[#表紙1(表紙1.jpg)] [#表紙2(表紙2.jpg)] 加藤幸子 夢の壁 [#表紙3(表紙3.jpg、横90×縦130)] 目 次  夢の壁  北京|海棠《カイドウ》の街  あとがき [#改ページ]     夢の壁     1  夏になってから、雨は一度も降っていない。地面は細かく碾《ひ》いたとうもろこし粉を固めたみたいだった。少しでも勢いよく歩くと、砂埃《すなぼこり》が舞いあがってくしゃみが出た。窓は大人の背丈にあわせてくりぬいてあるので、午寅《ウーイエン》が外を見るときは爪先立《つまさきだち》をしなければならない。同じ年恰好《としかつこう》の村の少年に比べて、彼はずっと小柄《こがら》だった。昔、村に疫病《えきびよう》が流行して、高《カオ》家の子供は三人とも罹《かか》ってしまった。上の二人は死んで、赤ん坊の午寅だけが残った。でも母親《ムーチン》の乳房に吸いつくことができないほど弱ってしまった。だから毎日、乳の代りに緑豆をすりつぶした重湯《おもゆ》で育てられた。背が伸びないのはそのせいだ、と祖母《ツームー》が言う。  家は|※[#「父/巴」、unicode7238]々《パーパ》が北京《ペイチン》に出かける前に建て直していった。三年前のことだ。午寅はまだ小さかったのでほとんど手伝わずに、脇《わき》で※[#「父/巴」、unicode7238]々の仕事ぶりを眺《なが》めていた。黄土に水を注いで、柳の太い枝で打ちたたいた。とても面白そうで自分もやってみたかったが、父親は裏に積んである干し草を取ってくるよう彼に言いつけただけだった。それから突然、父親は手品のようなことをやってのけた。草と泥《どろ》を混ぜた材料で午寅たちの家を造ったのだ。とても頑丈《がんじよう》だし、夏は涼しく冬は暖い。欠点は見場がよくないうえに、表面がぼろぼろ剥《は》げやすいことだ。三年たつと、午寅におできができたとき掻《か》きむしった跡みたいになってしまった。ほんとうは村長の家みたいに煉瓦《れんが》で造ればいいのだ。|※[#「父/巴」、unicode7238]々《パーパ》が北京で儲《もう》けて帰ってきたら、きっと煉瓦の家を建ててくれるだろう。そのときには午寅もいっぱしの働きをして、※[#「父/巴」、unicode7238]々にほめてもらえるだろう。  庭では纏足《てんそく》を小まめに動かしながら、祖母が行ったり来たりしている。何かよいことを期待して六羽の家鴨《あひる》が祖母のあとをつけ回している。祖母の足は、午寅の掌《てのひら》ぐらいの大きさしかない。綿を詰めた三角の袋をとじつけたみたいに見える。祖母はふいに腰をかがめて、喜びの声をあげた。だらしない家鴨の雌が産み放した卵を探しだしたのである。こんなふうにしじゅう地面ばかり見ていて、卵が見つかるのは日に一、二個だ。週末になるとそれを籠《かご》に入れて、村長の太々《タイタイ》(夫人)に届けにいく。村長の家にももちろん家鴨はいるが、日本軍が村はずれに進駐してからは、卵は徴発されてしまうので、持っていくととても喜ばれる。代りに太々は、高家では作っていない小麦粉を一袋くれることになっている。  家鴨たちは祖母の足もとで不服そうにわめきたて始めた。あいつらは鶏に暖めてもらわなくては卵もかえせない阿呆《あほう》のくせに、底意地が悪い。今も一羽の雄が、祖母の背後にこっそりしのび寄っている。午寅は知らせようとした口を抑えた。こんな見物はめったにないだろう。雄の家鴨は突然に祖母の背に駆けのぼり、薄いもとどりからさらに一束の髪をむしり取った。祖母は金切声をあげてふり返り、家鴨をけった。雄家鴨は雌たちの賞賛を浴びながら逃げまどっている。午寅は窓の縁から滑りおち、暗い室内で腹をかかえて笑った。それが失敗のもとだった。  畑に出ているはずの母親が、急に入口をふさぐように立っているのが見えた。彼女はまだ笑いの余韻でひくひく震えている息子を厳しい目で眺めた。 「豚にえさはやったんだろうね」  午寅には答えられなかった。 「何だい、その顔は」  母親は午寅の手首をねじきるほどの勢いで捉《とら》えた。午寅は目をつむって顔をそむけた。平手打ちが飛んでくるにちがいない、と思った。 「今からやるつもりだったんだよ」 「こんなに遅くなってからかい」 「朝と昼と二回分やればいいと思ったんだ」 「おまえはしじゅう朝のえさをさぼっているんだね。うちの豚がやせているのは、そのせいだよ」  母親はため息をついて、午寅を締めつけていた力を緩めた。たしかに高家の豚はほかの家の豚に比べて肉がついていない。でもそれは食事の回数が少ないせいではなく、中身のためだと思う。うちの豚は、ほとんど実の入っていない烏麦《からすむぎ》ばかり食べている。もっと豆やとうもろこしや残飯を食わせなければ、太らないだろう。豚に食べさせる穀物を、母親は午寅に回してしまう。息子がやせすぎていることをひどく気にしている。行水のときなどあまりじろじろ眺めるので、午寅は自分が値踏みされる豚になったような気がするほどだ。 「早くお行き」  母親は力なく、疲れた声で言った。いつもならこんなときは怒鳴りはじめるはずだ。病気かもしれない。午寅は少し心配になった。 「済んだら高粱《コーリヤン》畑に行って、紅色に変わった穂をむしっておいで。袋がいっぱいにならないうちに帰ってきたらひどいよ」  午寅は壁に引っかけてあった穀物袋と鎌《かま》を取ると、出ていこうとした。母親はその様子をじっと見つめていた。 「媽々《マーマ》?」 「何さ」 「袋がいっぱいにならないうちに、お腹《なか》が減るかもしれないよ」  母親は無言で、朝の残りのとうもろこしパンを午寅にわたした。午寅はまだ何か言い足りない気がした。 「祖母《ツームー》も畑に行く?」  彼はそうであればいいと思いながら、たずねた。  祖母はとても優しくて、ときどき彼を仕事から解放してくれる。その上いろんな話を知っている。彼に〈夢の壁〉の話を教えてくれたのも祖母だ。〈夢の壁〉は村中のどの家からもよく見える。裸の丘の上にある崩れかけた灰色煉瓦の壁だ。ずっと昔は——といっても祖母が生まれていないずっと前のことだから、祖母は実際に見たわけではないが——堂々と砂漠《さばく》を横ぎる大蛇《だいじや》のようにどこまでも続いていた。  北京までも? と午寅がたずねると、祖母は確信をこめて、そうだよ、もっと先までもと答えた。  だれが造ったの? と続けてたずねると、祖母はちょっと言葉につまったあとで、皇帝さ。でも皇帝は言い出しただけで、ほんとうに造ったのは私たちみたいなお百姓さと言った。そのとき午寅は今皇帝が〈壁〉の修復を命令すればいいのに、そうしたら|※[#「父/巴」、unicode7238]々《パーパ》はだれよりもりっぱに〈壁〉を造るだろうと思った。 〈壁〉を枕《まくら》にして眠ると、これから自分に起こることの夢を見るのだ。午寅の村の若者たちは、十五歳の誕生日に一度だけそこを訪れる。夢の内容をだれにも知らせてはならない。ある者ははりきって下りてくるが、ある者はまるで青唐辛子みたいな顔色になって戻《もど》ってくる。それでだいたいどんな夢を見たのかわかる。女たちは決して〈壁〉に行くことはない。女の人の生活は男の人しだいだからだ。 「祖母《ツームー》は卵を届けにいくから行かれないよ」  母親はそっけなく言った。午寅はそれ以上ぐずぐずするわけにはいかなかった。  豚は囲いの中で唸《うな》り声をあげながら足踏みしていた。空腹のために苛立《いらだ》っているのかもしれない。囲いの中の地面には草一本生えていない。全部むしって食べてしまったのだ。あいつらは何だって食べてしまう。いつか自分の仔《こ》まで食べた化物のような雌豚がいた。豚飼場の土は豚の鼻面《はなづら》で万遍なく掘りかえされている。来年、ここはよい畑になるだろう。豚は一年ごとに場所を移して飼わなければならない、と北京に行く前に父親が教えてくれた。  午寅が共同井戸から汲《く》んできた水桶《みずおけ》を置いてやると、雌豚と雄豚が一頭ずつ寄ってきて鼻を鳴らして飲みはじめた。※[#「父/巴」、unicode7238]々がいたときは一時に五頭も飼ったことがあるが、女二人と午寅ではこれでも手に余る。豚のみけんと突き出した口の上の皮膚はだぶついて、水を飲むたびに揺れている。午寅が豚をきらいなのは、感情を表わさない細い目だ。いつも半分眠っているようでいて、何でも逃さないのだ。祖母がいつか村長の太々からもらってきてくれた胡麻《ごま》菓子を、この柵《さく》の上でかじっていたことがある。半分に割れて落ちてしまった。あいにく囲いの中のほうだった。手を伸ばしたときには、雄豚が狂暴な黒いつむじ風のように飛んできて、一瞬早く呑《の》みこんでしまった。翌年、町の肉屋に売られていったときには、仕返しをとげたような気持になった。  午寅は囲いの外いちめんに生えている烏麦を刈り取っては中に放《ほう》りこんだ。二頭の食べ方が早いので、えさのほうが追いつかない。午寅のまぶたにも鼻にも粘ばっこい汗が溜《た》まった。口の中で濃い塩の味がしはじめた。この夏は、午寅の知っているどの夏よりも暑く乾いている。去年の夏は、友だちの順燕《シユンイエン》といっしょに半日歩いて桑河《サンホウ》まで泳ぎに行った。桑河の岸辺には柳の大木が地に着くほど茂っていて、家の中にいるように涼しかった。黄土色の水面を持ちあげて魚がときどき跳ねた。川は浅く、泳ぎといえば犬掻きしか知らない二人は何度も両岸を往復した。  今年は桑河《サンホウ》の水は、この村に届くまでにどこかに吸いこまれてしまった。川底の中央に濁った粟粥《あわがゆ》のように見えるのがそれだった。泳ぐどころか、畑に引きこむことさえできなかった。 「それでも洪水《こうずい》よりはいいよ」  祖母は吐息をついてばかりいる嫁に言った。 「私が息子を育てていたときは、桑河《サンホウ》の奥の山に大雨が降った。桑河は水を飲みすぎた龍《りゆう》のようにふくれあがって、暴れはじめた。たくさんの豚や山羊《やぎ》や逃げ遅れた人がぷかぷか流れていったよ」  順燕の家は兄弟姉妹七人の大家族だったから、今年の夏を持ちこたえることができなかった。父親と一番上の兄は、南のほうに行って苦力《クーリー》になった。母親は順燕をつれて村長の家|阿媽《アマー》になり、三人の姉たちはどうしたのか姿が村から消えてしまった。午寅がたまに祖母について卵を届けにいくと、順燕は村長の庭で薪《まき》を割っていたりした。彼は午寅を見ても〈よお〉と言うだけだった。午寅と同じ七歳なのにいやに大人っぽく見えた。  豚の食べ方がやっと緩慢になった。最後の一束を囲いに放りこむと、午寅は※[#「父/巴」、unicode7238]々がよくしていたようにぺっとつばを吐いた。豚が血に濡《ぬ》れた刃物のような目で午寅を見つめた。どうしてもこいつらを好きにはなれない。毛の柔い羊を飼えばいいのに。そうしたら羊たちを連れて一日中、草原で遊ばせてやる。  太陽が髪の毛に燃えうつりそうな気がした。午寅は袋を頭巾《ずきん》のように折って頭からかぶった。とうもろこしパンといっしょに持ってきた瓶《かめ》の水は、この分ではお湯になってしまう。高家の高粱畑は、村のいちばん端っこにある。村の片側を包むなだらかな丘のふもとである。丘の最高所に〈壁〉が「早く来いよ」と午寅を招いている。でも午寅は村の規則は破らないつもりだ。それに必ずしもいい夢を見るとは限らない。  午寅は畑の仕事はきらいではない。草丈の高い高粱は体をすっぽり隠してしまう。世の中でいちばん安全な感じがする所だ。上を見ると、ピカピカした長細い葉が青空を何重にもしばりあげている。風が通るたびに踊り子のように穂がひらひら動く。高粱畑に入るとなぜか午寅は、正月に村に来た大道芸人たちを思い出す。頭上で鳴る高粱の葉ずれが、景気づけに使った胡弓《こきゆう》の音に似ているせいかもしれない。弁髪を背に垂らした曲芸師は、細い竹の先で皿を空に投げあげたり、静止しているように見えるほど速く回してみせた。そのとき皿は、丸くて薄べったい生き物みたいだった。  今年は干魃《かんばつ》のせいだろうか。秋になってもいないのに赤く色づいてしまった穂が多い。そういう株は、午寅が押すと簡単に倒れた。まるで立ったまま死んでいる人を押し倒すようでいやな気がした。でも母親に言われたとおり穂をちぎって袋に入れた。途中で枯れたのでほとんど粒は入っていない。袋はいくらたっても重くならなかった。しばらく働くと急に右足がかゆくなってきた。|※[#「ころもへん+庫」、unicode8932]子《クーズ》(ズボン)を持ちあげて掻くと、左足までむずむずしてきた。とたんに豚さえ見向きもしそうにない未熟の穂を摘むのがいやになった。傍《そば》に祖母がいたら、せがんで話をしてもらうことができる。祖母は長いきせるから煙の輪をぽっぽと噴きあげながら、ゆっくりと話しはじめるだろう。〈夢の壁〉の話、〈匪賊《ひぞく》〉の話、西の国から駱駝《らくだ》に乗ってやってくる〈隊商〉の話、〈人さらい〉の話、そして……。午寅は高粱の根もとにごろんと横たわった。日陰が柔い布のように体を覆《おお》った。風がお腹の上を優しいときの媽々みたいにさわっていった。青臭い作物の香りがした。  突然〈壁〉が見えた。〈壁〉はどこからでもよく見えたが、今は初めて見るような感じがあった。横たわって見ているからかもしれない。しかしよく見ているうちに原因がわかった。〈壁〉に沿って、虫のように動くものがあったのだ。午寅は寝ながらどきどきした。十五歳になった村のだれかだろうか。でもそういうとき噂《うわさ》は早足の驢馬《ろば》みたいにたちまち村中に伝わるのだ。それで全員がその日は〈夢の壁〉に注目するはずだ。  黒っぽい虫の頭が〈壁〉の向うに引っこんだ。午寅は立ちあがって、今度は一生懸命に丘の上を見た。〈壁〉のぎざぎざした輪郭が、嘲笑《あざわら》っている歯のように思えた。十五歳にならないのに、〈夢の壁〉に行ったものがどうなるか、祖母は教えてくれなかった。だが祖母が子供だったころ、〈匪賊〉も〈人さらい〉も〈壁〉の向うから来たのだ。〈隊商〉も駱駝たちもそうだった。曲芸師の一座もまた丘を越えて別の村へ移っていったのだ。彼らは誕生日に関係はなかった。それに自分は夢を見にいくわけではない。  傾斜は高家の畑の切れたところから、始まっている。道はあるようでなかった。短い藪《やぶ》の列がつながっていて、しじゅう迂回《うかい》しなければならなかった。大きい樹木は一本もなく、藪と藪のあいだにはひねこびた麦のような草が茂っていた。それは祖母が話してくれる砂漠の始まりを予感させて、午寅《ウーイエン》はわくわくしながら登った。黒い虫の頭のことはとうに忘れていた。  丘の頂きに着いたとき、これが〈夢の壁〉であることをほとんど信じることはできなかった。いくら昔にしても、何百人もの村人が総出で造ったものにしてはあまりにもお粗末すぎる。根元の部分には灰色の煉瓦がしっかり積み重なっているが、他の部分は不細工な形の石を黄土で塗りかためたようなものだった。石と石の隙間《すきま》からもう正体もわからなくなった藁《わら》のようなものが飛び出している。※[#「父/巴」、unicode7238]々が北京に行く前に造ってくれた午寅の家のほうが、よほど心がこもっている。 〈壁〉を乗りこえると、午寅の足の下に硬い感触があった。敷石の列だった。石の廊下だと思った。廊下はずっと先まで続いて、村からは見えない方角にやはり崩れかけた〈壁〉の一部があった。向うがこちらより午寅を落胆させないという保証はないが、どうせ上がってきてしまったのだ。午寅は長い敷石の上を村を背にしてとぼとぼと歩いた。ずっと前は、〈壁〉はもっと高くもっと長かったにちがいない。だれだって百年もたてば、体はがたがたになるさ。自分が今歩いているのは、祖母よりももっと年とった〈壁〉にちがいない。 「止まれ!」  午寅は言葉の剣で串刺《くしざ》しになったような気がした。低い声だったが、それほど恐ろしい響を含んでいた。声のするほうを見ようとしたが、衿首《えりくび》を吊《つ》るしあげられているみたいに自由が効かない。つづいて舌打ちする音と「何だ小孩《シヤオハイ》か」と拍子《ひようし》ぬけしたような声がした。すると目の前に二本の埃で黄色くなった|※[#「ころもへん+庫」、unicode8932]子《クーズ》が見えた。午寅は必死でその足だけを眺めていた。匪賊にちがいない。顔が会えばたちまち殺されるか、遠くに売りとばされるかだ。※[#「ころもへん+庫」、unicode8932]子の下にはなめしていない獣皮の靴《くつ》をはいていた。自分で作ったらしく、縫目が粗くごつごつしている。 「いつまで下見てるんだよ、小孩《シヤオハイ》」  明らかにいらいらした声が降ってきた。怒らせてはもっと困る、と午寅は考えた。〈お天道《てんと》さまを西から登らせることはできないよ〉母親はいつもため息まじりにつぶやくのだ。逆らってもむだな相手というのがあるんだ。  見あげると、午寅はふいに気が抜けるのを感じた。男は順燕《シユンイエン》の兄さんによく似ていた。口許《くちもと》がいつも笑ってるようなところもそっくりだった。服装も皮の靴をのぞけば村の人と大して変わっていない。ただ村に来た日本《リーベン》と同様に銃を持っている。どこの兵隊だろう。午寅の頭はすばしこく回った。国民党軍ではないな。日本軍が村はずれに進駐する前は、国民党軍がいたのだ。国民党軍の兵隊は皆青っぽい制服を着て、とてもいばっていた。どこの家にでも上がりこんで、穀物や鶏や正月用に仕こんだ酒を持っていった。 〈没法子《メイフアーズ》〉。祖母の口ぐせだった。〈戦争のときはいつもこういうことになる。代りにあいつらは匪賊から私たちの家と豚を守るだろうよ〉  春の終りに日本が黄土色の軍服を着て黄塵《こうじん》みたいに押しよせてきたときには、青い制服を着た兵隊の姿はとっくに消えていた。午寅の村の人たちは、国民党軍に|ただ食い《ヽヽヽヽ》されたことになる。〈没法子《メイフアーズ》〉。祖母の口調を真似《まね》て今度は母親が言った。  次の支配者である日本に望みをかけるわけにはいかなかった。何しろ言葉も気心も通じないのだ。黄土色の軍服が、一時に村中にあふれたときは媽々も午寅も家の中で息を殺していた。日本は静まりかえった村を気味わるそうに歩きまわってから、通訳をたてて村長と交渉した。村長はさすがに大人《ターレン》だった。にこにこしながら身ぶり手ぶり混じえて、通訳にまくしたてた。順燕が庭の海棠《かいどう》の枝に隠れて見物していたのだから、まちがいはない。村長がどう言ったかは不明だったが、とにかく日本軍は村の中ではなく、外側で停止した。幕舎を幾張りもたて、村と自分たちのあいだに深い河のような塹壕《ざんごう》を掘り終えたころには夏に入っていた。 「日本《リーベン》はあそこで何してるの?」  午寅は祖母にたずねた。祖母は顔をしかめた。めったに見せない憎しみの色が浮かんでいたので、午寅は驚いた。 「八路《パールー》が来るのを待ち伏せしてるのだよ」 「八路《パールー》は必ず来る?」 「来ないほうがいい」  祖母は深いため息をついて言った。  短い経験が、午寅に国民党軍も日本軍も八路も大してちがわないことを教えた。どれもこれも村に迷惑をおよぼすが、〈没法子《メイフアーズ》〉としかいえない存在だった。でもがまんさえしていれば、兵隊たちは〈隊商〉や〈大道芸人〉のように、いつかは村を過ぎていくだろう。 「座れよ」  銃を下ろして男が午寅に言った。午寅は壁によりかかってうずくまった。 「どこから来た?」  午寅は黙って下を指した。高粱《コーリヤン》畑が低く見えた。その向うに円形の裸地があり、二頭の豚が蟻《あり》のように動いていた。豚飼場に接して午寅の家が見えた。それはまるで地面にできた疣《いぼ》のようで、偶然の機会にぽろりと取れてしまいかねなかった。ほかにもよく似た疣がぽつんぽつんと大地の割れ目から吹き出していた。炎暑があらゆる水分を空に吸いあげて村中がからからだった。日本の陣地は、高家とは反対側の村境を半周状に囲んでいた。八路が山から村になだれこむと、日本は包囲を縮めて敵を捕らえるのだろう。あいつらは網を張った黄色い蜘蛛《くも》だ。 「頭を低くしろ」男が注意した。「向うでも見張ってるからな」  それならこの若い男はやっぱり八路だ、と午寅は思った。体が少しぞくぞくした。 「小孩《シヤオハイ》は何しに上がってきたんだ?」  男がたずねた。午寅はほんとうに自分がなぜ上がってきてしまったのだろうと考えた。 「〈夢の壁〉を見に……」と小さい声で答えた。 「おまえの言ってるのはこの崩れかけた壁のことか?」  男は呆《あき》れたように言うと、足で煉瓦《れんが》をけとばした。 「昔、皇帝が言い出して村の皆が造ったんだよ」 「それは〈城〉のことだろう」男はふいに遠くを見る目になった。「〈城〉はおれの生まれた村の近くにある。おれはずっとその傍を通ってきたんだ。もっと堂々として輝くような城壁だぞ。小孩《シヤオハイ》がまたぎ越せるようなものじゃない。よその国にも誇れるようなものだ」 「嘘《うそ》だい」午寅は叫んだ。「祖母《ツームー》が教えてくれたんだ。これは古くなって毀《こわ》れかけてるけど本物なんだ。おまえの村にある〈城〉はにせ物だよ」  男は苦笑して譲歩した。 「たぶん、何人も皇帝がいたんだろう。いろいろな時代にな。ところで小孩《シヤオハイ》の持っている瓶は飲み水か? いくらか同志《トンジー》に分けてくれるだろうな」 「いいよ」午寅は言った。「とうもろこしパンもあるよ」  若い八路は喜んでパンと水を午寅から受け取った。二人は壁の下に座って、ぱさぱさのとうもろこしパンを水で喉《のど》に流しこんだ。彼はほんとうに順燕の兄貴そっくりだった。 「今日は小孩《シヤオハイ》に会えて好日《ハオリー》だった」男は立ちあがって明るい声で言った。「帰るよ。命令で偵察《ていさつ》にきたんだ」 「また来る?」  男はちょっとためらった。午寅の好きな若々しい顔がいく分下を向いた。それから早口で言った。 「まもなく小さな戦いが始まる。おまえたちはそのまに逃げなきゃならないよ。次に来る大きな戦いでは、たぶんだれも逃げ出すことができなくなるだろうから」 「ぼくの村も毀れちゃうの? この〈壁〉みたいに?」 「ああ、ああ」男は途方にくれた様子で続けた。「弾が滝のように飛んでくるだろう。日本《リーベン》のほうからも、おれたちのほうからも……」 〈没法子《メイフアーズ》〉と嘆息する祖母の声が聞こえる。大人たちは戦いも没法子のこととして済ませてしまうだろうか。でも自分はいやだ。射《う》たれて正月の鶏みたいに簡単に死ぬのはいやだ。まだ生まれて七年しかたってないんだもの。十五歳になって、〈壁〉を枕《まくら》に夢を見るまでは生きていたい。そうだ、順燕といっしょに逃げよう。 「〈壁〉のこちら側に逃げればいいんだね」午寅は念を押した。「あんたたちの仲間に入れてくれるんだね」 「おまえが十五歳になったらおれが銃の射ち方を教えてやる」男は保証した。「再見《ツアイチエン》、同志《トンジー》。元気でいな」 「再見《ツアイチエン》、同志《トンジー》」  午寅も真似をして言った。男は村と反対側の斜面に飛びおりると、まるで曲芸師のように宙を切りながら姿を消した。  午寅が立ち枯れた高粱の穂でふくらんだ袋を引きずって帰ったとき、太陽はまだ西の端に傾いてはいなかった。でも母親と約束したとおり、たくさん摘んできたのだから叱《しか》られることはないだろう。家の近くに来ると、楊柳《ようりゆう》の影の下で祖母がアンペラを敷いて眠っているのが見えた。家鴨《あひる》たちもその周囲に散らばって、頭を後方に折り曲げて眠っていた。祖母と家鴨たちは、互いに意地悪をしあいながら離れられない仲なのだ。祖母は卵を、家鴨はえさを必要としていた。媽々《マーマ》はどこに行ったのだろう。畑には姿が見えなかった。家の中はしんとしている。高粱の袋を戸口の脇《わき》に置くと扉《とびら》を押した。内側からかんぬきが掛かっているらしい。ということは、母親が中にいることだ。 「媽《マー》」午寅は呼んだ。「帰ってきたよ。高粱いっぱい摘んできたよ。開けてよ、媽《マー》」  しかし扉も動かず、母親の声もしなかった。柳の木の下から祖母のいびきが聞こえてきた。扉といっても|※[#「父/巴」、unicode7238]々《パーパ》が豚の柵《さく》に使った残りを組み合わせただけのものだ。隙間を足せば板の幅より多いくらいだった。  初め家の内部は夜のように見えた。目が慣れてくると、むずむずと動いているものがわかった。媽々と知らない男だった。床に敷いたアンペラの上で二人は絡《から》みあっていた。男が何かわけのわからないことを言った。午寅にはそれが罵倒《ばとう》のように聞こえた。母親のほうは返事をせずに目を閉じていた。母親の両脚は輪回しの曲芸のように空間をさ迷っていた。彼女の隆起した胸から、午寅は目をそらすことができなかった。父親が北京《ペイチン》に行ってしまってから、母親は午寅をめったに抱きしめなくなったけれど、その柔い胸は自分のものだと思いこんでいた。午寅は心臓を蠍《さそり》に刺されたような気がした。  いきなり肩をぴしりと叩《たた》かれた。ふりかえると祖母が恐ろしい顔をして立っていた。手に家鴨を追うときに使う柳の笞《むち》を持っている。 「午寅《ウーイエン》、おまえ何を見た?」 「何も」午寅はとっさに嘘をついた。「戸口が開かないんだよ。どうなってるの?」  祖母は怪しむように孫の顔を見つめ、笞をびょうとふり回した。それから午寅の肩を両手で掴《つか》むと、荒々しく引きよせた。祖母のえぐったみたいにこけた頬《ほお》は、もう少しで穴があくのではないかと思われた。息をするたびに焼いたにんにくの臭《にお》いがした。 「よく聞くんだよ」祖母は孫の耳の穴に一語一語を吹きこむように言った。「日本《リーベン》が家に来ている。母親《ムーチン》と話をしている。邪魔をしてはいけないよ」 「なぜ、日本《リーベン》が媽《マー》と? 追い返せばいいだろ」  祖母はますます声を低めて言った。 「このあいだ断わった隣村の娘は、喉に穴を開けられたそうだ。獣みたいにたくさんの血を流したそうだよ。日本《リーベン》は必要な物、何でも手に入れる。村長の太々《タイタイ》も嘆いてた。あの家の食料庫もつねに空っぽだって」 「村長の家では地面にかめを埋めてるんだよ。順燕《シユンイエン》がこっそり教えてくれた。夜になると掘り起こして中身を食べるんだ」  祖母は午寅の話を全然聞いていないようにつぶやきつづけた。 「日本《リーベン》はどこの家からも取るものを何か見つけるだろう。だがこの家には媽々《マーマ》しかいない」  ふたたび熱湯のような感じが、午寅の全身を駆けめぐった。午寅は軽い藁人形のような祖母を突き放した。祖母は干《ひ》からびた腕で午寅を抱いた。彼女の目尻《めじり》には、目やにと混ざって体中からやっとしぼり出したような一滴の涙があった。 「高連海《カオリエンハイ》」祖母はなぜか午寅を正式の名で呼んだ。「父親《フーチン》にはぜったいに喋《しや》べってはいけないよ。おまえの舌は滑りがよすぎるから、祖母《ツームー》はいつも心配している」  午寅は金輪際、だれにも話すもんかと思った。媽々は午寅の体の中で火の塊りに変わっていた。自分の体が焼きつくされるか、媽々が灰になってしまうか、どちらかだった。  やがてかんぬきを開く音が聞こえて、日本が外に出てきた。彼は黄土色の軍服にすっぽりはまりこんでいた。しかし午寅は軍服の下の日本を見たのだった。彼の体は午寅よりもずっと茶色っぽかった。日本は柳の根元に孫を抱えて座っている祖母のところに歩いてきた。くるぶしまで覆っている鋲《びよう》のいっぱいついた軍靴《ぐんか》が、午寅の目の前にあった。これでぶたれたらどんなに痛いだろう、と考えただけで午寅の口中には生つばが溜《た》まってきた。一語でも、さっき母親にささやいているような言葉を言ったら、そのつばを霧にして吹きつけてやろうと考えた。しかし日本は何も言わずに、祖母に向って幾枚かの銭を載せた掌《てのひら》を突き出しただけだった。祖母は震える指で、五毛銭や一毛銭の入り混じった銅貨を日本の掌からかき集めた。そのとき日本の視線がちらと午寅と会った。死んだ鳥のように白っぽい目だった。ほかには午寅の知っているだれかれとほとんど変わりがなく見えた。厚ぼったい軍服だけが、彼を日本だと思わせる全《すべ》てだった。  日本が行ってしまうと、祖母は体中のいやなものを全部吐き出すみたいに、喉まであけてため息をついた。それから午寅を押しのけて小銭を数えはじめた。頭上でヤマバトがデデーポーポーと胸をふくらませて鳴きはじめた。急に自分でも思いがけないことに午寅は跳びあがった。梢《こずえ》のハトに向って、猛《たけ》り狂った騾馬《らば》のようにわめきたて、祖母から小銭を引ったくると投げつけた。ヤマバトは歌を止《や》めると、少し紫色のました空に向って飛びたった。そして日本の陣地のほうではなく、〈夢の壁〉のある丘を越して姿を消してしまった。気がつくと、祖母は柳の下で這《は》いつくばって小銭を探していた。家鴨たちが周囲でうろうろしている。間抜けどもが光る木の実とまちがえて、銭をつつくたびに祖母は怒声をあげて追い払う。それは午寅の見慣れた情景であった。     2  夕陽《ゆうひ》は帽子に似た形の土饅頭《どまんじゆう》を平等に照らしていた。土饅頭は古いものの順に風に削られて平たくなっていく。地面と同じ高さになれば、墓の下の死人は消えたことになる。母親《ムーチン》の土饅頭は九個目で、首一つ分だけ背が高い。  空気は乾いた藁《わら》のように熱を含んでいた。午寅《ウーイエン》はもっこに土を盛っては運びつづけた。媽々《マーマ》の墓はもっともっと高くしたかった。もっこをくくりつけた天秤棒《てんびんぼう》は首根と肩の骨のあいだに深くめりこんで、身体《からだ》が二つに割れそうだった。それでも休まずに運びつづけた。祖母《ツームー》はやっと息をしているという状態だし、さしずめこういう場合命令を下すはずの媽々は、無言で穴の中に座っているのだ。 「もういいよ。午寅、よくやった」と隣家の林徐景《リンシユーチン》が言わなかったら、午寅は倒れるまで働いていただろう。午寅が新しい墓に土を投げつけるたびに、泣き女が声を張りあげた。女の声は鴉《からす》のようにしわがれていた。それから林さんは午寅のスコップを取りあげて、盛土の周囲を切ったり崩したりし、上手に円くした。林さんの娘が鼻を啜《すす》った。彼女は午寅の母親のところに、布鞋《ぬのぐつ》作りを習いにきていた。祖母は皆の後ろから、幽霊みたいに歩いてきて、母親の使っていた椀《わん》と箸《はし》を供えた。急に午寅の鼻の奥が、唐辛子を嗅《か》いだような工合になった。大げさな泣き女にお株を取られていた悲しみが、初めて午寅の肩に手をかけてきた。  皆で一人ずつ土饅頭に抱きついて別れをした。女たちは声を出して泣いた。村長の太々《タイタイ》は、まるで遠くの日本軍に届いてほしいというふうに虎《とら》のように吠《ほ》えた。泣かずに、午寅をじっと見つめたのは順燕《シユンイエン》だけだった。最後に泣き女が、天が抜けるほどの大声で嘆いて締めくくった。それから皆目だたぬように一人ずつ帰っていった。  祖母が財布から三枚の札を泣き女に渡すと、女は今度は全然ちがうかん高い声で文句を言った。午寅は祖母がふたたび渋々と財布を開け、貨幣を追加するのを見た。  夕日が地平線に腰を据《す》えていた。〈夢の壁〉は赤い光を塗られて、今あらたに建設に取りかかった城の一部のように見えた。ほんとうのことは〈壁〉だけが知っている。昨日、八路《パールー》と日本軍のあいだに初の戦いがあった。夜幾人かの八路が丘を越えて村に忍びこんだのにだれも気がつかなかった。朝早く、パンパンとあちこちで季節はずれの爆竹が破裂したので、午寅が屋根に登ってみると、村長の家の周囲から白い煙が上がっていた。まもなく日本軍も塹壕《ざんごう》の中から負けずに射ちかえしはじめた。八路たちがどこにいるのかわからないために、日本の弾の距離はめちゃくちゃで、自分の陣地のすぐ傍《そば》に落してみたり、高《カオ》家の高粱《コーリヤン》畑を越えて丘の中腹に命中したりした。しばらくして全ての音が止んだ。いつも空気を震えさせる村長の騾馬のいななきも聞こえてこない。 「静かになったから、終ったとはかぎらないよ」  祖母は母親に言った。 「でもうちの高粱は、一日でも水をやらなければだめになってしまう」  午寅は媽《マー》にしがみついたが、媽は息子を引きずりながら戸口まで行き、そこで息子を払い落した。 「媽々《マーマ》、ぼくも行くよ」と午寅は頼んだが、媽は首をふり「おまえは石臼《いしうす》で高粱をお碾《ひ》き」と言った。それから厳しい目で一わたり家の内部を眺《なが》めまわすと出ていった。祖母は床几《しようぎ》の上にうずくまってじっとしていた。 「祖母《ツームー》」べそをかきながら午寅が引き返して彼女を揺すぶると、「だれも、あれを止められないよ。没法子《メイフアーズ》」と言った。  夕方になって、祖母は隣りの林徐景の家に行き、まだ帰ってこない母親を迎えにいってほしいと頼んだ。林さんは父親の友だちだったので、驚いてやってきた。畑に向う大男の林さんの後を小走りについていきながら、午寅は戦いは終ったかとたずねた。 「八路《パールー》は丘の向うに引き揚げたよ。日本《リーベン》は二名死人が出た」 「八路《パールー》はまた来るんでしょう。今度はもっと多勢で……」  林徐景は後ろをふり返ってじろりと午寅をにらんだ。 「そんなことを他人《ひと》に言ってはいけない。自分の臓物まで吐き出して見せる人間は、愚か者だ」  母親は高粱畑の真ん中で、両手をのびのびと広げて気持よさそうに倒れていた。午寅によく似たまつ毛の長い目を思いきり開けていたので、一瞬小さいころよくしたようにふざけているのではないかと思った。林さんが抱き起こすと、頭の後ろに親指ぐらいの穴があいていた。血液はそこから地面にすっかり流れ出し、白っぽい肉団子のような塊りがはみ出していた。井戸水を満たした二個の桶《おけ》は、天秤棒に通ったままほとんどこぼれた跡がなかった。 「高玉峯《カオユーフオン》に何と言えばいいんだ」  林さんは悲しそうに言った。しゃくりあげている午寅のほうには見向きもせずに、母親を背に負うとのろのろと歩きはじめた。午寅はあわてて水をこぼし、桶と天秤棒を引きずって後を追った。桶と桶とがぶつかってがらがらとひどい音をたてた。林さんは午寅の母親とともにふり返ると「肩にかつげ。ものを大切にしろ」と父親のように叱った。  周囲にはもうだれの姿もなかった。祖母は嫁の墓の前で、自分も土饅頭みたいに丸くなっていた。赤くただれた光のせいで、顔は真底怒っているように見えた。 「日本《リーベン》の東洋鬼《トンヤンクイ》が……殺してやる」  祖母はもぐもぐ口の中でつぶやいた。しかし午寅は、母親に当たったのは八路の弾かもしれないと思った。〈弾は滝のように飛んでくる。日本《リーベン》のほうからも、おれたちのほうからも……〉とあの男が言った言葉が耳の中にはっきり残っている。なぜあの男にとうもろこしパンなぞ分けてやったのだろう。ふいに午寅は自分が今、あの順燕の兄に似た若い男を憎んでいるのに気づいた。午寅は祖母の手にしがみついた。 「|※[#「父/巴」、unicode7238]々《パーパ》に知らせなきゃ……」 〈媽々《マーマ》の死んだことを〉と言いかけて、胸苦しくなって言葉を切った。 「林徐景《リンシユーチン》が手紙を出してくれるよ」 「驚くだろうね」  すると祖母は、喉《のど》に痰《たん》がからまったようなむせび声を出した。 「玉峯《ユーフオン》が北京《ペイチン》に行ったのは、媽々《マーマ》とおまえのためだったのに……」  祖母は目を大きく開いたが、涙は一粒も出てこなかった。もう祖母の体には余分の水分の貯《たくわ》えがないのだ、と思った。祖母は孫の耳に唇《くちびる》を当ててささやいた。 「おまえも北京《ペイチン》に行きなさい。※[#「父/巴」、unicode7238]々といっしょにお暮らし」 「祖母《ツームー》はどうする?」 「わたしは家鴨や豚の世話をしなければならない。それに八路《パールー》は国民党軍や日本《リーベン》よりもずっと親切にしてくれるということだよ」  午寅は途方にくれて、母親の墓のほうを見た。土饅頭は乾いた夜風のために、もう頂きからさらさらと土がこぼれはじめていた。媽々がこの下で硬くなって息もせずにいるとは信じがたかった。幾人もの媽がいるような気がした。ふいに薄暗い家の中でゆっくり動いていた白い脚が浮かんできた。日本兵と寝ていた媽々も別人みたいだった。口の中が熱くなりからからになった。〈おしゃべり午寅《ウーイエン》〉と、母親も祖母もしじゅう小言ばかり言っていた。〈おまえの舌には豚の脂《あぶら》が塗りつけてあるのかい〉  夕日は半分欠けていた。高粱畑は全体に水が足りなくて、勢いがなかった。媽々が世話することができなくなったので、たぶん全滅してしまうだろう。村長の父親が三年前に死んだときは、村中総出で葬式に行った。町から呼んできた楽師が四人と泣き女が三人も行列の後についたのだ。家みたいにりっぱな土饅頭だったが、それでも年々風や雨に流されて、今では他《ほか》の人の墓と同じくらい平らになった。ところが日本は、弾に当たった兵隊を土に還《かえ》さずに焼いてしまったらしい。夜の間、幕舎の方角で焔《ほのお》が金の巨龍《きよりゆう》のように紺色の空に舞いのぼっていた。午寅と祖母は、母親を寝かせた家の中には入らずに、家鴨たちと柳の下で眠ったのでよく見えた。焔は暁には白い煙になり、だんだんやせほそってついに朝日が射《さ》すと同時に溶けてしまった。     3  SH学院の校門には花園を形どった扉《とびら》がついている。硬い鋼鉄でできたばらの花は、SHの精神を表わしているという。らせん状の茎もじょうご型の蕾《つぼみ》も細い縁取りのある葉も、ぜったいに虫に食われない。夏も冬も、顔と掌のほかは白い布にすっぽり保護されているSHの先生《マザー》たちは、たぶん生徒たちに鉄のばらのようになってほしいのだろう。  佐智《さち》が印度人《インデイアン》のラシュミーといっしょに校門を出ると、同級生は佐智をつついて言った。 「サチ、来てるわよ。あなたの車引きが」  SHでは授業も会話も英語を使う。英語に弱い佐智が、やっと五年級に上がれたのは今年の春で、それまでは自分より年下の子供たちと机を並べていた。 「いいなあ、サチは毎日車に乗れて……」 「だって、あたしの家は遠いんですもの。宣武門《シエンウーメン》の近くよ。そうだ、今度遊びにきてね」  洋車《ヤンチヨ》だまりに、見慣れた老高《ラオカオ》の幌《ほろ》があった。  佐智はいっしょにいるのがラシュミーでよかったと思った。やはり五年級のリリーだったら〈あらSHの日本人は、中国の車引きよりは上なのね〉ぐらいのいやみは言うだろう。リリーの家は北京《ペイチン》では有名な金持ちなんだそうだ。人力車夫なんて自分の飼ってる狆《ちん》より下だと思っている。 「じゃあ、また明日ね。バイバイ」  ラシュミーの家はSH学院の近くの高級商店街にある。北京で最も古くて大きな洋服店といえばそこに決まっている。店内は昼間でも明りをつけるほど薄暗い。ターバンを巻いた大男のラシュミーの父は、シャンデリヤの下をゆったり歩きまわって客のために生地《きじ》を吟味したり、注文を聞いたりしている。めったに笑ったりしない。佐智が遊びにいったときも、重々しく王様みたいにうなずいただけだった。母親はラシュミーとそっくりの鳶色《とびいろ》の大きな瞳《ひとみ》をしていた。華やかなサリーを全身に巻きつけていて、二人に紅茶とカレーパイを出してくれた。ラシュミーの家には中国人のリリーの家と同じくらいお金があるかもしれないが、ラシュミーはSHでは控えめで地味な女の子に属している。  ラシュミーと別れると、老高が待ちかねたように車を佐智の前に横付けした。得意なときのくせで、両頬が巴旦杏《はたんきよう》でも入れてるみたいにふくらんでいる。 「サーチー、お帰り」  老高が妙な発音で自分の名を呼ぶたびに、佐智は自分が白くて大きな尨犬《むくいぬ》になったような気がする。〈サ〉〈チ〉と区切って教えても老高は気にもとめずに同じ発音をくり返す。車の仲間たちにことさら聞かせるような大声で。佐智が戦争で負けた国の女の子であることも気にならないようだ。老高は自分にとても優しいが、心の奥に何があるのか佐智にはまだわからない。  SH学院の前には、十数台の洋車が整列して主《あるじ》を待っている。自家用車は皆輝くばかり手入れがゆき届き、車夫たちも糊《のり》のきいたお仕着せなど着ている。老高は佐智の送り迎えのほかは、一般客を拾っているので、車体は汚ないし足置場には泥《どろ》が積もっている。幌には三ヵ所のつぎがある。老高は暑いときはシャツだけで、冬はその上に綿入れを羽織って走る。  佐智が乗りこむと老高はすぐ走り出した。胸を張り、肘《ひじ》を水平に突っぱって勇ましい蟹《かに》のポーズだが、ふしぎに少しも振動を感じない。その秘密はたぶん裸足《ヽヽ》であることと関係がある。上から見ていると、足の裏はひらりひらりと燕《つばめ》のように翻《ひるがえ》っている。老高の体の部分で、いちばん老高らしくない繊細な部分に見える。全身の感覚がそこに集中されて最も滑めらかな道を選ぶ。だから佐智は車輪が小石一個も跳ねとばしたのを見たことがない。  佐智が老高に初めて会ったときには、彼はもう洋車を引いていて、院子《ユアンズ》(屋敷)の先住者でもあった。強制留用の代りに中国が貸してくれた院子に家族が来てみると、門番小屋に老高が住んでいたのである。戦争のあいだ、彼はそこで別の日本人家族のために働いていた。その家族が引き揚げたあと、だれも高に立ち去れという者はいなかった。佐智の家族は見知らぬ男を見つけて仰天したが、ぜんぜん不服のいえる立場ではなく、そのうえその男はあの長い戦争を、日照りや洪水《こうずい》のような自然現象の一種類と思いこんでいるふしがあった。こうして一つの院子の中で日中の共存生活が始まったのである。SHに入学した佐智の送り迎えを申し出たのは、老高のほうからだった。 「今日は天気が挺好《テインハオ》ね、サーチー」  佐智の父より三歳年上の老高は、息を切らしながら話しかけた。 「うん、挺好《テインハオ》。北海《ペイハイ》の水はきっとキラキラしてるわ」  佐智がたどたどしい中国語で答えると、洋車は北海公園《ペイハイクンユアン》へ向う静かな通りへ曲がった。これは二人の暗号ごっこであった。佐智の母は近ごろ北京市立図書館に通っている。帰国者の残した膨大な日本の書物の整理を頼まれたのだ。だから午後の院子に帰っても、佐智は独りだった。独りには慣れているほうだが、それでもたまには夕暮れの淋《さび》しい気分に浸されることもある。老高はある日佐智のしょんぼりした姿をかいま見たのだろう。暗号ごっこが始まったのはそのころからである。母が早く帰る日には、佐智は洋車の上から難しい声で、「雨が降りそう。傘《かさ》がいる」と言うことにしている。すると老高は洋車をまっすぐに走らせた。  人力車はハリエンジュの並木道を通っていた。上を向くと薄紫の花房が落下傘《らつかさん》のように舞いおりてきそうだ。甘い香りがじゃれつく仔犬《こいぬ》のようにどこまでも跡を追ってくる。  老高が梶棒《かじぼう》を下ろすと、佐智は湖のほとりへ走っていった。老高は座席の下から長いきせるを取り出して、火を点《つ》けた。彼が日本の少女のために、どれだけの稼《かせ》ぎをむだにしているのか、佐智は考えたこともなかった。  風のない日で、北海は抑えつけられたようにないでいた。湖心で一群の鵞鳥《がちよう》が泳ぎながら旋回している。輪は白いぐにゃぐにゃの環形動物のようで、一定にはならなかった。一方が広がると、もう一方がだらしなく縮んだ。湖畔では定間隔に植えられた楊柳《ようりゆう》が、緑色の髪を水面近くまで垂らしていた。ときどき銀の刃物が水を切るように魚が跳ねあがった。午後の公園は暑すぎて、人気《ひとけ》がなかった。氷果《ピンコオ》売りも商売を中止して、木陰で昼寝をしていた。けれど佐智は知っていた。湖を取りまいている石の欄干は、一年中内側に冬を閉じこめている。佐智は欄干にまたがって、両足から力を抜いた。下腹がしだいに冷んやりしてきた。体を倒して欄干に抱きつくと、体温が薄められ、快感が広がっていく。目を閉じると、右側から水への本能的恐怖が這《は》いのぼってきて安定感が崩れ、いっそう強く欄干にしがみついた。  老高がきせるを握ったまま、不安そうに伸びあがって佐智のほうを見た。真に迫った遊戯なのか、本物の危険なのか真剣に見きわめようとしている。佐智は笑いたくなった。お人よしで柔順な老高、あんたに子供がいたらきっと馬鹿《ばか》にされてるでしょう。  老高が公園の入り口のほうにゆっくり引きかえしていくのが見える。あそこには酸梅湯《スワンメイタン》を売る小さな店屋がある。あの透明で火の色をしたジュースは佐智の大好物なのだ。佐智の母が、これを飲むことを禁じる理由はたった一つしかない。不衛生な飲み物だから。でも佐智は、酸梅湯を飲む理由をもっとたくさん持っている。第一が喉を通るときに感じるさわやかな風、第二が独りの淋しさを鎮《しず》める甘酸《あまず》っぱい味、そしてこの世でいちばん美しいと思われる紅色などである。 〈早く、老高《ラオカオ》、早くね〉佐智は心で念じた。  ふいに軽い疼痛《とうつう》を背中に感じた。右側の水面に何かが小さな音をたてて沈んだような気がした。ふり返ると、楊柳の下で二人の大柄《おおがら》な少年が杏《あんず》を食べていた。市立中学校の青い制服をきちんと着たまじめそうな少年たちだった。飛んできたのが、杏の核だったことに気づいた。ふたたび橙《だいだい》色の小鳥のように核が飛んできた。小鳥はかなり鋭いくちばしで佐智の肩をついばむと、水に墜《お》ち、今度は金魚に変身して湖に潜っていった。少年たちは黄色い皮ごと汁気《しるけ》たっぷりの果肉をしゃぶり、次に核を水に捨てたのである。最初に欄干に寝そべった女の子に当たったのは、偶然だっただろう。けれど佐智が向き直り、日本《リーベン》の顔をあらわにしたとき、彼らは射的の興奮に駆られたにちがいない。佐智がすばやく顔を覆《おお》ったすぐ後で、別の核が正確にその手の甲を射《う》った。今度はほんとうに体勢が崩れて、佐智は石畳に落ちた。体の中でコキンと骨と骨のぶつかりあう音がひびいた。佐智は痛みが骨のあいだにゆっくり引っこむまでじっとしていた。  中学生たちは、女の子が落ちたのにちょっとびっくりして、杏を手に持ったままぽかんとしていた。そのとき労働で鍛えた頑丈《がんじよう》な腕が、少年たちの衿首《えりくび》を引っ捕らえた。彼らは二匹の兎《うさぎ》のように弱々しくもがいたが、老高はびくともしなかった。 「放せよう、何すんだよう」  一人がわめき、一人が泣きはじめた。杏が滑りの悪いビー玉みたいに四方に転っていった。 「悪たれめ、二度とするな」  老高が突き放すと、中学生たちは熟した杏の上に倒れ、制服を黄色い液と肉で汚した。 「東洋鬼《トンヤンクイ》の車引き、ヤーイ。喝涼水《ホウリヤンシユイ》! |※[#「父/巴」、unicode7238]々《パーパ》に言いつけて罰してやるからな」  力のかぎり逃げ出しながら、少年たちはののしった。ぺっと激しく老高は地につばを吐いた。  石の上に落ちたとき、佐智はふいに|あの夢《ヽヽヽ》を見た。それはふだんはベッドにもぐりこんでから、ひんぱんに出現するもので、昼間見たのは初めてだった。しかし夏の鮮やかな光の下でもそれは暗闇《くらやみ》に浮かぶ輪郭を失わず、いっそう生ま生ましく佐智に迫った。俗悪な紙芝居のように、言葉が夢の場面を解説するのもいつものとおりだった。 〈そして……血にまみれた一つの顔が……こちらを向いてにやりと笑いました……〉  声はたしかに自分の声だが、まるでもう一人自分がいて、その自分が佐智にささやいているようだ。佐智は頭を抱えた。恐怖と紙一重の冷たさが体中を駆けめぐっている。それが本物の恐怖にならないのは、夢がかつてほんとうにあったことだからだ。体験にはない夢のほうがずっと怖い。だから|あの夢《ヽヽヽ》にかぎっては、佐智は底無沼《そこなしぬま》から自分を救いあげる手段を持っている。それは〈|あのとき《ヽヽヽヽ》〉をつぶさに思い出すことだ……。 『あらわし班』という名は班長の孝雄《たかお》がつけたのだが、班員たちはその名にあまりふさわしいとは言えなかった。病気がちで学校を休んでばかりいる佐智とお雛様《ひなさま》に似たぽってりした男の子の文明は一年生。三年生の京子と浅子は双子のくせにけんかばかりしている。四年生の洋一は鼻が悪くていつも口を開け放ち、動物好きの健は犬や猫《ねこ》を見かけるたびに、通学班を忘れて飛んでいってしまう。ただ五年生の孝雄一人が、苦労して班をまとめながら、山を二つ三つ越えた所にあるらしい戦争に憧《あこが》れていた。  |あのとき《ヽヽヽヽ》『あらわし班』は国民学校から帰る途中だった。胡同《フートン》(露地)にはやはりハリエンジュの花の匂《にお》いが流れていた。佐智は自分たちが花の匂いをさかのぼっている魚の群れのような気がしたのだ。手をつないでいる文明はむっつりしていた。きっと学校でいやなことがあったのだろう。国民学校ではしょっちゅういやなことが起こる。帰ったら文明とだけいっしょに遊ぼう。佐智は色の白い太った文明が好きだった。  ふいに先頭を歩いていた孝雄が立ち止まったので、『あらわし班』全員が転びそうになった。孝雄は気をつけの号令をかけられたみたいに、前方を凝視している。だれかがその方向を見て、「ひええ」と変な声を出した。  胡同の出口が、気味の悪いものにふさがれていた。錆《さび》の塊りのような人力車とどうやら人間らしい形をしたものである。車の幌は元の生地がわからぬほど継ぎ足されたうえに、甜瓜《まくわうり》ほどの穴が天井にあいている。車引きのほうは、全身|鉤裂《かぎざ》きがひらひらしているぼろで覆われ、ぼろからはみ出した皮膚は垢《あか》に埋もれている。髪の毛は油と砂の混合物でてらてらしている。人間というよりは、石炭|殻《がら》の下から這い出してきた奇妙な生物だった。今までこんなものをだれも見たことはなかった。車引きは洋車の踏台にうずくまり、薄笑いを浮かべて集団下校中の子供たちを眺《なが》めていた。胡同の片側の壁と車輪の間隔は二尺よりも狭く、『あらわし班』が車引きの横をすり抜けずに先に進むことは、不可能のように思われた。 〈前進?〉〈後退?〉。たぶん棒立ちになっている班長の孝雄の頭の中には、二つの信号が交互に明滅を繰りかえしていたであろう。その車引きは三日間何も食べていないにちがいなかった。ただ道ばたに横たわっている乞食《こじき》とちがう点は、彼が〈車〉を所有していることだった。その一筋の光に取りすがって、彼は通学路である胡同に車をとどめ、彼に声をかけるかもしれない未来の客を待っているのだろう。だから彼をここから退《ど》かすためには、その希望を打ち砕くほかはないであろう。 「走《ツオウ》、走《ツオウ》!」  孝雄は車引きに向かって怒鳴った。車引きはちょっと白目を動かしたが、立ち去る気配はぜんぜんなかった。胡同の出口こそ、彼と彼の車が居られるこの世で唯一《ゆいいつ》の場所と信じこんでいるみたいだった。 「早く向うに行けったら!」  孝雄はじれて地団太を踏んだ。今度ばかりは『あらわし班』全員の気持は同じだった。 「戻《もど》って、別の道から行こうよ」  健がおずおず言った。 「ばかたれ、日本軍は決して退却しないんだ」 「だって病気かもしれないよ」  医者の娘の京子が口をとがらした。孝雄は腕組みをした。それからきっぱりした口調で「よし、皆、石を拾え」と言った。  だれも最初に投げるのはいやがった。皆がおずおずと班長の後ろにかたまった。 「洋一、おまえ投げてみろ」  孝雄が命令すると、洋一は素直に従った。しかし洋一の石は一間ほどひょろひょろ飛ぶと地に落ちた。孝雄は舌打ちして石を選んだ。 「下手糞《へたくそ》だな。みてろよ」  彼は球投げの名手だから、皆|固唾《かたず》を呑《の》んで見守った。石は流れ星のように抛物線《ほうぶつせん》を描くと、車引きの肩にめりこんだ。 「アイヤー」  車引きは弱々しく叫んで、両手を上に掲げた。降参のつもりというよりは、ふざけているみたいに見えた。班長の次の石は狙《ねら》った幌を縦に引きさいた。〈もう、だれも乗れなくなる〉と佐智は思った。もっとも布は弱りきっていたから、手で触ってもそうなったかもしれない。車引きはぼんやりとして、梶棒を上げようとする意志も見せなかった。しだいに『あらわし班』全員がいらいらしてきた。車引きがこんなに強情であることは予想外だったし、彼が花の香の流れる胡同にいるのは明らかに不当だった。全員が両手にたくさんの石を抱えた。文明も、佐智も、京子も、浅子も投げた。ただ健だけが両手を空っぽにして、立ちすくんでいた。  小石が命中するたびに車引きは「アイヤー」と小声で叫んだが、あいかわらず身を守る様子はなかった。突然、だれかの放ったかなり大きい煉瓦《れんが》のかけらが、額にぶつかるのが見えた。彼はちょっとよろめいた。垢を押しわけて、血が朱塗りの箸《はし》を突き立てたようにほとばしった。信じられないくらい鮮やかで美しい色をしていた。車引きは滴《したた》り落ちる自分の血の行方をふしぎそうに眺めると、もう一度子供たちのほうを向いてにやっとした。 「キャアァ」と悲鳴をあげたのは、京子か浅子である。『あらわし班』は総崩れとなって胡同から敗走した。逃げても逃げても、血だらけの顔とそこに浮かんだにやにや笑いは背中にぴったりついてきた。班長は班員のことなどかまわずに、皆を引き離して先頭を走っていた。逃げ足の遅い佐智と文明は、手をつないだまま声をかぎり泣いて走った。  北海の欄干から石畳に落ちたとき、佐智の見た夢は一瞬だった。しかしどんなに短くとも、夢は現実の初めから終りまでを佐智に思いおこさせた。何度もくり返し夢はやってきて、そのたびに〈まだ先があるぞ〉とささやきつづけた。佐智はむしろそのことに脅《おび》えた。 「サーチー、どこか痛くしたか」  老高が不安をいっぱい顔に浮かべて佐智をのぞきこんでいる。 「けがしたか、だいじょうぶか」  佐智は頭をふって起きあがった。老高の両手には酸梅湯のコップが、二個の小さい夕陽《ゆうひ》のように輝いている。老高は安心した表情になって言った。 「喝《ホー》、サーチー、喝《ホー》」  佐智は紅色の液体に口をつけた。甘酸っぱい果汁《かじゆう》が、夢の残像を和げた。老高は優しい象のような目でまだ佐智を眺めている。何も知らない高おじさん。四年前のあのできごとを告げたら、その目はもっと厳しく変わるだろうか。〈高《カオ》の小さいかわいいサーチー〉に話しかけることをぷっつりやめて、SHと院子を往復する同居人としての義務を果たすだけになるだろうか。SHのマザーたちは〈嘘《うそ》はもっとも大きな罪です〉と言い、〈他人を傷つけることは罪です〉とも教えた。佐智はどちらにしても罪を背負っている。だから杏の核ぐらいではびくともしない。ただ老高がとても好きなので、悲しませることをしたくないだけだ。ほんとうはまだ夢の余韻で、心臓の辺りがピクピクしているのだが、佐智はできるだけ元気よく言った。 「酸梅湯《スワンメイタン》とてもおいしい。ありがとう」  老高は喜んで頬《ほお》をふくらまし、巴旦杏《はたんきよう》を入れた顔になった。ふいに今まで思いつきもしなかった考えが、佐智をよぎった。 「老高《ラオカオ》、あんたの家族はどこにいるの?」  老高は質問がわからぬように、きょとんと佐智を見た。彼の顔は赤銅色《しやくどういろ》をして、烈《はげ》しい日にさらされた地面のようだった。そこにはまた長いあいだに雨風が削りとった溝《みぞ》が、何本も走っていた。佐智は質問をくり返した。くり返しながら、自分が老高について、何か知りたいと思ったのは初めてであることに気がついた。 「遠く、たいへん遠く……」  老高はぶつぶつ口の中で言った。それから洋車の梶棒を上げて、佐智に出発の合図をした。     4  SH学院が夏休みに入る前日、リリーが騒ぎはじめた。休暇のために学用品を整理していた級の全員が注目するほどの声だった。 「ハンカチーフ知らない? パパがフランスから買ってきてくれたばかりのものよ。たしかに文法《グラマー》の教科書の上に置いたわ。端から端までレースで編んである、すごく高価なものよ」  リリーは後席の佐智をふり返った。 「ねえ、サチ。あなた、まちがって使ったんじゃないの?」 「ちがうわ」佐智は腹の虫を抑えて言った。 「あたしはちゃんと自分のを持っている」 「そうよね」リリーは佐智をいやな目で見て言った。「あなたのはごわごわした木綿だから、まちがえっこないわよね」 「机や椅子《いす》の下に落ちているかもよ」  ラシュミーが自分の長いおさげを払いのけながら言った。彼女もいらいらしているのがわかった。 「まちがえたふりをして、ポケットに入れる人もいるわよ」  リリーが平然と言ったので、皆が凍りついてしまった。級長の仏人《フレンチ》のテレサが厳しい声でたずねた。 「リリー、それどういうこと?」 「サチのポケット見たいの。気になって仕方ないんだもの」  無邪気な声でリリーが言った。意地悪ではなく、本気でそう思っているのだ。テレサが困ったように佐智を見たが、落ちついているので安心したふうであった。 「リリーっていやな子ね」そう言うと、佐智のほうに青い目を向けた。「あなたが持ってるなんてだれも信じないわよ。でも、どうする?」  反射的に佐智は制服の白いワンピースの胸ポケットに手を入れていた。今朝、母親から渡された二枚のハンカチーフを出した。一枚は父親と同じ洗いざらしの木綿製で、もう一枚は小さくなった夏服の裾《すそ》から切りとられたプリントである。 「へえ」とリリーが言った。「日本人《リーベンレン》は古着からハンカチーフを作るのね。中国人《チユングオレン》とはだいぶちがうわ」 「総レースのハンカチーフを学校に持ってくるなんて、あたしの国では田舎者のすることよ」  テレサがやんわりと言った。 「あの……」優しいささやき声が、リリーと佐智を取り囲んだ制服の背後から聞こえた。皆がその方角を見ると、最前列に座っているエリザベートがたどたどしい英語で言いはじめた。 「リリーがさっき黒板に絵を描《か》いたでしょう。先生の足音がしたのであわてて拭《ふ》き消して戻ったとき、これが足もとに落ちたの。あたし拾っておいたわ」  栗色《くりいろ》のおかっぱに同じ目の色をした小柄のエリザベートは一生懸命、母国語でくり返した。 「|あたし《イツヒ》が、|あたし《イツヒ》が……ね、ほら」 「あやまりなさい、サチに」  めずらしく強い声でラシュミーがリリーにせまった。 「あたし、別にサチが盗《と》ったなんて言わなかったもの」 「それに似たことを言ったわよ。だいたい、あなたはいつもサチにひどいのよ」  ラシュミーの仔鹿《こじか》に似た目の底に、怒りの焔《ほのお》がちらちら燃えている。ふいにリリーが声をつまらせて喋《しや》べりはじめた。 「あたしだって、ずいぶんひどいことされたわ、日本人《リーベンレン》に。媽々《マーマ》と洋車《ヤンチヨ》に乗っていたら引きずり降ろされて、日本人《リーベンレン》が乗っていってしまう。私と媽々《マーマ》は遠くの親戚《しんせき》まで歩いていったのよ。おかげで媽々《マーマ》の足は肉刺《まめ》だらけになったわ。ちょっといい服装すると〈非国民《フエイグオミン》〉ってののしられたわ。日本人《リーベンレン》の男の子からびりびりに破られたときもある。そのときは阿媽《アマー》といっしょだったのに、阿媽《アマー》はがまんしなさいって言うばかりだったわ。それでもなぜあたしが日本《リーベン》にあやまんなくっちゃならないのよう」  ふたたび夢がちらちらしてきた。リリーの背後に血を垂らした車引きの影法師が見えた。リリーはあの車引きを知らないし、知っても軽蔑《けいべつ》するだけだろう。それでもリリーとあの瀕死《ひんし》の車引きは共通の言葉を持ち、同じ種類の血を体内で分けあっている。リリーはどちらを選択するのだろう。もし日本人《リーベンレン》か車引きかのどちらかを選べとせまられたら……。  目を開けると、級友たちはそれぞれの席に戻っていた。長い廊下のはずれから、白衣の中でコツコツと軽快に反響するマザー・アメダの足音が近づいてきた。 「気にしないでね、サチ」  後ろから、自分のほうがずっと気にしてるみたいにラシュミーがささやいた。  夏休みに入ってすぐ、老高《ラオカオ》の姿が門番小屋から消えた。 「田舎に帰って息子を連れてくるって言うの。私たちには言わなかったけど、二年前に奥さんが亡《な》くなっていたらしいのよ」  佐智の母親は少し困ったように説明した。  佐智は興奮して頭が痛くなった。やはり自分の想像は当たっていた。老高には自分と同じぐらいの子供がいたんだ。どんな子だろう。老高に似ているだろうか。頬《ほ》っぺたに小さい巴旦杏《はたんきよう》を入れて笑うだろうか。田舎では学校に通っているのか。漢字をいっぱい書けるだろうか。  佐智は役所から帰ってきた父親を捕まえて喋べりたてた。 「そんなにいろいろ期待してると、会ってからがっかりするからよしなさいよ」  父親は笑いながら言った。 「山西《シヤンシー》のはずれに住んでるそうだ。隣りは蒙古《もうこ》の砂漠《さばく》だよ。父さんは蝗《いなご》の調査で何回も行ったことがある。あの辺りの家は泥《どろ》でできてるんだ。学校なんてないんだよ。読み書きは必要ないと皆が思ってる」 〈そういうことじゃなくて……〉佐智は父親の答に不満だった。〈お父さんの言い方はちょっとおかしい〉。佐智がこだわったのは、自分の息子を田舎に残して他国の少女をかわいがっていた老高の気持だ。佐智の父は、もっと老高をわかってくれてもいいはずだ。だってお互いに父親同士なんだから。 「でも、弟ができるみたいで嬉《うれ》しいの」  佐智はふたたび強調した。すると父親は急にまじめな表情になった。佐智の肩に片手を置くと、ゆっくりと力をこめて言った。 「いいかい、佐智。父さんが今、農研《ヌンイエン》で働いているのは、中国人に必要な農業技術を教えるためだ。ほんとうは早く帰って、自分の国で働きたいんだよ。でも私たちは勝手にこの国に押しかけてきた。父さんの周囲の中国人は何も言わないけれど、そのときは腹の中が煮えくりかえっていただろうよ。父さんは今、その償いの一部をしているわけだ。結局私たちは戦争に負けたのだから、思いどおりにはならない。そうだろ?」  佐智はそんなことはよくわかっていた。〈そんなことではなくて……〉とふたたび胸の中でくり返した。父親は娘の無言の意味に気づかずに言葉を続けた。 「だから、中国人とはほんとうに親しくはなれないんだよ。きっと悲しい目に会うぞ。父さんは佐智のためにそれを心配してるんだよ」  佐智は父親を見あげた。白髪《しらが》が、二、三本、耳の上の毛に混じっている。いつ生えたんだろう、と佐智はふしぎに思った。 「もし、反対だったら?」佐智は食いさがった。「日本が勝って、中国が負けていたら、日本のために中国人を働かせた? ここは日本ではなく、北京だけど、それでもそうした?」  父親はだれにも嘘を吐《つ》けない性分だった。彼は言葉につまり、それからしぼり出すような声で答えた。 「たぶん……もっと……ひどくなっていただろうね。中国人を銃で射《う》ったり、剣で刺したり、靴《くつ》で撲《なぐ》ったりするのが、日本人にとって何でもなくなっていただろうね。だから父さんは実のところ、負けてほっとしてるんだよ」  佐智も、これには同感だった。あのころの楽しい思い出といえば、『戦艦陣取り』ぐらいのものだ。日本の友だちはいなくなってしまったが、好きなことができる今のほうがずっといい。ところが驚いたことに、父親は最後につけ加えた。 「でも、父さん、やはり帰りたいなあ。いくら親切にされていても、私たちは自由じゃないんだからね」  佐智は沈黙しながら、老高のひょっとこに似た笑顔を思い浮かべた。父親は、中国のために中国の役所で働かねばならない自分をいやがっている。その父親の辛《つら》さと老高の優しさの両方にはさまれて、佐智は胸がつまりそうになった。ここから逃れるただ一つの方法は、たぶん二人に同時に背を向けることだった。しかしそのとき、いったいどこを向き、何を視《み》たらよいのか、佐智にはわからなかった。  佐智の母親のほうは、同じ院子《ユアンズ》の新しい住人である男の子が佐智に与える影響について心配をしているのだった。 「あなたは一人っ子なんだから、この家に同じぐらいの子供がもう一人増えるのはとてもいいことよ」母親も正直に言った。「でもその子はきっとSHのお友だちとは全然ちがうわ。佐智はそれをよくわきまえていてね」 〈そういうことか……〉  佐智は初めて別の目で親たちを眺《なが》めることに成功した。少しずつ自分と両親のあいだに通り抜け禁止の〈壁〉が築かれていく。自分という人間は、世の中にただ一人しかいない。この実感は新鮮だった。  母親はあい変わらず市立図書館で仕事をしていた。日本人の帰国者の数に比例して、日本の書物は増えつづけ、それを見るたびに絶望的な思いに駆られた。でも働きつづけなければならなかった。 「北京中にある全部の日本の本の整理が終ったら、私たちは帰れるのよ」  図書館の倉庫に乱雑に積みあげられた日本語の書物がきちんと分類され、余さず棚《たな》に並べられる日が母親の夢の終点だった。佐智は五歳で黄海を渡ってきたから、故国に帰りたいとも帰りたくないとも思わなかった。彼女はただ絵葉書のような断片的な記憶を故国について持っていて、よほど退屈したときにはそれを取り出して眺めた。  SHの長い休暇がきても、佐智の母親は休みをとることができなかった。佐智は市立図書館の裏にある、丈の高い草の茂った空地で遊ぶ日が多くなった。草のあわいに寝ころぶと、自分が海に漂う筏《いかだ》になったような気がした。北京に来るまでに一週間近くも揺られつづけた海の感覚だけは、まだ体から脱け落ちてはいなかった。風が吹くと、筏は一つの方向にぐんぐん流されていく。SHの子供たちは、休暇中故国に帰ったり、避暑に行ったりしていた。筏が流れ着くと、そこは綿花の積荷あふれるボンベイ港で、ラシュミーが桟橋《さんばし》から笑いながら手を振っていたりした。フランスの避暑地では、灼《や》けつく砂の上で眩《まぶ》しいほど白いテレサが半裸になっている。また嵐《あらし》に巻きこまれて筏は太平洋を横断し、メキシコの海岸に漂着する。ソンブレロを被《かぶ》った男の子が多勢集まって、佐智を胴上げする。〈アミーガ、祭りが始まるよ〉と騒ぎながら。  これらはみな、マザー・アメダの巧みな地理の授業の産物だった。SHは、あの窮屈な灰色の国民学校とは比べものにならなかった。国民学校がつぶれたときはせいせいした。踊りたいくらいだった。『あらわし班』の中では孝雄だけが目を真っ赤に泣き腫《は》らしていた。文明と佐智は手をつないで、押しっくらをして帰った。明日からは果てしない時間が全部自分のものだという考えに有頂天になって、来《きた》るべき悪夢にはぜんぜん気がついていなかった。  父親《フーチン》はなかなか午寅《ウーイエン》を迎えにこなかった。媽々《マーマ》が死んで半月ほどたったある日、突然日本軍が村からいなくなった。夜が明けてみると、幕舎も銃砲も兵隊の姿も消えていたのだ。塹壕《ざんごう》だけが、巨大なもぐらのトンネルみたいに村を半周していた。まもなく日本が負けたという噂《うわさ》が、村の端から端まで流れた。しかしそれは噂だけで、ほんとうにどうなのかはだれにもわからなかった。とにかく〈壁〉で出会った八路《パールー》兵が予言したような大きな戦争にならなかったのでよかった、と午寅は思った。母親《ムーチン》がいなくなった今は、祖母《ツームー》だけを置いて〈壁〉の向うに逃げていくわけにはいかなかったからだ。たまに八路軍が、働き蟻《あり》の行列のように〈壁〉を越え、村を通っていった。彼らは本物の蟻みたいにおとなしく、老人に会うと深々とお辞儀をした。村に宿泊することもあったが、次の日は必ず農作業を手伝ってから出発していった。彼らは若かったり、年寄りだったり様々だったが、午寅は〈壁〉で会った兵隊には一度も再会できなかった。〈もしかしたら……〉と午寅はときどき寂しい気持になった。  それからずいぶん長い時間がたった。午寅は九歳になって、多少は骨にも筋《すじ》がついてきた。彼は祖母の手の回りきれない高粱《コーリヤン》畑の世話を主にした。祖母はめっきり足が弱ってきて、ため息ばかりもらすようになった。昼間も暇さえあればぐったりと横たわり、家鴨《あひる》たちが髪の毛をつついても怒らなくなった。  ある日、祖母は午寅の傍《そば》に立つと言った。 「|※[#「父/巴」、unicode7238]々《パーパ》が汽車で町まで来るよ。早く仕度をおし」  午寅がまごまごしながら、村の共同井戸から汲《く》んできた水瓶《みずがめ》を下ろすと、祖母は媽々の綿入れを裂いて作った鞋《くつ》を持ってきた。それをはいていると、少しどこかに出発するのだという気分になってきた。祖母はそのほかに焼いたとうもろこしパンを油紙に包んで午寅に与えた。 「汽車の中で|あれ《ヽヽ》といっしょにお食べ」  それで午寅が祖母とはもう会えないのだ、とわかった。彼はうつ向いたまま言った。 「祖母《ツームー》は|※[#「父/巴」、unicode7238]々《パーパ》に会いたくないの?」 「あたしは纏足《てんそく》が痛くてとてもだめだよ。林徐景《リンシユーチン》がおまえを駅まで連れてってくれる」  順燕《シユンイエン》に別れを告げたいと思ったが、時間がないことがわかった。北京に行く汽車は三日に一度ぐらいしか駅に止まらない。※[#「父/巴」、unicode7238]々でさえそのために家に戻《もど》っては来られないのだ。 「おまえはいい子だから……」と祖母はくしゃくしゃの顔で午寅に言った。「おしゃべりさえしなければ、いい子だから……」  駅の腰掛けに腕組して座っている日焼けした男が父親だとは、午寅はしばらく気づかなかった。林徐景が叫び声をあげて駆けより、男の肩を抱きしめると、男は顔中しわだらけにして笑った。すると記憶がよみがえり、急に顔が赤くなるのを感じた。※[#「父/巴」、unicode7238]々は村を出たときと同じように髪を剃《そ》っていたが、午寅が初めて見る奇妙な四角ばった上着を着ていた。彼は息子に近づくと、ごりごりと頭を板のような掌《てのひら》でなぜ、じっと目を見つめた。 「背が伸びたな。祖母《ツームー》は元気だろうか」 「足が痛くて、出かけられないんだよ。でもそのほかに悪い所はないみたい」 「五年も会っていないんだ」  ※[#「父/巴」、unicode7238]々はちょっと辛そうに言った。午寅は父親が媽々についてたずねるのではないかと思ったが、彼はそれ以上何も言わず林徐景のほうをふり返った。 「世話になったな。老兄《ラオシユン》」 「達者でな、高玉峯《カオユーフオン》」  座席は広くて、二人が腰かけてもまだ余裕があった。汽車は午寅の想像以上に揺れながら走ったので、午寅は自分の魂が体から離れて飛んでいるような変な気分になった。 「おまえは無口だな」  父親が笑いながら言った。 「そうでもないよ」  はにかみながら息子は答えた。しだいに彼は長く会わなかった父親に対して、感情がわきあがるのを感じた。それはつまり、母親や祖母が傍に座っているときには感じないであろう、よりかかりたい気持だった。父親が膝《ひざ》の上の包みを開いた。 「小麦粉で作った本物の饅頭《マントウ》だぞ。うまいぞ」  白いポコンとふくらんだ饅頭は、汽車とともに小刻みに揺れていた。ふいにそれが母親の二つの乳房に見えたので、あわてて午寅は目をこすった。 「今、お腹《なか》がいっぱいだよ。祖母《ツームー》がお粥《かゆ》を食べさせてくれたんだ」 「そうか」  父親はあっさり引っこめて、ふたたびていねいに包みを結び直した。彼自身もまた白い饅頭などふだん食べていないのだ、と午寅は直感した。  汽車はとうもろこしや高粱のあいだをとぼとぼと走っていた。これなら馬車《マーチヨ》のほうが早いのではないだろうか、午寅はいくらか自分の乗っている鉄の車に不信を抱いた。ふいに驚きの叫びが、体の中からわきあがった。午寅は窓わくにしがみついた。最も遠くに盛りあがった丘の形は、毎日見慣れたあの丘にちがいなかった。午寅は窓から首を突き出して〈夢の壁〉を探した。やっと見つけたときには、それは丘に必死でしがみついている灰色の岩石にしか見えなかった。強い蒙古《もうこ》風が来れば、たちまち転落してしまいそうだった。あれはやはりこんなに頼りない存在だったのか。ふいにこんなケチなもののために、村の人を労働に駆りたてた皇帝に怒りがわいてきた。もっとましなものを造ればよかったんだ。もっと役にたつ穀物倉とか涸《か》れない水路とか……。午寅は自分が今までいた所から、ぐんぐん遠ざかっていくのを感じていた。たぶん十五歳になる前に〈夢の壁〉に登ってしまったせいだろう。もう未来の夢を見ることは、自分にはできないのかもしれない。いったい自分はどこに、何しに行こうとしているのだろう。  |※[#「父/巴」、unicode7238]々《パーパ》は驚いて、身を乗り出した息子を抱きとめた。 「あぶないぞ。汽車は駅でなければ停車しないものだ」  午寅は黙って父親を見あげた。彼は五年間に、自分の家に何が起こったか一つも知らないのだ、と思った。彼は笑いながら息子に言った。 「北京《ペイチン》でおれは日本《リーベン》の家族の院子《ユアンズ》に住んでいる。あの人たちは実に賢こくて、書物をたくさん持っている。おまえはあの人たちに礼儀正しくしなければならないよ」  日本と一つ家に住むときいて、午寅は混乱した。だって日本は死んだ媽々に対して……。 「あいつらは、おいらの村で悪いことをたくさんしたよ。おいらは見たんだ」  午寅は熱くなり、夢中で口を滑らしていた。そのとき媽《マー》が低い声で〈おしゃべり午寅《ウーイエン》〉とささやくのが聞こえた。〈舌に脂《あぶら》を塗ったのかい……〉 「どんなことを見たんだ」父親が怖い目になってきいた。「|※[#「父/巴」、unicode7238]々《パーパ》に話してみなさい」  午寅は首を垂れて黙りこんだ。父親はしばらく息子の様子をじっと眺めていたが、深いため息をついて目をつむった。  窓の外には起伏のない埃《ほこり》っぽい大地が、延々と連なっていた。線路の脇《わき》には山東菜が植えてあるらしかった。しかし葉は黄ばんで、炎暑にあえぐ犬の舌みたいにだらんと土の面《おもて》に身を投げていた。午寅の心に痛みが、大地のひびのように走った。自分は汽車に乗って、手桶《ておけ》一杯の水も作物に与えられない。 〈でも、どうやら祖母《ツームー》との約束は破らなかった。それに祖母《ツームー》は、豚にえさをやり忘れはしないだろう〉  午寅は傍で口を開けて眠っている父親を見た。そのとき自分が〈壁〉のことを、ほとんど忘れかけているのに気づいた。     5 「サーチー。これが私の息子の高連海《カオリエンハイ》。ふだんは午寅《ウーイエン》と呼んでやってください」  老高《ラオカオ》は自分の息子を自慢の品物みたいに見せた。首筋が折れそうに細い、色の黒い男の子だった。髪の毛は短く詰めてあり、そのため冬瓜《とうがん》のような頭の形が丸見えだった。四人は中庭にいて、テーブルの上にはよい香りのする紅茶|茶碗《ぢやわん》と菓子皿があった。それは心を決めた佐智の母親の、せいいっぱいの歓迎の印であった。 「午寅《ウーイエン》、遠慮しないでお座りなさい」  少年は、聞きとりにくい変な中国語がどこから降ってきたのか探そうときょろきょろした。それから佐智の母親の口もとを驚いて見つめた。 「太々《タイタイ》がおまえに座れと言われてる」  老高は嬉しそうに言った。 「老高《ラオカオ》はもう仕事に出かけるのでしょう。あとは佐智と午寅《ウーイエン》が仲よくなるまで、私がここで見ていましょう」 「でも午寅《ウーイエン》は礼儀を知りません。あちらではだれにも教わらなかった。学校にも行っていなかった」 「かまわないのよ」  母親は笑って同居人を追い払った。  午寅は身軽に腰かけに跳びあがると、テーブルの上をめずらしそうに眺めわたした。佐智は横目で少年を見ながら、チョコ玉の金紙を剥《む》きはじめた。これはめったにはテーブルに現れぬ貴重品である。午寅は首をかしげたが、すぐ真似《まね》をして剥きはじめた。佐智は彼が自分よりかなり幼ないのを知って、かすかな優越感に浸った。一人っ子の境遇は、佐智にかつて一度もだれかの手本になることを許さなかったのである。 「|吃※[#「口+巴」、unicode5427]《チーバ》」  佐智はチョコレートを食べてみせた。口の中が蕩《とろ》けそうだ。体中に幸福感が広がってくる。 「アイヤー、苦《クー》!」  午寅はいったん口に放《ほう》りこんだチョコ玉を、舌の先で押しもどして地に吐きだすと、まだ足りないのか二、三度ぺっぺっとつばを吐いた。母親は笑いだし、佐智は呆然《ぼうぜん》と泥《どろ》と一体化した至福の源を見つめた。 「こいつは薬なの?」午寅は濃茶に染まった舌を垂らしながらたずねた。「おいら、きらいだ」 「じゃあ、揚菓子を食べなさい」と母親が勧めた。 「こっちは、頂好吃《テインハオチー》」  午寅はそう言うと両方の手に一個ずつ握りしめて交互にかじりはじめた。左右の菓子の大きさがちがってくると、あわてて大きいほうにかぶりついた。  午寅は紅茶は気に入ったようだった。特に砂糖を入れる点が好ましかった。彼は山盛り三ばいの砂糖を入れて、底に溜《た》まった濃い液体をなめるとふしぎそうに言った。 「甘蔗《カンチエ》の茎よりも甘い」 「工場で甘蔗《カンチエ》の汁《しる》をしぼって、砂糖を作るのよ」と佐智が教えた。  午寅は感嘆して、砂糖|壺《つぼ》に指をつっこんでなめた。佐智の母親があわてて取りあげなかったら、この貴重品もたちまち少年の胃袋に消えていくところだった。 「これは佐智の|※[#「父/巴」、unicode7238]々《パーパ》の朋友《ポンユウ》が特別にわけてくれるのよ。とても高価なものなの」  午寅はちょっと哀れむように、日本の親娘を見た。 「心配しなくてだいじょうぶだよ。※[#「父/巴」、unicode7238]々に田舎から運んでもらうよう頼んであげるよ。甘蔗《カンチエ》なら馬車に一台分だってあるさ。そしたら工場に持っていって砂糖に作ってもらおう」 「お願いするわ、午寅《ウーイエン》」  佐智の母はにっこりして言った。彼女はすごい美人だ、と午寅は思った。村いちばんの美人は順燕《シユンイエン》の姉さんだったけれど、佐智の母親はもっとすごい。背が高くて、ほとんど老高と同じくらいあった。力も強そうだし、とても賢こそうだ。知恵者であることは、女にとってどんな財宝よりすばらしいと祖母《ツームー》がいつも言っていた。順燕の姉さんが上海《シヤンハイ》に売られていったのは、頭がしょうがないほど弱くて、泣くしか知らなかったせいだ。 「表に出てみない、午寅《ウーイエン》」  佐智が立ちあがって誘った。 「はい、大姐《ターチエ》」  午寅も立ちあがって、おとなしく返事をした。佐智は少年を眺め、彼の頭が自分の肩ほどしかないのに満足した。  佐智の母親は、午寅が無邪気で安全な少年だったので安心して、彼を佐智に引き渡した。自分は中国から委託された図書整理に精を出した。一刻も早くこの仕事に方をつければ、それだけ、帰国が近づいてくる、と本気で信じていた。  佐智は午寅を、夏休みの突然の贈物のように受けとった。彼は、ものめずらしげに院子《ユアンズ》の庭を歩きまわり、ときどき突拍子もない行動をした。  佐智の母親は、毎日お八つ包みを一個ずつ二人に渡して出かけた。佐智は遊びに夢中になると、よくボロボロと菓子の屑《くず》を落としたが、それははじからきれいになくなっていった。午寅がにわとりみたいに片っ端から拾って食べてしまうのだ。そして彼の包みはちゃんと、|※[#「ころもへん+庫」、unicode8932]子《クーズ》のお腹にしまわれていた。  院子は小さかったけれど、それにふさわしい一本の棗《なつめ》の木が生えていた。光沢の強い葉の陰にやや淡い色をした果実がしがみついている。石けりやまりつきの最中に、佐智は少年がときどきちらりと棗を見るのが気になった。とうとう彼は背のびをして、まだ青くて硬い実をもぎ取ろうとした。 「まだ食べられないのよ」佐智はあわてて言った。「秋になって黄色くならなくちゃ……」  午寅はうらめしそうに佐智を見て、口をとがらせた。 「大姐《ターチエ》は知らないんだ。田舎にいたとき食べたけど、何ともなかった」  そして渋と酸の入り混じった棗をまずそうにかじったが、チョコレートみたいに吐き出そうとはしなかった。その夜、門番小屋から午寅の泣き声が響きわたった。 「痛いよ、痛いよ。おへそを蠍《さそり》が食いきろうとしてるよ」  佐智の母親はぶつぶつ言いながら、頓服《とんぷく》を持って老高の部屋を夜中に訪問した。なぜ午寅が四六時中、食べ物について考えているのか、これはどうしても解けない佐智の疑問となった。  午寅の頭には五毛銅貨ほどの白い雲が住んでいた。髪の毛は五ミリぐらいしか伸びていないのに、その雲はあちこちに形を変えて移動した。それは午寅が掻《か》きむしるせいだった。痒《かゆ》みは前触れなくやってきた。棗の枝にぶらさがっているとき、蟻の巣を掘りかえしているとき、佐智と押しっくらをしているとき、突然午寅は狂気の犬のようになって、頭を掻いた。すると白い雲は乾いた粉になって、あたりに飛び散った。とうとう佐智の母がその現状を見つけて、直ちに二人は引き裂かれた。佐智の髪はたんねんに調べられたが、白い雲の芽生えもなかったのでやっと解放された。母親は老高を呼ぶと、厳命した。 「午寅《ウーイエン》のしらくもを治療しなさい。すっかり治るまで佐智の傍《そば》に寄ってはいけません」  それから一週間、午寅の居場所は激しい悪臭によってだれにもすぐわかった。老高が漢方の薬師から聞いてきた処方は、数種類の草をどろどろに煮て混ぜたもので湿布することだった。そのすさまじい臭《にお》いは、佐智が染《うつ》らなかったのを感謝したくらいだった。やがて貼薬《はりぐすり》を取ってみると、白い雲は消えていた。まだ臭いが少し発散していたけれど、傍に寄れないほどではなかった。  大姐はときどき午寅にはわからない仕草をした。彼女はよく光る長細い箱を持っていて、それを口に当てると無数にあいた窓から小鳥のさえずりが流れ出すのだ。 「それは何?」  ある日とうとうたまらなくなって午寅がたずねると、佐智はそれを口から離し、驚いたように彼の顔を見た。 「|ハモニカ《ヽヽヽヽ》よ」 〈ハモニカ〉。午寅は口の中でつぶやいた。 「何のために鳴らす? 曲芸師でもないのに」  佐智はますます変な顔をした。 「好きだからよ。自分が思うとおり何でも吹けるわ」  午寅は黙りこんだ。意味がわからないときはいつもそうするくせが、いつのまにかついていた。祖母の言葉を思い出したせいではない。  佐智がハモニカを吹くと、午寅は傍に吸いよせられずにはいられなかった。ハモニカの音色は高粱《コーリヤン》の枯れた茎を吹く風に似ていた。媽《マー》に怒鳴られながら水を運んだり、草刈りをした日々があった。祖母がヨタヨタと纏足《てんそく》を開いて卵を集めている姿が浮かんだ。〈壁〉がしきりに思い出された。もう一度丘のふもとから〈壁〉を乗り越えて村を見おろせば、最後に見たみすぼらしい印象が消えるかもしれない。そうであって欲しかった。もっともそこで会った八路《パールー》の兵士の面影《おもかげ》は薄れてしまった。順燕の兄さんはどこにいるのだろう。これらのこと全《すべ》てを大姐である佐智に話したかったが、彼女は知らん顔でハモニカを吹きつづけた。もしうまく話ができたとしても、今度は大姐が黙りこむ番かもしれない。〈壁〉で見るべき夢を信じていた午寅を嘲笑《あざわら》いそうな気がした。〈たぶん、そうだ〉。午寅は心の中でつぶやいた。大姐は自分より年上だけど、自分よりものを知らない。それは大姐が日本《リーベン》で、戦争が終っても日本だからだ。それにしても|※[#「父/巴」、unicode7238]々《パーパ》はまるで日本になりたがっているみたいだ。自分はぜったいにいやだ。だって媽々《マーマ》は……。  ときどき佐智は、午寅と遊ぶのに飽きた。彼は佐智より二歳しか年下ではなかったが、実際にはずっと子供っぽく思われた。二人の共通点は、ガガンボみたいにやせている体格だけだった。彼は何も知らなかった。じゃんけんを教えるのも一苦労だった。鋏《はさみ》がなぜ石を切ろうとするのか理解しなかった。 「鋏は大事に使わないとだめになる」午寅は祖母に教えられたとおり言い張った。鋏で石に挑戦《ちようせん》するなんてとんでもない愚さだ。架空のことを午寅に呑《の》みこませるのは難しかった。  退屈すると、佐智は午寅にかまわなくなって今までのように好き勝手に時間をつぶした。彼女は一人で本を読んだり、絵や作文に没頭できるあいだは、何の不自由も感じていなかったのだ。院子の花壇には、触ると火傷《やけど》をしそうなサルビアが満開であった。佐智は画面いっぱいにねじれた赤い花を何本も描《か》いた。日除《ひよ》けのピケ帽と頭髪のあいだに、軟体動物のような太陽熱がもぐりこんで、汗の粒を顔中に転がした。  午寅は後ろの棗の木の枝に腰かけて、色鉛筆を走らせる佐智を見ていた。ときどき「大姐《ターチエ》」と甘ったるい声でささやいたが、佐智は知らん顔をしていた。午寅は木から跳びおりると、佐智の回りを目まぐるしく駆けまわった。背後から佐智を突っついたりした。早く新学期が始まって、午寅も学校に通いはじめるといい、とうんざりして佐智は考えた。  あるとき、午寅が少し媚《こ》びるような笑顔を見せてやってきた。 「大姐《ターチエ》、小鳥好き?」 「何ですって」 「空を飛ぶ鳥、午寅《ウーイエン》捕まえたよ、ほら……」  彼は背後に回した右手を佐智に見せた。午寅の五本の指に柔かく締めあげられた小鳥の表情には、激しい恐怖があった。 「どうして、どうやって捕まえたの?」  午寅は得意満面で喋《しや》べったが、早口すぎて佐智にはほとんど通じなかった。とにかくそれは午寅から大姐への〈感謝の印〉であった。 「でも、鳥籠《とりかご》ないのよ。どうしたらいい?」 「そんなもの不要《プーヤオ》。こうしておく」  午寅は器用に凧糸《たこいと》を小鳥の足首にゆわえつけた。一メートルほどの端をまた野外テーブルの脚にくくりつけた。小鳥は飛び立ち、すぐにテーブルの上に転倒した。 「じきに馴《な》れるよ。そしたら大姐《ターチエ》の肩にとまるようになる」  午寅は黄色い粟《あわ》の粒をテーブルにまきながら言った。佐智は大空に帰りたがる鳥を哀れに思ったが、午寅の予告にも心を動かされた。肩に小鳥をとまらせて、散歩したかった。  夕刻帰ってきた父親は、午寅をほめちぎった。 「野生のヒバリを捕らえるなんて、父さんにもできないよ。田舎育ちというばかりじゃなくて、あの子はかなり頭がいいんだ」  黄昏《たそがれ》の下でテーブルにうずくまった鳥は、陶器の置物のように鈍く羽毛を光らせていた。 「明日は農研《ヌンイエン》から、飼育箱をもらってきてあげよう。夜分はその中に入れておいたほうが安全だよ」  眠りの前に佐智は庭に出て、もらった鳥を見た。鳥は夜になったので静かにしていた。星空は鳥を惹《ひ》きつけないらしかった。テーブルの下で午寅がパンツとシャツのまま座っていた。彼はパジャマ姿の佐智を見てにっと笑うと、恥ずかしそうに「大姐《ターチエ》」とつぶやいた。 「明日、|※[#「父/巴」、unicode7238]々《パーパ》が箱を持ってきてくれるわ」佐智は小声で言った。「今晩はだいじょうぶかしら」 「今晩は午寅《ウーイエン》がここで見張ってる。ねずみかいたちがこいつを食べに来るから」 「これを着て」佐智は興奮して自分の肩掛けを少年に渡しながら言った。「夜がふけると石の上は冷えてくるわ」 「おやすみ、大姐《ターチエ》」  少年は、自信に満ちた声で言った。  翌朝早く、「アイヨー」という午寅の泣き声がふたたび院子に木霊《こだま》した。老高《ラオカオ》の罵声《ばせい》も混じっていた。佐智と母親が寝床から飛び出すと、少年はテーブルに顔を伏せてしゃくりあげ、父親は傍に立ってくどくどと小言を浴びせていた。少年は凧糸を握っていて、その端はテーブルから垂れさがり、櫛《くし》の歯のような骨が絡《から》まっていた。狡賢《ずるがしこ》い獣は、少年が眠りこんだのを見すまして小鳥の喉《のど》に食いついたのだろう。そして一片の肉も一滴の血も余さずに、夜のしじまを帰っていった。朝、少年が目覚めると、すっかり身軽になった鳥は翼を広げた格好で、風に揺られていたのである。院子の庭にはあちこちに多量の羽毛が吹きよせられ、事件を証明していた。 〈これは、おまえの見るべきもう一つの夢だ〉  ふいに冷たい声が佐智にささやいた。夜明けの院子の庭がしだいに縮まって、ふたたび夜が訪れてきたような気がした。気がついたときにはベッドに寝かされて、両親の心配そうな顔が並んでいた。 「脳貧血起こしたのよ」母が、起きあがろうとする佐智を抑えた。「午寅《ウーイエン》、とてもしょんぼりしてるわ。許してあげなさい。あの子のせいじゃないわ」  小鳥も、午寅の失敗も過ぎていった世界に属していると思えばよかった。でもいくつかの怖い夢だけは、たえず回りをうろうろし、忍び足のいたちのように佐智を狙《ねら》っていた。あの小鳥は、夢に食われる自分かもしれない。佐智は布団《ふとん》をかぶって、声を出さずに泣いた。     6  休暇が終った。SHの友だちが戻ってきた。ラシュミーは印度《インド》のおじいさんとおばあさんのところに行ってきたと言って、おみやげに象牙《ぞうげ》の腕輪をくれた。リリーは何を思ったのか香港《ホンコン》製のハンカチーフをくれた。黙ってはいるが、いつかのお詫《わ》びのつもりかもしれない。ふたたび老高《ラオカオ》は、佐智を人力車に乗せて走り出した。町角のいたる所に秋の気配があった。空は水晶のように固くなり、ハリエンジュは耳飾りのように豆の房をさげていた。宮殿や城門のるり瓦《がわら》は、本来の色調よりもっと鮮やかにきらめくことができた。老高はもうあまり北海《ペイハイ》や中央公園《チユンヤンクンユアン》に寄ろうとはしなくなった。夏の前よりずっと忙がしそうだった。無口が増し、顔のしわはくいこんだ針金みたいに硬く深くなった。  午寅《ウーイエン》は近所の中国の子供のいく小学校に通いはじめた。灰青色の質の悪い制服に埋まった午寅は、まるで不細工なかかしみたいにコチコチになっていた。佐智の母は縮んだ父のワイシャツをその下に着せた。佐智は自分のハモニカを午寅にあげた。佐智が吹き鳴らしているとき、彼がこっそり傍にきてうっとりした眼差《まなざし》を楽器に注いでいるのに気づいていたのだ。 「謝々《シエシエ》、大姐《ターチエ》、謝々《シエシエ》」  午寅はお礼もろくに言えないほど口ごもり、顔を真っ赤にしてハモニカを抱きしめた。  小学校にあがる前日、老高が何となく照れた顔で母屋《おもや》に来ると、今晩佐智の一家を夕食に招待すると言った。日が暮れると老高の小屋からは、豚の脂《あぶら》と香辛料の混じりあった匂《にお》いが漂い出した。皆がわくわくして待っていると、午寅が来て夕食が始まると言った。彼のすねたような変な表情に気づいたのは、佐智だけだった。ふしぎに思って午寅の手を引っぱると、彼はべそをかき、佐智の手をふり放して先に駆けこんでしまった。  老高の部屋に入ると、見たこともない女が座っていた。役者のように白粉《おしろい》を塗りたくった、ずいぶん若い女だった。彼女は佐智と家族が入ってくると、薄笑いを浮かべたが別に席を立とうとはしなかった。青いギラギラする耳飾りをつけていた。 「|※[#「女+息」、unicode5ab3]婦《シーフ》(女房)です」老高は日焼けした顔を赤黒く染めて紹介した。「午寅《ウーイエン》の母親《ムーチン》になってくれるのです」  佐智の父親は動ぜずに会釈《えしやく》して、女の前に座った。女は耳飾りをぶらぶらさせながら、急にぺちゃぺちゃと自分のことを喋べりはじめた。佐智は女の隣りでうなだれている午寅をそっと見た。彼はだれも見ないようにして、老高の作った料理の皿だけ眺《なが》めていた。老高が席に着くと、何となくぎごちなく全員で乾盃《かんぱい》をした。  老高が自慢するとおり、豚の煮ころがしはすばらしかった。舌の上にのせた瞬間に肉はくずれだすが、味わいは反対に広がって固形物が消えたあとにも残りつづける。佐智の母親はすっかり感心して、自分も老高に弟子入りしたいと言った。佐智が足を伸ばして午寅の膝《ひざ》をつつくと、彼は顔をあげ初めて気弱そうに微笑《ほほえ》んだ。最後に山東菜の漬物《つけもの》にスープをかけた御飯に満腹したころになって、やっと一同が新しい女の存在に少し慣れてきた。 「どこからいらしたの?」  佐智の母親がたずねると、女はつんと顎《あご》を持ちあげて「北京《ペイチン》です」と答えた。 「いやあ、老高《ラオカオ》も隅《すみ》には置けないな」  黄酒《ホアンチユウ》でよい気分になった佐智の父親が笑った。老高の巴旦杏《はたんきよう》を入れたような両頬《りようほお》がゆるんだ。 「佐智を毎日学校に送り迎えしてもらって、感謝してるのよ」と母も言った。  すると女が急に自分の亭主《ていしゆ》について言いはじめた。 「洋車《ヤンチヨ》引きはよくない仕事です。汚ないし、他人にばかにされる。あたしは別の仕事に変えてって言ってるんです」 「蓮華《リエンホア》」おだやかに老高が言った。「どんな仕事も大事だ。煉瓦《れんが》を積んで家を建てるとき、だれが途中で放りだすか? わしはまだ半分しか煉瓦を積んでおらんよ」  女はぷいと横を向いた。明らかに老高はこの女に参っていて、しかも女は老高の現状に満足してはいなかった。彼らはしばらくにらみあっていた。佐智の母親が心配そうにうつむいた午寅を眺めた。 「午寅《ウーイエン》、庭に出て合奏しましょう」  佐智が立ちあがると、少年もハモニカを握って後を追ってきた。佐智は自分の手風琴を持ってきた。 「大姐《ターチエ》、聴いて。午寅《ウーイエン》、上手になったよ」  彼は中国の歌らしい一節をわりにきちんと吹いた。彼の瞳《ひとみ》は、曇り空の星のように微《かす》かながら、生気を取り戻していた。  近所には、佐智の家よりりっぱな院子《ユアンズ》は見あたらなかった。どの家にも、午寅と同じ程度かややましな身なりをした子供たちがいた。彼らは集団で道路に出ると、まりをついたり羽根を足で蹴《け》あげたりして遊んでいた。その情景は、佐智がかつて文明や双子の姉妹と遊んでいた日々に似ていた。何気なく佐智が近づくと、中国の子供たちは急に遊びを止《や》めて離れた場所に移動した。それは意地悪というよりは、異種の動物同士が争いをきらって避けあうという感じだった。一度、あわててまりを手から取り落とした女の子に向って、佐智が投げ返すと、彼女はそれを掴《つか》もうともせずに逃げていった。佐智は石壁に跳ね返ってふたたび転ってきたまりを、今度は手に取らずに諦《あきら》めて通りすぎた。  午寅は、このような状態をますます複雑なものにした。彼は同じ国の仲間に対しては、ぜんぜん引っこみ思案ではなかったので、どんどん進出していった。佐智の知るかぎりでは、相手は当惑しながらも彼を受け入れていた。午寅にはだれにでも自分を認めさせる力がついてきたようだった。午寅は空いている時間の大半は佐智にくっついていたが、ときどきぷいといなくなって路上で仲間を呼びたてていた。彼はしだいに変わりつつあった。  佐智は老高の洋車に乗っていくのをやめた。老高が汗をふりしぼって走る姿を見ながら乗ることが、なぜか苦しくなったからだ。電車で通いたいと言い出したとき、老高は悲しそうな顔をしたが、|※[#「女+息」、unicode5ab3]婦《シーフ》のほうはにこにこした。老高にただ働きなどしてもらいたくなかったにちがいない。  老高が仕事に出かけるとまもなく、数人の女が蓮華《リエンホア》をたずねてくる。老高の妻は、彼女たちと車座になって麻雀《マージヤン》に精を出すのであった。麻雀は午寅と佐智が学校から戻ってきても、まだ続いていた。女たちの目は血走って、表情は空腹のカマキリの雌みたいだった。午寅は女たちに背を向けて、石板で字の練習をした。早く祖母に手紙を書けるようになりたかったのだ。彼と女たちは互いに見えていない存在のようにふるまった。午寅が練習に飽きて、ハモニカを鳴らしはじめると、近くの女がふり返って「うるさい!」と怒鳴りつけた。すると午寅は不貞腐《ふてくさ》れて寝台の下にもぐりこみ、老高が帰るまで出てこなかった。  全ての情景が佐智の開け放した窓からよく見えた。佐智の母親は「仕方ないねえ。老高が選んできた女《ひと》だから……」と困ったように言うばかりだった。  そうかもしれないが、午寅が選んだわけではない、と佐智はくやしがった。午寅を庭に立たせて目茶苦茶にハモニカを吹かせた。自分は手風琴を精いっぱい広げたり、つぶしたりして騒音を造り出すことに専念した。午寅もおもしろがって、ハモニカの端から端まで息のあるかぎり吹きまくった。窓が開いて「日本《リーベン》の王八蛋《ワンパータン》!」などとののしる声がしたが、ぜんぜんかまわずに音を出しつづけた。しまいには二人とも自分たちの出す音で体中がふくれあがり、宙に浮きそうだった。涙が自然に流れ出し、口から溢《あふ》れるよだれと混じった。院子がぐるぐる回りはじめた。佐智が手風琴を抱いてうずくまると、午寅もまだハモニカを口から離さずにうずくまった。老高の小屋はひっそりしていた。女たちは退散し、蓮華が呆《ほう》けたように独りで座っていた。  しばらくたつと老高は、女に負けた。彼は洋車を売り払って屋台車を買った。その上に干し杏《あんず》や棗《なつめ》や得体の知れない色の着いた液体を瓶《びん》に詰めたものを満載して、毎日出ていった。屋台車を引くとき、老高はちょっと恥ずかしそうで、肩に盛りあがった力こぶも様にならなかった。  ときどき電車から降りて、市場の前を通ると老高が商品の向う側でつくねんとしていた。佐智を見ると、とたんに活気づいて車引きをしていたときの顔になった。 「サーチー。どれか欲しい物ないか。小麦粉のせんべいか梅のジュースはどうか」  佐智は首をふった。母親に止められているうえに、市場の雑踏の中で食欲は起こらない。酸梅湯《スワンメイタン》の目のさめるような鮮やかさは、北海の空と水に囲まれたときだけ佐智を誘惑する。 「高《カオ》の食物はきらいなのか」老高は泣く真似《まね》をしてみせた。「サーチーは高《カオ》の朋友《ポンユウ》なのに」  佐智は困って一枚だけせんべいをもらった。 「午寅《ウーイエン》、もうすぐここ通る。それまで高《カオ》といっしょにいなさい」  老高は上きげんで言った。やがて数人の小学生の群れが、喋べりながら通過した。中に午寅がいた。彼は夢中になって隣りの子と話をしていた。 「連海《リエンハイ》、こっちだぞ」  老高が叫ぶと、息子はふり返った。友達が笑いながら彼を屋台車のほうに押した。しかし午寅はちらりとその方角を見ただけで、すぐに友の群れに混じっていった。 「どうしたのだろう、午寅《ウーイエン》の奴《やつ》」  老高は意味がわからずに狼狽《ろうばい》して言った。 「サーチーを見なかったのだろうか」 「いいえ」佐智はゆっくりと言った。「だから行っちゃったのよ。あ、もう一枚ちょうだい」 「それはなぜだろう」  老高は激しくまばたきしながら、佐智にせんべいを渡した。 「あたしが日本《リーベン》だからよ」  佐智はいかにもこういう場面には慣れているといった口調で言おうとしたが、せんべいの粉が喉に引っかかった。老高が黙って酸梅湯のコップを渡したので、一気に飲んだ。 「それで、午寅《ウーイエン》はいつも知らぬ顔を……?」  老高はものすごく険悪な顔をした。佐智の胸の中で、ふいに悔しさが爆発した。 「午寅《ウーイエン》はあたしと遊ぶと、他《ほか》の子に非難されるのよ」  老高は無言でいたが、彼の体の中にむくむく大きくなっていく感情がわかった。佐智は恐ろしくなって「いいのよ。いいのよ」とくり返した。  その夜ほど激しい老高の叱責《しつせき》が、院子に鳴り響いたことはなかった。佐智は両耳をふさいで寝床につっぷし、佐智の母はおろおろと庭に出たり入ったりした。  朝、学校に行くときにばったりと午寅にあうと、彼は腫《は》れた顔のまま痛そうにそろそろ歩いていた。佐智が立ちすくんでいるあいだに、午寅は黙って出ていった。〈あたしはちっともかまわないのよ。あんたが外で知らんぷりしたって。あたしもそうしてあげるわ〉佐智はほんとうはそう告げたかったのだ。顔から朱塗りの箸《はし》のように血を噴き出した車引きが、自分にそう言わせようとしていた。  佐智の父親に帰国命令が出たのは、年の暮れに近かった。三日間で全《すべ》ての準備をしなければならなかった。それは、手回りの物以外は全部置いていけ、ということだった。それにもかかわらず、両親とも嬉《うれ》しさをこらえ切れない様子だった。佐智は不安に陥った。日本から北京に来たときは何でもなかったのに、なぜだろう。きっと五年のあいだに、中国に近づきすぎてしまったんだ。老高や午寅やリリーの顔をした中国に。自分が両親の持物みたいに、運び返されるのが不満だった。佐智はぐずぐずして、母親に叱《しか》られた。あの夢が、ふたたびあたりを徘徊《はいかい》しているのを感じた。  SH学院の最後の日には、級の全員が別れのキスをしてくれた。ラシュミーの鳶色《とびいろ》の目からは涙の粒が転り出してきた。佐智が頬をつけると、その部分で二人の涙が混じりあった。涙の色が印度人と同じであることに初めて気がついた。 「サチ、大きくなったら日本に行く」  ラシュミーは佐智がいなくなって、どんなに心細い思いをするだろう。彼女はとても内気な少女なのだ。  集結地に向うバスの来る日、老高は屋台の仕事を休んだ。彼は自分が出発するように、朝早くから門を出たり入ったりしていた。旅仕度の佐智の一家は、院子の庭の三年間親しんだテーブルに着いて待っていた。老高の若い妻は、何となくいそいそと三人に中国茶を勧めたり、煎《い》った西瓜《すいか》の種を出したりした。彼女の薬指には佐智の母からもらったルビーの指輪が瞬《またた》いていた。午寅は、抵抗したにもかかわらず無理に小学校を休まされていた。彼は門番小屋に引っこんだきり、姿を現わさなかった。けれど放射される彼の意識は、細い棘《とげ》のようにずんずん佐智の体に突き刺さってきた。 〈大姐《ターチエ》ガ日本《リーベン》ダッタノ忘レテイタンダ。忘レテハイケナイノニ〉 〈イイノヨ。気ニシナイデ、午寅《ウーイエン》……〉  佐智は、小屋の中で引き裂かれ混乱している午寅を想像した。そして伝えられるとしたら一つの事実だけは、彼に教えたいと思った。 〈アンタトアタシハ、モウ一生会エナイワ〉  バスが来て、佐智と家族が乗りこむと、老高の狼狽は極みに達した。気持をどうやって表現していいかわからなくて、彼は地面から五十センチも跳びあがり、「アイヤー、サーチー、サーチー」と言って盛大に拍手した。近所の物見高い人たちが、老高を取りまいていたが、彼は気にもとめずにますます高く跳びあがった。  バスが動き出すと、突然彼は気がついて「ウーイェーン!」と震える長い声で怒鳴った。しかし佐智は彼のちびの息子をもう認めることはできなかった。最後に彼女が見たのは、まるでかつて洋車を引いていたときのように、疾走する老高の姿だった。ハリエンジュの針金のような冬の小枝が、バスの硝子《ガラス》に触れて鋭い悲鳴を発し、老高はいなくなった。     7  一台の貨車の中に防寒着をつけた人間と荷物がどれほど乗りこめるのだろうか。中国の係員は舌打ちすると、乗りかかっている三人を引き剥《は》がした。すると「父ちゃん」という泣き声とともに、もう一人の男の子が内部から飛び出してきた。そのあとからだれかが荷物を放り出したので、その家族はひとかたまりに身を寄せて、自分たちを置いていくかもしれない貨車を見つめた。貨車は家畜輸送車らしかった。床に藁屑《わらくず》が散乱し、乾いた糞《ふん》がこびりついていた。壁にはなめくじの這《は》ったあとのような牛の唾液《だえき》が光っていた。 「乗ればいいのによ。言葉がわからないふりしてさ」中に入っているだれかが言った。「この汽車が出ればよう、いつ帰れっか当てにならんぞ。LSTはいつまでも港で待ってやしねえさ」  中国人の係員が入口から首を突っこみ、何か早口に言った。 「途中からまた乗せるんだとさ」うんざりしたように佐智の隣りにいた復員兵が言った。 「まるでおらたちを豚か羊みたいに詰めこんで、息もさせねえ気だ」 「皆、帰りたい気持は同じです。お互いさま、がまんしましょうや」  佐智の父がおだやかに言った。  汽車がうめきながら動きはじめた。いきなりだったので、全員が三十度の角度で倒れかかった。壁際にいた者たちは、いっせいに打ちつけた頭を抑えた。 「下手糞《へたくそ》め!」 「わざとに決まってる」  男たちは悪態を吐《つ》いた。女たちは舌を失ったように沈黙を守った。これからの長い旅にそなえて、むだな浪費はするまいと決心しているようであった。ほとんどの女たちが、佐智よりも小さい子供を連れていた。子供たちは生まれて初めて乗った貨車の闇《やみ》に、めずらしそうに目をこらしていた。 「空気が悪いようですから、扉《とびら》を開けますよ。近くの方はどうぞ注意してください」  入口近くで、年寄りらしい優しい声がして少しずつ光が侵入してきた。外の風景が映画のスクリーンのように流れた。子供たちは歓声をあげた。家畜の体臭や炭酸ガスがどんどん逃げていき、新鮮な空気と入れかわった。佐智も伸びあがってスクリーンを見た。  斑雪《まだらゆき》が黄色い地面を鹿《しか》の毛皮のように彩《いろど》っている丘が見えた。丘には一本の樹木もなくて、長い石の城壁がゆるくカーブする尾根に沿って建っていた。城壁は佐智が貨車から見通せるかぎりの空間を、うねうねと昇っていた。石の壁に正確な間隔で穿《うが》たれた窓孔がこちらを狙《ねら》っていた。壁と壁のはざまは階段状になっていて、ところどころ関節のような四角い小屋で連結されていた。それらは汽車と平行にゆっくりと走っていた。ある部分がやっと過ぎていくと、また別の同じ形をした部分が現れた。まるで世界の果てまで、それは佐智の汽車を追いかけてくるようだった。  鹿《か》の子斑の山肌《やまはだ》がふいに近づいてきた。汽車は長い歯ぎしりをして止まった。煤煙《ばいえん》の臭《にお》いがどっと吹きこんできたので、入口近くにいる老人があわてて扉を閉めた。しかし数分もたたぬうちに、流暢《りゆうちよう》な日本語が聞こえ扉が外から引き開けられた。黒眼鏡をかけた中国服の男が、ていねいに先の乗客たちに声をかけた。 「申しわけありませんが、少しずつおつめください。ここは××です。一貨車当り十人ずつの帰国者の方がここから乗りこみます」  佐智の近くの復員兵が大声で言った。 「ばかたれ。人の体は簡単に伸び縮みできねえんだよ」  黒眼鏡は動ぜずに静かに続けた。 「足を伸ばしている方は縮めてください。立つほうが楽な方はそうしてください。不要な荷物はここに置いていってください。皆さまの同胞《トンパオ》が乗りこむのです」 「それじゃ、車輛《しやりよう》を増やせ!」  復員兵が怒鳴った。中国人の通訳は黒眼鏡をはずすと、復員兵のほうを片目だけで見た。彼の左目の部分は、肉もろともざっくりえぐれてなかった。復員兵がつばを飲んだ。男は右の目を横に向けて、手を上げた。黙々とした疲れはてた塊りが、いくつも這いあがってきた。彼らは荷物を持っていなかった。凍るような寒気の中で役に立つ上衣《うわぎ》も外套《がいとう》も着ていなかった。子供たちは車に上がるやいなや、針鼠《はりねずみ》のように丸まって眠りはじめた。 「長城を越えて、八路《パールー》軍から逃げてきた方たちです」冷静に黒眼鏡の男が言った。「では皆さま、再見《ツアイチエン》」  扉が閉められて、沈黙がふたたび畜舎の臭いとともに重い霧のように閉じこめられた。人と人との間隔が、肉体的接触に耐えねばならぬところまで来ていたから、かえって言葉は邪魔物としか思えなかった。しだいに佐智は、暗い夢の雰囲気《ふんいき》が近づいてくるのを感じた。復員兵のごつごつした背中が、佐智を押していた。 「息がつまるよう」  佐智は弱々しく言った。母親が訴えるように父親を見た。父親は頭をふったが、それでも体を弓なりにして家族のために少し空間を手に入れた。 「変な臭いで胸が悪くなりそう」  母親が小声で言った。ふいに隅《すみ》のほうで困りきったような女の声がした。 「坊やが……おしっこしたいんです」  乗客全体が牛の群れのように唸《うな》った。 「その場でしたら……」  別の女がささやくように言った。 「入り口を開けてあげろよ」 「だめだ、ここにいる者が危い」  それでも少しずつ少しずつ、細い光が壁に沿って入ってきた。 「気をつけろよ」「そこの人どいて……」「奥さんこっち」  自分も含めた人の体の圧力が、佐智に覆《おお》いかぶさってくる。佐智は目を閉じた。血だらけの車引きがにやっと笑いかけた。今、自分が最後のいちばん怖い夢に突入していく、そんな予感がした。それはだれによっても、決して妨げられないだろう。今までのどの夢の場面よりも長く続くだろう。 「佐智、だいじょうぶ?」  母親が佐智の手をしっかり握りしめながらたずねた。  ふいに家畜輸送車は激しくきしみ、斜めになった。全員が歯をくいしばって抵抗しなければ、汽車もろとも横倒しになってしまいそうだった。そして尾長鶏《おながどり》のように長く鋭い叫び声が、貨車に充満した。 「おちたあああ、坊やがおちたあああ」 「列車を止めろ」  数人の男たちが怒鳴った。しかし汽車は、跛行《はこう》する|わに《ヽヽ》のように鈍重に身をねじ曲げてカーブを通過すると、ふたたびスピードをあげた。 「あああ、あああ」  叫び声はもう女の声のようではなく、切れ切れに無意味に発せられる自然界の音に近くなった。佐智は母親の手を振りはなして、子供が出ていった空間を見ようと伸びあがった。扉の隙間《すきま》は佐智もさし招いているように思えた。  移行する光のスクリーンに、崩れかけた城壁が写っていた。灰色|煉瓦《れんが》の堆積《たいせき》の上に、一人の小さい少年が腰をおろしてハモニカを吹いていた。  彼が〈午寅《ウーイエン》〉であることを、佐智は疑わなかった。 [#改ページ]     北京|海棠《カイドウ》の街     ——これは日常が       十分冒険でありえた時代の       少女の物語です。     第一章 院子《ユアンズ》の四季     1 〈日本宿舎《リーベンスーシヨー》〉の奥庭にそびえるペキンカイドウの木は、院子《ユアンズ》(屋敷)の子供たちのたまり場であった。彼らは自分の枝を一本ずつ独占していて、好きなときに鳥のようにそれに止まっては町を見おろした。もちろん本物の鳥たちも子供のいないときにはやってきて、勝手にさえずりを楽しんでいた。梢《こずえ》に近い佐智《さち》の枝からは、北海公園《ペイハイクンユアン》がよく見えた。夏のあいだは西洋人形の瞳《ひとみ》の色をしている北海は、この季節は目《ま》ばたき一つしなかった。水面が厚い氷で閉ざされてしまうからだった。裸の枝の合間から、白砂糖を固めたようにラマ塔が輝いていた。  反対側には、複雑な胡同《フートン》(露地)の網目が、町をとり囲む城壁まで続いていた。途中で突然引き裂かれ、押し広げられた個所が〈駐屯地《ちゆうとんち》〉であった。それは美しい町に生じた、てらてらした火傷《やけど》の跡のように見えた。〈駐屯地〉の中で何が行われているのか、正確にはだれも知らなかった。その秘密は町中の民家よりも高い煉瓦塀《れんがべい》によって、がっちりと守られていたのである。塀の頂きには切先《きつさき》を空に向けた硝子片《ガラスへん》が、歯列のように植えこまれ、嘲笑《ちようしよう》的な光の目つぶしを間断なく放っていた。それは侵入者を嘲笑《あざわら》うだけでなく、実際に傷つけることもできたのである。塀越しに瘠《や》せた動物の脇腹《わきばら》のように波打つ兵舎の屋根が、連なっているのが見えた。〈日本宿舎〉の子供たちは全員〈駐屯地〉に入ることを切望していたが、まだ|のぞき《ヽヽヽ》に成功した者さえいなかった。運のいい子供がたまに、カーキ色の軍服を着た兵隊が出入りするのを目撃した。それもふしぎに出ていくほうの数はずっと少なかった。 「あそこには日本軍がいて、匪賊《ひぞく》や敵が来ると追いはらってくれるわ」  母親は簡単に説明したが、佐智はあまり信用しなかった。戦争は三つも高い山を登り降りした向うにあり、町の城内には敵兵の影もなかった。シナの人々は、水牛に似たゆったりとした動作で、町を歩いていた。  新年を三日も過ぎたのに、ときどき街角で爆竹が鳴り響いていた。そのたびに寒気のために張りつめた空気が振動し、今にもひびが入りそうになった。 〈日本宿舎〉の子供たちが肩からスケート靴《ぐつ》をさげて歩いてくると、いきなり足もとに爆竹が投げつけられて、全員が飛びあがった。 「だれだ!」  中学生の孝雄《たかお》が、爆竹が飛んできた胡同の奥に向き直って怒鳴った。年中日の射《さ》さない谷間のような胡同から、おずおずと小さな二つの顔がのぞいていた。兄妹らしく、新しい空色の綿入れ服をおそろいに着て、しっかりと手を握りあっている。 「何のつもりなんだよう」  孝雄が小孩児《シヤオハイル》(子供)につめよって、文句を言った。二人の小孩児は、まじまじと日本の中学生を見つめるだけで、口をきかなかった。 「孝ちゃん、もう行こうよ。遅くなるぜ」  六年生の健が、背後からなだめるように声をかけた。健はどんなけんかも好まないのである。 「待てよ。こいつらに日本流のあやまり方を教えてやるんだから」  元班長の孝雄は、今の班長にそんなことを言われてむきになったのかもしれない。彼は手を伸ばすと、自分よりずっとチビの女の子の頭を乱暴に押し下げてお辞儀を試みさせた。少女が泣き出すよりも早く、兄の少年は飛び出して、孝雄の手に噛《か》みついていた。 「いてえっ!」孝雄は叫んだが、さすがに中学生らしくもう片方の手で、少年の綿入れの袖《そで》を掴《つか》んだ。 「健、こいつのポケットから爆竹をとれ!」  すでに胡同の奥に逃げこんだ妹を追おうとする少年ともみあいながら、孝雄は命令した。「早くしろよ」  彼は興奮のあまりまっ赤になっていた。健は困りはてた様子であたりを見まわしたが、洋一も佐智も晋も呆然《ぼうぜん》と立っているだけだった。もみあいがしだいにひどくなれば、孝雄はついに撲《なぐ》りはじめるだろう、とだれの目にも映った。健は心を決めて、暴れている猫《ねこ》みたいな小孩児にのしかかり、上衣《うわぎ》から残りの爆竹を抜きとった。十連発が四束もあった。 「孝ちゃん、とったよ。放してやんな」 「他媽的《ターマーデ》、他媽的《ターマーデ》!」  小孩児は日本の子供たちを指さすと、地団太を踏んだ。破れた袖口をヒラヒラさせ、涙と洟《はなみず》の混じりあった液体を地に滴《したた》らせた。 「|※[#「にんべん+尓」、unicode4f60] 們 是 小 偸《ニーメンシーシヤオトウル》、他媽的《ターマーデ》!」 「何言ってるんだろ、あいつ」洋一が心配そうな声を出した。「言いつけられたらどうする? 健ちゃん」 「大丈夫だよ」さっさと歩き出しながら孝雄が言った。「こいつは戦利品だ。おまえらにも分けてやるよ」  でもだれも爆竹を受け取る気にはなれなかった。〈日本宿舎〉の門の前で、孝雄は皆に分配しようとしたが、それぞれに理由をつけて断わってしまった。孝雄はかんしゃくを起こして「よし見てろ」と言うと、四束全部に同時に火をつけた。青空が吹き飛んで、粉々にくだけ散った。近くの街路樹から、いっせいに雀《すずめ》が鉛の弾丸のように飛びたった。まわりの家々の門が開いて、シナ人たちが口々にわめきながら顔を出した。一瞬、驚愕《きようがく》のあまり硬直した子供たちは、朱ぬりの扉《とびら》を押し開けて我先に内部に駆けこむと、さよならも言わずに別れてしまった。 〈日本宿舎〉には、院子(庭)が三つもあった。朱塗りの門に続く前院《チエンユアン》と、佐智や孝雄の住む里院《リーユアン》と、ペキンカイドウのそびえる奥の后院《ホウユアン》である。それぞれの庭は屋根のある回廊でつながっていて、子供たちはどこの院にも自由に出入りすることができた。戦争が始まって、日本人の教職員官舎として接収される前は、シナで指折りの大商人の邸宅だった。その商人は、春になるとたくさんの駱駝《らくだ》を集めて西方に旅だたせたそうだ。駱駝の背には腕輪や首飾り、陶器やアンペラが山と積まれてあった。半年後に隊商はよれよれになって戻《もど》ってきた。それでも駱駝たちはぺしゃんこになったこぶの谷間に、発酵茶やチーズや羊の毛皮を、行きと同じくらい満載していた。佐智はときどき夕暮れが院子全体を浸す時刻に、大勢の獣たちの鼻息や足踏みを聞くことがあった。日本人に国と同じように家も占領されたその商人や家族たちや十数人もいた召使いたちは、どこに行ってしまったのだろうか。佐智はたいへん気になったが、だれも教えてはくれなかった。  佐智が前院を通りぬけて自分の家に駆けこむと、エアデル犬の〈鉄〉がすかさず跳びあがって、体当りをした。 「鉄、よして、よしなさいってば」  佐智は悲鳴をあげたが、〈鉄〉は主人の少女にのしかかり、熱い息を吹きかけながら、露出しているあらゆる部分をなめ回した。〈鉄〉と三年生の佐智はほぼ同じ体格で、油断をするといつもこういう目に会った。ようやく犬が親愛の表明を終えたので、佐智は立ちあがった。〈鉄〉は今度は切り株のような尾を振って佐智を眺《なが》めていた。 「スケートどうだったの?」  その場を笑いながら見ていた母親がたずねた。紺サージのズボンに、肘《ひじ》に継ぎの当たった男物の上衣を引っかけている。教職員官舎のどの女たちも、大差のない服装をしていた。佐智もズボンに上っ張りである。 「面白かったよ」と言いながら、探るように母親を見た。どうやら表の爆発音は、院子の奥までは届かなかったらしい。 「北海《ペイハイ》の向う岸まで滑っていったの。でも晋ちゃんは待ってたわ」 「未来の学者は運動が苦手なのね」  自分で言って、母親はぷっと吹きだした。よく笑う人で、娘にはその原因がわからないことがある。 「晋ちゃんは学者になんかならないの。大工さんになるんだって」 「へえ」と母親はおかしそうに言った。「中西先生は何て思うかしら」  中西晋の父親は有名な東洋歴史の学者だそうだ。長男を皮切りに、三人の下の子供にも興亡したシナの国名を片っ端からつけていった。佐智の父親は感心していたが、佐智にはほかの名前を考えるのが面倒だったからとしか思えない。晋ちゃんの父親は、それ以外は息子や娘のことなどこれっぽっちも考えているようには見えないのだ。  中西晋が教室で大工になると宣言したとき、同級生たちはわっと笑いだし、小田切先生は明らかに気に入らない顔をした。小田切先生は女の先生なのに、男の子が兵隊以外の仕事を志望することに耐えられないのだ。でも晋ちゃんは、大工になって、焼けたり壊れたりした日本の町を建て直したいと本気で考えたのだ。その情報源は東京にいる彼の祖母からの便りであった。彼女はこの年で板子一枚下は地獄の乗物に乗って遠くの国に行くのはごめんだと言って、たった一人で留守番をしているのだそうだ。 「外で遊んでくる」  佐智はふきげんをあらわにして母親に告げた。母親のほうは気づかずに「あら、じゃお八つ」と言って、木綿で作ったお八つ袋を渡した。のぞいてみると、乾パンが十個と緑と赤の金平糖が一個ずつでがっかりした。ときには手作りの蒸しパンやカルメ焼きのときもあるが、西単《シータン》の露店で売っている油炸果《ユウチヤークオ》や焼餅《シヤオビン》が入っていることはぜったいにない。市場の群集よりも数の多い、黒や金緑色の蠅《はえ》のせいだ。〈シナの蠅は人に馴《な》れてるのね〉と母親はぞっとした声で言っていた。点心《デイエンシン》の表面に黒豆のようにたかった蠅たちは恍惚《うつとり》として動かず、店主はときどきひょいとその片翅《かたはね》をつまんで放り出すだけだった。佐智は小孩児《シヤオハイル》や苦力《クーリー》たちが、平然と|蠅つき菓子《ヽヽヽヽヽ》をぱくつくのを見てうらやましかった。〈蠅がたかるほど旨《うま》い〉と彼らは信じているのにちがいなかった。佐智の母親は市場で買ったものには、何でも火を通した。官舎で赤痢が出たときも、彼女の家族がかからなかったのはそのせいだ、と自慢していた。 〈鉄〉がじーっとお八つ袋の動きを見守っている。扉の前に立ちふさがって、お八つ袋が外に出るのを防いでいる。佐智は仕方なく、乾パンを一個放ってやった。上下の巨大な顎《あご》があむっと開いて、乾パンは桃色の苔《こけ》におおわれた暗い口中を滑り落ちていった。〈鉄〉は唇《くちびる》をめくって、首をかしげた。常に空腹の大型のエアデル犬にとっては、それは胃袋の一点を刺激されたにすぎないであろう。佐智は全《すべ》ての乾パンと金平糖を公平に〈鉄〉の胃袋と分けあう破目になった。  佐智がやっと〈鉄〉にもう乾パンがないことを納得させて外に出ると、前院の三島夫人が太った体を小刻みに揺すりながら歩いてきた。佐智は三島夫人も、双子の娘の京子と浅子もあまり好きではないが、なぜか夫人はしじゅう佐智の母親のところに話しこみにくる。三島氏は市立大学の附属病院の先生で、佐智が百日|咳《ぜき》で衰弱したとき栄養注射をしてもらった。母親が三島夫人と仲よくするのは、そのせいかもしれない。 「あら、サッちゃん」三島夫人は出会い頭にいきなり言った。「嬉《うれ》しいでしょ」面くらった佐智がきょとんとしていると、「明日、〈駐屯地〉で餅《もち》つきがあるんですって。官舎の全員がお招《よ》ばれしたのよ」と言った。  三島家には〈日本宿舎〉唯一《ゆいいつ》の電話があるので、外からの伝言の連絡所のようになっている。 「ねっ、あこがれの〈駐屯地〉に行けるのよ。嬉しいでしょう」  三島夫人が顔をのぞきこむと、母親からは嗅《か》いだことのない夜来香《イエライシヤン》の花の香りがした。〈私の家には病気の人からの贈り物がどっさりあるの〉と浅子が自慢したのを思い出した。〈物置きの中に石けんや紅茶やお米がしまってあるわ。ヒジョージに備えてるのよ〉でもヒジョージが具体的にどういうことかは、佐智にも双子にもさっぱりわかってはいなかったのである。  三島夫人が自分の家に入っていくのを、佐智はまごつきながら眺めていた。〈駐屯地〉が侵入者を硝子の歯で嚇《おど》しながら、一方では相手を招き寄せる意味がわからなかったのだ。彼女は親友の意見をききたくて、后院に通ずる回廊を駆けだした。 「行ってみればわかるよ」  中西晋は、興奮した佐智に向って、例のとおりのんびりした調子で言った。  佐智の母親は餅つきの準備を手伝うために、他《ほか》の女たちといっしょに朝早く行ってしまった。佐智と父親は、官舎のどの家族よりも遅れて出発をした。佐智のほうは「早く、早く」とせかしたのだが、父親はなぜか気が進まないように見えた。彼はぐずぐずと〈駐屯地〉の前方に広がる野原の中にかがみこんで、オオカマキリの産みつけた泡《あわ》のような卵塊を娘に示したりした。〈こんなときに!〉と佐智はいらいらし、わざとそれを無視した。父親はがっかりし、頭をふって、歩きだした。近づくにつれて、煉瓦塀の硝子片はまともに見つめていられないほどきらめいた。佐智は〈駐屯地〉がある意図をもって、自分たちを招き寄せているのを感じたが、何のためかはわからなかった。今までと反対に佐智の足は滞り、父親はたびたびふしぎそうに娘をふり返った。巨大な鉄の扉の前に着いたときには、佐智の顔は蒼《あお》ざめていた。見あげると、煉瓦塀は父親の背の三倍もあり、植えこまれた硝子片が雪崩《なだれ》のように崩れてきそうな気がして、あわてて目を伏せた。扉の横には歩哨兵《ほしようへい》が、微動もせずに立っていた。握っている銃剣の先が冬の太陽に反射して、触れたもの全てを切り落そうと身構えていた。父親は娘の手を引いたまま平気でその前を通りすぎ、枯れた柳並木の間に入っていった。 〈駐屯地〉で佐智が最初に出会ったのは、野太い叫びを放つ赤鬼の群れだった。彼らはうようよと泉水の両脇にかたまって、寒気に肌《はだ》をさらしていた。その周囲を〈日本宿舎〉の人々がとり巻いて、同じくらいの声ではやしたてていた。佐智と父親が到着しても、だれも見向きもしなかった。蒸籠《せいろう》はしゅうしゅうと悲鳴をあげて、湯気がまっ白い大蛇《だいじや》のようにくねりながら立ちのぼっていた。すでに炊きあがった餅米を、女たちが〈熱い、熱い〉と騒ぎながら臼《うす》に移していた。その中には佐智の母親もいた。彼女は髪を乱して、知らない女のようにはしゃいでいた。皆と同じように娘と夫の姿など目に映らぬようであった。 「シナ兵《ちやん》に一発!」  一匹の赤鬼が力をこめて杵《きね》を振りおろした。周囲の子供も大人も笑いだし、手をたたいた。佐智の真向うで、孝雄がうっとりした眼差《まなざし》を兵隊に注いでいた。 「蒋《しよう》さんにもう一発!」  調子にのって兵隊は、矢継ぎ早に杵を振った。横にいた別の赤鬼が、「そんな鈍くらじゃ蚊トンボもつぶせねえよ、貸してみろ」と言って杵を奪いとった。彼はすばらしい腕力の持主で、だれよりも力強く速く搗《つ》いたので、見物から大喝采《だいかつさい》を浴びた。 「南京《ナンキン》陥落!」  彼は杵でササゲ銃《つつ》をしてみせた。 「ほら、勲章よ」  婦人会の会長をしている孝雄の母親が、自分の髪をしばっていたビロードを蝶結《ちようむす》びにして彼に手渡した。兵隊は軍帽のてっぺんにそれをとめると、まじめくさって「福島一等兵、名誉でありますっ!」と女たちに敬礼をした。  佐智がもう一方の臼を見ると、驚いたことに父親が杵を振りあげていた。歴史学者と息子の晋が笑いもせずに、その様子を眺めていた。こちらの餅つきはあまり勢いがなく、見物人もまばらであった。佐智が近づくと、父親は手を休めた。額に汗の粒を浮かべ、道すがらの憂鬱《ゆううつ》な表情はかき消えていた。 「もうしばらくがんばってください」  臼の横でこね役の兵隊が、父親を促した。彼は毛のシャツを着ていたので、赤鬼には見えなかった。父親とよく呼吸が合うのがわかった。臼の中身を調べながら、独り言みたいに「力まかせにたたいた餅はきめが粗くて旨くない。力だけなら、馬にだって餅はつけるさ」と言った。佐智と晋が吹き出したので、向う側の人気者福島一等兵とまわりの人々がいっせいにこちらをふり返った。佐智は自分の母親が上気した顔のまま、こちらに歩いてくるのを見た。  餅つきが終ると、〈日本宿舎〉の住人たちは面会室に案内をされた。彼らはテーブルに隙間《すきま》なく並べられた食器を見て静まりかえった。搗きたての餅のほかに、海苔缶《のりかん》、小豆餡《あずきあん》の丼《どんぶり》、牛肉の大和煮、新巻鮭《あらまきざけ》の切身がひしめいていたからである。石炭ストーブが唸《うな》りをあげて燃える傍《そば》で、バターが黄色い汗をかいていた。こういう食物がまだ地上に存在していたことを理解するのは骨が折れた。大人たちは脅《おび》えたようにたがいに目をそらしあった。相手の顔に自分と同じ欲望の影を見るのがいやだったのだ。子供はもっと正直で、あちこちでしーっと唾《つば》を飲みこむ音が聞こえた。佐智の正面には洋一がいたが、彼の食物に注ぐ視線はまるで飼犬の〈鉄〉とそっくりだった。  隣室のドアが開いて、三人の軍人が入ってきた。そのうちの二人は、これ以上飾る余地がないほど肩章や勲章をつけていた。入れちがいに、今まで談笑していた兵隊たちが、挙手をして出ていった。今日の主役はこの将校たちで、兵隊は働き手なのだ、と佐智は気づいた。とりわけりっぱな八の字ひげが立ちあがって、「自分が第一一九大隊の部隊長です」と言った。それからあとの二人を中隊長と軍医だと紹介した。彼は話好きで、このたびの〈セイセン〉と軍隊の役割についていつ終るとも知れぬ演説をした。佐智が退屈して窓からこっそり外を見ると、兵隊たちが草に腰をおろして、ピクニックのように餅をむさぼり食っていた。ふいに〈ギュウウウウ〉という奇妙な声が、部隊長の演説をさえぎった。佐智の腹の虫が短気をおこしたのだ。佐智はびっくりしてお腹《なか》を抑えたが、隣りの母親の肩がピクピク波打ちはじめた。忍び笑いはたちまち伝染し、女たちのほとんどが同じように痙攣《けいれん》しはじめた。向う側で三人の将校と並んでいる男たちは、まゆをしかめて一生懸命天井を眺めていた。抑えつけられた空腹と笑いが、今にもはじけそうだった。幼い子供たちは遠慮なくあちこちで「食べてもいい?」とたずねていた。部隊長は急に早口になり、演説を終えた。多少|尻切《しりき》れトンボだったが、その埋め合せに招待客は手が痛くなるほどの拍手をした。  皆ふだんよりあせり気味に食事をしたので、食卓はあっけなく片づいて、あとは大人の雑談になった。佐智の父親は軍医と寄生虫の話をしていた。母親は三島夫人に、日本にいる姉妹たちの消息をきかせていた。子供たちはストーブのまわりでラカン回しを始めた。佐智は歴史学者の近くに行き、晋だけに聞こえる声で言った。 「晋ちゃん、探険に行こう」  親友は隣りを見たが、歴史学者は大隊長に遺跡の価値について熱心に訴えていた。〈埋蔵品〉〈明の十三陵〉〈金代……〉などと言うたびに、大隊長はひげをなぜて「はーん」とうなずいていた。その横で中隊長が、薄笑いを浮かべて傾聴していた。歴史学者が息子を気にとめていないことがわかったので、二人は静かに面会室を脱け出した。 「どうする?」  佐智は中西晋にきいた。彼はまゆをひそめて周囲を見まわした。赤鬼たちは一人残らず退散していた。彼らを吸収した建物か広場はどこにあるのだろう、と佐智はいぶかった。 「申しわけありませんが……」ひげ部隊長は演説の終りに、目をキラリとさせて言った。「機密保持のために、民間人は面会室以外は立入禁止になっております」さらに強い口調でつけ加えた。「違反された方は相応の……」そのあとの言葉は聞きとれなかったが、大人たちの硬《こわ》ばった顔から佐智はだいたいの想像をした。  晋は黙ったままだった。こういうとき彼はあまり役に立たなかった。彼は泉水をのぞきこみ、意味もなく小石を落した。氷の表面でチンという澄んだ音が跳ねかえった。 「あっ」と彼は言い、恐怖の表情で佐智をふり返った。半透明の氷の中間に、一匹のトノサマバッタが閉じこめられていた。バッタは茶色い茎のような六本の脚を折り曲げて、氷が溶けしだい跳躍しようと身構えていた。 「あたし行くからね」  気短かな佐智が歩き始めると、中西晋はあわてて後を追ってきた。やがて柳の並木道の右側に鯨《くじら》のように大きい兵舎が黒々とそびえている所に出た。左側は草の茂った土手で目隠しをされていた。 「しっ」と晋が言った。「聴いてごらん」  耳をたてた佐智にも、不明瞭《ふめいりよう》な重い地響きや兵士たちのあげる喊声《かんせい》がすりきれたレコードのように聞こえてきた。それは土手の内側に閉じこめられた物音のようだった。 「登ってみよう」  晋はささやいた。彼は先ほどの不決断を恥じているのかもしれない。二人は枯れ草を掴《つか》みながら土手を這《は》いのぼり、ちょうど顔だけが出る位置で偵察《ていさつ》をした。海のように広い砂地であった。学校の運動場の三倍もありそうだった。ペキンカイドウの上から見える火傷《やけど》をした皮膚の部分だ、と佐智は直感した。しかし表面はかなりでこぼこしていた。軍靴《ぐんか》や馬のひづめの跡が入り混じったうえに、ところどころ獣の転げまわったようなふしぎな模様もついていた。砂地の突き当りには町の西側の城壁がそびえていた。城壁の下部に沿って、褐色《かつしよく》の砂煙がものすごい速度で移動していた。褐色の煙の合間に、おもちゃの馬に乗ったおもちゃの騎手が見えた。彼らは城壁の角まで走ると、くるりと方向転換をしてまた走り出した。 「あれは何だろう」  中西晋が震える声で言った。砂地のほぼ中央に灰色の柱が、放射状に立っていた。それは変哲もない木の柱であったが、一本ごとに箒《ほうき》のように毛ばだった茶色いものが結びつけられていた。柱は全部で九本あって、栗色《くりいろ》の長短の影を地上に引きずっていた。柱をとり囲んで兵隊たちが三重の円環のように並んでいた。端の一人が号令をかけると、最前列の輪が「わあー」と叫びながら、くずれていくのが見えた。兵隊たちはいっせいに柱に駆けよって、銃剣の先でブスブスと茶色い物体に穴をあけた。突撃は三列目まで順ぐりに行われ、二人の目の前で物体はばらばらに毀《こわ》れて、地面に散乱してしまった。兵隊たちはふたたび「ばんざーい」と叫んだ。 「遊んでるみたい」  佐智は小声で言った。晋は首をふった。彼は国民学校の中でも戦争ごっこをしたがらないめずらしい男の子だった。 「帰ろうよ」と晋は怒ったように言うと、腹這いのまま土手を滑りおりた。 「待って」と佐智は言った。「もう少し馬が走るのを見たいわ」  晋は返事をしなかった。その次に佐智がふり返ったとき、彼女は中西晋のいた位置に一人の兵隊を発見したのである。彼は鷺《さぎ》のように長身で、首を少し曲げて少年と少女を交互に眺めていた。晋は地に顔を向け、片ほうの手をしっかりと兵隊に捕らえられていた。〈いつからいたのだろう〉佐智は観念しながら考えた。〈何とか言い訳しなくちゃ……〉 「やあ」と兵隊が言った。 「コンニチハ」  佐智は掠《かす》れた小さな声で言った。 「餅つきのときにいただろう」兵隊も静かに言った。「迷子になったんだね」  それから手を伸ばして、佐智も捕らえた。二人はその言葉に飛びつくようにうなずくと、兵隊を見あげた。そこに佐智は、父親の餅つきの相棒の顔を再発見したのである。 「帰り道がわからなくなったの」  佐智は嘘《うそ》を吐《つ》いた。 「よし、では山本上等兵が本部まで送り届けてやろう」 「ヤマモト……?」 「そうだ、海軍元帥の名と同じだぞ」  兵隊はいばってみせた。二人はすっかり気が楽になるのを感じた。 「ね、部隊長にはあたしたちがここに来たこと言わないで。お願い」と佐智が頼んだ。 「いいとも」と山本上等兵は受けあった。それから二人の手を握ったまま歩きだした。 「あの広い所は何ですか」  背後からまだ聞こえてくる喊声を気にして晋がたずねた。 「練兵場だ。あそこで本物の戦争に近いことをするんだ」  ふり返らずに兵隊は答えた。 「柱にしばられていたものは?」と今度は佐智がたずねた。山本上等兵は辛抱強く説明を続けた。 「あれはわら人形だよ。射撃と突撃の訓練用だ」  山本上等兵の掌《てのひら》はごろごろと小石でも埋めこまれているようだった。ふしぎに思って触わってみると、いちめんに肉刺《まめ》ができていた。 「痛くないかい?」  彼は笑って佐智にたずねた。 「どこが?」 「君の手がだよ。いつも銃や帯剣や固いものばっかり握りつけてるから、女の子の手がこんなに柔いことも忘れてしまった。日本にいたころはよく妹の手を引いて縁日に行ったけど……」 「妹さんはいくつですか」  晋は男同士の会話という調子でたずねた。 「死んだときは八つだったよ」  佐智と晋の足が同時に止まった。しかし兵隊は気にせずに歩きつづけたので、まるでのろまな二匹の子犬を引っぱっているような格好になった。 「どうして?」  佐智が半泣きになってきいた。 「爆弾が防空壕《ぼうくうごう》の真上に落ちたんだよ。叔母が手紙で知らせてくれたんだけれど、手紙が着いた三ヵ月も前だった。自分は鈍いんだな。虫の知らせっていうのもなかったし……」  山本上等兵は呼吸をするようにごく自然に喋《しやべ》っていた。佐智のほうは、声が喉《のど》に引っかかった。 「あの……家族のほかの人は? お父さんやお母さんは?」 「皆といっしょだったから、ヨシ子も淋《さび》しくはないと思うよ」  子供たちは今度は先に立って、兵隊を引っぱった。この場所を早く立ち去ることが、この話題から離れる唯一の条件のような気がした。しかし兵隊の歩調は変わらなかった。家族全員を一度に失った人は、早くも遅くも歩く必要がないのだろう。彼はほとんど悲しんでいるふうにすら見えなかったのである。 「もう二度と練兵場に行ってはいけないよ」  面会室の前で、山本上等兵は子供たちの手を放しながらゆっくりと言った。「あそこだけはだめだよ」 「ほかの所ならいいの?」  耳ざとく佐智はたずねた。兵隊は微笑した。 「いいよ。ただし自分といっしょならな」 「いつ? いつ来ればいい?」  二人はカーキ色の両袖《りようそで》にぶらさがってたずねた。軍服はごわごわして、太陽と土の匂《にお》いがした。 「日曜日はたいてい軍隊も休みだ」二人が喜びのあまり跳びあがると、山本上等兵はつけ加えた。「だが君たちだけだよ。ほかの人には秘密だからな」  これこそ二人の望むところであった。 「でもどうやって入ったらいい?」  佐智は厳《いか》めしい歩哨の視線を思いだした。 「面会の規則に従って……」と山本上等兵はもったいぶった調子で言った。「これは男の子の役目だが……まあ二人とも覚えておくといい」  そこで子供たちは、歩哨の看視を突破するためにアリババの呪文《じゆもん》を教わったのだった。     2  昼も夜も、黄色い竜《りゆう》のように風が荒れくるった。障子紙で目ばりした窓や扉《とびら》のすきまから、すきまよりもっと細い塵《ちり》が吹きこんできて、家の中のどこもかしこも黄な粉をまぶしたみたいだった。〈鉄〉はときどき耳をパタパタふって、孔《あな》に入った泥《どろ》を払い落とした。佐智の母はあきらめて、何もしなかった。黄色い風は町の年中行事である。いくら拭《ふ》いてもきりがないことを知っていた。竜がくたびれて、蒙古《もうこ》の住家に戻《もど》り、鎖でつながれるまで待つほかはない。学校や買物に出かけるときは、首の付け根までベールに包んでいく。この町に来て、父親の同僚の太々《タイタイ》(夫人)から最初に贈られたのが紗《しや》のベールだった。母親のはこの町特有の澄んだ空の色、佐智のは姑娘《クーニヤン》好みのばら色であった。男たちは何もなしで外を歩くため、だれの目も充血してまっ赤になっている。  あまり風がひどいので、国民学校の終業式が三日間くりさがった。ヤンキーの軍勢には負けじ魂を見せる先生たちも、黄塵《こうじん》にはかなわない。佐智はそのあいだは、父親の書棚《しよだな》の前に陣取って次々と本を引っぱり出した。一、二枚ページをくるだけで元へ戻す本もあれば、飴《あめ》をしゃぶるようにゆっくりと読みふける本もある。床に腹ばっていた〈鉄〉が、きっと両耳を立てて顔をあげた。激しい風の中に漂う特別の信号を聞きわけたのだろう。佐智の耳には、単調でたえまのない唸《うな》り声のほかには何も入ってこない。  七日目の夜明けに、帆をたたんだ船のように風が落ちた。異様な静寂が二、三十分続いた。まるで黄色い風が、ありとあらゆる物音を根こそぎ運んでいったみたいだった。〈日本宿舎《リーベンスーシヨー》〉の住人はまだ半信半疑だった。それから少しずつ、皆は日常していたことを思い出した。人声や道具の触れあう音が、朝の内は遠慮がちに、午後からは堂々と家々から流れ出した。  佐智の母親もやっと立ちあがって、拭き掃除を始める気になった。固くしぼった雑巾《ぞうきん》を、床や窓の桟《さん》にこすりつけた。しかし一週間も潜行していた砂塵は、簡単には出てこようとはしなかった。「この……、この……」とつぶやきながら、しだいに目が二等辺三角形になっていくのがわかった。 「去年も、おととしも……」母親はいらいらした口調で言った。「シナって、これだから、まったく!」  佐智は足音を忍ばせて、働いている母親の後ろを通りぬけた。ぐずぐずしていれば、ふきげんのとばっちりを浴びるか、別の雑巾を手に押しつけられるかだった。今日が佐智にとって、とりわけ大事な日であることなど通用しないに決まっている。玄関の扉を閉めると、置いてきぼりをくった〈鉄〉が二、三声|吠《ほ》え、同時に母親が佐智をかん高く呼ぶ声がした。  佐智はかまわずに歩きはじめていた。晋と約束した日に黄塵が終るなんて、夢のような気がした。もう半ば諦《あき》らめていたのだ。それほど今年は黄色い蒙古の竜が長くあばれていた。〈日本宿舎〉の院子《ユアンズ》は、黄土の吹きだまりになっていた。敷石は泥の下に姿を隠し、一足ごとに靴がめりこんだ。后院《ホウユアン》に着く前にふり返ると、佐智の足跡が鮮明なスタンプのようについていた。ペキンカイドウの木が、いつもと変わりなく枝を張っているのを見たときにはほっとした。木の下にお地蔵様のようにずんぐりした子供の姿が見えた。佐智は駆けよって、肩を揺すった。 「晋ちゃん、忘れてなかったのね。ああ、よかった」  同級生は恥ずかしそうに、坊主頭《ぼうずあたま》を動かした。 「だって、約束したから……」あとは口の中でもぐもぐつぶやいた。  晋は黄塵の来るずっと前から、家に閉じこもりつづけていた。ある朝突然に「もう国民学校なんか行くものか」と宣言したときは、両親はいつも穏やかな長男が病気にかかったにちがいないと思った。ところが彼は一日中家にいて、熱狂的に折紙や工作に没頭した。そして親たちが何と言おうと、登校を拒み通したのである。佐智が親友の様子を見にいったときには、家の中は紙の動物たちで埋まっていた。赤ん坊の元ちゃんは、大喜びでそれらをなめたり破ったりしていたが、製作者は気にする気配もなく破壊される倍の速度で作っていた。元ちゃんの唇《くちびる》と歯は、折紙からにじみ出る気味の悪い色に染まっていた。佐智が届けた小田切先生の手紙には何が書いてあったのだろうか。読んでいるうちに、歴史学者の顔は蒼白《あおじろ》くなった。長男の国民服の衿《えり》を引っつかみ「明日から学校に行くんだ!」と大声で言った。 「おじさんよして……」佐智はべそをかいて言った。「晋ちゃんのせいじゃないの。小田切先生が毎日『中西のようなノロマは戦地でお役にたたない』っていうので、皆がいじめるの。〈ノロ晋、ノロ晋〉って……。でも晋ちゃんは図画や工作は組一番上手なの。嘘じゃないわ」  それでも中西氏は紙の動物園を踏みつぶすために、家中を忙がしく走りまわった。赤ん坊の元ちゃんも、お守役の妹の清ちゃんも、兄をまねて折紙をしていた明ちゃんも声をそろえて泣き始めた。シナ家鴨《あひる》の合唱のような喧騒《けんそう》の中で、晋だけが涙一粒もこぼさずに圧死した動物たちを片づけていた。とりわけ佐智がぎょっとしたのは、隣室との境の唐紙《からかみ》が静かに動いて、中西夫人の顔半分がのぞいたときだった。もう何ヵ月も前から病気だという晋たちの母親は、ろうそくのように瘠《や》せ細って、皮膚の下から青紫の血管が浮きあがっていた。  地上には造花のように乾燥した蕾《つぼみ》が散乱している。佐智は思わず梢《こずえ》を見あげた。風でもみくちゃにされてはいたが、茂みの奥に紅色の花房が秋の稔《みの》りを十分期待させるほどしがみついている。安心すると同時に、舌の両脇《りようわき》から唾《つば》がにじみ出てきた。リンゴに似ているが酸味の強いカイドウの味覚を思いだしたせいであった。  二人の秋への思いが断ち切られたのは、ほかの子供の群れが后院に来る気配がしたからだ。〈二人だけだよ〉山本上等兵は念を押したのだ。〈大勢来ると、面会停止になるかもしれないよ〉 「見つかってはだめよ」  佐智は晋の袖を引っぱって言った。 「わかってるよ」  小さな声で晋が言った。  彼らは中西家の植えこみの後ろにうずくまって、健を先頭にした一団をやりすごした。それから二面の院子を走りぬけて、黄塵の吹きこみを和《やわら》げるために閉めきってあった朱塗りの門に到着した。自分の家の傍《そば》を通ったとき、佐智はいやいや拭き掃除をしているにちがいない母親の姿を思い浮かべた。彼女は餅《もち》つき大会以来、娘が〈駐屯地《ちゆうとんち》〉に行くことを固く禁じていたのである。それはアメリカが、この町に爆弾を投下しにくるという噂《うわさ》のせいだった。噂が流れてきたのは、正月の春聯《チユンリエン》が赤い魚の尾びれのようにびりびりになってしまったころで、すでに満州では大爆撃が何回も行われていた。もしこの町にアメリカが襲ってくるとしたら、その目標は日本軍のいる〈駐屯地〉にちがいないと、彼女は言った。その噂は国民学校までも脅《おび》やかし、厳重な集団登下校制が実施されることになった。日曜日も家族たちはできるだけ寄りそって、いざというときに備えていた。佐智や晋が親たちの目をくらまして〈駐屯地〉をたずねる機会は、長いこと訪れなかったのである。たまたま佐智と晋の父親が、同じ調査団の旅に出ていった今日の日曜日以外には……。 〈日本宿舎〉の朱塗りの門には、大人のこぶし大の二個の鉄輪が吊《つ》りさがっている。鉄輪はここが大商人の館《やかた》で出入りが激しかったころ、何千人もの掌の脂《あぶら》で磨《みが》かれてすべすべしていた。黄色いあらしのあいだ鉄輪は狂ったように門を叩《たた》きつづけて、入り口に近い三島家の人々を不眠に陥《おとしい》れた。あらしの通りすぎた今、三島夫人と双子の娘たちはやっとぐっすりと眠りこんだのであろう。二人が重いきしみとともに閂《かんぬき》をはずして、扉を両方に押し開いても、三島家のだれも気づいて出てくる様子はなかった。  街路に出た佐智と晋は、呆気《あつけ》にとられて顔を見あわせた。 「陳老師《チエンラオシー》!」  二人は自分たちこそ黄塵直後の町を歩く最初の人間にちがいない、と思いこんでいたのである。しかし〈日本宿舎〉の門外には、灰色長衣に黒のお椀《わん》帽子というシナの典型のような老人がすでにゆうゆうと座っていた。いつものとおりエンジュの根方にアンペラを敷き、くわえ煙管《ぎせる》からか細い紫煙が切れ切れに立ちのぼっていた。隣りの竹籠《たけかご》の中では、褐色《かつしよく》の地に縦斑《たてふ》のある鳥が、一方の止り木から他方へと振り子のような往復運動をしていた。まるで黄色い風は、彼のまわりで渦《うず》まきながら、彼と彼の附属物には一指も触れずに通りすぎたみたいだった。 「やっぱし……」晋が上ずった声で言い、「そうよ、決まってる、じゃなきゃ……」と佐智が緊張した声で補足した。〈日本宿舎〉の子供たちは、前々から陳老人を〈シナの魔法使い〉ではないかと疑っていたのである。黄塵の終る時刻を予知したような今日の早業を説明できる理由はほかにはなかった。  一ヵ月前、陳老人が鳥籠を抱いて〈日本宿舎〉の前に現れたときには、官舎中が大さわぎとなった。戦局がだんだんひどくなってきたので、全員の神経が尖《とが》っていたせいだった。『シナの愛国者が座りこみを始めた。抗日運動らしい』とだれかが言いだし、次にこの座りこみに触発されて暴徒が押しよせてくるという噂話が広まった。門は黄塵のときと同じように閉ざされて、内側から閂と施錠がされた。しかし太陽が西の万寿山《ワンシユーシヤン》に傾いても、暴徒たちは門を叩かなかったので、三島医師がこわごわと首を出して街路をのぞいてみた。町はふだんと変わった様子もなく、小柄《こがら》の一人の老人が敷いていたアンペラをくるくると丸めて脇に抱え、もう片方の手に鳥籠をさげて歩きだすところだった。その後ろ姿は孤独ではあったが、少しも凶暴そうには見えなかった。 「あいつはただの老頭児《ラオトウル》(じいさん)ですよ。町のほうぼうでごろごろしている無害な怠け者たちの一人です」  三島医師は結論し、その旨《むね》を官舎の住人たちに伝えた。皆が胸をなでおろし、それからというものエンジュの下の老人は路傍の犬ほどにも注意を払われなくなった。  なぜ彼が憩《いこい》の場所を〈日本宿舎〉の真ん前に選んだのか、だれにも理由はつかめなかった。たぶん彼はシナでも古いスタイルに属する院子の門構えと、夏は日傘《ひがさ》に、冬は日だまりになりそうなエンジュの大木が気に入ったのだろう。この町では、だれでも気に入った場所で休む権利があった。彼は毎日姿を現わした。雨の日には唐傘をエンジュの幹に結びつけ、冷える日にはアンペラのほかにぼろぼろの毛布を持参した。そこで彼は太陽の沈むまで、半眼のまま瞑想《めいそう》にふけっていた。太陽が真上に来ると、彼はふところから新聞にくるんだ烙餅《ラオビン》を取り出して少しずつかじった。近所の女たちはその折りを見はからって、暖い茶や烙餅にくるんで食べる炒青菜《ジヤーチンツアイ》を運んで、陳老人をもてなした。  陳老人のヒバリはまだ若鳥で、初めはチーチー泣いては竹柵《たけさく》にぶつかって、くちばしから血を流していた。そのうちぷっつりと暴れなくなり、止り木のあいだの周期的運動をくり返すのみになった。ヒバリは頑固《がんこ》に押し黙ることにより、飼主と似てきたのである。彼らは三島医師が思いこんだような、街角でよく見受けられる〈老人〉と〈鳥〉の図柄には当てはまらなかった。彼らは互いに声もかけず、ときには憎みあっているようにすら見えた。  シナの女たちが老人を〈陳老師〉と呼ぶようになったのは、苔《こけ》むした岩のような老齢と寡黙《かもく》のせいであった。しかもこの条件は〈シナの魔法使い〉にもぴたりと当てはまった。官舎の子供たちは、陳老人がいつかは自分たちの目の前で、星や月や太陽を人差指一本で動かすにちがいないと信じていた。そのとき世の中はそれこそ引っくりかえるほどの騒動になることであろう。戦争などはごくごくちっぽけなできごととして、地球の片隅《かたすみ》に押しやられてしまうだろう。  佐智は母親と三島夫人の茶飲話をきいてしまった。 「表の老頭児《ラオトウル》はね、毎日長男の嫁さんにお弁当持たされて、どこかに行ってらっしゃいと送り出されるらしいのよ。うちの通いの阿媽《アマー》の近くなんですって。その話をするたびに彼女は『|※[#「女+也」、unicode5979]不像様児《タープシヤンヤル》(ひどい嫁さん)!』と言って、泣きまねをしてみせるわ」ホホホホと三島夫人は牝鶏《めんどり》に似た声で笑った。「三十年間も公立中学校で古文や詩を教えていたんですって。それで嫁さんに口答え一つできないなんて、どこぞの国にも似てますわねえ」  彼らは何を視《み》ているのだろう、と佐智は軽蔑《けいべつ》を抑えることができなかった。陳老人の目は細いけれど、熟した麦穂のように鋭くて、ただ者でないことを証明しているではないか。  佐智と晋は、〈シナの魔法使い〉のきげんを損じるつもりはなかったので、エンジュの木の下を過ぎるとき、「|※[#「(にんべん+尓)/心」、unicode60a8]好《ニンハオ》、陳老師《チエンラオシー》」と言ってていねいにお辞儀をした。これに対して陳老人はコハク色の瞳《ひとみ》をじっと子供たちに注ぎ、もっと深々と頭をさげた。子供と大人を差別してぞんざいに返礼をする習慣は、彼の身にはついていないようであった。  二人はほっとして駆け出した。迷路のように入り組んだ胡同《フートン》の網目を脱出し、〈駐屯地〉と民家の境に横たわる野原に出た。今日の野原は、風にかき回されてもしゃもしゃになった髪の毛みたいだった。あちこちで不規則な波のように枯草が倒れたり、起きあがったりしていた。ここで黄色い竜はのた打ちまわり、今しがた去ったばかりという感じがした。二人が歩くたびに草のあいだから埃《ほこり》が煙幕のように舞いあがった。佐智はオオカマキリの卵を見つけようとしたが、横断中一個も探し当てることはできなかった。おそらく軽い卵塊は附着した茎ごと何キロも風下に吹き飛ばされたにちがいない。佐智は餅つきに行く途中の父親の寂しそうな顔を思い出した。空は砂塵を含んで濁り、太陽は汚れた皿のように見えた。 〈駐屯地〉はあい変らず硝子《ガラス》の歯をむき出して、侵入者を威嚇《いかく》していた。しかし佐智も晋ももう脅えたりはしなかった。あれは単に泥棒よけの道具の一種で、招待された子供たちには関《かか》わりがなかった。それよりも気がかりなのは、歩哨《ほしよう》に守備された鉄門を突破する方法であった。山本上等兵から教わったアリババの呪文は三ヵ月も前のものなので、有効かどうかは使ってみなければわからない。ところがこの期《ご》に及んで、晋は尻《しり》ごみをしたのである。「おれ、こういうの苦手なの」彼は三メートルほど先で仁王立《におうだ》ちになっている歩哨を眺《なが》めながら、おずおず頼んだ。「さっちゃん、やってくれないかなあ」彼は佐智が断われば、今にも逃げ帰りそうな気配であった。  歩哨は木彫りの人形みたいに微動もせず、同じ場所に貼《は》りついていた。彼には子供たちの姿が見えていたにちがいないが、視界の端っこにとまっている蠅《はえ》ぐらいにしか思っていないようだった。あらしの最中も立っていたらしく、全身に黄土をかぶっていた。目も鼻も眉《まゆ》も軍服も蒙古羊の糞《ふん》の匂いのする砂に埋もれている。歩哨には払い落とす動作さえ許されていないのかもしれない。〈あの役目はほんとうは晋ちゃんがするはずなのに……〉佐智がうらめし気に同級生を見ると、彼はうつむいて靴《くつ》の先で地面に字を書いていた。『ヤ・マ・モ・ト』佐智はふいに、もし自分たちがこのまま家に戻ったら、晋は二度と国民学校に来ないだろうという気がした。自分の親友が、彼の母親と同じような病気にとりつかれ始めているのを感じたからだ。  佐智は歩哨兵の正面に立つと、両足をそろえて挙手の礼をした。耳もとで山本上等兵が何べんもくり返し教えてくれた呪文が、聞こえてくる。〈晋ちゃんといっしょに覚えておいて助かった〉と思った。あとは覚悟さえ決めれば、むずかしくはなかった。 「西城第二国民学校三年生、藤本佐智ト中西晋、ドクリツホヘー第一一九大隊第二中隊ノ山本上等兵ニタダイマメンカイニマイリマシタッ!」  歩哨は顔の筋一本も動かさなかった。たぶん体の中に温い血の管ではなくて、硬い針金がらせん状につまっているのだ、と佐智は思った。 「リョーカイ。ハイレ」  歩哨は子供たちを見ずに言うと、ぎくしゃくした動作でほんの少し扉をずらした。呪文の効果に驚きながら、二人は隙間《すきま》に身をおどらせて大急ぎで中に滑りこんだ。 〈駐屯地〉の印象は餅つき大会のころとすっかり変わっていた。両脇の柳並木は薄緑の霞《かすみ》で包まれて、白い羽虫のような柳絮《りゆうじよ》を次々に飛ばしていた。正面に立ちふさがる面会室は、記憶にあった灰色ではなくて、赤褐色の素焼き煉瓦《れんが》であった。微《かす》かに太鼓の響きが聞こえてきた。 「歩哨兵がね、あたしに片目つぶったのよ」 「まさか……」晋は首をふった。「さっちゃんの見まちがいだよ」  佐智は〈駐屯地〉全体が、自分たちをねずみ取りが仔《こ》ねずみを呑《の》むように陥れようとしているのを感じた。冷汗が気持悪く背中を伝わった。アリババの呪文は、軍隊への入り口ではなく、はるか遠くの世界の扉を開いてしまったような気がした。もう町には戻れないかも……と佐智は不安になった。ただ一人の頼みの綱である山本上等兵の顔さえも、霧の中にかすんでいる。思い出そうと努力したが、どうしてもカーキ色の軍服が邪魔になった。軍服だけが鮮明で、主人公の顔はのっぺらぼうだった。無理に目鼻をつけると、父親を訪ねてくる大学生の張有良《ジヤンヨウリヤン》の顔にひょいと変わってしまった。  晋のほうは、なぜか佐智と入れ替わったように元気になった。彼はしっかりした足どりで前に進み、佐智をふり返って嬉《うれ》しそうに笑った。泉水が音をたてて水を噴きあげていた。太い水柱は頂きで銀色の花弁を散らすようにくずれていく。藁《わら》くずや引きちぎられた小枝や落葉が、水流とともにゆっくり回転している。冬に見たバッタの死骸《しがい》も、ごみのあいだでもまれているのだろう。佐智はのぞいたが、黄土で濁った水は底が見えなくなっていた。風は町のあらゆる部分をくまなく触わっていった。〈駐屯地〉も例外ではなかった。黄色い風から、何かを隠しとおすことなどできる相談ではなかった。 「あまり来ないので、てっきり自分は忘れられたと思っていたよ」と、兵隊は白い歯を見せて笑った。 「コンニチハ」  晋が初めて会うように真《ま》っ直《すぐ》に彼を見て言った。佐智は黙って頭をさげた。では彼が山本上等兵なのだった。頭が面会室の天井につくほど背が高いほかには、目だつ特徴のない若い兵隊だった。 「今日はとても|いい《ヽヽ》日なんだぞ」  何が|いい《ヽヽ》日なのかは説明せずに、山本上等兵は二人の手を引いて歩きだした。正月のときと同じだった。彼は子供たちのことを、とてもよく覚えているようだった。〈さっちゃん〉〈晋ちゃん〉と懐《なつか》しげに呼ぶことからもそれがわかった。佐智は自分の記憶が曖昧《あいまい》だったことを考えて気がつまった。それでも歩いているうちに、手の中に埋めこまれた小石の感触がよみがえり、同時に彼が家族全部を失った人間であることを思いだした。そういう人間にふさわしく、彼がいつも大股《おおまた》でゆっくりと歩くことも……。  山本上等兵が子供たちを連れこんだのは、何十|棟《とう》も立ち並んだ兵舎の一つであった。佐智は戸口をくぐる前に、トタン屋根を見あげ、自分が巨大な鯨《くじら》の腹に入っていくのだ、と思った。 「ここにはだれが住んでいたの? 日本の軍隊が来る前に……」  佐智は山本上等兵に追いすがってたずねた。 「シナ軍だよ」  兵隊はふり返って答えたが、すでに上半身は兵舎の陰に入っていたので、表情は見えなかった。外光に慣れた佐智の目に、部屋の中は燈火管制実施中のように暗く映った。同じ形をした木製の寝台が、救命ボートのように整列をしていた。一脚の寝台のはるか上方に必ず一個の四角い明り取りがついていた。小さなその開口部からは、扁平《へんぺい》な筒状の光が入ってきて、寝台の裾《すそ》にどれもきちんと折りたたまれた主《ぬし》のちがう毛布を照らし出していた。兵舎の中には山本上等兵の軍服から発散する匂いが、もっと濃く充満していた。佐智と晋は思わず咳《せ》きこんだ。空気に喉《のど》を刺激するものが混じっていた。 「おおい、窓を開けろ」  山本上等兵が怒鳴った。すると数本の手が暗がりから伸びて、それぞれ壁に垂れた縄《なわ》を引いたのである。四角い空間からさかんに煙が逃げていくのが見えた。四、五人の兵隊が寝台にあぐらをかいて、煙草《たばこ》をふかしていた。休日の兵舎というよりは山賊の巣窟《そうくつ》に近い光景だった。 「おや、上等兵殿」ふいに錆《さ》びた鐘のような声が一つの寝台から飛んできた。「その小孩児《シヤオハイル》たちはどこの商場《シヤンチヤン》から手に入れたものでありますか。西単《シータン》ですか、それとも東安市場《トンアンシーチヤン》? 甜瓜《テイエングワ》の隣に並んでいましたか」  ほかの寝台からいっせいに笑い声がわき起こり、佐智と晋は山本上等兵にしがみついた。彼は頭を横にふって、仲間たちに言った。 「いやいやこちらは自分に面会に来てくれた大切なお客さんだよ」 「それは失礼をばいたしました」馬鹿《ばか》ていねいにあやまったあとで、声はひょいと調子を変えた。「おや、あんたたちゃ餅つきに来てた子じゃないか」 「福島一等兵!」  二人は叫んで、緊張が去っていくのを感じた。 「ほかの兵隊さんたちはどこ?」  佐智は空の寝台を見まわしてたずねた。 「今日はみなでなあ、匪賊《ひぞく》の首狩りに城外に遠征に行ってなあ。ほら太鼓の音がしてるだろ」福島一等兵がまじめな声で言った。「獲物は首何個かのう。ここにおる料理係の兵隊が手ぐすね引いて待っとるとこじゃあ」 「よせよ、本気にするじゃないか」山本上等兵がふきげんに言った。それから小さな声で、「町に外出してるんだよ」とささやいた。 「それよか福島、おまえも例の恩賜品《おんしひん》、半分でもわけてくれるか?」 「いいですとも。『背《はい》のうにしまいこみたるチョコレート かたじけなさに涙こぼるる』と、どうだいこの短歌は? ええい、全部くれてやらあな。自分はこんな甘ったるい西洋菓子食うよりは、草の根かじったほうがましでありますから」 「チョコレートなの! ほんとに?」  二人はまた同時に叫んだ。それは物語に登場するだけで、まだ一度も実物には出会ったことのない名前であった。 「どうだ坊主《ぼうず》、軍隊ってええとこじゃろう」紙包みを渡しながら、福島一等兵は言った。「自分はここが大好きじゃ。三度の飯のほかに、こんなものまで支給される。奥の倉庫にはまだまだ色んな物がつまっとるぞ。自分たちにゃ一生かかっても食えんくらいにな。そりゃそうと……」彼は晋に顔をずっと近づけた。「自分がここでまかされとる仕事は何だと思うか、坊主」  晋は目を伏せて「知らない」と小声で言った。 「馬なんだ」福島一等兵は楽しげに教えた。「おらの大好きな馬の世話係だよ。なあ坊主、おまえも大きくなったら兵隊になれや」  福島一等兵はそれこそ馬のひづめのような掌で、晋の頭をごしごしこすった。それから急にまた調子を変えて、山本上等兵のほうを向いた。 「しかし上等兵殿、自分は幾らかいやな予感がするのでありますよ」 「何のことだ?」  顔を曇らせて山本上等兵はたずねた。福島一等兵はほかの兵隊に聞きとれないほど、声を低めた。 「気がつきませんか。第一中隊が出ていく少し前にも、やはり恩賜の支給品がありましたよ。もしかしてこれは……ではないかと……」 「よせ、福島」山本上等兵も同じくらい低い声で、彼をさえぎった。それから大声で「さあ表に出よう。あまりここに長居してると、福島一等兵に食べられちまうぞ。あいつは、甘いもの以外は、何でも食い物に見えてくるらしいからな」 「あはははは」  福島一等兵は、寝台に引っくりかえって、乾いた声で笑った。 「あはははは」  ほかの兵隊たちもいっせいに笑いだした。笑い声に共鳴して、兵舎中の窓硝子がびりびりと震えるほどだった。兵隊たちが何を面白がっているのか、佐智と晋には全然わからなかった。彼らはおかしくないのに無理に笑っているような気がした。銀紙のチョコレートが、急に手の中で鉄の玉のように重くなった。 「駆けっこしないか」  兵舎から出ると、山本上等兵は晋を誘った。柳絮が、軍服や佐智の上っ張りや晋の国民服にとまって、生きている羽虫のように震えていた。しかし山本上等兵は、柳絮ではなく別の物を、体からふり落としたがっているようだった。 「いやだよ。負けるに決まっているもの」  体操の苦手な晋は尻ごみした。 「差をつけよう。おれはさっちゃんを肩車して駆けるぞ」  晋はちょっと考えてから承諾をした。佐智のほうは返事をするまもなく、山本上等兵の肩の上にいた。彼の肩は佐智の父親のように丸くなくて、板のように角ばっていた。彼は佐智の両足を抑えたまま走りだした。下を見ると、晋が口を開けて一生懸命駆けていた。まるで暴れ馬みたいに山本上等兵が跳ねた。佐智は必死で彼の頭にしがみついて落ちまいとした。ふいに右の指にぶよぶよと盛りあがった異様な感触があった。一瞬みみずの死骸みたいな気がした。それは山本上等兵が駆けるにつれて、しだいに生き返ってくねりはじめた。 「降りる。降ろして」  佐智はわめいた。山本上等兵の足の運びがのろくなり、晋が変な顔をしてふり返るのが見えた。佐智は両足をばたつかせた。 「ケガしてるわ。右の耳の下のところに……」  山本上等兵から滑りおりて佐智は言った。 「シナ軍の大砲の弾のかけらが入ってるんだよ」  山本上等兵は仕方なさそうに説明した。 「なぜ取らないの?」  晋が目を丸くしてたずねた。 「複雑な血管がたくさん集まっている場所なんだよ」山本上等兵が静かに言った。「日本に帰ってから、陸軍の病院で手術をしてもらうんだ」 「痛くないの?」  今度は佐智がゆっくりとたずねた。指先にまだあの感触が残っている。 「痛くはないが、少し重いね。ときどき首が斜めになっているので、あわてて立て直す」山本上等兵はくすくす笑った。「どうだ、本物の筋金入りの頭だぞ。部隊一丈夫な頭はこれだ」  鉄のかけらが入った頭はたいへん重いにちがいない。でも冗談を言うよりほかに、どうしようもないのであろう。佐智は山本上等兵を見あげたままぼんやり立っていた。 「ぼくは兵隊にはならないよ」  突然、脇《わき》で晋がむっつりした調子で言った。 「そうか」山本上等兵はあっさりと言った。 「なりたくない人が、なる必要はないな。兵隊だろうと、何だろうと」  山本上等兵はふたたび唇《くちびる》をゆがめた笑い方をした。佐智に、彼が泣きたいのを我慢しているのではないかという考えが閃《ひらめ》いたのはそのときだった。あまり〈兵隊〉にはそぐわない想像だったために、佐智はもう一度彼の顔をよく見ようとした。山本上等兵はとても若かった。佐智の家に遊びにくるシナの学生たちと、ほとんど変わらないくらいであった。佐智の途方に暮れた様子に、山本上等兵はすぐ気がついたようだった。彼は気を取り直して、子供たちの手を執るとふたたび歩きだした。中西晋もまた何ごとか物思いにふけっていた。そういうとき、彼は日頃《ひごろ》の気弱さをかなぐり捨てて、ひどく強情になるのだった。  お互いにちぐはぐな感情をもてあましながら、三人は柳絮の飛ぶ道を正門に向っていた。鉄の扉《とびら》の前で、山本上等兵は子供たちに手を差し出して恥ずかしくなるほど長い握手をした。手を放してから、穏やかな落ち着いた声で「どうもありがとう」と言った。 「ありがとう」と佐智と晋はあわてて言った。歩哨《ほしよう》が重いきしみとともに扉を開き、外に出るように合図をした。  佐智は家に戻《もど》ると、銀紙にくるんだチョコレートをほんの一口かじった。毎日一口ずつ減らしていくつもりだった。ところが夜になって風呂《ふろ》に入るとき、上っぱりのポケットから銀色の包みが転り落ちたのを母親は見逃さなかった。 「〈駐屯地〉には、こんなものが山ほど倉庫につまってるの」  佐智は問題を食物だけにすり換えて強調し、それに成功した。 「こういう時代だから、子供が甘いものに釣《つ》られるのは仕方ないわね。でも、もう絶対に行ってはダメよ。|あそこ《ヽヽヽ》はこの町いちばんの危険地帯よ。爆弾がもっとも早く落ちる所よ」  そう言うと母親はチョコレートを二つに割り、大きいほうの半分を自分の口の中に放りこんだ。 「でも、佐智、お父さんには内証にしましょうね。あの人はあたしよりもっと軍隊がきらいなのよ」     3 〈日本宿舎《リーベンスーシヨー》〉のいたるところで、ライラックが心臓の形をした葉のあいだから赤紫の円錐《えんすい》花序を突きだしていた。それは細い星が集まってできた箒星《ほうきぼし》のように、無数の小花が寄りあってできていた。たぶん元館主の大商人は、春先の駱駝《らくだ》の体臭を追いはらうために、芳香の強いこの木を庭中に植えたのであろう。花虻《はなあぶ》や蜜蜂《みつばち》が忙がしく出入りするために、院子いっぱいに羽ばたきや唸《うな》り声が満ちていた。  そのころ、例の噂《うわさ》の半分は真《まこと》であることがわかった。国民学校の校庭の上に、敵機の編隊が姿を現わしたのだ。猿《さる》に似ているために〈佐助〉というあだ名を持つ校長が、朝礼の訓話をしている最中であった。まず何百台もの天井扇風機を一度に回したような音がした。皆がこらえきれずに空を眺めると、銀ヤンマの大群のように、日本国籍でないことだけは確実な飛行機が北から近づいてくるところだった。頭の上を通るとき、きらめく翼に青い星印がくっきりと見えた。校長は「敵機来襲!」と口走り、朝礼台から本物の忍者のように飛びおりた。教師たちも口々に「避難開始!」と叫んで、校庭の四隅《よすみ》にある防空壕《ぼうくうごう》に一目散に走っていった。生徒たちだけは全員口と目を開いたまま、富士山の形に展開した飛行機の群れに心を奪われて立っていた。  やがて壕から這《は》い出てきた〈佐助〉校長は、見たこともないほど怒り狂っていた。 「日ごろの訓練は何のためであるか! 皆さんはこれからの戦いを支える少国民であります。犬死は許されないのであります。班長、副班長前へ出ろっ!」  二十人ほどの上級生がうなだれて前に進み出た。その中には佐智の班長の健もいた。〈佐助〉は二回ずつ跳びあがって、自分より背の高い生徒たちに往復ビンタをした。静まりかえった校庭に、色々の音程で掌《てのひら》と頬《ほ》っぺたがぶつかりあう音が十分間も続いた。それは国民学校ではごくありふれてはいたが、佐智にとっては慣れることのできない習慣の一つだった。しかし〈佐助〉校長の掌がいかに分厚かろうと、打たれた生徒の頬《ほお》よりも痛みがひどく、腫《は》れあがったことはたしかである。彼は打つべき対象を、自分の掌の四十倍も持っていたのであったから。  その記念すべき日以来三日とおかず、銀色の飛行機の群れが頭上を通過していった。彼らは最初と同じように、いつも西城第二国民学校を無視したのである。シナの奥地にある秘密の基地を飛びたって、海峡を渡り、もっと大きな獲物に襲いかかるためだった。そしてこの町にいる日本人はすべて、祖国が肉を裂かれ骨をバリバリ砕かれる直前の轟音《ごうおん》を耳にしたのだった。教師たちから一言の説明もなかったのに、子供たちは皆そのことを知っていた。そして狭苦しい壕の中で、酸素不足に悩まされながら、彼らはもう一度あの美しい飛翔《ひしよう》性肉食|昆虫《こんちゆう》の姿をふりあおぎたいという願望に駆られていた。その昆虫が、鉛筆の種類を表す番号に似た名前を持っていることも、いつのまにか知っていた。  ある日佐智が学校から帰ってくると、家中に天ぷらの匂《にお》いが漂っていた。佐智は鼻の孔《あな》を精いっぱいふくらませて、悩ましい匂いを吸いこみながら、台所に駆けこんだ。〈鉄〉は今日ばかりは佐智を出迎えもせず、毛がぬけてすりこ木のようになった尻尾《しつぽ》を揺すりながら床の上に座りこんでいた。佐智はエアデル犬を無理に押しのけて、母親の背中をたたいた。 「もしもし、ただいま。何揚げてるの?」 「おかえりなさい」  母親は娘の質問に答える代りに、油の中に小麦の衣をまとったふしぎなものを放りこんだ。佐智は近づいて、金色の泡《あわ》を噴いているものの正体を見ぬこうとした。 「ごらんのとおり」  母親は長い木箸《きばし》で一個をつまみあげながら、愉快そうに笑った。それは焦《こ》げすぎて縮みあがっていたために、まず床に落とされて〈鉄〉に供された。〈鉄〉は飛びかかって食べたあと、変な顔をして白っぽい葱《ねぎ》に似たものを歯のあいだから押し出した。そのとき佐智は油の匂いに混じって、ごく薄められた花畑の香りをかいだのである。〈でも、まさか……〉彼女は半信半疑で、油に浮いて回っている天ぷらを眺めた。 「アカシヤのお花よ」  母親が得意そうに言った。 「食べられるの?」 「もちろん」  佐智はすでに食卓に大山積みになったニセアカシヤの天ぷらを呆然《ぼうぜん》と眺めた。今は町中がこのマメ科の木の花盛りであった。どこの街路を通っても、白い花のシャンデリヤが頭の上で揺れていた。材料は無限にあるであろう。 「今日は張《ジヤン》さんが夕食にくるから……」平然と母親は言った。「いつもいつも饅頭《マントウ》に鶏皮《とりかわ》の韮《にら》いためじゃ飽きちゃうでしょ」  佐智は揚がった一房のニセアカシヤをつまんでみた。ごく上質の紙を食べているような気がした。喉を滑り落ちる瞬間だけ、花の香りがふわりと体内に漂った。  佐智の父親が大学から戻《もど》ってくると、彼はニセアカシヤの天ぷらを見てにやにやした。 「風流じゃありませんか。ぶどう酒とよく合いそうだぞ」  父親が冗談を言うのは、近ごろめずらしいことだった。佐智の家ばかりでなく、〈日本宿舎〉全体に重い雰囲気《ふんいき》がたれこめていた。大人たちの表情には活気がなく、会えばひそひそ話ばかりしていた。前にもまして元気なのは〈佐助〉校長と国民学校の先生ばかりだった。  佐智は張有良《ジヤンヨウリヤン》を迎えにいくことにした。  張有良は昆虫学を専攻する学生で、佐智のシナ語よりはましの片言の日本語をあやつった。彼は将来、日本に留学するつもりだった。  去年の冬、佐智は張有良の家に泊まりにいった。彼には日本語がまったく通じない十一人の弟妹がいた。彼らは好奇心をあらわにして、蒙古《もうこ》羊のように佐智の周囲に集まると代る代る話しかけた。佐智が困惑して「|是※[#「口+馬」、unicode55ce]《シーマ》、|是※[#「口+馬」、unicode55ce]《シーマ》」とうなずくと、質問者は満足してほかの者のあいだに引っこんだ。やがて自分の子供たちをかきわけて、張太々《ジヤンタイタイ》がよちよちと現れた。彼女の体は牝牛《めうし》のように大きくて、人形のようにかわいい纏足《てんそく》に金糸の縫取りのある布鞋《ぬのぐつ》をはいていた。彼女は子らを制すると、目をこれ以上はできないほど細くして、佐智をしげしげと見つめてから早口にまくしたてた。 「母ハ初メテ会ウ人ノ運命ヲ占ウコトデキマス」脇《わき》で微笑《ほほえ》んでいた張有良が佐智に言った。「アナタノ左ノ目ニハタクサンノ苦シイ星ガ……右ノ目ニハタクサンノ幸セノ星ガ見エル。ドチラガ多イノカハ、マダワカリマセン……母ハソウ言イマシタ」  張太々は佐智を自分の豊かな胸に引きよせると、静かに頭をなぜた。佐智が嬉しかったのは、占いの中身ではなく、張の母が自分を同等にあつかったからだった。  夕食のとき、張の父親は屏風《びようぶ》の前の座席を占め、縁なし眼鏡の下からときどきじっと佐智を見つめた。彼はシナの下級公務員で、肘《ひじ》のあたりの光った質素な背広を着ていた。  夜になると、張有良は佐智を女たちの寝る部屋に連れていった。するといちばん上の妹が手早く佐智の衣服を剥《は》いで、粗末な木製のベッドに寝ころぶように言った。それから彼女は佐智の体に、薄くて長い布団《ふとん》を何重にも巻きつけて、満足そうに見おろした。みの虫のように動けなくなった佐智は、たちまち温まって汗をかいた。ほかの女の子たちは、一人で器用に自分を芯《しん》にしてふとん巻きを作った。厳しい冷えこみを防ぐために考案したシナの知恵に佐智は感心した。  佐智が正門とは反対の后院《ホウユアン》へ行ったのは、心づもりがあったからだ。張の家は〈日本宿舎〉から北海へ向う二つ目の角を西へ十分ほど歩いたところで、高い木の上からのほうが見はりがしやすかった。花の時期が終って、ペキンカイドウは大粒の雨だれのような実を無数に吊《つ》りさげていた。梢《こずえ》近くまで登った佐智の耳に、音階のトに似た連続音がひっきりなしに聞こえてきた。北海に影を映すラマ塔の壁は、夕日を受けて柿《かき》の実色に染まっていた。その向うには、いつも穏やかな町並が遠浅の海のように広がり、ところどころにルリや金の色の屋根|瓦《がわら》が漂流物のように突きだしている。  大気が幾らか鉛色を含みはじめたころ、やっと張有良の姿が街角に現れた。彼はいつものとおり父親のお下りの上着に、こればかりは若者らしい白い夏物のズボンをはいていた。佐智は片手を懸命に大学生に向って振ったが、彼は小脇に書物をかかえ、うつむき加減に早足で歩いてきた。一つ目の角にさしかかったとき、同じくらい急ぎ足のカーキ色の人影が飛び出してきた。二人はあっという間に、もつれあう感じになった。張有良は兵隊を見ても道をゆずったりはせず、兵隊も自分の速度を緩めなかったからである。その直後、大学生は兵隊に突きとばされて、エンジュの下に倒れていた。兵隊はなおも彼の上にかがみこんで、何か言っている様子であった。佐智は滑りおりる予定だったのに、指が枝にくっついてしまった。胸が爆発するほどに鼓動を打っていた。兵隊が顔をあげると、佐智は彼が山本上等兵ではないかと思った。背の高さとか、顔の感じがよく似ていた。しかしそれは兵隊ならだれも同じカーキ色の服装のせいかもしれなかった。兵隊はふたたび起きあがった張有良の胸を捉《とら》えると、さらに二、三回頬をなぐった。張有良の体は柳の若木のように左右に揺れたが、彼は奇妙な獣を見るようにじっと日本兵の顔を見つめていた。二人の声が木の上まで届かないために、佐智は二人が芝居の立ち回りの稽古《けいこ》をしているような気がした。しかし兵隊はなぜかますます怒りに駆られて、張有良の取り落とした書物を軍靴《ぐんか》でけとばした。その瞬間、大学生は眠りからさめたようになった。す早く書物を拾いあげると同時に、一メートルほど後方にとびのいて身構えた。彼の全身から火焔《かえん》が噴きだしているように見えた。佐智は張有良が練拳《リエンチユアル》の名手であることを思いだした。  周囲の家々の門には、大勢のシナ人の顔が寄り集まっていたが、だれも止めに入ろうとする者はいなかった。まるで野良犬《のらいぬ》同士のけんかを見物するように、二人を指して笑ったり喋《しやべ》ったりしていた。佐智だけが遠く、ペキンカイドウの上で心を引き裂かれ、半ば泣きだしかけていた。山本上等兵はつねに佐智や晋に優しかったが、彼がシナ人をきらいだとしてもふしぎはない。山本上等兵の頭をふつうの人より重くしている鉄片は、シナの大砲の弾だった……。  佐智の視界にもう一人、登場人物が現れた。陳老人が自分のエンジュから立ちあがり、アンペラを巻くと帰り仕度を始めたのである。彼は身近に行われている日本とシナのいさかいには毛筋ほどの興味も示さずに、もっとも短い道、つまり兵隊と大学生のあいだにゆうゆうと分けいったのであった。兵隊は汚い老頭児《ラオトウル》に触わるまいと思わず後に退き、学生は通過する老師《ラオシー》に彼の国の礼節にふさわしく最大級のお辞儀を与えたのである。最近は足腰の関節を痛めているらしい陳老人が、二人の邪魔にならぬ位置まで歩くにはかなりの時間を要したので、二人の闘志はすっかり鈍った様子であった。思いがけぬ仲裁者が二番目の街角に姿を消すころには、兵隊は自分の用事を思いだして目的地に進みはじめ、張有良は夢中になって書物についた泥《どろ》を拭《ぬぐ》っていた。見物人はつまらなさそうに街路を引き揚げ、佐智はやっと弛緩《しかん》した手足を使ってペキンカイドウの幹を這いおりた。陳老人はやはり魔法を使ったにちがいない、と彼女は思った。〈シナ〉と〈日本〉の戦いは、ついに起こらなかったのだから。  張有良が戸口に現れると、母親は大声をあげた。 「まあ、張さんどうしたの。ズボンが泥だらけ、頬っぺたが腫れてるわよ」  父親が驚いて椅子《いす》から立ちあがり、佐智は胸の鼓動が早く打つのを感じた。 「脇見ヲシテ、転ビマシタ。藤本先生《トンベンシエンシヨン》ニ申シワケナイコトシマシタ。オ借リシタ『昆虫学精髄』ヲ汚シテシマイマシタ」  張有良は平生と変わらない落ち着いた声で詫《わ》びた。 「そんなこといいんだよ」父親が自分の学生のすさまじい様子におろおろして言った。「早くけがを消毒しなさい」 「張さん、こっちへいらっしゃい」有無を言わさぬ調子で母親が命じた。「おまけにズボンのお尻《しり》が裂けてるわよ」  張有良が恥じいりながら、薬をつけてもらったり、つくろってもらったりしているあいだに、父親は『昆虫学精髄』を手にとった。佐智は息が止まりそうだった。張有良の努力にもかかわらず、表紙に大きな靴底の一部がぼんやり浮きあがっていた。父親はしばらくその軍靴の跡を眺《なが》めてから、書架に戻し、疲れたように両眼を閉じた。これはこのごろ彼がしばしば陥るくせであった。あれは山本上等兵ではない、と佐智は自分に言いきかせた。山本上等兵はあんな気狂《きちが》いじみた乱暴はしない。少なくとも自分の知っている山本上等兵は……。 「コンニチハ、佐智サン。何考エテマスカ?」  治療の終った張有良が、ぼんやりしている佐智の顔をのぞきこんだ。彼にとってあの路上のできごとは、吹き過ぎていった突風のようなものなのだろうか。突風の被害は多少出たものの、それに対して文句を言うこともないと思っているのだろうか。佐智は自分の受けた傷が、張有良よりずっと深いのを感じた。 「コレハ何トイウ日本料理デスカ」  客の礼儀として「非常好吃《フエイチヤンハオチー》」を連発してから、張有良はふしぎそうに母にたずねた。 「木の花揚げ」母はすまして答えると、上きげんに勧めた。「もっとぶどう酒飲みなさい、張さん」  張有良が兵隊になぐられた頬には、くっきりと赤黒い模様が浮かびあがっていた。その掌型は、彼となぐった兵隊とをつなぐ絆《きずな》だった。愛によってではなかったが、彼はその跡が消えるまでその絆を感じつづけることだろう。 「張さん、痛くない?」  佐智はそっと大学生にたずねた。 「オオ、体ノケガハ痛クナイヨ」酔った学生は冗談のように胸を抑えた。「デモ治ラナイノハココデスヨ。佐智サン」 「あら、張さん失恋したの?」  母親が傍《そば》で笑った。 「そんなことあるものか。彼は女子学生に大もての男でね。だからくそまじめに講義に出るのさ。欠席すると、見舞いの女の子たちがたくさん押しかけるんで困るんだ」  大学生はふらふらと立ちあがると、父親の足もとにきちんと正座した。床に着くほど頭を下げたので、テーブルの下にいた〈鉄〉が驚いて這い出してきた。 「私ガ今大学生デイラレマスノハ、藤本先生ノオカゲデス」 「おいおい、どうしたんだよ。困ったね」父親は苦笑して、張有良の肩を叩《たた》いた。「教師が学生を教えるのは職業なんだよ。起きなさい」 「チガイマス」張有良は、今度は母親のほうを見あげて言った。彼の目の中にうっすらと涙が溜《た》まっていたので、皆しんとしてしまった。「私助ケテモライマシタ。藤本先生ハ命ノ大恩人」 「何のこと?」  母親がきょとんとして夫を見た。 「私、去年、ローヤニ入ルトコロデシタ」  急に食卓のまわりの空気が硬《こわ》ばるのを、佐智は感じた。母親は下を向き、父親は天井を仰いだ。張有良の口調から温みが消えて、佐智の聞いたことのないきつい金属的な声になった。 「南京《ナンキン》政府ノ憲兵ガ大学ニ来マシタ。ボクトアト二人ノ学生ツカマッテ調ベラレマシタ。デモ先生、憲兵ニ向ッテ言ワレマシタ。『コノ学生タチガドウイウ思想ヲ持ッテイヨウト、私ノ大事ナ教エ子ニ変ワリアリマセン。彼ラヲ連行スルナラ、私モ責任ヲ取ッテ辞職シマス』憲兵困リマシタ。ダッテ大学ノ先生方ハ、政府ガ日本カラ招イタ客人ダカラデス。憲兵、ボクタチヲ解放シ、トウトウ助カリマシタ」 「よかったわねっ!」張の話が終ると、母親が突拍子もない声で叫んだので、皆びっくりした。「さあ、お祝いにもう一度|干杯《カンベイ》!」  ふたたび食卓が活気づいてきた。佐智は饅頭《マントウ》を食べたが、少し発酵がききすぎているような気がした。デザートに西瓜《すいか》の干した種が出たころには、眠気が忍びよっていた。佐智は大人たちの話すわけありげな言葉の群れにとり囲まれていた。 「……大学に……が来るのは最後の時だろう……張君の同胞と戦うのは気が進まないね……」 〈何が来るの〉佐智は目を覚まして、父親にたずねようとした。しかしふたたび眠りに打ちのめされて、椅子に沈みこんだ。カーキ色の兵隊が、柳絮《りゆうじよ》の漂う闇《やみ》に吸いこまれていく。背中だけが光る点になって網膜に残っている。 〈さよなら、山本上等兵〉佐智はもがきながらつぶやいた。〈張有良をぶったのはあなたなの? 教えて……〉 「ダイジョーブデス……私タチ必ズ勝チマス……南京デハナクテ、私タチノ政府……」と張有良が言った。  母親が「しーっ」と男たちを制するのが聞こえた。その直後佐智の体は、標本の匂いの染《し》みついた父親の腕の中にすくいとられ、まるで柳の種子のようにふわふわと山本上等兵の跡を追って飛んでいった。     4  佐智は家の主食が、米飯から粟《あわ》や高粱《コーリヤン》にきりかわっていったのに気づいた。水気の少ないこれらの穀物は、お粥《かゆ》仕立てにすればむしろ彼女の好物ともいえた。しかし国民学校に持っていく弁当箱の中身は、まだ白いご飯のままだった。  ある日「今日は巻ずし作ったわよ」と母親がにこにこして告げた。「三島さんちからのりをいただいたから……」  佐智はさすがにわくわくして、お昼休みを待ちこがれた。天皇陛下とお百姓さんに感謝の辞をささげるが早いか、弁当箱のふたをとった。箱の片隅《かたすみ》に、黒い頭巾《ずきん》をかぶった三個のすしが倒れていた。どれも押しつぶされたうえに、卵焼きが飛びだしていた。たぶん体操の時間だ、と佐智は思った。お腹《なか》が痛いと言って教室に残って、皆の走るのを眺めていた炭屋のとしちゃんの青黒い顔が浮かんできた。としちゃんには弟や妹が五人もいたのだ。それでもすし泥棒は全部平らげるのを遠慮して、勇気をふるって持主のために三個も残しておいてくれたのだ。佐智は小田切先生に怪しまれぬように、長い時間をかけてのり巻きを噛《か》んで呑《の》みこんだ。  食料の欠配がいちばんこたえたのは、エアデル犬の〈鉄〉だった。 〈鉄〉を前に飼っていたのは、〈日本宿舎〉から三百メートルほど離れた大街《タージエ》の角にある『ぽー』という店の日本人の女主人だった。濃い色ガラスを張りめぐらしたその店で、何が売られているのか佐智にはわからなかった。ギンギラの着物や中国服の女が出入りをしていて、中には二階に住みこんでいる人もあるようだった。『ぽー』の店先には、主人と同じように太った〈鉄〉が寝そべっていた。学校の往復に、佐智はよく人のよさそうなこの大柄《おおがら》の犬の頭をなぜて通った。〈日本宿舎〉の女たちは、『ぽー』の女たちとは日本人同士なのにぜったいに交わらなかった。そのくせ女主人が、どの指にどんな色の指輪をはめているかということなどには実にくわしかった。  一年ほど前、佐智が前を通ると『ぽー』の色ガラスのウインドウに×印に板切れが打ちつけられていた。女主人が、突然日本に帰国してしまったのだった。お店の中で飲食する物が手に入らなくなったから、と〈日本宿舎〉の女たちはささやきあった。〈鉄〉は店に納品をしていた近所の酒屋に引きとられていった。そのシナ人の酒屋は、図体の大きい洋犬が泥棒の番になると信じたのだが、〈鉄〉は昼夜を問わずどんな人間がたずねてきても大歓迎をするたちの犬であった。酒屋は怒って、〈鉄〉を犬殺しに売りとばす算段をつけた。その話が酒屋の出入りする三島家に伝わり、そこから佐智の母親に伝わり、佐智の嘆願が犬好きの父親に引きつがれたのである。富士山の掛け軸と引き替えに、〈鉄〉が佐智の家に安住したのはそれからまもなくであった。 〈鉄〉は藤本家の人々にすぐなついたが、佐智は何となく、この犬が『ぽー』の女主人のことばかり考えているような気がしていた。たぶん〈鉄〉にとっての最大のショックは、元の主人が自分をシナの酒屋に引きわたしたことだった。彼は佐智の足もとで床に顎《あご》をつけて安らいでいるときも、ときどき異様な鼻声を出して鳴いた。それはまるで夢の中で悲しい思い出に浸っているような鳴き方だった。 『ぽー』の女主人は、愛犬によほどぜいたくをさせていたらしい。〈鉄〉は老境に入っていたのにとてつもない大食漢で、しかも食物の好みが偏《かたよ》っていた。彼は高粱は犬の食物だと信じていなかった。粟飯は少し口をつけたが、そのすぐあとで粒々ばかりの流動便を床の上に垂れ流した。母親がかんしゃくを起こしてほうきでぶつと、〈鉄〉は唇《くちびる》をめくりあげて愛想笑《あいそわら》いをしてみせた。  彼はしだいに瘠《や》せてきて、呼吸するたびに肋骨《ろつこつ》の動くのが見えた。全身を豊かにおおっていた巻毛はポトポト脱落し、手入れが悪くて虫の食い荒らした毛皮のようだった。一日中、日だまりに移動して居眠りをしていた。佐智が近づくと、頭を上げずに尻尾《しつぽ》だけ心もち振ってみせた。  佐智が〈駐屯地《ちゆうとんち》〉に思いを馳《は》せたのは、今度は〈鉄〉の衰弱のせいであった。硝子《ガラス》の歯に囲まれて立ち並ぶ兵舎の奥には倉庫があって、その中におびただしい量の食料品がつめこまれている、と彼女は想像していた。友だちが佐智の弁当箱からのり巻を盗んでも、佐智は腹がたたなかった。膨大な備蓄|缶詰《かんづめ》の一、二個が紛失しても、軍隊は騒ぎたてたりはしないだろう。  日曜日で、父は教室の学生たちと郊外へ昆虫《こんちゆう》採集に行った。母は午後から国防婦人会の寄り合いに、ぶつぶつ言いながら出かけていった。 「敵が侵入したときの心得なんて、その場にならないとわかりゃしないのに……」  彼女はこの種のことがらを、すべてムダのように思っていたのである。  佐智と〈駐屯地〉の秘密の多くを共有している中西晋は、三年生になってから国民学校に復帰していた。しかし中西夫人がほんとうの病気になってしまったので、彼は学校から帰ると弟や妹の世話でとても忙がしかった。いつ行っても彼は赤ん坊を背中にくくりつけ、暗い声で「今遊べないんだ」と言った。佐智は晋を誘うのをあきらめて、一人で出かけることにした。  エンジュは目だたないが、卵色の耳たぶに似た形の花をにぎやかに吊るしていた。陳老人はその下で気持よさそうに、舟をこいでいた。ヒバリも今日は静かに止り木にとまっていた。陳老人は、いつ、とっておきの魔法を使うのだろう、と佐智は彼らの前を通るときに考えた。早くしないとシナと日本の戦争は、ますますひどくなってしまう。胡同《フートン》に折れ曲がると、今度はニセアカシヤの蜜《みつ》の匂《にお》いが濃くなった。どんな細い胡同にも、この季節にはそれは水のように浸《し》み通っていた。途中で会うシナの人々は、半袖《はんそで》や木綿の服に着替えていた。町ぐるみ、夏に向って旅立ちを始めていた。  草原も新しい緑をすっかりはりかえて、煉瓦塀《れんがべい》の硝子の歯は前より鋭さを失ったように見えた。佐智の周囲を一組の水色の蝶《ちよう》が踊り狂っていた。ときどきもつれて卍《まんじ》形になったり、離れて平行に飛んだりしながら〈駐屯地〉まで彼女についてきて、ひらりと塀を飛び越すと消えてしまった。  歩哨兵《ほしようへい》だけが、冬や春と寸分たがわぬ位置に、定められた姿勢で立っていた。やはり無理を言って晋に来てもらえばよかった、と佐智は後悔した。彼の昼月のような顔が横にあるだけで、彼女の勇気はわいてくるのだった。晋は佐智にとってはそういう友だちだった。  突然、砂利だらけの地面をシャベルで掘るような重苦しい地響きが聞こえた。歩哨がねじでも巻かれたように駆け出して、鉄の扉《とびら》を左右に大きく開放した。カーキ色の洪水《こうずい》が門口からあふれ出した。近くに来ると、わら人形の行進になった。次から次へと、背《はい》のうを背負い、銃を肩にかついだわら人形が、〈駐屯地〉から流れ出していた。彼らは急いでいるようでもあり、後方からの圧力で、仕方なく動いているようでもあった。先頭のわら人形は、すでに町はずれの西の城壁に達していた。彼らは、明らかに城外に出ていこうとしていた。  佐智はカーキ色の流れに、山本上等兵が混じっていることを確信した。彼はふつうの人より重い頭をむりに持ちあげて、行列に加わっているのにちがいなかった。彼が日本に戻《もど》って手術を受けるためには、まず戦争に勝つことが必要だからだ。しかし軍帽の下の顔は、同じ型にはめられて作られたように似通っていた。山本上等兵はぜんぜんこの中にはいないか、あるいは無数にいるかのどちらかだった。わら人形の行進が途絶えた。 「コッチニオ出デ」  掠《かす》れた変な声がした。歩哨はすでに扉を閉めて、澄まして正面を向いていた。佐智は鉄柵《てつさく》に顔をくっつけて、小声で呼んだ。 「やまもとじょーとーへい、やまもとじょーとーへい」 「シーッ」だれかがまた言った。「静カニシナヨ」  もう疑いはなかった。佐智は歩哨の顔を初めて眺めた。軍帽のひさしの影で、顔の半分はまっ黒に染まっていた。 「ミンナ、行ッテシマッタヨ」  歩哨は機械が喋るような声で言った。 「どこへ、行ったの?」 「ワカラナイ。ココデハ何モ知ラサレナイ。タダ連レテコラレテ、アル日突然連レ出サレル。人間モ馬ト同ジダ」 「戦争に行ったの?」 「ソレニマチガイハナイネ。戦争ガ兵隊ノ仕事ダカラ」掛けなおされたレコードみたいに、声が反復をした。「オレ達ハタダ連レテイカレルンダ、サッチャン」 「だれ、だれよ?」  佐智は飛びあがるほど驚いて、歩哨を見つめた。歩哨はつるりと空いている掌《てのひら》で顔をなぜてから、「へ、へ、へ」と笑った。 「福島一等兵!」 「そうだよ。員数が足りねえんで、馬係まで駆り出される始末さ。しょうがねえなあ、わが皇軍も……」  佐智が落胆の表情を浮かべたので、福島一等兵は彼女を慰めようとした。 「上等兵殿がさっちゃんに伝えてくれってさ。配置先から手紙を出すって言ってたぞ。慰問袋送ってやんなよ。あんたのこと妹みたいな気がするんだってさ。ああ、そのときゃ、ついでにおれの分もお忘れなく……」  佐智は顔をあげた。今日は山本上等兵に会いに来たのではないのだ。 「缶詰がほしいの。一個だけでいいの」  福島一等兵は気の毒そうに頭をふった。 「倉庫は全部空っぽなんだよ」 「どうして!」 「わからんよ。大型輸送車が来て、運び出してしまったんだ。たぶん食料の足りない地域に補給するんだろう。あちこちで大移動が始まってるらしいからな」  佐智は不安になった。何が起こっているのだろう。 「皆、行っちゃうの? この町はだれが守るの?」 「軍馬が必要になったら、おれも行くよ。でも……」彼は山本上等兵みたいに優しく言った。「この町はだいじょうぶさ。ずっと皇帝が住んでいた美しい町だからな。シナちゃんにとっても、大事な町なんだよ。凶悪な匪賊《ひぞく》はシナちゃんが追っぱらってくれるさ」  佐智はもう少し、陽気なこの兵隊と話をしたかったが、福島一等兵は手で合図をすると、突然自分の任務に戻ってしまった。佐智が「さよなら」と言っても、彼は微動もしなかった。二、三歩歩きはじめてから、佐智はふり返って急に駆けもどった。 「福島一等兵……」佐智は木像に化けた兵隊を見あげてゆっくり言った。「練…兵…場にある木の柱には、だれをしばりつけるの?」  歩哨はガラス玉のような目をわずかに動かして、女の子のほうに向けた。下から見ると、銃剣は無限に長く空の方向に伸びていくつららのように見えた。 「シナチャンサ」  彼はほとんど唇を動かさずに、つぶやいた。  家族の者は〈鉄〉にそれぞれできるだけのことをしてやった。母親は安い排骨《パイグオ》を多量に仕入れてスープを作った。父親は動物実験室から怪しげな錠剤をもらってきた。〈鉄〉はスープはなめたけれど、薬のほうは長いあいだ口に含んでからぽとりと床に落とした。それから唇をめくって、にやりとした。いくら叱《しか》っても呑みくだそうとしないので、父親が食道をこじあけて放りこむと、せっかく胃袋に収まったスープまで吐きもどしてしまった。佐智は犬のそばに行って話しかけた。佐智が傍を離れると、彼は横腹を波打たせて頭を上げ、彼女がどこにいるのか探そうとした。  明け方に〈鉄〉が訴えたので、母親は犬を外に出し、そのまま眠りこんでしまった。前夜遅くまで蒸しパンの素《もと》を発酵させていたのである。次に佐智が目を覚まし、〈鉄〉がいないので表に出ようとすると、ひどく重たいものが扉をふさいでいた。父親を起こして二人がかりで押しあけると、〈鉄〉は両手に顎をのせてうずくまっていた。犬歯が少し見えて、最後の笑いの芸当をしているようだった。父親は出勤前に、院子の片隅《かたすみ》のライラックの根方に一時間もかけて穴を掘った。それから犬を横たえて、三人で土をかけた。佐智の顔は涙に土が附着してすさまじかった。 〈鉄〉が家の中で占めていた空間はとても大きかったので、そのあとを埋めることはなかなかできなかった。学校でも佐智はぼんやりして、授業をあまり聴いていなかった。小田切先生は最近とみに怒りっぽくなっていたから、ちょうどよい対象を見つけたわけだった。お習字の筆を忘れたとき、佐智は初めて小田切先生の熊《くま》のように厚い掌で力いっぱい引っぱたかれた。佐智は一生このことは忘れまいと思ったが、悲しくはなかったので涙一滴浮かばなかった。小田切先生はますます腹をたて、彼女を廊下に突きだした。休み時間のベルが鳴って、中西晋がこっそり近よってくると紙片を渡した。開いてみると、翼をつけた天使の〈鉄〉が、〈山んば〉のお尻《しり》に噛みついている絵だった。佐智は吹きだして、せっかく解放するために歩いてきた小田切先生に気がつかなかった。それで次の授業のあいだ、佐智の隣には中西晋も水の入ったバケツを持って立つことになった。  ペキンカイドウの実は、青いビー玉ほどにふくらんできた。ニセアカシヤやエンジュなどのマメ科の花は、古くなったレースのように生気なく垂れさがった。代りに町のあちこちに、ピンク色の絹層雲が空から降りてきた。近くに寄ると、それは眠っている赤ん坊のまつ毛に似たネムの花の集団であった。大わしが翼を広げて飛びたつように、町全体が夏の中心に突き進むのを佐智は感じた。  佐智|宛《あて》に一通の葉書が届いたのは、そのころだった。差し出し人は、佐智の気持をあの日以来、混乱に陥《おとしい》れつづけている名前であった。 『私はいま、海のように広い川のほとりにいます。明日はここを渡って、向うに見える岩の山に登ります。今日は戦いはお休みでした。川のまん中に、つぎはぎだらけの帆をはった漁師の舟が浮かんでいます。シナ人たちはとてもカンがよくて、戦いのあいだはどこかにかくれ、安全な日はこうして働いています。中西晋君にもよろしくおつたえください。    藤本佐智様 [#地付き]山本勝昭   』 「戦争は今どこにあるの?」  燈火管制の薄明りの中で、それを読んだ佐智は母親に聞いた。 「どこでもよ」母親はめずらしく暗い声で答えた。「シナは日本の何十倍も広いのに……無理な話ね」  佐智は母親が、ほとんど泣きそうになっているのを感じた。  一週間後に、佐智の父親が戦争に行った。現地召集で身体検査も行われず、目的地も知らされなかった。〈日本宿舎〉では孝雄の父親と同時であった。     5  予告もなく、晋の一家が日本に帰ることになった。中西夫人は瘠せ細って、羽の抜けた鶴《つる》みたいになってしまったが、赤ん坊の元ちゃんを背中にくくりつけていた。元ちゃんはそり返って泣きわめいたが、夫人は黙って横を向き、だれにも挨拶《あいさつ》をしなかった。晋は背中にリュック、足首にゲートル、頭に戦闘帽という兵隊の出立《いでた》ちであった。清ちゃんと明ちゃんはしっかと兄の手にしがみつき、何が起ころうとも離れまいと決心しているみたいだった。晋は全然佐智のほうを見ようとはしなかった。 「手紙ちょうだい」と佐智が鼻をつまらせて言うと、晋は突然くるりと前を向き、一かかえもある段ボール箱を彼女に押しつけた。 「おれ、……おれ……」晋はどもった。佐智は待っていたが、彼は言葉を切り、急に父親の歴史学者の陰にかくれてしまった。のぞいてみると、紙の動物たちが棺に放りこまれたように何百匹も折り重なっていた。佐智は晋に近づいて、もっと上手な別れの言葉を述べたいと思ったが、やはり見つけることができなかった。 「最近は浮遊機雷が多いので、船は玄界灘《げんかいなだ》を渡るらしいです。あそこは時化《しけ》やすいので、十分お体にご注意ください。早々と寝てしまわれることですな」と、三島氏が医者らしい挨拶をのべた。 「一万点近くの資料は政府が輸送してくれることになりまして……」肩にふりわけた荷の重さによろめきながら、歴史学者は嬉《うれ》しそうに言った。「輸送船が沈没しないように、天にも祈る心持ですな」  彼は自分たちの乗る船の安全については、気にしていないように見えた。佐智が晋のほうを見ると、同級生は父親の肩越しにペキンカイドウの梢《こずえ》を見あげていた。〈今年はいっしょに木に登って実を食べられないね〉佐智は心の中で晋に言った。しかし機雷漂う海の上では、彼が何を考えているのか、佐智にはもう測り知ることはできないであろう。  そのころから銀ヤンマに似た飛行機が、頭上を飛ぶ回数がめっきりと減った。これが日本にとってよい知らせなのか、あるいはその反対なのか、〈佐助〉校長にもわからなかった。どこからか指令が出て、家の窓にびっしりと×印の障子紙を張ることになった。国民学校の窓にも生徒たちは×印を張った。校庭から見ると、すべての窓が〈だめ!〉と睨《にら》んでいるような錯覚に陥った。指令の届いたのは日本人の家庭だけだったから、町の多くの窓はまだそのままで、例年どおりシナの人々は木陰で昼寝をする習慣も続けていた。  ある日、佐智が物置きで遊んでいると、棚《たな》の上から厳重に封印されたセルロイドの小箱が落ちてきた。佐智はそれを仁丹ケースだと思いこんで、母親のところへ持っていった。仁丹は、貧血を起こしやすい彼女の常備薬だった。ところが母親は佐智の手から箱を引ったくると、どこにしまおうかとうろうろした。 「何が入ってるの?」  佐智はふしぎがってたずねた。 「セイサンカリよ」  母親はいやな顔をしながら答えた。 「虫を殺すのに使うの?」  父は野外採集の折り、この薬を浸みこませた綿を瓶《びん》に入れ、その中に昆虫たちを放りこんだ。すると彼らは脚を突っぱって、三、四秒で息がたえた。 「いいえ」ますますいやな顔をして、母親は言った。「このあいだの婦人会で配られたのよ。いざというときのために。三人分ですって。溝《みぞ》にも流せないし、土にも埋められないわ。取っておくほかはないのよ」 〈いざというとき〉のことは佐智の想像にあまった。しかしこの薬を使えば、人も手足を突っぱって昆虫と同じ形になるのだろう。そうすると地球の上も、毒瓶の中もたいして変わりがないことになる。  父親が出征して一ヵ月が過ぎたが、何の連絡も来なかった。母親が佐智の前で、これについて一言も触れないのはかえって不自然だった。ある夕方、佐智がおふろに入っていると、急にお湯が熱くなってきた。佐智は洗い場に飛びだして窓を開け、「熱すぎるよう」と訴えた。焚《た》き口にしゃがんでいる母親の両眼から涙が続けざまに流れ、目がふさがっているのでやたらに薪《まき》を放りこんでいるのだった。煙のせいにしてはあまりに多量の涙だったから、佐智はこっそり後戻りをし、がまんして熱すぎる湯に浸った。 〈日本宿舎〉の中で父親が同時に召集された孝雄は、佐智に一種の親しみを感じたらしい。何かにつけて兄貴ぶっては、彼女をひいきにした。佐智が鬼にならぬように気を配ったり、戦艦陣取りで捕虜になるとすぐ奪い返しにきたりした。佐智はそれがうっとうしくて、かえって皆と遊ぶのがいやになった。彼女はしだいにかつて中西晋が学校に行かずに、独りで閉じこもった気持に近づいていった。家の中は母親だけで、とても静かだった。二人は前ほど互いに話をしなくなった。  夏休みの中ごろに、突然国民学校から登校通知が来た。こんなことは初めてだったので、皆奇妙な気分になった。それでも集団登校は久しぶりだったので、皆はしゃいでいた。晋が欠けたので、佐智はいちばん後ろで、班長の健と手をつないだ。 「今日、重大発表があるんだぞ」健は佐智に小声で教えた。「おれたちは、それを聴きに行くんだ」  それから健は大声で、横にはみ出した洋一に注意を与えた。佐智は額に浮かんだ汗を拭《ぬぐ》って空を見あげた。佐智の母親は平生と少しも変わらぬ顔で、娘を送り出した。彼女は重大発表なぞに関心がなかったのにちがいない。太陽は片目の巨人のように、子供たちを睨みつけていた。空はシナの子の吹く琉璃喇叭《ルリラツパ》のように膨張していた。 「止まれ!」  校門の前で、六年生の週番が待ちかまえて言った。 「お早うございます。『あらわし班』班長水上健ほか四名、登校いたしました」  健は直立不動の姿勢で言った。 「入ってよし」と週番が胸を張って言った。  校庭の東の隅に、毎年|山鳩《やまばと》が巣をかけるカシの木があった。そのカシの木の方角を何百キロも直線状に伸ばしていくと、陛下のお住いに到達すると〈佐助〉校長は信じていた。それで今日も久しぶりに、西城第二国民学校の教師と生徒たちは、いっせいにカシの木に向って拝礼をした。だいぶ成長した山鳩は驚いて巣から飛びだすと、校舎の屋根にとまり、憤慨した声で〈ぽぽう、ぽぽう〉と鳴いた。そのあと朝礼台に登った〈佐助〉校長は、いつもよりもずっと気どった声で言った。 「本日ハ玉音ヲウカガウニ当タリ、本校デハ新品ノラディオヲ購入イタシマシタ」  全校生徒の眼差《まなざし》が、彼の隣にあって紫ちりめんの風呂敷《ふろしき》をかぶったものに集中するのを待って、彼は手品師のようにさっと布を取りさった。するとまるで黒い牡牛《おうし》のように光沢のある木の箱の、厚地のラシャ布を張った窓の部分が生徒のほうを向いて現れたのだった。ため息が生徒の列の端から端まで流れた。どこの家のラジオも、これほど大きくて威厳を持ってはいなかった。彼らの玉音への期待は〈佐助〉校長以上に高まっていった。 「ギョクオンって何やろ」  年中青っぱなをたらしているとしちゃんが、ふり返ってたずねた。弁当事件以来、何となく佐智を避けていた彼女が、めずらしく話しかけてきたのだ。 「天皇陛下の声じゃないの」  あまり自信もなく、佐智が答えた。それでもとしちゃんは満足して前を向くと、「ふつうの声とちがうんやろね、きっと電波みたいなもんや」と生まれ故郷の大阪弁でわけのわからないことを言った。  玉音の放送が始まると、佐智は呆気《あつけ》にとられた。それは男でも女でもなく、むしろ風邪を引いた子供の声に近かった。その点、としちゃんは真実に近いことを予言したのだった。たぶん性能のよすぎるラジオが、玉音の一風変わった抑揚やくせの部分まで拡大したせいだった。また玉音が黄海を越えてシナ大陸に到達するために、荒波が岩に砕ける音や船体のきしみまでちゃんと入っていた。佐智たちは荒波やその他もろもろの雑音から玉音を聞きわけるには、幼なすぎたのであろう。ふいにふしぎな声も雑音も止まり、アナウンサーが重々しく「これで玉音放送を終了いたします」と言った。佐智が周囲を見まわすと、やはりきょろきょろしている顔に幾つもぶつかった。  ふいに列の前方で蛙《かえる》が鳴きだした。〈佐助〉校長がラジオにしがみついて泣いていたのだ。蛙の声が合唱になった。生徒たちに日ごろ恐れられている体育教師は、力こぶの盛りあがった両腕で地を叩《たた》いて「わあっわあっ」と声をあげた。蛙の合唱は教師から、上級生の集団に伝染していった。佐智は健が両手を握りしめ、下を向いて肩を震わせているのを見た。国民学校が真半分に割れてしまった。悲しむ集団とそれをめずらしそうに眺《なが》めている集団とに。全校の気をそろえさせることの好きな〈佐助〉校長が、ラジオに抱きついているのではどうにもならないのだ。そのとき前方から耳打ち電話が来た。としちゃんが佐智の耳に口をつけ、生暖い息とともに「ムジョーケンコーフク」と言った。佐智が念のために「どこが?」と聞きかえすと、としちゃんは肩をそびやかせて「知らない」と言った。としちゃんはこのごろ顔色がよくなって、体操も休まなくなった。お父さんが炭屋に見切りをつけて、警察の手伝いをするようになったのだそうだ。  教師が泣いているからには、日本が負けたのにちがいない、と佐智は確信した。幾つかの連想が活発に働きはじめた。お父さんは帰ってくるし、晋ちゃんにもまた会えるだろう、張有良は牢屋《ろうや》に入らなくてすむし、山本上等兵は手術を受けるだろう。佐智の唇《くちびる》には、もしかしたら微笑が浮かんだのかもしれない。激しい一撃を左|頬《ほお》に感じて、佐智は我にかえった。小田切先生が曇ったレンズ越しに佐智を睨みつけていた。彼女が自分を心の底からきらっていることを、佐智は理解した。佐智が小田切先生をきらっているよりも、もっと強く……。もう一度、扇子を広げるように先生は掌《てのひら》を開いた。分厚くて丈夫そうな手だった。佐智はぶたれる前から、痛みが頬に走るのを感じた。急に小田切先生は両手をだらりと下げて、ほかの人の手のようにいぶかしげにそれを見つめた。それから眼鏡をはずして、ハンケチでていねいにガラス玉をふき清め、ふたたび長いあいだ佐智の顔を見た。今度は感情のこもらない灰色の視線だった。これが佐智と小田切先生の交渉の最後だった。  校庭に黄昏《たそがれ》のような闇《やみ》が降りてきた。黒雲が四方から流れついて暗幕を空に張りめぐらしたのだ。雲間に雷がとどろいていた。この町の夏に特有のあらしの発作の前ぶれであった。子供たちはざわめいて空を見あげた。泣いていた生徒も不安に襲われて涙をふいた。頭上の暗幕を青龍刀《せいりゆうとう》のような電光が切り裂くのが見えた。 「あたし、帰るう」  としちゃんが泣き声をあげて、くるりと向きを変えた。佐智はためらいながら、朝礼台のほうを見た。〈佐助〉校長はひとまわり体が縮んだように見えた。彼は猿回《さるまわ》しにはぐれた猿のようにしょんぼりと立っているだけで、何の号令も命令も下さなかった。こういう事態に慣れていない班長たちは困りはてて、ただ待っていた。ぽつりと雨が鼻の頭を掠《かす》めた。佐智はとしちゃんの跡を追って駆け出した。続いて何人かが、後ろから走ってくる気配がした。ついに西城第二国民学校の生徒全体が校門に向って敗走を始めるまでに、さほど時間はかからなかった。校門をくぐりぬけるときふり返ると、小石を巻きあげるほどの雨がたたきつける校庭で、校長を取り巻く教師たちが水中の影のようにもうろうと立っているのが見えた。     6  あの夏のあらしの最中に、シナが消滅して中国が生まれたのだ。〈日本宿舎《リーベンスーシヨー》〉も消滅した。もちろん国民学校も、校長や教師たちとともに消滅した。二、三日たつと、佐智たちの院子《ユアンズ》の朱色の門の上に堂々とした木の額が掛けられた。お習字のお手本のような達筆で〈日俘管理処《リーフーグアンリーチユ》〉と書いてあった。  佐智は町中に中国の子供たちがあふれ出るのを見た。シナであった長い年月のあいだ、彼らはどこに身をひそめていたのだろう。それとも同じように彼らはいたのだが、佐智たちの目には映らなかったのかもしれない。〈駐屯地《ちゆうとんち》〉の歩哨《ほしよう》と同じように、町にいた日本人の目はどこかおかしかったのかもしれない。このほうが、ほんとうのように思えた。〈日俘管理処〉の子供たちが一歩でも外に出ると、たちまち数を上まわる小孩児《シヤオハイル》たちにとり囲まれた。彼らは細い目をもっと吊《つ》りあげたり、鼻を怒った犬のようにしわよせて、敗戦国の子供たちを嚇《おど》かしてみせた。こちらも負けずに相手の動作を一つ一つ真似《まね》してみせたので、さながら路上は中日のラカン回しのような状態になった。 「小日本《シヤオリーベン》、小日本《シヤオリーベン》」と中国側ははやしたてた。「抗日戦争勝利了《カンリーチヤンチヨンシヨンリーラ》!」  すると日本側は黙りこんで下を向いた。彼らが、日本の負け戦のことを言っているにちがいないと思ったからだ。事実は曲げることができなかった。  毎日、これに似たできごとが続き、佐智は少しずつ新しい生活に慣れていった。しかし慣れがたいことがらも、もちろんあった。  佐智と母親にとって父親の不在は何よりも慣れがたかった。  母親は佐智の前では平気を装っていた。しかし夜半に佐智は突然物音に目を覚ますことがあった。母親が窓や戸締りの点検を始めたのであった。起きあがった佐智を見て、彼女は弱々しく言いわけをした。 「こんな時間にごめんね。でも急に心臓がどきどきして眠れなくなっちゃったの。鍵《かぎ》をかけ忘れて、中国人の強盗に入られた家もあるそうよ。うちは男手がいないから、特に注意しなくちゃ……」  次々と〈日俘管理処〉から人々が立ち去っていった。ある日突然通知が来て、三日後にはリュック一つで集結地に向かわねばならないのだ。だれが、いつ、どこへか、それより前には何も知らされなかった。人々はつねに、刑の執行を待っている罪人みたいに暮らしていかなければならないのだった。三島家にも帰国命令が出て、三島夫人がおろおろした有様で佐智の家に現れた。 「翡翠《ひすい》や瑪瑙《めのう》の指輪はどうしたらいいの?」  三島夫人は泣きじゃくりながら、佐智の母親に訴えた。 「できるだけ指にはめていらしたら?」  母親は一生懸命、彼女の気を落ちつかせようと試みた。 「だめよ」彼女は金切声をあげた。「取られてしまうわ。急ぐときは指を切り落とされるんですって」 「じゃあ、浅子ちゃんたちのおはじきに混ぜたらどうかしら……」  三島夫人は一瞬ぽかんとしたが、たちまち嬉しそうな顔になった。 「それはいい案ね。安い宝石は、阿媽《アマー》や看護婦にあげて、荷物整理を手伝ってもらうわ」  けれど三島夫人の思いどおりには、ならなかった。双子の姉妹は重たいおはじきの容器を持つのを拒否して、一枚余計に洋服を背負うほうを選んだのだった。それに出発当日には三島家に雇われていた中国人たちは一人も姿を見せず、例の酒屋だけがもらうべき家具を点検すべくもみ手をして現れただけだった。もっとも彼がリヤカーを調達しにいっているあいだに、政府筋らしいきちんとした服装の男たちがトラックで乗りつけて全部運び去ったために、酒屋は「アイヤー」とくやしがり、地面に何度も唾《つば》を吐いた。  一ヵ月もすると、〈日俘管理処〉の中庭からは子供たちの声がほとんど聞こえなくなった。孝雄の父親が戻《もど》ってきたのは、そのころだった。彼は軍服をぬぎすて、苦力《クーリー》の格好をしてよろよろと院子《ユアンズ》に入ってきた。髪の毛は亀《かめ》の子だわしほどに伸びかけていて、顔には泥《どろ》を塗りたくって変装をしていた。彼は戦争の終る少し前に自分の隊から脱走して、山の中を一週間もさ迷い、出会った中国の農民に衣服と食物を恵んでもらって帰ることができたのだった。孝雄は院子の中で佐智に会うと、とても複雑な表情をした。それで佐智も彼に会うことをできるだけ避けた。そうするうちに、孝雄一家もあわただしく引き揚げていった。 「お父さんも、あんなふうに帰ってくる?」  佐智は母親にたずねた。 「さあね」母親はくるりと後ろを向いて、急に勢いよく皿を洗いはじめた。「沼田さんのところに行ってらっしゃい。お母さん忙がしいわ。洋服の整理をしなくちゃ……」  三日に一度ほど、表通りを天秤棒《てんびんぼう》をかついで古着屋が通るのだった。古着屋は特に〈日俘管理処〉の前では念を入れて立ちどまり、かちかちかちと高らかにばちを鳴らした。母親は古着屋を呼びいれて、それから長いかけ引きをするのだった。一方が安すぎると言えば、片方が手をふった。一方が欲しそうに目を光らせるのを、もう一方は決して見逃さずにわざと仕まいこもうとし、無理に所望させて惜しそうに手放した。その交渉は全《すべ》て舌足らずの中国語で行われたので、ときには夕暮れまでかかることがあった。  佐智は母の言うとおり、后院《ホウユアン》の沼田さんの家に行くことにした。もうそのほかには、彼女が遊びにいけるところはなかったのである。后院のペキンカイドウの実は、かすかに色づいているように見えた。しかしそれは単に光の射《さ》す位置の関係かもしれなかった。佐智が低い枝の一個を取ってみても、それはただの未熟な青い実にすぎなかったのだから。后院に一軒だけ残った画家の沼田さんの家には、子供はいなくて、色白でずいぶん年下の奥さんがいた。 「さっちゃん、これを描《か》いてごらん」  沼田さんは飾り棚に置いてある細長い青磁のつぼを指して言った。佐智がむきになってその形を真似ると、画家はまゆをひそめた。 「そうじゃないよ。よーくつぼを見てごらん。これは宋《そう》という時代に作られたものだけれど、作った人の唄《うた》が聞こえてくるはずだ。それを描くんだ」  佐智は耳をすましたが、何も聞こえてはこなかった。その代り自分の目から、青磁色がどんどん入ってきて、体中が古代のつぼの色に染まったような気がした。沼田さんも傍《そば》で何枚もスケッチをした。そしてほとんどを屑籠《くずかご》に放りこんだ。佐智がくたびれたころ、若い奥さんは花の香りのする中国茶と南京豆《ナンキンまめ》を運んできた。沼田家では、物音が煙のように静かにたちのぼるのだった。  張有良《ジヤンヨウリヤン》は留守宅の佐智の家にときどき立ちよって、そのたびに「ダイジョーブ。藤本先生《トンベンシエンシヨン》スグモドリマス」と言った。彼の態度は戦争が終っても、全然以前と変わらなかった。張と話をしていると、優しくたれたまぶたのあたりに思いがけず山本上等兵が現れたりした。佐智はその面影《おもかげ》をあわてて追い払ったが、急に〈駐屯地〉はどうなっただろうという強い好奇心が燃えあがった。終戦の日から一人で外出することは、母親から厳しく止められていた。 「中国人の心の底までは、何年いたって見えないわ」母親は情けなさそうに言った。「それにここはとても人さらいが多い国よ」  ある日、佐智は久しぶりにペキンカイドウの梢《こずえ》にのぼった。夏も後半で、枝という枝から油のたぎるような蝉《せみ》の鳴き声がわきあがっていた。佐智が動くとまわりにいた蝉は沈黙したが、全体に比べればものの数ではなかった。佐智が手を伸ばして、無心に鳴く蝉に触わると、それはジュッと悲鳴をあげて宙に舞いあがった。その様は水中に投げ落とした小石に似ていたが、空は決して波紋を作らなかった。北海《ペイハイ》は一年のうちでもっともとろりとした瞳《ひとみ》で、佐智を見返した。密生した葉をかきわけると、ガラスの歯は健在で光の目つぶしを投げてよこした。 〈来るなよ〉それは例によって嘲笑《ちようしよう》的にきらめいた。〈食ってやるぞ〉退屈で死にかけていた少女にとって、それは十分すぎる挑発《ちようはつ》であった。佐智は幹を滑りおり、〈駐屯地〉に向った。  佐智は用心深く、長いあいだ草むらで息を殺していた。〈駐屯地〉の鉄の扉《とびら》は初めから左右に開け放たれ、十五分間も見ていたのに、人の出入りはなかった。思いきって進むか、戻るかどちらかを選ぶほかはなかった。佐智は息を吸いこんで、静まりかえった〈駐屯地〉に入っていった。  泉水はからからに乾いていた。コンクリートに亀裂《きれつ》が走り、その裂目から緑色の泡《あわ》のように雑草が噴き出していた。底をのぞきこむと、まっ赤な頭蓋骨《ずがいこつ》が転がっていた。身が凍りつきそうになって、もう一度よく見ると、錆《さび》におおわれた軍隊用の水筒にすぎなかった。面会室の扉はかぎのついたまま倒れかかり、侵入者があったことを示していた。佐智がもぐりこむと、椅子《いす》やテーブルはそのままで、白墨の粉のように埃《ほこり》が積っていた。佐智は幾つも手型と足型をつけて歩きまわったが、見るべきものは何もなかった。  ふいに荒々しい鼻息と床を引っかく物音が隣室から聞こえた。餅《もち》つき大会の日に、部隊長や中隊長が出てきた部屋だった。佐智は恐怖と好奇心で、体が分解してしまいそうな気がした。いつでも逃げる用意をしてから、細目に境の扉を開いてみた。佐智は顔をしかめた。ごみためそっくりの臭気が、隙間《すきま》から彼女の顔に飛びついたのである。臭《にお》いをふり払いながらもう少し扉を開くと、赤っぽい狐《きつね》のような獣が別の戸口から外に飛びだすところだった。野良犬《のらいぬ》にちがいなかった。引っくり返った事務机の下に、新聞紙の包みが押しつぶされていた。それは日本語の新聞で、犬によって引き裂かれ、赤ん坊の頭ほどもある握り飯がのぞいていた。たぶん最後にここを出た日本兵が、彼の昼飯を置き忘れていったものであろう。佐智をくらくらさせた臭気の源は、しかもよく見ると表面に無数の白いうじ虫をはびこらせていた。あと半月もすれば握り飯は影も形もなくなってしまうだろう。日本兵のいた痕跡《こんせき》とともに……。  佐智はそのとき、自分たちがこの町に置き去りにされたことをはっきり知った。カーキ色の兵隊たちは霧のように蒸発してしまい、自分たちに何が起ころうとも、守ってくれる人はだれもいなかった。好きではあるが、気心の知れないこの町で、頼りあえるのは母親だけだった。それなのについ今しがた、佐智は彼女を裏切ってただ好奇心のためだけにここに来てしまった。佐智は身震いした。骸骨《がいこつ》の指のような茨《いばら》の枝が音もなく煉瓦塀《れんがべい》を乗りこえて、〈駐屯地〉に侵入してくるような気がした。鉄門をふさぎ、道を横断し、面会室を棘《とげ》の生えた蔓《つる》でおおう。佐智は一人でこの埃の積った部屋で眠りつづける。次の戦争が始まって、新しい兵隊たちがこの〈駐屯地〉にやってくるまでの百年間、呪《のろ》いにかかって眠りつづける。  佐智は走った。鉄門を飛びだし、草原を跳びこえ、胡同《フートン》の網目をくぐり、〈日俘管理処〉へ戻っていった。  街路で何人かの小孩児《シヤオハイル》たちが、走る佐智の前に立ちふさがり、あい変わらず「小日本《シヤオリーベン》」をくり返した。佐智は彼らをよけずに突き進んだので、佐智より幼い女の子が地に倒れて泣きだした。彼らはいっせいにわめいた。 「他媽的《ターマーデ》、他媽的《ターマーデ》」  走りながら佐智は、爆竹を取りあげた少年がいつか同じことを叫んだのを思いだした。小孩児たちは佐智の後姿に刺激されて、猟犬のような興奮に巻きこまれた。佐智は獲物だった。捕まれば、たちまち皮を引んむかれてしまうだろう。佐智は彼らの指が背中に触わるのを感じてぞっとした。彼らの吐く韮《にら》臭い息が、周囲をとり囲んだ。  そのとき陳老人がエンジュの下で居眠りをしている姿が目に入った。彼は町の支配権がだれに移ろうとも、自分の場所に座りつづけていたのである。佐智は彼がもう〈シナの魔法使い〉であることを信じてはいなかったが、自分が逃げこむ場所はそこしかないと、本能的に悟ったのだ。彼女は急いで陳老人の背中に隠れ、彼の上にさしかけられている濃い木の影を共有した。小孩児たちの声で目を覚まし、老人は猛《たけ》り狂っている彼らに穏やかに話しかけた。佐智にはわからないやり取りがしばらく続いたあとで、老人はゆっくりと佐智を指さし、その指を今度は小孩児たちに向けて短い言葉を言った。中国の子供たちは顔を見あわせた。 「是《シー》、我們明白了《ウオメンミンパイラ》、陳老師《チエンラオシー》」  年かさの少年がつぶやくと、皆もうなずいた。それからお互いに顔も見ないで、気まずそうに引き揚げていった。それはスケート帰りに孝雄が起こしたできごとで、皆が陥った状態によく似ていた。 「謝々《シエシエ》」  佐智は小声で礼を言った。陳老人は、山羊《やぎ》に似たコハク色の瞳を彼女に向けた。 「|※[#「にんべん+尓」、unicode4f60]姓什※[#「麻/(ノ+ム)」、unicode9ebd]《ニーシンシエンマ》?」 「佐智…藤本佐智よ」 「サ…チ…」老人はめずらしいものを味わうように、日本の少女の名を舌の上に転がした。 「|※[#「にんべん+尓」、unicode4f60]是好孩子《ニーシーハオハイズ》、サ…チ…」そして枯葉のような手で、佐智の頭をなぜた。  急にどっと涙があふれてきた。自分はこの町に独りぼっちで、助けてくれる仲間はだれもいない。陳老人にそのことを伝えたくても、佐智はその手段を持っていなかった。 「|我喜歓※[#「にんべん+尓」、unicode4f60]《ウオシーフアンニー》、サ…チ…」  陳老人はかさかさの声で一生懸命佐智に話しかけた。意味はわからなくても、何か言わなければならないような気がした。佐智は涙を拭《ふ》くと、鳥籠を指して「まだ鳴かないの?」とたずねた。老人は首をふった。彼女はがっかりして空を見あげた。沼田氏の持っている古いつぼの青磁色が、頭上に広がっていた。 「|我喜歓※[#「にんべん+尓」、unicode4f60]《ウオシーフアンニー》、サ…チ…」  老人は優しくもう一度言った。     7  ある夕暮れ、佐智はひっそりとした院子《ユアンズ》を横ぎっていく一匹の針ネズミを見つけた。それは尖《とが》った口で、ふんふんと地を嗅《か》ぎながら歩いていたが、佐智の気配を感ずると、大きな栗《くり》のいがのように丸くなった。佐智はときどきぴくぴく動くいがを、板切にのせて家へ連れ帰った。木の箱に入れて、母親から人参《にんじん》の尻尾《しつぽ》やトウモロコシパンをもらって与えた。針ネズミは何でも食べてよく太り、佐智の顔を見ても丸まらなくなった。佐智はときどき針ネズミを外に出して、〈鉄〉の埋まっているライラックの近所で遊んでいた。昼間はこの獣は眠たそうにぐったりしていることが多かった。佐智が面白くなくて、棒で背中をたたくと、たちまち寝ていた全身の針が電気が通ったように立ちあがった。  いつものように針ネズミと戯《たわむ》れていると、ふとだれかが近くにいるような気がした。立ちあがって家のほうを見ると、一人の兵隊が黄金色の光線を浴びて全身を硬《こわ》ばらして突っ立っていた。扉は開け放たれ、内側では母親が同じように金縛りになって立っていた。父親の軍服は長旅で日に焼けてはいたが、破けたりはしていなかった。少し瘠《や》せたほかは顔色もふつうだった。三人が長いあいだぼんやりしているうちに、佐智の針ネズミは喜んでどこかに逃げていってしまった。  父親が八路軍に釈放されて帰還してから一週間目に、とうとう一軒だけ残っていた官舎の住人の沼田夫妻に帰国命令が出た。沼田さんは例のつぼや和紙にくるんだ数十点もの絵を、佐智の家に届けにきた。むだなこととは知りながら、目の前で中国に没収されるのにがまんができないらしかった。  家に帰着した父親には、すぐ新しい政府から呼び出しがきた。彼は今度は大学ではなくて、農業の研究機関で仕事をすることになった。それは彼の意志ではなく、中国側の強制的な命令であったが、彼が戦いのすんだ中国に役立つ人物であることをだれかが証明したのにちがいなかった。ふたたび戦争前と、幾分似た形で三人の暮らしが始まった。院子の環境を別にすれば……。  日本の住人と入れかわりに、〈日俘管理処《リーフーグアンリーチエ》〉の空家を占領したのは青い軍服に身を固めた兵隊たちだった。彼らは初めは五人ぐらいで現れて、院子の一軒一軒をよく点検してから気に入った順に使いはじめた。まず最初に選ばれたのは、わりあい傷《いた》みの目だった中西家であった。造りつけの洋服ダンスなどがある広い三島家は、なぜか敬遠されて最後になった。日を追って兵隊の数はふくれあがり、しまいにはどの家にも青い兵隊が宿泊するようになった。彼らは町に派遣されてきた中国国民党軍の将校と従卒たちで、朝になると〈駐屯地〉へ出勤していった。つまり〈駐屯地〉はシナから日本へ、また中国へと三度その所有主を変えたのである。 「〈日俘管理処〉の額ははずさないのよ」夫が戻って快活さを取りもどした母親がくすくす笑いながら言った。「日俘《リーフー》って、あたしたち三人よ」  それでも彼らが毎日数人の中国兵を院子に残していったのは、〈日俘〉を監視するためかもしれなかった。将校たちは、兵卒よりは地味な色合の軍服に肩章やマークをつけていたが、家族のだれに会っても微笑を浮かべて会釈《えしやく》をした。必ず一人かそれ以上の従卒が、将校の後方についていた。そういうとき彼らには、上官につかえる律義《りちぎ》な召使いという感じがあふれていた。将校が〈駐屯地〉へ勤務に出ていってしまうと、仮面はかなぐりすてられた。院子の回廊で、たばこやもっと怪しげなものをふかす者もいれば、主のいない部屋で麻雀《マージヤン》や|※[#「手へん+卜」、unicode6251]克《プーコー》(トランプ)をする者、一日中昼寝を決めこむ者など様々だった。上官に厳重に戒められているせいか、だれも佐智の一家に干渉しなかった。彼らは院子の中で日本人とすれちがうことを、むしろ恐れているようにできるだけ離れていた。 「ここはこの町いちばんの安全な住み家だわ」母親は喜んで言った。「泥棒《どろぼう》はぜったいに入らない。何しろ兵隊の護衛つきだもの」「さっぱりわからんね」父親は首をかしげた。「中国の軍隊の組織は……」それから彼は、少しけわしい目をして母親に言った。「くれぐれも油断をしてはいけないよ。佐智にもよく言い聞かせておくほうがいい」  おかしなことに張有良《ジヤンヨウリヤン》やほかの学生が、元の大学教授をたずねてくるときだけ空気がぴりぴりした。中国兵たちは学生を毛ぎらいしているようだった。彼らは佐智の家に来る途中で学生たちを呼びとめて、長々と下らない質問をした。学生たちは毛を逆だてている針ネズミみたいに兵隊に口答えをしたので、佐智の父親はしばしば院子の門に出向いて、双方をなだめなければならなかった。たいていの場合、それは石けん一個とかたばこ二本で片がついた。 「あいつらは重慶の犬だ」張有良は激しい口調で言った。彼はいつのまにかこの家でも日本語を使わなくなっていた。「美しいこの町に泥足で上がりこむ」 〈美しい〉というのは、学生たちがこの町を呼ぶときに必ず冠する形容詞であった。佐智はそれを当然だと思った。緑の大樹、澄んだ空、広い水面と宮殿の瓦《かわら》のきらめきは佐智の心もときめかせた。それにこの町は張有良のふるさとでもあった。  父親は困って何も言わなかった。それは他国の問題だった。戦争に負けた日本人の自分が戦争に勝った中国に雇われているという奇妙な立場は、自国の問題であったが、政治はきらいだった。けれどかつての学生たちを愛していたので、彼らの議論を何時間でも辛抱強く聴いていた。佐智と母親が、しだいに中国語を理解するようになったのは、彼らが出入りするせいであった。  何日間も同じ問いを心に抱きつづけたあとで、佐智は思いきって父親にたずねた。 「中国兵に捕まったとき、いじめられた?」  父親は娘がたじろぐほどじっと目の中を見つめて、答えた。彼は嘘《うそ》をつかない主義だった。 「中国兵にもいろいろな人がいる。意地の悪い人も、そうじゃない人も……」 「でもいつも優しくても、急にひどいことをしたくなることもあるでしょう」 「あるある」父親はうなずいた。「だが、どうして佐智にそれがわかった?」  胸につかえている泥の塊りを、吐きだしてしまえばどんなにすっきりするだろう、と佐智は思った。〈駐屯地〉の灰色の柱、山本上等兵と張有良、わら人形の話、でも、どうやって話し出していいものかさっぱりわからない。何もわかってもらえないよりは、がまんをしているほうがましだ。 「近所の小孩児《シヤオハイル》とけんかをしたの」と佐智はごまかした。  ペキンカイドウの実の緑は明らかに退色して、紅色がせり出してきていた。佐智は一個をもいで噛《か》んでみたが、渋と酸が舌を刺したので放りだした。もう少し待たねばならなかった。北海の水面は、夏よりも淡く透明になり、昔の戦いで底に沈んだ皇帝の宝物が見えるかもしれないと、佐智は目をこらしたりした。〈駐屯地〉には興味を失っていた。あれはすでに秘密をさらけ出した残骸にすぎなかった。  佐智はソファに寝そべって、『イソップ物語』に読みふけっていた。帰国直前に、沼田さんの若奥さんがとくに佐智のために届けてくれたのだ。奥さんは目にいっぱい涙をためて、佐智の頬《ほお》に西洋風のキスをしたので佐智はまっ赤になってしまった。母親は夕方の買物に市場に出かけて留守であった。鍵《かぎ》をかけるように言われていたが、ずぼらの佐智は守ったことがなかった。  玄関でごそごそと物音がした。ずいぶん早いような気もしたが、母親にちがいない。西単《シータン》商場で油炸果《ユウチヤークオ》を買ってきてもらう約束をしたのだった。母親はもうわんわんたかる蠅《はえ》のことはあまり気にならないようだった。そうでなかったら、これからずっと中国で暮らしてはいけないだろう。佐智は勢いよくソファから飛びおりて迎えにいった。  青い兵隊が入り口いっぱいに立っていた。熊《くま》みたいに大きかった。焦《こ》げすぎたパンの皮のように色黒で、杏子《あんず》の種のような尖った顎《あご》をしていた。白目に糸みみずのような筋が、何本も走っていた。彼は無言でのしのしあがってくると、目をパチパチさせて日本人の家を見まわした。彼が土足のままであるのに佐智は気づいた。彼はソファに突進すると『イソップ物語』を手に取った。初めは逆に持っていたが、挿絵《さしえ》の狐《きつね》が逆立ちをしているのに気づいて「ツェッ、ツェッ」と舌打ちすると、元のところに置いた。佐智はひどく驚いたが、怖くはなかった。彼は体格こそ張有良を上まわる大男だったが、態度はずっと子供っぽかった。  青い兵隊は、次に佐智の大切な西洋人形の前に立つと小首をかしげた。本棚《ほんだな》の前に座っているポーリーは、北海の水に似た深い瞳を兵隊に注いでいた。兵隊はふり返るとポーリーを指さし、佐智に早口の中国語でまくしたてた。佐智が呆気《あつけ》にとられて首をふると、彼は落胆したように人形から離れた。  次に兵隊の興味を引いたのは、食器戸棚の上の父親の写真であった。それは田舎に調査に行ったときのもので、戦場に出ていったあと、母親が陰膳《かげぜん》を供えるためにそこに置き、帰ってからもそのまま飾ってあったのだ。 「おれの村《ツン》だよ」  懐《なつか》しそうに兵隊は佐智に言った。明らかに彼は前面の父親ではなくて、背景の麦畑に関心を寄せていた。写真の粒子は荒れていて、麦の穂は風の吹く水面のように波うっていた。そこには麦畑よりほかには何も映っていないので、彼が自分の村《ツン》だと断定する理由はどこにもないはずであった。 「|※[#「父/巴」、unicode7238]々《パーパ》のお仕事」佐智は説明した。彼女は張有良たちから覚えた中国語を話せるのが嬉《うれ》しかったのである。「畑に行って、悪い虫ついてるかどうか調べるの」 「ああ、悪い虫。おれたちの畑食べてしまう虫はたくさんいる」中国兵は夢中になって言った。「おまえの※[#「父/巴」、unicode7238]々はその虫を退治に行ったんだな」  今度はいささか尊敬の念もこめて、じっくりと女の子の父親を眺《なが》めるために、彼は食卓の椅子に座りこんだ。佐智もその前に座った。佐智は退屈しきっていたので、兵隊が帰ろうとしないのをかえって喜んだ。彼の中国語は学生たちとちがって聞きとりにくかったが、話の内容はほとんど佐智の程度で十分だった。 「おれは村《ツン》に好朋友《ハオポンユウ》がいるよ。隣り同士で、子供のころからいっしょに遊んでいた」彼は急に言葉を切って、佐智にたずねた。「おまえもそんな朋友《ポンユウ》いるか?」  佐智は中西晋のふっくらした顔を思い浮かべたが、彼は機雷の漂う海を無事に渡っていればもう日本に着いているはずだった。佐智が顔を横にふると、彼は続けた。 「おれたちは兄弟のちぎりをたてた」彼は満足そうに言った。「あいつはおれを趙哥《チヤオゴウ》と呼んだし、おれはあいつを林弟《リンデイ》と呼んでいた」 「林《リン》さんは今何をしているの?」 「彼は八路《パールー》軍に入った」彼はちょっと悲しそうに言った。「とても勇敢で強い奴《やつ》だったからな。おれも、どうする趙哥《チヤオゴウ》ときかれたけれど、おれは戦うのはきらいだったんだよ。|※[#「父/巴」、unicode7238]《パー》も媽《マー》ももう年寄りだし、畑仕事のほうが好きだったんだよ」 「じゃあ、今はどうして兵隊なの?」 「戦うのがきらいな連中はほかにもいたよ」趙青年はきまりが悪そうに言った。「ある日国民党の軍人が村にやってきて、男たちを年の順に並ばせた。そして肥えた豚を引きずり出すみたいにおれを選んだのさ。おれは初めはいやで仕方なかったけれど、今じゃこんなりっぱな服ももらったし……」彼は背筋を立てて腰のベルトをつまんでみせた。「れっきとした国民党軍の兵士さ」 「もう戦うの怖くない?」  佐智はたずねた。 「ああ」兵隊は答えた。「まったくな。なぜおれは林に誘われたとき、そう思ってしまったんだろう」そして声をひそめてつけ加えた。 「おれは林といっしょに八路に入ったほうがよかった……」 「|喝茶※[#「口+馬」、unicode55ce]《ホウチヤーマ》、趙哥々《チヤオゴウゴウ》?」  佐智は湯呑茶碗《ゆのみぢやわん》を引きよせてたずねた。それは母親が、学生たちをもてなすときの口まねであった。 「是《シー》」兵隊は喜んで言った。「|※[#「にんべん+尓」、unicode4f60]姓什※[#「麻/(ノ+ム)」、unicode9ebd]《ニーシンシエンマ》?」 「佐智《ツオチイ》…藤本佐智《トンベンツオチイ》」  佐智は自分の名を中国読みで彼に教えた。 「藤本佐智真可愛《トンベンツオチイチエンコーアイ》」  兵隊は歌うように言った。  そのとき院子の中庭で、かなり怒った呼び声が聞こえてきた。 「趙文成《チヤオウエンチヨン》、趙文成、どこにいるか!」  ツェッと兵隊は舌打ちをし、残念そうに立ちあがった。それから指を口に当て、黙っていろ、という合図をしてからささやいた。 「李大尉《リーターウエイ》だ」  趙の上官らしい声は、中庭を三、四回うろうろしたあげく、佐智の家の前を通り越して后院《ホウユアン》に行ったらしかった。そちらでふたたび趙を呼ぶかすかな叫びが聞こえた。 「再見《ツアイチエン》、佐智《ツオチイ》」  趙はすまして立ちあがると、のしのしと熊のように歩いて戸口から姿を消した。  母親は趙文成が来たことを知って、かなり不安に陥った。今まで青い兵隊が個人的に藤本家を訪問したことはなかったし、娘の話からだけでは、彼が何を求めているのかさっぱりわからなかった。それに彼が中国の習慣どおり泥靴《どろぐつ》のまま上って、床のあちこちに足跡をつけたのも気に入らなかった。この件について将校に訴えることを、彼女はやっと踏みとどまった。青い兵隊たちは〈日俘管理処〉に満ちていたが、まだ藤本家に迷惑を及ぼしたことは一度もなかった。訴えによって、彼らはかえって刺激されるのではないか、と彼女は案じた。研究所から帰宅した父親も彼女と同意見だったので、このできごとは不問に附されることとなった。  しかし、その日以来、母親は娘を置いて家を離れることはしなくなった。買物には必ずいっしょに連れていった。佐智はときどき青い兵隊の群れに、趙文成のあい変わらず焦げたパンの皮のような顔を見かけたが、彼はぷいと目をそらした。それでも佐智は彼がもう一度、やってくるにちがいないと思っていた。  兵隊たちの監視がゆるむときを見はからって、どこからともなく小孩児《シヤオハイル》たちが入りこんできた。〈日俘管理処〉の看板にもかかわらず、彼らはいぜんとしてこの広大な院子は、日本人の所有だと思いこんでいたらしい。院子の中では彼らは声も足音も遠慮がちになり、たまに佐智とばったり出会うとこそこそと逃げていった。彼らの目的が后院のペキンカイドウの実にあることはまちがいなかった。カイドウの実は熟して食べごろだった。薄暗い茂みを透《す》かすと、無数の小さい灯《ひ》が瞬《またた》いているようだった。佐智は朱塗りの門の近くで、小孩児たちの声を聞きつけると、すぐ后院に飛んでいって、幹によじ登った。ここはこの町で彼女の支配権の及ぶ唯一《ゆいいつ》の場所であった。そして今年にかぎっては、数千個の赤い実のすべてが彼女のものだった。  まもなくぞろぞろと小孩児たちがやってきた。彼らは梢《こずえ》から女王のように見おろしている佐智を、押し黙って見あげた。ペキンカイドウを取りまいた彼らは、黒っぽくおとなしい家畜のようだった。その中にいつか佐智を脅《おび》やかした小孩児が混じっているかどうか、彼女には見わけもつかなかった。彼らは着たきり雀《すずめ》らしく、袖口《そでぐち》や衿《えり》はてらてらと光り、|※[#「ころもへん+庫」、unicode8932]子《クーズ》(ズボン)のどこかにつぎが当たっていた。服装については樹上の佐智も同じであった。  佐智は太い枝に背中をもたせかけ、両足を別々の枝にかけたくつろいだ姿勢で、ペキンカイドウの実を食べた。サクサクの果肉や酸味と甘味の微妙なバランスは、いつでも彼女を夢中にさせた。何十個も食べて、そのたびに口に残った種をぷっぷっと吐き出してから、思い出して下を向いた。小孩児たちはまだあきらめずに木を取りまいていた。彼らはいつか日本の少女が飽きるにちがいないと信じて、忍耐強く待っていた。佐智は呆《あき》れて異国の子供たちを眺めた。一年前の今ごろは〈日本宿舎《リーベンスーシヨー》〉の子供たちは総出で、枝にぶらさがったものである。彼らは押しあったり、突きあったりしながら、やっと自分の場所を確保するのだった。樹下ではまだ木にのぼれない幼い妹や弟たちが、自分たちも分け前にあずかろうと、声をかぎりに叫んで手をのばしていた。小孩児たちはそういう努力は一切せずに、受けることにだけ慣れているみたいだった。佐智は木の上から彼らを手で招いたが、何の反応もなかった。仕方なく佐智は数房の果実を小孩児の輪の中に投げ落とした。初めて笑い声があがって、輪が縮まり、また花弁のように開いた。佐智はふたたび投げた。こういうことが十回以上くり返され、もう佐智の周囲には色づいた実は見当たらなくなった。 「完了《ワンラ》、完了」佐智は両手をメガホンにして大声で言った。「没有了《メイヨウラ》(なくなっちゃったわ)」  すると小孩児たちは無言で帰りはじめた。女の子は長衣の裾《すそ》をお腹《なか》までめくりあげ、つめこんだ実を上からしっかりおさえていた。男の子は|※[#「ころもへん+庫」、unicode8932]子《クーズ》を広げてその中に入れたので、アヒルのようによたよた歩いていた。最後になった小さい女の子の目が、ちらと佐智の目と会った。彼女はにこにこして「謝々小姐《シエシエシヤオヂエ》」と言うと、太い縄編《なわあ》みのおさげを左右に揺らして帰っていった。  母親はこの町で四回目の冬を迎える準備にかかっていた。佐智も毛糸玉づくりを手伝った。毛糸は父親の紺色のセーターをほどいたもので、一本一本が中華麺《ちゆうかめん》のようにちぢれていた。母親は佐智に両手を差し出させ、それに毛糸の手錠をかけた。母親の手は目まぐるしく回転し、佐智が疲れて手を下ろすと小言を言った。佐智の自由になるのは口だけだったから、二人は話をしたがまもなく種がつきてしまった。いつでも佐智の話相手は母親で、母親の話相手は佐智に決まっていた。二人は向きあって、お互いの呼吸音が聞こえるほど近く座っていた。毛糸の玉はくるくる回り、佐智の両手はもっと大きい円を描いた。数えきれないほど昔から、二人はこうしているような気がした。どの母子《おやこ》でもこうしているのだろうか、と佐智はふしぎに思った。  玄関で物が床にぶつかる音、つづいて重い物を引きずる音が聞こえた。母親が手を止める前に、青い兵隊はのっそりと居間に入ってきた。母親の次の反応は、佐智が驚くほど早かった。彼女は毛糸玉を兵隊の顔のまん中に投げつけて、部屋の片隅《かたすみ》で冬を待っているストーブのほうに飛んでいき、鉄製の火掻《ひか》き棒を握りしめると身がまえた。自分では馬鹿《ばか》にしていたにもかかわらず、これはあの戦時中の国防婦人会の特訓のおかげにちがいなかった。兵隊のほうは思いもよらず投げつけられた毛糸に蜘蛛《くも》の網のように引っかかり、まだ両手にかせをしたままの佐智と向きあってもがいていた。兵隊と佐智は、父親の紺色のセーターから抽出《ひきだ》された毛糸によって結びつけられていた。  母親は金切声をあげた。 「佐智、早くこっちへ逃げなさい」 「だってえ、毛糸が……」 「どうだっていいの! 早くその敵兵から離れるのよ!」  趙文成は自分に突きつけられた火掻き棒に震えあがった。彼はなぜ母親が自分を痛めつけようとするのか、理解ができないようであった。彼はあわてふためいて、唾液《だえき》をまき散らしながら喋《しやべ》ったが、日本の母子にはまったく通じなかった。特に母親は山猫《やまねこ》のようになって、娘を左手で抱きしめると、右手で凶器をふりあげた。趙文成は狼狽《ろうばい》して、あちこちぶつかりながら後退したが、ついに思いだして叫んだ。 「藤本《トンベン》…藤本佐智《トンベンツオチイ》、|※[#「にんべん+尓」、unicode4f60]忘了我※[#「口+馬」、unicode55ce]《ニーワンラウオマ》? 佐智《ツオチイ》……」  母親の緊張が解けて、火掻き棒はだらりとたれ下がった。兵隊はやっと部屋の入り口近くで踏みとどまった。 「趙《チヤオ》さん、こないだ来た人……」  佐智はどちらの顔も見ずにつぶやいた。できることなら二人とも残して、部屋を飛びだしていきたいと思った。火掻き棒を握った母親と泥靴のままの青い兵隊……。 「趙《チヤオ》…?」  記憶をよび戻《もど》そうとするように、母親がつぶやいた。 「是《シー》、是《シー》」青い兵隊は喜んでけたけた笑った。「糖《タン》、持ってきたよ」 「糖《タン》ですって?」  いぶかし気に母親は言って、身を乗りだした。 「しーっ」趙文成は、窓の外を大げさな身ぶりでうかがった。それからたどたどしく説明を始めた。「昨日、趙は上官に命令されて、食料たくさんここに運んできたよ。日本軍隊が隠してあった場所見つかったから。李大尉《リーターウエイ》は趙にこれを料理に使うように言った。それで一個を佐智《ツオチイ》にあげようと持ってきたのよ」  三人はことの真偽を確めるために、玄関に行った。三和土《たたき》に佐智の体ほどもある麻袋がどっかり座っていた。 「これ全部|糖《タン》?」  目を輝かせて母親がたずねた。 「|※[#「にんべん+尓」、unicode4f60]們《ニーメン》、|看々※[#「口+巴」、unicode5427]《カンカンバ》(見てごらん)」  中国兵は得意顔で日本の母子を招いた。寄ってきた二人の前で、袋をしばった麻縄をほどいた。まばゆい白い結晶が、袋の口までつまっていた。 「白ザラメだわ」母親は夢見心地で言った。「一年かかっても、使いきれないわ」それから声をはりあげて「趙《チヤオ》さん、多謝《ターシエ》」と言った。  兵隊は先生にほめられたみたいに、嬉しそうな顔をした。「|※[#「舌+忝」、unicode8214]※[#「口+巴」、unicode5427]《テイエンバ》(なめてごらん)、佐智《ツオチイ》」と言うと、人差指につばをつけ、おもむろに袋の中に突っこんだ。それから糖《タン》におおわれた白い指をゆっくりと口の中に入れた。続いてまねをしかけた佐智は、趙文成の異様な反応に驚愕《きようがく》して危く踏みとどまった。趙の顔は丸められた紙屑《かみくず》のようにくしゃくしゃになった。 「ツェッ、ツェッ、ツェッ」という舌打ちが連続十回はくり返された。 「アイヤー、糖《タン》でない」  兵隊は悲しそうに言った。母親は自分も同じことをして、しかめ面《つら》をした。 「岩塩だわ」  あきらめきれずに趙文成は袋の中身をかき回しては、何度も塩をなめてみて舌打ちした。 「ほかの袋はたしかに糖だったのに……」  すっかり落ちこんで下を向いたまま趙文成が言った。 「いいわよ。塩だって、料理に使うわ。塩は人の体にとても大切」  母親が趙を慰めた。 「そうか。佐智の媽々《マーマ》は塩もらって嬉しいか」  少し元気をとり戻して趙文成は言った。〈嘘《うそ》ばっかり……〉佐智はむくれて横を向いた。趙文成の上官たちが運んできた食料品は、かつて〈駐屯地《ちゆうとんち》〉にあったものにちがいない、と佐智は考えた。手はずが狂って日本の兵隊たちは、食料の配給を十分に受けずに、背《はい》のうにお握りを二個だけ入れて出ていったのかもしれない。そして彼らは、海のような河を渡り、高い岩山を歩きまわったのだ。 「佐智、お八つにしましょう。昨日市場で買ってきた焼餅《シヤオビン》があるわ」  趙文成はもうちゃっかり腰をおろしていた。いつも父親が座る場所だった。彼は母親にお茶に招かれたので、すっかりはしゃいでいた。テーブルをがたがた揺すったり、空の茶碗を目の高さまで持ちあげて飲むまねをしたりした。佐智はますます気分がめいった。 「佐智《ツオチイ》、おれの隣りに座る」  趙文成は抱きかかえるように彼女を座らせた。彼の軍服からは夏のなごりの、汗の酸《す》っぱい臭《にお》いが発散していた。彼は焼餅を二個と中国茶を五はいも飲んで、樹皮のような掌《てのひら》で佐智の頭をこすった。 「今度は佐智《ツオチイ》にほんとの糖《タン》持ってくる」彼は袖口で唇《くちびる》をふきながら言った。「李大尉《リーターウエイ》が留守のときに……」 「いけないわ」と母親が言った。「見つかったらたいへんよ。軍隊のものでしょう」 「でも、あれはもともと日本人のよ」佐智は母親に突っかかった。「日本軍の食料を、中国軍がドロボーしたのよ」 「女孩子《ニユーハイズ》は何を言ってる?」  趙がたずねた。 「日本《リーベン》の糖《タン》の話をしてるのよ」と母親はごまかして、佐智を睨《にら》みつけた。 「日本《リーベン》にも中国《チユングオ》にも同じものたくさんある」中国兵は楽しそうに言った。「顔も似ている、そうだろ?」そして自分の顔と佐智の顔を並べて母親に見せた。 「そう、目も髪も黒くて……」と母親は微笑した。彼女はこの若い中国兵に優しい気持になったのである。 「おれたちは兄妹《シヨンメイ》」  趙文成は満足した口調で言った。  趙文成が上官の台所から塩をくすねてきた翌日、だれかが扉《とびら》の外で「コンニチハ、コンニチハ」とくり返して言った。張有良がこんな時刻に来るわけはないので、ふしぎに思って母親が出てみると、灰色の将校服を着た男が立っていた。彼は両手を前で組む中国式のお辞儀をすると、ゆっくりと話しはじめた。 「私ハ李大尉テス。コノ院子ノ管理マカサレテイマス。モット早クゴ挨拶《あいさつ》ニ来ル予定テシタガ、イソガシイコト色々アリマシタ。コンナニタクサン」 「日本語がお上手なのですね」  気を取り直した母親が言った。 「私、日本ニ三年イマシタ。専門学校デ日本語習イマシタ」 「ああ、それで……」 「私ノ部下ノ趙文成ガ、ゴメーワクヲカケタテショーカ」  李大尉はおだやかにたずねた。 「いいえ」  とんでもないというふうに、母親は首をふった。彼女は兵隊をかばおうとしていた。 「私ハ部下タチニ、日本人ノ方タチニ絶対ニ悪イコトシテハイケナイト命令シマシタ。トコロガ趙ハソレヲ破ッタノテハアリマセンカ?」  佐智はふいにそそのかされたように横合いから口を入れた。 「初めて来たときは私一人だったの。いきなり黙って、靴のままで入ってきたわ。二回目もそう」 「オ嬢サン、ソレ本当テスカ」李大尉は苦々しい顔で言った。「趙ハマッタク礼儀ヲ知ラヌ若者テス」 「あの……趙さんはどうなるのでしょうか?」  母親がおそるおそるたずねた。 「マダ決メテイマセン。命令ヲ破ッタ者ハ駐屯地ニ連レテイッテ処分シマスガ……」  佐智の頭に練兵場の柱が浮かんできた。しばりつけられているのは、血走った目をした大男で、子供のように泣いている。 「だめよっ」佐智は大声をあげた。「趙さんは入ってきただけで、悪いことしてないもん。私に生まれた村の話をしてくれたわ」 「あの方はとても親切な方です」  母親も口をそえた。趙文成の上官は困った表情になった。彼は佐智と母親の両方を見比べてしばらく立っていたあとで、とうとう口ごもりながら言った。 「ソレデハ今回ハ、注意ヲ与エルダケニイタシマス。シカシマタ趙ガキタラ、私ニ連絡シテクダサイ。アノ男ハ……少々……特別ナノテス」 「特別って何のこと?」  佐智は変な気がしてたずねた。 「知るもんですか」母親は肩をそびやかした。「きっと……疑ってるのよ、あのことを」それから急に口調を変えて言った。「でも、佐智がかばってあげたから、趙さんも喜ぶわよ」 〈べつにあの人が好きなわけじゃないわ〉佐智は内心で母親に言った。〈練兵場の柱のこと、思いだすのがいやなのよ〉 「氷糖胡芦《ピンタンフール》、氷糖胡芦!」  表通りで糖胡芦売りの間のびのした声がした。佐智は母親から銅貨をもらって、走っていった。門を出ようとしたとき、檻《おり》に閉じこめられた野獣のような唸《うな》り声が聞こえてぎょっとした。門番小屋の中から二本の青い|※[#「ころもへん+庫」、unicode8932]子《クーズ》がにょっきり突き出していた。監視役の中国兵が昼寝を決めこんでいたのであった。  糖胡芦売りはもう綿入れ服を着ていた。 「どれにするか?」彼は長いわらづとを降ろしながら、日本の少女にたずねた。  わらづとに刺さった色とりどりの果実の串《くし》から、佐智は小さな太陽に似たサンザシを選んだ。門番小屋を通りすぎるとき、かりっと水飴《みずあめ》にひびが入って、サンザシの実が現れた。佐智は足を止めて、いびきの張本人の顔を見た。一間ほどの床からはみ出していたのは、やはり趙文成であった。彼は上唇を鼻孔の近くまで持ちあげて、真黒い口をぱっくり開けて眠っていた。獣のようないびきは、彼の体の奥深くに広がっている闇《やみ》から吹きあげてくるように思えた。趙文成は自分の観察者には気づかずに、眠りの中でだれかと格闘していた。彼は見えない者に首を締められているらしく、体をよじって青い※[#「ころもへん+庫」、unicode8932]子をばたばたさせた。佐智は見ているのが苦しくなって「趙さん」と呼んだ。つづけて二、三回呼ぶと、兵隊は急に跳ねおきて「誰《シユイ》?」と鋭い声で言った。彼は日本の少女が糖胡芦をしゃぶりながら敷居に立っているのを見たが、佐智のことがわからないみたいだった。彼はいつもよりもっと充血した目で、彼女を凝視するとたずねた。 「日本兵《リーベンビン》はどこへ行った、小孩児《シヤオハイル》?」  佐智が脅えて二、三歩下がったので、彼の顔に日が射《さ》しこんだ。趙文成は目をこすった。「夢を見ていた」彼は自分に言いきかせるようにつぶやいた。「ここは町だ……戦争は終った」それから佐智をはっきり認めると、黄色い歯をむき出して笑った。 「このあいだ、おれの上官が藤本佐智《トンベンツオチイ》の家に行っただろう」彼はさっきの苦し気な表情とは別人のような、にやにや笑いを浮かべていた。 「佐智《ツオチイ》と媽々《マーマ》がおれのことほめてた、と李大尉《リーターウエイ》が言ってたぞ」  彼はまるで自分が真実ほめられるに足る人物であるように、得意そうだった。彼は佐智に手招きして呼びよせると、自分の体のあちこちを探しはじめた。彼はポケットだけでなく、あらゆるくぼみに何かを隠しているようだった。 「おれ佐智《ツオチイ》にお礼する。ちょっと待て……」  ついに彼は目的のものを、ベルトの内側から見つけだした。彼は大事そうにそれを佐智の手に包みこむようにした。 「とてもよく切れるぞ。紙でも、布でも、木でも……」  佐智は掌を開いて、熱帯魚のように青と白の縞《しま》模様の折たたみナイフを眺めた。それは明るい秋の日を浴びて、今にも宙へ泳ぎだしそうだった。柄《え》の端っこに引掻傷《ひつかききず》があった。目を近づけると傷ではなくて、米粒ほどの文字でオノダと彫られてあった。佐智はナイフを放《ほう》り出した。ナイフは土間に落ちて、チャリンと軽い音をたて、その拍子に刃が開いて銀色の光がこぼれた。 「佐智《ツオチイ》は何する?」趙文成は怒って言った。「おれの大事なナイフいらないのか」 「趙さんのじゃないわ」佐智も腹をたてて言った。趙文成はいつも他人の持物ばかりくれたがる。 「ずっと前に戦場で拾ったんだ。だからもうおれのだ。佐智《ツオチイ》は心配するな」趙文成はふたたびナイフを佐智に握らせて、なだめるように言った。「きっと日本人のだ。だからおれが持っているより、佐智《ツオチイ》が持つほうがいい」それから目配せしながらつけ加えた。「佐智《ツオチイ》の媽々《マーマ》にはべつのお礼する」  三日たって、べつのお礼というのが届けられた。今度も李大尉の厨房《ちゆうぼう》から運びだされた一包みの白砂糖だった。佐智の母親はほとほと困って、長いあいだ趙と押し問答をした。しまいに中国兵は目に涙を浮かべて、「おれのこときらいか、佐智《ツオチイ》の媽《マー》は?」と言ったのでとうとう受けとってしまった。李大尉に見つかるとたいへんだと言っているのに、趙文成はゆうゆうと一時間もソファの上に座っていた。彼がやっと帰ったあとで、母親は首をかしげた。 「変だわ。ここに洗って取りこんでおいた軍手がないのよ。まだおろしたてなのに、いやねえ」  次の朝、佐智は院子の中で〈駐屯地〉に出勤する李大尉を見かけた。彼の後ろには、忠実な趙文成が荷物をささげて従っていた。趙は佐智を見ても知らんふりをしていたが、彼の両手は白い手袋でおおわれていた。それはどう見ても、母親がほかの洗濯物《せんたくもの》といっしょに置いた軍手にちがいなかった。  町から日本人の姿がほとんど消えて、半年がすぎていた。日本の小学校が再開される当ては全然なかったので、佐智の母は自分が娘の教師になるほかはない、と決心をした。佐智と母親は毎朝九時になると、食器を片づけたあとのテーブルに鉛筆と帳面と三島家の双子の姉妹が置いていった教科書を並べて向きあった。母親は娘の知能がどの程度か見当がつかなかったので、いきなり四年生の教科書から始めた。佐智は少しも気がのらず、新米の教師の説明はさっぱり要領を得なかった。教師は短気をすぐ起こし、娘が途方にくれて泣きだすまでがみがみと言いつづけた。こうして佐智の午前中は、地獄の色調を帯びてきたのである。  ある日、こういう場面の最中に趙文成が入ってきた。彼は泣いている佐智と悪鬼の形相を呈している母親を見比べて、直ちに娘の味方になった。 「なぜ、佐智《ツオチイ》をいじめるんだ」彼は母親に食ってかかった。「佐智《ツオチイ》はいい子だ。あんたが悪い」 「日本の字を覚えなければ、日本に帰ってから暮らしていけないのよ」母親はかっとして言いかえした。「日本人の子は全員学校に行って勉強するの。中国人とはちがうわ」  すると趙文成の顔に、皮肉な笑いが浮かんだ。子供っぽさが消えて、老成した狡賢《ずるがしこ》い表情に変わった。 「あんたたちは日本に帰れないよ」憎々しそうに彼は言った。「いつまでもここにいるよ。あんたらは日俘《リーフー》だもの」 「なぜそんなことを言うの、趙文成。怎麼《ツエンマ》?」 「怎麼《ツエンマ》?」趙は母親の口まねをした。「なぜ東洋鬼《トンヤンクイ》はおれの村《ツン》に来たのか? なぜあいつらは馬小屋に火をつけて、隠れていた祖母《ツームー》を焼き殺したか? なぜあいつらは逃げていく女や老人を銃剣で突き刺したか?」  趙文成は血走った目をぎらつかせて、とめどなく喋《しやべ》りつづけた。佐智が母親を見ると、彼女は両手を握りしめ、若者の悪意を一身に受けながら泣きたいのをこらえる子供のように震えていた。趙文成はテーブルを叩《たた》いた。 「わかったかい、日本人の太々《タイタイ》、わかったかい?」 「もう来ないで」ようやく母親が言った。「李大尉と約束したのよ。今度趙さんが来たら連絡するって……」  趙文成は顔色を変えた。李大尉は彼の弱点を握っているのにちがいなかった。彼は急に勢いがなくなってしょんぼりとした。 「いいよ。もう来ない」後じさりをしながら彼は言った。 「藤本佐智《トンベンツオチイ》とももう会わない」それからあわてふためいて、鴨居《かもい》にぶつけた頭を抑えると出て行った。     8  后院《ホウユアン》のペキンカイドウの葉が、うっすらと黄ばみはじめていた。佐智や小孩児《シヤオハイル》や野生の鳥たちの食べ残した実は、赤黒いほくろのようにしなびたまま、枝にしがみついていた。小孩児たちはもう院に入ってこなくなった。表で遊ぶ彼らの声は風にのってよく佐智の耳へも届いたが、それは決して日本の子供への呼びかけではなかったのである。 〈日俘管理処《リーフーグアンリーチユ》〉の管理者である李大尉の日常は、かなり忙がしそうであった。彼は朝早く院子を巡回し、従卒の趙文成の作った簡単な朝食を認《したた》めてから、〈駐屯地〉に出かけていった。趙は大尉についていくことも、留守をすることもあったが、一般に、位の高い兵隊ほど忙がしそうで、低いほど呑気《のんき》そうなのが中国の軍隊らしかった。中国国民党の軍隊もあそこで訓練をしているのだろうか。佐智はときどき想像しようと努めたが、彼らはどうもそういう雰囲気《ふんいき》から遠かった。日本兵はぐうたらではないが、ときどき空腹の狼《おおかみ》のように凶暴になった。  李大尉はあれから佐智の家を訪れることはなかったが、家族に会うといつも二言、三言会話をした。彼は昔習い覚えた日本語を使う機会を欲しがっているようであった。しかし藤本家へ大学生が出入りしているのを知っていて、遠慮しているらしかった。兵隊と学生は、同じ国なのにどこまでもそりが合わないのだった。  ある日、朱塗りの門の前で買物帰りの佐智と母親は李大尉と鉢合《はちあわ》せをした。 「私ノ部下ノ趙文成ハオ宅ニハマイリマセンカ」  大尉は心配そうにたずねた。 「ええ、あれっきり」  母親は嘘を言った。佐智は彼女の手を握って、黙って李大尉を見ていた。彼は泥《どろ》の上にしじゅう転がっているような部下の兵隊たちとちがって、清潔な灰色の軍服に、ぴんとしたカラーをしていた。 「私ノ師ハ『ナカムラタダオ』先生ト申シマス。ゴゾンジナイデショウカ」佐智の母が首を横にふると、李大尉は残念そうにつぶやいた。「ナカムラ先生ハトテモイイ方デシタ。私ガ日本ヲ去ッテカラモ戦争ガ始マルマデ、ズット文通ヲシテオリマシタ」  それから母親がまるで彼の教師ででもあるように、懐《なつか》しそうに顔を見つめて言った。 「日本ニオ帰リニナッタラ、ナカムラ先生ニヨロシクオ伝エクタサイ」  趙文成が母親との口げんかを忘れたように、顔中を人なつこい笑いで満たして現れた。 「今日は大尉南京へ行った。だから趙は休みだ」と説明し、「町にいい電影《テイエンイン》がきた。佐智《ツオチイ》を連れていく」と大いばりで言った。退屈していた佐智は、映画ときいて心を魅《ひ》かれた。母親は渋ったが、娘と趙の熱心さに負けてしまった。趙は道すがら得意になって話してきかせた。 「佐智は電影見たことないだろう。あれはほんとうの人や獣のように動くが、本物ではないんだぞ。だまされてはいけない」  佐智は国民学校の講堂でニュースや文化映画を見たことがあった。父親といっしょに『フクちゃん』や『風の又三郎』も観《み》に行った。もちろん映画は人によって作られたものだった。ところが映画館に入って場内が暗くなると、興奮したのは趙文成のほうだった。 「アイヤー、佐智《ツオチイ》見たか。あいつ橋渡る。今にも落ちそうなの知らないで……。だめ、だめ。ツェッ、ツェッ」  彼は舌打ちを始め、足でがたがた前の座席を揺すぶったので、周囲の観客がふり向いてののしった。急に画面に国民党の軍服を着た兵隊が何人も現れて、川の向う岸にいる日本兵と射《う》ち合いが始まった。中国兵は全然倒れずに、日本兵ばかりが続けざまに三人も倒れた。そのたびに趙文成は大げさに拍手をし、さっきは怒っていた観客もどよめきながら手を叩いた。しかし何といっても、趙文成が陶酔状態になったのは、主人公である村の青年が許嫁《いいなずけ》と逢《あ》っている場面であった。彼はべっとりと汗をかいた自分の手で佐智の手を握ったまま、画面に引きこまれていた。佐智がいやがって引き抜こうとすると、彼はわけのわからないことをつぶやいて、もっときつく握りしめた。 「|疼※[#「口+阿」、unicode554a]《トンア》(痛いよう)」と佐智は小さい声で趙文成に言った。彼が見向きもしないので、今度は「|放手※[#「口+巴」、unicode5427]《フアンシヨウバ》!」と大きな声を出した。ふたたび周囲がいやな顔でふり返り、兵隊は舌打ちして手を放した。  全体として画面は散漫で、主人公が田舎から都会に出てくるあたりで、さっぱり筋がわからなくなった。佐智は大あくびをして、映画が終って趙文成が彼女を揺り動かすまでぐっすり眠っていた。目を覚ますと肺の中で安タバコの煙と、中国特有の香油の匂《にお》いが渦《うず》を巻いているのを感じた。兵隊が彼女の手を引いて、薄い夕暮れの広がった町を歩きはじめたときも、まだ膝《ひざ》から下は眠っていた。そのためしじゅうつまずいて、趙文成に引きあげられた。歩きはじめには、まだ映画の余韻でぶつぶつ喋っていた趙文成は、しだいに口数が少なくなっていった。反対にだんだん意識のはっきりしてきた佐智が見あげると、彼の赤い筋の入った目にぶつかった。彼は回り道をして、北海のほとりに出た。彼は佐智の手を掴《つか》んだまま、ぐるりとあたりを見まわした。湖面は風が立っていたので、無数にひび割れた鏡のようだった。逆さに映った白塔の上を一|艘《そう》の小舟が乗り入れて通っていった。岸辺の柳の下で老人が背中を丸めて胡弓《こきゆう》を弾いているほかには、人の姿はなかった。二人が前を通過すると、老人は弾く手を止めて、白濁した見えない目をじっと二人の行く先に向けた。趙文成は佐智の上にかがみこんでささやいた。彼女は彼の喉《のど》が、猫《ねこ》のようにごろごろ鳴るのを聞いた。 「佐智《ツオチイ》、かわいい妹々《メイメイ》。おれのこと好きだろう?」  佐智は目の前に拡大された若い中国兵のにきびだらけの皮膚を驚いて眺《なが》めた。彼は返事を求めて、もっと顔を近づけてきた。 「おれはおまえの媽々《マーマ》に塩をやった。糖《タン》もやった。覚えてるだろう、藤本佐智《トンベンツオチイ》。おまえには何でもよく切れるナイフをあげた。だからおれのこと好きだろう、かわいい佐智」  熱帯魚に似たあのナイフはたしかによく切れる。しかしあれは佐智の知らないオノダという日本兵の持物だ。いったいどうやって、趙文成はオノダからナイフを奪ったのであろう。 「佐智《ツオチイ》はいい子だ」趙文成は映画の主役のように甘ったるく言った。「佐智と趙は接吻《チエウエン》しよう」そして彼は口を開いて、いかにも健康そうな分厚い舌をべろりと出すと指差してみせた。佐智は思わず男の胸をこぶしで叩くと「他媽的《ターマーデ》、趙文成《チヤオウエンチヨン》、他媽的!」と叫んで駆けだしていた。二人の背後で流れていた胡弓のメロディーが、ぷつんと止まった。趙が陶酔境からさめて柳の下を見ると、盲目の老人は立ちあがって怪しむようにこちらをうかがっていた。趙文成はツェッと舌打ちすると、佐智の跡を早足に追ってきた。 「佐智《ツオチイ》が言いつけたら、おれは佐智の母親に殺されちゃうよ」  趙文成は歩きながら、ぺこぺこ頭をさげて佐智にあやまった。佐智はすっかり腹をたてていたので、一切口をきかずにどんどん駆けつづけ、兵隊よりも先に〈日俘管理処〉にたどりついた。彼女は彼の行為を両親には告げなかったけれど、それ以後院子で行きあっても横を向くことにした。絶対に忘れてはいない証拠に……。  雲母《うんも》のようにきらきらしていた空が、底が見えるほど透《す》きとおってきた。これはこの町の冬の兆《きざ》しだった。冬の兆しはほうぼうに表われた。ペキンカイドウは全《すべ》ての葉を狂気じみた熱心さで落としはじめた。后院の地面は黄色いボート型の葉で何層にもおおわれた。かつて〈日本宿舎〉の住人が掃いたり燃やしたりしていた仕事を、青い兵隊たちは引きつごうとしなかったからである。彼らは軍靴《ぐんか》の先を平気で落葉にめりこませて、歩きにくそうに歩いていた。  陳老人は風邪をこじらせたのか、よく咳《せき》をして、そのしわぶき声は塀《へい》を越して〈日俘管理処〉まで入ってきた。佐智は道路に出て、陳老人の座っているアンペラの前にしゃがみこんだ。彼は夏服から冬用の上下服に着替えていて、春から伸ばしたままのひげはほとんど地面に届きそうだった。銅貨に似たエンジュの葉が、彼の肩に何枚もふりかかっていた。籠《かご》が見当たらなかった。 「鳥、どうしたの?」  佐智は叫んだ。 「死了《スーラ》」  老人は顔を動かさずに答えた。 「鳴かないままで?」 「是《シー》」 「可憐《コーリエン》(かわいそう)……」 「あれはいい鳥だった。鳴かなかったが、いい鳥だった」  老人はつぶやいて寒そうに両の掌を交互に袖口《そでぐち》に突っこむと、乾いた咳をした。それから「アイヤー」と小さな悲鳴をあげて、上体をぐらりとさせた。 「どこか痛むの? 陳老師《チエンラオシー》」  佐智が心配してのぞきこむと、老人はゆっくりと膝をたてて微笑《ほほえ》んだ。 「サ…チ…。おまえもいい子だ。騒がずに、じっと待っている」 「再見《ツアイチエン》、陳老師」  佐智はお辞儀をして、院子に引き返した。〈日俘管理処〉の額の下でもう一度ふり返ると、陳老人はしきりに両方の膝を掌でこすっていた。その日以来、彼の姿はエンジュの木の下からぷっつりと見られなくなった。母親が近所の阿媽《アマー》の立話を小耳にはさんだところでは、彼はリューマチにかかって医師から外出を禁じられたそうである。  秋も深まったある晩、三人の家族が眠る準備をしていると、遠慮深いノックの音が聞こえてきた。三人は顔を見あわせ、父親は少し緊張して扉《とびら》に近づき「|誰※[#「口+阿」、unicode554a]《シユイア》?」とたずねた。「私です」とささやく声がした。父親が細目に扉を開けると、夜空を背にして張有良《ジヤンヨウリヤン》が立っているのが見えた。彼は左右の手に片方ずつ靴をさげて、昆虫《こんちゆう》採集に出かけるときの格好をしていた。登山帽をかぶり、ごつごつした幅広のリュックを背おい、その横には採集網がくくりつけてあった。紗《しや》の網は白い吹き流しのように風の方向にはためいていた。 「いったいどうしたんだ、張有良」  父親は喉をつまらせて言った。佐智は父親の手につかまって、彼女の好きな大学生の顔を見ようとした。しかし学生は月明りの下でも暗い顔をしていた。 「採集旅行に行ってまいります」張有良は最初と同じささやき声で言った。「藤本先生《トンベンシエンシヨン》にお別れを言いにきました」  父親はしばらく黙って、自分の元教え子であった青年を見つめていた。 「まあまあ、入って話をきかせてくれないか」と彼は言った。しかし張有良は頭をふった。 「列車は夜半に町を出ますから。その前に……」彼は院子をぐるりと見まわした。「ここに押し入っている青い服の奴《やつ》らに見つかると、うるさいことになります」 「どこに行くんだ、張有良」父親は悲しそうに言った。「君の探している昆虫は、この町にはいないのかい?」 「媽《マー》が前途を占ってくれました」淡々と学生は言った。「吉でした。そのほかの家族には知らせていません。かえって迷惑が及びますから。でも……」張有良は目を輝かして父親を見た。「私の行こうとしている土地には虫がいっぱいいます。田舎ですから……再見、藤本先生、太々《タイタイ》、佐智《ツオチイ》」  父親は両手を張の肩の上に置くと、押し殺した声で言った。 「君には研究者としてのすぐれた才能がある。それを忘れるな」 「謝々」張有良は三人の顔を順々に見て日本語で言った。「ココノ家、私ノ第二ノ家庭テシタ」 「張さん!」佐智はこらえきれずに大学生に飛びついた。「どうして……行っちゃうんだろ……この町から佐智の好きな人皆いなくなる」  張有良は首をふった。それから佐智の髪の毛に軽く触れ、藤本家の全員に向って深く拝礼をすると、靴をぬいだまま中庭を前院《チエンユアン》のほうに引き返していった。  秋のあらしはしだいに強くなり、ほとんど一晩中吹きつづけた。途中で佐智は目を覚まして、西へ行く列車が汽笛を鳴らしながら、駅を出発する音を聞いたのだった。  ほぼ二ヵ月ぶりに、趙文成が佐智の家に顔を出した。彼はほかの兵隊と同じように、冬用の厚ぼったい毛織地の軍服に着替えていた。そのせいか、趙文成は急に分別臭くなったように見えた。彼は北海でのできごとを忘れたように、元気よく佐智に言った。 「ずいぶん背が伸びたな、佐智《ツオチイ》。おまえは趙哥《チヤオゴウ》を追いこすのか?」  佐智は彼を無視した。動物の内臓のように垂れさがった桃色の舌のことを思いだすと、気持が悪くなった。 「佐智はきげんよくない」とうとう趙文成は首をふりながら言った。「女はすぐきげんを悪くする」 「あら、趙さんよく知ってること」  母親が笑った。 「おれにも愛人《アイレン》がいる」趙文成は胸を張って言った。「兵隊の任期が終ったら、村に連れ帰って結婚する」 「まあ、それはおめでとう」  母親がちょっと信じられない、という口調で言ったが、趙は気にしなかった。 「彼女はとてもきれいで優しいが、ときどきひどく怒る。そうして猿《さる》のようにおれのこと引っかく」 「そう、そして趙さんどうするの?」  思わず佐智も聞き耳を立てた。 「おれ、逃げる」そして趙文成は、頭を両手で抱えて走りまわるまねをして見せた。母親と佐智が同時に吹きだした。「妹々《メイメイ》のきげん直ったらしい」  趙文成は大喜びで言った。それから急にまじめ顔になった。 「お願いあります。藤本太々《トンベンタイタイ》」 「なあに?」 「藤本先生の西服《シーフー》借りたい。実家に送る写真をとりたいが、軍服いやと愛人《アイレン》が言うのです」 「いいですとも」母親は言って、何気なく編みあげたばかりの紺色のジャケツを手にとってしわを伸ばした。「愛人は何を着るの?」  彼女はどこかにほころびがないか、調べながらたずねた。 「ヒマワリのように黄色い中国服がとてもよく似あう。でもあの娘は暖いジャケツもたいそう欲しがっている」 「すてきね。じゃあ婚約の印に買っておあげなさい。ヒマワリの色に似あうジャケツ」 「でも、おれの給料とても少ない」 「天橋商場《テイエンチヤオシヤンチヤン》に行ってごらんなさい。安いのが見つかるわよ」  母親はジャケツをきちんとたたみ直すと、紙袋にしまった。それから「さて西服《シーフー》ね……」と言って立ちあがった。佐智もついていった。二人が西服ダンスを開けて、父親の数少ない背広のどれを趙文成に貸すべきか相談しているあいだ、隣りからは彼自身の調子はずれの鼻歌が聞こえていた。 「花嫁さんを見つけてごきげんね」と母親はにやりとした。  趙文成が背広を抱えて、笑いが止まらぬ表情で出ていったあとで、母親は丹精こめて仕上げたジャケツに火のしをしようと袋を開けた。袋は空であった。 「やられたわ! 佐智、あの図々《ずうずう》しい兵隊にきまってるわ」 「だって……」佐智はいぶかった。「お父さんの洋服のほかに何も持ってなかったじゃない」 「軍服の下よ。私たちが向うで探している間に着こんだのよ。許嫁《いいなずけ》にやるつもりなんだわ」母親は歯ぎしりしてくやしがった。「今度会ったら思いっきり顔を引っかいてやるわ。そして白状させて李大尉のところに連れていくのよ!」  しかし佐智の母親が、趙文成の顔に傷をつける機会は二度と到来しなかった。翌日の日曜日、皆で朝食の高粱粥《コーリヤンがゆ》を食べていると、重々しく扉が叩《たた》かれて、帽子を脱いだ李大尉がかなりあわてて入ってきたのである。 「オ早ウゴザイマス」趙文成の上官は、端正な顔に困惑の色を浮かべて言った。「昨日、私ノ従卒ガコチラニ来マシタネ」  父親と母親は顔を見あわせた。佐智は昨夜の激しい両親の口論を思いだして、いい気分ではいられなかった。趙の仕打ちのために頭に血がのぼって、今晩中に李大尉に言いつけに行くという母親に対して父親は、「証拠があるわけじゃないだろう。中国の軍律では盗みは極刑に値するそうだぞ。借りてっただけかもしれないじゃないか。背広を返しにきたとき、よく聞いてみるんだね」と言い張ったのだ。母親はわあっと泣きだして、「ふつうならクッションの詰め物にしかならないぼろ毛糸を、ほどいて洗ってつぎ合わせて、半年もかかって編んだのよ。こんな苦労はあなたにはわからない……」と切れ切れに言い、最後に「ああ早く日本に帰りたい。あなたはここで仕事があるけれど、あたしや佐智の生涯《しようがい》は目茶苦茶よ」と口走ったのだった。 「あー、来なかったようですよ。私の知るかぎりでは……」と父親が妙に語尾を引き伸ばして答えた。 「奥サン、アナタハドウテスカ?」  李大尉は鷹《たか》のような視線で母親を見てたずねた。母親はまっすぐに大尉を見つめ、首を左右にふった。 「オ嬢サンハ?」  佐智は李大尉の目に射すくめられて、全身が硬《こわ》ばるのを感じた。たしかに趙文成ほど変な人には会ったことがない。いくら淋《さび》しくても趙文成とつき合うのはもうこりごりだった。必らずいやなできごとが起こる。李大尉が彼をどこかに連れていき、ここに二度と帰ってこられないように閉じこめてしまえばいい。そうしたらどんなに清々するであろう。佐智は目を上げて国民党軍の将校の顔を見た。彼は上品で穏やかな日頃《ひごろ》の表情をかなぐり捨て、殺気だった怖い顔をしていた。ポケットに手を突っこむと、冷たく滑らかな感触があった。趙文成が戦場で拾ったナイフだった。趙文成は佐智に何かをくれるのが好きだった。彼は塩やナイフや砂糖のお返しに、ジャケツ一枚ぐらい当然だと思ったのかもしれない。 「来なかったわ」  佐智はゆっくり言った。 「ソウテスカ」李大尉は落胆して言った。 「いったい、どうしたのですか」  佐智の父親がたずねた。 「脱走シマシタ。今朝早ク。私ノ財布ヲ盗ンテイキマシタ」 「脱走!」  家族全員が唖然《あぜん》として押し黙った。 「私ハアノ男ニヨクシテヤッタツモリテシタ。ダガアイツハ、趙ハ恩知ラズナ|※[#「にんべん+鑁のつくり」、unicode510d]瓜《シヤーグア》(ばか者)テス」  大尉はため息をついた。彼が愚かな部下のことを心底怒っているよりは、心配しているのがよくわかった。 「でも……なぜですの」  母親が引きつれたような声でたずねた。 「女ト逃ゲマシタ。兵隊タチノアイダヲ渡リ歩イテイタアバズレ女テス。上官トシテ私ノ責任テス。二人ヲドウシテモ探シ出サナクテハナリマセン」 「探したら、どうなさいますか」 「ホカノ兵隊ヘノ見セシメ必要テス。軍法会議カケマステショウ。八路《パールー》軍コノ町ニ近ヅイテキマス。趙ノヨウナコトスル兵隊増エタラ、我々、八路ニ負ケマス」  佐智の脳裡《のうり》にいやいやながら練兵場の光景がよみがえった。砂の広場に九本の柱が立っていて、根もとには、しばられた人形から飛び散った血を吸ったわらが散乱していた。中央の柱にこれからくくりつけられるのは、趙文成だ。彼のゆがんだ泣き顔が見えた。彼は野獣のようにひっきりなしにわめきたて、少しも静かにならないので銃の台尻《だいじり》で撲《なぐ》りつけられた。それでも手足をばたばたさせて、根かぎり暴れるのをやめなかった。ほんとうに静かにさせるためには、銃でお腹《なか》を射《う》つほかはなかった……。 「趙《チヤオ》さんが八路と戦いたくないわけを知ってるわ」佐智は李大尉に急いで言った。「だって仲よしの林弟《リンデイ》が向うの軍隊にいるんですもの」  李大尉は苦い顔をして言った。 「我々ハ、友ダチト戦ウノテハナク、敵ト戦ウノテスヨ、オ嬢サン」  彼が出ていくと、家中に湿っぽい空気が漂った。父親は鼻を啜《すす》って書物を読みはじめ、母親は台所で饅頭《マントウ》の粉を練りはじめた。佐智は部屋の隅《すみ》に行って、趙文成からもらった熱帯魚ふうのナイフの柄《え》を押し開いた。ステンレスの刃から、銀色の寒気がたちのぼってきた。甲に当てて少し引いてみた。痛みはなかったが、赤い四個の水玉が一直線に並んで噴きあがった。 「サチ!」という声を聞いたが、自分のことではないような気がした。赤い玉はつながりあい、細い線になって流れはじめた。 「何するのよ!」ふり向くと、母親の両眼が、上から見えない糸で吊《つ》りあげたように尖《とが》っていた。次の瞬間には頬《ほ》っぺたにひどい打撃を感じてふらふらした。小田切先生に負けないくらい、力のこもった一撃であった。「あなたの体の全部は、お父さんとお母さんが作ってあげたのよ。一人で勝手なことしないで!」  痛さのあまり涙をこぼしながら、佐智は彼女にも自分にも関係のないことをくり返していた。 〈趙さん逃げろ、趙さん逃げろ〉  ごろごろの岩山を、腹から血を流しながらのぼっていく趙文成の背広姿があった。彼と手をつないだ愛人は、ヒマワリの花のような黄色い晴着を着て、紺色のジャケツを羽織っていた。彼らは山の向側に、緑の毛皮を敷きつめたように広がる趙文成の故郷へ急いでいた。趙文成と愛人がそこに行きつけるかどうか、佐智にはわからなかった。  美しい町は、彼らのずっと背後にあった。 [#改ページ]     第二章 星空の宋梅里《ソンメリ》     1  集結地に着いて三度目の日没であった。ぱっくりひらいた傷口のような太陽を、佐智《さち》はいつもと同じ場所に立って見た。割りあてられた倉庫をとり囲むように、数本の銅線がはられている。銅線の下をくぐるとき、太陽は震えながら二、三片に分かれたが、ふたたび地平線の近くで融合し、赤い火の玉になってあっというまに落ちていった。太陽はきまって佐智たちが過ぎてきた町の上方に落ちた。進むよりも停止している時間のほうが長かった旅の果てに、貨物列車が滑りこんだ町だった。もちろん自由に下車できるはずはなかったけれど、冬枯れの畑と黄土の山にあきあきした目に、密集した人家は新鮮に映った。引揚者たちは貨車から飛びおりてホームの手洗所にわれ先に殺到したが、用が済むとできるだけゆっくり歩いて戻《もど》ってきた。銃を背負った監視の中国兵がチッチッと舌を鳴らしてせっつくほどだった。  半日ほど町に停車したあとで、貨物列車は箱を揺すって生きた積荷を放《ほう》りだしはじめた。百時間近くの暗く汚穢《おわい》にまみれた生活は、当然のように弱い者から順に病気にしていた。彼らはよろめきながら箱の底から這《は》いずってくると、乾いた日射《ひざし》に打ちひしがれてホームにうずくまった。数人の白衣を着た男女が、彼らをほかの場所に連れていった。不安に駆られた病人のある者はしゃんとしようと努力したが、土気色の顔を専門家から隠すことはできなかった。選別が終るとあちこちで泣き声がわきあがった。残された夫が病気の妻を指さして「返せ!」と怒鳴った。監視兵は「しーっ、しーっ」とそちらのほうをにらみつけ、おこした銃をガチャガチャさせた。一人の白衣がメガホンを口に当てて、「ビョーイン行キマス。心配ナイテス」と言った。佐智の父親も連れ去られた。彼は旅のあいだ、血に近いような腹下りに悩まされていたのである。  健康な大人や子供は駅を出て、黄色く濁った運河に沿ってどこまでも歩いた。運河は初めのうちは銀行やりっぱな商店の立ち並ぶ大通りの脇《わき》を流れていた。金持ふうの太々《タイタイ》(奥さん)や商人が、無感動な目で日本人の列を眺《なが》めていた。彼らはこのような情景に慣れっこになっているのだろう、と佐智は思った。薄汚れた引揚者集団は、綱こそつけてはいなかったが囚人のように面《おもて》を伏せて歩いていた。子供たちだけが、久しぶりに足が大地につくのを嬉《うれ》しがってあたりを見まわしていた。  数時間も歩いて、あの貨物列車がなつかしくなったころ、中国兵が橋を渡るように命令した。対岸に渡ると、急に空気が生臭くなった。 「ここはどこ?」と佐智はたずねた。 「海に近いところ」と母親が小さい声で言った。彼女は駅で父親と別れてから、しだいに元気を失っていくようだった。  周囲の光景は一変していた。けつまずいただけでも、倒れてしまいそうな小屋がひしめいていた。たいていの家の窓は穴だけで、壁には突っかい棒がしてあった。それでも前のめりになったり、隣にもたれかかっている家があった。老婆《ろうば》が道ばたで|※[#「ころもへん+庫」、unicode8932]子《クーズ》(ズボン)をおろして排便をしていた。引揚者が通りすぎるとき、彼女は膿《うみ》をためた熟れたホオズキみたいな目で彼らを見あげた。老婆の横には、ほころびから綿のはみ出した服を着た五、六歳の男の子が指をくわえて立っていた。彼は佐智の友だちだった車引きの息子によく似ていた。佐智が立ちどまって男の子の顔を見ると、彼はいきなり唾《つば》を飛ばして「日本鬼子《リーベンクイズ》」と叫んだ。佐智はびくりとして歩きはじめた。無惨《むざん》な旅の途中で忘れていたものが、どっと押しよせるのを感じた。男の子の一言は、トランプの切札みたいだった。よいものも、いやなものも全部集めてしまった。佐智は思い出のぬかるみに足をとられて遅れはじめた。今度は母親が不安そうに佐智をふり返った。彼女の両手は父親が置いていった荷物でふさがっていて、娘の手に触れることができなかった。 「もう少しがんばってね」彼女はあまり頼りになりそうもない調子で言った。「すぐに着くわ」 「どこに?」佐智はもう一度たずねた。 「港に。そこで船が私たちを待っているのよ」 「大きな船?」 「ええ、たぶん。だってここにいる皆が乗るんですもの」  千人ぐらいがいちどきに乗れる船のことを考えて、佐智は少し元気を回復した。  この会話を交わしたのは四日前だった。それなのに佐智は船の影さえもまだ見てはいない。ただ白いカモメが上昇気流に乗って倉庫の屋根をふわりと飛び越えたり、風がときどき潮の香を運んでくるので、港の存在を信じただけだ。佐智はそのあいだずっと、収容所に指定された穀物倉庫の中で、母親や知らない日本人と暮らしていた。倉庫の床には黄色や白い粉がこぼれていた。黄色いのはとうもろこしの粉で、白いのは殺虫剤だった。日本人が足を引きずって集結地に到着すると、待ちかまえていたアメリカの兵隊が頭上に白い粉をふりまきはじめた。皆|咳《せき》こんだり、目から涙をこぼしたりしたが、マスクで顔半分をおおったアメリカ兵は犬に蚤取粉《のみとりこ》をまぶすように遠慮なく、衿首《えりくび》や袖口《そでぐち》にまで散粉器の先を突っこんだ。ここまで佐智たちを運んできた中国兵は、その様子を薄ら笑いしながら眺めていた。日本人の体じゅうが清潔になると、アメリカ兵は「ハリ アプ、ジャップ」と言って、一人ずつ背中をたたいて倉庫に押しこんだ。佐智の番になったとき思わず尻《しり》ごみすると、彼は底ぬけに明るい瞳《ひとみ》で彼女をにらみつけ「ユー ストゥピッド ガール!」と言った。彼はろうそくみたいに背が高く、きっとこんな役目よりは戦車に乗りたいと思っていたのにちがいない。  だから床の上を歩くたびに、過剰に毛穴にたまった殺虫剤がふけのように落ちるのは当然だった。皆、四日間を白い粉と黄色い粉が混じりあって舞いたつ倉庫で暮らしていたが、だれも文句は言わなかった。なぜならこれが、収容所であったからだ。  中国側もアメリカ側も何一つ説明しなかったけれど、なぜ出港できないのか佐智にもわかった。父親たちの音沙汰《おとさた》が全然なかったのである。病院で診察を受けたのち病人たちは三|棟《むね》の倉庫の端にある鉄製のテント形の建物に入れられていた。隔離|病棟《びようとう》のまわりには人の二倍の高さの鉄条網が張りめぐらされ、全身で出ている所は目だけという出立《いでた》ちの看護人がときどき鍵《かぎ》をあけて出入りしていた。病人たちは一人も倉庫の家族のもとに戻ってこないばかりか、夜半に腹痛でうめき声をたててもたちまち隔離病棟に連れていかれるのだった。佐智の母親は娘と二人になってから、すっかりめいってしまっていた。彼女は終日むしろに座りこんで、ぼんやりと通路の方角を見ていた。日本人の男が入ってくるたびに、目が一瞬輝くのだが、すぐにまたふさぎこんだ。 「アメさんは腸チフスをとても怖がりますねん」隣のむしろの老夫婦の夫のほうが、気の毒そうに佐智の母親に言った。「自分らは高等動物やから、かかったらすぐにでも死ぬように思うとるんでしょう」  彼は佐智の住んでいた町で、薬屋を八年開いていたとつけくわえた。  その代り、一般の収容所の監視はほとんどないも同然だった。朝と晩に中国の兵隊がのんびりした足どりで敷地を一巡し、ついでに倉庫の内部をのぞきこむだけだった。申しわけに敷地の周囲にはられた銅線の隙間《すきま》は、佐智やほかの子供が十分くぐりぬけられるほど広かった。しかしだれも収容所の外に出る気持にはなれなかった。海の方角には不気味なわなが待ち受けているような気がしたし、町の方角には鼻をつまみたくなる貧しさがあった。それよりももう少しの辛抱で船に乗れる……その期待はほかのすべての好奇心を打ち消した。  道路をはさんで、やはりテント形のアメリカ兵の宿舎と物置きみたいな中国兵の宿舎が並んでいた。彼らはお互いに境界をよく心得ているようで、談笑することもなかったが、争いをする気配もなかった。そのいずれからもずっと離れて特別の宿舎があった。そこでは十数人の引揚者の家族が、佐智たちとは比べものにならない自由さで出航を待ちながら暮らしていたのである。長いスカートをはいた女たちは芝生に立てたポールに洗濯物《せんたくもの》をひるがえらせ、日本人と区別のつかない子供たちは集団で駆けまわっていた。どこから来たのか白い小犬までが、彼らの後を追いかけていた。佐智は落日の前後によく銅線のこちら側からその光景を眺めていた。過ぎたものの中で、もっとも好ましい思い出に近い雰囲気《ふんいき》がそこにあるような気がした。そこが特別区域で、佐智には手の届かぬ世界であっても、空想の中で彼女は彼らの仲間であった。  突然、小犬がこちらに向って走りだした。佐智は口笛を吹いた。犬はまだ敵も身方も見分けのつかぬ幼なさだった。足元に寄った犬を抱きあげると、生き物の臭《にお》いとともに粉ミルクの甘い香りが漂った。数人の子供たちが犬に続いて駆けてきたときも、彼女は無防備であった。むしろ彼らの交わしている意味不明の音声に聞き入っていたというほうが、本当であった。日本のそれよりも激しく上下するうねりに似た言語に、彼女は胸をつく懐《なつか》しさを感じていたのである。きっと自分はさぞだらしなく頬《ほお》をゆるめていたのだろう、とあとから想像して、佐智は唇《くちびる》を噛《か》んだ。近づいてきた一人の少年が、小犬が悲鳴をあげたほどの荒々しさで佐智の腕から引ったくったときにも、まだ彼女は気づかなかった。彼女は不意をくらって、収容所の敷地側に不様にも転倒したのである。 「何するのよう」  彼女は腹をたてながら、自分よりも年下に見える少年に向って言った。 「ダラシネエノ」  今度ははっきりした日本語で少年が言った。 「汚ネエ、チョッパリ!」  一人が歯をむき出して言った。 「チョッパリニ触ワルト、シラミガウツルゾ」 「ソンナ物、捨テチマエ、キンマンス[#小さい「ス」]オン」  どこか記憶のかなたで、この名を聞いたことがある、と佐智は感じた。しかしことさら思いだす必要はなかった。それは今の佐智には関《かか》わりがなかった。彼女は起きあがって、大切なバスケットをいじり回している八本のあまりきれいではない腕を見た。両親とともに六年間住んでいた中国の町を離れてから、昼も夜も体から離さなかったバスケットだった。旅の途中で、検査の役人たちは引揚者からいろいろな所持品を巻きあげた。しかし佐智はこのバスケットだけは、手を切り落とされても離すまいと考えていたのだ。実際にはそういう危機もなく、役人たちはバスケットのふたを開けてみると、すぐつまらなさそうな顔で持主である日本の少女に返したのである。  バスケットの逆さになった口から、幾つもの宝物が地上に落下した。夏休みに行った海水浴場で拾った骨のような貝殻《かいがら》、仲よしの車引きの息子のくれたぶどう色の小石、マザー・アメダがお別れに首にかけてくれた銀色の十字架、ラシュミーのインドみやげの象牙《ぞうげ》のブローチ、後にも先にもただ一度だけ好意を示したリリーがくれたレースのハンケチ、そしていちばん最後にまるで落ちるのをいやがっているようにゆっくりと、メリー・宋《ソン》の写真が、それらのあとを追ってきた。 「ヘェ、オ前ノ友ダチカ」写真をつまみあげて少年はせせら笑った。「汚ネエチョッパリ。オ前ニソックリ」 〈ちがうわ。メリーはとても美人だった。SHの皆からそう言われてた〉  言葉は呑《の》みにくい肝油の玉みたいに喉《のど》につかえた。佐智は無言で手を伸ばして写真を取りもどそうと試みた。 「汚ナイカラ破ッチマウゼ」  少年の指が黒い蜘蛛《くも》の足のように動く。ちょっと首をかしげたメリーの微笑を引き裂いていく。おしゃれなメリーのワンピース、メリーの立っている石の橋が消えていく。たしか橋の下は昆明《こんめい》湖だ……。 〈エリザベス、メリーを忘れてはいけないよ〉と何度も彼女は佐智に言った。星空の下でメリーの表情はよくわからなかった。佐智がしっかりと記憶しているのは、女の子にしては幾分低めの彼女の声だけだった。  朝鮮の子供たちが白い犬とともに去っていったあとで、佐智は銅線をくぐりぬけて宝物を拾い集めた。砕けた貝殻は捨てて、ブローチや十字架やハンケチの泥《どろ》をていねいに払った。それから散乱するメリー・宋《ソン》の写真を見おろした。ちりぢりに引き裂かれたメリーはもう笑ってはいなかった。彼女は泣いているように醜く顔をしかめていた。     2  佐智は戦争のあいだ、学校|嫌悪《けんお》症にかかっていた。教師たちの多くが国民学校を兵隊養成所と思いちがいをしていたために、それと同じ考えの生徒ほど注目され、ほめそやされていた。佐智の最大の楽しみは、病気にかかって国民学校を休むことだった。〈明日の朝、熱が出ますように〉と彼女はおへそに力をこめて枕《まくら》を三度頭でたたいた。ふしぎなことに、その呪《まじない》は、しばしば効力を現わしたのである。布団《ふとん》の中で彼女は手あたりしだいに本を読んだ。するとたちまち、するすると熱が下がってしまうのだった。戦争が終った日から、彼女はいつでも自由に本を読める身分になった。家の壁は隙間もないほど本で埋まっていたので、次の戦争が始まるまでに読みきることは不可能だと思った。それで気狂いじみた速力で朝から晩まで読みふけった。しかしむずかしい本やきらいな本はすぐ閉じてしまったので、佐智の頭脳の中味はどんどん片側に寄っていった。両親が娘の不自然な状態に心配して、町にあった唯一《ゆいいつ》の国際学校に入学させる決心をしたのはそのせいであった。  佐智のほうは自分がなぜここに通わねばならないのか理解しきれぬまま、SHの校門をくぐったのである。門の扉《とびら》は複雑な鉄製のばらで構成されていて、母親が手をかけるとかん高い悲鳴をあげた。二人はぎょっとしてしばらく立ちすくんでいた。正面にエンジュの木よりも高く石造の建築物がそびえていた。それは西洋美術全集の『欧州編』から跳びだしてきた聖堂のようだった。幅広いつるつるの階段に続いて、四本の柱が庇《ひさし》を支えていた。庇の中央に灰色の大天使が羽を半ば広げていた。天使は巻毛を肩まで垂らし、厳しい表情で二人を見おろしていた。建物の尖《とが》った屋根には緑青《ろくしよう》をふいた十字架が立っていた。佐智は突然逃げもどりたい衝動に駆られたが、母親が握った手を放さなかった。ここは彼女が十年間に経験したあらゆるものに似ていなかった。国民学校にいたときとは別の不安が彼女を締めつけた。  生徒たちが帰ってしまったあとで、黄昏《たそがれ》の静けさがSH学院をおおっていた。金髪の少女が急ぎ足で三色菫《さんしよくすみれ》の植わった花壇のあいだを歩いてきた。制服らしい紺に白衿のワンピースを着て、ブックバンドで数冊の本をくくりつけている。母親が立ちふさがって、短い質問をした。佐智は彼女が外国語をいくらかでも知っていることに驚いて傍《そば》に立っていた。少女は小首をかしげたあとで、自分の歩いてきた道をふり返って何か言った。 「サンキュー」と母親が言った。少女は愛想《あいそ》よく微笑《ほほえ》んで行ってしまった。  親子は三色菫がにぎやかな小人のように群らがっている道を通って、聖堂の裏に回った。そこはわずかに佐智の知っている学校の雰囲気に近かった。校舎があり、水飲場があった。校舎は水色のペンキで塗られて、窓には花模様のカーテンがさがっていた。三階の屋根に届くほどのエンジュの大樹がそびえていなかったら、ここが中国の地であるとは信じがたかった。 「SHは女の子ばかりの学校なの」と母親は娘に説明した。「向うの幼稚園には男の子もいるようだけど」  母親はあい変わらず娘の手を握りしめたまま、渡り廊下を越えていった。木造の校舎の後ろに倉庫のように窓の小さい煉瓦《れんが》の家があった。SH学院の教師たちの住む修道院だった。院長室はその中にあるはずだった。  白い大きな人が近づいてくる。佐智は目をあげて、聖堂の庇についていた大天使が降りてきたのではないかと疑った。顔の部分と指だけを残して白衣に包まれているために、男とも女とも思えるその人は、無言でじっと佐智を見つめた。糊《のり》で固めた深い帽子のつばの下の青い目には、一片の雲も浮かんではいなかった。柔い植物の葉のように産毛《うぶげ》が顔に密生していたが、少しもその人の気品を損ってはいない。 「院長先生よ」  母親が小声で言った。佐智はあわてておじぎをした。 「ソー ユー アー エリザベス」  大きな人は佐智の頭に手を置いてつぶやいた。その羽のような感触に、佐智はほとんど夢見心地になった。院長の隣にちょこんと腰かけていた小柄《こがら》の尼僧《にそう》が突然、口を開いた。彼女の目も青かったが、院長のように底深くはなくワスレナグサの花の色だった。 「……マザー・アメダ……」その尼僧はお喋《しやべ》りの途中で自分を指して言った。「エリザベス・フ、フ……フジ……フジ……モトゥ」今度は佐智を指して、ひどく言いにくそうに言った。親子が思わず笑うと、小柄のマザーもホホホと笑い転げた。そのとき急に、佐智はそれが自分につけられた新しい名であることに気がついた。『エリザベス』と心の中でつぶやいて、ひどく大げさな名のような気がして頬が熱くなった。佐智は自分の西洋人形には『ポーリー』と名をつけている。それぐらい簡単な名前なら、どうにかなじめるかもしれないが……。浮かない顔の佐智の頭を、心配そうに院長先生がもう一度なぜた。すると反撥《はんぱつ》が少しずつ溶けていくのがわかった。院長は魔法の掌《てのひら》を持っているのにちがいなかった。 「サンキュー」いやに力をこめて母親が言った。「ウィーアール ベリグラーヅ」  翌朝から佐智はSH学院の生徒になった。英語を敵視した国民学校出身者の彼女が、まず連れていかれたのはSH付属の幼児学級《インフアント・クラス》であった。佐智の首から下ぐらいしかない同級生は、大きなオモチャをもらったように大喜びをした。佐智はちびどもの人気の的になり、皆が彼女を独占したがった。前の席にいるジョイが、いつのまにか佐智のマネージャー役になっていて、ほかの子がわっと押しかけるのを順序よく調整したりした。  SHに入学した最初の日も彼はふりかえると佐智にたずねた。 「アール ユー チャイニーズ?」  ノー、ノーと佐智は手をふって「ジャパニーズ」と言った。これは予《あらかじ》め母親が彼女に教えこんだ唯一の英語だった。ジョイはこの戸籍調べに満足したらしく、それから身ぶりを混ぜて勝手に話しはじめた。ジョイの瞳は狐《きつね》のように淡い茶色で、髪の毛はとうもろこしの実についている縮れた毛みたいだった。顔の中央に鳥のくちばしのように鼻が突きだしていた。佐智は生れて初めてアメリカの男の子を近くで観察したが、戦争のあいだ国民学校で教えられつづけていたほど野蛮には見えなかった。佐智はキチキチバッタのようにかん高い音を発しているその子に、かすかな親しみを感じたほどだった。それはたぶん彼の顔をおおっているそばかすが、佐智の本棚《ほんだな》にあった『るなーる作・にんじん』の主人公と重なりあったためだ。  佐智が教室の窓から自分と同じ年ごろの東洋人の女の子を見かけたのは、それから四日目だった。彼女は佐智とは別の校舎から教科書やノートを小脇《こわき》にかかえて出てきたところだった。まっ黒くふさふさした髪を束ねてピンクのリボンで結び、背を真直《まつすぐ》に伸ばした特徴的な歩き方をしていた。あれはだれだろう、と佐智は考えた。日本の女の子みたいだった。そしてもっとよく見ようと腰を浮かせた。たちまち黒板の前にいたシスター・Jが「エリザベス、お座りなさい」とゆっくりした英語で言った。幼児学級《インフアント・クラス》ではほかの生徒より段ちがいに柄の大きい佐智は、どうしてもシスター・Jの鋭い目を逃れることができないのだ。幼児学級の授業の間隔はほかの級よりも短い。合図の鐘が鳴り終ると、佐智はもう一度黒い髪の女の子を探そうと思ったが、狐の瞳のジョイがさっそく後向きになってお喋りを始めた。  身ぶり手ぶりの混じるジョイの熱弁に、佐智は仕方なく耳を傾けたが、半分も通じはしなかった。 「ユー シー?」  ジョイが念を押した。彼はつねに一方通行の会話の果てにそう言った。佐智がいいかげんにイエスと答えると、彼は手をたたきながら笑った。幼児学級《インフアント・クラス》のちびどもがわっと寄ってきて佐智を囲んだ。まるでオレンジ畑の中に座っているような甘酸《あまず》っぱい匂《にお》いがした。金色や栗《くり》色やとうもろこし色の髪の毛が渦《うず》をまいていた。 「プリーズ」ちびどもは手に手にノートを持ち、佐智を見あげていっせいにわめいた。「プリーズ エリザベス!」  佐智は観念すると、一人の手からノートを取りあげてページいっぱいにAと書いた。 「サンキュー、ベス」  その子は舌足らずの口調で言うと引きさがった。次のノートには大きなBを書いてやった。C、Dと書いてから、佐智の手は止まってしまった。シスター・Jからアルファベットを習って三日目であった。次の字の形をどうしても思い出すことができない。級の中でもとりわけ小さいミミの番だった。 「ノー」とミミは不満気に言った。いきなり佐智の指を掴《つか》むと乱暴に動かした。雪だるまがくずれたようなEの字ができあがった。 「オーケー」  ミミは鼻にしわをよせて笑った。彼女の目と口はふつりあいに大きくて、鼻は三角定規みたいだった。  背後でシスター・Jの鴉《からす》のような叫び声がした。皆が東洋の女の子に夢中になっているあいだに、鐘が鳴っていたのである。生徒たちはちりぢりになって、自分の椅子《いす》によじ登った。シスター・Jは、白い尼僧服をひるがえして佐智の座席に歩みより、早口でまくしたてた。彼女はこう言っていたにちがいない。 〈エリザベス、あなたは幼児学級《インフアント・クラス》にいるべき人じゃないわ。もっと英語の勉強をして、早く自分の年齢にふさわしい組にお行きなさい〉  シスター・Jは佐智にアルファベットを書くことと、簡単な応答をできるだけ早く教えこもうとした。それは幼児学級の生徒が学ぶもっとも初歩の課程だったが、佐智はさっぱり進歩をしなかった。いらいらすると、シスター・Jのねずみ色の目にあるかなしかの血の筋が浮かんできた。彼女は相手には通じない言葉でがあがあ言った。佐智がしょんぼりすると、彼女はあわてて十字を切って佐智を抱きしめた。幼児学級から佐智を早く脱出させようというシスター・Jの意図はよく伝わったが、彼女に欠けていたのはこれまで佐智に施されていた教育の歴史であった。国民学校に通っていたとき、佐智はポストと口をすべらせたばかりに、『ゆうびんばこ』と何百回も帳面に書くように命じられた。ほかの国の子供なら一週間で終える過程も、英語を鬼の言葉と教えられた少女には一ヵ月以上の難行だったのである。  幼児学級に接続して糸杉《いとすぎ》に囲まれた小さな中庭があった。芝生を敷きつめた中庭はいつもひっそりとしていた。たぶん庭の中央に立っている女の像のせいだった。頭からすっぽりとかつぎをかぶり、何重にもひだの寄った青衣を着た木像は、ふしぎに幼い生徒でも静かにさせる力を持っていた。彼女は衣の下からちらりとのぞかせた素足を水盤に浸していた。彼女は両手を前方に差しだしていた。佐智が前に立つと、彼女から目には見えない大切なものを渡されているような気がした。  あるとき一人の若い修道女が、その像の前にひざまずいているのを佐智は目撃した。修道女はまだ正式の尼僧の服ではなくて、空色の長いスカートと同色の布で頭を包んだ見習生だった。修道女は佐智が蔓《つる》ばらのアーチの入口に立っているのには無関心で、ときどき袖口《そでぐち》で目を拭《ぬぐ》いながら両手を組み合わせ、悲しみがこみあげてくるとその手をねじるような恰好《かつこう》をした。ほかのシスターやマザーたちがたまに像の近くを通りすぎても、彼女に注意を払う者はだれもいなかった。 「中庭の像はだれ?」  三週間ほどたって、とうとうたまりかねて、佐智はジョイにたずねた。ジョイは目をパチパチさせて「メリー」と言い、親指を口の中に入れて引きのばした。「ザ ホリィマザー」それから人差指で鼻を上に押しあげると恐ろしいふがふが声で「ザ デヴィル!」と言った。どれが本当なのか佐智にはわからなかった。  どうやら反射的に単純な会話が口から飛びだすようになって、佐智はジョイを初め幼児学級の全員におしまれつつ、三学年に飛び級をした。     3  シスター・Jの手から佐智を受けとったのは、最初の日に院長の隣にいたマザー・アメダだった。マザー・アメダは自分の生徒たちよりやや上背があるくらいで、彼女たちに負けず劣らずお喋りが好きだった。話題は生れ故郷のカナダで少女のころ出会った鳥や獣や人についてが多かった。彼女はそれを新入生にもわかる、やさしい英語で歌うように話をした。またそれ以上に物真似《ものまね》がうまく、熱演のあまりかつぎからごま塩の髪の毛が垂れさがってきたりした。  生徒たちは幼児学級《インフアント・クラス》よりずっとふぞろいであった。大きいのも小さいのも、白いのも褐色《かつしよく》のも黄色のも、骨ばったのも、ふっくらしたのも、巻毛もおかっぱも三つ編もポニーテールもいた。ただ一つの共通点は、全員が英語を使うことだった。そうしなければ、SH学院は大混乱に陥ったであろう。たぶん国籍を記していない穀物の見本市みたいになったことだろう。  佐智は級長のジェニファーと机を並べていた。彼女はとり澄ましたイギリスの少女で、用事がないかぎり隣を向かないようにしていた。佐智の前にはインド人のラシュミーが座っていた。佐智は彼女の神秘的な大きな瞳《ひとみ》の中に、好意の印を読もうと努力したが、彼女は疑いなく級いちばん無口な女の子であった。先生に近い席には、雪姫のように真白いオリガやとび色の瞳の清純なエリザベートがいた。彼女たちは佐智と目が合うとぼんやりと微笑んだが、それはだれからも愛される子供が周囲に投げかける無意識の優しさにすぎなかった。マザー・アメダでさえ、ときどき通りすがりにこの二人の頬《ほ》っぺたにキスをすることを抑えられなかったのだから。アメダ学級の華やかな金髪の少女たちの背後には、はっきりしない色彩の、形の定まらない集団があった。そしてその中の一人に、佐智は数週間前に自分をびっくりさせた黒い髪の東洋の少女を見つけた。彼女は新入生の日本人にはほとんど注意を払わずに、横にいるやはり黒い髪の少女たちと熱心に話をしていた。  佐智は自分が気心の知れない他国の子供たちのあいだで孤立していくのを感じた。佐智はアメダ学級のたった一人の日本人で、美しくもなければ快活でもなかった。幼児学級のように背の高さで勝ることもなく、英語はおそらく級一下手くそであった。独力で友だちを作ることは、不可能に近かった。  マザー・アメダは、そのワスレナグサ色の目で一部始終を眺《なが》めていた。ある昼休み、彼女は佐智に向ってお弁当の包を持って自分についてくるように言った。SHの教師たちは本拠である修道院の共有空間のほかに、校舎の三階に小さな個室を持つことを許されていたのである。マザー・アメダは狭い階段をちょこちょこと先にたって登っていくと、自分の部屋に佐智を招じいれた。  そこは屋根裏で、天井が斜めについている奇妙な部屋であった。壁は漆喰《しつくい》がむき出しのままで、簡素な木の十字架が唯一の装飾品だった。十字架にはミイラのようにひからびたキリストが引っついていた。部屋には先客がいた。丸テーブルを囲んだ三脚の椅子の一つに腰かけている女の子だった。髪の毛は短く切りそろえ、赤いピン留で前のほうをとめていた。佐智は彼女が同じ級の生徒であることを認めた。アメダ学級にきた最初の日、ラシュミーの隣席にいる彼女を日本人だと直感したのである。しかし彼女はまだ一度も佐智を正面から見たり、話しかけたりしたことはなかったので、佐智は自分の思いちがいだと信じるようになっていた。二人は目を合わせると、何となくぎごちなく会釈《えしやく》をした。 「エリザベス、この子はジェーン・キムラです」  マザー・アメダは嬉《うれ》しそうに彼女を佐智に紹介した。 「ハロー」と無表情にジェーンが言った。佐智の口から無意識に「あたし、藤本佐智よ」と日本語が飛びだした。 「ノー、エリザベス。SHでは英語をお使いなさい。それにジェーンは日本語を知りませんよ」  マザー・アメダはまゆをひそめて言った。佐智は当惑して、先生と級友の二人の顔を交互に見比べた。ジェーンはそ知らぬふりでマザー・アメダを見つめていた。それは佐智の身に覚えのある仕草とよく似ていた。ジェニファーやオリガだったら、人を見つめるときは言葉を発するときだった。見つめて待つのは、佐智のくせだった。 「握手をしなさい、ジェーン。あなたのご両親は元日本人だから、私の級の中ではあなたがエリザベスの友としてもっともふさわしいと思います」  アメダ先生が佐智にも理解できる単語を探しながら説明していることが、よくわかった。彼女は三日月形の淡青色の目をしばたたいて、よく似た二人の生徒を代る代る心配そうに眺めた。二世のジェーンがにこりともせずうなずいたので、佐智もうなずいた。 「よかったわ」アメダ先生は両手を打ちあわせた。「さあ二人ともテーブルについて。おいしい蜂蜜入《はちみつい》り紅茶をあげましょう。私の紅茶を飲む人は、あなた方のほかには何人もいないのよ」そして佐智にこっそり目くばせをして見せた。  午後の授業の準備を告げる鐘が鳴るまで、三人は屋根裏部屋で食べたり飲んだりしていた。マザー・アメダはさかんに冗談を言い、佐智もしだいに心が軽くなるのを感じた。自分のサンドイッチを食べおわると、ジェーンは丸テーブルを離れ、礼儀正しく挨拶《あいさつ》をして退去しようとした。ふたたび本鐘が鳴ったので、佐智もあわてて彼女の真似をした。マザー・アメダの言うとおり、SHの中で二世のジェーンがもっとも日本人に近い存在であるならば、二人が仲よくするのはごく自然の成行きであろう。佐智は階段の途中でジェーンに追いつくと「待って、ジェーン」と声をはずませて呼んだ。次の瞬間、相手の反応は思いがけないものだった。 「触わらないで、エリザベス」彼女は嫌悪《けんお》をあらわにするとささやいた。「あたしはアメリカ人よ。日本人ではないわ」  佐智が無意識に彼女の肩にかけていた手を離すと、ジェーンはまたもの静かな日本の少女の顔に戻った。しかし佐智はもう二度と彼女に近づこうとは思わなかった。教室で顔を合わせても、軽く目礼を交わすだけであり、しまいにはそれもなくなって最初の状態に返ってしまった。つまりマザー・アメダの蜂蜜入り紅茶は何の効果も表わさなかったのである。  級長のジェニファーは冷ややかにであったが、公平に佐智を扱った。それに比べて中国人のリリーは、初めからSHただ一人の純日本人を毛ぎらいしているように思われた。彼女は大金持の娘で、自分の意志が通らないときは、すぐに相手をののしるか、反対に自分のほうが泣きだしたりした。リリーのこんな性格と、佐智に対する意地悪とが別物であるのを見ぬいたのはたぶんジェニファーだけだった。  ある日、簡単な|書取り《デイクテイシヨン》のあとで、佐智が母親からもらった英和の辞書を出してまちがいを調べているところへ、リリーが近づいてきた。彼女は膝《ひざ》の上に辞書をのせてうつむいていた佐智の頭上で叫んだ。 「あああ、皆さん聞いて。エリザベスがカンニングしたよ。テスト中に辞書を見たよ。先生《マザー》に言いつけてやりましょう」  気にくわない者の|あら《ヽヽ》を発見した嬉しさで、リリーの黒い目が輝いていた。彼女は辞書を佐智から奪いとって、見せびらかした。級中の生徒の視線が辞書に集中し、佐智は血の気が退《ひ》くのを感じた。弁解するほどの語学力をまだ持っていなかった。 「ノー」佐智は弱々しく言って顔を横にふった。  リリーは高らかに辞書を掲げて教壇に歩みよった。 「およしなさい」突然、鋭い声でジェニファーがさえぎった。「あなたテストの最中に、エリザベスが辞書を引くのを見たの?」  強い語調に気圧《けお》されて、リリーはしどろもどろになった。 「ううん、でも……彼女《エリザベス》は日本人《ジヤパニーズ》だから……英語が下手だけど……いい点取りたいんでしょう……だから辞書を……」 「ほかにだれか見た人はいるの?」ジェニファーが見まわしたが、名のり出る者はいなかった。「リリー、エリザベスに辞書を返してあげて。彼女はカンニングはしていないわ。隣にいる私が証明するわ」  リリーはふくれっ面《つら》のまま、手荒く辞書を佐智の机に置いた。 「ありがとう、ジェニファー」  佐智は級長に礼を言った。 「リリーがまちがっただけよ」  ジェニファーは彼女のほうを見ずに、落ち着いた調子で言った。  多少のいざこざはたいしたことではなかった。佐智が参ったのは、級友たちの独特の無関心さであった。佐智は幼児学級の酸っぱい汗をかいた子供たちがなつかしくなった。彼らはめずらしい動物に触わりたがるように、佐智のまわりに集まってきた。しかし三学年の生徒たちは、互いに遠慮しあい、むしろ他人の自由を侵すことを恐れているように見えた。これはたぶん国際学校というSHの特殊性から引きおこされた現象だっただろう。彼女たちは地球には無数の皮膚の色、髪の色、瞳の色が存在することをすでに知っていたが、それらのちがいが何を意味するのか理解するには年が小さすぎたのである。佐智は周囲にガラスの壁がはりめぐらされているような気がした。その壁を突き破るために必要な言葉の武器を、佐智はまだ手に入れていなかった。ときたま快活なマザー・アメダが明るい笑声とともに入ってきて、わかりやすい英語で話しかけてから、また壁の向うへ出ていった。そのほかにはだれも日本の新入生に積極的に近づいてくる者はいなかった。  黒い髪をピンクのリボンで束ねた少女を、佐智はいつもうらやましく眺めた。彼女には二人のやはり黒い髪の仲間がいるのだった。彼女たちは授業中は少しも目だたないくせに、休み時間や昼休みには必ず固まってはしゃいでいた。制服のスカートは、ほかの子よりも長目におろしていた。女の子たちは三人よるとはっとするほど日本語くさいが、もっとポキポキした別の種類の言葉で喋っていた。SHの内部では英語を使うという規則をうっかり忘れるらしかった。それはあたり前だ、と佐智は思った。自分にも日本語の通じる友だちがいたら、おたがいに自分の言葉を使うだろう。 「あの子たちの国はどこ?」  佐智はこっそりジェニファーにたずねた。「コリアよ」とジェニファーは教えたが、それ以上何も言わずに鉛筆を削りはじめた。 〈コリア〉と佐智は胸の中でくり返した。日本のように海に囲まれた島国だろうか、それとも中国のように大きな陸地の一部だろうか。リボンの少女はほっそりした面立《おもだ》ちをして、メリー・宋《ソン》という名であることを佐智は知った。彼女はどことなく異質のそのグループの中心人物であったが、ほかの国の子供たちとも仲よく校庭で遊んでいた。駆けていくメリー・宋の背中で束ねた髪が踊りあがり、リボンが蝶《ちよう》のように風にひらひらしていた。  佐智がもっとも苦手なのは昼食の時間であった。午前の授業が終ると、SHの生徒たちは二派に分かれて歩きだした。大部分はお弁当の包をさげて、地下のホールにおりていった。十年生以上の上級生十数人は、マザーたちを囲むように三階の食事室に登って行った。上級生たちは髪の毛にこてをかけ、胸もお尻《しり》もふくらんでいて、大人の女と変わらないように見えた。修道院に閉じこもっている尼僧《にそう》たちのほうが年上なのに、よほど子供っぽかった。  牢獄《ろうごく》のような地下室には、佐智が見たこともないほど太って大きな黒人女がいて、金だらいみたいな大鍋《おおなべ》に煮えたぎっている粟《あわ》のスープを配っていた。生徒たちは口々に「早く、早く」と言いながらカップや椀《わん》をつき出し、そのたびに大女はがみがみと叱《しか》りつけた。粟のスープがとびきりおいしいので、生徒たちは二杯目にもありつこうと急いでいたのである。佐智は一杯目にもつねにあぶれていた。金髪や赤毛の少女たちを押しのける勇気もなく、大女が魔女のような銅色の目で自分を日本人だと看破し、苦いスープを入れるような気がした。彼女は太い柱の陰に腰かけて一人でお弁当を食べていた。お弁当の中味は、母親が焼いたぶかっこうなパンで、あまり他人に見せたいものではなかったからだ。  にわかにテーブルの前が騒々しくなった。メリー・宋の一派が着席したのだった。佐智は当惑しながらも軽く目礼をした。メリーの両横には、やはり〈コリア〉の二人の少女が並んでいた。彼らはそれぞれ湯気のたつカップを運んできたのである。 「エリザベスじゃないの。スープはきらいなの?」とメリー・宋が向う側からふしぎそうに英語でたずねた。 「いいえ、大好きよ」と驚いた拍子に口走ってから、後悔をした。顔立ちが日本人と似ているからといって油断はできない。以前ジェーンから受けた屈辱が思いだされた。 「じゃあ、どうして?」  メリーは佐智の顔を遠慮なくのぞきこんだ。佐智は言葉につまった。自分の理由のない気遅れの原因を説明できるほど、佐智の英語は身についていなかった。 「貸してごらんなさい」  ふいにメリーは佐智のカップを取りあげて、黒人女のもとに駆けていった。黒人女は顔をしかめて、鍋が空っぽになっているのを示した。メリーがなおもぺらぺらとまくしたてたあとで、黒人女は後ろを向き自分用の容器から半分ほどのスープをついでくれた。メリーは微笑しながらスープを佐智の前に置いてこう言った。 「エリザベス、あんたは自分のしたいことをもっとはっきり言わなくてはいけないよ。そうしなきゃだれもわかってくれないから」  佐智はあっ気にとられて親切な相手の顔をふり仰いだ。空耳でなかったら、メリーはたしかに日本語《ヽヽヽ》で喋《しやべ》ったのだ。少し乱暴な口調ではあったが、柔みのある暖いあの言葉で……。地下室の空気がすっと動いた。今まで佐智がうろつきまわっていたのは、SHという芝居の舞台だったような気がした。薄暗い地下牢は、子供たちの陽気なたまり場に変わった。黒人女は呪文《じゆもん》を唱えつつスープをかきまわす魔女ではなくて、鼻歌の好きな太った給食係にすぎなかった。メリーの言葉は、雨あがりの太陽のように電撃的効果を佐智にもたらしたのである。佐智は自分を縛っていた英語の綱が唐突にほどけていくのを感じた。硬直しかけていた舌と唇《くちびる》がふたたび動きはじめた。 「ありがとう、メリー・宋《ソン》」  佐智は日本語で返事をした。 「この人、あたしの名前を覚えてるわ」メリーは喜んで鼻にしわをよせた。すると小鼻のまわりに分布したそばかすが集まって、茶色い島のようになった。「ええ、そうよ。この人はアンジェラ・李《イー》とローダ・金《キン》。あたしたち皆、コリアンよ」 「チョーセンって言ったほうがいいよ。エリザベスがよくわかるように」  ローダが日本語で皮肉っぽく言った。彼女は腫《は》れぼったい瞼《まぶた》の奥から、短剣のような光を佐智に投げかけていた。もう一方のアンジェラは、なぜかおどおどした様子で、佐智をちらりと見ただけだった。 「そうね」メリー・宋は平気で言い直した。「あたしたちは朝鮮で、韓国人なの」 「朝鮮……?」  佐智は驚いて三人の級友を順ぐりに見た。彼女たちはどこから見ても、日本人とそっくりだった。それでもどこかに区別があるはずだ。言葉がちがうのだもの。ふいに佐智の頭に、国民学校時代のある場面がまるで箱のふたを開いたように飛びだしてきた。 〈「井伊君、鼻クソをほじるのはよしなさい」  小田切先生が言ったので、皆どっと笑う。笑いの渦《うず》の真ん中に、痩《や》せたちっぽけな少年がいる。少年はひょろ長い頭をさげて顔をかくす。彼は両手の下で皆と同じように笑っているようにも、泣いているようにも見える。 「臭えなあ」とだれかが鼻をつまんだ声で言う。ふたたび笑いの波が広がる。小田切先生まで腰をかがめて笑っている……〉 「あたしの名前は朝鮮語で宋梅里《ソンメリ》というのよ。だから院長先生がSHではメリーにしてくれたの。梅里とメリーだったらほとんど変わらないわ。ねえ、エリザベス、あんたの名前はどうしたの」 「あたしのほんとの名前は藤本佐智で、なぜエリザベスになったかわからないのよ」 「きっと院長先生は、あんたを一目見たとき、イギリスの王女様を思いだしたのよ」  メリーはきわめて独断的に意見をのべた。佐智は自分の英名が王女の名と同じであっても少しも嬉しくはなかったが、院長が選んでくれたのだから大事にしようと決めていた。佐智は出会いの瞬間から、院長先生の透明な青い眼差《まなざし》を忘れることができなくなった。それは佐智や周囲の皆が持っている時計で決められた時間を、無にひとしいと告げているようだった。SHのほかの生徒やマザーたちと同様に、佐智は院長先生に崇拝に近い感情を抱いた。ほとんどの時間を修道院の厚い煉瓦《れんが》の壁の中ですごしていながら、彼女が実質上SH学院の守護天使であることに疑いをさしはさむ者はいなかった。  地下室で同じテーブルについた日から、メリー・宋とエリザベス・藤本は友人になった。リーダー格のメリーに従って、ローダもアンジェラもしぶしぶと佐智を認めた。もっともその関係は、中国娘のリリーが「エリザベスはメリーの尻尾《しつぽ》」と嘲《あざけ》ったものに近かった。佐智は入学以来放りこまれた英語の海に泳ぎつかれて、泳ぎの達人のメリーにしがみついたというわけだった。 「あたしが今さら日本語使いたいなんて思わないでよ」狐《きつね》のように目を吊《つ》りあげてローダ・金が言った。「あたしこんなにぐにゃぐにゃしたトーフみたいな言葉はきらいなんだから」  これは明らかにトーフみたいにぐにゃぐにゃした日本の女の子に対する当てつけであった。アンジェラ・李は黙っていたが、佐智に見せる視線はどことなく暗かった。「いいじゃない?」メリーは不服そうな仲間に言った。「エリザベスが朝鮮語知らないのは、エリザベスのせいじゃないもん」  今やメリー・宋だけが佐智の頼りであった。〈メリーがあのときスープを持ってきてくれなかったら……〉と佐智は想像した。〈あたしはSHをもうやめていたわ。一日中本だけを読んで、だれかと喋ることを忘れてしまっていたかもしれない〉 「あたし、エリザベスがあたしのほうばかり見てたのにずっと気がついてたわ」メリー・宋は照れくさそうに言った。「あんたはあたしが日本語で話しかけるとどうして思ったのさ」  とんでもない、と佐智は首をふった。〈コリアンが日本語できるなんて知らなかったもの〉  メリー・宋は深いため息をついた。 「あたしはエリザベスにスープを取ってあげなくちゃいけないとなぜ突然思いついたか、自分でもわからないのよ」  日本と朝鮮の少女はしばらく考えこんだ。それから答えが出ぬままに、顔を見合わせて微笑《ほほえ》んだ。つまり二人は最初の一言を交わしたときから、互いに気が合うことがわかったのだった。それは日本語や英語や朝鮮語には関《かか》わりのない現象で、日本ぎらいのローダであろうと何だろうとその目に見えぬものを破壊することは不可能であった。 〈「だれが割ったのですか」  小田切先生が眼鏡の奥から目玉を光らせてたずねた。教壇にのせてあった花瓶《かびん》が、真っ二つになって床に転がっている。散乱したライラックの花が花園の香りを漂わせている。 「井伊君でーす」  皆は声をそろえて言う。 「井伊君、こちらに出てきなさい」  がっしりした体格の女教師が、うら成りの冬瓜《とうがん》みたいな頭をした少年をにらみつけて言う。佐智が腰を浮かせる。落としたのは島田と岡村だ。すもうを取っていて、教壇にぶつかったのだ……。皆も知ってるはずだ。 「チカウ」少年はかぶりを振る。「ポク、シナイ」 「|ちがう《ヽヽヽ》でしょう。正確に喋りなさい。日本人なら……」  皆はもう一度わっと笑いだす。 「チガウ」少年は言い直す。「ポク……」 「ぼく」と先生が訂正する。 「ボクジャアリマセン」  少年は言いにくそうに言う。先生は今度は組の生徒たちに問いかける。 「花瓶を割ったのは|ほんとうに《ヽヽヽヽヽ》だれですか」 「井伊君でーす」と島田が後ろの席から大声で叫ぶ。今度は皆黙っている。 「わかりました。井伊、前に出なさい」  少年は目を開けて、女教師の腰のあたりをじっと見ている。島田と岡村がくすくす笑っている。佐智は目を下に向ける。パチン、パチン。場ちがいに軽やかな音が教室中に響く。 「よろしい、井伊。自分の席に戻りなさい」  少年がいくらか両頬《りようほお》を紅潮させ、それでもまだ目を見ひらいて帰ってくる〉  佐智の家は西のはずれにあったので、SHに通うには市電に乗らねばならなかった。ところが彼女の電車通学に猛反対を唱えた者がいた。佐智の家の門番小屋を借りて暮らしている車引きの高《カオ》だった。 「サーチー嬢さん、一人で満員の電車に乗る。とんでもない」高は佐智の両親に唾《つば》を飛ばして言った。「私が学校までお送りします。そしてまた迎えにいく」  もし断わったら、高は本気で怒りだしそうだった。  授業が終って、佐智がSHの鉄門を出ると、ほかのお抱えの人力車のあいだから得意満面の高と洋車《ヤンチヨ》が飛びだしてきた。高は佐智の家族に養われているわけではなかったから、その時刻以外は町で流しをやっていた。幌《ほろ》はよれよれで車体もかなりくたびれていた。しかし車を引く本人だけは、ほかのだれよりも生き生きとしていた。佐智はメリーに言った。 「いっしょに乗っていかない?」  メリーは大げさなほど嬉《うれ》しがった。 「いいの、ほんとにいいの? エリザベス」 「是《シー》、是《シー》」  高も胸をたたいて二つ返事で引き受けた。彼は佐智が最近ふさぎこんでいるのを、ひどく気にしていたのである。高は威勢のいいかけ声とともに梶棒《かじぼう》をあげた。 「そのお嬢さんの家は、どっちのほうかね」  走りながら彼は佐智にたずねた。佐智が困ってメリーをつつくと、彼女は身を乗りだしてかなり早口の中国語で高に道順を教えた。佐智は新しい友だちの語学の才能に、目を見はる思いがした。メリー・宋は少なくとも四つの言葉を喋ることができる。それにひきかえ、佐智自身は戦争のあいだ、ただ一つの言葉のみにふりまわされていたというのに……。高は小さな乗客たちを面白がらせようと、わざと弾みをつけて走っていた。二人は座席にぴったりとはまりこみ、車体が揺れるたびに、骨が鳴るほど膝《ひざ》や肩がぶつかりあった。それでも二人は上きげんだったから、人力車はぼろぼろの外観にはそぐわない陽気な笑い声を路上に落としながら通ったのである。 「いつもは両方の手をこうもりの翼みたいに広げてつかまってるのよ」佐智はメリーに言った。「だってそうしないと、角を曲がるときに隙間《すきま》の多い本棚《ほんだな》の本みたいに倒れちゃうの」  メリーの顔は、佐智の間近にあるのに少しも匂《にお》わなかった。〈あれはまちがいだ〉と佐智は考えた。〈だれかが嘘《うそ》っこに言いだしたんだ〉。メリーの頬は興奮で熱くなり、そばかすまでが赤い斑点《はんてん》に変わっていた。 「そこよ、そこよ」  メリーは伸びあがって叫んだ。高は走るのを止《や》めて梶棒をおろし、首に巻いた手拭《てぬぐ》いで汗をふいた。メリーは飛びおりると「謝々《シエシエ》、老高《ラオカオ》」と言って車引きに抱きついた。高は当惑しながらも嬉しそうに、『サーチー』の好朋友《ハオポンユウ》の頭をなぜた。  北京の街にはめずらしく、山査子《さんざし》の生《い》け垣《がき》に囲まれた木造の家だった。丸太を立てた門柱に『宋医院』という看板がかかっている。メリーはその前に立つと、近所に響きわたるほど大声の朝鮮語で叫んだ。唇に指をたてた一人の女が玄関に現われて、メリーをたしなめるように何か言った。メリーは首をすくめながら、それでも甘ったれた声で「ウォモニ、母さんよ」と言った。メリーの母親はくるぶしまでかくれるほど長い灰色のスカートをはいていた。上衣《うわぎ》はチョッキのように短くて、合せ目にリボンがついていた。 「それはありがとう」メリーの母親は日本語で佐智に言った。「今日は患者さんおりますけれども、お休みの日には遊びにいらしてください」  彼女の声は娘よりずっと細かったが、目と口はメリーと生き写しだった。 「グッバイ、エリザベス。再見《ツアイチエン》。アンニョン。サイナラー」  四ヵ国語でメリーが叫んだ。動きだした人力車に、風車のように手をふっている。佐智も負けずに手をふり回した。老高がふり向いて、白い歯をむきだして笑った。  次の日、佐智は〈コリアン〉一派が、どことなくおかしな雰囲気《ふんいき》に包まれているのに気づいた。ローダとアンジェラは佐智が「お早う」と言ってもそっぽを向いたし、メリーは佐智に話したそうなそぶりを示したが、ローダにしっかりと腕を掴《つか》まれて行ってしまった。仕方なく佐智は久しぶりに一人で地下の食事室へ行った。黒人の給食女は松の枝みたいに節くれだった腕で佐智のカップを取りあげると「おいしいスープだよ。こぼすんじゃないよ」と言って笑った。なぜ彼女のことを恐ろしがったのだろう、と佐智はメリーに会う前の自分の気持をいぶかった。  食事がすんで佐智が校庭に出ていくと、ハリエンジュがはらはらと金貨のような葉を散らしている下で、三人が険悪な表情で向きあっていた。ローダとメリーは身ぶりとともに激しく言い争いをしていた。たぶん昼食もとらずに二人はずっと言い合いを続けていたのだろう。二人の髪の毛にも制服の肩にも、黄色い落葉が何枚もとまって生き物のように震えていた。佐智にはこれほどの勢いで、相手を屈服させようとした経験が全然なかった。しかも互いに友だち同士なのに。SHの中でたった三人しかいない〈コリア〉の仲間ではないか。佐智だったら多少のことはがまんしてしまうだろう。  まるで審判官のように二人の傍《そば》に立っていたアンジェラ・李が佐智を見つけた。彼女は無言で佐智の前に立ちふさがった。 「どうしたのよ、メリーは……?」 「何でもないのよ、エリザベス」  明らかにアンジェラは佐智を向うに追いやりたがっていた。その声を聞きつけて、ローダ・金がさっとふりむいた。 「昨日メリーは親友を家に招待しました」と英語の文法《グラマー》の教科書の例文を、わざとらしく唱えた。  メリーはローダをさえぎると、朝鮮語で彼女をののしった。ローダもふたたび向き直ってののしり返した。佐智は困りきってアンジェラ・李に言った。 「メリーはあたしを招待したりしなかったわ。あたしが人力車でメリーを送っただけだもの」  アンジェラ・李は、ふだんの彼女らしくないはっきりした調子で言った。 「それでもあなたたちは、フェアではなかったわ。黙っていってしまったんだから」鼻白んだ佐智に、彼女は追い討ちをかけた。「それにあたしたちは、どちらかが悪いと認めるまで話を続ける。日本人とは|ちがう《ヽヽヽ》のよ」  佐智はいつも穏やかなアンジェラにふいに突きとばされたような気がした。|ちがうのよ《ヽヽヽヽヽ》と彼女は日本語で言った。もしSHにふさわしい英語だったら、こうつけ加えたかったのではないか。〈それでもあたしたち、あなたと遊んであげてるのよ〉 〈めずらしく井伊君が隠れ鬼に加わっている。井伊君はすばしこいが、皆の集中攻撃を受けて何度でも鬼にあたる。でも井伊君は嬉しそうにへらへら笑っている。最後にまた鬼になって、手拭いで目から耳までぐるぐる巻きにされて立っている。ベルが鳴る。皆で指をたててしめしあわせ、こっそりと教室に戻《もど》る。耳にふたをされた井伊君は少しも気づかずに、人影のなくなった校庭を探しはじめる。よろめきながら、いつまでもいつまでも……。教室の中では子供たちが、お腹《なか》をよじらせて大喜びをしている〉     4  メリーとローダのあいだでどういう決着がついたのか、佐智は知らなかった。三人のうちだれもそれを口に出す者はいなかったが、佐智と〈コリアン〉派の関係は見かけ上平和を取りもどしていた。佐智はフェアでないと言われたのがこたえたので、あれ以来特別にメリーを誘うことはしなかった。ある日、教室の隅《すみ》でこっそりとメリーが佐智にささやいた。 「毎朝二十分早く起きてよ、エリザベス。そして二十分早く学校に着いて、二人で遊ぼうよ」  メリーの提案は佐智の気に入った。朝は皆ばらばらに登校するのでローダにも文句はつけられない。これならアンフェアにはならないだろう。佐智は車引きの高《カオ》に登校時間を早めてもらえないか、ともじもじたずねた。 「いいですとも、サーチー嬢さん。高《カオ》も町に早く出ていけば、それだけたくさん稼《かせ》げるよ。いいこと二人にあるね」  そう言って高は佐智の頼みを聞いてくれた。  十二月に入ると、朝の冷えこみは厳しかった。佐智は母親の仕立直しの黒い半コートを着て、足踏みしながら待っていた。SHの象徴である鉄のばらは、繊細な氷の花に変わって朝日にきらめいていた。いつも待つのは佐智で、待たせるのはメリーだった。メリーの朝寝坊のくせは、佐智に対する友情でも治すことができないらしかった。佐智が腹だちの虫をやっと抑えていられたのは、朝のお祈りを終えて聖堂からおりてくるマザーやシスターのおかげであった。 「お早う、エリザベス」  階段の下に立っている佐智を見て、どの尼僧《にそう》も優しく声をかけた。なぜこんな所に立っているの、とたずねる尼僧は一人もいなかった。彼女たちは夏とほとんど変わらぬ服装をしていた。白いかつぎの下から様々の色の瞳《ひとみ》が、面白そうに寒さに震えている日本の女の子を見て通った。彼女たちには年齢がなかった。ひどい年寄りのようにも、佐智の母親の年齢に達してもいないようにも思えた。  メリーは息を蒸気機関車のように噴きだして走ってくると、「ごめんね、エリザベス」と必ず言い、佐智の腕を自分の腕に巻きつけるとぐいぐい引っぱっていった。まるで自分のほうが先に来ていて、遅れたのが佐智であるように。彼女のオーバーは若葉色で、靴下《くつした》が隠れるくらい長かった。二人はじっとしていると寒いので駆けるほどの勢いで校庭を動きまわりながら、思う存分話をした。いちどきにたくさんのことを話そうとするもので、少したつと初めに何の話をしていたのだか、さっぱりわからなくなった。とにかく始業の鐘が鳴るまで、二人は八〇パーセントは日本語で、二〇パーセントは英語の割合で喋《しやべ》りまくった。  あるとき中庭の前を通りかかると、「ホッホ、ホッホー」というふくろうの声がした。二人がびっくりして糸杉《いとすぎ》の梢《こずえ》を見あげると、マザー・アメダが尼僧帽が転げおちるほど笑いながら、幹の後ろから現われた。 「あなたたちのお喋りは全部聖母様に聞かれているのよ。わかって?」マザー・アメダはワスレナグサ色の片目を悪戯《いたずら》っぽくつぶって言った。「だからお祈りも忘れないようにしなさいね」  アメダ先生が行ってしまうと、メリーは肩をすくめて言った。 「アメダ先生は大好きだけれど、あたしはお祈りも聖母様もぜんぜん信じないわ」 「でもメリー、あなたの名前は聖母様と同じなのよ」と佐智が指摘すると、メリーは突然反抗した。 「ノー、エリザベス。ノー」メリーの調子はほとんど嫌悪《けんお》に近かった。「あたしの本当の名前は宋梅里《ソンメリ》よ。メリーと梅里は同じ名前。聖母様からもらったんじゃないよ。覚えといて、エリザベス」  佐智はメリーの気迫に打ち負かされてうなずいた。半年前にエリザベスと名づけられたときに自分も抱いた違和感を思いだした。しかしSHの生活になじむに従って、与えられた名も気にならなくなった。初めは奇妙に思えた朝の礼拝や食事の前の祈祷《きとう》の習慣と同じように、SHの一部として定着しかけていた。そういえば、友だちになったばかりのころ「あんたはエリザベスよりサチって呼ばれたい?」とメリーにたずねられたことがあった。佐智が「どちらでも……」と生にえの返事をしたので、メリーはちょっととまどった表情をした。しかし佐智には、メリーが名前にこだわる理由がよくわからなかった。佐智は自分が所属する器によってしじゅう形を変える液体みたいな気がした。それに比べてメリー・宋は、体の芯《しん》に形をくずさない針金を通しているようだった。彼女こそ、SHが理想とする鉄で作ったばらにふさわしい生徒かもしれない。ところが朝寝坊だけは、彼女の鉄の芯をぐらぐらさせる弱点だった。ついに一ヵ月もたたずに、二人の朝の散歩は、メリーの一方的な遅刻のせいで解消されてしまった。  佐智は聖母様についても、メリーと異なる印象を抱いていた。それはたぶん幼児学級《インフアント・クラス》にいたときに、中庭に置かれたマリア像の印象が強かったせいだった。青い衣の聖母様はつねに佐智に手を差しだしていて、佐智は三年級になっても無性にその前に行きたい衝動に駆られるときがあった。この気持はマザーやシスターと共通なのかもしれない。佐智は漠然《ばくぜん》と考えた。これが〈信仰《ビリーフ》〉というものなのだろうか。実際にメリー・宋にも打ちあけず、彼女は中庭の聖母を確かめに出かけた。  彼女は半年前と同じように、ひっそりと立っていた。水盤には氷が張りつめて、裸足は不透明な層の下に埋もれていた。佐智はどきどきしながら右手をのばして、聖母マリアの指に触わった。外気が冷たいので、指はまるで血が通っているように温く感じた。佐智は大急ぎで手を引っこめてあたりを見まわした。自分の行為がよく理解できなかったのだ。上を向くと微笑をたたえて日本の少女を見おろしているマリアと目が合った。〈ただの木ぼりの人形だ〉佐智は自分に思いこませようと思った。〈生きてなんかいない〉その一方で佐智は確信した。聖母様はちゃんと自分を見て、覚えてしまった。SH学院のどこにいても、もう佐智はマリアの視線から逃れることはできないだろう。佐智はこの確信をメリー・宋には告げなかった。どうせメリーは、むきになって否定するにきまっていた。佐智はローダのように、友だちとどこまでも議論をする気にはとてもなれなかった。友だちがある点で自分とちがっていても、それが二人のあいだの障害になるとは思えなかった。  けれどもメリーのような不信心者でもSH学院にいるかぎり、年に一度は、聖母に関心を持つ時期が来た。冬休みの前に皆が楽しみにしている聖劇《ページエント》の上演であった。 「私のクリスマス・パーティに必ず来てよ、エリザベス」天使の衣裳《いしよう》を着たメリーが言った。「ほかの子に呼ばれても、あたしんところに来てよ」 「わかったわ。でも先にこれを手伝ってよ、メリー」  佐智は細長いずだ袋のような衣裳の中から答えた。不器用な彼女は、さっきからその衣裳と悪戦苦闘を続けていたのである。 「オーケー」と言って、メリーは翼に引っかかっていた裾《すそ》をはずして床に引きおろした。  マザー・アメダがせかせかと楽屋に入ってくると、二人の小天使を満足そうに眺《なが》めた。かいば桶《おけ》の中のキリストをのぞきこむこの役を、メリーと佐智に割りふったのはアメダ先生だった。皆はマリアの次に人気のあるこの役は、『清純なエリザベート』と『雪姫のオリガ』に行くべきだと思っていたらしい。マザー・アメダが配役を発表すると、級長のジェニファーが落ち着いた声で意見をのべた。 「天使が黒い髪をしているのは、おかしくはないでしょうか」  三十人の生徒はしんとして考えこんだ。そうだ、クリスマスのカードでも天使は金髪か栗色《くりいろ》の巻毛にきまっている。突然、メリー・宋が椅子《いす》からたちあがって、興奮のあまりどもりながら言った。 「あたしたちが、小、小天使の役をするのに、反対の人はいったいだれなの! 白い女の子たち?」  佐智は恥ずかしさでちぢみあがった。マザー・アメダはまゆをひそめてたずねた。 「ラシュミー、あなたの考えはどう?」  印度人《インデイヤン》の女の子はおずおずと立ちあがると、独り言のようにつぶやいた。 「聖母マリアになるテレーズだって、髪の毛は黒に近いでしょうに」  言い終ると、急に青黒かった頬《ほお》に血がのぼってくるのが見えた。 「そうね。テレーズ・ブレッソンを選んだのはあなたたちでしたよ」  マザー・アメダは教室中を見まわして言った。聖母役の生徒だけは、毎年全校の生徒の投票で選ぶことになっている。今年は予想どおり五年級のテレーズが当選したのだった。彼女は黒褐色《こつかつしよく》の輝く目に特徴のあるフランスの少女だった。 「いいですか、ジェニファー」とマザー・アメダが念を押した。 「配役に反対をしたわけではありません。疑問を正直に言っただけです」  級長は、冷静に答えた。そのときヒューッとかん高い口笛が聞こえたので、生徒たちは顔を見合わせた。ジェニファーは赤くなって腰をおろした。 「だれですか! 下品な音をたてたのは……」  マザー・アメダがきっとなって言った。メリーにちがいない、と佐智は思った。彼女はこういうことには、およそがまんができないたちだったから。  天上を指している右手が重石《おもし》を吊《つ》っているようにだるくなる。マリアや羊飼いをへだてて反対側にいるメリーの左手も同じように重いであろう。観客席は静まりかえり、何百個の目が舞台を注視している。スポットライトを浴びているのはテレーズ・ブレッソンである。うつむいて桶の中の赤ん坊を見守るテレーズの横顔に佐智は見とれていた。陶器のように滑らかで少し濃い肌《はだ》の色が、ベールの下から流れだす小川のような髪によく映える。細いしかし強靭《きようじん》そうな首に続いて、ふっくらとした胸が息づいている。中庭に立っている聖母像が田舎のマリアなら、テレーズは都会のマリアであった。どちらが本物に近いのか佐智にはわからない。 「ハレルヤ、ハレルヤ」  両側から聖歌隊のコーラスがわき起こり、舞台の袖《そで》から宝物を捧《ささ》げもった東方の博士たちが現われた。佐智とメリーに与えられた務めは、聖劇《ページエント》のあいだ身動きをせずに手をあげていることだった。背につけた翼が震えたりしては天使の役は失格である。額につけた星の冠が皮膚を刺激するのにも、耐えねばならない。黒い髪の天使はやはりだめだといわれたくなくて、佐智はがんばった。  劇が終了して幕がおりると、出演者たちはだれかれとなく握手したり、抱きあったりした。マザー・アメダは野兎《のうさぎ》みたいに皆のあいだを跳ねまわり、やたらに「よくできたわ」と連発した。  マリアの衣裳を着たままのテレーズは、佐智を抱きしめてささやいた。 「とても愛らしい天使だわ、エリザベス」  彼女は百合《ゆり》の花の香りがして、佐智よりも頭半分ほど背が高かった。佐智は心臓が早く打ちはじめるのを感じた。 「劇が終っても仲よくしましょうね」  佐智は赤くなって返事ができなかった。テレーズ・ブレッソンはほかの出演者よりも自分に特別の好意を持っているのかもしれない。彼女に憧《あこが》れている下級生は何十人もいるはずである。メリー・宋は面白くなさそうに佐智にたずねた。 「テレーズはあなたに何を言ってたの?」 「ずっと友だちでいましょうって、言っただけよ」 「彼女はエリザベスのこと何も知らないじゃないの」メリーはプンプンしながら言った。「きっとからかっているのよ。仏人《フレンチ》は気まぐれだから……」  しかしテレーズは気まぐれで佐智にささやいたのではなかった。劇の後始末を終えて、佐智がメリーたちといっしょに帰ろうとすると、校門の前にテレーズが四年級の妹のヨランダとともに立っていた。外交官の娘のブレッソン姉妹は、迎えに来る自家用車を待っていたのである。目礼して通りすぎようとした〈コリアン派〉に混じっていた佐智を、テレーズは呼びとめた。 「ミス・フジモトゥ」彼女は大人っぽい調子で言った。「明日の朝、三十分ほど早く来てちょうだい」  それは実に堂々とした要求の仕方だったので、佐智は思わずうなずいてしまっていた。メリー・宋と佐智の朝の散歩のあっけない結末を思いおこすひまもなかった。テレーズはにっこりすると、さっさと妹の所に戻って彼女の肩に手をまわした。三人の友人は少し先のほうで、呆《あき》れた顔で立っていた。メリーはもちろんひどくきげんを損じていた。 「なぜテレーズがあんたと会う用事があるの?」  佐智はほんとうにわからないので黙っていた。メリーは足もとの小石をけとばした。理由がないということが、彼女は大きらいだった。 「何かヒミツあるよ、テレーズとエリザベスのあいだには……」  ローダ・金《キン》が丸い鼻をうごめかせて言った。 「あるはずないわよ。聖劇《ページエント》に出ただけだもの。メリーだって知ってるでしょう」  佐智は懸命に弁解をした。 「エリザベスはあたしに隠しごとなんかしないわ」  メリーは自信たっぷりに言った。 「でもうらやましいわ」アンジェラ・李《イー》がいつになく熱っぽい声で言った。「あんなすてきな上級生にエリザベスは明日一人だけで会うんですもの、ね、何を話したかあとで教えてね、エリザベス」 「おやおや」メリー・宋は口を大きく開き、ため息をもらした。「アンジェラまでおかしくなっちまったわ。あらお迎えよ、エリザベス」  老高が息せき切って町角を曲がってくる姿が見えた。最後の乗客の目的地がきっと遠方だったのであろう。定刻よりずいぶん過ぎていたのである。三人は佐智をその場に残して、電車の停留所のある大通りの方角に歩いていってしまった。メリー・宋の背中は、SHで初めて佐智が見かけたときのようにまっすぐに立てられていた。佐智はため息をついた。テレーズ・ブレッソンはたしかにほかの人を深く捕らえる独特のものを持っている。美しいというだけの少女なら、SHには何人もいるだろう。しかしテレーズはただそこにいるだけで、他人の関心を吸いよせてしまうところがある。皆がテレーズの傍《そば》に行きたがったが、さて行ってから彼女が黒褐色のきらめく目で見つめると、何の用事だったか忘れてしまう。佐智はそういうテレーズに魅せられていて、メリーはテレーズのその不可解さにいらいらしているのだった。〈信仰《ビリーフ》〉の問題と同じだ、と佐智は思った。  人のよい車引きの高は、もう一度佐智の願いを聞き入れて早目に車を出してくれた。聖堂の下に立つと、佐智はテレーズが自分をからかっていたのではないかと疑いはじめた。華やかなSH学院の中では、むしろくすんで目だたない少女である佐智に、花形のテレーズが友情を抱くわけがないではないか。佐智は不安定な心のまま階段を見あげた。灰色の大天使が嘲《あざけ》るように佐智を眺めていた。SHに来た最初の日に、大天使を見あげてやはり逃げ帰りたくなったことを思いだした。聖堂の扉《とびら》がゆっくりと開いた。一瞬、焔《ほのお》が内側から滑りだしてきたような気がした。真紅《しんく》の外套《がいとう》を肩に羽おったテレーズが、石段の最上段に立って佐智を眺めていた。 「今、いくわ。エリザベス」  テレーズはとても静かな声で言った。そして佐智から目を放さずに、そろそろとおりてきた。まるで佐智が臆病《おくびよう》な小鳥で、騒ぐと飛んでいってしまうと心配しているみたいだった。テレーズは佐智の手をすばやくとった。霜焼けで紫色に腫《は》れている指を見て、まゆをひそめた。 「こんなに冷たくしちゃってごめんなさい。今朝はいつもよりお祈りが長くなってしまったの」 「毎朝お祈りをしているの? マザーたちといっしょに?」  佐智は意外なことを聞かされて驚いてたずねた。 「そうよ、おかしい?」テレーズは少し笑いながら言った。「あたしはお祈りするのが好きよ。だって熱すぎる心をさますには、冷えきった床の上にひざまずくのがいちばんだわ」  何のことだか佐智にはわからなかった。しかし赤い外套のテレーズは、まったくすてきな上級生だったので、佐智は賛嘆の眼差《まなざし》で彼女を見つめつづけていた。テレーズは急に短い笑い声をあげた。 「エリザベス、あたしたち、よく似てるのよ。仲よくしましょうね」  それから手と手をつないだまま、まるで幼ない子をあやすように、自分の周囲を佐智に回らせて、嬉《うれ》しがった。  テレーズ・ブレッソンの魅力に対抗できるものを、佐智はまだ知らなかった。佐智は毎朝、吸いよせられるようにテレーズと会っていた。約束にルーズだったメリーとちがって、テレーズはあの日以来、お祈りを早くすませて、待っていてくれた。広い聖堂の石段の上にテレーズの焔のような外套を見つけるたびに、佐智の心臓はおかしなことにぴくんと跳ねあがった。外套の中味にも、佐智の知っているだれよりも熱い血が流れていた。テレーズは佐智が暗い目をしていると言い、瞼《まぶた》を閉じさせて呪文《じゆもん》をかけた。 「はい、私たちは今花園にいます。紅ばらと白ばらの香りが漂い、水色の蝶《ちよう》が飛びまわってます。ほら目を開けてエリザベス。世界はこんなに明るいわ」  しかしいくら佐智が努力をしても、テレーズと自分のほかには庇《ひさし》の天使が恐ろしい顔をしているだけだった。燃えさしのように黒っぽい糸杉の梢にも、花々の幻影は浮かんでこなかった。むしろ佐智はテレーズとともに、石けりや追いかけっこをするほうが楽しかった。それらは実際に体を暖めたし、佐智の年齢にはぴったりの遊びであった。  メリー・宋《ソン》は、佐智とテレーズの友情には無関心のように見えた。テレーズと遊ぶのは授業前のひとときに限られていたので、佐智は昼間はあいかわらず〈コリアン派〉といっしょに過ごしていた。どうせ寝坊のメリーは、テレーズを押しのけて朝早く遊ぶことはできないのだ。はりつめた一種の均衡の上に佐智は立っていた。  ある朝、階段を駆けのぼると、テレーズの代りに妹のヨランダが立っていた。 「姉さんは風邪を引いたので、学校に来られなかったの」  ヨランダは紫色に変わった唇《くちびる》を無理に動かして言った。彼女はテレーズにあまり似ていなかった。姉が濃いぶどう色の瞳《ひとみ》をしているのに、妹の瞳は漂白されたように淡かった。 「これ姉さんから……あなたに渡してって」  佐智は封筒を受けとったが、すぐオーバーのポケットに入れた。するとポケットの中がテレーズの体温で熱くなるような気がした。 「読まないの?」  ヨランダは唇を嘲るように曲げて言った。佐智は黙って頭をふった。 「姉さんが、あなたと気の合う理由を教えてあげましょうか」  ヨランダは外套のポケットに手をつっこんだまま、同じ調子で続けた。佐智は聞き耳をたてた。 「彼女の血は八分の一だけ日本人《ジヤパニーズ》だからよ」ヨランダは薄く笑った。「彼女のお母さんは四分の一だけど……」 「あなたはどうなの、ヨランダ」  衝撃を受けながら、佐智はたずねた。 「私は純粋の仏人《フレンチ》よ」ヨランダは軽く言った。「私たちの家族は二人の母親を持っているのよ。でも別にそれだからって、どうってことないわ。私とテレーズはとても仲のよい姉妹ですから」  テレーズの封筒はほのかに香水の匂《にお》いがした。それはテレーズの身近にいるよりも、かえって強く彼女の存在を佐智に感じさせた。封筒の中味は外交官の家でのパーティの招待状だった。テレーズ・ブレッソンに焦《こ》がれる生徒のだれもが、躍りあがって喜ぶ貴重なものだった。パーティの日は不運にも、メリー・宋の家に行く約束の日と重なっていた。佐智はテレーズに招待状を返した。 「どうして、エリザベス? 御両親に禁じられたの?」  テレーズは山ぶどうの実に似た瞳に驚愕《きようがく》の色を浮かべた。佐智は頭を横にふった。テレーズは彼女の肩に手を置いて揺すぶった。 「だめよ、あなたが来なければ意味ないんだから。クリスマス・パーティなんて毎年同じことよ」テレーズはかすかな嫌悪《けんお》さえ感じられる調子で言った。「ねえ、来てちょうだい、エリザベス」 「あたし、メリー・宋に招《よ》ばれているの」佐智は仕方なく言った。「小さなパーティだけど、ずっと前から約束してあるの」  テレーズが急に身を引くのを感じた。 「そう、あなたはあのコリアンの親友だったわね」  佐智はテレーズの声に恐ろしい響きが含まれているのに気づいて、おずおずと目をあげた。テレーズ・ブレッソンの小型の太陽のような目が、佐智を焼き滅ぼそうとしていた。彼女は風邪を引いたあとの、しゃがれた声で続けた。 「あなたは、あたしか彼女かどちらかを選ばなくてはならないのよ。二人《ツーパーソンズ》を同時に愛することなんかできないんだから」  佐智は目が回りそうだった。こんな難題を突きつけられたのは、生れて初めてだった。メリー・宋はたしかに佐智の親友だった。しかし佐智がテレーズの魅力に圧倒されているのも事実だった。なぜどちらかを選ばなくてはならないのだろう。パーティに行かれないことは、テレーズをきらいになった証拠ではないのに。 「エリザベス、はっきり決めてちょうだい。あなたの正直な心臓《ハート》の中を、私見たいの」  テレーズは容赦なく佐智につめよった。長い髪の毛は赤い外套にとまった不吉の黒い鳥のようだった。しかし特徴のある目の輝きは、あふれ出てきた涙のために曇ってしまっていた。彼女は悲嘆の聖母マリアだった。たぶんキリストを殺された直後の……。佐智は首をたれて、弱々しくつぶやいた。 「あたしはメリーの家に行かなくちゃ……」  テレーズ・ブレッソンは後ろを向くと、つるつるした御影石《みかげいし》の階段をおりていった。段の下につくと、彼女はしばらく日本人の下級生を見あげていた。もう目は乾いてしまっていた。佐智は息をつめて彼女を見守った。テレーズはちょっと唇をゆがめたように見えた。すると妹のヨランダの表情とそっくりになった。唇はかすかに震えていた。「ママン」と聞こえたような気がした。しかし神経のたかぶった佐智の聞きちがいかもしれなかった。     5 〈井伊君。あたしは三年二組にいたあなたに一度だって意地悪したことないわよね。あたしはほかの子のようにあなたに対して「チョーセン」と言ったこともないし、そばを通るとき大声で「クサーイ」と鼻をつまんだこともない。でもあたしはあなたの顔立ちをよく覚えてないの。それは井伊君がいつも下ばかり向いていたからではなくて、あたしにとって井伊君がとるにも足りない存在だったからよ。あたしはあなたが泣いているのを二、三回見たけれど何も感じなかった。チョーセンはいじめられて泣くのが当りまえな子供なんだと思っていた。別にチョーセンでなくても、組の中に一人や二人必ず血祭にされる子がいるものよ。でもチョーセンが組の中にいるだけで、組の団結心が強くなるって先生が言った意味がわかったわ。そういうことだったのよ〉  宋《ソン》医院の庭の半分は芝生になっていたが、あとの半分は棘《とげ》の生えた草で埋まっていた。低温と乾燥のためにどちらも芯《しん》まで枯れていて庭じゅうに黄色いもやが漂っているように見えた。草には扇型の実がたくさんついていて、割目から黒い種子が飛び出していた。佐智がめずらしそうに見ていると、メリーが言った。 「これはアブゥジが植えたのよ。あたしや阿里《アリ》のお腹《なか》が痛いとき、この葉を煮て飲ませてくれるわ」  メリーの父親は玄関に近い診察室で働いていた。眼鏡をかけて顎《あご》ひげを生やしたアブゥジは、佐智の父親よりもずっと老人に見えた。アブゥジは診察の合間に窓際《まどぎわ》によって、娘と友だちが遊んでいる情景を眺《なが》めた。メリーが気がついて手をふると、父親はにっこりとうなずいて見せた。植えこみの向うをたえず患者が通っていた。彼らにはクリスマスなんて来ないらしかった。彼らは中国人のようにも朝鮮人のようにも日本人のようにも見えた。要するに無言でいるかぎり、佐智にはどの患者も同じように見えた。  初め兎跳び競走、次に目隠し鬼をした。佐智はこの遊びがきらいだったが、ローダが強く主張したのである。運悪く佐智は最初に鬼に当たってしまった。消毒の臭《にお》いのする宋医院のタオルで目をふさぐと、急に太陽がかげったように寒くなった。佐智がきらいなのはこの妙なうすら寒さであった。自分一人しか地球にいない、タオルの内側にいるとそう信じられてくる。 「メリー」  佐智は呼んでみた。 「ハーイ、エリザベス。アイム ヒヤー」  SH学院の生徒らしくメリーが英語で答えた。 「アイム ヒヤー。ガラァ、ガラァ」  ローダが背後で鴉《からす》の鳴き真似《まね》をした。魔法使いがローダに化けているのではないだろうか。ローダの細い長い吊《つ》り目が、ときどき異様な光を放つのに佐智は以前から気がついていた。いるにちがいないと思った方角にメリーはいなかった。メリーの形をした生暖い空気の塊りに触れただけだった。 「アイム ヒヤー、エリザベス」  今度は声を震わせて、ローダが叫んだ。だれかがぐるぐると佐智の周囲に円を描いた。佐智は魔法の輪の中に閉じこめられた。必死に手をのばしたが、そのたびに空《くう》を捕らえただけだった。だれも佐智に協力する気のないことは明らかであった。永久に自分は〈鬼〉のままで輪の中で踊りつづける。突然、靴《くつ》の先が草の根に引っかかり、芝生の上に引っくりかえった。佐智は倒れたままじっとしていた。半分ずれたタオルの端から、青空が侵入してくるのがわかった。生ぬるい涙がゆっくりと一滴|頬《ほお》を伝わった。 〈井伊君はけっしてのろまではなかった。彼はむしろすばしこかった。敵機来襲のサイレンが鳴ると、だれよりも早く防空壕《ぼうくうごう》に走ってくることができた。それなのに佐智は狭苦しい穴蔵の中で、一度も彼の姿を見たことはなかった。ぶきみなB29の轟音《ごうおん》が通過して、校庭がふたたび蝉《せみ》しぐれにおおわれると、佐智はほかの子どもたちといっしょにごそごそ入口から這《は》いだした。佐智は一回ならず井伊君が、樫《かし》の木の根方でぼんやりと空を仰いでいるのを見かけたのである。皆が歩きはじめると、彼は少しふてくされたように列の後ろについてきた。佐智は井伊君が暗い所を怖がって、壕に入るのを拒否したのだと思いこんでいた。実際にB29の編隊は日本本土を爆撃しにいくので、この町を通過していくだけだということは知れわたっていた。皆で壕に逃げこむのは、国民学校の規則だったからにすぎない。  枯れた芝生に倒れた瞬間に、佐智にはわかった。井伊君は閉めだされたのだ。井伊君が|臭い体《ヽヽヽ》を持っていると信じこんでいるだれかによって。入ろうとする彼を突き飛ばしたのは級友かもしれない。しかし防空壕に入った最後の一人は小田切先生ではなかったのだろうか。つまり三年二組全体が仲間の一人に向ってふたを閉めたのだ。自分はそのとき何をしていたのだろう、と佐智は思った。だれでもあらゆる瞬間に何かをしている。何もしていないことはありえないことなのに〉 「エリザベス、エリザベス」メリー・宋が呼んでいる。タオルがずらされ青空が落ちてくる。反射的に佐智は目をつぶってしまう。「だいじょうぶなの?」  佐智がうなずいて起きあがると、メリーが面くらったような表情で立っていた。ローダとアンジェラもぽかんとしている。だれも佐智が感じたことを悟ってはいない。悟られてはいけない。佐智は笑った。 「狸《たぬき》ねいり」 「別のことしようよ」  メリーががっかりしたように言った。 「もう一個、どうですか、藤本さん」  メリーの母親は娘の友だちにていねいに手製のスポンジケーキを勧めた。バターも蜂蜜《はちみつ》も卵も牛乳もちゃんと入ったケーキだった。佐智の母親が焼く水とズルチンのビスケットとは根本的にちがっている。佐智がものも言わずに食べているのを、メリーの母親は気がついたにちがいない。佐智は彼女の水色のチョゴリからたれさがっているリボンを眺めて考えた。〈どうしようかな。あと一個……〉 「エリザベスはもっと太ったほういいよ」  メリーも口いっぱいに頬ばって言う。 「そいじゃ、あたしが食べてはいけないみたいじゃないか」  ローダがぷんとふくれた。ローダの顎はくびれて二重になり、瞼の上にも脂肪がたまって腫れぼったく見える。 「ローダは今のままのほうかわいいよ」とメリーがあわてて言い直す。会話が全部日本語で行われているのは、皆が佐智に協力しているからだ。佐智はローダにもかつてないほどの親しみがわきおこるのを感じた。アンジェラ・李《イー》は黙って微笑《ほほえ》んでいた。彼女は今日は白い朝鮮服を着ていた。それはいつもよりアンジェラをずっと大人っぽい感じにしていた。メリーの妹の阿里にアンジェラの服を見せながら、母親が言った。 「とてもよく似あうわ。梅里《メリ》もチョゴリとチマを着るように言ったのに……」 「だってウォモニ、あたしワンピースが好きなんだもの」  メリーはリボンとおそろいのふかふかした洋服を着ていた。〈メリーさんの羊〉と佐智はぼんやり思った。彼女はとてもおしゃれで、学校にいるときも、しじゅう窓《まど》硝子《ガラス》に自分の姿を映すくせがあった。佐智だけは制服のままだ。 「藤本さんは一人娘さんね。さびしくはないのですか」  メリーの母親は国語の教科書みたいに正確な日本語を使った。そのために相手にもいいかげんな答は許さないぞという印象を与えた。「ときどきは……」と佐智は答えたが、本当は心底からそう思ったことは一度もなかった。兄弟姉妹がいるという感じは、佐智にはわからない感覚の一つだった。彼女はつねに世界に一人で存在していたし、ほかの人だって結局はそうにちがいないと信じていた。  メリーの母親は今度はローダ・金《キン》のほうに向きなおると、朝鮮語でささやくようにたずねた。ローダは顔をあげると、朝鮮語で長い返事をした。途中で一度言葉を切り、ちらと佐智を眺めたが、また激しい調子で言いはじめた。唇が震えだし、目が真っ赤になっていた。皆はしんとなって聞いていた。母親のチョゴリの膝《ひざ》に座っていた阿里が泣きはじめた。母親は細くそった眉《まゆ》をあげて「だいじょうぶよ」と言い、阿里の手にスポンジケーキを握らせた。ローダはひとしきり喋《しやべ》ったあと、気がぬけたように静かになった。母親は阿里を寝かせに二階にのぼっていった。「ローダのお兄さんは韓国の大学にいってるのよ」とメリーが簡単に佐智に説明をした。何かおかしい、と佐智は直感した。それだけのことをローダがむきになって喋りたてるはずがない。テーブルクロスが佐智の前に白い氷原のように広がっている。佐智とほかの女の子たちとの境にも冷え冷えとした幕がおりていた。メリーだけが何も気づかないふりをして陽気にふるまっていた。 「梅里《メリ》」ローダ・金がとげとげしい声で言った。「あんたエリザベスを友だちと思うなら、ほんとのこと話したほういいよ」  佐智はゆっくりとローダに言った。 「ローダ、あなたが話してくれればいいじゃないの」 「あたしが?」ローダは吊り目の野良猫《のらねこ》みたいに身がまえた。あたしの兄ちゃんの二本のアシが、なぜ動かないか話してほしいの?」 「アシですって?」 「そうよ、兄ちゃんは今|松葉杖《まつばづえ》で学校に通ってる。きっと一生そのままよ。なぜだか知りたいの? ミス・|フジモト《ヽヽヽヽ》」 「ええ、知りたいわ」 〈自分も知らなければならない〉と佐智は思った。〈自分はメリーの友だちで、ローダもメリーの友だちなのだもの〉 「教えてよ、ローダ・金《キン》」 「戦争始まってしばらくすると……日本のケンペーが来て兄さん捕まえていったのよ」  ローダはとても|はっきりと《ヽヽヽヽヽ》その話をしてくれた。「兄ちゃんは近所の人にかつがれて帰ってきたよ。膝から下がぶよぶよになって、骨が見えてたわ。嘘《うそ》じゃないよ。ウォモニはあたしの目を隠したけどまにあわなかった。ケンペーは兄ちゃんをストーブの上に座らせて、石炭に火つけたんだって!」 〈どうしてメリーはこんなこと聞いていられるんだろう〉佐智は血の気を失った頭で考えた。 「どうしてストーブの上で兄ちゃんのアシを焼いたかわかる?」  佐智は無意識に頭をふっていた。メリーが嘆願するような調子で「ローダ……」と叫んだ。アンジェラは黙っていた。白い朝鮮の服は結婚式にもお葬式にも似あいそうだった。ローダは続けた。 「日本の名前に変えるのいやだと言ったからよ。自分は金万成《キンマンスオン》で金子政成《カネコマサナリ》なんかじゃないってがんばったのよ。兄ちゃんは強情っぱりだからね。あたしはそんなの平気。自分で好きな名前選んだの。一子《カズコ》ちゃんっていうの」 「あたしはウォモニがつけてくれたわ。美子《ヨシコ》ちゃんよ」とアンジェラ・李《イー》が言った。  それから佐智はメリー・宋《ソン》をじっと見た。 「梅子《ウメコ》……」メリーは陰気な小さな声で言った。「村田梅子って呼ばれてたわ」 「国民学校に井伊君っていう男の子がいたの」佐智も小さな小さな声で言った。「ほんとうの名前は知らないけれど……」 「きっと尹《ユン》だわ」メリーはささやいた。「あたしの従兄《いとこ》に尹寿宝《ユンスウホウ》っていう子がいたのよ。その子は井伊寿夫《イイヒサオ》になった」 「何を皆でヒソヒソ話しているのですか?」  メリーの母親が盆にお茶の用意をして入ってきた。いつのまにか円陣を作っていた四人は、びっくりして飛びのいた。 「冬休みにどこに行くか話してたのよ」  メリーがあわてて言った。 「いいわねえ、あなたたちのころは……」母親は紅茶にお砂糖を入れながら言った。「大人になってしまうと、楽しみ、とても少いのですよ」     6  マザー・アメダは四角い縁の眼鏡の下のワスレナグサ色の瞳《ひとみ》で、多くのものを見ていたが、中には見たくないものもあるようであった。ある日、マザー・アメダは教室で佐智を呼びとめた。 「エリザベス、あなたにお願いがあるのですよ」 「はい、何でしょうか、アメダ先生」 「あなたのお弁当、英字新聞で包んでありますね。明日から別のもの……ハンケチかほかの紙に変えてください」  佐智は恥ずかしさのために下を向いた。 「わかりました。そうします」と言って顔をあげると、マザー・アメダが自分におとらず頬を赤らめているのでふしぎに思った。先生は佐智の耳に手を当ててささやいた。 「修道院では新聞を読むのは禁じられているのですよ。神さまの教えに反する記事《ニユース》がのっていることがありますからね。でもあなたが広げているお弁当の傍《そば》を通るたびに、悪魔が私を誘惑するのです。昨日はどんな事件があったのかな、どんな人が結婚したかなって。私があなたぐらいのときのあだ名がわかるかしら、エリザベス」  佐智がノーと言うと、マザー・アメダはもう一度赤くなってささやいた。 「『知りたがり屋』っていうのです」  マザー・アメダの年齢は少くとも生徒の四倍はあったろうが、彼女の精神はそれよりずっと生徒に近かった。彼女はジョークが好きで、生徒に聞かせては一人で先に笑いだした。 「アメリカ婦人がドイツ婦人にたずねました。 『あなたはおいくつですか』 『私はダーティです』 『ではあなたのご主人は?』 『彼はダーティツーです』」  マザー・アメダの笑い方は雀《すずめ》のさえずりみたいで気持よかった。生徒たちは用事もないのにしじゅうアメダ先生と話をしたがったので、彼女のいる所はどこにでも人垣《ひとがき》ができていた。天国に近い階上に住んでいる院長先生と比べて、マザー・アメダはいわば二階と三階を往復しているような修道女であった。  佐智のもっとも理解しがたい授業は『教理《ドクトリン》』であった。そしてマザー・アメダがもっとも力を入れるのもこの授業だった。彼女は厚ぼったい黒い革の公教要理の書物を教壇の上に開くと、必ず咳《せき》ばらいをして始めた。ほかの授業とちがって生徒たちとの特殊な用語を使うやりとりが頻繁《ひんぱん》に行われ、それゆえに佐智はついていくことができなかったのである。しかし皆はよく暗記していて活発に手をあげた。佐智も引きずられるようにあげてみた。樹林のあいだの一本の木が目にとまる偶然はほとんどないだろうと思った。それなのに何でも見てしまうアメダ先生は、めったにない機会を見逃さなかった。名指されて立ちあがったものの、佐智は絶体絶命であった。アメダ先生は辛抱強く待っていた。組の中がざわざわしはじめたとき、メリー・宋《ソン》の席から元気な声がきこえた。 「答は聖霊《スピリツト》です! アメダ先生」  皆がわっと笑いだした。アメダ先生も目尻《めじり》から涙をこぼしていた。 「そのとおりです。エリザベス」苦しそうに先生は言った。「あなたとメリーは三位一体《トリニテイー》じゃなくて、二位一体《トウワイニテイ》だわね」  中庭のマリア像のほかに、SH学院の中で佐智を引きつけた建造物は聖堂だった。修道院や学校そのものよりも格段にりっぱな建物で、庇《ひさし》についた大天使がいったい何を守っているのかのぞいてみたいと思っていた。 「あなたたちも私たちも、父なる神の前ではひとしく幼ない者にすぎません」とマザー・アメダは口ぐせのように言っていた。聖堂とはたぶんその父なる神の家なのだろう、と佐智は思っていた。そして山のように巨《おお》きくて、底なし沼のように恐ろしい目を持った父なる神を想像した。この想像は彼女が家で読みふけったギリシャ・ローマ神話がもたらしたものだった。マザー・アメダがこれを知ったら、彼女は躍起になって「オー、ノー、エリザベス」と叫んで打ち消そうとしたにちがいない。  尼僧《にそう》たちのほかにも、SHの生徒たちは比較的自由に聖堂で祈りをささげることを許されていた。〈信仰《ビリーフ》〉を持つと認められることが唯一《ゆいいつ》の条件であった。佐智は中庭のマリアに対するわずかばかりの敬慕のほかには、自分が〈信仰《ビリーフ》〉を持っているとはとうてい思えなかった。  一ヵ月に一度|鴉《からす》のように黒い衣を着た神父がSHに招かれて、生徒の前で説教をした。そのあとで何人かの希望者に聖堂の中で洗礼を施した。受洗した少女たちがヒナギクの冠をかぶって聖堂から出てくると、担任のマザーやシスターが前に進み出て接吻《せつぷん》したり、祝福の言葉をかけたりした。『清純なエリザベート』が受洗したときには、マザー・アメダは感激のあまりヒナギクの冠に涙をこぼした。 「聖堂の中にあるものは全部、|金むく《ピユアゴールド》でできているのよ」とエリザベートは教えてくれた。壁も聖壇も、ろうそく台もよ、聖堂じゅうがお月様みたいに光輝いてたわ。すばらしいお部屋よ。 「ねえ、メリー、聖堂に入ってみましょうよ」  佐智は親友の耳に口をつけてそそのかした。 「|黄金の部屋《ゴールデンルーム》、見たくない?」 「見たい」とメリー・宋は言った。 「ベールで顔を隠せばだれだかわからないわ」 「あたし聖劇《ページエント》で使ったのしまってあるよ」 「あたしも……」と佐智が言った。  佐智とメリーが青銅の扉を開いて内側に滑りこむのを、庇の大天使は呆《あき》れ顔で眺めていた。しかし彼の役目は教会の敵をはばむことで、たとえかりそめのものでも少女たちの祈りを制止することではなかった。聖堂の内側はステンドグラスをこしてきた光が、赤や青や黄色い深海魚のように遊泳していた。祭壇の周囲には数本の大ろうそくが、天井にのびあがって焔《ほのお》を放っていた。そのために天井に描かれた聖書の人物たちは生きて揺らめいているように見えた。祭壇をおおったビロードの布には金や銀の糸の縫いとりがあり、燭台《しよくだい》やいくつかの祭具はたしかに金色に輝いていた。しかし全体的には聖堂は簡素で、壁などはむき出しのしっくいでできていた。ところどころの四角いくぼみには、油煙でくすんだマリアや聖者たちの画像が置いてあった。たぶん『清純なエリザベート』は、受洗時の恍惚《こうこつ》のために目の神経がおかしくなったのではないだろうか。もし野原で洗礼式が行われていたら、彼女は金むくの雲が空に流れるのを見たであろう。  メリー・宋が佐智をつついた。水盤に指を浸しておでこと両頬と顎《あご》のあたりにつけた。佐智も真似《まね》をして、そろそろと並んでいる祈祷台《きとうだい》に近づいた。尼僧たちはあちこちに散らばって床にひざまずいていた。彼女たちの衣はまるで羽毛をふくらました白い鳥のように床に広がっていた。祈祷の形は様々で、天井を仰ぎみる者、両手を組んで下を向いている者、祈祷台に突っぷす者もいた。暗さに目が慣れるに従って、紺色の制服を着たSHの生徒も何人かお祈りをささげているのがわかった。その中にはテレーズ・ブレッソンがいた。佐智は少したじろいだ。彼女はテレーズに対して後ろめたい気持をいまでも持ちつづけていたのである。しかしテレーズがそうでないことは、彼女の祈りの姿を見た瞬間に佐智にはわかった。テレーズは顔を正面に向けて、祭壇を身じろぎもせずに凝視していた。その眼差《まなざし》は佐智が三ヵ月前に見すえられたように、激しい輝きに満ちていた。しかし彼女が今度焼きつくしたいと望んでいる対象は、全然ちがうものだった。  テレーズにつられるように祭壇を見た佐智は、彼女と同じように金縛りになった。キリストだった。正確にいえば、はりつけにされた苦悶《くもん》のキリストの像だった。キリストは首を半分垂れて、体をくの字にくねらせていた。下半身をわずかにおおった布さえも、重いのではねのけたいと思っているようだった。体を抑えている四ヵ所の支点の釘《くぎ》は今にも脱け落ちそうに見えた。脇腹《わきばら》には真紅《しんく》のばらの花が咲いていた。血の臭《にお》いが漂う像であった。 〈井伊君がふいに鼻血を出した。青白い顔で教室の床の上に寝ころんだ。ちかってもいいが、だれも彼に手を出したりなんかしなかった。小田切先生が来て、井伊君を衛生室に運んでいった。帰ってくると先生は一同に「井伊は病気なのです」と言った。皆はなーんだ、そうか、と思い、それきり組の中でただ一人のチョーセンのことは忘れてしまった。その日以来、井伊君は二度と教室に姿を現わさなかったからである。彼はそれほど影の薄い、目だたぬ少年だった。しかし彼が床の上にこぼしたかなり大量の血痕《けつこん》は、乾いた|染み《ヽヽ》になっていつまでも残っていた。多勢の日本の子供たちの靴底《くつぞこ》がその上を踏んで通ったが、染《し》みはしぶとく残りつづけ、戦争が終った日に国民学校が閉鎖されるまで、ここに井伊こと尹《ユン》君が寝ころがったという事実をとどめていた〉  佐智はテープを剥《は》がすように無理に十字架から視線をはずした。苦悶するキリストを見ることは、ほんとうの自分自身を見るような気がした。いったいどうしてテレーズ・ブレッソンが目をそらさずにいられるのだろうか。彼女は祈るというよりは、闘いを挑《いど》んでいるように見える。マザーたちがここに集まって祈るのは、彼女たちがキリストを愛しているからだった。今も続いているその苦しみを、ほんの一かけらでも自分の背ににないたい、そう思っていることがよくわかった。  一方、メリー・宋の反応は、佐智とはまったくちがっていた。メリーはエリザベートの言う純金の道具がないので、すぐに飽きてしまった。彼女は佐智の袖《そで》を引っぱって「出ようよ、エリザベス」とささやいた。佐智もうなずいた。なぜなら佐智は、聖堂の中にみなぎっているしびれるような感覚にこれ以上抵抗できないことを感じていたのである。その感覚は彼女を一九四六年の中国ではない別の場所に、連れ去ろうとしていた。  佐智はまた中庭の聖母に会いに行った。中庭はSHの中ではとり残された空間であった。子供たちが遊ぶには狭すぎるし、尼僧たちが祈りをささげる場所としては明るすぎた。芝生が萌《も》えはじめた中庭で、マリアは佐智を見てあい変わらず微笑《ほほえ》んだ。どうして彼女にこんな穏やかな表情ができるのだろう。息子をはりつけにされて殺された母親ではないか。怒りや悲しみはどこに消えていったのだろう。中庭にはヘリオトロープの香気がたちこめていた。園芸係のマザー・ドメスティックが、校舎や糸杉《いとすぎ》の根元にびっしりと植えこんだのである。佐智はマザー・ドメスティックが、木綿の手袋をはめて土をかき回しているのをよく見かけた。かみそりを当てることは禁じられているために、マザーの鼻の下には産毛よりももっと濃いひげが生え、一本一本に汗の玉が光っていた。たまに院長先生が通りかかって彼女の仕事ぶりをほめると、彼女の顔にはほんのりと赤味がさし、急に女らしさが表われた。  たまにメリー・宋が中庭に駆けこんできて、佐智の浸っている気分を打ちこわした。メリーはキリストと同様にその母親にも無関心で、ただ友だちに会いにきたのだ。メリーがたて続けに喋ると、ヘリオトロープの香気まで逃げていき、中庭には大小のしゃぼん玉のように言葉が浮遊した。     7 『雪姫』オリガ・スタルトンは、東の市場に店を出している白系ロシヤのパン屋の娘であった。彼女の皮膚は店で売られている最上のパンよりも白く、鼻すじは細くくっきりと通っていた。オリガこそ王女にふさわしい気品を持つ女の子だった。それなのにオリガの父はパン職人で、オリガの母は店でパンを売っていた。佐智はきっと彼らはロシヤから逃げだしてきた貴族から赤ん坊のオリガを受けとって育てたにちがいないと想像した。しかしオリガは自分の生い立ちにこだわる気配も示さず、ときどき自分の昼食用のねじりパンを佐智に分けさえしてくれた。佐智は自分の弁当の貧弱さにオリガが同情してくれるのを感じたが、卵のたっぷり入ったねじりパンに抵抗することはむずかしかった。 「おいしい?」  オリガ・スタルトンは掌《てのひら》にあごをのせて、日本の級友がぱくつくのを眺《なが》めながらきいた。「とても」と佐智が答えると、「エリザベスがお金持になったら、うちのパンたくさん買ってね」と言った。オリガはアメダ学級のだれかれなしにそう言うくせがあった。自分が貴族の娘である可能性などまったく信じていなかったにちがいない。  佐智の家庭はパンが好物で、ときどき無理をしてでも東の市場のオリガの両親の店へ買いに行った。オリガがいつも店にいるとはかぎらなかったが、佐智は必ず母親のお伴《とも》をした。  市場は豚の油と香辛料のどぎつい匂《にお》いで満たされていたが、いちばんの奥のパン屋だけは厚いガラスの扉《とびら》で隔離されていた。ガラスの内側に中国の匂いは侵入せず、イースト菌でふくらませたような体格の二人の女がパンを売りさばいている。二人は互いに区別できないほど似ていて、どちらがオリガの母親であるのかいつ行っても佐智にはわからなかった。それでも白系ロシヤの女たちは佐智のことをSHの生徒だと覚えていて、いつも赤と白のだんだらの棒飴《ぼうあめ》をケースから取りだしてくれたのである。万難を排しても、佐智が母親についていく価値はここにあった。しゃれた洋服の外人の主婦たちや阿媽《アマー》に籠《かご》を持たせた太々《タイタイ》(奥さん)のあいだで、佐智の母親は長いことかかって品物を吟味したあげく、白パン半|斤《ぎん》とライ麦パン半斤ほどしか買わなかった。女たちは注文の品を包みおえると、きまって「ソレダケエ?」と語尾が異様に上昇する日本語でたずねた。 「ええ。おいくら?」と母親は平然とたずねた。  白系ロシヤの女は渋々と計算し、「三百元ネ。安イネ」などと言った。毎回、劇のせりふのようにくり返される会話をききたくなくて、佐智は棒飴をもらうとすぐにパン屋を飛びだして路上で待つのがくせになった。  六月試験《ジユーン・テスト》の終った次の日、佐智の家に遊びにきていたメリー・宋《ソン》がいっしょにいた。二人は棒飴を口から出したり入れたりしながら、市場の前の雑踏にもまれていた。なぜならここはSHではなく、周囲の人々はいためた野菜の匂いのする中国人ばかりだったからだ。それは中国育ちの宋梅里《ソンメリ》や藤本佐智には親しみの点で、SHのヘリオトロープの香りに勝っていた。 「あれ、何だろう? エリザベス」  メリー・宋が飴をくわえた妙な発音でたずねた。二、三十メートル離れた四辻《よつつじ》で人だかりがしていた。ときどき歓声やかけ声があがったが、黒いドーナツのような中国人の輪はほとんど乱れることはなく、そのために一種の緊迫感が漂っていた。 「皿回しじゃない?」  わくわくしながら佐智は答えた。佐智は狭い場所でバッタのように飛んだりはねたりする大道芸人たちが大好きだった。三重、四重の人垣を破ることはむずかしい業だったが、彼女たちは汗だくになって頭でこじ開けるように前へ出ていった。やっと最前列にたどりつくと、ぴくんと佐智の中でメリー・宋の手が震えた。たぶん佐智の手も同じであったろう。輪の中央にいるのは曲芸師ではなく、腰に荒縄《あらなわ》を巻きつけた一人の男だった。荒縄のもう一方の先は、毛の短い大きな黒犬の首にはまっていた。犬はブラシのように毛をさか立て、唇《くちびる》の裂目から泡《あわ》を噴きだしていた。はやしたてる周囲の群集には目もくれず、男だけに向って歯を噛《か》みならし、唸《うな》り声をあげた。男も油断なく犬を睨《にら》んでいたが、彼のほうは同時に見物人もかなり意識しているようだった。黒犬が憎悪《ぞうお》を抑えきれなくなって飛びかかると、男は嬉《うれ》しげに黄色い歯を出して縄をひねった。たたき伏せられた犬はぐわんと言い、内臓が破裂するような音がした。犬は血の混じったよだれを流しながらふたたび立ちあがると、前にもました勢いで跳躍した。佐智は自分の口も犬のようによだれを流しているのを感じた。飴ん棒が舌の先で溶けかかっている。どうしたら、引きぬくことができるのだろう。体のあらゆる関節が標本にされた蝶《ちよう》みたいに固定化されている。 「エリザベス、どうしたの?」メリーが佐智の耳に口をつけておろおろ声で叫んだ。「曲芸じゃなくて犬殺しだよ。市場へ戻《もど》ろうよ」  自分がどんなに戻りたがっているのか、メリーにはわからないのだろうか。佐智は黒犬が空中で抛物線《ほうぶつせん》を描いて落下するのを見ながらそう思った。メリーが両手で目を隠した。佐智は見ていた。犬はもう一度ぐわんとわめいて、今度は少しゆっくりと立ちあがった。男は楽しそうににたりとし、見物人もげらげらと笑いだした。 「あたし、あんたのウォモニ呼んでくる」  メリー・宋、どこへ行くの。まさかあたしを置いていくんじゃないでしょうね、と佐智は言ったが、声は出なかった。体じゅうが目に見えない針金で縛られていた。突然、背中の中央に火の玉がぶつかったような衝撃を感じた。棒飴が口から飛んでいった。おかげで針金がほどけて手足の関節が動きはじめた。ふり返ると、母親が娘に負けず劣らずまっ青な顔色をして立っていた。彼女は文句を言う野次馬にはおかまいなく、すごい腕力で娘を輪の外に引きずりだした。メリー・宋が泣きながら、佐智の家でお昼に食べた肉まんじゅうを吐いていた。佐智も親友の隣にしゃがんで肉まんじゅうを吐いた。  高《カオ》がめずらしく腹痛で仕事を休んだので、佐智は電車通学をすることになった。〈コリアン派〉とは途中の駅までいっしょである。クリスマス・パーティ以来おかしくなっていたローダとの仲も、どうやらふつうに戻っていた。  SH学院の周辺には、この町でもとりわけ豊かな階層ばかりが住んでいるのにちがいなかった。どっしりした灰色の煉瓦《れんが》べいに囲まれた豪壮な院子《ユアンズ》(屋敷)が軒を並べていた。その谷間を通るとき、SHの生徒たちは小人に変身したような錯覚に陥った。おまけに物音が壁に沿って遠くまで走っていくので、大声で叫んだり靴音を荒々しくたてることもいけないと注意されていた。へいの真下には溝《どぶ》が流れていた。ふしぎなことに、こんな高級住宅地でも佐智の家の近くにある貧しい区域でも、溝の水は同じ悪臭を放って流れていた。溝の底には糸みみずが赤い絹糸のようにもつれあっている。野菜の屑《くず》や御飯粒が、それを乗り越えてゆうゆうと流れ下っていく。佐智は流れの一ヵ所が瘤《こぶ》のように盛りあがり、水がその場でたゆたうことに気がついた。よく見ると、贈物のように十文字に紐《ひも》をかけられた茶色い油紙の包が、障害物になっているのだった。 「メリー、アンジェラ、ローダ、待ってよ」  佐智は先に歩きだした級友たちに英語で叫びかけた。最近やっととっさの場合にも、英語が口をついて出てくるようになった。「いいもの見つけちゃった」  三人の顔がいっせいにふり返った。メリー・宋がまず小走りに駆けもどってきた。 「いいものって何? エリザベス」 「だれかが落としていったんじゃないかしら」 「すてたんじゃないの?」  ローダ・金《キン》が疑わしそうに言った。 「落としたのよ」佐智はむきになった。「だってこんなにていねいに縛ってあるもの」  この落とし物の中味は、SH学院にふさわしいものにちがいない、なぜかそんな気がした。 「とにかく調べてみようよ。アンジェラ、そこの棒を拾って」  こういう場面では必ず活気づいて指揮をとるのはメリー・宋だった。アンジェラは恐る恐る棒の先で荷物を釣《つ》りあげようとしたが、たちまち異様な声をあげて放りだした。 「いやよ、メリー。とても重いの。気味が悪いわ」  そのころまでには帰校する生徒の群れが、ぐるりと、〈コリアン派〉を囲んでいた。メリー・宋は鼻にかかった朝鮮語でつぶやいた。たぶん〈意気地なしね〉と言ったのであろう。今度はメリー自身が包に棒を突きたてて力をこめた。棒は逆U字形にしなったが、紙包は路上に現われた。 「エリザベス、包を抑えてて」とメリーが言った。佐智はうずくまって、汚れていない包の端を抑えた。メリーは棒を操って油紙を引き裂いた。表層が破れると、何重にも巻きつけられた中国の新聞紙が出てきた。新聞の下層には茶褐色《ちやかつしよく》の汁《しる》がこびりついていた。〈市場から買ってきた魚かしら〉と佐智はぼんやりと想像した。 「やめなさいよ」  ローダ・金が上ずった声で言った。しかしメリー・宋は新聞紙を引き裂きつづけ、佐智も抑えつづけた。二人とも、始めたら後には戻れない性格であった。紙が破けて、肉の塊りのようなものがはみ出した。不定形のゴムまりみたいで、薄い髪の毛がはりついていた。反対側には柔い縄のようにぐにゃぐにゃしたものがとぐろを巻いていた。悲鳴とともに全《すべ》ての人影が二人の周囲からいなくなった。血まみれの小さなこぶしが空《くう》を掴《つか》んだ。メリーが棒を放りだし、アンジェラとローダのあとを追いかけた。佐智はしゃがんだ姿勢のまま小さなこぶしを見つめた。こぶしは蕾《つぼみ》がほころびるように少しずつ開いていくような気がした。佐智は新聞を通して自分の指が生れたての赤ん坊に触わったのを感じた。彼女の指はそのぶよぶよした柔いものに埋没し一つになった。佐智はにんにく臭い中国の手で、中国の文字のあいだに包まれ、さらに油紙で外界と遮断《しやだん》されてから溝の中に転がった。虚空《こくう》に産み落とされた瞬間から、溝に捨てられるのは彼女の運命だった。佐智は周囲が急速に暗くなるのを感じた。 「エリザベス、早く、早く」  だれかが闇《やみ》の中からゆっくり近づいてくる。メリー・宋の声だった。佐智をどやしつけ、立ちあがらせようとぐいぐいと手を引っぱった。女の子のくせに乱暴なメリー・宋。でもあなたがいなかったら、あたしはこの闇からは浮かびあがれない。引っぱって、もっと引っぱって。あたしがちゃんと独りでも歩けるようになるまで。お願いよ、メリー・宋。 〈床に寝ころがった井伊君の突っぱった手足は、蜘蛛《くも》の死骸《しがい》みたいだった。彼は目をつむり、皆が走るためにささくれだった床板の上ではもう血が固まりかけていた。つまりそれほど長く彼は倒れていたのに、皆わいわい騒ぐばかりで、だれも彼の病気を知らせに職員室へ走る者はいなかったのである〉  この大地は鮮血をどっぷり浸した布なのだ、とやっと佐智は理解した。その上で自分たちは暮らしているのだった。井伊君の鼻血、へその緒でしめ殺された赤ん坊の血、市場の中で吊《つ》りさげられている羊の放血、ぶちのめされている野良犬《のらいぬ》の血、戦争のあいだに流されつづけた黄色やら白やら黒やらの血、そしてマリアの息子の掌と足の甲にうがたれた計四個の穴と脇腹の傷口から流れだした血が、互いに混じりあい大きな川のように地球に注がれる。そしてそれらの血が混じりあう地点は、つねにSHの外の世界なのであった。たぶん庇《ひさし》の上の守護の天使の務めは、マザーやシスターたちが天上ばかり見あげることにくたびれて下を向きたくなったときに、彼女たちの首を支えることなのだろう。SH学院が外の世界に無関係の花園のように存在するために、天使は鷹《たか》のように鋭い目で見はりつづけているのだ。     8  六月の進級テストで佐智はどうやら合格点に達した。自分も四学年に進級がきまったメリー・宋《ソン》は、何度も佐智の顔をのぞきこんで「アイム ハッピー」と言った。マザー・アメダの担任が持ちあがりになったことも、彼女たちを喜ばせた。  級長のジェニファーは成績がよかったので、五学年に飛び級した。道具をまとめているジェニファーに佐智はそっと言ってみた。 「さよならジェニファー。あなたはいつも私に親切だったわ」  彼女は手を休めて、例の冷たい青い目で佐智を見た。 「あたしはいつもしなければならないことをしただけよ」  もうジェニファーと口をきく機会はないだろう、と佐智は考えた。佐智は自分の大胆さに驚きながら、思いきってたずねた。 「あなたのお父さんは日本人《ジヤパニーズ》と戦って負傷したんですってね。メリーからきいたわ。それなのになぜあなたは公平にできるの?」  ジェニファーの瞳《ひとみ》が初めて揺れうごいた。 「自分の気持を抑えるのってむずかしいわ、エリザベス」彼女は佐智に向きなおって言った。「でもそれを学校に持ちこむのはまちがっているのよ」  言いおわると、ジェニファーは二度と佐智をふり返らずに仕事を進めた。  六月試験《ジユーン・テスト》に合格したのは級の約半数で、リリーはもう半年|留《とど》まらなければならなくなったので、わっと泣きだした。 「あたし英語《イングリツシユ》ならエリザベスに負けないわ。算数《アリスマテイツク》がいったい何の役に立つの? パパに叱《しか》られちゃうわ」  アメダ先生は鼻をユスラウメのように染めたリリーを一生懸命慰めた。 「あなたは答案の見返しをしないで出すから計算をまちがえるのよ、リリー。その悪いくせを直せば十二月試験《デイセンバー・テスト》には合格できますよ」  夏休みの前日で、アンジェラ・李《イー》とローダ・金《キン》はむっつりしていた。原級に留まることになったこの二人も、リリーと同じことを感じているにちがいなかった。妙な雰囲気《ふんいき》になって佐智はできれば彼らと別行動をとりたかった。あいにく車引きの高《カオ》は自分の母親に預けていた息子を引きとりに、田舎に帰ってしまっていた。同じ方向なのに別の電車に乗りかえるわけにもいかない。佐智を含めた〈コリアン派〉はまのびした列になって、商店街をのろのろ歩いていった。メリーはわざとローダ・金と並び、佐智はアンジェラといっしょになった。ハリエンジュの薄紫の紙細工のような花が頭上でそよいでいた。無表情で無口なアンジェラが、むしろローダ・金よりも佐智は苦手だった。 「いい匂いね?」  佐智は立ちどまって独り言のように言った。アンジェラも立ちどまって、胸の側に垂れていた長いおさげ髪をものうそうにふり払った。 「あたし、あなたたちと別の級になってとても残念なのよ」と佐智は大急ぎで言った。アンジェラ・李は、佐智と並んでハリエンジュの花を見あげていた。彼女はかすれたような声でささやいた。 「そんなこと……あたし信じられないわ」  佐智は自分の胸を切りつけられたように感じながらたずねた。 「あたしが……日本人だから?」 「そのとおりよ」アンジェラ・李は静かに言った。彼女の怒っている顔を、佐智は一度も見たことがなかった。「あたしたちだって、あなたが日本人《ジヤパニーズ》だということを一瞬だって忘れてないもの」  市電は中国人の子供たちであふれかえっていた。灰青色の制服の中学生がじろじろと佐智の顔を眺めるので、いやな予感におそわれた。なぜか近ごろ、佐智はしばしば中学生に目をつけられた。彼らはたいてい、嘲弄《ちようろう》のほかに紙つぶてや木の実を投げつけてくる。案の定一人が叫びだした。 「こいつは日本人《リーベンレン》だぞ」  小学生たちが目を丸くしてこちらをふり向いた。佐智以外の三人は、驚いて中学生を見つめた。下を向いたのは佐智だけである。中学生は、得意そうに連れの友人に言ってきかせた。 「そうだ、知ってるぞ。おれの弟がそう言ってた。街を歩いているときに見かけたんだ。あいつは日本人《リーベンレン》だって弟が言った。弟の友だちの隣の家に住んでるんだ。中国人《チユングオレン》の車引きを使用人みたいに扱ってる。戦争に負けたっていうのによ。生意気だろ。こいつ大きな顔で、中国の洋車《ヤンチヨ》や電車《デイエンチヨ》に乗ってさ……」 「おりろよ」  中国の中学生たちが佐智に言った。 「おりてくれ、小日本《シヤオリーベン》」と車内の子供たちが合唱した。 「次の駅でおりて歩け、小鬼子《シヤオグイズ》」 「おまえらもいっしょだぞ、チビ」  中学生はメリー・宋たちにも憎々しそうに言った。彼らはSHの生徒より頭一つ分背が高かった。メリーの頬《ほお》に散ったそばかすが、みるみる紅潮するのが見えた。 「いやよ!」彼女は中国語《ヽヽヽ》で、電車の乗客全員に響きわたるほど大声で叫んだ。「あたしたち韓国人《ハングオレン》よ。ぜったいおりるものですか」  中国の子供たちは面くらった。彼らの精神の位置づけの中には、どこにも韓国は入っていなかったからである。 「じゃあ、こいつはどうなんだ?」中学生は劣勢を挽回《ばんかい》しようと佐智を指した。「おまえたちの仲間が日本《リーベン》なんておかしいじゃないか」 「この子も韓国《ハングオ》です!」  メリーは両手を広げて佐智の前に立ちふさがって絶叫した。 「ほんとにそうか?」中学生は疑わしそうにローダ・金にたずねた。ローダは少し黙ったあとで「韓国《ハングオ》よ」と言った。アンジェラ・李もうなずいた。 「ほら、ごらんよ」メリーはがみがみ中学生に噛《か》みついた。それから佐智を前に押しだすと「あんたもはっきり言いなさいよ。韓国人《ハングオレン》だって」と中国語で言った。 〈ちがう〉佐智は心の中の言葉でメリー・宋に抗議した。 〈あたしは今も前もずっと日本人よ。SHの生徒は嘘《うそ》をついてはいけません。『父なる神』の目はぜったいにごまかせませんよってマザー・アメダに言われてるじゃない〉 「日本人《リーベンレン》だ。だから黙ってるんだ」と中学生は断定した。「どけよ韓国《ハングオ》の女の子。おれは日本人に用があるんだ」 「のかない!」  メリー・宋がわめいた。中学生が手荒にメリーを突きのけたとき、電車が一揺れし、彼女は尻《しり》もちをついた。制服がめくれて白いパンツが丸見えになった。周囲の子供たちがいっせいに笑いだし、メリーを指さしてぺちゃくちゃさえずった。ローダとアンジェラが半泣きになって、メリー・宋を助け起こすのを、佐智は両手をだらりとさげて待っていた。そのとき佐智の目とメリーの目がぶつかった。 〈どうして言わないのさ〉彼女の眼差《まなざし》は言っていた。〈こんなにあたしがかばってるのにさ〉  それはふだんの陽気なメリーとは似ても似つかぬ、もの哀《がな》しげな眼差だった。弱虫の友だちを責めている様子はなく、身代りになりたいと思っていることがわかった。佐智の喉《のど》には黒いどろどろした塊りがつまっていた。その塊りを吐きだすか、呑《の》みくだすかは彼女の選択にまかされていた。黙っているかぎり、言葉は喉のあたりでもがいているだけだった。  ふいに佐智はどうでもいいと思った。メリー・宋より重要なものを何一つ持っているわけではないことに気がついた。人間の血は日本だろうと朝鮮だろうと、中国だろうとロシヤだろうと、フランスだろうとアメリカだろうと、まっ赤なのだ。〈キリストとおんなじまっ赤な血〉 「是《シー》」佐智は中学生たちに言った。「我是韓国人《ウオシーハングオレン》」  黒い塊りは消えていった。     9  この夏は、今までの夏に比べて変化に富んだ夏であった。車引きの高《カオ》が、田舎の年老いた自分の母の元から、息子を引きとって連れてきたのである。少年は黄土や高梁畑《コーリヤンばたけ》や世話をしていた豚のほかには、何も知らなかった。もちろんこの町に来たのは初めてで、見るもの聞くものめずらしがった。佐智はまた何かを発見するたびに驚く少年が面白くて、結構楽しく夏休みをすごした。藤本家の人たちが彼をかわいがったので、夏休みの終りには少年はすっかり新しい生活になじんでいた。 「ぼくは学校《シユエシアオ》行く」少年は胸をはった。「大姐《ターチエ》はもう学校行ってるの?」  そこで佐智は少年にSH学院の絵を何枚か描《か》いてみせた。鉄のばらを象《かたど》った校門や、大天使のついた聖堂や、糸杉《いとすぎ》に囲まれた中庭や校舎を描いた。スケッチブックに出現したSHの建物は、蜃気楼《しんきろう》みたいにかすんでいた。少年は絵をのぞきこんで首をかしげた。 「あたしの学校《シユエシアオ》」と佐智は少年に言った。すると彼は笑いはじめた。 「これはちがうよ」彼は佐智が自分をからかっていると思いこんだ調子で言った。「これは|※[#「まだれ<由」、unicode5e99]《ミアオ》(寺)だよ。祖母《ツームー》といっしょに行ったことがあるもの」  なるほど、と佐智は少年の直感力に感心をした。たしかにSHは、学校というよりは教会に似ている。マザーやシスターたちが、外の世界から持ちこまれるものを伝染病菌のように消毒してしまうからだ。  佐智は帰りの電車の中で、韓国人宣言をしたことを両親には告げなかった。彼らはきっと娘が一時の機転で、他国の人に化けて難をのがれたと思いこむであろう。しかしあの緊迫した瞬間、佐智はほとんど皮膚一枚ほどの差で宋梅里《ソンメリ》に近づいたのを感じた。宋梅里もそうであったことを佐智は信じた。だから今でもその宣言を取り消す気持にはなれなかった。  四学年になると、級の人数が急に減って二十人になった。教室も二階の小ぢんまりとした場所に移った。授業の程度は、国民学校の三年生まで行った佐智にはちょうどよかった。しかしSHの教え方は何と国民学校とちがっていたことだろう。世界地理《ワールド・ジエオグラフイ》の授業には、国籍のちがう尼僧《にそう》たちが代る代るきては自分の国について喋《しやべ》っていった。スペインの修道院から派遣されてきたマザー・ドメスティックは、生れた村の話をきかせた。彼女の父親は村一番のぶどう酒造りだった、とマザー・ドメスティックは胸をはった。彼女はさらに生徒たちに向って、オリーブの実を知っているか、とたずねた。オリガ・スタルトンが手をあげて、家では酢漬《すづ》けにしたオリーブを食べる、と言った。マザー・ドメスティックは重ねてそのほかにどう利用するか、とたずねた。前列にいた佐智はふいにひらめいて「油《オイル》」と答えた。マザー・ドメスティックは満足そうにうなずき、オリーブ油はスペインの重要な産物だ、と言った。それから教室を見まわして「もっと質問は?」と男のように乱暴な口調で言った。メリー・宋が手をあげた。 「何ですか、メリー・宋《ソン》?」  教師はきげんよくたずねた。 「マザーはなぜ修道院にお入りになったのですか?」  メリーの質問の意図はきわめてまじめなものであった。口ひげを生やしたがっしりしたマザーがもじもじするのを、生徒たちはあっ気にとられて眺めていた。 「それは……つまり……」マザー・ドメスティックはどもりがちに、けれどキリストの教えどおり正直に言った。 「婚約者が北アフリカの戦線で戦死したのですよ。だから私は自分の身を、彼に捧《ささ》げる代りに神へ捧げる決心をしたのです」  これこそ本物の世界地理《ワールド・ジエオグラフイ》なんだ、と佐智は納得した。自分やメリー・宋が祖国を離れて中国にいることも、オリガ・スタルトンに故郷がないことも、いうなれば世界地理であった。  マザー・アメダは文学《リテラチユア》を受けもった。彼女は朗読とお芝居の好きな教師だった。教科書の『|五十の有名な物語《フイフテイフエイマス・ストリーズ》』を、まず澄んだ若々しい声で生徒に読んできかせた。獅子心王《しししんおう》リチャードや黒騎士の活躍する場面がくると、声をはりあげ、夢中になってこぶしを前に突きだした。それから子供たちに役をふりあてて、即興劇をさせた。佐智たちは四学年教室のカーテンを全部おろした黒い小さい宇宙で、戦ったり、命令を下したり、ひざまずいて愛を誓ったりした。そして最終的にはマザー・アメダのカンタベリ大司教が登場して、厳《おごそ》かに芝居をしめくくった。  ある日、佐智とメリーが二階の廊下の窓にもたれてお喋りをしていると、突然、上級生のテレーズ・ブレッソンが近づいてくるのが見えた。彼女はあいかわらずつややかな長い髪を背中に垂らして、じっと佐智だけを見ながら進んできた。まるで隣のメリー・宋は、ただの空気の塊りで目に入らない、といった感じだった。 「エリザベス、聞いてちょうだい」  久しぶりに聞くテレーズの声は、熱い風のように佐智を包んだ。佐智はやっと踏みとどまって、「何ですか」と震える声でたずねた。メリーは身を硬くして上級生を見つめていた。 「私はママといっしょにフランスに帰るの。リセに進むことになったから……」  テレーズの瞳は洗いたてのぶどうの粒だ、と佐智は思った。まだ水滴でキラキラしている黒ぶどうの粒。 「エリザベスにお別れを言わなかったら、一生後悔すると思ったわ」テレーズの唇《くちびる》がゆがんだ。泣きだすのかと思ったら、微笑が浮かんだ。〈彼女の血は八分の一だけ日本人《ジヤパニーズ》よ〉 「さようなら、エリザベス」 「さようなら」と佐智も言った。テレーズは佐智の差しだした手を握って、もう一度笑った。 「霜焼けまだできてないわね」 「いったいどうしたの、あの女《ひと》は……?」  メリーが徹底的に無視された驚きから、やっと回復して言った。 「いつもああなのよ、テレーズって」と佐智は答えて、ふたたび校庭を見おろした。二人はそのまま沈黙を続けて並んで立っていた。もう十二月の扉《とびら》は開かれていて、エンジュもライラックも根元に茶色いしみのように枯葉を落としていた。マザー・ドメスティックが、来年の肥料にするためにせっせと落葉を集めて袋に押しこんでいた。上から見ると、腰をかがめた彼女は扁平《へんぺい》な白い亀《かめ》のように見えた。「ねえ」メリー・宋が問いかけた。「エリザベスは日本に帰らないの?」  佐智はびっくりして友だちを見た。奇妙なことに佐智は一度もその可能性を考えたことがなかったのである。たしかに佐智の知っている日本人は皆帰国していった。彼らはそれぞれに祖国へ帰る理由を持っていたのであろう。しかし佐智にはそんなものはあるはずがなかった。佐智は日本に何も置いてきていなかった。「あたしはずっとSHに通うのよ」佐智は大急ぎで言った。「十二学年まで。あなたはどうなの、メリー? 韓国の女学校に行くの?」 「あら、あたしは行かないわよ。それはローダとアンジェラのことよ」  メリーも早口で言った。それから顔を見あわせると、どちらともなく手をとりあってきゃっきゃっと笑いだした。教室の中から二世のジェーンのしかめ面《つら》がのぞいた。 「エリザベス、メリー。もう授業の鐘が鳴っていますよ」  ジェーンは純粋のアメリカ人と少しも変わらない発音で、二人をたしなめた。  その月の中旬に〈通知〉がきたとき、佐智は完全に自分がだまされていたのだと知った。佐智は自分を意志がないもののように扱った両親に、全身で抗議をした。この重大な時期に、四十度の熱を出して三日間もSH学院を休んだ。四日目にベッドからふらふら起きだして居間に行ってみると、三個のふくらんだリュックサックと四個の風呂敷包《ふろしきづつみ》が置いてあった。佐智はもっとも小さいリュックの中味を引きずりだして、床にぶちまけた。シャツや軍手や軍足のほかに、乾パンが一ふくろと氷砂糖の缶《かん》づめが転がりでた。母親が飛んできて、無言で娘の頬《ほお》をたたいた。何が何でも、命令に従わせるぞとの意思表示であった。その命令というのは、もっと上のほうのだれかから両親に押しつけられたものだった。体じゅうの水分を涙に変えたあとで、やっと佐智にもそのことがわかった。佐智はしょぼしょぼした目で床に散らかしたものを拾い、さらに自分の部屋から金髪のポーリーを抱えてきた。ポーリーだけは船が沈んでも、自分とともに泳がせるつもりだった。なぜならこの青い目の人形は、前の持主から異常な虐待《ぎやくたい》を受けていて、裸にすると計八ヵ所のお灸《きゆう》の跡がついていたのである。帰国した前の持主の少女は、よほどだれかを憎んでいたのだろう。その憎らしい相手の代りに、ポーリーに線香のお仕置きをしたのだろう。母親はあきらめて、ポーリーを横にして、リュックに麻ひもでしばりつけた。  出発までにあと一日の猶予《ゆうよ》しかなかったので、母親は佐智を連れてSHへ出かけた。鉄のばら模様の門をくぐったとき、佐智は混乱した。これとそっくりのことが起こったのは、一年前だったのか、十年前だったのか、それとも今までのことは序の夢で、これから現実に入ろうとしているのか……。母親は佐智の手首を鉄輪をはめたように握りしめ、しっかりした足どりで院長室に向って歩いていった。大きくて白い院長先生が、佐智の顔をじっとのぞきこむと、佐智は自分が小さな魚に変わって青い湖水を泳いでいるような気がした。 「ミス・フジモトゥ」先生は言いにくそうに発音した。「残念ですが、エリザベスという名は今日からSHに返してくださいね。その名にふさわしい生徒がくるまで、とっておきましょう。あなたはとてもいい子でしたよ。日本の教会あてに紹介状を書きました。でもいつまでもここを忘れてはいけませんよ。たとえあなたが大人になっても……」  急に院長室のドアが勢いよく開いて、マザー・アメダが両手を広げて入ってきた。 「エリザベス、おおエリザベス」と言いながら佐智をだきしめ、もっとよく顔を見ようとして涙で曇った眼鏡をはずした。 「何て馬鹿《ばか》な……」彼女はつぶやいた。「私は教室にハンカチーフを忘れました」そして尼僧服のだぶだぶの袖《そで》で目をぬぐった。 「私のをお使いなさい、マザー・アメダ」と院長先生が自分のタオルを渡した。 「こんなに突然にお別れなんて……」ふたたびマザー・アメダは喉をつまらせた。「エリザベスの出立を級の皆が悲しんでいます」  彼女はスカートをまさぐって、銀色の鎖のついた十字架を取りだすと佐智の首にかけた。 「神様はいつもあなたといっしょよ、エリザベス」  十字架の鎖はほとんど感じられないほど軽かった。佐智が顔をあげると、扉口《とぐち》にメリー・宋がもじもじしながら立っていた。マザー・アメダはとても興奮していたので、佐智の親友を呼び入れるのを忘れていたのである。 「握手をしなさい、メリー・宋《ソン》」マザー・アメダはポケットから見つけだしたちり紙で鼻をかみながら言った。「エリザベスは明日、日本へ帰るのよ。あなたたちはとても仲よしだったでしょう」  しかしメリーは手を出さなかった。マザー・アメダがもう一度同じ言葉をくり返したが、メリーは目を伏せ、唇をきつく結んで立っていた。それはメリーの怒ったときの表情で、佐智は彼女が現実を受けいれるまいと決心していることがよくわかった。テレーズ・ブレッソンが握手をしたのは、別離を肯定したからだ。メリーは歯をくいしばって、それを否定しようとしていた。院長室の大人たちは意味がわからず困惑していた。 「じゃあ、四学年の皆にお別れをしにいきましょう」  マザー・アメダは気をとり直して言った。それからぐずぐずする二人を追いたてるように、二階の教室へ行かせた。佐智が皆から涙まじりのキスや挨拶《あいさつ》やらを受けているあいだ、メリー・宋はぼんやりと自分の机に座っていた。佐智が教室を離れるときも、彼女はかたくなに佐智と目を合わせようとはしなかった。  母親と並んで校門をくぐりかけた佐智は、ふいに背中に電流が流れたようなショックを感じた。彼女は夕暮れが足早に迫ったSHの構内を見まわして、初めてここ数日来の迷夢からはっきり目覚めた。 「ちょっと待ってて」  佐智は何事か言いかけた母親を置きざりにして、中庭へ飛んでいった。青い衣の聖母マリアは、もどかしげに水面に身をのりだして佐智を迎えた。こういうふうにして彼女は自分の息子の代りに、SHの生徒たちを抱きとろうとしてきたのだ。佐智はあるかなしかの微笑をたたえている聖母の顔をじっと見つめた。ふいに体が浮きあがるのを感じた。背に羽が生えたのだ、天使みたいに、と佐智は思った。もうどこにでも飛んでいける、好きな所に、いつでも。海を渡って、日本へ帰っても平気だ。また必ずこの町に来られる、メリー・宋に会いに……。佐智はくるりと後ろを向くと、母親の待っている聖堂の石段の下に駆けもどった。  夕食がすむと、佐智はすぐベッドに追いやられた。佐智は不満だった。中国の最後の夜には、もっとどきどきするようなことが起こってもいい。親たちは反対に、平生と少しも変わらない夜であったと思いたがっていた。別れの晩の穏やかさが、あとに続く長い未知の旅の不安を打ち消してくれることを期待しているようだった。同居人の高《カオ》が、落ちつかぬ様子で庭をうろうろ歩きまわり、ときどき用事はないか、と聞きにきたときも彼らの返事はつねに「没有《メイヨウ》(ないわ)。老高《ラオカオ》、謝々《シエシエ》」であった。それでも高一家の住む門番小屋からは、油灯のぼんやりした明りが夜の庭に流れだしていた。律義《りちぎ》な高は、同居の日本人家族の帰国を前に、夜っぴて起きているつもりかもしれない。父母はいつまでも居間に残って、ぼそぼそと話を交わしていた。定められた手荷物が床の上にあるほかには、ソファも花瓶《かびん》も本も位置を変えていない。家の中にあるものすべては、次の日から中国政府の所有になるのだった。佐智の本棚《ほんだな》に並んだ全二十巻の『世界神話全集』も例外ではなかったが、佐智はそれを特別に悲しいとは思わなかった。季節が移り変わるときのような、もっと大きな諦《あきら》めが彼女を包んでいたのである。  ベッドは窓ぎわにあったので、夜空が藍色《あいいろ》の水面のように佐智に迫ってきた。佐智は自分が海に漂う小舟に乗っている、と思った。たぶん微熱のせいであろう。マザー・アメダに教わった銀河《ミルキーウエイ》が、ミルクではなくちゃんと銀の埃《ほこり》のような星の集団に見える。それにしても銀の星がこんなにつまっていて、空は重たくはないのだろうか。いつか突然、底が破れるのではないか。明朝、一家を運んでいくトラックがどこに向うのか、佐智には教えてもらえなかった。そこから先は大人の領分で、さらに集結地から海を渡って日本にたどりつくまでは、一言もたずねてはならないのだった。佐智がくり返し念を押されたのは、たぶん混乱のきわみに達するであろうその旅のあいだ、ぜったいに親のどちらかにしがみついていて、何が起ころうと彼らを見失わないことだった。これは雑作もないことのように佐智には思われた。自分がお腹《なか》にいたころの状態にもどればいい。佐智は少し眠くなった。ベッドが波間の小舟のように揺れはじめた。〈明日からはぐっすり眠れる場所なんてないかもしれないわ〉と母親が言った。〈汽車の中とか、地面に|らくだ《ヽヽヽ》のようにごろんと寝ころぶの〉。眠れるか眠れないかは別にして、|らくだ《ヽヽヽ》のように寝ることは佐智には面白そうに思えた。星が一個流れて、足元に置かれたリュックの上でポーリーが瞬《またた》きをした。ポーリーよ、安心しなさい。いっしょに日本に行くのだから。もう一個、黄色い星が尾を引いて流れた。今度はかなり長い距離だった。そのとき胸の空間をピリリと流れ星のように痛みが走った。思いだすまいと必死でがんばったのにだめだった。メリーは……やはり、こうして……ベッドの上で……佐智のことを考えて……いるのだろう。メリーがSHにいなかったら、佐智は英語の洪水《こうずい》に溺《おぼ》れて窒息するところだった。彼女は四ヵ国語を話せる天才で、佐智の親友だった。佐智がメリーを助けた場合の何倍も、メリーは佐智を助けた。佐智は手を伸ばし、メリーを捕らえ、ポーリーのように日本に連れていきたかった。  部屋の壁がゆっくりと倒れかかった。窓の輪郭がゆがんで消えていった。のこったのは広大な夜空だった。〈ああ、あの|とき《ヽヽ》が来る〉と佐智は感じた。一つのことがらに心をこらしすぎると、必ず訪れてくる溶暗の状態である。この状態の中ではごくわずかなものしか見えてこない。周囲のものだけではなくて、佐智自身も一つのものになり、おぼろな世界を出たり入ったりする。  メリーが佐智に背を向けて、見えない階段を踏んでのぼっていった。〈待って〉と佐智は息を切らして叫んだ。〈どこへ行くの、メリー・宋《ソン》?〉佐智はうらみがましくたずねた。〈|あすこ《ヽヽヽ》〉とメリー・宋は星空を指さした。彼女は|あそこ《ヽヽヽ》の代りに、いつも|あすこ《ヽヽヽ》と言った。〈エリザベスは進級テストに合格したの?〉〈そのはずよ〉疑問に責められながら、佐智は答えた。〈早く通信簿《マーク・ブツク》持ってきなさいよ。この階段はひとりでに動いていくのよ〉佐智はあわてて星の階段の下で採点をしているマザー・アメダの机に駆けよった。〈アメダ先生、あたしの通信簿《マーク・ブツク》早くくださいな。メリーといっしょに行くんです〉マザー・アメダはワスレナグサ色の瞳《ひとみ》に悲しそうな色を浮かべた。〈エリザベス、今度のあなたのテストの結果はあまりよくないわ。進級はできません〉メリー・宋がかなり上のほうで金切声を出して呼んだ。佐智はその下に駆けよって探したが、一段の階段も見つけることができなかった。メリーは呼ぶのを中止して、首をかしげながらずんずんのぼっていった。メリー・宋は両手を差しのべた。空に近づくにつれて、彼女の体は星の光に染まって銀色に輝きはじめた。 「宋梅里《ソンメリ》、宋梅里」佐智は親友の本名を呼んだ。「待ってよ、待ってよ、宋梅里」 「アン ニョン、佐智。アン ニョン、佐智」梅里の声がきれぎれに星空から降ってきた。  母親が揺り起こすまで、佐智は泣きつづけた。こんなに辛《つら》いことが一ぺんに来るなんて初めてだった。テストに失敗し、星空の階段も発見できず、梅里とも別れねばならない。目覚めてから、これらが全部ほんとうであることに気づいて、また泣きださずにはいられなかった。母親は黙って佐智の額に手を当てた。 「熱はないみたいね」と優しく言った。 「今、何時?」  佐智はしゃくりあげながらたずねた。もうお迎えが来たのかとぞっとした。 「晩の十一時よ」母親が少し笑いながら言った。「そろそろ寝ようと思ったら、あなたが夢を見て泣いてるから来てみたの」それから佐智の枕《まくら》の横に一通の封筒を何気なく置いて言った。「さっき老高《ラオカオ》が渡してくれたのよ。サーチー嬢さんの学校の好朋友《ハオポンユウ》が来たって言ってたわ。媽々《マーマ》らしい女の人がいっしょだったって。待っていてくださいって言ったそうだけど、私が出ていってみたら、もう道の上にはだれもいなかったわ」  佐智は封筒を受けとって、ぼんやりした常夜燈《じようやとう》の明りに照らしてみた。表書きも裏書きもない薄い水色の封筒だった。SHの生徒が好んで使う文房具屋で佐智とおそろいに買ったものだった。 「じゃあ、お休みなさい」  母親はさりげない平静さのまま行ってしまった。封筒の中には、一枚の写真が入っているだけだった。メリー・宋が石の橋の上に立っていた。たぶん昆明《こんめい》湖だろう。中国の皇帝や后《きさき》たちは人工の池に石の橋を架けるのが好きだった。メリーは細長い顔を斜めにして、親しみのこもった笑いを浮かべていた。撮影者はよほど彼女のお気に入りにちがいなかった。それでなければこんな笑顔が出るはずがない。短いワンピースの裾《すそ》から、少しO型に湾曲した両足がにょっきり生えていた。その両足を交互に動かして、今にもこちらに歩いてきそうだった。写真を裏返すと、まるで三歳ぐらいの子が書いたとしか思えない下手な字が並んでいた。佐智は目をくっつけたり、離したりしてどうやら判読した。 「アタシ(ソンメリ)オイツマデモワスレテワイケネイヨ [#地付き]宋 梅里   」     10  そうだった。佐智は、写真の断片をかき集めながら思いだした。宋梅里《ソンメリ》は「メリーを忘れてはいけないよ」と口に出したのではなかった。二人は星空の下で、別れをおしんだのでもなかった。彼女は昔『村田梅子』と呼ばれていた時代に、むりやりに教えこまれた日本の文字を記憶をふりしぼって書いたのだ。もう二度と使わずにすむはずだった片仮名〈イケネイヨ〉。 「ワ」は、草の葉の上に引っかかっていた。「スレテ」は、近くの地面で拾った。「ネイヨ」は、靴《くつ》の底に敷かれて泥《どろ》だらけになっていた。「宋」という文字は、真ん中から引きさかれていた。「梅里」だけはどこにもなかった。白い小犬が噛《か》みくだいて呑《の》みこんでしまったのかもしれない。佐智は朝鮮の引揚者宿舎のほうを眺《なが》めた。洗濯物《せんたくもの》の行列よりひときわ高く、青地に白い太陽の旗がひるがえっていた。 「さちぃ、さちぃ」  だれかが呼んでいる。ふり返ると、穀物倉庫の入口に母親が立っていた。久しぶりに外に出てきた母親は、暮れなずむ中国の空を呆然《ぼうぜん》とふり仰いでから、穀物倉庫の垂直な壁を目が見えない者のように伝い歩きはじめた。ときどき彼女は、メガフォンのように口に手を当てて叫んだ。 「遠くに行ってはだめよう、さちぃ、戻《もど》ってらっしゃい」  これ以上叫ばせておけば、母親は狂ってしまうかもしれない、と佐智は思った。佐智は拾い集めた宋梅里の断片をバスケットに押しこんで、母親を迎えに駆けていった。父親が隔離|病棟《びようとう》から家族のもとに帰ってくるまで、佐智は母親の傍《そば》を離れてはならないのだった。王女様の物語は終った、と彼女は考えた。しかしこれから何の物語が始まるのかは、まだわからなかった。 [#改ページ]     第三章 〈しなの〉航海記     1  出港した日には、海は黄土をかき混ぜたように濁っていた。大陸がたえまなく身を削って、海に注ぎこんでいるからだった。次の日起きてみると、冴《さ》えた群青色《ぐんじよういろ》に変わっていた。錨《いかり》を下ろしても、とても底に届きそうもない深海の色だった。見わたすかぎり、水と空しかなく、運行しているのは太陽と〈しなの〉だけである。  行き着く先が〈島〉であると佐智は教えられていた。けれども〈島〉の姿を想像することは彼女にはできない。今までの生活がそれとはおよそ無縁であったからだ。彼女は甲板にのぼるたびに〈島〉を探すのがくせになった。もちろん簡単に到達できるはずがない。むさぼり読んだ数々の書物からもそれは明らかである。暴風雨、海賊、暗礁《あんしよう》などの障害が航海には付き物で、それらによって船旅は光彩を放つのである。  子どもたちはしばしば舷側《げんそく》にたたずんで、海面を見おろした。重い水は〈しなの〉の鉄の脇腹《わきばら》で押し開かれ、泡《あわ》だちながら後方へ動いていく。そのゆったりした速度は、黄色い海から群青の海へ移っても変わりがなかった。目の前に船体とひとしい大きさの鯨《くじら》が現われても、〈しなの〉はゆうゆうと前進を続けたであろう。実際に黄色い海の出口にさしかかったとき、棘《とげ》だらけのレモンみたいな機雷が一個浮いていたのだが、〈しなの〉は舳先《へさき》も曲げずにすれすれに通りすぎた。大胆不敵というよりは、運動神経が鈍っているのではないか、と佐智《さち》は疑っている。  その疑いは二等航海士が、「〈しなの〉は人間でいえば百歳ぐらいの年寄りに当たる」と言ったときますます強くなった。でも彼は年寄りは尊敬に値すると信じていたので、子どもたちに向ってそう教えたのだ。「これほどいろいろな体験をしてきた船もめずらしいだろうよ。最初は欧州航路の客船で、十年後には郵便船でアメリカと日本を往復、そのまた十年後には遠洋漁業でカラフトマスをとっていた。ほら甲板に魚の臭《にお》いがしみついているだろう」  二等航海士は言葉を切って、子どもたちがいっせいに鼻をぴくつかせてうなずきあうのを待った。それからある種の悲しみをこめてつけ加えた。 「〈しなの〉の最後の仕事は引揚者を乗せて、日本と大陸を五往復することで、そのまた最終回の航海に乗りあわせた君たちは運がいい」  なぜ運がいいのか佐智にはぴんと来なかったが、〈しなの〉がリューマチにかかっているのは確かであった。船は関節をたえずぎいぎいときしませ、痛みに身をよじらせていた。 「エンジンがしゃっくりをしている」  耳をすまして佐智が言った。 「仕方がないだろう。なにしろ定員の十倍の引揚者と荷物を乗せているんだ。港に着いたら花輪で甲板じゅう飾ってやりたいよ」  商船学校を卒業したばかりの二等航海士は腹をたてて言い返した。彼は初めての相棒であるこの年老いた船の悪口には、がまんができないらしかった。佐智があわてて自分はとても〈しなの〉を気に入っているのだと言うと、彼はきげんを直した。そして船長が昼寝しているすきに、こっそりと子どもたちを操舵《そうだ》室に呼んで舵《かじ》を握らせてくれた。 〈しなの〉が大陸の港を出発したとき、彼は上甲板に直立不動の姿勢でほかの船員たちと整列していた。むさ苦しい服装の引揚者の群れに囲まれた二等航海士は、ピカピカの金モールの筋のついた白い制服を着ていた。彼のすぐ近くにいた佐智は、その制服にマリゴールドの花みたいなボタンが並んでいるのをうっとりと眺《なが》めた。それから突然、彼女は前後から首を伸ばしているほかの子どもに気がついた。彼らの番号は一〇五四番と一〇五九番で、佐智が胸に縫いつけている数字とほんのわずかしかちがっていなかった。そして実際に彼らの家族は、船倉でも佐智たちと隣りあって暮らすことになった。佐智は番号の下の名札までは読むことができなかった。一〇五九番には、小さい妹の一〇六〇番がいつも瘤《こぶ》のようにくっついていた。  四人のうちでは一〇五四番が、きわだって目だっていた。彼はろうそくの焔《ほのお》みたいに突ったった髪とネムの花に似た長いまつ毛を持っていた。白い肌《はだ》には女の子の洋服のほうがよく似あいそうだった。親同士の簡単な挨拶《あいさつ》から、佐智は彼が日本とドイツの混血児だということを知った。彼の顔貌《がんぼう》は完全に母親ゆずりで、バイオリン弾きの父からもらったのは日本語だけらしかった。日本語をあまり喋《しやべ》らない彼の母親は、まだ幼い次男を抱きかかえ、長い両足を窮屈そうに折り曲げて座っていた。彼女はまわりの日本人よりもずっと快活で、佐智と目が合うと面白そうに笑いかけた。  子どもたちが互いに名のりあったのは、航海の第一夜である。船倉には窓がなく、引揚者は夜昼|点《とも》されている弱々しい裸電球の下で体を丸くして寝た。荷物は枕《まくら》になったり、足台になったり、結構役にたった。佐智は薄闇《うすやみ》の中で貯蔵されているじゃがいもを連想した。大小のじゃがいもが入り混じってごろごろしていた。船倉は端にいる人の頭が見えないほど広く、ふたをしたシャーレのように蒸し暑かった。乗船して一時に気のゆるんだ大人たちは、たちまち眠りこんだ。遅れをとった佐智は大小のいびきや歯ぎしりに囲まれて、目を覚ましつづけた。そのうちにしきりに目の奥や耳の孔《あな》がむずむずし始めた。自分が発芽しかけている、紫色のじゃがいもの芽がらせん階段のように伸びかけている、と佐智は感じた。呼吸が苦しい。〈どうしよう〉と泣きだしかけた。母親は疲労|困憊《こんぱい》して石のように眠りこんでいる。病みあがりの父親の肩は、辛《つら》そうに上下に揺れていた。だれも頼りにはならなかった。悪い夢を追い払う手段は、すぐに立ちあがって自分がじゃがいもではない証拠を自分に示すことだけだった。  そこで佐智はそうした。すると驚いたことに、右手の闇の中でも動く気配が起こり、左手でもだれかが立ちあがってこちらの様子を眺めていた。一〇五四と一〇五九だ、と彼女はすぐに気づいた。流木のように散乱する手足を踏まないように注意しながら、やっと通路にたどり着いた。二人の子どもも続いて到着した。もう一人、あとから「おにいちゃん」と呼びながら女の子が来た。佐智は無言でハッチの下に立った。仰向くと、船室の闇よりも濃い四角い夜空が見えた。潮風が誘うように吹きこんできた。佐智は、やすりのように錆《さ》びた鉄柵《てつさく》で掌《てのひら》をこすりながら、上甲板にのぼった。すると発芽幻想は、たちまち跡形もなく消えていった。  四人は溺《おぼ》れかけた者みたいにがつがつと、新鮮な空気を呑《の》みこんだ。両手を広げたり、鎖をはずした犬みたいに跳びあがったりした。星のない夜が、大きなこうもり傘《がさ》を開いて〈しなの〉をすっぽり包みこんでいる。子どもたちは手摺《てす》りにつかまって、空に見わけがたく溶けこんでいる海を眺めた。〈しなの〉は昼間と同じ速度で、水をかき分けていた。斜めに走り去る航跡が仄《ほの》かに見えた。佐智はふいに奇妙な驚きに打たれた。青白い燐光《りんこう》が〈しなの〉をとり巻いている。動きの激しい水の頂きと静かな波間に接して、光の膜が伸び縮みをくり返していた。海全体が発光しているのだった。宝石の屑《くず》をばらまいたように。波が崩れるたびに、光は無数の塵《ちり》となって海面下に沈んでいく。佐智は水中に飛びこんで、あふれる光を両手ですくいあげたい衝動に駆られた。 「あっ、ホタルだ!」と一〇五四番が叫んだ。 「きれい、きれい。電気花火」と一〇五九番の妹が手をたたいて踊りあがった。 「ハナ、落ちるぞ」  佐智の横で一〇五九番が注意を与えた。佐智は首を伸ばして彼に言った。 「上着の裾《すそ》を抑えててあげるわ」 「頼むよ。君どこから来たの?」 「北京《ペイチン》よ。あなたたちは?」 「天津《テンシン》」 「ぼくも北京」と一〇五四番がふり返って、嬉《うれ》しそうに佐智に言った。「北海《ペイハイ》でスケートしたことあるかい?」 「ええ、何度も」 「あたしもスケートできるもん」女の子が割って入った。「おにいちゃんなんか、国民学校で代表選手だったんだよ」  まもなく佐智は、一〇五九番の兄とその妹が洋と華、一〇五四番の混血児がケンという名であることを知った。もし終戦で日本の国民学校が閉鎖されなかったら、彼らはそれぞれ中学生と二年生と五年生になっているはずだった。佐智とケンは同じ年齢で同じ町に住んでいたから、話がよく合った。ケンは終戦後は家の中で両親から勉強を教えてもらった、と言った。佐智は自分が北京を離れる直前まで通っていた国際学校の話をしてきかせた。 「あなたも、こういう学校に入っていれば、友だちがたくさんできたのに……」  ケンは燐光のまたたく水面を見おろしたまま、頭を横にふった。 「ママが許さないよ。パパはきっといいって言うだろうけれど……」  佐智は意味がわからずに新しい友だちを見た。 「そういう学校には、ドイツの敵野郎がたくさんいるだろう」ケンは説明した。「そいつらと机を並べるわけにはいかないよ」 「だって戦争は終っちゃったのよ。二年も前に……」佐智はしどろもどろになった。「中国人もアメリカ人も、あたしに親切だったわ」 「それは君が女だからだよ」  ケンは頑固《がんこ》に言い張った。佐智は黙ったが、その問題については、女だろうと男だろうと変わりはないと信じていたので不服だった。  洋が突然、緊張した声でささやいた。 「だれか、こっちへ来る……」  佐智は華の小さい体が、自分にしがみつくのを感じた。船首の方角から、不規則に甲板を踏みつける重い足音が近づいてきた。 「男らしいぞ」と洋がわざと大声で言った。  足音の主が、闇の中から少しずつ輪郭を現わした。引揚者にはめずらしい背広姿だが、ネクタイは結んでいない。だらしなく開いた衿口《えりぐち》から酒の臭いが漂ってくる。彼はときどきよろめいて、そのたびに手負いの獣のように唸《うな》り声をあげた。子どもたちは逃げ腰になった。しかし船倉に戻《もど》るためには、男の横を通りすぎねばならず、その際に生ずる危険よりはこうして固まりあっているほうがましに思えた。 「よう、よう」男は子どもたちに叫んだ。「夜の散歩かね。じゃ、おれと同じだ。何でえ、あんな動物園みてえな所に押しこめやがって。おれは、大、大……大日本帝国に抗議するぞお!」  男の体が音をたてて手摺りにぶつかり、子どもたちは本能的に後じさりをした。佐智は彼が怒りのあまり、手摺りを引きちぎるのではないかと思った。 「へえ、餓鬼じゃねえか。なぜ餓鬼がこんな夜ふけに甲板で遊んでるんだ、おいっ!」  彼は端にいるケンの前に、頭を突きだした。ケンが顔をそむけた。男は体じゅうに酒をふり注いだように臭った。左手に中国製の酒瓶《さかびん》を握っていた。 「おまえら、おれが怖いんだな」男は怒鳴った。「なぜだか知ってるぞ。それは、それはだ……」男の喉《のど》が奇妙な音をたてた。 「おまえらが虫けらだからだ」くくっと男は笑った。「おれは虫けらじゃない」彼は誇らしそうに言った。「よし、おまえたちに証拠を見せてやる」  いきなり男は背広の上着とその下のワイシャツも脱いだ。それからケンの腕を引っつかんで荒ら荒らしく揺すぶった。 「おまえの友だちに教えてやれ。ほらここに何が見える? おれの腕や肩や背中にだ」 「暗いからよくわからないよ」  ケンが半泣きになりながら言った。 「もっと目をくっつけて見ろ!」 「大きな……鳥みたい……翼を広げて飛んでいる」 「よし」男は突きとばすようにケンを放した。 「鷲《わし》の刺青《いれずみ》だぞ。こいつはおれといつも一緒にいる。おれが笑うとこいつも笑う。おれが怒ると、いやこいつが怒るとおれも怒る。おれは鷲だ。鷲がおれなんだ。ほかの奴《やつ》みたいな虫けらじゃねえ」  彼は酒瓶を逆さにして一気に飲み干した。それから脅《おび》やかすような調子でたずねた。 「ここから落ちたら、どうなると思う?」  もちろんだれも返事できなかった。彼は腕をふりあげて、酒瓶を海に投げた。黒い水面にきらりと小さな穴があいたが、周囲の青白い光が流れこむと、たちまちそれをふさいでしまった。たぶん人が落ちたとしても、たいして変わりはないであろう。 「くたばり損いめ!」男は足踏みをして、今度は〈しなの〉をののしった。「吃水線《きつすいせん》まで水が来てやがる。こんな船に乗るようじゃ、鷲も落ちぶれたもんよ」  子どもたちは縮みあがった。この次にはほこ先がこちらに向けられるかもしれない。男の吐く息が荒くなった。そのとき、嬉しいことに、何者かの足音が近づいてきたのである。 「引揚者の方ですか」足音は二、三歩手前で立ちどまると、怪しむようにたずねた。「見回りの乗員です。夜半は危険ですから、なるべく甲板には出ないようにしてください。あっ、どうかしたの?」  子どもたちがわっととりすがったので、彼はあわてて彼らを制止した。 「船室にお戻りください」と彼は酔っぱらいに厳しい声で言った。「歩けないのなら、肩をお貸ししましょうか」 「おれに触わるな」男は嫌悪《けんお》に満ちた声でどなった。「おれは、いつでも独りで、何だってできるんだぞ」  それから自らの言葉を証明するように、手摺りから身を放すと歩きはじめた。子どもたちと船員の見守る中で、ふらふらと上体を揺らせながら闇に溶けていった。 「いい子だから、君たちも船倉に戻りなさい」と船員は言った。制服が白っぽく夜の中に浮きあがっていた。昼間見たあの若者だ、と佐智は気づいた。彼はまだ震えのとまらない子どもたちを、ハッチの入り口まで送ってくれた。 「ぼくは二等航海士だ」と別れぎわに彼は教えた。「明日、ブリッジの上にのぼらせてあげよう」  その魅力的な招待にすら、子どもたちは答える元気を失っていた。彼らは押し黙ったまま、それぞれの家族の隙間《すきま》にすべりこんだ。佐智は眠りが彼女を包むまで聞き耳をたてていたのだが、鷲男がどこにいるのか知ることはできなかった。彼は船倉では物音一つたてなかったからである。     2  二日目には、大人の半数が船酔いにかかった。彼らは枯草のような顔色になって、天井から塗料がよじれて垂れさがっているのをふきげんに眺めていた。親たちは子どもに対して極端に寛大になった。彼らは終日物思いにふけり、手摺りを越えて海に転落してはいけないという決まり文句を繰りかえすだけだった。活発な子どもはほとんど甲板で遊んでいるために、船倉には二〇〇〇人以上の引揚者をつめこんでいるわりには、異様な静けさがみなぎっていた。  朝食には、軍隊用の堅パンと薄い粉ミルクの溶液が配られた。佐智の自慢の歯でも、噛《か》みわることのできない石のようなパンだった。父と母はミルクに浸して、ねずみのようにかじっていた。佐智がぼんやりその様子を眺めていると、父がおだやかに声をかけた。 「食べないのか、佐智は……」 「欲しかったらあげる」と言って、佐智は堅パンをがちんと音をたててアルマイトの皿に置いた。 「夜中に、甲板に出ていったね」同じ調子で父が続けた。「心配していた。帰ってくるまで……」  母が目をむいて、二人を見くらべるのがわかった。彼女はあのとき、いびきをかいて寝こんでいたのである。 「いい空気を吸いにいったの」佐智は小さい声で言った。「海がピカピカと光っていたわ」 「夜光虫だよ」  淡々と父が教えた。彼は昆虫《こんちゆう》学者で戦争中は北京の大学で、戦争後は中国政府の機関で働いていた。 「虫なの?」 「ちがうね。一ミリぐらいのクラゲみたいな形をした微生物だ」  父はうまく母に口をはさませないで話をしている、と佐智は感謝した。 「海の中には目にもとまらぬ生き物が、地球人の数より多くすんでいる。ガラスの棘をはやしたり、手を組んで輪になったり、トンボの複眼みたいに寄り集まったり、三角形に集まったり、形も生活もいろいろだ」  日本に帰ったら、顕微鏡で夜光虫を見せてあげよう、と彼は約束した。そのあとで胸を抑えて、内側が空っぽになるような咳《せき》をした。佐智の父は集結地にいたあいだ、ずっと隔離|病棟《びようとう》に入っていたのだ。母が急いでタオルを彼に渡すのを、佐智は無言で眺めていた。父の話は面白いが、彼の惨《みじ》めな状態にどうしても心がついていけないのだ。彼女は自分が薄情な子だと母が思っていることを感づいていた。それでも嘘《うそ》つきになるよりはましではないか。新しい自分が、古い自分から脱皮するのは、〈しなの〉が大陸から離れていくときの副産物みたいなものかもしれない。  甲板を大量のまぶしい光が洗っていた。海は凪《な》いで、鏡のように太陽を投げかえしている。昨日まで暗幕を垂らしていた空は、青い気球のようにふくれあがり、風がぴりりと塩辛い掌で頬《ほお》に触れていく。 「ゆうべの酔っぱらいだけど……」洋が声をひそめて話しだした。「戦争中に密輸をやっていた悪党らしいぞ」 「何の密輸をしたの?」  佐智もつられて低い声になった。 「戦争で使う武器を作るために、金の指輪や宝石を皆で供出しただろう。それを出さなかった狡《ずる》い奴も中にはいたんだよ」 「狡い奴って?」  ケンがおうむ返しにたずねた。 「大金持のくせにけちん坊な奴だ。自分ちのお宝を供出せずに、あの鷲男に頼んで中国に運んでいってもらったのさ。中国には日本の十倍くらいの金持がいるからね」  佐智とケンは顔を見あわせた。 「中国の金持はそのお宝を買って代金を鷲男に渡すんだ。あいつは日本に代金を持って帰って、日本の金持に渡す」 「それじゃ、鷲男はどこでお金をもうけたの?」 「日中両方からお礼をもらってたんだ。でも戦争が終ったときには、ちょうど中国にいたから、日本には帰れなかった。お宝を売った代金は、きっと皆使ってしまったんだよ。だから……」洋はいちだんと声をひそめた。「この船が着くと同時に、警察に逮捕される手筈《てはず》になっているらしい」 「なぜ日本に帰ってくるんだろう。いつまでも中国で暮らしていればいいのに」とケンが率直な疑問を提出した。 「そんな勝手できるもんか」洋は得意になって続けた。「日本人がいつ帰るか決められるのは、中国人だけなんだから。あいつがヤケ酒を飲んでいるのは、そのせいだぜ、きっと……」 「だれに聞いたの?」興味をそそられた佐智がたずねた。「ずいぶん詳しいのね」 「父さんから」と洋は肩をそびやかした。「父さんは天津で新聞記者をしていたんだ。だから何でも知ってるよ」 「ワシオトコきらいだあ」  華がわざとらしく佐智にすがりついた。どうやら、この女の子は兄よりも姉のほうを欲しがっているらしい。 「だいじょうぶよ。皆がおおぜい居る所では、あの人だって何もできやしないわ」  佐智は彼女を押しもどして言った。 「昨夜はそんなふうには見えなかったなあ」とケンが陰気に言った。 「あっ!」華が今度こそ本物の恐怖を顔に浮かべると、佐智の背後を指して叫んだ。「ワシオトコ!」  皆がぎくりとしてふり返った。船尾と船首に分かれている二ヵ所のハッチから、引揚者が巣から這《は》いだす蟻《あり》のように甲板にのぼってくるのが見えた。船倉の澱《よど》んだ空気が限界に達したのであろう。人々に混じって、鷲男が刺青をわざと見せつけるように腕まくりして歩いていた。彼の周囲には直径一メートルばかりの空間の輪が広がっていた。その輪の中にだれかが誤って踏みこむと、鷲男は恐ろしい目つきでにらみつけて追いだした。酒の勢いがあろうとなかろうと、彼からは一種の猛獣めいた雰囲気《ふんいき》が発散していた。子どもたちはふたたび脅えてカカシのように身をこわばらせた。その気配を感じとったのか、男は頭をめぐらして佐智をじっと眺めた。ゆうべのことを思いだしたのだろうか。冷たい汗がわいてきた。 「おおい」ふしぎにも昨夜と同じ救い主が、今度は頭上に出現した。ブリッジの上で二等航海士が陽気に手をふっている。「そこの鉄の階段を上ってこい」  彼の声は、四人のカカシに息を吹きこんだ。洋が入り口の鎖をはずすと、まっ先にのぼりはじめ、腰巾着《こしぎんちやく》の華が続いた。階段は垂直に近く、ケンは途中でへたばってうずくまった。彼の下にいた佐智もくたくたと膝《ひざ》をついた。〈しなの〉に乗りこんで以来、力がどんどん減っていくのがわかる。無理にでも朝食の堅パンを食べてくればよかったのだ。眼下の海は気味の悪いほどなめらかで、〈しなの〉の噴きだす煙が|かすり《ヽヽヽ》模様のように映っている。ケンが荒い息を吐きながら、やっと立ちあがった。彼も朝食を残した組にちがいない。洋と華は仲間の二人を置き去りにしてさっさとのぼってしまった。彼らの家族は食事のとき、シマウマみたいに円陣を作るのだ。たぶん、太平|洋《ヽ》と中|華《ヽ》民国から一字ずつもらった兄妹は、情報通の父親がかくし持ってきた特別の栄養食を食べているのにちがいない。  やっとブリッジにたどり着くと、二人は床の上にのびてしまった。洋と華がまわりを踊りながら拍手をしている。佐智は腹をたてて、彼らを無視した。二等航海士の赤銅色《しやくどういろ》の顔が、笑いながらのぞきこんだ。 「アメリカ製のビスケットだ。ほら、起きろ」と極彩色の缶《かん》を差しだして言った。  缶のふたには花園と日傘《ひがさ》をさした少女の絵が、童話の挿絵《さしえ》みたいに描かれている。佐智が上半身を起こしてそれに見とれていると、誤解した二等航海士が説明を加えた。 「遠慮することないんだ。特別船室のお客さんが、君たちに回してくれたのさ」  彼が目配せをした方向に、佐智は視線を移した。ブリッジの先端に〈お化け兎《うさぎ》〉が立って、海を見おろしていた。そう錯覚したのは、彼女が着ているまっ白い毛皮のコートのせいであった。彼女は二等航海士の紹介にもかかわらず、佐智のほうをちらとも見ずに、澄ましていた。佐智はその横顔を見て、声をあげそうになった。北京で通っていた国際学校の最上級生だったからである。学校でも高慢ちきで通っていた彼女は、〈劉蘭《りゆうらん》の妹〉として知られていた。劉蘭は達者な日本語ととびきりの美しさで、中国に名のとどろいていた映画女優だった。でもなぜ〈劉蘭の妹〉が、引揚船に乗っているのだろう。佐智は混乱した。彼女は本来は日本人なのだろうか。そうでなければ、日本に送り返されることなどあるまい。でも姉である劉蘭は……。佐智の凝視があまりしつこかったためであろう、彼女は不審そうにこちらを見た。しかし佐智が下級生であったことに気づいた様子はなかった。佐智は学校で目だつことがきらいだったし、今の姿ときたら一週間も着替えせず、髪の毛から靴《くつ》の中まで泥《どろ》と垢《あか》にまみれている。ズボンは三ヵ所ほどぎざぎざができていて、上着の肘《ひじ》には丸い窓があいていた。一方〈劉蘭の妹〉は自分も女優みたいに着飾って、かなり濃い化粧までしているのだった。彼女はもたれていた手摺りを離れて、唇《くちびる》をとがらせて佐智のほうに歩いてきた。 「あなた、なぜ食べないの?」彼女は国際学校では一言も出さなかった上手な日本語で喋《しやべ》った。「引揚者の食事はひどいって聞いたわ。犬のご飯みたいに何でも混ぜちゃうんですってね。このビスケット欲しいんでしょ。わかってるわ。こっちにいる子たちは、喜んで食べたわよ」 「いいえ」  佐智は頭を横にふった。ケンもつられてふったが、ひどく残念そうに見えた。 「変な子ねえ。せっかく|ひと《ヽヽ》があげたのにさ」 〈劉蘭の妹〉は、二等航海士に向って不満を述べた。彼のほうはこの事態をどう考えてよいかわからずに、当惑しきっていた。 「お昼までお部屋にお休みになっていらしてください」彼はようやく言った。「日本の新聞をお届けしましょうか。もっとも十日前のものですが……」 「あたし、日本語は読めないの!」と彼女はぷりぷりして言った。それから〈お化け兎〉にふさわしくブリッジを乱暴に跳ねながらおりていき、大きな音をたてて特別船室のドアを閉めた。二等航海士は肩をすくめて、ため息をついた。横を向くと独り言をつぶやいた。 「どうも、いかん」 「どうして、あの女《ひと》だけ特別の部屋にいるの?」  佐智は背の高い航海士に、爪先《つまさき》だちをしてたずねた。 「どうしてって……つまりあのお嬢さんは船賃を払って〈しなの〉に乗りこんだんだ。二五〇〇人の引揚者のうちで、ただ一人の正真正銘のお客さんなのさ」  そう言うと、彼はふざけて自分の海員帽を脱いで佐智の頭にのせた。帽子の内部は、日向《ひなた》と潮風のほかにかすかな二等航海士の匂《にお》いがこもっていた。しかし佐智は自分を邪魔した帽子を脱ぎすてて叫んだ。 「あの女《ひと》だけゆうゆうと暮らしているの、ずるいわ」 「そうだよ、おれたちばっか暗くて臭い船倉に、閉じこめられてさあ」  いつのまにか、洋もケンも華も二等航海士につめよっていた。彼は坊主頭《ぼうずあたま》をごしごしかいた。そして顔をあげたときには、別人のように厳しく引きしまった表情に変わっていた。 「おまえら、本気でそう思うのかよ」彼は子どもたちをにらみ回した。彼らの肩を一人ずつ抑えると、強い力でむりやりに海面をのぞかせた。 「見ろ。どちらを向いても水ばかりだ。いくら泳ぎが達者でも、ここから陸地にたどりつける者なんかいない。海の上で大口をたたけるのは、よほど頭の足らん奴か、さもなくば傲慢《ごうまん》で目が眩《くら》んじまった奴だ。確かなのは、この辺りには、スイカ畑みたいに機雷がプカプカしてるってことだな。この〈しなの〉では特別船室だろうと、船倉だろうと、運命は一つきりしかない。それは〈しなの〉の運命だ。あとは、水の中に投げとばされるのが数分早いか遅いかというだけのことさ。覚えておけ。船の上で人は選ぶことはできない。もちろん船賃を払ったお嬢さんは、そう思ってやしないさ。だが、ほんとはな……」二等航海士は、人差指をたてて子どもたちにウインクをした。「ぜんぜん差なんてないのさ。あれは気休め料金なんだ。そう思うと、おれはお嬢さんが気の毒になってしまう。せめて航海中、いやな目に会わずにすごしてほしいよ」  あとのほうの理屈には共感できなかったが、二等航海士の言うとおり海は広い。大陸を列車で通過したときもそう思ったが、海とは比べものにならない。海に浮かぶ〈しなの〉はまるで一片の木片のように見えるだろう。地球の三分の二は海だ、と北京に置いてきた本の一冊で読んだことがある。その海の果ての、銀の縫い針を寝かせたような水平線すれすれに、二羽の渡り鳥が黒い|しみ《ヽヽ》のように飛んでいた。数秒後には、|しみ《ヽヽ》は地球の裏側に消えた。海のあまりの広さのために、鳥も自分も〈しなの〉も、同じくらいの大きさに感じられた。  二等航海士は引揚船の上で子どもたちが航海を楽しめるように、繊細な心づかいを示した。彼は〈しなの〉への自分の愛が、小さな友人たちにも伝わるように願っていたのである。佐智たちが船内で隠れん坊がしたいと言いだしたときにも、彼は喜んでそれを許可したが、一つだけ条件をつけた。彼はざっと〈しなの〉の見取図を描いてから、吃水線《きつすいせん》下の診療所とそのさらに下の広い部屋に斜線を入れて、立ち入ることを禁じたのである。診療所には病気の人々が静かに眠っているのだから、と彼はつけ加えた。 「じゃあ、ここは?」とケンがその下の部屋を指してたずねた。 「そこには船の心臓みたいな大事な機械が置いてある」と二等航海士は答えた。「船で働いている者のほかは入ってはいけない。いいか、約束だぞ」     3  昼近くなって〈しなの〉は東シナ海に出た。彼女は妊婦のように大儀そうに体を動かしながら、前よりもスピードを落としはじめた。初期の航海の小刻みな震動よりも、足もとが崩れ落ちていくようなこの揺れ方のほうが佐智にはこたえた。昼食としてバケツに満たされて回ってきた熱い雑炊は、ただ熔岩《ようがん》のように味もなく喉《のど》を滑りおりていく。 「気持が悪い」  佐智が自分のアルマイトの椀《わん》を置くと、母親は鬼みたいになって言った。 「食べてしまいなさい。残してはだめ」 「船に酔ってるんだ」自分も食の進まない父親がとりなした。「食べたいとき、食べればいいさ」 「だめです」佐智の母は大声をあげた。「この子の手首をごらんなさい。今にミイラみたいにひからびてしまうわ」  異常なたかぶりかたに、両側にいるケンと洋の家族が同時に佐智を見た。恥ずかしさに押されて、佐智は雑炊をむりに胃袋に流しこんでから、甲板に急いで出た。手摺《てす》りで体を二つに折って、雑炊を海に戻《もど》した。後ろからついてきたケンが「だいじょうぶ?」と心配して言った。 「うん」口を拭《ふ》きながら横目で見ると、ケンはうつむいて悲しそうにしていた。「どうしたの?」 「ジョージの工合がとてもよくなくて……」とケンは沈んだ声で言った。「さっきママが診療所に連れていって注射をしてもらったのだけど、眠ってばかりいるの」  二歳になるケンの弟は、乗船以来何も食べようとはしなくなった。母親は堅パンやご飯を噛みくだいて口移しに食べさせようとしたが、胃や腸が受けつけようとしないのだった。ジョージは〈島〉に上陸できないかもしれないよ、とケンは佐智に訴えて、涙をぽろりとこぼした。彼女は黙って聞いていた。上にも下にも血を分けた存在がないために、ケンの感情は自分を素通りしていくだけだった。飼っていた動物の死や仲のいい友だちとの別離とそれは、どこがどうちがうものなのか。佐智は嘆いているケンをこっそり観察し、一方では別の自分がそれを激しく批難するのを感じた。ケンが佐智の矛盾に気づかぬまま船倉に下りていってしまうと、彼女の心はやっと平静さをとり戻した。一人っ子であることは異常なのだ、と彼女は悟った。少なくとも自分の感情が特殊であることを、これからは忘れないようにしよう。  佐智は〈劉蘭の妹〉が暮らしている特別船室を見あげた。彼女は多少は古ぼけているだろうが、船倉の床にくらべれば超豪華なベッドで昼寝をしているであろう。〈しなの〉が機雷に触れた瞬間に、自分もほかの乗船者とともに木《こ》っ端微塵《ぱみじん》になるという二等航海士の予言も知らずに……。〈しなの〉の特別船室は二棟続きであった。左隣りには居住者がいない、と二等航海士は断言していた。二号室はだれにも使用されず、従って鍵《かぎ》はかけられたままなのである。この措置は、佐智にも当然なことのように思われた。大勢の帰国者のうちただ一家族のみを優遇するのは、不公平そのものであったからだ。  ところが空部屋であるはずの窓のカーテンが、ほんの少しではあるが引きあけられたのである。三角形の隙間《すきま》から、顔に似た円いものが現われて、次の瞬間にはその隙間ごと消えてしまった。佐智は口をぽっかり開いたまま、しばらく立ちすくんでいた。口笛を吹きながら傍《かたわ》らを通りかかった二等航海士に興奮して叫んだ。 「だれかがのぞいたわ!」  二等航海士は口笛を止めて、変な表情で佐智を眺《なが》めた。 「どこから? だれが?」 「あの女《ひと》の隣りの部屋」  二等航海士はまぶしい光を正面から浴びた猫《ねこ》みたいに目を細くした。 「見まちがいだよ。空っぽなんだから」  やはり錯覚だったのか、と佐智は落胆した。二等航海士は、まあまあというふうに彼女の肩をたたくと行ってしまった。その後ろ姿は、白馬に乗って王女を助けにいく騎士みたいにさっそうとしていたので、佐智はすべてを忘れて彼を見送っていた。  ところが二等航海士が立ち去ると、まるで呪文《じゆもん》が解けたように佐智は懐疑的になった。自分の目が遠くを見る機能については抜群であることを、彼女は知っていた。大陸で友だちと遊んでいたころも、梢《こずえ》になっている栗《くり》の実や空の底で鳴くヒバリや地上のバッタをだれよりも先に発見できたのだった。二番目の特別船室にも必ず|だれかが住んでいる《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。その住人を彼女は見たのだった。しかしそれならなぜ二等航海士はごまかしたりしたのだろう。二号室の客が、〈劉蘭の妹〉みたいに堂々とブリッジに出たり、上甲板におりてこないのはなぜだろう。行ってみよう、と佐智は決心した。それが自分を納得させるいちばん確かな方法だ。ケンは今はジョージの脇《わき》を離れたがらないだろう。洋と華は秘密を分けあう仲間にしては、ちょっと信頼しがたいところがある。船底に行くのではなく、〈しなの〉の中でおそらくもっとも明るく快い所に行くのだから、一人でも危険があるはずがない。佐智はもう一度特別船室を見あげた。二号室は大煙突の足もとにある。赤と黒のだんだら服を着たピエロみたいな大煙突は、すぱすぱとパイプの煙を空高く打ちあげていた。佐智は周囲に人がいないのをたしかめてから、大急ぎで鉄の階段を駆けのぼった。あい変わらず息が切れたが、今度は休むわけにいかない。ブリッジに這いあがってから、操舵《そうだ》室をのぞくと船長と次の位の一等航海士だけが、机の上に海図を広げて熱心に検討していた。どこに行ったのか、二等航海士の姿は見えなかった。佐智はとっさに甲板に腹ばいになると、尺取虫式の歩行を始めた。人影はなく、鉄亜鈴《てつあれい》と縄跳《なわと》びが静物画のように床に転がっている。体の下から〈しなの〉のぎくしゃくした鼓動が伝わってきた。欄干の向うに海面が見えた。緑のガラスをちりばめたモザイクのようにきらめいている。海のゆったりしたうねりが、目まいとなって佐智を襲った。ガラスの細片は吹きとばされ、そのあとの陥没に〈しなの〉が呑《の》みこまれていく。這いつづけながら、彼女はその恐ろしい錯覚にたえた。まぶしさが痛覚に変わって、涙をあふれさせ、それがふしぎに不安を鎮《しず》めた。佐智は体を起こした。  二号室の扉《とびら》には、しっかりと鍵がかかっている。人の姿がちらりと見えた窓は、厚地のカーテンでふさがれている。壁に耳を押しつけたが、ねずみの走る物音も聞こえない。そのうち隣室から〈しなの〉にはどうしても不似合いの『夜来香《イエライシヤン》』の音楽が流れてきた。中国に住んでいた日本人に大流行した歌である。退屈した〈劉蘭の妹〉がレコードを聴いているのだろう、と佐智は思った。窓が開け放たれているので、中の光景は丸見えである。佐智は棒立ちになった。元上級生はばら色のワンピースを着て、白服の男と踊っていた。男の顔は見えなかったが、佐智は彼が二等航海士にちがいないと思った。別れたばかりのきげんのいい彼の表情を思いだした。いったい元上級生は日本に行って、あるいは帰って何をしようというのだろう。日本には彼女を待っている家族があるのだろうか。その答は彼女の国籍と密接な関係があるにちがいない。考えこんで歩いていた佐智の足に、鉄亜鈴が引っかかってすさまじい響きをたてた。その音と同時に、大煙突の後ろから一人の女が叫び声とともに飛びだしてきた。どうやら向う側に別の出入口があるらしかった。彼女は佐智には理解できない他国の言葉をわめき散らした。それは少なくとも、国際学校で通用していた英語ではなかった。彼女は佐智と正面衝突を避けるために立ちどまった。佐智よりも四、五歳は年上で、糸杉《いとすぎ》みたいに痩《や》せている娘であった。佐智は直感的に彼女が白系ロシヤ人であることを信じた。淡青色のぼんやりした眼差《まなざし》や水蜜桃《すいみつとう》みたいに産毛《うぶげ》のはえた白い皮膚が、佐智の親しかった一人の級友とそっくりだったからだ。 「アンタ、アタシノママト会ッタネ」  彼女は非常に腹をたてた声で詰問《きつもん》した。佐智はまったく意味がわからずに、頭上で高く留めている娘の金髪を眺めていた。 「ホントウ言ワナイトダメネ」  娘はさらに嚇《おど》かした。佐智の当惑は頂点に達した。これは特別船室に関係があるのだろうか。 「ソーニャ」横合いからなだめるような男の声が加わった。「カギ、僕《ぼく》ガ持テルヨ。ダカラタレモ、アソコニ入レナイ」  あとから来た若者は、娘より頭一つ分高かったが、鼻や唇は彼女に生き写しだった。どうやら遅れて昼食の配給を受けにいったらしく、両手に大事そうに雑炊の鍋《なべ》を抱えている。 「ソウダッタノ、ミーシャ」娘はため息をつくと、佐智に素直にあやまった。「ゴメンナサーイ。弟ノ言ウトオリネ」  突然、佐智の脳裡《のうり》に一つの事実が閃《ひらめ》いた。  この外人の姉弟こそ、二号室の船客なのだ。それにしてもなぜ彼らは姉弟同士でも、日本語を苦労して使っているのだろう。佐智の好奇心は以前にもまして、ふくれあがってしまった。 「あなたたちは、あの部屋にいるのね。特別船室の第二号に……」 「ソウヨ。アノオカシナ女ノ隣リニ」娘はあい変わらずへたな日本語で挑戦《ちようせん》的に答えた。 「ママガ病気ダカラ、アソコニ入レテモラッタヨ」 「でも病気の人は、皆診療所に行くのよ。〈しなの〉には入院できる場所もあるって、二等航海士が言ってたわ」  佐智は突っこんだ。娘は苦々しい表情で黙りこみ、代りに弟が口を開いた。 「ママハ特別ノ病気ナンダ」 「ほかの人にうつる病気なのね?」  佐智は父親が収容所でチフスの疑いで隔離されたことを思いだし、同情をこめて言った。 「チカウヨ! ソンナコトナイ」  彼は大急ぎで否定した。佐智はますますわからなくなった。とうとう彼女は決心して言いだした。 「あのお部屋には入らなかったけれど、あたし甲板ではっきり見たのよ。あなたたちのママが窓からのぞいてたわ」  佐智の言葉に、姉弟は顔色を失うほどの驚きを示した。 「アア」と弟は飛びあがって、駆けだそうとした。「スグニ、ママノ所ニ行カナクテハ……」 「待チナサイ、ミーシャ」ソーニャは弟をさえぎった。激しい彼らの反応におろおろする佐智に、浴びせかけるように続けた。「ソウナラバ仕方ナイワ。アタシタチノママニ会ワシテアゲル。ソウシタラ、ワカルワ。デモ……デモホカノ人ニ言イフラシタラ……」彼女はぞっとするほど冷たい眼差で佐智を見すえた。「アタシ、アンタヲ海ニ突キ落トス」  佐智は初めて自分のおせっかいな行動を後悔する気分になった。姉弟は彼女の前後に立ちふさがり、答を聞くまでは逃がさないぞという意志を示した。佐智は勇気をふるいおこして言った。 「約束するわ。だれにも言わない」  ソーニャは手のふさがっている弟の胸ポケットから鍵を取りだした。彼らのポケットには、佐智と同じように番号のついた名札が縫いつけられている。『梅谷ソーニャ』やはり日本人なのだ、と佐智は思った。でもケンとちがって、この姉弟の体には日本の血は一滴も流れていないように見える。|あの部屋《ヽヽヽヽ》に入れば、疑問もとけるかもしれない。  特別室の内部には、〈しなの〉が欧州航路で活躍していたころのかび臭い空気が残っていた。花柄《はながら》の壁紙には、変色した水滴の跡が散らばっていて、じゅうたんは皮膚病にかかった狐《きつね》の毛皮みたいだった。二台のベッドにはさまれた空間に揺り椅子《いす》があって、扉に背を向ける格好で女が座っていた。髪の毛が銀色の滝のように背中に広がっている。 「ママ」ソーニャが優しく言った。「タダイマ。気持ヲ休メル薬ヲモラッテキタヨ」 「オ帰リナサイ」  母親までが日本語で返事をしたので、佐智は仰天した。いったいこの家族はどうなっているのだろう。 「コノ人ハネ……」ソーニャはちょっと困って口ごもり、佐智の名札に目を落とした。 「藤本佐智です。こんにちは」  母親は首をいくぶん横に向けた。病人にはとても見えないじゃないの、と佐智は思った。やはり彼らも〈特別〉なのではないだろうか。〈劉蘭の妹〉みたいに。 「アラ、ママ」ソーニャが責めるように言った。「ホドイタノネ」 「手首が痛ムノヨ、トテモ……」  母親が窓のほうを向いたまま言った。佐智は彼女がなぜ不自然な姿勢を、いつまでも保っているのか理解した。ソーニャたちの母親は、揺り椅子にしばりつけられていたのである。ソーニャは床に落ちていたハンケチを拾いあげた。 「ゴメンネ、ママ。強ク結ビスギタノネ」 「アナタノセイデハアリマセン」と母親は娘を慰めるように言った。 「ママ、オ昼ノ食事ダヨ」  ミーシャが鍋の雑炊を見せた。母親はいやな顔をして首を横にふった。ミーシャはそれ以上強制せずに、鍋をテーブルに置くと、皿とスプーンを出して勝手に食べはじめた。 「アタシタチガ目ヲ放スト……」ソーニャは佐智に向って、さっきよりずっとおだやかに説明した。「スグニママハ死ニタクナルヨ」それから右指をナイフの形にして、左手首をごしごしと切るまねをした。「死ニタイ、死ニタイ、ソノ気持、タレニモ止メルコトデキナイネ」 「アタシガ……」母親は初めて佐智をまっすぐに見て口をきいた。彼女の顔にはこの場の話題にそぐわない、奇妙な微笑が広がっていた。「ロープデシバルコト、ソーニャニ頼ミマシタ」髪の毛が銀色であることを除けば、彼女とソーニャは双児みたいだった。 「アタシタチノ二度目ノパパガ、日本ニ帰ッテシマッタノデ、ママ病気ニナッタノ。ママトズット昔死ンダアタシタチノパパハ、〈ホワイト・ルシアン〉」とソーニャは淡々と説明した。母親はロープをほどいてもらったのに、まだ揺り椅子の中でじっとしていた。 「ママハ大連デ花屋ヲシテイタンダ」食べかけの皿から顔をあげて、ミーシャが言った。「日本人ノパパガイナクナッテカラ、花ハシオレテ枯レテシマッタ。ママガ世話ヲシナクナッタカラ」 「ミーシャ、オ行儀ガワルイワ」  母親が優しく注意した。 「アア、アア、イヤダ」ソーニャは突然乱暴な口調になった。「ナゼ、アタシタチガホントノパパデナイ男ノタメ苦シムカ、ワカラナイ。アタシ、日本ニ着イタラパパニママヲ渡スノ。アノ人ハ自分ノ家ニママヲ引キトルカ、病院ニ入レルカスレバイイヨ」 「姉サンハモデルニナリタイノサ」と弟のほうは屈託なく言った。「僕ハ大学ニ行ッテ、エンジニヤニナリタイ。ネエ、君ハパパガ〈ホワイト・ルシアン〉ノ息子ニモオ金ヲ出シテクレルト思ウカイ? 日本人ガ何ヲ考エテルノカ、マダマダ僕ニハワカラナイ。デモ僕ハ〈ホワイト・ルシアン〉ヨリ日本人ニナリタイヨ。姉サンモソウ思ッテルサ。ダカラ、日本語練習、コンナニシテルネ」  ミーシャの質問は、佐智には答えられない領域に属していた。彼女がそう言うと、若者は青い目をしばたたいてうなずいた。母親はまだほほ笑んで息子の様子を眺めていた。彼女が|死にたがり病《ヽヽヽヽヽヽ》に冒されているとは、とても思えなかった。帰りぎわに、佐智はもう一度他人に喋《しやべ》るな、と念を押された。 「アンタノパパヤママニモヨ」とソーニャは言った。「日本人、ママミタイナ病人トテモキラウ。ドウシテナノ、佐智? オカゲデアタシタチハ、甲板ノ下ノ羊小屋カラ逃ゲダスコトデキタノダケレドモ」  それにも佐智は答えられなかった。彼らの母親はまるで植物のようにひっそりと無害に見えた。特別船室に閉じこめられなくても、十分に〈しなの〉の暮らしに適応できただろう。     4  二等航海士に立ち入りを禁じられた機械室は、艫《とも》に近い船倉よりも一段下の、たえず水音の聞こえる船底にあった。ケンが隠れん坊の最中に、〈しなの〉の胎内で迷子になり、|あそこ《ヽヽヽ》に入りこんでしまったのは、ぜったいにわざとではなかった。|あそこ《ヽヽヽ》には機械の代りに〈あれ〉がいた、と告げてケンはまっ蒼《さお》になった。〈あれ〉は皆、頭からむしろをかぶせられて、木の台にしっかりくくりつけられていた。揺れても落ちないためなんだろう。船底の床は水が溜《た》まっているからね。むしろから突きだした足の裏を、ケンは数えた。八個だったよ。むしろはDDTでまっ白だったし、部屋じゅうに濃い消毒液の臭《にお》いがたちこめていた。〈あれ〉はとても静かだった。まるで標本箱の中の昆虫《こんちゆう》みたいに。 「〈あれ〉は子どもが多かったかい?」  洋は年上の貫禄《かんろく》を示そうとして、変に引きつった声でたずねた。ケンは首を横にふり続けた。そんなこと覚えていないよ。落ちついていたわけじゃないんだ。怖くて頭も体もしびれてるみたいになっちゃった。足の裏を数えたんだって、どうかしてたんだよ。ケンは自分がどこにいるのか気がつくと、悲鳴をあげて飛びだしてきたのである。褐色《かつしよく》の瞳《ひとみ》に、秘密を見てしまった者の烙印《らくいん》が焼きついている。残りの三人も、ふうっと吐息《といき》をもらすと、隠れん坊を続ける勇気を失ってしまった。  出航三日目の明け方、ケンの母親は胸に抱いた次男が息をしていないのに気がついた。彼女がバイオリンの高音部みたいな叫び声をたてたので、ほとんど船倉にいた全員が飛び起きてしまった。ケンと父親はジョージを抱いたままの母親を、両側から支えて出ていった。佐智の家族も洋の家族も立ちあがって黙礼したが、三人はうつむいて歩いていった。体格のいい母親は、鉄梯子《てつばしご》の下までくると、急に柱をにぎりしめて抵抗した。 「ナイン、ナイン、ナイン」  ケンの父親は彼女を説得しようとしたが、彼女は抵抗を続けた。そのうちに叫び声を聞きつけて、上甲板から船員がおりてきた。彼は父親を助けて母親を引きずりあげた。ケンは白い皮膚からさらに血の気をなくした顔色で、そのあとからついて行った。彼が脅《おび》えきっていることが佐智にはわかった。誤まって入りこんでしまった一回目と異なり、彼はもう〈あれ〉の臭い、魚のような体温や木靴《きぐつ》のように硬い足の裏を知っていた。あの部屋に巣くっていたのは、静かに横たわる〈あれ〉ではなくて、ほんとうは目に見えない恐怖だったのかもしれない。そして今ケンは弟が〈あれ〉の仲間入りをしてしまい、恐怖の手下になってしまうことにおののいている。  佐智が甲板にのぼると、洋と華があとを追ってきた。 「ジョージが伝染病じゃないかって、母さんが心配してるんだ。ケンにもうつったかもしれないよ」と洋がささやいた。  佐智はむかついて「じゃあ、あたしの傍《そば》にも寄らないほうがいいよ。あたしはあなたたちよりケンと一緒に遊んだほうが多かったもん」と言った。 「母さんがそう言っただけだよう」と洋があわてて弁解をした。  佐智は彼らから離れて、さっさと舳先《へさき》に向って歩いていった。一群の引揚者と船員が、手摺《てす》りから身を乗りだして泡《あわ》だつ海面をのぞいている。その人垣《ひとがき》の中に二等航海士が立って、しきりにあちこちを指差している。佐智は急に元気づいて、その方向に走っていった。二等航海士は子どもたちに手をふると、その手をメガホンにして叫んだ。 「イルカが泳いでるぞう」  佐智は手摺りに飛びついた。五、六頭の黒い丸太のような動物が、〈しなの〉の船首の附近で激しい水しぶきをあげていた。二等航海士は、せがまれるままに華を抱きあげてイルカを見せた。佐智は急に昨日、〈劉蘭の妹〉と踊っていた彼の姿を思いだして、胸にピンで刺したような痛みを感じた。そして自分でもその痛みに驚いて、思わず手摺りを放した。  イルカの群れは、交互にみごとなジャンプをしてみせた。一頭が着水するたびに体の周囲に小さな虹《にじ》がたち、あたりは七彩の噴水に囲まれた舞台のように見えた。イルカは〈しなの〉の見物人に拍手を催促するように、ときどき鼻面《はなづら》を水面から出してにんまりと笑った。佐智は夢中で手をたたいた。弟のことさえ起こらなかったら、ケンもこの光景をどんなにか面白がったであろう。数分後、イルカたちは、突然出現した大きな怪魚と遊ぶのに飽きてしまった。彼らはしだいに〈しなの〉から遠ざかり、ついには甲板の上から眺《なが》めると、水上に浮き沈みする黒い点にすぎなくなった。 「イルカが泳いでいるのは、陸地が近い証拠だよ」と二等航海士は教えた。「明日の夕刻には〈しなの〉は日本に着くだろう」  三人は呆《あ》っ気《け》にとられた。〈しなの〉がよぼよぼしているので、あと四、五日はかかるだろうと予想していたからだ。二等航海士は笑いとばした。 「〈しなの〉の速力は一時間平均二〇キロぐらいだろう。大陸と日本の距離は約一三〇〇キロだ。暗算してみろよ」 「ジョージがもう少しがんばってくれていたら……」  佐智はケンの白い紙のような顔色を思いだした。 「そうだな」二等航海士が鼻水を啜《すす》った。「小さい子が命を失うのはいやなものだ」 「ぼくたちは平気だよ」と洋がいばった。「病気にかからない注射を受けてきたし、薬もある。父さんは用意がいいんだ」 「今晩〈しなの〉が出会うあらしの用意もか?」  二等航海士は、洋の言葉に皮肉をこめて言い返した。 「え? あらしが今晩来るの?」  佐智がうきうきした調子でたずねたので、彼は面くらった。 「ああ、玄界灘《げんかいなだ》を通るときに、熱帯からきた低気圧と正面からぶつかりそうだ」  佐智の読んだ様々の航海記では、だれもが一、二度は大時化《おおしけ》の経験を持っていた。あらしに会わないかぎり、〈しなの〉の旅は本物の航海としては認知されないであろう。 「怖いよう」と華が泣き声で言った。 「〈しなの〉は難破なんかしない」洋は掠《かす》れた声でつぶやいた。「二等航海士は冗談を言ってるんだろ」  新米の〈しなの〉乗員は、感情に任せて子どもに本音を口走ったことを後悔していた。 「かなり揺れる覚悟はしたほうがいいけれど」彼は相手を脅えさせないように慎重に言った。 「〈しなの〉はもっとでっかい台風に、何度も会っているんだ。今回も必ず乗りきるだろう。おれたち船員もがんばるよ。でも荷物だけは、柱にくくりつけておいたほうがいいと思うね。朝になって転がった荷物を船倉を駆けまわって探さなくちゃならないからね」  佐智はこれを聞いていくらか失望し、反対に兄妹はかなり安心したふうであった。 「ぼく、父さんに話してくる」と言うと、洋と華はバタバタと船倉に戻《もど》っていった。佐智が二等航海士を見ると、彼はなぜか放心状態で海面を見おろしていた。イルカがいなくなったので、周囲の人も散ってしまい、傍にいるのは佐智だけだった。 〈劉蘭の妹〉についてたずねるなら今だ、と佐智は感じた。〈ダンスをしていたの、あなただったの?〉でもその前に、自分が彼女と同じ学校にいたことを告げなくては……。佐智は白いズボンの折目に沿って彼を見あげた。心臓の音が外側に流れだしそうだった。 「あのね……」  佐智は言いかけた。二等航海士が海面から目を放して自分を見つめるのがわかった。ところがふいに耳の奥でもう一つの声がよみがえった。 「ダレニモ言ッテハダメ」  舌がもつれた。もし二等航海士に特別船室一号室の窓から見た情景の話をしたら、当然彼はなぜ佐智がブリッジにのぼったのかたずねるであろう。佐智はソーニャとの誓いを破らずに〈劉蘭の妹〉の話を持ちだすことは、不可能なのであった。 「どうしたんだい?」  二等航海士はふしぎそうに促した。佐智がむやみに頭をふるのをじっと眺めた。とうとう彼女は口から出まかせに言った。 「あたし、あらしなんか少しも怖くないわ。あなたは大人なんだから、あらしのほかのものだって、何一つ怖くはないんでしょう?」  二等航海士は意外な返事をした。 「いや、怖いもの、ありすぎて困るくらいだよ。大人はそれを表に出さないだけなんだ」  唐突に佐智は、航海の最初の晩に出会った鷲男《わしおとこ》を思いだした。自分たちを虫けらよばわりしたあの刺青《いれずみ》をした密輸者にも、怖いものがあるのだろうか。二人はふたたび黙って水面を見おろした。海は緑の空気を吹きこんだガラス瓶《びん》のようにふくれあがり、身もだえしていた。熱っぽい湿った風の舌が、ライオンのように佐智の頬《ほお》をなめて通った。佐智はひどくいらいらし、体の中に爆弾をかかえこんでいるのを感じた。彼女は二等航海士の袖《そで》を力をこめて引っぱった。 「いつかの酔っぱらいね。密輸をしていた悪者なのよ」  二等航海士はほうという顔で、女の子を見おろした。 「皆が戦争で苦しんでいたときに、ばりばり金もうけをしていたのよ」 「あの人はあんたの知り合いかい?」と二等航海士がたずねた。 「いいえ、でも、洋のお父さんが……」 「他人から聞いたことを、言いふらしちゃいけないよ」  二等航海士は若者らしい率直さで言った。佐智の目に涙が浮かんできた。こんなこと少しも話したいと思ってはいなかったのだ。自分の気持が言えないばかりに、横に横にそれてしまったのだ。彼女は歯をくいしばり、「さよなら」と言うと歩きだした。二等航海士は半泣きの佐智に気がつかなかったらしい。 「今夜は揺れるから、早く寝るんだよ」  傷ついた女の子を慰めるにしては、それは平凡すぎる忠告であったから。 〈しなの〉の骨がポキポキポキと折れる音がする。続いてゴボゴボゴボと水を吐き出す苦しそうな声。長いうめき声が船首から船尾へ走りぬける。〈しなの〉が満身の力をこめて闘っているのがわかる。しかし〈しなの〉の心臓がどれほどもつものなのか、船倉につめこまれた者たちには調べようがない。甲板を吹きまくる風と雨があまりに強すぎるせいだ。風が〈しなの〉を水面から持ちあげようと力をこめれば、海は〈しなの〉をさらわれまいと必死ですがりつく。上下の方向の力に〈しなの〉は今にも引き裂かれそうだ。船は宙に跳ぶかと思えば、激しい勢いで波の底に落下する。そのたびに人々は荷物もろとも芋虫みたいに床の上を転げまわる。十回に一度の割りでハッチのふたがずれ、鉄梯子から巨大な蛇口《じやぐち》をひねったように海水がこぼれ落ちてくる。船倉ではどの家族の領土もごた混ぜになり、皆が爪《つめ》をたてて〈しなの〉にしがみついている。幼児と赤ん坊の泣き声がわんわんと天井に反響する。佐智も腹ばいになって、自分の荷物にかじりついている。両側の両親は、娘の近くを離れまいという努力のために参りかけている。〈しなの〉は沈まない、と佐智は確信していた。ただ生理的な反応を抑えることはできなかった。初めの数回は洗面器に吐いたけれど、その後は反対に洗面器を見ると吐き気がするので押しのけてしまった。皆と同じように頭を垂れて通路に吐いた。やがて胃の中が空っぽになって、ただの吐き気そのものが残った。体じゅうの水分がしぼり取られたのだった。鼻や喉《のど》にひびが入った。沙漠《さばく》で野垂死にする隊商の幻影が追っても追ってもやってきた。 「おかあさん」と唇《くちびる》を動かしたが、声にはならなかった。第一、父も母も同じような状態で、固く目を閉じたまま身じろぎもしなかった。「水、ほしいよ」佐智はうとうとしながら、だれにともなく訴えた。船倉内は停電で、あたりには潮の匂《にお》いがきつくたちこめていた。闇《やみ》の中に一筋の細い光が現われると、顔の上でちらちらして止まった。目を開くと白っぽい上着が、ぼんやりと浮きあがっていた。佐智は、〈しなの〉の診療所から巡回にきた医師だろうと思った。 「よしよし」と彼は佐智の上にかがみこんで言った。「喉が渇いたんだな」  どこかで聞き覚えがあるなと佐智は感じたが、苦痛のあまりうなずいただけだった。 「おじさんが運んできてやるから安心しな」  男は懐中電燈を用心深く掲げながら、鉄梯子をのぼっていくようであった。そのとき〈しなの〉は崩れ落ちる波の真下にいたらしい。「おっ」という叫び声に続いて「畜生!」というののしり声が聞こえた。佐智はふたたび気が遠くなった。 「ほい、水だよ」  佐智は腹ばいのままふたたび顔をあげた。アルマイトのひしゃくが誘うように目の前にあった。どんな苦労のもとに男が水を汲《く》んできたのか、考えるひまもなかった。佐智はひしゃくにかじりつくように飲み、飲みながらひしゃくの柄《え》をたどってそれを握っている裸の太い腕を見た。ぶつぶつした鱗《うろこ》状の羽模様が、ぼんやりと広がっていた。それは闇の中で飼い主の腕に止まっておとなしく眠っていた。 「もういいかね」  男がたずねた。佐智はその声を知っていた。 「ぼくにも……ちょうだい」  左手からケンの息たえだえの声がした。 「その次は、ぼくにも」と洋が言った。 「よし、いくらでも飲め。またおじさんが汲んできてやる」  男はバケツからひしゃくを伸ばした。あちこちで「すみません」「もう一ぱい」という声が起こった。男はそのたびに忙がしく歩きまわった。彼はあらしには少しも動ぜず、熱心に飲み水を配って歩き、依頼に応じて風雨をかいくぐって甲板の貯水槽《ちよすいそう》へ水汲みに往復した。だれも自分の苦痛にかまけていたので、男の身元を確かめようとはしなかった。彼に気づいたのは自分だけかもしれない、と佐智はどきどきした。昼間、二等航海士にした告げ口を考えて、胸が縮まるように痛くなった。いったい宝物を密《ひそ》かに他国に売り渡す仕事は、どの程度に悪いことなのだろう。それによってだれが傷ついたというのだろう。渇きが収まると、佐智の体を後悔が駆けめぐっていた。     5  夜明けになって、風は〈しなの〉の頑固《がんこ》な反抗にやっと白旗を掲げた。〈しなの〉は彼女の勝利の報告をごく控えめに表現しただけだった。つまり三分間、汽笛を鳴らしつづけることによって。単調な航海が再開されたが、船倉ではまだ浜辺に打ちあげられた様々の漂流物のように人々が横たわっていた。子どもたちのほうが回復が早かった。大人たちの残骸《ざんがい》を踏み越えて、四人組は水浸しの通路に出ていって、真珠色の朝の光線に吸いあげられるように上甲板にのぼっていった。  海はもう一度、緑のガラスの壁を築きたいと努力していたが、〈しなの〉の脇腹《わきばら》に届く前にもろく崩れてしまう。 「あっ」と洋が大声を出して海上を指した。 「魚が飛んでる!」 「トビウオだわ!」と佐智は叫んだ。「ね、そうよね」とわざと隣りに立っていたケンの袖を引っぱった。彼は甲板まで皆に連れ出されてきたものの、涙と睡眠不足でまぶたを腫《は》れあがらせていた。彼は重そうに垂れていた首をあげて、ふしぎそうに空飛ぶ魚たちを眺めた。トビウオはまず水面を太い縄文《じようもん》の跡を引いて走り、途中から急に海を離れて空と合体した。そして砕け散る波頭をかすめて、銀の彗星《すいせい》のように直進すると、〈しなの〉の船首の前方に着水した。 「ぼくはトビウオを見たのは初めてだけど……」とまごつきながら、ケンが言った。「そうとしか思えないや」  佐智はケンの答に満足した。彼女はケンの心を弟の死から引き離したかったのである。夜半のあらしが悲しみの大半を運び去ったにしても、ケンの顔色は四人の中ではだれよりも冴《さ》えなかった。彼女は自分の共有できない感情を友だちが持ちつづけることに、なぜか我慢ができなかったのだ。 「変なお魚だこと」  華がつぶやいた。それには皆同感だった。〈しなの〉はしばらく、空飛ぶ魚たちと平行に進んでいた。ときどき目測をあやまり、抛物線《ほうぶつせん》を描いて甲板に落下する魚がいた。魚は二重の目を無念そうに回して、マントのように開いた|ひれ《ヽヽ》をばたばたさせた。そのたびに子どもたちの一人が駆けよって、暴れる魚を海に放した。  まもなく騒ぎを見つけた二等航海士が例のごとくやってきて、パイプに点火した。 「ぼくの言ったとおりだろう」と彼は自慢した。「君たちに、けががなかったのは何よりだったな。診療所は荷物が棚《たな》から落ちて頭を打った人や、柱にぶつかって肋骨《ろつこつ》が折れた人でいっぱいだ。あ……」と二等航海士はトビウオを拾いあげた華に言った。「逃がさないでくれよ。から揚げにするとすごくうまいんだぜ、この魚は……」  二等航海士は上きげんでトビウオを二匹さげて、〈しなの〉の厨房《ちゆうぼう》に行ってしまった。洋が大あくびをした。 「ぼくたちもう一度眠りたいや。ね、君たちはここにずっといるだろう。〈島〉が見えたら教えてくれよな」  洋はそう言い残すと、華とともにさっさと船倉におりていった。 「ねえ、あたしたちも戻ろうよ」  佐智はいまいましくなった。洋たちのために甲板に残るのはごめんだ。しかしケンは頭をふった。 「ぼくは、ジョージに会いにいかなくてはならない」  佐智は聞きちがえではないかと思った。 「もう一度、|あそこ《ヽヽヽ》へ行くんですって?」 「ああ、弟がいるからね」ケンはぶっきらぼうだが、はっきりと返事をした。「あらしで水浸しになっているかもしれない」  ケンが、弟の死を冷静に受けとめているのを佐智は意外に思った。きっと生涯《しようがい》で初めて体験したあらしの海が、回復を早めたのだ。今朝になって、彼は〈あれ〉に対する理由のない恐怖を恥ずかしく思いはじめたのだろう。 「あたしも行くわ」  佐智は急いで言った。|あそこ《ヽヽヽ》に行くのはケンの意志でも、|あそこ《ヽヽヽ》から連れもどすのは佐智の役かもしれない。ケンはべつにありがたそうな顔も示さず、そう、と言って歩きだした。二人は、ケンの錯綜《さくそう》した記憶のテープを探りながら進んだ。船倉から下におりる階段を見つけ、湿っぽい廊下に出た。船倉の床を支えている鉄柱は吹出物のように錆《さ》びつき、壁にはかびの菌糸が這《は》いまわっていた。たぶん〈しなの〉の進水以来、この区域は一度も陽《ひ》の目を見ていないのであろう。佐智は急に息苦しさを感じた。壁に一定の間隔をおいてはめこまれた円窓の鉄のふたを、背のびをしてこじ開けた。無数の気泡《きほう》が、糸の切れた風船のように水中をのぼっていくのが見えた。ときには火傷《やけど》の引きつれみたいな赤紫の海藻《かいそう》や、陰気な若布《わかめ》が窓から佐智をのぞきこんだ。体が震えはじめた。自分たちは水面のはるか下を歩いているわけではないか。自分たちと海を隔てているのは、〈しなの〉の朽ちかけた鉄の皮膚一枚だ。  両親も、二等航海士も、船の支配者であるべき船長もこの皮膚が破れた瞬間に、イルカやトビウオや骨なしのタコよりも無力な存在になるだろう。海水が佐智の向う側でゴボゴボと歓声をあげていた。侵入する機会を狙《ねら》っているようだった。佐智はあわてて円窓を閉ざした。  廊下の袋小路で、ケンは立ちどまり考えこむ様子をした。佐智は強い消毒薬の臭《にお》いを嗅《か》いだ。 「ここは診療所だ。ママが一時間ぐらいここで眠っているあいだに、ぼくとパパは……そうだ、わかったぞ!」とケンは叫んだ。  診療所の扉《とびら》が開いた。医師らしい白衣の男が顔を出すと「ご遺族かね」とたずねた。二人が曖昧《あいまい》に首をふると、医師はため息をついた。 「お母さんを船底の安置室におろすから、そこで心ゆくまでお別れをしなさい。気の毒だが、今朝は患者さんがきりなく訪ねてくるのでね、ここでは工合が悪いんだよ」  やがて佐智とケンの目の前を毛布をかぶった担架が通過した。担架の前を支えている男が、無感動な声で「こっちだよ」と二人に声をかけた。誤解であることはわかったが、二人はそれをとく暇がなかった。ジョージのいるあの部屋に行くのだから、どっち道同じではないか、と二人は暗黙のうちに考えていた。担架は鉄の壁に突き当たった。前方の男が円盤形のハンドルを操作すると、きしみながら鉄板が開いた。これは船底に異常があったときに、浸水を食いとめる扉のようであった。 「そうだ、ここだよ」とケンが掠《かす》れ声で言った。「最初に来たときは開いてたんだ。|あそこ《ヽヽヽ》は階段の下だ」  階段はぬるぬると苔《こけ》がはえて、滑りやすかった。 「気をつけろよ。ずり落ちるぞ」  担架の下方を持っている男が注意した。しかし上部にいる男は、担架がなかなかおりないのにいらだって、握りしめた棒を少々手荒く階下に向って突きだした。「あっ」と下の男が叫んだ。蒼《あお》ざめて硬くなった女は毛布の下から飛びだして、下の男を突き倒すと船底の暗闇《くらやみ》に身を投じた。一刻も早く|あそこ《ヽヽヽ》に行きたがっているみたいに。 「すまん、だいじょうぶだったろうか」と上の男が恐縮した声を出した。 「来てくれ。足が折れたようだ」〈あれ〉を調べながら、下の男が答えた。それから調子を変えて、明らかに佐智とケンに向って言った。 「おい、あんたたちもここにおりてきて、お母さんを見てあげなさい」 〈もうがまんができない〉と佐智は感じた。獣の生臭い息が、|あそこ《ヽヽヽ》から吹きあげてくる。佐智の体は氷室《ひむろ》に長く入っていたように冷えきっていた。 「もどろう」とケンがささやいた。 「でも、ジョージには?」 「もう、いいんだ」とケンが言った。  白衣の男たちが、見知らぬ母親の足を修復しているあいだに、二人は足音を忍ばせて逃げだした。全速力で廊下を駆けぬけたので、五分後には海面下を脱出し、甲板で潮風に吹かれていた。 「ジョージに会えなかったね」  佐智は気になったことをふたたび口にした。ケンはあらしで引きちぎられた海藻の屑《くず》が、潮流にのって溺死人《できしにん》のように遠ざかるのを見送っていた。 「|あそこ《ヽヽヽ》にたどり着いても、ジョージに会えたかどうかはわからない」彼は大人のように額に指を当てると、ゆっくりと結論した。「〈あれ〉はもうぼくたちとはちがう|もの《ヽヽ》になっている」  佐智はやっと安心した。ケンが自分の近くに戻《もど》ってきた。ジョージは船底に行って、新しい仲間のもとにとどまるだろう。あのよその母親は、それを教えるために毛布の下から飛びだしたのかもしれなかった。  一方、ケンの母親の気持には当然のことながら、まったく回復のきざしがなかった。彼女の啜《すす》り泣きは、バイオリンの低い響きのように船倉を流れていた。あらしの最中は風雨にかき消されたが、あらしが過ぎるとふたたび前と同じ調子で流れはじめた。肉親を旅の途中で失ったほかの引揚者のように、彼女は我が子の死を、秋になって木の葉が落ちるようにあきらめる方法を知らなかった。その泣き声を聞いているうちに船倉の引揚者たちは、深い憂鬱《ゆううつ》の状態に陥ってしまった。ケンの父親の傍《そば》に来て、何とか彼女をなだめて泣きやませてほしいと頼む人もいた。 「そうじゃないと……」その女の人は唇を震わせながら言った。「わたしは海に跳びこみたくなります。変でしょう、もうすぐ故国の土を自分の足で踏めるというのに……」  ケンの父親は妻を黙らせようと努力したが、むだであった。今や彼女の体は一個の楽器と化し、〈しなの〉の震動がそれをかき鳴らすのだった。 「早く船をおりるほかはありません」彼は唇を噛《か》みしめて、佐智の両親に言った。「あの子の身体がこの船の中にあるうちは……」そして妻を包むようにすっぽりと毛布をかぶせて、少しでも声が外にもれないようにした。  佐智の両親は隣りの家族の嘆きにもちろん同情はしたものの、自分たちがそのために何一つできないということを証明するほかはなかった。北京からの退出があまり急であったので、彼らは心の傷の特効薬である甘い菓子一個も持っていなかったのである。 「十分に泣かせてあげてください」佐智の母は、頼みにきた人と反対のことを言った。「私たちなら、だいじょうぶですから」  しかしケンの母親の泣き声は、サボテンの厄介《やつかい》な棘《とげ》みたいに佐智の皮膚にもぐりこんだ。簡単に棘をふり落とすことのできる両親が、むしろ佐智にはうらめしかった。  午後になると、〈島〉が近づいたというニュースが口から口へと伝えられ、乗船者たちはしだいに落ちつきを失っていった。四日間、ほとんど横になっていた佐智の父も起きあがって、日本の地図を広げてみせた。 「船はここに着くんだろう」と父は言って、タツノオトシゴのように立ちあがった日本の最下部を指で差した。それは雄牛が首をねじ曲げたような形の島で、父の筋ばった指はその頭を隠していた。 「そこから家までは、また汽車で三十時間はかかるわね」母がうんざりした声で言った。 「だれか迎えにきてくれてるかしら」 「そんなこと期待しないほうがいい」父は頭を横にふった。「こんなに大勢の引揚者の親類に、いちいち連絡できないよ」 「とにかく早く足を地面につけて歩きたいのよ」母はため息をついた。「検疫《けんえき》には時間がかかるんでしょうか」 「この船に伝染病が発生しているかどうかによるだろうな」 「まったくお祈りしたい気分ね」  両親の会話は、佐智の興味を少しも引かなかった。彼らは〈しなの〉の乗船前と下船後の生活のことしか話さなかった。まるで〈しなの〉の上での暮らしを、できるかぎりゼロに近づけたがっているみたいだ。なぜ大人たちは、このスリルに満ちた航海を、歩きまわって味わうことができないのだろう。両親はえんえんと日本の話題に熱中していた。佐智は自分の生れた国のことをほとんど知らなかった。彼女は飽きて、独りでこっそりと〈島〉を探しにいった。  ハッチの出口で、急ぎ足で歩いてきた二等航海士に突き当たりそうになった。彼は佐智を認めると、緊張しきった面持《おももち》を少し和げた。 「いつか、二号船室のことを話してたね」  佐智はきょとんと彼を見あげてうなずいた。 「ゆうべのあらしの最中に〈しなの〉から、女の人が一人いなくなった」  佐智は冷たい手で心臓をなぜられたような気がした。それは顔に表われずにはいないほどの衝撃であった。しかし彼女はソーニャとの約束を守って、無言を続けた。 「君が知っていたことを知っていたよ」と二等航海士は佐智の気を楽にするように言った。 「船底に隠れているのとちがうの?」  佐智はつぶやいた。 「おれたちも手分けして〈しなの〉のすみずみまで探したんだが、むだだったよ」 「あの……大事な機械の置いてある部屋は?」 「ああ、もちろん探したさ」  彼は目をピカリと光らせて答えた。佐智は下を向くと、のろのろと別の質問をした。 「あらしのあいだ……あの女《ひと》の手足をしばっておくことがなぜできなかったの?」 「揺れるたびに、体が痛むからほどいてくれって泣くんだそうだよ」二等航海士は自分もほろりとしながら言った。「姉さんは突っぱねたけれど、弟のほうがたまりかねてほどいてしまった。そのとたん、外に駆けだしていった、前々から計画していたんだろうね。あの子たちはすぐ追いかけたのだけれど、風雨が激しくて姿を見失って、どうにも仕様がなかったと言っている。朝になって風が収まってから、探しに行った。上甲板のどこにも見あたらない。そこで乗員室に来て、われわれに捜索の依頼をした。こういうわけだ」 〈ホワイト・ルシアン〉の母親はとうとう望みを果たしたのだろうか。佐智はあらしの余波でうねりの高い海を眺《なが》めて暗い心になった。それから急に新しい友だちのことが心配になった。 「ソーニャとミーシャはこれからどうなるの?」 「抱きあって眠ってるよ。母親の看病のために三年間ほとんど眠れなかったんだ。むりもない。そっとしておいてあげたほうがいい。目が覚めたら、自分たちで考える力がわくさ」  二等航海士は、事件の顛末《てんまつ》を船長に報告に行くと告げて立ち去った。彼女は特別船室を見あげた。二棟続きの船室の窓は、今は両方とも開け広げられ、カーテンが風にはためいていた。美しいソーニャは有名なモデルになるだろう、そしてエンジニヤ志望の弟の夢を援助するだろう、と佐智は確信した。そのためにあの母親は、あらしの船べりを乗りこえて、海に向って跳ぶことができたのだろう。娘と息子の夢を、自分の手足をしばるロープから解放するために。佐智はおぼろな明りの下で、頭を寄せあって地図に見いっている自分の父母の姿を思い浮かべた。ソーニャとミーシャの物語の一切を、内証にしておこうと決心した。彼らと佐智の両親の住む世界は、これからもけっして交じりあわないであろう。  上天気になったので、〈しなの〉の甲板はぬれた衣服や体を日に干す人々でごった返しはじめた。上着を脱いだついでに、縫い目にひそむダニやしらみをプチプチつぶしている人も多かった。〈しなの〉の真上を進む雲から眺めたら、引揚者たちは人間よりも、猿《さる》の集団に近いかもしれなかった。子どもたちも落ちつかず、船倉と甲板のあいだをちょろちょろ駆けめぐっていた。佐智だけが、行きどころのない重苦しい気分に包まれて、そのまま立ちつくしていた。ソーニャたちの秘密を知っているのは、〈しなの〉の乗員をのぞけば自分一人かもしれない。彼女は重荷を半分にしてくれそうな白馬の騎士が戻るのを待ち望んだ。半|刻《とき》たって、二等航海士が船長室からおりてきたときには、思わず傍に駆けよったほどだった。ところが彼の様子は、前にもまして憂鬱そうだった。 「例の酔っぱらいの男だけど」彼はまゆをひそめ、佐智を見おろして言った。「君の言ったとおりに、あまり善い人じゃないらしい」 「どうして?」  佐智は前とは逆の立場になった自分を意識しながら問い返した。二等航海士は、鷲男《わしおとこ》があらしの最中に大活躍をしたことを知っているのだろうか。 「船長室に無電が入ってね、警察が港であの男を待っているそうだ」  ちょうどそばに来た洋がその言葉を小耳にはさんで、横から大声をあげた。 「鍵《かぎ》をかけた部屋に閉じこめなくちゃだめだよ。あいつは危険人物なんだから、逃げたらどうするんだ」  二等航海士は苦い顔をした。 「そんなことは、おれたちの仕事じゃないよ。それに周囲は海だぜ。逃げられっこない」彼はぼそぼそとつけ加えた。「しかもこの船の中で事件を起こしたわけじゃないだろう」 「二等航海士は鷲男の身方をするの?」  洋は目を丸く見開いて、若者をにらんだ。洋はまだ中学生のはずなのに、わけのわからない大人みたいだ、と佐智は考えた。二等航海士のほうはそれ以上洋にはとりあわず、後方で沈黙を守っているケンに向きを変えた。 「あと二時間で日本に着くぞ。よくがんばったな。弟さんはほんとうに残念だった」  佐智はケンが思いだして泣きだすのではないかとはらはらしたが、彼は軽くうなずいただけだった。代りにケンは二等航海士をまっすぐ見つめてたずねた。 「着いたら、ジョージはどうなるの?」 「さあ」二等航海士は急に歯切れが悪い調子になった。「まっ先に〈しなの〉からおろされて……あとのことは自分にはわからないが……たぶん、停泊地で|だび《ヽヽ》に……」 「ぼくたちもいっしょにおりられる?」 「そいつはできないよ」二等航海士は頭を横にふった。「いろいろな帰国手続きもあるし、検疫も全員すませなくてはならない。君たちの上陸は、ずっとあとになるだろう」 「そんなのない!」ケンがわめいたので、皆びっくりした。「ママをジョージといっしょにおろせ。あたりまえだろ。ママなんだから」  子どもたちと二等航海士はしんとして、乗船以来初めての気まずい空気を味わっていた。五人とも内心で別々のことを考えている。〈島〉に着いたら、もう取りかえしのつく機会はめったに来ないであろう。佐智はあせったが、この場に適切な言葉は一語も浮かんではこなかった。 「はーい」  鼻にかかった陽気な声が、突然頭上から降ってきた。五人が救われたように仰向くと、特別船室から現われた〈劉蘭の妹〉が手をふっていた。彼女は船の到着記念にふさわしい、北京の秋空に似た花やいだチャイナ・ドレスを着ていた。 「あがっていらっしゃいよー」  彼女の視線は、ただ二等航海士のみに注がれていて、彼を取りまくチビどもの姿は映っていないようであった。佐智は二等航海士の頬《ほお》が夕焼雲のように赤味を帯びるのを見た。 「いや、あの、自分は……」彼は子どもたちにも伝わるほどの狼狽《ろうばい》を示して言った。それからようやく立ち直って「何かご用でしょうか。自分は今、手が放せませんので、ほかの者をやりましょうか」と上を向いて叫んだ。 「あら、そう」〈劉蘭の妹〉は明らかに興味を失って言った。「じゃあ、いいのよ。|あなた《ヽヽヽ》が来たくないんなら……」  彼女がぷいと向きを変えたので、ドレスのスリットが分かれて、白い脛《すね》が見えた。二等航海士はあわてて目をそらすと、不自然な声で「じゃあ」と言い、残りの言葉を口の中でぶつぶつつぶやくようにした。彼は急に威厳がなくなってしまい、制服の金モールさえ色あせて見えた。子どもたちは顔を見あわせた。「ぼく帰るよ」「あたしも」などと白けた声で口々に言うと、船倉に戻っていった。二等航海士も顔を染めたまま、自分の持場に帰ろうと立ち去りかけていた。佐智は輝きの薄れたその後ろ姿を、うら悲しい気持で眺めた。たとえ白馬から転げ落ちても、佐智は騎士が好きだったからである。  最初の〈島〉が近づいてきたとき、佐智の隣りにはケンが立っているだけだった。洋と華の姿が見えないので、佐智はむしろほっとした。あの兄妹は、独特の生意気な言葉を吐いては、ほかの人の心を乱すくせがある。四日間の航海ではっきりとわかってしまった。 〈島〉は、佐智の知っているどんなものにも似ていなかった。それは遠目には、海上にうずくまる緑色の亀《かめ》のようだった。〈しなの〉が傍を通りすぎるとき、それは尖《とが》らした色鉛筆で描《か》いたような松林におおわれた丘になった。一つの〈島〉が視界から消えると、次の〈島〉が水面を漂うようにやってきた。そのあいだの海は、水底の魚の影さえ認められるほど澄みきっていた。魚たちはこれまで佐智が水族館でしか見たことのない、赤や青やだんだらの衣裳《いしよう》を着ていた。風はなく、生ぬるい砂糖水みたいな空気が息苦しかった。〈島〉の風景には抵抗というものが感じられなかった。淡い色の空が、柔かい布のようにあたりをくるんでいた。佐智が十日前に通過した大陸と何もかも反対であった。あそこではごつごつした岩山と泥色《どろいろ》の大河、乾いた草原の果てに急にオアシスのような都市が出現したものだった。  佐智の祖国には区切り目がないのだろうか。〈島〉の縁には小石や貝殻《かいがら》が、飾り窓のように敷きつめられ、上空には綿埃《わたぼこり》に似た雲がもやもやと附着している。どの〈島〉もおもちゃのようにかわいらしく、そのあいだを通る錆《さび》と腐蝕《ふしよく》におおわれた〈しなの〉はかさぶただらけの怪物みたいだった。 「ほら」佐智の隣りに立っていたケンが、夢を見ているように言った。「ジョージだ」  佐智がぞっとしてケンの視線の方角を見ると、薄青いミズクラゲが波間に浮いていた。半透明の傘《かさ》に、人の目鼻に似た模様がついていて、かすかに収縮をくり返している。ミズクラゲは群れをなして〈しなの〉の周囲に押しよせていた。〈しなの〉が急にスピードをあげて進みはじめたのを、佐智は感じた。もしかしたら航海中、|あそこ《ヽヽヽ》に閉じこめられていた者たちは〈しなの〉の錘《おもり》の役目を果たしていたのかもしれない。今、その役目から解放されて、いっせいに船底から這《は》いだして、陸地目ざして泳ぎはじめたのではないだろうか。  いつのまにか甲板は、〈島〉を見ようとする人々であふれるばかりになっていた。群集の中で、ケンの父親のバイオリニストも疲れきった表情で祖国を眺めていた。ケンは黙って佐智の隣りを離れると、人混《ひとご》みをかきわけて彼の傍に行った。父親が嬉《うれ》しそうに笑った。父子《おやこ》は肩を組むと、〈島〉のほうを見向きもせずに話しはじめた。たぶんドイツ人のママをこれからどう守っていくか、相談をしているのだろう。佐智は自分の両親が、久しぶりに明るい表情をしているのを見た。背後にいる洋の家族と会話を交わしながら、群集の中から娘を探しだそうとあちこちに視線をさまよわせている。佐智が手をあげても、両親の顔は見当ちがいの方角に向けられてばかりいた。佐智は仕方なく、人々の隙間《すきま》をくぐって少しでも近づいていこうと努力した。  突然、救命用具の箱に腰かけている鷲男に気がついた。太陽を見すぎて充血した目で身じろぎもせずに〈島〉を眺めている。佐智はまっすぐに進んで、彼の前に立った。鷲男は驚いて佐智に視線を移したが、思いだした様子はなかった。航海中に伸びたひげが、渦《うず》まきながら顔の半ば以上をおおっている。 「おじさん、あらしの晩にお水をありがとう」  急に鷲男の全身から、力がぬけた。彼はふおっと吐息をつくと、おだやかに笑った。 「いや、何の……」とつぶやくと、照れて頭をかいた。「また、いつか会おうな」 〈警察が来るわ〉という言葉を、佐智は喉《のど》もとで飲みこんだ。鷲男のすぐ近くで、二等航海士が心配そうにこちらを見張っていたのだ。彼を困らせるようなことをしたくはない。二等航海士の真上のブリッジで、〈劉蘭の妹〉が〈島〉を眺めている。上下の二人は、お互いの存在にそ知らぬふりをしているようだった。二号船室のベッドには、たぶん白系ロシヤの姉弟がまだ打ち倒れているであろう。 「万歳!」のほかに、幾つもの意味不明の叫び声が〈しなの〉の甲板に充満していた。〈しなの〉が汽笛を吹きならした。〈島〉からは貝殻におおわれた鉄の桟橋《さんばし》が二本の腕のように海中に伸びて、引揚船を抱きしめようとしていた。ぽん、と背後から佐智の頭をこづく者がいた。その指の感触で、だれであるかはすぐにわかった。しかし彼女の目は、上陸地点に異形のものを発見し、それに釘《くぎ》づけになっていた。あれは何? と佐智は前を向いたままたずねた。一瞬の沈黙のあとで、父が答えるのが聞こえた。 「あれは、焼場の煙突だよ」  枯葉色の煙が、うっすらとため息のようにもつれながら海上に流れていた。 [#改ページ]     あとがき  創作は、文字どおり作品を|創る《ヽヽ》ことをいうのであろうか。 「夢の壁」を書いたころ、私はその点について五里霧中にいて、ただやみくもに書きたいという衝動だけをもっていた。張りめぐらされた霧の幕に、ときどき幻灯のように映しだされるある風景があった。禿山《はげやま》の尾根を伝う、どこから始まりどこで終るのかもわからないミシン目のような長い壁。私がその風景を見たのは北京から引揚船の待つ港町へいく、貨車の上からであった。  幾度も書きかけては破り棄て、途中であきらめて、まったく別の作品を完成させ、運よく新人賞を頂いてから、最後の望みをかけてまた幻灯の風景にたち戻った。すると突然に物語が聞こえてきた。長い壁を凝視する少女と壁によじ登った少年の物語が。私は耳を澄まして、幻灯の風景の後ろに流れる言葉を素直に書き留めていった。 「夢の壁」の次に書いた「北京海棠の街」においては、私の姿勢はもっと|創る《ヽヽ》側へ前傾していると思う。  このたび新潮文庫編集部の助力で、この二作が文庫に収められ、嬉しいと同時に創作の方法について考える機会を得たことを感謝している。   一九九一年六月 [#地付き]加藤幸子   この作品は昭和五十八年二月新潮社より刊行された『夢の壁』に収録の表題作と、昭和六十年六月新潮社より刊行された『北京海棠の街』とを合わせ、平成三年七月新潮文庫版が刊行された。