TITLE : 中国の知恵 中国の知恵   吉川幸次郎 中国の知恵 ——孔子《こうし》について—— 論語という物の諸家の文章にすぐれたるも 人をあつかう論談のおだやかに助語に心を ふくめたればげにも聖人の教《おしえ》と聞ゆ          (各務《かがみ》支考《しこう》「俳諧《はいかい》十論」)    一  私はちかごろ、ギボンのローマ帝国衰亡史を、電車のなかなどで、すこしずつ読んでいる。  ある中国通の日本人の哲学者が、かつて私に語ったところによれば、ローマの歴史は、どこか中国の歴史に似ているという。  逆にまた日本通の中国人である周作人《しゆうさくじん》氏が、ある随筆のなかで説くところによれば、日本人にはギリシア人のおもかげがあると、いう。(「瓜豆集《かとうしゆう》」「雷について」)  両方の話をつきあわせれば、日本はギリシアに似、中国はローマに似ていることになる。  果してそうであるかどうか、ギボンさえも近ごろやっと読み出したばかりの私には、むろん何とも分からぬ。ただギボンのある頁《ページ》は、つよく私の注意をひいた。それはその第六章、年少気鋭の皇帝アレクサンデルの事蹟《じせき》をのべた条であって、いわく、  ——アレクサンデルの着衣は、質素で謙遜《けんそん》であり、彼の態度は慇懃《いんぎん》で愛想よかった。彼の宮殿は正規の時刻に一般臣民のために開かれたが、丁度エレウシス祭の聖餐礼《せいさんれい》においてのように、「精神の清浄潔白を自ら感じない者はこの神聖な城郭に入ってはならぬ」との善良な忠告を大声で叫ぶ伝令者の声が聞かれるのであった。(村山勇三氏訳「岩波文庫」による)  字引を引いて見ると、エレウシスの祭というのは、ローマでのことではなくして、ギリシアのことである。それはアテナイの北西二十二キロに位する聖地であり、秋そこで松明《たいまつ》の光のもとで行なわれる密儀に、人人は海水に身を清めつつ参加したが、ただ殺人などの大罪を犯したものは、参加を許されなかった、という。  ところで私がこの条に注意したのは、  ——精神の清浄潔白を自ら感じない者はこの神聖な城郭に入ってはならぬ。  まずギリシア人がエレウシスの神殿の外で叫び、ローマ人もアレクサンデルの王宮の外で叫んだというこのきびしい言葉と、ほとんど全く同じ意味の言葉が、孔子《こうし》とその弟子《でし》たちによっても叫ばれているからである。  話は、「礼記《らいき》」の「射義《しやぎ》」という篇に見える。  孔子が、その生国である魯《ろ》の国の国都、曲阜《きよくふ》城のなかにある矍相《かくしよう》の圃《ほ》というところ、そこで射《しや》の儀式を行なったことがある。射の儀式というのは、有能な人材を見わけるために行なわれる弓試合であるが、きょうの儀式は、賢人孔子がそれを主宰するというので、見物の人垣《ひとがき》は、黒山のごとくであった。「観《み》る者は堵墻《としよう》の如《ごと》く」であった。  やがて弓試合の前に行なわれる飲酒の儀式がおわり、いよいよ試合そのものが開始されようとするとき、孔子は弟子たちのうちでも一ばん率直な人がらである子路《しろ》に命じ、観衆の人垣にむかって呼びかけさせた、  ——軍を〓《やぶ》りし将と、亡国の大夫《たいふ》と、与《し》いて人の後《あと》つぎと為《な》りし者とは、入らざれ。其《そ》の余《よ》は皆な入れ。  まず第一には敗戦の将軍。ついでは国政を委託されながら、その責任を果し得ずして亡命した家老たち。またついでは人の遺産を横領したもの。それらはみなこの「神聖な城郭に入ってはならぬ」。しからざるもののみ入れ。  観衆の間に、最初の動揺がおこり、その半ばは立ち去り、半ばのみがのこった。  孔子はさらに、二人の弟子に命じた。  弟子の一人は、盃《さかずき》を高くささげつつさけんだ、  ——幼く壮《わか》きときより孝悌《こうてい》にして、耆《お》い耋《おとろ》えても礼を好み、流俗《りゆうぞく》に従わず、身を修めつつ死を俟《ま》つ者ありや否や。そのもの此《こ》の位に在《あ》れ。  第二の動揺が、観衆の間におこり、のこっているものの更に半ばが立ち去り、半ばが残った。ついでもう一人の弟子、それも盃を高くささげつつ叫んだ、  ——学を好んで倦《う》まず、礼を好んで変らず、八十九十の旄《ぼう》のとし、百の期《き》のとしまでも、道を称《おこ》ないて乱れざる者ありや否や。そのもの此の位に在れ。  かくてわずかに数人のとどまる者があった。  良心のないものをにくむ精神、責任をはたさないものをにくむ精神、それはギリシア人の専売ではない。  もっともこの話は、史実ではないかも知れない。少なくとも史実そのままではないであろう。「礼記」という書物は、「論語」が孔子の死後まもなく編集されたのとはちがって、孔子ののち三、四百年、漢《かん》の時代の学者の編集したものである。この話なども、よほど理想的に修飾されているに相違なく、或いは全くの虚構に出るかも知れない。従って現在の東洋史家のあまり取りあげないものである。しかしながらその非真実性は、孔子の伝記資料としての真実に乏しいというにすぎない。文学としての真実、人間の叫びとしての真実、それをこの仮構に出るかも知れない物語は蔵している。或いは仮構なればこそ蔵している。  やはり、周作人氏は、別のある随筆のなかでいう、  ——儒家は無神論の立場に立つものであり、宗教ではない。しかし儒家の経典のうち、古代の聖賢の言行を記載した条条は、実は本 行 経《ほんぎようきよう》、譬喩経《ひゆきよう》とおなじである。それらはみなのちの弟子たちが、人間の理想を表現しようとして作ったものといってよい。(「秉燭譚《へいしよくだん》」「読檀弓《どくだんぐう》」)  おなじような意味で、「礼記」の他の篇に見える孔子の影像も、しばしば私をとらえる。ことにその「檀弓《だんぐう》」篇に見えたいくつかの説話は、そうである。  たとえば——  孔子が、その何回目かの遊説《ゆうぜい》の旅のため、衛《えい》の国をとおりすぎたとき、前に宿を借りたことのある家の主人がなくなった。孔子は弔問におもむき、中にはいってねんごろにとむらったうえ、門外へ出ると、そっと弟子の子貢《しこう》を呼んでいった。馬車につけた馬をほどいて香奠《こうでん》にせよ。  子貢は抗議した。  ——これまで門人たちがなくなりました時にも、車のそえ馬を香奠にされたことはありません。それを宿の主人におほどこしになるのは、鄭重《ていちよう》すぎはしませんか。  ——いや、  と、孔子は答えた、  ——わしはさっき喪主にあうと、涙が出てしようがなかった。わしはわしの涙をかりそめのものにしたくはないのだ。 (孔子、衛に之《ゆ》き、旧《もと》の館人の喪に遇《あ》う。入りて之《こ》れを哭《こく》すること哀《かな》し。出《い》でて、子貢をして驂《さん》を脱《と》きて之れに賻《おく》らしむ。子貢いわく、門人の喪に於《お》いて、未《い》まだ驂を脱くこと有らず、旧の館に於いて驂を脱くは、乃《すなわ》ち已《はなは》だ重きこと無からんや。夫子《ふうし》いわく、予《わ》れ嚮《さき》には入りて之れを哭し、一たびの哀しみに遇いて涕《なみだ》を出だしぬ。予れは夫《か》の涕の従《よ》るべ無きを悪《いと》うなり。小子《しようし》よ之れを行なえ)  孔子の言葉について、旧注の訓詁《くんこ》は、すこしちがう。しかし私は私のように読んでさしつかえないと感ずる。  また、別のある時の旅行に、山東省《さんとうしよう》の名山である泰山《たいざん》のそばを通りすぎた時のこととして、次のような話がある。  一人の女が墓の前で、大へん悲しそうに泣いている。軾《しき》、すなわち車の前にある手すりによりかかりつつ、じっと耳をすませていた孔子は、子路を使者に立てて尋ねさせた、  ——おんみの泣き声は、何度も不幸にあったもののように聞こえる。  女は答えた、  ——はい、さようでございます。前にはしゅうとが虎《とら》にくわれてなくなり、次には夫がやられ、今度は子供がやられたのでございます。  ——ではなぜここを立ちのかない。  ——税金が軽うございますから。  孔子は、弟子たちをかえりみていった、  ——よくおぼえておくがよい。むごい政治は虎よりもおそろしいのだ。 (孔子、泰山の側《そば》を過ぐ。婦人の墓に哭《な》く者有りて哀《かな》し。夫子《ふうし》、式《しき》によりて之《こ》れを聴き、子路をして之れに問わしめていわく、子《きみ》の哭くや壱《ひ》とえに重ねて憂い有る者に似たり。いわく、然《しか》り、昔は吾《わ》が舅《しゆうと》、虎のために死し、吾が夫、又た死しぬ。今吾が子、又た死しぬと。夫子いわく、何すれぞ去らざるや。いわく、苛政《かせい》無しと。夫子いわく、小子、之れを識《し》るせ、苛政は虎よりも猛なり)  また孔子の家の飼犬が死んだ時、孔子は、弟子の子貢に、それを埋めるように命じた。そうしていった、  ——カーテンの古くなったのをすてずにおくのは、馬の死んだのを埋めるため、車の日おいの古くなったのを捨てないのは、犬の死んだのを埋めるためだという。貧乏なわしに、車の日おいはない。しかしせめて畳をしいて、頭がおちこまないようにしてやれ。 (仲尼《ちゆうじ》の畜《か》える狗《いぬ》死し、子貢をして之れを埋めしむ。いわく、吾れ之れを聞く。敝帷《へいい》の棄《す》てざるは、馬を埋めんが為《ため》なり、敝蓋《へいがい》の棄てざるは、狗を埋めんが為なりと。丘《きゆう》は貧にして蓋《がい》無し。其の封《ほうむ》るに於いては、亦《ま》た之れに席《むしろ》を与え、其の首をして陥らしむることなかれ)  更にまた孔子が死に近づいた時の話として、「檀弓」篇に見えるものは、最もあきらかに史実ではない。しかし最も風神に富んでいる。いわく、  ある朝、孔子は、手をうしろにくみ、杖《つえ》をひきずりながら、門のほとりを逍遥《しようよう》しつつ歌った。   泰山は其《そ》れ頽《くず》れんか   梁木《りようぼく》は其れ壊《くだ》けんか   哲人は其れ萎《や》まんか  常は前につくべき杖をうしろにひきずること、常は謹厳な孔子が、ぶらぶらと逍遥すること、みな異常の行為であり、みな人をしていぶかりの思いを抱《いだ》かせるに充分であったと、注釈家はいう。また歌の中にいう泰山は、前にもふれたように、孔子の郷里に近い名山であり、梁木とは、家屋の棟木である。  そのとき歌声をききつけたのは、弟子の子貢であった。  ——泰山の其れ頽るれば、吾れ将《まさ》に安《い》ずくにか仰がん。梁木の其れ壊け、哲人の其れ萎《や》まば、吾れ将に安ずくにか放《たよ》らん。夫子は殆《ほと》んど将に病まんとする也《なり》。  師の身の上に異変のあることを察して、かけつけた子貢にむかい、孔子はいった、  ——先先代の夏《か》の時代、死者の棺は、座敷の東の方、主人の席におかれた。また先代の殷《いん》の時代には、座敷のまんなか、主人の席と客の席との間におかれた。今の周《しゆう》の時代では、西の方、客の席におく。ところでわしは殷の人間の子孫だが、ゆうべの夢に、座敷のままんなかで、御馳走《ごちそう》になったと見た。  ——而《しこ》うして丘《きゆう》は殷人《いんびと》なり。予れ疇昔《ちゆうせき》の夜、夢に坐して両楹《りようえい》の間にて奠《てん》をうく。  孔子はおそらくそこで、しばらく言葉をとぎらせたであろう。両楹、すなわち東西二本の大柱のまんなかにあるものといえば、二つの場合がある。一つはさっきの言葉が暗示するように、殷の時代に於ける死者の柩《ひつぎ》のおき場所である。もう一つは天子の玉座である。  つまり夢の予約するものは死か王位か、二つのうちのどちらかである。後者はもとより孔子に予約されていない。  ——夫《そ》れ明らかなる王の興《お》こらざるに、天下其れたれか予《わ》れをたっとばんものぞ。  王位でないとすれば、それは死。  ——予れは殆んど将に死せんとするなり。  かくて疾《やまい》に寝《い》ぬること七日にして歿《ぼつ》しぬ、と、「礼記」の記者はいう。  この話こそは、あきらかに後代の附加である。しかし古代の文学としての美しさにみちている。漢代の学者、鄭玄《じようげん》は、この物語ののちに注していう、  ——聖人の天命を知ることを明らかにするなり。    二  このように孔子を主人公とする仮構の説話、それはひとり「礼記」のなかに見えるばかりではない。秦漢《しんかん》の古書のなかには、かず多く見える。うちその「大戴礼記《だたいらいき》」、「韓詩外伝《かんしげでん》」などに見えるものは、やはり私を楽しませるに充分である。  たとえば、「大戴礼記」の巻首にある「王言《おうげん》」という篇に現われる孔子は、弟子《でし》の曾参《そうしん》を前にしていう、  ——吾《わ》れ王言其《そ》れ出《い》でずして死せんか。哀《かな》しい哉《かな》。  私は私の生涯に於《お》ける最も主要な言葉、それを吐かずじまいで死ぬのであろうか。そうした悲痛な述懐によって、孔子はそのいわゆる「王言」をのべはじめる。  また「韓詩外伝」のある章に現われる孔子は、南方の国国を遊歴する途中、水辺で洗濯をしている清らかな乙女《おとめ》に出あう。弟子の子貢《しこう》が使者に立ち、さいしょは盃《さかずき》をおくりものにし、次には琴柱《ことじ》を、次には絹をおくりものにして、孔子とおとめとの間に問答がかわされる。水辺の少女と、車上の哲人とは、説話の風景の中で美しく対照される。  しかしたといそれらの説話が、いかに私を楽しませようとも、それらのもつおもしろさは、孔子の言行の直接な記録である「論語」のおもしろさには、及ばない。一たい、西方の文明に接触するまでの中国の文明の体系のなかでは、小説のおもしろさは、歴史記録のもつおもしろさに及ばないのが、常である。「水滸伝《すいこでん》」のもつおもしろさは、結局において「史記」のもつおもしろさに劣り、「三国演義《さんごくえんぎ》」のもつおもしろさは、陳寿《ちんじゆ》の「三国志《さんごくし》」、もしくは「資治通鑑《しちつがん》」のもつおもしろさに、劣る。空想によって「人間の理想」をえがくよりも、実際に行為された事柄のなかに「人間の事実」を見いだすことが、この国の文明の姿であった。そうしてその点、中国の文明は、おなじく東洋の文明といっても、印度《インド》の文明とは、対蹠《たいしよ》的である。  ところで、「論語」という書物は、たいへんとらまえにくい書物である。まずとらまえにくいのは、その体裁である。この書物のなかにあるものは、ばらばらに、ほとんど何の連絡もなく、無秩序にならべられた、短い言葉のむれである。  ——子曰《しい》わく、学んで時に之《こ》れを習う。亦《ま》た悦《よろこ》ばしからずや。  朋《とも》有りて遠方《えんぽう》より来たる。亦た楽しからずや。  人知らざれども慍《いか》らず、亦た君子《くんし》ならずや。  ——子曰《しい》わく、巧言令色、鮮《すくな》し仁。  ——曾子《そうじ》曰わく、吾れ日に三たび吾が身を省りみる。人の為《ため》に謀《はか》りて忠《つく》さざるところあるか。朋友と交わりて言《ことば》に信《まこと》なきか。習わざりしことを伝うるか。  これは第一篇「学而《がくじ》」のはじめであって、子曰わくというのは、孔子自身の言葉であり、曾子《そうじ》曰わくというのは、弟子の曾参《そうしん》の言葉である。こうした短い言葉の羅列《られつ》によってこの書物は始まり、また終わっている。こころみに最後の章の最後の条をあげれば、  ——孔子曰わく、ひとのよの命《さだ》めを知らざるものは、君子と為《な》るすべ無く、礼《れい》のおきてを知らざるものは、みを立つるすべ無く、言《ことば》のさまを知らざるものは、人を知りわくるすべ無し。  それらはみな短い言葉である故《ゆえ》に、集中的な強烈な印象を与える。また「聖書」の言葉のように、神を意識した言葉でなく、人間、人間、人間、あくまでも人間ばかりを意識した言葉である故に、理解しやすく、人人の日常の生活の知恵となることも、容易である。しかしながら、それらの言葉は、あくまでもばらばらにならべられているのである。「新約聖書」のある巻巻のように、キリストの一生という時間を追うて、言葉と行為が記録されているのではない。いわばそれは散漫な体裁である。  もっとも、このように断片的な言語の集積であるというのは、中国の古書のおおむねが多かれ少なかれもつ傾向である。しかし「論語」はもっとも極端である。そのことは篇名のつけ方にも現われているのであって、ほかの書物の篇名のつけ方は、たとえば「荘子《そうじ》」がその第一篇に名づけて「逍遥遊《しようようゆう》」というのは、全体の内容が、精神の自由な飛翔《ひしよう》を主題とすることを指示し、その第二篇に題して「斉物論《せいぶつろん》」というのは、篇全体の内容が、矛盾の統一ということを主題とすることを指示する、という風に、篇の名が内容を総括している。ところが「論語」はそうでない。第一篇に名づけて「学而」というのは、  ——学んで而うして時に習うは、亦た悦ばしからずや。  という句によってはじまるからであり、第二篇に名づけて「為政《いせい》」というのは、  ——政を為すに徳を以《も》ってす。  という句によってはじまるからである。つまり「論語」二十篇、おのおのの篇がすでにまとまった主題をもたない。この書物全部を通じた主題、それを捕捉することは、いよいよもってむつかしい。  更にまたその捕捉しにくさは、もっと重要なところからも起こっている。それはこの書物のなかに並んだ短い言葉どもは、その表面の平易さ、或いは平凡さにも似ず、常にある複雑さを裏にもつことである。  すなわち、この書物の言葉のあるものは、ぶっつけに、人生に対する直接な教訓として語られている。つまり、人間はかくあるべしという形で語られている。  ——子曰わく、朝《あした》に道を聞けば、夕《ゆうべ》に死すとも、可なり。  ——子曰わく、人の己《おの》れを知らざるを患《なや》みとせず。己れの人を知らざるを患みとす。  ——君子の疾《いと》うことは、その世《いのち》を没《お》わりてもその名のひとびとによりて称《たた》えられざること。  そうして言葉のあるものは、語った相手も記《しる》されているのであって、たとえば、  ——子曰わく、由《ゆう》よ、汝《なんじ》に知ることを誨《おし》えんか。知るを知ると為し、知らざるを知らずと為す。是れ知る也《なり》。  由というのは、弟子の子路《しろ》のことであり、これは子路にむかっての言葉である。  ——司馬牛《しばぎゆう》、君子を問う。子曰わく、君子は憂えず、懼《おそ》れず。曰わく、憂えず懼れざるのみにて、斯《すなわ》ち君子と謂《よ》ぶべきか。子曰わく、内に省りみて疚《やま》しからざるに、夫《そ》れ何をか憂え何をか懼れん。  司馬牛というのも、弟子の名である。  しかしながら、この書物の言葉は、以上のように、或いは語った相手を示し、或いはそれを伏せつつ、人生の広汎《こうはん》な教訓を、抽象的に語るという形ばかりで、語られているのではない。  より多くの条は、特定の個人に対する批評として語られている。或いは更に進んでは、特定の個人の特定の行為に対する批評として語られている。いいかえれば、人間はかくあるべしというきびしい教訓の言葉ではなくして、ある人はかくある、かくあった、という、おだやかな観察の言葉として語られている。そうした場合が、むしろ多いのである。  批評の対象となるのは、弟子であることもある。  ——敝《やぶ》れたる〓《わた》いれの袍《うわぎ》をきつつ、狐《きつね》と貉《むじな》のかわごろもをきたるものともろともに立ちて、恥じらわざる者は、其れ由ならんか。  これは弟子子路を批評した言葉である。やぶれたる綿入れ、つまりむかしの高等学校の生徒のようなむさくるしい恰好《かつこう》で、きりたての背広をきた人物のそばに出ても、平気でいられるのは、子路だろう、というのである。  或いは、また、いにしえの為政者、もしくは当時の為政者が、批評の対象になることもある。後者の例を、一つだけあげれば、  ——〓伯玉《きよはくぎよく》、人を孔子のもとに使いせしむ。  孔子、之れに坐《しきもの》を与えて問う、曰わく、夫《か》の子《ひと》はいま何をか為したまえると。  対《こた》えて曰わく、夫《か》の子《ひと》は其の過《あやま》ちを寡《すく》なくせんと欲したまいて、而《し》かも未《い》まだ能《よ》くしたまわざりと。  使いの者、そとに出《い》でしのち、孔子の曰わく、このましき使いなるかな、このましき使いなるかな。  これは、孔子の友人であり衛《えい》の国の家老であった〓伯玉という人物に対する批評である。ところで〓伯玉氏は、過失をせいぜい少なくしようとしながら、なかなかそう出来ないのになやんでいるという批評、それは孔子が直接にした批評ではない。孔子のところへ使者として来た、〓伯玉の家臣なにがし、それが主人の行為に対してした批評、それに孔子が同意し、且《か》つそうすることによって、使者をも批評したという複雑な形で、記《しる》されている。  こうした個人に対する観察と批評の条条も、広汎な人間の法則にまでひろがり得《う》べき要素を、もとよりそれぞれにもっている。美服のもののそばに出ても自分の粗服をはじないこと、過失に対する反省、いずれも広い教えとなってよいことがらである。しかし孔子はそれを、少なくともこれらの条条では、ぶっつけに、性急に、必ずかくあるべしという形では語らない。子路についてのみいい、〓伯玉にのみついていう。少なくともまずそれらの人人の美徳として語る。数学にたとえを借りれば、孔子は人生の法則を、  ——朝に道を聞けば、夕に死すとも、可なり。  という風に、簡単な整数の形で、わり切って語ることも、しばしばである。しかしまた何らかの分母をもった分数として語ることも、またしばしばなのである。  また、それをきっかけとして考えてゆけば、一見、きちんとした整数のように見える条条も、実は分母をもった分子であるかも知れない。たとえば子路にむかっての言葉として、前に引いた条である。  ——由、汝に知ることを誨《おし》えんか。知るを知ると為《な》し、知らざるを知らざると為す。是れ知るなり。  この条を考えるには、子路という人物のことを考えておく必要がある。子路というのは、弟子のうちでも一種特殊な人物であって、がんらいは遊侠《ゆうきよう》のむれにいたのが、のちに発心《ほつしん》して孔子の弟子になったといわれる。そうして前のやぶれ綿入れ云云《うんぬん》の批評でもわかるように、とっぴなことのすきな、やんちゃ坊主《ぼうず》であった。戦争のきらいな孔子にむかい、もし先生が、遠征軍の総司令官になられたら、誰を参謀になさいますかと尋ね、とにかくきみには頼まないよと、叱《しか》られたのも、この弟子ならば、孔子の危篤のときに、いろいろと出すぎたことをして、叱られたのも、この弟子である。そうして、  ——由は其の死を得ざるがごとく然《しか》り。  と批評されている。  あいつは畳の上で死ねそうにないやつだというのであって、事実この予言どおり、畳の上では死ななかった人物であるが、一方またそれだけに、孔子は、この情熱の過剰になやむ弟子が、かあいかったらしい。世の中のありさまに失望した孔子が、おれはいっそのこと筏《いかだ》にのって、東の海に舟出したい、そのとき、おまえはおれについて来てくれるだろうな、といったのも、子路である。そうしてそのときも、はずみすぎた返事をして、けっきょくは先生にひやかされている。そのいかだの木を、きみは一たいどこでさがして来るつもりかね。  ——子《し》曰わく、道行なわれず。桴《いかだ》に乗りて海に浮かばん。我れに従わん者は、其れ由か。  子路、之れを聞きて喜ぶ。  子曰わく、由や勇を好むこと我れに過ぎたり。材《き》を取るすべなからんものを。  子路とは、そうした性格の人物である。且つそうした性格の別のあらわれとして、不可知の世界、超自然の世界への興味をいだいていたらしい。神霊の問題、死の問題、について、孔子と問答を交《か》わし、それよりは人間の問題、生の問題が大事なのだよと、たしなめられているのも、季路《きろ》、すなわち子路である。  ——季路、鬼神に事《つこ》うることを問う。  子曰わく、未《い》まだ人に事うる能わざるに、いずくんぞ能《よ》く鬼に事《つか》えん。  敢《あ》えて死を問う。  曰わく、未まだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん。  子路というのは、そういう人物であった。だとすると、  ——知るを知ると為し、知らざるを知らざると為すこと、是れ知る也。  という有名な言葉も、それが子路にむかっての言葉であるだけに、何か特殊な分母をもっていないとは、いい切れない。  おなじようにして、前に引いた、司馬牛への言葉、  ——君子は憂えず懼《おそ》れず、内に省りみて疚《やま》しからざるに、夫《そ》れ何をか憂え何をか懼れん。  これも、司馬牛の兄の桓〓《かんたい》が、弟とはうって変わった悪党であったため、そうした兄をもつ弟をなぐさめる言葉であったと、古い注釈では説いている。  このように一見分母をもたない整数のように見える言葉も、何か伏せられた分母のありそうな場合がある。  現にまた孔子は、人を見て法を説き、相手の性格によって、教えをかえている場合が、明らかにある。たとえば、例の子路が質問して、  ——聞きしことは斯《すなわ》ちこれを行なわんか。  これは古い注釈によれば、人の難儀をきけばすぐ助けてやってよろしいか、という意味であるというが、そういう子路の質問に対し、孔子は、父や兄に相談せずに、すぐそんなことをするやつがあるかと、叱っている。ところが冉有《ぜんゆう》がおなじ質問をしたのに対しては、それはすぐ助けるがよいと、答えている。この矛盾を、別の弟子である公西華《こうせいか》が問うたとき、孔子はこう答えている。冉有はひっこみ思案だからはげまし、子路は出すぎた男だから抑《おさ》えたのだよと。  ——求《きゆう》は退く。故に之れを進めたり。由は人を兼《しの》ぐ。故に之れを退く。  一たいこの問答でも示されるように、孔子は、単純な人物では、決してない。はげしい理想にもえると共に、複雑な思慮に富む人物である。このことは、或いはその行為にも現われているのであって、たとえば、孺悲《じゆひ》という人物が、孔子を訪問して、面会を申しこんだとき、孔子はその人物にあいたくなかったので、病気だといって、ことわらせた。しかし取りつぎのものが、そのことをいいに門外へ出ると、琴をひきよせて歌をうたい、実際は病気でないこと、しかしこの人物にはあいたくない理由があることを、婉曲《えんきよく》に知らせたという。  また陽貨《ようか》という好もしからぬ人物が、孔子に接近しようとして、豚のおくりものをしたのに対し、孔子は、陽貨が留守のときを見はからって、返礼に行ったというのも、有名な一条である。  こうした苦労人的な面が、孔子の性格にはある。その性格の基本をなすものは、はげしい理想家的な性格であり、それは当時の人から時には、ドン・キホーテ的とさえ見なされたものであるが、といって、生一本の人物ではない。またそもそも孔子はいまから二千五百年前の人物ではあるが、二千五百年前の中国は、もはや原始の時代ではない。中国の歴史は、それまでに、千年以上の堆積《たいせき》をかさね、文明の進歩と共に、巧智と虚偽もまた成熟に達していた。孔子以前三百年の歴史である「春秋左氏伝《しゆんじゆうさしでん》」を読めば、およそ思い半ばに過ぎる。われわれはそこに記された人人の行為のなかに、古代のみがもつ強い意志をもみとめ得ると共に、今日の人人とおなじような複雑な心情をみとめ得る。孔子はそうした世の中にいたのである。それはもはや、ひたむきな情熱だけで事を処理し得る時代ではない。ことに、同学貝塚茂樹君の説くところによれば、彼は下級の武士の家の次男であったという。そうした境涯から出て、しかも一世の注目と、尊敬と、そうして嫉視《しつし》とを浴びる巨人として、生きたのである。  ——邦《くに》に道有るときは、言をも危《たか》くし行ないをも危くす。邦に道無きときは、行ないを危くすれど言は遜《しず》かにす。  そういう風に、孔子みずからも、いっている。  以上のような諸要素がからみあって、この書物の言葉は、割り切った言葉としては、必ずしも現われない。そうしてかく割り切らないところこそ、この書物の尊いところであり、孔子の後継者を以《も》って自任する孟子《もうじ》は、すでにそれに欠けると、双方の有力な注釈者である宋《そう》の朱子《しゆし》はいう。つまりたとえていえば、孟子は、円周率を3.14として示し、3.1416として示す。「論語」は、それをただπとして示す。3.14, 3.1416の方がわかりやすいようだけれども、円周率についての事実は3.14でもなく、3.1416でもない。割れば無限の小数を伴うπが、円周率の事実である。それをただπとして示す、それが「論語」のえらいところであると、朱子はそうしたたとえではいわないけれども、そうした意味のことをいっている。  ——孔子の人に教うる如きは、只《た》だ是れ件を逐《お》い事を逐いて道理を説き、未《い》まだ嘗《か》つて大頭脳の処を説き出ださず。然《し》かも四面八方より合聚《がつしゆう》して湊《あつ》め来たれば、也《ま》た自《お》のずと大頭脳を見得ん。しかるに孟子にいたりては便《すなわ》ち指出して人に教えたり。(「朱子語類」)  私は朱子のこの意見に同意する。しかしそれだけに、この書物の実態をとらまえることは、一そうむつかしいのである。  しかしまたむつかしいだけに、私はこの書物を、私は私なりにとらまえ、説明して見たいという欲望をも感ずる。或いはこうした感情は、子供のころからこの書物になれしたしんで来た人には、かえって少ないかも知れない。私より一世代前の人人、また同じ世代でも、おとうさんが漢学者であったか何かで、この書物からあまりにも早くから感化をうけ、この書物の言葉のあるものが、その人人の生活の知恵となりきっているために、かえってこの書物についてとらまえにくさを感ずること、また従ってそれを何とかしてとらまえたいと感ずること、共に私より少ないかも知れない。その関係は、子が親に対し、大人になってからも、他人に対するほどの批判を加えないのと、似ているであろう。  しかし私の場合は、ちがっている。私がはじめて「論語」を読んだのは、はたちをすぎ、大学へはいって、中国の学問をおさめるようになってからのことである。且《か》つ当時の京都大学の先輩たちの意見は、この書物、乃至《ないし》は孔子に対して、過度に批判的であった。私もその影響のもとにいて、この書物にあまり興味を感じなかった。私がこの書物を読み出したのは、むしろ技術的な必要からである。すなわち中国後代の文学には、この書物からの引用句が、それと明示せずして随所にある。大学にはいった最初の講読の時間、ある文学評論の中に、この書物の、  ——子貢、人を方《たくら》ぶ。子《し》曰わく、賜《し》は賢なるかな。我れはその暇《いとま》あらざるものを。  という文章からの引用句があるのを知らず、恥をかいたことから、そうした恥をくりかえすまいとして、その夏休みに読んだのが、この書物を読んだはじめである。それは、この書物に対する敵意を抱《いだ》きつつ、またこの書物の中に流れるものは、陰惨なじめじめとしたものであろうという予想を抱きつつ、つまり読みたくはないが、読まなくてはならぬ書物として、いやいや読み出したのである。ある実業家が、この書物をかつぎまわっていたことも、私の不興の一因であった。  しかしこの「論語」との戦争は、たちまちにして私の敗北におわった。私は数篇をよむうちに、まずその文章の力強さに感心した。  ——曾子《そうじ》いわく、以って六尺の孤《みなしご》を託す可《べ》く、以って百里のくにの命《まつりごと》を寄《あず》く可く、大いなる節《こと》に臨みて奪《うご》かす可からざるものは、君子人《くんしじん》なりや。君子人なり。  更に数篇を読みすすむうちに、予想とはうってかわった、積極的なほがらかな空気、ある場合には、ほがらかすぎる空気が、流れているのに、目をみはった。  ——葉《しよう》のくにの公《きみ》、孔子のことを子路に問う。  子路、対《こた》えず。  子これを聞きて曰わく、汝なんぞいわざりしや、其の人となりは、憤りを発しては食を忘れ、楽しんで以って憂いを忘れ、老いの将《まさ》に至らんとすることを知らざるものなりと。  ——君子は、その世を没《お》わりて名の称《たた》えられざることを疾《いと》う。  以来、三十年ぢかく、私はこの書物を読んでいる。中国の古書のうち、一ばん私としたしいのは、杜甫《とほ》の詩と、この書物であるといわねばならない。  そうした私としては、これらの断片的な言葉の集積の背後にあって、私を、乃至は私たちを、とらまえて離さないもの、それが何であるかを、私は私なりに考えて見たいという欲望を、人一倍つよく感ずる。    三 「論語」をつらぬいて流れるもの、それは要するに、ふてぶてしいまでの人間肯定の精神、更にいいかえれば人間の善意への信頼であると、感ぜられる。少なくとも私にとっては、そう感ぜられる。  孔子の教えが、もし今の世の教えとして、不適当なところがあるとするならば、それがあまりにも厳格な教えであるためではなくして、むしろあまりにも人間を肯定した楽観的な教えであることにあると、私は考える。  孔子が人類の運命に対して、楽観的であったこと、それをまず示すのは、「論語」の「子罕《しかん》」篇に見えた、次の挿話《そうわ》である。  それは、孔子が五十六歳のときのことであったといわれる。今の河南省《かなんしよう》の南部にある匡《きよう》という町、そこで、孔子はとんでもない誤解のために、その生命を危険にさらしたことがある。誤解というのは、かつて陽虎《ようこ》という男が、侵略軍の大将として、この土地で乱暴を働き、その容貌《ようぼう》が孔子と酷似していたため、土地の人人が、孔子を陽虎とまちがえたのである。誤解は間もなくとけ、事件は無事に落着したが、危難のさなかにあった孔子が、弟子たちにむかって告げた言葉は、次のごとくであった。  ——文王《ぶんのう》既に没す。文は茲《ここ》に在《あ》らざらんや。  天の将《まさ》に斯《こ》の文を喪《ほろ》ぼさんとせんか、後に死する者は斯の文に与《あずか》るを得じ。  天の未《い》まだ斯の文を喪ぼさずとせんか、匡の人、其《そ》れ予《わ》れをいかんせんものぞ。  文王、というのは、孔子に先だつこと五、六百年、周《しゆう》の国家を建設した天子であり、周の時代の政治と文化の父である。その文王はすでにこの世にいまさぬ。だとすると、文化というものは、この私自身の上にあるのではないか。私自身が人間の文化の正しい継承者なのである。私はそう信ずる。  かりに、天が、人間の文化の絶滅を欲しているとしよう。もしそうならば、私はじめ後世のものたちは、文化の伝統に参与することが、そもそもできないはずだ。またもし人間の文化の絶滅を天が欲していないとするならば、この匡の土地の人間が、何をたくらもうとも、この私をどうすることも出来ないはずだ。  この言葉のなかにまずあるものは、選ばれた人間としての自己、それに対する自信である。しかしそれと共に、強く現われているものは、人間の文化というものは、決して絶滅しないであろうという、人間全体に対する自信である。  人類の文化の絶滅を欲するのが天の意思であるか、乃至《ないし》はその絶滅を欲しないのが天の意思であるか、言葉は表面では、天の意思を二様に仮定して、その結果を吟味している。しかし前者の仮定、つまり人類の文化の絶滅を欲するのが天の意思であるとする仮定、「天の将に斯の文を喪ぼさんとするならば」という仮定は、文化の伝統、それは現在も脈脈として生きているではないか、という、現実の事態によって、破れ去る。そうして後者の仮定、つまり「天の未まだ斯文《しぶん》を喪ぼさざるならば」という仮定、つまり人類の文化の絶滅を欲しないのこそ、人間をとりまく自然の意思であるという仮定のみが、可能なものとして残る。そうしてそれと同時に、もしそうならば、おれは死なない、という強い断定が生まれているのである。事がらの中心は自己にある。しかしその底にあるものは、人類は文化をつくりだし、且つその文化は絶滅しないであろうという、人類の運命に対する自信である。  この時ばかりではない。おなじような言葉は、別の機会にもはかれている。孔子五十六、七歳、もしくは六十一歳のころのこととされるが、宋《そう》の桓〓《かんたい》なるものが、やはり弟子をつれて旅行中の孔子に、危害を加えようとしたことがある。そのときにも孔子はいう、  ——天、徳を予《わ》れに生《な》せり。桓〓、其れ予れをいかん。  ここでは、選ばれた人間としての自己に対する自信、そればかりが強調されている。しかしやはり人類全体の運命に自信をもてばこそ、その代表者としての「予れ」の運命に自信をもったのである。  もっとも、人類の運命は、常に希望の方向にばかりむいていると、そう手ばなしに考えるほど、孔子は楽天的でなかった。  人類の運命は、くらい方向に向かうこともあるという考慮をふくむ会話、それも「論語」の中には見いだされる。  たとえば、愛弟子《まなでし》の子路《しろ》が、公伯寮《こうはくりよう》という心のせまい弟子のために、当時魯《ろ》の国きっての権力者であった季孫氏《きそんし》に、誣告《ぶこく》されたことがある。魯の国の家老で子服景伯《しふくけいはく》というのが、そのことを心配して、孔子に注進した、  ——公伯寮の誣告は信用されそうです。誣告者を死刑にするぐらいのことは、私の力でも出来ますが。  そのとき孔子は答えている、  ——道徳の行なわれる世の中となるのも、運命であり、道徳のすたれた世の中になるのも、運命である。一公伯寮の力によって、運命は左右されるものでない。  子曰わく、道の将《まさ》に行なわれんとするや、命《めい》なり。道の将に廃《すた》れんとするや、命なり。公伯寮も其れ命をいかんせん。 「道」の行なわれること、廃れること、つまり、人類の運命が希望の方向に向かうこと、向かわないこと、みないずれも「命也《なり》」、運命であるとして、ここでは平等に肯定されている。  しかしこの条でも、運命は、公伯寮のような小人の味方でないということが、言葉のどこかに暗示されている。  孔子のこうした楽観を成り立たせるもの、それは人間の能力、人間の善意に対する信頼であったと思われる。人間は善意の動物であるという主張、それは孔子におくれること二百年、孔子の後継者を以《も》って任じた孟子《もうじ》に至って、はじめてはっきりした表現をとる。  ——人の性《せい》の善なるは、水の下《ひく》きに就《つ》くがごとし。人に善ならざるもの有る無く、水に下《ひく》からざるもの有る無し。  また、人間が善意の動物であることの論証として、人間は自然の一物であり、自然の善意を賦与されている故に、そうであるという考えは、孔子の孫である子思《しし》の「中庸」に至って、はっきりしはじめる。いずれも「論語」の中では、まだはっきりした言葉として、現われない。また孔子がそれらの点について、はっきりと語らず、或いはわざと寡黙であったのでないかということは、「論語」そのものの中にも、弟子の子貢《しこう》の言葉として記録されている。  ——夫子《ふうし》の文章は、得て聞く可《べ》きも、夫子の性と天道とを言うは、得て聞く可からざる也。  つまり孔子は弟子たちに、具体的な事実についての明確な言語のみを、語りきかせ、「性」と「天道」、すなわち人間性や自然の法則については、語らなかったというのである。  しかしながら、たとい孔子がはっきりした哲学として、それらを凝集させていなかったとしても、少なくともその心情として、人間の善意と能力に信頼をおいていたこと、そうしてそれが「論語」という書物の基調になっていることは、大へん明瞭《めいりよう》である。 「論語」のなかで最もしばしば現われるトピック、それは周知のごとく、「仁《じん》」という言葉である。  もっともそれは、軽率な人人が或いは抱《いだ》く予想のように、「論語」の至るところに、お題目のように、現われるのではない。「為政」、「八〓《いつ》」、「郷党」、「先進」、「季氏」など、全くこの字の現われない篇も、一方にはあるけれども、全四百九十二章のうち、五十八の章に百五度この字が現われるといえば、この書物の最も重要なトピックは、やはり「仁」である。そうして、この頻繁《ひんぱん》なトピックが何を意味するかについては、明瞭な定義が、この書物自体によっては、例によって、いかにもこの書物らしく、与えられていない。そのため学者の間に、いろいろと説が分かれている。弟子の樊遅《はんち》が、「仁とは」と問うたのにこたえて、  ——人を愛するなり。  というのからすれば、人間の愛情に関する言葉であるには違いない。おそらくそれは、人間の愛情を基礎とする道徳と、そう定義するだけではなお不充分であって、そうした愛情の道徳を実行する意力、そういう風に定義するのが正しいであろう。  しかし今ここで問題にしたいのは、「仁」の定義ではない。「仁」という道徳的な能力、それを孔子は、人類がそれへの意欲をさえもてば、すぐに出現すると、宣言していることである。  ——子《し》いわく、仁は遠からんや。我れ仁を欲すれば、斯《すなわ》ち仁は至る。 「仁」というものは、決して、われわれとかけはなれた、到達しにくいところにあるのではない。その気さえあれば、すぐそれはやって来る、というのである。またいう、  ——能《よ》く一日のあいだ其《そ》の力を仁に用うるもの有りとせんか、我れは未《い》まだ力足らざるものを見ざる也《なり》。蓋《けだ》し之《こ》れ有らんも、我れ未まだ之れを見ざる也。  これらの言葉は、人間の善意、また人間の能力に対する、絶大な信頼があってこそ、成立するものである。  もっとも孔子は、のちの中国の思想が或いはおちいる偏向のように、人間があれば、そこには愛情があり、道徳がある、と主張するほど、楽天的ではない。「仁」というものは、努力によってこそ到達されると考えたらしい。  ——聖と仁の若《ごと》きは、則《すなわ》ち吾れ豈《あ》に敢《あ》えてせんや。  かくそれが自分にも完備していないことを、謙遜《けんそん》している。また弟子たちを評しては、子路も、冉有《ぜんゆう》も、公西華《こうせいか》も、仁ではない、ただ顔回《がんかい》だけは、三か月位ならばこの境地に達し得《う》るが、とも語っている。  しかし一方に於《お》いて、  ——我れ仁を欲すれば、斯《すなわ》ち仁至る。  という言葉は、人間の善意と能力に対する強い信頼の言葉であることに、疑いはない。  更にまた人間の能力と善意に対する孔子の信頼、それを別の面から示すものは、能力あるものは、必ず人人によってみとめられるとする思想である。そのことは、「論語」の中でくりかえしくりかえし説かれている。  ——子曰《しい》わく、人の己《おの》れを知らざるを患《なや》みとせず。おのれの人を知らざるをこそ患《うれ》うるなり。  ——子曰わく、人の己れを知らざるを患みとせず。其の能くせざるを患《うれ》うるなり。  ——子曰わく、君子は無能を病《なや》みとす。人の己れを知らざることを病みとせず。  これらは不遇の人をなぐさめる言葉であるよりも、より多く能力者をはげます言葉である。名声は必ず自己の能力によってのみ得られる。人人はお互いの能力をみとめあうのにやぶさかでないからである。  そうしてこのように、人間そのものに信頼をおいた孔子は、神に対する尊敬を抑制せざるを得なかった。  もっとも孔子は、後世の中国の学者、ことに十一世紀以後のそれのように、厳格な無神論の立場には、まだ立っていなかったようであり、人間の背後にあって、人間の善意を守り支《ささ》えるものの存在を、意識しないではなかったようである。「天」という言葉は、恐らくそれをさす。「天の斯《こ》の文を喪《ほろ》ぼすか、喪ぼさざるか」という天である。また衛《えい》の国の家老の王孫賈《おうそんか》というのが、  ——奥座敷を大切にするよりは、台所を大切にした方がいいという言葉がありますが、何を意味しましょうか。  つまり君主に遊説《ゆうぜい》するよりも、まず家老であるおれを大切にしろ、という謎《なぞ》をかけたときの答え、  ——いないな、罪を天に獲れば、祷《いの》る所なし。  天のとがめを得たものは、祷るべき対象を失なう、そういった言葉もある。  しかし孔子は天への祷りを常に行なっていたかといえば、おそらくそうではない。次の挿話はおそらくそれを語る。孔子が重病のとき、子路は、師のために、神神にいのりたいと願い出た。そのとき孔子は、まずたずねた、  ——そうした先例があるか。  ——ございます。  そうして、子路が、古い祈祷書《きとうしよ》の文句に、  ——爾《なんじ》を上下神祇《じんぎ》に祷らん。  とあるのを、あげたとき、孔子の答えは、こうであった。  ——丘《きゆう》の祷るや久し。  それならばおれは久しく祈っている。  人間に対して常に忠実であるおのれは、そのことによって天に忠実なのである。つまり天にいのっているのである。今さらことごとしく天にいのることはない、そういったのであるとする解釈、それを私はとりたい。  ——子は怪力乱神を語らず。  怪すなわち怪異、力すなわち暴力、乱すなわち秩序の破壊、それと神《しん》すなわち超自然の存在に関することがら、それらは孔子の語らぬところであったというのである。  人間の能力と善意に信頼する孔子は、人間への信頼と反比例して、神神の世界との交渉をさけたのである。そのことを示す言葉は、他《ほか》にも幾つかある。  ——民《たみ》の義《みち》を務めよ。鬼神を敬して之れを遠ざけよ。知と謂《い》う可し。  これは弟子の樊遅《はんち》が「知」を問うたのに対しての答えである。  ——未《い》まだ能《よ》く人に事《つこ》うることさえあたわざるに、焉《いず》くんぞ能く鬼に事《つか》えん。  これは子路《しろ》が鬼神につかえるのを問うたのに対する答えである。そうして子路が更に、  ——敢えて死を問う。  と、死後の世界を問うたのに対しては、  ——未まだ生を知らず、焉《な》んぞ死を知らん。  と答えていることは、前にも一度引いたごとくである。われわれが人間として生命をもつ時間、それのみが孔子にとって、何よりも大切であり、善意と能力に富む人間の世界、それのみが孔子にとって唯一無二のものであったのである。  次のまた一つの挿話は、そのことを別の面から、且つおそらくはやや小説的に、語っている。  それは孔子が、既に諸国の遊歴に疲れた六十四歳のときのことであったといわれる。場所は揚子江《ようすこう》の支流に近いある川べりのことであった。  川べりに車をとどめた孔子は、渡し場のありかを、子路に問いにやらせた。子路の問いに答えたのは、田を耕す二人の隠遁者《いんとんしや》であった。まずその一人が、あべこべにたずねた、  ——車の上にいるのは誰だ。  ——孔丘《こうきゆう》さまでございます。  ——魯の孔丘だね。  ——そうです。  ——じゃ、あれが渡し場を知ってるだろう。  とりつく島もない子路に対し、もう一人の隠遁者が、そのとき口をひらいた、  ——きみは誰かね。  ——仲由《ちゆうゆう》、子路でございます。  ——魯の孔丘の弟子だね。  ——そうです。  ——世の中というものは、どこまで行ってもぐうたらなのだ。改革したいといったって、誰と一しょにやるつもりだ。君も人間をよりごのみする男の弟子になってるよりも、すっかり世の中から逃げ出した人間、その弟子になった方が賢いね。  隠遁者たちは、せっせと種をまきつづけるばかりであった。  子路が帰って来て、そのことを復命した時、孔子は憮然《ぶぜん》としていった。  ——鳥獣は与《とも》に群を同じくす可からず。吾《わ》れ斯の人の徒《ともがら》と与にするに非《あら》ずして、誰と与にせん。  のちのちの中国の人人の生活の根本となったところの、徹底した人本主義、その確立者は、孔子であったとしなければならない。    四  人間の人間に対する愛情、それを以《も》って道徳の基礎とすることは、おおむねの倫理説、乃至《ないし》は宗教の、一致するところであるであろう。いいかえれば、ひとり孔子の教えばかりの、専《もつぱ》らにするところでは、ないであろう。ただ孔子の教えには、他の教えには必ずしも見られない、少なくとも必ずしも強調されない、二つの特殊な面がある。  一つは政治の重視であり、また一つは学問と知識の重視である。もうすこしくわしくいえば、前者は、愛情の最高の表現は政治にあるとすることであり、後者は、愛情は必ず思慮を伴のうことによって完成するとすることである。  うち後者は、私をして甚《はなはだ》しく孔子に親近させるものである。また前者は私をして甚しくは孔子に親近させないものである。私はなかば孔子の徒であり、なかば孔子の徒でない。  孔子に於《お》ける政治の重視、それは、「論語」の次の条によって、最もよく示される。  例のやんちゃな弟子《でし》の子路《しろ》が、君子の資格について質問したことがある。  ——子路、君子を問う。  それに対し、孔子はまず答えている。  ——己《おの》れを修めて以《も》って敬《つつし》め。  或いは別のよみ方では、  ——己れを修むるに敬みを以ってせよ。  いずれにせよ、自己の道徳的完成、それが君子、すなわち紳士たるものの第一の資格とするのである。ところで子路はいかにも子路らしく、無遠慮に反問している。それだけでいいのですか。  ——斯《か》くの如《ごと》きのみか。  すると孔子は答えている。  ——己れを修めて以《か》くて人を安《おさ》めよ。 「人」とは、自己に近い範囲の人間、つまり家族隣人のことであると、注釈にはいう。  しかし子路はなお満足しなかった。  ——斯くの如きのみか。  と、もう一度、おなじ質問をくり返している。それに対する孔子の答えは、強烈である。  ——己れを修めて百姓《ひやくせい》を安《おさ》めよ。己れを修めて百姓を安むることは、堯舜《ぎようしゆん》すらなおこれに病《なや》みしものを。  ここに至って、孔子の態度は、大へんあきらかである。「己れを修めつつ、百姓を安んぜよ」。百姓とは農民の意ではない。すべての人民の意である。つまり為政者として、すべての人民を安定させよ。それが君子の、つまりすぐれた人間の、究極の任務であるとするのである。そうしてそれは、堯舜のようなすぐれた為政者にも困難であったと、附言されており、それがすべての人間への期待ではないことが示されているが、それと共に、人間の任務が政治にあることを主張するもので、この言葉があることも、至ってあきらかである。  これは、人間は愛情の動物であることを信じ、人間の能力の無限を信じ、それゆえにこそ、何にもまして人間を愛した孔子としては、当然の帰結であったであろう。  ——鳥獣は与《とも》に群を同じくす可《べ》からず。吾れ斯の人の徒《ともがら》と与にするにあらずして、誰と与にせん。  人間の愛情は、人間の相手をもつことによってこそ、成立する。なるだけ多くの相手に、愛情をふりかける方法として、政治は、たしかに有力な方法である。  みだれ切った世ならば、隠遁して政治に参与しないのも、やむを得ないであろう。いな、そうした時世に富貴の身分であるのは、却《かえ》って恥である。しかしおだやかな時世にあいながら貧乏くさい暮らしをして、うだつの上らないのも、やはり恥であるという、そうした言葉も「論語」にはある。  ——邦《くに》に道有るときに、貧しくして且《か》つ賤《いや》しきは、恥なり。邦に道無きときに、富みて且つ貴きは恥なり。  孔子の教えのこうした特殊性、それは日本の儒者たちによっても、強調されつづけて来た。たとえば荻生徂徠《おぎゆうそらい》の「答問書」にはいう、  ——まず我が道の先祖は、堯舜《ぎようしゆん》なり。堯舜は天子なり。それより後、聖人と称し候《そうろう》は、禹《う》、湯《とう》、文《ぶん》、武《ぶ》、周公《しゆうこう》なり。いずれも皆、天下国家を治めたる人なり。孔子は此の道を伝え玉える人なり。故に聖人の道は、専ら天下国家を治むる道にて、礼楽刑政の類、みな道なり。  ——聖人の道は、至極のところ、天下国家平治の為《ため》に建立なされたる事に候。身を修むる事の有之候も、身修まらざれば、下《しも》尊信せずして道行われざるゆえ、君子は身を修め候。  更にまた仏教との差違を論じていう、  ——釈迦《しやか》は乞食の境界にて、家もなく妻子もなく、まして国天下も持ち申さざる身ゆえ、其《そ》の道専ら我が身一つの事に候。此等《これら》の所、聖人の道の大段の分れめにて候。  釈迦の教えが、果して徂徠のいうように、わが身ひとつのものであったか否かを、私は知らない。しかし孔子の教えが、わが身ひとつ、つまり「己れを修める」だけではいけないとしたことは、徂徠のいう通りである。「己れを修める」とともに、「人を安《おさ》め」、「百姓を安め」なければ、ならない。 「論語」のなかに、無数の、政治に関する言葉があるのは、政治に対する孔子のこうした関心の結果である。  ——之《こ》れを導くに政を以ってし、之れを斉《とと》のうるに刑を以ってすれば、民は免れて恥無からん。之れを導くに徳を以ってし、之れを斉のうるに礼を以ってすれば、恥有りて且つ格《ただ》し。  ——其の身の正しければ、令せずとも行なわれん。其の身の正しからざれば、令すと雖《いえど》も従わじ。  ——政を為すに徳を以ってすれば、譬《たと》えば北辰《ほくしん》のほしの其の所に居て、衆《おお》くの星に共《かこ》まるるが如《ごと》くならん。  以下これら枚挙にたえない言葉どもにもまして、政治への関心を示すのは、孔子一生の事迹《じせき》である。孔子という人物は、何よりもまず学者であった。しかしそれと同時に、まず何よりも政治家であった。  まずその五十代の中ごろ、孔子は、その生国である魯《ろ》の国の、大司寇《だいしこう》、すなわち司法長官となり、宰相代理をもかねている。祖国に於けるこの仕官は、菅原道真《すがわらのみちざね》の場合とおなじく、低い家柄の出であったことが主要な原因の一つであったろう、貴族たちと争って、失敗するが、以後、五十六の年から、六十九の年まで、孔子は弟子をひきつれつつ、山東《さんとう》、河南《かなん》の諸侯国を歴訪する。歴訪の道すじは、司馬遷《しばせん》の「史記」の「孔子世家《せいか》」にくわしい。  まず足をとどめたのは、友人〓伯玉《きよはくぎよく》のいる衛《えい》の国であって、そこで後に述べるような、衛の王妃との劇的な会見が行なわれる。また衛の国は、孔子が魯の宰相として受けていたのと、おなじ俸禄《ほうろく》六万斗を与えたというが、孔子の車は、やがて衛をも見すてる。そうして中国中部の平原に分立する各侯国に、あまねくわだちのあとを印しつづける。それは、   〓《じ》にも非《あら》ず虎にも非ざるに   彼《か》の曠野《こうや》に率《さまよ》う  と、孔子自身もいうような、荒涼たる放浪であった。前に述べた匡《きよう》の法難のような、危険に際会したことも、一度ではない。鄭《てい》の国の城門の外で、弟子たちにはぐれ、ただひとり立っていたときの孔子は、喪家《そうか》の狗《いぬ》のごとくであったと、「史記」の「孔子世家」にはいう。  ところでこの長い長い彷徨《ほうこう》は、一つの目的があって行なわれたものである。目的は、いずれかの侯国の宰相となって、みずからの政治的主張を、実践にうつすことであった。  ——誰でもよい、おれを使ってくれるものがあれば、一年でよい。三年めには、立派に成果をあげて見せる。  これは「論語」にも、ちゃんと記録された言葉である。また、  ——おれはちぎり残された瓜《うり》のように、じっとぶらさがったままではいられない。  そうした焦躁《しようそう》の言葉を、弟子にもらしたことさえある。  或いは弟子の子貢《しこう》が、  ——ここに美しい玉があるとしましょう。じっと箱にしまい込んでおいたものでしょうか。よい買い手を見つけて売ったものでしょうか。  そうなぞめいた言葉で問いかけた時には、  ——沽《う》らん哉《かな》、沽らん哉、我れは賈《あきびと》を待つ者なり。  おれは買い手を待っているんだよ。そう言下に答えている。  こうした孔子の言動は、孔子自身、新しい王朝の創始者として、新しい政治の父となろうとしたという、突飛な説をさえ生んでいる。  その説は、神秘な説話によって着色されている。孔子が、諸侯国の君主の説得に失敗し、ついに祖国である魯の国へ帰りついてのち、七十一歳の時のこととされるが、郊外に薪《まき》を取りに出かけたものが、見なれぬ獣の死体を、くさむらの中で見つけた。鹿《しか》に似て角がある。  孔子は、何か思い当たるところがあるらしく、獣の死骸《しがい》を、取りよせさせた。そうして悲しげにいった。  ——かあいそうな不運な麒麟《きりん》よ、おまえは誰のために出現したのか。  見なれぬ、不思議なかっこうをした獣が、麒麟という霊獣であることを、孔子だけが知っていた。またこの獣が、いかなる時に出現するかをも、孔子は知っていた。それは聖天子の出現を祝福するものとして、百年に一度、千年に一度、姿を現わすはずのものである。孔子の時代に於いて、その祝福を受け得《う》べき人間は、そもそも誰か。  それが誰であるかを、孔子みずからが語ったとは、さすがにどの文献も、明記していない。ただ孔子はそのとき、袂《たもと》をひるがえして、顔をおおい、涙は上衣《うわぎ》の襟《えり》をうるおしつつ、  ——我が道、窮《きわま》れり。  と叫んだと、「春秋公羊伝《しゆんじゆうくようでん》」は記《しる》している。かあいそうな麒麟よ、憐《あわ》れむべし彼は死んでいる。  かくて、孔子は、その心魂をかたむけて、書きつづけつつあった著述、「春秋」の最後に、  ——十有《ゆう》四年春、西に狩りして麟を獲たり。  と書き込み、そこで著述の筆をとどめたという。つまり「筆を獲麟《かくりん》に絶った」という。それは孔子が七十三でなくなる前前年のことであるとされる。  この獲麟説話は、西洋紀元のはじまる前後、漢の時代には、盛んに行なわれたものである。その頃の人人から、孔子は「素王《そおう》」と呼ばれ、後代に於けるのとはやや異なった形で、尊崇された。「素王」とは、無冠の帝王の意である。  この説話が、怪力乱神を語らなかった孔子の本来から遠いものであることは、いう迄《まで》もない。しかしながら孔子の言語と行動のなかには、こうした説話を生み得べき要素を内在していることも、たしかである。  またそうした附会の説話のほかに、もうすこし信頼にあたいする話で、孔子の政治に対する熱心の過剰が、後世の注釈家たちを、戸まどいさせているものがある。衛の国での滞在の間に、その国の淫乱《いんらん》な王妃、南子《なんし》に謁見したことである。  話のくわしいことは、「史記」の「孔子世家」に見える。それによれば、謁見は、必ずしも孔子の希望によるものではない。衛の国の家老、〓伯玉《きよはくぎよく》の家に逗留《とうりゆう》している孔子のところへ、王宮から使者が立ち、王妃の言葉を伝えた、  ——うちの王様にあいたい外国の方たちは、みなわたしにもあわれるのが、いつもの例です。あなたもいらっしゃい。  孔子は気のすすまぬままに、王宮にまかり出た。美貌《びぼう》の婦人と孔子とをへだてるものは、一枚のうすいとばりであった。孔子がその前に平伏すると、とばりの中の貴婦人も、それに答えて身をかがめたらしく、まが玉が、さらさらと鳴った。  以上は「史記」の記すところである。「論語」にはそこまでの記載はない。ただその時、子路が不満の意を表したのに対して孔子が釈明したという言葉、それが「論語」には記録されている。  ——予《わ》れの否する者は、天これを厭せん、天これを厭せん。  この難解な言葉は、解釈が至って一定しない。もしわしの行動に非難さるべき点があるとするならば、天がわしを罰するであろう、とするのは、その一つの解釈であるにすぎない。  また「史記」によれば、謁見は一度ではない。孔子は、王妃から、ドライヴへの招待をもうけている。衛公と王妃と、それから宦者《かんじや》とが乗った先頭の車、そのあとから孔子の車が、衛の首都の大通りを、はせた。  ——吾《わ》れ未《い》まだ徳を好むこと色を好む如くなる者を見ず。  女性の美しさを愛するほどの熱心さで、道徳を愛するものは、どこにもいない、という、あの有名な言葉は、この不名誉なドライヴのあとに吐かれたと、「史記」ではいっている。  この劇的な事件は、われわれの世代の興味をひくにも充分である。谷崎潤一郎の小説「麒麟」は、書物がいま手もとにないので、おぼろな記憶であるけれども、王妃の美に圧倒される孔子をえがいていたと記憶する。林語堂《りんごどう》の戯曲「子見南子」も、孔子を全く戯画化しており、曲阜《きよくふ》に住む孔子の子孫たちから提訴されるという滑稽《こつけい》な話柄をさえ生んだ。これら二十世紀の才人たちの筆のたわむれが、歴史から自由であるのはいう迄もないとして、前一世紀に著述された司馬遷の「史記」とても、この件に関する限り、話はすこし面白すぎる。或いは、「論語」の断片的な言葉に、道具立てを与えるための、フィクションであるかも知れない。しかし孔子が、衛のくにの王妃の南子にあったこと、つまり「子《し》、南子に見《まみ》えた」ことだけは、事実であるに、相違ない。そうしてその謁見が、この美貌で淫乱で、しかしそれだけに権力をもち、且《か》つおそらくは聡明であった婦人に、何ごとかを期待しつつ行なわれたのであることも、おおむねの「論語」の注釈が、説くごとくであろう。  ——沽《う》らん哉《かな》、沽らん哉、我れは賈《あきびと》を待つ者なり。  孔子は、この婦人をも、おそらくは賈の一人に見立てたのであろう。  政治に対する孔子のこうした熱心、それは充分の同情をもって理解することができる。ことに当時の中国の情勢に思いをはせれば、理解は一そう容易である。  当時の中国、それは孔子にとって、人類の住む全地域と意識され、つまり全世界と意識されたものであるが、この広大な地域は、やがてのちに来たるべき統一を、おぼろげには予想しつつも、またそうした予想を生み易《やす》い条件として、人種と言語とをおなじくしつつも、しかもかず多くの侯国が、分立し抗争する状態にあった。孔子は、愛情にもとづく政治をおし進めることによって、この分立と抗争とを解消しようとしたのである。そうして、全人類、その意識にあった全人類を、幸福な平和にみちびこうとしたのである。  このことは、現在われわれの時代にも、一つの示唆を与えるかも知れない。われわれの時代は、人類の住む地域の広さ、或いはその狭さを、科学的に確認すると共に、それを一つの統一へみちびきたいという気もちを、何ほどか内在している。しかもはげしい分裂と抗争とを、孔子の時よりは、もっと大きな規模、また深刻な形で、くり返しつつある。そうして対立の克服は、政治によってのみ可能であると信ずる人人がいる。そうした人人には、孔子の態度は、一そう多くの示唆を与えるかも知れない。  しかし私は、この点に関する限り、まだ孔子と完全に同調することができないでいる。孔子自身の言葉を借りれば、孔子は弟子をいましめて、  ——汝《なんじ》こころに安ければ、之れを為《な》せ。  というが、私は、私のこころを安くして、孔子のいいなりになることが、この点に関する限り、まだできないでいる。人間を規制する最高のものが愛情であることを、私はもとより孔子と共に疑わない。しかし愛情は、政治の形によってのみ、最も有効に発現するのであろうか。私は、孔子の言葉に耳をかたむけると共に、西方の賢者の言葉にも耳を傾けよう。  ——なんじら人を審《さば》くな、審かれざらんが為《ため》なり。己れがさばく審判《さばき》にて己れもさばかれ、己れがはかる量《はかり》にて己れも量らるべし。(「マタイ伝」七・一)  しかしその点では、ためらいがちな私も、孔子の教えのもう一つの特殊な点、すなわち愛情は、学問と知識とによってつちかわれた思慮を伴のうことによってのみ、完成する、という点については、完全に孔子に同調することができる。他のいかなる教えにもまして、孔子の徒であることができる。私は章を改めて、そのことを説こう。    五  ——子曰《い》わく、十室の邑《ゆう》にも、必ず忠信は丘《きゆう》の如《ごと》き者有らん。丘の学を好むに如《し》かざるなり。  丘というのは、孔子の名である。私とおなじほどの誠実さをもったもの、それはきっとどこにもいる。わずか十軒の家でできた聚落《しゆうらく》、そうした小さな聚落にも、私とおなじほどの誠実をもったものは、いるにちがいない。ただしかし、私のように学問を好むものはいない。  おおむねの中学校の教科書にも取られたこの有名な言葉は、私が孔子の教えの又一つの特殊さとしてあげるものを、よく現わしている。  すなわち孔子によれば、素朴なひたむきな誠実、それだけでは完全な人間でないのである。学問をすることによって、人間ははじめて人間である。人間の任務は、「仁」すなわち愛情の拡充にある。また人間はみなその可能性をもっている。しかしそれは学問の鍛錬によってこそ完成される。愛情は盲目であってはならない。人間は愛情の動物であり、その拡充が人間の使命であり、また法則であるということを、たしかに把握《はあく》するためには、まず人間の事実について、多くを知らなければならない。  こうした立場に立つ孔子は、学問の方法、つまり人間の法則を知る方法として、ひたむきな思索のみにたよることを、危険とした。内的な思索にふける前に、まず目を外に見ひらいて、人間の種種相を知らなければならない。  ——吾《わ》れ嘗《か》つて終日食らわず、終夜寝《い》ねずして、以《も》って思いぬ。益なし。学ぶに如《し》かざるなり。  寝食を忘れての思索も、学問に及ばないというのである。この言葉は、ややのちの文献、すなわち「荀子《じゆんし》」や「大戴礼記《だたいらいき》」では、次のように誇張されている。  ——吾れ嘗つて終日にして思いぬ。須臾《しゆゆ》の学ぶ所に如かざる也《なり》。  終日の思索も、たまゆらの勉学に劣る。  もっとも孔子は、思索の価値をも、軽視したわけではない。  ——学んで思わざれば、罔《もう》なり。  思索を伴なわない勉学、それはただの散漫な、大ぶろしきとなるであろう。しかしそれにおっかぶせて、更にいう、  ——思うて学ばざれば、殆《あや》うし。  思索のみあって、知識の集積がなければ、必ず危険におちいる。行動の前提としては、必ず知識の集積がなければならない。  ——蓋《けだ》し知らずして之《こ》れを作《な》すもの有り。我れは是《こ》れ無きなり。  且《か》つ、かく人間の事実を知るための材料、乃至《ないし》は事実から帰納される法則を知るための材料として、孔子のえらんだものが、詩書礼楽《ししよれいがく》の四つであったということは、その教えを一そう特殊にする。それは文学と芸術への関心をもって、政治への関心と共に、人間の義務とするものだからである。  すなわち詩、書、礼、楽、といわれる四つのうち、書はもっとも直接に政治と関係する。すなわち今の「書経《しよきよう》」であって、古代の帝王が、革命、戦争、官吏の任命などにあたって発した詔勅を、集めたものであるからである。ついで礼は、なかば政治的であり、なかば芸術的であるといえる。それは、社会生活、家庭生活における儀式の次第についての学問であるが、孔子はそれを人間の善意の、行動に現われた美的表現と考えた。一ぱいの盃《さかずき》をほすにも、最も美しいほし方がある。結婚、元服、朝会、葬式、みな人間のよろこび、悲しみを、最もよく表現し得《う》べき黄金分割的な形式がある筈《はず》である。その研究が礼である。それはなかば政治的な教養であり、なかば芸術的な教養である。  しかしながら、文学と芸術への関心を、最もよく示すのは、いうまでもなく、詩と楽が、四つの教科の半ばをしめることである。  詩とは、すなわち、現在の「詩経《しきよう》」におさめる三百五篇の歌である。   ——つんでもつんでも   かご一ぱいにならないおばこ   はるかなる人をおもいやりつつ   そっと道のべにおく草かご    ——巻耳《けんじ》を采《と》り采る    頃筐《けいきよう》に盈《み》たず    ああ我れ人を懐《おも》いて    かの周行《しゆうこう》におく  三百篇の詩が、すべてこのような可憐《かれん》なうたばかりであるのではない。また政治に対する強い関心は、孔子をして、時にはこれらの民謡を、もとの意味からはなれて、政治批評、社会批評の資料として、利用させてもいる。しかしこれらの詩を読まないかぎり、人間は目かくしされたのも同然であると、孔子はむすこの伯魚《はくぎよ》にさとしている。  ——子、伯魚に謂《かた》りて曰わく、汝は周南と召南とを為《おさ》めたるか。人にして周南と召南とを為めざるは、其れ猶《な》お正《まさ》しく牆《かべ》に面して立つごときか。  中国における文学の効用の確認、それは孔子にはじまるといってよい。ひとしく善意の動物である人間の行為を、さまざまの形に分裂させ、しかも分裂のさけめさけめに於《お》いて、常に人間の高貴さを示すものは、感情である。その感情の最もよい記録は、ポエジイである。そのことを、最初に確認し、主張した中国人は、孔子であった。  ——詩三百篇、一言にして之れを蔽《おお》えば、曰わく、思いに邪《よこし》まなる無し。  更に重要なのは、楽、すなわち音楽の重視である。孔子のころの音楽が、いかようなものであったかは、今日よくわからない。孔子が、魯《ろ》の国の楽師のかしらに語った言葉によれば、それは、もりあがるような金属の打楽器の鳴奏によってはじまる。やがて諸楽器の自由な参加によってかもし出される純粋な調和、しかも諸楽器がそれぞれに受けもつパートの明晰《めいせき》さ、そうして連続と展開、かくして音楽は完成する、私は音楽をそう理解する、と孔子はいう。  ——子、魯の大師《たいし》に楽を語りて曰わく、楽は其れ知る可《べ》きなり。始めて作《おこ》るや、翕如《きゆうじよ》たり。之れを従《はな》てば、純如《じゆんじよ》たり。〓如《きようじよ》たり。繹如《えきじよ》たり。以って成る。  この言葉によれば、当時の音楽は、いくつかの管楽器、いくつかの絃楽器、いくつかの打楽器をもつ、オーケストラであった。それは詩が人間の行為の分裂の貴さを教えるのとは反対に、人間の行為の帰一の貴さを教えるところの、法則ある美の世界であった。そうした純粋美の世界に遊ぶことが、孔子にとっては人間必須《ひつす》の任務であった。彼は斉《せい》の国に寄寓《きぐう》したとき、韶《しよう》という楽曲をきき、恍惚《こうこつ》として、三か月の間、肉の味わいを知らなかったという。  ——子、斉に在《あ》りて、韶を聞き、三月のあいだ肉の味わいを知らず。曰わく、図らざりき楽を為《な》すことの斯《ここ》に至ることを。  感動の結果、肉食に対する味覚が失なわれたという表現は、私にはよく分からない。しかし感動の深さを示す言葉には相違ない。また孔子は、この韶という楽曲を、  ——美を尽くし、又た、善を尽くせり。  と批評し、それに対し、武《ぶ》という楽曲は、  ——美を尽くせるも、未《い》まだ善を尽くさず。  と批評したりもしている。  且つ、音楽が孔子の教科としてあったのは、単に受動的に鑑賞するものとしてあったのではない。能動的に、その演奏に参加することが、紳士の義務であった。孔子が、その旅行の間にも、いつも琴をたずさえていたことは、「論語」その他の文献によって、あきらかである。  かくて孔子は、人間の教養を、こう結論する。  ——詩に興《お》こり、礼に立ち、楽に成る。  そのはじめは詩、その定立は礼、その完成は音楽、それが人間教養の過程である。  そうして、これらの教養を積むことによって鍛錬され、バランスのとれた、霊活な頭脳、それを呼ぶ言葉が「知」であった。「知」は「仁」とともに、「論語」にもっともしばしば現われるトピックである。二つは対照して論ぜられることもある。たとえば、  ——知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり。知者は楽しみ、仁者は寿《いのち》ながし。  ——知者は惑わず。仁者は憂えず。勇者は懼《おそ》れず。  しかし、かく対照して論ぜられつつも、「知」は「仁」のための前提、つまり知識は正しい愛情のための前提であった。二人の人物についての批評は、それを示す。一人は令尹子文《れいいんしぶん》という楚《そ》の国の宰相であって、この人物は、三度宰相に任命されたが、嬉《うれ》しそうな顔をせず、三度宰相を免職になったが、いやそうな顔をしなかった。そうしていつも忠実に事務の引つぎを行なった。それに対する批評を、子張《しちよう》が求めたとき、孔子は、それは忠実な人物であるといっている。では「仁」でしょうかと、更に訊《たず》ねたのに対しての答えは、彼は「知」でない。「仁」は思いもよらないと、いうのであった。  ——未まだ知ならず。焉《な》んぞ仁なるを得ん。  おなじ答えは、斉の国の家老、陳文子《ちんぶんし》への批評としても、くり返されている。この人物は、故国の暴力革命をいとって、他国へ亡命したが、他国の状態も、故国の状態とおなじであるとして、二度三度と亡命を重ねた。それを孔子は、「清」すなわち清潔なピューリタンであると評しているが、では「仁」といってよいのでございましょうか、という子張の問いに対しては、やはり答えている。  ——未まだ知ならず、焉《な》んぞ仁なるを得ん。  つまりただ単に忠実であるだけ、潔癖であるだけでは、完全な愛情は生まれないのである。知識あり、思慮ある明晰な頭脳が、それに先行しなければならない。  また学問的な鍛錬を欠く人間の必ずおちいる偏向、それについても、言葉がある。子路への教訓として、記録された言葉であって、六つの弊害を列挙する。  ——仁を好んで、学を好まざれば、其の弊は愚。  学問によって鍛錬されたことのない愛情、それは愚者の愛情である。  ——知を好んで、学を好まざれば、其の弊は蕩《とう》。  理性的でない知識、それは無用な汎濫《はんらん》である。  ——信を好んで、学を好まざれば、其の弊は賊《ぞく》。  学問を伴なわない信義、それは侠客《きようかく》の仁義である。  ——直《ちよく》を好みて、学を好まざれば、其の弊は絞《こう》。  偏狭《へんきよう》な正義感によって、人に自説をおしつけること、それが絞である。  ——勇を好みて、学を好まざれば、其の弊は乱。  ——剛を好みて、学を好まざれば、其の弊は狂。  戦争まえ、戦争中の、日本をかえり見れば、思い半ばに過ぎる。  日本人へのいましめとして、おなじような言葉を、もう一つ引用するならば、  ——子曰わく、恭にして礼なければ労《つか》れ、慎にして礼なければ〓《いじ》け、勇にして礼なければ乱れ、直にして礼なければ絞。  礼、すなわち平衡を得た行為に対する知識がないかぎり、恭《うやうや》しさは、感情と肉体の浪費を生み、慎重は卑屈を生み、勇気は破壊を生み、正義感はむりじいを生む。  要するに自覚されたものとしては、ひろい教養、自覚されないものとしては、教養の獲得のために鍛錬されたこまかい頭脳、それによってのみ人間は、その任務であり本能である愛情を、正しく行使できるというのが、孔子の教えであった。愛情は必ず思慮を伴なわねばならない。思慮のないところに、正しい愛情はない。そうして思慮は知識によってのみ得られる。  従って思慮を伴なわない行動、それは孔子の何よりもいみきらうところであった。孔子は、子路の勇気を、暴虎馮河《ぼうこひようが》、つまり虎《とら》と素手で格闘し、大川を徒歩でわたるようなものだと評している。「事に臨んで懼れ、謀を好んで成る」のこそ、孔子の愛するところであった。また一朝の忿《いか》りの為に、其の身を忘れ、親にまで迷惑をかけるのは、大馬鹿の標本であるといっている。  そうしてその思慮ぶかさは、日常のこまかな行為にも現われていた。近親の喪に服しているもののそばでは、いつもひかえ目に食事をとった。他家へ弔問におもむいた日には、帰ってからも歌をうたわなかった。そうでない時は、ときどき唱歌の会をもよおしたが、気に入った歌があると、もう一度その人に歌わせ、メロディをよくのみこんだ上で、自分も歌った。釣はしたけれども、川の水をせきとめて、魚をとることはなかった。鳥を射るときは、ねぐらにいるものをさけた。めくらの楽師があいに来たときには、階段まで来ると、階段、畳のところまで来ると、畳だと教え、いよいよ席につくと、そこにいるのは誰、ここにいるのは誰と、一一に教えた。役所から帰ってから、役所の廐《うまや》に火事があったが、人間の怪我《けが》を尋ねただけで、馬の損害についてはたずねなかった。宗廟《そうびよう》に参拝した時には、一挙一動、参拝についての故実を、こまかくたずねた。生まれは争われない、学者ぶっていても、やはり成りあがりものだ、というかげ口が、耳にはいったとき、そうするのこそ故実なのだといった。家老の季康子《きこうし》から薬を贈られた時には、その好意に感謝の意を表しはしたけれども、のまなかった。この新薬についての知識がないから、というのが、理由であった。  ——蓋し知らずして之れを作《な》す者有り。我れは是れ無き也。  という主張は、生活のすみずみにまで滲透《しんとう》していた。  このように、知識、思慮、教養を重んずる孔子の立場、それは文化主義の立場であるとせねばならぬ。素朴主義の立場では、あきらかにない。彼が、人間は善意の動物であり、愛情の動物であることを信じたということは、同時にまた人間は文明の動物であることを信じたということであった。人間の善意、それは常に人間を文明の方向にむかわせるものとして、存在し、発動する。人間のあるところ、そこには必ず善意があり、善意のあるところ、そこには必ず文明がある。  ——天の未《い》まだ斯の文を喪《ほろ》ぼさざるや、匡人《きようひと》それ予《わ》れをいかん。  という豪語は、そうした確信の上に生まれている。そうして、かく文明を愛した孔子が、もし今の世にいたならば、ベェトォヴェンをきいて、ビーフステーキのうまさを、しばし忘れたに相違ない。あやしげな漢方薬をもらっても、のまなかったに相違ない。東洋は素朴なるが故《ゆえ》にすぐれ、西洋は文明なるが故に劣るという論者は、この意味からいって孔子の徒でない。また東洋は直観的な精神の文明であり、西洋は分析的な物質の文明であるとする議論は、終日の「思」も、須臾の「学」に及ばないとする孔子の教えに、もとるものである。  それと共に、のちのちの中国の文明の特徴となったくさぐさのものは、おおむね孔子に発源する。文学の尊重、知識の尊重、実証主義、また今に至るまでこの国の人人の特徴である思慮の深さ、暴虎馮河の勇を好みがちな日本人の性質とは対蹠《たいしよ》的でさえもあるそれ、またその反面としてある冒険への興味の寡少、そのおおむねは孔子に発源すると、いわなければならない。    六  神の摂理よりも、人間の善意に、より多く信頼をはらった孔子は、次のような言葉をさえ、のこしている。  ——人の生くるは直《ますぐ》なればなり。罔《あざむ》くものの生くるは、幸いにして免るるのみ。  孔子の七十二人の弟子《でし》たちは、それぞれに孔子のこの信頼に答えるごとくであった。  ——閔子《びんし》は側《かたわら》に侍して〓〓如《ぎんぎんじよ》たり。子路《しろ》は行行如《こうこうじよ》たり。冉有《ぜんゆう》と子貢《しこう》とは侃侃如《かんかんじよ》たり。子《し》、楽しむ。  それぞれに個性を発揮する弟子たちを、孔子は楽しげに見わたしている。子路よ、おまえだけは畳の上で死ねそうにない。  ——由《ゆう》は、其の死を得ざるがごとく然《しか》り。  絶対の信頼をおきあった人人の間にだけ交《か》わされるべき口調が、「論語」のこの条には、にじみ出ている。  しかしながら、孔子の周囲のすべてが、孔子の信頼に答え得たわけでは、もとよりない。人間への信頼を裏ぎりそうな事柄は、毎日のように、孔子の周囲におこった。  ここにはまず、衛《えい》の国の王室の事件を語ろう。事件は孔子自身の伝記とも、波紋を交錯させつつ、人間への信頼を裏ぎろうとする。  事のおこりは、れいの美貌《びぼう》の王妃、南子《なんし》にある。かつて孔子をその宮廷にまねき、すだれごしの謁見を与えた、かの王妃にある。  王妃は、もと宋《そう》の国の王女であったが、まだ王女として里にいるころ、一人の恋人をもっていた。その名を宋朝《そうちよう》という。絶世の美男であり、その美しさは、「論語」にも、祝〓《しゆくだ》の佞《ねい》、宋朝の美、としるされている。  王妃は、衛の霊公《れいこう》のところへ輿入《こしい》れをすますと、夫にせがんで、むかしの恋人を、衛の国に招致した。夫の霊公は、「論語」にも、  ——衛の霊公の無道なるや、  というごとく、ぐうたらで、無能な君主であったけれども、在位の年数だけは、長かった。それだけに王妃がその情人と、恋をたのしむ期間も、長かった。  こうした状態を、誰にもまして、うとましく思う人物があった。王妃の子であり、衛の国の太子であった〓〓《かいかい》である。あるとき彼が、父の代理として、国際会議に出席すべく、母の故郷でありまた母の情人の故郷である宋の国を通りすぎると、百姓たちの歌ごえがきこえた、   ——めぶたの種とりがすんだのなら   おいぼれおぶたは帰すがよい  めぶたとは母の王妃をさし、おぶたとは母の情人である宋朝をさすごとく聞こえた。また歌は、〓〓自身の出生についての秘密を語るようでもあった。  〓〓は会議から帰ると、近侍の戯陽速《ぎようそく》を呼んで、いいふくめた、  ——おれはこれから母ぎみにあいにゆく。おまえはついてこい。おれが目くばせをしたら、いいか、母ぎみを殺すのだぞ。  戯陽速は、承知して、太子のあとにしたがった。  太子は母の前へ出ると、しきりに目くばせをした。一度、二度、三度。しかし戯陽速は動かなかった。  ふいに王妃は、泣きながら、かけ出した。  ——あなた、あの子はわたしを殺そうとしています。  王妃は、夫の霊公に手をとられて、天守閣の上に、難をさけた。  計画は失敗し、太子は国外に亡命した。そうして、戯陽速のおかげで、ひどい目にあった、といった。  戯陽速は、それをきくと、抗議した。  ——ひどい目にあったのは、こっちだ。もすこしで母殺しの片棒をかつがされるところであった。あのとき引きうけたのは、引きうけねば殺されると、わかっていたからだ。さて引きうけてその通りにしたとする。万事をこっちにおしつけて、やはり殺されるにきまってる。わたしはわたしの生命を守るために、嘘《うそ》をついたのだ。人間は信義が大切だという。いかにも。ところでわたしは、もっと大きな信義を守りたかったのだ。  以上は孔子が王妃に謁見した翌年、孔子五十六歳のときの事件として、記《しる》されている。  しかしそれは事件の、ただの発端であるにすぎない。それから三年、衛では、君主である霊公がなくなった。王妃の主宰のもとに、重臣の会議が開かれ、後継者が選択された。国外へ亡命中の太子〓〓は、失格とされ、太子が故国にのこしておいた子、つまり先代からいえば孫が、新しい君主として即位した。いわゆる衛の出公《しゆつこう》である。  亡命中の〓〓は、それを承認しなかった。大国晋《しん》の援助を得て、故国に侵入し、わが子の王位をうばおうとした。  新しい君主と重臣たちとが拒絶したこと、むろんである。わたくしは、おじいさまの御遺言によって、王位についたのである。あなたはもはやわたくしの父ではない。  二つの勢力は、武力によって抗争し、抗争は十六年のあいだ継続した。  それはちょうど孔子が、諸国を遊歴していた時期にあたる。孔子が二つの勢力のどちらに味方するかは、当時の人人にとって、興味ある問題であった。新君の方に味方して、有力な顧問になりそうだという噂《うわさ》も、飛んだ。  ——必ずや名を正さんか。  という有名な言葉は、子路が、  ——かりにもし先生が、衛の大臣として出馬されるとしたら、何をまっさきにやられますか。  と問うたのに対する答えであるという。  しかしけっきょく孔子は、出馬しなかった。たとい祖父の命令とはいえ、子として父にはむかうのは、正しくない、そうした考えであったと、忖度《そんたく》されている。  事件が、更に新しい段階へと展開したのは、孔子七十二歳、かの「西に狩りして麟《りん》を獲た」あくる年である。展開は、又もや貴婦人の不身もちによってみちびかれる。ただし、もはや〓〓《かいかい》の母のそれではない。母はこのとき既に世を去っている。今度は〓〓の姉のそれによってである。  亡命中の太子〓〓の姉は、孔伯姫《こうはくき》と呼ばれ、衛国の重臣、孔文子《こうぶんし》の妻であった。夫の孔文子は、「論語」に、  ——敏《びん》にして学を好み、下問を恥じず。  と見える君子人であったが、この夫が死ぬと、未亡人は、身分のいやしい男を近づけはじめた。名を渾良夫《こんりようふ》といい、大柄な美しい男であった。  亡命中の〓〓は、この男に目をつけて、哀願した、  ——何とかしておれが国に帰れるようにしてくれ。おまえを家老にしてやる。且《か》つおまえに関するかぎり、大ていのことは、大目にみてやる。死罪となるべき罪を犯しても、三度までは、ゆるしてやる。  かくてある夜、二人の女をのせた車が、衛の国都の門をくぐった。女ではない。女装した太子〓〓と渾良夫とであった。車は孔伯姫のやかたにむかった。門番の執事が誰何《すいか》すると、  ——御親戚《ごしんせき》のお女中ふたり。  そう御者《ぎよしや》が答えた。  伯姫は、あらかじめ渾良夫によって、説得されていた。まず食事が供せられ、食事がおわると、伯姫が長刀《なぎなた》を杖《つえ》について、さきに立った。あとにつづくのは、〓〓、よろい武者五人。それと戸板にのせた豚。行列の目的は、伯姫の子、孔家の当主、そうして衛国の重臣である孔〓《こうかい》を脅迫して、君主の交替を承認させることにあり、豚は誓約の際の犠牲として必要であった。  孔〓は、ちょうどそのとき厠《かわや》にいたが、脅迫されて、一行と共に、天守閣にのぼった。それはクーデターの成功を意味した。  しかし城内のどこかでは、まだ平和な酒宴が開かれ、肉の焼けるのをまちかねているものもあった。そうした席からすべり出た一人が、そっとすばやく、これまでの君主、すなわち〓〓のむす子を、車にのせて、国外に亡命した。  孔子の弟子、子路が、戦死したのも、この夜である。子路は、このころ孔〓の家臣であった。急変をきいて、城門へはせつける途中、やはり同門のおとうと弟子、高柴《こうさい》が、逃げて来るのに、であった。  ——もう城門は、しまっていますよ。逃げましょう。  ——いや、おれはとにかく行って見る。  ——あなたは譜代でもないのに、あぶない場へふみこむことはないでしょう。  ——ばか、月給をもらっていながら、そんな不義理ができるか。  城門まで来ると、果してしまっている。しばらくためらっていると、中から伝令のものが出て来て、とびらがすこしあいた。  子路は、さっそくとびこんで、わめいた、  ——孔〓どのを殺すと、あとがこわいぞ。  またわめいた、  ——太子は、名うての臆病《おくびよう》ものだ。天守閣をやき払え。  ふいに長刀が飛んで来て、子路の頭をはらい、子路の冠を、紐《ひも》もろとも、ふっとばした。  ——君子は、死すとも、冠を免《ぬ》がず。  子路は、そういうと、冠のあごひもを、むすび直して、息がたえた。  ——由《ゆう》や其の死を得ざるごとく然《しか》り。  畳の上で死ねそうにないやつ。孔子のかねてからの予言は、適中した。また孔子は、そのときは衛にいなかったが、革命の噂をきくと、高柴は生きて帰って来る、子路は死ぬであろう、といった。なお子路の死は、孔子にとって、最後の打撃であったらしい。孔子がなくなったのは、その翌年である。  ところで、衛の国の悲劇は、なおおわらない。  長い放浪から帰って、君主の位についた〓〓は、家老たちにいやみをいった、  ——寡人《かじん》は外に離《さか》り病むこと久し。子《きみ》も請う亦《ま》た之《こ》れを嘗《な》めよ。  おれはずいぶん外国で苦労した。君たちもお相伴《しようばん》したまえ。  かくして重臣が、つぎつぎに国外に放逐された。姉の孔伯姫、甥《おい》の孔〓、みな例外ではなかった。  そうしてさいごには、さいしょ帰国の手びきをした渾良夫《こんりようふ》。これは国外に放逐されたのではない。〓〓の太子によって殺された。〓〓の太子は、かつて父をおそったのとおなじ暗い運命が、自分の上にもおそいかかることをおそれて、父の恩人を殺す。事の次第は、こうである。  ある夜、〓〓は、そばにいる渾良夫にうったえた、  ——おれはこうして国のあるじに、なるにはなった。しかし国に伝わる宝物のかずかずは、みんな亡命して行った子供のところにある。おれのところには何ひとつない。つまらない。何とかならないか。  渾良夫は、火明《たいまつ》をかざしていた奴隷《どれい》をさがらせ、奴隷からうけとった火明を、〓〓の顔に近づけながら、ささやいた、  ——何でもありません。亡命中の方、あれもあなたのお子さまに違いないじゃありませんか。それをお呼び返しになれば、宝物も返って来る道理です。なるほどあなたは、いまほかのお子さまをお世つぎになさっています。しかしどちらもあなたのお子さまであることは、おなじだ。どちらを本当の世つぎになさるか、それはこれからさきのあなたのお考え次第です。  奴隷をさがらせての密談は、しかし別の奴隷によって立ちぎきされ、太子に密告されていた。間もなく〓〓は、かつてみずからがしたように、豚を戸板にのせた五人のよろい武者に、とりかこまれている自分を、発見した。先頭に立つのは、太子であった。  ——渾良夫を殺してよろしゅうございますか。  〓〓は口ごもりながら答えた、  ——しかしあれには、死罪にあたいする罪をおかしても、三度まではゆるすと、誓約してある。  ——じゃ、三度おかせば、殺していいのですね。  しばらくすると、狩場に新設されたサマー・ハウスの落成式があり、その日の主賓には、めでたい名のものがえらばれることになった。  ——それは渾良夫《こんりようふ》にかぎります。渾《す》べて良《よ》き夫《おのこ》ですから。  そうした太子の提議が採用されて、二頭立ての馬車をかり、紫の上衣《うわぎ》と狐《きつね》の毛皮をきこんだ渾良夫が、式場についた。そうして片肌《かたはだ》をぬぎ、太刀《た ち》をはいたまま御馳走《ごちそう》をくった。太子はそれを武者たちに引っ立てさせた。  ——死罪三つ。紫衣の着用。肌ぬぎ。帯剣のままの食事。  人人の上にひろがる破滅は、〓〓《かいかい》その人をもおとずれる。彼は、まず夢を見た。場所は北の離宮である。向こうの高楼の上で、誰かがわめいている。  ——昆吾《こんご》のしろあとにのぼれば    ふさふさのびる瓜《うり》    われは渾良夫    あまつかみぞしろしめす  髪をうっさばいた男は、しきりにそうわめいた。  〓〓は、夢のよしあしをまずさいしょ、筮竹《ぜいちく》の占いにかけ、得た結果を、宮廷づきの陰陽師にただした。  ——いや、御心配には及びません。  利口な陰陽師は、そういって、褒美《ほうび》だけもらうと、さっさと逐電《ちくてん》してしまった。  〓〓は、今度は、亀《かめ》の甲の占いにかけて見た。火にあぶられた亀の甲がその時に示したわれ目の形、それに対応するものとして、予言書に見える文句は、次のごとくであった。  ——あかき尾せる魚の如く    流れを衡《よこ》ぎりて方羊《ほうよう》せん    裔《はる》かなる大国の    之れを滅ぼして亡《ほろ》びなん    門をとじ竇《あな》をふたぎ    乃《すなわ》ち後より踰《こ》えん  予言はそのままに適中し、外からは大国の圧迫を受け、中からは豪族が離反した。つかれてしっぽを赤くした魚のように、国中をよろよろと彷〓《ほうよう》したあげく、再び宮殿に立てこもって、豪族たちと誓おうとしたけれども、豪族たちはききいれない。やむなく、うしろの牆《かき》をのり踰えて逃げた。  そうして最後に身をよせたのが、己氏《きし》という異民族の部落であったのは、最も不運であった。〓〓は、かつて望楼の上から町を見ていたとき、美しい長い髪をした女に目をとめ、その髪をそらせて、自分の妃のかもじにしたことがある。その女は、この部落の酋長《しゆうちよう》の妻であった。  最後の運だめしをするように、〓〓はいった、  ——おれを逃がせ、この宝石をおまえにやる。  ——はは、てめえを殺したところで、宝石は逃げやしめえて。  それが、この奇妙な簒奪者《さんだつしや》、わが子の王位をうばった簒奪者、いわゆる衛の荘公《そうこう》の最期であった。  以上は孔子の弟子左丘明《さきゆうめい》の著と伝えられる「春秋左氏伝《しゆんじゆうさしでん》」の記すところである。この書物のおおむねの部分は、すべてこうした奇妙な話によって、みたされている。  ——人の生くるは直《ますぐ》なればなり。罔《あざむ》くものの生くるは、幸いにして免るるのみ。  孔子の言葉は、こうした環境の中で、はかれている。    七  私は、中国の知恵を、書きつづけるべきである。しかしこの半月のあいだ、私ははげしい混乱のさなかになげこまれ、それを書きつづけるべき平静な環境にいなかった。  混乱とは、京都大学の学生が、時計台の下の学長室の前で、ハンガー・ストライキを行なったことである。しかもその中心は、私が教官の一人である文学部の学生であった。  事のおこりは、五月一日、メーデーにある。それにさきだって開かれた文学部学生大会は、ストライキ、すなわちこの日の授業を一斉に拒否することを決議し、且《か》つその日になると、それを実行した。またその日には、何人かの学生が、学内デモをおこない、また労働者の街頭行進に参加した。破壊活動防止法案に反対の意思を表示するためである。  ところで、このことは学内の秩序をみだるものとして、三人の学生が停学処分になった。ストライキを議決した学生大会の議長、その届出責任者。それと学内デモの指揮者とである。これは京都大学では、昨年秋の学長告示によって、ストライキの禁止が、明示されているためである。大学の自治と学問の自由、それはあくまでも学校が、その責任に於《お》いて守る。学生はその本分である勉学につとめられたい、それが告示の趣旨である。こうしたストライキの全面的な禁止については、是非の論がないではない。しかし少なくとも私は、理由のあることと思っている。大学は教授と学生とが共同して研究を行のう場所である。国立大学ではそれが国民から委託されている。学生が授業を拒否すれば、その委託にそむくことになる。その意味で、ストライキはみとめにくい。ことにこのたびのことは、学生大会の開催にさきだって、ストライキを決議しないようにとの注意が、教授がわから与えられていた。にも拘《かかわ》らず、学生はストライキを決議し、実行したのである。  こうした学生の行為に対しては、責任を問わなければならない、というのが、まず文学部教授会の意見であった。そうしてその意見は、各学部から、従って文学部からも、委員の出ている懲戒委員会に具申され、懲戒委員会は、三名の停学という処分をおこなったのである。  ところで学生は、この処置を不当とした。破壊活動防止法案は、大学の自治と学問の自由をおびやかすものであり、それが上程されている現在の事態は、非常の事態である、それに反対の意思表示をするためのストライキは、是認さるべきであり、従ってストライキの責任者は、処分さるべきでないというのが、その主張であった。そうしてこの主張をより強く表現するために、六月五日、ならびに六月十七日の授業を拒否することが、重ねて決議され、実行された。また十七日には、何人かの学生が、再び街頭行進を行なった。  一方また学生は、それと並行して、学長服部峻治郎《はつとりしゆんじろう》氏あてに、三か条の要求を提出した。一、さきに責任を問われた三学生の停学処分を撤回すること。二、昨年秋、天皇が本学を訪問した時の事件のために停学になっている八学生のうち、他はすでに停学を解除されているにも拘らず、文学部の二学生だけは、解除されていない。最近の事件の関係者と見なされてであろうが、それらをも即時解除すること。三、今後この種の学生処分は絶対にしないむねを確約すること。  回答は期限つきで求められ、期限になると、学生は、学長に回答をせまった。しかし事柄はもとより学長が個人で答え得《う》るものではない。学長は回答を拒否した。ここに文学部の学生が、学長室の前にすわり込み、そのうちの数名が絶食した。六月十九日、木曜日午後のことであり、のち他の学部からも、絶食に加わるものがあった。  事態は甚《はなは》だ重大であり、文学部長臼井二尚《うすいじしよう》氏はただちに教授会を招集した。事柄は、すべて学長あての要求となっている。しかし同時に学長の主宰する懲戒委員会への要求であり、また懲戒委員会へ委員を送り、意見を具申する各学部教授会への要求である。そうしてこの要求を実現するために、われわれの学部の学生が、絶食を行ない、すわり込みをして、学長の執務をさまたげている。座視し得べき事態でないこと、もとよりである。  ことに私としては、ハンガー・ストライキが行なわれていると聞いて、何ともいえないいやな気持であった。これまでの私の学生に対する信頼は、全く裏切られたように感ぜられたからである。  ヒューマニズム、それは何よりもまず、生命の尊重から始められねばならない。  ——天地の大徳を生という。  そうして生命の尊重は、まず自己の生命を尊重することから始められねばならない。  ——以《も》って死す可《べ》く、以って死す無かる可きときに、死するは勇を傷《そこの》う。  絶食は、もとより自己の生命を賭《と》する行為である。且つそれが学生大会の支持によって行なわれているということは、一そう人道に遠い感じである。人道に遠いというのは、自己もしくは友人の生命の軽視ということで、非人道であるばかりでなく、学生がそういう行為をすることは、世の中にそうした行為を教えることになるからである。これでは、  ——武士道というは死ぬことと見つけたり。  という戦時中の教えと、おなじである。特攻隊精神と、そんなに逕庭《けいてい》はないと、いわねばならない。それだけの反省は、学生の間にあると、私は考えていた。それが裏切られたのである。  更にまた学生の中には、破壊活動防止法案が通れば、徴兵となり、戦争となって、数万、数十万の青年の生命が失なわれる。それをふせぐためには、五、六人の生命が犠牲になるのは、やむを得ないという、論をなすものが、あったという。これこそ大へん危険な思想であり、不仁の甚《はなはだ》しきものである。数万の生命をかろんじないためには、まず五、六の人命を軽んじないことが、必要である。ストライキの問題にしてもおなじである。破壊活動防止法案反対という動機のいかんに拘らず、集団的な授業拒否という暴力が、更に大きな暴力をまねきよせることを、わたくしたちはうれえる。  ほかの教官たちも、それぞれの背後にある知恵はちがっていても、ハンガー・ストライキを人道に遠い行為であるとする結論はおなじであった。と共に、教授会は、いまひとつのことを決定した。すなわち、ハンガー・ストライキは、非人道である。しかしそれを行なっているのは、ほかならぬわれわれの学生である。それを放置しておくのは、一そう非人道である。  学生がこうしたことを行なっているのは、学生の責任であると共に、われわれの責任でもある。われわれは一致して、事柄のすみやかな終熄《しゆうそく》に当たろう。  そのためには、まず学生の説得に努力しよう。それには各教授がそのことに当たる。しかしそれと共に、もう一つのことを行なおう。すなわちわれわれは一度、とっくりと学生のいい分をきこう。要求は学長あてになっているけれども、間接にはわれわれへの要求である。その中には、われわれとして、絶対に受け入れられないものがあることも、明白である。  すでに出た処分の撤回、これはどうしてもできない。また将来にわたること、それを確約すること、これもできない。しかし学生のがわに反省を求めねばならぬ点が、多多あるとともに、われわれとしても、考え直すべき点は、いくつかあるであろう。たとえば、学生の反省を求める方法として、停学というような方法が唯一のものであるか否かは、疑問である。それらを考える資料として、学生とまず話しあおう。そうしたことが決定され、まず各教室に分かれてのはなしあい、ついでは、哲学科、史学科、文学科に総括しての、話しあいが、全教官と全学生の間で、行なわれた。  この話しあいの結果、少なくとも私の観察によれば、学生には一つの誤解があることが、明らかになったようである。それは学生の処分が、学長個人の判断によって行なわれるという誤解である。事実はもとよりそうではない。学長の主宰する懲戒委員会がそれを行のうのである。その委員は、八学部ならびに分校から出ており、従って学生の処分は、一学部のみの意向では決定し難いと共に、各学部から出た委員は、それぞれ九分の一ずつの発言権をもっている。またその発言は、一学部の利益代表としてではなく、全学的な見地からであるべきことが約束されているけれども、少なくとも全学的な見地からの発言は、自由である。この点が学生には正しく理解されていなかった。或いはまた、学長の判断には、事務官の意見が大きく作用するという、とんでもない誤解さえあった。  この点についての誤解がとけたためであろう、学生はその学長への要求について、文学部教授会が仲介者となることを承知した。そうして両方から委員が出て、こまかな話しあいをすることになったのは、二十一日の土曜日であった。時に絶食の三日目であり、絶食者は、文学部学生のみではなかった。  かくて教授がわからは四名、学生のがわからは六名の委員がえらばれて、はなしあいをすることになった。教授四人の中の一人が私であったのは、私がハンガー・ストライキに対して、特につよく反対の意見をもっていたからではない。平常から文学科の世話係たる任務に、当番としてあたっていたからである。ほかは、大山定一、高田三郎、井上智勇の三教授であった。  以後、会談は、三昼夜にわたり、ほとんどぶっ通しで行なわれた。そうしてわれわれはまず学生の意向を更に充分にききとった上、ある程度の成算がついたので、われわれの誠意に信頼して、即時絶食を中止するよう、要望した。しかしそれは学生のうけ入れるところとならず、更に何度かの折衝の結果、六月二十三日月曜日、絶食の五日目に至って、学生の方から、最低の要求として示された案は、次のごとくであった。すなわち、 教授会が、「破防法反対の六月五日、六月十七日のストライキに関しては、いかなる形の処分にも反対する」という公式態度を、表明して下さるならば、ハンガー・ストライキは中止します。なお表明の主旨に対し、教授会は全力をつくして実現に努力して戴《いただ》きたい。  というのであった。しかしこれは教授会としては、そのままに受け入れにくいものであった。懲戒委員会の処分に対して、われわれは意見を具申することはできる。しかしそれに反対するとなれば、われわれは、われわれがその委員を選出している懲戒委員会と、正面衝突しなければならないかも知れぬ。それは共同体としての大学の組織を破壊する。その意味で、絶対に受け入れることは出来ない。  しかし教授会は、なお思いあきらめなかった。眼前の事態を収拾するために、更になお善意をかたむけつくすべきであるとして、次のような趣旨の声明ならば、行なってもよいと、決定した。すなわちハンガー・ストライキが人命を軽んずる点で、非人道的行為であり、知性と良識ある学生諸君の取るべき道でないこと、また六月五日、十七日のストライキは、破防法反対のためとはいえ、学内の秩序をみだしたことに対して責任のあることは、教授会の確認するところであること、然《しか》しながら、右両度のストライキに関しては、できるだけ事情を考慮して、特に寛容な処置が行なわれることを、文学部教授会は熱望し、且つその実現にあらゆる努力を払う、と、それだけのことを公表する、以上われわれの意を汲《く》んで、ハンガー・ストライキを即時中止してほしい。  これが教授会がわの最終案として、学生に内示されたのは、二十四日の深更、午前二時であった。そうして学生の方から、この最終案も、受け入れにくいという回答がもたらされたのは、午前六時半であった。  かくしてわれわれの説得は失敗におわることになった。失敗にはおわったけれども、われわれはなお思いあきらめてはいないむねが、附言された。また会談を通じて、双方の態度がきわめて誠実であったことは、お互いの名誉のために、必ず記録しておくべき事柄である。またそれは双方のみとめあうところであった。学生控室には、「諸教授が老躯をむちうって事態の解決に努力していられるのは、感謝にたえないが云云《うんぬん》」という掲示が出たそうである。なるほど私たちは、学生諸君から見れば、老躯《ろうく》といわるべき年ごろであろう。  そうして、ハンガー・ストライキそのものは、その日の午後の学生大会の決議によって、自発的に中止された。中止の理由は、今のところ、まだはっきりした報告に接しないが、学生の良識のよみがえりであったと、私は信ずるにやぶさかでない。  聞くところによれば、健康が憂慮すべき状態になれば中止するというのが、最初からの申し合わせであったそうである。私の学生への信頼は、十の十まで裏切られたわけではないようである。そうして翌二十五日の深更、今回の事件に対する懲戒委員会の処分が発表された。全学を通じ十三名の学生が譴責《けんせき》を受け、三名の学生の停学が解除されている。  こうして一応、事柄は落着した。  ——天地の大徳を生という。  ——以《も》って死す可《べ》く、以って死す無かる可きときに、死するは勇を傷《そこの》う。  ——吾《わ》れ日に三たび吾が身を省りみる。人の為に謀《はか》りて忠ならざるか。朋友《ほうゆう》と交わりて信あらざるか。習わざることを伝うるか。  これらの言葉は、それが「易」の言葉であり、「孟子《もうじ》」の言葉であり、「論語」の言葉であるといなとにかかわらず、私の信頼をおく言葉として、存在する。  私は、あまりにもはげしい世の中への抗議として、「中国の知恵」を、書きつづけよう。    八  孔子のいた世の中が、はげしくけわしい世の中であったことは、さきにのべた衛《えい》の侯国のものがたりが、すでにそれを示してあまりあるように見える。  しかしそれは衛の国ばかりのことではない。他の侯国に於《お》いても、事情は大同小異であった。大同というのは、どの侯国の歴史も、血なまぐさいお家騒動の記録でいろどられているからであり、また小異というのは、お家騒動の形、というほどでなくとも、少なくともその色あいは、国によって少しずつ違うようにも感ぜられるからである。何にしても、私欲と権力へのあこがれを原動力とする行為によって、当時の歴史がみたされていることは、おなじである。  ——春秋《しゆんじゆう》に義戦なし。  或いはそれは、世の中が大きく変わろうとする時に、人間が無自覚におかす、やむを得ない悪であったかも知れない。孔子のころの中国は、たしかに歴史のひとつの転機にさしかかろうとする時代であった。半ば自然発生的なものとして生まれた諸侯国は、共通のあるじとして、周《しゆう》の天子をいただいていたけれども、周の天子の勢力は、すでに足利《あしかが》末期の将軍のごとく、微弱であった。中国がより強固な統一、それは孔子ののち三百年ばかりにして秦《しん》の始皇《しこう》が実現したような統一、それへ向かおうとする胎動は、すでに発生していたかも知れない。またそうした胎動の可能を示唆するごとく、ひとり中央の周の天子ばかりではない、各侯国の王室は、みなすでに衰弱し腐敗して、政権はどこの国でも、それぞれの王室の分家である貴族たちの家にうつっていた。貴族たちの中には、鄭《てい》の子産《しさん》、晋《しん》の叔向《しゆくきよう》のごとく、またのちに述べる斉《せい》の晏嬰《あんえい》のごとく、孔子が知識人の先輩として、敬意をはらったものもある、しかしそれら少数の例外をのぞいては、私利私欲のためにのみ行動する、ぐうたらな人物が多かった。  ここにより低い階層、しかしより能力にとむ階層が、擡頭《たいとう》すべき機会があった。あるものは野心を原動力として。またあるものは新しい理想を原動力として。後者のうちの一人が、ほかならぬ孔子であった。  それはよくいえば、新しい平等の求められんとする時代であり、わるくいえば、下剋上《げこくじよう》の時代であった。こうした時代に、孔子のような理想家が生まれると共に、権謀と術数に終始する人物が相ついで生まれたということ、みな共に人類の自覚せざる運命でありそうである。  ここには、もう一つ、斉の国の歴史を語ろう。  斉は、孔子の生まれた魯《ろ》の国とともに、今では、山東省《さんとうしよう》に属する。しかしその国ぶりは、魯とは必ずしもおなじでなかった。  すなわち孔子の祖国である魯の国の君主は、周の天子と同姓であり、いわば親藩の国であった。且《か》つその始祖は、周の文化の設定者と仰がれる周公であり、そのためであろう、文化と秩序に対する愛が、この国の伝統であるようであった。前にのべた衛の国なども、周の天子の親藩であることは、魯とおなじであって、「論語」にも、  ——魯と衛の政は、兄弟なり。  と批評せられているように、よきにつけ、あしきにつけ、国ぶりは、似かよっていたらしい。お家騒動の形にも、どこかまだおっとりしたところがある。  しかし斉は、すこしちがっていた。その君主は、周の天子と姓を異にし、親藩ではない。その国の始祖は、周の王朝の創業を、兵法陰謀によってたすけたかの太公望呂尚《たいこうぼうりよしよう》であって、その武功により、大きな領土を与えられたのであった。且つその領土が、東は海にのぞんでいることは、この国に特殊な経済的利益を与えた。始祖太公望が、はじめて国入りをしたとき、すでに「商工の業を通じ、魚塩《ぎよえん》の利を便にして」、交易の振興につとめたと、「史記」の「世家《せいか》」には記《しる》している。また孔子にさきだつこと二百年ばかり、衰弱した周の天子に代って、幕府をひらき、覇者《はしや》、すなわち僭主《せんしゆ》の最初として、北中国に号令したのも、この国の君主、斉の桓公《かんこう》であった。  こうした国がらは、政治の上でも一種の商業主義、つまり目的のためには手段をえらばない行為を、ことにぬけめのない形で、頻発《ひんぱつ》させたようである。もっとも、寛容な孔子は、  ——斉は一変すれば魯に至り、魯は一変すれば道《みち》に至らん。  と、この国にも自国とおなじく、完全な道徳への可能性をみとめているけれども。  この国のお家騒動として、孔子の時代に近いもの、それはBC五四八年、孔子四歳の時におこっている。  当時の斉の君主は、斉の荘公《そうこう》と呼ばれる。かつての覇者、斉の桓公の玄孫であるが、政権はすでに宮廷を去り、同族の重臣である崔杼《さいちよ》なるものの、手中にあった。この荘公という君主も、崔杼が先君の遺言を無視して擁立した君主であるが、陰険な崔杼は、みずから擁立したこの君主をも、殺してしまう。事件には例のごとく、婦人がからみあっている。  崔杼の家来に、東郭偃《とうかくえん》というのがあり、それに一人の妹があった。ある地方長官の妻になっていたが、その地方長官が死んだので、崔杼は東郭偃に、馬車を運転させて、弔問に出かけ、そこで寡婦になったばかりの女を見そめた。  ——おまえの妹は、美しい。おれは女房をなくしたばかりだ。のちぞいにする。  ——それはいけますまい。あなたのお家と、わたくしの家とは、おなじ先祖から出ています。おなじ先祖のもの同士の結婚は、タブーです。  今も中国の習俗であるところの、同姓不婚のタブーであった。  そればかりではない。結婚を、「易《えき》」でうらなって見たところ、まず「困《こん》」の卦《け》が出、それが「大過《たいか》」の卦に変化した。この場合、「易」の指示する言葉は、次のごとくであった。   石に困《なや》みて   〓藜《うばら》に拠《い》すまう   其《そ》の宮《いえ》に入りて   其の妻を見ず   ——凶  しかし崔杼は、おしきった、  ——どうせ後家だ。もしこの女をめとったものは不幸になる、というのなら、先夫がその役をはたしている。  ところで、この婦人がどうしたことか、一国のあるじである荘公と、ねんごろになった。  荘公はしばしば崔杼の家へ遊びにゆき、その辺においてある崔杼の冠を、もってかえって、人に与えたりした。侍従がいさめると、  ——なあに、かまうもんか。冠は、誰だって、かぶっている。それが崔杼の冠だと、誰が知るものか。  崔杼は、弑逆《しぎやく》の機が熟するのを、待っているだけであった。もうそろそろ、しお時である。且つ当時、斉の国は、山西省の大国である晋と、交戦状態にあり、戦況は必ずしもおもわしくなかった。戦争の責任を君主におっかぶせて、殺してしまうのは、外交的にも有利である。  崔杼はまず、病気といい立てて、家にひきこもった。となりの小国である〓《きよ》の国の君主が来朝して、そのレセプションが、五月の甲戌《きのえいぬ》の日に行なわれたけれども、それにも出席しなかった。  あくる日、荘公は、崔杼を訪問した。病気見舞いという名目で、崔杼夫人の閨房《けいぼう》をおとずれるためであった。  崔杼夫人の部屋には、亭主の崔杼がいっしょにいた。そして夫婦とも、しばらく失礼いたします、といって、くぐり戸から、出ていった。荘公は柱を叩《たた》いて歌をうたい、もどかしさを、女に伝えた。  すると歌ごえに答えるごとく、ときの声が起こった。建物は、いつの間にか兵士たちによって、とりかこまれ、どの入口にも、錠がかかっていた。  荘公は、二階にのぼって、兵士たちに哀願した。交換条件を附してもよいといった。せめて宗廟《そうびよう》のなかで自殺したいともいった。みな無益であった。兵士たちは冷淡に答えた。  ——見知らぬ高貴の人よ。なにぶんにも、ここの家の主人は、病中でございまして、あなたさまのお目にかかれません。わたくしどもが、つねづね主人から申しきかされておりますことは、この屋敷は、王宮と地つづきだ、よく出はいりのものに気をつけよ。ただそれだけでございます。わたくしどもは、主人の命令を、忠実に実行しているにすぎません。  荘公は、観念して、塀《へい》をのりこえて、逃げようとした。矢が足にささり、もんどりうって落ちるところを、殺された。  この弑逆事件の発生にあたって、斉の国の賢人として聞こえる晏嬰《あんえい》のとった態度は、やや特殊であった。  晏嬰は、孔子が尊敬をはらった先輩の一人であって、「論語」にも、  ——晏平仲《あんぺいちゆう》は、善《よ》く人と交わる。久しくして、人、之《こ》れを敬す。  と記されている。また司馬遷《しばせん》の「史記」も、この人物のために列伝を立て、君主の非行を糾弾する勇敢さは、いわゆる進んでは忠を尽くさんことを思い、退いては君主の過《あやま》ちを補わんことを思うものであって、もし同時代に生きているならば、余はその馬車の別当となることをも辞さないであろう、と、賞讚《しようさん》の言葉をつらねている。  しかし賢人晏嬰が、この場合に取った態度は、いつもとすこし違っていた。司馬遷は、この時の晏嬰の態度を「義を見て為《な》さざるは勇なきものなり」と評しているが、或いはそれは、むつかしい世の中に処する知識人の、一つの態度であったかも知れない。  晏嬰は、事件の発生をきくと、さっそく崔杼の屋敷へ、はせつけた。門はまだしまったままである。晏嬰はじっと門外に立っていた。従者が、彼にたずねた、  ——命をおすてになりますか。  ——おれひとりの君主じゃない。命をすてる法はない。  ——では亡命なさいますか。  ——べつにおれが悪いことをしたわけじゃない。亡命する法はない。  ——じゃ、引きあげますか。  ——君主が死んだというのに、一たいどこへ引きあげるというのだ。  晏嬰は更に言葉をついだ。  ——そもそも君主といい、官僚という、すべては国家のためにある。君主が国家のために死に、国家のために亡命するというのなら、おれたちも、死に、亡命しよう。個人的なことのために死んだり亡命したりする君主、そのおつきあいは、奥むきのものがするがいい。おれは御免だ。そればかりじゃない。現に今の世の中には、こうして君主をいただきながら、それを弑逆するやつがいる。おれはまだ死ねない。亡命することも出来ない。引きあげることは、なおさら出来ない。  門があくと、晏嬰は中へはいり、荘公の死体を、ひざの上にのせ、形のごとく哀哭《あいこく》した。  ——ついでにあいつも、やっつけておしまいなさい。  そう崔杼に進言するものがあったが、崔杼は手をくださなかった。  ——あいつは人民に信望がある、見のがそう。  それから二日のち、崔杼は、もう一人の重臣である慶封《けいほう》と、相談して、次の君主をきめた。荘公の幼い弟で、景公《けいこう》という。人人は、国の始祖太公望《たいこうぼう》の廟にあつまって、誓約の式を行なった。崔杼が誓約の言葉をとなえて、  ——崔《さい》、慶《けい》、この二人の家老の、意見に、同意しないものは、  と、そこまでいったとき、ふいに晏嬰が、その言葉をうばった。  ——国君と国家とに不誠実なものは、  キリスト教徒でない晏嬰は、十字は切らなかった。しかし天を仰ぎながら、つづけた、  ——天の神の罰を、蒙《こうむ》るであろうぞ。  かくて器にたたえられた動物の血が、誓約のしるしとして、すすられた。  またこのとき斉の国の史官が示した態度も、言論の自由を守り通した美談として、有名である。  ——崔杼、其《そ》の君を弑《しい》す。  一人の史官が、宮廷の記録に、そう書きつけた。崔杼《さいちよ》は腹を立てて、その男を殺した。するとその弟の史官が、おなじことを書いた。  ——崔杼、其の君を弑す。  かくして、世襲の史官の家では、三人の兄弟が、つぎつぎに殺されたが、四人目の弟も、態度を改めなかった。崔杼もついにかぶとをぬいだ。その時は、別の史官の家のものが、簡札《かんさつ》、すなわち当時は紙の役をしていた竹の札をもって、同じ目的のために、都にはせつけるべく、車をはしらせているさいちゅうであった、という。  ところで破滅は、間もなく、崔杼の上をもおとずれる。  崔杼は、れいの東郭偃《とうかくえん》の妹をかあいがり、それに生ませた子を、あととりとした。おさまらないのは、先妻の子である。不平を、父の同僚であり、もう一人の重臣である慶封に、うったえた。  ——近ごろのおやじは御承知の通りです。おかげで、新しい母の身うちばかりが、はばをきかせて、古い一族のものは、よりつくこともできません。あれでは、おやじのためにならないばかりでなく、ひいては国家のためにもなりません。国家の重臣といえば、あなたと、うちのおやじです。何とか考えて下さい。  ——お話はわかりました。考えておきましょう。  若ものを帰したあと、慶封は、家中の盧蒲《ろほべつ》というものに、相談した、  ——どうしたものか。  ——どうしたもこうしたもありません。崔杼というやつは、前の殿様を殺した悪人です。その家にいざこざが起こるのは、天罰というものです。それに、この斉の国で、うちと勢力をはりあうのは、あいつの家だけです。あいつの家が衰えるのは、こちらの得、というものじゃありませんか。  何日かして、慶封は、崔杼のむすこたちの催促を受けた。  ——いや、おとうさんのおためというお考えならば、よろしい、おやんなさい。面倒がおこれば、このわしがひきうけましょう。  助言にはげまされて、崔杼のむすこたちは、新しい母の親族、というのは母の兄の東郭偃、つまりさいしょ新しい母と父とをひきあわせた人物、それと新しい母のつれ子の棠無咎《とうむきゆう》、この二人を殺してしまった。  崔杼は、激怒した。激怒のあまり、屋敷をとび出したが、どうしたことか家来たちは、誰もいない。やっとのことでさがし出した馬小屋つきの下男に、馬車を一頭したてさせ、同役の慶封の家へはせつけて、助力をもとめた。  慶封は、そしらぬ顔で答えた。  ——いや、われわれ両家は、一家のようなものです。さっそく討っ手をさしむけましょう。  討っ手の大将は、盧蒲《ろほべつ》であった。崔杼の屋敷について、むすこたちを殺してしまうと、例の若い美しい後妻も、首をくくって死んでしまった。  盧蒲はひきかえして、崔杼に復命した。  ——お屋敷の騒動は、ぜんぶ片づきました。さあ御一緒にお供しましょう。車は私が運転します。  わが屋敷へ帰った崔杼が発見したものは、妻と子供の死体と、そうしてただひとりとり残された自分とであった。   其《そ》の宮《いえ》に入りて   其の妻を見ず   ——凶  ものぐるおしくなった崔杼は、自分も首をくくって、家族たちのあとを追った。  孔子六歳のときのことである。  つづいて破滅は、慶封の上をもおとずれる。  酒ずきの慶封は、政務をおおかた、むすこの慶舎《けいしや》にまかせ、自分は例の盧蒲、競争相手の崔杼をたおして以来、いよいよお気に入りのこの佞臣《ねいしん》を相手にして、酒ばかりのんでいた。それもただで飲むのは、面白くない。女房、妾《めかけ》、家財道具、みんなおまえの家へもって行って飲もう。  またむすこの慶舎の方も、一人の佞人を近づけていた。この方は盧蒲癸《ろほき》という。度度《たびたび》の政争のとばっちりをくって、国外へ亡命していたのを、呼び戻されたものであるが、ふしぎに慶舎の気に入り、その娘をもらうまでになった。この時も、人人は同姓不婚のタブーを問題にした。  ——分家は、本家の娘をもらわないものだというじゃありませんか。  ——いやさ、本家の方からおしつけるのだから、しようがないよ。つまり詩を一句だけひきちぎって引用するようなものでね。引用された詩句は、その場の役にさえ立てばいい。詩本来の意味はどうであろうともね。  この比喩《ひゆ》は、おそろしい意味を、含んでいた。この人物は、慶氏父子に対して、深い敵意をいだく人物で、実はあったからである。  また敵意をいだくものは、盧蒲癸のみではなかった。慶氏父子は、一種の宥和政策《ゆうわせいさく》として、国外追放者をしきりに復帰させたが、復帰組のおおむねが、みなそうであった。盧蒲癸は、そうした敵意をおしかくして、慶舎のむことなったのであり、またおなじく復帰組の王何《おうか》というのと共に、慶舎の前後を長刀《なぎなた》で護衛する用心棒でもあった。  陰謀は、今度は、色気でなく、食い気をいとぐちとして、おこる。そのころ斉の国の朝廷に出仕するものには、毎日鶏を二羽ずつ供せられるのが、ならわしであった。しかるに、誰が教唆したものか、料理人がそれを家鴨《あひる》にすりかえた。すると食卓のウエーターたちは、一そういんちきをして、肉の全くはいっていないスープを、サーヴした。  ——こんなものが食えるか。  こんなものを食わされるのも、執政のやり方が悪いからだ、ということになり、人人の怒りは、慶封慶舎父子の上に集中した。  慶封は、寵臣《ちようしん》の盧蒲《ろほべつ》にいった、  ——何だか連中は、ちと不穏らしいが。  ——なに、大したことはありません。あの連中を料《りよう》るぐらい、あさめし前です。  そうではなかった。陰謀は、慶舎のむこ盧蒲癸《ろほき》を中心として、着着として進捗《しんちよく》し、もはや計画の成否を、亀《かめ》の甲のうらないにかけて占うまでになっていた。盧蒲癸は、火にあぶられた亀の甲を、しゅうとである慶舎、そうして実は攻撃の対象である慶舎のところへ、大胆不敵にも、もって行って、判定を乞《こ》うた。  ——どこかの男が、仇《かたき》うちをするつもりで占ったものだそうです。このわれ目の恰好《かつこう》から見て、どういう結果が暗示されますか。  ——ふむ、その計画というのは成功するな。むろん流血を伴のうがね。  また盧蒲癸は、その妻である慶舎のむすめには、一切をかくさずに、うちあけた。へいぜいから、妻に、  ——何かやるときには、きっとわたしにいうのよ。でなきゃ駄目。  といわれていたからである。  うちあけられた妻は、しばらく考えてからいった、  ——うちのおとうさんは、有名なあまのじゃくです。するなということは、きっとします。その日になったら、わたしは一しょうけんめい、おとうさんの外出をとめましょう。おとうさんをそこへゆかせるために。  計画は、BC五三八年の十一月乙亥《きのとい》、始祖太公望の例祭の日に、実行されることになった。祭は宮中の宗廟で行なわれ、主祭は、慶封であった。慶舎のむすめは、夫の計画の一ぶしじゅうをのべて、けんめいに父をとめた。  ——なあに大丈夫。  予想は果して、的中した。彼女の夫にとっては幸福に。そうして彼女自身にとっては、おそらく不幸に。  むすめは、複雑な気もちで、式場に出かけてゆく父を、見送った。父のうしろには、夫の盧蒲癸が、父の護衛者として、長刀をもって、つき従っている。また父の前にも、もう一本長刀が、もう一人の護衛者である王何《おうか》によって、にぎられている。  ——このおれに対して、誰がそんなばかなことを。  しかし宮殿の周囲を、ぜんぶ自分の手勢でかためるだけの用心は、さすがに慶舎もおこたらなかった。  すると、そのうちに、その辺にたむろしていた他の家の兵士たちが、猿楽《さるがく》をやり出し、その物音におどろいて、慶舎の家の馬があばれ出した。慶舎の家の兵士たちは、重い物の具をぬいで、馬をおさえにかかり、物の具をぬいだついでに、くつろいで酒をのんだ。すると猿楽は、だんだん下町の方へと移動して行く。慶舎の兵士たちは、ぞろぞろそのあとについて行った。けっきょく宮殿の周囲にいるのは、他の家の兵士ばかりになった。  そのとき、宮殿の中では、一人の男が、ふしぎなふるまいをした。のきばに走りよって、たるきを一本ひきぬくと、それではげしく扉を三度たたいた。  慶舎のうしろで護衛していた盧蒲癸の長刀が、つとのびたのは、それと同時であった。前衛の王何も、さっとむきなおって、慶舎におそいかかった。  左の肩に深手を負った慶舎は、それでも手をのばして、屋根のたるきをつかむと、屋根はぐらぐらと震動した。またその辺にある祭器を、手あたり次第なげつけ、数人を殺傷してから、自分も息がたえた。  おやじの慶封は、むすこの死を知ると、魯《ろ》の国へ亡命して来た。そうして一台の高級車を、魯の国の家老に、みやげものとしておくった。それは人の顔がうつるほど、ぴかぴかみがきたてた立派な車であった。  ——車をここまでみがくには、ずいぶん人民からしぼりとったに相違ない。亡命は当然だ。  批評家は、そう批評した。  慶封の物語には、後日談がある。彼は、魯の国にもおちつかず、更に南方、呉《ご》の国に亡命し、そこでもせっせと金をためた。  ——天は悪人に恩寵を垂《た》れたもうと見える。  ある批評家は、そういい、別の批評家はこういった、  ——悪人の受ける恩寵は、恩寵でない。しこたまためた上で、そっくりもって行かれるのだ。  のち楚《そ》の霊王《れいおう》が、呉の国に攻め入ると、慶封はさがし出され、不忠者の見せしめとして、みずからの罪状を、次のような言葉でふれまわった上、死罪に処せられた。  ——皆の衆、この慶封のように、君主を殺し、あとつぎをあなどり、同僚を脅迫したりするでないぞ。  しかし慶封《けいほう》もさるもの、その通りにはいわなかった。  ——皆の衆、かの楚の国のめかけ腹の王子のように、君主の甥《おい》を殺し、王位を簒奪《さんだつ》しながら、他の君主たちを脅迫したりするでないぞ。  楚王もまた完全な正義の人物ではなく、すねにきずもつ身であった。  斉における慶封の失脚は、孔子七歳のときのことである。つまり「史記」の「孔子世家」によれば、礼の器《うつわ》である俎豆《そとう》を並べて遊んでいた頃の事件である。また後日談としてのべた慶封の刑死は、孔子十四歳の時のことであり、「論語」に、  ——吾れ十有《ゆう》五にして学に志す。  という前の年のことである。  ところで以上は、斉の国の悲劇、乃至《ないし》は喜劇の、はじめの幕にすぎない。悲劇乃至喜劇は、孔子の年がかさむのと並行して、いよいよ展開する。    九  このように斉《せい》の国の重臣たちが、詐術による殺戮《さつりく》をくりかえすことは、更に大規模な変革を、この国にまねきよせるべき形勢を、かもし出し、みちびくものであった。何となれば、殺戮しあう重臣の家家は、みな斉の王室と縁つづきであった。どの家も王室に忠実でなかったとはいえ、その相ついでの没落は、王室の影をいよいようすくすることに、役立ったからである。しかもこの国には、次の政権の担当者たるべく、虎視眈眈《こしたんたん》たる別の家があった。帰化人の子孫で、陳《ちん》を姓とする家である。  この家は、やはり侯国の一つで、今の河南省《かなんしよう》の淮陽《わいよう》に都した陳の国の王族陳敬仲《ちんけいちゆう》が、この国に亡命して来たのを、始祖とする。亡命者陳敬仲は、二百年ばかり前の僭主《せんしゆ》、斉の桓公《かんこう》に仕えて、寵《ちよう》を得たが、その子孫が、いつの間にか根を張り、譜代同族の重臣と、相ならぶ勢力となっていた。たびたびの政争には、いつもたくみに圏外に立ち、専《もつぱ》ら恩恵を貧民にほどこして、人望を得ることにつとめた。たとえば、こうである。斉の国で穀物をはかる枡《ます》は、四進法を基礎とし、四升で一豆、四豆で一区、四区で一釜、十釜で一鍾《しよう》というのが、公定の規格であった。ところが陳の家で使う枡だけは特別に大きく、五升で一豆、五豆で一区、五区で一釜であった。そうして穀物を人人に貸し与える時には、それらの大きい枡を使い、返済の時には、公定の小さな枡でよいとした。つまり巧妙な買収政策であり、選挙の前になると、百円の会費で、五百円以上の料理が食えるのと、おなじである。また商業の盛んなこの国では、人望をあつめるほかの方法があった。陳家所有の山林から切り出される木材は、市場にはこばれても、運賃が加算されず、またその漁場から運ばれる魚、塩、海産物も、すべて原価で販売された。しだいに人人は、陳氏の徳をたたえ、その恩恵にあずかろうとした。  がんらい陳の家には、次のような予言が伝わっていた。始祖陳敬仲が、その結婚に際して、うらなったものといわれる。   鳳《ほう》と凰《おう》と于《なら》び飛んで   鏘鏘《そうそう》と和《むつ》び鳴く   〓《き》のくにの後《ひまご》は   将《まさ》に姜《きよう》のくににぞ育たん   五つめの世には其《そ》れ昌《さか》えて   正卿《せいけい》と並び   八つの世よりして後は   与《なら》びて京《おお》いなるもの莫《な》けん  正卿、すなわち第一の家老と相ならぶという予言は、今や確かに現実となっている。このうえは、与《とも》に京《おお》いなるもの莫《な》き、絶対の権力者としての地位、その実現に、辛抱づよく、注意ぶかく、努力すればよい。予言は、あとからの偽造であるかも知れない。ただ予言が確実に的中に赴《おもむ》きつつあったことは、事実である。且《か》つ、当時の斉の君主であった景公《けいこう》は、こうした情勢を、その五十八年という長い在位年数によって、加速度的におしすすめるだけの、凡庸な君主であった。しかも最後の破局が、その治世のうちに来なかったのは、主として賢宰相晏嬰《あんえい》の輔佐《ほさ》によるものであろう。  晏嬰の言行を記《しる》した書物としては、「晏子春秋《あんししゆんじゆう》」八巻が、伝わっている。しかしこの書物の記載は、過度に小説的である。ここにはより少なく小説的な「春秋左氏伝《しゆんじゆうさしでん》」によって、彼と彼の君主との間に交《か》わされた対話のいくつかを記そう。  晏嬰は、その私生活が倹約なことで有名であり、住宅は、むさくるしい下町にあった。景公は、彼にいった、  ——商店街の近所では、ごみごみして、さわがしかろう。山の手の方に、新しい屋敷を作ってあげよう。  ——おやじの代から住んでいる家ですし、私にとっては贅沢《ぜいたく》なくらいです。それに商店に近いと、買物に便利です。  ——じゃ、君は物価通だね。  ——仰せの通りです。  ——いま値あがりしてるのは、何かね。  ——まあ松葉杖《まつばづえ》でしょうな。松葉杖の方が高くって、普通のはきものは、却《かえ》って安くなりました。  踊《よう》は貴《たか》くして、履《くつ》は賤《やす》し。踊を、松葉杖といったのは、すこし意訳であって、刑罰の一種として足に傷害を受けたもののはく、特別のはきものである。その需要が多いということは、苛酷《かこく》で頻繁《ひんぱん》な刑罰を意味する。  景公は苦笑して、刑罰をゆるめた。  ——仁人の言は、其《そ》の利たる博《ひろ》いかな。晏子《あんし》の一言に、斉侯は刑を省けり。いにしえの詩に、   君子の祉《さいわい》を如《おこ》なえば   乱よくすみやかにやまんか  というは、其れ是《こ》れを謂《い》うか。 「春秋左氏伝」の著者は、この対話を、以上のように批評している。  またあるとき、彗星《すいせい》が斉の国の空を流れ、何か不吉な事件の発生を予告するように見えた。景公は、不幸の到来をはらうべく、修験者《しゆげんじや》に祈祷《きとう》をさせたいといった。  晏嬰はいった、  ——その必要はありません。ほうきぼしが天に出現するのは、この世の中の背徳者たちを掃除するためです。もしあなたに背徳がなければ、あなたが祈祷をなさる必要はありません。もしあなたに背徳がおありなら、祈祷したところで、星はびくともしないでしょう。  自然の変異、ことに奇怪な天象が、人間への警告であるとする説を信じている点では、晏嬰も、古代人であった。しかしそうした枠《わく》の中での合理主義者であった。  おなじ趣旨を、もう一そう痛烈にいったものとしては、次の対話がある。景公は、瘧疾《ぎやくしつ》、すなわちマラリアにかかり、一年たっても直らなかった。  隣国からは見舞いの使者が、一ぱいつめかけている。側近のものたちは、景公に説いた、  ——殿さまは、先代の殿さまよりも、ずっと豊富なお供えものを、神神にささげていられます。それに御病気が直らないのは、神官たちの祈り方が、悪いからです。見舞い客の手前もあります。神官たちを処罰なさい。  まるで神さまと取り引きするような、いやらしい言葉である。景公はそれに耳をかし、晏嬰に相談した。晏嬰はいった、  ——そう、いつか宋《そう》の国で国際会議のあった時です。会議のあとの雑談で、晋《しん》の国の家老の范会《はんかい》、れいの名宰相といわれる范会です、あの人物のことが話題になりました。  景公は目をぱちくりさせ、晏嬰は平気でつづけた。  ——すると晋の大使がいうのに、あれは実にえらい人で、たとえばあすこの家の修験者は、良心にそむいた祈祷をしなくてもよかった、というのです。それを聞いて、楚《そ》の国の大使が大へん感心しましたよ。なるほど五代の君主に仕えて、名宰相といわれたのも、無理はない、といってね。  景公は、いらいらしていった。  ——君は何の話をしてるのかね。おれは病気が直らないから、神官を処罰したいといっているのだよ。  ——まあおききなさい。今度のこともおなじです。明君に仕えている神官は、祈祷するときに、うそをつかなくてすみます。だから神さまも国家に幸福をくだし、神官も幸福のわけまえにあずかる。それに反し、暴君に仕えている神官は、かあいそうです。君主の行状《ぎようじよう》について、本当のことをいえば、神さまの怒りを招くばかりだし、うそをいえば神さまをだましたことになる。進退きわまって、いいくらいな祈祷をしますから、神さまも不幸をくだし、くだされた不幸のわけ前に、神官もあずかるということになります。  ——で君は一たい、どうしろというのだ。  ——政治をよくしなさい。山林、沼沢、乃至《ないし》は海の塩、魚貝に至るまで、およそ資源のあるところは、みな国有地になっていて、あなたの派遣した監督官が、人民に労働を強制しています。しかも人民は、職場へ行く途中、あちこちの関所で、所持品に課税される、というのが今の政治の状態です。しかも貴族たちは貴族たちで、それぞれ強引な商売をやり、勝手な税金をとりたてている。おかげで、大きな邸宅が毎日のようにあちこちに立ち、享楽はすべて見のがされない。宮廷の貴婦人たちは、商店の品物を強奪し、侍従たちは、地方へ出張して、利権あさりにいそがしい。人民は、夫も妻も、みなあなたをのろっているのです。もし祈祷というものに、きき目があるとするならば、のろいも同様に有効でしょう。まあ一度あなたの領土の中にいる人間の数を、考えてごらんなさい。何人かの神官のする祈祷が、何万人、何億人ののろいに、勝てるはずはありません。神官を処罰するよりもさきに、するべきことがありましょう。  かくて何種かの税の税率が、低減された。    またある日、狩猟から帰って来た景公が、楼閣の上でくつろいでいると、気に入りの侍従が、むこうから馬を走らせて来るのが、見えた。景公は、そばにいる晏嬰をかえり見て、満足そうにいった、  ——あいつは、かあいい男だ。おれと実によく調子をあわせてくれる。  ——いや、彼はあなたに調子をあわせているのではありません。あなたの単なる同調者です。  ——ほう、調子をあわせるというのと、同調というのとは、ちがうかね。  ——ちがいます。調子をあわせる、つまり調和ということは、違った要素の間にこそ成立します。たとえば吸い物のようなもので、水、火、酢、肉汁、塩、それらで魚の肉を煮、過不足のない味にしてこそ、吸い物なのです。人と人との関係もおなじです。あなたが肯定されるものの中に、否定さるべき面があれば、否定さるべき面を検討して、あなたの肯定をより完全なものにする。逆にまたあなたの否定するものの中に、肯定さるべきものがあれば、それを強調して、不当な否定からあなたをすくう。それが調和です。あの男のは、そうじゃありません。単なる同調です。あなたが肯定されるものを肯定し、否定されるものを否定する。あくまでも同であって、和ではありません。水の上へいくら水をついでも、誰ものまない。ピアノをひくのに、おなじキーばかりたたいていても、誰もきかない。それとおなじです。水を以《も》って水を済《ま》す、誰か能《よ》く之れを食らわん。琴瑟《きんしつ》の専壱《せんいつ》なる、誰か能く之れを聴かん。  やがて酒が出て、一座がややさざめいて来たころ、景公は、ふいにためいきをついた、  ——死というものがなければ、人間はどんなに幸福だろう。  晏嬰はいった、  ——死というものがないとすれば、幸福なのは昔の人で、あなたではない筈《はず》です。いまあなたの治めていられる領土、ここはむかし爽鳩《そうきゆう》氏の領土でした。それが季《きそく》のものになり、逢伯陵《ほうはくりよう》のものになり、蒲姑《ほこ》氏のものになり、そのあとやっと、あなたの御先祖のものになったのです。人間に死がないとすれば、爽鳩氏の幸福であっても、あなたの幸福ではありません。何となれば、ここは今でも爽鳩氏の領土でしょうから。  私は、より少なく小説的である「春秋左氏伝」によって記述をすすめるといいながら、いつの間にか、「左氏伝」は「左氏伝」なりにもつ小説的なふくらみに、引き込まれすぎたようである。つまりこれらの対話は、いずれもそのままの史実ではなさそうである。ふくらまない前の史実、それはおそらく晏嬰《あんえい》という一人のインテリ政治家が、どうにもならない情勢の中にあって、いろんな方面からの暴力にもみくちゃにされつつ、しかし、いうべきことだけは常に敢然といってのけた、ということであろう。  ——わが国の政権は、たぶん陳《ちん》の家にうつるでしょう。枡目のいんちきで人民を懐柔していることは、さっきお話した通りです。しかも松葉杖が高くって、靴が安いという現状のなかでですよ。つまり王室は人民を見すて、陳氏は人民を巧妙にだましている。要するにいまわれわれのいる時代は、末世ですよ。僕はもうこれ以上、責任がもてない。  晏嬰は、大使として晋の国に特派されたとき、晋の国のやはり賢臣であった叔向《しゆくきよう》に、そう語っている。  ——いや、その点は、わたしの国も、おなじです。人民は王室の命令というと、もうまるで逃げごしです。しかも王室はちっとも反省してくれない。まあなんとかなるだろうと、享楽で心配をごまかしてる。楽しみを以って憂いを〓《かく》している。  二人のインテリは、古い体制がもはや保持しがたいこと、といって何か気味わるくせまって来るものにも、多くの希望がかけられそうにないことを、なげきあった。  斉国の主権は陳の家にうつるであろうという晏嬰の予想、それがだんだんに的中してゆく第一歩として、まず起こったのは、次の事件である。  王室の近親である二つの貴族、一つは欒《らん》氏、いま一つは高《こう》氏、それが、陳氏と事をかまえ、市街戦の結果、一挙にして没落する。すなわち景公在位十六年目のことであるが、事件の経過として、「春秋左氏伝」の記すものは、おそらく実録であろう。これら二軒の貴族は、毎日のようにパーティをひらき、酒ばかりのんでいた。それはまた貴婦人たちの社交の場でもあった。市街戦の起こった日にも、そうしたパーティが開かれ、どちらの主人も泥酔の中にあった。新興の陳氏の前には、ひとたまりもなかった。  この事件に際して、晏嬰のとった態度は、例によって晏嬰的であった。彼は、クーデターをきくと、礼服をきて、王宮にはせつけ、城門の開くのを待った。両方の陣営から呼びに来たけれども、どちらにも応じない。従者がたずねた、  ——陳の家に味方されますか。  ——あの悪党に何の取りえがある。  ——じゃ、欒、高、につきますか。  ——これもおんなじようなものだ。  ——では引きあげますか。  ——君主の危急を見すてて、引きあげることはできない。  いつか慶封《けいほう》の乱の時に取った態度と、同じであった。  以後、十年、二十年、三十年、四十年、景公は、年を重ねると共に、いよいよ実権を失ない、おなじように長命であった晏嬰は、いよいよ歴史の悲劇を感じたにちがいない。  ところで、こうした斉の国の政情は、孔子の関心をゆさぶり、その政治の理想を実験する最初の場を、この国に求めようとした形跡が見える。    十  孔子が、斉《せい》の国の政治と、交渉をもったのは、壮年の日にはじまる。中年の孔子が、政治家として最も活動したのは、その祖国である魯《ろ》に於《お》いてであったが、斉の政治との接触は、それよりも早い。けだし斉の政治のはらむ危機は、ひとり斉のみのものではない。当時の各国に共通したものであり、それがここでは最も早く現われたにすぎない。しからばそれは、若い孔子の関心を刺激し、吸収するに、充分であった。且《か》つ、斉と、孔子の生国である魯とは、至って近い隣国であり、共に今の山東省《さんとうしよう》に属する。泰山《たいざん》をへだてて、その東にひろがるのが、斉であり、その南に位するのが、魯である。両国の国都は、たやすく往復できる距離にあった。 「史記」の「孔子世家《せいか》」によれば、最初の接触は、孔子三十歳の時におこっている。それは、私がこれまで書いて来た事件のすべてがおこりつくして、人心は完全に王室をはなれ、その間隙《かんげき》にくいこんで、帰化人陳《ちん》氏の一族が、容赦なく勢力をひろげてゆくという形勢が、すでに決定的になったころであるが、斉の君主景公《けいこう》は、賢宰相晏嬰《あんえい》をしたがえて、魯の領内まで遊猟に出かけたのを機会に、孔子を招致して、政治についての意見を問うたという。時に孔子は周《しゆう》の国への留学から帰朝して、弟子《でし》がだんだんつきはじめたころであったが、孔子の名声は、隣国の君主と宰相との、少なくとも好奇心をそそるのに、充分であったということになる。ただし「史記」のこの記載は、充分に確実でない。  より確実な接触は、孔子三十五歳のときにおこる。下剋上《げこくじよう》の風は、祖国魯でも、おなじであり、君主の昭公《しようこう》が、国老の季《き》氏に追われて、国外に亡命する。この年、孔子は、斉におもむいて、斉の重臣、高昭子《こうしようし》の家臣となっている。故国の内乱のとばっちりをさけるのが一つの目的、更に大きな目的は、高昭子を介して、斉の君主景公に接近することにあったと、思われる。  ところで、孔子は、その目的を達するよりさきに、一つの収穫を得た。古代の聖帝舜《しゆん》の時代のシムフォニー、韶《しよう》の楽曲の演奏を、この国で聞いたことである。  ——子《し》、斉に在《あ》りて、韶を聞き、三月のあいだ、肉の味わいを知らず。曰《い》わく、図らざりき楽《がく》を為《な》すことの斯《ここ》に至るや。  それは、しばらくのあいだ味覚の喜びをうしなわせるほど、美しい聴覚の饗宴《きようえん》であったと、いうのであろう。しかし、この言葉の裏にも、斉の国の政情、乃至《ないし》は、ひとり斉のみならず、当時の世界をおしつつむ不安、それに対する孔子の悲しみといきどおりが、ひそめられているとする説がある。すなわち、斉の王位をねらう帰化人陳氏の一族は、この楽曲の創始者舜の後裔《こうえい》であり、したがって楽曲は、陳氏の家のみが、伝えるものであった。古代の美しい音楽、それは皮肉にも悪人によって伝えられている。それに対する感慨が、「論語」のこの言葉であるとするのであり、この説を主張する学者たちは、  ——図らざりき楽を為すことの斯《ここ》に至るや。  の「斯」の字を、感動の程度の深さを示す「斯」であるとは、読まずして、「斯」はすなわち斉の国の意であり、斯のけがれた国に、という意味であるとする。  それはともかくとして、孔子が、その目的を達して、君主の景公に謁見したのは、間もなくであった。或いは、肉の味を忘れた三か月の間のことであったかも知れぬ。そのとき、景公が、政治とは何ぞやと問うたのに対し、答えたのが、「論語」に見えるかの有名な言葉であるという。  ——君は君たるべく、臣は臣たるべく、父は父たるべく、子は子たるべし。  おしよせきたる危機に対する警告として、この言葉は、あまりにも原理的であり、水っぽいように見える。原文は、  ——君君、臣臣、父父、子子。  であり、一そうそっけない。  しかしこの平静な言葉のうちにこもる孔子の誠意は、充分に景公を感動させたようである。景公は答えた、  ——善《よ》い哉《かな》、信《まこと》に如《も》し、君にして君ならず、臣にして臣ならず、父にして父ならず、子にして子ならずば、たとい粟《こめ》有りといえども、吾《わ》れそを食うを得んや。  そうして景公は、孔子に傾倒するあまり、采邑《さいゆう》を与えようとしたが、晏嬰の反対にあって、中止したといわれる。  ——孔丘《こうきゆう》の政策は、悠長な文化至上主義であり、文化生活の方式として主張する礼楽の生活は、あまりにも煩瑣《はんさ》です。大衆のための政策とはなり得ません。  それが晏嬰の反対論の理由として、「史記」に記《しる》されるものの趣旨である。  しかし景公の孔子に対する執心は、それぐらいのことでは打ち切られなかった。  ——あなたを、あなたの祖国魯の一番家老である季氏、それとおなじ待遇で、めしかかえることはできない。しかしそれにつぐ待遇をしましょう。  景公は、そうした発言をさえしている。もっとも、この気まぐれな発言は、間もなく取り消される。  ——私はもう老人だ。あなたのお役に立ちそうにない。  かくて、孔子は、思いあきらめて、斉を退去したといわれる。  いくら孔子が偉人であっても、三十そこそこの若者を、国老として待遇するはずはないと、伊藤仁斎《いとうじんさい》は、この条に対する疑いを、その著「論語古義」のなかでのべている。そうであるかも知れない。ただ孔子が、斉の国を、その理想を実現する最初の場とし、またその失敗の最初の場としたことは、事実である。そうしてその失敗には、晏嬰の反撥《はんぱつ》が一因として働いたというのも、事実であるかも知れない。孔子は晏嬰の人物に、ゆたかな敬意を表し、  ——晏平仲《あんぺいちゆう》は、人と交わることに善《た》けたり。久しきのちに人より敬せらる。  と、批評しているが、晏嬰は孔子と、肌《はだ》あいのあう人物であったとは、保証しにくい。晏嬰は、その私生活の質素さでも示されるように、実際家としての一面を、豊富にもっていた。且つそもそも、孔子の祖国である魯と、晏嬰の国である斉とは、生活の雰囲気《ふんいき》をことにする。魯は礼楽の伝統をつたえる文化国であることをほこりとし、斉は強大な商業国であることを伝統とする。ところで「論語」に見える孔子の別の言葉、  ——斉は一たび変ずれば、魯と至《ひと》しかるべく、魯は一たび変ずれば、道と至しかるべし。  これによれば、孔子の理想は、富強ではあるが文化に乏しい斉を、魯とおなじ程度の文化国とし、やがては両国ともに完全な道徳の国へと、いうのにあったと思われる。こうした思想は、人間の悪意をなめつくした晏嬰には、あまりにも楽観的に見えたであろう。  ——孔丘の政策は、あまりにも理想的な、文化至上主義です。  こうした言葉は、事実、晏嬰によって吐かれたかも知れない。また嫉妬《しつと》の感情は、賢人どうしの間にも作用しなかったとはいえぬ。  それ以後、孔子はふたたび斉をおとずれることはなかった。  しかし斉の君臣との交渉は、それでおしまいになるのではない。十数年ののち、両者は、大へん緊張した場面で、もう一度、顔をあわせる。  すなわち、斉を去って故国魯に帰った孔子は、しだいに故国の政治家の間に信望をたかめ、五十一歳にして、魯国の内閣に列した。下級士族の家の子である孔子の入閣は、おそらく当時の世の中を聳動《しようどう》したであろうが、なかんずく衝撃を受けたのは、隣国の斉である。孔子の登用によって、魯が強大となることをおそれ、斉は一つの詭計《きけい》をめぐらす。このことについての「史記」の記載は、最も小説的であるが、しばらくそのままに記せば、次のごとくである。  孔子の任用に脅威を感じた斉は、当時両国の間にあった交戦状態を急速に解消し、双方の君主親臨のもとに、平和会議を開くことを提議する。そうして会談の場所としては、今の江蘇省《こうそしよう》の北部にある夾谷《きようこく》がえらばれる。時の魯の君主は、定公《ていこう》といい、普通の乗用車で会議に出席しようとしたが、孔子の進言によって、近衛兵《このえへい》をしたがえる。  会談地夾谷につくと、斉の方からは、景公《けいこう》と晏嬰《あんえい》とが来ており、三段になった土壇が、盟約の場所として、しつらえられていた。双方の君主が土壇の上にのぼり、盟約のしるしとして献酬の礼をおえると、斉の役人が進み出て、「四方の楽《がく》」を奏したいと請うた。景公がそれに許諾を与えると、ときの声をあげて現われたのは、種種の小道具を手にした舞楽の一隊であり、舞いの小道具と見えたものの中には、矛《ぼう》、戟《げき》、剣、撥《はつ》などの、武器がまじっていた。  そのとき魯の委員席から、走り出て、つかつかと土壇の上へ、はせのぼった人物がある。孔子である。最上段まではせのぼるかと見えたが、そこまではのぼらず、最上段からは一段下のところに立つと、袂《たもと》をひるがえしつつ、さけんだ。  ——何ものだ。われらの君主の会合を、夷狄《いてき》の音楽で混乱させるのは。掛りのものはいないか。  景公は、間《ま》のわるそうな顔をして、けんのんな舞踊団を、ひきとらせた。  しばらくすると、斉の役人たちは、また申し出た、  ——こんどは、室内楽をおめにかけましょう。  進み出たのは、猥雑《わいざつ》な扮装《ふんそう》をしたフールと小人《こびと》である。孔子は、ふたたび壇の上にかけのぼった。  ——いやしい匹夫《ひつぷ》の、君主をまどわすものは、死罪にあたいする。役人たち、刑を執行せよ。  俳優たちは、あわれにも、たちまちにして、手足《しゆそく》ところを異にした。  かくて詭計は失敗におわったばかりでなく、景公は、帰国ののち、自国のぶざまなやりかたを恥じ、謝罪のしるしとして、かつて魯から奪いとった土地の何がしかを、還付した云云《うんぬん》。 「史記」のこの記載は、あきらかに小説である。似たことは、「春秋左氏伝」にも見えるが、その記載は、こんなにまでふくらんでいない。たしかに古代の政治は、人を殺すことを、往往にして必要とした。しかし孔子も、それを必要としたであろうか。この小説は、小説としても不出来であると思われる。  しかし、それにつぐ「史記」の記載は、必ずしも小説でないであろう。孔子は五年足らずで、魯の執政の地位を失ない、故国を去るが、その裏には斉の国の魔手が働いていたらしい。  孔子五十五歳のとき、孔子が着着として治績《ちせき》をあげるのに、やきもきした斉は、魯の執政たちを堕落させるのを目的として、女歌舞伎の一座を魯の国へのおくりものとする。美しくきかざった女優八十人と、かざりたてた百二十頭の馬、といえば、それは女サーカスのようなものであったかも知れぬ。一座が魯の国都の南門外につくと、筆頭の家老である季桓子《きかんし》がまずその誘惑にまけた。或いは女歌舞伎は、斉のような商業国では盛んであっても、魯ではまだ珍らしいものであったかも知れない。総理大臣は、着物をきかえた微行で、二度三度と見物にゆき、はては君主の定公をも、市中視察という名目で、それにいざなった。  ——われわれは、もはやこの不潔な国にいる必要はありますまい。  短気な弟子《でし》、子路《しろ》は、早くもこういって、いきりたった。またそもそも、こうした事件がなくても、孔子と他の執政たちとの間は、もはや大へん気まずくなっていた。重臣の権力をおさえようとする孔子の政策は、重臣の反感を買わずにはいなかったからである。  しかし孔子は、重厚におしとどめた。  ——もうすこし待とう。もうすぐ恒例の郊《こう》の祭祀《さいし》が行なわれる。そのおさがりの肉が、わたしのところへ届けられれば、この国の秩序はまだ保たれているのだ。それまで待とう。  期待は裏切られて、季桓子はサーカスを市中に引き入れ、三日間も政庁に出なかった。郊の祭りは行なわれたけれども、孔子はおさがりの肉片を受けとらなかった。  かくて孔子は、決意して、魯を去り、理想実現の新しい場を求めて、まず衛《えい》の国へと旅立つ。故国を去る孔子の車は、遅遅として進行し、車の中からは、次のような歌声がきこえたと、歌謡集「琴操《きんそう》」には記されている。   予《わ》れ魯を望みみんと欲すれば   亀山《きざん》のやまかげそを蔽《おお》いたり   わが手に斧《おの》の柯《え》の無ければ   亀山をいかんともするなし  さて以後、孔子が、諸国の君主に遊説《ゆうぜい》をつづけるあいだにも、斉の政局は、容赦なく最後の破局へと近づいて行く。晏嬰がいつ世を去ったかは、あきらかでない。景公が、その五十八年にわたる長い治世をとじたのは、孔子が魯を去ってから八年目、南方、蔡《さい》、葉《しよう》などという小国を、巡歴しつつある頃であった。  ——斉の景公は、千駟《し》の馬有りしも、死する日、民は、その徳の称《たと》うべきもの無しとなせり。伯夷《はくい》と叔斉《しゆくせい》とは、首陽《しゆよう》のやまの下に餓《う》えしも、民は今に到《いた》りて之《こ》れを称う。  貪欲《どんよく》で無能な君主の一生を、孔子は、いにしえの清節の士、伯夷叔斉と対比しつつ、こういった痛烈な言葉で、批評している。  そうして、景公の死は、斉の国の破局の、最終の画期であった。優柔不断なこの君主は、老年になっても、あとつぎをきめなかった。重臣たちが、気をもむと、  ——諸君、そう心配しなさんな。心配ばかりしていると、病気になるぞ。人間、呑気《のんき》にするのが第一だ。どうせ空位状態にはならないんだから。  重臣たちは、とりつく島がなかった。けっきょく危篤の時になってから、後継者に指定されたのは、若い妾《めかけ》の生んだ末っ子であった。  天下をねらう大伴黒主《おおとものくろぬし》、帰化人陳《ちん》氏にとって、機会はいよいよ到来した。不平をおこして外国に亡命していた年長の王子の一人を、陳氏はそっと呼びもどし、その擁立を重臣たちに要請した。といって、譜代の重臣のうち、孔子のかつての主人であった高昭子《こうしようし》などは、このころすでに没落しつくし、大酒家の鮑子《ほうし》というのが、譜代の筆頭であった。鮑子は、例のごとく酔っぱらって、会議に出た。すると外国にいるはずの王子が、そこにいる。びっくりして酔眼を見ひらくと、陰謀者陳氏が、おっかぶせるようにして、いった、  ——あなたの御命令で、こういたしました。  酔っぱらいの総理大臣は、アルコールでくしゃくしゃになった脳髄の中から、記憶の断片をさがし出そうとしたが、そうした記憶は、さすがになかった。  ——いや、そんなはずはない。君も知っているとおり、今のおさない殿様こそ、先君最愛の王子だ。あの御老人が、おさない方を背中にのせて、牛のまねをなすったことさえある。そのため前歯をおっぺしょられたのを、君もおぼえていることと思う。 (汝《なんじ》は、わが君のかつて孺子《じゆし》の牛と為《な》り、其《そ》の歯を折りたまいしを忘れて、之れに背《そむ》かんとするや)  すると王子が、するすると進み出て、彼の前に平伏した。  ——万事は、あなたの御意向しだいです。  総理大臣は、もう思考をまとめるのが、面倒になった。  ——よろしい。誰だってかまわない。みんな先代のお子さんだ。  かくて、おさない弟は殺害され、兄が位につく。しかし兄もまた、陳氏のいうことをきかないというので殺され、更にその子が擁立されたが、それも陳氏のあるじ、陳恒《ちんこう》の毒手にあって、弑逆《しぎやく》されたのは、孔子七十一歳、つまり「西に狩りして麟《りん》を獲た」年である。そのとき孔子は、再び故国の魯に帰り、前国務大臣としての礼遇を受けつつ、著述に専念していたが、この弑逆の報をきくと、毅然として立ちあがった。  孔子は、そっこく、沐浴《もくよく》して身をきよめ、時の魯の君主哀公《あいこう》に、謁見した。  ——斉の陳恒が、その君主を弑逆しました。討伐の軍をおこしていただきたい。 (陳恒、其の君を弑《しい》す。請う之れを伐《う》たん)  いつもの温厚な態度には似なかった。  しかし政治の実権が、君主の手にないことは、この国もおなじであった。哀公は、当惑しながらいった。  ——三人の家老に相談してください。  孔子は、王宮を出ると、弟子たちをかえりみて、つぶやいた、  ——国老の待遇を受けるものの当然の職責として、わしは進言したのだが、君主は、三人の家老のところへ行けといわれる。やむを得ない。  歴訪された三人の家老が、色よい返事をしなかったことは、いうまでもない。  ——国老の末席につらなるものとして、当然の進言であるのに。  孔子は、ふたたびそうつぶやいた。  孔子がなくなったのは、その翌翌年である。よわい七十三。    十一  孔子の生きていた時代、それは要するにこのような時代であった。殺戮《さつりく》と陰謀とは、ひとり斉《せい》のくに、衛《えい》のくにに、うずまいていたばかりではない。孔子の生国である魯《ろ》をはじめとして、中原の国国のいたるところに、うずまいていた。また中原、すなわち北方黄河《こうが》流域の国国ばかりではない。中原の国国をおびやかす新興の勢力として勃興《ぼつこう》しつつあった南方揚子江《ようすこう》流域の国国、楚《そ》、呉《ご》、越《えつ》などでは、新興の国のたくましさを、罪悪の面でも示すごとく、念の入った殺戮が、やはりしばしば行なわれている。たとえば、呉の王である僚《りよう》は、厳重な警戒もむなしく、宴席の蒸しざかなの腹にひそむ利剣を見のがしたばかりに、あえなく刺客の手にたおれた。またたとえば楚の家老の子である伍子胥《ごししよ》は、父と兄を殺した楚の王に復讐《ふくしゆう》すべく、亡命して敵国に仕え、敵国の軍隊を動員して、祖国の首都に攻め入らせ、父の仇《かたき》である王の墓をあばき、そのしかばねに鞭《むち》うっている。かくて「春秋左氏伝」の巻巻は、血によって色どられぬはないこととなった。それは人間の悪意を誇示する文献のように見える。  こうした環境の中から、人間が善意の動物であることを強調する「論語」の言葉が生まれたということは、私には驚異のように思える。それは悪意のうずまきに対する反撥《はんぱつ》にすぎないのであろうか。感情的な抵抗、反撥であるとするには、それらはあまりにも強靱《きようじん》である。  ——人の生まるるや直《ますぐ》なり。罔《あ》しきものの生くるは、幸《さいわい》にして免るるのみ。 「春秋左氏伝」の頁《ページ》をふせて、「論語」の頁をひらくとき、われわれは全く別の雰囲気《ふんいき》の中にはいることができる。更にまた一つの驚きは、これらの言葉が、常に平静な表現を保っていることである。  ——学んで時に習う、亦《ま》た悦《よろこ》ばしからずや。朋《とも》有りて遠方より来たる、亦た楽しからずや。人知らずして慍《うら》まず、亦た君子ならずや。  ——弟子《わかもの》よ、入りては孝、出《い》でては悌《てい》、謹しみて信《まこと》あれ。汎《ひろ》く衆を愛して仁あるものに親しみ、行のうて余力有れば、則《すなわ》ち以《か》くて文を学べ。  ——人の己《おの》れを知らざるを患《うれ》えず。己れの人を知らざるを患うるなり。  ——篤《あつ》く信じて学を好み、死を守りて道に善《つく》し、危き邦《くに》には入らず、乱れたる邦には居らざれ。天下に道有れば見《あら》われ、道無ければ隠れよ。邦に道有るときに、貧しくして且《か》つ賤《いや》しきは、恥なり。邦に道無きときに、富み且つ貴きは、恥なり。  これらの言葉は、あくまでも平静である。或いは平凡でもあるほどに平静である。孔子の時代の歴史の書である「春秋左氏伝」と、孔子自体の歴史である「論語」との距離は、「左氏伝」の記載が甚《はなは》だしく現実的であるのに対し、「論語」の言葉が理想主義的であることからも生まれている。しかしそれと共に、「左氏伝」が激情の書であるのに対し、「論語」は激情の書でないところからも生まれている。たといその裏には、はげしい情熱を想像し得《う》るにしても、すべては平静な、或いは平凡な、表現に、おさえられ、おちついている。  こうした平凡無奇さこそ、「論語」の価値であることを、最も強く主張するのは、伊藤仁斎である。  ——子《きみ》は夫《か》の五穀を識《し》れるか。天下の至味《しみ》を論ずれば、則《すなわ》ち五穀に至りて極《きわ》まれり。八珍の美膳《びぜん》、醍醐《だいご》の上味と雖《いえど》も、五穀の常に食ろう可《べ》くして厭《あ》かざるに若《し》かず。況《いわ》んや此《こ》れあるに非《あら》ざれば、則ち以《も》って躯命《くめい》を存する莫《な》きをや。論語の道に於《お》けるは、たとえば食の中の嘉穀なり。之《こ》れを四海に施して準《のり》有り、之れを万世に伝えて弊無し。患《うれ》うる所は人のそを知らざることに在《あ》るのみ。  仁斎は、「論語」の平凡さこそ、すなわちその強靱さであることを、そのほかにもくりかえしくりかえし説いている。くわしいことは、「童子問」「論語古義」など、その著書に見える。  孔子よりも、より多くの崇高さを感じさせる聖者は、或いは他《ほか》にあるかも知れない。しかし彼よりもより多くの強靱さを感じさせる聖者は、おそらく他に少ないであろう。  しかしながら、人人は疑問を抱《いだ》くであろう。人間は善意の動物であるとする孔子の確信は、孔子の時代に於いても、あまりにも多く裏ぎられている。孔子は絶望を感ずることは、なかったであろうか。人間の可能性を信ずる代りに、人間のもつ限定が、より強く彼をとらえることはなかったであろうか。  絶望、それは孔子をもおとずれている。  ——鳳鳥《ほうちよう》至らず。河《か》は図《と》を出ださず。吾れ已《や》んぬるかな。  鳳凰《ほうおう》の飛来、予言書の黄河からの出現、自然の人間に対する祝福であると伝えられるそうした瑞祥《ずいしよう》は、彼の時代のものではないとするのである。孔子は、孔子の理想とするような時代の到来を、少なくとも、彼の生存の時期のあいだには、思いあきらめていたようである。  しかしながら、絶望は、けっきょく、孔子の本色ではなかったようである。彼は人間のもつ種種の限定を知ると共に、いよいよ人間が善意の動物であることを信じた。そう私がここにいうのは、たえまない戦争、殺戮、それらに反撥して、そう主張したというのではない。そうした悪意の行為、さらに広めていえば人間の負うさまざまの不幸、要するに人間のもつ限定のさまざまを考えつづける間に、ほかならぬ人間は善意の動物であるということ自身が、そうした限定の一つとして、しかもその最も重要な一つとして存在すること、従ってそれは人間が存在する限り、最も確乎《かつこ》不動のものとして存在するということ、それが孔子の思索の一つの到達点であったと、私には思われるのである。 「論語」には、孔子の精神の成長の歴史をのべていう。  ——子いわく、吾《わ》れは十有《ゆう》五にして学に志《こころざ》し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十にして耳順《なら》い、七十にして、心の欲する所に従いて、矩《のり》を踰《こ》えず。  いまは、この条の全部を問題とせず、ただ、天命を知る、ということだけを問題にしよう。  ——五十にして天命を知る。  とは、何ごとであったか。命の字は、運命とも解され、使命とも解されるが、その両者を、ただ一つの命の字が兼ねふくんでいるとは、見がたいであろうか。人間は、どうにもならない運命の支配下にいる。しかし、そうしたどうにもならない運命の一つとして、天からさずかった使命、すなわち善意の動物として行動すべしという使命があるのである。  またかの有名な言葉。  ——子、川の上《ほとり》に在りて、曰《い》わく、逝《ゆ》く者は斯《か》くの如《ごと》きかな。昼夜を舎《お》かず。  この言葉も、さまざまに理解され得るのであり、事実またさまざまの解釈を生んでいる。  宇宙の不断の生命、それを水の流れに見いだしたとするのは、宋《そう》の朱子《しゆし》の説である。  ——天地の化、往《ゆ》く者は過ぎ、来たる者は続き、一息の停《とど》まること無し。これ乃《すなわ》ち道体の本然なり。然《しか》れども其《そ》の指さす可《べ》くして見るに易《やす》き者は、川の流れに如《し》くは莫《な》し。故《ゆえ》に此《ここ》に於いて発して人に示し、学ぶ者の時時に省察して、毫髪《ごうはつ》も間《おこた》り断ゆること無きを欲する也《なり》。  伊藤仁斎の説もほぼおなじい。  ——此れは君子の徳の日に新たにして息《いこ》わざること、川流《せんりゆう》の混混《こんこん》として已《や》まざるごとくなるを言う也。  要するに、人間は、時時刻刻、たゆることなく流れる川の水に見ならって、刻刻に進歩向上しなければならぬとするのである。  ところで一方には、それと全く異なった解釈がある。漢の包《ほう》なにがしの注釈に、  ——逝《せい》とは往くことなり。凡《およ》そ逝《ゆ》く者は、川の流れの如し。  というのは、川の流れのすぎゆくごとく、時時刻刻遠ざかりゆく過去の時間、また過去の事物に対する愛惜の言葉であるように見える。荻生徂徠《おぎゆうそらい》は、それを祖述し、  ——逝く者は斯《か》くの如し、昼夜を舎《お》かず。  とは、孔子、時の事に感嘆し、既に往きしものは、川の流れのごとく、追い復《かえ》す可からざるを、悲しんだ言葉に、ほかならぬとする。二つの解釈は、感情の方向を、うらはらにする。  しかし、この言葉が、二つの感情を、同時にはらんでいると見るのは、困難であろうか。宇宙は、東流の水が最もよく象徴するごとく、刻刻に推移し、過去は刻刻に過去となる。推移の上に浮かぶものとして、わが生命さえも、やがては過去のものとなるであろう。それこそ人間の受ける最大の限定のまた一つである。次の時代の哲学者、荘子《そうじ》が喝破《かつぱ》したように、  ——吾が生や涯《かぎ》り有り。而《しこ》うして知は涯り無し。涯り有るものを以《も》って、涯り無きものを随《お》う、殆《あや》ういかな。  という感懐が、川の水を前にした孔子の心を、かすめなかったとは、いえない。  しかし、滅亡の原理である時間は、同時に、進歩の原理である。川の水の休みなきごとく、人間の進歩もまた無窮であるとする感覚が、同時に孔子の脳裏を、流れていたとすることも、おそらくは疑いをいれない。  そうして、孔子の確信はあたっていたといえる。中国の文明は、孔子の教えを祖述することによって、幾分の畸型《きけい》を生みつつも、素朴よりは文明に、神よりは人間に、独断よりは実証に、より多くの敬意を払いつつ、発展して来たからである。いなひとり中国ばかりではない。人間は今に至るまで、馬鹿なことをくりかえしているように見える。しかし文明は、人間とともに、儼然《げんぜん》として生きつづけている。 この作品は昭和二十八年十一月新潮社より刊行され、 昭和三十三年六月新潮文庫版が、昭和四十七年三月 同改版が刊行された。 Shincho Online Books for T-Time    中国の知恵 発行  2002年2月1日 著者  吉川幸次郎 発行者 佐藤隆信 発行所 株式会社新潮社     〒162-8711 東京都新宿区矢来町71     e-mail: old-info@shinchosha.co.jp     URL: http://www.shinchosha.co.jp ISBN4-10-861161-6 C0893 (C)(有)善之記念会 1953,1972, Coded in Japan