[#表紙(表紙.jpg)] 奇跡を起こした村のはなし 吉岡 忍 目 次 [#ここから1字下げ] プロローグ 1 山あいの村の宿命 [#ここから7字下げ] |新潟《にいがた》県山間部の|豪雪《ごうせつ》地帯に位置する黒川村。冬場は一面に雪に|埋《う》もれ、|出稼《でかせ》ぎに出ないと暮らしが立ちゆかなかった。「なんとかして村を自立させたい」と、村長と村民たちの|挑戦《ちようせん》がはじまった。 [#ここから1字下げ] 2 村が流された! [#ここから7字下げ] 共同農場「青年の村」とスキー場が|軌道《きどう》に乗りはじめた矢先、二年つづきの水害が村を|襲《おそ》った。多くの遺体を焼く|煙《けむり》の下、村長と若者たちは「水害の前よりも立派にする」と改良復旧に|奔走《ほんそう》する。 [#ここから1字下げ] 3 豊かさの意味 [#ここから7字下げ] 災害から立ち直った村は、次々に新しい村営事業に取り組んだ。本格的リゾートホテルは|雇用《こよう》を生み、|過疎《かそ》にも歯止めがかかった。農村における観光事業は、豊かさの本当の意味を教えてくれる。 [#ここから1字下げ] 4 「|魔物《まもの》」から村を守る [#ここから7字下げ] 高度経済成長という「魔物」を相手に、村長らの戦いがつづく。彼らが各種村営事業の資金源としたのは、国や県が支出する地域|振興《しんこう》補助金だった。その|申請《しんせい》と活用はサバイバルゲームとなった。 [#ここから1字下げ] 5 本物をつくりたい! [#ここから7字下げ] バブル|崩壊後《ほうかいご》の村は|畜産《ちくさん》に力を入れた。そこへ一年間の欧州研修を終えた若手職員が続々ともどってくる。合言葉は「つくるからには本物を」。山あいの村はあらたな特産品でにぎわいはじめた。 [#ここから1字下げ] 6 このあとをだれが|継《つ》ぐのか [#ここから7字下げ] |経済《けいざい》が低迷し、農業が|行《ゆ》き|詰《づ》まり、市町村|合併《がつぺい》の|嵐《あらし》が|吹《ふ》き|荒《あ》れる二一世紀の日本。農業と観光をつなぎ、生産と消費を|循環《じゆんかん》させる村の仕組みは|生《い》き|抜《ぬ》いていけるか。そんなある日、村長が|倒《たお》れた。 [#ここから1字下げ] エピローグ [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] ————————————————————————————  プロローグ ————————————————————————————  これから私は〈|奇跡《きせき》を起こした村〉のことを語ろうと思う。どこの村で、どんな奇跡が起きたのかはこのあとすぐに明らかになるが、その前にひとつ、どうしても書いておかなければならないことがある。  あなたが——そう、いまこの小さな本を手に取り、このページを開いたあなたのことだ。あなたがもし旅行好きなら、日本のあちこちを旅してみて、気がつかれたはずである。このごろどこの町に行っても元気が感じられない、と。  駅前も商店街も|閑散《かんさん》としていて、活気がない。ひと気の消えた「シャッター通り」はいたるところにある。古い町並みから二、三キロ|離《はな》れると、たいていどこでも新しい町が広がっているが、しかし、この新しい町にはスーパーやファミレス、コンビニやファーストフードの店が並んでいるばかりで、わざわざ訪ねたくなるような場所でもない。しかもこちらは、広がりはじめてまだまもないのに、もう目新しさを失って、だいぶ|疲《つか》れ気味だ。  私はこういう疲れ気味の新しい町、活気のない古い町をたくさん見てきた。なぜこんなにもとりとめがなく、ばらばらで、投げやりな町になってしまうのだろう、と行く先々で考えさせられてもきた。ついでに言えば、この十数年、動機も背景もよくわからない|残酷《ざんこく》な事件が次々に起きたのも、新旧を問わず、元気のない、すきま風が|吹《ふ》き|抜《ぬ》けていくような町でだった。  ここには、町づくりの|意気込《いきご》みもアイデアもない。どういう町で暮らしたいのか、この町をどんなふうにつくりたいのか、そのためにどうすればよいのか、と議論を積み重ねていった形跡もない。ミニ開発と乱開発を進めていったら、だだっ広い町らしいものになったというだけの広がりしかない。  そこで交通事故が起きると、鉄製の白いガードレールができ、万引きやひったくりが|頻発《ひんぱつ》すると、標語を書きなぐった看板が立ち、新聞やテレビで|騒《さわ》がれるような事件が起きると、商店街にはたちまち|監視《かんし》カメラが取りつけられて、町はますますよそよそしく、冷たくなっていく。どこでもそうだ。このどこにも、町をもっと|居心地《いごこち》のよい、人間的なものに変えていこうという情熱や構想力がない。  そういう町の一人ひとり、一家族一家族がいい加減な気持ちで暮らしているとは、私は思わない。景気が低迷しつづけるなかでは、多くの人たちがせめて自分や家族の居場所を確保しておこうと一生|懸命《けんめい》になったはずである。だれだって、そこが居心地のよい町であってほしいと思っている。  ただ、どうすればここが暮らしやすく、なごやかで、安心できる町になるのか、それがわからない。店ができたり、つぶれたりをくり返しているが、そのいちいちに口出しするわけにいかないし、町づくりのあれこれを行政に言っても、適当にあしらわれるだけだ。結局、なるようにしかならないのだとあきらめて、自分の家や部屋に、自分のなかに閉じこもってしまう。そういう人たちのつぶやきのような声も、私は何度か耳にしてきた。  だから、あえて言っておきたい。  私は、市町村の行政に大きな責任があると思う。そこで働いている首長はもとより、職員の一人ひとりに責任がある。人々の暮らしに直接かかわる行政には、この市や町や村のビジョンを具体的に語り、議論し、実現していく役割がある。今日、その全体像を|描《えが》けるのは、地域レベルの行政しかない。いま必死でそれを考え、つくりださないと、どの市町村も|萎《な》え、|荒《すさ》み、死んでいくだろう。それはもう確実にはじまっている。  かつてこの国は、各地の市町村が|疲弊《ひへい》し、そのあげくに生じた人々の|鬱屈《うつくつ》と不安を|偏狭《へんきよう》なナショナリズムに|誘導《ゆうどう》し、大きく道を|踏《ふ》み|間違《まちが》えたことがある。満州事変から太平洋戦争へとなだれ込み、|破滅《はめつ》していった昭和史を少していねいに読み解けば、その前段に地方行政の|手詰《てづ》まり、|怠慢《たいまん》、無能力があったことがわかるだろう。当時の国家指導者たちはたしかに間違えたが、あのとき市町村行政に|携《たずさ》わっていた者たちも同じ程度に|愚《おろ》かで、無責任だった。私はこの事実を重く見たい。  それから四分の三世紀がめぐったいま、この国のあちこちで、同じことが起きていないだろうか。|錆《さ》びついたシャッターが降りたままの商店街や寒々しい風が吹き抜けていく住宅街を歩きながら、私は人々の鬱屈と不安がしだいに臨界点に向かって|渦巻《うずま》いていくさまを感じ取る。人々の暮らしに密接にかかわる市町村行政の多くは、いままた|無為《むい》と無策をくり返している。  だからこそ、私は〈奇跡を起こした村〉のことを語っておきたい。ものごとはなるようにしかならない、ではない。現実は、その気になれば変えられるのだ。この小さな村の村長と村役場の職員たちは、あっけらかんとそう言うだろう。ここにはそのときどきの時代的制約を背負いながらも積み上げてきた実績ゆえの楽観主義があって、それが私たちを|励《はげ》ましてくれる。  これは、そういう物語である。 [#改ページ] ————————————————————————————  1 山あいの村の宿命 ————————————————————————————  |新潟《にいがた》県の北東部、山形県と県境を接した山あいに|黒川村《くろかわむら》という村がある。  つい、小さな村、と言いたくなるが、面積は約百八十平方キロメートル。東京の山手線で囲まれた地域の三倍もある。地図で見ると、ずんぐりした毛虫が立ち上がったような格好をしている。八割以上が|山岳《さんがく》地帯だから、ぐるっと歩きまわるのはかなりむずかしそうだ。その大部分が|風光明媚《ふうこうめいび》な景観ゆえに、国立公園や県立自然公園に指定されている。  毛虫の頭のほうは|中条町《なかじようまち》に接し、中条町は日本海に面して広がっている。つまり黒川村は内陸部にあって、細長くのびた地形の大部分が山だらけ、という村である。  中条町からつづく道路を黒川村に入っていくと、|幾重《いくえ》にもかさなった山の正面に|飯豊連峰《いいでれんぽう》が見えてくる。このあたりは|豪雪《ごうせつ》地帯だから、夏が近づいても頂上付近はまだ雪に|覆《おお》われているだろう。二千メートル級の山々がつらなる飯豊連峰は新潟、山形、福島の三県にまたがり、|信仰《しんこう》の山として、また日本一小さい連峰としても知られるが、黒川村はそのふもとまでつづいている。  飯豊連峰に接する毛虫のお|尻《しり》のほうから流れだす川がある。周囲の山々の水を集め、腸から食道へと逆流し、黒川村のまんなかを|貫《つらぬ》いて流れるこの川を、|胎内川《たいないがわ》という。どきっとする名前だが、毛虫の体や人間の胎内のことではなく、もともとはアイヌ語の「清い水が流れる地」を意味する言葉に、後世の人が漢字を当てはめたのだという。  胎内川の上流地域は、|急峻《きゆうしゆん》な山々のあいだを|鋭《するど》く|切《き》り|込《こ》んだような深い|渓谷《けいこく》がつづいている。「|奥胎内《おくたいない》」と呼ばれるこの山岳地帯は村の面積の三分の二を|占《し》め、昔から人を寄せつけなかった。  山から|抜《ぬ》けだした胎内川は中流地域にくると|河岸段丘《かがんだんきゆう》を形成し、ようやく人が住めそうな地形になるが、すぐそばまで山が|迫《せま》っている上に、下流域にくらべれば積雪も多く、冷たい雪解け水が流れてくるので気温も水温も三度から四度は低めだから、あまり耕作には向かない|土地柄《とちがら》だった。このエリアを「胎内」と呼ぶ。  胎内川はさらに下るとだんだんに|扇状《おうぎじよう》に広がって、平地になる。昔から黒川村の人たちが暮らしてきたのは、胎内エリアから数キロ下ったこの|扇状地《せんじようち》の各所だった。あちこちに集落が散らばり、田んぼが広がっている。それぞれに集落名がついているが、その中心の集落はたんに「黒川」と呼ばれ、住宅地のなかに村役場や郵便局があって、ぽつりぽつりと商店もある。  胎内川は平野部を広げながらさらに流れていき、もっとも|肥沃《ひよく》になるあたりで中条町に入って、日本海に流れ込む。川の全長は三十二キロメートルとそれほど長くないが、これは逆にいえば高低差が大きいということであり、こういう|河川《かせん》は、扇状地の背後の山々を|駆《か》け|下《くだ》ってくる支流もふくめて、暴れ川になりやすい。このことがのちに見るように、黒川村に|悲惨《ひさん》な出来事をもたらすことになった。  ひとことで言ってしまえば、黒川村は広大な面積がありながら、家を建てて暮らしたり、田んぼや畑として活用できる平地が少なかったということである。冬場は家が|埋《う》もれ、電線をまたいで歩くほどの大雪が降ることもめずらしくなかった。そこに冷たい季節風が|吹《ふ》きすさんで、村は寒々とした白一色に覆われる。  村のお年寄りたちと話していると、「だから昔の生活は貧しく、ほんとうにきびしかった」という話題が必ず出てくる。  かつて冬になると、黒川村からは|働《はたら》き|盛《ざか》りの男たちの姿がいっせいに消えた。父親や若い男たちは|稲刈《いねか》りを終えると大都会や温暖な地方に|出稼《でかせ》ぎに行ってしまい、春の田植えの時期まで帰ってこなかった。出稼ぎさきで病気になったり|怪我《けが》をする人もいた。 「家がしーんと静まりかえって、暗くなるのがいやだった」「|寂《さび》しかった」と、当時子供だった人たちはいまも顔をしかめる。家に残った女たちや子供たちは、屋根の雪下ろしにも|難儀《なんぎ》したという。  といってもほかに産業がなかったから、これは村人たちが|耐《た》えねばならない運命のようなものだった。山あいの風光明媚な村は、|貧困《ひんこん》と豪雪と出稼ぎを宿命のように背負って、長い歴史を生きてきたのだった。      *  黒川村の現在の人口は、千七百九十一世帯、六千七百五十人である(二〇〇〇年国勢調査)。東京・山手線の内側の三倍もある面積に、七千人足らず。これはやはり、小さな村である。  しかし、過去三十年間の人口の推移を見ると、不思議なことに気がつく。一九七五(昭和五十)年は六千三百八十九人、一九八五(昭和六十)年に六千六百二人、一九九五(平成七)年に六千五百三十四人、そして最近の六千七百五十人と、ずっと横ばいか、わずかながら増勢に転じている。  この時期、日本中の町や村、あるいは主要幹線の道路や鉄道からはずれた小さな市などは|過疎《かそ》や|高齢化《こうれいか》や労働力流出に|悩《なや》み、人口をどんどん減らしてきたのに、ここではかえって人がふえている。ちなみに一九八〇年代の終わり、黒川村は政府の|優遇措置《ゆうぐうそち》を受けやすい過疎地指定を取り消されている。  小さな村で、どうしてこんなことが起きたのだろうか? 貧しさと豪雪と出稼ぎの村でいったい何が起きたのか?      * 「|臭水《くそうず》が|いっぺ《(いつぱい)》採れれば、|懐《ふところ》も|暖《あつた》けっぺさ。そりゃ、気分はよかったさぁ」  昔話になると、老人の顔に笑いが広がった。|錦織恒雄《にしきおりつねお》は戦前から戦後数年間にかけての、|彼《かれ》が小学生から成人する前後までの思い出話をはじめた。  家から曲がりくねった坂道を二百メートルほど上がり、裏山の林に入っていくと、小さな池があった。|木洩《こも》れ|日《び》を受けて、水面の半分がぎらぎらと青黒く|輝《かがや》いている。臭水はここでは自然に|湧《わ》きだしているが、山の|斜面《しやめん》に深い|井戸《いど》を|掘《ほ》り、人工的に掘りだしているところもあった。臭水とは、原油のことである。|近隣《きんりん》の人たちはこうした池や|油井《ゆせい》を、|臭水坪《くそうずつぼ》とも|油壺《あぶらつぼ》とも呼んだ。  いまから千三百数十年前、村人たちは、臭水坪が夏の|落雷《らくらい》のたびに|炎《ほのお》に包まれ、燃え広がるので、困っていた。これを知った|中大兄皇子《なかのおおえのおうじ》が使いを|派遣《はけん》し、砂を|撒《ま》いて消火する方法を教えるとともに、|臭水《くそうず》の神を|祀《まつ》って|鎮静《ちんせい》に努めたという。中大兄皇子が都を|飛鳥《あすか》から|近江大津宮《おうみのおおつのみや》に移し、|天智天皇《てんぢてんのう》として即位した直後の六六八年、村人たちは感謝と|即位《そくい》のお祝いを|兼《か》ねて近江へ向かった。「秋|七月《ふみづき》、|越《こし》の国、燃ゆる土と燃ゆる水とを|献《たてまつ》る」と、日本書紀にある。  当時は野生シダ類のカグマを使って採油したらしい。カグマを|乾燥《かんそう》させて束ねると、|草箒《くさぼうき》のようになる。これを池に|浸《ひた》し、そっと引き上げると、水は|水滴《すいてき》となって落ち、臭水がカグマの葉や|茎《くき》にからまっている。それを手でしごいて原油を採る。  この乾燥カグマ、村の人たちは「紙が使えるようになるまでは、便所の|尻拭《しりふ》きに使っていた」と、錦織は笑った。  いまでこそエネルギー源や化学工業の原料として重視される原油だが、それから千年以上ものあいだ、めずらしいものという以上の価値はなかった。昔の黒川村でも、|屋根瓦《やねがわら》の下に|敷《し》きつめる木片の|防腐剤《ぼうふざい》に使ったり、田んぼで燃やして|虫除《むしよ》けにするくらいで、|使《つか》い|途《みち》はかぎられていた。精製しない原油は火力が弱く、調節がむずかしい上に、燃やすと強い|刺激臭《しげきしゆう》がするので、|煮炊《にた》きや|暖房《だんぼう》には向かなかったからである。  明治時代のはじめ、|長崎《ながさき》からシンクルトンというイギリス人医師がやってきて、|崩《くず》れないように|内壁《ないへき》に|杭《くい》を組んで油井を深く掘り、油層を|探《さぐ》り|当《あ》てながら採油するやり方を伝えた。地上へはつるべを使って、人力で|汲《く》みあげた。これを「異人井戸」という。異人井戸はあたり一帯の山中に数百も掘られた。このころから鉄の|釜《かま》を使って原油を熱し、精製することもはじまっている。  昭和になると、外から業者も入ってきて、機械で掘り、機械で汲みあげるようになったが、いかんせん|埋蔵量《まいぞうりよう》が少なかった。日本が中国大陸での|侵略《しんりやく》戦争に|行《ゆ》き|詰《づ》まり、石油などの天然資源を求めてベトナムやマレーシアやインドネシアに戦線を拡大していくと、黒川村の原油|採掘《さいくつ》はあっというまにすたれていった。  数年もしないうちに敗戦と戦後の|窮乏《きゆうぼう》の時代がやってくる。錦織の父親は、軍隊から復員するとまもなく体を|壊《こわ》し、|亡《な》くなった。錦織はまだ十代のなかばだったが、一家を支えなければならなかった。彼は|臭水坪《くそうずつぼ》に行って、一生|懸命《けんめい》に油を採った。原油の混じった池の水を|木桶《きおけ》で汲みだし、しばらく放置したあとに、木桶の下側につけた|栓《せん》を抜くと、下に|沈《しず》んだ水が放出され、臭水だけが残る。根気よくこれを|溜《た》めていく。  一カ月に一度、彼は原油を詰めた木桶を馬車や牛車に積み、十数キロ|離《はな》れた海沿いの町や村に売りにいった。漁師たちが漁船のエンジン燃料に使ったのだ。この当時、|臭水売《くそうずう》りはほとんど|唯一《ゆいいつ》の現金収入の方法だった。それが、「いっぺ採れれば、懐も暖けっぺさ……」の背景である。  このごろの錦織は妻といっしょに、村が建てた「シンクルトン記念公園」内の記念館で管理人を務めている。若いころに原油を採って暮らしを支えた臭水坪は、記念館のすぐわきでいまも黒々と|鈍《にぶ》い光を放ち、静まりかえっている。 「戦後しばらくは、このあたりにゃ何人も油の仕事をしていた人がいたな。だけど、みんなどこかへ行ったり、死んでしまって、もうおれしか残っておらん」  臭水は忘れられても、ひとつだけまだ重要な役割を|担《にな》っている。黒川という村の名前のことだ。黒川村の|名称《めいしよう》は、臭水が流れだして、村のまんなかを流れる胎内川を黒く染めていたことに由来するからである。      *  敗戦から十年が過ぎた一九五五(昭和三十)年、貿易高をのぞくほとんどの経済指標が戦前の最高値を上まわり、翌年の経済白書は「もはや戦後ではない」と|謳《うた》った。いまからふり返ってみればこの急速な復興は、戦後世界の東西対立を背景に|勃発《ぼつぱつ》した|朝鮮《ちようせん》戦争(一九五〇〜一九五三)の|特需《とくじゆ》をバネにしたいささかきな|臭《くさ》いものだったが、とりあえず人々は一息つくことができた。  とはいっても、その後の日本社会を方向づけることになる経済の高度成長のはじまりまでは、あと五年待たなければならない時期である。  エネルギーはまだ全面的に石炭にたよっていた。自動車や家電の生産も|幼稚《ようち》なものだった。|食糧《しよくりよう》増産が|叫《さけ》ばれ、各地で|開墾《かいこん》や|干拓《かんたく》の事業計画が次々と打ちだされていたが、田畑では牛や馬といっしょになって人間が|汗水《あせみず》垂らしていた。これからの日本がどんな工業を立ち上げていくのか、工業と農業や漁業のバランスをどうとっていくのか、その見通しも立っていなかった。  当時の黒川村はといえば、昔ながらの貧困と豪雪に耐え、ほそぼそとコメをつくっている寒村というにすぎなかった。くねくねと曲がる|砂利道《じやりみち》と|泥道《どろみち》を、村人たちは馬車か牛車かリヤカーを引いて行き来していた。胎内川にかかる橋もろくになく、あってもあちこち壊れかかった木橋だった。村税の|滞納者《たいのうしや》が続出し、カネの裏づけのない村行政はにっちもさっちもいかなかった。  この年、黒川村では村長が病死し、|急遽《きゆうきよ》村長選が行なわれた。当選したのはそれまで村議を一期半務めてきた|伊藤孝二郎《いとうこうじろう》である。|盛岡《もりおか》農林専門学校(現在の岩手大学農学部)在学中に学徒動員されて中国の新京(現在の長春)に|渡《わた》り、見習士官として軍隊の後方|支援《しえん》計画を立案する勉強中に敗戦となり、村にもどってきた人物だった。このとき三十一|歳《さい》、異例に若い村長の誕生だった。  伊藤は当選直後の黒川村公民館報に就任の|挨拶《あいさつ》を兼ねて、四つの所信を書き記した。  第一は、「|巨額《きよがく》の税滞納」による村財政の危機を何とかしたい。そのために村職員に各戸をまわらせ、|徴税《ちようぜい》するとともに、各村民には納税義務の|再確認《さいかくにん》をはかることにした。  第二に、積雪寒冷地における|旧態依然《きゆうたいいぜん》の農業に「科学的改善」を加え、生産|基盤《きばん》の改良と増産態勢を確立する。また未開のまま放置されてきた胎内地区の開発をし、総合的な経済的|基礎《きそ》をつくるつもりだ。  第三は、「近隣|随一《ずいいち》の悪条件下にある」教育の|充実《じゆうじつ》と人材の養成をはかりたい。そのために|有為《ゆうい》な人材を国内外に送って、村発展の道を開くつもりである。  第四は「その他の|施策《しさく》」となっているが、ここでふたたび村財政の建てなおしの必要性を強調し、そのために村職員に対して当分のあいだ「月給の一部を寄付願う事」にしたと言い、各職員には「今日の苦難を明日の希望への|陣痛《じんつう》として|忍《しの》び、よく|御協力《ごきようりよく》頂きたいのであります」と結んでいる。これは職員にカツを入れ、村役場をエンジンにして村全体を動かしていく、という宣言だった。      *  こう所信を表明してからおよそ半世紀が過ぎた二〇〇三(平成十五)年、伊藤孝二郎はまだ村長をやっていた。三十一歳だった彼も、七十九歳になっていた。十二期、四十八年間の在職は、戦後の自治体の首長では最長|不倒《ふとう》の記録だった。  しかし、この年の六月二十三日、伊藤は体調|不振《ふしん》を理由に村議会議長に辞表を提出し、任期|途中《とちゆう》で村長を辞職した。それから一カ月後の七月二十八日、彼は自宅で静かに息を引き取った。  いま村の一角には|右腕《みぎうで》をあげて指差しながら、飯豊連峰を|仰《あお》ぎ|見《み》る彼の、まだ新しい等身大のブロンズ像が建っている。若いころの四角い、えらの張った|顎《あご》、太い|黒縁《くろぶち》のメガネの顔から、いくぶんほっそりとし、額が広くなって、細縁のメガネに変わった伊藤の、それでも|精悍《せいかん》な表情がよくとらえられている。  その|碑文《ひぶん》には、次のような|文言《もんごん》がある。 「(伊藤孝二郎は)不断の熱誠と|卓越《たくえつ》した識見をもって黒川村の|飛躍的《ひやくてき》発展にその|生涯《しようがい》を|尽《つ》くした」「多くの要職を歴任、|万般《ばんぱん》に|寸暇《すんか》を|惜《お》しんで|精魂《せいこん》を|傾《かたむ》けられた」「|先憂後楽《せんゆうこうらく》を信条としてノーブレス オブリージを行動の|規範《きはん》とされた」。その「|偉大《いだい》な御功績をたたえ、村民の総意により記念像を建立し、永く後世に伝え|顕彰《けんしよう》する」  上に立つ者は、それにふさわしい義務を果たさなければならない。人よりも先に|憂《うれ》え、人よりもあとで楽しむ者であるべきだ——とは、伊藤がみずから語っていたことであり、彼の唯一の著書『先憂後楽』(新潟日報事業社、二〇〇三年)の書名にもなっている。  多かれ少なかれ顕彰碑の碑文というものは、きれいごとになりがちである。だが、黒川村に行って村の過去や現在の話をしていると、多くの人が伊藤の偉大さを口にし、|喪失感《そうしつかん》の大きさを語って、やがて|唇《くちびる》を|噛《か》む場面を|目《ま》の当たりにする。あの人がいなければ、この村はまったくちがったものになっていただろう。あの人がいてくれたおかげで、この村はすっかり変わった……。碑文はかなりのところ村の人たちの気持ちを言い表わしている様子が見て取れるのだった。      *  亡くなる四年前、私は伊藤孝二郎に数回会って、話を聞いたことがある。  あるときは村営のホテルの、|暖炉《だんろ》を|焚《た》いたロビーで、別のときは厚く雪の降り積もった村営のスキー場で、またあるときは青々とした|芝生《しばふ》が目にまぶしい第三セクター経営のゴルフ場で、さらに別のときは胎内川の|涼風《りようふう》が吹きぬけていく村営の地ビール工場|兼《けん》レストランで。どの場合も、村の直営か村が主体となって経営する施設でだった。  現在の黒川村にはいたるところに村営施設がある。このほかにも村営そば屋、村営フラワーパーク、村営スポーツ施設、村営クアハウス、村営|釣《つ》り|堀《ぼり》、村営キャンプ場、村営|畜産《ちくさん》団地、村営ハム工場、村営ヨーグルト工場、村営|味噌《みそ》工場、村営肥料工場、村営ミネラルウォーター工場、村営天体観測施設があって、村営ホテルは四つも建っていて、村営の炭焼き小屋まである。貧しさと豪雪と出稼ぎの村はこの半世紀のあいだに、こうした数多くの村営施設を持つ村へと|変貌《へんぼう》していたのである。  まるで社会主義の村ですね、と私は軽口を|叩《たた》いた。彼が|左翼嫌《さよくぎら》いであることを聞き知っていたからだった。  伊藤はちょっとせっかちな口調で、しかし、|生真面目《きまじめ》にこう答えた。 「こんな|辺鄙《へんぴ》な村には|企業《きぎよう》はなかなかきてくれません。地元には資本がないし、コメづくりのほかには仕事もない。出稼ぎでやっと食べている村ですからね、放っておいたら、みんな外に出ていってしまう。実際、若者たちは『金の卵』だとおだてられて、どんどん集団就職していきました。私は高度経済成長という|魔物《まもの》から、村を守らなければならなかった。村役場がやらなければ、村がつぶれてしまうことはわかっていたんですよ。それにはどうすればいいか。一生懸命に考えてやっているうちにこうなった。黒川村では、これしかやりようがなかったと思いますよ」  魔物、というどぎつい言葉に私はハッとした。戦後生まれの私は何より高度経済成長期に育てられた子供だったし、六〇年代から七〇年代にかけてのあの|高揚《こうよう》した期間は、日本全体で見れば、その後の経済的発展の基礎を固めた時期として高く評価されている。多少|浮《うわ》ついていたことは私も知らないわけではないが、しかし、小さな村から見れば、あの高度成長期は自分たちに|襲《おそ》いかかり、|奪《うば》い、飲み込んでしまうモンスターだったのだ。  別のとき彼はこの村を、|帝国《ていこく》主義に|狙《ねら》われた弱小の植民地にたとえたこともある。いかにその魔手から小さな村を守るのか、それが課題だった、と。まるでそれは反植民地|闘争《とうそう》を|闘《たたか》い|抜《ぬ》いてきた左翼老闘士の口調だった。  いつしか私はこの村のことをもっとよく知ってみたい、と思うようになった。この半世紀の日本社会の|表舞台《おもてぶたい》とはちがうところで、彼や村の人たちは何を考え、どのように生き抜いてきたのか。そこにはもしかしたら、地域も世の中も変わらない、変えられないのだとあきらめている私たちを|揺《ゆ》さぶる何かがありそうな気がしたからだった。      *  伊藤村長が村の若者を集め、胎内地区に「青年の村」を建設するらしい、という話が広まったのは一九五九(昭和三十四)年のことだった。  すぐそばまで山が迫っている胎内地区は|起伏《きふく》も大きく、|傾斜《けいしや》が急だったから、|灌木《かんぼく》の|生《お》い|茂《しげ》った原野がほとんどそのまま残っていた。その胎内川の河岸段丘を開拓して田んぼを造成し、共同経営の大規模な機械化農業をめざす。そのために村内から若い入植希望者を|募集《ぼしゆう》するのだという。  このころ、日本の農村は根強い|封建《ほうけん》意識、|過剰《かじよう》な人口、衛生観念の低さ、人力にたよるきびしい労働など、たくさんの問題を|抱《かか》えていた。なかでも「次三男対策」は頭の痛い問題だった。長男が家と農業を|継《つ》ぐと、次男三男はあまってしまう。みんなが等分にわけて食べていけるほどの田畑は、ほとんどの農家が持っていなかった。他方、工業はまだ本格的に動きだしていなかったから、流通業や商業も未発達で、都市化も進んでいない。次男三男には行き場がなかった。  農村は自力で近代化に取り組まなければならなかったが、|旧弊《きゆうへい》からなかなか抜けだせない村にはそのための構想力もアイデアもカネもなく、何よりその担い手がいなかった。黒川村の青年の村事業はたんなる次三男対策であったばかりではなく、旧態依然の農村と農業を変え、次代を切り開く一大事業として構想されたのだった。  四人|兄弟《きようだい》の三番目に生まれた高橋|源三郎《げんざぶろう》は、このとき二十二歳。田植えが終わると、父親や兄らと山に入って木を切り、|窯《かま》に入れて炭を焼く。夏いっぱいをそうやって過ごし、秋の|穫《と》り|入《い》れを急いですませると、また山に行って、雪が降るまで炭焼きをする。ずっとそんな暮らしをつづけてきた彼も、そろそろ将来を考えないといけない年齢だった。 「新しく田んぼを開拓して、コメづくりをするという話だった。コメなら安定しているからいいだろと、最初はそんな簡単な気持ちだったですよ」  やがて村内の二十数名、十代から二十代の次三男|坊《ぼう》が集まってきて、胎内地区に近い集落の公会堂で合宿生活がはじまった。|自炊《じすい》しながら|寝泊《ねと》まりし、新しい時代の農業のあり方がどういうものか学ぶのである。足かけ三年の合宿は、けっして短くはなかった。  結局は十九歳から二十六歳までの、十人が残った。彼らに村の農業を変えていくパイオニアの役が|託《たく》されたのだ。高橋もその一人だった。 「伊藤村長は夜でも昼でもしょっちゅうやってきて、夢みたいなことをしゃべっていた。『|七桁《ななけた》農業』をやりたいんだと。年収百万円という意味ですよ。いまなら一千万円だ。機械化と共同作業の二本柱で、出稼ぎをしなくていい、ちゃんと食っていける農業をやる。そのために牛を百頭飼う、|椎茸《しいたけ》づくりもやる、と。そのうちに話はどんどん大きくなって、スキー場もやって、農業と観光を組み合わせた村にするんだと、それはすごい勢いで話していました」  信じましたか? 「信じるも信じないも……それができればすごいと思いましたが、そのころの村には小さい|耕耘機《こううんき》がちょこっと入ってきたくらいで、機械化なんて夢のまた夢だからねえ。だれも農業機械など、見たこともない。泥道ばっかりで、田んぼも曲がっていたり、小さかったりで、そこを牛と馬とクワで起こして、手で田植えをして、手で刈り取っていた。だけど、はじめちゃったんですよ。信じるしかないでしょう」  講師は村役場の職員、農協職員、農機具メーカーの技術者などだったが、彼らにしても農業の将来像については手探り状態だった。それまでどんぶり|勘定《かんじよう》でやってきた|百姓《ひやくしよう》仕事ではなく、収支を考えた農業にしなければいけないと、村の商工会から|簿記《ぼき》の専門家にもきてもらった。座学のあとは二、三人ずつ組んで、北海道や|茨城《いばらき》県の先進的な農家に行って、一カ月くらい泊めてもらい、乳牛の|乳搾《ちちしぼ》りや農業機械の|操作《そうさ》を勉強する。  高橋も長野県の農機具メーカーや実験農場に行き、何週間も泊まり込んで、トラクターの使い方と機械化農業の方法を習った。      *  これと|併行《へいこう》して、胎内川沿いの段丘を崩してたいらにし、十人が共同で働くための田んぼと村営住宅を建てる工事が進んでいた。  村長がどこかで話をつけてきたらしく、農林省(当時)の農用地開発機械公団から運転手ごと借りてきた大型ブルドーザーが、一枚が約三十アール、三十メートル×百メートルのきちっとした長方形の田んぼと、|幅《はば》六メートルの道路と、|U字溝《ユーじこう》を埋めた水路を次々とつくっていく。総面積は二十八ヘクタール。当時の黒川村では一戸当たりの平均耕作面積が一・三ヘクタールだったから、十人の若者たちはいっきに二十数戸分の田んぼをまかされることになった。 「すげえ田んぼだな、と思いましたよ。上の口から水を入れると、田んぼをぐるっとまわっているあいだに、水が|澄《す》んで、下の口から出ていくときは|透明《とうめい》になっている。それまでの|狭《せま》い田ではこうはいかない。わーっ、と思いました。あんなの見るのは、はじめてだったからねえ」  住宅は、田んぼから歩いて数分の高台を区画割りして建てられた。|一軒《いつけん》の敷地は百坪とちょっと(約三百五十平方メートル)。そこにこぢんまりした十坪(約三十三平方メートル)の木造の家がひとつずつ建った。台所と和室がふたつの、いわゆる2Kの家。広くはないが、重い屋根のついた、古く、|薄暗《うすぐら》い建物ばかりだった村では、「モダンな、立派な一戸建てでしたよ。これで|田舎《いなか》も都会にずいぶん近づいた、という気がしたな」と、高橋は言う。  十軒の家が並んだ地区に隣接して、「|知新寮《ちしんりよう》」という施設が建てられた。新しいことを知る、である。こここそ「共同」と「協同」と「共働」を理念に建設された青年の村の|中核《ちゆうかく》施設だった。知新寮は公会堂であり、教室であり、議論の場であり、作業場だった。共同作業の打ち合わせをし、役割を|振《ふ》り|分《わ》け、結果を報告しあう事務所だった。のちには村の小中学生の夏休み合宿に使われたりもした。  一九六一(昭和三十六)年、十人の青年たちは真新しい住宅に移り住み、翌年の春、集団作業で新しい田んぼに|苗《なえ》を植えた。近くの山中の村有地を借り、椎茸やナメコなどのキノコ|栽培《さいばい》もはじめた。もう少しあとになると、山の|裾野《すその》を牧草地にして、畜産もはじめた。  はじめての実りの秋、知新寮では十組の合同|結婚式《けつこんしき》が行なわれた。十人の若者たちはあっというまに二十人になり、青年の村は|若夫婦《わかふうふ》の村になり、やがて若い家族の村へと変わっていくことになった。  二十人はそれぞれ|水稲班《すいとうはん》、畜産班、畑作班、機械班、林産班などにわかれて各分野を取り仕切り、|忙《いそが》しい時期には所属を|超《こ》えて、みんながいっしょに働いた。収入は全体でプールし、必要経費や将来への|蓄《たくわ》えをのぞいて、当初は一戸当たり毎月七千五百円ずつ|支払《しはら》うという給料制だった。      * 「|面白《おもしろ》さとつらさが、半々だったかねえ」と高橋源三郎の妻、|末子《すえこ》が言った。  仕事が終わると、知新寮やだれかの家に集まって、みんなで酒を飲みながら話し込むのはしょっちゅうだった。結婚したばかりのころは、二十人がそろって日本海まで遊びにいき、|岩牡蠣《いわがき》やもずくを採って夏の一日を過ごしたこともある。キャンプに行って、雨にたたられ、夜中にあわてて帰ってきたのもいい思い出だった。  しかし、新しい村がスタートしたといっても、出稼ぎがなくなったわけではなかった。広々と、整然と並んだ田んぼは一見すばらしかったが、下流の黒川地区の田んぼにくらべると、三分の一のコメしかとれなかった。若者たちは|愕然《がくぜん》とした。  理由はすぐにわかった。奥深い山々を駆け下ってきた胎内川の雪解け水は、下流のそれより水温が三、四度は低い。新鮮な水はコメのうまさの条件ではあるが、それだけ水温が低いと、収量はがくっと落ちる。これはやってみて、はじめてわかることだった。  話がちがうじゃないか、と彼らは村職員に食ってかかり、またいらいらした気分は|仕事疲《しごとづか》れとかさなって仲間内でも|爆発《ばくはつ》し、ときには取っ組み合いの|喧嘩《けんか》にもなった。だが、くさっていてもはじまらない。最初の三年間の冬場、彼らのほとんどが家を閉め、出稼ぎに出た。  高橋は道路建設や下水道工事の|日雇《ひやと》い仕事で|埼玉《さいたま》県や群馬県に行った。そまつな飯場暮らしだった。妻もまた静岡県のミカン出荷場で選別作業をしたり、|缶詰《かんづめ》工場で働いた。もちろん同じ時期、ほかの集落からも百人、二百人の男たちが出稼ぎに行き、工事現場や自動車工場や製パン・|製菓《せいか》工場などで働いていた。  そこに月に一度くらい、村役場の職員が広報紙などを持って訪ねてきて、村の|近況《きんきよう》を伝えながら、元気でやっているか、賃金の不払いはないかなどと質問し、家族への伝言を|聴《き》き|取《と》っていく。これもまた出稼ぎの多い雪国ならではの、村職員の仕事だった。  そのうちにあちこちの家で子供が生まれると、彼らは小さな託児所を建て、共同保育をはじめた。母親になったからといって仕事を休むわけにはいかない。一時間半働いて、母乳をあたえるために託児所に飛んで帰り、また仕事にもどる。高橋夫婦もそんなあわただしさのなかで、二人の女の子を育てた。 「お乳をやりに行ってみると、赤ん坊が|蚊帳《かや》の外に出て、泣いていたりするでしょ。ちょっと|不憫《ふびん》になってねえ」  十坪の家には|風呂《ふろ》がなかった。かわりばんこに当番になって知新寮にあった共同浴場を|沸《わ》かして使っていたが、冬の|凍《い》てつく夜や大雪の晩に子供を連れて行くまでが大変で、また帰宅するまでにはせっかく暖まった体が冷えきってしまう。  仕事は大規模化して共同で、生活は各戸別々にといっても、どこで線を引くのか、そのために何が必要なのか。古い農村共同体で大胆にはじめられた青年の村建設は、それからいくつもの困難にぶつかることになった。      *  十人の若者たちが公会堂で寝泊まりしながら新しい農業について勉強しはじめたころ、|布川《ぬのかわ》陽一はブラジルにでも移民しようか、と夢のようなことを考えていた。まだ海外|渡航《とこう》が自由化されていないときだったから、移民がほとんど唯一の出口だった。農業の専門学校を出て、農業改良|普及員《ふきゆういん》にもなったが、いくら走りまわっても現実はそう簡単には変わらない。ちがう生き方をしてみたい、と二十代になったばかりの彼は思い詰めていた。  ある日、布川が伊藤村長に会ったとき、伊藤は意外なことを口にした。村が|推薦《すいせん》するから、ドイツに農業研修に行ってみないか。村長はそう言ったのである。期間は、往復の船旅も入れて一年半。このとき布川は役場の職員ではなかったが、帰ってきてから働いてくれればいい、と村長は言った。  布川はすぐにその気になった。あわててドイツ語を勉強し、ドイツの農業について調べたりしたが、よくわからない。だが、そんなことは気にならなかった。とにかくいきなり降ってきたチャンスで、外国に行けるのだ。村長に推薦してもらい、何十倍の競争率となった県と全国の試験を受けて合格した。  村の奥のほうで青年の村の田んぼと住宅が出来上がり、若者たちが移り住んだ一九六一(昭和三十六)年、布川は横浜港から客船に乗り込み、ベトナム、イラン、エジプトを経由して、三十五日後にフランスのマルセイユに上陸した。そこからさきは一人になって鉄道を乗り継いでドイツに入り、フランクフルトに近い片田舎まで行った。 「アウトバーンにびっくりしたし、女性がハンドルを|握《にぎ》って農業用トラクターを動かしているのにも|驚《おどろ》いた。同じ敗戦国なのに、どうしてこうもちがうのか。見るものすべてが驚きだった。ヨーロッパ全体は無理としても、ドイツという国を通じて、ヨーロッパの文化と日本の文化のちがい、向こうから学べることを自分なりに考えてみたいと思ったんですよ」  一ドルが三百六十円の時代、一円でも|無駄遣《むだづか》いはできなかった。いちばん安い列車やバスに乗り、紙切れ一枚に書きつけた住所をたよりに農業協同組合を訪ね、大中小それぞれの規模の農家で二、三カ月ずつ働いた。その間に著名な農学博士の|知己《ちき》を得て、彼が授業料を出してくれたおかげで、ドイツ語の学校にも通った。      *  このとき黒川村と布川が活用したのは、農林省の|外郭《がいかく》団体として一九五二(昭和二十七)年に設立された国際農友会の海外研修制度である。これは一九六六(昭和四十一)年に外務省|管轄《かんかつ》ではじまった派米短期農業労務者事業(派米短農)とともに、若い農業者に国際体験をさせることによって日本の農村の近代化をはかる活動を行なっていた。このふたつは一九八八(昭和六十三)年、社団法人国際農業者交流協会に統合され、国内の農業|後継者《こうけいしや》を外国に派遣したり、発展途上国の農業者を|迎《むか》え|入《い》れるなどの活動を現在に受け継いでいる。  事業がはじまった当初、応募者が|殺到《さつとう》した。語学と農業知識の試験があったが、県レベルの競争率はのきなみ百倍を超した。布川は「受験番号六十八」をいまでも覚えていた。彼だけがそこをパスし、全国試験に|臨《のぞ》んだ。結局、ドイツ、スイス、デンマークに派遣されたのは全国で九人だけだった。  昭和三十年代の十年間だけ行なわれた派米短農事業のほうは、アメリカの農場で二年間働いて百万円を貯めよう、ともっとストレートな目標を|掲《かか》げていた。都会のサラリーマン家庭が毎月三万円程度で暮らしていた時代の百万円である。外の世界を見てみたい、自分の可能性を試したい、手っ取り早くカネを稼いで、何か事業をやりたい……それらが|渾然《こんぜん》となって、敗戦から十年が過ぎたこの国のあちこちに|渦巻《うずま》いていた。  かつて私はこれらの活動をはじめた学者や役人や指導員を訪ね、またこれらの事業によって外国に行って働いた人たちの話を聞いてまわったことがある。彼らを受け入れたカリフォルニア州各地の農場を見て歩き、農場主たちの話も聞いていた。そこで印象深かったことは、どの話にも天と地ほどちがうふたつのトーンがあって、そのどちらもがこうした事業にそのまま流れ込んでいたということだった。  たとえば、これらの事業をはじめた当時のリーダーたちは、戦前と戦後の日本の農村について語った。  ——戦前、日本の農村は|娘《むすめ》たちを売り飛ばすほどに貧しく、|膨大《ぼうだい》な人口を抱えていた。そのはけ口を求めて中国を侵略し、満州国をつくり、たくさんの農民を|満蒙《まんもう》開拓団として送りだした。われわれの多くも開拓経験者だ。われわれは原野を開拓もしたが、多くの中国農民から土地を取り上げ、追いだしたりもした。|東亜《とうあ》の解放、五族協和と口にしながら、われわれは中国農民にやさしくなかった。その反省に立って、万国の農民同士の連帯をあらためて築きたいと考えたのだ……。  カリフォルニア州のレタス畑で働いた人々は、こんなふうに言った。  ——アメリカの農民といっしょに汗を流して働くと思っていたのに、行ってみたら密入国のメキシコ人しかいなかった。アメリカの農民は農民ではなく、資本主義農業の経営者で、エアコンのきいた事務所にこもって事務と計算ばかりやっていた。畑に|這《は》いつくばって働くおれたちの頭上を、田んぼに|籾《もみ》を|蒔《ま》く小型飛行機が飛んでいく。これじゃ日本の農業の参考にならなかった……。  しかし、そう言っていた彼らも帰国して何年かすると、|足腰《あしこし》が立たなくなるまで働かされ、仕切りもエアコンもない小屋で|震《ふる》えたり、うだった日々をなつかしみ、それに耐えた自分に自信を持つようになっていた。外国での農業研修は、むしろ農業とは直接かかわらないところで力になっているようだった。      *  ドイツから帰国した布川陽一は役場職員になった。青年の村に行ってみると、水温が低くてコメがとれない、と若者たちはいらだっていた。放っておけば、新しい村の構想自体がつぶれかねない険悪な|雰囲気《ふんいき》だった。  田んぼには胎内川から取りいれた水がじかに入るようになっていた。この水をいったん溜め池に入れ、数日間、日光で温めてから田んぼに入れればいい。しかし、そのためには取水口に近い田んぼを一枚つぶして、池にしなければならなかった。  その話を村長に持っていった。 「溜め池を村でつくってほしいと言ったら、『とんでもないっ』と|怒《おこ》られてね。何しろ食糧増産の時代だから、せっかくつくった田んぼをつぶすなんてもってのほかだった。こういうとき、伊藤村長は話だけじゃだめなんです。それで私はあちこちの田んぼを駆けまわって、水温と収量を|比較《ひかく》したり、冷たい水を何日溜めておけば、どれくらい水温が上がるかという資料をつくった。溜め池をつくって|迂回《うかい》させれば、五度上がることもわかったんです」  データを持っていくと、伊藤はうなずいて、それなら早くやれ、と今度はけしかける側にまわった。|理屈《りくつ》がとおって|納得《なつとく》すれば、彼の変わり身は早かった。かつて見習士官だったとき、軍隊も世の中も精神主義では動かない、データと数字が基本だと習ったことが役立った、と彼は語っていた。  その後、胎内のコメの収量は飛躍的にのびた。そこから上には人家も田畑もなかったから、清涼な水でつくられたコメは黒川地区のよりうまい、と評判になった。ようやく青年の村は|軌道《きどう》に乗って動きだそうとしていた。  三年が過ぎたころ、若者たちは本格的に乳牛を飼いはじめた。原野の雑木を自分たちで|切《き》り|倒《たお》し、となりの中条町の役場から借りてきたブルドーザーで整地した。雪が深いのでしっかりした牛舎がいる。業者にもきてもらって鉄骨の牛舎をみんなで建て、そこに十数頭の乳牛を入れた。  その晩、布川は高橋源三郎の家に泊めてもらった。起きてみると、あたり一面にもうれつな雪が降り積もっている。モダンな家は新しかったが、重い雪に|押《お》しつぶされないともかぎらない。どの家でも雪下ろしがはじまった。  各人の家の雪下ろしが終わってほっとしたとき、牛舎のほうですさまじい音がした。完成したばかりの牛舎がつぶれ、牛たちの鳴き叫ぶ声が聞こえた。やがて全部の牛が鼻輪を引きちぎって、雪の下から這いだしてきた。 「まさか鉄のものがつぶれるなんて、思ってもいなかった。そんなものですよ。われわれはみんな、シロウトだった。考えてみれば村づくりも全部、村長の号令に合わせて、シロウトが手探りでやったんです」      *  黒川村のシロウトたちがどたばたをくり返していた時期、一九六〇年代の日本は高度経済成長の階段を駆け上がりはじめていた。石炭から石油へのエネルギー|転換《てんかん》、鉄鋼産業の技術革新、化学産業の拡大を背景に、「三種の神器(電気|洗濯機《せんたくき》、電気冷蔵庫、白黒テレビ)」「新三種の神器(カラーテレビ、クーラー、カー)」などと|騒《さわ》がれる家庭の電化やマイカーのブームが、この十年ほどのあいだに矢継ぎ早にやってくる。  日本各地の臨海部に石油化学コンビナートや製鋼所や造船所が次々に建設され、そのまわりに都市が広がった。こうした激しい工業化と都市化によって、農業は主要産業の座から転落し、その就業人口は高度成長期の最初の五年間だけで、三百万人も減った。農村はいっきに過疎と農業後継者の不足と、やがて高齢化の問題に直面することになる。むろん黒川村も例外ではなかった。  となりの中条町では、一九五七(昭和三十二)年の天然ガスの発掘成功を機に、長い海岸線を利用した化学コンビナートが建設され、関連企業があいついで進出していた。地元に働く場がちゃんとできれば、時勢に応じて就業構造を変えながら市も町も村もやっていける。このころ日本中の自治体が企業|誘致《ゆうち》に|血眼《ちまなこ》になった。  だが、黒川村には何があるか。海にも面していない、山と豪雪と出稼ぎの寒村。|臭水《くそうず》は歴史的には価値があっても、産業的な意味はゼロに等しい。|喜怒哀楽《きどあいらく》をめったに表に出さなかった伊藤孝二郎だが、その著書にこう記した。 「やがて中条町に新設された工場群には、日が暮れると明々と灯がともるようになりました。黒川村役場の窓からこの夜景を望みながら、せん望で胸が|震《ふる》えなかったといったら、うそになるでしょう」  |疲弊《ひへい》し、世間から取り残される村の現実からどう抜けだすか、どうすれば抜けだせるのか。それが、以後、伊藤村長と村職員たちに重くのしかかる課題となった。      *  一九六二(昭和三十七)年の暮れから翌年にかけての冬は、いまも「サンパチ豪雪」という言葉が残っているくらい、すさまじい雪が降った。伊藤は身振りをまじえ、こう言った。 「交通が途絶するくらいの大雪でした。胎内あたりでは電柱が埋まって、頭がちょこっとしか出ていなかった。外に出ることもできませんでしたよ。ところが、男はほとんどが出稼ぎに行っていて、屋根から雪を下ろすこともできない。放っておけば、つぶれますからね、家が。とにかくこの村では、出稼ぎをしなくてもいい条件をつくりださないと、生活も成り立たないんです」  おまけにこの時期は、はじめてアジアで|開催《かいさい》されることになった東京オリンピックをひかえ、東京都心部をひっくり返すような工事が行なわれていた。高速道路、新幹線、空港モノレール、競技場施設と、どの工事現場でも出稼ぎ労働力をほしがったし、賃金もよかったから、男たちは次々と村を出ていった。その|留守《るす》を豪雪が襲ってきたのである。  となり町に天然ガスや海岸線があるなら、黒川村にはこの膨大な雪と山がある。山と雪を使ってできることといえば……。  新潟県の国鉄(現在はJR)上越線沿いには|妙高《みようこう》赤倉、|越後湯沢《えちごゆざわ》など、戦前から温泉とスキーとを組み合わせてお客を集めてきたスキー場があった。高度経済成長期になるとその近辺に次々に新しいスキー場がつくられ、折からのレジャーブームとマイカーブームにのって関東方面からのお客を|獲得《かくとく》することに成功していた。あちらでできるなら、こちらでもできないはずがない。  村の職員らが作業着になり、|地下足袋《じかたび》姿で青年の村に近い山の斜面に這いつくばって、木々を切り倒し、|滑降《かつこう》コースをつくり、ゲレンデを広げた。リフトは一基、小さな小屋のようなロッジが|一棟《ひとむね》。上越地域のきらびやかなスキー場にくらべれば、いかにも手作りの、ささやかなスキー場が出来上がった。  村営の胎内スキー場がオープンしたのは、一九六五(昭和四十)年の冬だった。      *  しかし、お客がきてくれるだろうか?  いくらスキー愛好者がふえているといっても、にぎわっているのは上越線沿いのスキー場だった。そこから黒川村までは、さらに列車で長岡市や新潟市を通過して中条町までと、よけいに百五十キロも乗らなければならない。中条駅で降りてバスに|乗《の》り|換《か》え、小一時間揺られないと胎内スキー場に到着しない。しかも着いたところは、リフト一本だけの|素朴《そぼく》なスキー場である。  もうひとつ、心配なことがあった。日本海に近い黒川村の雪は|湿気《しつけ》をふくんでいて、内陸にある上越地域の粉雪とちがい、さらさらしていない。神経質なスキーファンはこの|微妙《びみよう》な雪質のちがいを気にするかもしれない。よほど新しもの好き、めずらしもの好きでないと、ここまできてくれないだろう、きてもすぐに見放されるのではないだろうか。  だが、オープンしてすぐに、どちらもが|杞憂《きゆう》だったことがわかった。ひとつしかないコースもゲレンデも朝から晩まで若者たちや家族連れでごった返し、一本しかないリフトには長い行列ができた。  二十人、三十人の村の人たちが|駐車場《ちゆうしやじよう》で車の誘導をし、売店でチケットを売り、リフトを動かし、ロッジの食堂でお|汁粉《しるこ》やラーメンや|丼《どんぶり》ものをつくり、夜中は夜中で滑降コースやゲレンデを整備して働いた。高橋源三郎など青年の村の若者たちが出稼ぎをしなくなったのはこのときからだった。  伊藤は言った。 「押すな押すな、でした。人がこんなにスキーをやりたがっているとは、私も予想してなかったですよ。お客さんに『もっとコースがほしい』『ゲレンデを大きくしろ』『どうしてリフトが一本なんだ。待たされてかなわない』とさんざん言われました。一年目から、これはいける、と|手応《てごた》えを感じたんですね。そのためには、きてくれる人たちを待たせてはいけない、|飽《あ》きさせてはいけない。翌年、その翌年と、そのための工夫が必要になって、次々と施設をふやしていった。村で買い込んだ重機を使って、職員がひとつひとつつくっていきました。忙しくなったんですよ」  一方、スキー客がどこからきているのかを調べてみると、ほとんどが新潟市や|新発田《しばた》市などの|日帰《ひがえ》り|圏《けん》からだった。雪国といっても、この地域一帯にはスキー場がひとつもなかった。列車やバスでくる人も多かったが、マイカーを運転してくる人もいる。地方にもモータリゼーションの波が少しずつ押し寄せていた。  この人たちも、上越地域にあいついでオープンしたスキー場に行こうと思えば行けないことはなかった。だが、あちらは色とりどりのスキーウェアをまとった都会の若者たちが|滑《すべ》る、というより遊びまわるスキー場だった。その派手派手しさに、雪国の人たちは気おくれした。それよりは手作りの、小さな村営スキー場のほうが気安くていい。こんなところにも都市と地方の落差がのぞくのが高度成長期だった。 [#改ページ] ————————————————————————————  2 村が流された! ————————————————————————————  小さいながらもスキー場が|活況《かつきよう》を|呈《てい》し、青年たちの田んぼも実りをもたらすようになった。山あいの寒村にもようやく光が|射《さ》し|込《こ》んできた——と村の人たちは思った。  そこへ|襲《おそ》いかかってきたのが「ヨンイチ水害」と「ヨンニ水害」だった。一九六六(昭和四十一)年七月と翌六七(同四十二)年八月、黒川村は二年つづきで激しい集中|豪雨《ごうう》に|見舞《みま》われたのである。  最初の集中豪雨では、山間部に点在するいくつかの集落が背後の山々からあふれた|鉄砲水《てつぽうみず》に襲われ、|孤立《こりつ》した。橋も道路もあちこちで|破壊《はかい》された。|堤防《ていぼう》決壊を防ごうと働いていた村民の一人が流され、のちに遺体となって発見された。  |氾濫《はんらん》した|胎内川《たいないがわ》の|濁流《だくりゆう》は青年の村の田んぼ全部を|押《お》し|流《なが》していった。|穂《ほ》をつける寸前の青々とした田んぼは、どす黒い|泥《どろ》の下に|埋《う》まった。 「どしゃ降りなんていうものじゃなかった。裏の山は|崩《くず》れてくるし、手のつけようがなかった。見ていることしかできませんでしたよ。泥水に埋まった田んぼを見て、何年もがんばってきたことが、|冗談《じようだん》でなく、水の|泡《あわ》だ、と思ったね。もう|開墾《かいこん》なんかできない、やりたくもない。借金はふえていくばっかりだ。私が代表になって、一人で役場に行った。|伊藤《いとう》村長に『もうできません』と言いに」  高橋|源三郎《げんざぶろう》が着いたとき、役場のスピーカーから村長の声が聞こえてきた。だれかと電話で話している。相手の声も聞こえた。伊藤が「助けてくださいっ」と|叫《さけ》ぶようにしゃべっていた。 「|哀《あわ》れっていうんじゃないんだ。絶対に引かない、と必死というか、|強引《ごういん》な調子ですよ。相手は農林大臣だった。村長室から大臣に直接電話して、談判しているんだ。それをスピーカーで流して、職員に聞かせている。その勢いが並みじゃなかった」  村長室から出てきた伊藤は、高橋にこう言ったという。 「村長は『|大丈夫《だいじようぶ》だ、心配するな。あの田んぼはもっと立派にしてやる。|壊《こわ》れた道路も橋も前より立派にするんだ』と。おれも職員も、これでもうおしまいだ、と思っているときに、村長一人ですよ、がんばるんだと。あの様子はただごとじゃなかった」  伊藤は、歩くことを|趣味《しゆみ》のひとつにしていた。|飯豊連峰《いいでれんぽう》を歩き、|渓流《けいりゆう》に沿って歩き、村のなかを歩く。人家のある場所ばかりではなく、集落と集落のあいだ、田んぼのあぜ道、山に入って胎内川やその支流に沿って歩いてきたから、村の様子はこまかいところまで頭に入っている。豪雨で流された橋や道路の場所はすぐにわかったし、|危《あや》うく流されそうだったところも|思《おも》い|浮《う》かんだ。この機会に、|彼《かれ》はそれらすべてを改修しようと意気込んだ。  彼は私にもこう言っていた。 「復旧というのは、災害前の状態にもどすことでしょ。私は、それじゃだめだ、もう一度集中豪雨がきたら、同じ災害をくり返してしまう、と思った。そこで、『改良復旧』ということを考えついたんです。災害前より立派に、よくする。県にも、農林省や建設省(いずれも当時)にも改良復旧をしてもらいたいと、そう言ったんです」  こうして堤防や道路の改修工事がはじまった。堤防は前より高く、|頑丈《がんじよう》に築かれ、流された橋は以前より大きなコンクリート橋に|架《か》け|替《か》えられることになった。高橋らの田んぼにも何台ものブルドーザーがやってきて、ふたたび一からつくりなおすことになった。  しかし、どれも何カ月もかかる工事だった。やがて冬になって分厚く雪が積もれば、工事は中断する。青年の村の田んぼも、翌春の田植えにまにあったのは全体の三分の一だけだった。  それから夏がきて、前の年を上まわるヨンニ水害が襲ってきた。      *  黒川村の役場から胎内方面に向かう|途中《とちゆう》で左に曲がって、ところどころで|起伏《きふく》する道路を二キロばかり行ったところに、|下荒沢《しもあらさわ》という二十数|軒《けん》の集落がある。うしろには、さほど高くはないが、だらだらと上がっていく山がいくつもつらなっている。その山のふもとまで農道を一キロほど入っていくと、人家もなく静まりかえった林のなかに、地元の人たちが「お不動様」と呼ぶ|社《やしろ》が建っている。  もともとは生きながら|菩薩《ぼさつ》とあがめられた|奈良《なら》時代の|僧《そう》、|行基《ぎようき》がつくった|不動明王《ふどうみようおう》を本尊として|建立《こんりゆう》されたと伝えられるが、たびたびの火災に|遭《あ》い、現在の本堂は大正時代のはじめに建てられたという。かつて下荒沢集落は、この社の周囲に広がっていて、お不動様にまつわる|幾多《いくた》のエピソードを言い伝えてきたのだった。  たとえば一九三一(昭和六)年、集落に火事があったとき、実直な暮らしをしていた|重平《しげへい》さんの家だけは、なぜか類焼を|免《まぬか》れた。重平さん|夫婦《ふうふ》には子供がいなかったが、|道端《みちばた》に捨てられて泣いていた|赤《あか》ん|坊《ぼう》を|抱《だ》いて帰り、|重太《しげた》と名づけ、だいじに育ててきた。その善行を、お不動様は見ておられたのだろう。  重太は長じて大工になったが、体が弱く、毎日、お不動様の|掃《は》き|掃除《そうじ》をするのがせいぜいだった。ある晩、重太の|夢枕《ゆめまくら》にお不動様が立って、「おれの|境内《けいだい》の木を切って、家を建てるがよい」と告げたが、信心深い重太は|畏《おそ》れ多いと、あいかわらず親代わりの重平夫婦からゆずられたそまつな家に暮らしつづけた。  次にお不動様は村の長老の夢に現われて、「おまえが村人たちに|諮《はか》って、重太のために家を建ててやれ」と言った。長老らは相談し、みんなで重太に立派な家を建ててやりました……とさ。  もうひとつ、こんな話も伝わっている。お不動様の裏山に大人が五、六人も|座《すわ》れる|巨石《きよせき》があった。一九五九(昭和三十四)年、村の|奥《おく》のほうに青年の村がつくられるらしいという話が広まったころ、ここの集落の人たちはこの巨石を割ってお不動様の正面に石段を築こうと考え、石工を呼んできた。しかし、いくらやっても割れないので、石工は「こんな不思議な石は見たことがない」と投げだしてしまった。  そのとき村人たちが思い出したのは、その昔、日本海に沿った村々に|疫病《えきびよう》が|流行《はや》ったときのことだった。どんな|治療《ちりよう》も効果がなく、最後に|浜《はま》の人々は下荒沢までやってきて、お不動様におすがりしたところ、病に苦しんできた七百余人は一人残らず全快した。浜の人たちはお礼参りに、浜の小石に家名や自分の名前を書いてお不動様の境内に|石塚《いしづか》を積んだ。のちにその小石がくだんの巨石の下に埋められたのだという。  石工が、この石は割れない、と投げだした翌年、下荒沢の数人がどこからか|盲目《もうもく》の|占《うらな》い|師《し》を呼んできて、あれこれ占ってもらったことがある。占い師のまぶたに「|六部様《ろくぶさま》」が浮かんだ。六部とは、書写した|法華経《ほけきよう》を持って全国六十六カ所の|霊場《れいじよう》をめぐり歩く|行脚僧《あんぎやそう》のことで、当時のこの地方ではときどきその姿が見られたという。言われてみんなが思い出したのは、かつて下荒沢のある農家に十六年間も|居候《いそうろう》して、毎日、さきの巨石に座って|修行《しゆぎよう》していた人物がいたことだった。  六部様は占い師の口を通じて、あるとき願をかけて修行していたとき、東の空から|陽《ひ》が射し込んできて、そこにお不動様が現われた様子や、その|神々《こうごう》しいお姿を忘れられず、|二幅《にふく》の|掛軸《かけじく》に|描《えが》いたことなどを語った。探してみると、掛軸はたしかに二軒の農家の|仏壇《ぶつだん》に別々に現存していた。  六部様は占い師のまぶたから消え去る前、|不吉《ふきつ》な予言を口にしたという。 「下荒沢にはとても大きな災難がくるぞ」  それから七年が過ぎた。      *  一九六七(昭和四十二)年八月二十八日は月曜日だったが、村にはうきうきした気分が|漂《ただよ》っていた。秋祭りだった。秋祭りは本来なら、十一月に行なわれる。しかし、その時期はたくさんの男たちが|出稼《でかせ》ぎに行っているので、たいていの集落が八月末に秋祭りをすませることにしていた。  この日は、朝からもうれつな雨だった。村に近い周囲の山々には一日で三百数十ミリの雨が降った。奥胎内では局地的に六百四十八ミリを記録し、全体でも四百七十ミリを記録した。一年間に降る雨量の六分の一が、一日で降った。胎内川と中小の|河川《かせん》はいっきに増水した。夕方になると黒川村全体が停電し、電話も有線放送も使えなくなった。  このとき下荒沢の|長谷川千代乃《はせがわちよの》は四十代前半、|働《はたら》き|盛《ざか》りだった。お不動様のすぐ下にあった集落の|本家《ほんけ》に行って、秋祭りに集まってきた|親戚《しんせき》や|兄弟《きようだい》家族が酒を飲んだり、空を見上げて顔をしかめる様子を見ながら、台所仕事をしていた。このころはまだ|茅葺《かやぶ》きの家も多く、|瓦葺《かわらぶ》きの家でも台所は陽当たりの悪い北側にあって、じめじめと暗かった。  電話が不通になる前、|彼女《かのじよ》は村役場に電話し、 「お不動様のわきの川が、ゴーッと不気味な音をたてて流れ下っている」  と、伝えていた。|川幅《かわはば》が二メートルそこそこの、ふだんなら川底を水がちょろちょろ流れているだけの川だった。知らせを受けて、村の消防団が|駆《か》けつけた。 「ほりゃもう、空の低いところでカミナリがピカッと光って、すごい音で鳴るし、|怖《こわ》かったですよ」  まっ暗ななかで、消防団の男たちが|米俵《こめだわら》に土を|詰《つ》め、川沿いに土のうを築いた。少し下に|架《か》かっていた橋に流木がつかえ、あふれた濁流が二メートルの高さになった土のうを|乗《の》り|越《こ》えて押し寄せてきた。激しい流れのあいまに、ゴツッ、ゴツッと大きな石がぶつかって押し流されていく音が聞こえた。  夜八時過ぎ、あちこちから「助けてーっ」という声が聞こえはじめた。沢を下ってきた土石流が近所の家々を押し流したのだ。助けに行こうにも、表に出られなかった。彼女らがいた家にも水が流れ込み、それに交じって人の体や頭ほどもある石が次々に飛び込んでくる。|座敷《ざしき》は|一瞬《いつしゆん》にして、川になった。その場のみんなが二階に駆け上がった。  三十分も|経《た》たないうちに、家が|傾《かたむ》き、崩れてきた。みんなで外に飛びだした。まっ暗だった。そこらじゅうが|水浸《みずびた》しで、どこに激流が流れているのかわからない。いつどこで流れが変わって、濁流となって襲ってくるかもわからなかった。  |稲妻《いなずま》の光に浮かび上がった|杉《すぎ》の木に、赤ん坊を抱いた若い女性がしがみついていた。屋根に消防服の男をのせたまま、土蔵が崩れ、流れていく。|暗闇《くらやみ》のどこかで、牛が流されながら鳴き叫ぶ声も聞こえてきた。 「生きた|心地《ここち》がしなかった。ひでえ雨でさあ。しんどかったよねえ」  長谷川千代乃は四十年近く前の出来事を思い出して、|涙《なみだ》を浮かべた。あの晩、彼女は親戚の夫婦、その子供や孫、集落内の|近隣《きんりん》の人などいっぺんに十五人を失った。      *  黒川村誌はこう記している。 「集中豪雨は、|花崗岩帯《かこうがんたい》の|急斜面《きゆうしやめん》を|瀑布帯《ばくふたい》のようになって流下し、花崗岩風化表土層・半風化岩石・|崩土《ほうど》を、崩壊|剥離墜落《はくりついらく》させ|莫大《ばくだい》なエネルギーの土石流の現象を起こし、山腹|緩斜面及《かんしやめんおよ》び谷地に分布する村落を、一瞬にして流出|埋没《まいぼつ》したものである。この|未曾有《みぞう》の集中豪雨こそ、山崩発生の最も大きな要因であった」  もうじき八十|歳《さい》という千代乃おばあさんは言った。 「あの三年ばかり前に、新潟|地震《じしん》があったよねえ。このあたり、地震はたいしたことはなかったが、『あれでお不動様の裏の山がゆるんでいたのかもしれねえな』と、残った近所の人とよく話したですよ。豪雨で、ゆるんだ|土砂《どしや》が山から崩れ落ちて、土石流となって下荒沢を押し流したんだねえ」  ちなみに、「土石流」という言葉はこの黒川村の集中豪雨|被害《ひがい》以後に|一般化《いつぱんか》し、辞書にも|掲載《けいさい》されるようになった。  このときの黒川村全体の被害は、死者三十一名、家屋の全半壊百六十七戸、流失三十二戸、|床上浸水《ゆかうえしんすい》三百五十三戸、床下浸水五百四十三戸、田畑の流失三百七十四ヘクタール、|冠水《かんすい》四百三十ヘクタールで、被害総額は九十一億円にのぼった。  村の道路はあちこちで寸断され、橋は流され、田畑が埋まり、山林が崩れ落ちた。胎内川も暴れ、氾濫した。前年の集中豪雨を何倍も上まわる被害だった。「黒川村は|壊滅《かいめつ》の|惨状《さんじよう》に|陥《おちい》った」と、幾多の村の史料が形容している。  もっとも大きな被害を出した下荒沢では、人々が地面に座り込み、放心していた。やがて彼らは立ち上がり、棒を組んだ上にムシロでくるんだ遺体をのせ、|荒《あ》れ|狂《くる》った川の土手に運んで、|薪《まき》で焼いた。|煙《けむり》は何日も空にのぼりつづけた。その煙の下では、何十人もの村人たちが泥と大小さまざまの岩石で埋まった田んぼや道路を|掘《ほ》り|返《かえ》し、まだ見つからない遺体を探していた。|捜索《そうさく》活動は一カ月近くつづけられたが、とうとう幼児をふくめて七人の遺体は見つからないままだった。  千代乃おばあさんがつぶやいた。 「占いに出てきた六部様のお告げのとおりだった。だけども、六部様はどうして下荒沢がこんな大きな災難に|遇《あ》うのかおっしゃらなかった。どうしてだったのかねえ」      *  村の中心の黒川地区から胎内川に沿って胎内エリアに向かう中間地点に、「|樽《たる》ヶ|橋《はし》」という百メートル近いアーチ型の橋が架かっている。この橋も二度目の集中豪雨のとき、たもとの土手が大きくえぐられ、危険だというので、その後に場所をずらして架け替えられたものである。  このあたりでは両側から低い山が|迫《せま》り、胎内川はそのあいだを広くなったり、|狭《せま》くなったりしながらくねるように流れていく。河原には大きな川石が積み重なり、その上に年輪をかさねた松や|藤《ふじ》が|覆《おお》いかぶさっている。四季ごとに表情を変える一帯は、村内の景勝の地のひとつとされる。  樽ヶ橋を|渡《わた》った山の中腹に「|越後《えちご》胎内|観音《かんのん》」が建てられたのは、ヨンニ水害から三年後の一九七〇(昭和四十五)年のことだった。青銅製観音の高さ七・三メートルは日本一だ。そのまわりには木造六角形の|夢殿《ゆめどの》風建物「|帰林殿《きりんでん》」や|観世音《かんぜおん》菩薩なども建てられ、二度にわたる水害の「|殉難者《じゆんなんしや》の|冥福《めいふく》を|祈《いの》り、さらに災害の復興、国土の安全、将来の平和|繁栄《はんえい》を念ずる」一大ゾーンになっている。いずれも、村内外の寄付によって建てられたのだという。  胎内観音が完成した翌年、参拝客の一人が境内で子供の|野球帽《やきゆうぼう》ほどの石を見つけた。茶色や黒や白の模様のついた、丸っこい石である。胎内川が運んできたものらしかった。石の正面を見ると、そこに数センチ大の幼い女の子の上半身が浮かんでいた。お|雛様《ひなさま》のような顔を右に少し傾け、ふたつの細い目は|微笑《びしよう》しているようにも、|寂《さび》しそうにうつむいているようにも見える。茶色っぽい着物が胸のあたりまで見えている。 「水害にて命失えたる子等の霊現われたるものか、この霊石、この地に発見され、この帰林殿に納まる、全く|奇縁《きえん》と|云《い》うべし」と、胎内観音のパンフレットにある。いまその不思議な石は「童女石」と名づけられ、小さな|錦糸《きんし》の|座布団《ざぶとん》に|鎮座《ちんざ》し、ガラスケースに入れられて、帰林殿のまんなかに置かれている。      *  伊藤|孝二郎《こうじろう》が言った。 「二度の水害の前、私の頭のなかには|漠然《ばくぜん》と『ここの道路は|拡幅《かくふく》・|舗装《ほそう》して、こちらにつなげたい』『この河川の堤防は切れそうだから、何とかしたい』という図面があった。しかし、小さな村ですからね、実現するまでに百年かかるか、二百年かかるかというようなものだけれど、それがあるとないとではまったくちがった。最初の水害のときに私が『たんなる復旧ではなく、改良復旧をしてほしい』と政府や県に言えたのは、その図面が頭にあったからですよ。ところが、そのころの私は災害復旧の制度がどうなっているのか、全然知らなかった。私もわからないが、建設省や農林省や県でもよくわかっていなかったと思いますよ。|陳情《ちんじよう》に行くと、向こうから『こんな補助金の制度がある』『この制度の|解釈《かいしやく》をこう変えれば使えそうだ』と、いろいろ教えてくれる。私も勉強して、『こう解釈して、このおカネを使おう』と言う。一年かけて、おたがいにわかってきたところだった。それから次の年、もっと大きい水害がきたときは、両方がある程度、勉強できていたんです」  伊藤は被災地視察にきた政府要人や自民党幹事長や県知事をかき口説いた。なりふりなどかまっていられなかった、と伊藤は回想している。中央官庁にも県庁にも、何十回となく通った。  彼がとりわけ強調したことがふたつあった。  ひとつは、胎内川の治水だった。二度の水害は被災場所も態様も規模もそれぞれにちがったが、胎内川が氾濫したことは共通していた。奥胎内に治水と農業用水の供給を|兼《か》ねたダムを建設してほしい。  ふたつ目は、たくさんの|犠牲者《ぎせいしや》を出した集落の集団移転である。下荒沢はじめ十一の集落は、いつ土石流が起きてもおかしくない山を背負うように広がっていた。戸数はおよそ二百戸。それらを平地の、安全な場所に移転し、新しい集落をつくるための費用を何とかしてもらいたい。  このほかにも道路の拡幅や改修、|橋梁《きようりよう》の架け替え、田んぼや畑の修復、砂防ダムの建設など数々の要求があったが、その総額は百億円にものぼった。当時の村財政の十数年分に相当する巨額である。まさかこんな大がかりな要求はとおるまい、とだれもが考えた。しかし、事案のひとつひとつが裁可されていき、結局、ほぼその全額の財政|援助《えんじよ》が決まった。  政府が八十六億円を予算化し、県が事業主体となった胎内川ダムの建設はヨンニ水害の|爪痕《つめあと》も生々しいうちに奥胎内の現地調査がはじめられ、二年後に着工、八年後の一九七五(昭和五十)年、堤防の高さ九十三メートル、幅二百十五メートル、総貯水量千七百万立方メートルの大規模ダムが完成した。  十一集落二百戸の移転は、二度目の水害直後から村長と村職員が一軒一軒とその|避難先《ひなんさき》を訪ね、説得してまわって実現した。当時の総戸数の二割近い大がかりな移転だったが、惨状を|目《ま》の|当《あ》たりにしながらの説得は、大きな混乱もなく進んだ。人々は先祖伝来の土地を|離《はな》れ、山から一キロ前後離れたところに新しく建設された集落に移っていった。 「百億円を要求して、百億円の財政援助があるなどというのは、いまでは考えられないことですよ。それが実現したのは、景気がよかったからです。災害復旧だからと、国も県もカネを|惜《お》しまずに出してくれた。日本の経済はあのとき、高度成長期のまっ最中で、税収がどんどんふえていた。黒川村は幸運だったと思います」  伊藤はそうふり返ったが、こうつけ加えることも忘れなかった。 「ただ、だからといって|漫然《まんぜん》と陳情しても、一銭も出てきませんよ。私も勉強したし、国や県の職員も勉強していた。こちらが何をしたいかをはっきり打ちだし、向こうはどの制度を使えるかを提示して、おたがいが具体的に|噛《か》み|合《あ》わせることがだいじだった」  災害復旧という生々しい現実のなかで、伊藤はさまざまな財政支援や補助金制度を活用することによって村をつくりかえていく手法を学んだ。三十一歳で村長になってから十二年が過ぎていた。彼はこのとき、政府から村までの巨大な行政ピラミッドのなかでどこをどう押せば、どこの|扉《とびら》が開くのか、そのこじ開け方の|極意《ごくい》をつかんだにちがいなかった。      *  下荒沢集落では、古い杉林に囲まれたお不動様だけを残して、全戸が一キロほど下の平地に降りた。かつて集落があったところは、いま|竹藪《たけやぶ》と田んぼになっている。そこから細い山道を数百メートル上がると、高さ十二メートル、奥行き四十四メートルもの分厚いコンクリートの砂防ダムが山全体をせき止めるように築かれ、その下をさらさらと冷たい山水が流れだしている。あれ以来、この山は暴れていない。  集落移転のとき、かつてお不動様の|命《めい》で村の長老たちが建ててやったという重太の家も取り壊された。ほかの家が流されたり、埋まったりしたのに、その家はたいした被害もなく建っていた。  解体作業をした人たちは|驚《おどろ》いた。家は、太いナラの木にホゾやホゾ穴や|溝《みぞ》を刻んで組み合わせ、そこを|荒縄《あらなわ》で頑丈にしばって屋台骨を固定するなど、ほとんど|釘《くぎ》を使わないで建てられていたからだった。      *  村から生き物が消えた。たけだけしい水害は牛や馬やニワトリをさらっていき、犬や|猫《ねこ》を押し流し、川魚やチョウチョやトンボの生息場所を壊してしまった。それまではさして気にも留めていなかった生き物がいなくなってみると、|田舎《いなか》の景色は体温と息づかいを失って、死んだようになる。 「村長は『まず生きたものを見せなければいけない。生き物が元気に生きているところを見てもらわないと、村のみんなの元気が出てこない。何か考えろ』と言ったんですよ。村長が『何か考えろ』と言うときは、支出するだけじゃなくて、それできちんと|儲《もう》けなくちゃいけない、ということですからね。それで、私らもいろいろ考えて、ニジマスを飼うことにした」  そう言って、|布川《ぬのかわ》陽一はあきれたような顔をした。ニジマスなど、それまでだれも飼ったことがない。それでも手をつけ、さんざん苦労して実行してしまったことに自分でもあきれている、そんな表情を浮かべた。  二度目の水害では青年の村の田んぼは無事だった。胎内川から取り込んだ冷たい水を温める|溜《た》め|池《いけ》もちゃんと役立っている。そのとなりにニジマスを|孵化《ふか》させ、|養殖《ようしよく》する池をつくった。ニジマスは|摂氏《せつし》十度以下の水温で育てないと死んでしまうから、今度は地下から冷たい水を|汲《く》みあげるポンプ|施設《しせつ》が必要だった。  そこに十万|匹《びき》のニジマスを入れた。|透《す》き|通《とお》った水のなかを勢いよく泳ぎまわる大中小の魚を、大人も子供も見にきた。みんなが驚いたり、笑ったりする顔を見て、やってよかったと思ったという。  ところが、ある晩、ポンプが故障した。水温がじわじわと上がった。朝になって|連絡《れんらく》を受けた布川が駆けつけたとき、プカプカ苦しそうに浮いたニジマスの腹で、水面がまっ白になっている。ポンプはすぐには修理できそうになかった。このままでは十万匹が死んでしまう。彼は青年の村の高橋たちを呼び集め、もがいている魚を|網《あみ》ですくった。 「その場でも|知新寮《ちしんりよう》でも、次々に腹を|裂《さ》いていった。あちこちから|味噌《みそ》をかき集めて、|味噌漬《みそづ》けにしたり、塩をもみ込んで塩漬けにした。しかし、万単位ですよ。いくらやっても終わらないんですよ。昔、|養蚕《ようさん》をやっていたという集落に|頼《たの》んで、カイコの網を何十枚も持ってきてもらって干したりもした。だれも魚料理なんかやったことがない。味噌の加減、塩の加減だってカンだからね。だけど、やればできるものなんだねえ。もう何日やったかわからない」  数日後には足の|踏《ふ》み|場《ば》もないほどのニジマスの味噌漬け、塩漬け、干物ができた。だが、できたはいいが、これをどうするのか。自分たちでは食べきれないし、役場には店もなければ、|販路《はんろ》もない。  彼らはトラックに積んで、となり町の|中条町《なかじようまち》に行った。化学コンビナートや関連|企業《きぎよう》など高度経済成長期の花形産業でにぎわっていた町にはたくさんの社宅が並んでいる。そのひとつひとつをまわって、シロウト手作りのニジマスを売り歩いた。 「|鉢巻《はちま》きをしてね、『えーっ、ニジマスはいりませんか。おいしい味噌漬け、塩漬けのニジマス。手作りでーす』と。奥さんたちがよく買ってくれました。何度も行っているうちに、向こうから『魚屋さん、ひとつちょうだい』と声をかけてくれるようになった。私らが黒川村の職員だなんて、もちろん知っちゃいません。結局、最後までわからなかったんじゃないですか」  これに味をしめた布川たちは、冬場、今度は|活《い》きのいいニジマスをさばき、胎内スキー場に押し寄せてきたスキー客に販売しはじめた。味噌漬けも塩漬けも干物もつくった。何人もの村職員がそれらを持ち、ゲレンデや食堂の混雑のなかを大声で売り歩く姿に、お客たちははじめは|怪訝《けげん》そうな顔を向けたが、売れ行きはよかったという。 「必死というか、夢中だったんです。村の職員になったということは、何でもやる。休日なんか、なかったですよ。家に帰るのも、いつも真夜中だった。ほかの自治体のことは知りませんが、黒川村の職員は何でも、どんなことでも、二十四時間やる、ということでした」      *  一九六六(昭和四十一)年と六七(昭和四十二)年の二度におよんだ水害の改良復旧が一段落した一九七〇(昭和四十五)年、のちに伊藤村長が「飛び切りの情報」と呼んだニュースが飛び込んできた。二年後、昭和天皇と皇后の出席のもと、全国から二万人の関係者が参加する「全国植樹祭」が|新潟《にいがた》県で|開催《かいさい》される、というのである。  もともと植樹祭は第二次世界大戦中に|荒廃《こうはい》が進んだ森林を回復させ、国土緑化を進めるために、一九五〇(昭和二十五)年から年に一度、各県の持ちまわりで開かれてきた事業である。植樹祭それ自体は一日かぎりのイベントだが、主催県は植林場所となる市町村に特別費を投じて周辺道路や公園や各種施設を整備したり新設したりして、天皇・皇后や参加者を|迎《むか》える準備をする。選ばれた市町村にとっては全国的な注目が集まるというだけではなく、インフラ整備の面でもメリットの大きい事業だった。  しかも植樹祭の十年後には、皇太子を招いて、天皇が植えた樹木の枝打ちや手入れをする「全国育樹祭」が開催されることが|恒例《こうれい》とされ、こちらはこちらで何千人もの関係者が集まる大がかりな事業となっていた。  伊藤孝二郎は新潟県の主催が決まるとすぐ、わが村で開きたい、と積極的な|誘致《ゆうち》に動いた。会場候補地には青年の村やその田んぼとは胎内川をはさんで反対側、少し奥まった|丘陵地《きゆうりようち》を考えていた。場所選定の権限は県知事にある。もちろんほかの市町村も手を挙げていたが、伊藤の強みは水害復旧をめぐってすでに知事や県幹部と何度も|交渉《こうしよう》をかさねていたことだった。  彼は書いている。 「大水害に際して、中央からは政治家や|官僚《かんりよう》など、社会的に地位のある方々がたくさん黒川村へ視察にみえました。そして、その方たちから、『天皇|陛下《へいか》が二年続きの水害に、非常に心を痛めておられる』という話をたびたび耳にし」てきた。であれば、と彼は下見に|訪《おとず》れた知事らをかき口説いた。「水害から見事に立ち上がった黒川村を、両陛下からつぶさにご覧いただきたい」  各市町村との|競《せ》り|合《あ》いとなったが、水害を持ちだした開催理由が説得的だったのか、黒川村での開催は案外すんなり決まった。水害後の改良復旧に上乗せするように、今度は植樹祭関連の|環境《かんきよう》整備事業がはじまることになったのである。  それからの二年間、会場となった丘陵地の雑木が|伐採《ばつさい》され、村内を走る県道、村道、林道が舗装され、胎内川本流と支流の橋が新設あるいは改修され、|路肩《ろかた》や|側溝《そつこう》が整備され、道路に沿って花壇がつくられ……と、村のあちこちで工事がつづいた。村の中心の黒川地区と、ようやく青年の村やスキー場の開設で開けはじめた胎内エリアを結ぶ八キロの道路も拡幅・舗装され、村全体に一体感が生まれた。      *  植樹祭が開かれる数週間前の一九七二(昭和四十七)年四月、胎内観音が建つ樽ヶ橋エリアに、国民年金積立金からの|融資《ゆうし》を受けた「国民保養センターたいない」がオープンした。村ではじめての鉄筋三階建ての|宿泊《しゆくはく》施設で、なかには温泉浴場、ステージのついた和室|宴会場《えんかいじよう》、百名収容の|喫茶兼《きつさけん》レストランなどがあった。架け替えられた橋、観音像と付属の施設、それからこの保養センターがそろった樽ヶ橋周辺は以後、胎内エリアと並んで新しい黒川村を|象徴《しようちよう》する場所になっていく。  このとき調理場をまかされた坂上|恒雄《つねお》が言う。 「水害から立ち直った黒川村が新しい事業に取り組むんだ、という意気込みはあったけれども、どこへ向かうのか、まだ全然見えていない時期だった。機関車はできたが、そのさきのレールがないみたいなものです。私も若かったので、それならやってやろうじゃないか、と怖いもの知らずでしたよ」  坂上は十八歳のとき村を出て、新潟市内の大手|割烹《かつぽう》料理屋に五年間の修業に入った。年季が明け、もうじき親方になるというとき、知り合いを通じて黒川村役場に|引《ひ》き|抜《ぬ》かれたのである。仕事は道具をそろえ、食器を買い集めるところからはじまった。  冬はスキー客がくるのは|間違《まちが》いない。|泊《と》まり客もいれば、レストランで食事だけしていくお客もいる。紅葉や胎内観音の観光に貸切りバスの団体客もくるだろう。彼は和洋食と|麺類《めんるい》の調理場を、やはり村職員となった、料理などほとんどしたことのない六、七人の若者たちといっしょに切りまわすことになった。  コメはもちろん胎内米を使った。しかし、村内から野菜を調達するのはむずかしかった。村はもともとコメの単作地だったから野菜づくりを専業にする農家がなかったし、各農家でつくっている大根やニンジン、キュウリやナスは家で食べる分しかなく、量が|圧倒的《あつとうてき》に足りなかった。一生|懸命《けんめい》集めても採れる時期がかさなるので、同じものばかりになってしまう。結局、地元の八百屋や近隣の町の市場で仕入れるほかなかった。  坂上は特産品をつくろうと、野沢菜漬けを試してみたが、|湿気《しつけ》の多い気候のせいか、味も歯ごたえもよくなかった。|鮭《さけ》の|薄《うす》い切り身を|乾燥《かんそう》させて干物も試作してみたが、これも|乾《かわ》く前に|腐《くさ》ってしまった。結局、食べ物が気候風土に制約されるものであることを痛感して終わった。  村内から安定的に調達できそうなものといえば、ようやく|軌道《きどう》に乗りはじめた養殖ニジマスだけだった。彼は塩焼きのニジマスを|添《そ》えた弁当を名物にすることにした。ところが、観光シーズンがはじまったとたんに団体バスが次々やってきて、一日に四百人分もの弁当をつくらなければならなかった。当初はまさかそんなにお客が押し寄せるとは予想していなかったから、|食《た》べ|頃《ごろ》のニジマスはあっというまに底をついてしまった。  ニジマスが足りない。そう連絡を受けた村職員がトラックを飛ばし、遠くの養殖場まで仕入れにいく。あるとき荷台の|水槽《すいそう》にニジマスを入れてもどる途中、新潟市の|繁華街《はんかがい》の交差点で急ブレーキを|踏《ふ》んだ。水槽の水がぶわーっと飛びだして、トラックは水浸し。いっしょに飛びだした何百|匹《ぴき》ものニジマスが路上に散らばって、ぴちぴち|飛《と》び|跳《は》ねていたが、車が詰まった交差点では手の出しようがない。 「ははっ。もどってきたら、必要量の半分しかないんですよ。だが、|怒《おこ》ったり笑ったりしている|暇《ひま》もありませんでした。別の|献立《こんだて》を考えないと、もうそこまで観光バスがきているんですから。団体観光ブームのさなかですからね、追いかけられっぱなしでした」  日本国民の半数に当たる六千四百万の入場者を集めた|大阪《おおさか》万博から二年、日本中に旅行ブームが|渦巻《うずま》いていた。学生たちは安宿を泊まり歩く海外旅行に出かけ、大人たちは団体旅行に|殺到《さつとう》し、国内はもちろん、|欧米《おうべい》や|韓国《かんこく》、|香港《ホンコン》、東南アジアをせっかちに旅行して、短足とメガネ、カメラをぶら下げた日本人のイメージを|振《ふ》りまいていた。      *  植樹祭の当日、朝から降りつづいた|小雨《こさめ》が上がった。村の人たちは天皇・皇后の乗った車が通り抜ける沿道に並んだ。このころから|胎内平《たいないだいら》と呼ばれるようになった植林地には政府閣僚、県知事、国会・県会議員、外国大使、各省庁の官僚、農林業関係者など全国から二万人が集まった。  伊藤村長は車から降りた天皇を迎えた。  天皇と皇后はこの日、三本ずつの杉の|苗《なえ》を植えた。  その後、集まった二万人が流れる音楽に合わせて二万五千本の杉苗を植えた。  その光景は「まさに一大絵巻を|彷彿《ほうふつ》させるに十分でした」と、伊藤は書き残した。ここには七千人足らずの小さな村が、またその村長としての自分が一大事業をやり|遂《と》げた、という自負と自信がにじんでいる。  植樹祭が終わると、県からはその|跡地《あとち》整備事業や記念公園施設整備事業の補助金が交付され、村内にはテニスコート、サッカーやラグビーのできるグラウンド、遊歩道、ゴーカートコースなどが次々につくられた。  しかし、このとき伊藤の心中にはひとつ、無念の思いが残った。植樹祭を終えた天皇・皇后が早々に黒川村を立ち去ってしまったことである。 「村にはちゃんとしたホテルも旅館も……皇族方をお泊めできるような施設がありませんでしたからね」      *  村には|結婚式場《けつこんしきじよう》もなかった。|披露宴《ひろうえん》は新郎の実家でやるか、近隣の市や町のホテルの会場を借りるのが|普通《ふつう》だった。国民保養センターがオープンすると、年間二十から三十組の結婚式と披露宴の会場にも使われるようになった。  当時の村の人たちには|冠婚葬祭《かんこんそうさい》の「ご|馳走《ちそう》」についての、昔ながらの観念があった。式に招待され、帰りがけに派手な|風呂敷《ふろしき》に包まれた大きな折り詰めをもらって帰る。家にもどって開けると、焼いた|鯛《たい》や|揚《あ》げたエビ、野菜の|煮付《につ》けや厚い卵焼きやカマボコなどがぎっしり詰まっている。  保養センターの調理場をあずかっていた坂上恒雄が、ちょっと肩をすくめた。 「見た目は豪華なんです。しかし、味はどうかというと、そこらの仕出し屋さんの弁当ですから、たいしたことはない。でも、それがご馳走というものだ、というのが常識になっていた。私が修業したのはそういうものではなくて、ほんとうにおいしく、品がいい、いわゆる都会風の料理だったので、最初はどうしようかと|戸惑《とまど》いました。結婚式や法事が保養センターで行なわれるようになっても、村の人たちの意識はすぐには変わりませんからね。『あそこにはご馳走がない』と言われないように、少しずつミックスしたり、入れ替えていった。流れを変えるのに、そうですねえ……五年くらいかかりました」  そして、その変化の過程で、結婚式の料理は持ち帰るのではなく、披露宴やパーティーの場で食べ終えるものになっていた。こういう|微妙《びみよう》な習慣の変化にこそ、村の暮らしが変わりはじめるきざしが現われていた。のちに黒川村にはいくつも村営ホテルが建てられるが、そこに配属される調理人たちもまずこの保養センターで修業し、味を覚え、|腕《うで》を|磨《みが》いていくことになった。  現在、この国民保養センターは「国民宿舎胎内グランドホテル」と|名称《めいしよう》を変え、村の直営で営業をつづけている。三十数年前の建物はさすがに黒ずんできたが、そのかわりに近くにできたクアハウスや郷土文化伝習館などの村営施設にやってきたお客が気軽に立ち寄れる宿泊施設になっている。 [#改ページ] ————————————————————————————  3 豊かさの意味 ————————————————————————————  青年の村の田んぼを一望する草地に、「|拓魂《たくこん》」の筆文字を刻んだ|碑《ひ》がどっしりと|据《す》えられている。裏にまわると、|建立《こんりゆう》の由来を記した文章があって、その|末尾《まつび》に入植した十人の名前が並んでいる。昭和五十一(一九七六)年八月に建てられたとあるから、二十|歳《さい》だった若者も三十代なかば、もう|壮年《そうねん》の男たちだ。どの家でも子供が生まれ、かつてはモダンだった2Kの家も|手狭《てぜま》になっていた。  由来には「我々が心血を注いだ苦節十五年、ここに|伊藤《いとう》村長|殿《どの》をはじめ関係各位の絶大な協力|援助《えんじよ》を|賜《たまわ》ったことを感謝し、子孫末代まで川合開拓の歴史を伝えるためにこの碑を建立する」とある。一見、青年の村建設開始から二度の水害を|乗《の》り|越《こ》えて現在にいたった|経緯《けいい》を、十五年というきりのよい時期にふり返っただけのように読める。  しかし、この碑文には|食糧《しよくりよう》増産が|叫《さけ》ばれた時代に、共同と協同、それに共働という理念からはじまった青年の村が直面した大きな曲がり角がひそんでいた。  十人の若者たちが新しい田んぼに最初の田植えをした一九六二(昭和三十七)年、日本人一人ひとりは一年間に約百十八キロのコメを食べていた。あとで判明するのだが、この年が一人当たりのコメ消費量の戦後のピークだった。戦前はさらに多く、一九三四(昭和九)年から三八(昭和十三)年にかけては年間百三十五キロのコメを食べた、という記録が残っている。  ところが、一九六〇年代から七〇年代にかけて、日本人はだんだんコメを食べなくなった。朝食はパンになり、夕食のおかずも多様化して、ご飯ばかりを食べる食生活が変化したからだった。現在は一人当たり約六十キロと、六〇年代初頭のピーク時の半分しか食べていない。  他方で、生産技術の向上によって、一九六〇年代初頭には千二百万トン前後だった|収穫量《しゆうかくりよう》は、わずか数年後の六七(昭和四十二)年には二割増の千四百四十五万トンにはね上がった。当時は、生産されたコメ全部を政府が一定の価格で買い上げ、流通させる食糧管理制度があったから、この生産量の増大と消費量の減少から生まれた|余剰分《よじようぶん》は、そのまま政府財政の赤字になってしまう。  田んぼがあってもコメをつくらせない、という|減反《げんたん》政策が一九六九(昭和四十四)年に発動された。当初は全国一律に一割程度の減反だったが、やがてそれは二割、三割とふえていき、現在は全水田面積の四割近くでコメがつくられないまま、その多くが|荒《あ》れ|果《は》てたり、宅地などに転用されることになった。  こうした大きな変化のなかに、青年の村もあった。整備された広い田んぼを前にして、コメをつくれない時代がはじまっていた。だが、問題はそれだけではなかった。      *  高橋|源三郎《げんざぶろう》が|一瞬《いつしゆん》、遠くを見るような顔をした。 「自分で流した|汗《あせ》が、自分にもどってこない。要領のいい悪いもあるし、仕事の配分で楽な班と苦労する班の差が出てくる。個性もちがえば、欲望の中身もちがう、生活力の差もある。それでも大人はやっていけるかもしれんが、やがて子供が大きくなったとき、親の世代がはじめた共同労働に入ってこれるか、入るように強制できるかどうか、という問題もあった……人間というのは、むずかしいです」  ひとつの社会の生産手段を共有し、集団化する。そのことを通じて平等と|献身《けんしん》の気風を根づかせるという共産主義運動がぶつかった|壁《かべ》と同じ問題を、ずっと小規模ながら、青年の村も|抱《かか》え|込《こ》んでいた。このまま理念どおりに共同でやっていこう、という意見は仲間内からは出なかったという。  共有していた田んぼを平等にわけ、個々ばらばらに、つまりはほかの農家と同じようにやっていこう、ということで話し合いはまとまった。青年の村として|購入《こうにゆう》したトラクターなどの大型農機具は当面、たがいに|融通《ゆうずう》しあって使うが、新規に買うときは各戸で買う。|椎茸栽培《しいたけさいばい》などで使った山は、村に|返還《へんかん》する。牛の飼育をつづけたいという希望者はいなかったから、|畜産《ちくさん》部門は|閉鎖《へいさ》されることになった。  高橋はこのとき伊藤村長が口にしたことを、いまも覚えている。 「村長は『実験農場、モデル農場としての所期の目的は達成したな』と、案外あっさりしていましたよ」  彼らの共同の生活と作業の場になっていた|知新寮《ちしんりよう》は|取《と》り|壊《こわ》され、|跡地《あとち》はスキー客用の|駐車場《ちゆうしやじよう》になった。それから数年が過ぎた一九八三(昭和五十八)年、高橋は二十余年暮らした2Kの平屋を|瓦葺《かわらぶ》きの二階建ての家に|建《た》て|替《か》えた。入植した十人のなかではもっとも早い建て替えだったという。何年もしないうちにほとんどの家も新しくなり、かつての青年の村は|痕跡《こんせき》を消し、|普通《ふつう》の村の景色に|溶《と》け|込《こ》んでいった。  十人の名前を刻んだ拓魂の碑は、ちょうどその|転換期《てんかんき》に建立されたのだった。青年の村の理念と|実践《じつせん》がたしかにここに存在したのだと後世に伝えるランドマークとして、あるいは、その終わりを告げる墓標として。      *  青年の村の畜産部門がなくなると、伊藤村長は、畜産団地を建設して、牛や|豚《ぶた》を村で飼おう、と言いだした。減反政策が強まれば、コメ中心の村の農家が|行《ゆ》き|詰《づ》まることは目に見えている。気候からいっても、野菜などへの転作はすぐにはむずかしい。農業にもうひとつの柱をつくらなければ、という思いからだった。  当時の農林省も補助金を使ってコメ以外の農業を|振興《しんこう》させようとしていたが、その交付対象には|一般《いつぱん》農家が想定されていた。黒川村役場から、畜産に乗りだしたいという申し出を受けて、農林省の役人たちはしばらく頭を抱えたという。別段、補助対象から自治体を除外するという規定があるわけではないという|解釈《かいしやく》のもとで、ともあれ決着がついた。  一九七九(昭和五十四)年、|胎内《たいない》エリアのはずれに食肉用の|繁殖《はんしよく》牛舎三|棟《むね》、肥育牛舎五棟、|豚舎《とんしや》二棟の畜産団地が建てられた。すぐうしろに山の|迫《せま》るその地域には、かつて小さな集落があった。村人たちは二度の水害に|遭《あ》い、集落全体が移転したあとで、|更地《さらち》になっていた場所だった。  畜産団地では村採用の|獣医《じゆうい》や若手職員が食肉用の黒毛和牛の繁殖を行ない、産まれた|仔牛《こうし》を約八カ月間、体重が三百キロ近くなるまで育て、農家に|販売《はんばい》する。農家は生産者組合をつくり、同じ|敷地内《しきちない》の肥育牛舎に毎日通ってきて世話をし、およそ二年半をかけ、六百キロの成牛に育てあげる。仔牛|購入《こうにゆう》価格と成牛の販売価格との差額が、農家の収入になる。繁殖と肥育を分業するこの仕組みは、朝暗いうちから夜|遅《おそ》くまで「人の二倍働く」といわれる畜産農家の苦労を少しでも軽減し、畜産をさかんにしようと考えられたものだった。  牛舎ができると、さっそく|鹿児島《かごしま》県や島根県などで購入した五十頭のまっ黒な繁殖用和牛が導入された。農家は農家で、となりの肥育牛舎で若い牛の飼育をはじめた。事業はうまく|滑《すべ》りだした——かに見えた。      * 「ところがその五十頭が、ある晩、|脱走《だつそう》したんですよ。畜産団地がはじまって、一年くらいしたときだった」  布川陽一が笑った。彼は村長に言われ、畜産団地の計画段階からの現場責任者になっていた。いや、当時は笑いごとじゃないですよ、と苦笑しながら明かした二十数年前の|顛末《てんまつ》はこうである。  繁殖牛舎のなかで牛を囲い込んでおく|柵《さく》の|扉《とびら》がよく閉まっていなかったらしい。牛たちは勝手に夜中の散歩に出てしまった。職員はいないし、牛舎は人里|離《はな》れたところに建っているので、だれも気がつかなかった。  ぞろぞろと歩きはじめた牛たちは、どこからともなく|漂《ただよ》ってくるおいしい|匂《にお》いに|誘《さそ》われて、|隣接《りんせつ》する肥育牛舎までやってきた。そこには肥育の効果を上げるために少しずつ牛にあたえる|濃厚《のうこう》飼料のサイロがあった。サイロの口は、簡単なハンドル式になっている。そのハンドルを、牛の一頭が頭で|押《お》したか、角で引っかけたにちがいない。サイロに入っていた大量の濃厚飼料がどっと地面に落ちてきた。  ふだんの|粗食《そしよく》にくらべれば、これは最高級のご|馳走《ちそう》だった。それだけなら問題はないのだが、このご馳走はたくさん食べると、体内で急激にガス化して死にいたる、という危険な食べ物なのである。それを五十頭の牛が全部食べてしまった。  翌朝、布川や職員が行ってみると、すべての牛がお|腹《なか》をぱんぱんにふくらませて|眠《ねむ》り|込《こ》んでいた。まだ死んではいなかったが、|突《つつ》いても|叩《たた》いても目を覚まさない。あわてて飼料会社に処置方法をたずねたが、手の|施《ほどこ》しようがない、と言う。獣医は、|尖《とが》らせた|竹槍《たけやり》で一頭一頭の腹を|刺《さ》し、ガスを|抜《ぬ》くしかないかもしれない、と頭を抱えたが、それで助かる見込みがあるわけでもなかった。  布川は役場に行き、伊藤村長に報告した。畜産のプロジェクト全体がこれでつぶれるかもしれなかった。伊藤は手厳しく|叱《しか》ったが、だからといって事態は好転しない。布川はまた畜産団地に飛んで帰り、牛舎のなかをそわそわと歩きまわって、こんこんと眠りつづける一頭一頭の牛の腹をさすってやった。それしかできることがなかった。そうやって一日が過ぎ、二日が過ぎた。 「ずっと牛舎に|泊《と》まり|込《こ》みだった。もうだめだろう、と思っていました。しかし、ここまでやったんだから、死んでもしょうがないと思いながら、三日目の朝を|迎《むか》えたんです。牛舎の|隙間《すきま》から朝日がぱーっと|射《さ》し|込《こ》んできて、まわりが白っぽくなったなかで、一頭の牛が立ち上がったんですよ。わーっ、てなもんですよ。もう一頭も起き上がって、それから次から次に、五十頭の牛全部が目を覚ました。もう|奇跡《きせき》を見ているような……やっぱり神様っていうのはいるんだ、と」  これがいま、「胎内牛」というブランド名で販売され、村内のホテルやレストランのメニューにも|載《の》っている牛肉のはじまりのエピソードである。ちなみに、くだんのサイロのあった肥育牛舎で育てられた牛の一頭が、二〇〇三(平成十五)年の全国品評会で|最優秀賞《さいゆうしゆうしよう》を|獲得《かくとく》した。      *  この間にも、胎内スキー場はシーズンごとにリフトもコースもふえ、ゲレンデも広げられた。役場はチェーンソーや|草刈機《くさかりき》や重機を購入し、職員がひとつひとつ作業していった。大きな仕事になると商工観光課や農林水産課、あるいは建設課や生活|環境課《かんきようか》などの所属にかかわらず、作業着に着替えて働く。応援にきてくれた村人には日当を|払《はら》う。スキー場が大きくなり、お客がふえると、|雇用《こよう》の場も広がっていった。  一九七〇年代から八〇年代にかけての黒川村は、|豪雪《ごうせつ》と|出稼《でかせ》ぎの村から、雪が降るのを待ち望み、利用する「利雪」の村へと急速に変わっていった。それは村の|雰囲気《ふんいき》が明るくなった、ということでもあった。  村の人たちもスキーを楽しむようになった。それまで豪雪は|耐《た》えるものではあっても、遊ぶものではなかった。コースやゲレンデの整備で走りまわっているうちに、職員の多くもスキーに上達した。|彼《かれ》らは資格を取って、全日本スキー連盟|公認《こうにん》の胎内スキー学校インストラクターになった。これもまた村職員としての仕事だった。  伊藤|孝二郎《こうじろう》はこう言った。 「小中学生も滑りはじめて、すぐに上手になっていきましたね。スキーが好きになった子供たちは就職などで都会に出ていかずに、村で働く。村に定着する。|過疎《かそ》に歯止めがかかったんです。その子たちがいま大きくなって、役場に勤め、大きな力になっていますよ」  でも、スキーは冬場だけですね。 「そう。出稼ぎをしなくてもよくなったけれども、もう一方で減反政策があり、農業の機械化も進んでいましたから、あまり人間がいらなくなった。だから、通年雇用の場をつくってほしい、という要望が高まった。それが|宿泊施設《しゆくはくしせつ》を|拡充《かくじゆう》していくことにつながったのですよ。スキー客も利用するが、春夏秋の観光客も宿泊|滞在《たいざい》する。民間|企業《きぎよう》にきてくれといっても、どこもやってくれないから、村がやるしかない。他人様は遊びにくるが、地元の人にとっては働く場になりますから」      *  伊藤|和彦《かずひこ》は、子供のころから冬はスキー場で遊ぶのが当たり前で、スキー客がどっと押し寄せるのを見てきた最初の世代の一人だった。スキー場は年々大きくなっていたが、それでも三十分、一時間と待たないとリフトに乗れなかった。 「道路もスキー客の車が行列になっていて、何だかこの村はやたらお客が出入りする村だなと思ってました」  彼は一九八〇(昭和五十五)年に高校を卒業し、村の職員になった。入るなり、もう一人の職員といっしょに、県内|妙高《みようこう》高原にある赤倉温泉の高級リゾートホテルに六カ月間の研修に行け、と命じられた。そこの従業員寮で|寝泊《ねと》まりし、ホテルの仕事を勉強してこい、というのだった。  村長の伊藤は私にこう説明したことがある。 「公務員はサービス業だと、このごろはみんな言いますでしょ。しかし、ほんとうにサービス業をやったことのない公務員は、口ではそう言っても、実際はなかなかできません。お客に頭を下げたり、|膝《ひざ》をついてコーヒーやお酒を出したりなんて、すぐにはできないんです。お客はカネを払って、サービスを受けにくる。税金を払っている国民は、公務員のサービスを受ける権利がある。公務員がいばるなんて、とんでもない。だから私は民間の高級ホテルに|頼《たの》んで、その基本を教えてもらいたいと職員を研修に送り込んだんです」  伊藤和彦ははじめの三カ月間、フランス料理のレストランとバーに配属され、ウェイターとバーテンをやった。次の二カ月間は|清掃《せいそう》部門に移って、部屋の掃除やベッドメイキングを習い、最後の一カ月はフロントに立ち、チェックインやチェックアウト業務に|携《たずさ》わった。研修とはいえ、すべて現場スタッフと同じ仕事をして覚えていくオン・ザ・ジョブ・トレーニングだった。 「バーの遅番をまかされたときなんか、バーテンは私しかいない。カウンターのお客さんに『得意のカクテルは何?』なんて聞かれて、『じゃ、ギムレットをつくりましょうか』とか言って、ちょっと用事があるような顔をして|奥《おく》に行って、あわてて本を見て、つくり方を頭にたたき込んで、知らん顔してカウンターでつくるんですよ。『おっ、若いのに、うまいね。バーテン、何年やってるの』とお客が言うから、『あ、先週からです』。大笑いですよ。でも、お客とのうちとけたコミュニケーションほど大切なものはない。うちとけているから、相手が何を期待しているかがわかるし、無理なわがままを言うお客がいるときでも無礼にならないで、きちんと対応できる。そういうことを体で覚えさせられたんだと思いますよ」  給料は村から出ているので、受け入れたリゾートホテル側にしてみれば、ただ働きしてくれる従業員が二人ふえたようなものだった。みっちり仕込まれて、伊藤らは村に帰っていった。      *  このころ黒川村では、地上四階建て、地下一階の「胎内パークホテル」の建設が仕上げの段階に入っていた。村がはじめて取り組む本格的なリゾートホテルの建設だった。  和洋室は三十数室、収容人員は百六十名。レストランもバーも大広間もあって、胎内川河岸の|傾斜《けいしや》を|活《い》かして降りていく地下一階には、あらたに|掘《ほ》った温泉を使った大浴場と|露天風呂《ろてんぶろ》がある。尖った屋根は青みがかったグレー、壁は純白。どこかヨーロッパ風の建物は、周囲の深い|木立《こだち》に|埋《う》まり、その隙間から胎内川の|川面《かわも》を|眺《なが》めわたすように建てられていた。木立の|小径《こみち》を行くと、こぢんまりした茶室も建っている。対岸の左手にはスキー場が広がっている。  正面入口のプレートには「農林漁業体験実習館」「国民宿舎」とある。農水省の農業構造改善事業の補助金と国民年金積立金からの融資を受けて建設されたからである。ホテルの|名称《めいしよう》はついていたが、形式からいえば、都会の若者たちに村の仕事を体験する機会をあたえて理解を深めてもらう公共施設であり、また自然とのふれあいを目的に建てられた公共の宿のひとつということだった。  伊藤村長は言った。 「過疎に歯止めがかかったといっても、雇用対策はつづけてやっていかなければならないんです。それでも若い人は力もあるし、技術を身につけるのも早いから仕事を見つけやすいが、|中高齢者《ちゆうこうれいしや》は元気でも、村には職場がない。この問題の解決が、村の生活を豊かにする基本でもある。ホテルを建てれば、掃除やベッドをつくることや草むしりや、いろんな仕事がおのずとできてくる。雇用拡大型の施設のひとつとして考えたんです」  豊かさは、おカネの問題ばかりではないですね。農村の暮らしには自然とのつきあいのなかで生まれる豊かな面と、|因襲的《いんしゆうてき》な狭さや古さの両方がある。|瀟洒《しようしや》なホテルを村に建てることで、それを変えたいという思いもありました? 「実際、変わるんですよ。奥さんがホテルで働いているときにお客と言葉をかわせば、ふだんの|越後弁《えちごべん》から標準語に近い話し方になる。家に帰って、『こんなお客がいた』『こんな話をしていた』と話題にするでしょ。そうやっているうちに本人の関心も広がるし、家のなかの話題も変わってくる。ホテルの料理を見ていれば、『家でもこういうふうにつくってみようか』と、家庭の料理も変わる。戦後のいっときあった公民館運動的な社会教育にもなる」  ニジマスがある、畜産団地もできた、野菜はいまひとつとしても、胎内米もおいしくなった……こういう村の産物を加工し、調理して、商品としての付加価値をつける意味もありますね? 「それは、もちろんです。単品で終わっては、だめです。ひとつひとつがつながっていかないと、村全体が動かない。観光もそうです。スキー場をつくったから『はい、どうぞ』、ホテルを建てたので『はい、きてください』だけじゃだめなんです。それでは、村とお客とが切れてしまう。観光と農業を有機的に結びつける、それが|狙《ねら》いですから」      *  半年間の研修からもどった伊藤和彦たちは胎内パークホテルに配属され、十数人の村職員といっしょにオープンの準備をすることになった。まだ十八、九歳とはいえ、彼らがホテル運営の現場をいちばんよく知っている。お皿やグラス、|割箸《わりばし》やフォークを買い集め、どんな料理と飲み物を出すかを考えるのも彼らの仕事だった。 「公務員がやっている宿泊施設は、サービスも味も悪いと言われますよね。それを脱皮したい、というのがまずあった」  伊藤村長は毎日のようにやってきた。そのたびに出張先の東京や|新潟《にいがた》市のレストランなどで集めてきた店のパンフやメニューカードやペーパーナプキンを持ってくる。|箸袋《はしぶくろ》などは何枚あったかわからない。そこでまたひとしきり、これにしよう、ああいうデザインがいい、と夜遅くまで議論がつづいた。  国民保養センターで十年近く調理場を仕切ってきた坂上|恒雄《つねお》も、数人の若手を引き連れてこちらに移ってきて、和食メニューをそろえていった。全員が村で生まれ育った若者たちだった。  料理のひとつに、畜産団地で肥育された和牛を使ったステーキを出すことになった。洋食のコック長には、やはり村の出身で、東京の料理学校で勉強し、新潟市の|老舗《しにせ》ホテルのレストランでステーキを焼いていた人物を連れてきた。当然、彼も村の職員になった。  ずっとあとになってだが、私もそのコック長が焼いてくれる胎内牛のステーキを食べたことがある。テーブルのそばまで運ばれてきたワゴンから|炎《ほのお》がぼわっと|天井《てんじよう》近くまで上がって、肉の焼ける匂いが漂い、その向こうから彼が|手際《てぎわ》よく動かすナイフとフォークのふれあう|透明《とうめい》な金属音が|響《ひび》いてくる。いわゆる公共の宿の夕食とは思えない光景だった。  公務員がステーキを焼いてくれる、というのは何となくぴんとこないなあ。そんなふうに茶々を入れると、彼は|真面目《まじめ》な口調で答えた。 「立場は公務員かもしれませんが、町場のレストランの職人さんと同じ気持ちでやっていますから。職人として、できるかぎりのことはやっています」  これはさらにあとのことだが、このときのコック長はその後若くして|亡《な》くなり、彼の手ほどきを受けた村の若者たちが調理人として成長していくことになる。      *  胎内パークホテルがオープンした一九八〇(昭和五十五)年、黒川村にやってくる観光客数がはじめて年間五十万人を|超《こ》えた。その多くが冬場のスキー客だったが、従来からの国民保養センターに加えて本格的なリゾートホテルが建ったことで、温泉目当ての滞在客を四季を通じて集めることができるようになった。  八〇年代は、言うまでもなく日本社会全体が「バブル経済」に向かって助走し、後半の四、五年間にいっきに|沸騰《ふつとう》した十年間だった。バブルは土地や株からはじまって貴金属や絵画など、さまざまな資産の価値が実態以上に値上がりし、さらなる高騰を期待した投機が一般化して社会が|狂騒《きようそう》状態になる現象をいう。狭くは経済現象だが、自分の手もとの資産を二倍、三倍だと|錯覚《さつかく》して自己過信に|陥《おちい》り、尊大になるという意味では、かなりみっともないものだったが、きわめて人間的な現象でもあった。  そうした日本人を受け入れる|海浜《かいひん》リゾートが東南アジアや南太平洋の島々にいくつもできた。パリでもニューヨークでも、高級ブランド品が安い、と買い歩く団体ツアーの日本人がたくさんいた。敗戦から四十余年が過ぎていた。高度経済成長を経て、ハイテクと国際化をスローガンに世界中に「メイド・イン・ジャパン」の製品を売り込み、経済大国化を実現してきた多くの日本人は自信を持ちたがっていた。  この時期、黒川村にやってくる観光客の数も|飛躍的《ひやくてき》にのびていった。年間五十万人の翌年には六十万人に迫り、七十万人、八十万人とふえていき、一九八七(昭和六十二)年にはとうとう九十万人を超えた。このころから黒川村は一村で、新潟県の昔からの観光スポット、|佐渡島《さどがしま》とほぼ同じ数のお客を集める観光地になっていく。  一九八一(昭和五十六)年、パークホテルに隣接するように村営の手打ちそば|処《どころ》「みゆき|庵《あん》」ができた。  一九八五(昭和六十)年、黒川エリアでは、日本最古の原油|湧出地《ゆうしゆつち》であることを示すシンクルトン記念公園がつくられた。  一九八七(昭和六十二)年、胎内パークホテルにとなり合って、地上五階建て、地下一階で、収容人員百名の「ニュー胎内パークホテル」が建設された。  一九八八(昭和六十三)年、ふたつのホテルが並んだ胎内川の対岸の|段丘《だんきゆう》に「農畜産物加工施設」が建てられ、畜産団地で飼育される黒豚を使ってハムやソーセージの製造がはじまった。また村内農家がコメからの転作で植えた|大豆《だいず》を使い、|味噌《みそ》もつくられるようになった。  一九八九(平成元)年、その加工施設で製造された品々を販売する「地域活性化センター」が同じ敷地内に建てられた。  一九九〇(平成二)年、これら加工施設や地域活性化センターから一段下がった胎内川沿いに、ニジマスの|釣《つ》り|堀《ぼり》「胎内フィッシングパーク」ができた。  その多くが農業構造改善事業や観光施設整備事業、山村地域資源高度活用モデル|促進《そくしん》事業など、農水省や県などからの補助金をもとに、村が独自に立案・設計した施設である。 [#改ページ] ————————————————————————————  4 「|魔物《まもの》」から村を守る ————————————————————————————  片野|徳蔵《とくぞう》は|伊藤孝二郎《いとうこうじろう》の三つ年下で、若いころは同じ農林学校に列車通学していたこともある。青年の村がはじまったときは十人の若者たちといっしょに|寝泊《ねと》まりし、ひとまわり年上の世話役として活動した。のちに|彼《かれ》らが青年の村に幕を下ろしたとき、|拓魂《たくこん》の|碑《ひ》に伊藤村長らとともに名前を刻んで感謝の念を表わした人物の一人である。  片野はまた一九七八(昭和五十三)年から十二年間、つまり|畜産《ちくさん》団地が建設されたころから、ふたつのリゾートホテルやそば|処《どころ》や農畜産物加工|施設《しせつ》や|釣《つ》り|堀《ぼり》などが次々につくられていった時期に、助役として伊藤村政を支えてきた。  その助役時代のある日、彼は伊藤に、|新潟《にいがた》駅まで行って、ある人物を見送ってほしい、と言われた。 「どの県庁にも、中央官庁から若い出向者がきていますでしょう。二、三年いて、地方のことを勉強して、それから本庁にもどって仕事をして、だんだん出世していく役人です。伊藤村長はこういう出向者をほんとうにだいじにしていました。スキーや山登りに|誘《さそ》ったり、野鳥の声を|聴《き》く会に招いたりする。われわれは知らなかったですが、出向者が東京にもどるとき、村長は必ず新潟駅まで見送りにいっていたんですよ。しかし、あのときはどうしても村長の日程のやりくりができなくて、助役の私に『行け』と。私は村長の|名刺《めいし》を持って、行きましたよ。ホームには県庁職員がたくさんきていましたが、市町村長は一人もいませんでした。私は|人込《ひとご》みをかきわけてその人のところに行って、『黒川村の伊藤村長の代理でお見送りに参りました』と|挨拶《あいさつ》したんです。あのとき、ああ、伊藤村長はこうやってまで中央官庁とのつながりをつくってきたのか、こまかい気配りをしてきたんだな、と実感したものです」  伊藤は全国の市町村長の会議などで|頻繁《ひんぱん》に東京に出張した。行くと、農水省(農林省)、国土交通省(建設省)などに必ず寄って、村政に関連する各部の部長、課長から係長クラスにまで挨拶してまわった。新潟県庁に行っても、必ず同じことをした。もちろんただの挨拶ではなかった。 「国でも県でも課長や係長クラスがだいじなんですよ。彼らは二、三年後に動きだす制度や補助事業の案を温めて、立案している。村長は立ち話しながら、次の|過疎《かそ》対策や山村|振興策《しんこうさく》や農業振興策がどうなりそうかキャッチしてくる。役場に帰ってきて、『補助金、次はこんなのがありそうだぞ』と言って、われわれに新事業を考えさせるわけです。『新しい制度ができたら、黒川村が最初に利用するんだ』と、そういう体制を伊藤村長はつくり上げたんです」  これこそヨンイチ、ヨンニ水害の改良復旧のなかで、|巨大《きよだい》な行政組織のどのボタンを、どう|押《お》せば、どこの|扉《とびら》をこじ開けることができるのか、そのコツを学んだ伊藤孝二郎の|面目《めんぼく》というものだった。伊藤自身も次のように書いている。 「補助金制度は町や村を振興させる目的でつくられた制度です。したがって、その制度を大いに活用して黒川村を発展させることは、私が果たさなければならない義務です。(中略)しかし、補助金で事業を実現させようとするには、国や県に|陳情《ちんじよう》して相手を|納得《なつとく》させるだけの能力が必要です。|俗《ぞく》に言う政治|手腕《しゆわん》というものです。ほかに国や県との間に通じる太いパイプがあれば、さらに有利に事が運びます」      *  伊藤孝二郎が東京に出張すると、ときどき一人で出かける場所があった。千葉県|浦安《うらやす》市の|埋立《うめた》て|地《ち》に広がるエンターテインメント施設、東京ディズニーランドである。一九八三(昭和五十八)年の開園以来、彼は半年に一度、少なくとも一年に一度は|訪《おとず》れていた。毎年千数百万人が入場するとはいえ、そろそろ老人の域に入った男が一人でこの巨大遊園地にやってきて、あちこち歩きまわる姿はやはりめずらしい。 「行くたびに、何かが変わっているんです。乗り物や建物が変わったり、出し物や演出が変わっている。少し変えるだけで、一度きた人が、また行ってみよう、とリピーターになっていく。あのやり方は、われわれが観光に力を入れる以上、勉強しなくちゃいけない。だから、今年はスキー場を拡張するおカネも|暇《ひま》もないなら、せめてリフトの支柱のペンキだけでも|塗《ぬ》り|替《か》えておけと、そう言うんです」      *  東京ディズニーランドがオープンしたのと同じ年、黒川村が建てた小さな施設がある。丸太を組み合わせて急角度に|尖《とが》らせた三角形の屋根の家はおとぎの国にあってもおかしくなかったが、こちらはパークホテルに入っていく道路のわきにぽつんと建っていた。村営の炭焼き小屋だった。  担当した坂上|敏衛《としえい》が言った。 「炭焼きは、昔はこの村の仕事のひとつだったけれども、このころになるともうそういう仕事をする人はいなくなっていた。ところが、もう一方で、いろんな屋外施設ができましたし、ホテルにはお茶室もある。夏になるとキャンプにくる若い人や家族連れもたくさんいて、村のニジマスや牛肉をバーベキューにしたいという。炭の|需要《じゆよう》が高まっているのに、供給がない。だったら村で炭焼きをしようということになったんです」  しかし、坂上自身がこのとき二十四|歳《さい》、炭焼きなどまったくしたことがない。長年の経験者を村内で探せば、もう七十歳以上になっている。そういうベテランにきてもらって、一から教わることになった。  何しろ村の八割以上が山林だから、材料となるナラなどの広葉樹は捨てるほどある。造林のために|伐採《ばつさい》した雑木を運んできて、適当な長さに切り、|窯《かま》のなかにうまく空気がまわるように積み上げていく。  炭には、すぐ火はつくが、|燃《も》え|尽《つ》きるのも早い「黒炭」と、火はつきにくいが、長持ちする「白炭」の二種類がある。どちらも材料や窯で焼くことはいっしょだが、火の消し方がちがう。黒炭は、窯に送る空気を止めて二、三日放置し、窯が自然に冷めるのを待ち、白炭の場合は、窯を開け、燃えさかっている材料の上に準備しておいた灰をかけて、急激に冷ましてしまう。 「いつ空気を止めるのか、どのタイミングで灰をかけるのか、コツですからね。夜中に行ってみたり、小屋に|泊《と》まり|込《こ》んだりですよ」  この仕事をやる前、坂上はやはり村が開設した「授産センター」を四年間担当した。ニット製品を編んだり、|洋傘《ようがさ》の部品を組み立てたりという仕事を職員が探してきて、|農閑期《のうかんき》の主婦たちに働く場を提供する。農家の現金収入を少しでもふやすのが目的だったが、この施設は、彼が村営の炭焼き小屋で働いているあいだに|閉鎖《へいさ》された。  男たちの炭焼きと、女たちの内職のような仕事。かつて村の人たちの暮らしを支えてきた労働の景色が、このころどんどん遠ざかっていった。村が炭焼き小屋を建てること自体に、時代の変わり目が刻まれていた。      *  毎年のように何かの施設ができ、村がざわついたり、ばたばたしはじめた一九八四(昭和五十九)年春、伊藤|和彦《かずひこ》はそこから|抜《ぬ》けだすようにスイスに向かった。役場に入って四年が過ぎていた。民間リゾートホテルでの研修。|胎内《たいない》パークホテルではバーの仕事、|掃除《そうじ》やベッドメイキングやフロント業務と何でもやり、その後は一転して税務部門に移って働いたこともある。役場職員としての仕事に慣れてきたときだった。  黒川村では、一九六一(昭和三十六)年の|布川《ぬのかわ》陽一のドイツ行き以来、国際農友会(のちには国際農業者交流協会)の海外研修制度を利用して役場の若手職員を外国に送りだす事業をつづけていた。県や全国レベルでの試験ではねられることもあったので、毎年とはいかなかったが、伊藤がちょうど十人目の研修生となった。  彼はベルン州の、人口わずか五百人という村の|酪農家《らくのうか》の家にホームステイし、五百三十頭の|豚《ぶた》と二十頭の乳牛の世話をした。草を|刈《か》って|乾草《かんそう》をつくったり、山の木を切ってきて|薪割《まきわ》りをするのも仕事のうちだった。冬には雪かきがあった。またスイスのスキー場の|宿泊《しゆくはく》事情を知りたいと考え、自分で探してきたペンションで働いたこともある。どちらでも仕事はきつかった。 「スイスは観光の国であると同時に、自給自足の農業国でもあるんですよ。農業者の地位が高いのが印象的だった。この風光|明媚《めいび》な国を整備しているのは農業なんだ、という意識が|浸透《しんとう》している。農業は単純な|世襲《せしゆう》ではなくて、わが子にゆずるときでも、親は何千万円かで畑や家畜や設備を売る|契約《けいやく》を|交《か》わす。そういうところに農家にも経営センスが必要だという意識が育つ|基盤《きばん》がある。私が世話になった農家では、|奥《おく》さんも家計のマイスターの資格を持っていた」  彼は毎晩、寝る前にくわしい日記をつけた。日本人と会うこともないので、これは自分との対話のようなものだった。しかし、こうした思考や見聞や実習が、黒川村にもどったとき、すぐに何かの役に立つとは考えていなかった、という。言葉や習慣のちがいに苦労し、ひとつひとつの意味を考えながら、異文化のなかで一年間暮らす経験自体に意味がある。 「実際に行ってみると、一年間なんてあっというまですよ。その間に自分で課題を見つけださないといけない。多少のことではくじけない。それは自信になりましたね」  村長の伊藤の|狙《ねら》いもそこにあった。彼自身、戦争末期の学徒動員だったが、旧満州(中国東北地方)に一年間いて、敗戦の混乱のなか、|朝鮮《ちようせん》半島を|逃《に》げるようにして復員してきた。その|途中《とちゆう》で、世界にはさまざまな現実と価値観があることに気づいた、と語っていた。そうした体験と見聞を通じて、人は|鍛《きた》えられることがある。      *  その初代経験者の布川陽一は、あいかわらず苦労していた。 「力のある村長の下で働くと、大変ですよ。こちらからは『それはできません。不可能です』なんて言えないっていうことですからね。そば処でも農畜産物加工施設でも、村で何かつくりたいというと、われわれ事務屋は国や県のいろんな補助事業の書類をひっくり返して、何かに|該当《がいとう》しないか、ここの表現をちょっと変えれば、こちらの補助制度にかするんじゃないかと一生|懸命《けんめい》探す。何とか修正して、制度の上にのっけるんです。それが仕事ですから」  昼間の仕事が終わって役場が静かになる夜十時か十一時過ぎ、その場に残っていた職員たちが集まって白い紙を広げる。だれかが図面を|描《か》きはじめる。水をここに流そう、道路はこちらがいい、こんな施設はどうか……。 「とにかく図面を描く。どんどん構想を広げて、最大限役立つように考える。ひとつの施設がひとつの補助金でできるなんてことは考えてませんから。この部分はこの補助金で、こっちはこの補助制度を使おう、と。相手が国だろうが県だろうが、こちらは絶対に、確実にとおすつもりですからね、|知恵《ちえ》くらべですよ」  農水省がコメの転作を|強硬《きようこう》に言ってくる。じゃ、農家にはそばを植えてもらい、それを村で買い上げ、村営のそば屋をやろう、となった。それが農業構造改善事業の補助金を受けた手打ちそば処のみゆき|庵《あん》になっていくのだが、ただのそば屋では|面白《おもしろ》くない。図面を描いているうちに、入口に、人の|背丈《せたけ》以上もある水車を取りつけようという話が飛びだした。いかにも|田舎《いなか》の手打ちそば屋に見せかけるための|装飾《そうしよく》である。だが、そんなものに補助金がつくとは思えないし、ついたとしても、|無駄遣《むだづか》いと批判されるだろう。  では、|飾《かざ》りではなく、本物の水車にしたらどうか。川の水を引いて水車を動かし、それで本格的にそば粉をひいたり、こねればいい。しかし、その装置全体の建築費用は、農業構造改善事業からはもらえそうもなかった。すると、だれかが、省エネルギーの補助事業があったんじゃないか、と思いつく。電気モーターを使わずに、水力で水車をまわすのだから、これは省エネだろう。よし、それでいこうっ……。そうやってまとめていった中身を、朝までかかって|申請《しんせい》書類に書き込んでいく。  勢い込んでそばづくりがはじまったが、村ではそばの|栽培《さいばい》や刈り入れはだれもやったことがなかった。|数軒《すうけん》の農家が試行|錯誤《さくご》して育てたが、刈り入れと|脱穀《だつこく》のときになって、村が|購入《こうにゆう》した機械が葉や|茎《くき》をからみ込んでしまい、そばの実をきれいにわけてくれない。メーカーに問い合わせても、要領が悪いからだ、と|洟《はな》も引っかけてくれなかった。 「私もどうしていいかわからなくて、とにかくうまくやっているところを見てみようと、北海道の|十勝《とかち》まで行ったんですよ。行ったら、すぐにわかった。向こうは|霜《しも》が降りるから、刈り取りの時期には葉っぱが落ちて、簡単に刈り取れる。ところがこっちは霜が降りないんですよ。刈れば、どうしても葉っぱがついてくる。でもですよ、メーカーにはこちらの気候に合った機械なんかつくっていなかった。そばは霜が降りる地域でつくるものだと言う。そんなことを言われても、黒川村ははじめちゃったんですよ。農水省だって、そばの転作を|勧《すす》めていた。われわれはメーカーの技術者といろいろ相談しながらアタッチメントをつくっていった。自分たちでやるしかなかったんです。三年かかりましたよ」  手打ちを売り物にしてはじめた以上、機械式に変えるわけにはいかなかった。一度、機械を購入したが、それは胎内グランドホテルと|名称《めいしよう》を変えた国民保養センターで使うことにした。そちらでは和洋食といっしょにそばもやる、という食堂だからいいが、みゆき庵ではそばしかやらない。職員があちこちのそば屋を食べ歩き、打ち方を習って、そば打ち職人になった。いまも|石臼《いしうす》でそばをひき、|生地《きじ》をこね、のばし、切るという一連の作業をすべて手でやっている。 「結果として、|純粋《じゆんすい》な本物になっていった。だから、どこにもあるようなそば屋や食堂に|埋没《まいぼつ》しないで、生き延びることができた。これはいい勉強になったですよ」      *  高田|元《はじめ》は役場のデスクワークが多かったが、一九八七(昭和六十二)年にニュー胎内パークホテルがオープンしたとき、背広を|蝶《ちよう》ネクタイと黒服に着替え、前からある本館とあわせて目配りする支配人になった。  だが、このころから日本列島の暖冬化がはじまった。|豪雪《ごうせつ》地帯の黒川村でも、年によっては数十センチしか降らないことがあった。村は人工造雪の設備を購入して対応したが、スキーの|醍醐味《だいごみ》は|雄大《ゆうだい》な雪景色があってこそ、である。そこらじゅうを埋め尽くすほどの降雪がなければ、いちばん当てにしているスキー客がきてくれない。 「何しろ自然が相手でしょう。こればっかりはしかたがない。ところが、村長に、雪がないのでお客がきません、と泣き言を言っても聞いてくれませんからね」  それより何より、もう前の年のうちからスキーツアーを申し込んでいたお客がロビーに|溜《た》まって、所在なげにしている。その多くが、村が経営する観光会社の宣伝を見てやってきた人たちだ。この人たちを満足させなければ、次のシーズンはけっしてきてくれないだろう。  ホテルの職員は村が所有しているバスをホテルにまわしてもらい、雪のありそうなスキー場までピストン輸送した。そんな遠くまで行きたくない、というお客には別のバスを仕立て、白鳥を見にゆく臨時ツアーを組んだこともある。 「そうやってお客を送りだしたあと、またあわててあちこち電話したりしてね、映画フィルムを借りてきて、夜は大広間で二本立て、三本立ての上映会ですよ。スキーができなくても、とにかくがっかりさせない、満足して帰ってもらう。臨機応変というか……フロントの裏にまわれば、そういうときは、職員みんなが殺気立っている。しょっちゅう|喧嘩《けんか》してました」  暖冬のひと冬で一億円とか二億円近い赤字を出したこともある。そうなると春先から夏と秋にかけて、ホテル|主催《しゆさい》の|企画《きかく》旅行などを次々に立ち上げ、お客を集めてくる。それでも当時の世の中はバブルの絶頂期に向かって|駆《か》け|上《あ》がっていくときだったから、その年のうちに赤字を埋め、お釣りがくるほどだったという。  村がたえず変化していること、その姿を見せることでお客をつなぎとめるという伊藤村長のもくろみは、このとき多くの村職員の意識に浸透していた。      *  伊藤孝二郎が|亡《な》くなる四年前のある真夜中、私は彼の私宅を訪ねたことがある。黒川村役場から徒歩で二分もあればいける、古い|生《い》け|垣《がき》に囲まれた家だった。午前二時をまわっていた。もちろんそんな時刻に|呼《よ》び|鈴《りん》を鳴らすのは伊藤にも、彼の家族にも|迷惑《めいわく》な話だ。私はただ、彼がまだ起きているかどうかをたしかめたかった。  伊藤の|書斎《しよさい》と聞いていた部屋には、まだ明かりがついていた。村の全部が寝静まっているのに、そこだけ人の動く気配があった。電灯が消えたのは午前三時だった。それから三時間後の朝六時、彼はもう起きだして、庭木の手入れをはじめた。  午前三時まで起きていましたね? 「新聞を各紙全部と、農業新聞、工業新聞、産業新聞などの業界紙を読んで、それから昼間のテレビをね、ビデオで録画しておくので、あちこち飛ばしても、全部見ると午前三時になってしまうんですよ。参考になる記事はマジックペンでマークして、あとで職員にコピーしてもらって、車のなかなどでもう一度読む。そういうのをつなげていきますとね、この村でもこういうことができる、これはできないか、とヒントになるんです。|物真似《ものまね》ではなくて、自分でいろいろ考えてみるんですよ」  |眠《ねむ》る暇が|惜《お》しい? 「眠るというのは、死んだ時間だと私は思ってるんです。意識がなければ、死んでいるのと同じだ。『たくさん寝たからよかった』なんていう人は、命を縮めているのと同じですよ。人生は、知らないことを知る、そこに意味がある。そのくり返しが人生だと思いますね。ですから、いかに多くのものを知って吸収するか、それが生きている|証拠《しようこ》だと考えているんです」  知って吸収したあとに、今度は|実践《じつせん》する。それはもっと大変でしょう? 「そうです。知っただけでは、夢を見るのと同じではないですか。夢見た人生では、意味がない。夢をどうしたら実現できるのか。実現するために人間は存在していると思うんです」  それが人生だ、と? 「ローソクと同じじゃないですか。ローソクは眠っているあいだも|灯《とも》っていて、どんどんなくなっていく。それを知らないで寝ている人を見ると、気の毒だな、と思いますよ。ローソクはいつかは必ず消えますが、人が寝ているあいだに起きて、働いていれば、人より長く生きたことになりませんか」  それにしても毎日三時間の|睡眠《すいみん》で、|大丈夫《だいじようぶ》なんですか? 「生きていますがな」      *  伊藤の公用車のなかは散らかっていた。外は|磨《みが》いてあっても、後部座席には資料や本や雑誌が山積みになっていて、彼一人しか|座《すわ》れない。移動のとき、彼はいつも何かを読んでいた。  片野が言った。 「村長にしょっちゅう言われてましたよ。『きみたちは勉強しないな。おれに情報提供するのがきみたちの仕事じゃないか。おれがきみたちに提供して、どうするんだ』と。とにかくあの人は、ぼんやりしていることがない。視察に行くときでも、列車やバスのなかで、赤線を引きながら本や資料に目をとおしている」  この片野もそうだったが、黒川村役場で働いてきた、あるいはいまも働いている職員と話していて、私はひとつのことに気がついた。半世紀近くの村の歩みを聞いていれば、一度くらいこのごろ|流行《はや》りの「村づくり」だの「町おこし」というような言葉を耳にしてもよさそうなものだが、だれも口にしないということである。 「そんなことは最初からやっている。村長や村役場職員に、それ以外にやることがあるのか。なぜあらためて村づくりなどと強調する必要があるのかわからない」  あえて質問するまでもなく、彼らはそう答えるにちがいない。  豪雪と|出稼《でかせ》ぎに加えて二度の大水害というどん底にあって、おもちゃのようなスキー場を開設し、青年の村の実験をはじめ、ニジマスの|養殖《ようしよく》や畜産へと手を広げ、やがてリゾートホテルから炭焼き小屋までを建て、農業と観光を結びつける事業を次々に展開していったさまをたどりなおしてみるとき、たしかにそこからは彼らの必死さが伝わってくる。|奮闘《ふんとう》の|緊張感《きんちようかん》、|挑戦《ちようせん》の|高揚感《こうようかん》が|漂《ただよ》ってくる。  以前、一九八〇年代の後半だったか、時の政府が「ふるさと創生資金」と称して全国の市町村に一億円ずつ配ったことがあった。黒川村の職員たちと話していてたまたまその話題になったとき、彼らは一様に「あれはぴんとこなかった。すべての補助金が地域振興とふるさと創生のためにあるはず。じゃあ、それまでほかの市町村は補助金を何に使っていたんだ」と首をひねった。 「私は高度経済成長という魔物から、村を守らなければならなかった」  と、かつて伊藤は言った。それは弱小の村を植民地にしようと|襲《おそ》いかかってくる|帝国《ていこく》主義に対する独立戦争のようなものだった。  若くして村長になったとき、彼の目にはその姿がはっきり見えていただろう。村の子供たちを金の卵とおだて上げ、連れ去っていく魔物。村の男たちを自動車工場や食品工場に、女たちを|果物《くだもの》の選別や加工の工場に吸い寄せ、使い捨てる魔物。そういう仕打ちのなかで村は雪の下で暗く静まりかえり、生きる自信を失っていく。そうさせるものに戦いを|挑《いど》むことを、彼はみずからの生き方とした。職員たちもそれに|応《こた》え、夢中で働いた。あるいは、戦った。      *  しかし、布川陽一が興味深いことを言った。 「村長を先頭に、われわれはがんばった。その自負はありますよ。だけど、冷静に考えてみれば、われわれの意気込みを受け止めてくれた人たちがいたんですよ。そのときどきの中央官庁や県庁の役人のなかに理解者がいて、『黒川村にやらせてみようじゃないか』と補助金をつけてくれた。そういう役人たちも、じつはたいてい地方の出身ですよ。彼らは|肌身《はだみ》で田舎を知っていて、こんな小さな山村が生き残っていくのがどれほど大変か、わかっていたはずです」  |言《い》い|換《か》えればそれは、「敵」の|中枢《ちゆうすう》に「味方」を見つけ、同情や共感をつくりだし、植民地政策に|添《そ》うようなふりをしながら、実質的な独立を果たしていくようなものだった。表立った|反抗《はんこう》はしない。むしろ敵の政策を先取りし、|過剰《かじよう》に適応するように見せて、そのさきへと|突《つ》き|抜《ぬ》けてしまう。  思えば、都会の若者たちに農林漁業の体験をさせるのだといってリゾートホテルを建設し、省エネだといって手打ちそば屋のわきに水車をつくり、山村地域資源の高度活用|促進《そくしん》と称して釣り堀をつくってしまうなどなどには、どれもあっけらかんと敵を手玉にとっているような小気味よさがある。スキー場の|休憩所兼《きゆうけいじよけん》食堂にしても、名目は地域間交流をはかる施設のはずだった。  伊藤村長は笑いながら言ったものだった。 「補助金を使ってこんな遊び場施設をつくるのはいかがなものか、という人もいますよ。そういう人はハコモノを建てて、集会室などをずらっと並べ、あちこちの地域の人が集まって会議でもすることしか思いつかない。そんなもの、だれが利用しますか。建てる建設業者が|儲《もう》かって、おしまいですよ。あとは『|維持費《いじひ》ばかりかかる』と自治体は悲鳴を上げている。スキー場の休憩所や食堂なら、ごった返しています。みんな、あちこちの市や町からきてくれた人たちですよ。みなさんなごやかで、それこそ本物の地域間交流をやっていますでしょ?」  とはいえ、中央官庁や県庁の役人たちとて、黒川村のたくらみに気がつかなかったはずはない。気づいていながら、|承認《しようにん》し、補助金をつけてやる。それはどのようにして可能になったのか。  高度成長期からバブルへと駆け上がった時代は、彼ら役人たちの多くが生まれ育った故郷と共同性、そのなつかしい|記憶《きおく》をも|荒《あら》っぽくかき消してしまうほどめまぐるしい日々だった。それはときとして彼らのアイデンティティーをも|揺《ゆ》さぶり、工業化と都市化中心の行政を|推《お》し|進《すす》めるだけでいいのだろうかという疑念を生じさせた。黒川村の伊藤や村職員たちはそこに食い込んだ。布川が言ったことはそういうことだった。  だが、相手の弱みにつけ入るだけで、半世紀近くにもわたって補助金を出させることができるほど日本の|官僚《かんりよう》制度は|甘《あま》くない。彼らを説得できるだけの事業内容を構想できるか、なるほどと思わせられるような申請書類にまとめられるか。そこは全国三千百市町村の競争である。黒川村の村長も職員もそういう説得力を身につけようと必死だった。それが戦いの、少なくとも最初の中身となった。      *  黒川村の物語も、そろそろ現在の話に|滑《すべ》り|込《こ》んできた。  いったい彼らはこの戦いに勝ったのだろうか、それとも……。  いま黒川村を訪ねる人たちは、胎内エリアの中央に建っている、ヨーロッパ古城を思わせる巨大な建物に目を見張るだろう。ふたつの|尖塔《せんとう》が建ち、|壁面《へきめん》にはぐるっと|薄茶色《うすちやいろ》の石板を|貼《は》りつけた|荘重《そうちよう》な石造り風だ。  それは、独立を果たした王国の|象徴《しようちよう》のように|屹立《きつりつ》している。 「ロイヤル胎内パークホテル」である。「胎内」と名前がつくホテルはこれまで、グランド(元国民保養センター)、パーク、ニューパークと三つあったが、これが四番目になる。オープンしたのは二〇〇一年四月。  胎内川の|河岸段丘《かがんだんきゆう》に|覆《おお》いかぶさるように建設された建物は地上七階建てで、段丘の|崖《がけ》に食い込んだような地下部分は三階まである。地上三階から五階までが和洋四十三室の一般客室になっていて、六階と七階には広い特別室やメゾネットルームがある。二階はサウナや|露天風呂《ろてんぶろ》をそなえた温泉大浴場。地上に建つ本体より二倍くらい広い面積の一階に、大理石を|敷《し》きつめたエントランスホールやレストランや売店がある。  地下一階には立席で千人、テーブル席で五百人収容、日本海側では最大級というコンベンションホールがつくられた。地下二階は|結婚《けつこん》式場と|控《ひか》え|室《しつ》とその付帯設備。地下三階にはボーリング場、プールバー、二十五メートルの室内温泉プールと造波プールなどの|娯楽《ごらく》施設が並んでいる。  パンフに「五つ星の|贅沢《ぜいたく》」とあるが、たしかに五つ星クラスの|豪華《ごうか》なホテルだ。これが村の交流促進施設整備事業の|一環《いつかん》として建てられた村営ホテルだと聞いて、|驚《おどろ》かない人は少ないにちがいない。  周囲の職員たちや設計家が|平坦地《へいたんち》に建てるデザインを考えていたとき、建物全体を|大胆《だいたん》にうしろに下げ、胎内川の崖のなかに建つような格好に設計|変更《へんこう》をしたのは伊藤村長自身だった。またここで使う大理石などの石材を購入するために、彼は中国へ行き、製造業者や|運搬《うんぱん》業者と|交渉《こうしよう》に当たった。石は向こうで加工され、|廈門《アモイ》から新潟港まで運ばれた。 「本物をつくりたい」  と、伊藤は言った。  これまで三つのホテルを建ててきたが、コンクリートの建物は年月とともに安っぽく古びてくる。かといって村にふんだんにある木材で建てても、規模が小さくなる。視察などで訪れたヨーロッパ各地の石造建築の、時を経るごとにましてくる重厚さを、この村でもつくりだしたい。彼はそう考えていた。  村長に就任して四十六年。このとき伊藤孝二郎は七十七歳、本物しか後世に残らないことを知る|年齢《ねんれい》になっていた。しかし、それから二年半後、日本海側最大級のコンベンションホールで最初に行なわれる大規模な集まりが、まさか自分自身の告別式になることまでは予期していなかったにちがいない。      *  一九九〇年代から現在にいたる十数年間、私たちはこの社会が混乱と低迷をくり返しながら、ずぶずぶと|沈《しず》み|込《こ》んでいく光景を|目《ま》の当たりにしてきた。土地や株の値段は急落し、バブルはあっというまにしぼみ、はじけ飛んだ。企業や個人が|抱《かか》え|込《こ》んでいた資産の価値は三分の一、四分の一に落ちてしまい、組織も人間も|萎縮《いしゆく》した。  問題は経済にとどまらなかった。|右肩《みぎかた》上がりの拡大一方でやってきたころの習慣やルールがたちまち旧習となり、|旧弊《きゆうへい》となったのに、人間はなかなか変われない。どの分野でも、自己保身、責任|逃《のが》れ、そのあげくの|行《ゆ》き|詰《づ》まりを次々に招いていった。政治の分野ではくるくると総理大臣が交代し、政党の|離合集散《りごうしゆうさん》がくり返される事態がつづいた。中央官庁ではたてつづけにカネやセックスにまつわるスキャンダルが発覚し、信用を失った。ビジネス分野の心臓部といわれる|金融《きんゆう》業界も、不良|債権《さいけん》の総額を明らかにすれば経営責任を|追及《ついきゆう》されると|怯《おび》え、逃げまわる|醜態《しゆうたい》をさらした。  政府、行政、企業といった社会システムがほころび、信用や求心力を失っていくと、世の中そのものが根底から変わっていく。この十数年間に起きた社会的変化のなかで最大のものは、「地域社会」と「企業社会」の蒸発だったと私は思う。  企業社会のほうは、わかりやすい。バブル|崩壊《ほうかい》後、|倒産《とうさん》、リストラ、過労死などが日常化した。どの企業でも新規採用が激減し、労働コストの安い|派遣《はけん》労働者やパートやアルバイトを利用するようになった。こうしてかつては内外から賞賛されてきた「日本的経営」は|色褪《いろあ》せ、|墜《お》ちていった。それは企業経営がシビアになったというにとどまらず、終身|雇用《こよう》や年功序列、社員旅行から従業員家族の運動会までやってきた家族主義的温情主義といった企業中心の社会構成が|崩《くず》れ、まとまりを失ったことを意味した。  一方、安定した帰属先を失い、ばらばらになった人々は、ともかくも自分の居場所をつくろうと必死になった。高度経済成長とバブルの時代、すでにあちこちの都市周辺にはニュータウンが広がっていたが、そこにミニ開発や乱開発がかさなり、田畑や里山を切り崩した新興住宅地が虫食いのように広がって、その家々のなかに一家族一家族が、一人ひとりが閉じこもった。そこでは歴史や習俗や理念を共有することで成り立つ地域社会は生まれない。また街なかの商店街は消費者を失って|空洞化《くうどうか》し、通称「シャッター通り」がいたるところに現出した。かくして古くからの地域社会も活力を失っていった。  企業社会と地域社会。このふたつは、よくも悪くも戦後日本を|駆動《くどう》してきた車の両輪のようなものだった。中央官庁はさまざまな法律や行政指導を通じて企業社会を引っぱり、各地方自治体は地域振興や地元利益を旗印に地域社会を動かしてきた。このふたつともが求心力や信用を失って、|錆《さ》びついてしまった。この状態が、現在もつづいている。  こうした一連の出来事を「バブル崩壊」と呼べば、崩壊は|瞬間的《しゆんかんてき》に起き、それで終わったわけではなかった。それは十年、二十年、あるいは三十年とつづくひとつながりの時代を形成し、この国にこの時代なりの|陰影《いんえい》を刻印しつづけるだろう。つまり、次の時代はこのかげりを背負ってしかはじまらない、というのが私の判断である。      *  バブル崩壊の時代は黒川村にどのような|影響《えいきよう》をもたらしただろうか。農業と観光を結びつけることを村政のまんなかに置いてきた黒川村にとって、影響は小さくなかったはずである。  バブル初期の一九八七(昭和六十二)年に九十万人を|超《こ》えた年間観光客数は、暖冬つづきだった一九九〇年前後の数年間、|乱高下《らんこうげ》した。しかし、バブル崩壊後の九四(平成六)年、九五(平成七)年は九十六万人を超え、村はじまって以来の観光客数を記録した。その後も一九九九(平成十一)年に九十一万人を集めるなど、二〇〇一(平成十三)年までは順調に八十万人以上を確保しつづけた。  私が最初に黒川村を訪れたのは、まさに二〇世紀最後のこの時期だった。ほかの市町村がずぶずぶと沈み込んでいくのを|尻目《しりめ》に、黒川村は活気づいていた。豪雪、出稼ぎ、|貧困《ひんこん》、水害を宿命のように背負いながらも働き、戦い、生き抜いてきた、いや、そればかりかまだ勢い込んでいる人々の話に、私は驚かされ、目を見張った。  ところが、それからしばらくして、観光客数が減りはじめた。二〇〇二(平成十四)年に七十万人台、二〇〇三(平成十五)年は六十八万人と、急激に減少していく。きてくれるお客は村の外の、世の中一般のほうで暮らしていて、その世の中一般が冷え込んでいるのだからやむをえないとはいえ、これは黒川村の人たちにとっては気がかりな数字である。  ここに観光を目玉にすることの、|危《あや》うさがある。スキー客であれ、温泉客であれ、登山やキャンプのお客であれ、観光客とは昔もいまも気まぐれなものだ。|懐具合《ふところぐあい》がちょっとよければ出かけるし、悪くなればたちまち家に閉じこもってしまう。出かけるときも、評判を聞きつけて一カ所にどっと押しかけ、別の評判を耳にして、あっというまにそちらに行ってしまう。それはときには台風や|津波《つなみ》のような暴力的な現象になる。  受け入れる側にとっても、観光客はそのほとんどが「需要予測」や「入り込み数」、落としていく「客単価」などの数字としてしか|把握《はあく》できない人たちである。それは地域に根づかないし、地域を動かし、運営していく知恵や力にもならない。  だが、もう一度ふり返ってみれば、黒川村はその危なっかしい観光事業だけをたよりにしてきたわけではなかった。村の人たちはまず共同と協同と共働の青年の村を建設することからはじめて、自分たちの力で村と農業をつくりかえることから出発したのではなかったか。観光事業はその意気込みを確実にするためのテコのようなものとしてあったはずだった。そこに、私はこの村の独特なあり方を見る。  世の中全体の景気が冷え込んだまま固まってしまったような現在、村の人たちはどう暮らしているだろうか。  私はまた黒川村に行ってみることにした。 [#改ページ] ————————————————————————————  5 本物をつくりたい! ————————————————————————————  バブルがはじけ飛んだあと、黒川村の村営|畜産《ちくさん》団地はにわかに|忙《いそが》しくなった。  一九九三(平成五)年、|胎内《たいない》エリアの農畜産物加工|施設《しせつ》ではハムとソーセージの製造がはじまった。  一九九四(平成六)年、ヨーグルトづくりの開始。次々に作業場がふえたため、農畜産物加工施設と、|隣接《りんせつ》した地域活性化センターの建物が一体化してしまい、ほとんどひとつの施設になった。  一九九九(平成十一)年、「胎内高原ビール園」が建設され、ハムやソーセージのほかにステーキなどの肉料理を出しはじめた。  畜産団地が忙しくなったのは、こうした施設に供給するために、従来からの食肉用黒毛和牛の|繁殖《はんしよく》と|併行《へいこう》して、|搾乳《さくにゆう》用のジャージー牛と食肉用|黒豚《くろぶた》の繁殖と肥育が本格的にはじまったからである。現在、ここでは三十頭の黒毛和牛、三十数頭のジャージー牛、二百八十頭の黒豚が飼われている。  二〇〇二(平成十四)年、「黒川村|堆肥《たいひ》センター」が完成し、翌年から畜産団地の|牛糞《ぎゆうふん》や豚糞ばかりではなく、村内各戸から出る生ゴミや|河川《かせん》の|汚泥《おでい》を|粉砕《ふんさい》し、そこに|籾殻《もみがら》やおが|屑《くず》を混ぜて|発酵《はつこう》させ、水分を飛ばして有機肥料に変える仕事が加わった。そのかわり雪に|閉《と》ざされる冬場でも、牛舎や|豚舎《とんしや》がすぐに片づくので広々と使えるようになった。その牛舎と豚舎も増築があいつぎ、面積は当初の二倍に広がった。  また最近では、|新潟《にいがた》県では最初となる|地鶏《じどり》の飼育もはじまり、ヒナも入れて数百羽が|鶏舎《けいしや》のなかを走りまわっている。  ここで働いているのは二人の村職員と六人の農家の人たち、それに新潟県の畜産関係の研究施設から二〇〇〇(平成十二)年春にここに転じてきた|獣医《じゆうい》の|熊倉紘《くまくらひろし》である。|彼《かれ》は三代目の獣医になる。  熊倉ははじめ、職員などが通勤してくるような作業態勢で畜産ができるのか、と心配したという。生き物相手の畜産は、コメづくりなどとはくらべものにならない労力と|粘《ねば》り|強《づよ》さがいる。 「しかし、熱意がすごいんだね。地元で農業をつづけられる、それがやる気になっているんでしょうね。ここで働いている人も、村職員も、若い感じがするんですよ。ほかの市町村の農家はどこでも元気がないのに、ここはちょっと別だね」  獣医としてはベテランの彼も、いちどきにこんなにたくさんの家畜の|面倒《めんどう》を見るのははじめてだ。ジャージー牛は国内ではめずらしいし、黒豚を飼っているのも、県内ではここ以外に二戸の農家しかない。畜産団地をはさむようにして、一方で農家とつながり、もう一方でさまざまな村営施設につながっていく仕組み全体が、ほかの市町村にはない独特のものである。 「村でつくる生産物の種類をふやして、村の人にも買ってもらい、ホテルやビール園で出す料理にも特色を持たせて、観光客に|飽《あ》きられないようにする。しかし、あくまで原則は、地産地消のシステムを確立することだと考えています。向こうで働く職員もこちらの畜産団地も生きていくために、できることはまだたくさんあります」  と、彼もまたほとんど村民の口調になっていた。      *  私は|伊藤《いとう》村長と次のようなやりとりをしたことがある。この村の農業の将来像をどう|描《えが》いているのか、とたずねたとき、彼は言った。 「畜産団地から出る家畜の糞や家庭の生ゴミを使って堆肥をつくる。その発酵熱を利用して、ハウス野菜や花ができればいい。堆肥は田んぼや畑やハウスで使って、コメや無農薬の野菜や牧草ができる。ビール原料の麦もできる。それをまた牛や豚が食べて、肉やハムやソーセージやヨーグルトになって、ホテルやビール園で食べてもらう」  その|循環《じゆんかん》を村内でやろう、と? 「農業は、人間が生きていくかぎり欠かせない。バイオ研究の成果などを取り入れてやろうとすれば、本来は|先端《せんたん》産業のはずなんです。ところが現実は、やり方が古い。仕組みがでたらめでちぐはぐのまま、つながっていかない。小規模であっても、ちゃんとした収入が得られるような仕組みをつくっていけば、若い人もすんなり入ってくる。こういう循環農業をやるには装置も必要になって、とても個人の力ではできません。だから、村がやる」  伊藤が語っていたことは、その後の数年のあいだに、発酵熱利用による野菜や花の|栽培《さいばい》以外はほぼそのとおりに実現したことになる。しかし、彼はそのあとで、もっとだいじなことを言っていた。  観光施設でも、道路や空港建設でも、たいてい利用者の実数が予測値より|大幅《おおはば》に下まわって赤字になり、立ちゆかなくなる。規模をどう考えていますか? 「私は、黒川村に一人も観光客がこない、ということを考える。いるのは七千人足らずの村民だけです。この人たちがどれだけ牛乳やヨーグルトやビールを飲み、牛肉や豚肉を食べているか。そばやハムやソーセージの消費量はどれくらいか。その数字が、ひとつの目安として頭にありますよ。村の外から入ってきて、村民に消費されている商品を、村で生産したものに|置《お》き|換《か》えていけばいいんです。こちらが本物で、おいしい製品だったら、絶対にこちらを買ってくれる。それが評判になれば、必ず観光客はきてくれる。外の人が買ってくれた分は、村の利益になるじゃありませんか」  そうなると問題は、ほんとうに本物の、おいしくて安心できる製品ができるのか、に移っていく。いったいそれを、だれがつくるのか。      *  黒川村役場には現在、約百二十人の職員がいる。村長や助役や収入役がいて、住民課や商工観光課や農林水産課などがあるのは他の市町村と変わらない。畜産団地、農畜産物加工施設、地域活性化センター、ホテル、そば|処《どころ》などの村営施設で働くスタッフもそれぞれを|管轄《かんかつ》する課の職員である。彼らはふだんほとんど役場に顔を出さず、各人の作業場や施設にまっすぐ出勤する。ホテルの支配人が商工観光課の職員だったり、料理長が農林水産課の職員だったり、あるいは住民課や生活環境課の職員が冬場だけスキー学校のインストラクターになったりするのは、はたから見ていると何となくぴんとこないが、この村では当たり前のことだ。  もうひとつ特異なことが、この役場にはある。  |布川《ぬのかわ》陽一や伊藤|和彦《かずひこ》が国際農友会の|派遣《はけん》制度を使い、ドイツやスイスに農業研修に行ったことを前に記したが、この研修事業はその後もずっと|引《ひ》き|継《つ》がれてきて、いまでは三十人、職員の四人に一人が外国生活の経験者となった。一週間や二週間の視察ではなく、いずれも一年間の現地生活である。  村おこしや村づくりという言葉は口にしなかった伊藤村長だが、かつて私にこんなふうに言ったことがある。 「人づくりは、意識してやらないとだめです。村でいろんなことをやろうとしても、やる人間がいないとしょうがない。やっと若者たちが村に定着するようになったといっても、国内にいるかぎりはぬるま湯ですからね。自分とはどういうものか、外国で生活してみてはじめてわかる。自分の価値、置かれた立場、そこから自力で|這《は》い|上《あ》がっていかなければ、まわりはただの|一般的《いつぱんてき》な日本人、アジア人としてしか見てくれない。そこで苦労しながら言葉を覚え、コミュニケーションできるようになって、何かをはじめると、周囲の見る目が変わってくる。個人としての注目や尊敬を集めるようになる。私は若い職員にそういう経験をしてほしい、と期待している。日本の、ぬるま湯のなかにいたのでは、そんな経験はできないですからね」  本人は費用の一部として数十万円から百万円近くを負担するが、村はその間、出張|扱《あつか》いにしているので、毎月の給料を|支払《しはら》わなければならない。 「小さな村にとっては大変だが、それは必ずそれ以上のものになって返ってくる」  伊藤村長はそう確信していた。      *  村役場には一九七〇年代の生まれで、バブル絶頂期の九〇年前後に就職し、いま三十代なかばという一群の職員がいる。二度の水害は彼らが生まれる前の出来事で、小中学校の授業で教わった、という世代である。何か大変なことがあったんだなあ、とは思うものの、実感はない。生まれたときにはもちろんスキー場もあった。  |加藤誠《かとうまこと》もそんな一人だ。役場に入って、すぐに農畜産物加工施設内のハムとソーセージ工場で働いた。工場といっても、一年間のスイス農業研修からもどってきたばかりの上司と、村が三カ月間の|契約《けいやく》で招いたドイツ人マイスター、それに彼の三人だけの作業場だった。 「豚肉をすりつぶして、|香辛料《こうしんりよう》や塩などを混ぜ、どろどろにする。|新鮮《しんせん》だけど、生の豚肉ですよ。それをマイスターが指先ですくって、ぺろっとなめるんですよ。『うまい』とか、『これはちょっとちがう』とか、もうそれだけで味がわかってしまう。すごい、と思いましたね」  その生肉をドイツ製の機械で熱処理などして、ハムやソーセージにしていく。しかし、本場ドイツと同じにつくった製品は当時の日本人の舌にはなじみが|薄《うす》かったせいか、まったく売れなかった。 「村のなかを|一軒《いつけん》一軒まわって、売り歩いた。|中条町《なかじようまち》や|新発田《しばた》市の住宅もまわりました。とにかくこの味を知ってもらいたかった。公務員というか……いや、仕事だと思っていました。それでも売れ残って、あのころはずいぶん捨てたんです」  そうやって三年が過ぎ、ようやく村のなかでも、ホテルの売店などでも売れるようになった。いい調子になってきたな、と感じはじめた四年目、加藤はデンマークの養豚農家に一年間の研修に派遣されることになった。村役場では十七人目の農業研修生になったのである。デンマークは豚肉の日本への最大輸出国だ。 「この仕事をやっていれば、そりゃ行ってみたいと思っていました。だけど、行った先の農家がとんでもなくでかいところで、母豚は三百頭くらいだけど、そのほかに六千頭も肥育している。それを私も入れて五人で世話する。言葉はわからない、テレビを見ても|面白《おもしろ》くない。なんでこんなところにきたんだろう、と半分ノイローゼになった」  村役場の海外研修経験者のあいだでは「三日、三週間、三カ月の|壁《かべ》」という言い習わしがある。三日間は何をしていいかわからずに|茫然《ぼうぜん》とする。三週間まではノイローゼ気味。三カ月を過ぎたとたん、まわりがはっきり見えだして、毎日が面白くなる。  豚にエサをやり、豚舎の|掃除《そうじ》をする。黒川村の黒豚とちがって、こちらは全部、ヨークシャー種の白い豚だった。畑作や庭の手入れもやった。なかでもきつかったのは、|仔豚《こぶた》の生育状態によって豚舎|替《が》えをするとき。一輪車に数頭ずつ、百キロにもなる豚をのせて坂道を上ったり下ったりしなければならない。そのくり返しが何日もつづく。体力には自信があるつもりだったが、ふらふらになった。 「食事が質素なんですよ。全然|贅沢《ぜいたく》なんかしない。家のなかはきちんとしていて、出窓にはちゃんと花を|飾《かざ》って、そこで夕飯を食べながら、家族がにぎやかに話している。なかなかデンマーク語会話に加われなくて苦労しました。お祭なんかあると、村じゅうの子供や年寄りが集まって、ここにはこんなに人が住んでいるのか、とびっくりする。盛りあがり方を知っている人たちだなと、これは感動しました」  帰国後、伊藤村長のもとに、帰りました、と報告に行くと、いきなりハムとソーセージの工場の責任者をやれ、と言われた。 「ま、一年間、外国でやってきたばかりだから、何でもできるという自信みたいなものはあったのかな。やるしかないな、と思ったし、まあ、できるだろうと。まだ二十三|歳《さい》でしたけど」  それから十年以上が|経《た》ったいまも、加藤は同じ作業場で同じ機械を使ってハムとソーセージをつくりつづけている。畜産団地で肥育された黒豚を原料にし、量をふやすための混ぜ物などは使わない、|純粋《じゆんすい》にドイツ風の製品である。ただ子供から老人まで食べられるようにと、香辛料のきつい製品の製造はやめた。いまここでは一週間に八頭から十頭分を製品化しているという。  働いているのは彼とパートの二人。となりの活性化センターやホテルの売店で|販売《はんばい》するもののほかに、学校や|高齢者《こうれいしや》施設の給食で使うものもつくっている。村内消費が七割で、あとの三割が観光客向けだったり、宅配便などで送る注文生産だ。急な注文が入ったときは一人で|黙々《もくもく》と|徹夜《てつや》作業もするが、それでも生産が追いつかない状態が何年もつづいている。 「あんまり|夜遅《よるおそ》くまでやっていると、『一応役所なんだから、勤務時間を考えろ』と注意されちゃう。ときどきは考えるようにしてますけどね」  三十代なかば、加藤は職人の顔でにやっと笑った。      *  加藤につづいて、|南靖宏《みなみやすひろ》がスイスに行った。  二十数頭の乳牛から搾乳し、肥育中の数十頭の牛と二千二百羽のニワトリの世話をし、牧草地を手入れする。数頭の馬もいた。ホームステイした農家のオヤジと彼の二人だけの作業だった。オヤジは最初の数日間、つきっきりで仕事を教えてくれた。 「ところが、次の日から、ふらっといなくなっちゃう。オヤジは搾乳機などの修理の技術も持っていたので、あちこちから|頼《たの》まれて、出歩いてばかりいた。『おいおい、どうするんだよ』と思っても、私しかいない。自分で段取りを決めてやるっきゃないんですよ」  オヤジは農業マイスターの|肩書《かたが》きを持っていた。長年の経験の上に国家試験をパスしないと持てない資格だ。マイスターは自分の土地で農業をやってもいいし、どこかの農場と|契約《けいやく》して、一般労働者の二、三倍の賃金で働くこともできる。日本からきた若いモンが一人前になるかどうか、遠くから|眺《なが》めていたのかもしれない。 「農業という仕事に|誇《ほこ》りがある。農機具が|壊《こわ》れても、日本だったらすぐに業者を呼んで、なおしてもらったり、ちょっと古いと、すぐに買い換えるのに、全部分解して、まず自分で修理しようとする。それはオヤジばかりではなく、近所の農家でもそうだった。それでできてしまうから、すごい」  もうひとつ|驚《おどろ》いたのは、自然環境に対する意識の高さだったという。たとえば、雨が降っているときは畑の外にもれるおそれがあるので、農薬を|撒《ま》かない。穴が開いたホースを使っていたというだけで、パトカーが飛んできて、|罰金《ばつきん》を科される。どんな|田舎《いなか》でもゴミの分別収集が徹底していて、同じ|瓶《びん》でも色ごとにわけて捨てないといけない。  一年の|滞在《たいざい》を終え、黒川村に帰ってきたのは春だった。スキー客らが捨てていったゴミがちょうど雪の下から出てくる季節。いずれまとめて掃除されるとはいえ、 「自然がいっぱいの山村だと思っていたのに、けっこう|汚《きたな》いな」  と、ちょっとがっかりした。日本全体はバブル後の景気低迷に|陥《おちい》っていたが、村への観光客が九十六万人を|超《こ》え、ピークを|迎《むか》えた一九九四(平成六)年のことだった。  南は乳製品の責任者を命じられた。農畜産物加工施設では畜産団地で搾乳したジャージー乳を使ってミルクやアイスクリームは製品化していたが、まだヨーグルトはなかった。日本では多くのメーカーが経済効率のよいホルスタイン牛の乳を使っているが、|脂肪分《しぼうぶん》の高いジャージー乳のほうが量はたくさんとれないにしても、味のよい製品ができる。さっそく装置一式を|購入《こうにゆう》して、試作がはじまった。 「店で売っているヨーグルトなら、ほとんど飲んだり食べたりしてみたんですよ。ホルスタイン乳からつくっているから、味が薄いのはしかたないとしても、おいしくないんですよね。私がつくったのは、味が|濃《こ》くて、酸味が少なく、まろやかになる。もとの原乳がちがうから当たり前なんですが、全然ちがう。でも、一般消費者は薄い味のほうしか知らない。そっちに慣れた人が買ってくれるかな、とちょっと心配した」  加工の過程で薄味にもできるんでしょ? 「やろうと思えば。法律的にも、一定割合までならホルスタイン乳を混ぜても、ジャージー乳でつくったと表示していいことになっていますから」  でも、しなかった。 「簡単な|理屈《りくつ》です。料理をつくる人は、自分の|嫌《きら》いなものをつくらないでしょ? つくっても、おいしくできない。だったらヨーグルトも、私の好きな味のものを、好きなようにつくるほうがいい。あとはお客さんに飲んでもらって、この味になじんでもらえばいいんじゃないか」  実際にはじめてみると、村の人にも観光客にも評判がよかった。あっというまに品切れになり、生産が追いつかない。とくに夏場はつくるはしから売れてしまう。季節や天候による売れ行きのちがいを見きわめるのが大変だったという。|近隣《きんりん》の町のスーパーでも、売りたい、と注文がきた。そのうちに|中堅某《ちゆうけんぼう》メーカーの製品の味が少しずつ変わり、南のつくっているヨーグルトに近い味つけになった、という|噂《うわさ》まで|飛《と》び|込《こ》んできた。 「いいんじゃないですか」  と、彼は少し得意そうに笑った。  どんなに似せても、国内ではジャージー牛は小規模な|酪農家《らくのうか》で飼われている程度で、搾乳用にジャージー牛だけ飼育しているのはこの村くらいのものだから、競争したら必ず勝てる、と思っている。だが、彼にはむきになって競争するつもりもない。一週間に三、四百リットル、夏場はその二倍、と売れる量は安定している。村内消費が六割、村外からの注文が四割だ。こちらもほぼ一定している。  ふだん南は一人でヨーグルト、ミルク、アイスクリームをつくっている。夏の|繁忙期《はんぼうき》になると、村の人にパートできてもらう。どれも衛生管理と温度管理が重要だが、とくにヨーグルトは天候や|湿度《しつど》、その日に使う|酵母《こうぼ》や一度につくる量によって|微妙《びみよう》に味がちがってくるむずかしさがある。 「迷ったときは、私がいちばんおいしいと思う味にすればいい」  |飄々《ひようひよう》としているように見えて、意外に|頑固《がんこ》な南だ。彼は、朝七時から夜は八時まで、妻の「ほんとにあなた、よく働くね」という言葉を背中で聞きながら、作業場にこもっている。そのヨーグルトづくりも十年になった。      * 「スイスのスーパーで見ていたら、見てくれも悪いし、あまりおいしそうでもなく、それでいて値段が高い野菜からさきに売れていく。となりに安くて、よくできた野菜が並んでいるのに、ですよ。よくできたほうは外国からの輸入品で、高くて、見てくれの悪いほうは国産なんです。なぜだって聞くと、『スイスの農家がつくったものを食べたい。国内の農業と農家を大切にしたいんだ』と。あれは、カルチャーショックだった。日本の一般消費者は日本の農業と農家を大切にしようとしたことがあったか、ないとすればどうしてなのか、と考えましたよね」  と、|藤井義文《ふじいよしふみ》が言った。  藤井はスイスに行った。滞在したのは二十頭の乳牛を飼い、野菜を少しつくっている農家だった。こぢんまりした家族経営で、その家族の一員になったようなものだった。スイスなまりのあるドイツ語だったが、何カ月かいるうちに、彼にもある程度は|操《あやつ》れるようになった。おたがいが理解できるようになると、人間というものはスイスでも日本でもそうちがわないものだ、ということもわかった。研修が終わって帰国するときは、家族と別れるような|寂《さび》しさを感じたという。  村役場にもどって、藤井は胎内グランドホテルで働き、冬はスキー場の|応援《おうえん》に行ったりもした。二年が経ったとき、農水省の農業生産体制強化総合推進対策事業と県の中山間地域活性化総合対策事業のふたつの補助金が約三億円、村が三億円、合計六億円の事業を担当することになった。 「黒川村米粉処理加工施設」である。  このころ、全国一律の|減反《げんたん》政策がはじまってすでに三十年近くが過ぎ、減反比率もしだいに大きくなっていたが、|銘柄米《めいがらまい》コシヒカリの産地・新潟県の減反はなかなか進んでいなかった。このままいけば他地域の農家から批判を浴びるだろうし、政策それ自体も|行《ゆ》き|詰《づ》まってしまう。かといってコメをつくりたいという農家の気持ちもくじきたくない。そんな|板挟《いたばさ》みのなかで、新潟県食品研究センターでは、コメをコメのまま市場に出すのではなく、五十ミクロンという粉末状にして、パンや|麺《めん》などの材料として出荷する技術を研究し、実用化にこぎつけていた。 「はじめは私も、米粉って何のことだと思っていました。でも、やっているうちに、これがかつての半分にまで落ちてしまったコメ消費を拡大する切り札になる、とだんだんにわかってきた。しかもコメをパウダーにするのは、全国でもここしかない。いわばモデル工場なんです」  ここで製造する米粉には二種類ある。ひとつは、水洗いしたコメをロールにかけて|粉砕《ふんさい》し、それをさらに強烈な気流の圧力で粉状にしてできるパウダー。もうひとつは、水洗いしたコメを蒸してお|餅《もち》にし、それを固く焼いたあとで、同じように気流の圧力で粉にしたパウダーである。  生のままパウダーにしたコメを使うと|煎餅《せんべい》や団子やカステラなどができ、熱処理したパウダーでは各種のパンやパスタ、|麺類《めんるい》やピザ|生地《きじ》ができる。従来は小麦粉でつくっていたものの多くが、ライスパウダーでよりおいしく、より短時間でできることもわかった。後者はそのまま食べたり、お湯に|溶《と》いてスープ状にして食べることもできるので、|飢餓《きが》や戦乱の地域の緊急用食料にもなる。実際、これはその後、NGO(非政府組織)などを通じてエチオピアやザンビアに送られている。  とはいえ、米粉といい、ライスパウダーといっても、消費者にはなじみがない。農家も知らない。小麦粉と同じように使え、同じものができるといっても、実際にやってみせなければ信用してもらえない。プラントをスムーズに動かすだけでなく、料理メニューを開発し、学校給食センターや農協やレストランを歩いて、いちいち説明してまわるのも、藤井の仕事だった。  いまこの工場ではパートをふくめ八人の従業員で、一日数トンのコメを粉にしている。二十四時間|稼働《かどう》すれば十五トンの処理が可能だが、まだ|認知度《にんちど》が低いせいか、販売先が十分に広がっていない。また最近では小麦粉との価格競争に加えて、米価の安いアジア諸国の現地で製品化した米粉が輸入されるようになり、二重の競争になっている。もっとも、こちらは、黒川村の施設とちがい、コメのとぎ|汁《じる》を処理しないまま川に流しているので、環境問題を引き起こしそうだという。 「課題はたくさんあります。だけど、私が努力すれば|乗《の》り|越《こ》えられることだから、あまり気にしてません。それよりこの村から日本農業に一石を投じるというのも面白いかな、と。これは日本の農業をだいじにする事業なんだ、そう私は思っているんですよ」  彼はスイスで感じたカルチャーショックの意味を考えつづけているようだった。      *  宮野|仁《ひとし》はいまでこそ黒川村の村民だが、もとはとなりの新発田市で生まれ育った。村外から村役場に就職した最初の一人だ。家は農家ではなかったし、卒業したのも商業高校で、役場に入ってから配属されたさきも胎内パークホテルと、オープンしたばかりのニュー胎内パークホテルだったから、皿洗いやウェイターや|布団《ふとん》の上げ下げ以上の力仕事はやったことがなかった。  五年ほど働いたとき、上司から、海外に一年間の研修に行ってこないか、と声をかけられた。村では畜産に力を入れているから、畜産関係の研修がいいと言われたが、生まれてこのかた一度も牛にさわったことがない。|急遽《きゆうきよ》勤務場所を畜産団地にまわしてもらい、半年間働いた。その間にも、コメや野菜や|果物《くだもの》や牧草の種類や育て方などを書いたメモを家じゅうに|貼《は》って、覚えた。 「見たこともないものを頭だけで覚えてもねえ、と思ったけど、試験まで時間がない。あんなに勉強したことはなかった」  |県選抜《けんせんばつ》と全国選抜の試験をパスし、次にはヨーロッパ農業やドイツ語の合宿講習を受け、ようやくスイスに向かったのは一九九七(平成九)年春だった。牛が二十頭と豚が二十頭、それに牧草や小麦をつくっている複合農家にホームステイすることになった。牛や豚の世話をし、畑で働くのはオヤジと宮野の二人だけ。 「しかもオヤジは『あれ、やっとけ。おれは|釣《つ》りにいってくる』とか言って、ボートでパーッと行っちゃう。広い草地を一人で|刈《か》らなきゃならない。日本ならたいらな畑に種を|蒔《ま》くのに、あっちでは山の|斜面《しやめん》ですよ。たいらな畑もあったけど、そこではオヤジが機械で刈っていったあとを、私が機械が拾い残した草を集めていく。一日中、もう走りっぱなしで、くたくた」  もうれつに腹が減った。しかし、食事は質素だった。朝はパンと牛乳だけ。昼はスパゲティー。たまに豚をつぶしたといって、豚肉が出る。ウサギの丸焼きが出たこともあった。さあ、夕飯だ、と期待していると、ピザの生地のようなパンに一切れ、二切れのフルーツがのっているだけ。 「腹減って、死ぬわ、と思った」  行って一カ月で、十五キロ|痩《や》せた。半年もしないうちに、この体がなくなっちゃうんじゃないかと本気で心配した、と宮野は笑う。|死《し》に|物狂《ものぐる》いで働いて病気にでもなったら一日休めるんじゃないか、と考えもした。しかし、それ以上は痩せなかったという。 「気が張っていたせいか、それほど追いつめられても|怪我《けが》も病気もしなかった。やれば、できるんだ。人間、けっこう|丈夫《じようぶ》にできているものだな、と思いましたよ」  休みは|隔週《かくしゆう》の週末の一日半だけ。彼はその土曜日の正午まで働いて、あわてて昼ご飯をかき込み、一時には家を飛びだした。鉄道駅までは歩いて三十分かかる。十三時半の列車に飛び乗り、三十分かけて近くの小都市まで行く。スイスの商店は土曜日は午後三時までしか開いていない。彼は|駆《か》け|足《あし》で食料品店に飛び込み、パンとサラミとチョコレートとウイスキーを買い込む。 「夜、あんまり腹が減りすぎて、|眠《ねむ》れないんですよ。一人で自分の部屋にこもって、ウイスキーをちびちび飲みながら、パンとサラミをかじるんです。そういうときは『オヤジのバカヤロー』なんて日記を書いてましたね。ところが、だんだん慣れてきて、もう後半になると、あと何日しかない、あと何百時間で終わってしまうんだ、このあいだにどれだけたくさんのことを吸収できるかと考えていた」  どういうことを? 「農業だけ勉強するのなら、日本でもできる。日本で勉強したほうが、日本の農業のことはよくわかる。わざわざヨーロッパまで行くというのは、もっとちがうことを吸収するためだと思う。自信とか、経験とか……なんか、そういうもの。形にならないものだから、帰る日が近づくと、できたのかな、とあせってしまうんですよ」      *  黒川村に帰ってきた宮野は伊藤村長の自宅に報告に行った。  ごくろうさん、と言った伊藤はお茶を出してくれ、スイスでの話をいろいろたずね、やがて庭の花や木の説明をはじめた。庭には何列も|盆栽《ぼんさい》が並んでいた。立派な庭木もたくさんある。二時間ばかり話したあとで帰ろうとしたとき、だしぬけに伊藤は、今度、藤井君にはコメの粉をやってもらう、きみはビール担当だから、と言った。 「えーっ、てなものですよ。スイスに行く前、コメの粉の話もビールの話も、村でやるなんて、聞いたことがなかった。私はビールのことなんて何も知らない。どうやるんだ、どうやればいいんだ……全然わかりませんでした」  一九九四(平成六)年、酒税法の一部が改正され、それまでは年間二千キロリットル以上の製造量がなければビール製造ができないとされていた規制が、六十キロリットル以上に引き下げられた。これによって小規模な業者でもビール製造に参入できるようになり、各地で地ビールがブームとなった。しかし、このときまだ地ビールづくりに乗りだした自治体はなかった。  伊藤村長が考えたのはホテルが並ぶ胎内川の対岸に、木造の|雰囲気《ふんいき》を|活《い》かしたビール園を建て、そこで地ビールもつくれば、飲んだり食べたりできるレストランも開いて、ビール原料の大麦や、料理メニューの肉やソーセージや野菜やコメはできるだけ村内から調達する、ということだった。そこで出るビール|滓《かす》や生ゴミは堆肥センターに回収し、有機肥料にして食べ物づくりに役立てる。  伊藤はスイスからもどってきたばかりの宮野に、もう一度、今度はドイツにビール製造の研修に行け、と言った。そのとき宮野は「私ばかりで悪いですね。ほんとにいいんですか」と聞き返した。役場の|同僚《どうりよう》たちの多くが、かつての自分と同じように、次は自分が農業研修に行きたいと思っていることはわかっていた。  のちに伊藤が語っている。 「私はね、彼が『いやだ』とか『考えさせてくれ』と言うんじゃないかと思っていた。そういう答が返ってきたら、もうだめですからね。意気込みがないんだから。私のほうからお断わりのつもりだった。人生、意気に感じることがだいじです。それに、ドイツの|醸造《じようぞう》技術を、言葉は悪いですが、|盗《ぬす》まなければ、本物のビールはできない。帰国したばかりで、まだ言葉がいちばん新鮮な宮野君がいいだろう、と考えた。『私でいいんですか』という返事を聞いたとき、これで大丈夫だ、と思いましたよ」      *  宮野は国内の三カ所の地ビール工場で実地の研修を受けたあと、ドイツ南西部の小さな街に向かった。ホテル|兼《けん》アパートの一室を借り、そこから一カ月間、工場に通って、ビールのつくり方を習った。二人の職人が働いているだけの、小さな工場だった。それも白い服に白い作業用|長靴《ながぐつ》というのではなく、ジーンズにTシャツ姿の、ほとんど|普段着《ふだんぎ》のままの職人たちだ。その彼らが、地元で最高のビールをつくっていた。習う、というより、いっしょに働くという感じだったという。 「日本語ではわかっていても、専門用語のドイツ語がわからない。一覧表に書きだしたりして勉強しましたね。また一からですよ」  彼がドイツで学んだことは、ふたつあったという。第一は、同じ味のビールは絶対にできない、ということ。同じ装置で、同じようにつくっても、微妙にちがう。一週間後と二週間後では、同じものがまたちがう味になる。これは、一六世紀来のドイツのビール製造基準がホップと|麦芽《ばくが》と酵母以外の混ぜ物の使用を禁じていて、ビールがいわば生ものとして考えられてきたからである。  第二は、お客たちがそのちがいを話題にし、そこから街や世の中や世界のことをわいわい議論するような、ビールを|核《かく》に広がっていく文化があること。 「どんな街に行っても、夜中の二時、三時までビールを飲みながら盛りあがっている店がある。そういうなかで、ビールづくりも|鍛《きた》えられていく。黒川村にもどったらそういうのをやりたい、と|痛烈《つうれつ》に思った」      * 「胎内高原ビール園」の建設は、農水省の経営|基盤《きばん》確立農業構造改善事業の補助金を|含《ふく》めて、約七億円の事業だった。宮野は上司と相談しながらではあったが、その事業計画から建物の設計、建設、運営を一人で担当することになった。彼はこのとき二十七歳だった。  この時期、もう一方では、藤井義文が米粉処理加工施設の事業計画づくりと建設、稼動に向けて動きまわっていた。こちらは六億円の事業である。このとき藤井も二十七歳。  海外での農業研修経験者のとりまとめや、これから出かけていく若い職員へのアドバイス役は、スイスに行ったことのある伊藤和彦が務めている。その伊藤が言った。 「二十七歳なんて、ほかの自治体や|企業《きぎよう》では、まだ一人前に|扱《あつか》われていないんじゃないですか。悪く言えば、ヒヨッコ扱いでしょ。だけど、この村では六億円、七億円を、ポンッとその二十七歳の二人に全部あずけて、『さあ、あとはちゃんとやれよ』と任せちゃう。任されたほうも、何とか頑張って、やっちゃうんですよ。このへんが黒川村の強みなのかな、という気がする」  そこに農業研修で苦労した経験が生きてくる、ということ? 「それは確実にあります。だけど、行った行かないに関係なく、そういう空気がある。いろんな村営事業をやっているから、あっちを手伝ったり、こっちに応援に行ったりしているうちに、たいていの職員が二度や三度のトラブルは経験して、そこを切り抜けてきてますからね。はじめはシロウトでも、そういう自信がだんだんに身についてくるのかもしれない」  またホテルやレストランや農畜産物加工施設など、すでに動いている施設がいくつもあるから、設計、建築、機具、装置等々の取引先のこともある程度はわかっている。担当職員に教えてもらったり、そのどれかを通じて紹介してもらえることも少なくない。  それでも、ひとつの事業をいきなり任された若い職員は苦労する。書類づくりには慣れていないし、業者とのつきあい方もわからない。建物や設備は何とかなったとしても、今度はそこで自分が働いて、事業そのものを立ち上げていかなければならない。考えるべきことは山のようにある。ハムやソーセージの加藤誠も、ヨーグルトの南靖宏も、そこをくぐり抜けてきたのだった。  宮野が言った。 「朝から晩まで、事業計画書や税務署に出す書類づくりをやって、気がついたら、役場には藤井と私しか残っていない。彼は彼で、頭を|抱《かか》えている。夜の十一時か十二時になって、『そっちはどう?』『うまくいかねえよ』とか言って、おたがいに手伝いあったりしたよね。そのうちに|疲《つか》れて、『酒でも飲もうか』と。そんな毎日だった」      *  胎内川の河岸に|尖《とが》った屋根と、白い|壁面《へきめん》に|格子状《こうしじよう》の柱が印象的なドイツ様式の建物が建ち、ドイツ製の醸造プラントが|据《す》えつけられると、ドイツから若いビール醸造マイスターがやってきた。村が住居を用意し、半年間の契約で|依頼《いらい》したマルクス・ルツィンスキーだった。  彼は宮野よりひとつ年上で、日本にくるのはもちろんはじめて。その後、彼は滞在をさらに半年のばし、結局、黒川村に一年間暮らすことになった。  マルクスが言う。 「すごい田舎の村でびっくりした。でも、山のなかに真新しいビール工場もレストランもあるし、ホテルやスキー場もあって、それを全部、村で経営していると聞いて、めずらしいな、と思った。そんなことをやっている村はドイツにはないですよ。私は日本語ができなかったので心配していたら、役場には、宮野ばかりではなく、ドイツ語を話す人がたくさんいた。これにもびっくりしたよ」  地ビールをつくりはじめた各地の地場企業のなかには、ドイツ製の醸造装置を導入するところも少なくなかったが、技術者をドイツにまで派遣して研修させるケースはほとんどなかった。宮野がドイツで研修してきたと知って、これはうまくいくだろう、とちょっと安心したという。  伊藤村長とはどんな話をした? 「どういうビールをつくりたいのか、いろいろ聞きました。彼は『ドイツでつくっているのと同じ、本物をやりたいんだ』と言う。私が非常に注意深く聞いたのは、文化とか考え方のちがいですね。日本の大手メーカーのビールは、四百年以上前から使われているドイツの基準に従えば、ビールではない。アメリカの大メーカーのビールも、ビールとはいえない。コーンスターチなどを加えるだけでなく、賞味期限をのばすために、最後の熟成後に濾過してしまうからです。濾過して酵母を取り除いてしまえば、もう生きたビールではなく、工業製品でしょ。本物をつくりたい、といっても、そちらのビールに慣れていれば、私のつくるビールを好んでくれないだろう。それを|怖《おそ》れたんですね」  現実には、どうしたの? 「私がやりたいように、ドイツと同じビールをつくりました。それが受け入れられたんです」  ビールづくりには水がだいじと言われるが、胎内の水はどんな印象だった? 「いいですよ。とくにヨーロッパでもっともポピュラーなピルスナー・ビールをつくるには、ミネラルが少なく、軽い口当たりの胎内の水は合っている。ピルスナーの|発祥地《はつしようち》はチェコのピルゼン市ですが、あそこの水に似ているので、すっきりした苦みのあるビールができます」  マルクスと宮野はこのピルスナーと、ドイツ・バイエルン地方のヴァイツェン(大麦と小麦をほぼ半々で使い、やや|甘《あま》みのあるビール)と、アインベック地方のボック(ホップの|香《かお》りが強く、アルコール分も少し高い黒ビール)の三種類を定番ビールにすることに決めた。  これらに使う大麦は、二条大麦という種類である。村でできる農産物を使いたいと考えた宮野は、村内の十戸の農家に頼んで、減反政策でコメがつくれなくなった田んぼに二条大麦を植えてもらったが、春遅くまで根雪が残っているこの地域では、うまく育たないことがわかった。ここでできるのは六条大麦だ。その六条大麦を原料に十五パーセント混ぜて、クッパー(ドイツ語で「|銅《どう》」の意味)というビールもつくった。こちらはまだ収穫量が一定しないので、季節限定ビールにした。      *  一九九九(平成十一)年四月、胎内高原ビール園がオープンした。伊藤村長が|祝宴《しゆくえん》の|挨拶《あいさつ》に立った。彼がまず|触《ふ》れたのは、あの二度の水害の話だった。両方で三十二人の村人が亡くなったこと、以来三十有余年、その悲しみを乗り越え、村が一丸となって一生|懸命《けんめい》にここまでやってきた。 「何としても地域を活性化しようと、豊かで、|潤《うるお》いのある、そして、みんなが健康で元気に、それぞれの職場で働けるような村にしたい。それを行政のモットーにしてきました」  どこの自治体の首長でも語るような言葉だったが、この村が宿命のように背負ってきた|豪雪《ごうせつ》と|出稼《でかせ》ぎと貧しさ、二度の水害とその後の歩みを知ってみれば、彼の話には重みがあった。祝宴のうしろで聞いていて、私には彼の口調が少し|湿《しめ》ったのがわかった。  その日、宮野とマルクスがつくった四種類の地ビールがふるまわれた。二人とも昨日までの作業服から黒いスーツに着替え、かしこまっていた。ちなみに、マルクス・ルツィンスキーはここで一年間働いたあとも、日本各地の地ビール工場でドイツビールの製法を指導する仕事をつづけ、結局そのまま日本に居ついてしまった。黒川村にきたことで、彼の人生も大きく変わったのである。 「黒川村は、日本における私の故郷になりました」  ずっとあとになって、彼はそう|述懐《じゆつかい》した。  テーブルにのっていたのはそのビールで|漬《つ》けたキュウリやキクイモ、畜産団地の牛や豚を使い、農畜産物加工施設でつくられたハムやソーセージ、村の農家でとれたそばと野菜を材料にした手打ちそばと天ぷらや枝豆など、すべてが村の生産物だった。藤井がはじめたばかりのライスパウダーからできたパンとパスタとピザも、もちろんあった。  ビール園のテラスに出ると、胎内川のまんなかで、高さ五十メートルに達するという|巨大《きよだい》な|噴水《ふんすい》が|噴《ふ》き上がっていた。対岸の|木陰《こかげ》のなかには村営ホテルが並び、これらを取り巻く山々から|吹《ふ》き下ろしてくるひんやりした川風が|渡《わた》っていく。      *  そのテラスで、私は伊藤にたずねた。村のいろんなものが、うまく回転しはじめたんじゃありませんか? 「内側はそうやって循環させる仕組みをつくりながら、外側はライン川の景観みたいなものを考えているんですよ。きてくれたお客さんが食べたり、飲んだり、|泊《と》まったりするだけではなくて、|飯豊連峰《いいでれんぽう》からつづく|雄大《ゆうだい》な景色を|堪能《たんのう》できる。ひとつひとつがばらばらではなく、つながっていることがだいじです。つながっていないと、村のなかの仕組みも持続しないですから」  これでほぼ完成、ですか? 「いや、終わりはありませんよ。つねに新しいものをつけ加えていくことがだいじだと思っているんです」  よく足を運ぶディズニーランドのように? 「ははっ」  次は何ですか? 「胎内川の対岸に本格的なホテルを建てます。ビールをつくってみて、胎内の水のよさがわかったから、ミネラルウォーターもやります。それからフルーツパークも考えているんですよ。一種の果樹園ですが、農家風のコテージも建てる。ここの農家がブドウを植えて、都会のみなさんにオーナーになってもらう制度にしようと。そのブドウからワインもつくりたい」  次から次へといろいろ考え、実現していく……ひとつうかがいたいんですが、半世紀近く村長という立場から村の変化を見ていると、どういう気持ちになるものですか?  伊藤はしばらく考え込んだ。 「私にすれば、スケッチをしている、絵を|描《か》いているような感じですね。ここをこうしよう、こちらにはこれを描こう、と自分でいろいろ考えて、絵にしていく。そういう感じがいちばん近いかな。やはりすばらしい絵を描きたい、というのが私の念願ですね」  これが、私が彼とかわした最後のやりとりだった。 [#改ページ] ————————————————————————————  6 このあとをだれが|継《つ》ぐのか ————————————————————————————  かつて青年の村の一員として新しい黒川村農業をつくりたいと考えていた高橋|源三郎《げんざぶろう》・|末子《すえこ》夫妻は、いま六十代の後半にさしかかった。孫に囲まれ、いわば楽しみのようにコメづくりをつづけている。その高橋に村の農業の現状を|質《ただ》したとき、顔が少し|曇《くも》るのがわかった。  私は、さまざまな観光|施設《しせつ》ができたわりには農家はあまり元気がないのではないか、と話を向けた。|胎内《たいない》高原ビール園のオープンのときには特別に村内でとれた作物だけの料理が出たが、これが常時とはなっていない。青年の村をはじめたとき、ほんとうはもっとたくさんの作物をつくること、もっと別の農業像を|描《えが》いていたのではなかったか? 「|伊藤《いとう》村長の本音はそこにあったかもな。しかし、ここではむずかしいんだ。雪も多いし、寒さもきびしいから、野菜がなかなかとれない。ハウスを建てて温室でやればいいが、そうすると採算がとれない。投資しても、もとがとれないんだな。片一方で、外国から安い野菜がどんどん入ってくる。ここには黒川村だけではどうしようもない政治の問題が入ってくる。政治は工業を優先して、農業を苦しめている。農業が|魅力《みりよく》のない仕事になってしまった。うちだって二人の|娘《むすめ》がいるが、農業|後継者《こうけいしや》にはならなかったものなあ」  村のなかに家の後継者はできたが、農業の後継者はできなかった。もともと青年の村は農業後継者を育てる、その|基盤《きばん》をつくりだすことが|狙《ねら》いだった。また同じスタート地点に立っているような気がしませんか? 「んだ。また同じ問題に直面しているな。おれもそう思う」      *  高橋が、それでも農業でがんばっている人もいるんだ、と挙げた|渡辺俊一《わたなべしゆんいち》に会いにいった。渡辺はビール園ができたとき、田んぼの一部を転作し、ビール製造に使う六条大麦をつくりはじめた一人だった。|彼《かれ》らは生産者組合を組織して、ビール園に直接|販売《はんばい》する仕組みをつくった。 「品質とか生産量とか値段とか、村のビール園と直接に話ができるというのはいいですよ。市場を通じて出荷すれば、そのさきはどうやって、だれに売れていくのかわからない。われわれもビールを飲むし、ビールを飲む観光客も近くで見ることができる。消費者が見える、というのは仕事の張り合いになるんですね。六条大麦の品質がどうだこうだ、と言われれば、じゃあ来年の植える時期や肥料はこうしてみようか、とおれも考える。こういう|工夫《くふう》の余地があったほうが、農家は|面白《おもしろ》いんです」  しかし、大麦をつくると、地力が落ちる。翌シーズンは|大豆《だいず》やそばをつくって、回復しなければならない。すると大麦の年間の|収穫量《しゆうかくりよう》にばらつきが出て、ビール園のほうでは製造量が安定しないという|悩《なや》みを|抱《かか》えることになる。コメからそばへの転作にしても、水田地帯のなかにある土地は水はけが悪く、うまくできない。このあたりに生き物相手の農業のむずかしさがある、と彼は言う。  しかも大麦は政策的に保護されたコメとちがい、国際市場の価格がただちに国内産の価格にも反映する。ビール園が開業した三年後、大麦の値段が急落し、それにつれてビール園の買い入れ価格も下がって、現在もその低水準のまま推移している。村役場はもっとつくってほしい、と|要請《ようせい》するが、農家は|儲《もう》けにならないどころか、へたをすると赤字になってしまう。当初は十|軒《けん》の農家ではじめた生産者組合も、いまは三軒に減った。 「村がせっかく地ビールやそばをやっているのだから協力したい。そう思っておれはつづけているんです」  渡辺は五十代のなかば、|出稼《でかせ》ぎをしたことのある最後の世代だ。十代のおしまいから二十代にかけての五年間の冬、東京や千葉の製パン工場で働いた。出稼ぎをしなくなってから三年間は農協から|請《う》け|負《お》って、肥料を各農家に配る仕事をやったが、その後の十年間は村営スキー場で働いた。冬場の仕事が村のなかにできて、外に働きに行かなくてもよくなった時期だ。  他方で農業の機械化が進み、車が|普及《ふきゆう》しはじめると、村役場と各種の村営施設で働いたり、あるいはとなりの|中条町《なかじようまち》に進出した|企業《きぎよう》に就職する人もふえてきた。専業農家の渡辺自身はコメや大麦のほかに大豆やそば、ユリなどの花類を試みる一方で、農業用地をふやす努力もしてきたという。最近も冬場の仕事のために、自宅のそばに広々とした作業場を建てた。 「会社や役場勤めをする人がふえれば、農地が|浮《う》いてきますよね。それを、われわれ専業農家が請け負ったり、|購入《こうにゆう》して利用すれば、事業規模の拡大につながる。小規模ではコストがかかりすぎてできなかったハウス|栽培《さいばい》をやってもいいし、村に|畜産《ちくさん》団地があるから牧草地にしてもいい」  農業の多様化は、むしろこれからだと? 「それにはもっと若い、やる気のある人が入ってこないと、ねえ。おれは農業をやってきて思うけれど、農業はやればやるほど面白い。この村はホテルもビール園も地域活性化センターもあるから、自分でつくったものが消費者にどう受け入れられているかもわかる。いい勉強になるんです。これからの農業には、そういうなかで変わっていくんだと、そういう勢いが見えるようにする|仕掛《しか》けが必要なんだと思うな」      *  ロイヤル胎内パークホテルが|竣工《しゆんこう》した一年後の二〇〇二年春、|布川《ぬのかわ》陽一は村役場を去った。伊藤村長がはじめて海外農業研修に送りだした若者であり、帰国後は青年の村建設、畜産団地、そば、ホテルとほとんどの事業にかかわって、伊藤の|右腕《みぎうで》といわれるほどの働きをしてきた人物である。最後の二年間は助役として村長を|補佐《ほさ》してきた。 「私がやれることはだいたいやり終わったし、|後輩《こうはい》たちも立派に育ったので、これからさきは個人的にやりたいことをやろうと。若いときにドイツで世話になった農学博士が|亡《な》くなったんで、そのお墓参りもしたかったしさ」  辞める前の一時期、布川は「フルーツパーク」にかかわっていた。伊藤が、農家といっしょになってブドウなどを育て、それを都会の人たちにオーナーになってもらい、ワインもつくりたいのだと言っていた果樹園である。黒川エリアの近くの山を大々的に造成した果樹園からは日本海が遠望でき、胎内エリアや|樽《たる》ヶ|橋《はし》エリアとはまた別の目玉になりそうな大規模事業だった。  しかし、果樹は五年、いや、多くの場合は十年単位で事業を組み立てなければならない独特の農業分野である。ある品種がこの|土壌《どじよう》に合っているかどうかを見きわめるだけでも、時間がかかる。コメ中心の農業が|行《ゆ》き|詰《づ》まっていることはわかっていても、農業構造を変えていくのは容易ではない。 「われわれは村民一人ひとりのためにやってきた。しかし、都会の人を集めるオーナー制度となると、それだけ村との接点が|薄《うす》くなる。これは新しい分野なんですよ」  だから、この事業は新しい人たちがやるほうがいい——そう語る布川の言葉には、黒川村がひとつのコーナーを曲がりきったという実感、次の直線コースに向かって走るためのあらたなビジョンが必要になったのに、それがまだ見えていないという不安、あるいは|焦燥感《しようそうかん》のようなものが|込《こ》められているようだった。  布川は一年間の予定でドイツに向かうことにした。恩人の墓参りのあとは好きな山登りをし、村ではまだやっていないチーズのつくり方でも勉強しながら、ドイツ文化を、とくに公共|概念《がいねん》の|基礎《きそ》となる社交文化についてゆっくり考えたいと思っていた。村にはさまざまな施設ができ、暮らしも豊かになってきたが、しかし、村の人たちが集まって談論風発しながら、あらたな公共意識を形成するような文化は生まれただろうか。これが彼のなかにあった課題のひとつだった。  伊藤にチーズの話をすると、チーズをつくることはすでに村で考えている、という。その年の五月、荷物がひとつ減ったような気分で、布川はドイツに旅立った。  出発の日の朝、妻に送られて中条駅に着いた彼は、東京に出張する村長と|偶然《ぐうぜん》に出くわした。大きなリュックを背負った布川に、伊藤は「どこの山に登るんだね」と聞いた。「いえ、これからドイツに行きます」と答えると、「ほうっ」と言ったきり、あとは何も言わなかったという。 「ドイツ国内を旅行して、山にも登って……三カ月くらいしたとき、家に電話したんですよ。そうしたら家内が『村長さんから、手紙を出したいから|連絡先《れんらくさき》を教えてほしいという電話が何度もあった』と言う。ずっと移動してたんで、家の者にも連絡できなかったんです。すぐに村長に電話したら、『帰ってこい』と。旅行もちょうど一段落したときだったから、またくればいい、そう思って、いったん村にもどることにしたんです」  だが、布川がドイツにとって返し、旅行をつづけることはなかった。思いもしなかった出来事から、やがて彼はふたたび村役場にもどることになるのである。      *  このころ、ミネラルウォーターをペットボトルに詰めて売りだす事業が動きだしていた。  |飯豊連峰《いいでれんぽう》から|伏流水《ふくりゆうすい》となって降りてくる雪解け水を専用の|井戸《いど》から|汲《く》みあげ、フィルターを通過させて異物を取り除く。加熱|殺菌《さつきん》装置をとおった水を熱いまま、小は三百六十ミリリットル、大は二リットルのペットボトルに|充填《じゆうてん》する。次にはいっきに冷まして、ラベルを|貼《は》って製品化する。  かつて胎内川に流れ込み、死者を出すほどに大暴れした山の水は、こうしてひとつの商品に仕立てられることになった。これもまた農水省の新山村|振興《しんこう》等農村漁業特別対策事業の補助金を使った村営事業である。  しかし、水だけでは山村振興になりにくい。ここに農産物を|噛《か》ませ、農家の収入増になるような仕組みを考えないといけなかった。担当したのは、二十代のころに村の女たちの内職の場や炭焼き小屋をつくった坂上|敏衛《としえい》だった。  坂上は設計会社やプラントメーカーと相談しながら、ドイツ建築様式のビール園の弟分のような建物を、胎内川|段丘《だんきゆう》のひとつ上に建て、そこに装置一式を|据《す》えつける計画を進めた。これが「胎内高原ミネラルハウス」である。山々を|眺《なが》めながら水やお茶を飲む静かな|休憩室《きゆうけいしつ》があり、うしろをふり返ると、広いガラス|壁《かべ》の向こうで殺菌された水が次々にペットボトルに詰められる工場の光景を見ることができる。  その一方で、彼は十人ほどの村人に声をかけ、ほとんど使われなくなった中山間地の畑に薬草を植えてもらうことにした。それを加熱殺菌した胎内の水を使って、薬草茶にしようというのである。ペットボトル詰めのミネラルウォーターやお茶はすでに何十、何百種とあるが、原材料のすべてを自前でまかなうのは、ここがはじめてだという。 「薬草は、言ってみれば野草や雑草の|類《たぐい》ですから、放っておいても育ってくれる。飲み物にするのだから、もちろん農薬などは使わないほうがいい。山のなかの畑は、そこから上は人も住んでいない場所にあって、人工的に|汚《よご》されていないんです」  雪の多さや|傾斜地《けいしやち》労働の大変さ、寒さや|湿度《しつど》などのほかに、山の畑が使われなくなった理由がもうひとつあった。この村でも、サルの|被害《ひがい》が広がっていたからだ。  野生のサルが人里を|荒《あ》らすようになった理由のひとつに、人里それ自体の変化があった。|減反《げんたん》で休耕田が次々に広がり、切り株などから出た芽が放置されていること。人里と山林が交じり合うあたりで生えたり熟したりする竹の子や|渋柿《しぶがき》や|栗《くり》などを、人がとらなくなったこと。どれもサルにとっては、格好のエサ場になった。また農作業の機械化が進んで、人間が田畑で働く時間が短くなり、サルには|怖《おそ》れる相手がいなくなったことも大きな理由になっている。  昔は人々が朝から晩まで田畑に出て、必死で|汗《あせ》を流していた山あいの村もいまやすっかり|変貌《へんぼう》を|遂《と》げ、山の畑に野菜をつくっても、ほとんどサルに食べられてしまうようになっていた。つまり、それだけ村の人たちが豊かにもなれば、昔にくらべてちょっと|怠《なま》け|者《もの》にもなってきたということである。 「ところが、どうもサルたちは薬草が好きじゃないらしい。植えても、興味を示さないんです。だから農家は安心して育てられる」  いま十軒の農家がキバナオウギ、カワラケツメイ、オウゴンなど四種類の薬草を育てている。真夏と秋の二回、|刈《か》り|取《と》った薬草を天日干しにする。その全量を胎内高原ミネラルハウスが買い上げ、村外の業者に|焙煎《ばいせん》してもらい、薬草茶をつくる。ここではまた、ビール用に栽培した六条大麦を利用した麦茶も製品化している。  どんな薬草を育てるか、何と何をブレンドするか、焙煎の度合いによって味はどう変わるか、と試行|錯誤《さくご》しているうちに、季節は何度もめぐってしまった。相手は雑草の一種といっても、人間の思いどおりにはいかない自然であることにはかわりがない。ようやく商品として売り出されたのは二〇〇三(平成十五)年の四月だった。 「伊藤村長のところに持っていきました。いえ、村長室ではなくて、病室です。毎日飲んでいた、という話をあとで聞きました」      *  伊藤|孝二郎《こうじろう》は長生きするだろう、と周囲の人々は思っていた。この年の三月、彼の母親が百三|歳《さい》の、文字どおりの|天寿《てんじゆ》を|全《まつと》うして亡くなった。彼はこの長生きの血筋を引いているはずだった。そのこと以上に、伊藤村政は半世紀近くにおよんでいる。多くの村の人たちにとって、彼のいない村をイメージすること自体がむずかしかった。  この数年前の十一期なかば、伊藤は胃ガンになり、胃のほぼ全部を|摘出《てきしゆつ》する手術を受けている。しかし、退院してくるとすぐに公務に復帰し、たちまち元気を取りもどした。月に一度の血液検査でも再発の|徴候《ちようこう》はなかったし、何より彼自身が以前と同じように動きまわっていた。  彼は母親の|葬儀《そうぎ》をすませると、北海道にスキーに出かけた。ときどきあちこちにスキーや登山に出かけるのは、次の村営事業のヒントを得ることと、彼自身が自分の健康状態をたしかめることの両方を|兼《か》ねていた。あと半年後には十二期目の任期が終わる。十三期目に|臨《のぞ》むためにも、体の調子を|試《ため》しておきたい。伊藤はそう考えたようだった。  これまでの十二回の村長選のうち、実際に投票が行なわれたのは四回だけで、あとは対立候補がいなかった。その四回も、新人だった初回を別にすれば、どれも圧勝。次回も対立候補が立つ気配はなかったが、そろそろ準備だけはしておかなければならない時期にさしかかっていた。  |後援《こうえん》会長の馬場|肝作《かんさく》が言った。 「私たちもそのつもりで選挙準備にとりかかっていました。村長は『十三期目を村長としての総仕上げの任期にしたい』と言っていましたから。本人も私たちも健康状態のことは、まったく心配していませんでした」  馬場の父親、馬場|金太郎《きんたろう》は村の開業医であったと同時に、「ババキン」の|愛称《あいしよう》で呼ばれる|昆虫《こんちゆう》学者でもあった。昆虫学の著作のほかに多くのエッセイも残している。  昆虫学の方面でよく知られているのは、かぼそいトンボのようなウスバカゲロウの幼虫の研究である。ウスバカゲロウの幼虫は「アリ|地獄《じごく》」とも呼ばれ、|漏斗状《ろうとじよう》の穴を|掘《ほ》り、その底に|隠《かく》れてアリなどが落ちてくるのを|待《ま》ち|伏《ぶ》せする。エサをたっぷり食べた幼虫はやがてウスバカゲロウになって、|生涯《しようがい》に一度だけの|糞《ふん》をする。あとは何も食べないから、そのまま口は退化していく。やがて|交尾《こうび》し、オスはほとんどすぐに、メスも卵を産んだ直後に死んでしまう。ところが、要領が悪く、なかなかエサにありつけない幼虫はじっと穴の底で待ちつづけ、かえって何倍も長生きする——彼は昆虫世界のこんな|奇妙《きみよう》な生態の観察に熱中した。  ヨンニ水害で多くの死傷者が出たとき、現場でけが人の手当に走りまわる一方、積み上げた|薪《まき》の上に遺体をのせて焼くように指揮したのは、この馬場金太郎だった。かつて軍医として|召集《しようしゆう》されたとき、たくさんの戦死者をそうやって|弔《とむら》ってきたのだという。水害以後、金太郎と伊藤は|囲碁《いご》友だちになった。 「二人とも負けず|嫌《ぎら》いなんですよ。トイレからもどってきたどちらかが『あ、石を動かしただろう』とか言って、『そんなことするか』『いや、この石はここじゃなかった』なんて大声でやりあってました。子供心に、この二人は仲がいいんだろうか、悪いんだろうか、と不思議だった。よかったんでしょうね」  父の|跡《あと》を|継《つ》いで医者になった馬場肝作はそう言って笑った。彼は精神科や老人|医療《いりよう》を中心とした黒川病院を建て、他方で伊藤孝二郎後援会の会長を務めてきた。十三期目を狙う選挙がいつごろになりそうか、カレンダーをめくって考える日々がはじまっていた。      *  ドイツの農業研修から高橋|雄幸《ゆうこう》がもどってきたのは、ちょうどこのころだった。帰国する直前に二十四歳になった。  彼はデンマークに近い北ドイツの|丘陵《きゆうりよう》地帯、黒川村全体の面積の半分もある広大な農場で四百頭の乳牛と二百頭のヤギを放牧し、|搾乳《さくにゆう》からチーズづくりまでを|一貫《いつかん》してやっている農家に入った。家族と高橋の四、五人で牛とヤギの世話をし、ポーランドなどからの八人のワーカーがチーズ工場で働いていた。家畜の|糞尿《ふんによう》は処理して有機肥料にするほか、バイオガス化して燃料に変え、発電機をまわして家や工場の電気をまかなう、という|徹底《てつてい》した有機農法の農場だった。  ここで製造されたチーズは各地の有機農産物の店で販売されていたから、農場は全国的にもよく知られていた。年に一度、農場で|開催《かいさい》されるチーズ・フェスティバルには一万人を|超《こ》える人々がやってきて、ごった返した。  高橋はとなりの|荒川町《あらかわまち》で生まれ育った。家が何十頭もの和牛を飼う畜産農家だったので、ドイツに行っても牛の多さには|驚《おどろ》かなかったという。 「でも、ヤギははじめてなんですよ。人なつっこいな、と思って安心していると、いきなり|蹴飛《けと》ばしたりする。|臆病《おくびよう》なのかな。搾乳中に|跳《と》んだりはねたりするから、器具がはずれてしまう。一度に二十頭ずつ並べて搾乳するんですが、おしまいのほうの器具をつけ終わらないうちに、前のほうはもう終わっている。そのほかにエサをやったり、|堆肥《たいひ》を出したりもやらないといけない。一人でやっていると、もう目がまわりそう」  一年間の最後の六週間はチーズ工場で働いた。牛とヤギのチーズをそれぞれ六種類ずつつくっていたが、もちろんはじめての仕事だったし、大型の工場で、あれこれ指示されたとおりに動きまわるだけで|精一杯《せいいつぱい》だったという。  帰国して伊藤村長に|挨拶《あいさつ》に行った。ドイツに行く前はホテルで働いていたので、またそちらにもどるのだろうと思っていた。 「そうしたら、『チーズ、やってみるか』と言われたんです。翌日から配属も変わって、チーズづくりをやることになった。ドイツの農場のチーズ工場で働いたといっても……あれはただワーカーとして働いただけで、自分で最初から計画を立てて、道具や機械をそろえてというようなことは、やったことないですよ。あわてて|新潟《にいがた》市内のデパートやスーパーに飛んでいって、どんなチーズを売っているのか調べるところからはじめました」  伊藤村長はジャージー牛の牛乳からつくるチーズのほかに、ヤギの乳からできるチーズもつくって特産物にしたい、と言った。国産のヤギのチーズはほとんどなく、店頭にあるのはヨーロッパからの輸入品だ。北海道にスキーに行ったり、|膨大《ぼうだい》な新聞や雑誌やテレビに目をとおすなかで、彼はそんなことも頭に入れていたのかもしれない。  しかし、村の畜産団地ではヤギを飼っていない。村内の農家でも、戦後の一時期に飼育したことがある程度だった。高橋は、製造するチーズの種類、それに必要な装置一式、つくり方の勉強のほかに、畜産団地の|熊倉紘獣医《くまくらひろしじゆうい》といっしょにヤギの購入や飼育の算段までしなければならなくなった。二〇〇三(平成十五)年晩秋、畜産団地ではチーズ製造にそなえて十数頭のヤギを飼いはじめた。  チーズづくりは牛やヤギの乳を殺菌し、|凝乳剤《ぎようにゆうざい》や乳酸菌を入れて|豆腐状《とうふじよう》に固めるところからはじまる。型に詰め、乳清と呼ばれる水分を時間をかけて飛ばし、固めていく。加える乳酸菌の種類、培養庫の温度や湿度、熟成させるかさせないか、また熟成期間の長短によってそれぞれにちがうチーズになる。世界には千とも二千ともいわれるほどたくさんの種類のチーズがある。  高橋はとりあえず三種類のチーズをつくることにした。ジャージー乳からモッツァレラとブリーの二種、ヤギ乳からは表面に灰をまぶしたソフトタイプのチーズである。  モッツァレラはやわらかで、口に入れるといかにもチーズらしい風味が広がる。熟成させないタイプなので、一日でできるかわりに食感を一定にするのがむずかしい。ブリーはつるんとした食感で、味は薄い。ジャージー乳の|濃《こ》さが|活《い》きるチーズだ。四週間の熟成期間中の温度や湿度の管理に気を|遣《つか》う。 「やっぱりいちばん気合いが入っているのは、ヤギのチーズかなあ。|搾《しぼ》った当日の乳を使うとヤギ特有のケモノ|臭《しゆう》がなくて、口のなかでとろけて、すごくうまい。たいていの人が食べられる。だけど、二日目や三日目のものになると、|臭《くさ》みが出てくる。初日の乳を使っても、二週間と三週間の熟成ではまったくちがう。変化がすごく大きいんです。どの味を標準の味にして商品にするか、最終的に決めているところです」  これが二〇〇四(平成十六)年秋の話である。ドイツから帰国した直後からチーズの勉強をはじめ、業者と相談しながら作業場を建て、製造プラントを設置し、あちこちに研修に出かけ、専門家を招いて教えてもらい……と、製品化にこぎつけるまでに一年半かかっていた。行楽シーズンのピーク、さらに冬場のスキーの季節に向けて、彼は一人で作業場にこもり、最後の仕上げにかかっていた。  しかし、このとき彼にチーズをつくるよう指示した伊藤孝二郎は、もうこの世にいなかった。ブロンズ像となった彼は右腕を挙げ、ロイヤル胎内パークホテルの|敷地《しきち》に立って飯豊連峰を|仰《あお》ぎ|見《み》ていた。      *  二〇〇三(平成十五)年の四月に入ってまもなく、伊藤は体調を|崩《くず》した。となり町にあった県立病院に検査入院し、そのまま新潟大学医学部付属病院に転院した。|胆嚢《たんのう》ガンだった。ただちに手術が行なわれた。  この間、後援会長でもあれば医師でもある馬場肝作が|付《つ》き|添《そ》った。 「手術でお|腹《なか》を開いたんですが、ガンが広がっていて、手のつけられない状態だった。そのまま閉じるしかなかったんです。いっしょに|執刀医《しつとうい》から説明を受けたあとも、私に『こんなことって、あるんだろうかね』と何度も質問されましたが、本人がいちばん信じられなかったんじゃないでしょうか」  五月|中旬《ちゆうじゆん》に退院すると、伊藤は|車椅子《くるまいす》と|杖《つえ》を使って村役場に通いはじめた。まわりは気がつかなかったが、服の下の腹部には細いチューブが取りつけてあった。胆嚢が|蓄《たくわ》えなくなった|胆汁《たんじゆう》を体外に取りだして|溜《た》め、口から飲む。食べたものの消化を、少しでもよくしようという仕掛けだった。  六月二十三日、定例の村議会がはじまった。その|冒頭《ぼうとう》、|杖《つえ》をついて議場に入った伊藤孝二郎は議長に辞表を提出した。連続十二期、四十八年間。戦後日本の自治体首長としてはもっとも長期にわたった伊藤村政が、この日、終わった。 「長いだけではなく、水害のどん底から農業と観光を結びつけたリゾート開発まで、もっとも劇的な変化を率いた人だった。そう思いますよ」  と、馬場は言った。  彼はそれからの日々、家に引きこもって横たわる伊藤を何度も|見舞《みま》い、|診察《しんさつ》もした。激痛を感じていそうなときは、モルヒネ注射でやわらげた。しかし、痛い、という言葉はついに聞かれなかったという。  伊藤さんは最後、どんなことを言っていました? 「やっぱり村の将来のことです。ひとつは、いま開発が進んでいるフルーツパークをどうまとめていくか。あそこにブドウを植えて、何とかして地元のワインをつくりたい。ワイナリーをやりたいんだ、と。まださきが見えないことを心配していたんです」  もうひとつは? 「|奥胎内《おくたいない》ダムです」  これは新潟県が事業主体になり、かつての二度の水害のあとにできた胎内川ダムのさらに上流に、治水、上水道水の供給、発電などを目的として建設がはじまっているダムのことである。全国的に広まった|巨大《きよだい》公共事業とダム建設見直しの気運のなかで、県内のNPO(民間非営利団体)の一部からは疑問の声もあがっているが、工事は二〇一三(平成二十五)年の完成をめざして進んでいる。  でも、村内にあるとはいえ、これは村が|関与《かんよ》する工事ではないですね? 「伊藤村長は完成後のことを考えていたんじゃないでしょうか。深い山のなかですから湿気がなくて、すばらしい自然がある。そこにダム湖ができれば、|一般《いつぱん》車両の出入りを禁止して、自然を残したままの|山岳《さんがく》景勝地として……ちょうど長野県の上高地のようなリゾートができるかもしれない。そんな夢のようなことを語っていました。最後まで村のことを考えている人でしたね」  伊藤孝二郎は村長を辞めて五週間後の七月二十八日夜、妻と|娘《むすめ》、それに馬場に|看取《みと》られながら息を引き取った。七十九歳だった。      *  伊藤孝二郎のあとを継いで村長になったのは、布川陽一だった。  伊藤が辞任した翌日、後援会の馬場会長らは緊急幹部会を開き、布川の|擁立《ようりつ》を決めていた。若いときから伊藤の右腕となって働いてきた彼は、一度は役場から退いていたが、ドイツ旅行を途中で切り上げてもどってきたあと、また伊藤の相談相手になっていた。村政の|隅々《すみずみ》に通じ、前村長の業績を引き継いでいける人物は彼しかいない。会議の結論が出るまでに一時間もかからなかったという。  馬場が言った。 「時代は動いていきます。しかし、日本経済がよくなることは、当分ないと思います。黒川村は前村長のおかげでたくさんの村営施設ができた。出稼ぎもなくなり、若い人が定着するようになり、村は豊かになりましたが、それなりにおカネもかかるようになった。きびしい経済状態の下では、|舵取《かじと》りがむずかしいです。私が|怖《おそ》れるのは、村政のことをよく知らない人が村長になって、その舵取りに失敗したとき、『前の村長がこんなカネのかかるものをつくったからだ』と責任|転嫁《てんか》することなんです。私は伊藤村政は立派だった、みごとだったと思っている。伊藤さんの業績を守り、次の世代にしっかり渡したいんですよ。それには伊藤前村長のことも、いま村で動いているさまざまな事業のこともよくわかっていて、さらに発展させるにはどうすればよいかも考えられる人に村長になってもらいたい、そう思ったんです」  それが、布川だった。会議の結論を聞いた布川は、 「この難局を乗りきるお手伝いできるのであれば、と決意しました」  と、短く返答した。  ほかに立候補者がいないまま、彼は黒川村村長になった。伊藤に、ドイツに農業研修に行ってみないかと話しかけられたとき、二十代のはじめだった彼も、このとき六十五歳になっていた。 [#改ページ] ————————————————————————————  エピローグ ————————————————————————————  村長になった|布川《ぬのかわ》陽一と村営のそば|処《どころ》で落ち合った。  かつて|彼《かれ》は、ここで使用するそばを|刈《か》り|取《と》る機械がうまく動かなくてさんざん苦労したことがある。酒を飲み、そばを食べながら話していると、話題はだんだん過去にさかのぼっていく。スキー場、青年の村、水害、植樹祭、国民宿舎、|畜産《ちくさん》団地、ホテル……彼はそのほとんどに現場でかかわってきた。 「こつこつと何十年もかけてやってきたんですよ。|過疎地《かそち》は過疎地なりに|工夫《くふう》すれば、何とかやってこれた。そういう方法がありましたからね」  そう口にしたあとで、布川の顔が|曇《くも》るのがわかった。 「平成の|大合併《だいがつぺい》」が激しい勢いで進んでいる。  政府でも各地方自治体でも、旧来の行政手法が|錆《さ》びついている。行政ビジョンの混迷や財政危機がその理由とされるが、どちらも|便宜的《べんぎてき》な見方にすぎない。  何よりそこにあったのは、|企業《きぎよう》社会と地域社会の|崩壊《ほうかい》という現実だった。多くの人々はこのどちらにも安心できる居場所を持てないまま、|漂《ただよ》うようにばらばらに暮らしはじめている。|言《い》い|換《か》えればそれは、中央官庁が種々の法令や行政指導を通じて企業社会を引っぱり、地方自治体が地域|振興《しんこう》や地元利益を旗印に地域社会を動かす、という行政手法それ自体が対象を失い、使えなくなったということである。以前からのやり方では、この国の社会を|駆動《くどう》できなくなった。  これからこの国を統治しようとする者たちは、個人に|狙《ねら》いをさだめ、個々人に直接働きかけ、動かそうとするだろう。国民一人ひとりに十一|桁《けた》の番号をつけ、その個人情報を管理する仕組みにせよ、自己責任や、|怪《あや》しげな人物の|摘発《てきはつ》と|排除《はいじよ》をめざすセキュリティー意識の強調にせよ、そうした動きはすでにあちこちではじまっている。  そのことの|危《あや》うさは別に論じなければならないが、こうした行政手法の根本的な|転換《てんかん》が平成の大合併の背景にある。いくつかの市や町や村をひとまとめにすることで、これまで中央官庁からそれぞれに分配していた地方交付税や補助金を|一括《いつかつ》し、トータルでは減らすことができる。極論すれば、政府と中央官庁にとっては地域振興などはもはや主要な課題ではなくなったのだ。  思えば、黒川村は地域振興の優等生だった。|豪雪《ごうせつ》と水害、過疎と|出稼《でかせ》ぎの村は、農業と観光を結びつけた新しい村へと生まれ変わってみせた。この努力と成果を村の人たちは|誇《ほこ》っていい、と私は思う。  だが、黒川村の事情とはかかわりなく、平成の大合併はブルドーザーのように全国を平準化していく。これは全国一律の、合併しなければ地方交付税は減らされ、補助金の|申請《しんせい》もできなくなるという問答無用の動きである。  布川は言った。 「いま中央から聞こえてくるのは、『小さな村なんか、つぶしてしまえ』という声ばかりですよ。われわれの悪戦|苦闘《くとう》は何だったんですか?」  このように生き、|汗水《あせみず》流し、努力した村があった。そのことのたしかな|記憶《きおく》が、ますます個々ばらばらに、いっそうの平準化に向かうこの国の人々を、いつか必ず|励《はげ》ますことがある。黒川村の半世紀におよぶ歩みをたどってきたあとで、私はそう答えたいと思う。  二〇〇五年夏——黒川村は地図上から消える。となりの|中条町《なかじようまち》と合併し、「|胎内市《たいないし》」が生まれることが決まっている。 吉岡忍(よしおか・しのぶ) ノンフィクション作家。一九四八年長野県生まれ。早稲田大学政治経済学部在学中から執筆活動を開始。教育やテクノロジーの現場を歩く一方、アメリカや東南アジアなどにも精力的に足を運び、取材活動を続けている。一九八七年、日航機墜落事故を描いた『墜落の夏』で講談社ノンフィクション賞を受賞。その綿密な取材力と豊かな表現力には定評がある。主な著書に『「事件」を見にゆく』『日本人ごっこ』『M/世界の、憂鬱な先端』『新聞で見た町』『路上のおとぎ話』、小説『月のナイフ』、共著に『それでも私は戦争に反対します。』など。 本作品は二〇〇五年三月、ちくまプリマ—新書の一冊として刊行された。