の座にはかわりもないが、秦明《しんめい》は花栄の妹を妻としているので、花栄に上席の五番目をゆずり、彼は六番目になった。  また黄信は八番目に。  さらに燕順以下は、阮《げん》の三兄弟のつぎにすわった。そして旧将、新星の二十一頭目《とうもく》が、ここ聚議庁《しゆうぎちよう》から指揮をとり、たとえ官軍何万、いつおし襲《よ》せて来ようとも、という陣容を新たにしていた。  しかし一抹《いちまつ》の淋しさがないでもない。  ひとりここに欠けていた宋江である。——その宋公明の消息如何《いかん》は、以来、ここの仲間には忘れえない関心事となっていた。もちろん、彼らはその手先を使って、たえず江《こう》を渡らせ、その飛耳張目《ひじちようもく》を八方へくばらせてもいた。 悲心《ひしん》、長江《ちようこう》の刑旅《けいりよ》につけば、鬼の端公《たんこう》も気のいい忠僕に変ること  話はすこし前へもどって。  さて宋江《そうこう》は、その日、故郷宋家村《そうかそん》の村ぐちへ来て、村社の前までさしかかると、 「おや、めずらしい」  村年寄の張《ちよう》とぶつかり、こう驚きのあいさつと、よろこびをかけられていた。 「押司《おうし》さま。ようまあお帰ンなすったの。あのいやな事件も、一年半ぶりで、なんとかおゆるしのお沙汰が出たとか。これからは村にいて下さッしゃれ」 「おう、爺さんか。おまえお達者かね。あの事件は、おゆるしとなっても、父の死に目に会わなんだこの不孝者、村の衆へもあわせる顔がありませんよ」 「な、なにを仰っしゃるんじゃ。お宅さまの大旦那とは、たった今、そこの社務所で祭りの相談などして、お別れして来たばかりじゃがの」 「そんなはずがあるもンですか。弟の手紙で父の死を知り、仰天して、旅先からたったいまここへ帰って来たばかりだ」 「へえ、宋清《そうせい》さんのお手紙ですッて。どれどれ、そのお手紙を見せてください。……ほほう? ……これですかい。あはははは……こりゃ、宋清さんもどうかしておいでなさる」 「笑いごとではありますまい」 「いや笑わずにはいられませぬわい。現に今、さんざんご冗談をいったり、昼酒のごきげんで、お宅へ帰って行かしゃった大旦那様が、どうして死んでなどいましょうぞい」 「ほんとか。いや、ほんとであれかし」  宋江はまだ半信半疑ながら、飛ぶがごとく馳《か》けて、わが家の古い門へ馳けて入っていた。 「や、兄上お帰りか」  出て来た弟の宋清を見るなり彼は息をはずませて。 「父上は」 「おくにおります。たったいま、よそから戻って」 「なに」  うれしかったが、しかし、腹も立って、弟の横顔をなぐりつけてやりたいほど、涙がこぼれた。 「きさま! なんという馬鹿な手紙をわしによこしたのだ。戯《たわむ》れもほどにせい!」  すると、奥から、 「その声は、せがれか」  老父が走り出して来て、宋江の手をにぎり、その手を自分の頬にあててあやまった。 「かんべんせい。あの手紙は、わしが宋清に書かせたのじゃ。……会いたさにの。……そしてまた、白虎《びやつこ》山や清風山のあたりには、賊徒が多い。……もしやまたおまえもそんな徒輩《てあい》の仲間に染み、不忠不孝の曲者《しれもの》にでもなり終っては、ご先祖にあいすまぬと、日夜心をいためていたところへ、あの石勇《せきゆう》という男がみえたので」 「ではまったく、あの手紙は父上の……。ああ、よかった……。もう何も申しません。長らくの不孝のつみ、どうぞおゆるしくださいまし」 「いや、せがれよ。そう気を病むな。ひと頃は、あの事件で、わしもえらく悩んだが、待てば日和《ひより》、こんどの特赦《とくしや》を知っているか」 「え。特赦の沙汰が出たのですか」 「このたび、宋《そう》朝廷では、皇太子さまの立太子《りつたいし》の儀がおこなわれ、すべての罪の者に、罪一等を減じられようというお布令《ふれ》じゃ。だからもう、たとえおまえが帰ってつかまっても、たかだか軽い流罪ぐらいですむことじゃろうよ」 「して、当時の与力《よりき》の雷横《らいおう》や朱同《しゆどう》は」 「ふたりとも今は役署におらん。……いまいるのは趙能《ちようのう》、趙得《ちようとく》という兄弟の与力同心でな」  なんと、宋江がこう聞いてから、まだ半日のくつろぎも、故郷の家でめぐまれていないうちだった。  その趙能、趙得、兄弟の役人がはやくも知って、宋家の外塀を捕手でぐるりと取り囲み、 「神妙に同行あるか。それとも、一せいに踏み込もうか」  と、威嚇《いかく》をふくめて言い入れてきた。 「もう知って来たか」  老父は慟哭《どうこく》した。  けれど宋江は、父の無事を見たことだけでも、うれしかった。だのにここで、冷静を欠けば、老躯《ろうく》の父により以上な心労をまたかけ直すことになる。むしろはやく刑をすまして、はれて家に帰り、せめて老後の父の余生を見るに如《し》くはないと考えられた。  そう聞いて、老父はいよいよ涙にくれたが、 「ぜひもない、おまえがそう腹をきめてくれるなら、わしも金をおしまず官途へつかって、すこしでも罪がかるく、また早く帰ってもらえるように、それをたのしみに、待つとしよう」  この相談には、趙《ちよう》も立会わせた。そして充分な馳走とわいろの力で、趙の手勢は、一ト晩、張り込みを名目として泊りこみ、宋江の逮捕《たいほ》はあくる日にのばされた。  県城の知事は、事件当時のままで、すなわち時文彬《じぶんぴん》その人だった。 「これでわしの職分も立った」  知事は、ただちに宋江の口書をとり、牢舎へさげた。——が、街中はその噂でたちまちに、 「なにとぞ、宋押司《そうおうし》さんのおゆるしを」 「どうぞ、押司さまには、おもい罪となりませぬように」  との嘆願運動がまき起った。  すでに、宋江が過《あやま》って殺した女の母親の閻婆《えんば》は、半年まえに病死していたし、女の情夫の張文遠《ちようぶんえん》も、役署のすみにはいたが、街中の反感のなかを、いまさら敵役《かたきやく》になって出る勇気もない。  かつ奉行所内には、宋江の同情者がたくさんいたので、それに宋家の老父からも金もたっぷりまわっていたので、事々軽くすまされ、恩赦《おんしや》の名の下に流刑地としてはもっとも軽い者がやられる“江州《こうしゆう》流し”と判決された。  また、彼の流される日には、町民ほとんどが、涙をもって彼を見送り、彼の老父と弟の宋清《そうせい》は、すでに人も絶えた県外の途上で、ゆっくり別れを惜しむこともゆるされた。  老父は言った。 「江州《こうしゆう》は、米どころ、魚もとれ、気候もよい。気をゆたかに、刑期をしんぼうしてくれい。折をみて、弟を見舞いにやろうし、小費《こづか》いも届けようぞ。ただ江州への道すじには、いやでも梁山泊《りようざんぱく》の近くを通らにゃならぬ。ひょッと一味の者が、おまえを奪おうとするかもしれん。構えて、あんな仲間へは引き入れられるなよ。不忠不孝の子となってくれるなよ」 「はい、はい。そんな取り越し苦労はなさらないでください」  しかし宋江は、弟をかげに呼んで、その耳元へはこうあとを頼んでいた。 「なにしても、おとしよりだ。おまえはどうか朝晩、父のそばにいて、孝養してくれ。いいか。父をうっちゃらかして、江州へ会いに来ることなぞは無用だぞ」  かくて、郷を離れたのである。護送の端公《たんこう》(小役人)は李万《りまん》と張千《ちようせん》という二人の男。  端公たちは、三日後からもうびくびくものだった。梁山泊が近いからである。で、道も遠廻りしていたのだが、五日目のこと、ついに予想していたものが、一つの嶺で待ちかまえていた。 「あっ、劉唐《りゆうとう》ではないか」  嶺道《みねみち》をふさいでいた四、五十人の手下と、その先頭の赤髪鬼を見て、宋江がこう叫ぶと。 「おう先生、お迎えに来ましたぜ。——おいみんな、この二匹の端公《たんこう》を、ちょっくら叩っ殺してしまえ」 「いや待てっ。劉唐」 「先生、なんで止めなさる」 「その刀をかしてもらおう。君らの手をからずとも、わしから観念させてとどめを刺す」  端公ふたりは、ちぢみあがった。——が宋江は、かりた刀の切っ先を、逆に自分の喉《のど》へ擬《ぎ》して。 「君らは、わしを殺そうとするのか」 「じょ、じょうだんじゃありません。先生こそなんでそんな真似《まね》を」 「情けはありがたいが、君らの暴《ぼう》は、この宋江へ死を迫りに来たもおなじことだ」 「とんでもねえことを。梁山泊一同の者は、明け暮れ心配のあまり、すんでのことに、県城の牢を破ッても、あなたを救い出そうとまで、評議していたほどなんですぜ」 「さ。それこそすべて、宋江には情けが仇《あだ》だ。わしを不忠不孝の坑《あな》に突きおとす気か。ならばいッそ自決して相果てねばならん。とめるな劉唐」 「あッ待ってください」  劉唐は飛びついて、彼の手の刀をもぎ取った。そして一方には、後ろへ向って子分を走らせ、一方には宋江をつかまえて離さず、 「どうにも、こうにも、そんなお話しじゃあ、てまえ一存ではさばけません。とにかく、端公《たんこう》は連れたままでも、梁山泊までお越しなすって」 「ばかをいえ。わしは流人《るにん》だ」  争っているところへ、知らせをうけた呉用学人そのほか二、三十騎が飛んで来た。そして首カセを架《か》けられた宋江の姿をみるやいなや、花栄はじんと眼を熱くして。 「なんだこんなに大勢いながら。——なぜあの首かせだけでも、早く脱《と》ってあげないのか」 「あいや」宋江はすぐ言った。「——これは国のおきてだ、当然な法の処置だ、どんな友達の好意であろうと、よけいな事はしてもらいたくない」 「はははは」と、軍師呉用がそばで笑った。 「それもあなたらしい。お気もちはよくわかる。しかし、晁《ちよう》のおかしら以下、ことごとくあなたに一目会いたがっている。どうです、一応おいで下さらんか。しかる後、刑地の旅へいさぎよくお見送りいたしましょう」 「おう、呉先生だけは、私の気もちをよく知って下さる」  宋江はうれしかった。おまかせするといわざるをえない。しかし端公ふたりは、あくまでそばに連れてあるいた。  江岸から舟に乗る。先では山轎《やまかご》で山路を登り、断金亭《だんきんてい》で一ト休みをとる。  するうちにもう晁蓋《ちようがい》をはじめ、頭目一同が迎えに来て聚議庁《しゆうぎちよう》へと誘ってゆく。——そして過ぐる日の顔合せの序列で、宋江の椅子《いす》を中にし、二列に並んだ。 「おかげでこのとおり、山寨《さんさい》には九名の豪傑をあらたに加え、いちばい綺羅星《きらぼし》の陣を強固にいたしました。すべてこれは宋先生のご恩恵と申すもので」 「いやいや晁《ちよう》君、またほかの諸兄もお笑いください。過ちとは申せ、くだらぬ女を害《あや》めて、この始末。せめて罪科の償《つぐな》いを果たして、この穢身《えしん》を洗わないことには、どうも白日《はくじつ》の下で、人なみの口もきけません。一ト目、お会いしたからには、はや、おさらばでございまする」 「ま、そんなにお急ぎなさらなくも」  一同は、彼を引きとめたが、中にはこういう知恵をいってみる者もあった。「端公二人には、充分な金をくれてやり、そして『宋公明の身は、梁山泊で横奪《よこど》りされた』といわせてみたらどんなものでしょう」 「いらざるおすすめ」と、宋江はかえって心外そうに顔を曇らせ「——まだ老後の父に、一日の孝養すらしていませんし、門出の日には、まだ膝の子のごとく、その父からいわれています。上《かみ》、天理にさからい、下《しも》、父のおしえを聞かずでは、生きているほど、親の業苦《ごうく》を深くする不肖《ふしよう》な者となりましょう。どうしても諸兄が私の意志を曲げようというなら、宋江はここで舌を噛んでお見せするしかありますまい」  言いおわるやいなや、涙とともに、がばと椅子《いす》の下へ伏し仆れたので、さしもの豪傑たちも驚いて、皆してたすけ起し、口々になだめぬいた。 「もうお心を邪《さまた》げはいたしません。われらも辛《つら》くなる。どうぞお気もちを直して、せめて一日半夜だけでも、一同の心を酌《く》んで、ここにおいで下されたい」  それまでを振り切ることもできなかった。で、当夜は静かな酒もりに囲まれ、明けるやいなや、はや別れのことばを交わしていた。  別れにさいし、軍師呉用は宋江のために、一通の手紙を用意しておき、こういって手渡した。 「江州に一畸人《きじん》がいます。自分とは古い知りあいで、苗字《みようじ》を戴《たい》、名を宗《そう》といい、長くその地で牢節級《ろうせつきゆう》(牢人の役長)をつとめておるところから、通称、戴《たい》院長とよばれておる。——この男、義理がたいだけでなく、一日によく八百里を歩くという稀代《きたい》な道術《わ ざ》を持っていて、人からも愛される風をおびています。もし折があったら、いちど会ってごらんなさいまし」  その朝、宋江は、江上を船をつらねて見送られた。その上さらに、陸上二十里まで送ろうという一同の好意を、宋江は強《た》って断わり、そのまま二人の端公《たんこう》に追っ立てられつつ、一路江州への道をいそいだ。  道は遠い。江州はなお遥かだ。けれど護送役の二人も、今は今さらの如く、宋江の徳望とその人柄にはびッくりしている。為に、およそ主に仕える小者のような善良さで道中小まめな宥《いたわ》りをつくしていた。  しかしながら、これでは彼ら端公役の端公らしい土性骨は失《な》くなっていたことにもなる。  元来、端公という職は、冷血、鬼畜《きちく》のごとく、眼光、隼《はやぶさ》のようでなければ、勤まらないといわれているのだ。兇悪な重罪犯に付いて、遠い流刑地までの幾山河をたッた同役二人で送ってゆくことであるから、抜け目や人情があっては途中なにが起るか分らない。  果たせるかな、この李万と張千のふたりは、すっかり縒《より》が戻って、本来の気のいい人間に返っていたため、旅の二十日余りは、とまれ無事で和《なご》やかだったが、いよいよ目的地の江州もほど近い掲陽嶺《けいようれい》にいたって、ついに大変な奇禍《きか》に会ってしまった。  いや奇禍どころな騒ぎでない。  端公の李万、張千、また宋江までも、そこの嶺茶店《みねぢやみせ》で昼飯の一杯を飲《や》ったのが不覚のもとであった。いつか唇のよだれを拭く手もきかず、あとは昏々《こんこん》と仮死の空骸《むくろ》をどこかに抛《ほう》り込まれていたのだった。すなわち、これは江州地方で“江州の三覇《ぱ》”と呼ばれるその一覇《ぱ》の網に引っかかっていた。大難とは、後でこそわかったがかりにいま知っても、もう追いつかない姿であった。 死は醒《さ》めてこの世の街に、大道芸人を見て、銭《ぜに》をめぐむ事  この掲陽嶺《けいようれい》を越えれば、まもなく道はかの白楽天《はくらくてん》の“琵琶行《びわこう》”でも有名な潯陽江《じんようこう》の街を見る。——そして水と空なる雄大な黄色い流れは、いわずもがな、揚子江《ようすこう》の大河であった。  その揚子江の船乗りで、混江龍《こんこうりゆう》とあだ名のある李俊《りしゆん》は、その日、仲間の童威《どうい》、童猛《どうもう》という二人をつれて、街の方から嶺の峠路を登って来たが、 「オオ、李立《りりつ》の店があらあ。あそこで一杯やりながら待つとしようじゃねえか」  と、そこの嶺茶店《みねぢやみせ》をのぞきこみ、 「兄弟分、いるかい」  とばかり、ぞろぞろ入って来た。  亭主の李立は、垢《あか》じみた下郎《げろう》頭巾に、毛ムクじゃらな両腕ムキ出しの半纏《はんてん》一つ、薄暗い料理場の土間口に腰かけ、毛ずねの片方を膝に組んで、何かぼんやりしていたが、 「おう兄貴か」  と、夢からさめたような顔して起《た》って来た。 「どうしたい李立、いやに不景気ヅラしているじゃねえか。ところで、この峠の上で待つ者があるんだ。店を借りるぜ」 「ええ、ようがすとも。だがお揃いでいったい誰を待ち合わせるんで?」 「ゆうべ済州《さいしゆう》から来た奴のはなしでね、宋公明《そうこうめい》っていう人が、この江州へ流されて来るってんで、日どり、道すじをただしてみると、どうしてもここ二、三日中には、この掲陽嶺《けいようれい》を通るはずだ。そこで仲間を誘って、お迎えに来たわけだが、李立、おめえもぜひお目にかかっておくがいいぜ」 「へえ? ……」と、李立は急に大きな眼玉をくりくりさせて。「宋公明ッてのは、なにかそんなに曰《いわ》くがある人なんですかえ」 「ばか。何ッてやんで。およそ今のでたらめ天下では朝廷の宰相《さいしよう》や大臣どもの名は知らぬ奴がいても、山東の及時雨《きゆうじう》、宋公明の名前を知らぬ人間はありゃしねえ。どんなやくざであろうが、義人宋江《そうこう》と聞けば、道をゆずってお通しするッてくらいなものだよ」 「……はてね?」 「おや李立、てめえ、急にヘンながたがた慄《ぶる》いをしだしたじゃねえか。何かあったのかい」 「いけねえ!」 「何が、いけねえ?」 「兄貴、じつアついさっき、二人の端公と、色の黒い小づくりな首カセの囚人《めしゆうど》を、例のしびれ薬でねむらしちまった。もしやそれじゃあねえかしら」 「げっ、色の黒いお人だって。や、や、兄弟」と後ろの連れを見て「——李立の奴が殺《や》っちまったらしいぞ。宋江はまたの名を黒《くろ》二郎といわれるほど、色の黒い人だってことはかねがね聞いていた」  連れの二人も、仰天して、李立をとりかこみ、 「いつ。どんな風に。そしてどうして?」  と、早口に問いつめ責めたてる。  李立は口もきけない。手をくだしたのは、ついまだ今し方のことだという。ねむらせた三個の空骸《なきがら》は、すぐ厨《くりや》の流しに引きずり込み、すぐばらしてしまうつもりだったが、懐中物をしらべてみると、囚人にしては予想外の大金やら、江州の戴《たい》院長へ宛てた手紙などが出てきたので、なにやらすこし不気味になり、ぼやっと考えこんでいたところだと、李立は吃《ども》り吃り語った。 「ちぇッ、ありがてえ、ここへ来たのは天のおさしず。それこそ、宋公明さまにちげえねえ。念のため、端公のふところの押送《おうそう》文を調べてみろ! そして早く早く覚醒《さまし》薬《ぐすり》だ! 李立! もしかそれで生き甦《かえ》らなかったら、てめえも生かしちゃおかねえぞ」  かくて薄暗い奥の土間では、しばしあわただしい叱咤《しつた》、跫音《あしおと》、物音の転手古舞《てんてこまい》につれて、まもなくまた、よろこびの声がわき、宋江、端公たちの声もようやく聞えだしていた。  このへんくどい話はいるまい。土地の四人の首を揃えての謝罪に目はしら立てて憤《おこ》る宋江でもない。むしろ仮死のお蔭で、冥途《よ み》の世界をちょっと覗《のぞ》いてきたと、宋江は笑うのである。そして李立の謝罪と歓待に一夜をまかせ、翌日はすぐ掲陽鎮《けいようちん》のふもとへと降りて行った。 「ぜひ、宅《たく》にも一ト晩お泊りを」  と、混江龍《こんこうりゆう》の李俊《りしゆん》はまた、そこでも宋江をひきとめてやまない。ついに一夜のやっかいになる。その晩の酒もりで、李俊は童威《どうい》、童猛《どうもう》の兄弟分二人を、あらためて、宋江にひきあわせた。  商売は二人ともに揚子江《ようすこう》をまたにかけての塩の闇屋であるとのこと。そして童威には出洞蛟《しゆつどうこう》のあだ名があり、童猛には翻江蜃《ほんこうしん》の異名がある。ともに、大江《たいこう》の河童のごとく、よく水を潜《くぐ》り船の底にもヘバリついて長時間といえ怯《ひる》まない。そんな自慢ばなしを聞いたりして、宋江は旅の憂さもつい忘れた。  また、こんなたびごとには、主人から端公二人へ、たっぷり心づけが渡るのは、礼儀みたいなものだった。端公の李万、張千はほくほくだった。そしてここを別れて立ち、午《ひる》ごろには久しぶり人烟《じんえん》にぎやかな古色の街へ入っていた。 「さあっ、お立会い!」  とある辻の人群れの中だった。こう高々とシャ嗄《が》れた声をしぼっている香具《や》師《し》がある。  見れば、竿《さお》のような痩躯《そうく》、ひょろ長い男。朽葉色《くちばいろ》の田螺頭巾《たにしずきん》をかぶり、それより色の黒い頬のコケに、長いもみ上げをばさらと散らし、虱《しらみ》もいそうな破れ袍《ごろも》をおかしげに着て、皮帯皮靴、大股ひらいて、拳《こぶし》を天に振っている。 「日は長い! 御用とお急ぎでなくば、この男の前口上はさておき、次の芸当の奥伝《おくでん》までも、ゆっくりごらんあっていただきたいもの。……さて、てまえ何処《いずこ》の者とご不審あろうが、猿でもない狒々《ひひ》でもない、人間さまであることはお見届けのとおりとござい。ご当地へは初めてのこと。あれなる槍や棒をつかって秘術のほどをごらんに入れよう。したが身過ぎ世過ぎとなれば、槍では食えんし棒では腹も張らぬわけ。——では何で食う? あれなる膏薬《こうやく》を売らずばならない。きりきず、やけど、うちみ、何にでも効くこと奇妙不思議な神薬! いやそれはただで差上げよう。ただし、これだけのお立会い残らずへは回《まわ》りかねる、おぼしめしでいい、前芸の見料として寸志のご喜捨を下された方々へ膏薬《こうやく》一貼《ちよう》、いやお志の多寡《たか》によっては、何十貼でもさしあげる。よろしいか。さあ、いかほどなりと、ご喜捨《きしや》ご喜捨」  盆をつき出して、一ト巡り、いや二た巡りも何回も、見物人の輪の前を、ぐるぐる歩き初めたが、さて鐚《びた》一文も盆の上にはこぼれなかった。  あまりな白《しら》けかたに、宋江はふと気のどくになって一粒の銀を、ぽいと彼の手の盆へのせてやった。 「オヤ、これは五両」  膏薬《こうやく》売りは感激にふるえ、宋江の風態を見まもることしばしだったが、やおらほかの見物へ向って、つら当てのように謡《うた》っていた。 おぞや、むかしの鄭元和《ていげんわ》 青楼《ちやや》のむだがね、むだづかい つかいばえする生きがねは はらもなければ、つかえない 「なんとお立会い、人は見かけによらぬもの。首かせかけたお人から、こんな芳志がこぼれるとは、世の中まだ、見捨てたもンじゃござんせんなあ。……いやどうも、かたじけない、もしおさしつかえなければ、ご尊名でも」 「いや、ほんの出来心、お礼などにはおよびませんよ」  宋江はそういって、衆人の視線から顔をそらした。すると誰やらその背をどんと小突いた者がある。  驚いてふりむくと、図抜けて大きな若者だった。血相をなして、若者はまた、一方の膏薬売りへも、こう吼《ほ》えていた。 「やいっ、どこの馬の骨かしらねえが、この掲陽鎮《けいようちん》へ来て、よくも無断で洒落《しやら》くせえヘボ武芸を囮《おとり》に、大道《だいどう》かせぎをしやがったな。——それにまた、そっちの首カセめ、なんだってこんな野郎に、かねびらを切りやがるんだ」 「これは……」と宋江は苦笑した。「私が、私のかねをやったまでですが」 「知れてらいッ。それがおせッかいというもんだ。よけいなまねをしやがると、ただじゃあおかねえぞ」 「これは迷惑千万」 「なに迷惑だと」  とたんに、若者の拳《こぶし》が、唸《うな》りをもって、真ッ向《こう》へ来たので、宋江は無意識に身をかわした。「……うぬ」と、突ンのめった巨体から、こんどはほんものの怒りが燃えたらしい。ばッと土けむりが立ち群集が飛び退《の》いた。しかし投げられたのは宋江でなく、若者のほうだった。  奮然と、彼はまた起ったが、とっさに膏薬売りのするどい脚の先が、若者の胸いたを蹴とばしていた。よろよろと、見物の中へ後ずさった若者の顔はもう蒼白となっていて、 「み、みやがれっ。このままじゃあ、すまさねえぞ」  その捨てぜりふを烏賊《い か》の墨《すみ》として、街中のどこへともなく逃げて行った。  このため、見物も散り、辺りは味けない辻景色に返ってしまい、膏薬売りの男もまた、そそくさと荷物をかたづけて、先へ行く宋江のあとを急ぎ足で追っていた。 「もし、失礼ですが」 「お。何ですか」 「もしやあなたは、山東の及時雨《きゆうじう》さまではありませんか」 「えっ。あなたは」 「河南洛陽《かなんらくよう》のもので、薛永《せつえい》といい、あだ名を病大虫《びようだいちゆう》とよばれています。……が、祖父はいぜん経略使の《ちゆう》閣下につかえていた軍人で、後、浪人ぐらしがつづいたため、てまえもこんな身過ぎをいたしている始末でございまする」 「申しおくれました。お察しのとおり、自分は宋江です」 「ああ、やはりそうでしたか。いかがでしょう。望外なことですが、はからずご高風にふれたご縁を、これなりでは何やら惜しまれてなりません。……どこかそこらの小酒屋で、ご中食《ちゆうじき》でもともにしていただけますまいか」 「ちょうど午《ひる》どきですから、わしはかまわぬが」と、端公《たんこう》たちにはかると、李万《りまん》、張千ももとより異議はない顔つき。  で、その四人づれは「ごめんよ」と、一軒の小酒屋の内へはいって行った。ところが、店の亭主はにべもない。肴《さかな》、飯、酒、何をあつらえても、けんもほろろにお断りである。わけを訊いてみると、こうだった。 「おまえさんたちはたった今、そこの辻で、江州の三覇《ぱ》といわれる顔役のひとりと喧嘩しなすッたろうが。いやはや、あぶねえもんだ。つね日頃でも、あの一覇《ぱ》(顔役)ににらまれたら、こんな店ぐらいはすぐ叩き毀《こわ》されちまう。今もここらを呶鳴り廻って行ったのさ。野郎たちに腰かけでも貸すこたアならねえぞ、物も売るなってね」  さてはそうかと、四人は笑って出たが、どこへ行っても、同じように寄せつけてもくれないのだ。で、ぜひなく病大虫の薛永《せつえい》とは道でわかれ、わかれ際に、宋江はさらに銀二十両を彼にめぐんでやった。 「ご恩に着ます」と、薛永は押しいただいて「いずれ自分も江州府へまいりますから、そこでまたお目にかかれるかもしれません。……どうぞ、江《こう》を渡る日もお大事に」  といって、立ち去った。  困ったのは、その夕からのことである。何軒となく木賃宿の軒に立ってみたが、三人の姿をみると、どこの旅籠《はたご》でも、手を振るのだった。おそろしい覇《は》の勢力ではあると、途方にも暮れ、舌を巻かずにいられなかった。 「これはいけない。道をかえて、本街道から郊外へ出てみよう」  しかし、たまたま見かける田舎旅籠でも、お断りはおなじだった。が、災難にしては小さいといえよう。宋江はあきらめてこよいは野宿とつぶやいたが、端公の李万は、ふと横道に見えた灯と旧家らしい屋敷門を見て、 「そうだ、素人家《しもたや》なら泊めてくれましょう。ひとつあそこへ頼んでみますから、待っていておくんなさい」  と、急にその灯を目あてに走って行った。 葦《あし》は葦の仲間を呼び、揚子江《ようすこう》の“三覇《さんぱ》”一荘《そう》に会すること 潯陽江頭《じんようこうとう》 夜《よる》 客を送る 楓葉《ふうよう》 荻花《てきか》 秋索々《あきさくさく》——  これは白楽天《はくらくてん》の詩「琵琶行《びわこう》」のはじめの句だが、いまの宋江《そうこう》の身は、そんな哀婉《あいえん》なる旅情の懐古に浸《ひた》りうるどころではなかった。  また時代も白楽天の詩酒三昧《ししゆざんまい》をゆるしたような唐朝盛期《とうちようせいき》のいい時世でもない。——明日知れぬおそろしい世音《せおん》の暗い風が——そのままここ揚子江《ようすこう》に近い夜空いちめんな星の色にも不気味な凄涼《せいりよう》の感を墨《すみ》のごとく流している今夜であった。 「おや? 人声が?」  宋江は目ざとくすぐ枕をもたげた。  そばに寝ている端公《たんこう》(護送の小役人)二人は正体もない。  ここは鄙《ひな》びた旧家の門番小屋だ。  宵に、端公のひとり李万《りまん》が、地主屋敷の門を叩いて家の老主人なる者に会い「——はるばる山東《さんとう》の役署から、流刑の罪人をつれて、江州《こうしゆう》へ行く途中のものですが」とわけをはなし、一夜の泊りを頼んで、やれやれと、やっと眠りについたばかりなのだ。 「……はて。なんだか聞いたような声でもある?」  頸《くび》の首枷《くびかせ》は、端公二人とも、いまは宋江に心服しているので寝るときなどは取り外《はず》してある。  宋江はそっと門番小屋の竹窓から屋敷内のひろい落葉道を見まわした。——髯《ひげ》の白い老主人が立っている。——それにたいして七、八名の若い者をうしろに連れた背のたかい壮漢が、なにかがんがん言っていた。そして彼らのたずさえている松明《たいまつ》のいぶりがその人影を赤く濃くよけい物々しげにしているのだった。 「なに、兄貴は酒を飲んで寝ちまッたって」と、壮漢の声はあらあらしいが、駄々をこねているような調子もある。おそらくは老主人の息子であろうか。息子とすれば、兄貴兄貴といっているところから、次男坊にちがいない。「——どこに寝てるんだい兄貴のやつは。起しておくんなさいよ、父っさん。逃がしたと聞いたら、あとで兄貴のやつもくやしがるにちげえねえんだ」 「また喧嘩かい。よしなさい」 「喧嘩なんてものじゃねえよ。大恥をかかされたんだ。掲陽鎮《けいようちん》の人中でさ」 「あまり顔をきかせるからじゃよ。さあおまえも奥へ入って寝ろ寝ろ」 「寝られるもんか、この虫がおさまらねえうちは」 「いったいどうしたことだ、人中で大恥をかいたとは」 「どこの馬の骨かしれねえ膏薬《こうやく》売りの素浪人《すろうにん》が、無断で辻稼《つじかせ》ぎをしていやがるから、そいつを追ッ払おうとしたら、見物の中から妙な野郎がいらざる邪魔をしやがったんで」  と、壮漢が言っているのを聞くと、どうも昼間のあのことらしい。——宋江は竹窓にかけていた手が冷たくなった。いや這いのぼる恐怖にそそけ立ってしまった。  壮漢はなおも「叩ッ殺してもあきたらねえ」と罵《ののし》ッて。「たしかに、その首枷《くびかせ》野郎と端公《たんこう》の三人づれは、こっちの方角へ逃げたと途々《みちみち》聞いたんだ、兄貴にも知らせて、取ッ捕まえずにおくものか」と、わめいてやまない。  けれどやがて、老父になだめられたものか、あるいは自分で、兄を起しに行ったものか、どやどや母屋の棟の方へかくれてしまった。  宋江は、「すわ、このすきに」とばかり、二人の端公を揺り起し、わけを語って、 「一刻もここにはおられぬ。ぜひもない、夜道をかけて逃げのびよう」  と、せきたてた。  李万《りまん》も張千《ちようせん》も仰天して、宋江の首枷《くびかせ》などは手にかかえ、窓を破ってころげ出した。あとはしばらく無我夢中といっていい三つの影。——田舎道、野道、葦《あし》の原、そして鉛のような水の光は、いつかもう揚子江の江畔《こうはん》なのか。  うしろからは、みだれ火が迫っていた。十人以上な喊声《かんせい》だ。ピューッ、ピューッと指笛を鳴らしてくる。気づかれたのだ、南無三《なむさん》である。 「天よ!」  宋江は走りつつ祈った。息がきれる。うしろの足音は早い。たまらなくなって水浸《びた》しになるのを覚悟で葦の茂みのなかへ隠れこんだ。ふるえながら葦の根を這った。 「畜生」 「どこへ失《う》せやがったか」  恐怖の一瞬がすぐそばの堤《つつみ》を馳け去った。——端公二人は、泥亀《すつぽん》みたいに首をもたげて、 「しめた。宋江さん、すぐそこの入江に舟がみえる、救いの舟だ」 「えっ、舟がある?」 「たのんでみよう。……おい船頭さん、たすけてくれ。金はいくらでもやる。無事な所まで渡してくれ」 「なんだと。どこのどいつだい」  船頭の声だった。舟底に横たえていた酒くさい体をむっくり起すとともに、ぎょろと、三人の影を眼で一ト舐《な》めして、 「乗ンな」  と、かろくいった。 「ありがたい」  拝むばかりな、あわてかたで、三人はすぐ飛びのる。李万は旅の荷物をどさりと下ろし、張千は首枷《くびかせ》をおいて、手の水火棍《すいかこん》(警棒)で船頭の棹《さお》と一しょに岸を突いた。  ゆらゆらと、舟はひろい水面に出る。船頭は棹をすてて櫓《ろ》に持ちかえた。するともう、さっきの鋭い指笛がまた近くで闇をツンざいた。いちど行きすぎた松明《たいまつ》やら二十人ぢかい人影は、たちまちそれと知って引っ返してきた。 「おうーい、船頭、その舟をやッちゃあいけねえぞ」 「もどって来いよっ。引っ返せ」 「返さねえと、ただはおかねえぞ。やい船頭、船頭っ」  気が気でない。生死は船頭の返辞一つにかかっている。  舟中の宋江たち三人は手をあわさんばかり、わななき声を念じ合った。 「もどるな、船頭さん」 「後生だ、もどっちゃいけない」 「あの悪者につかまったら殺される。お礼はいくらでも出す。逃がしてくれ」  船頭は黙《だ》ンまりをつづけ、ただ櫓《ろ》だけを鳴らしていた。しかし岸をたどり歩いて、兇暴な火焔《かえん》と人群れの影はどこまでもくッついて来る。 「やい船頭、おれたちを知らねえのか」  船頭はフンと鼻で笑った。 「わかってるよ、おめえさんたちの声柄《こえがら》ぐれえは」 「じゃあ、もどれ」 「ごめんだよ」 「野郎、あとで吠えづら掻くなよ」 「あしたは天気だとさ」 「何ッてやんで。てめえが乗せた江州送りの罪人に用があるんだ。そいつを渡せばかんべんしてやらあ」 「とんでもねえや」と、船頭もまた太々《ふてぶて》しい。「こち徒《と》にもこち徒《と》の商売があるんだぜ。せっかくお乗せ申したお客さまだ。これからゆっくり“薄刃切《うすばぎ》り”のご馳走でも差上げようっていうのに、ひとに譲《ゆず》ってたまるもんか」 「うぬどうしてもか」 「くどいよ、こっちにとっても飯のたね。おととい来やがれ」  櫓幅《ろはば》いっぱい、舟は水を切って行く。みるまに葦間《あしま》の火光もわめきも遠くにおいて、辺りは大江《たいこう》の水満々とあるばかりだった。 「かたじけない」  と、宋江がいえば、李万、張千もほっとした顔でつぶやいた。 「ああ、これで厄《やく》のがれした。命の恩人だよ、この船頭さんは」  しかし船頭は、三人の感謝をみても、ふンといった面《つら》つきだった。そして櫓《ろ》をあやつりながら、酒きげんで、湖州《こしゆう》小唄などを、ちょっと低い美《い》い声でくちずさんだ。 ほとけ心があるならば こんな渡世はしていない どうせ根からの葦そだち 風と水とで暮らすのさ  宋江はなぜかぎょッとした。  おちついて、しみじみと今、星影で見たこの男。彼には、ただ者でなく思われてきた。 「船頭さん、もうこの辺でいい。どこかそこらへ寄せてくれないか」 「ふざけちゃいけないよ。おめえたちは、命拾いをしたつもりかい」 「えっ?」 「それとなく引導《いんどう》は先にわたしておいたろう。“薄刃切《うすばぎ》り”のご馳走はこれからだ」 「薄刃切りとは」 「早く見てえというのかい」船頭はガラと櫓《ろ》づかを投げ出した。そして舟底板をめくり上げ、その下からドキドキ研《と》ぎすましてある板刀《だんびら》を取り出すと、 「一匹一颯《さつ》、三人ならこれで三振《みふ》り、なんの手間ひまなしに、そのあとは鱠《なます》料理さ」  と、切ッ先をつきつけて来た。  悲鳴も出なかった。二人の端公《たんこう》は宋江にしがみつく。その宋江も蒼白なおもてを凍《こお》らせたまま背を這う顫《ふる》えをどうしようもない。  まことや諺《ことわざ》にいう“倖せはかさならず、わざわいは一つですまず”だ。宋江は天を仰いで思うらく「げに不孝の罪はおそろしい。ついにこの身の業《ごう》ばかりでなく、この気のいい端公ふたりまで巻きぞえにして、いま死ぬのか」と。  しかし、なお、あきらめきれず、生への必死な執着をしぼッて。 「お待ちなさい、船頭さん」 「まだいってやがる。おれはただの船頭じゃねえんだよ」 「わかりました、長江の水賊《すいぞく》ですね」 「水賊か何かしらねえが、水を枕にうたた寝のとこへ、てめえらの方から網にかかって来たわけだ。この商売、やめられねえじゃあるめえか」 「かねは上げます、ですから、そんな刃ものざんまいは、ゆるして下さい」 「おいおい、あんまり当り前なことをいうなよ。もとよりこっちは身ぐるみがご常法だ。その上、一匹はおろか半匹も、命は助けちゃおかれねえ」 「な、なぜですか」 「きまッてら。てめえたちは、江州送りの小役人と流刑人だろう。助けてみろ、次にはこっちへ御用風が吹いてくら。さあ四の五をいわず眼をねむれ。薄刃《うすば》料理が嫌いなら、一切合財、裸になっててめえで水の中へどんぶり沈んで行くがいいや」  船頭はぬっと立って、まず宋江の襟がみへ、その片手を伸ばしかけた。——するとこのとき、長江の上流から矢のごとく流れてきた一隻の快舟《はやぶね》があり、ざ、ざ、ざ、と舷《げん》にしぶきを見せながら近づいて来るやいな、 「おうっ。張《ちよう》の舟じゃあねえか」  と、すばやく鈎棒《かぎぼう》をひッかけて呼びかけた。  張と呼ばれたこなたの船頭は、ちょっとあわてたが、さりげなく、振り返って。 「や、李《り》の兄貴か。ひでえなあ、今日は」 「なにがよ、張」 「だってよ、川上《か み》の仕事に、おいらを棄てて行きなすッたぜ」 「見当らなかったんだよ。だが、なにやら巧い仕事を、独りでたんまりせしめてるらしいから、それもよかったわけじゃねえか」 「おわらい草だ。じつあ、ここんとこ、女にゃ振られるし博奕《ばくち》にはすッからかん。やけ酒くらって今夜も葦を屏風《びようぶ》にふて寝してるッてえと、この鴨《かも》三羽、自分のほうから舞いこンで来やがったのさ」 「そいつアよッぽど、どうかしてる鴨だなあ」 「もっとも、陸《おか》ではあの穆《ぼく》さんの兄弟に、なにか恨まれて追ッかけられて来たものらしい。……だが、チラと見るってえと、二人は端公、一人のほうは色の黒い江州送りの流刑人だ。そのくせ囚人のくせに首枷《くびかせ》を外《はず》していやがる。ははん、こいつ銀《かね》を持ってやがるナと、そう睨んだので穆《ぼく》さん兄弟や若いのが、渡せ渡せと、岸でわいわい脅《おど》しゃあがったが、こっちも渡世と、とうとうお返し申さず仕舞いというわけさ」 「おい、張! もう一ぺん聞かせてくんな。江州送りの色の黒い流刑人だって。そこにいるのか、その人が」 「うム、こいつだが」 「もしや?」  ばっと、その快舟《はやぶね》にいた三人の男たちのうちから、ひとりがこっちの舟へ跳び移って来た。そして上下に躍る足もとも早きざみに。 「もしやそちらは、宋押司《そうおうし》さんじゃありません」 「えっ?」と宋江は伸び上がった。そして思わず両手を虚空に振り上げて。「——おおっ、いつぞやの李俊《りしゆん》か」 「李俊です。お忘れのはずはない。掲陽鎮《けいようちん》の峠茶屋でお目にかかり、またおとといの夜はてまえの家にお泊りねがってお別れしたばかりでした」 「どうして、あなたがここへ」 「今日は家にいて出る気もしなかったんですが、夕方から妙に心が騒ぎ立ち、こんなときには、いっそ大江《たいこう》を漕ぎ廻し、闇屋の塩舟でも襲ッて飲みしろ稼《かせ》ぎでもするかと、ほかの兄弟分ふたりを誘いあわせての帰り途。いや、こいつも尽きぬご縁というものでしょう」  驚いたのは、薄刃切りにかかりかけた張とよぶ船頭である。茫然《ぼうぜん》、あいた口もふさがらない。 「李《り》の兄貴、いったい、こいつあどうしたわけです」 「どうもこうもあるものか。てめえも命びろいしたようなもんだぞ」 「へ。こッちがですかえ」 「そうよ。こちらは山東の及時雨《きゆうじう》、宋押司さんだ。もしその薄刃で逸《はや》まッたことでもしてみやがれ。てめえはたちどころに俺たちの制裁を食うか、この土地にはいられねえはずだ」 「げッ。では、そのお人が」  がらりと薄刃を投げすてて、張はそこへ這いつくばった。そして彼ら仲間の最上な礼と謝罪のかたちをとって「……お見それいたしました。このお詫《わ》びにはどんなことをなされてもお恨みには存じません」を繰り返した。  ほどなく二そうの舟はすこし漕いで、一つの洲《す》の陸《おか》へみな上がっていた。  枯れ葦《あし》をあつめて、一人がカチカチと燧石《ひうちいし》を磨《す》る。火をかこんで酒をあたため、あり合う器《もの》で飲み交《か》わす。  混江龍《こんこうりゆう》の李俊《りしゆん》が連れていたほかの二人は、出洞蛟《しゆつどうこう》の童威と、翻江蜃《ほんこうしん》の童猛だ。  これはすでに宋江も顔見しりのこと。あらためての名《な》のり合いはいらない。  初めてなのは、船頭の張《ちよう》だ。  そこで李俊は、彼に言った。 「今、天下の義人といったら、山東の宋公明《そうこうめい》さん一人だとは、このへんの百姓漁師だって知ってることだ。それをしかも揚子江《ようすこう》に住むてめえが知らねえなンざあ、大恥ッ掻きだぞ。焚《た》き火のあかりでよく拝んでおくがいいや」 「どうも面目ございません。お名だけならあっしだって、とうに存じ上げていたんですよ。だがまさか、そんなお人が眼の前に降ッて来ようとは思えなかったんで」  張は、李俊の義兄弟のひとりで、その名は横《おう》、異名《いみよう》は船火児《せんかじ》——生れは江中《こうちゆう》の島——小孤山《しようこざん》の産だという。  この張横《ちようおう》には、もうひとり実の弟がある。  稀代《きたい》な水泳の達人で、水底十里をよく切っておよぎ、水中を出ぬこと七日七晩という記録をもっている。  そして、その肌の白さ、魚の腹のようなので、人呼んで彼を浪裏白跳《ろうりはくちよう》の張順《ちようじゆん》といった。  で、元来はこの張横、張順の兄弟は、俗に“私渡《しと》”とよばれる非公認の渡船稼業《とせんかぎよう》をやっていたのである。  揚子江両岸の小都市の間には、さかんに税関抜けの密輸や闇屋が往来する。それやら博奕《ばくち》場《ば》帰りやらただの旅人などを乗せて、いざ大河のまン中にかかると、張の兄弟は、かねてしめし合せの荒稼ぎにかかるのだった。  まず、いきなり錨《いかり》をザンブと投げこんで、横《おう》が薄刃《うすば》のだんびらを持ち出す。——凄文句《すごもんく》よろしくならべて、約束の駄賃《だちん》以上な客の懐中物をせびるのだ。  揚子江の上である。たいがいは慄《ふる》え上がッてしまう。だが、客に化けて乗りこんでいた弟の浪裏白跳《ろうりはくちよう》張順が「ふざけるな」と啖呵《たんか》をきッて抵抗しかける。そいつを相手に張横が芝居の格闘を演じたうえで揚子江に叩ッ込む。  もういけない。舟中はどれも生きた空のない戦慄だけのものになる。張横はにんやりとし、ぞんぶん一人一人のふところをゆすッて、銀《かね》や持物をとりあげ、ほどよい岸へ着けて追ッ放してやるのだ。——そして舟で火を焚《た》いていると、やがて弟の張順がその白魚のごとき体に水を切って川の中から舟へ這いあがってくる。  という寸法で、ずいぶんこれで荒かせぎをしては、酒、ばくち、女などにつかい果たしていたが、近来はこの手ぐちも評判になって、さッぱりになってきた。そこで、弟の張順は足を洗って江州《こうしゆう》で魚問屋に変り、張横は依然この界隈《かいわい》で、不景気面《づら》な板子稼業《いたごかぎよう》にぼやいて、こそこそ悪さをつづけていたところだった。 「いやどうも」  と、張横はあたまを掻いて。 「あまりお上品な身の上ばなしじゃございませんが、宋押司《そうおうし》さんと伺っては、ちっとの嘘も申しあげては相すみません。正直なとこ、そんな外道《げどう》でございますが、これでも折があったら真性《まつしよう》な人間になりてえと願ってるんで。へい、江州へおいでなさいましたら、あっしが手紙を付けますから、魚問屋をやっている弟の奴にも、いちど会ってやっておくんなさいまし」  懺悔《ざんげ》とともに、張が言った。  すると、李俊をはじめ、みな吹き出して、 「おや、張横がいやに、しおらしいことをいい出したぜ。そんならこれから村の寺小屋へ馳けつけて、寺小屋のお師匠さんに、さっそく一本書いてもらわなくちゃならねえな」  と交《ま》ぜかえした。  こんな冗談も出るほどすぐうち解けていたのである。ところへ、彼方《かなた》の岸にまた松明《たいまつ》の点々が見え出した。宋江よりは端公ふたりがすぐあわて出した。 「あっ、さっきの奴らだ、まだ頑張ってる!」 「騒ぎなさんな」と、李俊《りしゆん》は立って、唇に指を咥《くわ》え、水谺《みずこだま》するどく口笛をふいた。すると岸の松明《たいまつ》は遠くへ去った、と見えたのは洲《す》つづきの葦の間を廻ってこれへ来たのであった。  李俊は、それへ来た一群をみるとすぐ叫んだ。 「穆《ぼく》さんのご兄弟、おれたちが日頃よくはなしていた山東《さんとう》の及時雨《きゆうじう》、宋押司《そうおうし》さんがここに来ていらっしゃる! さあみんな、ごあいさつだ、ごあいさつだ」 「なんだって?」  穆《ぼく》とよばれたのは、宵に泊りかけた、地主の旧家、穆家の兄弟か。 「おう」  宋江もいまは微笑で会釈した。  まごうなく、その日の昼、掲陽鎮《けいようちん》の辻で、香具《や》師《し》の浪人を脅《おど》し、またさんざん自分のあとを追ッていたあの壮漢だ。 「李俊」  と、壮漢はやや気を抜かれた調子でいった。 「ほんとかい?」 「よっくごらんなさいよ、男の眼で男の人物そのものを。——あっしはおとといからお目にかかっている。済州《さいしゆう》から江州奉行所への差立て状も拝見している。そして一ト晩は、お身の上からこっちの素姓もかたりあって、ひとつ屋根の下で寝ているんだ」 「しまった」  と、穆の息子はひっさげていた枇杷《びわ》の木の木剣をなげだして、その兄なる者とともに、地に平伏した。詫びは兄の方がいった。 「まったく知らぬことでした。どうか、さんざんなご無礼は、平《ひら》にご用捨くださいまし」  兄は、穆弘《ぼくこう》といい、あだ名は没遮《ぼつしやらん》。  弟のほうは穆春《ぼくしゆん》、小遮《しようしやらん》はその異名《いみよう》とある。  穆家は江畔《こうはん》の大金持ちでつまり二人はその息子だ。  と、李俊が紹介して、またもひとつ言いたした。 「じつは、この地方には“三覇《ぱ》”といいまして、まず掲陽鎮《けいようちん》の峠の上と下を縄張りに、あの茶屋の李立《りりつ》とてまえとでそれが一覇《ぱ》。また、街の掲陽鎮では、この穆兄弟がふたりで一覇。次に、揚子江《ようすこう》のうえを張横、張順のふたりが持って一覇をなし、つごう“三覇”がこのへんを抑えているようなかたちなのでございますよ」 「なるほど。覇とは顔役のことか。後漢《ごかん》の三国に似せたのだな」  宋江は笑った。そしてついでに、 「そういうお仲間同士なら、あの膏薬《こうやく》売りの浪人薛永《せつえい》もわしにめんじて、ゆるしてやってくれまいか」 「仰っしゃるまでもありません」  穆弘は、弟の穆春へ、こういった。 「さっそく、若い者を走らせろ。……そして弟、すぐ宋押司さんを、もういちど屋敷へご案内するんだな。こんなことではお詫びがすまぬ。ゆるして下さると仰っしゃっても、このままのお別れじゃあ、こっちの良心がすむまいぜ」 根はみな「やくざ」も仏心の子か。黒旋風《こくせんぷう》の李逵《りき》お目見得《めみえ》のこと  江畔《こうはん》の大地主穆家《ぼくけ》では、明けがた大勢の客を迎え入れていた。息子二人は手柄顔《てがらがお》に、江上《こうじよう》から連れ帰った珍客の宋江《そうこう》を、まずわが親にひきあわせる。 「ほう。あの有名な宋公明《そうこうめい》さまじゃったのか」  老主人は眼をほそめる。  一家の歓待《かんたい》はいうまでもない。全家をあげてその日は盛宴のかぎりをつくす。  宴のなかばに、さきに使いに走った若い者が、膏薬《こうやく》売りの浪人、病大虫《びようだいちゆう》の薛永《せつえい》を街中から探して連れて来た。 「……これは?」  と、薛永はただ驚きあきれる。  彼のために宋江は自分が去ったあともよろしくと、穆家の人々へねんごろに頼んだ。穆弘《ぼくこう》、穆春の兄弟は、 「ええもう、ごしんぱいなさいますな。ひきうけますとも」  と快諾《かいだく》し、また張横《ちようおう》は、いつのまにか一通の手紙を用意し、宋江に渡して告げた。 「江州へおいでになりましたら、あっしの弟の張順ッて男を、どうぞお忘れくださいますな」  何やかや、終日は賑《にぎ》やかな親睦《しんぼく》の宴に暮れ、また次の日、さらに翌日も、人々は宋江を掲陽鎮の城内へ連れ出して、名所旧蹟、辻々の盛り場、興行物、ありったけな風物を見せてあるいた。  宋江はもう恐縮しぬいて、一同へこう告げた。 「なんとも、おこころざし、生涯忘れえないでしょう。とはいえ、私は流刑の身、こう甘えていてはお上《かみ》にも畏れあり、あしたは是非是非お別れ申さねばなりません」  さて。その前夜には、一同揃って、また惜別の宴だった。席上とくに宋江が心ひかれたのは、穆家《ぼくけ》の美しい末娘が琵琶《びわ》をかかえて、この地方の名所、潯陽江《じんようこう》のゆかりに因《ちな》み、かの中唐《ちゆうとう》の詩人白楽天《はくらくてん》がそこの司馬《しば》に左遷《させん》されたときに作ったという“琵琶行《びわこう》”を聴かせてくれたことである。琵琶行の序詩には、その由来が、こう叙《の》べられている。 “——中唐の元和十年、私は九江郡の司馬《しば》に左遷《させん》され、秋の一夜、客を埠頭《ふとう》に見送った。  するとどこかの舟の中で琵琶《びわ》をひく音がきこえる。その音は、この片田舎に似あわず、京都《けいと》の声色《せいしよく》があった。主《ぬし》はたれぞと問うと、もと長安の歌《うた》い妓《め》で、いまはさる商人《あきゆうど》の妻なるものであるという。  あわれを覚えて、舟に酒を呼び、たって数曲を弾《ひ》いてもらった。演奏が終ると、彼女は悲しげにうなだれて、若き日の恋や愉しかった日を思い出すらしく、いまは失意の貧しい生活《たつき》を、この大河や湖《みずうみ》ばかりな蕭々《しようしよう》のうちに托《たく》して、移りあるいている身の上と、ほそぼそ語った。  私(白楽天)は、遠い地方官吏となって都を見ぬこと二年、今夜という今夜ほど、心をうごかされたことはない。人生の哀歓・流離のかなしみ、それをひとりの女に見た気がした。そこで全六百十二字の長詩をつくり、彼女へのなぐさめに贈り、題してこれを「琵琶《びわ》ノ行《うた》」という”  宋江はこれを暗誦《そらん》じていた。  乙女《おとめ》の琵琶はすでに絃《げん》をかき鳴らし、その紅唇からもれる詩《うた》の哀調に一座は水を打ったようにひそまりかえった。 潯陽江頭《じんようこうとう》 夜《よる》 客を送れば 楓葉《ふうよう》 荻花《てきか》 秋索々《あきさくさく》たり 主人は馬より下り 客は船にあり 酒をあげて飲まんとするに管絃《かんげん》なし 酔うて歓《かん》をなさず 惨《さん》として将《まさ》に別れんとす 別るるとき 茫々《ぼうぼう》 江《こう》は月を浸《ひた》せり 忽ち聞く水上琵琶の声 「……ああ」宋江は、ついに涙をたれた。故郷が偲《しの》ばれてきたのである。老父は琵琶が好きだった。「もしこれがともに聴ける琵琶であったら」と悔やまれ、身の不孝にさいなまれていたのらしい。 声を尋《たず》ねて 暗《ひそ》かに問う 弾《ひ》く者はたれぞと 琵琶の声はやみ 語らんとするも遅し 船を移し 相近づき むかえて相見る 酒をそえ 灯をめぐらし 重ねて宴を開く 千呼《せんこ》万喚《ばんかん》 始めて出で来たるも なお 琵琶を抱きて 半ば面《おもて》を遮《さえ》ぎる 軸《じく》を締《し》め 絃《いと》を撥《はら》いて 三両声《さんりようせい》 まだ曲調を成さざるに 先ず情《じよう》あり 「…………」  宋江はまた不思議な感に打たれた。灯は冴《さ》えて座中、声もないのは奇異でもないが、その顔ぶれは李俊、張横、穆弘《ぼくこう》、穆春、薛永《せつえい》、童威、童猛、どれをみても血臭い野性の命知らずだ。その荒くれどもが、かくも生れながらの嬰児《あかご》のように純な姿で神妙に首うなだれて聞き入っているのはいったい何の力なのか? 絃々《げんげん》に抑《おさ》え 声々《せいせい》に想《おも》い 平生 志を得ざるを訴うるに似たり 眉を低《た》れ、手にまかせて 続々と弾《ひ》き 説きつくす 心中 無限の事 「……そうだ、こんなやりばのない想いは、いまの若い者の胸にはいっぱいなのだ。それを汲《く》んで生かしてやれない宋朝《そうちよう》治下のみだれが今日のような世相をつくり、それの反抗が梁山泊《りようざんぱく》などになっていくのか」  耳は絃に打たれながら、宋江は自問自答を独り胸にささやいている。曲はすすみ、大絃《たいげん》は々《そうそう》、小絃《しようげん》は切々《せつせつ》—— 撥《ばち》を収めて 心《むね》に当りて画《えが》く 四絃の一声 裂帛《れつぱく》のごとし 東の舟も 西の舟も、ひそまりて言《ことば》なく ただ見る 江心《こうしん》に秋月の白きを  いつか、宋江もすべてを忘れた。恍惚《こうこつ》として身は司馬《しば》の客とともに舟中に在《あ》る気がしてくる。 ——自《みずか》ら言う もとはこれ京城《けいじよう》の女 家は蝦蟇《が ま》陵下《りようか》にありて住む 十三にして 琵琶を学びえて成り 名は教坊《きようぼう》の第一部に属す 曲罷《おわ》りては 曾《かつ》て善才《ぜんさい》を伏せしめ 粧《よそお》い成りては 常に秋娘《しゆうじよう》に妬《ねた》まれ 五陵《ごりよう》の年少は 争って 纏頭《は な》を贈る  詩は、彼女の身の上を、こう歌ってゆく。 今年の歓笑、復《ま》た明年 秋月《しゆうげつ》 春風 いつしかすぐ 弟は走りて 軍に従い 阿姨《お ば》は死し 暮《くれ》去り 朝《あした》来たりて 顔色《い ろ》故《ふる》びぬ 門前 冷落《れいらく》して 鞍馬《あんば》も稀《ま》れに 老大にいたり 嫁《か》して商人の婦《つま》となる 商人は利を重んじ 別離をかろんず 前月 浮梁《ふりよう》に茶を買いに去る 去りてより以来《このかた》 江口の空舟を守れば 舟をめぐる月明 江水に寒し 夜ふけて忽ち夢みるは 少年の事 夢に啼けば 粧涙《しようるい》は紅《あか》く 闌干《らんかん》たり  宋江は、はっとした。満座のうちからすすり泣きが聞える。鬼をもひしぐようなのがみな顔を濡らしていたのである。そうだった。彼らにも本来の情涙《じようるい》はあったのだ。また親があり情婦があり子がありいろんなきずなもあったのだ。それへの何かに触れる絃《いと》と詩《うた》とについ真情が流れ出てしまったものだろう。  ——いや、ひとごとではない、宋江もまたそっと眼《まな》じりを指で拭《ふ》いていた。  朝。——掲陽鎮《けいようちん》の埠頭《ふとう》には、ゆうべの顔がのこらず、宋江のために、送別の惜しみをわかちあっていた。 「どうか、おからだをご大切に」  ことばは世のつねのものだが、万感の真情と尊敬がこもっている。思い思いな餞別物《せんべつもの》も、両手に余るほどだった。  やがて船が出る。かなり巨《おお》きな船だ。蓆帆《むしろぼ》に風が鳴り、揚子江の黄いろい水が、瑶々《ようよう》とその舷《ふなべり》を洗い、見るまに、手をうち振る江岸の人々も街も小さくうすれ去った。  その日のうちに、舟は江州に着く。護送の端公《たんこう》も、ここへ着くと急に、護送小役人の顔つきになった。もちろん宋江の首カセは厳重に篏《は》められ、公文の手つづき、身柄の引渡し、奉行所や牢城などの認知証《にんちしよう》もうけとって、これはすぐさま済州《さいしゆう》へ帰って行った。  ときにこの江州一円の奉行閣下《かつか》は、蔡得章《さいとくしよう》なる人で、当代宋朝の権臣、蔡京《さいけい》の九番目の息子にあたるところから、諸人は彼を、  蔡九《さいきゆう》さま  と、よんでいた。  その蔡九の奉行所から、宋江の身柄は、ただちに牢城の方へ引き渡される。宋江はかねがね聞いていたことなので、所持の金銀は惜しみなく係の諸官吏にわけ与えた。この頃、とくにこの世界では、賄賂《わいろ》はちっとも悪徳でない。相互の常識なのである。で、管営《かんえい》、差撥《さはつ》、書記、牢番にいたるまでが、 「いい新入りだ、気前のいいやつだ」  と、宋江にたいしては、みな愛相《あいそ》がよかった。例の新入りが食う殺威棒《さついぼう》の百叩きも受けずにすんだ。  ところがある時、巡回の軍卒頭《がしら》が、そっと宋江へ注意した。 「おい、君は抜かってるぜ。なぜいちばん大事な牢節級《ろうせつきゆう》(江州両院の院長)へお袖の下を差上げておかねえんだ。たいへんお気をわるくしている様子だぞ」 「へえ、そうですか」 「そうですかって、平気でいるが、さっそく何とかしたらどうだい」 「いや、ほっときましょう。かまいません」 「おや。……おいおい、あとでひとを恨むなよ。ここの節級《せつきゆう》さまときたら、腕ぶしはすぐれているし、気は烈しい。どうなっても知らねえぜ」  果たせるかな、それからまもなく、点視庁から呼出しが来た。迎えに来たのも、おなじ軍卒頭なのだ。それ見ろといわんばかりな顔つきで、宋江の腰鎖《こしぐさり》を曳き、部下大勢とともに、 「節級《せつきゆう》! 連れて参りました」  と、突き出して、その後ろに整列した。  見ると、銀紋草色の官袍《かんぽう》に金唐革《きんからかわ》の胸当《むねあて》をあて、剣帯《けんたい》の剣を前に立ててそれへ両手を乗せ、ぎょろと、椅子《いす》からこっちを睨まえている人物がある。ここの高官にしては思いのほか若そうな年齢だ。毛の硬いもみあげが旋風《つむじ》を描き、節級冠《せつきゆうかん》の燕尾《えんび》がこの者の俊敏さをあだかも象徴しているようにみえる。 「こいつか、軍卒頭」 「はっ」 「病人ゆえ、規定の殺威棒は、猶予《ゆうよ》しとるということだが、なんだ、ぴんぴんしておるじゃないか」 「はっ」 「けしからんやつだ。さっそく、おれの面前で、百打《だ》の棒を食らわせろ」 「お待ちください——」宋江が口をさしはさんだ。「そう仰っしゃる節級は、じつは、私からのつけとどけが届いてないので、それがあなたの自尊心を傷つけているのでございましょう」 「なにっ」 「つまらんお人だ!」  軍卒頭はじめ、みな冷《ひ》やとした顔いろである。室中、氷のようにしんとなったところで、宋江はなお言った。 「そんなくだらん手輩《てあい》とは思わなかった。これは興ざめな」  節級は、かあっとなって、いきなり剣の鐺《こじり》で床をとんと突き鳴らした。 「こやつ。よく面罵《めんば》したな。ようしっ」 「どうなさる?」 「きっと、ひイひイいわせてやるぞ」 「これは、いよいよ、あいそがつきる。呉用《ごよう》学人ほどな人の知人にも、中にはこんなくだらぬ人もいたのか」  語尾は低い呟《つぶや》きだったが、節級の耳には、聞えていたにちがいない。彼は俄かに何かあわてだして、 「軍卒頭以下、よろしいっ。みんな室外へ立ち去れ」  と、追っ払った。そして急に、辞色をかえて、訊ねだしたものである。 「もしやあなたは、山東の宋公明《そうこうめい》さんではないのか」 「そうです」 「なあんだ、それなら……」と、彼は豪快な顔を笑みくずして。「はやく言ってくださればいいのに」 「じつは、呉用学人の添え手紙を持来しています。けれど梁山泊《りようざんぱく》の軍師呉用と、官の節級がお知り合いとあっては、ちと、外聞がありましょう。で、わざと申しあげずにいたのです」 「じつは、こちらへも密書が来ていた。そして心待ちにしていたのだが、宋《そう》という姓も多い、ただ済州《さいしゆう》罪人、宋とあっただけなので、つい粗暴な失礼をしちまった。しかし会えてよかった」 「私こそ、しあわせでした」  即日、彼の命令で、宋江はしごく身ままな独房へ移され、鍵《かぎ》まで彼の手に持たせられた。その上、数日たつと、節級《せつきゆう》は彼をつれて、町へ出かけ、酒楼の階上で、さらに歓《かん》をつくした。呉《ご》学究との旧交を打明け、また宋江の身の上話もいろいろ求め、十年の交じわりのような想いをあたためた。  そもそも、この節級は、凡人《ただびと》でない。  戴宗《たいそう》という名は、すでに宋江がもらってきた紹介状でわかっていたが、江州では両院の押牢使《おうろうし》という上位にあり、称《とな》えて、「戴《たい》院長」と敬《けい》せられているだけでなく、おどろくべき道術をもっていた。  その道術を、彼自身は“神行法《しんこうほう》”といっている。  たとえば、急な軍使となって長途を飛ぶさいには、仏神の像を鞍皮《くらがわ》に画いた甲馬に踏みまたがって、脚に咒符《おまもり》を結《ゆわ》いつけ、一日によく五百里(支那里)を飛ぶという神技なのだ。で、戴《たい》院長のまたの名を、神行太保《たいほう》の戴宗とも人々はいった。  それはともあれ、酒中、階下《し た》からとんとんと早足で馳け上って来た者がある。  見ると、酒楼のお帳場さんだ。下でお客とお客の喧嘩だという。それも途方もない暴れ方、どうしても院長さんでもなければおさまりはつかない。仲裁して止めてください、というのである。 「またか。しようのない奴」  戴《たい》院長が降りてゆくと、階下の物音はすぐやんだ。そして彼はまもなく黒《くろ》ン奴《ぼ》のようなかちかちに肉の緊《し》まった凄い男を一人つれて階上へもどって来た。 「宋君《そうくん》。暴れ者はこれです。沂水《きすい》県百丈村の生れで、黒旋風《こくせんぷう》の李逵《りき》といいましてね」 「ほ」 「職は牢城の牢番人です。ところが酒くせが悪い。また、二挺《ちよう》の斧を両手につかう達人だし、拳《けん》や棒も心得ているので、だれの手にもおえやしません。またの名、鉄牛の李《り》なんていわれて、恐がられているほどですから」  李逵《りき》は、宋江を見ても、すぐ吠えた。 「院長さん、そこにいる棗《なつめ》の腐ッたような色の黒い野郎は誰です?」 「これですからな」 「なるほど。はははは、いや申しおくれました。私は山東の宋公明《そうこうめい》です」 「へっ?」と、李逵はたまげた声を発して「まさか、院長さんのそばだ。院長さんのお客とあれば、ほんとだろうが。……こいつはしまった」はたと、自分の頬ッぺたを打って、さっそく最敬礼の仁義を切るなどは、どう見てもどこか憎めない男であった。  この者を交《まじ》えて、むしろその李逵を肴《さかな》として、さらに杯を交わしているまに。宋江が彼にむかって、なんで階下で暴れていたのかと訊ねると、金を貸せ、貸さない争いだったと飾りもなくいう。——で、宋江がなんの気なしに銀十両をとり出して、 「これで足りるんですか。よかったらおつかい下さい」  といってやると、李逵は雀踊《こおど》りして、 「てへッ、ほんとに貸してくださるか。ありがてえ、これで目が出たら、倍にして返すぜ。おごってやるよ」  ふところに入れるやいな、あっというまに、もうそこにいなくなっていた。 「宋君」と、戴宗《たいそう》はあとで眉をひそめ「あれには、お貸し下さらんほうがよかったですな」 「なぜですか」 「無類に気のいい正直な奴ですが、なにしてもかねを見たらすぐ博奕《ばくち》場《ば》です。いずれ返すには返しましょうがね」 「ま、いいじゃありませんか」 「役には立つ男だが、牢城の困り者です。弱い囚人は可愛がってやるが、上役に毒づくし、仲間の牢番なども、威張る奴へは、こッぴどくたてをつく。なんともはや文字どおりな黒旋風《こくせんぷう》なので」 「そろそろ、戻りましょうか。……城外の川景色でも見ながら」 「む、では江州《こうしゆう》風物など、ご案内しようか」  ここはさておき、一方の李逵《りき》は、もう賭場《とば》の盆ござで眼のいろをかえていた。 「おッと、こっちへ、張り駒をよこせ。だれだ相手は?」 「李逵、すごい鼻息だな」 「べら棒め。このとおりだ、さあこい」  銀十両を、前において。 「快《ちよう》だ」 「よしっ、又《はん》とゆく」 「張乙《ちようおつ》、いいな。——あ、いけねえ」  こんどは、張乙の方から先張りで挑《いど》みかけた。 「又《はん》!」 「受けた、みんなかかって来い。快《ちよう》だ!」  それも負け、李逵の貼《は》り目は、つづいて四、五たびも取られてしまった。それで一瞬、しょぼッとしたが、 「張乙《ちようおつ》、もいちど駒を振れ。五両貼《は》る」 「貼るたッて、ねえじゃあねえか。どこにかねがあるんだよ」 「あと払いだ」 「ふざけるな」 「一ぺんだけ貸せよ」 「いけないよ」 「なにを——」と、とたんに、張乙《ちようおつ》の前にあった銀をジャラジャラと掻き廻し「借りなかったらいいんだろう」と、その中の十両をふところに入れて突っ立った。 「あっ、無茶するな。賭場《とば》荒しをやらかす気か」 「これでも今日は大人《おとな》しいんだぞ。もすこし何かしてもらいてえのか」 「ア痛っ。やったな。客人っ、手をかしてくれっ」 「蹴ちらすぞ」  場中の総立ちを見ると、李逵《りき》はほんとに暴れ出した。鼻血を出す者、手を折る者、一瞬、さんたんたる光景を現じ出した。 「泥棒っ。盗《ぬす》っ人《と》っ」  張乙はあきらめきれず、逃げる李逵《りき》を執念ぶかく追っかけた。李逵はけらけら嘲笑《あざわら》いながら逃げては振り返ってみていたが、そのうちに、誰かにどんとぶつかった。 「こらっ、李逵じゃないか」 「あ、いけねえ。また会ッちまった、院長さんでしたか」 「なぜ人の物を盗む」 「ごめんなさい。じつは今日ばかりは、勝ったことにして、そしてさっきの宋公明さんに、ひとつ大きな顔で、おごってやるといってみたかったんで」  後ろで、宋江は笑い出した。 「かねが欲しいなら、私が上げるものを」 「いや、かねはここへ持っている」 「それはそれ、そこに追っかけて来た人のかねでしょう。返しておやり」 「ケチな野郎だ」と李逵は張乙の手へくれてやるようにそれを返す。宋江は、張乙にいった。 「だれか怪我《けが》した者はいないのか」 「ないどころか、賭場中のやつが、荒れ熊の爪に引ッ掻き廻されたようなもんで、目も当てられたありさまじゃありません。茶汲《ちやく》み婆まで、肘《ひじ》を折られてしまいましたよ」 「それはすまんな。じゃあこれを薬代《くすりだい》にでもして慰めてやって下さい」  宋江はべつに銀子《ぎんす》を与えて、李逵の代りにあやまった。  戴宗《たいそう》はつくづくと見ていたが、こんどは何も忠告しなかった。李逵に叱言《こごと》もいわない。いずれおちついてからいうつもりだろうか、先に立って、江州の水辺へ道をたどり、 「宋君、白楽天《はくらくてん》の古跡を見てみますか。なんならご案内いたすが」 「琵琶行《びわこう》のゆかりの地ですな。それはなつかしい」 「彼方《かなた》の川ぞいに、その琵琶行にちなんだ琵琶亭という茶屋がある。いまは秋ではないが晩春もまたなかなかです。ひとつ、そこで一ぱいやりましょう」  はやくも宋江の旅情に似た胸には、淪落《りんらく》の女が夜舟に奏《かな》でる絃々哀々《げんげんあいあい》の声が思い出されている。が、さて、その夜彼が味わったものは何か。もちろん、過去にはあったそんな風雅ではない。琵琶亭そのものも人間も、すべては現実の腐爛《ふらん》と濁流中のものだった。 新・水滸伝 第二巻 了  本電子文庫版は、吉川英治歴史時代文庫72『新・水滸伝』(一九八九年六月刊)を底本としました。 * 作品中に、身体の障害や人権にかかわる差別的な表現がありますが、文学作品でもあり、かつ著者が故人でもありますので、そのままとしました。ご了承ください。 * 吉川英治記念館ホームページのアドレスは、http://www.kodansha.co.jp/yoshikawa/です。 新《しん》・水滸伝《すいこでん》 講談社電子文庫版PC  吉川《よしかわ》英治《えいじ》 著 Fumiko Yoshikawa 1960-1963 二〇〇二年三月八日発行(デコ) 発行者 野間省伸 発行所 株式会社 講談社     東京都文京区音羽二‐一二‐二一     〒112-8001 ◎本電子書籍は、購入者個人の閲覧の目的のためのみ、ファイルのダウンロードが許諾されています。複製・転送・譲渡は、禁止します。 KD000184-0