[#表紙(表紙.jpg)] マルクス入門 今村仁司 目 次     まえがき  序 章[#「序 章」はゴシック体] さまざまなマルクス像    1 第一類型=経済中心史観    2 第二類型=実践的主体論    3 第三類型=構造論(関係論)  第一章[#「第一章」はゴシック体] 「ギリシア人」マルクス    1 古代ギリシアへの憧憬    2 コミューン(共同体)のギリシア的イメージ    3 商業と貨幣に対するギリシア的批判    4 古代無神論とマルクス  第二章[#「第二章」はゴシック体] 分裂なき共同体    1 政治への関心    2 共同体の分裂    3 自由な実践《プラークシス》    4 社会の変革    5 自然と人間の統一  第三章[#「第三章」はゴシック体] 文明史のなかの資本主義    1 文明史論としての唯物史観    2 歴史哲学的考察    3 原初的共同体論    4 文明史のなかの資本主義  第四章[#「第四章」はゴシック体] 歴史的時間の概念       ——ヘーゲルとマルクス    1 歴史的時間の蓄積    2 死者が生者をとらえる    3 価値の形式的関係のなかに全歴史が包まれること  第五章[#「第五章」はゴシック体] 『資本論』の学問       ——「新しい学」の創造    1 さまざまな構想    2 経済学批判    3 『資本論』の学的構造     あとがき [#改ページ] まえがき[#「まえがき」はゴシック体]  いまマルクスは忘れられたひとである。しかしマルクスは忘れてはならないひとである。  なぜマルクスは忘れられたのか。なぜマルクスを忘れてはならないのか。  マルクスが忘れられたのは、二十世紀後半の歴史の状況による。忘却の理由は多々あるが、なかでも二十世紀の六〇年代以降に徐々に知られるようになった事実、すなわちマルクス主義を看板にかかげたソ連邦の政治と社会の荒廃がマルクス忘却を急速に促進した。スターリンがつくり上げたソ連の国家体制と日常的社会生活は、ソルジェニーツィンの言葉を借りていえば収容所列島にひとしいことが全世界的に明らかになったからである。  市民社会を特徴づける公共性と公開制は、ただでさえロシアには微弱であったことにくわえて、それを守り育てる市民精神がソ連ではついに育たなかった。公共的市民社会が息づいていない場合には、古来そうであるように、秘密警察的管理体制のみがかろうじて国家体制を維持する。淫靡な密告社会が生まれ、万人が万人を互いに告発することによってかろうじて動物的に生き延びることを確保するという社会では、ひとはまことに生きづらい。くわえて日々の食料品を手にいれるというただそれだけのために配給所前に行列して一日の大半を費やすのが恒常的になった社会は、戦時体制ならいざ知らず、まともな社会ではない。  これはマルクスが予想した社会なのかと誰もが首をかしげる。マルクス主義に好意的であったひとびとも、この現実を見てソ連の看板イデオロギーである「マルクス=レーニン主義」(実際にはスターリン主義のこと)に反感をもったのは当然である。国家イデオロギーとなったマルクス主義をみて、その源泉がマルクスにあると見るのも自然である。マルクスには気の毒なことながら、皮肉なことにロシア革命とソ連のおかげでいまや諸悪の根源とされてしまったのである。いうまでもなく、マルクスとロシア「マルクス主義」を同列に扱うことはできないのだが、そう主張するのは一部の専門家のつぶやきでしかない。  なによりもソ連の民衆がその国制から離反した。どの国家も民衆の信頼と合意を失うなら必ず崩壊する。古来そうである。崩壊をとどめようとして警察的管理に訴えるなら、それがますます民衆を離反させる。信頼と合意が国制の正統性を保証するのだが、その意味でソ連は正統性をすでになくしていたのだ。落ち目の国家は落ち目の政策を必ずとる、ソ連によるアフガニスタン侵略戦争は、かつてのアメリカのベトナム戦争と同様に、自己崩壊を加速させた。  二十世紀後半のわれわれはソ連の解体とソ連型社会主義の死滅を眼前で見ることができた。しかしマルクスにとっては、不幸にもこれが死活を左右するダメージになった。ソ連的社会主義の崩壊は、社会主義への不信と同時に、たとえ誤解であれ、ともかく全世界の民衆のなかにマルクス不信の感情を植え付けることになった。一般に、かつてのキリスト教がそうであったように、国家の看板イデオロギーになることは、ひとつの思想が卓越していればいるほど危険なことである。マルクスにもイエスの思想と同じ危険な不運がおそったのである。  二十世紀の巨大な事件がマルクスを忘れさせたのは、ある意味では余儀ないことであった。しかし他方では、いま新しくマルクスの書物を読もうとするひとびとにとっては、ひとつの積極的な意味もあった、二十世紀の政治主義的なイデオロギーがごっそりはげ落ちたことは、よけいな思惑をなくし、冷静に虚心坦懐にマルクスを読む条件を生み出したといえるからである。  では、なぜマルクスは忘れてはならないひとであるといえるのか。彼のどこにアクチュアルな意味があるのだろうか。それはマルクスが一生をかけて研究した資本制経済の理論のなかに、さらに資本制経済がすみずみまで浸透する市民社会の理論のなかにある。著作を特定していえば、マルクスの『資本論』のなかに書き込まれている彼の学説が現代的意義をもっているのである。  たしかにそのなかで使われている材料は十九世紀の経済からとられたもので、いまの経済と比べるといかにも古くさくみえる。ひとは生まれる時代を選ぶことはできないのだから、材料が著者の同時代のものであるのは当然である。材料が古いからといって学説や思想もまた古くなることはない。もしそうなら古代ギリシアの哲学者たちの書きものはすべて古びるはずだが、そんなことはない。それと同様にマルクスの『資本論』の内容も古びない。マルクスが同時代の材料を使いこなしてひとつの時代とひとつの社会の全体的構造を描き出す理論的な精神こそがいまもなお注目されるべきである。  ここで強調しておきたいことがある。それは、『資本論』へと成熟するまでのマルクスのすべての著作が、経済と政治と文化の諸相を組織してひとつの構造体となった資本制社会を、第一に経済構造から、第二に文明史の角度から、トータルに把握する壮大な企てであったことである。資本主義近代は、人間の内面までひそかに支配するほどに強くて悪魔的な活力をもっているが、その強烈なパワーをマルクスほど見事にとらえたひとはいないだろう。十九世紀よりも二十一世紀のわれわれの生活のほうが、マルクスが描いた資本主義の強烈な力を如実に実証している。十九世紀では資本主義はまだようやく確立したばかりであった。マルクスは上昇しはじめた資本主義社会のエッセンスをその出足のところでとらえようとしたのだが、彼の把握はその後の資本主義の一般傾向をよくとらえていた。二十世紀を経て現在にいたるまでの歴史的経験は、ほとんどマルクスの指摘のとおりであり、マルクスの予想をこえるほどに資本主義の地球支配の度合は高いといえる。  ところで、前に『資本論』の材料は古いといったが、見方を変えればその材料は十九世紀の時代的真実を高い水準で証言したものとして読める。たとえば十九世紀イギリスの経済的現実は、幼い子どもと女性をわずかな賃金でこきつかってもうける経済であったが、その悲惨な都市生活がイギリス社会をどれほど陰惨なものにしたかをマルクスは克明にえがく。けっしてためにする記述ではない。いまの用語でいえばそれは都市人類学の先駆的研究である。これは一例にすぎないが、『資本論』のなかには現代の諸学問を先取りする要素がある。知性を刺激して新学問を創造せしめる種まきもまた多々なされている。そうした種籾を見つけることもまた、『資本論』を現在読むときの快楽になるのではあるまいか。『資本論』がいま輝いてみえるのは、彼の道徳的憤激の批判的表現よりも、われわれが生きる現代のもっとも深いところをえぐり出す学的精神であり、発展可能な種々の学問の基礎づくりである。要するに、『資本論』は種々の学問を創造する出発点となりうる可能性をかかえる宝庫である。こうして学者マルクスがふたたびよみがえる。  本書のねらいはマルクスの学問的精神により多く光をあてて、多くの読者の関心をそれへとかき立てることにある。著者のねらいが少しでも読者に通じることを願ってやまない。 [#改ページ] 序章[#「序章」はゴシック体] さまざまなマルクス像[#「さまざまなマルクス像」はゴシック体] われわれの感覚、われわれの意識は外界の像にすぎない。 [#地付き]…………(レーニン『唯物論と経験批判論』)[#「…………(レーニン『唯物論と経験批判論』)」はゴシック体] プロレタリアートの意識、すなわち人類の歴史上での最後の階級意識 [#地付き]…………(ルカーチ『歴史と階級意識』)[#「…………(ルカーチ『歴史と階級意識』)」はゴシック体] 構造はその結果に内在しており、……それ自身の諸要素の独自の結合にほかならない構造の結果の外部では、〔構造は〕何ものでもない。 [#地付き]…………(アルチュセール『資本を読む』)[#「…………(アルチュセール『資本を読む』)」はゴシック体] [#改ページ] †テキストは歴史のなかで読まれる[#「†テキストは歴史のなかで読まれる」はゴシック体]  どこから見ても、過去の一人の思想家の著作を「正確に」読みとることはむずかしい。マルクスの理解は、二十世紀の政治的事件(ロシア革命、挫折したドイツ革命やハンガリー革命、中国革命、その他の政治的革命)と絡んでいるから、マルクス以外の思想家にはめったに起こりえない複雑で面妖な事情がまとわりついて離れなかった。これらの政治的事件はマルクス主義の名の下で行われたのであるから、これら種々の政治革命を指導した人々の解釈図式が権威を発揮し、マルクスの解釈権をいわば独占してきた。  一九一七年のロシア革命は「歴史上最初の労働者国家」であると自ら宣言し、他の諸国の思想家や学者もその自己宣言を認知したから、革命の指導者レーニン、その後を継いだスターリンの解釈図式が自ずと絶対的権威となり、全世界のマルクス理解(マルクス主義者と反マルクス主義者とを問わず)を方向づけてしまった。  ソ連共産党と中国共産党の分裂と闘争が始まると、今度は中国の毛沢東の権威が高まり、一時期でしかなかったとはいえ、いわゆる「毛沢東派」が西欧や日本で登場し、解釈独占を試みたこともある。この傾向は二十世紀のおよそ六〇年代末まで続いてきたが、七〇年代以降には、ソ連のものであれ中国のものであれ、それらの思想的権威は地に落ちた。なぜなら両国の社会生活が、看板に掲げられた理想とはおよそ違ったものであることが全世界的に暴露されたからである。  研究とか学問というものは無力なものだ。思想家の解釈独占を打破するものは、結局は、思想とは一見無関係な社会的・政治的事件であるからだ。 †批判精神の意義[#「†批判精神の意義」はゴシック体]  とはいえ、学問や研究をばかにすることはできない。とくに批判主義精神をもつ研究や学問は、長い時間をかけて伏流水のように人々のなかに浸透していく。それが種々の政治的事件に合流し、事件と経験の新しい解釈を提案して、民衆の動向を方向づけることが往々にしてあるからである。マルクスの名の下で実行されてきた「革命」的実践と国家建設の意味に判決を下すのは、やはりマルクスという卓越した批判精神であり、その批判主義的継承者である。二十世紀を貫き、ある意味では今もなお貫いている「革命と戦争」の時代を深く知るためには、やはりマルクスの著作が頼りになる。  これまでのマルクス解釈の歴史は、おおむね政治主義的な解釈論争史以上を出ないのだが、にもかかわらずそのなかで、主流的解釈の傍らで、可能なかぎり偏見から離れてマルクスを読み、マルクスを西欧精神史のなかに位置づけて読もうとする努力もまた連綿と続けられてきた。この側面をこそ現在の私たちは重視しなくてはならない。今では政治指導者の権力志向的なマルクス解釈などどうでもいい。それは歴史のあぶくでしかない[注1]。それらは歴史学が研究対象として分析する政治現象でしかない。そうではなくて、地味な研究と学問の歴史はなにものかである。 †気づかれざる色眼鏡[#「†気づかれざる色眼鏡」はゴシック体]  この序章では、マルクス解釈のいくつかの型を抜きだしてみたい。いくつかの解釈類型は、それぞれの時代の刻印を帯びているが、公平にみて、どれもけっして古びていない。それらは何らかのしかたで今に生きている。それらの解釈図式をつくったひとは忘れられたとはいえ、いまも全世界を流通しているからである。いまなお流布しているのは、まだ思想的生命を完全には失っていない証拠である。  マルクスは解釈された種々のイメージを帯びていまもなお思想と文化の領域を「幽霊のように」徘徊している。現実のマルクスそのひとは、過去の一定時点に生きたひとではあるが、その著作と思想は歴史のなかで解釈された歴史的産物である。私たちがいまマルクスを読むとき、百五十年の解釈史を無視して読むわけにはいかない理由がそこにある。現在の読者は、直接にせよ間接にせよ、過去の読解図式(解読コード)を知らぬ間に(書物や学校教育などによって)精神のなかに内面化している。それらの図式は、知らぬ間に読むときの色眼鏡として働く。  過去の図式が色眼鏡であるからといって、それらがまったく無意味であるとか無駄であったということはできない。これまでの研究成果を参照していえば、過去の諸図式はそれぞれに固有の限界と難点を抱えているとはいえる。たとえ一面的であっても、別の積極的機能をもっているかぎり、無視することはできない。過去につくられた解釈図式は、勝手に捏造されたのではなく、歴史的理由があって生まれた。解釈法を生み出した原因がいまも同じように存在しているなら、過去の解釈法もまた一定の限界内で有効性をもつだろう。  要するに、過去の解釈図式は、古典を読むときの窓口であり、一定の距離をとるなら、古典的著作のなかに入り込むときの有益な手がかりになる。何もないよりあったほうがいい。しかしそのためには、私たちの頭のなかに知らぬ間に注入されて混在している解釈図式を、自覚的に客観化してみなくてはならない。それは古典を読むときに知らぬ間に前提している色眼鏡を自分のなかに反省して、共存しながら混合してもいる図式をひとつひとつ選り分け、区別し、それぞれの特徴や有効範囲を確認するのである。  過去の古典を読むときには、読む主体と著作の二つがあるのではない。両極の間に、気づかれざる解読コードまたは色眼鏡が厳然として存在する。読むときには、まずはこの自分自身の内部にある視線を自覚的にもたらすべきである。  膨大な努力を傾注された集団的努力の遺産は、私たちのなかに密度の濃淡の違いはあっても、ため込まれているのだが、それらを批判的に吟味し、自分の眼前にはっきりと据えて、とくとそれを眺めるという応対なしには、マルクスとマルクス主義の遺産を真実には読むことはできない。私たちは歴史のなかで生きているかぎり、つねにそのような事情をかかえる。密室で読書することは不可能である。  孤島のロビンソンは社会と歴史と無関係に生きるかのように見えるが、実はそうではなくて、彼は孤島に漂着する前にイギリスの社会とその歴史のなかでイギリスのブルジョワ紳士としてできあがっていた。だから人間が歴史内存在である以上は、精神のひとつの営みとしての「読む行為」もまた歴史内存在なのである。 †マルクス解釈の三類型[#「†マルクス解釈の三類型」はゴシック体]  さて、マルクスの仕事は、無数の人々によって、賛成と反対を問わず、読まれてきた。個人の性癖が違う数だけ、読み方も無数にあるともいえる。しかし、マルクスの読み方の歴史をざっと振り返ると、少数の類型にまとめることができる。私見では、それらは三つの型に分類できる。第一類型、経済中心史観。第二類型、実践的主体論。第三類型、構造論(関係論)。  これらは一般的な特徴づけであって、個々の論者の議論のなかには、これらのうちのどれかを優越させて、他の類型を組み合わせるという混合形式がみられる。類型は、あくまで類型であり、ひとつの類型だけを主張することはまずない。類型は、ここでは一般的傾向としておさえておきたい。一般的傾向を枠組みとして、そのなかに他の類型を従属させて組み入れるというのが、多くの論者たちの現実の姿であろう。とはいえ、いまマルクス解釈の歴史的流れを押さえることが課題であるから、この類型のひとつひとつを大づかみに説明しておきたい。 1 第一類型=経済中心史観[#「第一類型=経済中心史観」はゴシック体] †経済中心主義の長所と短所[#「†経済中心主義の長所と短所」はゴシック体]  この見方によれば、経済は社会全体の土台(基礎)であるから、社会内のあらゆる現象は、経済生活によって因果的に決定される。因果関係は、結果のなかに原因が含まれる、あるいは原因は必然的に結果を産出するという意味であるから、経済中心の見解は必然的に、すべての現象がその原因を経済生活または物質的生産のなかに見いだすことになる。この論理をつきつめるなら、政治と法律、文化や思想の観念的構築物などのいっさいは、経済から「発生する」、あるいは経済によって「生産される」という結論が引き出される。この場合、「発生」という言葉について混同が見られる。社会にとって経済が重要であると主張することは、経済がすべての現象を因果的に「生み出す」あるいは「決定する」と主張し、その主張を一般原則にまで高めることとは別の事柄である。  経済生活が人間社会を総体として維持するために不可欠であり重要であるという意味で、社会的構築物の基礎あるいは土台であると主張することは正しい。経済的事象を高く評価するのか、それともそれを無視して過小評価するのかは、時代の意識によって異なる。だが、経済に関する価値評価がどうあれ、どの時代の社会にとっても経済(生産と交易)が重要であることに変わりはなく、学問的研究にとっても経済的事実を基礎的なものとみなして、経済と政治、経済と文化の関連を解明することは回避できない作業である。経済の重視は、少なくとも十九世紀に勃興しつつあった「社会の科学」にとってひとつの発見であり、それによって現代社会科学は大いに飛躍した。  しかし他方で、社会全体にとっての経済の土台的意義を認めることは、そのまま「経済から他の現象が発生する」ということにはならない。ところが経済史観は、あたかも動物において雄雌の親から子どもが生まれる(「発生する」)のと同じように、経済から政治や文化が「発生する」かのごとき論法を生み出した。この生物学的表現は、最初は説明の方便として比喩的に使われたのであろうが、いつのまにか比喩が比喩でなくなり、比喩言語が理論言語として強制通用させられるようになった。そのとき、この種の「発生」論は、経済が実質を保持しつつ経済とは別の事象に「転身する」ことになった。経済以外の現象は、経済的内容をある程度まで変容させてそれ自体の内容に組み入れるとみなされる。経済の「転身」現象を認識論のレベルでは「反映」とよぶとしても、主張の実質は変わりない。 †反映論[#「†反映論」はゴシック体]  反映 (reflex) という言葉で語られる事態は、われわれが日常生活のなかで身体を通して経験することがらが、あたかも鏡のなかに像が写るように[#「あたかも鏡のなかに像が写るように」はゴシック体]、人間の精神のなかに直接に反射する[#「直接に反射する」はゴシック体]ことをさす。われわれの外部にあるものが心のなかにくもりなく反射するという主張が反映論とよばれる。イメージを喚起する言い方でいいなおすと、反映論は鏡的反射論[#「鏡的反射論」はゴシック体]である。この考えの先駆は十八世紀フランスの感覚論者(いわゆる「素朴唯物論者」、エルヴェシウス、ドルバック等々)に見られるが、十九世紀末から二十世紀にかけてマルクス主義を自称する論者のなかに復活した。経済的土台が上部構造に反映するという経済史観はこの反映論の代表である。  反映論的経済史観は、その論理をつきつめるなら、そのなかに神学的思想を温存している。なぜなら、経済なる「神的なもの」が「実体変容」(キリストの血と肉が葡萄酒とパンに変容すること)して非経済的なものに「受肉する」というのと等しいからである。ここから、反映論的経済史観は、哲学的観点からみれば、自然や物質を神格化する。神的自然が実体変容して、諸現象を「発生させる」ように、「神的」経済が実体変容して政治、法律、文化、イデオロギーを「発生させる」といわれる。反映論的経済史観は、その裏に、自然的物質を神の位置に据える「弁証法的唯物論」(事実上の自然の神学、ロシア・マルクス主義がつくったもの)を内在させていたのである。 「発生」を自然的生物学的にとらえると、以上のような奇妙な結論がでてくる。先に混同といったが、何と何が混同されたのかといえば、経済がもっている社会的位置が基礎的であるという正当な認識(事実において先なるもの)と、社会形成の筋道を理論的に説明する論理とが混同されたのである。経済が社会の存続にとって重要であるからといって、それが社会の「発生的論理」になるわけではない。社会生活の再生産における経済がしめる重要性、つまり経験のなかでの「第一次性」は、社会構造とその構成の仕方の学問的認識における第一次性とは同じではない。  いまここでこの論点を詳細に論じることはできないが、次のことを指摘しておこう。人間集団が秩序をもつ社会へとつくり上げられるとき、その論理的順序[#「論理的順序」はゴシック体]は、経済から出発するのではなくて、むしろ政治的権力の形成とともに開始し、政治的支配の秩序の後で[#「後で」はゴシック体]経済的なもの(労働と生産の領分)が生じるのである(拙著『排除の構造』ちくま学芸文庫参照)。  経済中心史観(いわゆる唯物史観)は、上記のような認識面での混同を事実上抱えるがゆえに、社会のすべての現象(上部構造)を経済的土台(下部構造)「から発生させる」という思想類型になる。土台としての経済過程は経験上の第一次的重要性である。それが横すべりして認識面での第一次性にすりかえられた。直観的にわかりやすいせいか、この思想はその後の社会科学のなかで猛威をふるうことになった。 †比喩の危険[#「†比喩の危険」はゴシック体]  この類型では、社会全体(社会的構成)は、建築物(一軒の家)のように眺められている。建築物をつくる過程に沿っていえば、ひとは最初にもっとも重要な土台と基礎をつくり、次にその上に構築物をつくり、最後に建物の外部と内部の装飾物をつくる。これと同様に、社会的構築物は、物質的土台である経済生活の上に、政治と法律の「一階」があり、さらにその上にイデオロギー的観念形態(文化一般)という「二階」が乗っかっている。  マルクス自身が建物の比喩をしばしば使っているから(たとえば、『経済学批判』の「序言」)、弟子たちもまたこの比喩を使うのみならず、いつのまにか比喩を理論の代用物にしてしまった。比喩はあくまで比喩であって、理論でも概念でもない[#「比喩はあくまで比喩であって、理論でも概念でもない」はゴシック体]。ところが、いかにも建物の比喩はわかりやすいので、いつのまにか経済的土台が最重要であり、「上物」(上部建築、上部構造)は付随的であり、付録的であるかのような見方が一般に流布する結果になった。  しかしなぜひとは建物の比喩を「わかりやすい」と感じたのであろうか。なによりもまず家屋のイメージは経験的に理解しやすいからだ。しかしこれは説明の手品(便法)のごときものであって、過去の多数の俊才が経済史観に熱狂[#「熱狂」はゴシック体]した理由はそれでは理解できない。その熱狂の理由は、十八世紀に明確な輪郭をもって登場し、十九世紀に入り確実な骨格を備えて否定しえない勢力となった近代市民社会[#「近代市民社会」はゴシック体]が多数の人々に与えた強烈な印象のなかにこそ求められるべきである。 †魅惑の原因「市民社会」[#「†魅惑の原因「市民社会」」はゴシック体]  では市民社会とはどういうものだろうか。これは言葉としてはローマ時代の用語法をひきついでいて、十九世紀の半ばまでは古い用語法の痕跡を引きずっていた。初期近代(たとえば十七、十八世紀の西欧)では、まだ経済社会と政治社会とは区別されず、「市民社会」はおおむね「政治社会」(公民の共同体、要するに近代的意味での国家)を意味していた。十九世紀半ば[#「十九世紀半ば」はゴシック体]になると、市民社会はもっぱら経済社会[#「経済社会」はゴシック体]を意味するようになり、それに応じて公民の共同体としての政治社会が国家[#「国家」はゴシック体]の名称を独占する。言葉のなかに歴史が反映している。  古い意味での市民社会に潜在していた経済と政治の未分化状態にくさびをいれて、経済と政治を切断させたのは、近代特有の資本主義経済である。この区別が起きた以後では、市民社会はもっぱらブルジョワ社会[#「ブルジョワ社会」はゴシック体]を意味するようになる。その実質的内容は、資本主義経済である。  絶対主義時代(十六世紀後半から十八世紀後半までの時代)では、近代経済は、まだ完全には資本主義的ではなかった。たしかに商品経済は発展して無視しえない勢力になっていたし、上流の金融ブルジョア階層は王権の法律官僚層へ上昇し、そのかぎりで王権国家はかなり「ブルジョワ化」していた。さらに、国家は商品経済をいわば「上から」資本主義化する経済政策を実施した(重商主義)。  近代固有の資本主義経済すなわち「産業的」資本主義経済へと経済生活を転換させるには、特殊な出来事が必要であった。それがイギリスにおいて最初に出現した「産業革命」である。産業革命は、労働=技術様式の変革であり、結果からいえば、道具中心の労働様式から機械中心の労働様式への転換であった。これによって「産業」中心の資本主義経済が自立し、ある程度まで政治と国家による保護と拘束を必要としない「自己再生産システム」を樹立することができた。 †政治革命と産業革命[#「†政治革命と産業革命」はゴシック体]  政治革命(イギリス革命、フランス革命)による古い体制の解体と産業革命による「技術革新」のおかげで登場した「新興ブルジョワ経済」は、一方で生産力を上昇させて、少数の富者を生み出したが、他方では極度の貧困に苦しむ膨大な貧民労働者層をも生み出した。したがって、当時の人々の目を驚かせた事実は、猛烈な加速度をもって上昇する生産力と新しい富の増大ばかりでなく、一つの社会を二分する階級分解[#「階級分解」はゴシック体]であり、とくに救済不可能なまでに社会の下方に沈殿する極貧階層のみじめな姿であった。  二つの驚き[#「二つの驚き」はゴシック体]があった——一方に技術の多様な発明による社会の「進歩」への肯定的な驚きがあり、他方に、和解不可能にみえるほどの深い(憎悪をともなう)社会の分裂と階級闘争の現実に対する恐怖をともなう驚きがある。二つの相反する方向をもつ驚きの背景には、新興資本主義経済とそれを担う中産階級の行動と思想が現存社会の細部にいたるまで、要するに日常生活のこまごまとしたものから国家にいたるまでの全範囲にわたって、巨大な影響力をもつにいたったという事実がある。すべてが経済によって決定されているという印象が人々の心の奥底まで浸透したのである。  この印象を抽象的な理論言語にまで洗練する学問的欲望が芽生えると、社会と歴史に関する種々の理論が登場する。たとえば、イギリスの古典的経済学思想は、人間の歴史を「市民社会の歴史」として定義した(アダム・ファーガスン、アダム・スミス)。イギリスの古典派経済学が前提する歴史思想は十九世紀の思想家に決定的な影響を与えた。マルクスもまたその影響圏にあった。  一八四〇年代のマルクスがエンゲルスと共同して(ドイツの)イデオロギー批判の書物を書き下ろしていたとき、彼らの頭のなかにあった眼前の社会についての印象は、他の思想家たちと同様に驚きに満ちたものであった。ブルジョワ社会はそれほどまでに斬新な現象であった。この印象なしにはマルクスの視線の転換もなかっただろう。マルクスが人類の歴史の理論を構想するときに、英仏の経済思想家たちの仕事は彼の研究の導きの糸になった。 †唯物史観の基礎[#「†唯物史観の基礎」はゴシック体]  マルクスとエンゲルスは次のように述べている。 [#ここから2字下げ]  これまでのすべての歴史的諸段階に存在した生産諸力によって生み出され、また逆に生産諸力をも生み出す交易形態は、市民社会である。すでに前にも述べたように、市民社会[#「市民社会」はゴシック体]は、単純家族、複合家族、いわゆる部族共同体をその前提とし基礎としている。それらの詳しい規定は前の記述のなかに含まれている。ここですでに、この市民社会がすべての歴史の真のかまどであり舞台であることが見て取れるし、支配者の王侯や国家の仰々しい行動だけを描いて現実の諸関係を無視するこれまでの歴史把握がいかにばかばかしいかもわかる。(中略)市民社会という言葉は、所有関係が古代と中世の共同体からすでに抜け出していた十八世紀に登場した。そのような市民社会はブルジョワジーと共にはじめて発展する。生産と交易から直接に発展する市民組織は、あらゆる時代に国家という観念論的上部構造の土台をなすのだが、これもまたひきつづき同じ〔市民社会という〕名前でよばれることになった。 (『ドイツ・イデオロギー』「マルクス・コレクション」第㈼巻、筑摩書房、所収) [#ここで字下げ終わり]  歴史の基礎は物質的生活の生産と再生産である、存在が意識を決定する、土台が上部構造を決定する、等々の命題は、経済史観の「聖なる言葉」として決定的機能を果たすことになったが、こうした命題を登場させる現実的経験が確かにあった。それが圧倒的貧困をともないつつ巨歩を進める経済的現実すなわち資本主義であった。十九世紀の人々にとって後に資本主義と命名される経済はまったく新しい現象であり、知識人と民衆とを問わず、困惑と驚嘆をよび起こす何ものかであった。これなしには、経済がすべてだという思想は生まれようもなかった。  経済史観が人間社会と人類史に関して極度に単純な見方をしていることは、いまでは明らかである。その難点を克服するのは別の課題であるが、この史観がまったく無意味であるとはいえない。マルクスがいうように、人間の社会にとって経済(物質的生活の再生産過程)を無視して人間社会の現実の真実に迫ることはできないからである。マルクスが「唯物論」を過去の自然主義唯物論と区別して「歴史的唯物論」として主張した背景には、経済無視の純粋観念論的歴史観が圧倒的に流布していたからである。  マルクスの「唯物史観」は、論争的性格[#「論争的性格」はゴシック体]をもっていた。当時の論争的文脈では、経済を強調することこそがひとつの「発見」であった。論争のなかで主張される「理論的」命題は、相手の命題に反論するために、あえて一方の対抗命題にアクセントをおくことを余儀なくされる。精神を強調する観念論的諸潮流と対抗するためには、物質的なもの(現実の生活としての経済)を極度に強調せざるをえない。とはいえ、学問的見地からいえば、論争的命題は、真実の理論命題にはなりえない。  ところがマルクスの後の弟子たちは、論争文書を歴史的文脈から切りはなして、マルクスの時々の命題を一般化し教条化した。それが経済史観、別名、唯物史観(史的唯物論)とよばれるものである。ドイツの社会民主党の理論家が経済史観の公式をつくり(カウツキー、その他)、それをロシア共産党の理論家たち(レーニン、ブハーリン、スターリン等々)がそっくり継承し、二十世紀の「マルクス主義」として全世界に流布させた。 2 第二類型=実践的主体論[#「第二類型=実践的主体論」はゴシック体] †経済史観の内在的矛盾[#「†経済史観の内在的矛盾」はゴシック体]  経済史観は経済決定論であった。人間の意志や行為が経済によって前もって決められているということだ。経済決定論を主張しながら、同時に社会的変革の実践を主張する思想のなかには、克服しがたい矛盾が潜んでいた。この事実が二十世紀の前半、とくに第一次世界大戦直後、にわかに気づかれることになった。経済決定論の内在的矛盾を図式的にいえば、およそ次のようになるだろう。  一方で、個人や集団の行動は、決定論の原則によれば、自然法則のごとく社会法則(経済に決定されて運動する社会の運動法則)によって必然的に、全面的に決定される。個人の自発的創意は無に帰する。実際、社会構造が経済構造によってすみずみまで決定され尽くしているなら、社会の発展はもとよりその崩壊もまた経済の運動法則によって決定されるだろう。個人の自由な意志が介入する余地はまったくない。個人や集団の意識的要素はせいぜい偶然的なものとして処理されるほかはない、なぜなら決定論の観点からいえば、個人や集団の個別的観念とそれに基づく行動は、全体としての社会構造と歴史の運動に対していささかも影響することはできないからである。  他方で、決定論を遵守する社会主義者たちは、自分の行動面では社会革命を呼号し、革命を意志的に、自覚的によびこみ、引き起こそうとする。つまり、かれらの理論原則からすれば不可能であるはずの行動を可能であるかのように主張しているのである。  経済史観の決定論者たちは、実際には、まさに相反する命題を同時に主張しているのである。もし経済が他のすべての領域(政治や法律や文化だけでなく、個人の内面や意識までを含めて)を、「鉄の掟」のように例外を許さない必然の法則として万力のように枠づけ、方向づけ、経済的色彩の濃淡を塗りつけるのであるのだとすれば、個人的であれ集団的であれ、いっさいの実践的行動は不要となるだろう。社会主義者のいう「革命」は、経済が引き起こすのであって、人間的主体がなすところのものではないからである。  これはたんに思考実験ではない。実際に、この論理が生み出す現象も生まれた。実践面での待機主義がとくにドイツの社会主義者の間で有力であった。経済決定論を文字通り護持するなら、革命的行動を控える待機主義または日和見主義が当然の帰結であり、待機主義こそが経済史観と経済決定論として解釈されたマルクス主義の「正統的」思想といわなくてはならない。ドイツ社会民主党はこの方向でまとまっていた。  かれらによれば、資本主義は内部矛盾を抱えているのだから、資本主義が発展すればするほど内部矛盾が激烈に発展し、資本主義は「自動的に崩壊する」のだと主張し、それが第一次世界大戦の勃発のときに社会民主党が戦争に賛成した根拠にもなった。戦争は内部矛盾の爆発だから、戦争によってドイツ資本主義は自動崩壊するはずだからである。これはこれで首尾一貫してはいる。しかし社会主義は実践の思想であるから、革命をいうだけでなく、実行するべく「命令」されている。そうなると、革命という社会変革の行動は、事実上、表看板である経済史観と決定論を否定することになる。それが経済中心主義の「マルクス主義」が抱えた内部矛盾である。  このように、この経済史観の議論にはどこか不健全なところがあるから、その欠陥を埋めるために新カント主義倫理学を密輸入して、個人の道徳と経済史観を分離して、折衷的調停をはかるひとが出てきてもおかしくない(ベルンシュタインたちの「修正主義者」の倫理主義)。しかしこの外面的な折衷がうまくいくはずはなく、第一次大戦の後では、決定論の「正統派」(カウツキーに代表される)も「修正派」も、ひとからげに否定されてしまうのだが、思想の面にかぎるならば、経済史観を否定する思想の登場が経済史観の衰退の原因である(政治面では、ロシア革命によってロシア共産党またはボルシェヴィズムの権威が高まり、ドイツ社民党は政治力学的にも影響力をうしなった)。  このように、経済史観とその決定論はその内部矛盾を自ら克服することはできなかった。ドイツ社民党内の待機主義とロシアのボルシェヴィズムにおける主意主義的アクティヴィズムへの両極分解は、経済決定論の内的論理の必然的帰結であった。思想の原則があらためて問われることになる。 †新しいマルクス解釈の登場[#「†新しいマルクス解釈の登場」はゴシック体]  ドイツとロシアにおける客観主義と主観主義の分裂を政治的行動の面でいち早く批判したのは、ローザ・ルクセンブルクであった。ドイツ社民党とロシア・ボルシェヴィズム(レーニン主義)の思想的病理現象をえぐりだすローザの両面批判[#「両面批判」はゴシック体]は、マルクス解釈の新しい時代を告げた。彼女は、ドイツ社民党の待機主義という精神的頽落を批判すると同時に、レーニン主義による国家官僚制的支配を批判した。ローザは革命的行動における労働者大衆の自発性[#「自発性」はゴシック体]を力説し、労働者による工場管理、労働者民主主義[#「労働者民主主義」はゴシック体]または評議会運動こそが社会主義にふさわしい理念であるとした。ローザの実践的思想の内在的論理を突き詰めるなら、そこからマルクス解釈の第二類型がおのずから出現する。 †ジェルジ・ルカーチ[#「†ジェルジ・ルカーチ」はゴシック体]  レーニンではなくローザから決定的影響を受けた初期ルカーチは、ローザの思想を哲学的に徹底させた。ローザの大衆自発性論は哲学的には実践的主体性論[#「実践的主体性論」はゴシック体]へと展開する。実践的主体性論は、マルクスの弁証法思想を復活させる。こうしてルカーチは、経済決定論へと歪曲されたマルクスの思想を、実践的弁証法として復権させることに成功した(ルカーチ『歴史と階級意識』一九二三年刊。邦訳は白水社刊)。ルカーチの実践的主体性論はいくつかの要素から成り立つ。  第一の要素[#「第一の要素」はゴシック体]——大衆《プロレタリアート》の主体性または自覚した階級意識。[#「大衆《プロレタリアート》の主体性または自覚した階級意識。」はゴシック体]  観察者から見て経済的階級としてのプロレタリアートが実在すると確認するだけでは変革に向かう実践は生まれない。労働者たちが自分をひとつの独自な階級のメンバーであると自覚する[#「自覚する」はゴシック体]、またはそのように自己の存在を認識すること、ヘーゲル用語でいえば労働者が「即自的」階級から「対自的」階級に上昇することが社会を変革するときの基本的前提である。たんに実在する経済階級としての労働者集団は、現存の社会体制を容認するからである。まずは労働者自身が自己変革[#「自己変革」はゴシック体]をなしとげなくてはならない。ここからルカーチの階級意識論の哲学的展開が登場する。実践的主体性論と命名される理由がそこにある。  ルカーチの思想を乱暴にまとめるなら、それは階級意識の哲学[#「階級意識の哲学」はゴシック体]である。虚偽意識としてのブルジョワ・イデオロギーを批判し克服するのは、「真理の意識」としてのプロレタリア的階級意識であり、イデオロギー批判[#「イデオロギー批判」はゴシック体]は社会変革の不可欠の要素となる。いささか主観主義の傾向が強いから、後のルカーチはこの時期の見解を撤回することになるのも、ある意味では当然である。しかし自己批判以後のルカーチは、経済決定論に戻ったかのような教条主義的に硬直した態度をとった(ルカーチ『理性の破壊』)。しかしこれは後の話である。  第二の要素[#「第二の要素」はゴシック体]——歴史は階級意識に目覚めた実践的主体がつくる、または主体が所与の状態を変革する[#「歴史は階級意識に目覚めた実践的主体がつくる、または主体が所与の状態を変革する」はゴシック体]。  歴史は自然的因果律による決定のようにつくられるのではなく、人間的主体(個人と集団)の行動によってつくられる。主体もまた自分のつくった歴史によってつくりかえられる。ここからルカーチはエンゲルスの「自然弁証法」を批判する。ルカーチはヘーゲルから弁証法の適用範囲を学んだから、弁証法が人間的主体の行動のあるかぎりにおいて成り立つのであって、人間的主体が関与しない自然には弁証法は適用できないという。これはヘーゲル理解にとってもマルクス理解にとってもきわめて重要な指摘である。  当時の思想状況、つまり当時のヘーゲル理解とマルクス理解の悲惨な状況を勘案すると、ルカーチの思想は群を抜く洞察力を示していた。おそらくエンゲルスはヘーゲルの『エンチュクロペディー』第一部「自然哲学」から影響を受けて自然弁証法を構想したのだろう。これはこれでヘーゲルの忠実な理解であり、そのかぎりでエンゲルスの卓越した才能をよく示している。しかし自然のなかに弁証法を認めるというヘーゲルの議論は、初期ヘーゲルの弁証法思想と矛盾しているし、まさにそこにヘーゲルの「ささやかな」ミスがあったといえる。エンゲルスに反対して、ルカーチは初期ヘーゲル(『精神現象学』)の弁証法に依拠して弁証法の精神を復活させたのである。これは初期マルクスの精神の復権でもある。  前に見たように、非弁証法的[#「非弁証法的」はゴシック体]性格が濃厚な経済決定論と主意主義的・主観中心的行動主義は論争面では対立しながら、思想の面では互いに補い合っていた。決定論は客観主義的傾向を代表し、主意主義は主観主義的傾向を代表していた。二つの傾向は、人間の社会的現実と歴史的現実を機械的に分断し、両極の一方だけを孤立させて強調していたのである。どちらも機械論的[#「機械論的」はゴシック体]であったといえる。弁証法の復権は、主観主義と客観主義を乗り越える。それはマルクスの本来の思想に立ち返ることでもあった。 †ヘーゲルの復権[#「†ヘーゲルの復権」はゴシック体]  ルカーチの功績はもうひとつある。彼は弁証法を復権させることによって、マルクスの正統的思想を回復したばかりでなく、ヘーゲルがマルクスにとってもつ重要な意味に多くの人々の注意をひきつけた。ルカーチの登場はヘーゲル復権の兆しとなった。彼に続く思想家たちは、ルカーチとの批判的対決を繰り返しつつ、彼の遺産を受け継いでいく。その後の論争のなかで批判の対象になるだろうが、ルカーチによるヘーゲルとマルクスの連結の仕方は彼独自のものであったことも認めなくてはならない。彼はマルクスの「ひそかな」意図を適切にとらえてもいた。  ヘーゲル−マルクス関係についてルカーチの独自な着眼がどこにあったのか。第一に、ヘーゲル的な歴史の理性(または絶対精神)をマルクス的な集団的(階級的)理性すなわち階級意識に変換したことである。いまやヘーゲルの「精神」は、プロレタリアートの「対自的な階級意識」に変貌する。ヘーゲルにとって歴史的理性が歴史をつくり変革する。それと同様に、ルカーチ的階級意識が歴史をつくり変革する。この構図を設定することによって、ルカーチは安んじてヘーゲル弁証法をマルクス弁証法として転用することができたのである。 †影響[#「†影響」はゴシック体]  ルカーチの主体論は後の世代に深甚な影響を与えた。その影響は、たんに理論的影響ではなく、それ以上に、初期ルカーチの精神を色濃く染め上げていた革命的メシアニズム[#「革命的メシアニズム」はゴシック体]から発する影響でもあった。彼の友人エルンスト・ブロッホの後代に与えた影響も見のがせない。ブロッホのメシアニズムはルカーチよりも強烈であって、そのメシアニズムは雰囲気といったものではなく、著作自体が革命的メシアニズムのマニフェストである。  ルカーチによるマルクス解釈の主体論的旋回とブロッホによる革命の神学(『ユートピアの精神』一九一八年)宣言は、第一次世界大戦後の革命的雰囲気に助けられて(ロシア革命の成功、ドイツとハンガリーにおける革命政権の成立と挫折など)、主体性と歴史を重視し、同時に救済論的革命思想を共有するフランクフルト学派のメンバー、とくにベンヤミンとアドルノとマルクーゼによって批判的な改作を被りながら受け継がれる。  哲学の面では、ルカーチがはじめて着目したマルクスの物象化[#「物象化」はゴシック体]概念は、フランクフルト学派によって共感的に受け入れられる。物象化は、マルクスの場合には(『グルントリッセ(経済学批判要綱)』と『資本論』第一巻)主として経済的概念である。経済的物象化は商品と貨幣のフェティシズムとほぼ同義である。マルクスによれば、人間と人間の直接的な社会関係は商品経済においては物と物との関係になり、物体的な物がそれ自体のなかに観念的な価値をもっているかのように人々に受けとめられ、また人々は物が最初から価値をもつかのように信じている。  これはアフリカの土着民の原始的宗教現象(フェティシズム、呪物崇拝)と同一の構造をもつのだから、マルクスはこれを商品経済に転用して商品のフェティシズム的性格[#「商品のフェティシズム的性格」はゴシック体]と命名し、この現象の転倒性を物象化とよんだ。ルカーチは物象化を経済のみならず文化一般、とくに階級的立場を自覚しない「思想的」意識にまで拡大する。これによってルカーチはイデオロギー批判を文化批判[#「文化批判」はゴシック体]にまで拡大する可能性を与えた。  ベンヤミン、アドルノ、マルクーゼたちは、互いに思想の方向と体質が違うのだが、各人の流儀で文化批判を展開していった(ベンヤミン『複製技術時代における芸術作品』、アドルノ『美の理論』、マルクーゼ『一次的人間』)。こうしてマルクスが荒削りに着手したイデオロギー批判は、理論的|調琢≪ちようたく≫を加えられて、その射程と深みを増すことができた。ここにいたって十九世紀以来の経済決定論の猛威は弱まり(消滅したのではない)、新しいマルクス像の方向転換が生まれたのである。経済決定論と経済史観は一九六〇年代までかなりの影響力をもち続けていくが、その独占的支配の一角が崩れることになった。 †戦後のフランス実存主義とマルクス[#「†戦後のフランス実存主義とマルクス」はゴシック体]  第二次世界大戦後のフランスでは、二〇年代のドイツに類似した状況が生まれた。一種の革命的雰囲気が知識人と民衆をとらえた。ナチズムに対する抵抗闘争をリードした共産党の政治的権威とその思想的影響力は甚大であった。フランス共産党の思想は完全にロシア型の経済決定論であり、経済史観としての唯物史観が遅ればせながらフランス左翼知識人を制圧した。大衆の自発性は否定され、前衛党の指令による大衆運動の管理は硬直的であった。  ロシアではスターリン専制時代に入って久しい。このスターリン主義がフランス共産党の看板イデオロギーになっていたのだから、これに疑問と異論を提起する人たちは一種のローザ的実践主体主義とルカーチ的革命的主体論を採用することになる。  フランスでは共産党の内部と外部から異端者が続出する。外部の左翼陣営では、雑誌『現代』に依るサルトルとメルロ=ポンティがとくに重要である。かれらは、哲学者としては現象学的実存主義の立場を堅持しながら(サルトル『存在と無』一九四三年、メルロ=ポンティ『知覚の現象学』一九四五年)、いわゆる「アンガージュマン」(政治参加)を実践する。かれらは初期マルクス(『経済学・哲学草稿』一八四四年)の主体の哲学を一種の実存主義として評価するとともに、ルカーチの初期著作『歴史と階級意識』と酷似する理論的構図をつくり上げる[注2]。  フランス共産党の内部では、アンリ・ルフェーヴルの抵抗が注目される。彼は多面的な哲学者であるが、若き日にはシュルレアリスム運動に協力していたのだから、もともとスターリン主義とそりがあわないのは当然である。政治的事情から彼もまた共産党員になるが(『弁証法的唯物論』一九三九年)、徐々にサルトルたちと同一の主体重視のマルクス像を描くようになった。結局、彼は党中央と衝突して脱党し、独立マルクス主義者としてマルクスの精神に基づく社会学の構築を目指すことになるが、それは別の話である[注3]。  サルトルとメルロ=ポンティは、経済史観的マルクス解釈を批判し、実存主義的主体性論によってマルクスの哲学を救い出そうとした。メルロ=ポンティは、サルトルの共産党寄りの立場と対立してから、徐々にマルクス主義への関心を失い、アルベール・カミュと似たようなアナーキズムに共感していく(メルロ=ポンティ『弁証法の冒険』一九五五年)。そして彼はアンガージュマンから撤退し、大学知識人に戻る。サルトルは『弁証法的理性批判』(一九六〇年)を書いて、マルクス主義と実存主義の統合、むしろ実存主義を土台にした歴史の哲学の再建を目指した。これによって、二〇年代に登場した実践的主体論と哲学的主体論のサイクルは一応の完結を見ることになった。 3 第三類型=構造論(関係論)[#「第三類型=構造論(関係論)」はゴシック体] †社会関係のアンサンブル[#「†社会関係のアンサンブル」はゴシック体]  前記の二つのマルクス解釈は、もっとも基礎的な認識面では同一の平面に立っていた。経済的決定論は、主観性の極を消去して客観極だけを重視しているのに対して、主体性論は主観極を重視し、客観を主観性の働きに還元した。いま仮に二つの類型を客観主義と主観主義として特徴づけるなら、両者は同一の土俵の上で相互に対立しつつ、相互に照らしあう二極であるといえる。両極分解した解釈図式は、両者が立つ地平を共有していることに気づいていない、あるいは少なくとも他の極との相関関係の重要性を軽視している。したがって、第三の解釈類型は、先行する二つの思想を批判し、その難点と欠陥を暴き出し、それらを克服する道を切り開こうとする。  人間的社会の本質がつねに問題であった。新しいマルクス解釈は、社会の本質を「関係する行為」(プラクシス)の観点から把握する。それは日常の言葉で社会とよぶものを「社会関係のアンサンブル(集合、総体)」と定義する初期マルクスの言葉を手がかりに社会関係を考えようとする。「関係する行為」は、主体極を含むけれども個別的主体の行為だけに還元されることはできない。関係[#「関係」はゴシック体]は、ひとつの構造[#「構造」はゴシック体]であり、そのなかではじめて主観極と客観極が複合的な結びつきを展開していく。マルクスのいう「関係のアンサンブル」は、現代の言葉でいえば「構造」である。  前記の二つの解釈図式は、この構造の概念を欠いている。より正確にいえば、関係の束としての構造は、単独に実在する主観と客観がまず[#「まず」はゴシック体]あって、しかるのちに[#「しかるのちに」はゴシック体]「関係する」というようなものではない[#「ない」はゴシック体]。事態はその反対であり、関係する行為の束が関係的構造を形成し、構造のなかで[#「構造のなかで」はゴシック体]主観と客観が形成されるのである。主観も客観もそれ自体で単独に存在するのではなく、両者は構造の結果[#「構造の結果」はゴシック体](構造によって生産されたもの)である。第三のマルクス解釈は、前記の二つの類型が見損なったマルクスの本来の思想を復権させようとした。この立場は、関係ないし構造の立場、すなわち構造論[#「構造論」はゴシック体]または関係論[#「関係論」はゴシック体]とよぶことができる。 †個人主義社会観の限界[#「†個人主義社会観の限界」はゴシック体]  社会をどのように理解し、記述するのかについての論争が、かつて激しく論議された。この論争はいまも続く。近代思想の歴史のなかでもっとも早く、そしてもっとも影響をもった見方は、個人主義的社会観であった。ロックからアダム・スミスを経て現代のリベラリズムまで連綿と続く社会観の骨子は、次のように要約できる——社会なるものは実在しない、少なくとも個人以前には存在しない。真実にリアルなものは肉体をもつ個人だけである。  この諸個人の行動を参与観察するようにして追跡し記録するとき、諸個人の行動の束がつくり出す社会なるものを描くことができる。社会は名目であり、実質は複数の個人である。個人を主体とよび、それを抽象的に厳密に仕上げると、近代特有の主観主義の哲学が生まれる。この思想はけっして単純に空疎な思想だとはいえない。個人主義思想は、近代の経済活動に照応する現実的な思想だからである。  しかし学問の見地からみて、社会を諸個人に解消することはいかにも非現実的である。社会は制度として厳然と実在し、個人の行動を厳しく拘束する[#「拘束する」はゴシック体]。制度としての社会は、道徳の面でひとを義務的に拘束したり、権利義務関係のなかで法的に拘束したり、政治的関係のなかで権力的に拘束したりする。これは誰もが日常的に経験することだ。社会がないとはとうていいえない。  もっと重大なことは、社会を知ろうとするとき、個人の行動の軌跡を追えば社会を描いたことになるというのは、およそ虚妄な発言である。無数の個人的行動の束はまだ社会ではない。ここに個人主義思想の認識面での錯覚があった。  個人が先にあるのではなく、社会や関係が先にある。個人は社会のなかに生まれるのであって、自然のなかに生まれるのではない。個人が生まれるときから、いやそれどころか母親の胎内にいるときから、個人は社会(まずは家族)によって育てられ、個人の人格も社会的に形成される。人と人とのつきあいのなかで、またつきあいの結果[#「つきあいの結果」はゴシック体]として、一個の生命体が人間的[#「人間的」はゴシック体]個人として鍛錬され仕立てられる。個人は社会的[#「社会的」はゴシック体]個人である。諸個人のつきあいを「社会関係」とよぶなら、この社会関係は独自の法則性と秩序をもっている。法則や秩序をもつ組織体を、構造とよぶ。その観点から構造の科学[#「構造の科学」はゴシック体]が出発する。マルクスは構造の科学の開拓者であった。 †科学的思考もまた構造論的である[#「†科学的思考もまた構造論的である」はゴシック体]——アルチュセール[#「アルチュセール」はゴシック体]  マルクスを構造の観点から哲学的に解釈する動きは、およそ一九六〇年前後からフランスで始まった。それを代表する思想家がルイ・アルチュセールである。アルチュセールは意表をつく問いを提起した。どのような意味でマルクスの全仕事、とくに『資本論』は科学でありうるのか[#「科学でありうるのか」はゴシック体]と。アルチュセールはマルクス以後のどのマルクス主義の理論家も自明視して疑わなかった問いを突きつけたのである。  エンゲルスの著作(『空想より科学へ』)以来、マルクスの理論は「科学的社会主義」とよばれてきた。それは歴史の「唯物論的」認識(唯物史観、または史的唯物論)と同一視されてきた。この場合、「科学的」と「唯物論的」は同じ意味である。十九世紀の通俗科学のイメージでは科学は唯物論的であり、唯物論は科学的とみなされて、それが二十世紀になっても自明のごとくマルクス主義思想界では流布していたのである。  真実の科学的研究の現場[#「現場」はゴシック体]は必ずしも科学的ではなく、唯物論的でもない。科学的研究の成果が教科書になり、図式化するとき、科学的認識過程の現場において認識を生産する構成要素であった詩的、神話的、魔術的等々の「精神」、要するにイデオロギー的なものはまったく消去される。しかしこれらの「イデオロギー的要素」は解消できないものであり、それらを与件とし、それらとの内面的対決の過程から科学的とよばれる認識が生産される。その意味で、科学的認識の生産過程からイデオロギーを追放する科学観は的を失している。  通俗科学の言説は、滅菌処理された上澄みの知識でしかない。それが唯物史観に浸透した。とくに経済決定論と「科学的」社会主義なるものは、この通俗科学に毒された「科学主義イデオロギー」である。それによれば、歴史の把握は、近代自然科学と同じ法則研究でなくてはならないし、社会現象は自然現象と本性的に同質的であると勝手に「確信して」きたのである。  では、主体性論の側では、この通俗科学主義のいう「科学」を真剣に問題にして、それを乗り越えようとしたのかといえば、けっしてそうではない。主体性論者は、科学性に関する問いを無視するか、ルカーチやサルトルのような実存主義的「哲学」を信奉するかのどちらかの態度をとってきた。どこからもマルクスの仕事の科学性はそれ自体として問われることはまったくなかった[#「それ自体として問われることはまったくなかった」はゴシック体]のである。  考えてみれば不思議なことだ。あれほど「科学的」という形容詞を振り回してきたマルクス主義思想界が、おのれの看板である「科学的」なるものをわずかでも考えることがなかったのは、いまからみれば不思議というよりも知的怠慢にみえる。しかしその欠陥は理論家たちの個人的欠点というよりも、時代の通俗科学主義イデオロギーの強さに求めるべきかもしれない。いずれにせよ、マルクスの仕事の科学性という問いは完全に黙殺されてきたなかで、アルチュセールがマルクス主義思想史上はじめて[#「はじめて」はゴシック体]マルクスにおける科学性を問題にしたのだから、その衝撃は大きかった。 †構造の科学としての『資本論』[#「†構造の科学としての『資本論』」はゴシック体]  そこであらためて問う。マルクスの主著『資本論』は科学の書物なのか、それともプロパガンダの書物なのか、あるいは形而上学の書物なのかと。イギリスの経済学者ジョーン・ロビンソンは、『資本論』は科学的ではなく、形而上学的であるといった。これはふつうの反応であり、ふつうの経済学の常識ではおよそ経済学的ではないし、とくに「数理的」経済学者ならアレルギーを起こすのは無理もない。では『資本論』は非科学的であり、社会主義の宣伝パンフを大きくしたものにすぎないのだろうか。そもそもこの書物はドイツ語で長々とややこしいことを書き連ねている。この文字の羅列が神話でも詩でもなく、また小説のような物語でもなく、いわんや政治宣伝冊子でもないのだとしたら、それはどのような書物なのか。こうアルチュセールは自問した。  彼は文字で構成されたテクストをいかに読むかを議論することから始めて、次に認識生産過程の理論をつくり、その回り道を経てようやく『資本論』の科学性の条件を確定していく。科学の現場に立ち会い、認識の生産条件の理論をつくり、非科学的イデオロギーと本来の科学的思考を弁別する指標を取り出し、科学的なものが非科学的なものから徐々に解放されていく過程を研究する学問は、フランスではエピステモロジー(科学の認識論)とよばれる。この研究の仕方はアルチュセールの独創ではない。それはすでに長い伝統があり(オーギュスト・コントからアレクサンドル・コイレ、ガストン・バシュラール、カヴァイエス、カンギレーム、等々までの伝統)、彼はその伝統を吸収しつつ、科学的認識論の分析手法をもってマルクスを解釈するのである。面倒な議論はここではいっさい省略して、結果だけを図式的にいえば、マルクスは社会とその歴史の科学的認識を、構造の概念をもって把握したということである。  初期マルクスが「社会関係のアンサンブル」(『フォイアーバッハ・テーゼ』)とよんだ概念は、ここでは構造の概念として一般化される。たとえば、生産過程は、生産諸力(労働手段、労働原料、労働力のアンサンブル)の構造と生産諸関係(資本制経済では資本と労働の階級的な「社会関係」のアンサンブル)の構造との結合、つまりは構造の構造[#「構造の構造」はゴシック体]であり、過程的にいえば二つの構造の構造化[#「二つの構造の構造化」はゴシック体](複数の構造を統合するプロセス)である。もっと単純なケースでいえば、商品も貨幣も、実際には使用価値と価値の二重構造であり、一個の商品や貨幣でもすでに複雑な構造化の産物なのである。なぜなら、価値物としての一個の商品は複数の商品の「社会関係」の結果であるからである。  経済と社会におけるいっさいの現象で、構造化の効果[#「構造化の効果」はゴシック体]を受けないものはない。最初に構造ありき[#「最初に構造ありき」はゴシック体]である。構造のなかでその諸要素は、「構造の」要素として生産されるのであって、要素の機械的寄せ集めが構造をつくるのではない。人間的主体に関していえば、主体が先行して存在し、しかるのちに構造がつくられるのではなく、反対に構造の動きがあり、そのなかで構造はその効果を伝える媒体として主体を構成する[#「構造はその効果を伝える媒体として主体を構成する」はゴシック体]。  自然の生き物である赤ん坊を家族が、そして市民社会が一人の人間的個人[#「一人の人間的個人」はゴシック体]として、人間的主体へと育てあげる。自然的[#「自然的」はゴシック体]個人(つまり自然のままの子ども)を社会的構造は「構造の担い手」として形成していく。構造は担い手(主体)をつくることによって運動する。この主体は社会構造に従順な、つまりは服従的な主体である。反対に、構造に反逆する主体が登場するなら、構造は担い手を失うのだから徐々に解体しはじめる。構造論の骨子はおよそこのようなものである。  それがどうして科学なのか。認識生産過程としての科学的実践は、所与の現象から抽象的概念をつくり出すだけでは十分ではない。それは概念生産と同時に「真理の基準」をも生産することが不可欠である。マルクスの場合、この真理の基準は、ヘーゲルから受け継いだ弁証法的基準である。彼はそれを認識の生産条件の真理基準として社会の認識に転用する。  単純にまとめることのできないことをあえて単純化していえば、最初の出発点にある曖昧模糊としたイデオロギー的観念を批判的に解体して、そのなかにある真実を取り出し、新しい概念へと変換するのだが、その結果である概念は最初の観念の本質的なものを保存しつつ概念の構成要素にしている。これはヘーゲルが主張した認識の円環的構造[#「円環的構造」はゴシック体]である。  要するに、認識の対象[#「認識の対象」はゴシック体]である概念は、現実的対象[#「現実的対象」はゴシック体]である経験的なものと思考のなかで一致する。概念と経験は、経験的にはけっして一致しない。両者は思考のなかでのみ一致するし、それ以外の一致はありえない。この一致の条件を「真理基準」とよぶなら、マルクスはその基準の理論を自分でつくり出したのではないとしても、それなしには人間の認識は科学になりえないことの意義を自覚していた。  より具体的にいえば、マルクスは、ヘーゲルの「意識の弁証法」を経済と社会の実践へと、いわば「唯物論的に」転用した、いやむしろ変容させた。これがアルチュセールのいいたいことであった。ひとまずそのようにアルチュセールの構想を受けとめておこう。 †歴史的時間の概念[#「†歴史的時間の概念」はゴシック体]  ところで、もう一つの問題がある。それが歴史の概念である。これまた過去のマルクス主義は一度も概念的にも、理論的にも問わなかった。人間の社会も個人も現実のなかで生きるかぎり、必ず時間のなかで[#「時間のなかで」はゴシック体]、あるいはむしろ時間として[#「時間として」はゴシック体]実在し、時間的に動く。しかし社会のなかの時間は、自然科学でいう可逆的時間とはまったく異なる。社会的・歴史的時間は、後戻りできない時間[#「後戻りできない時間」はゴシック体]である。人間の行為はどの種類のものであっても、与えられた状況をまったく新しい姿に変える。この変換行為のシリーズが不可逆の歴史的時間を生み出す。  一つの行為は、所与の状況を決定的に[#「決定的に」はゴシック体]変更してしまう。だからこそ、人間的行為は「出来事」を産出し、その出来事によって人間の主体の側でも後戻りできない変化を被ることになる。社会的・歴史的時間は人間的行為に深く根ざしており、この行為が眼前の事情を変形し、前にはなかった事件をつくりだす[#「事件をつくりだす」はゴシック体]から、社会のなかの出来事は「歴史的な」出来事になる。  したがって、社会と歴史を学問的に認識するときには、歴史的時間(単なる時間一般とか時間意識ではなく)の概念を構成する[#「概念を構成する」はゴシック体]のでなくてはならない。構造の概念は、特定の時間幅を切りとって「静態的」に構築されたものであるが、これは理論的には最初になすべき不可欠な作業である。しかし社会の構造を語るときには、静態的構造だけでは十分でない。構造は歴史的時間のなかにおかれてはじめて動的な現実性をもつ[#「構造は歴史的時間のなかにおかれてはじめて動的な現実性をもつ」はゴシック体]からである。  理論的認識は、叙述することが課題であるから、最初に静態的構造を、次には動態的構造を、という順序を踏むことを余儀なくされるが、それは描き方の秩序から出てくる要求であって、社会的現実はつねに必ず歴史的現実であるのだから、歴史的時間のなかで動く社会構造こそが本来の叙述の目標である。要するに、歴史的時間の概念をいかに構成するかが、マルクスをどう理解するかを左右する。少なくともアルチュセールはそう考えた。 †等質連続時間批判[#「†等質連続時間批判」はゴシック体]  アルチュセールによれば、過去のマルクス主義者は、歴史的時間の概念をついにもちえなかった。かれらは既存の自然科学的な時間イメージを無批判的に受けいれて疑わない(経済決定論)、あるいは反対に、観念論的哲学が想定した「ひとつの時代は唯一の同じ時間をもつ」という想定をそのまま導入していた(主体性論者)。どちらも時間を等質的に[#「等質的に」はゴシック体]とらえていた点では同じ地盤にたっていた。しかし歴史のなかの社会構造は、複数の領域から構成されている(政治、経済、文化の三層構造、さらに各構造が階層的になっている)。  これらの領域はそれぞれ独自の運動リズム[#「独自の運動リズム」はゴシック体]をもって動くのであり、けっして大文字の唯一の時間なるものに還元されることはありえない。政治領域には、政治に特有の時間性があり、経済には経済独自の時間性があり、文化とイデオロギーにはそれ独特の時間性がある、等々。  複数の時間性[#「複数の時間性」はゴシック体]は、等質でないから、互いにずれている。時間論の観点からいえば、経済の運動のリズムは政治のリズムを決定しないし、ましてやイデオロギーのリズムを決定しない。社会と歴史の科学的認識は、各領域自体が複数の時間性をもつことを認識することから始めて(たとえば経済構造は、労働時間、生産時間、生産期間、回転期間、等々のように複合時間をもっている)、ついで各領域の独自の運動様式を確認しつつ、複数の領域の時間的連関、すなわち異質時間相互の分節化と編成[#「異質時間相互の分節化と編成」はゴシック体]を分析するのでなくてはならない。  これはごく一般的な指針であるが、この方向で歴史的時間の概念を構成することこそ、社会と歴史のサイエンス(この用語は通常の経済学や政治学と同じではない)の課題である(歴史的時間については、アルチュセール『資本論を読む』邦訳第二分冊、ちくま学芸文庫を参照。具体的な歴史的現実の異質時間的連関の説明については、アルチュセール『マルクスのために』平凡社ライブラリー中の論文「矛盾と重層的決定について」を参照)。 †イデオロギーの理論[#「†イデオロギーの理論」はゴシック体]  さらに、もうひとつの興味深い問題をアルチュセールは既存のマルクス主義に突きつけた。それがイデオロギー論である。過去のマルクス主義においては、イデオロギーという用語は、おおむね虚偽意識[#「虚偽意識」はゴシック体]として見なされてきた。それはブルジョワや小ブルジョワの階級意識であり、特定の階級の社会的限界によって決定されているから、真実の認識を歪曲して表現する、あるいは真実を隠蔽するものだとされてきた。  ところが例外がひとつだけあって、プロレタリア階級の意識だけは、「普遍的」階級であるから真実を把握するとされていた。例外のある用語は学問にならないのだが、奇妙なことにプロレタリアの立場はストレートに真実に至ると独断的に[#「独断的に」はゴシック体]決定されている。これが俗流的に教科書化されたイデオロギー概念であった。要するに、それはプロパガンダ用語以上のものではなかった。マルクスの本来の意図は消去され、別のものに変貌させられたのである。  アルチュセールは、『ドイツ・イデオロギー』から『資本論』にいたるマルクスの模索過程をふまえて、新しい構想を提起した。彼によれば、イデオロギーはたんなる虚偽意識ではなく、階級意識の直接的な表現でもない。イデオロギーは、事実の上で哲学や科学の形式をとる観念組織ではあっても(これが彼のいう「理論的イデオロギー」である)、必ず社会生活のなかに根づいているから、「無前提」ではない。「思想」が根ざす社会的前提に無自覚になり、自己の[#「自己の」はゴシック体]社会的前提に気づかず「普遍性」を主張するとき、どれほど学問的に厳密な理論形式をまとっていても、その前提の無自覚という事実によって真理認識の絶対限界に事実上直面することになる。マルクスは早くから、この無前提的普遍性と称されるものが社会的歴史的前提をもつことを説明する概念としてイデオロギー論を提起していた。 「理論的形式の」観念組織は、どれでも例外なく、イデオロギー的要素と学的要素の混合形態である。マルクスのイデオロギー概念はこれを分析し、腑分けする「認識論的」概念である。これがアルチュセールの主張の骨子である。そこまではマルクスのテキストのなかに含まれていた諸要素を理論的に引き延ばしたものだ。彼がそうしたのはひとつの学問上の貢献であるが、さらに彼はマルクスにはないものを付け加えることができた。それが、彼の命名によれば、実践的イデオロギー[#「実践的イデオロギー」はゴシック体]である。 「実践的」という言葉は、道徳的意味でも政治参加の意味でもなくて、ひとが社会のなかで生きるときに「生き抜いてしまっている」観念形態、いわば肉体のなかに刻み込まれる無意識的[#「無意識的」はゴシック体]観念である。抽象的に定式化するなら、実践的イデオロギーとは、誰でも自然や他人や物とつきあいつつこの現世を生きるのだが、そのときひとが知らぬ間にとる生き方、「世界との関係を生きる」精神的な態度である。人間であるかぎり、この意味での「生きられる」イデオロギーを失くすことはできない。アルチュセールはこれについて「(実践的)イデオロギーは永遠である」と定義している。  理論的イデオロギーは変更できるし、場合によっては消滅させることもできるが、実践的イデオロギーは人間の存在条件そのもの[#「人間の存在条件そのもの」はゴシック体]であるから、人間が存続するかぎり存続する(これが「永遠的」の意味である)。初期マルクスが国家を「幻想の共同体」または「想像された共同体」と命名し、後期マルクスが商品や貨幣のフェティシズムについて語るとき、彼がいい当てようとした事実は、この「実践的イデオロギー」である。  また国家や社会が自己を維持し再生産するときに、「国家のイデオロギー装置」(これもアルチュセールが提案した有名な用語である)によって諸個人の精神のなかに「正統性の諸観念」を注入しようとするが、そのとき人間の精神のどこに「介入する」のかといえば、まさに実践的イデオロギーの場面である。  まとめていえば、イデオロギーには二つのタイプがある——理論的と実践的の二つである。アルチュセールはマルクスにおいてまだ曖昧であったイデオロギー用語を可能なかぎり厳密に仕上げたといえる。  さらに興味深いことがある。彼のイデオロギー論は、既存マルクス主義のなかに巣くう種々のイデオロギー(ヒューマニズムのような世俗化したキリスト教的観念から、敵対するはずの諸階級の観念組織の相互混入)を暴き出す機能を果たすという点で、自己批判的反省[#「自己批判的反省」はゴシック体]をうながすばかりか、この議論を延長するならば、ほとんど二十世紀の政治的マルクス主義(ソ連国家を弁護するイデオロギーと化した)の死亡宣言とすらいえるような帰結にまでいたる。彼はマルクスをマルクス主義から解放した。それは同時に既存マルクス主義の終焉を加速することになった[注4]。  こうして、第三類型の登場とともに、マルクス解釈のすべてが出そろったといえる。可能性からいえば、また別の解釈類型が登場することもあろうが、おそらくはマルクス主義の内部で可能な解釈図式はほぼ以上の三類型によって尽くされるだろう。なぜなら、それらは解釈者たちの勝手な思いこみではなくて、時々の社会状態と時代によって制約された解釈とはいえ、マルクスのテキストのなかに蒔かれていた種子を特定の観点から拡大したものであるからである。三つの解釈法の根はマルクスのなかにあった。こうしてマルクス解釈の長い循環がひとまず終わる。  本書は、以上の三類型の解釈のなかで言及されないか、重視されない事柄を拾い出して、そこからマルクスの精神の内部の襞に照明を当てることで、過去の解釈にはなかった側面を引き出してみたいと考える。これから本書が書き連ねることどもは、けっして系統的ではなく、いわば点描的であるが、そこから今後の新しい萌芽が出てくることを期待したい。 [#ここから2字下げ] 注1 政治指導者の発言は政治現象の一構成要素以上のものではない。政治研究にとっては重要であっても、学問的な思想や哲学とはまったく異質である。たとえば、ロベスピエールやサンジュストの政治的発言がフランス革命の進行にとってどれほど重要であっても、彼らの発言や個人的見解をモンテスキューやルソーの思想と同列に扱うひとは西欧にはいない。ところが二十世紀の左翼陣営では、レーニン、スターリン、毛沢東をデカルトやカントと同格であるかのごとくあつかい、あたかも「学的思想」であるかのごとく崇拝して疑わなかった。実に奇妙な現象である。大学アカデミズム知識人たちがそれに意図的に関与したのだから、この現象は精神の堕落というよりも、一種の知的犯罪とよぶほうが適切である。これはいまでは二十世紀思想史研究の対象になるべきことであり、まだけっして過去のものになっていない。 注2 ついでにいえば、マルクスの初期草稿は一九二〇年代後半にランズフートとマイヤーによって発見され刊行される。かれらは刊行以前にハイデガーのゼミで発表し、それをマルクーゼも聞いていた。ハイデガーの指導の下でヘーゲルに関する学位論文を書いたマルクーゼは、この発見によって刺激を受けて初期マルクスに関する論文を書き上げる(『初期マルクス研究 「経済学・哲学草稿」における疎外論』一八三二年)。ルカーチが『歴史と階級意識』を一九二三年に公刊したとき、当然ながら初期マルクスの『経済学・哲学草稿』を知らない。にもかかわらずルカーチが初期マルクスと同一の論理を構築したことは、彼の格別の才能を示すものであり、高く評価されなくてはならない。こうして第二次世界大戦後のフランスで、初期マルクスとルカーチが復権することになった。 注3 共産党内部にはルフェーヴルだけでなく、多くの人々が経済決定論に疑問をもっていただろう。党内部にはサルトルに密かに同調する人も多かったはずである。それだけサルトルの思想的影響は大きかった。しかし他方、党中央のスターリン主義に抵抗する立場は、必ずしもルカーチ=サルトル型の主体論者ばかりではなかった。ここでは詳論できないが、たとえば数理哲学者であり論理学者であるジャン・トゥッサン・ドサンティのような人もいた。彼はかつてスターリン主義的政治のお先棒を担いだ古傷を隠さずに自己批判し、それと同時に共産党と手を切る。彼の立場はサルトル的実存主義とは異質であり、むしろマルクスの唯物論を肯定し、独自の科学認識論によって唯物論の現代的展開を目指していた(『沈黙の哲学』一九七五年)。ドサンティと似た理論的立場をとっていたアルチュセールは脱党せずに、党の内部から党のスターリン主義を批判し続けた。彼については次の項目で触れる。 注4 第三類型は構造論であるが、関係論といいかえることもできる。構造ではなく、「関係の第一性」を基礎論にして独自の哲学を打ち出し、その観点からマルクスを厳密に読み直したひとが、廣松渉である。彼はヘーゲルとマルクスに共通する「関係する行為」を人間のすべての行為にまで拡大し、緻密な分析を加えた。彼のテーゼによれば、社会関係のアンサンブルは「世界の共同主観的存在構造」である。彼は主著『存在と意味』(全二巻、岩波書店)のなかで、関係を四肢構造として定義し、この原初構造が人間の相互行為のあらゆる場面を例外なく貫徹することを「認識論的=存在論的」に叙述した。当然ながら、経済社会における人間の相互行為を描いた『資本論』もまた「関係の第一次性」または「四肢構造」から読み解かれた。廣松のマルクス解釈は、その議論の厳密さと徹底性において瞠目するに値する。ヘーゲルやマルクスが頻繁に使う表現法、すなわち「として妥当する (gelten als)」または「として−構造」を廣松ほど厳密に展開したものはいない。彼の理論は、関係的構造の極限である。彼のマルクス論は、アルチュセールの構造論的接近とは性格を異にするが、着眼の共通性によって第三類型に加えることができる。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 第一章[#「第一章」はゴシック体] 「ギリシア人」マルクス[#「「ギリシア人」マルクス」はゴシック体] プロメテウスは告白する——ありていにいえば私はすべての神々を憎む。 この告白は哲学学自身の告白であり、……哲学自身の宣言でる。 …………(マルクス『デモクリトスの自然哲学と[#「…………(マルクス『デモクリトスの自然哲学と」はゴシック体] [#地付き]エピクロスの自然哲学の差異』)[#「エピクロスの自然哲学の差異』)」はゴシック体] 人類がもっとも美しく花咲いた人類の歴史上の子供時代……永遠の魅力……ギリシア人。 [#地付き]…………(マルクス『経済学批判要綱』「序説」)[#「…………(マルクス『経済学批判要綱』「序説」)」はゴシック体] [#改ページ] 1 古代ギリシアへの憧憬[#「古代ギリシアへの憧憬」はゴシック体] †思想の故郷[#「†思想の故郷」はゴシック体]  歴史上のマルクスは、ドイツの思想的伝統のなかで薫陶されて育ったまぎれもないドイツ人である。彼の頭は、ライプニッツとカントからフィヒテ、シェリング、ヘーゲルへとつながるいかにもドイツくさい哲学の遺産でいっぱいである。マルクスの思想を正面から理解するためには、いうまでもなくドイツ思想史のなかに彼を位置づけなくてはならない。しかしここで検討しておきたいことは、マルクスはドイツ人だ、ドイツ的思想家だときめてかかるわけにはいかない要素もあるという単純な事実である。  一見ささやかな事実が一人の思想家の心の奥にある思想体質を、決定するとはいわないまでも、方向づけることはおおいにありうることだ。ここで注目したいことは、マルクスがドイツ的思想家であると同時に、古代ギリシアを精神的故郷としてもつ思想家であったという「小さい事実」である。その事実をさして「ギリシア人」マルクスとよぶ。  マルクスが十九世紀前半に学問的生涯をはじめたという事実は重要である。なぜなら、この時期よりさらに一世紀ほど前から、啓蒙主義のドイツの思想家たちは——すべてとはいえないとしても、かなり重要な人たちに見られたことだが——古代ギリシアに熱狂していたからである。マルクスもまた古代フィーバーを先輩たちと共有していた。彼は先輩思想家と同様に、つい最近のフランス革命に熱狂すると同時に、思いを古代ギリシアにもはせていたのである。ドイツのギリシア熱の雰囲気をもっともよく表明している文章を引用しておこう。 [#ここから2字下げ]  ギリシャという名を聞くと、ヨーロッパの教養人、とくに、わたしたちドイツ人は、故郷にかえったような気になります。……わたしたちは、もっと高度な、もっと自由な学問(哲学)、および、うつくしく自由な芸術とその好尚とそれへの愛が、ギリシャの生活に根ざし、そこから精神をくみとってきたことを知っている。あこがれをもつことがゆるされるのなら、かの国、かの状態こそ、あこがれの対象です。(中略)  が、ギリシャ人は生活そのものにおいて故郷にあっただけではない。さらにその精神においても故郷にやすらっていたので、物質的、市民的、法的、道徳的、政治的な生活において自分をゆがめることなく、記憶の女神ムネモシュネのごとき自由でうつくしい歴史性(自分たちの現実がそのまま記憶のうちにとどめられるという歴史性)をも保持していました。生活上も精神上も故郷のやすらぎのうちにあるというこの特質こそ、自由な思考の萌芽でもあり、哲学の成立する土壌でもあるのです。(中略)  精神の核心をなす自由が、風俗や法律や体制の基礎をなすギリシャにおいてこそ、自由な共同体が成立しうるし、成立しなければなりませんでした。 (ヘーゲル『哲学史講義』上巻、長谷川宏訳、河出書房新社、一三九−一四三ページ) [#ここで字下げ終わり] [#ここから2字下げ]  ギリシャにやってくると、ただちに故郷にいるような気分になる。……ギリシャに見られるのは、青年期の精神生活の新鮮にして明朗な情景です。 (ヘーゲル『歴史哲学講義』「第二部 ギリシャ世界」長谷川宏訳、岩波文庫、八ページ) [#ここで字下げ終わり]  古代ギリシア人の生活と情景に故郷を求めるという共通の雰囲気がマルクスにもあったと想定してよい。しかし教養人一般がひたっていた雰囲気をマルクスもまた共有していたというだけでは、マルクスを「ギリシア人」として積極的に定義するには弱いところがある。それでは、ギリシアにあこがれる感情以上の何ものかがマルクスにあったのだろうか。まずは外面的または間接的な材料を使って、マルクスのなかにあったギリシア主義的なものを拾いだしてみよう。 [#ここから2字下げ]  大人はもう一度子供になることなどできない。むしろ子供っぽくなるだけだ。だがそれにしても子供の素朴なさま[#「素朴なさま」はゴシック体]が大人を喜ばせることはないだろうか。大人が子供より高い段階に立ってもう一度自身で子供の真実[#「子供の真実」はゴシック体]を再生産することに励んではいけないのだろうか。子供の性質〔自然〕には、どの時代にもその時代に固有の特徴が自然の真実[#「自然の真実」はゴシック体]のかたちをとってよみがえりはしないだろうか。人類がもっとも美しく花咲いた人類の歴史上の子供時代が、二度と帰らぬ段階としてなぜ永遠の魅力[#「永遠の魅力」はゴシック体]を放ってはいけないのだろうか。わんばくな子供もいれば、ませた子供もいる。古代民族の多くはこのカテゴリーにふくまれる。普通の子供だったのがギリシア人だった[#「普通の子供だったのがギリシア人だった」はゴシック体]。ギリシア人の芸術がわれわれに魅力的[#「魅力的」はゴシック体]であることと、その芸術を育てた社会の段階が未発達な段階にあることとは、なんら矛盾するものではない。むしろその芸術の魅力は未発達な社会の段階の結果である。そしてそれは、ギリシア人の芸術がそのもとで成立し、そのもとでしか成立し得なかった未熟な社会的諸条件が二度と繰り返し得ないということ——むしろこのことと分かちがたく結びついているのである。 (『経済学批判要綱』「序説」、強調は引用者。「マルクス・コレクション」第㈽巻、筑摩書房所収) [#ここで字下げ終わり]  マルクスがヘーゲルと同様に、基本的にアリストテレスの血脈をひく思想家であり、終生アリストテレスを「偉大な探求者」(『資本論』第一章の言葉)として尊敬し続けたことは、彼の精神のギリシア的性格を示すひとつの指標である。また他方では、現実的世界に対する態度決定の仕方について、古典期のデモクリトスとヘレニズム時代のエピクロスから決定的な影響を受けたことも、もうひとつの指標である。  しかしそれに加えて、マルクスは古代ギリシア世界の政治的構成と芸術的達成に対して心情の奥底から深い憧憬を抱いていたことはまちがいない事実である。ギリシアの思想と芸術は彼にとって「永遠の魅力」であり、ヘーゲルの言葉でいえば、マルクスの精神的故郷[#「精神的故郷」はゴシック体]なのである。彼はたんにギリシアの哲学的思想全体を一般の知識人と同様に尊敬し、継承したばかりでなく、それ以上に自分を「ギリシア人」のように形成しようとしたのである。 2 コミューン(共同体)のギリシア的イメージ[#「コミューン(共同体)のギリシア的イメージ」はゴシック体] †共同体《コミューン》[#「†共同体《コミューン》」はゴシック体]  もしそうなら、マルクスの政治的共同体論は、彼のギリシア人的性格から受けとめることができるだろう。これまでマルクスの共同体論またはコミューン論は、社会革命によって創造される「いまだかつてなかった」新しい構想であるかのように解釈されてきたのだが、おそらくそうではない。  マルクスの歴史的精神から推測しても、マルクスがいわば無から創造されるような共同体を思いつくことはありえない。歴史的精神は、過去の遺産のもっとも本質的なものを継承する[#「継承する」はゴシック体]ことであり、「高次の段階」へと上昇させながら継承することを基本とする。  ましてマルクスのなかにほとんど第二の天性として刷り込まれたギリシア的精神から見るならば、来るべき共同体はその本性においてギリシア的になるべきであろう。マルクスは未来の政治的共同体《コミューン》について次のように言っている。  第一の発言。各人の自由な発展[#「各人の自由な発展」はゴシック体]が、すべての人々の自由な発展にとっての条件である(『コミュニスト宣言』第二章「マルクス・コレクション」第㈼巻所収)。  第二の発言。共同の生産手段をもって労働し、多くの個人的な労働力を自覚的にひとつの社会的労働力として支出する自由人たちの団体[#「自由人たちの団体」はゴシック体](『資本論』第一巻第一章第四節「マルクス・コレクション」第㈿巻所収)。  第三の発言。自由の国[#「自由の国」はゴシック体]は、窮乏や外的な合目的性に迫られて労働するということがなくなったときに、はじめて始まるのである。つまり、それは当然のこととして、本来の物質的生産の領域のかなたにある。必然性の国のかなた[#「必然性の国のかなた」はゴシック体]で、自己目的として認められる人間の力の発展が、真の自由の国[#「真の自由の国」はゴシック体]が始まる(『資本論』第三巻第四八章)。  この三つの発言を最初から最後まで読み進むと、マルクスのギリシア的精神がはっきりと現れることがよくわかる。だが少し解説が必要であろう。マルクスの言う「自由」はけっして近代の個人主義的(あるいはブルジョワ市民主義的)自由ではない。むしろそれとは正反対である。各人の自由は他のすべての人々の自由の条件となるような共同体のなかではじめてその意味をもつことができる。共同体のなかの個人の自由が開花するためには、共同体が自由な行為によって構成されていなくてはならない。  ではこの自由な行為とは何なのか。これが問われる。その答えは、すでに第三の発言によって与えられている。真実の自由とは、必然性の領域または物質的労働の「かなた」にひとが身をおくことである。物質的活動としての労働生活は、自然必然性によって「拘束される」という意味で「必然性の領域」のなかにあり、自由はその拘束的にして必然的な労働生活からの「解放」を意味する。この論点はマルクス理解にとって決定的に重要である。 †古代的自由の理念[#「†古代的自由の理念」はゴシック体]  近代的[#「近代的」はゴシック体]自由は、経済的営業の自由すなわちレッセフェールから生まれた。近代の市民的(ブルジョワ的)自由は、労働する[#「労働する」はゴシック体]自由である。近代人は自然必然性の労働のなかに自由を[#「労働のなかに自由を」はゴシック体]みようとしてきた。近代の法的理念はこの労働する自由の上にそびえたつ。しかしこの思想は古代ギリシアの精神と制度の対極[#「対極」はゴシック体]にたつ。両者はまったく両立しない[#「両者はまったく両立しない」はゴシック体]、水と油のように折り合えない思想である。  古代的精神によれば、自由とは自然的(生物的)必要・必然・拘束を意味する身体的(「メカネー」、「テクネー」、「ポイエーシス」)労苦から解放されて[#「労苦から解放されて」はゴシック体]、自由な時間のなかで「共同の事柄」(polis という政治共同体、res pubilica)について考え、討議し、管理、運営する行為であり、その行為はプラークシス (praxis) とよばれた。  プラークシスが自由人の自由な行為であり、それは定義によって共同体的行為であり、このプラークシスが自由な共同体を「構成する」のである。『コミュニスト宣言』(旧訳では『共産党宣言』)以前に、マルクスはエンゲルスとともに書いた『ドイツ・イデオロギー』(草稿)のなかで、未来の[#「未来の」はゴシック体]共同体における「分業的労働の廃棄[#「労働の廃棄」はゴシック体]」を語っていた。いやそれどころか、かれらは、労働一般をすら廃棄し、労働からの解放[#「労働からの解放」はゴシック体]こそが人類の解放であると宣言していた。  たしかに人類は生きていくためには「物質的生活の生産と再生産」を不可欠とするのだが、それはもはや近代的な意味での労働ですらなく、フーリエと同様に、人間の自由な活動一般へと転成し、個別の労働にみえる仕事をしながらも、分業的専門人に固定しないで、自由にどの活動をもこなすようになる。それはもはや労働でない労働[#「労働でない労働」はゴシック体]、フーリエ風にいえば「楽しい労働」であり、『グルントリッセ(経済学批判要綱)』の言葉でいえば、ほとんど「遊戯」と違わないほど自由な行為になるというのだ。まさにここにギリシア的精神が乱舞している。マルクスのコミューン[#「コミューン」はゴシック体]像はその体質的構成からしてきわめて古代ギリシア的共同体であるといわなくてはならない。  重ねて強調しておこう。マルクスの自由は、プラトンやアリストテレスなどの古代知識人と同様に、自由の定義を労働からの解放と自由な時間[#「労働からの解放と自由な時間」はゴシック体]のなかに見ている。したがって「自由な」共同体は、労働から解放された共同体《コミューン》である。マルクスが古代ギリシアの思想に加えた変更があるとするなら、それは物質的活動をも自由な活動へと変貌させる[#「物質的活動をも自由な活動へと変貌させる」はゴシック体]共同体でなくてはならないという点にある。  だからマルクスが『資本論』全体を通じて繰り返し「労働時間の短縮」を主張したのは、労働という必然的活動を極小にすることで、労働がもはや労苦的行為ではなく、生理の要求する健康のための活動[#「健康のための活動」はゴシック体]になりうるからである(少し体を動かさないと気持ちが悪いというまでになると、物をつくる技術的行為はほとんどスポーツのごときものになる)。してみると、二十世紀に世界に流布した「労働共同体」という名の「共産主義」(この翻訳語を本書は使用しない)がいかにマルクスのギリシア精神からかけ離れているかがわかる。  マルクスのギリシア精神からいえば、万人が「必然的・拘束的」労働を実行するという考えはまさに近代ブルジョワ的イデオロギーであり、ギリシア人がかつていったように「奴隷的労働の共同体」になってしまう。二十世紀の「共産主義」思想はマルクスに関する壮大な誤解に基づいていた。労働共同体的共産主義は万人を奴隷にする共同体である(ソ連の収容所社会にそれは実現してしまった)。ロシア人や東アジア人はついにマルクスのギリシア精神を共有することができなかったのである(この論点に関して、拙著『仕事』弘文堂を参照)。 3 商業と貨幣に対するギリシア的批判[#「商業と貨幣に対するギリシア的批判」はゴシック体] †貨幣への懐疑[#「†貨幣への懐疑」はゴシック体]  マルクスは貨幣と商業に対して理論的批判を生涯にわたって続けた。『資本論』はたんなる貨幣・商業批判ではなく、初期から継続する経済学批判の学問的極致であったとはいえ、その理論的批判の背後には古代ギリシアの倫理(貨幣経済に対する拒否)が控えていることをいまでは見逃すことはできない。マルクスは、シェイクスピアの「古代的」性格をもつ貨幣批判に共感しながら、初期と後期の著作のなかで二度にわたってシェイクスピアの同じ文章を引用している(一八四四年の『経済学・哲学草稿』と一八六七年の『資本論』のなかで)。その文章は以下のとおりである。 [#ここから2字下げ] 金か? 黄色い、きらきらした、貴重な金じゃないか?……だが、こいつも、これくらいあれば、黒を白に、醜を美に、邪を正に、賤を貴に、老を若に、怯を勇に変えるだろう。おや、これはどうだ! なぜこんなものを? 神々よ、どうせよとてこんなものを? いやはや、これだけあれば、あなたがたのおそばから、神官や召使どもを引っぱって行ってしまいますぞ。まだ大丈夫だと言える病人の頭の下からだって、その枕を引っこぬいてしまいますぞ。この黄色いやつは、宗教の面でも人々を結合させたり離散させたりするだろうし、のろわれたやつらを祝福し、びゃくらい病みをあがめさせ、泥棒を高官に登用して、やつらに元老なみの爵位や権威や名誉を与えるだろう。|古後家≪ふるごけ≫を再婚させるのもこいつだ。……さあ、ばち当たりな土め、人間どもを誘惑して、諸国の暴民どものあいだに争いをおこす|売女≪ばいた≫め…… (シェイクスピア『アセンズのタイモン』第四幕第三場、八木毅訳『シェイクスピア全集』第八巻、筑摩書房、一八三ページ) [#ここで字下げ終わり] †世界の秩序を転倒させる貨幣[#「†世界の秩序を転倒させる貨幣」はゴシック体]  マルクスは、「シェイクスピアは貨幣の本質をみごとにとらえている」と賞賛しつつ、貨幣の本質をふたつの特性にまとめている。 [#ここから1字下げ] 1 貨幣は目にみえる神であり、すべての人間的な特性や自然的特性を反対のものに変えてしまう。それは事物の全面的な倒錯[#「倒錯」はゴシック体]であり転倒[#「転倒」はゴシック体]である。 2 貨幣は「普遍的」な娼婦であり、人間たちや諸民族の間の取りもち役である(『経済学・哲学草稿』第三草稿「貨幣」)。 [#ここで字下げ終わり]  これはシェイクスピアの文章に即したまとめ方であるから、いささか情緒的な表現になっている。貨幣とは物の本来の秩序を覆し「倒錯」させるという断定と、貨幣は万人に身をまかせる娼婦だという審判は、理論的判断である前に、ひとつの倫理的な態度決定である。マルクスの言葉を少し変更するなら、それらの文章はそのまま古代ギリシア人、たとえばプラトンやアリストテレスの言葉になるだろう。貨幣は、永遠的コスモスの秩序を攪乱する異常なものであり、人格はもとより知識や知恵という価格にのらないものを価格つきのもの、つまり売り物に変えてしまう、という批判は文字通り古代ギリシア的であり、いやむしろもっと古くからある贈与心性[#「贈与心性」はゴシック体]から発するものだといえるし、事実そうである。  古代ギリシアでは、知識や教育は貨幣換算できるのかそうでないのかという論点が、ソクラテス学派からのソフィスト批判として提出された。ふたつの文章を引用しておこう。ふたつともソフィストと貨幣の緊密な関係を問題とする。 †貨幣へのギリシア的嫌悪[#「†貨幣へのギリシア的嫌悪」はゴシック体]  まずはプラトンから。 [#ここから2字下げ]  ソクラテス[#「ソクラテス」はゴシック体] ……例のレオンティノイのソフィスト、ゴルギアスは、レオンティノイの人たちのうちで国家公共のこと[#「国家公共のこと」はゴシック体]を行なう力量にかけては彼にまさる人はないというわけで、彼の祖国から国家使節[#「国家使節」はゴシック体]としてここアテナイに派遣されてきました。そして民会できわめてすばらしい演説をしたとの評判ですし、また個人的にも[#「個人的にも」はゴシック体]その弁論ぶりを披露し、青年たちと接することによって、多額の金銭[#「多額の金銭」はゴシック体]をこの国からかせぎ、もうけて行きました。  さらにわれわれとはなじみの深いあのプロディコスですが、ここには公用で[#「公用で」はゴシック体]他の機会にもたびたび出向いてきましたが、最後にごく最近ケオスから公用で出向いてきた際、政務審議会で演説を行なって大好評を博しましたし、また個人的にも[#「個人的にも」はゴシック体]その弁論ぶりを披露し、青年たちと接して、驚くばかりの金銭[#「金銭」はゴシック体]をもうけました。 (プラトン『ヒッピアス』282−B「プラトン全集」10、北嶋美雪訳、岩波書店、強調は引用者) [#ここで字下げ終わり]  引用文の強調部分に注目してみると、この文章は三点についてソフィストを非難している。第一に、公共のことと私的なことを混同している、「事物の自然な秩序」を攪乱しているという告発である。第二に、青年と接触することは教育であり、その教育や知識または知恵の伝授を金銭との交換物にしているという非難である。ソフィストによって知的自己形成、あるいは師匠と弟子との人格的関係[#「人格的関係」はゴシック体]が金銭化した。第三に、教育や知識だけでなく、公共の事物や芸術的なことも含めて、人間の精神に関わるすべてのことを市場での売り物、つまり商品にしてしまうという論難である。  プラトンは、ここだけでなく、たとえば『国家』や『法律』などでも繰り返しソフィストを貨幣と商業に結びつけて非難しつづけた。この執拗さを見ればわかるように、この批判は、個人的なレベルでの道徳態度の堕落を告発するといったレベルのことではなくて、社会体制の理想をめぐる思想闘争の様相をおびている。じっさい、前五世紀のアテナイ社会は転換期にあり、古来の伝統的な贈与体制[#「贈与体制」はゴシック体]を守るのか、貨幣経済になだれこむのかの境目にあった。ソクラテス派とソフィストとの論戦は、古代社会の危機を反映している。  プラトンのソフィスト批判を、アリストテレスもまた共有する。彼はごくあっさりと次のように述べる。 [#ここから2字下げ] 詭弁術とは、一見、智のように見えるがそうではないものであり、また、詭弁家とは、智の如くに見えるが実際にはそうではないものによって、金銭を利得する者[#「金銭を利得する者」はゴシック体]であるからである。 (アリストテレス『詭弁論駁論』165−a20「アリストテレス全集」2、宮内璋訳、岩波書店、強調は引用者) [#ここで字下げ終わり]  プラトンやアリストテレスにとって、当時のポリス共同体の安定的な維持は困難に見えたであろう。それだけに過去の伝統的な体制(私の用語でいえば、敬意と挑戦の象徴的応酬[#「敬意と挑戦の象徴的応酬」はゴシック体]を基礎とする贈与体制)はすでに理想化されはじめていた。いままさに過ぎ去ろうとしている過去の視点から、「モダン」とすらいえる経済合理主義の実践者であるソフィストへの苛烈な批判が飛び出してきたのである。  われわれから見ると、古代ギリシアの贈与体制はけっして崩壊したのではなく、わずかに動揺したにすぎないが(贈与体制の崩壊は近代の事件である)、それでも古代知識人にとっては異常な出来事[#「異常な出来事」はゴシック体]に感じられた。なぜなら、分裂なき共同体[#「分裂なき共同体」はゴシック体]のなかに貨幣と商業は亀裂を持ち込むからである。少なくともかれらにはそう感じられた。この感じ方は、裁判におけるソクラテスの弁明のなかにもはっきりと姿をみせる。 [#ここから2字下げ] わたしは、すでに多年にわたって、自分自身のことは、いっさいかえりみることをせず[#「自分自身のことは、いっさいかえりみることをせず」はゴシック体]、自分の家のことも、そのままかまわずにおいて、いつも諸君のことをしていたということ、それも私交のかたちで、あたかも父と兄のように、一人一人に接触して[#「父と兄のように、一人一人に接触して」はゴシック体]、徳に留意せよと説いてきたということは、ただの人間的な行為とは、似ていないからです。それに、もしもしかしながら、こういうことをして、そこから何か得をしていたとか、報酬をもらって、こういう説教をしていたとかいうのならば、それは何とか説明のつけられることでしょう。……さすがにこのことだけは、いくら恥知らずなことをするにしても、証人をあげて、訴えることはできなかったのです。つまりわたしが、いつか誰かに対して、報酬を払わせたとか、要求したとかいうことをですね。それもそのはず、わたしがいま言っていることが、ほんとうだということについては、わたしは充分な証拠を出せるからです。つまりそれは、わたしの貧乏[#「貧乏」はゴシック体]です。 (プラトン『ソクラテスの弁明』31B−C「プラトン全集」1、田中美知太郎訳、強調は引用者) [#ここで字下げ終わり] †贈与心性と倫理[#「†贈与心性と倫理」はゴシック体]  ここには前に指摘したソフィストの三つの要素と正反対のことが述べられている。第一に、個人ソクラテスの行為は、公的な行為であり、個人の行為はそのまま[#「そのまま」はゴシック体]分裂なき共同体の行為である。第二に、知的な行為と教育は人格的な[#「人格的な」はゴシック体]接触であり、敬意と承認の行為である。第三に、徳の教育を含めて公的で共同体的な行為はいっさいの報酬を拒否する[#「報酬を拒否する」はゴシック体]。教師は貧乏でなくてはならない。  ソクラテス学派とソフィストとの論戦は、講義に対して報酬を支払わせるのかそうでないか、という一見どうでもいいことが論争されているかにみえるが、そうではない。このなかに共同体の今後の運命がかかっていたのである。たとえば、古代のアテナイには多くの私塾があり、ソフィストもプラトンも私塾をもっていた。そこに弟子入りしたものは、貨幣を提供する。問題はこの貨幣をどう評価するのかが問われていた。ソフィストは、この貨幣を講義に対する支払い価格 (prix, price) とみた。ソクラテス学派は、それを「謝礼」(honoraire) とみた。どう違うのだろうか。  ソフィストは市場取引として講義や教育をとらえる。ソクラテス学派は、講義や教育を「人格的接触」とみなし、その関係は敬意と承認の関係であり、弟子と教師の間は尊敬と感謝の上に成り立っているとみなす。だから、外見的には貨幣であっても、ソクラテス学派にとって、それは「感謝のしるし」以外のものではない。ソクラテスの行為のなかに、分裂なき共同体の本質が凝縮して表現されている。貨幣と商業はこの人間の共同的本質と共同の徳を根本から覆すおそれがあった。この感じ方は、まさにマルクスのシェイクスピア論の感じ方に等しい。 †貨幣批判のソクラテス的伝統とマルクス[#「†貨幣批判のソクラテス的伝統とマルクス」はゴシック体]  マルクスは、いわばソクラテス=プラトン風の|口吻≪こうふん≫をもって次のように述べる。 [#ここから2字下げ]  こうしてまた貨幣は、個人にたいしても、みずからを自立した存在[#「存在」はゴシック体]だと主張する社会的紐帯などにたいしても、こうした転倒させる[#「転倒させる」はゴシック体]力としてあらわれてくる。それは誠実を不誠実に、愛を憎しみに、憎しみを愛に、徳を悪徳に、悪徳を徳に、奴隷を主人に、主人を奴隷に、愚鈍を理知に、理知を愚鈍に変える。  価値の現実存在する概念であり活動する概念である貨幣は、あらゆる事物を混同し取り違えるのであるから、あらゆる事物の全般的な混同[#「混同」はゴシック体]と取り違え[#「取り違え」はゴシック体]であり、したがって転倒した世界であり、自然と人間のあらゆる性質の混同と取り違えである。(中略)  人間[#「人間」はゴシック体]であるかぎりでの人間[#「人間」はゴシック体]と、人間的な関係であるかぎりでの人間の世界にたいする関係とを前提すれば、君がたとえば愛を交換できるのは愛とだけであり、信頼を交換できるのは信頼とだけである。芸術を楽しみたいなら、芸術的教養をつんだ人間にならなければならない。他人に影響をおよぼしたいなら、実際に励まし援助することで彼らに働きかける人間にならなければならない。人間と自然にたいする君のあらゆる態度は、君の現実的で個性的な生のある特定の表出[#「現実的で個性的な生のある特定の表出」はゴシック体]、しかも君の意志の対象にふさわしい表出[#「表出」はゴシック体]でなければならない。 (マルクス『経済学・哲学草稿』第三草稿「マルクス・コレクション」第㈵巻、強調は原文通り) [#ここで字下げ終わり]  後期のマルクスは、初期の「ギリシア的」精神をそっくり再現しつつ、次のように要約している。 [#ここから2字下げ] 商品の質的区別のいっさいが貨幣のなかで消え去るのと同時に、貨幣は貨幣で過激な水平主義者のごとく、いっさいの区別を解消させる。しかし貨幣はそれ自身が商品であり、誰の所有にもなりうる外面的な物である。このように社会的な威力は私的人格の私的威力になる。だから古代の社会は貨幣を、経済と人倫の秩序を解体するビタ銭[#「解体するビタ銭」はゴシック体]として告発したのである。 [#地付き](マルクス『資本論』第一巻第三章、強調は原文通り) [#ここで字下げ終わり]  以上がマルクスのなかにあるギリシア的精神の姿である。彼の政治的共同体論はこの観点から理解しなくてはならない。とくに分裂なき人類、疎外されざる人類、個人と共同体との透明な和合という思想は、たしかにマルクス自身の思想ではあるが、彼が創造したというよりも、古代ギリシアの遺産であったのである。いうまでもなくマルクスは、古代をあるがままに現代に再現することができると思いこむほど夢想家ではない。  マルクスはソクラテス学派になかった新しい要素を付け加えたけれども(後で論じるように)、彼の思想の土台にはあきらかに「ギリシア人」的なものがあったことを否定することはできない。この特質は、彼のコミューン主義を論じるときにくっきりと現れるだろう。しかしその前に、もうひとつのギリシア的要素を論じておかなくてはならない。それは彼の学位論文のなかに見られる。 4 古代無神論とマルクス[#「 古代無神論とマルクス」はゴシック体]  古代のギリシアに精神の故郷を求めるマルクスは、当時知られたかぎりでの事実としての古代ではなくて、そのなかに含まれていた可能性としての[#「可能性としての」はゴシック体]古代ギリシアへの憧憬をもっていたことはすでに述べた通りである。前項では、マルクスにおける「分裂なき共同体」としての政治的共同体の原風景を指摘した。ここでは、別の要素、つまり思想の原風景[#「思想の原風景」はゴシック体]を論じておきたい。 †ヘレニズム思想の位置づけ[#「†ヘレニズム思想の位置づけ」はゴシック体]  マルクスは学者生活を古代ギリシア哲学史研究者として始めた。彼が最初に取り組んだのは、後に学位論文となる『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異』(一八四〇年から四一年までに執筆)である(「マルクス・コレクション」第I巻所収)。彼の研究ノートから推察すると、彼はヘレニズム全体を研究する構想をもっていたようだが、結局、主題をデモクリトスとエピクロスに限定して学位論文としたらしい。  本来の構想はおそらく、ヘーゲルの哲学史では充分に吟味されていない細部を分析して、ヘレニズム思想がギリシア思想史においてもつ意義を再評価することであった。この点はマルクス自身が語っていることである。マルクスが念頭においているヘレニズム思想の諸思想とは、エピクロス派、ストア派、懐疑派の三つの学派である。  マルクスは、これら三つの学派の内容はギリシア精神に対して「高い意義」をもっているとみなし、ヘーゲルとは違う位置づけを行おうとするのである[注1]。  このときマルクスは、ヘーゲルの『哲学史』だけでなく、『精神現象学』の第四章における「ストア派、懐疑派、不幸な意識」をも念頭においていたと思われる。哲学の平面では、自己意識とよばれる事態である。自己意識の出現は、同時にそれを含む「世界」という出来事(初めと終わり、端緒と目的をもつ秩序づけられた世界)の出現でもある。  実際に『学位論文』では、エピクロスの自然学と自己意識が関連づけて論じられる。マルクスの想定では、エピクロスのいうクリナーメン(物質の直線運動からの偏倚)は精神または自己意識の出現の自然学的記述として解釈される。  この論点についてここで深入りする必要はないが、ヘーゲルとの関係についてひとこと加えておく。マルクスは、学位論文を書いている段階では、全面的にヘーゲル哲学の枠内で考えている。当時の思想的雰囲気では、ヘーゲルの自己意識の概念がヘーゲル左派のなかで流行していたせいもあるが、それをマルクスも共有しつつ、少しだけヘーゲルからずれた方向から自己意識の出現を解明しようとした。ヘーゲルの場合、自己意識の出現の極致はキリスト教(「不幸な意識」)のなかに求められるが、マルクスにあってはエピクロスの自然学のなかに求められる。 †古代無神論[#「†古代無神論」はゴシック体]  マルクスによるヘレニズム評価が現代の研究からみて客観性があるかどうかは、いま問題ではない。エピクロス自然学がマルクスにとってどのような意味をもっていたのかという、マルクスにとっての主観的な重要性がここでは考慮される。それはどういうことであろうか。それは、学位論文の序文でハンマーの打撃力のごとく強い自覚をもって宣言される無神論[#「無神論」はゴシック体]の立場である。マルクスはエピクロスの思想と神話的なプロメテウスを結びつけて、哲学の新しい課題は無神論にあるという。 [#ここから2字下げ]  プロメテウスの告白   端的にいえば、すべての神々を私は憎む。 この告白は哲学自身の告白であり、人間の自己意識を最高の神性とは認めないすべての天上および地上の神々に対する、哲学自身の宣言である。 [#地付き](学位論文の序文)[注2] [#ここで字下げ終わり]  学位論文の段階のマルクスは、デモクリトスやエピクロスを論じるからといって、唯物論の立場にたっていたのではない。マルクスが義父への献辞のなかでイデアリスムス(理想主義としての観念論)を強調し、ヘーゲルの|衣鉢≪いはつ≫を継ぐ自己意識論を繰り返し語ることから見てもわかるとおり、すでにラディカルな自己意識論者であったとはいえ、究極のところヘーゲルの絶対精神の哲学の枠内で動いている(完全に自己を認識した自己意識が絶対精神であるから)。「自己意識と並ぶものはだれもいまい」とマルクスは高揚した気分で書いている。  そうでありながら、外見では奇妙にみえることだが、マルクスは無神論を宣言している。ヘーゲル的自己意識論を極限までつきつめるなら、無神論に到達するからである。あきらかにマルクスは、ふつうのヘーゲル理解とは違って、ヘーゲルを徹底した自己意識の哲学とみなし、それは無神論の哲学以外のなにものでもないと見ていた。これはヘーゲル理解にとって画期的な洞察だといわなくてはならない。  誰もが——ヘーゲルを信奉する忠実な穏健派だけでなく、ヘーゲル左派、とくにその巨頭であるフォイアーバッハですらもが——ヘーゲルを思弁的観念論者と見ていた当時において、マルクスのヘーゲル理解はおそらく異端的であっただろうが、しかしまさにそこに、学位論文時代のマルクスの卓見があるというべきである。  マルクスのプロメテウス主義は、エピクロスの無神論と結合するとき、いっさいの超越存在[#「超越存在」はゴシック体](物質や自然の超越的存在も、観念的絶対者の超越存在も、そして宗教・神学的な超越神も含めてすべての超越的存在者)を現世から追放し消去する無神論[#「を現世から追放し消去する無神論」はゴシック体]へと発展するだろう。マルクスは古代ギリシアの無神論から触発されて、その立場を現代へと蘇生させるだろう。無神論はマルクスの生涯を貫く思想的立場となる。  学位論文以後のマルクスは、フォイアーバッハの「人間学的唯物論」の影響を受けて、無神論と唯物論を結びつけることになるが、その結合の主導権は無神論にあるのであって、唯物論にあるのではない。マルクスにあっては、いわゆる唯物論は、伝統的観念論と闘うときの論争的[#「論争的」はゴシック体]アクセントであり、学的意味での思想的立場とすることはできない。  唯物論に「弁証法的」という形容詞をつけたところで事態に変わりはない。むしろ思想傾向としての唯物論は、物質なるもの(自然一般)を超越存在にすることがあるのだから、しばしば論敵の観念論と同じ土俵の上[#「同じ土俵の上」はゴシック体]にある。これは二十世紀の「弁証法的唯物論」という化け物のなかにその悪影響が出てしまった。したがって、マルクスの基本的立場があるとすれば、それは学位論文以来の古代ギリシア的無神論であるといわなくてはならない。  有限者(現実に存在する世界と人間)を語る哲学は本質において無神論的である。その意味でマルクスは、紛れもなくギリシア思想以来の正統的哲学者である。そしてこのマルクスの思想形成は古代ギリシアの遺産に基づく。マルクスは自己の思想的出生証明[#「思想的出生証明」はゴシック体]を自ら学位論文によっておこなったのである。 [#ここから2字下げ] 注1 マルクスの学位論文は、十九世紀の前半にはヘレニズム研究の嚆矢として西欧の学界では認められている。いまでこそヘレニズムの哲学史的研究は汗牛充棟の盛況を呈しているのみならず、最近では倫理を主題とするミシェル・フーコーの研究(『性の歴史』第二巻と第三巻、および講義録『主体の解釈学』)が一層の深まりをみせている状況から見れば隔世の感がある。マルクスが開拓的仕事をしているのだと自負しているのは、けっして自慢話ではない。古代以来、エピクロスはマイナーな哲学者であり、快楽主義者として軽蔑されていたのだが、その偏見とマルクスは闘っている。エピクロスを正当に評価することが学位論文の課題であったが、それはいまもなお考慮に値する仕事である。事実、必ずしも多くはないが、マルクスの学位論文の研究が出続けているし、ヘレニズム研究者は必ずマルクスのこの論文を参照している(たとえば、フランスのミシェル・セールなど)。 注2 私は、この時期のマルクスの思想的立場を唯物論的とは見ない。その理由は本文で述べた通りである。マルクスは古代の無神論(直接にはエピクロスの無神論)を採用したが、無神論者であるからといって唯物論者であるとはかぎらないからである。これに対して、晩年のアルチュセールは、学位論文のマルクスの立場を唯物論として解釈している。彼は、その「科学認識論的」マルクス解釈を自己批判した後で、マルクスの学位論文に戻り、その思想を「超越論的偶然性の唯物論」として定義した。それはマルクスの哲学ではないが、マルクスの科学的精神の「ための哲学」であるという。興味深い解釈だが、いまはとらない。アルチュセール『哲学について』(筑摩書房)四三ページを参照。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 第二章[#「第二章」はゴシック体] 分裂なき共同体[#「分裂なき共同体」はゴシック体] 肝心なのは懺悔であって、それ以外のなにものでもない。人類がその罪をゆるされるためには、ただその罪をあるがままに告白するだけでよい。 [#地付き]…………(マルクスからルーゲへの手紙、一八四三年)[#「…………(マルクスからルーゲへの手紙、一八四三年)」はゴシック体] 社会は人間と自然との完成された本質的統一であり、自然の真の復活であり、人間の貫徹された自然主義であり、自然の貫徹された人間主義である。 [#地付き]…………(マルクス『経済学・哲学草稿』)[#「…………(マルクス『経済学・哲学草稿』)」はゴシック体] [#改ページ] 1 政治への関心[#「政治への関心」はゴシック体] †政治哲学への出発[#「†政治哲学への出発」はゴシック体]  マルクスは古代ギリシアのポリス共同体をひそかなモデルとしながら、それを現代に生かす仕方を模索しはじめる。古代ギリシア社会は奴隷制の社会であり、しかも奴隷たちの隷属的労働をいわば「搾取」しながら維持されていた少数の自由人の共同体であったのだから、それに対しては思想的に距離をとらなくてはならない。古代ギリシアが模範となる要素は、たとえ制限された範囲であれ自由人[#「自由人」はゴシック体]の共同体が実現していたという事実である。  現代では奴隷は解放されなくてはならない。奴隷制は廃止されなくてはならない。万人の自由が実現されなくてはならない。では、万人の自由を実現する政治的共同体とは、どういうものであるのか。  マルクスは、一八四三年段階では、まだヘーゲルに依存して考えていた。彼は『ヘーゲル国法論批判』という研究ノートを書き進め、ゆくゆくはヘーゲル法哲学批判の体系的書物を計画していたのだから、ヘーゲルに対して一定の距離をとる努力をしていたのだが、それでもなお彼の思考の枠組は圧倒的にヘーゲル的であった。  そのことは、彼が現代の俗物世界を「政治的動物界」とよぶときにも明らかである。この言葉はヘーゲルの『精神現象学』(「理性」の項)にある「精神的動物界」を言い換えたものだ。ヘーゲルにとってもマルクスにとっても、人間は精神的存在であるべきであって、けっして動物的であってはならない[#「動物的であってはならない」はゴシック体]。この思想的傾向の上にマルクスは自分の政治的理想を告白する。 [#ここから2字下げ]  人間は精神的存在であるべきですし、自由人は共和主義者であるべきです。……自由という人間の自己感情は、まずこうした人間たちの胸のうちにこそふたたび呼び覚まされるべきでしょう。……この感情だけが、この社会から人間の最高の目的に奉仕する共同体、つまりは民主主義的国家をつくりだせるのです。 (マルクスからルーゲへの手紙、一八四三年五月、「マルクス・コレクション」第�巻所収) [#ここで字下げ終わり]  しかし、マルクスの政治哲学は、この時期には日々変動しつつあった。この年(四三年)から、『ドイツ・イデオロギー』の原稿が書かれる四六年ごろまでに、マルクスは、純粋哲学の面ではきわめてヘーゲル的であったが、少なくとも政治と経済(国家と市民社会)に関しては激烈なまでの思想的転変を経験し、ヘーゲルの政治思想からの離脱が試みられていく。だから「ルーゲへの手紙」が書かれた四三年春からその年の秋までには、マルクスの思索はかなり遠くまで進んでいる。  その明白な証拠のひとつは、『独仏年誌』に発表された論文「ユダヤ人問題によせて」(四三年秋に執筆、発表は四四年)である。この論文は神学者バウアーのユダヤ人論を詳細に批判するものだが、その議論の筋道はここでは脇において、この時期のマルクスの共同体論の骨子だけを取り出すことにしたい(以下の引用文は「ユダヤ人問題によせて」の第一論文からのものである。「マルクス・コレクション」第㈵巻所収を参照)。 2 共同体の分裂[#「共同体の分裂」はゴシック体] †公民と私人[#「†公民と私人」はゴシック体]  マルクスは、前記の『ヘーゲル国法論批判(草稿)』のなかで、ヘーゲルの国家論から引用を重ねて逐一批判的コメントをつける作業をしていた。マルクスはヘーゲルの国家論のどこに不満をもっていたのか。おそらく次の事情であろう。  すなわち、ヘーゲルの法哲学(政治哲学)は自由の全面的実現をめざしていたが、それは国家のなかでのみ、つまり個人が国家の公民であるかぎりでのみ自由を実現できると考えていた。ヘーゲルにとって国家は自由と不可分であった。  ところがマルクスは、フランス革命によって登場した国家(政治革命によって出現した政治国家)による自由は本来の自由ではなくて、抽象的で形式的な自由でしかないとみなす。本来の自由[#「本来の自由」はゴシック体]とは、分裂なき共同体[#「分裂なき共同体」はゴシック体]のなかでのみ可能であり、それはいっさいの階級と身分と既成宗教からの人類の解放と同義の自由[#「解放と同義の自由」はゴシック体]である、というのがマルクスの自由論である。では、なぜヘーゲル的国家では自由が実現しないのだろうか。国家とはそもそもどういう存在なのだろうか。  マルクスによれば、国家とは中間項[#「中間項」はゴシック体]であり、媒体である。媒体や中間項が存在することは、人間がまだ類的(普遍的)存在ではなく、特殊なものへと分解している状態を逆に表示している。媒介項の問題は、マルクスにとって二重の側面をもっている。ひとつは、フランス革命が政治革命によって「政治的」国家を創造したのは偉大な功績であり、人類が真実の自由にいたるために通過すべきひとつの重要な段階である、という歴史的評価である。もうひとつは、この政治国家の媒介性(中間項的性格)による限界である。二つの論点についてマルクスの言い分を聞いておこう。  歴史的評価。「人間は……国家という中間項[#「国家という中間項」はゴシック体]をとおして、つまり政治的に[#「政治的に」はゴシック体]、自己をその障害から自由にする。……人間は、自己を政治的に[#「政治的に」はゴシック体]自由にすることによって、回り道[#「回り道」はゴシック体]をして、すなわちたとえ避けられない中間項[#「避けられない中間項」はゴシック体]であろうが、ある中間項をとおして、自己を自由にする。」(強調は原文通り、以下同様)  限界の批判。「人間は国家の媒介によって自分を無神論者として宣言する場合でさえ、すなわち国家を無神論者と宣言する場合でさえ、依然として宗教にとらわれている。なぜなら、人間は回り道によってだけ、ある中間項をとおしてだけ、自分自身を承認しているにすぎないからである。」  この文章の意味は、こうであろう。宗教(ここではキリスト教)がイエス・キリストという回り道によって人間を承認するように、国家は人間の相互承認をとりもつ媒介者であり、その構造によって国家は宗教と同質的である。国家は地上における天国の役割をする(後の言葉——『ドイツ・イデオロギー』の言葉——でいえば「幻想の共同体」)。しかしそうなると、人類は分裂した共同体をもつことになる。どういうことなのだろうか。  共同体の分裂。「完成された政治的国家は、その本質にしたがえば、人間の類としての共同生活[#「類としての共同生活」はゴシック体] (Gattungsleben) であって、人間の物質的な生活とは対立[#「対立」はゴシック体]する。この利己的な生活のあらゆる前提は、国家という領域の外部の市民社会の[#「外部の市民社会の」はゴシック体]中に、それも市民社会の特性として残存している。政治的国家が、真に成熟をとげたところでは、人間はたんに思想や意識においてだけでなく、現実[#「現実」はゴシック体]において、生活[#「生活」はゴシック体]において、いわば天上の生活と地上の生活という二重の生活を営む。天上の生活とは、すなわち政治的共同存在[#「政治的共同存在」はゴシック体]における生活であり、そこでは人間は自らも共同存在[#「共同存在」はゴシック体]として通用している。それに対して地上の生活とは、市民社会[#「市民社会」はゴシック体]における生活であり、そこでは人間は私人[#「私人」はゴシック体]として行動しており、他の人間を手段と見なし、自分自身をも手段に引き下げ、さまざまな異質な力に翻弄されている」(「ユダヤ人問題によせて」「マルクス・コレクション」第I巻所収)  共同体は、近代では政治的国家と市民社会、類的[#「類的」はゴシック体]生活と個人的[#「個人的」はゴシック体]生活に分裂している。この分裂の構造が宗教的性格をもち、実際に市民社会ではあらゆる宗教が自由に活躍する。この状態をマルクスは「人間と人間との分離と疎遠の表現」とよぶ。それが「政治的民主主義」であり、それは分裂の状態だというのだ。少し前には民主主義は全的に肯定されていたが、いまや批判の的になっている。  政治的国家と市民社会の分裂は、個人にとっても分裂をもたらす。それをフランス革命のいわゆる人権宣言の言葉でいえば、シトワイヤン[#「シトワイヤン」はゴシック体](citoyen 公民)とオム[#「オム」はゴシック体](homme 私人)の分裂である。「ひと=私人」とは何者か。それは市民社会の利己的[#「利己的」はゴシック体]人間であり、つまりはブルジョワ的人間である。ひとは、一方では政治国家のメンバーとしては公的[#「公的」はゴシック体]人間(公民)であり、そのかぎりでのみ国家に所属する万人は等質的[#「等質的」はゴシック体]であり同等[#「同等」はゴシック体]である。他方で、市民社会では、ひとは利己的個人として活動し、そのかぎりで違いと対立を生き、ホッブズ的な「万人の万人に対する戦い」を生きざるをえない。  マルクスが、歴史的にみて肯定的評価を下しながらも、なおヘーゲル的処理(国家のなかでの自由の実現)を可能にする「政治的革命」を批判する理由がここにある。伝統的に、国家とよばれる共同体は、定義によって類的生活を意味するが、政治革命が生み出した政治国家は、まだ真実の類生活ではなくて、想像された共同体[#「想像された共同体」はゴシック体]、またはひとが倒錯的におもいこむ幻想の共同体でしかない。これをさらに一歩進めて、真実の共同体、古代ギリシア的な分裂なき共同体をつくり出さなくてはならない。マルクスはもうひとつの解放または革命が必要だという。 †分裂なき類的共同体[#「†分裂なき類的共同体」はゴシック体]  分裂なき共同体とはどういうものなのだろうか。 [#ここから2字下げ]  あらゆる[#「あらゆる」はゴシック体]解放は、人間の世界をそのさまざまの関係を、人間自身へ[#「人間自身へ」はゴシック体]と復帰させること[#「復帰させること」はゴシック体]である。  政治的解放は、人間を一方では市民社会の成員つまり利己的に独立した[#「利己的に独立した」はゴシック体]個人へ、他方では国家公民[#「国家公民」はゴシック体]、つまり道徳的人格へと還元するだけである。  現実の一人一人の個人が、抽象的な公民を自分のうちにとりもどし、個人としての人間がその経験的生活、その個人的労働、その個人的諸関係の中で、類的存在[#「類的存在」はゴシック体]となった時、つまり人間がその「固有の力」(forces propres) を社会的力として認識し、組織し、それゆえに社会的力を政治的[#「政治的」はゴシック体]力という形でもはや自分から切り離すことがなくなる時、はじめて人間的解放が成就されるだろう。 [#地付き](「ユダヤ人問題によせて」) [#ここで字下げ終わり]  この文章はルソーの功績を高く評価しつつ、同時にルソーを越え出る一歩を宣言したものである。それを理解するために、簡単にルソーの議論を回顧してみる必要がある。ルソーは『社会契約論』のなかで公民《シトワイヤン》の共同体のつくり方を提案している。社会契約(国家創設契約)がめざす課題はどのようなものか。  ルソーは「社会契約が解決すべき根本問題」を次のように定式化する。すなわち、各共同体メンバーの人格と財産を共同の力をもって守り保護する結合形式、しかもそれによって各個人が万人と一体となりながら、それにもかかわらず自分自身だけに服従し、以前と同じ程度に自由であり続ける結合形式を見つけること(ルソー『社会契約論』第一部第六章)。  この文章の前半はホッブズやロックとの違いはないが、後半はルソー独自の主張である。新しく創造される政治共同体のなかで、各人が自由を保持しながら、他のすべての個人と自由に結合できるのであれば、この共同体(ルソー用語ではCite シテ)はまさに分裂なき共同体である。ルソーの論理を抽象化していえば、彼の共同体においては、各人の自由な発展が万人の自由な発展にとっての条件になる。これはまさに文字通りに『コミュニスト宣言』の言葉でもある。マルクスがルソー的共同体を彼のコミューン論の模範にしたことはこれでわかる。そして前に触れたように、ルソーもまた古代ギリシアを精神の故郷とするひとであったことも、あらためて強調されなくてはならない。彼は『社会契約論』の注のなかで、シテ(都市国家)に関する近代人の誤解を次のように批判している。 [#ここから2字下げ]  この言葉〔シテ=ポリス〕の本当の意味は近代人においてほぼ完全に消えてしまった。彼らのほとんどは都市〔ville〕とシテを、またブルジョワとシトワイヤンを混同している。彼らは、メゾン〔家計の家〕は都市を作るが、シトワイヤンがシテを作ることを知らない。 [#ここで字下げ終わり]  ルソーは自分の実際の故郷であるジュネーヴをも古代ギリシア(とくにスパルタ)の共同体から眺めている、あるいは理想化している。  ルソー的共同体(古代的シテ)を創造するとき、古代と同じく「立法者」が必要である。この立法者の役目は、要するに、自然人を法的人格に、ただの利己的「ひと」(私人)をシトワイヤン(公民)につくりかえることである。マルクスが論文「ユダヤ人問題によせて」のなかで引用した文章だが、ルソーはこう言っている。 [#ここから2字下げ]  ひとつのプープル〔peuple ヘーゲルはこれをVolk と訳す。ルソーでもヘーゲルでもこの用語は同時に古代ギリシアのポリスの別名である〕をあえて創出しようとするひとは、いわば人間的自然を変更し、それ自身で完全で孤独な全体である各個人を、各人がいわばその生命と存在を受け取るより大きい全体の一部に作り変え、人間の体質を変えて強化し、われわれの誰もが自然から受け取った独立の身体的実存を全体の部分をなし精神的な実存に置き換えることができると確信していなくてはならない。要するに、人間〔自然人〕からその固有の力を奪い取り、この人間には知られておらず、他人の助けなしには使えない力を与えなくてはならない。これらの自然的諸力が死滅すればするほど、獲得されたものはそれだけ大きく、それだけ持続的になり、制度もまた一層堅固で完全になる。 (『社会契約論』第二部第七章、プレイヤード版『ルソー全集』第三巻、三八一−三八二ページ) [#ここで字下げ終わり]  マルクスはルソーの考え方を「政治的抽象化」であるとみた。それは「自然的」人間(現実には市民社会のなかで利己的に生きる人間のこと)から「固有の力」を奪い取り、それに代えて別の種類の政治的力(シトワイヤンになる力)を「立法者」が上から[#「上から」はゴシック体]与える、という思想である。  ルソーのいう「自然に与えられたままの」人間は、マルクスにとっては利己的なブルジョワ(私人)であるから、たしかに利害の対立によって分離した孤立人ではあるが、マルクスの批判的判断によれば、ルソーの構想では、この「私人」がそのまま温存されてしまい、共同体は実際には分裂したままにとどまる。したがって、マルクスにとっては、ルソー的シテ(共同体)の理想を継承しながら、ルソーが放置した「私人」の分裂状態を「社会化」して、政治と経済、公民と私人の分裂を解消することが、人間的な、類存在としての、分裂なき共同体をはじめて実現するとみるのである。  ルソーの共同体は、ジャン・スタロバンスキーの言葉を借りていえば(『ルソー 透明と障害』)、理念の上では中間項という障害物のない、その意味で透明な[#「透明な」はゴシック体]、シームレス・コミュニティーである。しかもそれは理想化された古代ギリシアのポリスでもあった。マルクスは、この透明共同体の理想を、ギリシアを精神的故郷とする精神ともども、ルソーから受け継いだといえよう。  このように、分裂なき共同体とは、マルクスにとって、政治的人間と社会的人間の分離が解消された共同体であり、類(人類)の意味で人間の共同体である。このとき、ヘーゲルのいう「国家」と「市民社会」の分離は存在しないし、「シトワイヤンの共同体《シテ》」が個人から独立して単独に存在することもない。マルクスは、分裂なき共同体の理想をたてる点では、ヘーゲルよりもルソーに親近感をもっていた、いやむしろこの点ではルソー主義者であったともいえる。 3 自由な実践《プラークシス》[#「自由な実践《プラークシス》」はゴシック体] †プラークシス(実践)へ向けて[#「†プラークシス(実践)へ向けて」はゴシック体]  人間の社会生活のなかに、分裂と障害物があるかぎり、この世界は倒錯し転倒した世界である。倒錯した世界の特徴は、この世界が宗教的幻想を必ず生み出すばかりでなく、宗教を不可欠の条件とするまでに幻想性を要求する。分裂した共同体のなかで生きるかぎり、民衆は、国家のなかに幻想の共同性を想像して満足し、市民社会のなかでは現実の不幸を隠蔽するために宗教を阿片のように渇望する。倒錯と転倒の世界は、政治的、経済的、宗教的な、数かぎりない「想像の共同体」を無際限に紡ぎ出す。  しかしそれを指摘するだけでは足りない。理論的批判はあくまで理論的で観想的である。別の地平を見つけて、そこへと踏み出す必要がある。別の地平とはプラークシス[#「プラークシス」はゴシック体](実践)である。論文「ユダヤ人問題によせて」から一年後に書かれたと思われる「フォイアーバッハに関するテーゼ」(一八四五年春)は、初めから終わりまで「実践」だけを語っている。  マルクスはフォイアーバッハが人間を観照または観想の対象として、つまりはたんなる客体としてのみとらえていているにすぎず、「感性的活動」、「実践」としてとらえていない、要するに「古い唯物論の立場」に立っていると批判しているのだ。そしてこう宣言する——「新しい唯物論の立場は人間的[#「人間的」はゴシック体]社会または社会化された人類である」と(第十テーゼ)。  そして課題はこうなる——「哲学者たちは世界をたださまざまに解釈[#「解釈」はゴシック体]してきただけである。しかし肝心なことは世界を変革する[#「変革する」はゴシック体]ことである」(第十一テーゼ)。 †哲学と民衆[#「†哲学と民衆」はゴシック体]  しかし実践といい変革というが、それはいったいどういうことであろうか。一人の知識人がそう宣言したところで世界が変わるわけではないし、民衆が実践的になるわけでもない。この難題を克服しなくては、ルソーとヘーゲルを真実に批判したことにならない。このことをマルクスは自覚していた。  そのとき、問題はマルクスにとってこうなる。一方に「新しい」哲学があり、他方に世俗的市民社会のなかで生きる民衆がいるのだが、この両極をつなぐ架け橋はあるのだろうか。ありうるとすれば、どのように橋が架けられるのであろうか[#「どのように橋が架けられるのであろうか」はゴシック体]。この問題を正面から論じたものが『ヘーゲル法哲学批判序説』(一八四四年)である。両極があるのだから、各極に固有の課題が立てられる。  第一に、古代ギリシア以来の哲学形式の「止揚」(形式の廃棄と内容の保存継承)、すなわち哲学的実践の変貌の問題がある。  第二に、「誰が変革の主人公か」という問題がある。すなわち、変革の主体を見つけることである。  それぞれの問題の骨子をマルクスのさわりの文章を引用しつつ考察しておこう。 (一)哲学の変貌[#「哲学の変貌」はゴシック体]の問題。「哲学を実現することなしには哲学を止揚することはできない」あるいは「哲学を止揚することなしには哲学を実現することができない」。  これはどういうことであろうか。言葉の遊びをしているのか。マルクスは論争文のなかで対照的な対句をもてあそぶ癖があるから、言葉の遊びであることに間違いない。  しかしそれだけではない。ヘーゲルが概念的把握について述べるとき、止揚と実現は同じことの別の表現であることを教えたが、そのかぎりでマルクスは師匠ヘーゲルの思考に厳密なまでに忠実である。  とはいえ、マルクスはヘーゲルの模倣にとどまるつもりはない。「フォイアーバッハ・テーゼ」に照らし合わせていえば、ここで問題となる哲学は「世界をさまざまに解釈してきた」哲学形式のすべて[#「哲学形式のすべて」はゴシック体]、ギリシア=西欧的哲学形式の全体を指示しているのだから、哲学の止揚[#「哲学の止揚」はゴシック体]とは、伝統的哲学のありかたを否定し廃棄する[#「否定し廃棄する」はゴシック体]ことになる。しかしヘーゲル的否定が全体的否定ではなくて、限定的否定であったように、マルクスのいう否定もまた、ヘーゲルの否定と同様に、限定的否定[#「限定的否定」はゴシック体]でなくてはならない。限定的否定は、先行するものをその本質面で保存し、新しい思想の構成要素へと上昇させて継承することである。  マルクスが「哲学の止揚」をいうとき、過去の遺産のなかで否定されるべき側面は、かの「テーゼ」がいうようにその観想的・観照的・テオーリア的側面であり、保存されるべき側面は、たとえばヘーゲルの哲学に代表されるように思考の能動的・活動的側面[#「思考の能動的・活動的側面」はゴシック体]である。哲学の止揚は、過去の遺産を批判的に受け継ぐにしても否定には違いない。  要するに、マルクス的な「哲学の止揚」によって登場する哲学は、もはや伝統的意味での哲学ではなくて、むしろ非=哲学[#「非=哲学」はゴシック体]とよぶほうが適切である。哲学的なものと断絶するのではなくて、あくまでつねに哲学的なもの(後の言葉でいえば、イデオロギー形式をとる哲学または形而上学)と不即不離の批判的関係のなかにとどまるという意味での非=哲学である(ただし、けっして反哲学ではない。反哲学は、通俗経済史観がそうなったように、通俗科学主義に転落するからである)。 (二)哲学の実現の問題。実現された哲学とはどういうことなのか。来るべき思想は、もはや伝統的哲学形式をおびない非=哲学であるとしたら、しかもそれが伝統の遺産の肯定的内容を継承しているにもかかわらず「哲学的なもの」でないとしたら、いったいそれは何であろうか。  マルクスは彼の学位論文の本文のなかで少しだけ顔をだしていた古代の賢者の智慧をここで思い起こしていたのではないだろうか。古代的な意味でも、哲学と智慧[#「智慧」はゴシック体]は違う。哲学は知識を獲得する。哲学は何のために知識を獲得するかといえば、智慧にいたる道[#「智慧にいたる道」はゴシック体]を見つけだすために知識を獲得するのである。そのかぎりで、哲学は智慧にいたる途上のなかにいる[#「智慧にいたる途上のなかにいる」はゴシック体]のであって、まだ智慧をもたない[#「智慧をもたない」はゴシック体]。  かりに智慧を求める哲学が智慧の直前にまで到達するとき、古代的意味での哲学はただちに哲学であることを止めて(自己止揚して)、智慧へと変貌をとげる[#「智慧へと変貌をとげる」はゴシック体]。智慧は、もはや「しかじかとは何か」とは問わない、何かをしかじかとして解釈しない。智慧は、哲学的知識を構成要素としつつ(そのかぎりで智慧は、ヘーゲルがいみじくも述べたように、哲学的な智慧であり、その内容は「哲学的知識の円環体系」である)、民衆のなかに入り込み[#「民衆のなかに入り込み」はゴシック体]、実践する。  智慧とは実践である[#「智慧とは実践である」はゴシック体]。思想史の文脈でいえば、マルクスの非=哲学あるいは「実現された哲学」は、マルクス自身も自分で研究してよく知っていたように、実践的な智慧[#「実践的な智慧」はゴシック体]以外のなにものでもない。マルクスが過去の「解釈する哲学」を批判するとき、その批判の眼目は、実践する智慧と完全に分離してイデオロギーと化した諸々の哲学形式の空白を突くことにあった。このとき、マルクスは、自ら智慧あるものとして登場する。実践をいうかぎり智慧をいわないほうがおかしいからだ。しかし、マルクス的智慧者は、古代ストア派のごとき非社会的な個人的賢者ではない。それは社会的な[#「社会的な」はゴシック体]賢者である。非=哲学を実践する思想家は、智慧を受け入れる集団[#「智慧を受け入れる集団」はゴシック体]とともに自己を完成させる。 (三)変革の実践主体の問題。誰が、どの集団が、真実に、ラディカルに世界を変革する可能性をもっているのか。その集団をマルクスはプロレタリアートと命名する。さわりの文章ではこうである。 [#ここから2字下げ]  それでは、ドイツの解放に向けてのポジティヴな[#「ポジティヴな」はゴシック体]可能性はどこにあるのだろうか。  答えは以下のとおりである。ラディカルな鎖[#「ラディカルな鎖」はゴシック体]につながれた階級を作ることにある。つまり、市民社会の階級でありながら、市民社会の中の階級ではない階級を作ることにある。すなわち、いっさいの身分階層の解体となるような階層、普遍的な苦痛のゆえに普遍的性格を持つ階層、そしてわが身に受けたのはいかなる特殊な不正[#「特殊な不正」はゴシック体]でもなく、不正そのもの[#「不正そのもの」はゴシック体]であるがゆえに、いかなる特殊な権利[#「特殊な権利」はゴシック体]も請求できない階層、歴史的な[#「歴史的な」はゴシック体]資格に訴えることができず、もはや人間としての[#「人間としての」はゴシック体]資格に訴える以外にない階層、ドイツの国家制度の帰結となんらかの一面での対立をするのでなく、この国家制度のもろもろの前提と全面的に対立している階層、つまり、自分自身を解放するために、まずは社会の自分以外のいっさいの階層から自己を解放し、それによってそうしたいっさいの階層をも解放する以外にはない階層、ひとことで言えば、人間の完全なる喪失[#「人間の完全なる喪失」はゴシック体]であるがゆえに、人間の完全なる再獲得[#「人間の完全なる再獲得」はゴシック体]によってのみ自らを獲得しうるような階層を作ることである。ある特定の階級として社会の解体をするのは、プロレタリアート[#「プロレタリアート」はゴシック体]である。 (『ヘーゲル法哲学批判序説』「マルクス・コレクション」第㈵巻所収) [#ここで字下げ終わり]  こうして、実践の主体が見いだされた。マルクスがここで定義するプロレタリアートは、まだ概念であって、それはただちに現実の労働貧民[#「労働貧民」はゴシック体]ではない。マルクスも十分に自覚しただろうが、現実の労働貧民はその極端な貧窮のゆえに解放とか変革に向かう心情はもっておらず、むしろ自分の宿命をあきらめる受動的な下層[#「受動的な下層」はゴシック体]「ブルジョワ」にすぎない。かれらは解放や変革ではなく、むしろ上層ブルジョワの生活を憧憬する上昇志向をもっていた。その事実を無視するなら、解放や変革の主張は空語でしかない。 4 社会の変革[#「社会の変革」はゴシック体] †労働貧民の客観的状態[#「†労働貧民の客観的状態」はゴシック体]  しかしマルクスは、労働貧民の現実の意識や行動ではなくて、かれらが自分をどう解釈するかとは別個に、貧民が身をおく社会的文脈と歴史的位置を概念化しているのである。彼の語り口からわかるように、プロレタリアートは、存在自体において、もはや「ひとつの」社会的階級、「ひとつの」身分ではまったくない。それは市民社会から排除された存在であり、それ自身ですでに社会の解体そのもの[#「社会の解体そのもの」はゴシック体]である。それは貧民の意識や自己解釈とはまったく無縁の、社会構造が必然的に生み出す帰結(結果)である。  近代市民社会は、おのれの内部から、おのれ自身のラディカルな否定体、市民社会自身を全面的に破壊する力を生み出す。この発言はいささかルソー(『人間不平等起源論』)の議論を思い起こさせる。なぜなら、ルソーは人間の歴史的発展が万人の不自由と全面的隷属をもたらす結果にいたり、いっさいを変えることなしには完全な自由を回復することができないといったからである。このルソー主義的な立論がねらうところは、なんだろうか。  社会が変革される、あるいは革命されるという事態は、外部から言説によって民衆を扇動すればできるといったものではない。社会の変革は社会自身のなかで、社会の一部分が事実において社会をすでに変革している状態がすでに実在していなくてはならない。圧縮していえば、社会は社会自身が自己を変革する条件[#「変革する条件」はゴシック体]を内部から産出しているときに、またそのときにのみ、社会変革は起きる。  マルクスの文章を借りていえば、すべての階級や身分が解消している「階層」、もはや階級や身分ですらなく、社会自身がそこで完全に雲散霧消している「状態」が「プロレタリアート」であるのだとすれば、このプロレタリア的「階層」や「状態」は社会自身の現実的姿であり、要するに社会自身が自発的に行っている変革であり革命である。かりにこうした極限状態が実在しないときには、社会の変革もありえない。  ところで、マルクスは労働貧民とその窮乏状態を社会の自己解体として概念的に評価し、そのなかに人類の解放を見る。ルソーが絶対的隷属状態から完全な人間的自由の回復を展望するのとまったく同じ論理によって、マルクスは人間性の「完全な喪失状態」から「人間の完全な回復」を展望する。その判断はあまりにも理想主義的にみえるが、マルクスの意図としてはそうではない。マルクスは理想やユートピアを語ろうとするのではなく、現存社会の変更の現実的可能性[#「現実的可能性」はゴシック体]の条件、しかも唯一の条件を探求しているのである。  じっさい、十九世紀の労働貧民の事実上の状態は、イギリスでもフランスでもドイツでも、マルクスの意味でのプロレタリア化傾向をみせていたし、革命の担い手を労働貧民にみたのはけっしてマルクスだけではない。マルクス以前の多数の思想家がそれを指摘していたし、彼の同時代人もまた同様であった。マルクスの独特の貢献があるとすれば、それはドイツ哲学で訓練された頭脳をもって、労働貧民の事実確認ではなく、社会自身が実行している自己解体の現実を「概念的に把握」したところにある。 †知識人の位置[#「†知識人の位置」はゴシック体]  マルクスが定義する意味でのプロレタリアートが実在すると仮定した場合、マルクスのような知識人の位置はどうなるのか。知識人は、フランス革命以前の啓蒙知識人のように、民衆を先導する扇動者なのか、それともまったく違う役目をもつのだろうか。  前に述べた非=哲学は実践する智慧であり、マルクス的知識人は実践する賢者であるというテーゼを承認するならば、知識人は事実的に(抽象的用語でいえば「即自的に」)変革を実行してしまっている現実的智慧者としての[#「現実的智慧者としての」はゴシック体]プロレタリアートと同一の[#「同一の」はゴシック体]行動をするのでなくてはならない。プラトン以来、智慧あるものは、形式面からいえば、現世の外部[#「現世の外部」はゴシック体]に出ていなくてはならない。  プロレタリアートは事実的に現世の外部に出てしまっているのだから、定義によって智慧あるものである。智慧は知識とは違う。知識をもつもの(知識人)は、一般に智慧者ではない。彼が智慧者に自己転身するためには、事実的智慧者と接触[#「事実的智慧者と接触」はゴシック体]する以外にはありえない。少なくともマルクス的非=哲学の実践者はそうでなくてはならない。非=哲学とプロレタリアとが結合するとき、プロレタリアは「即自的」状態から「対自的」状態へと覚醒するが、同時に他方では、非=哲学は智慧として現実の世界のなかに受肉する(実現する)。こうして次の有名なテーゼが提起される。 [#この行2字下げ] 哲学はプロレタリアートを止揚することなしには実現されることができないが、プロレタリアートは哲学を実現することなしには止揚されることができない。 †階級とその消滅[#「†階級とその消滅」はゴシック体]  本章の主題は分裂なき共同体であった。その主題がプロレタリアートの「発見」とどのようにつながるのかと、疑問に思う向きもあるだろう。ところが両者はつながっているのみならず、不可分一体であり、内面的な連関項ですらある。いやむしろ両者は基本的に同一なのである。どういうことなのだろうか。  前に述べたように、労働貧民とプロレタリアートは事実としても概念としても異なる。現実に実在していた労働貧民は、けっして一枚岩ではなく、上層市民階級と同じく内部に種々の階層を抱えていた。失業者もいれば仕事を見つけた労働者もいる。生き延びるために労働力を企業家に安く売る競争をするのを余儀なくされている。仲間を蹴り落としてもわずかな賃金を手にいれなくてはならない悲惨な状態が一般的であった。  上層ブルジョワ階級のなかに上下関係があり、そのなかで激烈な利害闘争が展開するように、下層ブルジョワである労働貧民の間でも利害闘争とせり上がり競争があった。階級や身分はそのなかに階層分裂を抱える社会的存在である。階級や身分は、分裂した共同体である。 †無所有者の登場[#「†無所有者の登場」はゴシック体]  マルクス的なプロレタリアートは、概念的定義によって、階級でも身分でもなく、特定領域や特定状態ですらない。それはいっさいの資格も所有もない絶対的無所有・無資格[#「無所有・無資格」はゴシック体]の存在であり、市民社会のいっさいの階級と身分と階層が完全に解消した一種の無の空間[#「無の空間」はゴシック体]である。そのメンバーは、世俗的属性がまったくないのだから、一様であり等質である。現実には不幸な状態ともいえるが、概念的には、消極的な仕方で[#「消極的な仕方で」はゴシック体]実現している「分裂なき共同体」である。  それは、理念であり未来に実現する共同体であるのだが、そこへ向かうパサージュ[#「パサージュ」はゴシック体](通路)は実在している。その通路が、現実の分裂がたえまない労働貧民であるとマルクスは考えた。後にマルクスは、労働(貧民)階級とプロレタリアートをほぼ同義に使うようになるが、それは以上の見通しのなかでのみ可能になる。  したがって、マルクスにとって分裂なき共同体[#「分裂なき共同体」はゴシック体]は、頭のなかに描かれる思想像ではなく、すでに潜在状態で現実のなかに事実存在している何ものかであった。知識人にとってそれへと接近する道は、彼がまずは非=哲学としての智慧の立場にたち、実践する智慧として無所有者・無資格者へと自己変貌[#「自己変貌」はゴシック体]をとげなくてはならない。その意味で分裂なき共同体の理念は倫理的な[#「倫理的な」はゴシック体]理念でもある。  プロレタリアート、それは自由人の共同体の陰画[#「陰画」はゴシック体]である。陰画は陽画に転換されなくてはならない。マルクスは、終生、この理念を手放さなかった。 5 自然と人間の統一[#「自然と人間の統一」はゴシック体] †分裂の原因としての私的所有[#「†分裂の原因としての私的所有」はゴシック体]  これまでのマルクスは、分裂なき共同体をもっぱら人と人、個人と集団との関係の面で考察してきた。しかし、分裂は、人間の間で生じるばかりでなく、人間と自然との間[#「人間と自然との間」はゴシック体]でも生じるのではないのか。人間と自然との分裂と対立を残存させたままでは、本来の意味での分裂なき共同体はありえまい。この当然の疑問にマルクスはぶつかる。こんどは自然と人間との関係が考察の中心にすえられる。自然と人間との関係が格別の問題として登場する場面は、労働[#「労働」はゴシック体]であり、経済の領域である。 『ヘーゲル法哲学批判序説』を書いている段階のマルクスの理論的関心は、主としてヘーゲルの法哲学を乗り越えようとする意図から、政治批判と法学批判に集中していた。前述の問題が大きくなると、彼の関心は当時の経済論(political economy, economie politique とよばれていたもの)の研究という彼にとって未知の領域に進み出ていく。彼は、イギリスとフランスの種々の学説を学びながらも、さしあたっては経済学的分析にではなくて、ヘーゲル仕込みの哲学的分析を人間の労働にほどこすことになる。その成果が『経済学・哲学草稿』(一八四四年)である。 †非有機的身体としての自然[#「†非有機的身体としての自然」はゴシック体]  研究の主題は労働と私的所有である。彼の研究の視線をひそかに導く知的関心は、ここでも依然として分裂なき共同体である。人間の労働は、マルクスによれば本性上、本質的に、類的であり普遍的であるからである。個々人の労働はこの類的な活動のひとつの分肢であり、類的共同体の有機的構成部分である。個々の人間の労働ばかりが類的共同体を構成するのではない。自然もまた類的共同体の土台であり[#「自然もまた類的共同体の土台であり」はゴシック体]、人間にとって非有機的身体[#「非有機的身体」はゴシック体]であり、そのような独自の身体として自然は類的共同体を構成するのである。労働はまずは自然と人間の関係である。マルクスの言葉でいえば、こうなる。 [#ここから2字下げ]  対象的世界[#「対象的世界」はゴシック体]の実践的な産出、非有機的自然の加工[#「加工」はゴシック体]は、人間が意識的な類的存在であることの確証であり、つまりは、類におのれ自身の本質としてかかわり、あるいは、自己に類的存在としてかかわるような存在であることの確証である。 (『経済学・哲学草稿』第一草稿中の「疎外された労働と私有財産」「マルクス・コレクション」第㈵巻所収) [#ここで字下げ終わり] †疎外[#「†疎外」はゴシック体]  ところが、分裂なき共同体または類的活動としての人間的労働は、現在の社会経済的状況では、完全に分断されてしまう。現存の資本制経済では、伝統的な共同所有を崩壊させて、共同存在から分離した私的所有を正当な権利として承認している。しかし私的所有が共同的・類的存在から分離し、純粋に社会体制の基礎となるとき、人間の労働は、ばらばらの私的労働に縮小し、共同的労働は煙のように消え去る。私的所有体制の下では、人間の労働は、自然から分断され、他人の労働からも分断され、それを通して共同存在から分断され、こうした回り道を通って、個々人の労働が主体である個人から分断される。  労働の疎外[#「労働の疎外」はゴシック体]という現実は、類的で共同的労働からの分離であるばかりでなく、人間の労働が自分自身から分離し、疎遠になること、すなわち自己疎外[#「自己疎外」はゴシック体]になる。近代では、分裂なき共同体は、存在する余地はまったくない。人間と人間、人間と自然の完全な分裂が圧倒的な現実になっている。これをマルクスは人間の疎外と定義したのである。 [#ここから2字下げ]  そうだとすれば、人間がおのれを類的な存在[#「類的な存在」はゴシック体]としてはじめて現実に実証するのは、対象世界の加工においてにほかならない。この生産活動が人間の活動的な類としての生活なのである。生産活動によって自然は、人間の[#「人間の」はゴシック体]作品でもあれば人間の現実でもあるものとしてあらわれる。したがって、労働の対象は人間の類としての生活が対象化されたもの[#「人間の類としての生活が対象化されたもの」はゴシック体]である。というのも、人間はたんに意識においてのように知的におのれを二重化するばかりではなく、活動的で現実的にもおのれを二重化するからであり、それゆえにまた、おのれによって創造された世界のなかでおのれ自身を直観するからである。そうだとすれば疎外された労働は、人間から彼の生産活動の対象を奪いとることによって、人間から彼の類としての生活[#「類としての生活」はゴシック体]を、つまり、彼が現実に類として対象化されたあり方を奪いとり、動物にたいするその長所を、人間の非有機的身体である自然が彼から取りさられるという短所に変えてしまうのである。 [#地付き](前掲書の同所) [#ここで字下げ終わり] †人間と自然の統一[#「†人間と自然の統一」はゴシック体]  しかし、もし私的所有体制が廃棄されるとしたら、どうであろうか。私的所有が、つまりは資本制社会が類的労働の疎外と自己疎外の唯一の原因であるとすれば、その廃棄は論理的に共同存在の分裂の破棄になるであろう。そのとき、人間の人類的あり方、分裂なき共同体がくもりなく現れるであろう。この透明な共同体を哲学的用語で要約していえば、こうなるだろう。 [#ここから2字下げ] 自然の人間的な[#「人間的な」はゴシック体]本質は、社会的な[#「社会的な」はゴシック体]人間にとってはじめて存在する。なぜなら、ここではじめて自然は人間にとって、人間[#「人間」はゴシック体]との紐帯[#「紐帯」はゴシック体]として、他の人間のためにある彼の存在として、また彼のためにある他の人間の存在としてあるようになり、ここではじめて人間的現実の生活基盤としてあるのと同様に、人間自身の人間的な[#「人間的な」はゴシック体]あり方の基礎[#「基礎」はゴシック体]としてあるようになるからである。ここではじめて、人間にとって彼の自然的なあり方が彼の人間的な[#「人間的な」はゴシック体]あり方となり、自然が彼にとって人間となる。したがって社会[#「社会」はゴシック体]は、人間と自然との完成された本質的統一であり、自然の真の復活であり、人間の貫徹された自然主義であり、自然の貫徹された人間主義である。 [#地付き](前掲書、第三草稿「私有財産とコミューン主義」) [#ここで字下げ終わり]  人間主義と自然主義の統一、それが分裂なき共同体である。ここに古代ギリシア的共同体の理想が、マルクスの言葉で再定義されている。それは、たんなる古代の復元ではない。古代は古代に特有な内容をもっており、その特性は古代の消滅と一緒に消滅する。現代は、その特性を否定的な仕方で継承しているにすぎない。  しかし、その否定的特徴を廃棄し、古代から封建制を通って資本制社会まで残存してきた類存在(人類の共同存在)の阻止要因をことごとく破棄することが可能であるなら、古代的理想を体現する分裂なき共同体は実現する見込みがある、とマルクスは確信した。それを思想の言葉でいえば、引用文にあったように、人間と人間の障害物なき[#「障害物なき」はゴシック体]統合、人間と自然との人間的な[#「人間的な」はゴシック体]統合であり、したがって自然主義と人間主義の統一が実現するのである。  人間の解放は自然の解放[#「自然の解放」はゴシック体]と同時に進むというのがマルクスの生涯を通じての確信になるだろう。そしてこれこそが、まさに自由の共同体[#「自由の共同体」はゴシック体]である。それは、一方で人間による人間の支配の終焉であり(後にマルクスがフーリエの調和共同体を高く評価する根拠になる)、他方では事物の管理のみを人間の主要な課題とする(マルクスがもっと後でサン=シモンの思想を高く評価する原点がここにある)[注1]。 †市民社会とブルジョワ社会の違い[#「†市民社会とブルジョワ社会の違い」はゴシック体]  この主題は、分裂なき共同体と無縁であるようにみえるが、けっしてそうではない。序章でも少し触れたことだが、ここでもう一度おさらいをしよう。  市民社会の古代ローマ的用法では、古代ギリシアのポリスにあたるものであった。ローマ的用法でいえば、市民社会は、近代ではじめて語られる「国家」と同じ意味であった。十七世紀から十八世紀までの西欧の思想界では、たとえば、ジャン・ボダンやトーマス・ホッブズは、市民社会をリパブリック=Republique《ボダン》やコモンウェルス= Commonwealth《ホッブズ》とよんでいた。  古代的意味での市民社会は、自由人の共同体(ポリス共同体)であり、各人は自由に公共的事柄に参加し、討議し、決定することができるのであった。それは法の統治による共同体でもあった。「市民」は政治共同体のメンバーであるかぎりにおいて自由である。この自由人がしばしば奴隷主であったという事実を無視していえば、近代的な意味での公民(Citoyen, Staatsburger) である。したがって市民社会は、国家メンバーが参加し運営する共同体であるのだから、近代ではこれを「共和国」または簡単に「国家」とよぶのは当然であった。この用法は、たとえばアダム・スミスやカントにもみられ、十九世紀の前半ではこの用法がまだ優勢を占めていた。  しかし他方では、商品経済が勢いよく発展するにつれて、市民社会の内容のなかに分裂が生まれる。市民社会(civil society, societe civile) は、経済的な意味でのブルジョワ社会(societe bourgeoise) とも重なり、ついにはブルジョワ社会に吸収されていく。自由人の共同体は、利害闘争にあけくれる私的人間の利己的社会に変質していくのである。  市民社会が自己分裂を開始し、ブルジョワ社会が優越してくると、今度は人間社会の公的領域もまたふたつに分裂する。すなわち、公的領域は、一方では政治的国家であり、他方では、ブルジョワ社会のなかの公共(公開)空間である。これはたんに言葉の歴史ではなく、言葉のなかに現実の歴史が反映しているから、同じ言葉が複数に使い分けられることになった。  十九世紀になると、ドイツ語の市民社会(Die burgerliche Gesellschaft) は、公民共同体と経済的私人の社会との二重の意味を帯び始め、ついには経済的私人の社会(ブルジョワ社会)に一元化していく。  この二重性は、ヘーゲルの『法哲学』のなかの用法にも反映している。ヘーゲルは「市民社会」を、一方では「欲求の体系」(分業の社会)として定義し、他方では「外部的国家」として描いている。ヘーゲルにおいて市民社会はまだ公民共同体の意味合いを温存させている。  資本制経済が発展するにつれて、イギリスやフランスでは、国家と市民社会が分離し、それと同時に、その分離の影響から、市民社会が公共空間[#「公共空間」はゴシック体]とブルジョワ的私人の社会[#「ブルジョワ的私人の社会」はゴシック体]へと分化[#「分化」はゴシック体]しはじめる。つまりブルジョワ社会のなかでの公共空間と私的利害空間が分離しながらも、同じ言葉で語られるのである。この事情は、非西洋人には実にわかりにくい。マルクスはこの事情を自覚して、文脈の違いによって区別することを余儀なくされている。  公共空間としての市民社会について。 [#ここから2字下げ] フランスのように、執行権力が、五〇万人以上の巨大な官僚機構を自由に動かし、つまり膨大な数の利害と生計をたえず無制限に左右できて、国家が、市民社会[#「市民社会」はゴシック体]を、その極めて広範な生活様式からどうでもいいような活動にいたるまで、その一番総体的なあり方から個人の私生活にいたるまで、抱きこみ、管理し、規制し、監視し、後見していて、このような寄生体が、きわめて異常な集中によって、偏在、全知、高度な運動性、弾力を獲得し、それに対し、社会本体[#「社会本体」はゴシック体]の方は、無力で自立性を欠き、ぼろぼろになり形も定かでなくなっている国では、国民議会は、国家行政を簡略化すると同時に、巨大な官僚機構をできるだけ縮小し、また同時に、市民社会と世論[#「市民社会と世論」はゴシック体]に政府権力に依存しない独自の機関をつくりださせないと、大臣のポストを意のままにできなくなるとともに、影響力をすべて失ってしまうのだということがすぐにわかる。 [#地付き](ゴチックによる強調は引用者による) [#ここで字下げ終わり]  私人のブルジョワ社会について。 [#ここから2字下げ] ところがフランスのブルジョワジーの物質的利害[#「物質的利害」に傍点]〔ブルジョア社会〕は、まさしくそうした広範で多岐にわたる国家装置の維持にきわめて密接に結びついている。ブルジョワジーは、その過剰人口をここに配属し、官吏給与の形で、利潤や利子や年金や謝礼の形でくすねることができない分を補うのである。他方、ブルジョワジーは、その政治的利害[#「政治的利害」に傍点]のゆえに、抑圧を増し、したがって、日々国家権力の手段と人員を増強せざるをえず、同時に、たえず世論を攻撃し、社会の自立した運動機関[#「社会の自立した運動機関」はゴシック体]〔市民社会〕を、全部切り捨てられなければ、用心深く、監視したり、切り取ったり、麻痺させたりしなくてはならない。このようにフランスのブルジョワジーは、一方で、その階級的な立場ゆえに、議会権力すべての生存条件を、したがってまた自らの生存条件を、破壊せざるをえず、他方で、自分に敵対している執行権力を太刀打ちできないほど強くせざるをえなかったのである。 (傍点は原文のもの。ゴチックおよび〔 〕は引用者のもの。ふたつの引用文は、マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』第四節にある。「マルクス・コレクション」第㈽巻所収) [#ここで字下げ終わり]  引用文中の太字《ゴチック》で示した言葉は、公民の社会の意味での市民社会であり、また現代的に変容した公共空間を指示する。「市民社会と世論」は、公民(シトワイヤン、シュターツビュルガー、シティズン)としての人民とその意見表明を意味するのだが、かれらがブルジョワ社会のメンバーとして登場するときには、経済的ブルジョワであり、総体としてのブルジョワジーである。すでに近代的人間は、存在自体において、ふたつの人格(公的人格と私的人格)に分裂している。  マルクスは伝統的用語法にしたがって公民社会としての市民社会を重視し、それの自立性を擁護する観点で書いているが、同時に公民社会が私人のブルジョワ社会の利害関係によって崩壊させられる必然性をも指摘し、この矛盾がフランスの階級闘争の錯綜を生み出していくプロセスを詳細に描写している。階級闘争の背景には、市民社会とブルジョワ社会の分裂[#「市民社会とブルジョワ社会の分裂」はゴシック体]の深まりがある。階級闘争は、政治的利害の面でも経済的利害の面でも、市民社会とブルジョワ社会の分裂が諸階級の行動のなかに表現されたものだともいえるだろう。  この観点から、次の事実も指摘しておくべきだろう。ブルジョワ社会の平面では、人民は諸階級に分裂する。社会階級は、ブルジョワ社会の用語である。他方、公民社会としての市民社会では、人民は国制上誰もが、金持ちも貧乏人も、ひとしく公民であり、権利において同等である。この場面では、ひとはすべて国家メンバーであり、もし経済用語を使えるなら、万人がブルジョワ[#「万人がブルジョワ」はゴシック体]である。フランス革命は、過去との対比でいえば、唯一の[#「唯一の」はゴシック体]「身分」すなわち「ブルジョワ身分」をつくり出したのである。労働貧民もまた下層ブルジョワ[#「労働貧民もまた下層ブルジョワ」はゴシック体]である。公民社会としての市民社会では、ひとつの名前、シトワイヤンしかない。  公民社会は、理念としても現実としても実在する(国制上の権利主体の理念としてあり、また国家や公共空間として現実的にある)。しかし近代の市民社会は、資本制経済の強烈な発展によって浸食され、変質し、ついにはブルジョア社会と区別がつかないまでになるが、これこそ近代社会が分裂する共同体[#「分裂する共同体」はゴシック体]であることの如実な姿である。 [#ここから2字下げ]  資本制生産様式が君臨する社会では、社会の富は「巨大な商品の集合体」の姿をとって現われ、ひとつひとつの商品はその富の要素形態として現われる。 [#地付き](『資本論』第一巻冒頭) [#ここで字下げ終わり]  この文章のなかの「社会」は、ブルジョワ社会であるよりも公民社会であろう。公民社会がブルジョワ社会に呑み込まれている事実をこの一句は示唆している。おそらくマルクスは、万人が同等の公民社会を復権したいと願っていた。それだけが分裂なき共同体であったからだ。そのためには、公民的市民社会の実現を阻止する、あるいは解体させているブルジョワ社会(資本制社会)とその所有体制を変革することが不可欠の課題になると、マルクスは『経済学・哲学草稿』や『ドイツ・イデオロギー』以来くりかえし主張してきたし、『資本論』でも事情は同じである。 †原初の共同体の高次の復活[#「†原初の共同体の高次の復活」はゴシック体]  分裂なき共同体の理念がマルクスの思想を一貫する理念であったことは、『資本論』を書いた時以上に、晩年においてもなお衰えない活力をみせていることからもわかる。 [#ここから2字下げ] 「〔ロシアの〕農村共同体」のこのような発展がわれわれの時代の歴史的流れに見合っている最良の証拠は、資本制生産が最も発展したヨーロッパの諸国において資本制生産がこうむっている致命的な危機である。この危機は資本制生産が除去されて、現代社会が最もアルカイックなタイプの高次な形態——集団的労働と集団的取得——に回帰することをもって終わるであろう[#「現代社会が最もアルカイックなタイプの高次な形態——集団的労働と集団的取得——に回帰することをもって終わるであろう」はゴシック体]。 (マルクスからザスーリッチへの手紙、第一草稿「マルクス・コレクション」第�巻所収、強調は引用者による) [#ここで字下げ終わり]  マルクスが「アルカイックなタイプ」とよぶ共同体は、ここでは古代ギリシアの共同体だけでなく、いわゆる「未開の」共同体(マルクスが前に「アジア的」とよんでいたものをふくめて)、ゲルマン的共同体の諸類型とその変型体のすべてを包摂する一般類型をさしている。彼がここでいおうとしている事態は、歴史的事実ではなく、共同体と個人、個人所有と共同所有が「直接的に」結合している状態、古代的類型やゲルマン的類型のようにかなりの分離が進んでいながらも、なお両極の要素が「直接的統一」を保存している状態である。これをマルクスは「原初的共同体」の基本的特性とみなしている(第三章を参照)。  しかし原初的共同体における個人と共同体の直接的統一性(分裂なき共同体の特性)は、近代では解体した。マルクスがヘーゲル的論理構成に依存していうように、理念としての分裂なき共同体は、ひとたび解体した以上はそのままでは再建できない。ゆえに、近代の歴史的経験によって「媒介される」回り道を通ってのみ、かつての「直接性」は再建される。つまり再建されるべき共同体は直接性と媒介性の統一として描かれる。そうだとすれば、近代の経験が今度は決定的に重要になるだろう。  原初の直接的共同体を解体した近代の歴史的経験は、それ以前にはなかった「自由な個人」(古代の自由人とは違うタイプ)を生産した。だから、未来の分裂なき共同体は、この近代の成果としての自由な個人[#「近代の成果としての自由な個人」はゴシック体]と共同体の再結合となるだろう。これはマルクスが未来に想定するコミューン社会であった。  したがって、次の主題は、原初共同体のすべての類型を破壊しつつ登場した資本制経済の特質である。資本主義は人間の歴史のなかでどのような文明史的意義をもつのだろうか。この問いこそマルクスが生涯を賭けた研究課題となるだろう。 [#2字下げ]注1 人間と自然の統一、人間と人間の統一、この両面を統一するのが未来に実現されるべき共同体であるとマルクスはいう。もしこの命題が正しいとするなら、世界はどうあるべきか[#「世界はどうあるべきか」はゴシック体]、とさらに問うべきである。マルクスはこの世界が無限に豊かな(物質的にも精神的にも)世界になると想定しているが、はたしてそうなるのか。私個人の見解では、初期マルクスのいう分裂なき共同体は原理的に成り立たないし、存続することもありえないと考える。その理由はここでは論じられないので、詳細については拙著『抗争する人間』(講談社選書メチエ)を参照されたい。 [#改ページ] 第三章[#「第三章」はゴシック体] 文明史のなかの資本主義[#「文明史のなかの資本主義」はゴシック体] ブルジョワジーは歴史のなかできわめて革命的な役割をはたした。 [#地付き]…………(マルクス『コミュニスト宣言』)[#「…………(マルクス『コミュニスト宣言』)」はゴシック体] 一つの歴史的条件の中に世界史が含まれている。 [#地付き]…………(マルクス『資本論』第一巻第四章)[#「…………(マルクス『資本論』第一巻第四章)」はゴシック体] [#改ページ] 1 文明史論としての唯物史観[#「文明史論としての唯物史観」はゴシック体] †文明史的考察へ向けて[#「†文明史的考察へ向けて」はゴシック体]  マルクスにおける分裂なき共同体構想は、古代ギリシアを精神的故郷とすることから始まったが、それは理想的な理念でありつづけながらも、今度はだんだんと研究対象に変貌していく。  マルクスは人類史を科学的に研究する計画をはやくから抱いていたが、それは資本主義を人類史のなかに位置づけ、資本主義社会の文明史上の意義を解明することにあった。『ドイツ・イデオロギー』は人類史を人間の物質的生産様式から光を当てる、あるいは歴史を経済的市民社会の歴史の観点から考察することを提案していた。  精神や観念(宗教、形而上学、イデオロギーの諸形態など)もまた人間の現実的で具体的な生産活動から説明される。物質的活動に基礎をおく社会の歴史は、自然をも包摂するが、精神や観念すなわちイデオロギーには歴史はないとマルクスはいう。なぜなら、上部構造[#「上部構造」はゴシック体]は物質的生産活動(下部構造)に依存し、下部構造[#「下部構造」はゴシック体]の運動と一緒に発生し消滅するからである。下部構造を強調することは、最初の出発点であるが、それはまだ本来の社会を説明したことにならない。下部構造はあくまで社会の土台である。それとは違って、社会は複数の地層から構成される[#「社会は複数の地層から構成される」はゴシック体]。この地層的[#「地層的」はゴシック体]構成をさしてマルクスは「社会構成」(Gesellschafts-formation) という用語をつくった。 †研究の指針としての唯物史観[#「†研究の指針としての唯物史観」はゴシック体]  マルクスは、社会の複数の地層的構成(経済領域、政治=法的領域、文化=イデオロギー的領域)の成り立ちかたを説明するためには、下部構造から出発するのでなくてはならないという方針をたてたのである。下部構造の強調は、研究方針の提示であって、それはまだ学問の内容ではない。マルクスはこの「唯物論的方針」が方針以上のものではないことを充分に自覚していた。マルクスは次のように言っている。 [#ここから2字下げ]  この経済学の研究をわたしはパリで始めた。ギゾー氏の退去命令が出た後はブリュッセルに移り、そこで研究を続けた。わたしに明らかになった一般的な結論は、ひとたび結論として得た後には、わたしの研究の導きの糸となった。簡略にいえばそれは次のように定式化できる。人間たちは、自らの生活を社会的に生産するさいに、彼らの意志から独立した一定の〔その生産に〕必要な関係に入る。人間の物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係が、その関係である。この生産諸関係の総体が社会の経済的構造を形成している。この社会の経済的構造こそ、法的および政治的な上部構造がその上にそびえたつ現実的な土台であり、一定の社会的意識形態が対応する現実的な土台である。物質的生活の生産様式が社会的・政治的および精神的な生活過程一般を制約しているわけである。人間の意識が人間の存在を規定するのではない。逆に人間の社会的存在が人間の意識を規定する。 (マルクス『経済学批判』「序言」一八五九年、「マルクス・コレクション」第㈽巻所収) [#ここで字下げ終わり]  この文章のなかに明快に述べられているように、マルクスは伝統的な意味での「市民社会」を三層構成によってとらえている。それを彼は建物の比喩[#「建物の比喩」はゴシック体]で語るのだが、地質学的地層論の観点でとらえてもいた。  しかしこの三層構成論は、マルクス自身が語るように「一般的結論」であり、たんに研究のための「導きの糸」にすぎない。三層の社会構成論は、マルクスの「唯物論」的歴史理解のための研究プログラムである。その点で重要な構想であるが、経済史観のように歴史の一般理論に上昇させることはできない(序章を参照)。 †歴史のなかに資本主義をおくこと[#「†歴史のなかに資本主義をおくこと」はゴシック体]  一八四〇年代半ばから五〇年代末までは、マルクスの研究関心はもっぱら近代資本主義に集中していた。彼の研究は、『経済学批判』から『資本論』までの研鑽によって内容が充実していく。この側面ではマルクスはまず資本主義経済体制を歴史過程から分離して[#「歴史過程から分離して」はゴシック体]、それ自体として運動する独自の経済的社会を構造論的に分析し描写するという「科学的」仕事をしたのである。  歴史過程からの分離は、構造分析[#「構造分析」はゴシック体]にとって理論上必要な[#「理論上必要な」はゴシック体]手続きではある。しかしその分離は「理性のなかでの分離」であって、現実の歴史とすり替えることは許されない。マルクスは五〇年代後半の研究ノート(『グルントリッセ(経済学批判要綱)』一八五七−五八年)のなかでこの事実をはっきりと自覚した。  彼は資本主義を人類史のなかに置き戻す。ここで資本主義の構造分析は「文明史のなかの資本主義」と接続することになった。構造分析が科学的研究であるとすれば、資本主義の文明史的位置づけは、古い言葉でいえば歴史哲学的[#「歴史哲学的」はゴシック体]研究である。いわゆる唯物史観は、科学的研究ではなく、また哲学一般でもなく、歴史の哲学的考察であり、その考察の一般的理論的構図である。  マルクスが、『グルントリッセ』のなかで、資本主義の構造分析(資本の生産構造の一般理論)と同時に歴史哲学を結合する試みをしていたことは大変重要である。科学的考察と哲学的考察の統合はマルクスの学問を理解するための重要な手がかりである。 2 歴史哲学的考察[#「歴史哲学的考察」はゴシック体] †人格的相互依存の概念[#「†人格的相互依存の概念」はゴシック体] 『グルントリッセ』のなかで、歴史哲学的考察がいわば純粋に登場するところはふたつある。ひとつは「貨幣の章」ともうひとつは「資本の章」である。まずは貨幣の章のなかのマルクスの発言からみていこう。 [#ここから2字下げ] 人格的な依存諸関係〔Abhangigkeitsverhantnisse〕(最初はまったく自然生的)は最初の社会諸形態であり、この諸形態においては人間的生産性〔menschliche Productivitat〕は狭小な範囲においてしか、また孤立した地点においてしか展開されないのである。物象的[#「物象的」に傍点]依存性のうえにきずかれた人格的独立性は第二の大きな形態であり、この形態において初めて、一般的社会的物質代謝〔Stoffwechsel〕、普遍的諸関連〔universale Beziehungen〕、全面的諸欲求〔Bedurfnisse〕、普遍的諸力能といったものの一つの体系が形成されるのである。諸個人の普遍的な発展のうえにきずかれた、また諸個人の共同体的〔gemeinschaftlich〕、社会的〔gesellschaftlich〕生産性を諸個人の社会的力能をして服属させることのうえにきずかれた自由な個体性は、第三の段階である。第二段階は第三段階の諸条件をつくりだす。 (『マルクス 資本論草稿集㈰ 一八五七−五八年の経済学草稿』大月書店、一三八ページ) [#ここで字下げ終わり]  マルクスはここで、人と人の社会的関係を従属か自由かの視点を設定することによって、人類史を三つの段階[#「三つの段階」はゴシック体]に区切っている。じつに巨視的な把握であり、これを普通の意味での「科学的」記述とは受け取れないだろう。だから私はこの種の発言を歴史哲学的な記述とよんだのである。マルクスの記述をもっと簡単に言いなおすなら、次のようになる。  第一段階[#「第一段階」はゴシック体]。事物の介入が極小であり、人格と人格の相互関係が優越している。人格的相互性はかならずしも直接には隷属でも服従でもないが、歴史の現実のなかではしばしば、一方が他方に従属する仕方で(従属の度合の密度は時代によって異なるにしても)相互関係を結ぶような社会関係である。  これは近代以前のすべての時代を特徴づける。後でもふれるように、これは別の草稿で「資本制生産に先行する」原初的共同体とよばれる「人格的依存関係」である。現代の人類学の用語でいいかえると、象徴的・儀礼的な[#「象徴的・儀礼的な」はゴシック体]相互関係、つまり儀礼的な応酬・互酬体制[#「応酬・互酬体制」はゴシック体]である。この体制では、人格と人格との関係が圧倒的優位にある。事物が介在するが、事物の移転は二次的役割しか果たさない。事物は「生命の贈与」の象徴以上のものではない。人格と人格の相互性は、相互に敬意・承認・感謝を相手に与える関係である。  第二段階[#「第二段階」はゴシック体]。個々の人格は自立性を獲得しているが、諸個人は事物に「媒介される」、すなわち事物と事物の相互関係に全面的に依存し従属する形でのみ個人の形式的な[#「形式的な」はゴシック体]自由と自立がある段階である。  これはひらたくいえば、近代社会の特徴であり、マルクスの用語法でいえば、資本制生産様式が支配する近代社会に特有の社会関係である。それは商品・貨幣・資本という価値形式が万物と万人を服従させる体制である。  第三段階[#「第三段階」はゴシック体]。第二段階は第三段階を用意する。第三段階は、マルクスにとっても現代人にとってもまだ未来の理想である。  第二段階が第三段階を準備するという意味は、自立した個人をともかくも出現させたのが近代資本主義社会であるからである。その意味で、個人は歴史の最初から実在したのではなく、長い歴史のなかで準備されて形成されてきたもの、ひとつの歴史の産物[#「歴史の産物」はゴシック体](結果)である。歴史過程がいわば主人公であり、その意味では資本主義近代も歴史の産物であり、それ以前のすべての歴史、つまり人格的依存・従属の長い経験がなければありえなかった。  ともあれ第二段階において、事実的にも個人の意識面でも「自由で自立している」といえそうな社会関係が登場したことは、未来の共同体を可能にする。その意味で、マルクスの意識にとって、第二段階としての資本制経済と資本制社会構成は決定的に重要である。  マルクスは、すでに『コミュニスト宣言』のなかで資本制社会を「革命的」であると賞賛したように、ここでも彼は近代的資本制社会を最大級に重視しているのである。要するに、第三段階とは、近代が生み出した自由人を形式的にも実質的にも完成させる社会関係であり、別の言葉でいえば「自由人の共同体」あるいは分裂なき共同体である。 †過去の社会構成との比較[#「†過去の社会構成との比較」はゴシック体]  ところで、この章の課題は、文明史のなかの資本主義である。資本主義(経済の資本主義とそれが支配する社会構成全体を含めていう)の人類史的位置づけは、未来の共同体との比較ではなく、過去の(近代以前の)複数の共同体との比較によってのみ可能である。マルクスが人類史の第一段階とよぶ「人格的依存関係」としての共同体にはどのようなものがあるのだろうか。マルクスはいくつかの類型にまとめている [#ここから2字下げ] 大まかにいえば、アジア的、古典古代的、封建的、および近代|市民≪ブルジヨア≫的生産様式が、経済的な社会構成のなかに累積してきた時代 progressive Epochen としてあげることができる。 (『経済学批判』「序言」「マルクス・コレクション」第㈽巻所収) [#ここで字下げ終わり]  このようにマルクスが述べているが、そのなかの「アジア的、古典古代的、封建的」の三類型が、第一段階の「人格的依存関係」の諸時代である[注1]。 †資本主義出現の歴史的前提[#「†資本主義出現の歴史的前提」はゴシック体]  資本主義の特徴を描くときに過去との比較をしなくてはならないと述べたが、厳密にいえば、マルクスにはもっと特殊な理論的関心がそれに重なる。その関心とは、資本主義のもっとも枢軸的な社会関係、すなわち資本と賃労働の関係がどこから出てきたか[#「どこから出てきたか」はゴシック体]という関心である。  ごく抽象的な理論面では、資本と賃労働の交換は、貨幣の資本への変容(『資本論』第一巻の第二篇第四章)として表現されるが、歴史的には「原初的資本蓄積過程」として描かれる(『資本論』第一巻第七篇第二四章)。資本制的生産様式の再生産と維持が可能であるのは、その根底において、一方における資本、他方における賃労働がたえず再生産されるばかりでなく、両極の関係[#「両極の関係」はゴシック体]が再生産されるからである。この両極の存在が資本主義の大前提である。  この大前提は、天から降ってきたのでもなく自然的所与でもなくて、歴史の産物である。どのようにしてこの前提が歴史的に生産されたのだろうか。まさにこの問いは、一八五〇年代末の草稿『グルントリッセ』の経済理論的でもあれば歴史哲学的な問いでもあった。したがって、この前提の解明は、『グルントリッセ』では「資本の章」に現れるのである。 [#ここから2字下げ] 〔投下した〕貨幣を回収し増殖させるためには、自由な労働と、さらに貨幣とこの自由な労働との交換が、賃労働の前提であり資本の歴史的条件の一つである。つまり、貨幣を投じることによって〔自由な労働を〕消費する場合に、自分の楽しみを満足させるための使用価値として〔それを〕消費するのではなく、貨幣を増殖させるための使用価値として消費するには、自由な労働と、この自由な労働と貨幣との交換が、賃労働の前提であり資本の歴史的条件の一つである。だがもしそうならば、自由な労働を実現させる客観的条件(労働手段と労働材料)からその自由な労働を分離すること[#「自由な労働を分離すること」はゴシック体]が、さらにもう一つ別の前提になる。ことに労働者の自然の仕事場である大地から労働者を切り離すこと——だからオリエント的|共同体≪コミユーン≫にもとづく共同の土地所有を解体することと同様に自由な小土地所有を解体すること[#「オリエント的|共同体≪コミユーン≫にもとづく共同の土地所有を解体することと同様に自由な小土地所有を解体すること」はゴシック体]が、そのもう一つの前提である[注2]。 (『グルントリッセ〔経済学批判要綱〕』「資本制生産に先行する諸形態」「マルクス・コレクション」第㈽巻所収、強調は引用者) [#ここで字下げ終わり] †原初的共同体の共通特徴[#「†原初的共同体の共通特徴」はゴシック体]  いま引用した文章のなかでは、「オリエント的共同体」のみが言及されているにすぎないので、いささか誤解を招く。共同体のオリエント=アジア的類型は、共同所有のなかでも歴史的にもっとも古い型であって、共同所有およびそれと有機的に結合する個人所有の関係の仕方の観点に限定していえば、この最古のオリエント類型からさらに複数の共同体類型が展開する。  これらの展開した類型は、マルクスによれば古典古代的(ギリシア・ローマ的)類型とゲルマン的類型である。オリエント=アジア的、古典古代的、ゲルマン的(封建的)の三類型は、前に出た言葉でいえば、「人格的依存」の社会関係であり、人類史の第一段階のグループに入る。これらの共同体類型に共通する構造的特性があるからである。  共同体は、自然と人間の関係と、人間と人間の関係との二つの側面から構成されるが、この関係は所有の関係[#「所有の関係」はゴシック体]である。人間と人間の関係は、共同体組織として表現される。個人は共同体に所属するかぎりで[#「共同体に所属するかぎりで」はゴシック体]、いっさいの共同体的事業に参加する一種の権利をもつことができる。共同体優位の人間関係であるから、個人の側からみれば、個人の生存は共同体にいわば所有されて[#「所有されて」はゴシック体]いる。個人は心身を含めて共同体の所有物である。これを共同体への個人の帰属という。  他方、人間と自然との関係は、本来の意味での事物の所有である。事物(とくに大地)の所有には、共同所有[#「共同所有」はゴシック体]と個人所有[#「個人所有」はゴシック体]があり、この両極の関係は、個人が共同体に所属するかぎりでのみ、事物の個人所有が許される(すべてのメンバーによってその所有が承認される[#「承認される」はゴシック体])という関係の仕方である。  これらの共同体類型の構造特性は、最後に指摘した事実、すなわち共同体のメンバーであるかぎりでのみ、個人は共同所有に参加することができるし、個人所有も可能であるというところにある。集団と個人、あるいは共同所有と個人所有のむすびつきかた[#「むすびつきかた」はゴシック体]の程度や密度は、それぞれの類型によって異なるが、その度合と密度の違いをこえて、一貫して共同体優位の下での個人の帰属があり、共同体所有と個人所有の統合は緊密であり、分離はありえない[#「分離はありえない」はゴシック体]。人々の観念においても、共同体優位の習俗規範やモラルが近代直前まで保持されてきた。  事物との関係、とくに大地に対する所有の関係なしには、これらの共同体はいずれも存続することはできない。とはいえ、事物の媒介は弱く、人と人の「人格的」関係、とくに優位にある人格と下位にある人格との従属と依存の関係が生活を導く。この一点に注目するとき、「人格的依存(隷属)関係」というべき社会関係が摘出された[注3]。 3 原初的共同体論[#「原初的共同体論」はゴシック体] †共通性と特殊性[#「†共通性と特殊性」はゴシック体]  マルクスの図式でいう人類史の「第一段階」の複数の共同体はすべて、その構造特性の共通性によって原初的共同体とよぶことができる。「原初的」というのは、共同体と個人、共同所有と個人所有の緊密な結合、あるいはそれらが分離していないことを意味する。マルクスの資本主義論の歴史的展望は、これらの原初的共同体がすべて[#「すべて」はゴシック体]解体するときにはじめて登場することができるのであった。  そうだとすれば、原初的共同体は、歴史の観点からいえば、資本主義理解にとって不可欠になるだろう。また原初的共同体との比較歴史論[#「原初的共同体との比較歴史論」はゴシック体]によってのみ、資本主義の文明史的意義をとらえることができる。したがって、原初的共同体の諸類型を、今度は共通特性ではなく、個別的特性においてとらえることも重要になる。これらの類型は、相互に別個で独立にあるのではなく、相互に継承の関係[#「継承の関係」はゴシック体]、積み重なりの関係にある。原初的共同体の共通性と特殊性の両面で普遍史的に考察することは、もはや通常の実証的歴史学の管轄をこえる。そのゆえに、この考察は歴史哲学的である[注4]。 †所有論の観点から見た三類型[#「†所有論の観点から見た三類型」はゴシック体] 「資本制生産に先行する諸形態」(草稿)のなかでマルクスが記述する原初的共同体の姿はかなり複雑であり、暫定的でもあるので、ここで深入りする必要はない。彼とは少し異なる観点から、原初的共同体論を書き換えてみたい。マルクスは共同所有と個人所有の結合を強調しているので、その視点にかぎって、原初的共同体の諸類型の個別的特性を図式的に描くにとどめたい。  マルクスの用語法では、過去の共同体生活は生産様式であり、生産様式は所有複合体である。共同所有と個人所有の結合様式がそれぞれの生産様式と共同生活の枠組を与える。したがって、原初的共同体の三類型は、所有複合によって書き直すことができるだろう。どの原初的共同体にとっても、共同所有が土台であるのだから、問題は個人所有の自立性の密度[#「自立性の密度」はゴシック体]だけである。個人所有が共同所有からどの程度まで自立し、遊離しているのか。これがそれぞれの原初的共同体の独自性になる。この観点でみれば、三つの共同体における所有複合は次のようになるだろう。  第一類型[#「第一類型」はゴシック体]。個人所有の非自立性(自立がかぎりなく小さい)。個人所有が共同所有のなかに「埋没」している状態である。  どの社会にも個人所有というべきものがある。もっとも原始的な共同体といえども、個人所有がゼロということはありえない。第一段階の共同体は、マルクスの用語法では、オリエント=アジア的共同体である。ここでは個人もその所有も実在していたが、それは共同所有と全面的に一体化している、あるいは個人所有が共同所有を表現しているのである。マルセル・モースの用語法を借用していえば、第一類型の共同体における個人所有は、「人格的」所有にあたる。厳密にはまだ「個人的」という名前がなじまないので、モースは、法的人格や道徳的人格の意味での人格ではなくて、むしろ仮面的性格をもつ意味でのペルソナを響かせている personnel を選んだと思われる。  この共同体のメンバーは、一人ひとりの身体もその占有物も共同体からのいわば「一時的借用物」であり、共同体から一時的使用を「許されて」いるにすぎない。たとえば、婚姻関係を結ぶ場合、女性の身体も所有物も彼女自身のものでありながら、同時に共同体の所有であり、女性の身体は彼女を受け取る他の共同体にとって「一時的に使用が許される」にすぎない。女性は結婚をしても元の出身共同体に帰属し続ける。このように個人も個人所有も実在するのだが、その自立度は極小である。それをさして私は前に「埋没」と形容したのである。  経済面でいえば、第一段階の共同体では、事物の商品関係は不在である。伝統的なよび方でいえば、それは自給自足経済とよばれてきたが、厳密にいえば、この共同体の物質的生活にとって「余剰物」の市場的[#「市場的」はゴシック体]交換は閉め出されている。事物のやりとりはあるし、なくてはならないのだが、市場的取引はない[#「市場的取引はない」はゴシック体]。事物の交易はマルクスのいうように「人格的」相互関係によって処理される。二十世紀の人類学は、これを象徴的・儀式的贈与体制または象徴的応酬性(挑戦と応答の互酬性)と名づけるだろう[注5]。  第二類型[#「第二類型」はゴシック体]。個人の自立性が高まり、個人所有が相対的に共同所有から遊離しはじめる[#「遊離しはじめる」はゴシック体]が、個人も個人所有も原則的に共同体と共同所有に依存している段階。  個人所有の自立性を引き起こした原因は単純ではないが、おそらくもっとも重要な原因は商品経済と商業の発展、種々の欲望の開発とそれに応じる社会的分業の発展が決定的であっただろう。これはとくに都市型の生活が成立したところでは多少の差はあれ、似たような現象が起きた。マルクスは、西洋の歴史からこの類型をつくった。それが「古典古代的(ギリシア・ローマ的)」とよばれる原初的共同体である。  個人は自立的になり、「自由な精神」も生まれたが、この個人の自立と自由は近代の自由とも自立とも違うというのがマルクスの主張点である。それは正しい指摘である。なぜなら、古代的な個人の自立はあくまで共同体のメンバーに限定されていて、個人と共同体は|臍≪へそ≫の|緒≪お≫で堅く結ばれていたからである。共同体による拘束があることこそ、原初的共同体とよばれる理由である。  ついでにいえば、かれらの自由と自立は多数の奴隷の「労苦」によってはじめて成り立つものであった。その意味で、西洋古典古代の原初的共同体は奴隷制的共同体である。奴隷をもつことは、すでに政治支配が高度化し、政治機構を運営する個人の精神的発達を要求する。しかし古代のギリシアもまた、共和制ローマと同様に、贈与体制が支配的であった。そこに亀裂が生じた。  ペリクレス時代のアテナイにおいては、海外貿易は極度に発展し、居留異邦人である大商人はアテナイ共同体に受けいれられるまでにはいたらないにしても、かれらと提携して富を蓄える富裕層が生まれ、そうした富裕層の師弟のモラルが金銭勘定合理主義に引きずられたことも事実であった。古典期アテナイの最盛期は同時に伝統的な贈与体制の崩壊期でもあった。  そのとき、金銭との交換に知識を売りさばく「モダンな」ソフィスト知識人が続出し、これが贈与心性を温存するソクラテス学派(プラトンを筆頭とする「哲学者」)を刺激して論争状況が生まれた。第一章でも触れたことだが、ソクラテス裁判もまたこうした社会状況を背景にして起きた。  共同体の組織法に関する法の理念とエートスの面では、ソクラテス学派とソフィスト(その多くはプラトンによれば異邦人であったが)の論戦は、理論的立場の内容をいま脇においていえば、伝統的な国制であった象徴的贈与体制でいくのか商品経済体制にいくべきかの分岐点を表現していた。すくなくとも、ソクラテス学派の観点からはそう感じられた。  しかし実際には、この亀裂は商品経済がもたらしたものであり、それによって個人の自立性も高まったのだが、商品経済は伝統的な共同体と個人の関係を完全に崩壊させることはできなかった。ローマ時代でも商品経済は発展するが、共同体の原初性はついに崩壊しなかった。ヘレニズム時代に移行した古代世界でも、商品経済は原初的共同体を揺るがせるまでにはいたらず、個人の自立性は内面のなかに求められた。そこにストア倫理が成り立つ(セネカ、マルクス・アウレリウス、エピクテトス等々)。さらにストア派の内面に自閉する倫理を通してキリスト教倫理もまた成り立つ。この思想史のなかに原初的共同体の強靭さが表現されていた。  マルクスの議論はさしあたり物質生活を論じるのだが、思想史の面を補っていえば、彼の議論は古典期文化一般の趨勢に対応している。この点でマルクスの古典古代的共同体の基本を修正する必要はまったくない(ただし細部の事実については個別修正の必要がある)。  第三類型[#「第三類型」はゴシック体]。個人と個人所有が優勢になり、共同体とその所有が劣位にたつ段階。  しかしこの段階になっても、共同体の拘束は、事実的にも倫理的にも強く、個人と個人所有の発展はあくまで共同体と共同所有の紐帯から解放されない。マルクスの用語法では、この類型は「ゲルマン的(封建的)」共同体とよばれる。マルクスは、ヘーゲルと同様に、ゲルマン的「自由」の理念をつよく抱いていた。サンスクリットの発見から登場したインド=ヨーロッパ語族を基にして生まれた「インド=ゲルマン的」自由人の理念が一種の「人種的」イデオロギーとしてドイツ人のなかに流布しており、それがヘーゲルの歴史哲学のなかに影を落としているが、おそらくマルクスもそれを共有していた。ヘーゲルにとっての「モダン」の時代は、ゲルマン人の時代から開始する(けっしてフランス革命からではない)。  マルクスの「ゲルマン的」共同体論は、すでにかなり「モダン」である。なぜなら、個人の自立性は共同体をしのぎはじめ(たとえ一部の人間にかぎられるとしても)、個人所有はかぎりなく「私的」所有に近づく。しかしマルクスも注意しているように、ゲルマン的個人所有は、かぎりなく「私的」所有に近づくだけであって、けっして私的所有にはなりえない。なぜなら、ゲルマン的な「自由な」個人の所有は、かなりの自立性をもちながらも共同所有から分離することはできなかったからである。だからマルクスにとって「ゲルマン的」共同体は、「最後の」原初的共同体なのである[注6]。 4 文明史のなかの資本主義[#「文明史のなかの資本主義」はゴシック体] †共同体論の発見的機能[#「†共同体論の発見的機能」はゴシック体]  マルクスは原初的共同体の諸類型をつくり、人類史の歴史哲学的展望を用意した。この構想はいまでもおおいにわれわれを知的に刺激する。とはいえ、マルクスの類型論は、抽象的な歴史哲学をもっぱらめざすのではなくて、本章の冒頭に記したように、資本主義の発生を説明するための装置として用意された。この類型論は、現実のなかにある重要な事実をいわば引きずり出す「発見的」機能を与えられている。  三つの原初的共同体は、その理論上ありうる変形体[#「変形体」はゴシック体]とともに、たんに遠く過ぎ去った過去の遺物ではなくて、資本主義時代になっても残存し続ける同時代的現象である。三つの原初的共同体はヨーロッパ大陸のなかに現実に存在しているばかりでなく、とくに非西欧地域ではなお強く息づいている現実である。地球規模で拡大する資本主義経済は、内部においても(内部では直接には封建的共同体が見える形で実在していた)外部においても、あらゆる変形体を含めて原初的共同体を全面的に破壊しないでは発展することはできなかったし、いまもある意味ではそうである[注7]。 †異例としての資本主義[#「†異例としての資本主義」はゴシック体]  原初的共同体論を手がかりにして、人類史の流れのなかに資本主義を位置づけるなら、資本主義体制は人類史上まことに特異な[#「特異な」はゴシック体]、異常ですらある[#「異常ですらある」はゴシック体]社会体制であるといわなくてはならない。特異とか異常といっても、道徳的な意味ではない。人類は、久しい間、種々の原初的共同体の形式をつくりつつ生きてきた。ごく最近までそうであった。人類の経験からみれば原初的共同体の歴史のほうが長く、文明の遺産もこれらの共同体がつくったものばかりである。文明史とは原初的共同体の文明史である。  しかるに資本主義は、この文明の母胎であった原初的共同体を完全に全面的に破壊しなくては発展できないという宿命にある。これを特異で異常といわないほうがおかしい。すくなくとも「一生に一度は」資本主義的近代、つまりわれわれの時代の「異例性」を不思議と感じる[#「不思議と感じる」はゴシック体]経験をもつことは精神の健全さに役立つ。  およそ西欧十五世紀の末あたりから新大陸「発見」と西洋人が称する海外膨張運動が開始されるが、経済的にはおよそ十六世紀から地球規模の国際貿易と商品経済の世界的展開が極端に高揚してきた。ヨーロッパの内部でも政治的、宗教的な動乱が経済の運動とからんで歴史は激動の時代にはいる。商品経済は、一挙にではなく少しずつ伝統的な農村共同体のなかに浸透し、農民を徐々に商品経済にまきこみ、市場もまた局地的な範囲から全国的な広がりにまで発展する。  細部をいえばきりがないが、資本主義の発生は、商品=市場経済の深まりだけで実現したのではない。羊毛への需要が高まるなかで領主による農民追放と土地の牧場化、国家の重商主義政策による貨幣財産の蓄積、大金融ブルジョワ層の形成とその国家的政治への参画、農村出身の貧民の身体をワークハウスを通して産業的労働身体へ人工的に転換させること、そして宗教改革による中産階級の経済的禁欲倫理の形成、等々がからまりあうなかで、資本主義は徐々に台頭していく。こうした偶然的事実を一挙にまとめ上げる基礎的事実[#「基礎的事実」はゴシック体]が資本主義の構造的形成の前提になる。その事実が、原初的共同体の解体[#「原初的共同体の解体」はゴシック体]であった。 †共同体崩壊の結果[#「†共同体崩壊の結果」はゴシック体]  原初的共同体が解体した結果、何が起こったか。この共同体のすべてに共通する事実であった共同所有と個人所有の緊密な結合の解消、別の言葉でいえば、生産する人間と大地との結合が全面的に解体したことだった。この結合が持続するかぎり、大地と生産する労働身体は、けっして資本主義経済のなかに入ることはありえない。資本主義のもっとも基礎的な前提は、一方の労働する身体、他方の貨幣財産(貨幣の姿をとる資本)が分離して[#「分離して」はゴシック体]実在し、その分離した両極を再編結合して資本の生産過程のなかに組み入れる[#「組み入れる」はゴシック体]ことに尽きる。それが資本と賃労働の社会関係[#「社会関係」はゴシック体]である。では、どこからこの両極が分離した状態で登場したのか。いうまでもなく原初的共同体の破壊からである。  原初的共同体の堅い絆を解体するなら、生産手段[#「生産手段」はゴシック体](土地から職人の道具まで含む)と人間の労働身体[#「労働身体」はゴシック体]がばらばらに分離する。土地や生産手段は、法的擬制をまとって商品化し、労働身体もまた市場で「売り物」になる。ふたつを結合し、その分離的関係を再生産すること、これが資本主義の基本的構造である。したがって、資本主義は、原初的共同体をあらゆる面で破壊することなしには歴史的時代を築くことはできない。経済としての資本主義の圧倒的支配の下に服属する「市民社会」(古代的な意味ではなく、ブルジョワ的市民の社会)もまたひとつの画期をなすことはできなかった。 †共同体の崩壊に対する態度[#「†共同体の崩壊に対する態度」はゴシック体]  原初的共同体の破壊をどのようにみるかに応じて、思想はふたつに分かれる。ひとつは、『コミュニスト宣言』のマルクスのように、資本主義による原初的共同体の破壊が、未来の自由人共同体を用意したという観点から、「革命的」として高く評価することもできる。もうひとつは、ロマン派のように、古きよき共同体の文明的遺産と習俗をなつかしくおもい、その破壊をとどめたいと願望する態度である。  マルクスの態度は、資本主義を文明史のなかで位置づけて、過去の原初的共同体をいちど徹底的に破壊するほうが「人類の前進」のためによいと判断するのだから、資本主義に対して好意的ではあるが、それは事柄の半面でしかない。マルクスにはもうひとつの態度がある。第一章で指摘したようにマルクスの精神は「古代ギリシアを故郷とする」精神の持ち主であるから、この故郷的なものとしての原初的共同体とそれの本質的な特質に対しても過敏に反応する。原初的共同体の精髄を高次の形態で復活させること[#「高次の形態で復活させること」はゴシック体]、それが彼のひそかな願望であった。これが彼の革命思想の根幹にある。 「高次の形態の」共同体とは何か。前の歴史哲学的図式を使っていえば、第二段階の物象的依存関係の結果、すなわち歴史的に形成された個人の成立[#「個人の成立」はゴシック体]を「媒介」とする第三段階の自由人の共同体[#「自由人の共同体」はゴシック体]である。マルクスの観点では、近代資本主義のみが「本来の個人」をつくったのである。しかし資本主義とブルジョワ社会がつくり出した個人は、共同性を抹消した私的[#「私的」はゴシック体]個人であり、「物象」(とくに商品、貨幣、資本)に隷属する[#「隷属する」はゴシック体]個人である。これらの個人には共同性がないわけではないが、その共同性はすべて貨幣と資本に吸収されている。  貨幣と資本は「転倒し倒錯した」共同体であり、分裂した[#「分裂した」はゴシック体]共同体である。この転倒と倒錯の性格をなくし、貨幣と資本から共同性を取り戻すことが、初期以来マルクスが理念として保持してきた「分裂なき共同体」である。所有論の観点でいえば、いったんは私的所有[#「私的所有」はゴシック体]へと変質し頽落した個人所有を、もう一度共同所有と結合すること、そして今度は個人所有と自由な個人を優位におき[#「個人所有と自由な個人を優位におき」はゴシック体]、ゲルマン的所有にみられたように、共同所有を劣位におく仕方で[#「共同所有を劣位におく仕方で」はゴシック体]、個人と共同体を統合すること、これが未来に想定される分裂なき[#「分裂なき」はゴシック体]共同体である。 †資本主義の歴史的意義[#「†資本主義の歴史的意義」はゴシック体]  文明史のなかの資本主義の意義は、原初的共同体の破壊という否定的・地獄的な歴史的使命を果たしつつ、そのなかでどの原初的共同体もなしえなかった自由な個人をともかくも生み出したことにある。文明史のなかの資本主義は、歴史哲学の図式でいえば、第一段階を破壊し、第三段階を実現する条件を生み出す中間段階にあたる。それはいまもなお進行中の歴史的現実である[注8]。  要するに、資本主義は文明史のひとつの画期的な時代である。 [#ここから2字下げ] 資本は生産手段、生活手段の所持者が自分の労働力を売る以外にはない|自由≪フライ≫な労働者[#「|自由≪フライ≫な労働者」はゴシック体]を市場で見つけたときにはじめて成立する。そしてこの一つの歴史的条件[#「この一つの歴史的条件」はゴシック体]のなかに世界史が含まれているのだ。だからこそ資本[#「資本」はゴシック体]は当初から社会的生産過程の一時代[#「時代」はゴシック体]を告知しているのである。 (『資本論』第一巻第四章「貨幣の資本への変容」「マルクス・コレクション」第㈿巻所収、強調は原文通り) [#ここで字下げ終わり]  資本の存立条件(資本と賃労働の分離と結合という構造的条件)のなかに「世界史が含まれている」とマルクスはいう。世界史がこの抽象的な「分離」のなかに含まれて実在しているという表現は大げさな比喩にみえるが、そうではない。マルクスは人類史の基本的経験(社会的生産過程の複数の画期的な時代)が資本の構造のなかに文字通りに含まれている[#「資本の構造のなかに文字通りに含まれている」はゴシック体]と考えている。歴史的事実の具体物ではなく、本質的経験の骨格が変容されて[#「変容されて」はゴシック体]含まれているのである。  この連関を考えるためには、面倒なことだが、歴史的時間をマルクスがどう考えたかをひとわたり考察してみなくてはならない。次の章でそれを取り上げよう。 [#ここから2字下げ] 注1 マルクスは、古代のギリシアとローマを一括しているが、これにはいささか問題がある。二つの共同体は同じ文化圏にあるが、ギリシアの都市国家体制における人格的相互関係と帝国形式をとるローマの人格的相互関係はすでに差異をみせているからである。圧縮していば、古代ギリシアの共同体は、ソフィストのような「自由人」が登場したとはいえ、まだ圧倒的に儀礼的な応酬・互酬体制を維持していた。ところがローマでは、都市国家が帝政に変化すると、広義の贈与体制でありながら、贈与の意味が変質する。贈与的人格関係は、保護者《パトロン》と被保護者《クライアント》の関係になり、他方では、贈与行為が個人の内面的な道徳的行為に変化する。ギリシア的な kharis(優美と社会的承認価値)はローマ的な caritas / gratia(親切と優しさ、キリスト教的な用語では慈悲と恩寵)に変わる。ストア倫理において、贈与行為は自分の修養のために他人に親切な振る舞いをするという主観主義的な行動である。同じ贈与体制でありながら、ギリシアとローマでは贈与の意味内容の重大な変動が起きている。その背景は、ひとつには古くからの贈与互酬的体制から個人が前面に出る恩義・負債関係へと共同組織が変わったことがあり、他方では政治組織が都市国家から帝国体制になり、絶対権力が登場したことである。厳密にはギリシアとローマの共同体組織は区別しなくてはならない。ヘーゲルは『精神現象学』(第六章「精神」)のなかで、ギリシアからローマへの変動を鋭くとらえていたが、その論点はマルクスの「古典古代的」共同体論ではどうやら無視されたようだ。 注2 マルクスはここで「オリエント的」共同体という用語を使っているが、この「オリエント的」は後には「アジア的」と言い直される。それは「最も古く原初的な」という意味であって、地理学的なオリエントまたはアジアではない。オリエント=アジア的という用語は、古典古代的(ギリシア・ローマ的)、ゲルマン的という言葉と同じように、地理的命名ではなく、類型の名前[#「類型の名前」はゴシック体]である。たとえば、オリエント=アジア的共同体は、地理学的な意味でのアジアにだけあるのではない[#「にだけあるのではない」はゴシック体]。それはロシアやバルカンにも、ヨーロッパにもある[#「ヨーロッパにもある」はゴシック体](とくにスペイン、イタリアなどの南欧、スイスのような山岳地帯、等々)。古典古代的共同体やゲルマン共同体についても同じである。これらの共同体の名前は、とくに個人所有と共同所有の結合の仕方を特徴づける類型名なのである。これらを地理的または民族的特質と受け取るとき、種々の誤解が生まれる。マルクスがイギリス植民地インドの共同体の特徴をアジア的共同体の類型に入ると論じたとき(論文「イギリスのインド支配」「マルクス・コレクション」第�巻所収)、それは地球のどの地域にもかつて支配的であり、近代においても散在する「もっとも原初的な共同体」の特質をインド共同体が、ロシアのミール共同体と同様に、典型的に体現していると論じたのであって、インド人を「野蛮な民族」だと非難したわけではない。それどころかマルクスは、インド亜大陸とイタリア半島をモンテスキューに倣って地理学=風土論的に比較しながら、インド人を「イタリア人よりも繊細で器用な」民族であると高く評価していたのだ。理論的な類型論と民族地理学的(望むなら「人種主義的」)格下げ評価とを混同するとき、マルクスの議論を「唯物論的オリエンタリズム」だと告発する論調が出てくるであろう。マルクスが西欧知識人として無意識のなかで西欧文明中心の見方に傾くことは事実であるが、彼は可能なかぎり自分のこの西欧啓蒙主義出身の体質を批判的に自覚した希有の思想家であったことも厳然たる事実なのである。前記の混同のゆえに、一九六〇年代以降には不毛とみえる「アジア的生産様式」論争が生まれた。いまもこの種の混同がアメリカや日本で隠然と進行しているが、もう少しマルクスのテキストの歴史への置き直しに敏感になるべきであり、十八世紀以降の西欧精神史の知識に通じる必要がある。 注3 マルクスは「依存関係」を政治的支配と同一視しているようである。人格的依存は、人間の相互行為であり、それは直接にはまだ政治支配と同じではない。共同体への帰属の相互の承認、長幼の順序のモラル、公的な領分と私的領分の区分(男子の領分と女性の家族的領分の峻別)などは、人格的依存関係であり、人格的相互行為である。この共同体の内部にある人格的関係の上に展開するのが政治的支配の類型である。マルクスの用語でいえば、オリエント=アジア的共同体の上方にそびえる政治的支配は、「オリエンタル・デスポティズム(東洋的専制政治)」であり、古典古代的共同体の上にできた政治的支配は、都市国家的政治(古典期ギリシアでは古代的デモクラシーと奴隷制)、ゲルマン的共同体の上に展開する政治形態は封建制である。共同体内部の相互依存と政治的支配は無関係ではないが、そのままで同じとすることはできない。マルクスはこの区別をしていたようであるが、両者を同時に論じているので、しばしば混同して理解されてきたいきさつがあるので注意しなくてはならない。 注4 上記の原初的共同体論を経済史学の概念に仕上げて、歴史科学的に発展させる可能性はけっして閉ざされていない。事実、マルクスは、可能なら自分のまだ概括的にすぎる共同体論を、各時代の個性的な生産様式と社会構成の理論概念へと精錬する計画をひそかに抱いていたと推測することができる。なぜなら、この原初的共同体への言及は、『資本論』はもとより、それの準備草稿のなかで頻繁に言及されているからである。マルクスは資本主義経済の自立的再生産構造を概念的に記述するときでさえ、比較歴史論を駆使していた。ところで、原初的共同体論を経済史の概念へと発展させる試みは、世界の経済史学界に先駆けて大塚久雄によっておこなわれていた。彼の『共同体の基礎理論』(岩波書店、一九五五年)を参照されたい。 注5 もっとも古いタイプの原初的共同体における社会関係を「象徴的・儀式的贈与体制」として描き直すには理由がある。マルクスによる「アジア的共同体(生産様式)」の説明はいまでは時代遅れであるのみならず、内容において貧しいからである。マルクスがこの共同体の生活実質を「村落共同体内部での家内工業と農業の直接的統一」として、つまり民衆が職人であり農民であり鍛冶屋でありその他何でもありうるといった、ひとりが自力で何でもできる生計維持様式として特徴づけたことは、それ自体としてはまちがいではない。これに近いことはごく近年までどの地域でもみられた。それを学者たちは「自給自足」とよんできたが、その命名の仕方の前提にある見方が問題である。原初的共同体は、「アジア的」であれ「古代的」であれ、閉じた島宇宙であるという思いこみがかつてあった。マルクスにもあった。この自閉的な共同体の上に数多くの征服者が到来したが、この共同体の自閉構造にはまったく手を触れずに、それを温存し、他方では専制国家はその維持のために地理学的条件に拘束されて治水灌漑を大規模に実行したとマルクスはいう。これも事実であろう。しかし問題は下部の共同体を閉じた世界とみなす態度は、現在の人類学的成果に照らしてみると維持しがたい。また共同体のメンバーの生活を何でも屋の物質生活とだけみるのも狭い見方である。原初的共同体の機軸は、物質生活以上に、他の共同体との威信と名誉を賭けた競り合いの社会関係[#「他の共同体との威信と名誉を賭けた競り合いの社会関係」はゴシック体]であり、事物の贈与を媒介にするが、事物の移動よりも共同体と共同体が相互に相手の名誉を承認しあうために、贈与を挑戦として提供し[#「挑戦として提供し」はゴシック体]、相手の威信を賭けた対抗行為を呼びかける[#「呼びかける」はゴシック体]象徴的で儀式的な贈与的応酬体制であった。重要なことは、共同体は閉じていないことであり、他の共同体との挑戦と応答という応酬の意味での互酬体制であり、それを通してはじめて、儀式的挑戦と応酬を経た後で日常的な事物の移動が、しかし商品交換としてではなくて、結果としてもたらされることにある。十九世紀の研究環境を考慮するとき、マルクスに象徴的応酬体制の知識を要求することはできないが、いまではマルクスの記述は修正されなくてはならない。 注6 個人所有と私的所有[#「個人所有と私的所有」はゴシック体]は概念的に区別されなくてはならない。個人所有はあくまで共同所有との連関のなかでのみ使用される。共同所有から完全に切断したところにのみ私的所有は成り立つ。私的所有は、商品経済と資本主義の全面的支配があるところで歴史的に登場するのである。 注7 いまわれわれの眼前で展開する地球規模の資本主義的世界包摂は、とくにアフリカ、インド亜大陸、東南アジア、ラテンアメリカをまきこみ、その地域に残存する原初的共同体を軍事的政治的強制力によって破壊し続けている。たとえば、アフリカにおける内乱は、十九・二十世紀における西欧帝国主義(植民地主義)のマイナスの遺産であるが、それは原初的共同体のアフリカ的変形体が崩壊しつつあることの流血の証拠である。 注8 マルクスの観点からいえば、自由な個人を創出することが近代の本分である。それを資本主義がなそうと政治革命がなそうと、理論的には等価である。たとえばロシア革命や中国革命をふくむ二十世紀の政治革命が自由な個人を創出することに失敗したとすれば、それらの革命は革命ではなかったことになる。文明史的観点からいえば、二十世紀の諸革命は、フランスの市民革命以前的であったと評価されるだろう。またロシアや中国に残存し続ける原初的共同体に対して歴史哲学的認識をもたなかったこともまた、これらの革命の性質と方向を決定した。政治革命による過去の破壊はあった。しかしその破壊は自由な個人を創出したのか、その個人の「普遍的発展」(資本主義的社会ですら物象的依存のなかでかなりの展開をみせている、と『グルントリッセ』はいう)を文明史の枢軸であるとみなして保護育成したのかどうか、この一点に革命の歴史哲学的評価はかかわるだろう。マルクスの原初的共同体論はそこまでの射程をもっているのだ。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 第四章[#「第四章」はゴシック体] 歴史的時間の概念[#「歴史的時間の概念」はゴシック体]       ——ヘーゲルとマルクス 人間の解剖のなかに猿の解剖のための鍵がある。 [#地付き]…………(マルクス『経済学批判要綱』「序説」)[#「…………(マルクス『経済学批判要綱』「序説」)」はゴシック体] 時間は経験的に現実存在する概念そのものである。 [#地付き]…………(ヘーゲル『精神現象学』)[#「…………(ヘーゲル『精神現象学』)」はゴシック体] [#改ページ] †過去を知ることのむずかしさ[#「†過去を知ることのむずかしさ」はゴシック体]  前章の末尾で指摘したように、資本制経済体制とそれに支配される市民社会の時代は、たんにひとつの時代であるばかりでなく、そのなかに先行するすべての時代の精髄を、したがって人類史の全体を含む[#「人類史の全体を含む」はゴシック体]のだとしたら、その「含む(包摂)」とはどういうことなのであろうか。  過去の出来事は、生まれては消えることの繰り返しなのだろうか。ひとは過去の出来事を永遠に消え去ったものとみなし、ときに思い出しながら忘れ去る。ひとが過去を思い出すとき、過去のものは永遠に消滅していまはないものと当然のように前提している。歴史の研究は永遠に決定的に消滅した事物を、かつてあったように再現することだというが、かつてあったままに知ることなどどうしてできるのだろうか。資料があれば自動的にそうできるのだろうか。むしろ反対に、学者もふつうのひとも現在の自分の考えや見方を過去に投影しているのではないだろうか。  そうなると過去は現在の物語になってしまう。過去は現在を写す鏡でしかなくなる。年表式の「過去から未来へ」と流れる時間という思想のなかには、おそらくは「昔の姿のままに再現する」という実証主義と、現在を過去へ移動させる無意識の主観主義が幾重にもからみあっているにちがいない。歴史の理論はこうした知らぬ間の意識の働きを一度は反省し、意識のなかの時間と客観的な歴史的時間の混同を解剖しないですますことはできない。マルクスの歴史論を考えるとき、この種の面倒な問題を議論する必要がある。だから本章の歴史時間論はやや抽象的になることをあらかじめ承知していただきたい。 †現在が過去を包むこと[#「†現在が過去を包むこと」はゴシック体]  マルクスの歴史哲学によれば、資本制経済がつくりだす社会(むずかしくいえば社会構成)は、直接には封建制社会から出てきたには違いないが、封建制を含むすべての先行諸社会(原初的共同体の社会)の解体を前提とし、解体から生じたいくつかの要素のくみかえによって成り立つ。この解体とくみかえのプロセスを「世界史のエッセンスを包む」という。マルクスは文字通りにそれを主張している。とはいえ「世界史のエッセンスを包む」といわれても、ピンとこないだろう。その言葉はどういう事態をさすのだろうか。これを考えるためには、歴史的時間をめぐるヘーゲルとマルクスの関係をひとまわりしてみなくてはならない。 1 歴史的時間の蓄積[#「歴史的時間の蓄積」はゴシック体] †人間なるもの[#「†人間なるもの」はゴシック体]  歴史的時間という言葉は、時間と歴史から合成されている。用語を可能なかぎり正確にして話を進めたいのだが、時間についても歴史についてもすでに腐るほど議論されてきただけでなく、論者の数だけの「理論」があるともいえる。そうした迷路にわけ入ることはできないので、ここでは私の考え方をいわば「独断的に」提示し、それを前提にして話を進めたい。この独断命題が一般性をもつと主張するつもりはないが、話の切り口として役立つだろう。  私見では、歴史のなかで生きる人間の行為なしには時間はないという仮説から出発することが現実的である。簡単ながら、特殊に人間とよばれる生き物について一定のイメージを提供し、そこから歴史的時間の観念へと進みたい。すなわち、「人間」は自然のなかから出現し「我はなにがし」と言う[#「言う」はゴシック体]「精神的な」動物である。そのとき生物的なヒトは人間的生命体に変貌する。この人間は、言葉[#「言葉」はゴシック体]をもって自然と自己を理解しながら、自己の欲望を満たしつつ、他人と一緒に共同生活をいとなむ。このいとなみの総体を圧縮して行為と名づける。ひとまずそのように受けとめて議論を進めよう。 †行為、欲望、時間[#「†行為、欲望、時間」はゴシック体]  人間的時間は、たんに時間一般であるのではなくて、必ず歴史的[#「歴史的」はゴシック体]時間である。人間は時間の「なかに」あるだけではない。人間が時間それ自体である[#「人間が時間それ自体である」はゴシック体]。  この命題が成り立つには、人間が現世内で行為する[#「行為する」はゴシック体]ことを条件または前提とする。人間的行為は、特定の与件(所与)——たとえば自然的与件、社会的与件——に働きかけて、それを限定しつつ変形し、前には実在しなかった新しい何か[#「新しい何か」はゴシック体]を生産する。この否定的にして限定的な変形行為がいわば時間を「うみだす」のであり、あるいは時間そのものである。  ひとが世界内の事物に関係し、事物を変形するとき、事物は特定の状態から別の状態に変化する[#「変化する」はゴシック体]が、この状態の変化をひとが知る[#「知る」はゴシック体](自覚する)ことが時間である。この変化の意識が時間であるが、意識するためには行為による事物の変動が前提になる。行為と変化の意識は一体である。  人間は欲望する。人間とは欲望そのものである[#「人間とは欲望そのものである」はゴシック体]。欲望を満たすために、人間は欲望から目的=構想を設計し、それを実現すべく行動に出る。人間的欲望は、まずは自然的身体を維持するための自然的[#「自然的」はゴシック体]欲望である。つぎに人間は原初から社会内存在であるから、無数の他人とさまざまな欲望的関係を結ぶ。これは他人の欲望と自己の欲望の「つきあい」であり、これを簡単に社会的[#「社会的」はゴシック体]欲望とよぼう。  社会的欲望のもっとも日常的で簡単な現象は、他人がほしがるものを私もほしがるという心の動きである。これは他人の持ち物をうらやましいと思うとか、他人の地位をねたみ自分もそれに達したいというように、他人の欲望を私はひそかに欲望しているのである。現代人の消費欲望は、三種の神器(マイカー、マイハウス、マイテレビ、等々)を他人と競うが、これは物の所有をめぐる欲望のせりあいであり、他人にまさりたいという自分の虚栄心をひそかに満足させる心の傾きである。欲望と欲望のつきあいとはまずそんなところである。  人間は自然的生き物であり、同時に社会的生き物であるから、つねに二重の欲望を実現しなくてはならない。欲望から発する人間的行為は、与件(目の前に与えられてあるもの)を否定的に変形しながら、身体的欲望を満たす生活手段を創造する。これが一般に経済活動である。他方で生きのびるための共同組織(社会や共同体)をつくる。これが政治活動である。共同社会を維持し再生産しつづけるためには、経済と政治の領域のなかで欲望をコントロールする。経済は物質的欲望を事物の分配を通して、政治的統治は社会的欲望を権力配分を通して、コントロールする。経済も政治も欲望の制御装置である。  欲望と行為があるかぎり、人間はたんに生きるためにだけでも環境を変更する。環境(前に与件といったもの)の変更があれば必ず新しい事態が生まれるが、人間がそれを認識し記憶し語るとき、歴史の時間が流れる。それをさして人間的存在は時間的であるという。ひとは時間の内部にある。「時のなかにある」とは「一時的、過渡的」であることだが、この特徴は歴史の特徴である。人間が自分を時間内存在としてつくりだす「原因」があるとすれば、それは欲望と行為である。なにかをめざして行為するとき、人間は対象と自分の行動について自覚し言葉を発する。そして自分の内部と外部について物語(語られる歴史)を紡ぎ出す。その意味で人間は時間的であり、それ以上に時間そのものである。 †出来事について語ること[#「†出来事について語ること」はゴシック体]  時間的存在であり、時間であるところの人間が運動するそのつど、前になかったものという意味で「新しい」事物が生まれるが、この「新しさ」が重要である。ひとつの「新しい」事物がこの世界に登場するたびに、世界はたとえ微少なりといえども相貌を変えた[#「相貌を変えた」はゴシック体]のである。世界の相貌の変化は、出来事[#「出来事」はゴシック体]として定義できる。出来事は世界の変貌である。人間はこの変貌に驚く[#「驚く」はゴシック体]、あるいはそれによって強い印象をうける。出来事は人間精神のなかにその刺激の刻印を残す。この強い印象あるいは記憶に残る刻印のゆえに、人間は自分の行為の結果を世界状態の変動としてみなし、それに「ついて」語る意欲[#「語る意欲」はゴシック体]を感じる。この語りは、出来事について筋道をつける歴史、知としての歴史である。  歴史とは、人間的行為によって生じた世界変貌としての現実的出来事およびそれについての語り(言説、原初的意味でのmythos)である。人間的歴史が必ず行為の結果(現実的事件)とそれに関する物語から成るのは、先に述べたように、人間が世界変貌を自らつくり出し、それに驚き、しかも精神がそれによって刺激されて語り出すからである。歴史とは現実と言説の複合であって、二つの要素を分離することは原理的にできない。  こうして、人間が時間的であり、時間であるからこそ、世界は変貌し、二重の意味での歴史が生じる。人間的時間は必ず歴史的時間なのである。歴史的時間はつねに現実の人間と一体であり、その意味で具体的である。たしかに時間はまずは意識内の時間ではある。しかし意識された時間(概念された時間)は人間の行為を通して「現実に存在する」。 †ヘーゲルの時間論[#「†ヘーゲルの時間論」はゴシック体]  ヘーゲルは言う——「時間に関していえば、……それは現存在する概念である。」あるいは「時間とは、現に存在する概念そのものである。」(『精神現象学』)  この文章の意味は、人間が行為し、行為の結果について語りつつ、有意味な何ごとかを言うこと、つまり人間と世界の実践的関係[#「人間と世界の実践的関係」はゴシック体]を圧縮して表現している。時間が現実的に存在する想念(あるいは概念)であるためには、人間はすでに行為した[#「行為した」はゴシック体]ことが前提となる。すでに述べたように、行為は世界への否定的関係であり、現実的な結果(新しい何か)を生む。原因から結果が生まれるまでに時間が流れる。行為の持続が時間であり、行為と結果は時間のなかに存在する。要するに、行為し語る存在である人間であるからこそ、人間は「時間である」といえる。自分の行為とその結果を意識して言葉に表現するからこそ、人間は「現存在する概念である」といえる。  ヘーゲルの場合、時間は、意識内部の時間あるいは時間意識にとどまらず、厳密に歴史的[#「歴史的」はゴシック体]時間として定義されている。「意識の経験」は時間的であるがゆえに、歴史的[#「歴史的」はゴシック体]経験になり、現実の歴史的経験は、それを言語に移転する哲学の歴史[#「哲学の歴史」はゴシック体]になる。この命題は、ヘーゲルの現実概念が「対象−について−語る−主体」または「主体−によって−語られる−対象」という構造から必然的に導き出される。  換言すれば、現実性 (Wirklichkeit) は、主体(語る人間)、対象(言説によって開示される存在)および両者の関係という三つの層[#「三つの層」はゴシック体]から構成されている。主体「と」客体というときの「と」は関係づける行為[#「関係づける行為」はゴシック体]である。両極をつなぐ関係または結合する行為があるかぎり、現実性は必ず歴史的現実になる。時間は現実存在するから、歴史的時間なのである。  この原理的構想に関しては、マルクスは厳密にヘーゲルに従っている。マルクスの歴史的時間論は、ヘーゲル的時間論の具体的延長と言わねばならない。 †アウフヘーベン(止揚)の意味[#「†アウフヘーベン(止揚)の意味」はゴシック体]  ところで、ヘーゲルの論理学(存在論)的用語として「止揚(Aufheben)」もまたマルクスによって継承された。歴史的時間を論じるとき、「止揚」の働きを考慮しなくてはならない。以下では、ヘーゲルのもとの言葉を使いたいので、カタカナ書きでアウフヘーベンを使うことにする。この言葉はヘーゲルも指摘しているように、日常語であり、たとえば「ゴミを拾う」と「ゴミを捨てる」という反対の意味を同時に意味している。ヘーゲルはこの言葉の両義性をうまく使いこなしていく。  アウフヘーベンの概念には三つの側面がある。三つの側面は同一の事態の三つの相にすぎないが、あえて分解していえば、第一に、否定すること、第二に、否定されたものを保存すること、第三に、保存しつつ上昇ないし昇華させること、である。  これらの三つの側面の総合的働きによって、否定された現実は、否定的行為によって産出された新しい現実の構成要素《モーメント》に転換する。否定された現実は否定以前には具体的な姿《ゲシュタルト》をもっていたが、否定され、しかも上昇的に保存される状態では、この具体的ゲシュタルトは消滅し、外見ではまったく別の何かであるかのような、新しい存在の仕方をもつ。しかし具体的ゲシュタルトが消えても、否定される現実の実質は温存される。温存される実質は新しい現実のなかで単独に存在するのではなく、変換された構成要素であるから、他の構成要素との「有機的」な関係のなかに置かれる。  社会的構造や歴史的文脈のなかで具体的にまとっていた形式はアウフヘーベンによって棄てられるので、構成要素としてモーメントに転換してしまうと、「以前の現実」はそれの新しい現実とまったく無関係であるとみなされがちであるが、アウフヘーベンの概念はそうした誤認を防ぐ。  要するに、アウフヘーベンの働きは、過去の変形であり、同時に過去の変換的温存であり、そのようにして歴史の非連続と連続を見通すことを可能にする。伝統 (tradition) の奥底で作用するのも、歴史的行為のアウフヘーベン(否定と保存と昇華)である。それなしには過去は理解できない。 †限定的否定と保存の弁証法[#「†限定的否定と保存の弁証法」はゴシック体]  どのような事物も、たとえささやかなものであろうと、人間が関与した結果であるかぎり、具体的[#「具体的」はゴシック体]現実である。行為が具体をつくる。行為なき事物は抽象である。現実の具体性は、それに関係する人間的行為(否定性)の痕跡である。痕跡を現実の事物のなかに残すことが歴史的時間の働きである。歴史的時間の働きは、たんに論理的ではないアウフヘーベンであり、具体的で現実的なアウフヘーベンである。事物が具体的であるといえるのは、そのなかに否定作用とその結果を含むからである。人間の行為が否定性の特色をもつといったが、その否定の働きは破壊や絶滅ではなく、事物の姿を変容させつつ保存する働きである。これについて、ヘーゲルは次のように説明している。 [#ここから2字下げ]  弁証法は、規定された[#「規定された」はゴシック体]内容を含むがゆえに、ポジティヴ[#「ポジティヴ」はゴシック体]である。すなわち、その結果は真実には空虚で抽象的な無[#「空虚で抽象的な無」はゴシック体]ではなくて、特定の諸規定[#「特定の諸規定」はゴシック体]の否定であり、それらの諸規定は結果のなかに含まれる〔温存される〕。なぜなら、結果は直接的な無ではなく、ひとつの結果であるからだ。 [#地付き](ヘーゲル『エンチュクロペディ』第一部第八二節) [#ここで字下げ終わり]  否定は同一性の否定であり、すなわち限定された特殊な何ものかの否定[#「何ものかの否定」はゴシック体]である。それは所与の同一的なものを「破壊する」純粋の否定ないし無ではなくて、限定された否定[#「限定された否定」はゴシック体]以外ではありえない。たとえば、Aを否定してノン−Aが生まれるとき、Aはノン−Aのなかに「含まれている」し、否定のノンはたんなる純粋な無ではなく、Aという特定の規定されたものについてのノンであり、その結果はノン−Aという同じく規定された或るもの《たとえばB》である。したがって、AはBのなかに変容されて「保存される」。  限定的否定は現実的なものの弁証法[#「現実的なものの弁証法」はゴシック体]の核心である。限定しつつ否定する働きによって、事物は破壊から免れて、地上から消滅することなく、新しい形態へと変容され、そして保存される。すべての事物は、過去の歴史的経験の凝縮である[#「すべての事物は、過去の歴史的経験の凝縮である」はゴシック体](一定の変容を受けるという条件で)。歴史的経験は、それがどのような種類のものであれ(つまり、個人的であれ共同的であれ)限定的否定のおかげで、結果としての事物のなかに蓄積される[#「蓄積される」はゴシック体]。  逆にいえば、ひとつの事物を分析すると、その事物が人間が関与する歴史的結果であるかぎりで[#「人間が関与する歴史的結果であるかぎりで」はゴシック体]、それへといたる過去の歴史的経験の種々の成層 (formations) をあばきだすことができる。社会的領域についていえば、現在の社会関係のなかに、それを生産した過去の社会関係が内在している。過去の経験は、現在の経験の構成要素として、過去の姿とはまるで違う形式をとって[#「まるで違う形式をとって」はゴシック体]、現在の経験のなかに包摂されている[#「包摂されている」はゴシック体]《アウフヘーベンされている》のである。 2 死者が生者をとらえる[#「死者が生者をとらえる」はゴシック体] †過去の変換と蓄積[#「†過去の変換と蓄積」はゴシック体]  ヘーゲルが論理学的に述べたことは、ふつうの人間の努力[#「努力」はゴシック体]についてもいえる。人間の努力は、個人的であれ共同的であれ、過去の変形と保存であるからである。努力という言葉は、西欧思想の古い言葉でいえばコナートスである。それは何かをもとめ、それを獲得しようとするすべての人間的行為を意味する。食欲も労働もみな努力である。人間とは努力の束である。個人も共同社会も努力のかたまりである。  過去の蓄積と保存は、現在に生きる人々の努力を通して起きる。現在の無数の努力の過程のなかで、「前もって与えられた」自然的事情や社会関係が限定的に変容されて、現在の努力の結果のなかに[#「努力の結果のなかに」はゴシック体]温存され、蓄えられる。現在の努力は、過去の特定の具体的姿をまったく別の姿に変換する努力である。過去の事物が現在の努力過程のなかに組み入れられるためには、ひとつの条件が必要である。それが既存の形状を変換する[#「既存の形状を変換する」はゴシック体]行為である。  過去の事物はあるがままの姿では、新しい事物のなかに編入されることはできない。かりに過去の事物が、かつてあったままで現に存在することができるとしても、そのようなあり方は現在の努力過程の結果にとっては、外面的であり、しばしば無関係である。それは現在の事物の外部にとどまり、たんに無関心な仕方で、空間的に実在するのみである。過去の経験や事物は「自動的に」現在の事物のなかに組み込まれるのではない。そこに現在の人間の努力という変換能力の重要性がある。  変換[#「変換」はゴシック体]とは本来的に能産的であり、創造的である。なぜなら、変換する努力は、所与の形態をはぎとり、所与に対して別の形態を賦与することであるからである(トランスフォーメーション、形を変えること)。過去の経験や事物が変換されなくてはならないのは、人間が無から出発するわけにはいかないからであるし、それらが現在の経験や事物の構成要素として再編される[#「構成要素として再編される」はゴシック体]必要があるからである。  過去の経験や事物は際限なく多い。細部のすべてが変形的に温存されるのではない。過去の人間の経験のなかで、現在の出来事にとってもっとも本質的なもの[#「本質的なもの」はゴシック体]だけが変形されて保存され、蓄積される。何を変換の対象とし、何を保存するのか、あるいは何を棄てるのか。その「基準」は、現在の努力が向けられる客観的関心[#「関心」はゴシック体]が決定する。  この関心がとりもなおさず取捨の「基準」であるが、それもまた歴史の結果[#「歴史の結果」はゴシック体]である。現在の努力過程の「関心」のみが、過去の経験を選別し、選別された複数の事物をそれ自身の本質的に不可欠の構成要素として「吸収」する。かりに不適合な要素を吸収する場合には、現在の経験ないし事物は自然必然的に自ら消滅するだけのことである(たとえばガス中毒死)。 †経済的労働の例[#「†経済的労働の例」はゴシック体]  経済的労働はひとつの努力[#「ひとつの努力」はゴシック体]である。労働は、単独の主体の孤独な努力ではない。人間の労働は人間の社会のなかでの労働であるのだから、労働は必ず共同の努力である。ほぼ等質的な人間的努力が集まるとき、これらの個別的努力の集計は、ひとつの個体[#「ひとつの個体」はゴシック体]として見ることができる。一般に、労働の過程は、等質的な個別労働の集合として独立の集団的個体の労働過程である。  この労働過程のなかで何が起きているのだろうか。外部的に見れば、そこでは何かが生産されているし、多くの人々が材料と道具をもって特定の用途目的に適合する生産物をつくろうと額に汗して努力している。観察しうる事実はそれだけであり、それだけが具体的現実である。しかし歴史哲学的観点から観察するときには、外面には見えない動きが見えるようになる。  個人的であろうと集合的であろうと、一個の独立した労働主体が存在する。労働するものたちの細部の関係はそれ自体として問題になりうるし、ある場面ではそれを歴史的過程の結果として考察するべきであろうが、ここではそれらの事象はすべて捨象することにする。  ところで、この個体の努力はどのように動くのだろうか。努力する個体は、「与えられた」自然的事物、特殊には生産のための材料に対して、既存の道具(原初的には自己の身体)を駆使して働きかける。労働という能産的努力は、材料と道具の足し算ではなく、道具による材料の変形[#「道具による材料の変形」はゴシック体]であり、この変形によって「新しい」(この「新」の意味は原理的には以前にはなかった何か[#「以前にはなかった何か」はゴシック体]を意味する)生産物をつくることである。哲学的には、個体の努力は、客体を特定の規定性の面において[#「特定の規定性の面において」はゴシック体]否定することであり(所与の形状を変えること)、客体のすべて[#「すべて」はゴシック体]を破壊することではない[#「ない」はゴシック体]。  このようにして、生産的労働は材料を新しい生産物「のなか」に限定的に保存する。具体的にいえば、材料は新生産物の物質的な構成要素[#「物質的な構成要素」はゴシック体]になる。道具は労働という能産的活動の担い手であり、身体の延長である。道具を媒介にした材料の変換の際に生じる事物の抵抗と衝撃[#「事物の抵抗と衝撃」はゴシック体]によって、努力する身体もまた以前の状態とは異なる別の状態に自己転変[#「自己転変」はゴシック体]をとげる。  労働過程のなかで、主体の側でも客体の側でも、所与の状態からの離脱と転換が同時的に起きる。過程を構成する両極において、ひとつの状態から別の状態への移動が起きるのだから、そこに時間が「流れる」。むしろ努力すること自体が「流れる」時間である。努力が時間であることによって、対象を時間の「なかに」引き入れて、時間的なもの[#「時間的なもの」はゴシック体]につくりかえる。ここでは特定の時点を切り取ってつくられた抽象的な場面をとりあげているのだが、この簡単な例を見るだけでも、過去の労働が現在の労働のなかに導入され、未来の生産物のなかに移転する[#「移転する」はゴシック体]事情がみてとれる。具体的には、個々の労働が無際限に反復するなかで、上記の動きが繰り広げられる。  社会全体の労働にまで拡大した労働があるとしよう。それを社会的労働とよぶなら、この「社会的労働」もまた特定の材料の集合に対して巨大な道具をもって働きかけて、まったく新しい複合生産物を生産するだろう。社会にとって事実的に存在する自然的素材と社会自身の過去の遺産(伝統、伝承されたもの)とが、膨大な材料という姿をとって[#「膨大な材料という姿をとって」はゴシック体]社会的労働主体に対面している。社会的人間は、自然的材料ならびに自己の過去の状態に対して否定的に関係し、それらを特定の規定面でのみ[#「特定の規定面でのみ」はゴシック体]否定し変形する。この拡大した場面では、個々の人間的主体の努力の場合よりも一層鋭く、過去の歴史的経験の保存と移転の事態がみてとれる。  人間的変形をうけた自然的なもの[#「自然的なもの」はゴシック体]と、人間自身の一連の変形経験を含む過去の経験[#「過去の経験」はゴシック体]は、現在の能産的努力のなかで、またそれによって、別の経験[#「別の経験」はゴシック体]のなかに温存され、蓄積されるのである。この意味で、人間的活動の範囲内に入り込むすべてのものは、過去の経験の蓄積[#「過去の経験の蓄積」はゴシック体]であり、それらの事物(人も物も)は例外なく歴史的存在[#「歴史的存在」はゴシック体]である。 †過去の解読[#「†過去の解読」はゴシック体]  こうしてようやく、「人間の解剖のなかに猿の解剖のための鍵がある」という命題の真意に到達する。この言葉は歴史的経験に関する比喩にすぎない。その比喩たるゆえんは、この文章の奇妙さにある。文字通りには、猿の解剖は人間の解剖をまたずに可能であるし、二つの解剖は別個になしうるし、なされなくてはならない。両者の比較から生物学上の多少の差異を知ることができるとしても、猿の解剖と人間の解剖を連結する必要はまったくない。いわんや人間の解剖が猿の解剖の鍵になるというおおげさなことはありえない。  それを承知でマルクスは、この奇妙な比喩を使用した。その意図は、上記の歴史時間の独特の動きを知ることによってはじめて理解可能になる。そうであれば、この奇妙な比喩も等閑視することはできない。ひとまず、この比喩がどのような文脈で語られたのかをあらためて確認しておくことは、マルクスの歴史的時間の概念を知るには大いに役立つであろう。長い文章だが、まるごと引用しておこう。 [#ここから2字下げ]  ブルジョワ社会は、もっとも発展した、もっとも多様な、歴史的生産組織である。それゆえ、それの諸関係を表現する諸範疇は、それの編制の理解は、同時に、すべての滅亡した社会形態の編制と生産諸関係との洞察を可能にする。それは、ブルジョワ社会がこれらの社会諸形態の残片と諸要素とをもってきずかれたものであって、そのうちの部分的にまだ克服されていない遺物がこの社会のなかで余命を保っていたり、ただの予兆にすぎなかったものが成熟した意義をもつものにまで発展していたりする、等々だからである。人間の解剖は、猿の解剖のための一つの鍵である[#「人間の解剖は、猿の解剖のための一つの鍵である」はゴシック体]。反対に、より低級な動物種類にあるより高級なものへの予兆は、このより高級なもの自体がすでに知られているばあいにだけ、理解することができる。こうしてブルジョア経済は、古代その他の経済への鍵を提供する。(中略)そのうえ、ブルジョア社会自体が発展の一つの対立的形態にすぎないから、以前の諸形態の諸関係は、ブルジョア社会においては、しばしばまったく萎縮した姿[#「萎縮した姿」はゴシック体]で見いだされるか、あるいはまた、まったく変わりはてた姿[#「変わりはてた姿」はゴシック体]で見いだされるかするにすぎない。 (『マルクス 資本論草稿集㈰』五七−五八ページ、強調は引用者) [#ここで字下げ終わり]  この文章は、具体的な歴史的過程のなかで、後の社会が先行する諸社会を構成していた諸要素(「残片」)を変容させて保存していることを主張している。変形して保存するというのは、マルクスの言葉でいえば「萎縮した姿」あるいは「まったく変わりはてた姿」で現存社会のなかに組み入れられていることを意味する。たんに現存社会のなかに過去の遺物が偶然的に残存していると言いたいのではなく、過去の経験(ここでは過去の諸社会)を変形的に保存する以外には現存社会はありえない、というのが肝腎な論点である。  現存社会のなかに過去の「滅亡した」種々の社会(の本質的要素)を種々に変形し組み合わせて、ひとつの編制体 (Gliederung, Formation) を構築しているからこそ、現存社会の構造成体のなかに実在する諸要素の形態的差異[#「諸要素の形態的差異」はゴシック体]を概念的に《ミクロロジックに》区別することによって、過去の社会の基本構造を遡及的に認識する[#「遡及的に認識する」はゴシック体]ことができる。 †マルクスの歴史認識[#「†マルクスの歴史認識」はゴシック体]  ここでは、歴史の不連続的継承(変形と温存)の歴史哲学[#「歴史哲学」はゴシック体]と過去の経験の認識論的説明[#「認識論的説明」はゴシック体]とが結合している。過去を実証主義的に「かつてあったままに」認識することは不可能だとマルクスは宣言しているのである。実証主義的な過去の認識は、ベンヤミンがすでに鋭く指摘しているように(『歴史哲学テーゼ』を参照)、認識主体が現在の表象を過去に投入するか、過去の表象に同一化するか、そのどちらかを事実上ひそかにおこなっている。実証主義的認識は、過去を知れば現在を知ることができるとひそかに確信している。  マルクスにおいて過去を認識する様式は、それとはまったく反対である。マルクス的な歴史認識論は、かの有名な「現在と過去との対話」といったものですらない。その種の対話は実証主義的な認識論の変形体であり、しょせんは現在の支配的な意図や表象を過去に投影することを「対話」と称するにすぎない。  マルクスの強調点は、現在の社会構造を構成する諸要素を分析するだけでなく、それらの要素の基本的性格(形態の違い)を腑分けし、概念へともたらすことを通じて、それぞれの形態的要素に対応する過去の諸要素の概念的性質を確定し、しかる後に過去の社会構造のもっとも原初的な土台を概念的に再構成するのである。すべては概念による再構成的認識であって、たんに現存する諸事実を確認する (constatation) ことで済むことではない。  たとえば、現在の交換形式と太古の(エンゲルス的にいえば「洪水以前的な」)交換形式が、形式的に同じであるとみなし、現在の交換を太古の交換からの切れ目なき連続的発展だと断定するならば、それはまったくの錯誤というほかはない。現在の交換形式と太古の交換形式の間には巨大な深淵がある。太古的なものは、一度ならず(原理的には際限なく)歴史過程のなかで無数の変形を被る。それらの変形した姿は、前にあったものと同じとは思えないほど一変する(不連続性)。  しかし概念的にみれば、太古的なものと現在的なものとの間には、変形的保存のおかげで一定の連続性がある。これがなければ、およそ過去の認識はありえない。概念的な認識は素朴な事実認識ではなく、それを越える。過去の社会構造の概念的把握こそが、過去の学的[#「学的」はゴシック体]認識とよばれる。そのことをマルクスはくりかえし論じている。「人間の解剖云々」は歴史的事象の概念的認識の特異性を知らしめるためのものであった。 †カテゴリー組織のなかの歴史性[#「†カテゴリー組織のなかの歴史性」はゴシック体]  同じことはカテゴリー組織に関してもいえる。マルクスは、議論をカテゴリー(個々の事象を指示する理論用語)の平面に移して、今述べた変形と温存の事態を言い直している(マルクスの本文では、まずカテゴリーを論じてから、具体的事実について語っているのだが、同じことを論じているのである)。 [#ここから2字下げ] 単純な諸範疇は、より具体的な諸範疇で精神的に表現されている、より多面的な関連または関係がまだ措定されていないまま、より未発展な具体物がすでに実現されていることもありうるような諸関係の表現であるということ、他方では、より発展した具体物は、同じ範疇を従属的な関係として保持しつづけるということである。(中略)より単純な範疇は、より未発展な一全体の支配的な諸関係を表現することもできるし、あるいはまた、より発展した一全体の従属的な諸関係を表現することもできるのであって、こうした諸関係は、より具体的な範疇で表現されている方向へとその全体が発展していくそのまえに、すでに歴史的に実存していたのであった。 [#地付き](前掲書、五三ページ) [#ここで字下げ終わり]  複雑な、あるいは発展した、カテゴリーは、それに比べて単純な(単純さの度合いは種々である)カテゴリーの複合体である。複合体は有機的合成体 (organische Zusammensetzung)[『資本論』第一巻第二三章の用語]であるのだから、複合的な、したがって発展したカテゴリーは、複数の度合いを異にする単純なカテゴリーを含む[#「含む」はゴシック体]。つまりそれらを自己の構成要素とするのみならず、それらを「有機的に合成する」のである。  有機的に合成(構成)[#「有機的に合成(構成)」はゴシック体]するという働きは、単純な要素を変更なしに共存させることではまったくない。複合体は単純な要素を「自己の」構成要素とするために、それらを変形しつつ組み入れる[#「変形しつつ組み入れる」はゴシック体](保存する)。上級のカテゴリーは下級のカテゴリーを「アウフヘーベン」するというとき、そこには変形という否定作用[#「変形という否定作用」はゴシック体]が決定的に働くのである。限定的否定がすべてを決定する。すでに述べたように限定的否定は同時に保存と昇華の働きであった。  しかしこういえば、カテゴリー関係が純粋に論理的な演繹関係であるかにみえる。それはあたかもロゴスが具体的現実をリアルに(物体的に)創造するかのようにみえる。かりにその外見がほんとうなら、上級と下級のカテゴリー関係の叙述は「観念論的」と批判されても当然である。しかしヘーゲルもマルクスも、そうした観念論者ではない。  たしかにヘーゲルは自ら「絶対観念論」を宣言していたが、それは当時の思想状況に批判的に対応するための一種の論争的応答であり、その意図は俗流リアリズムに抗して具体的現実の「運動」のなかのイデアリテート(認識における観念と思考の先行的優位性)を強調せざるをえなかったからである。ヘーゲルの哲学は、観念論でも唯物論でもなく、それらの両極をモーメント(構成要素)として含むのである。角度を変えて見れば、ヘーゲルの哲学とそのカテゴリー組織の論理は「絶対実在論」にすらみえる。マルクスはヘーゲルの絶対的実在論《レアリスムス》の側面を極限にまで[#「極限にまで」はゴシック体]押し進めたといえる。 †ヘーゲルの徹底化[#「†ヘーゲルの徹底化」はゴシック体]  マルクスは、クロイツナッハ時代以来、ヘーゲルに対して種々の不満をもらしているのは確かである。ヘーゲルの法哲学は論理学カテゴリーの当てはめ的叙述である(『ヘーゲル国法論批判』一八四三年)、ヘーゲルは頭で立っているから足で立たせなくてはならない(『資本論』初版序文)、ヘーゲルは精神過程が現実過程を創造するという幻想に陥った(一八五七年の『経済学批判要綱』「序説」)、等々の不満をマルクスはことあるごとに洩らす。  とはいえどうやらマルクスの側にある種の誤解があるようだ。ヘーゲルもまた同時代の「観念論者」に対して似たような発言をしばしばしたことがある。ヘーゲルは「頭で立っていた」過去の伝統的な哲学諸体系を「ひっくり返して」、それらを「足で立たせる」努力をしたのである(ヘーゲル『美学講義』序論のなかの絶対観念論者フィヒテへの批判を参照)。ヘーゲルに対するマルクスの不満発言は、ヘーゲルの用語法や表現法の外面に対する不満以上のものではない。むしろ両人は同一の立場に立っていたというのが実情に近い。  上級カテゴリーが下級カテゴリーを有機的に組織するというマルクスの表現は、ヘーゲル的にいえば、上級は下級をアウフヘーベンするというのと同じである。それが具体的[#「具体的」はゴシック体] (konkrete) 現実の運動[#「運動」はゴシック体]の叙述であり、この運動のなかには人間の精神的行為としての言説[#「精神的行為としての言説」はゴシック体]が不可欠のモーメントとして含まれている。だからこそ、ヘーゲルは具体的現実(あるいは簡単に現実態Wirklichkeit)を Geist《ガイスト》とよぶことができたのである。ガイスト(「精神」)の多義性のために、ある種の誤解もありえたのだが、ガイストの真実の定義は自然界と人間界を構成要素とする全体[#「全体」はゴシック体]である。  いずれにしても、ヘーゲルの「精神 (Geist)」=運動する具体的現実=歴史は、マルクスの歴史時間の概念と構造的に同一である。そのかぎりで、マルクスはヘーゲルの歴史的時間論の地平のなかにいる。しかしマルクスは、ヘーゲルの抽象性を乗り越えて、ヘーゲルよりもずっと具体的に、現実的に、歴史的時間論を顕著に深め、ラディカルにしたことは認めなくてはならない。  たとえば、現実の社会過程のなかで、商品・貨幣的世界のなかに、ひいては資本的世界のなかに、過去の滅亡した社会構成のエッセンスが変形されて保存されている筋道を洞察したことは、まさにマルクスの偉大な功績であり、それはとうていヘーゲルにはできなかったことである。哲学的にはマルクスはヘーゲルの嫡子であるが、マルクスはヘーゲルの思想のなかにある可能性を、ヘーゲルには予想もできないほどに、極限にまで展開させた[#「極限にまで展開させた」はゴシック体]といえる。ヘーゲルとマルクスの差異があるとすれば、まさにそこにある。 3 価値の形式的関係のなかに全歴史が包まれること[#「価値の形式的関係のなかに全歴史が包まれること」はゴシック体] †形態の差異化[#「†形態の差異化」はゴシック体]  マルクスの商品論をとりあげて、歴史的時間のありかたを論じてみよう。  使用価値の実物[#「実物」はゴシック体]形態と商品[#「商品」はゴシック体]形態はまったく違う。商品という事象は基本的に形態(形式)的なあり方である、複数の実物が一種の「社会的」関係を取り結ぶときにのみ、形態は現出する。実物は素材面で重要であり、使用上で有益であるかどうかの評価をきめるが、商品はたんなる有用な実物ではない。それは独自の現象である。  社会的事象[#「社会的事象」はゴシック体]としての商品は、複数の[#「複数の」はゴシック体]実物の集まりを前提し、それらの関係のなかでのみ、価値の形態[#「価値の形態」はゴシック体]を帯びる。実物は単独で[#「単独で」はゴシック体]存続するが、商品は単独では実在しない。商品は複数の実物の価値関係[#「価値関係」はゴシック体]の別名である。したがって、商品の分析は価値形態の分析になる。では、商品分析すなわち価値形態の差異[#「価値形態の差異」はゴシック体]の分析とは何か。マルクスはいう。 [#ここから2字下げ] とはいえここではブルジョア経済学がかつて試みようともしなかったことを実行しなければならない。すなわち、この貨幣形態の発生過程を証明すること、つまり商品の価値関係のなかに含まれる価値表現が、そのもっとも単純でもっとも地味な姿から光り輝く貨幣形態に発展した過程を跡づけることである。 (『資本論』第一巻第一章「マルクス・コレクション」第㈿巻所収) [#ここで字下げ終わり]  価値形態の分析によって取り出される事態は、マルクスの言葉によれば、「貨幣形態の生成」である。それはいわば「論理学的」(より正しくいえば「存在論的」)である。この存在−の−論理は、ヘーゲル的伝統に立つかぎり、弁証法的である。論理的なものが弁証法的[#「弁証法的」はゴシック体]であるといえるのは、『エンチュクロペディー』(第七九節参照)がいうように、それが否定的なものを含む[#「否定的なものを含む」はゴシック体]からである。 「論理的=現実的なもの」(ヘーゲル)とは、人間の経験に引き戻すならば、「具体的に現実的なもの」であり、さらにそれを圧縮していえばヘーゲルのいうところの「精神《ガイスト》」であり、マルクス的にいえば「人間の歴史」である。現実的なものが弁証法的であるのは、そのなかに「語りつつ行動する何ものか」つまり人間を含むからである。現実は、語る存在によって[#「語る存在によって」はゴシック体]語られ、開示される存在である。  語ること[#「語ること」はゴシック体](言説)に強調点を置くとき、ヘーゲルがいうように、具体的現実は「精神的なもの」であり「理性的なもの」であるといえる。リアルな否定的行動、すなわち自然を否定し、政治的利害を巡って闘争する人間的実践を強調するなら、具体的現実は、マルクスがいうように、種々の「生産様式」の歴史的過程となる。否定する行為こそアウフヘーベンであり、それによって過去のものは現在の構成要素として保存され、昇華される。  商品の価値形態もまた、歴史的否定性の経験の凝縮をフォルム面に即して温存している。この筋道をいささか考察したい。 「価値形態すなわち交換価値」の類型は、マルクスによれば四つある。マルクスの四つの価値形態を簡略化して書き換えると、図1のようになる。A、B、C、……Xは人と物とが一体であるとみなす。この図式を念頭において以下の記述を読まれたい。 (図省略) †形態による歴史の包摂[#「†形態による歴史の包摂」はゴシック体]  形態論的展開は貨幣の発生論とよばれるが、われわれの観点からいえば、形態論は現実に存在する貨幣の内的構成の分析[#「内的構成の分析」はゴシック体]である。それは貨幣の構造分析ともいえる。最後のもっとも展開した形態(第四形態)は、それ以前のすべての形態を前提しつつ (suppositio) それらを含んでいる (implicatio)。これをヘーゲル用語でいえば止揚 (Aufhebung) になる。  この用語でいえば、第四形態(貨幣形態)はそれ以前のすべての諸形態を(それらのすべての変異体も含めて)、語のすべての意味でアウフヘーベンしている。そこに歴史的時間が顔を出している。これについて注釈的解釈をしながら吟味しておこう。  貨幣の発生論は形態論的にいえば決して歴史的形成論ではなく、むしろ「論理的」であり、さらに分析によって分離される意味では、「抽象 (abstraction)」である。四つの価値形態は、貨幣一般の事実的存在の構成要素[#「構成要素」はゴシック体]《モーメント》であるという意味で、それらは「論理的」である。現実に回流している貨幣すなわち通貨は、その素材が何であれ(金属、紙、電子、等々)、その現実の姿は物体的である。  しかし現実の貨幣を商品世界のなかに位置づけて、諸商品との関連で分析するならば、貨幣の物体的側面は二次的になり、その価値的姿が前面にせり出してくる。貨幣はそのフォルムにおいては、価値のフォルムの複合体[#「価値のフォルムの複合体」はゴシック体]であることがわかる。現実に回流している通貨を眺めても、それが価値形態の複合編制体[#「複合編制体」はゴシック体] (formations complexes) であるとはとうていみえない。しかし、その「内側」には諸種の価値形態(交易様式のパターン)が内蔵[#「内蔵」はゴシック体]されている。つまり、過去の[#「過去の」はゴシック体]交易形式が上級の形式の構成要素として変形されて包摂されている。  したがって、これらの純粋に形式化された[#「純粋に形式化された」はゴシック体]「論理的」価値形態は、同時に[#「同時に」はゴシック体]かつて実在した社会形態(人類の歴史的経験)を、特殊には交易様式の歴史的形態[#「歴史的形態」はゴシック体]を「指示する」。内蔵された構成要素へと変容した過去の社会形態は、それ自身としては現実的な具体的姿を教えるものではないが、具体的姿を消去した後に残る「形態」は過去の具体的生活のエッセンス[#「具体的生活のエッセンス」はゴシック体]を教える。少なくとも過去の社会や交易の仕方の「論理的」形式を理解する「鍵」を与える。人間が関与するかぎりでのすべての事物は歴史の結果であるという主張から、それは必然的に出てくる帰結である。なぜなら、歴史過程は、人間的行動による変形的否定と「止揚」を含み、「止揚」は結果としての事実のなかに過去の経験を否定・保存・昇華するからである。 †四形態の歴史的含蓄[#「†四形態の歴史的含蓄」はゴシック体]  いま、過去の歴史的経験を、交易に限定するなら、上記の四つの価値形態は過去に実在した交易様式の諸タイプおよびそれらの属性を表現している(あるいは「含んでいる」)。こうして貨幣の解剖[#「貨幣の解剖」はゴシック体]は、過去の死滅した交易様式を解剖する鍵となる。ところで、これらの価値形態は、過去のどのような交易経験とその特質を指示しているのだろうか。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  1 第一形態の歴史的含蓄[#「1 第一形態の歴史的含蓄」はゴシック体]  形態論的に見て「単純」で「未発展」な形態は、極度の抽象である。この形態に照応する歴史的形態がそれ自体単独で登場するのは例外的ケースでしかない。  二人の人間が二つの所有物を交換するというとき、この場面設定は理論上ありうるとしても、現実には通常的ではない。森のなかで二人が偶然に出会って、たまたま他の物を必要としていたために、相互に所持物を交換するというケースはありえないことではない。とはいえ、ある意味では第一形態の交易は、ありふれた現象である。それは単独的現象としては稀であるが、無数の交易の場面のスナップショットのごときものとして見れば、日常的でありふれたことである。第一形態は、論理的な抽象であるとしても、現実を構成するきわめて具体的な要素である。  第一形態は普通の用語法でいえば「物々交易」であろう。「二人」の間の交易という表象は、アダム・スミス以来の経済学の十八番であり、それは人工的に構築された抽象モデルであるが、この「二人」を「二つの集団」に置き換えれば、にわかに歴史的現実に近づく。二つの共同体の交易様式は古来あった(象徴的・儀礼的贈与の応酬体制または互酬制)。それはアルカイックな共同体と共同体の交易[#「共同体と共同体の交易」はゴシック体]である。その意味で第一形態は、人類学がいう贈与の互酬交易の基本的形式[#「贈与の互酬交易の基本的形式」はゴシック体]であるともいえる。これは近代的な意味での「交換」(私的所有に基づく交換、契約によって所有権が決定的に移動する交換)ではけっしてないが、しかし物と観念(神話や伝承など)が集団の間を移動する意味での独自の交易様式である。  二人であれ、二つの集団であれ、これらの原初の交易様式[#「原初の交易様式」はゴシック体]は現実に実在したが、現在では死滅した(あるいはかすかに地球上に散在する)人類の歴史的経験であった。貨幣の現存在のなかには、過去の経験のエッセンスがモーメントとして含まれているのである。こうした交易様式はきわめて長い歴史を経過してきたに違いないし、そうした長い経験なしには近代的な意味の商品交換と貨幣は現実的に実在することはできなかったであろう。死滅したもの、あるいは化石的にしか存在しないものは、貨幣的経済とまったく無縁なのではなく、貨幣的経済または交換経済のなかに構成要素として「保存されて」いるのである。  要するに、第一の価値形態は、個々人が共同体と一体化[#「一体化」はゴシック体]している状態、個人は事実存在するのだが、共同体から分離していない状態を表現する。十九世紀のマルクスは、二十世紀の人類学の成果を知らないので、マルセル・モースのいう「贈与」論的共同体間交易は知らなかった。しかし彼のいうアジア的共同体論は、現在のわれわれから見れば、実際には共同体間贈与交易であり、そのようなものとして書き換えるべきであろう。  マルクスは第一形態を重視し、詳細を極める。彼の関心は、交換価値という具体的現実の構造分析にあった。彼はあらゆる価値形態の基礎論として第一の価値形態を位置づけたのだが、それは価値現象のいわば「存在論的」解明であった。われわれの観点からいえば、マルクスの分析のなかに歴史的時間の概念を扱う歴史哲学をみることができる。  形態論のなかには、時間論はまったく登場していないかにみえる。しかし一見したところ無時間的にみえる形態論のなかに、まさに歴史の「弁証法」(否定性による保存と昇華)が結晶体のように含まれている。マルクスの第一形態分析は、少々の変更を加えるなら、アルカイックな歴史的経験を理解する鍵になりうる。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  2 第二形態の歴史的含蓄[#「2 第二形態の歴史的含蓄」はゴシック体]  この形態が指示する現実は、二人の個人または集団が、あちらこちらで、散発的に、相互の連絡もなしに、交易を行っているという事態である。これも経験的にはありふれた事実であって、複数の個人的ないし集団的交易が空間的[#「空間的」はゴシック体]に併存しているのである。歴史の具体的な場面に戻してみると、第二形態は、地球上のいたるところで見られた(いまも見られる)ローカル・マーケット[#「ローカル・マーケット」はゴシック体](局地的市場)を指示するといえよう。  空間的に共存する「二人の交易」というモデル設定を、ひとつの局地的市場の形態論的凝縮とみなすなら、第二形態は複数の局地的市場が相対的に孤立しながら農村共同体の周縁[#「農村共同体の周縁」はゴシック体]に登場した状態、あるいは農村共同体の外部で都市的空間を形成しつつある状態、そしてついには農村の内部に浸透しつつある状態、等々として受けとめることができる。  第二形態的現象は、農村の周縁における共同体間交易として実在したばかりでなく、すでに市場的な社会として自立していた都市的社会(たとえば西洋中世都市)の内部においてすら、大小の局地的市場がありえたことを予測せしめる。時代を遡るにしたがって、二人の個人というよりも二つの共同体の間での交易が、贈与交易と入り交じりつつ商品交換として行われただろうし、その特徴として島宇宙的な居所性が際だっていた。  第二形態がこれらの歴史的経験を指示するのだとすれば、現在の市場経済から見て見逃せない特徴がある。たしかに局地的市場もまた商品交換の市場であるが、それらの交換は統一的でなく、個別的[#「個別的」はゴシック体]であり、そこでたまたま成立した「価値」は一般性をもたない[#「一般性をもたない」はゴシック体]。経済学的にいえば「市場価格」が成立していないのである。  市場価格は、厳密にいえば、ナショナルマーケットなしには成立しない。したがって市場価格が「実在する」ことの「証拠」は、ひとつの商品について必ずひとつの「全国的」規模での価格が実在することである。局地的市場は、まだ全国的規模の市場価格を想定しないのだから、小規模の範囲のなかで慣習的に決まる、あるいはその時々に決められる価格しかもちえない。言い換えれば、複数の局地的市場をつなぐ「統一的絆」がまだない段階の交易様式がかつてあった。それは第二形態が指示する現実である。  同じことが遠隔地交易[#「遠隔地交易」はゴシック体]にもいえる。近代以前のある時期まで、大小の局地的市場と遠隔地交易が同時並行[#「同時並行」はゴシック体]して行われていた。どちらの交易においても統一性はない。つまりこれらの市場を統制する原理、市場価格は存在しない。遠隔地交易は、たしかに一種の市場的交換かもしれないが、それ以上に冒険的な賭け事に近い。すべてか無か、それが原則である。  遠隔地交易においては、対等者の間の同等な価値形成などはありえないし、むしろ略奪的[#「略奪的」はゴシック体]で詐欺的[#「詐欺的」はゴシック体]であった。これを後の形態から照らし返すと、局地的市場にも遠隔地交易にも、一般的等価が存在しない[#「一般的等価が存在しない」はゴシック体]と表現できる。それは特定の政治領域のなかで全国的な市場価格が存在しない状態である。  統一性の欠如[#「統一性の欠如」はゴシック体]は第二価値形態の根本特質である。しかしこの第二形態的歴史的経験がなければ、第三形態も、貨幣形態もありえなかった。その意味で、第二形態は後のより複雑な形態の構成要素として「内面化」される。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  3 第三形態の歴史的含蓄[#「3 第三形態の歴史的含蓄」はゴシック体]  第三形態は、一般的等価形態を成立させる形態である。図1をみればわかるように、第三形態は無数の商品価値を「唯一の」商品によって表現する形態である。この形態はかぎりなく貨幣形態に近づくが、けっして貨幣形態ではない[#「貨幣形態ではない」はゴシック体]。この消極的特性[#「消極的特性」はゴシック体]は歴史的含蓄を引き出すために重要な特質である。「唯一の」財貨ないし商品があるというかぎりでは、その物体は形式面で貨幣的にみえるが、まだ真実の貨幣ではない。第三形態と第四形態の間には、形態論的類似をこえて、飛び越せない溝[#「飛び越せない溝」はゴシック体]がある。この溝こそが歴史的含蓄である。  無数の商品取引を唯一の財貨Xによって表現するというとき、Xの位置に立つ財貨は何でもよい[#「何でもよい」はゴシック体](任意である)。歴史的経験においては、任意のXの位置という空白の場所[#「位置という空白の場所」はゴシック体]に、たとえば、奴隷という人間、家畜、その他何でも入れることができる。要するに、その時々で「希少」だと評価される任意の物品がXの位置を占めるにすぎない。  これが指示する歴史的経験はあまたある。西洋の古代ギリシアや古代ローマあるいは中世社会において、アジアのすべての地域において、第三形態的交易様式が実在した。危機的な状況があるときには、現在の諸社会においても第三形態が登場することがある。日本の敗戦直後の経済では、第一形態から第三形態までのすべての形態が指示する交易様式をひとは同時に経験した(物々交換から局所的に流通するタバコ「貨幣」まで、そして賄賂もまた!)。それと同様に、近代以前の人類は、第一、第二、第三の価値形態に凝縮される交易経験を同時的に実践していた。  第三形態は、それ以前の形態を包摂したもので、近代以前の「最後の」形態であり、近代特有の貨幣形態とは隔絶しながらも、やはり近代的貨幣への準備になる。この移行は、理論的ではなく、歴史の仕事[#「歴史の仕事」はゴシック体]である。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  4 第四形態の歴史的含蓄[#「4 第四形態の歴史的含蓄」はゴシック体]  第三形態における一般的等価物の役割が、任意の財貨ではなく、「専一的に」金銀に収斂するとき、近代[#「近代」はゴシック体]において普遍的になる貨幣形態が登場する。一般等価の機能を、任意のXではなく、「もっぱら」金銀が演じるときにのみ、第四形態としての貨幣形態が厳密に成立する。経験的歴史には切れ目がない。連続性ばかりへの視線は歴史的経験の差異[#「差異」はゴシック体]を洞察できない。形態論的分析のみが、連続のなかに不連続[#「不連続」はゴシック体]を見抜き、形態論的差異[#「形態論的差異」はゴシック体]を通して、過去の経験の含蓄を理解できるようにする。 [#ここで字下げ終わり] †貨幣は人類史のカンヅメ[#「†貨幣は人類史のカンヅメ」はゴシック体]  こうして貨幣の形態分析は、貨幣の「オントローギッシュ(存在論的)」な発生史であり、同時に歴史哲学的な意味をもつことができる。貨幣は、交易様式に関わるかぎりで、人類の歴史のカンヅメ[#「歴史のカンヅメ」はゴシック体]である[注1]。形態論はマルクスの歴史哲学の基本概念である。そこにマルクスとヘーゲルの違い[#「違い」はゴシック体]を見ることができる。マルクスの独創的な学的貢献[#「学的貢献」はゴシック体]もまたそこにある。  この議論をさらに拡大して適用するなら、資本制的生産様式の構造分析は、その所有論的観点からみて、資本制社会が人類の共同所有と個人所有の結合様式の形態論的シリーズを変容させながら[#「変容させながら」はゴシック体]構成要素として包摂していることを解明することができる。その意味で、『資本論』第一巻の価値形態分析と『グルントリッセ』のなかの「資本制生産に先行する諸形態」は、存在論的にも歴史哲学的にも、同じ認識地平のうえにある。 [#ここから2字下げ] 注1 原初的共同体に関して、マルクスは類似のことを述べている。 「地質学上の地層 (formation) の場合と同様に、歴史上の地層のなかには、一次、二次、三次、等々の系列がそっくり含まれている。」(マルクスからザスーリッチへの手紙、第一草稿、一八八一年) 「地球のアルカイックな、すなわち第一次的な地層は、それ自身のなかにさまざまの相互に重なりあった年代層の系列を含んでいる。それと同じように、社会のアルカイックな地層は、いくつかの前進的時期をしるす〈互いに上昇系列をつくる〉一連の異なるタイプをわれわれに教えてくれる。」(第二草稿、一八八一年) [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 第五章[#「第五章」はゴシック体] 『資本論』の学問[#「『資本論』の学問」はゴシック体]       ——「新しい学」の創造 ヘーゲル以前の専門的な論理学者でさえ判断と推論の範列の形態内容[#「形態内容」はゴシック体]を見逃した時代にあっては、経済学者たちが素材的感心にばかり影響されて相対的価値表現の形態内容[#「形態内容」はゴシック体]を見過ごしたとしても、ほとんど驚くにあたらない。 [#地付き]…………(マルクス『資本論』初版第一章)[#「…………(マルクス『資本論』初版第一章)」はゴシック体] [#改ページ] 1 さまざまな構想[#「さまざまな構想」はゴシック体] †学問への道[#「†学問への道」はゴシック体]  マルクスは若いときからひとつの学問を創造しようとめざしてきた。彼は何度もくりかえし、さまざまな機会をとらえて、来るべき学問の構想を語っていた。最初は、ギリシア哲学史を書き直す形で、ヘーゲルを批判的に乗り越える独自の哲学を書き下ろす予定であった。これは途中で計画変更があり、その一部が学位論文『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異』(一八四二年)として実現したにすぎない[注1]。  次の構想は、経済学と哲学を同時に批判する学問の企てであった。それは『経済学・哲学草稿』(一八四四年)として未完成のまま残された[注2]。  さらに次の構想は、十九世紀前半のヘーゲル左派の諸哲学(これが「ドイツのイデオロギー」と命名された)を批判する書物が構想された(マルクスとエンゲルスの共同著作)。これは批判と論争の書物であって、創造されるべき学問そのものではなかった。しかしこの論争の書物(『ドイツ・イデオロギー(草稿)』一八四六年)の基礎論として提示される理論的命題の集まりは、社会と歴史に関する思想史上画期的な構想を示していた。この理論部分のなかに来るべき学問の骨格がはっきりと基礎をおかれた。ふつう、それは「唯物史観」とよばれてきたが、むしろ「歴史の新科学」とよばれるほうがいい。けれども、序章と第四章で触れたように、いわゆる唯物史観は、研究の方針であって、学問の内容ではない。 †批判と自己省察[#「†批判と自己省察」はゴシック体]  たとえば、歴史の基礎は物質的生活の生産にある、意識は意識された存在である、意識は存在によって決定される、意識は物質に「憑かれて」いる、下部構造が上部構造を規定する、等々といった命題群は、マルクスが生きていた時代に全面的に支配していた「観念論」的歴史観を批判するための論争的命題[#「論争的命題」はゴシック体]であった。思想的論戦の事態の勢いがしからしめるように、マルクスは物質的なものを強調して唯物論の旗を高く掲げなくてはならなかった。しかし物質的なものからは物質しか生まれないし、精神的なものからは精神的なものしか生まれない。両者の混同は認識論的にも存在論的にも許されない。  マルクスは物質的なもの(身体を維持する日常的な生活行動)から出発して、精神的なもの(意識や観念)がどのように変容し、どのように動くのかを自分の定めた方針によって記述することを課題としたが、けっして容易なことではない。物質から精神が「生まれる」と錯覚する唯物論者なら、事柄はずっと単純かつ容易なことであっただろう。マルクスが唯物論的原則を維持しながら、歴史的世界を学的に記述するときには、「思考する精神」であるマルクス自身の思考様式を批判的に解剖してかからなくてはならない。マルクスの経済学批判は、他の学者の頭にある観念組織の批判であるばかりではない。それは同時に自己の精神への批判的省察でもなくてはならない。  マルクスの学問は、青年時代以来自ら命名し続けたように、経済学批判である。しかしそれは経済とそれに関する観念組織を素材または舞台にして展開される独自の学的体系である。倒錯した観念を批判することを通した現実の体系的叙述は、同時に自己省察の体系的展開である。すなわち、マルクスの学問の組織法は、科学と哲学の二重記述なのである。  ここで科学とよぶものは、経済的事実に関する概念の構築を通して歴史的現実を「説明する」ことをさす。哲学の名で指示されることは、社会のなかで生きる人間の存在を、自己省察を通して「理解する」ことをさす。マルクスはそれほど明示的には言っていないが、そのように読むことができる。  この章では、主著『資本論』の「経済学的内容」には深入りしない。むしろマルクスの思考様式[#「マルクスの思考様式」はゴシック体]に着目したい。彼の思考様式を吟味しながら、彼の学的組織の独創的意味を考えたい。 2 経済学批判[#「経済学批判」はゴシック体] †マルクスの思考様式[#「†マルクスの思考様式」はゴシック体]  マルクスの学問のスタイルは、これまで弁証法的であるとか、唯物論的であるとか、その他いろいろの仕方で(すべては唯物論と弁証法をくっつければ何かをいったかのような同工異曲の変奏でしかないが)説明されてきた。弁証法や唯物論は、マルクス自身が自分の立場を特徴づける言葉として使用しているのだから、それを疑う必要はないが、そうした言葉を知るだけではマルクスの内面的な思考様式を知ったことにはならない。弁証法や唯物論という哲学史のなかで繰り返し使用されてきた用語は、いまではすっかりすり切れた空語になっているありさまである[注3]。  たとえこれらの哲学用語が生き生きと使われるとしても、それらの「硬い」言葉ではマルクスの本来の思考様式、つまり研究の現場で働いている思考[#「現場で働いている思考」はゴシック体]の動きをとらえることはできない。それらの用語は思想の普遍的傾向を指示するが、一人の思想家の、本人にも気づかれないほど奥底にある、思考のきわめて個人的な傾向[#「個人的な傾向」はゴシック体]あるいは「性癖」を取りだすことには不向きである。あまり注目されてこなかったことだが、マルクスの仕事のなかに散見される小さな事実を一種の徴候としてとらえて、そのなかにひそかに顔をみせる思考の傾向を論じてみたい。 †顕微鏡の比喩[#「†顕微鏡の比喩」はゴシック体]  マルクスは「顕微鏡」の比喩を生涯で二度使っている。最初の著作(『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異』)と主著(『資本論』第一巻)のなかで顕微鏡の比喩が出てくる。「顕微鏡」的センスは、細部の差異[#「細部の差異」はゴシック体]に過敏なまでに反応する。それは分析する抽象能力と言い換えることもできるが(『資本論』のマルクスはそのように言っている)、むしろ一見しただけでは気づかれない極度に小さい差異に反応する繊細な精神[#「繊細な精神」はゴシック体]というほうが適切である。がさつなものは何でもいっしょくたにする。繊細な精神は違いに気づき、それを大切にする。差異への過敏反応傾向は、ミクロロジー[#「ミクロロジー」はゴシック体](細部分析)を得意とする。科学と哲学を問わず、ミクロロジックな思考は「学的精神」とよぶにふさわしい。  ミクロの差異への繊細な感覚は、マルクスの思考をもっとも深いところで支える。それは初期から後期まで一貫して変わらない。『資本論』(初版序文)の「顕微鏡」はあまりにも有名だから[注4]、ここでは初期マルクスの学位論文の「顕微鏡」を紹介しよう。  マルクスの学位論文の表題のなかに「差異」が出てくる。この表題自体はヘーゲルの論文(『フィヒテの哲学体系とシェリングの哲学体系の差異』)をまねたものであるが、マルクス自身は「差異」という用語について自ら説明している——「顕微鏡」にたよるしか見分けがつかない差異があるからだと。 [#ここから2字下げ] ……デモクリトスの哲学とエピクロスの哲学とを同一視し、エピクロスの改変のなかにただ恣意的な思いつきのみをみるのが、古くから広くおこなわれてきた偏見である……。あの偏見は哲学の歴史とともに古いものであり、両者の区別はかくれていて[#「かくれていて」はゴシック体]、顕微鏡[#「顕微鏡」はゴシック体]にのみあらわれるほどのものである。もしデモクリトスの自然学とエピクロスの自然学との、本質的で、最も小さな点までつらぬいている差異[#「最も小さな点までつらぬいている差異」はゴシック体]が、両者の関連にもかかわらず、証示されるならば、このことの意義はそれだけいっそう重要なものとなろう。 (『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異』第一部第一章「マルクス・コレクション」第㈵巻所収、強調は引用者) [#ここで字下げ終わり]  二つの自然哲学の間には、ほとんど差異がないかにみえるが、それは外見であって、両者の間には「かくされていて」粗雑な目にはみえないだけであって、「顕微鏡的」観察をするなら重要な、決定的ともいえる差異がごく細部にまで「貫いている」ことがわかるとマルクスはいうのだ。この文章を前の注記のなかで引用した『資本論』の文章と比較してみればわかるように、彼の微細感覚の働きかたはまったく同じであり、言葉使いまでそっくりである。マルクスの思考様式は初期から後期まで一貫している。この微細な差異を感受し分析する繊細な精神こそマルクスの思考体質[#「思考体質」はゴシック体]であるといってよい。弁証法とか唯物論はマルクスのこのような差異感覚の上で働く。それらは精神的構造のなかのいわば上部構造なのである[注5]。  この繊細な精神が分析的精神と結合するとき、観察され記述される事象はそれ自体のほうから自分の動きと本質をあらわにしめしてくる。微細な分析的精神と事象の多様な側面を綜合する精神[#「綜合する精神」はゴシック体]が一緒になって働くとき、事象自身が自己を露出する動きをみせるが、それをえがく操作を唯物論的[#「唯物論的」はゴシック体]と形容することができる。また事象が対立と矛盾をもって現出する多様な側面を綜合する思考過程をさして弁証法的[#「弁証法的」はゴシック体]と形容することができる。肝心なことは、目にみえず隠れている種々の差異を感じ取り[#「感じ取り」はゴシック体]、それを言語表現にもたらす[#「言語表現にもたらす」はゴシック体]ことである。マルクスは生涯を通じてそれを実践したひとである。 †ミクロロジーの具体例[#「†ミクロロジーの具体例」はゴシック体]  初期マルクスの学位論文のなかで鋭い片鱗をみせた顕微鏡的分析能力は、資本制経済の構造分析のなかでさらにみがきをかけて発揮される。『資本論』の冒頭章における商品の価値構造に関する「顕微鏡的」分析はそのもっとも典型的な例である。この箇所はよく知られているので、ここではほとんど注意されない箇所を例証として取り上げたい。  マルクスが論じる主題は、古典経済学がいう「労働の価値」とマルクスのいう「労働力の価値」の峻別の意味である。常識的には二つの言葉は同じようなものであり、古典経済学者も「労働の価値」が労働者の身体能力の価値であるぐらいは知っている。しかし常識的[#「常識的」はゴシック体]に知っているだけでは、学問的[#「学問的」はゴシック体]に知っていることにはならない。常識と学問は別個の領分である。常識の立場からみれば、一見どうでもいいことをマルクスはしつこく詮索しているようにみえる。しかしマルクスの微細感覚によるミクロロジックな探索は、この類似の言葉の「小さい差異」を嗅ぎ分け、その差異が学問的には途方もない差異にまでのび広がることを論証するのである。重要な箇所であるから、いささか長く引用しよう。 [#ここから2字下げ] 労働の偶然的な市場価格を超えて、市場価格を規制するこの価格は、労働の[#「労働の」はゴシック体]「必要価格[#「必要価格」はゴシック体]」(重農学派)、「自然価格[#「自然価格」はゴシック体]」(A・スミス)などと呼ばれたが、この価格は他の商品の場合と同じように貨幣によって表現された価値[#「価値」はゴシック体]でしかありえない。このようなやり方で経済学は労働の偶然的価格を通り抜けてその価値へと迫りうるものと考えたのである。他の商品の場合と同じように、この価値はその後さらに生産コストによって規定された。しかし、生産コストとは何なのか——労働者[#「労働者」はゴシック体]の生産コスト、すなわち労働者自身[#「労働者自身」はゴシック体]を生産し、再生産するコストとは何なのか。この問いが、最初の問いに代わって、無意識のうちに[#「無意識のうちに」はゴシック体]経済学のなかに滑り込んできた。というのも労働それ自体の生産コストを問題にしても循環論法に[#「労働それ自体の生産コストを問題にしても循環論法に」はゴシック体]陥ってしまい、先に進めなくなったからである。すなわち経済学が労働の価値[#「労働の価値」はゴシック体]と呼んでいるものは、実際には労働力の価値[#「労働力の価値」はゴシック体]であり、その労働力は労働者の人格のなかに存在し、その機能である労働とは違うものなのである。それは機械と機械の作用が違うのと同じことである。人びとは、労働の市場価格と労働のいわゆる価値の差異、この価値と利潤率との関係、あるいはこの価値と、労働によって生産された商品価値との関係等々に取り組んでいながら、ついに次のことを発見するにはいたらなかった。すなわち分析の進行とともにその対象が労働の市場価格から労働の価値と称せられるものへと移っただけではなく、この労働自体の価値[#「労働自体の価値」はゴシック体]なるものがさらに労働力の価値[#「労働力の価値」はゴシック体]へと帰着するにいたったということである。自分たち自身の分析の結果について無頓着であったこと、「労働の価値」「労働の自然価格」等々といったカテゴリーを、問題となっている価値関係の最後の適切な表現として無批判に受け入れたこと、これらが後に見るように古典派経済学を解きがたい混乱と矛盾に巻き込んだ。 (『資本論』第一巻第六篇第一七章「マルクス・コレクション」第㈸巻、強調は原文通り) [#ここで字下げ終わり]  この文章のなかには、ひそかに事実上ひとつの「哲学的」問いがひかえている。マルクスに代わっていえば、こうなる——一つの事実が与えられたとする。もしこの事実が本当に事実であるなら、そのときこの事実を含む「世界」はどう「あるべき」か。ここでいう「べき」は、道徳的な「べき(Sollen)」ではなく、事柄が「必ずそうならねばならない」の「べき(Mussen)」である。  あるいは別の問いかたもある——ひとつの命題があるとする。この命題はなにかの問いに対する答えであり、その答えが真実なら、それに対応する問いはどう「あるべき」か。  引用文の背後にある問題提起の構造は、二つの質問形式のうちの後者である。それは認識論的な「問いの構造」(問いと答えの見えざる構造)である。この操作は、答え(与えられた命題)から遡って、それがひそかに答えているところの問いを再構成する[#「問いを再構成する」はゴシック体]ことである。原則的には二つの再構成がある。ひとつは、答えに対応する正しい問いを再構成することであり、もうひとつは答えに対応する間違った問いを再構成することである。過去の業績に対する認識論的批判が焦点を当てるのは、いうまでもなく後者、すなわち間違った問いの再構成とその修正である[注6]。  古典経済学は、「労働の自然価格」という問いに対して「事実上」正しい答えを出しているが、それに気づいていない。労働身体を維持再生産する「費用」は実際には「労働力の価値」であるべきだが、古典派はいつまでも「労働の価値(価格)」をもって説明し続ける。ここに解きがたい混乱が生じてしまったとマルクスは批判するのである。「労働」と「労働力」を常識的レベルで区別するだけではどうにもならない。常識のままでいると、労働と労働力の概念的区別をしない、あるいはしなくていいと思いこむ。古典派は「無意識のうちに」両者を混同したままうちすぎてしまった。マルクスの微細感覚はこの混同を見過ごすことはできず、両者の微細な差異を嗅ぎ取ることができた。 †答えのなかに問題を見る[#「†答えのなかに問題を見る」はゴシック体]  マルクスの思考体質をもっともよく理解した最初のひとはなんといってもエンゲルスである。さすがに長年の友人の精神構造をエンゲルスは見逃すことなく、その思考様式がマルクスの理論的記述のなかに躍動していることをみてとった。エンゲルスは、マルクスの剰余価値概念の発見は、化学のプリーストリーとシェーレのフロジストン説を退けて、酸素を発見したラヴォアジエの仕事に匹敵すると指摘した。エンゲルスの説明を引用しよう。 [#ここから2字下げ]  先行者たちが解答[#「解答」はゴシック体]をみたところに、マルクスはただ問題[#「問題」はゴシック体]だけをみた。マルクスが見たのは、ここには〔経済学の領分で化学の比喩を使っていえば〕脱燃素気体〔フロジストン〕があるのでも火気があるのでもなく酸素があるのだということ——ここでは〔経済学では〕、ある一つの経済的事実の単なる確認や、この事実と〔プルードンやロードベルトゥスが言うような〕永遠の正義や真の道徳との衝突などが問題なのではなく、全経済学を変革する使命をもつ一つの事実が問題なのである。この事実こそ資本制生産全体の理解のための鍵を——その使い方を知っている人にのみ鍵となるのだが——提供するものだということである。この事実を手がかりにして、彼〔マルクス〕はあらゆる既存のカテゴリーを検討した。 (エンゲルス『資本論』第二巻への序文、一八八五年、強調は原文通り、挿入は引用者) [#ここで字下げ終わり]  エンゲルスのいう「答えのなかに問題を見る」という表現は至言である。しかしその含蓄は何であろうか。答えのなかにある異質的なもの、答え(または問い)とずれている問い(または答え)、さらには問い(question) を解決可能な問題(problem) へ変換する課題を嗅ぎ取ることである。まさに微細感覚のみが成しとげる働きである。  古典経済学を含むすべてのエコノミストたちが価値に関する命題を真実の答えとして提起したが、この答えとしての命題はたんに「問題的」であるのではなく、間違った問いに対する間違った答えであるとマルクスは見たのである。前に見た「労働の価値」と「労働力の価値」との差異の場合と同様に、経済剰余の概念の場合にも、エコノミストが提供する答え(命題)から出発して、それが答えているはずの問いを再構成しなくてはならない。  経済剰余の事実はずっと昔から、たとえば利潤、利子、地代の形態で誰にも知られていた。しかしそれらは社会全体が生産する剰余価値一般の市場を通しての諸階級への分配形態でしかない。エコノミストは、利潤等々の形で剰余価値の経済的事実を確認したにすぎないが、それは提起されたことのない[#「提起されたことのない」はゴシック体]問いに対する答えである。  事実の確認としてはエコノミストの答えはそのとおりではあろう。しかしそれはかれらが問わなかった問いへの間違った答え[#「問わなかった問いへの間違った答え」はゴシック体]、すくなくとも皮相な答えでしかない。かれらが一度も提起しなかった問いを理論的[#「理論的」はゴシック体]問題として提起することこそ、科学的思考の現場の作業であり、それを推進するのが微細感覚である[注7]。 †二種類の労働[#「†二種類の労働」はゴシック体]  ところで、かりに剰余価値一般が労働から生まれるとみなすとしても、剰余価値を生む労働とはどういうタイプの労働であるのかもまた、かつて問われたことはなかった。微分的差異感覚は、さらに進んで、ふつうひとが労働とよんで理解している事実のなかに問いと問題を嗅ぎつける。マルクスの「先行者たち」は、労働といえば特定の用途が決められた物を生産する具体的で有用な技術的労働のことだと思っていた(古典派の労働価値説はこの種の労働論の上につくられた)。マルクスはそれを「具体的有用労働」と命名する。  しかし商品生産物の価値をつくりだし、さらには資本の剰余価値を生み出す働きは、具体的で有用な、したがって特定の目的をめざす技術的生産労働ではまったくない。価値と剰余価値を生み出す労働は、きわめて特殊な、およそ具体性のない、その意味で「観念的」または「亡霊的」ともいえるような「抽象的に人間的な労働」である。これは具体的有用労働(個々の個別的な技術的活動)と一体であるから、普通の目には見えないが、しかし二つの労働は峻別しなくてはならない。  ロビンソンのように孤島で労働するときには、この「観念的で亡霊的な」労働はロビンソンにも「われわれ」にも姿を見せない。ところが、ひとが商品生産社会のなかで他人と一緒に、具体的に分業しながら生きる瞬間から、個々人の労働は、二つに分裂する。個々人にはひとつの労働しか経験できないが、にもかかわらずかれらは自分の生産物を、孤島の生産物と違って商品として、つまり価値物として経験するかぎりで、事実上、「抽象的に人間的な労働」に直面しているのである。かれらはそれを知らないが、実際には経験している。なぜなら、商品の価値は、具体的労働から生まれるのではなく、社会的にのみ[#「社会的にのみ」はゴシック体]規定される抽象的[#「抽象的」はゴシック体]労働の対象化した(「凝固した」)姿であるからである。  こうしてマルクスは、誰もがかつて一度も気づかなかった労働の二重性[#「労働の二重性」はゴシック体]を解明した。 †現場の科学的精神[#「†現場の科学的精神」はゴシック体]  マルクスはそこから進んで、一方の剰余価値(社会的規模で把握される)と他方の市場を媒介にしたそれの分配形態(利潤、利子、地代)を鋭角的に峻別した。これがマルクスの「科学的精神」である。一般の常識では、科学的思考は、数学的物理学の圧倒的影響の下で、事象の記述に「数学的演算法」を適用することだと見なされているが、それは事象の量的側面が確認できるかぎりでのみ妥当する考えかたである。およそ量的な性格をもたない事象を考察し、それを概念的に記述することもまた、いやむしろ数学的自然学にとってすら本来的な思考の場面である。  思考の科学性は、ふつうには気づかれない種々の差異をそのなかに嗅ぎ取り嗅ぎ分けることにある。科学的精神[#「科学的精神」はゴシック体]は、微細な差異の嗅ぎ分け[#「差異の嗅ぎ分け」はゴシック体]であり、微細感覚に支えられてはじめて生き生きと活動する概念的思考[#「概念的思考」はゴシック体]なのである。なんでもかんでも量的現象に還元したがる精神、そして既成の数学的アルゴリズム(演算技法)を振り回す精神は、むしろ非科学的[#「非科学的」はゴシック体]である。なぜなら、それは他人のフンドシを借用して(剽窃!)、あたかも自分でつくりだした道具であるかのようにみせかける一種の手品(詐欺師の十八番!)のごときものであるからだ。  ひとつの事象のなかにひとつの差異を見つけるとき、そこに科学的思考が働いている。マルクスの『資本論』体系がふつうには科学的とはみなされず、むしろ悪い意味で「形而上学的」と非難されるのは、科学的思考に関する誤解から出ているとみるべきである。経済的世界は表層では量的世界であるから「数学的計算」を適用できる場面が多々ある。マルクス体系のなかで「数学的に」記述できる場面は、『資本論』全三巻のなかでは第三巻のみである。なぜなら、第三巻の舞台は、市場を通した剰余価値の量的分配[#「量的分配」はゴシック体]の動きであるからである。しかし、マルクス自身は数学的記述にはほとんど触れていない(その計画はあったが)。  マルクスの理論的関心は、量空間の場面ではなくて、経済の量的空間(市場価格メカニズム)を成り立たせる条件、全体としての社会的生産過程の構造的諸条件[#「構造的諸条件」はゴシック体]の解明にあった。そのための前提を記述するために、マルクスはもっとも簡単な商品形態の価値構造[#「商品形態の価値構造」はゴシック体](価値の形態分析)からはじめて、労働の二重性[#「二重性」はゴシック体]の概念を確立し、労働過程と生産過程すなわち生産諸力の結合構造と生産の社会関係(階級関係)の結合様式[#「結合様式」はゴシック体]を峻別し、資本の有機的組成の二つの相[#「有機的組成の二つの相」はゴシック体](技術的組成と価値的組成)を析出する。その概念組織の上に、自己運動する資本一般を規定し、しかるのちに社会的規模で展開する「社会の再生産過程」(消費財部門と生産財部門の二部門分割[#「二部門分割」はゴシック体])、資本制的形態を通して貫徹する「普遍的条件」(どの社会にも通用する基礎過程)を明らかならしめた(『資本論』の第一巻と第二巻の要旨)。 †イデオロギー批判[#「†イデオロギー批判」はゴシック体]  経済学批判は、マルクス特有の科学的叙述である。この科学は経済的事象の「事実確認」にとどまることはできない。それは、なによりもまず事象のなかにある差異(物的事象のなかに刻印される[#「刻印される」はゴシック体]社会的差異)を分析的に洗い出す。事象のなかの差異は、事象を構成する形態上の差異[#「形態上の差異」はゴシック体]である。マルクスが差異をいうとき、それはつねに形態的差異である。  たとえば、商品という言葉は単純にみえるが、一個の商品という事象はじつに複雑である。なぜなら、生産物は商品でないかぎりは単純な有用物であるが、それが売り物になる瞬間から、有用物であると同時に[#「同時に」はゴシック体]価値物に変容し、有用物の姿(使用価値の形態)と価値の姿(交換価値の形態)をまとうからである。  商品という事象のなかに形態(この世に登場するときの姿)の差異が出現する。そして差異は単純な差異から複雑な差異へと展開していく。差異の複合的で重層的なつながりとその展開の姿を記述することは、科学的記述の第一のつとめである。  しかしこの差異の洗い出しは、著者マルクスが孤独に事象を外部から[#「外部から」はゴシック体]眺めて記述するのではない。一見そのようにみえるが、そうではない。彼は事象についての先行学説を批判的に解剖する[#「先行学説を批判的に解剖する」はゴシック体]ことを同時に実行する。事象とは、単独の人間が経験することではない。それは、先行の学者の共同作業によってある程度まで「抽象化」されている。先行者による理解のゆがみはともかく、理論的思考を通過した事象は、学問の歴史過程の産物でもある。  マルクスにとって、商品や貨幣や資本という用語はすでに古典経済学を通過した抽象物である。事象の差異の洗い出しは、これらの抽象物(経済学のカテゴリー)の批判なしにはありえない。だから、批判[#「批判」はゴシック体]は、時々の学説を批判することではない。それは科学的認識にとって欠くことのできない重要な構成要素[#「重要な構成要素」はゴシック体]なのである。科学的認識は批判的認識である。  なぜ批判が不可欠なのか。社会的人間が事象に関わるときに必ずおこなう想像的なイメージづくり、または「イデオロギー的」認識がつねに前提になっているからである。かなり洗練されて高度化した科学的知識であっても、そのなかには知らぬ間に生じる想像による歪曲[#「想像による歪曲」はゴシック体]を免れていない。いやむしろすべての「理論的知識」は「イデオロギー的知識」と混じり合って[#「混じり合って」はゴシック体]いる。マルクスは『ドイツ・イデオロギー』以来、精神的事象(知識)のイデオロギー的性格を確認し続けたが、その仕事の集大成が経済学批判としての[#「経済学批判としての」はゴシック体]『資本論』である。  一見、「形而上学的」にみえるフェティシズム批判[#「フェティシズム批判」はゴシック体]を事象の記述の決定的な要素として書き込む作業は、人間の精神の一種の宿業のようにからみつくイデオロギー的認識の偏向作用をみつめた結果であり、この精神的事象の記述は必然的に「弁証法的」になる。事象は物体的なものではない。事象といおうと現実《リアリティ》といおうと、人間が経験する現実的な[#「現実的な」はゴシック体]事実は、人間が関与するかぎり必ず精神的な[#「精神的な」はゴシック体]要素、とりわけ想像的=神話的[#「想像的=神話的」はゴシック体]な要素をその内在的[#「内在的」はゴシック体]構成部分として含んでいる。  たとえば、商品は物体的なものだけでできているのでなく、同時に価値体でもある。この価値なるものは人間相互の関わりのなかでのみ[#「のみ」はゴシック体]出現する精神的なものであり、しかも観念的な価値は物体としての商品のなかに「最初からある」かのように想像されている[#「想像されている」はゴシック体]し、またそのように想像しないと経済交換はたちゆかない。このように社会のなかに登場する事象は例外なく人間の精神活動が関与している。  事象とは圧縮していえば物質的なものと観念的なものとの複合体である。問題は、事象を構成する観念的要素をどのように理解するのかにある。商品社会に慣れた目には商品の二重性(使用価値と交換価値)は自明のことであり、商品は「生まれつき」、(交換)価値をもっているのだと確信している。しかし交換価値は商品そのものからではなく、商品所有者たちの「社会関係」から、いやむしろ所有者たちが自分たちの相互関係を「想像的に解釈する」仕方から生まれる。物的商品のなかにそれと異質な社会的要素(価値という現象)を峻別することが、経済的イデオロギー(素朴なものから学問的装いをもつものまで多々ある)を批判する作業である。  マルクスの経済事象の記述は、事実関係を確認することではなく、最初から最後まで事象のなかにある無数の形態的差異を、その対立から矛盾へと進展する過程まで記述することである。事象の名前は先行者がつくり出したものであり、その命名(想念)にはイデオロギー的要素がからむ。事象の分析はイデオロギーの批判的分析なしには進まない。現場の科学的精神は、歴史のなかの共同事業であり、孤独な思弁ではないからである。先行のイデオロギー的事象理解を批判することを通して、またそのイデオロギー的な「問いと答えの構成法」から解放されるなかで、少しずつ科学的概念がつくり出される。 『資本論』の記述が過去の先輩に対する罵倒含みの批判語に満ちているのには理由があったのだ。批判は言葉の綾ではなく、科学的研究に不可欠な要素なのである。 『資本論』ではまだ先行者の批判は付随的である。体系の第四巻に予定されていた『剰余価値学説史』になると、先行者への冷静な批判ばかりでなく、悪罵つき批判もまた苛烈になる。それほどに先行者がもつイデオロギー要素からの解放は、マルクス自身にとっても困難であったともいえるのだ(罵倒は自己自身への罵倒でもある)。  経済学批判とは、経済事象に関する「理論的形式のイデオロギー」への批判であり、それを必ず通過する条件の下での科学的概念の構築であり、事象の概念的記述である。それでは、経済学批判は、「批判的」経済学なのだろうか。けっしてそうではない。 †経済学批判の意味[#「†経済学批判の意味」はゴシック体]  初期から後期までのマルクスの経済学批判の使用法を眺めると、マルクスはどうやら「経済学」(political economy) を真性の科学とは認めていないようだ。古典派の「経済学」は、そのイデオロギーにもかかわらず本来の科学に向かう要素をたくさんもっていたと、マルクスは評価する。古典派は例外であって、一般的には経済学は科学ではないというのである。では「経済学」(と日本語で訳されているもの)の正体は何なのか。「ポリティカル・エコノミー」(二十世紀の言い方ではエコノミックス)は経済神話[#「経済神話」はゴシック体]である。  イデオロギーは、自分の出てきた由来に盲目的であるばかりでなく、その社会的根づきを知らぬ間に[#「知らぬ間に」はゴシック体]隠し、そのゆえに自己の社会的規定[#「自己の社会的規定」はゴシック体]を問いの対象にすらしないという一点で、神話の特徴をもっている。経済イデオロギーは経済神話である。それは定義によって科学たりえない。経済に関する理論的知が、素朴な経済神話から離脱し、しかも素朴さを消し理論的に洗練された経済の知識ですらなくて、科学的知識の概念組織になるためには、認識の歩みのなかでそのつど経済神話を解体し続ける現場の実践[#「現場の実践」はゴシック体](書物を書くことが思考の現場である)が決定的に重要である。その意味で経済の客観的科学は、事柄の必然によって、経済学(経済神話)批判なのである。 『資本論』は上記の意味での経済学批判としての科学的認識であるのは確かであるが、しかし私見では、それ以上の作品である。『資本論』は科学的記述と同時に自己認識の学[#「自己認識の学」はゴシック体](つまり哲学)でもある。マルクスは、自らそうとは言っていないのだが、著作自体がそう告げる。マルクスの学的構想は、いわば未完のプロジェクトである。マルクスの目からも隠されているかにみえるこの要素こそ現代的な意義をもつように思われる。マルクスにおける未完のプロジェクトとはなにか。 3 『資本論』の学的構造[#「『資本論』の学的構造」はゴシック体] †科学と哲学の二重記述[#「†科学と哲学の二重記述」はゴシック体]  マルクスの学問をどのように理解するかについて種々の立場がある。これについてはすでに序章で概観しておいた。少し焦点をしぼって言い直すなら、マルクスの学問の性格について二つの解釈が可能である。  ひとつは、マルクスが『経済学批判』(一八五九年)の「序言」で述べたことば、つまり『ドイツ・イデオロギー』において「過去の哲学的意識を精算した」という発言を根拠にして、マルクスは四〇年代以降、科学者になったのだ、もはや哲学者ではないという見方である。この方向を延長すると、経済史観になる。マルクスは経済のサイエンティストであり、マルクスのなかに哲学者を見るのは「観念論的」偏向であるというのだ。  もうひとつは、マルクスのなかにヘーゲルの正統的継承者、さかのぼってはドイツ古典哲学の継承者をみる見方である。ルカーチが、またルカーチと異なる観点に立つとはいえ廣松渉もまた、マルクスの全体性概念を重視し、社会全体の弁証法的記述をマルクスのなかに見る。この立場もまた十分に成り立つ。またマルクスのなかに概念(構造的全体の概念)構築のための「認識論的」条件(構造因果性論の先駆的構想)を重視して、マルクスのなかに「認識論的哲学者」を見いだすアルチュセールの立場もまた成り立つ。  全体としてみると、マルクスは科学者としても哲学者としても受けとめられてきたといえよう。『資本論』が通常の社会科学の書物であるなら、このような解釈の分岐はありえまい。解釈の分岐と論争は、マイナスの現象ではない。マルクスの学問が種々の刺激を与えるような独特の性格をもっているからこそ、研究者たちは、それぞれの角度から種々の刺激をうけて、あるものはマルクスを「歴史の科学の大陸」を開拓した科学革命の推進者であるといい、他のものは伝統的な主観・客観の地平をのりこえる哲学革命の推進者とみるのである。それぞれの解釈は勝手な思いこみではない。マルクスの仕事全体のなかに、特殊には『資本論』のなかに、それぞれの解釈を可能にする根拠が伏在しているのである。  こうした解釈の分岐を現在のわれわれはどう受けとめたらいいのだろうか。過去の複数のマルクス解釈図式が無意味ではないとしたら、それらの提案の意味を配慮しつつ、『資本論』の学的構造を新しく見直す試みがあっていい。経済史観ですら、一般的理論を自称しないなら、特定の条件の下でいまでも有意味であり、マルクスの強調した数々の主張点の重要な一角をなしている[注8]。  要するに、『資本論』の学問は、科学的でもあり、哲学的でもある。この二つの側面は、おそらくマルクスの頭のなかでは区別されていなかっただろう。西欧の伝統的学問は、科学と哲学を区別しない。二つの領域をなにか別種のものとして峻別するようになるのは、早くて十九世紀の末頃、実際には二十世紀になってからだ。とはいえ、マルクスが生きていた時代にはすでに科学の「形而上学」からの自立運動が始まっていたのも事実である。それについてマルクスは自覚的であった。このあたりの事情を振り返りながら、マルクスにおける科学と哲学の二重性を考えてみたい。 †「ドイツ的な意味での学問」[#「†「ドイツ的な意味での学問」」はゴシック体]  ドイツ語の Wissenschaft《ヴィッセンシャフト》の語義にはいつも悩まされる。この言葉は、少なくともフィヒテ以後のドイツ思想界では哲学を意味し、複数形にするといわゆる「科学」を意味する。単数形で出てくると、哲学なのか科学なのかは文脈で理解するほかはない。マルクスは、ヴィッセンシャフトをフィヒテ以来の慣例に従って哲学の意味をひびかせながら、同時に科学の意味でも使う。これがわれわれには困るのだが、学問の伝統がそうなのだから、ひとまずそのように受けとめて、用語法のなかにあるマルクスのねらいをとらえるほかはない。  マルクスはある手紙のなかで奇妙な言い方をしている。「ドイツ的な意味での学問」こそ、自分がめざす仕事だというのだ(マルクスからラッサールへの手紙、一八五六年五月十三日)。誤解はないと思うが、マルクスがここでいう学問はヴィッセンシャフトを指しているのであって、お国自慢(言語ナショナリズム)をいっているのではない(ましてや、ロシア・マルクス主義が世界に流行させた「ブルジョワ的」と「プロレタリア的」の二つの科学があると言いたいのでもない)。マルクスが「ドイツ的な意味での」ヴィッセンシャフトを強調するのは、当時興隆しつつあった個別諸科学(専門分化した諸科学)との違いを意識したからである。マルクスの意見では、自分の学問はその種の専門化した「科学」ではないと言いたいらしい。この学問観は『資本論』にも現れる。  マルクスが『資本論』の学的性格を世間に知らしめようとするとき、自然科学モデルの専門諸科学になぞらえるのではなくて、つねにヘーゲルの学問と対比して語る。マルクスがヘーゲル哲学によって育った残滓だと非難する向きもあるが、そうではない。マルクスは自分の学問を、ヘーゲルが論理学を「論理のヴィッセンシャフト」(Die Wissenschaft der Logik) とよんだ意味でヴィッセンシャフトとよぶのである。これが「ドイツ的な意味での学問」の正体である。  マルクスは、素材の研究と素材分析の成果の学的叙述とを区別する。この区別についてマルクスはかなり神経質なまでに考えていたことは、『経済学批判要綱』「序説」(一八五七年に書かれた草稿、「マルクス・コレクション」第㈽巻所収)から『資本論』までの思索の足取りに見てとれる。素材研究は学的叙述の前提であっても、まだ本来の学問形式ではない。『資本論』段階のマルクスは次のようにいう。 [#ここから2字下げ]  もちろん叙述方法は研究方法から明確に区別される必要がある。研究は対象を細部にわたって取りこみ、そのさまざまな発展形態を分析し、その内的な結びつきを発見しなければならない。この作業が完了してはじめて、実際の運動をそれに応じて叙述することができる。首尾よくそれが達成され、対象の生命が観念のレベルに再現されるようになれば、それは一見ア・プリオリに構成されたもの[#「ア・プリオリに構成されたもの」はゴシック体]を扱っているように見えるかもしれない。 (『資本論』第二版あとがき「マルクス・コレクション」第㈿巻所収、強調は引用者) [#ここで字下げ終わり] 「ア・プリオリに構成されたもの」とは演繹的に構成された概念組織の体系である。マルクスは自分でもこの序文で示唆しているように、ヘーゲルの論理学の構成法から学んでいる。しかしこの言い方を形式面だけで受けとめると、マルクスの叙述は事象の科学的叙述を標榜しながら悪しき「形而上学」に堕しているという非難をうけるかもしれない。マルクスの意図からすれば、そうではなくて、事象の全体を学的に、つまり事象の概念をひとつひとつ構築しながら、それらの内的連関を綜合的に構成する過程は、哲学と科学とで違いはない。実際に、『資本論』は経済を素材にした[#「経済を素材にした」はゴシック体]社会的世界の「論理学」を語るのであるから、それはヘーゲル体系に似てくるのは当然である[注9]。 †マルクスの独創[#「†マルクスの独創」はゴシック体]  ところで、「ドイツ的な意味でのヴィッセンシャフト」の含蓄はそれにとどまらない。科学的叙述がヘーゲル的な演繹体系になるべきだというにとどまらず、科学的叙述をふまえて、記述される事象の哲学的意味[#「事象の哲学的意味」はゴシック体]の理解を同時に書き込む[#「書き込む」はゴシック体]過程もまたひそかに進行する。ここでいう「哲学的な意味理解」は、著者[#「著者」はゴシック体]マルクスと著作を読む読者[#「読者」はゴシック体]が、種々の事象が記述されるそのたびに、事象と人間との「人間学的な意味」を理解し、自己の社会的人間としての現実的姿に直面し、同時にその姿を内観反省[#「内観反省」はゴシック体]し、資本制的社会の人間としての生き方に対して自己批判的解剖へと誘うことである。  そのとき経済学批判は、同時に経済神話を無意識に生きる自己への批判となる。その意味で、経済学批判としての『資本論』は、資本制経済社会と資本中心的社会構成の科学的批判であり、かつ同時に自己認識をめざす[#「自己認識をめざす」はゴシック体]哲学的自覚の学でもある。これを二重記述[#「二重記述」はゴシック体]とよぶ。  ヘーゲルがカントの『純粋理性批判』を書き換えて『精神の現象学』を書いたのと同じように、マルクスはヘーゲルの『現象学』を書き換えて『資本論』を書いたともいえる。ヘーゲルが歴史的時間のなかで、いやむしろ歴史的時間自体として生成発展する意識の経験を主題にして、集団的「精神」が歴史的に現象する学として『現象学』を書いたのだが、ヘーゲルの哲学地盤はあくまで抽象的な意識と自己意識の分裂と統合の運動であった。  マルクスは意識の舞台を経済的生活に移動させて、そこで展開する経済的社会構成の事象分析と事象に関与する人間の意識形態を同時に記述したのである。マルクスの論理構成(弁証法)は、基本的にヘーゲル的であるが、マルクスの自負としては形態的差異(商品の価値形態の差異的構造、労働形態の二重性、労働一般と剰余労働の二重性、資本構成の二重性、生産部門の二重性、等々)において独創性を発揮した。この事実は重要であり、第三者的に見てもヘーゲルからの大いなる前進であるといえる。とはいえ、ここで問題にしたいのは、その形態的差異論ではなくて、「ドイツ的意味での学問」の二重構造である。  可能性としては、すでにヘーゲルが『現象学』のなかで「対象に向かう意識」と「自己へと戻る自己意識」との二重構造を機軸に精神の現象運動を記述していたことをおそらくマルクスは熟知していて、それから外的事象の構造的連関を描く科学的叙述と、自己批判的反省としての哲学的叙述との同時並行的組み立てのための示唆を得たのだと推測できる。  では、どこに科学と哲学の同時記述があるのだろうか。典型的な例は、商品論のなかのフェティシズム論[#「フェティシズム論」はゴシック体]である。フェティシズム現象は、事象を構成する精神的要素として科学的記述の対象になるが、それは同時に資本制社会のなかで生きる人間の精神の「転倒した姿」であることを自覚させる「哲学的批判」である。『資本論』第一章からすでに科学的叙述と哲学的自己内省の叙述との二重構造を予告している。商品論はその意味でマルクスの方法序説[#「方法序説」はゴシック体]なのである。商品におけるフェティシズムは貨幣において深まり、資本において一層深刻になり、ついには経済社会の表面では完成した姿をみせる。 [#ここから2字下げ]  資本−利潤、またはより一層適切には資本−利子、土地−地代、労働−労賃では、つまり価値と富一般の成分と源泉の関係としてのこの経済的三位一体においては、資本制生産様式の神秘化、社会諸関係の物象化、物質的生産関係とその歴史的社会的規定性との直接的癒着が完成している。それは魔法にかけられ転倒され逆立ちした世界であり、そこではムッシュー資本とマダム土地が社会的キャラクターとして、同時に直接にはたんなる物体として、妖怪じみた輪舞を踊る。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き](『資本論』第三巻第四八章) †未完のプロジェクト[#「†未完のプロジェクト」はゴシック体]  事象の事実確認を主題とするだけなら、いちいちこうしたフェティシズムの複合的ふかまりを付け加える必要があるだろうか。マルクスが事象の構造連関の叙述に必ずといっていいほど「転倒した世界、逆立ちした世界、亡霊じみた世界」等々の記述を付加するのは、文飾ではない。それはどうしても必要な表現であり、充分に自覚的に展開されていない憾みがあるとはいえ、そこに哲学自己認識の哲学的叙述の萌芽がある。萌芽であるがゆえに、マルクスの未完のプロジェクト[#「未完のプロジェクト」はゴシック体]とよびたい。 『資本論』の学的構造は、以上のごとき、(構造論的)科学の認識論的革新をともなう科学的概念組織の構成にして、自己への批判的認識としての哲学的な概念把握である、といえよう。それがマルクスの学の理念であった。  経済に関する書物は、西洋では古代ギリシアのアリストテレスやクセノフォンの経済論以来、西洋中世の種々の家政学の書物を経て、十八世紀のフランス重農学派(とくにフランソワ・ケネー)とイギリスの古典学派(アダム・スミスやリカード)にいたるまで実におびただしくある。しかしマルクスの『資本論』ほど、科学と哲学の両サイドから熱狂的ともいえる強烈な関心をひきつけた書物はかつてなかった。  なぜ無数ともいえる有名無名の社会科学者が『資本論』のなかに新しい科学精神を読みとろうとしたのか。また同じく無数の思想家や哲学者たちが『資本論』のなかに新しい哲学の可能性を感知し、それを各人なりの仕方で引き延ばそうと熱中したのだろうか。  一冊の書物がこれほどの多彩な関心を全世界によびおこしたケースはほとんどない。考えてみれば不思議というほかはない。けれどもその秘密はおそらく『資本論』の学問の二重性格にあるのだろう。科学の面でも哲学の面でも『資本論』はマルクスにとっても未完のプロジェクトであったが、そこには発展可能な何かがまだ潜んでいるようだ。まさにそうであるからこそ、その構想は現代的な意義をもち続けていると思われる。それを確かめるのは、偏見なしに『資本論』を読む読者一人ひとりの理性にゆだねられている。 [#ここから2字下げ] 注1 「この〔学位〕論文は、私がエピクロス派、ストア派、懐疑派の諸哲学をひとまとめにしてギリシア的思弁の全体との関連で詳細にえがく予定のずっと大きな著作の予告にすぎない……」(学位論文の序文) 注2 「私は『独仏年誌』において、法学と国家学の批判をヘーゲル[#「ヘーゲル」はゴシック体]法哲学の批判というかたちでおこなうことを予告しておいた。しかし、印刷にまわそうと推敲しているうちに、〔ヘーゲル法哲学の〕純理論的な部分にのみ向けられた批判と、それがあつかうさまざまなテーマそのものの批判をいっしょにするのは、どう考えてもうまいやり方ではなく、議論の展開を妨げもすれば、理解をむずかしくもすることがわかった。そのうえ、あつかわれるべき対象は多種多様なので、それを一冊の[#「一冊の」はゴシック体]本に詰めこもうとすれば、まったくのアフォリズムという方法をとるしかなくなろうが、そうしたアフォリズム的な表現はそれはそれでまた、勝手気ままな体系化であるかのような印象[#「印象」はゴシック体]を与えかねない。そこで私としては、それぞれ独立したパンフレットで法、道徳、政治などの批判を順におこなっていき、最後に別個の著作においてふたたび、全体の連関と諸部分の関係を示し、そしてついにはそれらのテーマについての空理空論の論述にたいする批判をおこなうようにしたい。」(『経済学・哲学草稿』序文「マルクス・コレクション」第㈵巻所収) 注3 二つの用語はいまでも重要であるが、それを活性化するためには、思想史の洗い直しからはじめなくてはならない。その努力の具体例を知りたいひとは、たとえばアドルノの『哲学のテルミノロギー』(ズールカンプ社刊行のポケットブック、全二巻)を参照されたい。 注4 「貨幣形態[#「貨幣形態」はゴシック体]をその完成態とする価値形態[#「価値形態」はゴシック体]は、きわめて内実に乏しい単純なものである。それにもかかわらず、人間精神は二〇〇〇年以上も前からこの価値形態を究めようとしては失敗を繰り返してきた。しかもその一方で、はるかに内容豊かで複雑性に富むさまざまな形態の分析にはある程度成功してきたのである。これはいったいなぜなのか。それはできあがった生体を研究する方が、生体細胞[#「生体細胞」はゴシック体]を研究するより簡単だからである。しかも経済的諸形態の分析には顕微鏡も化学試薬も役に立たない。抽象能力でその二つの穴埋めをしなければならない。労働生産物の商品形態[#「商品形態」はゴシック体]、あるいは商品の価値形態[#「価値形態」はゴシック体]は、ブルジョア社会にとっては経済上の細胞形態[#「経済上の細胞形態」はゴシック体]にあたる。不案内な人には、これらの分析が重箱の隅をつつく[#「重箱の隅をつつく」はゴシック体]ような議論に思えるかもしれない。事実、その通り[#「その通り」はゴシック体]なのである。ただしそれは顕微鏡解剖学[#「顕微鏡解剖学」はゴシック体]が対象を腑分けするときと同じ趣旨に発するものである。」(『資本論』第一版序文「マルクス・コレクション」第㈿巻所収、強調は原文通り) 注5 ミクロロジックな体質にうまれついた人にとっては、事象の細部[#「細部」はゴシック体]と断片が重要である。宗教的なセンスのひとは、同じことを「神は細部に宿り給う」という(たとえば、美術史家のアビ・ワールブルク)。ミクロロジーという用語はヴァルター・ベンヤミンの精神を特徴づけるために、テオドール・アドルノが使った言葉だが、この言葉がマルクスにもっとも典型的にあてはまるのだとすれば、マルクスの微細[#「微細」はゴシック体]感覚は後輩のベンヤミンとアドルノにも共通する。ついでにいえば、マルクスは計画中の仕事(『資本論』に通じる研究)の性格をフェルディナンド・ラッサールに伝えて、「断片からの全体系の叙述」と述べている(マルクスからラッサールへの手紙、一八五八年五月十三日付け)。またマルクスは、彼より数学的自然学に強いはずのエンゲルスに対して、微分[#「微分」はゴシック体]方程式の導出方法を教えることまでしている!(マルクスからエンゲルスへの手紙、一八六五年末から六六年初めに書かれた。『マルクス・エンゲルス全集』第三一巻所収)。 注6 「問いの構造(Probl士atique)」の概念はルイ・アルチュセールの用語である。答えからそれに応じる問いを構成する論点もまたアルチュセールが提案した。マルクスの思考様式に鋭い光を当てたのは、彼の優れた功績である。 注7 少々専門的なことになるが、マルクスの科学的精神すなわち微細な形態的差異の分析論に思想的血脈上もっとも近い科学者は、フランスのレヴィ=ストロースであり、彼の『神話論理』(全四巻)は複数の神話が構成する神話の言説世界を、微細な形態的差異の構造連関として描き出す。マルクスの科学的精神は、マルクス主義者ではなくて、レヴィ=ストロースのような「構造の科学」者によって実り豊かに継承された。レヴィ=ストロースは、マルクスとモースから生まれた科学的嫡子である。 注8 経済史観は、十九世紀以来、経済史学を生み出した功績をもつ。マックス・ヴェーバーもまた、唯物論には批判的ながら、マルクスから社会生活にとっての経済の重要性を学んだ。二十世紀のフランスの偉大な経済史家フェルナン・ブローデルは主著『物質文明、経済および資本主義 十五世紀−十八世紀』全三巻(一九七九年、邦訳全六巻はみすず書房から出ている)はマルクスなしにはありえなかっただろう。彼の弟子のアメリカの経済史家ウオーラステインは同時にマルクス学説の継承者でもある。このように経済史観の歴史的意義を忘れることはできない。 注9 マルクスはヘーゲルとの違いも自覚している。彼は、ヘーゲルが「足で立っている」(観念論的である)から、それを「ひっくりかえす」(唯物論的にする)、そして転倒の操作を通してヘーゲルの「合理的核心」を取り出す必要があるという。しかしすでにアルチュセールが指摘したことだが、転倒しても論理形式は変わらない。アルチュセールはマルクスの表現に対して苦言を呈して、マルクスはヘーゲルを転倒しつつ温存したのではなくて、ヘーゲルとはまったく違う「独自の弁証法」をうち立てたのだと言おうとした。しかしマルクスがヘーゲルと「まったく違う」どころか、論理形式ではヘーゲルと「まったく同じ弁証法」を受け継いだというのが真相に近いと、私は考える。マルクスとヘーゲルとの差異はアクセントの違い(物質的行為に力点をおくのか精神に力点をおくのか)である。「ヘーゲルにとっては、思惟過程こそが現実的なるもの=デミウルゴス(造物主)であり、現実的なるものは思惟過程の外的現象に過ぎない。私においては逆に、理念的なるものは人間の頭の中に転移され、翻訳された物質的なるものに他ならない」(上記の序文)。この文章はアクセントの差異を強調する以上のものではない。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] あとがき[#「あとがき」はゴシック体]  本書は新しい時代の新しい世代に向かってマルクスのおもしろさを、そして現代にとって彼の仕事がもつ重要性を語りかけることをめざしている。入門書にありがちな年代順に事実を羅列的に紹介することはできるかぎり避けた。しかしマルクス死後の百数十年の間にマルクスが歴史のなかでどのように読まれてきたかについてだけは、欠かすことができないと思われたので、いくつかの解釈の仕方について図式的整理を序章のなかで試みた。ひとりのマルクスがあるのではなく、複数のマルクスがいわば亡霊のように徘徊しているからである。マルクスの読まれかたについての歴史的知識は一種の教養在庫として誰もがもっているほうが望ましい。序章を読むだけでマルクス入門になるようにこころがけた。  文化の伝統がわれわれの伝統と異なり、しかも時代の雰囲気もまったく違う一人の西洋思想家を理解することはかなりむずかしい。理論や命題を知的に追跡して理解することはそれほどむずかしいことではない。西洋語の知識があれば誰にもできることである。しかし思想家のいうことを知性的理解ではなく、五臓六腑に染み渡るように納得することはほとんど不可能に近い。長年西洋思想につきあってきて、この感じが近年とみに強い。私の場合、マルクスとのつきあいは長いから、彼の思想はごく身近に感じられるのだが、しかしよくよく反省してみると腑に落ちないことが実にたくさんあることに気づいた。  本書はわたしが腑に落ちたかぎりでのマルクスの精神の動きかた、またそれから出てくるのではないかと思われる思想内容を、落ち穂ひろいのように書き留めたものでもある。ただし第四章と第五章は、いささか自説を押し出す試みをしてみたが、「これぞマルクス」などという力みかたをするものではない、少々は冒険的な要素がないと読者もあきるのではないかという意図からでたものでしかない。読者にとっていささかでも知的刺激になればさいわいである。  筑摩書房編集部からマルクス入門を書く依頼を受けてからかれこれ十年はたつ。なんとなく書こうという意欲がでなかったので、いままでのびてしまったのだが、今回、筑摩書房から『マルクス・コレクション』全七巻を出すにあたってようやくマルクスについてまとめる気分がわき出てきた。ひとまず懸案の約束を果たしたことでひそかに満足している。  編集部の山野浩一さんの熱心なおすすめがあり、ようやく一書を書き下ろす決断ができた。原稿に関して山野さんから適切な助言があり、そのおかげで入門書らしい内容にすることができた。山野さんの御高配に心から感謝する次第である。   二〇〇五年一月 [#地付き]今村仁司 今村仁司(いまむら・ひとし) 一九四二年、岐阜県に生まれる。一九七五年、京都大学経済学部大学院博士課程修了。現在、東京経済大学経済学部教授。社会哲学・社会思想史の領域の第一人者として、長年にわたって新しい思考の枠組みの構築に意欲的に取り組む。著書に『歴史と認識』『労働のオントロギー』『暴力のオントロギー』『批判への意志』『社会科学批評』『排除の構造』『現代思想のキイ・ワード』『現代思想の系譜学』『思想の現在』『労働』『精神の政治学』『理性と権力』『作ると考える』『格闘する現代思想』『近代性の構造』『貨幣とは何だろうか』『群集』『近代の思想構造』『近代の労働観』『交易する人間』、訳書にバリバール『史的唯物論研究』、ゴドリエ『経済人類学序説』『経済における合理性と非合理性』、アルチュセール『哲学について』『資本論を読む』など、多数の著作を発し続けている。 本作品は二〇〇五年五月、ちくま新書の一冊として刊行された。